作家・秦 恒平の生活と意見

                             
   闇に言い置く  私語の刻 (有即斎箚記)

 






         あのよよりあのよへ帰るひと休み
   
     



── 宗遠日乗──
 
                                                                     


似 顔は山藤章二さん画。
巻頭に置いたのは 京都 東福寺 の扁額 高校生の昔より敬愛してやまない 「方丈」 二字です。
 

 平 成十年(1998)三月下旬から書き始め、令和三年(2021)一月の今日まで、日を次いで連日発信されてきた「秦 恒平・私 語の刻」冒頭のファイルです。来る年々も、やすまず書き継がれます。
 宛名のない手紙
とも、癇癪の落としどころとも、単なるメモとも謂えますが、
 遠い遙かな、あるいは足下に深く沈んだ「闇に言い置く」 「老い老い  問わず語り」の「私語の刻・日乗」です。

 思い置くことを手早に書き置いて、統一したスタイルを持ちません。日付にもさほど意味なく、随感随想の「文藝」連鎖と自覚しています。今日までに書き置いたものは、原稿用紙 で何万枚もを超えています。
 闇の「彼 方」から届く多彩な「声」「声」も、有り難く取り込み、日々「生活」し「交際・親愛」している空気も表現してきました。おゆるしあれ。
   念々死去、念々新生。
 日々とぎれなく更新してゆきますが、此の「冒頭のファイル」には、当年・当月分(前月分の幾らか)だけを、従来同 様、 「日 付逆」順に書き込み、過ぎ去った二十四年の日録は、著作書誌等とともに、別に「宗遠日乗」の名で「全部」を、此の同じホームページ内に保管して いま す。早とちりと視力低下で、いささか書き損じても、察していただけようと、書きっぱなしです。「湖の本」等の「書籍」にする際に気を付け校訂しています。

 作家秦 恒平 最大量の「文藝」所産です。
 



 ── 闇に言い置く ──

     私語の刻            寒山



         *  *







        ピカソの 平和  心より願いて




述懐   恒平・令和三年(2021)四月 

  * ここに「恒平」三年としてあるのは、
    私・秦恒平の死期をかぞえる三年目
    という気持ちを示している。他意はない。


たのしみは難しい字を宛て訓んでその通りだと字書で識ること

たのしみは難しい字を訓みちがへ字書に教わり頭さげること

   ☆ 此のごろの最中仕事での楽しみです  恒平

           ☆

 たのしみはふたりのね子に「待て」とおしえ削り鰹をわけてやる時

 たのしみは好きな写真のそれぞれに小声でものを云ひかける時

     ☆ 此のごろの仕事疲れの癒しです  恒平


 たのしみは誰が世つねなき山越えてけふぞ迎へし有為(We)の奥山

 たのしみは割った蜜柑をひよどりの連れて食ふよと
           「マ・ア(仔ネコ兄弟)」と見るとき

     ☆ 結婚して62年 ともに八五歳の境涯です 

 たのしみは誰にともなく呼びかけて元気でいるよと黙語するとき

 たのしみは誰とは知らず耳もとへ「げんき げんき」と声とどくとき

     ☆ 逝きし人らとの このごろの対話です

 

  小学館版・ 日本古典文学全集と  秦 恒平選集・完結33巻

     
        速水御舟・畫   名樹散椿

 
       
  
 

おじいやんの大好きだった 幼い日のやす香 

     
    川端龍子・畫  牡丹獅子

          慈子の像  小磯良平・畫
   朱らひく日のくれがたは柿の葉のそよともいはで人恋ひにけり

      高木冨子・畫  南山城 浄瑠璃寺夜色

秦の実父方菩提寺とか  一度 吉岡守叔父に連れて行ってもらった。

 

 

 

     宗遠日乗・私語の刻 「令和五年(二○二三)」
 
 
観自在菩薩 行深般若波羅密多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
 
 
  久しく山澤の遊を去り  浪莽たり林野の娯しみ
  徘徊なす今し丘?の閨@ 依依とし見ず昔人の居
 
  一世 朝市を異にすと  此語 眞に虚しからず
  人生 幻の化すににて  終に 當に空無に帰す
 
明旦 今日に非ざるに  歳暮 余れ何を言はん 
 
 
  窮居 人用寡く 時に 四運の周るをだも 忘る
  空庭 落葉多く 慨然として 已に初冬を 知る
                                   
  今我れ 楽しみを為さずんば
  来歳の 有や否やを知らんや       陶淵明に借りて                              
 
 
     ☆  作家 恒平生活意見 ☆ 
 
◎ 令和五年(二○二三)十月 私語の刻
 
◎ 令和五年(二○二三)十月二十日  金  神無月
    起床 4:40 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58:5 kg  早暁起き・測
◎  『鷺』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
  〇 とその
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)十月十九日  木  神無月
    起床 4:45 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 57:5 kg  早暁起き・測
◎  『C經入水(きよつねじゅすい)』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
  〇 とその時ドアがそっと押され、鉄線の花が動いて、女生徒が一人で入ってきた。
「鬼山さん――」と問うまでもなかった。紛れもない色の白さ、角度の鋭い印象的な眼。
 和子は膝の上に白い手を重ねて、ではという風に質問を待っていた。
「亀岡のどの辺にいたの」
「はずれです。矢田ていう所です」
「矢田なら僕も知ってる。鍬山神社ってお宮さんがあるでしょ」
「はい、直ぐ近くでした」
 僕は思わず眼をとじた。
「――あの辺、今でも千里様祀ってる」
「祀ってる家もあります」
「山の方が多いでしょう」
 今度は首肯くだけ。
 魔除けらしく、あの地方の山間では農家ごとに二尺に余りそうなわらじを門口に吊している。
 * 「
 〇 小生の近況なのですが,秋の学会シーズンで旅ガラスとなっております.
9月は前半は細々とした用事ばかりだったのですが,後半は別府と福岡で摩擦の大きな国際会議があり,外国の先生方を沢山お招きするセッションを開いたため,毎日ディスカッションと会食の連続でありました.
 
途中,先生方とバスで阿蘇を廻ったのですが,九州の真ん中にこのような大きな山があることを初めて体感しました.まだまだ知らないことだらけです.
 
長い友人の方々もいるので,定年後の話もしました.イスラエルの大学教授は大変環境が良いそうで,現役の先生が昼食を食べている横で,その恩師が,その横にそのまた恩師が,並んで食べているそうです.大学に席はある,ということのようです.なんと平和な話でしょう,
 
と思ったら大変残念なニュースです.
 
中国のトップクラスの大学の教授に,そちらの最もトップの先生はもうお年だと思われるが,あのような真のテニュアになるためには何が必要か,と尋ねたところ,「ノーミステイクであること」と仰いました.少々怖いような,なるほど優れた回答と思いました.
 
九州の次は,台湾の学会に行きました.台北も初めてだったのですが,国立台湾大学は7番目の旧帝大だけあって,旧帝大の佇まいと南国風の木立の感じが,世界に二つとない景色を作っていると思いました.
こちらは,分子シミュレーションの学会でした.
 
摩擦の国際学会は4年後に実行委員長を仰せつかりまして姫路で開催します.
分子シミュレーションの学会も,国内のものですが実行委員長を仰せつかりまして来年,姫路で開催します.今まで,沢山の良い経験,学術的な刺激を学会ではいただいてきましたので,その恩返しをする順番が来たのかなと思いました.
 
先週は,アメリカのサンディエゴに生きまして,京都大学とカリフォルニア州立大学サンディエゴ校との生命と材料のシンポジウムに何故か呼んでいただいて,交流させていただきました.僕は,頭の良い人たちのディスカッションを聞いていると,出版社の一編集者に戻った,科学のファンのような気分になります.その意味で,楽しく過ごせました.
 
カリフォルニアでは,テスラの電気自動車にはじめて何度か乗ったのですが,
ハードウェア(モーター,車体,電池など)は日本も負けていないのですが,
ソフトウェアの作りこみが負けているかも,と思いました.
一応,情報科学研究科に所属しているので,頑張らねばいけません.
 
今週は,ほぼ丸一週間,日本化学会のイベントで東京に来ております.
オンラインで様々な用事,学生指導などを進められるので,良い時代になったと思います.
 
いやはや,忙しいのですが,自分で決めて参加していることばかりなので,それほどストレスは感じません.先生はもっと自由かと思いますが,季節の変わり目なのでご自愛ください.
 
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点線の間は公開いただいても大丈夫に書きました.
宜しくお願い申し上げます.
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)十月十八日  水  神無月
    起床 5:00 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 59:1 kg  早暁起き・測
◎  『秘色(ひそく)』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
  〇 「あら、あれ何かしら」
 見ると岩の側面、南に向いた側を岩の表と同様に平らに削った真中に、縦横三十センチ位にまるく彫りこんだ痕がある、いや痕でなく、明らかに岩の横穴をふさぐ同じ石の蓋に違いなかった。「舎利穴や」と叫び、妻がとめるのもきかず私は柵を乗り越えて、岩窟にとびこんだ。
 石蓋はセメントで固めてあった。音させて、平手で心礎を叩きながら、照れて上を見た。眼の前に、覗き込む少女の瞳が微笑っていた。微笑いは、咎めるような静かなふしぎな焦点を私の眼に結んでいた。私は急いで這い上がった。
 妻の傍に戻ると、女の子が握っていた右手を私たちに突き出して、開いて見せた。見馴れぬ、黝い一枚のまるい金属が載っていた。
「あげる」
 自分の掌に載せ、妻は「重いのね」と呟いた。
 何か分からない、子どもにありがちな埓もない寶物だと私は思った。大した理由ではなく返した方がいいと感じたが、女の子は急に「帰る」と言うなり飛び立つようにかけ出した。「ありがとうまりいちゃん」と妻の声に一度は振り返ったが、にっと笑顔になっただけで、細い滑り台のような山路を、たかたかと下駄の音をさせて見えなくなった。           
 妻はあれから得体の知れぬ鉱物をずっと手放さなかった。
 
 * 継ぎの入稿等の作業で途方も無い錯覚・誤認のまま作業していたことに、危うく、気がついた。いよいよ「仕事」上の「末期症状」が露われ始めたと云うしか無い。気がついてよかった。いま必要なのは、『湖の本』 「165 廬山ら三作 他」の、やがて27日からの「発送」。そして「166」次巻の「構成と入稿用意」。なのに、一巻ずつずれて思い込み、後者に手が付いていない。危険に難儀・厄介なハメにおちていることに幸いにも気がついた。あきらかに「湖の本」出版継続への「躓き」、緊急の対策と用意とが絶対手に必要となった。気づいて良かった。ソレを喜びとし、立ち直って先へ進む。直ぐにも対応せねば。
 
 * サンザンのテイタラク。自身で整理収容してあるはずの自作を機械から探し出すことも出来ず、夕食後の数時間の体力・意欲を空費・浪費して果たせず、明日に期するしかない。老耄、まさにホンモノに成ってきたか。負けてしまってはならぬ。休む。それも道の一つか。
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)十月十七日  火水  神無月
    起床 5:00 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 59:1 kg  早暁起き・測
◎  『畜生塚』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
  〇 お互いに知らないことが幾らもあったのに、家庭の事情や身辺のことで訊ねあう習わしももたずにしまった。
 何の遠慮なく、町子の傍で寝そべった。その恰好で本も読めばラジオも聞いた。時には町子の机のひきだしから勝手に白い紙をもち出して暇つぶしのいたずら書きをしてみるのだが、町子は平気で私を放っておいた。一時間も留守をさせたまま、思い立った買物に町子の方が出てゆくこともあった。なぜ、あのようなことが出来たのか、いぶかしいといえば余りにいぶかしく、傍で絵具を溶いたりして手伝ったことのある絵が美術コース展で好評なのを見聞きする時など、私まで興奮に押しつつまれ、私自身が名誉であるかのように思った。その照れくさい嬉しい気もちには私だけの現実感が漲(みなぎ)っていた。
 二人の間に本当に現実離れしたところがあったとすれば、何はさておいて二人が結婚しなかったことを挙げねばならない。妻とはなぜ結婚を望み、町子とはなぜ結婚しなかったのかという問いかけが、今、理不尽に私の心を乱す。世離れて対(むか)い合えば、よけいにそれらしい恋しさも増そう道理でありながら、兄妹のように過ごしてしまった町子との日々が、絵空事かと、哀しくもあやしくも想われる。
 妻を愛している。妻となら結婚しても構わないと思ったのだ。妻を町子よりも大事と考えたからか。そうだろうか。もしも問いつめられたら――。世のつねの妻の座に据え直す必要もなく町子こそは我が身内だったからなどと言って、だが、誰が正気の言葉ときいてくれよう。
 
 * ごちゃごちゃと輻輳したり混雑・悶着していた機械の「日録」面を整えるのに、朝から大苦労した。
 
 * しかし、はるかな若い日の舊作、ヒロインらとの再会は、しんみりと懐かしい。ああ、あの頃の儘に、静かになさけ熱く生きていて呉れる、という実感は、私独りの喜び。
 
 * 寝入るという休息を差し挟みはさみの仕事の組み入れに成ってるのは、むしろ当然の体力と気力との調整、怠けているのではない、明日も又。メールの往来は減っていて、世間の声は、機械に表れる世界や国内の諸報道に頼んでいる。もう何十年も視力をも庇って「新聞」は読まない、見ない。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)十月十六日  月  神無月
    起床 4:40 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58:3 kg  早暁起き・測
◎  『隠沼(こもりぬ)』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
  〇 「いや、そんな顔」
 龍子は髪を傾(かし)げ両掌で顔を蔽った。龍子の横の空いた椅子席へ薄い影になって文ちゃんの大柄な向うむきの背中が坐ったような気がした。
 露地の外へ送り出され、宵闇に紛れて私は龍子を片手で抱き、頬にキスした。龍子はさっきから二度ももう自分のことは嫌いになったかと訊ねていた。両親とも健在なのにこの龍子が今天涯の孤児かのような気もちでいるのが分る。真葛が美しい妹を女として愛したかしれないことを、私は、やっぱりというのでなく、とうとうそうかと感じていた。
 それでもよかった、死ぬことはなかった一一、私は一瞬怒りに衝き上げられてそう思い、だが彼が死んでぎりぎり守り抜いた何かが次第に輝く輪郭を眼の底に現わしはじめた時、それがあのマジョリカの壷の青年の顔に見えた一一。龍子に隠して私はとめどなく涙の筋を頬に垂れた。なんてこった、なんてこった。駿河台へ戻って行く坂下の暗い小道に私の舌打ちが響くと、龍子はなだめるように寄り添って背中を抱いた。「さきに死んじゃうなんて」と龍子は言いかけ、黙っていると、低声(こごえ)で、「ずるいのよ」と呟いた。かすかに甘えた語尾が、生まれ(2字傍点)て来たもの(2字傍点)の余儀ない根の哀しみに、寂しくかすれた。
 
 * 定期の受診に保谷厚生病院へ、妻と。早起きして、混雑しかねない機械の内蔵を「腑分け」のように整理していた。わたくの機械デスクトップには22もの「要事」マークが働いている。おおよそは納得し私用し使用しているのだから、時には呆れる。
 
 * 十時に、二人で病院への車呼び、車を呼んで帰宅したのは、三時。病院通いは陰気で、安心できず疲労が深まる。診察自体は、私など、五分か。「待ち」にでかけるので、用意の本を二種もってればこそ、凌げる。やれやれ。
 
 * 帰って、おそい昼食して、寝入りぎわ、「川中さん」という女の人の電話と。
 さて、誰。京都か、、ちがうか。読者か、学校で一緒だった後輩か、たぶん。
 機嫌良く声を弾ませて話しているが、いつ、どこで知り合った人か。多分高校での茶道部で点前作法を教えていた二年後輩の部員だろうとは思って、とにかく機嫌良く声を弾ませ無連絡に受話器に向いて話していた。
 とにかくも私にとかかってきた、川中さんと名乗っての懐かしげな電話なのだから、「みゆきさん」かなと精一杯応えていたが、判らないまま、「お元気で」と声を弾ませて電話は終えた。妻の曰わく、「かわなか・みゆき」は、有名な「歌手の名」と。なるほど、覚えている。では。
 よろしい。私に当てて懐かしそうにかかってきた電話を喜びとする。思い出すかも知れない。
 
 * なんとなく生きて行くのが心細く、寂しい。
 ワケは私に判らず、京都で、ふっと自殺してしまったという、敬愛されていた市民活動家の実兄北澤恒彦が、「思われ」てならない。何で自殺であったのか。
 
 * 病院の永い待ち時間をりして耽読していた『参考源平盛衰記』での高倉天皇と小督局との戀物語などにもふれて、懐かしい極みの京都「清閑寺陵」の思い出も書いたのに、消え失せていた。機械のご機嫌はとかく荒れ模様で恐縮する。』
 
◎ 令和五年(二○二三)十月十五日  日  神無月
    起床 5:25 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58:5 kg  早暁起き・測
◎  『みごもりの湖』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
  〇 直子は何によらず、することが叮嚀だった。前の人が稽古で使いあらした棗の中の茶を、姿よく盛りなおし、器の汚れも紅絹(もみ)の裂(きれ)で清めてでる人は多くない。まして濡れた茶筅にもう一度清い水をかけてくる直子のような人はめったにない。
 直子の点前は姿かたちが美しいよりも何も、茶室へでてまた退(さが)って行くまでのあいだ、その所作の一つ一つがいかにもいさぎよく、心配りが行き届く態(てい)の、ちょっと言いあらわしがたい心地よいものだった。水になれ湯になれてさらさらと上手に長い柄杓を扱い、軽やかに茶筅を振った。静かに流れるものが、眼に見える点前の手さばきよりも直子の胸の奥にあった──。
 薄茶の平点前で直子は茶室の戸をあけ一礼した。薄色の着物の、袖にも裾にも手描きで紅梅の枝が咲き溢れていた。もう直子の点前を見ることはあるまい。それなら母の代りでなしに、一人の客として直子の点てた茶が喫みたかった。
 〇  存在じたいが静かにしみじみ美し女性とは、なかなか出逢えない。米寿にちかく、ハテ、何人そんなひとに逢えたろう、『みごもりの湖(うみ)』のような「自作」のなかで。
 * 各種に 膨大量の「記事」を収納の私の「機械」なので、慎重に「輻輳の交通整理」が必要かつ重要な「仕事」になる。これを手抜きすると、莫大量が手に負えない操觚入りに成ってしまう。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)十月十四日  土  神無月
    起床 5:25 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58:5 kg  早暁起き・測
◎ もう六十年ちかい「正月」。三十歳になるかならぬである
 〇  正月は静かだった。心に触れてくるものがみな寂しい色にみえた。今年こそはとも去年はとも思わず、年越えに降りやまぬ雪の景色を二階の窓から飽かず眺めた。時に妻がきて横に坐り、また娘がきて膝にのぼった。妻とは老父母のことを語り、娘には雪の積むさまをあれこれと話させた。
 三日、雪はなおこまかに舞っていた。初詣での足も例年になく少いとニュースは伝えていた。東山の峯々ははだらに白を重ね、山の色が黝ずんで透けてみえた。隣家の土蔵(くら)の大きな鬼瓦も厚ぼったく雪をかぶって、時おり眩しく迫ってくる。娘も、はや雪に飽いたふうであった。私はすこし遅い祝い雑煮をすませ、東福寺へ出かけた。市電もがらんとしていた。
 正月三日の東福寺大機院では、院主主宰の雲岫会(うんしゅうかい)が毎年定(き)まっての歌会で、初釜を兼ねてある。院主が歌詠みの仲間を集め、奥さんの社中初釜に便乗して喫茶喫飯の余禄にあずかろうという、欠かしたことのない催しであった。子供の時分から叔母の茶の湯の縁につながって時々出入りするうち、私も歌を詠むと知れて、高校時代から院主の招きを受けるようになっていた。特に喜び勇んで出かけたい場所でもないが、かといって、東京でのかすかすした日常から歌詠み茶喫みというすさびをなつかしむ想いには時として抗しきれぬものがあって、実はこの日も、私の方から詠草まで先に届け、久々の参会を申し出てあった。
 高校への通学道がこの東福寺の境内をよぎっていた。毘盧宝殿(ひるほうでん)の森閑とした禅座、金色(こんじき)眩ゆくふり仰いだ正面の尊像、山門楼上の迦陵頻伽(かりょうびんが)たち、夕暮れに翳った僧堂、くずれがちにつづく土塀――。いささか広漠として、寂びしく荒れた寺内の静かさは、当時すさみがちだった少年の気もちをいつもいたわり迎えるふうであった。殊に、来迎院(らいごういん)の人をまだ知らなかったうちは、この大機院へよく立ち寄っていたのである。 ――長編小説『慈子(あつこ)』の書き出し――
                            2003 1・1 16
 〇 人 それぞれの日常と歴史とがある。顧みる暇は容易に得られないし、その必要も無いと謂えば言えるが、ま、アルバムに手をかけたようなことと。
 
 * 昨夕食以降に狂ったように、寝た,寝た、寝たから、今朝五時過ぎにふっと目ざめて二階へきた。
 
 * 朝の早起きが、日々に冷えてきた。
 枝葉を落としたハダカ木のくに、空は晴れ、大きな赤い柿がひとつ美しく残っているのが「目に見える」よう。
 
 * 日々に、気ままに、昔昔を『思い出』して、「今」に「向き合わせ」てみようかと思ってもみる、が。「薄」は、もう、今や日々の恩沢のようなもの、「大切に」するだけ。
 
 〇 そうですね!「死んで帰れ」なんて言う父親などいるもんですか。  仙台 恵
  むしろ、家族・親族ならこう言うでしょう。
   ああ、弟よ、君を泣く
   君死にたまふことなかれ。
   末に生まれし君なれば
   親のなさけは勝りしも、
   親は刃をにぎらせて
   人を殺せと教えしや、
   人を殺して死ねよとて
   二十四までを育てしや。
 
戦中生まれの私でも、戦後しばらくは まだまだ戦歌が人の口に上っていましたが、ラジオから聞こえてくるのは、「リンゴの歌」等でした。
 両親とも(特に父は)、戦争当初から「この戦争は絶対負ける」「日本が周辺諸国にとんだ迷惑をかけた報いだし、負けるべき戦争なんだ」と言っていたようです。
 非国民と非難されそうですが、親族みんな同じ考えでした。父も召集されましたが、妻(私の母)には「必ず すぐ帰ってくるよ」と言って応召し、3ヶ月後には帰宅したようです。
 外科医でしたので、うまく仮病を使ったとのことです。考えようによっては、国民皆が苦しんでいるのに、自分だけズルイ・卑怯かもしれませんが、戦後間もなくペニシリン・ショックを緩和する方法や患者さんの上手な手術で、たくさんの患者さんたちの命を救いました。当時は患者さんはわが家の縁先まで「戸板」で運ばれて来たものです。食事中の父が「これはすぐ手術しなければならないから、病院の方に連れて行け」と言いながら自転車で戸板上の患者さんに付き添って行ってしまった日のことも、よく覚えています。私が5歳くらいのことです。
 私の戦争直後の思い出の一つです。
 
 〇 おはようございます!
 窓を開けると庭の金木犀のいい香りがただよってくる秋晴れの朝です。
 イヤなことも悩んでいることも吹き飛ばしてくれます。
 最近、腹が立つこといろいろありますが、最も怒りを覚えるのは、イスラエルのパレスチナに対する「報復」です。
 もともとイスラエルが、勝手にパレスチナの地に入り込んできた上、「入植地」とやらをどんどん拡大し、
 約2000年間この地で平和に生活を営んできたパレスチナの人々を苦しめているのですもの。
 ハマスこそ「報復」する権利があるのでは??  
 やっぱりアメリカ・欧米の支援がある方が「勝ち」ということなのですね・・・。
 
 秋は夕暮れ、今夕もキレイな夕空でしょう。 仙台   惠
 
 * こういう「思い出」や「感想のいろいろ」を国民なればこそ蓄えて忘れまいと思う。
 
◎ 令和五年(二○二三)十月十三日  金  神無月
    起床 4:00 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58:15 kg  早暁起き・測
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『隣組』  岡本一平 作詞  飯田信夫 作曲
  一、 とんとん とんからりんと隣組     二、とんとん とんからりんと隣組
     格子をあければ 顔なじみ         あれこれ面倒 味噌醤油
     回して頂戴 回覧板            ご飯の炊き方 垣根越し
     知らせられたり 知らせたり        教えられたり 教えたり
 
〇 これが戦時下 都市生活の「不安」に裏打ちされてのご近所暮らしであった、我が家だけの買ってと謂うことの物騒に 警戒警報や空襲警報に戦くじせつでもあったし、またこの「隣組」というしめつけで市民生活にワガママ化っての逸脱を懼れ禁じる当局の指導も指令もあったのだ。陽気な歌声と耳には聞き口にはうたいながら、「隣組」や「町内」の「常会」による締め付けは、大人世間や、男大人の出征や徴用による留守家庭の検束に当時不可欠であった。敗戦となればたちまちに「隣組」や「常会」の風は雲散したのをまだ子供心に憶えている。隣組班長」や「町内会長」はいつも「カーキ色」した国防服に身を固めていた。防空演習という,子供の目にも嗤いたいチャチなバケツリレー等もちょくちょく見た。あれど敵機飴あられの焼夷弾攻撃を消そうとしていたのだ、誰一人として勝てる戦争などと思ってなかった。
 
◎ 永く連載してきた この 『唄』ものがたり、を此処で終える。
 
 * 午後久しぶりに歯医者へ,妻と。もう私の面体に「歯」は殆ど何の役もせず、上も下も無いに同然、日々を籠している。一つにはコロナ禍で,外出しない、人に接しない。はのことを気にかけずに済んでいる。それで済んで行くのならそれでよい、食は、上下の歯茎でなんとか成っている。もうおそく「人づきあい」は無いままで済むことであろう。
 
 * そしてまあ、何故か一時間ごとに尿意に衝き起こされながら、対抗するように、寝た,寝た、寝た。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)十月十二日  木  神無月
    起床 3:40 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58:65 kg  早暁起き・測
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『露営の歌』 藪内喜一 作詞  吉岡裕而 作曲
  一、 勝ってくるぞといさましく     三、 弾丸(たま)もタンクも銃剣も
     誓って國を出たからは          しばし露営の草まくら
     手柄立てずに死なれよか         夢に出てきた父上に
     進軍ラッパきくたびに          死んで帰れとはげまされ
     まぶたに浮かぶ旗のなみ         さめてにせらむは敵の空
 
 〇 『曉に祈る』  野村俊雄 作詞  古関裕而 作曲
  三、ああ堂々の 輸送船        四、ああ大君の 御爲に
    さらば祖国よ 栄えあれ        死ぬは兵士の本分と
    遙かに拝む 宮城の          笑った戦友(とも)の 戰帽に
空に誓った この決意         残る恨みの 弾丸(たま)の跡
  
〇 少年私は、概して「戰歌」と類されるどれ一つも好まなかった、嫌った。なかでも此の、「夢に出てきた父上に 死んで帰れとはげまされ」など、憎悪に近く嫌った、そんな「父親がいるものか」と。
「大君の御爲に 死ぬは兵士の本分」など、「遙かに拝む宮城」など、なんたる倒錯と思い、私は概して「天皇」の存在は「日本文化の一表現」と容認し認知はしていたが、「神」ともそのために「死ぬべきが兵士の本分」とも、容認も認識も出来なかった、少年の昔から天皇を一つの「象徴」とは認めていても、「戰帽を打ち抜かれて戰死した兵士」の「残る恨み」が何に向いていたかは、推測し得てあまりあるのではと,私は別の筝を思い「祖国」と「天皇制」とは元来が別ゴトと感じていた。私の祖国は「日本国」だか「宮城」でも「天皇」でもない。
 
海ゆかば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山ゆかば 草むすかばね
大君(=天皇)の辺(へ)にこそ死なめ
なんとかえりみはせじ
 
は、学校内の「式」と称する機械には、「君が代」と前後して必ず「全校斉唱」を強いられた。幼少らい,私、断乎胸中に拒否し、憤然としていた、「死んで堪るか」と。
 炎熱や酷寒の激戦地に苦渋する「父よ」「夫よ」に感謝し励ます「父よ、夫よ、強かった」と励まし頌える子や妻の歌は眞実同情できたが、これが戰争・戰闘・戦死の肯定・容認・感激になるなど、「子供ごころ」に恐怖とともに不条理だと断然容認できなかった。「兵隊さんにはなりとない」と何十度つぶやいたろう、私は「臆病」の罪を問わるべきだったのだろうか。
 この歌のシリーズを敢えてした理由の一つは、かかる「幼少の批評」を忘れ去りたくなかったから。
 
 * 何たること、日付の変わる前に寝入って、3:40までに手荒いに五度起った。朝まで寝る気になどなれず仕舞いに床を起ってきた。利尿剤を間違えて二度呑みしたか。ま、夜中起きはコノトコロの常習だが。今朝は久々に散髪の予約が入れてある。髭を剃って貰える。本気で、出歩いてみるコトも試みて体力、脚力を戻さねば。それでも、老人はコロナを過度にも警戒している。
 
 〇 昨日 九皐會の例会で『実盛』を観て参りました。(秦の=)「能の平家物語」をじっくり読み。又 頂きました平家六十四句実盛も。
 演じました中所宣夫師も狂言の間語りも熱が入り見事でした。特に注釈の詳しい本をと選んで頂いたおかげです、ありがとうございました。
 異常気象は老いの身に応えますが、どうぞどうぞお大切に。  持田晴美 (妻の親友)
 
 * 多年 熱意のお稽古で いい境地へ歩み歩み寄られたこと、立派に素晴らしい。ひとつの、実(じつ)のある「生きる」であり、敬服。
 
◎ 令和五年(二○二三)十月十一日  水  神無月
    起床 4:00 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58:15 kg  早暁起き・測
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『うちの女房にゃ髭がある』 星野貞志 作詞  古賀政男 作曲
  一、 何か言おうと 思っても
     女房にゃ何だか 言へません
     それでついつい 嘘をいふ
      (女)なんですあなた
      (男)いや、別に  
            僕は、その、あの
      パピプペ パピプペ パピプペポ
      うちの女房にゃ 髭がある
 〇 何と無う「おとな」の世間はこんなかと、子供心地に察しながら、自分では唄わないが、ラジオなどで聞こえると、聴いていた。「ベンキョウ」になりました。「やると思えばどこまでやるさ それが男の魂じゃないか」なと虚勢の唄は、いっそバカげていた。
 
* 昨日はほぼ終日、コトに、正午前からは終日寝入っていた。疲労の自覚ゆえに、抵抗しなかった。
 いま、朝の四時半。  そして今 六時十分。朝食には,早い。
 
 〇 おはようございます!   窓を開けると庭の金木犀のいい香りがただよってくる秋晴れの朝です。イヤなことも悩んでいることも吹き飛ばしてくれます。
 最近、腹が立つことがいろいろありますが、最も怒りを覚えるのは、イスラエルのパレスチナに対する「報復」です。
 もともとイスラエルが、勝手にパレスチナの地に入り込んできた上、「入植地」とやらをどんどん拡大し、約2000年間この地で平和に生活を営んできたパレスチナの人々を苦しめているのですもの。
 ハマスこそ「報復」する権利があるのでは??  
 やっぱりアメリカ・欧米の支援がある方が「勝ち」ということなのですね・・・。
 秋は夕暮れ、今夕もキレイな夕空でしょう。  恵  仙台
 
* 現代世界史のもっともややこしくもつれあって悲惨を強い合っている。私には遠い疎い國同士、判断に苦しむ。無用と思われる喧嘩なら、止めよと謂いたいが。判断が付かない。
 
 * なにをどうしていたとも覚えぬまま、六時半。坂を滑り落ち続けてとまらない感じ。危うい。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)十月十日  火  神無月
    起床 4:25 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58:20 kg  早暁起き・測
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『會津磐梯山』 
    エイヤー会津磐梯山は宝の山よ
    ハヨイト ヨイト
    笹に黄金がエーマタなり下がる
    ハスッチョイスッチョイ スッチヨイナ
    (囃子)小原庄助さん なんで身上(シンショウ)つぶした
       朝寝朝酒朝湯が大好きで
それで身上つぶした
アもっともだ もっともだ 
 
    エイヤー音に聞えし飯盛山(いいもりやま)で
    ハヨイト ヨイト
    花と散りにし白虎隊
    ハスッチョイスッチョイ スッチヨイナ
 
    エイヤー会津磐梯山に振袖着せて
    ハヨイト ヨイト
奈良の大仏婿に取る
    ハスッチョイスッチョイ スッチヨイナ
 
 〇 京の町育ち、會津も磐梯山も知らない、見たことが無いのに、幕末維新の昔に「會津」が色んな意味で京都で健闘したらしいとは、ボンヤリと子供心にも耳にも触れ合うていた。それに、大人も若い衆も上の「囃子」の「小原庄助さん」に共鳴してたらしく、早い時間の空いた銭湯で機嫌良く唄う大人はケッコウいたものだ。早い時間の空いた銭湯の好きだった私はこの唄、よほど早くから耳にし、口に倣うていた。「囃子」の「小原庄助さん」は一人のケッコーな先達ないしエラソーな人に想え、親しみ、敬意をすら覚えていた、子供のクセに。デ、私、この歳にして「朝寝朝酒」はいつも願わしい境涯と心得ているのです。
 
 * 朝の、五時四十七分。私語と謂うよりも「朝のおしゃべり」を済ませた。
 
 〇 秦さん  メールありがとうございます。血圧も正常で体重もだいぶ回復されたようですね。小生も血圧は貴兄と同じくらい、体重は63Kgです。できるだけ運動と徒歩を欠かさないようにしています。米寿(来年4月)は目前ですが、90才を元気に迎えたいものです。
 最近はむかし読んだ本を読み返しています。大江健三郎「救い主が殴られるまで」、大岡昇平「野火」、北杜夫「輝ける碧き空の下で」など。年を取って読書の習慣はありがたいです。 西村明男
 
 * おなじ「讀書」と謂うも、ひとにより当然「向き」がちがう。大江、大岡、北など、ほとんどそでを擦ったかしか覚えが無い。大方、明治にデビューした紅露鴎藤聲また直哉・潤一郎・康成・由起夫らに接していた。海外作はロシアに大きく傾いていた・むしろ日本の平安鎌倉古典にめりこんでいた。海外文學は,何故か「姉さん 梶川芳江」を介して借覧がが多かった。恵山は私のためにどうやら讀書酢の同級生から借りて私へ回してくれていたように思う。
 
 * いま晩の十時。昼前からずうっと寝入ってきた。よく寝た。
 また明日に期待。焦らない。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)十月九日  月  神無月
    起床 4:10 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58:90 kg  早暁起き・測
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『洒落男』 坂井 透 作詞
 一、 俺は村中で一番
    モボだといはれた男
    自惚れのぼせて得意顔
    東京は銀座へと来た
     そもそもその時のスタイル
青シャツに真赤なネクタイ
山高シャッポにロイド眼鏡
ダブダブなセーラーズボン
 二、 吾輩の見そめた 彼女
黒い瞳で ボッブヘアー
    背が低くて 肉体美
おまけに足までが 太い
 馴れ初めの始めは カフェー
 ここは妾(あたし)の店よ
 カクテルにウイスキー 
 どちらにしましょう
 遠慮するなんて 水臭いわ
 五、 夢かうつつかその時
    飛びこんだ女の亭主
    者も言はずに拳固の嵐
なぐられてわが輩は気絶
 財布も時計もとられ
 だいじな女はいない
 こわい所は東京の銀座
 泣くに泣かれぬモボ
 
 〇 こんな唄を少年私は エノケン(榎本健一か)というお笑いトーク藝人の「藝」として聴いた、むろん「ラジオ」か、ホヤホヤの「テレビジョン」かで。当時「お笑い藝人」の大御所格に、この「エノケン」と「アチャコ」が風靡。私は、そのどっちもたいして感心せず、この以降へつづいた数々の巧い笑わせる「漫才」ブームに惹かれた。
 それにしても、明らかに「モボ(モダンボーイ)」ならぬ、西京京都の知恩院下、祇園街育ちの「女文化」少年の私に、「東京」「銀座」とは先ずはこういう「顔つき」で登場していた。東京に「憧れる」気持ち、全然と謂うに近く無かった。行くならよほど「要心」「覚悟」してと思っていた。私史としても記録に値する気だった。
 
 *今は晩の七時過ぎ もう極端に目も酷使し、疲れ切っている。真夜中に起きて仕事には要り、、食事持どきのほか、殆ど休んでいない。稲。、
 
◎ 令和五年(二○二三)十月八日  日  神無月
    起床 2:30 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58:1 kg  早暁起き・測
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『酋長の娘』 石田一松 作詞・作曲 草
 一、 私のラバさん 酋長の娘
    色は黒いが 南洋じゃ美人
 二、 赤道直下 マーシャル群島
    椰子の木蔭で テクテク踊る
 〇 日本の軍事勢力が太平洋をしだいに南下展開領有していった、無邪気なほど景気づいていた時機時節を反映しており、幼少の私でも、「ラバさん」が当時の少年少女言辞を用いて謂うなら「好きやん」に当たるだろう程度は察して平気で唱っていた。まだ戰争へ突入以降の陰惨を、国民はまるで胸にも萌していなかった、と想われる。「マーシャル群島」の名など、どんなにのどかに景気よく、どんなに危うく、どんなに不安に満ちて大人も子供も「つきあってた」ことか。
 
 * 三時前。少し早起き過ぎるか。
 
 * 七時前。もはら、書き次いでいる長い小説の「變化(へんげ)」の流れを読み継ぎ読み直していた。
 他にも緊急と謂える仕事上の所用が三四控えているのを片付けねば先へ行けない。
 
 * 夜十時半。部続けに今日は仕事、仕事を熱中気味に追っていた。おもに小説に組み合っていた。やるしかない。
 
 *
 
 
◎ 令和五年(二○二三)十月七日  土  神無月
    起床 3:30 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58:1 kg  早暁起き・測
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『草津節』  
 一 草津よいとこ 一度はお出で(ア ドッコイショ)
   お湯の中にも コーリャ花が咲くョ(チョイナ チョーイナー)
 四 お医者様でも 草津の湯でも(ア ドッコイショ)
   惚れた病いは コーリャ治りゃせぬ(チョイナ チョーイナー)
 
  〇 一番など、よほど幼かった、しかも太平洋戦争が始まっていたころにも唱っていたのは、草津の湯に人気のあったためとは想う、が、ここで謂う「草津」を幼いわたしは、「南浅間に西白根」と唱う「草津の道」など知らず、京の町なかからは隣県・滋賀の「草津」のように想っていた。
 私は「温泉」にひたと浸かった覚えを、九州のどこだったか、取材の必要で訪れた四国愛媛、出雲、石川の山中、群馬のどこか、箱根、四度の瀧 北海道の何処だったか、ぐらいしか持たない。
 八七年を生きてきたこれまでに、私は「旅する」余裕と機會をほとんど持てず持たなかった。望みもしなかった。貧寒というでなく。家で好きに、が、落ち着いた。
 京の新門前暮らしの少年時代に通った近所の「銭湯」、古門前の新し湯、祇園の清水湯、松湯、鷺湯、縄手の亀湯などへ、好みの、空いた早い時間に通って、ゆーっくり湯船に浸かるのが好きだった。秦へ「もらひ子」されてきた幼い日々には、父や祖父につれられ、、また母や叔母と女湯へもしばしば連れて行かれた。「銭湯」にはそれなりの「好さ」「めづらはさ」があったと、今でもはっきり「色んな思い出真夜中に起きて」が懐かしい。「女湯」で近所の、また国民学校の女の子と、湯からくびだけだして並んで湯船に居たことなど数え切れない記憶がある。冬至は当たり前の情景で、戦時に「家湯」の遣える家は無かった。焚き物が無かった。夏場は、井戸端で盥の行水だったが、我が家では時折りそんな行水を脅すように長い青大将が現れ仰天した。寝ている枕がみの障子際を蛇に通られ、添い寝してくれていた叔母つると共に着布団ごと空を跳んでにげたことも有った。近所を清流白川が趨っていて、石垣にも橋の上までもよく蛇が出た。どこの家にも蛇は出ていた。それも『花の京都』なのである。
 
 * 勝手なひとりごと、まさしく「私語」を書き散らし幾らか楽しんで、オウ、まだ早暁五時。二階の窓から真東の空、茜に染み横流れに長大な雲か、遠く低くに美しく、嬉しくなる。とてもトクした気がする。これから、今日が始まる。朝食は ネコ達の餌にあわせ、我が家では午前八時。もう三時間近く朝飯前の「仕事」に成る。
 * 漢の王充は、「型破りに本格」の「異端思想家」で論著『論衡』は実に面白く興深くサンザンに??られ教えられる。久しく坐右から手放せない。
 
 * いま、心して久々再読三読したいのが、『大無量壽經』の謂うならば阿弥陀如来伝。
 私は大体がいわゆる宗教の信仰・信奉者では、ない。しかるにまた幼来「仏様」というと南無「阿弥陀仏」とごく限定されて、今も、今日只今も音無しい口誦「南無阿弥陀仏(ナムアミダブ)」は私・秦恒平の血潮のよう、窓一つ明けるにも、階段上がり下り一つ一つにも「ナムアミダブ」が欠かされない。
 誰も識らぬ事だが、私、一青年が阿弥陀如来と成られるまでの『大無量壽經』が欠かせぬ愛読書でもあるのです、「南無」と常に頼んでやまないのです。
 他人に話したことは無い、が、数ある私の著作・創作には諸方で表れている。私のような弱い男にはただ頼む方なので。告白しておく。
 
 〇 書の夏もようやく過ぎ 富士にも初冠雪とか。
 仕事部屋からは、さすがに雪までは認められませんが、夏には隠れていた富士も眺められるようになってまいりました。
 秋の訪れとともに、後期の授業も始まりました。
「表現と創作」「日本の文学」の二つは、同じキャンパスの高校生も参加できるよう、高校の授業が終わった夕方に開講しています。
 予告の上、毎回異なる短篇を取り上げ、先行文献の読みや問題点などを示した後、各自の感想・意見を書いて提出させ、翌週の授業時にそれらを紹介しつつ、新たな読みを探っていくといったスタイルです。
 今期はそれぞれ三〇名程度ですが、遅い時間の設定にもかかわらず、昨年(或いは前期に)私の授業を取ったので今度は私の別の科目を取ってみた、ともかく読書が好きなので両方取った、創作を志している、といった熱心な学生(大学四年生から高校三年生まで混じっています)も多く、様々に面白い読みが出てきます。
 今週は、それぞれ川端康成「骨拾い」・内田百閨u件」を取り上げましたが、意欲ある高校生の中には、並の大学生顔負けの生徒もいて驚かされます。期末課題のレポート(「表現と創作」の方は、創作も書かせます)は、全員に添削して講評も返すので少し手間はかかりますが、楽しみでもあります。
 旗樂様、どうぞお体をお大切になさってください。
 存分に創作も読書も出来ますようにと願っています。  春
 
 * 時と所とを意欲的に満たされていて。賛成。けれど、先生。川端康成偏重でなく、ホメロスにも古事記にも、ゲーテにも和歌や謡曲にも、シェクスピアにも源氏・枕・平家・徒然草にも、バルザックやドストエフスキー、西鶴・近松・秋成にも胸を開いて下されや。
 
 〇 お仕事とご不調の両輪での毎日、ひたすら漕いで漕いでいらしゃるお姿を思います。私もあと二十年先にはそうあれたらと願っています。百歳超えしそうだと、周囲から、からかい半分におどされております。こんなに体力がないのに。
 本の整理をしていて気づいたのですが、わが家は場所を塞ぐやたらに重たい本が多いのです。とくに辞書類は古本屋が出来るくらい。日本語関係は当然ですが、英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語までさまざまな辞書や文法書や参考書の山々。私は英語だけですが、家族が勤勉でやたら勉強した結果のようです。最近は字を大きく表示できる便利な電子辞書も、パソコンでググる方法もあり滅多に使わないのですが、それでも紙の辞書類は処分できません。先日も翻訳が納得できず、ドイツ語大辞典で単語を調べるようなことがありました。画集もミュージアムの分厚い本もあり、重すぎて宝の持ち腐れ状態を反省中です。
「生きながら お化けのように成って」とは!
 是非「生きながらのお化け」さんにお目にかかりたいものです。仙人のようではと想像しながらにやにやします。でも、こちらのほうこそ老けたなぁと言われそうで、実はあまり姿をさらしたくない気持ちもあります。みづうみには若くあれと言われておりました。心が若い頃の未熟なままなのに、身体だけは年相応になっていきます。せいぜい加齢を面白がるくらいしか対抗手段をもちません。
 みづうみ、お元気ですか。涼しくなってほっとしています。
 どうかお元気で、楽しく文学生活なさいますように。 秋は、ゆふぐれ
 
◎ 令和五年(二○二三)十月六日  金  神無月
    起床 5:00 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 59.00 kg  早暁起き・測
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『木曽節』  
 一 木曽のナア 中乗りさん 木曽の御嶽(おんたけ)さんはナンジャラホイ
     夏でも寒いヨイヨイヨイ
   袷(あわしょ)ナー中乗りさん 袷(あわしょ)やりたやナンジャラホイ
     足袋(たぁび)ョ添えてヨイヨイヨイ
 二 木曽のナア 中乗りさん 袷(あわせ)ばかりはナンジャラホイ
やられもせまいヨイヨイヨイ
   襦袢(じゅばん)ナー中乗りさん 襦袢仕立ててナンジャラホイ
     足袋(たぁび)ョ添えてヨイヨイヨイ ヨイヨイヨイのヨイヨイヨイ
 〇 十番までも有る。は、幼少來耳にしていた。京都から木曽御嶽山は比較的近い霊場とみられていたろう、平安時代の女人でも参籠に出向いていたほど、観光にも木曽は山河の美しさを合わせていた、今も。子供でも、聲いっぱい張り上げられる快感があったと、忘れない。
 
 * 無為という一日であった。推敲の仕事には短時間ながら気を入れていたが、余は何ごとをして、亦は何もせず、過ごしていたのか覚えない。人間「秦恒平」機能不全に陥っていた、いる。気に懸けてもなんとも仕方なく、そういう思い煩い無益と切り捨て、赴くままに好きに好きなことをし、余は寝入っていれば良いと、まるで自己放棄のよう。
 もう夜の十時前。まだ、死なない。が、明日が見えない。  
 
 
◎ 令和五年(二○二三)十月五日  木  神無月
    起床 5:00 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 59.00 kg  早暁起き・測
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『ヨサホイ節』  秋月四郎 作詞
 一 一つ出たハナヨサホイホイ     七 七つと出たハナヨサホイホイ
   一人寂しく残るのはホイ        ながめしゃんすな迷うてもホイ
わたしゃ死ぬよりまだつらい      加茂川育ちの京をんな
ヨサホイホイ                     ヨサホイホイ
 二 二つと出たハナヨサホイホイ    八 八つと出たハナヨサホイホイ
   二人は遠く隔つともホイ         やはり変わらぬその心ホイ
   深く契りし仲じゃもの         勉強しゃんせよ末のため
   ヨサホイホイ                    ヨサホイホイ
三 三つと出たハナヨサホイホイ     十 十と出たハナヨサホイホイ
   みんな前世の約束かホイ         遠い京都の空の雲ホイ
   ほんに浮世はいやですよ         一人さびしくながめませう
ヨサホイホイ                    ヨサホイホイ
〇 私自身は、大正も末、昭和をそこに臨んでの「京も祇園」絡みのこんな唄、唱った覚えも聴いたことも無い、が、妙に、もの哀しくも、うらさびしくもあります、ホイ。
 「ラジオ」誕生、東京大阪の放送局がュースを伝えはじめ、また、イヤな「治安維持法」などの起った頃である。
 
 * 例の、無縁にしかも怖い迷路と人とに行き交い続ける街區の夢…。
 秋の冷えが朝晩に身に滲みて来た。そして私は書き継いできた「異様の小説世界」に自身怯えながら、孜々と推敲しているが…。
 心神の健康。なによりもソレと自覚している、が…
 
 * 午後近くのセイムスへ、妻と。「クスリ」ばかり買って。出かけの、浮腫トメの「クスリ」が効いてきつい尿意に閉口した。「走って帰る」ちから無くマイッタ。
 
 〇 すとんと涼しくなりました。昨夜はこの夏初めてクーラーなしで就寝しました。このまま秋が深まることを願うばかりです。
 昨日はやっかいな栗の皮むきをして、この秋はじめての「栗ご飯」をつくりました。栗は大好きですが、以前、大量の栗をいただいて処理をしたら腱鞘炎になったことがあるので、栗ご飯は滅多にわが家の食卓には並びません。むいてある市販品を使えばらくですが、風味が全然ちがいます。
 久しぶりに満足しました。
 秋の炊き込みご飯王者の「松茸ご飯」はつくるのは簡単ですが、お値段が…。労力か財力かの選択が毎日の食卓にも見られるのが、面白いことです。
 バブル時代には父親にカゴいっぱいの松茸がよく届いたという友人がいますが、今の日本ではそんな景気の良い話は聞きません。給食でしか食事が食べられませんとか、あなたのまわりにお腹をすかせている子どもがいますという、先進国とは信じ難い広告の流れる日が来るとは、あの時代の日本人は考えてもいなかったでしょう。
 国家の落日の訪れは、早いなぁ。円安で、海外では買物も出来なくなっていますし。
 みづうみは、次回「湖の本」に向けてお忙しくお過ごしのことと思います。
 長編新作、本当に怖そうで、鬼気迫るモノを読ませていただくことになりそうです。
 <体調を無視して生きています> <病状に負けて挫けぬ爲には、自覚 仕事を前へ前へ押すが最良と。> のお言葉を読みながら、みづうみはご自身の宿命の「文学」に「生かされている」ことを思います。
 時々は、ほっこりなさってくださいね。  冬は、つとめて (早暁)
 
* 栗御飯 松茸御飯 もう久しくも久しく眺めたことも無い。我が家の食卓は、私が「食べない人」になってしまっているので、妻も張り合いないまま、ま、貧寒。
 
〇 今 成田空港に来ました。四年前トルコに旅して以来です。今夜のフライト、ツアーですので気楽です。
 何処に行くのか書いていませんでした?! イランに行きます。昨今ロシアとの関連で気掛かりと言う人もいますが、、「遺跡」を見るのが楽しみです。
 先のメールで 歌 のことをかきましたが、本のなかで 半抽象云々について書かれているのを反芻し、考えています。これは絵画の問題でもあるかと。
 ご多忙な日々であるかと思いますが、お身体に気をつけて。
 大切に大切に  尾張の鳶
 
 * 私と、さまで 歳の差
と想っているが、旺盛に元気やナアと感嘆。
 
 〇 いっせいに涼しくなり、しぜんは正直に秋を覚えていること、と感心いたします。当地茨城も朝は寒さを覚えます。
 隣の蜜蜂は、あの暑さのなか、よく頑張っていましたが、毎日のように世話をした人に応えて、素晴らしいはちみつをつくりました。毎日、朝な夕な、見ていただけの私にも、思いがけなく蜂蜜が届きました。
 蜂蜜は元気がでますね。  みんな元気な秋を迎えました。 
 お健やかにお過ごしくださいますように。  那加よし
 
 * 蜂蜜か。アレは、甘いなあ。
 
 * 小説の念入りの推敲・添削が、半ばになろうと。じいっと辛抱しながら難儀を仕分けて行くのが推敲。ガマンを見捨てると、作の流れも醜く淀む。疲れるが。しかし徹した推敲なしに脱稿はありえない、譚・中編でも。まして長編は。疲れる。目も胸も。
 
 * 明日「湖の本 165」の念校4頁分が゛届いて校了すれば。いくら遅くても二十日迄の納本となろうか。また「発送」という労働になる。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)十月四日  水  神無月
    起床 3:50 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58.25 kg  早暁起き・測
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『ストトン節』  添田さつき 亦は父・唖蝉坊作詞か
 一 ストトンストトンと通はせて    五 ストトンストトンと通はせる
今更いやとはどうよくな        一月かせいだ金もつて
いやならいやだと最初から       ちょいと一晩通つたら
いへばストトンで通やせぬ       キッスひとつで消えちやつた
ストトンストトン           ストトンストトン
 
 〇 演歌大流行のほぼ末尾ちかく、大正も末のほうで流行ったらしい、こんなアホウら   しい唄で憂さが晴れていたか。
令和の昨今サラリーマンのそれも同様なのか。月給取りの暮らしから脱けて少なくも、私、半世紀ほど。作家生活の「読み・書き・読書と創作」そして家で一人飲む酒で「ストトンストトン」と遣ってきた。ストトンストトン…て、何かな。
 
 * 利尿と浮腫止めの効果か(害か)で、浮腫んでいた体重が、度重なる排尿で1キロの上も下げた。自然な仕方ではないと容認はしてないが。
 
 * 奇っ怪な「日本の古代・昨今」の暗澹・混乱に日々付き合っているのは、一つには興趣、津々。一つには不気味に怖い。ツイ「勉強」姿勢になりがちだが、それだけでは文藝が「創意の建築」に育たないので、要、用心。
 世の未だ深々寝静まっている時間に、気に入りの大ぶり湯呑み(どなたかに頂戴した、その方の作品)に冷えた昨日の御茶だけ汲んで二階へ来るのが、なんとも「私語」がたのしめ」て落ち着く。また、格闘のような一日を始める。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)十月三日 火  神無月
    起床 3:30 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 59.1 kg  早暁起き・測
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『籠の鳥』  秋月四郎 作詞  鳥取春陽 作曲
  一、逢ひたさ見たさにこわさを忘れ
    暗い夜道をただ一人
二、逢ひに來たのになぜ出て逢はぬ
  僕の呼ぶ聲忘れたか
三、あなたの呼ぶ聲忘れはせぬが
  出に出られぬ籠の鳥
四、籠の鳥でも知恵ある鳥は
  人目しのんで逢ひにくる 
〇 たわいない唄ではあるが、幼稚園、国民学校の幼少には、何ともなくこれを「世の中」へ入門して行く道先案内か、先達の指導かのようにも聴けていたのを、まんざらバカラシクもなく思い出せる。斯う謂う「世の中」へ誘い入れる道とも声ともいつしか唄い憶えるのが、斯う謂う「唄」の無視はならない訓育めいていた。だからこそ親や大人は「唱うな」と角を立てて幼少が「物知り」になるのを拒んだ。
 
 * 真っ暗な真夜中、二階窓の外気の冷たいこと。
 
 * 安眠できなかった。利尿剤の効果が過ぎ、腹まで下した。一時間ごとに起きて四時間と寝ていないが眠気は無い。「夜中起き」が気に入っている。まさしく「私語の刻」となる故か。さててさて、難儀にイラつく老耄をこらえて、長編の好い仕上げ、次々への心容易へ今日も奮励努力の八十七爺は足掻きます。
 
 * 夕刻四時半、利尿薬と浮腫止めとの綜合効果か逆効果か知れない、午後は10分15分間隔で手洗いへ馳せ参じてきた。やれやれ。
 
 * ほんとの脱稿を願永い作を再び三度目をじっくり読み返して更に添削し推敲している、すきなさぎょうではある、が、とても疲れる。が…
 
 
◎ 令和五年(二○二三)十月二日 月  神無月
    起床 4:00 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58.25 kg  早暁起き・測
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『村祭』  文部省唱歌
  一、村の鎮守の神様の
     今日はめでたい御祭日
  どんどんひゃらら どんひゃらら
  どんどんひゃらら どんひゃらら
      朝から聞える笛太鼓
 〇 京都の町なかで生まれ育ったが、太平洋戦争に入ったのが昭和十六年十二月八日、京都幼稚園での師走、翌春四月に市立有済国民学校に。三年生をもう終える雪深い三月、戦災の懼れを避け、京都府南桑田郡樫田村字杉生(すぎおふ)に母と祖父と三人で縁故疎開した。四年生が目の前だった。
 上の『村祭』の小規模にもソックリを私はその「杉生』部落のお祭りで体験していた。山中をはるばる仲間と歩いて越えて南桑田郡篠村の賑やかなお祭り日も見聞体験した。京都市には音に聞こえた『祇園会』の大祭がある、ソレとは比べものにならなくても「村祭り」村中の大人も子供も大賑わいに踊り唱う。懐かしい思い出。
 そしてぜひ付け加え太鼓と。戦後新制の市立弥栄中学に入学の歳の「全校演劇大会」で、小堀八重子先生担任の吾が一年二組の『山すそ』という「農山村舞台」の児童劇を、学級委員の私が率先演出役になり、主役、クラスデモ最もおとなしい目立とうとしない女子を断然起用訓練したのが成功し、実に、三学年全生徒の投票で「全校優勝」したのだった。嬉しかった。「祇園の子」という短編の処女作にもその嬉しさを書き置いたのも、文壇への有効な足がかりとなった。
 この舞台で私は此の唱歌『村祭』を、背景の合唱で気分良く取り入れた。懐かしい少年遙か遙か大昔の少年活躍の思い出、掛け替え無い。
 
 * すこし曉けの朝が冷えて、少し明けた二階窓へ冷気も流れてきた。くしゃみもし、洟も出て。十月だ。
  今朝からは、昨日、やっと大方「書き終えた」らしき「長編」の、各乎検索修正をはかろうとと。添削、推敲。書き手には、一の要事ぞ。
 
 *朝九時前、一仕事は終えていて、いま、洟水のくしゃみを連発、かすかに寒が。
 
 〇 秦さんへ   早速のメールを受信出来て嬉しい限りです
やはり秦さんのお話が読める事は何よりです へばり気味の体が元気を戻してくれそうです 今後ともよろしくお願い申し上げます
 古いパソコンに 頼む頼む と言っています
 秦さん 本当に有難うございます
 どうかくれぐれもお大切にされてください  千葉 勝田拝
 
 * 病状に負けて挫けぬ爲には、自覚 仕事を前へ前へ押すが最良と。
 
 〇 お元気ですか 望月太左衛です。
 風が秋の色に変わってきました。心にも少し冷たい風が吹いてきたような、、
 そんな気持ちになる中、10月いっぱいで 国立劇場が閉場されます。 
 文楽公演は、9月が「さよなら公演」となりました。
 千秋楽の日、第1部の「菅原伝授手習鑑」を拝見いたしました。
 入場の時、観客にも「大入り袋」が配られました。そこで、涙が出てしまいました。
本当に閉場されるんだなと思いました。
 そして、「車曳」から始まる、「菅原伝授手習鑑」三段目、四段目。57年間、計225回公演を行ってきた歴史の一区切りとして、文楽の皆様による熱演に次ぐ熱演の舞台の迫力に圧倒されつつ、また涙、、
 文楽は太夫・三味線・人形の「三業(さんぎょう)」で成り立つ三位一体の技芸と言われています。
 が、観客から見えない舞台下手の御簾内から文楽を支え続けてきたのが 文楽囃子の望月太明藏様御社中の皆様です。
 なかでも開場当時から、今回の8・9月文楽公演まで、文楽公演のほとんどに参加され、今の文楽の囃子の奏法を確立されたのは望月太明吉師匠です。
 今回も、太明吉師匠の思いのこもった囃子が 国立劇場に響き渡っていました。
 
 * コロナ禍無く、わたくしも健康なら必ず聴きに観に国立劇場の最期を惜しみに出かけて到ろうに‥太左衛さんのお知らせで空気の色まで感じ取れた、感謝感謝。
 
 * 昨日で長編の一稿はほぼ成したが、長編の二稿三稿は、かきおろすよりもはるかに無我香椎むずかしいと心得ており、少しも木はゆるめ得ない。むしろ、新たに唸り呻いている。「やる」っきゃ無いのです。
 
 * 早暁四時には機械前に腰掛けて、いま、朝の十時すぎ。
 へばらずに 先へ。風邪を引いたらしいのが、宜しく無い。
 
 * 正午。機械の混乱と私の混乱を必至に「避けよう」と懼れてい感じ。
 午後も、根負けしないよう、ともあれ、新作の推敲に打ち込みたい、が。
 
 * 二時半、懈怠さに負けて、テレビへ向いていた。寝たい、のが本音。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)十月一日  日 神無月朔
    起床 4:45 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58.4 kg  早暁起き・測
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『人形』  文部省唱歌
 一  わたしの人形は よい人形    二、 わたしの人形は よい人形     
    目はぱっちりと いろじろで      うたをうたえばねんねして     
    小さい口もと 愛らしい        ひとりでおいても泣きません    
    わたしの人形は よい人形       わたしの人形は よい人形   
 〇 子供こころに不愉快な唄でった。わが子を「人形」に見立てて、都合良く愛想良く大人? 多分に母親? が、わが子を「ひとりでおいても泣きません」などと思うまま「人形」扱いに私有し支配している図と見え、イヤらしかった。「文部省」がこんな唱歌で少年少女・児童を、大人や親の「人形」扱いに委せるのか、バカにせんといてと思った。
 
 * 早起きして二階へ来ると、他に手が出せず「日の初め」の記事となる。一日が肇まる。
 
 * 押せ押せに要事が輻輳しているのを切り替え切り替えどれも前へ努めて精確に押さねばならない。「湖の本 165」は昨日、本紙表紙の「責了紙」を送った。「あとがき」分の4頁のみ初校の出るのを待機、やがて発送という力仕事が来る。
 
 * 早起きには「私語・私事」にまず整理と見通しを立てるのに、気分として好都合なのだ。逃げ場が無いから面倒な「ほぐし」や「訂正・転換」にも取り組んでおける。
 
 * 永く書き継いで来た小説、よほど擱筆の時機に逼ってきた。慎重に、大胆に…と。
 
 * 夕刻四時。午後寝入っていた。按配しておいた屋内杖が臥背戸も見つからない、この狭い謂えなのに。見失うのはうまいが捜すのは、至極へた。
 
 * およそ仕懸かりの仕事の「現状」は、機械画面上で「確認」した。出来た、収束をより精確に。メールもせず、届きもせず、至極孤独な現状。鳶は文字通りに、「外遊」すると。わたしは「外遊」出来ないが、「京都」か、せめて「都内」へ出てみたいが、建日子が母に電話してきて、コロナ・インフルエンザの蔓延は只ならないと。この身の弱りの今、病気はしたくない。病気でつ触れては、うまりに無念だ。「じっと我慢」の「籠り居」
で「仕事」に努めよう。
 十月か。七十年近くは昔の十月十六日の真昼、妻とのデートで初めて大文字山に登り、しがいよりも比叡山の巨きく見える側斜面で景色佳さを楽しんだ、持参の魔法瓶は登山途中で木に当てて割ってしまってたが。
 同じ二十六日には、二人で初めて「鞍馬山」を登って越え、貴船へ下りた。私は至極貧乏で、どんな気晴らしも出来なかったが、京都中、街も山もよく「歩いた」よ。歩くのにはお金が要らなんだ。その当時はどんな神社仏閣も鷹揚にただ觀せも入れもして呉れた。有難かった。感謝した。
 
 〇 秦さんへ  メール復活したようでです(自分へも通じました)
 原因不明で何とも心許ないのですがうれしいです
 秦さん 今後ともよろしくお願い申し上げます
 秦さん コロナ・インフルエンザ 病院も老人ホームもまだまだ心配です くれぐれもお気をつけください。どうかお大切にされてください 転ばないでください
                             chiba e-old 勝田拝 
 
 * お話しのお相手が出来ますこと、何より喜ばしく安堵。
 私、峡、時日をかけてきた書き下ろしの新作小説にメドをつけて、時日上脱稿へこぎ着けました。「私語の刻」も日々旺盛に書き継いでいます。
 この師走「冬至」の米寿八十八に躓かぬよう木をつけて、外出無く、感染に身を護っています。中国の現代小説大長編『主演女優』 光圀の肝いりで水戸藩で編まれた四十数巻の和本『参考源平盛衰記も、中浜で楽しみ読み進みました。
 疲労は烈しくも、構わずに、仕事の手は各種手を離さず努め続けています。
 勝田さんの弥増しの日々ご健勝を切に願い祈ります。街で会い、うまいモンの食べられる日々の再来を想っています。
 日々に機械に書いています「私語など」よみとっていただけるいいのですが。ホームページのフッス津を強くねがってはいますが、私の手では絶望で。
手段が無いもんですかねえ。 このところ真夜中、早暁に床を離れてくじごろまで仕事を押しています。昼間よりも打ち込んで書けるのですよ。昼間にポコリ ポコリ寝入っています。 お大事に。 耳寄りのおもしろいことあらば、お聞かせ下さいませ。 秦 生
 
 * まだ八時半。それでも両の上瞼痛く重く、へとへと。尾張の鳶が、鴉の短歌を喜んで褒めてくれていた。おうおう。
 すこし乱し書きにメモだけの書き留め歌を、とり留めとりまとめておこう、か。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月 私語の刻
 
◎ 令和五年(二○二三)九月三十日  土 長月盡
    起床 4:25 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58.5 kg  早暁起き・測 
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『虫のこえ』  文部省唱歌
 あれ松虫が鳴いている
      ちんちろ ちんちろ 
       ちんちろりん
    あれ鈴虫も鳴き出した
      りんりん りんりん
       りいんりん
    秋の夜長をなき通す
    ああおもしろい虫の声 
 
 〇 京の養家の猫の額ほどな奥庭でも、疊一枚ほどの泉水に金魚らが游いで、寝間の窓ごしに幼い私は松虫鈴虫の音も聴いて育った。ときに枕元の障子際を蛇の趨ったような怖い古い家であったが、わが埴生の宿ではあったし、此の唱歌も好きだった。
 同じ文部省唱歌でも、「あたまを雲の上に出し 四方の山をみおろして かみなり様を下にきく ふじは日本一の山」なとと「上」にふんぞり返りたがる「ふじの山」など、同類歌は少なからず、みな、好かなかった。明治大正昭和の「唱歌」にはとかく「日本一」の「上」賛美や自慢があった、好かなかった。「天皇制」政体であるよりも「日本文化」とひとり理会していった少年は、「高嶺おろしに草も木もなびきふしけん大御代を仰ぐ今日こそ」などと唱いたくなかった。唱わなかった。
 
 * 夜前、日付の変わる少し前から独りキチンに入りテレビを見た。ふしぎと此の時間帯に好い映像が見受けられるから、ワールドニュースのついでに暫くめずらかな絵など見るのである。昨夜は潜入司祭や隠れキリシタンらの物語られて行く珍しい映像に、京都新聞連載『親指のマリア= シドッチ神父と新井白石』を書いた昔を懐かしみもした。「大きな仕事になりましたね」とわざわざ褒めて貰った大岡信さんも、もう亡くなって久しい。一律に着物を着せられ、折りごとにに「踏み絵」を強いられる棄教司祭等のそれぞれの最期など観てとれて、ああ書いた、みんな書いたなと感慨を強いられた。今朝のは、だれだったかの小説『沈黙』の映像化であったのかも。『シドッチと白石』、読み直したくなった。が、私自身の「選集」全三十三巻をみな読み返すとなると大変な精力と時間が要る。まだ死ねんなあと思う。
  
 * わがパソコン機械環境の「ガタピシ」が日々に加わってくる。これはもう私の所詮手に負えず、もう久しい「機械での、読み・書き・私語と創作」は、やむなく遠からず挫折の懼れに?まれている。もうやがての師走「冬至」には「八十八(やそはち)爺」になる、私。処置も無く唸り呻くばかり。 早朝・五時半
 
 * 書き下ろし中の長編「蛇行(だこう) 或る左道變」の蛇行具合を大づかみに「点検」していた。書くべきには、相当にもう触れていて、その進み具合をアタマに入れてフクザツ・カイキな物語を力業で結んで行かねばならない。見えているようで、いやいや、容易でない。 
 〇 九月盡  来週後半あたりから気温が下がるとか。長い夏の酷暑でした。夏の疲れが残りませんように。今は「湖の本」のお仕事にかかられている頃でしょうか。
 数日前から「湖の本109,154」、鴉の和歌の本を読み継いでいます。鴉の原点、その生来の資質に舌を巻く思いです。鳶は足元にも及びません。
「井口さん、勝田さんはじめ。メール機能を機械から喪ったという方が増えて」と書か
れてありますが、パソコンでなくても今やスマートホンでメールが可能ですから、是非
是非皆様と連絡し合って 世間を狭くなさらないようにと願っています。ちなみに鳶のメ
ールの半数以上はスマホからで、パソコンを立ちあげるまでもなく外にいても、京都などからでも簡単にメールの画面を開くことが出来ます。
 今日は今年初めての柿を楽しみました。
 明日から世の中は値上げラッシュとやら、これまで何回も値上げはあったのですから、今更の感もあります。昔は値上がり、そして賃上げも常の普通の事でしたが、「失われた三十年」も奇妙な時間でした。
 外国に行くのに今ほど円安を厳しく感じるのも少々寂しい。いえ、大いに寂しい。
 が、5日、旅に出ます。
 秋の訪れを楽しまれますように。
 美味しいものを探して楽しめますように。
 お仕事充実されますように。   尾張の鳶
 
* 無事に、愉快に満ち足りた旅を なされよ。 鴉
 
  * 書き下ろし中の長編の「蛇行(だこう)」の蛇行具合を大づかみに「点検」していた。書くべきには相当にもう触れていて、その進み具合をアタマに入れてフクザツ・カイキな物語を力業で結んで行かねばならない。見えているようで、いやいや、容易でない。 
 〇 今夜は中秋の満月、仙台・八木山のわが家のベランダからキレイに見えました。
 中秋にちょうど満月になるのは、なかなか無いそうですね。
 生前 母は、ススキや梨・ぶどう等々と共にお団子を「お月さま」にあげていたものです。
 そんな風習も徐々に薄れ、わが家では専ら空を眺めるだけです。
 お彼岸もとうに過ぎましたのに、今日の仙台は27.5℃ 汗ばむほどの暑さです。
 東京はなんと30℃ 真夏日とか・・・。
 ご体調管理が大変でしょう。
 どうか、くれぐれもお大事にお過ごしください。 恵  元・同僚 大学教授・学長
 
* まん丸の耀くお月さまであったか。私はまるで地獄を覗き込んで唸っていた。書き上げて仕上げるより遁れようがない。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月二十九日  金
    起床 4:50 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58.1 kg  早暁起き・測 
 
 ◎ めぐり逢ひていつも離れて酔ひもせでさだめと人の醒めしかしみ  今朝 詠
 
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『ローレライ』 近藤朔風 譯詞  ジルヘル作曲
 なじかは知らねど心わびて
   昔の伝説(つたえ)はそぞろそろ身にしむ
   寥(さび)しく暮れゆくラインの流れ
   入り日に山々 あかく映ゆる
 
二、 美(うのわ)し乙女の巌頭(いわ)に立ちて
   黄金(こがね)の櫛とり身の乱れを
   梳きつつ口吟ぶ歌の声の
   神怪(くすし)き魔力(ちから)に魂もまよふ
 
〇 敗戦後新制中學の一年、いや二年生の音楽教科書に載って居て、音楽の時間に音楽室で習った。まことにつまらん歌だと、譯詩の平凡にもイヤ気がした。なんで戦後日本の自主性・社会性・民主主義をと日々叱咤激励されるわりにはあまりアホらしいたわいない歌だとクサシていた。
 ところが、である、その翌年の全学年より揃うて講堂での集会に、音楽の小堀八重子先生、嚴として、その全学集会で「ローレライ」を「独唱せよ」と。誰が。私が、である、マイッタ。音楽教室で、うちの組だけの音楽の時間なら、期末試験がわりに、みな、一人一人唱わされることはある、だが、ちがうのだ、それとは。京都市内でも人に知られた立派な大講堂の檀上で、先生のピアノ伴奏で「独りで唱え」と。「ローレライ」をと。講堂には、むろん全校生が倚子席にぎっしり。青くなり赤くなり、へどもどしたが、こういうときに断乎とニゲル気概と意気地がない。
 じつを謂うと、同様の全校集会が前年のおなじ時期にもあり、そこで、やはり広い講堂の壇上真ん中でうたった上級生女子がいた。歌は、「春のうららの隅田川 上り下りの舟人は」という春の歌、唱った三年生女子は、一年下の私の、心から「姉さん」と思慕し敬愛していた「梶川芳江」だった、食い入るように舞台の「姉さん」を見つめ、美しい歌声を全身に体していた。その思い出があり、一年後に私に唱う役が与えられのにも、こりゃ困ったと閉口もしつつ、けれどあの卒業していった「姉さん」の「跡を継ぐ」のだからと、じわっと昨年を懐かしんだのである。あの聰明に優しかった「姉さん」も亡くなった。こんな妙チキリンな述懐を天井で微笑していることか。
 それにしても『ローレライ』には歌詞も曲も馴染まなかった。以降も此の歌を口ずさむコとは絶えてなかった。だが、アレ、わが弥栄中学三年間の一のハイライトではあったなあ。とちりもせず、調子も外さずとにかく唱い終えたのだもの。
 
 ◎ めぐり逢ひていつも離れて酔ひもせでさだめと人の醒めしかなしみ
 
 * 両脚が、浮腫むではなく、しかもキンキンカンカン筋骨固く太く、じわと痛むほど。そしてこの早暁に空腹を覚えている。二階の窓から遠い東の空をうかがうと北寄りに淡い黒の雲の波が沸いて流れていた。お日様が昇れば、以前に一度見たようなみことに美しい「しののめ(曉雲)」が真東のまだ低い空に眺められるかも。
 
 * 至急を要する創作・出版上の要件・要事が波だつように逼っている。すべて解決する以外に余の前途が無い。
 で、今朝から一つの「關」を駆けて脱けた。終幕の大きな山が残って居るのは、もう突貫あるのみ。
 「湖の本165」の確実な「責了」を確認し、「166」の充実の「入稿」を精確に果たしたい。その辺が私「米寿」への足取り、老耄に怯えないで敢闘したい。「歯」が植えもした実なくて醜くても、ほどほどに食べられるし酒も旨い。私の見た目など、論の外。私の書けること、よく書けること、「湖の本」をありがたい全国の読者のみなさんに「差し上げられ、送り続けられる」なら上乗。私たちは、幸いに、お金を稼がねばという暮らしをもう前々からしていない。
 何方でも、既刊165巻以降續巻の『秦恒平・湖の本』なら、ご希望の方、どんな欠番分であれ、全巻であろうとも、ご希望の方には「在庫」の限りは「無料呈上」する。できる。
 
 * これぞ耄碌 印刷機械の操作も忘れてできず、それでもメールでんそうという手段を頼んで「湖の本 165」の「あとがき原稿を、書き上げて印刷所へ贈った。校正を終えた本紙と表紙とは明日にも郵送して「責了」。まず、十月下旬までに送り出せるだろう。しかし「もの忘れ」の被害や故障は今後ぞくしゅつするだろう、そのコトとの「いくさ」が新たに始まるのだと覚悟。
 
 * いやあ、まあ、よくがんばったものだが、遺制に見れば、従來から見れば 何のたいしたことではないのだ。余儀ない必然から、けわしい老耄の「いくさ」」なるが、平和外交を心がけたい。
 
     あとがき
 
 ごく初期作から、自愛の「三作」を今回、巻頭に置いた。誰の場合も同様と思われるが、いわゆる「初期作」には、「作家」なる文士と世ひとのまだ識らない「以前」の作と、作の熟れる「作家」と識られて「以後」の作とがある。前回「湖の本 165」の巻頭『少女』『或る折臂翁』は九年も「作家以前」の、純然「処女作」であった。
 今回の三作は、一九六九年桜桃忌に筑摩書房「展望」誌に寄託の作『C經入水』がはからずも井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎。中村光夫ら選者の満票という強い推薦で「第五回太宰治文学賞」を受賞して以後、雑誌「展望」「太陽」等々に依頼されての「初期作」である。
 
 今回巻頭の『廬山』は、最初、雑誌「新潮」から「作品持参で社へ」と呼び出されたが、私の気持ちがどうも折り合わず、作を引き揚げ、新たに筑摩書房「展望」に預けると、即、無傷で掲載され、さらに即、「芥川賞候補作」となった。芥川賞選者ではなかでも瀧井孝作、永井龍男が口を極め、「美しい、美しい限りの創作」と強く推され、受賞こそ成らなかったが、同じ選者の吉行淳之介、井上靖らにも後日、「『廬山』よかったよ」と聲を掛けられていた。
 私を小説『廬山』創作へ誘ったのは、「日本の或る古典」のごく一部分の記述であったが、誰にもまだ気づかれていない。
 この『廬山』が「新潮」編集室でハナから失笑されたのは、作中の男子兄弟を「太郎」の「三郎」の「四郎」のなどと呼んでいるのがバカらしく滑稽だなどというのだった。八幡太郎義家だの、佐々木四郎高綱、鎮西八郎為朝、源九郎義経だのと兄弟長幼につれて呼び名された武門は幾らもあり、『廬山』主人公「劉」の「四郎」も明らかに武門の四男坊。ものを識らない人らだと呆れ原稿は引き取って帰り、その脚で筑摩書房の「展望」編集室へ、一字一句の添削もなく預けたところ翌月にはそのまま掲載された。この作品『廬山』は以降、秦恒平初期の「代表作」かのように『筑摩現代文学大系』や平凡社の『昭和文学全集』等にも収録されている。自省のない高慢は論外だが、自作にまこと自負自信があるなら、「新人」と謂うとも卑屈に出版・編集者らの時に乱暴な「上から」目線に、縮み上がらなくて好い。「時機」の方から不思議と歩み寄ってきてくれることがある。
 
 『廬山』』と並べた『三輪山』は、純然の創作であり、平凡社「太陽」編集室の寄稿依頼にほぼ即座に書き下ろした。一字一句に気を入れ、句読点の一つにもこまかに注意し、書き上げた。一気に書いたと覚えているが、一つには、私小説にも部類されそうなほど、作者自身の「生いたち」「育ち」「感慨」にズブと深くさし込んでいて、いくらかは作者自身の涙に、文章、表現、濡れてもいようか。虚構ながら、うそは書いていない。
  三輪山をしかも隠すか雲だにもこころあらなも隠さふべしや
という萬葉古歌は。高校の教科書で習ってこのかた、私の「身も心も」しかと?んできた。天智の近江王朝を書いた初期長編『秘色(ひそく)』にも上の和歌一首は濃い翳をさし掛けていた。胸のうち深くでしみじみと歌い続けている、今でもなお。
「奈良へ傷まんもん、買いにいこ」は、事実幼少の私が京都東山区知恩院下の新門前「ハタラジオ店」に「もらひ子」されたあとあとまで、呪文かのように秦の母や大人にせがんだそうである。この「創作」の舞台回しを務めてくれている「三輪君」のような職場へ配属の新人部下と『医学書院』勤めのむかし仲良かったのを懐かしく想い出す。ただし此の作品『三輪山』とは何らの関わりもない。
                         
 作品『隠沼(こもりぬ)』は、これこそ、作者が眞実自愛の、自分で自分に宛てて書いたせつない「恋文」と謂うておく、もとより全然無疵の完きフィクションであるが、わが胸の奥の奥、あまりに底深い「隠沼」へ此の自作を投げてもどすと、もうゼッタイに「龍ちゃん」の「マジョリカ」も「真葛の文ちゃん」の「明の宣徳染付」も生けるごとく真耀いて美しいのである。して幾らか困っテ居るのはこの二人、「もういいかい」「もういいでしょ」と私を呼ぶのである。こごえで「まあだだよ」と返辞はするのだけれど。
 
 しつこい熱暑に喘いだ真夏、また、慘暑の九月であった。昨今の私は、昔の私を知る人の目には無惨に瘠せ、縮み、折れ曲がって、歯は無く、呂律まわらず、酒を呑んで、ろくに食べようとせずに、自身も同じ「八十七歳」の久しい妻を困らせている。もうやがての「冬至』になるとはそんな私が「米壽」を祝うとは、これは本当に赦されることだろうか。
 そうは謂うが、やがて脱稿できるだろうかなり長い新作『蛇行 或る左道變』も、日々パソコンへの『私語の刻』も孜々と書き継いでいる。 まだ、死なない。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月二十八日  木
    起床 2:20 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58.45 kg  早暁起き・測 
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『赤い靴』 野口雨情作詞  本居長世作曲
赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて
  いっちゃった
 
 〇 自身の口には滅多に載せなかったが、かなり強く意識して忘れがたい唄であった。私は昭和十年(一九三五)歳末に生まれ、大東亜戦争は昭和十六年(一九三六)十二が八日、日本軍の真珠湾奇襲て始まった‥私は送り迎えのバスで京都幼稚に通っていた、翌る年四月に有済国民学校一年生に成った。戰争前の私はちいさかったが、家の間を往来する異人さんは見知っていた。我が家「ハタラジオ店」の有った知恩院下の新門前通りには「異人さん」を客に向かえる美術骨董や日本衣裳の店が転々と建ち並んでいて、蹴上の都ホテルなどに宿泊の異人さんらの決まって立ち寄る通り道だった、異人さん店をのぞかれることも、声かけられる子供達もいた。「赤い靴履いた女の子」を見た記憶は無い、が、大人に手を牽かれ通ってってもちっともふしぎでなかった。二番に出てくる「横浜のはとばからふねに乗って 異人さんに連れられて等吏手いっちゃ」う光景とは無縁だった。だが、なんとなく「いっちゃ」うのは、つまらなくイヤであった。あの気分に今でも帰れる。
 
* 全身・体表に違和感、寝にくいのを無?に寝るよりもと、二階へ来た。たさねば澄まぬ要は幾つも在る。一つでも二つでも片づくと佳いが。
 
 〇 歯医者にはいらっしゃらなかったようですが、その後、ご加減はいかがですか。
 台湾の空港では団体行動であまり時間がとれず、思うようなお土産が買えず、すみませんでした。
 今日は、学園の創立一二五周年の式典があり、私も編集に加わった『創立一二五周年記念誌』も発刊されました。
少し肩の荷も軽くなりましたが、一一月に迫った硯友社文庫開館に向けて、図録の校正、展示室の準備等に気がせきます。 
 
 二九日は、芋名月。今年は、満月ですね。
 ようやく少し涼しくなって参りましたが、気候のまだ定まらぬこの時期。
旗楽様もどうぞお体お大切になさってください。 fuk
 
 * ただもう息を詰め根を詰めて、「もののかたち」へ「かたち」へと押して行く、それが「仕事」。キンキン、カンカンの姿勢では宜しく無い、どこかに「安穏」という「ノン気」が働いてないとガチガチになる。ユルフンとガチガチは仕事の大敵。両方も仕事の「ハカ」の邪魔に成る。
 
 *鏡に顔が映ると、ビックリする。昨日独りで妻が出向いた歯医者さんも。、実は私の変貌「凄い変貌・変容」に心底ビックリしていますと妻につげたとか。顔もからだも手足も、外で出会っても秦先生と判らないでしょうと。体重が86から90キロに及んでいた私が、今は55から58キロでの下方に佇んでいて、顔は小さく瘠せて変貌甚だしく、身のこなしはヨロヨロと。田もなりに縮んでいて、その証拠に、家のあちこちにンマ歴己に柱や壁に敷設の点滅スイツチ、上が点灯、下は消灯となっていて、かつては上下お七随などなかった、のに、近来の私は九割方上のスイッチしか手に触れない。背丈の機能に何かしら矮小化が露われているらしい。中年前の女医さんのいつも文字通り目近に見ての感想には、何ひとつ言い返せない。
 友人知人度くゃの皆さんとは、もう会うまいよと思う。老残か。ウーン。
 
                        
◎ 令和五年(二○二三)九月二十七日  水
    起床 4:30 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58.45 kg  早暁起き・測 
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『新金色夜叉』 後藤紫雲 宮島郁芳 作詞」 
 一 熱海の海岸散歩する
   貫一お宮の二人づれ        四 いかに宮さん貫一は
   共に歩むも今日限り          これでも一個の男子なり
   共に語るも今日限り          理想の妻を金に替え
                      洋行するような僕じゃない
 二 僕が学校卒(おわ)るまで
なぜに宮さん待たなんだ       五 宮さん必ず来年の
   夫に不足かできたのか            今月今夜のこの月は
   さもなきゃ お金が欲しいのか       僕の涙で曇らして
                       見せるよ男子の意気地から
 三 夫に不足はないけれど
貴郎(あなた)に洋行さすがため
父母の教えに従いて
富山一家に嫁(かし)づかん  
 
 〇 尾崎紅葉の『金色夜叉』は新聞小説空前の大ヒット作、この唄も、私のような学校前の幼童でも口にした、つまらない唄とバカに仕切って。そしてもう成人し、紅葉の他の秀作など識るにつれ「読んでやるか」と読み出すと、コレがたいした文章の秀作力作だった、私は「尾崎紅葉」が「幸田露伴」と並んで「文豪」とされるのに承服する。
 
 * なにかしら体違和に催されて、未だ暗い内に二階へ来た。すべきは、山に成っている。目の真ん前、紫宸殿前の清浄境。弓に矢をつがえた兎の「高山寺」白描の戯画。他に代えがたい心神晴朗への「妙薬」。
 
 * とは云えいたいほど目に涙が滲みるのは、体違和の顕著なシルシ。躰の心棒がグダッと疲れている。七時。気温はどうなのか、かすかに寒けしている。体幹、臍の右寄りに凝って痒い違和を覚える。空腹も感じている。塩辛いような泪に左眼が痛む。
 〇 秦先生 メールをお送りいただきまして、
有難うございます。
お忙しい中、お心にかけていただきましたこと、
感謝申し上げます。
 暑さもまだ残っています。
お身体ご自愛くださいますよう、
お願いいたします。
 今後とも御指導の程
宜しくお願い申し上げます。 望月太左衛
 
 * 太左衛さんとも久しい。国立劇場で「邦楽」演奏の大會があり、誘われて觀に聴きに出向いたなかで、和楽器を総動員した大合奏が壮絶、見た目一等左端前座に、背格好は小柄だが生気に満ちた望月太左衛が太鼓を打った、その演奏の満堂を満たして美しい勢いに私は魅了され、知人を介してであったか、賞賛の言葉を伝えた。
 すると、日も措かず突如として太左衛さん、お礼にと、はるばる浅草から保谷の我が家前まで見え、沢山な蜆などいろんな手土産を手渡して行かれた。びっくり、恐縮した。
 以来何十年に成ろうか、仲良くしてもらい、浅草の花火にも例年招いて貰っていた。飴の晩にはお母上の私室へ夫婦とも通されて雨中の大花火を嘆賞した。
 私に「浅草の魅力を覚えさせてくれた人である。東京藝大院卒、今は同教授。同じ道を行く娘さんともともども大精力、日本中で活躍されている。
 
 〇 お元気ですか、みづうみ。
 湖の本のお仕事にお忙しいのではと拝察しています。お目の負担になってはいけないとメールを控えておりましたので、「私語の刻」九月二十六日を大変嬉しく拝読しました。ありがとうございます。
 
 * 舊作『三輪山』を、良しと読み返した。いささかも手をぬいていないことに、安   堵もし喜んでいる、相次いで自愛作の一つ『隠沼』を読み返す。
   舊作を アタマの働いている内に楽しんで読み返しておきたい。
   丁寧な気の入った仕事をしていたと胸を撫でる。
 
 私の本棚にはみづうみの作品が何段もぎっしり詰まっています。よくぞこれだけの質と量の作品を出版していらしたと感嘆し、壮観な眺めとしか言いようがございません。偉大なお仕事です。これからも読んで読み続けていきます。
 
 わたくしは未だに小さな仕事一つ成し遂げていませんが、それでも自分の小さな仕事を見出して少しずつ歩んでいることは楽しくて幸せです。最近は少し体調復活し、誕生日も無事に迎えることが出来、元気にしています。とは言え、アホらしいトラブルも色々。平穏すぎるとボケるかもしれませんのでちょうどよいのかも。人間ストレスがないとノイローゼになるそうですし。
 今年は誰も彼も暑さに疲れましたので、早く秋になりますよう願っています。どうかご無理のないよう、お元気なお仕事の日々をお過ごしください。 春は、あけぼの
 
 * ジリジリと「湖の本 165」責了へと詰めて居る。最良の自信自愛三作を巻頭に久久読み返して、置いた。こころよい一巻と成って呉れるだろう。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月二十六日  火
    起床 3:35 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 57.8 kg  早暁起き・測 
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『カチューシャの唄』 島村抱月・相馬御風作詞 中山晋平作曲
  一、カチューシャ可愛や 別れの辛さ
    せめて淡雪 とけぬ間に
    神に願いを ララかけましょうか
 
 〇 「カチューシャ」が人の、女の、名らしいとは察しても 他の何ひとつ 一切を識らないで、ただ聞き覚えに「カチューシャ可愛や」と唱っていた。大正の名女優松井須磨子が舞台でうたったとも識りようのない、昭和十年代の、国民学校下級生時期の私だった。トルストイ、『復活』といった背後の文学史には遅そ遅そに追いついていった、トルストイの「戦争と平和」「アンナレーニナ」「復活」こそが世界三大名作なとも追い追いにおぼえては「讀書」の大目標にしていった。実感として『アンナカレーニナ』が一、『戦争と平和』が継ぐと評価し、『復活』はやや気重もであった。そんな知識とは未だ全然触れ合うたことのない、ただの耳に入った流行り唄をうたっていた。カチューシャの「カ」という音のきれいな反覆を好感していた。
 
 * 夜中頻りに手洗いへと起こされた。服薬の「浮腫とり」がよく効いたのだろう。
 
 * 歯科医に予約の日だが、妻が一人行くことに成ろう,私は「湖の本 165」責了用意、その、あとがき、書き継いでいる長編の追い掛け、「166」の入稿用意などとぎれなく諸要に尻を追われている。やがては米寿を控えてこんなに日々要事に追いまくられるとは。否やはないが、シンドイこと。
 
 * 井口さん、勝田さんはじめ。メール機能を機械から喪ったという方が増えてきて、心寂しい恐慌である。かくて、いよいよ、ジリジリと有効世間が狭まって行く。やれやれ。
有難くない。
 いま、まだ早暁4:44。仕事にかかる。まず、「責了紙」へ匍匐前進。
 
 * 6時。昨日の『廬山』について、『三輪山』を読み直している‥身に沁みて懐かしい,謂わば巧緻に組み立てた身の上ばなしだ。なに覚えもない「生みの母」わたくしを呼ぶ声が作中を流れる。ここに出る「三輪君」には、課長職に付いたとき新入りで配属されてきた七尾清君の風貌や物言いを借りた。
 
 *妻は一人で歯医者へ。わたくは家で仕事。
 
 〇 すすきが揺れるようになり、水引草も紅い実がつきました。薄紫のつるぼも可愛く畔に咲くようになりました。やっと涼しくなりましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか?
 お元気そう、もみのついたままの、おこめ、(稲を生けた写真) とどいて、いなかの秋です。  那珂
 
 〇 彼岸過ぎて  少し秋らしく、庭の彼岸花、萩、薔薇が季節を告げています。鴉はいかがお過ごしでしょうか。
 この一週間ほど孫の風邪の発熱で慌ただしく過ごしています。  尾張の鳶
  
 * 舊作『三輪山』を、良しと読み返した。いささかも手をぬいていないことに、安堵もし喜んでいる、相次いで自愛作の一つ『隠沼』を読み返す。
 舊作を アタマの働いている内に楽しんで読み返しておきたい。丁寧な気の入った仕事をしていたと胸を撫でる。
 
 * 妻が歯医者から一時過ぎに帰ってきて以降、いま夜の八時四十分。夕食を挟んでほとんど寝入りに寝入っていた。文字通りの「生・活」が出来ていない。ソレで良い様な現状で無いのは明瞭。と謂うて、怠けて寝ているのでも無い。私は少年の昔から秋口が弱い。すり脱けて行かねば。
 
 * 酒が切れ、妻の留守に大ところの料理酒を少し盗んだ。旨くなかった。「湖 165」責了へ気が急いている。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月二十五日  月
    起床 3:25 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58.0 kg  早暁起き・測 
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『朧月夜』 文部省唱歌
  一、菜の花畠に 入日薄れ      二、里わの火影も 森の色も
   見わたす山の端 霞ふかし       田中の小路を たどる人も
   春風そよ吹く 空を見れば       蛙のなくねも かねの音も
   夕月かかりて におい淡し       そながら霞める 朧ろ月夜
 
 〇 この唄で歳幼かった私は「日本の国土と言葉」とを深く美しく教えられ学び取った。これが「日本と日本人」の最も普段に平和な「生活」であり「景色」であった、今もある、のを悟るほどに信頼した。今日謂う街なかから小さな山村へ戦時疎開して、私のそう謂う感覚や理解が誤っていないと直観した。佳い教科書と美しい詩情とにふれる嬉しさを、私はもうこの老耄にも忘れていない。
 
 * 夢も見ず目も冴えて、真夜中に灯り付け床の中で本を読むのは憚られたので起きて二階へ来た。かすかに瞼は未だ重いが。
 
 * 私の『廬山』を読んだ。感動して泣いた。「小説」を読んで、心底湧く涙に斯く深く動かされた覚えは無い。芥川賞に強く推して下さった瀧井孝作先生、永井龍男先生ともども国を極め、「美しい小説、まことに美しさを極めた小説」とまで推奨して下さったのを想い出しながら、久々一気に読了した。「代表作」と何方からも推されてきた、納得できた。吉行淳之介ですら、外に思惑有って芥川賞にはおさなかったけれど、「廬山」よかつたよと、或る会合で、わざわざ寄ってきて云って呉れたのが懐かしい。。
 
 〇 すすきが揺れるようになり、水引草も紅い実がつきました。薄紫のつるぼも可愛く畔に咲くようになりました。やっと涼しくなりましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか?  那珂
 
 * 秋の足取りは速い。やがて下保谷の閑散も秋色に彩られて行くだろうに、コロナはまだ世の中に低迷しているとは。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月二十四日  日
    起床 5:15 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58.1 kg  早暁起き・測 
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『鯉のぼり』 文部省唱歌
  一、甍の波と雲の波
     重なる波の中空を
     橘かおる朝風に
      高く泳ぐや鯉のぼり
 〇 二番以降の歌詞はくどくて戴けないが、一番は胸の奥まで颯爽と澄むようで、「唄」「歌詞」の代表作の一つに数えていた。それは音韻の晴朗な連鎖・連繋に由来していると、子供心に「カ行音」の配置、「ア行音」の設置に、それがもたらす歌詞世界の明瞭を汲み取っていたから。和歌でも短歌でも俳句でも詩でも文章でも「カ行音」「ア行音」を一に心しているといないでは「唄」としての印象に大差が出る、と、私はこんな『鯉のぼり』をうたっていたころから感じ、感じ入り、教えられていた。「カ行音」「ア行音」そして「ハ行音」の配置の効果に無知・無神経な詩人歌人文人は、「ことば」という「こころ」の濁りに無神経なのである。
 
 * 例の、夢に、遠路を帰る汽車に乗り違えて難儀を極めた。「遠路を帰る汽車(乗り物)に乗り違えて難儀を極める夢」をもうどれほど数多く見ては恐怖してきたろう。「もらひ子』幼少の怯えに胚胎された固有夢なのか。
 他にも何種類かの同型夢に悩み怯えてきた。これは一種の狂気なのか。
 
 * 心神不調、遁れるように寝入っていた。ポツポツと、仕事。つかれてまた寝入る。時に異様に寒かったり。長い袖の毛糸のセーターにくるまれたり。瞼重く、目を明いていられない。首の周りが固く痛む。要再校の一冊分や「あとがき」はじめ、緊要のきゅうむが轡を並べている。 しかし、 しんどい。まだ八時だが。やすむ。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月二十三日  土
    起床 6:30 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 56.0 kg  早暁起き・測 
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 演歌『船頭小唄』 野口雨情 作詞  中山晋平 作曲ノ
  一、おれは河原の 枯れすすき     二、死ぬも生きるも ねえおまえ
    おなじお前も 枯れすすき       水のながれに なにかわる
    どうせ二人は この世では       俺もお前も 利根川の
    花の咲かない 枯れすすき       舟の船頭で暮らそうよ
 
 * 陰気な唄の代表のように、幼少の胸にも、冷ややかにもの哀しく蟠るメロディだった。メロドラマという言葉を覚えたとき、まっさき、まっすぐ喉元へ戻ってきた唄であつた。船頭さん夫婦が気の毒とさえ思った。好きになれないメロディで、歌詞であった。
 
 * サゲは怪談めく夢で逢ったが、廣く謂えば私にはもう固有化した夢一連の一、二場面であった。総じては愉しく展開し進行して、オシマイが怪談に成る。やれやれ。
 それよりも、寝足りない思いで六時にも成った。睡いとは健康ハツラツで無いということか。咬まれ手はまだ腫れて局所痛が残って居る。忘れてられる限り忘れている。
 
* 「湖の本 165」赤字合わせ了。「再校読 責了紙へ」「表紙」初校未了。
 「湖の本 166」『蛇行』要進行 脱稿。「私語の刻原稿」の作成。
 
 「噛まれ手首」の痛み執拗。 二時前。ただたた眠りたい。とても健康とは謂えない。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月二十二日  金
    起床 3:45 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 57.6 kg  早暁起き・測 
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 演歌『ノンキ節』 添田唖蝉坊 作詞という
  学校の先生は豪(えら)いもんじゃそうな
  えらいからなんでも教えるそうな
  教えりゃ生徒は無邪気なもんで
  それもそうかと思うげな ノンキだね
 
  成金という火事ドロの幻燈など見せて
  貧民學校の先生が
  正直に働きゃみなこのとおり
  成功するんだと教えてる ノンキだね
 
 * バイオリンの哀愁の旋律などを伴奏に第一次大戦後の光景が生んだ「成金と成金と貧民」との懸隔は大正初年に際立った。「ノンキ」という皮肉と苦渋の「批評」が誰の身にも滲みたのだ。
 
*「靖子(沢口)」と向き合うて、碁を生真面目に三番ぬ戦わせて、いた。二番は靖子が勝った夢を見て二人ともご機嫌だったのが、零時過ぎだった。丁度今、同じ夜中の四時十分。そのまま二階機械前へ来てしまった。まさか碁も打てまいから「しごと」を続ける。背の方のソファで半疊大の「靖子」の顔がわたくしを観ている。別に大小五つ「靖子」の写真がこの雑多な部屋に微笑んでいる。申し分の無い「娘」である。
 
 〇 『湖の本164少女 』をご恵送いただき、誠に有難うございました ”始筆書き下ろしの「創作」”或る折臂翁を拝読、戦中・戦後にまたがる話の院櫂に惹かれました。初樹の父・弥繪・康岡それぞれの人格が゛心に迫り、崖が重要な役割を持つ構成と結末の急展開に驚かされました。白楽天詩からの発想にも独創性を感じました。秦さんの幼稚園生にして真珠湾攻撃を無謀と案じ、ぜったい「兵隊さん」になりたくなかったとの感覚は凄いと思いました。「不敬」「非国民」といった言葉が散見し、何の留保も無く自衛隊への好意的な論調が流通している昨今に危機感を持ちます。  励  名誉教授
 
 * 此の、祖父I吉旧蔵、國分青拷{ 井土靈山選『選註 白楽天詩集』(明治四十三年八月四版)を手にした国民学校時期に巻中の七言古詩『新豊折臂翁』加えてに感動的に出会ったのが、加えて敢えて云えば「敗戦前に戦時疎開」していた丹波の山奥の借り住まいで、裏山深く独り登って見つけたある「崖」の誘いが、この、作家生活へ向かう第一筆処女作の「原点」となった。作家になってからも直ぐには世に出さなかった。期するあり、温存していた気がする。
 いま此の様な「的確な読後感」を頂戴できたことを、生涯の喜びに数えたい。佳い「詩集」を遺して行ってくれた畏怖に値した秦鶴吉祖父に深く深く感謝している。秦家へ「もらひ子」された幼少はまことに幸福であった。 
 
 * 国連総会での日本岸田総理の演説を聴きに出ていたのは、写真で見た、超閑散。やむなく「写真の前部へ人数を仮構加上した」とまでいわれているが、前後してのフラジル大統領の演説には聴衆がめいっぱい犇めき詰まっていた。
 岸田には、以前から私云うように「ことば」の信実が、眞実な内容と迫力が、いつも余りに貧しく欠けている。「活きたことば」を持っていない、下僚に書かせた「下書き読み」しか出来ない演説に、誰が耳を傾けよう。
 比べたくないが、昔の、クーデターを計ったような軍の若い将校連でも朗々と当即の演説を声の限り趣意明瞭に話したものだ。
 火炎瓶時代のデモ学生の首領級にしても、聞くに堪えて内容のある大音声の演説をしていた。
 「メモしか読めない総理大臣」とは鈍臭く、呆れる。「生きたことば」で国民にも世界へも譬え訥弁でも直に語れよ。   朝五時四十五分
 
 〇 気温が30度で、涼しいと感じる今日の陽気です。
 ご無沙汰が続いていますが、お話できるようなコトもなく、毎日「活きるため」に時間を過ごしているようなものです。
 今思うことは「家事」というものは、完璧をもとめることが不可能だということです。この歳(=九十才前後)になつてこの体験、人生というものは何とも見通しのつかないものですね。
 そういうわけで、全くさんぶんてきな毎日、暑さお見舞いに添える「こと」はありません。
 秦さんご夫妻もお年ですから、充分なお心遣いをと願っています。  井口哲郎ほ
 
 * 手指が頤使に委せえず、メールは出来てお返事も即座に可能だが、郵便葉書を頼むのは苦痛になって居る。メールにはすぐお返事を差し上げているが、手書きはご勘弁戴いている。
 
 * 夕刻過ぎて晩がたまで吐露のように寝入っていた。湯に浸かるのが精いつぱい、何処よりも目から草臥れる。齷齪しないこと。どう何が滞っても、それだけのこと。ま、文字通りに抱こう(?_?)介している小説を脱稿へ追い入れること、明日届く「湖の本165」の再校をしかと終えて「責了」へ推し進めること。跡はからだを潰してしまわないこと。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月二十一日  木
    起床 4:40 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58.1 kg  早暁起き・測 
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
 〇 演歌『おえどこ節』
  おいとこそうだよ墨田堤を三人連れ立つ女学生 
  モスト・ビュテイ(一番美人)で目に付くレディ(令嬢)は 人も知るな  り駿河台 紅葉學校のセコンド・クラス(二年級) 姓は月岡名花子 滴  るばかりのその愛嬌を 双の笑窪にに噛みしめて 歩む姿はエンゼル・ス  タイル(天女型) おいとこそうだよ
    
  * 「のんき節」などとともに、世上に字義のまま、まさに「演歌」が唱われ流れた、大正時代。ラジオやレコードの未だ無い時代には「演歌」が唯一、唄、唄の伝え手であった。だが、「演歌」は、もとは明治半ばのの『政治運動』に胚胎されていた。しだいに「評判」という意図から「唱って」「伝え」「広げる」社会性。忘れがたい意欲の根も葉も感じ取れる。
 
* 咬まれた左手の甲、見た目は平穏だが執拗に痛む。一面の小じわに埋まっている。指は尋常。
 
 * 昨日のことが何も思い出せない。
 
 *「保守速報」等々各種の未確認言説がさかんに振りまく擬情報(下記)
     <中国政府はたいわんを解放する時、日本が武力介入するならば、中国は日本     に、全面戦争する。中国は日本に核爆弾を使う。我々は日本が無条件降伏する     まで連続的に核兵器を使用する。我々は釣魚島と琉球を取戻す。>
など、如何にも幼稚なデマゴーグに軽率に傾かぬコト。何事にも慎重に聰明に、かつ「悪意の算術」たるべき「外交」姿勢に最良の人的・知的配備を怠らず向き合う姿勢が大事。。
 
 * 目がしかと見えない、いまこれが「疲労」「疲労感」も含め一の障害。何事も休み休みよと云いたいが、余裕が無い。深く寝入るのが一のクスリとは感じているが。しかし今日は午後二時から僅かな夕食時だけを挟んで実に先刻22日零時過ぎまで寝入っていた。嬉しい事に「靖子(沢口)」と向き合うて、家で、二階座敷で、碁を生真面目に三番闘わせていた。二番は靖子が勝った。ご機嫌良かった二人とも。妻も立ち会っていた。
 
 * 心身疲弊 目に見えて 崩れそう。
 
◎ 令和五年(二○二三)九月二十日  水
    起床 4:15 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 57.65 kg  早暁起き・測 
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に> 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『ハイカラ節』 神長瞭月・作詞 
   ゴールド眼鏡のハイカラは
   都の西の目白台
   ガール・ユニバシチ(女子大学)のスクールガール(女学生)
    片手にバイロン、ゲーテの詩
   早稲田の稲穂がサーラサラ
   魔風戀風そよそよと
 
   歩みゆかしく行き交うは
   やさしき君を戀し川 (小石川か)
    背(せな)垂れたる黒髪に
   挿したリボンがヒーラヒラ
   紫袴がサーラサラ
   春の胡蝶のたわむれか 
 
 〇 二番は、おそらく「御茶ノ水」か。『魔風戀風』という通俗な新聞小説が爆発的な人気を得ていた頃。
 
 * 前夜と打ってかわり、夢は見ないのに尿意に起こされ続けた様な。曉暗とすら謂えないくらがりで床を起ち、二階へ来た。待ち受けている「仕事」は二、三でない。気と体力の少しでもあるうちに、「立ち枯れ」させまいと。
 
 * アメリカでの同時多発核のテロが、風聞なりに予告されていたりする。私は映画『渚にて』の身も心も凍る「無人」世界への怯えを決して架空の空想とは感じて居ない。朝起きると一番に世界の「今と明日」に節に触れて知らせてる数々をアタマにいれるようにしにしている。以前は「世界の動き」になど関わらない市井で居たが、あのとき、「尾張の鳶」のメールに「世界事情」を日々の習いに注目していると在り、倣うように努めてきた。
 〇 京都行き
 九月も早や十九日。来週は秋らしい気候になるとか。それにしても異常な暑さ・・温暖化を通り越して沸騰化と叫ばれたことが確かな脅威として感じられます。
 京都は、三連休で観光客に犇めいていました。が、「光悦寺」は萩の花が咲き静かそのものでした。絵を描きたいと思っているので 出町に行きました。橋から眺める北の山々、賀茂川、高野川の流れ、いずれも懐かしく沁み込んだ景色です。
 ついでに豆大福を買おうと寄ったのですが、買い求める人の長い列! 到底待つことなど考えられなく、退散しました。それ以外は今回の京都では全く時間が取れませんでした。
 PS  さき頃の鴉の記述で「わたしに関すること」で少々ミスがあります、
 文学部社会学科ではなく、史学科東洋史。 洋画家ではなくて描いているのは日本画です。 京大に入ったこと、これは必ずしも良かったと言いきれません。振り返って違う人生が、もっと素直に伸びていける人生があったのではないかと、確信に近い思いがあります。あまりに屈折した苦しい思いが今もあります。
 自分のことばかり書いてしまいましたがごめんなさい。元気にしています。
 くれぐれも、くれぐれもお身体ご自愛くださるよう。 尾張の鳶
 
 * 「要領」を得た文面。それでいて「余裕」あるのが、高ぞらにピーヒョロロの、鳶。
 
 * ここで時計は朝の六時半。ちと、机辺に用意、九谷焼「猪(私の干支)の小盃」に「黄桜」の辛口文字通りに「一献」。筆を、怖い「左道」の闇へはこぶ。
 
 * 八時半に朝食して、そのあとちょ横こになったのが、目ざめれば、正午とは。誰にと無く恐縮したが、その必要は無い、この慘暑と感染とに脅されている以上は、休めるうちは休んだ方がいい。とはいえ、じわと仕事上の所要は數増してきて。「湖の本 166」再校ゲラが届いたら、責了そしてで基本の要発送が軸に成りながら、「書く」「創る」要件は十字を成して大きくなるばかり。涼しく成るか。心身起つか。弱気が払えるか。
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月十九日  火
    起床 8:10 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 57:5 kg  早暁起き・測 
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に> 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『スカラー・ソング』 神長瞭月・作詞 (「箱根の山は」曲で唱った)
 なんだ神田の神田橋
 あの九時ごろ見渡せば
 破れた洋服に弁当箱さげて
 テクテク歩きの月給九円
 自動車飛ばせる紳士をながめ
 ホロリホロリと泣き出だし
 神よ仏よく聞き給え
 天保時代の武士(もののふ)も
 今じゃ哀れなこの姿
 麻糸つなぎの手内職
 十四の娘は煙草の工場へ
 においはすれども刻葉(きざみ)も吸えぬ
 いつもお金は内務省
 かこそあねなれ 生存競走の
 活舞台
 
 * 当時三銭の電車賃が四銭に値上げで「焼き討ち事件」が起きていた。貨幣価値はむちゃに混乱、明治二十三年に建った「浅草の十二階」施工費は「月給九円(食えん)」の時節に「五万五千円」。わずか前「天保」の二本指しお侍達は廃刀令のもと、金主だった主君とも縁が切れて飯も「くえん」窮乏をかこち歎いていた。士農工商は逆転、「士」は落ちぶれ「商」が力を付けてきた。
 
* 久しぶり、よく寝入って目ざめると朝の「八時十分」には、吃驚ポン。
 
 * 玄関まで「元総理菅直人」の秘書が来て「支援」を請うて帰る。共産黨の中央委からは次々にに黨の史料・資料ともに、幹部「穀田恵二」の私的な書状があい継いで届く。大學の後輩か、立憲の福山の投稿や情報には目も気も付けている。
 岸田総理には、「悪意の算術」である『外交』手腕に批評の目を離していない。「自分の言葉」を彼は持てていない。メモ読み所感で国民をあやつれるなど、烏滸がましい。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月十八日  月
    起床 5:40 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58:5 kg  早暁起き・測 
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に> 歌詞の一、二番のみ。
 〇 『戦友』 真下飛泉・作詞 三善和気・作曲む
 一、 ここは御国を何百里     二、 思えばかな昨日まで
    離れて遠き満州の         真っ先かけて突進d
    赤い夕日に照らされて       敵を散々懲らしたる
    友は野末の石の下         勇士ははここに眠れるか 
                          (十二番まで)
 
 * この歌が 少年私の気に入っていたか。好きで唱ってたか。
 いいえ。ノーである。「戦死兵」を痛み悲しむばかりであった。「御国を何百里」の「遠き満州の」「野末に」独り葬られた兵隊さんの、誰より家族遺族の身になった。「敵を散々懲らし」て日本「国の手」が収めて行く「満州」とは何であったか。私自身すこしずつ成長し、そしていろいろに読んで聞いて蓄えた「大日本帝国ないし皇軍」の意図や所業は、子供心にも剣呑な自利自欲・征伐征服欲のあまりな露呈、とても「勇ましい」とは思われず、其の爲に「満州の土」と化し孤絶に戦死する兵隊さん、また強い日本の兵隊さんに殺される側の人たちのことも、ごく当たり前に「無慚にも意味なきこと」と思われた。
 「兵隊さんには成りとない」というのが、こういう歌から受け取った幼少負荷のメッセージだった。しかと「書いて」おく。
 
 〇 14日から、台湾にきています。
 川端康成をテーマにした「国際シンポジウム」の招待発表を無事に終え、明日の夜に帰国予定です。
 空港で買えるような 甘いものか お茶か お酒でもお土産に、と思ってますが、何かご希望はございますか?
 東京もまだまだ暑いようですね。
 どうぞくれぐれも お体をお大切になさってください。
 
 <私の母も新しい入れ歯を何度か調整し直し、「慣れるまでの辛抱」と言われて「何週間も痛み」をこらえたそうですが、「結局古い入れ歯に戻し」ました。
「合わない入れ歯は、無理」なさらない方がよいかもしれませんね。 日本晴
 
 * 同感。
 
 * あさ、七時に成っている。夜中か早暁に起きての朝食までの何時間かが気に入っている。
 
 * もう午後二時半を過ぎている。午前はアレコレを先へと押していた‥昼食後は一時からの『奇皇后』とか謂う韓国ドラマを一時間見た後、卓前での「居眠り」半時間。とにかくも睡眠の「薬効!」に応援されるよう努めている。
 
 〇 「みづうみ の涸れる 慘暑」とは、あんまりのこと。
 それでも、どんなご体調でも、そこはかとないユーモアを感じさせる題名はさすがみづうみです。「自壊進行中」という造語も。
 昨日は二通もメールをいただけて嬉しい一日でした。
 みづうみに、歯医者さんに通う体力がおありで、喜んでいます。素晴らしいことです。母は寝たきりで隔週訪問歯科にお世話になるのが精一杯でした。残っていた自分の歯は一本か二本でしたか。入歯は使っても使わなくても、とにかく「飲んで、食べて」だけは頑張っていただきたいと思います。それが「いのち」に直結します。食べることは生きること。辰巳芳子さんがお父上の介護生活をもとに書かれた本『いのちを支えるスープ』がありますが、歯にやさしい「スープ」で必要な栄養をとっていただきたいです。
 
 最近の「私語の刻」ありがたく頂戴しました。「アコ」ちゃんに噛まれたあとはその後如何ですか。知人の九十歳のお父上がご自宅の猫に噛まれて「入院」になりました。猫に限らず、人間ふくめた「動物の口内は細菌だらけ」なので、免疫力が弱っていると、噛み傷から病気になることもございます。もし治りが悪いようでしたらとにかくすぐ病院にいらしてください。生命にかかわる場合もありますので、早めのご対応を。
 
>>読む 創る は、変わりなくむしろ旺盛です、吾ながら不思議。長編は、適切な好題 を得て、「脱稿」へ逼っています。怖いよ。
 
 私の一番「怖い」と思う秦恒平作品は『逆らひてこそ、父』と掌説群です。それ以上に怖いとしたら! 戦々恐々としつつ極上の文藝を楽しみにしています。
 暑いといいつつ、少しその衰えを感じています。どうか心地よくお過ごしくださいますように。  秋は、ゆふぐれ
                        
 * 指先まで鳴るように痺れていて、機械に頼るほか、手筆で「書く」ことが出来ない。戴いたお便り等に手書きの「お礼」「お返事」が出来ない。心苦しくおわびする。機械(パソコン)でなら、視力の弱進こそ懼れているが、ま、こう御覧のように文は書ける。有難いこと。
 
 * 左手の甲、人差し指根方のアコに咬まれた傷跡が執拗に痛く腫れて排膿もせず、執濃い。甲ががむっくり腫れ上がって痛む。やれやれ、難儀続き。人さし指の根元ふかく、親指の根までも腫れぼったい。キイを打つ右手でなく、これは助かっているが。
 
 * 今日も、果てて行く。こし寝酒を含んで、寝よう。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月十七日  日
    起床 3:15 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 59:0 kg  早暁起き・測 
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を記憶の儘に、冒頭のみ。
 〇 『人を恋ふる歌』 与謝野寛(晶子の夫) 作詞デ
   妻をめとらば才たけて       ああわれコレッジの奇才なく
  眉目うるわしくなさけある      バイロンハイネの熱なきも
  友をえらばば書を読みて      石をいだきて野にうたふ
  六分の侠気四分の熱        芭蕉のさびをよろこばず  (他に幾番も)
 
 * 才もなく眉目うるわしくもないが、「なさけ」はふかい方の「妻」と信頼してきた。
 「書を読んで」書ける「友」には嬉しいことに、コト欠かない。
 昨日も留守中、寺田英視さん(文藝春秋「文学界」等の編集者を経て「専務さん」まで)の新著『泣く男』が贈られて来ていた、倭建命にはじまり、大伴家持、有原業平、源三位頼政、木曾義仲、大楠公、豊太閤ら、さらに吉田松陰にまでも「男泣き」の系譜を「古典」からも論攷されている。いかにも「寺田さん」であるなあと、読み始めへの興味、はや溢れている。
 この寺田英視という久しい「友」こそが、すでに「165巻を刊行」して、なおなお続く、世界にも稀な『秦恒平・湖の本』刊行を「可能」にと率先「凸版印刷株式会社」を紹介して下さった、それなしに「湖の本」がもう40年近くも途切れなく刊行しつづけられたワケが無い。「わが作家生涯」のかけがえない恩人であり久しい読者のお一人なのである。心して明記しておく。
 
* 零時過ぎには機械前に居て、いま真夜中三時過ぎ、手洗いに立ってそのまま、機械の前へ来てしまった。寝るより、起きてしまいたかった。蛇行する長い小説を脱稿へ追いたてたい、そのために。
 此の作には、私自身抱いている或る「懐かしみ」が溶け入っている。
 
 * も一つ、この際特記しておこう、「作家秦恒平」の久しい読者の、半ばを大きく越し「女性」の支援に強く支えて戴き続けていること。
「秦恒平の文化論」の個性と謂えば、京都に生まれ、育ち、学び、以降書きつづけて久しい「日本」の『女文化』論に極まるのでは。
 寺田英視さんと対照になるが、私は生涯「女」に敬意と親愛と批判を呈上し続けてきた、
強いて標語にすれば「男はきらい、女ばか」となる。この「ばか」一語の秘奥を読み解いて貰えねば「作家・秦恒平」論は「山」を越えまい、か、な。
 
 * とにかくも 孜々として「読み・書き・本を読んで・創作を」先へ先へ伸ばしたい。如何にも体調は「自壊進行中」の心細さであるが。
 投げ出すまいよ、挫けて。
「寝入って、休む」のが、結局は「薬効」になるか。とにかく、やすもう、と思いはするけれど、も。晩、八時過ぎ。ウーン。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月十六日  土
    起床 5:15 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58:0 kg  早暁起き・測 
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を記憶の儘に、冒頭のみ。
 〇 『デカンショ節』 東都の一高生らが民間へも流行らせたとか。  
 デカンショ デカンショで        酒は呑め呑め 茶釜で沸かせ
 半年暮らす ヨイヨイ          ヨイヨイ お神酒あがらぬ神はない
 あとの半年ゃ寝て暮らす          ヨーイヨーイデッカンショ
  ヨーイヨーイデッカンショ               以下 延々
 * 「デッカンショ」の囃子は、丹波篠山の盆踊りからと謂われ、しかもいろんな解釈も連れ加わって酒の肴にされたと。「デ」カルト、「カン」ト、「ショ」ーペンハウエルの頭(かしら)を借りたなど、伝わり聴いても面白かった。
 
 * 気が腐っていたので、処方の利尿薬は避け、常は避けている催眠の「リーゼ」を服して、それでも独り「零時過ぎ」てもキッチンで酒を飲みテレビの国際ニュースなど聴いてから、床に就いた。幸い手洗いへ起ったのは、一度。夜中にも要心のビタミンなど補強して、目ざめたのが曉暗の四時。猫「マ・ア」達の朝のトイレ用足し を脇で見、仏壇の秦の両親や亡き孫「やす香」そして我が家に歴代の愛猫たち「身内」らと静かに「話し合うて」から、此の二階へ来た。
 「マ・ア」に削り鰹を遣り、私も一口含んでおいて、機械を開けた。
 毀れたままの「ホームページ」が、結局東工大卒業生らの親切も行き届かぬまま、まだ復活できていない。それは大勢さんから「復旧か新設」を まま「懇願」され続けて居るの…だが。私には不可能。私も、「東工大の先生」時期から四半世紀が通過して来て、耄碌のすすむまま、所詮私にはもう「専用のホームページ」は「絶望」であるかの気配。
 
 * 幸い夢寐に得た 脱稿遠くあるまい長編 の「好題」にも励まされ、何よりしかと書き上げたい。何を考え、何へ新たに歩み寄るのも「そのさき」のこと。
 
 〇 今 鷹ヶ峰(京都)光悦寺の庭にいます。人影なく、残暑は厳しい。実にひさびさの鷹ヶ峰です。
 鴉は眠っていらっしゃるか?  尾張の鳶
 
 * 尾張の鳶 お心入れの「鰊蕎麦」を満喫し終えたところへ、継いで「光悦寺」をシンにした、広やかに美しい京洛、おちこち山水の写真が届いていて、今、しみじみと懐かしく、羨ましく魅入られている。感謝。
 
* 「鳶」も「鴉」も 世界的世間では、たいてい悪役の側と笑いながら、久しくお互い「尾張の鳶、保谷の鴉」と謂い合うてきたが、この高木冨子さん、京都大學社会学を卒、西欧世界を廣く旅し続けて、洋画家(作の「浄瑠璃寺夜色」貰って、身近に今も、いつも。)詩人(佳い詩集も刊行)して優に足跡あり、しかも実に、本でも菓子でも鰊蕎麦でも、その他惜しみなく「もの呉るる友」である。メール交信で、世情・世界を語り合い、さまざまにわが作家の日々を励まし肥やしてもらい続けている。
 
 おおむかし、京の三十三間堂のすぐ東、後白河・法住寺御所御陵のそばのホテルロビーを遣って、某社の「撮影付き・インタヒュー」を受けていた際に、初めて、「人の輪」から「声」をかけて呉れたのが「初対面」と成った。なつかしい。
 以来「半世紀」も歩いて来た。感謝。
 
 〇 鴉こそ、元気であって欲しい。強く激しく願っています。
 迪子様、きっといろいろに心砕いてお食事の用意をされているでしょう。どうぞ、しっかり召し上がって 酷暑お疲れの脱けますように。。 鳶
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月十五日  金
  (機械処理のミスで、冒頭の記事を逸失した。)
 
 * 朝八時。朝食に 階下へ。
 階下では、もう、妻は「湖の本 165」発送用封筒への「宛名貼り」を始めている。感謝。やすみやすみ、願う。
 
 * 疲労で寝入っていた。午前11時をまわっている。いま最大「要」は、書き継いでいる新しい長い小説の仕上げ。
 
 * 馴染みの「唄」番組があり、歌唱プロらしい正装の男女が合唱してくれる。
 今日、「青い月夜の浜辺には」という唄を妻と聴いていて、私は嗚咽を忍べなかった。泣き出した。
 子供の頃、養親たちや人に隠れ、孤りこっそりと口に唱う唄だった、泪を流しながら。街育ち、「青い月夜」も「浜辺」も「濱千鳥」も識らない、が、「親をたづねて(さがして)啼く」小鳥とは、数歳から幼稚園、国民学校一、二年までの「私自身」に相違なかった。生母があり実父があり「夫婦でない」大人たち。家出傍に居る秦の祖父も両親も、叔母も「もらひ子」してくれた人たちとだけは「知らされずに」も、幼少、感知し察知していた。唄の{ハマチドリ}には成りたくなくても;以外の何でもない、あり得ない幼少だった。此の手の唄には、過剰にも弱かった。
 今にして思う、私には幼・小・中・高・大學の何時時期にも「親と慕い」「愛された」先生方がおいでだった。「あおげば尊し」「わが師の恩」を私は、もったいないほど戴いて来れた。決して忘れない。
 
* 作られた「總入れ歯」とやら、投げ捨てたいほど何役にもたたず、フガフガと、話せず食えず、普通の「生・活」出来ない。医師は「慣れてください」と。一刻も休めないような「生・活= 読み・書き・讀書と創作」の日々が明瞭にもう「残り少ない」のだ、「總入れ歯と心中できるか」と吐き出したい。
 と、謂いつつも疲れては寝入ってしまう。
 
 ◎ 此の、みづうみ  水涸れたように
 出逢ったら、見違えてわからないと思いますよ。瘠せて、背は低く腰は折れて、歯は上にゼロ、下ノ左奥に2本しかありません。それは私はすでに平気ですが、疲弊し困憊して、しんどくて堪らないには、閉口です。
けれど。読む 創る は、変わりなく、むしろ旺盛です、吾ながら不思議。長編は、適切な好題もすでに得て、「脱稿」へ逼っています。
歯医者が、「總入れ歯」をつくりました、「慣れて下さい」と。
 上下に押しこまれたら「痛い」ばかりか。唇も上下合わせられず、何もまともに喋れず、飲み食いなどとてもできず、これでは睡れもしない。 
 父医師以来の久しい付き合いで、父先生の死後は、いま中年の娘センセイが治療など。永いなじみの都合六十年近くを今も江古田の奥まで、保谷からバスや電車を次々乗り継いで片道に一時間余わざわざ通っている、が。
「生・活(話・会話・飲・食・呼吸・眠)」「ほぼ不能」の総入れ歯にただ「慣れて下さい」は無慚に過ぎ、いっそ「上、下に歯の無いまま」生涯終えてもいいかと慨嘆している。ひとしお、心神、異常だが、まだ生きてはいる。先は見えない。こごえで「まあだたよ」と、天國から招き呼んでくる「もういいかい」に返辞している、が。ま、報告すれば、そんな状況。ながなが蛇行するこの長い作との取り組みに、希望を抱いている。
 
 * 酒が払底したので 自転車にラクに乗り、「セイムス」で気ままに買いものしてきた。 帰路は乗らず、挽いて帰った。自転車が「杖」になり私を「挽いて」くれ「歩きがらく」だった。
 
* 妻は、お相撲が好き。若い大関「豊昇龍」贔屓。
 私は、無意味や強引な、また本姓のままの「美しからぬ・しこ名」は好かず、贔屓にもしない。大相撲の美学はあの「姿」と「四股名」と「技」とに。熱の入る今、「熱く」なれる贔屓力士は、いない。昔は。
 双葉山、羽黒山、安藝ノ海、栃錦、柏戸、大鵬、玉の海、千代の富士、霧島、白鵬。
 
 * 晩は、潰れたように「疲れ寝」し、目ざめたら、翌十七日の零時、いま、零時半。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月十五日  金
    起床 4:15 血圧 137-63(69) 血糖値 103 体重 58:8 kg  早暁起き・測 
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を記憶の儘に、冒頭のみ。
 〇 「第三高等学校校歌」  澤村胡夷 作詞・作曲
 紅(くれなゐ)萌ゆる岡の花     緑の夏の芝露に
 早緑(さみどり)にほふ岸の色     残れる星を仰ぐ時
 都の花にうそぶけば          希望は高くあふれつつ
 月こそかかれ吉田山          われらが胸に湧き返る  以下 十一番迄
 
 * 此の欄の趣意としては早や「脱線」を承知で。
 私が生涯で最も早く「憧れた」のは、国民学校(小学校)を出たら京都一中か二中を経て、あの吉田山の「三高」に合格し、美しい校歌「紅萌ゆる」を「わがもの」にうたうことであった。「校歌」に惚れていた。
 だが、敗戦。学制も「六・三・三(小・中・高)制」に変わって夢は「泡」と消えた。
 私は、試験を受ければ必ず受かる京都大學には、「気」がまるで無かった、当時火炎瓶だのデモだのの騒がしさも好まなかった、受験はせず、ためらいなく高校三年までの成績優秀の推薦で、三年生二学期の内に「同志社」への無試験入学を決めた。京都御所の静謐にひたと接した、あの「新島襄」が創立の「私学」、赤煉瓦の建物も美しいキャンパスも気に入り身も心も同志社に預けて、以降を、自由自在に私は「京都」の久しい歴史と山水自然のこまやかな美しさへ「没頭」した。「小説家」「歌人」へと「七十年の道」がもう見えかけていた。
 
 * 夜前の「浮腫どめ」し処方されている「利尿剤」とで、一時間おきに尿意に起こされた。もう慣れて國ならず、むしろその間の目覚めの内に、いま書き継いでいる長編小説への恰好の「題」を得た、これは作のために大いに有難い。ためらわず、いつものようにまだ早暁とすら謂えないうちに床を起ち、此処、機械の前へ上がってきた。血糖値も、血圧も測った。数値は皆落ち着いていると思う、が。
 羽生さんに戴いた鶴屋の「柚餅」を爪楊枝に一粒、美味しく口に含んだ。
 
 〇 酷暑の夏、いかがおすごしでございましたでしょうか
 「湖の本 164」ありがとうございました。
 ゆっくり読ませていただきました。
 心が逸り、つい急いでしまった昔とは違う読み方ができるようになったと思います。
 「少女」のラスト
 「海老フライがポケットのなかでに押しこまれて、ぐちゃとつぶれるのを 私は 自分の掌に感じた、わあっと大声がでかけた、それこそ一目散にわたくは駆けだした。たちまち眼鏡が曇り、街の灯ばかりが冷たくきらめいた。」
 自分の感覚より‥相手のそれを生々しく感じている瞬間が 私にもあった気がいたしますのは、小説を読んで知ったことでしょうか。
 実人生と読書体験が混淆してくることに、年齢を重ねた者の特権があるように感じております。
「有る折臂翁」では、
「新憲法には、初樹も関心を持っていた。日本人の生まれかわろうとする理想を赤ん坊ほどにも無邪気にむきだしに提唱していた」
 今日の世界をみておりますと、猜疑心が膨らんでまいりますが、それでもなお、赤ん坊のような無邪気さを忘れたくありません。
 大学生のころからは六十年は経っているいま、
 ニイチェに惹かれて「ツアラトゥストラ」に聴き続けていらっしゃる先生。  私も大学生のときに友人と共に呼んだ昔を想いだます。
 往時渺茫……
「牧人はいなくて畜群だけだ!
 誰もが平等だし また平等であることを望んでいる。それに同感できない者は、みずからすすんで精神病院に入る」
 昔は 自分が牧人のように錯覚していたのですが、
 今は、畜群であることを悟りました。
 
 まだ暑い毎日でございます。
 先生
  くれぐれもお身体 大切に
 奥様゛
      お過ごし下さいますように  羽生清
 
 * これほどのお手紙の戴けるだけでも「書いて良かった」と思う、しみじみと。
 
 * 羽生さんはすぎらしい美術デザイナーでありまた永らく美術藝術系の大学教授をも定年過ぎてまでお勉めであった。私の若い後輩であった。保谷へ迄 会いに来て下さったこともある。感謝。
 
 * もう一通、涼しく花やいだ桔梗の絵葉書に、
 
 〇 ご丁寧なおたよりありがとうございます。
 9月に入っても連日「真夏日」毎晩「熱帯夜」でしたが、ようやく昨日あたりから少し暑さもおさまってきて こちら仙台、庭の草むらでは秋の虫の声が聞こえるようになりました。
 東京はまだまだ暑さが続きそうです。今は町田市に住む高校時代の友人は暑さで免疫力が弱ってコロナにかかってしまったようです。
 旗さまご夫妻もくれぐれも油断せず
 お気をつけて。  遠藤恵子
  (元、会社での後輩。同じ社宅ずまい。後、仙台へ帰られ、大學教授や学長まで)
 
 * 宮城野の丈高い桔梗の紫が似合う人であった。
 
 * 今日は、夕刻近い「時間予約」予約で、妻と、奥江古田の歯科医へ出かける。
 大きなマスクも、ビニ手袋も、私は欠かさない。前に、帰りの途中、熱中症にやられている。
 
 * いま、早朝の正七時。早起きの時間が、私の、「私語」の楽しめる「余暇」なのである。
 
 * 二時半、急の雷雨の中、歯科へ。滋賀の診療経過はサンザンだった。前回に作られていた上頤、下頤への総入れ歯は、ともに、口腔内に安着せず痛み、そして脱落する。」・」こしに上があんちゃくせず、そんな課題に密接しない總入れ歯ては、生活のためのまともな発声、飲食、對話や朗読等は一切出来ない。唇は上下きりっとと知られず、強いて閉じれば、「まともにCんだ正常の発言身会話も音読も朗誦も、何も出来ない。、政情の発声発音してCんで発音できない」「まともな声で会話も電話も出来ず、飲食も、安眠もできず、口腔内のアチコチで痛みが走る。」
 若い女医師との折衝では、随所、「削りましょう」「慣れて下さい」と。
 お話になず、「歯無し」で暮らす方が日常作業や創作の安着には向く気がする。折り合い付かず、帰ってきた。歯無しの末路を遂げようという気になっている。
 
 * 西武線に落雷事故有り、満員の各駅どまりに練馬で何とか乗り、保谷駅ではタクシーに待ち街待って乗れず、不便なバスにやっと乗って不変な途中下車後は、妻ほ励まし励まし「とほ」に堪えて、帰宅した。「アコ・マコ」待ちわびていた。
 
 〇 心配でどうにかなりそうです。そのせいというわけではありませんが、持病のめまいで、朝から宙を浮いているような具合です。
 なんとか今日一日をご無事にお過ごしくださいますように。
 まだまだご一緒させてください 秋は、ゆふぐれ。     
 
 〇 尾張の鳶は、京都へ旅の謝仕を送ってきてくれてるらしいが、うまく画面に表わせない。 やれやれ。京都を眺めて心楽しむか、うらやましさにカンシャクを起こすか。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月十四日  木
    起床 4:15 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 58:0 kg  早暁起き・測 
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を記憶の儘に、冒頭のみ。作者等の詳細は識らない。
「オッペケペー節」は川上音二郎が「作詞」して、爆発的に唱われたとも、小声でだろう、とも。如何にもいかにも「明治」の唄声である。「主題付き」なのが佳い。
〇 「権利幸福嫌いな人に、自由湯(とう)をば飲ましたい」
 オッペケペ、オッペケぺッポー、ペッポッポー
 かたい裃(かみしも)かど取れて、マンテルズボンに人力車
 いきな束髪ボンネット、貴女に紳士のいでたちで
 うわべの飾りは立派だが
 政治の思想が欠乏だ
 天地の真理が判らない
 心に自由の種をまけ
 オッペケペ、オッペケぺッポー、ペッポッポー
 
 * 夫婦揃って八十七歳の暮しや健康如何と、公のお役目らしき婦人が朝の内に尋ねてみえ、一時間ほど三人で話した、が、要領を得たとも得なかったともボンヤリと、声ばかりデッカイ応答で帰って行かれた。
 こういう要件は、本来は資格のある「保健婦」さんの仕事かと思うのだが。
 医学書院の編集職にあった十五年半のうちに、看護系では、「準看護婦」「正看護婦」「助産婦」「保健婦」の各月刊雑誌を私自身「企画編集・担当」してきた。それぞれに国家試験があり、それぞれに「専門職の資格保持者」であり、なかでも「保健婦」さんは市井にも活動範囲をひろげて、「看護職のごく高等な資格者」たちだった。時に「先生」とも呼んで一緒に仕事した。
 今日我が家に見えたのは、ま、西東京市の吏員かその周辺での臨時「聞き取り・質問役」のような中年サンであった。要領を得て帰られたか、心許なかった。
 
 * 大いに嬉しかったのは、京都から、久々、羽生Cさんのお手紙に副えて、「恋しいなあ」とちかごろ内心に願っていた、まさしく京菓子の名門鶴屋吉富の、なかでも大好きな「柚餅」をはじめ美しい京ならではの和菓子が詰め合わされて、頂戴したこと。さきに高木冨子さんからは「鰊蕎麦」をたっぷり戴いていたのへ、相次いで、宇治茶が取り合わせに活きる、美味満点の京の名菓をいろいろ戴いたのである、「口いやしい老い」の、胸もほっと熱くなった。くわえて、和菓子の味わいに、何十年も逢わない羽生さんは、お手紙で母校「同志社の匂い」もさも穏和に副えてくださる。感謝感謝。
 
 * 機械の按配、はなはだ剣呑、もう、今晩は触れるまい。
 
 * 元気どころでなく
 読み書きも苦渋、閉口 しています。小さい頃のアダナ、 ヘイコー でした。幼弱に帰るようです。 コーヘイ
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月十三日  水
    起床 3:45 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 57:85 kg  早暁起き・測 
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を記憶の儘に、冒頭のみ。作者等の詳細は識らない。
「ノーエ節」を陽気に想い出す。「農兵節」か。
◎ 富士の白雪ゃ、ノーエ
      富士の白雪ゃ、ノーエ、富士の サイサイ
       白雪ゃ 朝日でとける
  解けて流れて ノーエ
      解けて流れて ノーエ 解けて サイサイ
       流れて 三島にそそぐ
  三島女郎衆は ノーエ
      三島女郎衆は ノーエ 三島サイサイ
        女郎衆は お化粧がながい
  お化粧ながけりゃ ノーエ
      お化粧ながけりゃ ノーエ 三島サイサイ
       ながけりゃ 大客が困る
 
 自然発生ふうにもっと長いらしいが、子供時分は一、二番だけ。農事に携わる傭兵等の労働歌か、酒の席にはさぞ向いていたろう。中の洒落者のふとした口ずさみが大受けしたかと想う。
 
 * 妙に小賑やかなゆめばかり観て、めざめてしまったので、そのまま二階へ。戸外は未だ、マックラ。仕事にしたい、が。
 
 * 晩の九時すぎ、おもに小説の書き継ぎと読み直しとに。よその世界を歩き続けていた。妻も私も夏バテひどく、交替して転んだり滑ったりしてる、危ない事かぎりない。夫婦とも視力の弱りがキツいイ、か。
 
 * それでも、私、この時季としては書き仕事に、よほど集中しておれた、根(こん)も實(じつ)もムリにも費やしていたとも。一の目標は書き継いできた長編の「脱稿」それに尽きるという気で、添削しては推敲しては、疲れて崩れていた、が。暑さに負けて疲れるより、仕事で責められ疲れる方が、いいに決まっている。とは…、いえども。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月十二日  火
    起床 6:30 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 57:56 kg  午後起き・測 
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を「明治」からはじめ気儘に、冒頭のみ。作者等の詳細は識らない。これは品川彌二郎の作詞か 真っ先に「トンヤレ節」を。節は、兵士たちからの自然発生か。
◎ 宮さん宮さんお馬の前に
  ヒラヒラするのは何じゃいな
  トコトンヤレ、トンヤレナ
  あれは朝敵征伐せよとの
  錦の御旗(にしきのみはた)じや知らないか
  トコトンヤレ、トンヤレナ
 〇 大将軍有栖川宮さんを先頭に「薩(摩)長(州)土(佐)」が意気揚々最期の江戸城を屈服せしむべく東征のおりの、たぶん軍中の知恵者が率先全軍に囃させ、軍歌めく口ずさみが民衆にも大流行したモノか。六番ほど有ったようだが、私ら幼少には一番で足り、「宮さん宮さん」という京風・御所風な呼びかけに親しみを持っていた。
 囃子詞がどこから出たか分からないが。江戸攻めを「とことん、やれ」というけしかけであったか…どうか。
 
 * 猫の「アコ」に咬まれ傷は皮膚の奥で悪化してか、右手の甲の浮腫んだ腫れは痛んで退く気配が無い。
 
 * 朝から目元重く、疲れている。家の内で転倒も三度、しかも急ぐべき「要」は輻輳の気味に。
 
 * 尾張の鳶さん、京都の大好きな鰊蕎麦たっぷり下さる。感謝かんしゃ。明朝からご馳走になる、楽しみ。ありがとう。
 
 * 目も明いてられないような全身のけだるさのまま、もう九時半。休ませて貰おうか。
どんな明日が来るか、明日は明日。寝酒の切れているのが頼りない。「アコ」の咬まれは未だ腫れている。痛みもある。生きているだけで、色んなコトが有るのである。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月十一日  月
    起床 13:30 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 58:6 kg  午後起き・測 
◎ 何と云うことか。昨日は体調違和のどん底で、立ち居も、杖着いての家内での歩行もままならず、睡眠へ遁れるほかに途が無かった。
 そして今日、午後の一時半に、やや身軽く感じながら睡眠の連續から、床を起った。血圧や血糖値は計っていない。「アコ」に手ヒドク噛みつかれた左掌は傷が展転し手の甲は腫れ上がっている。左手なので助かっている。
 「アコ」は足もとへ纏わりつくのがすきで、私にすたすた歩かせない。階段などでは危険で、つい蹴飛ばして離そうとするがめな。よっぽど私が好きなのだろうが、危なくてコが進まなくてつい蹴飛ばすほどに追いやるさなか、パアっと飛びついて私の左手首へ噛みついた。やはり毒か甲と掌に数カ所のかみ傷が出血し、甲は今もむっくと浮腫んでいる。幸い左手で良かった。
 
 * もうコトを汗って齷齪することはあるまい、あるままに、なるままに、と思うようになってきている。
 
 * これだけけ寝続けても、睡い。それにしても午後も半ばまで眠らずに済まなかったとは。夏バテの極を通っていたのだろう。
 
 〇 秦さんの記憶力の良さが伺えます。
 私も(小倉珀人一首や著名歌などの=)初五に引かれた歌をつくってみます。
 転ばれても骨折しなくて良かったですね。
 私も自転車で転倒して膝、臂に滑り傷を残しましたが打撲のみで過ぎました。身体中の強ばりはしばらく取れませんでした。
 ショックによる強ばりは鳩尾にそっと指頭をおき、10分ほどゆっくり呼吸をしているとふわっと緩む時があり、後遺症もなくなると聞いたことがあります。
不慮の出来事には「これで救われた」と思うようにしています。
 ブッ潰れても遊んでいられる秦さんを手本にしています。 野路
 
* 私の遊ぶのは、ある手順にしたがい、出放題に歌を詠んだり、出任せをかいたりするので、街へ遊びに行くとか。パソコン・ゲームに遊びほうけるなどでは無い。知識や創作の世界には遊びはいくらでも見つかる。
 
 〇 re 鴉 やーい 病むなかれ 虚しく眼を閉じるなかれ 
「病院に拘束されて「時間」を喪うのが 何よりイヤでして。」と。
 これは納得です。が、点滴で栄養補給の必要あれば逃げないで。とにかく作品を仕上げられるよう。
 京都の「鰊蕎麦」を、今日ネットの楽天から送るよう注文しました。いつからかネットから送れるようになっていました。火曜日、水曜日あたりには届くと思います。
 京都には今週末出かける予定ですが、お蕎麦は早い方が良いので。
「私の京都」に 一度でも、是非是非お帰りください。爽やかな秋はすぐそこです。  尾張の鳶
 
 * 「鰊蕎麦」か。うれしいな。南座脇の「松葉」かな、れは出汁も鰊も蕎麦も薫りよく、京都の食べ物の一、二に好き。感謝。鳶はまだまだ世界へも飛び回れるのだ、お元気、何よりの天福。
 
 〇 re ぶっ潰れて仕方なく遊んでます。
秦先生   以都
たくさんの「お歌」をありがとうございました。
本歌取というのでしょうか。本歌を凌ぐ出来栄えと感嘆しきりです。
お酒と恋の歌が多いような・・・。
まるで、話すように「歌」が流れ出るのですね。ほんと驚くばかり。
9月に入っても、暑さはかわらず、コロナもまた増えているようです。
お身体どうかご自愛くださいませ、先生も奥様も。
HPを拝見できるようになる日が早くくるといいのですが(5月30日までは拝見できます)
 
 * 歌詠みに「酒と戀」ほど無責任に気楽な歌材はない。好き放題な法螺に、ちょっぴり真情を溶かし容れたり。うまく作ろうなどと思わぬこと。
 
 * ホームページの復旧を望まれ、私も望んでいる、が、私の機械操作では何ともしようが無い、情けない。深切な助け手を待つしか無い。
 
 * 小説 ことに長い小説はとても歌詠みとは同断で無い。ことに長い小説を周到に「読み直す」のはおおごと。軸はもとより、句読点の一つ一つまで思い直す。私はそうする。
そんな気振も見えぬままだらしなく書かれた日本語にコトに「小説」で出会うと情けない。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月十日  日
    起床 5:10 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 59:0 kg  朝起き・測 
◎『論衡』自紀篇抄録  王充 漢代思想家  東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
 〇 ひとの生命には長短はあるにせよ、生死は一時のことに過ぎぬ。年齢が尽きてしまえば、誰もそれを留められず灰土と消えて果てる。寿命が延びることは無い。
  (王充は「なんと悲しいではないか」と結んでいるが、それが「自然」なのだ。じたばたして何になろう。) (コレで結んでおく)
 
 * もう、私の「書き仕事」はほどなく「断念」せざるを得まい、「独想・静思」に無事に落ち着きたいが。
 
 * ま、いい夢に部類できたのに、記憶からは消亡した。そういうモンだ。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月九日  土
    起床 4:30 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 58:9 kg  朝起き・測 
◎『論衡』自紀篇抄録  王充 漢代思想家  東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
 〇 およそ「気(万物生成のもとである兄の感応体)」が徐々にではなくて突然に発動するのを「変」といい、「物」が類を外れて勝手に生起するのを「異」とう。また、いつでもあるわけでない不意に現れるのを「妖怪」といい、ひとびとをたぶらかし飛び出るのを「怪」という。才が優れていても伸びられないのは、そういう時節に出会ったがためだ。「士」は立派であればこそ一人で立ち上がるのであり、、物は貴くあればこそ単独で産出するのだ。奇才の士が現れたり、卓絶したことばが出されたりしても、その尺度は世俗に合わず、なみの枡でははかる術も無い。  (つづく)
 
 * 今、何時なのかを心得ない。時計を観る。六時三十五分。それが朝なのか夕方、認知していない。日記の書きようからシテ朝かと想うが、調色したとは覚えず、私同様か、それ以上に妻の体調の違和が濃い。こういうとき、こっちもフラついている私に適切な手伝いが出来ない。こんな際の「嫁たのみ」が「時代遅れらしい」とは心得ている、が、それでも、たとえ一時でも素早い助力があればなあと嘆息する。
 娘の朝日子とは孫「やす香」の病死を機縁に「切れ」ていて、もう多年私は娘の現状の片端も識らない。幼来多年「父の虐待」の被害を受けたと「父の私を法廷の被告席に立たせた娘」である。深く深く愛しこそすれ、なんで子煩悩を笑われた私があの「朝日子ちゃん」を虐待するものかと、知人はみな呆れて首を横に振るが。
 弟の建日子には、「妻」と戸籍上も決まった人と紹介されたことも「結婚式」という儀式も紹介されたこともない。真面には緊急時の助けも願えない。顔が合うのは、正月、建日子と連れて我が家の雑煮を祝いに来る、事実として、只それだけの縁、なまじいに、なみの友人知人よりも、支援を頼みづらい。公共の支援を期待し依頼のほか無いということ。
 
 * 幸いに助言や示唆はあれこれ貰えている、それに従わざるを得まい。
 
 * 私は小学校の内に、ひとはみな、みはるかす大海洋に無数に散点する人一人が起てるだけの小島に「生まれる」のだと悟った。そしてよびかわし呼び交わし、人は人間たちを「身内」「他人」世間」と認識し、眞の「身内」とだけ、一人でしか起てないような「島に」倶に起てるのだと「観念」した。血縁や肉親を私は、生まれながらに喪っていた私は、ひたすら「眞の身内」に出会おうと努め生きてきた。よかったと確信している、
 
 〇 鴉こそ、元気であって欲しい。強く激しく願っています。
 迪子様、いろいろ心砕いて食事の用意されているでしょう。どうぞ召し上がってください。  尾張の鳶
 
 * はい、はい。 保谷の鴉
 
 * 何をしていたのか、何が出来たのか、自覚が無い。階段の最上階で前のめりに横転して撃った右腰の瘤に成った痛みが脱けない。何とも自分が頼りないままもう午になるらしい。何が急ぎのようだろう。
 @「湖の本 165」「あとがき」を送らねば。
 A 仕上がり近い長編を仕上げたい。
 B 「湖の本 166}を編輯し、前半と後半の原稿を用意せねば。
 これぐらいを頭に入れていれば、いい。
 
 * 心身のよわりのせいか、亡くなっている懐かしい人等のことが想い出されてならない。呼ばれていると感じるのは私の弱りで、みな、まだ頑張れよと言うて呉れる。それを聴かねばと思う。
 
 * 九時半。もう視力が失せている。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月八日  金
    起床 4:05 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 58:8 kg  朝起き・測 
◎『論衡』自紀篇抄録  王充 漢代思想家  東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
 〇 文章というのは、切りつ詰められて筋の通っているのが貴ばれ、ことばも簡素に意味のはっきりしたのが良いとされる。言葉を切りつめると話しやすいし、文章がごてごてしていると納得しにくい。
 眞実の言葉は多弁でなく、派手なに文章は眞実でない。けれども、世間の役に立つものならば百篇も害なく、役に立たないならば、一章たりとも足しにはならぬ。  (つづく)
 
 * 終日、寝起きるつど、夜昼晩の判別も出来ないほど寝ぼけていた。口を利くのもっ鬱陶しい程に活気うせて食欲なく何を口にしても続かず。足腰の痛みよりもこの疲弊のひどさに全面負けている。仕事は全く停滞停頓、情けないが湧いて出る活気か亡い。今、晩の七時半、朝から、ずっと死んだが如く。
 食事して、美味いという感触の゛微塵も湧かないのが、まさしく味気ない。
 
 * このまままた寝入るとしよう。幸いに私の世界は世間との約束づくで無い。自律の必要こそあれ按配は自分で出来る。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月七日  木
    起床 4:05 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 58:8 kg  朝起き・測 
◎『論衡』自紀篇抄録  王充 漢代思想家  東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
 〇 堯や舜のの聖典を五代の権勢はみようとしなかった。孔子や墨子のしょもつを季孫も孟孫も詠もうとはしなかった。世を治めるに足る至言は、俗世間はけなしこそすれ、受け容れない。正しいとするものがとりしかいないような言葉は俗世は好まない。大衆をとまどいさせるような書物は、賢者は手にしても、世俗はごめんを蒙ってしまう。  (つづく)
 
 * 早く起きたからと謂うて、仕事が出来るわけでない。     
 
 * 「湖の本」の用意に『隠沼(こもりぬ』という小説を読み返していた。ヒロインに濃やかに懐かしい想いが凝っていて、読み返すのがすこし辛く怕くなる。生けるヒロインと書かれている仮構のヒロインの、もう、とうにとうに両方に死なれ死なせている。ああ、そろそろ呼びに来たのかと思い、なぜか「まあだだよ」と応えにくい。場面と情感を切り接いだような作柄、私には稀か、珍しくもないか、咄嗟に判じられない、ただ懐かし「すぎる」自作だけになかなか読み返そうとしてこなかった。「龍ちゃん」の死は、現実にも作中でも痛過ぎるほど早過ぎた。
 
 * 数時間とも起きていなかった。晩の九時過ぎ。心身疲弊とより謂いようが無い、が、なにかからの逃げ口上か。三食、少しずつは食していたが口が不味い。視野は霞み、「読む」元気が失せている。世界とも日本の昨日今日とも触れ合わない。「げんなり」とも「ぐったり」とも。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月六日  水堯
    起床 4:25 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 59:6 kg  朝起き・測 
◎『論衡』抄録  王充  漢代の思想家  東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
 〇 「論」には正しさが尊ばれる。「事」は、当を得るのが良く、他人と合うのを尊いとするのではない。「説」たてて当否を明らかにしようとするなら、、世俗の声などに惑わず、ただ偽りを取り除き、信実を起てようとすべし。
                                 (つづく)
 * 昨日、銀行の用と、久々の歯医者に通ったのが、さんざんだった。階段の上がり際に躓いて烈しく前のめりに転倒した。幸い過剰な痛苦やその後は免れたが‥燃えるような熱射を浴びながら歩いのもキツかった。上下名ごっつい総入れ歯を嵌められたのにもつくづくイヤ気がした。そして夕から番へ、夜へ、夜中から明けるまでに来半身、事に右下脚にきついふゅと、それをとればきつい硬直がくりかえし、痛みに悲鳴をあげた。大量の水分を補給の一方、浮腫止めにもつとめ、其の交代に痛められ続けて今に到る。末期の現象かと覚悟もさだめつつ、「体違和」と戦い続け、いま午後二時十五分。仕事にならなかった。『転倒』はいつも懼れて要心していたのに転んだ、それも炎天下の石段で。骨に異常が無くてたすかった。
  老耄という語彙をつい意識する。しかし逃げ腰に弱気になどなるまい。しかしまあ脚が、まるでカチカチの鉄骨かに化したままさしこむような痛むというのは、叶わん。
  なにかも停頓している、せめて痛みだけが薄れてくれれば。
 
 〇 野路です
 コロナの第9波が前回の拡散に迫っているようです。その上インフルエンザも流行し始めたとか。引きこもりはまだまだ続きそうです。
 五木寛之さんの健康法は 足指を回すことだそうです。90才になられる先輩を見習って「末端に神は宿る」と思ってせっせと動かしましょう。
 90才を越えている高橋巌さんや、栗田勇さんがお元気ですと励みになります。
 高橋巌さんのシュタイナー翻訳は分かりやすい日本語で 有難い限りです。栗田勇さんの「芭蕉」も見事な大冊で勉強になります。
 ピーター・アクロイドの「ブレイク伝」は知らなかったブレイクの人柄が伝わってきました。
 当分、藤原定家にならって「紅旗征戎は吾事にあらず」と情報を遮断して読書三昧に耽ります。
 秦恒平様
 
 * コロナ、私は十分要心し、もうよかろうとは怠けないと決めている。
 「足指を回す」か、これは見習って励行しようかな。感謝。
 讀書やお勉強のはなしは、何方からうかがっても私を励まし。しかも、惹かれる。もう便器用はよそうなどと思わない。感謝。
 
 〇 九月に入っても
 暑さ、各地の風雨水害は酷く、身体も、気持ちも休まりません。
 秦様、迪子さま  如何お過ごしでしたでしょうか?
 最近はパソコンもママならず、開けない日も多くて、失礼しています。ご無沙汰ゴメンなさい。
 庭の隅で鷲羽ススキの穂[稲穂]が風に揺れています。穂も涼しげですが、鷲の羽のような葉がまた風情があります。
 暑さの中の毎日のお炊事は避けて通りたいと言いつつ、二人(=ご夫婦)とも食欲はさほども衰えず、過ごしています。
 帯状疱疹のワクチンの一回めを打ってきました。熱は出なかったのですが、何時迄も打った腕が痛いです。
 これから、コロナ、インフルエンザとワクチン攻め?
 謡曲のお稽古仲間のご夫婦も 最近コロナに罹り、油断がならない秋口ですが、どうぞお大切にお過ごしくださいますように。 練馬   晴美
 
 * 季節はふしぎなほど確乎として動くが、表現のさまざまな巧みと意外さには「神秘」なほどの「才能」を覚える。
 
 〇 体調の違和掩いがたくただ寝入って躱している。躱し得ているとも謂いにくい。体表に難かょもの違和を覚えている。今、もう夜十時。ただ安眠が願われる。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月五日  火
    起床 4:25 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 59:6 kg  朝起き・測 
◎『論衡』抄録  王充  漢代の思想家  東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
 〇 秦の始皇帝は、韓非子の本を読んだとき、ため息をついて、「ひともあろうに、この人物と時代をともにすることができなかったとは」と嘆息した、と謂う。韓非子の文はわかりやすいのだ。
 およそ、筆で書こうというひとが、わかりやすく書きたいと思っても、それはむずかしいこと。口で論じる場合にも、はっきりととして聴きとれるようにつとめ、深遠、わけが分からないような具合に気取ってはならぬ。
 文章を評価するには、意味が分かりやすいかどうかに依る。  (つづく)
 
 * しっかり夢みていたが、しっかり覚めて忘れているのが有難い。
 
 * やや大きめの画面のパソコン機の前に腰掛ける。私の、定座。真っ先に目にする目の真ん前に清潔無比の「紫宸殿広前」 左手に、高山寺の「弓射る兎たち」の清々しい白描戯画、視線を少し棚上へ上げると村上華岳描く「墨牡丹」、その右脇に白描の「長刀鉾」 そして華岳繪の左に、九谷焼の碧が冴えて葡萄の垂れた繪の、細身に丈のある湯呑み。さらに左へ、華奢な造りの小さな置時計。視野を上めにひろげると、何方に戴いたか「薬師瘡守稲荷御守 元気回復 鎌倉大町 悪病封じ 上行寺」の、鮮やかに緑色の御守りが懸けてある。狭い部屋の一郭、余儀ない「物沢山」とはいえ思いの外に整然と行儀は佳い。
 想えば朝日子小さい頃から片付け屋で模様替えが好きな子だった。私と似ていた。
 
 * 夫婦でない両親に生まれて、一つ家に暮らした覚え全く無く、一つ遭うの兄とも全く無く、気がつけば、四歳ごろか、京都の「ハタラジオ店」の「もらひ子」になっていた。
 そんな身の上からも、わたしは昔から夢見ていた、いつか、いい妻に出逢い、息子に優しい「お嫁さん」が出来て、可愛い孫を抱かせて欲しいと。
 幸い佳い妻は得た、が、「お嫁さん」も「孫」も現にいない。せっかく私を貰い育ててくれた「秦家」は、心から秦の両親や叔母に申し訳ないが、建日子独りで「絶えて」しまう。八十八の齢を目前に、「運命」という二字がきつい針のように身を刺す。愚痴か。愚痴と思う、が。悟った顔はしない、が、何となく悲しくなり、悟らない爺は、小学生時期にじしん発明した「身内」「眞の身内」という「想い到り」が恋しくなる。すべて「罪は、わが前に」しかし「眞に身内の思い」で慕い愛した思い出が、ある。忘れない。「世間」があり、「他人」がいて、そこから「眞の身内」が得たい。「得られた」という実感がもてていた。おさなかった「もらひ子」は懸命にわが「眞の身内」を尋ね尋ねて「少年」になり、「うた」を詠み初めていたのだった。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月四日  月
    起床 4:05 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 59:0 kg  朝起き・測 
◎『論衡』抄録  王充  漢代の思想家  東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
 〇 およそ文章は用語次第、浅くて露骨で、ハッキリしてるも有り、深くて回りくどく、お上品なのも有るが、文字とことばとは、おもむくところはおなじなのだから、へんに趣意手指を飾ったり隠したりなどしないのがいい。
 およそ、口での論議は、はっきりしているのを「公(明白)」といい、筆によるあからさまのを「通(よくわかる)」しいい、役人の文章は明快なのが良い。深く秘めて上品で有り、趣旨が?みにくくてもよいのは,ただ「賦」「頌」だけである。  (つづく)
 
 * 零時半。意味も用もなく、ふと此処、機械前へ来たが。もう寝にゆく。
 
 * 早暁。四時過ぎ。
 ここ二三日、ひっきりなしに悩まされ、イヤ励まされても居るのだが、例の、歌の末尾だけが間断なく耳と口とに溢れる‥此処二、三日のそれは、ザ・ピーナッツの合唱『心の窓に灯を』の末尾「(ホラ笑くぼが)浮かんでくるでしょう」ばっかり、それだけが「まじない」めき「励まし」めいて實に昼夜なく間断なく聞こえるのである。不快ほどでもないが、時として煩い。「やめろよ」と言うて効く相手がいない。それに、此の手の歌詞の呼びかけ、年がら年中無数に「有り」つづける、つまりは執拗な「癖」のよう。
「おんもへ出たいと」「剣投ぜし」「吾がなつかしき」「忘れがたき」「ささやきながら」「ねんねこよ」「こんときつねが」「あーあ長崎の」「学生時代」「ちいさい秋」「金と銀との」「眺めをナニに」「富士はにっぽん」「うすむらさきよ」等々、‥際限なく、かつ取り留めないから、聞こえ続けるのだろう。
 「くせ」やろか、誰にも有るんやないやろか。
 謂えるのは、わたしが、ケッコウ「唇に唄を」派で永い人生、いまも最中と謂うこと、か。
 
 * 朝八時四十五分、早起きした私か茶を湧かす。京の秦の家では当然のように夜来残りの番茶は捨てて新しく湧かしていた。当然と思い、少なくも私自身はそうしている、新しい水と新しい番茶。茶は、私惜しみなく多めに淹れ、熱湯で十二分に煮出す。ぬるい番茶は旨くない、徹底して煮出すと「番茶」が、煎茶や玉露に負けないうま味に成る。わたしは敢えて番茶を、熱滔、淹しに淹す。京都でもそこまではしなかったと想うが。
 
 * 何時ごろと正確に覚えないが、夕過ぎるころ、手洗いで、用を足すというでもしに便座のまま深めに寝入っていた、らしい。居心地のいい個室なのでままあることだが今日は碓が違った、目ざめて起とうとした、が、右脚が膝下つま先まで「失せた」かほどに完全に「無」感覚、まるで働かないのだ、ビックリ。撫でて擦って抓って叩いて、感覚が戻りまともに起てるまでに三、四分はかかった、足が失せたほどのかかる無感覚喪失感は初体験で、動揺した。水分が切れていたか、神経が無能化したか。こんな事は初体験で、心底、動揺した。もし戸外へ出ている時に起きたら仰天し危険だったはず。片脚が「消えた」という実感に襲われたのだ。危ない。猛烈な季節のせいか、私独りのからだに異様な異常が起きていて、これからも繰り返されるのか。
 とにかくも私の心身は、いま、まともでない。
 
 * 呆れるほど寝入っている。一日の十七八時間も、妻も、私自身も、あきれるほど断続寝入っている。繰り返す、猛烈な季節のせいか、私独りのからだに異様な異常が起きていて、これからも繰り返されるのか。
 とにかくも私の心身は、いま、まともでない。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月三日  日
    起床 4:40 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 60:1 kg  朝起き・測 
◎『論衡』抄録  王充  漢代の思想家  東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
 〇 『論衡』とは、論の{平}(はかりで重さをはかること)ということ。口を開けば、その任務は「ことばをはっきりさせること。筆をとるなら、文を平明に書くこと。 (つづく)
 
 * 「平」とは はかりにかけて 「恒」に 均衡をえること とか。へッ。私の、即ち「恒に平」とは、目映いほどの名乗りぞ。
 
 * 狭い暑い我が家をうろうろと「疲れ増し」にうろついては、「必要な妄想」との出逢いつづけを願っている。妄想してこそ正気が實は正気の「はみ出し」と分かってくる。生まれ落ちたその時から「はみ出し」続けてきた、其処がつまりは親しむべき「世間・世の中」なんだ。
 
 〇 <疲れました、もちなおしたい。>とは、何をどうすればと、ただただ心配して、無力なことを痛感するばかりです。お疲れはただ年齢のゆえにと言い切れないのを理会しています、が、ご夫妻とも要支援か要介護のどれか介護認定が受けられないとは信じられませんし、日々、建日子さんらの温かなご配慮や公共の適切な日々支援があれば、秦さんの「読み・書き・読書・創作」の日々はまだまだ大丈夫、持ち直せます。奥さまもご負担が軽減されましょう。
 
 七月十九日の「私語の刻」に次のような記載がありました。
 
 * 今、この「私語」を、真夜中の一時半に書いている。床に就いても實に孤独に寂しく、とても寝付かれない。「やそしち爺」にもなり、まだ幼稚園前の昔に養なった「感じやすい」孤独感が生き存えているのだナ。絵本の「萬壽姫」や「阿若丸」に悲しみ歎きながら、わたしは、しかも「生まれながらに肉親を知らない、喪っている」という実感を、まるで「個性」のように見誤って蓄え育てていた、きた、のだ。結果、どうしても肉親、血縁に親しみ愛し愛される心の励みが私に無い。とてもさびしいけれども、無い。そのお蔭でわが子にも背き叛かれる。
 眞の「みうち」は「世間の他人」から見つけるしか無いと、わたしは、「今日只今」でも実感している。「眞の身内」と心から愛した、血縁など無かった数少ない生涯の「人たち」を、いまも、どんなに恋しく慕い愛し親しんでいることか。だが、そのような人らの大方は、もう「天」にいて、そして呼び掛けてくれる。「行くよ」「もうすぐ行くよ」と黙語している、今も。
 
 秦さんが「わが子に背き叛かれる」と嘆くお気持ちはいくらか承知していますし、それを悲しんでいますが、そもそも「親と子」関係は、スムーズでない人間関係を代表の一つでありましょう。夫婦なら別れて自由になるという選択が可能ですが、親子という血縁は逃れられず、元父親とか元長女、元長男などという関係には「決して」なれません。
 
 先週驚いたことがありました。日経新聞日曜版の大きなコラムの中で芥川賞作家の金原ひとみさんが、「私と母は別の生き物」「今や母は視界に入って欲しくない虫でしかない」と書いていました。
 私も中年過ぎてからは父を視界に入れないようにして生きてきましたが、さすがに「虫」とは思わなかったし、そのようなことはたとえ日記にでも絶対に書けなかった。
 
 さらに驚いたことは、彼女のこのような文章に対し、賛同の意見が多く寄せられたことです。昨今の不倫発覚のような炎上はしないのです。昭和の時代だったら、かりにも親に対してそのようなことを、しかも日経新聞のような大新聞の目立つコラムに載せることが可能だったでしょうか。非難囂囂だったでしょう。
 母親を公然と「虫」と断じることが可能になったことは、ある意味良い時代なのかもしれません。世の中にはそれだけ「毒親」が多い。(当然「毒子」もいるでしょうが、それは公然とはまだ書けない)。恐ろしい数の破綻した親子関係があるのです。良好な関係のほうが少ないのかもしれません。
 
金原ひとみさんの受賞作『蛇にピアス』を秦さんはたぶんお読みではないと思います。身体中痛くなるような凄まじい話でした。あまりの驚きに最後まで一気に読まされ、そしてその衝撃度で芥川賞にも繋がったと想像します。私の記憶では、身体のあちこちにピアスをしているヒロインが、最後は舌にピアスをして舌先を蛇のように割いていこうとするので、ぎゃっとしました。怖いので二度と読み返しませんが、二十歳そこそこでこのような作品が書ける背景を想えば、彼女の恐ろしい母娘関係が想像できます。そしてそれは彼女だけの特殊な経験でなく、世間にはよくある話なのです。
 ピアスをするために身体に穴をあけるということは(おしゃれのための耳のピアスは例外として)、リストカットのような「自傷」行為なんですね。金原ひとみさんは、自身の身体を傷つけるように、作品のヒロインに自傷行為をさせたのだろうと思います。映画だけでなく、街中でも、過剰にピアスをつけている男女、広範囲に刺青をしている所謂その類の方々は、自傷行為であることに今さら気がついています。リストカットまでは出来なくても、心の痛みを自身の身体を痛めつけるピアスや刺青で代用している。身体の痛みのほうが心の痛みより遙かに耐えられるし、身体の痛みで心の痛みを一時でも忘れられる。彼や彼女が、いかに愛の薄い環境で、虐待やネグレクトで育ったのかと慄然とします。愛されて育った子がどうしてわざわざ自分の身体を痛めつけるでしょうか。
 
 朝日子さん、建日子さんの書かれたものを一部しか知りません。ですが、お二人の書かれたものは「やさしい」と思います。虐待された人間には絶対書けないものです。充分お父さんの愛を受けられてきた証しです。秦さんにはそのことに誇りと喜びを感じていただきたいと願っています。<肉親、血縁に親しみ愛する励み>を充分果されていらした。だからこそ背き叛かれることもあるわけで、それも多かれ少なかれ、「親の一つの仕事」ではないかと、自分のことを省みつつ、考える日々です。
 そして、秦さんご自身も、望むようなかたちではなかったにしても、実と義理と二た組のご両親からも、ご友人からも、じつは深く深く「愛されて」いらしたのだと思います。秦さんの作品を読んでそう感じます。
 マザー・テレサは「隣人を愛するほうが、他人を愛するよりずっと難しい」と語っていました。夫婦や親子や兄弟姉妹である「隣人」は、もっとも愛の為し成しがたい関係と思えば、少し安心なさいますでしょうか。
 
 どうかお疲れをためず、ご無理のない日々をお過ごしください。元気なお気持ちを「もちなおし」てくださいまいよう。 読者 また 友 の一人として
 
 * 早足なら一分とかからなかったろう、狸橋のごつい石の闌干に顎を埋めて目の真下、伸ばせば手も届くかと想う白川の清流を、聴いて見つめて時を忘れている幼少であった、わたくしは。いま、そんな思い出にひちる心地で、読ませて戴いた。深く、感謝。
 
* 横になればもう胸謂ってしまう。逆らわない、なるように心身を成らせておいてムリに生きない。
 
                  
 
 〇 腰に「せんねん灸太陽」をべたべた貼り付け横になってる時間が増えました
 テレビも見えず(30センチ位に近づけば見えるのですが)音もやかましいです
 デイサービスにも行かされています(好きに出来る時間がたっぷりあります)
 老人ホームは週3回大学から医師が来てくれておりらくです、現役時には夜中 に呼び出されるのも当たり前でした すっと相手次第の暮らしでしたのがそれもなくなりらくになっている筈です
 秦さん
 やはり やはり「作家・秦恒平の生活と意見」の「復活」をお祈りしていまず
 ゆっくり お待ちしております
 秦さん
 くれぐれもお大切にされてください
 よろける つまづく ころぶ 気をつけましょう
 コロナまだまだ油断できません(老人ホームは現場状況です)
 国の数字も上向きです どうかお気をつけください  勝田拝
 
 * 横になれば、直寝潰れ、夢も観ない。目の疲れを務めて避けている。
 
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月二日  土
    起床 4:40 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 60:16 kg  朝起き・測 
◎『論衡』抄録  王充  漢代の思想家  東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
 〇 充が各本は、あからさまで読みやすい。賢者、聖人のことばは雄大荘重で、美しくも洗練されていて、おいそれとは理会しにくいものだ。賢じゃゃ聖人の器量が大きすぎるのでその文章やことばが、即、世俗の耳に眼に通じにくいのだ。宝玉は石の中に隠れ、白珠は魚の腹にひそみ、珠の職人や細工師ででも無いと「採取」できない。容易でない。眞実の言葉もまた然り、容易には計り難い。充の著『譏俗』も、この『論衡』も、如何。 (つづく)
 
 * 二階廊下の窓開けて眺めた、真東、遠く遠くに朱(あけ)に燃えて棚引きに流れた、文字通りの「曉雲」「「東雲(しののめ)」颯爽の力みちみちて「美しかった」ことは。
 早起きの、徳よ。
 
 〇 ☆*。O。*☆*。O。*☆*。O。*☆*。O。*☆*。O。*☆ 
   ハ ッ ピ ー ニ ッ ポ ン ☆ 邦 楽 ネ ッ ト
       ☆2023/9/1 鼓楽庵メールマガジン
 皆様こんにちは。 9月の皆様こんにちは。お元気ですか? 望月太左衛です。 
 暑い8月のラスト、31日は満月でした。今年の1年のなかでは 最も地球から近い満月、最も大きく見える「スーパームーン」でした。
 また、8月は2日と31日と 1ヵ月の間に2回満月となりました。この2回目の満月を「ブルームーン」と呼ぶそうです。2?3年に1度しか見られないこの珍しい「ブルームーン」を見ると、幸運が訪れる!と言われているところもあるようです。
 皆様は 御覧になりましたか。
 
 私は「望月」の名前のため、ずっと「月」を追い求めてきました。
 小さい頃、「月にはウサギが住んでいる」と言われて育ってきました。
 そんな月に アポロ11号が初めて着陸しました。ウサギはいないとさびしい気持ちがしがっても、アームストロング船長の
「これは一人の人間にとって小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍」という言葉は、
中学生の私の「未来を照らすメッセージ」となりました。
 そして、東京藝大に入学した私に、父からいわれたのは 「望月は満月だけれども、雲がかかっている。本来の月の姿が見えるようにしなくてはならない」
 それから私の目標は、本当の「輝きがある明るい満月」のような「舞台」を作ることになりました。
 その中で 「長唄・娘道成寺」の歌詞に
「我も五障の雲晴れて 真如の月を眺め明かさん」とあることを知りました。
 「五障の雲」とは、女性が持つとされた五つの障害「女人五障」のことです。
 この五障、自分の悪い部分をみるのはいやなことで、できたら見たくないことです。見たくないという気持ちが「月にかかる雲の正体」でした。
 この 見たくないことを見ること!
 雲をみても大丈夫。 その下には 輝く月 があるのですから。必ず「五障の雲は晴れ」ます。 女性でも大丈夫です。
 
 お経の中でお釈迦様は「女人成仏」と説かれています。
 そして、平塚らいてう著の『元始、女性は太陽であった』にも出会いました。
 また、男性優位の邦楽、伝統芸能の世界の中でも 指導の先生方に 男女隔てなく私は御指導いただきました。
 特に、私が25才位の頃、 能楽囃子・笛方の藤田大五郎先生(人間国宝)に、「女でも進め!!」と厳しく御指導いただいた時のことは 今でも心の支えになっています。
 女性だから「できる」ことはあるはずと、創作をしたり、わかりやすく解説を入れたり、
明るく楽しい「舞台」をめざしています。
 
今後とも応援の程 宜しくお願いいたします。   望月太左衛 ・・・・・・
 
 * 見事に励まされて立派な「九月の言葉」と、衰えがちな老耄・私は、快い叱正を戴いた。最良の我が若き女友だちよ。お元気で。
 
 * 自作ながら、発表して即「芥川賞候補」にあげられ、瀧井孝作先生、永井龍男せんせいからともに「美しい、美しいかぎりの小説」と声をそろえ激賞し推薦して戴いた『廬山』を読み替えも閉ちゅ、声を放って泣けた。私のこんな意識よりはもかに以前、早くより実兄北澤恒彦(生まれてより一つ屋根に両親兄弟で暮らした覚えの、全然無い兄)が指摘して呉れていたように、今して、脱稿初出より優に五十?余年、初めて「啼いた」の゛ある。身の深くに備わってきている阿弥陀如来への信仰と亡き生みの両親、育ての両親や兄恒彦への哀悼が地から噴くくように共鳴してきたものか。読み貸す機會をつくりえて、良かった。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)九月一日  金 長月朔
    起床 4:15 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 59.6 kg  朝起き・測 
◎『論衡』抄録  王充  漢代の思想家  東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
 〇 往昔の賢者や聖人が世を去ってひさしく、儒教の根本精神「大義」の解釈は分裂し、知ったか振りの通人では、それを正すことが出来ない。それで、心ある人たちは、飾り立てた詐りは斥け、真心の籠もった質朴さを遺し、古伝説に名高い高徳の天子「伏羲(ふっき)」の昔のしきたりなどにもどそうとしてきた、吾れ、王充も。 (つづく)
 
 * 異様に足など浮腫んでいる。健康、良くないのか。一日24時間の使い分けに理を欠いているのだろう。九月の幸いすることを願いたいが、天然を頼む前に自重、か。
 
 * よく寝るわ寝るわ呆れるか、怠けてでなく、潰れている。いかほどに分立した急ぎのよ用向きがあるのかも把握しそびれるほど、意識も意欲もボケてただ混在している。いま晩のまだ八時だが、心身を率い何かへ起ち向かう意欲は涸れている。詰まりは「ねる」が結句の利くクスリか。
 
 * 同い歳ほどの知友にメールするのが、こわい。返信が無いととんでもない懸念や不安にたじろぐ。知れずにきた、これも「老境の現実よ。
 
 * らしい長編作の必至・恰好の脱稿。 「湖の本 165」の機敏な「要再校・初校戻し」「表紙等つきもの・あとがきの入稿」「新作の精確な脱稿」当座の急務はコレに尽きる筈。うかと失念すまい。
 
 
     hhhhhhhhhhhhhhhh
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月三十一日  木  葉月盡
    起床 4:30 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 60.01 kg  朝起き・測 
◎『論衡』抄録  王充  漢代の思想家  東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
 〇 また、 充は、さきに世間の人情を憎むところあって『譏俗』という本を書いた。また、政治が、世の、人の、なりゆくさきも分からない有様なのを憐れむ故に『政務』という本を書いた。逸話の書物や低俗な文章など、眞実でないものの沢山のを歎くがゆえに、この『論衡』という本を作ったのである。
                              (つづく)
 * 早起きして真っ先に此の機械(パソコン)前へ来る、と、大きめの機械画面真下の真ん中に、御所、紫宸殿まえのC寂そのものの広場、紛れもないこれぞ「京の都」の象徴が鎮まっている、私は朝まっさきに「其処へ帰る。 
 そして機械の下、左の端、に立ててあるのが、無色、閑雅な線だけで描かれた「高山寺」蔵の、飄々と弓を引いて「遊ぶ」二匹、いや二人と謂いたい「兎たち」の名高い「戯画」縦ての繪葉書。想わず笑んで觀る。此処、無色で佳い線だけでの雅境には、これぞ京も洛外の山紫水明が「歴史」のように秘めてある。
 葉書の二枚、むろん戴きもの。はいけんしなおす。
 「紫宸殿」のには、
 
 拝復 このたびは研究室宛に谷崎潤一郎研究書数十冊をお送りいただき、誠に有難うございました。国文学科の図書として登録し、書庫に配置して容赦の閲覧に供します、以前にも春陽瞳版『鏡花全集』全15巻をご寄贈いただき、ご後輩に感謝しています。
 私は3月に定年退職し、新しい生活に戸惑っているところです。数年前から京都御所(=大學に接して真南 秦)の一般公開が通年に変更されたので、散歩に出かけたりしています。 草々 田中励儀
 
とある。紫宸殿広場が一際に慕わしい。
 
 * もう一枚の、高山寺藏「弓で遊ぶ兎たち」清雅に無色の「戯画」は、どなたから頂戴したろう。
 
 新年おめでとう ございます。お変わりなくおすごしになられてますか。 現状維持もたいへんです。無理? ダイジョブと六割程の動きをしても、後で、こたえています。 ドラマの背景に映っている京都のあちらこちらをみています。旗本の家が京都御所だったりして。 洋ものも。この空と光りの工合は 砂漠のものではないとか。テレビもよく観ています、うたがい深く。困りものです。
                         
『鳥獣戯画』の「空気」に暮らすような、同じ大學専攻での一つ年下、妻が同期の友だち、宛名も二人に書いてあり、「卯」の春の、洒落た「戯画」である。私は此の一年後輩が好きであった。 と、視線を上げると、この機械画面のうえの棚に、私が愛して惚れぬいた村上華岳の名品『墨牡丹』の絵葉書が。同題、私の出世作のひとつなった小説『墨牡丹』をよく「識ったひと」からだ、多分…と手に取った。やはり「兎」戯画を呉れていた彼女、コレは妻迪子へ宛てての「繪」ハガキ。
 
 永栄啓伸の本(=『秦恒平 愛と怨念の幻想』)をお送り下さりありがとうございます。 読みました。
 長谷寺に白いぼたんが咲いていたそうです。 今日は疲れ目。(泪ポロロの小さな戯画) うっかりころばないようにしましょうね。
 
 * 名高い長谷の牡丹に触れ合うての繪葉書『墨牡丹』は、宛名に無い私へ、親愛の投げキスと戴いておく。。感謝。
 
 * 明いてられないほど目が霞んで、痛みさえも。六時前に起きて午前十時半。韓国歴史ドラマでは最も信愛し親和できた『い・さん』が終えた、往年の仲良し少年・少女 イ・サン、ソン・ソンヨン、バク・テスが、王になり愛妃なり重臣になって行ったものがたり、他に比していっとう快い「生涯の劇」であった、パク・テスひとりが生きて遺され地。じつは少なくも過去に二度は通して観ていたのだが。
 
 * 「混乱」の一語・二字にしがみついて生きているよう。張った両肩が刺されるほど痛い。視線は波うち、手先は痺れ、ジンジン鳴るよう。むしろ居直りたい。引けば押される。「寝るが勝ち」と謂う物言い、有ったかな。 
 
 * しんどい、では、謂えてない。ぐったり、と、潰れそう。立場が、足の裏から崩れそう。停滞が停頓を招く地滑りのような危なさ。
 
 * 草加市の白蓮寺さん、懇篤のお便り戴く。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月三十日  水
    起床 4:30 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 59.6 kg  朝起き・測 
◎『論衡』抄録  王充  漢代の思想家  東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
 〇 では、どういうことを「弁がたつ」というのか。浅いものによって、深いものを理会させてやることだ。どういうことを「知恵」というのか。やさしいものによって、むづかしいものごとを理会させてやることだ。賢者・聖人は、よむひとの才能に適当なところを工夫するがえに、その文章は深い浅いの加減がうまく出来ている。     (つづく)
 
 * ことに脚が浮腫むが、処方されている利尿剤はよく効いて呉れる。けわしいまでほぼ一時間半ごとに尿意を伝えてくる、が、排尿はごく順調で停滞しない。
 
 * 初校の半分を終えたけれど、ただただ眠気にまけやり、寝入っていた。もう十一時。五体萎縮、ふらふら。抵抗せず、睡魔とも病魔とも平和的ににらみ合うて、また寝継ぐ。
 
 〇 お元気でしょうか。月末になり八月があっという間に過ぎてしまいました。メ−ルを頂いていたままで、失礼致しました。
 小さい人がこの携帯を使っていたりして、失礼してしまいました。
お盆のあと少し疲れていました。
 近くの友人がコロナにかかり、一緒に動いていた私も友人からは心配されましたが、陰性ながら 何故か調子がわるくなっておりました。
 九月になれば、流石に暑さも収まることでしょう。
 お元気に秋をお迎え下さいますよう。良い秋をお迎えくださいますよう。いろいろに宜しき機会がございますよう。 那珂
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月二十九日  火
    起床 3:05 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 61.5 kg  朝起き・測 
◎『論衡』抄録  王充  漢代の思想家  東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
 〇 相手のこころが求めているものを与えずに堯や舜の言葉のありたけを並べてみ、それは牛に酒を飲ませたり、馬に乾肉くわせたりするようなものだ。
 あからさまなことばでないと納得しない世間に 深遠雄大に書いたり話したりしたがるのは、神仙不老不死のクスリで風邪を直そうとしたり、貂や狐の皮の美々しい着物で山へ柴刈り川へ洗濯にゆくようなものだ。
 禮にも整えないでよい場合があり、事にも採りあげないでよい場合がある。
                                 (つづく)
 
 * 目が覚めて、真夜中三時すぎ、ちと早すぎるがそのまま起き、二階機械の前へ来た。「夜中起き」も「早起き」も珍しくなく、いま、四時六分。このところ「書く」「書くために調べ読む」が芯になり、いわゆる「讀書」は「おやつ」なみ。超大作の陳彦『主演女優』も、全五十冊ちかい和本漢文の『参考源平盛衰記』も、仕事の、恰好の「中やすみ」になってくれる。
 實は、いま、節に読み入りたい一冊は、もう二度三度熱中して読んだ『浄土三分経』のうちの『大無量壽経』阿弥陀如来の出生譚が「懐かしい」のであるず、本は手にしていながら、もう少し身辺も心境も静まってからと、いつも岩波文庫をただ手に持って重みに感じ入っている。『浄土三部經』も『法華経』も、それはもうしみじみと惹かれる「聖書」であるよ。 
 
 * よほどもう懸けている長い新作屁の筆入れが、ま、好調に進んで行くと気をやや良くして……六時半。アコやマコの朝「ごはん」は八時と。その用意まで妻は起きてこない、私の朝飯も「右に倣え」。息を入れに、朝のテレビ・ニュースでも聴きに降りてもよく、真岡さん(マオカットン)に戴いた「南部美人」というやさしいお酒もある。この年齢で私の酒量は安定して増えている。一升瓶ならセメテ五日もたせよと妻はしかるが、義理か厄介に、しかし「三日未満にラクに一升」いってしまう。お酒が「美味い・旨い」のだ。難儀なお爺さんだソーである。
 送信の記録を見ていると、私、お相手の氏名などを、まこと失礼にまちえていたりする。もうよほど人の道を脱線の気配。弱るなあ。
 
 〇 九月が目前、相変わらずの暑さです。が、庭のセミの鳴き声は着実に変わっています。
 晩夏の一日一日、お健やかであれ。自転車転ばれぬよう、居眠りして風邪ひかれぬよう。  尾張の鳶
 
 * 『湖の本 166』初校開始。その次の「入稿」用意にも。気張って、仕上がり間近いと待望し粘っている新作長編をぜひ巻頭に老いて一巻を纏めたい。焦る必要は何も無い。「八十八(やそはち)の壽」らは、しかと間に合わせたい。                               
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月二十八日  月
    起床 4:05 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 61.35 kg  朝起き・測 
◎『論衡』抄録  王充  漢代の思想家  東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
 〇 名月の珠と石ころとが、同じ袋に入っていたとしてもその実質さえ備わっていれば、たとえ世人に混同されたとて、べつに差し支えはない。身分は賤しくとも、尊いモノと等しく操を持し、地位は低くとも、高い者と徳を競うというふうであれば、それでよろしいのだ。  (つづく)
 
 * 此の機械(久しく遣い慣れた舊機)いつ頓挫し世離れてしまうか知れない。拝むように頼んで働いて貰っているが、「新機」はベラボーにややこしく、もう一台は、今の視力には機械自体が余りに小さい。八十七歳が最新鋭のパソコンを宥め労り労りし、機械は老いて乏しい脳味噌を「舐め」たがる。
 
 * 長めの小説は、それだけに欲深くより改良をと請求してくる。もういいか、この辺でと容易に想わせてくれない。小説を書くとは難敵と付き合うに同じい。さてさて「付き合わねば」ならない。
 いま、同世代でどんな人が「書き続け」てられるのか、全然識らない。ほぼ同期の大江さんも、吉村さんや加賀さんら太宰賞の先輩も亡くなった、とか。
 
 〇 めぐり逢ひていつも離れて酔ひもせでさだめと人の醒めしかなしみ
 
   逢ふことの絶えてなげきのふみもみず幾山河の夢のかなしさ
 
   人もおし吾れも押すなる空(むな)ぐるまなにしに吾らかくもやまざる
 
    天つ風苦も憂(う)もはらへきみがためやすき陽ざしに花を咲かせて                                
    かささぎの渡る夜空のかけ橋にわれまつ人の生けるまぼろし
 
    あらざらむこの行く終(はて)の旅の果てと想へばさびし独り逝く道
                       
    百敷の達の山根に年ふりて人の絶えたる宮一柱 
 
 * 三日かけて書き写したこれら辛うじて散失前の「紙切れ歌」の数々は、私の「歌詠み」のさまを露わに謂い尽くしていて私自身、へえッとビックリ。根っから「和歌」にまねびて私は「短歌」を享楽していた。幼少(戦時の国民学校四年生)以来「結社」の「仲間」のという体験がまったくない、黙って読んで下さったのは、みな担任か国語の先生だけ、小学校の中西先生、中学の釜井春男先生、給田みどり先生、高校の上島史朗先生、どなたも作の全てに技術的な口出しはなさらず、お着に召したらしい作の肩に「爪シルシ」だけが着いた。結社入りを誘われたことも一度も無く、むしろ独りが佳いですと。
 大學のおり、一度ある結社の短歌会に誘われ、請われて三首を提出。名無しで参加者の作全部がコピーされ互選の当票があった。結果は私の三首が一、二、三位を独占していた、なにとなくワルクて、以降、誘われても参加しなかった。
 とはいえ、子規、節、茂吉らに傾倒しながらも、私の短歌はやはり「和歌育ち」を避けも、避けられもしないまま、『少年前』『少年』『光塵』『亂聲(らんぜう)』と四冊の歌集を成し、いま人生最期と覚悟の『閉門(ともん)』を成しつつある。「短歌」は私の人生で「小説」以上に身近であったということ。
 
 〇 秦先生  お世話になります。
「湖の本165」の初校は本日発送、明日到着予定でお届けいたします。
 よろしくお願いいたします。  凸版印刷
 
 * 場面が動く、「日々」の顔つきも変わる。
 
 〇 お元気ですか、 ご体調が突然上向きにということは想像しにくいのですが、それでも残暑厳しい毎日をご無事にお過ごしでありますようにと願っています。
 何かの広告で、「自分を楽しんで」というコピーがありました。たしかに人生楽しんだもの勝ちです。
 秦恒平は、わたくしの知る限りで 最も自分自身であることを楽しんでいるひとであり、自分が自分であるためにこれほど苦しみぬいてきたひともいないと、そんなことを思っています。それだけのことですが、メールを書いたことがなかったのでお伝えしました。
 もし叶うなら、将来数ヵ月でもいいので 京都に住んでみたいなあと妄想します。お勧めの場所はどのあたりでしょう。京都の土地勘がまるでないので、まちがえそうです。友人たちはコロナ前から あまりの中国人観光客の多さと、中国資本に古い京町屋から新築豪華マンションまで大変な勢いで買い漁られている実態に嫌気がさし、京都の不動産を売り払ったそうですが……。
 京都を京都として守ること益々難しくなっているのかもしれませんね。
 気の晴れないこと書いてしまいましたが、もっとも京都らしい「京都」、日本らしい「日本」は秦恒平作品の中で生き続けるので心配無用です。
 お元気でいらしてください。  白川
 
* 私は、ま、比較的に中国の古典を読んでいて十分な敬意も払っているが、中国人の根性を、容赦なく辛辣にも把握している気でいる。『十八史略』なども的を辛辣に射貫いて徹底して中国と中国人の本性や原像を剔抉しえた古典と愛読してきた。中国には孔孟や老荘の優れた哲学がありながら土足で蹴散らしても平気なド根性で万民は「歴史」を好き放題に塗りたくってきた。「理知」などお呼びで無い、徹底した「利致」「利害」そして現世謳歌の「福禄壽」本位で権勢の威嚇をほとんど無意味化してしまうほどの距離を巧みに確保し、「生・活」してきた、いざとなれば「理」は捨て「数」で抵抗した。世界へ散った華僑は「利己」に徹して中国の、支那と志那人の、ビカビカの利己主義者としてまさに「活躍」した。いまや「京都」など絶好の彼らの美味になっていよう。日本人のお行儀では、百パーセント食いつぶされて行く。汚染水を海へ流すなどむしろ古來海岸線の長い支那のお家芸だが、今は日本への「批判」という虚勢で、「利致」の妙を決めに懸かっている。
 日本の政治など、逆立ちしても、ひっくり返るだけ。呵々、嗚呼。
                          
 * 晩、たまたま歌番組に出逢って、うまい・へたの極端例に、閉口してられず、盛んに褒めたりクサシたりして楽しんだ。美空ひばりがしみじみ懐かしく、ひょっとして彼女こそがわが「初恋人」であったのかも、などと独り合点したり。
 小学校六年か戦後新制中学一年の真夏も真夏、わたしは売り出して盛んなひばりと、家から間近い新橋白川ばたで、触れ合うほど間近に出会っている。ちっこい女の子だった、わたしは「ひばりが来てる」と耳にするやパンツ一枚のはだかのはだしで駆けつけたのだ、人がギシと取り巻いてる輪を潜り入るようにして、もうホンマに触れ合う近さまで攻めよったものだ、口は噤んでいた、あれで有済小学校の卒業式には卒業生答辞を読んだ生徒会長だったが、油照りにクソ暑い京の真夏の夏休みの男子にはパンツ一枚のハダカが、ま、「制服」だった。ちっちゃい幼い、見るから子供の「有名な美空ひばり」は「よそ行き」のスカート姿だった、それにも少年は見惚れたものだ、暑い暑い京都祇園の真夏の午下がりだった。傍らにせせらいでいた白川は、今も変わりなく清う流れているはず。 
 
 * こんな、ラクガキばっかりしてては、オハナシに成らん。あすからは「湖の本 165」初校という大仕事が加わる。犇めき寄ってくる「仕事の嵩」には愕ろかない。必ず、成るように成る。
 
 * 宵の早寝から翌る零時すぎて目ざめ、独り起きて「雲霧なんとか」謂うつまらん時代モノを見てからまた寝入った、が…
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月二十七日  日
    起床 5:15 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 61.5 kg  朝起き・測 
◎『論衡』抄録  王充  漢代の思想家  東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
 〇 充は、命(めい)にまかせ,時にまかせ,心を大きく持ってこだわらず、安危にとらわれることなく、死生も差別せず、吉凶に左右されることなく成敗も気にせず天にまかせてしまうので,自分から釈明することもない。
                                 (つづく) 
 * 早暁 二階へ来て廊下の窓をえけると、好きにさせてある地生えの笹数本が塀内ちに伸びて茂って窓から手に触れるまで目に沁む翠り葉を広げている。まだご近所の何処も寝んでられる、そんな明けの静寂のなかで生き生きとした笹たちと窓から手を触れあう嬉しさ、貴重。
 
 * 少しずつは酷暑の日々もしづまっくれようか。歩けるだろうか、歩ける内に街へ一度出てみたいが。まだ江古田の奥への歯医者通いもあるのだ、いま私に歯は、左の奥の奥の下に二、三と無い。自身は慣れてるが、喋ると我ながらフガフガと変です。
 
* 昨日の「続き」を書き留めておこうか。何かしらとダヴって居るのだろうが、ま、ちっちゃな紙の切れ端にすべてが走り書き。ちっちやな挟みで括ってなければ細かな紙くずに終えて捨てられていたろう。短歌と謂うより「和歌」へ気を寄せ、「ものがたり」もをアタマに描いていると読めるものが混じる。。
 
 〇 あしびきの山の瀬わたすかり橋の心細くも人を恋ひたし
 
   あけぬれば来るといふなり           
 
   朝ぼらけうきもからきも川波にあらはれて行く宇治(憂事)のふるさと                       
    夏の夜はまつに淡路(逢はじ)の風絶えてあてども波を来る舟もなし
 
    心あてに小野の萱はら踏みわけて人とふまでのあはれ秋風                               
    春すぎて浪速の夢もいろさめし夏の日ながに酒くむわれは
 
    朝ぼらけ荒磯の海にましぶきて波騒(なみさい)光る吾れを喚ぶかと
 
   さびしきにやがて孤りの胸を抱く何を此の世の旅づとにせん
 
   瀬をはやみ言はでも洩るゝきみゆゑのなげの泪の流れやまずも
 
   吹くからに朝原わたる小牡鹿の角かたむけて露はらふ見ゆ
 
   村雨の月にはれゆく秋の夜の露けくも吾(あ)は人を恋ふらし                     
    すみの江の霧の絶え間に浪よせて松におとなふ風のかしこさ                           
                       まだまだ有る、びっくり。
 
 * 書きかけの長編に焦らず「手」を懸け書き加えても居る。第一段階として、先ずは私自身で「おもしろげ」に読めてきている。読者さまにもそうあるべく、まだまだ手を懸ける。自称「歴史屋」の仕事に成るだろう。                    
 * 「八時字二十分」 両の眉尻を少し下げていた少年時の同級生の顔がよみがえる。三階の教室の窓から外へ出て、そのまま壁伝いに運動場まで這い降り、吾等の度肝を抜いたヤツ。元気に生きのびてるかなあ。
 
 * 疲れ切っている。床に就いて、王充『論衡』 陳彦『主演女優』と『参考源平盛衰記』を読み継ごう。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月二十六日  土
    起床 4:45 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 60.8 kg  朝起き・測 
◎『論衡』抄録  王充  漢代の思想家  東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
 〇 友をよくえらび、いいかげんな交わりを好まなかった。友とするのは、歳が若くても、行いが俗で無ければ、親交を望んだ。俗物を避けた。あしざまに言われても咎めも恨みもせず、何も云わず何らの陳弁もしなかった。自分には、どうなりたいとか、なりたくないとかいう思いが無いのだから、黙ったままいるのだ。孔子は「命(天命)」といい孟子は「天」と云った。吉凶安危は人に有るのでは無い、と。  (つづく) 
 
 * またも、街区に行き惑うて、大きな寺域の止めどない合従に捉えられて出られず、ほとほと辟易の夢に悩んだ。何か賑わった行事に秦の父と二人で加わって、その帰り、どこかのバス丁に二人起っていたのに、ふとしたうち父だけが去ってわたしは何処も知れない寺前のバス丁に独り取り残されていた。それからの孤独で危険な辛苦艱苦、寺地から寺地への彷徨はもの凄かった。やっと拾えたタクシーに運転手の姿の無いまま見知らぬ歳の住宅地を連れ回されて夢覚めた。
 なんでこういう夢に引きこまれてしまうのか。よぼ「にんげん」が出来てないと謂うに尽きるか。 
 
 * 今朝の東空は、あでやかな朱の、まさしき曉雲の流れが波打って美しく、ほれぼれと遠望した。イヤな夢が拭われた。 
 
 * 午前十時半。寝入っていた。心身に「元気」失せ、ハツラツとした何も無い。        
 書き散らした 歌の紙切れがひと塊り。記録済みか判らないが、書き写しておく。
 
 * ネコ(我が家の初世)逝きてふた月ちかくなりゐたる吾が枕辺になほ匂   ひ居る
 
   この匂ひ酸いとも甘いとも朝夕にかぎて飽かなくネコなつかしも
 
   線香も残りすくなく窓の下に梅雨待ち迎へネコはねむれり                                  一九八四 六月下旬
   大むらさき紅い小椿房やかに岩南天も先垂れてをり
 
   あはれともいはであはれや久方の光をともに櫻かがやく
 
   あはれともいはでやみにし人ゆゑに花ちらす風のにくまるゝなれ
 
   あらし吹くみうちの闇にふみまよひせぜの地獄へみちびかれゆく
 
   黒いマゴの首筋をつまみ輸液する健やかなれやもうせめて五年を
                             十月六日
   逢ふことのたびを重ねて身をせめてあはじの關を越えぞかねつる
                      日脚ややに伸びて元旦の空明るし    いもとせを寧樂(なら)と祝ふぞちとせまで              
   小椿の緋の色にふたつ咲きそめてゆたに葉のはれて明るし  
 
   朱鷺椿(ときつばき)莟める儘に匂ひたつ翠の七葉侍(さむら)ふまでに
 
   可愛といふ言葉しきりに口をつく黒いマゴも朱けの椿も仔獅子三戦士も                           カレンダーなど
   ひとつ落ちひとつのこりて姉妹(おとどい)の緋椿は今朝も咲き静まれり
                               一月二十七日
   黒いマゴ(愛猫)の三角の耳のひとつだけ妻と寝てゐてまだ六時前
                               十月五日
   傘の壽へとぼとぼと歩み寄る吾ら日一日の景色ながめて
 
   たてつづけ蒲団の内へガスを撃つ病みて睡れぬ深夜のいくさ
 
  真夜中にふと妻の手をつかみたるわれを如何ととふ吾もゐて
 
  大根を薄切りに焼いて味噌置いて茶漬け喰わうと妻を笑はす
 
  寒鴉カアと鳴くわれも鳴き真似す冬冴えてゐる行け寒鴉
 
  八つ赤く一つが白き椿かな
 
  惜しげなく花びら崩し大輪の赤い椿は地に花やげり
 
  あらざらむあすは數へでこの今日をま面(おも)に起ちて堪へて生くべし
             四月二日                生きめやもいざ
 
  有馬山意のあら沼にふみまよひ返す情けの無きがくやしさ
 
  ほととぎすななきそ今は亡き人の帰らぬそらに月も朧ろに
 
 * これだけ書き出しても半ばに足りない。腰を据えて詠んだのでなく、ラクガキに近いが、結構にその時々を謡い、感じ、歎いている。「歌」であるよ。
 残る半分余りは、折を見て書き取っておく。よく散らばってしまわなかった。
 
 * やっと寝ないで起きている感じ。鰭ひとつ動かず土間に投げ出された魚のよう。
 
 * 寅さんをちょっと観た。みな「いいひと」て懐かしく、柴又も懐かしい。
作劇として、優に。およそ「作物」には此の「懐かしい」が薄かったり涸れていては話にならない。「霧」の「霞の」と名高いばかりの「盗賊劇」も少し観ていたが、低俗に強張(こわば)っていた。
 
 * 瞼が痛いほど睡い。しいて本などよみたくなく、熟睡したい。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月二十五日  金
    起床 5:55 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 60.8 kg  朝起き・測 
◎『論衡』抄録  王充  漢代の思想家  東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
 〇 位は、州の所病に入って従事となった。世間に名を売る様なことは好まなかったし,損得にごかされることもなかった。自分が行き届くことは願ってはいたが,品行が第一、才能をかんばんにするようなことを恥とした。中傷されたとて辯明しようとはせず,地位が進まなくても無い恨みを持つようなことは無かった。
 世間の書物や世俗の話には、納得のいかぬコトがたくさんあるので、それらが誠か詐りかを,静かな所でひとりで究明した。 (つづく)
 
 * 心身を倶に見失ったようなボケの底に嵌まっている。
 
 * 困惑と迷惑との一日へ落ち込み、茫然 呆然。何がどうなってしまつたかすら認知できない。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月二十四日  木
    起床 5:55 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 60.8 kg  朝起き・測 
◎『論衡』抄録  王充  漢代の思想家  東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
 〇 八歳で手習塾に通った。手習いが仕上がると師について『論語』と
『書経』を学び,日に千字ずつ暗誦した。經書(四書。五経などの儒教の経典)に通じ道徳も身に備わると,師のもとを離れ,筆をとっては、すぐれたものをたくさん書いた。才たけてはいたけれども、いいかげんに書きなぐるというようなことは好まなかった。弁もたったが,語るに足る相手でなければ一日中口をきかなかった。 (つづく)
 
 * 体重が増えている。食欲が増しているとも,多く食べているとも自覚はが無いが。寝太りということが有るのか。意欲を失しかねず疲弊して仕事は停頓している。  
 
 * ロシアの傭兵隊長ブリゴジンが、飛行機の儘暗殺されたかと観られる。陰惨。極暑の内は、完敗の感か。
 
 * わたくしは、目も明いてられないほど、疲弊、暗澹。
 
 〇 晩夏  今日は曇りと雨の一日。夏の終わりを感じる日です。幾らかホッと安堵し、でもまだいざ生きめやもの心境からは程遠く。
 世界各地の猛暑や山林火災、もともと暑さは極力避けたいので旅行は全く考えられませ
んでした、が秋十月には飛び出したい。一年に一度の海外、振り返るとシルクロードに行ったのが三十年前でした。あの頃に戻りたいなとつくづく思います。
 鴉も若かった、精力的に仕事されてた。
 まだ行ってみたい所は沢山ありますが、優先順位をつけて、さてどこまで実現しますやら。同時に余程でないと、其処に行ってさてどんなものに触れ出会うか、何を感じるか、かなり予測できてしまうのです。テレビで世界街歩きを見ていると特に感じます。鴉のように自分の場所を定位置にして存分に想像し創造していける人こそ、やはり天才なのです。鳶は実に凡人そのものです、ましてや最近は年齢それなりに記憶力低下、物忘れもします。気力だけは存続させたいけれど。
 昨晩は夜中に目覚めたりしましたか?ぐっすり休めると、それだけで幸せですが・・。一日の始まりは出来る限り明るい気持ちで過ごしたいけれど。と書いて、用事を済ませていたらもう午後です。
 今日はボヤキばかり書きました。ロシア・ウクライナの戦況、慶応が高校野球の甲子園で百三年ぶりに優勝したこと、ハワイやら世界各地の大規模な火災、その他その他、世の中は休みなく回っています。
少しでも元気であれ、少しでも陽気であれ、お仕事進みますように、
 但し まあだだよ!!!  
 
 * ありがとう。いーいいメールです。
 鴉はと謂えば、24時間の4時間起きて 20時間寝入っていたほど うつし心失せた按配でした。もっとも、今、鴉は妖怪変化とつきあっていますので、うつし心は、ある意味邪魔でもあって。 さて、成るか 成らないままか、  八・九割方書けているが、祟られているように 難渋苦渋のまま立ち往生しています。こういうとき,何としても体力が欲しいのですが。がくと首が前へ落ちたま、目が明かないありさまでいます。やれやれ。
 保谷からタクシーをやとえば、恰好の「湯」があるという先を 知ってたら、みつけたら、教えて下さい。外国へは行けませんなあ。
 お大事に。  鴉
 
             
 * さいわいまだ、本は停頓無く和文も漢籍も読める。『史記列伝』 王充の『論衡』 『参考源平盛衰記』 『明治維新史』 『聊齊志異』 『水滸伝』などを他の支那デイ、藤村も秋聲も。目が心配だが。
 
 
 
               
   
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月二十三日  水
    起床 5:00 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 58.0 kg  朝起き・測 
 * 今日 わたしは何して生きていたろう。いま、晩の八時十五分前。ずーうーっと寝入っていた以外に覚え無い。茫然忘我。生きていましたと謂えない。 終焉への前駆か。初めてのこと。しかと補記しておくが、月曜の定例の検査と診察で、検査諸データは申し分なく、聴診触診にも。それでいて此の疲弊と困憊や如何。判らん。心身ともに、グタッと潰れたよう。  
 
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月二十二日  火
    起床 5:25 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 58.1 kg  朝起き・測 
 
 〇 盛岡の南部美人  
hatakさん
廸子様
  大変ご無沙汰しております。つくばの眞岡です。
  残暑が続いております。体調いかがでしょうか?
  これならいけるかと、出張先の盛岡から南部美人お届けします。
 近況をいくつかご報告します。
 4月に二年間務めた研究所の所長を退き、執行役という役職に就きました。勤務地は変わらずつくばです。
 5月に引っ越しを致しました。
 新住所:茨城県牛久市
 電話番号:(変更なし)
 9月に東工大で講演をします。すずかけ台ですので、秦さんがお勤めだったキャンパスとは異なるかもしれませんが、楽しみにしています。
 尚平は四歳八か月、道産子ですが暑さにも慣れて毎日プールに通っています。
 お二人ともどうかお元気でお過ごしください。
 早く涼しくなると良いですね。眞岡哲夫/Dr. Tetsuo Maoka
 
 * ひさしい、お若い、親しい 心友、ますます良いお仕事をと願う。坊やとも奥さんとも おめにかかりたいが、わたくしはもう、動けんなあ。
 「南部美人」戴けると。佳いですねえ。ありがとう。
 
 * 起き明けに二階廊下の窓から、真東の遙かに、それは美しい「東雲の空」を眺め得た。至福の無堺で会った。感動の儘を書いた記事が、例の機械のまぐれに消え失せたとは、惜しい。
 
 *『宗遠日乗』を、簡明にその日その日の独り私的な日録とし、「私語の刻」としての「公開意図を薄める」。私の機械操作の鈍磨は甚だしくなる一方、「私語公開」の「限界」がきている。「私のココロオボエ・メモ」の程度の日録に抑え、「思いのたけ」の「私語」は私の『日常行為』から外す。そのつもりで、日々を送り迎える。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月二十一日  月  厚生病院の受診
    起床 5:25 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 58.1 kg  朝起き・測 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
『西洋紀聞』 新井白石  岩波文庫 古本 購読
 このもう「青年期」ててよい、歳若くより「読書」しての生活態度も、もう「作家」という自意識しるべしているただの興味「仕事」としての必要「本」てている
「中世」への関心はかなり執拗であり、「近世」に「近代味」を体して「学識政見」とにきた新井白石へも、その延長で「意識し」て近寄ったそれ以上にも、もう、が「日本国」の『北時代』へ「窓」立派いていった「最上徳内」や田沼政見への関心敬意とが、「必然く」かたちで『新井白石』を「した」という自覚もあった
 幼少成年時興味えて「作家」である秦恒平つよい関心で『最上徳内そして新井白石』「必要」としたのだったもう青年時「卒業」とその「先」への「論攷」近寄っていた
 この「シリズ」での、ただ「回顧懐旧」とは色合いをえた読書史、『古事記』に始まり『新井白石』まで…。成るほど、と。合点。
 
 * 厚生病院の予約受診、諸データは申し分ない尋常を示していると。前回もそう謂われた、データは、健常と。
 しかも、この疲弊は如何。病院から帰っても、いま、もう24時前。何一つもせず、寝入ったままであったよ。「違和」とは、コレを謂うのでは。
 92最の、ロスの「チョコちゃん」から「100までも」と、87最の「コヘちゃん」を激励のレター呉れてくれる。アリガトさん。
 このまま、明朝まで眠る、心やすく、よく眠りたい。朝には「明日」の「今日」が来る。                
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月二十日  日
    起床 5:25 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 58.1 kg  朝起き・測 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
『梁塵秘抄』 岩波文庫 古本 古本屋の棚から購読
高校一年生教科書出逢った『梁塵秘抄』きでって、以来しみじみとしくもしいいになった。「信仰愛欲歌謡」副題して「nhkブックスもう一冊「孤心恋愛の歌謡」と副題して『閑吟集』もならび、各一冊の「書ろし出版」しているラジオテレビでも「講話」出演している。「歌謡」とはよほどっていた。和歌和歌。しかし厳然として和歌よりも年久しいうの歴史があったしかもじつにおもしろく」「おしえられるのだ
 私は、和歌・短歌・歌謡には傾倒できるのに、不器用にも、現代語で書かれた近現代「詩」の、藤村、白秋、朔太郎らのほか、ほとんどが理解できず、味わえない。要は気取った「散文」のただ行替え「分かち書き」のようにしか感じない。味わえない。「詩歌」に期待しているのは「ことば・日本語」の旋律・リズムの美なのに、たいていの近現代詩は奇妙な哲学の「演説」「講話」「露表」のよう、詠んで、舌を咬みそう。かりにも私の魂とは無縁に遠い気疎いおしゃべり。
 だが「梁塵秘抄」「閑吟集」また「謡曲」などは、ことばの「音と働き」とが胸へ、しかと「うた」に成り、徹ってくる、人間の生き生きとした「うた聲」として。人間は「うた」が好き、それなしに太古来生きて来れなかった。「うたを忘れた」詩人たちのまるで「演説」詩は、胸に美しくも有難くも響いてこない。
 そんなことを、私は、和歌や物語や『梁塵秘抄・閑吟集』に教わってきた。感謝している。散文作家たちの魅力や精力の読み分けにも、評価にもこれが生きて関わる。
 
 * 寝ていよ、まだ早いと諫める声も「感じ」ながら、床を起って二階へ来ている。既に心神、「元気」を喪っている。海水浴で「沖」へ出過ぎて「帰れるか」とおそれたあの「体感」がよみがえる。
 
 〇 先日の著作権についてのメールは、お心を乱して深く傷つけるとは思いましたが、それでも懸念をどうしてもお伝えしたく、はっきり書きました。
 お返事は相変わらずの判じ物で、やっぱり京都の人の「表現」が私にはさっぱりわからないのを痛感しています。「わかる人には言わなくてもわかる」そうですが、それは同じ土壌に育った人間どうしであればこそかと思います。江戸っ子には皆目わからないし、外国人にはもっとわからないでしょう。受けとめる人間がただ単にアホということもあり、私はアホとも申せますが。
 
「趣意はよく理会しています」は遠まわしの拒否かと。この件について、理会したが何もしない、著作権相続者を特定するような紙一枚で済む対処もなさるおつもりはない、成りゆきにまかせるということかと想像しています。秦恒平論については、将来書こうにも「書けなくされる可能性」のあることを覚悟しておきます。どうか、「まあだだよ」と、ギネスブックめざして思いきり長生きしてくださいますように。
 
一つ 書かせてください。
 「秦恒平の作品」をご自身のもの、ご自身が自由に出来るもの と思われているかもしれません。ご自身が創り書かれてきたものですから、当然の常識です。でも、私は、世に出た秦恒平の作品は、作者・著者・筆者お一人のものではない、すべての人のもの、公共財産(パブリックドメイン)と考えています。秦恒平の仕事は、夏目漱石や谷崎潤一郎のように、「文学の神」の領域の「死なない仕事」ですから、わかっていながら死なせることは 罪悪です。
 
 私はキリスト教に繋がっている人間ですので便宜的にも「神」という言葉を使いますが、「神」でも「日本語」でも「日本文学」でも「大いなる存在」でも何でもかまいません。聖書では「私を神の道具としてください」という言い方をしますが、とにかく「神」がご自身の道具となる秦恒平を選んで、実と義理のご両親や京都という土壌をお与えになって結実したのが「秦恒平文学」です。神の存在を知らしめるために、神の仕事を手伝うために、選ばれた存在です。神に選ばれた、神の試みにあった人と仕事なのです。神の試みの幸運と不運を生きる人間なのです。このような考え方は「抱き柱」の最たるもので、軽蔑されるでしょうか。
「神」の存在を信じていらしても、ご自身と関わるものとは思っておられないかもしれませんが、それでも「大いなる存在」は「感じていらした」のではないでしょうか。書いている時に、自分ではないものに憑かれているようにお感じになる瞬間がおありではありませんか。秦恒平の作品は、神が秦恒平という言葉の導管を通して完成させた金字塔です。ご自身の書かれたものの先行きはどうなってもよい、滅びてもしかたない、ご自身の手で自由に処分できると思われるのは、ある意味傲慢で怠慢、決して神の、天の、望んでいることではないと思います。
 
「秦恒平」はホント 腹の立つ方です。それでも、私の敬愛が揺らぐことはありません。ご不興承知で、作品を守るために言うべきことは言うのが読者の義務。あえて謂うならご家族さえも、常識の視点を変えて生きるほかありません。 優れた才能の周囲にもたらす「迷惑」は、もう「宿命」です。視点を変えることが出来れば、作品を生み出す現場に立ち会う至福があるのです。
 さらに言うと、「神」から見れば、天才も凡人も同じで、かけがえのない存在でしょう。すべての人間は家族や友人だけのものでなく、神のもので、神から祝福されているものと言えます。
 秦恒平は 要はふつうに眺めて、世間並の親ばかでもあります。そこが面白いし、それがいい。このまま親ばかでいらしてください。親ばか以上の親の仕事はありません。そして、ご自身の作品についても、もっともっと親ばか、我吾ばかになり、一心にお守りくださいますように。
 
 まだまだ続く猛暑に耐えて、どうかお大事にお過ごしください。今日も一日明日も一日、一日一日 お幸せに。  一読者として  
 
 * 朝一番 宮澤明子の弾く 好きな、ガルッピやスカルラッティの美しく鳴るピアノ曲を聴きながら。
 昨日は ほぼ終日、新作途中の、長編、フクザツ難儀な小説を読み返していた。「まあだだよ」 「まあだだよ」 もうちょっと待って。  
 
 * 走り去るように日々は過ぎ、京都はこどもらに嬉しい「地蔵盆」になる、町内中の大人たちが町内の子らをいろいろに愉しませ喜ばせて呉れる数日、だった昔は。今もそうだろう、路上での映画や盆踊りや、芸人を呼んでのマンザイや音曲も愉しめた、町内中で、それは、四方八方 何処の町内でもそうだった。胸のときめく、京都中がまさしく「夏休み」の娯しみだった。
 東京で、七十数年。そのような 何も覚えない。無い。
 
 * この八月なかば。原爆の思い出、そして開戦や敗戦・終戦「事情」にかかわるテレビ番組の幾つもを、例年のように心して見聞きした、務めかのように。『東条英機』と表題された一篇も、じいっと見つめた。あの「戰争」にかかわ見聞の何もかもを、忘れず、「向こう」へ持って行く気だ、美しく燃える「大文字」の夜景も倶に。
 
 * 心身不快、ことに「心」の内に濃厚な不快と不信と不和が、ドス黒い団子のよう。体力が許すなら、独りで、旅に出たい、旅先に、孤心を憩わせる小さな家寓が欲しい。
 迂闊な私は気付けてなかった。自分の島に、やっぱり自分「独り」しか立ててないと、不本意ながら気がついたとは情けない。ありていに言えば、私には「身内」と謂うに同じい良い・大事な「読者」が有難い、が……、いやはや。 
 *各地での「競馬」実況を幾つか続けてテレビで見た。爽快感に、不快に沈む気分、すこし明るんだ、が。
 誰かさんからの絵葉書、啄木の歌集『悲しき玩具』に
  呼吸すれば
  胸の中にて鳴る音あり。
   凩よりもさびしきその音 
と。私の不快に、とてもとても然様の風情は影も無い。
 
 〇 秦先生  鷲津です  (=東工大院卒)
 (24日にf伺えますがという来信への=)お返事ありがとうございます.
 教え子としても,先生に最もしていただきたいことは {新作}を書かれることですので,是非お願いいたします.
 お体だけは十分お気をつけください.
 また,私としても(=機械機能の調整等)心残りですし,1時間ほどのやりとりでネットにアップロードすることが可能になりますので,
また 時々「○○日は伺えます,」ということを申し上げるかと思いますが,
よほどお気軽に受け止めていただけたらと思います.
 まだまだ暑い日が続きますので ご自愛ください.
 引き続き,宜しくお願い申し上げます.  神戸より
 
 * 嬉しい励みの来信は、こうして「遠い他所からいつも親切に」届く。感謝。
 
 * 今にも「一稿」のあがりそうな、比較的の著編は、思えばそれが本来かも知れない「錯雑と変化(へんげ)の難儀な仕事。諸々のアカイは棚上げし、集中してせいぜ怖わーく仕上がりますよう。
 
 * むかし昔の人のへたな句だが、
     涼しさや塀にまたがる竹の枝  卯七  と。
 我が家でも ただいま ちょうど粗相の「塀を」涼しげに群れて笹竹の翠りが跨いでいる。が、同じなら
     涼しさは筍鮓の匂ひかな  ?促   へ 躙り寄るなあ。
 
 * 秦の祖父I吉の旧蔵、明治四十年、鳴雪・内藤素行著『鳴雪俳話』博文館蔵版を、私、少年來 折に触れ手にして頁を繰る。愛読書と、謂うか。
 
 * おお 五時半か。セイムスへ、自転車で「酒」を買いに走りたかったが。腐るほどの不快も湧いて出る昨今だけに、酒の切れているのは、不快めく。料理酒を盗み呑むのも腹だたしい。不快は不快、酒で失せる不快でない。
 
 * シンの疲れで、時も場所もえらはす寝入る。夢も見ない‥一寝入りゴトに壱時間半が通り抜ける。狭い小さなアタマの中で。ゴッタ返して要件顔の屈託が威張りくさる。なんと。十一時になろうと。時間を前に、恥じ入る。       
 
 *
 
◎ 令和五年(二○二三)八月十九日  土
    起床4:55 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 56.9 kg  朝起き・測 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
『徒然草諸註集成』田邊爵 昭和三十七年(1962)五月刊 右文書院   新刊を昭和三十八年(1963)三月一日購読 もう東京本郷台の「医学書院」に編集職で勤務し、長女朝日子も生まれていて、もう小説を書いていた。社には近代文学(?外・康成等)研究の泰斗長谷川泉が編集長としてあり、師事。本書は長編『慈子』成稿のために是非に必要な優秀な参考書であった。光広本、正徹本の写真、序、凡例、六頁の目次 六九〇頁の本文、一〇〇頁の概説・索引。精微に深切、文字通りいろいろに愛読し参照し学んだ。
『徒然草』を岩波文庫で買ったのは新制中学三年生、物語本ではなく、随感随想の叙事が手強く、難渋したが、しかも敬意を保って常に愛読、高校で二人の友人と放課後に教室で輪読の記憶がある。この大部、「壱千七百圓」の高価を押して本書を買ったのもよくよくであった。それのみか、勤務時間内に私は、目の前の東京大学文学部の研究室書庫に、医学部の先生の紹介状を戴いて、数ある『徒然草』参考書を読ませて貰いに入れて貰って、一篇の論攷を母校「同志社美学」誌に寄稿までしていた。作家として世に出たい願望は強かった。
 
 * 私の夢は、ニギヤカ。どこにこんな夢の資財が隠れているかと思う。異様に多彩で多様でヘンチキに場面は劇的・怪異・そして熱い。現実の歳からすれば、異様に過ぎるほども過度にセクシイなこともある。
 フシギと、知った顔はめったに現れないが、幸いに、決して忘れない数人は、向こうから訪れてくれる。嬉しい。
 
 〇 ご心配お掛けしましたが
 元気で、忙しく仕事をしています。月末締め切りの原稿や、前期の学生のレポート一〇〇篇ほどの添削とコメント等に追われていました。
 ようやく今日でそれらも一段落して、明後日二〇日には、土石流の被災地である伊豆山の復興花火も見てこようと思っています。
 前例のない猛暑続きです。
 食べやすいものを召し上がって、水分もこまめに補給なさって、くれぐれもご無理のないようになさってください。
 
 * ごく親しい人、なのに、フッと苗字が出て来ない。こんなことが、水かさ増す「浸水」のように増えてきたなあ。 
 
 * たくさん書いたたのに、混乱して消え失せた。疲れ果てている。
 
 * 愉快か。愉快なものか。不快か。不快。何が。判らん。
 
 * 『左道變』を読み返す一日で終えた。心神結滞。モノもコトも見えない。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月十八日  金
    起床4:15 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 56.8 kg  朝起き・測 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
『平家物語』 山田孝雄著  寶文館  古本 購読
   昭和八年一九三三))六月二十八日發行  定価金三圓八十錢
 巻頭図版 例言 平氏系図 平家物語諸本一覧(20頁)平家物語概説(108頁) 目次(13頁) 本文(526頁) 類纂(読物 故事 出典 諺・類するもの 詩・謡詠 和歌 連歌 今様 朗詠 偈??) 索引(年號 地名 官職・位階・人名 一般事項・主なる言語 290頁) 全900頁を越す無比の大研究書。
 あらゆる方面から「索引」「参照」の利く希有に重宝の、読みこたえの「研究書」であり、「平家物語」と周辺の歴史で{莫大に教えられ続け」ている。「寶モノ」のように大事に参照し、秘蔵秘愛してきた。
 が、いつ何処で買ったろう。東京へ出てきてから、きっと、国電御茶ノ水駅にくっいた駿河台上、病院間近な古書店だろう、めったに「本」のために神田まではお茶の水坂をおりず、私史的に「貴重な古書の買いもの」は、このお茶の水駅回りで果たしていた。古本屋の二階には喫茶店もあり、取材外出中、恰好の「サボリ場」だった。小説も書いていた。
 
 * 長谷川泉医学書院編集長(森?外・川端康成研究の泰斗。詩人)日ごろの言では、「編集・企画者」という職は、二十四時間勤務、つまりは、いつ、どこで、何をしていても「勤務中」と謂うこと、と。
 私は勤務上の仕事も人もビックリするほど大量に為遂げていたが、また徹底的に自由時間に転じて、都内至る所の喫茶店や食べ物病で小説を書き継いだり本を読んだり呑んだりしていた。太宰治賞の『C經入水』もそんなサボリ時間に書き始め書き継いでだいた。時に喫茶店「二階」のマックラなアベック(ロマンス)シートへ潜り入って書いていた。小説を書いているなど、会社の同僚に見つかりたくはなくて。
 〇 秦さんへ  ありがとうございます
 こうしてすぐに 秦さんの "私語" が読めて 本当にうれしいです また是非読ませて下さい
 秦さんのメールをよませていただき 自分でもなるべく面白がれるように暮らしていきたいと思っています
 昨日はテレビで 京都の大文字の火を見ました やはり都の人はちがうなあと思いました
 メールがうまく働いてくれるのを祈っています
 秦さん どうかくれぐれもお大切にしてください 勤務の老人ホームではコロナ全く油断ができません chiba e-old 勝 拝
 
 * 相原精次さん 新著『再考「鎌倉史」と征夷大将軍 「古代みちのく」と家持・文覚・頼朝』 いただく。私のいま仕懸かり中の創作とも、少しく触れ合う。今も必要会って愛読中の、水戸光圀編『参考源平盛衰記』でも少し前、盛んに文覚と頼朝との出逢いを愛読していた。             
 
 〇 こんにちは。 返信をありがとうございます。感激しておもわず「ひゃー」と声を出してしまいました。
 湖の本のお礼をお伝えしたくて、何度かメールの送信を試みましたが送信できずにいました。よかった・・ほっとしています。
 しかも、「メールで、いろいろ話しましょうね。」というお優しいお言葉・ありがとうございます。
 昨日は、喫茶店で「湖の本」を拝読していて ダメもとで携帯電話からメールをしました。これからは、パソコンの方からメールしたいと思います。
 沖縄は台風6号が去った後から、だいぶ涼しくなりました。暑い沖縄ですが、8月に入ると秋を感じます。
 先週行った東京も、びっくりするくらいの日差しでした。
 こういう気温では体調を整えることが大変かと思います。
 少しでも涼しく、お元気にと願います。  名嘉 
 
 * よほどもよほど、もう、茫然とも耄然とも 心身が衰弱している。正気かなと吾から危ぶんでいたり。そういう境涯に入ってきていると謂うこと。さっき思ったり思案していたのを、直ぐ忘れ、思い出せない。やれやれ。  
 本が読めている。文も書けている。それにはげまされ、ホッともしている、が。
 人づきあいということが、やはり大切で、しかし急速に減って来ている。メールにも、ついお返事を忘れてしまう。なにしろ、コロナで三年、外出らしいがいしゅつをしてないのだ。街が、怖ろしく遠い所なっている。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月十七日  木
    起床4:30 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 57.4 kg  朝起き・測 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
〇 『夢の浮橋』 谷崎潤一郎   中央公論 昭和三十四年 購読
  新宿区川田町のアパートみすず荘に新婚と就職の日々を向かえた年の初秋か、新聞広告でしり、矢も立てもたまらず書店へ走って芝翫の雑誌『中央公論」を會、夢中で、心身を没入して読んだ。読み返し読み返し耽読した。入れ込んだのである、根からの谷崎大好きに部厚く輪をかけた、何も何という大作で亡かった、せいぜい書き下ろしの中編、としかし、舞台も人も話も期待の儘谷崎好きのわたくしをさらに魅了した、「新刊の雑誌から新作を読む」というほとんど経験のなかった耀くような新鮮さ。谷崎文学の上に真新しさを見つけて耽溺した新味を得て良かったと謂うより、こんな風に自分も話材を選べて書けたらどんなにいいだろう、嬉しいだろうと謂う羨望の濃さと深さとに負けて心身を委ねたのだった。「出会い頭」の、それはそれは胸に食い入る儲けものに思われた。そういう出逢いが、有る、という「身に覚え」が「身に沁みた」のだった。  
 
 〇 秦先生  ご無沙汰してしまっております。新野です。メール、ありがとうございます。
 私はといえば、普通に仕事はしているものの、今ひとつ元気が出ない何だか冴えない日々が続いていました(妻、息子は元気にやっているようですが)。
 先生が最後に書かれていた「これは『幸せな平和』と謂うものなのか」という述懐、自分なりによくわかります。そして相対的な状態として この国は決して悪い状況だとは言えないかもしれなくとも、先は何とも言えない不安が募ります。そんなところから来る気分の冴えなさなのかもしれません。
 自分なりのやり方で何とか元気を取り戻し 先生とお話しできればと思っております。
 暑い日が続いております。どうかお身体にはお気をつけていただければと存じます。ダラダラと失礼いたしました。  聡 
 
 〇 秦先生   メ−ル嬉しく、心から、ありがとうございました。
 猛暑とコロナで、お変わりなくお過ごしだろうかと案じていました。
 「戦争はいったん始まると、終わらせるのは非常に難しい。 だから、始めさせないことが大切だ。そのためには、政治家をしっかりと選ぶ必要がある」
 今朝の新聞にありました。
 「新しい戦前だ」と、少し前、誰かが言っていましたね。
 お身体どうぞご自愛ください、先生も奥様も。 ya itu
 
 * なにとしても、みなか、元気をしかし内蔵して日々を送り向かえること、それが「日本をも起たせる。幸い私には、信じがたいほど大勢の知己知友がある。アドレスさえあれば、おもいたつつど 声をかけたり、懸けられたりしつつ世路を踏み固められればと願うのだが。          
 そんな私が、ともすると弱く頽れそうに成ってしまうとは…
 
 * また払暁六時八分。宮澤明子のガルツピノソナタを聴いている。
 だれが「宮澤明子」などいう人の「盤」を呉れたろう。
 手の届く間近に、クラシツクの「盤」が六十枚あまりも在る。いった、どうして、「在る」のだろう。私自身はクラシック音楽の「盤」など自身で「買った」覚えは「三枚」と無い。その方面の買いものに気が有った覚えなど全く無い、とすると、何故「在る」か。人が呉れた、貰ったのほかに考えようか無いが、「誰に」などいう記憶は全然無い。かすかに「マドレデウス」か、ポルトガルと「ファド」の板を尾張の鳶が、一枚か二枚呉れたような記憶が薄れながら在る。他は、全然無い。志ん生や圓生の落語は自身で買った。「日本の唱歌集」も買った。が、クラシックのピアノやバイオリンの数十枚は、いつ、どうして、こう増えて溜まっているのか、サッパリ記憶が無い。もらい物と思うしか無い。感謝。
 
 〇 沖縄から 届きますように
 秦 恒平様  こんにちは。
 初めてメールを差し上げます。 どうか届きますように。
 いつも湖の本をお送りくださいまして、ありがとうございます。
                      沖縄県 名嘉みゆき 
 
 *届いてますよ 、ありがとう。
 『湖の本』創刊の盧からの久しく久しい読者の方。「メールが通じる」ようになったとは、嬉しい。いろいろおハナシが出来る。手書きの郵便は、私の現在この「手」では、とうていムリになっていまする。まだ、ゆっくりでも パソコンのキイは打てる。何より交信の速いのも頼もしい。
 
 * 「煮える」ように二階廊下 暑い。こんな暑さ、過去にも覚えぬ程。暮らしの中で、「無茶」はしてならない。もう「やりすごして」清い秋を待つことだ。いま不用意に「ガンバル」のが何より危険かも。                             
 
 
 〇        
 *
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月十六日  水  大文字
    起床4:15 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 575.4 kg  朝起き・測 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
〇 『日本美術の特質 第二版』 『図録』 矢代幸雄  岩波書店
   昭和四十年一九六五)八五月十四日 第二版発行) 新刊 購読
 自費で私の買った本では、最高価な「本物」「大判」の「研究書」であった。本巻だけで優に「八百頁、別巻に二百三十頁もの豪華な『図録』が附く」としても、平成の今からほぼ六十年以前に「定価七千五百円」は、もう医学書院勤務で給料を得ていても、いわば不要不急贅沢なと見られる買いものだった、そんなことは謂われなかったけれど。なにより、関心も興味も濃く、方面違いの「医学書院」社員ではあれ、「日本美術研究」無縁ではなく、渇望して躊躇わず買った本、それに、もう小説や評論を書き始めてもいた、わたくしが刊行の評論の一冊は『十二世紀美術論』であり、小説では、上村松園を書いた『閨秀』が朝日新聞文藝批評の「全面」を用いて賞讃されていたし、虎渓三笑図に触れて書いた『盧山』は芥川賞候補に挙がって「美しいかぎりの小説」と推された。謂うまでもない学界の「泰斗」と識られた矢代幸雄著の『日本美術の特質』を勇んで手に入れたのは、少年來美術が好きの行き着いたほくほくの買いもの。強いて胸を張れば、ダテに「美学美術史學」を専攻勉強してきたのでは無かった、「医学」書院勤務の方が寄り道、じつはいろいろに有難い寄り道であった。
 寧楽法華寺の平安『阿弥陀三尊』のうち観音勢至の原色に始まり、明治の黒田清輝の『湖畔』 昭和の梅原龍三郎『雲中天壇』 平櫛田中の華麗と清潔をきわめた『鏡獅子』像にいたる210作もの『図録』大判の豪華には、嬉しさ、舞い上がりそうだった。眺めに眺め、ほくほくして書架に藏めた。貫禄、他を圧した。 
 
 * 体重が稍やに戻っている、疲れようは増しているのに。そして視力の減退、混濁、日ごとに増し。まさしく末期症状か。
 
 〇 終戦の日 台風 
 今年の終戦記念日は台風台風の一日になってしまいました。そちらの空模様は如何でしたか。此処(=愛知長久手ほ)は暴風雨圏すれすれで、雨がひとしきり烈しく降り、風が吹き、の繰り返しです。今も強い雨の音がしています。
 目が醒めて 朝4時頃に書かれたメールを読みました。鴉の求めた小説、そして作家の立ち位置を思います。『国民文学論』民主主義科学者協会・昭和29年とあるだけで既に十分に窺えます。昭和40年あたりでも尚その傾向のものはありました。
 先に書きましたが中村真一郎の『この百年の小説』を興味深く読み継いでいます。その後の、この五十年の文学に関する批評を読みたいものですが。最近の若い人たちの書いたものは 何やら理解しがたいと・・仕方ないなあと嘆きつつ。
 まだまだ暑さは続きそうです。くれぐれも、くれぐれも大事になさってください。
 少しずつでも 書くようにします。 元気にしています。 尾張の鳶
 
 * 鳶が鳴いてくれると、ほっこりする。
 
 * 本音を吐いて、憎しみほどのものを吐き出した、が、消え失せた。そういうことか。もう、大文字が燃えているか。帰りたい。京都でこそ生涯を終えたい。 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月十五日  火 敗戦の日
    起床2:30 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 57.7 kg  朝起き・測 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
〇 『国民文学論 これからの文學がつくりあげるか』
   民主主義科学者協会藝術部會編  厚文社
   昭和二十九年一九五四五月三十日発行新刊 購読 大學一年頃
 文学部文化学科美学藝術學専攻の「大學一年生」という意識で買い入れたが、「国民文学」という思考か・志向が、当節のはやりとして左傾スー田した宣伝になるのでは内科と警戒し、警戒は当たっていた。そのような「国民文学」の認知はゆきすぎた主義かを伴う葉必然で、避けねば友想っていた。渡具にも自信の豫想や判断の狂ってなかったという認識きから、私は此の本を「捨てた」のである。大学院を去って東京に出、家庭をもってから創作者への覚悟を固めたときも、「国民文学へ」という意思も姿勢ももたなかった、その意味でもこの本との「意識的な出逢い」は、有意義であったと今も感じる。「私」小説にも引っ張られず、「国民」文學へも向かわなかった。私はただ「文學」「文藝」を、稚拙なまでに「創作・表現」したかった。しかし今も書庫に「此の本」がきちっと保存されていたのも、至当のことであったと、「堅い小型の本」に眺め入っている。読み返す気は無い。
 
 * 一九四五年 昭和二十年 の今日、盂蘭盆の日に「日本帝国」は米英等列国に「無条件降伏」した。私は、当時の京都府南桑田郡樫田村字杉生(すぎおふ)という細い街道一筋を八方から山々に囲まれた二十軒とない部落に母と戦時疎開し、険しい山を越えて樫田国民学校に通うくらしの、丁度夏休み最中であった。
 敗戦して最も子供心を衝かれたのは、或る日、ジープで来た占領兵の命令で各戸「刀狩り」にあったこと、また夥しい數、何枚かのむしろの上へ供出されたこと。
 母も、タンスの底から二ふりの大小を出した、朱鞘と黒い鞘と。農家の人が、出さずに山へ隠してきましょうと持ち去った。「みつかったら沖縄へ重労働」と云われていた。匿したとい我が家の日本刀はついに、そのまま、行方知れなかった。少年が「敗戦」の実感はアレがきつかったと、今も想う。
 
 * 外は暗いが、二時半に、もう起きてしまった。寝たければいつでも寝、起きたければいつでも起きる。このごろはそういう暮らしも嗾すような、もう三年も「コロナ狂い」の時計ではある。     
 
 * そして、今日只今の「日本」は、これは「幸せな平和」と謂うものなのか。そうなのか。
 
 *早暁 四時半 外はまだ暗い。朝飯前をひとガンバリするか。
 
 〇 秦恒平様
 敗戦記念日に入った早暁にメールをいただいており、恐縮でした。
 私は学童疎開期間は横浜市の西方の丘陵を一つ超えた、戸塚区の東端にある父の実家の農家におりました。横浜大空襲の黒煙と焼夷弾落下の恐ろしい光景を東に眺めたのが5月29日のことでした。
 こちらは、敗戦後の刀狩りなどはありませんでした。敗戦後1週間も経つと、女性たちが派手な服を着て、駐留兵と仲良く歩いているという話しが伝わってきて、びっくりしました。日本人の「変わり身の早さ」と「体制への順応」を知った最初の体験でした。
 数週間後、この家の長男(父の甥)が軍隊から帰還しましたが、軍隊でのことは何も語りませんでした。沈黙が不気味でした。横浜中心部、伊勢佐木町南側の、父の化粧品卸業の家の辺りは米軍の軽飛行機滑走路と変わりました。いまでも横浜市中の根岸の丘の西半分は将校たちの住まいに占領され、ゲートで遮られています。この根岸の丘を見上げる磯子の入り口に私たちは住み、父は化粧品の卸業を始めましたが、生活のために数年間、小さなプレス工場を開設していました。
 私は先月、日本キリスト教団出版局からの依頼による『ヨブ記を読もう』の執筆の第1稿を送信しました。編集部の仕事が立て込んでいますので、この書き方の線で行くかどうかの検討は来月になるでしょう。来月はICU出身伝道献身者会での講演、「教養学部と伝道」を頼まれて、原稿作りに苦労しています。今日は贈られてきた詩集を読まなければなりません。
 お元気でお過ごし下さいますよう。ありがとうございました。並木浩一
 
 〇 秦先生  メ−ル嬉しく、心から、ありがとうございました。
  暑とコロナで、お変わりなくお過ごしだろうかと案じていました。
「戦争はいったん始まると、終わらせるのは非常に難しい。だから、始めさせないことが大切だ。そのためには、政治家をしっかりと選ぶ必要がある」
 今朝の新聞にありました。
「新しい戦前だ」と、少し前、誰かが言っていましたね。
 お身体どうぞご自愛ください、先生も奥様も。 岐阜Y・ituko
 
 〇 お元気で  野路
「或る折臂翁」の「積み重ねられたものの、もの言わぬさまに気押されるここちだった。」には 霊気を感じました。
 科学一辺倒になりつつある世の中に言霊の響きが聞こえてくると「気押され」ながら包まれる温かさを感じます。
 言葉が記号としての集積による意味を押しつけるのではなく、表される直前にある声なき声に圧倒されてしまいます。
 よき供養になりました。ありがとうございます。
 
 〇 秦さん  敗戦の日は広島忌、長崎忌と比べあまり意識しないできました。ただ終戦ではない、とのこだわりはあります。
 それよりもお盆の御霊供をつくる日。今しがたお供えして 母が般若心経をあげています。お土産団子はもう少し後。
 
 日本は「平和」だとも思っていません。どこかしらで争いがあり、貧富の差があり、差別が横行し、そんな状態を平和といえるのか。日本だけに争いがなくても平和とは言いたくない。
 近畿に台風上陸、離れていても台風特有の風を感じます。被害少なければよいのですが。
 まだ暑さのぶり返しはあるようですね、どうぞお大切にお過ごしください。
 迪子さんもお大事に。  下関  緑
 
 〇 秦さま  遺書のような e-mail を、いただきました。
 書きかけのような文面で、続きが気になりました。
「戦争反対」とさえ書かなくなった世の中に、驚いています。島尾伸三 作家
 
 〇 秦先生  おはようございます。メールを下さいまして、有難うございます。
 終戦記念日という言葉をずっと聞いて育ってきましたので、戦争は終わったと思っておりました。が、戦争は終わっていないように感じます。
「刀狩り」のお話、ショックです。
「日本文化としての刀」が狩られたのだと思いました。
 日本の音楽は、 隅に置かれていますが、狩られていません。
 日本の音楽をもっと表にだして、日本文化再生のための道を進んでゆきます。
 日本のためのみならず、地球の宝として、日本文化を世界の方々に楽しんでいただきたいです。
 終戦記念日、決意を新たにさせていただきました。有難うございます。感謝申し上げます。
 これからもご指導の程 宜しくお願い申し上げます。
 末筆ながら、暑い毎日、 お身体ご自愛ください。
 追伸  一昨日、ゆかたまつりを浅草公会堂和室にて いたしました。ツイッターにアップさせて頂きました。お目通しいただければ、幸いでございます。
  https://twitter.com/tazae2/status/1690933917917024257?s=12  望月太左衛
 
 〇 秦恒平様  野路です。
 暑いですね、と始めるのも暑苦しいですね。
 日録をありがとうございました。
 8月いっぱいは コロナ感染で変異した遺伝子の仕組みが乱配列なので、体調の壊れる人が多い、と誰かが言ってました。やり過ごせばそれなりの配列に収まってくれて 改善されるのでしょう。
 そう言えば 石川淳選集の最終巻に「問と答」があって
「人生で最上の幸福は?」の返事が「知らぬ」
「人生で最大の不幸は?」の答えは「幸福をありがたがること」でした。
 好きな英雄?に 暴君と答えた石川淳らしい喝破でした。
 世界平和であって欲しいですが、「治に居て乱を忘れず」のはずが いつの間にか「治に居て乱を求める」のが人間の性かもしれません。
 忙しいと休みたいと願うくせに、休みが続くと働きたくなるような習性の悪用でしょうか。
季節が前倒しになっていますので 秋の訪れも早いといいですね。
 
〇 頭で食べましょう
 今、台風7号が通過中です。風と雨が時に強くなります。進路が気になって、嵯峨の渡月橋をジョギングしている人の映像を見ながら、窓をあけたり、閉めたり。昨夜の3時半ごろから何か吹き飛ばされるものが、あったかなと、耳をそばだてていました 。玄関ドアの隙間から雨が降りこみ、風で強く押し付けられた木戸が動かなくなり、ま、雨が止んだら、どうにかしょうと。摂氏40度の日がつづいて、また不要不急の外出は死ぬとか、家の中でも熱中症対策をとか、言われ放題です。
 せっせと音楽をきいています。アルゲリッチでショパンを。アルゲリッチでしかないと、楽譜と演奏家、再現者の関係は、とか少しだけ考えました。結果、正調ルビンシュタイン(勝手に思っているだけ)で聞き直しました。
 物忘れがひどく、毎日新しい事ばかりで、こなすのが大変です。 美沙
 
 * 「對話」して下さり、嬉しく励まされます。 感謝 感謝 
 *
〇 
 *
 
 
 * 
 
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月十四日  月
    起床5:00 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 56.4 kg  朝起き・測 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
〇 『谷崎潤一郎集』 角川昭和文学全集 購読
  三畳の二階勉強部屋に、父が大工を雇って作り付けてくれた武骨な木の本棚に、着々並ぶ本が増えていた。まだその大半は、秦の祖父が旧藏の大漢和辞典や大事典や、唐詩選六巻や、老子莊子韓非子や袖珍の漢詩集、或いは日用の便利本や日本旅行案内、『歌舞伎概説』などで占められていた。ソレらを徐々に追いだして私の手に入れた新刊本に置き換える それも一つ「目標」だった。気に入りの「角川昭和文学全集」にあこがれの『谷崎潤一郎集週』の桑わっの葉、いわば『花と風』などの「谷崎論」を自身書くことで「作家」へ道を切り開き始めの第一歩と成った狭い。勉強部屋の空気が泡立ち始めていた。
 
 * 濃い敗色に掩われていったあの藻掻くような南湖の島々での日本兵惨敗の地獄苦なども、敢えて承知の務めかのようにテレビで見入った、昨日。例年の此の時期には意識し務めて往年のサンクを顧み自身その中へ混じる様にしている。忘れたいが、わすれてはならぬという自覚は失せない。国民学校一年坊主の私に既にソレしか無いと判りきっていた敗戦必至の戰争だった。先生や上級生に亡くくられようが蹴られようが、「買ったらフシギや」という、あの祖父旧蔵の白詩『新豊拙臂翁』に頷き聴き入っていた少年は、どう先生に殴りトバされ上級生に胸倉取られようが蹴倒されようが、「負けるしかない戦争」という至当の確信は脱けなかった。戰争は所詮「おかねのいくさ」鉄砲や弾や舟や飛行機の「數」で決まってくると私は感じ、それで、入学し立ての国民学校教員角牢から貼られた大きな世界地図の真っ赤い「日本列島」と宏大な真緑りのアメリカ国土を見比べ、「勝てるワケがないやん」と友だちに語った途端通りがかりの男先生に廊下の壁にたたきつけるほど顔を貼られた、ゼッタイに忘れないし、誤ったとも決して想わなかった。
「負けるに決まった戰争」を、どう、藻掻きながら相手の「上」へ出るかは、一にも二にも『悪意の算術』と私の名づけてきた「巧みな外交の技と力」なしには凌げない、どんな大昔からも、弱小国はそれでかつがつ切り抜けてきた。「歴史」が好きで学ぼうとしていた小学生私の、本能的なそれが確信だった、そしてそのまま「処女作小説」の『在る拙臂翁』へ表現されたのだった、最近「湖の本 164」に再掲し、相当な反応のあったことに首肯いている。
 
 * 華 案じています。元気にしてますか。
  何を楽しみにしてますか。 手伝えることあれば云うてみてください。
 お盆 そして大文字。京都へ帰りたい。家がなくなり 宿が無く。 電話で予約というにも慣れなくて。
 坂を下るように 体調体力も 心許なくなりました、やれやれ。この、 やれやれ。安堵でなく 嘆息。やれやれ。
 清閑寺への坂みちが懐かしくて成りません、もういちど あのお寺から遠い山を眺めたい。  ウシロ(背後)の高倉御陵の、深紅に燃えて風に騒ぐあの晩秋の紅葉、紅葉 紅葉の大揺れを もう一度 観たく 聴きたく。
 華 お大事に。  恒平
 
 * 老いて「独りになる」寂しい極みを懼れない人があろうか。
 
 〇 メール頂き 有難う御座いました。この頃は、何も出来なくて、テレビを相手に過ごして居ます。体調も今一で、頭もボンヤリしています、食べるものも何とかです。
 近頃は夕方に 時々 一人で東(清閑衒道)へ歩いています。こんな日々を過ごして居ます。
 過ぎし大昔去の楽しかった事など思い出しながら! 華
 
 * 機械画面、真まん中の真下に、文字通りに目の下に「紫宸殿前庭」の絵葉書が清々しく静まりかえっていて、どんなさわぐ想いも推し静めて呉れる。私の目と重いには「此処」が、独り静かに立てる、「やすの河原」。
 
 *「湖の本 165」入稿分 ポストへ。そお握り、あんパンなど、用は「かいもの」をの序でに「ローソン」で「買いもの」日本酒、ウイスキー、サントヰイッチなど、要は「買いもの」を楽しんできた。「買う」という行為、心身に無意味でない。
 
 * ハテ、サテ。明日は敗戦して、何年か。78年ほどか。盂蘭盆という実感はもう私にも残って居ない、何といっても「戰争に負けた」国民学校話粘性の私には、「負け」は疑いようなく「あたりまえ」であったという実感を振り捨てようのないのが今も苦い。
 
 * もう四時。寝ていたいが。そうもいかない。郵便もメールも無い。これが老境か。  
 
 * かみくずかのように、かきすての歌や句がかみきれごとに書いてあるのを見つけた。すうじゅうに達している。ともあれ、然るべく書き置いている。      
 * 九時過ぎ。湯冷めもし嚔もし、心地悪しい。 寝た方がいい。『鳴雪俳話』がすこぶる佳い。俳句は作れないが、佳い句、好きな句は、しかと受け取れる。やはり芭蕉と蕪村に嬉しく圧倒される。ソレを読む鳴雪翁の感傷が声挙げて拍手したいほど、佳いのだ。翁明治維新元年には京都に遊学、二十年には文部書記官を征服にサーベル提げて奉職していた。正岡子規より少し年上ながら子規門下の筆頭として子規俳壇牽引に盡力した。
 
 蓬莱に聞かばや伊勢の初便り  芭蕉
 
 春風のつま返したり春曙抄    蕪村
 
 * いけない。寒け。
 
 * でも、心して務めて、往年敗戦への道を少年四年生の私もともに歩んだ持ちを新たにする報道や番組に顔も耳も向けた。あそこを通ってきて「今」なのだと。          
 
  
◎ 令和五年(二○二三)八月十三日  日
    起床4:35 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 55.7 kg  朝起き・測 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
〇 『旅愁』 横光利一  角川昭和文学全集 第一回配本 駈けつけ講読。
  高校時代は他面・多方向への可能性で光っている、中核とも大學とも明らかに違っていた。踏み出す脚に、好奇心と自己肯定が、いまから思えば、ほとんど喚いていた。「手を出す」のが嬉しくて特異でためらいが無かった。この初めて触れる「横光利一」というな全一巻に一作の、西欧への旅立ちを表題が示唆していた、間にしては笑い出すしか無いが私はの一巻を買いに河原町のょんへ書けた得意満面の虚運河、張りなつかしい。これは、秦の父が設えてくれた二階三疊の私のための勉強部屋、しかも何段もの壁に作り付け不細工だが真新しい本棚に第一等に収まるピカピカの新刊本なのだった。「横光・川端」と何美賞された「新感覚派」一棒の頭領の大長編だ、じつは読者等の大方が横光よりも川端康成の「雨降りお月さん」のようなお話しぶりを贔屓らいのに片手オチを感じていたのだった。川端の情緒めくしんかんかくでな、年と社会と世界の「新感覚」を横光利一に期待したのだった。
 で、『旅愁』は。?外や漱石や荷風等の「西欧」とは異なって感じ等?「旅」がよれる、という讀中・讀後、、ま、満足があった、とておこ、實はもう、みな忘れているのである。しかも私はほぼ教皇に日本現代文学に「横光利一」の大きい存在、まさしく「あたらしい感覚」が濃い油のように流れこんだという感想を持った。川端康成の「千羽鶴」などは私には遣い慣れた、幾らか遣い飽きた「茶道具」のようだった。
 
 * 潤一郎夫人谷崎松子さん来訪と、「お茶」「談笑」の夢。「お迎え」に見えたかと感じながら、懐かしく。
 私は、若い日のいっとき、編集者から、「秦さん、谷崎夫妻の隠し子なんですって」と私語(ささや)かれビックリした想い出がある。生前の谷崎先生にはお目にかかれなかった、が、松子夫人には亡くなる日までまこに懇意・親切を尽くして下さった。まこと「山のように想い出」がある。それすら、もう久しくなった、私は八十七歳。嗚呼。噫乎。          
 
 * 払暁五時、強い雨の音。
 
 * 朝、八時半。「すべき」雑用をコツコツ果たしていた、書庫とも往復しながら。しかし、ソレで宜しいワケ無く、一に成すべきは、何か、判りきったこと。創作の進捗、分かっている。が、疲労困憊は淡まらない。
 
 * 「戰争と僧侶」「恐竜の末期」と謂ったテレビ番組に見応えがあって、よかった。よかったと思えることに出逢うのは此の歳になっても有難い。
 
 *                
 
  
 
◎ 令和五年(二○二三)八月十二日  土
    起床1:50 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 57.5. kg  朝起き・測 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
〇 『更級日記』  岩波文庫  講読 
 京都市立日吉ヶ丘高校の二年時、友人二人と放課後の教室で「輪」読。
 古典には『土左日記』以降「日記」というジャンルが出来ていて、かな書きの『紫式部日記』や『讃岐典侍日記』などかずかず読める、それらへのいわば「入門」気分で最初に『更級日記』を選んだのだ、親しみやすいと感じていた。独りでも、繰り返し、大人になってからも和かな古典の「日記」を読みつづけ、のちのちには『チャイムが鳴って更級日記』という妙に凝った小説も書いた。『更科日記』では、冒頭、父の任地から都へ帰る途次、富士足柄あたりでの深夜、何処からとなく現れて歌を唱って聴かせて、また去って行く女たちの出現に、もののあはれ、あこがれ ほどの共感を書き綴っていた箇所が、胸を打った。
「夢」をたくさん書いているのも此の日記、此の筆者の特色で、日吉ヶ丘高の校内新聞に『更級日記』を高校生なりに論じて投稿したのが、ま、作家・秦恒平、初の「論攷めく」一文になったのも想い出。
『更科日記』の筆者は、或いは紫式部のきびすに接して「物語の大作など」を書き遺している。その文藝も人ももっと論じられ、見極められて好い「超級の女流」であった。わたくしは、そう、今も思っている。
 
 * 昨日は、無慚なまで「深く濃く沈んだあと味」の半日だった。気が腐りきった。 
 朝日子のことなど想い出したくなかった、ただ辛いだけ。         さて今日は。こんな真夜中(二時前)に起きてしまい、どうするのだ。仕掛け仕事の続き…。出来るなら、いい、けど。 
 
 * 六時頃に少し寝入り、八時過ぎに目ざめて、以降。あれこれしていた。自転車でポストへ想っても、二の脚をフンで二度とも「危険」と、出掛けなかった。疲労は濃い霧のように五体に浸みている、なにをムリする必要在ろう。
 
 * それより、内玄関の正面が寂しいので、このところ、あれをと架けたかった「久保比呂志」作の、實に立派、畏ろしいほど立派な『鯉』一尾の大軸を妻と二人がかりで架けた。金魚や鮒や鮎でない、川魚の王の「鯉」が画面を大きく占めて、一尾悠然と水に静まっている。こっちが「位負け」のてい。
 架けたいと永く願っていたのが、この「お疲れさん」のさなか夫婦して出来たのだから、目出度い。嬉しい。
 久保比呂志は、土田麥僊らのお仲間だった…はず。
 
 *私の、この六畳の狭い仕事部屋には、障子際に不相応に佳い革のソフアともに、机が四卓、天井際の冷暖房機は別に、大小の機械が十機働いていて、大きな作り付け頑丈な書架に満杯の外の、各種大小の書籍や辞書・事典が山積している。抽出しの文書棚も満杯で四つ立ち、その余の雑物は床に置き放題、私の出入りの通路も、モノ、モノに侵蝕されて、文字通りの狭い「雑踏」なのだが、西と南の障子戸、障子窓、そして東の襖四枚は、それ自体がそのままかなりの「画廊」になっている、ただしみな貼り込みの写真や印刷物だがよく選び抜いてある。白鵬、照の富士、それぞれの見事な土俵入り写真もあれば、栖鳳、玉堂、土牛、曾太郎らの名品が、用済みのカレンダーから斬り遺して在る。加えて、高木冨子の美しい『浄瑠璃寺夜色』本作があり、亡き懐かしい富永ケ子の清雅な「風景」も小さな額に入っている。
 それより何より、この部屋には、高浜虚子にならぶ荻原井泉水が「秦恒平雅兄一餐」と献辞の『花 風』と二大字の大きな額、また宮川寅雄先生に戴いた、先生の先生「秋艸道人」筆の有名な『學規』も架けてある。ほかにも幾つか。
 その上に、娘のように遠くから愛している女優澤口靖子のドデカイ写真がちらとみただけで少なくも四枚、みなにこやかに笑んで呉れている。わらはば、わらへ。
 
 * ところが、未だ在る。読者や知友のお便りが「佳い繪葉書」でくると、倚子席の身辺に隙間を見つけては飾る、今も八、九枚が直ぐ数えられて、目の前の間真ん中に老いたのが、「日本の清潔」とはコレとしみじみ得心の、『紫宸殿と前庭』のすばらしい静謐。左近の櫻、右近の橘、一面白沙の広庭。吸い込まれる静謐の美。
 また、村上華岳の『墨牡丹』 京「高山寺」の弓討つ「兎」らの『戯画』、建仁寺の『風神雷神』、菱田春草の『帰樵』 祇園会の『薙刀鉾』 アネス・ドルチの『親指のマリア』 能面の『十六』 さらには静寂のうちに花やいだ『飛雲閣正面』 さらに加えて、大恩を受けた医学書院『金原一郎社長』の献辞も添って頂戴した「告別用だよ」の上半身温厚なお写真 さらには妻が描いたいまは亡き愛猫「ノコ」の、生けるが如き肖像。
 これらの繪や写真が老耄の私をどれほど寛ぎ励ましてくれているか、計り知れない。出来れば、この「仕事部屋で」こそ 私は、死にたい、と願っている、心より。
 
 〇 嬉しい事
 迪子さまから荷物が届いたとの通知のお知らせを読みましたあと、スマホで暑さを紛らわしていましたら、
 Googleに、なんと「方丈」の二文字が浮かび上がってきました。
 5月31日以前の毎日の「私語の刻」を読ませて「いただける」のです。「ずーっと遡れる」のです。夢中になつて。
 なんと膨大な量でしょう!
 迪子さんのお誕生日(四月)迄も。まだ、その以前へも遡れるようです。
 パソコンでは、5月の連休で(東工大卒の)元学生さんが復活させてくださったと。その折には二、三は読めたのですが。迷子にしてしまい、その後、またまた読めなくなってしまったので、寂しかったのですが。
 スマホに隠れていたとは?
 パソコン、スマホと、かくれんぼ遊び[?] またこの先を見つけ無くては。
 いつまでも続きそうな、世界的暑さ、くれぐれもご無理ないようにお過ごしください。  晴美 
 
 * サーテ。これがまた 私には何が何やら様子が理解出来なくて。
 
 * 夕食後も寝入ってしまい、首筋の凝った痛みで目ざめた。八時二十分。目は、睡い。
 
 *『参考源平盛衰記』は、巻二十三へ読み進み、もう武衛と呼ばれている前兵衛佐源頼朝が、ひそかに平家討つべしの「院宣」も得て、流罪されていた東国一円に大勢力を貼って、今や富士川に対峙の平家軍を京都へ追い払っている。すでに欧州から弟の義経も馳せ参じ、木曾義仲も立ち、いよいよ「西国を戰場」の源平決戦になろうとしている。   
 
◎ 令和五年(二○二三)八月十一日  金
    起床4:15 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 55.4 kg  朝起き・測 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
〇 『源氏物語』全五冊 島津久基釈註 岩波文庫 購読 苦戦苦闘しつつ。
  とうとう来た。「夢の浮橋」を渡り終えての尻に、
 「1963 12 17 」読了し、「 1967 6 22」再読を了え、「遠」と書き置いている。二度目に、ほぼ三年半の「苦闘」の歳月を懸けている。高校二年生に岩波の五冊を買い求め、大学も出、東京へ出て結婚し親に成って以後も『源氏物語』は生涯と敢えて謂う、身辺を離れなかった。「遠」と書き添えたのは私、裏千家茶名「宗遠」を謂うているが、遙かなりし「遠路の嘆息」とも。
 源氏物語への「親炙」なくて私の読書歴は成り立たない。これは「古典」という区別はしていなかった、藤村、漱石、潤一郎を愛読するように源氏物語、平家物語、徒然草等々を同じく「名作」と敬愛した、今も同じ。幸せと謂うしかない。
 
 * 嵐峡めく山川ぞいの路で、なんと懐かしい、嬉しい、若々しいあの「姉さんと道ちゃん」が歓声を上げ倶に遊びたのしんでいる「夢」をみて、目ざめた。声が耳に残るまま、四時過ぎに床を離れてきた。「ねえさん」が「道ちゃん」を「迎え」にきていたかと、と思った。そうかも知れず、それならやがては、妹の「貞子ちゃん」もいっしょに「三姉妹」して「私を」迎えにきて呉れるか、とも。よしよし。それもよし。
 
 〇 秦 恒平 様   残暑お見舞い申し上げます。
 仙台は、七夕も終わり ようやく静かな杜の都となりました。
 でもすぐに月遅れのお盆です。帰省者がそろそろ増え始め、県外ナンバ−の車も多くなってきました。
 秦さまの「幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち」、感服納得 時に不服不審を覚えながら興味深く拝読致しております。
 いろいろ考えさせられること多く、自分自身の幼少青年時はいかに単純素朴であったことかと改めて思い知らされました。当時は、自分ではかなり様々な書物作品に親しんでいたように思っていたのですが。
 斎藤茂吉は、私も尊敬崇拝する歌人ですが 思い出すのは、彼の歌より「精神科医・一人の人間」としての奇行の数々です。
「患者を殴ってやろうかと、廊下の角で待ち伏せしていた」「トイレに行くのが面倒でバケツを持ち歩いていた」
「ウナギが好物だけど家族には分けてやらず、ひとり台所でうな丼を食べていた」等々
 斎藤茂吉の次男・北杜夫氏の晩年に、米沢女子短大の馬場重行先生のご尽力で、「公開講座」にお招きしたのも懐かしい思い出です。
 その当時、既に北杜夫氏は一人では動けずお嬢さまに付き添われておいででした。演台にもお嬢さま(と助手さん)と一緒でお話しは、お嬢さまの方が多かった記憶があります。山形(米沢)は、父君・斎藤茂吉のゆかりの地という理由で来て下さったのでした。
 残暑の方が盛夏の暑さより、じっとり蒸し暑いですね。
 どうぞお大切にお過ごしください。     仙台:遠藤惠子
     (医学書院同僚 同じ社宅で茶の湯稽古 のち米沢女子短大の学長
 
 * 会社の頃は、ごっつい眼鏡で大柄な後輩社員だったが、あるとき、ふと眼鏡を外してレンズでも拭いたか、その瞬時に見た美貌にビックリ仰天した想い出もなつかしい。会社の頃の人との、その後も親しいお付き合いは此の遠藤さん独りになっている。敬意と親愛とで懐かしみながらお付き合いを大事に思っている。
 
 〇 台風 猛暑
 猛暑が続きお疲れの日々かと察します。元気に過ごされるようにといつも願っています。
 わたしの一日は一時間一時間がとても長く感じられ、疲労感が積もります。が、一週間、一ヶ月、一年は何と早く過ぎていってしまうと嘆きたい程です。この時間の感覚を今現在どう把握していくのか、今この時、此処を生ききっていない思い、不思議な焦燥感が湧いています。
 以前から気に懸かっているのですが、鴉(=秦のこと)の小説の批評を纏められた永栄啓伸氏の著書のことがHPに書かれていました。鴉ご本人が既に読まれたのか、その後の様子は分かりません。もし目を通したとしたら、鴉ご自身がどの様な感想を抱かれたか・・。
 本を買い求めようと思っています。
 台風が接近しつつあり、このお盆休みも、交通渋滞もあまり関係なく静かに暮らします。
 長いメールが書けません。
 くれぐれも、くれぐれもお身体ご自愛くださるよう。  尾張の鳶
 
 * 思えば久しくも久しい読者さんである、名乗りが煩わしいかと、わたくしが自身を「鴉」と、向こうを「鳶 尾張の鳶」と呼び慣れてきた。雪に塗れて枯れ枝に居た蕪村の繪が下敷きになったかも。「鳶も鴉も、ともに世界的に宜しくは思われてこなかった鳥です」と、鳶の方で認定してきたメールか手紙があった。
 偶然の出逢いが、京都の博物館前、わたくしはなにか「撮影される」仕事の最中に声をかけられた。即、仲良くなってもう何十年か。忙しそうな「おばあちゃん」を務めているらしい。
 よく書けて、よく描けて、詩集ももった京都大学出、ものの考え方にも廣く海外の見聞にも、教わることの多い「ありがたい友だち」で。
 今も、手も届くほど間近に、「鳶」にせがんで「貰った」まこと美しい『浄瑠璃寺夜色』の繪が在る。浄瑠璃寺は、私実父方、わたくし生家でも在ったらしい南山城当尾の「吉岡家」と縁の濃いらしい名刹、その吉岡本家本宅の美しい黒白写真に、鳶の繪が並んでいる。疲れると眺めている。
 
 * 本を二冊、床の手もとへ加えた。子規年長の高足内藤『鳴雪俳話』そして漢代の異端的思想家、王充の著『論衡』を。ともに再読、三讀になるが、心惹かれ、心おちつくので。
       
 * 一つ判らない、この私が今も書いていた「私語の刻」の文章は、ひろく発信は不可能な、まさしく「私語」と想っているのだが、上の「鳶」のメールでは、なんだか「読めているらしく」も感じ取れる。「どう、なってんにゃ」   
 〇 お元気ですか、秦先生。
 これから書くことについては、秦先生からの何かお返事がいただければと願うものです。誰もが思っていても言葉に出来ず秦先生に直かおう窺いしやすいことではないので、あえて、蛮勇をふるって私が書きます。と申しましてもこれまで何度かお訊ねし、お願いもしてまいりましたことです。今回が本当に最後のお願いと思って書きます。
 
 僭越は百も承知で、読者代表として申し上げることですが、著作権の相続者を、奥さまと建日子さまのみにしていただければと思います。今後の紛争を防ぐために朝日子さんとみゆ希さんには行かないようにしていただきたいのです。
 
「著作権相続」についてはネットで検索すればたくさん出てきます。手続き等については難しいものではなさそうです。少し引用します。
 
著作権の相続に、特別な申請手続きは不要
 
@ 著作権は相続の対象になりますが、権利自体が自動的に付与されているものなので、相続する人が特別に申請する必要はなく、誰が引き継ぐかが決まった時点で著作権を自動的に引き継いでいることになります。引き継ぐ人が決まるまでは、相続人全員が著作権を共有している状態になります。
A 著作権を誰が引き継ぐかを、必ず遺産分割協議書に記載する特別な申請は必要ありませんが、誰が著作権を引き継ぐのかを第三者に証明できるようにしておく必要はあります。遺言書で引き継ぐ人が指定されていれば問題ありませんが、相続人全員で話し合いで決めた場合は、遺産分割協議書にきちんと明記しておきましょう。
B 共有で引き継ぐ場合、文化庁に申請する著作権は複数の相続人で相続することも可能です。しかし、著作権の使用許可を判断する人が複数いると、判断に時間を要するためトラブルが起こりやすくなるという危険もあります。このような場合は、公にも権利関係を明確にしておくために、権利が移転したことを「文化庁へ登録」しておくことをオススメします。登録は、文化庁の「著作権登録制度」に従って行います。
 
著作権を相続させる文例
 
第〇条 遺言者 Aは、遺言者が有する下記著作物の著作権を、長男 Bに相続させる。
 
????書名:〇〇〇〇
 
????著作者の氏名:〇〇〇〇
 
ポイント
著作権には登録制度(文化庁_著作権登録制度)も設けられていますが、著作権の権利移転に、何か登録するといったことは必要ありません。
 
 秦先生は充分ご存じのことですが、著作権には二種類あり、著作人格権は著者のみが保有します。著作者の一身に属する、著作者人格権は遺産相続の対象となりません。
 著作者人格権とは、著作者の人格的利益の保護を図るための権利であり、具体的には以下の4つとなります。
 
 公表権
 
 氏名表示権
 
 同一性保持権
 
 名誉声望を害する方法での利用を禁止する権利
 
 公表権は、公表するかどうかや公表方法などを決める権利です。
 氏名表示権は、著作者の名前を表示するかどうかなどを決める権利です。
 同一性保持権とは、著作物を無断で修正されない権利です。
 名誉声望を害する方法での利用を禁止する権利とは、著作物が著作者の名誉を害するような方法で使用されることを禁止する権利です。
 
 財産権としての著作権は相続対象者全員のものになります。簡単にいうと、印税を受け取るのは誰かということです。
 印税については読者は無関係。未来の読者に深刻に影響するのは、秦恒平作品が読めなくなり二次利用して論じることも出来なくなることです。
 秦先生の著作権含めての相続人のお三人の中で、おそらく一番長く生きるであろう「朝日子」さんの動きを非常に懸念しています。(一般的に女のほうが長生きです)朝日子さんが弟の建日子さんより長生きなさる場合、また建日子さんにお子さんがいない場合、著作権はいずれ「みゆ希」さんに行きます。
 みゆ希さんについては何も知りませんが、亡くなられた「やす香」さんとは大きく違い、ご両親の影響が露骨に強いのではと思っています。
 
これまでの「私語の刻」記事と『逆らひてこそ、父』『かくのごとき、死』等を読んできて、私の思い続けてきたことは、朝日子さんの秦先生への強い愛の裏返しとしての壮絶な復讐が、いつか始まるだろうという恐怖です。
 
 朝日子さんが著作権継承者となれば、秦恒平のあらゆる作品の出版や利用を拒否して、みゆ希さんとそのお子さん含めれば可能な、著作権の続く七十年の間に「秦恒平の作品」をことごとく世の中から抹殺できます。「殲滅作家」にすることが父親への最大の最も効果的な復讐になるからです。私の三文小説的発想と嗤われるかもしれませんが、戸籍まで改名して「朝日子」の名前を捨てたということは、それほどの覚悟だと思われます。前回の裁判など、ほんの手始めの復讐に他なりません。私は「凄惨な父と娘の悲喜劇」が長く続くだろうという、自分のこの見立てをほとんど「疑わない」のです。さらに朝日子さんがもし父親について、「虐待者であったという嘘」を書いた場合も、「秦恒平の作品」があれば秦先生の真実は伝わります。しかし「作品が抹殺されていれば」それは無理です。無実の汚名は晴らせません。
 
著作権相続についてはっきりさせておくことは、奥さまと建日子さんを不毛な相続争いから守ることにもなりましょう。遺産相続争いの泥沼はイヤというほど見聞きしてきました。そのために子どもを一人しかつくらなかったご夫婦を何組か知っています。何十年も争っている著名な画家一族の話もあります。
 
朝日子さんの場合は、復讐のために「金銭的な要求だけではなく、相続の遺留分として著作権を継承したい」と言い出すかもしれません。娘にその権利はあります。そしてうまく遺産分割協議がすんだあとに、私の懸念しているような事態になれば、また激しい争いになりましょうか。お金の問題なら遺留分として渡すという妥協もできるでしょうが、「著作権だけは決して朝日子さんに譲らず、」奥さまと建日子さんのお二人に「死守していただきたい」です。
 
奥さまと建日子さんが、朝日子さんとの「争い」に巻き込まれるほどお気の毒なことはありません。お二人は、残念ながら朝日子さんと闘うほど強くない。復讐の一念ほど人間を狂わせるものはありませんので。
 
私が、朝日子さんを悪く言い過ぎだと思われたら、お許しください。ですが、私はむしろ朝日子さんにある意味、同情、共感することも出来るから、このような失礼な、出過ぎたことを秦先生に書いているのです。
 
 私は、どうしても朝日子さんに復讐を完遂させたくないのです。彼女に「悪」をなしてほしくありません。それは朝日子さんご自身を致命的に傷つけるでしょう。復讐がかない、快哉を叫んだあとは、どうなるか。人格の崩壊です。地獄です。復讐ほど人を不幸にするものはないでしょう。私は秦先生の愛した娘さんをそのような目に絶対遭わせたくありません。朝日子さんの復讐相手は本来なら「夫」であるはずですが、サイコパスの夫より父親のほうを遙かに愛していたのですから、こうなります。憎しみは形を変えた愛です。
 
奥さまと、建日子さんは、夫として、父としての「人間」秦恒平を第一に愛していらっしゃいますが、それ「だけ」では朝日子さんには勝てません。「文学者秦恒平作品を守る」という「読者の視座」も必要です。ですから、朝日子さんより強い秦先生に、今こそ著作権についてきちんと決め、「書面で遺言作成」していただければと願っています。この件について、すでに秦先生が対応済みでいらしたら、失礼の段どうかお許しください。
 
 私が、秦先生の著作権や遺著管理についてのことを書くほど信用に値する人間ではないことは重々承知しています。
 それでも、今まではっきりとした秦先生のご決断を伺ったことはありませんので、どうしてもお伺いしたくて、これが最後と思って書かせていただきました。もし秦先生が、ご自身の作品を抹殺される可能性があっても、朝日子さんに著作権を委ねるというご決断に至りましたら、それは秦先生のご決断として受けとめ、私は黙って引き下がります。
 
台風の予報もございます。台風のもたらす蒸し暑さがお身体にさわりませんように。世間は夏休みに入りますが、秦先生は休みなくお仕事に励まれていることでしょう。どうか心ゆくまで「読み・書き・読書」なさって、お気持ちだけでもいっぱいお元気でいらしてください。
  長生きなさってください。   一読者が書きました。
 
 * 呻いている。「一読者」とは、凄いモンやなあ。 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月十日  木
    起床4・15 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 55.2 kg  朝起き・測 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
〇 『出家とその弟子』 倉田百三   借讀
 高校一年生の国語の教室にみの図化に美しい女生徒が居て、いつも静かに読書していた。歌集『少年』の巻頭に、
窓によりて書(ふみ)読む君がまなざしのふとわれに来てうるみがちなる
とある其の人で、名前はしかと覚えないが、このひとから、私は『出家とその弟子』ばかりか、堀辰雄の『風たちぬ』等々静穏な私小説系の何冊もを借りて読んだ。近代も後期の純文学へ道を拓いてくれた人だが、一年生の内に転居・転校してゆき、そして「亡くなっている」という噂も後年に聞いた。はかない出逢いで在ったが、貴重な想い出を『出家とその弟子』を介して私に刻印していった。明らかに『般若心経講義』を自前で買った時機と前後していた。
 『出家とその弟子』は、小説でなく戯曲だった、例のごとく私は家の中で、一心に声につくって「出家」と「弟子」とを語りわけ、』家の大人等を辟易させた。倉田百三の『三太郎の日記』なども此の頃、社会科の先生が教壇で熱心に話され、手を出したモノの歯が立たず失礼したのも覚えている。
 
 〇 秦さんへ
「太平洋戦争で戦局が悪化すると、当時枢密院議長だった鈴木貫太郎は、首相に推される。固辞したが、昭和天皇の大命により、やむなく第四十二代内閣総理大臣に就任、終戦工作に動く。広島、長崎に原子爆弾が落とされたとき、もはやここまでと、ポツダム宣言受諾の聖断を昭和天皇に仰いだのは貫太郎である。貫勘太郎の考えは、「天皇の名の下に起こった戦争を国民が納得するよう終わらせるには、天皇の聖断を賜るしかない」というものだった。
 無謀な本土決戦を主張する軍部の強硬派を押さえ、日本を破滅から救い、戦争を終結に導いたのは貫太郎である。
 八月十五日正午、天皇自身による終戦の詔勅がラジオ放送されると、勘太郎
は内閣を総辞職した。」
(「Chiba千葉チーバ」2019年10月3日初版 洋泉社 
      「日本を破滅から救った元関宿藩士の宰相」より)
秦さん
 私は集団学童疎開(東北)を逃れて 暖かい南の温泉場にいました 土地の元気な子たちが川の隅に石を積んで水を溜め 泳いでいるのを眺めていました。
「天皇陛下の放送がある」と教えられて家に帰ったのを覚えております
 こういう話を聞いてくれる人は だれもいなくなりました。お読みいただいてありがとうございます
 秦さん   ほんとにまだまだコロナが油断できません 諸々、くれぐれもお気をつけお大切にされてください 老人ホーム勤務も何とか頑張っております   千葉   勝田拝
 
 * 敗戦=終戦の、あのカン照りに暑かった国民学校四年生八月夏休み中の「あの日」を、私も鮮明に記憶している。広島長崎が新式の大爆弾で壊滅したと報された日には、「これで、おしまい」と勘じた、その前に、小磯も鈴木も敗戦のための内閣総理と見えていた。「ご聖断」のラジオ放送も、隠居を母と借りていた大きな農家の前庭を、ただ両手ひろげて走り回りながら聞いた。「京都へ帰れる」と明るい希望を持った。
 
 * もともと少年の私は、昭和十七年四月、真珠湾奇襲から半年して京都市立有済虚組学校に入学して間もない或る日、教員室の外に貼られた「世界地図」を友だちと眺めていた。地図には日本軍の戦果を示すらしい小さな日章旗があちこち刺してあった。それでも日本は「勝てへん」よ、「負けるよ」と私は口にして日本国の小さな「赤色」と比べアメリカの廣大な「緑色」を指さし見比べたその俊寛に通りかかった若い男先、生に、廊下の壁に叩きつける勢いで張り飛ばされていた。「しもた」と思いつつ「先生かて、よう地図観て見ィ」と思いながら、殴られから、ゆっくり起ち上がった。「シナ事変」は向こうが自壊し、「日露戰争」は幾つかの幸運に恵まれたとこの少学生はかなり耳や目で勉強していた。 
 
 * 水分が欲しく 手洗いの序でにキッチンに入り、酒をすこしやるうち、起きて仕舞おうと、二階へ来た。少しくたた。入稿さえ果たせば、機械仕事にも相応の整理がついて居るらしいと分かった。けっこう。いま、早暁五時。自転車に乗ってみようか。 
 
 * 何かを書きついでいた気がするの゛が、アイマイに覚えない。韓国ドラマの「い・さん」で、韓国人ヒロインのビカ一「ソン・ソンヨン」だけ心寄せて観、ついで朝鮮立国の苦闘ドラマ『緑豆の花』最終回を観ていた。後者の持ち出して見せた問題は大きく深い。伊藤博文ハルビン駅頭の暗殺までやって欲しかったが。
「明治の日本」 今日の日本人にも大勉強・大批評の課題だろう、「維新」という複雑な歴史を践まねぎ済まないだけに、「昭和の日本」より難題。
 
 * 八時過ぎ、遠慮もなく宵寝していた。この週末から週初へは連休気味、うかと入稿原稿も郵送しにくく、用向きも投げ出し気味に休息している、とは、稍や逃げ口上。      
 
 *
            
 
◎ 令和五年(二○二三)八月九日  水
    起床4:15 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 55.4 kg  朝起き・測 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
〇 『般若心経講義』高神覺昇 角川文庫 昭和27 11 3再版 七拾圓 講読
 角川文庫發刊は昭和二四(一九四九)年の憲法記念日、私は十三歳半の新制京都市立弥栄中学一年生、『般若心経講義』高神覺昇を自前んでったのは高校一年生、その頃、『出家とその弟子』などに感動し、「仏教の世界観」に心惹かれ「岩波新書」の類書へも手を出していたが、何よりも「我が家の仏壇」にいつも在って、小学生の頃から『般若心経』は声高に音読するのが私の常だった‥生まれ育った「京都」は神社より数多く「仏閣・お寺」の街。浄土宗総本山「知恩院」の門前通りで育った「秦家」から近在には、建仁寺、青蓮院、南禅寺、清水寺、六波羅密寺、智積院、三十三間堂、更に日吉ヶ丘高校の上には泉涌寺、下には東福寺、かの校舎から望めば東寺へも東西本願寺へも手の届きそうな近まに在った。仏教には底知れない「世界観」が在るとは子供なりに察して、信心よりも知的好奇心の「仏教」が、他のなにより近まの「誘い」であった。「色即是空」「空」「因縁」「正見」「執着」「恐怖」「般若」「仏陀」「眞実不虚」等々、みな高校一年生を刺激的に誘う言葉たちで、この文庫本一冊の『般若心経講義』は美味絶好の誘い、それも講話されている本文以上に精微な巻末の『註』を目を剥いて読んだ。
 このお蔭で私は文庫本の「仏經・仏典」は浄土三部經も法華経も禅の本にも手を出しに出しつづけた。「読んだのか」。読んだ。「阿弥陀如来」のはるかに遠い「前世」がいつも懐かしく慕わしい私で、今も、在る。
 
 * まだ、早朝の七時前。まだくらい夜中に起きてくる「習い」になった。それでいて仕事が順序よくすすんでいるか。そうは行って言ってない。結局疲労感にた耐えなくて、いま午後の三時前。殆ど困憊の眠りに陥っていた。コトは、多くそのままになり片付かない。
 
 * 五時。私自身が字義の儘に「混雑」しています。何としたことか。
こんなとき、メール呉れる人、居て欲しいなあ。
          
 * 九時過ぎ  視野霞んで暗い。夜中まで寝入るとするか 。
 
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月八日  火
    5:00 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 55.8 kg  朝起き・測 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
〇 『島崎藤村集(若菜集 破戒 新生 ある女の生涯 嵐 山陰土産)』筑摩書房「現代日本文学全集8」昭和二十八年(1953)八月二十五日發行く文学全集の一巻 発売即といえるほど早く感奮して書店へ買いに走ったのを覚えている。奥付に頒価が示されてないので小遣いをどれほど支払ったたか判らない、「島崎」と丸い朱印の筑摩印税紙が、だれの粗忽でサカサマに貼られているのも、今観ても、懐かしい。私、十八歳に四ヶ月余足りない高校せいぜい二年生。興奮の極であったろう。
 敬愛の近代作家はと問われれば、ためらいなく、順序を謂うではなくて、「」明治に登場」順に、藤村、漱石、潤一郎と答えて、今も変わりない。付け加えるなら、直哉、鏡花、秋聲ないしは横光、川端と云うだろう。
 藤村という作家は惚れ惚れと惹かれる人ではない、時には疎ましくさえ在るが、詩の『若菜集』にはじまり、小説は『破戒』から『家』『新生』を渡って『夜明け前』に到る、大森林にも長河にも似て「地響き」しそうな力作、問題作、秀作の山積にアタマを下げざるを得ない。
 それほどの藤村に出逢って手にした最初が、筑摩書房の売り出した文学全集の一巻『島崎藤村集』奮発して直ぐに買い、その晩の内にも夜を徹して読み上げたのが『新生』であった。興奮を忘れない。詩よりも小説だとしみじみ思った、「好きな人」とは謂えない云わないが底チカラの強いエライ大作家だと疑わなかった。漱石とも潤一郎とも異なった視線で高く見上げて沈黙していた。
 
 * 好きな、マリア・ジョアオ・ピレシュのピアノを音を静めて早朝に聴きながら「私語」している。為遂げねばならぬ半途仕事が幾つも。めげず片付けねば、フンづまりになる。いま、六時十分。
 
 * 午後一の韓国ドラマ、終盤へ向かう『緑豆の花』を心して観てきた。是まで幾つも観てきた韓国の歴史ドラマでは飛び抜けて近代の嵐をよくか描き上げてきた。日本内侍日本具との葛藤や苦闘が加わっていて、それは日本人で在るこんな知の私の膚へも手厳しく突き刺さってくる問題が回を追い露呈する。「朝鮮と朝鮮人」の苦渋と苦闘と悲哀が、「見聞の知識」から「凄惨な体験のかたちで画像化されている意義を、よく汲み取りたい。明治の西郷等が振りかざした「征韓論」の身勝手な欲求、やがては伊藤博文の客死へ大きな結び目の一つと鳴って現れ、日本の敗戦のまで失せない濁流を成したのだ、どま『緑豆の花』には日本人が今も学ぶべきだ。
 
 * 入稿原稿つ゜くり午後からこの十時過ぎまで、懸命に取り組めば酌むほど機械に翻弄されて、混乱の極みに得王師左オウしてなお精確に出来たという堪忍を機械は呉れていない。機械のせいでなく、私の老耄のゆえであろう、此の仕事ももう打ち上げ時を強いられているのか、も。今夜はもう寝るとする。楽観出来ないが悲観しても始まるハナシでない。       
 
 
 
 
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月七日  月
    3:35 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 55.7 kg  朝起き・測 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
〇 『谷崎潤一郎選集』全六巻  創元社  高校一年生時  講読 
 完全に、高校生の私は 谷崎潤一郎世界の「虜」と化した。その堅い殻を内内から罅割って他の世界へも浸み出ようとする「何年か」が始まろうとしていた。憧れ、気張って、貧しい自前で買い入れ忽ちに読み尽くし、そしてその谷崎世界からも私は脱出して行くところは、もうかすかにも想い・思い・考えていた。世界文学へはまだ手がシカとは届かない、しかし同じ日本の近代文学にも「いろいろ」があると気付き、意識しかけていた。高校生の私は、文字どおり「日本の文学・文藝の世界」へ「きょろきょろ」と目配りを初めかけた「谷崎選集」六巻は、その次ぎへ進級の「手形」の役をしてくれた。「次」は「何」であったか。
 
 * ぶっ続けに寝入っていた。奇妙におかしな放浪の夢、覚えていないが。三時半だが、起きてきた。何くれと先へ押さねばならない要用が溜まってある。
 
 * それでも、終日、「寝ては醒め」「呑んでは寝」ていた。もう九時半、「要用」は遂げなかった。テレビを観ていたのでも無い、要するにただ坐っていてもジーンと鳴るように両眼が疲れて痛んで潤んでくる。それでも読みまた書いている。気がつくと、薄い軽い上着を裏向きに着ている。
 
 * 明日には『入稿』用意を遂げねば。                     
 
◎ 令和五年(二○二三)八月六日  日
    6:15 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 55.2 kg  朝起き・測 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
 
〇 『細雪』 谷崎潤一郎  中央公論社一冊本 購読 梶川道子と耽読
 谷崎先生の『細雪』ほど、「中央公論」に初出そして初版本以降、世に鳴り響いた「本」は数少ない。後続して太宰治や川端康成や三島由紀夫があったが、谷崎作『細雪』は如何にも横綱の土俵入りのように立ち現れた。私はまだせいぜいしょうがっこうから戦後の六三新制生中学へ、やがて高校へ、「文学」との出逢いを力強く導いてくれた小説家が「谷崎潤一郎」そして名作『細雪』登場であつた。「文豪」ということばを眞実初めて実感し「谷崎愛」という私製の造語を「旗」とかかげて私はほんものの文学少年へと闊歩し始めた。愛読者から、いつしか「研究者」とまで謂われるほどに愛読した。谷崎先生の無くなった比、たまたま京都へ帰っていた私は、生前に用意された法然院のお墓へと、夕暮れの東山辺を小走りにかけつけ、立ち尽くしながく黙祷した。私も作家にと、あの墓前で私は決心した。のちのちには松子夫人と親しく知り合った。新聞で読んだ『少将滋幹の母』 そして 「妹」と愛した梶川道子と、一冊の部厚い『細雪』を往ったり来たり親しく分かち読みした想い出も懐かしい。請われ感想を書き連ねた映画『細雪』の想い出も懐かしい。
 
 * 起き掛け 右、かなりの量の鼻血を出した。そのまま寝入った。昼食してまた寝入った。二時半。『原爆』のことを遠い日から想い出す。国民学校四年生の私は高羽の山の奥へ戦時疎開していたが、新聞に出た記事に少年ながら「愕然」と固まったのを躰に覚えている。
 
◎ 令和五年(二○二三)八月五日  土
    5:00 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 56.7 kg  朝起き・測 
 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
〇 『朝蛍』 斎藤茂吉自選歌集 古本 京・東山線白川脇の古書店で購読
  中学いや小学校のうちから、わが「立ち読み」の宝庫のような「古本屋」であった。平場には敗戦後「いまいま」のけばけばしい表紙の男雑誌も女雑誌も並んでいた、「ロマンス」とか「スタイル」とか。男の「はだか」も女の「はだか」も、手に、目に、「盗み見・盗み読み」ながらふんだんに見知っていた。
 もとよりいわゆる各種の古書に手を出して「読む」場所であった、實に大勢の作者・著者、また題材にされた人の名を覚えた。わたくしの「ものしり」と財源と謂うべき「恩誼」有難い古書店だった。盗み見に手を出し繰り返し愛読した読み物は、著作者は。沢山有ってもう思い出せないが、なんとこの本屋で小遣いを出し「買った二冊」の一冊が 『朝蛍』 斎藤茂吉自選歌集 あった。私は国民学校四年生の頃から短歌を自作し始めていた、そして「与謝野晶子」のこてこての歌風は好かず、あきらかに正岡子規系の歌人を崇敬した、斎藤茂吉はその一の人で、『朝の蛍』を「買う」ことに躊躇無かった。
 もう一冊部厚い本を買ったのが、『明治大帝』で。明治天皇に親愛など覚えてなかったが、この大冊の「売り」は、いわゆる明治の元勲や各界著名士らの大きな顔写真付きの「紹介」であった、少年私はそれら大勢の明治の元勲や偉人や名士らの人と生涯に興味を覚え、その本を抱きかかえて買い、繰り返し熟読してアタマに容れた。つまりは「明治」を「人」から納得しよう努めたので、この「物識り」れは大きな財産になった。「時代の理解」を「人の事蹟と官位官職」から覚えたのだ。
   斎藤茂吉自選歌集  明治大帝
とにかくも、ひたすら私は「買わない・立ち読み少年」に徹し、またそれしか手は無く、帳場の「おばはん」は私の日参を大概黙認してくれたが、一度は、「ボン、もうお帰り」と追い出された。懐かしいなあ。
 
 * 霊峰と暑さと。寝苦しかったが。五時起き。入稿に備えての原稿の点検、これが容易でなく。いま十時四十五分。入稿は、一つの終点、慎重に過ぎると前へ進めない。やれやれ。
 
 * 暑さにバテてか、メールも来ない、出しても居ない。ポツンと孤独。
 
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月四日  金
    5:00 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 55.2 kg  朝起き・測 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
 
〇 『徒然草』  岩波文庫    「*」一つ(15円)で 購読
  高校一年生の国語(古文)教科書で出逢い、『平家物語』よりは読みづらいと自覚しながら、その「フィロソフィ」に牽引され、乏しい財布とも折り合えたので河原町の書店で、少しく勇躍気味に買い求めた。通読は容易でも、意讀・味読・愛読へは「時」を要し、後年、田辺爵著の大冊『徒然草諸註集成』を東京御茶ノ水駅そばの古書店で買い、大いに助けられた。私の初期小説では多く喜んでもらえた長編『慈子(あつこ)』で、私は『徒然草』への久しい深い「謝意」を小説の躰で表現できた。兼好という著者へのかなり手厳しい批評も私は「育て」て行った。古典講読のごく最初期に『徒然草』を選んだのが、たんに「*」一つ(15円)」ゆえでなかった、かなりの勇気と関心の濃さであったのを、「やそしち爺」のいまも、懐かしく思い出せる。
 
 * 朝一番、私は今・此処で、中国作家陳彦作の現代小説『主演女優』全三冊の第一冊を読みあげる。譯された菱沼彬晁さん(元・日本ペンクラブでの同僚委員)に頂戴していた。今今の、聞いたことのない中国作家の作でしかも文庫本にすれば大変な冊数になろう超長編、すこ怯んだが「読み始め」てすぐに頃満たされていった。正直に、ノーベル文学賞にも値しそうな充実津した表現と展開で、十二、三歳で登場のまさに「主演」のヒロイン「易青娥=い・ちんおー=憶秦娥」をはじめとする一地方劇団「寧州県劇団」社会が数々実現して行く(歌舞伎や能・狂言にも先行した)中国古典演劇「秦腔=チンチアン」そのものや、その登場人物や神怪・妖霊をあらわす、その稽古や実技の凄さや魅惑が、多彩な日常が、さながらに「活写・表現」されてゆく興深さ・面白さは、嬉しくも意外も意外、賞嘆を禁じ得ない優秀作なのであった、それも未だ頂戴の「二冊分」が「読者の私」を待ち構えている。
 正直に言う、もう何十年も私は親しみ馴染んだ近代日本の秀作や古典文学や漢詩・史籍のほかに、湯気の立つような「現役日本文学」にほとんど出逢えてこなかった。その苦いほどの思いが現代中国作家の現代小説で満たされつつあるのだ、わが晩年の喜ばしい一大事と謂うに値している。作者にも、日本語訳役者として私に贈って下さった「菱沼彬晁さん」にも衷心感謝する。
 
 * 斯かる「出逢い」の、こころから喜べる八十七歳、私、老い衰えても朽ちてはいない。
 
 * このところ見続けている韓国ドラマ『緑豆の花』で、日本と日本軍の強硬な支配欲にうちひしがれて行く朝鮮国家と人民の惨憺に目を掩うて居る。
「明治」という「維新」を「威信」と「支配欲」に敢えて変質させ、日本はひたすら先ずは主に「朝鮮の国土と人」とを貪り喰った。
 朝鮮の古代史は読めていながら、その近世、近代に濃い関心をもちつつ、然るべき「通史」をすら手に入れていないのが、残念至極。「日本」と「日本人」との、「近代」における頌うべくもない「強欲と支配欲との歴史」を私はさらにさらに整理された認識や解説によっても教わりたいのだが。
 「朝鮮半島との関わり」に於ける日本史は久しい、が、それにも幾山川があった。日本人はよく学び返して觀べきである。
 近代日本と日本人とは、誇るにたる品位と知性とを、少なくも朝鮮、支那、東南アジア、南海諸島にたいしては、「保つ」より「かなぐり棄てて」いた。私は久しくそう感じていて、誤った感想とは思われない。
 
 * 心身とも沈滞し疲弊している。「気」ばかりで生きながらそれが「生気」とは承知できない。「読み」は陳彦『主演女優』中巻 『参考源平盛衰記』巻廿二、藤村『新生』に絞ったまま、「湖の本 165」を入稿すべく。「書き」は、『私語の刻」に。「創作」は長めの新作の収束を心がけている。欠けているのは「遊ぶ楽しみ」、出られるなら街へ出、大いに「買って、喰って、人と話したい」が。かえってコロナ六度目のワクチン接種を奨められている。やれやれ。
 
 * 一つ機械に輻輳して多様にとすも類似原稿が場を占めてくる。その整理整頓に、目の疲れ、甚だしい。疲れた。「八時二十分」少年の昔に、「八時二十分」とあだなされた友だちが、いたなあ。疎いわたくしは、どういう「あだな」なのか知るのに、間がかかったりも可笑しく思い出される。
 もう限界。疲れたぁ。 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月三日  木
    4:55 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 55.8 kg  朝起き・測 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
 
〇 『蘆刈春琴抄』 谷崎潤一郎  岩波文庫  「*」一つ 購読
 これぞ、吾が「谷崎愛」の原典・原点を成した、自身で選んで買い求めた岩波文庫であった。何十度も繰り返し読んだろう。「小説」とは斯くも美しくおもしろく素朴な創意の結晶なのかと、嬉しくて雀躍りするほどの感激だった、この一冊、いまも書架で静かに七十余年の歳月を呼吸している。岩波文庫を自分の財布からおかねを支払って買う「興奮」もみじみと懐かしい。
 で、今、書き留めておきたい一つは、この二作の、私は断然『蘆刈』を熱愛し耽読したという事実。何よりも此の一冊がのちのちまでの「谷崎論」を刺戟したのであった、他に添えて言うなに必要も無い。しゅとして『秦恒平選集』第二十、二十一巻に私の谷崎論は「結晶」している。
 
 * 寝苦しい心身不快のまま深夜も三時半、灯をともし、寝床のまま陳彦作『主演女優』上巻の推移に、おやおや涙ぐむまで感動して起きてしまい、二階へ来た。   
「湖の本 165」編成・入稿用意など含め、緊要の幾つか要件が在る。体調宜しく無く気がかりだが、ボヤッとしていると、困惑に変じてしまう。「八十七歳半」疲れるのに慣れている。用事を片付けて行くのが何よりの「クスリ(薬利)」よ。いま、早朝五時四十五分。
 
 * 「秦」という家は、山背國に「京都」創設の平安時代開幕に建設的に篤く関わり、その京都を象徴した賀茂神社、松尾神社、稲荷神社をも氏神とも擦るほどに濃い関わりを持っていた。ソレよりも更に遠く夙くから「太秦」の広隆寺や蛇恁テ墳や嵯峨の大堰建設等にも秦氏は中心的に関わっていた。
 確かに、私が井上靖を団長の日本作家代表の一員として中国に招かれたおり、人民大会堂での当時副主席と会見で、「秦恒平(チン・ハンピン)先生は、お里帰りですね」と諧謔されたように、「秦」氏の「中國」での経歴は、紀元前を遙か遡って遠く久しい、しかし「日本」での「秦」氏も、藤原氏、源氏、平氏よりさらに舊く、時代を追って身分は低迷し平民へと溶け込んだ。一時期、「騎馬」専業のようにな武士に「秦」氏が多く繪に描かれていたりする。聞き知る限り、「根」を秦氏におるして様々の別の苗字を名乗った「秦氏」は日本中に夥しく、その数も「源平藤橘」氏らのそれを凌駕していると。「日本」は「秦氏」のおうこくであったと徳歴史家の著書も実在している。  
 
 * とか、ああ、なんて「ヒマ」そうな私であるか。      
 
 
 
 
 
*      
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月二日  水
    6:10 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 55.2 kg  朝起き・測 
 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
 
〇 『天夕顔』 中川与一  借読か。買ったか。「妹」梶川道子と耽読 
 
 懐かしい。この作が、「恋愛小説」という意識と受容で「耽読」した最初であった、「姉さん」と慕った上級生「梶川芳江」ははや卒業後何処と知れぬ天涯に去っていて、その妹、私しより一年歳下、弥栄中学二年生の「梶川道子」を私は「妹」という意識で「戀」した。指導できる部の先生のいない、というより不必要な、弥栄中学「茶道部」を主宰しはじめた私は、校内・校庭内に備わった本格に佳い「茶室・茶庭」を{校長先生・職員室の容認放任の儘まこと気ままに使って、部員に「茶の湯初級の作法」を難なく教えていた。私は「叔母宗陽」のもとで小学五年生から茶の湯を「猛烈な勢い」で稽古し学習し「裏千家の許状」も得ていて、中学生三年にもなればもう疾うに「叔母の代稽古」もちゃんと勤めていた。
 まして佳い茶室の本格に遣える弥栄中學で、三年生生徒会長として新しい「茶道部」を起こし、参加の部員に点前作法を教えるなど誰の不審も受けず、先生方もまるまる信頼して私に「部の運営・指導」を任されていた。
 あの慕いに慕った「姉さん・芳江」の妹たち、二年生「梶川道子」一年生「梶川貞子」は、真っ先の「新入」茶道部員でもあったのだ、もとより二人を、古都に「梶川道子」を「妹である恋人」のように私は熱愛した、精確に「距離」も保ちつつ、私は高校生になってからも「弥栄中学茶道部」の指導に通い続けた。歌集『少年』昭和二八年私十七歳での短歌集「夕雲」二十首は顕著な記念作になり得ている。
 朱らひく日のくれがたは柿の葉のそよともいはで人戀ひにけり
 窓によればもの戀ほしきにむらさきの帛紗のきみが茶を点てにけり
 柿の葉の秀の上にあけの夕雲の愛(うつく)しきかもきみとわかれては
『天の夕顔』は、そんな二人して憧れ読み合うていたが、手と手を触れあうことも、ついに、無かった。「道っちゃん」は、いま、どこか療養施設のベッドにいて、気丈にしていると「梶川」三姉妹の弟夫人からかすかに伝わっている。
 
 * 寝苦しい一夜であった。寝入る爲に疲れる、ほど。
 そして、早起きしたら。
* 以下、いっつも元気満杯 大鼓の望月太左衛さん、花火のように気炎。
 
 〇 夏は暑いに決まっています。
 そこを涼しく過ごしてきた 穏やかな知恵が 日本にはたくさんあります!
 例えば、
「雪輪」の柄の着物、浴衣を着る。 雪の結晶から作られた柄を着ることで、
冬、冷たい雪 をイメージして涼しくなります。
 
「風鈴」を下げる。 チリン、チリンと風が奏でる音を聞く。
 
「扇子」「団扇」であおぐ。手であおぐ風は、優しい風です。あおぐ手先を見ているだけでも涼しくなります。
 
「打ち水」をする。水をまくと気温が下がります。外を歩く方々への思いやりが嬉しいですね。
 
そして 「花火」
夜空に輝く火の花は 江戸時代から続く伝統文化です。
今年は4年ぶりに 隅田川花火大会が行われました。
前々日ぐらいから 浅草に人が集まってきました。昭和53年(1978)から始まった「隅田川花火大会」ですが、その前は「両国川開き花火」として 戦後から開催されていました
私は5歳まで浜町に居ましたので、両国川開きのことはよく覚えています。
花火の「ドン」いう音が あまりに大きく、こわくて、私は花火を見ることがなかなかできませんでした。
そんな花火の時ですが、
父のお仲間の方々がたくさん集まり、飲んだり食べたり、楽しそうでした。
いつも楽屋では怖そうな大人の方々が 嬉しそうに笑っている様子をみて、なかなか直接見ることができなかった花火ですが、私は、大好きになりました。
 
昭和36年(1961)の夏、両国川開き花火が終わると聞いた時、とても悲しい気持ちになりました。
ちょうど私の家が 浜町から四ツ谷に引っ越すことになり、その寂しさも遠くなってしまいました。
 
そして、両国川開きは「隅田川花火大会」として 昭和53年(1978)、復活しました。この嬉しい気持ちをもって、
私は花火をテーマにした 「火之華囃子」を昭和56年に創作しました。
大太鼓を和太鼓奏者の林英哲さんにお願いし、笛は望月太八さん、打楽器は西川啓光さん、木遣りは浅草象聲会の皆さんで 青山タワーホールにて初演しました。
のちに、浅草見番、金沢・市民芸術村、紀尾井小ホール、シアターカイなどで形を変えつつ、再演しました。
 
こんなに好きな花火ですが、今年は見ませんでした。
同時刻、国立劇場の日本舞踊協会東京支部日本舞踊公演に行きました。
偶然か、隅田川をテーマした作品が3作品もあり、皆、隅田川が好きなんだなあと思いました。
そして、京都でお世話になっている 林啓二先生御出演の「長唄 口寄せ巫女」を拝見しました。西川鯉之亟氏との息のあった演劇性の高い舞台で お客様は大満足の大拍手でした。 ちょうど午後7時過ぎ、今ごろ隅田川で花火が上がっている時間です。
ここ国立劇場の舞台の上でも 芸の花火があがっている! と思いました。
 
私はこれまで浅草で花火をよく見せていただきました。
これからは 花火のような楽しい明るい舞台を 創ってゆきたいと思います。
花火のように 分け隔てなく 多くの方々に見ていただけるようにします。
まずは、
西浅草、和のスタジオ・カガミノマから 始めます。そして九段・鶴めいホールと拡げてゆきます。小さな線香花火のような感じですが、たまにはねずみ花火のように弾けながら進んでゆき、打ち上げ花火のように 大きくなることを目指します!
今後とも応援の程 宜しくお願いいたします。  望月太左衛
 
 * 太左衛さんに、私たちも、何度となく「浅草、隅田川の花火」 見せてもらったなあ。
 
 * 懶惰と謂うことばを見聞きして覚えてきた。いまの私に当てはまりそう。
体調で無く、心身が瓦解してゆく要だ、らょううでの皮膚に痛々しい弱みが露呈していたり。心神の汚れが身体を痛めている。 気丈という頼みが弱まり生きたまま寝入って行こうとするようだ。
 
 * 心身不快。致しよう無く。『主演女優」全三巻の一巻をほぼ読み込んできた。『参考源平盛衰記』は、富士川両岸に、西は平家軍、東に源頼朝勢が、まさしく対峙。その余に『聊齊志異』の各編をおもしろく読み進んでいるが。心身が何かしら不快に燃えているよう。を        
 
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)八月一日  火
    5:45 血圧 149-66(59) 血糖値 92 体重 55.8 kg  朝起き・測 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
 
〇 『北原白秋詩歌』  岩波文庫   梶川芳江より借覧
 
 日本の詩人による「詩 ないし 詩集」からの文学的感銘・吸収は、 私、恥ずかしいほど貧相で、告白にも耐えない。藤村の『若菜集』 そして白秋、朔太郎、後れて井上靖、その余はもう「つまみ食い」の程度と白状する。「歌集」は和歌また子規また茂吉らに始まり近代の歌史をほぼ通し読みながら、詩集はなんでとも謂いようが無い。それでも北原白秋の名と詩作とにはこころ寄せていた。名も作も、すっきり清く受け容れていた。
 白秋詩集を「読んでみよし」と私に奨めた「姉さん」梶川芳江自身も、「読む」人ではアレ、「蔵書家」とは思われなかった。この「姉さん」に「本を貸す人」が有り、「それを私へ」回してくれている、と、そう想われる事情等を私は「察し」ていた。「姉さん」の貸してくれた本を私が持っているのを見つけて、怪訝な顔をした別の上級生を、私、一度か二度は感触していた。「姉さん」のなにか「はからい」が働いていると感じていた。
 私が「梶川芳江」という美しい存在を一つ上の学年に見つけたのは、運動場での全校集会、朝会などのおりだった、遠目にも身の周りが耀いて見えた。私の新制中学二年生、夏休みへ向かう一学期の六月ころであったろう、其の人はどうも他校からの転校生であるらしく、よけいに新鮮な風情だった。
 どんなきっかけから「二人」の時空間に親しみはじめたか、学年のちがいを越え「ふたり」の「ひとくみ」が出来るのは、「学年差」の厳然としがちな学校社会」では滅多に例の無いこと。しかし、永い夏休みを隔てながらも二学期には、それはもう親しみ敬愛深く「ふたり」の空気がもう完成していた。よほども私から寄り添うて、「本の貸し借り」が双方から縁をふかめ、ひたすら私は借り「ねえさん」は貸してくれた。「北原白秋」とその「詩集」とは早い時期での「結ぶ」の神のようであった。「詩」も暗誦にすら足りた。貸して貰えてこそこの詩人と出会えた。 
 
* 正午過ぎ、盛んに、午雷り 盛んに天駈けっている。
 
* 大阪高槻市の三好一子さん、スープの大きな重い一箱を戴く。懐かしい名前、白川の東に大きな、戦後は進駐軍が接収し役所のように出入りしていた邸宅八木家のお嬢で、中学高校の「一年下」に聞こえた優等生だった。同じ学年に早樫てる子さんがいて、八木さんと競う聞こえた優等生だった。「一學年下」の女子優等生というのは、目立つ存在で、幸か不幸か同学年女子には見当たらない、と謂うより観ようとしなかった。そういう独特の価値觀が「一学年違い」には在るのだった。
 八木さんも早樫さんも、学校時代は校内委員会で同席する程度だった、ろくに口もきいてなかったろうに、七十年後のいま、二人とも「湖の本」のもう久しい読者。人生、不思議に有難い。めでたい。
 
 〇 お元気ですか、みづうみ。
 昨日は用事があり、長時間遠出しておりました。とにかく暑くてどうにかなりそうで消耗しました。暑熱ホームで山手線を待っていると、気分の悪くなった乗客対応のために電車が遅れるというアナウンスまでありました。
 最近はマスクをしない人のほうが多いのですが、この暑さではマスクは耐え難い苦行です。私はしつこいマスク派ですが、さすがに外では時々外さないと耐えられませんでした。コロナが増えるのは当たり前のことです。今熱中症になるか、コロナになるかもという選択ですから。
 
 長かった母の介護生活とコロナで、自分の楽しみのための外出というのはまったくしなくなり、外での遊び方を忘れているかもしれません。
 みづうみの、帝国ホテルに二、三泊という案は素晴らしい気分転換になると思います。帝国ホテルからなら歌舞伎座も日生劇場も映画館も出光美術館も近いですし、良いレストランもたくさん。夏のホテルは涼しくて静かで極楽です。お部屋でのんびりもいいですね。猫ちゃんズのことを考えると一泊でも充分かもしれません。是非お揃いで実現していただきたいと思います。
 
 熱中症や転倒のリスク回避のため、保谷から帝国ホテルまでの移動はドアツードアの予約タクシーがお勧めです。ただし、タクシーの中には不親切に暑いタクシーがあります。古いタイプの車体、高齢の運転手の場合は冷房が効いていないことがあるのでご注意ください。あるいは、建日子さんと水入らず、三人で宿泊なさる手もあるかと。京都に比べれば、ずっと簡単に実現できる休日プランです。
 
 ただし、今は買物には最悪の時期です。少し歩いただけでくらくらします。電池、電球、カメラは型番がわかれば、猫砂等も、ネットで購入してみづうみのご自宅に配送手配することくらいは簡単に出来ますからお気軽にお申しつけください。
 お元気で、どうかお大切になさって、書いて書いて「長生き」なさってください。     夏は、よる
 
                          
 
     ■ ーーーーーーー■ 
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月 私語の刻
 
◎ 令和五年(二○二三)七月三十一日  月
    4:55 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 55.8 kg  朝起き・測 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
 
〇 『若山牧水歌集』 岩波文庫  梶川芳江より借覧
 〇 和歌への親愛から幼少の私は「文學・文藝」へ心神を預け傾けていった。戦時の国民学校四年生の秋には、丹波の山奥の疎開先で、京都へ帰って行ける日を願待ち焦がれながら山合いの狭い高空を渡る雁の群れを、生まれて初めて短歌一首に創った。いらい、中学高校の頃を高潮時に、八十七歳の今日までに私は『少年前』『少年』『光塵』『亂聲』そして『と門』と、五冊もの私歌集を本にして持っている。
 そんな私が少年の昔に、中学二年生の私に、ほんものの「近代短歌」なる魅惑の「創作と述懐の妙」を教えてくれた最初が、心底「姉さん」と慕った三年生梶川芳江の、「読んでみよし」と手渡してくれた岩波文庫『若山牧水歌集』であった、歌人の名は、教科書でか、もう識ってはいた。
 「姉さん」が自身歌を詠んだ作ったという事実は、無い。この歌集も、むしろ姉さんが「誰か」から強いて借りて、そして私に「意図して回してくれた」ものと、何と無く、当時既に察してすらいた、「姉さん」はそうもして下級生「恒ちゃん」に配慮してくれていた、らしい。有難かった、嬉しかった。さもなくて、秦の家の大人たち、文學の「本」など全然目も手も触れる人たちではなかった。私は、俄然、幼稚は幼稚ながらに短歌の自作に目を見ひらいていった。中学の先生も読んで下さった。高校へ進むと『ポトナム』同人の先生が大いにわが短歌制作を推して下さり、京都府による高校生対象の「文藝コンクール」では最優秀賞を取った。その頃の作は、岡井隆選『現代百人一首』にも採られていて、そんな「歌人」としての人生へのいっぽを刺戟して背を押してくれたのが、「姉さん 梶川芳江」が「読んでみたら」とわざわざ手渡し貸して奨めてくれた『若山牧水短歌集』だったのだ、のちのち深く敬愛した斎藤茂吉短歌よりも「これ」が先であった、ありがたい道しるべとなって呉れた。「幾山川」の歌も、「白鳥はかなしからずや」の歌も、茂吉歌より先に覚えていたのだ。
 
 * 作業の成行きで、不愉快きわまりない「箇所」の整理もせねばならす、吐き気がした。東都での人生、平穏でない不快な何年かに脳みそが泥塗れに汚されていた。 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月三十日  日
    4:55 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 55.8 kg  朝起き・測 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
 
〇 『こころ』 夏目漱石  春陽堂文庫 
 京都市立弥栄中学を自身「卒業」の日の姉さん「梶川芳江」が、二年生の私へ「献辞署名」を添え生涯の記念にと遺し贈ってくれた一冊。
「思慕しひたすら最愛した姉さん」から心して私のために選んでくれていた、これぞ、少年私の、いや青年になり社会人になり、夫また父親となっても、尚、「不動の聖なる一冊」であって、いや、老境の今も、漱石の『こころ』は私・秦恒平の不動の「こころ」なのである。成年し社会人となりまた小説家・批評家となってなお、けっして忘れない一冊が漱石の、それ以上に梶川芳江の『こころ』として吾が手に在る。
 そして、遂にはそれと知るワケの無い「劇団俳優座」と大看板の俳優「加藤剛」とは、私に『こころ わが愛』なる脚色を熱心に懇望してきた。なんという不思議の成り行きであったことか、そしてその『舞台』は俳優座劇場と加藤剛ら著名の俳優女優らにより公演を繰り返し新聞にも大きく採り上げられ賞讃されていた。付随して、私は脚本『こころ』の出版に加え人の「こころ」を多様に論じ語っての何冊かの著書をも世に送った。加藤剛らの舞台は、放映もされた、録画もした。私は関連して何度も講演にさえ呼び出された。
 だが、だが、残念至極にも「姉さん 梶川芳江」は、それらより早くに亡くなっていた。いちばん舞台やテレビも觀て聴いて批評してほしかった「姉さん」であったのに。
 おそらく、小説『こころ』は、漱石文学中でも一二に大勢の読者を獲得してきただろう、今も多分と聞いている。
 ああ、こういう人生でもあったのだと、私は、しみじみと「出逢い」の神妙に今も感謝をささげ、また胸打たれている。「生まれてきて」よかった。 
 
 * 四時五時にはひとりしずかに床を離れ、二階の機械へ来て、まひるまではしにくい「述懐」の機を得ている。このところの激暑では、昼間はいねむっているのが賢い健康法かとさえ。  
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月二十九日  土
    4:40 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 55.2 kg  朝起き・測 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
 
『少将滋幹母』 谷崎潤一郎 毎日新聞 昭和二十五年朝刊連載 
 谷崎潤一郎の「最秀作」というのでは、ないが。少年の一等初めに出逢って、子供心に(当時、新制中学の二年生に成る成らずの春であったか。)こんな所説もあるのかと、挿絵にも牽かれながら毎日の新聞をややおしんびた想い出待望し堪能した。滋幹の母、滋幹両親の運命を踏みにじって行く藤原時平という貴顕の無茶モノを私はスカ干せ道真を筑紫に追いやったヤツと、すでに「歴史」として識っていたし、時代の表情も見えていたので、理解にまどうことは何も無く毎日読み進んだ。我が家の大人たちは、新聞小説なども触れていなかった。新聞小説体験区最初は石川達三の「風にそよぐ葦」であっ、覚えているが、「少将滋幹ノ母」と前後していたか。なににしても少年の保タクシの「新聞はょ迂拙」初体験として自身記念してきた。そして「谷崎潤一郎」の人と文學への、また後年松子夫人との「であい」となった意味でも『少将滋幹の母』の意義は私に重い。   
 
 * 夕方五時。目ざめて寄り、ずうと寝入っていたような按配、ときどきは横になったまま『主演女優』『参考源平盛衰記』を読んではいたけれど。まともに生きてあるとは云いがたい。
 大鼓の望月太左衛さんから頂き物など。元気の結晶のような名人藝の女人。感嘆。 私は目もろくろく明かないほど正気すれ茫然としている。寝入っていたいと思うだけ。         
       
 * 終日、不調。殆どを横になり仮眠・睡眠と極少量の讀書で過ごしていた。生きた心地せず、末期(まつご)ノ誘い斯くやとも。なにをするにも思うにも「実意」が働かない頼りなさ。
 じゅうじすぎ。ま、眠るが自然か。       
 
 〇 暑いですね。  野路 生
 今月は明日と31日と二回満月が見られますね。
 太陽の光を和らげてくれる月光のように、この暑さも抑えてくれる冷房をお忘れなくお元気でお過ごし下さい。
 大丈夫です。
 
 * 手術など、ご健勝を願います。 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月二十八日  金
   4:40 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 55.2 kg  朝起き・測 
 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
 
『平家物語』上下巻 岩波文庫 
 弥栄中学三年生三学期 『徒然草』とほぼ前後して 自分小遣いて、河原町オーム社打ったか駸々堂であったか、延々と思案して、買った‥初めて書店で「岩波文庫」に手を出したのは、是より少し先、シュトルム『みづうみ』があった、岩波文庫につきものの「*」一つが十円の時期だったが、この翻訳小説には特別の印象を得なかった。
 そして半年も後れてたか、明らかに「古文の原典」を意識しつつ「*」の『徒然草』を買った。正直に言うとこれは中學二年生には荷が重かった。それで、決心して『平家物語』上下巻買った。お年玉を役立てた。すでに通信教育本『日本国史』を緯編幾たびも絶って愛読していた中学生には『平家物語』世界は、根底に於いてもう「手に入って」いた。「和漢混淆文」というのがらくらく「読みやす」かった。
 この『平者物語』体験が私を大いに裨益したことは、作家としての出世作が第五回太宰治文学賞を「知らぬ間に」に牽き寄せた小説『C經入水』やのちの『風の奏で』上下巻が証ししている。
 それのみか『平家物語』2巻本の愛読は大いに古典原典への「懼れ」を解消してくれて、もう中学生の私は、今度はなんとか『源氏物語』をと決心していた。高校へ入ってほどなく岩波文庫『源氏物語』を躊躇わず手に入れたのが懐かしく思い出せる。
 
 * 終日体調ふかいといえど、心神の芯はカチッとしている。ボケてはいない。食べられるし、呑んでいる。クスリもしこたま「選んで」きちっと服し続けていてる効果は計り知れない。しんどい泣き言はいいたいけれども、荷田に「ちから」を、クスリででもきちっと容れておくことは肝要、しかも効果がある。潰れそうで潰れない。ことにアタマがボケない。かならずフクし居ている競争財投は、30錠に及んで、毎日、時に日夜欠かさない。躰にチカラ和貸してもやらず「しんどい」とへたばるなど、愚かに似る。
 
 * 入浴し、15歳「主演女優」のかがやかしいでびゅーへの多くの努力協力を感銘と感興とで読む。この熱暑広野日々を(?_?)死んでたすけるのは、感銘と感興を心して見つけ産み出すこと。
 
 * 機能しにくかった、ないし毀れていた寝室の冷房機を買い換えた。さむいほど冷風がくるので、戦くほど。風邪を引いてはバカげる。慎重に。   
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月二十七日  木
    長女 朝日子 誕生   孫 やす香 命日
   4:40 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 55.2 kg  朝起き・測 
 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
 
『若きウエルテルの悩み』 ゲーテ  岩波文庫  梶川芳江より借覧
 こういう人間関係や哀しみのあるということを、骨身に痛いほど痛感して、中学生は清酒なの炎の中へ移行して行くのが、怖かった。ゲーテ世界と思考との出逢いだった。『モンテクリスト伯』も「本」 「これも本」 はいと文庫本を手渡してくれた「姉さん」の、一言だった。確かに。誰よりも誰よりも慕わしくもまた聡い人であった「梶川芳江」は、三年生を卒業すると、ほぼそのまま少年の想いも及ばない「遠くはるかな別人生へ」と天女のように去って行ったのだ。
 
 * 疲れ気味でも暑さ負けのようでもあり、例の、源平盛衰記 陳彦『主援女優』を読み読み、寝入った。が、
 
 * 深夜三時頃か、妻苦悶し、付き添い看護。「熱中症」とも思われ、そうまで寝室が暑いとも私は感じてなかった、妻が固陋と思しい円背による上半身の前傾圧迫で息苦しくなるかと私は察しているが、背の丸さを意志的に矯正ようとしないでは、繰り返す苦痛となる。背筋は勤めて伸ばそうと努めて欲しいが。
 
 * もう五時半をまわっていて、この頃の私には普通の朝の起床、だが、流石にやや睡いけれど。六十三年もの昔になるか。朝日子が、東邦医科大学で森田久男先生のおせわで生まれた。森田先生には朝日子の、のちに青山大教授となる「押村高」との結婚式にもおいで戴けた。
「押村」朝日子が、今日、どう暮らしているのか、私たち両親は、もう久しくも久しく「片端」も知らない。知りようが無いのだ。「親類」としての縁が完全に絶えてしまっていて、それもそれ、今日「七月二十七日」を「命日」として、孫娘「やす香」が二十歳になるならずで敢えなく病死して以来のことだ、「事理滅裂」のうちにだ。、私たち両親・祖父母は、突風に首をもがれたように情けなくひたすら悲しい運命を怨む。悲しいめに遭ったものだ。
 
 * 夏、三三度もあった、暑過ぎると呆れたものだ私が日照りの中を武徳界へ水泳に行き帰りしていた中学生時代は。一夏に何日とそんな猛暑は中多なかった。 今では四〇度に近づき、地方により越すとさえも‥昨日の妻のように昼日中といえ家の中で『熱中症』症状で潰れていた。十二分に水分、そしてアリナミンでいい強壮剤を口にしていないと危ない。
 
 * 仕事に張りの出ぬには困惑する。 
 
 * 午後の殆どを寝入っていた。怺えようのない暑さ負けか、生彩を全面に欠いて、疲弊の底へ沈んでいる、ナニも出来ない、手本を読むことも出来ない、汗もかけないまま五体潰れ居る。八時をまわっていて、しし、ナニをする気概無い。寝苦しいまま、睡れるなら幸いとしよう。これはもう家内熱中症にほかならぬか。
 
 * 神戸の信太周先生より文字通りに暑中みまいのお便り戴く。感謝。ポストまで出向いて戴いたかと恐縮し、ご老体を案じます。
 
 * それでも特筆しておきたい、陳彦作、中国今日の最新作らしい、翻訳者から頂戴本の超大作『主演女優』は、實にじつに久々に出逢えた優れて面白くも興趣ゆたかな現代小説。おもえばもう何十年元思ってしまうほど胸を敲いてくる小説作品と出逢えていなかった。全三巻のまだ1巻目の半ば過ぎた変を着々と娯しんんでいる。  
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月二十六日  水
   4:40 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 55.2 kg  朝起き・測 
 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
 
『モンテクリスト伯』上下巻 アレクサンドル・デュマ 山内義雄譯
    新潮社世界文学全集15 16  弥栄中学二年秋に 三年梶川芳江に借覧
世の中に斯くも「おもしろい小説」が在るのかと興奮冷めやらず、続けざまに繰り返し読んだ。膨大冊の各場面をそれはもうくりやにみな覚えてしまい、それでも「姉さん」に本を返すのも惜しむほど愛着した。「純」とか「通俗」とかの文学談議などまだ識るよしもない中学二年生。しかし、のちのちも、今にも、『モンテクリスト伯』はあらゆる諸他に絶し、私の「読書史」に断乎他に聳立し王者然と場を占めてきた。モンテクリスト伯ことエドモン・ダンテス、永遠の恋人メルセデス、悪役モルセール、ダングラール等々、そして時代背景にナポレオンの興亡。マルセイユもシャトー・ディフもとりわけてモンテクリスト島も、ローマもパリも、そして誰も彼もが生き生きと少年私の胸を敲いた。
 もとより私はのちのち沙翁もゲーテもトルストイもドストエフスキーねモーパッサンとも出逢って感激した。それでも『モンテクリスト伯』は「別格」でありつづけた。「姉さん」と恋い慕った上級生「梶川芳江」の呉れたまさしく文学・文藝の「徳」であった。「ねえさん」はおそくこの『モンテクリスト泊』も、自身のモチモノではなく借りていたのだろうと、あの頃にも私は察していたが、そんなことはまったく問題外、そこはたらいた「姉さん芳江」ノ私への愛情に眞実感謝したことだ。
 往時渺茫。しかし、けっして忘れない。
 
 * 機械の前へ、よりも横になろう、なりたいと思う方が久手、惹き込まれる。井江は冷房していて、暑さにバテテいるというより、要は心神身体が疲弊しているのだ。
 それでも、とにかくも毎日、毎時に斯様「私語の刻」が書けて記録できているという、それだけに満足しよう。機械あらば後日に『湖の本』に「編輯」して毎度のように全国の読者へ「呈上」すればよい。
 いま私の知りたいのは、今、また今日、「こう書き置いている文章や述懐」を、即、今にも、今日にも、機械的に「読み取れている」人等も居るのかしら、そうは出来るもので無いのか。私は常に「書いて・保存」しているが、ひろく外界へ「発信」している気は無いのだが。
 
 〇 秦先生 Cc: 櫻様  鷲津です いかがお過ごしでしょうか.
 考えてみますと,「87の手習」と書いてみると、ギョっといたします.
 が,(このところ一連断続=)今回の「作業」は,これまで構築された方法に,「一手間加える」だけですので,手習というほど新しいことではないかと思います.
これまでの環境で書かれたファイルを 外のインターネットに出すために,(安全のため)一手間必要,ということです.時間にすると,30分から1時間,櫻さんに聞いていただくだけです.私の作業部分である,
セッティングはもう終わっています.
 いやいや,87歳になられたからといって,ああそうですかと諦めてはいけないと思った次第であります.
 もちろん,急にとは申しませんが,既に準備ができていること,30分から1時間のアドバイスで可能であること,お心のどこかに置いていただけますと幸いです.
 引き続き,よろしくお願いいたします. 鷹津  神戸
 
 * 遺憾にも、残年にも、戴く御厚意は嬉しいが、私に、謂われている「事態」の理解が出来ていないのです。 
 
 * 寝入っていた。首がガクと落ちたままともすると目を瞑っている。    
 
 ◎ 令和五年(二も○二三)七月二十五日  火
   4:40 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 55.2 kg  朝起き・測 
 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
 
 〇 『谷間の百合』 バルザック  岩波文庫   梶川芳江に借覧
 八坂神社石段下四条通りの南側、戦後新制の京都市立弥栄中学二年生二学期の早くに、一年上級、眞實心から「身内」の想いの「姉さん」と「恋い慕った梶川芳江」が、「読んでみよし」と奨めてくれた。西欧近代の一流作家代表作の翻訳小説に、「初めて」出逢えた。生涯の、まこと忘れがたい人と本との「出逢い」だった。
 それまでにも日本の古典や史書や漢詩などに接していたもののに、本格の 「西欧文学の翻訳本」とは出逢えてなかった、魅惑のモルソーフ夫人登場の『谷間の百合』には心底魅了された、一つには「読みなさい」と奨めてくれた人への熱い深い敬慕がはたらいた。このあとへ、ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』が続いたのも忘れない。私の敬愛と思慕とに溢れたまさしく「初戀」は、間を置かぬ余儀ない芳江の「卒業」や「家庭の事情」で遠い永い別れへ押し流されたものの、そのまま近代現代の「文學・文藝」への「吾が戀」とも成長していった。死んでも,忘れまい。
 
 * 今朝のことだ。暗寝室 戸めにそっとけて
 「ヘイさん
、柔らかにひとだけ」小声ばれ、ふッと目ざめた。誰姿ぎわにえずそうっとらかにヘイさん呼んだ小声ごく穏和、優しいほどのしかしたしかに「声」だった。誰とはかき消えたがその小声、あるいは「兄・恒彦」のようにじられた。「生みの父母に」しながら「った記憶」断片いその「兄」であった」ならば、「北澤恒彦」ならば、夙、「自ら死んでいるこのごろもういいかいの呼び声、「まあだだよ返辞していた、あれは「兄恒彦」の誘いであったのか。判らない。濃い暗がりからまことしく「低聲」であったよ、「ヘイさん
 亡き恒彦兄生前、数度とも顔を見合う機會はなかった、が、逢えばはわたくしを「秦」と苗字ではわなかった、「恒平」という名前んでくれていた、「さん」などとついてかはえないが
 何にしてもそんなのような、「夢相違ない」朝早い四時台の目覚めであった
 
 * あれが「女声」であったならいろいろにせる、数人、いや十人でもかぶが、「女の聲」ではなかった
 男、私をはっきりヘイさんんでくれたりだけが、祇園石段下市立弥栄中学に入学「一年二組」組ごろをにし成績を競いあったつとむサン」粟田小学校から「田中勉君」であった。紛れもなかった秀才「つとむサン、同日吉丘高卒のあと志望大學を外して、就職、いつかカナダにった。海外での詳細らないが、彼帰国のおりは、二、三度ならず會っている。祇園「千花」で食事したりもして、くの畏友であった、がいつしかこうで、病気らしくもなくふわっとえたようにくなったといた
 
 * 實兄の恒彦あの親友ツトムさん。暗寝室戸ぎわから、影のまま立ってヘイさんらかにんだ小声にはこの二人しかばない。二人ともとうにくなっているそれも、自殺、「ツトムさんもあるいは
 今朝、まだ床にいた私びかけたあの、「小ごゑ」忘れまい
 
 * 当分 何処へも「出掛けない」とめて、気軽くなっている。書いでいる「小説」へとびたいしすこしいている「湖本」新刊編集
 
 〇 秦さん こちのパソコンが回復しているようなので発信してみます
 実は昨日まで メールが動かず 郵メールにしました
 介護サービスをご利用になり 少しでもお楽になればと思っております
 このメールは多分うまく着信できそうに思います
 勤務先の施設では 今だに インフルエンザとコロナを職員が持ち込ん困ります
 秦さん どうかお大切にされてください   千葉 勝田拝
 
 * 寝室の冷房機を買い換える。そとは、空気も焦げそうな酷暑。
 
 〇 「湖の本 164」処女作貳編 興味深く拝読 ことに『或る節臂翁』に圧倒されました。密度の高い文章にはただ圧倒されました。戦前戦後を描いての眞実感にしびれました。 青田 作家 元中央公論編集者 
 
 〇 心より御礼申し上げます。秦先生の始筆書き下ろしの御作を拝読できありがたく存じました。また 私語の刻 先生の旺盛な執筆力に励まされております。炎暑が続きますがくれぐれもご自愛くださませ。
                 山梨文学館  中野和子拝
 
 * まさしく文字通りの最初作であった、初の安保闘争に國の揺れたさなかに書き始めた日夜の緊張を熱く思い出す。 
 
 * 執拗な疲労に崩れそう。熱いピアノ曲を聴いて宥めている。この熱暑に膚のさせわざわした寒さを厭うている。晩七時半。床で本を読んで寝入るか。陳彦の『主演女優』 そして『聊齊志異』『参考源平盛衰記』が躰の不快を宥めて呉れようか。
 
 
 
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月二十四日  月
   4:45 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 55.2 kg  朝起き・測 
 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
 
 〇 『源氏物語 与謝野晶子現代語訳』 函入豪華二巻 繰返し「拝借」
       版元等の記憶が無い。後年、ナミの箱入一冊本が中央公論社から出たのは、       自身で買って、今も所持。
 〇 私の育てられた京都市東山区新門前通りと同じ有済小学区に、藏が建ち「根生いの分限者」と子供心に想っていた「林家」の本家、そして分家三軒ほどが古門前通りに居並んでいた。同じ小学校に通った先輩女子が二人、同年女子が一人猪、固より顔見知り、そして時期こそ少しずつズレていたが三人倶に秦の叔母(茶の裏千家宗陽、花の遠州流玉月)の稽古場へ稽古日ごとに通ってきて、私も小学校六年になるならずから、三人のそれぞれと親しく顔を合わせていたが、いっとう年嵩な、つまりは小学校の「先輩」に当たる本家の人が、或る日、「お藏」から出たような豪華な箱入り、豪華な装幀造本の『与謝野晶子現代語譯』を稽古場へ持ち運んでくれて,私に、「お読みやす」と。
 私の「文學」生涯で『源氏物語』が占めてきた重みは、云うまでも無いあらゆる他の和漢洋の文学作品を高く越えた「上」に在る。その贅沢に創られた豪華本をいかに繰り返し熱烈に愛読したか、そんな容態はむろんフィクションながら私の小説『或る雲隠れ考』の冒頭に、熱っぽく書かれてある。「与謝野晶子」の名も業績も、前にも謂う『小倉百人一首』で育った私は、すでに敬意と関心とで覚えていたから、この『現代語譯 源氏物語』がいかにみりょくであったか、謂うまでもない。年齢で謂うと、新聞に丁度谷崎潤一郎の『少將滋幹の母』連載の初め頃、戦後の新制中学に進学前後であったろう。私は言辞もの゛足り世界につながり合うようにして『谷崎潤一郎』世界へも俄然熱到していった。「源氏物語世界」を識らないままいたなら、私の青春もその後の文学上の感性もまったく大違いであったろうと、懐かしい叔母の稽古場、懐かしい林家の先輩、懐かしいあの豪華二冊の与謝野譯「源氏」を、今八十八歳へと歩んでいる私は感謝とともに思い出す。
 
 * :今朝も、五時の前にひそと起きて、二階の機械へ来た。為す「仕事」はつぎつぎに在る。視力も脳力も日ごとに摩滅して行くのだ、未練は未練、なんとか追い抜かれたくない。
 
 * 心して書き継いでいた相当量の文章が、瞬時に失せた。やれやれ。
 
 * もう残年わずかと思っているので、追憶の昔へ自身の思いと筆とを放ちやるのを意識して許している。俗物が無慚無残の「遊戯(ゆげ)」と嗤ってもらえばいい。
 
 〇 秦様 迪子様  メールありがとうございます。秦様の 「私語の刻」を読めなくなっているパソコンに魅力なく、また開くたびに,パソコンの仕様が変わっている?ようで、開くこともせずに、日々を怠惰に過ごしていました。
 転送していただいていたとも気付かず失礼いたしました。ありがとうございました。
 秦様の執筆なさるお力にただただ敬意を払うのみです。そして、まだまだ読ませていただけることを 待ち望んでいます。
 昨日も、湖の本の「能の平家物語」を差し上げた友人より「謡曲を習っていると、平家物語、源氏物語とより興味がそそられる」とお礼の言葉をいただいた事でした。改めて感謝しています。
 この猛暑は年寄りを直撃しているようです。
 迪子様もお具合悪そう、どうぞどうぞ無理を重ねられぬようにお願いします。
 私ことですが、長男顕のツレの両親は 所沢に住んでいますが、4.、5年前から行政のサービスを利用しています。
 父親の方は施設にお世話になっていますが、車椅子から、杖で歩行ができるほど、回復しているようです。また母親の方は、自宅に週2回掃除など雑用をしてくれるヘルパーが来て、またそのほかにリハビリーを自宅で施術してくれる人も。
 ひどい腰痛を治しているとのこと。息子夫婦も安心しているようです。
 どうぞどうぞ、西東京市に実情をお話しくださいますように。お願いします。
 私たち は食欲が衰えることのないのが幸い?
 なんとか猛暑をしのいでいます。 お二人ともにご無理をなさらないで、この夏を凌いでいただけますように。   晴美 
 
 * 明日の歯医者通いは、やめることに。 
 
 * ナニも出来ない、横になれば寝入る。目覚めても元気は生まれてない。ためらわず、途切らずに十分熟睡スベし。連日の此の猛爆の暑熱では、無用に抵抗の愚に走るまい。不定期ながら「休暇」と思うことに。 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月二十三日  日
   6:35 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 54.8 kg  朝起き・測 
 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同)
 〇 『歌舞伎近代演劇論』 伊藤鶴松著 
    株式会社 文献書院 大正十三年十二月十五日發行 貳圓八拾錢
 私が此の本の家に,京市市内の養家秦家に「在る」と手にもし現認したのは戰時末国民学校四年生で丹波の山中へ疎開するより以前であったけれど、「手」にし内容に「小年の私」なりにれまた拾い読みつつ、我が国に「歌舞伎」という芝居が江戸時代早くから在ったと、近松門左衛門の名や『国性爺合戦』などという芝居が観客を集めたなどとかすかに知った、認知したのは敗戦後も一年余してやっと京都の我が家へ帰還しての後であった、小学校、六年生になったかその寸前かの頃だったのは間違いない、祖父I吉は新門前の家で亡くなり間もなかったが、その事実は私を一入熱中して祖父蔵書の様々へアクティヴに手も目も触れていったノへ繋がる。此の装幀堅固に400頁に及ぶ「大人の本」へ「我がもの顔」に手を出した、背を押されたその動機は、結句、書中ふんだんに活字は小さくしながら選抜紹介されていた「歌舞伎という芝居」のいわば「粗筋や長科白や、作者や役者の名」に、面白く、興深く、好き放題に拾い読みが出来たからだ。小一年とせぬまに小学校六年生は、弁慶・富樫の「勧進帳」も小岩さんの「四谷怪談」もお軽勘平の「仮名手本忠臣蔵」も「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」も「五大力戀緘(ごだいりきこひのふうじめ)」も「與話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)」のお冨与三郎も、さらに数々もの粗筋・名科白(めいぜりふ)等々、純不同に片端から声高に読み囓り続けた。團菊左や歌右衛門、梅玉、勘三郎、芝翫など役者たちの名も多数「聞き囓」った。どんな小説本よりもこの「歌舞伎概説」のお堅い本がおもしろかった。それが主の「論」に類する文章は失敬し、ましてまた沙翁のイプセンのといった西洋の演劇概論は、ハナから敬遠・無視・割愛した。本文の大きい活字でな亡く、小さな字に落としてくりひろげてある歌舞伎芝居の粗筋や名科白だけが狙い目で繰り返し読んでいた。や
 このお堅そうな一冊から「小学六年の私」がいかに短期間に多彩な「別世界日本」といえる文化の「ご馳走」にありついていたか、もう贅言は弄すまい。
 
 〇 メール嬉しく
 島崎藤村『新生』の言い訳、弁解じみた語り口について批判、これは全く同じ感想をもちました。
 お身体ご自愛ください。 尾張の鳶
 
 〇 暑中お見舞い申しあげます。
 蒸し暑いなか、お身体 とりわけ眼を酷使する「メール」をいただき 恐縮致しております。
 太宰賞作家 秦恒平 の「幼少青年期の読書記録」には、やはり驚嘆感服です。(いつも感じているのですが、作家・秦恒平の作品は、作家・太宰治の作品よりはるかに深く優れていますね。
 幼い日々 漢籍に埋もれて、さぞ楽しくワクワクする体験でしたでしょう。
 私の方は、小学校3年生〜中学2年頃まで、専ら海外文学の翻訳モノばかり読んでいました。そのせいで、いまだに翻訳調でない日本語に違和感を感じてしまいます。
 キップリングの「ジャングルブック」「スコットの南極探検記」 スウェン・ヘディンの「さまよえる湖」等々に影響を受け、将来は探検家になりたいと、せっせと川遊びや山登りに励んだものです。
 仙台も ようやく梅雨が明けました。
 これから本格的な猛暑です。北国仙台でさえ猛暑です。まして京都や東京などは、耐えられない酷暑となるでしょう。
 秦さま、どうかくれぐれもお大切に。ヘルパーさんでも何でもお願いして、体力を温存し酷暑を乗り切ってください。 恵子 社会学興教授 曾ての同僚
 
 * こういう對話の出来る友の在る安心に、疲労も薄らぐ。
 
 〇 お見舞いのお言葉をありがとうございます。入院まであと10日となりました。手術に向け体調調整に留意していますが、目下の所は異状なしです。時にこころが落ち込みますが、妻・娘たちが支えてくれています。
 病院に持ち込むDVD、CDを選んでいます。アンゲロプロスの映画、ヴェルディのオペラ、バッハそしてMJQのジャズも。
 ギリシア語CDは思案中・・・。
 秦先生の次のお言葉、恐ろしいお言葉で案じています。
 
 “それでわたしは夜中、「寝入る」よりは「起きたまま仕事」してしまう。夜はせいぜい「寝ない」ことにわたしは自身を慣らそうとしている。一昨夜は一睡もしなかった。昨夜は四時間も寝たか。幸いわたしには取り組んで前へ前へ運びたい「仕事」がある。そんな異様に過剰な暮らしは「生・活」と謂えない。賢いこととはとても謂えない。寿命を縮めている”
 
 「寝ないことに自身を慣らそうとしている」などとんでもない。
 どうぞもっと日々「怠惰」にお過ごしください。
 私は、生きているだけでしあわせ・日々是好日、と自身に言い聞かせています。
 p.s.『ラファエロ アテネの学堂』、ご送付申しあげましたが、包装が雑だったかなと案じています。無事届きましたでしょうか? 
 ◎ 篠崎様 ただただお心安らかにお身お大切にと、切に。
 本性、私、幼来「怠惰」に暗みがち、沈みがち、遁れがちで。「気が多い」ことに委せがちに迷路へ「脱線」を重ねがちなのです。本性が「怠けもの」ナンですよ。目を見張る『ラファエル』画 むろん確かに頂戴し、その「おもしろさ」さらには「ふしぎに押し寄せる浪また浪」に嬉しく溺れそうでした。御礼申し遅れていましたか、ゴメンナサイ。ありがとう御座いました。秦恒平
 
 * 今日、わたしは、何をしてたろう。今日の「祇園会 山鉾」の放映を懐かしんでいた。中国小説『主演女優』の面白さと、蹶起の前兵衛佐源頼朝をめぐる源平双方の東国武士たちの烈しい武闘の「叙事」に惹かれていたのは覚えているが。いま、夜の九時四五分。そうそう、妻が贔屓の関脇豊昇龍が「優勝」していた。そのほかは。おぼえてない、ああ、素晴らしい、大きな葡萄の房を三つも四つも頂戴していた。感謝。
 ラファエル
 
 〇
 
 
 
 
 
 ヶ
 
◎ 令和五年(二○二三)七月二十二日  土
   4:50 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 5.52 kg   
 
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同
 〇 『選註・白楽天詩集』 國分青拷{ 井土霊山選 秦の祖父I吉旧蔵
  崇文館 明治四十三年八月廿五日 四版 定価六五錢
 よく校閲された「漢詩集」は漢字に惹かれる少年なら、難なく惹き込まれ繰り返し親しめる。この詩集は戦時戦後暫く、一緒に疎開していた丹波の山中へも秦の祖父I吉が手放してなかったのを、昭和二十一年二月末祖父の死去以降私が愛翫の一冊となった、版型は袖珍と謂うのか、いわゆる文庫本より一回り以上も小ぶり、三三八頁もある。私も古典的な日本人の血をけているということか、平安時代にはいわば第一等の教養として、紫式部や清少納言のような女流にも日々に愛読されていた「白楽天」の名声に惹かれていた、それにつれ、やはり祖父蔵書の『唐詩選』酢冊などもしばしば手にしていた,味わえずとも空は少年にも「読めた」本であった。
 ことに此の青拷{、靈山選の一冊中いち早く深く感化され繰り替えし読んだ作は「七言古詩」と分類されていた反戦詩「新豊折臂翁」で、この詩こそが後年の「作家・秦恒平」処女作『或る説臂翁』を惹き出してくれた。いろいろに繰り返しこの反戦詩や白楽天に触れてはかたってきたので、繰り返さない。「漢文」は容易に読めなくても「漢詩」には小学校の少年でもよほど難なく親しめ、むろん良き「選」と「閲」あればこそだが。
 
 * 寝苦しい一夜を四時台に早起きしてきた。親しい連れと町なかを歩いていて「あわや」例の「不快と恐怖の街の迷路」に誘われ懸け、藻掻くように遁れて目を覚ました。寝入り直す気にならなかった。
 
 〇 秦先生  先日は、窓からのご対応ありがとうございました。
 〇くんも、安心しておりました。彼は根が明るいので、お会いできて純粋に喜んでましたが、、、私は、ここ数か月「押しかけ」をしているので、お二方の体調にも少しは気づけるようになってきたようで、多少、心配しております。
 奥様も暑い中、玄関先まで出て来ていただいて、申し訳ありません。
 奥様、少しやせられたのではないか、と心配になりました。お体、十分にお気を付けください。
 
下記の「私語の刻」、より推敲をした上で、「ホームページ発信」しませんか。
 先生が、メール送信するまでに十分に推敲していただき、私の方で、アップするということでも、また、先生が先日言われていたような
「今も最期の最後まで自身の文章・創作に執着して 「、」「。」の位置や数にも気を遣うのです。「ソコ、の、トコロ」は安易に人任せし難いのです。」を、実行できると思いますがいかがでしょう。ホームページに上げてから最終確認していただくことも出来ます。
 
さて、以下 の先生の 読みものへの考え方、及び漫画に対する考え方は、
面白いなぁ、と思いました。
 私の兄は漫画はほぼ読みません。小説や現代詩を好んでいます。妻も漫画を読むくらいなら、文字を読みたい、と言っておりますし、息子:**も漫画を読むなら、本を読みたいと言っています。
 私と娘:**は漫画好きなのです。娘は断言はしていないですが、デザイナーになりたいようです。娘は、文字が読めない頃から漫画を「見て」ストーリーを想像するのを実行していました。
 多分、息子の方は そういうものは苦手です。彼は「わかる」ことが好きだからです。
「いい大人が漫画なぞを」と言われそうで、後ろめたさがありますが、多分、私は漫画で人を理解する術の一部を身に着けたかもしれないな、と思いました。
 漫画でのキャラクターの表情や、仕草などは、それをどう表現するかといった作者の意図が現れます。多分、娘はそういうことを読み取っているようです。
 
 想い=言葉を絵で表現するのは、
 そこに何らかのフィルターや技法がからんでくるので、
 文字が得意な方は、そこが許せないのではという気もします。
 ただ、それがモノで表現する芸術の逃げられない道程であるし、面白いところかとも思います。
「言葉と物は一対一対応するはずがない。それがあたかも一対一対応しているかのように見せられる芸術家(建築家)が一流の建築家である、と考える」
と、学生時代、建築史研究の藤岡洋保先生がおしゃってました。
 また古い話です。
ホームページへの発信の件、再度、ご検討お願いします。 櫻
 
* 学生くんだった櫻君も、満たされ充たされ確かな大人を、日々に生き進んでいる、と謂うことです。
 
 * 「ホームページ」に関しては、「私自身が、私自身だけの手と理解とで発信できる、私自身のホームページ」を熱望・切望しているが、私の無技術ではゼッタイに叶わない。的確な技術背専門家を求めて依頼するしかないようだが、恰好のそんな深切で親切な技術者に、出逢えない。
 以前には 實に有難い私専用のホームページを、目の前で文字通りにチャカチャカと創り上げてくれた東工大現役の院一年生の目の前での「早業」はすばらしかった
、が、以来四半世紀、尋ね当てることも出来ないのが現実。
 私の現の機械にはあのときに「彼」が設計してくれた「秦恒平のホームページ」「案」とも「構式」とも謂えそうな「めざましい」記録が保存されている、が、私にはそれを活かす・理解する術が無い。
 
 * 6:53分になっている。早起きの、功ないし効果が、有ったか。兎にも角にも、のこりFEW私は目前緊要の「読み・書き・読書と創作」に余力気力をかたむけるしか無い。
 
 * 眼を明いているのが痛いほど疲労している。これが老境としても、「やそしち」などまだ未熟な若造なのだろうに。
 
 * 躰に、不快感がこびりついている。こそげ落とすことは出来ないが、出来れば無視したい。
 日なかを自転車で三分と懸からないセイムスへ。皮膚の不快をちいさなパッチで抑えようと。妻には養命酒、わたしはお酒、じつはこのために自転車を遣ったのです。
 
 *「絶景}の随所・各所に満開の『京都』をテレビで。ためいきをつき、想わず声を放って懐かしんだ、わたしの行ったことの無いけしきなどほとんど被一つも無い、瞬時に、此処は、これは、あそこは と判る。なんという、やわらかに優しい翠に満ち満ち、穏和に静かに冴え冴えと美しい「京都」ょ、懐かしい、涙ぐむほども。直ぐにも帰りたい……。
 晩のテレビは、祇園会山鉾の巡行などを見せると。すぐ録画の手配。
 
 〇 鴉に   何やらよく分からないような梅雨明けでしたが、夏本番でしょうか。今年は京都にも行けないまま、あまり外出もしないで日々が過ぎていきます。
 夜十分にお休みになれないご様子、とても気に懸かります。お二人の暮らしに是非とも公共の介助が必要かと。それが実現できないのでしょうか。以前問い合わせをなさったか、定かでないのですが、改めて再度相談・申請をされた方が良いと思います。或いは民間のサポート体制を探すことも考えられます。どうぞどうぞ速やかに解決されますよう。
 
 藤村の『新生』一部を読み終えました。これから「岸本」が日本に帰国する二部になります。鴉は『新生』に「しみじみと魅されてます。」と書かれていました。女のわたしはやはりどうしても岸本、つまり「藤村」を肯定できませんでした。「書く」ことの重さをどんなに考えても。節子はさぞや大変な生涯だったろうと思います。そのことと文学としての価値はまた別ですが、様々な面から考えることは必要です。今日的な問題でもあるはずですから。
 
 繰り返し、眠れる時間にゆっくり身体を休めてください。眠れなくても横になっていることで幾らか休めます。眠ること、食べること、とてもとても大事です。
「近年では際立って長い小説をまだ書き継いで・・」とあり、「日々が滅入るほどシンドイ」とも。それでも「鴉は書く、それは生きている証」です。遠くからエールを送ります。 尾張の鳶
 
 * 藤村への「しみじみ」は、かなりきつい批判をも籠めています。
 藤村には「見る」「して見る」「見て見る」「聴いて見る」「書いて見る」等々の、よほど「くさみ」の表情や語調や態度が、「述懐」として臆面なく頻出することに、「やめてよ」とボヤキたくなる。
 谷崎潤一郎が藤村「嫌い」を公言にちかく漏らし、、松子夫人と飲食の愉しみを交わした二度三度にも、谷崎先生の藤村に触れたソレへ、私は同感しつつ聴きも言い添えもして、同じ非難の感触を云い合い、同感し合ったのを覚えています。
 私自身は、しかし、藤村の本領ににケチをつけるどころか、太宰賞受賞時の記者会見で「敬愛の作家は」と聴かれた際も言下に「藤村・漱石・潤一郎」と答えてどよめかせた本人です。
 こと『新生』の姪「節子」に関わる藤村が「分がわるい」どころでないのは当然ですが、節子との事件そのことよりも、作品『新生』について謂うなら、藤村の「語り口」、それにくっついての述懐や文章表現の「くさみ」が、より厭わしいのです。が、しかし「コレ」は別の機会に云いましょう。
 「若菜集」「破戒」「家」等々から、超大作「夜明け前」に到達した島崎藤村は、やはり果然として、大きい。文壇へ登場の先後もありますが、わたしが、漱石、潤一郎の上に,先に、「藤村」と挙げている気持には、やはり大きな尊敬が働いています。
 
藤村への「しみじみ」は、かなりきつい批判を籠めています。藤村には「見る」「して見る」「見て見る」「聴いて見る」「書いて見る」等々のよほどくさみの表情や語調や態度が臆面なく頻出することに、「やめてよ」とボヤキたくなる。谷崎潤一郎が藤村「嫌い」を公言にちかく漏らし、私の、松子夫人と飲食の愉しみを交わした二度三度にも、谷崎先生の藤村に触れたソレを聴いたし、奥さんも私も同じ感触を云い合い、同感し合ったのを覚えている。
 私自身は藤村の本領ににケチをつけるどころか、受賞時の記者会見で「敬愛の作家は」と聴かれ言下に「藤村・漱石・潤一郎」と答えどよめかせた本人です。
 こと『新生』に関しての藤村のはいわゆる「分がわるい」のは当然だが、わたしは節子事件そのものよりも、作品昨『新生』について謂うなら、藤村の「語り口」、それにくっついての述懐や文章表現の「くさみ」が、より厭わしい。が、コレは別の機会に云おう。「若菜集」「破戒」「家」等々から超大作「夜明け前」に到達した島崎藤村は、大きい。文壇への登場の先後もあるが、わたしが漱石、潤一郎の上に,先に藤村と挙げている気持には、やはり大きな尊敬が働いている。  
    
〇 お元気ですか、みづうみ。
 母の遺した本の山を整理していて腰痛になり、やっと改善しつつあるところです。いつもながら、本と紙の重さにはため息がでます。
 年々暑さ厳しく、この時期は誰でも生きているだけで消耗します。やはりみづうみのお疲れと、ご体調のすぐれぬご様子を案じております。ずっと心配していました。コロナも明らかに増えていて身近にも二度目の感染者の話を聞きます。この夏をどうにか乗り切ってご無事に秋を迎えてくださいますように。
 先日、京都の羽生清先生からお手紙とご本をお送りいただきました。丁寧にお読みいただき感謝に堪えません。
<近代日本を作った文豪たちの作品には、すんなり入ってゆけない私ですが、秦文学には夢中になりました。>とのお言葉がありました。
 クスリである「読み・書き・読書と創作」の日々を、存分に楽しんでいただいて、新しい長編の成りますことを切に切にお祈りしています。「文学」が、みづうみを選んだ のですからその導きのままに……。  夏は、よる 
 
 * 京の羽生さんの名が出ていた、懐かしい。もう一度逢いたいお一人。
 
 * 『参考源平盛衰記』頼朝蹶起の頃の東国一円での平家方、頼朝方の戰闘、理愛組み討ち等々の実戰描写がまことに生き生きと珍しく。こういう描写や表現の生々しい美しさ、面白さ、初めて読む。生き生きと現代語訳がしたいなあと願うのではある、が。残年がなあ…。
 
 * 陳彦作の中国文学『主演女優』へも惹かれて、ついつい部厚い本に手が出る。三巻も在る。ウーン。藤村も秋聲も、むろん源氏物語も、水滸伝も。聊齊志異も。ウーン。なのに原文のまま四書の一冊『孟子』にもぐいと惹かれて放っておけない。遊びに外出など出来ぬ感染現況にかえって好都合に尻を背を押されているワケか。泥のように疲れているのに。
 
 〇 あにうえ様
 お二人とも体調大変お悪く、びっくりしています。私ももう少し体力があれば何かお手伝い出来るのですが…。でも何かきっといい方法があると思います。離れていても 私も色々お助けすることが出来る何かがあると思うので 考えてみますね。まずは「もっちゃん」に公的なことを手伝って貰えないでしょうか? どうか無理しないように気をつけながら、頑張って下さいね!ルミコ 
 
 〇
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月二十一日  金
   5:00 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 556 kg   
 
◎ 私秦 恒平 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同
 〇『日用百科寶典』 文学士 玉木崑山・閲 小林鶯里・編
      東京  尚榮堂藏  明治三九年八月 編纂者 小林鶯里自序
   凡例 巻中を類別して左の二十類とす
    國體及皇室 教育 宗教 文學 國文及國語 英文法 歴史 地理     法制 經濟 社會 科學 数學 商業交通 農工藝 軍事 生理衛生    家政 音楽遊戯 雑
  日用百科寶典索引 (秦註 今日で謂う「目次」の極く詳細な「一覧」で全冊の              内容が、一覧できる。 )
 〇 明治二年生まれの秦の祖父I吉は 少なくも人生半ばには「餅つき」を業に京風に謂うと「かき餅」「煎餅」等を波座のような劇場や寄席などに卸していたときいたが、その方面のことはまったく私は知らない、ただ、驚嘆に値して大事典,大辭典、英和辞典、大部の古典に類する漢籍を愕くほど多彩多数所蔵して、欠か此の私への事実上の遺産にしてくれた。知る限り祖父には男子長治郎、女子つるがあり、長治郎に妻たか(福田氏)を娶れて、「もらひ子」の私恒平の養父母であったが、知るかぎり指一本触れずメモ呉れていなかった。祖父は幼い私が蔵書に興味や関心をもち手当たり次第に疊へ持ち出すのをむしろ黙認して一度も??らなかった、私も幼稚園を出る頃露から持つも重いほどの祖父の本で「城」を創るようにし頁も繰っていた、「読めない」のに。そしてだんだんに「読めそうなモノ」を見つけては「私有」意識で障りつづけた。
 『白楽天』の漢詩集や『日本国史』『百人一首一夕話』に早くとりついた。『神皇正統記』に魅され、『啓蒙日本外史』を大声で読み出した。「歴史と詩歌」から私は書物の世界へ潜り込んだ。白楽天を知らねば文学の処女作に『或る折臂翁』の生まれ出るよすがは無かったのだ。
 だが、祖父の本には通俗の『日本旅行案内』や『日用百科寶典』などがあり、ことに此の後者は吾が雑学の「宝典」となって呉れた。「一〇八四」頁もの大冊に、「此の世の、ありとある雑知識」が整然と犇めき集うていた。上にその収録範囲を凡例という目次概要で示した。昭和十年末(一九三五)に生まれ素だった幼少の私にはしびれるほどの世界知識の宝庫まさに雑学の「寶典」であった。「国軆及皇室」についで四番目に他の大奥に先立ち『文学』という大きな見出しが来る、その物言わぬ鼓舞と共感が無くてわたくしが、漢字やかなや和歌や古典や小説や能や歌舞伎に早々にも興味を持ち得たろうか、あり得ない。
 次いでは「歴史」にそして「地理」に惹き込まれた。「九」州「四国」とは何故か、越「前」「中」「後」とは何故か。京都はなぜ「山背」で大阪はなぜ「浪速・浪花・難波」なのか。退屈な゛してられなかった。
 想い出す、春夏の野球大会を識る歳になって、出場する中学や商工業校のなのっている「地域名」を昔の地理地図に即してひろびろと覚えていった。
 それはたんに知識で無い,それ以上に「面白うて堪らん」かったのだ、山の名、川の名、海棠の名等々、もう今では何割とも憶えず忘れているが。「尚榮堂」とかの『日用百科寶典』に私は幼少を培い鍛えられたのだ。
 
 * 妻も私も手の施しように困惑するほど疲労し半ばは病んで疲れている。わたくしは、睡眠を割いても、時を選ばぬ「読み・書き・讀書と創作」へ駆け込めるが、妻は、家事炊事の助け手もなく、建日子の住まいに嫁も孫も無く、私の体力もほとんど役に立たなくなっている。よろけて転ぶのだ、よろよろが本来の自転車を走らせる方が、歩くよりも安定してるという仕儀。もう公の「人頼み」に頼るしかなくなってきた。
 
 * 近年では際だって長い小説をまだ書き継いでいる、推敲も重ね重ねながら。日々が、滅入るほど、シンドイ。
 
 * 中国人作家の『主演女優』という長大作、現代の、と云っても毛沢東や周恩来が亡くくなり、四人組が打倒された頃の「北京の劇団」と付属の「俳優養成所」が場面を成していて、まだ少女ほどの幼い新人「女優」候補生の目と思いとで日々受ける「厳しい修練」などが描き出されている。
 早々ににびっくりしたのが、必須も必須の最初の訓練が、「開脚 股割り」と。その暴虐なまでに苛烈な、こと。事実、実行されていると判る、こと。仰天。悲鳴が聞こえた。しかし、なるほど最高度の演技力へと鍛えるのに必須の関門とも、理解し納得できる。
 と,同時に、わが日本国のはなやかげな若い俳優諸兄諸嬢も、みな同じレベルの訓練を経てきたのだろうか、俳優座の諸君や、歌舞伎役者や舞踊家はと、首を傾げた、それのみ、書き置く。 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月二十日  木
   5:30 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 558 kg   
◎ 私秦 恒平 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同
 〇『日本國史』 通信教育教科書 秦家架蔵
 単行書籍ではなかった、印刷の書き物を一冊にきちんと束ね 質素な紙表紙で和綴じし、題字に「日本国史」とだけ。部厚かった。他にも二三冊、算数や理科っぽいのもあったが、幼い私、国民学校の二、三年生には断乎として『日本国史』でなければならなかった。
「通信教育」というレベルを読み取れるチカラは幼少には無く、とにかくも「日本国史が、オチなく神代から明治まで読めた」のだから断然惹きつけられ、戦中・戦後も六年生まで、まさしく「緯編三度びも五度びも絶つ」ほど重宝して愛読を重ね、しかとする「日
本史」覚え、記憶した。他に小説本など、欲しくも秦家には一冊も無かった。「通信教育」という制度について私は殆ど知識が無い、家にこんな「本」が在る、在った、それだけのこと、祖父か、父か、まさか叔母であるまいが、そんな詮索には無関心、ただもう私の手に「日本歴史」と題された掌に重いほど堂々の(当時幼少の私から見れば)、大人の爲の「教科書」が存在して、どう捲ろうが読もうが脇から抑えるような大人は、コソともヒソともいなかった。有難く嬉しく、こんなに面白い本は、例の一年生を終えて担任の女先生に戴いた例の口語訳『古事記』だけ。まさしく此の通信教育『日本国史』は『古事記』の尻へ密接に継続していたのだった。
 論著でなく、誰の選定ともしれない「教科書」なのが「良かったなあ」と、いまも思う。
 さすがに、此の假綴じなみの教科書「日本國史」、机辺にもう残存しない。
 
 * 四時間と寝ていない。建日子が来て、結果、部屋の都合で夫婦別室で寝るとなり、妻は我が家で唯一「舟底天井」の和室・客間で、敷きっ放しの蒲団で、ほぼ寝たキリに寝入っている。わたしはもともとの寝室に独り床を敷いている。
 お互いに「夜中緊急」の何事が起きても、即「伝え」も「聞き取る」ここともならない。それでわたしは夜中、「寝入る」よりは「起きたまま仕事」してしまう。夜はせいぜい「寝ない」ことにわたしは自身を慣らそうとしている。一昨夜は一睡もしなかった。昨夜は四時間も寝たか。幸いわたしには取り組んで前へ前へ運びたい「仕事」がある。そんな異様に過剰な暮らしは「生・活」と謂えない。賢いこととはとても謂えない。二人して寿命を縮めている。それに備え、緊要の「覚え」を認(したた)め置こうとしているが、遺憾にも「物忘れ」は日を追い激越に烈しく、まま、手をつかねて困惑のていを我と我が身に曝している。
 
 * 意識を脇へよけている感じに、ボーゼンとしている。苦痛と謂うでない、しかし「不全」の「不快」。今晩は早く寝入ろう。と謂えども、したくも、すべきも、「場を明けて」易々は通して呉れぬ。   
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月十九日  水
   ほぼ終夜ねむらず、二階へ,朝5:00 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 5453 kg   
◎ 私秦 恒平 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同
 〇『阿若丸・萬壽姫』 講談社絵本 借用)
  講談社絵本というのは、わが幼少、大方は幼稚園から国民学校一年生までの「圧倒的な存在」で、大判各ページの繪に、何にでも恐がりな私は、掌で眼を蔽いながら指の隙間から繪をこわごわ点検のあとで、字の方を読んだ。「字や文を読むには、幼稚園以来母や叔母の「婦人倶楽部」ていどなら何の苦労もなかったが、こわい「おはなし」には文字どおり辟易し、萎縮した。どんな話材に縮かんだか、「子が親に別れてしまう」噺が一等こわかった。「囚われ」の父をもとめ、丈高い竹によじ登ってその撓いに頼んで父のもとへ密かに尋ね行く「阿若丸(くまわかまる)」や、やはり土牢に囚われたたしか母の唐糸を尋ねて偲び忍び近づく「萬壽姫」のおはなしに戦いたり、つまりは「怖い、怖ろしい、悲しい」ことの大方をわたしは、何より早く、先ず「講談社絵本」で体感し実感したのだった。
 わたしは幼年來、いわゆる「漫画」を軽蔑し、めったに受け容れなかったが、「ノラクロ」と、すこしおそくに「長靴三銃士」だけは受け容れて,機会あれば何度でも読んだ。前者はユーモラスに軽妙な繪に、後者は「怕いような繪とおはなし」に惹かれたのだろう。こま漫画の「フクちゃん」にも軽く軽くいつも共感できたが、しかし要するに「漫画」「つまらん」と自身諒解していた。「猿蟹合戦」や「桃太郎」などの絵本は一瞥払いのけていた。
 
 * 今、この「私語」を、真夜中の一時半に書いている。床に就いても實に孤独に寂しく、とても寝付かれない。「やそしち爺」にもなり、まだ幼稚園前の昔に養なった「感じやすい」孤独感が生き存えているのだナ。「萬壽姫」や「阿若丸」に悲しみ歎きながら、わたしは、しかも「生まれながらに肉親を知らない、喪っている」という実感を、まるで「個性」のように見誤って蓄え育てていた、きた、のだ。結果、どうしても肉親、血縁に親しみ愛する励みが私に無い。とてもさびしいけれども、無い。そのお蔭でわが子にも背き叛かれる。
 眞の「みうち」は「世間の他人」から見つけるしか無いと、わたしは、「今日只今」でも実感している。「眞の身内」と眞実愛した、血縁など無かった数少ない生涯の「人たち」を、いまも、どんなに恋しく慕い愛し親しんでいることか。だが、そのような人らの大方は、もう「天」にいて、そして呼び掛けてくれる。「行くよ」「もうすぐ行くよ」と黙語している、今も。
 
 * 終夜 寝なかった。眠るのが、肝に障るほどイヤだった。本も読んだが、読んでなくても茫然としたまま、頑固に寝入らなかった。要するに生気を失っていた、六時十分、今も、だ。
 いい爺が何に抗がうのだろう、目玉も痛いほど疲れ切りながら。
 
 〇 秦さん  ごめんなさい 
 7月21日にご返信を戴いたメール(2通とも)を見損なっておりました 何とも申し訳けありません(今迄は「さくら」という会社がメールアドレスを取り扱っていましたが 「cosmos」に変わりました 我々会員は 何もせず 今まで使っていたアドレスを自動で変換しているようです)
 パソコンの機械もごじゃごじゃで何とか整理したいです
 熱中症 恢復され何よりです 向後とも呉々もお気を付けください
 高齢者は 数も程度も 半分位はやられている」そうです
 ムペ発信」ちしております
 狭い家の中で歩く訓練をしております
 今年は朝顔がよく咲いてくれています 
 「ルーズベルトのベルトが切れて チャーチルちるちる・・・」あと忘れました
 秦さん どうかくれぐれもお大切にされてください
 コロナの報道 おかしいです   chiba e-old 勝田拝
 
 * 仕懸かりの「長編」を「読み返し」ていた一日。
 今日水曜は生協の四合瓶が一本届くのを、待ちかね半分がた直ぐ呑んで、また読んで、寝入って。妻も不調で寝入っていること多く、ひとりテレビで気に入りの映画「雨あがる」を楽しんでいたが、後半の画面が愚茶に乱れ頽れて。で、この機械前へ戻って親しい「e−old勝田貞夫さん」のメールを読んだところ。
 
 〇 暑中お見舞い申し上げます。
 祇園祭が真っ最中の京洛は暑さも一入ですが、どんな避暑対策で日々お過ごしですか。
 七月は革命月でもあり、4日のアメリカ、9日のアルゼンチン、14日のフランスなど。それぞれの日に、ウエスタンやハワイアン、タンゴやシャンソンをレコードやCDで聴いた日も遠くなりました。
 それでは「米寿」とやらを迎えた今は一体何をしているのか。
 動作の度びのヨイショの掛け声と、ホッと一息の老人専用語だけでは余りにも芸がない。
 「社会の出来事の原因は全て政治にあり、その責任は全て政治家にある」が私の持論です。
 と言うことで、悪政者を一掃するためのノウハウ本と冷や汗を一緒に「かい」ております。
 地球温暖化は加速します。くれぐれも健康にご留意のうえ、日々をお過ごしください。  2023-7-19  京 洛北 森下辰男
 
 * じつは、どうしてるかなあと案じていた、案じながら、今日も長い「推敲」仕事のバックに、森下君自編の『昭和25−26年 戦後日本流行歌史 第5集』を低音で流していた。これが気の落着きを助けてくれ、森下君の思いも届いてくる。感謝。祝「米寿」 頑張ってよ。
 
 〇 山百合  今日は東の窓から涼しい風が入って、ゼミも鳴き出して、こんな日もあるのね?と、喜んでいます。と、途端に元気になって、水遊びを兼ねた拭き掃除などして、満足しております。
 環境もすこしづつ変化していますが、それが常なのでしょう。
 ご健康に留意なさって、お過ごしなら、嬉しく思います。  那珂
 
 * 嬉しい知己の聲ごえが聞こえてくる有り難さよ。
 
 * 実感として、わが体調は疲弊の底に。凌いでいるのは、「読み・書き・讀書と創作」を「クスリ」に服し続けられているから。感染症を懼れて外出を極極端に抑えてきた三年だが、いっそ僅かな余力を奮いたたせ、街歩きや、可能なら「旅」もしてみたい、侘びて静かな山ノ湯につかってみたいとも思うのだが。思うのだが。思うダケか…。 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月十八日  火
     起5:20 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 55:30 kg    朝起き即記録 
◎ 私秦 恒平 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同
 〇『百人一首歌留多』 秦家所蔵
 〇『百人一首一夕話』 祖父秦鶴吉蔵書
私(戸籍名吉岡恒平・昭和十年冬至に生まれ)が、京都市東山区新門前通仲之町の秦家(ハタラジオ店)へ貰われ、ないしは預けられた三、四歳の当時から、上に謂う「歌留多」は、購読家庭へ新聞社が配った「景品」であったらしい、家の、中三畳間押入れに「筺」入りで置いてあった。秦の祖父、両親、父の妹ら大人は誰一人見向きもしてなかった。「(和歌一首と歌人名の)読み札、(和歌下句の)取り札」とも、漢字かな入り交って流麗の行書で書かれ、「読み札」の「歌人たち百人」は、男女僧俗ともまこと気ままな衣服・姿勢・情景で、「人柄」までも特色豊かな肖像として「彩画」されていた。国民学校一。二年生の頃から気ままに一枚一枚手にして見飽かず、年がら年中私は好き勝手に愛玩し、疊に撒いては独りで読み上げ独りで「はい」と採って、「うた」も「ひとの名」も、行書の漢字・変態のかな文字も、自然とまるのみに「覚え」て行った。昭和の大戦も始まっていた、そんな国民学校一、二年生ごろから、毎晩「強いられる早寝」に添い寝してくれた叔母「つる(茶名裏千家宗陽・華名遠州流玉月)」から、「日本の國」には古來「和歌・五七五七七」「俳句・五七五」という述懐の道があって、「誰にかて創れるのえ」と教えられた。私には途方もなく大きな示唆と教育とであった、いま「やそしち」の爺になるまで生涯の、私への實に立派な「知の宝」となったのである。ちなみに読み札に描かれた歌人らの「絵像」では、大火鉢を胡座に独り抱きこんで歌を思案らしい「皇太后宮大夫俊成」や、素晴らしい黒髪を疊に這わせて長け高う起った待賢門院堀河の美貌を贔屓した。色美しい軽妙な雅致の故に「百人」の「歌」も「名乗り」もしっかり覚えた。
〇 謂うまでもない、祖父秦鶴吉がしまい込んでいた『百人一首一夕話』が、歌や人の逸話などをたくさん識って覚えるにつれ、私には「平安の歴史」も「百人」とりどりの逸話や奇癖などまで「記憶」されていった。日本の「歴史」「文化」への親愛がそのまま、「学ぶ」と謂うより「息を吸う」かのように私の「文学愛」を美しくしてくれた。
祖父鶴吉のタンスや長持に詰め込まれ、もはや放置されていた各種の「蔵書」には源氏物語を説いた『湖月抄』全三巻も賀茂真淵講義の『古今和歌集』も、老荘韓非子も『唐詩選』も漢・和・英の大事典や通俗生活宝典も、『神皇正統記』や『日本外史』や浩瀚な坪谷善四郎著『明治歴史』上下や、さらには「通信教育の各種教本」もあり、汽車を利用の『日本全国旅行案内』なども、なにもかも目まぐるしいまで多く遺されていた、だが、いわゆる「小説」本は、只の一冊も無かったし、それらの本を手にしている大人は、当の祖父もふくめ、父も母も叔母も、少なくも幼い私の目には、手も触れていなかった。わたくしがそれらの「本」にしがみつくように夢中でも大人は誰も、関心すら持たなかった、父が「目をわるくする」とだけ注意してくれた。たしかに、私の眼鏡の最初は国民學校二年生に上がるとき。あんまり可哀想と大人の方ではずして呉れたが、五六年生からまた眼鏡に成り、今日に到っている。
 
* 寝苦しい一夜であった、妻は明け方から苦悶の聲。男手のうまく働かないこんなとき、切実に家に「お嫁さん」が、八七歳の老いた女手を助けて呉れる「若い女手とハート」が欲しい。まだ夏は七月、それも中旬、残暑が去るまでに二た月もある。凌げるというのか。凌げねばどうなるのだ。
 
 * 建日子と連絡も取れない。メールはした。電話は何度掛けても「いま、電話に出られない」の音声だけ。なんという頼れなさ。不用意。
 
 * まことに不愉快な「午さがり」だった。
 
 * 仕事に締まりが着いてさえ居れば、旅に出たいと思う、が、幸か不幸か、今こそソレが叶わない工面に多くが直面している。差し掛かっている。
 
 〇 拝啓 また今年も暑い季節がやってきました。先生はいかがお過ごしでしょうか。 当方大患後「安全運転」を心懸けながら,日々過ごしている次第です。
 ところでこの間、いつもご丁寧に『湖の本』をご恵送いただき、ありがとうございます。
 拝読していていつも思うのは、文学とは「説明」ではなく<表現>ダと謂うことを如実に示しておられる点です。
 それは「ある往生傳」(百六十三巻)によく現れていました。 時間(時代)と場所(舞台)と人物をリアリスティックに描くことにより「説明」では到達しえない世界を表している貴重な作品。再度、拝読させて戴きます。お礼を申し上げます。敬具              京・鷹峯 三谷憲正  文藝批評家 名誉教授
 〇 秦さん ごぶさた致し 申し訳けありません。
 ホームページの五月の続きを 今日からか 今日かと確かめ乍ら 6月 7月となりました。
 秦さん どうか どうか 呉々もお大切にされてください。 敬白
                           e-old 勝田 拝
 山藤章二さん画の 秦さんと  腕を組んで秦さんを見上げてるお孫さんのお写真を 毎日拝見しております。 「秦さあーん!」 (か)
 
 * 大學の研究室や図書館・施設等からも「湖の本」受領と謝辞の来信、各地から。
 
 * 亡くなった播磨屋中村吉右衛門を「継ぐ」ように 甥、甥の子に当たる高麗屋松本幸四郎と息子染五郎が あらたに「鬼平犯科帳」を演りますと知らせてくれた。歌舞伎の世界でも群を抜いた親子とも美男子。愛らしかった金太郎クンが立派に染五郎に成りきっている。わたしは見にくい「やそしち爺」に老いぼれている。
 
 〇 暑さお見舞い 毎年、同じことはないにしましても、暑すぎる毎日が続いておりますが、お変わりなくお過ごしのことと存じます。変わらずに、涼しい室内での読書三昧かと想像いたします。             
 先日、一日 少し曇った日に 都の霊園まで出掛けました。         また暑い日には泳ぐことにしております。 那珂
 
 * 折も宜しく嬉しく、懐かしい声がさりげなく届いた。一滴の血縁も無いのが純に懐かしい。* 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月十七日  月
     起5:20 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 55:30 kg    朝起き即記録 
◎ 私秦 恒平 幼少青年時感慨えた書物作品たち(順不同
 〇『古事記』 次田潤 現代語訳
  昭和十八年初春、京都市立有済国民学校の二年生へ進級前の春休みに、一年時担任・吉村玉野先生を木津川畔のご自宅にはるばる訪れての帰りぎわ、「お土産」に戴く。ことに國産みに肇まり神武天皇の東征と即位にいたる「神話」期全文を「暗誦」したほど読みに読み、読み尽くし、教室で、「前(教壇)に出てお話の出来る人」と先生に需められるつど、率先、日本の「神々が活躍」の幾場面をも「お話し」していた。
 幼稚園での「キンダーブック」などモノの數でなく、「文学」へ歩み始めた第一歩の「愛読」「愛読書」だった。今も手もとに在る。
 
 * 夜中の冷房が利くとも利かぬとも知れず、寝苦しい一夜だった。何度も目覚めた。
 
 * ;冷房も利きづらいほどの執拗な暑さに、体調は内から頽れる。体重もまた55ロへ沈下。
 
 * 「口癖」のように自身の日々を「読み(調べ読み)・書き(私語の刻)・讀書と創作」と謂うている。ほぼ言い尽くせている。娯楽や慰安は、ま、テレビで映画(「ホビットの冒険」や「剣客商売」など)、そして(在れば「酒」とか)。「讀書」なくては、生きた心地がしまい、これはもう幼少來の姑癖に
当たる。枕元には日々に読み継いで手放せない本が何冊も並び、積まれている。「積ん讀」では無い。今ぶん…
 日本文学  「源氏物語 少女」 「参考源平盛衰記 巻二十一」 藤村「新生」 秋聲「あらくれ」「新世帯」 坪谷善四郎「明治歴史 下巻」越
 中国文学  「四書講義下巻 孟子」 「聊齊志異」 「水滸伝」 「遊仙窟」 文彦「主演女優」  西欧文学 ホメロスの神話  ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」  トールキン「ホビットの冒険」ま、穏健な楽しみようであろう。勉強に類するのは「孟子」と「名詞維新 下巻」くらい。
 
 * 午後三時。本を読んでは寝入り、また読んで。是を休息の休憩のと謂うのは当たらない。心神に活気の無いままヘバって居るだけのこと。情けない。それても手に執るどの一冊とてみな選り抜きで、魅される満足には不足は無い。秦の父長治郎は、本というモノを手に読んでいたことが無い。一度も観た覚えが無い。あ、それは謂いすぎで、この父は能舞台の観世流地謡にかりださるほどに謡曲がたくさん謡えた、私にも一時期教えようとしてくれた。
 叔母つる(茶名宗陽 華名玉月)父の妹は、師匠という仕事がら茶道誌「淡交」は講読していたし、若い頃は婦人雑誌もみていたようだが、所詮は読書に気が無かった。
 秦の母たかは、手近に,小説本が在りさえすれば喜んで読んだが、そんな本のまるで無い家で、わたしは少年の頃から「本」は買う物でなく他家他人に借りて読むモノと思っていた。自前で本を買い始めたのは、中学を終える頃に「徒然草」「平家物語」がはやく、谷崎本へひろげた。『細雪』一冊本を奮発したときは、秦の母は喜んで読んで「ええなあ」と共感を示してくれた。嬉しかった。
 
 * ところが秦の祖父I吉は途方も無く蔵書家、それも大方が漢籍、史書、古典、事典・辭典か、私もお世話になった山縣有朋の『椿山集』や成島柳北の『柳北全集』あるいは「神皇正統記」や「史記列伝」や「唐詩選」や「十八史略」や「四書講義」や「老子」「莊子」「孟子」や「唐詩選」「白楽天詩集」等々信じがたい名著が押し入れの奥の長持ちや、たんすに犇めき遺されていた。私は、全面的に是等書物の「文化」に薫染されて黙々と成人した、いや念願の小説家・作家に成れた。小説の処女作は『或る折臂翁』それは白楽天の長詩『新豊折臂翁』に想をを得ていた。
 不思議なモノだ、「人生」は。
 
 * 24時間の17、8時間を床に就いた暮らしとなっている。暑いなかで、ゾワゾワ、ゾクゾク寒けしたり、水洟をかみ続けたり。宜しくない。緊要の仕事としては、八部方書き進んでいる永い小説の推敲と進捗を一に手懸けている。この脱稿に望みをかけている。「湖の本 165」入稿を当然用意して居るが、これへ長い新作が宛て得れば気がいいのだ、が。
 
 * メールのやりとり意欲か、意志か、が逓減しているのではないか。わたしも送らない、が、送ってくる人も減ったと思う。精神を細切れにまき散らすより、我独りの「ことば」「こころ」を養う姿勢へ戻れること、大事に思う。つまりは「私語の刻」をむしろ豊かに深めては、と。
 
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月十六日  日
     起5:50 血圧 144-76(55) 血糖値 102 体重 56:1 kg    朝起き即記録 
◎ 日本
 〇 散髪とおかっぱ 藝人ほど髪をいしせってきた歴史
 髪が濃いといえばふさふさと豊富なことをいう。色のことではない。坊さんのように髪のないのも、一種の髪型といっていい。髪は烏の濡れ羽色はよく分かるが、緑の黒髪となると割り切れない。うまい説明がない。いずれにせよ髪型ではない。乱れ髪、寝くたれ髪も髪型とはいえまいが、散髪、ザンギリは、新時代を象徴しえたりっぱに新髪型だった。尼さんやおばあさんの切り髪が、形を整え、いつしか少女のおかっぱに変わってきたのも面白い。どの辺で切りそろえたかで、年齢や色気がちかって見えるのも切り髪の面白さで、古今東西、基本の髪型は切り髪だった。その長いのを髷にあげたり巻いたり結ったりしてきた。髪飾りも付随して生まれた。
 ただし女だけが髪型をもっていたのではない。ちょんまげも、さかやきを剃るのも剃らないのも、総髪も、ザンギリも、お相撲さんの大髻(おおたぶさ)も、男の歴史をもっている。神代や埴輪の昔の、みづらに結った男の髪も懐かしい。
 髪との付き合いは日常のもので、だが、晴れの場合にはまず髪を調える。髪結いさん、散髪屋さんのような商売や職業は、早くから必要不可欠だった。江戸ともなれば髪結新三のような職人が、いろんな家庭の奥まで出入りしていたし、文七元結の噺のように、髪を結うための元結を売るだけのお店が出せた。かと言って珍な髪型を競ったのではない。
 髪型の珍なのは、遊び女、歌ひ女、浮かれ女のような妓女・楽女の特殊に囲われた社会で発達した。歌舞伎の舞台、廓の中、また神事藝能の相撲社会など、みな同じ「遊び」の根をもっていた。ふつうの世間で日々尋常に生きている男女は、おおかた変わり映えしない堅実な髪型をしていた。今日のサラリーマン男性の一律な頭を見ていると、それがいやほど分かる。珍にごたついた髪型を、わたしなどは面白いと思ったことがない。髪は清潔でかすかに香ったのがよろしく、ふつうの人は髪型などに奔命しないものだ。       (了)
 * 起き抜け、六時半にならない。なにとなしにボンヤリしている。
 
 * 書き続けてきた長編に手を掛けながら、さらに書き継いでいる。気を入れている。怺え怺え逸るまいと。
 
 * やすみやすみという物言いがある、が、なにもかも休みながらしか科出来ないほど。ならば、と腹をくくって映画「ホビットの冒険」を長々と観、また中国現代を小説『主演女優』をのびのび読み進んだ。寝入って仕舞うとキリなく眠りこけそうなので、気を入れて読んでいた。此の部屋も,下階も冷房しているが道路向きに小窓が四つの二階廊下の暑さ、まるで火傷しそうほど熱中している。
 
 * 食欲さらに無く、避けも切れて無く、要するに気に入った何かホンを読んで生き抜くのが息抜きになっている。  
 * 呆れるほど、寝ている。家の中を起って歩いているさえ寝て威より寡い。いまは寝るも起きるも負えていない。
 
 〇 ご無沙汰しております
京都府 山城南部(南山城)の岩田孝一です
 
「湖の本」が届くたび 元気でおられるとおもっております
ありがとうございます
こちらの元気でいるしるしにコーヒー豆を送ります。
 
先日、奈良国立博物館で開催の浄瑠璃寺躯体阿弥陀修理紀念 特別展 「聖地南山城」 
に行ってきました。
南山城がその地名の読みさえ広くは知られていない状況の中、
聖地南山城を発信したいと博物館の研究員の方々が実に用意周到に準備を重ね、
明治に浄瑠璃寺より流出した十二神将像(現在は東京国立博物館に五体、静嘉堂文庫美術館に七体収蔵)
を浄瑠璃寺本尊薬師如来と140年振りに並べての展示を目玉とし、
墾田永年私財法から太閤検地までの中世の荘園仏教の信仰空間という言葉にしたくなるような場になっていました。
 
図録と併せて前にお送りした地図の最新版を同梱しました。
(前回のは裏表を?げて、笠置寺から東大寺(修正会が修二会となった道)、
 興福寺から笠置寺(貞慶上人と弥勒信仰の道)となっていたのですが、それを一枚にしたものを頂きました)
笠置寺の巨石群は孫悟空が「斉天大聖」と落書きした釈迦の指のようです。
 
今年も 暑い夏が始まりました お元気で
 
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
_/ 岩田 孝一
 
 
 
 * 岩田孝一様  どうぞ日々お元気でと願います。
 叔母様にも もう一目も二た目もお目にかかりたかった。
 : 沢山 沢山 ありがとうございます。「コーヒー」も嬉しく 頂戴の『聖地 南山城』のいろいろも 衷心 楽しんでいます。
「当尾」への地理も いろいろの地図で 良く覚えた気がします。無数の仏様たちに御守り戴いている気が しみじみ します。
 守叔父様にご案内いただいた岩船寺や浄瑠璃寺の想い出に合わせ 豊饒なまで仏様たちと出逢いました。深い信頼を自覚します。歩一歩 南山城へ帰って行きつつあるかと「安心」を得ています。
 暑さに潰れぬよう気遣いながら 日々「読み・書き・讀書と創作」に根気よく励み、じつのところは 五体疲弊疲労に潰れそうですが、「南山城」の無数の佛様たちに励まして戴きながら もう少し もう少し 「まあだだよ」と 天上へお返辞しながらの日々 大事に致します。
 あなたも、みなさまも、どうぞお達者で,日々の酷暑をお凌ぎ下さいますよう。  恒平  七月十六日
 もう一度もう一度 当尾を訪ねたい、が、ムリかなあ…
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月十五日  土
     起7:45 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 56:1 kg    朝起き即記録 
◎ 日本
 〇  坪庭の壺が可愛や 家庭が抱きしめた家の庭
 広い屋敷内に内々の墓所を築いた例がむかしにはいくらもあった。墓はなるべく遠方にという思想と身近にというのとが、死にかかわる態度として揺れ易かったのは当然で、埋め墓と参り墓との二墓制も生じたが、愛したものの死をそう遠のけてしまいたくないという実感は、だれにもある。漱石の猫しかり、可愛がったペットの死を庭の片隅に、などという例も多い。もともと庭は、生死和合の半他界的な意味あいを添えられていて、例えば親の子に示す指導や助言を庭訓というときにも、ただ親でなく、親のことばに祖先の導きも加わっているぞといった双方の実感が尊まれていた。庭に豊かに木々を育ませるのも、それが青山(せいざん)という奥津城つまり墓所・墓地の意味にも通じてきた証拠で、たんに園藝趣味ではなかった。庭作りには墓作りの精神が龍もっていた。家庭というプライベートなことばにも、だからなおさら庭のいわば生者死者あい寄った家族的親密の享受が期待されている。
 そんな家の庭のなかでも、ほぼ四面を家屋や生け垣、築山、塀などに囲まれてごく小さく設けられた場所を「つぼ」「つぼには」と呼び、ひとしお静かに懐かしい家の庭と愛してきた。それがいわば家の女主人や女人たちのあたかも所有であったことは、源氏物語に桐壷、藤壷などという名乗りが、女身の秘め持つ「つぼ」の名に借りていることでも明らかである。「つぼ」には「つぼみ」
のように小さく愛らしくとじて、内に花ひらく可能性を秘めた魅力が意味されている。「つぼい」という中世語が、身をよじるほどの可愛さを感じながら、少女や、また少年のまだ女にも男にもならない女や男そのものを見ていたのは間違いない。「つぼね」という女の部屋やその女主人をさすことばにも、部屋や付属の坪庭の小ささ、やさしさとともに女の魅力が謂われている。寺院などの坪だけがつぼではなく、本来は「坪庭」こそが親密な「家庭」のエッセンスであった。
 
 * 昨晩來 無二無三に寝入っていて今朝の目覚めは近来例の無い八時前であった。からだが要求していたと思うしかない。柳君が親切の機械検討のための来訪も、このフウフしての疲れようではお相手もなるまいと辞退した。八十七年の夏体験で、連日30度越えどころか40どにもという狂熱に遭うなど想像だに出来なかった。天変かと呻く。
 
 〇 秦先生
本日、ご体調優れないとのことでご自宅への訪問は取り止めになったと柳から連絡を貰いました。
暑い日が続いております。お体第一ですので冷房効かせてゆっくりお過ごし
下さい。
ただ、お邪魔するのであればお持ちしようと思っていた桃がありますので、お昼過ぎにお届けにだけ寄らせて下さい。
ちょうど山梨の実家から箱で送られてきたところでして、(毎年のことですが)自宅で全部食べるには多いので少しだけですが貰って頂けると嬉しいです。
今日は、お昼ご飯を食べたら浪人生(!)の上の子(葵)を連れて先生のお家経由で柳家にお邪魔する予定です。
実は、葵は“建築系”の学科を目指して浪人中なので、柳先生(!)のご自宅見学と講話を聞かせようかな、と。ちょっと面白そうなイベント(?)ですよね。
そんな感じですので、先生のお家には13時半ごろ到着を予定しています。
呼び鈴は押させて頂きますが、もちろん無理に出てきて頂くことは全くありません。そのまま玄関先に袋をぶら下げておきますのでご都合が良い時に引き取って頂ければと思います。
黙って玄関先において来ようかとも思ったのですが、さすがに失礼と思い、事前にお知らせさせて頂きます。
この3連休は特に暑い日になりそうです。
桃でも食べて涼しくお過ごし頂ければと思いす。
それでは   丸山宏司
 
 * 午過ぎ 丸山君が、美しく豊満、大きな「桃」の実を四顆を贈り届けに、娘の「葵ちゃん」と、柳博道君も同行して<玄関先まで見えた。応答の元気なく、妻が頂戴し、わたしは二課のまどから辛うじて顔だけ出し、ホンの少し応答して引き揚げてもらった。元気なら寒暖の時が楽しめたろうに。漸く機械前へ来てそう書いているのは,晩の八時半。熟睡で亡く不安定な浅い眠りへ嵌まり続けていた。
  生気を5体から垂れ流したように、家のなかでもヨタヨタ、こょろひょろとものに掴まるように歩いている。幸いに「痛む」という徴候はない。瘠せて、むき出しの腕が擂り粉木ほどに細い。
 
* 文字通り、ヘバッテ、へたばっているまにも,次々と頂き物、妻が書き留めてくれていたのを見る。渡部芳紀さん念入りに恩手製の「甘酒」を堅固な二た瓶に満杯。山本道子さん村上開新堂極く詰めのクッキー缶、長田渚さん私の健康にと綺麗な缶の「野菜ジュース」の大函、信太周先生『稲庭うどん」たくさん、堀武昭さん見た目も美しい舶来「ぜりー」を綺麗な一函に。そして丸山君ご持参の「大桃」四顆、更に 午後には、南山城の地一〇の父方の従弟岩田孝一君が、稼業の「コーヒーまめ」を大きな箱に二包みにして,加えて「南山城」展が編纂の豪華ホン一冊に沿えていろいろ、かずかずのみなみやましろ案内のリーフなどを送って呉れました。「南山城」の「当尾」には、実父吉岡恒の生家が在り、ごく幼少の数年を私もその吉岡本家で両親を見知らぬまま素だった。この吉岡の「云え」が國の重要文化財に指定されたと教えてきてくれたのも、今日たくさんなコーヒー豆の送り主、岩田浩一くんだった。
 〇 ご無沙汰しております
 京都府 山城南部(南山城)の岩田孝一です
「湖の本」が届くたび 元気でおられるとおもっております
 ありがとうございます
 こちらの 元気でいるしるしにコーヒー豆を送ります。
 先日、奈良国立博物館で開催の浄瑠璃寺躯体阿弥陀修理紀念 特別展 「聖地南山城」に行ってきました。
 南山城がその地名の読みさえ広くは知られていない状況の中、「聖地南山城」を発信したいと博物館の研究員の方々が実に用意周到に準備を重ね、明治に浄瑠璃寺より流出した十二神将像(現在は東京国立博物館に五体、静嘉堂文庫美術館に七体収蔵)を浄瑠璃寺本尊薬師如来と140年振りに並べての展示を目玉とし、墾田永年私財法から太閤検地までの「中世荘園仏教の信仰空間」という言葉にしたくなるような場になっていました。
 図録と併せて前にお送りした地図の最新版を同梱しました。
(前回のは裏表を?げて、笠置寺から東大寺(修正会が修二会となった道)、興福寺から笠置寺(貞慶上人と弥勒信仰の道)となっていたのですが、それを一枚にしたものを頂きました)
 笠置寺の巨石群は孫悟空が「斉天大聖」と落書きした釈迦の指のようです。
 今年も 暑い夏が始まりました お元気で
   _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/    岩田 孝一
 
 * 至れり尽くせりの深切な親切。私は幸せ者 ありがとう と、何とか元気な禮を云い送りたい。
 だが、まだ、ふうッと目を閉じ目を閉じしてこれを書いている。
 
 * 九時半。25度の冷房が「寒く」なってきた。階下へ退散し、戴いた「南山城」を寝床で楽しみたい。
 
 〇 暑い最中にご本送っていただき大丈夫だったかしら、、鴉が何度も読まれた本、大事に読みます。 ありがとう、ありがとう。
 今日は秋田の方が豪雨でしたが、明日からは猛暑。外出お控えに、ごろ寝読書、くれぐ
れもお身体大切に。   尾張の鳶
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月十四日  金
     起5:15 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 56:75 kg    朝起き即記録 
◎ 日本
 〇 橋を架けて 愛と夢との歴史が渡る
人はどのように「生まれて」来るのだろう。たとえば広い広い海に無数の島がちらばっている。島には人影が見え、しかしその島は、人ひとりの両足をのせるだけの広さしかない。人は「海」という世間のそのような島に、あたかも投げ出されるようにこの世に「生まれて」来る孤独に孤立した存在なのである。島から島へ「橋」は架かっていないのである。寂しい世界である。寂しさに堪えかねて人は島から島へ呼びかわしている。愛を求めている。あげく、一人しか立てないはずの島に、いつか二人で、三人で、十人で、二十人で立っていることに気がつく。愛が実現したのであるが、もとより、それは錯覚なのである。しかし貴重で必要な尊い錯覚である。この錯覚をもてるかもてないか、それはある意味で人が人へ、人が物へ、人が時代や歴史や他界へ、「橋」を架けながら付き合って行けるかどうかの大きな分かれになる。人は架からぬはずの「橋」を架け続けて生きて来た。歴史を創って来たのである。
「橋」の来歴は古い。おそらく人類という生物が地上にあらわれたと同時に、もう「橋」は架けられはじめただろう。心の通うコミュニケーションという「橋」
もあり、蔓や蔦葛(つたかづら)の掛橋も、丸木を渡した橋も、飛石を渡る橋も、いつか吊り橋も反り橋も撥ね橋もできて、そして今やハイテクの粋といえるみごとに美しい橋が架けられた。太陽系をさぐる衛星も、ある意味で人が架けている「夢の浮橋」と言えなくもない、その意味をときどき真剣に考えてみるのは大事なことではなかろうか。人間のかぎりなく見る「夢」が、そもそも未来へ、未知へ架け渡す「橋」なのだ。
 それにしても美しい「橋」は古今東西無数に在り、これぐらい数多い美術的また生活上の成果は他に無いかもしれない。山奥に、名勝に、都市に、海に、そして故郷に。選ぶなんて、とても出来ない。
 * 原善クンの仲間たちが織りなし綾なしてゆく、何かしらの「研究・検討」のてんかいを好奇の視野で眺めつ批評している構造的な内侍段階的な夢を観ていた。夢を観綴ると芯から疲れる。
 
 * 今日は妻の歯科の予約日、前回わたしが「熱中症」に潰された覚えがあり、わたしも同行する気でいるが。今はまた六時前の早朝。此の先、どれほど暑くなるかは判らぬ。先には39どを越した日もあった。「夏の暑い」でしられた往年の京都、わたしか中学の頃は33度にも成ると大人も子供も仰天したが、今や「チョロイ」ものになった。まさに命がけで極くの熱暑と連れて歩かねばならぬ。独り歩きなど危険きわまりない。
 
 * 歯科治療の妻に付き添い、江古田の奥へ。終えて西武線江古田へ戻って「中華家族」で五十度ほどの強いが美味い支那の酒で昼食し、妻の銀行での用にも付き合って帰宅。すっと寝入って覚めて、大相撲が中入り。
 とにもかくにも、この大暑、やすみやすみ生き伸びねば。「やそはち爺」は慌てず焦らない。ノビたらノビたままでも「私語」程度には「書け」て、臥たままでも本は「読め」る。さいわい庭掃除も薪割りもしなくて済む。耐えて忍ばずとも「済(な)すあり」で済む。そうしか出来ないなら、それで「済(な)し」置くのも一法と。
 
 * 暑いというより「暑苦しく」五体にこたえます。 先日は 医者の帰りの熱暑に当たり 「熱中症」に潰されましたが、今日も同じ江古田の奥まで 妻の受診と往復を案じ、付き添って行きました。 
今日は、暑いは暑くても 空は曇っていて助かりましたが、疲労困憊は,同じこと、ほとほと夫婦でフウフウのてい、帰宅してそのまま ノビ ました。目覚めたらお相撲は半ば過ぎてました。
柳君のご厚意はしみじみ嬉しく有難い、が、やはり「明日土曜日のご足労」を やすやすお迎えする気力・体力、みすみす我々に足りていません。状態 察してくださるよう、謝まって、お願いする次第です。
さいわい、こんな風に機械で字が書けますのは僥倖、ヘタバリながらも 必要な仕懸かりの「先」を、少しは「書き継げる」のがさいわいです。
二人して数えてめいめい「八十七の爺・婆」、 昔噺の絵本に紛れ入ってるようなよたよたの日々です。
ま、勝手な自己評価ですが 「気」だけが ややまだ確かなのかもとフンバッテます。
早く元気に 柳君の 顔見たし聲聴きたし、その好機のためにも 日々怪我なく、永くは病み伏さず在りたいと願っています。状況、お察し下さい。
日々、ご家族お揃いで元気元気に、お幸せに と祈ります。  七月十四日の夕方に   秦 恒平 迪子
 〇 今日の天気予報では最高気温が三十一度、少し低めになりそう。それでも、くれぐれも大事をとって江古田奥までの往復を無事過ごされますように。緊急以外は用事は後になされ、、、
 ラフファエル本の事、すまなく思います。ありがとう、ありがとう。無理しないよう。
 藤村の"新生"はテーマそのものが深刻で、それを書いた作家藤村は凄いと息のみます。
 秋聲、読み直してみます。
 次女と孫が今日シンガポールに旅立ちました。朝早くリムジンに乗るため、わたしも睡眠不足。
 宵々山の京都、 鴉の 恋しいという声が聞こえてきます。
 お身体ご自愛ください。 尾張の鳶
 
 * 京都の直木和子さんに次いで、早樫(今は、今井姓)てる子さんからも、祇園会 宵やまの匂いも賑わいも添えての便りをもらった。高校生の昔の顔しか知らない,覚えが亡い、それが懐かしい。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月十三日  木
     起5:45 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 56:0 kg    朝起き即記録 
◎ 日本
 〇 燈籠の美しい畏れ 籠でなく燈が主役の祈り
 恋しい新三郎のもとへ、夜な夜なおぼつかない足元を照らして幽霊のお露主従が手にしていたのは、牡丹燈籠。あの場合はいわば提燈として使われていたが、出どころは墓場だった。燈籠は、もともと、ただの照明具ではなかった。神仏にささげた御明(みあか)り・御明しの燈明を、囲い、飾るものであった。その場合の「燈(ひ)」とは、霊魂や神・仏を待ち迎える導きであり、歓迎のしるしであり、同時に、訪れ来たまさに霊魂や神・仏の実在を、人の思いに印象づけるシンボルでもあった。神事・法事の席に、またお寺や、ことに神社に燈籠の多いのは、美しい燈籠の多いのには、そういう意味がある。ただの照明ではなかった。燈籠は、必ずしも現世の人の用をなすのが本来ではなかった。石燈籠も提燈も、たとえば「雨傘」と同じく、むしろ後発の、人くさい巧みな転用例であった。
 私が育った京都では、祇園の近くでは、盆が来ると、町内のどの家の軒先にも、めいめい趣向の繪やことばを描いた掛け燈籠が掛かる。夏のみものの風物詩であった。一つ一つ楽しんで観て歩いた。それも、やはり魂(たま)迎えであった。
 やがて地蔵盆の夜になると、道路の高くに夢みるような淡い色合いの、大きな大きな、木と紙との飾り燈籠が掛けられ、その下で夜更けまで盆踊りを踊ったのも、やはり、ただ人の楽しみというだけではなかった。無意識に子供も大人も、そんなときには死者の霊を慰めているという思いを抱いていた。日本人の信仰の根もと、足もとを、燈籠はいつもほのかに照らしてきたのである。
 燈籠にはさまざまな形が工夫されてきた。しぜん美術として章に耐える遺品も多い。萬燈会(まんとうえ)のように、おびただしい数の燈籠に一斉に燈を入れて、幻想的に現世と他界との境を溶かしてしまうような行事も、春日大社をはじめとして、各地にのこされている。
 燈籠をただ照明具と観るだけの感性では、日本の心と形を、未来へ生かすことは難しい。
 
 * 清やかに華麗で大好きな独弾のピアノ曲を聴きながらの、朝一番、いま六時十五分。コンチェルトやシンフォニイには身をひく。所詮は「個」立した「個」性を愛するか。
 
 * 東大助教授室から日大教授へ移られた昔の、小児科馬場一雄先生と夢に逢っていた。
 生涯にもし「二十人」と忘れられぬ大切な出会いを挙げるなら、医学書院時代の十五年半からは躊躇わず馬場一雄先生、そして、ご恩の金原一郎社長と碩学長谷川泉編集長(近代日本文学・詩人)にお出まし戴く。
 
 * 京の、東福寺大機院育ちの直木和子さん、来信。南禅寺下河原町という佳いところに棲まわれている。京のどこの大きなお寺サンも、抱えた末寺の「次期住職」確保にご苦労と。なるほど。よそながら、ウーン…。唸りますなあ。東福寺などなど観光客では大行列だけれと。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月十二日  水
     起5:35 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 56:5 kg    朝起き即記録 
◎ 日本
 〇 めでたや傘は末広 手放せぬ取り柄のある友
 「かさ」には、少なくも傘と笠がある。「きぬがさ」とてもいわれる蓋(かさ)もある。「こうもり」や「蛇の目」などは、傘である。落下傘もかたちが似ている。開いて、さして、雨や雪をふせぐ。さすというのは、物を手で上へさし上げる意味である。かざすとは、まさに「傘さす」ことである。「天蓋」や「おおがさ」のような、長柄の傘をさしかけるのも同じで、そういう役目の者を「おおがさかざし」、平安末期の歌謡などにも歌ってある。国宝の源氏物語絵巻に見える、蓬生の巻の光君も、「おおがさ」に雨を避けながら、従者とともに、今しも末摘花をひさびさに訪れようとしている。長い短いはべつにして傘は取柄の部分が頼りなのである。だが笠にはふつう柄がない。笠はじかに頭にかぶる。陣笠、編笠などそれで、笠は、いわば雨や日ざしを避ける帽子の一種なのだ。
 もともと傘や蓋は、法具であり葬具でもあり、必ずしも雨よけではなかったが、笠より余裕のある役に立つ形をしていて、雨具に転じていった。まして、夜目遠目傘の内という。傘のかげでは、ふつうの人も美人らしく、ゆかしく見える。たとえ春雨に濡れて行くにも、傘はたいしたお洒落な小道具になり、粋な意匠とくふうが愛された。実用一点張りではなかった。雨の日だけではない。日傘、繪日傘も、優しくかざすとなかなか佳い。むきだしより、すこしもののかげに入るだけで、色気がにじむ。思案のしどころである。
 男でも、けっこう傘の手放せない人がいる。とびきり粋なのは、ご存知、白浪五人男が稲瀬川の土手に勢揃いし、世にもみごとな連ねの名台詞を吐く、アノ場面。大盗ッ人の五つの大傘が、花より華やかに、大向こうを唸らせる。女文化のあざやかな登用である。
 傘をささせぬ市街地の設備も増えた。だが傘の用意、無くては済まない。服装が替われば傘の色も柄も形もまだまだ変わる。アメアメ降れ降れの唱歌が、今も、耳の底にある。
 
 * 毎夜の夢見の斯く宜しくないのは、わが「人徳の欠陥」を夢にも謂うか。やれやれ。朝一番の慨嘆とはなあ。
 
 〇 秦先生 メール配信の不具合か、本メールを今日受信しました。(もしかすると、私が見逃がしていたかもしれません)
 七夕の日に熱中症とは、 星に思いをといった情熱的な熱を感じることなら雰囲気良いですが、ただただ暑い、というのは本当に気をつけなければなりません。指がじんじん鳴るというのは、重い熱中症(水分不足)かと思われますから、水分補給をこまめに行ってください。
 さて、15日の件、了解しました。私の予定表から「省き」ましょう。
 ただ、度々お伝えしておりますが、拙宅は秦先生の家から15分の、それこそスープの冷めない距離ですから、秦先生の調子を確認することも兼ねて、電話でご連絡差し上げようかな、とも考えます。私個人は 週末はそれほど忙しい身ではありません。(なら、博士論文書けと言われそうですが) 先週末に庭の葡萄の手入れを終えましたので、今週末は時間が出来ましたし。
 
 先生が自分で「読者へ手渡す」ことに責任一貫持ち、それが「湖の本」として続いてきたことは、私が先生に出会った1992年「冬祭り 全三巻」を発行していた先生56歳の頃から、私自身、理解しているつもりです。また、
 
 「残年」も「体力・余力」ももう少ないと自覚しています。
 もう、いつ「終える」か知れません。
 だからこそ、自身で、責任をもって努めたいのです。」
 
と、いう気概も理解しているつもりです。
 ただ、それが「「発信」「公開」は他に委ねるという道は行きません。」には直結しない、と考えています。
なぜなら、先生が著作を刊行されていたのは、編集者がおり、発行者がいる、出版という社会でのことでしたし、先生自身、医学書院時代はその編集者であった訳です。
先生は、自身著作のすべてをコントロールしていたとは思いますが、周辺に人が介在していなかったわけではない、と考えます。
(ホームページにも スキャン後未校正のものが多くあります)
 ウェブの更新を待っている人がいます。
 
 わずらわしい元学生だな、と思われるかと思いますが、
1991年10月56歳で東工大に着任した秦先生の年齢に あと4年と近づいてきた私が 私なりに大事に人間関係をしてきた その「最も大事な関係の一つ」である秦先生の残年も少ない今に対して、一期一会で向き合いたい、と考えていることも、ご理解いただければ、と思います。
 教授室で先生から
「きら星のような太宰賞選考委員の皆さんも含め、私は人間関係は大切にしてきましたよ」と言われたこと、 とても強く憶えております。そういった言葉が私の血肉になっていると再認識することが多くあります。
 「お仕着せ(=押し着せ)みたいですみません。
 が、それは人間関係を大事にしていることになりませんよ、と、また云われてしまうかもしれませんね。
 よろしくお願いします。  櫻
 
 * 感謝 感謝 ありがとう  深切の実意 親身の言葉と胸に響いて入ります。 秦
 
 * 「編集者」という他人手を介さないといわゆる「出版」という関所は、むかし、おそらく今も、通れなかった。確かに私自身関所を守る「代官」であり、また時機を越えては自身「義経」であった。然様の編集者介在の「出版」であれ、今日のようにパソコンでの自身「発信」の創作や著作であれ、「手渡し」また自身「発信」ギリギリの間際まで、著者は(誰元など広げはしませんが)、私は、「句読点」の一つにさえ、「ウツ・トル」「何処・此処・其処」の仕上げに「腐心・執着・苦慮」するのです、(たとえ後日に校正という機械があると判っていても、です。)
 むかし原稿用紙で脱稿の時代の私の「原稿」の蜘蛛の巣の乱れのような「手入れ」の凄みは、一つには「嗤い草」ですら有ったでしょうが、「私」という作者・著者には原稿は呼吸遣い微妙な生きもので、よく活かせるのうりをくこそが「才能」と心得ていました、だから、今も最期の最後まで自身の文章・創作に執着して「、」「。」の位置や数にも気を遣うのです。「ソコ、の、トコロ」は安易に人任せし難いのです。一種の「アホウ」なんです、が。最後の「発信」まで自身納得の作業が出来る(らしい)『ホームベージ発信』に私がしつこく願いを託するのは、それ故です。
 いつも 櫻くんに逢いたい、話したい、昔のように歓談したいと願ってます。金曜の治療の日ガ「無事」に通過できて、週末に顔が観られればとは,今も思っています。もとより家内の健康もとても無視できない「老耄夫婦」なんですが。   秦
 
 * 陳彦著の『主演女優』開巻すぐのあたりのビビッドな描写や表現は、即、亡き毛沢東の夫人江青ら文革四人組の追放直後、北京市街騒然の情景と空気そのまま、井上靖先生を団長に日本作家代表団六氏とともに招待され訪中し,日々目の辺りにしていたのと、時機を同じくしている。
 毛沢東に次いで周恩来も逝き、その夫人?が副首相として人民大会堂で我々を迎え、即、「チン・ハンピン(秦恒平)先生はお里帰りですね」と破顔諧謔の声を掛けられた。私の姓名はそのまま立派な中国名で通じたのだ。長編『主演女優』の出、しごく親しんで読める。われわれは謂うなら北京の俳優座にも行き、舞踊や歌謡や劇場での演藝演劇もたっぷり觀せてもらった。長編小説『主演女優』の状況へは、親しみ深くやすやす入り込んで行ける。
 
 〇 メール嬉しく  御心使い嬉しく。
 御本「名画の秘密」シリーズの 『ラファエロ  アテネの學堂』マルコ・カルミナーティ著は 読んだことがありません。バチカン、殊にシスティーナ礼拝堂には圧倒されました。
 セラミックに転写したフェイクですが、徳島の大塚美術館には、それこそ古今有名な絵画が並んで一日かかっても観終われないほどです。
  関東はこのところ厳しい暑さですね。くれぐれもお身体第一になさってください。必要なお出かけの時は無理なさらず、タクシーをお使いください。大事に、大事に。
 中村真一郎の "この百年の小説" 新潮新書を久しぶりに読み返しています。若い人たちはどう読むのかなど、さまざまな感想があります。  尾張の鳶
 
 * ともすると、じいっと目を瞑り、なにかしら怺えている。暑さか。疲れか。無気力か。
 
 * 晩、二度目の映画『ウインストン・チャーチル』に感銘を新たにした。幼少の昔にはルーズベルトとならべて「鬼畜」などと日本人は謂うていた。「昭和」は遠く遠くなった。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月十一日  火
     起5:35 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 56:76 kg    朝起き即記録 
◎ 日本
 〇 鹿おどし=添水 必要が生んだ水と竹と石の合奏
 澄んでかたい佳い音が響く。視線を送ってみると、前栽にかくれ、切り口も美しい青竹が、落ちる清水をいましも潔く含んでいる。溢れるかと観るまに水の重みで竹は傾き、ざあっと水を吐く。軽くなった受け口はたかくはね、反動で竹筒の尻が岩を打つのだ、カーンと。と、もう竹は顔をあげ、新たな清水を口いっぱいに呑んでいる…。やがて、また、カーン…。風情を知る人のいかにも趣向の仕掛けで、「鹿おどし」と書いて「しし威し」と訓んでいる。俊寛僧都の別業が「鹿谷(ししがたに)」あって平家物語に名高いように、訓みは間違いではないが、昔の辞書に「ししおどし」は無「しかおどし」で、それも、今言ったような鳴り物の仕掛けだけに限らず、慶事をさまたげ、安眠をさまたげるたぐいの、鳥や獣を逐い払う、いろんな工夫や仕掛けの総称であった。私などは、ここにいう「鹿おどし」はむしろ「添水(そおづ)」と呼び慣れてきた。僧都ならぬ「そほず」と沸かしに謂ったのは、案山子の呼び名で添水のことではないが、ともに、鳥や獣への「おどし」に相違なかった。
 趣味一方の面白い趣向かとみえたものの背後に、久しい人の暮らしの知恵であった道具がよく生かされている。淀の川瀬の水車(みずぐるま)は潅漑にも治水にも役立っていたが、そういう水車が、ギッタン、バッコンと米を搗いていたり、臼をまわして麦を粉に挽いていたりする。風情を求めた面白ずくどころか、生活に必須のたいした発明であった。添水の鹿おどしにしても同じで、あの小気味いい音がただ鳥や獣を威すだけでなく、じつは水のくつがえた反動の力で、あの音を立てる部分に杵を仕組み、「添水唐臼(そおづからうす)」などといって、米などしっかり搗いていたものである。水の走る力を、ちゃんと日々の為に使っていたのである。竹や木や石と、まさに親しくともに生きていたのである。「形」を愛でるだけでなく、日本の暮らしに生きた自然のメリットへの敬愛を、忘れたくない。
 
 * 獰悪に学校内に威を張った上級生の三人に、家の前をのしのし通られ縮む想いしたり、友だちに暫時借りたカメラの貸賃にと「300万円」強いられ弱り果てたり。なんでこう夢見がヒドいか。ムチャクチャ。
 
 * 篠崎仁さんに頂戴した、「名画の秘密」シリーズ『ラファエロ  アテネの學堂』マルコ・カルミナーティ著。まことに佳い 興味深い「名画の秘密」であった。遺憾にして もう私がバチカンのラフアエロ超大名作の前に立つことは有り得ない。じつに生けるが如き「アテネの學堂」に群集した「哲学」の徒らの息づかいや声音や感動までを天才ラファエロは眞実觀に充ち充ちて描ききっている。そんな仲に、わたくしもまた紛れ入っているかのように胸が躍っている。
 
 * とは云え、この暑さと我れの疲弊は、これは何んたること。昏倒しかねない。
 
 * 昨日岩手の渡部芳紀さんを初めに、さいたま市の松井由紀子さん、浦安市の島野雅子さん、都・練馬区の持田晴美さん、都下・国立市の安井恭一さん、そして神奈川葉山町の森詠さんら、お送りした「湖の本」へ深切な励ましと感謝のそれぞれに佳いお手紙を下さっている。
 
* 視力の衰微進んで、身にも胸にも堪えている。合間合間に床に横になり、暫くは本を読み、寝入っている。それが必要と思う。
 読めるかなあとビックリしていた中国産の大長編現代小説『主演女優』、惹き込まれている。読める。
 藤村の『新生』秋聲『あらくれ』も超大で、しかも熱く競うような秀逸の作、しかもそれぞれに文藝の特徴をもち惹き込む。秋聲は、惚れ惚れと見上げるような彫琢・自然な見事な客観の叙述、なら、藤村は、深い体熱に怺えながら静かな態度でとにもかくにも事態と成り行きとを「見る」「見つづけて懐う」主観そのものの叙述。
 時代はトビはなれるが、「源氏物語」はもう超越の別格として、これまた和本和綴じ和紙木版よんじゅうはちさつもの『参考源平盛衰記』ちょうど言辞の頼朝が平家討つべしと蹶起かつ険しい連戦で石橋山に戦う辺りの感じ韓文厚生の「日本語」の刺戟はしたたかなもので。ずんずん読み進んでいる、やがては義経が兄の麾下へと馳せ参じてこよう。
 その上というか外というか、支那の講談・幻怪満載の大冊『水滸伝』『聊齊志異』をズンズンと楽しみ読んでいる。おまけに,時折四書のうち『孟子』を心しつつ拾い読みしている。
 テレビとは質も段も違った、「読書」は何の苦もなく分け入れる私の「別世界」、其の爲にも視力を崩し頽さぬようにと要心はするのだがなあ…。
 
 
 令和五年(二○二三)七月十日  月
     起7:30 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 57:2 kg    朝起き即記録 
◎ 日本
 〇 着物は遠くなりにけり 生活していた女文化
 和服・洋服という。着物と服と、対照的にいうこともある。総称して衣服という。和洋の差はあいまいなようで、常識は確立している。着物ッぽい洋装はある。洋服仕立てにちかい和装も無いわけでない。その辺の事は、あまり気にしないことになって来ている。日本語といいながら、漢語もヨーロッパ語も混じる。字に書けば漢字もかなも横文字も混じる。あまり気にしないで書いたり話したりしている。同じ事情である。食い物も、住まいも、衣服も、そして言葉や文字も、暮らしにだいじなものほど、いろいろに入り交じり交じり便宜にしたがっている。当然のことだろう。
 むろん和風・洋風というセンスは、仕分けも見分けも立っている。むしろ、いつでもどこでも、だいじに立てている。たとえば映画は洋服で見に行き、歌舞伎座へは着物で行くといったぐあいに楽しんでいる。日本人は、外來の文物を咀嚼の力の旺盛なぶん、そうした和洋の仕分け見分けが豊富に楽しめる。あまりこだわりなく受け入れて行く。
 だが、食生活も住環境も変わってきた。畳に座るより出歩いて立ち働いている。ふだんの身働きを着物でできる人はすくなくなった。ただ晴れ着・お洒落着になり、日常生活から遊離してきた。帯も結べずに着物に着られている人、似合わない人の方が多くなった。上村松園描く昭和の戦前・戦中ころの家庭婦人の着物姿をみていると、生活の気稟という、なつかしいものをしみじみと思い出す。
 肉体の曲線に添わせて裁断され縫製される洋服とちがって、着物は、直線的に平たく裁縫されたものに肉体の方を添わせ着こなす衣服である。立ち居振舞いに肉体の美をひそませ、秘めた色けを発散するのが着物の魅力になっている。晴れ着でただ澄ましているよりも、立ち働いてからだを動かしているときに、直線の着物がみごとにまるい隠し味を匂わせ、気稟の清質を日常空間ににじみ出させるのである。優れた美人畫はそれを描いたのである。
 
 * 夜前は「書き」仕事のハカをいかせたもう零時を半ば過ぎた時分から、独り、キチンでテレビドラマ「アストリッドとラファエル」の一回分を茫然と観て、観終えて、寝に行った。眠りはよほど雑に寸断され、つまりは書き継ぐ小説のこの先のいろいろを想っていた。五時過ぎ、起きようかと想ったが流石に根が足りないと感じてもう一寝入りした。
 からだは疲れてグタグタだが、思いやアタマは刺激的である。
 
 * 「現代画家」というに最もふさわしいお独りの出店ひさおさんから、美しい・素晴らしい「ブックアート」を戴く。手にして重厚、開いて豪奢。どうどこに置こうかと、こんなと雑駁な家住まいしている私は恥じ入る。
 
 * ド暑い。頽れそうに疲れる。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月九日  日
     起5:25 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 55:6 kg    朝起き即記録 
◎ 日本
 〇  お神籤を結んで 神の声を良い方へ聴く
 ちょっと自慢させてもらうが、筆者の(当時=)勤務校は、理系の最優秀生をあつめている。その理系学生の何百人もを抱えた教室で、「神(的なモノ)は必要か」と問うと、十人に七人が「必要」と答える。「罰は当たるか」と問うと、やはり十人に七人が「当たる」「当たるべきである」「当たった方がいい」と答える。「頭脳」「心臓」という語のどっちか一方に「こころ」と振り仮名せよと言うと、案に相違し、やはり十人に七人ちかくが「心臓」の方に「こころ」にルビを振ってくる。理系の知識からいえば「頭脳」こそ「こころ」と考えがちであるが、だからこそむしろ「心臓」に「こころ」を感じていたい、感じていると、それが現代から未来へ生きて行く人間の、大切なセンスであると思っているらしいのである。彼等の日々の学習や実験や研究の、精緻に高水準なことはたいへんなものだが、そういう中から、これらの判断や選択が生まれている重みは無視できない。
「お神籤をひくか」とはまだ聞いてみないが、受験前に湯烏の天神さんなどへ参ったという学生はいっぱいいる。「お神籤」はひいていたのである。
「神意に問う」という行為は、「知」という表意・象形文字の根源に刻まれてあることを、もう、われわれは忘れ果てている。「神意を請け」た、つまり「知を授かった」神への感謝の捧げ物、それが「美」という文字の原意であったことは、もっと深く忘却している。知と美の歴史は、じつは「お神籤」に結び龍められていたとさえ譬えられる歴史があるのだ。そして今日われわれは、良い「お神籤」をひいて罰ならぬ好結果に恵まれたなら、ぜひお礼参りをして、即ち、捧げ物の「美」に代わる「お賽銭」などをはずんでいる。       「お神籤」の深い意味は、神と人の意を通わせ、いわば通路(パイプ)となる木の枝に「結ぶ」「結う」かたちを示すことに在る。だてに結ぶわけでなく、それももう意識にはあまり無い。だから気軽にあんなに繁盛するわけで、それも妙におもしろい。
 * 廊下の奥に 仏壇とは謂うまい、正面奥に「秦」両親の佳い写真を懸け、前方に,亡き孫「やす香」が五歳頃の愛らしく玄関外でポーズの写真を中に、右寄りには、妻が描いた生けるごとき亡き「ノコ」の彩色の顔、左寄りには私の目にとめ買ってきた「ネコ・ノコ親子」と觀える・観たい仲良い坐像と、「黒いマゴ」のシッケイしているような小さな愛らしい黒い坐像を置いている。
 わたしは、夜中、利尿効果で多いときは五六度も手洗いに起つが、その途中、かならず「秦の父母」に挨拶して語りかけ、また愛らしい「やす香」はじめ猫たちの肖像や彫像とも、きっと「ひとしきり、あれやこれや」話し合うてくる。得がたくなつかしい,胸の熱いいわば「秘密の刻」を喜び楽しんでくる。そしてまた寝床へと戻る。妻は知らない。
 
 * 何としても永く掛けてきてまだ半ばかと心している新創作の仕上げにこそ邁進しなければ。構想してあるのを、なぞり追っているのではない。作の内から必要としてくる性急を懸命に聴いて追い掛けている。成否の程も判っていない。創造と創意と執筆の混然這うような漸進であるが、怺えて、作の要求に応じて「展開」を追っている。「創る」しんどさを怺えている。
 
 * やすやすと人づきあいし世渡りして行けない男とは、諦めている。くどい、煩いことは疲労の種にこそなれ、そこからモノは生まれ難い。「読み・書き・讀書と創作」と自身納得している中に「話し」ないし「付き合ひ」が脱けている。所詮「人なか」で生きて行きにくい本性のようだ、私は。
 
 * 晩、九時過ぎ。夕飯後、寝入っていたが、快眠でない。乗り物で帰れない夢、街なかを迷い彷徨う夢、悪意や虐めに遭い続ける夢。ばっかり。心和んで嬉しくて溜らない夢とは奇蹟のていどにしか出逢えない。よくよく私は出来悪の性根なのか。とにかく裳寝入って,夢見て其の爲にさらに疲れるとは情けなくなる。目覚めている間は着る辛さ湯苦しさは感じない、のに、寝入るとサンザンな目に遭う。 目覚めている間は心神を自律できるが、寝入るとどうにも手に負えない
 それでも、もう十二時、はや零時へ跨いで、永らく思案に思案してきた小説一つの難所を、やと跨いだか、と思う。がんばった。
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月八日  土
     起5:15 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 56:7 kg    朝起き即記録 
◎ 日本
 〇 由来遙かな畳と襖 日本家屋の嬉しい名脇役
 畳や襖を「たたみ」「ふすま」と書き直してみると、漢字慣れして忘れていたことが、また見えてくる。畳は、もとは「たたむ」ものだった。用があって敷き、用がすめば「たたん」で蔵った。蔵っておけた。今日の畳は、むかしは「厚畳(あつじょう)」とわざわざ呼ばれ特別の用途のものだった。ふつうは茣蓙や筵(むしろ)ようの、畳める薄縁(うすべり)がまさに「畳」であった。
敷くと畳むが一対の便利さでむろん包むことも巻くこともできた。その点は風呂敷と似ていたが、さすがに畳のほうが歴史は古い。倭建命が海路の難に遭ったとき、妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が海神をなだめようと畳とともに海に身を投じた話は、絵本でよく読んだ。だが厚畳ではなかった。中世の書院や茶座敷が、かつては玉座などに用いた厚畳を、徐々に一般化していった。庶民の家庭に定着したのは古いことではなかった。
 板間に薄縁の畳よりも、はるかに厚畳は暖かく柔らかく快適で、日々の暮らしにはかり知れぬ恩恵と安堵の思いをもたらした。青やかな畳表の香気は、湿潤を吸い騒音も吸い、日本家屋に独特の柔らか味を添えた。その上で寝たりまた死んだりする嬉しさを恵んでくれた。厚畳の普及は、日本の豊かな植生が育んだ國土の恩であることを忘れてはなるまい。
 畳と対(つい)になるのは「障子」で、「襖」は広い意味で障子の一種であり、また、壁の変形でもある。障壁なのである。襖を「ふすま」と読み、さらに「衾」と書き換えてみると、寝る、夜具、寝所との深い関わりがすぐに察しられる。繪=障壁畫のある襖の出現と普及も、寺院や宮殿をのぞけば、そう古いものであるわけがない。もともと、衝立や屏風ないしは几帳や衣桁(いこう)で囲った「ふしど」「ふすま」つまり寝所や夜具の意味が、生活上の必然で障子化・障壁化して行き、建築要素のなかでも殊に美しい装飾機能をもつようになった。繪襖もまた無地襖も、畳に映えて美しい。繊細な工藝美の「引手」の意匠も見落とせない。
 * 二日間に三度、倚子から転げ落ちた。右の腰裏がいまも痛む。あちこちギクギク痛む。昨日は「熱中症」で潰れた。痺れて両掌が延々と、ジンジンと、鳴り続けたまま、それでも『参考源平盛衰記』で頼朝蹶起と苦戦の「石橋山」を、源氏物語「朝顔」から「少女」を、秋聲『あらくれ』藤村『新生』対照の名文が身に沁み面白く懐かしく、遅くに寝入った。
 
 * ペンクラブの委員会や理事会で出合うていた菱沼彬晁さん多年の御労苦からついに完譯されて、中国、陳彦の超大作、「文革」の頃をまこと刺激的に思いおこさせもする『主演女優』が掌に重い三巻に成り、函に入って贈られてきた。 おめでとうと「敬意・感謝」を送る。
 
 ヶそれにしても、昨日はシンドかった。弱り目に祟り目の「熱中症」に潰れた。かつがつ医家から家へ帰り着けて、凌いだ。弱くなった。しみじみ「残年」と「体力」との寡なさを実感する。なんとか「まあだだよ」と未練がましく生きのびることに成るなあ。
 
 〇 マルコ・カルミナーティ『ラファエロ アテネの学堂』(西村書店、2015)
 夙に有名なラファエロの傑作「アテネの学堂」一枚だけについて書かれた かなりマニアックな本です。
 美術的な解説もさることながら、画面中央のプラトン、アリストテレスを囲む「56人」の「同定」がミステリックでもあり楽しい。多くの美術全集にも必ずこの言及は有りますが、本書のその探索のレヴェルは、類書には見られません。  篠崎 仁
 
* お手許に2冊ご所持の一冊を送って下さった。すばらしいラファエル超大作の興味深さは文字どおり巨大な深淵を覗く心地、ゆーうっくり楽しませて戴く、有難う御座います。
 
 * 「小説を書く」「創作に類する文章を書く」微妙さ、容易に判って貰えていない。他の人のことは謂わない、謂えない、が、私に限っていえばその「作・文章」をもう「これまで」と手放す直前まで、何ら極端で無く「句読点」や、「…」「・」「ー」「!」等々にまでまだ決定を慮るのは常のこと。それらのただの一つを容れたり省いたりで「變化」する「何か」を、作家は、私は、いつもしみじみ「実感」している。あらかた書いておけば、アトの「公表や発信」は機械的に人手に委ねるなどということは、ゼッタイにあり得ない。手放す最期の最後の微妙に目を瞑り、人頼み、人任せで「発表・発信」したりは、決してしない・出来ない。作家/文章家の他の誰もが、などとは云わない。「私は」そうである、と謂うこと。
 * 「寝て読み場」に最近の「戴き本」が数冊積まれている。
 順に構わず手に採ると。
 @ 日本画家、大和飛鳥にお住まい烏頭尾精さんの随想録『飛ぶ鳥ものがたり』が、筆者自身の魅力の墨画ふうの幻想作と、大きな活字でおおらかな「飛鳥」風土記を成している。受賞して戴いた京都美術文化賞で、私が選者時期からのもう久しいおつきあいである。京都市の美大卒、私より三歳の長者。私の入学した京都市立日吉ヶ丘高校はその「美大」術構内に同居していた、私自身は美術家志望では無い普通科生徒であったが、現代・上代の美術骨董の店の多かった東山区新門前通りの真ん中で育っていてす、幼来それらのウインドウを鼻の脂でよごすほど観て歩いていた。大學も美学藝術科を選んでいた。
 A 「名画の秘密」シリーズ、マルコ・カルミナーティ著『ラファエロ アテネの学堂』すてきに美しくも興味深い、ま、「絵解き」の大冊で、ルネサンス三大美術家の中でも好きな画家ラファエロの超大作、すこぶる大きいだけで無く、あのソクラテス、プラトン、アリストテレスの頃の学堂数十人をおそるべく巧緻かつ互いに挑戦的な群像として描ききっている。なんともハヤ、珍しくも興味津々の「研覈」が成されている。いまも熱心にギリシァ語を学んでおられる、「湖のほん」でもお馴染み、やはり私同年配の篠崎仁さんに頂戴し、ほくほく,喜んでいる。
 B これはもう数々お馴染み、京都での時期からも活躍を眺めてきた上野千鶴子さんもうシリーズ何冊目にも成る最新の『おひとりさま の 逆襲』(小島美里さんとの対談)。上野さんの「おひとりさま」談議には数々屡々脅かされているが着眼はまことに的確で。
 C そして今朝がた頂戴の重い荷をひらいた中国陳彦著の超大作小説『主演女優』全三巻、そうそうはお目にかからない中国産の現代小説で、多年書けて日本ペンクラブ理事としておつきあいのあった菱沼彬晁さんご苦心の翻訳。もう読み始めています、感謝。
 
 * ふと何十年を顧みて私のすこしは自慢な書庫の本の、ほとんど九割余も戴き本で。自身で買った書籍は滅多に無い、買った覚えはもう手に入りにくい岩波文庫の古典本など、ま、文庫本は新古ともにかなりのサッ卯を買っているが、書籍の形した大冊は研究書が多く文学本も大方頂戴している。今しも無熱心極めて感動しつつ読んでいる「島崎藤村集」「徳田秋聲集」は希有とも謂えて古書店で買い求めた「たから」ものであるが。
 
 * なにともなく、なにもかも煮詰まってきたかと感じる。人生の「煮詰まり」とは何か、頼りない、なかみの無い「予感」に左右されることか。想えばあまりに大勢がもう先へ逝ってしまっている。新制中学一年の音楽教科書に「オールド・ブラック・ジョー」が載っていた。音楽の女先生はあれを「通過」され一度も教室で唱わなかった、のに、私はあの歌を独りで覚えた。物思いをする「中学一年生」には「荷物」になった。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月七日  金  七夕
     起5:30 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 57:0 kg    朝起き即記録 
◎ 日本
 〇 万能風呂敷文化 変幻、敷いて包んで結んで自在
 風呂敷は「ひろげる」ものでなく、本来は「敷く」ものである。蒸し風呂、つまりサウナでの尻敷きであったが、いわゆる「湯」の時代になっても、入湯・入浴のさい洗い場に敷いた。湯殿番の女に「お手がつく」といったセクシイな場面にもお役に立っただろうが、浴場が一般のものになり簀の子が用いられ腰掛けも用意されれば、しぜん風呂敷は浴室から脱衣場へ所替えとなって、脱いだ衣類や持ち物を「包み」「結ぶ」ものになって行った。そうなれば人は実用一点張りでは済まさない。用いる人、人の生活感覚つまりはセンスに彩られて、はたらきに幅が出る。趣味の色がつき匂いがつく。「湯」や「浴場」から大きに羽を伸ばして、人と暮らしのあるところ、さまざまに役に立った。実用にもこれほど便利な発明は少ない。「大風呂敷をひろげる」という慣用句がお人柄や人智のの批評語としてまで用いられるほど、なにしろ一切合財を適当に「包んで」しまえる。用のない時はびっくりするほど嵩ばらずに畳んでおける。ひと趣向すればけっこうなお洒落もできる。
 敷く、包む、結ぶといった以外に、じつは人は「懸ける」という仕方でものを「覆う」「飾る」習いももってきた。その用に、大昔からわれわれは風呂敷ならぬ袱紗というものを使った。そしてその袱紗でも、やはり敷いたり包んだりしたし、「拭う」ことさえあった。茶の湯の袱紗には、そうしたいろんなはたらきが良く活かされている。
 風呂敷よりややハレの面持ちで袱紗は用いられ、風呂敷の方は、もっと日用・日常のいわばケの場面で活躍してきた。それは扇にたいする団扇ににていて、正味のはたらきは大きく広くそして気軽に扱える。外国への旅で、御土産に用意していちばん喜んでもらえる品の一つであり、美術品並みに歓迎される。軽くて、お荷物になる心配がない。しかも織りあり染めあり、大小あり、生地もいろいろ。
 風呂敷は日本の歴史を「結ぶ」最良の発明だと言い切っても、「大風呂敷」ではないのである。
 * 起き抜けに かすかに左上に、珍しく頭痛。
 夜前の浮腫止めが効いて小一時間ごとに尿意に目覚めた。ま、予期していたこと。
 
 * 今朝の内に歯医者へ,、二人で。空は晴れやか。気前は、低調。
 
 * 江古田二丁目の歯科へ十一時過ぎの予約で夫婦して治療を受けた帰りに、わたしが(妻ではなく)熱中症にやられ、両手の指は痺れてヒン曲がり、帰宅後も気分わるく、量にして斷続二、三升もの水分補給と、沢山なアリナミンとで軽快はさせたものの、夕暮れて六時半、まだ両の手指、軽くはなっているが捻れ痺れたまま。保谷駅の外で、,妻は日陰におき、日照りの中タクシーを立って待ったのが応えたか。ま、寝込みもせず、水分補給とモノをむしろ食べて食べて凌いだ。凄いというしかない暑さだった、しかもいつもと違い帰りの途中、いつもの「中華家族」で昼食もしなかった。
 こう書いている両手の指、一〇本とも軽くだが鳴るようにまだ痺れている。練馬で37、8度だったらしい。倒れずに済んでよかった。
 
 〇 秦先生 暑いですね。昼間は外に出ると、熱波にやられてしまいますので、
通院もお気を付けください。
 
 > 幸い、「舊機」での「読み書きとメール」とは出来ていて、この「舊機」から「ホームページ発信」さえ出来ればと、ダケ を、熱く念願しています。
> お疲れのところ、言いづらいですが、、、「ホームページ発信」『ダケ』は<
「舊機」からでは不可能です。
この数年、ホームページの更新が出来なかったのは、「舊機」の内蔵しているソフトではインターネットにつながらないからです。
インターネットは、悪質なハッカーがいろいろと悪さをするので、セキュリティを高めるために、ソフトを常に更新しているからです。
そのために、鷲津さんが新機を導入しました。
新機と舊機は基本的には変わりません。
気力さえあれば、同様に使えるようになってます。
ですが、「新機」を最高レベルで活用する必要もありません。ただただ、「ホームページ発信の機械」と考えていただければと思います。
 ある意味、ファックスみたいなものです。
 その辺を、15日にうかがう時にお話させてください。
 追加して、毎週私がご自宅にうかがって、
 30分程度の作業としてホームページ発信する、ということも可能とは思っていますので、検討していきましょう。
 それは、以前ご提案した卒業生チームで、「ホームページ更新だけ」お手伝いしますよ、とご提案したことと同じになりますが、あの時は、まだ新機・旧機のトライ前でしたから、状況は変化しており、再度考えても良い内容かと思います。
 
 * 深甚の好意を寄せてもらい、感激/感謝に堪えない。思案を重ねたい。一つには、私にもう「残年」乏しく、健康な若い人たちを迎え入れてお付き合いできる「体力・健康」にも切実に「不安」があるので。現に今日も、曾て体験しない「熱中症」にも負けている。
 
 〇 秦  恒平 君    湖の本「164号」ご送付有り難う御座いました。
 体重が少しでもお戻りの様子、羨ましくも、ほっと安堵しています。
 私事ですが、遅まきながら最近、眼の白内障手術を、暫く不自由な毎日でした。  普通でいる事の有難さ痛感です。
 
  ツァラトゥストラ   呼び掛けてくる「声」に惹かれ、ただその「言うこと」を聴い ている?。聴いて応じている自分の動悸を自覚している。
 「狂うかな?、私も」   
 
  87年の歴史の積み重ね、なんという、私との違い。1年余分に生きながら、何を学んできたのかしら?、私。反省。
  返信遅れてしまいました。眼が不自由で機械も手書きも手がつかず、読み書きを控えてました。とは言え皮肉な事に体調だけは近来には珍しく穏やかです。
 活字は健康に害なんですかしら?。   そんな事を考えながら貴君の毎日を連想。
「健康な人は読書をしない」こんな結論は暴論ですかね(笑)。 どうかお元気で読み続け、書き続けて下さい。   御礼まで。   久 拝  大學での一年先輩姉
                     
 
 〇 七夕です。
 咲き誇った紫陽花も 花を伐る時期になりました、来年の花芽がつくように。
 数日来33,34度と真夏を感じる日が続いていますが、まだ梅雨は終わっていないとか。気密性の高い現在の住まいでは未だ冷房をつけていません。が、これは老人が気温を正確に敏感に感じ取れない、その状況ではないかなど・・ふと考えたりします。
 御本の中で『詞花集』『千載集』の歌の批評を楽しんで読みました。わたしは凡そ批評することが苦手で、それは突き詰めると知識の欠如は勿論のこと、モノが見えていないのだと常に意識しています。
「何を見下ろして尾張の鳶は舞ってますか」と問われて、低空飛行もままならないと苦笑い、です。自分自身の行動を家族の都合に合わせて暮らしているからでしょうか。自分自身を閉じ込めているからでしょうか。
 久し振りにイギリスの詩人ブレイクの詩集を取り出しました。日本語に訳されているのは十分ではありませんし、関連の本も新しいものはありません。全訳、或いは研究会などあればと思いますが。ローマ教皇選出を扱った本やロマネスク関連の本、そして大和古寺大観。いずれも対象が大きくて立ち止まりながらの日々です。
 一番の問題は絵です。油絵だったら苦労しないで手軽に進めるかもしれない、描き始めるまでの準備があります。紙を、絹を貼る仕事、膠の管理など、今更ですが。そして勿論一番大事なのは何を描きたいのか、描こうとしているのかということです。沸き立つ思いは簡単にはいきません。才能も。 東都の鴉に厳しく叱られて当然です。
 祇園祭の京都。そして浄瑠璃寺の九体阿弥陀仏修理完成記念の奈良博物館の特別展『聖地南山城』が明日から始まります。行きたい!!!です。
 くれぐれもお身体大事に大切に  
 繰り返します 元気に夏を過ごされますように   鳶
 
 〇 お元気ですか、みづうみ。
 お悔やみのメールをいただきありがとうございました。
 一番悲しかったのは、亡くなる前々日、母が、もうこの世界には帰って来てくれない橋を渡っている途上だとはっきり悟ったときでした。ほとんど意識がなかったので、聴いてくれていたかどうかわかりませんが、枕元で好きな音楽を流し、たくさんの思い出と感謝を伝えました。すべて母が創ってくれた娘だから、自分がこうして生きていると思います。
 亡くなってからは、嘆く余裕はなくただただ事務手続きに追われていました。看取りから葬儀まで済ませ、かつて一度も経験したことのない深い疲労感で、口を開く元気もありませんでした。今日になってやっとみづうみにメールを書く気力が、なんとか。
 まず、お礼が大変遅くなってしまいましたが、湖の本164巻を頂戴しています。ありがとうございました。私としたことが、毎日疲れ果てて まだ一行も読めておりません。これから、母にも届ける気持ちで読んでまいります。
 何の親孝行もできませんでしたが、順番を守り、母を見送ることが出来たことに安堵しています。人生の一つの大きな区切りでした。
 七月の京都は祇園祭の季節、みづうみはどれほど懐かしんでいらっしゃることでしょう。京都人の血肉のようなもの、東京人にはないものだと感じています。みづうみの愛する京都が永く永く続きますように。
 わたくしは自分の日常生活を少しずつ取りもどしていきたいと。  夏は、よる
 
 * 「ことば」と「おもひ」が どれほど日々の生きように大きくも重たい大切なモノかに、感じ入る。まさしくも、それは自分自身の「生きの根、生きの音」なのだと共感する。共感出来ることを喜ぶ。
 
 * 「読み・書き・讀書と創作」は作家としてのてっそくであるとともに、その「公表」に到るまで、全責任は作家自身で取らねばならぬ。「人任せ」ではない、それがいかに難儀な「機械」での「発信」にしても。機械操作が難しいなら、その方法は棄てる、そういうこと。句読点やルビの一つにも作家は責任をもち、人頼みはしない。そういうこと。
 
 〇 秦様 迪子様
 お見舞いのメールありがとうございます。
 暑さの中、ご本を贈呈送本いただき、恐縮しながらお礼の一言も、申し上げず大変失礼いたしました。申し訳ですが、1日の土曜日に浴衣会で、仕舞い「阿漕」謡は「碇潜」と年寄りの冷や水ながら参加していました。
 謡の「碇潜」はいただきました『平家物語』のご本を読み返しながら。ありがとうございました。昨日木曜日やっとお礼の一言ハガキをポストに。ほんとうに失礼申し上げました。
 秦様 迪子さま、どうぞこの暑さを上手く乗り越えてくださいますように。そして
益々のご執筆盛んをお祈りします。  練馬  晴美 妻の女学校いらいの親友
 
*ほぼ縁の無かったこの人に「ようきょく」の妙を奨めたのは、ほんとに良かった。
 
 * 「熱中症」はまだ脱けない。痺れが疲れという実感へ動いている。しかし医者通いは私たち夫婦に、もう季節を問わず「欠かせなく」なっている。
 * 十時半になる。なにもかも過剰になる。疲れる。老耄とは斯くある事よ。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月六日  木
     起5:30 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 57:0 kg    朝起き即記録 
◎ 日本
 〇 あなありがた、円空仏 ほのかに夢に見えたまへ
 「十牛図」といって、悟りに至る境涯を人と牛とがいる十のステージで繪解きした、趣向の畫題がある。禅味横溢の好畫題で、牧牛図、帰牛図などには独立して素晴らしい画蹟がいろいろ遺っている。中国に多いが日本にもいい繪がある。現代では徳力富吉郎の版画で表したのなど、味わい深い。
 この「十牛図」の第十図は、ふつう、筆太に、ただ、ぐるりっと円相だけが描いてある。牛も人も、もう影もかたちもない境地が示される。まるで「円遁」の術、まさに円空・円悟のさまである。はっとする。
 円空は十七世紀に実在の天台僧で、生国(しょうごく)は美濃といわれているが、その実像を、ほとんどその名のとおり、感じさせない。むしろ虚像の実在感に満ち溢れていて、たとえば、どんなお顔のご仁であったか、背丈は、声は、からだつきはといったことが気にならない。諸国を遍歴し、数千本の仏像をいろんな木材の奥から鑿一つで彫(きざ)み出しだのが、じつに有り難くその土地土地にのこされている。まさに一体一体の仏たちが円空円悟の表情となっている。円空という人物は消え、木材も消え、仏さまが見えてくる。ただし円そのもののような仏さまとは味わいは大いにちがう。彫みの痕が、息づかいさながらに定着し、揺るぎない。目を耳をこらしていると、なにかしら空(くう)を躍る「手」さきと木の放つ命の「音」とだけが、見え、また聞こえてくる。
 世間にはときどき、これら円空仏を「蒐集」したいと思い立つ人がいる、が、あまり賛成できない。散らばっていてこそ円空仏であろうにと思う。また、これは何仏であると、熱心に名前を決めたがる人もいるようだが、それも余計なさかしらに思われる。花は紅、柳は緑、仏は仏の円相を示している。人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見えたまひし仏さまを、円空は彫んでいたのに相違ないのである。
 * 寝ているようで寝ていない、うつつに現に向き合うている仕事をしきりに夢に検討・研覈している。いま、自分が何につっ支えているか、どうする餘地や工夫がありうるか。即の役に立たないなりになにかしら「方角」は見えてきて助けられることがある。
 
 * 今西祐一郎先生  到来の話題のこと、ですが。視界視野みな穏和な京都に育ちました者の、反射的な納得や理解を申しますと、
   当該     思ひのこすことはあらじかし   は、   
   けっこな (=強いて謂うまでもなく=) こっちゃ     と私は 読み切ってしまいます。
 老耄 日々疲労疲弊に困憊しています。残年の少なさを肌身に覚えます。  どうぞ、お大事にお過ごし下さい。
 
 * テレビの、「コマーシャル」とは限らず顔を出してくる、主には男だが時に女でも、あ、云うぞこいつはと観て聞いていると、ほぼ確実に「ナント」と声を張る。肩を揺すって強調し連発するのもいる。なにかと「売る」ためでもあり、主張のためでもあり、とにかくも「ナント」「ナント」と息せき声を張る。
 わたくしはこれらを「ナント屋」と名づけ、「さあ云うぞ」「また云うぞ」と云い手の顔つきや声音も覚えつ眺めつ聴いている。気負ってもの云うことに生き甲斐を感じるらしいほどの「ナント屋」さんの煩いことよ。
 
〇 秦先生  7月10日頃とのお話いただきましたが、今週末は都合がつきませんので、
来週末、7月15日でいかがでしょうか。そうすれば、〇くんも顔を見せることが出来そうです。
 作業的には、
 再度、マニュアルを作って、私が実演し、
 先生に実地訓練をしていただく、という流れかと思っており、
 長時間を要するとは思っておりませんが、
 先日うかがった時のように、
 思ってもいないことがPCで起こっているかもしれませんので、多少の時間は必要と考えています。
 7月15日で都合の悪い時間はありますでしょうか。 櫻
 
 * 夏には幼少來強いつもりでしたが、
 老耄 暑濕 疲労疲弊に困憊し、半ば寝込んでいます。予約の医科通いが辛くなりました。夫婦してフウフウ、気が滅入らぬようにと心して日々を過ごしています。したい、読みたい「仕事」と「讀書」とを「くすり」に 日々服している按配です。
 わずか一週間先の しっかりした約束も、しづらいほど、メゲています。
 幸い、「舊機」での「読み書きとメール」とは出来ていて、この「舊機からホームページ発信」さえ出来ればと、ダケ を、熱く念願しています。
 よくは判りませんが、「新機」とは「連繋」しているようにも思います、が、私の今のアタマでは、「新機」は一応切り離しています。「文章を書く」それだけの私の仕事。複雑な機械作業は無用のわたくし。文章が滞りなく「書けて」「舊機から」「ホームページ発信」さえ出来れば、有難いのです。読者に「届け」て「読んで貰える文藝」の作家なので、ただ「簡明にそれ」を希望しています、が、私の自力では、その爲の「ホームページ設営」が不可能なのが情けなく遺憾です。
 「新機」の方は、ただ宏大な機械世界の機能を、好きに楽しむだけにします、「舊機」では、「書き・読み仕事」が広範囲へ「発信」出来れば良しと。
 心労・疲労で健康の腐蝕して行くのを、今、只恐れ、警戒しています。
 櫻君も、折角、どうぞ日々大切に元気でいて下さい。ありがとう。ありがとう。 秦 
 
 * 京・山科の詩人 あきとし・じゅん さん、お見舞い下さる。
 篠崎仁さん、野路さんからもお心入れのご挨拶やご本を戴いた。
 
 * 明日は歯医者通いの予約あり。雨に降られたくないが熱暑も辛い。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月五日  水
     起5:00 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 55:7 kg    朝起き即記録 
◎ 日本
 〇 能舞台の清寂 影向の神を松と迎えて
 能舞台といえば松羽目であり橋掛りだが、橋掛りは短くとも、また無くともとさえ言って構わぬくらいだが、松羽目は無くてすまない。そこに能楽堂の魅力があり、魅力の秘密がある。能舞台が多く神社に付属している意味も、また、その秘密に属している。
「春くれば門に松こそ立てりけれ 松は祝ひのものなれば、君が齢(よわい)もながからん」と昔の歌謡にもある。「めでためでたの若松さまよ」という民謡も、思いの外ひろく各地で歌われてきた。ただ正月松飾りの単純な頌歌(ほめうた)ではない。松に、もっと正目(まさめ)に神さまの影をみて頌めている。影向(ようごう)の松として、神の来臨をそこに感じ、そしてよろこび、畏(かしこ)み、かつは襟を正している。
 そのむかし春正月ともなれば、いずれからとなく、松を手に手に人々が御所に繰り込み、「君が齢」を祝って、舞い、そして囃した。「松囃し」は一つの祝言の藝能であった。神事ですらあった。「松」によせて神の光来を「待つ」思いがなければ、立ち別れいなばの山の峰に生ふる「まつ」とし聞かばいま帰り来む、と歌える下地はなかった。「去(い)なば」「待つ」のが「神」に頼む人の思いというものであり、その思いをまさに「松」にこめた。「松は祝ひのもの」という真意である。したがって能舞台の松羽目はただの景色ではない。道行きの風景を象った書き割りなどでは、ない、のである。そこに神はそれとなく来臨し、舞台の能は、照覧あれと献じられているとも言える。また、神そのものが、時に翁となり、さらにはさまざまの神男女狂鬼(しんなんにょきょうき)と変幻して能を演じているのだとも、言える。そういう仕掛けの不思議の時空間である能舞台だからこそ、「松」が、真の主役なのである。
 いい松が全国にたくさんある。まれに日輪を松に添わせた神々しくも古朴な舞台がある。「村の鎮守の神様の今日はめでたいお祭り日」にこそ能舞台の臍の緒は繋がっている。
 * 就寝前の「浮腫み」除りは、一夜して、効き過ぎるほど。執濃く「寒むけ」が脱けず「水洟」がとまらない。脚の攣る感覚は水分を補給すれば回避できている。
 
 * 健常とはとても自覚できない。小さくザワめくように膚寒い、暑い日とは判っていて。目にも貼り付くようなかすかな痛みが絶えない。気の弱りに負けてはいけないのだが。
 
 * もう、想ったことも無いようなことを仕出かして心神の気分を強引に替えてみるぐらいを試みないと、この疲弊には克てそうに無い。
 
 〇 ネット環境の無い 徳島松茂の家ですが、昨年スマートフォンに買い替え、進化した機能に四苦八苦。まだまだ使い切れていないことに、歳だなあとしみじみ感じながら、帰宅後、どうにか「私語の刻」を落とし込む事に成功し、これからは松茂にいてもご様子にアクセス出来ることに胸を撫で下ろしています。
 思えば、月様のホームページにお誘いを頂いたのが、26年前でした。
 ネットに繋がる携帯電話では、大きくなっていく容量に接続できなくて、買ったパソコン。転居を機にインターネット生活が始まった事。懐かしく思い出しました。
 天候不順に依る体調不良などにはくれぐれもご注意なされてくださいませね。
 月様、奥様、くれぐれもお身体をおいといくだされますよう。   花籠
 
 * 御顔を見た身との無い、のに、親類のような方々が日本中に。久しくも久しい読者と著者としての有難い「ご縁」に私はとり包まれている。作家なら誰でも、とは行かない。思いが繋がっていなくては、とても。
 
 * いま機械前で手にとれているだけの来信を、私自身合点できるよう、ただ順不同に挙げさせて戴こうか。
 川浪春香さん(京都市鳴滝) 井口哲郎さん(石川能美市) 上野千I子さん(都下武蔵野市) 山中以都子さん(岐阜県各務原市) 烏頭尾精さん(奈良縣明日香) 石毛直道さん(大阪府茨木市) 後藤みな子さん(北九州市) 寺田英視さん(埼玉県志木市) 安川美沙さん(大阪府豊中市) 勝田貞夫さん(千葉市) 浦野都志子さん(都・文京区) 原山祐一さん(都・新宿区) 小和田哲男さん(静岡市) 荒井千佐代さん(長崎市) 藤森佐貴子さん(埼玉県所沢市) 天野敬子さん(都・荒川区) 田中励儀さん(大阪府茨木市) 菊池洋子さん(都・豊島区) 岸田準二(大阪府松原市) 西村明夫さん(静岡県函南町) 島尾伸三さん(都・世田谷区) 江口滉さん(大阪府・池田市) 宮崎弘子さん(群馬県前橋市) 木村年孝さん(愛媛県今治市) 岩淵宏子さん(都・葛飾郡) 今西祐一郎さん(福岡市) 石内徹さん(千葉県長生郡)   これらは、文字通り、たまたま「昨日今日」戴き手にした「個人」としての「郵便/葉書」に限っていて、これに 全国の「大學・高校・図書館等の施設」からも「受領」の来信が数々重なる。さらには、「メール」という親書が童謡に届く。
『秦 恒平・湖の本』を配送・配本の「大要」はこれで、ほぼ、看て取れる。
 新刊から次回刊行までは、おおよそ三ヶ月から半ていどで数十年間実行してきた。
 慎重に書き添えておくが、この『湖の本』ここ数年來、一切「販売していない」。「頒価」は無い。一冊の例外なく、すべて「呈上」つまり「謹呈」している。
 もう著作で「お金儲け」し「遺産を残す」そんな「気も」「必要も」無くなっているから。願わくは、ただうち揃って現在「やそしち歳」の老夫婦が残年を安らかにと祈り願うだけである。
 喜んでいるのは、時として美しい佳い写真や繪の葉書があって身辺に飾れること。いまも安川美沙さんから村上華岳みごとな『墨牡丹』 田中励儀さんから京都御所静寂の『紫宸殿前庭』 西村明夫さんからなつかしい建仁寺の俵屋宗達『風神雷神』等々、まぢかに始終目に入れている。
 
 * 下記、例年の如く「推薦依頼」が来た。推薦して受賞された例も二、三在ったか。コロナ禍のせいとは謂わないが、この二、三年目配りも届かないで来た。類似のこういう御用にも機嫌良く応じてきたけれど、もう放免してもらおうと想う。ういい
 
 〇 秦 恒平 様
 時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
日ごろから朝日新聞社および朝日新聞文化財団の諸事業に格別のご理解、ご協力を賜り、厚く御礼申し上げます。
 このたびは2023年度朝日賞の候補者をご推薦いただきたくメールを差し上げました。
 朝日賞は、1929年に朝日新聞創刊50周年を記念して創設しました。
著名な文化人を顕彰するにとどまらず、自然科学分野の俊英に贈られる国内最高峰の賞でもあります。
 受賞者がのちにノーベル賞を受ける例も数多く、
2021年にノーベル物理学賞に輝いた真鍋淑郎さんを含め、ノーベル賞を受賞した朝日賞受賞者は17名となりました。   (以下・略 秦)
文化勲章との重複受賞(受章)者は100名を超えます。
受賞の方々の比類無いご活躍により、朝日賞が長い歴史の中で培ってきた推薦方式や評価基準など
選考の信頼性が改めて注目を集めています。
朝日賞は全国の大学や研究機関、有識者のみなさまから寄せられた推薦をもとに、選考委員会で絞り込まれます。
受賞者は2024年元日の朝日新聞紙上で発表し、1月下旬に贈呈式を行います。
ぜひ今年度も、ご協力をお願い申し上げます。
2023年7月
                  朝日新聞社・朝日新聞文化財団
▼ご推薦期間 2023年8月25日(金)必着
▼ご推薦入力フォーム(非公開です) 
≪人文≫
https://que.digital.asahi.com/question/11011082
フォームのQ1では【A1345】を入力してください。
原則1名(団体も可)、最大2名まででお願いいたします。
年齢、国籍に制限はありません。人文の領域では、この1年あるいは近年の顕著な業績を重視して選考いたします。
フォームに入力の上、送信ボタンを押すと、入力内容の控えが届きます(2名ご推薦の場合は1名ずつ記入と送信を行ってください)。
フォーム内に、朝日賞全受賞者リストPDFへのリンクを掲出しています。五十音順の索引もございます。ぜひご参照ください
▼別途郵便でも推薦依頼状をお送りしました方には同じものが届きますがご容赦ください
▼メールは弊社にお教えいただいた、または公開された情報をもとにお送りしております。今後メールが不要の場合、また送信先の変更なども、このメールへのご返信で承ります
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asahiprize@asahi.com
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朝日新聞社 朝日賞事務局
〒163-0210 東京都新宿区西新宿2-6-1新宿住友ビル10階
(株)朝日カルチャーセンター内
 
 * 重たい濃い眠りから覚めるだけの生きて在る実感が、両の肩を痛くし頚をガクと落とさせる。もう宵の七時を過ぎていて俯いて障る髪が痛い。
 
 * いま、読んで物思う手身に迫るのは何十年ぶり化の藤村『新生』、子供達の世話に同居の姪「節子」を身籠もらせてしまう「岸本」こと島崎藤村。高校生だった私が思い切って小遣いをはたいた或る文学全集の中からの『島崎藤村集』には「若菜集」「破戒」「家」等々、最期の超大作『夜明け前』だけを覗く代表作の殆どが採られてあり、その中で私は買って帰ったその日、その夜の内に『新生』を選んで一気にゼナ部をよみとおしたのだった、新門前通り「ハタラジオ店」の二階、道路沿い、昔ふうに、大屋根にそい天井のひくい当時私の寝室で盆京部屋であったところで、わきめもふらずほぼ夜通しで読み切った。深い深い感銘を得た。太宰賞を受けた記者会見場で好きな作家はと聴かれ瞬時もおかず「藤村、漱石、潤一郎」と何迷い無く言い切ってどよめかせた俊寛にも、藤村作なら『新生』とおもっていた。序でに謂えば漱石なら『こころ』 潤一郎なら『細雪』に極めていた。暑い読者であった。
 
 * 一冊本の『島崎藤村集』なみにこれは古本屋での収穫だったがいわゆる「円本」の『徳田秋聲集』一冊を買ったのも、大きな嬉しい収穫だった。代表作のほぼ全作が収録されていていわゆる古本ながら「宝物」のように今も深く深く愛して、現に藤村の『新生』と対に秋聲集からは『あらくれ』を愛読している。ともにだんぜんの名作でありながら、両文豪の境地は歴然と性質を異にしていてそれが溜まらなく私を惹きつけている、むろんそんなことはとうの昔から骨身に沁みるように理解しているのだが。秋聲と藤村ならむしろ似ているとかんじているような読者もあろう、が、読みようでは秋聲筆致の確かさは文藝の極致と謂いきる人が居ても不思議で無い。しかも彼秋聲の場合は「同じ金澤」の出、「同じ紅葉門」泉鏡花との対比にあまりに刺激的なほどの「差異を読む」おもしろみが在る。乏しかったこづかいからしては踏ん張ったかいものながら、「島崎藤村集」「徳田秋聲集」の各一冊は私の書庫独特の「光輝」と敬愛している。
 
 * あその書庫に読みたくて未だ読めぬまま蓄えたどんなに莫大な蔵書が「欠伸」していることか。残念。
 
◎ 令和五年(二○二三)七月四日  火
     起4:40 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 56:9 kg    朝起き即記録 
◎ 日本
 〇 鬼瓦の気品 災厄を攘って魅力横溢
  いかつい顔をした人を「鬼瓦のような」とワル口を言う。だが、ふしぎに親しんでもいて、悪意ある悪口とは思われない。本気で恐ろしいとは思っていない。むしろ恐ろしいモノから守ってくれそうな、頼みがいありげな「鬼瓦サン」であることが多い。大屋根たかく虚空をにらんで棟の端を守っている鬼瓦も、やはり守っていてくれる鬼であり、攻めてくる害敵の鬼を追払(やら)う鬼サンである。それかあらぬか、鬼瓦の鬼サンも本心ではこわくない。頼もしい。それだけでなく、たいがいの鬼瓦は美しくすらあるから、うれしい。りっぱに家を守りながら、家を飾ってくれる。飾るというのが弱々しければ、荘厳している。
 鬼瓦はれっきとした彫刻美術である。建造物の一部にまさに嵌り込んでいるけれども、観賞に耐える優物の多いことでは、狛犬サンと並んで、より堅固に壮烈な気概に富んだ美術品なのである。ただ、見るには高く、遠い。大建築になると、やっと下がり棟の端を固めた方の鬼瓦は視野に入っても、大屋根の天辺(てっぺん)を左右で守っている鬼サンの顔は、なかなか拝ませて貰えない。
 なにも鬼瓦といえば、鬼サンばかりでは、ない。名古屋城で名高い金の鯱鉾のような、あれも、「鬼瓦」なのである。鬼サンの変型とみてよく、つまりは建物を守っている。鬼瓦が鬼サンになったのは八世紀ぐらいからで、奈良時代は蓮華文の大瓦をあげていた。それにも幾変化も見られた。平安時代になると鬼瓦が普及した。京の大極殿の鬼サンは鬼瓦族の紳士である。なかなかの紳士の多い社会なのである。出入り門の鬼瓦は向かい合いに置き、家屋敷の鬼瓦は背を向け合って置くのだそうだ。背中合わせでは可哀想との声に、なあに夜中は人知れず、向き合っているさ、と。鬼瓦もあれで、ご夫婦であるらしい。ハテ、お目通りの鬼サン、殿方であろうか、奥方なのであろうか。
 * 深夜 凄い雨を聴いていた、と想う。目が覚めると静かな朝明けであった。すこし早いかと想いつつ四時台の内に床を離れてきた。
 
 〇 恒平先生   お忙しいのに私のメールにわざわざお返事を頂き大恐縮です。
 狸橋を古門前のほうに渡ったところの「二軒の服部さん」はしりませんが、橋の手前に確か平田という、私と同級生の豆腐屋さんがあったような気がします。
 せんせいのお宅のあたりには、わたしの同級生もたくさんおりましたので、狸橋のあたりにはよく遊びに行きました。
 谷口さんという美術商や、 東山通に出る手前の路地に山田君というのがおり、その東隣りの大塚医院がかかりつけでした。
 先生は以前からあのあたりのことをよく書かれておられるので、そのたびに懐かしく思い出しておりました。
 先生とは 何故か小学校、中学校、高校と同じなのが不思議なご縁ですね。
 今、なにかそのあたりのことをお書きのようとも想われ、楽しみにしております。
 コロナ禍と猛暑とが襲ってきます!
 くれぐれもご自愛くださいますように。 京 桂  服部
 
 * 知恩院下 古門前通りと新門前通りとを「結ぶ」「渡す」「?ぐ」のが剛っつくてしかも瀟洒な、十メートルとない石橋が、白川を渡す『狸橋』だった。謂わば二つの門前通りの「臍」に相当した。
 服部さんのメールに出る名も家や人もみな判って懐かしい。美術商の谷口さんはいわば我が家も属した「仲之町」の顔に相当して、敗戦後の暫くは寄留していた親類を含め同年以下数人の女の子が暮らしていた。同年の「薫ちゃん」は、私が生涯を通して一等力んで勉強や成績を張り合った海外から帰還か戦災に遭ってかの、ハイカラな女友だちだった。我が家とはやや斜めに三、四軒西に向き合うていた。そしてやがてはみな銘々の根の都市歳や街へと移転して行った。想い出せば何もかもキリが無い。
 
 * チャップリンの作・主演、撮影/監督の映画『殺人狂時代』を鈍く痺れる苦みで観た。
 進めるべき「書き・/創り」仕事を握りしめながら疲労の穴へ沈んでいる。情けない。
 
 〇 秦先生   おこころの籠もったお言葉をありがとうございます。
 自覚症状はあまりないので、蟄居している限りは元気です。
 上智大のゼミは、通学による「感染」がこわいので、オンラインで受講させて
 
もらうことにしました。
 『ラファエロ アテネの学堂』、先ほど郵送いたしました。お楽しみいただけましたらさいわいです。
 私のパソコンは立ち上がると先ずこの絵画のプラトン、アリストテレスが現れます。
 古典ギリシア語を学びギリシア哲学原典を読み始めて16年余りが経過しました。いっこうに進歩しないのですが、ライフワーク的な道楽になっています。   篠崎仁
 
* 七十路へ踏み出したまでは、掻き回すと白髪のアタマから「雲脂」が舞った。いま、力任せに?いても雲脂(ふけ)の「ケ」もない。
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月三日  月   
    起5:00 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 56:5 kg    朝起き即記録 
〇 神輿は景気のもの 金色燦然、かつぐなら神様
「みこしをかつぐ」という。わけはよく分からないけれど、なにやら有り難そうなのと仲間も多そうなので、とりあえず「わっしょい」「わっしょい」声もろとも仲間入りをしておく意昧である。「みこし」の本尊については、ま、分かったようなフリををしていれば済む。「御輿」または「神輿」の中を本気で本当に覗いてみた人など、もともと、いないか、あまりいるものでは、ない。神様か、神様ナミの人をかつぐのだと思っていれば足り、だから有り難い(らしい)のである。大昔は、僧兵や神人(じにん)のようにお神輿を振りまわすヤツまでいた。
 変わり神輿といい、風の変わった趣向のお神輿も、世間のお祭りにはいっぱい出る。酒の樽をかつぐ連中もあれば、収穫の野菜をかつぐ連中もいる。親分をかつぐ陣笠もいる。
 それでも西の祗園会も、東の浅草三社や神田の祭でも、まこと神様の御神輿はほぼ似たもの同士の美しい造りで、違うのは、かつぎッツぷりもそうだが、掛け声や囃子、つまりは景気の付け方であろうか。亡き志ん生で聴いた落語「祗園祭」では、江戸の男と京男とが、自慢の祭り囃子を汗だくで競演するのが堪らなくおかしかったが、気持ちは分かる。
 かつぐのはただの神様では、ない。地元に腰を据え、住民と共存共栄のゆえに「有り難」ければこそ、ご神体が如何様であれ、喜んで人間はその「神輿をかつぐ」のである。うかうかとヨソ様のお神輿に負けていられない。だから、はためには贔屓の引き倒しのような滑稽も、また、大いに許されるわけである。「わたしの人形はよい人形」と同工異曲、「おいらの神輿は最高の神輿」なのだ。どんな世間にも、「我」が集うて「我々」になり、「彼等」と張りあう。結集の芯になるのが「かつぐ神輿」であった。まさに「氏神サン」であった。「わっしょい」「わっしょい」「景気をつけろ」「塩まいておくれ」である。
 それにしてもお安い「御輿の主」は、今や時世おくれの、かの「派閥」の親分衆であった。誰も、かつぐ気にもなれなくなった。まるで景気がわるいんですもの、当然です。
 
 * なにやら、自分が頼りない。
 
 〇 秦さん  メール有難うございます。「湖の本」160、161、162、163、164と次々と出されて、ゆっくりと読ませていただいています。秦さんの「読み・書き・読書と創作」の力は信じられないほどですね。
 おかげで愚鈍な私にも昔の京都の雰囲気・交友関係・街並みなどもよみがえり、楽しませてもらっています。
 また秦さんの友人知己からの便りもすばらしいです。
 奥さんともどもお体を大切にもうすぐの米寿も健やかに迎えましょう。 明夫
 
 * ほとほと 老耄の淵に胸まで浸かつて疲弊している、が、さりとて、横になるぐらいしか手が無いまま脚を縮めている。
 
 * 郵便がたくさん来ていた。それぞれに有難い熱いお便りで感動、仲にはお札まで籠められてあり恐縮した。関連して御著作も何人か頂戴した。講談社の天野敬子さん、文藝春秋の寺田英視さん、石川近代文学館の井口哲郎さん、東大教授の上野千I子さん、画家の善知鳥精さん、作家の後藤みな子さん、同志社車の田中励儀教授等々、懇切なご感想二十数通、激励戴いた。感謝。感謝。
 
 * 首が落ちそうにまで疲れて居る。そうそう寝込みもならないのに。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月二日  日   
    起4:40 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 56:7 kg    朝起き即記録        〇 吉凶を結ぶ水引 祝い斎い忌む國の美しい呪術
 「みづひき」という響きには独特のやさしみがあり、言いしれぬ深みもある。深みには、実は、かすかに悲しみが秘められている。慶弔はものの表と裏、人の世はそう出来ている。祝儀には紅白・金銀・金赤などの水引を用い、しかし不祝儀には黒白や黄白の水引を用いる。ここで「みづひき」というのは、細い紙撚(かむよりり・こより)に水糊を引いて固めた意味に読んでいいだろう。吉事と凶事により品などに掛けたり添えたり飾ったりしてきた。豪華に趣向の技を誇るものあり、簡素にしみじみと実意をあらわすものも、ある。だが「みづひき」は、もともと神輿やまた仏の座に張った幕、神事に由来の藝能の舞台や相撲の土俵のうえに張った「水引幕」に由来があるように、どことなし霊魂をひき沈め、また祭りこめた、いわば魂封(たまふう)じに玉手箱に蓋をするに似た働きをもっていた。いや、今でも、かすかにその気持ちは残っている。ただの装飾でないことは、日本人なら微妙に感じ取っている。鶴や亀や、また翁や姥がかたどられたりするのにも、「祝」意もさりながら、いわば「霊」意をも心深く畏怖して慎む気持ちもよく示されているのだと想われる。
「言祝ぐ」と書き「ことほぐ」と読み、むろん「いふ」「いはふ」意味であるけれども、その一方で「斎ふ」と書き「いはふ」とも上古来読んできたのである。「いふ」「いはふ」から潔斎・斎場の「斎」の字義をはさんで、「いむ」「いまふ」の「忌」の意味まで、ほとんど距離はなかったのだ。
「みづひき」は「祝・斎・忌」の三字をまさに引き結ぶかのように用いられてきたのであり、死者を忌み斎ふ思いと、生者を斎ひ祝って励ます思いとが、表裏して引き結ばれてきた真実を、水引ほど如実にさし示す物証は、またと無い。この国では「祝」が「はふり」とも読まれ「葬(はふ)り」の意味を秘めた事実に、謙遜でありたい。
 
 * 一日24時間の18時間を寝入ったり居眠りしている。健康に生きて暮らしているとは謂いがたい。
 観ると、突如、左上腕表に異様に真っ赤な小さくはない血斑が二つ。夏場ゆえ皮膚への点状の斑点は気をつけているが、突如と湧いたように目に入った近接して二つの血斑の真っ赤い1センチ大にはびっくりしている。何ぞ。
 
 〇 先生、何度もメールを差し上げ申し訳ございません。
 「有済」という名前が出ていたので、70年前を想い出し懐かしくなりました。
小学生の頃は「有済校」という名前が厭でした。近くの小学校は粟田、新道、清水と皆んなわかりやすい名前だったのに、「有済」だけが何となく古臭くてわけの分からない名前だったからです。
もう随分前になりますが、10名くらいで小学校の同級会をやった帰りに、廃校になっていた有済小学校に行ってみると、校舎の壁に校歌が書いてあったので
歌詞を読みながら全員で合唱しましたが、歌い終わって全員しばらく沈黙しました。今なら少しは歌詞の意味もわかりますが、「耐えて忍べば済す有り」という所は 全員ナスビ(茄子)を連想したそうです。
 70年も前のことで記憶も定かではなく多分間違っていると思いますが、歌詞を
書いておきますので先生も是非お歌い下さい。
 
 学びの窓に居並びて
 心は清く身は強く
 難きに耐えてたじろがず
 励み励まん諸共に。
 
 耐えて忍べば済有りと
 校名負えりわが友よ
 朽ちざ絶えざるその名尊びて
 勤め果たさん諸共に    京 桂  服部正実
 
 * やはり「有済校」のご縁でしたか。
 前にも申し上げましたか、京都市東山区の有済学区、新門前通りの「ハタラジオ店」に育ちました私には、近くの、白川、狸橋を古門前の方へ渡ったすぐ先に、「紙函屋」さんと「お餅や」さんとの「服部さん」二軒(古西町か)が、子供心に印象に残っていまして、同じ「有済校」とを結ぶ縁に、親しく記憶してきました。ことに「お餅屋の服部さん」には、一学年上の「優等生・陽子さん」がおられ、卒業式には私の在校生「送辞」に卒業生「答辞」を読まれたり、後には、私叔母宗陽の「茶の湯稽古場」にお稽古に見えたりと、懐かしく忘れないでいるのですが、「有済」と関わっての「服部さん」は、他には存じません。
「耐えて偲べば済すあり」の「有済校」や「ともだち」や「地理」のことなど、『湖の本』のそう遠くない以前に、何度か何冊かに繰り返し書いたり触れたりしてきました。御覧戴いたかに存じます。
 * この服部さん、私よりはお若く感じている。なにといっても、戦時「国民学校」 敗戦後「小学校」にかかわる同期生や間近な先輩後輩の記憶や話題には胸が鳴る。多くは亡くなったが、逢いたい、話したい友だちの名や顔が生き生き蘇る。有済小学校では健在の富松賢三君に会いたくて溜まらない。
 そういえば、昨日「鰻」をはるばるご馳走に送って呉れた舞踊の「お師匠はん」林貞子ちゃんが、女生徒では今や數少ないかぎりの独り。東山線東入る袋町にその昔に暮らしていた横井川貴子さんがもう一人、「湖の本」での、ご縁。
 
 * 故旧の名で 句の一つ載ったメールが届いていた。その通りならば懐かしいのであるが、ほどなく消えて失せている。判らん。
 もはや、もう、なんにも判らん。風邪ひきか。泪ばかり目を塞ぐ。九時半。想い疲労感を腕に抱いて、本を読みながら、寝よう、か。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)七月一日  土 文月朔   
    起4:40 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 56:7 kg    朝起き即記録 
 〇 大将さんのおお鎧兜 五月節句に生き延びた「女文化」
「大将」が最高位だった。元帥の大元帥のという話は近代軍国の位取りであって、それは「大関」に対する横綱や「太政大臣」に対する摂政関白なみに、いわば制外、令外(りょうげ)の位であった。大将こそ律令制武官本来の最高位なのであって、自然と「さん」づけにして呼ばれた。まして公家ふうの都の趣味には、武張った印象よりもいっそ「美しい」「貴い」もののシンボルかのように「大将さん」と仰がれた。男の「粋」といった受けとり方であった。だから成りたがった。自然、五月の節句の主役にされるようになった。季節の花の「菖蒲」が「尚武」に読み替えられるという趣向も加わった。大臣大将とならび称した心根には、かならずしも軍国主義めく殺風景が隠されていたわけでなく、雅びやかな、むしろ美学がはたらいていたのである。「大将人形」は、強いものの象徴ではなかった。強きをくじく美しきものの如くに造型された。
芯に、気稟(きひん)の清質かしっかり埋めこまれていた。だから人は「大将さん」が好きなのである。そこには「男」の清さが祈りこめられていた。
「大将さん」の鎧は、兜は、存外忘れられがちだけれど、いわゆる戦国時代の行動的なものではない。いわゆる「大鎧・大兜」という、源平合戦の昔に突如として現れて華麗を極め、かなり急速に実戦の場からは失せていった、すぐれて美術的な遺品を模している。工藝の粋を繊細な色彩感覚でバランスさせ、用いられた材料も、金銀から皮や絹にいたるまで多彩に精巧に配された。戦場を疾駆するにはかなり重く、戦にぜひ勝つためには、早晩改良され代替(だいたい)されるしかない「美術品」というに近かった。しかし神々しいほど美しかった。だから遺品の多くが、各地の神々に捧げられて来たのだ。
 宮廷の女たちの視線には、大鎧・大兜の平家の公達はまこと美しき「をのこ」であったろう。大鎧・大兜は、平安女人の十二単(じゅうにひとえ)のいわば最上の「をのこ」ぶり変化(へんげ)なのであった。「女文化」の所産なのであった。その美しさの故に時代を超え、年中行事の五月節句に生き延びた。
 * 七夕月の初朝を、祇園会の肇まる季節を迎えた。
 真夏は、 少年來心弾んでむかえる時季だった、とくに得意でもなく、しかし泳げる夏、学校が「夏休み」になる七月だった、ソレは私が気を入れて励む、決まった『宿題』外の『自由研究』、休み明けの登校に心勇んで教室や職員室へ持参の「結果」へ独り心励めた「永い」お休みだった。祇園祭、お盆、地蔵盆、盆踊りの夏だった。ロマンチックをすこしずつ覚えていった少年ならではの成長季であった。たくさんな子供仲間たちや町内外の大人たちの顔、いまも想い出す。加えて、そこには少年なりに見聞きし学び得た「敗戦・終戦」後という特殊な「空気差「温度差」が見聞きされ体感もされた。「赤い血潮の予科練の」「七つ釦は櫻に碇」と唱う素地は払拭されていた。私独りについて謂うなら生涯の処女作小説『或る折臂翁』を胸に育み育て行く歳月への初歩がそこに在った。あり得て生々しかった。小学生、新制中高生なりの「批評」も働いていた。無駄には費やさなかった「夏」「夏休み」であった。
 
 ■ ああ 〇ちゃん お元気そうで
何よりです。何よりだ。 近々に顔が観られると。何よりです。 奥さんも お嬢ちゃんたちも、熱暑をまぢかに、健勝でと願いますよ。
 
わたしは、あいかわらず 機械クンとの 能の無い葛藤にも苦闘しながら
 
 あるはあり あるはあれども あるほどは無いサイノーに 途惑ふ日々ぞよ  秦
 
 * やれやれ。へと・へと。
 
 * そんな私へ、高麗屋 二代目松本白鸚夫妻、涼しくも花やいで 朝顔の鉢植えを下さる。 嬉しく戴いて、目のとどく陽射し上に置いて楽しみ居ります。
 
 * 中高同窓、久しくも久しく敬愛し親愛する「テルさん」こと西村明夫クン(元・日立の重役)、心入れの和風洋風多種多彩な私このみの菓子の大函を贈って呉れました。有難う。
 敗戦後の、京都市立有済小学校いらい同年同歳で馴染んだ、古門前「林家」の養女の貞子ちゃん、もう久しく若柳だか花柳だかの踊りの「おっ師匠はん」、ひところ大人らの間ではわたしの「お嫁」候補だったと、本人が、超の老後に笑って教えてくれた美女からも、例の、わたしの好きな「鰻料理」を夏向きに送って来て呉れた。實を謂うと京都をはなれてこのかた一度も顔の合うたことがない、が、電話をかけてきてくれて、こえだけで昔の儘に賑やかに話すことは在る。いかにも小説の女主人公に創りやすい心親しい旧友である、『或る雲隠考』のなかへ化けて呉れている、純の創作で在るのは、謂うまでも無いが。
 
 * やはり昨日今日に頂戴した東北住のやはり久しい唄友伊藤幸子さんからの名酒「鷲の尾」一升恰好の肴におっ師匠ハンの「鰻」料理を戴く。
 
 * 七夕月の初朝を、祇園会の肇まる季節を迎えた。
 真夏は、 少年來心弾んでむかえる時季だった、とくに得意でもなく、しかし泳げる夏、学校が「夏休み」になる七月だった、ソレは私が気を入れて励む、決まった『宿題』外の『自由研究』、休み明けの登校に心勇んで教室や職員室へ持参の「結果」へ独り心励めた「永い」お休みだった。祇園祭、お盆、地蔵盆、盆踊りの夏だった。ロマンチックをすこしずつ覚えていった少年ならではの成長季であった。たくさんな子供仲間たちや町内外の大人たちの顔、いまも想い出す。加えて、そこには少年なりに見聞きし学び得た「敗戦・終戦」後という特殊な「空気差「温度差」が見聞きされ体感もされた。「赤い血潮の予科練の」「七つ釦は櫻に碇」と唱う素地は払拭されていた。私独りについて謂うなら生涯の処女作小説『或る折臂翁』を胸に育み育て行く歳月への初歩がそこに在った。あり得て生々しかった。小学生、新制中高生なりの「批評」も働いていた。無駄には費やさなかった「夏」「夏休み」であった。
 
 ■ Re: **さん 御見舞いの言葉も胸にふさがり、半日を黙祷の儘読み書きの仕事に身を沈めていました。
 そして夜は更けてきました、 ただただ近づく手術の平安をと願うばかりです、無事のご恢復を祈りながら、**さんだもの乗り切って下さると拳を堅く握っています。真夏という季の陽気がご回復へと手伝ってくれますように。
 
 めずらかな好著をお頒け下さいますとか。うれしく御厚意に甘えます、ぜひ識りたい読みたい想いふかめたい主題です、願わくは邦訳されているといいがなあと、ちと、弱音も抱きながら。 ありがとう存じます。
 
「やそしち老」の足取りをつい愚痴っていますと、読者から「くそ爺」の境にすら三年もあるぞと、手痛い励ましのビンタを食いました。「くそ爺」の境涯や如何。散策そのまま、とぼとぼと、日々、歩いています。
 
 **さん  ご無事に回復され、一緒に歩きましょう。  秦 恒平 七月一日 夜に
 
 
 
        ■      ■      ■ 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)六月
 
◎ 令和五年(二○二三)六月三十日  金 水無月盡   
    起6:00 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 55:9 kg    朝起き即記録 
 日本
 〇 元伊勢籠宮の狛犬 神秘の宮居を護った石の霊獣
 狛犬サンには優作が多い。古いものも多い。石像美術の穴場などというと勿体ないが、お宮の鳥居本や拝殿の前に「ア、ウン」の一対で鎮座し、子供にも親しまれ、しかも火にめっぽう強い。ご本殿に事故があっても狛犬はたいがい生き延びる。古くて佳いのが遺る道理で、しかも古くなればなるほど石質の妙味から、個性さえ露われてくる。生けるが如くなる。とりわけ丹後一の宮の籠(この)神社、この狛犬サンは、凝灰岩が縁相を帯びてむくむくと大きく、威力充満の霊気を吐いている。迫力のあまり夜ごと絶景の天の橋立を疾駆する。おそれをなし、豪傑に頼んで前肢の一部をわざと欠いてもらったのが、狒々(ひひ)退治でも名高い岩見重太郎だったと伝説が生まれている。阿形(あぎょう)、吽形(うんぎょう)ともに、四肢といい胴といい尾といい神獣の活気に溢れ、籠(この)神社の神秘を、さながら体現して見せる。 S19る。
 聞いたこともないお宮だという人が多かろう。天の橋立に鎮まりいますこの元伊勢吉佐宮(よさのみや)つまり籠神社は、伊勢の内宮(ないくう)・外宮(げくう)の元宮(げんくう)であった。丹波の、國造(くにのみやつこ)であった海部直(あまべのあたい)が連綿として今日まで祭祀し、その『海部氏(あまべし)系図』はまぎれもない現存日本最古の系図、国寶になっている。
 唐突なようでも一つ「将軍」を思い出してみよう。江戸、室町、鎌倉の幕府将軍だけが将軍ではなかった。征夷大将軍坂上田村麿よりなおなお遥かの昔、第十代崇神(すじん)天皇の御代に「四道(しどう)将軍」を任じて北陸、東海、西海三道とともに「丹波道(たにわのみち)」へも将軍が派遣され、慰撫と安寧とが図られた。丹波丹後へ、そして出雲へとつづく道は、大和の政権には特別に重い意味をもっていたが、元伊勢の籠(この)宮は、この丹波道(たんばぢ)の要(かなめ)の位置をしめた。さてこそ狛犬サンの偉容に、いっそう箔がついて見えるのももっともではないか。
 諸国には狛犬がたくさん遺っている。相当な変わりだねもあれば、夢に見そうな凄いのも大きいのもいる。由緒あるお宮参りでほど、境内への目配りを楽しみたい。
 * 「真夏」を実感しながら一夜寝て起きた。浮腫止めも効いたのだろう上腕の細いことは。
 そして「六月」が果てる。歳の半ばが過ぎて行く、今日一日で。昨日親しい読者のお一人から励まされた、と想いたい、いま「八七歳 やそしち翁」でもやがて「九十歳 くそ爺」になる、「九十九歳 くそ臭い」まで生きてみろ、と。黙っていよう。
 
 〇 月さま  花籠より
 「おーい、おーい、元気ですかァ お声をきかせて下さい」
 長期留守にし、帰宅した机に重ねられていた御本。慌てて開くと、不義理を重ねていた身を案じてくださるお言葉に 涙があふれました。
 コロナ禍で長男家族が感染。
 その影響は孫(次男)の長期後遺症に依るその間の休学。登校後、勉強が解らないプレッシャーに身体が悲鳴をあげ、医療へ。登校拒否で**の家の近くにある施設で半日学ぶ生活。夫婦共稼ぎに少しでも手助けにと、自宅を同居の三男に頼み、出掛けていました。
 その間、三男も職場感染の煽りを受け、過剰勤務に。今年に入り「仕事辞めるかも」と。好きにしたら良いよと返事。それまでも5時前出勤、帰宅午後8時以降が20日以上の生活に、私が居ない負担が重なっていた様子。会社が休日を増やす配慮で、退職は回避。
 戴いた御本に記載された「謹呈」の文字に連絡を怠っていた三男。無理を強いていたこともあり、留守を有難う、と。
 私は少し...いや、大きく「横に」成長しました。5階までの階段が助けになるかどうか、怪しいところですが、これから軽くなるように心掛けたいと、思っています。
 月様、奥様、時節柄どうかくれぐれもお身体おいとい下さいませ。有難う御座いました。
 御本、これからゆっくり読ませていただきます。
 取り敢えず、近況と御礼まで。   四国の 花籠拝
 
 * コロナ禍がいかに険しく蔓延し燃えさかったかが察しられ、まだまだ油断成らないと此処三年半ほとんど保谷の外へ出ない私ら夫婦、まだマスクを手放さない。
「花籠に月をいれて」と閑吟集に親しみ名乗り合うていた人との實に久々の交信となった、喜びたい。
 
 〇 湖の本164 昨日届きました。有難うございます。
 お疲れは出ていませんか。
 早速「私語の刻」のページを繰りましたら、最初に、復興の港町・気仙沼から戻って来たときのメールが。
 まだほんの7か月前ですが、この半年、一年は、私にとって大きな転機となりました。 やそしち様にはどんな日々だったのか、164、拝読させていただきます。
 今日は、今年一番の暑さだったとか。
 夏空の熱海へ移動してきましたが、海開きを控えたビーチには、はや、ライフセーバーの監視台が設置されていました。
 明日は六月尽。梅雨明け前で、天候も不順ですね。
 くれぐれもお体をおいといくださいませ。   晴  
 
 * 晴々と、博士の研究に新天地が加わり広がりますよう。健康が一です。
 
 * この頃の「讀書」は従來の継続、全四十八巻の『参考源平盛衰記』第十九巻で、文覚の暴れぶり、頼朝の蹶起へと読み終え、第二十巻に入る。じつに躍動の「文献読み」、惹き込まれ湯に浸かりながらも赤ペンを手に読み継いでいる。全十冊の岩波文庫版『水滸伝』の講釈も「あまりに面白くて」湯に浸かりながらも読んでいる。多彩な「豪傑」たちの生彩そのものを呑みこむように。ついでのように、もう平安時代から今日まで日本でしか観られなくなっている唐代伝奇小説、張文成作『遊仙窟』の詩また詩のエロスを胸にいっぱい吸い込んでいる。朝鮮を「代表する」といわれる熱烈な鯉物語の『春香伝』も、もう片手に?んでいる。
 秋聲『あらくれ』 藤村『新生』そして『源氏物語』「少女」巻までも耽読。
 この「弱りゆく視力」でいつまで「読み続け」られるかなあ。
 
 * 途方もなく,限りもなく 睡い。気がつくと寝入っている。私、生きているのだろうか。
 
 〇 六月盡
 一昨日は烈しい雨に目覚めました。今日も夕方から雨空になるようです。
 如何お過ごしでしょうか。今回の御本は 発送作業について書かれてなかったので、突然のプレゼントのように思われ 驚き 嬉しかったです。
『或る折臂翁』 これはもう 鴉 独自の世界だと再確認。小説冒頭の反戦、戦争忌避が強く記憶に残っていたのはわたし自身の感性に従っての読みに過ぎなかった。その後の戦中戦後の愛し合う二人の暮らし、そして「悪」を体現したかのような一人の男、ただしこの世の中にはこのような人はかなりいることも事実です。
 微妙な言葉一つ一つの使われ方も、いつものように息を呑むほどに感じました。
 終わり の凄惨は、鴉の「趣向」のようにも思われ‥こう書くと叱られそうですが、鏡花の世界に通じ、改めて強い衝撃に近いものでした。『慈子』の中のお利根さんも自害して最期を迎えましたね。それでは 鴉が自殺を考える人かというと、違う。
 わたしは日常ではとても現実的、散文的な人間ですが、時に悲観的な人間で 自殺を考えたこともありました・・どうして自殺など考えるのかと鴉に問われたことがありました。人間とは 自分とは 何とも理解しがたいものです。
 
 昼12時、書いている今、テレビでジョージアの駐日大使が出ています。ウクライナもジョージアもロシアとの深い因縁・・実際に旅したことで、ごく自然に状況を受け止め理解できるような気がします。ロシアとの国境近くまで行った時、このすぐ西には紛争地帯があるとは信じられないほど静かで美しかった自然がありました。
 世の中はロシア・ウクライナの政情、潜水艇タイタン、市川猿之助などなど次から次へ慌ただしい。
 空が暗くなって雨が降り出しそうです。
 どうぞ元気に 美味しそうなものできる限り食べて、少しでも太って下さい。
 東都の鴉 元気に 大切に。   尾張の鳶
 
 * 佳い声を聴かせて呉れました 尾張の鳶よ。『或る折臂翁』にも、また、此の鴉にも懐かしく親しい「グルジア」のことも、胸を鳴らして響きました。
 私も、ジョージア大使の話しているテレビ画面を聴いて、観て、いました。海外の旅経験の少ないからすでが、「グルジア」の人と自然と文化の懐かしさ、険しい国際環境の実感は、今なお痛いほど胸に心に溢れています。書けばかぎりなく書かずに済まないでしょう。親切で聰明で優しかった案内と通訳のエレーナさんも、叔父さんのように優しかったグルジア議会の代議士ノネシビリさんも、当時ソ連との険しい力関係の中で不幸に亡くなったと後に聴きました。ネシビリさんはいろんなめずらかな佳いお土産を呉れました。そのひとつは、掌に握り続けていないと、置けば中の飲み物が零れてしまう土製の酒杯、懸からす葉それを今も愛用しています。すばらしく大きな山羊か鹿かの美しい角も、満たされたワインでも酒でも飲み干さねば下に置けない。「グルジア」の人たちの歓待は、陽気で、どこか優美でさえあったなあ…。世界を飛びまわってきた「尾張の鳶」旅の豊富とは比べものになりませんが、一に懐かしいのはと挙げるなら、わたし「東都の鴉」は「グルジア(ジョージア)」と開けつつこたえながら変わらぬ「ソ連・ロシア」の非道さを悲しみます。
 お元気で。   カン三郎
 
 〇 大変御無沙汰して居ります、先日「湖の本164」ご送付頂き有難う御座いました。早速楽しんで読ませ頂いてます。
 私の体調は、芳しくなく日々を送って居ります、独りの生活になって、やっとなれてきました。近頃は介護のお世話で一週に二回送り迎え付きで 能訓練に出かけております。今日も行ってきました。段々と老人の生活に成りました。
 今月の17日は 日吉ヶ丘(=高校、私たちの母校)へ、後輩が迎えに来てくれまして、あの「雲岫」のお茶室(=高校生の頃、私が「茶道部』を創設し、作法の指導を続けていた校舎内の茶室)まで行って来ました。こんな日々を過ごして居ます。
 これからまだ暫くうっとしい日々が続きます、体調に気を付けてお過ごし下さいます様に、  華子 (=秦より二年歳下の茶道部員。茶名・宗花 日吉ヶ丘茶道部「雲岫会」の久しい「その後」を委ねてきた。)
 
 * わたしの、送迎バスで通った馬町坂の上の京都幼稚園まぢか、ほぼ真横に旧姓鳥羽華子の家は在った。幼稚園は京都女子大の付属だったろう。
 気強く、どうか元気でと祈ります。
 
 〇 秦先生  大変ご無沙汰をしております、丸山です
 是非是非お会いしたいです。馳せ参じますので、よろしくお願い致します。
 我が家の娘たちもそれぞれ頑張っていますので、そのご報告も是非。
 また、ちょうど来週7月4日付で(省内)人事異動しますので、そのご報告にも良い機会かな、と。今回の異動は「もしかしたら、地方に行くかも・・」と思っていたので我が家も少しザワつきましたが、結果は同じ建物で100mほど動いただけ(フロアも同じ!)でした。
 日程は櫻を通じて改めて調整させてください。
 それではお会いできるのを楽しみにしています。 丸山
 
 〇 秦先生 CC. 鷲津様、丸山様
 こんにちは。 突然暑くなってきましたね。 私も就寝時にクーラーをつけ始めました。
 暑苦しい私の相手は疲れますから、今はあまり無理せずに、7月まで待ちましょう。
 7/9(日)もしくは7/16(日)の週末(土日)辺りにうかがいます。
 次回は丸山くんにも声がけしておきます。
 丸山くんの元気そうな顔をお届けしますね。  櫻
 
 * 親切、痛み入ります。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)六月二十九日  木   
    起4:40 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 56:7 kg    朝起き即記録 
 日本
 髪飾り 女を彩る文華の粋
 女の髪の、色と薫りとなら、どっちに魅力を感じるだろうか。両方と言いたいが、強いて言えば、わたしは薫りにひかれて来た。かならずしも嗅覚からくる薫りだけではない。照った黒髪のめでたさそのものにも薫りを感じた。
 わたしは比較的おそくまで、母に連れられて銭湯の、それも女湯に漬かっていたが、まぢかな京の祇園の廓うちの湯へ行くと、お座敷まえの舞子・藝妓とよくいっしょになった。まだこどもながら、と言うより、こどもなればこその一つ湯ぶねのはだかの付き合いで、湯の香にも酔うて、女の髪がどんなにいい薫りのものか、肌を寄せ合うほどにして、自然に覚えた。
 むろん湯屋では、飾り気のなにもないただ黒髪であった。その髪に、いわゆる女の髪飾りがとりどりに添えられたときの、息をのむほどの嘆賞の念というのも、育った場所柄で、ほとんどそれは日常のものになっていた。その思い出を懐かしむ気持ちから、わたしは東京へ出てきてからも、美術館の特別展などで女の装身具展があったりすると足を運んででも覗きに寄ったりするのだが、期待に背かれたことがない。妙な比較で実感を持ってもらうのは難しいかも知れないが、刀剣や武具の展覧会で享けるのと不思議に質的に変わりない感銘を、櫛やかんざしの精巧を極めた細工なり、また使い込まれて何とも言えない色合い風合いに磨かれた感触・光沢から、わたしは享けとって帰るのである。
 女の髪や肌に添えて匂いたつモノの美しさには、独特の粘りと軽みと華やぎとがあるものだが、髪飾りには珠に繊細に薫る魅力がしみこんでいて、たまらない。埴輪の昔から女の髪飾りには優しみ深く、江戸に至っては、ひときわ愛しげに誇らしげに髪飾りの品は、まさに文華のさまを成している。それからすると昨今は、あまり女性が髪飾りに工夫を見せてくれないのは寂しい。
 それにしても職人藝の冴えの瑞々しさよ、目が星になる。
 * 入ってはならない地区にまぎれこみ、抜け出たいと懸命に建て混んだ家家の合わいの細道や階段や坂や隠れ路を掛け続けるうちにも、その地区の青年等に掴まったり威嚇されたり怖い思いし続けた。此の手の怖い夢は私にはいわば「持ち夢」で、この数年に二十度は夢に見駈けに駈け逃げに逃げて,最期にはようやくホコッと平安な世間へ零れるように抜け出している。明らかにその怖い地区は、明きらかにそこは山路や崖やくねくねした石段路をかこっていながら、住居も密集のいかにも町内・街区である。食べる店や売る店や創っている何かしら制作している建ももある、が、自転車の人は居ても自動車は影も無い。
 怖い夢であ。観たくないのに見せられてしまう夢、そこへ紛れ込んでジタバタ駈けまわる夢である。観たくない。
 
 * まこと新しい大きいパソコンには,信じられないほど多彩無数のめずらかな中身が隠れている。たまたま拾い観ているだけで多くの時間を喪う。しかし、ビックリ・ポンと面白くもある。
 しかし、機械の場面が勝手次第に出没して、はなはだ行儀が悪いのにも困惑する。
 
 * 黒澤明の作・監督の『夢』にまたしても魅され惹き込まれて居る。こういう才能を継いで展開している人はいるのかな。
 
 〇 いつも「湖の本」をお送り下さり、まことに有難うございます。
 「或る折臂翁」読ませていただき、最後のところで血が凍る思いがいたしました。
 また、年賀状ベスト5に選ばれたのは、身に余る光栄でした。
 「やそしち翁」になられたそうで、おめでとうございます!
 こうなれば「くそ爺」まで、あと一息ですね。くれぐれもご自愛ください。
 有難うございました。  京都 桂  服部
 
 * 八七歳「やそしち」翁の気でいたが、いずれは「九十 くそ爺」と。ウーン。
 
 〇 湖の本 第164巻 ありがとうございます。
 今日の下関は昼前に 「物凄い」雷雨でした。
 いまは晴れていますが遠雷が聞こえます。
 今月の母わたきしは働きすぎ、頑張りすぎ?午前に杏ジャムを作り、午後はドクダミと格闘?で熱中症のようになり、点滴を受けました。これで三年連続ですが、時季が早すぎます。
 東京も蒸し暑いのでしょう、早めに冷房使うなどご用心なさってください。
 私語の刻 五月三十一日以降が表示されません。スマホだから読めないのか、何かまたトラブルかしら?と思いながら、こちらの宿題も果たせていないのでお知らせもせず過ごしていました。
 「湖の本」届いたので、重いご病気ではないと安心しました。
 どうぞくれぐれもお大事になさってください。   大庭
 
 * 
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)六月二十八日  水   
    起4:40 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 56:7 kg    朝起き即記録 
 日本
 〇 御陵、根源の形象 歴史と自然美が出会う他界
 人生、いたるところ青山(せいざん)ありと古来いわれてきた。墓たる場所はどこにでもある。そいう意味であった。昨今、だが、なかなか墓所は求めにくい。ビルのなかの引き出し墓やロッカーの墓が現実に登場しつつある。一寺一墓制の合葬を余儀なくされる時節到来も、大都会ではさけられないかもしれない。むかしは、死者と生者の共存する世界にいささかのゆとりがあった。が、住みにくい世の中になってきた。
 若い人に聞くと自然葬が増えて、墓の必要はだんだん亡くなるという者と、人が人であるあいだは墓はけっして無くならないという者とに、二分される。わたしは、ま、後者の言に聴くほうである。
 墓地を訪れて、墓碑や墓碑銘の間を静かに散策するのを、子供の頃からむしろ好んできた。思わぬ所に思わぬ故人の墓に出逢って心うたれることが、よくあった。そういう経験は、京都という、都市じたいがいわば歴史的風景である世界に生まれ育ったことと切り離しがたい。俳人去来の墓や、初代菊五郎の墓や、蕪村の墓や、関白忠通の墓や、洋画家浅井忠の墓や、敬愛した谷崎潤一郎の墓の隣に日本画家福田平八郎の墓などをみつけた、そう…、なんといえばいいのだろう、やはり……感動。あの、感動。一気に、溢れそうに、もろもろの思いが形になり、絵になり、胸のうちにひろがる。
 しかし、京都で、いちばん歴史的風景として身にしみて魅力的だった墓地は、まちがいなく、御陵であった。東山にも北山にも西山にも、南の郊外にも、無数に天皇陵や皇族の墓地がある。まさしく清寂の明浄処−−。足を運べばものの一時間も二時間も身を白風にさらして心洗われてくる。からだ中が透きとおったようになり、立ち去る。だれもいない。だれもこない。しかしまちがいなくそこには「日本」の風景があり、端然としてゆるみない造型がある。東京の昭和御陵も、いつの日にか、そんな歴史的風景に透徹するであろう。
* もう一と寝してもと思ったが、機械の保存調整もしたく、二階へ来た。
 少しく強引に、あちこち散開している記事を、整理した。5:34。空腹を覚えている。
 
 * で、今、機械仕事の上で、何が、何処が、モンダイか。モンダイ無しと居直っていけないか、構わないか。「私語の刻」レベルで悩ましがるコトは無いとしよう。「創作の文章」こそが要用心。それへ精神を集めるべし。
 
 * 「舊機」記載の今朝書きの文が、教わっている手順で「新機」へ送ったら、精確に転写されている。「新・舊」機の連繋は、成っているかと観られる、有難し。想った以上に連繋している、らしい。
 
 * 暑苦しい。中学生頃の京の真夏は、辛抱などという程度のモノでなかった。無視するしかなかった。するとそれなりに季節の魅力が体感でき、だから祇園祭も夏休みもプールも地蔵盆も、シンから楽しめた。京都の極暑も極寒もわたしは愛し好んで受け容れていた。暑い寒いにどうゴチャゴチャ云うてもハナシに成らない。
 
 * 夕方、田中好子が遺していった原爆の悲惨、映画「黒い雨」を観た。つらくても,時に繰り返しいくらかは「義務」めいて観ずにはすまない問題作。制作の時期もよろしくなく,例の録音不調でセリフ聞きづらい、が、原爆、昨今の水爆からすれば極くちっぽけな力とは謂え、敗戦直前に日本国土を冒した言語に絶した爆香A放射能被害であった、もう一度と謂えども人間や生物や自然を核爆弾で撃って穢してはならない。この映画『黒い雨』は、原爆に襲われた日本人全員も、爆撃した側のアメリカ人等も、心して時に繰り返し観たがいいと思う。
 
 * そして晩には、またまた黒澤明創作映画『夢 こんな夢を観た』の前半を気を入れ息を呑んで観ていた。
 
 * 群馬対教授になっている岩崎宏英君ら数人のメールやハガキをもらっている。
 今夜は、もう疲れている。明日に期して、なにごとも。
 
 * と思うところへ御母上を急に亡くされた方のメールが届いているのを付けた。きゅうッと胸が縮み痛んだ、逝く方、遺る人たち、ただ黙祷を送ります。
 
 〇 懐かしいニ作(「少女」「或る節臂翁」)届きました。夜読み直します。 尾張の鳶
 
 
◎ 令和五年(二○二三)六月二十七日  火   
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 日本
 〇  秋田の水の餅・臼の餅 米の文化が演出した男女の祝祭
正月を無事迎える嬉しさなどといえば若い人には笑われそうだが、無事がなによりと思う気持ちの、ひとつの仕切り・けじめとしても正月は節季の元旦。いくつになっても「お正月」と、ぜひ敬意をはらい、我と我が身を祝いたい。それが信仰であるか、心掛けであるのか、はたまた単なる思い慣いか、理屈は人それぞれでもよろしかろう。
「お正月」といえば「お餅」である。まれに、餅と付き合わない習俗を太古来まもっている地域もあると聞くが、一般には「お餅」を搗き「お鏡」を荘(かざ)ってめでたいというハナシになる。実感がこもる。その作法や習慣にも土地土地によって磨きあげた「かたち」が出来ている。家の風が土地の風になり、お國ぶりになる。正月の作法や形は、いわば「お國自慢」のいい意味の根になっている。それだけの洗練や、また頑固さを、備えている。
 秋田の「水の餅・臼の餅」を選んでみよう。意表をつく気はなかったが「簡古」の美が感じられる。「お鏡」の大きさを誇った餅かざりは各地にあるが、ここでは「臼」が、そして「水」が、主役になっている。
 臼に杵はつきもので、杵は、力いっぱいいい餅の搗けるいわゆる横杵が発明されるまでは、ただ「キ=本」とも呼ばれた縦杵であった。両端を太めに、中ほどを握って縦に搗き下ろす「木の捧」であった。そして「杵」は男を、「臼」が女を謂い表すようになったのは、「かたち」からして自然の成り行きであった。されば「お餅」が臼杵から生まれた「子」餅として愛されたのも、また自然であった。よく見てほしい、「臼の餅」の「お重ね」の、しおらしいほどの愛らしさ。「餅」誕生のよろこびが清々しく表現されている。
 言うまでもない「餅」の風俗は「米」の文化であり、南方から海を渡ってもたらされた「水」の文明と習俗に由来している。水の民、水の神を祭り畏れた人々の、年のはじめに先ずはその神、蛇神に象(かたど)って堆(うづたか)く「とぐろ巻く」かたちに造って神前に捧げたのが「鏡餅」であり、「かがみ鏡」は「蛇身」の訓みでもある。諸国の「餅」「鏡餅」をまつる風の根っこに、それが微妙によみとれるのが意味深い。
 * どういうことか、昨日、病院からって昼食、夕食もしただがその、要、今朝六時半「起まで、本、おもには『参考源平盛衰記』「文覚=遠藤武者盛遠」記事ぐだけ寝入りに寝入っていたいや、夜中一時頃、キチンで小一時間テレビをていただけでついまで寝続けていたらしい 
 明け方は、例の、童謡を歌い続けていた,夢で。
 
    あんたがた 何処さ   肥後さ
    肥後 どこさ      熊本さ
    熊本 どこさ      センバさ センバ山には狸が居ってさ それを猟師が
                テッポで撃ってさ
    観てさ          喰ってさ お茶の子サイサイ
 
 たしかにこんな唄で、女の子等が 地ベタに輪に坐り込んで何かしら歌いながら手遊びしていたようであった。手遊びらしい何かは覚えていない。似たような、半分口から出任せのような唄は、ほかに一つ二つ覚えていて、みな面白い。
 
    イチリットラ ラットリトセ スガ ホケキョーノ 高千穂峰ノ 忠霊塔 
 
 ワケは判らないが、聞き覚えの唄の文句は、この通りだった。
 
   一かけ二かけて三かけて 四かけて五かけて橋をかけ 橋の欄干 手を懸けて
   はーるか向こう眺むれば 十七八のねえさんが 片手に線香 花をもち
 
  ねえさんねえさん どこ行くの
 
  わたしは九州鹿児島の 西郷隆盛娘です 明治十年三月十日 切腹なされた父上の
  おー墓参りをいたします お墓の前では手合わせ ナンマイダブツと拝みます
 
と、もうこの辺からはアイマイ模糊 記憶も模糊としているが、みな、女の児らが地べたに輪に坐り込んでの「おじゃみ唄」のようであった、男の児は地ベタ遊びでも指をひろげ回しての「陣とり」のようなことをしていた。
 妙に、「古釘」を用いても遊んでいた。「小石」を遣った遊びがあり、男女ともに賑やかにケンケンしたり投げ当てたりしていた。
 
 * 前日,昼食過ぎから、寝に寝入り続けて今朝にも。
 今朝の目覚めすぐに書いた「私語」のいろいろも、ワケ判らず消え失せている。
 
 * いま、昼食後の12時40分。何をしに生きているやらと、頼りない。
 
 〇 秦 兄
 湖の本164号ありがとう。200号まで36。
 人生100年まで、まだ12年も残っている。
 弥栄・日吉の同窓生で兄の読者の最高齢者になれることを目標として日々を過ごそう。
そのためには体調を整え、平和に過ごせる日本にしなければならない。
これを目的に 希望に目覚め、努力に生き、感謝に眠るをモットーに、今の時間を大切に過ごしたい。               2023-6-27  洛北・岩倉 森下辰男
 
◎ 令和五年(二○二三)六月二十六日  月   
    起6:40 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 56:7 kg    朝起き即記録 
 日本
 〇 超現代の朱の造形 水に映え空に映えて舞う龍
 清水焼(きよみづやき)といえば京の陶磁器の代名詞みたいなものである。その清水焼のまた代名詞のような江戸時代このかたの暖簾と陶工が「清水六兵衛窒」であることは、ま、いまでも常識にちかい。むろん現在も何代目かの六兵衛さんが、ユニークな陶技で、伝統の先頭をさらに前向きに沸騰する作柄をみせ、活躍されている。その陶器の「六兵衛」さんが、世界的な彫刻作家でもあるのを知っている人、どれほどあろうか。じつは彫刻家としての名前は「九兵衛」さんなのである。材料も焼物の土ならぬ軽金属の、たしかアルミ。
 東京お茶の水、某大手の保険会社の広い中庭に、巨大にみごとな清水九兵衛作『朱龍』が生きて呼吸(いき)をしている。ただに朱(あけ)の龍だけが九兵衛さんの作品なのではない。龍の生きて呼吸をしているその石の庭、その池の形、その水の色、みんなが渾然として空気を吸いかつ吐き、空の色、雲の流れ、ときには雨も風も雪も、みなたがいに馴染みあって、大きく、やわらかく、優美に、一切が九兵衛彫刻のためのいわば「作品」と化(な)っている。
 中国へ行って、もしそこに「龍」をまったく見なければ、これはもう中国ではないだろう。壮大な九龍壁、壮大な故宮の龍群。そして万暦の鉢からラーメンの鉢までを彩る、さまざまな龍。西洋にも龍の伝説は、アーサー王物語からル・グゥイン作『ゲド戦記』まで、底知れない深みに根をおろしている。
 人類と龍。その不思議な交錯からは無数の「象(かたち)」が表現されてきて、わが日本でも例外ではなかった。龍宮への憧れは神話の彼方にすでに疼いていた。そしてやがて二十一世紀……の、わが東京のどまんなかで、造型の粋を尽くした朱の肌美しい巨大な龍が、日ごと夜ごと、ハイカラなサラリーマンやオフィスレディーたちの視線に磨かれ、呼吸(いき)をしている。この保険会社、この朱龍の力でどんな保険をこの世の為にかけたつもりか知らないが、地上で見ても屋上から眺めても、いかにも生きている。
 * 朝記事を書いたはずなのに消え失せている。
 
 * 今日は、夫婦して保谷厚生病院内科の診察を受ける。従來、三ヶ月ほどアケての定時診察だったのが、、前回私のデータがよろしくないと、二週間後にきなさいと。わるく引っ掛かりませんよう願っている。
 
 * 昨夜寝がけに、泉鏡花の名作『天守物語』を七之助、勘九郎、扇若らで観た。玉三郎、当時の新之介、左団次、南美江、宮沢りえ等の初演には遠く及ばなかったが、それでも鏡花の魔才の程が楽しめ、懐かしかった。
 
 * 幸い、保谷厚生病院内科で、血圧高めのほかは「ほぼ健康体」と診察されてきた。ありがたし、次回診察は八月と。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)六月二十五日  日   
    起6:40 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 56:7 kg    朝起き即記録 
 日本
 〇 簡素に美しい脱穀機 稲霊の恵みに生きた農具
 米の問題は、幾揺れもあって、とどのつまりにひと騒ぎもあって、そしてもう水が無い無いという声も聞こえては来なくなった。どこやらのお國の米ばかりがなにやら冷たくされたり転用されたりしているうちにも、季節は移りきて、さて今年は豊年か満作か、それとも二年つづきの不作かと、天候を眺め眺め、そろそろまた気がかりになっている。
 それにしても千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の國として生きつづけたわが日本國が、もはや、そうでは無くなっているのか、それとも、まだまだ農業國である基本に深切な配慮を忘れてはならないのか、選択を一つあやまれば簡単に國がほろびてしまう気がする。農と人は、日本の未来を大きく沈ませるか、浮揚力を保てるか、微妙に微妙な民族の岐路が、目前に浮きつ沈みつして見える。苦渋をうかべて心配そうな二十一世紀の日本の顔が、もう、はっきり目に見えて来ている。
 そんなときに、こんな美しい、こんな簡素に美しい農具の「形」に目をふれていると、不思議にご先祖様の慈愛の激励をうける心地がする。
 現代のデザイナーも思わずたじろぎそうな、なんという、曲線と直線との簡潔かつ的確な交響! 脱穀も選米も、いまでは轟音をひびかせ機械が一気に大量に処置してくれるが、むかしは、脱穀ひとつに、こんな素朴な、手まわしの道具を穏やかに用いていた。お百姓さんたちの暮らしの気合いがそのまま乗り移り、稲霊の恵みを「米」に変えてくれていたのだ。
 籾の金いろが一面に匂い、木のあたたかみが木目の波うつ美しさとなって、「お國柄」というものを人々の胸に確かに刻んできた。民具にはさまざまあり、派手ではなくとも尽きぬ「形」の魅力が、幾百千年の暮らしの工夫そのままに結晶した例が多いのだ。権力の交替だけが歴史なのではない。こういう道具の形にも忘れ難い歴史の肉声を聴く耳をもちたい。
 
 * 夜前,床に就いていたが十一時少し前に目覚め、そのまねいるきになれず一時間を利してと、灯の消えていたキチンに一人入って、「湖の本165発送」の手作業を,結局日をまたいで零時半過ぎまでつづけた。要が捗った。
 夜中、妙な夢を観ていたが、六時半すぎには目覚めて夢の記憶はもう薄れきっている。可能なら、京も早めの内に「発送」を終えたい。すると、ま、残暑の時季まで他の仕事に集中出来る、夏バテしなければ。わたしは少年來「真夏」には元気なのだが。
 
 * 「湖の本 164」発送作業を終えた。昼過ぎに送り出して,終わる。
 
 * プーチンとお雇い露軍とが戰闘とか。
 
 * 最深海に海没している豪華船タイタニックを「観に行く」と、お金持ちの酔狂人らが銘々3000万円とかを支払って奇妙な容機に入って潜水、3000メートルで「爆発全滅」と。気が知れない。
 
 * ただただ重い湿気に塗れて疲れるのみ。わるく抵抗しないでただ怺えている。と云いつつ、少しく身辺を模様替えもしてたが。
 明日は、また近くの病出で予約の内科診察を受ける。
 
 
 ◎ 令和五年(二○二三)六月二十四日  土   
    起4:30 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 56:0 kg    朝起き即記録 
 日本
 〇 日本人の座り型 だれが正坐ときめたのか
 人は、立つたままでも寝たままでもいられない。電車に乗れば坐りたいし、茶の間や座敷では坐ることになる。電車では腰を掛けるが、座敷や茶の間ではどう坐るだろうか。
 西洋や中國では椅子に腰かけることが多い。お隣の韓国の人は美しい片膝立てで自在に振る舞っている。しゃがんだままの國もあり、足を投げ出し尻を落としている人らの暮らしもある。イスラムの人は礼拝のときは正坐にちかい跪きようで深々と頭をさげ、だが、日常はあぐらッぽい。
 仏様たちもたいてい結跏趺坐や半跏趺坐や胡坐で、正坐の姿はめったに見ない。熱海のMOA美術館に、本尊阿弥陀如来座像の両脇侍のじつにみごとに正坐したのが稀有な一例で、他に思い浮かばない。京都大原三千院の阿弥陀三尊座像の脇侍二体も、正坐よりやや前かがみにかかとを起こした跪坐の美しいことでよく知られている。上古の女神像に横坐りして楽器を弾じる姿の例があるが、神様も仏様も、天子様も公家も武家も僧も神官もふくめ、十七世紀半ばをさかのぼって日本人で正坐している図など、土下坐を強いられた罪人か、閻魔様の前の悪人か、えらい人や尊い人の前にいる庶民の他には見られない。つまり極度の服従か極度の謙譲の場合の坐法が正坐なので、正坐と土下坐とはつまり同じなのである。
 花は桜というが如くに、日本人は大昔から正坐してきたかと、とんでもなく勘違いしている人が多い。正坐の本家のような茶の湯の千利休も、茶をたてる際に正坐していた証拠はなく、軽い立て膝に近かったろうとはむしろ近来常識となりつつある。能のシテもワキも決して正坐しない。
 われわれは目なれたことは大昔からと思い込みがちだが、ちょっと気を配って彫刻や絵巻などを見ていれば、正坐の日本人が一般に現れるのがやっと江戸時代も元禄頃からだと気づいて、目から鱗を落とすだろう。
 思い込むばかりに命懸けは、こまる。思い直す大事さも忘れまい。
 
 * 何となく目覚め、そのまま起きてしまった。「湖の本 165」二日目の発送に。
 あれやこれやとイライラ悩ましくしないで、「機械クン」の『現状』」に逆らわぬように、ようにと附いて行く。
 
  * どう生きているのか、判断がつかない。昼過ぎに、妻とセイムスへ買いものに行ったのはまちがいないが、いま夢から覚めるともう四時。
 なにもかも不確か、朧ろ月の下で寝入ったままの心地で目覚めるが、正気を見失っている。
 末期に近いのか。何かに拘泥し祝着するのは止そう。いまさらに何が同故論でも曲がっても捻れても消え失せても「えや」ないか。
 
◎ 令和五年(二○二三)六月二十三日  金   
    起5:30 血圧 161-73(57) 血糖値 94 体重 55:6 kg    朝起き即記録 
 日本
〇 鞍馬の火祭り 山奥に伝えられた遙かな海の漁り火
 火の祭りは、ただただ美しい。絵のなかでも、闇に光で描く絵はなにより美しいのだが、火の乱舞で彩る火祭りには、ただ絵模様でない、太古の昔からの人の暮らしと祈りとが息づいている。火は大地をあたため、空気を浄め、神霊の来臨を誘う。
 京の鞍馬の由岐神社に年久しく伝えられた火祭りにも同じことが言える。そして、それだけではないのである。大きな大きな、魚たちを追い込むのかたちをした大たいまつには、太古このかたの漁具が懐かしく記憶されている。そして祭り子たちの彩り豊かな衣裳にも締めこみにも、海や川に生きた水の民たちの、はんなりと潮や磯や藻の香のする漁りの風俗が伝えられている。よく見れば、お相撲さんらの「まわし」に「さがり」で塩じみた風体とも微妙に重なっている。お相撲さんのはるかに遠い根が、どんな世界へおりていたか、これまた懐かしく察しがついてくる。
 鞍馬は、京の北郊の木深い山里で、そんなところにどうして海の民の風俗がとおもわれるが、日本列為のいずくの山奥にも、ふしぎに似た海の民俗や祭りは伝えられている。海辺を伝い、川を遡る。そんな舟の旅を重ねたわれらの祖先の多くが、火をまもり火にささえられて、夜から夜へ、夜ごと日ごとに生きついでいた。貴船に近い鞍馬の火祭りの夜は、渓谷を包み込んだ山々からおびただしい火の波がわきたち巻きおこって、魚をへ追う「サイレイ」「サイリョウ」の掛け声いさましく、神社の鳥居前へ大漁を祝うようにひしめき集うて来る。
 勇壮でも華麗でもある、が、なにより心にのこる思いは、悠久の神秘に身を包まれた嬉しさであり、また寂しみである。同じ日の昼間、京都の街を時代祭りの行列が行く。そして鞍馬のその夜をこがす火の祭礼では、時代の分別などを超えた日本民俗の根の歴史が、美しい炎をしみじみとかつ激しく噴き上げるのだ。
 * 熱いかと思って寝入ったのが肌寒く、毛編みのジャケットを着込んで寝たほど。
 今朝は九時には「湖の本 165」新刊が納品される。発送は急がない。なにもかも急ぐということはすまいと思う。ゆっくりと永目に。
 
 * 九時『湖の本新刊 165』納品、午後三時半に配使に一便託す。明後日には送り終えたい豫定。慌てず急がず。体力に出送の自信有れば200巻でも書き続けられるが、妻の余力も考慮しないと、ムリが二人に祟っては倶倒れに成る。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)六月二十二日  木   
    起7:00 血圧 160-77(58) 血糖値 92 体重 56:0 kg    朝起き即記録 
 日本
〇  環型土器 水と大地に祈りを秘めて
 六、七世紀、古墳時代後期の仕事としては、おそろしいほどの技の冴え。無脚の環型(かんがた)土器を見ていると、これはモダンアートだといわれても信じてしまいそうだ。色はほとんど無い。濃い灰いろのまま、ふと、自転車のタイヤのはずんで跳ね返すような力感と、簡潔な「かたち」だけがもつ魅力に溢れている。
 広島県の、それも北の、山ちかい一部の地域でしか出土例が無い。みじかい脚をもったのも見付かっているが、むろん脚の無いほうがデザインも完璧で、かつ、ふしぎなモノに見えてくる。注ぎ口がきっぱり付いていて、用途は疑わせない。携帯可能な風がわりな水筒の感じがある。酒を容れても、いい。それにしても、どう置くのか。横倒しに臥かせては酒も水もこぼれてしまう。使い勝手では、不備のそしりを免れない。だが、来歴のことに久しい古社の近くや神葬地にかぎって出土しているのを思うと、この「かたち」自体に、なにか意味があるのかも知れない。
 蛇(じゃ)の目といえば、単簡に、太い黒で丸が描いてある。昨今でこそご縁は遠のいたが蛇の目傘は、まさにそういう紋様で雨に似合いの洒落た意匠であった。蛇の目には瞼がないという。それでそういうまん丸の紋様も出来たという。この環型土器の形といい色といい太さといい、一つには蛇の目、一つには蛇体を、ズバリ表していたのではなかろうか。まるで蛇の目のまん丸い「茅(ち)の輪」潜りの風(ふう)は各地に見られるが、この「ち」は、「おろち」「かがち」の、つまり蛇を元の意味にした「蛇(ち)の輪」「巳(みN)の輪」であり、転じて「三の輪」「三輪」ともなった。豊産と増殖とを蛇神・水神の精力に祈った太古の風が、おそらくは蛇神に酒を捧げる習いとも結ばれ、かかる見事な土器の「かたち」を成さしめたかと想像すると、遥かに遥かな日本国土と信仰の歴史が目にうかんで来る。おそらくは日用の器ではなく、神威への畏怖と崇拝との造型、土中に深く眠らせた神秘の祭器であっただろう。
 * 亡くなっている実兄の、あまり楽しくない夢を観た。総じて安眠していなかったが、目覚めは、いつもより遅かった。
 
 ◎ 下記文言の提案を受けたが、これは、決して受け容れない。秦
 
  〇 作家・秦恒平は「書く」だけ、(ホームページ等々への=)更新は「 誰かに託す」という体制をお考えいただきたいと思います。                                  
◎ 上記の提案ないし要請は、ゼッタイに 断ります。 ノー です。
  作家は「書く」だけでなく「発表・公開」にも「私事」たる権利と責任とを、持ち且つ持たねばならないので。  秦 恒平
 
 * 「六月病」となづけたい、ぐったり疲労・がっくり疲労にメゲているのは、私だけではない。妻も、私以上に同じく。 しかも、明日には『湖の本 165』が出来て届く。だが、創刊半世紀余にして、初めて「発送用意」が調ってない。あきらめ、居直り、ゆっくり日数をかけ、徐々に「送り出す」とする。週刊誌でも月刊誌でも無い全てが「単行著作」なのだから。
 
◎ 令和五年(二○二三)六月二十一日  水   
    起6:50 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 55:25 kg    朝起き即記録 
 日本
〇  背後の闇に光る能面 生死を跨いだ人間解釈の美しさ
「仮面」(ペルソナ)は「人間」(パーソン)の原意である。お芝居の「役」の意味でもある。つまり人には、その人の本来の顔があるにせよ、時に応じて仮面をつけて生きている存在だと言える。極端なことを言うと、そんな本来の顔などもともとなくて、いろんな仮面を、時に応じ人に応じまた事柄に応じて付け替え付け替えして生きているのであり、もし本来の顔が在るとすれば、それは仮面をのせるノッペラボーな面台のようなものだとも考えられる。二十歳前後の優秀な若者たちに、仮面をかぶるのは何時かと尋ねると、十に九人の割合で「四六時中」と答えてくれた。安心なのかと反問すると、便利なのだと答えた。顧みて、いささかジクジたるものがあった。
 能の仮面(マスク)は、「面(おもて)」と言い慣わされている。なかなか暗示的で、「うら」に隠された存在を想わせるが、そのモノの何かを正確に指さして謂うことは容易でない。
 能は現在(いま)も三百番ほど伝わっていて、面をつけず、演者が素顔をみせてする即ち「直面(ひためん)」の能もわずかにあるけれど、おおかたは、神・男・女・狂・鬼の魅力溢れる能面を多彩に使用する。
 つまり仮面(マスク)をつけて役(ペルソナ)を演じ分ける。面を外すと、おそらく悠久の神性ビ人間味とをともに湛えた「翁」の顔が在るのだと信じて、この世界では『翁』の能を天長地久を祝うもっとも大切な祈祷の能にしている。三百番の能はすべて「翁」がペルソナと化して「世界」を実演してみせているのだと、そう理解するのである。
 どんなに美しい女面であれ、どんなに恐ろしげな鬼の面であれ、ど んなに不思議な色気をただよわせた永遠の少年面であっても、例外というものはないと覚悟して「能」の世界は成り立っている。たぐいない中間表情の美しさの彼方に、無限に可変的で絶対に不変の「人間存在」を「神」とともに容認しようという、生と死とを跨いで、「能」とは、譬えようもなく強烈な人間解釈の演劇だと言わねばならない。
 
 * いい夢見ではなかった、安眠と謂うよりも「輕眠」にながされ、ふと目覚めた。そのまま起きた。
 
 * 機械の不安絶えない。
 『秦恒平 湖(うみ)の本』の今後の続刊を近々にもどこかで(170巻あたりで)収束し、あとは「機械」の安定・確実な「ホームページ」『作家・秦恒平の文學と生活』で黄海を継続できればと願懸けている、が、不幸にして「ホームページ」の精確な建設が、いや『再建』が、東工大卒有志の好意と応援にかかわらず、確かとまだ起ち上がらない。この「難所」を何としても無事通過しないでは、「先途」が望めない。ぜひにも妙案が得たいところ。
 い゛んのホームページ組み立ての何か記録らしきが在る気もしている。晴々と誇らかな『ホームページの顔』をしていたが。「顔」はもういい、実質『私語の刻』により「文學とせいかつ」とを発信しつづけたい。知恵がほしい。
 
 
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)六月二十日  火   
    起5:45 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 55:55 kg    朝起き即記録 
 日本
 〇 王子稲荷の鬼繪馬 奪い返す執念のわが腕 
  厳島神社の大繪馬殿で、首が曲がるほど見上げていた遠い日の記憶がある。あつい季節なのに肌が冷えた。森の奥にいる心地であった。人の祈願を支えた底しれぬ業(ごう)の深さを想っていたかも知れない。生れ育った京都でも、たとえば間ぢかな八坂神社や清水寺や安井金毘羅などでよく「繪馬」をみた。それらの多くはいかにも文化財といった相貌も備えていたけれど、たとえば縁結びの清水地主神社へ行けば、なまめかしく彩られた優しい恋や愛の祈りの色々が、小さな懸け繪馬になって、社殿のここかしこに無数に群れていた。松尾神社へ行けば、また北野天満宮へ行けば、合格祈頓の小絵馬がここにもあそこにも溢れかえっていた。半ば神様商法のそれらの小繪馬は、裏か表かに出来合いの簡素な繪がすでに描かれ、もう一面に、願いの筋が人それぞれの筆跡で神妙に書き込まれる。それを一々読んでまわって、感心したり同情したりしているヒマな人も、どこへ行ってもいる。
 もっと田舎でこころがけて見ていると、繪柄も自身で描くなりして、素朴な、だが身につまされる祈願が、じつに具体的に繪馬として奉納されている鎮守様が数多い。民俗も特異に、一風ある仕來たりもよく目に見え、地方地方の喜怒哀楽のさまが多彩に塗りこめられ書きこめられている。また遊廓のそばの神社へ行くと、廓の女たちの小説よりも奇抜な願いの筋が、趣深い繪と言葉とになっていたりする。「今後男を断ちます、但し三年間」というのを見たことがある。おれ様も、よくよくヒマ人じゃわいと苦笑したこともある。
 そんな中で、東京の王子稲荷に柴田是真描く「茨木」の鬼女は、繪も抜群の名作であるうえに、奉納した旧東京市の砂糖組合であったか、なんでも一度はお上に奪い去られた多年の特権だか利権だかを是非また奪還したい旨、渡辺の綱に切られた腕を奪い返して宙をとぶ鬼の図に託した趣向が、猛烈に凄い。むかしの商人の度胸と風格とが生んだ本物だ。
 * 午前 歯科へ。銀行の要を済ませ、保谷駅構内で買いものして帰宅。
 
 * 機械、ただならず難調子。対応してのアタマ容易に働かない。
 床に就いて,世みたいモノをただ読み耽る。秋聲の筆致と表現に感嘆。藤村は、同居して妻の伊自良の面倒を見てくれる姪節子から、「妊娠」を告げられる。『新生』最初に胸の凍る場面。秋聲が精緻にしかも何一つ野無駄も饒舌も無く語る人となら、藤村は胸に秘めつつ「こころ見ている」人。
 「源氏物語」は『朝顔』に居て、段落段落の「かたりの妙」を賞嘆、五行十行、それだけで「文藝の冴え」というしかない表現力。
 『参考源平盛衰記』はいよいよ「頼朝起つ」の多彩な証言。流さずに多く多彩に語り聴かせて呉れる妙に惹かれつづける。
 『水滸伝』『聊齊志異』の講釋・落語にかよう軽妙の「場面」の積み上げ。
 
 * しかも終日ゾクゾクの膚寒さ、日毎に暑気勝っていると謂うのに。自身、健康とは謂えない。
 
                                  
◎ 令和五年(二○二三)六月十九日  月  桜桃忌   
    起6:15 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 55:6 kg    朝起き即記録 
 日本
 〇 出雲大社の大注連縄 神域と畏怖とを分かつ偉大な結界
 電話帳をみればわかる。「大」の宇ではじまる姓が圧倒的に多い。高橋、鈴木、佐藤、田中といった姓でも追いつかない。大きいことは、いいことなのである。偉大で雄大で壮大でありたい人の思いが表れている。大きいものは強く揺るぎなく豊かに確かなのだと、人は信じていたかった。自分がそうは成れないから、いっそう信じていたかった。自分は中くらいでもいい、大きいものを親しく見ていたい。たとえば富士山を仰ぎみる心地にもそれがある。それがあるから、画家が富士山を描くと、自然そのままの山にならずに、なんだかいつも目出度そうな山に描けてしまう。
 日本で一等高い太古の建物は、出雲大社の本殿であった。当時の技術でどうしてそれまでにと、信じられないほど高く高く高く造られていた。十世紀の記録では十六丈・48メートル、世界最大の木造建造物である東大寺大仏殿の高さに優に匹敵した、が、現在では、半分の高さに改まっている。
 いまの出雲大社でわれわれの度肝を抜くのは、拝殿正面の、白い白い白い、太い太い太い、大きな大きな大きな、注連縄である。はあッと息をのんで、あとは言葉を喪いただ立ちすくむ。ただただ見上げて畏れる。むくむくむくと生けるもののように、ぎりぎりぎりと互いに締めかつ結ぼれて、悠久に豊かな生産のサマを、かぎりなく簡潔に、美しく想像させる。大巳貴、おおなむち、大きな大きな貴い巳ィさん、の、みごとな相愛のカタチ、だ。祭られた神さまは、大穴持(おおなもち)の、大国主(おおくにぬし)の、大巳貴神(おおなむちのかみ)。
 出雲とかぎらず、わが上代の神々のおおかたは、水と川と海とを占め、豊かな大地の生産を保証する「蛇体」の伝承をもっている。諏訪も三輪も住吉も、また八幡も、その他もろもろも。
 注連縄は、聖と俗とを分かつ境界を成し示している。ここから先へは入るまいぞ、出て来てもくださるな。出雲大社の注連縄がかくも超弩級に大きいのは、太いのは、それ程にも神威強大で畏怖も深甚であったこヒの端的な証明であった。日本の造型と信仰との原点が見える。
 
 * 今日は、熱い記念のあの桜桃忌、小説『C經入水』が第五回太宰治文學賞に選者満票で推薦されたあの桜桃忌から、滿五十四年。幸い昨日も今日も明日も私は一作家としての文筆・創作の日々を送り迎える。迎えていることにただ感謝のみ。
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)六月十八日  日   
    起6:15 血圧 161-73(57) 血糖値 92 体重 55:6 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  45    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ ウ ミ      文部省唱歌     昭和16・3
    一 ウミハ ヒロイナ、
       大キイナ、
     ツキガ ノボルシ、
      日ガ シヅム
 
      * 「明治/大正」を経て「昭和」になると、唱歌の教科書にはこういうア      ホラシイ唱歌詩が蔓延した。唱わせられ、ウンザリした。そして昭和二十年      八月十五日、国民学校四年生の私は、秦の母と戦時疎開していた丹波の山村      で敗戦の日を迎えた。京都へ帰れる、と、雀躍りしたのを忘れない。
      明治大正の唱歌詩との懐かしんだツキアイを、これで終えたい。
 * 暑いのに膚がゾワッとするのは快くない。梅雨はまだまだ続くか。
 
 * きのう、ながくアタマに滞留していた一山に穴を空けた、と、思う。突撃でなくて善い前進、イヤ漸進でもいい、進む有るのみ。
 
* 群馬の都沢志都子さん、めずらかなお菓子と、沢山な、冷やして呑む栄養ドリンク「カルタン100」を、持ち上げられないほど重々しく頂戴した。夏向きの躰が喜びます。
 
 * 父の日の堅固を祝って建日子、父が大好きな名酒「獺祭」一升を送り届けてくれました。有難うよ。母さんや君等の健康を祝っても、「乾杯!」
 
 * 寝汗もかいて何度か寝入っていた。あわいに、昨日も觀終えた感動の名画チャールトン・ヘストンが主演の『ベン・ハー』についで、今日も大作オードリー・ヘプバーンとヘンリー・フォンダの『戦争と平和』を観終えた。信仰が導く深い深い感動は前作が勝っていたが、モスクワやロシア国土の想い出も蘇って『戦争と平和』の大いさはさすがにトルストイと懐かしく頷かせた。
 もとよりまるでサマは異にしながら『参考源平盛衰記』の、『源氏物語』の、さらに秋聲『あらくれ』のせいみつと謂うしか無いリアルな筆触の味わいにも魅されていた。
 本が読める幸せは、私の人生を底から喜ばしくそ支えてくれる。その喜びと感謝のためにも窶れゆく視力を大切に保たねば。
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)六月十七日  土   
    起4:55 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 55:2 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  44    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○  と ん び     文部省唱歌     大正8・1
    一 とべ とべ とんび、空高く、
       なけ なけ とんび、青空に。
         ピンヨロー、ピンヨロー、
           ピンヨロー、ピンヨロー、
       たのしげに、輪わをかいて。 
    * 斯ういう唄を、人には聴かせず 独りでよく唱っていた。じめじめはしてい   なかったのだ、なにかしら「先途」を期してわたしは、ことに東京へ出てきて、い   つも自身を励ましていた、らしい、と、今にして気づく。
 
 * 目覚めを刺戟の不時の玄関ホーンに、ともあれ すこし間を置いてドアをあけた。夏至近い五時前、前道は綺麗に明けていた、人の気配は無かったが念のためポストをあけると朝刊の外に縦に四つに畳んだ小さくない白い紙が入っていた。「織田信長公末裔」を名乗ったいわば怪文書。やれやれ。そのまま五時前に床を起ってしまった。やれやれ。あとくされなきを願う。
 
 〇  お元気ですか、みづうみ。「疲労の池に浮かんでいる」中、「私語の刻」お送りいただき申しわけなく、ありがとうございました。「ご要望の儘に。」とは、秦恒平研究サイトを起ち上げについての質問にであれば、ご信頼いただいたことを光栄に思います、が、「私語の刻」ご送付のことのみでも嬉しく喜んで頂戴いたしました。 夏は、よる
 
 * 私の「かいた」「語った」こと、つまりは「核も語りもしていないこと」は、私のこの機械クンが確保し公開してくれている。そのかぎりに於いてどう論議無い活用なりされても、それは私がとかく言う事で無い。何かしら建設的であって欲しいとは願うモノの。
 
 〇 ホームページは やはり読めないですが、お変わりないですか。
  第三日曜の明後日は、父の日ですね。
 父と先程電話で話しました。八九歳の父も八五歳の母も、幸い大きな病気もなくて元気ですが、時々気弱な事も言います。
 七月には大阪の文学館で仕事もあり、その前にちょっと帰省、終ってから京都に二泊します。久しぶりの京都、宵山の前ですが、きっと観光客も多い事でしょう。今月末締め切りの仕事を幾つか抱えながら、どこへ行こうかと考えています。(やそしち様でしたら、どちらにいらっしゃるのでしょう)
 この週末は、真夏並みの暑さとか。
 食べやすいものを少しでも召し上がって、目を適度に休ませてください。
 どうぞお元気で。      澤美
 
 * 何事か異変に遭遇すれば、ためらわず「京都へ帰る」気でいる、その京都で早速にも行って見たいところ、とても一、二に絞れないが、先ずまちがいなく、知恩院した、白川ぞいに北へ向き、やがて東向きの小路を粟田口へ出て南向きに坂をのぼり、巨樹に掩われた青蓮院から巨大なお城の、知恩院の奥山をめぐって円山公園へ降りて散策、「祇園さん」八坂神社を西の大門石段上から石段下へ四条大通りをながめ、思いで多い歩道を花見小路西、北向き細い路地奥での中華「盛京亭」か、四条南側、縄手ちかいやはり南向き路地奥の割烹「千花」の贅を懐かしむ、か、すぐ西に目疾み地蔵さんにお参りし、劇場「南座」脇の「松葉」で鰊蕎麦を味わうでしょう。
 それでなければ、
 一散に泉涌寺下、即成院まで車で走り、下車。東へ居並ぶ幾つもの脇寺に添って坂道をのぼり、先ずは『慈子』と出会いの懐かしいかぎりの来迎院静寂のお庭で「憂き時と世」を忘れたい。
 そして泉涌寺境内の砂を踏み、眼下の母校日吉ヶ丘高を懐かしみ西へ降り道、やがて大機院わきから洗玉湲を越えて「東福寺」宏壮の境内をもとおり歩いて「帰るのを忘れる」でしょう。
 そして気を取り直し、七條東の静かな恩賜博物館の名品に堪能するでしょう。館の真向かいは「平氏の遺産」三十三間堂。
 
 * 疲れきってか他に理由があってか、たしかに早く起こされはしたけれど、一仕事のあと、夜昼の判じも就かず、よくよく寝入ってはや午後三時、夜中かと思いながらふらふらで目覚め、此処、機械(パソコン)の前へ来ていた。
 京祇園の橋本嘉壽子さん、弥栄中三年五組で一緒に卒業した女友だちから、京風の凝ったお菓子とも塩吹き「出汁の素」とも謂える『初霜』の珍味を戴く。ありがとう。此の「嘉ぁちゃん」は、健康の理由から一年上にいた人、幸いに、元気にひさしく「湖の本」にも最初から付き合ってもらっている。ますますお達者でいて下さいよ。
 「この学年」女子では、嘉ぁちゃんと同じく最初っから読者でいてくれた中村節子さん、最近に翠の毛糸でジャケットを編んで呉れた渡辺節子さん、それに割烹「浜作」の大女将だった北村洋子ちゃんの四人が健在。有済小学校卒では「お嫁」候補だったと聞く、いまも踊りの「おっ師匠はん」の林貞子ちゃん、高卒では私筆名「菅原万佐」になって呉れたうち菅井さん、樋口万佐子さんが嬉しくも健在で、「湖の本」をいつも送り届けている。
 
 * なんとかして通り抜けたいと何日も藻掻いていた創作「隘路の一つ」を今し方やっと通り越した。もう 十一時半が過ぎているよ。
 
 *希有に長大に、情意も篤く熱く調った「激励」を頂戴した。有難いこと。
 
 〇  お元気ですか、みづうみ。(と、毎回切なる願いをこめて)。
 病院の結果を読みました。血圧は、薬でかなりコントロールできますから、どうか服薬がんばっていただきたいと思います。そして決してご無理なさいませんように。
 
 みづうみに、わたくしの愛してやまないウェールズの詩人ディラン・トマスの有名な詩を送ります。日本語に訳すとなかなか"Rage"の語感が伝わらないので、原文と和訳二種類を送ります。持っていた詩集がみつからず、ネットで拾ってきましたので、翻訳者不明ですみません。
 
Do Not Go Gentle Into That Good Night
                          Dylan Thomas
 
Do not go gentle into that good night,
 
Old age should burn and rave at close of day;
 
Rage, rage against the dying of the light.
 
Though wise men at their end know dark is right,
 
Because their words have forked no lightning they
 
Do not go gentle into that good night.
 
Good men, the last wave by, crying how bright
 
Their frail deeds might have danced in a green bay,
 
Rage, rage against the dying of the light.
 
Wild men who caught and sang the sun in flight,
 
And learn, too late, they grieved it on its way,
 
Do not go gentle into that good night.
 
Grave men, near death, who see with blinding sight
 
Blind eyes could blaze like meteors and be gay,
 
Rage, rage against the dying of the light.
 
And you, my father, there on that sad height,
 
Curse, bless me now with your fierce tears, I pray.
 
Do not go gentle into that good night.
 
Rage, rage against the dying of the light.
 
@「あの快い夜のなかへおとなしく流されてはいけない」    ディラン・トマス
 
あの快い夜のなかへおとなしく流されてはいけない
 
 老齢は日暮れに 燃えさかり荒れ狂うべきだ
 
 死に絶えゆく光に向かって 憤怒せよ 憤怒せよ
 
 
 賢人は死に臨んで 闇こそ正当であると知りながら
 
 彼らの言葉が稲妻を 二分することはなかったから 彼らは
 
 あの快い夜のなかへおとなしく流されていきはしない
 
 
 彼らのはかない行いが緑なす入江で どれほど明るく踊ったかも知れぬと
 
 最後の波ぎわで 叫んでいる善人たちよ
 
 死に絶えゆく光に向かって 憤怒せよ 憤怒せよ
 
 
 天翔ける太陽をとらえて歌い
 
 その巡る途中の太陽を悲しませただけだと 遅すぎて悟る 気性の荒い人たちよ
 
 あの快い夜のなかへおとなしく流されてはいけない
 
 
 盲目の目が流星のように燃え立ち明るくあり得たことを
 
 見えなくなりつつある目でみる いまわのきわの まじめな人たちよ
 
 死に絶えゆく光に向かって 憤怒せよ 憤怒せよ
 
 
 そしてあなた ぼくの父よ その悲しみの絶頂で
 
どうかいま あなたの激しい涙で ぼくを呪い祝福してください
 
あの快い夜のなかへおとなしく流されてはいけない
 
死に絶えゆく光に向かって 憤怒せよ 憤怒せよ!
 
 
 
 A 穏やかな夜に身を任せるな        ディラン・トマス
 
 
穏やかな夜に身を任せるな
 
老いても怒りを燃やせ 終わりゆく日に
 
怒れ 怒れ 消えゆく光に
 
 
最期に闇が正しいと知る賢者も
 
その言葉で貫いた稲妻はなく 彼らが
 
穏やかな夜に身を任せることはない
 
 
叫ぶ善き人よ あれは最後の波 どんなに明るく
 
そのかよわい行いが 緑の湾で踊ったことか
 
怒れ 怒れ 消えゆく光に
 
 
軌道をゆく太陽を 捕え歌った荒くれ者よ
 
遅すぎて過ちを知り その道行きを弔った
 
穏やかな夜に身を任せるな
 
 
墓守たちよ 死を間近に 盲目の目で見る者よ
 
見えない眼は流星と燃え 鮮やかにもなれたはず
 
怒れ 怒れ 消えゆく光に
 
 
そしてあなたよ 私の父よ その悲しい高みから
 
呪いたまえ 祝いたまえ 烈しい涙でいま私を
 
穏やかな夜に身を任せるな
 
怒れ 怒れ 消えゆく光に
 
 〇 詩の翻訳ほど不可能への挑戦はありません。両方の訳の良いとこどりで読んでくださいますように。私はどちらかというと Aの訳のほうが好きです。
 
 英語に詳しいわけではありませんが、"Rage"に匹敵する日本語はないと思っています。"Rage"は「憤怒」や「怒り」以上に烈しい。怒りという単なる感情を超える決断、そこに荒れ狂いながら叛逆するという意味を含むと感じます。わたくしの思い切った意訳だと「怒り狂え、逆らえ」「闘え、闘え」 としてもよいかと思っています。
 
 この詩はディラン・トマスが、死に瀕した、作家でもあった父親に寄り添い、祈りをこめて書いたものですから、彼が"Rage"という言葉を、滅びいくことにあきらめるな、怒り抵抗しろと、父親と自身を奮い立たる言葉としているでしょう。そこにあるのは息子の慟哭であり、父への愛の絶唱であり、消えゆく光の中で無言の父が息子に伝え遺す、決して滅びない何かでもあると、読んできました。
 
 ディラン・トマス本人は若くして、深酒して階段から落ちて死んでしまいましたけれど、ほんとうに天性の詩人らしい終わりかたであったと思い、読者の無念を慰めています。ご存知でしょうが、ボブ・ディランはこの詩人に因んだ名乗りです。
 
 ◎  話変わりまして、実務的なご提案を二つ。
 
  * 書庫へ入ってみた。……、かなしくなった。コレだけの蔵書、コレ程の蔵書が、  私がいなくなれば、妻も建日子も、紙くず同然に処分するのだろうか、物語や小説は  むしろ少なくも、価値ある、しかし読み手のチカラを本の方から逆に問うてくる書籍  が総じて多い。甥の恒(黒川創)になら或いは読めて役立ちそうな本は多いが、建日  子では向きがちがって手も出さない、出せない、だろう。この近年、公私立の図書館  も、容易には受け容れもらっては呉れない。文學文藝の、前途ある若い学究や熱愛者  と今は附き合いが無い。蔵書の少なさに泣いていそうな短大や地方大学は在りそうに  想うのだが、見つけ合うツテがない。   2023 6/5
 
文学史的にも貴重な秦恒平の蔵書です。処分など考えられない。罪悪です。同級生が私の母校の大学学長になりましたので、機会がありましたら寄贈可能か訊ねてみることは出来ますが、国文の強い学校というわけではないので もったいない気がします。学生のレベルを思うと、宝の持ち腐れにならないかしらと。
 一番よいのは同志社などで「秦恒平文庫」として保管していただくことですし、送料かかりますが海外の日本文学研究関係施設という手もありそう。とにかく、散逸させず一括寄贈すると、ご家族にしっかりお伝えくださいますように。(遺著管理人の件も)
 
  * 朝一に 東工大卒、関西在住の鷲津君から、私のホームページ再建に関して、詳  細複雑な「提案」が届いていた。「一読」すら私には難しいいろいろの手順を踏んで  成るらしき提案で、なによりも、繰り返し読んで、私が「分からねば」ならない。こ  の「老耄の機械バカ」にソレが出来るか、まだ何一つアタマに入っていない。鷲津君  の好意がただただ有難いとのみ、今は。その先は、まさにアタマのなか、五里霧中で  す。
   しかし「救いの手の如き」の延びてきた最初ではある、感謝に堪えぬ。
  ホームページを「数人で共有共用」という「らしい」趣旨は、よく聴いてみないと分  からない。ともあれ落ち着いて鷲津君のメールを「理解しないと」前へでられない。   
 上は、昨年末頂戴したメールです。
 
 何度も申しますが、みづうみは書くことだけに徹して、ホームページの運営は「数人で 共有共用」する方向にご検討いただけませんか。みづうみのご支持さえあれば、東工大 のお二人も私も動く用意がございますので。なるべく早くご決断ください。
 
 梅雨だし、ムシムシ暑いし、すっきりしない毎日ですが、ご自愛専一に、色々楽しみながらお過ごしくださいますように。  夏は、よる
 
 * ビックリ、ポン。明日、静かに読みましょう。
 〇 父の日の
  ささやかですが、プレゼントをお送りしました。
  明日、Amazonから届くと思います。
  これからもどうかご健勝に。    ☆ 秦建日子☆TAKEHIKO HATA
 
 * それはそれは、ありがとう。建日子も壮健にはげんで、大きな深みの創作へさらに歩まれるように。 父
 
 * 明日から,永く仕懸かりの「小説世界へ」文字通りに潜り込みたい、仕上げを御覧じといきり立つこと無しに。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)六月十六日  金   
    起5:00 血圧 148-73(65) 血糖値 92 体重 55:6 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  43    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○  故 郷     文部省唱歌     大正3・6
    一 兎追ひしかの山、
     小鮒釣りしかの川、
       夢は今もめぐりて、
       忘れがたき故郷(ふるさと)。
 
   二 如何にゐます父母、
 
    恙(つつが)無しや友がき、
      雨に風につけても、
      思ひいづる故郷。
 
  三 こころざしをはたして、
    いつの日にか帰らん
     山はあをき故郷(ふるさと)。
     水は清き故郷。
 
     * これほどに実感に打たれ目に涙をためて唱いつづけた唱歌はない、むろん     故郷京都から東京へ出て家庭を持ち職場を持ち、そして朝日子、建日子が生ま     れて、私は「こころざしをはたし」小説家に成った。
    「山はあをき故郷(ふるさと)。水は清き故郷」とは、文字通りに私の生まれ育     った「京都。 東山 白川 鴨川」の景色そのままで。妻にも子らにも聴かせ     ず、ひとりの思いを抱いたまま、どれほど、この「三番」歌をひしひしと独り     唱っていたことか。 京都。然り京都よ。
 * 明治維新初政に強烈に素早かったのは、なにより「廃藩置県」で大小名の所領支配をを一気に廃止して知事を任命し、ついでは「議会制を建設」しつつ、すばやい廃刀令等についで国民適齢男子への「徴兵制」徹底による「帝国陸海軍の確立」であったろう。
 明治政府は海外列強への警戒を肝に銘じつつ、朝鮮半島、支那への視野の確保をつよく意識していた。侵略される警戒を反抗的に、侵略への意図や意志で表現して行った。
 
 * 昨今の民主主義日本は、平安か。太平洋をひろびろと見開きにしょゆうしたかの日本列島の極東での地図地形を見入れて、暗に領土欲をもたない國は、幕末の西欧列強のあからさまなにじり寄りに既に露骨だったが、いまはロシア、北朝鮮、中国、そしてアメリカでさえ垂涎の目当てにしているはず。
 その日本領土へ外国の軍が足を入れてきたとして、日本政府に対応の実力は、無いとしか言えない。自衛隊にどれほどの人的勢力が在るのか、いま、政府も国民もあえてそれには目を瞑っている。いまの本にはロシアに徹底退校しているウクライナの「意志」も「抗戦力」も無いに近い。分かって居て、口を噤んでいるのは、いろいろ、さまざまに難しいからだが、放置しておける難題では無いだろう。官僚のつくったメモ答弁を俯いて読むしか能も責任感もうすい岸田現総理と自民政権の「國と国民支配」に、誰よりも潜在兵役・徴兵年齢に在る「潜在戦力と目されていよう青年ら」の覚悟、聴いてみたい。
 
 * ぐだぐだに疲労が身にしみ、床に就いては、読んだり寝入ったりを繰り返し、ロクに食べてもいない。徳田秋聲という、いまどきどれほど読まれているか判らないまでも、凄いほどに見事な日本語の文章作家に、ま、私は昔すらそうなのだが、崇拝の念をすらまた新たに長編『あらくれ』を読み進んでいる。
 秋聲に劣らぬ、知名度や人気ではそれ以上の島崎藤村『新生』も懐かしい、が、藤村の日本語には少しく独自の「思い入れ」が苦味のように混じっている。
 そしてまたまた、しみじみと感じ入るのが、結句は『源氏物語』いま「薄雲」巻を読み通してきたが、数行、十数行も読むよむだけで日本語での「ものがたり」の醍醐味、眞実感に呆れるまで惹き込まれる。
 近世の水戸で編まれたという『参考源平盛衰記』は、いわば数多異本異伝異文それぞれの妙味を惜しげなく編纂してくれている。あの源氏と平家の時代を論策し批評する「虎の巻」の觀にしたたかに惹かれる。
 
 * 六月だから懈いいのか、夏季とも暑く極まればかえって怠さからぬけられのか。少年の昔、私は春秋よりも、盆の底で灼かれるような凍り付くような京盆地の真夏、真冬が好きで元気であったが。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)六月十五日  木   
    起7:00 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 55:6 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  42    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○  朧月夜     文部省唱歌     大正3・6
    一 菜の花畠に 入日薄れ、
       見わたす山の端 霞ふかし。
      春風そよふく 空を見れば、
       夕月かかりて にほひ淡し。
 
    二 里わの火影(ほかげ)も、森の色も、
       田中の小路を たどる人も、
      蛙(かわず)のなくねも、かねの音も、
       さながら霞める 朧月夜。
 
      * 最優秀唱歌詩かというほど、詩句の斡旋に共感を惜しまずよく唱った。      あの戰争に佳いことは一つもなかったが、山に掩われた静かな小村に疎開生      活していればこそ、かかる「朧月夜」もまさに「体験」できた。忘れない。
 
 * 現に私用・使用の私の此のパソコン、「Windows7」と在る。これが、どれほど旧いか私は知らないが。また常用の「一太郎・承」は、「2012」と在る。つまり11年も昔からの骨董品らしい、が。だから、どうなのか、わたしには判らない。こう、字が打ち出せて文章を書き続けて来れたという事実にのみ依頼している。
 
 * 私が京都の弥栄中二年の三学期以前に小遣いを奮発して買った岩波文庫『平家物語』上下巻の開巻筆頭は例の「祇園精舎の鐘の声」だった。そしてすぐに「祇王妓女と佛御前」の噺だった。
 今、読み続けている『参考源平盛衰記』全四八巻の第十八巻へきてやっと「祇王妓女と佛御前」の嵯峨の隠れと母子・佛四人の往生譚が読めた。ことのほかに異本の多い『平家物語』の「編集」ぶりは千差万別。その事実にこそ吾らが「十二世紀」の「妙趣」を感じ取らねばならない。私が、百冊に余る著作の「論著最初」に『十二世紀美術論』を書き下ろした動機もソレへ触れている。
 
 * 仙台の遠藤恵子さん、綺麗な箱に幾重にも満たされた「桜桃」を桜桃忌前に贈って下さる。54年前の1969,年桜桃忌の六月十九日に、小説『C経入水』により「第五回太宰治文學賞」を受賞した。わたしは、本郷の医学書院に勤めていて、遠藤さんは若い同僚社員であった。保谷の社宅に暮らしていて、建日子の生まれる直前まで、私たちの部屋へきて茶の湯の作法を私に習ってもいた。久しいなあ。私が退社後、遠藤さんも退社されて、のちには仙台や近県で大学の教授また学長さんまで務められていた。
  口あたりまろやかに美味しい桜桃を、たっぷりと。ありがとう。
 
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)六月十四日  水   
    起5:45 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 56.7 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  41    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○  冬景色     文部省唱歌     大正2・5
    一 さ霧消ゆる湊江の
        舟に白し、朝の霜。
      ただ水鳥の聲はして
        いまだ覚めず、岸の家。
 
    二 烏啼きて木に高く、
 
        人は畑に義を踏む。
      げに小春日ののどけしや。
        かへり咲の花も見ゆ。
 
      * 三番まであるが、ことに一番の、音韻の協鳴がうつくしい効果を得てい      て、思わず知らず景色に融けて入つて歌っていたのを懐かしく想い出す。
      一番の、湊江の風情に縁はなかった。二番の風景に身を置いた敗戦直後の       小学生体験は忘れない。佳い詩と、受け容れていた。よく歌ってもいた。
 * 論策に執する夢を見続けていた、か。
 
 〇 秦さん
 ホームページ おめでとうございます
 お見事です バンザイです
 ありがとうございます
 約45×110cmに拡大しみた金色の
「方丈」に最敬礼をしました
「方丈」から「東工大工学部教授室」まで
 膨大な「私語の刻」でした
 元気を頂いております
 実は私もパソコンの本体の器械を変えてみた
 ところでまだまごまごしております
 コロナゆるめずにおります
 元気を出して頑張ります  千葉   勝田e-old 拝
 
 * 嬉しいお便りながら、私めは、自身の「ホームページ」に自覚して「行き合えた」ことが一度も無く、つまりは夢うつつのように機械に向き合うています、やれやれ。
 
 〇  お元気ですか、みづうみ。
 「疲労の池に浮かんでいる」中、「私語の刻」お送りいただき申しわけなく、ありがとうございました。大切に読み続けます。
「ご要望の儘に。」の意味がよくわかりませんが、秦恒平研究サイトを起ち上げ、その質問についてのことであれば、ご信頼いただいたことを光栄に思いますが、「私語の刻」のご送付のことのみでも嬉しく喜んで頂戴いたしました。  夏は、よる
 
 * 視力の衰弱甚だしく、困る。老境の通有と諦めていて佳いことではあるまいが。
 
 * 「谷崎潤一郎にかかわる著作や文献」を大きな箱で三箱、母港の国文科へ贈った。処置してくれるだろう。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)六月十三日  火   
    起5:45 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 56.7 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  40    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○  海     文部省唱歌     大正2・5
   一 松原遠く消ゆるところ
     白帆の影は浮ぶ。
      干網濱に高くして、
      ?は低く波に飛ぶ。
          見よ昼の海。
          見よ昼の海。
 
    二 島山闇に著(しる)きあたり、
      漁火(いさりび)、光淡し。
       寄る波岸に緩(ゆる)くして、
       浦風軽(かろ)く沙(いさご)吹く。
           見よ夜の海。
           見よ夜の海。
 
    * いささか仰々しくも、音調のしらべ和やかに技巧は優しい。このような「海」   など、京都市内、円山のふもとか丹波の山奥しか知らなかった少年にはあまりに縁   遠かったが、そのゆえに心ゆるして惹かれていたと謂えよう、か。
 
 * 「ま・あ」ずと目覚めて、ふと、空腹感。外は雨あがりか、冷いやりと。
 中・高同窓、しかしほぼ何も関わり無く、口を利き合うた覚えもなく、中学での全校学級委員会で顔を見知っていた程度の渡辺節子が、この春さきにふっと送って来て呉れたなさしく手編み袖無し真緑の上着をやや肌寒い日には着て過ごしていた。組もいつも違ってたし、高卒以来の何十年いちどとしてであっていない、が、たまたま同窓会で編んでいた卒業生名簿に昔の儘のじゅうしょしめいをみつけ、出来合いの「湖の本』震撼を贈呈しておいたのだった、毛糸編み緑の袖無し上着はその返礼かのように贈られてきた。これも人生不思議哉と珍らしく、感謝して頂戴した。渡辺節子が、粟田小学校で「三節」の一人と呼ばれていたのは、いつともなく聞き知っていたし、安藤節子も中村節子も心親しくよく知り合っていた、「(お)澄まし」と、男子連によくいじめられていた渡辺節子とだけは何の折衝もなく、ただ、彼女が中学時代、ひとり、人のいない講堂で大きなピアノを弾いていたのは、たまたま見て聴いて覚えていた。
 知る限り、講堂のそのピアノの弾ける女子が、もう一人、我が家の真向かいに育った石塚公子がいた。この「キミちゃん」とは、同じバスの送迎で、馬町(うままち)の上(かみ)、京都女子大付属のような「京都幼稚園」に通っていた。ちなみに、戦時にもまるで空襲されなかった京都市で、ただ一度不発の爆弾の真夜中に落ちたのが、此の京都幼稚園の庭であった。
 
 * 『参考源平盛衰記』前三分一の悲惨また凄惨は、さきに「俊寛」 そして 「高倉宮以仁王・源三位頼政の挙兵惨敗。「もの凄い」。時間さえあらば書き写したくてしょうが無い。
 
 * 「ことば」と「文字」とは、有難いこと、湧くように、機械のキイに誘われ産まれて出る。しかし、こんな述懐に時を費やしてなど、いられないのだが。ま、成るにも為すにも委せておくか。、
 
 
◎ 令和五年(二○二三)六月十二日  月   
    起5:10 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 55.4 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  39    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○  鯉のぼり     文部省唱歌     大正2・5
   一 甍の波と雲の波、
      重なる波の中空を、
       橘かをる朝風に、
        高く泳ぐや、鯉のぼり。
   * 京の町なか、家並みをそろえたような、ま、閑静な門前通りに育って、まず屋   根より高い「鯉のほり」にも「凧揚げ」にも縁がなかった、せいぜい「羽根突き」   や「陣取り」「ドッヂボール」が関の山で、夏休みの地蔵盆には、路上真ん中に幕   をはり、町内会が「青い山脈」とか映画を写して呉れた。「原節子」に恋したりし   た。繪や写真で見る「鯉のぼり」にはテンと気が無かったが、歌は唄っていた。
 
 * 夢の内で、いかにもそれの謂えるらしい人から、かなり年嵩な先輩作家から言われていた、「秦さんは、作家として、大きなトクをし、ソンもしましたね。いわば文壇の寵児でしたからね」と。
 じつは、おなじことを色んな機會に何度も色んな人に小声で言われてきた。
 つまり、どういうことか。
 私はいわゆる「同人雑誌』体験とか「文學仲間」のただ一度も一人ももたず、突如として筑摩書房「展望」誌の「第五回太宰治文學賞」をもらった。芥川賞とは異なってとうぜんのように「応募・選抜」賞なのであったが、私は当時「筑摩書房」の名こそ知っていたが綜合誌「展望」の名も存在も、まして「太宰賞」の在って、すでに四度も選考され、第二回に吉村昭さんが受賞されていたなど、一切が私、知見知聞まして関心の真っ白な「以外」であった。
 そんな、会社勤め全く無名の私に宛て「第五回太宰治文學賞」に当選されましたと社宅の一室ずまいだった我が家へ「電報」がきたと妻が会社へ電話してきた。「ナンじゃ、それ」としか、かけらも覚えがなく、筑摩書房から写真を撮る社まで来いと「展望」編集長の電話も来た。選者は「井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、川上徹太郎、唐木順三、中村光夫」と畏怖しいような六氏の「満票当選」と聞いてもただ私はボーゼンとしていた。選考対象は、私がそのしばらく前に、例の独り合点で自費製作出版の四冊目の私家版作品集『C經入水』のその巻頭表題作だと。読売はじめ各紙が「時の人」と報じ、私の見知らぬ「実父」は入院中に新聞で知った、読んだと手記を遺したが、ハテ何が何して斯うなるのか…。私家版本の『C經入水』が、やみくもに送り届けてあった先のお一人、敬称は略してあの「小林秀雄」から選者の一人「中村光夫」へ回された、らし、かった。果然、選者満票で「現代の怪談」とも評(川上、唐木、中村)された「C經入水」は「第五回太宰治文學賞」
推されていた。「応募」の態に処置されたのであろう、作者の私にはただ「寝耳に水」の驚愕であった。「秦さんは、作家として、大きなトクをし、ソンもしましたね。いわば文壇の寵児でしたからね」とはこういう「スタート」をも謂われていたに相違なく、それだけで終えてしまわなかった…、と、思っている。
 
 〇 梅雨らしき日が続きます。如何お過ごしでしょうか。
 『薔薇の名前』も『ダ・ヴィンチ・コード』も、映画だけ見ていては到底理解できないでしょう。ヨーロッパやアメリカの宗教文化世界で育った人なら、そのまま理解できるかも
しれませんが、教義のいろはさえ私たちは殆ど知らないのです。『薔薇の名前』の世界
は暗黒の中世の感があります。最近のヨーロッパ中世研究は必ずしも暗黒の中世とは限
らないと言います・・ブリューゲルの描く農民たちの絵に垣間見る如き陽気さ、強さ・
・それは鴉が指摘された日本の中世の楽しさ、人々の生き生きした営みでもありましょ
う。いささか宗教的傾向が強いことは見落とせませんが。
迷宮の図書館は・・何故かスペイン現代の小説家カルロス・ルイス・サフォンの『風の
影』と一連の小説を連想させます。「知の宝庫」とは、不可解なミステリーロード。
修道院の暗さ、不気味さと書けば誤解されかねませんが、一種の怖さも感じます。地下
の納骨堂など・・やはりいくら聖なる空間と言っても敬遠したい。不気味な冷たさを実
感したこともあります。その気持ちと矛盾しますが、再訪したい所の一つはスペインで
す。宗教裁判、アラブ・イスラム勢力との長年にわたる抗争、そして融合。更に第二次
大戦後も長く続いたフランコ政権の存在などあまりに暗い要素ですが・・それ故いっそ
うの光と影を感じるのでしょうか。
『ダ・ヴィンチ・コード』は注釈解説本なども出されています。マグダラのマリアの存
在、最後の晩餐の絵の解説など否応なく興味を掻き立てられます。映画では筋を追うこ
とさえ困難でした。
イタリアにフランスにまだまだ勁く誘われます。異端と決定された宗派、例えばカタリ
派のことなども考えたりします。凄まじくて耐えられませんが。
最終的には興味関心は強くてもキリスト教徒でないわたしには到底理解できない、と思
い定めることになるのでしょう。
 
自在に海外に旅行できる鳶ではありません。友人にはこの半年で二回ヨーロッパに旅行
した強者もいます。ロマネスクへの興味、個人でガイドを頼んでの旅とか!!ああ、と
わたしは悲鳴?をあげたいほど。一ユーロが150円に近い最近では心もとない財布を
嘆くことでしょう!!唯年齢を考えれば行きたい場所を厳選し計画する必要があります
。ただし現実にはまだ動けない・・。
 
朝のベル、ありがとう。ありがとう鴉。
梅雨に入って今日も雨 お身体ご自愛されますように。くれぐれもくれぐれも大切に
 
 
◎ 令和五年(二○二三)六月十一日  日   
    起4:30 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 55.0 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  38    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○  早春賦     吉丸 一昌     大正2・2
   一 春は名のみの風の寒さや。
      谷の鶯 歌は思へど
    時にあらずと 聲も立てず。
      時にあらずと 聲も立てず。
 
   二 氷解け去り葦は角(つの)ぐむ。
     さては時ぞと 思ふあやにく
    今日もきのふも 雪の空。
     今日もきのふも 雪の空。
 
  三 春と聞かねば知らでありしを。
     聞けば急(せ)かるる 胸の思ひを
    いかにせよとの この頃か。
     いかにせよとの この頃か。
 
    * これぞ、これこそ、私の人生歌、「生歌」そのものであった。ただ季節とし    ての「早春」ではなかった、若者の、青年の、奮い立つ蹶起、決志を励ましてく    れる「みごと」としか謂えない美しい「声援・応援」歌と「青年の私」は聴き、    かつ、心して胸中に歌っていた。
    学生時代からついに故郷「京都」を離れ「東京」で就職したの「早春」、社内新    聞から入社の思いを短く言えと求められたとき、なに躊躇うことなく、ただこの   「早春賦」一番の詩句を書き抜き、余の一言も加えなかった。まこと本意・本志・    決意であった、会社も仕事も、組合も、上司も、同輩も心頭に波立てず、ただ私    は「此の先へ」のびてゆく吾が「春夏秋」をどう生きて行くか、今まだ「ときに    あらず」の視野へ目を見開いて自身を正すほか何もなかった、ああ、いや、明確    に私はもう「希望」していた、「創作」「小説「文學・文藝」へ。だが「時にあ    らず」と「聲」ひとつ立てなかった、新婚の「妻ひとり」の他の誰へも。そして    「翌60年初夏」から、時の「安保とうそう」を背に感じたまま、処女作『少女』    『或る説臂翁』へ踏み出したのだった。ありがたい、すばらしい、美しい唱歌の    『早春賦』であったと、感謝はいま「やそしち老」の胸にも篤い。
    掛け替えの無い私さようの「早春賦」に、むろん黙したまま、永く心そえて下さ    ったのは、当時いくつもの大學での講壇に立たれながらも、株式会社『醫學書院』    の「編集長(のちに、副社長・社長・相談役」)であった、もうすでに?外研究、    康成研究に「新生地」を開かれていた長谷川泉であったのは、間違いない。そし    て私の入社受験、最期の「面接」をされた社主の、鬼よまむしよと恐れられた金    原一郎社長も、私在職の15年半、いやその後も亡くなるまで實に永きにわたっ    てり、一社員に過ぎなかった私の「早春賦」に聞く耳を向けていて下さった。
 * 「葬式」は反対だ、これは『告別写真だよ』と、「秦恒平君 社長」と日付も手書され、「写真一枚 お織りします お受け取り下さい」と書き添えられた、實に佳い、懐かしい上半身写真を、金原社長、或る日、突として私の当時一課長として勤めていた五階自席へまでお持ちになり、笑顔で手渡して下さった。そのお写真、いまも此の私書斎の一等間近に頂戴したまま大切に荘ってある。「拙い谷の鶯の声」をいまも聞いていてくださるだろう、長谷川先生も、もとより。
 
 * 夜十時半をまわって、それまで昼と湯方の食どきをべつにして、ほとんど根潰れていた。いくらかメール来信があるようだが。このまま寝てしまう気。斯く此のまま水に沈むように現世(うつしよ)を去るのであろうよ。あえては逆らうまい。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)六月十日  土   
    起4:30 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 55.0 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  38    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○  冬の夜    文部省唱歌     明治45・3
   一 燈火(ともしびちかく衣(きぬ)縫ふ母は
     春の遊びの樂しさ語る。
      居並ぶ子どもは指を折りつつ
      日数(ひかず)かぞへて喜び勇む。
       囲炉裏火(いろりび)はとろとろ
                 外は吹雪。
 
    * 「過ぎしいくさの手柄を語る」父親の二番には、きのりしなかったが、一番    「衣縫ふ母」の歌には心惹かれて、ひとりで、こっそり唄った。「居並ぶ子ども」    には、びっくりした。「ひとりッ子」の「もらひ子」だった私には、その賑わい、    羨ましい前に異様でもあった。とは言え、私にもこういう囲炉裏端の体験はあっ    た、戦時疎開した先の丹波の山奥のちいさな部落で、二軒めの宿りに画につくら    れた築山の奥の「隠居」で寝起きし、始終母屋の農家族から呼び迎え可愛がられ    ていた。農学校へ通学のお兄さん、女学校を卒業していたお姉さんが二人。お父    さんは戦死されていたが、働き手の優しいお母さん、上品に物言いも静かなやは    り働き手のお祖父さんお祖母さんの六人家族だった。みなが心優しく、まして囲    炉裏を囲んで談笑の真冬は、寒い寒い雪の積む夜は、わすれがたいのだ。懐かし    いのだ。
 * 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)六月九日  金   
    起6:15 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 55.2 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  37    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○  村 祭    文部省唱歌     明治45・3
   一 村の鎮守の神様の、
      今日はめでたい御祭日(おまつりび)
     どんどんひゃらら、どんひゃらら、
     どんどんひゃらら、どんひゃらら、
       朝から聞える笛太鼓。
    二 年も豊年満作で、
      村は総出の大祭り。
     どんどんひゃらら、どんひゃらら、
     どんどんひゃらら、どんひゃらら、
       夜まで賑わふ宮の森。う朝から聞える笛太鼓。
   
      * 街なかで育ったが、昭和二十年三月下旬からの戦時疎開とその延長とで、     秦の母と国民学校=小学校三年末から、四年、五年秋まで「丹波の山奥」に農     家を借りて暮らしていた。一村と謂わずともその一部落の、みな農家の子や家     族とは自然に、「都会もん」と嗤われながらも馴染んでいた。ささやかながら     鎮守の宮もり祭りもあつた。この唱歌はけして他所のことでなかった。
     そして京都へ帰り、戦後新生の弥栄中学一年生になった年の「全校演劇大会」     で、私の一年二組は、ね私の熱心を極め演出した「山すそ」と謂う農村の児童     劇で「全校優勝」した。その舞台で私は此の「どんどんひゃらら、どんひゃら     ら」の歌をうまく遣った。二位には隣の一年一組が成って、その日のことを私     は後年に『祇園の子』という短編小説にし、これを良しと観た何人もの評者が     いて、ちいさいながら一種の出世作のように遇された。懐かしい想い出です。
 
 * 何がといって、昨夜、妻は寝室へ引っ込んだアト、三度目ほどの映画『渚にて』の怕さには身動ぎも成らなかった。世界を挙げての核戰争の結果、地球上の大気も世界の人類・生物の大方既に死に果てて、わずかに南太平洋のオーストラリアにだけまだ忍下も生存し得ているが、それも人間・生物の最期までにようやく五ヶ月ものこっているかどうか。生存の人は甥も幼子もみながすでに安楽死の薬物を政府から配布されている。リチャード・ウィドマークをかん腸しする潜水艦いっそうが強烈な大気汚染というよりも大気死没の状況を僅かにサンフランシスコなど遠望視察しているが、それもオーストラリアへ帰港、残り僅かな命を線香花火ほどに耀かせながら「その日」の到る前に「死」を受け容れて死滅の地表から一足早く愛に悲しみながら遁れて行く。
 怖ろしい、が、これこそは明日にも蓋をあけて起こりうる絶死滅への地獄のさそいなのである。侵略ロシアが核を用い、応戦ウクライナないし西欧が核を乱射し、アメリカも中国も打ち上げ花火のように競い打ち合えば、大気の核汚染は、世界文明の殆ど和神事に冒して殲滅すだろう。南洋のオーストラリアが最期になるか成らないかは私には判らないが、孰れ大気の動きにしたがい、準じに全世界が詩ノ放射能に食い尽くされるのは相違ないしんそうになるのだろう。
 映画『渚にて』ほど徹底して全滅死静寂の必然を説いて聞かせた他の作を私は知らない。その怖さは、『タイタニック』沈没や、「ヒロシマ・ナガサキ」の比では無い。世界と人類全滅の静寂という怕さ、だ。
 
  〇 秦先生 CC. 鷲津様
 やはりホームページへのアップロードが上手くいっていない様子ですね。
 このメール「旧機で」書かれたのでしょうか、新機でしょうか。 (舊機です。秦)
 どちらにしても、一つ一つ、やって行ければいいと思います。
 多分、5段階くらいあります。
 
 0) 旧機で文章を書き、旧機に保存されているファイルからコピペしてメールを送っている(現状)。
 1) 旧機で文章を書いているけれど、ファイルは新機に保存されている。
  (新パソコンライブラリというフォルダ内のファイルをいじっている)
 2) 新機で旧機で書いたファイルを開けられる。
 3) ホームページにアップロードするソフトを立ち上げられる。
 4) ホームページにアップロードするソフトのaisatsuというファイルに文章をコピペし、
 上書き保存することで、ホームページが更新される。
 5) 新機でそのまま文章が書ける
 
といった感じでしょうか。
 私が前回行った時に2まではマニュアルを作り、
 先生にも実地で復習していただいた感じです。
 鷲津さんが 3 以降のマニュアルを作ってくれた、というリレーでした。
 
 先生の今の感覚はどこまで行っている、という印象でしょうか。
 4 までやったつもりだが、ホームページが更新されてない?という感じですか? 柳
 
 * ウーム。心神 ヘタばっていましたので、実感というのを持ち侘びてるんやなあ。
 
 * 歯科へ。妻の体調宜しからず。帰路、「中華家族」での昼食もそこそこに是非必要な保谷駅前の銀行でぜひ必要な諸手続きをして帰ってきた。
 
 * 晩、思いを新たにすべく、また、妻と映画『渚にて』を心して丁寧に見入った、しみじみ魅入られた。中学では適切で無い。よくない。
高校の上級生ないし大学の一般教養生に、心底、観てほしいなと願う。名目を問わず少なくも公の「議員」の名の着く全員は、観て、心して、よく考えて欲しい。
 
 〇 お元気ですか、みづうみ。
 お元気でいらっしゃるのか、お目の具合は如何かしら、等々、とても案じております。
 もし、メールを書いていただくことが叶いましたら、一行でよろしいのでご様子をお聞かせいただければ嬉しく存じます。
 じめじめと蒸し暑いお天気です。どうかどうかお大事にお過ごしください。
 奥さまとご一緒に百十二歳までも長生きなさってください。  夏は、よる
 
 * このところ親身に親切なメールをどこからも貰えてなかったので、嬉しく読みました。『或る往生傳』の気味をこころよく酌んで下さっていて、これにも痛み入りながら、感謝感謝。
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)六月八日  木   
    起6:15 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 55.2 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  37    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○  汽 車    文部省唱歌     明治44・3
   一 今は山中、今は濱、
      今は鐵橋渡るぞと
     思ふ間も無く、トンネルの
       闇を通つて廣野原。
   
      * たいした詩句ではないが、何と云おうと「汽車」は珍しくて。記憶にあ     る私が汽車に乗った最初は、敗戦前昭和二十年の冬か春か。ご近所の口添えを     微かな頼みに戦時疎開先に、当時、京都府南桑田郡樫田村字杉生の、それも山     の上の一軒空き農家に、秦の母と祖父とで転がり込んだ三月まだ深い雪の中か     ら明けて四月の樫田国民学校四年生へ転入進級の頃であった。バスで亀岡町へ     降り、山陰線の汽車で保津峡に添い、嵯峨、二条など経て清うと易まで乗った     ことが、そう、以降二年近くの内に七、八回もあったろうか、最期には私が腎     臓炎で満月のような顔に成り、咄嗟の決断で母が引っ担ぐように京都へ連れ帰     り、いきなり松原通の樋口医院へ運んでくれたのだった、危うい命であった。
     宇治の汽車の満員は言語に絶して、ホームから窓へしがみつついて割り込んだ     覚えもあり、窓にガラスなど何処にも無く、山陰線保津峡駅から京都花園駅ま     でにトンネルが、七、八つ、凄まじい煤煙に泣かされた。顔が黒ずんだ。
     そんな「汽車」初体験だったもの、この唱歌の「阿呆らしさ」は嗤えた。
     弥栄中学の修学旅行で初めて席に坐れて汽車旅をした。結婚してからも東京京     都の往復に、終始立ちっ放したことも度々あった。「汽車」の想い出はすこぶ     る悪しいのである。上の唱歌など゛わらってしかうたえなかったが、一沫の懐     かしさへも惹かれた。
 * いまも「文壇」なんぞと謂うことばが活きているのだろうか、在ったはあったが、私は百に余る単著・共著の本も出しておいてから、東工大教授を定年で退いて以降「秦恒平・湖(うみ)の本」そして、「パソコン活用」の『私語の刻』という自由自在の著作姿勢で、文壇とは、ほぼ一切の縁を私の側から絶ってしまった。むやみと有った放送にも講演にも対談・座談にも出ず、「湖の本」は、もう数旬を経ず「第164巻」を刊行する。ほとんと近代の文学史に他例の無い仕事振りで多彩に著述を積んできた、まさかと嗤えるヒトはいないだろう。
 私は、根が「編集・製作職」に着いて堅固な出版社勤めを15年積んでおいてから、専業の作家生活へ転じた。「作家・秦恒平」を「編集し製作する」術を先に手に入れておいて、「文壇」という煩わしい世間から離れた。離れてよかった。そんな私にはやめに目に留めていて呉れたのは惜しくも早く亡くなった江藤淳であったろう、彼の推薦とも知らず私は東京工業大学教授に招聘された。コンピュータを活用の執筆や創作という縁は、それなくて私には訪れなかったろう、間違いなく。
 
 * こういう鬱陶しい時節・季節には、疲れれば「眠る」が勝ちだ、怠けたなどと思わない、良薬に類している。五時六時に目覚めればすぐ起き、足せる「事や用」は足しておく。たとえ二時間を寝入っても、また目覚めて午までにまだ一時間余っている。早起きの徳というべし。午後には久々に建日子の顔が見られる。朝日子彦の顔も見たいがなあ。
 
 * 建日子二、三時間も話していった、か。
 
 * 朝日子やみゆ希の話題になると、予期を超えて話題が凍えて行くのに私の身は縮まった。私に有る情愛や懐かしさが、建日子にも妻にも、つまりは母親にも、冷え切っているのに愕然とした。
 孫の一人、亡きやす香の妹みゆ希の住所さえ探しようも探す気も無いという。朝日子は我々にとって完全にアカの他人になっているという。わたしにはそんな気は毛頭無いのに。
実父母との暮らしの記憶を毛筋ほどももたない私、「もらひ子」として秦家に養われ成人した私、血縁の実兄ともただ一日として一つ屋根の下で過ごして記憶の無いまま自殺され、その息子、甥の独りにも自殺されている私、娘にも離れて娘の子孫の一人には病死されもう一人には毛筋ほどの思いも分かち合えないで往き別れているわたくし、息子の建日子には妻として紹介されたことの亡い同居女性に、孫の恵まれる気配もない、父の私。
 徹底的に私は此の世に血縁の暖かみをすべて奪い取られるべく産まれてきたとしか謂いようなく、やがては根性を終えるだろう。
 肉親をたのまず、ひたすらに他人の内に「身内」としての篤い合いをただ求め続けてきた私。ま、肉親の愛に溺れていたならとても創作家になどは成れなかったろうが、寂しい生涯の儘果てて行くのだと苦い笑いただ噛み殺して行くのだと断念し果てているよ、もう。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)六月七日  水   
    起7:15 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 56.2 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  36    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○  茶 摘    文部省唱歌     明治45・3
   一 夏も近づく八十八夜、
      野にも山にも若葉が茂る。
     あれに見えるは茶摘みじゃないか。
      あかね襷(だすき)に菅(すげ)の笠」
 
      * これも佳い歌、今も懐かしい。京都には「宇治」という特上の茶の廣い     名産地があり、目に見えて心親しい唱歌であった。ことに子供の頃、「夏」は     一等みどりも映えて、自由の予感に胸の鳴る季節、その「夏もちかづく」のだ     もの、はずむこころの「茂り」来る期待が有った。二番の歌詞は、よくない。
 * 「日記・日誌・私記」の習慣の無い人には、「對話/会話」はあっても、書いて「私語」する時は少なかろう。「私語」は「独語」に類し、そこに当人の「知情意」が必然働く意味で、たんに断片的な「独語」を超えている。
 しかし「私語」は必ずしも世間や他者の快く受け容れるものでなかったし、今日も明日も、世間や社会で「私語」は窘められる「悪役」に近い。教室で、会議で、集会で、「私語」は窘められる代表格、幼稚園でも国民学校・小学校、高校大学、会社勤めしても「私語」は、先生や上位者や管理者には嫌われた、ま、きらう理由は立ってもいた。だから「私語」材料が身内に溢れて「随感・随想」を愛して生きまた暮らす者は、「日記や日誌や感想文や詩歌創作」へ顔を向けてきた。
 私は近年に至って、と謂うより「パソコンという機械」を使い始めたちょうど前世紀末、「東工大教授」を六十歳「定年で退官」の直後、東工大生の手引きや手ほどきで「ホームページ」を開いた頃から、固有名詞ないし看板としての『私語の刻』という「自在な述懐の機構」を機械の上に持ち始めた。
 以来、私の『私語の刻』は厖大な量の「吾が、最大著作」と成り続けている。人によっては「秦恒平文業の最大の表現」と評され、かなり廣く受け容れられている。『秦恒平・湖(うみ)の本』現在まで「164巻」進行のすべてに「私語の刻」が活動しているのは観られての通りである。
 
 〇 秦恒平様  「湖の本」第百六十三巻を御恵贈賜りありがとうございます。
 ご体調の万全でない中 「湖の本」発想のお手配をしてくださいますことも もったいないことと感謝申し上げます
 村上開新堂は明年に百五十周年を迎えます イギリスの祝い菓子の代表的なものが ウェディングケーキだったのでしょう 弊店には「ウイデン」と呼ばれてきたフルーツケーキがあります ウェディングがうまく発音できす「ウイデン」になった いわば明治の日との訛と伝えられてきましたが 音も音数もかけ離れていると納得がいきませんでした ある日ふと weddinをフランス式に読むと「ウェダン」「ウェデン」に近く 「ウイデン」とも近いと閃きました 私の曾祖父がフランスの菓子職人から学んだフランス経由のイギリス菓子 そうした学習の路筋が見えてきて 初代の修業の一端を捉えたような気がします  つまらぬとを書きまして失礼いたしました かしこ   山本
 
 * いつも有難く嬉しく戴く村上開新堂大看板の「クツキー」の重い缶を掌に置いて、御当代の興深い述懐に、頬をゆるめた。有難う存じます。いよいよのご清栄を願います。明治維新、諸外国との宮廷、政府の「親近の場」に似合うかとして村上開新堂のフルーツケーキ「ウイデン」も誕生したと伺い聴いている。お店が、宮中に間近くのお壕外に在るのもわたくしは見知っている。山本さんとのお付き合いも久しい、何十年になるか。
 
 * 私・秦恒平の「ホームページ」は「何処に開いているのでしょうか」と、不審の問い合わせ、頻り。
 實は、私にも判らない。東工大卒鷲津君、柳君の「苦辛」がどう活きて働いているのか、事実は、此の私の力不足、理解が、何処へも行き届かぬまま、事実上、設定が立ち枯れているらしい。両君の好意熱意と設定に、私自身が体力消耗で途中にヘバって、マイってしまったために、仕方なく半途に立ち往生しているのだと思う。困りました、が、私の至らなさであり、両君ゆえの現状ではありません。
 秦の父は、今の私のいま年齢八七歳頃まで、京都市内で現職の「ラジオ・デンキ屋」さんだった。わたしには所詮は商売を継ぐ「電機」技術を理解もちからも無かったのだ、私はひたすらに「読む」人として成人し、秦の父は徹底して本など一冊も読まず、いつもラジオの腹を暴いては機械に触れていた。その点で、父の「もらひ子」恒平はツボにはまらなかった。
 
 * 書庫から、懐かしいほど古い本を二冊持ち出した一冊が『徳田秋聲集』もう一冊が『島崎藤村集』で、秋聲集から「あらくれ」を、藤村集から「新生」を読み始めている。何を読み採っているか。「文章」の妙味である。もう一冊文庫本の棚から中国古代の説話集『聊斎志異』を抜いてきた。和本四十八巻の『参考源平盛衰記』と合わせ、枕もとのいわば文庫本はこれで、「源氏物語」「水滸伝」と「聊斎志異」との四冊に成った。じつにとりどりにみな、すこぶる面白いのである、が、西欧本がすっかり失せてしまっている。『カラマゾフの兄弟』を読み継いで行きたいと思っているが。。
 
 * 明日は建日子が、顔を見せると謂う。明後日は歯医者。下の左奥に二本しかない口へ、上も下もぎっしりの入れ歯だという。あまり嬉しくない。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)六月六日  火   
    起7:20 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 55.2 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  35    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○  雪    文部省唱歌     明治44・6
   一 雪やこんこ霰やこんこ。
      降つては降つてはずんずん積る。
     山も野原も綿帽子かぶり、
      枯木残らず花が咲く。
 
   二 雪やこんこ霰やこんこ。
      降つても降つてもまだ降りやまぬ。
     犬は喜び庭駈けまはり、
      猫は火燵(こたつ)で丸くなる。
 
      * 今も懐かしい、佳い歌。盆地の京都市内でこういう雪降りは何年に一度     としか。雪が珍しく嬉しい幼児の想いには稀々で。抜群の唱歌と愛し、詩も書     き写してわかるけれど、速度感の快さも犬や猫登場のリアルな、むしろ「心温     かさ」もうれしい、措辞はほぼ陳腐な仮構に近いけれど。
     こういう雪景色を、しかし昭和二十年三月下旬、、戦時疎開先を淡い縁故に頼     って丹波の山奥へ、それも木暗く小高い山の高みの農廃家を借り、秦の母と祖     父とで心細く籠もってからは、まだ春は来ず、したたかな深い烈しい雪降りに     仰天、したたかに難渋した。犬も猫も、あの当時は影ひとつも見たこと無く、     それだけに幼時に記憶の「雪やこんこ」がウソのように懐かしく恋しかった。
 * 仕事には段取りがいくつも錯綜しやすく、それでも幾色もの段取りを絡めず編み上げて行かねばならない、この心配りに草臥れる。
 午前から、もう夕方六時。状況は、うまくも進展も整理もついていない、惘れるほど。「よそ見」ばかりしていたか。それでも疲れた。価値の無い疲労よ。
 
 * 「お二人(=夫妻)のお大事を願っています。」と結ばれた、ごく親しい方からのお便りがあり、一瞬、ドキッとした。「お大事になさって下さい」のお気持ちに相違ないが、この「物言い」としてのちがいは、微妙にあやうく。
 
 * 何の因果か我が家では、つまりは妻と私二人は、よほど以前から韓国製の連續劇をよく観てきた、日本製でも西洋製でも中国製でも無く、ただし歴史ものに限って。すなわち「イ、サン」「トン・イ」「チャングム」など、それも機會あらば何とはなく「繰り返し」観てきた。とくに理由も無く、例外のようにアメリカ産チームワークの佳い「ncis特命捜査班」は愛していたしフランス製の「アストリッドとラファエル」も好んで観てはいるが。
 韓国・朝鮮の歴史にある程度親和していると、日本の古代史、中世・近世への視線をも深くも濃くもしてくれるのが有難いのだ、何と云っても一衣帯水の隣国。そのてん、欧米やロシアは、中国ですら、気遠いモノが有る。
 
 * わたしは映画・映像劇が殊に好きなタチであるらしく、最近も(保存の録画で)観た『帰らざる河』も好き、『タイタニック』は慄然と怖がりながら惹き込まれた。昨夜も妻もネコたちも寝入ってから、独り、ふと思いついて、録画の超大作、一つはオードリー・ヘプバーンとヘンリー・フォンダの『戰争と平和』 もう一つはチャールトン・ヘストンの『ベン・ハー』、倶に「出だし」の辺だけに見入り魅入られていた。「映画」こそは「文學」の強敵としみじみ感じ入る。
 とはいえ映像の秀作は、多く「文藝の創作」を借りて産まれている。『ウエストサイド・ストーリー』など、あれは「例外の」傑作なのか。「原作」があるのか。『薔薇の名前』など、映画は、原作に遙かに及ばなかった。
 
◎ 令和五年(二○二三)六月五日  月   
    起7:20 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 55.2 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  35    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○  紅 葉    文部省唱歌     明治44・6
   一 秋の夕日に照る山紅葉、
      濃いも薄いも數ある中に、
       松をいろどる楓や蔦は、
        山のふもとの裾模様。
 
   二 渓の流に散り浮く紅葉。 
      波にゆられて離れて寄つて、
       赤や黄色や色様々に、
        水の上にも織る錦。
 
      * 抜群の唱歌と愛してきたが、詩は、書き写してわかるけれど、速度感の      快さのほか、措辞は陳腐な概念仮構に近い。
      しかし、唄ってみる佳さ宜しさ懐かしさは全唱歌「五指のうち」にも席を占      めようか。しかし、私、こんな景色に接した記憶が無い。
 * 妖婉しかも豊穣な嬉しさに歓喜した夢を見た。「やそしち」の枯れた爺がいまなおかよう艶冶な夢にまみれ得るかと、濃い深い驚きに老いの胸が騒いだ。まだ、生きてるんやナ。
 
 * 書庫へ入ってみた。……、かなしくなった。コレだけの蔵書、コレ程の蔵書が、私がいなくなれば、妻も建日子も、紙くず同然に処分するのだろうか、物語や小説はむしろ少なくも、価値ある、しかし読み手のチカラを本の方から逆に問うてくる書籍が総じて多い。甥の恒(黒川創)になら或いは読めて役立ちそうな本は多いが、建日子では向きがちがって手も出さない、出せない、だろう。この近年、公私立の図書館も、容易には受け容れもらっては呉れない。文學文藝の、前途ある若い学究や熱愛者と今は附き合いが無い。蔵書の少なさに泣いていそうな短大や地方大学は在りそうに想うのだが、見つけ合うツテがない。
 
 * 午前の十一時五十分 希有の大著、ウンベルト・エーコ著作の前後巻『薔薇の名前』を熟読・耽読・読了した。初読みの大著として、この20年来希有の出会いであった。途中で故障・消失しているショーン・コネリー主演、ジャン・ジャック・アノー監督映画『薔薇の名前』をテレビで観た、残り惜しかったと告げると即座に「尾張の鳶」 東京創元社刊の上下二冊を贈ってきてくれた、なんという幸せか、読み終えて感謝感激に堪えない。わたしはこういう「幸せ」をどんなに沢山の友から戴いてきたことか。
 残年の足りまいのを惜しみながらも、此の作、近いうちに繰り返して読むに違いない。
 
 * 体調/体力は改善しないが、怺えている。コツコツと、歩けるだけ前へ歩くだけ。
 
 〇 秦さん 何度か試みて、いま ようやくホームページらしきに辿り着きました。
 ありがとうございます!
 おめでとうございます!
 わたくし、順調に回復していますが まとまった時間がとれなくて… 気にしてるせいか 秦さんの夢を見たりします。
 今日の午後は晴れて テレビに映る関門海峡も穏やかでした。
 明日からまた大雨予報です。   下関  碧
 
 * めったヤタラに耐えているが。何に、となると我ながら判らない。こんなときは、仮構の世界へ逃げこんでいた方が怪我が無い。
 
 * 全盛を傲る平家の前に率先起った後白河第二王子の以仁(もちひと)王、連れて起った源三位(げんさんみ)頼政の一党、ともにすこしく時期を早きに失して、凄絶の闘いの末に全滅して行く、その記事の、『参考源平盛衰記』にみる凄惨な奮闘と敗北とには思わず泪してしまう。私所持の此の本は、和紙和綴じ和字の四十八冊本、感銘の儘に一部を採り上げ現代語訳してみたい願いに駆られている、が。今は何もかもが気ぜわしく忙しく動いている、私ひとりが疲労しきったまま。
 
 〇 老境の杖を頼んでゆっくり歩いておられ。
   作家の宿命に立ち向っておられる。
  ご本を頂くたびに心が痛みます。
 梅雨寒の日もあるかとおもいますので お気をつけてお過しください。
   感謝   京 山科 あきとし じゅん  詩人
 
 * 感謝。得手とは謂えませんけれど 「怺え」て 歩んで参ります。 秦 生
 
 * 晩になって、暑い。鉄筋の細長ぁい「書庫」の中まで暑かった。
 『薔薇の名前』に次いで心新たに読もうと持ち出したのは、何ぞ。生まれて初めて高校一年で奮発買い求めた『嶋崎藤村集』と、後に古本屋で見つけてとびついた『徳田秋聲集』。潤一郎でも漱石でも無かったが、一種「先祖返りする」心地。青春、青年の昔に帰ってみようと。本は大判で手に重いが。なかみも重いよ。
 
 * パソコン「新・舊」両機の連繋やホームページのことなど、可か不可か半端か、発信しているのかどうかなど、まるで判らない。鷲津君や柳君の目になにかしら相応に映じているのかしらん。
 
◎ 令和五年(二○二三)六月四日  日   
    起5:30 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 55.0 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  34    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 菊 の 花    文部省唱歌     明治44・5
   一 見事に咲いた
       垣根の小菊・
     一つ取りたい
        黄色な花を、
      兵隊遊びの
          勲章に。
      * 兵隊ゴッコという遊びはあった。無縁であり得なかったけどまるでアホ      らしかった。勲章と謂うのをぶらさげた軍人は、馬でも徒歩でも平時にも見      られた、白衣の傷病兵も。わたし、大きくなったら兵隊さんに「ならねばな      らん」のを運命として、かつ厭い嫌っていた。シカモ此処に掲げた「唱歌」      の、節も言葉も優しくやわらかなのは愛したのである。いわゆる軍歌ははっ      きり、みな嫌った。「勝ってくるぞと勇ましく」とか「父よあなたは強かっ      た」など、憎むほどに嫌ってた。学校での儀式に歌わされた「海ゆかば水づ      く屍ね」など、「白地に赤く、日の丸染めて」の歌とともに、歌の意味はよ      く承知しつつ毛嫌いしていた。
      「かきねの小菊」の可愛さは、格別だった。
 * 大画面の「新機」、ややちいさい「舊機」抱き込んでいる内容は、容量は、想像を絶して大きい。是等和いちいち、機械を分けて作業するのは煩わしく、間違いも起こしかねないので、ともに「總保管」機械と祭り上げ、もう一つ「ポータブル」な機械を「創作」等の「原稿専用」にし、何処へ持ち運んでも電源さえ有れば「書ける」ようにしたい。さもないと「新・舊」の大きな機械のさまざまにめざましい内容や景観に誘われすぎてしまう。謂わばこっちは「機械の楽しみ」用とし、「ポータブル」を「創作・文筆」専用に仕様と思い決め「かけ」ている。そのココロヅモリで「用意」仕掛けている。      
            
 * 思うようにコトははかどらない。それが普通と心得、踏み出すべきは踏み出す。何が、どう進んだ実感も無く、ただ対処して。
 
 *鞘から見始めていた映画「タイタニック」を終えた、怖ろしくも怖い逃げ支わしい生気の大難破、大沈没。デカプリオとケイト・ウインスレットとの恋も死別も凄惨であった。怖い映画だった。二度三度目だが度肝を抜かれる怖さ悲しさで会った。こう言う理を見ると、小説は映画に負けると実感する。
 * 長編小説ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」を一読了、裳打ち度読んで納得したいと願うほどにフクザツに晦冥。いまのところ「参考源平盛衰記」のほうが身にも心にもひしひし感動で。逼ってくる 
 
 * 機械の前、倚子の儘、6:50で眠りコケていた。だらしないことだが、抗いようが無い。会社員や懸命の稼ぎ手でなく、有難し。寝て寝て寝て通り抜けられる不調なら、ルルはクスリと覚悟して服薬する。
 
◎ 令和五年(二○二三)六月三日  土   
    起5:45 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 55.4 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  33    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 鎌 倉    文部省唱歌     明治43・7
  一 七里ヶ浜のいそ伝ひ、
      稲村ヶ崎 名将の
        剣投ぜし古戦場
    * 八番まであるが、一番で私は満ち足りた。佳い地名が利き、なにより「名将」    の一語に 圧倒的に 同感と謂うより共感した。名将と謂うにはややあまいもの    のある「新田義貞」ではあったが、圧倒的に、いろんな意味合いから敬愛した。    贔屓した。その裏返しに「足利尊氏」を嫌った。神威をたのんで稲村ヶ崎の岩頭    に「剣」を高く捧げもって海に頼む義貞の姿は色んな絵図で身に沁み馴染んでい    た。蹶起して北条の「鎌倉」を撃ち抜き、南北朝に別れてもあくまで吉野の「南    朝」に味方して諸国に転戦、壮烈の最期を日本海の間近で迎えた実意の名将に    「剣」という美しい一語が光った。この一番だけをただただ歌いやまなかった。
 
 * 父の自転車で、京の東山、山科方面をしきりに疾走しつつ、いろんな夢を、断片の綴れ織のように、楽しくも怖くも危うくも見続けていた。懐かしい出会いも身の毛のよだつ怖い遭遇もあった。私自身は青年以前であった。そんな夢のかき混ぜのなかで、書きかけの作の前途を色いろに工夫し、こじ開けようとしていた。着想も得た。背を押されるように目醒めた。前日前々日來の凄まじい豪雨が上がっていた。 今日は歯医者の予約。左下の奥に二本余の残り歯だけに慣れ、総入れ歯の用意とやとやらには辟易している。
 
 * 歯医者、上にも下にもデカいほぼ総入れ歯らしい。いっそ歯ナシでいいと思うが。
 
 * 『参考源平盛衰記』 高倉宮以仁王の平家討つべしの蹶起から、源三位頼政が起っての宇治平等院大和路での凄絶な一党死闘の始終、胸に痛く響いてひとしおに哀れな最期を読み遂げた、涙を催し耐えがたかった。
 
 〇 お見舞い有難うございます。
最近は、元気な方が倒れたり、亡くなったりしていまして、考えることは多くなりました。
私は小さい時から丈夫ではありませんが、不思議に普通に一人自由に暮らしております。
自然の中で 毎日雉さんや蜜蜂に挨拶しているせいでしょう。  那珂
 
 〇 秦さん  メール・「湖の本」162・163有難うございます。体調よろしくない状況で次々と見事に情報発信される恒平さんに いつものことながら感心しています。当方はちょっと元気がありません。とても「浩然また昂然」には程遠いです。
 プーチンのウクライナ侵攻と日本の対米追従・軍備拡張に強く強く反発します。
                                 テル
 * 弥栄中学の同窓生には ひとしお逢いたい、「元気で」いて欲しい。西村のテルさん、團彦太郎、片岡我當、そして小学校から大學まで同じ道を歩いた富松賢三クン。
 女性では、ちょうど今も着ている翠の軽やかなカーデイガンを編んで贈ってくれた渡辺節子、健在かな。祇園の料亭「浜作」女将の洋子ちゃん、元気なお祖母ちゃんで長生きしろよ。
 
 * 歯医者から帰って、妻と、大好きな映画「帰らざる河」のマリリン・モンローとロバート・ミッチャムを存分に愉しんだ、こに此の映画で歌うマリリン・モンローがステキに佳い。ロバート・ミッチャムも帰らざる河の荒れた迫力も満点。子役のしどみろにも魅惑の味わい。
 ひきつづいて映画「タイタニック」は、怖ろしい映画、息切れそうなので、本画面に入ったところで一旦休むことにした。
 よほど私は映画が好き。蓄えた映像の「板」を目で数えても、我ながら感じ入ってしまう枚数、とてもみんなは観られまいか。
 
 
@ (二○二三)六月二日  金   
    起7:20 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 56.2 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  32    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○  われは海の子    文部省唱歌     明治43・7
  一 我は海の子白浪の
        さわぐいそべの松原に
      煙たなびくとまやこそ
         我がなつかしき住家なれ。
 
  二 生れてしほに浴(ゆあみ)して 
        浪を子守の歌と聞き、
      千里寄せくる潮の気を
         吸ひてわらべとなりにけり。
 
      * 七番まで在る、が、二番で尽くされていて、十二分に気に入り、大声で      愛唱した。わたし自身は「海」など、見知りもしない観念の世界だった、そ      れが想像に精気味気活気も与えた。さらには、此処この歌詞に親きょうだい      も友だちの姿も無い、それが私を、ひろびろと自由自在にした。嬉しかった      のである。
 
 * 夢は、結句「見忘れる」もの、荷になって残らない、それが佳い。
 
 〇 やそしち兄上 私もだんだん体の衰えを実感し始めています。兄上の「体調」も よく分かってきました。私も一日に何度も寝入るようになっています。でも、兄上は「創作」や「読書」を楽しまれていて、素晴らしい!
 最近 みっちゃん(=姉 恒平妻)の小さい肖像画を描き始めています。19歳のしっかりした表情の 迪子像。迪っちゃんが元気になるようにと思って描いていますが、いつ出来上がるか… まだ顔が似ていないです〜
 お兄さんたち どうか毎日頑張って下さいね〜いもうとより  琉
 
 * ありがとう。
 
 〇 雨、雨
 雨模様で部屋も暗い午後です。アジサイや樹々は潤いすぎるほど、でも たっぷりと喜ぶ様子。
 東京も雨降りですね。如何お過ごしでしょうか。次のお仕事に向かわれているのでしょうか。
 今日は作品展の搬入の日なのですが、明日の開催直前に替えてもらい、ホッとして、雨の通り過ぎるのを待つだけの午後になりました。とは言え、保育園に(お孫さんの=)迎えに行かなければなりませんが。線状降水帯が心配されます。
 ずっと長いメールを書けませんでした。時間的な余裕も、同時に自分の何かが枯渇しそうで書けなかったことも一因でした。今それが解決されたわけではありませんが・・。
 昨日は友人とランチを食べておしゃべりしましたが・・最終的に楽しむのは美味しいものを食べることと話が落ち着くのです!! 鴉には無縁になってしまった食べ物の道楽・・ささやかな彼女たちの暮らし。彼女たちは既に一人暮らしになって孤独や暇と格闘しています、闘っています。だからこそ生き方にやはり何かを求めたい、要求したい、何も言えませんが・・そうでないとわたしも虚しいのです。
 描きたいもの、纏めたいもの、行きたい所、限りなく。ただの欲張りかもしれません。
今月はコロナワクチンの接種、検診などもあります。もう少しの間。、健康でありたいも
のです。
 思い立って夏の京都・・祇園祭や地蔵盆にも行きたいと思っています。子供たちの姿を目に焼き付けたいのです。
 アジサイの青が窓の外に迫るほどの勢いで咲いています。
 鴉、 どうぞお身体大事に、さまざまなこと順調でありますように。 尾張の鳶
 
 怪我無くと、それを琉賀居ます。お大事に。
 
 * 鷲津クンのもたらし贈ってくれた「新機」が、「文藝/文章」の用よりも、広汎・宏大な「世界」の「視覚的な妙味」のゆえに私を惹きつけ始めている。楽しみが猛然と増している。「新・舊」機の間理連繋/連絡もわたくしなりのたどたどしい手順ながら、なんとか働いて見えかけている。私の、パソコン世界が多彩に色めいて働きかけている、のかも。「読み・書き・創作」は書き馴染んでいる「舊機」を頼み、「新機」には保存と好奇心の満足に遊戯感覚も交えて付き合ってもらう。
 ホームページがどうなって、、どう動いているのか、實は私自身にも明晰には見えも理解も出来ていない。神戸住まいの鷲津君には「メール」で教わり、話し相手にもなって呉れる都下近隣の柳君には、ときおり顔を見せて貰えるとありがたい、妻にも私にも「疲労」の弱りの溜まっていないときに。病気を誘いかねない「疲労」クンや「疲労」サンの来訪は、「よく自身体調を見イ見イ」しつつ有難く嬉しく歓迎したい。
 
 〇  お元気ですか、みづうみ。
 台風も北朝鮮のミサイルもすりぬけて、三日前に「帰国」しましたが、疲れがなかなかとれずメールが遅くなりました。
 帰国してみづうみの「私語の刻」が五月分も更新されていて大変嬉しく思います。東工大卒業生の柳さま、鷲津さまのご尽力に感謝感激です。
 みづうみの人生の節目、節目に、ふしぎと必要な手助けがあるのは、みづうみの「武運」のようなものではないかと思います。武道の修行を極めていくと、しぜんに「武運」がついてくると読んだことがあります。
 秦先生が困っているなら何とかしようと、かつての学生さんたちがごくしぜんに連携して行動なさったことに敬服します。「今此処」で自分にしかできないことがあることに気づかれ、義務感でも慈善でもなく、無理せず、気負うことなく動いてくださった。みづうみの生徒さんであったお二人も、卒業して社会で修行を重ねるうちに「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなす」武道の極意を会得なさったのでありましょう。こんなことはめったにないのですが、わたくしは日本の将来に希望を感じました。
 
 >なにを言われてたか、頼まれてたか、なにもかも混乱と不調のままに過ごしています。
 
 わたくしがお願いしていたことは、いつからいつまで「文字コード委員会」に関わっていらしたかです。以前のメールです。
 みづうみが「情報処理学会の文字コード委員会(通産省系)」に「ペンクラブ代表委員」として正式に参加なさったのは2001年ですが、それ以前 1998年から「文字コード委員会についての記述」がございます。「2001年からは第二ステージ」と表現していらしたのですが、実質的な みづうみの「文字コードに対する意見陳述等」は第二ステージ前に言い尽くされているようです。
 2001年より前の委員会には、どのようなお立場で参加されていたのか、そして「2001年以後は」むしろ文字コード委員会への関わりがなくなっているようにお見受けします。
 おそらく「ペンクラブ電子文藝館」のほうに傾注なさっていらしたため、「委員」を加藤弘一氏と交代したのかと推測していますが、「そのあたりの文字コード委員会との関わり」について、第一ステージと第二ステージがどう違うのか、最初から最後までの関わりかたをお教えいただけますでしょうか。
 「私語の刻」の記載を読んでも このあたりが曖昧で(論文ではないので当然ですけれど)正確を欠いたことを「書きたくない」ので、お伺いした次第です。
 もし思い出されましたら、お教えいただければ助かります。
 
 蒸し暑いような、クーラーには少し早いような本降りの一日でした。みづうみのご体調心配しています。どうかご自愛専一に、頑張りすぎないでお仕事なさってください。
 わたくしは一度も「頑張りすぎないで」と言われたことがない甘ちゃんですが……。
                               夏は、よる
 〇  おほあめの 夜も日もこめて謂へるらし 世もひとも怺へかたみに生くと
 
 * 真夜中かと寝呆けて起きて、晩の九時。大雨の音やまず、妻は、浴室に。夏は、よるのメールに、目もしろくろ。それでも生きてるンやなあ。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)六月一日  木   水無月朔
    起5:30 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 55.0 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  31    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○  春が來た    文部省唱歌     明治43・7
     一 春が來た 春が來た どこに來た。
          山に來た 里に來た、
              野にも來た。
      * むしろ嫌って、軽く見すてていた。意気も生意気も伸びようとする幼少      には たわいなく、なにより、人の世を、「山、里、野」と田舎に限って、      「町や街」が欠け、海国日本でも在るのに「海」も外れてる。農村型の世界      観に傾き過ぎていると物足りなく、さらには歌の三番までを「春」「花」「鳥」      で日本の四季自然を象徴と観るのか、謂い得ているのかと「幼少なり」に疑      問を持った。アホらしくて歌わなかったなあ。
 * 
 
 
 
        ■    ■    ■  
 
◎ 令和五年(二○二三)五月三十一日  水  皐月盡
    起7:00 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 55.0 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  30    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○  ツ キ    文部省唱歌     明治43・7
     一 デタデタツキガ、
         マールイ マールイ マンマルイ
          ボンノヤウナ ツキガ。  
      * たわいない唱歌ながら、締まりの付いた「盆のやうな」の一句に子供な      り「実感」の覚えがあり、不思議と忘れがたい歌と、いま、この老耄の記憶      にも、なつかしく蘇ってくる。独りで、大声に月と向き合い歌いたくなる。
 * 昔の学生君たちの「好意と設定」を、このボケた「やそしち」がうまく使えないままに使い潰し毀して行く按配。情けないが、半ば以上もアキラメ、出来ること、出来なくては困ること、つまりは「読み・書き・讀書」よりも大事な『創作と私語』だけが「出来れば良し」としよう、「ホームページ」のカッコいい運営など所詮はムリのようだ、と。
 大きな「新しい機械」は、その気になれば、珍しい「景色」や「見もの」などたくさん内蔵しているのを、暇つぶしの安息に眺めてようと。
 「新・旧」機械のカッコいい「連携など」に色気を遣ってないで、「書きかけの小説など」を書き進めるのを「一」に、と。ソレが私本来の「毎日」と。
 と、まあ、機械クンらを「駆使」など、諦めて。
 
 * われながらナニの爲に呼吸しているかと惑うほどボーゼンとしている。心神ともに活きていない。なにか途方も無いことを始めようか、例えば『参考源平盛衰記』のおもしろい處を現代語訳してみるとか。バカな、そんな有り余るヒマなど、わたしにもう残って居ないのに。こうも書き放しているなにもかもが、もはや我が「或る往生傳」であることを自覚している。 
 
 * 夕食後も、床に就き、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』をよほど読み進んだまま、八時半も過ぎるまで寝入っていた。
 
 * 中国筋の歌人、高崎淳子ん、新茶を送って下さる。
                            
 * スゴイほどな雨のアトが、美しく晴れたきょうだった。五月が逝くのだ、雨季はこれからになる。気象、天候も、幼時の印象や実感からは替わってきて、小学生の頃は暑いきみりように謂われた京盆地、祇園会の盛りの頃でも稀に33度などと聴くと仰天したが、近年の東京では40度越す熱夏も稀でない。天候だけは避けて通り過ぎにくい。 
 
 〇 ハ ッ ピ ー ニ ッ ポ ン ☆ 邦 楽 ネ ッ ト
        ☆2023/6/1 鼓楽庵メールマガジン
皆様こんにちは。
お元気ですか?
望月太左衛です。◎^-^)v 
ここ東京は
5月、6月と
お祭の季節がやってきました!
浅草三社祭も
4年ぶりにいつものように
お祭が斎行されました。
私も山桜会として
例年通り
言問通り沿いの
五六五六会館横、
掛屋台にて3日間
祭囃子を奉納させていただきました。
途中、浅草5丁目の
魚誠さん前でも
6ヵ町連合、本社神輿渡御に
あわせて祭囃子を奉納させていただきました。
また同日、20日夕方から斎行されました
吉原神社例大祭にて
地元の子ども達と
祭囃子を奉納させていただきました。
この合間、私は象潟一丁目の御神輿を
担がせていただきました。
それも「花棒」
先頭の真ん中の一番長い棒です!
象一の皆様、ありがとうございました!!
御神輿を担ぐのも
10年ぶり位?
久しぶりです。
楽しかったです!!
御神輿最高!!
 
今も
この楽しかった三社祭の余韻は
町の中に残っていて
浅草のエネルギーが
明るくなったように感じます。
そのような中、
新しい稽古場を始めさせて頂くことと
なりました。
西浅草の一室、
ドアを開けると
フローリングの床に
一面に鏡がありました。
ダンスの稽古場です。
びっくりしました!
 
私は今年1月のメルマガに
『みんなで楽しくなる方法として
「宜鼓舞踊(よろこぶよう)」
を開始します!!
名前の通り、
皆が元気になるよう
鼓舞し、
皆が楽しく
喜ぶ踊りです。』
初夢のイメージのみの
根拠のない自信で
宣言しました。
 
そして、1月6日
シアターカイの踊り初めにて、
大阪の文楽囃子・
望月太明吉師匠に演奏していただき、
「雛鶴三番叟」を踊りました。
 
つづいて、
「トライ」公演のオーディションに参加し、
6月6日の本番に
宜鼓舞踊「花の道花の舞」として
参加させていただくことになりました。
この本番を控えた前の月、
この稽古場が授かりました!
奇跡です!!
言葉にすると現実化するということを聞きますが
本当にそうだと思います。
 
 
この稽古場の名前は、
「スタジオ カガミノマ」
とさせていただくことにいたしました。
 
 
能舞台には
「鏡の間」があり、
演者はそこで面をつけ、
役になります。
 
「揚幕」が上がり、
歌舞伎舞台の「花道」にあたる、
「橋掛かり」から舞台へ登場となります。
ここ
スタジオ カガミノマは、
自分を見つめ直し,
大きく明るい
ステージへ上がる方々の
集う場になるようにいたします。
 
オープンイベントとして、、、
 
◯6月2日(金)
午後6時?
稽古場開き
・長唄 松の緑 立方 葭町久松 
・長唄 越後獅子 立方 花柳佐多輔(天野一枝)
・長唄 松の翁 踊り 摩鳳
・御座敷踊り 立方 葭町八重 葭町久乃
・宜鼓舞踊 花の道花の舞 踊りの会有志
〈演奏〉
唄・杵屋栄喜代 / 葭町長作
三味線・望月太左衛 / 杵屋栄桜
囃子・望月太左衛社中
入場無料
 
☆新講座
◯6月14日(水)午後1時から2時
御座敷踊り教室 
講師・葭町久松 
内容・潮来出島
(月1回、次回は7月19日、8月30日)
月謝・5,000円
 
◯6月25日(日)午後2時から3時半
望月太左衛トークライブ
ゲスト・櫻川ぴん助
入場料・4,000円
☆アクセス
台東区西浅草3-2-7カーサ西浅草B102
国際通り、ビューホテルの並びの、
感応稲荷神社の角を曲がり、
1階がオオマエジムショ(自転車店)と、
西浅草調剤薬局の、
カーサ西浅草の地下1階です。
 
お時間ありましたら、
ぜひ、お立ち寄りください。
今後とも宜しく
お願い申し上げます。   望月太左衛
 
 * こういう「太左衛世界」とも 秦は、もう半世紀近く親しんでいる。おかげでれ゛んきに体力の保った頃は 例年、花火も特等席で見せてもらえたが。帰りは大変だった、ゴロゴロ會舘の辺から満員の人の流れにまじり、いつも山手線上野の先まで歩いた。電車は超満員が常だったなあ。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月三十日  火
    起6:20 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 56.0 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  29    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○  星の界(よ)    杉谷 代水   明治43・4
     一 月なきみ空に、きらめく光、
       嗚呼その星影、希望のすがた。
           人智は果なし、無窮の遠(をち)に、
         いざ其の星影、きはめも行かん。
      
       * ご大層な「つまらない詩、つまらない歌」と見捨てていた。わずかに       第一行に、キ キ、キ、ク、カ と 堅い「カ行音」の疊み込まれている       のを意識して歌っていた。
 * 佳い「読者」とは、少なくも「辭典・辭書」をつねに重寶し、且つ二讀、三讀、くりかえし読んでくれる人と、むかしに「誰か」が謂うていた。自身に徴して「そのとおり」といまも確信している。
 作家への出発が太宰治賞で認められ、新潮社の依頼で「新鋭書き下ろし長編」に『みごもりの湖』を書き始めたとき、担当編集者の池田さんは、まっさきに『新潮国語辞典』を我が家にただ黙然ともたらして呉れた。気持は、即、理解した。
 以来、はるか半世紀の余におよんで、現に今も私の手にその『新潮国語辞典』は在る。表紙は手擦れに傷み、背はすべて、小口も、ガムテープで労られてある。
 「辞典」を用いない「書き手」を私は尊重しない。手もとにも書庫にも、明治以来現代に及んで大小各種の「事典」「辞典」はまぎれなく五十種は愛蔵し愛用している。むかし老いの黒川創が「マサカァ」と私の書庫を実見し納得して帰ったのが想い出される。辞典も事典も、ただただそれらを手に「読書然」と「愛読」してきた。歴史的仮名遣いのためにはゼッタイに必要だった、容易に正しくは覚え切れていまいが。
 いまも池田さんの呉れました手擦れに満身創痍めく『新潮国語辞典』は私の寶典。今も目の前の手もとに在る。
 
 * 「ことば」は私ら書き手には「寶」である。宝は遣われる使い方使い道により値打ちが替わる。昨今は謂うなればコマーシャル時代、テレビからは肉声の宣伝がいやほど乱射されてくる。わたくしは、それらの実演上で「ナント  スゴイ」と聞く売り言葉は信用しないと決めている。「現代」を説明し批評するに不快に大仰な「売り言葉」は、「ナント  スゴイ」そして「ヤスイ」か。
 
 〇 『ほのほのと マスクの外は春になる 冷たい冬を知らぬくちびる』
 若い友人が、短歌のこと、仕事や日々のことなど取材を受けたと聞き、昨夜はNHKの「響きあう歌 -コロナ禍 喪失と再生の物語」という番組を観ました。
 コロナ禍の閉塞と喪失感の中で、かつてない「短歌ブーム」が起きているのだそうです。
 SNSなどに続々と投稿されているというそれらの多くは、(素人の私から見ても)完成度は高くないように感じられましたが、詠まずにはいられなかった思いに打たれるものもありました。
 ちょうど今朝の朝日新聞には、馬場あき子さん(お親しいとのお話、以前、お伺いしましたね)のインタビュー記事が、チャーミングな笑顔の写真と共に掲載されていました。
「さくら花幾春かけて老いゆかん 身に水流の音ひびくなり」―「現実には来年死ぬかもしれない。だけど、前にやることばっかりあって、やり残したこともいっぱいあって、いま死ぬとは思わないのよ。もっと面白いものはないかな、何をやったら面白くなるかな、と先を見ている」と。
 「ホームページ」が復活できたのは、とても良かったです。
 食欲も、少し復活なさるといいですね。  晴美  文学博士
 
 * 有難う存じます。馬場あき子さんに触れて、初対面この方の懐かしいお付き合いを書き留めたのが、何故か、機械から忽として紛失。機械クンもほとほと疲れているか。
 鷲津クンからも「念を入れる」べく来駕のメールをもらったが、ほとほと、私だけで無く妻もこのところ弱って寝入りがち、機を新ためてと、辞退した。
 
 * 鷲津・柳両君親切の設定が、アタマに入りきらぬまま、手にもち確かに触れ得ぬまま、今日、疲労困憊の底で藻掻いていた。鷲津君のもたらして呉れた新鋭の大機が、勿体なく私ゆえに立ち往生を強いられている、可哀想に。しかし、しかし出来ないド壺に陥ち、健康を害して寝込んだり病んだり入院したりしては、此処へ来て生涯を棒に振りかねない。「機械バカ」で所詮は終えるのがメデタイのかも。
 
 * 夫婦して、大好きな映画『オペラ座の怪人』に泪して惹きこまれ、美事な歌唱、ことに終盤 オペラ座の「悲しい怪人と天才の歌姫クリスティーネ」との美しいかぎりの「フアウスト」熱唱には、眞実、噴く泪で感動した。素晴らしい映像と声楽。
 
* 心神身体 千切れた綿のように疲れている。一日一日、辛うじて保(も)たせて行くような日々が続きに続く。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月二十九日 月
    起7:00 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 55.0 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  28    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ ローレライ     近藤 朔風・譯   明治42・11
     一 なじかは知らねど心わびて、
       昔の伝説(つたへ)はそぞろ身にしむ。
       寥(さび)しく暮れゆくラインの流れ、
       入日に山同かく映ゆる。
    * 弥栄中学三年生で習った。へたな歌詞(詩)だと馴染まず、唄としても歌い    づらいきょくであった。のに、こともあろうに私は音楽の先生に命じられ、全校    生が「講堂」に集まる催しの折り、講壇の真ん中へ出てこの「ローレライ」を歌    えと命じられた、仰天もし辟易極まったものの女先生の「厳命」は揺るがなかっ    た。仕方ない、歌ったのである、が實に歌って楽しくない奇態な歌と思えた苦々    しさを、今も忘れない。こういう、翻訳の外国歌が教科書にも幾つかとられてい    て、私は悉く馴染まなかった。
 
 
 
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月二十八日 日
    起7:00 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 55.0 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  27    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 故郷の廃家     犬童 球渓   明治40・8
     一 ケ年(いくとせ)ふるさと、来てみれば、
           咲く花鳴く鳥、そよぐ風、
         門辺の小川の、ささやきも、
             なれにし昔に、変らねど、
            あれたる我家に、
                住む人絶えてなく。
 
    * こういう「故家」「故郷」を私は持たない。戦時疎開していた、元京都府南桑田郡樫田村字杉生に、僅かに近い思いは持っている、が。今では、何と云おうと「京都」が、「京の川東、東山区の歴史と女文化」とが私精神の故郷と極まっている。東京は、西東京は人生最長のせいちではあったが、実感としては「出先き」で合ったし、今も然り
 
 * 夜前、よせばいいのに「浮腫みどめ」を服して寝たがさいご、ほぼ小一時間ごとに尿意に起こされ続けた、何度床を起ったか知れない、朝、正七時、みごとに体重が減っていた。
 そんなことよりも 新旧のパソコンが連繋してまったく新環境を成している眼前ノ事実に感謝感動、柳君の好意と奮励に篤く感謝。
 そして今夕には鷲津君がみえて、「ホームページ」を設定してくれると。なんたる幸せ、感謝に堪えない。吉祥寺住まいの柳君とは時折に接して来た東工大院を卒後の四半世紀だが、鷲尾君とはいらい初めての出会い。かれは私の「教授室」をいの一番に訪ね手呉れた学生君であった、が。幸せなヤツだなキミはと、しみじみ「やそしち歳」自身の顔を近くのちっちゃな鏡に眺める。マスクで隠しているが、歯は、左奥下に二本しか無く、モガモガとしか話せない。髪は、雪白、半分ほどは残って居る。
 
 * 鷲津君が来てくれまして 見事に、ホームページが再開しました。バンザイ。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月二十七日 土
    起5:45 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 56.15 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  26    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 旅 愁     犬童 球渓   明治40・8
     一 更け行く秋の夜、旅の空の、
        わびしき思ひに、ひとりなやむ。
         戀しやふるさと、なつかし父母、
          夢ぢにたどるは、故郷(さと)の家路。
           更け行く秋の夜、旅の空の、
            わびしき思ひに、ひとりなやむ。
 
    二 窓うつ嵐に、夢もやぶれ、
     遙けき彼方に、こころ迷ふ。
      戀しやふるさと、なつかし父母、
       思ひに浮ぶは、杜のこずゑ。
        遙けきかなたに、こころまよふ。
 
    * 国民学校の昔によく口ずさんだ、すこし小声で、複雑な思いで。私には恋し    い「ふるさと」は無く、「なつかし」い実父母を識らなかった。日々の暮らしは   「もらひ子」された京都市東山区東大路西入ル(知恩院)新門前通り仲之町だった    家の脇の、細い、途中ひとくねりした「抜けロージ」を南へ駆け抜けると、そこ    は謂うところの「祇園花街」北端の新橋通りだった。こっちは有済小学区、あっ    ちは弥栄小学区だった。故郷では無かった、「現住所」であり生みの母の顔も實    の父の顔も覚えがなかった。近所の子やおとなからは「もらひ子」とささやかれ    また言われていた。この唱歌はまさしく私が幼少來、青年・結婚までの「人生旅    愁」の歌であった。大声では歌えなかった。
     一つ付け加えておく、京都市は幸いに戦災にほぼ完全に遭わずに済み、敗戦直    後の、戦時「国民学校」から京都市立「有済小学校」に戻った校庭には、全国各    地から、また海外から帰還家庭のまさに種々雑多の識らない生徒が加わっていた。    女生徒立ちの服装はもんぺからハイカラまで、目を奪った。好きな女の子も見つ    けた。そういう此の大方は、時期が来るとみな銘々の故郷や移転先へ散り戻って    ゆき、おのづと「別れ」体験が生じた。わたしは、横浜へ帰ると聞いた「新田重    子」という成績優秀でスポーツもよくした女生徒と人生初の「別れ」体験を時勢    により強いられた。寂しいものだった。女の子たちはそんな私を囃して何人も出    声を揃え「コーイシや新ィッ田さん、なつかし重子さん」と囃した、それが少年    小学生、私の『旅愁』であった。忘れない。
 
 * 自身に断っておく、いま、此処にこういうふうに書いてきたことは生まれ育ちの「愚痴」なんかでは、ない。その後の人生を豊富に活きるために蓄えていた、謂わば「堆肥」であった。これらがあって、自身の歩みの紆余曲折に「味」がついた。その「味」こそが創意や創作や發明をうながす契機活動へと多様に押し上げてくれた。
 「堆肥」という言葉は、戦時疎開ののうそんで目の当たりに実感した。「堆肥」無くては実りは瘠せる。人の個性は、活くべき「堆肥」の量や質に養われると識らぬままでは、かぼそい草のようなものしか生まない。
 
 * 昼まえ、柳君が来て呉れ、新旧なー二台のパソコンに連絡をつけ、また「新機」「ひらかな打ちを」可能にするなど、大改革を為遂げて行ってくれた。画期的な自体へ私のパソコン世界は転移移動した。
 
 〇 秦先生   鷲津です
 本日,柳さんがかなり進めていただいたとのことを 伺いました.
 差支えなければ,以前お伝えしておりましたように,明日28日の夕方頃に伺って良いでしょうか?
 先生がお書き進められていることは良いのですが,
 こちらのページに
   http://hanaha-hannari.jp/aisatsu1.htm
 まだ反映されていません.
 そこまでの作業と,手順書を作りたいと思います.
 私は明後日の月曜から水曜まで代々木で開催される学会で出張していますが,途中,いろいろ会合等ありますので,前日の明日に作業させていただけると大変助かります.
 お疲れのところ大変すみませんが,宜しくお願い申し上げます.
 
 * 鷲津君  今日柳君が  「新機と舊機との連繋」、そして、新機の「ひらかな打ち」を「可能」にして行って呉れました。 これに、よく慣れて行きたいと思います。
 さて 私自身の「パソコンに寄せる最も大きな期待」は、かつては人も愕いてくれるほども可能で在った「ホームページ」の 「再建」です。
 老齢を増すに従い、いずれ 『湖の本』刊行は 労作的に断念せざるを得ないでしょう。
 その時、「読者ら」が「ぜひ存続を」と願って下さるのは、「ホームページ」機能を利しての、{作と文章}との{公開と、受発信」なのです。
 
 その設定が 明夕着て頂けて可能になるようなら、 私ども老夫妻とも 實は日々「疲弊と困憊」を加えてはいますが、どうか鷲津君来駕を得まして、「ホームペ゜ージ」 の最も簡略な「顔」を再建設していただければ、嬉しいかぎりです。
 
 ご都合のみ せめて早いめにもお知らせ下さい。 残念、遺憾にも、ほとほと、なにのお愛想 お構いもなりませんけれども。
 けっして ご無理はなさいませんように。     秦 恒平
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月二十六日 金
    起5:45 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 56.15 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  25    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 葉の笛    大和田建樹   明治39・7
     一 一の谷の 軍(いくさ)破れ
       討たれし平家の 公達(きんだち)あはれ
       曉寒き 須磨の嵐に
       早緑(さみどり)匂ふ岸の色
       聞えしはこれか 葉の笛
       
     二 更くる夜半(よは)に 門(かど)を敲(たた)き
       わが師に託せし 言の葉あはれ
       今はの際(きわ)まで 持ちし箙(えびら)に
       残れるは「花や 今宵」の歌
 
    * 国民学校の幼いより愛唱してやまない身に沁みて好きな歌であった、私は、    源氏より平家、よりともよりはむしろ清盛に、そして平家の公達に心惹かれた。    小説のいわば出世作、太宰治賞をうけた『C經入水』も、長編『風の奏で』もそ    イワナも文庫の『平家物語』上下巻は『徒然草』とほぼ同時、中学生で乏しい貯    金で買って、愛読に愛読したが、赤旗 白旗の源平に興奮した時期は、もう絵本    などで幼稚園時代には始まっていた。論攷作の最初となった「十二世紀美術論」    もわが「源平」へ親近体験無しには思い付きもしなかったろう。
 
 * キツイのどのヤケで起きた。のどのやけに効く「ジキナ」と乳酸の腸薬そして龍角散というキマリの対処のまま、二階へ来た。日毎に夜明けの白み、はやい。
 
 * 呆けていたともおわないが、漫然、やぶんになり、睡い。体調、芯のところで弱伝いるっているか。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月二十五日 木
    起6:00 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 56.2 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  24    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 紅萌ゆる岡の花 舊国立第三高等学校 逍遥の歌    澤村胡夷   明治30・7
     一 紅(くれなゐ)萌ゆる岡の花
       早緑(さみどり)匂ふ岸の色
       都の花に嘯(うそぶ)けば
       月こそかかれ吉田山
 
     二 緑の夏の芝露に
       残れる星を仰ぐ時
       希望は高く溢れつつ
       我等が胸に湧返る
 
     五 嗚呼故里よ野よ花よ
       ここにも萌ゆる六百の
       光も胸も春の戸に
       嘯(うそぶ)き見ずや古都の月
 
     六 それ京洛(けいらく)の岸に散る
       三年(みとせ)の秋の初紅葉
       それ京洛の山に咲く
       三年の春の花嵐
    * 私自身の校歌としてどんなに歌いたかったろう、しかし敗戦で学生はすべて    「六三三新制」されアコ枯れていた京都一中も二中も三高も消え失せ、私は新制    出来立ての「市立」弥栄中学一年生としてごく当たり前に進学した。「京洛」の    風光を描いて美しい『紅萌ゆる』は私には故郷京都が恋しい唱歌と変容した。「三    年」と繰り返されているのは舊第三高等学校での「三学年」の意味。詩的な歌詞    は十一番まである。
    私は、敗戦後の京都大学には何の魅力も憶えず、受験勉強に精力と時間をむだづ    かいせず、市立日吉ヶ丘高校の三年を、ただただ京洛の風光に歩いてしたしみ、    歌詠みと、茶の湯や能楽などへの親愛に心身をゆだね、受験などせず「成績優秀」    の「推薦無試験」でためらいなく「同志社大学」へ。間違わなかったと今も思う。
 
* この日録が、何種かにバラけている、のを調整するのにこの朝を虚しく費消。よほど集中/注意して仕事しないと、もう耄碌の害は防げまい。情けなし。、
 
 〇 ご体調如何でいらっしゃいますか。
 「湖の本 163」有難く頂戴しました。御文中秀逸歌合 小野小町の歌「わびぬれば」は僕も好きな歌で 周防内侍の「手枕」の歌と並べて両方とも女の方に軍配が上がるとみておりました。男が情けないですね。(彦根屏風の繪葉書に)  前・文藝春秋専務
 
 〇 三、四月 沖縄に出掛けたり シンポジウムを開催したりしていました。
 『湖の本』創刊なさってから三七年、既刊百六十三巻にもなるのですね。文士の魂に感服、敬服しております。奥様との久しく久しい二人旅、一と言に謂えば おもしろかりし(夫) よくぞきたりし(妻)の応答ににやりとなりました。 小生も連れ合いとの二人旅、すでに五十三年になりました。同じ心境です。もっとも連れ合いは、 よくぞがまんした…ということらしいですが。
 小生も秦さんを見習い、(といっても及びもつかぬことですが)生きている間は、書き続けようと思っております。何を書くかについては、秦さんとは違うでしょうが、言いたいことを言い残す、それに尽きるかと思います。文士は書くべし、ですかね。
 秦さんの益々の御健筆をお祈りします。
 コロナ。第五類医に分類されたとはいえ、収まったわけではありません。以前より見えにくくなっただけでしょう。どうか、御身体にお気を付け下さい。私語を語り続けて下さい。樂しみにしています。とりあえず御礼まで。  詠  拝  作家 協会理事の
   (森さん執筆の二編補掲載した雑誌「出版人・広告人」をも副えて)
 
 〇 「湖の本 162 163」 ありがとうございました。
 広島サミットと世間が騒がしいなか、「湖の本」の言葉が重く感じられます。
「『まると知りてのち、定まる有り、定まってのち能く静か、静かにして市画家にしてののち 能く安し、安くしてのち 能く慮る、慮ってのち 能く得る』。國にも、政治にも、我一人言いえて、違わない。二十一世紀の今にして、これらを超えた新たな哲学は何処に芽生えたのか」
 何よりも戰争を止めること…
 修身 齊家 治国 平天下
 自分の身を修めて、はじめて家が、國がととのう…勝手なことをしている人たちが 天下を平定しようとしても 無理ということでしょうか。
 「日米の協力 それは『おとぎ噺』に過ぎません」ですね。
 なにが不沈空母なものか 原発を三基も撃てば日本列島は地獄ぞ」
 『源氏物語』を読んで歌が心に残るように、「私語」のうちにぽつりぽつりと『うた』書き込まれて 境涯歌、述懐歌になっている…」
 先生のお歌だけでなく 『湖の本』のさまざまな歌が 読む者の心の中で出合って、阿智らしい気付きが生まれます。
  玩具店のかど足ばやに行き過ぎぬうつくしむ者のわれに失ければ
いうお母様の歌と
  忘れじの行く末までは難ければ今日をかぎりの命ともがな
という高階貴子の歌
 どちらも強い肉声が歌の「理」に支えられて、美しく聴かせる、
 お母さまと
 女房という仕事を選択して藤原貞子の母となった人に なにか通じるものがあるようなきがしてなりません、
 そして奥様 
 先生の作品はオートフィクションというより、ダブルフィクション
 先生に起こりえたであろうフィクョンが、奥さまに投影されることで深まる魅力… 、私が秦文学に心惹かれる所以でございます。
 東工大生には「いそぎすぎるなよ」ではなく、「学生時代にこそ最良の相手に出会えるとき」と言ってあげた方がよかったのではなでしょうか。
 ま 学生時代の出会いはひとつ間違えばセクハラ、パワハラになりかねず、コスパもターパも悪く、スマホ アブリできめるようになつてきているという話ですが。
 先生
 奥さま  暑かったり寒くなったり之今日このごろ
  くれぐれもお身体大切におすごし下さいますように  羽生  大学教授 デザイン
 
 * パソコンの文字が、よく見えない、ハダカ電球で画面を照らしている。もう、いよいよ…ダメか。郵便、日ごろよりも数多いが、読んで書き写すのは、もう無理か。
 
 * 荒井千佐代という道の人の俳句集『黒鍵』送られてきた。俳句は古都に難しくて私は門外漢ながら、この一冊は出色のチカラに溢れていると読めた。句集では珍しい出会い。
 
 * 共産党京都の穀田恵二国会議員のたよりがあり、副えて、夫人の「こくたせいこ」さんによる家業の『染色夜話』なる出色のエッセイ集も戴いた。楽しませて戴く。合わせて、『京都府(共産)?一〇〇年のあゆみ』も。京都は府も市も、私の少年時代から共産党が健闘して議員を国会へよく送りだしてきた。高校での担任だった先生もそうであったかに、かすかに覚えているが、穀田さんに確かめ訊ねてみようか。ちょっと懐かしい。この察しに名が出てくるかも。ま、選挙権前から私は保守与党に心寄せたことは一度も無い。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月二十四日 水
    起7:20 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 56.0 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  23    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 大こくさま    石原和三郎     明治38・12
     一 おおきな ふくろを、かた に かけ
        だいこくさま が、きかかる と、
       ここに いなばの、しろうさぎ、
        かわを むかれて、あか はだか。
     二 だいこくさま は、あはれ がり、
        「きれいな みづに、み を あらひ、
       がま の ほわた に、くるまれ」と、
        よく よく おしえて、やりました。
     
     三 だいこくさま の、いふ とほり、
        きれいな みづに、み を あらひ、
       がま の ほわた に、くるまれば、
        うさぎ は もと の、しろうさぎ。
    * 私の、生涯初の出会いの古典は、国民学校一年生を終えた直後の春休み中、    一年生で担任だった吉村女先生に頂戴した文学博士次田潤校訂解説、口語訳のつ    いた『古事記』だった暗記するほど熟読してことに日本神話は『吾が所有」にま    で帰していた。「しろうさぎ」が何故に「あかはだか」であったかなど、判りき    っていた。概してスサノオ、大国主系の神話伝説に心親しく惹かれていた。
    「鬼」よりつよい「一寸法師」などの不自然はむしろ嫌っていた。美文で鳴らし    た武島羽衣のご大層な『美しき天然』など、むしろ軽蔑した。
 
 〇 鴉へ  メールを書くのが遅くなりました。ごめんなさい。昼前の僅かな時間ですけれど少し書きます。
 へとへとの鴉、あなたが 何とか必死に頑張ってられる、いつも、わたくし鳶の念頭にはその姿があります。
 今は 少しゆったりされていますか? 東京は気温の変化が激しいように思われますがいかがでしょうか。
 このところ連日「G7」と「市川猿之助」のニュースが報じられています。「ウクライナ」の凄惨な様子もまだまだ終わりがみえません。いずれに関しても鴉にはさまざまな感想意見がおありでしょう。
 徐々に外国への旅行も「フツー」になってきました。鳶は勿論行きたいと心逸ります・
・実現はまだ先の話ですが、そろそろ年齢や健康状態を考えに入れなければなりません。まだ元気なつもりですが。
 改めて書きます。細切れのメールです。
 
 * 『薔薇の名前』や映画『ダビンチコード」での「薔薇」のことなど、鳶の実感や見聞など教わりたいが。海外へ自在に独りで旅のできる鳶がうらやましいが、さて私も行きたいかとなると、億劫にするだろう。関心の強い一にも二にも私は「基督教社会」のフクザツ怪奇な矛盾やコワイ伝承に在る。教皇だの枢機卿だの僧院や修道院などにこもったような腐敗臭伝承や歴史に識りたい思いがある。根底にはいえす」への敬愛があればこそ、なのである。
 
 * 共産党の志位委員長が広島G7に否定的な発言しているが、私は少なくもバイデン米大統領もふくめて原爆記念資料館に小一時間も立ち寄ってくれただけでも「良かった」と評価している。ゼレンスキーまでウクライナからはるばる参加してくれたのも、良かったことと。岸田総理は広島G7を、かしこく「利用」したと私は、相応に了承している気だが。
 
 〇 秦先生  このごろの ご様子 お送りくださいましてありがとうございます。また、湖の本もお送りくださり、とても嬉しいです。お礼をお送りしたいと思いつつ、なかなかその時間がとれずにおりましたこと、ご心配をお掛けしてしまったのではないかと感じています。このところ、仕事も家も何もかも目まぐるしくて、ゆったりとした時間がとれずにいます。
 近況の綴られている色々から、先生の日々のご様子が感じられて、まるでドキュメンタリー映画でも見ているような心持ちになりました。自分自身の生活を書き綴るには、こんなに豊かな言葉が出てくるだろうかと思い、自身は、慌ただしく過ごしすぎのような気がしています。
 本当は、ひとつひとつの事柄を心に留め、言葉にしたり、考えたりしたいのです。そんな望みに反して あっという間にときが過ぎ去ってしまい、却って脳を使っていないと感じます。
 言葉と思いに溢れていらっしゃる先生の暮らしは、理想でもあり、憧れでもあるのですよね。先生とお話しできるときまで、言葉を溜めておきたいと思います。
 お身体いかがですか。暖かくなってきたとはいえ、雨が多く、時に寒い日もあるので、振り回されますよね。お大事になさってくださいね。
 富松 (いつも、米津と書くべきか、富松と書くべきか悩みます)麻紀  東工大院卒
 
 * 東工大で別れてきて四半世紀にもなり、その後「富松」さんとの結婚式にも招かれて祝辞を謹呈したり、こういう往来がしかと持続している「秦センセイ」の歓びは深くも大きいのです。教室や校内では、86キロもデブ姿を見せていたが、いまや、すこしもちなおして56キロ。会うたら縮こまったのにおどろくだろうなあ。米津さんと大の仲良し爲我井さんも、在学いらい途切れなく「湖の本」の嬉しい読者として心親しくあり続けている。
 そして今も今もこんがらかった「ホームページ」の繕いには、男子卒の鷲津クンや柳クンらが我が家へ身を運んでまで応援助力して呉れている。わずか四年半だけ定年までつとめて「秦教授」の幸せは希有と謂えよう、嬉しい。
 
 * 戸外生活が三年もほぼ完全に鎖されまた鎖してもいる。そのせいもあり、「読み・下記・讀書・創作」の余に、テレビでの「映画」「連續ドラマ」もかなり多用している。映画はよそ300枚ちかい「録画盤」から和・洋、観たいときに好きに選べる。
 連續ドラマも韓国作で「い・さん」「とん・い」このかた現在も「チャングム」など見続けてきた、そのわりに日本勢は、忠臣藏系はべつとして、『剣客商売』『鎌倉殿の13人』ぐらいしか印象にない、創りが総じて、ヤワイ。日本のドラマは、おおかた上出来が乏しい、『阿部一族』『最後の忠臣蔵』など希有の出来だったが。
 
 〇 秦 恒平 様 
   迪子 様
 ご丁寧なお葉書有り難う御座います。
 嬉しく頂戴致しました。
 少しでも何かお腹に入れて頂ければと、ほんのささやかな「姉」ごころです。
 朝夕に楽しんで「よばれてます」のお言葉、益々うれしかつた、です。
  「おもしろかりし」「よくぞきたりし」
 見惚れるような御言葉、心に沁みました。
 羨ましいなあ。  どうか どうか お2人揃ってお健やかに。  半田 拝 (美学先輩)
 
 * 「湖の本 164」初校、順調に進み、「あとがき」「アトづけ」「表紙」入稿分を副えて「要再校」段階へ送り出せる。
 
 * 寒いほどに冷え冷えと、あまり気分のいい一日ではなかったが、各種各方面の仕事は気ままに割り振りながら、寝たければ寝、生協から届いた四合瓶もチビチビと楽しんで過ごした。何よりも『或る折臂翁』の初校を読み切った衝き上げような「震撼」は凄かった。                               
 
 * 妻も「マ・ア」ズも寝静まるまで、『源氏物語 薄雲』 『薔薇の名前』六日目、『参考源平盛衰記』高倉宮南都落ちなどを「愛読」していた。
 コンピュータ「新機」は、まだまだとても「使う」「使える」状態に到らず、やみくもにその内包世界を映像と倶に散策して珍しがっているだけ。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月二十三日 火
    起7:20 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 56.0 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  22    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 戦友    真下 飛泉     明治38・9
     一 ここは御國を何百里
       離れて遠き満州の 
       赤い夕日に照らされて
       友は野末の石の下
 
     三 ああ戰ひの最中に
       隣りに居った此の友の
      俄かにはたと倒れしを
      我はやもはず駈け寄って
 
    四 軍律きびしい中なれど
      これが見捨てて置かれうか
      「しつかりせよ」と抱き起こし
      假繃帯も弾丸(たま)の中
 
    五 折から起る突貫に
      友はやうやう顔あげて
      「お國の爲だかまはずに
      後れてくれな」と目に涙
 
    * 一四番まであるこの実情の軍歌詩を私は愛して唄ったと言うではない、が、    こう書き写していた今も泪に目は濡れていた。もろもろの想い思いが重く少年私    の心にのしかかり、いつか小説の処女作となった『或る折臂翁』へと連繋したの    は、相違なかったこと。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月二十二日 月
    起5:25 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 55.6 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  21    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ お正月      東 くめ     明治34・7
     もういくつねると お正月
     お正月には 凧あげて
     こまをまわして 遊びませう
     はやく来い来い お正月
    * まったくこの通りに「お正月」を幼少の、いやこう遊びこそせずとも青年に    なっても大人になっても私は「お正月」を待ち、心新たな感謝や嬉しさを覚えて    きた。
    二番は、女の子の。それでも「追い羽根ついて」わたしも、凧揚げなんぞよりも    好きで、独り表の道へ出て遊んだ。羽根突きは得意で、独りで百もつけた。
    お正月の朝は通りに人影もなく静かな静かな「新門前通り」下駄を踏む音が綺麗    に鳴って、われ独りの天下だった、懸命に羽根をついて楽しんだ。
 * 午後、櫻君が来てくれて、新機 舊機の連絡、新画面の設定 等々して行ってくれた。一休みに夕食して、また機械の前へ来たが、まるで手も出ないほど手順や展開が分からない。われながら惘れてボーゼンと竦んでしまっている。やすむしかあるまい。
 「舊機で」でこうして「字が書けて」いる、それだけで当座は足るのだ、暫く「理解」が浸潤するまで慌てふためくまい。
 暫く新旧両機を心見てはみたが、「柳君の設定」がほとんど何も飲み込めてない事だけがハッキリした。柳クンにはらくらくと理解できていることが、背後から傍観していただけのわたしには、ほとんど何一つも「手順や判断として記憶できていない」のだ。「分かる人に判っていること」が、全てに馴染まず判れてない私には、ほとんど何もかもを「記憶」にすら残せてない。やれやれ。年貢の納めどきか…ナ。
 
 〇 昨日は、「いつも通り」「急に」ご自宅へうかがい、ご迷惑をおかけしました。
 「先生の執筆環境の再構築をする仲間」 良い表現 ですね。「執筆環境」というのはとても大事です。
 昔、先生がご友人に土地を紹介されたのだけれど、小学校の横だったので声が障るだろうからお断りした、というお話を思い出しました。
 先生は研究室(教授室)の机の向きにも気を遣われておられましたから、物事を言葉にする小説家という職業柄、周囲の環境というものがよく見えていて、繊細なのだと思います。
 私の職業である建築設計はもしかすると、逆の方向性かもしれません。お施主さんの言葉を事物にする、自分の言葉を「カタチ」にする。
 私が先生の能力で素晴らしいなぁ、と思うのは、時間の流れをイメージし、言葉に出来ることです。私には時間の流れを感じ取る能力が低いな、と学生の頃から思っています。
 小説というのは、読む・ページをめくる、という常に時間を伴う藝術だと思いますし、先生の作品の、歴史を取り込む作風も、やはり時間を取り込んでいます。
 私もそれが出来れば、もっと偉大な建築家になれたかもしれない! と思いますが、まぁ、それは無いものねだりですね。
 さて、
 昨日の作業は
1) 画面のまぶしさを抑える=輝度を抑える
2) 一太郎のウィンドウを作業しやすい穏やかな色にする
3) 古いパソコンから、新しいパソコンへのファイル移動を可能にする
4) かな入力を可能にする
でしたが、一応「完了」したと思います。
 「ひらかな入力を可能にする」に関しては、ATOKという変換ソフトを、マイクロソフトのものに「替えた」ので、もしかすると今までの日本語変換と多少の違和感があるかもしれません。
 その辺りは、機械が自分で覚えていくものなので、使っていけば、秦先生の漢字使いを機械が覚えていきます。違和感が抜けなければ、またATOKでの作業が出来るように、みんなで考えます!
 最後に、帰り際に、素晴らしいお品をいただき、まことにありがとうございます。
 高価なものであろうなぁ、と思いつつ、妻と話して、日常使いしようということにしました。良いものを日常で使うことがやはり大事な思い習いと思いますし、日々、先生を思うことも出来ますので、ご容赦ください。  櫻
 
* 人柄のいい、好い便りを貰いましたよ。嬉しく、感謝。
 
 * 「湖の本 164」初校すすめながら、晩の遅くに速くから心惹かれてきた映画、トム・ハンクスらが演じた『ダ・ビンチコード』にも見入った。イエス・キリストとマグダラのマリア「夫妻」との「血脈の子孫」を描き出していた。在りえたことだろう。キーになる言葉の「ローズ 薔薇」に惹かれる。いまもよほど真剣に読み進んでいるウンベルト・エーコの大長編『薔薇の名前』との関連を興味津々想い描きながら。
 その一方、湖の本のために初校している吾が処女作二編『少女』そして長編『或る折臂翁』へよほど強烈に惹き戻されてもいる、「よく書いたなあ」と感謝しながら。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月二十一日 日
    起床5:30 血圧 161-78(502) 血糖値 92 体重 55.5 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  20    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 荒城の月      土井 晩翠     明治34・3
     一 春高楼の花の宴
       めぐる盃かげさして
       千代の松が枝わけいでし
       むかしの光いまいづこ
 
     二 秋陣営の霜の色
       鳴きゆく雁の數見せて
       植ふるつるぎに照りそひし
       むかしの光いまいづこ
 
     三 いま荒城のよはの月
       替らぬ光たがためぞ
       垣に残る葉ただかつら
       松に歌ふはただあらし
 
     四 天上影は替らねど
       榮枯は移る世の姿
       写さんとてか今もなほ
       嗚呼荒城のよはの月
   * 少年の思いに、これが「詩か、詩なのか、そうか」と繰り返し肯かせた感銘を   忘れない、歌としても詩としても愛唱また愛誦した。すでに日本史に首まで浸かっ   ていた少年・私に、「荒城」の月の冴えはしみじみと目にも胸にも光った。その後   に白秋や朔太郎に出逢った。
 
 * はやく目覚め、二階へ。美味い柿の葉寿司二つ、独りで朝食。
 
 * 「舊」「新」二つの機械の現状を纏めてみる、と。
@ 電源は繋がっているのに「舊/新」二機に連動の融通なく、「舊機」記事が「新機」に全然、移動・複写・貼付け・連動が効かない。「舊機内容」を接収すべき「新機」として働いていない。
A 「新機」画面を、老い衰えた視力に適した背景色にならず、眩しい。
B 致命的には、「新機」で、どうしても「ひらがな打ち」が出来ない。「ローマ字打ち」では、微妙な発想や創意ですすむ「日本語での創作文章」が即座に創意に応じて打ち出せず、日本語での小説家、論攷者としては致命的な障害。
「ひらかな打ち」に確定的に「変更」したいが「方法」が分からない。
C 根本の希望と実現とは「新機」での、在来のそれに同じい、乃至は「さらに有効で見映え」の「秦 恒平のホームページ」の「実現/」設定と設置であった。それ
在ってこその鷲津君好意での予期しなかった「新機」の搬入・導入、また使用者「秦」の希望・期待なのだが、今もって、それが、何も「駆使可能」には「実現出来ていない」のは、残念。
「新機」の、我が家・私の手もとにせっかくもたらされた「意義と必要」とが、未だ、なんら「駆使可能の設定」として「実現していない」のは、残念至極。 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月二十日 土
    起床6:00 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 55.6 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  19    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 箱根八景  第一章 昔の箱根     鳥居 沈     明治34・3
     箱根の山は 天下の険 函谷關も物ならず
     万丈の山 千仞の谷 前に聳え後(しりえ)に支ふう
          雲は山をめぐり
          桐葉谷をとざす
     昼猶闇き杉の並木 羊腸の小径は苔滑らか
          一夫關に当るや万夫も開くなし
     天下に旅する剛毅の武士(もののふ)
     大刀腰に足駄がけ 八里の岩ね踏み鳴す
         斯くこそありしか往時の武士(もののふ)
     * まさしく大言壮語「オーバー」な見本だが、こう謂うのを大声で唄うこ      とで「ことば」や「漢字」や「表現」を憶えた。「箱根」に憧れたのでは無い。
 * 早朝の起き抜けにきつい鼻血を出した。今日は妻と、例の歯医者へ。昨日は暑かったが、今日は。なにもなにも無事でと願う。
 
 〇 お元気ですか、みづうみ。
 日常的に体調に問題がおありのなかでまた新しい湖の本を送り出されたのですから、「元気は底をついてか」という状況は当然のことでございましょう。ご無理をしなければ出来ないことを、鋼の意志で成し遂げていらしたのです。
 ゆっくり、しぶとく、もうしばらく、出来ればあと十年は「湖の本」をお続けください。「ホームページ」もどうか蘇生、活用なさってください。
「もういいよ」とは、ワガママなわたくしは、まだまだ申し上げられません。
                             春は、あけぼの
 * 逃げて遁れられる先は、無い。
 
 * ヒロシマに集った主要國のトップ等が、バイデン米大統領はじめ、集ってあの原爆資料館に40分の時をもちい、あの悲惨を極めた原爆今回被害の資料や実情に触れたこと、これにまさる今回サミットの成果は在るまい、主催した日本国岸田総理の大きな成果であった。あの原爆資料館へは、往年、ヒロシマへ編集者勤務の一環で出張したとき、思い切ってはいり、痛い極み胸打たれて這う這う出たのを想い出す。その脚で奔って、会社の仕事は投げだし船で安藝の宮島へ渡ったのだった、胸の騒ぎを静めねば居れなかったのだ。
 あの宮島体験から、後に太宰治文學賞へ結ばれた受賞作『C經入水』が生まれたのだった。往時渺茫とはいえ、胸に刻まれ忘れがたいヒロシマ体験では在ったよ。
 
 * 降るような降らぬような、寒いような暑くなるような。元気を喪いかねない。跳ね返すように生きねば、歯医者通いと雖も。
 
 * 歯科医、「中華家族」で遅めの昼食、三時半にもなって帰宅。
 もう「湖の本 164」初校が出てきた。急ピッチも構わない、成るものは成るものと、頓着も斟酌も無く進めて行く。 
 
 〇 > 解決できる一つの方法は、「舊機で従來のまま日々に書いている」それを、「新機に転送・貼り付け」 または「usbを使って」「舊機の創作や記事の全部を、新機に、転送・貼り付け出来れば、その後は「新機」で書き継げばいい、それが有難い」のですが、その道も、手順方法も私には分からぬままなのです。質問もし依頼もしているのですが、依然 半歩も進まない。  秦
 
 〇「書く」だけに徹するとお決めになったら如何でしょう。芸能人のブログなどは、原稿を書いて他の誰かが更新するかたちが多いと思います。そうなさったらいい。今さら新しい機械のあれこれをいじるのは時間の無駄です。読者は「新しい作品や文章」を文學/文藝として受け容れ読むことが喜びで、秦さんのパソコンスキルの上達は期待しません。
 たとえば、毎日でも一週間に一度、一か月に一度でもかまいませんが、書かれたものをメールに貼り付けてお送りいただけましたら、当方でホームページの「私語の刻」を更新することは可能です。もちろん、秦さんか東工大卒の方にホームページ更新手続き、アクセスの仕方を教えていただかなくてはなりませんが、それは難しい作業とは思いません。
 欠落部分の復旧も、データの「私語の刻」だけを拾っていただいて、USBなどにコピーしてお送りいただけましたら、こちらで実行します。是非ご検討ください。
 今日は雨の予報ですが、もう梅雨入りかもしれません。湿度が高い季節はやっかいです。くれぐれもお大事にお過ごしください。 曙 
 
 * なにをどうすれば済むのか、私によく分かって居ない。
 それよりも、当面は「湖の本 164」の初校をより正確にしとげて、新刊を送り出しつつ、次の{新刊 165」の構成、組み立てを思案したい。ホームページが如何にも難なくCしく毎日に送り出せると確信出来るまでは「私語の刻」は「湖の本」新刊の後半部に公開して行けば済むこと。
 
 * 大冊『秦恒平 愛と怨念の幻想』の著者、永栄啓伸さん、地元五條の名品、名店「たなかの 柿の葉寿司 鯛/・鰹・鯖」をみっしり詰め合わせた一樽を贈ってくださった、じつに美味い、そして満腹。感謝感謝。
 
 * 美学先輩の半田久さん、今日の名産といえる「竹の子ごはん」をこんもりと柔らかに煮て、下さる。竹の子、大好き、少年の昔が懐かしい。秦の母はいわばいろいろのまぜ御飯を炊く名人だった。父も、小姑の叔母も口うるさかったので、母は苦労したのだ。祖父I吉もともどもうちの大人たちはシンラツな批評家だった。四、五歳の「もらひ子」だったが、わたしもまた秦の大人たちを見つめるように批評していた。
 
 * 日本近代文学館など、新刊「湖の本」受領の来信。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月十九日 金
    起床6:45  血圧 150-83(61) 血糖値 92 体重 55.6 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  18    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 花     武島 羽衣     明治33・11
     春のうららの隅田川、
     のぼりくだりの船人が
     櫂のしづくも花と散る、
     ながめを何にたとふべき。
 
     見ずやあけぼの露浴びて、
     われにもの言ふ櫻木を、
     見ずや夕ぐれ手をのべて、
     われさしまねく青柳を。
 
     錦おりなす長堤にに
     くるればのぼるおぼろ月。
     げに一刻も千金の
     ながめを何にたとふべき。
 
  * 詩をかいた武島羽衣の名は、国民学校時期の幼少で、まだ存命だった秦の祖父I  吉蔵書の何冊かに見ていた。つねな「美文」の二字を冠される人だった、私は幼い名  からに警戒して、そんな、明治前中期に流行ったらしい「美文」とやらに馴染まず、  意識して目もそむけた。夏目漱石は「美文」を軽蔑していた。「美文」を旗にかかげ  文壇を制覇していた連中を花で嗤っていた。私はその後も永く漱石にくみした。羽衣  のものを読み知ったのは此の唱歌でだった、私は「東京」とまるまる縁の無い年齢で、  この唱歌で「東京」「隅田川」を想像し、なにかしら懐かしんだ。
   なによりこの詩を私に印象づけたのは、弥栄中學二年生当時に、構内の催しの中で、   講堂の壇中央に独りで出てこの唱歌「はな」を読唱した三年生女子を、全人類女    子を超えて 魂の底から愛し慕っていたのだ、それは「やそしち歳」の今にしても   も変わらない、其の人とは早くに死に別れていたけれど、あの講堂の壇上でこの   「花」を歌い上げた人の声も姿も忘れない。この人も私を眞に「弟」と愛してくれた。
   一年早く卒業の日には、私に漱石作の文庫本『心』に自署して記念に呉れた。そし   て、どんな事情でか天涯の遠くへひとり去って行った。
   「心」は、私の聖書となった。
   気恥ずかしいが、この「姉さん」が「花」の隅田川を唄った同じ講堂の檀上で、一   年遅れて同じ催しの日、私は先生に命じられ、『ローレライ』を独唱したのだった、   あれは気恥ずかしかった。「なじかは知らねどこころ侘びて」、天涯に去って行っ   た人が私はただ恋しかった。「小説家」に成って行く運命だった。私に、「われさ   しまねく」東京とは、唱歌「花」の隅田川かのようであった。
   今、八十七歳の私が書いたのである、この感傷の文を。
 
 * すこしくフクザツ・カイキに小説家・私を導く夢を見た。何処へ。
 
 〇 秦先生 奥様  いつも「湖の本」をお贈りくたせさいまして 本当にありがとう御座います。近くのスーパーでレジのおばちゃんが、これおいしいヨとダックワーズを勧めてくれて、お茶うけに ! と思っていたら、別の店で 母の日用に ! と注文をとってくれた干菓子があって、今日届いた、あいにく取り扱い注意ですので送るのはちょっと無理ですヨと言われたのですが、私が勝手にプチプチを詰めて何とかなるだろう!?と決めて送らせて貰いました。もしかしてコナゴナに割れてたら、本当にごめんなさい。運を天にまかせて !
 昨日は朝から一日肌寒い日でしたが、今日 御詠歌レッスンが終わって帰る頃には、暑くなってました。季節の変わり目、どうぞくれぐれもご自愛下さいませ、  かしこ
  五月十日   静岡市  きよみ、
 
 * いろいろに読者がいて下さり ご親切も戴いている。ありがたいこと。
 
 〇 毎日、少しずつ御書(うみのほん)を拝読させて戴いております。
 この私にとりまして何よりも貴重なりこ導きのほんと相なりました。お出会いのかないましたこと、大切に抱きめている所存でございます。  合掌
    白蓮寺開山  恵念  埼玉 草加
 
 〇 昨日 金澤で大きな會がありました。(終えて ほっとしました。)
 心ばかりのおみやげと
 浅草のおせんべいをお送りさせていただきます、 時節柄 どうぞお身体お大切になさって下さいませ   鳴り物(和楽器演奏)家元  望月太左衛
 
* 新作の長いのを押している、どうなるか。
 
 * 大阪 池田市の陶藝作家 美しく色をおさえた青磁の皿五枚、箱書きの箱におさめて贈ってきていただいた。賛嘆と感謝にたえません。思えば久しくも親しいなからいで銘々の道を娃病んできました。いっそうの御健康とご名作を祈り待望します。
 
 * 歴践、旅の写真家、近藤聰さん、お好みお心入れ地元の名酒一升で美々しく「湖の本 163」を祝って下さる。
 妻の従妹後藤明子さん、みごとな丹精の「玉葱」を山りよう頂戴。野菜が苦手だった私も、秦家に「もらは」れた幼少來、玉葱、きゃべつ、葱、はすすんで食べた。
 所澤の藤森佐貴子さん、どうすると毎度毎度こう珍しいお菓子がみつけられるものとびっくりしつつ、こんかいも、極上の煎茶に發お目見えの「花林糖}の二缶を頂戴した。
 この、爺 婆 をみなさん励まして下さり、多謝深謝に堪えません。
 
 * 大阪松原市の岸田準二さん、神戸市垂水区の芝田道さん、埼玉所澤の藤森佐貴子さん、いいお便りを戴く。
 
 〇 先生の 書き続けられる そのえねるぎーの源泉は、一体どこにおありなのでしょうか。唯々アタマの下がるおもいです。生きづらい昨今、生きる楽しみを何に見出したらよいのでしょうか。迷うばかりです。
 ようやく過ごしやすい陽気になってまいりました。先生には益々お建樹にお過ごしくださいますよう願っております。不一  都 国立市 安井恭一
 
 〇 『湖の本 163』拝受。月刊にも逼る刊行、その筆力と労力に感じ入っています。先号のエッセイにも感銘しましたが、今回の『或る往生傳』は、秦さんならではの世界にしばし没入いたしました。
『私語の刻』の「二〇二三(二〇二二?)10/28の項で、二聲の呼びかけはしっかり読み取りました。耳の奥には、なつかしい声も聴こえています。ありがとうございます。
 今日は、家内が週一回のデイサービスに出向いています。午前十時から午後三時まで。四月から始めたのですが、なかなか行きたがらないのをケアマネージャーに説得されてしぶしぶと行っています。ただ、四月末に高熱を出し、娘と嫁が病院那連れゆきました所、車の中での診断が四時間にも及び、結局「コロナ」と宣告され、家族一同が一週間に垂んとする外出禁止を喰いました。私はともかく子供たちには(全く病状なし)気の毒なことになりました。そのご、家内は食欲不振に陥り、主治医に願って五日間入院させました。
 その後また前の生活に、家政夫擬きと相成っています。もうそれが普段の生活となり、たいした苦痛も感じませんが、時々ふと我に返って、自分は今、こうなんだと、大きく行きづくこともあります、秦さんの「井口さん 井口さん」はとてもなぐさめになります。
 五月八日に九十一歳を迎えました。家内のケアマネージャーさんが、煎じつつ訪問の際に、「こんな九十一歳はみたことない」といってくれました。外見は元気なのだと思います。しかし、心はなにか満たされないものがどこかにあるようで、ふと不安感みたいなものがよぎったりするのですが、これからはそんな時、「井口さん 井口さん」というお声が勇気を与えてくれると思います。
 秦さん御夫妻も、「いいお年」です。どうぞお大事にと祈っています。
    五月十五日  井口哲郎(前・石川県立近代文学館館長 元・小松高校長先生)   秦 恒平 様
 
 * お元気で 井口さん、どうかどうぞ お元気で   秦 生
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月十八日 木
    起床5:50 血圧 162-76(62) 血糖値 92 体重 55.6 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  17    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ キンタロウ     石原和三郎     明治33・6
    一  マサカリカツイデ、キンタロウ、
       クマニマタガリ、オウマノケイコ、
        ハイ、シィ、ドゥドゥ、ハイ、ドゥドゥ、
        ハイ、シィ、ドゥドゥ、ハイ、ドゥドゥ。
    * 私は、幼少時も、今も、腹掛け一枚で熊に跨がった「きんたろう」が好きで、    きらきらに着飾って家来も連れて「オニガシマヲバ ウタントテ、イサンデ」出    かける「モモタロウ」の、「ハゲシイイクサニ、ダイショウリ、オニガシマヲバ、    セメフセテ、トッタタカラハ、ナニナニゾ、キンギンサンゴ、アヤニシキ」なん   てには喝采も共感もしなかった。今もしない。
 
   二 アシガラヤマノ、ヤマオクデ、
     ケダモノアツメテ、スモウノケイコ
      ハッケヨイヨイ、ノコッタ、
      ハッケヨイヨイ、ノコッタ。
   の「キンタロウ」が、愛らしい。「モーモタロさん モモタロさん、お腰に付けたきびだんご、一つわたしにくださいな」「ヤーリマショウ、ヤリマショウ、これから鬼の征伐についてくるなら、ヤリマショー」など、虫ずが走った。
 
 * 早起き。フクザツ・カイキな、よくは憶えぬ不快な夢に終夜脅されていた。目覚めて、左眼に痛み。
 
 * 暑い梅雨の入り。ナンともいえす、しんどい。
 市川猿之助が両親と倶に倒れてい、母は既に死亡と。追い掛けて父母ともに死去、猿之助は朦朧の気味ながら、生存が確認されると。
 耳にも目にもよろしからぬニュースに、世界が汚れている。他界へ逃げたくなる。
 
 〇 お元気ですか、みづうみ。
 三日前に「湖の本 第163巻『或る往生傳 掌説・拾遺』を頂戴いたしました。ありがとうございます。
 『或る往生傳』読みました。
 なんとさびしい、救いのない、恐ろしい話であろうと 暫し茫然としていました。そして西部邁氏のことを思い出しました。一心同体ともいうべき妻を癌で喪って、自殺するだろうと言われていたとおりに亡くなった。なぜか江藤淳氏ではなく、西部氏です。うまく説明できませんが、西部氏の「生きかたとしての死にかた」の苛烈さに、武時と通底するものを感じたのでしょう。
 わたくしは、「自分を大いなるものの御手に委ねる」という「抱き柱」を信じていたい凡俗の一人であることを痛感しています。死後は「無い」のが真実としても、「抱き柱」を絵空事として抱いているほうが、「心安らかに死ねそうな気」がいたします。
 
 今朝、再読して、どうにも救いがないけれど、それはわたくしのような凡俗にとっての受けとめかたであり、この一篇は、互いが互いにとってかけがえのなかったただ一人の「身内」夫婦の、愛の物語と読めばどうだろうと思い直しました。みづうみから「妻迪子」への遺書に等しいラブレターとして読めば、どんなにさびしくても、そこに一つの極楽往生世界もあり得るのかもしれません。読み終えて、迪子さまがみづうみより絶対に長生きしてくださいますようにという、ただそのことを願いました。
 
 「ホームページ」の件ですが、その後如何でしょうか。
 みづうみの更新作業が難しければ、旧機でみづうみが書かれたものをメールでお送りいただければ、私でも更新できるのではないでしょうか。もちろん、みづうみか東工大の有志にアクセス方法を教えていただくことが前提ですが、お手伝いは可能ではないかと想像していますので、ご要望がおありでしたらお知らせください。
 
 ホームページ上「私語の刻」は2004年3月まで公開されていて、その後2012年6月までが欠落して、その後復活、2015年は1月だけが欠落、2月から復活して2016年3月まであり、その後また消えています。
 データがおありになれば、戻すお手伝いは(ご指導があれば)可能と思います。
 
 腕や肩や腰に転倒の後遺症はございませんか。発送作業の力仕事と共に、心配しております。しかも昨日から突然の暑さ、体調がおかしくなって当たり前です。
 どうかお身体にやさしくしてあげてください。みづうみは、ご自身のお身体に特に厳しい方ですが、甘やかしてあげることも大事です。わたくしは、ため息ついて頭を抱えながら、毎日機械に向かい、ボチボチやっています。どうかお元気で。  春は、あけぼの
 
 * 感謝。
 
 * しかと自身の立ち位置を覚えない。茫っと。みな忘れ、寝入るにシク無しか。
 
 * 韓国ドラマの「チャングム」は不愉快に煩く、日本の「剣客商売」は、心清しい。     
 * 「読む」に、「薔薇の名前」「源氏物語」「参考源平盛衰記」「水滸伝」は、それぞれに佳く心に添う。
 
◎ 令和五年(二○二三)五月十七日 水
    起床6:00 血圧  130 (62) 72 血糖値 92 体重 55.6 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  16    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 鐵道唱歌(東海道編)     大和田建樹     明治33・5
    一  汽笛一声新橋を
         はや我汽車は離れたり
       愛宕の山に入りのこる
         月を旅路の友として
  * 六六番もあるが、強い印象は、「汽笛一声新橋を」に尽きる。東海道線は、最初、  新橋駅発であった。終点は。京都とおもいがちだが、「神戸」で山陽道へ繋がった。
 
 * なんとか、此の「舊機」日録を「新機」に移転(複写)したいが、術が分からない。それが出来れば「新機」での執筆や創作が可能になる。まだまだ「新機」は使えていない。「ひらかな打ち」が出来なくては「日本語での文章作家」として「仕事」ならない。「ローマ字」では即座・咄嗟の発想も創意も活かせない。
 
 〇 秦さんへ
「或る往生傳」をまた読もうと思って
思わず 秦さんのメールを開いてしまいました
あれっ 「湖の本」だった と気づいたのですが
 5月10日 血圧 174ー74(88)にも気づきました ところが
   9日 血圧 174ー74(88)
   8日 血圧 174ー74(88)
   7日 血圧 174ー74(88)
   6日 血圧 174ー74(88)
   5日 血圧 174ー74(88)にも気づき これは と、ほっとしたり それにしても 10日の数字が気になります
 秦さん くれぐれもお大切にされてください
 コロナは決して終わってはいません
 私も気をつけて頑張ります 勝田e-old chiba 拝
 
 ▼ 勝田さん  ご心配懸けました。實は、血圧測定を ずーっとサボっていました。
 いま、久々に測りました。  130 (62) 72 でした。血圧の異様は最近は気づいて居ませんでした。おそらく只今測定の此の数値前後が、在来の平均値だろうかと感じます。
 ゴメンナサイ、ご心配懸けました。胸を張って元気元気とも威張れない昨今の疲労ではありますが。
 勝田さんもどうぞ、お大事に御怪我の有りませんよう。   
 そろそろ、街へ一度 出歩いてみたくなっていますが、ま、池袋が限度でしょうか。
 世界も日本も グダグダと心地よくない近況です、が それだけに精神衛生は大切にと心がけます。
 よみ・かき・讀書と創作。ま、それしか出来ない不器用者なんですが、 ご一緒に 何かうまいもんを食べに出たいです。  秦 生
 
* 高麗屋さんから、幸四郎が昼夜にがんばる七月歌舞伎や、松たか子主演舞台の魅力的な案内が来ている。久々のこと、観に出たいなあと、懐かしいまでに、思ってしまう。
 お医者さんである勝田さんの言われるように、例の感染症。まだ油断なるまいと私もやっぱり感じている。ウーン。
 
 * 突き貫きづらい頑固な土塁に目の前を塞がれている感じに、いま、私、立ち往生している。まいった。
 が、こういうお便りも貰えている。 
 
 〇 『湖の本 163』を拝受。漂う気配に魅かれて、しょぼつく眼ながらすぐに「或る往生傳」を読みました。円熟の秦文學の到達点ともいえる名品。何の事件が起こるわれでもないのに、武時の心の動きがうねりのように伝わり、道明律師の「命の逝くハテはただ一枚の壁」という「御物言い」に圧倒されました。その後の変らない武時にも。
 体調のご不良を案じ申しあげていますが、今年一月二十七日に編成ったこの作品の微妙精緻で艶も力もある文を拝読していると、心配もふっとぶ気がいたします。
 これから掌説・拾遺・私語の刻と、秦さんの背中を追いたいと存じますが、むどこまで叶うか。
 拝受のお礼に加えて、「或る往生傳」の簡明をお伝えしたくて
取り急ぎ野いっぴつです。
 どうぞ御身くれぐれもお大切になさって下さい。
  二〇二三年五月十五日      敬
 
 * 第一級の文藝誌編集長や文学出版局長を永く勤められた片のお手紙。なにを他に求めえようかと、「或る往生傳」を書いた思いを反芻しつつ嬉しく感謝申している。嬉しい。
 
 〇 えご咲けり終の栖も三歳なる  杏牛
 「湖の本」ご恵送頂き嬉しく早速拝読 「或る往生傳」並びに「拾遺」、一読又一読嬉しく拝読  拙聾老気鬱 独語爽快、感謝です 先生並びに御令閨伴々お大事に  多謝。                    奥田杏牛   俳人
* 坂中学入学時、理科の佐々木(水谷)葉子先生、おてがみに副えて、 とらや西条の名歌、精撰の宇治茶を下さる。この先生より以前の遠い知己はとなると国民学校小学校のほんの数人あるかないかの友だちだけ。嬉しくも有難く、有難くも嬉しい。
 
 〇 前略  巻頭の『或る往生傳』面白いでした。
 小屋の外には雨が降っております。寒暖の差がお身体にしみるのではと、ふとおもいました。ご自愛下さい。 島尾伸三 作家/写真家 島尾敏雄先生子息
 
 〇 「湖の本 163」をありがとうございました。遅れてお疲れがでましたでしょう。ご無事にやりすごされますように。どうぞお大切に。
 友人に柚の樹をもらって、うれしかったのですが、隣に実生のグレープフルーツの樹、(といってもほんの背丈位)があるのですが、新しい柚の方にばかり蝶々が卵を生みつけるので まだしっかり居(根)付いていないのに、と雨の中でも監視しています。乱筆乱文おゆるしを。  豊中市  美沙  大学出の友
 
 * 持田鋼一郎さん、小和田哲男さん、文教大学など、受領の来信有り。
 * 今回の「湖の本」では何と云っても 『或る往生傳』が作家人生をしめくくる「結語」の一作とこころしていたこと。すぱっとそこを観てとっていただいた天野さんに感謝して敬礼する。嬉しかった。
 
 * 五体放心のていにほとほと疲れていて、妻も同じく、先に寝にゆかせ、しばらくは独り『デイ・アフター・ツモロー』とか謂うコワイ映画を観ていたが、それも途中で投げて、さほど遅くは歯無かったろうが床に就いて灯を消した。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月十六日 火
    起床7:30 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 55.1 kg    朝起き即記録 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  15    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 葉茂れる櫻井の     落合 直文     明治32・6
     葉茂れる櫻井の     里のわたりの夕まぐれ
     木の下蔭に駒とめて    夜の行く末をつくづくと
     忍ぶ鎧の袖の上(え)に  散るは涙かはた露か
  * 楠木正成・正行(まさつら)父子「櫻井の別れ」六番の第一番、二番以降は殆ど  唄いも憶えもしなかったが、この一番だけは、他に、また他歌のすべてに超えて、幼  稚園の頃から、よく大声で歌った。近所の友だちとも唄い競った。さしたる詩句とも  思わないのだが、何故か愛唱した、ただしこの一番だけ。
  兵庫の決戦へ馳せ行く父正成、後日また後年に期し備え、あえてあとに残った子の正  行。南北朝前後の歴史は、源平の時代と並び、幼い頭にも既にかっちり納まっていた。
 
 * 寝るべく生きているように超・長時間寝続けていた。いやな夢は見なかったが、東大の赤門内の山林が更に宏大な山林になり、みおろす崖下を大きな河がなが、そんな中をまことに愛らしい優しい、しかも聡明な若い小柄な人と歩いていた、夢の内で。出逢った覚えの無いひとだが、懐かしかった。いつ知れず別れ、わたしは「独り」になっていた。
 その後は、ただただ睡眠していた。
 
 * 今もって、心身に寸暇有れば長大な『薔薇の名前』下巻の半ばを読み進んでいる。
 
 * 「新機」を明けることは手順を踏んで出来るようになった。「舊機」まのように、「ひらかな打ち」で日本語の書けない内は、「新機」は好奇心でのアレコレ遊び道具でしか無い。メールも設定出来てない。
 「新機」の世界はしかし廣大で多彩なように想像できる。ま、ソレを暇なときに楽しんで遊び道具にしながら、なにかしら活路が開けるのかも。私自慢の、八坂神社緋の西大門の写真が美しい。其処へ帰っている自分を感じ、想い出も山ほどあり、しみじみと懐かしい。石段下みなみがわに戦後「六三新新制」の市立弥栄中学があり、私は事実上開校最初年の一年生として入学した。知恩院新門前通りのわがやからは、家の脇の「抜けろーじ」を脱けて祇園乙部の内を軽くかけあしすれば数分で中学の門に着いた。門前は市電や市バスの走り買う京都市一の繁華、史上大通り。「八坂神社」はその東の極みに建ち、はるか西の極み桂川の西に秦氏が司る「松尾神社」が在る。
 
 〇 秦 兄   有り難く頂戴した『湖の本』第163巻の「私語の刻」を前に あれこれ思っている。何よりも 兄が心身ともに相当疲れていると強く感じている。第163号は令和4年(2022)10月1日からの日付けだが、毎日の日付のほうは令和五年(2023)になっているから。恐らく疲労困憊で原稿の読み直しが億劫になってできなかったのだろう。
 兄の性格を知る読み手が、大分疲れていたのだな、私語の日誌だから許されるのでは、と思ってくれれば、それでよしとしよう。否、我々の齢になれば良しとすべきである。
 
 兄の読者のなかには、兄夫妻の私生活にまで踏み込んで忠告や助言をされる方もおられるようだが、私は物書きの兄と「日本語の乱れ」について語り合いたい。
 
 私は「老人」や「田舎」まで差別用語だと目くじらを立てる一方で、「半端ない」などと気色のわるい日本語独自の助詞・助動詞や活用形の文法を無視した物言いや、次々に乱造されるカタカナ表示の、それも省略された文字というより符丁に対して 不満を感じている一人である。一時期、差別語の規制に抗して断筆を宣言して話題になった筒井康隆は、兄の大学の一年先輩ではなかったか。
 
「つんぼ桟敷」や「めくら判」まで使用禁止ということは即、我が国の文芸や芸能を否定することであり、日本の古来からの精神文化をないがしろにする暴挙であり暴力である。
「めくら」を盲目・めしい・目の不自由な人などと言い換えてみても 所詮は言葉の綾に過ぎず、対象そのものには何の変化も生じない。身障者の私に言わせれば、おっかないものに触れるごとく健常者が気を遣うことのほうに、却って差別感を覚えて不愉快なほどである。ましてや英語で a blind personやthe blindと言われて何とも思わない者は相当おめでたい人物である。普通の感覚なら言葉遊びの具になっているようで 却って腹立たしく思うだろう。
 
 そう言えば銃殺された元総理(=東条英機か、安倍総理か)も言葉遊びが大好きな御仁だった。美辞麗句を無闇やたらと並べ立てて、兵器を防衛装具などと言い換えては悦に入っていた。
 
 精神文化より物質文明が先行する国や社会に明るい未来はない。合理性や利便性のみを追い求め、全てのモノの価値判断をカネで量る経済最優先の現代人が多く、そんな不合理・不条理で理不尽なことに対して平然と無関心でいられる恐ろしさ。これも精神文化の衰退のなせる業であろう。
 
 VIPの護衛や文化財の修復に多大の税金と時間をかけている一方では、ウクライナをはじめ世界の各地で多くの一般人が殺され、貴重で再生不可な文化遺産が破壊されている。
 
 為政者を殺せば極刑に処されるのに反して、為政者の仕掛けた戦争で殺人を多くするほど称賛される世界は正気の沙汰ではなく、狂気(これも差別語でNG)の沙汰そのものだ。仮想敵国を防衛予算を増やす口実にして、福利厚生費予算を削減する為政者に政治家の資格などはない。
 
 兄も「悪意の算術」として外交の必要性を強調しているが、私も全く同感である。16世紀のイギリスの詩人で外交官でもあったヘンリー・ウォットンも「外交官とは、ウソをつくために海外に派遣される正直な人間」と言っている。
 
 平和外交こそが今の日本にいちばん求められるものだ。日本にいちばん近い隣国は4キロも離れていないロシアである。北方四島を日本に返してもらえば軍事基地は作らず、漁業中心の経済事業活動を日ロ共同で展開しようと持ち掛けて 約束すれば北方四島の日本復帰も可能だろうに、(= これは、ロシアに向けて、かなり甘い。)あろうことか (防衛予算を大幅に増やし死の商人國アメリカから古手の武器を言い値で買わされて) 軍事大国を目指すなどと戯けたことをアメリカの雑誌社のインタービューで口走っているリーダーは、ここまでくれば日本はおろか世界中の恥さらしや物笑いどころか、亡国を謀る国賊ではないか。
 
 平和外交を怠り、一皮?けば、中・ロ・北朝鮮と同じ穴のムジナである武器大国アメリカ一辺倒の日本の政権与党は勿論、野党各党も似たり寄ったりで党利や私欲オンリーで国民の代表としては失格者揃いばかり。
 
 世界で唯一の原爆被爆国の広島で、核兵器や原発廃絶を広島所縁の岸田総理が各国のリーダーに説得するのが当然なのに、世界の軍事大国になるなどとは何事ぞ、と、ここまでは、改めて私が言わずとも大方が呆れ且つ憤慨して言ったり書いたりしているが、所詮はそこまで止まりで、然らばこうする、という結論部が全くない。
 
 そんな政権に憤慨して選挙になれば少しは変わるかと言えば、ますます投票率は下るばかり。その結果は国民の支持率が20%程度で政権交代もなく、大方の国民の信任を得たと得意顔の一党独裁の長期政権が相変わらず持続するという有様。
 イエスだけの是認票にノーの否認票を加えた一人二票投票制度の新設を提唱している私案に対して、有能な政治家が落とされて、泡沫候補者が当選するから否認票に反対と、政治家が全員反対するのは当然としても、国民有権者が未だに反対することが私には不思議に思えてならない。
 
 そもそも選挙が誰のためにあるのか、言うまでもなく選挙は政治家や一部の特権階級のために行なうのではなく、主権者の国民に代って代表を選ぶために行なうものだ、ということがほとんどの国民は認識していない。
 考えれば分かることだが、事ここに至っても投票率が一向に上がらないのは、投票に値する有能な政治家がいないからではないのか。それに反して、銃殺の標的になるような政治家が毎回当選して悪政を続けているからではないのか。リンカーンの「投票用紙は弾丸よりも強し」の至言通りの投票が行なわれていないからこそ銃殺されたり、未遂事件が起こるのではないのか。
 有能な政治家が落とされるから否認票に反対という政治家を有能と思うのは有権者の自由だが、有能な政治家なら法に触れても赦すとなると話は別である。
 
 今の日本の政界には政治屋はいても政治家はいない。良識の府といわれた参議院は今は有象無象の溜まり場であり、衆参二院制を廃して一院制にという声も頷ける。
 
 コロナ禍がかくも長引いた原因も含めて総括して、今後の一助にと奮闘しているが 生きものの政治が相手だけに手強い。
 そんな次第で、一定のペースを保って長年にわたり出版をつづけている兄に大いなる敬意と畏怖の念を抱いている。
 兄夫妻には労わり合いと健康で楽しい日々を過ごされるよう心から祈っています。冗文を最後まで有り難う。    京 洛北岩倉   辰   
 
 * 堂々の見識と、大方共鳴してやまない。堅実に健康でありますように。
 
 〇 秦先生  ご報告ありがとうございます。
 人生は巻き込み、巻き込まれですよ。
 私のとりとめのない話で先生を巻き込んできたように、私の人生はとうの昔に先生に巻き込まれてしまっているので、それで全うするのみです。
 下記、先生からいただいた内容は 鷲津さんとは情報共有しております。
 とても簡単なことですので、 私が作業すれば、すぐ終わります。
 が、先生のお身体をさらにお疲れさせるのは、本意ではございませんので、まずは落ち着いてからにしましょう。私が行くとテンション高めてしまうので、お疲れ増進必至ですから!
「旧機」は先生仕様によくカスタマイズされていたので、新しい機器をその仕様になじませていくだけです。
 あまり、早計に「廃物」扱いせずに、気楽にやっていきましょう。 櫻
 
 〇 今日は予報どおりの暑さ、午後からはTシャツに着替えました。
 湖の本お送りいただきありがとうございます。前回お礼が遅くなったので早めにお伝えしなくてはと思いながら、この時間になりました。
お身体の調子はいかがでしょうか。
 この頃は暦どおりの季節感もなくなりました。花も実もどんどん早くつくようで追いつきません。
 体内時計も混乱気味? どうぞくれぐれもお大事になさってください。
ありがとうございました。   下関  碧
 
 〇 湖の本頂きました。ありがとうございます。
 秦様の精力的なご執筆に感歎しています。
162号が3月。2か月も経たずしてのご出版。封を開けるのももどかしい思いで、読ませていただきました。
 初めの「或る往生傳」に引きずり込まれて。
 息がつけない気持がして、メールをしています。
 また、時をおかずしてたくさんの読者に,送本なさいました お二人のご苦労をねぎらいたいと存じます。本当にいつもありがとうございます。まずは感謝のメールです。
 充分お疲れを癒してくださいますように。  練馬区   晴美  妻の親友
 
 * 半田 さま   ケア・マネージを頼もうと思いましたが、私の現状では頼まれてくれそうにないと分かりました。
 ただただ寝入りに寝入って、疲れを躱しています二人ともに。呵々。笑い事では無いのですが。
 ウンベルト・エーコという人の、ギチギチに中身の濃く詰まった大長編、映画にも成った『薔薇の名前』を、律儀に一字一行ずつ読み進んで、三分の二過ぎました。弱い視力をさらに痛めています、愚かしく。歳久しく繰り返し読んできた源氏物語だと 文庫本の十行もただ読むだけで 情趣にみたされた感銘が得られますが。
 家内は 難しそうな西洋史を読んでいます。 
 玄関に、幕末の岸連山描く 墨の、『遠望富士』の大横軸を架けてみました。先日までは、久保飛呂志が昭和初めの、堂々と游ぐ一尾の『鯉』大横軸を眺めていました。 気持が小さく竦んでいじけませんようにと。 
 ◎ 「やそしちよ」と 神も仏も呼びなさる 生返事して拗ねていますよ 
 歯なく はかなく     秦生
 
 〇 お元気で と願いつつ。
 ホームページが更新されていました。これで時空を遡って遊べます。
 良かったですね。
 秦さんは何て幸せな方なのでしょう。  
「湖の本163」をありがとうございます。
『或る往生傅』は創作者人生の結語の一つであると共に、読者への楽しい近況報告としてありがたかったで。『趙岐』のつづきと響き合いながら楽しめました。
 幸田露伴の「幻談」「連環記」のような 随筆? 小説? 不分明な妙なる語りをお待ちしております。
 弱みを見せながらも弱音を吐かない秦さんの 更なるご健康を信じます。
 
「湖の本163」の「往時渺茫」は令和四年(2022)十月一日で起こされていましたが、中の表記は全部2023年になっていて時空を超えた不思議を味わえました。
   秦恒平様           武蔵野の  野路
 ◎ 篤く感謝し 露伴の『幻談』にお触れのこと さすがぁと。有難く そして恐れ入ります   秦生
 
 * 疲れを払いのけることは出来ないが、寝入ることは出来る。目が覚めて、また生きて行く、そのほかは考えない。
 
 
 
 
 
 
 
 
* 
 
 
 
 
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月十五日 月
    起床7:30 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 55.1 kg    朝起き即記録 
       
◎ 日本唱歌詩 名品抄  14    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 夏は來ぬ     佐佐木 信綱     明治29・5
    一  うの花のにほふ垣根に、時鳥(ほととぎす)
          早もきなきて、忍音(しのびね)もらす 夏は來ぬ。
 
    二  さみだれのそそぐ山田に、早乙女(さをとめ)が
          裳裾ぬらして、玉苗うふる 夏は來ぬ
 
    三  橘のかをるのきばの 窓近く
        蛍とびかひ、おこたり諫むる 夏は來ぬ
 
    四 楝(あうち)ちる川べの宿の門近く
        水鶏(くゐな)聲して、夕月すずしき 夏は來ぬ
 
    五 さつきやみ、蛍とびかひ、水鶏(くゐな)なき、
        卯の花さきて、早苗うへわたす 夏は來ぬ。  
 
     * なにのいやみなく全詩を読んで「夏は來ぬ」の気の弾みを満喫させる。希     有の唱歌詩。この季節感、たしかに身にも心にも覚えがある。
 
 * 實に十二時間を超えて寝続けた。よくよくの疲労だったのだろう。
 
 〇 秦さんへ  メール 5月5日?10日の分をもう読ませて頂き ほんとうにありがたく うれしいです
 日本唱歌  旅 泊  大和田建樹  聴きました パソコンがすぐ歌ってくれました うれしく有難いです
 * 「新機」君  馴染むには かなり お時間がかゝると思いますが うらやましいです 「ひらがな打ち」も近々できそうかと。
 奥様の ご経過本当に何よりです
 今日は続きを書いて…と思っていましたところ 午前中に『湖.(うみ)の本 163 或る往生傳 掌説・拾遺』が到着、戴きました いつもいつも本当に有難く 厚く御礼申し上げます
  「ある往生傳」 道明律師 武時夫妻 妙丸 何遍も読ませていただきます
 どのお経よりも スッキリしております
 視力 かなり霞んできておりますが 気をつけております
 コロナは実質 まだまだだと思います 警戒を解除せず気をつけます
 秦さん くれぐれもお大切にされてください
 私も 頑張ります     勝田  chiba e-old
 
 * こういうお便りを 何より嬉しく頂戴している。 「湖の本 163」届いていると確認。幾つかお便りが戴けるだろう。
 
 〇 秦先生
  Cc;柳様   鷲津です
3つのことを実現できると,先生の作業環境は良くなると思います.
 
(1) 画面が明るい点
こちらは「輝度」を下げると見やすくなります.
パソコン本体の問題ではなく,モニターの設定の問題です.
添付のマニュアルの7ページ,「コントロールボタン」を
押しながら設定していきます.
丸1で電源を入れたあと(多分これは既に入ってる),
丸2でオンスクリーンディスプレイの設定画面(8ページ)を出し,
丸4,5のボタンで「Picture」「Brightness」の設定を選びます.
選ぶボタンは丸2の「OK」です.
Brightness が輝度なので,これを下げると,見やすくなります.
 
(2) カナ入力
カナ入力については,
https://www.fmworld.net/cs/azbyclub/qanavi/jsp/qacontents.jsp?PID=7110-9315
 
このページの「操作手順」に従って,Windows10 の操作手順に従って
カナ入力にします.
「スタート」ボタン→「ATOK」→「ATOKツール」、または「ATOK 20xxツール」の
順にクリック
「プロパティ(環境設定)」をクリック
「入力・変換」タブをクリック
「設定項目」欄にある「基本」をクリック
「入力」欄にある「カナ入力」をクリック
「OK」ボタンをクリック
 
ただ,これだとログインするときのパスワード ****** を入力できませんので,
これを消してしまいましょう.
 
(3) パソコンの起動時に、パスワードの入力を省略する
https://www.fmworld.net/cs/azbyclub/qanavi/jsp/qacontents.jsp?PID=0410-8766
 
パスワードを省略したいユーザーアカウントでサインイン ***** でサインイン.
「スタート」ボタン→「設定」の順にクリック
「アカウント」をクリック
「サインインオプション」をクリック
「MicrosoftアカウントにWindows Helloサインインを要求する」のスイッチが
「オン」になっている場合は、クリックして「オフ」に切り替え
(オフになってると思いますが,念のため)
 
「スタート」ボタンの右にある検索欄をクリック
入力欄に netplwiz と入力
「最も一致する検索結果」にある、人のアイコンが表示されている「netplwiz」
をクリック
パスワードの入力を省略したいユーザー ***** をクリック
「ユーザーがこのコンピューターを使うには、ユーザー名とパスワードの入力が
必要」をクリックし、チェックを外します。
 
最期の(3)は難しいかもです.
 
でも,お急ぎにならずに,
柳さんに来ていただくのが早いかなと思います.
 
宜しくお願い申し上げます.
 
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秦先生,
 
お世話になっております,鷲津です.
 
先日は結構なものをお送りいただきまして
大変恐縮です.新しい環境でも先生が創作を
続けられるようにならなければ意味がないと
思っておりますが,あまりお疲れになられても
いけないのではとも思います.
 
来週,柳さんに作業していただいて,
まだ難しければ,今月末に小職が参ります.
 
ちょっと長丁場になりますが,すみませんが,
宜しくお願いいたします.   鷲津
 
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 * ちょっと私の手に負いかねる。よほど「機械環境」とはかけ離れた「心と神経」とで、わたしは暮らしているか。
 ま、じりじりと地を這うように「必要なあれこれ」をかきあつめながら、試み、心見て前へのめって出るしか無いらしい。鷲津君、柳君を煩わして、もう何日が経っているか。それでも、まだ私にはとても「新機」は使えない。せめて「舊機」の日録だけでも「新機」に正確に移動して、そして書き継ぎたいのだが。痒いところへは東工大出の秀才たちの手も、届いてくれない。いやいや私の判りが悪い。まだ「新機」はいわゆる「役」には立っていない。
 
 
 
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月十四日 日
    起床6:55 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 55.4 kg    朝起き即記録 
       
◎ 日本唱歌詩 名品抄  13    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 港     旗野十一郎(たりひこ)   明治29・5
    一  空も港も夜(よ)ははれて、
       月に数ます船のかげ。
          端艇(はしけ)のかよひなぎやかに、
          よせくる波も黄金(こがね)なり。
     * 詩句も曲もさっぱりして、港の景色が目に浮かぶ。二番には詩人の「我」     が出て混雑している。「詩」境の一貫は難しいのだ。
 * 十分寝たと想うのに、充血したように目が痛み、元気が無い。幸い一段落しているのだから、機械に貼り付いているより熟睡すればいいのだ、が、休めないひとなのだ、わたしは。疲れは何枚何重にも積んでしまう。下手なのだ生き方が。
 
* 
 
                
 
◎ 令和五年(二○二三)五月十三日 土
    起床6:55 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 55.4 kg    朝起き即記録 
       
◎ 日本唱歌詩 名品抄  12    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 勇敢なる水兵   佐佐木 信綱   明治28・2
    一 煙も見えず 雲もなく
      風も起らず 浪立たず
      鏡の如き 黄海は
      曇りそめたり 時の間に
    
   * 数えてほしい。この短い詩に、「カ行音」が如何に多く含まれるか、それがこ   の詩を「うた」に替えて清明簡潔なのである。「カ行音」の遣い勝手はなかなかに  至妙、美事に成功したり堅苦しく失敗もする。すぐれた和歌は「カ行音」を巧みに配  している例が多い。
  「詩・うた」してのみ、わたしは少年來此の「一番だけ」を愛唱した。二番以下に後  続する「勇敢なる水兵」の情景は唯無残としか想わなかった。
 ○ 婦人従軍歌   加藤 義C   明治27・10
    一  火筒(ほづつ)の響き遠ざかる  跡には虫も聲たてず
       吹きたつ風はなまぐさく  くれなゐ染めし草の色 
  * これはもう「うた・詩」以上に「曲」の深沈に惹かれてよく口ずさんだ、が、二  番以下の戦地の惨状を唄う気には、とても、ならなかった。
 
 * 夜中、手洗いに起とうとして烈しく転倒、疊一枚ほどのパネルヒーターに片身から烈しく衝突。バネルに突起なく出血等の怪我は無く済んだが、肩や背や腰に一味が残った。この前に、用あって倚子に起ち大きく傾いて転落した。アレは危なかったが、今回は痛みが来た。やれやれ。封筒入りの「湖の本」を75冊詰めたダンバール箱を二日にわたり何度も何度も持ち運びできる腕力のあるのも我ながら不思議だが、痛くはあるが脚腰が未だ効いているということか。
 気がかりは、視力。テレビにでる文字の殆どが能く読めない。一歩一歩一歩と「往生」の路を辿っているのだ。
 
 〇 鴉に  パネル一枚ほどの大きなヒーターに激突とは! 軽い痛みで終わって欲しいですが、現在は如何ですか?痛みますか?
 本を入れたダンボール箱を運ぶのは重すぎます。段ボールを玄関に置いて本75冊を順
次持って行って箱詰めはできませんか?些か差し出がましいけれど・・。
 昨日メールを送った時、まだHPが復活したと確認していませんでした。迂闊な事です。気づいて漸くHPを久々に読みましたが、何だか不思議な感じがします。もう一度ゆっくり読み直します。
 今、長いメールが書けません。改めて書きます。
 くれぐれもくれぐれもお身体大事に。  尾張の鳶
 
 * ちゃんと「返事」を書いて送った気なのに、それが無い。見つからない。機械の操作もあやふやに麻呂を歩むことに成ってきたか。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月十二日 金
    起床7:25 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 56.05 kg    朝起き即記録 
       
◎ 日本唱歌詩 名品抄  11    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 一月一日   千家 尊福   明治26?・8
    年の初めの 例(ためし)とて
    終なき世の めでたさを、
    松竹たてて、門(かど)ごとに
    祝ふ今日こそ 楽しけれ。
   * 文字通り この通り 幼少 少年 お正月を歓呼していた。容易にお年玉の出   る家でなかったけれど、三箇日の白味噌お雑煮、四日は焼き餅のすまし雑煮、七日   は七草の雑煮、十五日は小豆雑煮。門松も立ち。鏡餅も飾られ、そして祇園さん(八  坂神社)への真夜中の初詣でなど、なにもかも私は嬉しいのだった。心機一転の宜し  さを全身に漲らせていた。
 
 〇 秦様  昔の学生様に感謝。拍手。私語の刻 読ませていただくことができました。ありがとうございます。
 あどけない朝日子さんのお父様を見上げている写真から 始まり、開くことができました。何か 世界に繋がった気がしています。時々の世間への思いなど、が聞けます。考えさせていただくことができます。感謝です。
 私は最近は、スマホを自分の独りよがりで興味のあるものだけ開く程度で、パソコンも、あまり開くことがなくなっていますので、私のPCと付き合いが、調子が悪いせいだと存じますが、私語の刻も4月12日以前は3月18日。と途切れます。途切れることが多かったり、読み返すことができなかったりしますが、随分以前に戻り、令和3年3月31日まで読むことができます。
 報告までです。私のPCのご機嫌がわるいせいかもしれません。
 最終は東工大での「秦教授」のお写真です。
 最近の天候不順にはご最深のご留意をくださいますように。
 お身体お大切にお大切にを一番で、お二人共々お過ごしください。  晴美 妻の学友
 
 〇 秦恒平 さま  「新機」パソコンとの格闘、なかなか大変そうですね。拝読しながら「私もそんなこと よくある、ある」と思わずニヤリとしていまいました。
 懐かしい歌唱、私もつい小声で口ずさんでいます。私が子どもの頃は、川田正子とか安田祥子姉妹などが人気でした。また、ラジオで「歌のおばさん」をよく聞いていました。 大学生の頃になると、早朝のラジオでロシア語講座を受講したものです。ドストエフスキーを原文で読みたかったのですが、途中で挫折してしまいました。
 秦さまの「近況」を読み進めるうちに、次々に60年〜70年も昔の事どもが蘇ってきます。ちょうど72、73年昔 私は疎開で陸前高田の気仙町に住んでいました。
 目の前には巨大な楠があり、山鳩の巣には綺麗な青く小さい卵が5,6コありました。その裏山には、春になると見事なカタクリの花の群落が広がっていました。
 あの東日本大震災・大海嘯で集落は壊滅しましたが、山々は何とか無事だったことと思っています。
 今日も仙台は雲一つない晴天です。定禅寺通りや青葉通りの欅の若葉が眩しい季節、仙台が最も美しい季節です。
 この季節にG7科学技術相会議が仙台の温泉地・秋保で開催されます。秋保方面は警備が厳しいようなので、その方面には行かないようにしています。
 秦さま、相変わらず血圧が高いですね。降圧剤はお使いにならないのでしょうか?
 どうぞお大切にお過ごしください。   惠
 〇 10日余り鴉の様子わからず、お元気かと案じていました。
 新機で平仮名打ちができないと嘆かれて。 早く解決するといいですね。何気ないことが心理的に大きな影響を与えます。わたしは機械ではローマ字打ち、携帯では平仮名打ちですが、あまり戸惑いもなく使っています。
 機械の平仮名打ちの問題は、簡単に解決できると思います。
 連休も何事ない日常のまま終わりました。京都の、あまりの人出など報じられていましたが、今は少し落ちついたでしょうか。
 明るい晩春の日々、くれぐれもお大事に、新機に向かい旺盛にお仕事が進みますように。
                     尾張の鳶
* 歯医者へ二人で。済んで、車で、生け風呂のメトロポリタン・ホテル 二階和食の店で。イタリアの好い赤ワインを一本美味くのみながら。珍しい、というよりも、いささかヤヤッコシイ和食で、「湖の本 163」発送了を自祝、乾杯してきた。
 
幸いというべきか、「湖の本 164」の初校出までに間があり「165」入稿もこれからの用意。差し迫って厳しく追い掛けられる作業はなく、「読み・書き・読書」以上に「創作」に打ち込める。仕掛かりの長編などをシッカリ追い掛けたい。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月十一日 木
    起床7:25 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 56.05 kg    朝起き即記録 
       
◎ 日本唱歌詩 名品抄  10   (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ う さ ぎ       明治25・6
  うさぎ うさぎ
      なにを見てはねる
   十五夜 お月さま
        見てはねる   
   * 独りでいるとき、声を洩らすように そっと唄っていた。「埴生の宿」などこ   とに一番の曲はかったが、詩は、仰々しかった。『うさぎ』には胸の深くに懐かし   夢がのこっていた。
 * 発送 二日目に・今度の郵封のセイか、荷がいつもより、是までより重い。ダンボール箱に55冊平均で運んだのが70冊に。強烈に重い。我ながら惘れる腕力を駆使しての作業。今朝は首も肩も痛んでいる。それでもまだ今日明日の作業、続ける。
 
 * 妻の協力で「湖の本 163」各位への全発送を終えた。「164」入稿は昨日に確認されている。暫くは「読み・書き・読書と創作」へシカと振り向ける。発送は大変な力仕事で、ダンボールに郵封された75冊分を持ち上げられる87歳はめったにいまい。方も首も痛むけれど。こんな作業を「創刊」いらい37年も倦まず続けてきた。
 
 * さて、「新機」から発信を切望している「ホームページ」だが。未だに、有効な設定に到らず、画面は開くけれど、私流に「書字(ひらかな打ち)」が効かず、大画面はぎらぎらと真っ白で眼を痛め、立ち往生している。もう一息か二息か。はやく、有効に働いて欲しいが。やれやれ。
 
 〇 やそしち兄上様
 人々の交流が再開され、 新しいパソコン設定中のご様子、おめでとうございます!いい学生さんたちに恵まれて 本当に良かったですね。人生の出会いは 本当に不思議なものだと思います。
それにしても、小学1年生から古事記を読まれ、唱歌にも 日本語の美に魅せられていた「頭脳」と「こころ」に驚いています。
 ローマ字変換など もってのほか!ですよね。
 迪っちゃんの心臓の方も 今は大丈夫だそうで ほっとしています。
 猫ちゃんたちの 隙あらば… の様子にほのぼのしています。2匹でいつも行動しているらしいところも…。
 どうかくれぐれもお体を大切になさって お二人で長生きして下さいね!
                              いもうとより
 * ありがとう。琉っちゃんもお幸せに。 恒
 
 * 昨日今日の「発送」に。超級の重荷を散々持ちあげたのが、てきめんに腰へ来ている。明日はまた歯医者通い、それが済めば、落ち着いて創作へ姿勢を定めねば。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月十日 水
    起床7:10 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 56.6 kg    朝起き即記録 
       
◎ 日本唱歌詩 名品抄  9   (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 旅 泊    大和田建樹    明治 22 6
    磯の火ほそりて 更くる夜半(よは)に
     岩うつ波音 ひとりたかし
    かかれる友舟 ひとは寝たり
     たれにか かたらん 旅の心
 
    月影かくれて からす啼きぬ
      年なす長夜(ながよ)も あけにちかし
    おきよや舟人(ふなびと) おち(遠)の山に
      横雲なびきて 今日も のどか
 
 * 明治の「文語」唱歌で、詩も曲も、幼少の私は、最も是の『旅泊』を、ことに一番   を愛した。 私の抱いていた内深い寂しみに、妙な物言いをすれば「正確にせまっ   てくる」美しい言 葉、美しい歌声であった。
 
* 夜前は疲れ切り早くに床に就いた。三度ほどは手洗いに起ったが、いやな夢も見ず、ほぼ快適に寝て起きた。今朝には「湖の本 163」ができて届く筈。問題は入稿郵送した『湖の本 164』がまだ印刷所で確認できてないと謂うこと。念のため新たに追送の用意はしてあるが。
 
 * 『湖の本 164』納品され、即、発送作業に入る。
 
 * 終日、ふたりして発送作業、全三分の一を送り出した。明日に続く。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月九日 火
    起床7:30 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 56.6 kg    朝起き即記録 
       
◎ 日本唱歌詩 名品抄  8   (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 故郷の空   大和田建樹      明治 21 5
    夕空はれて あきかぜふき
       つきかげ落ちて 鈴虫なく
    おもへば遠し 故郷のそら
      ああ わが父母 いかにおはす
 
    すみゆく水に 秋萩たれ
      玉なす露は すすきにみつ
    
    おもへば似たり 故郷の野辺
      ああ わが兄弟(はらから) たれと遊ぶ
 
  * 実感を催すことに於いて、もはや少年が青年期をすら越えての望郷歌として   つい唇をもれて出たのを想い出す。
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月八日 月
    起床7:30 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 56.6 kg    朝起き即記録 
       
◎ 日本唱歌詩 名品抄  7   (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 紀元節   高崎正風      明治 21 2
  一 雲に聳ゆる高千穂の、高嶺おろしに、草も木も、
     なびきふしけん大御世を、あふぐ(仰ぐ)けふ(今日)こそ、たのしけれ。
 
   二 海原(うなばら)なせる埴安(はにやす)の、池のおもより猶(なほ)ひろき、
     めぐみの波に浴(あ)みし世を、あふぐけふこそ、たのしけれ。
 
   * 四番まであるが、例の君皇尊崇が過ぎて、臭い。しかし、私は幼時この歌をほぼ   溺愛し、好んで「文語・仮名遣い」の魅力や「和漢の語彙」の多彩を幼稚園頃から   身に承けてきた。まして国民学校一年生の末に口語訳『古事記』を担任の女先生に   戴いて以降、天孫降臨などの日本神話に心酔・暗記暗誦して、『百人一首一夕話』   とならび、国民学校二、三年生当時、最高最良の愛読書になっていた。此の唱歌「紀   元節」など、なんて美しい日本語だろうと感嘆し続けていた。「神話」じたいは民   族の「遙かな想い出」と心嬉しく親愛してきた。
 
 * 例に無く長時間、途切れずに睡れて。目覚めるとはや六時半、そとは明るく。「ま・あ」すに朝の削り鰹をあげました。まさしき五月雨、すこし両腕が冷えている。
 
 * 妻が予約の病院受診、幸いに異常と謂う程の何も無く済んだのが有難し。
 
 * 「〇」はほぼ中途断念「立ち枯れ」の体。「舊」機にらくに書ける文章が、せめてそのまま正確に「新」機に貼り付けられると好いが、それも出来ない。文章が乱れてしまう。やれやれ。すべく、出来てないことが、いっぱい。
 
 * 十日、明後日には「新刊の湖の本 163」が出来てくる。発想の準備はまだ万全で無い。妻は午の前に厚生病院循環の受信。わたしは「湖の本 164」入稿などで郵便局へ。雨が止んでいるといいが。
 
 〇 秦先生   体調いかがでしょうか。久しぶりの来客を3日連続でしたので お疲れになったのではないでしょうか。ご無理なされぬようお願いします。
 さて ホームページの更新いかがでしょうか。
 5/6の記載が増えていますので 方法はなんとか分かっていただいたのではないか、と思っていますが、何かあれば連絡ください。  柳
 
 * 新機械でのホームページ展開は、出来ていません。今。感じていること。
 @ 大画面がピカピカの真っ白で、眩しさに疲労し「失明」にちかく字が読みにくく。
 A 四半世紀も「ひらかな」打ちで創作し、作文してきましたが、今度の機械は「ローマ字」打ち。これは、ひらかな漢字で日本語・日本文を発想・着想・推敲している者には致命的で、とても日本語日本文での小説家、随想家がつとまりません、英字を拾っているうちに日本語で日本文を創意発想表現しているのが、アタマの内から散乱してしまいます。「櫻小次郎」 と「書く」のに、「sakura kojirou』と書いて変換を要していては、創作の気味はあたまから失せます。「ひらかな打ち」に移転・変更したいが 出来ないのです。 で、相変わらず「舊機」しか使えていません。
「新機」に電源が通って画面が出るのに、永く懸かるのに愕いています。「舊機」だと素早く画面が出ますのに。
と、とても「新機械」ではホームページまで距離が遠く、もっぱら妻が気ままにひねくり回して新機械をいろいろに探索していますが、私は、ほぼ断念しています。
 現状 そんなところで、結局は機械清明を案じながらも「舊機」にしがみついている有様です。  柳君と 歓談できたのが 何より嬉しい収穫でした。
 舊機、ひらかな打ちで、以上「この程度の量を書く」のは造作も無い。
 ところが同文同量を『新機』ローマ字打ちでなら、たいへんな長時間を要します。しかも日本文で書いて行きながらの創意と想像力の参加や駆使が全然効かない。文章での創作家として半分死んでしまう。 「安定したひらかな打ち」への設定変更が可能なら、つよくつよく望まれます。 上、報告と愚痴です、許して下さい。   お元気で。怪我無くお過ごしあれ。  秦恒平
〇 秦先生  「ひらがな打ち」にするのは簡単ですので、また週末にうかがいます。
 背景色も変え、画面輝度も下げるようにしましょう。
 取り急ぎ。
 今日は、群馬県の温泉で有名な磯部にて「仕事」です。 小次
 
 * 身辺雑然、仕事を見失っては困る。いっとう困るのは機械の中の書き物の行方不明。で、90度角に舊・新の二機を配し、さらに45度位置に、早くに買い置きで遣ってもいた小さな機械を廃して、其処へ「舊機に全保存内容」をコピー移転した。消失しては取り返しつかず、「新機」がまだ稼働していない今、此の「小機」への全容保管はともあれ用心良く安心できると。
 
 〇 ホームページ そうですね。やはり、五月四日までで途絶えています。作業の手順も書いてもらっているという事でしたら、落ち着いてもう一度だけ試してみては。それでもダメなようでしたら、色々して下さった元教え子さんに電話で教えてもらいながら操作してみるというのはいかがでしょうか。(私も以前、遠隔操作サービスというのを業者にしてもらって助かりました。)
 元教え子さんの方でも、更新されないので、心配しているのではと思います。
 今日は、熱海も一日雨に煙っていました。
 コロナは五類になりますが、どうぞお気を付けて。明日からまた、  市川
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月七日 日
    起床7:30 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 56.6 kg    朝起き即記録 
 
◎ 日本唱歌詩 名品抄  6   (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 数へ歌   里見 義      明治 20 12
  一  一つとや、人々一日(ひとひ)も、忘るなよ、忘るなよ。
     はぐくみ そだてし、
     おやのおん、おやのおん。
 
  三 三つとや、みどりは一つの、幼稚園、幼稚園。
    ちぐさに はなさけ、
    あきの野辺、秋の野辺。
 
* 幼稚園唱歌としての「数へうた」で、十番まで、だが当然のように「くに」「き    み」へ最敬礼の教訓目的が濃い。
 
 * 「マア」ズは仕事部屋へドアあけ襖あけ自在に侵入できる。吐いてての徘徊と探索は気まま、思いも掛けぬモノが階下へ運ばれていたり。今朝はウカと藏い忘れた「鰹」袋ヲカラにし、階下廊下に吐瀉のアト有り。
 出るときは、ドアを重いモノで妨碍するのだが、忘れることがあると、すかさず「お二人」に入られ、徘徊される。多大の被害はなくても、失せ物が出ると迷惑する。
 可愛い「子」たちのこと。怒鳴ってやる程度で、体罰は加えない。ドアの閉め忘れは私の責任。
 
 * 「新機」君を、幸いに開いたが「ひらかな(漢字変換)での入力」が出来ない。入力方法の変更希望が届かないのが、第一歩での障害、立ち往生。
 昨今の「事務」世間での「用務」でなく、創意と発想とを伴う「創作文章」こそ私には必要なので、ローマ字で文章を書くなど「論外」のこと。「ひらかな」でかきながら即座のから「漢字変換」可能は必須の要件。
 そのできないでいる「新機」では片言なみの文は書けても、即座の想像やひらめきを要する「小説・エッセイ、論攷」等は、ローマ字を手探りしながらは書いて行けない、私には。所詮はまだ当分はこの「舊機」君に依頼し続けるほか無い。やれやれ。
 
 * やはり当面少なくも、此の「舊機(今後 ▼ と表記)」で書いた文章が、正確に困難無く「新機(今後 〇 と表記)」へ「移転複写」出来ればありがたい、が、いまはまだ文的に脱落したり、不能だったり、少なくも表現内容が成句にいっちして転送は出来ない。と、「〇」は、まだ信頼しては使えない。
 
 * 元東京大学綜合図書館司書をひさしくつとめられた浦また野都志子さん、連綿と研究を続けてこられた『黒河春村傳』の、古典研究会編誌「汲古」所載、「再考 その典拠資料」また同じく「『歴代残闕日記』について」さらには「書状研究会」機関誌所載の『伴信友宛黒河春村書状について』の精緻な論攷を頂戴した。さらにそれに副えて浦野さん、なんと九種の諸国名産のお菓子を多彩に頂戴した。東京三原堂の「最中」と「チョコレート」 北海道の「黒糖・くるみ・きな粉」 長野県の「市田柿・みすず氷飴」 富山県の「干菓子 薄氷」 京都の「丹波のそば」 島根県の「金ごまいわし」 静岡県の「釜揚しらす 御茶」 大阪の「にしん昆布」 と、もじどおり目を丸くして感謝、感謝。
 コワイほどな硬球と、柔らかなゴムまりとを投げて戴いた感じ。
 
ドアの閉め忘れは私の責任。
 
 * 「新機」君を、幸いに開いたが「ひらかな(漢字変換)での入力」が出来ない。入力方法の変更希望が届かないのが、第一歩での障害、立ち往生。
 昨今の「事務」世間での「用務」でなく、創意と発想とを伴う「創作文章」こそ私には必要なので、ローマ字で文章を書くなど「論外」のこと。「ひらかな」でかきながら即座のから「漢字変換」可能は必須の要件。
 そのできないでいる「新機」では片言なみの文は書けても、即座の想像やひらめきを要する「小説・エッセイ、論攷」等は、ローマ字を手探りしながらは書いて行けない、私には。所詮はまだ当分はこの「舊機」君に依頼し続けるほか無い。やれやれ。
 
 * やはり当面少なくも、此の「舊機(今後 ▼ と表記)」で書いた文章が、正確に困難無く「新機(今後 〇 と表記)」へ「移転複写」出来ればありがたい、が、いまはまだ文的に脱落したり、不能だったり、少なくも表現内容が成句にいっちして転送は出来ない。と、「〇」はまだ信頼しては使えない。
 
 * 新旧二機とのお付き合い混乱で、寒盡の本来仕事が停頓、こまる。埋めん「〇」きのことは忘れているしか無いか。
 
 〇 雨にアジサイのつぼみがふくらんできました。季節の移ろいが年ごとに早くなるようですが、先生も奥様も、お変わりなくお過ごしでいらっしゃいますか?
「湖の本」162、嬉しく拝受いたしました。ありがとうございました。
  18頁の附記   ああ、ほんとうに、秦先生はすでにこのときから秦先生だったの
ですね。 
 東工大余話   大変面白く拝読しました。わけても、前半の設問への回答には興
味深いものがありました。
 124頁から126頁にかけて。153頁から154頁にかけて。 最も印象深く拝
読いたしました。
 コロナへの対応が明日から変わるそうですが、変わらず用心に越したことはないので
しょう。どうぞ、おふたりお体ご自愛くださいまして、佳い日々をお過ごしくださいますよう。 岐阜  都
 
 
 
 
   
◎ 令和五年(二○二三)五月六日 土
    起床6:00 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 55.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 日本唱歌詩 名品抄  4  (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 庭の千草   里見 義   明治 17 3
   一 庭の千草も、むしのねも、
    かれて さびしく、なりにけり。
    ああ しらぎく、嗚呼 白菊
    ひとり おくれて さきにけり。
 
    * 一番は 峨々廣大の国土でない我が国のいとも親身に心親しい「我が家の庭」      で、心親しい。しみじみと、こういう「にっぽん 日本」が、日本人の胸に      染み入っていた。たいせつにしたい。 歌詞のの二番には「明治」の臭みの      教訓調が露わで、好んでこなかった。節は、アイルランド民謡と聞いたが、      私は、日本語のすぐれた「詩」として愛してきた。
 
  〇 ホームページ復旧なさったのですね。おめでとうございます! 嬉しいです。
「疲労困憊」とはうかがっていましたが、それでも尚 お仕事に励まれているご様子  などうかがえて、少し安心いたしました。
  昨日は、父八九歳の誕生日。父も母も、大きな病気もなく、好きなこともモノもあり、元気でいてくれるのは、娘として何よりの幸せです。七月ころには帰省もできればと思っています。
 昨日今日と初夏のような陽気で、海に入って遊んでいる人さえいましたが、来週は三月並みの寒さに戻るとか。お体くれぐれもお大切になさってください。 市川
 
  * さて、いまだ立ち往生、と謂うより私の「会得不全」ですんなり活躍して貰えない「新設定パソコン」に慣れ馴染み、世界・世間へ私の自力/自前で「私語の刻」が送り出せるようにならねば。
 出来るかなあ。やってみる、遣りづける。それです。
 
 * まだまだ、新機械への「移行には難問題」有り。舊機械でならすらら書ける文章が新機械では馴染まない。慣れないと謂うことだろうが、この舊機械は まだまだとても手離せない。それが分かった。
 独りでは新機械をワンコース遂げることがなかなか出来なくて、妻にそばで支援/助言されながら、九時半、へとへと。もう階下へ「脱落」する。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月五日 金  端午の節句
    起床7:30 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 55.6 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 日本唱歌詩 名品抄  3  (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
 ○ 四季の月   明治 17 5
   一 さきにほふ、やまのさくらの、花のうへに、霞みていでし、はるのよの月
 
  二 雨すぎし、庭の草葉の、つゆのうへに、しばしは やどる、夏の夜の月
 
  三 みるひとの、こころごころに、まかせおきて、高嶺にすめる、あきのよの月
 
  四 水鳥の、聲も身にしむ、いけの面(おも)に、さながら こほる、冬のよの月
 
  * 誰の詠作と知れないのが惜しい。四首とも瑕瑾もない秀逸。ことに短歌としての  「字余り」効果を優秀に遂げていて、感嘆。
 
 * さて新設定された大きな新しいコンピュータとの、佳い馴染みを、わたくしの衰えた頭脳と認知力とでどう、得られて行くのか。心配。
 
 ○ 鴉は いかがお過ごしでしょうか。
 庭の薔薇が見事に咲いています。
 連休後半の混雑も関係なく過ごしています。静かに、と書きたいところですが、三歳児(=孫ちゃん)相手ではそうもいきません。
 さまざまなものを読み直しています。
 お元気でありますよう、繰り返し繰り返し願っています。  尾張の鳶
 
 ○ 鷲津です.  昨日は,無事お帰りになられたと柳さんから聞きまして 安心いたしました.お寿司ありがとうございます.遠慮なく頂戴してしまいましたが,大変失礼いたしました.
 奥様も,二日連続で伺ったため,お疲れになられたのではないかと拝察いたします.
お大事になさってください.
 また出張の際に伺えますので,お困りの際はお教えください.読者ほか皆々様に新しい「私語の刻」が伝わりますよう,楽しみにしております.  鷲
取り急ぎ,失礼いたします.
 
 * さて昨日2023/05/05 東工大卒の鷲津・柳両君に設定してもらった新しいパソコンが私の手で、順調に作動してくれるか。結果的には私の手に負えないまま神戸へ帰っている鷲津君に報告。その連繋で急遽連休中の東京の柳君が駆けつけてくれ、鷲津君との電話も加わりながら再度設定調整があり、柳君は、最後には作動/作業手順を二枚の紙に簡明に箇条書きして呉れた。それに従い柳君に教わりながら機械的に実習しその通りに機械が働き始めて呉れるのを確認、感謝感激の間々、懐かしい東工大時代など歓談、彼は運転の車で帰っていった。
 
 * さて、一旦休息のアト、箇条書き通りに遣ってみて、扨て、なかなか自在とは往かなかった、立ち止まり立ち往生し、もう今晩はと断念し、疲れも加わっていたので寝入ると決めた。
 さてさて私が「ハタラジオ店」の父を「継いであげられなかった」のは、ドダイ「失格」の私は絵に描いたほどの「機械ばか」と痛感せざるを得ない。
 
 * ところがそこへ、一人の親しい読者友人がメールで、「ホームページが回復していて嬉しい」と。
 エエッと仰天、しかし私が私の新しい機械画面を開いて認知する「能」が無い。遠くの読者が読めたとは、と、妻の機械で実見してもらうと、ナンと『秦恒平の文学と生活』なるホームページ、画面に「改善・復帰」していた、つまりは東工大卒業生生君らは、あッたり前に故障ホームページを回復改善してくれていて、当の使用者ボケた作家の「秦恒平」だけが、理解も技術も確保し得ていないダケだった。
 情けないよ。そしてもう床に就き、五月五日今日只今は「お手上げ」のまま終えるとした。
 此の記事は、「従來の舊機械画面」で在来の日録・私語のままである。  
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月四日 木
    起床6:00 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 55.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 日本唱歌詩 名品抄 2 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」す。)
 ○ あほげば尊し    明治17 3
  一 あほげば 尊とし わが師の恩。
    教えの庭にも、はや いくとせ、
    おもへば いと疾(と)し、このとし月。
    今こそ わかれめ、いざさらば。
  三 朝ゆう なれにし、まなびの窓。
    ほたるのともし火、つむ白雪。
    わするる まぞなき、ゆくとし月。
    今こそ わかれめ いざさらば。
   * 二番途中の「身を立て なをあげ、やよ はげめよ」は、いかにも「明治」の   いと、国民学校のころから、顔をそむけていた。 
 
 * 昨日についで今朝は十時過ぎ我が家へ再来訪、新機械「設置作業」を続けてくれる。午後の速くには、わが櫻小次郎こと東工大院卒建築家の柳君も訪れてくれ、嬉しい心強い時が持てた。感嘆の時がもてると。どうか私の、私たち夫婦に體疲労つのることなく、快い時間が懐かしく楽しめますように願っていた。
 とにもかくにも、二人の元学生君らは、あれから四半世紀に増す社会人、鷲津君は大学教授、小次郎クンは竹中でベテランの大建築設計/施工者。わたしは、やそしち歳もの老作家。「めでたし」と、心より喜んで佳いだろう。
 
* とはいえ、新設機械での私専用ホ−ムページ「開設」「始動」には、相当な長時間がかかり、難しそうで、私には理解浸透とはゆかない。
 ちゃん「仕上がりました」らしい、が「機械バカ」の私自身ではまだ指一本の試働も始動も出来ていないまま、
 夕方になったので、そこで作業は終え、徒歩、三人で寿司の「和かな」まで。だが、私、ただもう疲労困憊と強硬な腰痛、背痛前傾で、杖つきながら前へ仆れかけること甚だしく、柳君の腕に掴まって、辛うじて転倒はせぬまま、「和かな」へ転げ込む。
 歓談、そして酒肴。鷲津君は汽車の時間だろう先に見送り、柳君と二人、更に歓談のあと、タクシーをよんでもらい、帰宅、柳君は自転車で帰っていった、が、無事で有りますようにと、気の利かない祈りを「自転車での帰路」へ祈った。
 
 * で、さて新しい機械クンへの順応は。 先行していた機械と新機械との連携は。
私、分かってない。指一本も付けられないほどの疲労。 明日に、明日以降に希望を持ちたい、この前機と今回設定設置の新機との無事の連繋が、ともあれ当座ゼッタイに必要。わたしに、それが励行、確認可能か。ただただ、なお不安。
 今、十時過ぎ、休む。妻も、我が家には何十年希有の「来客」で体調をつよく崩し、床に就いている。
 
 * じつに「大仕事」だった、「ただ傍観していただけなのに。疲れた。
 
◎ 令和五年(二○二三)五月三日 水 
    起床6:30 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 56.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 日本唱歌詩 名品抄 1 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」す。
 ○ 蛍の光   明治14 11
  一 ほたるのひかり、まどのゆき。     二 とまるもゆくも、かぎりとて、
    書(ふみ)よむつき日、かさねつつ。    すたみにおもふ、ちよろづの、
    いつしか年も、すぎの戸を、        こころのはしを、ひとことに、
    あけてぞ けさは、わかれゆく。      さきくとばかり。うたふなり。
   * 一番の四行の(すぎ)の戸には、(過ぎ 杉)の意が読み取れる。 同様二番   四行の(さきく)には、(幸く 先久)の意を汲みたい。詩は「四番」まであるが、   悪しい。好まない。一、二番は、極めての、秀逸。
   實を吐露すれば、私、唱歌「蛍の光」一、二番は、一番は本人洲苑の述懐、二番は見送る人等の合唱と「新解釈」を敢えてし、私「臨終」の場を透視しているのであります。
 
 * 進上祝意 柳博通君  今日、お誕生日おめでとう。 きみらしく。はんなりと 堅実に。心身の健康を心より願います。 ハタ センセイ
 
 * 今日 午過ぎに 神戸から 鷲津君が下保谷の我が家まで、機械(パソコン)環境を一新・創設すべく来て呉れます。感謝と恐懼にたえず。これにも柳君のはからいなど在ったろうことと、感謝しています。   秦 恒平
 
 * 約束のあったとおり、昼過ぎには、わたしの{東工大教授}時代の卒業生、鷲津仁志君、わざわざに、神戸から、西東京市下保谷の我が家まではるばる訪れ呉れまして、此の、故障がちに危険極まった「機械環境の徹底改善ないし断然新設」を計って、この放埒乱雑の部屋で「作業」して呉れますと。
 感謝に堪えない、息を詰めるほどの感謝と期待とで待望の午後を待つべく、機械席周辺をかつがつ片付けたが、イヤ、すさまじい部屋ではあるよ。
 
 * にしても、今朝の機械作動で、なんと今朝の「私語」、無かったはずが無いのに全部失せて保存できていない。どうもこうもなく、首を傾げ、惘れ愕き歎くのほか無いとは。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月二日 火
    起床6:15 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 56.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
  秦 恒平詩歌編  去来 
 
    花むすび  華燭
 
晴れて華燭のお招ばれに、「一句謹呈」、即ち
「雛の日や」と発したが、あとが無い。やけ
っぱち「われら右大臣左大臣」とやってのけ
た。色佳う桃の盛りの弥生三月、櫻だよりへ
もほど無い時分のおめでただった。陣笠の旗
持ち奴が「右大臣、左大臣」もお笑い草だが
世はおしなべて「中流」自任の時代とて、皆
の衆盛大に喝采はまた一段と、おめでたかっ
た。照れもせず正面切ったあの春のお内裏と
姫君も、もう三人の人の親。頑張ってますか。
 
 * 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)五月一日 月  皐月朔
    起床6:15 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 56.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
  秦 恒平詩歌編  去来 
 
    花むすび  紅梅
 
ちいさな聖像画を懸け、真前に愛らしい燈明
の台を吊した一画を指さして、「紅い隅」とロ
シヤ人の通訳は教えてくれた。あれはモスク
ワの、文豪トルストイの旧居で誰だか子ども
部屋を覗きこんだ時のこと。「紅い──とは
と訊くとロシヤでは昔から「美しい」意味に
使ってきたと。さしずめ神棚か、お仏壇か、
ナルホドと呟いたまま遠い日本の紅い色を眼
の奥で追うた。「濃きも淡きも紅梅」と言いき
った枕草子、女作者の口ぶりが懐かしかった。
 
 * 今日は、また歯科へ、妻と。
 早起きして、気がかりの中途仕事を一段落ヘまで運んで置いた、
 
 * 神戸歯科の帰り、例の如く江古田の「中華家族」で遅めの昼食、わたしはフンチュウとラオチュウと。真昼時の西武線は往きも帰りも、空いていて。
 
 * 望月太左衛さん、五月の節句に寄せた贈り物をいろいろに戴く。気働きのじつに美しいまで精緻な人、いつも感嘆、感謝。金澤でのお仕事から、棒茶に菓子も添えて。
 
 * アタマの弱りも手伝い、思いのままに仕事が整い進まないまま、混乱へ。降参。しかし{降参}のママでは「生活」がならない。
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月三十日 日  卯月盡
    起床6:15 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 56.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
  秦 恒平詩歌編  去来 
 
    花むすび  茶袋
 
山寺の和尚さんが猫をおっ籠めた袋は紙袋か
茶袋か、いや駄荷袋だろうと喧しく、甲論乙
駁で話にならない。そういえば畏れ多いがダ
マシいいお袋はさておき知恵袋、頭陀袋、信
玄袋から守袋あり匂袋あり状袋も浮袋もいっ
さい合切袋というのもあった。金袋や米袋な
ど欠かせぬ大事、どれも常磐堅磐にしっかと
紐を懸けた。それが今ではまっこと袋らしき
物ゴミ捨て用のビニール袋しかない、とは、
結ぶに結べないシマラヌ国になったものだ。
 
 * 四月が往き、櫻の春が往く。
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月二十九日 土  
    起床6:00 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 55.9 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
  秦 恒平詩歌編  去来 
 
    花むすび  雪の下
 
鎌倉雪の下にN先生をお訪ねした日は雨だっ
た。ぜひお寄りと教えていただき、瑞泉寺ま
でゆっくり歩いた。久米正雄のお墓参りもし
た。雪の下が純白の花をつけていた。表は白
い斑が入って、裏は濃紫がおお赤らんだ、ま
るい葉だ。初夏だった。何というのか細う朱
い触手のようなものを吐き、地這えに殖えな
がらしたたる青葉楓の雨を受けていたのが、
耳にある。佳い帯〆めを結んだ老婦人と、墓
の前でそっとすれ違ったのも、憶えている。
 
 * 今日は『昭和の日』とか。昭和生まれ(十年)の私らがちいさい頃、盛りの秋、十一月三日には「明治節」と謂うて、遠く遙かになっていた「明治」と「明治天皇」とをボーゼンと想ったものだ、それが此の晩春、「昭和」と「昭和天皇」とへ変わっている。
 感、やはり無量。
 
 ○ 鴉、お大事に。お身、大切に。
 顕著なボケの不注意が「露呈」して来ました。 店仕舞いを急ぎますかね。...と書かれていますが...ボケではありませんよ。
 いいえ。店じまいを急がないで。  尾張の鳶
 
 ○ お元気ですか、みづうみ。
 完璧を求めるみづうみには許し難い出来事であったのかもしれませんが、あけぼのは昔からその程度のミスはしょっちゅうでした。不注意が許されない職業は医療関係者くらいで、死ぬわけじゃありませんし、日にちのミスなどは本質的な問題ではないのでドンマイ。今回のようなミスは、みづうみのご視力の問題によるものでしょう。
 ご提案ですが、もしみづうみがお嫌でなければあけぼのが校正のお手伝いをいたしましょうか。校閲する実力はありませんが、一般的な校正、誤変換などのミスを探す校正であれば少しお役に立てるかもしれません。毎月二件ほど議事録を読んで訂正していますが、新聞部出身者には負けていますので、エラそうなことは言えませんけれど。初校段階でも再校でも、ゲラをお送りいただければご対応できるのではないかと思います。
 湖の本を読み続けたい読者のわがままと云えばそれまでですが、「店仕舞い」を急ぐより、書いていない他人の目で校正することが大切かと思います。今まで、編集者なしですべてお一人でやっていらしたこと自体が、超人的なことでした。
 今日からゴールデンウイークですが、外出予定は一度だけでいつものように過ごします。湖の本の発送作業どうかごゆっくりと。ご無理なさいませんように。 春は、あけぼの
 
 * 感謝に堪えません。
 
 * 半日をかけて進めた「入稿」のための作業が、なぜかまるで「保存」出来てなく、落胆。 それでも今日は妻と、私のいわば不覚敬愛する名作映画、一つは『ウインストン・チャーチル』と、もう一つは黒澤明が書いて監督し、スピルバーグが製作協力した『夢』、此の二作に、心魂を揺すられ感嘆できた幸福を衷心喜びたい。
 私の前途はもう短く且つ険しいと覚悟しているが、楽しみたい。
 
 * もう刷了され、五月半ばに納品される『湖の本 163』巻頭の新作『或る往生傳』は、いま、私なりの思惟とも祈願とも、また覚悟にほど近いものを、いわば露わにしている。どう読まれるだろうか。
 
 * 「処女作」からみれば六十余年、「湖の本」創刊から「三十七年」にもなり、新しく加わって下さった読者の皆さんには「初期作品」を読む機が無いと云われている。「湖の本」巻頭に「処女作」以降の極く初期作も載せて行こうと画策している。私に、私で無くて出来ない仕事は、まだいろいろとある。『或る往生傳』には貧苦の夫婦して百十二歳まで生きたとあり笑えるが、ま、頑張ってみて佳かろうよ。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月二十八日 金  
    起床6:45 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 55.6 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
  秦 恒平詩歌編  去来 
 
    花むすび  紅葉
 
  萬葉集では黄葉と書き、古今集では紅葉と書
  いた。それだけ気温が上がったか下がったか
知らない、それより、奈良時代にはモミチと
清んで訓み、動詞は四段に活用した。これを
モミヂと濁って上二段に活用したのは平安時
代からで、晩秋の霜に燃えて草や木の葉が色
変わる美しさを謂った。源氏物語に紅葉の賀
も佳かったが、晩秋初冬、鰭は紅に肉厚くて
美味い琵琶湖の鮒を、紅葉鮒と呼んで賞味し
たなつかしさ。色気がぬけて食い気の四十?
 
 * 夜前、床に就く前に「浮腫みどめ」を一錠口にしたのが効いて、尿意にきっちり起こされた。体重は一キロちかく減っていた。今朝も、二階廊下の窓へは冷気が走ってきた、真東からまっすぐ道路を照らす朝日が美しい。
 我が家は、外の車みちからは二筋「奥」路の南側に在り、その路は東西に50メートル足らずか、我が家の間口はその西半分南側を棟二つで占めている。朝早くはその窓そとを清潔そのものの朝日がまっすぐ路を奔って明るく満たしてくれる。實に静かで、配達の車のほか、人通りということが無い。四つか五つかならべた小窓をあけて、寄りかかり瞑目して「座禅」ならぬ「窓禪」に耽ることも出来ます。とても気に入ってます。
 
 * それにしても、そんな朝から、いま夜の九時、形ばかりに昼食も夕飯もしたし、連續の韓国もの『チャングム』観た気はしているが、実感としてはずうっと床に就いていた、エーコ『薔薇の名前』『源氏物語」の「松風」へ、そして『参考源平盛衰記』の以仁王蹶起と宮侍信連の獅子奮迅、また源三位頼政子息中津なの愛馬「木下」をめぐる平家二子定盛の横暴や長子重盛の「蛇」を懐中しての沈着とうとう、読むはたしかに読んでいたけれど、そのつど深く寝入り続けもしていた。目下に必要な仕事は、進むに進まない。
 
 * 届いた「湖の本63」刷り出しを観ると、後半の「私語の刻」の日付が去年の「2022」で在るべきに、もう今年の「2023年」で通ってしまっている。専門の組み手、校正者の手も通っているはずなのに、気づいてくれていない。
 老耄はあきらかにこういう不覚になり、すでに仕事の上を横行し始めてきた。年貢の納め時がもう来ているのだろう。
 
 ○ 鴉、お大事に 御身大切に。
 顕著なボケの不注意が「露呈」して来ました。 店仕舞いを急ぎますかね。...と書か
れていますが...ボケではありませんよ。
 いいえ、店じまいを急がないで。  尾張の鳶
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月二十七日 木  
    起床6:15 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 56.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
  秦 恒平詩歌編  去来 
 
    花むすび  紫草
 
  紫衛門──ご存じか。紫。夏、白い小花をつ
  ける多年草。その根で染めた、赤と青との中
  間色。朱ヲ奪フとか、似而非あつかいもされ
  ながら、紫冠や紫衣は最上等。紫の袖が高位
  の人の袍なら、紫の庭は畏きあたりを意味し
た。古代紫と敬って江戸の助六もそんな色の
鉢巻、に揚巻太夫が惚れたそうな。その揚巻
とは、つまり総角。東西、千秋楽、土俵上は
四つ房の水引幕。真中できりり引き絞った飾
りむすび、あれが、あげまき。あれも、紫。
 
 ○ 問安をいただき、痛み入りました。この歳になれば、不自由の忍び方も共通するでしょう。お互いに最善の生き方ができますよう、平安をお祈りいたします。
 ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』のページを繙いておられる由。恐れ入りました。
 私は未読です。今後も読めそうにもありません。昨夏以来、論文の類いを二つ書き(研究が必要です)、二つの学術書の書評を書き、五つの講演を行いました。今年に入ってからは、ICU同窓会主催講演+トークがオンラインでありました。その講演の中で、ICUの卒業生で、日本の敗戦の意味を無にするような、一人の自民党議員(自民党女性局長と、大臣などを経験)と一人の政治評論家(安倍内閣の顧問でした)の無責任な言動を批判しました。そのような人々はICU在学中は口をつぐんで、周囲との対話を拒否していたようです。
 今日はイザヤ書注解の第一分冊が送られてきました。感想を書き送ることが期待されています。絶え間なくこの種の本が届きます。なかなか自分の時間が持てません。しかし、気ぜわしいのは寝込んでいるよりはずっとマシでしょう。
 ありがとうございました。  ICU教授
 
 * 
 
 
 
 * 
 
 
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月二十六日 水  
    起床6:15 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 56.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
  秦 恒平詩歌編  去来 
 
    花むすび  朝顔
 
「ひさこ」と読んで瓢でも柄杓でもあるのは
分るね。細い瓢箪を真っ二つに縦に割った形
は、さも柄杓だよね。それも湯水でなくて、
酒甕から酒が汲みたいね。酒は一献参ると言
うけど汲むとも言うぜ。汲みかわすって言う
ぜ。柄杓酒こそ、枡酒や茶碗酒やコップ酒を
はるか溯った酒本来の呑み方さ、まして夏場
の朝酒はね。朝顔の鉢なんか眼の前に並べて
さ。赤や紫はいやだねえ。朝顔はやっぱり、
昔ながらの露草色でなくちゃ、酒が苦いよ。
 
 * 日増しに明けがはやく、冷えも淡い。いつ頃から噛む早起きがむしろフツーになり苦にならない。かと云うて目立って有効に仕事を積むのでもない。つまりは、上記のままの「あそび」の時間。
 
 ○  お元気ですか、みづうみ。
 永栄啓伸さまからは、本(山瀬ひとみ『読者の仕事』)をお送りした際のお手紙で「近く秦恒平についての本(=『秦恒平 愛と怨念の幻想』和泉書院)が出る予定です。お届けさせていただきます。」と書いていただいておりました。楽しみにお待ちしたいと思います。原善先生の本(=『秦恒平の文學 夢のまた夢』)は持っております。
 
 この数日のみづうみからのメールを拝読し、深いお疲れを感じて心配しています。せめて三日くらい、何もしないで寝ている、ぼーっとお過ごしになることがお出来になればと思いますが、動いていないと倒れる自転車のように必死に漕いでいらっしゃる。そうせずにはいられない種族であることは重々承知していますが、一生に一度くらいは凡人の日常をご経験いただいてもよいのでは……。凡人とは何もしない一日を過ごす才能に恵まれた人間を云うのかもしれません。
 
 今週末から大型連休です。コロナ蟄居の反動でどこもかしこも大変な人出になるでしょう。出歩かない方がよいようです。わたくしは毎年この時期に年末大掃除の代りをすることにしています。暖房も冷房も不要な過ごしやすい季節に、エアコン掃除ふくめて水回りなど少しだけ念入りに行います。そして最初の一日で疲労困憊して尻すぼみに終わるわけです。
 みづうみのお休みは、鷲津、柳、両卒業生のご健闘が実を結び、みづうみのホームページの復活されますことを ひたすら念じ願っております。
 みづうみ、無理にでもお休みになりますように。お元気でいらしてください。お願いです。     春は、あけぼの
 
 * 四月末の早い朝は、まだ背にも脚にも冷えが懸かる、のを頂き物の美しい編み物や手厚い懸け毛布であたため、機械に向き合うている。白髪には、やはり毛編みの、何と謂うか十二、三糎の巻物をかぶっている。これで、視力が終日元気でいて呉れれば有難い、のだが。
 
 * 二時半。昼食前も後も寝入っていた。とにかくも寝てしまう。目の縁から微かな痛みと濃いつかれが全身へ広がる。テレビを見ても日本勢のドラマの低調拙劣はどうしようなく、韓国ドラマの時代モノに目はとめるが、なんとも凄まじく、毒の、殺すの、騙すの、陥れるのと、それも女がじつに邪慳に企み、脅かす。
 
 * 目の前に仕事はこっちの手を待って幾つも在る、のに、手が働こうとしない。茫然と疲れている。やれやれ。
 
 
 
 *
 
◎ 令和五年(二○二三)四月二十五日 火  
    起床6:10 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 57.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
  秦 恒平詩歌編  去来 
 
    花むすび    戀紫
 
与謝野晶子は戯れに「紫」と名のって寛と出
逢い、与謝野寛は歌詩集『紫』に燃ゆる恋を
うたひあげて、秋かぜにふさはしき名をまゐ
らせん「そぞろ心の乱れ髪の君」の一首をお
くつた。炎と化した晶子は、四ヶ月後『乱れ
髪』を世に問ひ、巻頭九十八首にひときわ赤
く「臙脂紫」の題を副へ二人は結婚、近代の
光源氏と紫の上を「血のゆらぎ」「さかりの
命」で熱演した。何のことはない晶子は色を
好む寛の頸を恋の玉の緒で緊めあげたのだ。
 
 * 起床、二階、やや背中が冷える。
 
 * けさは、妻の胃カメラ検査。無事に終えますよう、祈る。
 
 * お早う  「 ??秦 建日子さんが近況アップデートを投稿しました」  左に上記のような「通知」は 頻頻と受け取っているが トーサンには 全く内容が読み出せず、 「建日子が、日ごろ、何を思い、考え、何処で、どう何をして暮らしているのか」 「もう何年もの間」 「全く知らない」「全く知れない」ままで生きている。 「見も知らぬ アカの他人同士のよう」で、なんとも 寂しいモンだ。
 カーサンは、今朝 胃カメラ検査。カーサンとはいろいろと連絡できているようなの、で、それは、安心。
 トーサンの体調は ずうと自覚的には、異様。
 家系を引き継ぐ「当代と二世」としての大切な受け渡しなども、トーサン亡き後の依頼・依願なども、したい…話し合っておかねばと、思っても何一つも出来ていない。お互いに深刻な後悔をかかえずに、人生の「引き継ぎ」をしておきたくても なにも出来ていない。
「父と子」として、文字通りに「情のない、情のうすい」現況を トーサンは案じている。それを もう人生の終局近く、寂しい気持で、言い置く。  父
 
 * 妻の胃カメラ検査 目立った異常は無くて、一安心。よかった。安堵。
 
 * 奈良五條市の永栄啓伸さん、まことに立派な大冊『秦恒平 愛と怨念の幻想』(和泉書院)上梓、早速、送って来て下さる。感謝に堪えない。即、御礼申し上げた。
 原善氏の『秦恒平の文學 夢のまた夢』 山瀬ひとみ『読者の仕事』につぐ三冊目の「秦恒平論」である。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月二十四日 月  
    起床6:00 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 56.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
  秦 恒平詩歌編  去来 
   
   花むすび    躑躅
 
  二人めの女の児が生まれたという、「おめで
とう。名前は」と訊くと「ひとし」ちゃん。
「いい名だ。どう書くの」「相生──」なる
ほど、と納得してみれば亭々と比翼連理の枝
葉を茂らせた高砂の松も目に見えてくる。そ
れに相生結びは女結びの豊かに育ったもの、
「いよいよめでたいね」と祝うとひょいと指
をさす。指先に、春蘭けて私自慢の盆栽は、
相生の松ならぬ花も盛りに燃えたつやまつつ
じ。「うまく育てろよ」「任して、下さい」
 
 * 穏和な、はずみのいい一日ですように。
 
 * ウクライナあり、スーダンあり、ミヤンマーあり、戦渦の國は人命・人智の危機に喘いでいる。中国も、ロシアも、アメリカも、フランスも、国内の穏和を保てない。日本には首相を殺傷の惨事が一度は死を招いた。ことの暴害・危険をとうてい容認は成らないが暴挙への動機と理由と二は勤めても聴くべきがあり、安倍の高慢な暴走も岸田の低調放漫な暴走も国民の咎めを買うに目に余っていた。ことに岸田に爆発物を投じ損ねた青年の批判と意見とには聴くべきがしかと含まれ、政権も国民も無視してはなるまい。
 
 * 明日、妻の胃カメラ検査。どうか、無事無難でありますように。
 
 * 鷲津君ともメール交換あり。宿のこと気がかり。
 
◎ 令和五年(二○二三)四月二十三日 日  
    起床6:00 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 55.6 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
  秦 恒平詩歌編 去来 
   
   花むすび    菖蒲
 
たれの腰巾着でもあったはずのないなつかし
いキンチャク先生の、あれは頬から頤の輪郭
と、やがて三十年のクラス会に出て気がつい
た。お達者で。いや年をとったよ。そんなこ
とありませんともう三人もの母親が先生のネ
クタイをほめた。藍をふくんでしっとり色濃
い杜若の紫。──今時分でしたね先生を先頭
に教室を出て、平安神宮の奥のお庭へ花菖蒲
を見に行った。杜若とはここが違う、と習っ
たが──今だに先生、孰れがあやめ、杜若。
 
 * 「片付ける」「しまう」が、どんなに難儀か、混雑を極めた自室を見れば、瞭然。あーあ。 できることは、出来るかぎり正確にしておく。少なくも分類しての保存と不要分の消却。今はそれが大切。
 
 * 走り書きのまま記載保存していなかった短歌などかなりの数を、「歌集 老蠶」にに記録した。
 
 * 二度、疲れ寝。読書は相変わらず「源氏物語・絵合」「五十巻本・参考源平盛衰記・巻十三」「十巻本水滸伝・第八巻」ウンペルト・エーコ「薔薇の名前・下巻」トルーキン「ホビットの冒険」を、それぞれに、惹き込まれて読み進んでいる。
 
 * 進行しつつあるかと想う物忘れや認知欠損を自覚している。「読み・書き・読書」に現状不足は無い。あえて気にしないで成るまま為すままに生活している。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月二十二日 土  
    起床6:30 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 55.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
  秦 恒平詩歌編 去来 
   
   花むすび    山吹
 
水の清瀧から高尾へ遅い春の山川をさかのぼ
って小半時、何年前になるか、「───」とま
だ大学生だった妻が指さした。川なかをうず
高く占めた岩のてっぺんに、黄金色の日を浴
び、ちいさな蜥蜴が虚空に美しく首を反って
光っていた、黄金色の蝶を高々と銜えて。蜥
蜴は動かなかった。蝶も動かず妻は私の手を
握って息をのんでいた。山吹が向うに群れて
咲きたわんでいた。蝶、と思いこんで来たが
風に舞ったあれも明るい花の色であったか。
 
 * 昨日来、書いた記事の奇怪な輻輳と異同とにほとほと悩まされた。今朝、健闘してなんとか、意図のまま落ち着け得た、つもり。
 今日は、午に、歯科へ。昨日は異様な真夏日の気温で日本中が仰天だったが。今日は、ああは、なるまいか。
 
 * 歯科の帰り、例の如く「中華家族」で昼食し、「ナガノ」で時計に電池入れて、帰ってきた。妻も私も、ほっこりと疲労。と
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月二十一日 金  
    起床7:00 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 55.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
  秦 恒平詩歌編 去来 
 
    大学生の頃に
死にいそぐ道には多き春の花
 
菜の花に埋められたる地蔵哉
 
    迪子に
鋏おいて長嘆息の黄菊かな  
    私家版『畜生塚 此の世』扉に 昭和三十九年十一月           
                    
    小説「みごもりの湖」に
月皓く死ぬべき虫のいのちかな
 
    小説「糸瓜と木魚」に
雨の日の雨うつくしき秋桜
 
 * ま、フツーの目覚めか。
 この書斎らしからぬ乱雑…混雑の部屋を、いくらかでも片付けておかねば。
 襖…障子の「マ・ア」ズの亂害は防ぎようも無いが。
 
 * ま、フツーの目覚めか。
 この書斎らしからぬ乱雑…混雑の部屋を、いくらかでも片付けておかねば。
 襖…障子の「マ・ア」ズの亂害は防ぎようも無いが。
 
 * 疲れ、果てているという実感。街へも出られれば気が変わるかと期待していたが、コロナ感染は減るよりまたも増えている。
むかし、この季節に妻と池袋へ出ていて、ふっと思い付きで「藤の花盛り」の美しいと報道されていた「足利」へ行って見ようかとその脚で出向いて、藤の満開をたのしみ、時ならぬ突風なんぞに驚き興じて帰ってきた。あの若さが、しみじみと懐かしまれ惜しまれる。
 
 * 思いあまって、仕事部屋の片付けにかかり、超級に重たい本をたくさん、ヒヤヒヤしながら階下へ移動して、少しでも此の仕事部屋を寛げたいと。涸れていても、ヤルと成ると結局ヘトヘトに疲れてもやってしまう。投げ出せばますますヒドクなるから。しかし、大きな事典類のなんとなんと重たいことは。それでも黙々と作業しつづけて、なんとか、或る程度まではやっつけた。
 
○ お元気ですか、みづうみ。
 みづうみは以前「現代詩」はよくわからない、「詩」には手を出さないと書いていらっしゃいませんでしたか? 驚いています。
 昭和三十六年、二十代で素晴らしい詩を書いていらしたとは大発見。初めて知りました。秦青年は中原中也のような生粋の詩人でもいらした。本当にあらゆる文藝ジャンルを悠々と泳がれる。充分存じてはいましたが、あらためて畏れ入りました。新しい湖の本に、是非未発表の詩歌集をと願います。湧き出るように「今・此処」の詩もお書きください。
 
 にしても、お疲れで 「日々」「行き着くところへ来ているのかなと覚悟しています。」とは。
 わたくしは生きた心地がしません。自分が医者でないことをこれほど腹立たしく思ったことはありません。お願いですから、病院にいらしてください。そのお時間も惜しいと思われるかもしれませんし、とっくの昔に病院に行かないでと決めていらしたのも知っていますけれど、母は大病しても現代医学で度々乗り切っています。受診という選択肢もどうかもう一度お考えになってください。次のお仕事のためにも。
 昨年より一か月も早くツバメが飛来しました。ヒナの誕生と巣立ちを今年も見守り、みづうみにご報告したいと思っています。 もう 夏は、よる  ですね
 
* 疲れきっていながら、さらに、バラバラに纏まり無く保存されていた沢山な原稿や史料や書き置きなどを、一々に分類して、ふぁいるノートにこまめに分けて保存し治した。目も神経も根気も疲れる仕事だったが、バラ毛手居ては意味を成しにくい文書や原稿や史料を、とりあえずは整理できたのは、気が好い。しかし、こんやはもうアウトだ。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月二十日 木  
    起床7:00 血圧 175-74(88) 血糖値 92 体重 55.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
  秦 恒平短歌集 去来 
 
山みざる日は   昭和三十六年ころ
  山みざる日は
  心のそこの底に
  それはあの
  木蓮の
  そらさす枝の花をもたず
  冬かたむき果つるゆふべ
  人恋ふる
  悔いの痛さを
  おもふなり
                  
前世   昭和三十六年ころ
 
  柿の木
柿の実
柿の木坂を
ころころ落ちた
どこまで落ちた
秋の夜
秋の夜
たあれも知らぬ
 
栗の木
栗の実
栗の木坂を
ころころ落ちた
どこまで落ちた
秋の夜
秋の夜
たあれも知らぬ
         
 * 昨夜は 遅くまで、日付の変わる刻限まで、妻と、ホームペーシ復旧の用談に暮れた。何かに追われるような性急な思いは棄てた方がいい。成るように成って行くのだからと「待つ」ことを、殊に私は覚えねばいけない。
 
 * 「なまなり 左道變」を ともかくも『湖の本 164』のため、仕上げ急ぎたい。
 
 * 久々にスッキリ、散髪してきた。
 浴室で「源氏物語」をしみじみと懐かしく楽しむという贅沢も。
 
 * 五月連休を前に、何かしら、落ち着かない。世界も、日本も、気象も、政治も、落ち着きの無いことだ。
 
 ○  お大事に
 17日のメールに「危機とも謂える不安を何としても凌ぎたいと願う日々」とあり、鴉と廸子様お二人のことが気に懸かります。いかがお過ごしでしょうか。
 まだ四月というのに早や夏日とか。花粉症の時機こそ過ぎたにしても、これからの暑さが思いやられます。
 こちらは漸く孫が保育園に通えるようになって、一息ついたところです。家事から解放されたいところですが、以前より多い家事をこなして、細切れの時間を紡ぎだしています。
 器械に向かう時間が貴重です。
 鴉に宛てて書いた自分のメールを読み返しています、相当な分量があり、よくぞこれだけ書いたとも半ば感想をもち、同時に意識して自分の一部を取り出すような「覚悟」もして書き続けてきたと改めて思いました。
 それでも更に頑なに何処かで自分を守っている歯痒さのようなものに気づかされます。「まだまだ手の着いていない新しい意欲があるでしょう」というあなたの「挑発」? わたしに何ができるだろうかと考えます。
 くれぐれもお身体大切に、大事に。春の日を楽しんでください。 尾張の鳶
 * いまぶん、「楽しむ」という余裕がもてず、切羽詰まったような健康の不安を乗り切るしかない自身の立ちザマを意識しています。乗りきるしかない。
 
 ○ お元気ですか、みづうみ。
 資料についてのお返事が遅くなり申し訳ございません。じつは、どこまでお預かりして良いものか悶々と悩んでいました。
 その上で、みづうみがお探しになるのが大変にならない範囲でお借りすることが叶いますなら、
 <日誌ノート><多年にわたる全「手帳」日誌 「原稿に類する書き置き>の中で
 みづうみがホームページを始められた頃、1998年から、ペンクラブ電子文藝館をご退任2007年を経て、高村光太郎の掲載問題に至る2009年、そして2015年くらいまでが希望です。「全受来信」はお手紙のやりとりかと思いますが、これは今回はいりません。
 本来は、「すべて」必用で、その「膨大」なものをお預かりして年代順に電子化やコピーするなどして正しく整理、管理すべきですが、その能力と体力があけぼのにはなく、気力だけでは出来ません。
 将来的には、何が何でも秦恒平文学館を創り、膨大な資料をすべて維持管理して、後世の研究者たちに公開していく必用がありましょう。私が何より怖れているのは資料の散逸です。建日子さんに覚悟していただくしかないと、身勝手ながら祈るような気持ちです。
 今回お願いした資料の量はどのくらいになりますでしょうか。私程度の書斎、書棚でも紙と本に溢れておりますので、場所の確保問題が最優先です。容量的に無理な場合は、少しずつお借りしてお戻ししてという方法を考えます。またお送りいただける場合には、必ず在宅していたいので、数日前にあらかじめ日程をお知らせいただければと思います。
 モーツァルトの作品目録を作成したケッヘルがいなければ、モーツァルトの作品の多くが散逸していたと言われています。ケッヘルは大秀才でしたし、名家の出身でおそらく財力もありました。足元にも及ばぬわたくしですが、それでもあと十五歳若ければ秦恒平文学資料管理に、取り組むことが出来たかもしれません。今書いているものを仕上げるだけでも命がけで、今となっては無理です。お預かりした日誌、手帳等は可能な限りデータ化し、みづうみのご許可があればいずれ何かのかたちで、理想的には出版というかたちで公開も視野にいれたいと考えます。お忙しいみづうみではなく、管理者がする仕事としてです。
 わたくしは、自分のやりたい、やるべき仕事がある日々を幸せだと思います。とくに何をしたいということのない人たちが。世間には案外たくさんいるようですので。
 春らしい一日です。花も楽しみですが、新緑の清流に目の洗われる心地です。どうぞ佳き一日をお過ごしください。  春は、あけぼの
 
 * 感謝を伝えますしか、いま気力、体力、奮発力がともすると不健康に萎えようとしている。宜しく無い。
 ○ 秦迪子 様
 お世話になっております,鷲津です.
 お言葉ありがとうございます.
 いえいえ,秦先生には何十年もお世話になっておりますので,私に出来ることがあればというつもりであります.
 貴重な情報ありがとうございます.状況が,大変良くわかりました.
 対応策を考えましたので,5月までお待ちいただけますと幸いであります.
 宜しくお願い申し上げます.  鷲津  神戸 大學教授  東工大院卒
 
 * 嬉しい頼もしいことに、五月連休、はるばる我が家ヘまで見え、私のために「ホームページ」設営に力を貸しましょうと。感謝、感謝、感謝。。
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月十九日 水  
    起床6:00 血圧 155-75(65) 血糖値 92 体重 55.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
  秦 恒平短歌集 去来 
     『光塵拾遺』 2012 01 10  本巻の序に替えて
 以下に編んだのは、いわゆる歌集でも句集でも詩集でもない。あえて謂えば「述懐」であり、谷崎潤一郎にならって謂うなら、小説家が流した「汗」のようなもの、あるいはわたくしの「口遊(くちずさ)み」に過ぎない。お笑いぐさながらそれをしも編んでおこうかと願ったのは、これも「文藝」のうちと考えたからである。
 題だけ、すこしいばって、『光塵』と名付けた。
 組み立ても無い。まこと気恥ずかしいほんのわずか「少年拾遺」を巻頭に添え置いた他は、長男・秦建日子誕生の数首以降よほど間をあけ、もっぱら東工大教授六十歳定年退官以後の老境、さらに七十五叟の後期高齢に向かうまま、短歌、和歌・俳句・詩のようなものをことさら区別せず、ほぼ編年、甚だ気儘に並べたに過ぎない。それはそれで老濫無頼な不良老年に相応と思っている。
 
 わたくしには、昭和三十九年(一九六四)秋に初編の歌集『少年』がある。十五、六歳より結婚後の二十七歳頃の短歌をおさめ、そして「歌」に別れ「小説」や「批評」を書き始めた。歌集『少年』はその後いくたびも版を替えて出版され、上田三四二氏、竹西寛子さん、前田透氏らの推讃をいただき、岡井隆氏は二度にわたり氏の『昭和百人一首』に『少年』の各一首を選んで下さったし、短歌新聞社刊の文庫版に田井安曇氏は懇切な解説を書いて下さった。嬉しかった。明らかに少年のわたくしは「歌集」を編んだのであった。
 但しその以前も以後も、わたくしは「歌人」であろうとは願わなかった。もう一度云うが、歌集『少年』の後は、働けば「汗」をかくほどの自然さと当然さとで和歌・短歌のようなもの、俳句のようなもの等を、ただ谷崎流に分泌し排泄してきたに過ぎない。云うまでもない、そういう姿・形での「述懐」をわたくしが好んでいたのである。
 
 述懐するだけではなかった。古典物語はもとより、少年以来わたくしは大の和歌好き、ことに「恋」の和歌好きであった。歌謡も謡曲も好きであった。俳句は難しいと敬遠していたが、芭蕉にも蕪村にも虚子らにも傾倒した。現代の短歌俳句も講談社刊の浩瀚な「昭和萬葉集」はじめ、歌誌も句誌もよく読んできたし、『千載秀歌』『梁塵秘抄』『閑吟集』『愛、はるかに照せ(愛と友情の歌)』『青春短歌大学』等々鑑賞の著も出しつづけてきた。自分は排泄物なみの述懐で済ませていながら、プロを自称の作者達には概して辛辣、有名に遠慮せず無名にはなるべく叮嚀に立ち向かって、外野席から批評もしてきた。
 そんな中の、主に短歌に限って、ホームページ中の『宗遠日乗』から、ごく僅か抄して巻末に添えてみたが、失礼なだけの蛇足であったろうか。よろしければ、十五年に及ぶ『宗遠日乗』をご自由に拾い読んでいただきたい。URLを掲げておく。 http://hanaha-hannari.jp/ 
  (此のホームページが、令和5現在故障し閉口している。八七老の手に負えず、ただ頓首。)
 
 * 前夜寝がけに利尿薬・浮腫どめを服した。ほぼ正確に90分ごに尿意に起こされたが睡眠は妨げなかった。正六時に起床。
 要は、機械の不都合に悩まされているのを、「いいさ、勝手にしろ」と放り投げてでも、したい、すべき、「創作」等の要事に向き合うだけ。沈みがちな気分を躱し躱し、出来ることを出来して、「天来の救援」を待つあるのみ。。
 
 * 疲労のママに無何かと気ぜわしく、妻の用向きで厚生病院へ自転車で走ったり、「ホームページ」復旧切願にかかわるメール往来等の心労のまま、混乱したアタマで気分も作業も右往し左往し、頓首のていたらく、ただもうどう為すか成るのか見極めがつかない。ただただ疲れる。
 
 * 神戸に教職の鷲津仁志君(東工大卒)が、五月連休を利して上京来宅、「すべて調整」しましょうと。 感謝も感激も天に昇る有り難さだが、神戸と下保谷と、この距離を思うと身が縮まる。息もつまり、身の置き所もないほど。しかしームページ復活すれば、それはそれは有難く嬉しい。ウーン。ウーム。
 
 * 京、山科の石川万左子さん(菅原万左の一人)「神宗」特製の塩昆布二種二袋、戴く。かねがね、美味い「塩昆布」は京大阪だやなあと切に感じていただけに、思わず手に戴いて頭を下げた。感謝。
 
 * 耄碌の自覚に拍車。何が何して何とやら、あたふたと脳裏杜撰。、
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月十八日 火  
    起床7:00 血圧 155-75(65) 血糖値 92 体重 55.70 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
  秦 恒平短歌集 去来  12-01 --- 15.12
 
     『光塵拾遺』 2012 01 10
 
* 荻江 細 雪 松之段   秦 恒平・詞 荻江 壽友・曲
あはれ 春来とも 春来とも あやなく咲きそ 糸櫻 あはれ 糸櫻かや 夢の跡かや 見し世の人に めぐり逢ふまでは ただ立ちつくす 春の日の 雨か なみだか 紅(くれなゐ)に しをれて 菅の根のながき えにしの糸の 色ぞ 身にはしむ
さあれ 我こそは王城の 盛りの春に 咲き匂ふ 花とよ 人も いかばかり 愛でし昔の 偲ばるれ
きみは いつしか 春たけて うつろふ 色の 紅枝垂 雪かとばかり 散りにしを 見ずや 糸ざくら ゆたにしだれて みやしろや いく春ごとに 咲きて 散る 人の想ひの かなしとも 優しとも 今は 面影に 恋ひまさりゆく ささめゆき ふりにし きみは妹(いもと)にて 忍ぶは 姉の 歎きなり
あはれ なげくまじ いつまでぞ 大極殿(だいごくでん)の 廻廊に 袖ふり映えて 幻の きみと 我との 花の宴 とはに絶えせぬ 細雪 いつか常盤 (ときわ)に あひ逢ひの 重なる縁(えに)を 松 と言ひて しげれる宿の 幸(さち)多き 夢にも ひとの 顕(た)つやらむ ゆめにも 人の まつぞうれしき
               
              昭和五十八年三月七日作 五十九年一月六日 国立小劇場初演
 ◎ 小劇場での初演を谷崎松子さんと並んで観た。舞手もも松子夫人のご指名であった。亡き谷崎先生を偲ばれ、先生にも奥さんにも影のように添われて、やはり亡くなっていた妹の重子さんをも哀悼の思いに涙されていたのを、今も、私は想い出す。
 
 * ここ、しばらく、往時をしのび、われと我が心根を慰め励ましたい。
 
 * 気が沈んで、弱みになっている。それと分かっていて、躰の芯にちからなく、励みがない。すてきなメールでも来ればありがたいが。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月十七日 月  
    起床7:00 血圧 172-72(90) 血糖値 92 体重 55.70 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 プラトン著 『國 家』抄  日本 岩波文庫 藤澤令夫譯 に借りて
 * 記載の多くが、プラトンには「師ソクラテスの曰く」に借る体に発言ないし叙述されているが、   また参加のアテネ市民らの発言や討論も含まれている。。大意、趣意を失わぬまま玩味に堪えるよ   う「抄」したいとお断りしておく。 秦     j.   
○ (不正な人、正しい人に関わる、トラシュマコスとのやや長い議論の先へ来て、ソク ラテスが言う、「結構。きみの曰わく、不正な人は、知恵ある人とすぐれた人に似てい るが、正しい人は似ていない、ということになる?」
 「あたりまえだ」と彼(トラシュマコス)は答えた。
 「結構(と、ソクラテス)。すると、両者のそれぞれは、それぞれ自分が似ている者と 同じような性格の人間だということになるね?」
 「そうでなければ何としよう」
 「では、トラシュマコス、全ての知識と無知識について観てみたまえ。音楽家でもよい、 医者でもいい、誰でもよい、きみの理解では、正しい知恵の無い、優れた技も無い人間 は、自分と相似た人に対しても相似ない人に対しても、分をおかして相手を凌ごうとす るような人なんだね。他方、正しい人間は、自分と相似た人に対しては、分をおかして 相手を凌ごうとせず、相似ない人を凌ごうする。してみると、正しい人間とは、知恵の ある、優れた人に似ていて、そうでない人間は劣悪で無知な人に似ていることになるね。 つまり、正しい人間とは知恵のあるすぐれた人であり、不正な人間とは無知で劣悪であ るということが、いまや、我々の前に判明したわけだ。」
 
 * 今朝は、保谷厚生病院で、予約の受診に。
 
 * 妻の体調、少なくも何種かの検査を奨めると。来週から、そういう段階を一応迎える。何かと心忙しく慌ただしくなる。落ち着いて、協力して、というより私が専心力を貸して乗り越えて行きたい。一つには妻は例年のごとく春過ぎから雨季前に季節病めいて体調を崩し気味になる。そして乗り越えて行く。乗り越えて欲しい。今週打ちにケアマネージに関する話し合いが予定されている。役だって欲しい。
 
 ○ 秦先生 お返事大変遅くなりました。 新年度で仕事も変化があり、子供たちも学年が上がりと、何かと慌ただしい日々を送っています。
 先生、無理なさらず、お身体お大事になさってください。何よりお身体第一です!
季節の変わり目は、体調を整えるのも難しいので、お元気なときにお会いできるのを楽しみにしております。また、5月頃にご連絡させていただきますね。為我井さんもとても楽しみにしていました。彼女にも久しく会っていないので、そちらもあわせて楽しみにしております。
 くれぐれも、ご無理なさらず…     麻紀
 
 ○ いかがお過ごしでしょうか。桜を楽しむ余裕なく、肥後すみれの地面に散る花吹雪が一面の薄いピンクになったのが、今年の桜の日々でした。
 孫の四十度の発熱が三回もあり、インフルエンザ。座薬も効果なく、抗生物質で漸く落ち着きました。仕事で抜けられない娘に代わって何とか切り抜けましたが、わたし自身もリンパ腺やら調子良いとは言えません。
 長いメールを書きたいけれど、今はここまで。
 どうぞ元気でありますように。  尾張の鳶
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月十六日 日  
    起床3:00 血圧 155-75(65) 血糖値 92 体重 56.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 プラトン著 『國 家』抄  日本 岩波文庫 藤澤令夫譯 に借りて
 * 記載の多くが、プラトンには「師ソクラテスの曰く」に借る体に発言ないし叙述されているが、   また参加のアテネ市民らの発言や討論も含まれている。。大意、趣意を失わぬまま玩味に堪えるよ   う「抄」したいとお断りしておく。 秦     j.   
○ ぼく(ソクラテス)は言う、「人としてまともな人であるなら、人を支配することを 何か善いことであると考えたり、その地位にあって善い目にあうことを期待したりして 支配に赴くわけはない。もしすぐれた人物たちだけから成るような国家ができたとした ら、おそらくは、ちょうど現在、支配者の地位につくことが競争の的になって居るのと 同じ仕方で、支配の任務から免れることが競争の的になることだろう。そのときこそ、 眞の支配者とはまさしく、自分の利益ではなく被支配者の利益を考えるものであること が、はっきりと分かるだろう。いかにしてもぼく(ソクラテス)としては、トラシュマ コスに賛成しかねる、『正義とは強者の利益だ』ということにはね。」
 
 * つくづくと、政情、世情、現状、因循姑息、沈滞しつつ腐敗して行く感じに、滅入る。自身野言葉を持たずペーパーを頼ってボソボソとしか喋れない総理の、なにもかも「閣議決定」で強行もにげきりもしてのけね陰険総理。爆発物を投げつけて震えるタマではない。だれがこうしたか。我々国民である。日本国民は何処から観ても、逆立ちして見直しても、愚民である、私も含めて。社会党を徹底的に自壊してテンと恥じなかった土井たか子の愚行を私は憶えている。その愚を継いだ小娘党首主も輪を掛けてグレていた。野党の枯れ果てた民主政治なんて在るものか。今の野党は、われもわれも与党の内と思い込んでいる、いまや共産党すらも。
 こんな今日に、こんな朝メールをもらうと、夢の世と想われ、もう一度寝入りたくなる。
 
 ○ 鯉のぼりの泳ぐ五月も間もなくですね。田舎はまだそういう風景がみられ、幸いです。お雛様を片付け、入れ替わりに五月人形の段飾りを作りました。夜見ると、武者飾りはちょっとこわいですね。
 外出は疲れますが、読書も、続くとお疲れになるでしょう。
 このところ運転ばかりの毎日を送っていましたが、かなり元気にしていました。
 娘はコペンハーゲンに無事戻り、ホッとしています。
 何があるかわからない時代になりましたね。
 今日(=昨日)の雨は感謝です。黄砂が少しおさまりますね。
 庭の躑躅、シャガ、スズランまで咲き出しました。
 速い季節の移り方です。 誰にもわからない明日がきます。 明日もきっとみんな元気だと思います。   那珂  
 
 * きれいに洗った視野と視線が光って想われる。
 
 * 朝いちばんに「湖の本 163」責了紙、送る。
 
 * 身辺を片付けたり見直したりしていて、いろいろなものの「在る、残っている、仕舞い込まれている」ことに、いつもながら一驚また一興、久しく「気に掛かっていた」ことの判明も行方も見つかったり。ただ、もう、そんなそれぞれに挨拶している余裕の無いのも事実。残念だが。
 
 * 寒け、咳こみ、くしゃみ。風邪気味宜しく無い。仕方なし。寝入ろうと思いつつ、つい、ソクラテスの弁証法に付き合う。、
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月十五日 土  
    起床3:00 血圧 155-75(65) 血糖値 92 体重 56.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 プラトン著 『國 家』抄  日本 岩波文庫 藤澤令夫譯 に借りて
 * 記載の多くが、プラトンには「師ソクラテスの曰く」に借る体に発言ないし叙述されているが、   また参加のアテネ市民らの発言や討論も含まれている。。大意、趣意を失わぬまま玩味に堪えるよ   う「抄」したいとお断りしておく。 秦     j.   
○ ぼく(ソクラテス)は言った、「身体というものは、ほかのものの助けを必要とする、 だからこそ、医術という一つの技術がいまでは発見されている。身体というものは欠陥 がありがちなもので、そのあるがままの状態では自足できない、そこで、そのような身 体のためさまざまの利益をもたらす目的で、そのための技術が考え出された。医術は、 医術の利益になることを考察するものではなく、身体の利益になることを考察するもの だよ。どのような技術も、其の技術自体の爲をはかるものでなく、その技術がはたらき かける対象の利益になることを考察するものだ。」
 「ところで、トラシュマコス、そうしたもろもろの技術とは、それが働きかける対象を 支配して優越した力を持つものだ。およそ知識は、どんな知識でも、けっして強い者の 利益になる事柄を考えて、それを命じるのでなく、弱い者の、つまり自分が支配する相 手の利益になる事柄を考え、それを命じる。」「だからまた、およそどんな医者でも、彼 が医者で有る限りにおいては、医者の利益になる事柄を考えてそれを命じるのでなく、 病人の利益になる事柄を考えて命令するのではないかね。」「一般にどのような種類の 支配的地位にある者でも、いやしくもすぐれた支配者である限りは、決して自分のための 利益を優先することなく、支配される側のもの、自分の仕事が働きかける対象であるも のの利益になる事柄をこそ、考察し命令する。その言行の全てにおいて、彼の目は、自分 の仕事の対象である被支配者に向けられ、その対象にとって利益になること、適するこ とのほうに向けられているのだよ。」
 
 * 夢、何か熱心をきわめて、劇だかお噺だかを書いて、快哉、喜んでいたが、何も覚えない。病膏肓。ご苦労なことだ。今朝は、雨、そして冷えている。
 
 * 来週金曜、妻のための「ケア」に関して聴き取りに女性がみえるという。なににしても、要心へ半歩一歩進めばありがたい。
 
 * 終日、雨。気勢上がらず、沈湎。こんな時は、仕事にも獅噛みつかない。
 捜し物をしても見つからない。無くては済まないと分かっていて見つからない。
 思えば、今日一日、缶ビールの一本も払底のまま過ごしたという、ま、少なくも十何年来に無い「アルコール抜き」の一日、希有の一日だった。それでボンヤリ間抜けているのかも知れません。(ちょこっと料理酒盗んだが、不味い!)
 
◎ 令和五年(二○二三)四月十四日 金  
    起床3:00 血圧 155-75(65) 血糖値 92 体重 56.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 プラトン著 『國 家』抄  日本 岩波文庫 藤澤令夫譯 に借りて
 * 記載の多くが、プラトンには「師ソクラテスの曰く」に借る体に発言ないし叙述されているが、   また参加のアテネ市民らの発言や討論も含まれている。。大意、趣意を失わぬまま玩味に堪えるよ   う「抄」したいとお断りしておく。 秦     j.   
○ ぼく(ソクラテス)は言った、「もう少し質問させてください。あなた(=金満家の ケパロス)が財産をたくさん持っていてよかったと思うことで、いちばん大きな こと は何ですか」
 彼は言った、「いいかねソクラテス。 人は、やがて自分が死ななければならぬち思う ようになると、以前はなにでもなかったような事柄について懼れや気づかいが心にしの びこんでくる。ハデス(冥界)のことが前よりよく見えるからでもあろうか生涯の内に 多くの不正を見出す者は不安につきまとわれ、かえりみて何一つ不正をおかした覚えの ない者には、つねに愉しくよき希望があって、『老いの身を養って』くれる。びくびく しながらあの世へ去るといったことがないようにする、お金の所有が、富が、最大の価 値を持つのは、ほかならぬ此処のところと私は考える」と、ケパロス。
 
 * ほぼ終日、寝入ってたのではないか。午後の韓ドラマ『オクニョ』最終回は観たから、今日が金曜、つまりは十四日と辛うじて納得できた只今が、るう夜分八時半。かつがつ三度の食事らしきはしていたと思うが、その前後の多くを寝入っていたらしい。
 
 * 「湖の本 163」三校が出てきて、きれいに「責了」できそうとは納得し其の用意はした。
 
 ○ 今回の私の本を、母方所縁の地である長崎県立図書館に厚かましく送りましたところ、長崎県の郷土資料センターのほうにも一冊送ってほしいとの依頼が来て驚いています。長崎県関係者や、長崎県関連の内容の書籍を集めているようです。そこで、みづうみの『親指のマリア』も送らせていただこうと思っています。以前に湖の本で十組ほどいただいたことがありますので、これはと思う方に差し上げているのです。「山瀬ひとみ」は在野の「秦恒平文学の紹介者」でもあります。
 
 さて、介護サービスの件ですが、私の母など、元気な子どもと同居であっても最初から要支援認定を受けることができましたし、その後<
要介護度がどんどん上がっていきました。介護保険とは、高齢者の寝たきり予防のシステムでもあるはずです。私の住む港区が東京でも有数の財政豊かな地区のせいで行き届いているのかもしれませんが、それでも保谷、西東京市が予算不足で高齢者への行政サービスを全くしないとは思えません。みづうみご夫妻が何も援助を受けられないとは思いにくいのです。
 みづうみご夫妻は介護認定において非該当にあたると判断されてしまったのでしょうか。それは、自立している立派な高齢者と認められた、ある意味で理想的高齢者ライフスタイルではありますが、私としては上手に、日常生活に支障があることを大袈裟に強調していただきたかったです。
 みづうみご夫妻が要支援認定すら受けられないとしても、地域包括支援センターに電話していただくと、さまざまな高齢者サービスはあるはずです。区の広報などご覧になったことはおありですか。
 すべてダメであるなら、もう建日子さんの介入しかありません。息子さんから市に、こんな大変な状態ですと訴えて、何かの支援を受けるのです。高齢の親は、どうしても実際より大丈夫と言いがちなので、子どもから窮状を説明してもらう方法です。あるいは、建日子さん自らがご両親の日常生活のサポート体制を整えられることです。
 みづうみご夫妻は、建日子さんに頼りになりたくないから、ここまで頑張っていらしたのでしょう。みづうみご自身は秦のご両親と叔母さまをお世話していらしたのに、息子さんにはそれを求めたくない。子どもを頼るようになると、安心してボケたり依頼心の塊のわがままになったり(母のことでもあり)の高齢者になるというのも一面の真実なので、期せずして建日子さんは親孝行なさっているという見方も可能かもしれませんが、あと何年この「見て見ぬふり」状態が続けられるでしょうか。介入が遅れれば遅れるほどご自身の負担も大きくなるので、建日子さんが将来後悔なさいませんようにと願っています。
 辛口なことを書いてごめんなさい。
 
 >あとあとを真剣に語らい合い肩の荷を下ろしたいとコッチは痛いほど本気で願ってたが、建日子も妻も、テンでその気が無くて「おハナシ」にならない。トーサンの好きにすればいいと。肩の荷は、情けなく、何一つ軽くはシテ貰えない。 >
 
 わたくしには意味のわからない文面でございますが、著作権についてのことでしたら、早く手続きをなさってくださいますよう 切にお願い申し上げます。法律素人の申すことなのですが、とりあえずは、みづうみが日付記入、署名捺印、封をした書面にして奥さまと息子さんにお預けになればよろしいかと。さらに法的効力を求めるならば、専門家にご相談いただいて真剣にご検討いただきたく思います。
 
 昨日の北朝鮮ミサイル・アラートには驚きました。ミサイルにではなく、そのやり方にです。憲法改正に向けての世論喚起の目的であったと推測しますが、そのために、ミサイルの軌道も落下位置も予測できず 迎撃など夢のまた夢の、日本の脆弱な国防レベルを白日の下にさらすのは愚策としか言いようがないと、軍事素人の私でさえ思いました。こんなことで日本大丈夫かと、ものすごく不機嫌になりました。
 わが家の猫は緊急地震速報は大嫌いでうろうろするのに、このアラートはまったく無視していましたがなかなか賢い姫です。
 一昨日は風が強くてよろけそうになるほどでした。足が弱い方は転倒したかもしれません。黄砂が飛んできているのも納得です。春の嵐は歓迎できません。どうかどうかご無事で、少しでもお元気にお過ごしくださいますように。
 
 まったくの夢物語ですが、もしみづうみが 実在の誰かさんらしきかたちを借りた絵空事の何か、みづうみの心象風景で、一度でよいから、短くてよいから読ませていただきたいと。
 それ以外にも「私語の刻」以前のみづうみの日記も、創作ノートも、将来的には書籍化していただきたいと思います。「読者は絶対に読みたい」でしょう。 春は、あけぼの
 
 * むずかしいことを仰る。「刺戟して目覚めさせねば」と思われているのかも。感謝。
 
 ○ 秦 恒平君   姉名宛のお便り感動致しました。 嬉しい!。
「歯なく はかなく 」 締めの言葉 に 先ずは大笑い、センスあるなぁ。
 どうか拗ねないで下さい。こちらも、有り体に言えばまずまず。 細かく言い出したらきりがない程 身体の不自由に見舞われる毎日です。まあこんな歳までよくぞ生き延びたものと呆れ返る気分。
「ギチギチに中身の濃く詰まった」読書、とても真似出来ないなあ。
 そう言えば映画をよくご覧になっている様子、映画館で大きな画像に親しんだ気分が抜けなくて、家のTVの小さな画像で観るのは余程の時、歌舞伎座もしばし御無沙汰です。
 読書も家の書棚の本の再読繰り返し、「田辺 元、野上弥生子往復書簡」など。最近の出版物は殆ど興味が持てません。湖の本 は 愉しみに拝読しています。 有り難う御座います。どうかお元気で続けて頂きます様に。  半田     美学藝術学の先輩
 
 ◎ 湖の本 楽しく、感慨深く、拝読致しました。
 先ずは懐かしい名前の羅列、入学当時私にとっては聞きそめに等しい「美学」という学科の講義、夢中で聴き惚れたものでした。貴君の驚くほど細部の記憶、読み進む程に懐かしさ倍増、何度も読み返しています。
 それにしても恐るべき記憶力ですね。とても「やそひち爺」とは思えない。
 園(頼三)、金田(民夫)両教授、もうひとかた中川(一正)教授も。 懐かしい恩師です。土居次義先生の案内で、市内各寺各社の名作襖絵など様々鑑賞した事も「寶」のような思い出。
重森孝子さん他、「ハーちゃん」と呼ぶ「おっさん」だか「おばさん」も居ましたね。どうしておられるのか。
 私同期の上村宏君も 兄上の文化勲章受賞前に旅立ってしまいました。
 そうそうゲーテ君のお父上の名は 三玲(ミレー)様。
 あの頃の京都、結構尖った街ででもありましたよね。「左翼に非ずんば人に非す」の時代。古都というよりは学者、学生の街という感じでもありました。フランス映画の二本立て、三本立てを愉しんだり。
 旅立つ前にもう一度学生時代に戻らせて頂いた気分、嬉しいです。
御体調如何でしょう。御夫婦お揃い、本当に羨ましい。 とても貴重なことです。
どうか呉々も日々御大切に   お元気でいらして下さい。   久 拝   専攻先輩
 
 * とにもかくにも、気を確かに生き続けて創り続けてゆくまでのこと。いまさら世に出張って発言したり行動したりは出来ないし其の気は元々無い。成ろうならこの現在と、無限大の過去世からの種々「文化」の恵みを、老体の栄養に、よくよく味わい食したいまで。
 
◎ 令和五年(二○二三)四月十三日 木  
    起床7:50 血圧 155-75(65) 血糖値 92 体重 57.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 プラトン著 『國 家』抄  日本 岩波文庫 藤澤令夫譯 に借りて
 * 記載の多くが、プラトンには「師ソクラテスの曰く」に借る体に発言ないし叙述されているが、   また参加のアテネ市民らの発言や討論も含まれている。。大意、趣意を失わぬまま玩味に堪えるよ   う「抄」したいとお断りしておく。 秦     j.   
○ ぼく(ソクラテス)は言った、「自分で稼いだ人たちとなると、ほかの人の二倍もの 愛着をお金に対してもつものです。ちょうど、詩人が自分の作品に愛着をもち、父親が 子供に愛着をもつのと同じように、お金を儲けた人たちもやはり、お金というモノを、自 分のつくりあげた業績と思う気持から大切にするわけで、ほかの人のように実利的な観 点から大切にするだけではない。だからまた、そういう人たちは付き合いにくい。なに しろ、富以外のものは何ひとつほめようとしないのですからね」
 
* 北朝鮮発射の弾道ミサイルらしきが午前八時にはあわや「北海道に弾着」するらしく、家居ないし地下への避難を「アラート」しつづけていたが、九時過ぎて、正確な確認が何も出来てない。
 日本国の攻撃的抑止力は憲法との差し障りがあるとして、それにしても防衛や安全や正確な報道にかかわる政治的精度の「無いに等しい・あやふや」は目に余って、膚に粟立つ不安や恐怖を覚える。「自民・公明政権」は、「日本国の議会」は、日ごろ、国土と国民の安全に関して「寝ぼけ」放題に「怠け・だらけ」ているのではないか。
 
 ○ やそしち兄上様
 そちらのご様子 色々たいへんそうではありますが、文学の世界、美術の世界に助けられて ご無事に過ごされておられて ほっとしています。身体と精神、老年期は精神に支えられる人は幸せだなあと お二人のご様子を見て思います。
「薔薇の名前」は映画で見ただけですが、あとで、タイトルの意味は 何だったかなあと考えましたが、分からずじまいでいます。いつか教えて下さいね。
 今描いている 石段に落ちて朽ちていく椿の花の絵を、添付してみます。3枚セットで描いていますが、まだどれも仕上がっていません。画像もよく見えるかどうか分からずお送りする失礼をお許し下さいね。 (妻の)いもうと 琉
 
 * せっかくの繪、コッチの機械不調で見られず、残念。お元気で。
 
 ○ 秦 兄   兄の心境は痛いほどよく分かります。良いケアマネージャーが見つかりますように。私の体型もすっかり老人臭くなりました。
 ベッドでの4〜5時間以外は椅子に座ったきりの生活が数年間続いているので、足腰がすっかり萎えてしまいました。 幸いにも八歳年下の女房と独身娘が居てくれるので 私は自分の好きなことだけをしていればよいので 大変有難いことです。然しながら200ページほどになるはずの二冊目の本は 未だ30ページぐらいで止まったままです。
 統一地方選も30〜40%の低投票率に加えて無投票選挙区が多く、やはり私の選挙改革案を具体化して悪政者の一掃を、と気は急くのですが根気がなく、つい「読み止し」の本に手がのびてしまう有様です。これも老化の一現象かも。
 いずれにしても、こうしてキーの打ち間違いを繰り返しながらも 兄と交信できることの有り難さを痛感しています。それほどこの頃は同年配の交信相手が激減してしまいました。誰もが わが身一つを持て余し、四苦八苦していて他人事までは気が回らなくなってしまったのでしょう。淋しいかぎりですが 自分だけはそうならないように努めたいものです。
 兄も奥さんも大変でしょう。ほんとうに良いケアマネージャが見つかるように祈っています。こんな時、わが家でも息子の方は仕事の関係で身近に居ず、頼りになりませんが、娘が幸か不幸か独身のため親孝行をしてくれているので有難いことです。
 お二人共十分ご自愛ください。  京 圓通寺  辰
 
 * 辰兄、無事の日々と安全とを入ります。
 * 疲労疲弊こそ、私の日常に強いられているのであり、加えて老耄も致し方なく、やすみやすみ生ているが、私には、幸いに気力、意欲、ことにまだ体力がすこしでも残って居て、妻との買いものでも「重い荷」を持ち帰れるし、ヘルメットをかぶり、要心して跨げさえすれば自転車は苦もなく小一時間でも走ってれる。幸い西東京下保谷は、閑散と静かなので。
 * 欲しいのは妻の手助け。「嫁・姑・小姑}が難儀らしいのは、京で昔の「母・おば」とでも見てきたし、他にも多々内輪もめを聞いてはいたが、それでも「嫁」サンがいて呉れたらなと私自身は内心歎くことは有る。よく有る。ま、「家庭の健やかな無事の維持」は、ほとほと難しいしいことと、いかにも承知。
 
 ○ ハナミズキがもう咲いています。
「薔薇の名前」 大昔に映画館で見た気がします。たぶん読んではいないと。映像にかすかな記憶があります。荒野を二人が歩いてくる、といった感じの。何もかもが曖昧になっています。たいして困りもしませんが、肝心なことは抜け落ちて残っているのがその程度です。
 友人が面白いからと貸してくれたミステリーがとんでもなく凄まじいもので、読み終えてホットしているところです。死ぬのは一人ぐらい、まともな方法でとか。
「このやさしき大地」という ミシシッピ川をくだる物語を読んでいます。
 今日は、寒くて、まだダウンを着ています。家の中でも。
 転ばないように。八十歳代は立っているだけで転ぶのだそう。 柚
 
 * 四月ではあろうが、何日を生きているのか、しかと分かってない。頼りない。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月十二日 水  
    起床5:45 血圧 155-75(65) 血糖値 92 体重 57.2 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 プラトン著 『國 家』抄  日本 岩波文庫 藤澤令夫譯 に借りて
 * 記載の多くが、プラトンには「師ソクラテスの曰く」に借る体に発言ないし叙述されているが、   また街頭の談論に参加のアテネ市民らの発言や討論も含まれている。大意、趣意を失わぬまま、   玩味に堪えるよう「抄」したいと断っておく。 秦     j.   
○ 「どうですか ソフォクレス」とある男が言った、「愛欲の樂しみのほうは? あなたはまだ女とまじわることができますか?」
 ソフォクレスは答えた、「よしたまえ、君。私はそれから遁れ去ったことを、無上の歓びとしているのだ。たとえてみれば、凶暴で猛々しいひとりの暴君の手から、やっと逃れおおせたようなもの」
 「まったくのところ、老年になると、その種の情念から解放されて、平和と自由がたっぷり与えられる。その原因はただひとつしかない。それは、ソクラテスよ、老年ではなくて、人間の性格なのだ。端正で自足する事を知る人間でありさえすれば、老年もまたそれほど苦になるものではない。が、もしその逆であれば、そういう人間にとっては、ソクラテスよ、老年であろうが青春であろうが、いずれにしろ、つらいものとなる」と、ケパロスの曰く、「人物が立派でも、貧乏していたら、老年はあまりらくではないし、人物が立派でなければ、金持ちになったとて、安心自足することはけっしてないだろうよ」。
 
◎ 令和五年(二○二三)四月十一日 火  
    起床3:00 血圧 155-75(65) 血糖値 92 体重 56.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 プラトン著 『國 家』抄  日本 岩波文庫 藤澤令夫譯 に借りて
 * 記載の多くが、プラトンには「師ソクラテスの曰く」に借る体に発言ないし叙述されているが、   また参加のアテネ市民らの発言や討論も含まれている。。大意、趣意を失わぬまま玩味に堪えるよ   う「抄」したいとお断りしておく。 秦     j.   
○ ソクラテスに向かいケパロスの曰く、「いいかね、この私には、一般に肉体のほうの 樂しみが少なくなつていくにつれて、それだけ談論の欲望と歓びとが、ますます大きく なってきているのだ」
 「ええそれはもう、ケパロス」とぼく(ソクラテス)は言った、「そういう方たちは、 言ってみれば、やがては恐らく我々も通らなければならない道を先に通られた方々なの ですから、その道がどのようなものか、ーー平坦でない険しい道なのか、それともらく に行ける樂しい道なのかということを、うかがっておかなければ」
 「ゼウスに誓って、いいともソクラテス、話してあげよう」とケパロス、「われわれは、 同じくらいの年齢の者が何人かいっしょに集まることがよくあるのだが、そんな場合、 われわれれの大部分の者は、悲嘆にくれるのが常なんだ。若いころの快楽がいまはない ことを嘆き、女と交わったり酒を飲んだり、陽気に騒いだり、その他それに類すること をあれやこれや思い出しながらね。そして彼らは、何か重大なものが奪い去られてしま ったかのように、かつては幸福に生きていたが今は生きてさえいないかのように、なげ き悲しむ。なかには身内の者たちが老人を虐待するといってこぼす者も何人かあって、 そうしたことにかこつけては、老年が自分たちにとってどれほど不幸の原因になってい ることかと、めんめんと訴えるのだよ。
  しかしソクラテス。どうもこの私には、そういう人たちは、ほんとうの原因でないも のを原因と考えているように思えるのだよ。なぜって、もし老年がほんとうにそういっ たことの原因だとすれば、この私とても、そのかぎりでは同じ経験を味わったはずだし、 私だけでなく、よそこの年齢に達した人なら、みな同じことだろうからね。けれども、 げんに私はこれまでに、そうでない人々に何人か出あっているのだ。作家のソフオクレ スもその一人で、私はいつか、彼があるひとから質問されているところに居合わせたこ とがある」 (つづく)
 
 * ケア・マネージャを頼むようにと奨められていて、そんな折衝をしたら、明日(今日)にも顔見せに男性が家へ見えると言う。わがやにそういう他者の定在ぎみに顔出しされるのは希有もなにも無いことだっただけに、生活が混乱しては閉口する。そんなことを夜中に思いいたり、深夜の三時に機械前へ来て、思うところ要点を取り纏めた。
 
   * ケア・マネジをおいするにたって
 全てが「初」の事なので、予め、思うまま最初に、依頼者(秦家)として「申し合わせ」「ご同意」お願いしたいことを、順不同に申し上げます。
 * 願わくは、「胸部」に日常的に「負担」のある「家内(妻)」の生活部分(台所・浴室・便所・庭廻り等)を主にしえんいただき度く。その意味では「女性のお手助け」がより望ましいとも。
 * 「夫(秦・文筆家・出版家・「読み・書き・読書と創作」専念)」の「日常」と「書斎・書庫・書籍・機械器具・関連資料・著作原稿等々」には、一切関与・接触しない。触れない。
 * 「二階」は 夫妻の「私室」であり、「特別にお願いする力仕事等」のほかは「ケアの対象」としない。
 * 「一階」では、「玄関」「寝室」「書庫」「書籍」「物置」「諸道具」等は、「特別にお願いする力仕事等」のほかは「ケアの対象」としない。
 * 来訪・来宅に関しては、「事前の申し合わせ」が望ましい。「秦」の仕事柄、訪客等による「気散じ」には困惑するので。
 べつに「懇談等」の望ましくまた必要な場合は、躊躇いなく申し合わせたい。
 * 願わくは、「家内(妻)」の疲労を「ケア」お願いしたい。
 * なお夫妻ともに「基礎疾患」「通院(ないし入院)の必要」を抱えています。そんな際のことは、応急に「ケア」のお力添えが願われます。   以上 とりあえずの記
        令和五年四月  日        秦 恒平・迪子 ともに87歳
 
 * 要は、「家」をである前に「妻」を支援してもらいたい、ということ。
 
 * 玄関に、ひさびさ、、岸連山の柔らかな墨の「富士」を掛けてみた。
  ものに乗って高みへ軸をかけるなどという作業が危険で出来ない、妻の肩を借りてモノを倚子などに乗るしか無いとは、老いぼれた躰になった。アタマは如何。
 
 ○ 「湖の本 161」 「世をら波に」長谷川泉先生は、私の大恩人ですので、胸にしみました。「行ひて苟くも」 子規の「仰臥漫録」「病牀六尺」に通じるユーモアを感じます。これからも大いにきたいしてます。これから「湖の本 162」を拝読。元気にご活躍下さい。 弘前城の櫻 添えて 岩手 やまだ  芳紀   文學研究家
 
 * 市のケア・マネージ部署の佐藤龍一氏来訪、「説明」」を聴く。 
 
 * まだ ケアに相当しそうには無いよう、と。
 
 ○ 母の手術処置は終わり、縫合中に説明受けました。麻酔醒めても会えないので帰っていいですよといわれ、帰宅してから2時間、別段連絡もないので無事醒めたのだろうと思います。あとはセンモウや感染なくリハビリ順調に進むことを願うばかりです。
ご心配をおかけしました。ありがとうございます。
 手術室に歩いて向かい、病室でも元気に話していたようで、先生も感心されてました。今日が93歳最終日。
 病室から樹々の新緑、わずかに関門橋の端が見えるようです。海に面してはいないのですが。落ち着いて時間ができたら写真撮ってきます。
気長にお待ちください。お大事に。  下関  緑
 
 ◎ 私たち ケア・マネージを頼もうと思いましたが、現状では頼まれてくれそうにないと分かりました。
 ただただ寝入りに寝入って、疲れを躱しています 二人ともに。呵々。笑い事では無いのですが。
 ウンベルト・エーコという人の、ギチギチに中身の濃く詰まった大長編、映画にも成った『薔薇の名前』を、律儀に一字一行ずつ読み進んで、半分過ぎました。弱い視力をさらに痛めています、が。そして源氏物語を五、六行ずつしみじみと。じゅうにぶんにそれでたのしるのが此の名品のかがやきです。
 
○「やそしちよ」と 神も仏も呼びなさる 生返事して拗ねていますよ 歯無くはかなく
 
○ われは湖の子 さざなみも さわがぬ濱の まつ並木 煙も雲もはればれと なげの苫屋に光りさす われ待つ子らは無けれども   
 
 ○ ケアマネージャー 向けの説明ですが(かつた)
   https://www.nn-kaigo.jp/column/column16/
 ○ ケアマネジャーって何をする人?
 ケアマネジャーは介護を必要としている人やその家族の相談に乗り、その人の身体の状況に応じて最適な介護サービスが受けられるように介護事業所や市区町村などと調整する専門職です。
{笑い事ではありません」ーー ありません 諦めずに何とかしましょう(かつた)}
 介護サービスを利用したい人は まず自分の住んでいる市区町村の窓口で『要介護認定(支援も含む)』の申請をします。
  {要介護の前段階に 要支援1 要支援2 があります 勝田は:脊柱管狭窄ー腰痛歩行困難で要支援2で1年後に要介護1になりました(かつた)}
 ここで登場するのがケアマネジャーです。
 市区町村からの依頼を受けて要介護認定申請者の自宅を訪問し、認定できるかどうかを調査・報告します。
 その後審査が通り市区町村から『要介護認定』を受けると、
 次に『ケアプランの作成』というステップに移ります。このケアプランの作成もケアマネジャーの仕事のひとつ。
 ケアプランとは介護保険適用サービスを利用する際に必要な介護の計画書です。介護サービスを受ける方の身体の状態などを見てどんなサービスや支援が必要で課題は何かなどを把握し、ご家族とも相談しながら最適なケアプランを作成します。そのケアプランに沿って介護サービスが提供されます。
 ケアマネジャーは 介護サービスを利用する方と、介護サービスを提供する介護事業所との間の重要なパイプ役 といった感じですね。だからこそ信頼関係を築くために誠意のある対応を心がけないと「あのケアマネは偉そう」なんてことにもなりかねません・・・
 *{実際にケアマネージャーとうまく行かず 変えてもらうこともできます
 秦さんのかなり厳しい病歴と現状や 奥様のも(かなりの入院歴と思いますが)現状を理解し 高齢者の{先}を考えれば ”調査”もしないという事はないと思うのですがーー
 また ピントが違うかなと思いますが 先ずは諦めずにお願いします お役人は遠慮をすると こちらが損です (かつた)
 
ご無沙汰しております 実は1ヶ月ほど前に よろけ転んで頭をぶつけました 老人ホームの玄関だったので 病院受診になってしまい 病院としてもする事はするわけで何度か検査々々でまだ解除されておらず 厄介です 本人はやはり「ボケたな」と反省しておりますが 転んだ場所がまずかったなと諦めて普通にしています
 
「ウンベルト・エーコ」調べてみます
 
秦さん くれぐもお大切にされてください 高齢者にはコロナはまだまだです お気をつけください 
またメールください 勝田e-old chiba
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月十日 月  
    起床6:00 血圧 155-75(65) 血糖値 92 体重 56.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯  日本 四宮憲章・訓  秦 恒平・釋
 ○ 晩 春     韓文公   
 草木知春不久帰  草木春を知て久しく帰らず  
 百般紅紫闘芳菲  百般の紅紫は芳菲を闘はす
 楊花楡莢無才思  楊花楡莢にはその才思無く 
 唯觧満天作雪飛  唯觧けて満天に雪飛を作す        
  * 強いて時事に託けて知解しようとするのは煩い。自然のママに眺めて佳い。
 
 * 零時近くに寝入り、三度の手洗いで済み正六時に床を起った。かなりに冷える。このところ春暖を感じない。夢、極めて不快で、何が同働いてあのような夢にイヤなヤツと確執するか。人間に、夢不用と言い切りたい、が、時には舞い立つほど嬉しい夢に逢うからなあ。
 
 ○ お元気ですか、みづうみ。
 <生きた心地がしない>ご体調のごようす、何をどうすれば、少しでもみづうみがご健康でお気持ちも晴れるのかと、もどかしさのまま悶々としています。あけぼのの日々はみづうみのことを想い、すっかり湿っぽくなりました。
 
 <幸い「要再校」本紙は送り終えてあり「湖の本 162」発送の用意はおおかた妻がして呉れてある。発送に必要な 宛名用紙か、もう五回分の用意はあるので「ガンバッテ」とハッパをかけられた。アリガト。>
 
 奥さまなればこその最高のお励ましです。今のみづうみを支えるのは『湖の本』であることを知り尽くしていらっしゃいます。夫婦は同志であることが理想ですが、お二人はまさにそのような唯一無二の「身内」でいらっしゃる。
 今のわたくしはみづうみに手が届きませんけれど、「秦恒平」の論攷に悪戦苦闘しながら必死に近づこうとしています。みづうみに、書き上げたものをお読みいただけますように、どうかどうか長生きしてお元気でいらしてくださいますようにと願いながら、「読んで・書いて・考えて」生きています。
 「欲しい」資料が許されるなら「年譜」が一番頂戴したいモノです。文壇デビュー以後のもの、公開されていないみづうみの年譜が、もし存在すれば是非にと思います。
 わたくしの願いは、何度も申し上げましたが、未来の読者のために、著作権継承者を奥さまと建日子さまお二人だけに限定して正式な書面にしていただきたいということ、また書かれたものすべてを正しく管理保管、場合によっては出版する遺著管理人を、ハンナ・アーレントのように元気なうちに早くから決めていただくことです。この遺著管理人は一人だけにする必用はなく、たとえばウェブ担当者、ホームページの管理人も含まれましょう。ホームページは日々変化する生き物ですから、内容が同一でも常時ネット環境にあわせてバージョンアップして対応する必用があるのです。引き受け手はいらっしゃるでしょ。
 今回の「とめども波の」の「有済」の章を拝読し、背筋がぞくっとして凍りついてしまいました。東京山の手育ちで、このような「凄い」話の存在を身近に一度も経験することなく、本の中の他所事としてしか知らなかった自分を深く恥じます。自分の人生が変えられるような物凄さでした。「湖の本」だからこそ出版できたもので、現在の出版界では決して日の目を見ることのない話。この見て見ぬフリの臭い物に蓋をしてきた日本人の罪深さに慄いて恐怖を感じるのは、わたくしだけではないはずです。怖い、ひたすら怖い、酷い話でした。何がコワイと言って、自分を含めたふつうの無関心な人間ほど醜い恐ろしい怪物はいないと思い知らされました。悪は無関心な人間の為すものと。
 次巻『或る往生傳』の中に潜んでいるだろうデーモンも、きっとわたくしを変えてしまうのだろうと思っています。それがどれほど凄まじくても受けとめる覚悟はあります。
 みづうみの日々にご平安がありますように。素敵な一日をお過ごしくださいますように。                             春は。あけぼの
* こういう方が在って、わたくしは文士として存在仕得ている。感謝の他ない。
 
* 江戸は「旅宿の境涯」と喝破したのは荻生徂徠だった。今日の東京もおおかた変更はされていない、多くの住人が「田舎」「本籍地」という根拠を地方に持ったまま、東京に、地所や住居をいわば「借りて」暮らしている。私のようにもはや戸籍上の本籍地をお国に返上してしまって何十年も何倍もの久しい者でも、根は「京都」と頑固に思い込んで断然変改しない。「旅宿の境涯」その通りですと居直ったままでいる。さもないと実感で生きていられないのだ。「東京都」さん、ゴメンナサイ。
 
 ところで、上にご希望の、作家としても私人としてのも、「秦恒平年譜」は、もう自編は出来ない、そのヒマはない。ただ幸いに私は和歌山の三宅さんにお世話になった限定豪華本『四度の瀧』昭和六十年元旦刊行までの「年譜」は、その本にほぼ整ってある。そして、それ以降は私自身が「外向き」仕事を愛しい指揮して避けたので、文藝上野年譜は『湖の本」で、大略は確認できるはず。私事私行はてどによるが、およそ無いにおなじいいか、幸いに機械の「私語の刻」が具に書き置いているだろう。機械の雉は、強いても削除していないので、大方は機械に残って居ねだろう、板に保存した何かも有るかも知れぬ。
 
 * コロナ禍に脚を堰かれて三年行けなかった帝国ホテル ザ・クラプルームへ改めて゛むけるよう、電話(服部氏)で話し合えた。
 
 * デイ・ケアなる「相談相手」を頼もうかと、明朝、まずはお目見えの人と初対面を約束した。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月九日 日  
    起床7:00 血圧 155-75(65) 血糖値 92 体重 55.6 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯  日本 四宮憲章・訓  秦 恒平・釋
 ○ 社 日     張 演   
 鵞湖山下稲梁肥  鵞湖山下の秋 稲も梁も肥え
 豚柵?棲對掩扉  豚柵 ?棲は みな扉を掩ふ
 桑柘影斜春社散  桑柘影斜の春 祭儀は今し散じ
 家家扶得醉人帰  家家みな 醉えるを扶けて帰る
  * 豊作を祈り喜ぶ春秋の祭日。
 
 ○ 昨日、夕方の内に、諸方の利尿剤と浮腫止めとを服しておいた。就寝前に頻回の排尿を済ませておこうと。成功した気がする、一時間半から最終は三時間ちかく寝入っておれた。そして、夢見も劇的に感動編であったから有りがたい。もう記憶はもやのように薄れ去って行ったけれど、感動は胸に残っている。それをうまく謂えないのは追いが、それが、夢。不快が無く感銘してたのなら、祝着。
 
 * すっかり衣服も改まってきた。いま、背広を着ている。何年ぶりだか。気無くなっていた背広がタンスに十着もぶら下がっていて、可哀想に懐かしくもなった。この恰好でなら、このままフイと新幹線にも乗れるかも。
 
 * 「湖の本 163」三校が出てくるまでに、題未確定の、ま、長編といえる小説を脱稿したいが、前途は未だ錯綜している。なら、思い切りの錯綜編に仕上がればいい、慌てまい。後半に収めるいつもの「私語」をも、どう編むか。
 
 * 体力と気分が許せば一度街へ出歩きたい、それどころか、遠くアチコチへ人の顔も見に行きたいほどの気は有る、が、いながらにヨロケている。左下脚に、折れそうな曲がった感覚が有る。
 どこかヤブレカブレ気分も出来かけていて、なんとでもなるさと出たトコ勝負に老い尽くす気もある。行き倒れたら、それはそれまでと。あとあとを真剣に語らい合い肩の荷を下ろしたいとコッチは痛いほど本気で願ってたが、建日子も妻も、テンでその気が無くて「おハナシ」にならない。トーサンの好きにすればいいと。肩の荷は、情けなく、何一つ軽くはシテ貰えない。ま、生まれ落ちたときから、血縁・肉親とは「他人」も同じだった。死ぬる日にも同じは、天命なのか。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月八日 土  
    起床6:50 血圧 155-75(65) 血糖値 92 体重 56.7 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯  日本 四宮憲章・訓  秦 恒平・釋
 ○ C 明     王元之   
 無花無酒過清明  花無く酒無く 清明を過ぐ
 興味蕭然似野僧  興味蕭然たる 野僧に似る
 昨日隣家乞新火  昨日 隣家の薪火を乞ふも
 曉窓分與讀書燈  曉窓 分與ふ書を讀むの燈
  * 名は禹 歳七歳にして 能く文に屬すと。爲に、眞宗のとき其の才を忌まれ貶せ    られている。薪火を乞われても 讀書の燈しかない貧に在り、しかも清明。
 
 ○ 例年より早く咲いた櫻はあっという間に散り始めました。「湖の本 162」在りがたく拝受いたしまして、その中で「自転車」の章。私も車とは無縁ひたすら自転車に乗っていますので、大いに共感いたししました。
 京都時代(=学生、教職とも京都大学時代か)は、大原鞍馬は朝飯前、行きの花脊峠や、大原を越えて途中峠までついつい行ってしまったことがありました。最遠の地は周山です。御礼まで一言申し上げます。  福岡市 祐  九州大名誉教授
 
 * 結句の、「最遠の地は、周山」には、さすがに、のけぞった。ほとんど日本海沿いに同じい。京都市内から、自転車のペダルを編み続けて、だ。今西先生に、降参。
 
 ○ このたびは 『湖の本 162』を賜わり有難うございます。
    菜の花の黄色が
    まばゆい頃となり
    風が光っています。
    先生、ご夫妻のご体調
    案じて お手紙をと
    ペンを執りましたが
    ただただご回復を
    祈るばかりで……
    絵葉書を同封させていただきます。
    画面にてお見舞申し上げます。  「来福」印
  (別一枚はがき、には 墨で大書)
    きる  人生は心の持ち方ひとつ
          京…山科  じゅん 詩人 神戸大 名誉教授
 
 * 「祐」先生 「じゅん」先生 知己の言 有難う御座います。こうして、わたくしは励まされ、立ち直り、思い返す。感謝。
 
 * 橋田有子さん、二朗先生のお嬢さん、京の若筍を送って下さる。
 
 * 寒い。目。明いてられない。気持も躰も低調を極めている。
 
 ○  お元気ですか、みづうみ。    春は、あけぼの
 昨日から探し続けているある資料が見つからず不貞腐れております。どうして資料は必用なものほど消えるのでしょう。自分のファイリング能力の欠如、記憶力の低下に愛想が尽きます。
 とは言え、愛想尽かしばかりしていると人生暗いし自分が嫌いになるので、時々自分のことを励ます必要があります。わたくしを励ましてくれるような奇特なひとはいませんので、自分で自分を叱咤激励します。自分の能力以上のことをしているのは明らか。わたくしのは能力がない。でもそこで終われないとしがみつく。このあきらめの悪さというかバカさ加減は、良いか良くないかわかりませんが、もしかしたら一種の才能といえるかも。わたくしは、望んだことを諦めない性向があることに最近気がつきました。賢いひとならどこかで折り合いをつけるでしょうに、なぜかまだ諦めないぞと思ってしまいます。
 たとえば、卑近な例ですが、周囲には日本の政治を諦めたというひとがたくさん。そういう人たちに腹が立ちます。日本の政治を見限ることと、あきらめることは違うと感じます。見限っても出来ることを探すことが、無駄でも選挙に行くという気概がなければ敗北が加速するだけですから、自分は毎回一票を投じます。
 最近テレビやネットでもてはやされるアメリカ有名大学の先生がいます。彼が、若いひとが選挙に行く意味はない、人口比率を考えると若者が選挙に行っても投票結果に影響を与えないと発言していました。統計学の分析らしいのですが、若者が選挙に行く意味がないとの発言に驚愕! その先生の名誉のためにつけ加えると、選挙システムを世代別に変えればいいという解決案も提示はしていらしたのですが、彼には、若者って人間ではなく数なんでしょう。
 この先生は、多数派にならなければ世界は変えられないという認識のようです。勉強が出来て頭脳明晰とされる大学の先生が、この程度の知性です。その一見論理的に話すエセ文化人をもてはやす世間とは、どこまで愚かしく流れているのか。
 世界を変えてきたのは多数派ではなく、大抵一人の人間の信念と勇気であり、その一人と協働した少数の人間たちでした。彼らが命がけで挑んだ結果、世界が動いた。多数派は世界に動かされる側にしかならない。歴史を見れば天才に限らず、ふつうの人間が世界を変えた例もいくらも見つけられます。自分でも世界を変えられると妄想を抱いたオメデタイ人間だけが、世界を、民主社会を守るにことに貢献できると思うのです。
 緒形貞子さんが「世界から戦争をなくすことはできると思いますか?」と問われて、「残念ながら、世界から戦争がなくなることはないでしょう。でも、戦争をなくすことができると本気で信じる人にしか、世界を変えることはできません」という発言をしていらした。
 
<一つ申しておきますが 御著述中にもしも 「秦恒平」という文字が「一度」現れたら、著者のあなたもその本も、「一度」ずつ疎まれ嫌われるものと思ってて下さい。>
 
 みづうみのこのお言葉がもし事実としても、わたくしは次の「秦恒平」と角逐する天才の登場のために、自分が何とか今の潮目を変えてみようと思ってしまうのですよ。今回の『読者の仕事』もその心意気で書いたようなものです。自分の力で戦争をなくせると信じるほどの思い上がったバカですが、やすやすとあきらめたくない。
 こんなことを書いているうちに元気が出てきたので、また探し物がんばります。
 みづうみ、疲れながらも日々楽しんでくださいますように。  春は、あけぼの
 わたくしの将来の構想のなかで、「秦恒平ホームページの復活」は是非実現させたいのです。その布石として、若い世代に今回の『読者の仕事 私を創る』をお渡しできたらと願っています。もちろん、もしみづうみがお許しくださるならのことです。たとえばホームページ復活を申し出てくださった兵庫大学の鷲津先生や桜小次郎氏にお送りしたいのですが、どう思われましょう。若者が投票に行っても結果は変わらない、若者は本を読まない、そんな未来をあきらめるようなことは罪に等しいので、何かしたいと思います。
 
 * ありがとう。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月七日 金  
    起床5:15 血圧 155-75(65) 血糖値 92 体重 56.8 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯  日本 四宮憲章・訓  秦 恒平・釋
 ○ C 明     杜牧之   
 清明時節雨紛紛  清明の時節 雨紛紛たり              
 路上行人欲斷魂  路上の行人 魂を斷てり        
 借問酒家何處有  お尋ねする 酒家は何處
 牧童遙指杏花村  牧童遙か指さし杏花村と
 * 名は牧 京兆の人 唐の太宗の初 信士に登る。時勢を諷して複雑に読む必要なし。   題のまま、しとどの雨に降られながらも、行人、牧童、清明余裕の光景を微笑して   味わうが良い。漢字一一の美しさ慥かさに心惹かれ、横溢の詩趣を喜びたい。
 
 * 「リラぁの花ぁの」と夢中、夜通し唄いつづけていた。アトの歌詞は知らないのに。
 
 * 「湖の本 163」押して「要三校」で印刷所へ戻し、ゆとりの時間を「懐中」して肝要事に向き合いたい、と。なにも、慌ただしく急く事は無いのだ。大事なのは、仕事の「楽しめる」ということ。
 
 * 午前、歯科へ通う。降られないと、いいが。江古田二丁目の櫻並木、「残花」が眺められようか。
 
 ○ 雨の日の櫻   元気ですか? 元気ですか? 繰り返し書いてしまう。
 桜の季節もあっという間に過ぎそうです。桜を楽しまれましたか?
 昨夜から朝方にかけて雨の音で目を覚まし、今日はまだ雨模様。風邪気味で倦怠感脱力感に浸されていましたが、今日は気力が湧いてきました。
 こんな時思うのは残された時間をどのように捉えるか、様々な要素、周囲の人たちの生き方から「客観的に」自分の寿命を考えるか・・それとはまったく反対に、寧ろ唯々元気に百歳までは生きるのだと、些か誇大妄想に考えるか。
 楽観的に生きたいけれど、それはわたしではないでしょう。
 以前のメールに、鴉が「二度と逢えない」と書かれたことがありました。愕然と、凍り付いてしまった思いがわたしの中でさまざまな姿を顕し、形作っています。悲しいです、残酷です。毅然と生きていきたい・・これまでの日々もそうでした。
 鴉、気分よく、できる限り軽快に、日々を過ごしてください。メールもください。
大切に 大切に     尾張の鳶
 
 * 歯科から帰って、ただただ寝入っていた。
 建日子が、帰ってきた。……、もう建日子「との」時間、残り少ない、無いに近いのだなと、諦めるように思う。
 朝日子との、みゆ希との時間は、もう希望の無い「ゼロ」同然のままに吾が世は果てる…らしい。次の歌に、いま、私は同感していない。
 
 生涯にたつた一つのよき事をわがせしと思ふ子を生みしこと  沼波美代子
 
 幸いに、「身内」の思いを、「肉親」よりも遙かに遙かに豊かにわたしは識っている、感触している。過去にも。現在でも。それが、「生きてきたわたし」が、「わたし自身にだけ」与えうる「遺産」だ。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月六日 木  
    起床7:15 血圧 155-75(65) 血糖値 92 体重 56.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯  日本 四宮憲章・訓 秦 恒平・釋
 ○ 海 棠     蘇東坡   
 東風嫋嫋汎崇光  東風嫋嫋 崇光を汎べ        
 香霧空濛月轉廊  香霧空濛 月廊に轉ず
 只恐夜深花睡去  只だ恐るは夜深うして花睡り去るを
 故焼高燭照紅粧  ことさら高く燭を焼いて紅粧を照せ
      
 * 崇光は宮居の名。唐王と楊貴妃の逸事に取材。推して宋の時事時節を諷諫の要は    無い。
 
 ○ わが家は、近所の野鳥たちには何時でも清冽な水が飲める場所として知られて
いるようで、毎朝野鳥の声が目覚まし時計の換わりになっています。
 年間を通じ来宅する常連は、キジバト、ヒヨドリ、メジロ、シジュウカラ、スズメたち。一度だけ来宅したアオジ、シロハラも含め今までに16種が訪れています。
 特にキジバトはわが家を別荘と見なしているようで結構長時間休憩しています。
                              篠崎 仁
 
 * 懸命に色々ししていて、「私語」のヒマも無かったようだ。夜九時過ぎ。どんないちにちだったかも覚えない始末。頼りないことです。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月五日 水  
    起床6:15 血圧 155-75(65) 血糖値 92 体重 55.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯  日本 四宮憲章・訓  秦 恒平・釋
 ○ 春 夜    王介甫   名 安石 宋 ?寧に相を拝し荊公に封せらる
 金爐香燼漏聲殘  金爐に香燼きて漏聲は殘る
 剪剪輕風陣陣寒  剪剪たる輕風 陣陣と寒し
 春色腦人眠不得  春色 人を腦ませ眠り得ず    
 月移花影上闌干  月は花影を移し闌干に上る 
 * 王安石は、希世総理のの政治家 撫州臨川の人。詩は 齷齪の詮議や介意により推 して読まず、漢詩自体の妙味を字句の斡旋そのものに悦び、かつ楽しみ読みたい。
 
 * 夫妻揃うての、妻が八十七歳誕生日を、赤飯と、紅書房お心入れの名菓と、ワインとで祝う、怪我無く 堅固であれや。
 
 ○ 「湖の本 162」 ありがとうございました。「懸想猿」「畜生塚」「齊王譜」「C經入水』、いずれもなつかしく想い出され、また読み返してみたくなりました。
 先生にはくれぐれもお身体お大切にお過ごし下さい。不一  国立市 恭一
 
 * 神戸の芝田道さんからも。同じく神戸松蔭女子学院大学図書館、福島県立図書館、親鸞仏教センターからも。社会学の上野千鶴子さん、もと岩波「世界」の高本邦彦さん、そして、湘南二宮の高城由美子さんからも。  感謝。
 
 * まるで気が弾まない。体調ととのわないからか、米大統領にまたもトランプかといった、あまりにばかげた報道などのせいか。凍えそうな孤独感、寂寥感を覚えている。からだと仕事が許してくれるなら、飄然と旅に出たい心地。何処へ。アテはない、京都としか。 京都へ帰りたいとは、ほとんど、「死にたい」というのと同義のように身内にあかい炎火が立つ。
 
 * 夕方も早い五時前に食事して、そのまま 八時前まで寝入っていた。風邪けの嚔や洟水が不快、なにも出来まい間々寝入ることに。世田谷区の土方洋一さんの懇切な来診に「慢性的な脱水状態なでは」「心して水分を御摂りになっては」と。多分に謂えていると私にもそんな予感も自覚もある。土方さん、合わせて、「今年は故郷の夜の四条大橋にお立ちになる折が繞ってくるようお祈りいたします」と。「四条河原町から加茂川をわたって八坂神社へ、さらに知恩院方へとぬける道は、私にとっても長年歩き慣れたなつかしい道のりです。 今年は三年ぶりに訪れたいとおもっております  どうぞお元気で 四月二日」と。胸に波打ってくる。土方さん、ありがとう存じます。
 
◎ 令和五年(二○二三)四月四日 火  
    起床6:15 血圧 155-75(65) 血糖値 92 体重 55.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯  日本 四宮憲章・訓  秦 恒平・釋
 ○ 城東早春   楊巨源   字 景山 浦中の人
 詩家C景在新春  詩家のC景は新春に在り
 緑柳纔黄半未?  緑柳纔かに黄に半ば未だ?しからず
 若待上林花似錦  もし上林の花の錦に似るを待つなら  
 出門倶是看花人  門を出づるもの倶に是れ花を看る人
 * 古來、君徳や陪臣の禮にかけて仰々しく解されたが、素直に、城東の早春、錦花に   惹かれ 倶に心弾んで門を出る風流と読み、かつ悦びかつ楽しみたい。
 
 * 朝寒む。既に、視野霞む。
 
 ○  お元気ですか、みづうみ。
 最近の「私語」を拝読しますと、以前に比べ読書への言及が著しく減っているのがわかります。お仕事に必用な「読み」以外の「読書」はお目の負担が大きくなっていらしたと受けとめています。
 加藤周一が、福永武彦の病床に見舞いに行くと、福永が年々楽しみの幅が狭まってきてと言いながらベッドの中でカセットテープの音楽を聴いていた、それが少しも悲しそうではなく、福永がそこからどれほど多くの悦びを得ていたのか誰にもわからないという内容の文章を書いていたことを思い出します。
 みづうみの今の創作の喜びは燃 えあがる焔のようでありましょう。
 
 ここ数年のみづうみの御歌の数々は、歌人秦恒平のさらなる深化で飛翔に感じています。胸うたれます。伊勢物語のような歌物語を読ませていただけたらなどと、妄想してしまいます。
 
 わたくしは、今日一日みづうみがペンクラブに入会した年を探しながら見つけられず、ただただみづうみの文章に惹きこまれ読み耽って 作業中断しました。理事にご就任なさったのは1996年ということはわかっているのですけれど。
 
 <佳いこと好いこと、楽しむことは「クスリ」>2022 9/4 です。
 世界には「クスリ」が溢れているのですから、もっともっと楽しんでお過ごしください。そして毎日ご平安に、ご無事にとお祈りしています。   春は、あけぼの
 
 * 気温はけっこ高いのだと分かっていて「寒け」が全身をさらず、疲れて寝入ってしまう、午前も午後も。午後など一時から四時半まで寝入って、醒めて、異様に着重ねて寒けを抑えている。これでは仕事が進まない。恐らくは慢性的な運動不足でからだに活性が無いからか。むしろ慎重にだが自転車を遣うか。それなら歩けと謂われよう、永く遠く歩くのは億劫なのだ。
 
 * 「読書量が減ってないか」と気遣ってもらっていた、が、「書いて」「書きながらの」必要な「調べ読み」は寡少でなく、いわゆる爲樂の読書は、芯に大長編の『源氏物語』『参考源平盛衰記』がズシンと居座り、加えて『薔薇の名前』がこれはもう尋常でない稠密な叙事叙述イを極めてそれが基督教の修道士や古來の修道院内での煩瑣を極めた論議や紛議に充ち満ちていて、読み進むに容易でないどころで無い困難をきわめながら、それがまた魅惑でもある。その上にこのところ「湖の本」の再々の校正読みも重なって、書いている次巻も多く、ま、満杯状態。疲れは底からも来ているのは、慥か。メールを私から送ることも、減っている。
 
 * 夕方、三十分ほど自転車で残花を偲び走ってきた、下保谷は静かに細道が錯綜していて、しかも迷いはしない。乗り降りにさえ注意すれば、乗車して走るのは、無難で快適、要心はゼッタイに必要だが。
 
* 夕食後は十時までひたすら寝入っていた。止めどなく水っ洟。そして大きな嚔。
 このまま 寝入ってしまうことに。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月三日 月  
    起床6:00 血圧 155-75(65) 血糖値 92 体重 55.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯  日本 四宮憲章・訓  秦 恒平・釋
 ○ 春宵     蘇子瞻  號東坡 宋に仕へ 官 翰林学士に至る
 春宵一刻値千金  春宵の一刻は 千金に値す
 花有C香来有陰  花にC香有り 月に陰有り 
 歌管樓臺聲細細  歌管の樓臺は 聲 細細 
 鞦韆院落夜??  鞦韆の院落は 夜 ??
 * 歌管・鞦韆(謂わばブランコ)を謂うて 以て聲色戯玩の耽樂を戒むる願意・含意   あるかと。作者は蘇東坡(そ・とうば)の名で我が国に親しまれた。
 
 ○ ご無沙汰しております。新野(=東工大卒)です。いかがお過ごしでいらっしゃるでしょうか。「湖の本」ありがとうございました。拝読させていただいております。
 ちょうど昨年の夏から秋にかけてくらいの時期のこと、先生が日々書を読み感じられたことに 自分が過ごした時間を思い出しながら 読ませていただいております。そして先生の生活の濃密さに圧倒されています。
 
「私語の刻」のホームページ電送を断念されたとありました。上手く表現できないのですが、紙媒体での良さ、「整った」文章の凄みを堪能させていただいております。そして何故だか 紙媒体の方が深く身体に入ってきます。
 この違いが企業でITを活用する際の大きな手がかりになる気がしており、引き続き考えていきます。
 お辛い時もあるご様子、どうかご自愛いただければと存じます。失礼致します。
                              聡
 * 東工大教授を離れ、はや四半世紀になろうと。しかも今も、新野君、柳君、鷲津君、上尾君、丸山君ほか また爲我井さん、米津さんら、数えれば二十人に余る当時受講の卒業生諸君諸嬢からの音信や来駕がある。佳い触れ合いが今も有る。たった数年間で定年を理由に院教授へのお薦めも辞退し退任してきた、ごく短期間の付き合いだったのに。
 喜ばしい、嬉しいことです。
 
 ○ ケアマネジャーとは
例えばデイサービスに行く為の申請の手続き等の手伝いをしてくれる現住所の地区に所在する事務所の人を指すのではないでしょうか。私は その手続きで電話をして、今、デイサービスに行っています。
 
 * 頂くメールの中に「ケアマネ」体験らしき一語がときどき読めるので尋ねてみたら、上の返信があった、が。「今、デイサービスに行っています」とはどういう意味なんだろう。。
 
 * 「ツイッター速報」と持ち込みの「雑報」が機械へ毎度入ってくる。プーチンが北海道侵攻の戦略に正式に署名している、日露戦争の恨みを晴らす、とも。疑わしい、が、重々あり得ぬ事で無い。「算術」「悪意の算術」即ち「叡智の外交」力を日々に用意し発揮していなければ「危うい」こと、明歴々。
 
 * 日々に「私語」を書き流している、が、行文上、無意識にも気をつけ、なるべく避けているのは、語尾の「ある」「である」「のである」で。いかに乱発されているかの実例は、手近な諸誌に署名記事を寄せている人の文章から、いやほど拾い出せよう。是が行く文をくさらせこそすれ、光らせることは、めったに、無い。
 
 ○ 櫻日和   体調いかがでしょうか。せめて少しでも桜楽しめますように。
 テレビで平安神宮の桜を映していました。
 円山公園の桜にも出会いたかったです。  尾張の鳶
 
 * 幸いに、下保谷を夫婦しての静かな散策や、歯科へ通って江古田二丁目の大櫻並木で、またテレビで、美しい力有る櫻の満開を眺め得ている。
 
 * 「湖の本」へ、沢山の方また施設から受領の来信。城西国際大学院教授の岩淵宏子さん、石毛研究室の石毛直道さん、豊中市の安川美沙さん「今日は寒い日になりました。寒の戻り、花びえと。それでも櫻は、ほぼ満開で、もくれんや、こぶしには 緑の葉が、しっかり大きくなっていました。買い出しの途中で見られる樹々です。余りキョロキョロすると脚をとられそうなのですが。心がけて歩るくべき、なのでしょうね、外で陽に当って。」は、そうせよ、陽を受けて転ばぬように歩いてということだろう。聖教新聞の原山祐一さん、「ら・ロシュフコーの『箴言』に聴き、新宿河田町とそのさんばいの長さの北多摩保谷町の生活。「抜けろーじ」から、京都の小、中、高、同志社の先生方に発展し、東工大余話の”表現する力にあっとうされました。その議論が何故かいくつかのお身近の自死に…。まりあ・ピレシュのつよい演奏を私なりに思い起こし聴き入っています。敬具、御礼」と。島尾伸三さん、青田吉正さん、江口滉さん、宮崎弘子さん、そして書く大學や施設等々、もう書き写せない。感謝。
 
 * 何時頃からか、とろとろと寝入っていた。眼の底から疲れが湧いてくる。読書もままならないが、「書く」ことは途絶えてならない。
 「湖の本」を収束して、ホームページで「書き続けては」という声は、身近からも私自身の胸の内にも去来はするのだが、せめて「創作」した文章は「本」にしてやりたい…。
 
 * 半ば、寝入ってしまいそうにアタマを垂れて機械のキイを探している。もう一度、つぶやく…
 ○ みのうちをなみだちはしりとめどなき名をしらぬひの火の秀(ほのほ)あやうし
 
 * もう、「長編」と謂わねば済むまい創作が、あやしいまで危なく底揺れして不気味にすすんでいる。しきりに、寒け。風邪か。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)四月二日 日  
    起床6:30 血圧 155-75(65) 血糖値 92 体重 55:8 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯  日本 四宮憲章・訓  秦 恒平・釋
 ○ 春日     朱文公  宋に仕へ 官 翰林学士に至る
 勝日尋芳泗水濱  勝日 芳を尋ぬ泗水の濱
 無邊光景一時新  無邊の光景 一時新たなり
 等閑識得東風面  等閑に識得す 東風の面
 萬紫千紅總是春  萬紫千紅 總て是れ春
 
 * 多彩に細切れの夢を見ながら、夢中に何か検討・研覈していた。忙しいひと。
 
 ○ 秦先生  暖かい日が多くなってきましたね。
 井の頭公園の桜も、風が吹くと散り桜となって舞っており、とてもきれいです。
「湖の本」をお送りいただき、ありがとうございます。今回は東工大の話題があるようですし、とても楽しみです。大切に拝読いたします。
 さて、お身体のお加減はいかがでしょうか。
 為我井さんと連絡を取り、お抹茶がいただける場所を探しているのですが、先生のお家からは遠い場所となってしまいそうです。
 例えば銀座とか、東京とか、そのような場所ですと、遠いうえに人ごみとなってしまうことが心配です。
 場所のご希望などはおありでしょうか。
 また、時期は5月あたりはいかがでしょうか。
 できるだけ先生にご無理がかからない形でお会いできたらと思っております。
 どうぞよろしくお願い申し上げます。  麻紀  東工大卒
 
 ◎ メール感謝   昨年残暑来の ヒドい体調不良が歳ごえに加わり、そんな中で「読み・書き・読書と創作」の手は止めないで、過労とムリとで、ヘトヘトに潰れています。もう一と月も精魂込めれば 仕かかりの大仕事や中仕事にメドが立ってきましょう。天上からは、先だって逝った人たちが、しきりに「もういいかい」と招きますのを、懸命に、「まあだだよ」と断り続けています。
 なんとか四月そして五月半ば過ぎまでは、堪えたいと思っています。そして出逢って 愉しくお喋りできますのを楽しみにしています。まだまだコロナも執拗に尾を引いています様子。要心して、医者のほかは出歩かないでおります。
 
 以前には わりと見やすい「秦恒平のホームページ」を展開し日々発信して歓迎されてましたが、何か私の不器用から潰れてしまい、読者らからは、ぜひぜひ速く復活をと懇願されるのですが、生まれついての「機械バカ」で、お蔭で父の「ハタラジオ店」を継げず仕舞いでした。
 東工大卒業の鷲津くんら男子が寄り寄り、詳細に、いろんな図式を送ってくれているのですが、猫に小判で、とてもとても「送ってもらっているアレコレ」を、どうにかして活かすテクが無く、何の工作も出来ないまま、詳細な助言が、むなしく立ち枯れています。具体的にそれを「どう、こう」と手が出せないで居ますよ、笑って下さい。
 鷲津君等のプランを 念のためここに入れて送りたいと思っても、それが「出来ない」のですよ、なさけない。
 お元気でお元気で。逢えます頃を楽しみに待ちます。  秦 センセイ
 * 爛漫の花の春へ、健康に歩んで行きたい。疲労を抜かねば。
 
 * 紅書房主の菊池さん。銀座から、いつものように瀟洒におしゃれな巧い洋菓子と手紙とを下さった。
 
 ○ 拝啓 落下きりの候となりました。
 このたびは『湖の本 162』をお送り賜りまして恐れ入ります。此処より暑く御礼申し上げます。
 「作家人生の<まえがき>」では、お若いときのお心の揺れ動きと、そのなかでも揺るぎないご決意がかいま見られます。 奥様のお言葉や眼力、凄いことです。
 また、折々 先生のお心の育成(変な言い方ですみません)に、素敵な先生方との触れ合いを書いて頂き、なるほど、實のお母様とのご縁は密接でなかったかわりに、このような思いやりある教師の方々がどれだけ今の先生に多くのものを授けて下さったことかと感じ入っております。それにいたしましてもご記憶の慥かさにも感服です。
 略  昨日、親類の画家の作品を觀に春の院展に行きました折、先生に心ばかりお疲れ休めの粗菓をみつくろって参りました。
 季節の変わり目、ご自愛のほどお祈り申し上げます、 かしこ
   三月三十一日    菊 拝
 
 * 恐縮 そして深く感謝。
 
 * 京舞井上流家元 八千代さんに頂いた「都踊り」諸資料の絢爛華麗になにもかも豪奢に美しく出来ているのに感嘆、しかもその大方は私の遠い記憶や想い出とも協奏して、写真も解説も本文も實に懐かしく。いわば、手をすっとのばせば全部に触れるような祇園の真近に育ちさらに祇園花街のま真ん中の新制中学に通っていたのだもの。
 
◎ 令和五年(二○二三)四月一日 土  卯月朔
    起床5: 00 血圧 155-75(65) 血糖値 92 体重 55:6 kg    朝起き即記録 
        (血糖値、血圧は、月初等随時に、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯  日本 四宮憲章・訓   秦 恒平・釋
 ◎ 緒言  本書は、宋の名賢謝疊山先生の選に係り、唐宋諸家の名詩を輯(あつ)めしものにて、我邦(わがくに)にても支那にても、頗る名高かき詩藉なり。故に苟(かりに)も人の口にのりて、朗吟せらるるものは、多くは本書中の詩にて、今尚口碑(くひ)に傳はりて、人口に膾炙(かいしゃ)するもの多し。(以下・略)
 ○ 春日偶成
  雲淡風輕近午天  雲淡く風輕し近午の天
  傍花随柳過前川  花に傍(そ)ひ柳に随ひ前川を過ぐ
  時人不識予心樂   時人は識らず予が心の樂みを
  將謂倫閑學少年   將(まさ)に謂はんとす閑を倫(ぬす)んて少年を學ぶと
 * 志士必誦と「明治」の本らしいが、私は気楽に臨んでいる。「千家」を尽すことは出来まいが、心行くままに選奨してみたい。明治四一年師走二十五日に初版、翌年三月十八には「訂正四版」が「定價金五午拾錢」で、東京神田の「光風樓書房」から出ているのを秦の祖父I吉が購っている。今日の文庫本大の上製本である。表紙には、題字等のほかに下半に雅な繪が刻されて金彩されていたのが、もう背文字もともに、すべて、擦れ果てている。愛翫に足る美しい本であったろう。
 
 ○ 今年もなんとか目にできた満開の花の下、百六十二冊目の『湖の本』を拝受いたしました。
<「へとへと」の疲労の極>よりさらにおつらい日々の中から産み出して下さったこの本は、秦さんの文学的誕生(生まれついての?)から現在までの徒然が衒うことなく飾ることなく、しかしそこは作家の表現力で的確に描き出され、見事な編集技術もあって、読み手を引きつけて離しません。
 ご夫妻ほどではないにしても、視力・体力、気力とみに衰えて読書意欲をすっかり失っていたのですが、御著が当方を一時覚醒させ、雨に降りこめられた花冷えの日々に目薬の力を借りながら拝読、心に染みました。私家版本「まえがき」貴重、菅原万左問題も氷解です。 
 ありかとうございました。
 どうぞどうぞ御身おいとい下さり、そのうえで「趣味」を全うしてくださいますように。
  二○二三年三月二十八日   敬    出版社役員 編集長
 
 * ありがとう存じます。
 
 ○ 京の花は、 いちどきに咲き誇り、 都をどり開幕までもつかどうかと案じております。
 先日は、湖の本162、 御恵送賜わり、誠にありがとうございます
  此度、おきき及びと存じます 歌舞連場 再開場によせてでましたものを いくつか お送りさせていただきます。
 祇園や、新門前、新橋など思いおこしていたたきましたら 幸いです。
 四月開幕の今年のパンフレットも同封させていただきます
 朝夕は 今だに ひんやりといたします、
 お風邪など召しませぬように くれぐれも 御自愛下さいませ。
   とり急ぎ 乱筆乱文 お許し下さいませ
 秦 恒平様 
   御奥様         八千代  京舞井上流家元
 
 * 我が家からは 小走りすれば二分とかからない知恩院新門前通り西之町に京観世・片山、京舞・井上のお家が在った、今も揺るぎなく在るが、我が父親の「ハタラジオ店」はとうに無く、西隣家が取り払われて視野が明るんでの昔ながらの我が旧家の写真が『選集』の何巻か原色口絵に入れてある。なにもかもが、懐かしい。
 
  * 日本近代文学館、神奈川近代文学館、松山大学図書館からも「湖の本 162」受領の来信あり。
  
 ○  お元気ですか、みづうみ。お疲れで臥せっていらっしゃらないかと心配で心配で。やっぱり「疲労の極」でいらっしゃいました。少しでも美味しく何か召し上がっていただき、夢も見ずに眠っていただき、のんびりしていただきたいと願うものの、今、みづうみを支えているのが「書く」ことであれば、存分に書き続けてくださいと申し上げることしか出来ないのでしょうか。
 今年はなんとなく満開の花見を逃しましたが、今日も美しく咲いている桜木に出会いました。花はそこに在るだけで世界を美しく変えます。風に吹かれてみづうみに舞い散って浮かぶ桜の花びらになれたらよいのに。  春は、あけぼの
 
 * 今朝は、五時きっちりに床を起ち、二階へ来た。待っている仕事は、とめどもなく、私を呼ぶ。私が呼んでいるのだ、實は。
 
 ○ みのうちをなみだちはしりとめどなき名をしらぬひの火の秀(ほのほ)あやうし
 
 
      ■ーーーーーーーー■
 
◎ 令和五年(二○二三)三月三十一日 金  弥生盡   
    起床6: 10 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 55:8 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに  一八二三六月十日 初対面以降
  ○ 「愛とか憎しみとか、希望とか激情とか、その他 心の状態とか激情しかには詩人文人は生まれながらに通じ、また その描写も可能ではあろう。しかし、裁判の模様とか、議会や即位式の様子とかいうようなものは、豫想では分からぬ。實際と齟齬しないように、詩人たちは経験や傳伝などから學ばねばならぬ、自然や社会の観察・経験をないがしろに出来ない。
 
 * 今朝は、五時きっちりに床を起ち、二階へ来た。待っている仕事は、とめどもなく、私を呼ぶ。私が呼んでいるのだ、實は。
 
 * じりじりと事は前へ押し出し運んでいるが、老耄の生活基盤は、崩れとまでいわずともずるずる緩んで、怪我や病に繋がりかねない危なさはもう常在して居る。しかも何も対応対策らしきは出来ていない。ときに烈しい語調で読者のお叱りを受けることもあり、よーく分かっていて、しかし、なーんにもできない、しないままで居る。それでまた??られる。わたしも妻もボケているのだ。むかしの家庭では、こういう時、お嫁さんが気配りし手出しもし年寄りの世話を焼いていたのだろう、それが出来ない、したくないから、核家族化が定着したと思う。
 むかし、新門前の父母や叔母がいっせいに加齢をはやめてきたとき、それは真剣にどう、東京へ三人を引き摂るか移り住んで貰えるかと苦心惨憺したのを想い出す。
 
      ■ーーーーーーーー■
 
◎ 令和五年(二○二三)三月三十一日 金  弥生盡   
    起床6: 10 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 55:8 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに  一八二三六月十日 初対面以降
  ○ 「愛とか憎しみとか、希望とか激情とか、その他 心の状態とか激情しかには詩人文人は生まれながらに通じ、また その描写も可能ではあろう。しかし、裁判の模様とか、議会や即位式の様子とかいうようなものは、豫想では分からぬ。實際と齟齬しないように、詩人たちは経験や傳伝などから學ばねばならぬ、自然や社会の観察・経験をないがしろのママでは済まない。」「それにしても、前もって世界を豫想によって會得していなかったら、見る目を持ちながら見えずに仕舞うだろう。すべての探究も経験も全く死んだ無益な努力に過ぎなくなろう。光りが先ず在って、それから色がわれわれを取り巻く。が、我々の眼の中に光りも色も無いとしたら、外界の光りも色も知覚できない。」
                           1824 2 26 ゲで:
 * ゲーテは独特の「光」「色」を認識に研究し「光学」化していた。ゲーテを卒業することは實に實に遙かに容易でないとよくよく承知しながら、暫く、ゲーテに聴いてきた。
 
 * 夢に、「絵にも描けない美しさ」という、龍宮城へ「来て見」た浦島子実感の歌詞に立ちどまり、「美しさ」は「繪に勝る」のだ、「繪」は「美しさの手前」にある「表現」なのだと詮議しいしい納得していた。
 もう一つ、何かにガンコに立ち止まっていたが、忘れている。
 
 * 歯医者に予約あり出向く。
 
 * 江古田二丁目、桜街道の「大櫻」並木が、ラッキー、みごとな満開、いい日に出合わせた。花に酔うた。
 治療後、江古田の「中華家族」で昼食して、帰宅。強い品の酒をダブルで二杯がよく効いた。
 
 * 講談社役員であった天野敬子さんから、間歇ながら實に言い尽くして嬉しい有難いお手紙があった。
 京舞の家元井上八千代さんからは、新築新装成ったという歌舞練場での盛大溢美の都踊りを色々に編集した美しい書籍や図録やパンフ等々ともに八千代さんの手紙も。ふあっと噎せるように祇園の濃まやかに華麗な空気が下保谷も田舎の秦恒平をとり包んだ。ありがとう。
 お手紙も、図録なども、明日、ゆっくりとまた拝読、拝見する。
 
 * 水谷(むか、佐々木)葉子先生、お手紙に副えて宇治茶の三種と虎屋の羊羹を下さる。恐れ入ります。
 
 * ロサンゼルスの池宮千代子さん、日本のお友達を介して、京都の名菓をとり揃え送っていただいた。チョコちゃん。恐縮、感謝。
 
 * 此処までは書いたが、酔いつぶれたように寝入って夕食もとばして夜十時前まで、昏睡していた。もう、このまま寝入ってしまうことに。万事は、明朝から復帰。
 いま「春は、あけぼの」さん親愛長文のメールが届いていた。拝読。おやすみ。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月三十日 木   
    起床6: 10 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 55:6 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに  一八二三六月十日 初対面以降
  ○ 「私だって死後の生命を信じられるものならよろこんで信じたい。」「然しかかる解し得べからざることは、日々の反省の対象とし、思想を乱すような 瞑想の対象とするにはあまりに縁遠い。且つ又、永生をを信じている人はひとりでその信仰を楽しんでいるがいい。それを誇る理由はないではないか。」「現世の後に次の世が恵まれるものなら、私だって異論はありません。しかし私はああいう信仰を抱いている人々に、また次の世で出合うことは御免を蒙りたい。煩くてたまらなくなるでしょう。」「永生についてとやこう考えるのは、特にこれとい用事の無いひとのすること。然しすでに現在を秩序立ったものと考えて、日々活動し奮闘し、努力せねばならぬ人は、来世は来世にまかして、まず現世に於いて働き、有用な人となる。永生を信ずる思想は現世で幸福を取り逃がした人々に適している。」   1824 2 25 ゲで:
 * フイと目覚めたのでそのまま起きた。ゲーテに「聴いて」いた。偉大な文学者・しじんであり、しかも王に信頼された政治家でもあった、ゲーテ。その曰くにはやはり「時代」に制限された限界もあらわ、だが、そこは受け手の側で深く察知し思いは鍛え確かめねばならない。
 
 * 「湖の本 163」再校出。
 
 * 所澤の藤森佐貴子さん 、いつものように選りすぐりの珍しい名菓を戴く。
 
 * 「湖の本 162」へお手紙等をいろいろに頂戴した。
 井口哲郎さん、持田鋼一郎さん、烏頭尾精さん、水谷葉子さん、寺田英視さん、奥田義人さん、胡子文子さん、高木冨子さん、藤森左貴子さん、山本道子さん、出田興生さん、木村年孝さん、岸田準二さん、平山城児さん、小和田哲男さん、三田文学編集部さん、早稲田大学図書館さん、城西大水田記念図書館さん 等々  感謝
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月二十九日 水   
    起床7: 10 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 55:6 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに  一八二三六月十日 初対面以降
  ○ 「精神と高き教化とを、一般の人々が所有し得るものなら、作者・詩人は立派な仕事が出来よう。彼は少しも体裁をつくらず、少しも憚らず、信ずるところを口にも筆にもし得よう。しかるに彼はつねにとある限界内にとどまっていなければならない。自分の作品が雑多な世の人々の手に入るのだと考えざるをえない。従って又あまりに赤裸々に表現して、多数の善良なる人々の感情を害しないように注意しなければ済まない。
 ところが時は不思議なものだ。時はむら気な、同じい人の言行に対して、世紀の変わる毎に変わった顔(態度)をする暴君のようなものだ。古代ギリシャ人に言って差し支えなかったことも、もはや我々が言うには適しない。」      1824 2 25 ゲで:
 * 夜前、利尿剤をパスし床に就いた。少なくも三度は手洗いへ起ったが、要は過不足なく足りていた。夢中に唄うことも夢見たことも憶えない。安眠に類する。
 
 * 夜十時。夕食後に寝入って、真夜中か曉毛に近いかと錯覚のまま目覚めた。体調重苦しい。昼間、よほど根をめて「湖の本 164」入稿原稿を用意していた。およそ半量の余も思うが、まさか夢であるまい。胸重く鈍い痛みあり。「生きた心地」がしていない。
 
 ○ 尽きぬことの無い御作、御本、賜りました。ありがとうございます。
 お身体の調子が優れられない日も多い中のご執筆、ただ感心し、感謝申し上げます。
 桜も咲いていますが、天候も落ち着かず、お身体に障る事も多いと存じます。ご本発送のお疲れも残るのではと案じています。
 迪子様ともに、お身体お愛いくださいますように。  晴  妻の久しい親友
 
 ○ 「湖の本 162」 『とめども波の 洞然有聲』 感謝
 秦さん  いつもいつも本当にありがとうございます さきにご本を楽しんでしまい 御礼遅れて申し訳ありません
 秦さんに お会いできて 本当に良かったなあと 歳も久しく 改めて嬉しがっております 幾重にも厚く御礼申し上げます
 
  一九六四年八月二十日 秦恒平 (筆名・菅原万佐)
  (東京都北多摩郡保谷町山合二二七五 医学書院社宅)
 
「昭和39年」年号を思うといつも「一体わたしは何をしていたんだろう」と思っています
 「昭和三十七年七月三十日、私はとつぜん小説を書きはじめた。」
 (わたしは 国立秋田療養所で毎日患者さんにストマイの注射 でした)
 「清經入水」をまた読みました あの「清經」は帰ってきてからどうしていたのだろうかと考えています(考えつきませんが)
 「少女」もまた読みたいです 本郷は戦後も古い町並みで好きでした(空襲の際「東大」があるので避けられたと聞きました)
 桜も過ぎ 年度も変わります
 年は年ですが「元気笑顔 元気笑顔」は忘れないようにしたいです 
 お知恵をいただきたいです
 コロナ相変わらず 減ったり増えたりしています まだまだ くれぐれもお気をつけください どうかお大切にされてください  勝田 chiba e-old 拝
 
 * こういうお便りを頂戴するのを 生き甲斐と いうのだと感謝
堪えず。
 
 * 明日朝には「湖の本 163 全」の再校ゲラが届く、と。息つくヒマ無く、次巻のための巻頭部の創作の仕上げもともども、休んでは居られず、やそしち爺、「生くべく」生きること続く。嗤われてもいようけれど。
 
 * 十一時を過ぎて行く。床へ埋もれてせめて安眠したい。
 
◎ 令和五年(二○二三)三月二十八日 火   
    起床6: 10 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 55:2 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに  一八二三六月十日 初対面以降
  ○ 「私は今 十八歳でなくって幸福だ。」「私が十八歳の時には ドイツも亦やっと十八であった。」「今では万事が信じがたいほど進歩し、 その全部の見渡しもきかないほど。その上に我々は なお ギリシャ人やローマ人に、おまけに英国人やフランス人などに成れという。いやそれどころか、又 東洋の方へ向かえというほど狂気じみている。だから若い人々はまったく迷わざるを得ない。」「現にこういうすっかり出来上がった時代にあって、自分は青年でなくて有難い。若かったら、私は落ちつく術がないだろう。よしアメリカへ逃げても、もうおそい。あそこもとっくに夜が明けていようから。」
                             1824 2 15 ゲで:
 * 「明治日本」の若い意欲の知識人らは、まるで逆さま視線を飢えるほどに閃かせていた。出来上がっているゲーテよりも、なにがどう出来ると血眼であった目明治の若い新人たちに、やはり私は共感できる。
 
 ○ 秦 兄
 差別語に関しては、書き物をしている上で、「呆け・痴呆症」から「老人・徘徊」も差別語では、という出版社の校正係から指摘され、窮屈になったなと感じたのが発端で、兄のいう被差別(同和、これからしてややこしい)という差別問題に当面します。
 少年のむかし「三条うら」近辺に住まっていたので 幼少來 学校の先生や両親から、今でいう同和教育を受けていた関係で 私は「三条うら」(=大将軍神社の氏子)の悪ガキ達とは自然体で付き合っていたように思います。
 そんなガキの頃の思い出話を一つ。
 悪ガキの一人と大ゲンカをした時に、悪ガキが兄を連れてきてボコボコにされたので、この卑怯者と悪ガキを又ボコボコにしたのですが、翌日に悪ガキから仲直りの印にと言って大きな牛肉の塊を貰ったことがありました。
 当時は公然と行なわれていた彼我の差別でしたが、大人も子供も食べ物に全神経が集中していた時代で、結婚適齢期でもなければ、子供同士が親しくしていても親たちは普段は気にも留めず何も言わなかったのは、生きることに精一杯の「戦時下・敗戦後」という特殊な時代だったからかもしれません。
 今は「衣食足りた平和呆け」が総コメンテーターになって言いたい放題の無責任時代だけに差別発言も活発化しているかと思われますが、それも他人事で、わが身、わが家庭に関わる場合は、きれいごとを言っていられるか、自問自答しても現実に直面しなければ結論は出せないと思います。
 孫でも居れば、父方の曽祖父は農林省の役人で大正七年に流行ったスペイン風邪で曽祖父と祖父は他界 からはじまり、生母方の大伯父たちは近衛兵の軍人たちで云々と、我が家や親族のルーツなど書き残す作業もしたかもしれませんが、息子と娘の代で我が家系は途絶えるとなると、そんな書き残しも詮ないことと する気も起りません。
 しかし、差別問題に無関心ではないので 折に触れて語り合いましょう。
 今日 から、文化庁が京都で業務をはじめます。地方政党の「京都党」の党首村山祥栄は上皇夫妻を京都御所へお帰り頂こうと言っていましたが、高齢になってからの移住は余程のことがない限り無理でしょう。皇室問題についても私見あり。
 パソコンの件は私も機械音痴というより最近は面倒臭くなり 煩わしいことは避けているのですが、何かと便利な機器なので 少しずつ取り組んでいます。
 明日は 娘と近くのドコモショップへ最新式の携帯電話を買いに行く予定です。 辰
 
 * 要点を得て率直な感想がもらえ、教わることもあった。私の最晩年の大きな課題と化して現れるのが 京都の「差別被差別」を日本史の真相から汲み上げ、批評的に物語ることに成ろうかと、初動の姿勢にもう入っている気でいる。東山区新門前通りという、南側には(甲部…乙部 という苛酷な差別問題を内包している=)「祇園」という大きな遊郭を細い「抜けろーじ」只の二本で隔て、北寄りには、古門前通りが東西に厳しく隔ててその以北、三條大通りに到るまでの「寺裏・三條裏」といわれる相当に廣い往昔來の被差別地区が在る、浄土宗總本山知恩院の二筋の「(新・古)門前通り」が、實に大きな「遊郭」と「寺裏」とを南と北へ恰も拒むように「道」と謂える通路すら無しにガンと隔てていたのだ。
 
 * まだ七時前、晩飯前だが、「絵にも描けない」「へタバリ」で。
 
* 弥栄中学での恩師、理科の佐々木(水谷)葉子先生、宇治の各種銘茶に選り抜きに虎屋の羊羹を副えて「湖の本 162」へお手紙を戴いた。教室へ入って見えた初対面、お若かった。教員の足りなかった敗戦後の京都だった、二十歳前後手あられたか。きびきびと大らかに「理科」を教えて下さった。
 
 * 宮城まえ、村上開新堂主人の山本道子さん、特上のクッキーがみっしりの缶詰めにお手紙副えて下さる。久ーしぶりに昼御飯のお店「ドーカン」へ出掛ければ、山本産に逢えるはず。
 
 * 妻の少女の頃からの友だち神戸の市川澄子さん、いいお便りを頂く。お城博士の静岡大小和田哲男教授からも。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月二十七日 月   
    起床7: 15 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 55:25 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに  一八二三六月十日 初対面以降
  ○「私の眞の樂しみは詩的な瞑想と創作とであった。」「もしも公の職務上の仕事から、もつと遠ざかり、もつと孤独に過ごすことが出来たら 詩人・作家としても更に多くのことをしたであろう。」「しかしながら或る賢人の言葉が事実となった。『人が一度世間のためになるようなことをすると、世間の人は手出しをして二度とそうさせまいとする』と」                              1824 1 27 ゲで:
 * ま、平穏に、目覚めて起きた。強い風が外を奔っている。
 
 ○ 秦恒平様   加齢現象との苦闘の中からお贈り下さった『湖の本』162 を、発送のご苦労をお掛けして何か申し訳ないとの思いとともに拝見しました。肉体は衰えても、筆の冴えは一向に衰えませんね。感嘆。
 高校時代のご活躍はブリリアントとしか、言いようがありません。同じ時代を生きたのに、私の如き鈍才はまったく子どもだったと、自らを振り返り見ます。大学卒業後は父との約束で家業にしばらく就いてから学業の道を選ぶとともに、後戻りを不可能にすべく結婚、30代に入ってからも助手の給料では子どもたちに食べさせるものもなく苦闘しました。その後は学問的にも苦闘の連続で、昨年の『ヨブ記注解』の出版に及んでおります。
 
 秦教授の東京工業大学のクラスにおける学生たちへの質問の数々は、よくポイントを突いておられる。学生たちとのやり取りの「妙」に感嘆しました。学生たちにはよい刺激になったでしょう。
 お身体を労りつつ、長くご活躍ができますようにお祈りいたします。
 ありがとうございました。 並木浩一  icu名誉教授  浩
 
 * 昨歳末一ヶ月の「私語の刻」を、『湖の本 164』のために再読していた。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月二十六日 日   
    起床7: 15 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 56:5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに  一八二三六月十日 初対面以降
  ○ 「一般に一個人のもっとも重要な時代は 発達の時代だ。」「青年時代や壮年時代を回顧して、いま、この晩年にあたって、当時ともに若かった人々のなかで残っている者のなんと少数であるか。」「世の人々はたえず私を運命の寵児のように賞め讃えている。また私も不平も云わねばわが來し方を歎こうとは思わない。しかしながら畢竟するにそれは、苦労と仕事とであった。」「我が七十五年間を通じて眞に楽しかったのは ものの一つと無かったと云うていい。繰り返し繰り返し上に上げようとして 一つの石を絶えず押し転がしていたようなものだ。私の活動の要求は、外からもまた内からも、余りに多すぎた。」                          1824 1 27 ゲで:
 * ま、平穏に、夢も憶えない一夜を 気持ゆっくり寝(やす)んだ。
 ○ 東山の 桜の花も盛りに成りました、
 今日 湖の本(162)届きました、有り難う御座いました。日々頑張って過ごされてます様ですね、
 今月18日には後輩が誘ってくれて 日吉ヶ丘(茶室)まで行って来ました。懐かしい山も、月日を経て以前よりは少し落ち着いた母校に変りました、
 最近は体調がすぐれませんが お蔭様で少し元気を取り戻せた様です、
 急に体力が落ちて何とも成りません 、困った事です、
 明日から楽しみに拝読 致します。有り難う御座いました。 お元気で !  華
 
 * 華も、だれもかも、京都の友はみな七十年昔の、「高校生」の笑顔や声音でしか想い浮かばない。これ、「幸せ」と謂うべく。しかし夫君をなくされた方もあつて、胸を痛める。
 
 ○ 野路です   「湖の本」162を ありがとうございます。
 近頃老眼が進んだせいで 小さい文字が読みづらいので助かります。
 それでも芹沢光治良の「教祖様」の二段組を読んだりしています。亡くなった大江健三郎がどこかでこの本を褒めていたとか。懐かしく思います。
 芹沢さんと秦さんは全く違った作風の作家ですのに どこか似ているように感じます。表現の仕方は違っていても 言葉にする前の 思い に共通性があれば読者の心には似たような孤独が響いてくるのかもしれません。
 芹沢光治良は96歳で出直されたんですよね。
 秦さんも天理教の唱える 天寿115歳を目指して頑張ってください。
 (私は天理教信者ではありません。)
 秦恒平さま
 
 * 野路さん、ありがとう存じます。 芹沢さんでのご縁、久しくなりました。嬉しいことです。お元気で。
 
 ○ お元気ですか、みづうみ。
 昨日湖の本を無事に頂戴しました。みづうみに申し上げるのを忘れていたかもしれませんが、ご本はビニール包みなしでも毎回とてもきれいに届いています。謹呈箋も お手間を考えるといつも申し訳なく思っていましたので、以後も不要とお考えいただきたく存じます。
 今朝、<作家人生の「まえがき」>まで読了しました。デビュー前の若書きですのに、すでに大家にしか成りようのない凄みの文章を読ませていただきました。著作四作「まえがき・あとがき」がそれぞれ立派な独立した作品で、出発時点においてすらの、この文学的到達には 肌に粟立つものがあります。
 これから「とめども波の」「洞然有聲」に入ります。この二作品は みづうみのレイタースタイルの名作のように直観します。
 情けないと怒らないでいただきたいのですが、「洞然有聲」は「とうぜんゆうせい」と読んで間違いございませんか。奥深く静かでありながら聲を出すという意味に受け取ってよいものか? お教えくださいますか。
 「とめども波の」の 最初の和歌三首 素晴らしいです。みづうみの名歌ベストいくつかに挙げたい。お母上からの歌人遺伝子が大輪の花を咲かせています。
 もし誰かに似るのなら、容姿ではなく才能のほうが嬉しいと思うのは欲張りでしょうか。
 昨日から 花冷えの雨です。どうかご体調くずされませんように。発送作業のお疲れでませんように。
 毎回湖の本を心待ちにして、その期待の裏切られたことがない、そんな文学者は稀有です。 益々の高みにお上りください。     春は、あけぼの
 
 * 作者へ出で立ち前の四冊「私家版本」への「まえがき・あとがき」を揃えてみた編成をご支持下さり、「ああ、よかった」と、嬉しく手を拍ちました。
 「洞然有聲」は「とうぜんゆうせい」 志して惟うことある方々には、つねに胸深くにちからづよく響いている「聲」かと想われます。
 歌三首に目をとめて戴け、幸せです。縁淡く死に別れていた生母の文藝を引き継げてますこと、母は喜んでいてくれましょうか。
 
 ◎ あかぬまの花冷えの雨もうつくしくわれの狭庭(さには)に木々とうたへる
 
 ○ やそしち兄上様
 今日は雨の中 ご本が届きました! おめでとうございます!
 本が出るたびに 本当によく頑張られるので 驚いてばかりいる妹です。
 あとがきに書かれている兄上の体重は 48キロの私に近いですね!
でも 記憶力も書く力も素晴らしく、 感心するばかりです。
 どうか無理せず お体大切に頑張ってくださいね。
 88のお祝いまでに 太られますように〜  いもうとより (妻の妹)
 
 * 琉っちゃん、お元気に、心行くまで繪も詩もかきつづけてください。
「表現」 いっしょに励みましょう。やそしち、繪が描けませんがね。
 
 * ソー、か。この冬至には「やそはち爺」になるか。
 
○ 今日午後、御本が届きました。発送作業、石のように重く感じられたとメールにあり、案じておりました。
 お疲れでしょう。今はゆっくりゆったりなさってください。 尾張の鳶
 * やはり、すこしでも「読んだ」便りがありがたい。やすんでられず、次の大きな仕事へもう踏み入って、前身がそこへ傾いていますよ。
 
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月二十五日 土   
    起床5 15 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 56:4 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに  一八二三六月十日 初対面以降
  ○ 「人々が莫大な金を一枚のカルタに賭けるやうに、私は現在に賭け、誇張なしに、できるだけ現在の価値を高めようとした。」   1823 11 16 ゲで:
 * おお、それはもうどんな言葉にも写しがたい、優美なまで暖かに心はずみ心嬉しい夢見に、明け方、抱き取られていた。眞実、多くの優しい声と笑みと親愛に包まれていた。
 
 * そのまま、寝床から起ってきた。幸いに尿意に起こされることは睡眠の前半に三度、間隔もながくその後は安眠し、そして希有に嬉しい夢に、少年のようにくるまれていた。
 
* 久しい懸案の一つを解決した。一息つく。
 * 野球も相撲も、今一つ私に食い入ってこない。疲労の濃いこの頃では、睡眠に勝る安住はない。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月二十四日 金   
    起床6 :20 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 56:5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに  一八二三六月十日 初対面以降
  ○ 「詩は、文藝は、すでに詞・言葉から出来てゐる。その上に(=説明的・指導的な)それを加へたら、ただ邪魔をする。理会なく未熟な注釈者や批評家が乗り上げる暗礁だ。」
                            1823 11 10 ゲで:
 * 終夜、超絶不快不可解な不始末失敗で自己嫌悪の極に呻く夢魔に魘されていた。手洗いから床へも゛って裳忽ちに悪夢の「続き」だった。わたしは、はや狂ってきたか。
 
 * ためらわず、発送作業の二日目へ。
 十一時前、全発送用意を終えた。希有の能率。少し身軽に成ったのを利して、次の新しい「書き・創り」へ踏み込みたい。
 
 * 自転車でポスト、郵便局そしてローソンへ。帰り、あえて登り坂を走ったが、へこたれず、乗り切れた。脚は、働いて呉れる。
 
 * 映画『ウインストン・チャーチル』に感動。わたくしも、もし日本国土と国民とが-暴國にに占領占拠支配されるよりは、国土と国民とを挙げての徹底抗戦を支持し決意して奮闘したい。國と国民とは、無道の占領と支配に徹底して甘んじてはならない。
 
◎ 令和五年(二○二三)三月二十三日 木   
    起床6 :30 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 55:65 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに  一八二三六月十日 初対面以降
  ○ 「題材より大切なものがあらうか。あらゆる技巧論もそれが無かったら何の役に立つ。どんな才能の人でも、もし題材が適してゐなかったら、無駄になつてしまふ。それで
又、藝術と藝術家は行き納屋もまた苦しんでゐる。この点を会得せず、何が満足の行くほど役に立つかを認識してゐない。」   1823 11 3 ゲで:
* よほど早めに寝入って、何度か起こされたが間隔は永くなって、朝の六時二十分には目覚めた。そのまま起きてきた。不可解に怖い夢も見て見知らぬ市街を逃げ走ったり囲まれたりもしていたが、もう薄暗い煙のように、憶えない。
 
 * 今朝、早ければ九時頃に通算「湖の本 162巻」新刊が出来てくる。三日ほど発送の力仕事が続く。誰よりも、もう私自身のために「内容」を組んでおり、今回は届いてからも何度も何度も手に執り読み返していた。『わが作家人生の「まえがき」』が纏まったのが良かった。世に「作家」と認められる以前に私は四冊の「私家版本」を作り、それは
「作家人生」へ踏み出すにゆうこうだたが、四冊の孰れにもシカとした「まえがき あとがき」を副えていて、いわば私・秦恒平の「作家宣言」の泰斗内容に成っていた、それを今回キチッととり纏めたのは本懐と謂えよう。
 そして後半も、遠慮無く自己自身の「京都」に密着しつつ編成した。「やそはち歳」へと歩んでいる私自身の気持ちが弾まぬ「秦恒平・湖の本」など、もはや意味が薄れる。
 
 * 九時過ぎに納品され。つまとの連繋で発送作業に入り、順調に午後には一便を送り出した。明日への連繋もよろしく、頑張れば明日中には荷づくりを終えるだろう。なにしろ、一九八六年の六月以来162巻目の発送、手順も心得、かつ封筒等もよりよく改変してきたり、夫婦して慣れきっている。なんとか明日にも豫定の殆どを送り出せればいいが。
 
 ◎ 繪の大きさに 知識も体験も無いのですが 大きな繪の意欲どおりに佳い例は、すくないのでは、と感じています。鳶の作では『浄瑠璃寺夜色』の徹到にやはり、私の感情が交じってとも謂えますけれど、視線を吸い取られる快感があります。
 詩や文藝の話ではありますが、ゲーテが「大作へ走るな。完璧な小品を数重ねて、大作に到れ」と説いていたのを、モットモに感じることがあります。
ヘトヘトに疲れながら、しつこく日々努めて居ます。あたまのボケルのは防げませんが、脚は鍛えられます。歩けること、を多々大事に考えています。きのうは下保谷近隣の静かな花見に一時間半ほど杖ついて散策を楽しみました。家の階段やお宮の石段、まだ苦にならず、重めに設定して足踏み機械もまだ100回踏めます。しかし、脚の外は、ヘトヘトです。昨夜は、就寝前に「ムクミ止め」を服用して一夜苦しみました。からだの水分がトンデしまったように筋骨ばかりに躰カチカチになり、脚から痛み始めて困りました。水分と痛み止めとで、辛うじて遁れました。
 バカなことばかり、やってます。カアカア
お元気で。気も躰も 若々しくいて下さい。  カンざぶろう
 
 ○ 菜種梅雨   メール嬉しく。
 『浄瑠璃寺夜色』で、励ましてくださって、本当に嬉しいです。
 実は今描いているものの一つは浄瑠璃寺で、構図もお手元のものとほぼ同じ。異なる点は、絹絵の20号乃至25号、本堂の後ろの夜空が画面の半分近くを占めています。建物は、一ミリ狂っても違和感が生じるので気を使います。今になっても絵絹の画面を綺麗に塗れないことに苛立ちます・・。
 もう一枚は遺跡、油絵のようになりそうです。まだ終わりません。
 絵の大きさに関しては、鴉の感想に、納得します。現状は、殊に展覧会、大きな、主要な公募展では、既に有名な人は別ですが、大きくなければ全く認められないのが実情でしょう。百号など小さすぎるというのです。
 確かに大きな絵を描くには、大変なエネルギーも要ります。構図構築の丹念な工夫も、時には審査員の絵の傾向なども知っておく必要があったり。誰も誰も「世に出たい」挑戦したい・・!
 いつのことでしたか、有名な日本画家の回顧展に行きました。その人の晩年、かなり高齢にも拘わらず200号、300号ほどの絵が何枚も何枚も飾られていました。何処となく地下街の広告ポスターの間を歩いている錯覚を抱きました。一枚の絵に込められる画家の思いがやはり、希薄にならざるを得ないのでしょうか。
 ここ数日、孫が発熱してわたしたちも落ち着きませんでした。いろいろなことがストップ、です。確かに家事の負担は以前より増えましたが、何とか過ごしています。気兼ねなく動き回りたい思い、まだ具体的な「駆け引き」まで至っていませんが。
 どうぞ日々大切に、元気に、夜ゆっくり眠れますように。花粉症は如何ですか。もう少しの辛抱ですね。  尾張の鳶
 
 * 気張ることは出来たが、晩がたとなれば疲労の濃さは毒のよう。もう、何もしないで、とにかく休む。八時前。安眠したい、が。
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月二十二日 水   
    起床5 :20 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 55:45 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに  一八二三六月十日 初対面以降
  ○ 前日に見てもらった作について、「ただ二言。この作にもふれて言つておきたい。きみは、今、或る立場を切り抜けて、必然的に藝術の眞に高尚な、困難な地点に到達しなければ、即ち、個性を把握するようにならなければならぬ。無理にもそうしなければならぬ。骨を惜しまず、よくよく研究して書きたまへ。」「むつかしいのはわかつてゐる。けれども特殊なるものを把握し描写するのが藝術の本当の生命だ。且つ、個性を描いて満足してゐる間は、誰でも模倣をする。けれど特殊なものは模倣出来ない。なぜか。他人は経験してゐないからだ。特殊なものは他人の興味をひくまいかと心配する必要は無い。一切の性格には、よしどんなに特殊なものでも、また、石ころから人間に到るまで、一切の描写される者には 普遍性がある。なぜか。万物は繰り返され、ただ一度しかないやうなものは、此の世に一つも無いからだ。」「それから、創った作には一々日付を付け給へ。さうすれば、同時に君の境遇の日記になる。決してつまらぬ事では無い。わたしは長年さうして、その利益を識つてゐる。」   1823 10 29 ゲで:
* 私自身の全くのシクジリであった、ひどいメを見た。夜前就寝前に「ムクミ止め」一錠を服したのが響き、数十分ごとに強い尿意に起こされた。からだは、カチカチに干上がってゆき、遂には兩下脚に強い攣縮がきざした。水分払底はふれるだけでもわかり、用意の茶をたっぷりのみ、バファリンを併用して凌いだ。体重も顕著に減っていた。躰に費用名水分輪「むくみ」と排斥したとがであった。七時前、ようやく落ち着いている。
むくみ止め、そして利尿剤、ともに要心してのまないと全身の「水分を奪って」危なく、まして併用は禁物と、しかと「体験」した。
 
 * 世界野球決勝戦で、大谷祥平を最期の見せ場に優勝した日本勢、終わってみると楽勝の觀と見えたほど悠然とした勝味であった。讃えて良い。
 
 * 紛失を、久しく歎いていたモノが書庫で見つかった。有難し。
 
 * 疲労困憊は微動だにせず私の五体を占領している。
 明日からは「湖の本 162」発送。残っている体力を懸命に按配しつつ無事に終えたい。このところの「用意」など、妻が一心に手伝ってくれ、援けられている、感謝感謝。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月二十一日 火   
    起床5 :20 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 56:3 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに  一八二三六月十日 初対面以降
  ○ 「近代の悲劇詩人たちの多くが流暢に生き生きと描写するチカラに欠ける。彼らはチカラ以上のことをしようと躍起になった。いわば「やり過ぎの才能 フォルツイルテ タレント」だ。
 そして『スイスへの旅』を書いた三つの原稿を見せてくれた。「御覧の通り、みな刹那の感興にまかせて書いただけ。計画と、藝術的な仕上げをとは考えてなかった。まるで、一桶の水を空けたようなものだよ」と。「まるで無計画に自在に書いてみる効果」をも聴く思いだった。   1823 10 25 ゲで:
 
 * 「文学館報」で、篠弘氏と樋口覺君の訃報に触れた。樋口君はもと医学書院に居て、三島由起夫のアトを追うように自刃死された村上一郎さんに私淑していたか、と、憶えている。私より一世代近く若かったが。纏まった仕事は何も識らない。ま、文壇ひとになっていたか。
 篠さんは小学館に居て、人物日本史等の仕事や「短歌」座談会で付き合い、烈しく短歌論争したこともあった。編集者で、歌人でもあった。
 訃報などめったに見ないのに、たまたま、今朝、郵便物の中で知った。時節が、又、ひとしきり昔へと後じさりした。
 
 * 午前、妻と、保谷北町方高へブラフラと散策の花見に。陽気宜しく櫻の開花にも、盛の満開にも、色美しくけっこう静寂の町なかで、間々大木の繁りにも春の大空にもまま魅せられ、疲れ切りもせず、満足の、ま、老夫婦がよたよたの散策を楽しんできた。おしまいに、一度入って気に入っていた店で、ラーメン等の昼食にも憩うてきた。下保谷から北町へは、流石に田畑よりは新しげな民家の並びが多かったけれども、實に静かに空は廣く、のどかに心やすまる田舎風情が楽しめた。隅田川や千鳥ヶ淵や東工大の大櫻も素晴らしいが、懐かしく思いおこして足りる。
 
 * それよりも新作の、とはいえ相当に年月を重ねて書き継いできた作の、仕上がり進行へ気を入れて進みたい、願わくは「湖の本 164」巻頭へ持ってきたいと願っている、焦りは、せず。
 
 * 横綱大関不在の大相撲は、なにとしても燃えなくて物足りない。
 大騒ぎの世界野球選手権戰は、メキシコに逆転で勝ち、前途が楽しめる。
 同様、春の選抜高校野球では、京都の平安が、あっさりと勝ち進んでいた。
 
 * ざっと、ゆうっくりだが一時間半ほども散策していた。杖はツイて居ても、歩けていた。家で、重めに設定した「踏み(歩き)」機械も一○○回は踏める。自転車は普通にラクに安定して走れる。「脚は大事に」と家の中でも永らく心がけてきたのが成功している。
 食も、モノによるものの、食べようとしているし、体重も漸増ぎみにある。
 それにもかかわらず、ヘトヘトに疲れる。寝たくなる、躰をすらもてあます。これを改善しないと危ない。しかし、残念にも「読み、かき、読書」は、躰にも神経にも疲労をもたらしこそすれ、それで躰もハツラツとは行かない。ま、工夫し工夫し老耄の老境を生きのびて行くしか無い。不愉快、不快は、エゴイズムに近い仕方でも避けたいと願う。  
 
◎ 令和五年(二○二三)三月二十日 月日   
    起床5 :40 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 56:.2 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに  一八二三六月十日 初対面以降
  ○ ゲーテ宅の、優れた繪畫のまえで、「むかしの人は大きい意向を持つてゐただけでなく、またそれが表現できた。それに反して我々近代人はよし大きい意向があつても、それを思ふままに力強く、生き生きと表現し難い。」 場面変わり、ゲーテの娘らも加わって「拙い芝居」が話題になり、「それもいい、まづいもの(=芝居とかぎらず)に向き合わねば済まぬ場合も。すると、まづいものの嫌さを痛切に感じ、ますます善いものに対する見解ができてくる。讀書となるとさうではない。気に入らなければ本を手放してしまふのだから。しかし劇場では辛抱しなくてはならぬ。」問題は本の場合。つまらなけれ、即、手放されてしまい、それでは「書く」「創る」意味が薄れてしまう。                                   1823 10 21 ケーテ宅で:
 ○ 尾張の鳶に。
 今朝二十日は、五時に機械の前へ。 疲弊・疲労が甚だしく、昼間は寝潰れてしまうので、「朝早の午前」に仕事時間をかためてます。
 「湖の本」 「162」は刷了、うまく纏まってます。週末には納品・発送。
 「163}は初校了、再校出待ち。小説・掌説ないし拾遺を発表。「164」は入稿用意の「編集中」 
 歯は、下左奥に2、3本のほか、上下に歯無し。
 三月十四日は結婚64年、實に久々に、歯科のアト、池袋へ出、佳い食事をしました。「読み・書き・読書と創作・勉強」の以外は、ヘトヘトの疲労困憊で「瀕死のサマ」に寝潰れています。
 花見に出る「からだにちから」無く、辛うじて 此の田舎「下保谷」近隣で、よその農家の庭に咲いてそうなのを、躰が許せば 散策、眺める程度かナ。
 脚力は大切に、機械で可能な限り鍛えています。よろよろが本来の自転車乗りは、脚だけで、らくらく「ポスト」ぐらいへは走れます、ヘルメットして。
 食は、相変わらず極度に細く。それでも、時折微かに空腹を感じたりも。このところは、そんなところ。 
 戴いた『浄瑠璃寺夜色』を日夜、嘆賞、喜んでいます。 お元気でカアカア  
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月十九日 日   
    起床5 :45 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 57:.2 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに  一八二三六月十日 初対面以降
  ○ ゲーテ宅の、優れた繪畫のまえで、ゲーテは語った、「むかしの人は大きい意向を持つてゐただけでなく、またそれが表現できた。それに反して我々近代人はよし大きい意向があつても、それを思ふままに力強く、生き生きと表現し難い。」 場面変わり、ゲーテの娘らも加わって「拙い芝居」が話題になり、「それもいい、まづいもの(=芝居とかぎらず)に向き合わねば済まぬ場合も。すると、まづいものの嫌さを痛切に感じ、ますます善いものに対する見解ができてくる。讀書となるとさうではない。気に入らなければ本を手放してしまふのだから。しかし劇場では辛抱しなくてはならぬ。」問題は本の場合。つまらなけれ、即、手放されてしまい、それでは「書く」「創る」意味が薄れてしまう。                            1823 10 14 ゲーテ宅で:
 * 眼ざめての自覚は、夜通し「マーサカリ」担いだ金太郎が、「クーマに」跨がりお馬の稽古に、「ハイシドードー」「ハイドードー」と勇ましい「唄の一部」を寝入ったまま唱いつづけていたこと。
 幼少のむかし日本少年たちのヒーローは、桃太郎か金太郎だった。わたしは桃から生まれ、着飾っての二本差し、犬、猿、雉を家来に鬼ヶ島で鬼退治する桃太郎より、身近に元気っぱい朱い腹掛け一枚で「お兄ちゃん」めく「金太郎」が贔屓だった。
 いますこしワル知恵がついて、桃から生まれた「桃」とはとヘンに察するにつれイヤな気がしたのも憶えている。
 
 * 刷り上がってきた『湖の本 162』一部抜きを、珍しく読み返し読み耽っていた。
 私の京都時代、とは、即ち「學童・生徒・学生」時期に相当る。そしてそれらを終え、直ぐ東京へ出て、就職し、結婚したのだった。
 よくよくウマが合っていたか「学校」の昔は、先生方も学友たちも、みながみなしみじみと懐かしい。「育った家」「新門前通り」の「ハタラジオ店」を基点・地盤にしていたのだから、人にも地域にも一入の馴染みは当然のこと。有済少、弥栄中、日吉ヶ丘貴、そして無試験で同志社大へ。先生方の御顔も、大勢の学友の顔も声も名も、湧き立つように蘇る。惹き込まれて読み返していた。
 無意味で無駄な、国立大への受験や受験勉強などに手間や時間を取られず、成績推薦の無試験ですっと大學へも進んだ。青春の貴重な時間をかけて私は「京都と日本史」とを「歩き回る」ことで身につけた。それで良かったと今もしみじみ思う。
 
 ○ 元気にされてますか、 From篠
 メールをありがとうございました。返信が遅くなったことをお詫び申し上げます。
 文字が読めない厄介な “ビールショウスキー徴候”なるややこしい状態は、少しずつ良くなっています。先日の脳神経内科医の診察でも順調に回復との診断でした。
 とはいえまだ小さい字を続けて読むのは難しく、「湖の本」を読み通すにはもう少し日数が必要な状態です。
 ライフワークであるギリシア哲学原典講読も Greek English Lexicon の検索に難儀しています。
 哲学科教授からは、今春より対面授業をとのメールを受けているのですが・・・
先ずは近況報告まで。  仁
 
* 私とほぼ同世代の筈、私の読者にはこういう方が、他にも何人もおいでになる。勉強はお互いに、気の励み、生きがいにも。御病気の力強い改善をよろこび、さらにさらに希望しよう。お大事に、お元気で。
 
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月十八日 土   
    起床5 :40 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 56:.2 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 『ゲエテの言葉  抄』 若き友のエッケルマンに  一八二三六月十日 初対面以降
  ○ 「現実に向かい、詩的な興味がないなどと言うてはならぬ。なぜなら、聰明にして、平凡な対象から興味ある方面を引き出せるくらい才気のある點にこそ詩人の価値があるのではないか。現実からモティフを、表現點を、眞の髄を得なくてはならぬ。そこから美しい生きた全體を創りあげるのが詩人の仕事だ。小さくても、日常的でも、よく通じ自由にこなせる題材をこそ避けるな。しかし大作となるとそうはいかない。回避がきかない。全體に関係しているもの、その発想に関連しているものはすべて描写され、しかもそれが如実でなければならぬ。大作には非常な博識が要る。若い人の見識はまだ偏頗で、それで失敗するのだ。」「まだ十分研究もせず、経験してもいないことになると、どこかで不足し、失敗し、個々の部分がどんなに巧くても、全體としては傷もので、完全な物にはならない。君の手に合うような個々の部分から、個々独立に書き給え、きっとよく出来る。」                               1823 9 18 イエナで
 * 謂うまでもなくゲエテは、文藝としての「創作全容」に触れて語っている。
 
 * ま、安眠に近かったか。
 
 ○ お元気でと、心底願ながら
 少し外出なさったのは、春の始まりと感じております。嬉しいかぎりです。      白木蓮が満開です。      
 貴方の幸いは本当に嬉しいです。お仕事が進みますように。  那珂
 
 ○  お元気ですか、みづうみ。
 今回の原稿を書きながら、ふと自分がこれまで小説を書きたいと思っていたことは大きな間違いだったかもしれないと感じました。
 みづうみが、まだ海のモノでも山のモノでもなかった学生の角田光代さんに「小説家におなりなさい」と後押しなさったような、朝日子さんに大きなご期待をなさったような才能の芽が私にはありません。
 自分が適しているとしたら小説ではない何かではないかと、遅まきながら感じていますし、実際気づくのが遅すぎたかもしれません。それはみづうみが一番ご存知のはずです。そして今回の一冊も みづうみの謂う所の「作品」足り得なかった。
 
 これからも私の創作がしたいと、自分に残された時間の少ない中で悪あがきし続けることでしょう。人間は日々変化するものですから、将来また小説を書くとしても、たとえば文芸誌に掲載されるようなものは書けず、「詩劇」のような、あるいは「自省録」のような、まったく別ものの何かを書くように思います。勝算のない、虚しい試みでも、「試す」ことが「私を創る」と思って進む以外の道はなく、自分で望んで「選んだ不幸」です。(最後の章に書いていたような)
 『ゲーテとの対話』のエッカーマンは<まるでゲーテに生き血を吸いつくされてしまったかのように>(訳者山下肇)結局読者以上のものにはなれませんでしたが、ゲーテを描いて、ゲーテの媒介者として、あれ以上の到達はないのですから、本望であったろうと勝手に想像しています。
 みづうみには、みづうみのお望みのライフスタイルを貫いて、うんと長生きしていただきたいと切に切に祈ります。深刻な疲労困憊は、たとえば病院で定期的に点滴していただくなどで少しでも改善しないでしょうか。根底に栄養失調や加齢による貧血がおありのような気がしています。
 今日は春の訪れに水をさすような 冷たい雨です。獣医の帰り道に、見事にたくさんの花が満開の白木蓮の木と出会いました。世界最古の花木といわれるその神々しいまでの姿に、しばし見惚れました。これから桜あり、ハナミズキありの花の春です。
 どうか勤勉になりすぎずに お元気で、お元気に楽しみながらお過ごしくださいますように。        春は、あけぼの
 
 * 沁みるように両眼が痛い。全身からチカラ萎えているが、執濃く組み付くように仕掛かりの仕事へ気を向けている、が……
 
 * 晩、久々にセガールの『ハード・トゥ・キル(ぶっ殺せ)』を観た。隅々まで、よく憶えているもんだ。昼には、メル・ギブソンの『ダイ・ハード(ぶっ殺せ)』も久しぶりに。殺しまくっていた。不思議に鎮静剤のように働く。敵に
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月十七日 金   
    起床6 :10 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 56:.15 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 『ゲエテの言葉  抄』 若き友のエッケルマンに  一八二三六月十日 初対面以降
  ○ 「誰も自分が一番よく知ってゐると考へてゐる。それで多くの人は失敗し、目のさめるまで迷はねばならぬ。」「君等のやうな若い人々がまた同じことを繰返すとなると、われわれが探ったり迷ったりしたことが何の役に立つ。後から生まれてくる人は−−−それ以上のことをしてもらはねばならぬ。−−−真っ直ぐ正道を行くべきだ。いつかは終局に達するといふやうな歩き方では駄目だ。その一歩一歩が終局であり、一歩が一歩としての價値を持たなくてはならない。」「人生は複雑だ。詩を創る動機がなくて困るやうなことはない。しかし詩はすべて機會詩(レエゲンハイトゲディヒテ)でなくてはならぬ。現實から詩の動機(モティフ)と材料を得なくてはならぬ。私の詩はすべて機會詩であり、現実に、現実を基礎としてゐる。ねつ造した詩を私は尊敬しない。」
                             1823 9 18 イエナで
 * ゲェテは「詩」の一語に、文藝としての創作を籠めて謂うている。一ジャンルとしての「詩」のみを謂うていると狭くは聴かない。
 
 * 利尿剤を服さず早くから寝入った。何度か起きは起きたが間隔はながく回数も少なく。利尿剤は、午前中に服とする。「湖の本 163」の初校に手間取っているのを解消して目の前を寛げたい。
 
 ○ 美味しく食事が出来たのは、まだまだ健康の証拠でしよう。
 この年齢、食べる事に無関心になるのは 恐い事やしなあ。
 コロナ騒ぎで外食を控えてましたが、久しぶりに息子が来てくれて、鰻を食べに行き、大満足でした。まだまだ食欲はしっかりとあります。
 家に籠もらずに、短距離でも外気に触れて歩く事が大切かと思いますので、自分の為に、頑張って下さい
 又…         花小金井  遠
 
 * 「湖の本 163」の初校分、「要再校」郵便で返送。
 5頁分の「あとがき」を書かねば。
 
 * 九時半にちかく。二階の機械へ這い上がってきたが。全身状態、人事不省に近いシンドさ。寝てしまうより、無し。眼が、重(オモ)痛い。手首が見た目も細く、肚にチカラ無し。
 寝に、階下へ降りる。幸い「要再校」本紙は送り終えてあり「湖の本 162」発送の用意はおおかた妻がして呉れてある。発送に必要な 宛名用紙か、もう五回分の用意はあるので「ガンバッテ」とハッパをかけられた。アリガト。
 
◎ 令和五年(二○二三)三月十六日 木   
    起床7 :10 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 56:.50 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 『ゲエテの言葉  抄』 若き友のエッケルマンに  一八二三六月十日 初対面以降
  ○ 「大作をしないやうにしたまへ。」「優れた人々でも大作には苦しむ。最も豊かな才能を持ち、最も真摯な努力をする人々でもさうだ。私もそれで苦しみ、それが身に沁みてゐる。さういふ時には何も彼も水泡に帰してしまつた。」「現在は現在としての権利を要求する。日々詩人に思想や感情を通じて迫つてくるものは必ず表現されんことを要求し、また表現されねばならない。しかし大作を目論んでゐると、それと一緒には他の何一つできない。その他一切の思想は排斥され、其の間生活そのもののゆとりがなくなつてしまふ。たヾ一つの大きい全體を心中にまとめ仕上げるのに、如何に多くの精神の努力と投資とが要るか。又それを流暢に適當に現はすには、如何なる力と、如何に静かなさまたげなき生活状態とが要るか。もし全體に於て?みそこねると、一切の努力がむだになる。更にさういふ廣大な對象となると、その材料の個々の部分によく精通してゐないかぎり、所々に傷ができ、結局非難される。かうしてその非常な努力と獻身とに對して賞讃も喜びもうけず、何かにつけて詩人はたヾ深いと衰弱とを得るだけだ。これに反して詩人が毎日現在を?み、提供されたもの、たヾ目前に在るものをいつも生新な気持で取り扱つてゐると、いつもきまつて立派なものができる。よしたまに失敗しても、何の損にもならない。」
                             1823 9 18 イエナで
 * 實に謂い得ている。
 
 * 何度も床を起った。だが四時頃のアトは七時過ぎていた。
 
 ○ 謹呈した方々からの『読者の仕事』への反応もそろそろ出尽くしたかなと思います。少なくともあと十冊くらいはどこかにお嫁入りさせて、早く次の仕事に集注したいと願っています。
 二月の「私語の刻」を拝読しながら、みづうみのご体調の記載に途方に暮れる思いです。わたくしは手も足も出ず、ただ祈ることしかできません。みづうみは或る時から「祈る」ことをおやめになったと読みました。祈りほどこの世で役に立たないものはないのでしょうし、祈りとは他者のためでありながら 常に我執を免れません。
 それでもお元気でとわたくしの祈ることをお許しくださいますように。みづうみからのお声が届かないのは、湖の本に取り組んでいらっしゃってためと信じています。
 春の嬉しさは、花粉症の悩ましさを上回るはずですけれど、わたくしは朝からくしゃみを連発しているので、みづうみはもっと大変ではないかしらと想像しています。上野を思い出してクスン、グシュンとしました。   春は、あけぼの
 
 * ながくメールが無かったので案じていた。幸い私は、もう久しく裳久しく花粉からはソツギョウできているが、体力の疲弊、疲労困憊は度がすぎていて、起きているより(生きているよりと書きかけた…)寝ている時間が多くなってしまっている。ただ、食は、少しずつでも回復して、十四日の池袋ではシッカリ肉と海鮮とを、いいものができインも、シッカリ呑み、かつ食していた。「空腹」を覚えている時も、何度か感触した。食へ、地震を誘い込めるようにと気働きしているが。此の疲労感はタダごとでない、かと懼れる。
 
 * 幸いに脚はシッカリしている。自転車でポストと、ローソンへ、坂の道も走ってきた。多年の馴染みで、自転車は、跨がって、乗って、しまえばらくらく走れる。自転車は巧く揺らして乗る乗り物と躰が心得ている。、なにより脚の鍛えが利いていて呉れる。危ないのは乗り・降りの際。しっかり跨がり乗る際に姿勢が崩れ、自転車ごと横倒しに転倒するとアタマも腰も打つ。ヘルメットは常用すべし。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月十五日 水  
    起床5 :10 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 56:.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 『ゲエテの言葉  抄』 若き友のエッケルマンに  一八二三六月十日 初対面以降
  ○ 「率直にいふが」「この冬はワイマルの私の側にゐてくれ給へ」「詩と批評とは最も君に適してゐる。君には生来さういふ素質がある。それは君の固守すべき職業だ。又今にそれで立派に暮らしてゆける。しかし専門外のことで、しかも知つてゐなければならぬことが澤矢間る。だが問題は長い時をつかはずに、それに早く通じてしまふことだ。さうして君は松籟の基礎をかため、何時でも確信を以て行動できる。」「この冬を一瞬間でも無意味に過さないやうにしたまへ。」  1823 9 15 イエナで
 
 * 早起きの実感は、空腹、らしき。昨日は池袋メトロポリタン地下の佳い焼き肉の料亭で、たっぷりの赤ワインもともに、大きな伊勢海老ほか多彩の料理で、肉も200グラム焼いてもらった。食事としては豪勢で、のこりなく美味しく食べてきた。体力回復への一歩になればと願う、が、ハテ。
 
 * コトが前へ運ばれていない。アタマがボンヤリとしている。生新の気に欠け、纏まりを欠いて、することなすことボンヤリとしている。こういうのは私にあまり無いこと。徹底して寝入るか。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月十四日 火 結婚六十四年記念日  
 ○ むそよとせ みぢかに生きて永き世を 観・聴き・語らひ 彌(い)や和やかに
 ○ ひさかたの光りの朝を祝ふよと吾(あ)らが さ庭に來鳴くひよどり
 
    起床 7;10 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 5604 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 『ゲエテの言葉  抄』 若き友のエッケルマンに  一八二三六月十日 初対面以降
  ○ 「落ち着いて 静かに勉強しておいでなさい。結局 そこから定まって最も確実な、最も純粋な、人生観と経験とが生まれてくるからです。」
                         1823 8 14 マリイエンバアトで
 * 妻の学部卒業を待ち、二人で「京都」に別れ、上京、就職先に初出勤し、64年前の三月十四日、新宿区区役所で結婚届を済ませた。この日、荻窪の、妻の田所宗佑伯父宅で東京の保富家側親族に祝ってもらった。
 
 * 人間の世界は年々に、日々に、穏和とは謂いにくいけれど、想えば始原の太古より人々は「難しく」「ややこしく」よほど「身勝手に」生き抜いてきたとよ。ま、その伝で今日も、明日も、行くか。行きたいが。
 
 * 残っている歯は、左下顎奥の隅に固まった二、三本歯だけ。他は、上も下も。右も左にも歯がなくなった、そんな有様で、歯科のあと、タクシーで久しぶりに池袋のメトロポリタンホテルに入り地下の、好きな肉料理の店に久々に入った、美味い料理と赤のワインをたっぷり、心ゆくご馳走で六四年の結婚記念日を祝った。ケッコウであった。が、そのうえ池袋を歩く体力は無く、早めにと、空いた西武線に乗り、寄り道せず、駅からはタクシーで帰ってきた。十二分満足の「祝儀」であった。
 
 * 次の歯医者は、月末、三十一日と。それなら「湖の本 162」は発送も終え、「163」再校出へも届いているかしれない、「164」の入稿も出来ているといいが、と。 なによりも体調と体力の温存に配慮が大事。
 
 * 今、外出時の鞄に入れているホンは、何よりも軽量、そして木版の和字は大きく、内容はなにしろ『参考源平盛衰記』で、退屈の仕様がないどころか、あまりのおもしろさに、現代語訳の本が創りたいなあとしみじみ想わせられている。全巻四十八冊のいま十三冊目、「厳島神社と平家と」の深い厚い関わりが縷々、様々に語られ終えて、いよいよ高倉宮以仁王と源三位頼政が蹶起へ、時勢がガーンと烈しく動いて行く。先々へはまだまだ長い永い道のりがある。
 
 ○ 恒平様 迪子様
 ご結婚記念日おめでとうございます〓 64年目 お二人ともご病気を乗り越えてご無事な日々のなか 記念日を迎えられて 本当に良かったですね! お二人は学生時代とちっとも変わらず仲良しで 本当に良きご夫婦ですね。どうぞこれからもお元気で、お幸せな毎日を創造されて下さいね〜 心からのお祝いの気持ちを送ります! いもうと 琉
 
 ○ お二人様おめでとうございます!
 心静かなお祝いの歌もご披露いただきありがとうございます。
 六十四年前にお二人で慶びのご上京のお話を持って 祖父たちの家に訪ねて来て下さったこと、嬉しく思い出しています。
 長男出産後の折で慶びも倍加した気分で、離れる寂しさも消えたのでした。
 お互いに長い月日を無事過ごしてきた事喜びです。
 教え、導かれたことの多さも改めて感謝しています。
 お二人様の益々の充実した日々を祈っています。
 何よりもお元気でいて下さることを。  晴
   
 * 貴景勝が強くなっている元大関正代に勝った相撲を観たアト、至極の宵寝で九時に。 もう、このまま今夜は寝る。本も、読めまいと。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月十三日 月  
    起床 7;10 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 5604 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 『ゲエテの言葉  抄』 若き友のエッケルマンに  一八二三六月十日 初対面以降
  ○ 『藝術と古代』のはじめの十一冊を渡して、「この假綴じをよくしらべて、一般の索引をつくるだけでなく、不完全な點を書き留め、どの絲を再びたどって紡ぎ続けたらつづけたらいいか直ぐわかるようにしてくれ給え。私に非常なたすけになるだろう、又君にも非常にためになる。好き勝手にやる普通の読書よりも、かういう実際的な方法をとると、個々の論文の内容をはるかに細かく観察し理解できる。」  1823 6 10
 
 * 安眠に近いねむりであったのに、即、始めた校正仕事のせいか、疲労が潮のように襲って、ガクッとしている。疲れの徴表のように両眼にかすかな痛みと曇り。やれやれ。
 * ふっと、濃い深い孤りの淋しさを感じる。「人と逢う、話す」ということが絶えている。建日子とさえ、一年に三度ほども顔を見て、しかし對話の余裕はいつも殆ど無い。「さいなら。元気でな」と帰って行く車へ声をかけるだけ。毎日のように、ツイッターだか何かで「現状」は報じているらしい、が、「世間への發声」であろうし、それすら私にその「場面」を開く機械上の手順が無い、機械の技術に遮られて、わたしにはマッタク読めない。彼が、どんなに多彩に生き生きと活動し、何を感じ考えているのか、父の私には何も見えない、判らない。
「老いる」とは、こういうコトかと思いあたると、より早足に「今」を立ち去って行こうとの実感に逼られる。
 思えば「読み・書き・読書」と自身を律した「日乗」に、いきいきと愉しく交わす「對話・会話・談笑の言葉」が、歴然、脱け落ちているのに気づく。妻とは話せるが、家庭的な日常語に限られやすく、「智・情・意」を分母にした生新の情報味を求めるのは「他人」で無いだけに、却ってただ尋常に停頓し、難しい。
 自然「読書」にのみ頼って、これでは、生ま身の人間同士の「ぬくみ」に欠ける。「恰好の他者」として「猫たち」だけの居てくれる暮らし。「健康」とは言いかねる。
 ○ お便りは 寂しく憂い内容ですが、お便りいただいたこと自体が私には嬉しく 思わず こうして即返信する次第です。
 私もツイッターもブログも全くできません。老いるとは、こういうことなのですね。
 秦さまのお便りを拝読すると、いつも しみじみいろんなことを考えさせられ、想わされます。
 お眼がお疲れのところ、さらにお目汚しですみません。
 ありがとうございました!
 どうぞくれぐれもお大切に。  恵  仙台
 
 * 「湖の本 163」初校を「ほぼ」終えた、が、へとへと。それでも脚は、前へ、二、三歩進んだか。明日は、また歯科医へ通う。池袋へも脚を運べるなら…
 
 * 「ほぼ」のアトが、奇態にシンドい。やれやれ。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月十二日 日  
    起床 7;10 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 5604 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 『ゲエテの言葉  抄』 若き友のエッケルマンに   一八二三六月十日 初対面以降
  ○ 一事を確實に處理できる人は、多のさまざまなことができるものだ。 1823 6 10
 ○ おたよりを拝読しながら、
 その重さに沈黙してしまいました。言葉もありません。
 「人」としての「血縁」は喪失していても、「生物」としての「血縁」は存在していたのですから、いっそう複雑錯綜混乱の想いでしたでしょう。
 当時の幼い少年の心の内は、私などの乏しい想像力では到底思い至りそうもありません。ただただ 項垂れるばかりです。
 昨日3・11は、あの大震災・大海嘯から12年目の日でした。各地で鎮魂の祈りが捧げられたり、さまざまな催しがありました。
 震災の翌年から今日まで10年以上も お付き合いいただいている18人の「被災女性」とお会いして 雑談しました。
 彼女たち全ては、家も田畑も墓も流され、なかには 配偶者や両親・義父母も亡くした女性もいます。
 唯一彼女たちの救いは、皆さん お子さんたちが無事だったことです。
 そんな彼女たちの多くが嘆いています。
  * 「忘れない」って言うけど忘れたいし、忘れなければこれから生きていけない
  * 祈念行事なんかしてほしくない
  * 仲の良かった夫を亡くした人と、もともと不仲でDV夫を亡くした人では 震災    の意味が全く違うのに 一律に被災者扱いされるのはおかしい。
 他には、「被災地区」に住んでいて そこでは住宅の再建が禁止されている元・住民と、「被災地区」に指定されないのに別の地域に住宅を再建した元・住民では、支援金がもらえるか、全く支援金がもらえないか、経済的な分断があります。その溝は深く根強く、人間関係を破壊してしまっています。
 そんなこんなの3月11日(土)でした。  仙台  惠
 
 * 生まの「聲」の険しい実感に胸寝を衝かれます。どうすればいいのか。何が出来るか。声を失う心地。
 
 ○ 秦さま ご無沙汰しております。お元気でしょうか。
 先月末からメールのプロバイダーが停止して。メールだけでなく、ネットも見られなくなりました。
 孤軍奮闘! 頑張ってみましたが、遅くまでやっているうちに、、、世の中までが嫌いになてきて、地球が爆発することまで妄想する最悪事態でした。
 朝方4時頃、ふて寝しました。
 もはや20年前のmacでは、何も出来なくなりました。
 登久子さん(=夫人)が「新しいの買いなさいよ」の一声で、
 すぐに秋葉原へ行き、Macを買いました。
 macOS Catalina 10.15.7 という中古です。
 これまでと同じ大きなモニターです。
 O Sが2017年だそうです。
 今日、5:30に真帆(=長女)が来て開通できました。
 先ずは、お知らせまで    島尾伸三  (作家・写真家)
 
 * ナンダか、笑ってしまった、身に覚えの同情…同感もいっぱいに。
 一緒に旅もしたし、今日の祇園で、呑んで唄ったりもしたし。家へもよく来てもらったし。お父上の島尾さんも、著名の作家だった。奥さんも腕利きの写真家、娘の真穂ちゃんも早くから作家。
 
 * どう疲弊していても、機械に向かってる限りは、逃げ口上は言わない。
 
 * 午後も、大相撲幕内の中盤まで寝ていて、夕食後にはすぐ床へのがれ、夢など見てもう朝の七時と思いつつ目覚めると、宵のうちの九時だった。かすかに歯や口腔内に違和を覚えたので、処方されていた痛み止めや抗生剤を服した。もう寝てしまう気でいる。朝に遠藤恵子さんのメールを読んだ以外に外との折衝もない。ただ、朦朧と、睡くなれば寝ていた。湖の本「163」初校もしていたが。手抜きしていた分の手が掛かっている。
 
 * 微かに空腹だが出汁を飲ませてもらった。
 
 * 今日一日の収穫は、朝に、心して新作『或る往生傳』を通読し、身に痺れて「脱稿」を確認できたこと。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月十一日 土  
    起床 5;00 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 56.4 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 三浦梅園の哲学 「多賀墨郷君にこたふる書」三枝博音編『三浦梅園集』岩波文庫
 ◎ 解説者の結語より  人は、眞理を求めたいなら、學問的「問い」に心せよと、梅園 は此の書において思索的に縷々書き綴っている。一般に学問に於いて、博学は貴ぶが、 「問う」ことの意義の重要さを考えてみることはしなかったわが国の思想家のなかで、 三浦梅園のような学者は稀な存在。彼が「問う」ことを中心に、自分自身に問い掛けて いる問いこそ、哲学の精神。日本の哲学思想史のなかで不朽の価値をもちつづけている。
 
 * なにをして一日を過ごしたかが、覚えられてない。「湖の本163」の初校か。前半は順調、後半へ入って、組み指定に混雑などあったか。娜支なのダルさに、何をしていても不確か巻に落ち着かない一日。負け感覚のママに床に就いた。夜通しに、数度、手洗いへ起きた。睡眠時間としては足りているが、目が。瞼の内が渇いて痛い感じ。疲れが部厚く目玉にこびりついている。
 
◎ 令和五年(二○二三)三月十日 金  
    起床 7;40 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 55.4 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 三浦梅園の哲学 「多賀墨郷君にこたふる書」三枝博音編『三浦梅園集』岩波文庫
 ◎ 慣るゝに安んじ、書籍の習氣を執し、徴に正による事能はず、是れ即 天地を師と せず、人を師とするの弊にて御座候。天地を師と致候は、反觀の工夫にて、反觀の工夫 熟し候へば、幽と隔て玄とふかく候とも、天地にある程の事は、推しいたるべき事に候。
 天地かくの如く紛々擾々として、物多き様に見え候へども、只かたちある物ひとつ、か たちなき物ひとつ、此外に何も物なく候。其の かたち有物を「物」と申し、かたちな き物を「氣」と申候。   (つづく 十一へ)
 
 * ほぼ夜通し「ひなまつり」の唄を一番二番とおして唱い続けていた、歌詞を正確に良く覚えているのに驚きながら。この唄でわたしが一等心しほれるのは、「お嫁にいらしたねえ様によく似た官女のしろい顔」、歌集『少年』の昔が生き返る。
 
 ○ おはようございます。秦恒平 様
 懐かしいおたより、嬉しく拝受致しました。
 再読三読して やっと秦さまの近況がどんなに大変か、よくわかりました。
 そのようななか、これだけの長文をパソコンに打ち込むのは、さぞ難儀なことでしょう。
 秦さまが「血縁」に、複雑な想い というか 拘りをお持ちなのを 以前から不思議に思っておりました。
 今回のお便りを拝読しても いまだに不可解です。(尤も私などに解ってもらおうとはお考えではないでしょうが。)
 私にとっては「血縁」は、法制度上の存在ですので、親しくも鬱陶しくもある人々です。「親等」には関係なく相手によります。
 でも、「身内」については、何となく実感できるように思います。
 私の「身内」は、60年昔に亡くなった たったひとりだけです。今のところ、これ以上「身内」は増えそうもありません。
 この冬は寒暖の差が激しいですね。三月というのに今日の最高気温は20度とか・・・。
 北国仙台でも三月末には桜の開花が予想されています。
 憂春の季節ですが、秦さまにとっては、優しい春でありますように。
 どうかこれからもお身体をお大切に、ご健筆をお祈りいたしております。 恵
 
 * 血縁 身内  明快なほど「恵」言、わかります。
 世の大方の人たちに「血縁」はうまれながらに最も「身近に実在していた」はず。私には此の世に生まれ落ちたもうそっこくのように一切「血縁」を欠いていた。喪失していた。私は自身の「子」を得る日まで「血縁」を識らなかった、持たなかった。欠いていた。「亡くていいや」と思いいたって「身内」という私に独自の發明、発見、現実が「創造」されていった。 この字句、 この認識で、足りているだろう。
 
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月九日 木  
    起床 7;40 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 55.4 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 三浦梅園の哲学 「多賀墨郷君にこたふる書」三枝博音編『三浦梅園集』岩波文庫
 ◎ いかに廣大精微を説き出し候ても、天地にある廣大精微に候。いかに超越不群の人 に候ても、此天地の内に立ち、此天地の内をゆく人に候。其の達観する處の道は、則條 理にて、條理の訣は反觀合一、捨心の所執、依微於正の徴あり。依微於正とは、徴と見え ながら徴にあらざる徴あり。日月は慥に西にゆくの徴あれども、其實は東に行く。天地 の道は陰陽にして、陰陽の體は對して相反す。反するに因て一に合す。天地のなる處な り。反觀合一する事能はざれば陰陽の面目を見る事能はず。未だ陰陽の面目を見る事能 はずんば、博識多覧、聰明穎悟の人といふとも、天地の室をうかゞひ見ることは、得あ るまじく候。   (つづく 十へ)
 
 * 録画を繰り返して楽しめる映画や、連続ドラマがそう再々あるものでないが『明日へのカルテ ドック』は感動へ惹き込まれ、第一期の十数回分を一回一回見直してきた。醫師と醫学ものには、惹かれる。診断に重点の『ドック』は手術に重点の外科ものよりもより醫学そのものに密接していて、永らく醫書や醫誌を編集し企画してきた体験からも、より外科重点よりも心惹かれる。
 
 * 十時前。圧し込まれるように下腹部に圧迫が有る。空腹なのなら、いいが。
十時過ぎ。「湖の本 163」初校出、来着。これが、桜桃忌までに創刊37年の記念の巻に成ろうか。此の二十三日には「湖の本 162」が納品される。忙しい花の春になるなあ。心身の按配に氣をつけねば。
 
 * 初櫻の写真をもらった。懐かしく、よっく、覚えている。
 
 ○ ほんの少しの櫻を どうぞ。
 授業で(修学院離宮)訪ねた事がありましたね。桂離宮より好き、と思いましたが 植栽の佳さだったのかも しれません。
 少しずつ暖かになるのが、うれしいです。今、覚えているのは、その みどりばかりです。
 うちの庭は土がコチコチ 草花は 葉ばかり立派です。
 大変なく お元気に。  豊中市  沙
 
 * 懐かしい往年、大学での若き日々を想い出させてくれる、たった一人の人、妻の仲間で傑出していて、以来久しくも久しくなつかしい文通が続いていて、心嬉しいばかり。
 美術の講義では、京都市内で指折りの離宮や古社寺や、名品名画や名庭・名建築へ連れて戴けて、その現場で目を皿に講義を聴いた。
 たしかに私も、桂離宮の、窮屈なほど巧緻な仕立てよりも、修学院離宮のはれやかに宏大な樹々の翠に心惹かれたし、そんなことも言い合っていたのだ。
 教室やキャンパスを出て、市内・郊外での贅沢を極めた小人数での現地・現場授業の嬉しかった恩恵、忘れない。一緒だった友だちの懐かしさも、忘れない。
 もう六十数年の昔になるが、こうして懐かしい佳い音信をかわせる人が、今も、たった一人でも有るこの幸せ、感謝に堪えない。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月八日 水  
    起床 7;20 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 54.6 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 三浦梅園の哲学 「多賀墨郷君にこたふる書」三枝博音編『三浦梅園集』岩波文庫
 ◎ 書籍と申候物も、むかしの人の面々に見たる所を書きつけたる物にて、造物者の書 たる物にてなく候へば 是れ又 大習氣の種子に候。 激論の様に思しめすべく候へど も、目のあたりたる事にて申候はんに、人生れて嬰孩の時、猶天然の眞を失せず、其の 子を一人は浄門の僧となし,一人は日蓮下の僧となし、各其師に従つて學ぶ事十年、帰 り會して各所見を呈せんに、十年の習氣氷炭相反し,死すといへども其守をかへず、嬰 孩天然の眞をもとむとも、いかでか再度かへる事を得ん。此の故に書に依て自得、是即 習氣人に憑つてしからしむ 
 書まことに主に候へども、天地はむかし新しき天地にもあらず、今ふるき天地にもあら ず。いつもかはらぬ無?にして、我爐中の火即萬里の外の火にして、我盃中の水即千古 の前の水なれば、此天地をしり此水火をしらんとならば、先づ此の無?に試みて、傍ら 書籍に参考し、あはざる處を置き、あふ處をとるべし。   (つづく 九へ)
 
 * 夜を通し一時間刻みに手洗いに起たねば済まぬ。処方の利尿剤を服しているのだから当たり前のこと、しかし、好ましい仕儀では無い。造尿そして排尿が体に必要と分かって受け容れているが、せめて七時間通して安眠したい、それが為らず、成らず、無用の抵抗は反動の「心疲労」にもさらに「身疲労」にもなる。疲れがイヤ増す。
 
 * 今日命じられた歯科通いは、一存で取りやめる。三度の乗りもの「乗り換え」で一時間余の通院が、今の私には心・身の負担、可能な限りは省きたい。幸い、いまや「無歯」の上顎、下は、左隅に二、三の殘歯だが、苦痛は無い。
 来週にも二人しての通院が予約されてある、それまではパスが可能な江古田通いは勘弁して欲しい。往復の疲労もしんどく、イヤ。時間の空費は、それ以上に、惜しい。
 
 * 『参考源平盛衰記』が、全四八冊の第十三巻へ来た。小説『花方』で触れて書いた、新院高倉の厳島参詣の辺を妙に懐かしく通り越して行く。
 この参詣の背後には、平清盛入道による後白河法皇に対する事実上力づくの「籠居強制」という史上曾て無かった異例が強行されていた。新院の、平家が篤信肝入りの厳島神社へはるばるの参詣には、清盛入道の意を宥めて、父法皇を救出したいという、さらに曾て無い念慮が働いていた。
 『参考』盛衰記は、流布本の『平家物語』雉の何倍もの取材や表現でかり詳細に、「この時代」を参観させてくれる。まだ、頼朝の起つまでにも、以仁王や頼政蹶起へすらも、さまざまな世相や権勢の動揺がつづく。日本史でも一、二の危うい史実が区々読み取れる。
「読書」は疲弊の私心身へ、類無い滋養になって、救けてくれている。危うい「綱渡り」を支えてくれる平衡・平均のための「長い竿」なのだ、読書は、私にとって。視力の日増しの衰えが、怕い。衰えがけわしくなると、はるかな「もーいいかい」の呼び声に、あやうく「もーいいよ」と答えそうになる。いかに「執着が醜く」とも、もう暫く、もう暫くは、「まあだだよ」と、かぼそくなった手を横に振るしか無い。きのう買ってきた朝鮮古典の一傑作といわれる『春香伝』も、読みたい。この読書の背景には、妻とも永らくたのしみつづけた連續ドラマ「イ、サン」「トンイ」「オクニョ」などの映像が、歴史的に広がっている筈。
 
 * 八時四五分。朝食に下りねば。
 身を働かせる、則ち疲労する。瞼が痛む。
 
 ○ 「湖の本163」初校を明日9日午前着予定の宅急便でお届けいたします。
 「湖の本162」は3月23日のお届け予定で動いております。
 ご都合が悪ければ教えてください。  凸版印刷  関
 
 * 加えて、私の方は『湖の本 164』入稿のための原稿編成に取り組まねばならない。何を「柱」にするか。休めるヒマは無い。
「休む」とは、「もういいよ」と応えて、天上の意味になる。そう思っている。
 思い残すこと。もう一度でも 「京都」に身を置きたい。
 
 * 三時半まで 一時間余り 潰れ寝ていた。身の保ちようなく、泣き言ばかり言うている。
 口癖になっているが、窓やカーテンの明け閉めにも、階段の上がり折にもわたしには「ナンマイダブ」と呟く習いが、幾久しい。阿弥陀如来は、「法蔵」さんというお坊さんが、菩薩に成られ、如来にも成られたと『大無量壽經』にある。数あるお経の中でもわたしは、この事を一入懐かしく慕わしく感じ続けてきた。その一方で「反觀合一」を聰明に説く三浦梅園のような自然科学的「理性」の「哲学」にも、日々、深く聴こうとしている。
 つまりは、私は、未だに、ただウロウロしているのだ、「ウロウロ」に眞実の籠もれるかと願うように。 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月七日 火  
    起床 6;20 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 55.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 三浦梅園の哲学 「多賀墨郷君にこたふる書」三枝博音編『三浦梅園集』岩波文庫
 ◎ 又少し書、讀などいふ人は、雷は陰陽の闘などいひて,人をさとすなり。其人に陰 陽といふものをとへば識らず。爰(こゝ)におゐて、我その智と愚とを辨ずる事能わず。 この故に、智を天地に達せんとならば、雷をあやしみ、地震をいぶかる心を手がゝりと して、此天地をくるめて一大疑團となしたき物に候。 疑ひ多き人さとる事と(疾)し。 疑なき人のさとる事鈍きは、弓に滿を持せずして、屋を放てるがごとし。此の故に世の 人の天地をしらざるは、慣れ癖に貪着なく、習氣を秘蔵する故にて候。
 是に因て天地を達観せんと思召して,平生慣れて常とする事を疑の初門とし、觸るゝ事 悉く御不審を起され、我かくおもひかくうたがふもの、もと人なれば人の執氣ある處を、 御かへり見有べく候。   (つづく 八へ)
 
 * まるまる一年あまり、久々に、沼袋の神戸歯科へ、二人で通う。この歯科へは、朝日子の幼稚園頃に通い始めたのだ、六十年ほどか。よう生きて来たと思う。
 上下の歯を、殆ど抜かれてきた。というより、既に殆ど歯が無かった。
 明日、私のみもう一度、通う。
 
 * 帰路、江古田の「中華家族」へ久々に。54度のフンチュウを、つよい酒の好きな私のために用意して居てくれた。蟹玉とマーボー豆腐なら「歯無し」でも。まこと、久々のご馳走であったよ。あし、店の向かいの大きな書店で、初めて朝鮮の古典『春香伝』を買った。
 上天気、温かな春日和り。一年と数ヶ月ぶりの歯科そして江古田での食事や買いもの。ホント、是で眞実「コロナ抜け」と願いたい。ここ当分、体力と時間との神戸歯科通いが強いられる。寒い季節でないのだけを歓迎と、せざるを得ない。
 
 * 結局は疲れて、夕食前も、食後も八時まで寝潰れていた。それでも辛抱よく生きて行かねば。しかし辛抱にも度が、限度がある。無視すれば自死行為になる。妻にも、それは分かっていて欲しい。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月六日 月  
    起床 6;00 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 55.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 三浦梅園の哲学 「多賀墨郷君にこたふる書」三枝博音編『三浦梅園集』岩波文庫
 ◎ 人々死後はいかゞなるらん いかゞある覧と怪しめども、見在(げんざい けんざ かくしてを(居)る事も悉皆しれざる事なり。俗語にも、前の瀬わたりて後の瀬とこそ いへ。しかるに世の人前の瀬を置て,後の瀬の事のみおもふ。我怪しむ所なり。しかれ ば石、物いふといふとも、夫れより己が物いふを怪しむべし。枯木に花咲たりといふと も、先づ生木に花さく故をたづぬべし。
  斯く物に不審の念をさしはさまば、月日のゆきかへり、造化の推し遷るは更にして、 が有と占め置ける目の見え耳のきこゆるも、態をなす手足も、物を思ふ心もひとつとし 合點ゆきたる事はあるまじく候。それを世の人いかゞすますとなれば、「筈」といふも のをこしらえて、これにかけてしまふ也。其筈とは、目は見ゆる筈、耳は聞ゆる筈、重 き物は沈む筈、かろき物は浮ぶ筈、是はしれたる事也とすますなり。然れば其の次手に、 雷は鳴る筈にて鳴り、地震は動く筈にて動き、枯木は華さかんもさけばさく筈、石の物 いはんもいへばいふ筈、とすまし度き物なり。  (つづく 七へ)
 
 ○ 花やはる 春やはなめく やまかはの 色はにほへど わが身よに古る
 
 ○ 秦さんへ メール うれしいです 元気をいただけます 「三月」をありがとうございます
 こんなに「すぐ読める人」はそうはいないと思うと なんとも貴重なことで ありがたく恐縮です
 來週は相撲です お彼岸もすぐです 春です
 三浦梅園 豊後(「国東半島の山の中」)「温厚篤実 安分知足」だそうですが 知りたくなりました
 自転車 本当にくれぐれも どうかくれぐれも 
 お怪我のないようにお気をつけください
 コロナもまだまだ絶対に避けてください 
  hataさんにつけてもらった e-old  が懐かしいです 勝田e-old 拝
 
 * パソコンの出回るよりやや早い時期に、わたしは、この電子機器は、さきざき「老境へ歩む人」にこそ貴重だ自己表現を「継続」の恩恵となるに違いなないと、まさしく「e-old 」という一團の必然世に現れ出ると予測した。
 勝田さんはわたしより1 2歳年長であられるが、ごく早い時期からメール交換など、発展してもっと「人」らしい「お付き合い」が始まったのだった、ペンクラブで知り合えた。なつかしい「むかし」話になるが、「いま」なお仲良くして戴いている。
「e-old 」はいまや「あたりまえ」に世に溢れている。
 
 * 食事は出来る、が、疲れきって、痛むほどの視野の鈍さにも、もう。明日の外出に備えて、そして床に就きたい。好きな映画の『冒険者たち』も、重苦しくなり、途中で投げた。七時。もう退却する。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月五日 日  
    起床 56;20 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 55.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 三浦梅園の哲学 「多賀墨郷君にこたふる書」三枝博音編『三浦梅園集』岩波文庫
 ◎ 物を怪しといぶかる心なくば、なきにして止むかとおもへば、さにもあらず。神鳴 り地震(ふ)りたりといへば、人ごとに頸を撚(ひね)り、いかなる事にやといひのゝ しる。我よりして是を觀れば、其の雷、地震をあやしむこそあやしけれ。故いかんとな れば、其の人地動くをあやしみ、地の動かざる故を求めず、雷鳴る所を疑ひて、鳴らざ る所をたづねず、是れ空々の見(けん)ならずや。此故に、皆人のしれたる事とおもふ は、生れて智の萌(きざ)さゞる始より、見なれ聞きなれ、觸れなれたる癖つきて、其 の知れたると思ふは、慣れ癖のつきたる事なり。
 我、人に石を手にもちて、手を放せば、地に落るはいかなる故ぞととへば、それは重き によりて下に落る也、知れたる事也といふ。是も其人知りて知れたる事といふにはあら ず。なれくせ(慣れ癖)にて貪着(とんちゃく)なしにしれたりとおもふなり。然れば 是を醒たるがごとく醉たるが如しといはんも、我、過言にはあらざるべし。此故に其れ、 うたがひあやしむべきは、「變」にあらずして「常」の事也。孔子の、生をしらずいづ くんぞ死をしらんとおしへ給ふもこの事なり。 (つづく 六へ)
 
 * 松たか子ら大勢と、若い人流に謂う「メッチャ」愉快な夢から「出」て、そのまま床を起ってきた。ひさしく松たか子の舞台も観ていない。白鸚さん夫妻の顔も見ない。また劇場で会いたいものだ、たしか四月にはまた『ラ・マンチャの男』が予告されてなかったか。その辺を、本格の「コロナ解禁」とできぬものか。
 
 * 江古田二丁目の神戸歯科へは、もう「予約」を入れたと。久々の電車、バスでの外出となる。平穏無事に、離陸としたい。
 
 ○ 秦 兄  一病息災ぐらいなら何よりです。自転車に乗って走れたら結構なことで羨ましい。
 兄に比べて私の足腰はコロナ禍が始まった頃=兄のHPが途絶えた頃からですが、すっかり弱ってしまいました。正に急激に、です。運動不足です。自業自得です。強いスピリッツを飲む根性だけは健在です。
 兄と違って 私は 新潮国語辞典(現代語・古語)昭和57年新装改訂版1刷と三省堂の新明解国語辞典第3版・昭和56年を40年間併用していましたが、昨年末から ネットのJapan Knowledge Personalを主に利用しています。ベッドには不向きですが、各方面の専門語も引けて重宝しています。
 こんな近況です。お互いに山の神に感謝をして日々を愉しく過ごしましょう。
 書き忘れるところでしたが、NHK-BS 3CH午後1時からの映画はやたら再放送ものが多すぎる。  達
 
 * 健康体へ少しずつでもしっかり立ち直って下さい。私も,同じくと。
 
 ○ 花やはる 春やはなめく やまかはの 色はにほへど わが身よに古る  23 3 5
 
 * 入浴のママ、文庫十巻本の『水滸伝』を、おもしろく読み継いでいた。
 
 ○ この頃は何もしないのが一番で、日がながくなっても、焦らないでやり過ごせるほどですので、ピアノもめったに弾きません。ショパンを弾いている時、彼の天性の性悪を感じることがあるのです。モツアルトにもベートウベンにもなく、同じロマン派のシューマンにもないものです。 可笑しいでしょう?    柚
 
 ○ 春や春、なれど、霞たなびく眼、花粉症が今年ははげしく、みわたせば、すぎばやしばかりなり?と、いうところで、今やうらめし、です。
 楽しんだ、田舎の早春も、もうさよならです。
 あしびも梅も水仙も花盛りです。
 元来、弱い体質なので、トラブルは多いのですが、それでも、今まで頑張れたので、もういいかなとおもいます。     お元気にお仕事を。  那珂
 
 * 京都 古門前の大益貞子が電話をくれた。電話で,美味く話すことが、下手。妻など、長電話の達人だが、わたしは、かかってきた電話に出るのも苦手。努めて居たむんしは電話での摂政は、著者とも、印刷所などの営業とも社内間の諸連絡や協議でも颯爽とソツなくやれたが、幼児のないただの「お電話」はマッタクの苦手。
 
 * 例年よりはやかったか、昨日今日をとおして映画『日本のいちばん長かった日』(昭和二十年八月十五日 天皇による敗戦の放送日)を、また見届けた。見直すことを私は日本国民である自身の義務と考え続けてきた。例年八月には必ずこの映画を観てきた、重い義務のように。
 
 * 疲弊の実感はぬぐい去れない、瞼が痛いほど疲れているが。やすむ。
 
 * 私の、なにかにつけ呟くような口グセは、「ナンマミダブ」。久しぶりに阿弥陀如来の前身サマにお会いしたくなり、『浄土三部經』を書架から抜いてきた。お目にかかれるハズである。「イリアス」「源氏物語」「参考源平盛衰記」「水滸伝」「カラマゾフの兄弟」「薔薇の名前」「ホビットの冒険」に、「浄土三部經」が加わる。毎朝の日記のために「三浦梅園集」も読み進めていて、豪華な顔ぶれ、しかもみな、飛び抜けて面白い。これが私の,『読み・書き・読書と創作』とかかげた日課の表札。アタマの「読み・書き」はいわゆる「下調べ・下読み」に当たっている
 
◎ 令和五年(二○二三)三月四日 土  
    起床 6;20 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 55.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 三浦梅園の哲学 「多賀墨郷君にこたふる書」三枝博音編『三浦梅園集』岩波文庫
 ◎ むかし、何れの帝にてかおはしましけん、堺によき藤あるよしまこし召され、勅し て九重の内に移し栽へしめ給ひしに、帝ある夜の御夢に、いときよらなる女の、打ちし ほれける気色して、
    思ひきや堺の浦の藤浪の都のまつにかゝるべしとは         
 と打ち誦んずると御覧じて、夢さめ給ひ、花も故郷や思ふとて。二度び堺に返し給ひし とぞ。 
 是等のモノがたりは、世に多き事なり。草木意なし。別れては馴れし故郷をしたひ、過 ぎてはこしかたを思ふは人の心にして、我が心の動く處、めで給ふ花に感じ、常になれ てもて遊び給ふ歌をなしけるものにして、藤のあづかる處にあらず。あづかる處なき花 にも我情態をこれに移せば花も又人なり。古來、明哲の輩も、 此の病に坐せられ、人 の境に居て人を離るゝ事能はず、目の翳障りをなすなり。さる故に、なれ癖に貪着なく、 是が泥(なづ)みとなりて、物をあやしみいぶかる心なき故に、一生を醒むるがごとく 酔ふがごとくにして終るなり。  (つづく 五へ)
 
 * 床に就いたのが前夜十一時頃か、それから、ほぼ小一時間ごとに尿意に起こされていた。そのつど尿量はしっかり在るのだから、良しとすべきか。浅き夢の覚えも無い。
 
  かくあい(かくわい)ということば
久しくも久しい「友」であり「師」である「常用の辞書」、久松潜一監修『新潮国語辞典』の、もはや表紙も背も裏も頁の中にさえ手荒にガムテープで補強されて,片時も「読み・書き・読書と創作」の仕事のそばを去らないのに,心底感謝している。新潮社で「新鋭」の名のもとで「書き下ろし」長編小説が数人の新人にもとめられ、私は、一,二年も『みごもりの湖』と取っ組んでいた始めに、編集担当の池田君が上の辞典を呉れた、何よりも言葉と表現を大切に、と。
 あれから何十年になるか、往時は渺茫と遠くかすんでいるが、此の辞典は無二の友として身のそばを離れなかった。有難くも心強かった。
「国語辞典」に身を寄せて愛し信頼していない「書き手」など、同じ文藝の仲間と私は思えない。思わない。正しく識らずに無茶に遣いかねない「ことば」は、よほどの手だれでもたくさん抱えていて、なに不思議なくも、当然。その事実・現実に畏怖しない「書き手」もいい加減なもの。いい加減な発語や表現は、じつは、やたらと多いのだ。
 ところで、何日か前から、私、「かくあい(かくわい)」という「もの謂い」に引っかかって来た。まだ両親や叔母と京都で暮らしていた昔から、おとなは、ときどき、「かくあい(かくわい)」が、「いい」「わるい」と口にしていた。「うまいぐあいや」「なんか、うまいこと加減できん・調子が合わん」といった感じ方らしく、それなら「具合」と同じか、ちょっと感じ違うかなあと思っていた。「工合・具合」には、「体裁、対面、都合、それに健康状態」また「道具の遣い加減」を謂う「意味・意義」がハッキリしていて、どの辞典でもそう説明している、が、「かくあい(かくわい)」が「いい、わるい」と自分でも謂うたり感じたりとは、「ちがう」と子供なりに謂いも聞きもしていた。
 それとても、しかし意識して記憶に値いするとも思わず、無数の日本語、日用語の「ひとかけら」で、平時に事ごとにいつも覚え、また用いる言葉では無かったし、忘れて不自由といった語彙でも無かった。
 ところが、ここの処の、いつ時分からか、老耄のすすむにつれ、なにかしら、爲るも為すも不器用になってきたにつれ、「かくあい(かくわい)」がいい、わるいと、奇妙に日用の「機微」に触れたかの「単語の一つ」が、私の「暮らし」にありあり蘇ってきた。
 例えばである、身につけて間もない不馴れな着衣の釦と釦穴とが変にシチくどく合わない、合わせにくい、のが、いつしかに馴れて、手探り一つで容易に役立ってくれる。身に添いにくいと感じたモチモノや道具や衣類が、いつ知れず身に合い着こなし使い慣れている。そんなときに「かくあい」が掴めてきた、知れてきた、「かくあい」を覚え馴染んできたナ、などと「謂う」て来なかったか。
「かくあい」佳いのはうれしく、何かにつけ「かくあい」の好いと悪いの差異は、意識するしないなりに、妙に生活上の行儀や作法の「コツ」かのように思い馴れているが、私独りの独り合点か。
 
 * 是まで気を入れて観ていながら得心仕切れてなかった気になる映画に、最期にマーロン・ブランドがもの凄く登場の『地獄の黙示録』がある。これは昨日観ていたゲリー・クーパーの『遠い太鼓』と、趣が、よほど違う。映像の凄みに魅入られる。
 
 * デスクトップの背景を八坂神社(祇園さん)の石段上、四条大通りに直面のひとしお懐かしい華麗な西大門の写真に変更した。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月三日 金  
    起床6;20 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 55.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 三浦梅園の哲学 「多賀墨郷君にこたふる書」三枝博音編『三浦梅園集』岩波文庫
 ◎ 子ども遊びの読本に、鼠の娵入り、ばけ物づくしなどいふあるをみるに、其の鼠  を鼠のまゝに致しをき候へば、鼠本来の面目に候ふを,其の鼠を悉く人になし、婿殿は 裃、大小、娵子は打かけ綿帽子、のり物つらせ、徒士若黨、すべ人の様に成し候。又ば け物の本をみるに、傘の茶臼にばけ、箒の手桶に變じたる圖はなし。只あるとあらゆる 物、目鼻手足出來り,とかく人の様なる物に化ざるはなし。涅槃像の圖をみるに、其の 龍王といふ物は、衣冠正しき人體にて、その本體の龍形は、火事頭巾かづける様に畫が きなしぬ。
  かゝる心を以て天地を思惟する程に、天には上帝、地には堅牢、風の神、鳴る神なん ど、形はさもいやらしく描きぬれども、足を以て身を運び,手を以て技を出す。さる故 に、風は嚢に蓄はへ、雷は大鼓に聲をく。もし誠に嚢あらば、何を以て製するや。もし 誠に大鼓あらば、何の皮にてはる古都にや、いとあやし。もしかゝらましかば、天も足 なくてはゆかれまじ、造化も手なくては細工できるまじ。猶ちかきに引つけていはゞ、 すべて動物は牝牡有りて、草木には牝牡なし。牝牡なくて生々せざるは,動物の習ひに して、牝牡なくても生々に事缺かざるは、草木の習ひなり。己が習ひをもちて、己にあ らざる物に推さば、いかで其の理に通ずべき。   (つづく 四へ)
 
 * 昨日 服薬のタイミングを前へ速めておいたので、深夜の尿意に繰り返し起こされることは無く済んだ、間隔長く、その分よく睡れていた、寝過ぎたほどに。
 
 * 幸か不幸か ひな祭りとも縁が無く今朝を迎えた。もう何十年前かの二月二十五日に、孫の「やす香」と「みゆ希」とで嬉々として棚飾りしてにこやかにオジイやんの写真に撮られていった。あが「やす香」と戸顔を合わせた最期になり、あの年七月二十七日、はは・朝日子の誕生日にはかなく、まこと儚く病死した。「みゆ希」はひな祭り利した日以降、一度も顔を見ず、何処に暮らし、結婚したか、子が、つまりは私たちの曾孫があるかどうかも知れない。娘の朝日子とは、あのひな祭りのはるか昔から真向きに「かお」も見られない。
 実の父とも生みの母とも、また実の兄とも、ただ「一日」として一つ屋根の下に暮らした覚えが私には無くて、死なれている。さんにんともに自死ないし自死に近かったらしい。何というはかない「血縁」よ。
 私が血縁を頼めないとを「覚悟」して「身内」「眞実の身内」を血縁を頼まぬ他人たちの中に切望した生涯は、だれかが謂うた、「小説「を書くために小説のように生まれ、妻が謂う「生きた小説」のように老いて老いて、ただ老いててきた。「妻」と「建日子」とがいてくれた、よかった。ありがたし。
 
 ○ みづうみ、お元気ですか。
 毎年のことですが、二月は本当に逃げ足が早いです。
 今日がひな祭りのことも忘れるところでした。わが家でお雛様を飾らなくなったのはいつからでしょう。以前にどこかのブログで「○○ちゃんは自分が一番のお姫さまじゃないと我慢できないのです」というコメントつきで、猫の○○ちゃんが女雛をバラバラに破壊して、雛壇のその場所に陣取っている写真が掲載されていました。たしかに雛飾りには猫の好奇心をかきたてる小さなものが沢山あります。わが家も同じことが起きそうで猫を言い訳にしていますが、ひな人形を飾って喜ぶ娘のいなくなった家で、あんな大変な出し入れをする気力体力が湧いてこないというのが真相です。
 伝統行事は庶民レベルでこうやって先細っていくのかと、内心忸怩たるものがあります。文化は壊れやすいものと以前に三島由紀夫が語っていた対談を読んだ記憶がありますが、現在の住宅事情や夫婦共働きの時代に、座敷がぱあっと華やぐ昔ながらの雛段飾りも変化していくのだろうと思います。以前にみづうみに教えていただいた句
  「細き灯に夜すがら雛の光かな  蕪村」
を思い出し、それがもはや喪われたものにならないことを願いますけれど。
 昨日、小瀧英史さまより『読者の仕事』へのご丁重な長いお手紙を頂きました。
  ・思索者として、また読者として、そして母親としての覚悟の確かさと、深さのほ   どを感じさせていただきました。
   ・「読者の仕事」が創作であることは、秦さんの「湖の本」の私語と読者からのメ   ールや手紙を、対話かのように纏められた一冊が、すでに創作の新しい一つのジャ   ンルを確立したいるのと同じい、あるいは新しい思索表現の地平を拓くものと思い   ます。
等々のお言葉ありがたくうれしく頂戴しました。今回の本を刊行した時に、無名の、原稿用紙八百枚を越す長編を最後まできちんと読んでくださる方がいるとは正直予想していませんでした。ところが一気読みしてくださった方々すらいらして、本当に感謝でいっぱいで感動しています。(ただ私と同世代か上の世代の方ばかりにお送りしていますので、お若い方々に読まれるかどうかはわかりません)。すべては「秦恒平」と「湖の本」にあやかったことではありますが、それを含めて作者冥利につきました。「秦恒平」を知ることなしに、私は「読者」足り得なかったと思います。
 寒さは残りますが、一日一日春が近づいています。花の春を迎えるためにも、どうかどうかお大切にお過ごしくださいますように。  春は、あけぼの
 
 ○ 春
 いかがお過ごしてしょうか?
 春の気配に思うことさまざま。思い切り動き回りたいという、例の鳶の衝動はまだ鬱屈したままです。家での仕事、家事育児とは言いません、頭の中で空回りしています。
 コロナの三年余りで、何処かで失われたものが人それぞれにあるのを痛感します。
 ウクライナのこと、トルコ、シリアのこと、日々丹念に報道を追っています。五万を超えた死者、想像を絶した状況です。以前訪れたネムルト遺跡も思い出します。 
 園芸種の可愛らしい薊、釣鐘にんじん、クロッカス、クリスマスローズ、それぞれに春を告げています。
 日本の色についての本に加えて、中国の色を著した本を買いました。文化の豊かさ厚さを感じます。中国に関しての複雑な思いは脇に置いても。
 花粉症が思いやられます。
 低血糖もくれぐれも用心なさってお過ごしください。  尾張の鳶
 
 * 「湖の本 162」三校ゲラが届き、即、「責了紙」として郵送した。三月十四日の、64年めの結婚記念日頃には「第一六二巻 わが作家人生のまえがき とめども波の 洞然風聲」刊行、發送出来るだろう。
自転車での郵送の脚で、久しぶりに下保谷の奥寄りを走ってきたが、ぼろにいろいろ想い出しながらも途に迷い、かなりり遠回りになって戻れた。「セイムス」に寄り、このごろややクセめいてきた買いものをして家に帰った。ヘルメトをかぶって走ってきたが、脚は相当疲れた。「一と仕事」して、ひと寝入りもして、あと『遠い太鼓』という、ゲリー・クーパー主演、密林での戰闘映画を観た。底知れない大密林のなかの河や沼や木々や草むらでの戰闘は、観ていてもほとほと疲れました。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)三月二日 木  
    起床 5;40 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 56.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 三浦梅園の哲学 「多賀墨郷君にこたふる書」より
  ○「殊にヨーロッパの産業学問が日本の学問に刺戟を與えはじめるや、日本にも自然   科学らしい学問、哲学らしい思索が生まれはじめた。三浦梅園(享保八年・一七二   三 ー 寛政二年・一七八九)は、そうした時期の(まことに優れた)哲学者である。」   三枝博音編『三浦梅園集』岩波文庫より。
 ◎ 其の習氣とは、人はゆく事をば足にてなし、拵(こしら)ゆる事をば手にてなすゆ へ、運歩作用に手足の習氣これあり。さる程に、蛇の足なく、魚の手なき、どふやら不 自由に思はれ候。天は足なくして日夜にめぐり、造化は手なくして華をさかせ、子を給 はせ,魚をもつくりとりをもつくり出し候。もし、己に執する處有候へば、其の運転造 化、甚だあやしむべき事に候。あやしむべき事にして、あやしむ人もなく候は、是も朝 暮に見なれ、空ゞとして貪着なしに打過るにて候。物の上よりして見る時は、天地も一 物にして,水火も各一物、我となり人となるも,各一物にて候。それを人には人癖つき 候ひて、我にあるものを推して他を觀候ひなづみ、やみがたく候。夫れ故、人の癖には、 何にても人になして、見もし思ひもし候。  (つづく 三へ)
 
 * 温かなのはよいが、体調由来か、一夜寝苦しかった。夜中一度,ノドから小さな血玉を吐いていた。朝の体重が,久方ぶり56キロへ跳ねあがっていた。
 
 * 散髪に行くほどの髪でないと判り、奇妙に嬉しくて。
 題は、まだ。 「どじ」が渾名の「逗?」という青年と向き合うている。どうなるのか、知らない。正午。すこし空腹。視野は霞んでいる。
 
 * 躊躇わず寝入る。疲労に抵抗するのは危険。それでも,仕事はする。そして躊躇わず寝入る。夕方、ジェシカ・タンディイ と もう一人の黒人男性の名優との、胸にしみいる静かに佳い映画を観た。佳いモノは佳い。理屈抜きに。
 
 * 八時。もう、やすむ。週明けから、久々の歯科を予約しようかな、と。三年がほども感染を警戒し切っていたが。、
 
◎ 令和五年(二○二三)三月一日 水  彌生朔
    起床 6;00 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 54.3 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 三浦梅園の哲学 「多賀墨郷君にこたふる書」より
  ○「殊にヨーロッパの産業学問が日本の学問に刺戟を與えはじめるや、日本にも自然   科学らしい学問、哲学らしい思索が生まれはじめた。三浦梅園(享保八年・一七二   三 ー 寛政二年・一七八九)は、そうした時期の(まことに優れた)哲学者である。」   三枝博音編『三浦梅園集』岩波文庫より。
 ◎ 人は天地を宅とし居るものに候へば,天地は學者の最先講ずべき事に御座候。尤、 天文地理、天行の推歩は、西學(ヨーロッパからの學問)入候ひて、段々精密にいた  り 候へ共、 天地の條理にいたりては,今に徹底と存ずる人も不承(承知していない) 候。 かく悠久の年月をかさね、かく數限りなき人の思慮を費やし、日夜に示して隠す ことなき天地を、何ゆへに看うる人のなきとなれば、生れて智無き始めより,只、見な れ聞きなれ、觸れ馴れ、何となしに癖つきて、是が己れの泥(なづ)みとなり、物を怪 しみいぶかる心、萌(きざ)さず候。泥みとは、所執の念にして、佛式にいはゆる習氣 にて候。習氣とれ申さず候ひては、何分、心のはたらき出で來らず候。阿難(尊者)は 悟られしかども、前生、猴(猿)にて有しゆへ、猴の習氣やまざりしと申され候、是れ よきたとへに候。とかく人は人の心を以て、物を思惟分別する故に、人を執することや みがたく、古今明哲の輩も、この習氣に なやまされ、人を以て天地萬物をぬりまはし、 達觀の眼 は開きがたく候。 (つづく 二へ)
 
 * 三浦梅園には、せめて此の一篇からでも、学び直し学び重ねておきたいと。
 
 * まずは、好適な目覚め間隔で、ほぼ安眠できていた。「ショッ・ショッ」とばかり寝入ったまま唱い続けていた。「みな出て来い来い来い」だ。
 
 * 寒いとも暖かになったとも、判じもならぬほど体感覚が萎えている。ぼやっとしてやり過ごしている。
 
 ○  年ふれば齢は老いぬ 然はあれど 花をし見れば物思ひもなし
 八十路の滿一歳になって、古今集のこの歌が身近になりました。
  秦文學に心よせながら齢を積んできました。そうして「みとす」という森安理文を師とする同人誌の後継「陸」に御処女作『C經入水』に発する詞章ををつづりました。かつて拙稿「日本近代文学の風土」F「畿内」に「…京都の出身者は、与謝野鉄幹から佐々木茂索、竹内勝太郎など
戦後の真継伸彦、秦恒平、高橋たか子など数えるくらいだが、京都の文學風土の形成からいえば、森?外の『高瀬舟』、芥川龍之介の『羅生門』、川端康成の『古都』 三島由紀夫の『金閣寺』、あるいは異色なものとして野間宏の『暗い絵』など名作が、あがっていとまがない。」(『文学構造』おうふう)と記して、ことに秦文学を大切にしてきた自分でありました。
 同封の(歌謡ー美しかれ、悲しかれ)を受納してくださいますよう祈念いたす次第であります。
 まだ寒さが続きます。ご自愛ください。  竹内清巳   二月一七日
 
* 「陸 roku」28号 2023.1 が副い、竹内清巳さんの連載随筆『歌謡 美しかれ、悲しかれ 7』の「C經」「半蔀」に、「1・起・秦恒平「C經入水」小論」 「2・承・『C經』の葛藤」 「3・転・秦恒平『花鏡』」 「4・結・「半蔀」色好み」 と論述されている。ありがとう存じます。
 ○ 「湖の本 160 161」ありがとうございました。
 『或る折臂翁』 今こそ読んで欲しい小説です。
 学童だけ記憶にある体験「大詔奉戴日と護国神社」を読ませていただき,小学生のころに感じていた重い空気がよみがえってくるようでした。
 戦後の進歩的教育を、標榜していた新潟大学附属小学校にも、あの時代の匂いが残っていたように思います。
 ロシアのウクライナ進攻を非難する日本人が この國が昔から民主主義国であるかのように振舞うのが不思議です。
 「尊王と謂うも攘夷と謂うも佐幕と謂うも国内政権のとりあいにすぎなかったことは明治政権が露骨にあらわしていた」……なんだか今も変わっていないようです。
 國の存在を賭するほどの「悪意の算術」を操るには知的蓄積が必須です。政権とりあい選挙ばかりを優先する世襲議員には難しそうです。
 先生がずいぶん以前から、世襲問題についてかたっていらしたことを想いだしました。
 
 コロナで、講義がリモートになり 四十数年間、通っていた学校から解放され私にはジンメルの言葉が沁みます
 老人になって退屈と倦怠から守られているのは、ひょっとして高い精神的な関心を生きてきたからでしょうか。
 それに、非生産的で島のようなところにあるという 音楽の内部に入ることが、ようやく許されたような氣がいたします。これまでは,折角のコンサートでも、音が聴けず,自分の中で自問自答を繰りかえしているわたしでした。
 
 秦恒平のダブルフィクション……
 その重層的な響きを支えているのは,奥様の名演奏であると、ずつと考えてまいりました。
 『湖の本』愛読者の中で「先生の生活にはいつも奥様の存在があり、決して大げさには書いていらっしゃいませんか奥様と一体となって道を拓いていらした」とおっしゃる方に出あえて「我衣を得たり」と嬉しくなりました。
 いよいよ三月でございます。 暖かになり
先生
奥様の お身体の調子がよくなりますようお祈りいたします   C  美学者 前教授
 
 * ふくよかに美味しく温かな 京の名菓 も下さった。日々、お大事に。大學を退任されてこそ、汪汪とと新たなお仕事もお続け下さい。
 
 ○ 駆け足の一月、二月で、三月もあっという間に去りそうです。
 みづうみの認知症気味は、凡人のすこぶる冴えている状態でありましょう。
 歯医者さんへはタクシーをお勧めします。久しぶりの下界ですから、用心なさってください。とにかく御身をいたわってお過ごしくださいますように。  春は、あけぼの
 
 * ぐったりと寝入っていたいが、それもならない。
 
 * 八時。機械の文字も読めないほど視力が落ちて。寝るしかない。老い老い。頼むよ、しっかりしてくれよ。
 
 
     ■    ■
 
◎ 令和五年(二○二三)二月二十八日 火 如月盡
    起床 6;00 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 54.3 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  竹枝の詞 
   瞿唐峡口 水煙 低れ
   白帝城頭 月西に向ふ
   唱へて竹枝 聲咽(むせ)ぶ處に到れば
   寒猿 暗鳥 一時に啼く
    * 「竹枝」は、風土を詠ずる「歌曲」の名、けだし巴人の俚歌、俗曲と。「瞿      唐(くとう)峡口」は揚子江の蜀より出る辺り。「白帝城」は蜀の古城。
   巴頭の船舫 巴西に上る
   波面風生じて 雨脚齊し
   水蓼の冷花 紅 蔟蔟
   江籬の濕葉 碧 凄凄
    * 巴頭 巴西は、揚子江の四川省即ち蜀より湖北省に入る最も危険な川域。
    * 白楽天の七言絶句鑑賞を 此処で結ぶ。
 * まずは、好適な目覚め間隔で、ほぼ安眠できていた。「ショッ・ショッ」とばかり寝入ったまま唱い続けていた。「みな出て来い来い来い」だ。
 
 ○ 『湖の本』発送は肉体労働で根気仕事です。どうかごゆっくり、ご無理のないように少しずつなさってください。お願いいたします。
 
  > 這ってでも歯医者へ
 
 みづうみと奥様が介護認定を受けることが出来たら、便利な訪問歯科が使えるかもしれません。お役所への電話一本であらゆるサービスとつながりますが、その電話一本をしない限り支援がありません。連絡すればケアマネージャーさんが親切に動いてくれます。訪問歯科ですから、ご自宅で治療してもらえてこんな助かるものはありません。
 歯は、嚥下機能にもかかわる重要なものです。高齢者の生命線と言っても過言ではありません。是非定期的な治療をお受けください。それがお嫌なら、タクシーで通院なさってください。歯科医院は、スーパーマーケットや郵便局より遙かに感染対策をしています。
  > そして池袋ででも美味い食事がしたいです。
「美味い食事」は今は、ウーバーイーツという便利なものがあります。好みの食事を宅配してくれるサービスです。以前の出前サービスの規模を拡大したものとお考えください。名店は難しいかもしれませんが、鰻でもすき焼きでもイタリアンでもケーキでも和菓子でも何でも自宅に届きます。ただこれはネットで注文するので、みづうみにはやりにくいかもしれません。
 以上の二つのことは 建日子さんなら一瞬で出来ます。必要なことは、奥様から建日子さんに電話一本をかけていただくことでしょうか。客観的にみれば、現在みづうみと奥様は困った高齢者夫婦が孤立無援に放置されている状況にあるといえます。
 もう何度も申しましたが、あと百回でも申します。みづうみが長く「読み・書き・読書」生活を続けるためのツールとして、使えるものは何でも使っていただきたい。これまで払っていらした膨大な税金を、少しは回収なさったらいかがでしょう。
 
 永栄さまのお手紙一部引用します。
 
「読んで、書いて、考えて」とあるように、愛と孤独について、深い洞察にみちた重量級の御本をありがとうございました。とりわけ、クリスチャンとしての立場から、ドイツ滞在体験などを通してバルラハの十字架像についての創作、また血脈の問題(お祖母さま、父さま、お母さまの家庭内の問題)から、お父さまからの暴力に耐えて愛情を示されたお母さまをキリストと感じられたことなど宗教にも言及され、さらにクンデラ「存在の耐えられない軽さ」に見る人間の絶望とそれを乗り越える愛の在り方への考察に感動いたしました。
 また、豊富な読書に培われた広汎な知識と鋭い洞察力で、秦恒平「慈子」をくわしく読み解かれ(私は、ついて行くのに精一杯で、突き抜けての読解はできませんでした)、ドイツ体験後の自己を立て直す契機とされた「死なれて・死なせて」の身内観の把握など教わるところ多く、厚くお礼を申し上げます。また「何者にもなれなかった人間」とおっしゃっていますが、書くことの喜びと苦しみを知りながら書かずにいられない宿命を感じました。フランクルの「夜と霧」やシベリア抑留の石原吉郎の項もいのちと人間の尊厳というものを考えさせられました。
 
 気恥ずかしいくらい持ち上げられていますが、私は褒め言葉よりも最後まできちんと読んでいただけましたことが何より有難く感謝でいっぱいです。これからも、アマチュア精神を貫いて筆を汚さず謙虚に地道に書いていけたらと念じます。
 みづうみにご紹介いただいた方々は、とにかく素晴らしく読める「読者」です。
 みづうみはよくご存知のことでありましょうが、「湖の本」の創設は、作品のみならず本物の「読者」を創り育てる大プロジェクトでもありました。文学史でも類を見ない独創的な「文学者の仕事」の達成でした。あけぼのはその「文学者の仕事」に「読者の仕事」で、命ある限り、ボケない限り、精一杯お応えしたいと願っています。
 生身のあけぼのは確実に年齢を重ねているもう若くはない女です。今回の本で、少しでも若く、より佳い「あけぼの」になれていれば幸せなのですが…。 春は、あけぼの
 
 
◎ 令和五年(二○二三)二月二十七日 月
    起床 6;35 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 52.05 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  邯鄲冬至の夜家を思ふ 
   邯鄲の客裏 冬至に逢ひ
   膝を抱て燈前影身に伴ふ
   想ひ得たり 家中夜更けて坐し
   還た應に遠行の人を説着すべし
    * 邯鄲の客舎に一人悄然燈下に坐し故郷を思へば 故郷では家人らも夜更けて      還(また)應(まさ)に遠く旅中の我が上を語り合うていようよ、と。
 * だもう広い体育館ようの場所でがやがや騒がしく歓談とも放談とも飲み食いともつかず大勢が床に座り込んでの会合の夢。しかもそれが大きな能會が千秋楽で終えたアトの歓談らしかった、妻も横にいたが先に帰り、そこへ馬場あき子が加わってきて、さらにはあの前に大阪府知事だった若いのが弁口賑やかに入り交じって,やたら食べ物も飲み物も豊富だった。奇態な夢が覚めて、六時半、そのまま床を起ってきた。
 
 * 寒い。そして,空腹。やがて八時。「マ・ア」ズと一緒に朝「コハン」にありついてこよう。プーチンにもウクライナにも余儀ない食傷ぎみ、バイデンにも岸田にも。
なんとしても「別世界」へ隠れてしまいたくなる、が、それもウシロめたい。クソッ。
 
 * 朝食後、そのまま卓へ俯せ十時過ぎまで寝入ったようだ。健常の心神と謂いがたい。
 なのに、その後も午まで、午食を終えるとやはりそのまま卓に伏して三時まで、寝室へ退散視して五時まで、要するに日のあるうちを通して寝潰れていた
 晩は、新しい短編を書き起こしていた。が、七時半、もう私の視力は霞みきっているやすむしか無い。
 明日で、二月は果てる。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)二月二十六日 日
    起床 6;05 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 55.4 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  後宮の詞 
   涙は羅巾を濕ほして夢成らず
   夜深けて 前殿歌を按ずる聲
   紅顔未だ老ひずして 恩先づ斷え
   斜めに熏籠に倚り坐して明に到る
    * 前殿では深夜まで恩寵を被る者らの歌舞の賑わい。時分は未だ老いも朽ちも      していないのに主公の「恩先づ斷え」て落ちこぼれ、独り後宮に幽居し、眠      るに眠れず熏籠に倚ったまま夜を明かしている。「羅巾」はうすものの手巾。      「前殿」は宮中晴れの場。「按ずる」は種々に演奏演舞するのである。「熏       籠」で、衣裳を覆いかけ香を焚きこ込める。
 * 故意に就眠前の利尿剤を割愛したら、それでも一時間間隔程度の尿意に起きたものの体重は減らなかった.尿量は体重を左右する大きなメドであると。ま、よしよし。
 
 * それにしてても現在私に「肉体」の「肉」がまるで無い。何処に触れても「筋骨」だけでカチカチに堅い。細い。ま、それも、よしよし。
 
* 家の中で、確かに締まって老いたと確信してきた極く大事な物の在り場が分からなくなっている。緊急咄嗟の時に老夫婦は困惑のそこで藻掻くだろう。老耄は家政にさし逼って濃い翳を既に差し掛けている。困った。
 
 * 夕方、妻と、実に久しぶりに俳優座劇団公演,夏目漱石原作・秦恒平劇作『心』を、加藤剛、香野百合子主演で、懐かしくもしみじみと観直して、色んな場面と科白とで泣けた。気恥ずかしくもあり、しかし強く踏み込んで私なりの「想や情や劇」を真摯に打ち出していた。初めのうちは首もひねったがやはり「k」の登場からは私の創作度が深まり、妻とも頷き頷き観ていられた。この舞台のあちこちに妻の想も組み入れられていて、懐かしくも胸に響いて各場面からの放射が嬉しく快かった。ああこんな創作もしていたんだと王師の感慨が深々と蘇って嬉しかった。
 漱石の『心』は、弥栄中学を私の一年早くに卒業していった慕わしくも愛おしかった「姉さん(梶川芳江)」が記念にと私の手にのこしい謂った文庫本、署名もしてあった。その『心』は我が聖書ともなり、数十百度も読みに読み返した名作なのである。そんなことは識らない俳優座を代表していた人気の加藤剛が、私に『心 わが愛』として脚色を強く希望し依頼してきたのだった。加藤剛も演出の村上安行ももう亡き人。お嬢さん・奥さんの香野百合子も母親の阿部百合子も,それ以上に「k」も「私」も美事な好演だった。懐かしく涙の浮かぶのは当然しごくの舞台だったのだ。幕が降りて、拍手が永くやまなかった。
 
 * おかげで、色んな事を華々しくもさせて貰えた永い人生であった。
 
◎ 令和五年(二○二三)二月二十五日 土
    起床 4;35 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 53.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  閨怨 
   寒月沈沈として洞房静かに
   真珠簾外 梧桐の影
   秋霜下るを欲し手先づ知る
   燈底裁縫 剪刀冷ゆ
    * 「真珠簾」は所謂「玉すだれ」 寒月沈沈 空閨の婦人が裁縫の実感を詠写。
 * 就眠前に処方の利尿剤を服さなかった。のど元へ来る不快をあらかじめ抑え、『薔薇の名前』『参考源平盛衰記』『水滸伝』を読んで、前夜も早い内にリーゼ一錠とともに寝入ったろうか。
 夜中の尿意に起こされることなく、安眠のうち、四時半に目覚め、そのまま起きてきた。繰り返し排尿してない分体重減は無いが利尿剤と浮腫止めを併用すれば三十分余ごとに尿意で起たねばならぬ。,眠りを寸断されないのが助かる。利尿剤は、朝飯後に服することにする。いま、五時半にも藻ならない早曉、強い空腹感がある。朝食は、八時、「マ・ア」ズと一緒。
 
* 久しく印刷機故障と諦めていたが、祈る心地でいま,試みたら、「あとがき」不足分を印刷してくれた。感激。これで「湖の本 162」は、本紙の三校出を待ち校了出来る。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)二月二十四日  金
    起床 6;35 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 54.4 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  同上 燕子樓 
   鈿は暈り 羅衫 色煙に似たり
   幾回着けんと欲して 即ち潜然
   霓裳の曲を舞はざりしより
   畳みて 空箱に在る十一年
    * 主公在世の折は盛飾の鈿(でん=かんざし)も羅衫(らさん=うすぎぬ)も      は虚しく藏はれてあると。
 * 安眠とはとても謂えなかった、もう明け方になっていたかも。またしても都市なかで、腫物のような、限局され細微に腐熟した地区へ、女友だちの好奇心に引き摺られて紛れ込み、一度はあやうく遁れ出たのに、女の意地で再び紛れ込み、とどのつまり侮蔑の言葉を嗤って吐き散らす女性は殺されてしまい、わたしは救い出しも成らずからがら遭場から脱出できた。そんな夢に怯えていた。安眠などと、とても謂えない。
 いつもは独り引き込まれ紛れ込むのに、昨夜は、誰とも知れない年若い女性の連れがあって、女は悪くいちびって殺された。凄い街??だった。
 一度として同じ街??でないが 事態の凄惨はいつも同じで、火傷を負うように敵意や悪意や乱暴で迎えられ、からがら、かつがつ遁れ出るを得てきた。
 怖い夢だ。そしてやはり想い出すのは蕪村の句  月天心貧しき町を通りけり
 
 * 大きな要を昨日のうちにほぼ整えていたので、暫くは落ちついて創作へ向かえる。こうも、事繁い老境を想ってみなかったが。ま、成るがママに為し続けるだけ。
 
 * 夕刻四時の血糖値150。うって変わって高いが、昨日の44よりは尋常の値いか。
 午から寝入っていて三時半に目覚めたとき、体のかすかに震えるような違和感があった。暖かい部屋で寒さも感じ、軽食や砂糖を口に入れても兩上腕にかすかな震えを感じていた。
 体調が掴めない。幸い大きな肝要事は終えた。すこしく平穏に容子を見ていて、いいか。
 
 * 六時。白楽天の七言絶句 鑑賞を、一段落した。
 
◎ 令和五年(二○二三)二月二十三日 木  天皇誕生日
    起床 5;45 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 53.2 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  燕子樓 
   滿窓の名月 滿簾の霜
   被 冷やかに 燈 殘つて 臥床を拂ふ
   燕子樓中 霜月の夜
   秋來 只一人の爲に長からん
    * 「燕子樓」は、徐州知事建封が愛妓關?々の寡居としていた。詩人は關女に      三詩を呈し、關は主の爲ならじと謗られたかに察し、同じく三詩を白楽天       に返してのちに自死した。「被」は被蒲団。
 * 夜前、意識して利尿、浮腫どめをあわせ服用して寝た。覚悟の通り、三時間ほどは三十分ほどの間隔で手洗いに起った、が以降は安眠した。寝入ったまま終夜、「ジーンセーイ」と唄っていた。たぶん「苦もあり楽もある」とでもつづくうただろうが、唄っているのは終始「ジーンセーイ」とだけ。いまやオハコの一例か。
 
* 若い天皇さんの誕生日。お元気でと祝う。
 手もとへ、「反天皇」「反天皇制運動」「天皇誕生日奉祝反対」などのチラシが届いている。が、私は「天皇主権支配制」ならば断乎反対し抵抗するが、日本の「天皇制は独特な文化」の域をほぼ出たことが無かった、「天皇制」は「日本文化」であり「日本の政治制度」ではないと、ほぼ確信し認知し賛同している。
 今日の天皇家に「血縁」として繋がるであろう祖先の先登は「継体天皇」と私は観ており、以降の天皇で「政権支配」意志を鮮明に「国民を抑圧」した天皇は、実は十指に充つとも見えていない。近江・奈良・平安・鎌倉・南北・室町、織豊・江戸時代を通じて、皇族間の跡目争いや貴族や武家統領との軋轢はともあれ、露骨に国民支配のために権力や武力を用いて専制支配した例はきわめて希薄ないし無く、むしろ籐橘・源平・北条・/足利・職豊、徳川の政権支配を「柔らかにさまたげる」役に起たれることが多かったか、ないし「文化と教養の装飾的権威すなわち文化的存在」であるのが常であった。この「天皇制」がもし日本国に無かったら、政権や俗權、支配欲の故に国民は「悪しき軛と服従」に喘ぎ続けたろう、ゼッタイに間違いない。藤原、平家、源氏、北条、足利、織田、豊臣、徳川、また明治の元勲ども、昭和の軍人ども、を想えば、露骨なまで「天皇制無き日本」は国民に無残な被支配と駆使とに喘ぎ続けたろう。
 天皇家は元来が「祭祀の家」であった、歴史的に。祭祀もいろいろとはいえ、概してそれは武權よりは遙かに穏便に行われ、日々に国民を抑圧したりはしなかった。
 「文化」としての「天皇・ないし天皇制」は日本国と日本人に、激痛よりは、おおむね慰撫と平和を恵んできた、それを「想う」べきである。後白河は平家と、後鳥羽・後醍醐は北条や足利と肘を突き合ったが、露骨な国民支配や搾取は念頭に無かった。むしろ天皇家は「勅撰」の名で和歌や文藝を支援し、祭儀を保ち、朝鮮や支那との接点として日本の存在意義を保ち続けていた。まさしく「文化適象徴」の天皇制であり、武權支配者では無かった、少なくも明治天皇、昭和天皇の外は。
 誕生日を迎えた今の若い天皇さんを、わたしは親しいきもちで愛している。そう言うのを憚りも懼れもしない。深い考えもなく、ただスローガンのように「反天皇運動」などと云うている人の「落ち着いた」歴史認識や眞意をむしろ問いたい。
 
 * それよりも、かのプーチン害の凄まじい悪質を 遠見/・高見に見物気分では危険きわまりない。ウクライナが、ではない。民主主義・自由世界が是非にも「プーチン」支配にうち勝たねば、深刻な人間世界の破産が来る。第三次世界戰争は、あるいは、もう避けがたいかと実感に逼られて、危惧する。
 
 * とは云いつつそれはそれ、これもこれで、「湖の本162」要三校に次いで「湖の本163」入稿の手を、取り合えず、尽くした。明日、投函すれば、しばらくは、別途の創作等に集中出来そう。「ぼんやりと休憩」というヒマはもう私には無い。が、グタグタッと、全身、参っている。
 
 * 内外の報道、陰々滅々を強いられ、それだけでも、ぐったり。今晩は、といってももう八時半だが、緊急の要事はともあれ終えているので、床に就いて『薔薇の名前』『参考校源平盛衰記』そして『水滸伝』で寝入ってしまいたい。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)二月二十二日 水
    起床 6;35 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 52.05 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  江客に贈る 
   江柳 影は寒し新雨の地
   塞鴻 聲は急に欲霜の天
   愁ふ君獨り沙頭に向て宿するを
   水は蘆花を澆りて月は船に満つ
    * 「塞鴻」は、邊塞より飛来の鴻雁を謂う。「欲霜の天」は、霜ふらんと欲す       るの天気。江上の秋景を叙して、舟行の客を慰めている。
 * 眠時間の前半、実に七度も尿意に逼られ起きた。処方の利尿薬を服したのがいつもより遅かった。加えて浮腫のための処方薬も。尿量はしっかり毎度多く、体重は大きく減ったが、気にしない。
 
 ○ 秦先生 お返事ありがとうございます。
 先生の「機械クン」は、以前からずっと使われている「彼」でしょうか。長らく使っているとおっしゃっていた気がします。そして、「ホームページ、見失われて」しまったのですね。私も探せなくて、残念に思っておりました。
 暖かくなったら、ぜひ、先生と、「せがい」さんと、3人でお茶を一服、したいです。ご迷惑でなかったら、ぜひにと思っていますが、いかがでしょうか。
 先生のお顔を見になら、どこへでも、馳せ参じます!
 私と同じ「○○」という姓の素敵なご友人がお二人もいらっしゃるなんて! 少し誇らしいような、そんな心持になりました。「○○」は、夫の生家がある九州では珍しくない姓のようです。小学校の時にも同級生に何人も○○がいて、ややこしいので、苗字ではなく、名前で呼ばれていたそうです。
 私は東京出身なので、○○は珍しいと思っていたのですが、あちらからすれば「◎◎」のほうがよほど珍しい苗字であったようです。確かに◎◎もあまり見ない姓ですよね。ルーツは愛知県にあるようです。
 大人になってから病気には見舞われがちでしたが、それでも元気に過ごせていることを感謝しています。両親や周囲の人の助けがあって、子供たちもすくすく育って、働き続けられて、趣味のフルートも続けられて…。
「湖の本」次巻も楽しみにしております。
 東工大は、とうとう「東工大という名前」ではなくなるようですね。なんと、私の実弟の出身校と合併するという話になり、お互い複雑な心境です。
 最近 風の強い日が多く、実際より寒く感じますね。
 お身体お大事に、温かくしてお過ごしくださいね。 ○○(◎◎) まき
 
 * 嬉しいねえ、退官して二十八年、こうして東工大卒暁星が温かに声をかけて呉れる。久々に出会ったら両方でびっくりポンやろうなな。逢いたいな。
 
 ○ みづうみ お元気ですか。
 前回の本は送り先も少なく、また反響も殆どありませんでした。それが本来の私の実力です。
 今回の一冊に好運にもたくさんなご感想がいただけましたのは、何度も申しますが「秦恒平」効果ともいうべき現象にすぎません。皆さまから頂戴したすべての感想は「秦恒平」への敬意です。「湖の本」関連書籍への反響なだと肝に命じています。
 建日子さまには本日ご送付させていただきました。目次だけでも目を通していただいて、みづうみを愛読して病膏肓に入る読者の存在を知っていただけましたら幸いです。
 本日は三宅貞雄さまよりご丁寧なお礼状賜りました。「絵空事の愛、秦恒平『慈子』を読み進めているところです。」とあり、昭和六十年に『四度の瀧』をご出版なさったことなど書かれていました。あの一冊は、『秦恒平選集』全三十三巻と共に、大切に書棚に並べていますが、じつに美しい本でした。
 夜になるとやはり冷えてまいります。どうか暖かくなさって、みづうみの「読み・書き・読書と創作」の生活をなさりつつ、ゆっくり「お憩み」もなさってくださいますように。
                               山瀬ひとみ
 
 * 今回の『読者の仕事 私を創る』は、著作として十分に自立し自律した文章確かな論攷であり、つつましく、しかし自信を持たれていいと思う。落ち着いてこの「二」に次ぐ「三」を起てられますよう。
 * 「湖の本 162」思案し、敢えて「三校」を印刷社へ依頼した。自転車で、ごっそり投函に行けた。脚を上げて尻が乗りさえすれば、乗って走るのは何でもない、脚しっかりと、坂も苦にしない。乗り降りにしくじると横転のおそれ。それが分かっているので慎重に乗車に脚を上げている。
 自転車はじつに快適。幸いに脚はそうは弱ってない。
 
 * 追い掛けて「湖の本 163」入稿の用意が出来ているのを、念入りに確認して、これも今日明日に「入稿」する。「湖の本」は、汚く謂うてもしまうと、一種私の「吐瀉」でもある。私なりの「出産」でもある。生きている証である。
 * 「アコ」が妻あしもとの隙をみて家出、いいお天気なので少しく遊ばせておく。必ず帰ってくる。
 
 * 私昼寝の内に「アコ」なにごとなく帰還したが、「マコ」に猛烈に??られていたと。いつも、こういう結末。いい兄弟。どっちが兄で弟かは判然としないが。
 
 * 夕刻、あれで何時頃か、六時前か、こう機械前にいてあれこれの間にも奇態にシンドかった。全身から生気が失せて行く感覚に、物は試しと近くに於いてある器具で血糖値を計ってみると。オウ… 44。これは生より「死にまぢかい危険」きわまりない数値で、階下へ降りられるかと不安なままゆらゆらとキチンへ舞い込み、妻に白砂糖の瓶を求めた。これがともあれ数値回復の最速の道と体験的に過去にも何度も何度も砂糖の匙へ遁れてきた。低血糖値はともあれそれで回復する。モンダイは、何で低血糖か。
 午前に責了紙を投函した脚でローソンへ脚を伸ばして、気まぐれの粗雑な買いものの中に、サントリーのウイスキー小瓶に手を出した。
 私の洋酒僻はストレート。チビチビと。夕刻までに、気づくと残り、瓶に半量。おやおやと思った、これが「来る」とは思ってなかったが、血圧は下げるかなと。血圧は測らなかったが、あんまりふらつく感じが妙なので、たまたま血糖値を計った。計れる用意がいつも間近にある。
 44。ギョッとした。砂糖はかなり口にしたが、夕食へは手が出なかった、そしてフラフラと寝室へ寝に行った。寝入って起きて。九時半。快適とは謂いがたい、が。
 
 * 幸い急を要する要事は、ま、無い。相当に片付けてある。無事に、寝入りたい。
 
 ○ 「昨今、何より小林秀雄や山本健吉のような怖れを感じる評論家のいないことに愕然とします」と同業某氏のメール。頷くしか、ない。不幸なことだ。
 
◎ 令和五年(二○二三)二月二十一日 火
    起床 5;30 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 55.3 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  江客に贈る 
   江柳 影は寒し新雨の地
   塞鴻 聲は急に欲霜の天
   愁ふ君獨り沙頭に向て宿するを
   水は蘆花を澆りて月は船に満つ
    * 「塞鴻」は、邊塞より飛来の鴻雁を謂う。「欲霜の天」は、霜ふらんと欲す       るの天気。江上の秋景を叙して、舟行の客を美しく慰めている。
 * いま見入っている日付等から「白詩 江客に贈る」画面、真っ白い地も鮮鋭に黒い漢字もひらかなも、美しくて見とれている。早朝の冷気につつまれ、戴き物の綺麗な「肩背覆い」も、部厚い温かな「膝掛け」も有難い。かすかに空腹感もある。朝食は「マ・ア」ズと一緒の、八時。
 
 * 夕刻までに「湖の本 162責了 163入稿」の用意をともにほぼ終えた、執拗にガンバッタものだ、しかし、疲れもきつい。
 
 * 東大名誉教授久保田淳さん、新著『藤原俊成』吉川弘文館の人物叢書を頂戴した。帯にあるとおり「定家ら新古今歌人を育てた中世和歌の先導者!」そのもの、私も、子息定家や西行以上に親しみも関心ももってきた。感謝。
 
 * 千葉の竹内清巳さんからも、懇切/親愛の親書と同人誌『陸(roku)』に寄稿の秦恒平論攷を戴いた。有難いこと。謂わば長谷川泉さんの後輩ないし門生といった方で、八十一歳、私もひさしい馴染みの学究。拝読します。篤く感謝。
 
 ○ 昨日荷物が届いたとロナもインフルエンザも遠慮して。  尾張の鳶
 
 * 沢山な京土産も嬉しかった、「松葉」の鰊蕎麦も満喫しましたが、頻頻と京都へ出掛けられるのが、実に羨ましい。まっこと羨ましい。
 
 ○ 前略 それにしても世の中、本当に困ったものですね。人間は歴史を学ばないことが、よく分かりました。
 人は反省しない、反省しても誤りを正そうとしない。そうやってずるずる生きていく。それが人生なのか、と、つくづく考えてしまいます。せめて、秦さんが、世の中へ鋭い警句を投げつけて下さるよう……小生も秦さんを見倣い、世の中に文句を言おうと思います。                          詠 作家 ペンクラブ理事
 
* 警句や文句でも、口での愚痴では何ともならない。文章で生きる者は、文章で伝えて闘わねば成らない。
のこと。喜んでいただけて良かった。
 体重55キロとあり、一時より少し体重が増えたかと・・本当に大事なことですから少し安心しました。好きなもの、美味しいもの、できる限り召し上がってください。腹八分目など全く考えないで、好きなだけ九分目でも十分目でも完食でもお身体に差しさわりないように。
 体重が14キロになった孫を連れての京都行きは、それなりに大変でした。昔初めてヨーロッパに行った時、次女が二歳半でしたか、おんぶに抱っこしての旅が一ヶ月半。帰国して一ヶ月は旅疲れで養生したのを思いだします。
 京都は観光客で賑わっています。美術館などめぼしい展覧会も少ない二月ですが、外国人も日本人も驚くほど多かったです。ホテルなどもコロナ禍で観光客が少なかった時期にリノヴェーションが行われたり、新しいホテルが建てられたり、コロナ後の需要に応えているようです。
 とり急ぎのメールでごめんなさい。
 くれぐれもお身体大切に。
 よく食べ、よく眠り、コロナもインフルエンザも遠慮して。  尾張の鳶
 
 * 沢山な京土産も嬉しかった、「松葉」の鰊蕎麦も満喫しましたが、頻頻と京都へ出掛けられるのが、実に羨ましい。まっこと羨ましい。
 
 ○ 前略 それにしても世の中、本当に困ったものですね。人間は歴史を学ばないことが、よく分かりました。
 人は反省しない、反省しても誤りを正そうとしない。そうやってずるずる生きていく。それが人生なのか、と、つくづく考えてしまいます。せめて、秦さんが、世の中へ鋭い警句を投げつけて下さるよう……小生も秦さんを見倣い、世の中に文句を言おうと思います。                          詠 作家 ペンクラブ理事
 
* 警句や文句でも、口での愚痴では何ともならない。文章で生きる者は、文章で伝えて闘わねば成らない。
 
◎ 令和五年(二○二三)二月二十日 月
    起床 5;30 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 56.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  王昭君 
   漢使脚回 憑て語を寄す
   黄金何れの日か蛾眉を贖はんと
   君王 もし妾が顔色を問はば
   道ふ莫れ宮裏の時に如かずと
    * 君王の誤選で匈奴に与えられた美貌天下一の「王昭君」の、はるばる異邦に      使いした漢使の帰国をとらえての悲痛の訴え。
      財宝を賭しての私のお迎えはいつ来るのか、もし王様が私の容色を問われば、      後宮に寵愛されていた昔に及ばず、衰え窶れているなど、どうか道(い)う      て下さるな、それでは、ますます買い戻してはくださるまいよ、と。
      「宮女外交」政略の悲惨な犠牲者であった。漢皇は謀られてと悟らず、もっ      とも醜い宮女と思って匈奴へ遣わしたのであった。
 * 尿意やや遠く、永く睡れていたのかも。五時半。昨日はまっことよく寝ていたので、早めだが起きることにした。今日午前は、厚生病院の予約受診。
 
 * 受診無難に終えたが、栄養失調気味が微妙に検査値に現れている、食べよと。夫婦して同じ事を謂われてきた。
 
 * はやめの夕食後、八時半まで熟睡、何一つもせずに。そして十時になる、何一つ出来ていない。「齷齪茫然」よと嗤ってしまう。心身疲労が、底をついてゆらゆら。昨秋来、ずうっと引き摺って処置無しと謂うありさま。
 
 ○ やそしち様
 お二人で栄養失調とのこと 驚いています! お願いですから 沢山しっかり食べて下さいね!
 うちの娘は「薔薇の名前」が大好きで、日本語で2回読み イタリア語は読めないので英語で1回、 現在日本語でまた読んでます。
 私は昔、映画を観て 本を読もうと頑張りましたが ギブアップ。
 みっちゃんが読んでいると聞いて、もう一度映画を見たいと思っているダメ人間です。
 私は足が弱ってきてウォーキングをしなさいと言われていますが、それがなかなか出来ず…やっぱり絵ばかり描いています。
「自分」という人間は、やりたいことしかなかなか出来ないですね〜  いもうとより
 
 * 妻の妹。おちついた「創作」者。本格に繪が描ける。顔を見ればたくさん話せるのに。このコロナほど長期に禍されたことは。真珠湾から原爆までに「張り合われ」ているとは。
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)二月十九日 日
    起床 5;40 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 55.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  點額魚 
   龍門點額 意何如
   紅尾青? 却て初めに返る
   見説 天に在りて雨を行るの苦しみを
   龍と爲る未だ必ずしも魚と爲るに勝らず
   * 龍門は、俗に謂う黄河上流にあり、鯉魚の老いて遡れば、龍となると。成り損     ねたなら如何。いやいや、なまじいに龍と成れば成ったで、苦労して天下に雨     を降らせねば。龍必ずしも不遇の魚のママより好いとは言えぬよと。「點額」     は、しくじるの、ままならぬ の意趣。
 * 画面輻輳の体の修復訂正に朝の時間を奪われるのは。憎い。なんとか、一本化したと思うけれど。老耄、ひとしお機械に翻弄される、か。
 
 * 午前に入浴。永くは入ってられない、疲れてしまう。
 
 *  尾張の鳶、昨日か一昨日か泉涌寺へ来ていると写真を呉れていたが、3センチ四方の写真を大きく為る手順を失念していて観られなかった。文面は無かった、機械的なややこしさで外出先では字が書けないのだろうと思っていた、わたしは、今、機械の画面へ字を書いていて、それ以外に電送のための字の書きようを識らない。
 
 * 午近く、尾張の鳶、京都からか、家に帰ってからか、大きなダンボール箱に、京都の、好きな鰊蕎麦をはじめ、おやま、あらま、まだあるよと、沢山な京土産がマンパイに詰まっていた。食べて元気になれという鳶の見舞い、感謝に絶えず嬉しく頂戴した。午は「鰊蕎麦、ゼッタイ」と、午後一時を期して妻によういしてもらい、映画『トスカ』の詠唱と奇怪に展開の画面を観ていた。
 鰊蕎麦、ことに京の蕎麦の風味最高、喜んでご馳走になった。一合余の名酒「久保田」も呑んでいた.尾張の鳶、ありがとう、ご馳走さん !
 そして、二階へ来て、奇怪前の倚子に向く前に、気に入りのソファに甘える気分で古詩を下ろした、忽ちに寝入った らしい。夢も見ない 快眠の、熟睡…。目覚めたら、もう夕方へ日の傾いた、五時!! この眠りもまた尾張の鳶から戴きものであった。ありがとう、感謝感謝。 あれもこれも、いろいろ。つぎつぎにご馳走になります!
 それにしても心神「疲労」の深さにも、愕く。 五時四十分。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)二月十八日 土
    起床 6;40 血圧 147-78(80) 血糖値 86 体重 55.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  白雲泉 
   天平山上の白雲泉
   雲自づと無心 水自づと閧ネり
   何ぞ必ずしも山下に奔衝し去り
   更に波浪を添へ人間に向はんや
  * 山中の静閧去って、まして波風たてて人間(じんかん)に奔衝の、何要のあろう    やと、戒めている。詩人心中の本意を寓したのであろう。
 * 昨夢中の唱歌は「じーんせい(人生)」一句。水戸老公劇の主題歌であったか。わたしが意図して選ぶのでは無い、ただ夢寐に生じて間歇「唱い続ける」ので。「癖」でも「好み」でも無い。、
 
 * 寒い。
 
 ○ お元気ですか、みづうみ。
 今日は寒くても日差しのある一日で、なんとなくほっこりしました。少し遠出から帰宅したところです。ご体調いかがでしょう。
 先日ご報告の後、天野敬子さまから、視力が極度に弱まり読むことが叶わなくなっているとのことですが、「それでも目次をみてつい、秦恒平氏の二作の読み込み、読み入れに目が行き、いま山瀬さんの<思索>を感銘深く追っています」とお手紙頂きました。
 寺田英視さまは「貴著は正しく秦さんのリズールの手になるものだと納得しました。益々の御精讀を祈ります」と筆書きのお葉書、
 紅書房の菊池洋子さまから「先生にとりまして、貴重なかつ大切な『読者』の存在を知り、心強く思っております。」とご丁寧なお手紙と室生犀星についての評論をお送り頂きました。
 長年の「湖の本」の読者でいらした方々ですから、ある意味当然のことでございましょうが、「秦恒平」を書いていなければ 無名の物書きの一冊が皆さまに見向きもされなかったことは明らかです。わたくしの<力作に応じてもらえた>わけではありません。
 皆さま方より少しは若い世代の読者の一人として「山瀬ひとみさん、秦恒平作品を益々しっかり読んでください」とバトンを渡された気分になっています。
 みづうみは長い歳月を重ねて、真実の読者、素晴らしい支持者を得ていらしたのだと、あらためてご尊敬申し上げるばかりです。そして次世代に読者を繋いでいく責任を痛感しています。
 今回のアンジェイ・ワイダについて書いた章をお読みいただければおわかりかと思いますが、道は険しいものです。
 世界はワイダではなくスピルバーグの圧勝です。意志としての楽観を棄てることなく、淡々と着々と進んで行きたいと願っていますが。
 どうかご無事に、お大切に、みづうみらしい毎日をお過ごしくださいますように。
                              山瀬 ひとみ
 
 * 「らしくても、らしくなくても、踏み出し出し今日を明日へ。老境へ逃げこむまい。勉強の一語は あだおろそかに転がっているので無い。勉強とも人とも、人は出会う。出会うことが、大切。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)二月十七日 金
    起床 7;00 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 55.55 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  暮江の吟 
   一道の殘陽 水中に舗く
   半江は瑟瑟 半江は紅し
   憐れむべし 九月初三の夜
   露眞珠に似 月弓に似たり
  * 「瑟瑟」C碧の名珠。ここに「可憐」とは「可愛」の意。 美しい。
 ◎ 目覚めも近い時分から「思い想うこと」あり、長短はともあれ重い大きな創作、最晩年の大作を着想した。今日からそのための用意を心がける。粗忽に、慌てまい。
 
 * 「湖の本163」入稿への大準備が出来た。編成上の調整が出来れば、入稿、可能。
 
 ○ 「湖の本161」ありがたく うれしく読ませて戴きました。
 「十年むかし また繰り返すのか」  自身と津波跡の「福島原発」損壊の難儀。当時テレビ映像が想い返され胸が痛くなりました。あの日はまだ会社勤めの身でした。
 「私語の刻」 昨年の八月二十五日に 迪子奥様がおまごさんの「押村みゆ希」様をテレビの映像で御覧になられたとの記述にびっくりしました。
 りっぱに社会人の年齢のみゆ希様ご本人が自発的に祖父母に早く連絡をとってくださるよう願っております 私も。みゆ希様にはやじい様おばあ様にお声を掛けて欲しいと思っております。
 今回の「湖の本」あっと云う間に読み終えました。
 小さな庭ですが 福寿草 ろう梅 白梅 乙女椿が咲き始めました。あと一ヶ月もすれば櫻の季節になります。
 秦先生 呉々もむりをなさらずおしごとを楽しみながら毎日を後してください。
 次回のご本を心待ちしております。いつもありがとう御座います  桐生 一江 
 
 * 桐生 はわたしの「作家」として講演や読書会とうとう、よく招かれ出掛けた懐かしいところ。読者も多かった。みなさん、お元気でと願う。
 
* たった独りの孫の「押村みゆ希」に大人の優しさがあって呉れればと妻とふたりでいつも待っている。率先祖父母を労ってくれた亡き姉の「やす香」のように。「やす香」の写真はあちこちに置いて、一日中、真夜中でも、欠かさず「おじいやん」は話しかけている。
 
 ○ 拝復 文業はさておきましても 医学書院編集者として秦さんの果たされた小児(新生児)医療推進のお仕事、誠にすばらしいものであったと 改めて感服しております。
 公団開発のわが新興団地一郭に県立こども病院があり、通勤バスで患者母子と乗り合わせること度々、ご難儀拝する子供が無事に育つこと、当たり前のことではないと痛感いたしました。昨年、神戸市医療センター 中央市民病院隣に移転、おきまりの県と市中わるいにしては、いい事業だったと思ったことです。
 秦さんほどではありませんが、私も夜間頻尿に悩まされて久しく、
    厠何処せわしき夢や夏の月
などとたわぶれておりましたが、このところ「寒の月」にはこたえます。ために、このまま醒めることなきこともと覚悟、昼寝を日課にしております。心臓を患っていた叔母が、家で午きつねうどんを食して後、昼寝、そのまま96才で大往生。天ぷらうどんをふるまえばよかった いとこは笑っておりました。
 コロナ禍 ややおさまったとの情報ですが、兵庫県は以前通り死者数は高止まりのままで落ち着きません。東京はいかがと。
 お揃いでくれぐれもお大事にと念じております 草々 周  神戸大名誉教授 国文学
 
 
◎ 令和五年(二○二三)二月十六日 木
    起床 7;50 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 55.00 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  霊巖寺 
   館娃宮畔 千年の寺
   水澗く雲多くして客到る稀なり
   聞説 春來りて更に惆悵たりと
   百花深き處一僧帰る             きく                 * 亡国の恨み多き呉王の旧蹟、水澗(ひろ)くひっそり閑。聞説(きくならく)    花の春には少しはと、ところが、と。「一僧帰る」が美しいまで「詩」を成した。
 * 暖房のただ六疊間に居て、倚子の膝が痛く冷える。意気挙がらぬまま、ただただ「仕事」を奥へ奥へ無意識に近く追うて、おや、正午過ぎか。空腹を感じている。 
 
 * なにということないメールを久しい友に送った、のへ、激励の返信が来た。そんなきはなかったのだが、元気が無く読めたらしい。 有難うよ。
 ○ 弱音を吐かないで
 あなたらしくないよ。何時も気力はしっかりと持って
 この齢になれば、運命は天に任せましょう。今の年齢ならそれしか無いのでは…
 ただ寝たきりやホーム暮らしになるのは避けたいけどね。
 6歳年上のお向かいのお婆ちゃんが、呼んでくれる娘家族と同居せずに、毎日出かける程の元気さで独り暮らしをしているのが良いお手本です。
 会う機会が有れば良いね。
 ○ 何か元気が無いね まだまだ頑張って下さい。
 年齢を意識するといやになるので、それは忘れて…
 私はマア 歳なりの毎日です。
 幸い医者通いをする程の故障も無く、淡々と過ごしてます。都内へ行く用事もなく、週 二回のデイサービスと近辺の散歩程度 。
 娘家族と同居だから話相手には事欠かなく、これで良いかなと。頂いた湖の本を読んでいて、あなたの様子も良く判ります、という訳で元気にしています。あなたもお元気で何よりです。又…   花小金井  千
 
* ま、弱っては居るのかも。
 
◎ 令和五年(二○二三)二月十五日 水
    起床 6;20 血圧 161-85(63) 血糖値88 体重 55.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  家園 
   籬下の先生 時に醉ふを得
   甕間の吏部 暫く眠りを偸む
   如何ぞ 家?の雙魚?
   雪夜も花時も長く前に在るに
    * 籬下先生かの詩聖陶淵明はたまにしか呑めなかったし、吏部畢卓は隣家の酒      を盗み呑むしか無かった。比するなら我れ楽天には家?の酒在り、恰かも好      し雙魚の?(酒器)も在り、雪の夜にも花の時にも好きに呑めますわいと、      或いはいささか詩人の口惜しい法螺かもしれぬ、が。おもしろい。
 * 利尿剤で、決まって8、90分間隔で尿意に起こされる。尿量は十分。間の睡眠に妨げは無い。 おそらく、寒さ凌ぎの下着の重ねが腹部などを抑えてか、少し苦に成る。
 
 ○ 秦先生 お加減いかがでしょうか。米津でございます。ご無沙汰いたしております。
 今でも、先生の授業を懐かしく思い出します。読書は好きでしたが、文章を書くのは苦手だった私が、先生の授業ではあんなに懸命に文字を、思いを綴っていたこと。文字にしてみると、次々と書き記したい思いがあふれてきていたこと。私にとっては、青春の1ページでした。素敵な授業を、本当にありがとうございました。
 先生からいただいた数々の言葉や思いを、今度は自分が子供たちに伝える番だと思い、今は、子育てを頑張っているところです。2度も大きな病気をしたのもあり、子供たちに伝えておくべきことを伝えておかなくては、という思いが強くなった気がしています。
 また先生ともお話しする機会があると良いなと願っております。寒い日が続いておりますので、先生も、くれぐれもご自愛くださいませ。    米津(富松) 麻紀
 
 ◎ あなたの健康とお幸せを、いつもねがっています、爲我井さんのことも。三人で 善いお茶を飲みながら一時間でも話したいなあなどと。もう、わたしは、それほどの体力も残ってないのは口惜しいが。「読み・書き・読書と創作」は機械に向かってでできますので、まだがんばってますが。「機械クン」との付き合いが、日に日に容易でなくなり。少年來、「ラジオ屋」の父の店も継ぐどころで無い「機械バカ」が目下最低最悪にこんぐらかり、折角のホームページも見失ってしまいました。かつがつ、字を書き積んでいますが、いつ、アウトと機械クンに「絶縁」を宣告されるかとヒヤヒヤしています。
 妙なこと謂いますが、現在あなたの「富松」さんという姓。
 昭和十七年(一九四二)春に入学した国民学校(小学校のこと。前年末に真珠湾奇襲で戰争に。改称されました。)一年生で、入学早々机を並べたのが「富松弘江」さんでした、落着きもハキハキもある、すてきな少女でした。 もう一人「富松賢三」クンがいまして、大學までずうっと一緒の、凜凜しい美少年で、かつ軟式野球の惚れ惚れする三塁手、高校の頃「全国優勝」してきたカッコいい、成績も終始競い合ったヤツてした。かれは、今も私の「湖の本」を応援してくれてます。
 つまりは私は「富松(米津)」姓がいつも懐かしくて、あなたのこともよく覚えているのです、ハハハ。萬一病気が在ればシカと気でも治し、元気に、「弓」をきりきり引くように凜々長生きして下さい。  また次巻出来たら差し上げます。古証文だけど東工大関連記事も入る予定です。  秦 恒平
 
* 「湖の本」をずうっと応援してくれている爲我井さんと米津さんは仲良しで、袴姿で弓矢など手に颯爽と見掛けたこともあった。教授室へも話し込みに何度も来て呉れ、びっくりする「研究」余話など聴かせて呉れた。
 あの東工大教受を退任して、四半世紀になる。
 
 ○ お元気ですか、みづうみ。ご体調はいつもいつも気がかりです。重たい疲労と共にお過ごしになるお辛さを思うと涙がでます。同病ではありませんが、わたくしも周期的にめまいに悩みます。中高年の女によくあることながら、躰の芯が定まらない感じは不愉快としか言いようがなく、特効薬があるわけでもないのでやり過ごすしかありません。
 少し明るい話題を。
 昨日、◎◎さまからめずらかな原稿用紙を使ったご丁重なお手紙を頂戴しました。私信を他の方にお見せするのは失礼なことかもしれませんが、このお手紙は「私宛」というより、みづうみに宛てて書かれたもののようにも感じられ、あるいはみづうみに読まれることを考えられてのもののように思いましたので、書き写させていただきます。
 
 ■ 『読者の仕事』をいただきました。
 贈り主の方に覚えなく、頁を繰ってみると『湖の本』という文字が見つかり、その「創刊の弁」の中に私の名前を発見し、あ、秦さんのご案内だったのだろうと納得しました。
 このお作のような様式の作品は、初めて拝見しました。おことばを借りれば、文章の、「交響曲」にたどりついているのではないでしょうか。ただ、私には、その奥底に「湖の本」の音が沈んでいるように思えました。
 「慈子」は、私にとってなつかしい作品です。この作品を読んで感動し、秦さんにファンレターを出しました。(作家へのファンレターは生涯この一通のみ)。ところが、実にご丁重なご返信が届いたのです。それから五十余年厚誼をいただいています。
 山瀬様の「慈子」の「読み」について大変感銘を受けました。そこから他のお作や秦恒平に迫る書き様胸に響くものがありました。私は秦さんの「多年の読者」に過ぎません。ほとんどのお作を拝読しながら、ただ、「うん、ああ、なるほど、おおーー」と読み入っているだけです。しかし「ハンコ」をお造りしたのが縁になったのか、『秦恒平選集』の刊行に際して、その表題を書くことになりました。突然の、しかも電話で有無を言わせない口調の申入れでした。私はご覧の通りの悪筆ですので、趣味のハンコの書体でお応えしました。選集は完結したものの今だにそれでよかったのかという思いは消えていません。
 話がそれました。
 秦さんを「学匠文人」と呼ぶ人があるとか。ぴったりあてはまると思います。山瀬さんはその作品を見事に読み解いていらっしゃる。そしてそれは巾広い作家や作品に及んでいると思います。なるほど「読む」ことを「仕事」と銘じていらっしゃるだけの結果が、この御著に焼付けられていると思います。私には、スムーズに読みすすむことができず、中途半端な印象、それもいささか的はずれになっているかも知れませんが、一言受取りとお礼と思い一筆執めました。
 ますますこのユニークな世界を究めるべくご精進くださることを願っています。
  (悪筆、乱筆をお許しください)
 
 * 初の「論著」に、何人もの論客や作家らの返信を得たらしく、励みになるでしょう。
 想い出せば、輪宅の「私家版時代」闇雲にえらい先生方に送りつけた、その最初の折、志賀直哉 ほか四人の著名な作家、歌人、俳人の各お一人から、簡明なハガキでの受領返信があった。嬉しかった。
 
 ○ 明らかに褒めすぎなので割り引いて読まなくてはなりませんが、<奥底に「湖の本」の音が沈んでいるように思えました> のお言葉が本当にありがたく嬉しく光栄に思いました。書いて本にした甲斐がございました。井口さまのような、みづうみを敬愛なさる方々に見苦しいものをお見せすることなく、私心に汚れないで「読んで・書いて・考えて」いけたら幸せです。 持田鋼一郎さま、聖教新聞の原山祐一さまにもお葉書でありがたいお言葉頂戴いたしました。ご立派な方々に、こんなに早く読んでいただけましたのも「秦恒平」とその作品について書かせていただいているからであることを身に染みて感じます。少しでも「秦恒平」の「読者の仕事」が出来たのであれば本望です。
 今日も寒い一日になりそうです。
春を夢見て、みづうみのことを想っています。   冬は、つとめて
 
 
◎ 令和五年(二○二三)二月十四日 火
    起床 6;00 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 55.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  澗中の魚 
   海水桑田 變ぜんと欲する時
   風濤は翻覆し 天も地も沸く
   鯨呑し咬闘し 波血と成るも
   深澗に遊ぶ魚は樂みて知らず
     * 名利に狂い舞う世俗・権勢をよそに、民も詩人もさも深澗に游ぎ樂しむと。
 * 夜中、左脛の中程に骨折するかとの骨の痛みを感じていた。今は、無い。が、目覚めて起きようと思ったとき、左胸に「重みの圧」を感じていた。
 
 * 通知のとおり「湖の本 162」再校、出揃った。何一つセカセカと急がねばならぬワケでない。現状では、体に無理強いするのが、仕事を停頓させそう。
 
 * セイムスへ妻と。薬品や「マ・ア」ズ用の砂など、タクサンに買いものして重い荷を持ち帰った。さて、それで疲れたと謂うこと、無かった。
 
 * 昨日、森詠さん、今日、田中励儀さん、来信。それぞれに有難く。
 
 * 宵のうち寝込んでいた。九時半近くまで。機械を止めに来ず済めば、そのまま寝続けたろう。心神疲労、読書もせず。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)二月十三日 月
    起床 7;00 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 55.55 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  早(つと)に皇城に入り王留守の僕射(ぼくや)に贈る 
   津頭の殘月 曉 沈沈
   風露は凄凄 禁署深し
   城柳宮槐 謾りに揺落すも
   悲愁は 貴人の心に到らず
     * 柳や槐の落葉頻りに世情の不快を諷喩しつつ、貴顕の者らの、民の悲しみ     を知らざるを遺憾と憎む、か。「津頭」は渡し場。「禁署」は宮中の役所。「王     留守(オウリュウシュ)」は職の名乗り。詩人の表情が窺える。
 * 機械が前夜の記事などを遺して呉れてなくて、繰りかえさねば成らぬ、とは。昨日奮励していた分が。行方知れず。何より奪われた時間が惜しい。が、奪われたは悔し紛れの責任転嫁かも知れないのだ、わたしの「機械バカ」は徹しているので。 根気よく「し
直す」「やり直す」のは国民学校(小学校)の昔から余儀ない「自責」。しかし停頓は停頓、身に堪える。
 思い切ってブアッと休むか。
 
 * 自身で言う「拙著」なら、「本に為るな」と「喝破」した人がいた。つい口にもし字にも書いて謙遜を「誇示」するような始末になりやすい。決まり文句はラクでもあり、逆効果にもなる。物言いは素直が好い。
 
 * 和歌山の三宅貞雄さん、電話を戴いて。私、歯無しの口で、たどたどしい談笑。
 
 * ガックリの一日だった。シクジリを重ね、前へ1歩2歩とこころがけて5メートルもあとじさりになった。
 明日ありと想ふ心のあだ櫻 夜半に嵐の吹かぬものかは  とか謂うたが。櫻は、まだ。杉花粉が凄いとテレビが脅している。が、杉花粉どころか、明朝には『湖の本 162』の再校分が届くとの通知。かくては、「責了」「発送用意」「発送」と連続して、又又の我が家は「戦場」となる。新刊の成るのは楽しみだが、次巻『163』を「入稿」もしておきたいがモタついている。
 息つく暇ない我が家の一等熱くなる時節が近づいたと謂うこと。泣言も寝言も、アウト。
 今夜は、もう寝てしまおう、八時、本を読もう。
  と、思いつつ、撮って置きの好きな映画、個性派の好きな女優ミシェル・ファイファーが、悪司教恋着の余りの「呪い」をうけ、日の存るうちは美しい鷹となり空に舞い、日が沈むと美女に変じて恋人との成らぬ愛の日々を過ごす、伝奇のロマンスにまたまたまた、妻と、惹き込まれていた。恋人の、日の存るあいだ騎士の方は、日が沈むと狼にされている。この騎士も、この作、絶好に嵌まっている。
 ミシェル・ファイファーは田の映画『恋の行方 フアビュラス・ベーカーズ』で兄弟のピアノ弾きを魅了しながら魅力の歌唱を聴かせて呉れる。
 
 * さ、寝るぞ。明日からさらに忙しくなる。
 
◎ 令和五年(二○二三)二月十二日 日
    起床 6;00 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 55.55 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  長洲苑 
  春 長洲に入り 草 又 生ず
  鷓鴣飛び起ち 人の行く少なし
  年深うして辨ぜず 娃宮の處
  夜 夜 蘇臺 空しく月明し
     * 「長洲苑」は蘇州太湖の北、呉王遊猟の園庭、「娃宮 アキュウ」も同じ     く。「蘇臺」は呉王が都した遺跡、すでに其の興亡また荒廃を嘆じている。
 * 脚はまだ階段をほぼ苦にしていない。「踏み」機械 かつては百回踏めたが今は七十でキツいが、機械設定はかなり重くしてある。気がかりは、背筋の驚く弱り、「胡座」が組めずウシロへ倒れる。これは、脚が歩けても背中で弱るということ、憂慮すべきに当たる。腕力は、相当に残っている感じ。
 イヤイヤ。午後三時になろうとし、ヘトヘト。毀れてしまいそう。
 
 * 六時半まで昏睡。痛いほど胸奥の乾き、渇き。もう床に就いて寝入るしか無い。
 
◎ 令和五年(二○二三)二月十一日 土  昔の紀元節
    起床 6;00 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 54.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  青門の柳 
  青々たる一樹 心傷ましむる色
  曾て幾人 離恨の中に入りしぞ
  都門に近う多く別れを送るが爲に                         長條は折り盡され 春の風を減ず
    * 「青門」は長安京に。立つ人も送る人も、都門に向き合うて互いに柳枝を折    って記念とするのが、往昔の風習 柳の春はやや風情を損ずるが常であったと。
* 六時起き。
「アコ」が、明け方、やや異様なま寝ている私に甘えてきた。夢うつつに体調を案じてやる、が、なにしろ北向き戸外の積雪は残っていて、寒い。「ネコは炬燵でまるくなる」との童謡の証言は不滅。ああ寒い。
 着替えなどあれこれのあと、機械へ来たところ。
 朝食は、早くても八時、「マ・ア」ズと同時に供される。「マ・ア」ズはもう、私から大好物の「削り鰹」を、少しずつ、貰っている。一日に、数回私を訪問し、好物を静かに強要。そのつど、食後の遊戯めき襖を噛み砕いた穴・穴を広げて行く。寒いよ、狭い部屋でも暖房が効くまでは。
 
 * 「建国」とまではシカと自覚しづらい。茫漠と「紀元節」の方が懐かしい。こんなのは、神話っぽいのが大らかに胸に納まる。紀元節というと、少年の昔は熱い粕汁がキマリだった。「酒粕」「酒」も大好きになった。秦の父は、雫ほども酒がダメ。母の話では若い頃は茶屋遊びしたと聞いたが。
 
 * そういえば昨晩は妻と映画、最高に盛りの頃の木暮実千代・デビューしたばかりの若尾文子の『祇園囃子』(編集短縮されていたが)を久しぶりに観た。高校生も早い時季だったが、四条河原町の映画館、満員の立ち見で独りで観た。かなりの刺戟作と観た、少年ながら。
 育った家は、抜けロージの一本で花街・甲部乙部の祇園町と背中合わせだった。尋常の道路は無く、「隔て」られていた。いくら隔てても、祇園のこと、子供にもよーく知れていた。秦の父に甲部と乙部とどう異なうと聞くと、現下に「藝妓と娼妓と」と。明快。とはいえ、藝妓の甲部とて…と子供心に「分かって」いた。その分かっていた内実をえぐるように描いて見せたのが映画『祇園囃子』、高校生とてなにも吃驚などせず、即、納得した。通った祇園石段下戦後新制の「弥栄中学」へは、乙部の子も甲部の子も同学年で大勢通学していた。じつに「異色」の新制中学だった。私の処女作で、好評注目されてそのごの足どりを華やかにしてくれたのが「祇園の子」だった。幼い実在したヒロインは、利発によく出来た「祇園乙部」の置屋育ちの子だった。知恩院新門前から通学のわたしは、その印象清潔な同年女生徒を、遠見に、敬愛すらしていた。昨晩観た映画「祇園囃子」は
変わりなく胸に食い込んだ。「男」という「獣を」概して「嫌う」ようになって「学んだ」映画であった。なにとなく、見聞体験の材料はまこと豊富なのに、わたしは「祇園」をめったには小説にしてこなかった。
 
 * オヤ。もう正午。
「湖の本 163』入稿用意進捗。「編成・編集」が難しい。吶喊のほかない、この先は。
 
 * 言いつつ、昼食後、つぶれるように寝入り三時半まで重い睡眠を貪っていた。本も読めなかった。夕食後も十時まで寝ていた。いまは、もう零時へ入っている。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)二月十日 金
    起床 5;30 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 54.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  梨園の弟子 
  白頭 涙を垂れて梨園を語る
  五十年前 雨露の恩     
  問ふ莫れ華C今日の事を
  満山の紅葉 宮門を鎖す       
  * 「梨園」とは、日本風に言えば役者・藝人らの、詩中に謂う「白髪」の伶人ら    の冷「所属」を謂う。「華C」は今日の西安に玄宗帝が楊貴妃を寵愛した宮廷。    詩中の伶人の「問ふ莫れ」には、貶托されていた詩人にして官吏の樂天白居易     自身の感慨が託されているのだろう。
 
 * 五時間余しか寝ていないが、五時半に床を起って二階、機械の前へ。いろいろと。
 井口さんへ返信はしたが。メール・ボックスを明ける習い、持たれているか、ナ。
 
 * やがて、八時。「マ・ア」の朝御飯時間。わたしも、すこし空腹。階下へ。
 
 * 先日『慈子』を所望され贈った京都の直木和子さん、高校の縁だろうとは想ったが記憶に無かった。今朝、礼状が届いて、懐かしく納得した。叔母の秦宗陽が、裏千家業躰金澤家での茶の湯稽古同輩だった東福寺内大機院主、わたしもよく識っていた直木宗幾さんの、二女と。あるいはフィクションながら『慈子』冒頭の大臺機院茶席や座敷を拝借しての叔母が社中らでの初釜場面などに、大事に登場して貰ってたか知れない、間違いないと想う。それだと、十分懇意であったはず、記憶はまだよく戻らないが、東福寺内の立派な塔頭あの大機院の「直木さん」となると、秦の叔母とはごく濃やかなお仲間うち、新門前へもよく話し込みに見えていたし、なんとも懐かしい。『慈子』を新ため読まなくては。
 
 * 「慈子」の出を読んでみた。作者にして、さほどはぶ゜ぷんまで鮮明には覚えてないものだと、自覚した。が、あきらかに大機院で初釜の茶事など書いていた。徐は手東福寺から泉涌寺来迎院へ場面点じてひろいん、父に死なれたヒロイン「慈子」を訪れている。
「美しい限りの小説を」と覚悟して書き始めた原題は『齋王譜』だった。私家版の三冊目、これが、円地文子さんから「新潮」社へ廻って、「新潮」誌との縁とはならなかったものの四冊目私家版へ弾みが付いて、その表題作『清經入水』の太宰治賞へ連絡が付いたのだった。小説『慈子』は、或いは一、二に永く愛読された私の作であったかも知れない。
 
  ○ わたくしは、もしかしたら、どこかで天才を羨んだかもしれません。天才というのは、キリスト教の主の祈りの文言の「我らを試みに引き給はざれ」の「試み」を課せられた人間のことでしょう。ニーチェの生涯を賭けたキリスト教との死闘、結局敗北しましたが、それでも世界を揺るがした壮絶な仕事と人生を思うと、発狂してくれて良かったとすら思います。
 わたくしは、「試み」を与えられなかった凡人の幸いを思いつつ、そのなかで今生の自分に出来る仕事は「何か」と考え続けています。『読者の仕事』はそんな悪戦苦闘の一冊ですが、力に余ることをしていた不甲斐なさを悲しむだけです。
 逸れますが、坂東玉三郎さんのある動画を思い出しました。「次に生まれ代わるとしたらまた坂東玉三郎になりたいですか」という質問に「皆さんに驚かれるのですが、私は生まれ代わりたいとは思いません」ときっぱり仰っていました。天才という世にも恐ろしい人生を生き切ったからもう繰り返さない、という決意でありましょうか。
 死なない仕事を残せないわたくしのような凡人は、死んで無になるのは怖すぎるので「抱き柱」で安心したいし「来世」も「神の国」も信じたい。「倶會一処」も願いたい。悟りは遙かあなたです。  冬は、つとめて
 
* 目が霞んで。困る…。
 〇  お元気ですか、みづうみ。
 やはり雪が降り始めました。外出している方々には申しわけないのですが、暖かい室内から雪見をするのは大好きです。雪化粧とは良い言葉で、アスファルトとコンクリートの東京砂漠がそのときだけ美しくなります。でも、京都の雪景色なら遙かに静かで素晴らしいでしょうね。地唄舞の「雪」も思い出します。
 傘を使う舞は、とても難しいのですけれど、東京でよく舞台にあがる「雪」の舞は、京都のお座敷のそれとは別ものに思います。 冬は、つとめて
 
 * 機械の前に終始し、北前の道路に雪の積んでいるのを、晩に初めて気づいた。寒いわけだ。
 八時。なによりも目が、休息を強く要求してくる。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)二月九日 木
    起床 6;00 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 54.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  秋房の夜 
  雲は青天を露はし 月光を漏らす
  中庭に立つ久しう 却て房に歸る
  水窓席冷やかに 未だ臥す能はず
  殘燈挑げ盡して 秋の夜は 長し
  * 私なりに 努めて美しい韻律の日本語にと願いながら。
 
 * 夜通し(と謂うても、処方の利尿剤のため数回も手洗いに起って分断されながらも)何とも陽気に「ソソラ ソラ ソラ」と唱い続けていた。だれかのダンスらしいが、「兎」か。なんという變テコな、私夢中の「ヘキ」であることか。
 
 * 今朝、寒冷のキツさよ。六時から一時間半、六疊間を28度暖房していて、温まらない。熱いスープでも飲みに下りるか。正月來 私の文句なく美味いと喜ぶのは多分ただ鰹出汁のスープだけ。パンは、もともと食べない。飯も、東京米の針のような固さを嫌って、めったに食べない。細い太い別なく、大方は純白の讃岐うどん、稲庭うどんなどをツケ出汁で食しているが。素の鰹出汁がいっとう手取り早くて「うま」い.猫になっている気分。
 空腹感が、このところ折々に戻ってきている。
 尾張の鳶が、武蔵の鴉にと、京都へ行くと南座わきの松葉の鰊蕎麦を送ってくれるのが、懐かしくてやはり美味い。蕎麦も出汁も鰊も。淡泊な鱈のほかは、めったに魚は食わないのに、あの蕎麦の鰊は食う。「京都」恋しい味わい。
 
 * 脈拍は健康に規則的に打っている。寝起きの折などに、やや胸を圧される感じが有る、今年になって感じる。夢見も宜しく無い。と謂うより、いつも睡い。寝てればいいじゃないかと自身に仕向けているが。
 
 * シリアで最大規模の地震被害。ウクライナでは汚職が続発。日本でも気色の悪い、物騒で、アタマに来る報道ばっかり。冗談でなく寝入っていたいよ。
 
 * 午前働き、午後は二時半頃から、夕飯後も手の止められない集中しも間違いやすい難儀仕事に継続打ち込んで、 九時半。まあ、なんとか。ガンバるとあとあと堪えるのだが。分かっているのだが。雑用では無いのだ、どうしても必要な編集・製作、そして創作のための、みななにかを「つくる」しか道のないしごとなので。
 
* 久々 井口哲郎さんのお手紙を戴いた。老い老いの日々のご心労も察しられる。ご健勝で都、どう言句は月並みでも、そう願う、こころより。
 寺田英視さん、山梨文学館の中野和子さんからもハガキ戴く。
 
* 久々 井口哲郎さんのお手紙を戴いた。老い老いの日々のご心労も察しられる。ご健勝でと、どう言句は月並みでも、そう願う、こころより。
 前の、文藝春秋専務の寺田英視さん、山梨文学館の中野和子さんからもハガキ戴く。
 * 横になって、手の出るのはやはり手に軽いもの。と、和紙、和活字、和綴じ、掌大の、「常陽水戸府」で校訂・重校「全四十八冊」の『参考源平盛衰記』が最適最高、豊富に興味津々の未知の記事や多彩な異本・異聞にも溢れて、幸い仰向きに寝て高く持ち上げて読んでも、腕や肩にきつい負荷は無い。現代語訳が、大勢の平家物語愛読者にも役立つと想うけれど、もう私の現状では無理。しかし部分的にも、とか創作の下敷きにもなど、いまも欲深い希望は棄てがたい。
 大学生だった「コヘちゃん」に、専用の雅な木筺に揃ったまま、ポンと呉れたご近所の小父さんの好意、まッこと「有難う御座いました。」
* 明けて、零時時。寝室へ降りる。
 
◎ 令和五年(二○二三)二月八日 水
    起床 6;15 血圧 140-72(71) 血糖値 81 体重 54.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  草堂にに別る 
  三間の茅舎 山に向て開き
  一帯の山泉 舎を繞り廻る
  山色 泉聲 凋悵する莫れ
  三年官満たば却て歸來せん
  * 山色泉聲よ 別れをいたみ歎くな、すぐ歸って来ると。
 
 * 朝の「羽鳥」番組に玉川クンがもどってきて、その周到で視野の広い調査力に教えられ励まされもする。こういう人ほど、イヤミにラチの外へ押し出されやすいが、挫けないでたくさん教えて欲しい。
 
 * 機械とも原稿とも組み討ちの悪戦苦闘、ストラッグルという語感そのまま。投げ出せば、負け。我慢のほかなく、投げないこと。
 
 * 茫漠として、フラフラした、文字のママ「迷・惑」仕事ながら、粘って、そこそこに仕切りが付いた今日の仕事。一息ついて。十一時にちかい。寝に行くしか、ない。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)二月七日 火
    起床 7;00 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 54.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  初めて官を貶(へん)せられ 
  草々家を辭して後事を憂ひ
  遅々國を去りて前途を問ふ
  望秦嶺上頭を回して立てば
  無限の秋風は 白鬚を吹く
     * 望秦嶺は、長安より東南への出路。初めて体験の左遷、極く凄切。
 
 * まさしく「夢」物語をさまざまに夢中幾つも書いていた。睡れぬでは無い、何度手洗いに起とうとすぐ寝入れるが、すぐ夢が来る。優しい美しい懐かしい夢トバ刷りは限らず、時に凄然と脅かされる。それでいて、ひっきりなしに口ずさんでいる、夜前も程のきにいりなのか「アーカーリ マタターク クロモンチョーニ」と唱い続けていた。なんと、ウロ覚えだが後ろも覚えている、「御用 御用の声がする 伊達にゃ持たない角帯の 房は紫この十手 遠く下谷に 遠く下谷に 鐘が鳴る」のではなかったか。何にしても好んでみるワケのない「黒門町の傳七親分」の出で立ち。黒門町とは、ハテ、どの辺か、あの辺か。
 
  * 着重ねもせず二階へ来ていて、暖房してもまだ肌寒い。部屋は暖めておいて、階下へ。珍しく空腹感。
 
 ○ 今日は日本画の教室が終えて少しだけ軽くなった気分になり、椿の苗を買い求めて帰宅。寒さが和らぎコートも着ないで過ごしています。祖母の役割に「埋没」もしていませんが・・孫は三月には満三歳、すっかり人間、自己主張、反抗も一人前になったような。これまでに三回も保育園を変わりましたが新しい環境に順応してきました。
自分のことばかり書きました。 尾張の鳶
 
 ◎ 戴いたエーコ『薔薇の名前』愛読しています、大長編の「五日間」のようですが、「一日」「一日」が長編で。映画とも見合わせながら。
 文学・文芸を廻って「作者の仕事」や「研究者の仕事」や「批評家の仕事」とならんで『読者の仕事』があり、これが意図・意識されていないのは欠落と感じてきました。谷崎や漱石の『こころ』や『源氏物語」『平家物語』『徒然草』『枕草子』等々を廻ってした仕事、あれらが、ただの感想や鑑賞でない、私自身をも表現の『読者の仕事』でした。
 
* 前のめりにグイグイと登って行く感じの時、アレが好い。あそこへ逼らねば。その爲には何か強い刺戟が欲しい
 
 
◎ 令和五年(二○二三)二月六日 月
    起床 7:50 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 53.6 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選   舟中 元九の詩を讀む 
  君が詩巻を把り 燈前に讀み
  詩盡き燈殘して 天は 未明
  眼痛み燈滅して 猶ほ 暗坐
  逆風浪を吹きて 船を打つ聲 
     * 天未明までも友の詩巻をむさぼり読み、眼痛み 燈を吹き消してもなお詩     中の事どもを思うて暗中に坐しおれば、風浪の烈しく船端に逼るよと。
 
 * 一時は深夜にも起きて機械前へ来ていた。いまは寝坊するほど寝入っていたい。体も冷え切っているか。朝食を済ませ、よたよたと立ってそのまま寝室へ.目覚めたら、正午。言葉通り「だだら寝に夢もみぬまの底しれぬ闇の深みへ身をしづめ行く」日々。 
 
 〇 立春が過ぎ、少〜しだけ暖かくなりましたが、お変わりなくおすごしでいらっしゃいますか? 「湖の本」161を嬉しく拝受致しました。ありがとうございました。
 69頁の井口哲郎様の、  _それにしても「私語の刻」にとりあげている諸氏の手紙の内容が濃いものの多いことにほとほと感銘しています。_   に、全く同感です。
  117頁の終わり5行、122頁〜123頁、
 とりわけ印象深く拝読いたしました。ありがとうございました。
 寒暖差の激しい日々、どうかご自愛くださいませ。  岐阜  都  
 
 ○ 尊敬するのは肩書の不要な人間です。名前だけですべてを語るひと、数は少ないですが、たしかにいます。「秦恒平」もそんなビッグネームのお一人です。 都内  品  
 * みなさんが どう思われどう謂われましょうと、それはみな、皆さんのモノです。
 
 * 目下、私の要事は「湖の本 163」の編集。「162」の再校が出揃ってこぬまに「入稿」のメドを掴んでおきたく。願わくは、春の到来。寒いのは弱り身に祟り目に成りやすく。
 いま、、ゆーうっくり時間をかけてきた「左道變」を書き継いでいるが、仕上がりには、まだ、先がある、か。次巻には仕上げてある最新作と、「花筺 3」をいろいろに「はんなり盛れる」といいが。
 
◎ 令和五年(二○二三)二月五日 日
    起床 8:;10 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 53.6 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選   村夜 
  霜草は蒼蒼 蟲は切切
  村南村北に 行人絶ゆ
  獨り前門を出でて野田を望めば
  月明らかに蕎麦の花 雪の如し
   * 蒼蒼は青白くてもの凄く 青青といえば春草の形容。野田は「やでん」蕎麦は    「けうばく」 秋寂 村落の夜景を吟じている。白詩の形容は日本人には明瞭、
     判り良くて親しまれた。
 
 * 読者の一人が。幻戯書房とかいうところから『読者の仕事』と題した部厚い論考本を出版された。この『読者の仕事』という表題は、「思索者」の名乗りと倶に、在来、創作/編集/出版/批評・鑑賞等の「文学論」に於いて大きく一つ欠け落ちていた分野・課題、是に挑んで(仕上がりの評価は是非されるとしても)実現された、文章力もきびきびした、「思索」の力作になっている。謂わばどくしゃが作者へ送るラブレターの一冊で在り、作者への揺さぶりでもあるか。
 作者と読者との文學なのに、「読者の存在・論」まさしく「読者の仕事・論」の在来世に欠けていたのを、久しく私は訝しく感じてきた。それなりに手厳しい反響ないし無反響に迎えられるであろうけれど、山瀬ひとみさんの新著『読者の仕事』 私心無く、勇気ある思索の力作と見た。
 
 * ただただ寝入りたく、起きている心地しない。
 
 * ただただ寝入っている。話にならない。疲労困憊が服を着ている。
 
 ◎ だだら寝に夢もみぬまの底しれぬ闇のふかみへ身をしづめ行く
 
 
◎ 令和五年(二○二三)二月四日 土
    起床 6:;15 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 54.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  禁中夜 書を作(な)し元九に與へんと
  心緒 萬端 兩紙に書し
  封ぜんと欲し重ねて讀む 意遅遅
  五聲の宮漏初めて鳴る夜
  一點の窓燈 滅せんと欲するの時
   * 親友元九への手紙が意に満ちて書けない、時すでに宮中漏刻は深夜を告げて、   残りの燈火も消えなんと。
 
 * 前夜に床に就き、夜中はほぼ一時間余ずつ尿意に、起つ。尿量は各回十分に。これで体重は増えない。雲散「夢」消。ただ、起き際に「見送る」「見送らない」とう姿勢・態度・生きように思いいたっていた。日々の「生・活」で、見送ることも見送らないことも起き、わたしは、いずれかなら「見送らない」で執拗なのかと思われる。「見送った」らおしまいになる。「見送らず」に可能なら関わり育てて行く執拗を、私は生涯受け容れることで時々になにかを成し遂げ創ってきたと思う。「みおくる」という無為の清々を必ずしも好しとも良しともしてこなかったと、今しも気づく。「見送る」のは清々しくも想えようが、放任の怠惰のまま自堕落に落ちる。「見留め・認め」つつ見送る者は見送れば好く、私は立ち止まって、無考えには「見送らない」できた。そこに秦恒平の『私語の刻』が「意味」も「役」も成してきた。
 
 〇 前略  それにしましても、先生の倦むことない知的活動の源泉は、いったいいかなるものなのでしょうか。私も先生にあやかって励みたいと、「湖の本」をいただく度に思うのですが……   殊の外寒い日が続きます。くれぐれもお身体 お大切に過ごされますように。不一      都下 国立市  恭
 
 〇 松山大学図書館 受領来信
 
* 昼食したかせぬかで 三時まで熟睡。立ち居も面倒なほど。シャッキリしない。本も読めない。
 
 * 夕方も晩も 寝入って過ごしていた。何としても急くというしごとは無く、休息がいまの一番大事と「心身」が訴えている。読書も出来ず横になるとすぐ寝入っている。肩も痛く凝っている。
 
◎ 令和五年(二○二三)二月三日 金
    起床 6:;35 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 54.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  秘省の後廳
  槐花 雨に濕ほふ 新秋の地
  桐葉 風に翻へる 夜ならんと欲する天
  盡日 後廳 一事無し
  白頭の老監 書を枕に眠る
   * 樂天が文宗の朝に秘書監の頃、初秋廳中閑寂の景を謂ひ 白頭仮眠の自身を眺   めている。
 
 * テレビが認知症の話をしていたが、出演者の誰一人も、「読む・書く・読書/表現」に触れも云いもしないのに驚いた。読めていて、かけていて、本が面白く読めて、゛な生活中の表現好意が出来て、認知症とは云えない、ないし、殆ど懼れる段階にはいない。自然な物忘れは、若い人でも有る。年寄りにはまま有っても、大凡必要な読み書きや、好きな読書が楽しめれば、過大に認知症など騒ぐことは無い。せいぜい文通しせいぜい本を読み、テレビでも淹れ加野江南ニュースやドラマも楽しめばいい、楽しめ根なら「症」などと怯えなくて佳い。ものを忘れて行くのも老齢の一つの生き方・特権に部類できる。
 なにより「表現行為」に自信と好尚をもち、服装でも、親書交換でも、たとえ紙風船造りでも、駄句や警句や干潟ジョークでも、部屋の模様替えでも、とにかくも何か「表現」出来れば、健康だ。歓びにも成る。「認知症」などと謂うアイマイ・モコに左右されるのは、愚。
 
 〇  お元気ですか、みづうみ。 
 悩みに悩んだ題名『読者の仕事』に合格点をいただけるのなら、これほど光栄なことはありません。それだけでも書いた甲斐がありました。肝心の本文が、読むに値する内容に少しでも近づいていることを祈るのみです。お励ましいただいて本当にありがとうございます 今日も寒い一日でした。冷えると血圧も高くなりがちです。がんがん暖房のきいた部屋で、猫ちゃんズと楽しくお疲れを少しでも癒してお過ごしください。冬は、つとめて
 * 寒く、身も、とかく心も冷えて元気でない。『薔薇の名前』『読者の仕事』『水滸伝』『源氏物語』『参考源平盛衰記』に心身を引っ張って貰っている。
 * 節分。鬼は外 福は内。豆をまいた。疲れで自ずと目がふさぐ.『湖の本 162』の「要再校便」も送ったこと。心身をやすめぐっすり永寝してもいいのだ。
 
◎ 令和五年(二○二三)二月二日 木
    起床 6:;35 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 54.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  酒に對ふ 二
  蝸牛角上 何事をか爭ふ
  石火光中 此の身を寄す
  富は貧に隨ひ 且つ歡樂
  口を開きて笑はざるは 是れ 癡人
   * 区々たる冥利の争ひは止そう 石を打ち合わせて光るそれほどの短かな人生    ぞ。富であれ貧であれ成る樂しみを樂しめ、よく樂しんで、笑ひもならぬ痴人には   なるなと。 
 
 * 山瀬ひとみさん堂々の『読者の仕事』に驚嘆、その、わが初期作『慈子(あつこ)』評価にまさに驚嘆し感謝し、こうまで「読み」解かれて行くかと肌に粟立つものがある。「いい読者」はありがたく、また怕くもある。着物を一枚ずつ剥がれる心地。かつて原善クンや永栄啓伸さんらいろいろの読者が、批評家として読み解いてくれたが、山瀬さんのは、批評の評論の読解のと謂うレベルになく、「身内」からの同化と異化とからの痛いほどの「ラブレター」に思われる。ついに、こういう「秦恒平」の読み手が現れたかと、のけぞった。
 
 * 明いてられ無いほど塩辛い泪に冒されて、両眼が痛む。寒けもひどく、入浴の用意をして貰ってたのに、謝って遠慮した。いま風邪をこじらせれば、身が持つまいと懼れるほど健康であることに自信が無い。
 
 * 元・平凡社(太陽)の出田興生さん、手厚く「湖の本」へ応援して下さる。感謝。
 
 〇 「湖の本 161」拝受  「歴史を読む」 私も子供のころを想い出しました。生まれた和歌山の家は戦災で焼かれ 7年近くの疎開生活でした。小学校からの友人は離ればなれで極く限られた人数でした。
 昭和45年「秘色(ひそく)」に出会い それから早いモノで半西紀を過ぎました。永くご好誼を賜わり、本当に有難いことと感謝申上げて居りま どうかお揃いでお元気にお過ごしください。  和歌山市  三宅貞雄
 
 〇 ご恵送 ありがとうございます。
 今、半世紀ぶりに大學の定期試験を受けています。古い事は良く覚えているのに 新しい事は全く頭に入りません。ま、生きている証です。季節柄 お身体大切に
     神戸市垂水区      e-old  道
 
 〇 「世をしら波に  歴史を読む」の<七十年むかし、われの少年>から、<十年むかし また繰りかえすのか>を拝読し、あらためて先生の長寿の秘法をを学ばせて頂きました。
「気色のわるいこの現実とも、美しい静かなあれこれとも、ちゃんと向き合ういようと思うている」
 逃げ腰にならず前を向いて歩きます。  京・山科 あきとしじゅん 詩人
 
 〇 昭和女子大 日本文学科 「湖の本 161」受領の来信。
 
 * 「湖の本 162」初稿を終えた。「表紙入稿」と倶に、「要再校」で戻し、「再校出」を待って「あとがき」を書く。今夜は此処まで。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)二月一日 水  如月朔
    起床 6:;30 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 54.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  酒に對ふ
  巧拙 賢愚 相ひ是非す
  如何ぞ一醉盡く機を忘る
  君知るや天地中の寛窄を
  G鶚 鸞皇 各自に飛ぶ
  * 酒の上ぞ、五月蠅い批評は止せ 天地は宏大 善鳥も猛鳥も各自自在に飛ぶ、   それと同じ、と。「忘機」詰まりは憂き世のことは忘れて酔ふべしと。
 * そうは、行きませんなあ、なかなか。
 
 〇 大寒波に震えあがって蟄居中に『湖の本 161』が届きました。コロナ以降、外出の気力はもう寒さなしでもないのですが、魅力ある書物には、しょぼつく眼でもいまも反応します。
「世をしら波に」にすぐとびつき、<われ>を根に「歴史」として読んで下さった文章を愉しく懐かしさすらおぼえつつ。
<{あなたって、生きた小説ね」>は蓋し名言、「七十年むかし」以来(つまりはご誕生以来)の必然的に作家へと歩まれた軌跡が魅力的に浮かびあがってきます。
 名編集者の奔走にはただただ感嘆、そして「十年むかし」に、今現在をまざまざと読みとっています。作家秦恒平氏ならではの先見の明というべきか。
 先見の明といえば、ななんといっも「湖の本」のご創刊、そして今にいたるご継続ーーよくぞ最初の一歩を踏み出されたものよと、ご炯眼とご努力に改めて簡明をうけております。(今ならクラウドフアンデイング?)
 どうぞ御身お大切に、これからも先を照らして下さい。
   二〇二三年一月二十七日     敬
 
 * かつて大看板「文藝誌」の編集長であった方、「読み手」として卓越の名声の方。「激励」と有難く戴いている。
 
 〇 前略
 弥栄小学校、私にも懐かしい小学校です。筑摩(書房) 京都出張
折に 山下とか清水房とかいった祇園の中の宿に泊まりましたが、そのすぐ近くに弥栄小学校があり、花街のどまん中ににある小学校、どんな子供たちが通うのだろうかと、いろいろ想像しておりました。秦様がその(小)中学校のご出身と知り、なるほどと感心した次第です。
 今回もまた 秦様の幅広い共用と豊富な読書の量に圧倒されつつ 愉しく また興味深く読み進みました。東西の古典、茶道、能、華道、日本舞踊などに幼少のころから親炙されてこそ 教養というモノが見に付くのだと改めて思い知らされた次第です。
 小林秀雄や江藤淳といった二十世紀後半のにほんを代表する批評家が秦様をく評価していた事も納得できます。
 江戸の両替商は丁稚に金だけに触らせて育てたそうです。すると、十年たつと混ぜ物のある金貨と純生の金貨を触っただけで瞬時に区別出来るようになったといいます。古典的教養もそれと同じで幼い頃から触れていないとなかなか本当にみにつかないものたせと存じます。秦様はきさしく京都文化の伝統の純金に触れてお育ちになったから、今日の滲みでるような教養を身につけられたのだとつくづく感じ入ります。
 また、源氏や新古今、谷崎などの世界に浸りつつ、一方で旺盛な政治的・社会的関心を示されているのにも、文学者はかくあめべきと、いつも教えられます。
 ジンメル、マルクス・アウレリウスの引用も素晴らしいと存じます。
 とにかく毎巻拝読するたびに大いに励まされます。今後の益々のご健筆、心からお祈り申し上げます。  草々   鋼   作家・歌人・評論家・編集者
 
 〇 先生の旺盛な読書と社会への関心に、みずからの怠惰を反省することしきりです。なにとぞ、御自愛下さりますよう 敬具  西  九大名誉教授
 
 〇 浦安の島野雅子さん 神奈川県知事からも来信。
 
 〇 京・山科の詩人、あきとし・じゅんさん、めづらしい素晴らしい、梅味の「リキュール」を下さる。 美味い!! そして強烈。酔います。
 
 〇 御礼 秦 恒平  様 「湖の本161 」 嬉しく拝受致しました。有り難う御座います。
 時間の経つのはなんて速い、又 月が改まりました。今年もお互い何とか普通に時を過ごせますよう、希うしかありません。どうかご無事で、お筆が進みます様に。
 「湖の本」 厚かましくも何処かで心待ちにしている自分がいました。
 今回も又、いきなり魅力的な言葉の行列が。
「歴史を読む、書く」は多分人間だけの行為。 他人がそれを尊重するとは限らない?。
 大納得です。
「同志社美学 藝術学」。 校門奥に立つ「良心碑」の記述などなど。本当、「あかず懐かしい」事ばかり。
 各章の頭に見えるお歌、凄いなあ。
 見習いたいの次元じゃあありません。心に沁みて繰り返しよみふけってます。
 どうか何時迄もお元気で、少しでもお食事が進みますように。  久 拝    先輩
 
 * 短歌に、目を留めて貰えたのが心嬉しい。めったに無いこと。短歌こそがわが文藝の発端、自愛の創作であつた、少なくも高校時代には早くも。
 
 〇 山瀬ひとみさん、新刊の自著『読者の仕事』を下さる。これは、私としても「読まずにおれない」一冊らしい。毅然とした文体で書き起こされ ためらいなく論旨が展開されていそう。小説も書ける人、だが。
 
 〇 鎌倉七里ヶ浜の野村守美ん、というよりむかしのママ芦田「守美ちゃん」と呼びたい中・高の後輩、お見事な写真の技で、美しい海景、美しい小鳥たち の作を、額もともども贈って来て呉れました。感謝感謝。そして懐かしい。「ハタラジオ店」に初めてテレビが入って公開した頃、山のような路上の人だかりを分けて妹と、(あれは何の放映だったろう、力動山の「空手チョップ」だったか、阪神の若林投手、藤村三塁手、金田外野手や巨人の川上・青田選手らスラッガーの「阪神巨人戦」だったかも。大相撲だったかも。)觀に来たのを覚えている。
 
 〇 冬籠りのさいちゅうですが、熱い御茶とやさしい甘味と愉しいご本をかたえに、心豊かに過しております。まことに有難うございました。極寒の砌 ますますご自愛くださいますようお祈りいたします。  さいたま市 松井由紀子
 
 〇 読書の質の高さを示した「行不苟容 私語の刻」を面白く読んでいます。益々のご活躍を祈念。敬具  聖教新聞 原山祐一
 
 〇 一冊を読み切れた事にまんぞくしています。んダんダというところが一杯の本があるなんて。
「まあだだよ」ですよ ほんとうに。  沙  同志社美学 一年後輩
 
 * 視力の甚だしい混濁に恐怖を覚えている。一日の仕事量または所要時間を調節しないといけないのであろうよ。困惑。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)正月三十一日 火  睦月盡
    起床 6:;35 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 54.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  舊詩巻に感ず
  夜深けて吟罷み 一長吁す
  老涙燈前に 白鬚を濕ほす
  二十年前 舊詩巻に
  十人酬和 九人無し
  * 「二十年前の舊詩巻」に談笑酬和したあの「十人の九人」が今は亡い、と。
  私の「舊歌巻」は「五十年前」にすでに独り編まれていて、仲間は無かった。今はも  う失せたは、何か。思い歎くまい。己が「新詩巻」を寧ろ成せよと。
  「長吁(ちょうう)」は,深々の吐息、ため息。嘆息。
 
 * 朝起きしてすぐ「書きとめよう」とも願っていた多々全部が、霧散。笑えてしまう。
 
 〇 鴉 お変わりないですか、お元気ですか。  尾張の鳶
 湖の本、 大学入学のこと、北沢氏のこと、など興味深く読みました。
 日々忙しく 元気に過ごしています。
 半月もしたら少し暖かくなり、春の気配を感じるでしょう。
 大事に大事にお身体ご自愛くださるように。
 
 * 高校三年、誰もが切望の「京都大學」を見向きもせず、他大學受験も一切打ち棄てて、早々成績推薦の無試験で、ためらわず「同志社」に籍を得ておき、ひたすら独り探遊して「京都」なる歴史・自然の「栄養」を堪能し尽くしていた、私の、むかしのハナシ。十年余若い親愛なる「尾張の鳶」は、はるばる当時東海地方から京都大学生として京都へ來住した人。
「試験」なるもの、「生徒」時代だけで飽き飽きしていた。就職試験だけは通らずに済まなかったけれど。
 
 * 生まれてこの方、袖も触れ合わず互いに「もらひ子」として別天地に育った「実兄・北澤恒彦」のことは,一言で言えば「よく知らない」まま顔も合わさず、五十歳ころまでも別天涯に「人為的に」離されていた。
 初めて出会って、実感としては「あ」というまにもう「死なれて」いた。
 彼のことは、私より遙かに、よく、多くを知った「知友」が大勢いて、私の出る幕はもともと「無い」のである。「出よう」が無い。
 
 〇 今年岩波文庫から新しく出た「閑吟集」を拾い読みしています。
 思い起こせば1982年に秦さんの「閑吟集 孤心と恋愛の歌謡」がNHKブックスとして書き下ろされ、それに引かれるように1989年に岩波文庫に「新訂閑吟集」が現れ
2007年には「湖の本」として秦さんの旧著が復刊されました。
 その後ホームページ「秦恒平の文学と生活」の中でもしばしば取り上げられ「閑吟集」は馴染みの歌謡集となっていました。研究者ではないので気安く手が出せる本が有難いです。今度の岩波文庫版は現代語訳もついているので親しみやすい上に秦さんとの解釈の違いも楽しめます。
 初めて全歌通して読みました。秦さんに教えてもらっていなかったらここまで楽しめなかっただろうと 感謝いたしております。 
 母が今月100歳の天寿を全うして身罷りました。  
 どうぞ尚一層お元気にお過ごし下さい。  都下 野路
 
 * 疲れ果てて、昼過ぎから床に就き、晩方まで寝入っていた。
  天野さん、持田鋼一郎さんら、ありがたい郵便やメールを色々に頂戴していて、拝読。感謝。すべては明日にもう一度拝見。
 
 * なにかと明日にも備えていて、十一時をすぎている。眼窩が乾いている。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)正月三十日 月
    起床 6:;25 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 54.9 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  李十一と同じく酔ひ元九を憶ふ
  花の時 同じく酔ふて春愁を破る
  酔ふて 花の枝を折り酒籌に當つ
  忽ち憶ふ 故人の天際にに去るを
  程を計れば 今日 梁州に到らん 
  * 友人李十一と花に酔ううち、俄かに天涯客遊の友元九を憶い、旅程を指折り数   えれば、もうはや梁州にも到って居ろうよと。
  酒籌とは、友との醉飲に当たって酒盞の数を定めおく籤と。
 
 * 指尖のキイに触れる痛い冷たさ。真冬の感触。
 
 * 奇妙な夢を幾つか観たが。
 何処かしら遙かな島国らしきの異色に長身の、ま、若いとも見えた女王が立って、演説だか挨拶か、二、三枚の原稿を手に持ち話し始めたが、すぐ行き詰まり、趣旨と言葉を探ろうとするうちにも「泣き」出した。そんな夢を見た。冴えない女王であった。こう書いているうちにも他の夢は狭霧のように薄れて記憶から失せていった。
 
 * 「無理(夢裡)空」「暗然線」など奇妙な語彙を七、八つも「意識」「發明」し、記憶したい、書きとめたいと思いつつ、香澄(霞)のように失せた、忘れた。夢残、無残。。
 
 * アルコールに弱くなっていて、少し口にしていると、寝入ってしまう。段々に遠のけば良いのだと思っているが。むかしは「転た寝」などしなかったが。
 
 * 所澤の藤森佐貴子さん、「福岡県八女市の喜多屋「寒山水」を送らせていただきます。私はお酒につよくないのですが 隣で 美味しいと飲んでいるのをひとくちだけ 味見するのが 好きです。
「寒山水」は 父(国文学者 阪大名誉教授)のお供えにといただいて知りました。(ひとくち飲んだら 何口も飲んでしまいました ) 大輪の椿二輪の絵葉書に。
 奥様と いっしょに 楽しんで あたたまっていただければと 思います」と。
 たしかに たしかに超級に美味しい、グーな焼酎だった。
 
 * 神戸の市川澄子さん 「神戸は珍しく10センチもの積雪で外出も叶わず 時を得て拝読させて頂き。今、春待ちです。お大切に。」 妻の親友
 
 * 創作『花方』で馴染んだ瀬戸内「しまなみ海道 来島大橋全景」の絵葉書に今治市「波方」の木村年孝さん 「54頁に  読書がなぜたいせつなのか。めにとまり、心がゆさぶせれます、じっくりと熟読します。 今週は10年に一度という寒気が。瀬戸内も雪が降る予報です。お体 大切にお気をつけください。」
 
 * 大阪府池田市の陶芸家 江口滉さん 「本を頂くたびに、私の手もとに届くまでには、執筆から……発送迄  秦さんの作業、というより ほとんど闘いではないかと。寒さが続きます。お身体大切におすごし下さい。不一」 有難いお言葉です。
 
 * 喜多流シテ方 友枝昭世さん 茅ヶ崎市の吉川幹男さん ご厚志に感謝。そして
 
 * 都・練馬区の宮本裕子さん 詳細に具体的に、細部にわたってのご感想 ご指摘 感謝に堪えません。
 
 * 立命館大学、二松学舎大学、文教大学 「湖の本 161」受領の来信あり。
 
 * 肩こりの痛みが食い入るよう。目は霞んでいる。したい、つづけたい、せねばならぬ仕事は目前に積んで,有れど。なぜか、両の掌が痛い。変に胸苦しい。機械前を離れ、階下で初校なり、床に就き、『薔薇の名前』や『参考源平盛衰記』『水滸伝』を読んで楽しむか。寝入る。最期案が一等望ましいが。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)正月二十九日 日
    起床 6:;50 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 55.2 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  府池の西亭に宿す
  池上の平橋 橋下の亭
  夜深けて睡覺め橋に上りて行く
  白頭の老尹重ねて來り宿すれば
  十五年前の舊月明
  *「老尹」は年取った官人、白居易自身、十五年経た再訪、再宿。橋上の月明は往時    に変わりなく明るく、自身はいまや白髪と。情・景 ともに深深。
 
 * 寝床へ脚を入れて校正刷りを読んだり.ゆるゆると過ごして居る。
 
 〇 紅梅が 
 大寒らしく寒波がきて雪が降り、袋田の滝も凍りました。全面凍結はしばらくなかったので観光地は悦んでいます。でも、すぐ溶けるのでしょう。 
 コロナ以外にも外出を躊躇する寒さですが お元気でしょうか?
 珍しく私は今日は水戸に泊まっております。   
 間もなく二月、水戸では紅梅が咲いています。植物は確実に季節をとらえますね。   寒いですが お身体の調子が良いことを祈っております。  司
 
 * 季節感に彩られた爽やかなお便りはひとしお嬉しい。袋田の滝は妻と、わざわざ、と言うか池袋駅でふと思い立って観にでかけた。瀧への入り口近い旅館で、大きな深い白木の浴槽にまんまんと湯を湛えた浴室を遣わせて貰ったのが素晴らしい想い出になっている。侘卓しん゛「温泉」を謂うときは、此の想い出につよく惹かれている。
 
 * 今日の昼間は殆ど寝潰れていた。夜も夜中も朝起きても昼日なかも、寝ていたいザマであるよ。「疲労クン」が服を着ているよう。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)正月二十八日 土
    起床 10:00 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 54.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  亂後流溝寺を過ぐ
  九月徐州 新戰の後ち
  悲風殺氣 山河に満つ
  唯 流溝山下の寺あり
  門前舊に依て白雲多し
  * 「徐州 徐州」と「軍馬」の進む軍歌をあれで太平洋戦争より前、私はまだ幼稚  園前頃によく聴いたと思う。惨状の戦地になりやすい地勢なのか。
  中国の「九月」はたださえ物寂しいと聞く。そんな中、流溝山下の一寺ばかりは舊觀  のままに白雲門前を擁して、行き過ぎながらもさも清拙の別世界を静かに保っている  と。情景、目にも身にも沁みる。
 
 * 意志してほぼ十二時間寝た。胸への圧も感じなくて目覚めた。
 
 * 湖の本無162 初校出。これは相当を手を焼きそうだ。
 
* 昨日藤森佐貴子さんに戴いた焼酎「寒山水」の実に美味いこと、今までにこんなに美味い焼酎に出あったろうか。あわや一本呑みほしそうなほど。こんなのも在るんだと、感激。よほど酒飲みと見える、この歳で今も。思えばしかし有難いことだ。
 
 * 湖の本 162 の初校が出た。全体に部厚い。初稿によほど精力が必要かも。
 
 * 昨日初稿脱稿の新作『或る往生傳』 こころして推敲し第二稿に仕上げたく、しかし跡を押してくる別の作が、少なくも、二、三。ボヤっとはしてられないぞ旗楽翁よ。勢いつけて書き進めねば。不思議なほど仕事が途絶えない。ポカンとは休めない。いいことか。よろしくないのか。分からない。前へ歩くしかない。
 
* 間断なく身のそばでの、ピ、ピ音、やまない。何が鳴るのか、機械バカのわたしには見つけられない。五月蠅い、が。
 
* 届いた初稿を読み始めると、信じられない杜撰になっている。普通の校正マンなら簡単に直しておくミスがみなミスのままゲラに刷られてある。何故ミスに成っているのかも分からない。げんなり。しかも身辺の「ピッ」音の断続は止まない。どう消し止められるのかが分からない。なにもかも、末期現象、末期症状か。疲れは加わるばかり。負けてしまうワケにも行かぬ。機械から離れて、寝るか。
 
 〇 先生
 『湖の本 161号』をご恵贈賜りありがとうございました。
 御礼が遅くなりましたことをおわび申しあげます。
 実は、昨年12月19日、ギリシア哲学のゼミのあと、眼が複視・焦点が合わなくなりさらには頭重、そして文字の読み書きが困難となりました。
 眼科、内科、そして脳神経外科でCT,MRIで検査するも原因不明、脳神経内科でようやく原因が判明しました。
 滑車神経麻痺によるビールショウスキー徴候(Bielschowsky sign)という いままでに聞いたことがないややこしい症状です。視線が水平より上の場合はほぼ今までと変わりなくPC画面は見られるのですが,視線を下に向けると文字の判読が困難となります。
 脳神経内科のドクターは「治ります」と言ってくれているのが救いですが、回復
の目途はたちません。なんとかキーボード操作をしています。
 妻は、「少し休めということ」だと言ってくれています。
 また経過報告を申しあげます。先ずは御礼まで。   仁
 
 * 切に願う。どうかどうか早くまた確かなご回復の成りますように。
 
 * じっと、全身を何かへただ「沈め」ている。静まるか、鎮まるか。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)正月二十七日 金
    起床 5:00 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 553 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  清明の夜
  好風朧月 清明の夜 
  碧砌紅軒 刺史の家
  独り廻廊を繞り行きて 復た歇ひ
  遙かに弦管を聴きて暗に花を看る
  * 冬至の後、百五日を「清明」と謂う。「碧砌」は碧い砌石での階段。「刺史の家」    とは、いわば県知事の官邸。ながい廻廊を漫歩しまたやすみ、はるか市中絲竹の    聲を聴き暗に花の色香に酔うとか。
 
 * 五時間と寝ていないで、夜中も夢ともうつつとも知れない思案のいろいろを織り続け、ふっと五時と知れてそのまま起きてしまった。機械のご機嫌も心許なく、したい・すべき仕事も喪いたく無く。御旅して暖房していない。寒さは昨日の朝の方がキツかったか。
 相変わらず原因不明で何が何処で鳴るのか「ピッ」「ピッ」という音が正確なほどの間隔で私の身の周りで鳴り続ける。いま「電池ギレです」というアナウンスが身辺で。ハテ何の何処のどんな電池やら。とにかくも、機械画面はフツーであるが。ピッ ピッ の間隔音は前夜来のまま途切れない。
 
 * 短編小説『或る往生傳』一稿を成した。
 
 〇 厳しい冷え込み思いのほか長引いています。東京も氷点下続きのようですが、いかがお過ごしでしょうか。
 昨日 湖の本 161 届きました。ありがとうございます。
 今夜もまた雪予報。
 じっくり読む時間に恵まれたと思い、ゆっくり味わいます。
 どうぞお身体お大事になさってください。 下関  碧
 
 
◎ 令和五年(二○二三)正月二十六日 木
    起床 6:30 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 54.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  新雪
  思はず朱雀街頭の鼓(こ)                
  憶はず青龍寺後の鐘(しょう)
  惟(ただ)憶ふ 夜深けて新雪の夜
  新昌臺上 七株の松
   * 朱雀も青龍も都・長安街区の名。そこでの鼓聲や鐘聲の美妙よりも、はるか    な、詩人往時の任地杭州で楽しんだ名高い新昌臺上で眺めた七株の高松を白く染め   た新雪が懐かしいと。うむを謂わせない。
 
 * よどおしきつい寒さで安眠とは言えず、温かく睡れるための対応にも気遣った。目覚めても余りに家内の寒さに、起きて、居間キチンの暖房に過剰なほどつとめて、なにはあれ家の内の酷寒を追い払った。零下三度にもなっているか、雪は微塵もみえず、天は底抜け青空の快晴。キイに触れる指先は痛烈に冷たい。マウスも余りの冷たさ、辟易。
 
 * アメリカもドイツも、他国も、最強剛攻撃戦車をウクライナに供与すると。ロシアの対決姿勢を緩める外交努力も願いたい。無謀ロシアを「核」兵器使用の攻撃へと、暴発させてはならない。
 
 〇 今日(25日)は寒い日でしたが、三日月の美しい夜です。
 八十七様 今日は、湖の本161号をお届け下さり 本当に有り難うございます! その後体調は如何でしょうか。毎日寒い日が続いているなかで 湖の本をよくぞ頑張って出されましたね。いつも本当に その意志の強さに驚いてばかりいます。
 また先日は、中川肇氏の貴重なクレーのカレンダーを有り難うございました。ご自分で集められたクレーの絵をスケッチブックに貼って全集を作られたとは! そしてカレンダーも発行され それも今年で終わられるとは… 。
 どうかくれぐれもコロナやインフルエンザには気をつけて、この寒い季節を乗り越えて下さいね。
 最近は落ちた椿の花の絵を描いている いもうとより
 
 * 美学藝術学を学んできながら、私、造型の能はまるでない。「絵を描く」「繪を先生に提出する」というのが、学校時代の「苦の種」だった。妻も、此の妹も、ことに「いもうと」の方はプロで通用の才能を作品として観せてくれる。詩集も出している。はやく亡くなった「おにいちゃん」保富康午も少年の昔から詩を書き、草創期のテレビ社会で制作者としても活躍していた。妻とは私、その頃に出会った。
 コロナもあり、久しくも顔を見ない。元気に長命なされや「いもうと」よ。
 
 * 小説を、半歩か一歩前へ押したかと思う思う、睡い疲れにも押し込まれている。眠るか。ワケの分からぬ事も起きている。いま此処でキイを押し続けている間にも、此の場の左方間近で間隔正しく「ぴっ」「ビッ」と鳴る。電話機そして置時計があるが、今までそんな音は聞かないし、電話機にも久しく久しく手を触れた事も無いのたが。時計の方かな。ま、鳴りたけりゃ勝手に鳴ってろ。
 
 *弥栄中学へ入学の年に「理科」を習った、お若かった当時の佐々木葉子(現在・水谷)先生、「とらや」の羊羹に宇治茶も二袋も副えてお手紙下さる。あのお若かった方が九十六歳になられ、いまなお往年の生徒の「文筆」仕事をお励ましお心遣いして下さる。なんとい私は幸せ者か。
 
〇 *建日子小学校での担任・藤井敏子先生 *岩佐なをさんの「花束の視線」と題されたそれは美しいエッチング作とお手紙ヶ *東大大学院人文社会系研究家・文学部国文学研究科 *お茶の水女子大学図書館 *早稲田大学図書館 *慶應義塾大学「三田文学」編集室 *城西大學水田記念図書館*皇學館大学国文学研究室津  湖の本161壽陵の来信 
 
 * 夜分、機械へ来たが なにとしても普段の画面が呼び出せず、嘆きに沈んで、小さいもう一つの機械を明けていた、ら、全くワケ分からず、平生の画面が現れていた。もう、老耄のアタマをえんま様にでも振り回されている感じ。もう、「機械日乗」の先は、アウトなのかも。ただ「書き進んで」「先が楽しみ」になろうとしている「小説」数作の原稿が消えては困ると心細く案じているのだが。
 
 * 寒い。心身、寒い。明日が案じられる。
 
 〇 秦さん
 秦 恒平 湖の本 161 『 世をしら波に 行不苟容』を戴き誠にありがとうございます
 いただくだけで 本当に恐縮です
「世をしら波に」 
 今年の 新生児医学会 は 三重大学のようです (第59回 日本周産期・新生児医学会学術集会)とありました (59年前の第1回が昭和39年でしたら私は医師免許3年目でした)
『世をしら波に』これからもなんべんも読ませて頂きます
 
「行不苟容」
 晉書 巻四十五 劉毅傳 の中の(劉毅という軍人のようでした)
「毅方正亮直 介然不群 言不苟合 行不苟容」に辿り着きました
 ここまでも、全部中国語のサイトで 解説も全部漢字で 往生しました 挙句 何気に日常のGoogleの検索サイトで探しましたら「不苟容」の説明があり
 「みだりに人の気に入られるようなことはしない」とありました(平成21年の安藤文雄という人の文章の中です)日本語はいいなあと思いました
『行ひて苟も』容れず (行不苟容): これでよろしいでしょうか?
 御礼 メール遅くなり 誠に申し訳けありません
 先日頂いた
  ◎ 令和五年(二○二三)正月十八日 水 の「私語」 ありがとうございました ゆっくり楽しめました 嬉しかったです
 まだまだコロナです くれぐれもお気をつけてください
 こちらにも「セイムス」あります
 500歩いて 酒買いに いいですね   千葉  e-old 勝田拝
 
 * 心嬉しく 心なごむ 嬉しい、お便り。もはや久しい旧友の、e-old 勝田さん。お元気で。また逢いましょう。
 
 〇 「湖の本」161をありがとうございました。
 丁度本が届いた日には入院中でしたので 家内に運んでもらい 無聊を慰めました(なんて失礼ですね)。
 外の様子がわからない状態でしたので引き込まれるように熱讀しました。
 いま病院は大変なことになってます。
 私の入院病棟も感染者が出ると即感染病棟に移して その部屋は一時閉鎖で清掃・消毒にてんやわんやの騒ぎになります。同じ病室にいたものは全員PCR検査をして陰性の人のみ 一時観察室に入れられ様子をみて数日後消毒の終わった元の部屋に戻されます。医者や看護師も普段の仕事以外の役割が増えていきますのであちらこちらで患者との悶着が絶えません。
 私は昨日退院しましたが、その日に感染病棟がまた二つ増えていました。
 ベテランの看護師が減っていく代わりに実習生が増えました。
 テレビで報道されていることが本当なのか 疑わしく思えます。  野路
 
 * ご退院とあるのを、ご事情は見知らぬままにも、胸を撫でて慶んでいます。
 お元気なご回復を切に祈ります。
 私の老耄は度を増して、この機械も、まったく制御不能(手に負えない)状況にありましたが、ワケ分からずに回復したと見つけて、メールを頂戴できました。生来の機械バカが嵩じに嵩じて、やがて使用能力が払底かと危ぶみます。
世界事情も日本事情も頼りなく、それも我れ故のことかと 心ぼそいことです。秦生
 
 
◎ 令和五年(二○二三)正月二十五日 水
    起床 6:55 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 55.8 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  白鷺(はくろ)
  人生四十 未だ全く衰へざるに
  我 愁ひ多きが爲に 白髪垂る
  何の故ぞ 水邊の雙白鷺よ
  無愁頭上 亦 絲を垂るは 
  * 愁い無げな白鷺夫婦が、なんで髪は白いかと、諧謔。
  この私めは、はや人生九十に垂(なんな)んとし、梳りようも無く雑草然と白髪は乱  れ放題。白楽天先生、そんなにも未だお若いか…。
 
 * 険しいまでの寒気は寝ながらも感じていたし、手洗いへは四度起って.七時寸前に起きて、此処へ、機械へ来た.妻の呉れた指先の出る温かい手袋をしているが、むき出しの指先の凍えて痛いこと、機械のキイは氷そのもの。ま、ああまで寒いぞ寒いぞと気象予告していたのだ、苦情は言うまい。
 
 * イヤな夢は見なかったが、自身、追憶を漁(すなど)るように、むかしむかしの教室や校内や、近所にいた幼少の友の名や顔を数えるように想い出すのが、もっとも平和な嗜眠効果になる。みんな、京都。東京での夢はみたことが無い。市街を占拠して横行する゛ャングのような集団に夢で脅されるようなことは、「京都」の夢には無い。
 
 * 京都のことで新ためてビックリは『参考源平盛衰記』で出会った「将軍塚鳴動」のこと。将軍塚へは数え切れないほど東山を登っていて、「怐vの上まで挙がったりしていた。一人のことも友だちとのことも、時には中学の教室から、先生も一緒にみんなでワイワイと登って清水寺の方まで散策したり。で「将軍塚鳴動」なんてことは、祭神田村麻呂へささげ゛た「お世辞」ぐらいに感じていた何も調べなかった。相前後してのものすごい大地震が日本列島を奔走したように読み途中の参考『盛衰記』に教わった。識らないで来た「れきし」はまだまだ山ほど在るのだ。
 
 〇 ご本ありがとう。秦 兄
 齢相応に身体は部品交換をしたい器官を各所に持ちながら、何とか今年も越年できて安堵しています。福盛、藤江、団、明さん、渡辺節子、中村(山口)節子らも元気に越年の由、賀状が届いています。
 今夜から明日にかけて大雪との予報どおり、午前零時の今、雪は降り続いています。数年前までなら、朝一開門と同時に、圓通寺の庭の雪景色の写真を撮りに出掛けたのですが、今は僅か3分ほどの距離が億劫で その気になれません。
 二冊目の世直し本も書きはじめたものの、網膜剥離の術後も左眼はほとんど機能せず、片目でキーの打ち損じなどが多く、中々捗りません。
 打ち損じといえば、兄の「湖の本」の安倍晋三が安「部」晋三に化けていましたよ。
 安倍が銃殺されたニュースを見た時、最初に脳裏をかすめた四字熟語は「因果応報」でした。
 萩市にメール友が居ますが、安倍晋三の祖父の安倍寛は地元では聖人と崇められた人格者で、東条首相に退陣を迫り反戦平和主義を貫いた政治家であったとか。因果応報も母方の祖父である 岸信介のDNA遺伝子のためでしょう。
 岸一族の被害者の一人、山上徹也の裁判が注目されます。
 又 メールします。体を労わって下さい。  辰
 
 * ナントナント。あの圓通寺ちかくの住まいとは、羨ましい。私が小説の中で寺院を印し商的に初めて描いた、描けたのは『畜生塚』であったと懐かしく想い出す。愛しい「町子」と、ふっとぷように市中から馳せていったのが、新聞記事に誘われての感動の「圓通寺」体験だった。「町子」は私の書いてきた数々のヒロインの中でも突出して読者に愛されたと思われる。その愛が後押しの力に成りわたしは「作家」への道を誠に幸運にシカモ早足に歩き出したのだった。圓通寺か……、懐かしい。
 
 * 機械を盲目的にキイ打ちしていると、安部 阿倍の混雑がよく起きる。
 一つには。ホームベージからの公開電送が出来ないので、、いずれ「湖の本」へ編集時に直せばいいやと放って措いてて仕舞う。それが修正落ちで残っている。やれやれ。 どうか「察して」読み替えて下され。
 
 〇 お元気ですか、みづうみ。
 本日(24日)、「湖の本」161巻を無事頂戴しました。ありがとうございます。冒頭「歴史を読む」を読み始めて止まらなくなりそうなので、先にお礼をお伝えすることにします。
 
>日本は危ないなあと案じます。わたしの残年は知れています。あなたの晩年が平穏無事なことを本気で案じ、願っています。
 
 歴史を誠実に読むどころか、都合よい部分だけ選び事実を歪めている言説の蔓延(はびこ)る日本の先行き、日本語と日本文学の存続にほとんど絶望しかけています。それでも諦めてはいけないのですが、わたくしが平均寿命までもし生きられるとしても、平穏無事のはずはないと感じています。この危うい日本で、日本語と運命を共にして終えることだけは決めていますが。
 
 >俳句はむりですが、短歌は分かります。あなた、試みませんか、月に十首ほどでも。
 表現のいろいろを大胆に試みて下さい。散文に拘泥していると、散文も崩れます。 
 
 根に詩歌のない小説はダメだと思っていますが、わたくしに短歌を創るセンスはまったくありません。現代短歌の良さというのもほとんどわかっていないのです。『愛、はるかに照せ』を読み、採り上げられている短歌より、みづうみの評のほうがはるかに優れた詩であると思ってきました。詠むなら和泉式部の歌のようでなければ……。そのような高みを目指すための勉強方法でもあれば是非お教えくださいますように。
 
 『一筆呈上』を時々読み返しますが、三十年前、1992年の記述で、統一教会について <この、韓国製宗団の「原理」には無理を承知の「日本」への悪意が見える。>と書かれていました。数多の悪評にもかかわらずこの教団が三十年かけて益々勢力を拡大し、日本の政権中枢まで深く食い込んで国益を損ねている事実が、昨年の事件でやっと世間にも周知されてきました。彼らが日本への悪意のままに国民支配に手をかけている恐ろしさに背筋も凍ります。早い時期からみづうみには見えていた、その慧眼に敬服します。
 
 コロナもインフルエンザも用心していますが、引きこもりのように在宅が多くなり、筋力の衰えが心配になってきました。家の中で体操するくらいではとても足りません。
 明日は雪の予報です。寒さをしっかり防いで、どうかお大事にお過ごしください。発送作業のお疲れ早くとってくださいますように。    春は、あけぼの
 
* 三十年前の「統一教会」への懸念や批判は、平静にかつ気を入れて「歴史を読む」でいれば自然と掴めるころ。そのような批評や懸念を私はいくつかの他の史実や事象にでも十年、二十年、三十年以前に表明してきた例は在る。「サイバーテロ」「サイバーポリス」もその一例。その撒頃にはまだ「スマホ」とか謂った機械も出来てなかったが、必ずやいずれは誰よりも青少年の「内崩壊」をきたすにちがいなく、十分、二十分にすら警戒と予防措置が大事と発言していた。ペンクラブの理事会でも発言していたか、私の「曰く」を理解する理事が太刀がほぼゼロであった。「歴史の先が読めないのだ」と、呆れてモノがいえなかった。
 
 * ルソーの著『人間不平等起源論』を頷いて、読了。代表作の多い人だが、鋭角に斬り込んだ論述自体にも魅する力があった。
 
 * 映画「ホビットの冒険」を楽しんだ。創られたのであろう、高遠の大自然/大城郭を初め大群衆や大戰闘の「映像美」に胸打たれる。この方面での映像としては、ストーリーの面白さも抜群で、圧倒的に美しく烈しく目にしみる。
 
 * 体調は、てんで改善しない。睡い。もう機械仕事は今夜は諦め、床に就きたい。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)正月二十四日 火
    起床 8:45 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 55.6 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  蟲を聞く
  暗蟲は喞々 夜は綿綿
  況んや是 秋陰雨降らんと欲する天
  猶ほ恐る 愁人の暫く睡を得んこと
  聲々移り 臥床の前に近づく 
  * 喞々(そくそく)の虫の聲に晩秋の雨音も加わらんと。安眠、得るや否やと。
    京都に育って私の幼時にもかかる晩秋の夜更けに睡り侘びた覚え、あった。
 
 * 上記の間、終夜の夢見の全部を忘れている。「アハハン」「アハハン」と唄っていた。「いい湯」に浸かっている快感は無くて。
 
 〇 本(咋)日、『湖の本』161 をいただきました。変わらぬご厚意に感謝します。また一つお仕事を成し遂げたことをお慶びします。拝見しました。いつもながらの感性、理性、文章力に感服いたします。
 時事評論にはいつも同感です。幅広い読書に圧倒されます。
 私は未だ、老後のゆとりにあずかれません。特に夏以降、毎月何らかの講演会がありました。準備と提出用講演原稿の作成に追われます。
 この週末の土曜日には、オンラインによる同窓会主催講演+トークが待ち構えています。卒業生のうちの二人の右翼的な政治評論家と参議院議員には強い批判を述べる積りです。
 老いの現実を悠々と背負いつつ歩みましょう。
 平安をお祈りいたします。ありがとうございました。  浩
 
 * 「湖の本 161」に有難い初来信。励まされます。
 
 * 記事失せぬよう、一度一度「名前をつけて保存する」ように。
 
 * 午前十時過ぎ、機械前で居眠りしている。いっそしかと寝入っていいのかも。四時間ほどは仕事してたのだし。
 
 * 尾張の鳶より、お願いした ウンベルト・エーコの大作 大長編咋『薔薇の名前』上下巻が早速に送り届けられた。薬の日本語がこなれていてとても読みやすく、やすやすと中へ入って行ける。映画は此の超大作から為ればよほど小さくつまみ出された場面と映像と思われる。大きな楽しみが一つまた、目の前に。感謝、感謝、感謝。
 
 * 能美市の井口哲郎さん、久々のお便り下さる。が、「湖の本」新刊は届いていない感じ。静岡市の鳥井きよみさんからも、寒中お見舞いのお便り、感謝。しかし、こちらでも「湖の本」はまだ行ってないらしい。こんなことは珍しい。
 とはいえ、京都市の華さん、練馬区の持田さん、都内並木教授からは「着」信あり。なにやら今回は、ややこしい。
 
 晩の七時になる。もう今夜は何もせず床に就いて、気に入りの本を読み読み、そのまま明日の朝まで寝入ってしまいたいほど、心身、ぐたっとしている。何をあわて急いでするほどのことは無いのだ。無事を、ただ願うばかり。
 
 
 
 
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)正月二十三日 月
    起床 8:140 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 54.65 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  菊花
  一夜新窓 河原に著きて輕し
  芭蕉新たに折れて 敗荷傾く
  寒に耐ゆるは 唯 東籬(とうり)の菊のみあり
  金粟(きんぞく)の花は開きて 暁は 更に清し
  * 籬は垣根、敗荷は、蓮の花。金粟は、美しい黄色をほめている。
    清爽 夢類
 
 * 変な夢には困惑してたが、疲労からか、いつもなら起きてしまう時間から、また寝入った。体が寝たがっていると想えた。
 此の所の世上世中の凶悪暴害強行の集団での殺人強盗が、不気味な連動をもみせつつ多発しているのは、真剣に対策防御しなければならぬ、警察ももっと集合した組織での勉強の生きた対応対策に流石というチエを出して欲しい。おそろしい凶害時代を迎えている。明らかに民政の大かつ緊急の対応課題である。無駄飯食いの法務大臣初め警視庁、警察庁指揮官の陣頭指揮、、時には自衛官も協力出動して、徹底検挙して貰いたい、あれもこれも。國よりも悪賢く彼らの方が組織化しているかと猜される。
 
 * 昼過ぎふらりと出てセイムスで缶ビールを買って帰った。一缶を二度に呑む井戸にしようと思っているが。冷蔵庫で見つけたワインを一本、ぐぐぐっと呑んでしまった。
 
 〇 感謝  只今 湖の本、届きました、変わらず長い間続いていますね、楽しんで読ませ頂きます、近日は頭の方がふらついて一寸おかしくなったのかと? と思ったりしています。
 21日土曜日には日吉ヶ丘(高校)へ、久し振り、雲岫会の初釜に行って来ました、懐かしい限りです、良い思い出です。花びら餅もおいしかったですよ。
 まだしばらくは寒い日が続きます。お体を大切にお過ごし下さいませ。 華
 
 * 「雲岫會」とは、私が日吉ヶ丘高校生だった二年生の昔、学校へ申し入れて創設し、一切の稽古も指導していた「茶道部」の名で、茶室に「雲岫」席と命名されていた。佳い茶室だった。「華」は、私の三年生時に一年生で入部、作法最初の割り稽古から点前左方その他私の師導を受けて、なかなか美しい行儀作法の部員だった。久しくも久しい今もお茶人。懐かしい。七十年の餘もむかしに出会い、卒業後も大人になっても、途絶えなく続いた親愛の後輩。私の通った京都幼稚園のごく近所住まいだった。茶名は、宗華。私は、宗遠。懐かしい。近年に夫君を亡くされ寂しい日々と。お元気で、達者に、どうか。
 花びら餅は、我が家での叔母宗陽の絵画お正月初發釜にはきっと用いた佳い凶和菓子なのである、日吉ヶ丘茶道部の初釜も同じ老舗の花びら餅で祝っていた。
 
 〇 本の『薔薇のなまえ』 手元にありましたので、今日午前、郵便局から送りました。明日には届くと思います。「拝借」ではなく、そのままお収めください。
 今週は十年に一度の寒波とか。東京には既に霙や雪が舞っているとニュースが伝えています。ひたすら暖かくしてお過ごしください。そして太ってください。
 改めてまた書きます。  尾張の鳶
 
 * ありがとう、打てば響く深切な親切、感謝。
 五十年の餘も昔になろう、京都博物館の南向かい、法住寺や三十三間堂の東で、なにであったか撮影されたりの仕事なかを見つけられて、初めて声をかけられ、以来これまた幾久しい読者と作者との幸せな知的親交がつづいてきた。すこし思索的に難儀なモンダイにぶつると、私から参考の意見や思索をひきだそうとすれば、応じて貰える人。京都の人で無いが京大出で京都の土地柄にも知識豊富、読者のひとりでもあり、何かと助勢願えて有難い友の一人。感謝。
映画「薔薇のなまえ」は何としても盤の傷が邪魔して最期の方が綺麗に見えぬまま途切れてしまう。どのような原作か、読みたくて、本がお手元にあるなら拝借をメールでたのんて゜、打って返しての親切、有難う存じます。到来が楽しみ。
 
* それにしても旧臘来の疲労の蓄積は執濃い。ぐだぐだしている余裕無く、じつのところ 長短の数作もが、「手をかけよ・かけろ」と作者の私に対しご機嫌が悪い。私もそうしたい。それでいて、心神がヤケに寒い。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)正月二十二日 日
    起床 7:30 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 52.4 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  晩秋閑居
  地は僻に門は深く送迎少なし
  衣を披いて閑坐し幽情を養ふ
  秋庭は掃はず藤杖をたづさへ
  閑かに梧桐の黄葉を?み行く
  * 閑適をただ羨む。
 *  夜中唱歌は「ナーンゴク(南国)」の繰り返し。ペギー葉山のだったナ。伸びやかで、ま、好い方か。信也に一度右脚が痛烈に攣るったが、手で押さえ、いつも用意の冷茶をごくごく飲んで忽ち恢復し続かなかった。夢見は覚えなく、手洗いへ起きたのは二、三度で済んだ、但し夜中キチンに入ってリーゼを心室へ運び、通例の整腸薬三錠と合わせ一錠服した。朝までゆっくり安眠した。
 
 * 自然な思いと考えているが、ながい将来を見込んだ計画はやはり控えないし諦めている。八七というこの年齢、「うしろ向き」とたとえ謗られようと私はじしんなりに、選り見て整うべきを整え置くのもいくらかは務めかと自覚し、「湖の本」の編集にも自然それは反映してきている。回顧が主なので無い、直哉流にはひさしい「暗夜行路」を納得して残年でさらに補いたいと思うのみ。それにもかかわらず、日々の予定には新作の小説が、一、二、三、四、五なお幾つも着手され進行している。見捨てることは出来ない、創作者として「あたりまえ」。
 昨日、久しい実積を積んだまさに「専門」編集者伊藤雅昭君の「編集者人生」を締め括った一冊『編集後記』が送られてきた。必然必至の一冊哉と賞嘆拝見した。
 私は、「創作者・文筆家・歌人」即ちいわゆる『作家以前・作家生活者」として少年來生きてきて、その途中もよほど早くからまた「編集者」でもある技倆・力量をフル開展させて、現に『私家版本四冊刊行』時期を通り抜け、現在までに『湖の本 百六十餘巻刊行』『秦恒平選集三十三巻刊行』を、すべてなんら停滞無く「編集し・製作し・刊行し」続けてきた。この同じ道を、心して終焉まで歩む、それが現在の心境で、無事安穏の最老境を手放しで喫しようなど考えない。そういうことには馴染まない体質で気質で願望の持ち主なのだと呆れる人、さげすむ人には、どうぞと、道を譲るだけ。私はそういう俗人なのであり、遁れようが無い。遁れたいとも願わない、逆なのである。もし私を弾劾するなら、作家・編集者としての「仕事」そのものを批評・批判して戴きたい。
 
 * 「湖の本 162」発送用意分の全部が宅配扱いの手へ渡った。最初便は今日にも届くだろう、どなたから第一報が帰ってくるか。
 
* 「湖の161」新刊一便、練馬の持田さんへ、もう届いたと。一安心、一と山は越した。
 
 * 大相撲千秋楽結びの一番で最高位「独り大関」として場所を率いた貴景勝が、もの凄いまでの強い好い勝ち相撲で、幕内最高優勝、面目を遂げた。横綱休場、降格された二人の元大関二人はまたも不成績。やれやれ。そんな不景気な場所であっただけに、「独り大関」貴景勝、三敗は物足りないが「優勝」してくれ、ホッとした。彼のあの愛らしげなブッとした表情・風貌が、私、好きなんである。
 
 * 相撲の前にショーン・コネリーの代表作の一つ映画「薔薇のなまえ」に何度目かまた惹き込まれていたが、この録画板に傷が入っていて、終盤の画面展開がはなはだ宜しくないのを辛抱に辛抱して観ていたが、けっきょく最期のたぶんもう15分ぶんほどが観られなかったのが口惜しかった。すつて二度は見通していて場面は記憶しているが、映像で楽しみたかった。銀座で探せば買えるだろう、が。それもそうだが原作本を読みたい。内の書庫に在ったかなあ。ちょっと心許ない。古書店へ探しに行くのもムリな現在。残念。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)正月二十一日 土
    起床 6:50 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 54.75 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  香山 暑を避く
  六月 灘聲猛雨の如し
  香山樓の北 暢師の房
  夜深く起き闌干に倚つて立てば
  満耳 潺湲 満面涼し
  * 香山樓は楽天の樓 暢師とは、近隣の禅僧の名であり烈しい水聲をも謂う。
 
 * じつに、一夜、小一時間ごとに尿意で起きた.尿量はその都度しっかり有って、体重は前日比1.25キロも減った。利尿剤を多用したわけでも無い。ワケ分からない。朝起きの胸を圧される感じ、今朝は少し強い。寒い。
 
 * 毎早朝に白詩を読む清適、有難し。
 
 * 発送作業、終える。「わかな」の寿司と肴で、酒に。
 
 * 吹上ちえ子さんの来信等に振れて書いた筈の日録・記事が消え失せている。ほかにも書いていたと思う、が、探索届かず、不可解にも不快。
 記憶も鮮明に、書いたはずの記事が「消えてしまう」とは、いやほど繰り替えした体験ながら、アタマに来る。機械に悪意はない、私の操作ミスに相違ないのだが。財布を落としても諦めるが、「書いたもの」は「私そのもの」なのだから、我慢ならない。なにか私の粗忽があるのだ。
 
◎ 令和五年(二○二三)正月二十日 金
    起床 6:30 血圧 157-78(72) 血糖値 79 体重 56.00 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  潮
  早潮纔かに落ちて 晩潮來たり
  一月(いちげつ)周流 六十廻
  獨り光陰の毎朝があつてのみ復た暮るるならず
  かく杭州に老ひ去(いそ)ぐは潮の催ほすなれ                 
  * 江湖麗しく楽天が愛惜やまぬ杭州は 相寄せては退く大河の潮鳴りももの凄い。    私も、中日文化交流協会に招かれて、親しく目に耳にしたことがある。
 
 * 実は血圧測定の可不可には何の判断も持てないまま計っている。体重の戻りつつあるのは実感できる。血糖値は十分に低い。低すぎるかも。
 
 * 夜半の夢見は最悪、人と世界は魔と魔窟であった。寸毫の身の置き場なく乱暴に身を打ち棄てていた。何処から私にあんな非道い夢が沸くか。
 
 * もう起きぎわに、女優松たか子と男優もう一人の名前を探りながら、容易に出ない。顔も仕事も聲もよくよく覚えているのに姓名が出ない。苦辛集中して、やっと「仲代」とまで想い出したが、いまも「名」が出ない。もう、よほどで無い限り此の手の困惑、気にかけまいと思う。仲代達矢と妻は覚えていた。
 
 * 約束のままなら、午前早めには「湖の本 161 世をしら波に・行不苟容」が「納品」される。発送、心急くことは無い。が、済むものは適確に済ませ、平常に戻ること。
 このところ 水洟が出続ける。頻りに、かむ。
 
 * 手順良く精出して、夕方には予定の半分近くを送り出した。明日には、先が見えるだろう。
 
 〇 フランスの、年金改革反対百万人規模のデモを、羨ましくニュースで観ています。いつからこんなおとなしい国民になったのでしょうね。日本人は。 春は、あけぼの
 
 
◎ 令和五年(二○二三)正月十九日 木
    起床 6:40 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 54.65 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  白蓮池 舟を浮かぶ
  白藕の新花 水を照して開き
  紅窓の小舫 風に信せて回る
  誰か 一片 江南の興をして
  我を逐ひ慇懃萬里に來ら教む
  * 曾遊江南の今も瞼に懐かしい景色が、わが跡を慕うように万里遠方の今此処の舟    遊びでも覧られるとは。
 * 白楽天は、明瞭 適確 雅致、共感。
 
 * さ、何としても体調を維持して「発送」の力仕事を終えたい。前仕事をよほど妻が根をつめてしてくれている。妻の疲れを労らねば。
 
 * 会社にしても組織にしても、まともに仕事してきたと想えば思うほど後進のひ弱な仕事振りにゲツソリ為るばかりの体験は何度もあった。
 
 * ウイキーは良くなかった。多くは呑むまいとまさしく多寡をくくっていたが、目の前に瓶があるとひっきりなしに手を出し、結果、寝ていた。やれやれ。
 
 * 「湖の本 161」の刷り出し、むかしの勤め先流に謂うと「一部抜き」が送られてきた。「世をしら波に」と題した巻頭の年代記風エッセイが胸を熱くし、懐かしい。こう生きてきたよと実感を喪っていない。書いて起きたかったことが書き置けて、やや思い満たされた。エッセイは組合わせ宜しく配列すると「創作そのもの」に「読めるモノ」に成る。 
 
 * 韓国劇の『華政』を、途中から時折見始めて最近に、モンゴル系満州閥の後金即ち清にに脅かされ屈服の余儀なかった経緯を、歴史の勉強利用に見守ってきた。よほど以前に朝鮮古代史を読んでいるが、中近世史が識りたいと思ってきつつ、適当な本が見つかっていない。世界史の文庫本で朝鮮史は一通りは識っているがもうすこし本格に識りたい。
 
 * ぞろりち何もせず過ごした、文字通り無為の一日だった、まだ七時だが、明日香らを頭に、寝ようと思う。何かと不如意な、ものの紛失めく事が二三生じていて、諦めて住むことで無いのだが放置されたままになっている。このままゆけば途方も無く困ることになるのだが。老耄の度は日一日と増して行く気がする。
 
   
◎ 令和五年(二○二三)正月十八日 水
    起床 5:45 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 54.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  桐廬館に宿して崔存度と同じく醉後の作
  江海漂々と 共に旅游し
  一樽相勧め 窮愁を散ず
  夜深けて醒後に愁ひ還た在り
  雨は梧桐に滴るよ 山館の秋
  * 旅游談笑醉後の寂漠 夢裡に訪のふ山館梧桐の雨 身に沁む
 
 * 明後日には「送本」をはじめることになった。気の負担にせず。ゆるゆる済まそう。次巻初校のことは暫時忘れていよう。仕掛かりのいろんな「仕事」も自然一時ストップで宜しい。迷惑をかける相手を持たないでわたしの仕事は出来も捗りもする。
 
 〇 朝寒の背を反り我のなにを惟ふ「寒い」とは何を謂ふ日本語ぞ
 
 * ウクライナ仙境の処方からの推測や観察や理解を聴いていると「寒け」ばかりが加わってまだまだ希望が持てない。和知氏は残年、許されるか知れない我が残年を五年とみて、それをはみ出る向こう先への希望や憂慮は脇へ置くと決めたい。五年宇野最大課題や懸念は、われら二人の健康。その餘は、当座に、なる限り賢く向き合いたい。ちいさな生き方になるが私自身とこそ向き合いたい。
 
 * と云いつつ、時に自身の立ち位置が、しかし、分からない。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)正月十七日 火
    起床 5:45 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 54.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  曲江 感あり
  曲江西岸 又 春風
  萬樹花前の 一老翁
  酒に遇ひ花に逢ふて 還(また)且つ 酔ふ
  若(も)し惆悵(ちうちやう)の事を論ずれば 何ぞ窮まらん
  * 老耄 もし泣き言になれば限りが無い 止めておけよ、と。身に沁む。
    明快に清朗 だから白楽天の楽天に親しむ。
 
 * 夢も苦もない一夜だった。有難し。それでも夜中用意の茶を飲み、ノド灼け薬、整腸薬、龍角散は服する、夜前はリーゼも一錠。
 
 * 『参考源平盛衰記』は 清盛嗣子内大臣重盛死を入念に語っていた。平家の傾く最初歩。ルソー『人間不平等起源論』で、ヴォルテールとルソーの慇懃を極めた刺戟の文通を脇見した。『水滸伝』胸を開いて斟酌無くずんずん読行。『源氏物語』は極言すれば、ただ二行三行を読んで全編を通じた風趣を吸うように体感できる。量を読み積もうなど、もう必要無く眞実楽しめる。有難し。
 
 * よろよろ脚でも500歩とかからない「セイムス」へ独り気ままな買いものに行った。要は、日本酒でない、ビールとウスイキーを貝い、序で買いにお握りやサンドイッチなど、ばらばら勝ってきた。「セイムス」は空いていたし、歩行に困りはしなかったが、ただ前鏡に腰は痛んだ。人には出会わず、これならせいぜい歩くこと。
 我が家の二棟をふくめ十軒になるなら図の一画一回りが丁度100メートル。せめて5周歩く習いを持てばいのだが。
 
 * トロッと寝入りそうな瞼の重さ。しかしそのヒマは無い。
 
 * 二十日に「湖の本 新巻161」納品と。追って次巻の初校出もあり、一月中は心身追いまくられよう。養生も肝腎。機械には振り回されたくない。今し方も不明の記事逸失始末に時間を要した。
 
 〇 クレーのカレンダー
 今日クレーのカレンダー 頂きました! 有り難うございます!クレーはあの兄が大好きで、よく部屋に飾っていました。私も大好きですが、クレーは作品が多く、みっちゃんも好きになるようなのもいっぱい。カレンダーの裏にある中川肇さんの文章を読むと、これほどクレーの絵に深く出会えたことそのものが、やはり奇跡なような感じがします。そんな風に私も作品や画家に出会ってみたかったと羨ましくおもいました。(みっちゃんも読んだ?)
 新しい年の1月になって、もう半月もたちましたね。コロナも老人の死亡者が多く、怖いですね! 1月1日に長女一家4人が3年振りにやってきましたが、マスクはそのまま、10分位で帰ってしまいました?4人のうち2人が、去年コロナにかかりましたが、たいしたことはなかったようです。
 私たち老人は、うんと気をつけましょうね!
 カレンダーありがとう ! 私の部屋に掛けます! 丁度カレンダーが欲しかったの。有り難うございます。
 どうか お二人とも くれぐれもお体大切にね? ルミ  (妻の妹)
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)正月十六日 月
    起床 7:45 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 54.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  嶺上の雲
  嶺上の白雲 朝(あした)に未だ散(ざん)せず
  田中の青麥 旱(ひでり)して將(まさ)に枯れんとす               自(おの)づから生じ自づから滅し 何事をか成す              貌  能く東風を逐ふて雨を作(な)すや無(いな)や
  * 旱魃を嘆いて気象を憾(うら)む如くして、く裏に、吏の民を濟(すく)う能わ    ぬを諷している。白楽天には懸かる批評の詩志がまま見られる。
 
 * 近来に無かったほど朝寝した。出来た、とも。手洗いには夜中三度も起ったか、どうか。起きる都度努めて御茶で水分も補給するし、日によっては暗闇のなか手探りに「のど熱」薬、「乳酸系」腸薬「龍角散」を服して体調に資している。この数日、からだへアルコールは日に缶ビールせいぜい二本しか容れていない。「空腹」かんも覚えるように。しかし「食」欲に成らない。濃厚計の食はからだが忌避する。求めて好んでいつも呑みたいのは妻が「特製」の出汁スープ。これは、頗る美味い。二杯も欲しい。「米」の飯に食は全く湧かない。何故か。とんがった鍼のように米が堅い。粥にしてすら米が堅い。京都の頃の、東京へ来てからも、この十年も前までの「米」はこんな凶器めく堅さでなく、いわば餅・餅とむっくり柔らかだった。旗の父はそういう米の飯の大好きな人だった。御飯だけでも満足して(但し梅干しは絶対にノー)食していた。わたしもその白飯の温かなうま味は覚えている。昨今東京の米の「固さ」と謂ったら無い。寿司屋の握りにも固さがある。東京内侍、原産地の製米・精米の拙さなのではないか。
 わたしはもともと魚がむしろ嫌い。「鰈」しか食べなかった。実はナマの魚も心中には危ぶむ記が抜けてない。
 高級の「中華料理」を事に好むのは火が通っていると、前庭だけでも安堵しているから。上等のステーキ、牛肉、よく揚がった厚いとんかつ、鱧、鱈、蟹、海老、新鮮な牡蠣そして蛤やいい浅蜊など貝類などが好き。危ないモノには手は出さない。得体の知れない料理モノには手を出さないし、くさい香料物や濃いに原形をとどめてない判じ物も、ノー。
 
 * 寿司は、なくなった元の銀座「きよ田」が極まっていた。相客もよかったが、大将がよかった。辻邦生さんが、中国への旅仲間として最初に連れて行ってくれた。妻ともよく行き、眞実寛げて美味いこころよいお店だった。一度、朝日子のお祝い日に連れて行ったら、後日、大きな出版社の親分株に、子連れで入る店で無いと??られた、が。そういう斟酌はわたしはしないのである。じつは「沢口靖子」との縁を仲立ちしてくれたのは「きよ田」の大将。いま家に或る疊代の大きな靖子写真の大方は「きよ田」が声を掛け、送られてきたのだった。「きよ田」の想い出は尽きない。これに匹敵して想い出の懐かしいのは、バー「ベレ」だった、ここへも家族中で馴染んだ。じつに「ワケ知り」の気っぷの豊かに朗らかな聡いママだった。想い出は尽きない。巌谷大四さんが最初に連れて行って下さった、歌舞伎の半四郎たの、沢山の有名な漫画家だの、新聞記者だの、たくさん知り合った。
 あーあ。朝から、こんな想い出話とは。朝起きの空腹感。あれれ九時過ぎ。
 
 * 疲労をすら捍格せず、目の前へ寄ってきて奇態に興味を惹く「創作作業」を、この一両日倦まず続けている。棄てがたい作業であり、好結果も生んでいて、どくしゃのもちへ送れるのも遠くない。
 興を惹かれてそれが「文筆/文章ないし創作」と関わる以上は見過ごさない、と、「残年」を落ち着いて数える心地で取り組んでいる。疲れても当然な心身起業、もうのめのめ逃げない。
 
 〇 お元気ですか、みづうみ。
 新年明けて、コロナ後の咳もなくなり体重も体調もなんとか復活しています。免疫が強化されてよかったと思うことにしました。自分のことよりみづみのご体調がいつも気がかりです。お仕事こそみづうみのご健康を支えるものですが、過剰になりすぎませんよう、ご無理のないようにと念じております。
 それでも、みづうみの書かれたものは、未完であっても「詩」で、「花筐」に活きる美しい花や草や枝葉になります。たくさん読みたい。
 現在の日本のドラマの低レベルは、国力の衰え、視聴者の劣化の表れ以外の何物でもないと思います。製作しようと思えば良いものを創れる人間はたくさんいるでしょうが、手間暇とお金がかかるわりには視聴率がとれないとスポンサーに左右される悪循環かと。手っ取り早くお金になることばかりが大事な社会になりました。
 たとえば、イギリスで大評判だったドラマ「ライン・オブ・デューティー」など観て驚くのは、政治に忖度せず警察官の不正をテーマに出来る自由さ、複雑緻密な展開の脚本があり、膨大な難しい科白をこなす役者がそろい、このドラマを面白いと喜ぶ視聴者層が厚く、高視聴率、高評価であることです。今の日本のテレビ視聴者層ではついていけないと思うのです。
 というのも複雑な話についていける視聴者層はとっくに日本のドラマを見限り、「ライン・オブ・デューティー」含めた自分の観たい海外ドラマや映画を、ネットフリックスやアマゾンプライム等で観ているから。
 今のテレビの視聴率を決めているのは勧善懲悪のB級娯楽映画などを好む種類の人間ではないかと想像しています。ヒトラーが、プロパガンダを一番知的レベルの低い人間にあわせて発信したようなことが起きているのでしょう。
 こんなことを書くと大衆蔑視と批判されるかもしれませんが、製作者が視聴者のレベルをこの程度と見くびった結果の「唖の娘」(=芹沢光治郎「死者との対話」より)の我が物顔と反論できます。
 これは出版業界にもいえることで、本はどんどん読みやすく簡単に書かれるようになっていると指摘されています。このまま高い知的レベルの要求される本が、ドラマが、淘汰されていくとしたら、国力の衰退するのは当たり前ではないでしょうか。
 幸い映画はまだドラマより希望がありますが、手近な画面でなく映画館の画面で鑑賞する観客の減少には歯止めがかかりそうにありません。
 相変わらずの愚痴もどきおしゃべりをしました。国の惨状と運命を共にするのも、楽しもうと思えば楽しめるくらいのしたたかさで、今年を乗り切りたいものです。
 みづうみの次のお仕事を心待ちにできる幸せをかみしめています。どうかお元気で毎日をお過ごしくださいますように。  春は、あけぼの
 * 佳いメールだと拝読。全面、同感。こういう水準の若い人たちの「層」がぶあつくなってほしいと「切」に願う。
 この方、前回戴いたメールで、自分は「京都オンチ」と書かれていて、あれれ、それでどうして「秦恒平」が読めるのと少し機嫌を損じていたが。今日のメールは佳い刺戟を得た。
                        
 
◎ 令和五年(二○二三)正月十五日 日  小豆粥雑煮
    起床 6:15 血圧 147-78(80) 血糖値 77 体重 54.3 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  春を尋ぬ
  貌は年に随ひて老ゆ如何せんと欲す
  興は春に遇ふて牽かれ尚ほ餘りあり
  遙かに人家を見て花あれば便ち入り
  貴賤と親疎とを論ぜず
  * 年々容貌は老いて仕方なし それでも 春至れば心浮き立ち 花と見れば
    何処彼処構わず入って 庭主の貴賤も親疎も構はぬ と。これぞ 白楽天
 
 * 何やかや夢に「思案」の、しかし幸いに尿意に頻回起こされること無く。きのう、利尿薬を時間早めに済ませておいたのが成功、昨夜はしかし一時前まで仕事していた。
 夢中の口ずさみは、終始「チャチャチャ(おもちゃの)」。賑やかなこと。
 
  * 昨日は多くの時間をつかい、往年、原稿用紙に手書きで「書きさしてやめた」が、「捨てはしないで保存」の、「小説」以外の何ものでもない文章の、有題・無題合わせて七、八種もを機械に容れていた。よほど長いのも、400字用紙に2枚から8、9枚ほどのも。書き殴った一篇も無く、長い短いこそあれ、今の私からも改め推敲や添削を要する何も無く、それぞれ「小説」を「書き出し」の文章として仕上がっていた。だが、そのまま見捨てられ、しかし廃棄処分されなかったのは、長い短いこそ措けば銘々に自立・独自の場面と趣味を擁していたから、と、想えた。それぞれに、このさき、どんな小説へ仕上がっていたか、と、微笑めた。用いている「原稿用紙」から見て、遠くは「作家」以前の就職なかから、「作家」として自前の用箋を作って以後早い時期と、総じて半世紀は以前の「仕事」だった。こんなふうに、さまざまに、いろいろに着想しては書き起こして多くは保留されるのが「創作者」の常だと思う。そんな多くの中から書き継がれ仕上がりの作として脱稿され、編集者の手へ渡る。
 わたしは自身「寡作」と思い込んでいてそんな述懐を書きとめたことが有り、即座に当時著名な女性の装幀者に「寡作どころか」と多作を呆れられてビックリしたことが有る。事実、今日とも鳴って振り返れば公表し書物化した作だけで大きな選集が「三三巻」「湖の本」が既に160数巻にも成っていて、活字化されてない書き置きでもまだぞろぞろ見つかる。昨日触っていたのも、それらの一部で、しかも書き殴ったものはない。短い長いなりに誰に読まれてもいい「私の文章」を成している。捨ててはしまえないなと思った時に、たまたま「花筺 はなかたみ」という雅な伝統の容れ物のあるのに気づいた。
 〇 つみためしかたみの花のいろに出でてなつかしければ棄てぬばかりぞ
 「秦」は「恒平」はこんな風に着想し発送し書き始めるのか、とは思われてそう恥ずかしくない「かきさし」が見つかった、本人もビックリ」というだけの事であるが、文章での創作者の「これが本来」なのではと確信する。幸いに「湖の本」に収録できて読者も手を受けていて下さる。眞実、ありがたい。
 
 * テレビドラマの日本現代モノでは久しく感銘作に出会わない「ゼロ」であるが、゛時代モノだと化けの皮の着心地により『剣客商売』や『残日録』などの一部に心惹かれて繰り返し見入れる編もある。かりにもピストルや銃のような凶器のよりも、遣い手の剣は清冽の魅惑である。秋山小兵衛、大三郎、田沼みふゆらの剣は、私のようなド素人なればこそ、フムフムと感じ入って見てられる。現代劇には、コノ、感じ入らせる力感に富んだ刺激が弱い。無い。
 
 * このところ酒を呑まず、缶ビールも一気には干さない。それでも、実に良く寝入る。寝容れ得ることは有難いと承け納れている。
 ひところ全然失せていた空腹を、早起きの朝に感じる。食を、少しずつ取り戻したい。
 
 * 『ツアラトゥストラ』 読み継いでいる。「惹かれ、入ってゆけるかも」とすこし安堵している。
 誰かがわたしを「旗楽人」と呼んでいた。
 
◎ 令和五年(二○二三)正月十四日 土  
    起床 6:15 血圧 178-81(63) 血糖値 77 体重 54.3 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  江柳を憶ふ
  曾て楊柳を栽(う)ふ江南の岸
  一たび江南に別れて兩度春なり
  遙かに憶ふ青々(せいせい)たる江岸の上(ほとり)
  知らず攀折(はんせつ)するは是れ何人(なんぴと)ぞ
  * 江南の岸に楊柳を栽えおいて 職を辞し二度の春を経た。青々と枝葉を生うてい    ようぞ だが 誰が手折らぬであるまいか、気がかりな、と。情致あり。
 
 * 来世無し 現世のみ 来世を祀れとは、今生・現世の祀りごと(政治)を怠る者のウソも方便。未生・後生の来世など、無い。
* 午まで、三時間ほど寝入っていた。寝たければ寝よとからだに聴している。妻も、あとから、午をはさんで寝入っている。それで、いい。此の、「感染」交錯のややこしい時期、体調は自覚と勘とで自身カバーするしかない。病院へも、むしろ避けているのだから。
 
 * すこしの肉など食べながら大関の無難に勝ったのを見て、そして疲れ寝に寝入って九時半まで。
 
 * 来世無し 現世のみ 来世を祀れとは、今生・現世の祀りごと(政治)を怠る者のウソも方便。未生・後生の来世など、無い。
 
 * 繰りかえすが『或る往生傳』への、これが我が發明、と。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)正月十三日 金  
    起床 5:35 血圧 178-81(63) 血糖値 77 体重 54.35 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選   紫薇花尾
  絲綸閣下文書静かに
  鐘鼓樓中刻漏長し
  獨坐黄昏誰か是れ伴ふ
  紫薇の花は紫薇郎に對す
* 宮廷の静謐典雅の景を叙している。 絲綸閣では勅書を扱う。
  刻漏は 謂わば水時計、紫薇花は 百日紅、紫薇郎は 紫薇省の郎官
 
 * 夢には悩まなかった、が、書き継いでいる「或る往生傳」に決定的な想、乃至は論点を得、反芻し続けていた。
 尿意に床を起つこと五度、か。どうしても睡眠は分断された、が、毎夜のこと。
 
 * 『参考源平盛衰記』巻七から十への鬼界島流しから俊寛僧都の悲惨を極めた最期と有王看取りの一連は、いわゆる『平家物語』の一大核心を為す大きな大きな場景、なにかしら編者や時の人たち無残の「思い」が籠もって読み取れた。無残に凄かった「俊寛」孤絶の悲惨は、これぞ、一「清盛の凶暴」と謂わずにおれない。これに比すれば源平の戦闘場面等々は「おはなし」に過ぎなく想われるほど。以下、巻之十一(史籍収攬本では巻十二)へ入る。巻之四十八まで在る。
 
 * 積む疲労困憊は払う術も無い、が、内から「やれ」と衝き上げられる「書き」置きの仕事が尽きなくて、追って追って行くのみ。
 
 〇 beliefめでとうございます。お変わりなく おすごしになられていますか。 現状維持もたいへんです。無理? ダイジョブと六割程のうごきをしても、後で、こたえています。 ドラマの背景に映っている京都のあちらこちらを みています。畑本の家が御所だったりして。 洋ものも。 この空と光の工合は砂漠のものではないとか。、 テレビもよく観ています。 うたがい深く、困りものです。 沙  高山寺の弓いる兎の絵葉書
 
 * 洒落 な筆致で。 お元気でと念じます。懐かしい。
 
 * 大関貴景勝が苦手を降した。なんとなくあの大関、顔が可愛い。横綱休み、大関一人。とても「大相撲」とは言えないが、一般のスポーツよりは観ている。
 
 * 十三日の金曜であったか。何を謂うのだったか。キリスト受難か。
 
 * 手をそめたことではあり、ある程度『花筺』3を拾っておく。帯同して書き継いでいる創作の二三も押して行く、が、「初校」が出てくるか、新巻の納品ももう間近に逼っている。この双方はハンパ仕事で葉無く、いつもながら緊張する。なげださない。小さくとも大きくとも仕事は仕事。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)正月十二日 木  
    起床 7:15 血圧 178-81(63) 血糖値 77 体重 54.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  府西の池
   柳は氣力無くして枝先づ動き
   池に波紋ありて氷盡(ことごと)く開く
  今日(こんにち)知らず誰か計會するを
  春風春水 一時に來る
  * 七言絶句 「開」「來」が、韻字。「計會」は春風と春水が「もくろんで」の意。
 * 実に春情美しい「詩」である。
 
 * 実に有難し、夜中の尿意が二度ほどで済み、いやな夢見も無く安眠の気味で朝寝も出来た。
 
 * 書きかけ、書きさし、それも殆どが「作家」以前ないし直前・直後と思われる原稿が、どさっと見つかっている。いわば「湖の本」でもう試みてきた「花筺」の3とも4とも5とも拾い摂って良さそうなのがある。手の足せる者から、もう二、三、機械に書き写しておいた貸が、まだまだ在る。
 むかし、高校生だったが、気張って谷崎潤一郎の創元社刊「作品集」六巻を買ったとき、未完成途中作が遠慮無く出ているのに驚きながら、それらにも「作家」の息や体臭のおもしろみを覚えたことがある。書きかけるのにも、書きさすのにも作家の個性や意地が在る。
 活字で公表するには、何としても出版・編集という厳重な関所が在り、或る「長さ」と「仕上がり」は要件で在った。信心の懸命の試みにもその壁は厚かった。たが作家は書きたい、心みたいモノをもってそれに引っ張られる。私もそうであったことが、今度見つかった大昔の試作・未成作にみてとれるのが、われながら愛おしくまた面白かった。幸いにわたしは誰も持たない「湖の本」という場と読者とを確保しており、「花筺」を拾い満たすことは出来る。試みておこうと喜んでいる。どういう木でこんなものをこんな風に書き出したのかと、我乍ら新鮮にびっくりもしている。
 
 無数の「書きたい」志望者が世に在るのは、明治以来なんら変わりないが、明治いらい私のような「湖の本」レベルの世に通用する自前の発表場の持てる物書きは、事実、独りとしていない、この事実の意義をハキと認識されていたのは亡き鶴見俊輔さんであった。
 
 * 終日よく働いたが、申告に疲労も。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)正月十一日 水  
    起床 6:15 血圧 178-81(63) 血糖値 77 体重 54.25 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
〇 白楽天詩選  春風を歎ず
   樹根雪盡きて花の發(ひら)くを催し
   池岸氷消えて草をして生ぜ放(し)む
   唯 鬢霜の舊によりて白きあり
   春風我に於て獨り無情
 * 日本人の好みと謂うことか。漢詩というと、まず白楽天詩集へ手を出す。
 「やそしち郎」私の髪は、まだ、さほど白くないが。
 
 * それにしても「凄惨な」一夜の夢つづきであった、地獄とはあれかと想う。池袋と思しき宏大なターミナルて乗りたい西武線のホームをかけずり回って探す間の人も物も無残に汚れて反吐と罵声と暴力の巣でが至る時・所に露われ、やっと見つけて乗り込んだ超満員の電車の中は不潔と暴力と「たすけて」とさけぶ女声の交錯であった。
 なんであのような夢をわたしは再々見るのか。平安は無く、危害と不潔と密集と罵声の世界、さながらに地獄。私に何らかの罪と罰とが産まれながら加得られているのか。「たすけて」とは私自身の絶叫であったのか。
 
* かんかにも左胸部に圧を覚えていることがある。おおかた消え失せるが、寝起きに感じている、何度となく。「寒い」が故か。
 
* 目覚めて上がってくる私のこの二階部屋は暖かに、賑やかにも美しい物に満たされて「平和」なのだが。
 
 〇 秦さん
 新年を迎えましたが、お元気でしょうか。連日の寒さは身に応えますが、ありがたい日の光をかみしめて日々を過ごしています。  中・高同窓  元 日立役員
 
 ◎ 親愛なる テルさん。 
 新年になりました。なにとかガンバリたいと願いながら、去年の残暑来の体疲労は加わる一方で、せいぜい努めて遣っていますが、疲弊は加わる一方、やせ細っています。
幸いに私の「読み/書き・読書と創作」の日々は「家の中」で可能ですので、仕事に引き摺って貰うよう努めながら、昨秋来は、奈良・平安交期の左道の怪事件を引き受けた今日現在の異様を書き継いでいます一方、新年には、現代の視野からの「或る往生傳」を日々に今日も書き継いでいます。
「湖の本」新刊も いま二冊並行していて、やがて発送また初校という荷を背負っています。実に疲労困憊の極にいますが、それが私の「残年」と覚悟しています。
 
小説だけでなく、或いはそっちへ転換しそうでもありますが、私の卒業した「有済」小学校の「有済」とは「如何」を、三條、粟田を含めた「京都」の問題として書き継いでいます。これは、テルさんにも、きっとお考えがあろうかとも。教わりたいことが幾らも在ります。
 戴いていた師走初めのメールには、異存や異見はなく、私なりに漠と「世界」を眺めつつ、もはや私には残り少ない「日本」の見聞を、どう咀嚼するか、もう吐き出し吐き捨てて置くかと、思うばかりです。
 少なくも今後の「日本」に軍事的緊急に兵事として応じる術など「無い」「あってはならない」「自滅を急ぐだけ」と思っています、だからこそ大事なのは必至・必死の適切を欠いては絶対ならない「外交」の智慧と能力だけしか無い、残っていないと、その点「幕末明治」の日本の志士や元勲たちの聡明な勇気が慕われます。坪谷善四郎という人が明治半ばに著していた、千頁を越す「明治歴史」上下巻には、それはそれは多くを学びました。
武器に、垂れ流しの金を使って戰争に備えるのでなく、金と知恵の一切を、聡明で勇気ある外交と果断、かつ堅実に賢い貿易とで、国土と国民の日本を護り抜いて貰いたい。そう祈るばかりでいます。
 テルさん。お元気で。お元気で。若い人を励まして下さい。   秦 恒平 
 
 〇 お元気ですか、みづうみ。
 「体調は険悪の角を立て刺しこんで来ます」というみづうみのお辛さに涙がでます。みづうみのご体調が「ふつう」である日が来てくれますようにとお祈りするばかりです。
 みづうみも奥様も、まだ介護認定はお受けになっていらっしゃらないようにお見受けします。要支援や要介護認定を受けると、程度によりますが送迎つきデイサービスが利用でき、そこで運動指導を受け体操などする機会もあり、脚力を保つのに役立つかもしれません。入浴介助もあるので、ご自宅より転倒の心配なく広いお風呂に入れます。あるいはご自宅で一緒に体操してくれるサービスもありましょうか。ドクターの訪問診療、看護師の訪問看護、どちらも大変助かるものです。
 高齢者介護の仕事に関わる人は当然ワクチン接種していますし、一般的社会人より厳重な感染対策をしています。それでも感染リスクゼロとはいえませんが、スーパーのような街中に比べれば安全です。なんとか色々なサービスを利用できるとよろしいのですが。
 電話一本かけられないのが高齢者です。前にも書きましたが、建日子さんのすべき手続きかと思います。お頼みになりましたか。本当は頼まなくても気づいてほしいのですけれど。一日も早く介護認定を受けられて、行政の支援を利用なさってください。
 みづうみより二歳年上の母は八十七歳のときには大腿骨骨折もありほとんどベッドの上で過ごしていました。今年の春に九十歳になりますが、何度も入院しながら、今も元気で、歩行距離は増えています。若いころから虚弱だった母を見ていると、人間の生命の底力を感じ驚くのです。みづうみのご体調がすぐれないのは高齢者の当たり前の状態です。みづうみと奥様は稀に見る高齢者ご夫妻で、頭脳明晰なままお仕事まで続けていらっしゃいます。ですから、行政サービスを上手にご利用いただき、その状態を長く続けていただきたいと願っています。「もういいよ」と思われても、高齢者の体調は浮き沈みの激しいもので、そう簡単に「もういいよ」はさせてもらえません。「まあだだよ」と青息吐息での山登りなのです。休み休みでよいのでこの登山を続けていただきたいと思います。フーフー言いながらあとからついていきますので。
 みづうみのメールは相変わらずあけぼのには判じ物です。  
 >「有済」 読み解ける人は京都の人にもめったにいません。「書経」に獲た一語のようですが、「秦恒平」を論攷するには、通過の必要な、強硬な、根の「課題」の一つになります。解いてみますか。
 私も、大人になるまで、まるで分からなかった、同じ学校を卒業した親も、先生がたもまるで識ってませんでした。
 京都オンチのわたくしに「解いてみますか」とは! 即断即決で、無理です。『湖の本』以外では、みづうみの京都について勉強する糸口さえないというのが正直なところです。それで秦恒平論を書こうなどというのはあり得ない話なのは承知ですが、みづうみの京都を書ける人間が今の日本に一体何人いるとお思いでしょう。もしわたくしに役割りがあり、それを全うできるとしたら、みづうみの膨大な仕事のほんの一部についての資料を残すこと、「秦恒平」を読んで、書いてください、こういう文学者で人間です、といくつかの視点を残すことです。今は、京都に至る前に書いておくべきお江戸の「秦恒平」もあるかと、ただただ湖の本を読んで、勉強しているのです。
 もし、デジタルデータがおありでしたら、みづうみが文庫本『少年』で使用されたプロフィール写真(自腹の秦恒平論に使えればと)、ずっと以前にホームページに掲載なさった当尾の吉岡家で撮影されたと思われる幼いみづうみと犬の写真(寂しい写真ともいえますが、大好きなので)がいただきたいと思います。実際の写真は勿論不要ですし、データがなければわざわざ作っていただく必要はありませんので、どうかご放念ください。
 今日が佳い一日でありますように。     春は、あけぼの
 
 * 「京都オンチ」とは情けない。
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)正月十日 火  
    起床 5:05 血圧 178-81(63) 血糖値 77 体重 55.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇   一〇
 ツアラトゥストラは、これらのことを我と我が心に向かってこう言い続け、そのとき太陽は正午の空にかかっていた。ふと何かさがすように上を見上げた。ーー鋭い鳥の声が頭上に聞こえたからである。と、見よ! 一羽の鷲がそらに大きな輪を描き、その鷲に一匹の蛇が懸かっていた。それは鷲の獲物ではなく,友であるように見えた。なぜなら蛇は鷲の首に巻き付いていたからである。
 「あれはわたしの動物たちだ!」と、ツアラトゥストラは言って、心の底から喜んだ。
 「太陽のもとでの最も誇り高い動物と、最も賢い動物ーー。かれらはツアラトゥストラがまだ生きているかどうか知りたいのだ。
 人間達のもとにいるのは、動物たちのもとにいるより危険なことをわたしは知った。危険な道をツアラトゥストラは行く。わたしの動物たちよ、わたしをみちびいておくれ!」
 ツアラトゥストラは、あの森の聖者の言葉を思い出し、ため息を吐き、わが心に向かいこう言った。
 「0QFもっと賢くありたい! わたしはわたしの蛇のようにどこまでも賢くありたい! だがわたしは不可能なことを願っているのだ、それんらわたしはわたしの誇りに願おう,誇りがつねにわたしの賢さとつれだって行ってくれるようにと!
 そして,いつかわたしの賢さがわたしを見捨てるなら、ーーああ、賢さは飛び去ることをのむ! ーーわたしの誇りが、そのときは、わたしの愚かさとともに空翔けてくれるようにと!」ーー
 ーーこうしてツアラトゥストラの没落ははじまった。
                (第一部 ツァラトゥストラの序説 十の 2 序説了 )
 
 * ニーチエのこの壮大な「寓話」ないし「詩作」には、大きなキーワードが幾つか現れる。
「永遠回帰」はその「核」に同じいと謂われる。
「超人」はあたかもニーチエの代名詞かに注目される。
「神が死んだ」という強烈な認識がある。「超人」が痛切に要請される。神の天国は失せたからは,超人の「大地」が世界である。
「超人」の否定的対峙として「おしまいの人間たち」が戯画的に眺められて、「畜群」「余りにも多数なもの」「余計な者」「市場の蠅」「賤民」つまりは「大衆社会」が対峙的に意識される。「社会への嫌悪」がツアラトゥストラの心底にある。「孤独」をなみする社会の集団化・平等化への烈しい嫌悪がある。そのような人間の限界を突き破る存在として「超人」が意識される。人間は所詮は「克服さるべき者」に過ぎない。
 しかもなお「超人」は自己目的で無く、「没落」し「破滅」することで救済される。ツアラトゥストラはそういう道を歩んで「亡び」を生きる。
 戦慄と狂気の書が此処に厳存するとツアラトゥストラは「序説」している。そして以下に、綿密で、具体的な象徴性に溢れたツアラトゥストラの「教説」が展開される。それらを此処でかかる簡略な仕方での「紹介」は、過ちを避ける意味でも、難しい。2023/01/10
 
 * 何十年も前、三階、左右に三軒ずつの社宅に暮らしていた.三階の左に入っていた。まだ長内朝彦と両親との簡明な暮らしだった。三階までピアノを挙げていた。向き合った中間は階段で、踊り場と謂った広さも装飾部分も無かった、ただ階段だけ。
 * 時期は覚えないが、各階の中に踊り場のやや広い、しかし向き合いに部屋があるだけの、まるで別の社宅っぽい夢を何度か繰り替えして夢に見ている。社宅で無く,住人も知らないよそ人たちで、親交と謂ったなにものも夢にも記憶が無いが、やはり三階の左方に暮らしていた。夫婦二人か、時には私がひとり独居していた。この社宅には,地下に共用のやや広い浴室があった。洗い場よりも湯の箇所の方が広かった。そして、過去の何十年かに何と葉無く数度はその社宅での夢を見てきたが,夢にも閑散と何のおはなしも無かった。
 昨夜、実に久しぶりにその社宅に独りでいた。妻も朝日子もいない、独居だった。
 前後に何の「事」も「関わり」もなく、しかし、明らかに相次いで二度セックスを夢見た、清潔に熱くて実に見事という交接が二度続いて夢は覚めた。身を重ねた相手の名に一つも覚えが無く、ただ見事に体麗で綿密な交接だった、二度あった。夢は、くっきりと、しかし素早く立ち去った。わたしは若かったか。いやわたしはちがいなく「やそしち老」に相違なかったが、不如意な何一つ無く密接であった。つまりはわたしは矍鑠と健康な老体であったと謂えよう、それに満足した。ケッコウだと実感し、夢に何の前後も無かった。
 
 * こういう夢をわたしはまだ見るのか。フーンという心地だった。そこに具体的な助勢が全然漢詩競れず、簡潔に清潔な女体だけが健やかに無表情に実在していた。静かに熱かった。
            
 * ハイ、それまで。いま、六時半。まだ世間は寝静まっている。「ま・あ」はもう大好物の削り鰹をそれぞれにちゃんと貰って行った。わたしは。やや空腹感。
 酒は、避けようと、決めた。決心の長続きに期待する。呑めば寝てしまうのだ、そして体調を崩す。秦の父は完全な下戸だった。秦の母はあれでお酒を少し含むことに,テレながら嗜好を感じていた。秦の叔母は、茶事の際の盃ごとに馴れていた。
 私は、この秦埜叔母に連れられ、裏千家がゅさいの琵琶湖畔での悠遠会に連れて行かれた幼い頃に、さ、五年生頃か,中学にまだの頃、大人達の嗜む酒なる飲料に興趣とうま味すらとを初体験した。しかし、修飾語も、家で酒を飲むことは久しく無かった、が、作家として編集者と付き合う頃からは、接待してくれる編集者側がへきえきするぐらい、平然と酒量を上げていた。しかし,明らかなこと,酒は呑みすぎないが宜しい。ここのところ、それで体調を崩し気味であった,明らかに。
 
 〇 メールを読み、愕然茫然、言葉を失っています。
 浄瑠璃寺夜色 所を得て 静かに傍にあって慰めとなれば、絵も、嬉しい。
 仕掛かりの「要」も「欲」もたくさんもち続けてくだされ。
 どうぞどうぞ願います。 
 どう「貧相」でも、現在の写真送ってください。
 誰よりも日々憂慮されている迪子様のことを思いいます。  尾張の鳶
 
 * 体調の不穏は改まっていない。一つには寒い。寒がりなので寒いのがきつい。
 手持ちの全部のカメラが使用不可ないし不可能となり、やまやま写真を撮りたいのに撮れない。カメラを買いに行きたいが、不可能なこと、困惑。加えて私にカメラを適宜適確に使用する技能が無いらしいことにも、ことに困惑。小さいカメラの三機がみな、現在使用できないのでは、新しく買ってもダメかなあ、わたしの「機械バカ」が徹してきている。
 
 * その一方 紙くずの山かと惘れていたのを、念のため点検してみると、何十年もむかしの「若書き」の筆で 書き始め、書きさし、書き終えても居る短い小説が、そのままに打ち棄てられていて、一部読み直してみると、これはイケますねという原稿が幾つも現れ出て、ビックリ。こういことも、ある。
「湖の本」よりずっと以前の書きかけや試筆の短編中編だと、文藝誌に持ち込むにはある程度の長さが必要だった。しかし短編には短編なりに味がある。点検しなおそうと想う、「湖の本」に恰好に発表できるのだから。
 
 * この仕事部屋は、朝から暖房し続けていて、いつ出入りしても温かいが、階下の暖房は随時開閉されているので、、寒がりの私には下りるのを躊躇うときが有る。寒いのは、イヤ。
 
 * 鰻をよく食べたのに、手が出なくなった。脂っ気は好む方だったのに、顔をそむけるようになった。鰹出汁のスープのようなのを好んでいる。鳶がよく贈って下さった、南座わきの「鰊蕎麦」が懐かしい。鰊味それに相変わらず?が、蕎麦が好い。
 
 * 浄瑠璃寺夜色  すばらしく佳い。繪と同じほどの大きい写真で、お寺に近い当尾の、父方祖父の屋敷と並べて観ている。「秦恒平」以前の自分を感じられる。
 
 * 下保谷は 人少なく、静謐で、市街感覚を全く忘れて暮らしている。
 
 
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)正月九日 月  
    起床 5:55 血圧 178-81(63) 血糖値 77 体重 55.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 ツアラトゥストラは、我と我が心に向かってこう言い続ける、
 「創造者の求めるのは道づれであり、自分の鎌を研ぐことを知っている者である。かれらは善悪をひていする者、軽蔑する者と呼ばれるだろう、ほんとうはかれらは刈り入れる者であり,祝う者なのだ。
 ツアラトゥストラは相倶に創造してくれる者を求める。相倶に刈り入れてくれる者、相倶に祝ってくれる者を求める。畜群や牧人や死体の類いに何の関わりがあるだろう!
 時は来た。曙光と曙光のあいだに、ひとつの新しい真理がわたしを訪れて来た。
 牧人や墓堀人に、わたしはなってはならない。ふたたび民衆に対して語ろうとは、わたしは思わない。死者に話しかけるのはこれぎりだ。
 創造する者,刈り入れる者、祝う者とわたしは仲間になろう。わたしはかれらに虹を示そう。超人にいたるあらゆる段階を示そう。そして未聞のことを聞く耳を失わずにいる者がいれば、そのこころをわたしの幸福で重くしてやろう。
 わたしは自分の道を行く。ためらう者、怠る者をわたしは飛び超える。こうしてわたしの歩みが,彼らの没落となるがいい!」
    一〇
 そのとき太陽は正午の空にかかっていた。
             (第一部 ツァラトゥストラの序説 九の 3 十の 1 )
 
 * ジンメルの著『ショオペンハウエルとニーチェ』岩波文庫に手が出た。昭和十七年五月定価八十錢の本。国民学校一年生の春早々だ。古本を、何歳頃に買ったろう、大學の頃に違いない。文庫本書架には、こういう傾向の古本がずいぶん数多い。哲学青年に相違無かったが、読んでいたのは谷崎や日本の古典だったろう。いま、ニイチェに惹かれて「ツアラトゥストラ」に聴き続けている。
 大學からもう六十年は経っている。往時茫々。
 
 * 早起きのアト、一日の大半ないしほとんどを寝入っていた。もう夜の九時半。左眼の明を喪いそう。生き方を新たに直さねば、潰れて仕舞いかねない。
 酒を断つ、ないし嚴に控えねば、生活が毀れてしまう。左明を保たねばならぬ。
 
 〇 新年の翁へ
 子供たちの家族もそれぞれに元気に過ごしているようです。孫四人が結婚し。そのうち二人が子供に恵まれました。まだ若い二人は大学生です。
 昨日九皐会の新春能で。「翁」を観てまいりました。
 秦様ご一家の泰平、安穏もご一緒に祈願する思いでした。
 九皐会では毎年、順に若い先生方が勤められます。
 脇能は「嵐山」で、こちらも、若い先生方の颯爽とした舞で、春を愛でさせていただきました。
 年齢を重ねて、若い世代の方たちの精進ぶりを観ることができる幸せも感じました。やはり若い方たちは元気です。
あやかって、そろくの年なりに元気に。頂いたお歌のように 「心静かに ふたりして生きめ」と。
 秦様ご夫妻も どうぞどうぞお身体大切にお過ごしくださいますように。
                                晴美   妻の親友
              
 * ◎ 令和五年(二○二三)正月八日 日  
    起床 5:55 血圧 178-81(63) 血糖値 77 体重 55.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 ツアラトゥストラは、我と我が心に向かってこう言い続ける、「全ての信仰の信者達を見るがいい! 
かれらがいちばん憎む者はだれか? 価値を録した石の盤を砕く者、破壊者、犯罪者だ!
ーーしかし、かかる者こそ創造者なのだ。
 創造者の求めるのは道連れであって、死体ではなく、また畜群や信者でもない。創造者は相倶に創造してくれる者を求める。かれらは新しい価値を新しい石の盤にしるす者である。
 創造者の求めるのは道つれであり、相倶に刈り入れをしてまれる者である。創造者の眼前ではすべてが熟して刈り入れを待っているから。
 創造者の求めるのは道づれであり、自分の鎌を研ぐことを知っている者である。
                  (第一部 ツァラトゥストラの序説 九の 2 )  
 * 夢中、またしても、遠路帰路の電車に乗り損じて、馴染まぬ異郷を様々な悪意や嘲罵場に脅され堪えながら彷徨いつづける夢を見た。この近年、同様、馴染まぬ異郷に帰途を喪い帰路にに迷惑難渋するする孤独な夢を、数十度も見ている。これはいったい私にとって何であるのか。私のつまりは不徳が咎められているのか。
 
* 倦まれたあの日を思い出しながら、今から、カーサンと、建日子誕生日を祝い 赤飯を 戴きます。 おめでとう。 父
  人間世界は烈しく動揺し 自然は衰貌に傾いています。が、動揺のみしているわけに行かない。建日子には建日子ならではの、父には父のいのちが「生・活」を求めて衰えては居ない。踏みしめて歩み続けたい,建日子は登り道を行け、父はしかと区下り道を踏んで行く気。それぞれの景色を楽しもう。
 カーサンを、頼むよ、建日子の愛と配慮とに信頼しつつ。
 建日子自身の健全/健康がとても大切と、父は見守っています、いつも。
 父は、いま、毎朝『ツアラトゥストラ 斯く語りき』に聴いています。
 
 * 停滞、仕事へ手が働かない。何かに、コツンと突き当たっている。
 
 * 寒け。午後ほとんど寝入っていて、目覚めて起きて,寒け。夕食時、不快の極。入浴は控えるべきか。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)正月七日 土  
    起床 5:45 血圧 178-81(63) 血糖値 82 体重 56.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 ツアラトゥストラは、我と我が心に向かってこう言い続けた、「わたしは大いに悟るところがあった。ツアラトゥストラは民衆に語るのではなく、自分自身に忠実に、わたしツアラトゥストラに従い、ーーそして、わたしの目指すものに向かってともに進む、そういった生きた道づ れ語るべきなのだ。ツアラトゥストラは畜群をまもる牧人や番犬になってはならない。畜群のなかから多くの者をおびき出すことーーそのためにわたしは来た。わたしは民衆と畜群を怒らせよう。ツアラトゥストラは牧人どもから強盗呼ばわりをされたい。牧人どもとわたしは呼ぶ。しかしかれらはみずから『善くて義しい者』と称している。牧人どもとわたしは呼ぶ。しかしかれらはみずから正しい信仰を持つ者と称している。
 この『善くて義しい者』たちを見るがいい! かれらが一番憎むものはだけか? 価値を録したかれらの石の盤を砕く者、破壊者、犯罪者だ、ーーしかし、かかる者こそ創造者なのだ。             (第一部 ツァラトゥストラの序説 九の 2 )
 
 * 真っ向「反基督教」が宣言された。ツアラトゥストラ一基本の宣告か。
 
 * 夜前、十時半ごろに寝入ったか、二時頃まで頻回の手洗い立ちに閉口した、が、実に実に嬉しい夢も確かに観た。類いないまで嬉しかった、が、もう思い出せない。それでも好い。
 今年も中川肇さん作成の「クレー」作を毎月主題画のカレンダーを戴いている。去年も、或いは一昨年も戴いていて、クレーに遠の遠かった私をみごとに「クレー漬け」に成された。
 
 * 白馬の節会 七草粥はひとしお好きな雑煮です、十五日の小豆粥も例年祝います、
キイの打ち損じがつづきます。   今日の体調は悪しきかぎりで、しんどさに「潰れ」つづけ、立ち歩みもママなりません。「生・活」途絶えそうですが、仕遺しどころか 仕掛かりの要も欲もたくさんあり、ます。
歩ける「脚ぢから」を喪っては、コロナが退散しても街へ出られない。つまり二度と会えない。もっとも、これが、と見喪うほどやせ細っています。きっかり30キロはへり、「貧相」を極めていますから。
不幸にして、好都合とも謂えますが、いま、わたしは気軽に撮って機械に移せるカメラもその技術/手順も無い。写真は私のいささかの趣味嗜好でしたのに、表現できない。 結局「楽しみ」は「読書」っきりです。好きな「食」の全部も失せて去りました。幸い鑑賞に足る繪や書や骨董類が身近に少しは残っています、書物にはこと欠きません、ことに和漢の古典には。それと、どう当たろうとも私から逃げて行かない「連れ合い」があり、それは「歴史」です。いつも頑強に、恰好に、老い衰えて行く私を待ち伏せて隠れない。
こう書いているうちも、体調は険悪の角を立て刺しこんで来ます。親しい話し相手は、「ツアラトゥストラ」です。毎朝晩に彼の「言う」のを聴き、為すのを見つめています。こんな友に出会うとは想ってこなかった。
お元気で。幸い、メールは、私独りで、読めるし送れます。怪我なさるなよ。 
 〇 みづうみのうれひもなみのゆくはてをたれまつとなく光るおほうみ   恒平
 
 
 
◎ 令和五年(二○二三)正月六日 金  
    起床 6:00 血圧 178-81(63) 血糖値 82 体重 55.4 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 ツアラトゥストラは、町の門のところで墓掘人たちに出会った。かれらはツアラトゥストラだとわかると、しきりに彼を嘲った。
 ツアラトゥストラはそれらにはひとことも答えることなく、自分の道を歩いて行った。森と沼のほとりを通って二時間も歩いたとき、かれは空腹な狼の吠える声をしきりに聞いて、かれ自身も空腹を覚えた。灯のともった寂しい家のそばにたちどまり、門を叩いた。老人があらわれた。
 「わしの浅い眠りをおどろかすのはだれだ」
 「ひとりの生者とひとりの死者です。食べ物と飲み物をください。」老人は去ったが、すぐに戻ってきてパンと葡萄酒を差し出した。「空腹の者にはしまつのわるい土地だ。だからわしは此処に住んでおる。食べて、行くがよい。さらば!」ーー
 それからツアラトゥストラはまた二時間ほど歩いた。朝が白みはじめたとき、ツアラトゥストラは自分が深い森のなかにいるのを見た。道は絶えていた。そこで彼は死者を、自分の枕もとの木の空洞に置いて、ーー死者を狼から守ろうとしたのであるーー、自分は苔の生えた地面に横になり、たちまち眠りに落ちた。からだは疲れていたが,魂は安らかであった。
    九
 ツアラトゥストラは、ながいねむりから目覚めた。静かな森のなかを見、自分の心の内を見た。かれは、とつぜん、陸地の影に接した船乗りのように、身を起こし歓びの聲をあげた。かれは我と我が心に向かってこう言った。
 「わたしは大いに悟るところがあった。わたしには道連れが必要だ。生きた道連れだ。自分の好きなところへ担いで行ける死体の道連れではない。
 自分自身に忠実に、わたしに従い、ーーそして、わたしの目指すものに向かってともに進む、そういった生きた道づ れが必要なのだ。
             (第一部 ツァラトゥストラの序説 八 の2 九の 1 )
 * 寒い。ゆびさきを出した手袋の手が痛いほど冷たい。元旦以降の叙事・字句を新ためておいた。目も手も濁り萎えてゆき、書き損じは始終のことになりやすい。丁寧な分を書き置きたい。
 
 * 高城富子さんの作画『浄瑠璃寺夜色』を戴いた。まだ適切な額が手に入っていないが、所を得て、今私の此の仕事席から視線をかすかに左うえへ送ると、50センチほど先に所を得て実に美しく眺められる。以前は写真を、ホームページ巻頭に貰っていたが、ホーページが壊滅し、写真でも視られなくなっていた。嬉しく、有難く高城さんに感謝している。有難う。有難う。その左に、繪よりやや小さいが一枚の写真としては大きめな、南山城当尾の父方吉岡本家邸宅、国指定有形文化財の一部分を撮ったのが並べてある。浄瑠璃寺は、吉岡の謂わば菩提寺に同じい縁故の名刹。相い愛照らし合うて、誠に快く美しく二つが並んだ。思い屈する時など、視野の歓喜や励ましとなってくれよ、有難し。嬉し。
 
 * 思えば思えば、私は、なにかにつけ、恩愛の多くに温かに恵まれているのだ。忘れては成るまい。
 
 * 一頃からすると半量と呑まなくて、そのまま突っ伏して寝入ったりする。六時に起きて、いま、夕方の五時前だが、半分以上も寝入っていた気がする.好いとも、いけないとも思わないが、衰弱の兆であるかは案じる。未だ街歩きなどとんでもないほどコロナ禍は猛威を振るっていて物騒極まりない。歩けなくなっては、コロナが鎮静してても話にならない。この界隈は、在るいい手人と出会う冴え稀れ。せいぜいお天気が良ければ歩きたい。この下保谷には、喫茶店もない。寿司や以外に軽食の店も無い。疲れて脚を休められるところが何も無い。今は、ただただ寒い、日が照っていても、風は吹く。
 自身、寒けを覚える理由を抱いていると思われる。ゾクゾクしている、暖房の部屋に居ても。
 
* 一頃とチガウのは、時折に空腹を覚えている。食とはやや異なる体調に思われる、昨日など寿司の出前に、せいぜい半分しか手は出なかった。
 
 * 清潔に,置いたモノの寡い書斎がよく褒められていたのを、子供心に覚えていたがる。が、まや私の六疊一間、壁には作り付け元朝名書架は造りつけてあるが、それにしてもナンという華麗とみまがう混雑の賑わいよ。障子も襖も戸袋も原形無くなく張ったり貼ったり継いだりネコにやぶられたり、凄まじい。美しいカレンダーの繪や写真も、お相撲のカレンダーも、気に入りの大ポスターも 必要な翁地図も、いただきものの絵画系美術品も、写真の気に入った郵便葉書も、何デモかでも貼ったり置いたり飾ったりしてあり、それでも、井泉水「花 風」の二大字額も、秋艸道人書の「学規」も潤一郎書「鴛鴦夢園」の超大な南洋大豆殻も、高城富子さんに頂戴した「浄瑠璃寺夜色」の美しい繪も,南山城当尾の父方吉岡本家国指定の有形文化財大写真も、朝日子の石膏顔自像も、沢口靖子大小七枚者写真も、のこりなくそれぞれに所を得て観にくくは衝突していない。白鵬、テルノ藤横綱土俵入りはじめお相撲さんのカレンダーもいきいき貼られてある。
 一つには大きな書架に、私の「秦恒平選集」全三十三巻を囲んで多彩に何種もの全集や大事典の満杯なのが音楽っぽく賑やかな「書斎を睥睨」している。とても人サマはお通しならないが、恐がりのわたしも、はおかげで、此の室に何時間、夜通ししていても淋しくない。「湖の本」の全巻もならんでいるし、金原社長の下さった献辞入りの好い写真も、父や母や妻や建日子ややす香の写真も、愛ネコの「ノコ」と浴室で相見ている愛らしい写真も在る。ゴッホ描く「靴」も「阿修羅像」も、懐かしくも亡き龍ちゃんとしか見えない少女画も鼓さんの描き遺して行った風景額も谷崎先生の六代目の向こうを張られた御顔も、ピカソの「平和の鳩」画も、京博倉の「隅寺心経」の麗筆も、むかしむかし妹と愛した梶川道子の中学の修学旅行土産の飾り栞も、みな所を得てこの煩雑に場を占めている。私はえらい人ではない、こういう嬉しい人なのである。誤解しないで欲しい。
 
◎ 令和五年(二○二三)正月五日 木  
    起床 6:15 血圧 178-77(57) 血糖値 82 体重 54.2 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 ツアラトゥストラは死体を背負うて歩き出した。が、ものの百歩も行かないうちに、ひとりの男が寄ってきて、囁きかけたーー見よ、それは、あの綱渡り師を跳び越して落とした、塔の道化師だった。
 「この町から去るがいい、おお、ツアラトゥストラよ」と、かれは言った、「ここではあまりにも多くが、あなたを憎んでいる。『善くて義(ただ)しい者たち』が憎んでいる。あなたのことを、かれらの敵であり彼らを軽蔑する者だと言っている。ひとびとがあなたを笑ったのは、あなたのしあわせであった。あなたがあの死んだ犬を世話したのは、あなたのしあわせであった。それほどまでに身を低くしたので、あなたは今日のところは助かったのだ。だが、この町からは出て行くがいい。ーーさもないと、あしたには、わたしはあなたを跳び越える。わたしが生き残り、あなたは死ぬ。」
 こう言い終えて男は消えた。ツアラトゥストラは暗い小路をさらに歩いて行った。
                    (第一部 ツァラトゥストラの序説 八 の1 )
 * 寒い。
 
 〇 "詩は、分からない。 絵は、観るに難儀。"と。
 詩、書き手自身どこまで分かっているか、現代詩の大いなる病いではないでしょうか。
 絵は鴉の視力さえ良ければと、これは哀しく残念。
 あの「浄瑠璃寺」の絵を今日送りました。実物に接したら弱点も含め容易に見抜く鴉を思うと、これはもう恐縮、文字通り恐れ恐く縮んでいます。絵の良し悪しはお許しあれ。
 ニーチェの本は手元にあったもの。処世訓のようにも読めます。ニーチェを現時点では異なる見方も可能かもしれません。
 さまざまに多忙だった一か月半、今は些か気落ちして、休養しています。コンピュータ
ーが不調ですので携帯の画面で書いています。
 どうぞお身体大切に、大切に。まだまだ寒い日もあろうかと、風邪、インフルエンザ、
オミクロン全て撃退してください。  尾張の鳶
 
 * ご健勝を願います。
 永く此の日乗の巻頭を、写真で飾らせてもらったあの鳶の繪の『浄瑠璃寺』を戴けると謂うのか。あな、嬉し。有難し。
 ツアラトゥストラ これぞ「詩」を味わうように、少しずつ日々に気を静め気ままに書き写しています。不思議と心に親しい「詩の表情」が懐かしいのです。訳本に頼みながら気ままに字句の端々は思うに任せながら。
 
 * 名酒「奥丹波」に酔うて 食卓に突っ伏していた。昔にやはり頂戴して謡っていた。
 
雨降り冷え冷え ひなあられ 白酒いやいや 奥丹波 辛口ひたひた 富士夫作 刻銘「花」とよ ぐいと呑め 土色くろぐろ うまざけの さかなはなになに 菜種あえ 雛にもそれそれ 召し上がれ 蛤汁(はまつゆ)あつあつ 弥生を待つ待つ   06 02 26
 
 雛の春を待ちながら 第四歌集『亂聲』の巻頭「光塵拾遺」に。 歳月の速やかに愕く。
 
 * 体調宜しからず、寒けもあり、底から疲れが噴いている。やすむしかない。休めば良い。慌てて生きることは無い。
 
 
◎ 令和五年(二○二三)正月四日 水  
    起床 5:00 血圧 178-77(57) 血糖値 82 体重 54.3 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 ツアラトゥストラは、じっと立っていた。かれのすぐそばへその綱渡りの男の身体は落ちてきた。男はまだ死んでいなかった。かれは自分のそばにツアラトゥストラが膝をついているのを見た。
 男はやっと言った。「わたしは、悪魔がわたしの小股をすくうだろうということを、前から知っていた。悪魔はいまわたしを地獄に引きずってゆく。あなたはそれを防いでくれるというのか?」
 「わたしは誓って言う,友よ」とツアラトゥストラは言った、「あなたが言うようなものは、何もかも実在しない。悪魔もなければ,地獄もない。肉体よりもあなたの魂の方が、さきに死ぬだろう。もう何も恐れる必要はない!」
 ツアラトゥストラは、さらに言った、「あなたは危険をおのれの職業とした。それはすこしも卑しむべきことでない。いまあなたはあなたの職業によって亡びる。それに報い、わたしは、あなたを手ずから葬ってあげたい」
 死にかかっている者はもう答えなかった。しかしかすかに手を動かした。感謝して、ツアラトゥストラの手を求めるかのようであった。
      七
 とかくするうち日は暮れ、広場は闇につつまれた。民衆はどこかへ去った。ツアラトゥストラは死者をかたわらにして地に坐り、孤独に物思いに沈んだ。夜が来て、風が吹いた。ツアラトゥストラは立ちあがり、自分の心に言った。
 「まことに、今日、ツアラトゥストラは人間を得ることなく、死体を漁り捕らえた。
 人間の存在は不気味で、依然として意味がない。一道化師さえ人間の不幸な宿命となりうるのだ。
 わたしは人間たちに、かれらが「存在の意味」を教えよう。それは「超人」だ。人間という暗雲から発する稲妻である。
 しかし、まだ、わたしはかれらから遠いところにいる。わたしの心は、かれらの心へ通じない。わたしはまだ、人間にとっては道化と死体との中間にすぎない。
  夜は暗い。ツアラトゥストラの道程は暗い。さあ、つめたく、硬直した道づれよ! わたしはあなたをこの手で葬ることのできる場所まで、運んでいってあげよう。」
                  (第一部 ツァラトゥストラの序説 六 の2 七 )
                
 * わたしはまだ「ツアラトゥストラ」から、ほとんど何もえられていないが、心惹かれる「ちから」の働いてくるのは感じている。ツアラトゥストラへ「歩み寄る」だけだ。
 
 〇 素晴らしい晴天は 気持ちよいですが、半面、深層はイマイチ。老年期とはこんなものかな。歳並み(=やそ七の私より一歳若い)で、何処が悪い訳でもないけれど…
 今、テレビで箱根駅伝を観ていますが、スポーツ好きの気持ちが若やぎます。
 又 会える日が有れば良いね。
 途中で用事が入り、出すのを忘れていましたゎ。  花小金井
 
 * 歩みもならぬ密林を分けてゆくようだ,創作は。頭へ、脚へ、なにが絡んで来るや知れないが,安易に立ち止まればそれまでとなる。それは凶器に似た脅迫だ。
 
◎ 令和五年(二○二三)正月三日 火  
    起床 5:00 血圧 178-77(57) 血糖値 82 体重 54.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 ツアラトゥストラは悲しんで自分の心に言った。
 「かれらはわたしの言うことを理解しない。わたしはこれらの耳に説くための口でない。あまりにも永いあいだわたしは山に住んでいた。あまりにもわたしは樹々や渓流の言葉にのみ耳を澄ませてきた。まわたしは山に暮らす山羊飼いらに向かい話すように、かれら街の人らにに語っている。
 わたしの魂は、朝の山のように,端然として明るい。だがかれらは、わたしが冷たく凄まじい冗談をいう嘲り屋だと思っている。
 いま、かれらはわたしをみつめて、笑っている。笑いながら、かれらはやはりわたしを憎んでいる。かれらの笑いのなかには氷がある。」
   六
 しかしそのとき、すべての口を唖にし、全ての眼を見はらせるようなことが起こった。すでにその芸当に取りかかっていた綱渡り師を、道化師ともおぼしき五色の衣装をつけた一人の男がとびだし、綱渡り師を綱の上においかけ、悪魔のような叫び声をあげると、綱渡り師の頭上を飛びこした。飛び越された者は、足を踏みはずし、手にした長い竿を抛りだし、真一文字に落ちてきた。みんなわれさきにと逃げた。だが、ツアラトゥストラはじっと立っていた。すぐそばに綱渡り師の身体は落ちてきた。男はまだ死んでいなかった。                    (第一部 ツァラトゥストラの序説 六 の1 )
 
 * 夢入ってながら、終夜、「ふるなびふるなび」という痴呆的な声に取り憑かれていた。テレビでうたう元横綱の阿呆づらも疎ましい。やれやれ。昨夜は九時すぎにはもう床に就いていた。本も読まなかった。睡眠時間としては八時間ちかく、足りている。
 
 * 元旦の年賀状、意匠のベスト5。今年も、京都の川浪春香さん「読書」作画が秀逸。四国の星合美弥子さんの梅花うさぎ、石川県能美の井口哲郎さん「ゐねむり」うさぎの絵と書、高麗屋白鸚丈の「迎春 立ちうさぎ」の絵 そして、絵ではないが、並ぶ人無い服部正実さんの大屋根瓦「鍾馗さん」の豪快な風貌。
 東工大卒業生も、鷲津くん、菅さんら、変わりなく十人に余って嬉しく。
 中学の友は、健在社会活動の西村テル(明男)さん、同期の渡辺節子さん、一年下の才媛八木一子さん、小学校ではお嫁候補だったとか「オッ師匠はん」の大益貞子がいた。
 昨晩テレビの歌舞伎に出演していたの高麗屋松本幸四郎クンからも、歌人俵万智サンからも、丁寧にご挨拶が来ていた。
 
 * 正月三ケ日が過ぎようとして、はや疲労の極にある。なにをしたでもない、小説を読み返して先を窺い、また、年賀状から住所録へと。後者は目疲れがひどいが,必要な仕事。一般教育の教授を退任して、はや四半世紀に逼り、それでも親しい年賀状をくれる卒業生が十人に余るとは。わたしを覚えてて懐かしくも親しくも想っててくれるのだ、かつての私自身にそんな大教室・一般教育の先生は(専攻の三先生のほかに)無かった、年賀状を差し上げ続けもしなかった。「先生」と呼んで今も恋しいほどな方々は、やはり中高校の頃の先生方になる。決して忘れない。
 
 * なぜ、こう疲弊するか。三ケ日が過ぎて行く。過剰なほど、やがて忙しくなって行く。「161」が納品されれば,力仕事の発送。「162」初校出も重なってくる。校正紙ごとは、普通に優先される。「163」の編集も。底荷をしかと罪ながら新鮮な上積みも。創作の進行と脱稿を。しかし、からだを潰せば、みな潰れる。性急に走らぬ事ぞとは思うけれども。。
 
◎ 令和五年(二○二三)正月二日 月  
    起床 4:55 血圧 159-71(69) 血糖値 82 体重 55.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 ツァラトゥストラは民衆にむかい、さらに言いつづけた。
 「『おしまいの人間』が病気になることと、不信の念を抱くこととは、かれらにとっは罪と考えられる。かれらは用心深くゆっくりと歩く。石につまづく者、人間につまづき摩擦を起こす者らは、馬鹿者である!
 少量の毒をときどき飲む。それで気持ちのいい夢が見られる。そして最後には多くの毒を。それによって気持ちよく死んでゆく。
 かれらはやはり働く。なぜかといえば労働は恵みだから。しかし恵みがからだにさわらないようには気をつける。
 かれらはもう貧しくもなく富んでもいない。どちらにしてもわずらわしいことだ。誰がいまさら人々を統治しようと思うだろう? 誰がいまさら他人に服従しようと思うだろう? どちらにしてもわずらわしいことだ。
 牧人はいなくて、畜群だけだ! 誰もが平等だし、また平等であることを望んでいる。それに同感できない者は、みずからすすんで精神病院に入る。
 『むかしは世の中は狂っていた』ーーと、この洗練された気の人たちは言い、まばたきする。
 かれらは賢く、世の中に起こることなら、なにごとにも通じている。そして何もかもをかれらの笑い草にする。やはり喧嘩はするものの、かれらはじきに和解する。ーーさもないと胃腸を害するおそれがある。
 かれらは小さな昼のよろこび、小さな夜のよろこびを持っている。しかしかれらは健康を尊重する。
 『われわれは幸福をつくりだした』ーー『おしまいの人間』たちはこう言い、まばたきする。ーー
 ここでツアラトゥストラの「最初の教説」は終わった。これを世に呼んで『序説』とも言うのである。
 ここで終わったのは、このとき民衆の叫びと歓びがツアラトゥストラをさえぎったからだ。
 「この『おしまいの人間』を、われわれに与えてくれ、おお、ツアラトゥストラよ」と、かれらは叫んだ。「われわれをこの『おしまいの人間』にしてくれ! そうすれば『超人』はあなたにあげる!」
 民衆はこぞって歓呼し、舌を鳴らした。しかしツアラトゥストラは悲しんで自分の心に言った。「かれらはわたしの言うことを理解しない。」
                (第一部 ツァラトゥストラの序説 五 の3 )
 * 夢は見ないで、寝ながら「唄」に溺れていた。「夕焼け小焼けの」だ。それも「赤とんぼ」でなく、「十五ぉでねえやぁは嫁に行き」の「お里ぉの便りぃもぉお、絶えはぁてぇた」の「おしまいの一句」ばかり。歌詞の記憶が正確かも確かめられないが「絶えはぁてぇた」ばかりが眠りの底へ蘇り続けた。
「十五でねえやは嫁に行」くとうたうのが、わたしは小さい頃、苦痛だった。数え十三で小学校をあがり、二年の「実務女学校」なるものが、わたしの母校校門からすぐ突き当たり横一字の木造二階校舎が建ち、二階の窓辺に「おねえさん」達がよく顔を出し談笑していた。其処へ進学して卒業すれば、ちょうど十五、「嫁に」行く、行ける歳であったのか。秦の叔母ツルもそんな学校へ通い、裁縫など習ったと云うていた。叔母は布かし習性嫁がなかった。
「開校一」によく出来たという秦の母タカは、富んでいた家が俄かに零落し、その程度の学校へも入れて貰えなかったのを生涯の無念残念悔しさに、九十六歳で亡くなるまで、話題が「学校」になると悔しがって泣いた。
「絶えはぁてぇた」「絶えはぁてぇた」と終夜、夢にわたしは口ずさみ続けていた、ようだ。そして五時前には床を起ってきた。わたしを底でとらえる価値観は、思想は、そんなメロディに養われてきていたワケだ。一言にして「感傷」か。後年、シラーと出逢って彼の主著の題にこの「二字」の含まれたのを見、粛然としたのを忘れない。
 あまりに屡々言われたが、「変な人」であるのか、やはり私は。
 
 * こんな、「自作を云う」古い記事が有った、「2021 1/1」とあれば、一昨年「元日」の日記の内にあたる。
 『 〇 八時半。ごく フツーの元日を過ごした。「湖(うみ)の本」151書き下ろしの仕上げへ、腰を入れる。 囿 ? 赧 蠹 閔 ? ? ? 囮 纔 ? 等々の、ちょっと視線を走らせただけで、こんな、あんまり見ない漢字を機械の底から探し当てては、その読みも振りかなしなくてはならない。秦の道楽だとただ 叱られるかも知れぬ。」
 
 * 妻と、ポストへ妻の賀状を投函に。私は猛歳久しく暮れ正月が過剰な「年賀状」に滅入ってしまうのを断乎と避けて、一枚も書かないと決めてきた。
 ポストからの脚で、近くのひそと静かな「天神社」へ初詣で。
 
 * 書き継いでいる小説を、思いのほか「長いナ」と実感しつつ読み返してきた。敢えて敢えて、書き進んで行きたい。
 
 〇 新しい歳 佳き歳でありますよう。 尾張の鳶
 いかがお過ごしでしょうか。
 体調、そして創作、全て全て順調であることを!
 
 * 韓国の連續ドラマらしい『華政』とやら、不快。
 ロバート・デニーロの『マイ・インターン』は心よく観ていられる、まだ途中までだが。戴いていた「白」の好い美味いワインを飲みかわしながら、国際情勢の宜しくない荒れ模様を妻と案じたり、小説を書き継ぎつつ、収束を大事に綺麗にと逸ったり。
 「読む」のは、やはり源氏物語、今は『明石』巻、そして『参考源平盛衰記』で、皇子誕生の祈祷の功に報いられないのを恨む僧都頼豪が、朝廷相手に悶着を起こしかけ暴れかけている。
 それ以上に、今日、なにより心惹かれたのはドストエフスキー『カラマゾフの兄弟』の「序」の深切。それにも増し、長老ゾシマの信者らへの教諭や激励や説教の「うつくしい」ほど感銘深かったこと。
 
◎ 令和五年(二○二三)正月 元旦 日  
    起床 5:00 血圧 159-71(69) 血糖値 82 体重 54.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 これらの言葉を語り終わったとき、ツァラトゥストラは民衆にむかい、つぎのように呼びかけた。
 「見よ! わたしはあなたがたにおしまいの人間」を描いて見せよう。」
 『愛とは何か? 創造とは何か? あこがれとは何か? 星とは何か?』ーーー『おしまいの人は間』はこうたずねて、こざかしくまばたきする。
 そのとき大地はすでに小さくなり、その上に、一切を小さくする『おしまいの人間』がとび跳ねている。その種族(やから)は、地蚤のように根絶しがたいのだ、『おしまいの人間』はもっとも長く生きのびる。
 『われわれは幸福をつくりだした』ーーと『おしまいの人間』たちは言って、まばたきする。かれらは生きるのに厄介な土地を見捨てる。温暖が必要だからである。かれらはやはり隣人を愛している。隣人にからだをこすりつけたがる。温暖が必要だからである。」
 ツァラトゥストラは民衆にむかって、さらに言いつづけた。
                  (第一部 ツァラトゥストラの序説 五 の2 )
 
 * 元旦 卯の春を憂無げにいはふ初日の出こころ静かに夫婦(ふたり)して生きめ
 
 * 二人で、雑煮を祝った。建日子はどう祝ったろう.朝日子は。
 
 〇 あけましておめでとうございます。
 まだまだコロナは終わりが見えませんが、用心深くお過ごしください。
 ちなみに、僕の2023年は、
 2月に舞台の本番と、新作の小説の発売。
 3月に舞台の本番と、脚本を書いた映画の公開。
 という感じで始まります。
 映画はそのうちテレビでもやると思います。
 頑張ります!
   ☆秦建日子☆TAKEHIKO HATA☆
 〇 新年おめでとうございます。お元気ですか、みづうみ。
 寒いですが、晴れやかなお正月の青空が広がっています。日本の上には暗雲垂れ込めているとしても自然のこの青空はうしなわれないように、集団に埋没しない個人であること、自分であることの希望を棄てない意志を持ち続けようと思います。
 みづうみにならい、今年も目の前の一行一行を大切に読んで、書いていきたいと願います。
 みづうみの新しい一年の益々のお幸せをお祈りします。昨年に続いて年賀状送らせていただきましたが、お送りしたかったからですので そのままにご放念ください。
                              春は、あけぼの
 
 * なにとなく、左胸に、かすかに圧を感じる。肩こりと疲労か。
 
 * 年賀状で住所録を確認して行く作業も、細かな字で疲れるが。なにと云うても基礎の作業で欠かせない。しかし疲れる。七・八割進んだか。元旦の用とは想えないのだが、先送りすると「重たいだけの残り荷物」になる。 八時  もう休みたい。
 
 
 
 
 
       ☆ーーーーーーーー☆ーーーーーーーー☆
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月三十一日 土  大晦日         
    起床 5:30 血圧 164-76(60) 血糖値 77 体重 54.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 これらの言葉を語り終わったとき、ツァラトゥストラはふたたび民衆を眺めて,口をつぐんだ。
 「かれらはっている」とかれは自分の心に言った。「かれらは笑っている。かれらはわたしの言うことを理解しない。わたしはこれらの耳に聞かせるための口ではない。」
 「れらには、その誇りとするものがある、それをかれらは、教養と呼んでいる。それならこんどはわたしは、かれらの誇りに訴えて、語ってやろう。
 かれらに最低の軽蔑すべき者のことを話してやろう。すなわち、「おしまいの人間」たちのことだ。」
 こうして、ツァラトゥストラは民衆にむかって、つぎのように言った。
 見よ! わたしはあなたがたにおしまいの人間」を描いて見せよう。」                    (第一部 ツァラトゥストラの序説 五 の1 )
 
 * 昨日は、ま、酔いつぶれていたか、何度もうたた寝から深寝して、九時には床に就いていた本格。ホンも読めず寝入った、ただ良くないことに浮腫止めと利尿剤を併用したため一時頃まで半時間ごとに六度七度も尿意に起こされた。尿量は十分だった。参ったナと想いながら,夜中週間に近く服用の「のど、せき、熱どめ」3錠、乳酸系腸剤3錠、それに異例のリーゼ1錠を合わせ服し、さらに龍角散でのどを抑えておいた。これが奏功したか、五時半まで目覚めず、そのまま、もう起きてきた。体重は減っていた。
 
〇 カーサンいてタケヒコがいて「マ・ア」ズいて 天地神明 幸せであるよ
 
 * 一日に何度も、十度も超して思い出す人が有れば恋人なみか。保谷の眼科の佐藤千里子センセイを一日に数えれず思いだす。
 もうずっと以前、診察を受けに通っていた或る日、わたしはひもを付けた眼鏡を掛けようとし、眼鏡のひもがアチコチ絡みついてうまく架けられないのを見て、千里子センセイ笑って、ヤッカイでしょう「その紐…」と、いかにも「分かってる」という笑顔だった、ったく同感だった。 で、以来毎日毎夜同じ紐の絡みにじれるつど千里子センセイの弁をと笑顔を思い出す。どんな人であれ、そんなに思い出しつづけてキリの無い人は他にいないなあと思う。なんで眼鏡に漬けた紐はこう絡みつくのだろう。久しく千里子センセイに合わないが、告げに行きたくなる。この女センセイ、分からないがもしかして私より高齢かもしれません。゛
 暮れも押し詰まった大晦日の朝にこんなコト書き付けているとは、これが「平和・平穏」なんでしょうね。
 
 * もう八時、夕飯後、寝潰れていた。
 暮れとも正月とも、過ぎゆき迎える,それだけをそのままに見送り、待つばかり。特別に並べ立てたい感慨無く、普段のまま。願わくは,願わくは、平和に。普通に、そしてなんとか健康に、迪子も建日子も、朝日子も、そして「ま・あ」ズも。成ろうなら,、私も。
 
 * 大晦日。「ツアラトゥストラ」に聴いて、歳を送る。
 
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月三十日 金         
    起床 5:15 血圧 164-76(60) 血糖値 77 体重 56.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 ツァラトゥストラは、さらに、町の人たちにこう言った。
 わたしが愛するのは、その魂がみち溢れるほどの豊かさで、そのため自分自身を忘れるにいたり、一切の事物がかれのなかにあるという者だ。こうして一切の事物がかれの没落となる。
 わたしが愛するのは、自由な精神と自由な真情の持主だ。かれの頭脳はたんにかれの心情の臓腑にすぎない。そして心情はかれを没落に駆りたてる。
 わたしが愛するのは、人間たちのうえにかかっている暗雲から、一しずくずつ落ちてくる重い雨滴のような人々である。かれらは稲妻がくることを告知し、告知者として破滅するのである。
 ツァラトゥストラは、言う。
 見よ、わたしは稲妻の告知者であり、雲から落ちる重い雨滴である。そして、この稲妻の名こそ、超人なのだ。  (第一部 ツァラトゥストラの序説 四 の4 )
 
 * たった今 書いて一段落した夢と上野を謂う文章が、ハタと消え失せた。どうなってんね、キカイクンよ。強いて二度書くほどの事で無い。が、機械クンが気まぐれでは参るなあ。
 
 〇 今年もあと僅か
 なんと言えば良いのか
 何か 寂しい気分です。あなたは如何。
 体調は良く、同居の娘家族とよく話もして、特に気に掛かる事は何も無く、デイサービスは楽しく行っているけれど、独り部屋にいると 気分はうつです。
 子供の頃は 着物を着て あんなに楽しかったお正月が来ると云うのに、とこぼしたりして…
 これが晩年と云うのかヤレヤレ
 あなたは文筆一途で、いい晩年でしょう。
 又 オシャベリ出来ればいいね 又…     花小金井 恵
 
 * 京都の中・高校の一つ下。茶道部では私に茶の湯の作法など習っていた。勉強も出来て、弥栄中学ではソソフトボール部のスラッガーだった。小学校は、私からは隣校の粟田校。三條大通りの家から白川に沿って東山線へ出、祇園石段下の弥栄中学へ通学していた。一度「書く」ことを勧めた。表現できる好い筆力も持っていた。
 東京へいつ出てきたか、夫は大學図書館にお勤めだったが、子達も遺して壮年で亡くなった。
 メールの交換は途切れ途切れにも続いてきたが、近年、「家には若い話し相手たちがいて会話にこと欠かず楽しい…」といつも書いて、弥栄中の昔からの女友達たちと「弥栄レディ=ヤレ」などと楽しそうに交流があったようだが。「家の中で話し相手にコト欠かない、寂しくない」とメールの決まり文句のようだった、が、それは、希望的な納得やろなあと察していた。世代と生・活とを異にした若い人たちとの蜜と熱の会話は、事実上「有りそうに無い」ものと私は思ってきた、殊にに家庭のなかでこそ気の「沈む」ものと察していた、むろん、そんなことを片端も告げはしてこなかったが。
 今朝のメールは、ああ、と黙して肯くしか読みようのない沈んで重い字句だった。やはりなあ、夫婦、夫妻は、どう突き当たろうとも一緒がいいのだ。」と呼んできた「恵」のも一つ下のやはり高校茶道部に居た人も、昨日メールのあった遠い東北の読者も、夫に先立たれ「寂しい」人らであった、気の毒に。「話したければ、遠慮無くメールを呉れれば好い、話し相手になるよ」とそんな誰にも「やそしち」の私は云うている。
 
 * 夜を籠めてのゆうべの夢では、「明ぁかり瞬ぁく黒門町の」とかいう唄のアタマ、「明ぁかり」だけが、私の夢の世を此の一声だけの歌声で「照らし」続けていた。私独りの変な身に覚えなのか。人に聞いたことは無い。「潮来ぉの(いた郎)」「おーい(中村君)」「カキネの(垣根の曲がり角)」「灯りを(つけましょ)」「いぃらあかの(なぁみぃの)」「あめあめ(降れ降れ)」の等々、初めの一音一句の唄聲だけが延々私の夢世界をリードし支配し続け」る。不快では無いけれど奇妙である。
 
 * 書き継ぐべく読み返している小説の新作は、期待と自負とを動員して謂うなら、或いは晩年を光らせる力作になるかもと気が入っている。とはいえ、胸の内の勘定ではやっと半途かとも、とすると、アト道はよほどに険しい。よろけずに踏み分けて行かねば。幸いに正月になる。「湖の本」の作業も今分は印刷所に預けてある、その間を活かさねば。ここへ集中し、シカと想い、シカと書き継ぎたい。
 * よく想えば、落ち着いて安堵の息のつける歳末でなかろうか。これでいいのかと想うほど目前の難題も不始末も無い。つかれてはいるが、これは、老耄の平常と謂うまで。
 穏和に歳をこしたい、そう願ながら、すべきをして、明日歳末を、あさって正月新年を迎えたい。
 コロナを案じて、かつて無かった、新年の雑煮をたけひこたちと祝えない。あえて,仕方なしと諦めて、それよりも無事を祈り願うのみ。妻と二人だけでのお正月、想えば東京へ来た明くる年、まだ朝日子の生まれる前の春だけか、いやいや、あの年も新門前へ帰っての両親や叔母と一緒のお雑煮だったろう。と、全く初めての二人だけのお正月になるか。ただただ誰も皆の無事安堵の春を祝いたし。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月二十九日 木         
    起床 5:15 血圧 164-76(60) 血糖値 77 体重 56.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 ツァラトゥストラは、さらに、町の人たちにこう言った。
 わたしが愛するのはあまりに多くの徳を持とうとしない者だ。一つの徳は二つの徳にまさる。なぜなら一つの徳は、宿命が引っかかる、より大きな結び目だからである。
 わたしが愛するのは、その魂が気前よくできている者だ。ひとから感謝を求める気持もなく、返礼など知らない者、というのは、かれはつねに贈物をするのであって,自分のために何一つ残して置こうとしないからである。
 わたしが愛するのは、幸運な采の目がろがりこむと、これを恥とし、自分の賭博は不正だったのではないかとたずねる者だ。  なぜなら、かれは没落を欲しているからである。
 わたしが愛するのは、自分の行為にさきだって黄金の言葉を投げ、自分の約束よりもつねにより多くを果たす者だ。なぜなら彼は没落を欲しているからである。
 わたしが愛するのは、未来の人々を正当化し、過去の人々を救済する者だ。なぜならかれは現在の人々によって破滅しようと欲しているからである。
 わたしが愛するのは、、かれの神を愛するがゆえに、その神を懲らしめる者だ。なぜならかれはかれの神の怒りによって破滅しなければならないからである。
 わたしが愛するのは、その魂が傷つくことにおいて深く、小さな体験でも破滅することのできる者だ。こうしてかれはすすんで橋をわたって行く。
 ツァラトゥストは さらにこう言った。 (第一部 ツァラトゥストラの序説 四 の3 )
 
 * 『参考源平盛衰記』は、巻十以来、今巻十一も、延々丹波少将成經、判官康頼そして「僧都俊寛」島流し説話が続いている。どんなに大事件として胸をうち心騒がせたかが分かる。若くて、体力と余すじかんがあれば、現代語訳に努めたくなっていたろうと想う。流布本の『平家物語』で手の届いていない「痒いところ」へ興深く多彩に触れてくれている。「ほぼ五十巻」ものろうさくであり、わたしは今しも「巻十一」へ来ている。前途遙か。しかと生き続けたい。
 
 〇 師走二十八日
 先のメールでは低血糖の事が書かれてあり、今も案じています。どうぞ常に甘いものを身近に置かれて留意されますように。
 思いがけない? ツァラトゥストラ に少し驚きました。どんなところに惹かれ、何故遠慮されていたのか。
 ニ―チェに関しては詳しくはないのです。リルケやルー・サロメとの関わりからニーチエを視野に入れていた時期は早く、高校生の、生噛りの理解はあったと思います。
 「有済」についての鴉の文章、深く心に留めました。形として烈しく表面に浮かび上がる差別もあれば、陰湿執拗に層を成す差別もありますが、敗戦後の小学校時期に鴉が目撃された女子同士の「追いかけ」も衝撃的、「有済」といういわば政治的な促しも、哀しく感じます。
 今日娘の家族が、シンガポールに帰りました。八名の大所帯になって大騒動。孫たちは四年ぶりの日本帰国でした。小学校に三週間の「体験入学」も果たし、楽しんだようです。お正月を我が家だけ「早くに祝う」ことにして、年越し蕎麦やおせちも作りました。それで、明日から、わたしはノンビリを決め込もうと思っていますが・・。
 とり急ぎメールです。   尾張の鳶
 
 * 京大生として「社会学的に」京都を視野に入れていた「若い時期」を持った人、「有済」などもいろいろに「感じとれる」だろう尾張の鳶は、いい話し手にも聞き手にもなって呉れる。有難い。 
 
 * ニーチチエは、あたまから敬遠してきた。『この人を見よ』にとりついたのも何と「やそろく翁」としてで、やっとこさ『ツアラトゥストラ』へ、いま、抱きついた次第。関心か。好奇心か。ただに読書欲か。読んでみたくなった、と謂うことだろうが。だが?い深層から立ち上ってくる煙か霧かのように、いま、わたしは手招きされている、ツアラトゥストラに。天の人らには「まあだだよ」と返事し続けねばならない。
 
 * けさも五時起き。
 夢には、戦時の唄、ことに「父・夫」や「兵隊さん」への唄に怒りまくっていた。これはもう何度も同様に書き置いたこと。「父よ、あなたは強かった」「勝ってくるぞと勇ましく」等々。
 「兵隊さんよアリガトー」の「よ」の語感に不快を覚えた少年時代があった。
 明日の命も知れぬ野戦の兵士が、「夢に出てきた父上に死んで帰れと励まされ」るなど、そんな「父」がいるものかと絶対に少年・私は拒絶し、怒った。
 「勝ってくるぞと勇ましく誓って國を出たからは、手柄たてずに死なりょうか」が本音なものか、「進軍喇叭聴くたびに、瞼に浮かぶ母の顔」こそと、ぜったい「兵隊さん」になりたくなかった私は、卑怯に臆病な非国民であったのだろうか。それは、永い青年期まで私の抱えもった公案のようであったよ、そして「小説を書き」始めたのだった。
 
 * 身辺を少しでも片付けたいと積み重なった箱、箱を点検すると、未発表のまま積み余した生原稿などが、ドヒャどひゃ遺っていたのに顔を渋くした。どうすりゃいいのさという唄があったなあ。受け取った書翰の山にも愕く。捨てては成らない物も多く、選別に弱る。結局そのまま残してしまうのか、来年の今日には、ハテ、どんな山が積んでいるか。
 
 * 国際情勢は プーチン・ロシアの乱暴があり、世界的に険悪。私はその行く末を目に観まいが、この近年にもがあり得て、むしろ遁れがたいかも。日本はウクライナの次の標的とはプーチン・ロシアはその他を考えていまいかと懼れる。日本の政治家の熾烈なほどの勉強と洞察と対策をこころより請願したい。
 
 * 野沢利江さん、例年暮れの鴨鍋を送って下さる。元気でいて呉れますように。
 
 * 大作映画『戦争と平和』を、妻と、通して十分に観終えた。よく描けていて、ヘプバーンのナターシャに、ヘンリーフォンダのピエールにも、満足。ロシアの將軍クツドフにも感じ入った。原作を読み返したくもなったが、大長編なので、多くの時間を取られそう、遠慮のほかなく。
 
 * 櫻小次郎クン、電話で、玄関外へ一品置いて置きましたと。めずらかな清酒一升。有難うよ、有難く。来年は、ぜひ、顔をあわせ談笑を楽しみたいと、約束。
 
 〇 有り難うございます。あと二日になりました。悲しいことの多すぎた今年でしたが、新しい気持ちでまた歩みたいと思っています。
 精一杯生きたように思います。
 お変わりなく、お元気で新しい年をお迎え下さい。祈っております。 那珂 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月二十八日 水         
    起床 6:00 血圧 164-76(60) 血糖値 77 体重 54.3 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 ツァラトゥストラは、さらに、町の人たちにこう言った。
 わたしが愛するのは、おのれの没落し,犠牲となる理由を、星空のかなたに求めることをしないで、いつか大地が超人のものとなるように大地に身を捧げる人たちである。
 わたしが愛するのは、認識するために生きる者、いつの日か超人があらわれるために認識しようとする者である。こうしてかれはおのれの没落を欲するのだ。
 わたしが愛するのは、超人のために家を建て、超人のために大地と動物と植物を準備しようと働き、工夫する者である。なぜなら、こうしてかれはおのれの没落を欲するのだから。
 わたしが愛するのは、おのれの徳を愛する者である。なぜなら徳は、没落への意志であり、あこがれの矢であるから。
 わたしが愛するのは、一滴の精神もおのれのために残しておくことなく、まったく徳の精神そのものになりきろうとする者、こうしてかれは精神の霊として橋をわたってゆく。
 わたしが愛するのは、おのれの徳を、おのれの執着、おのれの宿命にしてしまう者、こうしてかれはおのれの徳のために,生き、また死ぬのである。
 ツァラトゥストは さらにがこう言った。 (第一部 ツァラトゥストラの序説 四 の2 )
 
 〇 寒い日も、穏やかな日も鴉は書く日々でしょうか。
 これまでのメールを読み返して、どれほど多くの励まし、叱咤激励を頂いたかを噛み締めています。
 どうぞくれぐれも大切に、大切に。
 改めて書きます。   尾張の鳶
 
 * 『ツアラトゥストラ かく語りき』を、わたくしはまだ何も理解できていない。呼び掛けてくる「声」に惹かれてただその「言うこと」聴いている、いつか何かが「来る」かと冀いながら。すくなくも、聴いて応じている自分の動悸を自覚して居る。
 
 〇 秦恒平さま
 ご無沙汰しております。シアターナインスの今野です。
 暮れのお忙しい時期かと思いますが、お変わりございませんでしょうか。
 先だって白鸚へ頂戴致しましたお軸を
 1月公演の歌舞伎座楽屋に掛けましたので
 是非先生にご覧戴きたくお写真を添付致します。
 白鸚はしばらく舞台を休演しておりましたが
 一昨日の12月公演千穐楽に、口上を無事勤めることができました。
 休養も充分に取りましたので、来月は充実の舞台をお目にかけられるかと思います。
 寒さ厳しい折から、呉々もお身体をお大切に
 どうぞよいおとしをお迎え下さい。
 来年はどうか明るい話題が増えることを願いつつ。
                        2022/12/28
◇◆◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇◆◇
   株式会社シアターナインス 今野博子(いまの)
  〒106-0047 東京都港区南麻布 3-3-10
   TEL:03-3455-7188 / FAX:03-3455-7145
           e-mail: kouraiya@dream.com
◇◆◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇◆◇
 
 
* 私の久しく愛し正月を飾ってきた「吉祥松樹 旭日と双I」の長軸が、文化勲章のお祝いにさしあげた松本白鸚丈の新年の楽屋に美しく架けて戴けた、なんと嬉しいお目出度いことか。 感謝 感謝 幾久しくと。
 * まさしく歳末のめでたい朗報を戴いた。
 さきには、京舞の 井上八千代さんへ、「月 雪 花」字に小堀遠州和歌を副えた三本の長軸を貰って戴き、まさしく場を得て嬉しかった。
 今回は高麗屋さんの楽屋の床に美々しく架けて戴いた。嬉しい仕儀に定まって、何より歳末の嘉治と成った。
 治まるべきトコロへ物の美しく治まるほど目出度く嬉しいことは無い。感謝。
 
 * 書きついでいて、かなり進んでいたのに他にあれこれ追われ中途になっていた小説を,慎重に読み返してきて、なかば。思いのほかマゴついてないのに、やや気をよく、いや安堵している。このまま書き次いで行く。も一つ、やはり幾分見当も付けて進んでいる作も有るが、それにはも少し待って貰うか。新しくテを架けておきたい想いもあるので。
 
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月二十七日 火         
    起床 8:05 血圧 164-76(60) 血糖値 77 体重 54.3 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 ツァラトゥストラは、さらに、町の人たちにこう言った。
 人間は、動物と超人とのあいだに張りわたされた一本の綱なのだ。−−−深淵のうえにかかる綱なのだ。
 渡るのも危険であり、途中にあるのも危険であり、ふりかえるのも危険であり、身震いして足をとめるのも危険である。
 人間における偉大なところ、それは彼が橋であって、自己目的ではないということだ。人間において愛さるべきところ、それは、かれん゛りゆきであり、没落であるということである。
 わたしが愛するのは、没落する者として以外には生きるすべを知らない者たちである。かれらは。彼方へ移りゆく者たちであるからだ。
 わたしが愛するのは大いなる軽蔑者たちである。なぜならかれらは大いなる尊敬者でもあり、かなたの岸へのあこがれの矢であるからだ。
 ツァラトゥストは さらにがこう言った。 (第一部 ツァラトゥストラの序説 四 の1 )
 
 * よく寝たと謂うことか、早起き時間を意識して通り過ぎた。執拗な夢をみていたのだが、霧消というより「夢消の気味」に、もう思い出せない。寒い。誕生日に妻に貰った指先のでる手袋が訳だってくれるが、今朝はその指先が機械のキーに触れて痛いほど、冷たい。
 
 * トルストイの映画『戰争と平和』 ドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』
 比較を絶した大作家。シェイクスピアだけだろう、並びうるのは。
 
 * 「湖の本 162」すこし気がかりに不出来の「一部分」原稿を書き換え、入稿分を訂正すべく、送稿した。歳末の肩の荷を、ほぼ、卸せた気もち。よう気張った、と、息をついている。
 
 〇 よいお年を
 クリスマス寒波では、名古屋に八年ぶり10センチの積雪。
 ここ岐阜も、12,3センチほど積りました。
 お変わりなくおすごしでしょうか?
 やさしち歳のお誕生日おめでとうございました。
 奥様から美しいお葉書をいただき感激して、恐縮しています。
 ありがとうございました。
 年末、さらに寒波襲来とか。先生も奥様もお体ご自愛くださいまして、どうぞ、よいお年をおむかえくだいませ。  都
 
 〇 厳しい寒さが続いていますが、お変わりなくお過ごしでしょうか。
- 観世流の5年のカレンダーに私の師匠の遠藤喜久師の「土蜘蛛」が掲載されています。
 何年も前に私が謡曲を習い始めたころでしょうか、矢来能楽堂で喜久師の舞台を観ていただき、「将来があると」お褒めの言葉をいただきました。真剣に能楽に取り組んでいる今の姿です。ありがたかった事、思い出して送らせていただきました。27日に届くとのことです。
 今日は今年最後の私のお稽古は謡は「養老」仕舞は「海士 玉の段」でした。
 励ましていただき、続けられていること感謝しています。
 来年もお元気でご執筆くださいますように。
 迪子様ともどもご自愛くださいませ。  晴美
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月二十六日 月         
    起床 6:00 血圧 164-76(60) 血糖値 77 体重 54.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 ツァラトゥストラは、さらに、町の人たちに云った。
 「見よ、わたしはあなたがたに超人を教えよう。超人こそ、この稲妻、この狂気なのだ!−−−
 ツァラトゥストラがこう言ったとき、民衆のなかの独りが叫んだ、
「綱渡り師についてはもう十分に聞いた。さあ、実際にやって見せてくれ!」
 それを聞いてすべての民衆はツァラトゥストラを笑った。しかし、綱渡り師は自分を指して言われたのだと思って、さっそくかれの芸当にとりかかった。
                  (第一部 ツァラトゥストラの序説 三 の7 )
 〇 やそしち様
 お元気で誕生日をお迎えになられたことと思います。
 原稿二つ(「川端康成没後五〇年/沖縄日本復帰五〇年―米国統治下時代における川端康成の沖縄行」「川端康成没後五十年に寄せて―各地の川端展のことなど」)を仕上げて、ばたばたと沖縄・宮古島へ行ってまいりました。
 前日まで雨続きだったそうですが、「久しぶりにお天気になった。お日様を連れてきてくれた」と、島の人にも喜ばれました。二〇度を超す晴天に恵まれ、島から島へと渡り、本州にはない不思議な青さの海(東シナ海・太平洋)や、ざわわと強い風に靡くさとうきび畑等をたっぷりと見、土地の食べ物もしっかり食べてきました。
 今年最後の授業をするために戻ってまいりましたが、こちらはクリスマス寒波。日本海側は大雪だそうですね。半袖の人も多く、泳いでいる人さえいた宮古島と同じ日本とは思えないくらいです。
 コロナやお風邪など召しませぬよう、温かくしてお過ごしください。
 ご健筆を心よりお祈りしています。   春実
 
 * 予約の診察を受けに行く。「湖の本 162」入稿便、投函。
 
 * ほぼ健康体と診察される。自覚しているとおり、つまり疲労しているが 器官的にめだって故障らしきは無いと。ありがたし。
 タクシーで、駅周辺での用件や買物に付き合って、帰宅。よく晴れていたが、風つよく冷えた。寒かった。
 
 * 
 
 * 
 
 
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月二十五日 日         
    起床 5:45 血圧 164-76(60) 血糖値 77 体重 55.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 ツァラトゥストラは、さらに、町の人たちに云った。
 「あなたの罪が天の審きを求めて大声をあげているのではない。叫んでいるのはむしろあなたがたの自己満足だ。あなたがたの罪のけちくささそのものだ!
 だが、その舌であなたがたを焼きほろぼすような稲妻はどこにあるのか? あなたがたに植えつけられなければならない狂気はどこにあるのか? 
                   (第一部 ツァラトゥストラの序説 三 の6 )
 * 夢で、唱歌を評論為続けていた。「雨、雨 降れ降れ 母さんの蛇の目でお迎え 嬉しいな」「あれあれあの子は ずぶ濡れだ 柳の根方で泣いている」「母さんぼくのを 貸しましょか きみきみ この傘 さしたまえ」」
 わたしがこの唄を、幼少の昔、どんなに憎むほど嫌ったか、人は知るまい。
 わたしには、こんな「母さん」を「生まれながら見喪って」いた。雨に降られ、濡れて泣いている方の「あの子が自分」という自覚に屈していた。「ボクならいいんだ 母さんの 大きな蛇の目に入ってく ビッチビッチチャップチャヤップ ランラン」がうらやましさにこの唄を憎んで啼いた。こう書いている今、「やそしち」の「爺」が、愚かしくも涙をいっぱいに目に溜めている。
 むごいと思う童謡が、幾つもわたしには、在ったのだ。「青い月夜の浜辺には 親を尋ねて啼く鳥が」とか。
 
 * かと思うと、歌詞の佳い歌を夢中、探していた。「磯の火ほそりて更くる夜半に 岩打つ波おとひとり高し」「とまれる友船ひとは寝たり たれにか語らん旅のこころ」のことに歌詞前半を、少年のわたしは「音」楽の「詩」「うた」として絶賛していた。
「音」「韻」の濁って強張った日本語を「うた」に持ち込んだ例をつよく嫌った。
 私の和歌・短歌「批評」の根底が、幼少の感性で生まれ育っていたのだ。
 
 ◎ やそしち爺 は 危なかった
 言語道断の あわや50を割る超低血糖に 全身顫動 失神しかけました。かつても体験していたのに 気づかず 妻が「低血糖」と気づいてくれて 即 白砂糖 で恢復させました。危なかった。
 疲労 疲弊の 極のママに 懸命に仕事を続けて 明けの四時から ぶっ続けに夜まで先を追い続けたり、心神の違和は進行気味です。
 それでも 乗り切って行きます。
 こちらで「雪」は見ていません。お天気は晴れやかでした。花束や 花鉢など戴いて、「花」には心和んで美しさに感謝します。
 「食」はか細く、酒量は増し、利尿剤で夜中に何度も起き 昼間はよろけます。
 そんなことは気にせず 仕事を先へ追い続けています。困憊すれば寝て たくさん読みます。
 都心へ出てみたいと思いますが、そんなバカはしません。用心一途の籠居に耐えています。
 私語の刻に、ツアラトゥストラを「抄記」し始めました。ひさしく読みたくて、読めていなかった。最近の主な「読み」は 、源氏物語と カラマゾフと 参考源平盛衰記 です。映画は 好んで良く観ます。  
 籠居していると良質の蛋白質、脂肪に縁遠く、ついつい炭水化物漬けになります。「食べる好き」だったのが、「食べるイヤ」に成ってます。  近況 あらまし。 
 鳶は 元気に空高く いい声を送り届けて下さい。   カアカアカア   
 
 〇 秦さんへ  私も やそしち
 冬至が過ぎて つたない暮らしにも まもなく日長がわかるようになりそうです 
 暖かくなったら「秦さんと京都へ」 いいですねえ                
 今日は高校駅伝で テレビに金閣寺が写りました 秦さんとぶらりと いいでしょうねぇ でも何より 秦さんちの前の通りを歩いてみたいです・・ねぇ
 千葉のやそしち爺(二月までわたしも です)の頭の中はきっと暫く「京都」と
 秦さんにつれて行っていただいた 鶯谷・浅草・渋谷・・「その日 あの日」で暮らせると喜んでおります
 秦さん 『まだまだ書きたいので』
 是非是非 書いてください 書いてください 
 秦さんとお逢いできた最初の「猿の遠景」をまた読みたくなりました
 「コロナ」にがまんしながら私も頑張ります
 いつも「元気」をいただき本当にありがとうございます
 どうかくれぐれもお大切にされてください
 私も転ばないように気をつけます   千葉 勝田拝
 
 ◎ 勝田さんと 京都。 想うだけでも、ほんわかと、いいナ。行きたいナ。
 京都は 山紫水明だけでなく、フクザツにややこしい問題や場所を孕んだ土地柄です。その味わいを識った方は多く有りません。歩き甲斐のフクザツにある都市です。
 勝田さんとなら 何処をどうあるいても安心です。行きたいナ。
 潰れたように疲弊しています、疲れれば ますます 逃げるように仕事のピッチを速めるので 加速的に体調落ち込みます。悪循環ですね。蟄居 籠居の三年がコタエテ居ますかね。いけませんね。
 勝田さんのこと想うと ふわッと懐かしくなります。美味い茶の一椀のようです。 あすは、予約の診察を受けに近くの病院へ出向きます、家内と。
 お元気で いつまでも 「勝田さん」でいらして下さい。 一緒に、何か食べたいです。      後進の やそしち爺 秦生  
 
 〇 50を割りそうな超低血糖とは 驚きました。気づかれた奥様に感謝、感謝です。
  鴉 生き抜く願いを貫いて 
  日々ひたすら 為し また 成してくだされ。
  ピーヒョロヒョロ  今スーパーの売り場からメール、です。    尾張の鳶
 
 
 ◎ 令和四年(二○二二)十二月二十四日 土         
    起床 5:05 血圧 164-76(60) 血糖値 77 体重 55.0 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 あなたがたがたいけんできる最大のものは、何であろうか?それは「大いなる軽蔑」の時である。
 あなたがたがこう言う時である。「わたしの理性は何だろう! それは獅子が獲物を求めるように、知識をはげしく求めているだろうか? わたしの理性は、貧弱であり、不潔であり、みじめな安逸であるにすぎない!」
 あなたがたがこう言う時である、「わたしの徳は何だろう! それはわたしをいまだかつて熱狂させたことがない。わたしの善、わたしの悪に、わたしはなんと退屈していることだろう! すべては貧弱であり、不潔であり、みじめな安逸であるにすぎない。」
 あなたがたがこう言う時である、「わたしの正義は何だろう! どう見てもわたしは燃えあがり、燃えつきる者ではない。だが正義の人は、燃えあがり、燃えつきる者だ!」
 あなたがたがこう言う時である、「わたしの同情は何だろう! 同情とは、人間を愛する者がはりつけにされる十字架ではないのか? だがわたしの同情は、すこしもわたしを十字架にかけない!」
 あなたがたはすでにそう言ったか? すでにそう叫んだか? 
 ああ、あなたがたのそうした叫びを、わたしがすでに耳にしたことがあったら!
                    (第一部 ツァラトゥストラの序説 三 の5 )
 
 * 昨夜は九時台、おそくも十時までに床に就いた。あの低血糖の戦慄は恐怖して、繰り替えしては鳴らない。危なかった。いま、早暁の五時四十五分、さっきに日記を開いた。
 このところの「ツアラトゥストラ」に聴く毎朝を深切に迎えている。とても「読めない」と思ってきたが、滲入できる予感を喜んでいる。
 
 * 早暁の冷えが書斎に満ちている。暖房が効くまでに時間がかかる。高城由美子さんにいただいた手織の温かな肩掛けと、これもどなたかに戴いた温かに篤い膝掛けで寒さを迎えている。
 
 * 「162」入稿用意を懸命に進め、夕刻、一定の到達を得たが、もう20頁分追加が必要と分かっている。、要検索、検討と承知。
 
 * 宵寝して二時間ほどか。もう休んで良い。メールの交信も無い。
 
 〇 やそしち爺に
 雪10センチほど降り積もり、八年ぶりとか。
 シンガポールの孫たちは 朝から大騒ぎです。
 以前のメールを読み返しています。
 元気にお過ごしくださるように。   尾張の鳶
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月二十三日 金         
    起床 4:00 血圧 164-76(60) 血糖値 77 体重 55.5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 ツァラトゥストラは、さらに、町の人たちに云った。
 「まことに人間は汚れた流れである、不潔にならないためには、われわれは大海にならねばならない。
 見よ。わたしはあなたがたに、超人を教えよう。超人は大海である。あなたがたの大いなる軽蔑は、この大海の中に没することができる。あなたがたが体験できる最大のもの、それは<大いなる軽蔑>の時である。あなたがたの幸福に対して嫌悪を覚え、同様に、あなた方の理性にも、あなたがたの徳にも嘔吐をもよおす時である。
 あなたがたがこう言う時である。「わたしの幸福は何だろう!それは貧弱であり、不潔であり、みじめな安逸であるにすぎない。わたしの幸福は、人間の存在そのものを肯定し、是認するものとならねばならない!」  (第一部 ツァラトゥストラの序説 三 の 4 )
 
 * こまぎれに寝ては夢見て起きて手洗いに。邪魔くさくなり、四時に床を出て二階へ。
 
 * なんという此の六畳間の賑やかさ、にぎやかさ、狭苦しさ。
 沢口靖子の写真が8枚。障子の破れ隠しに、大相撲のカレンダーから切り出した白鵬、照ノ富士らお相撲さんたちが5枚、絵画・書跡等の美術系が大小20点ほど、家族や知人の写真が大小13枚、大きな京都市街地図が2枚、むろん書架にも机にも大小の書跡が、「選集」「全集」「辞典・事典」等々優に300冊以上、そして、さまざま、いろいろの必要品・飾り・投げだしの小モノ等々、数え切れない。機械に類する物も当然に、6機。
 とても「雅」でない、雑多な音響の中に塗れているよう。
 「わがものと思へば軽し笠の雪」 此の部屋でこそ、私は落ち着く。
 
 * 先日、南山城の従弟にあたる岩田孝一君の知らせまた送って来てくれた、國の有形文化財に指定された当尾の父方吉岡本家の大きな写真数枚から一枚選んですぐ左手のわきに立てかけてある一枚、屋敷の門内・前庭、、明らかに此処に自分は居たと確信できる写真を、息を入れるつど眺めている。「此処」に自分が実在していたのは幼齢多くも四歳までだった、そこから京都の新門前「ハタラジオ店」へ移った。移されたのであろう、そして当尾のことは記憶薄れていった。大人になって、ただ一度だけ訪れ、守叔父に浄瑠璃寺や岩船寺へ来るまで連れて行ってもらった。叔父は当時どこかの校長先生だった、か。
 
 * 真夜中に起きて「仕事」始めて、正午。八時間ぶっ通し。
 
 * もう四時。疲れ切っていると、寝もならない。
 
 * 埼玉の吉田万由美さん、大きな花束をたっぷりと下さる。備前の金銀混じった日月の大壺に華やかに盛って、書庫の正面へ大きく飾った。感謝。感謝。花は美しい。
 
 * 大昔から女優で一に好きなイングリット・バーグマンの冴え冴えと健闘する『誰がために鐘は鳴る』を、あとの楽しみに、すこし途中まで観て、二階へ。四時。バーグマンに比べてしまうと、ゲリー・クーパーがもう一つ冴えないが、先で化けて呉れよ。
 
 *  凄いほどの低血糖で、失神しかけた。自身で低血糖と気づかず、妻が気づいてくれ、直ぐ測った。50台の低さ。仰天。一、二時間も寝入ったか。食欲無し。何が有ったか、爲たかなど、自身、茫然。四時起きシテの仕事連続は無理強いであった。
 ツアラトゥストラを読んでいた。
 早く寝てしまうことに。いま八時半を過ぎている。階下へ。バーグマンノ続きを。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月二十二日 木  冬至         
    起床 6:00 血圧 164-76(60) 血糖値 77 体重 54.ヤ5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 ツァラトゥストラは、さらに、町の人たちに云った。
 「かつては神を冒涜することが、最大の冒涜であった。しかし、神は死んだ。いまや最も恐るべきことは、大地を冒涜することだ。
 かつては霊魂は肉体に軽蔑の眼をむけていた。−−霊魂は肉体を、瘠、醜い、飢えたものにしてしまおうと思った。おお、この霊魂自身のほうが、もっと瘠せて、醜く、飢えていたのであった。
 しかし、わが兄弟よ、あなたがたの霊魂も、貧弱であり、不潔であり、惨めな安逸なのではあるまいか?」         (第一部 ツァラトゥストラの序説 三 の 3 )
 
* 戴いたお酒の美味いのを含んでは寝入り、含んでは寝入り、ほとんど終日寝入っていた。もう九時半。目覚めたときも、朝夜転倒、朝かと想って、まるで日なか。やれやれ。ま、そういう日々も自然な老いと思おう。
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月二十一日 水  誕生日 満八十七歳             起床 6:00 血圧 164-76(60) 血糖値 77 体重 54.ヤ5 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 ツァラトゥストラは、さらに、町の人たちに云った。
 「かつてあなた方は猿であった。だが、いまもなお人間は、いかなる猿よりも以上に猿である。
 わたしはあなたがたに超人えよう超人は大地の意義なのだ。
 わが兄弟たちよ、わたしはあなたたちに切願する。大地忠実であれそして地上を超えた希望などを説く者に信用を置くな、と。かれらは生命の軽蔑者だ。
                 (第一部 ツァラトゥストラの序説 三 の 2 )
 
 〇「やそろく」を今朝あらたまの「やそしち」と歩み運びて冬至る哉
 
 * 朝七時半 「湖の本 162」を「責了紙」に仕上げた。
 八十七歳誕生日の業績となった。
 ピレシュのピアノでモーツアルトを静かに聴いている。
 
 * 頂戴しているお酒で乾杯し、赤飯を祝う。はるばると歩いて来た。
 這ったのでも駆けたのでもない。歩いて来た。並んで歩いていた筈のあまりに大勢の姿が、もう、ない。そして「まあだだかい」とも聞こえる。小声で、「まあだだよ」と返事している。「まあだだよ」
 
 * 八十七歳の朝を、妻と、祝った。赤飯。そして小滝さんに頂いていた「松竹梅」特別大吟醸酒での乾盃がじつに美味かった。妻のいもうと、琉っちゃんからのお祝いも、一入嬉しく。
 
 * 昨日、神戸の信太周先生、お便りを頂いていた。
 
 〇 前略   国民学校一、二年生ノコ路の思い出、戦地の兵隊さんのためにイナゴとりをしたりしたこと等々、国民学校門傍にあった「奉安殿」出校退校の度に帽子をとり敬礼した等今だに鮮明です。
 憲法前文が空文化する時代、望む、来る年が穏やかであること念じております。
 思いもよらぬ戦乱、ヤルタ(会談)、オデッサなどの報道に接する度、「戦艦ポチョムキン」見た頃のこと思い出します。それにしても内容がよく理解出来ず総天然色映画「石の花」また筋は分からぬながら色彩のあざやかさ等々、往時茫々です。(略)中学一年生の孫娘が(下に妹がいるにもかかわらず)、私の成年式までは生きていてなど、言ってよこします.無邪気なものです.草々     信太
 
 〇  お元気ですか、みづうみ。
 お誕生日おめでとうございます。わたくしは、とてもとても嬉しいです。寒いですが、日の光も暖かな佳い朝でした。みづうみの新しい一年の「読み・書き・読書」が益々豊饒でありますようにお祈り申し上げます。
 わたくしの慌てて書いたメールを とびきりのエリートさん達、東工大卒業生の鷲津先生、桜小次郎さんにご転送いただきましたこと、恥ずかしさに穴があったら入りたいくらいです。
「秦先生」は東工大の土壌に素晴らしい文藝の種を蒔かれました。それが大きな樹木に成長して、みづうみの「問い」にまっすぐ答えていらっしゃる。このような若者たちをお育てになって、本当にお幸せな「元教授」だと思います。
 鷲津先生も小次郎さんもそれぞれの個性が光ります。
 鷲津先生の「アーカイバ」の話は初めて知りました。勉強になります。
 また私語の刻コピペサイトも拝見しました。これは是非継続して完成させていただきたいサイトで、鷲津先生のご尽力に感謝いたします。「愛されることの嫌いな」に反応してくださった小次郎さんも面白いかたです。
 以前心理学者の本で「自分が母親に愛されるのは当たり前と思っているひとのほうが、簡単にひとを愛せる」と書かれていました。言いかえれば、自分が愛されることが当たり前と思える人間のほうが、簡単に誰かに愛されることが出来るということでもありましょう。
 みづうみには、おそらく、この「愛されることが当たり前」がおありにならなかった。実のお父さま、お母さま、そして秦家のご両親も、みづうみを深く愛していらしたでしょう。でも、それはみづうみに愛の安寧を与えてくれる性質のものではなかったのかもしれません。
「愛されることの嫌いな」は、大袈裟な表現でしたが、みづうみには他人の好意を瞬間的にはねつけてしまうことが時々おありのようにお見受けしてきました。
それは、不用意に愛を信じることで深く傷ついていらした幼少期のみづうみの名残のようなものだと思います。みづうみのお育ちになった環境を思うたびに痛ましく涙がでてしまう。
 わたくしは、みづうみ以上のパソコン音痴だと思います。しかし苦手だといつまでも逃げていられない時代です。みづうみのサイトのために、わたくしの出来ることがあれば、卒業生の方々のご指導を仰いでいつでもお手伝いさせていただきます。お申しつけくださいますように。
 >今後、何とかして、多くの内容を孕んだままの、以前の私のホームページが、単純に復活できるようにと 願い続けます。
 わたくしもそのことばかり考えています。どうか卒業生の方々のご好意を受け入れていただき、ホームページの一日も早い復旧が実現しますように、切望いたします。
  佳きお誕生日でありますように。お元気にお過ごしください。 冬は、つとめて
 
 * ありがとう。それでもわたくしはまだ機械操作触れて書かれている 「鷲津先生の「アーカイバ」の話は初めて知りました。勉強になります。また私語の刻コピペサイトも拝見しました。これは是非継続して完成させていただきたいサイトで、鷲津先生のご尽力に感謝いたします。」が、何を、とう謂うてあるのか、「理解」出来ないでいるのです。やれやれ、です。。どこの、なを、私の手でどうすればいいのやら。、
 
 * 岐阜県の詩人山中以都子さん、お祝いにおさ酒下さる。四国の星合美耶子さんからも行き届いたお祝いを戴いた。感謝。
 
 * めったになく、一人で、郵便局ポストへ「湖の本 161」を入れに、杖も忘れてポクポク歩いた。ローソンへも脚をはこんで、握り飯やサンドイッチを気まぐれに買って帰った。美味いものは何もないのだが。「買う」というめったにない事をしてみたまで。
 
 * 妻の妹の琉っちゃんから、手編みの襟巻きや、誕生日ワイの手紙を貰う。有難う。会いたいがなあ。
 
 〇 あにうえ様 今日は87歳のお誕生日おめでとうございます! 良いお天気で、ポストまで行かれたとのこと、ほっとしています。いつも頑張っておられて、もう87歳になられたなんて改めて驚いてしまいます。
冬のお誕生日、私はあにうえ様のお母様のことを思いました。あの人形のお歌、「フランネルに…」で始まる短歌、母の悲しみが深く私の心に残っています。
メールも有り難うございました。お言葉に胸打たれました。「いもうとよ/病むなかれ/転ぶなかれ/胸の内でも/いつも好きな歌を唄いたまえ/こうへい あに」
私もいつも歌を忘れず、明日を創れる人間でありたいと頑張っていきたいと強く思いました。
どうぞくれぐれもお体大切に、87歳の一年も素晴らしい年を創って下さいね。
                          るみ いもうとより
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月二十日 火             
     起床 6:15 血圧 173-79(53) 血糖値 77 体重 54.35 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 杜のはずれにある最初の町にはいったとき、ツァラトゥストラは町の人たちにむかい、こう云った。
 「わたしはあなたがたに超人えよう人間克服されなければならない或物なのだ。あなたがたは人間を克服するために、何をしたというのか?
 これまでの存在はすべて、自分自身を乗り超える何物かを創造してきた。あなた方はこの大きな上げ潮にさからう引き潮になろうとするのか。人間を克服するよりもむしろ動物に引き返そうとするのか?」      (第一部 ツァラトゥストラの序説 三 の 1 )
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月十九日 月             
     起床 6:50 血圧 155-69(71) 血糖値 77 体重 53.45 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 ツァラトゥストラは聖者に一礼して言った
「あなたにさしあげるような何物があるでしょう! 今はあなたから何物も取らないように、わたしを早速立ち去らせてください!」こうして二人は、少年が笑うように笑いながら、別れた。
 しかしツァラトゥストラがひとりになったとき、かれは自分の心に向かい、こう言った。
 「いやはや、とんでもないことだ! あの老いた聖者は。森のなかにいて、まだ何も聞いていないのだ、んだ ということを。」
                  (第一部 ツァラトゥストラの序説 二 の 3 )
 〇 「神が死んだ」 このニーチエの戦慄をよぶ宣告と確認こそが、地球と生類ことに人間に、痛切に難しい『近代』の発足だったことが、安易に言及も説明もできないが「自覚」は出来る。
 「神は死んだ」のでない、
 「神が死んだ」 という宣言に、足下に動く「今・現在・未来」の認識が言い尽くされる。神に信愛する人はまだまだ多いが「神は死んだ」と感じている人も猛烈に増えていよう。だが「神が死んだ」 という自覚はどうか。私は、どうか。
 
 〇 秦先生、
メールありがとうございます。
返信遅れ申し訳ありません。
件名に感謝とありますが、
私は何もしておりませんので、気になさらず。
 
私はなんですかね、
いつまでも先生に「披露宴」で譬えていただいたような 人を巻き込む竜巻のようでいたい、
ということだと思います。
もしかすると台風の目には何もないのかもしれませんが(笑)。
 
先週15日(木)から、新型コロナにかかってしまい、3日間、発熱に困らされておりました。私は抗原検査キットにて、新型コロナ陽性を確認(会社へ報告要)。
 やっと、昨日午後から、普通の生活が出来るようになってきました。
 しかし順次、 家族3人とも体調を壊してしまいました。(家族は確認が不要のため、未確認)
 息子はすぐに体調回復してしまい、妻も微熱まで下がりましたが、
 最後に娘が体調崩したのが心配です。珠乃はワクチンを打っていないので、特に心配です。
 でも、妻と一緒に療養出来ているので、子供の不安感も小さく出来ており、これはこれで良かったかな、と思っております。
 こういう時、父親は何も役に立てないですね。
 妻に言わせれば、「これまで何もしてこなかったのに、頼られるわけがない」ということです。
さて、
 以下のお叱りのメール、ただただ正論にて、
「秦先生、その通りですよ。いう通りにしてあげなさい」と、言ってしまわんばかりです。
でも、違いますね。
 
 また「愛されるのがお嫌いで」というくだり、
 言い得て妙と思いつつ、そんなことはないなぁ、と感じました。
 秦先生は、とても人間関係を大事にされる方ですし、
 常に愛し、愛されることを是としてらっしゃると思います。
 ただ愛されたい、と願わないということです。
 「叶うは良し、叶いたがるは悪しし」ですね。
 一方で
「生きているだから逃げては卑怯とぞ幸福を追わぬも卑怯のひとつ」ということですから、言葉上は自己矛盾がありますが、ヒトとしては矛盾しない生き方でありますよね。
また、
研究室を持たずに純粋に授業やお人柄で愛された教授は
少なくともあの頃には 秦先生以外いらっしゃらないのではないでしょうか。
秦先生は、我々に多くの知識と愛情を与えてくれましたし、
我々は、勝手に先生のことを愛していて、その状態がいいのだと思います。
なので、技術を持っている鷲津さんは自分が出来ることを秦先生にしてあげたい、と思った訳です。
ただ、それは秦先生の今の考えには乗ってこないものだった、
もしくはその考えに秦先生が乗る{とき}ではないと判断された、ということだと思います。
読者さんの言われることは、
確かに正論です。
創作過程を含めた芸術というものも当然ありうると思いますし、
そのようなものも多く見受けられるようになりました。
絵画や彫刻ではアーティストインレジデンスといって、
アーティストが滞在して作品を作り上げる過程そのものを見せる展示も普及してきました。
なので、正論です。
創作過程を記録保存すること、文学理解の上で重要です。
正論です。
しかし、
創作は 正論にて行われるものではない、と言えると思います。
創作意欲がどこから来てどこに向かっているのか、が、
その創作者にとっても最も大事なことですから。
つまり
過去(HP)は大事であるけれども、{今を生きていく秦先生自身}が最も大事ですので、
{今、を表す}ことに集中していただければと思います。
 
コロナさへ明ければ、
秦先生宅へうかがってPCを直すこと(多分新設PCへの移設)は造作ないことだと思いますから、
鷲津さんでも上尾さんでも、PCに詳しい人は多くいますからね、東工大卒には。
年末のご挨拶はコロナにかかってしまったこともあり、
ご遠慮させていただきます。すみません。
またの機会に。   桜 小次郎
 
 * 嬉しく、有難うを云いながら繰り替えし読みましたよ。感謝。
 
 * 終日機械に向き合っていると視力はゼロに近く、手もとも字も霞む。一日の機械仕事時間を割り振らねばいけないようだ。
 
 * あきとじゅんさん、井口哲郎さん、濱敏夫さん、白蓮寺さん、常林寺さん。来信。
 * 高城由美子さん干し柿など、戴き物がいいろに。な、「湖の本」と「作家/秦」とへ親しんで下さってのこと。有難いことです。
 
 
 *
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月十八日 日             
     起床 6:35 血圧 141-72(68) 血糖値 85 体重 53.35 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 ツァラトゥストラは森の聖者に答えた、「わたしはわずかの施し物などはしません。それほどまでにわたしは貧しくないのです。」
 聖者はツァラトゥストラのこしばを聞いて笑い、人間たちのところへは行きなさるな。森のなかにとどまるがいい ! 」
 ツァラトゥストラはたずねた。「聖者は、この森で何をしておられるのです。」
 聖者は答えた。「歌をつくって、歌う。そうしてわしはわしの神である神を頌える。ところで、あなたは、われわれにはなんの贈物をしてくれるのかね?」
                   (第一部 ツァラトゥストラの序説 一 の 4)
 * 恐るべき一夜であった、ひどい時は30分ごとに尿意に起こされた。抵抗できない。さ、何度起きたろう、十度は数えられる。しかし、床に戻ると直ぐ寝入る。
 そして六時半まで努めて眠って、起きて、体重53.35キロ。ひとりキチンで僅かな冷えた朝食を。
 
 * 毎朝、って「マ・ア」ズが、機の足もとへアイサツにくる。ことに「アコ」は膝に手を掛け伸び上がって鼻と鼻のキスを儀式のようにして行く。「マコ」は元気。有難し。
 
 * 此処に、「翌日」零時過ぎの記載があった筈。よく覚えているのに失せている。十九日朝 書き置く。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月十七日 土             
     起床 7:20 血圧 155-69(71) 血糖値 77 体重 53.35 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
 〇 ツァラトゥストラは、ひとり山をくだって行った。ひとりの白髪の翁が、ふいに彼の目の前にあらわれた。森の中で草の根をさがすために、聖なる庵を出てきたのだった。聖者は、ツァラトゥストラをみとめて、こう言った。「そうだ、これはツァラトゥストラだ、ツァラトゥストラは変わった、ツァラトゥストラは幼な子なった。ツァラトゥストラは目覚めた。あなたはいま、眠っている者たちの所へ行って、何をしようとするのか?」
 ツァラトゥストラは答えた、「わたしは人間を愛しているのです」と。「わたしは人間たちに贈り物を與えに行くのです。」  (第一部 ツァラトゥストラの序説 一 の 3)
 
 * 行方不明の記事を「ごみ箱」で見つけて取り戻すこと、無用と確定の「ゴミ箱もの」は払い捨てておく大事さに、いまごろ気づいている鈍さ、いやはや。しかし危うく取り戻せた嬉しさは妙であるよ。
 それにしても自分が今どこに立っているかを見失うことがある。幸か。不幸なのか。
 
 〇  「湖の本 160}拝読しました。  
 厳しさと優しさの共存、目まぐるしいい程 様々な知識満載です。
 「自省抄」 美学で学びながらこんなに深く読みもしなかった。
 「真っ直ぐに歩む事で神に従う」 ほう ! 、深い言葉。
 「辛抱のいい」読書。成る程 。
 「風流の愉しめる性と才とを、生み・育ての親に感謝」 大納得です。
 「奉安殿」 これも何十年ぶりに聞く言葉、この字を当てるのですか?。毎月8日にはあの扉が開いていて、御真影をこの眼で見てはばちが当たると 極度の緊張で頭を垂れた覚えです。同志社で(幼稚園から大學まで)下から学んだ同級生は「そんなもん 知らんわ」と。
勝手な事を書いてしまいました。
こんなに胸躍る程の感慨を頂いて、本当に心から感謝、有り難う御座い ます。
 どうかくれぐれもお元気で。
    ずっと書き続けて下さいね。   半田  久 拝   (大學の先輩)
                                   
 * 感謝します。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月十六日 金             
     起床 6:30 血圧 160-72(52) 血糖値 77 体重 54.05 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降随時にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (秦の、抄。水上英廣訳(岩波文庫)に依って。)
 〇 ツァラトゥストラは、太陽に語り継いで、「見てください。あまりにもたくさんの蜜を集めた蜜蜂のように、このわたしもまた自分の貯えた知恵がわずらわしくなってきた。 わたしは分配し、贈りたい。人間のなかの賢者たちにふたたびその愚かさを、貧者達にふたたびおのれの富を悟らせて よろこばせたい。 夕がた、海のかなたに沈み、さらにその下の世界に光明をもたらすように。あまりにも豊かなる天体よ! わたしを祝福してください。どんな大きな幸福でも妬まずに見ることのできる静かな眼であるあなたよ! ツァラトゥストラは、もういちど、人間になろうと思うよ」
                   (第一部 ツァラトゥストラの序説 一 の 2)
〇 やそしちと老いてし嗤ふ背ぢからの瘠せて胡座もならず仆るる 
〇 坐しもならず立つにも起てず幾たびぞま転びころび老い達磨とよ
〇 もの食はで気に入り盃の一盃の酒にかしこみ仕事へ向かふ
 
* 清算など付かない思い患いはうち捨て、すべく、仕度くもあることへ身籠もれよと自身に仕向けている、仕向けたい。ままになる世と思わない。できない。
 
 * 老耄制しがたく、機械は難敵のよう。困惑という姿勢を対抗の用意とし、すり抜けるようにとにかくも次なる先へ自分をほうり投げる。
 
 * ドイツに、帝制とともに極右翼国家を期待して武力を持って動き始めたかなり数の団体が、國に逮捕されている。どう推移するのか、苛酷な政変や國の存亡を問う事態に至るのか、そんなことが事実起きていることに驚き注目を強いられる。
 
 * 映画『招かざる客』?久しぶりに見直した。スペンサー・トレーシーとキャサリン・ヘプバーンが、熱愛のしかも健全な良識を真摯に持し結婚を決意している娘が、優秀な知性と能力の黒人の恋人と連れて帰宅、恐慌をきたす愛篤き両親を美しく「人間」的に演じて見せる。秀作。
 
 * 所詮疲れると判っているのだ、ならそれは忘却という袋にしまっておく。寝込むことも病むことも許されないし、許さない。仕事は、丈高くぼうぼうの草むらに路をうしなったかのように、混雑して呻いている。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月十五日 木             
     起床 8:00 血圧 160-72(52) 血糖値 91 体重 53.45 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く(秦の、抄。水上英廣訳(岩波文庫)に依って。)
 ■ 第一部 〇 ツァラトゥストラの序説 超人と「おしまいの人間」たち-----
 〇 ツァラトゥストラは三十歳になって、ふるさとを去りふるさとの湖を捨てて、山奥に入った。 ある朝、ツァラトゥストラはあかつきとともに起き、太陽を迎えて立ち、太陽に語りかけた。
 「偉大なる天体よ! もしあなたの光を浴びる者たちがいなかったら、あなたははたして幸福といえるだろうか!」 (第一部 ツァラトゥストラの序説 一の 1)
 〇 読みとりつつ、読みとおせるだろうか、私。ニーチエの『ツァラトゥストラ かく語りき』が、世界史に遺されてどんな著述・創作であるかは、まだ此処へ言わない。青年來、何度も何度も読みたいと願いながら読まぬまま来た狂いし天才・超人の「かく語り」し「詩」の名品だが、水上氏の訳著に借りて、以下私の「文責」「抄出」であって、私の「読み」が問われ計られる。狂うかな、私も。
 
 * 体重は、一夜に減った。昨日は結句二十四時間の二時間しか眠らなかった。
 「問題」は、多岐にいろいろ在る、が、独りで出来ることには限度がある。
 
* 耐えがたいほど濃密に重たい「憂鬱」が私を多年とらえて放さない。ひろい世間からその憂鬱な重たい霧が、いま此の家に割り込んでくるのでは無い。家には今、妻と私と(マ・ア)しかいないし、望みうる最良の「家庭」を成している。
  しかし、私の人生をここ三、四十年と顧みて、「夫婦」ならぬ、「家族」からみて、とてもとても平安で幸福とはいえない「不幸せな憂鬱」を抱き込んでいる。
 最愛の、聡明にして心温かな初孫「やす香」は二十歳を待たず死し、眞実愛育した娘朝日子と今独りの孫「みゆ希」とは、父母・祖父母に冷たく背いて、母・祖母の「病状のあわや」危ないと報せたときも、声一つ無く「拒んで」病院へも来なかった。妻の實の「思い・胸の内」は聴いてない、語りもしないが、今、わたくしがこのまま果てたとして、唯一果たせなかった「残念の望み」は、血を分けた「曾孫」の「ただ一人」をも抱いてやれず逝くことだ。孫の「押村みゆ希」に可能性はあろう、が、氷のように冷えた「空気」は温まるまい。
 息子建日子からの「曾孫」は。どう望んでも、それが私たちの過剰な望みであるわけはない、が、建日子には戸籍上の妻がなく(無いらしく)、日常には不可欠らしい久しい内縁の「人」のみあり、もう出産は不可能な年齢。この「人」、病院へ一二度の見舞いの他は、吾々保谷の家庭に、正月「年賀の雑煮と初詣で」に、また他にも建日子と連れて時に車で訪れる以外には、老妻の手伝いを含め、一度として記憶が無い。かと雖も、建日子がまるまる「他所」で「私たち両親の曾孫」を生産などしては来れない。
 
 * なんという薄い淡い「血縁」に、私は生まれながら見放されてきたか。
 「夫妻」で無かった實の父と母とに生まれ、共に無縁の他家に育てられた「實兄」は、世間へ出て活躍していながら、五十にして自死し、「甥」の一人も、若くしてはるかなウイーンで自死したという。
 もう一週間と待たず満八十七歳になる私は、もとより「自死天上」を望んでいない、が、満たされた幸福を心合わせて共有できずそれぞれ天外に果てた「実父吉岡恒、生母阿部ふく」のためにも、二人の血をついだ子孫の一人、私たち夫婦には「曾孫」の「便り」を携えて逝きたいとは思い続けてきた。
 もし私、字義どおり「活そして躍」の生涯に「満たされない失望」があったとせよ、それは上記一事の濃密な「憂鬱」一つであると「明記」しておく。
 どう払いようもなく「憂鬱」である。
 
 * 妻と『ニュールンベルグ裁判』を、裁判長スペンサー・トレーシー、検察リチャード・ウィドマーク、弁護人マクシミリヤン・シェル、被告の重要な一人ヤニングをバート・ランカスタ、 そしてマレーネ・デートリッヒも登場の、、「完璧」とはこれを謂うかという感銘と迫力と志操にも富んだ藝術作を、夫婦して息を呑んで見入り、感動の淵にはまって深い深い息を吐いた。
 裁判長の理解と見識と信念と人間愛に、篤い敬意を。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月十四日 水             
     起床 2:25 血圧 160-72(52) 血糖値 91 体重 54.9 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ 八代集秀逸 (新古今集 十首) 了                        * 袖の露もあらぬ色にぞ消え返る 移れば変る嘆きせしまに 太上天皇(後鳥羽院)
 * くまもなき折しも人を思ひ出でて 心と月をやつしつるかな  西行法師
 〇 上皇歌。  「袖の露」「あらぬ色にぞ」「移れば變る嘆きせし」と、いずれも承久の變に小四郎羲時北条執権との武闘で、当然すぎるほど明らかに完敗し、後鳥羽院ほかの天子二人も都合三人、後鳥羽は遙かな隠岐の島へ、他も土佐へ、佐渡へと流刑を強いられ、鎌倉に対抗の京都は、反北条の願いは、以後あの悪名高い執権高時の時代、楠木正成や新田義貞や、足利尊氏らの登場まで、ひそひそと甲斐無い陰謀を重ねるだけに終わった。後鳥羽上皇の凡と高ぶりとが強行した愚の必然を、私は、同情せずに来た。
 だがこの一首、当時多くの人の涙を誘ったに違いない。
 〇 西行歌。  「くまもなき」を曇る月、月光と取るのは、敢えて西行の、あはれ立つ瀬なく遙かに流刑の三天子、殊にも西行歌境をことのほかに熱愛し評価されたひとかどの歌人後鳥羽院への哀情を、院もきっと眺めてられよう月、その悔いや哀しみへ、西行真摯の一首を献じたのだと私は『八代集秀逸』を斯く「読み終え」たい。
 * さて、「王朝和歌」とのお付き合いを、一度、ここで収める。
 名の有る歌人の作なら和歌はみな美しい、佳い、というワケでない。平安文化の誇る「八代集秀逸」にして今日の私の目と読みと感性からは、「どうか」と首を傾げる「和歌」がかなり有った。「和歌」は、「文藝」である前に「音楽」ないし「うた」である。「うた声の美しさ」そのものであり、そのセンスを詞・語彙のおもしろづくで特異にごたついてもちだしても、今日の私は誑かされない。
 
 * 師走十四日 早暁二時半に、此処、二階書斎の機械前へ来た。
 数日前より東工大卒で関西在住の一人から、深切そのもの、私・秦恒平の作家・文藝家・出版人としての日々の活動に関わって、新しい「ホームヘージ」を建設し、数人の東工大卒賛同者とその「ホームページ」を「共有協同・編集」してはと、提案があった。
 機械化の詳細は私には理解しきれていない、が、上記提案への「お断り」を伝えるしかないと決意した。
 私・秦恒平は、過去八十年の文藝愛かつ創作・編集行為を、實に、一貫多くの愛読者・支持者に支えられ見守られつつ終始「独立独歩」し、いささかもソレを逸れなかった。
 一つには、前世紀末から二十年ほども大事に愛用していた「ホームページ」での表現行為は、多岐に亘りながら、要は機械的に大勢の人と「共有時空を持つ面白さ・気の励み」と謂うに尽きていた。
 その「ホームページ」が破損し使用不可能と成り終えたときは落胆した。しかし、それにより「私の創作や出版」が傷ついたのでも不能化したのでもなかったことに、直ぐ気がついた。「ホームページ」という「世間へ開かれた窓」は閉ざされたが、そんな窓の内の書斎活動は、いささかも損なわれはしなかった。それどころか。
 ここ数年の、160巻を越す「秦恒平・湖の本」出版や、33巻もの浩瀚「秦恒平選集」の出版も、久しく篤く熱い親しい「読者の支持と御厚意」とで全て順調に為しまた成し続け来れていた。
 それら「作家活動」を通じ、私は「私語の刻」という創意と發明とが、「われ一人」で続けている日々の作家活動につねに「活力源」となっていること、著名な、業績を積んでこられた大編集者からも、深厚深甚の「読み手」と敬愛する怕いほどな読者からも、「秦さんの『私語の刻』は、特異でとても大事」な「秦恒平最大の『文藝・結実』に他ならない」と支持や激励を得てきました。私の創作であり作品である『私語の刻』は、「ホームページ」とは無関係に独立独行し、それどころか、書きっぱなしの「言い分」を「私語」として「ホ−ムページ」へ拡散するのはむしろ「危険」でした。明瞭に危険でした、十分推敲されていない文章を「文藝の徒」として、怱卒に無責任にただまき散らすことになるという実感を、はっきりと、強く得てきたのです。いま、ソレを噛みしめています。
 近来の「湖の本」は、いつも後半に「私語の刻」を編成し、かなり好感されていますが、それらは凡てとにかくも「作家の推敲を経た文章・作品」として「著書の内容」を成しています。「ホームペーシ」で日々バラ播いていたものは、下手物だったのです、それは膚寒い実感になりました。
 私は、ほんとうに生涯、独立独歩して成績を遺してきました。いわゆる「同人雑誌」経験は只一度も無く、「グループ」で文学・文藝は成るまい、自分はしないと考えて生きてきました。そしてその生涯ももう残年乏しく、それでも、天上からの「もういいかい」の呼び声にいつも「まあだだよ」と小声で返事してきました、が、「もういいよう」と答えて天上する時は、もはや間近い気がしています。大切な実感です。
 今回の東工大卒数君の深切な「ご好意」嬉しい「お誘い」は、はっきりと「辞退、お断りする」と決心しました。どうか、汲み取って「共用・協同編集」の「ホームページ」への私、「作家としての秦恒平の参加」は「無い」と、ご理解・ご了承をねがい、呼び掛けて下さったご好意に心より新ためて感謝申します。2022 12 14  秦 恒平
 
 * 晩の九時。早暁より以後、一睡もしなかった。おもに「湖の本 162」の「再校」に精出していた。
 * 「協同ホーページ」発議の鷲津くん、柳くん 私の思いを諒解してくれた。
 他に、考えを問うた中に、猛烈に、すくなくも「秦個人で運営のホームページ」は絶対に再開し堅持して、更に更に「展開すべし」と。
 
 〇 みづうみ、お元気ですか。
 みづうみのご意思は変わらないでしょうが、一度でよいのでわたくしの懇願を受け入れてくださらないでしょうか。
 東工大卒業関係者からのお申し出を、どうしても何があってもお受けいただかなくてはならない理由をご説明します。すべては「秦恒平の過去と現在と未来の読者のため」です。整理している時間がないので思いつくまま取り急ぎわたくしの考えをお伝えします。
 
 理由その一 現在ホームページで公開されている「私語の刻」「e-文庫」は少なくともネット上に保存してください。そのために「ホームページの再建は不可欠」です。
「私語の刻」は貴重な「時代の証言」です。たとえば「私語の刻」に書かれている」文字コード委員会、ペンクラブ電子文藝館創設」については、みづうみの書かれたもの以外の資料が世間に存在しません。秦恒平の目指したものを知らない人間が、世間の大半でありましょう。この経緯は、将来の日本文学の、日本文化のためになくてはならないものです。
 この国はいずれ亡びるかもしれませんが、ネット上に公開されつづけるものは、海外からでも読まれます。
 また「e文庫」についても、わたくしの作など真っ先に消えてかまわないものですが、みづうみが「選び」「招待」した作品は是非今のままネット上の公開を続けていただきたいのです。「現在のペンクラブ電子文藝館の惨状」をご存知でしょうか。みづうみが心血を注いだ「招待席」を消滅させています。もちろん作者名、作品名を検索すれば出てきますが、過去の埋もれた名作、問題作を読みたい読者にとっては、選ばれていない有象無象の中から名前も知らないものをどうやって見つけたらよいのでしょう。現在の会員と、みづうみの厳しい文学者の目で選んで招待した作品が、「仲良しクラブよろしくごちゃまぜ」なので、心ある読者は読むべき作品がわかりません。
 私が憤るのは、「招待席を廃止したペンクラブの人間たちの、文学愛の欠如です。傲慢です。自分は招待席の作者たちと同列だと思い上がり、先人たちの仕事への敬意がない。彼らは、読者を甘く見ている。読者を自分たちより下のアホだと思っている。自分が読者には下の物書きだとは思わない。」 「e文庫」だけが、現在でもみづうみの選んだ良質な作品をネット上で読める「電子図書館」なのです!
 
 理由その二 みづうみは「私語の刻」の真価を理解していません。過小評価しています。ひとは自分のことが案外わからないもの、とはいえ、あまりに残念です。
 
 >書きっぱなしの「言い分」を「私語」として「ホ−ムページ」へ拡散するのは、むしろ「危険」行為でした。明瞭に危険でした、十分推敲されていない文章を「文藝の徒」として、怱卒に無責任にまき散らすことになるという実感を、はっきりと、強く得てきたのです。いま、ソレを噛みしめています。
 
 みづうみのお言葉は間違ってはいません。みづうみが十分推敲された完全な作品を世に出したいという文学者としての願いは当然です。
 しかし、「私語の刻」はこれまでのような文学作品ではありません。「私語の刻」は不完全なプロセスとしての、世界の誰も真似のできない「機械環境文藝」なのです。完成品として推敲された名文章が重要なのではなく、発信されたと同時に読む読者がいて、一文学者の完成に向けてのプロセスに共振していく過程に意味のある、これまでとはまったく違う新しいかたちの「文学」です。
  映画監督であり、名演出家でもあったアンジェイ・ワイダの自伝の中にドストエフスキー「白痴」の舞台を演出した際の記述があります。部分的ですが引用させてください。
 
 観客はできあがった芝居を観て私たちを評価するが、私たちはリハーサルのほうに価値があると思っている。結果ではなく道のりだ。観客の皆さま、私たちが事を究めていくその過程を見てくれませんか。退屈で不毛なことになるかもしれませんし、繰り返しばかりで見るのが苦痛になるかもしれません。これはリハーサルという名の未完成の見世物です。観客の皆さんの目の前だから、一つ格好いいところを見せてやろう、などと力む俳優が出てこないことを願っています。もしかしたら、あなた方観客がそこにおられることが原因で、何もかも台無しになってしまうかもしれません。でも私は、まさに今回このような方法がふさわしい、と考えています。私たちの羞恥心、照れ、自己防衛本能といったものを打ち破らなくてはならない、と思います。
 
 リハーサルは見られるのが恥ずかしいかのように観客の目から隠れたところで行われるが、私たち演劇人にとっては忘れがたい強烈な経験となる。とすれば、リハーサルは観客にも興味深いものではないだろうか。舞台をつくりあげる過程そのものが、最終的な結果より重要ではないだろうか。
 
 創造の現場で起こることを観客の目から何一つ隠さなかった。…中略…
 
 朝夕、リハーサル室が満杯になるほど大勢詰めかけてくれたクラクフの観客は、私の問題意識を理解し、私たちの仕事に関心を持ってくれた。たくさんの手紙を受け取ったが、観客が私たちの生みの苦しみをいかに注意深く観察していたかを知ったのはそれらの手紙からだ。多くの手紙に共通して書かれていたのは、一つひとつの言葉、細部を実に辛抱強く真剣に検討しているのに驚いた、ということだった。公開リハーサルによって教えられることがいろいろあったのは疑いない。
 
 観客の前でリハーサルを行なう目的は、芸術的な冒険を試したり、観客の反応をうかがったりすることではなかった。演出家たる者がその孤独な背中の後ろに巨大な観客があるのを感じないのであれば、この職業に就く資格はない。そもそも、観客に提示することができるのは完成した作品、すなわち仕事の結果であり、芸術家が歩む孤独な道筋ではない。
 
 公開リハーサルによって私たちが得たものは何か。孤独になって初めて会得できるような、その人だけの内密の知識や経験といったものであるが、公開リハーサルは間違いなくその一つだ。かねてよりそう推測していたが、今では確信になった。この違いは大きい。それを経験するために、二七夜を費やす価値はあったのだ。
   アンジェイ・ワイダ 『映画と祖国と人生と』 久山宏一、西野常夫、渡辺克義訳 
「私語の刻」と舞台は違うものであることは重々承知していますが、みづうみの「私語の刻」は読者の読む、さながら舞台のリハーサルであり、秦恒平という芸術家の歩む孤独な道筋で、読者にとっては遠回りによってこそ得られる洞察であろうと思います。
 みづうみの「私語の刻」なくして、読者、未来の読者は「湖の本」の一体何がわかるでしょう。
  時代は大きな転換点にいます。すべての芸術は従来のものとかたちを変えていくだろうと思います。現代の芸術家は、おそらくこれまでのようなかたちで作品を発表するわけにはいかない場所にきている。現代音楽の旗手高橋悠二氏も「プロセス」としての音楽の時代の到来を語っていました。
 作者には不完全な道筋と思えるものがじつは成長しつつある完全ではないかと、そう思うのです。
 
 みづうみはわたくしが今年になって「私語」の一部のミスについて書き送ったことを気に病んでいらっしゃるのかもしれません。ここ数年の私語に、みづうみの視力の衰えから誤記等が増えてきているのは事実ですが、その細かいミスのなかにも、人間が老いていくことの真実を読みとり、読者はそれをも愛おしみながら共に生きるのです。衰えはみづうみだけのものではなく、わたくし 少なくとも現在公開されているみづうみのサイトは、リニューアルしたホームページでネット上に永く保存公開していただきたいのです。機械上のメンテナンスを続けながら、永のいのちを生きるべき偉大な仕事だからです。今のホームページのままでは技術的にも維持は不可能でしょう。そしてみづうみの機械が完全に破損する直前までの記録も絶対に公開していただきたいと願っています。
 一読者の勝手な願望と思われるでしょうが、文学と縁の遠いがちな東工大の元学生たちが、業者に頼めば大変なお金も手間もかかる作業をしようとしてくださる、そのことの大きな意味をどうかご理解ください。損得ぬきのアマチュア=愛する人間だから出来ることです。みづうみへの敬愛なくして出来ることではございません。(みづうみは愛されることがお嫌いで、これまでもこのような申し出を数々お断りになっていらしたような印象があります。)
 
 ものすごく急いで書いています。みづうみが正式にお断りにならないうちにと思うので、読み返さず送ります。
 みづうみは世界に一つしかない素晴らしいご自身の文藝を自らの手で破壊しようとしています。間違っています。みづうみのご懸念を考慮したかたちで、新しいホームページ創設について、ご再考を切に切にお願い申し上げます。
 いずれ此のみづうみの「私語の刻」については、きちんとした論攷を書きます。
                           冬は、つとめて
 
 〇 メールが届いたことに、何より感激。この二週間、一日に何回もメールを確認してました。嬉しかった。 
 「共同編集のHP」とはどんなものか、計りかねますが、鴉のこれまでの一貫した姿勢から導かれる解答は分かります。
 多くの人の目に触れる機会、鴉の声を伝える機会があると思えば、それわ手放すのも残念ですが。
 HPと「私語の刻」の相違を思えば、作家として自然当然の姿勢。“終始独立独歩し、いささかもソレを逸れなかった。"のですから。
 
 私の創作であり作品である『私語の刻』は、「ホームページ」とは無関係に独立独行し、それどころか、書きっぱなしの「言い分」を「私語」として「ホ−ムページ」へ拡散するのは、むしろ「危険」行為でした。明瞭に危険でした、十分推敲されていない文章を文藝の徒として、怱卒に無責任にまき散らすことになるという実感を、はっきりと、強く得てきたのです。いま、ソレを噛みしめています。"
 " 私は、ほんとうに生涯、独立独歩して成績を遺してきました。いわゆる「同人雑誌」経験は只一度も無く、「グループ」で文学・文藝は成るまい、自分はしないと考え、生きてきました。"
 鳶は、その志、決意を尊びます。
 それでも、それでも
 "「もういいよう」と應えて天上する時はもう間近い気がしています。大切な実感です。"と読めば、泣きます。
 携帯でメールを書いています。ヘンな文章があったらごめんなさい。
 寒くなりました。お身体大切に大切に。  尾張の鳶
 
 * ウーン。 もう今夜は睡ろう。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月十三日 火           
     起床 5:25 血圧 163-74(71) 血糖値 91 体重 54.6 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ 八代集秀逸 (新古今集 十首)                          * 明けばまた越ゆべき山の峰なれや 空行く月の末の白雲   家隆
 * 立ち返りまたも来て見む松島や 雄島の苫屋波に荒すな   俊成
 〇 家隆歌。  意味取れるが「うた」の美しい「うた声」に聴き入り耳には「ぎくしゃく」和歌の悪しき見本というしかない。。「明けば」の寸づまり、「峰なれや」の舌足らず、下句も思わせぶりの熟さない「名辞のへたな羅列」。とても定家と並んで定家の上座にも在ろという歌人には「気の毒なほどの撰歌」に想われる。
 〇 俊成歌。 これもまた、何と高ぶってしかも低調な硬い語彙の斡旋で「肩の凝る」ような「美しくない」わかであり、俊成の名に自身で汚点を呈している。
 家隆、俊成ともに上の二首では、いわゆる「新古今調」」とやらに毒されている。
 
 * ホームページの成り行きがとても気になる、のだが、私自身はなににどう手をつけるべきか、まだ何も頭に入って無くて自身に当惑する。横文字ばっかりと見える鷲津君からの最初の来信におちついて向き合うべき。いま、したい、している仕事の進行とも調整しなくては。
 今朝は険しいまで指先が冷たい。妻は注射の左腕痛いと謂う。わたは、デモハリ方も首もこったかんじはある、が、これは昨日来、根をつめての機械仕事のせいもある。副作用風の違和は自覚していない、が肩こりは痛い。
 
* 古今和歌集から新古今和歌集まで、王朝八勅撰和歌集からの各十首、「秀逸」ととなえる計八十首を読み味わってきて、明日で果てる。「マルクス・アウレリウス」「ジンメル」と毎朝に読みかつ抄記して「八代集秀逸」へついだのだったが、つぎはと思案していたが明後日に逼ってきた。思い切って、取り組もうかと思案はほぼ出来ている、が。
 
 * 凸版印刷株式会社が得手で自信の例年大カレンダーが、「湖の本 161」の再校出と一緒に届いた。年内に責了、新年初の「湖の本」新巻館となろう、そして「湖の本 162の新編成と入稿用意も着々進行してる。仕事と私語の刻とが老境を強いられた私の恰好のクスリになって呉れる。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月十二日 月           
     起床 6:10 血圧 160-72(52) 血糖値 91 体重 54.9 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ 八代集秀逸 (新古今集 十首)                          * 秋篠や外山の里やしぐるらむ 生駒の嶽に雲の懸かれる    西行法師
 * 冬枯の森の朽ち葉の霜の上に 落ちたる月の影の寒けさ    清  輔
 〇 西行歌。  「や」「や」「や」の重畳と、「し」「さ」「し」の階調の「難」が上三句を粘っこく破損させて、しかも下句との繋ぎを「らむ」の言い切りで塞ぎ、しかも下句の「れる」とまた謂いきったのも、一首の「うた」を無様に重い不自然に押し込んだ。西行の駄歌とまで謂わせてしまう不行儀である。
 〇 清輔歌。 意図しての「の」音の合唱はさして不自然で葉無いが、そのために他多の歌詞を騒がしいコマ切れにしてしまっている。一首に何の美しさも滲み出ていない。無い。             
 * 夜中夢中に繰り返しの口ずさみは、「泣けた泣けた」こらえきれずに泣けたっけ、と、「包丁一本」さらしに巻いて、だった。昔昔にもこんな唄を唱ったことは無いのに。
 
 * 旺然として 私のホームページの復活を、私の東工大教授の頃の元学生諸君が既に数人して技術的な対応対策や加工に取り組んでくれている、何という有難いことか。ただ私の生来の機械バカと近来迫り来る認知度低下で、提案の技術上の本筋を理解しつつ間違いなく運用できるのか、不安も濃い。そこは辛抱良く、むしろ執濃く食いついて「なんかしたいものであります。関わってくれてる皆さんに、心より感謝しています。ワクワクはしています、判る、理解する、実際に出来る、というトコロへ私自身がなんとか歩み寄れねばお話にならないのだ。卒業生諸君は、みな高等な専門技術と理想をも以て動いてくれている。ありがとう。ありがとう。
                             
 * 五度目のコロナワクチン接種を終えてきた。幸い予後に異常は無い。
 
 * 森詠さん、中川肇さん、神奈川県知事、中野和子さん、梅花女子大図書館、無味側女子大図書館等、「湖の本 160」受領の来信。
 中川さんの容態を切に憂慮、平安を切に切に願い祈る。う。
 「斎藤茂吉短歌文学賞」事務局より、受賞者「推薦」の依頼あり。
 
 * 「湖の本 162」編成で、ここ数日、たいそうに「時間」組み合っている。
 幸いワクチン出の故障は無かった、微かに左肩が凝るか。
                                 、
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月十一日 日           
     起床 6:30 血圧 131-70(54) 血糖値 91 体重 55.9 kg    朝起き即記録 
        (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ 八代集秀逸 (新古今集 十首)                          * 秋の露や袂にいたく結ぶらむ 長き夜飽かず宿る月かな    太上天皇
 * きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣片敷き独りかも寝む 摂政太政大臣(良経)
 〇 上皇歌。  朝夜の秋。難議はなにもない、が、内容もうったえる風懐もまた乏しく語彙も平凡な凡歌。「らむ」の中折れ、「かな」の常套。なげやに感じる。
 〇 良経歌。  これはまた抜群の秀歌というに値して、「うた」声は清冽に走っている。上句に「す、し、さ、し」と足早な「さ」行の清音を聴かせ、下句では「こ、か、き、か」と訴えのつよい「カ」行の遡及に無理なく美しく成功し、一首の風情を理想化し得ている。「新古今集」の一面を後鳥羽や定家らとは別儀に完成させている良経。歌人は貴顕の最たる一人、この歌のようには体験としては「寝まい」が、詩人の世界として抱懐する「ちから」を精神に得ている。なまじいの「我意」に執しないから得られる詩境なのだ。            
 * 聖路加病院しきトコロでなんだかタンカをきってるような珍な夢を見てたらしいが安穏裡にまた寝入って忘れた。夜中の手洗いへは三度で済んだ。「マ・ア」はう鰹を貰って、階下へ。私の朝が始まる。体重の藻度が慥か。食欲の戻りと同調している。・
 
 * 朝一に 東工大卒、関西在住の鷲津君から、私のホームページ再建に関して、詳細複雑な「提案」が届いていた。「一読」すら私には難しいいろいろの手順を踏んで成るらしき提案で、なによりも、繰り返し読んで私が「分からねば」ならない。この老耄の機械バカにソレが出来るか、まだ何一つアタマに入っていない。鷲津君の好意がただただ有難いとのみ今は言える。その先は、まさに五里霧中です。しかし救いの手の如きの延びてきた最初ではある、感謝に堪えぬ。
 ただ、ホームページを数人で共有共用というらしい趣旨は、よく聴いてみないと分からない。
 
 * 当尾の、(固有名詞の「忘れ」早さは凄いほど。認知低下を痛感させる。)コーイチ君から珈琲豆を沢山戴いた。
 副えて、「國の有形文化財に指定」されたという本家吉岡邸写真(実父吉岡恒の生家。私も極く幼少來「両親非在」のまま預けられていて、此処から京都の秦家へ「もらひ子」に出されている。秦の母が受け取りに来た日を、かすかに少しく記憶している。)の大きに綺麗な数枚も色々と送られてきた。ふえーッとびっくりの大邸宅が高い石垣に囲われて田園のお城のよう。存在地に託して謂うんら城の名は、南山城とでも。
 べつに、表裏して「奈良笠置歴史自然歩道マップ」が二枚も。この欄外の注意が、霞んだ目で読んで、怖い。絵馬でちっちゃく副えて、「道が荒れている時は引き返しましょう。ルート指定されていても点線(茶)の道は荒れていることがあります。」「マムシ、マダニ、ヤマビルに注意 ! 夏期は(5−10月)は、殊に長袖、長ズボン、上下スポーツタイツ水晶」とシロヌキのマムシ、マダニが漫画風に。怖や。が、視力さえあればこの写真地図は観て楽しめそう。
 その余に、コレが眼目と謂うべきだろうが、吉岡菩提寺とも聞いた「浄瑠璃寺来年の一枚カレンダー」に「住職拝」とあり、
 「今回のカレンダー」は 九体阿弥陀仏の中尊像の胎内に納められていて 明治期の修理の際にとりだされたとされている仏像(阿弥陀仏)版画です。
 十二体一版の印仏(押す形式)と 百体一版の刷仏(刷る形式)があります。また年号の判る仏像版画で日本最古(長治二=一一〇五)とされています。
 多くの人々が版画という形で阿弥陀さまの制作に関わったのだろうと推察しています。                         浄瑠璃寺     住職  拝
 
 * 深く 感謝 感謝。  父についても母についても 為せるまま書き成し終えていて、いまは、関わって何に拘泥も残していない。
 
 * 入浴。明日、五度目のワクチン接種受ける。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月十日 土  求婚・婚約65年                起床 6:30 血圧 153-70(58) 血糖値 91 体重 54.95 kg    朝起き即記録 
    (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)   
◎ 八代集秀逸 (新香金集 十首)                          * 桜咲く遠山鳥のしだり尾の 長長し日もあかぬ色かな    太上天皇(後鳥羽院)
 * あはれいかに草葉の露やこぼるらむ 秋風立ちぬ宮城野の原 西行法師
 〇 上皇歌。  「山鳥の尾のしだり尾の長長し」は、「小倉百人一首」あの柿本人丸の秀歌と聞こえている。それをそのまま持ってきて世・人に見せる、後鳥羽院の傲った性格と謂おうか。遠山桜の色佳さ、山鳥のしだり尾の色佳さをほめた歌に相違ないが、シラケる。
 〇 西行歌。  「あはれいかに」は「出」として陳腐に押しつけがましい。「草葉の露」「野の原」も「露」をダシにしながら陳腐に重複し、くどい。谷崎潤一郎が、西行の名は高いが駄作も多いと喝破していたのをこ思い出す。多作・乱作にはそれなりの難も伝まわり、ソレも承知とする姿勢もあろう。
 
 * 咋零時に侵に就いて夜中五度も尿意に床を起った。それでも、つど排尿に量があって滞らないより心よい。
 
 * 赤飯と、近藤聰さんに戴いた「杉並木」という大吟醸純米酒を、妻は朱盃で、私は井口哲郎さんに戴いて好きな、干支のイノシシを綺麗に描いた加賀の名盃で、一献ずつ祝い合う。
 六十五年前、夕ちかく、真如洞の宏大な山坂墓地を一緒あちこちしていて、付けた見事な黄葉のまだ生き生き美しい一枝を戴いて新門前の家に帰り、裏の茶室に湯を立て、大きな水盤に清水を張り、持ち帰った冴え冴えと黄葉みごとな一枝を横たえた。炉端に盤を置いて、わたしが茶を点て、妻は一亭一客の席にいた。
 茶のあと、求婚し、即、容れられた。美味い茶、佳い釜の鳴りであった。半間の床には十四世裏千家家元揮毫の軸『語是心苗』四文字が架けてあった。
 
 * 天野敬子さんに 甘い枯露柿を、長ァい綱に編んだのを戴いた。それはそれは甘味
美味。四国今治の木村年孝さん、愛媛のじつに美味い、夏蜜柑ほど大きな蜜柑を大きな箱で送って下さる。果実は私の不健康を癒やしてくれる。
  昼食の前後にやや酒を過ごして寝入り、三時に目覚めた。
 
 〇 アコ、マコ君たちは元保護猫から秦家の「こどもたち」に大出世をしました! 幸せな猫ちゃんズだこと。
 大人だけで生活していると、微笑んでやさしい言葉をかけるという機会はなかなかありませんが、猫にかぎらず小さいひとたちがいると、毎日自分が「機嫌のよい人」になれます。幸せとはこういうことかもしれません。
 失礼かとも思いましたが、湖の本、目立つ校正ミスと思われるものを忘れないうちにお伝えしておきます。
 これまでの湖の本には見られなかった類のミスは、一にも二にもみづうみのご視力の問題かと思います。校正についてはみづうみ以外の方の確認が望ましいと思いますが、難しいでしょうか。
 
※160巻P7ですが「毎日新紛」夕刊 という記載がございます。調べてみたのですが新紛という媒体はなさそうで毎日新聞のことかと思うのですが、ご確認お願いいたします。
 
※159巻P145〜146 2022 4/21記載、 P147 2022 4/24記載に、まったく同じ文章が重複しています。
 
 再版のときのご参考まで。
 
 お手製の毛布マントは暖かそうですね。くれぐれも足をひっかけて転倒なさいませんように。ところで要介護認定の手続きはなさいましたでしょうか。どうか一日も早く行政の支援をお使いくださいますように。おせっかい丸出しで申しわけありません。
 お元気ですか、みづうみ。今日も猫ちゃんズと一緒に楽しい一日をお過ごしくださいますように。  冬は、つとめて
 
 * ホームページを送り出しているとミカを警戒してよく読み返すが、それが不可となっているので、゛れににも即はよまれなないと、さながら「書きとめ」のメモ感覚になっているのですね、「湖の本」へ組み替え編成の折に直せるからと。よろしくない態度ですが。校閲は時には書き起こす以上に神経と時間を要するのを、自身へ勝手な言い訳にしています。
 その一方では、「文章』としての精確さも美しさも気にかけ書いてはいるのですが。重複は、困るが、機械と延々組み討ちしているときに、あれこれ露呈するようです。
 
* 十時半に。宵寝から目覚めて此処へ来たが、今夜はこのまま終えて、寝入る気。 
 平和に終えた一日に感謝。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月九日 金
   起床 6:30 血圧 153-70(58) 血糖値 91 体重 54.95 kg    朝起き即記録    
    (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)         ◎ 八代集秀逸 (千載集 十首)                       
 * 契り置きしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり   基 俊
 * 世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる    俊 成
 〇 基俊歌。  「事情」が歌の背後にある。官職官位を求めて今にもと約束されていた気で期待していたのに、「あはれ」また叶わず今秋も過ぎ往いてしまうのか、と。『百人一首一夕話』を祖父鶴吉が旧蔵の本で読み耽った小学生の頃にこれを識り、妙に雑然とした思い出感心できなかったのを、今に覚えている。一首で躓くの「させもが露を命」だが、「さ、せ」に上位・權者、関白ようの人物の、「ま、然(さ)用にも辛抱して(せ)次回好機を一心に待て、わしが何とかしようぞ」など言われていたのだ。
 愚痴も失望も多い平安和歌のうちでも、露骨に俗事・俗情を直に歌って、いやはや、と思ってきた。恋にばかり嘆いていた人種では、やはり無いということ。
 〇 俊成歌。 「世の中よ」「山の奥」の音柔らかな「ヤ行」効果に目も耳もとまる。同じことが「思ひ入る」「鳴くなる」の対似効果に謂えるがまこと効果ありとは感じず、むしろ不調和な「入る・なる」で俊成和歌の底へ硬い感じに当たっている気が、私は、する。ただ「世の中」とはしょせん恋も愛も男女また肉親でなっているぞ、たとえ里でアレ山奥でアレと。、千載集の選者が見識を露わにて見せているよう。「道こそなけれ」を所詮遁れようの無い道と釈るのは却ってあさく、「山の奥」゛すら真情を呼び交わして鹿も鳴くぞと、と、私は読む。それでこそ「俊成・千載」の本領と名とが生きる。
 
 * 此の「八代集秀逸」は藤原定家の撰かと思われ、彼の作は見られない。成立には隠岐に流れている後鳥羽院の意向をうけているとも見られるらしい。トラマ『鎌倉殿の13人』で秀逸の後鳥羽院を歌舞伎の若手が演じていて、後鳥羽院とはこうかと頷かせるが、帝王としてより歌人としての眞実に惹かれる人だ。定家撰と伝える小倉百人一首には實に奈良期の天智・持統をのぞいても、陽成、光孝、三條、崇徳、後鳥羽、順徳と六人もの天皇の作が挙げられてある。「和歌」は平安時代を「物語」以上にさながらに光被していた文學藝術であるのを思えば、皇室の存在の意義は大きい。その伝統は今日なお御歌会初めに生きのびている。
 
 〇 寒い日も、穏やかな日も鴉は書く日々でしょうか。
 これまでのメールを読み返して、どれほど多くの励まし、叱咤激励を頂いたかを噛み締めています。
 どうぞくれぐれも大切に、大切に。
 改めて書きます。  尾張の鳶
 
 〇 秦 先生
 私の高校(栃木高校)、早大の先輩が先代社長だった飯沼銘醸(株)の
 純米大吟醸「杉並木」をご送付申しあげました。
 社長曰わく、「日光の伏流水と厳選した栃木の米で仕込んだ自慢の酒」の由、
 ご笑味いただけましたらさいわいです。
 来年も良い年でありますように。   篠崎仁
 * 努めて、日に二合ほどにと思いながら、多いときは五合ほど美味しく楽に行きます。
 お酒の美味いうちは元気なんだと都合良く思うことにしています。
 ましてお初の銘柄ですと、ついニコッとします。 篠崎様 感謝します。どうぞ 日々お元気においでで在りますように。秦 恒平
 * 役所広司らが演じた『最後の忠臣蔵」が、内蔵助とおかるとの意地を守り育てて立派に嫁がせておいて、十七年にして追い腹を切った。あわれに、佳い画面を呈してくれた、ただ、運者のせりふの聴き取りにくいのは、この作に限らず、日本のドラマに総じて謂える致命的な拙さとつよく訴えておく。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月八日  木  真珠湾奇襲の日                 戰争に負けてよかつたとは思はねど 勝たなくてよかつたとも思ふわびしさ
   起床 5:25 血圧 163-76(55) 血糖値 91 体重 55.55 kg    朝起き即記録    
    (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)         ◎ 八代集秀逸 (千載集 十首)                       
 * 憂かりける人を初瀬の山おろしよ 激しかれとは祈らぬものを 俊頼朝臣
 * 嘆けとて月やは物を思はする かこち顔なる我が涙かな    円位法師
 〇 俊頼歌。  何かと冷ややかにつれないばかりなあの人の、いや増しに、あのはげしい山おろしのようになどと初瀬まで来て願をかけた覚えはないぞ、と、いささか、やけっぱち。「やまおろしよ」の「よ」と字あまりが巧みな「うったえ」に成っている。「下句の露わ」もいと実感めかせて読み手に「利かせ・効かせ・聞かせ」ている。もとより真情というより、むしろ構えた哀訴と私は読んでいる。
 〇 円位歌。  これも、俊頼歌に同然、真情めかした身振り手振りで「かこち」なるポーズを「月」に託してまで演じてみせ、て、それまで。洒落モノ「西行」が余裕の遊びに技巧を用いただけ。と、わたしは「うた」を聴く気で読んだまで。
 
 * どうしても手書きが必要だと、今の私には罫のせまい便箋はむり、原稿用紙を使うしかなく、超早起きしたままキチンで、独り、やっと二通の手紙を自筆した。メールの利く方にはメール使用を許して頂きたく、またメールをなるべく御用いて頂きたい。
 
 * 二通の郵便をポストへと、自転車を使おうとしたら、跨ぐに足が上がらないと判り愕然、余儀なく杖で歩き始めたが、腰の痛みは執拗で強硬、参った。それでもガマンして坂の緩い道をえらんで投函しに行った。帰路、苦痛に耐えて歩いてセームスに向かい、何の定見も無いでたとこ買いして、思ったより重い荷をさげ、脚腰の苦痛を懸命に耐え凌いで帰ってきた。やれやれ。思ってた以上に脚腰、ことに腰の痛みに挫けた。自転車が跨げない、脚が揚がらないのに、動揺した。
 
 * 食欲がもどり始め、体重もめだって増え始めている。怪我しないで恢復して行くことだ。
 
 * 西欧、東欧の抗争・戰闘常態は事に危険なまま、世界化しないで欲しいものだ。「日本」は今ぞ眞に聡くあらねばならい。国土国民の防衛と、戰闘のための再軍備とを「同じ」と錯覚してはならない。
 
 *真珠湾奇襲を私は「京都幼稚園」生として識った。生きながら水雷に掴まり乗り船艦へ体当たりの「九軍神」の報道など、いつまで続くでもない無謀やないのかと子供心に案じたのを覚えている。世界地図があちこちで見られたが、真っ赤な日本列島と、緑のアメリカとみくらべて、内心に勝てるワケがない、勝ち続けるだけの「お金」が足りるのかと思った。翌年春、戦時国民学校に入学の頃は日本は戦果を伝える放送に酔っていたが、わたしは職員室外の廊下に張られた世界地図の前で、友達に向かい日米の国土の広さ一つから「勝てるわけない」と言うて仕舞ったのを通りがかりの男先生に、廊下の壁にブチ当たるほど顔を打たれた。「しもた」と思いつつも、「そやけど」と胸の内で同じことを自覚していたのも忘れない。成らずに済むなら将来兵隊さんには「成りと無い」ずうっと思ってた。思いの蔭に、祖父鶴吉蔵書の一部、小型の『選註 白楽天詩集』の中に強烈な反戦の七言古詩『新豊折臂翁』にいたく感銘を受けたことがある。この感化から、のちのち小説家としての処女作『或る折臂翁』が生まれている。
 戰争にいたらぬように、國も国民も眞実そうめいに「悪意の算術」であるすぐれた外交と外交官をしかと維持したいもの、切望している。
 
 * 真珠湾開戦や八月敗戦塔の日には、私、つとめて関連の映画を観て思いを新たにする。今日は、アメリカで製作しアカデミー賞の映画『トラ・トラ・トラ』を心して観た。
 敗戦の日には『日本のいちばん長い日』で敗戦終戦を反芻・自覚する。ヒロシマ原爆の日には「黒い雨」を観る。沖縄と日本海軍の壊滅にも用意の映像がある。私は「歴史」を忘れたくない。
 
 〇 秦 先生。
 いつもご本をお送りくださり、有難うございます。少しずつですが、読ませていただいております。
 また、159号の「魚潜在淵」に弥栄中学美術部の西村先生のことをお書きになっておられたので、その当時のパンのことを想い出して、懐かしい思いで一杯になりました。
 私は新門前通りにあった先生のお宅は知りませんが、何故か青いペンキを塗った窓の中に、「マツダランプ」と書かれたものがある光景が記憶に残っております。
 それが先生のお宅だったかどうかは不明ですが、その横に細い「ぬけろーじ」があり、新橋通に出ると私の弥栄中学美術部の一年先輩だった堀 泰明氏の家がありました。
 先日、堀氏と電話でお話した時に、先生のことを申し上げると、なんでも、先生の小説の挿絵を描いたことがある、とのことで驚きました。
 来年は八十路に踏み入ることになるので、コロナの事もありなるべく外出を控えておりますが、中学生の昔にタイムトリップさせていただきました。
 なんやかんやとおっしゃりながら、文章を書き、読書もたくさんなさっておられるので、このまま何時までもお元気で、と願っております。 京都 桂    服部正実
 
 * いま、その「抜けろーじ」のことなど書いています。ご近所に「服部さん」という紙函・紙箱など商ってられる服部さん、お餅屋の服部さんがあったように記憶しているのだが。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月七日  水                   
   起床 6:55 血圧 143-72(68) 血糖値 75 体重 55.0 kg    朝起き即記録    
    (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)         ◎ 八代集秀逸 (千載集 十首)                       
 * 思へどもいはでの山に年を経て 朽ちや果てなむ谷の埋れ木   顯  輔
 * いかにせむ室の八島に宿もがな 恋の煙を空にまがへん     俊  成
 〇 顯輔歌。  「うた」一首の思念・音声ともに流暢で、愛誦に堪える。存外に平安和歌と雖もこれが願いかねることは、毎朝の鑑賞と批評とでよく分かる。
 恋い思う真情をよう言いも表しも得せず、伝える術も得られないまま、むざとまるで山ごもりに終始したようなまま、年経て、老いの埋もれ木のように朽ち果てるのか、と。「いはでの山」をたとえ奥州の岩出山としらずとも、すんなり分かる自然さ。秀歌の優と賞讃しておく。
 〇 俊成歌。  自身の「謂い」とはわかるけれども、「いかにせむ」といきなり思案を問われるのは気安くない。室の八島には濛々と煙のたつ名高い池が在る、人も識っている、だから趣意に協賛をもとめて一首が成るのだが、「宿もがな」とは俗っぽくて、何のみょえみなのか解しかねる。一世の師表俊成の和歌として「はだか」に過ぎているのでは。
 
 * 妙な依頼をうけ、思案の内に目覚めた。季節により同じ自国、世界に暗い明るいがある。当たり前なのだろうが、奇妙と思えば思われる。朝っぱらにそんなことを思うわたしが奇妙か。
 
 〇 師走に入り、急に寒くなっています。 
 お元気ですか、みづうみ。咳はのこり、体重は戻らず、なかなか本調子にはなりませんが、しばらくの間の免疫が出来たことを良かったと思うことにします。
 コロナで弱っている最中に湖の本第百六十巻をお送りいただき、肌が粟立つような、文学者の物凄い気迫を感じました。とくに最近の「私語の刻」には、みづうみの疲労感、ご体調不良が色濃く流れています。そんななかで本を刊行なさるとは、どれほどの精神力のなせる業でしょう。粛然としました。わたくしは、「読む」ことでほんの少しでもみづうみにお応えできればと、祈るような気持ちでいます。
 美味しいものを見つけて、暖かくして、みづうみ八十七歳のお誕生月を楽しんでお過ごしくださいますように。コロナには絶対にNOといいましょう。  冬は、つとめて
 
 〇 拝復『湖の本160花筺2 臨谿而魚』をご恵送いただき、有難うございました。八坂神社石段下の地理をとりあげられた「上田秋成の袋町」がとりわけ興味深く、鏡花「祇園物語」に「膳所裏」の表記があったことを思い出しました。今回その由来を教えていただけ、嬉しく存じます。 草々  田中励儀  (同志社大名誉教授・泉鏡花研究の泰斗)
 
 * 宇治「塔の島の夜明け』の写真ハガキが美しく。
 
 * 各大學からも受領の来信続く。
 * 師走なれば「あした待たるるその寶ぶね」忠臣蔵は定番のみもの。今年は真っ先に北大路欣也の内蔵助で、妖艶の「瑤泉院の陰謀」をもう観て楽しんだ。史実を核に籠めてのさまざまな見せ場を連繋させる。作者・関係者には堪らない誘惑で在ろうよ。
 * 古門前の大益に、かるいきもちで、ごく近所のもと有済小学校の見分に校門を入って観てきてくれないかと電話で頼んでおいた。とても期待できない、そもそも有済校はとうに「閉校」されているのだしと期待薄だった、のへ、どさっと、大きな袋にいっぱい記録や資料や沿革や写真などが送られてきた。しかと一見、百点満点にもう百点だせるほど、もう、こと「有済校」に関して知れる『全部』を手に入れた気さえする。
「オッ師匠はん」有難う。感謝、感謝、さらに感謝。
 
 * 視力の衰弱 途方も無く進行している。危うい。
                                                   
◎ 令和四年(二○二二)十二月六日  火                   
   起床 5:50 血圧 153-78(57) 血糖値 75 体重 55.5 kg    朝起き即記録    
    (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)         ◎ 八代集秀逸 (千載集 十首)  (ウカとした失敗で折角の和歌読み文が消滅)    〇 この世にてまた逢ふまじき悲しさに 勧めし人ぞ心乱れし 円位法師(西行)
 〇 難波江の藻に埋もるる玉柏 現れてだに人を恋ひばや   俊頼朝臣       * 円位歌。
 * 俊頼歌。
 
 〇 秦さん 
 今日、下関駅近辺に出かけましたので、ふと思いついて写真撮りました。9番フォームは専ら山陰本線上り列車が停まります。何十年も帰宅のおり眺めている風景。これまで安徳帝はおろか、あの先が小門だとも意識しないできました。
 もっと近くまで行きたかったのですが、訪れたことのない場所、徒歩ではかなりの道のりがあるようでしたので諦めました。ゆっくり時間のとれるときに伊崎神社や小門まで行ってみようと思います。
 図書館や博物館で調べたいのですが、方向も違い時間もあまりなく、すぐにはお役に立てなくて、すみません。
 この駅も海沿いの駐車場も埋立地。古地図にあるように、昔の下関駅は細江にありました。山陽ホテル(旧国鉄経営)に戦時中、母は高女を中退して勤めていました。
 北九州市に住む姉が、小倉にも安徳天皇御陵墓あるよ、と言いますが、脱出伝説はやはり聞いたことがないそうです。小倉には門司・田ノ浦海岸に渡って逃れたのでしょうか。お尋ねの方角とは違いますが。
 何かわかりましたらまたご連絡いたします。
 どうぞお大事になさってください。   緑
 
 ◎ 肌身に伝わってくる「現地感」が読み取れ、アタマも働かせながら読ませてもらいましたよ。
 そちら(下関)は東京よりよほど温かでしょうか。疲れた老体に寒さはこたえますが、その真冬到来の「冬至」に、私、生まれてたらしい。
 それでも少しずつ喪っていた体重も取り戻しつつあります。  
 あなた、どうぞお元気で。  やそしち爺
 
* 背中に力なく、あぐらで坐れずダルマさんのように背後へ倒れる。寝ていた姿勢から立ち上がるのに、アチコチと懸命にモノにつかまらないと起てない。コロナに潰されてきたか。出歩かないのも「弱体」の原因に相違ない。
 終夜暖房していて、今朝は指先が痛いほど冷たい。倚子掛けの膝も冷え冷え。高城由美子さんに頂戴した手編みの厚いショールで庇っている。四六時中、マスクし、指先の出る手袋をし、頭にも妙な柔らかい毛糸編みを巻いている。もう、「京の底冷え」は堪えられまいか。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月五日  月                 
   起床 5:15 血圧 132-77(69) 血糖値 75 体重 55.0 kg    朝起き即記録           (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)     
◎ 八代集秀逸 (千載集 十首)                        
 * 竜田姫かざしの玉の緒を弱み 乱れにけりと見ゆる白露  清  輔
 * 照る月の旅寝の床やしもと結ふ 葛城山の谷川の水    源 俊頼
 〇 清輔歌。 要は「乱れ散った白露」を終始「諷喩」したまでの一首で、譬喩が巧いかどうかに「ご批評を」と、やや得意げに持ち出している。秋風の精のような竜田姫の(わたくしのと加え読んでもよろしく=) 身につけたが「玉の緒」真珠のネクレスで謂うなら、貫(ぬ)いた「緒」ぢから、が弱くて千切れ、真珠のみなが乱れ散った、そんなふうに秋の精の竜田姫の吹く秋風が吹き散らした野辺野原の露の美しさをうたっている。「弱み(弱くて)」「乱れ」「見ゆる」と含みの柔らかなマ行の「ミ」音に無難に「うた」わせている。お上手と褒めおく。
 〇 俊頼歌。   初・二句「照る月の旅」の繋ぎの「の」が鈍い。「照る月に旅寝の床や」が「うた聲」として、自然だろう。「しもと結ふ」は「葛城山」の枕詞という以上にここに謂う「しもと」にもともと「結ふ」に足りて用いられる「細枝」の意味のあるのを読み落としたくない。月明に「しもと結う」ての旅寝に大葛城の「谷川の水」おとが聞こえる・聴ける、と。風情やさしい一首の出方に「照る月の」の「の」躓きが惜しまれる。
 さりながら、ここで、待つ。「旅寝」するのは歌人俊頼ではな、あるい彼と倶に「照る月」自身が「旅寝」していると読める含みがあり、そっちが歌人の懐ひだとも謂えば言えるのを読み落とすまい。
 
 * 今日の女優として、技量も人も、掛け値無く「一」と愛している「松たか子」との愉快に楽しい談笑の夢からめ、早朝には過ぎたが、そのまま起きて二階へ。そしていつもの秀逸「和歌」に接した。
 今日、平安和歌の秀逸といえどもわたくしほどに愛読し鑑賞している、研究者は別としても、「読者」は「いない」に近かろうか。もったいないナと思っている。いうまでもない、私が生まれて初めて接し愛読し暗誦もしたのは「小倉百人一首」であり、同様の人が数少ないとは思われないのだが。
 
 * それにしても相変わり無く連夜も連夜、「うたごえの切れ端」が睡魔かのように唱い続ける。片言を超えない。「潮来のイタ」「オーイ中村」「かーらあす」「ここはお國」「イキなクロ(塀)」「こおこはど(おこ)」「カキネのカ(きねの)」「いッちかけ(二かけて三)」「磯ぉの火ぃ(細りて)」等々、一夜中そんな「一と声」だけが私の「夜通し」を「夢」ももろとも伴奏している。ワケ。分かるワケが無い。
 
 * 私家版本」時代四つの「あとがき」を「わが作家人生のまえがき」と字句原文のまま整えた。二十八歳から三十三歳内の四冊ぶんだが、文章文体そして文学への覚悟、きっちり書き置いていてもじどおりに「わが作家人生のまえがき」そのものに書けている。「作家に成っていった人生」でなかった、「作家という自覚ではじめた人生」だった。ちょっと、我ながら喫驚した。編集しはじめた新しい「湖の本 162」巻頭に置いて、「わが作家人生のあとがき」とし用意したい。
 
 * 「鎌倉殿の13人」は残り散開で終えるという、年内にとならソレしかないと予期していた、が、鎌倉と京都との「承久の激突」をどう描けるか、技術的にも興味津々。
 
 * たしかに昨日、納得して配列した記憶の確かな「連続記載分」が どう探しても機械の中に見つからない。弱ると謂うより腐る。
 
 〇 秦 恒平 様
  この度、又々嬉しく、「湖の本」160号拝受致しました。
有り難うございます。 
 ずっと長く書き続けられるその御気力と御筆力には感動、敬服しかありません。
 楽しみに 拝読させて頂きます。
  取り急ぎ、心からの御礼まで。   半田 久拝    (専攻の先輩)
 
 * 秦さんへ
 〇 臨谿而漁   やっと ここまでたどり着きました
 醉翁亭記 歐陽修
環?皆山也。其西南諸峰、林壑尤美。望之蔚然而深秀者、琅?也。山行六七里、漸聞水聲潺潺、而瀉出於兩峰之間者、釀泉也。峰回路轉、有亭翼然臨於泉上者、醉翁亭也。醉翁亭也。山之僧智仙也。名之者誰。太守自謂也。太守與客來飲於此、飲少輒醉、而年又最高、故自號曰醉翁也。醉翁之意不在酒、在乎山水之間也。山水之樂、得之心而寓之酒也。 若夫日出而林霏開、雲歸而巖穴暝、晦明變化者、山間之朝暮也。野芳發而幽香、佳木秀而繁陰、風霜高潔、水落而石出者、山間之四時也。朝而往、暮而歸、四時之景不同、而樂亦無窮也。 至於負者歌於途、行者休於樹、前者呼、後者應、傴僂提攜、往來而不?者、?人遊也。臨谿而漁、谿深而魚肥、釀泉為酒、泉香而酒洌、山肴野?、雜然而前陳者、太守宴也。宴酣之樂、非絲非竹、射者中、?者勝、?籌交錯、起坐而諠譁者、?賓歡也、蒼顔白髮、?然乎其間者、太守醉也。 已而夕陽在山、人影散亂、太守歸而賓客從也。樹林陰翳、鳴聲上下、遊人去而禽鳥樂也。然而禽鳥知山林之樂、而不知人之樂、人知從太守遊而樂、而不知太守之樂其樂也。醉能同其樂、醒能述以文者、太守也。太守謂誰。廬陵歐陽修也。
(私のパソコンのOSはMACマッキントッシュなので秦さんのWINDOUSにうまく伝わるかどうか心配です)(先ずはカナを振ろうと思っているのですがなかなかです)
 
 有亭翼然臨於泉上者、醉翁亭也。写真を見つけました お送りしてみます(どうもパソコン不具合で心配です)
 千葉も寒くなりました
コロナ・インフルエンザくれぐれもお気をつけください
 転倒(特に”尻もち”)にもご注意ください
 少しですが歩行練習をしています 歩ける」というのは大変なことですね 敬白 
                              千葉e-old 勝田拝
 * 素晴らしい。感服しました。
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月四日  日                 
   起床 6:30 血圧 170-76(52) 血糖値 75 体重 54.0 kg    朝起き即記録           (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)     
◎ 八代集秀逸 (詞花集 十首)                        
 * わたの原漕ぎ出でて見れば久方の 雲居にまがふ沖つ白波 関白前太政大臣(忠通)
 * 思ひかね別れし野辺を来て見れば 浅茅が原に秋風ぞ吹く 道  済
 〇 忠通歌。 「漕ぎ出でて見れば」と上句の要所を字余りにした「うた」効果、まこと絶妙で、一文字、一音としてゆるみない「うた」声の美しさ、歌の巧み。歌の詠めないカシコイ弟頼長を「保元の乱」で圧倒した兄忠通絶対の藝であり、書も良くしたと。
 〇 道済歌。  「思ひかね」るのと「別れし」とに情意の好きが出来ていて「野辺を」も説明、「来て見れば」は拙としか謂えない。下句も、度かで繰り返し聞かされてきたような常套。何の取り柄もない駄歌に類する。
 
 * 「冬は、つとめて」と清少納言は言う。冬の景趣は、雪。しかし、熾こしたての真赤い炭火と、足早にそれを運ぶ女人らの風情に少納言は目をとめている。生活が始まっている。
 
 〇 下関駅9番プラットフォームより小門方面を臨む (14時頃)
 秦さん  今日、下関駅近辺に出かけましたので、ふと思いついて写真撮りました。
 9番フォームは専ら山陰本線上り列車が停まります。何十年も帰宅のおり眺めている風景。これまで安徳帝はおろか、あの先が小門だとも意識しないできました。
 もっと近くまで行きたかったのですが、訪れたことのない場所、徒歩ではかなりの道のりがあるようでしたので諦めました。ゆっくり時間のとれるときに伊崎神社や小門まで行ってみようと思います。
図書館や博物館で調べたいのですが、方向も違い時間もあまりなく、すぐにはお役に立てなくて、すみません。
この駅も海沿いの駐車場も埋立地。古地図にあるように昔の下関駅は細江にありました。山陽ホテル(旧国鉄経営)に戦時中、母は高女を中退して勤めていました。
 北九州市に住む姉が、小倉にも安徳天皇御陵墓あるよ、と言いますが、脱出伝説はやはり聞いたことがないそうです。小倉には門司・田ノ浦海岸に渡って逃れたのでしょうか。お尋ねの方角とは違いますが。
 何かわかりましたらまたご連絡いたします。
 どうぞお大事になさってください。    大庭緑
 
 * 午前であったか午後か、足を速めて寒さが加わるに備え、西棟二階から妻とまさしく「協力」して超重たいパネルヒーターを階段一段ずつ懸命におろし。玄関外の路上へだして、東母屋の玄関から、辛うじて廊下へまで持ち上げた。やるもんだ。だが一つしくじれば大けがに成る作業だった。
 
 * その前後、昭和二十一年敗戦直後、私が満十歳自分に黒澤明が撮っていた原節子主演、兄弟事件に取材の『わが青春に悔いなし』を久々に観た。原節子が賢明の力演、良心的かつ批評・思想作というふさわしい秀作。絶世美貌女優として少年の私も心酔しつ愛した原節子のもっとも若い時季の「力闘」だ、は背景はじつに「イヤな戦時中」だ。「足摺岬」などの先駆作と謂えよう。
 
 * 岩波の「世界」に長編小説『最上徳内 北の時代』を連載させてくれた高本邦彦さん、お洒落にくみあわせて處観も周到に用意の「讃岐うどん」と「信州そば」を下さる。
 和歌山のお久しい三宅邦雄さん珍しい銘柄の清酒二升下さる。写真家近藤聰さんにも「東村山」有難く頂戴した。
 
 〇 臨谿而漁 やっと ここまでたどり着きました
 醉翁亭記 歐陽修
環?皆山也。其西南諸峰、林壑尤美。望之蔚然而深秀者、琅?也。山行六七里、漸聞水聲潺潺、而瀉出於兩峰之間者、釀泉也。峰回路轉、有亭翼然臨於泉上者、醉翁亭也。醉翁亭也。山之僧智仙也。名之者誰。太守自謂也。太守與客來飲於此、飲少輒醉、而年又最高、故自號曰醉翁也。醉翁之意不在酒、在乎山水之間也。山水之樂、得之心而寓之酒也。 若夫日出而林霏開、雲歸而巖穴暝、晦明變化者、山間之朝暮也。野芳發而幽香、佳木秀而繁陰、風霜高潔、水落而石出者、山間之四時也。朝而往、暮而歸、四時之景不同、而樂亦無窮也。 至於負者歌於途、行者休於樹、前者呼、後者應、傴僂提攜、往來而不?者、?人遊也。臨谿而漁、谿深而魚肥、釀泉為酒、泉香而酒洌、山肴野?、雜然而前陳者、太守宴也。宴酣之樂、非絲非竹、射者中、?者勝、?籌交錯、起坐而諠譁者、?賓歡也、蒼顔白髮、?然乎其間者、太守醉也。 已而夕陽在山、人影散亂、太守歸而賓客從也。樹林陰翳、鳴聲上下、遊人去而禽鳥樂也。然而禽鳥知山林之樂、而不知人之樂、人知從太守遊而樂、而不知太守之樂其樂也。醉能同其樂、醒能述以文者、太守也。太守謂誰。廬陵歐陽修也。
(私のパソコンのOSはMACマッキントッシュなので秦さんのWINDOUSにうまく伝わるかどうか心配です)(先ずはカナを振ろうと思っているのですがなかなかです)
 〇 有亭翼然臨於泉上者、醉翁亭也。写真を見つけました お送りしてみます(どうも   パソコン不具合で心配です)
 千葉も寒くなりました
 コロナ・インフルエンザくれぐれもお気をつけください
 転倒(特に”尻もち”)にもご注意ください
 少しですが歩行練習をしています
 「歩ける」というのは大変なことですね 敬白   千葉e-old 勝田拝
 
 * やや酒量も過ぎてか「鎌倉殿の13人」途中から寝入ってしまい、目覚めて十時半。ま、今日は午前午後、よほど集中して疲れ仕事を続けていた。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月三日  土                 
   起床 7:30 血圧 154-72(63) 血糖値 75 体重 53.0 kg    朝起き即記録           (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)     
◎ 八代集秀逸 (詞花集 十首)                        
 * 御垣守衛士のたく火の夜は燃え 昼は消えつつ物をこそ思へ   能  宣
 * よしさらばつらさは我に倣ひけり 頼めて来ぬは誰か教へし   清少納言
 〇 能宣歌。  恋情の熱と切と苦とを「衛士の焚く火」にほぼ直か付けに「託」し「喩」えて 間然するところ無く、いささか癪に障るほど組なのに降参する。
 〇 清少歌。  歌は、原則、その歌一首の表現で感受し理会し鑑賞し批評されてきたが、人情や視線の交錯する場、交際場でのエピソードやドラマを借りて、またはそれに即して表現し喝采されたり非難されたり、詰まりは社交の具に成り期って行くじりゅうというものが、確かにあった、が、それを後生の読者に理会せよは、無道に過ぎる。この清少納言の一首は最たる一つで、本に拠れば、「訪れを期待させた夜、姿を現さなかった男が、後に来たときに、出て逢わなかったら、口説き悩んで、あなたの薄情さを知らされましたとなど、使いの者にいわせてきたので、応酬して詠み与えた歌だと。」勝手にしてろ、ばからしいと私は投げ出す。
 
 * 一頃は明けの五時台に目覚めると起きてしまいたかったが、此のところ、もう一寝入りとまた寝入って目覚めが七時台も半ばへ来る。体調とどう関わってとか、判らない。 四時台でもう白んでいた朝もあったが、今は七時台に成っていて戸外はまだ、ほの暗い。
 
 * もう依るの十時半。よく書いて、よく読み返して、よく手を入れ続けた。すこし元気、戻ってか。
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月二日  金                 
   起床 6:00 血圧 117-56(94) 血糖値 75 体重 53.0 kg    朝起き即記録           (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)     
◎ 八代集秀逸 (詞花集 十首)                        
 * 瀬を早み岩にせかるる滝「川の われても末に逢はんとぞ思ふ  新院御製(崇徳院)
 * 風をいたみ岩打つ波のおのれのみ 砕けて物を思ふころかな  源 重之
 〇 崇徳院歌。  「瀬を早み(を〜み)」は、重之歌の初句「風をいたみ」と同じく「が、ので」と理由付けに読み採らねばならない。「瀬が早いので」「風がきついので」と。崇徳院御製は「歌意」としては「よぎないふたり(われら)の別れ(割れ=一時の破局)も、末には(いつか)また「合い逢おうぞ・逢えるぞよ」と判り良い、が、「うた」の美しい「うたごえ」として下句あたまの「われても」四音が喉詰まりに苦しくて鈍いのが惜しまれる。崇徳院の生涯には幼来「もののあはれ」を覚えていて、この一首にもしたしんできたが、やはり「われても」は一首美妙を躓かせた「割れ(欠け)」とよめて残念。
 〇 重之歌。  發句「かぜいたみ」の字余りが絶妙、「をいたみ岩打つ」と「ア行音」を畳みつつ「波のおのれのみ」と「ナ」行音に誇らかに歌わせて、下句は轉じて「く・けめ・こ・か」と「カ行音」に歌わせている。絶妙の「詠」と聞こえて「うた詠み」の手本のよう、われひとりで成りがたい恋に悩むこの頃よと。「秀逸」とは、まさしく、これか。
 
 * 珍しく八時前まで寝込んで。何と無く一仕事し、次の何と無くを何と無くド忘れして手も出せず。その手の停頓は知らぬ顔でヤリ過ごす事に。
 
 * 午、高麗屋白鸚さんから歳暮の「鶏すーぷのラーメン」を戴く。時季で、なにかと頂戴モノあり、大益貞子さんの各種に調理の「鰻、京都の伊藤隆信さん、大柿と蜜柑をそれぞれに箱で。地元眼科の佐藤千里子先生、帝国ホテルの各種スープを。有難う存じます。
 
 * 住所録への転写記載も大仕事。亡くなった方も●を付して削除しないので、これはどなただっけという氏名もガンコに保存してあり補充して行き、凄まじい人数。幻のように「人生」が浮かび立つ、人様々の氏名と倶に。
 
 * 私家版本四冊の各まえがき・あとがき を取りそろえ点検。私が、今書いてもおかしくない思惟と表明とがほぼ六十年前に則ち多剤省を受けて「作家」として世に出たより五年前にかなり正格かつ精確に既に書けている。 四冊の私家版本は實にこの五年の内に成っていた。いわば疾走の助走期だったと正確にに判る。とりまとめ老いて意味在りと信じる。
 
 〇 謹啓
 冬将軍の足音が近づいて参りました。
『海の本』160号を拝受致しました。毎号壱に有難うございます
表面的で浅い言説の流布する中で、身体感覚の或る深き一語一語に感銘しつつ拝読しております。
 私の師導教授だった大岡信先生が 秦様の適確な御批評の言葉をさんびされていたことを思い出しています。
 明日の日本海側は吹雪くとか。向寒のみぎり、御健やかな日々でありますよう切にお祈り申し上げます。
 日頃の御礼の気持ちを同封致します。送料にも足りないかと思いますが御笑納頂けば幸いです。
 また送付先の「新館153号」を削除頂きたくお願い申し上げます。謹白
   十一月三十日   明治大学 西山春文    八千代市
 
 * 懐かしい極みの大岡信さんの名まで添うて、有難い極みのお便りを頂戴。感謝。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十二月一日  木  師走朔                    起床 6:00 血圧 117-56(94) 血糖値 75 体重 53.0 kg    朝起き即記録           (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)     
◎ 八代集秀逸 (詞花集 十首)                        
 * 霰降る交野の御野の狩衣 ぬれぬ宿貸す人しなければ      藤原長能    * いかでかは思ひありとも知らすべき 室の八島の煙ならでは   藤原実方
 〇 長能歌。  狩り遊ぶうちに霰に降られ、「蓑(=御野)の借り衣」かのように「狩衣(かりぎぬ)」が濡れてしまったよ、「濡れない」で済む「雨宿り(宿)」をさせてくれる「人も」いなくて、と。ほぼ凡常の「ことばあそび」に終始し、和歌の美妙には程遠い。「人しなければ」など、歌い納めの余韻にも情趣にも程遠い。
 〇 実方歌。  「室の八島の煙」が識れないと歌意がとおらない。栃木の方の或る「池」はもうもうと水蒸気を上げると聞こえているのを利している。そんな蒸気か「煙」かが煮えて発散できないかぎり「いかでかは」(=どうにもこうにも)(=かほどにも)「恋い思うて」いるのも「伝えられん(=知らす)」じゃないか、と。勘気のつよい歌い手実方のいらつきが表現としては凡庸。長能の作とともども、駄歌に類する。
 
 * 例の如く なにやら「鉄道」がらみに迷路におちこんで戸惑い重ねる夢であったが、幸いに覚えがない。
 
 * 十二月 師走  冬至、日の、一年中で一等短い日には、八十七歳 やそしち爺となります。呵々
 
 〇 「湖の本 160」有難うございました。
 仙台(「仙台」が、私、好きなのですよ。」とありましたね。)に所用があり、足を伸ばして気仙沼まで出かけていて、お礼申し上げるのが遅くなりました。
 復興の港町では、津波がこの高さまで来たといった文字がそこここに刻まれていました。
震災時に孤立した大島との間に橋が掛けられ、景観に配慮された防波堤も作られ、ぽっかりと空き地のまま残された場所もありましたが、歴史的価値のある古い建物が復元される一方で、斬新でお洒落なお店や会社・個人宅も建てられていました。
平日だからなのか、静かな町の青空がとても眩しく思えました。
  明日から、はや師走。大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」もいよいよ大詰めですね。
コロナの第八波も心配ですが、どうぞお元気でお誕生日をお迎えください。 晴れ
 
 〇  Re: 秦さん お変わりなく お元気でと願いながら。
 メール拝受   尊敬する秦さんから「テルさん、如何」(湖の本160巻 P96)と問われたので、以下なるべく短く拙論を記します。
・ 侵略戦争は引き合わなくなった!!
 他国を武力で攻め、領土を拡げ、人民を従わせて莫大な利益を得る、1次代前はこれが帝国主義国の常套手段でした。ところがある時期からこのパラダイムは変化しました。
 変化の時期は第2次世界大戦後、平均的な世界の人々の意識が向上した事が大きいと思います。例えばアメリカのベトナム戦争・イラク戦争、アメリカ・ソ連のアフガン戦争、プーチンのウクライナ戦争いずれをとっても自国の兵・被侵略国の兵・人民を殺戮し、国土破壊の限りを尽くしても侵略した国に何の利益ももたらしていない事は明白です。
 ・ それでも戦争は起こる!!
 割に合わない戦争ですが、時代遅れの指導者、行き過ぎたナショナリズム、大儲けを企む軍需産業など好戦勢力にに事欠かない国が戦いを仕掛ける現実を否定することはできません。秦さんの「危ないぞ 危ないぞ」は残念ながらもっともと思います。
 仮に侵略戦争を仕掛けられたら当然国を挙げて戦うほかありません。また占領されたら不服従(ゼネラルストライキ・税金不払い・街頭アピールデモなど)が有効な抵抗になると思います。
 ・ 抑止力について
 いま日本はプーチン的侵略に備えて、集団的自衛権・軍事予算の大幅増(5兆円→10兆円)・核兵器の共有化・敵基地攻撃能力の強化などに向かっているようです。
 私はこの方向を助長する人たちに対して大変な不安感を抱いています。ずれも日本をまちがった方向に向かわせるものです。
 ・ 「核兵器禁止条約」について
 湖の本160巻 P96の5行目(=氏名あり読み取れず)の氏名は「サーロー節子さん」です。添付「核兵器禁止条約とサーロー節子」をお読みいただければありがたいです。
 核保有国とそれに迎合している国以外の大多数の国と国民は核兵器根絶を望んでいます。また国家がある限り存在する紛争(例えば領土問題)の解決手段を戦争に頼らない事を求めています。日本国憲法9条を「表札」や「抱き柱」にしたくありません。人類が存続するための必要な指標だと考えています。
 ・ 高みの見物ではない
 秦兄が「自分の思いを可能な限り言い表し、それに責任持っておられること」はすばらしい事です。「防衛は戦力だけはでない」事も同感です。「この国を守る」人材と総合力・覚悟を日本人が持ち続けることがもっとも大切と思います。
 今回秦さんのおかげで自分の考えをまとめられ大変よかったです。
 ありがとうございます。お元気で!!
    2022・11・30 西村明男   (中・高 親友 前・日立取締役)
 
* サイコーに嬉しい テルさんの行き届いての表明。胸を鳴らして読み且つ聴いた。
 
 
 
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月三十日  水  霜月尽                     起床 6:00 血圧 117-56(94) 血糖値 75 体重 53.0 kg    朝起き即記録        (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)     
◎ 八代集秀逸 (詞花集 十首)                        
 * 白雲と見ゆるにしるしみ吉野の 吉野の山の花盛りかも   大蔵卿匡房
 * いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな  伊勢 大輔
 〇 匡房歌。  「ことば」と「おと=声音」と「桜のイメージ」を美しく疊み込んだつもりだろうが、「二,三句」「三、四句」の執濃い打ち重ねは、どう「花の吉野」でも鈍に大仰に過ぎ「和歌の自然」を踏み毀している。
 〇 伊勢歌。  間然するところ無い「美しいにほひ」に「うた声」が耀いている。小混迷化の一つと読み味わいたい。
 
 * 九大名誉教授今西祐一郎さんからお手紙で、古來知られた小野小町の一首、文屋康秀に応じた一首
  わびぬれば身を浮き草の根をたえて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ
の「読み・詠み」にふれ、お訊ねがあった。以下のようにお返事した。
 
 ◎ 逼塞の籠居に 飽き飽きしながら日々疲労困憊しています。
 今西先生  どうぞ お大事にお元気にお過ごし下さいますよう。   秦恒平
 現在、日録「私語の刻」毎朝の最初に,岩波文庫の『王朝秀歌選』の表記を借り、「前十五番歌合」「八代集秀逸」の和歌を、二首ずつ、私自身が「歌人」の目と思いとで「批評」しています。マルクス・アウレリウスやジンメルの「ことば」を掲げていた「続き」です。和歌の読める・詠める現代人はすくないので、趣向として通用しているかどうか、わかりませんが、だからこそと。
 さて仰せの 康秀と応答の「小町の歌」は上の本には出ていませんけれど、従來、下記のように割り切っています。
  わびぬれば身を浮き草の根をたえて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ 
 所詮 康秀の言い分絡みに小町歌の「根」は 本性「諧謔歌」であって、それ以上・以内でも、以下・以外でもない、と。
 核心は、要は、「あらばいなむと」でしょうか。
 「あらば」は、「あれば」と既認・受容の意向でなく、康秀の口から「縣見の誘い」明言を、冗談に類して小町からからかう程に慫慂し誘惑している、「どうせ口先のお誘いでしょうが」と。
 本気で康秀が誘う水(=男・男性)であるならば、「いなむ=行ってあげますよ」  「けれど、要は口先のお誘いでしょう、なら、わたくしは遠い所へなど一緒に等行くもんですか」「いなむ=否む=くっついてなんか行かないわ」 と。
 上の句に、まこと象徴的に「小町」という、所詮は男次第に「わび」た女の「性=生」の放縦と流浪とが「自認」されている、と、そんなふうに私は此の一首を読みまして,且つは、或いは小町を「批評」した誰か、男の、康秀自身かも、の「諷喩」一首かとまで読もうとしています。
 お笑い下さい。  そして、くれぐれも日々お大切に。わたくしはただただ「読み・書き・読書」「創作」に余儀なく亦は幸いに日々没頭して疲労しています。
 指先が痺れていまして、メールで、ご勘弁ください。
 
 * 晩の八時半。昼間は、わきめもふらず、しかも「われの徒然」と自覚しながら長時間仕事。盤の食後に一時間ほど寝入っていた。
 機械へもどっみると、何が何してどうなってしまったか、メール之巡覧に350通もの「受信通知」があり、観れば、それはみなとうに既に受信していたもの。機械の変調、どうにもならず。気にしないで出来る仕事、すべき仕事のみに集中すると。
 
井口さんから、私の送信していたメールは読めているとのメール来信、今日ただいま初めて、それが、確認できた。有難し。とりあえず返信してみた。順調に定着すれば、話し合い安くなるが。
 
 * 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月二十九日  火                        起床 6:15 血圧 117-56(94) 血糖値 75 体重 54.0 kg    朝起き即記録        (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)     
◎ 八代集秀逸 (金葉集 十首)                        
 * もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし   僧正 行尊
 * 大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立    小式部内侍
 〇 行尊 歌。  妙に「僧正」の述懐にしては、イジケた感懐に読める。山深く在るゆえに咲き誇る山桜も、ともに在って花に見惚れる「われ」がことも、誰も見知ってくれない、寂しいではないかと、まるでボヤイている。字・句の斡旋に拙も無く、しかし妙も無い。
 〇 小式部歌。  男の任地丹後へ伴われ都に不在の母・和泉支部の上を「いかが」と問われた娘・小式部が咄嗟の「地口」も巧みに丹後にゆかりの「大江山」「いく野」「テの橋立」とならべて「(踏みて)行ったことも、母からの「ふみ(便り)も」なく、なにしろ「遠くて、よくはわかりませんの」と絶妙、即答の一首。和歌が、かように社交にも自負の表現にも活かされた宮廷社会の空気をも、ありありと今に伝えて呉れる。さすが、「絶世の歌詠み・和泉式部」の、娘よ。
 
 * 朝から、倦まず、あれこれ作業の手をとめず。
 
 * このところ 頂戴モノ數有り、恐縮し感謝している。
    なにともなく心賑はひためらはで文りがたく品もうれしく
    かく老いてやそしち爺と婆の日々を人のおもひに励まされ生くよ
 井口哲郎さん・みごとに丸い山芋  水谷葉子先生・とらやの羊羹  持田晴美さん・美しい手籠の盛り花  山本道子さん・帝も召すと聞くクッキー  富士も佐貴子さん・超珍味の鰻生姜  ロス暮らしの池宮千代子さん・京都出来の最中  鳥井きよみさん・静岡の蜜柑八キロも  井上八千代さん・超愛づらかな酒肴「ほたるこ」 大庭緑さん・赤間の雲丹と外郎と
 
 卑しくて謂うのでない、「湖の本」にも「私語の刻」にも共感して下さり私たち老耄の日々懸命を激励してくださるお手紙であり頂き物なのであって、「市井の作家」として今も生き続け得ている「幸せな老い」よと、ただ嬉しいのである。
 
 * 昨日もお便り・お手紙、たくさん、感謝。順序も無く。
 大正大名誉教授岩淵宏子さん、大冊の新刊『(パンデミック)とフェミニズム』に副えて。 大學いらいの久しい心友・安川美沙さん、 「湖の本」 「今や、1冊の本以上の存在です。お元気にいらして下さい。(秋)をおとどけ」と、豊かに奥深い諏訪大社本宮の黄葉の写真に。 和歌山御坊市から久しいお一人・井領夫さん、ご不自由な手とパソコン300%でよんでいというしりょくとで、大きい原稿用紙に、「老いてますますお元気な文筆活動に励まされていることを一言申し上げ、お礼の言葉とさせて」と。哭く。
 大阪池田市の陶芸家江口滉さん、「秦さんに触発されて、中公文庫日本歴史全26巻(古書)をまとめ買いして、本年六月から読みはじめ、今、七冊目鎌倉時代まできました。ほぼ毎月一冊のペースです。まるで小説を読むようにテンポ良く愉快です」と。にこッとなる.。 都下国立市の久しい安井恭一さん、「いくつなっても智の探究をお続けなさっているお姿には、本を頂く度に、かんぷくしております。私もあやかりたいと思っておりますが生来の怠け者、慚愧に堪えません」と。まあ、お気楽に。 奈良明日香の画人烏頭尾精さん、小作の写真葉書何葉も副えられ、「満九〇歳を迎え、残される時の少なさに日々切々の、感です」と。こころして創作する者には共通の感懐と。大和のまほろば殊に明日香の野や星穹を独特のを朦朧体で印象濃く描かれる。松園、松篁、淳之の「松伯美術館」から、また高麗屋松本幸四郎一党の公演案内も。神戸松蔭女子学院大学から受領の来信も。
 さびしいことだが、「湖の本」創刊から36年余、久しい身内同然の方の訃報にも接しねば成らない。
 
 * 夕刻、腹痛に吐き気が来て異様に不安、すぐ乳酸系の腸薬と「ザ・ガード」を服して睡眠へ逃げ込んだ。さめて恢復していた。ほっとした。
 
 〇 お元気ですか みづうみ。ご心配いただきありがとうございました。
 昨日でやっと隔離期間が終わりました。感染させる心配がなくなりほっとしています。
 高熱で二日、熱がさがると今度は咳込んで 二日ほどはろくに眠れず、かなり体力消耗しました。 以前パリから持ち帰ったインフルエンザよりほんの少しましでしたが……。
 初めての経験だったのは、ものの味が奇妙に変わったこと。コロナで味覚嗅覚がなくなるという話は聞きますが、そのバリエーションでしょう。しばらくは水を飲んでもうっすら塩味を感じました。食欲がなくて、なんとかラーメンでもと作りましたら塩辛くて食べられなかったのには驚きました。ラーメンの味が、まったく別ものになるのです。お蔭で、人生最低体重になりました。幸い味覚は復活していますが食欲はもどりません。
 声を大にして申し上げます。感染しないのが一番です。
 この冬、とにかくご用心ください。インフルエンザの流行と重なると、体力の落ちた方には危険だと思います。無症状、軽症のかたも多いというのに、自分が使い物にならない一週間を過ごしたのには がっかりでした。  
 寒くなりました。どうかご無事に、お元気に来月のお誕生日をお迎えくださいますように。  秋は ゆふぐれ
 
 * 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月二十八日  月                        起床 6:00 血圧 117-56(94) 血糖値 75 体重 53.4 kg    朝起き即記録        (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)     
◎ 八代集秀逸 (金葉集 十首)                        
 * 音に聞く高師の浜のあだ波は 懸けじや袖のぬれもこそれ     一宮紀伊   * もろともに苔の下には朽ちずして 埋もれぬ名を見るぞ悲しき   和泉式部   〇 紀伊歌。  「音・高」「真/・波」「波・懸け」「懸け・ぬれ」と「縁」の語彙を不自然で無く連繋して「うたごえ」を仕立て「こそすれ」の強調に、ムリをさせていない。しかも「懸けじ」「あだ」「波(なみだ)」「濡れる」とも、苦しい恋路の難渋が巧みに「悲しまれ」ている、「うたう」技巧は妙と謂うに足る。
 〇 和泉歌。  恋しい人には死なれ、倶に土の下に眠りもならぬまま、此の憂き世にあだな浮き名ばかりを流して生き残った悲しさよと。実意もこもってうけとれる、が、「朽ちずして」とやや息苦しく寸をつめたのが惜しまれる。
 
 〇 吾(あ)が生まれ吾が失する日も吾亦紅われの狭庭(さには)に咲くとも無けむ
 
 * 昨夜の『ドック』をもう一度観た。しっかり描いている。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月二十七日  日                        起床 6:00 血圧 136-67(69) 血糖値 75 体重 53.4 kg    朝起き即記録        (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)       ◎ 八代集秀逸 (金葉集 十首)                          * 濡れぬれもなほ狩り行かむはしたかの 上毛の雪を打ち払ひつつ   源 道済 
 * 思ひ草葉末に結ぶ白露の たまたま来ては手にもたまらず      俊  頼
 〇 道済歌。  どんなに濡れようがと謂うのを「濡れぬれも」はあまりに,拙。「なほ狩り行かむ」も同断だが、下句へかけて「はしたかの上毛の雪を打ち払ひつつ」は、降る雪を被た小さめに機敏な鷹を手に、颯爽の美しさ。上初句を敢えて字余りに「濡れもぬれてなほ」と続ければナと惜しむ。三處に鳴りかわす「か」音の韻致も美しく利いているだけに「ぬれぬれも」の鈍が憎まれる。「な」行音は粘り「か」行音は澄むのである。「うた」は言葉の「意味」の選択できまる以上に「音の鳴り・ひびき」で美しさへ映えて行く文藝と識るべし。「字あまり」を巧みに用いる勘のよさもまことに大切。
 〇 俊頼歌。  「思ひ草葉末」と名辭をいきなり拙に継いだ重苦しさが一首をいきなり鈍いものにした。下句の「たまたま来ては」も俊頼ほどの歌詠みに見たくも聴きたくもない。
 
* ひどい夢を見続けていたとおもうのに切れ端も思い出せずに済んでいる、有難し。
 
 * 毎朝の古典和歌を対に批評し鑑賞しているのは、私にも初のこころみだが、一歌人と少年らい自認してきた「實」を自身に問うて確かめているのです。読者には歌人も多い。ご批判を受けたい。
 「歌」が美しく正しくうたえるなら、「散文」もそれなりに、きちんと書けるはず。「意味」より先の「音」への感性・美意識が大切とかんじている、「文・藝」家として。
 
 * 見失い、探し回って苦心惨憺の原稿を機械の奥から探索・保全した。ホッとしている。
 
 〇 お元気ですか。近くの色付いた大きな楓を観ると、背景が全く違うけれど、古都京都 嵐山や東山の辺りが懐かしく、もう帰れないかも…
 最晩年
 ノンビリと過ごしています
 大学生の独り息子がいる娘家族と同居なので話相手がいて淋しくはないですが、コロナ騒ぎ以降ご近所との立話も無くなりました。
 今や週二度のマスクを掛けてのデイサービスが唯一他人と話す機会かな ヤレヤレ 
 お元気でお過ごし下さい。 又…  花小金井 千恵
 
 * 大相撲、阿炎の優勝相撲となった。貴景勝、高安、阿炎の三つどもえ戦、予想通り。横綱不在、貴景勝のほか大関のふがいなくみっともない土俵に、本場所、煮え切らなかった。新鋭が優勝したのが、せめても。
 
 * もう霞みきった視野では何とも成らないが。『鎌倉殿の13人』と『ドック』とは見たい。昼間には「クリント・イーストウッド」らの宇宙飛行ものと、ゲリー・クーパー」の西部モノを観た。前者は素晴らしく、あとのは駄作であった。
 
 *『鎌倉殿の13人』 実朝の討たれを観た。義時はさらに剛強に悪相を帯びてくるだろう,後鳥羽院は泡を食うだろう。もう四回ほどで、承久の変へまで行けるか。
 
 * とはいえ、仕事もシコシコとよくした。籠居を強いられているお蔭ですが。
 もう雑踏の街なかでもマスクをしなくていいなどと、政府・厚労省。そうい弛みでズルズルと何年もをコロナと付き合ってしまう。このところ不良大臣三人四人にも更迭辞任。岸田内閣のていたらくに、ほとほと惘れる。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月二十六日  土                        起床 7:40 血圧 140-73(79) 血糖値 75 体重 53.3 kg    朝起き即記録        (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)       ◎ 八代集秀逸 (金葉集 十首)                          * 夕されば門田の稲葉おとづれて 葦のまろ屋に秋風ぞ抜く  大納言經信     * 淡路島通ふ千鳥の鳴く声に 幾夜目覚めぬ須磨の関守    源  兼昌
 〇 經信歌。  「おとづれて」に微妙な魅力が籠もる。「秋」の、「風」の、そして「音」のとも、ふと読みふと聞いてしまわせる。そのすべてが「葦のまろ屋」という佳い「うた声」を誘う陋屋での感触であり風情だ、百人一首の中でも屈指の秀歌と愛され、私も。むろん「夕されば」は「去れば」ではない「来れば」の古語である。
 〇 兼昌歌。  これほど「名辭」を巧み勝必然に多く用いて堅苦しさに落ちず、警戒にも精微にも美しく歌いあげた和歌は、決して多くない。美しく胸にせまって「鳴」いているのはただ「千鳥」だけでない、むしろ和語、日本語が秘めもった「うた」声なのだ、和歌の秘蹟を絶妙に保ち湛えて、耳に、胸に、こころよい「うた声」をとどけてくる。読みそして聞いているものがそのまま「須磨の関守」と化している。抜群の秀歌である。
 
* 或る 「出先」で實に不愉快な目に遭い、また實に不都合なモン無しで見知らぬ遠路を帰らねばならない夢、で目覚めた。出遭うヤツが尽く化け物のように不快・不愉快だった。イヤな相手は集団で、何者らであるのかも判っていた。こういう下地も自分は永く秘め持ってきたんだなと情けない困惑刊が醒めて残っている。やれやれ。
 
 〇 ありがとうございます!
 1999年2月3日の項を読んでいました。『迷走』を送ってくださり、文字コード委員会の始まった頃です。    
 私からのメイル、スマホに変えたら件名表示が出来なくなりました。
 読んで頂けてよかった。
 私語の刻、ありがとうございました。
 当尾の(吉岡本家の)写真は岩田さんのお知らせに 2枚添付してありました。有難いことです。
 先ほど書きそびれましたが、前号に、脇明子さんとご連絡ついたのを読んで、とても嬉しく安心しました。
 コロナはやはり感染力強いですね。私も気をつけます。どうぞくれぐれもお大事に。
 ありがとうございました。   下関  緑
    
 * 朝いちばんに、こころよいメールが読めて、思いも和んだ。感謝。
 
 * 私には「作家」として立つ以前十年近くに四冊の「私家版本」があった。それらの作は相応に、後年、単行本にも「選集」「湖の本」にも新ためて収録されているが、昨日、それら私家版本の「まえがき」「あとがき」を読むと、まことに若い気概と文体に、テレもし、らため襟を正す心地にもなった。゛、妻に頼んで機械へ書き込んで貰っている。「作家」で荒うとの「志気」は、私史資料として遺すに足ると自覚できたから。
 そういえば太宰賞受賞式の選者代表で話して下さった中村光夫先生のお話の中でも、私の何も知らない場で受賞への対象とされていた「私家版・清經入水」本の「あとがき」に触れても話して下さっていたのが懐かしく嬉しく思い出せる。
 
 * おもえば無数にといえるほど私は「あとがき」を単行本にも選集にも湖の本にも書いてきた。ふつう人サマの本でも「あとがき」はきっと読むが、後は切り落としたように意識の外へ置いてきた。しかし、私の場合、そういう「まえがき・あとがき」衆がほんにでもなれば、それなりの「よみ
もの」にはきっとなっている気がする。だれよりも私自身がそんな本を「読んでみたい」気がする、そんなヒマはもうないのだけれど。
 
 * 最初期四冊の私家版本『懸想猿 續懸想猿』『畜生塚 此の世』『斎王譜』『清經入水』のまえがき、あとがき、妻の機械書き作業が済めば、ここへともあれ保存記録しておく。
 
 * 「懐かしい先生方」十五人の思い出を書き上げた。こういう手土産を持参して「もういいかい」と天上から誘ってくる人らのもとへ帰って行く気だ。「まあだだよ」
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月二十五日  金                        起床 6:10 血圧 136-68(66) 血糖値 75 体重 53.4 kg    朝起き即記録        (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)       ◎ 八代集秀逸 (金葉集 十首)                          * 山桜咲き初めしより久方の 雲居に見ゆる滝の白糸     俊  頼      * 夏の夜の月待つほどの手すさびに 岩漏る清水幾結びしつ  基  俊
 〇 俊頼歌。  「久方の雲居」という手垢の安直、「初めしより」もたんに説明で安直。「山桜」と「滝の白糸」の組み合わせも意図不明、駄歌と受け取るのは私の不明だろうか。 
 〇 基俊歌。  「手すさびに」といった平常語が所を得、実感と組み合うて「夏の夜」の涼しげに楽しい風情、流石に基俊と賛同した。
 
* 夜中一度強烈にイガラい唾液に鼻腔も衝かれた、いつも用意の服薬で遁れた。手洗いへも例の何度も通った、都子へ戻ると闇のそこで、いろいろと数えたてる、中学時代の友だちの名を数えたり、有済学区の町名や医家の数や、諸方の「ロージ」などを思い出している内に寝入る。寝入れなくて困ることは、無い。もう慣れるしか泣く慣れているがメイワクは、尿意で手洗いに起つ、多い夜は数度も。しかし尿は出た方がいいと思っている。
 
 * 学校時代に、慕わしく深く感謝した「先生」方が十三人と私に聞いて、妻、「沈黙」。
 何の過剰も加上もない、私には眞実で、心より今も喜び感謝している。実意のままに書きとめて置いた。読まれれば、どなたも頷いて下さるだろう。
 有済国民学校・小学校で。  吉村先生、寺元先生、中西先生
 弥栄中学で。  釜井先生、小堀先生、給田先生、高城先生、佐々木先生、西池先生、         橋田先生 
 日吉ヶ丘高校で。  上島先生 岡見先生
 同志社大学・院で。  園先生、金田先生
 
 〇 ご無沙汰しております。
 昨日「湖の本」受け取りました。ありがとうございます。
 ウニ届いててよかった、安心しました。
 迪子さんはお元気ですか? お疲れでしょうか。
 メイルは通じるのだと気づいて打っています。
 先週土曜日に岩田孝一さんより吉岡家主屋の文化財登録のお知らせがありました。こういうとき、おめでとうございます、になるのでしょうか? 嬉しいお知らせですが、維持していかれるのは大変だろうなぁとも思います。
 ちょうどその日、ずっと以前に印刷しておいた「生活と意見」を最初からじっくり読み始めたところでした。自分がちっとも勉強していない、何もわかってない、とあらためて感じます。
 この夏にようやく「魅せられたる魂」を読んで友人たちにも薦め、いままたゆっくり再読しています。
 他には「日本の歴史」第6巻 「能の平家物語」など。並行して読むのは苦手ですが、ときどき試してます。昨日は「風にそよぐ葦」 伊藤野枝集を買いました。
 今回のご本、非常なお疲れのご様子ばかり、心配になります。いまは、少しは、快復なさってるでしょうか? 夏に向かうときに食欲のなかったのは相当にお身体にこたえたこととおもいます。
 どうぞどうぞ、お薬と思って?それも辛いでしょうけれど?お口に入りそうなものは何でも召し上がってみてください。
 くれぐれもお大切になさってください。お願いいたします。
 迪子さんもどうぞお大事に。
 来週から急に寒くなるそうです、お身体に障りませんように。 下関   大庭緑
 
 * 真夜中と信じて寝入っていた。宵の八時だった。私の体感時計は狂っている。ほかにもあれこれ狂っているのだろう。老いを生きるある意味良薬を服しているのかも。
 
 * 十時。もう、やすもう。
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月二十四日  木                        起床 7:10 血圧 147-68(81) 血糖値 75 体重 53.4 kg    朝起き即記録        (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)       ◎ 八代集秀逸 (後拾遺集 十首)                         * あらざらむこの世のほかの思ひ出に 今一度の逢ふこともがな  和泉式部
  * 沖つ風吹きにけらしな住吉の 松の下枝(しづえ)を洗ふ白波  經  信  
 〇 和泉歌。  思ひ出(いで)に 今一度(ひとたび)の と「い」音の落ち着いた字余りが「絶唱」にちかい美しい「うた」を奏でる。始終は逢っていない、いや、これまでに胸とどろくただ一度の「逢い・愛」があっただけとも想える。だからこそ、「この世のほか=あの世で」の宝に同じい伊思い出に、せめて「もう一度の逢瀬がふみたい」のだ。泉式部ならではの実意に満たされた秀歌。
 〇 經信歌。  「けらしな」はすこし喧しい、あら波ゆえにとゆるすにしても。景観歌として尋常の域にあり、それ以上では無い。
 
 * すこし元気の無かった「アコ」が、鰹の利きか、恢復。安堵。
 
 * サッカーの国際試合に勝ったとかどうしたとか大騒ぎらしいが、関心の遠い外に。もうスポーツという遊び楽しみとは圏外へ出てしまった。詮無いことは詮無いことと処置している。体力も余力も無い。「読み・書き・読書」そして「創作」に、否応なく、徹しうる限り撤していたい。余は、寝たければ寝てしまう。外出したいが、まだまだ感染が危ないと。有婦無ければ近寄らない、老境、当然のこと。
 
 〇 秦様 お身体の調子がお悪い中の力作、嬉しく拝読させていただいています。
 また先日、頂戴いたしました平家物語のご本も少しづつですが、毎日読ませていただいています。注釈の丁寧な本をご選択、ご配慮いただきましたおかげで、身近く読ませていただいています。
 謡本にも、気付かされることや、独吟の楽しみも増えました。嬉しく感謝申し上げます。
 また先日は新たに、「湖の本」『能の平家物語』を賜りありがとうございました。お稽古仲間の方が、丁寧に読んでくれているようです。
 寒暖の差が激しい昨日今日ですが、迪子さま共にお体お大事にお過ごしくださいますように。    持田晴美  妻の親友
 
 * 花筺ご持参で玄関まで見えるというので、私が近所まで出て、路上失礼して帰って戴いた。
 
 ◎ コロナが「空気感染」へ大きく移行し、用心をと、報道も知人も知らせているときなので 対話と接触を辞退しました。読者たちの家庭でも、あっという間に家族が全員感染という例が重なってきています。
 迪子も私も基礎病変があり、このところ疲労困憊していますので、あえて失礼致しました、お察し下さり、お許し願います。建日子の帰宅も 断っています。
 来春までは用心に用心と、警戒しています。
 お花筺を有難う御座いました。  
 くれぐれも慎重を極め日々ご用心下さいますよう。わたくしは「読み・書き・読書」に徹しています。ことに、今こそ「読書の秋」と。
 
 * 『わが徒然草』を赴くままに、それでもそれなりに一月後には八十七歳を迎える心境で、書き置いておきたいモノを書き流している。それも良しと。
 
 〇 拝復『湖の本』160 お送り賜り、まことありがとうございました。ずっと頂戴しておりながら、御礼も申し上げず、まことに怠惰の至り、おわび申し上げます。
 巻頭近くの秋成にふれた御文章とてもなつかしく拝読し、また私の名も出して頂いているこしに、改めて感謝申し上げます。
 思えば、秦さんや高田衛さん等の、熱狂的な秋成贔屓に導かれて、私は秋成研究を進めてきたのでした。感謝あるのみです。
 コロナ再燃、どうぞご自愛専一に。 敬具  長島弘明  東京大学名誉教授
 
 〇 拝復『湖の本』160拝受、恐縮に有難うございます。
 親父が智恩院に縁が深く(元 仏教大学学長)、私は玉木里千代、里春姉妹健在のころは、いつも如月小路の「玉木」に泊っていました。また京都一中時代の友人が、白川界隈に住んでいた縁もあり、膳所裏にも知った飲み屋がありました。そんなことで,あの辺の地名だけでも懐しく をひろううに拝読しております。
 来月一日久々(三ヶ月振り)に京都に参ります。
 鳩居堂の娘の一人、元『毎日』今「淡交社」の山男の孫、元京都新聞の文化部長の忘年会で会って帰ります。
 一九二六年生まれなので迷惑だけはかけないよう帰りの新幹線に乗るといつもホッとします。ひして小田原で降り、湯本で一服して、東京へ。
 古典に親しまれる尊台にに敬服しております。  目白  稲垣 真美  作家
 
 * せいぜい佳い老境をお怪我なくお楽しみありますように。
 
 * 「九十を過ぎましたが、まだまだ元気で、自転車を走らせて買物にもいっております」と評論家の平山城児さん(元・立教大学教授)。お怪我有りませんよう。
 
 〇 早大図書館、水田記念図書館、文教大国語研究室からも「受領」の来信。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月二十三日  水                        起床 6:30 血圧 135-63(65) 血糖値 75 体重 53.55 kg    朝起き即記録        (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)       ◎ 八代集秀逸 (後拾遺集 十首)                         * 契りきなかたみに袖を絞りつつ 末の松山波越さじとは      元 輔
  * 恨みわび干さぬ袖だにあるものを 恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ  相 模
 〇 元輔歌。  泣きながら涙の袖を絞って約束を交わしたでないか どんな。荒波も越え得ないあの「末の松山」のように、互いに愛を喪うまいと。「契りきな」と、元輔という男の、女に背かれ嘆いているていが可笑しくもおもしろく読める。巧いと言おう。
 〇 相模歌。  恨んで泣いて涙に袖も朽ちそうな上に、この情けない恋の浮き名ゆえにわたしまでよからぬ噂に塗れてしまうとは。「袖だに」と濁音を二つ混ぜたうっとうしさが一首に生気を添えているのが、これも巧いと言うておく。
 
 * 目覚めて。起きて、キチンで独り、黒澤明の『夢』に、驚嘆し深々と胸打たれた,名品、それも凄いほどの批評をはらんだ、謂わば地球と人間を含む生物の壊滅を示唆する美しい映像での「悪夢」の連累であった。身動きも成らぬ懼れと同意・共感に吸い込まれていた。あるいは黒澤監督作品として最高傑作の「批評」「意志の映像」であろうと。
 
 * 昨夜には、一昨夜の『秋日和』についで、同じ監督作品・原節子主演『麦秋』に親和の思いを快く持ったが、今朝の黒澤明監督映像の『夢』の批評には、まるで心身凝固してしまうほどの痛切に 聲なく呻いていた。黒澤の最高作かとまで惹き込まれた、つづけて二度観たのである。
 
 * 「湖の本 161」にながい「あとがき」を書いた。作家は他の作家をどれほど見知っているだろう。自身の視野をやや別角度から覗き観た。
 
 〇 「湖の本160」をありがとうございます。
 あとがきにあった「大学」の理より「静かという美しさ」の煌きの方が 私にはしっくりきました。  都下  野路
 
 * 感謝。
 
 〇 秦先生 湖の本#160 拝受しました。
 頁をめくり、日々の活動を根気よく記録されているご様子に触れて、お前も負けずにやらねばと鼓舞されているようです。有難うございました。
 ご案内を差し上げました今回の企画展「懐かしく、美しい明治の水彩」展の準備中、18、19の金曜日と土曜でそれまでの画廊展示作品を全て片付けて、代わりに水彩画60点ほどを陳列したのですが、若い頃と同じように全て一人でやり通したことが身体に跳ね返りました。土曜の夜から腰が痛くなり、日曜からは痛みが左足首の方へと移動。夜には寝られない痛みに苛まれました。
 そういえば10月に作品の展示替えをした時にも同じようなことを経験していました。
 騙しだまして、火曜日の展覧会オープンを迎えましたが、昨日の夜も痛みであまり寝られませんでした。家人からは筋トレをしていないからと諭され、これからは筋肉を鍛えなければと反省しています。
 ほとんど客の来ない画廊でパソコンに向ってする仕事はこれまで通りに出来ます。来春発行予定の「星野画廊創業50年史」の原稿もボチボチ準備しています。
 そろそろそちらにも今回の展覧会図録が届く頃かと存じます。ご笑覧ください。
 奥様にもよろしくお伝えください。  平安神宮前  星野画廊
 
 〇 湖の本 160  花筺はなかたみ2 臨谿而魚  ご恵送賜り誠に有難うございます  160号!おめでとうございます
 パソコンで秦さんにお逢い出来て 20号くらいから本棚に並べて喜んでいたのを思い出します。
 臨谿而漁 たににのぞんですなどる
 中身はそれだけではない筈でむづかしいです 
 それだけさ と言われそうですがたのしいです
 ゆっくり遊んでいたいです
 遊んでください
 コロナにもインフルエンザにも負けず 元気を出して頑張ります
 くれぐれもお大切にされてください   千葉   e-old 勝田拝
 
 * 感謝。
 
 〇 秦恒平様  お元気のご様子で何よりと存じます。昨日、『湖の本160』をいただきました。変わらぬご厚意に感謝します。本日、仕事の前に拝見しました。
 多くの方々との交わりの中で、充実したご生活を送っておられることをお慶びします。 秦さんの生活感慨、読者の方々の感想と生活報告ーーコ・サミョン夫人などーーを貴重な報知と受け止めて、感謝しております。
 私は毎月、違ったテーマの講演を種々の団体から要求され、講演の原稿化などに追われて、忙しく生活しております。ありがとうございました。平安をお祈りします。
                  国際キリスト巨大学名誉教授  浩
 
 〇 秦 兄  湖の本・第160巻おめでとう。そしてありがとう。
 当方 元気にしています。 近況詳細は改めて後便で。 京・岩倉  辰
 
 〇 秦 恒平 様  「湖(うみ)の本 160 花筐 はなかたみ 2 臨谿而漁」を拝受しました。
 コロナ第8波で感染者が増えています。感染力は強いが重症化率は低いと言いますが、高齢者にとっては矢張り脅威です。くれぐれもご自愛のほどを!
  令和4年11月23日 勤労感謝の日に  靖夫 拝   (妻の従兄)
 
 〇 メール嬉しく  
 雨の朝 セントレア空港まで迎えに行って来ました。これから5週間、家族が増え 多忙の日々です。
 元気です。安心あれ。鴉こそ、大事に、元気ですごしますように。 
 改めて書きます。  尾張の鳶
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月二十二日  火                        起床 6:00 血圧 138-66(75) 血糖値 75 体重 53.0 kg    朝起き即記録        (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)       ◎ 八代集秀逸 (後拾遺集 十首)                         * 明けぬれば暮るるものとは知りながら なほ恨めしき朝ぼらけかな   道信朝臣
 * 今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならで言ふよしもがな  左京大夫道雅
 〇 道信歌。  夜を籠めての愛樂の、朝ぼらけで終えるのを惜しむのに、どうせまた日は暮れて呉れるけれどもと、持って廻っての「思いつき」得意で、実情としても真情としても浮ついた「うた」に過ぎない。
 〇 道雅歌。  あなたとの恋はもう諦めますとつれない相手に、せめて直かに告げたいと。いわば、やはり「思いつき」に鼻のうごめく自慢歌で、「和歌」が軽い薄い遊びの浅瀬へただ浮いている。
 
 * 亡き井上靖さんに関わりの数百人もの会合に出ていたが、一時間余も何事も始まらないので独り失礼して会場を出てきた。蹴上げのホテルだったような、三條らしい広道を降ってきたような、もう白川筋のような気がしたが、目が覚め、そのまま起きて二階へ。相変わりない井上さんの賑わい会と思えたが,何事の会とも誰も知ってないようで雑然と手持ち無沙汰な会場だった、だが「井上靖」の会に違いなく、私は背広の胸に縦書きの大きな名札を貰っていた。名札をつけた人はほかに誰も観なかった、肩をすりあわせるほどの雑踏に,一人も識った顔がなかった。親族の控えのような場へ「失礼します」とアイサツによると、不思議にも、当然ながらよほど老いられて奥さんがおられ、しばらくハナした。一緒に中国へ行ったこと、「息子のように思っていた」などと、にこにこそばの人たちにも話されていた。
 
 * 井上靖夫妻を団長に中国へ心弾んで旅したことがあった。年配の井上夫妻はもとより、巌谷大四さん、伊藤桂一さん、清岡卓行さん、辻邦生さん、大岡信さん、みなさん、とうに亡くなって、うぶな若輩だった私独り生き存えている。もう何十年にもなり、。懐かしい。当時の中国では、毛沢東が亡くなり 周恩来も亡くなって、周首相夫人のトウ・エイチョウさんが副首相格、人民大会堂議長として吾々一行を迎えられた。「秦恒平 チン・ハンピン」とそのまま中国人の氏名と読める私の名に、「ハタ先生は、お里帰りですね」と諧謔の笑いも湧いた。当時、四人組が追放されたばかり、中国全土がまだ激しい大字報(ビラ)で溢れていたが、各地で「熱烈歓迎」してもらえた。残念ながら、老耄、多くの「名前」がもう思い出せないのは情けないが、何を見て、何に驚き、どう感激したか、アレコレの対話・会話などはくっきりと覚えているのである、老耄とは妙なものだ。
 
 * 石川の井口哲郎さん、豪快な「山の芋」を六つも送って下さる。摺り下ろして,私、喜んで戴く、感謝。『湖の本 160』届いたろうか。
 
 〇  お元気ですか、みづうみ。
 湖の本百六十巻頂戴しました。ありがとうございます。とうとう百六十巻達成、本当におめでとうございます。
 昨日は何十年ぶりかの高熱で朦朧とした一日でした。
 まさかのコロナです。夫がどこかで感染し、濃厚接触者の私は、ちょうど二日目に症状がでました。二人ともワクチンはきちんと接種していましたが、ワクチンは万能ではないので 何度も罹患するひともいるとか。
 今日は微熱に下がっていますが、まだ回復しそうになく疲労感の中を泳ぐように過ごしています。もう恐れるに足らない感染症のようにいわれていますが、とてもしんどい状態になりますので、みづうみは益々お気をつけてお過ごしください。早く元気になって記念の一冊を読ませていただきたいと願っています。
 取り急ぎ御礼申し上げます。  秋は、ゆふぐれ
 
* 用心に用心しつつ用心す
 
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月二十一日  月                    
    起床 7:30 血圧 137-64(75) 血糖値 75 体重 53.4 kg    朝起き即記録  
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)      
 ◎ 八代集秀逸 (後拾遺集 十首)                         * 寂しさに宿を立ち出でてながむれは いづくも同じ秋の夕暮   良暹 法師
 * 君が代は尽きじとぞ思ふ神風や 御裳濯川の澄まむ限りは    民部卿経信   〇 良暹歌。   実情としても真情としても抜群の秀歌。「宿を立ちいでて」と美しい字余りの「うた」と「動感」とに 類いない静かさと奥行きとが生まれ、穏和に尋常な下句の物言い「いづくも同じ」と静めた表記が「いづこも同じ」で無い繊細に行き届いた感性を賞讃したい。ただのいちおんでも「うた」は立ちも崩れもする。
 〇 経信歌。  法師の「うた」の静かな美しさにくらべれば、決まり文句に頼んだ「うたこゑ」の乱雑は目にも耳にもあまって、拙なる一首と切り捨てるしか無い。
 
 * 昨日の『鎌倉殿の13人』みごとに緊迫の寄せ・押しで感服し興奮できた。ます、異論無く組み上げて「要所」へ肉薄していた。次回が今日にもと待たれる。三谷幸喜、にほんしのなかでもっとも劇的にだいじな一点を良く衝いている。凡百のドラマ史に遺しうる力作と褒めておく。
 
 * 昨日、あの文字通りにもの凄い『悪霊』初の通読を果たしたが、とうてい「読んだ」とは胸の張れ読書に至っていない。山巓へヘリコプターで降りた程度の「形ばかり」。孰れ再読を果たしたい。
 引き続いて直ぐの大作への目は、やはりドストエフスキー最高の到達、名作と知られた『カラマーゾフの兄弟』と、併読の挑戦で在来半ばで休息してしまった「ホメロス」の高嶺へ登山する。『オデュッセイ』は一度読み終えているが、新ためてもう一度。そして途中で山を降りてしまっていたたいさく『イリアス』を読み上げたい、ぜひ。
 『カラマーゾフの兄弟』『オデュッセイ』『イリアス』の全部では優に『悪霊』一作の三倍領を凌駕の気の遠くなる「長途の旅」になる、敢えてそれをと願うのは、その「長途」で様々な観光や寄り道の慰安に足を止めたい、と。つまり務め努めて「生きよう」と。
 欲が深いか。浅ましいか。見苦しいか。 そんな批評は人任せとしておく。
 現在も手にし続けている大作は、謂うまでも無い『源氏物語』の飽くなき繰り返し返しの旅の脚がいま、また「須磨」に。そして五十巻ちかい『参考源平盛衰記』を読み継いでいて飽きない。欠かせない漢籍は、『水滸伝』十巻のほか座右を放さないのが『史記列伝』『十八史略』そして『四書講読』。別格に、トールキン『ホビットの冒険』さして数冊のその時々の岩波文庫など。
 目が見えて読める間は、私には「読書」がしんから楽しめる、これは天与の性質、或いは資質かと感謝している。
 
 * 大相撲の、事実は「小相撲」ぶりにガッカリする。横綱照の富士の休場は余儀なく、むしろ名誉ある引退をすすめたいが、癪の種は「大関」「カド番大関」どもの弱さ。むかしは大関と謂えば横綱並みに敬意を払い期待して相撲が観られた。この一年の大関なる力士の揃いも揃った弱さ、みっともなさ、こっちが恥ずかしくなる。
 
 * にしても、いよいよ末期化してきて、七時過ぎ、もう私の視力。視野が煙ったよう。休まざるを得ない。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月二十日  日                    
    起床 5:30 血圧 137-64(75) 血糖値 75 体重 54.3 kg    朝起き即記録  
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)      
 ◎ 八代集秀逸 (後拾遺集 十首)                         * み吉野は春の気色にかすめども 結ぼほれたる雪の下草   紫 式 部
 * 榊取る卯月になれば神山の 楢の葉柏本つ葉もなし     曽根好忠   
 〇 紫 式 部歌。   「かすめども」が「理」に落ちながら「ども」が鈍く重たい。「春の気色」「雪の下草」の対照もわざとめき、紫式部の和歌としては、何とも冴えない。
 〇 曽根好忠歌。   「榊取る卯月」とは賀茂の神祭り月、賀茂社背後の「神山」の神木の枝葉を信者らが競って採りに来る。「になれば」は鈍く、「楢の葉柏本つ葉」という把握も強引に過ぎて「うた」もつべき美妙を甚だ損じている。好忠は歌人としての秀麗と無骨さとの落差がまま観られるのでは。
 
 * 昨晩九時過ぎには床に就いて寝入っていた、但しまたしても失敗「利尿薬」と「浮腫どめ」とを寝際に併用してしまい、30分ごとに七八海も手洗いに起きていた。寸断の眠りの間々それでもそも収まって、しかし、五時半には独り起きてしまい、キチンで茶を沸かし、「湖の本 161」の初校をすすめたり、あれをしたり、是をしたりしながら、独り朝食した。
 
 *「私語」を読み返していると、ぽつりぽつりと「うた」が書き込まれていて、それなりの境涯歌、述懐歌になっているのをおもろく自覚した。散逸させないでお香と思った。
 
 * 「海の本 161」初校を終えた、「後書き」「あとづけ」「表紙」を用意し入稿すれば、再校出を「待つ」だけに。
 
 * 遂についに、ドストエフスキーの大作・大長編小説『悪霊』を森田草平訳で読み終えた。とてもとても一度の初読で「味読」とも何か「理会」したとも謂えない大森林のような作で、少なくももう一度はそれも早めに再度挑戦せねばならない.「感想」は幾らか在ろうとも、此の大作の「理解」とはほど遠い。ただただ、とうとうね「読んだ」というだけの達成。「実感むとして、この『悪霊』を読み終えるまでに、トルストイの『戰争と平和』なら「二度、通読」出来ただろうと。それほど、だった。魅力。それはもえ独特の濃厚感で逼ってくる。一行としてトバシ読みできない、させない。
 
 * 夜九時。相撲半ばの軽食後、まこと泥のように寝入っていた。芯から疲れている。寝ていては成らん事情も無く、寝ていたいだけ寝ていたら良い。体の欲求を抑えること、今はしない。穏和に明日を待ちたい。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月十九日  土                    
    起床 6 :30 血圧 129-67(68) 血糖値 75 体重 53.9 kg    朝起き即記録  
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)      
 ◎ 八代集秀逸 (拾遺集 十首)                        
 * 小倉山峯のもみぢ葉心あらば 今一度のみゆき待たなむ    貞信公(藤原忠平)
 * 限りあればけふ脱ぎ捨てつ藤衣 果てなきものは涙なりけり  藤原 道信   
 〇 貞信公歌。   なんと美しい小倉山の紅葉よ 心あるなら もうやがて御幸にな
る天子のお目をもお慰めできますよう、美しい極みのこのもみぢの盛りを保っていておくれ、どうか、と。いささか大仰の嫌いも在るが、一首に隠れて通底の「み」音が綺麗に鳴っている。                                    〇 道 信 歌。   「藤衣」は手を尽くして織った色濃い喪衣。誇示との遠にしたがい服喪の期間が定まっていて、其の日が来れば「藤衣」も脱ぐ習い。たとえ喪衣は脱ごう
とも悲しみの涙は絶えず流れ続けますよ、と。誰しもの上に言いえている一首ゆえに、ひろく長く歌い継がれた。句ごと、寸づまりに句切れて流暢な「うた」の美しさに乏しい。                                        ろく長く歌い継がれた。句ごと、寸づまりに句切れて流暢な「うた」の美しさに乏しい。
 
 * 「湖の本 160」発送を終えた。手際よく、早く終えた。さすがに、カクッと疲れている。やすみたい。これで、だが年内の力仕事はカタづいた。しんどい仕事を手早く素早く片付け得た。よかった。やすみたい。横になりたい。
 
 * 夕食前に映画『戦場のピアニスト』を深い感動と感嘆とで観た、すばらしいピアノを聴いた。なんと美しいピアノの音色よ。
 
* 高麗屋の松本白鸚丈、文化勲章自祝の記念品を贈ってきた。
 
 ◎ 【お知らせ】吉岡家主屋(=実父吉岡恒の生家。恒平も実父母を識らぬまま数歳まで預けられていた。)が、登録有形文化財となるそうです 南山城 岩田孝一・従弟
 〇 to: 秦恒平 様
 ご無沙汰しております 山城の岩田孝一です お元気でしょうか 「湖の本」新刊送っていただいてますこと ありがとうございます。
 昨日の 文化庁の文化審議会の答申で
 https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/93791601.html
 https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/93791601_03.pdf
 当尾の吉岡家主屋が
 建築物 基準2 で登録されるよう答申がなされました
 お知らせまで
 また コーヒー豆送らせて貰います
 追伸
 昨年 内藤湖南の終焉の地である恭仁山荘のある木津川市内の 内藤湖南先生顕彰会の事務局を引き受けたのですが、
 現在の関西大学恭仁山荘の周りの様子を確認しに行って 秦テルヲの作品の何点かが恭仁山荘のすぐ近くから見える情景を画いたものであること、一点には恭仁山荘の書庫であった白壁の蔵が画かれていた事に気づいて、過日 (今日・三條粟田口=)星野画廊を訪れた際に星野桂三氏にその地点の風景の写真を報告、過去の図録と突き合わせ
 「これは間違いない、今もあるんやな」
と 喜んでいただけました。
 
* 当尾の実父生家、恒平祖父母の本家 の写真を一葉持っている。長い高い石垣が立派。幼い日の印象も比較的はっきり残っている。もう亡い叔父(父の異母弟)の家族が今は暮らしているはず、一度だけ叔父叔母存生の昔に訪れたことがある。文化財と言えば、ま、文化財らしい邸宅とは謂えよう。もう、とてもとても再訪はあるまい。
 孝一君は比較的近くに暮らしていて、コーヒー豆の専門家。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月十八日  金
    起床 6 :30 血圧 129-67(68) 血糖値 75 体重 53.9 kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ 八代集秀逸 (拾遺集 十首)  
 * 忘らるる身をば思はず誓ひてし 人の命の惜しくもあるかな  右近(藤原季縄女)
 * あはれとも言ふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな   藤原伊尹
 〇 右近歌。   一首の主格を、「忘らるる身(わたくし)」でなく、神かけて「誓ひてし人(あなた)」と読むべく、どうせ忘れられるのに、そんな安請け合いを誓った「あなた」に、神様の罰が当たるのでは、心配ですわと、皮肉な一首に成っている。「和歌」が、恋し合う男女丁々発止の「具」として活躍した「場と時代」とが偲ばれる。
 〇 伊尹歌。   「ああ、あなた」とも「恋しがってくれれば嬉しい人とは出会えぬまま」「悶々と老いてしまうのか、なさけないな」と。こういう男(一条摂政)ほど、日頃は「勝つ恋」を鼻にかけているのかも。「和歌」そのものが爛熟してゆく「時と場と」が窺い見られる。
 
 * 新刊「湖の本 160」納品を待って、千数十冊は送り出す、急がず、三日ほども掛けて身の負担にならぬようにと。
 
 * 三時。三分の一近くは発送用意出来ている。休息。明日、明後日で送れれば良し。
 
 * 大相撲、役力士に行かぬ知に寝入り、目覚めて九時半。よく寝たもの、というより、それほど発送に頑張った、疲れたのだろう。
 ためらわす、また明日に備えて今夜は「読み」ながら寝入ろうと思う。
 
 〇 お元気ですか? 先のメールでお酒は召し上がらないとのこと、大好きだったお酒が飲めないのはつらく残念でもあり、お身体がアルコールを望まないかとも、お寂しいと察します。
 選集の『雲居寺跡』を読み進めています。218ページの「星夜空を衝くあの一本」と書かれた個所では雲竜院の庭で見た落雷した老立木を連想しました。九条頼嗣などそのつど辞書など調べて読んでいるとなかなか・・この著述を鴉は早い時期に書き、世界を構築されている!!!
 菊谷・菊渓の地名も懐かしく読みました。昨夜ちょうど後白河法皇の番組を見ました。
 清閑寺あたりから将軍塚、蹴上へ、比叡への足取りも改めて意識しました。京都トレイルの道も思い起こされます。
 一週間後、シンガポールから四年ぶりに娘一家がやってきます。11月下旬から「冬休み」に入り新学期が一月、日本の正月元旦から始まります。学校では英語、中国語の授業なので日本語が殆ど話せなくなった孫たちにひたすら日本語を話すよう頼まれています。
 今日からさまざまな準備を始めました。が、さて8人の食事やら 些か大変、娘たちはそれぞれに仕事があるので・・。わたしも幾らか年齢を意識しています、どこまで頑張れるかなと少し気に懸かっています。五週間の滞在です。
 昨日、地球の人口が80億人に達したと。アフリカなど飢餓線上に生きている人たちの事、ウクライナのように戦争に苦しんでいる人たちの事、常に意識して暮らしています。
 冬に向かう時期、オミクロン感染増加のニュース、とにかくお身体大切に大切に。
 長いメールが書けなくてごめんなさい。  尾張の鳶
 
 * 佳いメールが読めて良かった。このところメールも誰からも無く。ポツンとした気分だったが。ありがとう。羨ましいほどの賑やかさようで。
 我が家は、読者の皆さんとの交流在って幸い生きのびている。それがなかったら、老夫婦とネコちゃんず、だけの、ひっそり閑。朝日子も建日子も、愛しい「孫」を「呉れない」仕舞い。寂しい。今日も、妻は、静岡市の女性読者と楽しそうに長電話していた。一度家へも見えたことのある、久しい人。
 わたしは電話で楽しむというヘキが無い、向こうサンがご迷惑だろうと遠慮もするし、シャベリ下手。
 
 * サ。階下へ。明日の労働のためにも、寝床へ。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月十七日  木
    起床 7 :00 血圧 137-72(78) 血糖値 75 体重 52.9 kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ 八代集秀逸 (拾遺集 十首)  
 * わびぬれば今はた同じ難波なる みをつくしても逢はんとぞ思ふ  元良のみこ
 * あしひきの山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜を独りかも寝む    柿本 人丸
 〇 元良歌。   どう焦れようが嘆こうがこのままで今は何になろう、あの難波の舟路をみちびく「澪つくし」よ、こうも苦しい切ない恋に「身を尽くし」滅ぼしてもいい、何としてもあの恋しい人と逢い逢わずにおれない、道びいてくれ澪標よ、と。この親王さん、お手のものの恋歌、実意よりも巧者な言葉、声音のかなでる「うた」を聴くべし。
 〇 人丸歌。   「あしひきの」は「山(登り)」に掛かる枕詞、その山で出逢うた山鳥のみごとな「しだり尾」の「長さ」よとおどろき顔で、寝返りむなしく「独り寝の夜長を」嘆いて、「長」夜独り寝のあじけなさをこの一字一語にみなオッかぶせ、いささかヤケ気味に長くノビている。万葉歌人一の先導者の「歌聲」としてはいささか貧相にいじけていないか。
 
 * 機嫌のいい寝起きでは無かった、夢は観ていなかったのに。この一両日にたまたま観た映画「ミザリー」の不快深刻な恐怖を引き摺っててか。じつにイヤな映画だった。「怖いモノ見たさ」がこの歳にも残っているとはネ。煩悩やねえ。
 
 * 下関の大庭碧さん、赤間の「雲丹と、外郎菓子をたくさん送って来て下さった。外郎は子供の頃より食べやすくて好き。ことに赤間の「雲丹」は是ピンサレが五倍も美味くなる。感謝、感謝。
 
 * 明日からは新刊「湖の本 160」発送になる。作業を急ぐまいと心する.急げば、二人とも疲れる。「161」初校が順調で、校正自体は興にも終ええなくもない。ただ建頁数を読んで、必要な後書きなど「後付け」原稿は作らねばならない、表紙も入稿せねば。これらは何も急ぐことは無い。新年の刊行で構わないのだから。
 
* それにしても自身おどろく。この歳になり、どう此の「仕事」が産まれ、育って行くのか。こう「実務付き」で、創作や執筆に日々忙しい八十七歳作家、おられないだろうナ、と。浅ましいのかナ。
 
 * コロナに激しい8波=ハッパをかけられ、ほとほと閉口、身動きが成らない、ここで躓くのは断然避けたい。五回目のワクチン接種も申し込んだ。
 
 * 疲れは、退かないが。日々の「和歌」読みを、「身に強いて」など、だらけないように気遣っている。だらけてしまえば、もう、とめどなくなろう。とは言え、明日からの「新刊発送」よほど草臥れそう。気を急かすとからだに障る。ゆっくり、と、身を戒める。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月十六日 水
    起床 6 :00 血圧 139-74(78) 血糖値 75 体重 52.5 kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ 八代集秀逸 (拾遺集 十首)  
 * 天の原空さへさえや渡るらむ 氷と見ゆる冬の夜の月        逸名
 * いかにしてしばし忘れむ命だに あらば逢ふ世のありもこそすれ  よみ人知らず
 〇 逸名歌。   私は、末句「冬の夜の月」を「よの」と型通りに詰めて詠まず、あえて「冬のよるの月」と字余りに、空も月もを大きく詠いたい。字句も「うた」としても巧者に月の空晴れやかに詠いあげて魅力の秀歌と謂おう。
 〇 歌人不明歌。 平生は煩わしさに何とか忘れていたいほどの「命」ではあるが、それ「在らば」こそ恋しさに逢いたい見たい「世」にも行き会える、と。「世」とは、本来が男女相愛の「仲」を謂うほどの一字一語。下の句に見よ聴けよとばかり巧みに「あ」音を連ねた意気とも稚気ともご自慢ともみえるのも面白い。
 
 * ゆうべは、九時半か十時にはもう床に就き、校正したり本を読んだりもしたが寝付きは早かった、か、就寝前に、利尿薬、そのうえ「むくみ」除りも服したので、一時間ごとに尿意に起こされた。昨晩はよほど両脚が浮腫んでいたのも今朝は退き、体重も最低水準。一度、右膝下へ久しぶりきつい攣縮がた来たが、抑えながら用意の水分をたっぷり含んで、すぐ失せた。体に、水分多寡調節の大事さが、判る。
 また、目に見え手脚が細くなった。視力の落ちが日増しにすすみ、明治版の「四書五経」や「史記」等の講義本は、本章と講義箇所との文字の大小が極端で、どうしても裸眼をさらに凝らして読まねばならない。文庫本もいつも今古の十数種は手近に備えて読んでいるが、文字は小さく、行間の狭いのにもまま悩む。それでも優れた古典籍や小説の名品からは遠のいて居れない。
 しかし、強かに私自身の歳久しい誤解や了見違いで「漢字・漢語」誤用ないし他用してきたことの少なからぬにも「閉口」する。漢倭、遠く海を隔て遙かに時を歴史を異にしていて安易に思い直すのも覚え直すのも学び直すのも難しいが、謙遜して差異の程をあらため識るのを拒んでは成らない。私の久しく重んじ続けてきた「風」一字、これを『詩経』発端から読み直してみたいと思っている、先日も拾い挙げておいた「詩に六義有り」と。「一ニ曰ク風」とある。続いて「賦・比・興・雅・頌」と。此処には「比興」と、日本でも慣用されて熟語化した二字も目に付く。「コトをモノに託して面白がること」と国語辞典には出ている。『詩經』では、どうか。
 「風雅頌ノ三ツハ實ノ詩ノ作リヤウナリ 賦比興ノ三ツハ風雅頌ノ内ニコモルト云フ コレハ文句ノ異同ヲ分ケタルナリ 風ハ國風ナリ 風ハ詩ノツクリ様體裁ヲ以テ云フ 文句ドコトナクアサハカニテ 婦人ノ作或ハ賤しキ者ノ作ナドニテ 眼前ノササイナルコトヲ作ルヲ風ト云フ タトヒ王公貴人ノ作ナリトモ其詩ノ體裁然レバ皆風ト云フ」と。斯くみると「詩」六羲の筆頭「風」はむしろ軽率な女人風に即して落ち着き無く観られている。私の『花』と対偶の『風』とはほど異なってみえるけれど、それとて深く押して入れば、重なる寓意が生きてくるかも知れない.漢語も和語も軽率に読んでは、言葉から生命観も消耗させてしまう。わたしは用心している。
 
 * ただ「私語」と謂うには、和歌に、漢籍に、創作に、と。少し気張り過ぎかなあ。目も、身も、思いも重いナ。十時前か。時計の文字も針もシカと見えないが。
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月十五日 火
    起床 6 :50 血圧 161-82(66) 血糖値 75 体重 53.5 kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ 八代集秀逸 (拾遺集 十首)  
 * 春立つと言ふばかりにやみ吉野の 山もかすみてけさは見ゆらむ   壬生忠峯  * 八重葎茂れる宿の寂しきに 人こそ見えね秋は來にけり       恵慶法師
 〇 忠峯歌。   「前十五番歌合 上古」の「四番」ですでに読んだ。一首の、謂わば「音声・音調」の美しさは優に認められる、が、「言ふばかり」という予期・推量で一首の幻像が成ると便乗し期待しているのは、乗れない「理くつ」であると。
 〇 恵慶歌。   まことに素直にそのままの意味を「うた」っている。「人こそ見えね」には、「来客は無いが」「人目には見えまいが」「秋はもう来ている」と巧みに重ね言うている。秀歌と謂えよう。
 
 * 機械との相性が朝からよろしからず、ムダに時間を食い続けている。
 
 * 「湖の本 161」初校出。すぐ読み始めている。
 
 * 坪谷善四郎著『明治歴史』下巻、惹き込まれている。『悪霊』もいよいよ最終の一章に向かうまで。この大作は一筋縄で括りかねる「ややこしさ」謂いようでは「不自然さ」に満ちあふれている、ただ流石というか森田草平訳の「日本語」の生き生きと活躍しているのに感嘆し敬礼している。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月十四日 月
    起床 6 :50 血圧 161-82(66) 血糖値 75 体重 53.5 kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ 八代集秀逸 (後撰集 十首)  
 * 嵯峨の山みゆき絶えにし芹川の 千代の古道跡はありけり    行  平
 * 是や此の行くも帰るも別れつつ 知るも知らぬも逢坂の關    蝉  丸
 〇 行平歌。   何らかの伝承ないし古傳を頼んだだけの歌はただただ古びて行く。「千代の古道」なる「伝わり名」を京育ちの私は知っている。「嵯峨の山」はもとより「芹川」も知っている、が、おそらく「深雪」にも掛けたろう「御幸」をこの歌から意味ありげに伺いみることは到底ムリというもの。行平という実在した古人の個人的な逍遥や見聞は、固有名詞をならべられても「うた」ということばの音楽たる美しさ楽しさとしては伝わらない。
 〇 蝉丸歌。   これは、もう完璧に「うた」いあげて「人の世」の「行き交い」が奏で合う「常も無常も」を歌いきって胸を打つ。古今に生きてつたわる絶妙と賛嘆する。
 * 一晩中 「サーサみなさん」と唄っていた。トマト売りではなかった、「シューシャンボーイ」敗戦後の街に流行った重荷進駐軍の兵隊向き「靴磨き」クンの唄だった。誰しものコとか、知らない。とかく夜っぴて夢のように唄の一句を唄っている夜が多い。睡眠が妨げられているのではない、眠っている。ムリの伴奏のように、いろんな唄の唄い出し一句がひっりなしに口をついて出る。音声が漏れ出てるので泣く、「夢」中のこと。悪癖なのか奇癖なのか。「垣根の垣根の」「はーるよ来い」などいくつかがパトリーを成している。オカシな人なのか。
 
 * やや遅れ、明日には「湖の本161」初校が届く。18日には「160」が納品される。夫婦ともよほど体調をととのえ待機しないと。
 
 * 昨晩遅くに独り『鎌倉殿の13人』を見直し、今朝も見直した。鎌倉に鎌倉殿志望の頼家子の僧公暁があらわれ、実朝は後鳥羽院の皇子を鎌倉殿に迎えて自身は大御所たらんと目算、義時は警戒し政子は実朝の安寧に心を置いている。京は鎌倉の糸を引いて操ろう都市、義時は警戒深く身構え、周辺にはややこしい者らが、男も女も野心づく蠢く。不思議なことに京都者の私はこの承久前夜では、京より鎌倉の動きに心寄せている。この時代陰険でない者の生きがたいとは承知で、どちらかという後鳥羽上皇や京の公家らの陰険を私は嫌ってきた。のちのち後鳥羽院ははるか隠岐へ流されるが、それをしも私は黙認してきた。むしろ北条義時の京都と闘う決断に、圧倒の意志に目を見開いてきた。政子の存在も小さくなかった。右大臣に浮かれた実朝の優弱はとても将軍家とは見えず、鶴ヶ岡の大銀杏に隠れた何者か、公暁なのか、義時の手の者か、に惨殺される成行に意外ななにも無かった。この師走には閉幕の気ならドラマはそこで終えるだろう、義時が見せるその後の強硬には理があり、武力で鎌倉の板東武者に勝てるなどとみた後鳥羽上皇の迂愚は、「京都」なる重みの爲には最悪の失敗だった。「アホ」かと思った。
 
 * 疲れは抜けないが、食に、少しく手が出ている。体力が戻ればと思う。
 
 * 戰争は決して仕掛けは成らない、真珠湾で火ぶたを切ったようなことは迂愚の極。しかし、不用心に仕掛けられてもいけない、惨憺たるサマが目に浮かぶ。武力や兵器での備えよりも、平生の世界視野での「外交努力=悪意の算術」には長けて居ねば危ない。「悪意の」という表現に浅く向き合っては成らない。人間の世界史に「善意の外交」はありえた例は滅多に無い。識らない。しかし「悪意の算術」に秘技を尽くした例は、世界中で容易に過ぎてみつけられるたろう。日本国の国会、政府の諸公よ、算術を磨いて磨いて備えて呉れたまえ。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月十三日 日
    起床 7 :15 血圧 122-63(74) 血糖値 79 体重 52.7 kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ 八代集秀逸 (後撰集 十首)  
 * 東路の佐野の舟橋かけてのみ 思ひわたるを知る人の無き    逸  名
 * 逢ふことは遠山摺りの狩衣 きてはかひなき音をのみぞ泣く   元良親王
 〇 逸名歌。   舟を繋いで渡す舟橋はいわば 佐野の名物・名所。その橋を「かけ・わたる」を縁語に引き出し 秘めて甲斐無き恋路を懸命にわたっているのです、分かつてよと、いささかは胸を張っている。後の斡旋に手慣れたものがあり、巧み歌と謂うところか。
 〇 元良親王歌。   上句は、逢いたいあの人になかなか逢えないと身を摺り揉む気持を「狩り衣」なる衣類へ掛けながして、下句の「着ては(幾度逢いに来ても)」甲斐無くてただ声に出して「泣く」ばかりです、と。 縁語の斡旋がお得意と見せた感じの、実意に淡い「つくり」歌に止まっている。
 
 * 極東の一島国私民、正確になどウクライナ戰闘事情にしても理会の及ぶところでなりにも「日本と日本人」の問題としても関心せざるを得ないのは、ウクライナが抵抗しけっっせんに励んでいる相手国が「ロシア」だという脅威にある。この横暴を敢えてする指導者を祭り上げて追随しやすい「國」と「国民」との性質を、かつての「日本」も含めつつ「歴史」を下地に観て、懼れかつ厭うから。
 何はあれ、目下の日本に「国防」「海警」への物心での備えが掛けていては、國と国土と困ミンの生命・財産そして価値高い文化を図して投げやって敗亡を「しかたな」と承け諾れているに等しい。それは、現題と未来に生き続ける日本人として、棚上げしていては困る。日本が「ウクライナ」事情と「同然」に陥ったなら、私は、今の気持でなら、家族は山へ逃がしてでも、自分は街にいて攻防のために闘うであろう、たとえあの「知盛と平内左右衛門」の如く在ろうとも。
 そのような「自体」を避けうるほそい道はもはや「兵器」ではなく、聡明超級「悪意算術」としての「外交」努力しかない、政治家にも国民にも判っていて欲しい。、
 
 * 機械の画面がグチャグチャに混乱した。なんとか、辻褄を合わせているが、甚だ心許ない。根本は私の「理会力」の劣ろえと謂うしかないか。
 こんなとき、もう大昔だがコンピュータの権威東大の坂村教授に教わった、「コンピュータの道路は想像を絶して精微に緻密で多方向彩なんです、いろんな道を通って回復してきたり、自ずと助勢や解決に来て呉れる。信頼していいんですと。これを私は信仰している。
 
 * 大相撲初日の後半をみたあと、『鎌倉殿の13人』 鎌倉と虚の香関係が緊迫しつつも鎌倉内部に鎌倉殿実朝を火種に悶着が起きてくる。思惑が錯綜してくる。あまり気分は良くないのだが歴史が「劇」である意味は分かってくる。希望としては、後鳥羽院の流され、承久の變結末まで遣って欲しいが、実朝の討たれを末尾に、終えてしまうかも知れない。いま、気づいたのだが、今日の皇室を憚る気が関係者にあり得る。さ、どうか。小四郎吉敷と政子とが「主役」なら、京都を圧倒してこその歴史劇なのだが。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月十二日 土
    起床 6 :15 血圧 161-82(66) 血糖値 75 体重 52.4 kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ 八代集秀逸 (後撰集 十首)  
 * 思ひ川絶えず流るる水の泡の うたかた人に逢はで消えめや   伊  勢
 * 浅茅生の小野の篠原忍ぶれど 余りてなどか人の恋しき     源等朝臣    〇 伊勢歌。  「水の泡」と「うたかた」は同意羲の音調を「響かせかえ」ての技巧でありながら、「消えめや=消えるものか」「うたた」つまり一通りでなく、心して、必ずやと、微妙・美妙の意思表示にまで鮮やかに、鮮やか過ぎるほど「転変」させている。言葉を自在に操って巧緻の極を、むしろ、尽くし過ぎたほどの巧い一首、才長けて意気高い平安女性の一の典型歌。
 〇 源等歌   「忍ぶれど」は漏れて現れそうな恋心を「まだ浅いので」韜晦の振りをみせつつ、下三句の「直情」を隠れなく打ち出している。男性的なつよみを自覚した断乎とした表白に技巧を超えた魅力がある。秀歌と推して躊躇わない。
 
 * グレン・グールドの精美・巧緻のピアノでベートーベンのピアノソナタ30 31 32に聴き惚れて疲れをやすめている、この頃。「美しい音色」という魅了の真価を私なりに呼吸している。寶ものと思うている。
 
 * とにかくも寝入りたくなる。疲労感に屈する。休める今に休むべきか。週明けから昔風に謂う秋季皇霊祭後までが多忙多用の極になる。その辺で息をつきたい、謂わば、今も。
 
 〇 秦さんへ
『令和四年(二○二二)十一月十日 木』のメール 本当に有難うございます
「八代集」「四書」「六義」 勉強したいなぁと思っています 「六義」ってぇのもむずかしそうですね 
 この頃は歩行器を一本杖に変えて訓練してます 少しですが外へも出て見ますが 家の中とは大違いです 視力低下も困っていますが なんとか頑張っております
 特別養護老人ホームの方は インフルエンザとコロナの予防注射も始まり 相変わらず戦闘態勢です 家族の面会もできず長期にわたり 現場は本当に困ります 大学から派遣されている若い医師たちが頑張ってくれて助けられています
 やはり第八波はかなり心配です
 どうかくれぐれもお大切にされて下さい 
 秦さん 六義園 また行きましょう    勝田拝
 
 * 潰れたように寝入って、二時間ほど。それを朝昼晩に二度か三度、それで立ち直っては仕事している。目の縁がゴワゴワしている。眠気が覚め切れてないのだ。晩、十時。機械からはもう離れる。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月十一日 金
    起床 5 :35 血圧 160-83(57) 血糖値 75 体重 52.65 kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ 八代集秀逸 (後撰集 十首)  
 * 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ  天智天皇
 * 秋風に誘はれわたる雁がねは 物思ふ人の宿をよかなむ    よみ人知らず   〇 天智天皇歌。  上三句「苫をあらみ」の字余りが絶妙、下末句を収めた「つつ」にかすかな不満は有りといえば在るが、ほぼ完璧の秀歌と頌えうる。
 〇 よみ人知らず歌。  上二句の、誘はわれ「わたる」が鈍く、雁がね「は」も鈍く重く、上句がそのまま主語の名乗りと終えて読めるのも、宿を「よかなむ=よけてくれないか」との「{持ち込み」も鈍くて重い。
 
 * 大相撲を大規模に根底から新視点で解説紹介する出版を、企画段階で心逸っている夢を見かけつつ、覚めて、起きた。夢って、變。
 
 * 「写真」を送って見える方のその3センチ弱四方のそれらは、私の機械では、技術足らずで大きくしては眺め得ない。やむなく、即、消去している。「写真」より「言葉」が有難い。同じ言葉でも人により表しようにより、異なる意味と世界とが見える。写真は、この「日乗」冒頭を飾った「桜花満開」のように圧倒的に美しいのが有難い。スナップというのは言葉通りに気宇も視野も小さくて励まされない。
 
 〇 お元気ですか。
 最近読んだ本『テクノロジーが予測する未来』伊藤穣一について書いておきます。題名からしてチンプンカンプンであろうと思い、たしかにわからなかったのですが、面白かったし、何よりこの手の本にしては初めてですが、未来に希望の種を見つけました。
 ブロックチェーンという言葉をご存知だと思いますが、現在ネット上に劇的な変化が起きようとしていることが描かれていました。
 GAFAのような中央集権的な強大なプラットホームに支配されているWeb環境から、現在は分散的、非中央集権的Web3の世界に移行しつつあり、上手に舵取りすることで世界をより良く変えられるという内容です。
 文化の面においては、アーティストが直接作品を「売る主体」になる可能性が語られていました。たしかに仮想通貨世界でのデジタルアート販売は盛んで、これは「湖の本」のデジタル版といえるかも。これまでネット上での頭の痛い問題であった内容の勝手な改ざんが不可能な、透明性のある発信が新しい技術により(しかも日本人の開発した)可能になったらしく、それはアート作品のWeb上の著作人格権を守ることに繋がるであろうと、私は理解しました。(文中に文学作品についての言及はなかったので、あくまで私の推測なのですが、仮想通貨の実現はこの技術なしには不可能でした)。また、この一連の技術革新では「直接民主制の実現も可能」です。新たな支配者をつくるのではなく、衆愚政治にも陥らずに、「真の民主化」に向けての機械環境を創っていこうと結ばれて、励まされました。
 既存の権力の抵抗で、期待しすぎてもそんなうまくいくはずはないでしょうが、少なくとも、著作人格権が可能なだけでも、大進歩です。改ざんされる危険がなく、しかも多くのひとに共有されることが可能である媒体、これはまさに文学藝術の目指すことです。今後はWeb上で市場原理ではなく、「かたちのない価値」が評価される社会が可能になるとのことで、これは次世代への一つの希望ではないかと思いました。
 色々な健康上のご不調は、みづうみだけでなくわたくしにも、これから顔を出すと思いますが、それが「生きているということ」のようです。どうか、うまくおつきあいください。長く永くご一緒したいと願っています。     冬は、つとめて
 
 * 明治二十六年二月の発兌、三十年四月「三版」の坪谷善四郎著『明治歴史』上巻580頁を読了。井伊直弼の討たれ、ペリーの来航等々を経て、慶応三年將軍慶喜の「大政奉還」、明けて明治二年の「版籍奉還」、四年七月十四日全国の「廃藩置県」で、明治維新の差し詰めの大改革は、かくて成った。
 字義通りに、莫大に教わった。有難い大著で有難い學恩であった。
 すぐ下巻に転じる。秦の祖父鶴吉おじいちゃん、良い本をたさん、ありがとう、心より、。
 
 * 黒澤明が脚本監督の映画『デルス・ウザーラ』前後編を初見、純朴に徹して生きてある命と自然への深い共感に感銘、粛然とした。
 
 * 心身に濃い疲労をまとうよう、まだ晩八時すぎだが、耐えがたい睡魔の寄り身に負ける。もう床に就いてしまう。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月十日 木
    起床 6 :45 血圧 143-71(70) 血糖値 75 体重 53.55 kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ 八代集秀逸 (後撰集 十首)  
 * つつめども隠れぬものは夏虫の 身より余れる思ひなりけり  よみ人知らず
 * 白露に風の吹きしく秋の野は 貫き留めぬ玉ぞ散りける    文 屋 朝 康
 〇 よみ人知らず歌。  上二句が「夏虫」の条件付き説明になっており、この「夏虫」が蛍であることは「思ひ」という「火(光り)」とぐわかる。判ってしまえば歌一首が「ほたる」を謂うかに早合点されてしまいやすく、「つつめども隠れぬ」「こひ」という「火」と理会するのに五句一巡の「間」が要る。その遠回りを、歌の「妙」と酌むか、理に嵌まった「説明」と嫌うかは、人に拠ろう。気取って読めて、秀歌とは思われない、私には。
 〇 朝康歌。  表現完璧の美しい名歌と賞讃する、風に散りこぼれる無数の煌めく「露」を、首飾りのように緒糸に繋げない「玉」ととらえた視線は健康で、吹きしく「秋風」の野もせを歌読む肌身にまで感じさせる。
 
 * 娘かのように愛している沢口靖子、この書斎に大小幾つもの写真で私を慰めてくれる沢口靖子との、和やかな佳い夢を観た。帝劇で「細雪」の「きあんちゃん」を好演し、妻と私を劇場の最好席に招待してくれ、楽屋へも招いて幕間の一っ時を談笑、記念撮影もしてくれた。半疊大の顔写真ほか美しい写真を、中には献辞署名も入り、我が家には沢口靖子が何人も住んでいる。夢で逢うこともある。佳い子だ。
 
 〇 喜怒哀楽の未だ発せざる、これを「中」と謂ひ、発してみな節に中(あた)る、これを「和」と謂ふ。「中」は、天下の「大本」なり。「和」は、天下の「達道」なり。
 「中和」を致(きわ)めて天地位するなり、萬物、育するなり。  中庸
 * 以前にも「感じ」て、引いてたかも知れない、四書のうち『中庸』の一至言と読む。
 この『四書講義』上巻は大阪偉業館蔵版、明治廿六年二月十日の刊、三十壱年四月廿八日再版本で、秦の祖父鶴吉は三十歳、父長治郎誕生直前の本。それを令和四年の私が手にし眼にしている。本の綴じは、手にするつど端から崩れて行く、百数十年むかしの一冊、読み崩すまいか、読みたいか。読みたい。
「四書五經」と謂う。『中庸』は「四書」のうち。
 今、もう一冊手に持っている『詩經講義』は「五經講義第二」本に当たっていて、私の久しく苦手として、どうも判らないで来た「詩」なる一字の大義が、学び識れるかと期待している。
 すでに巻頭「凡例」の一に、
   「詩」ニ六羲アリ 曰ク「風」 曰ク「賦」 曰ク「比」 
            曰ク「興」 曰ク「雅」 曰ク「頌」 是レ也
 これ、 門外漢なりに、「短歌」を詠作し「俳句」を鑑賞する一人として、体験的・具象的に理会も納得も出来そうに思われる。「詩」とはと訊ねて、どの昨今の「詩人」らもこうは答えてくれなかった。
 わたしは日本文化を早くから「花と風」に託して、説きかつ主張してきた。上の「六羲」と噛み合うている。そう思う。
 東京山手の懐かしい庭園に「六義園」がある、忠臣蔵に絡んだかの将軍家御用人柳沢吉保の旧邸だ、名園の少ない東京では筆頭格の好環境、かつてはe−0ld勝田貞夫さんと夕暮れる迄しみじみ逍遥散策を楽しんだことがある。
 また久々に行ってみたいなあ。勝田さんとも会いたいなあ。せめてもう一度。
 
 * 京の街なかには無数に「ろーじ」や「抜けろーじ」や「パッチろーじ」が隠れ潜んでいる。何故か。そんなことに気づきもせず「京」には神社やお寺が多いなど程度の理会で識った顔をするのは、お笑いぐさ。
 大阪という大きな市街の特色はと問われ、「堀・川と橋」と答えられずに大阪を書いたり語ったりするのでは、軽薄・軽率に過ぎる。東京の都心部には「ろーじ」も「抜けろーじ」も少ない、「堀・川と橋」も少ないが、大阪京都には少ない「坂」が多い。
 そういう都会の特異な顔つきを発見も自覚もできず書かれた「環境」小説は、どこかに無知の軽薄がついてまわる。気づかない、気づけない、それは書き手には根幹の欠損である。判って貰いたい。
 
* 「三日」程のうちに「湖の本 161」初校出がとどき、「十八日」には「湖の本 160」出来本が納品されて発送仕事になる。忙しくなる。此の後は、一巻ごとに「やめるか」「続けるか」という問答のせめぎ合いになるのだろう、か。
 
* 一時半。睡く、疲れ果てている。
 
 * 『悪霊』を読み継ぎ、『明治歴史 前巻』のほとんどを読んで寝入り、三時。
 
 〇 『湖の本 一五九』ありがとうございました。
 京都の朝夕も冷たくなり これから一等寒い「二月」に向って行くのかと思うと 身が ひきしまってまいります。
 今年も残り二ヶ月を切ってしまいました。
 大河ドラマ、「鎌倉殿の13人」もいよいよ大詰を迎えます。
「自在にも 大胆にも 積極的に古典は所有されていいと思うのである」という 先生のお言葉を励みに、古典や歴史を 私なりにいろいろ考えてまいりました。
 中国に倣った律令制とは違う 現実に合わせた武家の法制度を作った北条泰時や 朝廷への反旗を促した政子北条氏の居た時代は 私にとっても興味深いものでした。
 しかし 殺伐としていて、 そのうえ形を変えながら 今も似たような争いが繰りかえされている、この時代が好きになれません。
 「平家物語」では、「それよりしてこそ 平家の子孫は永く絶えにけり」とありますが、貴人に嫁した女性たちが、 その後の有力者を産んでおり、今日の感覚では 子孫断絶とは言えなくなっているようにも思います
 暦の上では はや冬となつてしまいました
 先生
 奥様 どうぞ くれぐれも お身体 大切に
 おすごしくださいますように         羽生 C   京都
 秦 恒平 先生
 
 * 京都にかかわって思案することの多い昨今、羽生さんのお便り、深く胸に落ちて懐かしい。
 
 * 夕飯前後の体苦痛と不快とは尋常で無かった、這い入るように睡眠へ逃げ込んで、、七時半。覚めたまま、やはり『悪霊』そして『明治歴史 前巻』を今にも読み終えるところまで。「緯編三度び絶つ」というが、私の初読だけで、明治前期の刊本は、読み進むに従い頁が崩れ落ちてくる。だからなお読んで「あげたい」と思う。大政奉還から版籍奉還への決定的な明治初頭の足取りによく働いた元勲達の、当節の政治家と懸隔を絶した高い見識と深い聡明と果敢な判断力に感嘆し、かつ今もなお感謝する。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月九日 水
    起床 5 :50 血圧 124-72(76) 血糖値 75 体重 52.15 kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ 八代集秀逸 (古今集 十首)  
 * わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に 藻塩垂れつつわぶと答へよ  行平朝臣  
 * たが禊ぎゆふつけ鳥か唐衣 竜田の山にをりはへて鳴く    よみ人しらず   〇 行平歌。  「須磨」とあるが、行平は紫式部より先の時代を生きた朝臣。光源氏の「須磨隠れ」の方がこの「行平歌」にならったことであろう。「わくらばに」は、「もしも、たまたま、たまさかに」訊ねる人がいたら、の意、「わぶ」は「侘び住まふ」のであって、一首の奥行きとしてはなぜ「須磨」か、に拠ろう。行平の「好み」と汲んで過たないがうら銹びて「住まふ」の含みを読みたい。渋滞無い、佳い「うた」声と聴ける。
 〇 よみ人知らず歌。  上句チグハグと鈍く混雑し、下句で、「唐衣」を「たつ」「織る」の「縁」を謂うに過ぎず、秀逸の一首とはとても「詠み」難い。
 
 * なんで、ああ怖い、怕い、怖ろしい夢を観るのだろう、ほぼ記憶の限りこの一年ほど、月に一度、二度は、同構図・同展開の不快きわまりない「異境」彷徨で堪らない「異様」な人やモノらと出会い、恐怖にさらされる。暴力は振るわれないが、それらの「モノ」自体は人の姿・形でいて、怖ろしい悪意と威圧と侮蔑とで嘲弄し逼ってくる。ひとつ遁れてもすぐ次また次が現れて、どうしてもその環境を脱出できず逃げ回るのだが、脱出ならない、のに、ある瞬間、フッと抜けて出る、と、そこはごく当たり前の「世の中」なのである。
 その「異様な異境」は概して平地でなく、山腹か崖のように高下していて、樹木もあれば家居が密集していたり、時に路地内や家の中ヘまで誘い込まれ、どこへ踏み込んでも無言であざ笑わられ脅される恐怖に遭う。不思議にかなならず小さな神社と寺院の散点に出会い、そこへ逃げ込むと、却ってそこで怖い目に遭う。
 基本の構図は、もうこの一年ほど、変わらない。目覚めても震えるほど不快な怖さが身にこびりついている。イヤである。
 
 ◎ とびのこゑひさしく聴けぬおほぞらをあふぐからすは瘠せてはね打つ
 
 〇 元気でゐてください。あらためて明日メール書きます。
  もうお休みになられていらっしゃるでしょうね。お休みなさい。 尾張の鳶
 
 ◎ わたしは もう衰弱の極にいる。このまま体重50キロを割り込みそう。
 それでも、つぎつぎに、いろいろ書いているよ。「花筺」も「わたしの徒然草」も「怪談」も「私語」も。
 読書も、旺盛。 ドストエフスキーとトルストイ。源氏物語と参考源平盛衰記。 漢籍の古典や詩。
 そして毎朝、日記の頭で 古典の「和歌」を「歌合わせ」のように「判」読を楽しんでます。
 みな、生きているうちしか出来ないから。「もういいかい」の天からの誘いに、「マアダダヨ」と小声で言い続けています。 カアカア 鴉
 
 〇 拝啓
 季の推移早きことなかなか追いつくこと出来ません。コロナ禍収まらず、いかがお過ごしですか。湖の本、早くにいただきながらお礼言上出来ませず失礼いたしております。
 下半身ct検査の筈が、肺に影りとの診断、観念しつつ再検査(コロナ感染者濃厚接触の報まで受けさんざんな日々でした)。肺ガン入院とうかがった先輩に、私も縣ガンセンターに通っていますと見舞状出したところ、私はガン病院有明病院との返書あり、こんな際にも位取りあるのかなど、やっと達観の境に居ります。
 父上のご生涯まことに厳しく、ただ、戦時中 銀行をもたない理研コンツェルンは整理に追われたとの記事読んだことあり、父上の失職、必ずしも病気理由だけではなかったのかなど考えました。
「聖ヨハネ病院にて」など、なかでも「死の棘」は読み返すこと難渋しましたが、悲惨ななかにも 実家、親戚の手厚い援助あったことを知り、父上の場合いかがなりやなど思案しました。近時評判の「オートフィクション」が秦文學の骨格かなど、改めて味讀の楽しみ得たく、遅ればせながらお礼申し上げます。
 十二年前の作ですが、
  母葬るふるさとは早や秋しぐれ
 いとこ達(連れ合いも含めて)も大方逝き郷里も遠くなりました。 「お届けは秋田の物」が口ぐせだった、ふるさと大使を務めた亡きいとこの言に従い 稲庭うどん少々お届けしました。奥様どうか、着到ご返書ご放念下さい。
 思わず長く生き、ソ連の満州侵攻第一陣は、刑務所出所者で、正規軍到着まで乱暴の限り尽くしたとの記事、一身二世とか、近時、ロシアの軍事会社の刑務所での入隊勧誘のテレビ観て、このようなことかと合点がゆきました。
  お揃いでお大事に    草々
    11月1日       信太  (神戸大学名誉教授 国文学)
  秦様 ご侍史
 
 * わたくしの作風はおおむね「オートフィクション」に部類されるのかと、納得。
「蝶の皿」「廬山」「絵巻」などは異なるが。
 
 〇 衰弱の極と、あまりの体重減少と。 涙がこみあげてきます。
 そして、書き続けていらっしゃる鴉の精神、魂の強靭。
 生きてこそ、そして今現在を、「まあだだよ」と。思い切り、悔いなどないよう、お互い生きたい。
 かかりつけ医に相談なさって 栄養摂れるようなさってください、本当に、本当に。これは「尾張の鳶」の叫びです。
 
 * 信太先生、「稲庭うどん」をたくさん下さる。
 
 * 京都の羽生清さん、京の名菓とお手紙下さる。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月八日 火
    起床 4 :50 血圧 120-68(79) 血糖値 75 体重 52.35 kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ 八代集秀逸 (古今集 十首)  
 * 有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし   壬生 忠見
 * 名取川瀬々の埋れ木現れば いかにせむとか逢ひ見初めけむ  よみ人知らず   〇 忠見歌。  「有明のつれなく見えし別れかな」で、足りている。下句は、「慨嘆」の實よりも、タダに露骨な「言い分」に堕ちている。
 〇 よみ人知らず歌。  「名取川瀬々の埋れ木」とは美しい「うたひ出」で感じ入ったのに、舌足らずな、舌を噛みそうな「現れば」の稚拙が、ブチ毀してしまった。忍びつ逢ひ初めた恋の、露見と浮き名とを、なげくがごとく、じつは心浮き立っている「佳いうたごえ」なのだ、一句一語の未熟で秀歌が毀れるコワイ一例である。
 
 * 朝五時前に目覚め、すこし惑ったが、起きて二階へ。「マ・ア」もきっといつも着いてくる、「鰹・ちょうだい」と。
 
 〇 お元気ですか、みづうみ。メールありがとうございます。嬉しいです。安堵のあまりへなへなになりました。それにしましてもみづうみがお医者さまにいらしたことに驚いています。よほどお具合悪かったのではないかと案じていますが、顕著な異常がなかったことは何よりでございました。ご体調がなかなか戻らなくても、なんとかしのいでいただければと願っています。「八代集秀逸」の
  * 朝ぼらけ有明の月と見るまでに 吉野の里に触れる白雪   坂上是則
 この歌は、子ども時代のお気に入りで絶対に誰にもとらせない札でした。なつかしく。
 取り急ぎ御礼お伝えします。立冬でしたね。お大事に。  冬は、つとめて     
 
 * 私家版を創った初め 頒価はいれなかつた。医学書院の長谷川泉編集長は {次}には 必ず頒価を入れなさいと、最初の助言だった。
「本」として永い「寿命」を読書界に保てるのは、高価・廉価に拘わらず、「頒価」が付いていること。それが無いと、「古書」としても 「新本」としても、読者になろうとする人は、掴む手づる、寄りつく島が無い。
 時を経て、若かった私にもそれが判った。次からは私家版とはいえ、躊躇わず「頒価」をいれた。「売ろう」「売れる」るという意味では無いのだ。
読者がぜひ手に入れたければ、お金を払えば手に入る。頒価がないと、著者に頭を下げて「貰いに行くハメ」になる。碩学長谷川泉の、一等最初の助言だった。 
 
 * ジュリア・ロバーツとデンゼル・ワシントンの映画『ペリカン文書』は<もう何度繰り返し観てきたか、それでも新鮮に怕い秀作だった。繰り返し観るに耐える「つくり」の巧さ。是に比べると、ケリー・グラントと、すこぶる個性的容貌の女優での『北北西に進路をとれ』は、監督ヒチコックの軽みが露わで、ちっとも怖くない。
 
 * 機械の「ゴミ函」に過剰に投げし込んでいると、機械が重くなるらしいと気づいた、気がする。トロい話だが。
 
 * 夕飯後、また七時半まで床にいた。大長編の「悪霊」をよほど読み進み、そして目覚めてから光源氏の「須磨」へ落ちていった辺を、もの哀れにまた読み進んだ。優に対立し得ていた。
 ドストエフスキーの「把握」とトルストイの「叙述」の、大いなる差異にあらためて愕く。
 それにしても、この疲労の重さ。早起きが過ぎていたか。
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月七日 月
    起床 5 :25 血圧 123-61(82) 血糖値 75 体重 52.4 kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ 八代集秀逸 (古今集 十首)  
 * 立ち別れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば今帰り來む 在原行平朝臣
 * このたびは幣も知りあへず手向山 もみぢの錦紙のまにまに  菅原朝臣(道真) 〇 行平歌。  いわゆる「縁語」「掛詞」の自然な駆使に於いて卓越している。「いなば」は別れて「去ねば」、また「いなば」山という名にもかかわりながら、上三句の「生ふる」は「松」が「生えて」いて、しかもこの「松」、わたしの帰ってくるのを「待つ」ていてくれるのなら、「いま」にも急いで「帰って」こようよと、終始一貫、腐りのように詞を繋いで巧みを極めている。しかも総じて語聲・語音にいささかの渋滞も無理も成しに一首の意味をかんぺきにちかく表現しきっている。心優しい歌意が美しい「うたごえ」となって完成している。「生ふる」と「まつ」とに微妙な「間あい」を活かし得ているのにも感嘆する。此の手の「巧み歌」でも聳立の秀歌と言おう。行平はあの業平の兄である。
 〇 道真歌。  此のたびは、恐れ入ります、崇敬をあらわす手向けの「おみやげ」の心用意が成りませんでした、が、なんと手向山の美しい紅葉でしょう、なまじいの手向けものよりも、どうぞ心行くまで全山紅葉のこの美しさをご堪能ありますようにと、これは「うた」を仮りてのごアイサツであり、ま、末句の「まにまに」に微かにかるくちめくものはあるが、それもご愛嬌、天神様なればの達意の一首と読んで置く。
 
 * 朝九時半には妻と、近くの厚生病院へ「予約の受診」に出向く。早起きしたが、夜来の睡眠時間は念頭にある「七時間」は優に越していよう。体重減り、空腹感がある。
 
 * 上尾君の感想を読み返し、刺激も感じている。
 
 * 何ヶ月というより、全回の受診以来か、髭剃りに往生した。鏡も見ないので髭の有様など念頭に無く、剃り落とすのが厄介だった。先の受診以来の外出か。タクシーに来て貰う。もうやがて出掛ける。待ち時間は永い。文庫本の『アンナ・カレーニナ』を持って行く。
世界の文豪と謂えば何人ものなかで、私はやはりトルストイの三大作に傾倒する、なかでも『アンナ・カレーニナ』 心楽しい作では無いが「書き出し」の絶妙に始まりその円熟周到具象の筆力は異様なまで完璧。ドストエフスキーも偉大だが、そして秀作の数もトルストイを凌ぐほどだが、それでも…と思いながら『アンナ・カレーニナ』持参で病院へ。
 
 * 疲労による体力の衰え・疲弊は顕著、だが、血液検査等によっても顕著な異常はみられず、検査値的には、ほぼ健康体と。自覚的にも私自身、そう感じていた。その通りとまずは診察されてきた。往きはタクシーを使ったが、帰りは夫婦して徒歩で帰宅、腰が曲がって痛み、さすがに草臥れくるしかったが、杖も無しに脚の運びは持ち堪えていた。
 
 * 神戸市の信太周先生、例のあれこれと懇切のな手紙を頂戴。美味精到の稲庭うどんも戴いた。恐れ入ります。松原市の岸田準二さん、練馬区の持田晴美さんらも。
 
 * なにかしら一気に、ものの湧くように、俺も書け、わたしも書いてと向こうから攻め寄ってくる感じに、すこし戦き慌てている。「まあだだよ」と手を横に振ってたじろいでしまいそう。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月六日 日
    起床 6-30 血圧 123-61(82) 血糖値 75 体重 53.3kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
八代集秀逸  古今集から後撰 拾遺 後拾遺 金葉 詞花 千載 新古今集まで八代勅撰和歌集から各集十首、計八十を選抜した秀歌撰。隠岐に流されていた後鳥羽院の企画を、藤原定家が京都で撰。定家による小倉百人一首の八ヶ月以前に撰され、重複も多い。
『十五番歌合』同様、秦恒平が現代歌人として二首ずつ斟酌なく鑑賞批評する。
 ◎ 八代集秀逸 (古今集 十首)  
 * 白露も時雨もいたくもる山は 下葉残らず色づきにけり   紀 貫之
 * 朝ぼらけ有明の月と見るまでに 吉野の里に触れる白雪   坂上是則
 〇 貫之歌。  白露・時雨のあたかも重複は、「し」音を効果的に継いだ気の技巧にも救われず、「もる山」というほぼ無意味、下句の「残らず」という直拙も加わって、「うた」の妙趣・妙韻を圧殺の気味、貫之にしてと嘆かれる。
 〇 是則歌。  上句に重ねた「あ」音の階調、「有り明けの月と」と八音にしての「有り明けの月」の明るい印象により、「見るまでに」というくどい強意をすら効果に変じた技巧は「うた」一首をすでに響かせ、下句はもうありのままの景色を直叙して、優に美しくも明瞭に足りた。月光に白雪が「うた」ひ合うている。名歌と謂うに足る。
 
 *實に久しぶりにジョン・ウエインの西部劇を見た。『レッド・リバー』 厖大な数の牛をスウセンキロも運んで行く。ご苦労様。
 わたしは、アリカの男優ではナゼカジョン・ウエインを一等臣有して来た、日本でなら長谷川一夫を迎える感じで。別格官幣大社という感じか。
 
 〇 拝復「湖の本」159 花筺 魚潜財淵」拝受いたしました、厚く御礼申上げます。
 このたびも、お送り頂きましてから 机の脇に置き、いつでも時間のあります時に読み進めるようにしております。居間は、先生が「清經入水」ご執筆のきっかけになりました清經の平家物語の中での記述部分を知ることが出来ました。秘められたものへのご興味,そして淋しく命を落とした貴人へのお優しさがくみとれます。
 これから(紅書房主として引き受けた)自費出版の寄贈発送の作業をいたしますが、先生の毎回(呈上発送=)毎回の量を知りびっくりです。
 ご自愛下さい。ありがとうございました。  紅書房 菊池洋子
 
 * 前半の感想、今にして、かとビッくリした。『清經入水』私家版の「初版」から謂うと半世紀以上になれり、繰り返し版も替えている。
 版元に注文依頼しての自費出版希望者の製本は、よほど多くても二、三百。わたくしの「湖の本」呈上本は、少なくも現在1100。一冊と謂えど「売っていない」。
 もう「本を売る」など飽きてしまい、ごく初期の「私家版本」時代へ戻っているが、あの頃でも「見かけ」の「定価・頒価」を付けていたが、今は一切なし、間然「無料」の「呈上」である。出納の手間暇掛からなくて済む。そういうことが出来るほど「よく書いて売ってきた」のだ、「よく働いた」と謂うこと。
 新婚の日々、何の蓄えも用意も無く、月給、最初三ヶ月11000円の八掛けから生活しはじめた。生活していた。もともと資産があったのでは、全然、無い。ただ働いた、働いた、働いた、のである、ようかるに「読み・書き・読書」を基本に「執筆と創作」とで達してきた。アルバイトも肉体労働も経験が無い。
 
 * ブーニンのピアノに魅されていた。ピアノの音色の純潔な美しさには感動してしまう。不器用な私にピアノに触れるの縁も無いが19歳でショパンコンクールに優勝したブーニンのその後のピアノ生活・ピアノ人生・ピアノ家庭に賞嘆の思い禁じ得ない。
 
 * 明日は予約の受診に近くの厚生病院へ。
 
 * 『鎌倉殿の13人』が、京都の後鳥羽院の遠隔操作でガタついている。実朝はいわば生らの歌人と謂うにちかく、後鳥羽院にも藤原定家にも「京都」そのものにもむしろ心酔の体で、北条小四郎義時とは,断乎、かけ離れた個性。混乱を極めて行くが、実朝の命数はもはや永くない。亡き二代頼家の子公暁がどうコマとして北条に使われるか、承久の変、後鳥羽院の隠岐流しまで描く気なら、かなり此の先はバタバタしてしまうだろう。
 
 〇 秦さん、こんにちは。
 先日は湖の本を送ってくださりありがとうございました。すっかりご無沙汰してしまい申し訳ありません。
 昨日今日と、秋らしく気持ちのいい日が続いていますね。
 コロナも落ち着いてきたかと思いきや、また増加傾向のようで、これからはインフルエンザも流行る季節で、きりがない感じですね。
 わたしは、先日とうとう50代に突入しました。東工大で学んでいた時代から、さらに倍の時間が経ったことになります。
 50年を10倍すると500年で、500年前は室町時代ですが、完全に歴史上のもので、ある意味他人事という認識だった時代までの年月の、考えてみると10%を生きたのかと思うと、なんだか身近な感じがするようになったのは意外でした。
 西暦の2000年余りも、以前思っていた悠久の長い年月などではなく、その時間を、人間はあっという間に駆け抜けてきたんだろうなというようにも感じます。小さいながらも物差しの1単位を生きて、いままでより時間の長さのイメージが掴みやすくなったかも知れません。
 これから寒い日も多くなりそうですので、くれぐれもお体をご大切になさってください。
 またお目にかかれる機会を楽しみにいたします。  敬彦
 
 ◎ 久々に聴く 上尾君のすすばらしい「直観」、とても嬉しく、繰り返し聴きまた読み返しました。 秦
 私は、自称ですが「歴史屋」というほど「歴史」「時間」に心惹かれていろいろにモノ思いますが、上尾君の直観に、同じい感想をいつも持ちます。私の作風とも謂われます、一つの作に時を隔てた叙事や描写の現れることの多いのにも関わっているかと。「場」と「時」とは、精妙に関わり合う「生」の課題に思われます。
 東工大で親しんだ若い友だちのパソコンで伝えられる「消息」が、おおかたはただ談笑のスナップ写真ばかりで、今日に、現代に、課題や疑念に突き刺さって行く「ことば・言葉」の読み取れないのに落胆していました。上尾君の健在に、とても励まされます。  ますます ご家族ともどもお元気に、お幸せにと祈ります。
 ハタさんは、すっかりやせ細って、あの頃の86キロが52キロまで疲弊の底を這い回っている日々ですが、生き生きした「言葉」の探索と創作とは日々の要事です。
 
せめて、もう一度は、会いたいなあ。   
 
 
 
 〇 今朝 ブーニンというピアニストの「テレビ」放映に感動しました。
ピアニストというと、グレン・グールド一辺倒のように来ましたが、ブーニンの佳いピアノ曲をしみじみ耳近に聴きたくなりました。板で、どこかで、買える物でしょうか。
 やはり「ピアノ」が断然好きです。それもピアノだけで聴きたい、オーケストラやコンチェルトは、未だ荷が重い。
演奏者によって、おなじ曲をおなじピアノなのに、まるで違う「音楽」が聴こえる、それに今頃、心惹かれています。
 とても私は、今、元気と謂えません、疲弊し困憊の底を這っているような毎日ですが、「考えて、書く」仕事だけはしています。「もーいいかい」と天上から呼ばれる日々ですが、「まあだだよ」と返事しています。
感染はまだ下火とも言い切れないらしく。ご用心あって,お元気でと心より願っていますよ。 
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月五日 土
    起床 6-45 血圧 129-65(72) 血糖値 76 体重 53.6kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
八代集秀逸  古今集から新古今集まで八代勅撰和歌集から、各集十首を選抜した秀歌撰。隠岐に流されていた後鳥羽院の企画を、藤原定家が京都で撰。定家による小倉百人一首の八ヶ月以前に撰され重複も多い。『十五番歌合』同様、秦恒平が現代歌人として二首ずつ斟酌なく鑑賞批評する。
 ◎ 八代集秀逸 (古今集 十首)  
 * 花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせし間に 小野小町
 * 鳴き渡る雁の涙や落ちつらむ 物思ふ宿の萩の上の露     よみ人知らず
 〇 小町歌  花の色と己が女色との衰移を巧緻を極めて嘆いている。花には、「降る長雨」を、我が身には世(男女の仲)に齢いかさねた嘆きをうちかさね、「理」に絡みやすい上句「けりな」の嘆きを女の美声とひびかせ、「いたづらに」との述懐をも「うた」と化しえている。下句の「ふる 古る 降る・ながめ 詠め 長雨」の利かせもなんらの不自然に落ちていない。小町ならではの「絶世の秀歌」と謂える。
 〇 よみ人知らずの歌  「鳴き渡る」「雁の涙や」「落ちつらむ」の過剰が一首を「くさく」した。ただ下句の「八、八」音を敢えてしている巧みは認めて賞することが出来る。
 * 昨日までの『十五番歌合』を結んだ、人丸、赤人の丈高く男性的な万葉集は、平安王朝歌人らの「うた遊び」に、もう転移している、と、私は觀る。 
 
 * 大相撲十一月場所はあす始まるか、もう一週間あとだろうが、妻と何度か、四人桟敷を二人で、時に「客一人」を招いて出向いたが、久しくなった。狭い我が家はなぜか、いやワケあって「お相撲さん」たちで溢れている。根本の理由は「ま・あ」兄弟の前、愛おしかった「黒いマーゴ」からかとも思うけれど、総じて我が家にありとある障子や襖を壊滅じょうたいにしたのは「ま・あ」君らに相違なく、その暴虐無惨を隠すには何かしら貼らねばならない、その貼り紙に「大相撲のカレンダー」用済みの写真が利用される。大横綱白鵬席のみごとな土俵入り写真もあれば、平幕理端全員の並んだのもあり、それも此処何年分もの用済みカレンダー写真が「破れ隠し」の貼り紙に愛用されている。相撲茶屋の呼び出し「タケ」ちゃんと、自然といつからか懇意になっていること、更にはまったく理由も覚えぬまま幕内「照強」關からも毎年カレンダーを頂戴していのだ、世の中は不思議に温かにも出来ている。むろん「根」に夫婦二人ともお相撲好きにある。本場所の「桟敷」を不祟りで閉めるあの大らかな快さったら、無いのである。
 領国までの往復、西武線、山手線、総武線の乗り物を思うと居間はとてもとてもと尻ごみしているが、それでも私はもう一度と希望している。帰りの満員電車が大変なら、ハネたあと両国のあの辺で一泊してくるのはどうか、などと考えはじめている。「タケ」ちゃんの智恵、借りられないかナ。本気を謂うと、實は何部屋であれ何処かで一度「稽古場の稽古」も観てみたいなあ。
 
 * 大政有関して明治維新とは成っても 大なる旧態依然が居座っていた。幕府は、徳川は、紀伊も尾張も水戸も、薩摩、長州、仙台、會津、越前等々の諸侯は以前して何百、何十万石もを抱えていた。それでは維新政権は身動きも成らない。長州藩の木戸孝允は主君島津侯に膝詰めに説いて、率先「版籍奉還」を奨めて承諾させた。「版籍奉還」こそが維新の実質となり得たのである、夫れなしには政府予算も国家保持もなにより「経済 経世済民として成り立ちようが無かった田。木戸孝允の功績は感動的に絶大であった。『明治歴史』上巻をよみすすみ、漸くに漸くに江戸以北、東北、北陸、奥羽、北海道の旧幕府支持、反政権精力を苦心惨憺攻め落としても、この諸侯版籍がそのまま居座っていたなら、、維新の実行は忽ちにうやむや、なし崩しの後戻りになるのは必至だった。
 幕末から明治維新までの歴史を詳細に顧み学んでいて。じつに燦然たる偉勲の人の力量や人間性が光っていたかに感動する。公家にも諸侯にも、その臣下にも幕臣にも、志士・壮士らにも、實に志気優れ知能も抜群の「政治家」たちが実在していた事実に感嘆する。拾遺の反感やあつりょくがあっても、成すべきは為し遂げようとした人たちである。徳川慶喜、水戸、會津。越前、長門、薩摩、土佐等々の諸侯も、井伊直弼以来 勝安房、山岡鐵太郎らにいたる少なからぬ幕臣も、木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛、坂本竜馬らほか少なからぬ陪臣の逸材、加えて三条実美、岩倉具視ら公家俊秀も大切に働いてくれた。諸外国の侵略の野望を躱しながら、日本は彼等の盡力に救われ、前へ歩めた。眞実、感謝する。
 
 * 寒けと夢に目覚め、ルル三錠を呑んだ。真夜中と思っていた。時計の七時が信じられなかったが私の寝ぼけで、夕食後に、コロンボがつまらなくて寝床へ逃げていたのだ。こんなことがここ二た月ほどの体不調にまま有る。片端も思い出せないが、思い出したくない夢見の中の寒けで目が覚めたのだ。
 
 * また一冊、秦埜祖父鶴吉遺贈の『漢文学講義 第二 詩経講義』 東京 興文社蔵版明治三十年十一月五日発行 林英吉講義 を手に執っている。「詩」一時の中国の原義に触れることになろう。「詩」一字一語が久しく私は苦手だった、明瞭に字義を理会し侘びてきた。有難い。いま手に触れてやはり祖父蔵書であった『四書講義 上巻』 また坪谷善四郎著の『明治歴史 上巻』が在る。日々に「必要」の重いと傾倒とで読み進めている。
 我からは口もきけない沈黙がちにこわい「お祖父ちゃん」であったが、数えれば百に余るほどの貴重な「明治本」や大事典 大辞典 それに唐詩撰、漢詩撰の何種類もをあたかも倭宅のために遺して呉れたのだ、ご恩莫大と謂うにも過ぎている。感謝感謝。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月四日 金
    起床 7-05 血圧 133-69(83) 血糖値 76 体重 53.3kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合     の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  十五番
 * ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島隠れ行く船をしぞ思ふ       人丸 (柿本)
 * 和歌の浦に潮満ち来れば潟をなみ 葦辺をさしてI(たづ)鳴き渡る 赤人 (山部)
 〇 人丸歌 「ほ ほ あ う あ」とア行音を柔らかに響かせながら「明石の朝霧」の「あかるさ」を難なく歌いあげる人丸歌の至妙美妙、「島隠れ行く船」には歌人に心親しい人の載っているであろうこともごく自然に読み取らせて、誠に絶妙。
 〇赤人歌の叙景の美しさたしかさ、「うた」声の高らかに自然を極めた見事さ快さ、我らが短歌史のともに「絶巓」に位して微動もしない。奈良という時代のある意味雄々しいますらおぶりとも読みたく、平安和歌にもうこの丈高い強さは流れ去って行く。
  * 妻が「常用」しているのかどうか、仰向きに乗って背中を反る、途方も無く思い器具が居間に場を閉めていて私は見向きもしなかった、が、昨日、試みにというより気まぐれに乗って仰向きに激しく反った姿勢で「一つ、二つ」と300数えてみた。優に六分間も乗っていたろう相当にきつかったが、器具から降りてみると前屈しがちな背筋が真っ直ぐなのに驚嘆した。ながもちはしなくても明らかに当座の効果はあると覚えた。後刻、また載った。今朝ももう起き抜けに載った。邪魔者めと毛嫌いしていたが、仲良くしようと思う。
 
 * 昨日見た映画『ドクトル・ジバゴ』は文字通りに凄い境涯で、震え上がる心地がした。ツアー(皇帝)を銃殺したいわゆるソ連国家への「革命」を濃厚に下に敷いてジバゴの、家庭や家族や親族や恋人たちが悲惨を極めて刻寒のロシア大地を彷徨し逃亡し隠れ住んでなお虐げられる。國の警察力もレジスタンスの革命意識も 普通の家庭や人を安堵させない。そして流浪そして病や死やシベリヤへの放逐。
 私は映像に竦みながらそれを「ドクトル・ジバゴたち」の物語とは見ていなかった、もしも、萬一とも最早謂えないもしも日本の国土と国民とが異国・異民族のつと支配とに屈服を強いられた「年々日々」を十二分に懼れて然るべき確たる危惧に、その方に、戦いていた。幸いにも、と思うが私たち老夫妻の生きてあるウチぐらいは保ってくれよう、が、朝日子や建日子らの、孫みゆ希らの時代に、日本国が、少なくもロシア、朝鮮、中国とどんな破壊的危機を迎えて「いる、いない」は薄紙一枚の表裏に過ぎまい。敗戦後に破れた日本兵は、シベリアや満州等々の「異国の丘」に強制労働の日々を過ごして、實に實に大勢が死んでいる。私は当時「ソ連」の作家同盟が招いてくれた折に、ハバロフスク近辺のものすごいほど宏大な「日本人兵士らの「墓地」と謂われる場所へも連れて行かれた。想うだに「凄惨」の感に想い屈した。
 
 * いまの日本人は大方が忘れたか識らないでいるだけで、遠からぬ過去に、異国の民族民衆にあだかも君臨し、横暴をほしいままにしてきた形跡は、ましてその記憶を憎んでいる他国の人らが、歴然と処方に遺されいま生きてもいる。同じ「メ」に、日本が負けて屈して陥りかねぬ近未来を、国家国土国民国史文化財の確保・安寧のために「政治」はいま、どんな叡智や配慮・対策を為し得ているか、慄然とする。
 
 * 現下の日本人は政治家たちを一に、国民もまさかに自分達が「ドクトル・ジバゴ」の境涯なんぞとは徹底無縁と感じている、と見える。
 が。
 脅すのでは無い、本気で私は思っている、危ないぞ。危ないぞ。ものすごく危ないぞ。
 
 〇 お元気ですか。紅葉が進み 秋が深まっています。風邪ひかぬよう。お大事に。
 花筐のこと、最初に上村松園の絵と能の花筐を思いました。寒くなります。 尾張の鳶
 
 ◎ 花筺 すこし長めの創作が進行中なのですよ。
疲労困憊という感覚と体調は抜け去ってくれません、無視して、すべき・したいをしています。すっかりお婆ちゃんと化しているかと想像しています。
コロナの感染者数が減るどころか増え続けてます。出歩けない間に脚が萎えてしまいそう。
 
 宿を取らねばならない京都というのは、「ウソ」のようで。新幹線に乗れば済むというワケでなく、遠くなったなあと。
円通寺の縁側に腰掛け 比叡山がみたいなと想う。仏様の御顔と あちこちで再会したいなあと思う。保津川に雪の季節が来るなあとも。戦時疎開した旧南桑田郡樫田村字杉生(すぎおう)(いまは大阪府高槻市内とか。)の蛍と蛙の声に溢れた夏の夜、懐かしいかぎり。
 
 坪谷善四郎という著者の千頁を越す『明治歴史』とドストエフスキー『悪霊』熱愛中。四書のうちの『中庸』そして『史記列伝』『水滸伝』も。「金瓶梅」読みたいと心がけています。
 
 処方されている利尿剤のせいか、よろよろします。自転車には乗れなくなり、家の中で数回転倒転落、幸い異常は無いです。
 
「撮って置き」の映画を頻頻と観ています。昨日の『ドクトル・ジバゴ』が凄かった。ドラマでは『ドック』そしてやはり『鎌倉殿の13人』に注目しています。
 
 文化勲章の松本白鸚に、幕末の秋石畫、見事に丈高い松の秀にちいさくIが降りて、空高く高くに小さな旭日という長軸を謹呈しました。京都の「ハタラジオ店」の昔に出逢っているのです。お父さん(初代白鸚)と一緒に「電池」などを買ってくれました。彼は少年でした。
 
 ロダンの地獄の門を遠目に、上野の美術館前庭に ゆっくり腰掛けたいなとねがうのですが。  お元気で。  鴉 勘三郎
 
* 明治維新最初の難関が版籍奉還であった意義をながいあいだ私は理会していなかった。そのこと、書き置きたいが、疲れていて。後に、と。 なんとはや、午過ぎて二時半と。やすみたい。
 
 * 寝起きても、食欲無く。紅書房の菊池洋子さん来信 劇団俳優座来信 京都新聞社来信。明日の用意だけして、このまま寝入りたい。六時半。 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月三日 木 文化の日
    起床 5-45 血圧 136-72(77) 血糖値 76 体重 53.4kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合     の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  十四番
 * 数ふれば我が身に積もる年月を 送り迎ふと何急ぐらむ  兼 盛 (平) 
 * 鶯の声なかりせば雪消えぬ 山里いかで春を知らまし   中 務          〇 兼盛歌。 「數」えなくても、誰しも老いの歳月を積み重ねるのは、通常。あたかも齷齪と年取るモノを諷し嗤いもしているか。だが初五の「数ふれば」に「うた」としての映えがなく、俗言のまま。
 〇 中務歌。 陳腐な「理」にあてて気取ってみても、「なかりせば」の卑俗な口調といい「雪消えぬ」と上三句を「云い切った」に同じい寸づまりで、下句「山里」を棒立ちにしてしまっている。才気を気取って陳腐な一首に堕している。
 両歌とも「うた」の自然が生きないで「くさみ」を余した咎は、「十三番」に同じい。
  *  但し此処に謂う私の批評は、あくまで21世紀令和の一歌人・文士の思いようであり、原作者らが生きた時代のいわば「常識・風儀・趣味」は斟酌していない
 
 * 前夜はドストエフスキー『悪霊』のみ暫く読み継いで寝入ったらしく、比較的長時間睡眠が取れているので、目覚めて躊躇わず床を起った。
 
 * 新聞にもう何年も、十何年も手も目も触れていない、視力が弱いのを庇っている。テレビの有働のほかに、メール・ショートカットをあけるとツイッター等からの端切れコマ切れ、噂程度の「世の中」に接する。タマに、ホウと思う(最古の木簡が平城京祉から、等)見聞に立ち止まるが、大方はノンセンスな雑報と「見棄て」ているが、今朝は福島みずほ社民党党首らが「原発」使用期間の延長に賛同した、とか。これは、気になる。
 
 * 晩、「撮って置き」の映画『ドクトル・ジバゴ』の凄然出来映えに膚寒くなった。感想はいろいろに険しいが、間を開けたい。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月二日 霜月朔
    起床 6-35 血圧 136-72(77) 血糖値 76 体重 52.85kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合     の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  十三番
 * 焼かずとも草はもえなむ春日野を ただ春の日に任せたらなむ  重 之(源)
 * 水の面に照る月次を数ふれば 今宵ぞ秋の最中なりける     順  (源)
 〇 重之歌。「野焼き」を、火に任せずとも、柔らかな「春の日」に任せた方が、若草も美しく萌えように、と。「もえなむ」「たらなむ」の、「春日(かすが)」「春の日」の、意図的な「置き」が調和の美をえているかどうか。初句の「ずとも」が「理」に落として毀していないか。技巧が巧みを得ていないと観る。
 順の歌。指を折って「数ふれば」、そうか、今夜は秋の十五夜、だから月も月影も美しいと。「数ふれば」と一首を先ず条件付け、「満月」と「秋の最中」を「理」に填めて打ち重ねたただ「戯れ言葉」に仕立てている。
 両歌とも「うた」の自然が生きないで「くさみ」を余している。
 
 * 体重が、最低に落ち込んでいる。
 
 * 不愉快は、誰にも付きまとうゴミのようなもの。それでも不愉快は、不愉快。
 
 * 平城宮祉で最古とみられる「倭歌」の木簡が見つかったと。
 
 * 坪谷善四郎の『明治歴史』は若い明治天皇が即位し改元の日まで読み進んできたが、その直前の、江戸城開城の以降、東北、北陸、奥州、北海道での征討官軍と幕府方対抗余勢との激闘、死闘、征服、戦後措置等々に斯くも精微なまで識りうるとは思わなかった。興奮もした。これらを尽く識ってはじめて「明治維新」の四文字にまともに向き合える。「明治維新」はただの標語でも表札でもなく熾烈なまでのさまざまな対抗の詳細そのもので成った本状最も巨大な政変史そのもの、其処には文化大革新密着していた。
 さて、いよいよこれから表題の「明治歴史」がなお七、八百頁に亘り展開する。この晩年、「最大級の新たな読書」となる。
 
 〇 お元気ですか.感謝。十月分を無事に受け取りました。みづうみから「私語の刻」を送っていただけるのがこんなに嬉しいなんて! 本当にありがとうございます。
 早速少し読ませていただき、「十月三日」のなかで気になる箇所がございました。
 
 *『アストリッドとラファエル』という意気のいい連続刑事ドラマが終えた。アストリッドは天才的な力を持つ精神薄弱女性でラファエルは心優しい敏腕の女警視。いいコンビだった。続きは来年の五月からと。気の長いことだが、楽しみに待つとしよう。
 
「精神薄弱」は「現在使用禁止」の言葉です。医学的にも正しくありません。すぐに訂正がご無理でしたら、本になさる時やネット上に公開なさる時には、必ず「発達障害」等の表現に変えてくださいますように。まるで言葉狩りのようですが、被差別部落出身者にたいする○○という表現と同じで、やはり当事者と家族を傷つける言葉なので、不用意に使用すると みづうみが批判を受けることになってしまいます。
   (秦 感謝すぐ訂正します。アタマが古くさいまま修正できて亡くて。
     老耄とて言い訳には成りません。)
 差別表現をうっかり使用しても、みづうみは差別を心底憎む人で それを創作の一つのテーマにしてきた方であることは「読者」なら誰でも知っています。反対に、差別用語を使わないだけで差別的、偽善的な人間は、私を含めて山のようにいると思いますが、公然とある言葉を使わないことから、差別的な社会を改善していくしか方法がないのでしかたありません。昨今、「つんぼ桟敷」「めくら判」も「片手落ち」も使えないのですから、まして「精神薄弱」は禁忌です。
 相変わらずのお節介ではございますが、何卒お許しくださいますように。
   (秦  感謝します。)
 ここ数日ケイト・ブランシェット主演のエリザベス一世の歴史もの『エリザベス』『エリザベスゴールデンエイジ』二本を観て、『鎌倉殿の13人』も続けて観て、気分は晴れません。「権力者」であることは、人を殺す職業を選ぶことと同じだとしみじみ嫌悪を感じます。権力の座とは金輪際無縁でいたいと思います。幸いこの願いは簡単にかなえられていますが…。
 わたくしは、世界を支える歴史の泡の、まともな庶民でありたいです。
 湖の本、すでに160巻に手が届いていらっしゃるのですね。このお仕事が、あるいはみづうみの現在のご体調を支えているのかもしれません。とは申すものの あまり飛ばし過ぎずに、ごゆっくりお進めくださいますようにと願うばかりです。
 さわやかな秋晴れの一日になりそうです。   秋は、ゆふぐれ
 
* いい読者を「身内」のようにも。有り難さ心強さ、はかり知れない。
 
 * 「湖の本 160」 三校を、責了 本紙・表紙 全部 午後 宅急便で送った。
納品までに余裕は十分。その間に「読み・書き・読書」の外の「創作」に手が尽くせるだろう、すこし長めの作に集中している。
 責了紙を自転車で運べなかった、脚が上がらず向こうのペダルへ脚が届かず ムリすれば転倒したろう。自転車、諦めるか。歩くしかなくなったか。
 「湖の本 161」初校出を待つことになる。
 それにしても、一九八六年の創刊から、160巻を超えたとは。創刊を支援して戴き凸版印刷株式会社の古城さんを紹介して下さった、のちに文藝春秋専務に成られた寺田英視さんに感謝しきれない。他社の編集者らからは、半ダースと出せまい、作家の敵前逃亡などと面罵も同然に冷笑されたものだ。それからもう36年が経ち、嗤った編集者らはみな消え失せたが、「秦恒平・湖の本」は160巻にも達し、私が健康でさえ在れば、どう老境に達しようと作品や原稿や資金の果てることは無い。常にその「用意」はしてある。
 
 * 晩八時過ぎ、今日はかなり長時間根を詰めていたので、もう休息する。本を読みながら寝入りたい。ドストエフスキーの「悪霊」源氏物語は「花散里」そして坪谷善四郎『明治歴史』に力点。「参考源平盛衰記」「水滸伝」を気晴らしに。
 ルソー「人間不平等起源論」 「被差別部落一千年史」 ニーチェ「この人を見よ」。
そして、「ホビットの冒険」 さらに『史記列伝』と『十八史略』に親しんでいる。
 
◎ 令和四年(二○二二)十一月一日 霜月朔
    起床 5-45 血圧 145-64(59) 血糖値 76 体重 54.3kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合     の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  十二番
 * 嘆きつつ独り寝る夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る 傅殿母上(道綱母)
 * 忘れじの行末までは難ければ 今日をかぎりの命ともがな    帥殿母上(高階貴子) 〇 ともに百人一首で馴染みの歌。道綱母は兼家の夜離れを嘆き訪れを夜通し待ちわびて訴える嘆き歌、女の肉声が聞こえるようで、間然なき秀歌を成している。
 高階貴子のほうは、「忘れじ」の肉声をもちこみ、「理」で責めて、甘えたイヤミを、音韻の躓きなくたみに歌っている。
 いい勝負だが、かすかに上句で道綱母がすぐれ、下句は貴子の直の物言いが歌(うったえ)に化(な)っている。
 * 晩ないし就寝前に利尿薬を一錠処方されている。そのせいか、夜中に多いときは数回も尿意に目覚める。幸い寝そびれはしないが、の所もう久しい早起きまたは早起き巣来ているのは、そのセイか。ま、排尿が滞りなくいつも在るのは宜しいことかと。
 
 〇 今日から十一月。毎日その日の「私語の刻」が読めたらというのが一番の願いです。今日も「みづうみ」の文章が書かれたと思うと、どんなに安心できることでしょう。
 やりたいことややるべきことは色々ありますのに、出来ることはほんとうに少し。目の前のことで精一杯で、大したことは何もできないまま、今年も終わりが見えてきました。 これから寒くなってきますけれど、インフルエンザもコロナも決してみづうみに近づきませんように。どうかどうかお元気に。   秋は、ゆふぐれ
 
 〇 ご本「能の平家物語
早速にお送りいただきありがとうございます。書庫から、取り出していただき郵便局へと、お手数をおかけしました。感謝します。
 秦様の力作を謡、仕舞と一緒に稽古をしている、熱心な方たちに、ぜひ読んでもらいたいと、厚かましいお願い。早速聞き入れてくださり感謝です。
 きっと平家物語の魅力に惹かれる事でしょう。
 どうぞ秦様によろしくお礼お伝えください。
 渡す前に、湖の本の写真の面の美しさに魅入っています。
 先々週の土曜日に、古い友人(長男の幼稚園時代)を誘って「船弁慶」を観に行きました。友人は平家物語の屏風図絵を見るのが大好きだと聞きました。
「昔々のお話しなのに何か心の底にある悲しみが、湧き上がってきました。」とのハガキをもらいました。平家物語を通して良い話ができ、嬉しいです。  持美
                          
 〇 爽やかな秋らしい日が続き、食欲がもどりそうな気配はなによりです。自然界の力はおおきいですね。
 いろんな木々が順に紅葉して、下の方から葉を落としていきます。シャラの紅葉が始まり、見とれています。近くの県立公園を散歩して銀杏とむかごを拾ってきました。このあとがひとしごとですが、秋らしい遊びです。
 七千歩歩いていました。庭でおままごとをしております。
 お元気でお過ごしください。   那珂
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月三十一日 神無月尽
    起床 6-10 血圧 135-67(60) 血糖値 76 体重 54.5kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合     の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  十一番
 * 琴の音に峰の松風通ふらし いづれのをより調べ初めけむ  齋宮女御(徽子女王)
 * 岩橋の夜の契りも絶えぬべし 明くる侘しき葛城の神     小 大 君       〇 「のね に ねの」とさながらに遠山風の「通」い流れる上句の感嘆に価する「うた」声のうつくしさ「希有」の表現と褒めたい。しかも下句の「いづれの」「を=緒 峰」よりという「調べ」と把握した適切と適確には驚嘆する。一首の「うた」が遠山なみを流れる風を、人智を越えた大自然という楽器が奏する「さながらの音楽」と成りきっている。いささかの渋滞なく「魂」に協和して「日本の和歌史」に卓越の「名歌」と賞讃してやまない。{
 小大君の一首も渋滞なくたくみではるが、何と謂うても総じて各句とも葛城、岩橋という伝説と神話に負うており、それが、容易くは越え難い高い観賞の限界を自ら爲してしまっている。,
 * 体重がややに戻りつつあるか。
 
 * 弥栄中學三年生のむかしの、西池先生がたもおいでで、盛大に群集しての楽しい夢をみた。学校生活として最良最高に楽しいいい時代だったなあ。三年担任の西池先生はむろん、一年の音楽小堀八重子先生、二年の英語給田みどり先生、国語の釜井春夫先生 図画・体操橋田二朗先生、理科の佐々木葉子先生、社会科の高城先生、数学の牛田先生、教頭の喜尾井先生、秦一郎先生、寺元慶二先生、
 小学校でも高校でもこうは覚えていない、が、小学校の中西秀夫先生は私の作文力をしかと後押しし、卒業式では五年生送辞、六年生答辞を寄せて下さった。高校では国語科の歌人上島史朗先生により短歌人へと強力に背を押され、太平記への詳細な注釈を遂げられた碩学岡見一雄先生には源氏・枕なと古典の朗読と愛読に火を点けていただき、創作者への背をぐいと推して戴いた。三年担任の先生には、受験勉強は嫌いですというと、そかそかと即座に三年間の成績表を調べられ、これは無試験推薦に有り余るよ、推薦しようかと、ボボンと同志社へほとんど先生が即座に決めて仕舞われた。この先生は、我が家打ちの大人らの超絶不穏を聞かれたか、ふっと家に見え私話祇園円山へ誘い出して励まして下さった。今にしてしみじみ有難く思い起こされる。
 
「先生を慕う」とは「先生に励まされる」のと表裏の同義、そういう方との出会いがあったから永く満たされて歩いて来れたとは、決して忘れては成らない。
 
 * 初の単著を出した深澤晴美さんから 今日の午、池袋で会いたいとメール、とてもそんな体調でなく、断った。寒けがきつい。一番の夢は、大きな温泉に五体を沈めて芯まで温まりたいと。温泉体験もほとんど無い私、妻と、四度の瀧を見に行った日の、瀧に近い宿の温泉が懐かしい。井口哲郎さんに教わって行った温泉もよかったが、今や石川県の山中は遠すぎる。熱海の地へは出向いたが、魚屋で盛大に海老や刺し身は食ったが、宿には泊まってないので「温泉」は知らないのだ。
 
 * 身をもてあますほど気怠かった、が昼、過ぎから観た映画、ロバート・デ・ニーロ、デビ・ムーアらの『俺たちは天使じゃない』は感銘の秀作、心洗われ励まされ、気怠さも遁れていた。感謝。いい映画は、宝だ。
 
 * 「鎌倉殿の13人」 和田義盛の哀れな最期で、北条小四郎義時の強硬な悪役が「京鎌倉」の時代をもうすぐらく転がして行く。人のいい剛勇和田も巴の行く末ももの哀れであった。
 
 〇 「私語の刻」にございますさまざまな作の一節と秦先生の日常とをつづれ織りされたご文章「花筺」世界に惹き込まれております。そして一向に治まる気配のないウクライナの戦渦へのお言葉をかみしめております。  甲府市 和子拝
 
 〇 先生の作品をゆっくり読ませていただくことを楽しみにしております。本当にありがとうございます。 府中市  誠
 
 〇 お手紙、読み返しています。
 お体の具合の悪いのは心配です。なにでもおいしそうに召しあがる秦さんが食欲不振とは何とも気になることです。「私語の刻」では気持が活かされても、体を保つことはできますまい。何とかその回復を祈ります。
 私は身長こそ一六○センチをきってしまいましたが、体重五二から五四キロの行き来。この何十年も変りません。偏食なりに、身を保つ栄養が摂れているようです。ただ先日検査(エコー)を受けまして。頸動脈狭窄のうたがいあり、と診断されました。それに対する主治医のコメントは「ま、お年ですからね」でした。
 秦さんにお手紙する度に、無為の毎日が反省させられるものの、日に数時間の読書ほかうつ手もありません。「私語の刻」を拝読しては、そこに気持のよりどころ(5字ボーテン)を見つけている次第です。
 今日は快晴でした。夕方(昼に近い)散歩してきました。久々に赤トンボの群れ飛ぶのを眼にしました。お天気なら歩くものの、一時は二キロぐらいだったのに、この頃は四百メートルあまり、それでも三百メートルを過ぎると家内はへばって、私の腕にすがりつかないと歩けなくなります。これもいつまで続くことか、と思っています。
 メールのこと、さき頃、秦さんのおことばがあって、パソコンを開いてみたのですが、送信トレイや受信トレイがゴチャゴチャらなっていて、いらいらして閉じてしまいました。今度こそトライしてみます。隣りに住む長男のヨメに頼んで整理してもらおうと(いつも頼っています)思います。
 しかし立ち直ってもお伝えするような「ことがら」が何もなさそうです。いつものように秦さんのお話をおうかがいしたいと思っています。果してうまくできるか、自分でも努力してみます。
 ますます寒くなります。その上にもお体をお大事にと願っています。食欲のない秦さんを前に奥様のお気持いかがと、このことも気になります。よろしくお伝えください。
   十月二十六日十七時三十分    哲郎   (前・石川近代文学館館長)
  秦 恒平様
 
 * 28にちとあるお手紙は、メールアドレスを貰い、それに即返信した28日交信は遅れている。「朗報」を喜んだ私からの返信が読んで戴けているかどうかは判らないが、メールのこと、送った28日には届いているし、メールでの即の応答が31日の今日無いと云うことは受け取れていないらしい、ナ。
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月三十日 日
    起床 5-20 血圧 138-77(72) 血糖値 76 体重 53.8kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合     の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  十番
 * 有明の月の光を待つ程に 我がよのいたく更けにけるかな   仲  文
 * まだ知らぬ古里人は今日までに 來むと頼めし我を待つらむ  輔  昭  
 〇 有明を待って、夜の「更け」は、当たり前のはなし。だが、「よ」は、夜と謂う以上にわが老境の自覚・感慨を託した一字一語で在ろうよ。
 輔昭の地方官に認知へ赴く者の代作といわれる一首 なにをか云わむ。、
 
 * 毎朝が寒くなって。
 
 * 文字が継続中の所定位置に普通に書けず 機械クンが待ったをかけ、ノーという。これは、まるで別の一太郎画面で書いている。「対応」が掴めない。こんな風に仕事に一一の障りが生じて、ただ立ち往生してしまうとは.弱りましたね。 
 
 〇 絶不調の九月十月でした 生きた心地しなかった 辛うじて食と体重が微かに戻ってきたかと。判りませんが 「読み・書き・読書・創作」は続けています。
 
前便で 鳶は なにやら「花筺 はなかたみ」のことを やもや謂うてましたが「花かたみ」とは、 鴉が少年のむかし 枚朝夕に 大原女がアタマに笊話を載せ、「花やあ 番茶ぁ」と売り歩きにきた あの笊と同意。気に入り目に付いた花や草や小枝や木の実などざっくり容れる「笊」を雅に謂うた女のモチモノです。「はこ」と打てば「筺」と出る。容れものです。雑然と気ままに気に入りを 摘んだり取ったり拾ったり容れて、中身に大小や種別の統一感は無用。その気楽さを愛した「花筺 花かたみ」です、そのように雑多に書いた文や作を投げ容れていたでしょう。 書き放したままの切れ端も拾って置いてやろうという「老境の遊び」と笑って下され。
 
 * 露骨な疲弊感に負け午前の二時間ほど寝ていた。十一時前。
 
 * 午後も晩も不調、何も為らず。チャップリンの『殺人狂時代』の批評に身震いしていた。
 風邪か。身震いし寒けが在る。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月二十九日 土
    起床 5-20 血圧 138-77(72) 血糖値 76 体重 53.8kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合     の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  九番
 * み吉野の山の白雪積もるらし 古里寒くなりまさるなり   是 則         * 年ごとの春の別れをあはれとも 人に遅るる人ぞ知りける  元 眞         〇 是則、「山」とばくぜんとより「峰」とおいて「み」音の連繋に「うた」をひびかせたかっ、上句まつの「らし」という推測も聴く耳に硬く、言い切りが過ぎて上下句くのなみうつ協奏をえぬまま「おっさん」天気予測終わった。
 元眞歌には「ひとに死なれた、死なれようとする」悲しみが、花の春という盛りの季のいましも去り離れ行く哀情とが歌い手の胸をついている。秀歌と謂える。
 
 * 毎朝の一番に「王朝和歌」の名だたる歌合わせを評し審判するなどいう丈高い行為には、おろそか無きを期している.令和の世に、かく「千年の昔」の風雅と心して向き合い楽しんでいる文士が、いるよ、と謂うこと。
 
 〇 痛み和らいで  メール頂き有り難う、御座います、ご心配して頂きうれしいです、22日に退院しましたが、今一ふらっとして、ぼんやりとし過ごしてます。通院したりして、今日は、やっとこでさで食事を作りました。ぼつぼつ頑張って居ります。有り難う、御座いました。   華  京東山北日吉
 
 * 七十余年、東京へ出るとき心づくしの眞を貰って別れていらい逢わない茶道部後輩
その頃のきりっとした美貌だけが眼にありあり、「左のお乳が無くなってしまいました」という知らせは哀れであった。予後を、大切に、気を変えて長生きするようにと励ましたい、が、久しい夫君を亡くされている。同じような方の多さにもおどろく。
 
* 深澤さん 初の単著『川端康成 新資料による探究』出来を祝う。
 
 * 映画『ペン・ハー』完璧と謂える大作の感動の深さに、真率感嘆の間々泣いた。全映画作の一二を争える「名作」と賞讃を惜しまない。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月二十八日 金
    起床 7-05 血圧 140-66(55) 血糖値 76 体重 53.3kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合     の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  八番
 * 色見えで移ろふものは世の中の 人の心の花にぞ有りける   小野小町       * 秋の野の萩の錦を我が宿に 鹿の音ながら移してしがな    元  輔 (清原)  〇 小町の透徹した心眼が、無駄音一つ無く 「の」音連弾の成功、この効果で「ぞ」という強調の濁音も場を得て響き、倶に完璧に表現されている。歌意にも深切の含蓄あり、躊躇わず秀歌と云う。
 元輔歌は、これでもかと、いささかにふざけも見える趣向で、独り笑いにいちびっている。しかも韻のいきおいは濁って、結句にも締まりが無い。
 
 * 愉快で無い、が、責めはわたくしにもある夢で目覚め、そのまま起きた。
 
 * マゴマゴと奮励、いささかアヤシゲながら「湖の本 161」を入稿、usbで郵送した。なんとか、なってくれよ。
 
 〇 秦さん (メール)何とかつながりそうです 井口哲郎 (前・石川近代文学館長)
 
 * と、メール着。ヨッシャ。
 
 ◎ 朗、朗、朗報 
 私の此の返信が無事届きますように(迷ように と誤記)
 手筆 書字が出来にくく まことに困惑し ただただ「書く」日々は機械に頼っていますが、その機械クンにも??られてばかりの老耄で往生しております。
 この残暑と九月は、疲弊の極、日々に 天上より「もういいかい」と呼ばれ続け 生き(息)もかすかに「まあだだよ」と猶予を願いながら、瘠せに瘠せて  最低52キロにまでなりました。まったく絶食に同じく「食べられない」のでした。十月も末になって、やっと少しずつ食せるように。
「読み・書き・読書・創作」の日々はガンコに護っています。「モウイイカイ」が催しますのか、「まあだだよ」のうちに 湧くように「書いておきたい文章」たちに襲いかかられています。纏まりも無いままにも 仕方なく 「花筺」とゴマカシ気味に長短、ハンパでも「摘み溜め」ておきます。まさしく「私語」の日々に化しているのかと。
「花かたみ」という「籠」には、さまざまな「花の切れも、草の切れも、枝葉の折れ」も入り、少年の昔、大原女たちがアタマに笊をのせ、「花や番茶ぁ 野菜」を呼び売りに訪れ来た日々を懐かしむ事が出来ます。「花かたみ」 好きな日本語の一つです。
 ごめんなさい、嬉しさに舞って 我が事ばかり。
 お元気でおいでか、奥様のご容態は良くなられてかと、想う日々でした、メールが  書いて戴けなくても せめて受け取って戴ければ話せるのにと嘆いていました。 これ(私の返信)が 無事に届くか、届くと判るだけで宜しく、お知らせ下さい。
 疲労困憊の疲弊の などという「言葉」を、痛いほどの実感で日々に感じ書いている現実に惘れますが しぶとく「まあだだよ」と呟き続けています。
井口さん 井口さん  日々お大切にお元気でいて下さいませ。    秦 恒平
 * ラブレターのようにナッテしもたか。ま、待ちかねてましたので。返信がきちんと届きますか。書き・打ち損じ イッパイ。察してご判読下さい。
 
 * 何度目かの映画『ベン・ハー』の出だしに、胸倉を掴まれている。今夜にも、觀おえようかな。曲がりなりに「161」入稿すると、「湖の本 160」三校が届くまで、ポカっと余暇が出来た、嬉しい嬉しい。映画『パリは燃えているか』も善い大作だった。
 
 * 『ベン・ハー』のシーンごとの緊密と華麗な悲劇色に魅され魅され妻と零時前まで観て、「インター・ミッション』明日にしてと 寝て、疲れを取る方に。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月二十七日 木
    起床 5-10 血圧 140-66(55) 血糖値 76 体重 53.75kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合     の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  七番
 * 夕されば佐保の川原の川霧に 友まどはせる千鳥鳴くなり   友 則 (紀)    * 天つ風吹飯の浦にゐるIの などか雲居に帰らざるべき    清 正
 〇 友則歌の下句「友まどはせる」は、夕暮れに友鳥を「見失っている」意。上句「さ さ」「か か」の音色の「追い」がきれいに効いて夕景色が美しく目に見えるよう。秀歌と謂えよう。おい
 C正歌には昇殿をはなれて地方官として宮廷をに出る感情の渋みが一首の「翳」をなしている、また殿上の日々へ帰って来ずにいないと。地方に「ゐる」という一語に、「などか」「べき」と気張って返すもの言い、音を上げた感触、いかにも。お気の毒、だが。
 
 * 時間を忘れる。五時に機械の前に座り、いま正午。目の負担ははなはだしく視野は水の中のように滲んでいる。それでも朝食にカレーライスを一皿食した。体が要求するのだろう、時として空腹を感じる、が、別もの別ごとの感触か知れないが。
 
* 横浜の相原精次さんに善いお手紙を戴いている、ここへ記録しておきたいが、疲れが、待てと言う。スキャンの機能があるのに、使い方を忘れている。同じような物忘れがアレコレ有る。ショがない。
 
 * 東村山の写真家、近藤聰さんお葉書そしていつもの名酒一升をお送り下さる。時世というのか、フィルムカメラと「全て縁が切れ淋しい毎日」と。「デジタルの印刷写真はいまだになじめない」と。「マリオ・ジャコメッツイ」などに「心奮われていいます」と。
 
 * 松田章一さん冊子「續左葉子」頂戴。
 奈良の櫟原聰さん、新歌集頂戴。
 潮出版 もう来年の「文化手帖」戴く。「手帖」用いなくなったなあ、昔は不可欠のモチモノだったが。一つにはパソコンの便利からか。ま、ウシロの名簿に時ら助けられる、住所など。
 
 * 寒けに、イヤな嚔を一日中 連発している。洟をかむのもメンドくさい。茫然と怠い。之は此処数日の無茶な早起きと深夜まで時間を忘れる「書き」仕事に熱中の咎であるが、出来る内に内にと逸るからだ。
 
 * 映画『パリは燃えているか』  日本人は故郷や国土を占領されて、幸いにもドイツがパリと市民とを拘略したようなメにほぼ遭わずに済んだが、一つには闘う日本人の強さや怖さを穏便な支配のために考慮したから。日本人はたしかに闘って強い国民であった。が、敗戦して八十年近い歳月にみたされた日本人にそんな「歴史的な」強さが消え失せているとしたらそうは遠からぬ将来に苦痛の被支配、被占領の事態が、無いとはとてもいい切れないことを案じる。
 やっとこさ、最近になって「防衛」を口ににするように政府も国民も強いられはじめている。防衛の一の力は「武器武装」ではない「悪意の算術」に徹した「外交力」だ、が、じつにじつに心許ない。国民はしかと気づいてその空気を總がかりでつかみ強化しておかねば。其処へ気づいている議員や大臣を選びたい。
 
 * 機械がうまく使えない。機械クンのせいではなかろう。体?の衰えはふふらつきに顕著だが、判断や理解のそれももう甘くは見逃せない。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月二十六日 水
    起床 4-00 血圧 140-66(55) 血糖値 76 体重 54.41kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合     の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  六番
 * 人の親の心は闇にあらねども 子を思ふ道にまどひぬるかな    堤中納言(兼輔)
 * 逢ふことの絶えてしなくはなかなかに 人をも身をも怨みざらまし 土御門中納言
 〇 「子を思ふ」藤原兼輔 「逢ふ恋の情動」藤原朝忠 ともに表現に遜色なく、過不足なく真情を詠いきり 吟誦に耐えて読む胸に鳴ってせまる。「秀歌」と謂う。
 
*  * 家にいても、、ついつい、よろめいている。「よろめく」が色めく流行り言葉だったのも、むかし話。今、私は、老い衰え、とかく「軽く」だがよろめいている。今し方は、両膝からがくと落ちかけ、驚いた。
* おやまあ、翌日の零時二十分。何をしていたか。成果有りともいえず、機械の上でただ迷走を繰り返し続けていたか。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月二十五日 火
    起床 4-00 血圧 140-66(55) 血糖値 76 体重 54.41kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合     の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  五番
  * 行きやらで山路暮らしつ時鳥 今一声の聞かまほしさに   公 忠(源)
  * さ夜更けて寝覚めざりせば時鳥 人伝にこそ聞くべかりけれ 忠 見(壬生)
 〇 公忠の一首、意味は通っているが上三句がぶつ切れの「説明」 下句「聞くかまほしさに」と理付けの鈍くささ、和歌ならぬ不味い散文に過ぎぬ。音
  忠見の一首、上句の「ざりせば」が音汚く執濃く、下句の「にこそ」「べかりけれ」も「うた」としてCらでなく押しつけがましい。「ほととぎす」の置場のたまたま揃ったのを番えたにしても、美しい利きとはいえず、二首ともに「理屈」を「述べ」ただけ。
 
* 夢ともなく夜中の床でもの想いが潮騒のように寄せてきて、それはわが老境の胸騒ぎに似て想われるのだった、四時に手洗いに起き、そのまま妻や「マ・ア」を起こさぬよう跫音を忍ばせ二階へ来てしまった。暗闇の寝床で想い想っていた波立ちはもう失せて思い出せない。
 
 * 夕方四時半をすぎている。四時に起き、午前に二時間ほど寝たが、他は機械に向かい、書き、かつ、読みっぱなしで目は霞んでいる。湧くように、「して」おきたい、「したい」「読み・書き」仕事に逼られる。疲れ切っているが、元気は、疲れををワキへよけて通ろうと。
「まあだだよ」
 やれるかぎり、やる気。
 
 * 夕食後読書しつつ寝入って、七時半。さすが四時から起きていて、たくさんなことをし終えて、このまま寝入りたく疲労を覚えてはいるが。
 いま、九時になろうと。もう少し。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月二十四日 月
    起床 7-30 血圧 129-72(70) 血糖値 76 体重 54.1kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合     の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  四番
  * 春立つと言ふばかりにやみ吉野の 山も霞みて今朝は見ゆらむ 忠岑(壬 生)
  * 千年まで限れる松も今日よりは 君に引かれて万代や経む   能宣(大中臣)  〇 忠岑歌に、一首の、謂わば「音声・音調」の美しさは優に認められる、が、「言ふばかり」という予期・推量で一首の幻像が成ると便乗し期待しているのは、乗れない「理くつ」である。
 能宣の一首は、敦實親王が正月子の日の遊びに、要は「おべんちゃら」、一首に多用の「カ」行音の連弾も工夫の不足、和歌として無神経に粗い。
 
 * 昨今の例に無く、朝寝した。やや空腹も感じている。
 
 * あの「習近平」は、まちがいなく中国に「清朝」以來の「王朝」を布いて長期に「王政」が世襲されるだろう、トランプもプーチンも彼の前には「メ」じゃないと、私は世紀の「初め」から予見し「私語」し置いていた。習近平は化け物であり、かつ日本に最大の脅威である。国会議員らよ、日本の青年壮年らよ、わかってるのかね、何か思案と対応の策は「お有り」なのかね。
 今日の日本國に、あの明治維新を実現し構築し支持した一人の勝安房も大久保利通も伊藤博文も岩倉具視も、いない。なんという心細さよ。
 今ほど若者らが、興国の意気に燃えた明治青年らの如く在らねばなるまい「危地」を踏んでいてその懸念も自覚も無いとは。危ないぞ。危ないぞ。
 敗戦後の旧日本軍日本の海外兵士らは、多くがシベリアや中国で強制労働に追われて苦役し、年経てかろうじて「帰り船」で異国の丘や砂漠から日本へ帰れた、が、おそらくこのままノンビリした享楽日本人、ことに能生の薄い若者らがただ向こう見ずに怠けていたなら、今世紀も半ばするにつれ、故国の国土と歴史を喪い家庭と文化を喪い見も知らぬ異国の地や丘や谷間」に拉致さ移住を強いられ、ただの「労力」として追い使われかねないのだ、判っているのかねえ。習近平も、キム・ジョオウンも、プーチンも、すぐ目の前で露わに脅して来ているのに。 日米の協力…それは「おとぎ話」に過ぎません、さっさと退散しソッポを向くでしょう、あめりかサンは。私がアメリカ人なら、危ない日本には関わりたくないと思う。
 
* 今日も、奮励、よく書いた。
 
◎ 令和四年(二○二二)十月二十三日 日
    起床 6-00 血圧 130-65(72) 血糖値 76 体重 54.25kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合  の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  三番
  * 世の中に絶えて櫻のなかりせば 春の心はのどけらまし  在五中将=在原業平
  * 末の露本の雫や世の中の 遅れ先立つためしなるらむ   遍昭僧正 
 〇 業平は、散りに散る櫻の美しさに胸さわぐまでの春を いとひ顔にしかし賛嘆している。上句、「理」に執くくどさは感じるが、一首の趣意には王朝びとの季の盛りを待ちまたいと愛しむ歓びを謂ひあらはし、實感によく逼っている。
 高位の「僧」遍昭の抹香くさい「きまり文句」でお茶を濁したしたり顔は見にくく、「葉末」の露に番えている雫の「本」一字に謂い足り無さ露わで、取り柄の何も無い。
 
 * 冷え込む。暖房していて、機械の前が寒い。
 
 * 朝早くから、今は晩の八時半、午前に二時間ほど寝入ったけれど、他はぶッつづけ「書いて」いた。書いておきたい事がむやみと利売りに湧いて出て、おいおい疲れるよとボヤキたい気分にもなるが、書ける限りは書き続けたい。「まあだだよ」
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月二十二日 土
    起床 5-50 血圧 150-72(70) 血糖値 82 体重 53.5kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合  の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  二番
  * 今來むと言ひしばかりに長月の 有明の月を待ち出つるかな  素  性
  * 散り散らず聞かまほしきを古里の 花見て帰る人も逢はなむ  伊  勢 
 〇 待つ女に身を換え坊主らしからず色めいた素性のうたは、上句を下句へ繋いで二た色の「月」のかさねも「の」の連動も、巧みに聲美しいが、下句「出(で・いで)つるかな」の紛れが一首を「もたつかせ」た。才媛伊勢の歌は聲韻美しく斬り込む上句ではあるが、下句「人も」の「も」は適確でなく、一首を曖昧にした。
 
 * 寝起きて、空腹を感じていた。ちいさなパンを持って二階へきたが、機械に向いている内に「マ・ア」ズに囓られていた。ま、いいか。
 
 * 「湖の本 160」責了紙 宅配で送った。装本郵封への住所印・贈呈印も凡て用意出来た。受け先「宛名」の印刷と貼込みも用意して居る。
 
 * いま、いっとう代表的な読書はと謂うと、源氏物語とドストエフスキーの『悪霊』 これが面白いほど、場亂張らんとして気ままな、しかも逸れないブレない語り口に於いて至極似通うて思われる。紫式部とドストエフスキーとの「物語り」ように親縁を感じるなんて、読書の恵みで或る。
「手」の出るままの漢籍、ことにいわゆる『四書』の面白さにも只今「イカレて」いる。
 
 ◎ 天の「命」 これを「性」といふ。性に率(したが)ふ、これを「道」といふ。道を「脩」むる、これを「教」といふ。
 なるほど、斯く『中庸』の一節を読んで 「性質」また「脩養」の本意に触れる心地する。「天」と謂う眞意に思い致すことの浅かったナと、今にして、ふと気づく。
 
 〇 今日は   ご無沙汰しております
 あっと云う間に暗くなってしまう季節になり淋しい気がしております
 十月七日 湖の本 159 頂戴いたしました
 いつもありがとうございます ご連絡が遅くなり申し訳ございません
 花筺 魚潜在淵 読み終りました
 いつもぶれない切り口に拍手しております
 朝早く起き ご自分でお茶を入れる姿を想像し とてもすごいことだと思い見習いたいです
 迪子奥様をだいじになさる先生のやさしさが うらやましいです
 体調が万全ではいとおっしゃりながら頑張れるなんてーーー
 テレビも新聞も暗い報道が多く気が滅入ります 最近はユーチューブの動画にはまっております
 和歌山のパンダ、尾瀬の歩荷さん、三才と七十六才の孫と祖父の会話 九十六才と三十一才の祖父と孫の食事の風景などに元気を頂いてます
 まだまだ外出もまヽならず家族以外の方との会話も余り出来ません
 車には乗れますが家族に心配掛けたくないので 遠出は出来ません。七十代までは関東のの道の駅巡りを楽しんでおりましたれど 今は近所の買物だけです
 二女夫婦と男女の孫が仕事に出掛けると一人です
 日増しに寒くなり年を重ねた身体には日常生活も大変ですね
秦先生 奥様におかれましても 呉れぐれも無理をなさらず 自壊の配本を心待ちにしている読者に勇気を与えてください
 これからもよろしくお願い申し上げます
  令和四年十月十八日    住吉一江 拝   群馬 桐生市
    最近郵便物の配達が即手困ります 働き方威嚇も結構ですが どんどん
    利用者が少なくなりますね
 
 * 「しみじみ」としたお便りです。感謝
 
 〇 (京都 同志社校内クラーク記念館の色絵葉書に) 拝復 『湖の本159 花筺 魚潜在淵』をご恵送いただき、誠に有難うございました。 私も 里井陸郎先生(『謡曲百選』の著者)に感化されて、謡曲を卒論にとりあげる気でいたのですが、途中から泉鏡花に変更したのです。秦様と似た経緯があって、おもしろく思いました。「筒城宮」跡の碑は、同志社大学京田辺校地の敷地内にありますね。一般の歴史フアンは、受付で申し出なければならない。 戦後京都の写真集、楽しんでいただけたようでうれしく思いました。 まもなく時代祭です。 草々   田中励儀  同志社大名誉教授 国文学
 
 * 懐かしいなあ、同志社。京都。帰りたいなあ、もう一度でいい、帰りたい。
 
 * よく秦さん、なんで京大でなく同志社へ、と聞かれたものだ。あの当時の京都の高校でそこそこの生徒なら、皆が皆、「京大」受験に文字通り血道を上げ、教室の授業よりも「受験勉強」にカンカンだった、だが私は「受験勉強」というバカげたことに大事な青春を費消するのは断然イヤで、むしろ京都の歴史や自然や文化の堪能に時間を割き、茶の湯や短歌や和洋の読書を心底楽しんで過ごした。熱中した。当時「ハタ」が受験して京大を「すべる」と思う友達は一人も無かったろう、中学でも全校試験で首位をゆずったことはなかったし、高校生になって「三年共通試験」をされても、国語や社会科など一年生のころから三年生より上位の成績を取っていた。それでも私は茶道部のために茶室で助勢とたちに点前作法を教えたり、先生方お楽しみの短歌会に生徒の身で呼び込まれていたり、教室に居るより、間近い泉涌寺や東福寺に埋もれているか、市内や郊外の寺社や博物館にいる方が心底好きで気楽だった。のちのちの歌集『少年』や小説『秘色』『みごもりの湖』太宰賞の『清經入水』などはみな此の高校時代そして続く同志社時代に育んでいた。同志社へは「あたりまえ」に推薦され無試験入学したのであり、京都大学二敗って国立感覚に嵌まるのはハナから好まなかった、むろん受験もしなかった。実兄の北澤恒彦は三度筐体受験にすべっていたとか、彼の養家には京大生が下宿していたりして、かぶれて高校生で火炎瓶を投げたりし、有罪判決まで受けていた。「京大」にはその気が有りそうともわたしは横を向いていたのだった。むろん、受ければ良かった、入れば良かったなど後悔などしたことが無い。同じ大學の同じ専攻から妻までも私は得てきたのだ。
 
 * 国文科の田中励儀教授から、時折り戴く「同志社」の写真はがきや、正門から真ん前、広やかな京都御苑C寂の想い出など、飽かず懐かしい。私、西棟の書斎には、母校正門内の真の正面に立つ校祖新島襄先生の美しくも丈高い碑の言葉を、軸にして掛けてある。
 一度は、書き置こうと思っていた「述懐」に時間をかけた。一仕事終えた程の気がする。
 
 * 晩、ふんれいしているうち、気づくともう本日が果てて明日になりそう。びっくり。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月二十一日 木
    起床 6-00 血圧 127-70(76) 血糖値 82 体重 53.5kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合  の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。 ◎ 前十五番歌合  一番
  * 櫻散る木の下風は寒からで 空に知られぬ雪ぞ降りける    紀 貫 之
  * 我が宿の花見がてらに來る人は 散りなむ後ぞ戀しかるべき  凡河内躬恒 
 〇 上代平安朝和歌を率先・堪能・著名の二人。「寒からで」「空に知られぬ」は理に執くが貫之の歌は美しい。躬恒作は「花 見がてら」「花見がてら」と紛れ、「がてら」も汚い。下句も「理」に陥ちている。
 * 疲弊の日々にも、毎朝の これは心行く楽しい作業になるだろう。
 
 * トラス英首相の辞任など。トピックニュースの一端を、ツイッターからの映像で、つまむ程度には見ている。新聞は(視力弱くて)まったく手も触れないし、テレビでも巷間の噂等は見聞きしていないが。
 
 ◎ お元気で都心より願いながら
 心より親愛の テルさん
わたしは、疲弊の極 86キロもあった体重を 弥栄中学時期の52キロにまで減らし 笹のように細く揺れ動いてます。「食べられない」のです。「読み・書き・読書」と「私語の刻」はまだ保っていますけれど。 昨日・今朝の様子で、お察し下さい。
 (略)
テルさん. 内閣は やっとこさ 寝言なみに 「防衛」 という事を口にし始めましたが、手の内は 空っぽ。私など 20年前から案じてきたことを やっとこさ。
何処の國でも「憲法」という「表札」は、惘れるほどリッパですが。「表札」は「表札」  イザの際には ただに無力であるか あの優れたワイマール憲法をただ「表札」の ヒトラー・ドイツのようにも成る。  
「防衛」は必至です、が、「海に囲まれた」日本列島の「危うさ」は言語に絶しています。対馬、隠岐、佐渡、能登、淡路島、沖縄、小笠原等々の「島嶼」は素早く奪われて攻撃拠点化し、浸攻の潜水艦は、瀬戸内、大阪湾、紀伊水道、伊勢湾、東京湾の奥深くまで、「今日只今」でも浸入不可能では 無い。 武力で防ぐ防衛など、茶番にもならないでしょう。
いまこそは「外交」それも精度と確信にみちた私の所謂「悪意の算術」に拠らねばならぬとき、いま、日本の「外交力」は、その自覚や覚悟は、如何?
もう残り少ない吾々の世代は、壇ノ浦に「みるものはみた」と叫んで海中へ沈んだ平知盛を演じられても、子孫たちの「未来」や如何? 案じています。誰が眞に日本を「防衛」して呉れるのか。平和憲法」という立派な「表札」を眞の「防衛力」に生かす優れた「悪意の算術=外交」家たちの登場を切に待望しているのです。 ペリー来航から「明治維新」までには日本の「外交力」はいい「算術」役を果たしていました。井伊直弼、水戸烈公、徳川慶喜、勝安房、岩倉具視、大久保利通、伊藤博文、等々。  今の日本は???
「核」戦力を誇示のプーチン、習近平、北朝鮮らに立ちはだかられ、戦かざるを得ません。今や「防衛」は「戦力」では成るまいと。真剣無比な「悪意の算術=外交力」こそと。
テルさん。 こんなふうに思っています。 お元気で。   秦 生
 * 元気そうに振る舞っていながら、洋服ダンスの上の荷の一つを持って降ろそうと倚子に乗って、背伸びの瞬間にワケ判らず傾き、横倒しに閾と廊下へ背から顛落した。腰も背中も頸筋も、呻きもならぬほど痛かった。幸い厚着していたので外傷無く堪え得て、這うように床に就いて、寝た.倚子の上で大きく左へ全身の空に傾いた瞬間が怖かった。仰向きに「背か」らで、良かったのかも、だが怖くて、痛かった。廊下と閾の段差に当たったので、だんだんに腰骨に痛みが来ている。
 「豫」のこころ用意が無く、いつものことと倚子に乗った。端っこに乗ったのだろう。
 
 * そんなところへ、たまたま、懇切な「体調お見舞い」のメールを戴いた。感謝申します。
 
 〇 一読者として 失礼をあえて、申し上げます。
 ご体調不良のなかご返信いただきほんとうに申しわけなく思います。今朝届いた「二十日の私語」も、心配で嘆息しつつ拝読しました。
 それにしても52キロとは! パリコレモデルにでも転職なさるおつもりでしょうか。いけません。ひとは、食べなければ、大変な勢いで衰えて命つきます。疲労困憊なさる一因は食べていらっしゃらないから。どうかご無理でも、必死に食べてください。
「まあだだよ」です。
 おとりになる道は、二つだと思います。
 湖の本160巻を無事に刊行するために何かの生活支援を受けるか、あるいは数日、数週間以内に入院するかです。当然、前者のほうがよいに決まっています。
 市役所の電話番号まで知らせてくださった勝田(貞夫)さんは、ほんとうに行き届いてご親切な方です。それでも、少しも積極的に動かれないのは、すでに電話すらしんどくてその気力体力を失っておられるとしか言いようがありません。
 ご夫妻は、八十六歳の今まで本当に自立していらして稀に見るご立派なご夫婦ですけれど、さすがに典型的な高齢者になりつつあるようです。高齢者は段階的ではなく、ドーン、またドーンと一気に身体的能力が落ちていきます。どんなにご不調でも、それでも高齢期は長く続いて人生は長いのですから、うまく対応していただきたいと切に切に願います。
 他人がご家庭のなかにもの申しすのは、億劫で、イヤです。わたくしの母も毛嫌いして、大変でした。ですが、ケアマネさん、ヘルパーさんに頼らなければ、どうにもなりません。ドクターや看護師の訪問診療は 可能なら是非実行なさってください。薬も届けてくれるものですし、インフルエンザワクチンも自宅で接種可能です。便秘すれば、お浣腸も摘便も、必要なら入院手配もしてくれます。
 しかし、介護申請をして認定を受けなければ、そのようなサービスは何一つ受けられませんし、受けられたとしても自費の高額負担になります。何のために長い間税金や介護保険料を支払っていらしたのでしょう。
 このようなことを書いても、きっと何もなさらない。既に、ご自身で何とか出来る段階を「越えているから」です。今 ご夫妻に可能なことは たった一つ。建日子さんに助けを求めることで、電話一本、メール一本ですみます。
 食事の世話や付き添いのような実質的な介護を頼むなら、建日子さんにもご都合がありましょう、が、お二人が一日も長く自立した生活を続けるための、事務的手続きを整えていただく「だけ」です。これは「生活支援」といい、広い意味の介護で、子どもがすべきこと 子どもにしか出来ないことです。たとえばわたくしが申請しても、血縁ではないので、役所では受付けてくれません。
 建日子さんには頼りたくない、迷惑をかけたくない、という姿勢に 憤りすら感じます。
 そのご配慮はもちろん愛情からなのですが、結局 別のかたちで建日子さんの迷惑となりましょう。
 今は奥さまにも支援が必要な状況とお見受けしています。このままでは、いつ「お二人共倒れ」になってもおかしくありません。そうなれば一番困るのは 突然現実の重たい介護生活がふりかかる建日子さんで、迷惑を超えて 大迷惑になりましょう。放置すれば保護責任者遺棄の嫌疑をかけられる場合もあります。お名前に傷がつきましょう。
 公的支援をためらっている場合でしょうか。今すぐ建日子さんに小迷惑をかけて、大迷惑を防いでいただきたいと思います。
 たとえ、今回介護認定で要支援がもらえないとしても(最近とても認定が厳しくなりましたが)、ケアマネさんと繋がることで 次善の策が選べます。お風呂場や階段に手すりをつけることなども無料で出来ます。転倒骨折など本当にどうにもならない状況になる前に ぜひぜひ動いていただきたいのです。(さらにつけ加えますと、認定基準が厳し過ぎるので、介護認定の日は 実際よりも大袈裟に 身体的に衰弱し生活が困難であると訴えていただきたいです)。
 このままの状況で人生「終えられるおつもり」かもしれません、が、現代人はそんな簡単に死なせてもらえないことをご存知でしょうか。生きているのがしんどい、「早くお迎えがこないか」の母の愚痴を何度聞いたことか。コロナの後遺症で嚥下機能が落ち、ものが食べられなくなった際には「看取り」を覚悟しましたが、現代医学で見事に復活。今はよれよれ状態でも すっかり元気なのです。
 このまま建日子さんに頼らず、公的な生活支援も拒んでいらしたら、近い将来の「入院、施設入所」の選択肢しかありません。自立してご自宅で、「読み・書き・読書」を「続け」ていただくために、一日も早い「生活支援と適切な医療支援」が必要なのです。
 建日子さんには、生活支援が必要になったこと、介護申請の手続きを手伝ってほしいことをお伝えいただき、「勝田さんに教えていただいた電話番号」をお知らせするだけのことです。今日、明日にも実行なさっていただきたいと思います。
 失礼は承知のプンプンメールでした。これまでも さんざん失礼なこと申してきましたので、今さら礼節を守って何も言わない選択はございませんでした。 どうかお許しくださいますように。  一読者として
 
 * 家内と息子とへも 伝えます。お気持ち、有難う御座います。感謝します。
 幾ら軽くなっていると謂え、からだが空に傾いて墜ちるのは怖かった。背から平に墜ちたらしく、腕や脚に骨折が無く、良かった。寒くてゴワゴワ着ていたのも良かった。 
 
 * 本の発送前には、1200枚の封筒にどうしても私の住所印と「謹呈」か「贈呈」印を捺しておかねばならず、これがかなりな力仕事。それも一気に終えて置いた。これに、宛先宛名印刷したシールを貼らねばならず、更にはシールの無い人の住所氏名は手書きしなくては成らない、そこまで用意しておけば、あとはダンボール箱に決めた數ずつ容れ、宅配に「発送」依頼が出来る。そこまでの力仕事は老夫婦にはとても「お手軽」でない。36年前の{創刊}販売の頃にはときに3000部も送り出したことも有り、以來今回が160巻め、「出版」とは「力仕事なり」と感じ入った。ついには「売り買い」の手仕事の煩瑣に嫌気し、いつ頃からか、一切「呈上(贈呈・謹呈)」に替えた。いまさら「お金儲け」しても意味も仕方も無いと。
 
 * 新しい「医師もの」の、大門未知子よりシビアな外国製連続ものを見聞きしながら封筒へ「はんこ捺し」を大方終えた。体痛み、疲れました。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月二十日 水
    起床 6-40 血圧 134-72(77) 血糖値 82 体重 54.0kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ フローベール『紋切型辞典』抄  (小倉孝誠「岩波文庫」 の訳に依りて)
 * フランスの作家 ギュスターヴ・フローベール(一八二一--一八八〇 主著に『ボヴァリー夫人』など。)   の遺稿。知識を提供のいわゆる「辞典」でなく、この作家特有の辛辣なアイロニーと犀利な諷刺にいろ   どられた「箴言」集と読もう。「紋切型」の妙をどう汲み汲めるかは人次第。
 ◎ 医学  健康なときは愚弄すべし。
 ◎ 医者  いつでも「立派な先生」と云われるが、くだけた会話の席では、「いやは       !」と付け加え、「いやはや ! 先生!」と言おう。
       信頼されているうちは名医だが、仲違いすればたちまち藪医者に過ぎなく       なる。「メスの先に信仰が見出されるわけじゃないからね」
 
 * 泪が沁みて痛む。
 
 * フローベールの『紋切型辞典』は、西欧世間の感覚に偏しているとみて、断念する。岩波文庫『王朝秀歌選』樋口芳麻呂校訂の「歌合」を私なりに批評し鑑賞することに。これは楽しめよう。
 
 * 『四書』「中庸」にこんな句が。「凡そ天下国家を爲すに九經有るも、之を行ふ所以のものは一也」と、そして此の「一」に「豫(あらかじめ)」の「一字」を以てしている。「凡そ、事、豫すれば則ち立ち、豫せざれば則ち廢す。(言ひて)前に豫め定まれば則ち躓かず、則ち困(くるしま)ず、則ち疚(やま)しからず、則ち窮せず」と。
 
* 「豫」一字一語の含蓄、まことに深く思い当たる。私は少年、学習の昔から「豫定」の必要と大事さとを、いつも「期末試験」をメドに、忘れなかった。
 今でも「当面の必要と豫定」と名づけた「備忘」メモを恒に機械の中に置いている。
 
 〇 秋空   如何お過ごしでしょうか。
 晴れ渡った青空に黄葉が目立つようになりました。青と黄、何やらウクライナの国旗も連想してしまいますが、此処は静かすぎるほど。
 先日NHKの日曜美術館で、朝倉摂に関する番組を見ました。彼女が舞台美術の演出家だったのは昔から知っていましたが、それ以前に日本画画家だったと初めて知りました。時代の反映ですが、戦後の新しい日本画を求めての模索、最初は健康的な若い女たちの連作、続いてピカソの青の時代のような打ちひしがれた労働者や女たち。現在の日本画の中に僅かながら残存、或いは貴重な存在として在る画家の姿勢。
 興味深く見て、さて自分のことを考えると・・やはり自然の風景や古い文物を描いているのです。人間は描きたいけれど・・。
 今は思いっきり本を読んで楽しみたい。読んだ本の殆どを読み返す時間はもう残されていないのは確かだからと、ヘンな焦りもあります。
『花筐』は不思議な構成で、ポツポツと切れる感覚が面白く読み進めて、さて何も読み解けていないと嘆息にも似た思いに突き放されます。もう少し続けていくと異なった感覚、面白い展開が生まれそう。読み手にとっても。
「鳶は、鴉としゃべくりたいです。」
 植木鉢に桜の苗が自然に生えてきました。地面に植えてあげたいのですが、既に全く余裕がありません、それでも何処かに地植えするでしょう。シュウメイギク、薔薇、様々な雑草など 皆 綺麗です。
 お身体大切に、風邪引きませんように。  尾張の鳶
 
 * ただただ羨ましいお暮らし、お身の周り。
 私は、ただただ、疲労困憊の間々を懸命に、まさに命懸けにすり抜けようと足掻いている。86キロあった体重が、中学生並みの52、3キロいう現実。
 
 * それでも、仕事は仕事、読書は読書。ただ、容易に「食べ」られない。赤間の雲丹と、尾張の鳶が京都から送ってくれた「鰊蕎麦」だけを、長い日かずかけ、ありがたく細々と食べ継いできた。俄然、次の「湖の本」の発送と入稿とが近寄ってきている。「湖の本」創刊以来じつに160巻を越えて行く。「湖の本」一巻の「質・量」ともども優に一冊一冊の「単行本」に同じい。つまり、もう目前の「八十七・やそしち」歳に手を掛けながら、昨日も、今日も、明日も秦恒平、「本」を書き続け出版し続けている、ということ。出版社からは、単著・共著あわせ、筑摩書房、新潮社、講談社、文藝春秋、平凡社、中央公論社、放送出版協会、春秋社、淡交社等々から、とうに100冊に余っている。書き殴った一冊も無い。昨今、そんな作家が、いたか。いるか。東京へ駆け出てきて就職した医学書院での編集者体験が、多彩に実を結んでくれた。
 
 * 晩、八時前.夕食もせず寝入っていた。洟みづ流れ、空腹。元気、まるで無し。
 
 * 深夜十一時半、宵からずうっと寝入っていて、尿意で目醒めた。尿意で生かされている。機械を止めに、二階へきた。
 さ、また寝入りに階下の寝床へ降りる。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月十九日 火
    起床 6-00 血圧 129-80(64) 血糖値 82 体重 54.6kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ フローベール『紋切型辞典』抄  (小倉孝誠「岩波文庫」 の訳に依りて)
 * フランスの作家 ギュスターヴ・フローベール(一八二一--一八八〇 主著に『ボヴァリー夫人』など。)   の遺稿。知識を提供のいわゆる「辞典」でなく、この作家特有の辛辣なアイロニーと犀利な諷刺にいろ   どられた「箴言」集と読みたい。「紋切型」の妙をどう汲み汲めるかは人次第と「見られ」ている。
 ◎ 過ち  「それは罪よりも悪い。過ちだ」 (タレーラン  ナポレオンの命令で
          アンギャン公が処刑されたときに 政治家タレーランが云った。)
       「もはや過ちを犯すことは許されない」(ティエール  一八六六年          に フランス議会で 政治家ティエールが発言した。)
     この二つの句は深遠な調子で口にすべきである。
 
 * 『バルジ大作戦』は、大作にして疎漏のない力作であった。三重丸に☆をつけた。
 
 * 相変わらず機械とスッタモンダしている。グレン・グールドのピアノに救われている。ほとほと情けない。
 * 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月十八日 月
    起床 4-50 血圧 143-73(66) 血糖値 82 体重 54.3kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ フローベール『紋切型辞典』抄  (小倉孝誠「岩波文庫」 の訳に依りて)
 * フランスの作家 ギュスターヴ・フローベール(一八二一--一八八〇 主著に『ボヴァリー夫人』など。)   の遺稿。知識を提供のいわゆる辞典でなく、この作家特有の辛辣なアイロニーと犀利な諷刺にいろどら   れた、「箴言」集と読みたい。「紋切型」の妙をどう汲み汲めるかは人次第と「見られ」ている。
 ◎ 厚かましさ  常に「たえがたい」あるいは「ひどい」と形容される。      ◎ アメリカ   世間の不当さを示す好例。発見したのはコロンブスだが、アメリカ          という名称はアメリゴ・ヴェスプッチに由来。
          アメリカが発見されていなければ、梅毒やネアブラムシ(ブドウに           寄生する害虫)は蔓延しなかったろう。
          それでも、とにかくアメノカを賞讃すべし。特に行ったことがない          場合には。
          自治(self-government)について長広舌を振るうこと。
 * アルチュール・ピザロが、フレデリク・ショパンの15曲を静かに聴かせて呉れている。暁けの五時四十分。
 
 * なにやら、ワケわからずに時間を費消している。
   なにやら、ワケわからずに午後三時前。
 
 * 昨日は、高麗屋 松本白鸚さん親書を頂戴。久しくお舞台が観られていない、ひとしお懐かしくも、また心寂しくも。御夫妻 幸四郎さんご夫妻 紀帆さん まつ子さん、また元気なお舞台でぜひぜひ再会したいもの。
 
 〇 急にお寒くなって参りました。
 先生御夫妻には、お体お元気でいらっしゃいますか。
 先生のお力で家族の者がペンクラブの会員にしていただいて十五年になります。月日の経つのは早いもので、家内共々御礼申し上げます。
 いつも頂く先生のご本の数々、大切に大切に読ませて戴いております。
 『湖の本』には子供達のことも書いて頂き、重ね重ね懐かしく拝読させて戴いております。
 吾々の仕事は、一舞台済むと、身も心もカラカラに渇いてしまいます。その時らに秦先生の御本のお言葉は「オアシスの水」のように読む者の心を潤してくれます。
 恒平先生、迪子奥様の御健康とお幸せを祈っております。
秦 先生 机下   二代  白鸚 (鸚鵡自画 添えて)(いずれも高麗屋さん自署)
 
 * 国立の安井恭一さん、神戸市の芝田道さん、所沢市の藤森佐貴子さん、聖教新聞社の原山裕一さん、大阪池田市の江口滉さん、都・練馬区の高本邦彦さん、横須賀市の濱敏夫さん、数々の頂き物があった。恐れ入ります。奈良女子大、神戸松蔭女子学院大、立命館大、神奈川県立文学館から「湖のほん」新刊受領の来信があった。
 
 * 本日は 弥栄中学からの友の西村明男(テルオ)さん佳い便りに添えて、テルさんの親しい、私も面識の文藝春秋編集者岡崎満羲さんの『葉書に書いた人物スケッチ』という一冊も「進呈」と書き添えて、和菓子の一箱までも頂戴した。
 〇 湖の本159号拝受。ありがとうございます。秦さんの筆力でむかしの記憶がたくさんよみ返り、うれしかったです。p103 渡辺節子さん中村時子さん(敏子さん)元気でおられるのはうれしいです。
 p116 お説のようにプーチンの北海道侵攻はありうると思います。 日本はウクライナのように戦えるでしょうか。日本人の智恵と覚悟を問われるときです。その時、力になるのは ウソまみれでたよりにならない政府ではなく、75
年間「平和憲法」を守りきった市民の力と思います。
           静岡 函南  西村明男  元・日立役員
 * 建仁寺蔵の あの美しい 風神 雷神の絵葉書も有難く。岡崎氏の『葉書に書いた人物スケッチ」一冊「最近友人の出した本です。 進呈」と添えて。
 * 奈良五條市の永栄啓伸さんの『秦恒平論』350を越す大著になると。恐縮しつつも感謝に堪えない。
 千葉県の石内徹さん、毎度のように、手厚いお志を賜る。感謝。恐れ入ります。
 岩淵宏子教授、天理大国文学会、松山大學、久留米大学等、受領の来信。
 
 * 田島周吾クン、「日本画展」の案内。縦長の「八蝶 三毛猫図」葉書が,妙。
 
 〇 お元気ですか、みづうみ。
 ご体調いかがでしょうか。心配でなりません。
 前のメールではご不快なことを書いたかもしれません。失礼はいつものことですけれど、猛省しておとなしくしていました。それでもあまりさびしくなかったのは、胸の内で毎日みづうみと話しているから。みづうみのお声が、小さな書斎の「湖の本」と「選集」でいっぱいの本棚のなかに生き生きと感じとられているから。
 数日前に森林消防隊の映画を観ました。山火事に立ち向かうには、飛行機からの散水程度ではとても無理で、江戸時代の火消しのように、火災燃料となる木々を切り倒し、長い溝を掘り、迎え火をする、という人の手による方法しかないのは知っています。地形によって風向きや乾燥や気温など刻々と状況が変わる複雑な要因のため、一般の建物消防士よりもさらに危険な、命がけの仕事であることはわかります。いかにもアメリカ映画らしいアクションヒーローもののバリエーションの一つとして、山火事に立ち向かうエンタテインメント映画だと思って観始めて、予想通りの展開をしていたのに、突然の結末に唖然としました。えっ、全員殉職してしまうの、と……。
 ただし、映画としてお勧めはいたしません。不出来とまでは言いませんが、事実に頼りすぎて真実を見失ったともいえます。ですが、一か所だけ「詩」を感じた場面がありました。
 消防隊隊長が、テラスで友人に語る小さな体験談です。山で消火作業にあたっていた時、突然森から一匹の火だるまの熊が飛び出してきて、そのまま森の闇の中に走り去って行った。自分は今まであれほど美しいものを見たことがないと。
 これは、おそらく脚本家が頭で考えたものではなく、消防士を取材していて実際に聞いたことではないかと思っています。思いつきで出てくるような話に思えなかった。そして、この映画は、この短い場面ただ一つで救われました。脚本家も監督もうまく表現したとは思いませんが、「あれほど美しいものは見たことがない」という言葉のなかに、後の殉職の運命を暗示したかったのでしょう。
 火だるまの熊には、ヘミングウェイの『キリマンジェロの雪』の冒頭に書かれている、キリマンジェロの山頂近くで見つかった豹の凍死体と同じように、現実には何の意味もない、しかし詩人の魂を揺り動かさずにおかない何かがあります。凍りついた豹も、燃え上がる熊も、雪と炎のなかで最後にこのうえない美と一体化する、天翔ける詩人の魂の化身とも想えるのでした。
 どうかお元気で、書き続けてくださいますように。   秋は、ゆふぐれ
 
 * なかみの濃い「檄」を戴いた、と感謝。                         
 〇 「湖(うみ)の本 159 花筐 はなかたみ 魚潜在淵」を拝受しました。
 練馬光が丘病院の紹介で「国立国際医療研究センター病院消化器内科」に入院しESD(内視鏡的粘膜下層剥離術)による施術を受け無事早期がんの撤去に成功しました。(入院期間8日間)
 手術に使用する電気メスが、ペースメーカーの誤作動を引き起こす恐れがあり難易度の高い手術でした。胃全摘の秦さんからすれば取るに足らない事案でしょうが取り敢えずご報告まで。 令和4年10月18日  靖 (妻の従兄)
 * ああ よかったよかった 安心しました
 日本の医学技術 誇れるもの あるのですね。
 靖さん
 家内と駆け落ちのように京から東京へ奔っての「編集者」としての就職先が、本郷台 東大赤門脇の医学書院でした、ガチガチの研究書誌の出版社でした。1959年でした。 その入社した年のことでした、私の初任給は一万二千円の、初め三ヶ月は八割支給で一万円を割っていました、が、丁度その時機に、会社は、『脳腫瘍』という研究書を「決死の勇で」で出版しました、一冊がじつに「三万円」定価でした。「癌」、まして脳内の腫瘍・癌の研究や医療は、まさに肇まったばかり、業界でも「珍奇」がられるほどの分野、かつ高価でした。
 けれど、その頃から日本の「癌」医学は進歩し深化して、私が編集担当した雑誌『胃と腸』には日本の癌研究の先頭をせりあう医師・研究者が集いました。日本の、ことに「胃がん」治療の成績は、世界的にも誇らしい水準に達し、関連の診断や治療機器も進歩に進歩しました。
「二期胃がんだね」と診断宣告されましたとき、私は動揺しませんでした。雑誌『胃と腸』体験から、大丈夫と強気に身構えることが出来ました、丁度10年前の診断で、胃全摘、結果は胆嚢も全摘しました。決して油断はならぬ大敵ですが、医学は、かなりにガンバッテ助けて呉れるようになりました。
 よかったですね。予後を大切に、しっかり回復して下さい。よかった、よかった。  お大事に。  秦 恒平 
(と、いいながら、現在、私は、極度に食がすすまず、体重86キロありましたのが、いま、中学生時代の56キロに減り、笹のように細く軽くなり、今夏の猛暑 残暑にひしがれて へとへとに疲労したままの毎日を揺れ揺れ過ごしています。医書の編集者でしたのに、病院や医療を受けるのが嫌いなのです、バカげていますが。 呵々
 
 * 京都から、二歳若い女ともだちが、初期乳癌の手術を受けると言って来たのにも、乳癌診断と治療とは最も早期に進展した、結果安心できる処置だから動揺しないようにと励ました。
 手術、無事に終えたと。「お乳がひとつ無くなりました」と云うのには、同情。
 
 * いろいろ、あるなあ。
 
* 戰闘映画の名大作『バルジ大作戦』を胆嚢、夜が更けた。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月十七日 月
    起床 5-45 血圧 133-74(74) 血糖値 82 体重 53.55kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ フローベール『紋切型辞典』抄  (小倉孝誠「岩波文庫」 の訳に依りて)
 * フランスの作家 ギュスターヴ・フローベール(一八二一--一八八〇 主著に『ボヴァリー夫人』など。)   の遺稿。知識を提供のいわゆる辞典でなく、この作家特有の辛辣なアイロニーと犀利な諷刺にいろどら   れた、「箴言」集と読みたい。「紋切型」の妙をどう汲み汲めるかは人次第と「見られ」ている。
 ◎ 悪夢   胃に原因がある。
 ◎ 顎ひげ  精力のしるし。  顎ひげが濃すぎると髪の毛が抜け落ちる。  
        さまざまな刈り方がある。
 * 昔勤めの医学書院、なにかしら建物内の大きな模様替え現場で汗して立ち働いているさなか、同僚、少しく若い男子社員と「茶の湯」につき言葉を交わしている場面で、目覚めた。妙なもんだ、夢は。
 やや睡い、が、朝早やにでも、少しでも何か書くなり片付けるなりしておかないと、昼間には疲れ寝を重ねてしまう。どこへ、だれかと出かけたり会ったり約束事など、今日この頃あるワケがない。寝たければ寝る。起きれば私語はいろいろに在る。
 
 * あれこれしていて、まだ朝の七時二十分。頂いた「つぶあん 黒糖 虎の助」とある大きめの歯当たり柔らかな包み菓子を、機械前、冷えた茶で「朝飯」に頂いている。
 
 * 午まえ、ようやっと三通の手紙が書けた。キイを捺すのでなく手指で字を書くのは大変な気苦労。
 
 * 四の五の、なにも謂えない、ただ、難儀にどよんと、しんどい。寝るに如かない。八時。とは云えど。
 
 〇 秦 恒平 様
 今回も又「湖の本 159」ご送付有り難う御座いました。待ち侘びた気分で嬉しく拝受、拝読。学ぶ事、驚く事、懐かしい事、夢中で読み耽りました。
 随所に国を憂う言葉の数々が?、私が想像もしなかった貴君の一面を拝見した思いです。プーチンの暴挙なかなか治まりませんね。
 幼い頃からの微細に至る記憶力にも驚愕です。
 「逢ふみのうみ」 の K先生。
 住所から察し、金田教授に違いないとは思うものの、私の中の先生とは、まるで別人。袴姿の先生なんて?、どうしたってイメージ出来ません。 西洋美術史御専門だつた記憶、お能お謡をなさつていたとは思いもかけない 初耳 でした。 聡明で尊敬もしていた片山先輩とは 先生を交えてよく話し合ってはいたものの お能お謡の話は出なかったなあ、全く気が付かなかつたです。あの三山木のお宅に度々お伺いした時だって?。 そんな雰囲気感じ なかったし。
 全くの鈍感、馬鹿ですね、私。先生はやはり学生の個性を見て話題を選んでおられたのでしよう。
 滋賀県野洲郡は私の母も生まれた場所、ひと駅隣の守山です。
 戦争中には私も疎開で過ごしました。
 野洲川は、夏休みなどいちばんの なごみ場所、思い出すだに大切な 望郷の河原です。
 貴君の 詳細な歴史逸話を伺って興味満々、変わり果てたであろうあの 町並みを、久々一緒に歩いて欲しいなと思う歳下の従兄弟にも、つい最近先逝たれてしまいました。
 胸踊るばかりの懐かしい話の数々、久し振りに記憶力を磨きました。
 私事ばかり連ねて御免なさい。
 どうか呉々もお元気でお過ごし下さいますように。 
 迪子様にもお宜しくお伝え頂くと嬉しいです。   やそはち婆  半田  久拝
 * 書きがいが在って、嬉しく。
                                        
 
◎ 令和四年(二○二二)十月十六日 日
    起床 7-15 血圧 126-76(78) 血糖値 82 体重 52.9kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ フローベール『紋切型辞典』抄  (小倉孝誠「岩波文庫」 の訳に依りて)
 * フランスの作家 ギュスターヴ・フローベール(一八二一--一八八〇 主著に『ボヴァリー夫人』など。)   の遺稿。知識を提供のいわゆる辞典でなく、この作家特有の辛辣なアイロニーと犀利な諷刺にいろどら   れた、箴言集と読みたい。「紋切型」である妙をどう汲み汲めるかは人次第と「見られ」ている。
 ◎ アキレス  「俊足の」とつけ加えるべし。ホメロスを読んだと ひとに思わせる     ことができる。
 ◎ あくび   あくびが出たら、「失礼。退屈だからじゃなくて、胃のせいなんです」     と云いなさい。
 * 書き継いでいる創作を皿へ押し出して行くべく読み返し、読み進んで、道ありと視線を先へ送った。楽しむほどに書き進みたい。
 
 * 源氏物語を「日に一帖」などと息巻くように若い頃は奮励して読んだ。それは、ま、それなりに私の「源氏物語体験」として生きもし役立ったけれど、本来は先を急く読み方は邪道におもわれる。今は、むしろ十行二十行のしみじみと奥深く静かな物語りよう、物言いの妙味にこもる「時・空」「人がら」の美しさ、視野のやさしさをしみじみと堪能するよう、聲・言葉にして読み耽っている。素晴らしい美味妙味であるよ。
 さきを急ぐなど、私にはもう全く要がなく、たとえ数行であれ、その音楽美、感想の眞味妙味に誘われゆく嬉しさで接している。
 ここまで、ようやくこれたなあと嬉しがりながら。
 
 * 坪谷善四郎の大著『明治歴史』の上巻・
 第一編「維新前期 従米艦来航至政権返上」ほぼ300頁
  維新の革命は開闢以来の大革新なり
  維新革命の原因
  我国の革命を促したる外国の形勢
  嘉永癸丑米国使節の來朝
  幕府外交談判の失擧
  修交条約の締結、米使登営
  養君治定並に井伊直弼の性行
  安静戊午の大獄
  井伊直弼の横死並に水戸烈公の性行
  安藤對馬守の施政
  薩長両藩の動静
  勅使東下の始末
  勅使再度の東下将軍上洛
  長藩攘夷の開始並に英艦鹿児嶋襲撃
  廟議變更七卿西竄始末
  将軍再度の上洛
  長藩の陳情
  水戸藩の内訌
  長藩士禁闕に砲撃す
  四国連合軍下ノ關砲撃
  長州征伐
  外国軍艦兵庫入津、将軍辭表を呈す
  薩長の秘密同盟
  長藩處分長人梗命
  長州再征討幕軍敗刔将軍薨去
  幕吏郡縣制施行を謀り英佛二國日本を賭せんとす
  一橋慶喜將軍宣下並に主上崩御
  將軍慶喜の施政
  倒幕密勅始末
  三條岩倉兩公の合躰
  大政返上始末
  政権返上後關東に於ける諸藩の意見
 
 * 第一編に、是だけの目次が出てある。これら本文は、もう読み終えて莫大に学んだ。
 第二編「維新實記 従維新大號令発布 至外国公使始朝見」
  王政維新の大號令
  長藩兵士上京始末
  徳川内府下阪の事情
  徳川内府辭官納地の始末
  幕府江戸の薩摩藩邸を襲撃す
  伏見鳥羽戰争始末
  大に政躰を更革す
  維新當初の財政始末
  諸外國公使の参朝並に癸丑以來の外交始末
  維新に伴ふ宗教の變革
 
 * ほぼ150頁、上の第二編を読み終えたところ。以下「上巻」の第参編「維新後記 」ほぼ120頁ほどへ読み継いで行く。
 
第二編「維新實記 従王師東征至廃藩置県」
  王師東征、江戸城の軍議
  徳川慶喜恭順罪を待つ
  王師江戸城を攻む
  上の戰争始末
  東北戰争始末
  箱館戦争始末
  版籍奉還始末
  諸藩石高並知事家禄表
  廃藩置県始末
 
 * 実に精緻に正確な記録・文書を収攬しつつ卓越の見識は「説得」の力と妙とに富んで,頗る歴史が面白く、かつ詳細に亘っていて興味津々尽きない。
 さらにこれへ『下巻』が続いて、總千百頁を超えている。得も謂われない感動と教訓とに充ち満ちている。もっとも識りたい一つの「明治・前半史」が此処にある。祖父「鶴吉」遺産旧蔵諸本の中に実在している。感謝感謝。
 
 * 『鎌倉殿の13人』が険悪化しつつ在り、小四郎義時北条氏の辛辣な支配意志が板東武者ばらを震撼し動揺反撥させて行く。鎌倉殿実朝は性的異様をそれとなく親愛気味の泰時に漏らしている。豪傑の和田義盛・巴夫妻、またいつも言を左右にしつつ小四郎の傍に居た三浦にも気分の差し引きが見えてきた。女たちは、揺れ動きながらだれがどう悩乱し始めるか。鎌倉の自壊が動くかその先に京都との大衝突になるか。
 
 * 私から出さないのだから、当然のようにメールボクスにメールは来ていない。
 
 * 此の弱り果てた疲労感は、何から来るか。食べないからか。食べると妙に苦しい。ときに微かにも空腹なのかと感じるのだが、要はシルなら呑めるというアンバイ。
 
 * 何人かにどうあっても手紙を書かねばいけない、それも疲労感に繋がる。字が.書きたくないのだ、言葉は機械で書ける。いま、背の方でグレン・グールドがピアノを弾いている。思えば今日、創作をはじめ、校正も、私語そして各種の読書等も相当に量を積んでいた、疲れるのも自然か。九時半。階下へ降り、そのまま寝入ってもいいではないか。 
 
 
 * 令和四年(二○二二)十月十五日 土
    起床 5-30 血圧 126-76(78) 血糖値 82 体重 53.0kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮0000フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 当を得たわずかな才気の方が、奇を衒う豊かげな才気より、長い間には人をうんざりさせる事が少ない。  (五〇二)
 ◎ 嫉妬はあらゆる不幸の中で最もつらく、しかもその元凶である人に最も気の毒がられない不幸である。  (五〇三)
 
 * 体不穏で目覚めた。そのまま起きた。幾いろかの夢を観継いでいたが みな、霧消。
 
 * 機械のある二階で、ひとしきり用がある。「マ・ア」ズはお行儀よく倚子の足もとで待っている。「削り鰹」を嬉しそうに食して、階下へ、今度はカーサンを起こしに行く、これは難儀。彼ら定時の朝食は、正八時。
 
 * 今はもう晩の八時過ぎ。「マ・ア」ズの晩ご飯も済んだ。わたは、今日は、ひたすら寝入っていた。やや風邪引き気味でけだるく膚寒く、床に就くと、すこしの本読みで寝入ってしまう。なにをしたか。「撮って置き」大事の板で、『ターミネーター 2』に深々と満足した。このシリーズ為すの傑作編、ターミネーターと闘う母子をしゅわるつねっがー扮するターミネーターが援け、最期は溶鉱炉へ自ら沈んで去りゆく。みらいげきではうるが、今日只今で身手の近未来地球の核による滅亡トテモリアルに説得力有る映像と展開で見せるので、はじめて観た頃よりもさらに面白く惹かれる。初めてこの作を観たのはよほど緯線で在り映像世界は近未来とはいえ「かなりの未来」噺だった。だが2022,年の今日でいうと、地球は核戦争で既に数年前によほど毀れ、コナーズ母子が目前の運命に奔命する今は2022年現在をすでに超えて、世界の悲惨なクライマクスが予期されているのは2029年、いまわれわれの手のもう届くとき。映画制作者が相当な近未来とみて描いていた世界破壊の時期は、今の私たちには、現実にもう六七年で現に到来するのだから、想定外の迫力が生まれている。ろしあとウクライナとの西欧戰争は既に起きていて,世界的に拡大しないという名何の保証もない現実なのだ。ただ、ターミネーターは。まだ現に登場してきてはいないが。
 
 * 今日、思いがけず京山科日岡の渡辺節子さんから「手編み」という翠色毛糸のジャケットが贈られてきた。びっくり、恐縮。弥栄中学の同年、組は三年間とも違って何の接触もない女生徒だったが、たしか別の組で学級委員だったと思うし、わたしは二年生から生徒会を率いていたので「委員会」等では顔は合うていたはず、つづく日吉ヶ丘高校の三年間ではまったく接点も片言を躱した記憶も無くて、今日まで70年、消息だに識らなかった。なにかで往年「同期生の名簿」が送られてきてたのに便乗し、この夏、初めて「湖の本」を送ってみたのへ返信が来た。読んで貰えるのは何よりと、続けて送った、それへのごアイサツであるか、有難う。
 
 前略  湖の本 私にまでお贈り頂き有難う御座居ます。 毎回なつかしい先生や友の名に昔を想い出しています。何故か あの頃の記憶ははっきりとしています。(いまはよく忘れますが
 朝晩 冷え込んで参りました。
 よい毛糸を見つけましたので 秦さんの御健康を念じながら 編みました。
 ひとりで早起き 寒い朝に着て頂けたら嬉しいです。(お気にに召さない折は。ア・マ の寝床に強いて上げて下さい)御笑納下さい。
  どうぞ御自愛下さいまして お元気でお過ごし下さいませ。   渡辺
 
 * 弥栄中学の同じ学年で、講堂の大きなピアノの弾けた{二人だけ}の女生徒の一人であったと思う。
 
 * 読者の方々、いろいろに頂戴物を送って下さり、なんのご挨拶も私自身ではしていないが、感謝市いたく恐縮もしている。
 それでも「作家」に成り立ての頃、当時名高かった「蝦蟇センセイ」のたってのお薦めで東横女子短大の「おしゃべり」講師としてたか一年間だけ務めた時の女學生、卒業後暫くして故郷広島県の山手へ帰ってった、懐かしい吉原知子さん、土地の名産、色美しく皮まで甘いすばらしい大粒なマスカット幾房もを贈ってきて呉れたのは、ひとしお嬉しかった。まことに愛らしいいい気立ての女学生だった、忘れない。あれから50数年になるが、お互い歳のことは思うまいよ。
 
 * 放送局のディレクターで、何度もお世話になり家族ぐるみ親しかった、今は亡い松井さんの奥さん、瀟洒な画家でもある由紀子夫人から、私の極端な「食足らず」を案じたように、、おうと聲も出たほど精撰された「葛湯」をたくさん頂戴した。感謝感謝。
 大阪の久しい読者、河野能子さんからも、選りぬきの、いつも、美味軽妙京の名菓「穏池煎餅」を、嬉しくこの程も頂戴している。 ありがとうございます。
 
 * しぜんと目が閉じ 小刻みに震うほど膚さむくて、しんどい。なにもなにも慌てまい、眠れるときには安気に寝入ろうと思う、九時半。疲れているなあ
 
◎ 令和四年(二○二二)十月十四日 金
    起床 5-00 血圧 151-77(68) 血糖値 82 体重 52.5kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 極度の吝嗇はほとんど常に勘違いする。これほどしばしば目的から遠ざかる情念はなく、これほど現在に強く支配されて将来を犠牲にするケチは無い。  (四九一)
 ◎ 世間サマへ仲間入りの若者が、有能そうに落ち着いていると、不躾けだとやられるのが常である。  (四九五)
 
 * なにとはなく、正五時の尿意のまま,起きて。二階へ。体重やや減り血圧は高め。音を低くして、誰かが弾くシズに佳いピアノをこのところ愛聴している。たしかに愛しているが、曲や演奏に関連の知識は私には無用、なにも識らなくてかまわない、なんという美しい静かに優しいピアノの魅力か。
 
 * ピアノのある二階隣室(子供部屋というていたが、今は妻が用い、他に繪や茶道具や本など、諸々の物置場)「天井の養生」工事は今日で終えるだろう。工事のめ多くが廊下に出され、私ひとりの通行が真横向きに背と腹ですり抜けているありさま。
 
 * ねむけか微かにのこっている。ボーゼン、独り機械の前に温かにして腰掛け、ピアノを聴いている。
 
 * ラ・ロシュフコー公爵フランソア六世(一六一三 - 八〇)の、岩波文庫の訳・解説者二宮フサによれば「愛され親しまれる古典というよりも」「あくの強い刺激的な古典」と、あのジャン・ジャック・ルソーからサルトルにいたるまで,後生、高名な読者に「反撥、怒り、苛立ちを感じさせ」た相当に嵩の高い古典と、暫く付き合ってきた。「私語の刻」の此処へ先だって潜は登場の上古ローマ皇帝マルクス・アウレリウスや近代にさきがけた哲学者ジンメルの「ことば・述懐」とは多く異なった、が、あきらかに聴き捨ての成らない「箴言』週には相違なしと私は承服したのだった。
 さ、次なる登場者は。楽しみに、いま、思案している。
 
 * ピアノ演奏の「ひとやすみ」というところで「板」を見ると、おう、「ベートーベンのピアノソナタVOL6」を、グレン・グールドが弾いていた、美しいはず。私愛蔵のせいぜい七、八十枚のクラシック録音版で、「ピアノ」を演奏してくれる一等数多いのが、グレン・グールド、何故か、など言えないけれど。楽曲の前後周辺に私の知識は皆無と謂える。詮索も勉強もしない。上のピアノソナタ もう当分この板を機械に容れておく。
 それにしても、ふしぎなのは、いつのまにたくさんな、こんな名曲たちの「板」が手もとに居並ぶか。「買った?」いやいやそんな買い物に財布をあけた記憶など、三,四度も有るか無いか。私の佳いもちものは、みな「天与」と謂うしかない。
 
 * 早起きして、こんなにボーゼンとしてていいヒマ人でないのだたけれど。七時半。何かしら朝食してくるか、熱い茶で京菓子を頂くか。
 
 * 午過ぎて。 二階一室の天井張替工事も無事終えた。ヤカマシイい雨樋からの雨漏りも防げた。やれやれ。
 
 * 午前に妻と映画『ニュールンベルク裁判』劇の迫真壮絶な緊迫にぶちかまされていた。スベンサー・トレーシが裁判長、米国側検事にリチャード・ウィドマーク、ナチス側重要被告の一人ヤニングにバート・ランカスター、被告側弁護人にマクシミリアン・シェル、ある証人に女優マレーネ・ディートリッヒ男優モンゴメリ・クリフトらが立ち。ヴラウン管が爆発しかねない緊迫、息もつけず三時間の余。立派な映像業績として完遂されているのに感嘆した。もう一度観たいほど、胸を鳴らした。繰り返し見返しモノを思うに相違ない。
 
 * 疲れは疲れ、気、意識が淡む感じだが横になれば本が読める。読書に惑いは全く無いのが嬉しい。九時。もう目が開いていない。
 
 〇 秋も少しずつ深まってゆく今頃ですが、如何お須越でしょうか。本日 湖の本159が届きました。いつもながらの精神力に敬服してます。
 お会いしたいと、端末を調べましたが,今年六月十四日が最終受診日で,今後の予定がありませんでした。事情はわかりませんが、くれぐれも、どうぞ、御自愛下さい。
     中央区明石町 聖路加病院 副院長  憲
 
 * 恐縮です。 院内チャペルの美しい写真ハガキで。
 糖尿美容の方は「完治」と解放され、泌尿器科へ啻利尿剤の処方箋を貰うだけの築地までの通院は、心身の負担も大きく、途中コロナ感染被害のおそれもあり、もう行かないときめてしまった。利尿剤は薬局でもお金を払えば買えるので。
 しかし林田先生とは逢いたい。妻もお世話になった。わたくしももう何十年ものお付き合いである。
 
 * 文春の元専務さん寺田さんの電話を『悪霊』読みの途中で受けて、数分、ひとりで喋っていた。顔の見えない電話は気を遣ってせいぜい喋ろうと務めてしまう。
 
 * 餅岩波「世界」の高本邦彦さん、神戸市のE−OLD芝田道さん、大阪池田市の陶芸家江口滉さん、国立市の安井恭一さん、妻の従弟濱敏夫さん、二松学舎大図書館、文教大国語研究室、山梨県立文学館館長三枝昂之さん、城西大水田記念図書館とう、のらいしんまた受領来信あり。
 
* 二世望月太左衛さん、紀尾井ホールで芸術祭参加の『鼓樂』公演と。コロナに家中で罹ったというのを複数聞いていて、ことに第八波とインフルエンザ合併の歳末から春へ危ないという。外出は控え続けるしか無し。
 
* 映画『ニュールンベルク裁判』を、晩にもまた観た。心底、震撼、身じろぎもならぬほど、感銘を受けた。日本人としても考え感じて気づかねばすまぬ厳しい提示がある。逃げ腰になれない。また繰り替えして観て、考え直したい問い掛けが有る筈。
 
 * へとへと。いっさいは明日へ見送って、寝る。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月十三日 木
    起床 5-40 血圧 143-70(72) 血糖値 82 体重 53.4kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ われわれは肉体よりも精神の中にいっそう大きな怠惰を抱えている。  (四八七)
 ◎ 人間はたとえどんなに邪悪でも、敢えて美徳の敵を標榜する勇気はないであろう。そこで人は美徳を迫害したい時には、それを偽物だと信じるふりをしたり、美徳に罪をなすりつけたりする。  (四八九)
 
 * 昨夜 就寝まえに妻と、室生犀星作『あにいもうと』を成瀬巳喜男監督、森雅之と京マチ子、それに久我美子、また浦辺粂子らが添うてのしみじみと心懐かしい佳い映画を観た。好きな日本映画の十の指には入れたい逸品。雅之も京マチ子も文字通りに心懐かしかった、この二人黒澤明監督の世界作となった『羅生門』が初の競演でなかったか、成瀬監督は黒澤の門下では無かったか。いとも心惹かれてきたホンモノの「お姫さん」久我美子も、しっとりと美しく演じていた。「情け深い」とはこういう小説・映画を謂うのだ。
 
 * 四時過ぎに三度目の手洗いに起ち、そのあと、床の内で夢うつつ無く「一つの発想」を揉み揉みし続けていた。創作ではない、いわば方面と時期を限った史料の記録蒐集、出来はするが、大変な労力精力と時間を要するのは知れている。しかし、私なりにもし成れば大事なモノにも成るだろうと。しかし今の私にそんな体力や精力や尽きぬ根気が残っているか、心細い。暫く苦吟、首を捻るか。
 
 * 「湖 160再校」出。 体調宜しからず、苦痛に耐え、凌ぐしかない。目が重い。校正にも、原稿作りにも、手は止めない。十一時。
 
 〇 如何お過ごしでしょうか。
 一昨日のメール、お疲れの時に書いてくださった様子が窺われました。泥のように眠ってお疲れをいくらかでも和らげ、次の時間へ明日へ繋げてくださるよう。
 三連休の京都への旅でしたが、今回は人の多い処は極力避けて「静かな京都」を楽しみました。
「今熊野」は半年の短い期間でしたが暮らしたこともあり、懐かしい地域です。
 東福寺境内の北側を歩いて日吉ヶ丘高校の敷地に沿い、高校生の部活に興じる声に励まされながら雲龍院、泉涌寺に至りました。来迎院、この「静けさ」はいつも素晴らしいと感嘆します。同時に暗くなって帰宅する時には「慈子」は怖かったのではないかしらと思ったりします。緑に溢れて縁側でお茶をいただき・・鴉に羨ましがられるのは必定・・。本当に庫裡で微かな気配があるだけで、部屋も茶室も庭もひたすら静寂でした。
 戒光寺は、目下屋根など修復中でシートが掛けられていました。ここは依然として拝観料も求められません蝋燭を買い求めて燭台に・・長い時間坐っていました。途中まで描いた釈迦如来像、その色彩を改めて実地に見たいと思ってきたのです。様々なことを思い祈りました。
 最近意識している「京都トレイル」の道を辿って阿弥陀が峰から清閑寺まで行きたかったのですが、雨が降り始めたので諦めました。そして何故かこれまで行ったことのない将軍塚にも、次回は辿りたく。
 世界のさまざまなこと、憂うことが多すぎます。
 ともすれば日常に飽き、気力も衰えそうになりますが、鴉の努力気力を思えば、わたしなど甘すぎ、優柔不断、ただの怠け者。4回ワクチン接種を済ませてもコロナに感染して、幸い全くの無症状で、ハイブリッド感染。それでも注意して過ごしていきます。
 どうぞお身体くれぐれも大事になさってください。気温の変化も極端な東京の昨今ですが、無理なさらず乗り切って下さい。    尾張の鳶
 
* 心身とも病む鴉に代わって、もとは京大生の尾張の鳶が、自身も想い出の京の空をしたしく舞ってくれる。羨ましく、有難し。
 
 * 今日午前の恐怖は、排便の苦痛、言語を絶し、愕然。かつて覚えない苦難。拙に長命すると斯かることもあるのか。
 
 〇 マイナンバーカード公私併用の国民悪支配への思惑が露骨化してきた。そんな約束では、決して、無かったぞ。
 
 * 一昨日來、二階隣室の「天井」養生に職人が入って作業、やはり落ち着かない。午を挟んで、妻と戰闘映画のめいひん、四時間近くもの映画『ライアン』を観た。まず三度目ほどであろう、歩兵の戰闘映像としては抜群の迫力と哀しみに面満ちた静かな感動感銘、共感すらも。
 
 * なかなか仕事は捗らず、疲れて横になり、源氏の藤壺にしのび逼る悩ましい「賢木」巻、とらえどころの無い茫漠の『悪霊』の半ばを、『参考源平盛衰記』では、法皇の三井園城寺で灌頂をとの仰せに逆らい、比叡山の悪僧ばら、三井寺一山を焼き滅ぼすと。平家物語世界では、くそ坊主ばらの悪行、実もって甚だしい。どうしても武侠へ親しんで近寄れないのは平家物語時代に一人の名僧も顕れないから。
 
* 僅かに寝入っていたか。四時。
 
 〇 『湖の本 159 花筺 魚潜在淵()私語の刻』を拝受いたしました。
 必ずし体調万全でいらっしゃらない
 秦さんが送り出して下さった花々の種子、発芽をまつもの,既に発芽したもの、蕾のもの、咲きかかったもの! おぼろな視力で期ままにつまみ食い(読み)をさせていただいたい縷と、ていちょうな当方にも元気がでてきます。。
 いつもありがとうございます。
 コロナの終焉とその末をみたいものです。
 どうぞお大切になさって下さい。 二〇二二年十月十日  講談社役員  敬
 
 * 「花筺」へのの私の思いを適確に捕らえて戴けた。感謝。{}
 
 〇 いつもいつも本当にありがとうございます。毎巻 楽しみにしております。「私語の刻」読み終えるのを惜しみつつ、拝読しています。教えられること多々です。
 今治(いまばり 愛媛)ではコロナ感染者数がやっと下降に転じてきたようです。早く普通の日常生活にと,思います。不自由な生活、くれぐれもお体 大切に。早々
                 今治氏波方 木村年考  もと 市立図書館長
 
 〇 常々精進なさってる あなたのこと お元気なこととお喜び申します。そして今回もまた、ご本ありがとうございました。
 日課にしている散歩、ここ琵琶湖畔は樹木も秋色に包まれてきて、散策、らくに楽しめるようになりましたよ。年齢相応に躰は弱って来ましたし、右手指が動かしつらく、お箸もペンも使いつらくなり、時には自分に喝を容れている時もありますが。
 奥様もお元気でしょうね  お二人くれぐれも お体を大事なさって下さいね。
 ありがとうございました。  大津市雄琴 水谷葉子  弥栄中学の頃の理科の先生
 
 〇 三日前の暑さが信じられない寒さです。今度は冷え切っています。
 場所をかえ 眼鏡を換え 姿勢をかえて 一息に読ませていただきました。青から赤への變化、冬は暖色? 
 気をつけても切手がまっすぐに貼れなくて、ゴメンナサイ   美沙  美学同窓 
 
 〇 寒さのいささか荒っぽい訪れに戸惑っておりますが、今日は娘の手を借り堀ごたつを仕立てるつもりでおります。
 秋の夜長をゆっくりと「花筺」を楽しませていただきましょう。豊かな刻をお贈りくださり心よりお礼孟子あげます。かしこ  十日 さいたま市  由紀子
 
 〇 発想のご苦労を思い ただただ痛み入ります。
 この五日に 信州大学図書館に恃まれて恥じての講演をしてきました。草稿をつくって行ったのですが長くなり、圧縮に四苦八苦してひたすら棒読みするだけになってしまいました。折角用意した図版も生かせませんでした。
 秦さんは講演のときどのように構えていらっしゃるのか、聞いてから準備すべきだったと反省しています。早々    大田区   吉正  評論家
 
 * おもわず笑ってしまった。講演は、話せる要点を個条にちっちゃくメモするだけ、聴衆の顔つきを見るほどの気分で、すこし散漫ぎみに、しかし脱線で時間を食われず話した方がいいのです。
 
〇 ともあれ、コロナはかからぬのが最良の策、ぜひくれぐれも穏用心下さい。
 日本ペンクラブもようやく舊來の姿を取り戻しはじめた様子です。まずは安心できるかと。 御礼まで 不一   詠
 
 * 後段 意味不明、わからない。ペンも協会も とうに無縁の気でいる。回避も払っていない。除名になって、少しも構わない。も
 
 * 東大大学院国文学 早大戸山図書館 三田文学編集部  大東文化大がく日本文学會 皇學館大国文学 等々 『湖の本』受領の来信。 
 
 * も少しと思っていたが、疲れきって根気が枯れている。今晩は階下へ降り、おりをみて早く寝てしまいたい。
 とりあえず当面の課題は、@「湖の本161」の前半「メイン」に何を樹てるか。『160』が「責了」となる前に発送の前のココロヅモリや注文、そして容易に着手。むろん一に、「創作」の続行。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月十二日 水
    起床 5-30 血圧 129-76(72) 血糖値 82 体重 53.0kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 眞の善良さにも増して稀なものない。善良だと自分で思っている人さえ、ふつう、愛想のよさか弱さしか持っていない。  (四八一)
 ◎ 精神(エスプリ)は、怠惰と慣れから、自分に楽なこと、もしくは自分の気に入ることにしがみつく。この習性が常にわれわれの知識を一定の限界に閉じ込めてしまう。                                   (四八二)
 * 無難に七時間寝ていた。早朝をむしろ楽しもうと。二階廊下の窓を開けると、路上ほのかに、かすかに、淡い紅らみの匂うようにこもって朝明けつつあるのが美しかった。
 
 * 昨日までのお手紙を読む。
 
 〇 十月六日 能美 井口哲郎さん 前石川近代文学館館長 元小松高校校長先生より
  いかがお過ごしでしょうか。お変りないことを願っています。
  この所、全く無為な毎日を送っています。ただそれが当り前みたいになっていることに気づいた時,いささか怖い気持になります。
 前にもお伝えしたと思いますが、家内の身の不自由さから、家事の負担が毎日の仕事です。この頃、思うことは、毎食の献立の、何と大変なことか、ということです。わけても二人の好みが異なるので、それをどう扱うか苦労します。
 隣りに長男夫婦が住んでいますが、いざとなれば,何でも手伝ってくれるものの、長年の別生活で,毎日の「生活」にかかれることは、なかなか無理です。
 まだハンドルは執れますので,買物にはことかきませんし、その運転をあやぶんで、娘(車で20 分ほど離れているが)が周一くらいに入浴の補助、日用品の買物,月一度の通院を助けてくれています。娘は、二人の子も巣立って、週に三、四回の仕事に出ている夫と二人暮し。夫の理解もあってうるさいくらい?手伝ってくれています。
 九十歳になって、家事まもれになり、それが普通になってしまっているようでも、ふとそんな自分を省ることもあります。
 最近の「作家」はあまり知らぬ人ばかり、その文章を読んでも、なんでこんな日本文を書くのだろうと、時宜に遅れている己れを忘れて,思ったりすることがあります。
 本棚の目についた「草枕」を読み始めています。少年時に「『おい』と聲を掛けたが返事がないない。」いうところが好きで妙に気に入り漱石のものの中では好きな作品です。何ともとらえどころのない(私には)ところが、きを引きます。
 秦さんのお作は、すべて机の横にありますので、それは十分に淋しさをまぎらわせてくれます。しかし、何を読んでも、何か気遅れをしてしまいます。事に向う姿勢の質が違うからだと卑下しています。
 ご無沙汰のお詫びと思って筆をとりましたが,内容のない手紙になってしまいました。お二人のご無事を祈っています。
 老いぬれば事ぞともなき秋晴れの
 日の暮れゆくもをしまれにけり  潤一郎
   十月四日            井口哲郎
  秦 恒平様
 
 * 泪のこぼれて拭えないお便りであった、親しみ合うてきた何十年もの虚空を想いがはせめぐって、そしてどうかご無事でと心底祈った。ご無沙汰を気にし気にしながら残暑に負けて疲弊の日々にも,もう少し少しでせめて「湖の本」が送れると励んでいた発送の前日か当日かに此のお手紙はいただいた。遅かりしと呻いた。
 井口さんのお身近には息子さんや娘さんの温かな目や手が働いている。
 私たちはどうなるのだろうと寒けがする。建日子には大事な同居人はいても、私たち両親には頼りに思い願える「嫁」はいない。押村高家の朝日子は数十年音信無い。
 もうもう本気で「ケア」の頼めるという人との接触交渉が緊急の必要に成っている。
 
  〇 何もかもむかしの秋のふかきかな  万太郎  (はがき表、住所印の脇へ)
 「二月二十一日…秦さんへの手紙投函、二十六日、『湖の本』着」と日記にメモがありました。今回は、手紙は十月六日、『湖の本』は翌七日でした。「私語の刻」の濃い内容に比べて、私の手紙のなんと浅薄なことと毎日の生き方のちがい,頭に溜めたものの質の「ちがい」からくるものでしょう。
 娘がいいました。「父は母の世話があるから元気なのだ」と。
 秋です。いろんな展覧会が,各所で開かれています。当地ではいずれも観るに価するものばかりです。しかし、本年は出かける気持のうすらいでいるような現状です。お大切に。
 (はがき表下に)昨日、今日と寒くエヤコンの「暖房」を押しました。私の日記はこの所ずっとメモばかり。食事(=の爲の)の記事が目立ちます、(本の=)受取まで
  (朱印で) 寒露               石川県能美市  井口哲郎 
 
 * 井口さんとは「メール」は無い。自筆、それも「秦恒平 用箋」とある原稿用紙を所望され、近年のお手紙はそれで戴き、私もそれで。最も自身手書の指先がジンジン痺れて、うまく書けないのが、苦。私にはなくて成らない心温かな先人である。
 
 〇 「湖の本」159巻を頂きました。ありがとうございます。
     九十にしてまだ口にする雛あられ  
 というのを作りました。なぜかまだ元気で、天気のよい日は自転車をこいで買物にも行っております。
     バンクシー楽書をしてもほめられて
     女より車の好きなオニイさん
       エンジンうならせどこへ行くやら
     神主が手順あやまる夏祭
 お粗末でした。   令和四年十月七日  平山城児  文藝批評家 元・立教大教授
 
 * やや先輩、怕いほどな批評家だったが。
 * 九七歳の文藝批評家 高田芳夫さん九月十五日にご逝去の報。
 
〇 拝呈  いつも『湖の本』穏恵贈頂き、ありがとうございます。
 さてもっと早く気付くべきなのに全く失念していたことがあります。
 実は私も月刊紙を作って身辺の友人に発送していました。近々のものをお送りすると倶に、、これからも送らせて頂こうと存じます。 お受け取り頂ければ 誠に幸甚に存じます。 敬具  十月七日  金沢市  松田章一  元・金沢大教授
 
 * いつ頃の「発刊」であったか 12乃至20頁ほどに紙を畳まれた冊子「續左葉子(しょくさようし)通信」を出し始められ,その節すでに数冊戴いた。もう110号にもなっている。一種の文藝日誌である。松田さんとは同歳であったと思う。お元気でと願う。
 
 〇 秦恒平 先生  湖の本159号、「花筐」をご恵贈賜りありがとうございました。
御礼が遅くなりましたことをお詫び申しあげます。
 ガン治療薬の副作用で発熱を繰り返しパソコンもあまり触りませんでした。
 湖の本158号110頁記載の『薔薇の行方』は、多分ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』と推察しております。この本はぜひご一読をお薦めしたく その理由等々情報提供をと準備していたのですが、上記のような事情で遅れております。追ってご送付いたします。
 p.s. 添付写真は、この秋今までになく美しく咲いてくれた キツネノカミソリです。
 キツネノカミソリはヒガンバナと同じヒガンバナ属(Lycoris)、早春に葉が伸び出し夏には枯れます。
 この葉のかたちををカミソリにたとえたといいますが 余り似ているとは思えません。
 秋になると茎だけが突然地上に現れつぼみをつける、この段階では ヒガンバナと見紛う姿です。開花して初めて見分けがつきます。   篠崎仁
 
 * なにからつけ篠崎さんには教わってきた。きれいな風が吹きいるようで心地よく嬉しく。お大事になさって下さい。
 
 * 書庫に入って座り込み、かなりな時間、本を並べ替えていた。読んで欲しいという声が鳴り響くよう。ごめんごめん。そんな中から坪谷善四郎著『明治歴史』下巻を手に持って,出た。文久二年(1862)生まれ。東京専門学校(現・早稲田大学)政治科に学びながら博文館に入社、編集局長を経て、取締役、著名な雑誌「太陽」を創刊初代の主筆,編集主幹、世辞かとして東京市会議員7期、東京市立図書館(現・日比谷図書館)を建設に尽くし、日本図書館協会会長という「実力」の人の主著のひとつが、この大著上下巻の『明治歴史』で、私はかなりに歴史書には触れてきたが此の博文館蔵版坪谷善四郎の『明治歴史』は、感嘆、第一級の名著にして充実と謂わねばならぬ。祖父鶴吉旧蔵遺産のなかでもこの書に出会えたのは、まことに有難かった。著者にも祖父にも敬意を惜しまない。
 
 * ドクター「大門未知子」がテレビに帰ってきた、が、第一、二回とも「下品な二番煎じ」で、ガッカリ。これにくらべ、フランス版か、あらたな連続医師ものの「ベク」が、みごとな感動のスタート、胸を衝かれ、期待十分の楽しみになる。
 日本のテレビドラマ作者たちは、先日の『鎌倉殿の13人』途中での「出演者らのおしゃべり回」など、視聴者をナメてかかっている、大方「へたくそ」なくせに。
 さすがに映画への力の入れ方はちがう。旧作だけれど、森雅之と京マチ子に好きな久我美子が加わっての映画『あにいもうと』など、あたまの15分程でも、しみじみと魅して呉れる。
 
 * 家の内・外の「直し」仕事に職人が入っていて、「ま・あ」ずがヘキエキしている。
 
 * プーチン・ロシアに疲労の悲鳴が上がり掛けているとか、最期っ屁のような無茶を遣らせたくない。 
 日本では、どうも岸田政権に不埒な驕りとダラケがハナにつき始めて、不快味が目にも耳にも鼻にもつき始めている。所詮はコウかと、おもうだけに、野党どものちぐはぐなボンクラ振りにも、ガッカリ。
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月十一日 火
    起床 6-30 血圧 120-64(97) 血糖値 82 体重 53.0kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 同情されたい、もしくは感心してもらいたいという欲望は、しばしばわれわれの打ち明け話の最大の要素を為す。  (四七五)
 ◎ 毅いところのある人だけが眞の優しさを持つことができる。優しそうに見える人は,たいてい弱さしか持たず、その弱さはしばしばとげとげしさに変わる。  (四七九) 
 
 * 明後日の午前には「湖の本160」再校がが届くと。
 
 * 午までに、と、危ぶみながら妻と郵便局へ、其処から、タクシーで駅前の銀行へ。妻が家計の通帳へ三年分に余るだろう金額を移しておいた。私自身が、いつ、どうなっても当座妻も私も安心していられるように。あとは建日子に依頼する。
 疲れはしたけれど、往き帰りにタクシーを使ってかえってこれた。
 
 * 往年の弥栄中で理科を習ったいま琵琶湖畔在の佐々木(水谷)葉子先生、美しくも見事な京菓子と甘酒とをお手紙も添えて下さる。有難う存じます。 
「尾張の鳶」さんも京都から、見事な鰊の蕎麦を六食ぶん、ほかにも老舗の京菓子などを大きな箱にとりまとめ送って下さる。好物の京南座脇の「鰊蕎麦」で、食足らずのやせ細りに美味い「活」を入れて戴く。ありがとうよ「鳶」さん。
 
 * 「湖の本 159」へ、石川県能美の井口哲郎さん、金澤の松田章一さん、埼玉県川越市の平山城児さん、懇篤の佳いお手紙下さる、有難うございます。明日にも繰り替えして拝読したい。
 
* まこと、滑稽も滑稽な私の粗忽で、妙齢の作家さんと勘違いして、西国の某縣勤めのエライらしきお方に「湖の本」を送り続けていたのが、お礼のお手紙を初めて戴き判明した。やるんだなあ、こういうトンマを、私は。御免なさい。
 * 高麗屋の幸四郎が、師走の歌舞伎座へ誘ってきてくれましたが、いまのコロナのようすと私の体調では。残念、乗れないなあ。なにより歌舞伎座まで通えるだろうか、往復路をタクシーを使うしかないか。
 もう一度、街を,銀座、浅草、上野そして博物館など、歩きたいがなあ。
 
 〇 秦様
 「湖の本」159号のご恵投、ありがとうございました。早速拝読しております。秦さまの日本古典文学に関するご造詣の深さに改めて敬意をいだき、感心しております。とにかく『源氏物語』を十回の余もお読みになっていることだけでも大変なことと存じます。またお若いころからたゆまず勉強を続けこられたことにも敬意を抱きます。私は筑摩書房時代、酒場通いの悪癖を身につけ、貴重な時間を無駄にしてしまったのを大いにいま悔いております。
  マルクス・アウレリアスの『自省録』をお読みになっておられますが、わが愛読書ギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの私記』にも登場、いつか読まなければと思っておりましたが、いい機会と思っております。
「ヨブ記」は『旧約聖書』の中で『コへレトの言葉』と並んで私の好きな章で、いまも時どき開きます。私はカトリック教徒ですが、ヨブの持つ信仰の強さはとても持てません。踏み絵をすぐ踏んでしまう人間です。
 このほか秦様の御文章を読みながらいろいろのことを教えられ、また楽しんでおります。今後もよろしくご指導のほどを。
  ナチの世のタンゴ切なくわが胸に響きてやまぬ深夜の酒亭
  喜びも哀しみも淡くただ虚無の拡がる胸よ「薔薇のタンゴ」よ
  失ひしもののみ多く人生(ひとよ)朽ち古きタンゴに胸を灼かるる
  夜の酒肆に「小雨降る径」鳴りてゐつ湧きては消ゆる一人の記憶 
                      茨城四街道    鋼 生
 
 〇 京土産数々  有難う存じます。鰊蕎麦の美味 ひとしお、
 名菓とお茶は 折をかえて楽しみに。こころより御礼。
 やはり泥のように寝入ります、数時間また数時間。根気が腐ろうとしてるのか。なるべく気楽なことを、思いも、独り口にしつつも,狡く躱そうとするのですが。 結局横になり、すこし読み進んでは寝入ります。
 いま、九時過ぎ、機械の前へ来ました。メールもなく。明日の要に備えておくだけで、寝ます 明日の体調に希望(のぞみ)を持って。
   鳶  お元気で。高らかなピーヒョロロを聴かせて。  鴉カア
 
 * いま異様に気分悪しく 寒け。もう床へ逃げるしかない。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月十日 月
    起床 6-50 血圧 134-70(70) 血糖値 82 体重 53.3kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 吾々の素質はすべて善とも悪とも不確かでアテにならず、ほとんど全部がきっかけ次第でどうにでもなる。  (四七〇)
 ◎ 自負心にも、他の情念と同じく支離滅裂なところが有る。  (四七二) 
 
 * 「もう一寝」をえらんで七時前になった。空腹感がある。
 
 〇 「湖の本 159」有難うございました。
「花筐」は、もう何年も前に、腹案中の小説のタイトルとして伺った記憶があります。
読了してからメールをと思い、読み始めましたが、やはりなんだか落ち着かず、先にメールすることにいたしました。
 早く読み終えてしまいたいような、読み終えるのが惜しいような。
「魚潜在淵 秦恒平・私語の刻」も、今年の二月から四月末まで。直近のものになってきましたね。こちらも楽しみです。
 私の単著は、今月28日頃刊行予定だそうです。早くお目にかけられればと思っています。 10月になって、寒暖差が大きくなってまいりました。お風邪など召しませぬよう、お大事になさって下さい。ますますのご健筆をと願っています。  市川  はるみ
 
 * 今少し 決まり文句でない發明な文面になりませんかねえ、川端康成研究で「単著」が成るほどの研究者ならば。
 
 〇 御礼 湖の本 159  花筺 はなかたみ 魚潜在淵
 ご恵送頂き 本当にありがとうございます 創刊 第百五十九巻 拝掌致しました
 『花筺 照日の前 継体天皇』この絵を見つけたのでお送りしてみたくて(もうご覧になっているだろうなと思い乍ら)メールを作り出したのですが 絵と文とうまく乗らず 2通にしてみました (どうもメール造りが うまくいかなくなりました)
 秦さんに 渋谷(能楽堂)へ連れってっていただき お能で「神様に出会えた」のを思い出しております
 魚潜在淵 或在干渚 もやっと 詩経・小雅 鶴鳴 に辿り着きました やはり「大学」や「詩経」とも付き合ってみねばと思っております
 寒くなってきました
 この冬は コロナとインフルエンザが重なりそうで心配です
 くれぐれもお大切にされてください  千葉 e−old  ドクトル勝田
 
 * 映像は出て呉れれない。私、機械との付合いベタは亢進一途。残念。e−old勝田さんのメールはいつも往時の愉しかった出逢いや食事などを想い出させて戴ける。フレンドと謂う仲なんだなあと有難い。
 
 * 昨日「尾張の鳶」が京都泉涌寺の来迎院から送ってくれた院の正門や建物や茶室やお部屋や回遊の前庭や 等々、スライド展開で一つ筆に食い入るように見入っている。もうあの庭先の縁に腰掛けて静かに静かに夢を観られないのか。先生の提案で、慈子のお手前で月明の茶会を楽しんだ昔昔があまりに懐かしくて、つらくなるほど。
 
 * そうだなあ……。日々にあくせくして、なおまだ「此の先」へ何かをと喘ぐよりも、もういいではないか、それより、思い切り心地を解放して全善三十三巻もの『選集』作を静かに読み返し味わうがいい…と深い内心の要望が疼くようになってきた。心弱っているからか、天来の「もよおし」か。なにはあれ、もう一度「尾張の鳶」に、有難うと。
 
 * 朝であったか午であったか、塩鮭を焼いた一切れを食した。久しぶりの「食」だ、魚は苦手の,事に煮た魚は嫌いな私が,小さい頃から焼いた塩鮭は、箸を付けやすくも在って食べた。平目とか謂うのを焼いたのも、背側はむしろ好んで食べた。鍋にするベニス骨のない鱈も淡泊を好いた。刺身というのは、近頃になってきみわるくなり、寿司から腰を引いている、干瓢やなどの卵焼きなどの淡泊な巻き寿司をのりの味を好いて注文したり。
 
 * ともあれ塩鮭の一切れでも口に入ってよかったと、妻も喜んだ。日本酒にも洋酒にも、なぜか、あまり手が出なくなっている。四、五合瓶なら二日、一升瓶も四日ほどで明けていたのが、今は、手が出ていない。佳いか善くないか、なら、いい傾向か。
 
 * ここの家二軒を繋いで 私のモノやモチモノの整備と所蔵に宛てたいという意向を妻にも建日子にも漏らしてあるが、現状「無視・無反応」 予期の通り。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月九日 日
    起床 6-45 血圧 140-71(70) 血糖値 82 体重 53.0kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 罪はずいぶん庇い立てされるが、無実の方はそんな庇護を見出せるどころではない 世の中である。  (四六五)
 ◎ 虚栄心は、理性よりもいっそう数多くのわれわれの好みに反することを、われわれになさしめる。  (四六七) 
 
 * からだに、ことに腹中に空疎に力ない感覚、食べたいという気が沸かない。味を濃くした汁(スープ)を呑むだけ、小さく刻んだ餅はおろか、小刻みの豆腐にさえも手が出ない。強いていえば、「まだ生きてるぞ」という気張りがあるだけ。睡いか。瞼は重い。シャキシャキととても仕事できる気分でない。。
 
 〇 十三夜
 秦さま 昨夜は、夜空も晴れ渡ってとっても綺麗な十三夜の月を見ることができました。
芋名月とも豆名月ともいうようですが、わが家ではいつも栗のお菓子をいただいています。
 早速のご親切なコメント・ご助言、ありがとうございます。
 特に「要望や要求の段階で「事足れり」のような半端な自己満足を引き摺り、何も達成実現してないと謂ったところへ嵌まり込み兼ねない。市民活動という名目の散漫化しかねない盲点では。」とのご指摘、いつも私たちが気にかけていることで、身に沁みます。これからも半端な自己満足に陥らないよう、一層頑張らなければ・・・と思います。
 継続は力なり、を信じて粘り強く根気よく、しっかり結果・成果が得られるまで。
「野党と市民の共闘」については、私たち市民はガッカリさせられることばかりです。最終的な目標は同じハズですのに、共産党と一緒には共闘できないとか、何とか小異にこだわってなかなかうまくいきません。「安保法制廃止」の時に「市民と野党の共闘」体制を作った頃は、それでも一応上手くいっていたのですが。
 その後、野党同士がギクシャクして、私たち市民はいらいらしているところです。そんなこんなで「市民と野党の共闘」は、もう崩れかけています。小異を捨てて大同につく、というのがこんなにも難しいものなのですね。
 愚痴ばかりのメールで申し訳ありません。
 私は、今から「湖の本」を楽しんで心安らかに就寝します。
 夜はやはりすっかり寒くなりました。暖房がほしい季節ですね。
 秦さま、迪子さまも お風邪など召しませんようお大切に。   仙台 恵子
 
 * 人間がせいぜい強い弱い程度の分別で固まっていた太古はともかく、今は、バベルの塔が崩壊のまま、万人いれば「万」の別種の欲に駆られた自己主張で人間が混在している。 まず、どうしようも、ない。神はためらわれず「方舟」の世を心聡い少数のために爲し與えたまえ。
 
 〇 みづうみ、お元気ですか。
 昨日、159巻を無事に頂戴いたしました。ありがとうございます。毎回頂戴するばかりで、本当によろしいのでしょうか。申しわけない気持ちです。『花筐』読みたかったのです。繰り返し読むことで少しでもご恩返しになるとよいのですが。
 たまたま、みづうみの「九月の私語」のなかで、ご自宅の大量の荷物等をどうするかという話題を拝読。
 家財処分で全部廃棄などは絶対おやめくださいますように。
 これは身勝手な読者わたくしの提案ですが、将来、建日子さんに、ご自宅を「秦恒平」文学館・文学資料館として保存、活用していただきたいと思います。
 書斎もそのまま、蔵書も、可能なかぎりそのままです。本に埋もれてつぶれそうなお部屋があるとしたら、本好きはアドレナリン全開で胸がキュンとします。
 谷崎松子夫人の見事な巻紙のお手紙なども是非展示していただきたいと思いますし(管理が大変と思われましたら、近代文学館に寄贈なさるという方法も。文学史的価値ある資料でございましょう)。
 もし「湖の本」にまだ在庫などございましたら、来館者にも販売する場所にしていただけると嬉しいです。
 大真面目に実現を願っていますので、どうかお笑いになりませんように。
 急に肌寒くなりましたが、身体がまだ暑さの記憶を残していますので変な調子です。お風邪など召されませんように。    秋は ゆふぐれ
 
 * わが家は、家屋にして「二軒」が左右に繋がっていて、隣家を買い取った西の家の階下は「湖の本」在庫で埋もれている。二階は使用しないでいる。是を取り毀し、現状をほぼ遺したままの東の家に西の家を繋ぐように簡素で堅固な洋風の建物が建たないかと、夢は観ていた。上記メールでの提案にほぼ一致している、但し建日子に任せられるかどうか。ありたけの蓄えをはたいても、これは私生涯の仕上げと思ってきたが、この今にも千切れそうな生命力・不健康ではと、残念至極。設計なら、東工大建築出の現役バリバリが力を貸してくれるだろうに、時機、既に遅いか。
 〇 一昨日、御本が届きました。
 今日は、娘の用事で京都に来ています。
 東福寺北側から泉涌寺の方に歩き、来迎院で豊かな時を過ごしました。
 昼過ぎから静かな雨です。お身体大切に大切に  尾張の鳶
 
 * うらやましいを超えて、ヒガムほど。東福寺、そして泉涌寺の「来迎院」とは、強烈無比の刺激。『慈子』や「先生」「お利根さん」と過ごした昔が、山なす潮のように私を覆い尽くす。写真が何枚か添うてあるが、こと来迎院や泉涌寺・東福寺と鳴門、踏む足もとの砂利や地面の音やぬくみまで蘇ってくる。「尾張の鳶」はまだまだ元気に京都を飛び回りに行けるのだ、眞実、羨ましい。 想い出させてくれて、有難うよ。
 
 〇 秦 兄  湖の本第159号ありがとう。同年生としてこころから敬意と感謝を表します。何事にもキリがあるので、半端な数字でなく200号を「必達」目標とまでは言いませんが、せめて努力目標にして健筆ねがいます。
 同年生が何人、その「達成記念号」の読者として生き残っているか分かりませんが、その一人として精進・節制したいとおもいます。
 趣味の音楽も他事にかまけて愉しむ時間がなく、「戦後流行歌史」の作成も数枚のCDで中断のままですが、BGMとしては聴いています。
 当時の歌は、名の通り、引揚げ兵の「かえり船」にはじまり、菊池章子の絶唱「星の流れに」など世相を映し人を歌ったものを聴きながら当時をあれこれ思い出しています。
 多感な敗戦後新制中学生の頃、ほんとうになつかしい。
 (筆者が当時思いを寄せていた)石塚公子のピアノを聴いてみたいが、どこかで元気でいるだろうか。兄の今回の号に石塚をモデルにした短編とあるが、ぜひ読んでみたいものだ。
 その石塚から最初にもらった本が シュトルムの短編「みずうみ」だった。いまから思えば石塚が結婚した「コンニャク」こと理科の伊藤先生からのプレゼントだったのでは、と思われてほろ苦い気持ちだが、その時は舞い上がって、この短編を原語のドイツ語で読もうと丸善で買った「対訳本」はボロボロながら未練がましく手もとに残っている。
 この齢になって、世直しのために背中が丸くなるまでパソコンの前に四六時中すわっているので家人に嗤われているが、これも一種の呆け予防と心得ています。
 お互いに体を労わり人生を全うしましょう。いつもありがとう。  森下辰男
 
 * 佳いメールですねえ、しみじみと「旧友」という温かい熱い実感に包まれている。そして、なんと面白いことも読ませて貰ったなあ、あの「石塚公子」に「貰った本」の目の前最初が、シュトルムの『みづうみ』とは、こりゃどうじゃ。
 同じ馬町の京都幼稚園へ毎日バスで通い合った石塚公子とは、吾が「ハタラジオ店」の目の前、幅七メートルも無かった道路のお向かい、長屋を二軒西へ、奥の深い屋根路地門の西真脇の家に育っていた。私からいえばずぶずぶの同い歳、恰好の幼な馴染みだった。対抗心のつよい女の子で、罵詈雑言でケンカもしたし、大声で覚えてる限りの歌など唱い合うて飽きない仲良しでもあった。ただ、あの家にピアノは無かった、のに、同じ弥栄中學に進んでの、他に人のいない大講堂で、独りグランドピアノを、ただ鳴らすのでなく、確かに曲らしく弾いていたのにはビックリ仰天した。
 シュトルムの『みつうみ』にも、ま、仰天した、何故かなら私が自分のお金を財布から出し、本を、「岩波文庫」という本を河原町の大きな書店で、二、三度も通い何時間も掛けて「選んで」買ったのが、シュトルム作『みづうみ』であったから。一つにはあの当時「岩波文庫」に独特、背表紙に ☆ が入ってて ☆一つ の本は即ち、当時「十円」を意味していたのである、同じ年の内であっかも知れず間もなくに「十五円」に値上げされたのもよく覚えている、つまり、私・秦恒平は、金「十円也」の岩波文庫一冊を「生まれて初めて」中学生で、自分のお金で、買いました。、「書物を買う」という、生涯初の「ド大変な経験」をしたのだ、忘れもしない、しかもその『みづうみ』の縹渺としたロマンチックにも嬉しく心惹かれた、大いに満足したのだ。むろん記念に値する ☆ ひとつ「十円也」の昔々の岩波文庫『みづうみ』は、現在「やそろく」歳の私の文庫専用書架に保存されて在る。そして、無論とと云うていい、此の『みづうみ』なる、外国人『シュトルム』の筆で書かれた「岩波文庫」という「小説本」を、お向かい同い歳の石塚公子に吹聴し見せびらかしたのも当たり前であった。
 その同じシュトルム作『みづうみ』を、京都在の友森下君は石塚公子に「貰っ」て、いまも懐かしく所蔵していると今日のメールに明記されある、何時にとも、状況も知れないけれど、これは「佳いハナシだよ」と驚嘆、「おもしろい」とも感じ入った。「書ける」なと、大いに頷けた、ま、「書きはしない」だろうが。
 石塚公子を私が「小説に書いている」とも森下君は触れていた、覚えはあった、が、ハテとすぐは大もなかみも思い出せなかった、が、私の『選集』第十一巻に入ってた『羲(よ)っ子ちゃん』がそれで、これはもう現実の石塚公子とはかけ離れ、放埒なほどのフィクション作であった、ちょっと気をよくしたほど面白くは書けてましたけど。
 石塚公子は、森下君のメールにある、当時「(糸)こんにゃく」とあだ名の、若い男先生同士でも生徒にもあまり買われてなかった理科の伊藤先生と「結婚」してたとは、よほど後々に漏れ聞いた、あり得そうな仲じゃわいと思い、それも忘れていた。伊藤先生はのちにどこかの「税関」とやらにお務めともかすかに聞いた、が,何も知らない。
 
 * 連続劇として観ている『鎌倉殿の13人』が劇でなく出演関係者らの「ダベリ番組』されているとは、心底アタマに来たよ。ふざけるな。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月八日 土
    起床 5-30 血圧 140-71(70) 血糖値 110 体重 52.75kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 吾々の敵は、吾々について下す判断に於いて、われわれ自身では及びもつかないほど眞実に逼る。  (四五八)
 ◎ われわれは、自分の情念が自分にさせることの全部を知り尽くすどころか、およそほど遠い。 (四六○) 
 
 * 52.75kgまで体重が落ちたとは。中学時代へ帰っている。
 
 〇秋冷の候、という挨拶がぴったりくる季節になりました。仙台はきょうも一日中冷たい雨です。
「湖の本」159号、ありがとうございます。秋の夜長、ご本をゆっくり拝読します。
 岸田政権は、国葬強行や統一教会問題を抱えながら いつまで持ちこたえられるのでしょう。(居座る気なら、党内に激震級の騒動が起きぬ限り平然と続くでしょうね。 秦)
 野党がだらしない上、連合の姿勢もあやふやで、岸田政権がずるずる続くのでしょうか。
 (ちっちゃな野党が幾つあっても政権批判や刺激の何の役にも立たず、同士討ちの滑稽劇を演じ続けるだけが「日本国の野党」。もし今、野党「協力」が成るなら、一致して叫ぶべき合言葉は「即時の国会解散…選挙」要求の筈。ケチにシミッタレては仲間割れに嵌まるのが彼等毎度の愚行、自民党はラクラクとタカを括って居れます。バカみたい。 秦)
 別件ですが、私たち「共学教育の充実を求める会」では、過日 県教委に「県立高校すべての教職員にジェンダー平等研修を受けさせてほしい」旨の要望書を提出し、併せて宮城県文教警察委員会宛に同趣旨の陳情書を提出しました。要望書の方については、既に県教職員課長や高校教育課長と面談の上、「了解しました。適切に対処します」といういかにもお役所的・官僚答弁をもらいました。
 それでは、本当に実施するかどうか怪しいので、県議会でも取り上げてもらうために文教警察委員会にも陳情書を提出した次第です。
 文教警察委員会はまだこれからですので、今後の県の動向を注視しているところです。
 また、女川原発再稼働阻止の活動や、「改めて国葬問題を検討する」活動などにも参加しています。
 私の近況は以上の通りです。 (今日の人間社会には、気がつけば為し成すべき要望や要求は数え切れないほど、有って普通。 それだけに聡明に取捨して幾焦点かに引き絞らねば、要望や要求の段階で「事足れり」のような半端な自己満足を引き摺り、何も達成実現してないと謂ったところへ嵌まり込み兼ねない。市民活動という名目の散漫化しかねない盲点では。 秦 )
 秦さまも迪子さまも、いかがお過ごしでしょうか。「湖の本」の荷造り・発送等々でお疲れのことでしょう。寒暖の差が激しい昨今、どうぞお身体をお大切にお過ごし下さい。
   仙台:  惠
 
 〇 「湖の本」159をいただきました。ありがとうございます。
 秦さんの「体が衰えても意気軒昂」の姿が目に浮かびました。読み終わって中扉を眺めて紅葉狩りの気分のまま、果ては裏茶屋の落ち葉敷く飛石の上を歩く自分がいました。「花筐」のそれぞれの命が色のタペストリーのように甦って息づいていました。外出困難の折から眼福を堪能させていだきました。
「逢ふみのうみ」では、越前から擁されてきた男大迹王(おおど)の音が神世七代の中第五代の「意富斗能地神」(おほとのぢ)を思い出させ、越前出身の野路(のぢ)と結びつく幻想に誘われました。
全編は「まるでフーガの技法で配列」されたかのような高揚と余韻の連続で 今までにない不思議な読後感でした。
 秦さんのご勉強、ご努力が私の励みにもなっています。どうぞ更なるご健筆を楽しみにいたしております。  野路
 
 * 今回「湖の本 159 花筺 魚潜在淵」の前半は、よほど凝って創っていて、ダイジョブかな、通るかなと気に懸けていた。並木さんや野路さんほどの読み手に、ま、認めて貰えたらしく、ほっと息をついた。女の気持ちで女の言葉を、話し言葉や書き言葉を「創る」のは、むくつけき老耄の悪趣味かとも思うけれど、易しくはないのです。
 
 * 到頭 間に合わず、一日先に井口さんのお手紙を戴いた。きっとこの夏場、お互いにしんどいことだろう、お手紙差し上げたいと思いつつ、新刊の本が先に届けばとガンバッた、が、一日違いで先にお手紙が届いた。やはり、よほど日々のご苦労が増しているようで胸が痛んだ。思えば、私の今夏も散々の疲弊・困憊であった、当分はまだ治まるまいと疲労感の重さを、これ一身で手に受けている。
 
 * いまも保ちきれぬまま正午を挟んで二時前まで寝入っていた。妻の従弟の濱敏夫さんから届いた葉書が、名にしおう大観の富士、もう蒙の白雲から突と顕れた黒い霊峰富士の頂容、素晴らしいのに見入って、俯きがちな思いを励ましている。佳いものは佳いなあとと嬉しい。
 
 * それにしても、なんと苦痛にけだるく力無いのだろう、夕食のすきやきも一片として食せなかった。青い紙に▼に包んだチース片を一つだけ食した。甘酒を少量呈されたが、吐き気がした。いま、七時過ぎ。せめて、ぐっすり寝入りたい。横になり、せめての「読書」だけがクスリめいて効く、か。
 井口さんに返信したいが原稿用紙に手書きの根気がない。
 「ホンヤラ堂」が写真集を。小さい頃の「恒」「猛」そして「北澤の兄の顔」も出ていたが。兄も、甥の猛までもすでに「自死して」此の世にいない。「そっちから、呼ばないで呉れよ もーいいかい などと」「まあだだよ」「まあだだよ」 だが、なんという疲労困憊の「グタグタ」か。
 
◎ 令和四年(二○二二)十月七日 金
    起床 6-40 血圧 140-75(76) 血糖値 110 体重 53.35kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ いかに世間が判断を誤るとはいえ、偽の偉さを厚遇する例の多さは、眞の偉さを冷遇するのに幾層倍もしている。  (四五五)
 ◎ ありのままの自分を見せる方が、ありもしないものに自分を見せかけけようとするよりも、ほんとうは得になる筈なのだが。 (四五七) 
 
 * 前夜 十時半に床に就いた。眠りは有った。敷かしながらほぼ正一時間ごとに尿意に起こされ手洗いへ。実に七回。尿量はまともに有った、が、これは苦行というものであった。幸い一時間ずつは寝入っていた、但し終始歌声を聞いていた、それはあの火野正平が自転車で走る番組のテーマソングの冒頭一節「だれだってイーイ」とという女声の叫び。
 安眠とは謂えないが、不快な夢に悩んだというではなかった。体重は、相応にまた減っていた。食べなくては。体力の逓減は著しい。
 
 * 時間の感覚がトンでしまい、今何時と見当も付かなかった。
 
 * 不快な寒け、暖房を強め、着るモノも厚めにして、宵のうち寝入っていた。八時半。眠ったまま、夢中に今度は兄恒彦を私・恒平なりに書いておかねばと思案し続けていた。
 
 * 此の四日、五日のうちに発送した呈上本の、到着を告げるメールが、まだ、ゼロというのが不審、どうやら宅急便からの発送が遅滞していたらしいと。
 思うように事は運ばない、と謂うこと。やれやれ。
 
 〇 秦先生 「湖の本」159 嬉しく拝受いたしました。
 ありがとうございました。
 端正な宛書の文字にしばしみとれました。
 先生の勢いのあるお手とは また異なる味わいの美しさですね。
 急な寒さ、どうかくれぐれもお体ご自愛くださいませ、先生も奥様も。
 キュ−バ危機以来、とのバイデン大統領の言葉に、いよいよ「渚にて」が近くに、と・・・。  岐阜縣  以都  詩人
 
 * おう。新刊到着のお知らせ、第一着。ありがとう。ペンクラブで仲良く、そして二人ともペンクラブから離れてきた。お元気に、また美しい詩をいろいろ読ませて下さい。                  
 〇秦恒平様  本日、『湖の本』159 花筐 魚潜在淵 を いただきました。いつもながらのご厚情に感謝を申し上げます。熱心に拝見しました。
 今年の世界の情況、日本、ご自身の情況考察を交えたご文章に引き込まれ、共感しつつ、忙しいにもかかわらず、ゆっくりと読んでしまいました。
 ご自身の葬儀に関するご希望は理解できます。私もそうありたいとは願いますが、他方、キリスト者である私には、礼拝による生者と死者の交わりの時ととしての葬儀を避けることができません。躓きつつ、傷つきつつも、罪の赦しを祈りつつ歩んできた人生が人々に提示されるでしょう。このような人間を生かして下さった主への感謝が人々に伝達されることを願います。キリスト者には死はもっとも私的な事柄であるとともに、公的な意味を持っています。
 『花筐』の中の「かなしきものを」が妙に心に残りました。
「ジィドには毒の昏い味がする」。そう思います。毒のない小説は物足りない。「カソリック」は「カトリック」とお書き下さいますよう。
 今後も、「体調を維持しつつ、書き続け」て下さいますよう。
 聖路加国際病院に出かけなくてよくなったようですね。今後は通院の気疲れが大分違うでしょう。私は幸か不幸か、武蔵野日赤の循環器科の主治医によって体調の変化を見張られています。有り難いことだと思いますが、心電図を取る日には何事もないことを願って、未だに緊張します。先月は無事にパスしました。ちょうど1年前には心臓にステントを入れて、窮地を脱しました。
 ご夫妻のご健康をお祈りします。ありがとうございました。  浩  icu名誉教授
 * いつもながら、お励まし下さる。ありがとう存じます。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月六日 木
    起床 6-00 血圧 128-69(77) 血糖値 110 体重 53.5kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 頭のいい馬鹿ほど はた迷惑な馬鹿はいない。  (四五一)
 ◎ 大事に当たっては 欲張った好機を狙って待つよりも、到来した好機に乗じるのを心がけたがよい。  (四五三) 
 
 * 四書五経 いまや顧みる人は少ない、無いに同じいかも知れぬ、が、今日の高校生が目指す大方派「大學」ではないか、『大學』は「四書」の筆頭であり、その概要に当たる字句を昨日、こに掲げておいた。其の旨は、何一つ古びるどころがこの二十一世紀に唱えられて毫も古びていない、古び於呂得て無自覚なのはいわゆる現代人と自称の実はたんなる「今日人」に過ぎない。
 
 * 「ちゅうよう」という言葉を今日人もおもいのほか日常にしたり顔に用いているが、程ほどに中を採っておこうぐらいな意味を謂うている。が、始原の語は「四書・大學」の次なる「中庸」であるなど、もはや誰も意識も記憶すらもしていないと見える。
 
 * 「天の命(めい)」之を「性」と謂う。「命」とは「本然」ほどに受け取っていいか。れはまた「本性」であり、今日の人の好きな「セックス」とは大きく超えたすべて「モノ・コト・ヒト」の本質をいうのであろう、それならは首肯定できる。
その「性」に「率(したが)」うて歩み生きる率土や本徒をすなわち「道」と『中庸』の教えは指さす。その「道」へ導き体得する、それが「教」という指導で在り会得に他ならないと。「道」は瞬時とても逸れていもので無く、逸れるはを即ち「非道」と。
 現題のわれわれも「非道」ともちいており、より便宜には「ひどい」ヒト・もの、ことを指さしている。ひどくてはならぬ、と、それが「中庸」の教えのまさしく肝要なのである。そのどこにも古くさくていまや無意味・無価値と擲っていい物は無い。
 今や当たり前のように「古くさい」代表のように忘れられた、これら「大學」「中庸』は実に孔子が「初」の発言・発語であった。覚えていて佳いではないか。
 * 疲労と謂うよりも、体力のひどい低下とみるべきか、目覚めていても、終始首ががたっと落ちて俯いている。
 今日は、寒い。四肢の冷えが痛いほど。是非ははかれないが、昼まえだが湯に浸かろうと思う。なんだか失神へ小刻みに這い寄っている心地がしている。
 
 * 潰れたように、少し食した後、床に就いたが寒いのに驚き、厚着に替え暖房もして、久しく明けたままのドアも閉めた。
 いま、機械をとめに、二階へ。
 
 〇 膝を意識して、以前の様には歩かず、歩数を減らしています。
 関東地区に住まいする弥栄中の仲良しが、老人ホームに入居したので 手紙を出して下さいとのメールが娘さんよりあり、そんな年齢になったんだ、と、改めて高年齢を意識しています。
 イヤですね…   (ちなみにこの人、秦に一歳若い。)
 デイサービスに週二度行くのが、私の、今の外出です。同世代と話せるのは、マア楽しい。東京は全国の集まり、関西人も何人かいて、話は弾みます。   又…  千恵
 
 * 私には、人と会ってハナシを弾ませるという習いも望みもごく希薄。ハナシなど特別せずに済む方が懐かしく逢える気がするが。
 
 * さ、寝入りに階下へ降りよう、部屋も床も 十分温めてある、着衣も手厚く選んである。
 
◎ 令和四年(二○二二)十月五日 水
    起床 6-00 血圧 128-69(77) 血糖値 110 体重 53.5kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 自然に見えたいという欲求ほど自然になるのを妨げる者はない。  (四三一)
 ◎ 人間を一般に知ることは、一人の人間をよく知るよりも容易い。  (四三六) 
 * からだのためには、も少し朝寝すべきであったかも。しかし、今、とは、老い深まる、この頃ということだが、「朝明け」の澄んだこころよさが何とも謂えず「惜しまれ」「懐かしい」のである。むざと喪いたくない、のである。
 
 * さ.今日も出来るだけの力仕事で新刊の『花筺 はなかたみ 魚潜在淵』を送り出し続けよう。総題の美しいせいか、なにとなく愛着の一冊。
 
 〇”九月の”メールをいただき 本当に有難うございます ”三日間の小憩”をどうされたのか考えてみましたがわかりません ちばのそれとは大違いだと気づき なさけない頭をボカボカしております 
 漢文は高校で少しだけ付き合ったのをおぼえています 
「大学」: 詩云、緡蛮黄鳥、止于丘隅。子曰、於止、知其所止。可以人而不如鳥乎
意味を解説されても実践ならずお恥ずかしい限りです
『渚にて』見てみたいです
人間はなぜこんなになってしまったのでしょうか
 視力低下 テレビ画面がぼやけてきました
 パソコンの機械も通信もアウト寸前です(コロナからいまだに対応できていません)
 コロナまだまだくれぐれもお気をつけください
どうかお大切にしてください  千葉  勝田e-old 拝
 
 * お互いe-old で出遭って、久しく仲良くして戴いている。「友」という感覚での交際の少ない少年だった。口にはしないが好きかどうかで人と出会いまた離れてきた。しあわせなことに、『湖の本』や仕事のお蔭で作家として歩み始めて以降、「友」に多く恵まれ親しみ続けている。これは頑なな私の進歩と謂うもので在ったろう.勝田さん然り。懐かしいといつも思う友、またe-old  が、男性女性とも人に、近年は羨まれるほど多くなった。しみじみそれを有難いと思う。
 
 * 午後三時、な、なんという能率 老夫婦協力し、「湖の本 159 花筺・魚潜在淵」の「全発送」を終えたよ。これ、スゴイよ。感謝感謝。
 すこし休憩できる。
 
 * 夕食も殆ど摂れなかった。鰹出汁のスープのような、汁ばかり好んで呑んでいる。
 
 そんな夕食を挟んで、夕寝、晩寝して、十時に床を起った。すこし疲れからもちなおしたろうか。
 寝入る前の読書は先ず、『悪霊』しかしまあなんと掴みづらいおはなしであることか、ただただ独り人の人柄や言葉や行為や、場面の対話や事変転変の謂うなら「ロシア」っぽさをに驚嘆しているばかり。それらはみな異様にしつこい執着力と此処の性格で書かれている、が、ハナシの流れはどんよりおもくるしくて、何を謂いたいかは無条件の共感でうけいれるしか無い、あらがえば、世界からはじき出されるだけ、か。
 もう一冊、進んで手にとり読み耽るのが琉他に善四郎著の明治に書かれている詳細に徹底した、しかも筆致は確実に高揚した『明治歴史』の、幕末、維新前夜の波瀾万丈を越え来ての、まさに明治維新の新政体の具体的に精緻な証言、胸の鳴るほどの興趣と共感と感銘。こんなにも惹かれる書物とも思わずに書庫から持ち出したが、いま、一.二のまに「愛読」書。残念なことに、数百頁の「上巻」だが、古書と手、製本が崩れきて、頁を繰るごとに本がほどけて行く。ま、それもそれほどの古書故といとおしみ大事に読んでいる。まだ「上巻の半ば。いまから「下巻」にも期待が湧いて軽く興奮気味。日本の「歴史書」には『古事記』『日本書紀』このかた数々、じつに数々読んできたが此の『明治歴史』の充実感と精緻に正確なことには驚嘆している.鶴吉祖父の旧蔵。おじいちゃん、ありがとう。もう八十七歳になろうというこの孫は、そもわが子や孫に何が遺してやれるのかとおもうと、「貧寒」ただ恥じ入る。
 
 〇 十月。 今日、東京は肌寒いとか、風邪引きませんように、お身体休ませてくださいますように。
 映画『渚にて』の核、放射能の「情景」を思い出します。焼津漁船の被曝、久保山さんの死は幼い昔ながら「身近に」感じて怖かった事、今も鮮明に記憶しています。
 ロシア、北朝鮮など切迫した状況も。
 思う事多い日常ながら 何とか暮らしています。 
 「湖の本」発送作業、ご無理なきように。 尾張の鳶
 
 〇 寒い。ニュ−スでいわれたときは本当かと思いましたが、突然さむくなりましたね。当地はやはり東北寄りで、寒いです。広い木造家屋ですから、夏向きです。
 余り食欲の秋にも関心が向かないようにお察しします。残念で心配ですが、そのうち風向きがかわるでしょうか? お風邪など引かれないように、祈っております。 那珂
 
 * 寒がりで。寒さへ「立ち向かう」気まぐれも時に起こすけれど、寒いの、苦手。
 
 * 十一時半になる。肩の荷を少し降ろして、こころよく寝に就こう。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月四日 火
    起床 5-45 血圧 141-76(74) 血糖値 110 体重 53.6kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 老人たる術を心得ている人はめったにいない。  (四二三)
 ◎ われわれは実際に持っているのと正反対の欠点で自分に箔を付けようとする。気弱であれば自分は頑固だと自慢する。  (四二四) 
 * 今朝のうちに「湖の本 159」納品になる、直ちに発送の作業。夫婦の体力に鑑み、作業を急ぐことは避ける。
 
 * メールボックス開くと、世間からのいろんな声や報知が届いていて、殆どは無関係ないし無感動なものだが、そんなことも在るのか、起きているのかと惘れる思いに落ちることもある。が、あえてそのまま通過し、忘れるようにもしている。指一本の動かしようも無い。.
 
 * 孔子の孟子のといえば古くさい代表のように言い慣れてきたひさしい歴史の尻ッぽに現代日本人はくっついているけれど、さて現題日本にどれほどの「哲学」が生まれて生きて人を導けているか、貧寒として無にひとしいのを自覚しているか。
「大学」の巻頭は、こう謂う、「大学の道」とは「明徳を明らかにするに在り、民を親しむに在り、至善に止まるに在り」と。更に継いで、「止まるを知りてのち、定まる有り、定まってのち能く静か。静かにしてのち能く安し、安くしてのち能く慮る、慮ってのち能く得る」。 國にも政治にも我一人にも言いえて、たがわない。
 また言う。 物に「本末」有り、事に「終始」有り、「先後」するところを正しく知れば、即ち「道に近し」と。
 さらに言う。 古え(人)の、明徳を天下に明らかにせんとせし者は、まづその國を治む、その國を治めんと欲する者は、まづその家を齋(とと)のふ、その家を齋ふと欲する者は、その身を脩(おさ)む、その身を脩めんと欲する者は、先ずその心を正(まさ)しくす、そのこころを正しくせんと欲する者は、先ずその意を誠にす、 その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致す、知を致すは物を格(きた)すに在り。
 物格(きた)して后(のち)知至る、知至つて后、意、誠なり、意、誠にして后、心正し、 心正しくして后、身脩まり、身脩まりて后、家齋(ととの)ひ、 家齋ひて后、國治まる。國治まり而して天下は平なり。
 天子より以て庶人に至るまで、壱に是れみな身を脩むるを以て本と爲(な)す。其の本亂れて末治まる者 否(あら)ず。
 
 * 簡明にして感銘を尽くしている。「修身・齋家・治国・平天下」とは、私など戦後の小学生の頃から、史上の偉人たちの行状と思い合わせながら「至難かな」と感嘆していた。二十一世紀の今にして、これら、啻(ただ)に陳腐な贅言であろうか。これらを超えた新たな哲学は、日本の何処にどう芽生えていたと認められるのか。孔子の「大學」とはかく簡明にして至難の教育なのであった。古くさいと、しんじつ此の先を言い切れるどんな「現代人」が何処にいるのか。
 
 * 『湖の本 159 花筺はなかたみ 魚潜在淵』 納品され、すぐに発送にかかる、が、二人の疲労を考え七、八分がた作業で今日は終えた。また、明日。明後日にも延びるか。本の仕上がり、気に入っている。が。疲れた。
「アストリットとラファエル」とかいう連続ドラマの録画を「見・聞き」しながら送り作業していた。おもしろく良くつくられたドラマで感心していた。
 
 * しかし、今晩はもう寝たい。読書したい。いまは坪谷善四郎の『明治歴史』に圧倒され、面白く出仕方ない。気安くには、『水滸伝』が、恰好。気を静めるには「源氏物語」の「賢木」の巻、懐かしい野宮の風情など、心の故郷、家に、帰ったよう。
  
 
◎ 令和四年(二○二二)十月三日 月
    起床 7-40 血圧 138-69(63) 血糖値 110 体重 53.4kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 才気は、時にわれわれに手を貸して敢然と愚行を犯させる。  (四一五)
 ◎ 年を取るほど壮んになる血気などというモノは、狂気から隔たること遠くない。                                   (四一六) 
 * 着るモノも穿くモノも、ダブダブ。二〇一一年末には86.5kgmもあった体重が明けて三月の胃全摘・胆嚢全摘以降60キロほどに減った。仰天ものであったが、今夏の疲労衰弱で またまた目に見え体重減が進行している。食べないのだから、当然。それでいて、美味いものが食べたい、あの店へ行ってアレを、その店ではアレをなどと思う。しかし出かける体力・脚力も落ちて、しかもまだコロナ禍は何としても要心の足止めをしている。
 
 *『アストリッドとラファエル』という意気のいい連続刑事ドラマが終えた。アストリッドは天才的な力を持つ発達障害女性でラファエルは心優しい敏腕の女警視。いいコンビだった。続きは来年の五月からと。気の長いことだが、楽しみに待つとしよう。
 
 * この籠居逼塞の三年に、「読み・書き・読書」は私の暮らしでは必然として、もし他にテレビが無かったならどんなに鬱屈したであろう。ニユーズにはさして気は動かない私だが、「撮って置き」の、また新放映の「映画」や佳い「ドラマ」にどれほど心慰んだか、数え切れない。誰方にとは分かりませんが、アタマをさげ、感謝しておく。
 京の新門前通り「ハタラジオ店」に、初めて「テレビジョン」が「商品」として入り、店頭で放映して見せたときの、文字通りに「山のような」人だかりの凄かったこと、怖いほどだったのを、昨晩のことのように覚えている。投手で監督若林、三塁藤村、外野に金田らがいた関西で大人気の「阪神タイガース」と、川上、青田、千葉ら強打者の居並んだ「巨人ジャイアンツ」とのナイトゲーム、また、空手チョツプ力道山のプロレス、大相撲など「放映」と知られて、店外へ向けて「見せる」と、店ヤウインドウが毀れやせぬかと、道路は人山で塞がれ、狭い店内にまで老若男女が犇めき充満したものだった。「時代が変わる」とあのとき、ありありと実感した。
 
 〇  みづうみがお元気でないとは知りつつ、「お元気ですか」のご挨拶させていただきます。明日新刊が納品とうかがい、驚くというより、懼れを感じています。どんなにご体調すぐれなくても、「湖の本」の途切れることはありません。みづうみにとって仕事をしないことは呼吸しないことと同じなのでしょう。
 今日はお願いばかりのメールになります。
 ※ 発送作業が、今のみづうみのお具合に影響しないはずがありません。ご発送には長い時間かけてください。一日数冊くらい、少しずつにしていただけますように。かえってやりにくいと叱られてしまうでしょうか。
 ※ 時々お送りいただいてはおりましたが、九月分の全部の私語の刻をお送りくださいませ。
 ※ 八月二十三日の、記載部分ですが、みづうみが誤解され批判にさらされる事態を招くことをおそれます。補足説明していただくか、部分的に削除していただけると嬉しいです。「* すこし躰をやすめ気味に、午前は少し寝入り、午後は韓国ドラマ『花郎(ファラン)』最終回を観、そのまま映画『フィラデルフィア』を観終えた。映画はトム・ハンクスがゲイの性関係からエイズにかかり、弁護士事務所を解雇されたのに抵抗の裁判劇で、デンゼル・ワシントンが弁護にあたっていた。あまり気味のいいものとは云いにくかった。」以下です。みづうみほど差別を憎んできた方はいらっしゃいませんのに、とても残念なことです。差し出たこととは承知していますが、ご再考いただきたくお願いいたします。
 平年より気温は高いとのことですが、それでもかなり過ごしやすい季節になりました。暑さが過ぎるとすぐ寒くなるのが最近の日本なので、この短い秋をいっぱいに楽しみたいと思います。食欲の秋、読書の秋、映画の秋なら、手が届きます。栗ご飯とか大好きな栗のお菓子、柿や梨を食べ、色々な「湖の本」と「映画」で幸せに過ごそうと思います。
 みづうみ、お願いですからお元気でいらしてください。  秋は ゆふぐれ                     
 * 知己の言、感謝して反省します。
 * 坪谷善四郎の力作『明治歴史』の上巻は、井伊直弼やペリー来航の昔から、明治維新前夜の国情を実につまびらかに且つようりょうをおさえて丁寧に懇切に多くの文献や記録を引用しつつ詳細に解き明かして行く、じつに見事な論攷で有り史実の展開と彫琢を為し得ていてほとほと感じ入るが、維新の大業なり明治早々の五個条ご誓文にいたるまでの草創期国家大成の組上げ組立て職制と人材の配置等々の詳細をつぶさに明記していて呉れる。是までの明治維新への知識など、その詳細の@割にも遠く達していなかったと分かってほとほと「降参」の思いがしている。そして、うろ覚えながら私少年以来の感心にとどめていた人材の詳細を究めた政権への配置を見届けて、のけぞるほどに感じ入っている。ことに「大久保利通の遷都論の意義」の大いさなど、何ほども知らず関心もしてなかった事実の疎さに恥じ入ってしまう。
 まだ上巻の半ば。下巻までを通して「明治」の意義を強かに、したたたかに、私は初めて教わることになる、胸が鳴るとは、これ。八十七歳になろうとして、私ほど「歴史」に重きを認め続けてきた読書人にして、かかる莫大に新鮮な知育にあずかるとは。まこと、最敬礼するほど祖父鶴吉「おじいちゃん」の知的遺産はすばらしい。感謝に堪えません。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月二日 日
    起床 3-30 血圧 132-71(73) 血糖値  体重 53.9kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ われわれが自分のすべての欠点の中で最もあっさりと認めるのは、怠惰である。
 怠惰は柔和な美徳の凡てに一脈通じるところがあり、且つその他の美徳も完全に打ち崩すわけではなく、単にその働きを遅らせるだけ、と信じこんでいる。  (三九八)
 ◎ われわれは、たとえどれほどの恥辱を自ら招いたとしても、ほとんど必ず自分の力で名誉を挽回できるものである。  (四一二)  
 
 * 実に不快な、曾て見知らぬよその母子に、わが家を、家庭を、妻をももろとも撹乱占領されてゆく不快に家を出、見知らぬ市街をさまよい歩く夢で、目覚めた。三時半。
 そのまま起きてひとりキチンで少し酒を呑み、二階へ来た。
 もう一度寝るか、このまま起きてしまうか。何故こうも夢見が悪いか。
 
 〇 やそろく兄上様
 先日はメール頂きながら、あまりにお辛いご様子で、何とお返事すれば良いかと悩んでいてそのままになってしまいました。きょうのメールでは お忙しかったとのこと、今はだいぶ体調も良くなられたようでほっとしています。
 今年の12月には、87歳! ずっと現役でお仕事されていて素晴らしいですね! あまり無理をされずに、ずっと読んだり 書いたり 映画を観たりの生活を続けて下さい。
 私も いつまでも応援出来るように頑張りますよ。 いもうとより  (妻の妹)
 
 〇 先にいただいたメールではご体調がすぐれないご様子でしたので、少し安心致しました。
 最近会社は3ヶ月単位で動いており、先週は7-9月期の最後で、色々報告したりとバタバタとしておりました。
 映画いいですね。しかし核戦争の凄い結末を見せるハナしなのですね。残念ながら、今次の戦争でも核使用の可能性が取り沙汰されてます。まだ終戦が見えない以上、その可能性を警戒しながら生きていかないといけないというのは、とても苦しい。自身もさることながら、子どもがいると別の気がかりな重い荷を背負っている気がします。
 暗い話ばかりですみません。コロナが一旦収束しそうなのはよい兆候ですよね。少しずつ人と会う機会が出てきそうなのが数少ない救いになってます。 聰  東工大院卒
 
 〇 金木犀が香りだし、庭に出るのも、道を歩くのも楽しみです。
 このきつい残暑の中 新刊が出来ますとのこと、楽しみです。
 送っていただきました平家物語、吉川英治の訳以来の原文をあたまに、そのお謡をお稽古するようにしています。りますでしょうか。
 九月にはインドのバンガロールで、曾孫が生まれました。次男の長女の子供です。夫の赴任先で頑張ったようです。コロナ禍で、行き来が自由でないこともあり、出生に立ち会いたい、生後すぐの時を一緒に過ごしたいとの思いが強く、帰国出産はしなかったようです。LINEで生後6・7時間後に母子の写真を送ってくれて、驚きです。
 嬉しいニュースなので遠慮なくお知らせさせていただきます。
 ご本を発送されるまでのしばしの間でも 充分ご休養くださいますように。力仕事。どうぞお体にお気を付けていただきますように。
 迪子様ともどもどうぞご無理なさらないようにお願いします。  晴
 
 * もう一五分で六時になる。もう一度寝直そうか、このままか。用は幾らも在る、が。 
 〇 おはようございます。新刊の発送作業など、お一人(あるいは奥さまとお二人)で、なさるのですか? さぞかしシンドイことかとお察しします。
 「渚にて」は、大好評の作品のようですが、私は残念ながらまだ観ていません。
 プーチンは、「やけくそになって核兵器を使うのでは?」とか「シリアに亡命か?」とか「冬将軍の到来をまっている」等々の噂がありますね。
 核汚染は、福島・宮城の私たちにとっては、身近な恐怖です。大熊町や双葉町からの避難者のかなりが仙台で暮らしています。そもそも仙台自体が女川原発50キロ圏内なのに、村井知事は、女川原発再稼働を認めたのです。私たち市民・県民が必死で「再稼働反対運動」をしましたのに・・・。
 私たちは、どこぞの国から核兵器で攻撃されるかもしれない、という怖れより、つい隣町にある「原発事故の恐怖」が更にリアルです。
 10月に入って急に涼しくなりました。庭の金木犀も薫っています。最近は晴天つづきで気持ちのいい朝です。
 先月は宮城県美術館で「ポンペイ展」を楽しんできました。充実したとっても佳い美術展でした。
 今月半ばからは「フェルメールと17世紀オランダ絵画展」がありますので、ぜひ観に行く予定です。
 秦さま、迪子さま共々
 どうぞお身体をお大切に、さわやかな秋をお過ごしください。   恵
 
 * 二時間ほども寝入っていたか。体調 とても平穏と謂えないけれど、焦ることなしに時の流れに穏和に身を寄せていたい。遅くも此の七日には本包みの持ち運びという力仕事から解放されているだろう。その先は、「読み・書き・読書」と創作に集中出来る。師走冬至、一年で一番日の短かな「八十七歳」誕生日を、心静かに穏やかに迎えたい、妻と二人して。
 
 * 目が泪にしみて痛いほど。疲労の徴と体験的に知れている。と云うてすぐ寝入れるものでもない。五体に不穏な不快感が往き来する。本を読み疲れて寝入るのが賢いか。
『悪霊』への挑戦はまだ半途に届いていない。これを終えたら本格に、ドストエフスキー絶筆の名作とされる巨峰『カラマゾフの兄弟』を登りつめたい。
 『源氏物語』は、「葵」の巻をすべり出て、「須磨・明石」の方へ重い脚を光源氏と倶に運んで行く。与謝野晶子現代語訳の豪華大冊を古門前の大家林さんに借り受け、夢中で読んだ、返すのが惜しくて繰り返し三疊の勉強部屋で読みに読み、またまたせがんで借りては読み耽った中学生高校生の昔が懐かしい、はや、七十年も過ぎたか。高校二年から岩波文庫での原文に転じ、『源氏物語』こそ世界の古典の筆頭かのように私の心身から離れなかった。なんという幸せであったか。
              
 
◎ 令和四年(二○二二)十月朔日 土 神無月
    起床 5-35 血圧 132-71(73) 血糖値  体重 53.9kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 自分が間違っているとはどうしても認めようとしない人以上に、たびたび間違いを犯す人はいない。  (三八六)
 ◎ 運も健康と同じに管理の必要がある。好調なときは十分に楽しみ、不調なときは気長に構え、よくよくの場合で無い限り 決して荒療治はしないこと。  (三九二)  
 
 * 右膝うえの局所に灼くような痛みがある、幸い今、早朝六時前、他に苦痛無し、かんかに空腹。夜中、永く手洗いにいた、なかは眠りながら。夢の記憶無し。
 
    あとがき
 
 きつい残暑だった。疲労と病いに沈み、心励ますなにも得られずまた月が革まった。
 
   神無しといはでめざめて為すすべも忘るるままに腹すかしをり
   誰がうへと想ひもなくにけふの日のやすくといはふ神無月かや
 
 撮ったという色んな写真を、若い友らが盛んに送ってくれる。遊楽、団欒、佳景。
 わたくしは、若い彼れらが、この「今」に迸る「明日」への「ことば・言葉・発言」を聴きたい。老いの野暮か。そう思い、ふと口噤めよと自身を??ってしまう。「人にも理を見ようと思わなくなる時は、もう自身にも理はない」とラ・ロシュフコーは嗤うが。
 
 止まるを知って定まるあり 定まって而るのち能く静まり、静まってのち能く安けく、安けくしてこそ能く慮り、能く慮ってこそ、能く「得る」ぞ。  大学(孔子)
 
 斯く「現代」もありうるか。、ただ「古代」の異習に過ぎぬのか。
 
* 「湖の本」160 「あとがき」原稿電送入稿し、「要再校・本紙」「表紙・あとづけ」入稿原稿を宅急便で全部送り終えた。「159」刷りだし分届き、本体納品は十月四日と。ほぼ三日分をやや休憩気味に、発送心用意が出来る。これは助かる。しんどかったが、九月、めイッパイ頑張った。疲れた。
 
 * アタマのボケ進行し、ことに数字での順番を間違える。「再校出」をまつのは「湖の本 160」 入稿の用意すべきは「161」。
 よく覚えていないと原稿の行方が混乱する。
 
 * 寝転んで読むにはドストエフスキーの『悪霊』は大冊過ぎて重い。それでも心惹かれてつい長い時間、持って捧げて読んでいる。『戰争と平和』では感じない「別」世界が『悪霊』には、ある。凄い。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月三十日 金  長月尽  
    起床 6-00 血圧 126-72(73) 血糖値 286 107 体重 53.4kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
  
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 欠点の中には、上手に活かせば美徳よりもっと光るものがある。  (三五四)
 ◎  小人は小さなことでむやみに傷つくが、大きな人物は、そんなことでは以降に傷つかない。  (三五七)
 
 * 体違和、異様に負担。器具に問題が測ってみた血糖値が「286」「260」とかつてない数値、おそらくは器具の電池きれであつたろ、が、右脚、右腕の発疹痛みは増していて、しかも空腹感。
 仕方なく昼前には、巻物の寿司飯を注文し少し食してみた。頭痛とか動悸とか腹痛等の違和はなく、ただ疲労感のまま、卓越の戰争映画、グレゴリー・ペック、アンソニイ・クイン、レスリー・シャロンらの『ナバロンの要塞』、一分一厘のたるみ・ゆるみもない映像の緊迫を楽しんで、あと寝入っていたかが、四肢ことに右半身の不快にめざめたが、血糖値は「107」と危険区域は脱していた。推量までのことだが、わたしは、右脚、右腕を中原の帯状疱疹も疑っている、が、通例見聞のそれに比べては「痛い」感はすくなく「痒い」感が局部的に強い。医師の診断をもとめに病院へ通う体力も気力もなくて堪えて居。堪えながらこんな記録も出来ている。これよりの悪化の進まないのをねがうばかり。きょうで、長月尽、十月四日からは「発送」になる、そのまえに『湖 159』の「要再校」戻し 「表紙・あとづけ、あとがき」入稿を 終えておきたいが。すると気はすこし軽くなるが。体違和が異様に悪化しないことを願うのみ。集中の気力が衰えてしまいませんように。
 
 * 湖の本 160「表紙」「あとづけ」入稿分用意した。今回は「あとがき」一頁分だけ。今夜うちにも書いてしまう気。 
  思い切って晩の食事前後に入浴してみるか。いま、六時。
 
 * 風邪こそ引かなかったが、入浴でまた疲れた。十一時も過ぎた。寝入ろう。
「あとがき」は 明朝の仕事。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月二十九日 木    
    起床 6-00 血圧 140-70(67) 血糖値 73 体重 53.5kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
  
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ お国訛りは、考え方や感じ方にも.言葉のなかと同じように残る。  (三四二)
 ◎ 偉きな人物になるためには、自分の運を余すところなく利する術を知らねばならない。  (三四三)
 
 * ひどいくつうはなく寝られたが、六時前に目覚めた。夜中の手洗いに床から起つときバランスを喪って床の上でややこしく転倒した。さいわい事故とはならなかったが、寝床からの起立にものに掴まらねば起てない。杖一本をそばに立てて用意しているが、両手でどこかへ手を添えていないと立ち上がれなくなっている、つかまりそこね、上布団にも足をとられまるど身を捻るように仰向けに転倒した。
 
 * 六時。空腹を感じている。
 低い音量で「マドレデウス」16曲を聴いている。何故ともなく、ポルトガルのファド盤が四、五枚もある。なぜか気に入って聴き馴染んでいる。
 
 * 『ラ・ロシュフコー箴言集』はふらんす革命の頃の高級貴族で軍人で文章家、その謂うところの「箴言」はかなり辛くね時にヘキエキする、が、「よう謂うよ」と脱帽もする。ローマ皇帝マルクス・アウレリゥスの『自省録』は、時代はるかに先立っているが傾聴、愛読してきた。
 私の読書は、おもしろい小説、物語ならいい、というものでは、ない。いま、枕元に常備の{文庫本}5冊のうち、物語は『源氏物語』五四帖、全九冊、これはむしろ選ぶと謂うより殆ど手放したことがない。もう一つ『水滸伝』全十巻は、小説でも物語でも無い、中国での、日本で謂う「講談・講釈」なのである。豪傑の豪腕勢揃いでまことに面白く、『源氏物語』とは比較を絶したべつものであるかが、ともに愛読に値して古典に属する。
 もう三冊の文庫本は、順序なく、ジャン・ジャック・ルソー『人間不平等起源論』 十九歳高橋貞樹の超絶の名著『被差別部落一千年史』 そしてニーチエのまこと狂気の真言といえよう『この人を見よ』 しみじみと愛読・耽読している。
 他に小型版でと謂うなら和本、和字・和綴じの『史籍集覧 参考源平盛衰記』全五十冊の第八冊、清盛に嫌われ絶海の小島へ流された丹波康頼、少将成経、俊寛僧都らの悲嘆のサマを読み耽っている。この本は、異本異文集でもあり、同じ事績の様々をその場その場で聴かせてくれる。なにとも言えぬ貴重な本なのである。ポンと、仮名箱入りの全冊を、「コヘちゃんに上げまひょ、お読みやす」と、大学生の頃、ご近所の小父さんから頂戴したのである。手放さずに読み継いでとめど無い。
 
 * 枕元へ今揃えて読んでいる単行小説の大冊は、なによりもドストエフスキー『悪霊』がどっしりと手にも重い。
 他は、凡てが、秦の祖父鶴吉の遺して呉れた有難い明治期旧蔵本の中から、
 東京博文館蔵版・従二位東久世通?伯題辭・坪谷善四郎著『明治歴史』上下巻、維新前の日本史から表裏を尽くし活写し論究していて実に優れている。
 併せて愛読中が、
 大阪偉業館蔵版の漢文全書、梅崖山本憲講述『四書講義』上下巻
 東京博文館蔵版の支那文学全書中の『史記列伝講義』上中下巻
 大阪岡本偉業館蔵版 元 廬陵曽先之編次 日本 大谷留男先生訓點『十八史略』片仮名附  加えて
 中世物語全集から 17巻『夢の通ひ路物語』上下巻
 トールキン作『ホビットの冒険』
 以上が、現今、毎日夜に少しずつ読み継ぎ愛読して已まない私の いわば日常。読んでいる間は病苦も疲労もやや忘れていられる、そしてアタマが混乱など決してしない。読み終えれば次からまた次へ、幸せなことに私の書庫には、多くを処分してまだ数百冊、文庫本も千冊に及んで、東と西の棟で出番を待ち受けてくれている。コロナの逼塞籠居にも耐えて来れているのは、「読む本」「読みたい本」が家に溢れているお蔭である、まちがいなく。
 建日子は此の系の読み手では無い。私が居なくなれば、ま、文庫本のいくらかの他は「場所ふさぎ」棄てて了われるだろう。鶴吉「祖父」に「孫」恒平のあったような、そんな「孫」という存在に、ついに私は恵まれなかった、生涯の残念である。
 
 * 疲れのせいか、脱水か、手の指が捻れてくる。
 
 * 卒倒しそうな体違和の不快感のまま、映画『インビクタス』の感動に没頭していた。マンデラ大統領と南アフリカ・サカーチームとの信頼、それはまた大統領・國と国民との燃え上がるような信頼へ深まり廣がる感動の大いさであった。先日観た『渚にて』の、世界と生物との絶滅へ傾斜して行く深刻で怖ろしい迫力とはまだ別質、現実の可能性へむかう人間信頼の実現への「誠実な意欲と敢闘」のドラマであった。
 
 * 十月四日に次の「湖の本 160」納品と知らせがあった。それまでに済ませておく手順と用意とを 明日にも確認し片付けておきたい。
 
 〇 お元気ですか、みづうみ。
 今日の仕事は、家事諸々のぞいて、ゲラの再校作業ばかり。肩凝ります。
 今日の音楽は、バッハ、ビル・エバンズのピアノ。ジャズも、静かなのは みんな好き。
 今日のおやつは、ビーガン用のチョコレートカップ。乳製品不使用ながら、しっかりチョコレートで、低カロリーで 最近のお気に入り。
 今日の言葉。『ゲーテとの対話』から
  ※ 私の本当の幸福は、詩的な瞑想と思索にあった。                ※…実は一人ひとりが自分を特殊な存在につくりあげなければならないのだ。
 みづうみのお加減が 少しでも良くなりますように。ひとりごと  秋は ゆふぐれ
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月二十八日 水    
    起床 5-00 血圧 130-66(68) 血糖値 73 体重 53.4kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
  
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ ある種のすぐれた資質には五感と同じところがある。  (三三七)
 ◎ 自分の幸も不幸も、つい、自己愛に見合う分しか感じられない。  (三三九)
 
 * かつて無いほど嬉しい美しいほどの夢を観て、そのまま目覚め、床を起ち、キチンで茶を入れ、白粥を温め、ヘプバーンと、ヘンリー・フォンダらの「安定したリアリティー」を確保した映画『戰争と平和』の始めの方を観て心落ち着いていた。そして七時、二階へ来た。
 
 * 夢のはなしは繰り返せない、が、じつにこころ良い「快適」そのものの場面を「創り」おおせていた、愛と信頼とユーモアと美しい景色・景観に満たされていた。初景は佳い坂道を東の山手へのぼって行った、道の左手の品のいい和風料亭のようで在った、宴席が賑わっていたなかでの出逢いめいていたが熟知の、親しい仲らい。料亭の女将や仲居たちもみな快い、人柄のいい仲らいで。そして、玄関にもちかい座敷ぎわで熱情・熱誠のドラマが起きた。そのささきへ穏和に美しい場面と優情、そして老人の登場とみごとな斡旋、嬉しい高揚が有り、展開して、京も下京の溢れる雨後の河波がちからある心親しい流れへ若い二人と快い愉快な老人を誘いかつ喜ばせて呉れて、そして別れの時が来ていた。
 消えて行く夢の記憶など追うに由なく、これはあらい記憶の斷想にすぎないが、心優しく嬉しかった記憶は残っている。とうてい愉快な日々といいがたい「日本」にいりまじりながら、今朝の夢は底知れぬ懐かしさや嬉しさに溢れていた。天与の想いだった。幸いに、その友も、その大人も、忘れないだろう、亡き数の二人ではあったけれど。
 
 * 気分も体調もまともでないまま、読んだり寝入ったり、午前も果てて。右脚上腿の痛みは、いま、一点に集まって感じられる。経過からみて、局所の帯状疱疹かも知れないが病院へは行く気も元気も無くこのまま耐えきって回復を待つ気、ハテ如何ぞや。とにもかくにも、心行くことは無く。映画『戦争と平和』に惹かれるまま、切れ切れに観継いでいたり、『参考源平盛衰記』巻六を読み終えかけていたり、ふらふらと二階へ来たり。
 
 * 村上開新堂の山本道子さん、季節の「杏菓子」を下さる、お手紙も添えて。感謝。
 
 * 元気回復にほど遠く困憊感のままに集中を欠いた読書と睡眠を交替しているだけに夕過ぎて食欲なく。もう徹して熟睡すべきかと。腹部空疎、力なし。「国葬」騒ぎには一瞥も与えず。日本海へ北朝鮮の弾道ミサイル。
 
 * あたま冴えず、こと捗らず、今夜は、みな、断念するか。いじくっているうち、内回復不能のシクジリに嵌まるよりは。
 
 〇 いっしょけんめい生きてます   勝田貞夫
 秦さん お見舞い申し上げます
 「痛いというのは老体に如何にも辛い。心身の痛みと弱り。食べない食べたくない 歩行困難・・・」お察しします
対策(ざっくばらんでごめんなさい)
・下保谷の役所に「ここに こういう年寄り2名が居る どうしたら良いか」 を確認してもらう。
 西東京市 保谷保健福祉総合センター 健康課(で先ずはいいと思いますが)
 所在施設: 西東京市役所 保谷庁舎
 所在地: 〒202-0013 東京都西東京市中町1丁目5?1
 電話: 042-438-4021
・ケアマネージャーを決める(先ずは決めてもらう)
(対応に 他人が入る のですから 最初は違和感がありますが 向後気に入らなければ人を変えてもらえる)気軽に相談できるケアマネがいてくれるとかなり便利、安心できます (現実的には受診中の厚生病院の窓口から相談するのが話しは早いと思います 病院まで出向くのは大変です コロナも油断できません まずは電話で現状を理解してもらいたいです)
(病院受診困難→訪問診療・訪問看護?介護(ヘルパーさん)など具体的な事をケアマネージャーが担当してくれる筈です)
(何をしてもらいたいか もらいたくないか 遠慮せず楽に付き合っていきたいです) 
 
(勝田さんの)家では うまくいかなかったヘルパーさんを3回変えて貰っています- ケアマネージャー・ヘルパーさんの派遣屋さんに相談しました- 皆一生懸命やってくれるのですが 合わない ままでは長い付き合いにお互い疲れますので。 ヘルパーさんは具体的には勝田の婆(夫人か)を風呂に入れてくれたり トイレ・風呂の掃除もしてくれます 夕食のおかずを作ってくれたこともありますが 合わない のでやめてもらいました 1回1?1時間半現在週3回 慣れてくると本当に助かります 私は医療保険で訪問マッサージを週3回受け 腰痛バンドで腰に頑張って貰っています 職場では車椅子を押されております 外歩きは無理です)
 秦さん 口に入りそうな カロリー剤やタンパク質剤のゼリー剤などもお考えください
 私は小さい「カップうどん」も食べます カップラーメン類は 以前より少しは美味しくなりました
 やはり少しでも栄養をとっていただきたいです 現在通院されている厚生病院でも 健康相談 はできるのではないかと考えます もちろん主治医で結構ですが(動いてくれるのは現場ですから)
 ピントがずれているかもしれませんがごめんなさい
 自分はギタギタなくせに恥ずかしいです
 コロナはまだまだ油断できないと思っています
 どうかくれぐれもお大切にされてください 勝田e-old 
 秦さんの「京都で日々の番茶をまずいなどと思わなかった。」
 いいなぁと思いました 私も 浅草の話がしたいです ちっともいい話はありませんが。
 ラ・ロシュフコー  どこかで聞いた名前だと考えましたが 秦さん以外にはいないな と気がつきました。
 
 * 有難う存じます。心がけたいことですね。
◎ 令和四年(二○二二)九月二十七日 火    
    起床 5-50 血圧 135-71(63) 血糖値 73 体重 53.55kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 人生には 時として 少々狂気にならなければとても切り抜けられない事態が起こる。  (三一〇)
 ◎ 弱い人間は 率直になれない。  (三一六)
 
 〇 何とか一応元気です  恵  仙台
 秦さま  佳いメールでなくて済みません。
 凄絶な お身体とお心(頭脳?)との闘い、毎日 本当に大変ですね(月並みな言葉しか使えません)。
 * 野党の不甲斐なさには、ほとほと呆れるばかりです。内閣の支持率は最低なのに 野党の支持率は上がっていないのですから。
 私たち市民・国民が政治を見限ると、私たち国民自身が世界から見限られてしまうでしょう。そうならないためには、小さな小さな声でも忍耐強く上げ続けなければ、と頑張っています。
 * たしかにプーチンは、バカですね。とてもKGB出身とは思えません。
 でもロシアでは、これまで(動員命令が発動される前まで)は、ある程度支持されていましたよね。ロシアには、西欧の自由や民主主義は似合わないのでしょう。ゴルバチョフがロシアでは不人気だったように。ロシア(と言っても多種多様な民族がいますが)にとっては、自由や民主主義は無秩序と混乱をもたらすモノのようです。
 これは、人ごととは思えません。大多数の日本人にとっても、実は自由や民主主義は似合わないのではないでしょうか? 
 西欧(主としてアングロサクソン)の人々が考え出した「個人」とか「自由」とか「権利」とか「民主主義」といった概念を 私たちは心から納得して受け入れているようには思えないのですが。
 * 私は「一神教」は、全く信用していませんが、ありとあらゆるモノに神が宿っているという アニミズムのような考え方は、理解できます。それこそが宇宙そのものだからです。相対性原理と量子論を統合したような考え方なのではないか、と思います。
「仏」も神ではなく、仏=ガウタマ・シッダルータという方は、信頼できる方だと尊敬しています。もちろん、尊敬しているからといって、とうてい彼の悟りの境地には近づく術もありませんが。  
 秦さまは まだ87歳、もうひと踏ん張りもふた踏ん張りもして下さい。ご体調さぞお辛いでしょうが。   
 
* かかる充実のメールを受け取れるを私は力ある身の幸と喜ぶ。理解も賛同も出来て、こんな際である、弱りがちな理知に良き鞭音を鳴らして戴いた、「日本人」の知性の傾向に触れても、私もまた漠として感触していたものを目覚めさせて貰えた気がする。有難い。昏睡へいっそ傾き沈んで行きたがる私に力或る鞭音を聞かせて貰えた。友よ。感謝。
 自身の研究生活を生山も乗り越えながらその脚力を果ては大学運営や指導にまで伸ばして、さらに社会復帰し、広い世間に降りたって日々に改革と反省との日々を過ごされている。私と机を並べていた@医学書院の女子編集者であった人だ。「歩み」の確かさ力強さに敬服する。内心世界とともに「現代」「現実」との対話と闘いとがを強い脈拍のように感じ取れる。
 
 〇 秦先生  お便り ありがとうございます。文章を拝見する限り、かなりご体調お悪いようにも思え 大変心配しておりますが。
 一方でここまでご自身の日々のことを記載しておられていることの凄みを感じております。このご体調で『悪霊』や『源氏物語』を読まれるのですか。。
 先生にお元気になっていただきたいです。柳や丸山を交え、また先生とお話しができる機会を楽しみにしております。
 こんな世の中だからこそ、先生のような方にいていただかないと暗くなってしまいます。
 私はと言えば、淡々と働いております。職場には明るい兆しも暗い予感も交錯しますが、そこでもがいて 何とか職業人生を過ごしています。 聰   東工大院卒
 
 * 私が、きみたちを励ましているので、ない。私が励まされて、そして今しばしの残年、その足もとを、よし、この方向か、と照らして貰いたいのだよ。
 
 〇 生きてください。
 さまざまな身体の痛みに耐えていらっしゃる、できる限り回避する方策を見出せるよう。病院に行かない選択、同時に何か、在宅ケアなど頼めませんか? 地域のケアマネージァーに相談して。
 先のメールで鴉は いかに永い生涯を、「旅」をしない、家のほか「よそ」を知らないで来たかに「思い当たり」.と書かれていますが、日本に限れば、わたしも同じ、飛び立ちかねる鳶です! 外国もまだまだ行きたいのです。お金だけはいつも無い、これは仕方がない...とボヤキ。
 コロナ感染の「自宅待機」が昨日終わり、漸く食糧を買いに行きます。わたしは殆ど症状もなく、軽い咳だけだったとは、しぶとい鳶です。
 今朝は、鴉の夢を見ました。
 大事に大事にしてください。本当に気をつけて    尾張の鳶
 
* 何十年か昔、海外へ行きたければ「道案内しますよ」と声を掛けてくれたことがあった。「おし」で「つんぼ」の旅は気が重いし、どこであれ「海外の他国」にとくべつ気の動くハツラツ人間でなかった。読書世界の旅に、想像や創意「間に合わせ」つづけた。この方は「今」という制限無しに「歴史」「過去」への空想をすら許してくれたから。つまりは「ものぐさ」男なのであったのだ、永い生涯、呵々
 
 * 右上腿の不快な熱気と痛みと。しつこく消滅しない。寝入ってしまって耐えるしかなく。夜十時、不快さに目覚める。一等の不快幹部は右の太腿、とっても沢井に裏側手なく、膝表側に火が燃えているよう。骨折、骨罅等の懼れを示唆してもらっているが、重い足踏みが出来ている、但し嗣子100脚は踏めていたのが、やっと80という弱りは歴然。
 
 〇 「私語の刻」嬉しく拝受 ありがとうございます。
 「いきてますが いきてますか」は、「生きてますが 活きてますか」でしょうか?
 う〜ん、厳しいなぁ・・・
 おからだご不快のごようす、とても心配です。季節の変わり目、不順な天候も影響しているのでしょうか。どうかくれぐれもお大事になさってくださいませね。
 奥様もどうぞお体ご自愛くださいますよう。 
 ありがとうございました。     都 拝   
 
 * 不快な痛みが広がらないようにと願っている。なんとか、近所を歩いてみたい。寝たきりになるのは困る。
 * 当面の用意は。
 @ 「湖の本 160」の  あとがき 表紙 後付け の 入稿と全紙「要再校」の戻し  A 「湖の本 161」 入稿手順の認識と用意と  B 継続那珂の「創作」各種の前進  
 
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月二十六日 月    
    起床 8-00 血圧 127-65(68) 血糖値 73 体重 54.0kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 気質には頭脳よりも多くの欠陥がある。  (二九〇)
 ◎ 人の偉さにも果物とと同じように、旬(しゅん)がある。  (二九一)
 
 * 目覚めはしたが腹不穏のまま温めながら横になったま、校正など。何かしている方が不可いいから気を散ずることが出来、そしてやっともう十一時まえ、機械の前へ来た。「マ・ア」に鰹を遣って。さて、どう体違和を躱しながらすごすのか。佳いメールでも来ていると気が弾むだろうに、このところまた故障かと危ぶむほど、無音。
 
 * 「安倍晋三元首相の国葬、G7首脳は一人も出席せず。カナダのトルドー首相が欠席表明」と、
当然の成り行き。岸田総理最愚劣な提唱と決定で、支持率は過去に例のないほど低落は当然、賢くない総理を産み陥したものだ。野党は挙って「国会解散」「民意を問う総選挙」をこそ合唱すべきに、何を小声でばかりブツクサ云うて居るか。 
 
 * 映画『渚にて』 日本中の 高校・大学生・青年諸君らに先にも早くにも観て歩モノを思って欲しいと痛感した。妻も同感だった。アンソニー・パキンス演じる若き潜水艦大尉を見送って美しい妻と赤ちゃんとが死の別れの薬物を夫から受け容れる、悲しさ。
 たいていの映画は映画だと承知し自分とは距離が置けているが、『渚にて』は、そんな気休めが私にも妻にも許されていないほどの切迫、怖いと思った、今まだ怖い。一月後には、日本も、東京・京都も、この下保谷もこうか、とまで想えてしまう「現世界」の壊れかけた日々。プーチンはまたまた新ため、ウクライナないし西欧への核兵器使用「ハッタリではないぞ」と脅している、今朝も。世のなる果てまで見届けて死んでも、私も妻も、ほぼ生くべく永く生きのびてきたが、若い人には、健全にハツラツと不安なく長生きさせてあげたい、この地球もいたわり愛して皆が銘々に生き続けて欲しい。
 
 * 近年最悪の体調、容易に健やかに晴れそうに無い。気も滅入っている。それでも横になりーったまま、「湖の本 160」初校したり、『悪霊』や「源氏物語」や『ホビットの冒険』や『水滸伝』をよみついで、その間は息苦しい体調からやや遁れられている。
 
 〇 生きてます  みづうみ、お元気ですか。
 長いメールを書きかけていたのですが、みづうみのご体調の、とくにお目の負担になるかもしれないし、どうしようか迷って中断していました。
 案の定お加減すぐれないのですね。お送りいただきましたこの数日の私語を拝読して、本当に心配でなりません。
 脚の痛みですが、あるいは骨折なさっているかもしれません。とくにお心当たりがなくてもしぜんにヒビが入っていたりすることも、高齢者にはあることです。これ以上悪くしないために、早めに病院にいらしてください。寝たきりになることを防ぐためです。もちろんタクシー通院を。
 ご本の発送などの力仕事は当分おやめいただきたいです。
 それから、「介護認定」をお二人でお受けください。電話一本で担当者が来訪してくれます。部屋が散らかっていたとしても、それは高齢世帯ではごく当たり前のことなのでまったく気になさる必要はありません。むしろ支援の必要性がわかってもらえます。
 母の介護経験からも公的援助はどんどん利用すべきもの。地域によって内容は異なりますが、「要支援」を得られれば、買物や掃除、洗濯など家事の支援、配食サービス等が使えます。病院の付き添いを頼める場合もありましょう。
 今までたくさんの税金を払っていらしたのですから、当然の権利です。どうか福祉を目いっぱい活用なさってください。そういう時期です。
 明るいニュースは思いつきませんが、それでも幸せな毎日です。なぜなら みづうみと共に生きているから。「まあだだよ」 大事にお過ごしください。 秋は ゆふぐれ
 
 * 心強いことです。ありがとう。
 
 〇 日常、奥様とご一緒でお話し相手にもなっていたたけるのはお幸せなことだと思いました。       
 水引草が咲き、ヤブランが咲き、しゅうかいどうが咲き、ボケの実がなり、これはリカ−につけました。
 秋分の日には、花束をつくり、東京都の大きな霊園にドライブしてきました。220キロ。
 翌日は 静かに寝ていました。
 みんなおなじです。  那珂
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月二十五日 日    
    起床 8-15 血圧 132-75(78) 血糖値 73 体重 53.3kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 他人のよい忠告を身のこやしにするのは、時として正しく自戒するのにも劣らぬ怜悧さがあってこそ出来る。   (二八三)
 ◎ 粧った実直は巧緻な瞞着である。   (二八九)
 
 * 脚の痛みはごまかすように凌いでいるが、躰の空虚感はどうしようもなく、排泄は続いて、食事が摂れてないのでは体重が減る一方、体力は目に見え失せて行くのも、当然。失神、そして、死、があり得る。妻も弱っていて、賢い対応が出来ない。しかし「入院」はぜひ避けたい。入院は本人だけのことでない、家人の対応と見舞いの負担がどんなに重いか、何度もの体験で、重々分かっている。この下保谷の厚生病院といえども、是以前なら平常に殆ど問題なく自転車なら数分、しかし徒歩では今の体力・脚力では耐え得まい。まして妻は歩くしか無く、最近はタクシーを呼んで通院しているのだ。それを思っても私は、「入院」より、何が起きようと「この家の中で」凌ぎたい。ダメなら、終えたい。這ってでなり機械ともせめて向き合い続けたい。
 師走の冬至、八十七歳の誕生日が、この十月まで来て、易々とは迎えられるか、危ぶむ。幸いアタマは悪いなりに、この筆致なりに認知も認識も出来ている、但し、今は。実のところ、こんなふうに「書いている」のを頓服の薬用かと感じているのだが。疲れる…。
 
 * 此の「私語」の日録を毎日のように一日先ヘまで「用意」しておくのは、今日で一切「済んで」了っては、なにかとアトが面倒と危ぶむから…、バカげているが。
   
 * 映画『渚にて』に、心底、戦慄。グゴゴリー・ペック、エバ・カードナー、フレッド・アステア、アンソニー・パーキンスら、。
 遂に各国からの競い合う必至の「核弾頭」「核施設・原発」の攻撃・爆発、攻撃・爆発、攻撃・爆発。死の放射能に被われた北半球は、米英露中、もとより日本列島も壊滅・死絶・消滅のまま空を覆うた放射能は中将を赤道越えに南下、やがてオーストラリアに逼って市民の「死害」は既にはじまり、市民には賞にまで例外なく苦痛カルキ瞬時の死薬も配布されている。北米ではすでに、一例ながらサン・フランシスコが「絶滅死・死の静寂の大都会」と化しているを、辛うじてオーストラリア潜水艦が潜望鏡で遠望し得ている。逼る放射能に怯え、潜水艦の他に、それも僅かにしかもう生きのびる場が無い。むろん「生・活」も無く、もう愛も結実しない。
 
 * こういう「時危」が「来る」のだ、プーチンのようなバカが、世界を我物視せんと権勢と核兵器を誇示し果ては乱用の限り、もう、やがてにも。
 凄い、こわい。言葉失せたような静寂でリアル感に凍った映像。膚も冷える優れた映画映像だ。
 ありえない空想と、誰が言えるか。言えないことをこそ、心ある誰もが察し悟っている。
 
 * 日本列島、まずは萬危を警戒忌避し、新原発の増築はおろか、現原発の何とかしての撤廃を真剣無比に政策し実行すべく、もう早や遅きにすら失した気さえする。。
 
 なにが不沈空母なものか原発を三基ねらい撃てば日本列島は地獄ぞ
 
と、私が呻いたのは、2011年8月1日(歌集・光塵)、優に11年も以前。
 11年経て大丈夫ではないかとうそぶく人もあろう、愚かな。
 日本海には、いや太平洋へも、敢えて云えば東京湾や瀬戸内、大阪湾にも、日本列島に食指の他国ミサイル潜水艦は近寄れなくない、現に日本海へ近寄り、みさいる発射の砲撃訓練ないし威嚇も為されている。
 
 * 大相撲は、高安と玉鷲の決戦、推していた玉鷲が二度目の優勝でカタがついた。が、あの両脚の横綱照ノ富士藤休場は仕方なく、むしろ名誉のまま引退させてやりたいほどだが、弱すぎる大関たちのていたらくで、まこと、みすぼらしい大相撲、当分は立ち直れまい。私の知る限り白鵬引退のあとあと、見映え最低の国技館、新しいフアンに湧くと謂うのは難しい。
 
 * しんどくて、起きているのもよくよく、嚔も連発し洟水も垂れお話にならないが、生きのびるしか無いではないか。『鎌倉殿の13人』を観て、本気で床に就いた方がいいだろう、脚の痛みが下火にいて欲しい、が。気分としては昼に観た映画『渚にて』に刺激された怯みに負けているよう。
 
 * もう一度、妻と、映画『渚にて』を観た。当然のこと、やはり衝き動かされた。フィクションなのは当たり前、しかもこの自分ともろとも大地のめり込むような深刻な懼れと怖さで藻掻くような心地を、ハッキリ二度とも味わった。誰にも残りなく観て欲しいと思う。
 
◎ 令和四年(二○二二)九月二十四日 土    
    起床 4-55 血圧 133-64(70) 血糖値 73 体重 53.5kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 自分がしている悪の全部を知り尽した知恵者は、めったにいない。  (二六九)
 ◎ 青春と、は間断なき陶酔、理性の熱病である。  (二七一)
 
 * 前夜寝入り前の体調は疲れの残る程度、幸いに右脚の苦痛は、入浴と、局所のムヒ塗布と貼り薬の狙いうちが効いてややラクなまま寝入れた、と思う。夢の記憶は無く、ただ毎夜と同じく唱歌の断片を終始背景か下敷きのように唱い続けていた、妙ななしだがそれは毎夜なのである、そして思案したりしている、たとえば、
 「月がとっても蒼いから 遠回りして帰ろ」までなら 佳い詩句になっている。「あのすずかけの」以下がくっつくと通俗に堕するなどと批評していたりもする、もとより嫁の内である。人のことは分からないが、私は、このように寝入っていても起きているらしい、間歇的に。ま、それらはそれとして、突如、右鼻腔へ、衝き上げるように強烈に苦い鑒い粘体が急襲、跳びはねて起き手洗いへ駆け込み吐瀉と含嗽とを繰り返して苦痛を凌いだ、不思議なことに、右脚の昨日までの不快極まる苦痛を、忘れ得ていた。それが嬉しかった。
 寝床へ戻って、これまでにも十度ほども体験した「急襲」で有ったのを、例の如く「喉の痛みと熱を「抑える・ジキナ三錠、乳酸で腸を労る錠剤三錠を服して、加えて決まりのように喉の苦痛を散じる粉の「龍角散」を一匙 喉の奥へ撒いた。これは、もう、こういつも決めて、相応に鎮静させ得ている処置。
 時計は、五時前。幸いに脚の不快な痛みや冷えが消えたように微かにしか感じられないので、「起きる」ときめて、ヒソと二階へ来た。「マア・」ズはちゃんとついて来た、が、さ、何処にいるやら。
 膝は、架け毛布や温かい柔らかいモノで庇っている。露わな痛みはどこかへ微かに沈んでいるよう。振り向くと「マ・ア」はそふぁで寝たり醒めたりのまま、いずれ「削り鰹」にあずかる気でいる。わたしが寝起きて常のように機械に向かっていると、さも「安心」なのだろう。どうか、体苦の方、このまま穏和に静まっていた欲しい。ウム。かすかに空腹を感じている。体重、また減っているだろうが、まだ測ってない。栄養失調を「うまい御飯」でとりあえず回復したい、怖いのは、歩けない脚になってしまうこと。
 
* 五時、四十五分。仕事は、創作、校正、刊行、発送用意等、まさに山積。疲労は疲労、乗り切って行くしか無く、ここ数十年、そう暮らしてきた。
 「マ・ア」ズの微かな寝息がしている背後のソファで。
 
 * 私人、知友のメールは払底し、ツイッターやフェイスブックを介して、福島みずほや有田芳生や、立憲の福山君や、維新の小沢一郎や、覚えきれないほど記事が届く。私宛に書いているわけで無い、書いてあることも人により、聴くに値するのも、ばからしいのもある。ピンとした日本語と、経緯を覚える例は、残念だが無い。内容にも井の尽くせて簡潔に要点を伝えて呉れるモノは滅多に無い。ジャーナリストのものが、やはり、知見に富むか。政治家は自己宣伝なみ。
 
 * 私はこころして、メール不可能な知友には、せいぜい手紙を手書きしたい、書字が乱れても。せめては機械の文字を印刷して送りたいが、機械画面を院先へ連動させる筋道を忘却している、らしい。成功しない。教わるスベも見失っている。  今、「マ・ア」ズに「早朝食」を上げた、六時十五分。 私は、空腹感。幸いに、ありがたいことに 右脚の苦痛がごく軽微に落ち着いている。
 
 * 映画『ダ・ビンチコード』を見・聴きながら、残っていた発送ようの宛名カードを封筒に凡て貼り込んだ。これで、「湖の本 159」納品されても待ち構えて送り出せる。
 
 * 体力が喪われていて
容易な手作業でも二時間余もかけて続けていると、ほとほと疲労する。幸いに痛みが失せてくれていて助かる。痛いというのは老体に如何にも辛い。
 
 * 夕刻から夜へ、心身疲労の病証かのように右脚膝上の筋肉・血流の痛みが苦痛なほど増し、対策が無い。不快きわまりない。加えて食事も不快に腹に合わなかったか、むかむかし、本読みすら出来ず、不快なまま十時を過ぎている、せめて寝入れて欲しいが。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月二十三日 金    
    起床 5-25 血圧 138-75(77) 血糖値 73 体重 53.85kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 愛の喜びは愛することにある。人は、相手に抱かせる情熱によってよりも、自身の抱く情熱によって幸福になるのである。  (二五九)
 ◎ 精神の狭小は頑迷をもたらす。われわれは自分の理解を超えることを容易に信じない。  (二六五)
 
 * 前夜に過ぎた左脚上腿の痛みに安眠とは程遠かった。起きて一時間、キチンで韓国ドラマを観ながら脚を擦っていりした。少し眠気は残ってたか、起きてしまった。
 体重が昨日朝より一気に一キロ近く落ちたのは、ほとんど何も食べてなかったから。寿司でもとりたかったが、妻が弱って寝入り、わたしに電話番号を調べるまでの踏み込みが無かった。
 
 * 途方も無い、不快な、これ迄も繰り返し何度も観て来た悪夢、或る密集気味の街区まぎれこみ、何としても出られぬまま出逢う老若男女のさまざまなとても善意の見えない対応に振り回されて、いたるところ、戸外も家内もへさまよい入り、どうしても抜けて出られない。昨日の場所は、どうも建仁寺の北寄り、縄手の東一体のようで屋敷も有り寺院も有り、代償の民家が密集錯雑しながら、あ、あの方角が弥栄中学だと思い思い、出逢う誰からも、暴力は無い、善意も無いアイサツや上段に振り回され続けて、しかしどう歩いても通り抜ける先々に「悪意」があって遁れられなかった。
 これは私の「悪夢」の一つのパタンで、街区こそちがえ、もう十度は同様に行き迷って出られぬ夢を観てきた。暴力は無い、が、嗤いの悪意は街中で出遭う一人一人に充ち満ちている。抜けて出られたことは一度も無い。
 
 * ひどい夜通しの雨降り。前夜、うかと黒いまこをここに締め込んで階下に降りた間に、出入りの襖の下へ猛烈な破れ穴が出来ている。私も出たと慥かめてやらなかったのだし。しかし、今後其処から「マ・ア」ズ「出入り自由」では、この雑然とモノ、小モノの多い仕事部屋の安危が気遣われる。気遣われることばかり多く、しかも右上脚の苦痛は褪めない。
 
 * さすがに、空腹。すべて、宜しく無い。
 
 * そんな中でもこのところ殊に愛読しているのは、一に、ドストエフスキー『悪霊』 祭り見の車争いから六条御息所の生き霊が、出産に悩む光君正妻「葵上」を取り殺す『源氏物語』の巻、巻  坪谷善四郎周到の大力作『明治歴史』上巻 幕末も幕末、慶喜大政奉還前後の激動のさま、 加えて『水滸伝』と『ホビットの冒険』  どんなに日々の動揺を慰めてくれることか。
 
 * それにしてもロシアの小説の人名、ああもフルネームで書き続けられ、読む舌がもつれ、誰と誰とがどんな「関わり」と覚えきれぬまま、やたら登場者が數多いのに閉口する。今回この大作の読みは二度目、それでも、舌が縺れる。開巻いきなり紳士ステパーン・トラフィモービーチ・ヴェルホーヴェンスキイ登場、語り手だけはほぼいつも「私(わたし)」だが、この人もいざとなると長長しい本名で呼ばれも書かれもしている。津い゛この紳士に思い影響力ないし支配力を持ったワ゛ルワ゛ーラ・ペトローウ゛ナ・スタフローギンという上流夫人が本作にあだかも君臨の体で現れ出る。
 この二人と「私」とくらいで話が運べば読むにらくだが、このごにゾクゾクと彼や彼女らの縁類や関係男女らが立ち現れ、銘々に長長しい名前のまま右往し左往するので、その親か夫婦か敵か味方か息子か娘か、正気で健常か病気持ちで異様かなどなど、恐れ入ってヤヤコシイのをとにかく記憶して読み進めないと物語が混雑してしまう。人名全部を上げてやろうかともおもったが、とてもとても。
 それでいてドストエフスキーの文学と世界とは底知れぬほど深くしかも奇妙に興味津々なのである。それだけを書きとめておけば、済む、としておく。
 
 * 右上腿の痛みは退かない、と歯に苛烈に痛む。もう理由も分からない。横になって読書へ逃げ込むしか無く、それも及ばないまま呻く。何なんだコレは。蟲食われのあくどいのにやられているのか、もっと内的なものか。理由よりも、効果の或る痛み止めが欲しいが塗り・貼りぐすりも呑むロキソニンも効いて呉れない。温めながら撫でさすってばかり。逃げ込むのは、今日の午後までは坪谷善四郎の『明治歴史』前巻。岩倉具視らが薩長藝と組んで「倒幕の密勅」を得るのと将軍慶喜が「大政奉還」の表を呈するのが、図らずも「同日」だった問い歴史の大きなドラマ雅組み上げて行く『明治維新」図の下絵の凄さ、おもしろさ。
 それさえも拒もうする心身の痛みと弱り。食べない食べたくないというこの所の悪習が衰弱を加速していて分かっているのに、口へモノが運べない。東京の米は不味い、今日の白飯を不味いと思ったことは無かった。東京の番茶は不味い。京都で日々の番茶をまずいなどと思わなかった。 東京には野菜が無い。京都の野菜は味わいも豊富であった、葱でも玉葱でもキャベツでも芋でも。
 
 * テレビでは、韓国ドラマ「緑豆の花」が、我が明治期朝鮮支配への抵抗の歴史を苛酷に描いて見せている。比較して、報道は、バカゲてつまらない。旧統一協会の霊感商法に乗せられつつ選挙支援を頼み続けていたあの安部晋三系自民議員らのていたららくを報じるばかり、その先へは進まない。経済も外交も興産も豊富な教育環境も、みな、犬のクソのよう。なさけなくてアホラシイばかり。
 
 * 眞の信仰とは、「神」と「私」一人が向き合ってのモノ、それを「協会」だの「宗派」だの「派」ま「閥」と腐りハテさせて、要は、世俗の利と権勢とに癒着する。
 新門前の秦家では、いちばん大人しい母ですら、「神、ホトケ。ヘッ」と嗤いとばしていたのを懐かしくも確かにも想い出す。神仏を嗤いたくない人も、我一人で「神」と向き合いつねに語り合えばばいい。
 私は、「神」的実在を、少なくも否認していない.宇宙と大自然と世界の不思議を思えば「人間」の仕業とは到底思われない、が、教会や教会や寺院や宗派などいう一切を信用していない、神は私独りの向き合い相手サマである。
「仏」は「かみ」とべつもの。仏とは「悟った人」であり、それに干支セイルなら独りで「悟る」べく努めればいい。大寺院も大宗派も私には不用である。余儀ない接点は「墓」と墓を管理の「寺」。
 私はだから「墓は要らないよ」「骨灰」を懐かしい京の川東、東山、知恩院下、八坂神社石段下辺へそれとなくまき散らしてくれと謂うてある。
 
 * いまさき、シンドさを躱したく、テレビで撮って置き『ダ・ビンチコード』を見かけたが、実に手厚く凄みの画面なので、体調が耐えるとき見なおしたいと、消して、この機械前へ上がってきた。
 昨日、妻の寝んでいるあいだに、独り、これぞ凄い映画『地獄の黙示録』に、二、三度目か、惹き込まれた。
 * 私は、重量感に富んだ凄みと厚みの映像ないしは創作を心から愛する。文學と映像との「重み」は墓って比べられるものでない、が、いまも読んでいるドストエフスキー『悪霊』や紫式部『源氏物語』 また西鶴、近松、鴎外、露伴や藤村『夜明け前』や直哉『暗夜行路』や潤一郎『細雪』や康成の『雪国』や三島の最期作等々、映像とそのまま比較は出来ないが魅力の「重み」を湛えていた。佳い物は佳いし、佳い創造が願わしい。残年の乏しさを思うと、むねが痛くなる。
 
 * 右脚の痛みに苦慮しつつ湯を遣って、など、対応。そうはウマクいかない。結句は寝られるときに寝入っていよう、などと。幸いに心の苦痛と謂うほどの事は無く、ひししお体躯の痛さにヘキエキしている始末。しかし、夜中の悪夢には勘弁願いたいモノだ。
 
* 気に懸けながらついノビノビになているのに、手紙書きがある。メールの遣えない先、ことに井口哲郎さんへのご無沙汰を気に懸けている。高麗屋へのお願いなども、メールですむとはいえ、白鸚さんにも奥さんにも、また幸四郎君や奥さんにも手紙が書きたいのに、手のしびれがひどく、書字の自在が喪われている。余り見苦しいのも恥ずかしく、しかしご無沙汰の先サマへは気を遣っているのです。ごめんなさい。
 メールも、いただいたのには、喜んで返信を差し上げるが、よほどの要で無い限り私からは差し控えさせて戴くと思い決めている。ご無礼、ご勘弁下さい。
 
ヶ入浴にはなにがしかの心身痛みへの効果があったと思って、読書を睡魔への出変えに、寝入ることにしたい。夢は観たくない。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月二十二日 木    
    起床 6-00 血圧 130-77(80) 血糖値 73 体重 54.6kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 豪胆とは、大きな危難に直面したときに襲われがちな胸騒ぎ、狼狽、恐怖などを寄せ付けない境地に達した、桁はずれの精神力である。英雄たちがどんなに不測の恐るべき局面に立たされても己れを平静に持し、理性の自由な働きを保ち続けるのは、この豪胆によるのである。  (二一七)
 ◎ 重々しさは精神の欠点を隠すために考案された肉体の秘術である。  (二五七)
 
 * 右脚へ来る昨日からの強烈な痛みの一原因が、躰の「水分の逸失」にあると理解した。むくみ(浮腫)をとる目的の薬を服しながら更に利尿剤を常用していては、遂に「排尿もなくなる」ほどからだから水分が乾き、必然筋肉等に「脱水という痛み」をもたらす、それはただ「冷え」と謂ったことである以上に「水分不足の筋肉硬化」から来る痛みであり、温めようと、鎮痛剤に頼ろうと、事態をさらにワルクこそすれ、苦痛の解消には繋がらないと、「まる一夜の、激しい右脚痛」との直面から、私なりに結論した。
 「大量に水分を躰に補給」し、ビタミン等の強壮剤にも助けられ、痛む脚の柔らかな摩擦で体液の循環を測りつつ、冷やすなどの愚策を採らず、眠れないまま、我慢強く外側からの「苦痛部保温とマッサージ」を続けた。
 以上で、今朝六時起床、七時現在、右上脚の「痛みはほぼ残りなく緩和消失」し、なお、外被保温を続けている。
 
 * 一夜に、多いときは数度も排尿していたのが、ゼロであることに気づき、「決定的な脱水による局部痛ほか」が続くのだと自分なりに理解し、対策した。まずまず当を得たと実感している。
 「浮腫を薬効で抑えたうえに利尿に努めた」のは、「躰から水分を奪うばかりの愚」であると気づけたのが、苦痛からのがれる緒となった。右脚上腿はいまも、かすかな痛みを痕してはいるが、眠れぬ一夜の痛みとの苦闘と思案は、なんとか結果をえたように想われる。「脱水の怖いこと」は、胃全摘後の自宅退院時期に「イヤほど体験」していて、上の対策に遅おそながら生かせたかと思う。「血の巡り」とは、まさしく「水分の循環」。循環が疎外されれば「一番に筋肉へ痛み」が来る。嘔吐等で増悪もする。怖いことだ。
 
 * 前々日、朝の体重「55kg割れ」54.7kgに驚き、昨日は、さらに「53.9kg」と、ほぼいつも55k台であったのから急減していた事実に、即「脱水過剰」を気づけなかったのは愚か。今朝もまだ54.6kg、脱水傾向を未だ脱していず、局部的な筋肉痛は残るだろう。
 まだしも「生来の茶食らい」なので助かっていた。茶も水も飲まず、しかも食べずに、「酒」類ばかりで水分補給にしていたら、命を急速に縮めていたろう。怖い事だ。
 
 * さらに「老耄」の証し、昨日出てきた「湖の本 160」初校ゲラの主要部と全く同じ内容を現に次の「湖の本 161」入稿する気で、原稿読みと整理とを続けていたことが判明、曾て無い信じがたい「錯誤」。途中ながら、発見できて好かった。ヒヤッとする。「年貢のおさめ時」なのかなあ。
 
 * 夫婦も体調宜しく無く、休息と謂うより、終日ダウンのまま、食べるものも食べないで過ごした。妻は寝込み、わたしはせめて巻き寿司でも注文しようかと思ったが電話番号が分からず、食べないまま映画『地獄の黙示録』をひとり観ていた。初めて見たときから気になる作手、マーロン・ブランドの登場が底知れず凄いのだが、りかいしたともまた言い切れぬまま独りで観終えた。
 
 * 疲れた。心身衰弱の坂を滑り降りて居かねない。宜しく無いが、空腹とも謂えぬまま食欲すら無い。宜しく無い。右脚の負担はいくらか軽くなっているのかも、痛みは退いているが。八時。何もせず、寝てしまおうと思う。この先での大わらわは目に見えて居るが、それはもうその時の計らいで乗り越えるしか無いと。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月二十一日 水    
    起床 5-50 血圧 130-7(80) 血糖値 73 体重 53.9kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 狂気は生涯のどの時期にもわれわれについてまわる。それがどう人目に見えようと、それはただ彼の狂気振りが年齢と立場に釣り合っているだけのこと。  (二〇七)
 ◎ 狂気なしに生きる者は、自分で想うほど賢くはない。心の病にもぶり返しがある。全快だと思い込むのは、たいてい、病状の変化に過ぎない。  (二〇九)
 
* 右脚上腿の痛みと水のような下痢に一夜苦しんで、六時前には床を起った。体重が53キロ台へ沈んだ。食べないで水分を喪っているのでは瘠せて当然。
 高校二、三年生で私は60キロあり、相撲を取ると負けなかった。コロナの超長期の籠居と逼塞が明らかな不健康として顕れてきた。思えば妻も生協からの配達に頼るしか「買いに出る」ことが出来ない。絶対に必要な歯医者へももう久しく通っていない、片道に乗り物込みで一時間かかる。警戒せざるを得ない。 
 
 〇 温泉なら、
 10月中でしたら、ぼくが車で送迎して、ご案内できますよ。
 秩父でも、箱根でも、一番近くだと深大寺にも温泉がありますね。
 草津も、関越自動車道に乗ればそんなに遠くないですよ。
 10/31から舞台の稽古なので、それまでなら日程の調整できるかも。
 本当に行くのでしたらご相談ください。猫も 一泊二日程度なら余裕で留守番できますし。  建日子
 
 * 不調のまま、ほとんど寝入っていて。
 建日子に感謝。「湖の本 161」の納品と、発送とがまだいつと決まらない、多分よほど遅くも十月早々と待機しているが、事前連絡、未だ受けていない。それが、せめて済んで欲しい、が、重い本包みを「荷づくり」して「かためて」持ち運べるか、脚腰の回復をぜひにと待つ。右脚の痛みこしは和らいだようでも執拗に時に衝き刺すように膝上のふとももで痛み続け、横になるしかなく。
 
* 寝て治りを待つばかり。
 
 〇 メール読み、驚き揺れる思いです。体重が54キロ台!わたしの分を分けてあげたい。
 仕事にも障り、器械に向かうのが苦痛でしょうか? 横になって身体を休ませることは大切ですが、やはり鴉は書きたい人ですもの...。し残しているお仕事に お力を注いでください。
 元気にしています、と書きたいけれど。娘が火曜日にコロナ陽性が判り、その夕方検査で私たちも陽性と。二歳半の孫だけは陰性でした。わたしは 発熱はなく、咳のみ、血中濃度も正常、注意して過ごしています。無理せす数日を過ごすつもりです。
 お元気でありますように。  尾張の鳶
 
 * 要心に要心して過ごさねば。
 
 * 右脚は、すこし冷えるだけで痛みがきつい。28度にも暖房している。が、寝に行く。出来本の納品がなるべく遅いといいがと、滅多にない事を願ったりする。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月二十日 火    
    起床 5-50 血圧 134-71(72) 血糖値 73 体重 54.7kg    朝起き即記録
        (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 自分の過ちや悪徳が自分だけにしか知られていない時、われわれは容易にそれを忘れてしまう。  (一九六)
 ◎ 本当の紳士(オネトム)とは、自分の欠点を知り尽くし、それを率直に言う人である。  (二〇二)
 
◎ 富士山の見えるのが羨ましい。富士山、好き。「見よ東海のそら明けて 旭日高くかがやけば」という溌剌たる歌を、物静かな「君が代」と並べて「國歌に」と希望しています。 
 
 * 右上腿の痛苦に耐えかねて寝入ってしまうより方途無く、温めても火や手も撫でても摩っても、無効。強度の血栓と想われ、妻が処方されているバーファリン一回分を分けて貰った。効くかも知れない。効いて欲しい。腹具合も宜しくなく。食べる意欲払底のまま、体力は落ちるばかり。早朝の体重が54キロ台に落ちていた。すいみんしか脚の痛み忘れれず。寝るべく生きている気がしていた。血栓薬の効がありますようと、朝は小餅一つ、午は一切食べずに床で痛みを堪えていた。これでは、行き詰まりになる。血栓薬が、効いて呉れそうな気がするのだが、何故こんな手痛い血栓が生じたかも分からない。病院へは行きたくない。 午後、二時過ぎ。 
 
 * 脚痛 ゆるんで欲しい。痛みを堪えて素直な言葉を生むのは容易でない。終始、眠気が兆している。寝れるなら今のうちに眠りたいが。もうやがて、「湖の本 160」初校が来るか、「湖の本 159」がで基本で納品されよう、すると送本という力仕事になる。乗り切るのは相当苦痛になろう。わが働き盛りは今も私の背を押しているが。
 
* 寝入りたくも眠れない執拗な脚の痛みに下痢も加わり、消耗の度を増して、何も出来ない、読書も出来ない。もう二も投げ出す気でやすむしかない。六時半を過ぎている。
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月十九日 月    
    起床 5-50 血圧 134-71(72) 血糖値 73 体重 55.4kg    朝起き即記録
        (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ すぐれた素質を「持つ」だけでは不十分。活かさねば。   (一五九)
 ◎ 希望はしばしば人をたぶらかすが、それでも役に立つ。  (一六八)
 
 〇 台風  保谷では雨は如何でしょうか?
 台風は明日午後、夜から火曜日朝まで注意。何事もなく過ぎたらと願っています。
 この三連休、娘と孫が発熱して落ち着きません。
 鴉は「読み・書き・読書」と「妄想」に耽っていらっしゃいますか?
「湖の本」刊行を継続する事と「京都」へ帰り住むことは、並立できない?
でも京都滞在は可能だろうと思います。
 歯医者、眼医者へ行き、最上等の牛肉で「すきやき」が食べたいと。涙が出るほど切実、ささやかな鴉の願い。
旅がしたいねえ、未だあの世へでなく、この世で... これも切実な思いです。
雨が降りだしました。なかなか一人になる時間がありません。世界のさまざまな情報に留意しつつ、文章や絵の整理を進めています。
どうぞ元気に過ごしてください。くれぐれも、くれぐれも大事に  尾張の鳶
 
 * 女の老境 思うより多忙なのだろう、家族が三世代に亘ればなおのこと。願うほどは気ままに行くまい。この鳶、なにかというと一羽で世界を翔んで囀っていたが。
 {整理}とは。整理なとできる事で無く、何のタメの整理か。いまなお日々に新しい出逢いにこそ詩句をさぐり画境を楽しむがいいでしょう。
 はからずも京都で、博物館前のホテルのロビーで、小学校以來の旧友と何やら仕事や打ち合わせのさなかに声を懸けられ出逢った鳶だ、わたしより一回り近く若い読者だった、もう四、五十年にもなる。
 
* 右脚の上腿、冷たいほど芯が痛い、おそらく血の巡りが悪く滞っているのだ、ただ温めるよりも力いっぱい揉み圧してやるとやや痛みが和らぐ。「血の巡り」が悪いのは頭脳だけで無いと謂うこと。
 
 * 大相撲半ばから宵寝、ニーチエとルソーとを読んでから。右脚上腿の芯に痛み、冷えて痛む。
 
 * 冷えてと謂う判断とはちがい、右脚の横(外)側を上下に堅くトク知っている筋骨゛痛むので、ロキソニンや痛み止めを貼ってもむしろ効果無く、矧がしたうが凌ぎやすいと気づいた。さらに、筋骨痛ならば過剰な負担のせいかとも想われ、私の此の「倚子」に腰掛ける姿勢なり倚子の背もたれ等の機能障害痛かもと気づいた。そうかも、そうでないかも知れないが、入浴ぐらいでは、またアテずっぽうの貼り薬でも緩和の効果は無いと知れてきた。むしろ、長時間に過ぎる倚子腰掛けの姿勢がもなだいなのでは。ぐるぐる廻ってくれる倚子で便宜はするが、姿勢の安定は崩されているということ、か。
 それにしても「痛い」という苦痛は生やさしくない。しかたなく、今日は、苦痛故に横になり寝入る爲のような一日で終える。やれやれ。
 
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月十八日 日    
    起床 5-25 血圧 136-68(64) 血糖値 73 体重 55.7kg    朝起き即記録
    (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 自分をあざむく賛辞よりも 自分のためになる非難を喜ぶほど賢明な人は、めったにいない。   (一四七)
 ◎ 自身思い上がっていなければ、他人の追従に毒されはしない。   (一五二)
 
 * 右脚上腿、芯の骨の辺に執拗な痛みが湧いている。冷えてとも感じられるがそんな気温の季節で無い。痛いとは、イヤなもの。少し着重ねると腰を絞める負担が起きる、これもは耐えがたい。
 
 * すべきことが見えていないのでは無い、手が出いない。しんどいことに尻込みしている。「生・活」力が萎んでいるのだ。気が晴れず気が進まない。こういう穴へはそうは嵌まってこなかったのに。三年もに亘るコロナ蟄居の閉塞感、と呆れる。すこし乱暴にもなにか仕出来さないと、突破しないと、と思うがその馬力が干上がっている、か。情けないハナシだ。
 
 ■ 豊中とは、どんな街ですか、平地ですか、山近い街ですか。
 いちどだけ、もう何十年も前、それも夜遅くに、衝動的に、京の四条大橋からタクシーで豊中市まで 「ただ往復」したことがあります。もう、まっくらで、何も見えませんでした、が。いいんだ、いいんだと ただ頷いていました。昨夜のことのように想い出します。
 せめてもう一度 夜の四条大橋に独り立ってみたい。 南座、東華菜館、西石垣、三條大橋への木屋町や縄手の明かり、まだまだの河原町通りの雑踏。そして東山の濃い蔭を負うて朱に映えた八坂神社と、石段下への四条の灯り。
 いま、 同志社から東へ向いて河原町までは行かない 北側道のかげの 「出雲」という名の小さな古社を思いうかべながら、書き継ごうとしています、すこし怖いお話を。
 元気で居て下さい。 いまもピレシュのピアノ聴きながら。 お元気で。
 
 〇  怖い話待っています。
 桑原武夫の住まいがあり、女子部の裏門のそばでした。中学生の秦さんを置いてみました。ついでに私もと思いましたが、駄目でした。 柚
 
 * 判じ物にしても難解な返信よ。
 
 * もう六十近い人が、はじめて女子大の教壇に立つと。
 とほうもない知情意と時間との空費になるのでは。真摯に「習う」「学ぶ」のは老人にも必要だが、無差別に人に「教える」意義と必然など空しく、やがた失望落胆して果てる、それが常だ。
 真剣に仕て残したい自身の主題があるなら、真っ向立ち向かえばいい。
 とはいえ、其処に「生活費」という壁があり、若くも、中年、初老でもそれが普通だろう。要は、教える習うどころか、「金」に困る。
 幸いに私は、意識し意図して、生涯備えてムダにハミ出た散財などせず、ただ自身の仕事に向き合った。妻に経済の苦労を掛けていたのは東京で就職結婚して数年間ほど。やがて生活費を大きくはみでた「私家版本」も立てつづけに数冊造って行けた。それは確実に大きく役にも立った。そのかわり、車も持たず、飛行機にも船にも乗らず、物見遊山もめったにはしなかった。金は、眞実遣うべく、まずはだから不必要に遣わなかつた。若い頃の給料は生活費として遣うしか無いが、賞与(ボーナス)というものは「無い」ときめ、すべて全額積み立て蓄えておいた。例外なかった。原稿料講演料出演料が入る頃も一切手はつけなかった、日々の生活費としては「一年分に足りる高」を年初に纏めて妻に渡した。むかし新門前の家では、母がよく「お金が無い」とまことに慎ましくも情けなくもそのつど父から渋々五十円、百円ずつまさに「貰って」いた。こういう暮らしは御免だと子供こころには母が気の毒だった。
 東工大での教授収入も、ただ一円といえど、手を付けなかった、その必要が無かった。金のために自身の志と時間とを「無に」「痛める」のは、私にはただバカげていた、それだけのことだった。私たちに出任せの遊興費は無用だった、ただ街へ出たとき、これはと気に入ると妻に衣服や佳い持ち物を買って帰ることが、まま、あった。歌舞伎や外食も、妻とは何度でも度重ねてきた。それは贅沢な無駄遣いでなど無かった、当たり前であった。今も、そのように暮らしている。
 
 * 雨脚が激しく屋根を踏み続けている。
 
 * 藍川由美の歌謡曲を歌うのを聴きながら、書いてみる。
 いま「あざみの唄」を歌っている。声量 豊かに過ぎるほど。懐かしい歌謡曲は遠く過ぎ越し日々の匂いを嗅がせてくれる。 次は「リラの花咲く頃」 あきらかにこのような感傷を胸に抱いていた歳と時季が有った。 つぎ、「さくら貝の唄」ああ、どんなに遙かに遠くわたしは歩んできたことか、多くを多くを喪いながら。 「惜別の唄」 争って人と別れるといった覚えはない、思えば 別れとは 死別ばかりであったよ。 「白鳥の唄」 牧水の短歌に先ず出逢った、中学三年で。そしてすぐ茂吉を感嘆と感銘で迎え入れ心酔した。 「三日月娘」は 私の敬愛には影の無い女性。 「青い山脈」 なんと懐かしい。新制中学時代の象徴歌、わが青春が、声高に歌いあげていた、原節子の恋しいほどの美貌と倶に。 「山のけり」 こういう体験を遂に私の青春は知らなかった、もてなかった、余りにも私は「京都の町なかっ子」だった。 「月の浜辺」 少しくどく凝った縁遠い唄だと聴き流していた。 「鈴懸の径」 高校時代の匂いがする。知らん顔をつくりながら気取ってやがと爪はじいて、やはり、懐かしんでたかも。 「黒いパイプ」。 無縁、つまらん唄と、聴く気もなかった。私は遂に煙草を吸うという習いを生涯もたなかった。煙草に遣う金があれば、古本でもいい岩波文庫が欲しかった、買った。 「雨のオランダ坂」 世界がちがった。わたしは「京都」しか知らず「京都以外」へ行きたいとも知りたいとも思わぬ少年だった。 「白いランプの灯る道」 短編小説を読むように好きな歌の一つだった、人と別れたいとか別れるとかいう経験になんら憧れもしなかったが。つまりセンチメンタルとはこうかと。歌詞は、曲によく添うて巧いとも。 「港の見える丘」 情景がよく見え、好きな歌の一つだった、なにかしら創作へ心誘われたりもした、何故か小学校六年生頃によく聴いたり口ずさんでたりした気がしてならない。 「フランチェスカの鐘」 ゆるやかなまま、胸にせつなく衝き立ってくる唄だった。曲も詞も、少年から青年へ成熟して行く時季の感傷にじつに難なく逼ってきた。「ただ一目だけ逢いたいのよ、愛しているわ、愛しているのよ」「あなた」という心地に、実感以上の象徴が感じ取れた。少年を抜けて行く、感傷。それだった。 「長崎の鐘」 名歌だと賞讃と共感を惜しまずに、涙に濡れた。藤山一郎の正装して歌うようなこの歌の歌声が好きだった、常は藤山の唄など何も感じなかったのに。 「白い花の咲く頃」 こういう「ふるさと」「さようなら」と人に告げた「さみしさ」を、私は体験として持たなかった。よその世界をやや感傷的な短編小説で読んでいる気がした。 「上海帰りのリル」 別世界の唄と聴いていた。「どこにいるのか」という一語のみ、あの敗戦後日本の哀しみに触れているのを実感していた。 「月がとっても青いから」 おもしろい唄、歌唱のおもしろさ、菅原つづ子とか謂ったか、おもしろい歌手の実在を、「美空ひばり以前」に初めて実感した。 「黒百合の歌」 やや、わたしには、こけおどしめく「遠い」うたであった。ニシパも黒百合もよく見えず、実感へ添ってこなかった。
 
 藍川由美の凄いほどな声量で、やや一本調子にもなりやすげ、だったが、しかと楽しめた。 
 森下兄の手作りで贈ってくれたこういう心入れを、わたしは、折に触れては無にしないで、楽しみ懐かしみ、ときに切ないほど往年の夢へ帰る。この頃は、「はやくおいで」と天上から「オールド・ブラツク・ジョー」を呼ぶ声が耳につく。もう少し待っててよ。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月十七日 土    
    起床 4-50 血圧 144-71(58) 血糖値 74 体重 55.3kg    朝起き即記録
    (血糖値に限り 以降 日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 会話を交わして、思慮深く感じのいいと思える人が寥々然としているのは、一つには、言われていることにきちんと返事をするよりも、自分の言いたいことばかり考えている人が多すぎるから。うわの空な気持と、自分の言いたいことに話題を戻したがっている焦燥とが ありありと看て取れる。よく聴きよく答えることこそ 会話の妙味の最たる一つであるのに。   (一三九)
 ◎ 少ない口かずで多くを理解させるのが大才の特質なら、小才は多弁を弄して 何一つ語ってないという天分の持ち主である。   (一四二)
 
 * フッと起きてしまった。寝ていたと謂うより夢中にモノを想い考えていた、が、もう記憶に無い。
 
 * モーツアルトのピアノソナタk332 シューベルトのスリー ピアノ ピーセスd946 ショパンのノクターン 27 g 55 の板を、マリア・ピレシュのピアノソロ、このところ聴きに聴き続けている。力づよく 飽きない。励まされる。
 どうも交響曲や協奏曲にはついて行けない。ピアノ曲をたくさん持ってるがソロ演奏は少ない。グレン・グールド演奏のバッハ ゴールドベルク変奏曲集や バッハのトッカータ集も好き。
 バイオリンは、ビクトリア・ムローヴァの音色が好き。
 此の、私独りきりの雑然六畳書斎にだけ鳴り渡って呉れるえり抜きの音楽が、すばらしく美しい慰安。
 時には旧友森下辰男クンが編んでくれた「戦後日本流行歌史」何枚もを懐かしく聴く。「星の流れに身を占って」と歌われる曲がいつも一等胸を打つ。
 
* いつしかに100枚を越す音楽のcd板が手もとに並んでいる。自身で勝ってきたという覚えはほとんど無いのに、である。
 
* 早く起きていながら、何という何もしないまま、十一時半を廻っている。勤勉この上ないハタ君が、どこかへ隠れてしまっている。
 
 * グレン・ゴールドのすばらしいバッハを聴いている。
 音楽は機械的に部屋へ持ち込めて、有難い。美術工藝は簡単に行かない。まてこんな狭くて雑踏の書斎では。それでも、私は此処が好き。生きながらのさながら温かな墓室に思える。ミサイルに攻められれば私は、此の席を動かないで死にたい。
 
* 体調も食欲も用事もみなチグハグに、落ち着きが良くない。あれもこれもどれも捗らない。寝てしまおうと思う。寝るしかない。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月十六日 金    
    起床 7-35 血圧 158-82(70) 血糖値 74 体重 54.95kg    朝起き即記録
    (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 他人に対して賢明であるのは、自分自身に賢明であるより容易い。 (一三二)
 ◎ 時として人は、他人と自分とが別人であるのと同じくらいに、自分自身と別人になる。  (一三五)
 ◎ 人は、自分について何も語らずにいるよりは、寧ろ自分で自分の悪口を言うのを好む。  (一三八)  
 
 * 内閣支持率が三割台まで落ちている。大半が安部国葬を否としている。人柄としては麻生、安部、菅よりはと願うのだが、首班たる言語力が緩く、状況判断も緩い。残念ながら野党に政権を伺うに足る策も人も景気も無いからは、致し方なく、自民ではれまだしも河野太郎か石破茂の辺を呼び出すしかないかと、半ば匙を投げる心地。
 
 * 一日の殆どを床での読書のまま寝入っていて、刻限なども忘れていた。今ももう朝かと想って目覚めたら晩の九時いう有様。宜しいとはとても言えない、自堕落に心身を投じて何かに、いわば自分自身にむかい怒ってでも居る感じか。
 ニーチエを読み始めて惹き込まれ、また慶応三年十月十四日、期してか、否、期せずして、しかも帰趨の必然、片や和倉具視らへの「倒幕の密勅」片や将軍慶喜による「大政奉還」の同日に為し成されていた歴史偶然の必然を、視野と視線を動かしては読み耽り、源氏物語「花宴」出逢いの微妙を美しさに惹かれて読み、さらには『史記列伝』『水滸伝』の面白さに没頭等々、テレビ寄も本に惹かれていた。
 あえて謂わば言いにくいが、肝腎の本務へは手を出さずじまいに、また眠気に身を委ねる気でいる。  
 
 * 以下、記事をいろいろ書いた筈なのに、記録保存されて無く、捜索一時間及ばず、十時。ばからし。寝るに如かず。 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月十五日 木    
    起床 5-45 血圧 158-82(70) 血糖値 74 体重 55.4kg    朝起き即記録
    (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ われわれは余りにも他人の目に自分を偽装することに慣れきって、ついには自分自身にも自分を偽装するに到る。  (一一九)
 ◎ 単に無知だから、利口者に騙されずにすむ、ということも間々ある。  (一二九)
 ◎ 弱さこそ、ただ一つ、どうしても直しようのない欠点である。  (一三〇)
 
 〇 秦 兄
兄からの8月27日付メールを受信後に メール専用パソコンが不具合になり失礼してしまいました。
しばらくのご無沙汰で、ご心配を掛けていますが、私も齢相応に生きていますのでご休心ください。齢相応とは言っても 比較する友は急激に少なくなり、年に一度の賀状も今年限りで失礼します、や メールの返信も途絶え勝ちになってきています。
道楽の音楽の会もマスク着用は呼吸困難のために 外出は控えて自室でBGMを聴きながら読書三昧の日々です。ジャンルは法哲学や分子生物学など、若い頃から親しんだものが中心で、今はラートブルフ著作集全11巻の法哲学を尾高・碧海の訳で読んでいます。
並行してコロナ禍に対する政府の対応に業を煮やしてメールに添付したような本を書き始めました。分子生物学の両巨星によるメガビタミン論を展開紹介したものですが、弥栄中の佐々木葉子先生や日吉ヶ丘高の福島武兵(=三尺=あだ名)先生が知ったら、どんな顔をするでしょう。三尺先生はまだ存命だろうか・・・・
 福盛君は腎臓を病んで透析を受けはじめて、だいぶ経ちます。
 9月19日はエリザベス女王陛下の国葬日ですが、同居の長女と私の誕生日でもあり、女房に何か祝膳料理をつくってもらって祝杯を挙げることにします。あと何度誕生日が迎えられるか。呼吸器官がアキレス腱の私の場合は、誤嚥性肺炎にさえ留意すれば百歳までは自信があるのですが、その意味からも人体の神秘について勉強のし直しです。十代の後半から二十代の後半までの10年間、人体のメカニズムほど精巧で神秘的なものはないということを痛感しました。
 メールの交換で 互いの安否を確認しながら、残された日々を愉しく有益に生きましょう。  京 洛北  森下辰男
 
 * 心嬉しく、大いに励まされる。お元気でと祈る。  私からは、どう送っていたか。
 
 ◎ 森下兄
 私は、かつての86キロを55キロに減らし、食欲無く、蟄居を強いられたまま、ただただ「読み・書き・読書と創作」の日々で居ります。一種の逃避に他なりませんが、人間の「歴史」は、東西に宏大で、惜しみなく迎え入れてくれます。退屈と謂うことがなく、ただ、現代現実に背いている自覚に時に苦痛を感じます。
 幸い、読者というかけがえ無い友人たちが、生涯のどの世代にも、学校時代にも、東京で作家生活を始めてからも、大勢有って、メールでの交流繁くとまで謂えませんが、有難く励まされます。とはいえ、同世代となると、殆どが老境に隠棲されています。オドロキ嘆くほどもはや故人多く。寂しいことです。
 籠居逼塞の日々で私はひとり「私語の刻」を大事に培い続け、「生ける言葉」を見失わないように努めています。「私語の刻」こそ老境には妙薬です。
 森下兄 お元気で。 昔話、また昔の友達の消息や現住所など教えて下さい。横井ちえこさんの引っ越し先を見失っています。福盛勉君は健常でしょうか。寮や園へ入られている方も増えているでしょうね。及ばずながら励ましたいと願います。
 秋の足ははやく、やがて、冷え冷えとしてきましょう。この冬至にはわたしも「やそしち」爺になります。思えば永く生きてきました。
 お元気にお大事に。 音楽はいつも楽しんでいます。    秦 恒平
 * 読み返してみると数カ所の余も、熟語の同音異記、誤変換が混じっていた。これをしばしば遣っていることと思う。耄碌の内である。
 
 ◎ 何を していると思いますか  何もしていません  これは かなりキツイことです  何をしていますか  
 
 〇 ワクチンの副反応が続いています。普通にくらしております。
 
 〇 夏ものを片付け始めています しはらくテレビをみていて、英国と日本の「国葬」の差を 孫と「評論」しあっていました。今、こちら、強い雨です。
   
 * タイプの違いが見て取れる。抽象へ結ぶ 返辞。 現状を数える 返辞。「人」を書き分ける参考に。
 
 * ギックリ腰・背骨の交点に音もしたほどの痛み。ロキヒニンを貼ったり?んだりで和らげているが。どうにも滞って、視野が明るく晴れて弾まない。焦らず、ただ寝入るか。読むか。さっきも『明治歴史』で岩倉具視、三条実美そして薩長の合従、倒幕の密勅の出た奇しくもその同日に十五代将軍慶喜は「大政奉還」の表明という、奇蹟のような一日を読んで確かめて顧みつつ大いに惹かれていた。
 惹かれる読み物はいくらもある。それで心身の荷が少しでも軽くなるなら、読書は大昔から私の一の好餌。
『史記列伝』の史機混淆、人材奔走のサマ・ナカで、思い切って「秦」一国の動向を焦点かと目をとめて読み進める面白さも、ナミでは無い。「秦」は歴史の最初に中国中原を統一国家として樹立し得た國だが、強かに腹黒いまで術策縦横の国であった、滅びるのも早かった。
 
 * 一冊二冊と読み終えるつど一冊二冊と新しい本を枕元へ運んでいる。中世王朝物語全集から二冊本の『夢の通ひ路物語』という未讀作を持ち出した。昨夜オードリー・ヘプバーンの映画『尼僧物語』にまずまず納得したので、西欧ものを更に加えたいと思うが、小説物語でなく、『ツアラツストラかく語りき』に衝突してみたくもある。思案して、ニーチェの『この人を見よ』を読み始めた。
 
 * 衝くように胸が灼けて、腹具合が悪い。ギックリ腰の痛みも辛い。目も睡く重たい。ドン詰まりに押し込まれているよう。眠れもしない。
 
 〇 秦様
 ご丁寧なメールありがとうございました。お米処(=会津若松)なら、お酒も美味しいだろうと。失礼ながら、送らせていただきました。
 お酒につられて、食欲もと。の気持ちばかりの物です。もっともっとたくさんの作品をお待ちしています。
 頂いた平家物語のご本は少しづつ日課として読み繋いでいます。
 それと秦さまの初期からの作品を順番に読み直しています。
 若いときに読ませていただいていて、気づかなかった事に、作品の中で謡曲が重きを持っていること、がありました。「畜生塚」の中に胡蝶、羽衣と美しい謡が潜んでいました。
 一日のお稽古の折に作品の謡を謡えることがうれしいです。少しは見えるものが、感じるものがありますように。
 先月娘の幸子が盲腸の手術をするため、検査入院や手術の入院をしました。その際の質問に、いろいろ親の病歴など聞かれたとのこと。幸い何も心配するような遺伝的要素はないとのことでした。
 それを聞きまして、フッと。私は生父の事は何も知らない。遺伝など考えたこともないことに気づきました。
 実際 生後すぐに母の妹夫婦のもとへと。生家の家族は大連へと。
 そして、生父は私が3歳ごろに病死をしています。
 火葬の際に燃えている赤い火の前に立たされたことだけ目に残っていますが。
 私に残してくれた健康があったのだと。今になって気づかされました。
 季節の変わり目、どうぞどうぞ迪子さまともにお身体お大切にお過ごしくださいますように。     晴
 
* 多年謡曲の勉強が、こうしたお手紙の呼吸にもしかと生きている、そう感じる。勉強が生きてくる佳い例が見受けられ心強い。
 
 * 体調に 變が感じられる。寝入るしか、ないか。             
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月十四日 水    
    起床 5-20 血圧 138-70(55) 血糖値 74 体重 55.5kg    朝起き即記録
    (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 正しく判断するのに、近くで見なければならぬことも在れば、遠目に隔たってでなければ正当に判断しかねるものもある。  (一〇四)
 ◎ 物事をよく知るには細部まで見逃せない、が、細部はほとんど無限だから、われわれの知識は常に徹到を欠いて皮相に戸惑う。  (一〇六)
 
 〇 秦さま  嬉しいおたより、ありがとうございます。
 ここ数年来、蒲鉾「里の秋」も意匠が変わったように感じます。
 秦さま十三日 の日記、しんとした 身に染む思いで拝読いたしました。
 
 安倍晋三が急逝してから、何かと忙しくしております。
 立憲民主党の議員や宮城県知事に「国葬への不参加の表明」を依頼したり、「国葬反対」の集会やデモを実行したり等々です。
 老いの身に 屋外で立っての集会は、キツいですが 何とか頑張っております。デモの方は勘弁してもらっていますが。
 
 最近ショックだったのは、エリザベス二世の逝去でした。もう96歳でしたからいつ亡くなってもおかしくはないのですが、彼女の夫君フィリップ殿下は99歳までお元気でしたし、彼女のご母堂クイーンマザーは(たしか)102歳のご長命でしたから、エリザベス女王も100歳までは公務を全うされるような気がしていました。100歳を機にチャールズ皇太子に王位を譲るのでは・・・と。
 
 仙台もまだまだ蒸し暑いです。
 どうぞお身体をお大切に。   惠
 
 * やや高めに画面の大きめの機械、一段下に、機械と繋げてない横長のキイボード。これの向こうにやや上段に凭れて二枚の絵はがきが立っている、左に、2020日展に杉本吉二郎が出した彩色「ろーじの風」が京の川ひがし、祇園町も北側街に覗き見かける「ろーじ」の風情で風の動くさまもさながら克明の筆遣い。半開きの扉そとに藍染めに白い〇が風にそよぐ暖簾の様も、部分的に赤のきいたちいさな子供乗り自転車も、さりけなく奥のみぎへ逸れて行く「ろーじ」の息づかいも、左右の塀も奥の屋根瓦も敷石の路も、すこしもうるさくなく克明に描かれてあって、つい今し方自分も通ってきた抜けロージのように実感される。
 もう一枚はわが友の洋画家池田良則クンの手になって独特濃淡の墨が美しい、これもやや奥深い「ろーじ」の覗けるいりくち、の繪、京都では珍しくない造り独特の入り口が描いてある。わたくしなどひとしお見慣れ遊び慣れていた瓦屋根天井の「ろーじ」入り口が懐かしくも描いてある。
 こういう「ろーじ」入り口は、雨降りの日も子どもらのかたまって、めんこでも、おはじきでも出来て遊べる安全に嬉しい世界であった。屋根天井のその上は左右へ渡った民家の二階になっている。屋
 入り口屋根の下、「ろーじ」の軒には奥何軒かの住人の表札が並び架けてあって、ズーンと「のぞきこめる」ろじ奥は青天井、左右に奥にまた奥にまで小家が建ち並んで、もし「抜けろーじ」でもあるならもっと家は多く存外に陰気ではない。
 
 * こんな京の「ろーじ」二枚の絵葉書の間は、むかしもむかし、まだ建日子記せいぜい中学生、姉の朝日子は院へも進んでいた頃か、そしてわれわれ両親も横並びに、にこやかに、なんとバー「ベレ」のカウターで、ままに写真に撮られているのが立ててある。わが家の親子四人の一等和やかに幸せであった頃の写真一枚。私はいつもいつも京の「ろーじの風」をなつかしみながら、家族の幸せを想い想い、手したのキイを叩いては文章を書き私語の刻を重ねている。誰にも干渉されない、私の「場所」である。
 
 * アンドレ・ジイドの『ドストエフスキー論』に多くを教えられて、読了。現在の読書中を指三本で数えるなら、順不同『源氏物語』が朧月夜へ、そして『参考源平盛衰記』が巻七成親卿流罪事から俊寛等移鬼界島事を、そしてドストエフスキーの超大作『悪霊』をジリジリと読み進んでいる。圧倒の面白さ美しさ烈しさ。ドストエフスキーとの出逢いが余りに遅過ぎたと痛く痛く悔いている。『悪霊』についで、『カラマゾフの兄弟』へ。彼が到達の最高度の達成をしかと読み詰めたい、何としても。
 他に、もう拾冊余を夫れぞれに楽しんでずんずん読みんでいる。『水滸伝』は桑原さんの訳本だが、『十八史略』『史記列伝』『四書講義』は漢文で。明治十年代に書き下ろしの上下『明治歴史』全二巻は、本格かつ詳細のまさしき幕末維新新明治史。往年の日本語がきびきびしている。
 
 * 疲れると謂うよりも ボーゼンとボケている、だけ。なにも出来ないママ。もう階下へおりてしまう。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月十三日 火    
    起床 5-20 血圧 138-70(55) 血糖値 74 体重 55.5kg    朝起き即記録
    (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 年寄りは、悪い手本を示すことが出来なくなった腹いせのように、教訓を垂れたがる。  (九三)
 ◎ 人が知性(エスプリ)と判断力(ジュジュマン)を別々のものと思ったのは、間違いであった。判断力とは、知性の光の大きさを謂う。この光は事物の奥底まで突き抜いて、そこで、観るべきすべてを見、見えないと思われるモノすら観てとる。判断力の効能とされているものごとは、ことごとく知性の光の宏大さのもたらすもの、と、認めねばならない。 (九七)  知性(エスプリ)の嗜みは、上等(オネット)で繊細なことどもを考えまた思うところにある。 (九九)  知性(エスプリ)の:軽妙洒脱(ギャラントリ)は、人を喜ばせることどもを、感じよく口に出来ることにある。  (一〇〇)
 
 〇  お元気ですか、みづうみ。
 暑さの盛りは過ぎたようで、夜は虫の声に秋の気配を感じています。先月の「私語」の編集作業をしながら、日常的なご不調の記述にあけぼのは心萎れそうになります。涼しさがみづうみのお身体にやさしい風となりますことを願うばかり。
 ずっと昔どんな女性になりたいかと問われて、マーラーの交響曲第六番「悲劇的」の第三楽章のような女性と答えて、怪訝な顔をされたことがあります。
  マーラー好きでもない限りすぐに音楽が浮かばないでしょうし、たとえ旋律が浮かんでもどんな女性か説明しようもない答えでした。みづうみの言葉をお借りすると、ファッシネーション、匂い立つような、そんな表現に近いかもしれませんが、この音楽はあけぼのの理想の女人のイメージです。(理想と現実のギャップは見ないことにしてください)
 
 エリザベス女王崩御のニュースには少し驚きました。思っていたよりお早かった。六年程前、パリで、目の前を通る車列の車窓からにこやかに手を振るお姿を見ました。フィリップ殿下もご存命でした。白い帽子にコート姿でお顔の色つやもよく、お元気そうで、クイーンマザーのように百歳までは大丈夫と、勝手に想像していました。直前までご公務をなさっていらしたのですから、十二分に生き切った方でした。エリザベス女王を音楽で表現するとどうしても国歌のゴッド・セイブ・ザ・クイーンになってしまいます。
 
 パリに行くと、ダイアナ妃が事故に遭ったトンネルもよく通ります。そのたびに、このような暗い場所でと胸が痛みます。エリザベス女王のように晴れやかに手を振っているべき方でした……。彼女はハチャトゥリアンの「仮面舞踏会」のイメージでしょうか。モデルや女優級の美女は世の中にたくさんいますが、プリンセスの品格は彼女だけ。稀有な美しさは、おとぎ話のように一つの呪いであったのかもしれません。
 
 一番困るのは音楽の聴こえない女人であること。胸のなかに響かせる自分のテーマソングは持っていた方がよいなと思っています。
 
 みづうみ、お元気ですか。猫ちゃんズに毎日気前よく鰹節をあげるためにも、どうかどうかお元気でいらしてください。次回一五九巻も一六〇巻も読ませていただく日が待ち遠しく、でも諸々の作業は決して急いだりご無理なさいませんように。                                       秋は ゆふぐれ    
 * ここまて生きてくると 「血縁」ということを時として深刻に思う。「実の父」と「生みの母」との血をうけた者の意味で有る。
 朝日子 私の 一人娘  押村家に嫁いで、もう何十年 絶えて交渉無し
 建日子 私の一人息子  作家劇作家映画作家として自立 健康 
     結婚せず ながく同棲中 子無し
 押村みゆ希  私の孫 朝日子の次女 没交渉 姉(長女やす香、病死)現在何歳とも     覚えず、最期に生前の姉とひな祭りに来訪以後、もう久しく無音、住所その他     一切不明、今何歳とも、結婚したか、子があるかも不明 
 北澤 恒 作家黒川創 亡き実兄北澤恒彦の長男 生年月日不明 鎌倉市に在住か 
     結婚・家族も不明 相互に自著のやりとり程度の折衝 日常の交際無し
 北澤街子 作家 亡き実兄北澤恒彦の長女 生年月日不明 京都市に在住か 日乗の交     際亡し
 
 * いかに貧寒と侘びしく寂しい「血縁」かと 我ながら慨嘆し呆れる、が、一つにはむろん私に「問題」がある。「血縁」は頼めないという生まれながらの断念、拒絶に近い断念か有る。
 京都の新門前で全く血縁ない「秦家」に育てられた幼少以来、「眞の家族」はと思い定めて、それは自分独りしか立てない小さな島に、いつしか二人で三人で、五人でも十人二十人倶にでも立てている、そういう愛した「身内」のことよ、と決して来た。「妻」がその一人だったのはいうまでもなく、中学いらい指折り数えて「身内」と心許せた人は、人生八十やがて七歳で、老若男女の十数指には優にあまるだろう、遺憾にもしかしその多くがすでに亡き人の数に入って、あの「オールド・ブラックジョー」を呼び招くように天上から「おいで」と誘っている。
 
 * 繰り返すが、幸いに私には、自身の著作・著述を介して 多年に及んで親しみ愛し信じ合ったかななりの数の「身内」にほかならぬ人たちがある。私を昨日も今日も明日も力づけ生かしているのはただ「血縁」より以上に、常に「身内」の人との信愛‥親愛である。心底感謝している。いまからでも、なお、一人、二人、三人と出逢って得られないとも限らない。私が案じるのは、それよりも、私自身の「生きる」意欲、「自殺」という誘惑なである。
 ことに理解の行き届かない、実兄北澤恒彦の自殺。
 重病の養父を一つ家に寝かせていながら、遺書もなく、独り首を吊っていた。それほどに自身病んでいたのか、私には分からない、が、一両日前には東京の私に電話は呉れていて、妻が受けていた。死の当日には離別していた妻、三人の子の母親を久しぶりに呼び出して逢って別れて独り病父の家へ帰宅し、自決したのである。父恒彦の死をウイーンで報された次男北澤猛は、すぐ東京の私へ電話で報せてきた。
 ところが、なんと、この若い甥の猛が、ウイーン暮らしで思慕していたという年長の女性の死を、追い慕うように「傷ましく」自殺したとは、事情通の京都のあ0有る人が私に伝えて呉れた。
 妻の父は、妻の母の死を切に悼んで跡を追ったのである。
 私人で作家でもあった妻の兄は、遺書らしきも遺さず、はたと急に死んだ。自死と謂う。
 生涯を倶にすべくなかった、恒彦・恒平の生母阿部ふくも、病床で独り0自死したかと親しかったらしい若い神父が伝えている。
 実父は、川崎市に老いて独り暮らしのある朝、近くに住む娘(私の異母妹)らに「死んでいる」と寂しく見出されていた。
 葬儀に呼ばれ、一日として倶に暮らしたことものない次男の私は、恒彦や私を遂に父生家戸籍から「峻拒」した親族らから「弔辞」を強いられた。バカげていた。
 
 * サテ私はどうこの生を完うできるか。批評家で詩人の林富士馬さんに、「ホンマ、小説を書くためにうまれてきたんだよ、秦さんは」とわらわれた昔を、いま、カラッとした気持で懐かしむ。 
 
 * 持田晴美さん 旅先の会津若松から、地元自慢の美酒一升をドッカーンと贈って下さる。
 * 仙台の遠藤恵子さん 仙台自慢の いろいろに像ちして美味い酒肴の蒲鉾をやはりドッサーンと贈って下さる。
 
 * 有難う存じます。
 
 * 音信無しにスナップ写真だけを送って呉れる人が有る。これは申し訳ないが、感嘆することが、まず、無い。人に見せるだけの値打ちの写真は、よほど美しいか珍しいか、で。ちょっとした庭先や戸外のスナップ写真は本人が楽しむものであろうよ。私へ下さるなら、片言隻句でも「言葉」を聴かせて欲しい。たしかに写真人間と言葉人間とは、「生き」のはかり方に差異がある。「私語」でいいのだ、「私語」でこそいいのだ、「言葉」が聴きたい。スナップ写真は所詮一人のお楽しみを出ない。
 
 * 体調すこぶる悪く、風邪かのように嚔を連発。皮膚も、あちこちで荒れて痛んでいる。寝入るに越した要心はあるまい、新刊が出来てくるまでの用意もほぼ出来て来ているし。
 
 * 「マリリン・モンロー」らの怖い、しかし瀧の凄い映画『ナイアガラ』に釘付けにされた。その間にも寒けや嚔で震えた。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月十二日 月    
    起床 5-20 血圧 138-70(55) 血糖値 74 体重 55.5kg    朝起き即記録
    (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ われわれが不信を抱いていれば、相手がわれわれをを騙すのは正当なことになる。
 人間は、もしお互いに騙され合っていなければ、到底長い間 社会をつってき続けられないであろう。   (八六 八七)
 ◎ 誰も彼も自分の記憶力を慨嘆し、誰一人自分の判断力を慨嘆しない。   (八九)
 
 *腰早起き図が過ぎたかも、しかし五時二十分でもう一寝入りするとしちじをすぎるだろう、今朝は厚生病院へ約束の診察日、妻と出向く。歩ける距離だが、少なくも雪はタクシーを呼んでいる。忙しなく無く出かけたいので、心持ち睡かったが起きて二階へ。「マ・ア」ずも、喜んで付いてきて、いやいそいそと先回りして「削り鰹」の朝振舞を喜んだ。もう、完璧に家居の同家族で、割れモノを落としたり毀したり傷つけたりしない限りは、殆ど止め立てせず、好き勝手もさせている。御陰でわが家にもはや紙の障子は実在せず、襖も穴だらけ、食卓をすら安息の昼寝床と心得ているらしいが、大目に見ている。
 小さな空き箱が有れば、めいめいに好んではよく丸くなって昼寝も宵寝もしている。
 弟のマコは、ダンボールの筺や切れ端とみると容赦なく飽く無く爪を磨ぐ。兄貴のアコは、私の脚に絡むようにまとわりついては、便所へも入ってきてアタマを撫でて貰う。親と子、ではあるまいが、純然の家族なみ、信愛の身内と成り切っていて、もう戸外へも敢えては出たがらない。家中の窓という窓から戸外を眺めながら、そのまま眠っていたりする。観ていて、気も和む。病気すなよ、怪我すなよと眺めている。出逢い触れあうつど、アタマを触ってやる。
 
 * 近間の厚生病院へ約束の診察日、妻と。格別の問題なく、二人なから決まりの処方投薬で終えて、病院から繪駅前のスーパーへ車で。わたし、初めての店。たつ゜り買い物して、保谷駅繪からまた車で帰宅。
 
 * 強烈に、祟れ棟居。買い物から帰宅後も夕食粉も 寝入って居て、八時、今も強烈に睡い。
 
 〇 会津高原から   少しずつ秋めいてまいりましたが、その後秦様の食欲は戻られたでしょうか?
 昨日から列車好きの夫のお供で、あれこれと列車を乗り継ぎ会津若松へ。今日は高原の方を走っています。
 会津はお酒どこ何処。地元の方に今一番人気と薦められたお酒を送らせていただきました。駅にはお酒が一番美味しい駅と看板まで出ていました。明日火曜日には届くとの事です。
 列車の窓から、ススキの穂が揺れ、コスモスの花、蕎麦の白い花々を楽しんでいます。空気もお届けしたい気分です。
 迪子様のご健康も 秦様のご執筆の進まれます事をも願って。 晴  妻の親友
 
 * 感謝。
 
                       、
 
◎ 令和四年(二○二二)九月十一日 日  秋場所初日   
    起床 6-30 血圧 157-74(53) 血糖値 74 体重 55.5kg    朝起き即記録
    (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 正義を愛するとは、大部分の人にとって、不正を身に被るのが怖いというのにほかならない。   (七八)
 ◎ 沈黙は自分自身を警戒する人にとって最良の安全策である。   (七九)
 
 * 淡泊に、よく眠れたナと。
 
 * 仲秋の名月の今日(=昨日)一年ぶりに帰省いたしました。
 曇り空で満月の見えないのは残念ですけれど。
 秋の虫が鳴きしきってます。
 再来週から、後期の授業。
 (博士単著の=)念々校は来週初め こちらに届く予定、来月の刊行を目指します。
もうしばらく、お待ちくださいませ。夏のお疲れも早く取れますように。  澤
 
 * 仲秋の名月の今日(=昨日)一年ぶりに帰省いたしました。
 曇り空で満月の見えないのは残念ですけれど。
 秋の虫が鳴きしきってます。
 再来週から、後期の授業。
 (博士単著の=)念々校は来週初め こちらに届く予定、来月の刊行を目指します。
 もうしばらく、お待ちくださいませ。夏のお疲れも早く取れますように。  澤
 
 * 初の著書。「念々校」という気の入れ方、わかる。よく、わかる。
 私は、堅い出版社で、十五年半も永く編集製作者として 医学研究書を、人も驚くほど数多く仕上げてきた。本を創る手順も技術も十分持っていたから、出版社と付き合うより以前から、自身の著作を私家版本に創るのに、何の躊躇いもなかった、お金はかかったけれど。新進の一作家として筑摩書房からの初の小説集、初の評論集を相次いで出すまでに、私、私家版本を少なくも四冊創っていた、その一冊『齋王譜』が円地文子らにより新潮社へもたらされ、次の『清経入水』表題作が小林秀雄や中村光夫の推薦で筑摩書房の第五回太宰治文学賞に推されていて、受賞の知らせが突として一九六九桜桃忌の晩にわが家へ電報でもたらされた。留守居の妻は驚いた。私は会社の労使紛争で、一管理職として社に居残っていた。賞に応募していたたわけで無く、そんな賞の存在すら私は知らなかった。
 そして、やがて筑摩書房から初の小説集『秘色』、初の評論集『花と風』が出版された、一気に大勢の先輩諸氏とのお付き合いが出来た。瀧井孝作、永井龍男は小説『廬山』をいち早く芥川賞候補に推して下さった。
 太宰賞から半世紀の余も過ぎてきた。私は浩瀚の『撰集三十三巻』を創り、「秦恒平・湖の本」刊行は百六十巻を目前にしている。
 
 * 瀧井孝作先生も、荻原井泉水先生も、「起一生二」と私のために書いて下さった。  一、起こせば、二、生まれる、と。
 「澤」さん、入念の「起一」を祝し「生二」を期待する。
 
 * ソ連とドイツとの狙撃手が凄まじい死闘の映画『スターリングラード』を観終えてきた。胸に灼ききついて到底忘れられぬ作、エド・ハリスがドイツ軍少佐としてソ連の狙撃手と熾烈に撃ち合う。「戰争」の凄み、それももう前の戰争までの死闘というモノだろう、これからの大戦争ではもっとマスの死線が一気に展開するのだろう、とはいえ、こういう市街戦も有るに違いない。空しい限りの殺し合いに「美学」をなど看取してはならない、無惨な人間同士の只の殺し合いに過ぎぬ。戰争に「美学」を持ち込んで感嘆など決してしては成らない。
 
 * 秋場所、関脇逸ノ城と横綱照乃富士が勝ったので、良し。玉鷲も遠藤も勝ったので良し、「遠藤」という四股名は「高安」も同様気に入らない。土俵の美学は「四股名」にも有る。チャランポラン七の理で出てくる相撲取りは大関であろうが三役であろうが、優勝しようが、どんな相撲を取ろうが私は風格の力士と思わないし贔屓にしない。双葉山、羽黒山、白鵬、小錦、玉の海 千代の富士 柏戸、、安藝海、琴櫻、等々。少年はお相撲産の名前から「美/風」を覚えたのだった。
 
 * 「鎌倉殿の13人」がいよいよ「イヤ味」に煮えてきて、怪しげな内輪もめめく「陰謀ヒマなし」ということになる。鎌倉と京都。このややこしい楕円の二つの芯がもみあえば、刀を抜かぬ限りは都の陰険が揺さぶり上手に毒を使い、血の雨が、西に東にもう今にも降り出す。この時期の陰湿を目立たせるのは蔭の女達。板東武者が概してアタマのわるさで、女達のワル智恵にしてやられるだろう。めったに無い、宮澤りえのと時政妻が陰険振りの臭みをまき散らす、だろう。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月十日 土   
    起床 5-20 血圧 145-68(57) 血糖値 74 体重 55.95kg    朝起き即記録
    (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 人間の幸不幸は、運命に左右されると共に、それに劣らずその人の気質に左右される。   (六一)
 ◎ 率直とは心を開くことであるが、ふつう観られる率直は、他の信頼をひきつけるための巧妙な隠れ蓑に過ぎない。   (六二)
 
 * 昨日から今朝へ 驚くほど寝入っていた。夢は、尽く忘れている。
 
 * 午前中 驚くほど寝入っていた。夢は、尽く忘れている。
 躰の広い範囲に違和。
 
 * 皮膚のジリジリ灼ける「赤い傷み」が、両腕に。
 真夏より、秋残暑が悪質で、身に堪えている。
 調べ読みと、読書と、寝込みとで、もやもやと匍匐前進のみ。『悪霊』『源氏物語』『水滸伝』『参考源平盛衰記』『十八史略』で、不愉快を凌いでいる。
 
 * 逼ってくる「湖の本」新刊発送の、封筒に贈呈印と住所印とを捺し続けている、これが存外の力仕事。次は、謹呈・贈呈さきの宛名を貼り付けねば。其処まで為遂げておかねば発送作業がモタモタする。が、ハテ。もう何回この先繰り返せるだろう。少なくも、ホームページを堅固に作り立てて、そこから「作」「私語」が発進出来る手立てをしておかないと、ただの「私用・私語」に留まってしまう。以前の、消え失せているホームページの回復が成らないモノか、とても私の手に負えないが。
 
 * 謂いようのない不快な躰皮の違和が両腕に。燃えるように赤く沁みる痛み。
 
 * 九時半まで眠っていた。十時過ぎ。スターリングラードでの激越な独ソ狙撃戦を見かけていたが、火傷したように両上腕赤く痛く。十一時には映画途中で切り上げ、寝入る。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月九日 金   
    起床 6-10 血圧 150-76(53) 血糖値 69 体重 56.4kg    朝起き即記録
    (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ われわれの持っている力は意志よりも大きい。だから、事を不可能と決め込むのは、往々にして自分自身に対する言い逃れなのだ。   (三〇)
 ◎ 人は決して自分で想うほど幸福でも不幸でもない。   (四九)
 
 * 明け方 強烈な粘性の苦みが喉を衝き上げ鼻と脳を刺激 悲鳴をあげた。寝入り前に 多種大量の薬を一度に服したのが、酒も混じって悪しく粘化したのであろうか。
 
 * 吉永小百合と電車の座席で隣合うた夢を観た、か。吉永さんとは、俳優座のパーティや、映画『細雪』撮影の現場で 話している。もっと以前、小説『慈子』や『蝶の皿』を発表した頃、彼女がラジオて触れて話していたと人に聞いたことも有った。
 
* べつの夢で、またしても、何としても電車で東京へウマク帰って行けない、じれったく、ややこしい困惑に遭うていた。そんな夢の途中で、大きなドラム缶を起ておこたような五右衛門風呂に、だれか美女らしきと二人で浸かっていたりした。「八十六」爺に、名残り香のように色気が淀んでいるのか。呵々
 
 * 何とはなく休み休みし、映画『戦場に架ける橋』を久々に楽しんだ。アレック・ギネス、ウイリアム・ホールデン、早川雪州。一つの名作たるを喪わない。
 
 * 安部晋三の国葬? バカげて居て話にならない。死者は死者、鞭打つ気は無いが、軽蔑し尽くしていた思いは永く残る。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月八日 木   
    起床 5-40 血圧 165-76(49) 血糖値 69 体重 56.15kg    朝起き即記録
    (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 太陽も死も、じっと見つめることはできない。  (二六)
 ◎ 妬みは、人が敢えて自認することのできない惰弱で恥ずかしい情念である。嫉みは、他人の幸福が我慢できない、一種の狂気である。   (二七・二八)
 
 * 「湖の本 159 花筺 魚潜在淵」 午前に、責了。
 
 〇 秦先生、 私の いま80キロは、想像していませんでしたが、実は父も157センチ、80キロでしたので、そういう遺伝子なのかもしれませんし、
 秦先生に食の楽しみを教えていただいたせいかもしれませんよ。
 
 西隣地の一軒家の「中身」の取り扱いですが、「家財処分業」という仕事があります。
 昨年、義父が亡くなった時に多摩のマンションの家財道具の処分を一切合切お願いしました。
 大量の本もということですが、処分するのももったいないですから、何かしら手を打ってから、が良いと思いますが。
 また、多分木造住宅の解体は100万円くらいで出来るのではないか、とも思います。
私で良ければご相談に乗りますよ。建物に関することは好きなんで、全然、苦になりませんから。
 櫻小次郎に「読書の匂い」がしない、というのは痛いところを突かれました。
 最近は、もっぱら漫画が読書です。Monsterという浦沢直樹という漫画家の作品を読んでいます。
 漫画とはいえ、「名前のない」「名前を呼ばれない」「自分を誰も知らない」「孤独」
というようなことがテーマとして浮き上がるストーリーで、かつて 先生の「顔」についての質問を思い出しながら読んでいます。
 私を私として同定するのは誰かが私を呼んでくれること、と
 問題提議があり、
 私を知っている人がいなくなり、呼ばれなくなり、
 私が私であることを知っているのが自分だけになってしまうこと、
 そういう世界は自分にどう映るのか、
 ということを考えさせられます。
 休日は、
 月に2-3回は新野君とテニスをやっています。
 それ以外は庭いじりですね。この9月はちょうど庭のぶどうの収穫期になりました。添付写真が 家のぶどうです。
 あとは気力のある時に久しい宿題の論文をまとめたり、義父の残したマンションのリフォーム設計をしたり、と  休んでる暇はないんですが、、、、
 それでも、最近、私も疲れてしまいまして、土曜の午前はゆっくり休んでしまいます。
 子どもが中高生になると、親も自由になりますね。   さくら
 
 ◎ Re: なるほど 櫻小次郎クンには マンガっぽい影が と 
理解できました ただし そのまま行くと 「読み・書き」「言葉」能力が乾燥払底して ただの文盲爺に耄碌しかねないぞ。
いま、わたしの 『湖の本』の一角を占めつづけている「私語の刻」、櫻君 も、 漫画遍歴に帯同して 日々に、自身と現代とを語る「私語」を、ホンの少しずつのツイートでもいい、機械にそういう欄を設けて置いて、順序も秩序も無く、いわば子供さん達へ父の「言葉遺産」としてでも書き置いてはと勧めます。飾るも構えるも無い まさしく「私語の刻」をもってみては。設計の思索や感慨・感興も自然と漏れて出て、一歩怩フ意味を成すでしょう。「仕事」にしては「いけない」のです、身内から漏れる片言隻語、それが「私語」「独り言」の妙です。 このメールも、私には「私語」なんです。 ハタさん
 
 〇 コロナワクチンは副反応が大きく、モデルナでも ファイザーでも同じ作用でした。
 タクシーでの温泉行は、まだなさらないのですか? いい案だと思いましたが。
 季節の変わり目でもあり、お好きなことをなさっている毎日、何よりかと思います。
 好きなことをできる人 それほど多くないとおもいます。
 よい日々を祈っております。  那珂
 
 ◎ 温泉と謂うて   肝腎の具体的な行き先の 宿に なにひとつ予備知識が無く、車で現地に到着してみても、どうにもならないのです。泊まれて 温泉のある 宿の名前と、そこまでの地理や場所と予約が出来て無ければ お話にならない。その一切が目下の私には出来ない 出来ないママでは、ただ長距離をアテもなしにタクシーに乗るだけという、アホらしい道化になる。でしょう。
 名案 有りますか 無いでしょう。やれやれ。  湖  
 
 * こんなやりとりが、目下の蟄居逼塞の日々に 甘露の味。感謝。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月七日 水   
    起床 6-10 血圧 144-75(69) 血糖値 69 体重 56.2kg    朝起き即記録
    (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 哲学は過去の不幸と未来の不幸をたやすく克服する。しかし現在の不幸は、哲学を克服する。  (二二)
 ◎ 人はふつう、覚悟を決めてでは無く、愚鈍と慣れで死に耐える。そして大部分の人間は、死なざるを得ないから死ぬのである。  (二三)
 
 * 谷崎先生の松子奥さんとの愉快な夢をかなり長時間多彩にみていたが、キリの消えるように今しも失せて行く。それにしても夢の松子夫人、多彩に愉快にお茶目であった。それはあの、衆目、しとやかに優しい、雅の極みのようであられた人の「また一面」であろう、谷崎先生はその両面ゆえにあれほどあの三人目の奥さんを愛されたのであろうと、いまにしても、夢でまでも、私は理解し親愛して懐かしく想う。多くの忘れ得ぬ長上との出会いがあった。学校でも大学でも職場や勤務先ででも、そして作家としてはや半世紀を超えた経歴ででも。谷崎松子夫人との出逢いは、作家として世に出てまこと間もなく作品『蝶の皿』を介して成っていた。以降、亡くなれるまでの親交を、長勺の巻紙に流麗の艶で書いて戴いている數多の御状をはじめ、色々の(お手作りの見事にふかふかと美しい座布団など)頂き物が懐かしく明かしてくれている。それらを「どうしたものか」と、老い先無い今しも私は案じている。特に巻紙の書状はさながらの美術なのであるが。
 
 〇 秦先生
 超級の忙しさ、、、 そうですね、この数年、会社の仕組み、もしくは社会の仕組みが、
 何か大きく間違ってしまっているのではないか、と、感じています。
 というのは、
 忙しく働いても、
 受注目標には届かない、とか、
 
 納得のいく作品(=建築)が出来ない、とか、
 どうやって目標を策定したのか、なんのために働いているのか、と感じるような瞬間が多いからです。ま、私が部下に全てを託すことが出来ない、自分の納得いくものをつくりたい、という思いが強すぎるのかもしれませんが。
この夏は、
 本当は、父母を連れて、福島の山奥にある父の育った家を訪れ、孫たちに、昔話をしてもらおうと企画していたのですが、
 コロナの第7波もあり、父母は外出は控えるということになってしまい、我々家族だけで福島へ行ってきました。 その写真を添付します。 子どもたちに、田舎での生活を想像してもらえたかな、と願っています。
 先生の「夏」は、歴史と共にですね。
 私は大学時代、秦先生と話すようになったことが、
 自分がいかに時間感覚に乏しいか、ということを思い知らされるキッカケでした。
 私が、建築をやるようになったのは、
 自分自身に空間感覚はしっかりあると感じていたからだと思うのですが、時間感覚というものを意識していなかったのです。
 ここで言う時間間隔というのは、
 歴史観であったり、時の流れで事物が移ろうことに意識が疎いということです。
 設計では意識しているのですが、これは50歳を過ぎた今でもどうにもなりませんね。
 私は いま 体重82キロ。(=ウオオッ!! 秦は56キロ) 東工大の学生時代は62キロ。(=ウオオッ!! 秦教授は86キロ)  私も25年後には元に戻るのかな。  櫻
 
〇 鴉に  お元気ですか。書くこと進んでいますか。
 コロナ感染者数、減少していますが、まだ日常には戻っていません。
 長いメール書けなくてごめんなさい。元気にしています。
 お身体に気をつけて、大事にお大事に。 尾張の鳶
 
 * 尾張の鳶に
 孫ちゃん 元気になりましたか 鳶は 慎重に飛翔されますよう。
 鴉は フラフラですが、カカ、カカと悲鳴を吐きながら「読み・書き・読書」と「妄想」に耽っています。
「湖の本」刊行をもし断念したら、すぐにも「京都」へ帰り住みたい、が、鴉の「作家」としての生存・存在理由は いまや「湖の本」に結晶しているので、この仕事と心中するしか無いなあと覚悟 と謂うより 諦めて います。
 今の希望は 脚が歩ける内に コロナ?鎮静を見澄まして とりあえず 歯医者へ、眼医者へ、 そして どこかで 最上等の牛肉で「すきやき」が食べたい。 まだ 油断は出来ません。
 大混雑そのものの二階六疊間で、がっくり肩をおとしたままキイを叩き叩き、ピアノ曲を鳴らしています。「ま・あ」ず が訪れれば削り鰹をあげています。
 ドストエフスキー と源氏物語「紅葉賀」と 参考源平盛衰記と 明治歴史とに とりわけ心酔しています。 旅がしたいなあ、未だあの世へでなく、この世で。
 どこかに書いた気がしますが 新制中学一年生の音楽の教科書に 「オールド・ブラック・ジョー」の歌詞が出ていて、この歳若いわたしに「はやく天上へ来い」とは何事かと憤慨したのを忘れませんが、このごろでは、盛んに「はやく、おいで」と空から声が掛かるようで 呻きます。
 元気出して、まだまだ、しかと勉強されまように。  かあかあ
 
 * きみは、
 作家 秦サンの世間では 櫻小次郎くん として活躍が期待されて居ます。 80キロは、想像もしなかったよ。 大櫻大次郎 と改名しなくちゃ。
疲れが酷くて しばしば うつぶせに参っていますが、立ち直っては 好き勝手を書いています。
 西隣の一軒家が、バカげて山積みの 居残り「湖の本」の山で埋もれています。一切 目をつむって、一掃廃棄できるものなら 小洒落た洋館風の小家を建てるか、狭いながら庭に創るかしたいもんだと 夢見たりしてますが。厖大量の 重い本の紙包み(二部屋に充満)を、トラックででも引き受けて処分してくれる業者が無いもんですかねえ。やれやれ。家一軒が、まるまるムダに建っています。建日子がさきざき困惑するやろなあ。
休日など なにをして楽しんでますか。「読書の匂い」のしない建築家サンは。 ご家族とのお幸せ 願ってますよ。 ハタ センセイ
 
 * 一日中 雨音の間断する天気だが。仕事は、あれこれと捗っていて、明日にも一゜いじぶんの追加初校分が届けば、「湖の本 159」の責了は目前、へ、そして刊行・発送へ進む見通し。「160」の入稿へも、今分大きな支障は見当たってない、巻頭への創作原稿を「ハキと用意」出来れば、即、進む。その先へは急ぐこと無く、創作へしかと落ち着いて振り向きたい。
 
 * あす、一頁分追加の校正刷りが届いて、問題なければ、「湖の本 159」責了に出来る。
 疲れ果てているが、たゆみ無く今日も仕事を進め続けてきた。七時半をまわったところ。もう今晩は本を読んで寝てしまおうか。なにか、テレビにいい映画があるか。ねめに越したことは無いか.読むならば『悪霊』が呼んでいる。なに躊躇いなく惹かれて行く。「源氏物語」はことに惹かれる若紫がめでたい『紅葉賀』の巻に色好みの老典侍が登場する。小説「ある雲隠れ考」を書いた昔が懐かしい。『参考源平盛衰記』は哀れ鹿ヶ谷の謀議で清盛に憎まれた大納言成親が死出の旅路とも気づかず配所へ追いやられて行く。
 
 * 
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月六日 火   
    起床 6-30 血圧 132-72(62) 血糖値 69 体重 55.6kg    朝起き即記録
    (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 人びとが美徳とする「寛恕」なるものは、ある時は虚栄心、間々怠惰、しばしば危惧、そしてほとんど常にこれら三つ全部の協力により実践される。   (一六)
 ◎ 人はみな、と謂える、他人の不幸には耐えられる強さを持っている。  (一九)
 
 * 霧散と謂う、が、夢散とも謂うてはどうか。明けの夢は奔るように失せる。
 
 〇 秦先生、
 東隣家が解体されるとのこと。
 インターネットの衛星写真の地図で秦先生の家の周り 確認しました。
 確かに近いですね。
 秦先生が心配されるのも理解できます。
 「隣接の平屋」というのは、秦先生の家の平屋の部分を指していますね。
 工事を隣地に越境してすることは 基本的は行わない、というのは
 一般的なルールですので、秦先生の家の屋根の上を使用することは、
 基本的には考えられないと思います。
 ですので、
 解体の挨拶に来た場合、
 1)こちらの敷地に入らずに、作業をしてください
 2)重機を入れての解体時に
 秦先生住宅を破壊する可能性があるので、
 〇 事前に現況写真を撮って、両者で事前確認する
 のお願い2点をやってみてください。
 こうしておけば、
 壁にクラックひびが入った場合、対応してもらえると思います。
 ただし、
 あまり強く出て、以降、住みづらくなることも良くないので、
 相手の様子を見てください。
 門柱の件は、
 写真で見る限りは、お互い独立して立っているようですし、
 既に先方の門扉は倒れ掛かっていて、秦先生の家と逆側に傾いているようなので、
 解体する時に秦先生の門柱が破壊されることは無いと思います。
 業者が何かを確認するとか、説明したいということがあれば、
 私が同席するのは問題ありませんので、お声がけいただければと思います。
 出来れば、土曜日がいいですが。
 
添付は最近設計し竣工した建築です。
 お見せしたいです。  櫻
 追伸)残業は減りませんね。
  秦先生のようにうまくサボらなければ!と思いながら
  20年以上経ってしました。
 
 * 感謝。
 
 〇 秦先生 ご無沙汰をしております
 下記の件、私の方で少し調べさせて頂きます。
 なお、私の方で調べるのは、
「先生のご自宅及び隣家の敷地が”境界確定”をしているのか否か」
です。これは登記簿等を調べることで分かりますが、住所さえ分かれば日本全国何処の土地でもインターネットで把握可能です。
 ちょっと状況を調べた上で改めてご連絡致します。
 それほど時間はかかりませんので、明日中にはご連絡できるかと思います
 取り急ぎご連絡いたします   〇
 
 * 心強いこと。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月五日 月   
    起床 5-50 血圧 139-77(59) 血糖値 69 体重 56.1kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 善に報い、悪に復讐しようと、ひたすら心がける、それが人間には実は容易でない。受けた恩誼やヒドイ仕打ちの記憶を喪い、かえって、良くしてくれた人を嫌ったり,踏みにじられた相手と握手したりしている。   (一四)
 ◎ 主権者の寛恕や謙虚は、往々にして、民心を得たい術策に過ぎない。   (一五)
 
 〇 秦先生 ありがとうございました。先日突然お伺いして以降、あっという間に時間が経ってしまい、大変失礼致しました。
 この間、妻がコロナに感染したり、私も夏バテしてしまっていたり、それなのに新たなプロジェクトに入ったりと、なんだか慌ただしく日々を過ごしておりました(幸いごく軽症で、息子と私、同居の義母は感染せずに済みました)。
 日々は慌ただしく過ぎるものの、それだけでは済ませられそうにない大きなことが起きているご時世です。特に今般のウクライナ侵攻のようなことが起きると、戦争的要素を欠いた「サブカルチャー的世界」でしか生きてこなかったことを痛感しております(もちろんそれ自体は良いことであったとしても、今更ながら それだけでやっていけない嫌な予感がしたということです)。以前帝国ホテルで先生かのお話を伺った際、文明と文化の話をされたと思うのですが、そのお話をどれだけ分かっていたのだろうと改めて思いました。
 涼しくなってきましたが、季節に変わり目でもあります。何卒ご自愛いただければと存じます。   聡   東工大院卒
 
 * もう四半世紀近くが過ぎて、の院生諸君諸嬢、社会の中堅に達している。結婚式ににも招かれて祝った何人もが、中には孫も抱いているだろうよ。わずか五六年間の学生と教授のあいだであったが、しかと表情も声音もセンスも記憶していて魔も話し合える人が,二十人ほども。願わくは私より健康に永く「生・活」して欲しい。
 
 〇  お元気ですか。九月の始まりの「私語の刻」をお送りいただきありがとうございました。
 >いま、何か、私、頼まれてましたか。
 お願いしてたのは ※ 八月分の「私語の刻」をお送りいただきたい と。
 さらに切なお願いがございます。 ※ 「私語の刻」で現在閲覧できるものは二〇一六年( 平成二八年) 三月末までと、二〇二一年三月二十一日から四月十六日途中までです。 現在読めない貴重な記録が何年分もあります。
 私は現在「私語の刻」の文学史的位置づけを試みたいと一つの論考を書いているのですが、個人的に私がデータとして保存しているもので、ネット上に公開されていない空白部分の膨大な内容の中から「引用」しても信頼性を保証できません。紙の本でもなく、ネット空間にも見つけられなければ当然のことです。二〇一六年以降に、どれほどの作品「湖の本」「選集」を刊行されてきたことでしょう。それらについての作家ご自身の発言があるのに、何も「ない」のが現状です。
 是非お願いしたいのは、パソコン専門家にこの空白部分について、まったく新しいウェブサイト起ち上げ、あるいはもっと気軽なブログのようなものでもよいので公開していただきたいということです。私語の「裁判記録部分」のように独立させていただいてもよいと思います。
  〇 **様  昨夜はご足労かけました。ホームページつくりは、断念し、現状の範囲で「執筆」「通信」等をつづけるだけで、もう晩年、「可し」と心決しました。
 ぜんぶ ご放念 お忘れ下さい。  秦生
 この件について、ホームページ再生を断念されたものと理解しました。残念という言葉ではとても足りず、烈しい憤りすら感じてしまいます。
 とにかく、パソコン不具合発生以前の「私語の刻」空白部分だけでも新しく公開していただくことはできないでしょうか。
 秦恒平の「私語の刻」は自覚されている以上に、途方もなく重要な、文学史において初めての試みの、死なない仕事、偉大な作品なのです。消えていく仕事にしてはなりません。何卒ご再考いただけますようお願い申し上げます。
 もしどうしてもそれがご無理な場合は、データのコピーを私にいただけないでしょうか。私が誰かに依頼して公開してもと考えます。それからその内容がご自身の作品であることの秦恒平のお墨付きのようなものをいただけたらとお願いします。データを建日子さんに託していただくのが適切なのかもしれません。
 「私語の刻」は秦恒平に著作権の存するものなのは重々承知していますが、一度公開されたものは、読者をはじめとする「公共の財産」でもあります。どうか日本語と日本文学のために、この作業をどなたかにお願いしていただきたいと思います。どうかどうかお願いします。秦恒平としての義務とすら感じてしまいます。
 心乱れたまま、取り急ぎ書いています。失礼なことを申していましたら、どうかお許しください。 このまま暑さが落ち着いて秋が早く訪れてくれますように。どうかどうかお元気でいらしてください。    山瀬 生
 
* 恐縮 感謝  秦生
 
 *  私は 雑然と鳴り響く交響楽や協奏曲は遠慮し、ピアノかバイオリン、大方はピアノ曲を やや静かめに聴いてます。唄は 懐かしい昔の唱歌や童謡を聴くだけで、エライ歌い手の独唱や合唱は 文字通りに敬遠してしまいます。
 
 〇 雑然と言わないで下さい。
 音の重なり合うのが面白いです。例えばホルン,どこでどの様に全体と関わっているのか、バランスは。ソロの部分となれば、指揮者はどこまでかかわれるか、3人の奏者がある和音をつくるとき、どのようにお互いに関わっているのかとか。
 しんどいことですね。
 協奏曲も好きです。
 何を考えているのかとか、想像しています。暑いのに。で、汗をかいている事も。
 交響曲でも  聴き流せばいいものを。  通
 
 ■ 詩歌 唱歌 琴、三味線、鼓 謡曲は ともかく
 いわゆる「音楽」とは 縁遠く、気ままに聴くほかは 音楽会など八十年一切無縁、テレビで観る(聴くは二の次)程度に、ことに西洋音楽とは縁遠いのです。「美学芸術学専攻」生が何だと、大叔父の同志社英文学教授に??られたことがあるほど、ことに西洋音楽とは無縁なんです。指揮者という存在が何をしているのかもよく分からず、知らず、元気な恰好を面白く眺めてるだけ。 ま、 音盤で、ピアノやバイオリンや声楽を楽しみに聴くようになったから、我ながらエライもんと。お叱り下さるな。
 そうそう、テレビの「駅ピアノ」は愛聴してますよ。「読み・書き・読書」人なんです、根から。
 コロナの下火に期待しています。このままだと脚が使えなくなる。  お元気で。 湖
 
 〇 このまえ 言おうとしたことは
 タクシーでお出掛けください。美味しく口にするものに当たれば御の字ですし、同じ道を戻ったとしても、違う景色を楽しめると、いったことを書きました。はず。
 音を消して交響曲や協奏曲の指揮者だけ見たら どうなるかな。今日も暑いです。 通
 
 * 指揮者の真似は、子供の頃から、何度でもしたこと、あるね。
 
 * 隣家が地所を討ってか立ち退かれ
その際に隣家のわが家との間にあれこれ「覚え書き」にサインを頼まれているが、現今、玄関の植木の枝がすこし差し出ている外名問題は無く、枝を当方で切り落としておけば、ょう来もそのけはいあるつど切り落とせば「覚え書き」までも無いと想うのだが。こういう琴が一等神経に障る。
 
 ■ 某、大工務店の設計家柳君 国交省の建築経管理職 へ助言を求めて
 端的に。
わが家の東隣家が家土地を売り払いどこかへ転居されます、わが家を建てたときは空き地でした。従って境界のブロックは敷地「内のり」に建てました、そのことは、今回介在の業者も「確認」し、但し玄関の植木一本の枝先が稍越境しているとの指摘で、その件を確認の「覚書」にサインをと求められています。家屋はまだコワされていません、買い手があったのかも、まだ、不明です。
 
 わが家、私としては、もし新築工事が始まったときに、ごく隣接の途方平屋部分の「屋根」を、建築資財の置き場や、工事の人の往来に使われては困るな、イヤだなという気分です。
 また表札入りの煉瓦の門柱が、両家分で密接して建っているのも、取り毀すでしょうが、無事で済めばいいがと案じたりしてます。
 こういう際には、当方、どんな心用意と、申し合わせ(ないし覚書)が必要になるモノでしょうか。そんな件でアタマを悩ませるには、「書き仕事・小説等」の方が大切な境へ来ているだけに、憂鬱なのです。何もしなくて済めば何よりなんですが、夫婦とも「やそしち」歳の爺と婆、ボケて来てもいまして、動揺もし、心配なのです。
 
 こういう際への「助言」あらば どうかお願いします。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月四日 日   
    起床 5-25 血圧 140-78(59) 血糖値 69 体重 55.5kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 情念は往々にして正反対の情念を産む。人はしばしば弱さから強かになり、臆病から向こう見ずになる。   (一一)
 どれほど念入りに敬虔や貞淑の外見で包み隠しても、情念は、必ずその覆い布を通してありありと見えるものである。   (一二)
 
 * 夢も見ず喜怒哀楽も醒めてなく途方も無くて目をあいてゐる
 
 * 辛うじて、「湖 159」再校分 前半の末尾に25行の短文を組み入れてと、メールした。メールが届くのかも、なにやら危なしく手、不安です。が、ともあれ、昨日来の苦心の結果。届いて欲しい。
 
 * 疲れました、ほとほと。しか前進したので、いよいよ次の発送という力仕事の用意にも取り組まねば、そして創作の二、三も、じりじりと。今日は早起きだった、午前を永く使って、とても早じまいとは行かぬが、午睡時間が取れるようにと気遣っている。「読書」は楽しみでり、且つアタマの体操の意味合いも。せいぜい映画も観るように。佳いこと好いこと、楽しむことは「クスリ」と。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月三日 土   
    起床 5-15 血圧 139-73(69) 血糖値 69 体重 55.25kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 情熱はしばしば最高の利口者を愚か者に変え、またしばしば最低の馬鹿者を利口者にする。  (六)
 情熱は人を承服させる雄弁家、それは自然の技巧とも謂うべく、しくじることがない。それで、情熱のある最も朴訥な人が、情熱の無い最も雄弁な人よりも、よく相手を承服させるのである。  (八)
 情熱には一種の不当さと独善があって、それが情熱に従うことを危険にし、たとえこの上なく穏当な情熱に見える時でも、警戒しなければならなくする。  (九)
 
 * しきりに、「音」の「單」と「複」とに就いて生成と變化を「式」で説こうと懸命に思案する「夢」を観ていた。永い人生でそんなコト、想ったことなかった。夢が現生活へむやみと浸入してこないことに安堵する。
 
〇 出版社から、「修正箇所が全体的、かつ多くあり、六校を出して確認する必要があると考えます。」と連絡がありました。
 九月下旬からの後期が始まる前に帰省が出来ればとも思っておりましたが、もう一頑張りいたします。
 今日は、少し涼しかったですね。
 やそろく様、例年になく厳しかった夏の疲れが出ませんように。 澤
 
 * 有難う。
 この短文に「が」という濁音が六ヶ所も。
 文章の印象を「雑に汚く」するのは、こういう「濁音」の「無神経な多用」 すこし心すれば避けうること。
 川端先生の研究家なら、たとえメールにしても、自身の文も清明に美しくと常に心していて欲しいナ。
 一流の批評・研究者は一流の文章を読ませましたよ。 やそろく翁
 
 * 私自身及ばぬことながら、この「私語の刻」では「推敲」を考慮していると、いつか書いている。推敲もまこと勉強のうち、此処に書き放した雑文も「湖の本」へ移すときは気を入れて手直しているつもり。
 
 * 一日して、なすことの多くドジに終え、疲れだけ残って、いま九時過ぎ。
 
 * それでもジイドに教えられる「ドストエフスキー」そして『悪霊』には強く惹かれ、また、子の重盛説諭に謝る父清盛のおかしみをくどいほど云い募った『参考源平盛衰記』(巻六)を読み終えた。 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月二日 金   
    起床 6-15 血圧 141-70(54) 血糖値 69 体重 55.6kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 自己愛(アムール・プロブル)こそはあらゆる阿諛追従の徒の最たるもの。  (二)
   自己愛は。天下一の遣り手をも凌ぐ遣り手である。  ( 四 )
 
 * 起き抜けの廊下で、カーテン蔭の軽い空き箱(「マ・ア」のテラスを眺める休憩用)に蹴躓いて激しく左傾、テラス向き重いカーテンと硝子戸へ左腕から激突。カーテンも扉ももし開いてたらテラスへ全身で顛落していたろう。用心、要慎。
 利尿と浮腫どめを併用して寝たので細っそりしたが二時間か半間隔で手洗いに起っていた。すこしフラつく副作用もあるのかも。
 忘れたが、ヘンに堅い議論めく夢を見ていたかも。
 
 * この機械が抱きこんだ文章や記録は、言語道断に多様で大量、重複もあろうを,少しでも整理しようと今朝の早起きいらい、書き進むべきも書き進めつつ、手を付けかけている。視力の衰え、目の痛みも進んでいるが「読み・書き・読書」は斷めも休みもならない、で、休憩に床に横になると、其処には読みさしの本がいつも十数冊。いまほどは、光源氏が父帝の中宮藤壺との秘密の仲になした「皇子」を父帝の抱いて光中将にも見せるのに、藤壺も光君も心中恐懼にたえない『源氏物語』の一場面、ドストエフスキー『悪霊』一組の男女交際の生き生きとした批評的な書き始め、アンドレ・ジイドの警抜で適確なその『ドストエフスキー論』が彼の作家としての特異な性格を暴くように指摘してみせる確かさ、『参考源平盛衰記』で平重盛か父清盛の後白河法皇に対する非礼を懇々として警める、流布の本ならせいぜいに頁と無い経緯をえんえん本の藩札も費やして記録しているのを、また『明治歴史』では最幕末、図らずも同日に、片や薩長への倒幕の密勅と、片や将軍慶喜による大政奉還の奉呈とが交錯する史実の不思議を、またトールキンの、ホビットバビンズやドワーフたちや魔法使ガンダルフの旅の宿り、等々を欣喜の想い出それぞれ読み進んで結句眠りもしなかった。「読む」「読める」嬉しさが「書く」「書ける」励みと一日でも永く好みに添うていて欲しいもの。
 
 * 午になった。食べられるといいが。今朝の手脚の細さ、浮腫が抜けている。
          
 * 午前中に届くと連絡のあった「湖 159」再校出分が午後二時過ぎても届かない。前例の無いことで案じている。
 
 * 相次いで、ルソーの『人間不平等起源論』 高橋貞樹の『被差別部落一千年史』を読み進み、『十八史略』原文を興味津々読み進み、同じく『史記列伝』も読み済み、娯楽の感覚で名だたる講談の『水滸伝』豪傑達の「ド活躍」を一話二話と惹き込まれ、読み進んだ。いま、一段と賛嘆の思い寄せているのは、偉大な作家、「ドストエフスキー」。
 マリア・ピレシュの冴え冴えと美しいつよいピアノ演奏が部屋を充たしている。
 
 * 「湖 159」 再校ゲラ届く。責了、刊行そして発送。入稿のもう済んでいる「湖 160」の初校出も追ってくる。忙しい秋になる。体力、気力。暮れの冬至には、「やそろく」爺が「やそしち」翁に成る。やれやれ、油断成るまいぞ。
 
 * 妻も「疲れ寝」のあいだ、独り、映画、メグ・ライアンとデンゼル・ワシントンの『戦火の勇気』を観ていた。、二、三度めか。やや無理のある作だが、胸に刺さってくる最前線の戦火と兵士らの葛藤の苦さ、険しさに惹き込まれる。苛酷な戰闘と名誉や勲章とのとても割り切れない統御や隠蔽や虚偽の凄みに胸を押された、観ていて。
 
 * 日々「私語の刻」の外への電送を断念、というより自身に対しても中止した、ということは、もう私からは強いて外界への折衝や伝達・電送はやめたということ。『湖の本』刊行が続くあいだは、時期がすこし遅れてずれるけれども、きちんと手の入った「私語」「日録」は読者には従來のままお届けできる。メールというのも、戴いた方には有難く喜んでお返事するが、私から不断に送り届けることも、ま、控え控え過ごすように成って行くだろう。「やそろく」「やそしち」「やそはち」 まあそんなにも行くまいよ思っている。からださえ動くなら、お金を使ってでもこれまで慎しんできた娯しみ楽しみが味わえるといいのだか、こうよろよろとしててはお笑い草も生えまいよ。
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)九月一日 木  長月 朔 
    起床 6-00 血圧 142-68(55) 血糖値 69 体重 56.4kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄 (二宮フサの訳に依りて)
 ◎ 「われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない」
 吾々が美徳と思いこんでいるものは、往々にして、さまざまな行為とさまざまな欲(アントレ)の寄せ集めに過ぎない。それを運命とか人間の才覚とかがウマク按配してみせるのである。男が豪胆であったり、女が貞淑であったりするのは、かならずしも豪胆や貞淑のせいではない。  (一)
 〇 ラ・ロシュフコー(一六一三 − 一六八〇)公爵は、フランス貴族の中でも屈指の名門の出、軍人として、文人として、藝術ともいうべき社交術であらゆるサロンの名士であった。とはいえ、時代は彼ら封建大貴族にとって、リシュリューやマザランが暴れ、百年後のフランス革命へ傾斜して行く難しい時代であった。
『箴言集』はそんな時代を風靡し愛読され、さらに世界の「古典」の名声を得続けている。
 
 * 詳細で、ゆがみも欠如も無く場面連続して一つのストーリィを成した夢を、二度三度と確認の夢を見続けていた、その気なら再現して書ける気もするか、私自身には根付いてないモノ。
 
 * この機械クンの収容負担を軽くしてあげたいと思うのだが、なんだか逆に逆になっているのかも。自分でも何をしているのやらと戸惑う。
 
 * 「私語の刻」覧のホームペー化を意図したのを、やめようと思う。現状なら私的なール等の往来も操作の試みや着想なども書き込んでおける。公開の必要は無いのだ、斷辰は『湖の本』で、時点こそ後日にズレルが、必要の場合は個別にメールで送るので足りよう。今のままなら、なに憚り無くその時々に思ったまま考えたままをみな書きとめておくのに遠慮が無い。
 
 〇 **様  昨夜はご足労かけました。ホームページつくりは、断念し、現状の範囲で「執筆」「通信」等をつづけるだけで、もう晩年、「可し」と心決しました。
ぜんぶ ご放念 お忘れ下さい。  秦生
 
* 二時過ぎ。午後に、あらためて重い重い大冊の『悪霊』をあたまから読み始めて、森田草平訳の日本語にも親しみを覚えながら惹き込まれ、あまり持ち重くて、寝入った。偉大に重厚にしかし軽快ですらある名作。僅か数頁で心新たに感じ入る。
 
 * 夕方、ローレンス・オリビエの悲惨を極めた映画『黄昏』に、グッタリした。
 
 * ごく基本一般と思しき操作や手順和を忘れている。気に掛けないで出来ることをしてそれを喜び楽しめば宜しい。仕事のハカなどを求めず、ゆくりと間違いを警戒し防いでること。
 
 
     *****☆****◎****☆*****
 
 
     *****☆****◎****☆*****
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月三十一日 水   葉月 尽
    起床 6-00 血圧 137-68(54) 血糖値 76 体重 55.6kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 「余の味方にあらざるは、余の敵なり」とは、これは私(ジンメル)の考えからすれば、半面の眞しか伝えていない。
 私が生命を献げている究極的問題に対して味方でも敵でもない無関心な人だけが私の敵である。
 しかし、積極的な意味で私の敵である人、私が其処に生きている場を共にし,同じその場で私と向きあい闘っている人、(妻のような)この人こそ、最高の意味で私の「味方」である。    (一六六 了)
 
 〇 ジンメル(一八五八・三・一  一九一八・九・二六)はベルリンに生まれ、テーニエス、デュルケーム、フッセル、ベルグソンらと時代を共にし、メトポリタン賭して生まれ、コスモポリタンとして生きて死んだ。驚くべき視野の広さと、人間生活のあらゆる側面に食い入る貪欲なまでの関心は彼の真骨頂であった。(清水幾太郎)
 
 * 至福と充実の愛の耀く夢を 繰り返し観ていて目覚めた。高揚のよろこびは声の色ばかり遺っているが、書き置くことはできない、夢だから。
 
 * マリア・ピレシュの颯爽たる音色のこころよい モーツアルト、シューベルト、ショパンを一日中、仕事のときも寝入っていても、聴き流している。盤を呉れた人もお元気で、と懐かしく。
 
 〇 どうにか(初の単著=)念校を投函できそうです。
 索引データはあと一歩、在満作家の「日向仲夫」は「ひなた」なのか「ひゅうが」なのか等、分らず困っています。(御存じでしょうか。)
 念校なのに修正が多く、念々校か出張校正が必要かもしれませんが、ともかくも一山越えました。  やそろく様も、佳い長月を迎えられますように。  晴
 
 * 心行くまで高揚 堪能されると佳い。研究書に索引は必備の要所。研究書の顔をして索引のないウロンな本はまま横行している。
 
 * 三年 人さまの顔を事実上見ていない。ほとんど対話もない妻とのほか。れでもわたしは幸せに、無数に近く心親しい顔も声も身動きなども、想い出も、現に記憶し所有できている。その密度は幼少時に濃く細かで、大人になり老いてくると粗に数少なくなっている。人の世の生きようはそういうモノよ。
 幼少來私の最も密に親しんできたのは、ほぼまちがいなく書物を介しての「歴史」「史実」「史人」だろう。無論「世界史」となると精粗の差は甚だしいが、我が国は別とすると、やはり中国への関心も好奇心も断然。それも支那の神話や上古史に向かい、時代が降ると、大きな変遷は心得ていても希薄になる。それは手に取れる関連書物のほとんどが四書五経・詩や論に限られ、講釈や小説は稀、伝記は「史記列伝」にほぼ限られて、偏りが甚だしいから仕方が無い。日本の古事記は国民学校の昔に暗誦するほどだったが、そうそう感じ入るモノで無い。中国史の胸の奥は深くも奇々怪々でもあり、不思議な「理」も働いていて,思わず胸を衝かれる。
 
 * 日記の日々の冒頭にマルクス・アウレーリウス『自省録』についでジンメル『斷想』を読み返してきたが、九月からは、サテ。漢籍から選ぶと難漢字の拾いに手を掛けてたく無いので。ラ・ロシュフコー公爵フランソワ六世の名高い『箴言集』を拾い読むことに。二宮フサさんの訳に拠らせて戴くことになるが。
 ちと手厳しい一,二を挙げておく。
〇 年取った気違いは若い気違い以上に気違いだ。  444
〇 ちゃんと分かる人にとっては、わけのわからない人たちにわからせようとするよりも、彼らに負けておく方が骨が折れない。  448
 
 * ひさしぶりに猛烈な照りの中 自転車でポストへ「湖の本 160」入稿に行き、その足で大泉の方へ向いて,昔は縦横に走り慣れていた道をさぐりながらぐるーぅっと廻ってきた。家並みの景観などかなり変わって見えたがめぼしい新しい食べ物店などは見当たらず。
 * 顔なじみの珈琲豆屋さんへ寄って、私の「ホームページ」復活の道が付かないかと頼み、今夜八時過ぎに家に来て貰うことにした。機械に明るい展開、成るかどうか。
 凄いほどの照りと暑さで、たどたどしい自転車乗り、危険と云えばきわまりなく危ないと感じていた。用心は出来るが、脚もカラダも手も自在では無い。危ない。
 
 * 「ペルト」さんの解説のたいていが、よく分からずしまいで、想い願っていた希望のようにはことははこべなくて、余儀ない現状のまま帰ってもらった。
 
 * 八月逝き 九月来る。「ウク・ロシ」戰争も、「コロナ?」も見通しは暗いまま、政治も停滞、バカげた国葬、あつかましくまかり通って行く。こんなときは、私の「仕事へ」 気の向くままに沈潜前進が何より。
 秋よ。佳い顔つきで訪れよ。
 
◎ 令和四年(二○二二)八月三十日 火 
    起床 5-00 血圧 158-78(73) 血糖値 76 体重 55.5kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 予言者や指導者が言ったり望んだりした通りのことがこの世の中に行われたことは一度も無かった。だが予言者や指導者がなかったら、全く何も「行われ」無かったであろう。    (一六五)
 
 * 東隣の樋口家が家土地を売却して転居され、新たな地主家による新築がはじまるに就き、申し合わせ承引の手続きが必要と。幸い、東地境いのわが家の立てた塀は地所内のりに正しく沿っており問題なしとなった。が、屋根が東土地内へ入り込んでいると。わが家は旧樋口家が建築される以前から建っていて、爾来53年只一度もそんな問題の生じた事は無かった。
 東西の隣家で不快な問題が起きるのは、ぜひ事前に防いで置きたい。そんな思いから、目覚めて、二階へ来た。東工大出の国交省m君や,同じく竹中工務店設計家のy君らの見解や智恵や助力を頼まねばならないことにならぬよう願いたい。
 
 * 機械の「出口のない迷路」をもう延々と経めぐって、如何ともならない、しかし音もあげてられない。
 
 〇 朝早く起きていらっしゃるのですね。驚きました。
 ごめんなさい、メールをもっと小まめに、些細なことでも書くようにします。
 四回目のワクチン接種も無事済まされたようで安心しました。
 映画の話から「しまなみ」の静けさに触れていらっしゃる。瀬戸内海の静けさ穏やかさ・・瀬戸内海近くに住んだのも一つの幸せだったと、今になって気づいています。
 タクシーで・・の可能性は関東周辺の旅でも、たとえば新横浜までタクシーを使い、「新幹線で京都まで」も考えられます。いずれにしても残暑の後、過ごしやすい時期を選んで、どうぞ思い切り楽しまれるように願っています。
 お盆明けあたりから孫が夏風邪を引いて高熱を出し落ち着かない日々でした。コロナなどの検査をして陰性でホッとしたものの、繰り返す発熱。病気の時は本当に周囲も気力を保つのが大変です。漸く日常に戻りました。が、些か疲れて、無気力になっている自分に気づいています。
 くれぐれも、くれぐれもお身体大切に 無事過ごされますように。  尾張の鳶
 
 * 変わりなく、という現実が貴重な価値になる、それが老境。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月二十九日 月 
    起床 5-40 血圧 144-78(57) 血糖値 76 体重 55.5kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 単純な真理、普遍的に妥当するもの、基礎的なものが吾々にとって平凡になり、それ故に軽蔑を受けるに至ったため、吾々はいかに多くの価値や動機を喪ったことであろうか!!    (一六四)
 
 * マリア・ピレシュ、パッションのピアノで、モーツアルト、シューベルト、ショパン、そしてまたモーツアルトとシューマンと、を聴いている、適確、音色すばらしく鳴りわたる。ビレシュは、テレビでのピアノ指導番組も観て聴いていたことがある。表情のパチッとしたレディだった
 柚さんは好きなブラームスでピレシュを聴いていると。ブラームスのレコードをいただいたことがあったな。
 
 * 今日はいっそ小寒いほど冷える。天候不順。安穏を願う。
 
 〇 秦先生 をありがとうございました。なんとか(!?)元気にしています。
 先月の手術後約50日が経過、体調に色々と不都合はありますが、蟄居して怠惰な生活を送っている限りはさほど不便はありません。
 秦先生の相変わらずの充実した毎日の生活を見習わねばと考えておりますが…
 先日、TVでシルベスタ・スタローン『勝利への脱出』を見ました。彼の映画にはめずらしくエスプリのきいた展開でラストシーンがなんとも愉快でした。
 今月に入ってから、新約聖書をギリシア語原典で少しずつ読んでいます。アッティカのギリシア語と比べると、聖書のコイネーのギリシア語はかなり平易です。クリスチャンでは無いのでノンビリ楽しく読んでいます。
 ps. 添付の写真はキツネのカミソリ、今年はたくさん咲きました。 篠崎仁
 
* 術後のご様子如何と思っていた、落ち着いてられるようで嬉しい。「勝利への脱出」を私はシルベスタ・スタローンでなく、クリント・イーストウッドとしごしていたか知れない。たしかにスタローンであったと思う。なにかというと、イーストウッドにしてしまうのだ、私。
 残念、添付の写真がうまく見出せない。
 
 〇  読みましたよ、秦さん。
 ジンメルなどと謂う名前、何年振り、いや何十年ぶりでしょうか。すっかり頭から消え去っていました。
 凄いなあ、刺激的、目の覚めるお便りを頂きました。有り難うございます。
 それにしても、よくそれだけバラエティ豊かに色んな映画を日々ご覧になっているのですね。それだけでも若々しいと言わざるを得ません。
「ならわしごと」「 障子の張り替え?」、懐かしい言葉です。張るのは何とか頑張ってでも、その前に、桟を洗うのが大変だったこと、いやあ 思い出尽きないです。同年のよしみって、こう言うことなんでしょうか。
 次々と友を見送る切なさも。
「心穏やかに、眠ければ寝る」なるほど?。
「やそろく」、「骨皮筋衛門」も どこか楽しんでおられる風情で?。
 何故か解るような?。 身に染みる同感 とでも言うのかな。
 源氏物語、二十回近くもお読みなんですか?。凄い、さすが。
 そう言えば、女性が綴ったあの、うよ曲折極めた難解な王朝物語、小説家の方たちの訳でいくらか身近になつたものの、どれも
「秦 恒平氏の純粋京都人の部分訳の複雑微妙、二重三重の悪意を込めた現代訳には到底及び難い」との亡き中村真一郎の説、読んだ記憶、はっきり。
 コロナワクチン、私も4回済ませました。患者数増える一方で何処か緊張が緩んでいる気分ですね。
 どうか呉々もお身体お大切に、迪子様にも宜しくお伝え下さいます様に。
                           半田 久拝 (専攻の先輩)
 
 * 懐かしや。
 
 * コロナに罹ったのでと、フアンや読者に治療費を出してとせがむ人らがいる、とか。文字通りに凄い!ね。
 
* 朝だと,寝起きたら、晩の十時! こういう毎日を重ねている。私の「自然」主義。<
 
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月二十八日 日 
    起床 6-00 血圧 139-71(62) 血糖値 76 体重 55.9kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 個人の異なるに応じて時間の長さが異なる。同様に、どの民族にとっても時間の長さは異なる。そこから多くの特色有る結果が生じる。   (一六三)
 
 〇 秦さん Re: 元気にされてますか
 秦さんの「この数日」ほんとうにありがとうございます
 特養老人ホームに出勤した時は大抵お年寄りたち一人一人と顔をあわせるようにしております このラウンド(見廻り約100名)を大事にして 少しでも穏やかに過ごしてもらいたいと願っています
 私も車椅子なので目線の高さが同じで「幸い?」です
 少しは話が通じる方達の中には「先生はいつも元気でいいねえ」と言ってくれますが素直に「ハイ頑張ってます」と答えています
 そと面でもいいから元気にして居なければと思って頑張っています
 入園して間もない方に「どうかゆっくりしてくださいね」と言ったら
「ゆっくりなんてしてられないよ」と叱られたりもします(今はぬり絵を手伝ったりして仲良く?なりました)本音で付き合えるのが何よりです 何ヶ月も返事もしなかった人がある日普通にニコーっとしてくれたりします ささやかな喜びです
 ・・くらいは 元気にしております
 秦さんのメールが何よりです
「ジンメル」って何だ?! とオタオタして調べたりするのもうれしい事です
「煎茶」好きです とても上品にはできませんが一人用の急須で 濃い目に入れて・・にがみがいいです
「認知の混乱」 私は大分以前からです 認知症のテストは受けない方がいいと思ってます
 四度目のワクチンもお済みで良かったです 私もしました(毎月PCRもやられています)かかっても軽くて済む」と言われていますが どうかくれぐれもお大切になさってください 
 又メール下さい  千葉  e-old 勝田 拝
 
 * 朝いちばんの 心弾むメール。私より一歳ほどは長老ながら お医者様として有難いお仕事を、今も。想えば思えば、もう久しいお友達、身内のような読者のお一人。宏壮の六義園を夕暮れるまでゆるゆる楽しんだり、能を見たり、鰻を食べたり、川向こうの庭園を散策したり。軽妙に戯画も描かれたり、辛気くさいところの少しも無い方、私にも好い友達はあるんだな。
 
 * 前夜は、宵に、荷風原作『踊子』を、気に入っている若い顔ぶれでしんみり妻と嘆賞し、もののあはれの舞い立つような美しいラストシーンまで、楽しんだ。舞台は浅草、若い楽士、姉妹の踊子、筋書きとしては察しも早いが陳腐に堕ちず、妹の小を姉が貰いうけ、夫にした気立ての柔らかい楽士と育て上げる。どこをどう流れわたってか、ひょっこり、田舎住まいの姉の家族をおとずれ、わが子とわかる子の頬に手を添え、ふたりで歌歌っておどりながら妹はまた独りで立ち去って行く。胸にしみるあかるい絶景、もののあはれ。産人の存在感に実意が生きる。あねは、カタセ・リナと謂うたか、デビューの昔から今も贔屓の達者な女優。「一存在」として場を占めている。妙に愛らしく幼けない妹踊り子の名を覚えられなかった。荷風先生を、また読みたくなった。荷風映画としては山本富士子の『墨東綺譚』より、此の『踊子』もののあはれの眞実感を買う。
 
 * 夜には、スリルに満ちた戦中活劇を、こういうのは初めてという妻と深夜まで見入った。私は少なくも二、三度目だが、何度見ても新鮮なド迫力、妻も感心したらしい。情けないことに、題も、主役の名も、わずかにまだ若かりし脇のクリント・イーストウッドしか思い出せない、いや、題は『荒鷲の要塞』だったか。主役は、顔ははっきりしているのに、名前が思い出せない。(リチャード・バートン) なかみは、よく覚えていたし、忘れないだろう。あれもまた観たいと思うスリルとサスペンスの同類作が幾つかある。
 
 * うちで、板で観る映画は尽く「撮って置き」。優に250枚異常がえり抜いて録画してある。映画館で支払って観てたら破産してしまう。
 映画/・映像、ほんとうに好き。これなしで、読書だけで凌ぐにはコロナ?逼塞の三年、永すぎる。まだ、明るい展望は見えない。
 
 〇 秦恒平様 残暑お見舞い申し上げます。
 つつがなくお過ごしのことで何よりと思います。
 朝の前茶は体調の維持に素晴らしい効果を持つでしょう。
 私事。 私はこの三ヶ月間は書評、対談本の作成に追われました。
 目下、「宗教と病ーー聖書的信仰の観点から」という11月に行われる、三人の講師による聖書講演会での講演の準備に追われています。9月、10月にも一つずつ日本基督教団の二つの教区の牧師たちの研修会での講演と討論があり、その準備も必要です。いまだに一日のゆとりのない生活です。
 9月は武蔵野日赤での心臓の定期検査の後、都内に出ての講演です。
 今日もよい一日をお過ごし下さい。お便り、ありがとうございました。
                     浩 国際基督教大学名誉教授
 
 * 私にも 文字通り同じように駆け回り、書きまくり、本を出しまくりの時期が有った。よう働いたと思う。もうアレはでないは、別の仕方の仕事はできる。
 
 〇 秦 恒平 様 8月28日 おはようございます。今朝の体重は? 26日の55.5kg には驚きました。半世紀ほど昔は、たしか70kg くらいはありましたよね?
 (四半世紀の昔には優に86キロありましたね、 秦)
 みゆ希さんとの思いがけないテレビでの出会い、さぞ嬉しく懐かしく驚かれたことでしょう! こういうこともあるのですね。
 4回目のワクチン接種、無事に済まされたようですね。コロナ感染症もまだまだ収まる気配もありません。いずれ5回目も必要になるでしょう。
 この夏は、仙台とは思えないほどの暑さでした。京都ほどではありませんが、東京並みでした。 やはり地球温暖化の影響でしょうか・・・。
 8月も末になってようやく暑さも収まりホッとしています。秦さまは「生来の寒がり」だそうですが、私は「寒がりの暑がり」です。
 仙台の冬は雪こそ多くはありませんが、蔵王下ろしの冷たい風が吹いてとっても寒いです。雪国秋田の友人に「仙台ってホントに寒いのね」といわれます。
 どうぞ好い9月をお迎えください。9月になりましたら、笹かまぼこの「里の秋」も出回るようになるでしょう。  惠子
 
 * 過不足ない適確なお便りに感じ入り感謝している。
 
 * 掌も指先も鳴るほど痺れていて、とても自筆の手紙はどなたにも差し上げられない。ル・アドレスをよろしくばお預け下さい。
 ナニとしても腹をくくってホームページの電送を回復したいもの。この超絶雑然の部屋へ人様を迎えるのは身が縮んで困惑当惑だが。建日子にそれが出来るのだろうか、機械の原状や現状までも奔逸混乱させられては堪らないのだが。
 
 〇 あに・やそろく様
 お元気でお過ごしのメール有り難うございます。ワクチンも無事に終わられ良かったですね。
 お孫さんのみゆ希さんに「テレビ画面で」会われとのこと 凄いことが起きましたね。私はどんな小さなことでも嬉しい出来事は「奇跡」だと思います。大抵は小さな奇跡ですが これは大きな奇跡ですね!
 どうぞますますお元気で お過ごし下さいね〜  いもうとより  琉  妻の妹
 
 * 時間の感覚が崩れ、いまも朝の五時ぐらいかと目覚めたら、今日の夕刻五時。こういう生きザマも面白く主悪のはヤケクソか。
 
 〇 お元気ですか、みづうみ。わたくしは元気に過ごしています。
 ワクチン四回目もお済みとのこと、何よりです。どうかコロナへの盾となってくれますように。
 みゆ希さんとの思いがけない再会も喜んでいます。お元気とわかったのは素晴らしいことでした。
 これからも タクシー利用はお勧めします。電車やバスより感染リスクはぐんと下がりますし、暑さ寒さを我慢しないで良いですし、案外時間もかからずらくな移動です。健康と安全にお金をかけることは浪費ではなく、自分を守る必要経費です。
 > 「花筺 はなかたみ」。「私語の刻」とすこしちがう。いや、全然ちがう気がする。 秦恒平を騙った魑魅魍魎のつぶやきに近いか。
 「花筺 はなかたみ」とはなんて素敵な名づけでしょう。そしてみづうみの魑魅魍魎のつぶやき、と伺えば、どうしても読みたくなります。みづうみのお書きになったものなら、たとえ買物メモでも読みたい、と以前にも書いたこと覚えていてくださるでしょうか。
 今日は少し涼しく感じます。このまま秋がくればほっとしますが、さて、まだまだでしょうね。どうか、ご無事にこの夏を乗り切り、お元気にお仕事をお続けください。
                            なつは、よる   
                      
 * タクシー利用の勧め、ありがたい。実行してみよう。
 
 〇 元気にしています。
 ゆらりゆらりですが、自分の足だけで歩けていますから。
 まだ暑い日が続いています。暑いか、ひやひやするかしかなくて、今朝は冷たくて、身体じゅう冷えて、こういう時にギックリ腰になるかもしれないと熱い紅茶で温めました。今は汗をかいています。湿度が50%なので、31℃でも、過ごしやすいに違いないはずですよね。
 見えないとうんと明るくして、本を読んでいます。
 絵は6号程度のもの、
 ピアノはBRAHMSの間奏曲、まるでため息のようです。ピレシュは自分の音を持っていますね。骨格のしっかりした人でした。
 何かの手順を忘れて機械まで手順を忘れたみたいな感じで 変なところが動いてみたり、・・・   柚
 
 * わたしもマリア・ジョアオ・ビレシュのピアノ曲を愛している。
 
 * なかば夢中、ムキになっていろんなこを機械で試みていた、ナニの取り柄があったとも謂えないが。何人ものメールを受け取れたのも気の励みに成った。
 
 * 「鎌倉殿の13人」が陰惨になってきたのは「史実」を違えていない。願わくは、独り合点の「呟き科白」はやめてほしい、聴き取れなくてはハナシに成らぬではないか。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月二十七日 土 
    起床 7-05 血圧 134-71(58) 血糖値 76 体重 55.9kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 中世人ないし中世的の感覚では、絶対に自然的なものこそ魔術的なものであった。吾々にとっては反対に自然的なものがおそらく全く「自然的」なものになってしまったのであろう。それ故に吾々の時代に宗教を見出すことは過去の何れの時代よりも困難なのであるが、それ故にこそ吾々の時代は、宗教を一層必要とする、善し悪しはついて回るにしても。   (一五三)
 
 * 前夜、寝がけに独りであれも西部劇というのか、ベテランのスペンサー・トレーシー主演『折れた槍』を観た。主役は「馬」と想うほど馬上の超絶疾走シーンが爽快で目を瞠った。ま、それだけとも謂えるが先住民族との結婚やその子の体験する葛藤にもののあわれも滲み、佳作と謂えた。
 
 * 朝はいちばんに、煎茶を惜しまず、茶を点てた。朝一番の美味い茶は、新門前の昔から秦家では「ならわしごと」。夏には母がかならず障子を張り替えていた。観るから涼しくて好きだった。狭いながら泉水の水を替えて金魚をはなすのも、笹が青青とそよぐの浅賀の作のも好きだった。昔のわが家には小さいなりの爽やいだ文化があった。母にも叔母にも、たとえ漬け物漬けにしても毎年観られる生活上の年中行事があった。好い物だった。
 今のわが家では障子の張り替えなど想いも寄らない、ありとある障紙「マ・ア」ズに攻撃されて失せており、妻にも張り替える手技が無い。家政と謂うことでは年寄りや男の沈黙の目に見られて、母も叔母も、想い起こせばいろいろな「ならわしごと」をを手早にきびきび遂げていた。掃除と洗濯と食事の用意だけでは無かった。それらにも「機械」の手助けなどナニも無かった。
 
 * 「ならわしごと」と書いて、胸の痛い想い出に触れてしまった。
 
 よのつねのならはしごととまぐはひにきみは嫁(ゆ)くべき身をわらひたり
 
 謂うまでもないがここで「まぐはひ」とは目と目を合わせての意味に歌っている。上皇を謂う「みとのまぐはひ」ではない。あの、祇園石段下、屋さん中学の前、四条大通り路上での、のこり惜しい、よぎない、ただ数分に満たなかったまさに「立ち別れ」だった、いまも手を結び合うた「あのとき」のままに思い出せる。いらい、七十年怒濤の人生はいまにも静かに濤を退こうとしており、あの「ねえさん」もすでに亡いと、妹、またその義妹により、あたたかな心遣いと共に伝えられている。
 
 あなたとはあなたの果てのはてとこそ吾(あ)に知らしめて逝きし君はも
 
 * 『船を下りたら彼女の島』という瀬戸内「しまなみ」へ東京から帰省の娘の一週間を描いたしみじみと静かに、情感を美しく湛えて大好きな映画を、午前に、またまた観た。『紙屋恭子の青春』とならんで最良の仕上がり、気持を優しく沈めたいときは最上等の藝術作。帰省の娘もいいが、二年ぶりに迎えた両親の心優しい静けさに胸を打つ情愛がにじみ、それが「しまなみ」の静かに広やかな景観と討つ串間馴染み合うていた。大杉縺と大谷直子であった。
 
 * 午、久しぶりに蕎麦を食い、あと一時半まで寝入っていた。心穏やかに、睡ければ寝る。登るにせよ下るにせよ老境の坂道を焦らない。
 
 〇 素晴らしい 元気さに乾杯 気迫のメールです
 晩年とは言い難いこんな老人が居るなんて タマゲタよ   昔の学友から来るメールはほぼ ホームに入る話かデイサービスの話で、力付ける返信を出すばかり ヤレヤレ
 私も楽しみの為の外出の機会は、ほぼ無くなりました
 マア若い家族に迷惑を掛けない晩年を過ごしたいたと願ってはいますが…
 又…  花小金井   千繪
 
 * 夕食後 十九歳高橋貞樹の力編『被差別部落一千年史』岩波文庫を読み、『参考源平盛衰記』で嫡子重盛が父清盛をコンコン諫めることばに聴き入り、暑気の加わるのを感じて冷房を増しておいて寝入った。これが日々の疲労を凌ぐのに一等愉しくもラクな方途と思う。
 創作の頁を充たせば「湖の本 160」入稿出来る。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月二十六日 金 
    起床 6-15 血圧 132-64(57) 血糖値 76 体重 55.5kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 詩人、特に劇詩人は、不正なものにもなお権利を与えるすぐれた愛を持っている。藝術品に於いて悪が存在するのは、その権利があるからに過ぎない。   (一五〇)
 
 * 一夜にして体重減におどろく、1.3キロ減っている。が、理由は分かる。寝る前に、、前夜十時頃に、処方されている利尿剤と、やはり処方されている浮腫抑止の薬を各一錠、同時に服用して十一時に床に就いていた、ところが,夜中、朝の寝起きまでに「尿意」に床を起つこと六度もふつうに排尿していたのだから、体重減は理の当然で。すこし浮腫が出ているなと手脚を観て服薬に加えたのだったが利尿剤を倍に重ねた効き目になった。今朝の手脚はほっそりしている。このほっそり、自然のそれとは観られまい。
 * 夢、がやがやと雑多、uにも覚えていない。快も不快も無く。
 幸い、ワクチン接種は無事に躰が受け容れたようだ。よし。
 
* 昨日、接種のため近くの厚生病院へタクシーで出向いたとき、運転手に、このまま京都まで走れるかと訊いた。京都はむりだと。しかし熱海、静岡、水戸、仙台、新潟、秩父奥なら問題ないと。ともあれ「視野」が開けた感じ、まして都内、浅草、上野、銀座へも混雑の電車を避けられる。
 もう金銭の支出をなるべく顧慮せず、行き当たりばったりも勘弁して貰おうと想う、幸い建日子は親の持ち前を、まったく必要としていない。朝日子のことは考えない。
 
 * それはそれ。昨日妻が、想いも寄らなかったものをテレビで見つけた。あきらめきれぬ亡き孫の「押村やす香」の妹、もとより私たちの実の「孫」の「押村みゆ希」がテレビで話している写真を見つけたのだ。姓名ともに齢恰好も相違なく、細面のそれも大人の容貌だが、まちがいあるまい、いま目に、また写真にのこった中学高校ころの「みゆ希」との「最後」の対面はまだ年少、姉と二人して嬉々とひな祭りのひな壇をわが家で立て飾って帰っていったいった、あの二月二十五日が、この愛おしい孫姉妹との最期になってしまった。姉やす香は思えばあのときもう体調に違和を秘めていて、だるそうだった。そのままの夏七月、母朝日子の誕生日の二十七日に、亡くなってしまった。
 その後両家の不快極まるすったもんだと絶縁については想い出すも厭わしい。しぜん、みゆ希とも絶えて会えなくなっていた。
 私たち祖父母には此の世で唯一人の血を継いで呉れている孫娘なのだが。
 その子を、テレビの画面で妻はみつけたのだ、偶然かどうかは知らない。かねがねみゆ希の幸せを願って妻とも哀しみ続けてきたが、すべては「みゆ希」自身の自発的な智慧と理性に任せようと思ってきたし、いまも同じ。それでも無事成人の「姿や声」を目に耳にしたのは嬉しい安堵で。せいぜい世の中へ出て働きたかった「亡き姉」の分もしっかり努めて欲しい。必要なら応援も惜しまない。
 姉やす香は、結句亡くなるまで、いつも自発的にわれわれ祖父母を訪れ来ては、うれしい和やかな時を績み紡いでくれた。途絶えている押村と秦との無意味な紛糾に橋渡しをしたいと「やす香」は懸命だったのだ、恥ずかしい。わが家にはそんな聡明で優しかった「やす香」の面影が、あちこちにかざられ、わたしは日夜「対話」を欠かさない。
 
 * 妻に、ワクチン熱かと想うかるい発熱が暫時あったが、、ま、おさまったよう。私にはこれという後遺症状は何も無いが、「骨皮筋」右衛門のかなしさ、猛暑と謂うに、冷房が効くとむしろ膚寒さに肩をすくめる。
 
 * 八月ものこる五日、もう秋ですという気早なメールも届いていた。幼来の寒がり。
 
 * 夏は、よる。真夏という時期が、真冬と同じに気に入っていた。
 中学一年のb¥、武徳会に入会し、京の疏水で、好きに泳ぎ回れた。高い橋から跳び込んだり、潜りたいだけ潜り続けたりしていた。
 一度は記録したかと想うが、疏水端のかんかん照りの舗装路を炙られながらてくてく歩いて家に帰ったが、三條通りへつく少し手前の川端に、あれは図書館なのか、公立か私立かの、がちっとした石造の建物が石段を七、八つ上に、シックな重いドアを明けていた。中に入って自由にいろんな書籍が読めた。信じられないほどだ、気に入った本の二冊まで持帰り借用も許されていた。日焼けで真っ赤っか、濡れた褌を袋にさげた中学少年が、厚さ十センチにあまる大冊で立派な『絵本太閤記』を持ち帰りたいと頼むと、何の斟酌もなく許可されたのだ、こっちで驚いた。一人前の大人になった気がしたが、ま、むさぼるように読んだ読んだ、大きめの活字と沢山な刺激的に美しくも怖くもある「繪」の数々に、抱きつくように読み耽った。
 私は人に借りた本は、貸してくれた先のたとえ家ででも必ず「最低二度」繰り返し読んで了うまで帰らなかった。それが私の読書常儀だった。抱くのも重いその『絵本太閤記』も、この好機逃せるかと、繰り返し繰り返し座って読み寝腹ばって読んだ。口語ではない和漢混合のナニ会釈もない書き下ろしであったが、それはもう祖父鶴吉旧蔵本の『神皇正統記』などで十分読み慣れていた。親房本もこの太閤記も、純然歴史書であったのだから、じつに多く「言葉・文字/・史実や人名」を覚えた。
 京の真夏のかんかん照り、水泳の武徳会通いのあれはもう「偉大な」とおもう好い土産であった。「やそろく」爺が生涯に嬉しかったことの「五十」の内には数える。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月二十五日 木 
    起床 5-30 血圧 124-61(70) 血糖値 76 体重 56.85kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 十分と謂うことは既に、多すぎると謂うことである。幸福主義的な享楽主義的なものと吾々の生の總対との関係にひそむ、これは深刻な矛盾である。すべてこういうモノは吾々にとって少な過ぎるか多過ぎるかなのである。十分という均衡領域が無く、前者は一変して後者になる。   (一四五)
 
 * 夢、雑然、苦い笑いを噛み棄てて、ひょろりと立つや、やそろく爺い。大方不快。
 
 * 午後早くに、四度目のワクチン接種を近くの厚生病院へ受けに行く。
 
 * ゆーうっくりなめて味わうほどに「解説」もふくめ「若紫巻」まで読み進んで、前九冊の岩波文庫「源氏物語」は第二巻へ進む。この世界の名作、もう少なくも廿度近くは読み返してきたが、微塵も飽かせないで感嘆させるのは素晴らしい。世界の名著の数々と併読していても、なお傑出して想われる。『十八史略』も『史記列伝』も『明治歴史』もまことに教えられて嬉しい。
 
 * 四度目のコロナ・ワクチン接種、六時前現在で異常を覚えない。これで、やや、外出して街へもと、思える。
 
 * 「認知」の混乱が生じていると、自覚し始めている。在ると思う「用意」原稿が見当たらない、のは、事実まだ手を付けていないのか、機械上で喪失したのか。「削除」さえしなければ機械から消滅はしていないかも知れないが、削除してしまったのかも。完全な思い違いでこれから仕上げて行くのかも。思い違いであってほしい、原稿以上に「時間」の喪失が辛くて惜しいいから。
 
 * シルベスタ・スタローン版で、別に、スティーヴ・マクイーンも別に主演したことのある映画『大脱走』が愉快だった。ドイツ軍と捕虜の連合軍とでサッカー試合の結末に「大脱走」が成功する。
 そんなことが事実あったのだろうか。ともかく血沸き肉躍る類いの一種の名画であった。
 
 * ともあれ、ワクチン接種は四度とも無事に通過できた。効果あれと願うばかり。体調をととのえて八月末を通り抜けねば。ワクチン効果が確かめうるのは接種一週間後からですとか。好い九月が待たれる。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月二十四日 水 
    起床 5-30 血圧 124-61(70) 血糖値 76 体重 56.85kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 幸福を求めることには矛盾がある。自我を生の中心にして世界の価値を全く主観的反応の上に据え−−しかも客観に依存していることを告白し、その上この自我が自ら爲しうる以上のことを熱望するという、矛盾がある。  (一四〇)
 
 * 夢見に望ましさ無いまま独り起きて朝食。良いこと何も無し、思考も志向も途絶のまま一日を始める。
 
 * 三方狭苦しい機械前で横転し腰で支えたが、転ぶのは何よりよろしくなく、骨が弱っているので、油断ならない。正直なところ、なにもかも投げ出せたらいいのにと弱音がでかけて居る。休息と愉快とが必要なのだ、ぜんしゃなしに後者はありえない。しかしコロナ?すこしもホンモノの快方へ向かわない。
 充分な費用と軽い手荷物とだけで旅したいが、さて案内も無い。学生時代にはあてどなく、いきなり汽車に乗ったモノだが。秩父へなら西武線で行ける。さきの案内が無い。せめて地図でも土地案内でもあればいいが。妻と「マ・ア」ズに留守させるのは、妻の体調太鼓判とは行かず。そもそも私が保谷駅まで歩けのかどうかも危うい。
 明日四度目のワクチンを無事接種できれば、ふたりとも、歯科へこそ通いたいのだ。が。
 
 * 今晩の映画なみのどらま『天地明察』は例の呟き科白の聴き取れ無さをがまんしても、天文の安井算哲夫妻和描いて秀逸であった。少しく機嫌を直した。、
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月二十三日 火 
    起床 6-00 血圧 143-60(56) 血糖値 76 体重 57.3kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 虚栄心の強い人間はその自己意識からすれば他人に依存していない。潜在的に彼は、自己への極めて高い見識を持っている、が、それを実現する力を持たず、それへの勇気も持ち合わせていない。彼に他者他人が必要なのは、ただこの自身への見識を保証してくれるためである。自己に関する彼自身の自負や見識を肯定するコーラスとして必要であるに過ぎない。そうでないと、そんな自負や見識は斷えず滑り落ちて行くからである。
 それ故に虚栄心の強い人間はしばしば大衆を軽蔑するにかかわらず,大衆なくしてはついに存在することが出来ない。  (一三六)
 
 * なんとも慌ただしいじれったい迷惑な夢を投げ捨てるように覚めた。よくよく想えばあの女は、統一教会と縁があったなかったで弁明しきりの安い女代議士の顔をしていた。おもしろくも無い。
 
 * 昨日 もと専修大教授から戴いた『関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を 読み解く』は、まさしく、凄い。新発見の「関東大震災絵巻」に拠っている。こういう本も出来るほど、昔話になったか、いや、ただ昔話であるまいよ。
 こういうのを絵入りで見ていると、つい白行簡の『大樂賦』などへ眼を逸らしたくなる。これはもう、なつかしい。優しくも美しい。原文で読んでいれば何の遠慮も無く堪能も耽溺すらもできる。
 
 * すこし躰をやすめ気味に、午前は少し寝入り、午後は韓国ドラマ『花郎(ファラン)』最終回を観、そのまま映画『フィラデルフィア』を観終えた。映画はトム・ハンクスがゲイの性関係からエイズにかかり、弁護士事務所を解雇されたのに抵抗の裁判劇で、デンゼル・ワシントンが弁護にあたっていた。あまり気味のいいものとは云いにくかった。差別被差別の問題以前に私はこころよくは受け容れにくかった。同性で親友、仲良しの友愛は世間一般の望ましい当然であるが、同性の「性行為」分かち合うしまでは、共賛はしない。神も自然もそれは自然にあらずとみているのでは。
 
 * 若返れるとしたら、私は白行簡の説く『大樂賦』のようでこそ、ありたいもの。
 
 * このところ量を読むよりも、寝ている。体調のためにはそれが効く。和綴木版の小冊子でつづく『参考源平盛衰記』が手に軽く、中身は興味深く、寝て仰向いて読むに最適、文庫本は字が小さくて。沢山は読まないなら大きな重い本でも字の大きいドストエーフスキーの『悪霊』などが惹き込む。しょっちゅう「調べ読み」の感じで読みあさるには新書版が助かる。『中国の歴史』『諸子百家』など、どうも中国の上古・古代史へ手が出る。明治本は、見た目より軽く字は大きめで、『十八史略』『史記列伝』『明治歴史』にはしょっちゅう手が出る。読み物もこのところ『水滸伝』に集中。周恩来夫人に人民大会堂での接見で「秦先生はお里帰りですね」と笑われたのを想い出すが、あのややっこしく諸国がしのぎを削った時代の「秦」の一段としたたかに「統一」「建国」へ走る時代に私の視線は集まっている。
 
 * 籠居三年、このままでは「歩けない」人になってしまう。
 
 * モシアノジョーカーのような「トランプ」がまた大統領で現れ傍若無人にやり出せば世界は、音がしそうに揺れるだろう。観て逝くのかなあと妻と案じている。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月二十二日 月 
    起床 6-45 血圧 135-70(64) 血糖値 76 体重 56.3kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 幸福というものは他の心的状態と同じく決して単純に繰り返されるものではない。明日「新しい」幸福を創り出すことの出来る人のみが、明日もまた今日と同じ幸福を持つことが出来るのである。  (一二七)
 
 * 夢は見なかったが、気づいた不審を、調べる手立て無いまま考えていた。私の生まれは1935年師走も余す十日しか無い歳末。兄北澤恒彦の出生は、長男恒作成の恒彦履歴で確認できるように前年1934年4月下旬、当然に懐妊はさらに前年初秋へも遡る。父と母とは,私が生まれて歳越えの早い時期に生木を裂くように父方の手で引き離されている。数えれば、それより以前じつに二年数ヶ月も以前から、父と母とは若い学生と一女三男をもう産んでいた寡婦とに「性の関わり」が出来ていたことになり、それは近江能登川の旧家である母方親族からも、南山城の旧家である父方親族からも好ましいことでなかった。父方がそれと知って、嗣子でもある長男の奪還と幼兄弟を戸籍から「峻拒」の対策を強硬に嵩じたのは、昭和十一年1936年早々であった。それにしても、様子に気づくのにそんなにも永く気疎かったのか、高みの見物めくが驚いている。恒彦誕生から恒平のそれへほぼ20ヶ月も「無事!!」に我らが両親は京都の西院辺に隠れ住めていたとは、経済も生活者としても、いささかならず想像し難いナ、と、夢うつつに想いまわしていた。
 何の役にももう立たないが。ま、私なりに両親の墓標は立てたよと、もう、この辺で、私ももう今年冬至には「やそしち」歳の爺になる、永く握った掌を開いてやろうと思う。
 
 * はやめの夕食後、そのまま本も読まず寝入って、十時。寝られるというのも一つの利点と受け容れている。機械をやすめるために、明日に備えておくために、此処へ来た。
 
 * 京舞家元へ呈上の「花」「月」「雪」一字に和歌一首を添えた長尺、小堀遠州系の筆になる三幅對が行き着いた。お舞台の床に掛けて戴けると。安堵した。ついに床の間の無い家に暮らし終えるわが家に死蔵しては、軸たちに気の毒と、気に掛けてきたのだ。たにもまだ軸物や茶道具がかなり有る。建日子にはそれらを見定める趣味も目も無い。それらの処分にもまだまだ頭が痛い。「道具」として生かしてやりたいのだ。
 
 〇 今朝方も、和歌山ではおどろくような雨が降りましたようで、不順なことでございます。
 先日は,久方ぶりの東京でのおさらへ会を終えて今日に取りましたら、思いもかけぬ御立派な贈り物 御礼も申さぬまま、山の日をはさんで、上高地へ出向いてしまいました。
 まずは、月の季節、三幅並べて、舞台の床へ掛けさせていただこうと思います。心よりの感謝をこめて   井上八千代
 
 * あの丈高い かつ簡明に美しい三幅が一つ床に並ぶまはさぞや閑雅にうつくしいことであろう。よいことをした。仲之町で茶の湯生け花の師匠だった叔母も、あの三幅が西之町の「八千代はん」の宅に婿入りしたと知れば満足してくれるだろう。よいことをした。、
 
 〇 平家物語 三巻(新潮社刊)等 頂戴致しました。
 ならびに「湖の本 能の平家物語」も ありがとうございます。
 早速ご本選定から荷造り郵送手続きと、迪子様にも、ご厄介をおかけしました。
 感謝申し上げます。
 秦様のご厚意にこたえるように最速の配達でした。
 楽しませていただきます。先ずは「大原御幸」からと。
 どうぞお疲れが出ませぬように。お体のご回復を祈っています。 持田 晴美
 
 * まっさきに おしまいの「大原御幸から」がおもしろい。謡曲のお稽古がそれへ懸かっているのだろう。八十六歳のお勉強に期待しよう。       
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月二十一日 日 
    起床 6-15 血圧 150-72(59) 血糖値 76 体重 57.25kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 幸福とは、高い精神力が低い精神力によって煩わされることの無い境地であり、気楽とは、低い精神力が高い精神力によって煩わされることの無い境地を謂う。 (一二五)
 
 * 梅原猛さん登場の夢を見たが、なにも思い出せない。梅原さんとは、思えば久しい仲らいであった。京都美大の学長になられた頃、学長室で、さて何と云うことないしょたいめんだった。以降亡くなるまで、ペンの理事・理事長などされていたあいだ私も理事として付き合った、また京都美術文化賞の選者として、日本画の石本さん、陶芸・彫刻の清水六兵衛さん、染織の三浦景生さんらも一緒によほど長期間お付き合いがあった。ま、つかず離れず親しんだお人、その勇ましく書かれるものを「猛然文学」と批評していた。
 
 * せいぜい米の飯だけでもと梅で細く海苔巻きにして貰ったりし、心持ち体重かリバウンドしているか。仕事の状況は、ザワザワといろんなものが轡をならべている。こういう状態は落ち着かないもの、うまく抑え静めながらなることから始末を付けて行くしか無い。焦れてはいけない。
 
 * 「湖の本 159」の初校を終え、表紙他のツキモノ入稿用意も出来た。見開き分の「あとがき」が書けたら送り返せる。
 
 * 冷房しなくて済んでいて、なおかすかに膚寒い心地。食べ心地が戻りつつあり、涼しくなるにつれ体調を回復したいが、残暑の厳しさはこれからだろう、まだ八月の地蔵盆、子供達のおまつり日だ。今でもそうだろうか盆踊り最盛期に掛かる折りだ。昼間からそわそわし、晩になると浴衣で、諸町内へ踊りに行ったも。ロマンチックとは、私にはこの盆踊り時季を謂うのだった。
 
 〇 鴉、最悪の疲労困憊と。鳶は泣きます。
 食べてください。痩せないで。栄養剤、点滴も考えて。
 わたしは孫の発熱にこの一週間余安らいでいませんが、頑張っています。
 どうぞ元気を出して。
 
 * 少しずつ少しずつと。
 幸いに「湖の本159」要再校ゲラも明日朝には郵送できるまで用意し、暫く避けていた酒も解禁。ま、避けていた方がよいのだろうが。
 一つには上下に歯がない。食には大きな障り、だが安易には電車とバスとで歯科へ通えない。コロナは、なんら下火ではないのだから。
 へとへとの「へと」という実感が初めてもてたよ、幸か不幸か。
 
* 目がよく見えない。機械では、かなり大きく字を用いているのだが。文庫本の字が読みづらくなつているが、手に重い本はつらいなあ。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月二十日 土 
    起床 5-30 血圧 127-73(49) 血糖値 76 体重 57.0kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 軽薄と退屈の他なら何であろうと我慢できる、しかしながら大多数の人にとっては何れか一方に陥ること無しに他方を避けることは全く不可能である。   (一二四)
 
 * 「姉さん」の夢を見た。どこかへ帰ってゆく人であったが、そのまえに元気にみなと草野球を愉しみ、「頑張るのえ」と頬に手をそえてくれてから、バスでどこかへ帰っていった。微塵も気取らない、聡いひとであった。見送って、寂しかった。
 
 〇 五山の送り火の中継を、久方ぶりにテレビで見ておりました。
 お盆の行事も地方で様々ですが、生きて行く人にとってこそ意味あるものに思っております。なかなかいいものです。
 生はすなわち使命、であれば、お若い頃のように細くおなりなら活力が湧いていらしゃるように思っております。恵まれ過ぎていらしゃるのかもしれませんが。
 お元気に、お幸せな日々を祈っております。  那珂
 
 * 早く起きた。「要事」は積まれてある。
 独り跫音も謹んで階段を二階廊下へ上がりきった窓の下に、書架に凭れて建日子がまえに呉れた「獺祭」一升瓶の佳い木箱が立ててある。胸には「感謝」という大きな書字があり、わたしは、決まって箱の頭へ掌をおいてくる。ここに建日子が居る、ありがとうよ、と感謝するのである。そして窓のカーテンをサッとあけると、早朝の朝日が東西まっすぐの路へま東からまっすぐ射している。お向かいはまだ寝静まっている。この「朝日通り」と呼びたいわが家の前の路が大好き。朝日子や建日子とキャッチボールしたりしたナと懐かしくもある。明るい陽射しの美しさを、こころから愛する。
 
 * 労らねばならないのは「視力」と思う。この暑さにそくッと膚寒い。
 
 〇 母は八十代に入ってからは毎日、疲れた、体調が悪いと言い続けていますが、来年は九十歳です。高齢になると、最悪の体調のまま生活しなければならないという教科書のようで、「元気な高齢者というのは幻想」だとわかります。
 みづうみの精神はお若く脳は益々お元気。素晴らしいことです。お仕事に埋もれながら、いつもお幸せでいらしてください。お元気ですか、みづうみ。  なつは 夜
 
 〇  つみためしかたみの花のいろに出でてなつかしければ棄てぬばかりぞ
 
 * 走り書きや思い付きのママ書き捨てたまま、散った花びらのようなものが、機械のあちこちで埋もれて在る。無数にある。なにとはなく「花筺 はなかたみ」に投げ入れておいてやろうと。
 私の場合、「書く」とは「描いておいて化ける」のであろう。「花」とは、なにかの化けた証しなのではないか。「私語」とすこしちがう。いや、全然ちがう気がする。秦恒平を騙った魑魅魍魎のつぶやきに近いか。
 
 〇 朝夕少しは涼風も吹くようになりました。迪子さまともにお変わりありませんでしょうか?
 「千手」「敦盛」と観能の機会が最近にあり、「能の平家物語」のご本を再読しました。
 このご本は、謡のお稽古が平家本の折にも常々、読ませていただいています。
 太宰賞ご受章の「清経入水」の私家本を取り出して読み出しました。
 頂戴しました折に読み、湖の本でも読ませていただいたと思っていましたが、今、全く違って読めます。 
 先ずは、昭和37年。38年と世に出され、頂きましたご本からと。
 迪子さまが描かれた表紙絵のある 菅原万佐作の「懸想猿」・「畜生塚」と。「畜生塚」にはすでに「胡蝶」謡曲の話は出てきても、難しい、わからないと、すらっと、読み飛ばしていたのか、覚えもなく、残念です。
 
 書棚に並んでいますご本。頂戴しましたご本もたくさん。
 『修羅』の本の表紙の「十六」の面の美しいこと。その折々の事も思い出しながら、装丁も楽しみながら、読み継いでいきたいと。100歳の寿命と言われ、久しいですが、どれほどの時があるでしょうか?
 世情はどちらを向いても、憂鬱な事柄ばかりですが、気候の変わり目でもありますので、お二人様にはどうぞお身体お大切に、を一番にお過ごしくださいますように。  晴美
 
 * 妻の最も昔からの学友、親友。私も初対面は大学生の昔へさかのぼる。その頃この人は大阪で銀行勤めではなかったか。その後に、私たちの上京結婚とほぼ時を同じく上京されたかと。それにしても将来、謡曲や仕舞を習い、演能にまで体験を広げて行く人とは夢にも想像できなかった。まさしく、たいしたお人、賞讃と感嘆を惜しまない。
 
 * 一巻分の「初校」という用事が加わったので、今日は寝入りもせず、仕事を右に左に、少しでもカタをつけていた。右顧も左眄もならない、すべきをし続けるだけ。テレビも見ていない。
 
 * 記憶を徐々に喪失して行くらしい気配を覚える、今日は。用意在るべし。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月十九日 金 
    起床 7-00 血圧 138-66(69) 血糖値 74 体重 56.15kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 青年に於いては過程が内容に優越し、老年に於いては内容が過程に優越する。生命の眞の成熟とは何か。内容を生き生きとさせる多くの生命があり、過程を完全に充たす多くの内容がある、ということ。青年の空虚な鈍い衝動、憧憬と、老年の頑なな智慧とは二つの極端である。  (一一九)
 
 * 少年の昔に聴いたことが有り、いいことだと寒心した。フランスでは、国語の美しい正しさを「放送局」の放送が努めて守っているのだと。佳いこと、そうあって欲しいものと思ったのを今もそう願いつつ忘れないが。近年の日本のテレヒ「放送・放映」関係者らの「日本語」を、率先して汚し乱してくれるのには情けなさを禁じ得ない。「日本語」を「日本文化」としてまもり育てる責任感など、率先して放送局が放置放擲している。
 天皇さんの「お言葉」なる習慣を是非する気は無い、が、「お言葉」集はかちある「日本語」の模範としてもっと意識されると佳い。
 
 * 「湖の本 159」初校が、やっと出た。取り組んで、気を励ましている。いきおい、続く「160」へも鞭を入れて行く。
 
 * もう、幸か不幸か国内外の政治動向に、関心はあっても、それへ「もの申す」前に残年をはかりながら、して置きたい、し残している、ことに「思い」を向けたい。所詮人とももう会いも出逢いもしまい。私自身へ帰って行く道のりを推し測りなが、出来ることをしておきたい。話しかけてくれる人とは機嫌良く話し、しかし、もう私から話しかけることは無くなって行くと思う。
 今度の「湖の本」巻頭には「花筺」を置いた。気散じに摘み置いたあえかな花、草花たちを筺に入れたまで、そんなは無数にりそう。もうおしゃべりの元気は遺っていない、ひとりごとのように「花筺」に、たとえ花びらに過ぎずとも拾い摘って上げようと思う。
 
 * 日々十数種の本を読んでいて、しかもそれをさの灯しめくくれるのが、結局『源氏物語』だというには、驚く。「末摘花」まきのようにワキの巻を読んでいてさえ、そうなのである。
 
 * 暑いという。猛暑という。それなのにわたしは、寒けがする。熱は測らないが、躰を燃やすエネルギーが、つまり欠損仕切っているのだろう。用意してくれる食べ物の、半分とも、喉を通らない。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月十八日 木 
    起床 5-50 血圧 128-67(54) 血糖値 74 体重 56.3kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 高い精神的な関心に生きることは、老人になったときひどい退屈と生活の倦怠とに対して吾々を守りうる唯一のものである。  (一一八)
 
 * 冊子「日本橋」などを拾い読みながら、枕元の灯を消したのはもう一時前だったろう。なにやら多彩に競い争う感覚で夢見ていたが、もう思い出せない、いろんな人影の交錯する夢であったのに。
 
 * すぐ二階へ。愛くるしいほど足先を連れて先立つ「マ・ア」ズと部屋に入り、まず「削り鰹」を奮発した。泪がしおからく目玉がひりひりする。
 
 〇 残暑お見舞い申し上げます。
 暑い夏に熱い思いが通じたのでしょうか、、、「二世望月太左衛 鼓樂 vol.8」が令和4年度(第77回)文化庁芸術祭参加公演に承認されました!!本日通知がきました。これまで2002年、2010年、2012年と参加し、10年ぶりの参加公演です。これも長きにわたる皆様の応援のおかげでございます。ありがとうございます。とても嬉しいです。ファイトでゆきます!
 
 * 寝るために起きてきたかと笑はれて疑ひもなくそのやうである  午前十一時
   骨と皮に瘠せてにくむに肉の無い我身のさまをわらふすべなく
 
 * 性など謂う「こと」からかけ離れ、何十年か。張文成の『遊仙窟』やときに『道教の房忙中』などぱらぱらと見もするが、最近は、葉徳輝の編になる『雙梅景闇叢書』のうちか『素女経』や、殊に白楽天の弟という「唐白行簡賦殘巻」中の『天地陰陽交歓大樂賦』の名文(原漢文)を愉しんでいる。「歓」は「勧」ともあるが、前が正しいだろう。
 
夫性命者人之本、嗜欲者人之利。本存利資、莫甚乎衣食既足、莫遠乎歓娯楽至精。極乎夫婦之道、合男女之情、情所知、莫甚交接。(交接者、夫婦行陽陰之道)其餘官爵功名、寔人情之衰也。
 
と、真っ向書き起こされてある。しかも以下の叙事修飾が美しくも情に豊か、想に熱い。白行簡の『大樂賦』じつに心憎い名文の著なのである、本は新しく綺麗で、私が買い求めたと思われるが、いつ手にしたか全然覚えない。白楽天の詩には少年の大昔から、祖父鶴吉の蔵書で久しく「愛読」を重ね重ねてきたので、その「弟」の著作というのに惹かれたのに相違ない。で、この数日前から机右にいつも控えてくれている。「やそろく」翁の気付け薬のようである。
 
 * 午後、寝入ったまま、左鼻孔からかなりな量の、食べ物もかすかに混じった水分を吐いた。全身、骨と皮になって肉付きが無い。体力は払底して、よろめいている。それでもどこへか出かけて、なにかしら肉けのものが食べたい、が、その元気がない。生命力が霞んでいるか。
 
 * それでも、『明治歴史』も『史記列伝』も読めて興を惹かれる。明日には、「湖の本 169」初校が出ると連絡があり。何かに打ち込めれば意気はあがろうか。「読む
という働きはよほど性に合っているか苦痛や不快を忘れて、何冊にでも手が出る。一冊集中という読みを私は近年むしろ避けている。十無いし十数冊を少しずつ読む。一書の絶対化よりも世界と感性の多様に馴染み馴染めるのを喜んでいる。十八史略 史記列伝 水滸伝 大樂賦 ルソーの告白 人間不平等起源論 高橋貞樹の被差別部落一千年史 坪田の明治歴史 参考源平盛衰記 源氏物語 ドストエーフスキーの悪霊 カラマゾフの兄弟 ジイドのドストエーフスキー論 ジンメルの斷想 トールキンのホビットの冒険 等々が苦もない程度の分量、つぎからつぎへ読んでいって惑うよりも、世界の広さ豊かさが嬉しくなる。躰を横にしているので、疲れよりも多様の面白さが流れ寄ってくる。そういう時間を灯に二回ずつぐらい重ねて、これからする疲労は感じない。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月十七日 水 
    起床 4-45 血圧 146-77(62) 血糖値 74 体重 56.0kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 生活を藝術品にせねばというのは無意味である。生活は自己の内にその規範を有し、生活の形式に於いてまたこの形式に則してのみ実現さるべき理想や要求を含んでいる。この要求は藝術から借りてくることの出来ぬものであり、藝術には、別に、藝術の要求がある。  (九六)
 
 * 妻に聞くと、昨晩は七時にもう、私、寝入っていたと。朝かしらと目覚めても外は真っ暗、時計は九時と。変な時計だと思いつつまた寝入って目覚めて、時計は11時、しかし真っ暗なのだしとまた寝入って次は一時。バカみたい、とまた寝入って、なんと、亡き秦の母と高校の頃の村上正子と三人で、東京だか大阪だか大都会へ夢に旅していたからビックリした。なんぼ何でも朝だろうと目覚めてもまだ外は真っ暗、五時になってない。ママよと床を起って、二階へ来た。とんど十時間も寝入っていたのだ、少しはアタマすっきりしていて貰いたいが。珍しく空腹を感じている。
 秦の母と高校時代の村上正子に接点は全く無い。村上は私の「短歌愛」に賛同しノート作りにまで手を貸してくれた今も懐かしい佳い友達だった。消息が知れていない。元気だといいが。
 
 * 六巻まで興趣に惹かれ読んできた『参考源平盛衰記』の続き、七から十巻を手もとへ出した。目録に、「丹波少将併謀反人被召捕事」から、「内大臣召兵事」此下舊有幽王褒?烽火事今除之とあるが、除かずにおいて欲しかった。この書、巻之一から巻之世四十八まであり、その「引用書」は日本紀以降「通計一百四部」に及んで、通行本の岩波文庫『平家物語』上下巻の和漢混淆文とさま変わって、無数の異話異伝をはらんで往時の新聞記事かのように面白い。
 古門前通りに根生いの骨董商林弥男氏が秦の叔母つるを介して「恒平ちゃんなら読まはりまっしゃろ」と、桐箱入り全冊をポンと呉れたもの。いま踊りの「おっ師匠はん」をしている同年の貞子実父だった。私の嫁にという話も内々にあったとやら、なん十年ものちにその超級の美形「おっ師匠はん」から笑い話として聞いた。如何にも、あったそうなことであった。世の中は、おもしろい。
 
 * なんとか、食べたい。食べねばと思う。そのためにも、せめて池袋までも出たいが。きのう今日、酒は切れたままに節している、カンビールだけを少し。
 
 * 韓国の時代劇『花郎』は『い・さん』『とん・い』『馬醫』にくらべると散漫としている。その点、珍しいまで『鎌倉殿の13人』の運びは、予備知識があるだけに、なかなかに魅せて呉れている。小栗旬演じる小四郎北条義時の成長傳とトも見られる事の運び。迫力が出てきている。すでに、往年の義経はじめ梶原や比企がもう討たれている。これからますます彼は鎌倉「北条」時代の確保のために同じ御家人、仲間であった板東武者らを死なせて行くだろう。
 この時代には、『中世と中世人』このかた関わり続けてきた。「歴史」の湧く時代へ進んで行く。
 もう一方では私自身が書き進めている妖しく怪しい「歴史」ともしかと付き合わねば。
 
 * 山田五十鈴が十七歳でデビした映画『祇園の姉妹』の舌を巻く熱演。祇園には、言葉も習もいも、育ちが祇園の真隣りで幼来何とは無く通じているが、五十鈴の桁はずれな好演にはただ驚く。祇園の女も女だが、入れ込む男どもも、なんともやりきれない男どもである。
 
 
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月十六日 火  大文字 
    起床 6-45 血圧 104-46(83) 血糖値 74 体重 56.1kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 生命が本当に自覚に到達するのは吾々が創造的と呼ぶものに於いてのみである。創造的なものは生命と内容との関係の内にある。内容がそこから直接に生じ来る限りに於いて生命を意味する。  (九七)
 
 * 朝食したが。あきれるほど何の感慨もない朝よ。すぐにもまた寝入れる。生命力が涸れ臭っている。書物世界か史実の過去へ遁れた方が賢いようだ。大文字で歳の前半を見送って、もう坂道をただ降って行く早足に、何が起きるか分からない、何も起きないといいが。
 
 * 笛大鼓・小鼓太鼓、鳴物藝の名手、重要無形文化財、藝多大の韻話出て先生にもなった浅草の二世「望月太左衛」さん、ぱちぱちと火花の美しい例年の創り花火(光る音付きカード)も添え、同じく藝大の院も出て博士になった「令和の撫子」鳴物の技も颯爽の娘「安部真結」ちゃんの美しい写真も大きく添えて、例の元気ハツラツ太左衛ブシの女手紙ももちろん、「浅草の色々」を華やかにも清々しい大団扇涼しく、どっさり贈り届けて下さった。むかあし、テレビ番組で「初めてのお使い」を健気に演じてみせたあのちっちゃな「真結」がこんなに美しく立派に育ったかと、よそながら私も嬉しい嬉しい。りっ゜にお母さんの後「継ぐに違いない。
 毎年のように永い間浅草の大花火を屋上で見せて貰っていた。ある年は妻も一緒に居間からも見せて貰った。東京で一に懐かしいのは「浅草」と私に強く思わせてくれたのが太佐衛さんだった、その太鼓、大鼓、小鼓、笛の音のみごとに力強いこと、圧倒の美韻としか謂えない。
 出逢ったのはほぼ四十年以前の国立劇場でだった。端っこで太鼓をうった小柄な太左衛、二十歳過ぎたかどうか、の「大力量」に素人の私、一瞬で仰天感嘆、その後にすぐ機会に恵まれて、以來最も親しい若々しい敬愛の親友である。
 ああ、もう一度浅草へ行きたいが。すきやきも、寿司も、天ぷらも「浅草」だ。泣けそうに懐かしいよ。令和四年日本語版の察し「吉原細見 歴史と文化探究編の」の懐かしさ。この一冊を手にすればあの吉原で何一つ迷わない。懐かしい。国立劇場編の大冊子日本音楽の流れ「打楽器」も多くが細かに目に見えて、実に有難い。
 
 〇 秦先生 ご報告をさせて頂きます。
 今年六月、国立劇場主催”打楽器”に出演させて頂きました。偶然ですが、真結も現代邦楽に出演しました。今から40年前、同様の企画があり、一観客としても、一共演者としてもとても感動した公演でした。その公演に時を経て出演でき、うれしかったです。
 また今年の一月号として掲載されました「月刊日本橋」の記事をお目通し頂ければ幸いでございます。葭町芸妓のおひろ姐さん藝歴88年の会に関連して取材され本当はおひろ姐さんのページだったのですが、けがをされ、私はピンチヒッターで出ました そしてこの8月号のvoiceに真結が取材されましたので同封致しました。加えて「吉原再見」ですが 2018年に発足した江戸伝統文化推進燈紅塾の活動を続けています中で、地域の小冊子として出来上がりました。
 いろいろありますが引き続きファイトで取り組みます。 望月太左衛
 
 * まぎれもない、まさしくファイトの人よ!
 
 * 音も無く ヒソと暮らしているが。回り合わせとも云うか、その人物や筆致・口調にを微かに好まないでいて、『告白』を軸に、ジャン・ジャック・ルソーの著述と何種も関わり合うている。ぐれた哲学者でも思想家でも著述家でもあるのはいうまでもなく、いまは『人間不平等起源論』に触れている。書庫…書架にあるかどうか、『エミール』とはぜひ出逢いたい。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月十五日 月 
    起床 7-20 血圧 105-51(78) 血糖値 74 体重 56.15kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 生活は自己のうちにその規範をもち、生活の形式に於いてはまたこの形式に則してのみ実現さるべき理想的要求を含んでいる。この要求は、藝術から借りてくることの出来ぬものであり、藝術には別に藝術の要求がある。生活を藝術品にせねばならぬと云うのは無意味である。  (九六)
 
 * 観ていた夢は、忘れた。思い出せそうで思い出せない。
 敗戦の日。想い出は多々、疎開していた丹波の山奥へ走る。南桑田郡樫田村字杉王生。初めは山上の田村邸を借り、耐えがたく街道脇の長澤市之助邸の隠居を借りて母と二人で暮らした。多くを良く覚え忘れ得ない。敗戦の詔勅は長澤の前庭で、ラジオて聞き知った。飛行機のように手を広げて駆け回った。負けたことに何も負担は無く、京都へ帰れるかと胸を弾ませた。あれから、早や77年。いい意味での生きる緊張を忘れ得ない戦中の、また永い戦後の日々であったよ。
 
 * 「寝る」「寝入る」ために起きてきたのか。正午まで、目覚めたかと思ってもまたすぐ寝入り続けていた。からだに力が無い。食べないからからだに栄養の力が足りないのだ、違いないが、食べられない。危ない。
 アルコール中毒とも思われる。服薬の種類の多いのも関わって、躰の揺れを導くのかも。寝入って凌いでいる感じ。手近にあればらくらくと幾らでも呑めてしまう。意識して控えることに。
 久しぶりに猛烈な照りの中 自転車でポストへ「湖の本 160」入稿に行き、その足で大泉の方へ向いて,昔は縦横に走り慣れていた道をさぐりながらぐるーぅっと廻ってきた。家並みの景観などかなり変わって見えたがめぼしい新しい食べ物店などは見当たらず。
 * 顔なじみの珈琲豆屋さんへ寄って、私の「ホームページ」復活の道が付かないかと頼み、今夜八時過ぎに家に来て貰うことにした。機械に明るい展開、成るかどうか。
 凄いほどの照りと暑さで、たどたどしい自転車乗り、危険と云えばきわまりなく危ないと感じていた。用心は出来るが、脚もカラダも手も自在では無い。危ない。
 
 * 「ペルト」さんの解説のたいていが、よく分からずしまいで、想い願っていた希望のようにはことははこべなくて、余儀ない現状のまま帰ってもらった。
 
 * 八月逝き 九月来る。「ウク・ロシ」戰争も、「コロナ?」も見通しは暗いまま、政治も停滞、バカげた国葬、あつかましくまかり通って行く。こんなときは、私の「仕事へ」 気の向くままに沈潜前進が何より。
 秋よ。佳い顔つきで訪れよ。
 
◎ 令和四年(二○二二)八月三十日 火 
    起床 5-00 血圧 158-78(73) 血糖値 76 体重 55.5kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 予言者や指導者が言ったり望んだりした通りのことがこの世の中に行われたことは一度も無かった。だが予言者や指導者がなかったら、全く何も「行われ」無かったであろう。    (一六五)
 
 * 東隣の樋口家が家土地を売却して転居され、新たな地主家による新築がはじまるに就き、申し合わせ承引の手続きが必要と。幸い、東地境いのわが家の立てた塀は地所内のりに正しく沿っており問題なしとなった。が、屋根が東土地内へ入り込んでいると。わが家は旧樋口家が建築される以前から建っていて、爾来53年只一度もそんな問題の生じた事は無かった。
 東西の隣家で不快な問題が起きるのは、ぜひ事前に防いで置きたい。そんな思いから、目覚めて、二階へ来た。東工大出の国交省m君や,同じく竹中工務店設計家のy君らの見解や智恵や助力を頼まねばならないことにならぬよう願いたい。
 
 * 機械の「出口のない迷路」をもう延々と経めぐって、如何ともならない、しかし音もあげてられない。
 
 〇 朝早く起きていらっしゃるのですね。驚きました。
 ごめんなさい、メールをもっと小まめに、些細なことでも書くようにします。
 四回目のワクチン接種も無事済まされたようで安心しました。
 映画の話から「しまなみ」の静けさに触れていらっしゃる。瀬戸内海の静けさ穏やかさ・・瀬戸内海近くに住んだのも一つの幸せだったと、今になって気づいています。
 タクシーで・・の可能性は関東周辺の旅でも、たとえば新横浜までタクシーを使い、「新幹線で京都まで」も考えられます。いずれにしても残暑の後、過ごしやすい時期を選んで、どうぞ思い切り楽しまれるように願っています。
 お盆明けあたりから孫が夏風邪を引いて高熱を出し落ち着かない日々でした。コロナなどの検査をして陰性でホッとしたものの、繰り返す発熱。病気の時は本当に周囲も気力を保つのが大変です。漸く日常に戻りました。が、些か疲れて、無気力になっている自分に気づいています。
 くれぐれも、くれぐれもお身体大切に 無事過ごされますように。  尾張の鳶
 
 * 変わりなく、という現実が貴重な価値になる、それが老境。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月二十九日 月 
    起床 5-40 血圧 144-78(57) 血糖値 76 体重 55.5kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 単純な真理、普遍的に妥当するもの、基礎的なものが吾々にとって平凡になり、それ故に軽蔑を受けるに至ったため、吾々はいかに多くの価値や動機を喪ったことであろうか!!    (一六四)
 
 * マリア・ピレシュ、パッションのピアノで、モーツアルト、シューベルト、ショパン、そしてまたモーツアルトとシューマンと、を聴いている、適確、音色すばらしく鳴りわたる。ビレシュは、テレビでのピアノ指導番組も観て聴いていたことがある。表情のパチッとしたレディだった
 柚さんは好きなブラームスでピレシュを聴いていると。ブラームスのレコードをいただいたことがあったな。
 
 * 今日はいっそ小寒いほど冷える。天候不順。安穏を願う。
 
 〇 秦先生 をありがとうございました。なんとか(!?)元気にしています。
 先月の手術後約50日が経過、体調に色々と不都合はありますが、蟄居して怠惰な生活を送っている限りはさほど不便はありません。
 秦先生の相変わらずの充実した毎日の生活を見習わねばと考えておりますが…
 先日、TVでシルベスタ・スタローン『勝利への脱出』を見ました。彼の映画にはめずらしくエスプリのきいた展開でラストシーンがなんとも愉快でした。
 今月に入ってから、新約聖書をギリシア語原典で少しずつ読んでいます。アッティカのギリシア語と比べると、聖書のコイネーのギリシア語はかなり平易です。クリスチャンでは無いのでノンビリ楽しく読んでいます。
 ps. 添付の写真はキツネのカミソリ、今年はたくさん咲きました。 篠崎仁
 
* 術後のご様子如何と思っていた、落ち着いてられるようで嬉しい。「勝利への脱出」を私はシルベスタ・スタローンでなく、クリント・イーストウッドとしごしていたか知れない。たしかにスタローンであったと思う。なにかというと、イーストウッドにしてしまうのだ、私。
 残念、添付の写真がうまく見出せない。
 
 〇  読みましたよ、秦さん。
 ジンメルなどと謂う名前、何年振り、いや何十年ぶりでしょうか。すっかり頭から消え去っていました。
 凄いなあ、刺激的、目の覚めるお便りを頂きました。有り難うございます。
 それにしても、よくそれだけバラエティ豊かに色んな映画を日々ご覧になっているのですね。それだけでも若々しいと言わざるを得ません。
「ならわしごと」「 障子の張り替え?」、懐かしい言葉です。張るのは何とか頑張ってでも、その前に、桟を洗うのが大変だったこと、いやあ 思い出尽きないです。同年のよしみって、こう言うことなんでしょうか。
 次々と友を見送る切なさも。
「心穏やかに、眠ければ寝る」なるほど?。
「やそろく」、「骨皮筋衛門」も どこか楽しんでおられる風情で?。
 何故か解るような?。 身に染みる同感 とでも言うのかな。
 源氏物語、二十回近くもお読みなんですか?。凄い、さすが。
 そう言えば、女性が綴ったあの、うよ曲折極めた難解な王朝物語、小説家の方たちの訳でいくらか身近になつたものの、どれも
「秦 恒平氏の純粋京都人の部分訳の複雑微妙、二重三重の悪意を込めた現代訳には到底及び難い」との亡き中村真一郎の説、読んだ記憶、はっきり。
 コロナワクチン、私も4回済ませました。患者数増える一方で何処か緊張が緩んでいる気分ですね。
 どうか呉々もお身体お大切に、迪子様にも宜しくお伝え下さいます様に。
                           半田 久拝 (専攻の先輩)
 
 * 懐かしや。
 
 * コロナに罹ったのでと、フアンや読者に治療費を出してとせがむ人らがいる、とか。文字通りに凄い!ね。
 
* 朝だと,寝起きたら、晩の十時! こういう毎日を重ねている。私の「自然」主義。<
 
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月二十八日 日 
    起床 6-00 血圧 139-71(62) 血糖値 76 体重 55.9kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 個人の異なるに応じて時間の長さが異なる。同様に、どの民族にとっても時間の長さは異なる。そこから多くの特色有る結果が生じる。   (一六三)
 
 〇 秦さん Re: 元気にされてますか
 秦さんの「この数日」ほんとうにありがとうございます
 特養老人ホームに出勤した時は大抵お年寄りたち一人一人と顔をあわせるようにしております このラウンド(見廻り約100名)を大事にして 少しでも穏やかに過ごしてもらいたいと願っています
 私も車椅子なので目線の高さが同じで「幸い?」です
 少しは話が通じる方達の中には「先生はいつも元気でいいねえ」と言ってくれますが素直に「ハイ頑張ってます」と答えています
 そと面でもいいから元気にして居なければと思って頑張っています
 入園して間もない方に「どうかゆっくりしてくださいね」と言ったら
「ゆっくりなんてしてられないよ」と叱られたりもします(今はぬり絵を手伝ったりして仲良く?なりました)本音で付き合えるのが何よりです 何ヶ月も返事もしなかった人がある日普通にニコーっとしてくれたりします ささやかな喜びです
 ・・くらいは 元気にしております
 秦さんのメールが何よりです
「ジンメル」って何だ?! とオタオタして調べたりするのもうれしい事です
「煎茶」好きです とても上品にはできませんが一人用の急須で 濃い目に入れて・・にがみがいいです
「認知の混乱」 私は大分以前からです 認知症のテストは受けない方がいいと思ってます
 四度目のワクチンもお済みで良かったです 私もしました(毎月PCRもやられています)かかっても軽くて済む」と言われていますが どうかくれぐれもお大切になさってください 
 又メール下さい  千葉  e-old 勝田 拝
 
 * 朝いちばんの 心弾むメール。私より一歳ほどは長老ながら お医者様として有難いお仕事を、今も。想えば思えば、もう久しいお友達、身内のような読者のお一人。宏壮の六義園を夕暮れるまでゆるゆる楽しんだり、能を見たり、鰻を食べたり、川向こうの庭園を散策したり。軽妙に戯画も描かれたり、辛気くさいところの少しも無い方、私にも好い友達はあるんだな。
 
 * 前夜は、宵に、荷風原作『踊子』を、気に入っている若い顔ぶれでしんみり妻と嘆賞し、もののあはれの舞い立つような美しいラストシーンまで、楽しんだ。舞台は浅草、若い楽士、姉妹の踊子、筋書きとしては察しも早いが陳腐に堕ちず、妹の小を姉が貰いうけ、夫にした気立ての柔らかい楽士と育て上げる。どこをどう流れわたってか、ひょっこり、田舎住まいの姉の家族をおとずれ、わが子とわかる子の頬に手を添え、ふたりで歌歌っておどりながら妹はまた独りで立ち去って行く。胸にしみるあかるい絶景、もののあはれ。産人の存在感に実意が生きる。あねは、カタセ・リナと謂うたか、デビューの昔から今も贔屓の達者な女優。「一存在」として場を占めている。妙に愛らしく幼けない妹踊り子の名を覚えられなかった。荷風先生を、また読みたくなった。荷風映画としては山本富士子の『墨東綺譚』より、此の『踊子』もののあはれの眞実感を買う。
 
 * 夜には、スリルに満ちた戦中活劇を、こういうのは初めてという妻と深夜まで見入った。私は少なくも二、三度目だが、何度見ても新鮮なド迫力、妻も感心したらしい。情けないことに、題も、主役の名も、わずかにまだ若かりし脇のクリント・イーストウッドしか思い出せない、いや、題は『荒鷲の要塞』だったか。主役は、顔ははっきりしているのに、名前が思い出せない。(リチャード・バートン) なかみは、よく覚えていたし、忘れないだろう。あれもまた観たいと思うスリルとサスペンスの同類作が幾つかある。
 
 * うちで、板で観る映画は尽く「撮って置き」。優に250枚異常がえり抜いて録画してある。映画館で支払って観てたら破産してしまう。
 映画/・映像、ほんとうに好き。これなしで、読書だけで凌ぐにはコロナ?逼塞の三年、永すぎる。まだ、明るい展望は見えない。
 
 〇 秦恒平様 残暑お見舞い申し上げます。
 つつがなくお過ごしのことで何よりと思います。
 朝の前茶は体調の維持に素晴らしい効果を持つでしょう。
 私事。 私はこの三ヶ月間は書評、対談本の作成に追われました。
 目下、「宗教と病ーー聖書的信仰の観点から」という11月に行われる、三人の講師による聖書講演会での講演の準備に追われています。9月、10月にも一つずつ日本基督教団の二つの教区の牧師たちの研修会での講演と討論があり、その準備も必要です。いまだに一日のゆとりのない生活です。
 9月は武蔵野日赤での心臓の定期検査の後、都内に出ての講演です。
 今日もよい一日をお過ごし下さい。お便り、ありがとうございました。
                     浩 国際基督教大学名誉教授
 
 * 私にも 文字通り同じように駆け回り、書きまくり、本を出しまくりの時期が有った。よう働いたと思う。もうアレはでないは、別の仕方の仕事はできる。
 
 〇 秦 恒平 様 8月28日 おはようございます。今朝の体重は? 26日の55.5kg には驚きました。半世紀ほど昔は、たしか70kg くらいはありましたよね?
 (四半世紀の昔には優に86キロありましたね、 秦)
 みゆ希さんとの思いがけないテレビでの出会い、さぞ嬉しく懐かしく驚かれたことでしょう! こういうこともあるのですね。
 4回目のワクチン接種、無事に済まされたようですね。コロナ感染症もまだまだ収まる気配もありません。いずれ5回目も必要になるでしょう。
 この夏は、仙台とは思えないほどの暑さでした。京都ほどではありませんが、東京並みでした。 やはり地球温暖化の影響でしょうか・・・。
 8月も末になってようやく暑さも収まりホッとしています。秦さまは「生来の寒がり」だそうですが、私は「寒がりの暑がり」です。
 仙台の冬は雪こそ多くはありませんが、蔵王下ろしの冷たい風が吹いてとっても寒いです。雪国秋田の友人に「仙台ってホントに寒いのね」といわれます。
 どうぞ好い9月をお迎えください。9月になりましたら、笹かまぼこの「里の秋」も出回るようになるでしょう。  惠子
 
 * 過不足ない適確なお便りに感じ入り感謝している。
 
 * 掌も指先も鳴るほど痺れていて、とても自筆の手紙はどなたにも差し上げられない。ル・アドレスをよろしくばお預け下さい。
 ナニとしても腹をくくってホームページの電送を回復したいもの。この超絶雑然の部屋へ人様を迎えるのは身が縮んで困惑当惑だが。建日子にそれが出来るのだろうか、機械の原状や現状までも奔逸混乱させられては堪らないのだが。
 
 〇 あに・やそろく様
 お元気でお過ごしのメール有り難うございます。ワクチンも無事に終わられ良かったですね。
 お孫さんのみゆ希さんに「テレビ画面で」会われとのこと 凄いことが起きましたね。私はどんな小さなことでも嬉しい出来事は「奇跡」だと思います。大抵は小さな奇跡ですが これは大きな奇跡ですね!
 どうぞますますお元気で お過ごし下さいね〜  いもうとより  琉  妻の妹
 
 * 時間の感覚が崩れ、いまも朝の五時ぐらいかと目覚めたら、今日の夕刻五時。こういう生きザマも面白く主悪のはヤケクソか。
 
 〇 お元気ですか、みづうみ。わたくしは元気に過ごしています。
 ワクチン四回目もお済みとのこと、何よりです。どうかコロナへの盾となってくれますように。
 みゆ希さんとの思いがけない再会も喜んでいます。お元気とわかったのは素晴らしいことでした。
 これからも タクシー利用はお勧めします。電車やバスより感染リスクはぐんと下がりますし、暑さ寒さを我慢しないで良いですし、案外時間もかからずらくな移動です。健康と安全にお金をかけることは浪費ではなく、自分を守る必要経費です。
 > 「花筺 はなかたみ」。「私語の刻」とすこしちがう。いや、全然ちがう気がする。 秦恒平を騙った魑魅魍魎のつぶやきに近いか。
 「花筺 はなかたみ」とはなんて素敵な名づけでしょう。そしてみづうみの魑魅魍魎のつぶやき、と伺えば、どうしても読みたくなります。みづうみのお書きになったものなら、たとえ買物メモでも読みたい、と以前にも書いたこと覚えていてくださるでしょうか。
 今日は少し涼しく感じます。このまま秋がくればほっとしますが、さて、まだまだでしょうね。どうか、ご無事にこの夏を乗り切り、お元気にお仕事をお続けください。
                            なつは、よる   
                      
 * タクシー利用の勧め、ありがたい。実行してみよう。
 
 〇 元気にしています。
 ゆらりゆらりですが、自分の足だけで歩けていますから。
 まだ暑い日が続いています。暑いか、ひやひやするかしかなくて、今朝は冷たくて、身体じゅう冷えて、こういう時にギックリ腰になるかもしれないと熱い紅茶で温めました。今は汗をかいています。湿度が50%なので、31℃でも、過ごしやすいに違いないはずですよね。
 見えないとうんと明るくして、本を読んでいます。
 絵は6号程度のもの、
 ピアノはBRAHMSの間奏曲、まるでため息のようです。ピレシュは自分の音を持っていますね。骨格のしっかりした人でした。
 何かの手順を忘れて機械まで手順を忘れたみたいな感じで 変なところが動いてみたり、・・・   柚
 
 * わたしもマリア・ジョアオ・ビレシュのピアノ曲を愛している。
 
 * なかば夢中、ムキになっていろんなこを機械で試みていた、ナニの取り柄があったとも謂えないが。何人ものメールを受け取れたのも気の励みに成った。
 
 * 「鎌倉殿の13人」が陰惨になってきたのは「史実」を違えていない。願わくは、独り合点の「呟き科白」はやめてほしい、聴き取れなくてはハナシに成らぬではないか。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月二十七日 土 
    起床 7-05 血圧 134-71(58) 血糖値 76 体重 55.9kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 中世人ないし中世的の感覚では、絶対に自然的なものこそ魔術的なものであった。吾々にとっては反対に自然的なものがおそらく全く「自然的」なものになってしまったのであろう。それ故に吾々の時代に宗教を見出すことは過去の何れの時代よりも困難なのであるが、それ故にこそ吾々の時代は、宗教を一層必要とする、善し悪しはついて回るにしても。   (一五三)
 
 * 前夜、寝がけに独りであれも西部劇というのか、ベテランのスペンサー・トレーシー主演『折れた槍』を観た。主役は「馬」と想うほど馬上の超絶疾走シーンが爽快で目を瞠った。ま、それだけとも謂えるが先住民族との結婚やその子の体験する葛藤にもののあわれも滲み、佳作と謂えた。
 
 * 朝はいちばんに、煎茶を惜しまず、茶を点てた。朝一番の美味い茶は、新門前の昔から秦家では「ならわしごと」。夏には母がかならず障子を張り替えていた。観るから涼しくて好きだった。狭いながら泉水の水を替えて金魚をはなすのも、笹が青青とそよぐの浅賀の作のも好きだった。昔のわが家には小さいなりの爽やいだ文化があった。母にも叔母にも、たとえ漬け物漬けにしても毎年観られる生活上の年中行事があった。好い物だった。
 今のわが家では障子の張り替えなど想いも寄らない、ありとある障紙「マ・ア」ズに攻撃されて失せており、妻にも張り替える手技が無い。家政と謂うことでは年寄りや男の沈黙の目に見られて、母も叔母も、想い起こせばいろいろな「ならわしごと」をを手早にきびきび遂げていた。掃除と洗濯と食事の用意だけでは無かった。それらにも「機械」の手助けなどナニも無かった。
 
 * 「ならわしごと」と書いて、胸の痛い想い出に触れてしまった。
 
 よのつねのならはしごととまぐはひにきみは嫁(ゆ)くべき身をわらひたり
 
 謂うまでもないがここで「まぐはひ」とは目と目を合わせての意味に歌っている。上皇を謂う「みとのまぐはひ」ではない。あの、祇園石段下、屋さん中学の前、四条大通り路上での、のこり惜しい、よぎない、ただ数分に満たなかったまさに「立ち別れ」だった、いまも手を結び合うた「あのとき」のままに思い出せる。いらい、七十年怒濤の人生はいまにも静かに濤を退こうとしており、あの「ねえさん」もすでに亡いと、妹、またその義妹により、あたたかな心遣いと共に伝えられている。
 
 あなたとはあなたの果てのはてとこそ吾(あ)に知らしめて逝きし君はも
 
 * 『船を下りたら彼女の島』という瀬戸内「しまなみ」へ東京から帰省の娘の一週間を描いたしみじみと静かに、情感を美しく湛えて大好きな映画を、午前に、またまた観た。『紙屋恭子の青春』とならんで最良の仕上がり、気持を優しく沈めたいときは最上等の藝術作。帰省の娘もいいが、二年ぶりに迎えた両親の心優しい静けさに胸を打つ情愛がにじみ、それが「しまなみ」の静かに広やかな景観と討つ串間馴染み合うていた。大杉縺と大谷直子であった。
 
 * 午、久しぶりに蕎麦を食い、あと一時半まで寝入っていた。心穏やかに、睡ければ寝る。登るにせよ下るにせよ老境の坂道を焦らない。
 
 〇 素晴らしい 元気さに乾杯 気迫のメールです
 晩年とは言い難いこんな老人が居るなんて タマゲタよ   昔の学友から来るメールはほぼ ホームに入る話かデイサービスの話で、力付ける返信を出すばかり ヤレヤレ
 私も楽しみの為の外出の機会は、ほぼ無くなりました
 マア若い家族に迷惑を掛けない晩年を過ごしたいたと願ってはいますが…
 又…  花小金井   千繪
 
 * 夕食後 十九歳高橋貞樹の力編『被差別部落一千年史』岩波文庫を読み、『参考源平盛衰記』で嫡子重盛が父清盛をコンコン諫めることばに聴き入り、暑気の加わるのを感じて冷房を増しておいて寝入った。これが日々の疲労を凌ぐのに一等愉しくもラクな方途と思う。
 創作の頁を充たせば「湖の本 160」入稿出来る。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月二十六日 金 
    起床 6-15 血圧 132-64(57) 血糖値 76 体重 55.5kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 詩人、特に劇詩人は、不正なものにもなお権利を与えるすぐれた愛を持っている。藝術品に於いて悪が存在するのは、その権利があるからに過ぎない。   (一五〇)
 
 * 一夜にして体重減におどろく、1.3キロ減っている。が、理由は分かる。寝る前に、、前夜十時頃に、処方されている利尿剤と、やはり処方されている浮腫抑止の薬を各一錠、同時に服用して十一時に床に就いていた、ところが,夜中、朝の寝起きまでに「尿意」に床を起つこと六度もふつうに排尿していたのだから、体重減は理の当然で。すこし浮腫が出ているなと手脚を観て服薬に加えたのだったが利尿剤を倍に重ねた効き目になった。今朝の手脚はほっそりしている。このほっそり、自然のそれとは観られまい。
 * 夢、がやがやと雑多、uにも覚えていない。快も不快も無く。
 幸い、ワクチン接種は無事に躰が受け容れたようだ。よし。
 
* 昨日、接種のため近くの厚生病院へタクシーで出向いたとき、運転手に、このまま京都まで走れるかと訊いた。京都はむりだと。しかし熱海、静岡、水戸、仙台、新潟、秩父奥なら問題ないと。ともあれ「視野」が開けた感じ、まして都内、浅草、上野、銀座へも混雑の電車を避けられる。
 もう金銭の支出をなるべく顧慮せず、行き当たりばったりも勘弁して貰おうと想う、幸い建日子は親の持ち前を、まったく必要としていない。朝日子のことは考えない。
 
 * それはそれ。昨日妻が、想いも寄らなかったものをテレビで見つけた。あきらめきれぬ亡き孫の「押村やす香」の妹、もとより私たちの実の「孫」の「押村みゆ希」がテレビで話している写真を見つけたのだ。姓名ともに齢恰好も相違なく、細面のそれも大人の容貌だが、まちがいあるまい、いま目に、また写真にのこった中学高校ころの「みゆ希」との「最後」の対面はまだ年少、姉と二人して嬉々とひな祭りのひな壇をわが家で立て飾って帰っていったいった、あの二月二十五日が、この愛おしい孫姉妹との最期になってしまった。姉やす香は思えばあのときもう体調に違和を秘めていて、だるそうだった。そのままの夏七月、母朝日子の誕生日の二十七日に、亡くなってしまった。
 その後両家の不快極まるすったもんだと絶縁については想い出すも厭わしい。しぜん、みゆ希とも絶えて会えなくなっていた。
 私たち祖父母には此の世で唯一人の血を継いで呉れている孫娘なのだが。
 その子を、テレビの画面で妻はみつけたのだ、偶然かどうかは知らない。かねがねみゆ希の幸せを願って妻とも哀しみ続けてきたが、すべては「みゆ希」自身の自発的な智慧と理性に任せようと思ってきたし、いまも同じ。それでも無事成人の「姿や声」を目に耳にしたのは嬉しい安堵で。せいぜい世の中へ出て働きたかった「亡き姉」の分もしっかり努めて欲しい。必要なら応援も惜しまない。
 姉やす香は、結句亡くなるまで、いつも自発的にわれわれ祖父母を訪れ来ては、うれしい和やかな時を績み紡いでくれた。途絶えている押村と秦との無意味な紛糾に橋渡しをしたいと「やす香」は懸命だったのだ、恥ずかしい。わが家にはそんな聡明で優しかった「やす香」の面影が、あちこちにかざられ、わたしは日夜「対話」を欠かさない。
 
 * 妻に、ワクチン熱かと想うかるい発熱が暫時あったが、、ま、おさまったよう。私にはこれという後遺症状は何も無いが、「骨皮筋」右衛門のかなしさ、猛暑と謂うに、冷房が効くとむしろ膚寒さに肩をすくめる。
 
 * 八月ものこる五日、もう秋ですという気早なメールも届いていた。幼来の寒がり。
 
 * 夏は、よる。真夏という時期が、真冬と同じに気に入っていた。
 中学一年のb¥、武徳会に入会し、京の疏水で、好きに泳ぎ回れた。高い橋から跳び込んだり、潜りたいだけ潜り続けたりしていた。
 一度は記録したかと想うが、疏水端のかんかん照りの舗装路を炙られながらてくてく歩いて家に帰ったが、三條通りへつく少し手前の川端に、あれは図書館なのか、公立か私立かの、がちっとした石造の建物が石段を七、八つ上に、シックな重いドアを明けていた。中に入って自由にいろんな書籍が読めた。信じられないほどだ、気に入った本の二冊まで持帰り借用も許されていた。日焼けで真っ赤っか、濡れた褌を袋にさげた中学少年が、厚さ十センチにあまる大冊で立派な『絵本太閤記』を持ち帰りたいと頼むと、何の斟酌もなく許可されたのだ、こっちで驚いた。一人前の大人になった気がしたが、ま、むさぼるように読んだ読んだ、大きめの活字と沢山な刺激的に美しくも怖くもある「繪」の数々に、抱きつくように読み耽った。
 私は人に借りた本は、貸してくれた先のたとえ家ででも必ず「最低二度」繰り返し読んで了うまで帰らなかった。それが私の読書常儀だった。抱くのも重いその『絵本太閤記』も、この好機逃せるかと、繰り返し繰り返し座って読み寝腹ばって読んだ。口語ではない和漢混合のナニ会釈もない書き下ろしであったが、それはもう祖父鶴吉旧蔵本の『神皇正統記』などで十分読み慣れていた。親房本もこの太閤記も、純然歴史書であったのだから、じつに多く「言葉・文字/・史実や人名」を覚えた。
 京の真夏のかんかん照り、水泳の武徳会通いのあれはもう「偉大な」とおもう好い土産であった。「やそろく」爺が生涯に嬉しかったことの「五十」の内には数える。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月二十五日 木 
    起床 5-30 血圧 124-61(70) 血糖値 76 体重 56.85kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 十分と謂うことは既に、多すぎると謂うことである。幸福主義的な享楽主義的なものと吾々の生の總対との関係にひそむ、これは深刻な矛盾である。すべてこういうモノは吾々にとって少な過ぎるか多過ぎるかなのである。十分という均衡領域が無く、前者は一変して後者になる。   (一四五)
 
 * 夢、雑然、苦い笑いを噛み棄てて、ひょろりと立つや、やそろく爺い。大方不快。
 
 * 午後早くに、四度目のワクチン接種を近くの厚生病院へ受けに行く。
 
 * ゆーうっくりなめて味わうほどに「解説」もふくめ「若紫巻」まで読み進んで、前九冊の岩波文庫「源氏物語」は第二巻へ進む。この世界の名作、もう少なくも廿度近くは読み返してきたが、微塵も飽かせないで感嘆させるのは素晴らしい。世界の名著の数々と併読していても、なお傑出して想われる。『十八史略』も『史記列伝』も『明治歴史』もまことに教えられて嬉しい。
 
 * 四度目のコロナ・ワクチン接種、六時前現在で異常を覚えない。これで、やや、外出して街へもと、思える。
 
 * 「認知」の混乱が生じていると、自覚し始めている。在ると思う「用意」原稿が見当たらない、のは、事実まだ手を付けていないのか、機械上で喪失したのか。「削除」さえしなければ機械から消滅はしていないかも知れないが、削除してしまったのかも。完全な思い違いでこれから仕上げて行くのかも。思い違いであってほしい、原稿以上に「時間」の喪失が辛くて惜しいいから。
 
 * シルベスタ・スタローン版で、別に、スティーヴ・マクイーンも別に主演したことのある映画『大脱走』が愉快だった。ドイツ軍と捕虜の連合軍とでサッカー試合の結末に「大脱走」が成功する。
 そんなことが事実あったのだろうか。ともかく血沸き肉躍る類いの一種の名画であった。
 
 * ともあれ、ワクチン接種は四度とも無事に通過できた。効果あれと願うばかり。体調をととのえて八月末を通り抜けねば。ワクチン効果が確かめうるのは接種一週間後からですとか。好い九月が待たれる。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月二十四日 水 
    起床 5-30 血圧 124-61(70) 血糖値 76 体重 56.85kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 幸福を求めることには矛盾がある。自我を生の中心にして世界の価値を全く主観的反応の上に据え−−しかも客観に依存していることを告白し、その上この自我が自ら爲しうる以上のことを熱望するという、矛盾がある。  (一四〇)
 
 * 夢見に望ましさ無いまま独り起きて朝食。良いこと何も無し、思考も志向も途絶のまま一日を始める。
 
 * 三方狭苦しい機械前で横転し腰で支えたが、転ぶのは何よりよろしくなく、骨が弱っているので、油断ならない。正直なところ、なにもかも投げ出せたらいいのにと弱音がでかけて居る。休息と愉快とが必要なのだ、ぜんしゃなしに後者はありえない。しかしコロナ?すこしもホンモノの快方へ向かわない。
 充分な費用と軽い手荷物とだけで旅したいが、さて案内も無い。学生時代にはあてどなく、いきなり汽車に乗ったモノだが。秩父へなら西武線で行ける。さきの案内が無い。せめて地図でも土地案内でもあればいいが。妻と「マ・ア」ズに留守させるのは、妻の体調太鼓判とは行かず。そもそも私が保谷駅まで歩けのかどうかも危うい。
 明日四度目のワクチンを無事接種できれば、ふたりとも、歯科へこそ通いたいのだ。が。
 
 * 今晩の映画なみのどらま『天地明察』は例の呟き科白の聴き取れ無さをがまんしても、天文の安井算哲夫妻和描いて秀逸であった。少しく機嫌を直した。、
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月二十三日 火 
    起床 6-00 血圧 143-60(56) 血糖値 76 体重 57.3kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 虚栄心の強い人間はその自己意識からすれば他人に依存していない。潜在的に彼は、自己への極めて高い見識を持っている、が、それを実現する力を持たず、それへの勇気も持ち合わせていない。彼に他者他人が必要なのは、ただこの自身への見識を保証してくれるためである。自己に関する彼自身の自負や見識を肯定するコーラスとして必要であるに過ぎない。そうでないと、そんな自負や見識は斷えず滑り落ちて行くからである。
 それ故に虚栄心の強い人間はしばしば大衆を軽蔑するにかかわらず,大衆なくしてはついに存在することが出来ない。  (一三六)
 
 * なんとも慌ただしいじれったい迷惑な夢を投げ捨てるように覚めた。よくよく想えばあの女は、統一教会と縁があったなかったで弁明しきりの安い女代議士の顔をしていた。おもしろくも無い。
 
 * 昨日 もと専修大教授から戴いた『関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を 読み解く』は、まさしく、凄い。新発見の「関東大震災絵巻」に拠っている。こういう本も出来るほど、昔話になったか、いや、ただ昔話であるまいよ。
 こういうのを絵入りで見ていると、つい白行簡の『大樂賦』などへ眼を逸らしたくなる。これはもう、なつかしい。優しくも美しい。原文で読んでいれば何の遠慮も無く堪能も耽溺すらもできる。
 
 * すこし躰をやすめ気味に、午前は少し寝入り、午後は韓国ドラマ『花郎(ファラン)』最終回を観、そのまま映画『フィラデルフィア』を観終えた。映画はトム・ハンクスがゲイの性関係からエイズにかかり、弁護士事務所を解雇されたのに抵抗の裁判劇で、デンゼル・ワシントンが弁護にあたっていた。あまり気味のいいものとは云いにくかった。差別被差別の問題以前に私はこころよくは受け容れにくかった。同性で親友、仲良しの友愛は世間一般の望ましい当然であるが、同性の「性行為」分かち合うしまでは、共賛はしない。神も自然もそれは自然にあらずとみているのでは。
 
 * 若返れるとしたら、私は白行簡の説く『大樂賦』のようでこそ、ありたいもの。
 
 * このところ量を読むよりも、寝ている。体調のためにはそれが効く。和綴木版の小冊子でつづく『参考源平盛衰記』が手に軽く、中身は興味深く、寝て仰向いて読むに最適、文庫本は字が小さくて。沢山は読まないなら大きな重い本でも字の大きいドストエーフスキーの『悪霊』などが惹き込む。しょっちゅう「調べ読み」の感じで読みあさるには新書版が助かる。『中国の歴史』『諸子百家』など、どうも中国の上古・古代史へ手が出る。明治本は、見た目より軽く字は大きめで、『十八史略』『史記列伝』『明治歴史』にはしょっちゅう手が出る。読み物もこのところ『水滸伝』に集中。周恩来夫人に人民大会堂での接見で「秦先生はお里帰りですね」と笑われたのを想い出すが、あのややっこしく諸国がしのぎを削った時代の「秦」の一段としたたかに「統一」「建国」へ走る時代に私の視線は集まっている。
 
 * 籠居三年、このままでは「歩けない」人になってしまう。
 
 * モシアノジョーカーのような「トランプ」がまた大統領で現れ傍若無人にやり出せば世界は、音がしそうに揺れるだろう。観て逝くのかなあと妻と案じている。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月二十二日 月 
    起床 6-45 血圧 135-70(64) 血糖値 76 体重 56.3kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 幸福というものは他の心的状態と同じく決して単純に繰り返されるものではない。明日「新しい」幸福を創り出すことの出来る人のみが、明日もまた今日と同じ幸福を持つことが出来るのである。  (一二七)
 
 * 夢は見なかったが、気づいた不審を、調べる手立て無いまま考えていた。私の生まれは1935年師走も余す十日しか無い歳末。兄北澤恒彦の出生は、長男恒作成の恒彦履歴で確認できるように前年1934年4月下旬、当然に懐妊はさらに前年初秋へも遡る。父と母とは,私が生まれて歳越えの早い時期に生木を裂くように父方の手で引き離されている。数えれば、それより以前じつに二年数ヶ月も以前から、父と母とは若い学生と一女三男をもう産んでいた寡婦とに「性の関わり」が出来ていたことになり、それは近江能登川の旧家である母方親族からも、南山城の旧家である父方親族からも好ましいことでなかった。父方がそれと知って、嗣子でもある長男の奪還と幼兄弟を戸籍から「峻拒」の対策を強硬に嵩じたのは、昭和十一年1936年早々であった。それにしても、様子に気づくのにそんなにも永く気疎かったのか、高みの見物めくが驚いている。恒彦誕生から恒平のそれへほぼ20ヶ月も「無事!!」に我らが両親は京都の西院辺に隠れ住めていたとは、経済も生活者としても、いささかならず想像し難いナ、と、夢うつつに想いまわしていた。
 何の役にももう立たないが。ま、私なりに両親の墓標は立てたよと、もう、この辺で、私ももう今年冬至には「やそしち」歳の爺になる、永く握った掌を開いてやろうと思う。
 
 * はやめの夕食後、そのまま本も読まず寝入って、十時。寝られるというのも一つの利点と受け容れている。機械をやすめるために、明日に備えておくために、此処へ来た。
 
 * 京舞家元へ呈上の「花」「月」「雪」一字に和歌一首を添えた長尺、小堀遠州系の筆になる三幅對が行き着いた。お舞台の床に掛けて戴けると。安堵した。ついに床の間の無い家に暮らし終えるわが家に死蔵しては、軸たちに気の毒と、気に掛けてきたのだ。たにもまだ軸物や茶道具がかなり有る。建日子にはそれらを見定める趣味も目も無い。それらの処分にもまだまだ頭が痛い。「道具」として生かしてやりたいのだ。
 
 〇 今朝方も、和歌山ではおどろくような雨が降りましたようで、不順なことでございます。
 先日は,久方ぶりの東京でのおさらへ会を終えて今日に取りましたら、思いもかけぬ御立派な贈り物 御礼も申さぬまま、山の日をはさんで、上高地へ出向いてしまいました。
 まずは、月の季節、三幅並べて、舞台の床へ掛けさせていただこうと思います。心よりの感謝をこめて   井上八千代
 
 * あの丈高い かつ簡明に美しい三幅が一つ床に並ぶまはさぞや閑雅にうつくしいことであろう。よいことをした。仲之町で茶の湯生け花の師匠だった叔母も、あの三幅が西之町の「八千代はん」の宅に婿入りしたと知れば満足してくれるだろう。よいことをした。、
 
 〇 平家物語 三巻(新潮社刊)等 頂戴致しました。
 ならびに「湖の本 能の平家物語」も ありがとうございます。
 早速ご本選定から荷造り郵送手続きと、迪子様にも、ご厄介をおかけしました。
 感謝申し上げます。
 秦様のご厚意にこたえるように最速の配達でした。
 楽しませていただきます。先ずは「大原御幸」からと。
 どうぞお疲れが出ませぬように。お体のご回復を祈っています。 持田 晴美
 
 * まっさきに おしまいの「大原御幸から」がおもしろい。謡曲のお稽古がそれへ懸かっているのだろう。八十六歳のお勉強に期待しよう。       
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月二十一日 日 
    起床 6-15 血圧 150-72(59) 血糖値 76 体重 57.25kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 幸福とは、高い精神力が低い精神力によって煩わされることの無い境地であり、気楽とは、低い精神力が高い精神力によって煩わされることの無い境地を謂う。 (一二五)
 
 * 梅原猛さん登場の夢を見たが、なにも思い出せない。梅原さんとは、思えば久しい仲らいであった。京都美大の学長になられた頃、学長室で、さて何と云うことないしょたいめんだった。以降亡くなるまで、ペンの理事・理事長などされていたあいだ私も理事として付き合った、また京都美術文化賞の選者として、日本画の石本さん、陶芸・彫刻の清水六兵衛さん、染織の三浦景生さんらも一緒によほど長期間お付き合いがあった。ま、つかず離れず親しんだお人、その勇ましく書かれるものを「猛然文学」と批評していた。
 
 * せいぜい米の飯だけでもと梅で細く海苔巻きにして貰ったりし、心持ち体重かリバウンドしているか。仕事の状況は、ザワザワといろんなものが轡をならべている。こういう状態は落ち着かないもの、うまく抑え静めながらなることから始末を付けて行くしか無い。焦れてはいけない。
 
 * 「湖の本 159」の初校を終え、表紙他のツキモノ入稿用意も出来た。見開き分の「あとがき」が書けたら送り返せる。
 
 * 冷房しなくて済んでいて、なおかすかに膚寒い心地。食べ心地が戻りつつあり、涼しくなるにつれ体調を回復したいが、残暑の厳しさはこれからだろう、まだ八月の地蔵盆、子供達のおまつり日だ。今でもそうだろうか盆踊り最盛期に掛かる折りだ。昼間からそわそわし、晩になると浴衣で、諸町内へ踊りに行ったも。ロマンチックとは、私にはこの盆踊り時季を謂うのだった。
 
 〇 鴉、最悪の疲労困憊と。鳶は泣きます。
 食べてください。痩せないで。栄養剤、点滴も考えて。
 わたしは孫の発熱にこの一週間余安らいでいませんが、頑張っています。
 どうぞ元気を出して。
 
 * 少しずつ少しずつと。
 幸いに「湖の本159」要再校ゲラも明日朝には郵送できるまで用意し、暫く避けていた酒も解禁。ま、避けていた方がよいのだろうが。
 一つには上下に歯がない。食には大きな障り、だが安易には電車とバスとで歯科へ通えない。コロナは、なんら下火ではないのだから。
 へとへとの「へと」という実感が初めてもてたよ、幸か不幸か。
 
* 目がよく見えない。機械では、かなり大きく字を用いているのだが。文庫本の字が読みづらくなつているが、手に重い本はつらいなあ。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月二十日 土 
    起床 5-30 血圧 127-73(49) 血糖値 76 体重 57.0kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 軽薄と退屈の他なら何であろうと我慢できる、しかしながら大多数の人にとっては何れか一方に陥ること無しに他方を避けることは全く不可能である。   (一二四)
 
 * 「姉さん」の夢を見た。どこかへ帰ってゆく人であったが、そのまえに元気にみなと草野球を愉しみ、「頑張るのえ」と頬に手をそえてくれてから、バスでどこかへ帰っていった。微塵も気取らない、聡いひとであった。見送って、寂しかった。
 
 〇 五山の送り火の中継を、久方ぶりにテレビで見ておりました。
 お盆の行事も地方で様々ですが、生きて行く人にとってこそ意味あるものに思っております。なかなかいいものです。
 生はすなわち使命、であれば、お若い頃のように細くおなりなら活力が湧いていらしゃるように思っております。恵まれ過ぎていらしゃるのかもしれませんが。
 お元気に、お幸せな日々を祈っております。  那珂
 
 * 早く起きた。「要事」は積まれてある。
 独り跫音も謹んで階段を二階廊下へ上がりきった窓の下に、書架に凭れて建日子がまえに呉れた「獺祭」一升瓶の佳い木箱が立ててある。胸には「感謝」という大きな書字があり、わたしは、決まって箱の頭へ掌をおいてくる。ここに建日子が居る、ありがとうよ、と感謝するのである。そして窓のカーテンをサッとあけると、早朝の朝日が東西まっすぐの路へま東からまっすぐ射している。お向かいはまだ寝静まっている。この「朝日通り」と呼びたいわが家の前の路が大好き。朝日子や建日子とキャッチボールしたりしたナと懐かしくもある。明るい陽射しの美しさを、こころから愛する。
 
 * 労らねばならないのは「視力」と思う。この暑さにそくッと膚寒い。
 
 〇 母は八十代に入ってからは毎日、疲れた、体調が悪いと言い続けていますが、来年は九十歳です。高齢になると、最悪の体調のまま生活しなければならないという教科書のようで、「元気な高齢者というのは幻想」だとわかります。
 みづうみの精神はお若く脳は益々お元気。素晴らしいことです。お仕事に埋もれながら、いつもお幸せでいらしてください。お元気ですか、みづうみ。  なつは 夜
 
 〇  つみためしかたみの花のいろに出でてなつかしければ棄てぬばかりぞ
 
 * 走り書きや思い付きのママ書き捨てたまま、散った花びらのようなものが、機械のあちこちで埋もれて在る。無数にある。なにとはなく「花筺 はなかたみ」に投げ入れておいてやろうと。
 私の場合、「書く」とは「描いておいて化ける」のであろう。「花」とは、なにかの化けた証しなのではないか。「私語」とすこしちがう。いや、全然ちがう気がする。秦恒平を騙った魑魅魍魎のつぶやきに近いか。
 
 〇 朝夕少しは涼風も吹くようになりました。迪子さまともにお変わりありませんでしょうか?
 「千手」「敦盛」と観能の機会が最近にあり、「能の平家物語」のご本を再読しました。
 このご本は、謡のお稽古が平家本の折にも常々、読ませていただいています。
 太宰賞ご受章の「清経入水」の私家本を取り出して読み出しました。
 頂戴しました折に読み、湖の本でも読ませていただいたと思っていましたが、今、全く違って読めます。 
 先ずは、昭和37年。38年と世に出され、頂きましたご本からと。
 迪子さまが描かれた表紙絵のある 菅原万佐作の「懸想猿」・「畜生塚」と。「畜生塚」にはすでに「胡蝶」謡曲の話は出てきても、難しい、わからないと、すらっと、読み飛ばしていたのか、覚えもなく、残念です。
 
 書棚に並んでいますご本。頂戴しましたご本もたくさん。
 『修羅』の本の表紙の「十六」の面の美しいこと。その折々の事も思い出しながら、装丁も楽しみながら、読み継いでいきたいと。100歳の寿命と言われ、久しいですが、どれほどの時があるでしょうか?
 世情はどちらを向いても、憂鬱な事柄ばかりですが、気候の変わり目でもありますので、お二人様にはどうぞお身体お大切に、を一番にお過ごしくださいますように。  晴美
 
 * 妻の最も昔からの学友、親友。私も初対面は大学生の昔へさかのぼる。その頃この人は大阪で銀行勤めではなかったか。その後に、私たちの上京結婚とほぼ時を同じく上京されたかと。それにしても将来、謡曲や仕舞を習い、演能にまで体験を広げて行く人とは夢にも想像できなかった。まさしく、たいしたお人、賞讃と感嘆を惜しまない。
 
 * 一巻分の「初校」という用事が加わったので、今日は寝入りもせず、仕事を右に左に、少しでもカタをつけていた。右顧も左眄もならない、すべきをし続けるだけ。テレビも見ていない。
 
 * 記憶を徐々に喪失して行くらしい気配を覚える、今日は。用意在るべし。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月十九日 金 
    起床 7-00 血圧 138-66(69) 血糖値 74 体重 56.15kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 青年に於いては過程が内容に優越し、老年に於いては内容が過程に優越する。生命の眞の成熟とは何か。内容を生き生きとさせる多くの生命があり、過程を完全に充たす多くの内容がある、ということ。青年の空虚な鈍い衝動、憧憬と、老年の頑なな智慧とは二つの極端である。  (一一九)
 
 * 少年の昔に聴いたことが有り、いいことだと寒心した。フランスでは、国語の美しい正しさを「放送局」の放送が努めて守っているのだと。佳いこと、そうあって欲しいものと思ったのを今もそう願いつつ忘れないが。近年の日本のテレヒ「放送・放映」関係者らの「日本語」を、率先して汚し乱してくれるのには情けなさを禁じ得ない。「日本語」を「日本文化」としてまもり育てる責任感など、率先して放送局が放置放擲している。
 天皇さんの「お言葉」なる習慣を是非する気は無い、が、「お言葉」集はかちある「日本語」の模範としてもっと意識されると佳い。
 
 * 「湖の本 159」初校が、やっと出た。取り組んで、気を励ましている。いきおい、続く「160」へも鞭を入れて行く。
 
 * もう、幸か不幸か国内外の政治動向に、関心はあっても、それへ「もの申す」前に残年をはかりながら、して置きたい、し残している、ことに「思い」を向けたい。所詮人とももう会いも出逢いもしまい。私自身へ帰って行く道のりを推し測りなが、出来ることをしておきたい。話しかけてくれる人とは機嫌良く話し、しかし、もう私から話しかけることは無くなって行くと思う。
 今度の「湖の本」巻頭には「花筺」を置いた。気散じに摘み置いたあえかな花、草花たちを筺に入れたまで、そんなは無数にりそう。もうおしゃべりの元気は遺っていない、ひとりごとのように「花筺」に、たとえ花びらに過ぎずとも拾い摘って上げようと思う。
 
 * 日々十数種の本を読んでいて、しかもそれをさの灯しめくくれるのが、結局『源氏物語』だというには、驚く。「末摘花」まきのようにワキの巻を読んでいてさえ、そうなのである。
 
 * 暑いという。猛暑という。それなのにわたしは、寒けがする。熱は測らないが、躰を燃やすエネルギーが、つまり欠損仕切っているのだろう。用意してくれる食べ物の、半分とも、喉を通らない。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月十八日 木 
    起床 5-50 血圧 128-67(54) 血糖値 74 体重 56.3kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 高い精神的な関心に生きることは、老人になったときひどい退屈と生活の倦怠とに対して吾々を守りうる唯一のものである。  (一一八)
 
 * 冊子「日本橋」などを拾い読みながら、枕元の灯を消したのはもう一時前だったろう。なにやら多彩に競い争う感覚で夢見ていたが、もう思い出せない、いろんな人影の交錯する夢であったのに。
 
 * すぐ二階へ。愛くるしいほど足先を連れて先立つ「マ・ア」ズと部屋に入り、まず「削り鰹」を奮発した。泪がしおからく目玉がひりひりする。
 
 〇 残暑お見舞い申し上げます。
 暑い夏に熱い思いが通じたのでしょうか、、、「二世望月太左衛 鼓樂 vol.8」が令和4年度(第77回)文化庁芸術祭参加公演に承認されました!!本日通知がきました。これまで2002年、2010年、2012年と参加し、10年ぶりの参加公演です。これも長きにわたる皆様の応援のおかげでございます。ありがとうございます。とても嬉しいです。ファイトでゆきます!
 
 * 寝るために起きてきたかと笑はれて疑ひもなくそのやうである  午前十一時
   骨と皮に瘠せてにくむに肉の無い我身のさまをわらふすべなく
 
 * 性など謂う「こと」からかけ離れ、何十年か。張文成の『遊仙窟』やときに『道教の房忙中』などぱらぱらと見もするが、最近は、葉徳輝の編になる『雙梅景闇叢書』のうちか『素女経』や、殊に白楽天の弟という「唐白行簡賦殘巻」中の『天地陰陽交歓大樂賦』の名文(原漢文)を愉しんでいる。「歓」は「勧」ともあるが、前が正しいだろう。
 
夫性命者人之本、嗜欲者人之利。本存利資、莫甚乎衣食既足、莫遠乎歓娯楽至精。極乎夫婦之道、合男女之情、情所知、莫甚交接。(交接者、夫婦行陽陰之道)其餘官爵功名、寔人情之衰也。
 
と、真っ向書き起こされてある。しかも以下の叙事修飾が美しくも情に豊か、想に熱い。白行簡の『大樂賦』じつに心憎い名文の著なのである、本は新しく綺麗で、私が買い求めたと思われるが、いつ手にしたか全然覚えない。白楽天の詩には少年の大昔から、祖父鶴吉の蔵書で久しく「愛読」を重ね重ねてきたので、その「弟」の著作というのに惹かれたのに相違ない。で、この数日前から机右にいつも控えてくれている。「やそろく」翁の気付け薬のようである。
 
 * 午後、寝入ったまま、左鼻孔からかなりな量の、食べ物もかすかに混じった水分を吐いた。全身、骨と皮になって肉付きが無い。体力は払底して、よろめいている。それでもどこへか出かけて、なにかしら肉けのものが食べたい、が、その元気がない。生命力が霞んでいるか。
 
 * それでも、『明治歴史』も『史記列伝』も読めて興を惹かれる。明日には、「湖の本 169」初校が出ると連絡があり。何かに打ち込めれば意気はあがろうか。「読む
という働きはよほど性に合っているか苦痛や不快を忘れて、何冊にでも手が出る。一冊集中という読みを私は近年むしろ避けている。十無いし十数冊を少しずつ読む。一書の絶対化よりも世界と感性の多様に馴染み馴染めるのを喜んでいる。十八史略 史記列伝 水滸伝 大樂賦 ルソーの告白 人間不平等起源論 高橋貞樹の被差別部落一千年史 坪田の明治歴史 参考源平盛衰記 源氏物語 ドストエーフスキーの悪霊 カラマゾフの兄弟 ジイドのドストエーフスキー論 ジンメルの斷想 トールキンのホビットの冒険 等々が苦もない程度の分量、つぎからつぎへ読んでいって惑うよりも、世界の広さ豊かさが嬉しくなる。躰を横にしているので、疲れよりも多様の面白さが流れ寄ってくる。そういう時間を灯に二回ずつぐらい重ねて、これからする疲労は感じない。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月十七日 水 
    起床 4-45 血圧 146-77(62) 血糖値 74 体重 56.0kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 生活を藝術品にせねばというのは無意味である。生活は自己の内にその規範を有し、生活の形式に於いてまたこの形式に則してのみ実現さるべき理想や要求を含んでいる。この要求は藝術から借りてくることの出来ぬものであり、藝術には、別に、藝術の要求がある。  (九六)
 
 * 妻に聞くと、昨晩は七時にもう、私、寝入っていたと。朝かしらと目覚めても外は真っ暗、時計は九時と。変な時計だと思いつつまた寝入って目覚めて、時計は11時、しかし真っ暗なのだしとまた寝入って次は一時。バカみたい、とまた寝入って、なんと、亡き秦の母と高校の頃の村上正子と三人で、東京だか大阪だか大都会へ夢に旅していたからビックリした。なんぼ何でも朝だろうと目覚めてもまだ外は真っ暗、五時になってない。ママよと床を起って、二階へ来た。とんど十時間も寝入っていたのだ、少しはアタマすっきりしていて貰いたいが。珍しく空腹を感じている。
 秦の母と高校時代の村上正子に接点は全く無い。村上は私の「短歌愛」に賛同しノート作りにまで手を貸してくれた今も懐かしい佳い友達だった。消息が知れていない。元気だといいが。
 
 * 六巻まで興趣に惹かれ読んできた『参考源平盛衰記』の続き、七から十巻を手もとへ出した。目録に、「丹波少将併謀反人被召捕事」から、「内大臣召兵事」此下舊有幽王褒?烽火事今除之とあるが、除かずにおいて欲しかった。この書、巻之一から巻之世四十八まであり、その「引用書」は日本紀以降「通計一百四部」に及んで、通行本の岩波文庫『平家物語』上下巻の和漢混淆文とさま変わって、無数の異話異伝をはらんで往時の新聞記事かのように面白い。
 古門前通りに根生いの骨董商林弥男氏が秦の叔母つるを介して「恒平ちゃんなら読まはりまっしゃろ」と、桐箱入り全冊をポンと呉れたもの。いま踊りの「おっ師匠はん」をしている同年の貞子実父だった。私の嫁にという話も内々にあったとやら、なん十年ものちにその超級の美形「おっ師匠はん」から笑い話として聞いた。如何にも、あったそうなことであった。世の中は、おもしろい。
 
 * なんとか、食べたい。食べねばと思う。そのためにも、せめて池袋までも出たいが。きのう今日、酒は切れたままに節している、カンビールだけを少し。
 
 * 韓国の時代劇『花郎』は『い・さん』『とん・い』『馬醫』にくらべると散漫としている。その点、珍しいまで『鎌倉殿の13人』の運びは、予備知識があるだけに、なかなかに魅せて呉れている。小栗旬演じる小四郎北条義時の成長傳とトも見られる事の運び。迫力が出てきている。すでに、往年の義経はじめ梶原や比企がもう討たれている。これからますます彼は鎌倉「北条」時代の確保のために同じ御家人、仲間であった板東武者らを死なせて行くだろう。
 この時代には、『中世と中世人』このかた関わり続けてきた。「歴史」の湧く時代へ進んで行く。
 もう一方では私自身が書き進めている妖しく怪しい「歴史」ともしかと付き合わねば。
 
 * 山田五十鈴が十七歳でデビした映画『祇園の姉妹』の舌を巻く熱演。祇園には、言葉も習もいも、育ちが祇園の真隣りで幼来何とは無く通じているが、五十鈴の桁はずれな好演にはただ驚く。祇園の女も女だが、入れ込む男どもも、なんともやりきれない男どもである。
 
 
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月十六日 火  大文字 
    起床 6-45 血圧 104-46(83) 血糖値 74 体重 56.1kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 生命が本当に自覚に到達するのは吾々が創造的と呼ぶものに於いてのみである。創造的なものは生命と内容との関係の内にある。内容がそこから直接に生じ来る限りに於いて生命を意味する。  (九七)
 
 * 朝食したが。あきれるほど何の感慨もない朝よ。すぐにもまた寝入れる。生命力が涸れ臭っている。書物世界か史実の過去へ遁れた方が賢いようだ。大文字で歳の前半を見送って、もう坂道をただ降って行く早足に、何が起きるか分からない、何も起きないといいが。
 
 * 笛大鼓・小鼓太鼓、鳴物藝の名手、重要無形文化財、藝多大の韻話出て先生にもなった浅草の二世「望月太左衛」さん、ぱちぱちと火花の美しい例年の創り花火(光る音付きカード)も添え、同じく藝大の院も出て博士になった「令和の撫子」鳴物の技も颯爽の娘「安部真結」ちゃんの美しい写真も大きく添えて、例の元気ハツラツ太左衛ブシの女手紙ももちろん、「浅草の色々」を華やかにも清々しい大団扇涼しく、どっさり贈り届けて下さった。むかあし、テレビ番組で「初めてのお使い」を健気に演じてみせたあのちっちゃな「真結」がこんなに美しく立派に育ったかと、よそながら私も嬉しい嬉しい。りっ゜にお母さんの後「継ぐに違いない。
 毎年のように永い間浅草の大花火を屋上で見せて貰っていた。ある年は妻も一緒に居間からも見せて貰った。東京で一に懐かしいのは「浅草」と私に強く思わせてくれたのが太佐衛さんだった、その太鼓、大鼓、小鼓、笛の音のみごとに力強いこと、圧倒の美韻としか謂えない。
 出逢ったのはほぼ四十年以前の国立劇場でだった。端っこで太鼓をうった小柄な太左衛、二十歳過ぎたかどうか、の「大力量」に素人の私、一瞬で仰天感嘆、その後にすぐ機会に恵まれて、以來最も親しい若々しい敬愛の親友である。
 ああ、もう一度浅草へ行きたいが。すきやきも、寿司も、天ぷらも「浅草」だ。泣けそうに懐かしいよ。令和四年日本語版の察し「吉原細見 歴史と文化探究編の」の懐かしさ。この一冊を手にすればあの吉原で何一つ迷わない。懐かしい。国立劇場編の大冊子日本音楽の流れ「打楽器」も多くが細かに目に見えて、実に有難い。
 
 〇 秦先生 ご報告をさせて頂きます。
 今年六月、国立劇場主催”打楽器”に出演させて頂きました。偶然ですが、真結も現代邦楽に出演しました。今から40年前、同様の企画があり、一観客としても、一共演者としてもとても感動した公演でした。その公演に時を経て出演でき、うれしかったです。
 また今年の一月号として掲載されました「月刊日本橋」の記事をお目通し頂ければ幸いでございます。葭町芸妓のおひろ姐さん藝歴88年の会に関連して取材され本当はおひろ姐さんのページだったのですが、けがをされ、私はピンチヒッターで出ました そしてこの8月号のvoiceに真結が取材されましたので同封致しました。加えて「吉原再見」ですが 2018年に発足した江戸伝統文化推進燈紅塾の活動を続けています中で、地域の小冊子として出来上がりました。
 いろいろありますが引き続きファイトで取り組みます。 望月太左衛
 
 * まぎれもない、まさしくファイトの人よ!
 
 * 音も無く ヒソと暮らしているが。回り合わせとも云うか、その人物や筆致・口調にを微かに好まないでいて、『告白』を軸に、ジャン・ジャック・ルソーの著述と何種も関わり合うている。ぐれた哲学者でも思想家でも著述家でもあるのはいうまでもなく、いまは『人間不平等起源論』に触れている。書庫…書架にあるかどうか、『エミール』とはぜひ出逢いたい。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月十五日 月 
    起床 7-20 血圧 105-51(78) 血糖値 74 体重 56.15kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 生活は自己のうちにその規範をもち、生活の形式に於いてはまたこの形式に則してのみ実現さるべき理想的要求を含んでいる。この要求は、藝術から借りてくることの出来ぬものであり、藝術には別に藝術の要求がある。生活を藝術品にせねばならぬと云うのは無意味である。  (九六)
 
 * 観ていた夢は、忘れた。思い出せそうで思い出せない。
 敗戦の日。想い出は多々、疎開していた丹波の山奥へ走る。南桑田郡樫田村字杉王生。初めは山上の田村邸を借り、耐えがたく街道脇の長澤市之助邸の隠居を借りて母と二人で暮らした。多くを良く覚え忘れ得ない。敗戦の詔勅は長澤の前庭で、ラジオて聞き知った。飛行機のように手を広げて駆け回った。負けたことに何も負担は無く、京都へ帰れるかと胸を弾ませた。あれから、早や77年。いい意味での生きる緊張を忘れ得ない戦中の、また永い戦後の日々であったよ。
 
 * 「寝る」「寝入る」ために起きてきたのか。正午まで、目覚めたかと思ってもまたすぐ寝入り続けていた。からだに力が無い。食べないからからだに栄養の力が足りないのだ、違いないが、食べられない。危ない。
 アルコール中毒とも思われる。服薬の種類の多いのも関わって、躰の揺れを導くのかも。寝入って凌いでいる感じ。手近にあればらくらくと幾らでも呑めてしまう。意識して控えることに。
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月十四日 日 
    起床 7-20 血圧 136-69(62) 血糖値 75 体重 56.9kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 単なる生存のための闘争が既に否応なしに向上のための闘争であるとは、生物進化ににおける驚異である。  (九五)
 
 * 例によって例の、しかし視界も状況も異にしながらの人には険しく厳しい世間の夢であった。うなれるというより、今では呆れる同工異曲、強圧的でアッラカンともした夢世界であった。つまりは、もう思い出せないのであるが。
 
 * 夜前 寝掛けに妻と観た映画『ひまわり』は、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストラヤンニが美しく辛く哀しく競演した戰争悲惨映画の一極点で、名品であった。ソフィア・ローレンの個性的に厳しい美貌が戰争そして気象という残酷な惨事の本性をえぐり、しかも画面は終始一貫して悲壮に美しかった、美しすぎて哀しくむごかった。
 
 * 日本国が敗戦したお盆が来る。この日へは、あたかも「義務」かのように私は國の運命を左右した劇的最期への歴史映像を,強いても目に胸に焼き付けて忘れまいと心身を格す。もう多年そのようにこの日を迎えてきた。
 と、云いながら、午から観たのは、歌舞伎「河庄」一場、坂田藤十郎 中村時蔵 片岡我當の、実に実に華マル五樹マルのみごとな名場面。懐かしさにも、泣けて泣けてしかも浪花芝居軽妙のにわかにも笑えた笑えた、最高級の近松歌舞伎を芯から心底堪能し、嘆賞し、賞美してじつに幸せであった。
「河庄」ではもはや上を望めまい最優秀に完成され尽くした舞台。弥栄中・同志社をも共にした片岡我當クンの最高の芝居を観た。おお懐かしい。ああ何というあの藤十郎の完成され尽くした巧さか。
 素晴らしい舞台を、ほんとうに、よく録画しておいた。最上の宝と思える。
 
 * この日録保存が不安定で、とかく書いた記事が消えている。ワケ分からない。
 
 * 『鎌倉殿の13人』で比企が潰された。小四郎北条義時の冷血の決断が執権政治への道を進む。三代の鎌倉殿が斃されて、鎌倉は京都と対峙する。政子・義時北条と後鳥羽院との葛藤が闘いとなれば、承久の変はあっけない。小栗旬の義時、冷静に熱い。
 
 * 日本の一番長かった日が「お盆」という表情で来る。平和であれ。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月十三日 土 
    起床 6-35 血圧 130-67(60) 血糖値 75 体重 56.75kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 吾々が「創造する」ときにのみ吾々の態度がそのまま必然的となり、一つの方向に固定する。そうなるほかない。
 創造的精神とは「大肯定」の比較級である。  (九三 九四)
 
 * 往年の高峰三枝子のような人と,山のホテルのような場所で、七、八つに千切られた、長い、たしかに「美術」を論じた論文らしきを正しい順に繋ぐべく四苦八苦するという、ま、まことに由来も無い関心も無い記憶のかけらも無い作業に熱中している「夢」から目覚めた。私は睡眠中に莫大に多彩に「夢」を創作しているのであろうか。
 
 * 相変わらず、いま書き置いた筈の記述がつぎに開くと機械から消え失せている、とは。何かを、この私が間違えているか操作を知らずに居るか、ですかねえ。
 
 * 晩の八時半。
   ねむるべくいきてゐるらしねつづけてさめてあえなしゆめもみざりき
 
 * 『なまなり 左道變』 終盤へ強いジャンプをと願う。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月十二日 金 
    起床 7-00 血圧 134-68(65) 血糖値 75 体重 56.25kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 天才とは中間の関門を飛び超えるの謂である。経験という橋を渡る必要なく、学んだことのないものを知っている。藝術は本当の意味で天才の仕事である。その他の人間の企てに於ける如き中間の関門を持たず「常に目的に達する」のだから。  (九二)
 
 * 能面にぜひ観たいものがある。せめて写真が欲しい。国立能楽堂へ行けば或いはと思うが、外出の習慣が枯渇していて、体力にも不安があり躊躇って仕舞う。しかし近いうちにせめてどなたか仕手方の方ににお願いしてでも写真が見たいが。
 
 * 書き進んでいる、というより停頓中の作に、夜中の思案で「題」を得た。佳いと思う。
 
 * 好天、だが風が鳴る。階段を上がった其処、二階廊下の東よりの窓。カーテンを寄せるとめざましい朝日が「朝」の美しさを路上に家並みに耀かせる。ガラス戸をあけ乗り出して手をのばすと、快く伸び上がった笹数本の葉の翠に触れる。道のお向かいには紫の花が木に群れ咲いている。
 この家を建てて53年暮らしてきたか。建て増したのは南側に敷地幅一杯の長い鉄筋の書庫、役に立ってくれている。キッチンと浴室とだけ模様がえしたが、ほかにはナニも。和風家屋は幸いかっちり立っていて呉れる、が、妻のためにはナニもしてやれていない。申し訳ない。
 
 * 『十八史略』の「禹」の時代の溌剌として怪奇な面白さ、『史記列伝』知謀の各位が丁々発止「悪意の算術」を闘わす凄さ面白さ、さらには「宋」の世を代表した「講談」文藝の長大代表作『水滸伝』の魂消た面白さ。視野を日本へ転じて『明治歴史』で徳川将軍家茂が大坂城に客死の前後、幕府と長州との軋轢・葛藤・悪意の攻防そして戰闘区々のありよう、まこと刺激的に而も説得十分に興味津々。強力なビタミンを確かと、而も大量に口に含む心地。
 いまどき、こういう超然と当今現世を抜けて出ての「読書」を愉しむ人は、ま、めったに居まいなあ、まず、手近にそんな本が、ふつう、無い。みな、秦の祖父旧蔵の本に恵まれる「身の幸」である。いい「家」に「貰われ」「育てられ」て佳かった幸せだったとしみじみ感謝する。
 祖父も父も母も叔母も、「秦家」の大人らは、頑強に堅固な、かつ目の前大切の普通の町びとであった。謂わば、微塵も「我から死ぬ」など衝動の無い「健康な」人たちだった。
 
 * 祇園花街と三条裏とに南北を挟まれた、浄土宗總本山知恩院前に「新」「古」二筋の「門前通」、その新門前通りは、北を白川の清流に画され川向こうの古門前通りと隔てられていた。新門前通りはおおよそ東大路から西へは外国からの旅行客相手の和漢の美術骨董商のショウ・ウインドウがならび、西の縄手筋から東向きには静かな和風の家が並んで、京観世・井上流京舞の家元や、超級の仕出し料理で聞こえた「菱岩」などがある。懐かしい佳い「花屋」もある。わが「ハタラジオ店」は、そんな新門前通りの中程に店を開けていた。すぐ東お隣に京都植物園長の、また清水焼六兵衛家の奥まって静かな門屋敷や露地や土蔵が並び、北の古門前通りへ抜けた脇道には、白川を渡して今では名の聞こえた「狸橋」が、幼時私らの遊び場・集い場であった。橋した白川の流れから、時に長い蛇があがってきて仰天もした。白い飾り石の橋桁に凭れ込み、川波の流れにじいっと見入るのが私の夢見時であった。有難かった。生みの母一人にか、実の父一人にか、所定まらずうす暗く貧しく育てられるより遙かに遙かに、結果私は新門前でとても幸せであった。
 
 * 京都大学に間近い吉田辺の「お米屋」北澤家へ貰われた実兄恒彦は、どうだったのだろう。気の毒に、結果、不運であった。養母は亡くなり、実母にはまとわりつかれ、戦後の学生闘争にいちはな立って爆走した京大生たちに「高校生」の内に身近に感化され、火炎瓶を投げ、追われ、牢に入り、前科として判決され、それはそれとして兄恒彦の「身にも力にもなった部分」もあろうが、闊達なごく当たり前に普通の大人には、あたかも成り損じ、自身に「市民」「社会」「家」といった丈高い表札を建てて、才能ある三子を得ながら、妻とは離別し、自らは「市民活動家」という自負からいろんな世間を右往し左往した心の瘠せや疲労の蓄積か、何かしら不満足や重い負担や所労があってか、死病の養父の枕元で首を吊り壮年にして自死したとは、長男が克明に記録した「履歴」に明記されてある。妻子は誰も最期のその場近くに居なかった。
 視野の確かな、思想や思索を重んじて、一見豪快に「身働き」の効く活躍の知識人には相違なかった、が、思いの外に健全健常な「生きる喜び」に支えられないまま、結果「斃死」に等しい自死へと墜ちた。
 アトを追うようにして、次男「猛」また、異国ウイーンで「いたましい」と人の伝える自死を遂げた。ほがらかに、無邪気な、ラグビー好き、大学までにもうドイツ語自在で外務省がやとったという、心優しい可愛い甥っ子だったのに。
 
 * 兄の、わが子等への命名に、私ならしない或る風があった。長男にはあのフクザツに人生を追った実父の名とまったく同じ「恒」一字を与えている。次男の名にあのの「梅原猛」氏の「猛」をもらったと、兄の口から一度ならず聞いた。娘「街子」にはどちらが先であったか、「きみの小説『畜生塚』の町子と通い合うたよ」と父親は私に微笑していた。
 何れも、私ならしないことだ、私は久しく実父「恒」をいとわしく見棄てていたし、梅原「猛」さんにそんな敬愛は感じてなかった。梅原猛と北澤恒彦と。私にはよく見えない景色であった。自分たちの子供の名は、親が愛しく新しく名づけてやりたかった、姉は朝日子と、弟は建日子と。ちょっとかわってるねえ私は兄の「子に名付け」のセンスが妙に訝しかった。
 
 * 私は、いま、しかと心する。,此の自死に墜ちた兄や甥の足跡を決して追わない、踏みたくない、と。
 私は、はっきりと、京・東山新門前通りの「秦」家が、「ハタラジオ店」が堅固に持して愉しんでいたと思われる「文化と生活」をこそ受け容れ、健常に生きたい。
 大量・厖大な和漢の書籍・事典・辞典を秦の祖父鶴吉は孫の私に譲り伝えた。やわい読み物など一冊もなかった。
 父長治郎は、女向きのの「錺職」から、一転、日本で初、「第一回ラジオ技術検定試験」に合格し、当時としては最先頭にハイカラな「ラジオ店」を持ち、電気工事技術も身につけ、戦前戦中をむしろ世の先頭で技術者として生き、戦後は、真っ先にテレビジョンで店先を人の山にし、電気掃除機も電気洗濯機も真っ先に商った。しかも観世流の「謡」を美しく私に聴かせ、時に教え、囲碁や麻雀も教えてくれた。一時の浮気や金貸しで母とも揉めたりしたが、私に此の今も暮らす家屋に費用の援助もしてくれた。九十過ぎて、その東京の家で、吾々の看取る前で静かに亡くなった。二軒ならびの西ノ家には今も「秦長治郎」の陶磁の表札が遺してある。
 同居の叔母ツルは、若くから九十過ぎて東京で亡くなるまで、裏千家茶の湯、遠州流生け花の師匠として多勢の女社中を育て、少年以來の私のために花やいだ環境や親和親交を恵んでくれた。文字どおりのまさに「女文化」を目に観、耳に聴かせてくれた。.
 母のタカは、私を連れて独り丹波の奥に戦時疎開生活をしてくれ、私の怪我や病気にも機転の対応で二度、三度大事から救ってくれた。今思えば家事万端に私の妻よりずっと種々に長けていた。弱げでいながら、夫や小姑よりもなお健康に、百に届きそうなほど永生きし、吾々の看取る前で亡くなった。
 秦家には「死の誘い」を感じていたような大人は一人も居ず、居たと想われず、それぞれ亡くなる日まで「当たり前」のように頑強に死ぜんんに自身を生きていた。父も母も叔母も、少年の私の目の前で「組討つ」ように躰ごとの大喧嘩をしたこともある、が、誰も、一言も「死ぬ」などと口走ったことは無かった。
 
 * 北澤の兄の書いた、また北澤の兄に触れた都合四冊の本を、私は堅くものの下へ封じた。私は秦の「恒平」であると。敢えて感傷のママに「読む必要は無い」と思い切るのである、少なくも「令和四年真夏」の現在、只今。
 
 * 機械の現状が私には見えない。見通しが利かない。いつもいつも不安。
 今、九時。夕飯後、読み読み寝入っていた。いま、何とも左右しかねる不安に掴まっている。気持ちが悪い。そんな気分のママにも『参考源平盛衰記』で、大相國清盛への反逆計画が発起の一人から密告され、掴まった一人、西光法師の、清盛に対する猛烈な反筮を面白く読み返したり、とうとうゲーテ『フアウスト』の第二部も最後まで読み上げたりしていた。この大著、読み試みてきたこと三、四度目だが、今回はじめてこの名作を流れるその意味・意図・志向・展開が見て取れてきたそうな「気」にまでなれた。『フアウスト』はまたまた必ず繰り替えして読むに違いない、ミルトンの『失楽園』に同じく。日本人には書けない。
 
 * ナニだろう、この落ち着きの無い、闇のような不安は。
 
                 
◎ 令和四年(二○二二)八月十一日 木 
    起床 7-20 血圧 116-61(76) 血糖値 75 体重 55.9kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 天才は、人格的なものと非人格的なものとが未だ分れていない存在の層から生まれていると想われる。  (八九)
 
 * 能動という推力が発動しない。寝入ったように凝然、目は明けて。こんな時は逆らわぬがよく、しんんの気ままに任せるのがよい。生きるのを励ますビタミンのような何かと出逢いたいが、この時節、私の健康や年齢からして、やはり書物世界から「力」を見つけるのが順当か。なにしろ人とは出会わない出逢えない、郵便は愚かメールの往来も微かになっている。何とやらの「解除」で目を見張って呆れる程の人出が報じられる。所詮はあんな洪水並みの人出に加わるスベも気も無い。「読み・書き・読書」とはレながら「決めた」ものだ、他にナニも無いのだ。
 知識は、もう欲しくない。観たことも聴いたことも無い誰かに本の中で声を掛けられたり掛けたりしたい。漱石なら苦沙弥先生がいい『心』の「先生」は要らない。芥川や川端は要らない、藤村や潤一郎がいい。直哉が佳い、太宰治は要らない。自殺という手段で人生の幕を切って堕とした人とは話したくない。平然として傲然として生き抜いてたじろがなかった人と出会いたい。神や仏は要らない。たりまえに浩然と生ききった人の手を掴みたい。
 わたしの身内・身近には、なんと自殺した人が多いか。生母は闘いきって病床に自ら死んだらしい、が、実兄の自死は、得も謂いよう無く何かしら自身で追い詰めて崩折れ死んだとしか思えない。話からない。妻の父は母に死なれアトを追った、育ち盛りの三児を遺して。甥の一人はいこくの地で愛おしい人のアトを追い「傷ましく」自ら逝ったという。
 新門前で育ったあの「秦家」の父も母も叔母も祖父も、ぶち殺されても死なないほど平然と頑強だった、私はいま、この育ての親たちの心身のふてぶてしいほど健康に憧れて敬愛し信愛し感謝している。自殺者には学びようが無い。
 
 * 十一時になっている。寝入る爲に「生きて」いた一日、午過ぎ杉から断続して寝入り、夕飯前に入浴して、食後は寝に寝ていた。妻が,二階仕事部屋のドアが開いていると云う声に撥ね起きた。
 この鍵盤が床へ堕とされ踏まれて、小説原稿に無用の書き入れが生じていた。屑籠が倒され、幸い大過なく復元出来た気はするが、明日の点検に。
 いよいよ、わたしの不用意も、末期症状か。メールもナニも無かった。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月十日 水 
    起床 6-20 血圧 143-73(65) 血糖値 73 体重 56.0kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 吾々は先ず自身を客観的に見ることで、そこから自我一般を排除しひたすら客観に生きる爲の「橋」を得る。これが高められ最高潮に達したのが「創造的精神」である。
 創造的な営みに於いては、精神的客観性は主観の對立を克服して、主観をもその内に摂取している。  (八八)
 
 * なににしろ「葛藤」の夢は息苦しく覚める。消すことも払うことも出来ない。
 
   なににしろ「葛藤」の夢も名残なく失せる。消すことも払うことも出来る。
 
 * 気を入れて読み返していった新創作の半ばまで,展開も表現にも、ほぼ納得できた。
 
 * 晩に観た映画『ヒトラー 最期の12日間』は再見でありながら、強烈に度肝を抜かれ掴んで投げられるほどの驚愕とある種切実な深い感動に圧倒され続けた。観たのは二度目などというぬるさは微塵もなしに、圧倒され続けた。佳いもの、価値ある映像で強烈な人類史の数頁と出逢う簡明に痺れた。ヒトラー相当を演じたのは、ブルーノ・ガンツか。そんなことは問題にならない。奇蹟ほどの秀作と謂いきって躊躇わない。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月九日 火 
    起床 6-50 血圧 133-77(62) 血糖値 73 体重 56.25kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 罪は凡べて神に対する罪で在ると謂うのは、誰か自分の罪を許し得るような人を需めようとする絶望的な方法である。
 苦痛による購いは、全く比較を許さぬ二つの要素を天秤に掛けようとする、全く外的な機械的なもので、一の浅薄な自己欺瞞である。  (八三)
 
 * 「知っている識らない町」をもう六、七ヶ所は通っている。訪れたのではない、偶然に行き合い、また紛れいるのである、むろんと謂う,夢の中の徘徊であり遭遇であり体験であり、いずこも同じ不可解に怖く妖しげに凄まじい町で家で人らである。私自身は紛れ込んだ通行人で、そこに地ヂンとの出逢いも、邂逅といったものも無い。前にも来た、初めて来た、見覚えているなどと確認している。見覚えた人というのは一人も無いが、ばらばらに、老若男女とも住人はいて、時季、時節、時代も風俗もまちまだが、貧寒として共通して侘びしい。
 なぜこんな夢を繰り返し見るのか。町通りのことも、山崖を繰り込んでような異様な場所も、なみとの通りから名ミリ表戸を押してはいると迷路のように地下深くの家々の小庭を身を狭めて通り抜けてゆくと、もう地底のような市にお宮が在ったりする。ほっとしてお宮から外へ出ると都会の大通りであったりする。異様な夢中体験と謂うしか無い。こんな際に、私に連れのあったことは一度も無い。身を切るほど寒い彷徨でしか無い、誰かと口を利いたことも無い、乱暴にも遭わないが、憎々しく睨まれる。全くの「よそ者」と睨まれる。
 これら「夢寐の彷徨」を美しげによそえて謂わば、まさしく
   月天心貧しき町をとほりけり
 
 * コロナ用心、酷暑、夏休み と重なって、印刷所での仕事は捗らない。ガマンして、待つ、待つ、待つ。読書があり、撮って置きの映画が在る。創作の前進を一に努めたい。浩然と努めれば良い。昨日から今日へ観た『ウォーター・ワールド』ケビン・コスナーとデニス・ホッパーがしたたかな女子役と競演して、なかなかに「懐かしい」海洋の映像だった。ノアの方舟も連想させながら現代映画として工夫と技とが利いていた。広大無辺と見える海洋の大いさの果てに「土」の島が見える歓喜は判るよという心地だった。
 
 * 村上開新堂主人 山本さん、お店特製のクッキー、各種大小ぎっしりの一缶を下さる。感謝。
 
 * 「湖の本 159」初校出、週末になると。コロナ感染、酷暑、夏休みと拍子がわるく揃っていて致し方ない、こちらも息をととのえて、創作続稿に気を入れる。時間に急かれたり焦れたりは無用にすべし。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月八日 月 
    起床 5-45 血圧 144-71(67) 血糖値 73 体重 55.7kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎  精神の自由とは精神に依る拘束のことである。何となれば凡ての自由は、やがて支配を意味するからである。  (七七)
 
 * 「女文化」と無縁かのように兄「恒彦」を謂うていたが、概して謂えば間違いなく和歌にも物語にも絵巻にも歌舞伎にも寺社や風物や茶や花に遠い人であったけれど、明らかに一つ例外がある、京舞の井上流、それも今の三世井上「八千代さん」への、執着に近い熱情が履歴に記録されている。これには、実はびっくりした。来歴は知らない。八千代さんはいわぎ私には同じ新門前通りの「仲」と「西」の御近所同士で在り、同窓の後輩であり、親しい専攻先輩の妹であり、現に私「読者」の一人で在り、実は今日明日にもお宅へ届くであろう小堀遠州子孫の筆になる閑雅な「雪」「月」「花」歌軸三幅を進呈したばかり。とくべつの意味も無い、戴いた厚志へのお礼というよりも、床の間というものの無いわが家には掛けたくても掛けられない長軸なので、井上さんん家なら床の間は在る在ると、まあ持ち場所を替えさせて貰ったという気軽さ。お宅へ出向いて舞の稽古を眺めたり、公演があると遠路を出向いたり等はしたことはない。それを、だが兄恒彦は「していた」のである、コレには驚いた。舞の美妙や微妙のわかる生地のないあにに相違なく、おんなぶんかであるよりも女性で在る「井上八千代」にともあれ執心した時期があった、という事可。恒彦は、高校生で恋を知っていこう、履歴にも、風聞にも何人かの「女」に意を示していたのが読み取れる。八千代さんか、あの北澤と近所やった「秦ハン」とが実の兄弟と今は知っているかどうか、あるいは知ってビックリするのかも知れない。「ものがたり」になりそう。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月七日 日 
    起床 5-10 血圧 133-67(67) 血糖値 73 体重 56.2kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 発展の観念が支配する限り、凡ての人は先駆者であり、而もまた何人と雖も實に完成者なのである。一切の完成者の先駆者であるかのように、そして一切の先駆者の完成者であるように振舞い努めよという二つのことは、並存するのである。 (七四)
 
 * わが事は超えたことながら、ジンメルの確信には耳を傾ける。
 
 〇 昨日メールを戴いていました。
 煩雑な原稿処理など、その幾らかはわたしにも分かりますが、「今しがた、通過できました。」とあり、直後にメールを書いてくださっている・・。感謝。
 もういいかいとしきりに呼ばれている気が・・そして「まあだだよ」とこれまでにも何度かメールに書かれているのを、わたしは間違った解釈こそしないものの、やはり言及してきませんでした。まあだだよと言い返せるうちはまだ大丈夫。鴉にはまだまだ残されているお仕事があるのです。わたしも言います「まあだだよ」
 
 北沢氏に関して、鴉は全く理解が届くまいと感じ当惑されている。世界が違う、感覚も違う、女文化の欠如、懐かしさがわかない・・
 北沢氏の本、わたしは全く読んでいないので、彼に関して述べようがないのですが・・。
(京都)大学で部落研に入り「挫折」した自分の経験から言えることは、筋金入りの活動家の人とどんなに話しても理解し合えなかったということです。
 一番大事なことは階級の打破、経済的な問題の解決。宗教はアヘン。社会主義国の現状にある問題や矛盾は資本主義社会の悪影響によるもの、理想社会に至るプロセスに過ぎないと、中国の農業政策の失敗による飢饉餓死、ソ連のスターリンの粛清恐怖政治などには目を瞑り、際限なく彼らは「力説」しました。更に組織とか政党の中での個人の在り方など。いずれにも絶望的な「隔たり」を感じました。
 北沢氏は高校生の時、既に確信に満ちた活動家で裁判にかけられた、彼にはその時点で他者の眼からも自分自身としても「立ち位置」が定まってしまったのだと思います。どんなに矛盾や困難を抱えても彼は責任感や義務感、そして身近にある人々との連帯感(活動から離れた場合には諸刃の剣になって強かに打撃を与えるものですが)の枠内で呼吸していたのかもしれません。連帯感や同志愛は孤独と背中合わせです。
 生涯の長きに亘って一すじの道を歩んできたと自負できると同時に、プライベートでは孤独だったのでしょうか。彼にとっての家族・・。
 自殺した知人、その人たちにとって家族は どんな意味をもっていたのか、理解できない場合も多いです。自殺という行為のその瞬間に何を感じ思っていたのか、死ぬ勇気? エネルギー? わたしにはあるでしょうか?
 
 途中でごめんなさい、今はここでストップ 勝手なことをとりとめなく書いたかもしれません、
 保谷の鴉  くれぐれも くれぐれも お身体大切に大切に 元気で   尾張の鳶
 
 * 正直に言い切るが、私「やそろく」人生に、「鳶」さんの用いたような「批評」「言句」はゼロであった。こういうふうに批評できる心地・心事・言語を知らなかった。謂われている「活動者」ふうの誰一人とも事実出逢わず、識りもしなかった、例えば鶴見俊輔さんのような文筆の大先輩や、かつての労組での執行委員のような人達の他には。まっささきに想うべきは私自身が 甚だしい「現代のハンパもの」「我れ勝手な孤立者」であったのだ。
 
 * どうだろう、生母や実父を「書いた」と同じ感触で、兄の生きて生活・活動していた「埒の外」からの視線と感想とで「私の兄」を書き綴っては。いま、そう思いついている。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月六日 土 
    起床 5-10 血圧 133-67(67) 血糖値 73 体重 56.2kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 情熱に負けて客観性を喪うことの無いようにするには−−結局、礼節の士で在りさえすれば良い。しかし、客観性のために情熱を喪うことの無いようにするには−−倫理的意志だけでは出来ない。 (七三)
 
 * 狂いそうに煩雑な原稿処理と整備の雑用に追われ続けて 体調も低迷・困憊 生きた心地がしなかった。投げ出せば、何もかもが更に行き詰まる。が、つい今しがた、通過できた。まだこんなガマンの利く根気があるのかと、有難いと謂うよりもビックリした。それでいて、日々の読書は手控えてない。「参考源平盛衰記」も「水滸伝」も「フアウスト」も「水滸伝」もみな面白い、むろん源氏の「若紫」巻も。
「もういいかい」としきりに何処かから呼ばれている気がする、が、「まあだだよ」と呟きながら生きのびている。
              
 *「恒彦」の関連本など、 尾張の鳶の親切で手に出来た、感謝。
 この「兄」のこと、しかし、私には「理解が届くまい」かと思う。似た、感じがしない。懐かしがるほどの「つきあい」がなかったし、「理解の手づる」がみつけにくい。やってきたことが「互いに違いすぎる」のか。
 書いたものを読んでも、文体もそうだけど、呼吸づかいがちがう。私に気をつかい気を配ってくれていたとよくわかっているけれど、呼吸している「世界」がちがう。「感覚」もちがう。知的に理解するのは不可能で無いが、いわば「女文化」の花がまったくこの兄には咲いていない。だから「懐かしさ」が湧いてこない。生母にも実父にも感じ得た「一体感」が湧いてこない。寂しい情緒でなく、淋しい無縁を覚えているのでは、と我が身を抓っている。
 
 * 疲れてか、ボケてか、なにやら茫然と。それでも、今し方階下で読んでいた『明治歴史』幕末の薩長が、尊王攘夷か公武合体かて対抗したり親和したり、勝安房や大久保市藏や西郷吉之助らの顔を出してくる辺り、惹き寄せられた。
「歴史」は、いつも学びたい第一義か。
 
 * 不安な躰違和に辟易し,今日は寝入るために起きていた感じ。もう十時過ぎ。なにをしていたやら、なにかも取り留めない。十数冊の、ごく少量ずつの気を入れた読書をたのしみながら眠りに落ちて行く。機械クンの気分も、私の不器用の故でもあって、決して宜しくない、らしい。
 
 〇 落ち着いたお声が、届いて、本当に安心いたしました。この五日あまり、メールボックスを開けてはため息ばかりで、心配しているほうも生きた心地がしませんでした。
 我慢仕事をなさってらしたと伺い 呆れております。お具合悪いときは頑張らずに休んでいただきたいものです。文学の神さまが、みづうみに「まあだだよ」、もっと文学のためのお手伝いしなさいと仰っているということかもしれませんけれど、あまり心配させないでほしいのです。
 でも、本当に嬉しく喜んでいます。メールありがとうございました。 なつは、夜
 
 *「文學の神さまと」とは親交がありません。神頼みに逃げ込むのは、ね。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月五日 金 
    起床 4-40 血圧 144-69(67) 血糖値 74 体重 56.2kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ いくつかの偉大な思想だけは本当に自分のものにしておかねば成らない。明るくなるなどと思いも及ばなかったところまで、それが光を投げかけてくれるから。 (七六)
 
 * 一
 
◎ 令和四年(二○二二)八月四日 木 
    起床 4-40 血圧 144-69(67) 血糖値 74 体重 56.2kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 此の世に生きる最高の術は妥協すること無く適応することである。。 (七二)
 
 * 一日を超永く 超懸命に苦労して、かがつ間近にゴール見えるまで頭痛も不自由も堪えながら 八時*
半。こめかみに疼痛、奇妙に愚かしい奮闘と思われる。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月三日 水 
    起床 6-40 血圧 144-69(67) 血糖値 74 体重 56.2kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ より高きものたらんと努める精神的な人間の、何より先ず避けねばならぬ事は、物事を自明なものとして受け容れてしまうこと、及び、偏愛することである。 (七一)
 
 * 夜中 手洗いに起った以外何も覚えず 六時半頃「アコ」に顔を刷りよせて起こされた。
 昨日の連絡ではやっと「湖の本 159」の原稿を確認してくれたよう。出校を俟ちながら「湖の本 160」も一気に入稿し、手前を寛げひろげたい。第一目標は仕掛かり進行している創作の到達。
 
 * 父母を倶にした実兄「北澤恒彦」でありながら、一つ屋根の下で暮らした只半日一日の記憶も私には欠けている。同様に一つ屋根の下で暮らした只半日一日の記憶も欠けている「母」を書き「父」を書いたので、「兄」のこともと思うが、なまじいに同じ世代を似た世間へ名も顔も文章も出して「生き」てきただけに、しかも兄の生涯にたった二度三度しか逢って言葉を交わしたことが無い。兄の著書は尾張の鳶さんの好意と配慮とで、甥の「恒」の編著二冊をふくめて、やっと四種四冊手に入っているが、内容で、「兄弟の触れ合う記載」のありそうな箇所は希有というしかない。ただ、初めて顔を合わす以前にも数通手紙を貰った記憶があり、出逢って以降「兄の自死」までの短期間には、書簡そしてメール往来の記録が、やはり数多く歯無いが幸い残っている。「書く」程のほどの何があり得ようか、識っているのはいわば接点の無い「風聞」なのである。兄の自死後の「想い出を語り合う」らしき会への呼びかけにも私は応じなかった。「なあんにも識らないで」離ればなれに生きてきた兄の、大勢の「他者」の口から聴かされる「想い出」にはとても私は耐え得ると思わなかった。「識らなかった」ことを人の口からでも識りたいか、「ノー」であった。そんなわたくしを「水くさい人」と謗る「甥・姪」を含めて大勢のあったらしいが、「私」の悲痛には無縁のものの心ない軽率の罵声にすぎない。
 で、どうするか。私が手持ちの、抑も戸籍謄本にはじまる「内容ある」資料を手もとへ揃えること。すでに妻は兄の晩年の書簡を「清書」朱修してくれているが、兄恒彦の自認の「悪筆」は、これはもう、もの凄いのであるよ。兄が、パソコンに触りはじめ、初牛久メールを暮れ始めたのは、あれは自死以前の半年餘もあったろうか。あの年の六月に江藤淳が衝撃の自死を遂げ、半年後にきた澤恒彦もまた自死して逝った。「湖の本 20 死から死へ」はその慟哭の時機を記録している。「一九九九 平成十一年 七月二十二日」闇に言い置く・私語の刻は、「江藤淳氏自殺の報で夜が明けた」と書き起こしている。そして十一月二十三日 早朝 兄のこと として「兄北澤恒彦が死んだという」と書き起こしている。二十四年の昔ばなしと成っている。
 さ。書けるかなあ、そんな「兄」を。毀誉にも褒貶にもモノがない、私の手に。
 
 * 英国製 空爆変態飛行の映画を 手に汗して妻と観た。
 
 * どんよりと、怠けていることで疲労を凌いでいる。なんともなく頼りも頼みも無い熱暑の家居。、
 
◎ 令和四年(二○二二)八月二日 火 
    起床 6-55 血圧 154-71(56) 血糖値 74 体重 56.5kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 独自の価値は、論證すべきものであつて、主張すべきものではない。 (七〇)
 
 * まあだだよ。
 
 * なにもかも、向き合って、成るべく成るように事を済ませ済ませ根をつめていた。それしか無いのだ、それがいいのだ。それでいいのだ。
 
 * 一日のお終いに、ルトガー・バウワーと好きなミシェル・ファイファーとの大好きな映画を観ていた。何度も何度も観て来たのに、新鮮な感動と嘆美のおもいで観終えた。
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)八月一日  月  八朔
    起床 7-15 血圧 149-72(63) 血糖値 74 体重 56.2kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 人生の本質的な問題はこうである。 あたかも今日が最初の日であるかのように毎朝新しく生活を始めること。しかも一切の価値ありき古き体験や記憶をかならず前提とすること。  (六九)
 
 * 「湖の本 159」を 凸版印刷株式会社に『入稿』について、心神耗弱どの疲労と失望を襲続け、まだ解決を見ない。従來可能だったことが俄に不可能になると、機械にそもそも何の予備知識ももてていない私は途方に暮れるばかり。
 
 * そんな中でかんかんの日照りの夏を妻と定期の内科受診に厚生病院へ。往き帰り、タクシーをつかった。幸いに診察に大きな故障は無く、私などは、先生に気の毒なほどまあまあの健康体とのこと。それは有難いことで有り、ひびの仕事に紀元の善し悪しはついて回ってもとにかくそれをしつづけてられるという事実は感謝しなくては成らない。
 しかし、私の仕事には、自身で処置可能のものも、人手を借りて前へ進めねばならぬ事もあり、後者は決して容易ではない。いちどひっかかると、解決がつくのに先方の理解や納得を得なくては成らない、それがお凡て機械的なメール往来でされるので、けっして綺麗に割り切れない。ま、いまのわたしは酷暑にも負けてふらふらの事態なのです。
 
* 私は前世紀末に東工大教授の研究費で、ともかくも先ずパソコンを買った。使い方など1ミリも識ら無かった。大教室で、盛京のパソコンと、「一太郎」を買ったよと謂うと、笑いが風のように教室に舞った。笑いの意味は識りようもなかったが、どうも機械本体で無く「一太郎」にありけに聞こえたのを記憶している。しかし以來依頼二十数年、私は今も「一太郎 承」とかいう板をインストールしている。何の信不審もない、成り行きに任せてきただけ。
 「一太郎」になにか大きな故障の原因があるのだろうか。判らない。
 
 * 「もういいかい」という呼び声が頻りに高い所から聞こえる。
   「まあだだよ」と小声で答えているが。
 
 * 茫然自失と謂うか。心身に「元気」が失せている。佳い読書で、躱したい。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)七月三十一日  日  文月尽
    起床 7-30 血圧 149-72(63) 血糖値 89 体重 56.8kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ とかく人生は一つの袋小路に入って行く。吾々の内部における個性的なものと吾々の外部に於ける個性的なものとの関係の内に、豊かさと無限への過程とを見失わぬということは、吾々の偉大なおそらくは解けがたき問題である。  (六八)
 
 * 夢を見なかった、が、強烈に苛性の苦みが喉へこみあげて目覚めた。就床直前の、量はなくても気ままな飲食が反響するのだろう。
 
 * 「気になること」 それのあるのが常、それで良いのか、良くないのか。気になることが重石のように肩に載っているのは、やはり、しんどい。生きているとは、こうなのか。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)七月三十日  土  
    起床 5-50 血圧 156-76(60) 血糖値 89 体重 57.05kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎                   生涯を通じて私は空虚な場所、何も描いてない輪郭に過ぎない。それ故にこそこの空虚な場所を填めるという義務と課題が与えられている。これが、わたくしの「生活」である。  (六六)
 
 * 昨日は、汚点のように私にむごい日であった。平穏でありたい。
 
 〇 「まあだだよ」「まあだだよ」お元気で 秦 恒平 さま
 おはようございます。(午前4時 実は私はこれから寝るのですが。)
 過日いただいたメール、プリントアウトして何度も読み返していました。「湖の本」の一節を読んでいるようで、とっても面白く拝読しました。
 安倍晋三の国葬には、ただただあきれるばかりです。
 秦さまもとっくにご覧になったと存じますが「朝日川柳」とすぐ隣の「かたえくぼ」が秀逸でしたね。(念のため切り抜きを添付します。)
 私も「国葬って国がお仕舞いっていうことか」の気分です。とうとう というか いよいよ日本も終わりだなって思っていましたが、この川柳とかたえくぼを読んで、まだ希望が持てます。
 このところコロナ感染者が急増しています。猛暑もこれから本番です。どうぞお気をつけてお過ごし下さい。
 改めて暑中お見舞い申し上げます。  遠藤惠子  仙台市 
  (もと 大学学長  医学書院での後輩編集者 社宅で茶の湯作法を手ほどき。親友)
 
* 国葬とは 國のお葬式か…、呻くなあ。 
 
 * さて。何としても昨日の続き、避けて通れない。
 
 * 尾張の鳶、私の「兄恒彦」を書いておきたいという思い爲しに、甥の恒が編成した「父」を主題の本二冊を手に入れて送って下さった。感謝。
 とにかく、識らない「兄」なのである。今から見ればほぼ同年の兄弟なのだが、鮮明に異なった人生をあゆんで、兄は、自死した。どう死んだのか知るよし無かったが息子の「恒」は躊躇いなく「首を吊って」と語っている。言葉を喪った。識らなかった故のショックがあるにしても、それに拘る気はない。理由があってか無くてか、兄は、江藤淳の自死の半年後に自ら首を吊っていたと。
 生母を書き、実父を書いた。兄も書こうと決めている。母にも父にも幸いに私のもとに厖大と謂えるほど生な資料が在ったが、兄のことは、實はほとんど知れていない。それでも駆けるだろう、明らかに、短期間では在ったが兄晩年に、淡いが懐かしい兄と弟としての接点や折衝はあったし、それは、子供達も識らないままの一面に相違ない。どこまでその一面が表現できるか、遣ってみようと思う。
 
 * 疲れたまま、まだ九時過ぎだが、朝が早かった、床に就いてもう休もう、本を読もうと思う。読書は、目こそ疲労するが、私には精気を受け取れる時間なのである。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)七月二十九日  金
    起床 6:15 血圧 160-76(60) 血糖値 89 体重 58.0kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 「慰め」は、ふつう人々が与えているよりも遙かに広く深い意味を持っている。人間とは慰めを求める存在である。救助とは異なる。救助は動物も之を求める。
 一般に人間を救うことは出来ない。それ故にこそ人間は慰めという不思議を創り上げたのである。  (六四)
 * 贅言は加えないが ジンメルは、まこと広い深い基盤に独創を建築した、信頼と賛嘆に値する哲学者であった。
 
 * 体重が増傾向、血圧が高傾向。機械クンの温厚を切に願う。
 
 * 懸命に整備してもう上がりと思った、そのままが消散、私のミステークなのだろうが。この数日の苦労がフイになった。しかし、とりもどすしか道は無い。この二,三日、如何とも遺憾とも。どこかから、逸失分が復旧して欲しいがなあ。「まあだだよ」「まあだだよ」
 
 * 自身を支えていられないほど。心身、よろよろして斃れそう。もう保たないのでは。何をどう始末付けて良いのか。自身、荒れてしまうことで中和するしか起っていられない。
 
 * 幸いにそれでもまだ読書できる。漢字も漢文も読めて、『史記列伝』を愉しんでいた。二千年昔の支那の豪傑達がしのぎを削る、「悪意の算術」を尽くし國の興亡を賭して政略と武略とで奔命する。やるものだ。
 
 ○ 如何お過ごしでしょうか? 
 再び感染者数の急激な増加で、お家に籠られていらっしゃるかと思います。夏の暑熱を避けて体調にはくれぐれも留意なさってください。
 お兄様、北沢恒彦氏のこと、同志社卒の友人に聞いたりしましたが、年代のズレもあり、直接的な良い情報は残念ながら得られませんでした。ネットで検索購入できる範囲で幾らかお役に立てそうなものを送ります。
 べ平連に関係したことなどは鶴見俊輔氏などとの関連で調べられると思いますが、「實兄」という存在を鴉が語るという観点から、脇に置いておきます。
 これまでHPに書かれた記述から、お母様に関して「階級を生きなおした」と恒彦氏が述べておられるのは、いかにも彼らしい述懐と思いました。戦後の時機を生き抜いた・・
 十年遅かった私は「戦後の意味や重さ」を身をもって分かっていないと痛感します・・。
 高校生での政治活動、そして起訴など耐えがたい重さと誇り。以後生涯にわたって影響し続けたと思います。かなり後々でも京都の高校での闘争は語られていました。京都を中心にした文学世界の本に幾らかの記載があったと記憶しているのですが、本を探し当てられません。
 『遊仙窟』はまだ読んだことがありません。手元にあるのは漢詩を除いては『史記』『大唐西域記』くらいのもので、何故か『官場原形記』、これは清朝の時代を「勉強」していたので。
 さまざまな事、テレビで報じられるさまざま。ウクライナ情勢もまだ不透明ですが、プーチンの思うままにはなって欲しくない。民主主義の在り方が問題を抱えていても、独裁国家体制が世界を占めていっては欲しくないからです。20世紀のナチの独裁国家、共産主義の国家・・そして21世紀の様相を凝視します。
 鴉から「幕末」についてい問われて、不勉強を意識しました。今は半藤一利氏の『幕末史』を読んでいます。
 もう一冊は『ホモサピエンス』の著者ユヴァル・ハラリの『21Lessons』21世紀の人類のための21の思考。
 娘と孫が京都の暮らしをたたんで、同居を始めて二カ月。振り返ってみても時間が長く感じられます。保育園の送り迎えが仕事になりました。と言っても、車の運転をやめた私は補助的な役割にとどまっています。食事の支度は幾らか大変ですが、これも日常になりました。
 およそ、同居、大家族がいいとは思わなかった私が、三世代家族の暮らしに。長い間、三十年近く三世代で暮らしてきた姉は、夫婦二人の生活に。妹は夫が五月に亡くなり独居に。
 人生は思うようにはいかない、様々なことが勃発するものです。
 コロナ感染者の数は恐ろしいほどですが、注意深く暮らしていくしかありません。
 どうぞくれぐれもお身体大切に、重ね重ね願います。  尾張の鳶
 
 * 近来受け取れた便りのなかでも最も生き生き呼吸まで聞こえて、励まされた。感謝。深く感謝。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)七月二十八日  木
    起床 5:25 血圧 151-70(66) 血糖値 89 体重 57.3kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 吾々の潜在的な苦悩の全部が、なにも現実的なものでないと確信を抱けることは、慰めになるより、却って恐怖を誘う。それを現実には持っていないが、その全部を必然かのように抱き持っているのだから。   (六一)
 
 * もう一寝入りしても良かったが。そおっと階段をあがったら、二階廊下の階段ぎわで寝そべった「アコ」が待ち受けていた。窓のカーテンを明けている内に「マコ」もはせ参じて、産人で部屋に入った。むろん。削った鰹頂戴である。はいはい。
 
 * 手に触れた『遊仙窟』を明けた頁に,神がかった美女の「十娘」早々のお誘い。
    勒腰須巧快   腰を抱くのは手際よく
    捺脚更風流   脚をおさえれば、なお粋き
    但令細眼合   細めた目と目が逢いさえすれば
    人自分輸籌   わたくし 負けたわとあきらめます
  恐れ入ります。(意を酌んでおく)
 
 * 晩の九時半。気ぜわしくいろいろ有り、仕事もし続けていたが疲労も極。もう休む。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)七月二十七日  水  娘朝日子誕生 孫やす香逝去 の日
    起床 7:40 血圧 140-76(68) 血糖値 89 体重 56.75kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 人生の無意味と束縛は往々にして人が全く絶望せざるを得ぬほど極端な、抜け道の無いものと人を捕らえる。これを超越しうる唯一は、これをさよう認識し且つ絶望することである。  (五八)
 
 * 『剣客商売』の秋山小兵衛。藤田まことが、さきの大戦での「戦犯 被告」元陸軍中将を演じた『明日への遺言』に、しばし慟哭した。敗戦の日が近づくと私は「勤め」のようにこの類いの「戰争・敗戦」証言映像に心身を晒すのを「心がけ」としている。
 目を覆う名古屋絨毯爆撃の米空軍兵が一部討たれて着地「捕虜」となり、日本軍に斬首されていた。その方面軍司令の岡本陸軍中將を裁いたのであり、国際法廷は緊迫に満ちてしかも被告の平静沈着な答弁は、見事な節度と決意とに充ち満ちていた。岡本は死刑を甘んじて受け容れたが、同じく部下数十名の死刑を救い、凡てが減刑された。深く頭を垂れて、熱く泣いた。
 
 * やす香が私たちを見守っているのは判っている。安香の声を聴かない、やす香と語り合わない日は無い。
 朝日子が、痛みにも似て心惑うているだろうとも、父の私は識っている。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)七月二十六日  火  
    起床 7:40 血圧 140-76(68) 血糖値 89 体重 56.75kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 人間の本質と特徴は、彼等に「絶望」の存するところにある。   (五七)
 
 * よく寝たと謂うことか。夢の一つにも記憶が無い。いま目の前から、描かれた「ろーじの風」が涼しい。
 
 * あっとうまに、正午まで寝入っていた。一時から、韓国連続ドラマの『花郎(ファラン)』を観ていた。蒙昔と謂えるが買い置いた『韓国古代史』上下巻のなかで「花郎」を説き語っているのを印象的に覚えていた。貴族社会でも見栄えのいい青年達を「花郎」と名づけ國力として組織していた。面白い発想だと思った。日本では出来まい。
 
 * 感染の風は今や高飛車なまで吹き荒れている。しかも人の思いは慣れて緩んでいる。
 
 * 書いたと思い、取り纏めた思う記事や箇所が、紛失、見当たらない。機械が馬鹿か私がバカか。刻々に「まあだだかい」と呼ばれる心地、「まあただよ」と返辞しにくい気持。なにより費やした労力と時間がいたましい。いたましいものよ、生きるとは。
 
 * 京舞の井上八千代さんから、お便りとお志の酒肴として美味最上のお漬け物を戴いた。八千代さんのお宅は、私の育った秦から、西向きにホンの百二、三十メートル、南流して新橋へそそぐ清い白川を跨いだ新門前通りの西之町にある。八千代さんのお父さんは京観世の家元片山九郎右衛門さん、お兄さんが私には大学専攻の先輩、観世流仕手方の片山慶次郎さん、此の八千代さんの初世井上八千代お祖母さんと、秦の、私の叔母茶の宗陽・花の玉月とは、古門前通り元町に校門を開いた市立有済小学校の、はるか昔の同級生だった。私等はみな、その久しい後輩で同窓。祇園甲部の芸妓舞子は一人のこらず井上流京舞を習って「都踊りはよーいやさあ」と花咲かせてきた。日本の文化はほんしつにおいて「女文化」と謂い切るわたくしもまたその土壌に育ってきた、たぶん、今も。
 
 * 同じ京都でそれぞれに美学芸術学をまなんだ、私より一世代近くお若い羽生Cさんからも、お便りや、新潟の画家であられたお父上叔父上の画集などを頂戴した。派不参は、意匠の美学、模様や図案・装飾を語られる著作はそれ自体が美術のようである。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)七月二十五日  月  
    起床 7:10 血圧 142-67(72) 血糖値 89 体重 55.45kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 人生を生き抜かんがために人間が掴むもの、それ以上に人間としての水準の深さを示すモノは無い。  (五六)
 * 夜前に服したむくみを退く半錠といつもの利尿剤とで手洗いへこそ三、四度起きたが、浮腫は退き、体重もしっかり減っていた。ほとんとが椅子暮らしなので下肢への浮腫は避けがたい、のではあろうが。
* 夢は少なかったが、寝起きの前辺りで、空港のホテルらしきで、アメリカへ帰って行くよっちゃん、ちょこちゃんと、見送るわれわれ夫婦との、お別れの朝の食事に日本風の「美味いラーメン」を四人ですすり合うた夢を見ていた。年長のよっちゃんは「もう亡くなっている」のは判っていたが、ナニ変わりない声音と笑顔とで、リーダー格を昔のまま元気に演じてくれていた。
 夢と判ってながら見ていた少し胸の疼く夢だったが、「ラーメンで」というよっちゃんら姉妹の元気な提案に陽気に救われていた。しかし、よっちゃんはもういないと少なくも私には判っていた。ありありと判っていた。
 * いま朝の八時前、宮澤明子の美しいピアノの音色に聴き惚れている。
 * 夜前、床に就くまで妻と観ていた日本映画『まあだだよ』は、少なくも三度は観ていて、いつもアハアハと笑い面白がっていたのに、今度はそうはいかなかった、激しい違和感に悩まされ続けた。内田百間「先生」らしき底抜けの「お人」とそれを上回る青壮年の「学生たち」との超善意に溢れた浮世離れの幸福な「作話」世界が、昨夜ばかりは疎ましいまでに重苦しかった。画面から逃げ出したかった。
 「まあただよ」が「もういいよ」へ近寄ってくるのを懼れてか、そこまでは踏み込まなかったが、縦横無尽に底の抜けた善意と哄笑との画面が、時に肌に粟立てた。ほとんど逃げるような気分で床に就いた、床へ遁げた。
 
 * このところの「毎日読書」の数に加わってわたくしを惹きつけている一冊は岩波文庫の高橋貞樹著『被差別部落一千年史』と、元の蘆陵 曽先之の著に、日本の大谷留男が訓点し、明治二十九年十月五日、大阪の岡本偉業館蔵版になる『十八史略(片仮名附)』とで、ともに新古双璧の名著。
 
 * ことに前者は、私より三十年早い一九○五年に生まれ、私が誕生の昭和十年(一九三五年)には亡くなっていた一青年が、それも弱冠「十九歳」でみごと書き上げているまこと瞠目の「一千年史」、全頁くまなく揺るぎない希代の「名著」なのである。
 私の生まれ育った京都市には各所に散在して「被差別部落」余部地区が在り、小学校ででも中学高校ででもなんら気疎い事実でなかったが、大人の口から漏れ聴いてきたいわば「耳学問」での「差別」の伝承や実際はただただ凄まじモノに聴いて取れた。
 それにしても「十九歳の著者高橋貞樹」のその「歴史的考察」といい「現状と水平運動」の精緻なまでの追求・考察・筆致といい、しかも参考著書論文の渉猟、舌を巻く見事さである。私は此の文庫本一冊を、なにかの関心や問題意識にかられるつど、繰り返し読んできたが、いわば「日本人」ならば誰しも必読必携、岩波文庫の一冊で容易に手に入る名著なのだからと、今も推して憚らない。一千年来の日本人ならば、ひとりとしてこの本の伝える歴史と無縁な人はいない筈。
 
 * 漢土の『太古』 まず「天皇氏」が「木徳」を以て「王」となり「無為にして化」してる。兄弟が十二人、各「一萬八千歳」。
 ついで「地皇氏」が「火徳」を以て樹った。やはり兄弟が十二人、各「一萬八千歳」。
 ついで「人皇氏」は兄弟九人、國を「九州」に分かち、いらい「一百五十世」「四万五千六百年」。
 「人皇」以後は「有巣氏」が、構えて「木を巣とし木の実を食と」した。また「燧人氏」が、初めて「燧をきり」人に「火食」を教えた。すべては「書契以前」文字で書き表す事の無かった史実で、年代も国都も解りようが無い、と。
 それにしても「木」といい「火」といい人の暮らしように賢く連繋している。
 そして「太古」は「三皇」の世へ移るが最初の、「燧人氏」に代わって出た「太昊伏羲氏」が「蛇身人首」と怖いよ。しかし為政は理にあい「書契」に道が付くなど、そして以下続々としてゾクゾクするような「炎帝神農氏」「黄帝軒轅氏」らの時代へ展開して行く、こういう中国の神話や歴史からみるとわが『古事記』のつたえる神話は、ままおとぎ話のように温かいお話ではある。
 
 * 『十八史略』はむろん尽く漢文、それも大部。しかし優れて「知的」に感じられて「訓点」の深切に率いられ読み進めるのが頗る楽しみの、歴とした史書である。読み終えるには日時を多くひつようとするが、日々の愛読書に選んだ。謂うまでもない、これも秦の祖父「鶴吉」の旧蔵書の一冊である。「もういいかい」と呼ばれても「まあだだよ」と手は横に振る。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)七月二十四日  日  祇園会 逝く
    起床 6:15 血圧 127-66(68) 血糖値 87 体重 55.5kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 現実的でないものは凡て価値なきものと考える人と、価値なきものでない限り凡ては現実的と考える人、高貴な限りに於ける人間性の、これは両極である。  (五二)
 * 夜前 尾野真千子秀逸の『鏡 漱石の妻』についで、宮沢りえが祇園大友の女将を演じた『漱石悶悶』を妻と楽しんだあと、ふと脚の浮腫みを感じたので、妻の処方されていて先日も顕著に(過ぎたほど)効果のあった錠剤の、一錠を半分に割ってもらい服しておいた。平生、夜分にと処方されている私自身の利尿剤も一錠服しておいた。二,三度も手洗いに起きたか排尿量の多かったこと、そして明けがた右脚の痙攣で跳ね起きた。幸いにいつも枕元に用意の茶をガブ呑みしてですぐ収まり、手洗いの後に測った朝の体重は「おう」と声の出た軽い数字。
 脚も、ほっそりしていた。
 * 何を何していたとも覚えぬほど、ま、休息したまま、大相撲の千秋楽、応援していた「逸の城」初優勝のインタビューまでを愉しんでいた。「照の富士」にも「隆景勝」にも勝たせたかったけれど、平幕で、とかくその茫洋の風情が安く見られているのも気の毒で、初めて土俵姿を見た以前から「負けずに頑張れよ」と眺めてきた。前にも一度優勝しかけた場所があり、可能性は優に持った「大きな力士」と認めて、茫洋の風情佳いではないかと贔屓の一人にわれから任じてきた。拍手を惜しまない。
 * それにしてもコロナ禍に塗れた今場所だった。
 全国でも都でも日々新感染者の人数は怖いほど激増していて、それは放置に近いまま、「経済」本位政策とやらの、要は「対策放置の暢気なお手上げ」のまま。万事「対応の適切」を擲つことにおいて自民政権は厚顔無恥である。
 
◎ 令和四年(二○二二)七月二十三日  土
    起床 6:40 血圧 143-77(51) 血糖値 87 体重 57.5kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 現実的でないものは凡て価値なきものと考える人と、価値なきものでない限り凡ては現実的と考える人、高貴な限りに於ける人間性の、これは両極である。  (五一)
 * またまた奇態きわまって心身の愚にゃ愚にゃに成り行く「活劇夢」に息を喘いでいた。どこやら大都会の深夜を、文壇のエライ先生方の罵倒に追っかけられ、美女と手を取り合い、二人の「ローマ」や「京都」や「銀座裏」の「休日」を、笑い叫びながら駆けずり遁げ回っていた。
 どうなってるのかな。わたしの脳みそは発酵しすぎでは。
 それでいて、ジンメルの斷想から上のような「想い」の「後者」の極を「良し」と読み取っている。
 * さて。昨日奮励努力のそれを、うまく今日へ繋いで送り込まねば。暑そう、今日も。
 
◎ 令和四年(二○二二)七月二十二日  金
    起床 7:15 血圧 149-74(56) 血糖値 87 体重 57.1kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 硬直しているか溌剌としているかは、人間を二つの原理的な群れに分かつ大きな範疇的区別である。怠惰が人間の根本的な悪と考えられているのも、この意味である。                                      (五一)
 * いろいろ有ったのに、夢を、今朝は忘れている。諸計測値は尋常。
 * 寝起きの早々に『遊仙窟』に、十娘(じゅうじょう)最期の「おさそひ」に惹かれ魅されているとは。あえて和訳の「わやく」は避けておくが。
  素手曾経捉
  繊腰又被將
  即今輸口子
  餘事可平章
 * 食事もせず 大相撲も観ず 六時半、今日一日は 意地にでもと、機械に組み付き組み付き、疲れも忘れて辛抱の極のような長時間を奮励した。うまいへたなんて考えなかった。
 朝から湯をつかう気で用意して貰いながら、見向きも成らぬまま、難儀と組合い続け、大相撲も済んだあと、やっと夕食しに階下へ。
 * その夕食も摂る摂らずでまた機械との辛抱のいい悪戦苦闘、やっと明日へ段取りを繋げたか。九時半を廻っている、すべきことと思うから奮闘したまで。
 * 親分を失った「御家人達」が大騒動の「安部跡目の13人」を演じていると報道されている。嗤えて、笑えない。いっそ外のか内のか、ナントヤラ協会から「カマクラ殿」を招聘しさらに奉仕するのでは。抜群にじつは賢こかったあの北条小四郎義時は、自身は「執権」職に身を退いたまま、体のいい人質なみに京都から公家や皇子を「将軍」にと請け出してくるよ。
 ○ 暑い盛り  暑さにも慣れてきましたが、涼しい部屋で読書三昧、楽しくなさっていらしゃるのでしょうか? 暑中お見舞いもうしあげます。
 何故か一日が速く過ぎていくような気がいたします。如何ですか?
 することは山ほどありますのに、できなくなりました。暑すぎるからと考えるようにしています。どうか愉しく飲み、楽しく召しあがってください。 那珂
 *『遊仙窟』を愉しみに拾い読んで、いま疲れを休めている。どうも近年は、殊に「漢字」の國民と、「漢字」での表現や歴史とにまたひとしお惹かれる。『遊仙窟』だけでなく、いま、少しずつでいいからと手を出すのが『十八史略』と『史記列伝』。
 日本の神話はなごやかな童話ふう易しさ懐かしさにも富むが、中国草創の神話と歴史はほとんど怪談のように自然と人間との秘密を教えられる。含蓄や示教の「凄み」よ。
 * さ、下へ降りて、もう、寝転んで出来る仕事と読書とを愉しむべし。疲労に氣押され気分は文字どおりの「退屈」に悩むこと無くは無い、が、ヒマをもて余すムダでゼイタクな趣味はもって無い。家に「ま・あ」の元気に駆けていて呉れるのが、良薬。
 * 床に就くまでを尾野真千子が秀逸に演じる「夏目漱石の妻」鏡子の「悪妻」どころか懐かしい人と爲りと執り成し、漱石の奇態なほどの荒れた存在感と黒い猫の貢献とに、われわれ夫婦して、笑いも泣きもして魅された。
 
◎ 令和四年(二○二二)七月二十一日  木
    起床 6:15 血圧 151-71(63) 血糖値 95 体重 57.5kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 最高に精神的な人間は、理想の実在性や目に見える実現を信じねば済まぬ必要を持たない。そんな必要無しに理想への信頼のままそれへ向かい勉める力を持っている。そうでない者らは、理想が實は無限に遠いと認めねば済まなくなるや、たちまちにそれを打ち棄ててしまう。    (四九)
 * 「金鴟耀く日本の 栄えある光り身に承けて 今こそ祝へこの朝(あした) 紀元は二千六百年 ああ一億の胸は鳴る」は、断然,野暮でも有り、宜しくない。
「見よ東海の空あけて 旭日高く耀けば 天地の正気溌剌と 希望は躍る大八洲(おほやしま) おお晴朗の朝雲に 聳ゆる富士の姿こそ 金甌無欠揺るぎなき わが日本の象徴(しるし)なれ」が、「君が代」と並んで今一つの「国歌にふさわしい」と、夢の中で説き続けていた。子供の頃からそう思っていた。沢山な魅力の詞と漢字とをこの歌で覚え憶えた。「富士山」が好き。
 * 「湖の本 159」の編成、渋滞していたので無く、工夫を重ねていた。もう一両日ではんなり纏まるやろ。
 感染者数、驚くほど急速、かつて無い多数を日々更新している。風邪やインフルエンザと同じと、英国は之を無視している。日本人の私は、まだ十分に慎重でありたい。
 おう。もう十一時を過ぎている。
 今日、希代のエロスに匂い立つ唐代の張文成作『遊仙窟』を、感嘆、読み終えた。『フアウスト』と『参考源平盛衰記』とが、抜群に、目下、おもしろい。
◎ 令和四年(二○二二)七月二十日  水
    起床 6:00 血圧 151-71(63) 血糖値 95 体重 56.8kg    朝起き即記録
  (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 自己の上に、より高きものを持たぬという意味の、絶対に謂えるのは、常に低きに在るという事実である。高き人間とは、より高きモノを自己の上に持つというに他ならない。  (四八)
 * ふと気の動いたまま 大事なと謂える記事を「書き継いで」いたのが、例の、ハタと消え失せた。惘れるのみ、で済まない、おなじことをまた勉める。「無駄」は、私の人生ないし余命にとって「何」であるのか。
 それにしても、この爺の前へ、ようも次から次へ俺の面倒を見ろと「仕事」クンたち、厚かましいほど手を出してきよる。賑やかです、がね。
 * 無茶に右肩が凝って痛む。なんで、と、思い当たった。夜前の寝入りばなに、ふと、目に付いた重い全集本のうちの『保元物語・平治物語・承久記』を寝床へ運んで、重い本を上へ、右へ、左へと持ち換え持ち替えながら『承久記』を読んで仕舞ったのだ、私の小説『資時出家』や『雲居寺跡』の背後にあった事変であり、史書である。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が、もう小四郎義時と後鳥羽院と承久の衝突へと立ち至っている。
 私は昔から和歌の詠めない後白河院には惚れ、歌は巧いが後鳥羽院は嫌ってきた。軽蔑すらしていた。いまドラマの主役北条小四郎義時は、なかなかの、なかなかな、男なのだ、ドラマよく「表現」している。
 承久の変は、初めて関東が京都をブッとばした政変であり、後鳥羽院は隠岐へ押し流される。天皇の配流は崇徳院に讃岐への前例があるが、隠岐の島へとはもの凄い。賢い義時はそれを敢行し、聡い泰時との二代の「執権」政治で「鎌倉・北条時代」を生んだ。時頼を経てあとへつづく北条時宗は、元寇、蒙古襲来を凌いでくれた。
 が、此の本、興深く面白くても、寝て、手に捧げ持って読むには、重過ぎた、あまりに。
 * 鎌倉殿「二代」頼家の問注所めく取巻きが、三、四人から、我も我も彼もと勢力睨みで「十三人」にも及んでゆく馬鹿らしさだか、京の後鳥羽院が輪を掛けた早とちりのお馬鹿で、一気に京と鎌倉との「ばか比べ」になるが、小四郎義時と御台所政子とが賢くリードし、武力の喧嘩にははるかに秀でた鎌倉方が、腕ぢからも無い京都側を もうまぢか、圧倒して行く。
 * 永く愉しんできた韓国ドラマ『馬醫』が、目出度く終了した。何と言っても「医療」「診断」「手術」の劇には、身に迫る期待や共感が体験からも、ある。群れを嫌い権威を嫌い束縛を嫌う外科手術の名手『大門未知子』の早い復活を期待している。
 * こんなのに比較し、教団に斃れたは無惨ながら、延々とウソ八百金ピカに威張っていた元総理の「国葬」とやら、厭悪の唾を吐く。「吉田茂」にケチはつけなかったが、夫妻して国政を歪め汚してウソぶいた「安部晋三」ごときに「國」の名を冠したくない。
 ○ いかがお過ごしですか。コロナ感染者数はまだまだ油断できません。
 三年ぶりに祇園会の山鉾巡行か行われました。が、京都には行けず、コロナ四回目の接種を受けました。
 今回は腕が腫れて、まだ治りませんが、ワクチンの効果がある証と思うことにします。
 先のメールで、お母様の歌集に触れましたが、その中に醍醐同和園で(=奉仕)と書かれた個所があり、今更ながら驚きました。此処は開所以来今も続いているのです。随心院と醍醐寺の中間地点やや西。地下鉄が通り周囲はかなり賑やかになりましたが、以前はバスだけが頼りの地域でした。
 長いメールを書きたいけれど、今はここまで、
 どうぞ元気に過ごされますよう。  尾張の鳶
 * あれにもこれにもそれにもと、手を出さねば、向こうで黙ってて呉れないような「仕事」が、きつい手を伸ばして身に逼る。みな、すぐにも先へ先へ運びたいのだが、体調はまことしやかに宜しくない。「書き継ぎたい」と「寝入りたい」とに挟まれ、呻いている。四国の星合さん、大成さんから、特産の小豆島素麺や佳い出汁つき讃岐うどんをたっぷり頂戴した。上にも下にも歯の無い口の奥へ、佳い味の麺類は呑み込まれてくれる。感謝。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)七月十九日  火
    起床 5:30 血圧 149-82(62) 血糖値 95 体重 55.5kg    朝起き即記録
     (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 多くの人々は陰鬱の中で生活する。高きに到った人は明るさと暗さの中に生きる。陰鬱とは、明るさと暗さとの間の、曇って発展の無い混沌である。    (四六)
 
 * 奇怪な夢を見る、何らの混濁も不明も無いリアルな状況なのだが、私自身には曾て微塵の関わりも無く知人も無く、言動も知識も共有していない、そんな中へこの私がごく当たり前な日常感覚で入り交じって大声でなにかしら主張したり協力したり笑ったり顔を顰めたりしている。共有の覚えは,ソレや其処が、現代の、日本の、都会での尋常な企業内の日常だと謂うだけ、しかしそこに「知識・知音・経験」の微塵も無いのだ。
 前夜もそんな夢を見た。しかも相変わらず「垣根の垣根の曲がり角」と唱う通底音が聞こえていた。
 
 * 十一時 何はアレ一仕事はして、それから寝入っていた。寝るのも仕事のように感じている。東京コロナは一向に勢いを減じていない、躰の動かし用も無いのだから、一仕事しては一寝入りという段取りが常態になっている。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)七月十八日  月
    起床 5:40 血圧 157-81(53) 血糖値 95 体重 56.85kg    朝起き即記録
     (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 人は、精神的な狭さと広さとの中間でのみ生存できる。それ故に老人は生き難い。                                     (四五)
 * なにと無く何かしら思いついて、床を起ち二階へ来たが、さて何もない。すこし、まだ睡い。真っ黒地の広いデスクトップの真ん中へ、京、四条大通りの真東、祇園會のさなか石段上で緋にかがやく八坂神社西大門の夜景を、美しく斜め撮りに置いてみた。なんと、懐かしい。カメラを構えた私の立ち位置も懐かしい、中学へ登校の、高校へも登校の朝には必ず通って四條通りへ顔を出した細い抜け路地の際だ。すこし西には今も恋しい梶川三姉妹の実家「よろづ屋」が在った。大通りをはさんで目の真向かいには新制市立、母校の八坂中学正門が開いていた。八十六の爺が少年のように胸をならして帰って行きたい京都が大きな写真に耀いている。あーあ。やれやれ
 
 * 晩八時半。 ずうっと断続しつつ寝続けていた、一日中。まさしく,停頓。しかも、何処かしら大きな会社の労使折衝の仲介に派遣された体で熱弁を振るったり,怖い夢に怯えていたり、支離滅裂、食欲もなく。まだ目は睡い。寝入るにしくは無いか。
 
◎ 令和四年(二○二二)七月十七日  日  祇園会 鉾巡行
    起床 5:30 血圧 157-81(53) 血糖値 95 体重 56.85kg    朝起き即記録
     (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 認識の確実性と重要性とは、多くの人と場合で、通常逆比例する。  (四二)
 
 * 疲れて「寝入るため」に「目覚めたのか」と思うような一日。こんな覚えは、八十六年、かつて無い。
 
◎ 令和四年(二○二二)七月十六日  土
    起床 5:30 血圧 157-81(53) 血糖値 95 体重 56.85kg    朝起き即記録
     (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 自己自身に適せず踏み迷って休むことを知らざる存在こそ人間である。如何にすべきか。   (四一)
 
 * まさしくそういう人間で私はある。如何にすべきか。如何ともすまじ。
 
 * 四時間とも寝ないで起きてきた
 
 ○ 『よに逢坂 (女坂二)』 『アベラールとエロイーズ』の往復書簡を連想しながら読み 興味を覚えました。脱帽です。「やそろく老」の山坂、発展をお祈りします。御礼にて。  都・新宿区  祐
 
 ○ 今年になり体調を崩し入院したりしておりました。「湖の本」ありがとうございます。ジュース 送ってみました。ご笑納下さい。
 季節柄 ご自愛下さいませ。  熊本県菊池郡   昌憲
 
 * 自転車で、ポストとローソンへ走ったり、「アコ」を獣医院へ受診に連れて行ったり。体調はよろしくなく、「寒い」と寝覚めてしまうほど。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)七月十五日  金
    起床 5:35 血圧 141-70(62) 血糖値 95 体重 56.05kg    朝起き即記録
     (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 人間の可能性は無限である。人間の不可能性も無限である。この両方の間、人間の為し得る無限と人間が為し得ざる無限との間に彼の故郷がある。   (三五)
 
 * この二、三日「アコ」が体調を崩して下痢の気味そして吐き気もみせ、心配している。夜は私の頭の方で寝入っているが、夜中には独りで排尿便にも行くらしいが、途中で失禁したりかるく吐いたりもしている。意志的に便の場所へとは心がけていると見える。食欲がゼロとは謂えないが、量は食べていないし、食べて佳いのか悪いかも判らない。階段を上がり降りして私の仕事の側へも来るし、高みへ跳び乗ったりもしていたが。暑さに中ったのではとも心配している。暑さもひところの激烈は感じない此の数日なのだが。
 
 * 亡くなった安部晋三元総理を「国葬」するという。外交に利するなどと理屈を付けている。関わる一切を無位してやり過ごす。私には氏への謝意も敬意もまったく無いのを独り自覚し、この上に死者にむち打つ気も必要も無い。
 
 ○ 鴉 お元気に
 メール嬉しく、ありがとうございます。
 朝早くお目覚めで、もう一眠りでしょうか。
 昨日は湖の本、お母様の歌碑の事や大和での歌集を読み直していました。安楽寺を思い起こします。
 お父様お母様の事を書き、次は何をお考えでしょうか。
 明日シンガポールから娘が帰ってきます。コロナで往来が困難になり久しぶりの一週間の帰国です。
 保谷の鴉、くれぐれもお身体大切に、ご自愛くださるよう。 尾張の鳶
 
 ○ (安楽寺のことなど  昨年霜月九日の 尾張の鳶メール部分)
 一昨日、京都からの帰りに能登川で降りました。お寺への登り路は両側から樹木が覆いかぶさり暗いほどの道。女性一人で出かけるには・・と言われ、住職さんの気配もなく、表門らしきところから石段を下がると、道はそのまま集落の方に続いていました。墓に参ることなく帰ってきましたが、いずれ訪れたい。鴉に叱られそうですが、決して軽い興味ではありません。
 お母様の女としての熱く烈しい生き方、不器用でもあり、人を傷つけることも、それでも誇り高い生涯だったと敬意を抱きます。そして何よりも・・あなたを産んでくださったこと。
 この辺りの集落は現在も安楽寺と呼ばれています。駅への帰り道に歌碑に気づきました。
      此の路やかの道なりし草笛を吹きて子犬と戯れしみち   
「その歌碑の前で建日子と列んで写真が撮ってある。」とHPにありますので、鴉ご自身が行かれたのでしょうか。
この冬はエルニーニョの影響で寒くなるとか、まだまだ穏やかな秋の日で、コロナも落ち着いています。
どうぞ静穏な、そして精力的なお仕事の日々でありますように。元気に、なによりお身体大事に大事にお過ごしください。  尾張の鳶
 
 * 有難う。ありがたい「身内びと」よ。
 
 * 建日子との、大和へ、大阪へ、京都へ、そして近江へ。忘れも得ない長い親子旅であった。歌碑とも会った。生母の長女とも初めて逢った、能登川の母の生家前にも立った。 行っておけて良かった。
 
 ○ お元気ですか、みづうみ。
 朝早いメールありがとうございました。じつは昨日みづうみにメールを書いていて、今日お送りするつもりでした。いつものように嬉しい一致です。
 食欲がないのは絶対にいけません。ふらふらなのは食べないせいもおありかと思います。頑張ってでも食べていただきたい。
 今年一月に、母がコロナの後遺症で嚥下機能が大きく落ちて食べられなくなってしまったのですが、「エンシュア」という病後や高齢者に欠かせない高カロリー飲料で乗り切りました。食事の好き嫌いの多い母ですが、この缶飲料は好きで飲んでくれましたので、味は悪くないはずです。市販されているのかどうかわかりませんが、病院で頼んだり薬局で買えるのではないかと思います。探すと、明治メイバランスという飲料も似たもののようです。母は現在ではきちんと食べられるように回復して元気ですが、今もこの飲料はよく飲んでいます。
 もし「エンシュア」が手に入らなければ、飲む点滴といわれる「甘酒」はどうでしょう。真夏のゴルフのときにも冷やしてよく飲まれています。食べられないと、想像以上に身体にダメージがあり、一気に体力が落ちますから、とにかく何でもいいので、飲んで食べてカロリーをとってください。弱ってしまいます。お願いです。
 相変わらずのお節介はこのへんにして、あけぼのの近況報告に。
 
 最近朝からティシュを抱えながらくしゃみ連発しています。何かのアレルギー、花粉、あるいは世相への拒否反応かも。以下、昨日書いていたメールです。
 
 誰も予想もしなかった大事件が起きて、予想通りの選挙結果が出て、師匠のお父上が日本を憂いつつひっそりと旅立ちました。心穏やかであることは所詮無理な話ですが、いつまで公的自由(ハンナ・アーレントが「自由とは公的自由のこと」であると書いています)を信じていられるかと思うこの頃です。アンジェイ・ワイダ監督が、ポーランドから民主社会の西欧に行くと、モノクロの世界が急に色彩豊かな世界になると感じたとどこかに書いていましたが、私たちは近い将来カラーからモノクロの世界を経験することになるのであろうかと慨嘆しています。
 
 知りたいことがあって数日前からNHK出版新書『デジタルファシズム』堤未果著を読み始めたのですが、第一章はじまって早々に 冗談でも大袈裟でもなく目まいがしました。何かの本を読み幸福になることもありますが、「知ったが運の尽き」と思うこともあります。世の中「知らぬが仏」で生きたほうがしあわせなのは事実ですね。
 新書ですから、多少の盛りこみはあると仮定しても、驚天動地でした。自分が無知であったこともおぞましいですが、この実体をきちんと伝え問題提起する日本の大手新聞やテレビはあったのか、なかったではないかと……。
 日本は安全保障に関わる政府のシステムを、アメリカの民間企業アマゾンに任せていることを知りました。あのアマゾンに……。こんな国は世界でも珍しいそうですが、茫然自失です。少し引用しますと、こんな具合。
 
アマゾンのような企業が日本でデジタルビジネスをする際に、その企業に個人情報などを管理するデータ設備を日本に置く要求は、2020年1月1日に発効した「日米デジタル貿易協定」によって できなくなっている。
 TPPから脱退したアメリカのために、日本が衆参院併せてわずか30時間以内に強引に通過させたこの協定について、果たしてどれほどの国民が知っているだろう?
 GAFAのロビー活動の賜物であるこの協定に日本が署名した時、トランプ大統領は誇らしげにこうコメントしている。
「4兆ドル(440兆円)相当の日本デジタル市場を開放させた」
 GAFAの高笑いが響き渡った瞬間であった。
 
まともな審議もなく決まったこの協定は「デジタルを通して私たち日本人の資産をアメリカのグローバル企業に際限なく売り渡す協定」なのだそうです。第一章からこの調子ですから、続いて策士中国の話も出てきたら途中で寝込みそうな気がしてきました。本の副題が「街も給与も米中の支配下に  この国を売っているのは誰だ?─日本の資産と主権が消える」とあったのは本を売らんかなの宣伝だと思っていたのに、書かれているのは、出てくるわ出てくるわの「亡国のシナリオ」です。
 日本初の「デジタル庁」は「今世紀最大級の巨大な権力と利権の館」になるらしいです。日本は、中国のような徹底したデジタル国民支配を目指しているのかもしれません。「このまま何もしなければ、私たち日本国民は、文字通り『誰一人取り残さず』搾取されてしまうだろう」「デジタルは『ファシズム』と組み合わさった時、最もその獰猛さを発揮する」とは、もう二十年以上昔に、みづうみが「サイバーボリスを警戒」していたことを思い出します。あの頃から、わかっているひとにはわかっていたことなのに、「便利な暮らしと引きかえに、いつの間にか選択肢を狭められてゆく方が、ずっとずっと恐ろしい」ことになっています。
 読者のレビューに「絶望しかない」というのがありましたが、第一章途中ですでに私は打ちのめされています。改憲して現行憲法の基本的人権条項を丸々棄てようが、改憲せずにこのまま進もうが、行き先は同じこと。「日本は植民地を免れず、国民は搾取される奴隷になるしかない」らしい、と。
 著者の堤氏は「テクノロジーの華やかさとスピードの裏でこの国に迫りくる危機と、同じ敵からかけがえのない宝物を守るために、動き出した世界の仲間たちから手渡された勇気と知恵を、心ある日本の人々に、一人でも多く伝えたいと思い、この本を書く決心をした」とのことで、よく読めば解決策も見えるのかもしれないと 微かに期待はするのですが、断末魔のあがきくらいにしかならないとも思えてしまいます。
 あんまり意気消沈したまま終わりたくないので、「未来を選ぶ自由を決して手放さないと決めた世界中の仲間たちへ」の「あとがき」の文章を引用しておきます。
 
「おかしい」と口に出すたった一人の声が、多くの人が絶対に変えられないと思いこんでいることを変えるのだ。
 
 この本は二十万部以上売れているそうなので、少なくとも二十万人のうちの何人かは起ち上がってくれることを切望します。私がこれから書こうとしていることは、まったく違う分野でありながら、この本とどこか共通する危機感があるもので、私は、秦恒平というたった一人の文学者の声が、日本文学と日本語表現の未来を変えるかもしれない、ということを書きたいのかもしれません。それにしても春はアケボノさんの力不足のことよ。みづうみの百分の一の頭脳と勉強でもあればよかったのにと思わぬ日はありません。
 「六月の私語」を拝読しながら、みづうみのご体調の記述に一喜一憂していました。毎日たくさんお昼寝なさってください。何でも好きなものを召し上がってください。よく食べて楽しく少し飲んで、しっかり眠ってください。夏バテなさいませんように。
 気の晴れるメールが書けなくてごめんなさい。  夏は、夜
 
 * みえみえの、「今世紀・世界末史」をまさしく指摘してもらいました。謝謝。                     
 * 十時半。角力、夕食後ずっと寝入ったままで。夢も見ていた。 
 
 ○ やそろく様 おたよりを嬉しく。 我が家は 何とか無事に過ごしていますが、いつ何が起きてもおかしくない年齢になっていることは確かです。自分でも 違う種類の生き物になっていくのかしらと思うほど、老人とは凄いものだと感じます。
 どうかお二人も 無理せず コロナにも気をつけて、夏を乗り切って下さいね〜 のらりくらりが一番ですね。 いもうとより
 
 * 何もせず、眠さのママ寝付くとする。夕方入浴して、ジイドの『イザベル』を読み終えただけの一日、それもたいした作でなかったが、わたくしの低調が響いていたのだろう。ジイドというと青春の昔が懐かしい名であります。
 
 * 岸、安部、安部らの絡んでいた「統一教会」の吐き気のするはなしばかりテレビは聴かせた。ああいうのにマンマとひっかかる人たちがどうにも判らない。マンマとひっかける手合いの首領格には途方も無い他者を支配欲と財欲とがあったのだろう。信仰という名の魔の手に引っかかるのは、気の毒だが愚の骨頂。
 
* 目近にならべた杉本吉二郎描く祇園町「ろーじの風」のすがすがしさ、木田泰彦が創るはんがの「コンコンチキチン 祇園祭」の版画のなつかさ。広い世の中には,美しい心地よいものがたくさんある、それを自身で見つけること。あくどい人たちらの口車に乗ってはいけない。
 
◎ 令和四年(二○二二)七月十四日  木
    起床 6:40 血圧 125-71(65) 血糖値 95 体重 55.6kg    朝起き即記録
     (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 人間は問題そのものに到達はしても解決そのものには到達しないような存在であり、それ故に人間は未来を正確に知っているかのように行動せずにいられずーーしかも一歩先のことも正確には知れない、それが人類の内的必然性であり、典型としての人間の本質なのであろう。   (三三 三四)
 
 ○ いつでもお出かけください。
 今日はまた涼しくなり、気持ちよく田舎の自然の中におります。山に帰らなかったのか鶯がよく鳴いていました。
 自分のことはあまり考えなくなりました。歳のこともあまり考えていません。
 面白いことが書いてありました。食べものは食べればまた食べたくなり、物は持てばもっと持ちたくなるのだそうです。
 そうかもしれませんね。
 食欲が無いのは、それなりの理由があるのでしょうが、奥様はお困りでしょう。
 お元気で いらしてください。  司
 
 * 朝起きて一番に見たメール。
 
 * そして。夕刻の五時と。いつからだろう、今まで、モノを積んで寝苦しいソファで苦闘にも似てもぞもぞ寝ていた。しょせん安眠できる場所でない。それにしても、五時とは。よほど疲弊していたか。
 
 * 逸の城が横綱に完勝したのを見て、そして体調不良の「アコ」と横になり、寝入って目覚めて十時。もう寝入るしかあるまい、寝過ぎるのが宜しいと謂えないが、からだがそう望んでいるのだから。メールも無く郵便も無かった。何を焦ることも無い。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)七月十三日  水
    起床 5:40 血圧 128-68(76) 血糖値 95 体重 56.1kg    朝起き即記録
     (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 藝術は、世界と人生に対する吾々の感謝である。   (三一)
 
 * 強烈な辛い、?い不快な粘液に喉、鼻腔を漬き上げられ、悲鳴で跳ね起き、なんとか緩和するのに惨憺の十数分をつかった。そのたる、初体験でなく用心もしていたが明け方の睡眠を激越に襲撃された。なんという?さ痛さよ、粘性の唾とも洟汁とも。
 夜前就眠直前の酒類が少量であっても禍いするらしいと気づきながらオロカに、もう数度、否な七、八度も繰り返し文字通りの苦渋を舐めている。愚かや。まだ右耳の奥に障りが残っている。
 
 * 都内新感染者數1000人台にも減っていたのが、いまや激しくリバウンドし、また「万」を超えて日々増え続けている。無意味にただ事態に「飽き」て「甘え」て、何の彼のと警戒をゆるめ、感染力を、理屈を付けては行政も人間も舐めてかかって、こうなる。おなじシクジリを繰り返してばかりいる。愚かや。結局は、経済もへちまも無い「悪循環」に陥るだけ。海外人の入国も大幅に緩和しているので、どんな悪結果が持ち込まれるか知れない。愚かや。徹底用心のほか無い。
 
 * 大関の、在れど無き低調な大相撲だが、三役・平幕に何人も伸び盛りの力士が凌ぎを削ろうとしている。
 
 * 晩。情けなく為す術も無く茫然と椅子のママ疲れていた。時折眠っていたり。鋭気はも英気も こんなていたらくに生まれては来ない。感染の懼れなければ断乎として電車や汽車に乗っているかも。
 宛てねばならない何も無いのだ。読み・書き・読書は出来るのだ。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)七月十二日  火
    起床 5:15 血圧 130-67(64) 血糖値 95 体重 56.2kg    朝起き即記録
     (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 自然科学は可能的必然を目指し、宗教は必然的可能を目指す。   (二三)
 
 * 「実験・結果」と「信仰・神」とか。
 
 * 早起きと謂うより、熟睡できずに少なくも数回手洗いに起きつづけ、夢も見ず、夢とも謂えず、ただ、「山小屋の灯は」はとばかり寝入ったまま終夜口ずさんでいた。
 疲れはとれた、とは謂えないが。二階の窓をあけ、「ま・あ」ズに鰹を上げた。
 
 * 柳君 新野君と玄関先まで顔を見に来てくれた後、フェイスブックで、よほどひろびろと同窓諸君へ話かつ伝えて呉れていたらしく。恐縮。
 
 * 凶弾に斃れた安部晋三元総理は、まさしく不慮の不幸死を遂げたのであり、あって成らぬ仕儀であった。正当な、且つ動機をしかと掘り下げた「裁き」が待たれる。すでに韓国系信仰団体「統一教会」と故人との親密なりし構媒関連も加害者の口を漏れている、が。
 しかし、同時に、私見・私感を敢えて謂えば、国家と国民に責任を負う首長の人格として、責任政治家として、此の故人に、決して許されなかった無恥と背徳のあったことを私は一国民として忘れ得ずにいる。不義不正の「明らか」に見えていたあの、アレ・アキレた「モリトモ」でも「カケ」にでも、その事件ないし不正に、もし総理ないし総理夫妻が少しでも「関わっている」と「知られた」ならば、自身、即座に「総理大臣」を辞職し「国会議員」をも辞職すると、国会のま真ん中で、国民にも向かい「大声で公言し約束し」ていたが、多くの目が安部総理ないし夫妻に不正との「関わり」をハッキリ認めていたに拘わらず、安部「総理」にして安部「議員」は、恬として口を拭い「辞職の約束」など守らなかった。「ウソをついて」恥じなき振舞いであった。
 ことの大小を謂うべきでない、最高地位の政治家として、正義と責任を負う人格として、極めて不潔な「うそ」をつき通したのであり、以降、氏が総理として何を仕ようと謂おうと私は内心に許さなかったし、今も同じである。あきらかに政治と政治家との「汚点」を安部総理大臣は恥なく残した。
 「政治」という、その物・事には、もとより巧妙な成功も無念の失敗もある。常に常に成功や満点を,期すとしても叶うまい。ことに「外交」は、私常にの曰く「悪意の算術」それも「高等な算術」である。しかし此処に謂う「悪意」とは当然に優れた術策の意義であり、國と人との「卑怯」が支える策略では無い。むろん「内政」に於いても同じであり、国民からの過剰な期待と押しつけとで必ず成績を「強いる」のは難しい、しかし、それらに「人間として、人格として、人柄として」の「嘘偽り」が「卑怯」な権力欲となり露われては「國家と国民」との代表者として不潔であり、赦されない。
 安部総理大臣は、大声で「嘘」を国会で誓言し、「面目」を汚したまま総理の地位と権勢とを過剰に掴み続けた。私にはそう見えて不快と嫌悪にたえなかったとは、いま、確言して置く。また彼、安倍総理がこととさらに言挙げして親近を威張った相手が一にあのトランプで、またプーチンであったことも私は忘れていない。ものの見え無さを露わに示していた。
 
 ○ 『湖の本 158』嬉しく拝受、拝読たしました。こころからあつく御礼を申し上げます。
 昨日午後から テレビは同じニュースばかり。今朝(七月九日)の新聞のあれほど大きな見出しは久しぶりのことでした。
 これ迄なら真っ先に,先生のホームページを拝見し、おかんがえを聴きに伺うところですが、残念です。
 むし暑い毎日です。どうぞお大切に奥様も。  岐阜  都
 
 ○ 先日は『湖の本 158』をお贈りいただき有難うございました。
 先生の絶えない好奇心と衰えを見せぬ読書力、創作力には本当に驚きます。 今後とも無理をなさらないで(そういう訳にはいかないでしょうが)ご執筆をお続けくださいますように。
「黒谷」について20枚ほど書きました。先の論攷『基軸』に追加しようと考えてております。 『選集』33巻に達し、『湖の本』160巻に手が届く創作をもつ作家の全体像など、まだまだずっと先のことですが、少しずつでも書き増し書き継いでいきたいと思います。
 ころな感染の再増加、猛暑(熱中症)へのご注意、階段の昇降など、どうか万全の軽快でお過ごしくださいますように。  奈良縣  永栄啓伸  (文學研究家)
 
 ○ 長い長い猛暑灯の連続にバテ気味のところに『湖の本 158』をいただきました。
 「よに逢坂」は”女ごころの機微をメール文体を駆使して、この時代相の中に描き出されていて、<ほとほと参って>いらっしゃるどころか、創作を存分に愉しみそして読者を愉しませて下さっているのに感嘆いたしました。
「彬彬而樂 私語の刻」は、パソコンの不調や加齢からか<店じまい>の気配を時に漂わせながらも、日々を十全にお過ごしのご様子に、当方の先に迎えてしまった呆けや老いへの励ましをも勝手に感じとっています。
 ありがとうございました。
 これからが夏本番です。どうぞ御身お大切になさって下さい。
      二○二二年七月八日    敬   講談社役員
  秦 恒平 様
 追伸 安部元首相の銃撃による死亡を先刻知りました。どうしてこのような國になってしまったのか。また「私語の刻」に読みとりたいと思います。
 
 * 天理大学 立命館大学 の受領来信あり。
 
 * 九州大学名誉教授で新版岩波文庫『源氏物語』の校訂者のお一人、今西祐一郎先生から、上田秋成による源氏言辞続編の一つ「手枕」での「疑問の表現」一カ所の提起を戴いた。なんとなく健闘もつきそうだけれど、私も一思案してみたい。
 
 * 宵の口、観たくなって、映画『ジャンヌ・ダルク』のランスでフランス王戴冠式までを観た。そのあとは不快なので、観棄ててきた。わたしが本格のジャンヌ・ダーク映画を観た最初は、敗戦後の新制中学三年のとき、全校の映画鑑賞が発の総天然色映画に見参のイングリット・バーグマン主役で、痛く刺激をうけた。以降、二、三作も観て来たろう、松たか子の舞台『ひばり』も観てきた。
 ただ、わたしは「ジャンヌ・ダーク」の「神」へも、英国による火炙り裁判の教会や坊主たちにも憎しみに近い疑問を持ち続けてきたので、戴冠式以降まで観つづけるのもイヤなのである。ジャンヌに関する限り、神などどこにいるかと、公教会にも英國の國教会にも不快を今も感じている。
 
 * そんな映画『ジャンヌ・ダーク』よりも、午前に独りで愉しんだダンスと唄のすてきに愉しい『ロシュフォールの恋人たち』また『ファビュラス・ベーカーズ』の連弾ピアノに加えて大好きな女優ミシェル・ファイファーの「うた」 の巧さの方が、何層倍も快く満足した。
 
 * 食もノドを通らない、あたももたげられないほど疲れていながら、映画だけは愉しんでいる。幾らでも、すてきな、撮って置き佳い映画の板がある、和・洋ともに。映画館へ行ったことも殆ど無いに同じ、行きたい思わないが、家出映画を観るのは「読書」同然に好きである。好きなものが在ると、どう疲れ切っていても、集中できる。『元史日本伝』なんてシナの本でも、私は面白いし読んでいると疲れ忘れている。
 
 * 23時過ぎて、今西祐一郎さんへ一先ずの返信をした。凄いほどの雨の音。
「アコ」の体調やや良くないか、吐き気味。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)七月十一日  月
    起床 7:15 血圧 134-67(66) 血糖値 95 体重 56.2kg    朝起き即記録
     (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 誰でもきっと 生命というものを世界観の中心に据えて尊重したに違いない。その結果彼等の知ったことは、生命はこれを守るべきでなく、却って棄つべきであるということでなかったか。   (二二)
 
 * 爽やかな朝の晴れ。きっちり七時間、寝ていた、夢らしきも見ず。しかし。例の唱いつづけで、「はーるが来れば」「べかこも溶けて」と。「べかこ」とは方言で、氷とか。うろ覚え、まちがえているかも。「ま・あ」ズも喜び勇んで二階へ。鰹を少しずつ貰って食べ終わると音も無く階下へ退散するのが、決まり。
 
 ○ 秦先生
 いつも、突然お邪魔して申し訳ありません。
 うちの奥さんにも、新野くんにも
「手土産の一つでも」
と、言われましたが、
これまでも、これからも、失礼ながら、
そんなことを気にして先生のお話を聞きに行く訳ではありません。
 学生時代から、
 先生に話したくて、先生の話を聞きたくて、
 先生の研究室にうかがっておりました。
 そして、
 それに見合う何かを先生に見せられるように、
 それからというもの頑張ってきました。
 今日も、その報告の続きです。
 とても良い学生時代を送らせてもらっています。
 いつまでも学生気分の抜けない奴だ、と 思われるかもしれませんが、
 齢50を超えて、あの頃の先生の年齢に近づくにつれ、
 丸くならずに、物事をしっかりと見て、
 自分の思考と重ね合わせながら、創作していくということが、
 どれほど大変なことか、ということを
 周囲の同年代を見ながら、思わされます。
 人の感性、思考は磨かなければ、すぐに鈍ってしまうということを、つくづく感じさせる日々です。
 
 ※ 先生が ペンクラブの堕落を嘆いていらっしゃったのが、思い出されます。
 
 昨年からグループリーダー(昔で言う課長)になり、
 自分のグループを持つようになったことで、
 グループメンバーの特性や、より周囲との関係をとる立場になりました。
 皆、自分で考えることを放棄し、会社の方針という実態のない「言葉」に価値基準を委ねてしまっています。
 会社の言うことだけ聞いていれば何をやってもよく、
 問題が起こらなければ良い、自分のやりたいことだけが出来ていれば良い、と、考える人ばかりです。
 こういうのをエリート主義というような気もして、
 先生に教えられた知識人とは似て非なるものと、
 気持ち悪いです。
 今日、
「先生は何年サラリーマンをやられていたのですか」と、質問させていただいたのは
そのような状況の中で、
 大きな話としては、
 サラリーマンをやっていると会社の論理にどうしても絡め取られてしまい
 無力感を感じますし、
 小さな話として、
 普通の上司や部下といった人たちの多くがなんのポリシーもなく、
 自分の幸せ(楽といいけても良い)のみを求めていきていることに直面し、無力感を感じることになります。
 そういった社会にどれほどとどまっておられて、
 かつ、そこから飛び出る力を養っていたのか、 ということを確認したかったからです。
 先生も二足のワラジ時代もあるとはいえ
 15年はサラリーマンをやられていたのか、と教えていただき、
 私も24年目を迎えますが、何かを創る気力を萎えさせてはいけない、と、感じることが出来ました。
 今回も、もしかすると私のある時代の節目に、
 先生から言葉をもらったという瞬間になるのかもしれない、と思い、
 お顔を見ておかねばと思った次第です。
 
 ※ (或る=)破棄報告時に
「破棄されたのは柳くんの魅力が落ちたからですよ」と、
 笑いながらも真面目に言われたことは、その時の私を奮い立たせました。
 感謝しかありません。
 
 私の欲しい物事は、
 先生にお世話になった学生たちの会を開き、
 もう一度先生のお話をみんなで聞きたい、ということでしょうか。
 今日もお伝えしましたが、
 僕らが先生が学校にいた時の年齢に達するまでには、
 その会を開きたいと考えております。
 私は 先生の研究室に通っていた学生の中では、
 先生の授業で「挨拶」を取り上げられることも稀でしたし、
 先生のお気に入りと言われることもありませんでしたが、
 最も厚かましく先生の研究室に長くいた自負はありますので、
 そういう会を取り仕切ってもいいかな、と思っております。
 つきましては、
 彼らの 消息など をお教え願うことは可能でしょうか。
 個人情報ということはありますが、
 先生にお世話になった学生たちが、
 先生の集まりに対して、とやかくいってくるとは思えませんし。
 よろしくお願いします。  柳   (建築家)
 
 * よく訪ねて下さり 嬉しかった、感謝感謝。上がって貰える場所が家中に無くて、恥ずかしながら、申し訳なく。ゆるされよ。
 新野君も一緒でひとしおの喜びでした。 落ち着いて またまた話せますように。
 いまのうちに、もしも、何か、欲しいと希望される物事あらば、言いつけてください。とにかくも、日々、躰はへとへとで暮らしていますが、さまざまに「私語」して表現する気概はのこっています。投げやりには生きて行けません。
 柳君 柳君らしく、ガンバリや。 また逢いましょう。 博琴クン(=少年)のことも、聴かせて下さいね。
 また花火の季節。 奥さんを、大切に。  秦 恒平
 * 若々しさが いかに人間の抱いた「珠」であるかを また思わせてくれました。
 ありがとう。
 
 ■ 鴉は 声も潰れて。 仕掛かりの作を、せめて遂げたく。なんとカアして。カアカア。
 ○ 声も潰れて、と書かれてあり、単に風邪の症状?精神のお疲れ? コロナでは絶対ありませんよう。仕掛りの作が遂げられますよう。そして次の新たな仕事への力をどうぞ溜めてください。お手伝いできることあれば申し付けてください。
 食の進み具合、少しでも良い方向に。栄養摂ってください。
 世の中は日本は安倍死去、選挙結果、憲法改正など立て続けに動いていくのでしょうか
。ウクライナのことも。これまであまり書いてきませんでしたが、日々強く意識して暮
らしています。
 鴉の嘆きも怒りも伝わってきます。
 繰り返しお身体最優先、大事に大事に。
 秋になったら、たとい車椅子でも良いのです、お二人で京都に、夢を現に! 尾張の鳶
 
 * この跡へ確かに記事を入れていたのだが、失せている。
 
 * 体調、最悪。寝入ることも出来ない。仕方なく、漢字・漢文に惹かれて『十八史略』『史記列伝』『元史日本伝』など読んで。寝られもしない。『史略』は中国草創神話とも謂うべく面白く、『元史日本伝』は元の側でのあの「元寇」事象など読み取れて興味深い。」
 
* たくさん、「湖の本 158」へ受領のおたよりを戴いている。それも記録したのに、消え失せている。
 
 ○ 「湖の本」一五八号とは驚きました。尾張ページの總覧を拝見して よくここまで 続けてこられたと つい はがきを書きたくなりました。
 第五回太宰治文学賞は意識しているのですが…。 津村節子(=芥川賞作家  亡き夫君の吉村昭さんは台に貸す太宰賞作家)
 
 * 元岩波「世界」高本邦彦さん 浦安市の島野雅子さん 草加市の白蓮寺開山石川恵念さん 都。中野区の安井恭一さん 神戸市の市川澄子さん 京・山科の今井てる子さん 所沢市の藤原正樹さん 鳴門教育大学 松山大学 文教大学 お茶の水女子大学 神奈川近代文学館 「湖の本 158」受領の来信あり。
 
 * 上野千鶴子さん,故・色川大吉さんの追悼紙誌集を送らる。
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)七月十日  日  参議院議員選挙
    起床 5:50 血圧 135-79(70) 血糖値 95 体重 56.0kg   朝起き即記録
     (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 信じることの出来ないもので而も吾々の知っているものがある。これはただ知っているというだけのことである。また、識ることができないものであって而も信じることだけは出来るものがある。これは、本当に識っている。   (一一)
 
 * 体調調わず、寒けを覚えたり、目に涙が漏れたり、食欲なく、十時過ぎまで寝入っていた。新陳代謝の不調か。脈はしっかり正常そうに打っている。要は、なにもかも停頓しているということか。いま、かすかに空腹か、とも感じている。
 
 * 日照りの中、妻は徒歩で、わたしは自転車で、投票を終えてきた。
 
 * 機械前へくると、あきとしじゅんさんに戴いた絵葉書の、ことに祇園の露地奥を描いた絵葉書に静かに優しく励まされる。
 その、あきとしじゅんさんに、京の伊織の懐かしい夏菓子を戴く。感謝に堪えない。
 
 * 東工大の、柳君、新野君、顔を見せに来て呉れる。上げてあげられる場所が無く、玄関外で立ち話は失礼で気の毒であったが、懐かしく、嬉しく、しばらくあれこれと話した。元気そうなのは何よりであった。
 
 ○ 依怙地にも 鴉 がんばれ  尾張の鳶
 如何お過ごしでしょうか
 コロナ感染者数の増加で不安が繰り返されている今日この頃です。
 今しがた選挙投票に行って戻りました。数日 雨や雷の空模様です。今も戸外は暗い空。
 安倍氏殺害の衝撃的な事件があり、毀誉褒貶さまざまなことがあった彼も、殺されて、さすがに悼む声がほぼ全て。民主主義云々、非道な事件であることは言うまでもなく。選挙の趨勢にどんな影響があるでしょうか。
 器械の不備、容量と保存対策を考えると 些か、いえ大いに反省するところあり、目下恐る恐る器械に向かっていますが、疲れました。鴉のご苦労には到底及びません。
『遊仙窟』名前だけは古典の注釈かどこかで読んだことがあるのですが・・中国には全く残っていないというのが注目ですね。
 シンガポールの娘が 二年五か月ぶりに帰ってきます。仕事の都合で一週間もない滞在です。ホームシックでしょうか。
 シンガ(ポール)の家族は 祖父祖母を始め十人の内八人がコロナに罹ったり・・重症にはなりませんでした・・今度はデング熱が流行っているとか。デング熱が感染はしないそうですが。
 とにかく忙しさに負けず、鳶も 舞う努力をしていきます。
 元気にこの夏をお過ごしください。強く強くそれを願っています。
 
 * ありがとう。
 
 * ぐったり、疲れ切っているが。それはそれ。すべきは、すべき。それが、出来ない。
 
 * 選挙結果は目に見えていて、関心の持ちようもない。自民が強いので歯無い。日本人が、超無自覚に現状保守人たちであると謂うだけ。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)七月九日  土 
    起床 5:20 血圧 139-71(66) 血糖値 89 体重 56.3kg
     (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 證明出来ることは凡べて論争できることである。論争の餘地のないものはただ證明出来ぬことのみである。   (一○)
 
 * 事情象は判然としないが、この頁、繰り返し、書いたモノが消え失せている。
 
 ○ 私語の刻は、いつ、どの部分を読んでも、爽やかな迫力を感じ 勇気をもらう思いです。
 今年の夏は殊のほか暑さが゛厳しそうです。
 秦さんには、一時に較べずい分体重がへっておられるご様子、くれぐれもお身体大切に 不一   (ホテイアオイの写真ともに)  大阪 池田市   滉 (陶芸家)
 
 * 愛媛今治市の元図書館長、木村年孝さん、京都市の染色家、玉村咏さん、東京大学大学院国文學研究室、三田文学編集部、神戸松蔭女子学院大学からも「湖の本 158」受領の来信。
 
 * 鍵盤(キイ)のまうしろ、大きな画面のました、目の真ん前に、「コンチキチン」と鉾の版画、京祇園の路地を描いた目にも胸にも記憶にも親しい「ろーじの風」の繪を並べて立てている。
 
 * 何必館夫人の便りを貰っていた。胸のつまる不安で封を切ったが、幸い、無事に元気という便りだったので胸をなで下ろし。独り、施設に入っているが、頭の働きも言葉も対話に応じてごく機嫌も宜しく、と。安心せよとの気遣いもあろうけれど、あるいは胸を凍らせていたので有りがたい便りであった、感謝。
 
 * 私の方は。心身停滞。エンジンが停まっているという感じ。幸い、何も今は、「ねばならぬ」という急の要も用も無い。たとえこの「機械」の界隈を片付けても、所詮片手間にはどうにもならず、置き場所を交換しているだけの無意味さで終わるなら、休息しての読書が上乗。数えたら毎日読みが十三冊に増えている。しんどいのはダンテの『神曲 地獄編』。むりむりに詩に訳そうとしてあるのが雑にこなれてなく、いっそ素直に普通語でで説明的に翻訳して貰いたかった。ま、これは第一読の通過読みと。『ファウスト』でも『失樂園』でも、もうそれぞれ数度めの読みを楽しんでいるのだ。ともに、ぐいぐいと惹き込まれる。
 ルソーの『告白』三巻はやや情調の憾みあれど、また代表作としての史実的な重みは分かっている。『人間不平等起源論』も読み切りたい。るそーの小説『新エロイーズ』を手に入れたいが、なにしろ外出しないのだから、今は、ムリ。
 アンドレ・ジイドの『ドストエフスキー論』がさすがの論攷・批評で、『カラマーゾフの兄弟』が引き立ち、はやくまた『悪霊』へ戻り読みをと願っている。ジイドのねま、かろやな『イザベル』も次いで読みしている。
 ホメロス『オデュセイア』は読み終えて悲劇『イリオス』をじりじり読み追うている。これはまたゲーテの『ファウスト』第三編とも絡んでいて面白いのだ。
 『水滸伝』は文句なしに全十巻をかるがると楽しんでいる。漢文の『史記列伝』の面白さも凄みも半端ではない。そしていまは『元史傳』の日本国情報を確認しいしい納得している
 さて、日本の本は、一に、もう数え切れないほど読み続けてきた『源氏物語』の今は「夕顔」が哀れに生霊に取り殺されて荼毘に付されたところ、そして『参考源平盛衰記』はお寺の坊主達のやたらな大騒ぎを半分惘れながら、面白く。
 もう一冊はトールキンの世界的名作『ホビットの冒険』を片や撮って置きの映画で楽しみながら大冊をいきいきと、どれもみな、毎日少しずつ必ず読み進んでいる。絶好。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)七月八日  金 
    起床 6:30 血圧 139-71(66) 血糖値 89 体重 56.3kg
     (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 「哲学者」には三類ある。一類の哲学者らは、「物」の心臓の鼓動を聴き、次なる哲学者らは「人間」の心臓の鼓動を聴き、第三類の哲学者らは、「概念」の心臓の鼓動のみを聴こうとする。さて「哲学の教授先生ら」はどうか。、かれらは「文献」の心臓の鼓動しか聴かない人たちと見えるのだが。  (八)
 
 * とぎれなく夜通し、しかしいろいろの夢を見続けたまま、或る同じメロディを夢に口ずさみ続けていた。今朝、目覚めまでのメロディは、ずっと「ネンネコ・ネンネコ・ネンネコヨー」だった。
 
 ○ ひさびさのくもりぞらですが、自室は30.5cで、当地(=石川能美市)特有のむし暑い日です。
『湖の本』いただきました。157をまだ十分読み切っていない所の158です。パソコン代りとはいえ、月刊雑誌並みの刊行は、そのお手数も大変だと、秦さんの『意』を強く感じとっています。
「父の敗戦」に続く「よに逢坂」、変らぬ熱筆?をじっくりとよませていただきます。
 それにても「私語の刻」にとりあげている諸氏の手紙の内容が濃いものの蔽いことにほとほと感銘しています。これが私信か、と思われるものもあって、秦さんの厚い交友ぶりに深く思いいっています。ちょっと表現が足りませんが、高次元でのご交際を仰ぎ見ているような思いです。それで、読みごたえがあります。私には諸氏のように応じることは残念ながら叶いませんが、重く、ありがたま受止めることはできます。
 地震のこと、お気にかけていただきありがとうございます。同じ石川県でも能登と加賀
地勢(ちょっと言葉の使い方が違うか)が違っていまして、テレビの報道でそれと確認するような状況です。ただ先日の地震の時は、テレビとスマホから大音が発せられて驚きました。当地は震度2でしたが。
 頭も筆もモタモタです。みっともない文面でお許し下さい。お二人、おやすらかにと願っています。  七月三日   井口哲郎  (前の、石川近代文学館館長)
   秦 恒平 様    
   (お望みで差し上げた 200字「秦恒平用箋」で。封緘の朱印は7/7「暑川」と。)
 
 ○ 拝啓
 猛暑がようやく一段落いたしましたが、まだまだ暑い日がつづいております。
 扨て、「湖の本一五八」昨日拝受、早速「彬彬而樂」に読み耽りました。
 ルソー、ミルトン、マルクス、アウレリウス、聖書、ドストエフスキー、ホメロス、ソクラテス、 それに、源氏物語、平家物語をはじめとする日本文学の古典に毎日読み耽るお姿に、オルナガ・イ・ガセットの言う「精神の貴族」を思い起こします。八十六歳になってなお未踏の精神のさいこうほうを目指して歩み続けられるお姿は「お見事」という他ありません。それに加えて三日で一升の酒量、超人的です。
 さらに、一四四頁の終りから一四五頁の半ばにかけての十一行、羨しいかぎりです。志だけでは無く、それを実現する資力まで、着々と準備されて来た秦様の人生は、「選ばれた者のじんせい」としか思えません。
 私はこのところ 今年の年末に刊行予定の  翻訳の  校正に追われております。  この歳になっても読書 歌作 翻訳仕事をつづけることが出来るのが、孤独な生活の救いとなっております。秦様の「湖の本」が届くたびに、いろいろの方が居られるのだ、まったくの無償の行為に全精力をを賭けて生きておられる秦様の精神に過去史でも学べ、と自分を励ましております。今後も文字通り、ご指導の程、お願い申し上げます。
 最後になりましたが、秦様の今後のますますのご健筆、ご健康、心からお祈りしております。また次巻を愉しみにしております。 敬具
    七月五日      鋼   (作家、歌人、翻訳家)
 
 * 読売新聞朝刊に長谷川櫂の選で採られた短歌二首の「囲み記事」が添えられていた。
 
 * 「高齢者」神戸の芝田道さん 「この四月より社会人入学で神戸市外国語大学に通っています」と。社会学者の加藤秀俊さんの「九十才のラブレター」の中の「にんちゴッコ」を読んで、そういう年頃と思うと気が「落」になりました、「どうかお元気で!」とあって、同感した。「かつて通った喫茶ホワイト。74年間の営業の末に2年前にへいてんしました」と書き添えられた喫茶店窓際の写真ハガキでのお便りであった。
 
 ○ 半夏生で梅雨が明けると言われますが、ことしは宣言とは裏腹に戻り梅雨が気がかりです。折からの暑さ、いっそうのご自愛を念じております。本日 心ばかりの品を贈らせていただきました お口に合いましたらと幸です。
  京・山科   あきとしじゅん   (詩人) 
 
 * あきとしさんのお便りにはいつもうれしい「おまけ」の京と季節の郵便絵葉書が入っていて、今回も「コンコンチキチン コンチキチン コンコン」と木田安彦令の軽妙な祇園祭り鉾の版画はしめ、杉本吉二郎描く懐かしい祇園「ろーじの風」の写真など数枚。この二枚をてもとに、残りを手を受けている妻にあげた。茅ヶ崎の吉川幹男さんからも、猛暑の見舞いに瀬戸内因島八景を描いた青木廣光の絵葉書を戴いた。感謝感謝。
 
 * 梅若万三郎いえからは能のおさそい、高麗屋の松本白鸚さんからは十月歌舞喜佐へのおさそいがある。俳優座の岩崎加根子さんからも。感染コロナの方は果然 感染の勢いをこの日々倍々化していて、なんともハヤ。
 今日午後には建日子が、車で、参議院選挙の期日前投票所へ運んで上げると。
 
 * ここまで書き置いて、午前九時半。朝食に降りる。
 
 ○ 暑いさなか ご本の発送の大変さを思うだに、嬉しさもさることながら、お体を案じています。ありがとうございました。お二人ともにお疲れはとれましたでしょうか?
御本のお礼と共に お見舞い申し上げます。
「メール」の文体は読み易く、珍しく一気に読ませていただきました。
 私語の刻の「彬彬至樂」の意味が分からず、辞書で、 まさにまさにと。嬉しくなりました。 (秦 「彬」は、ふつう「文質彬彬」など、ならび揃ってあきらかに うつくしくあれと励ましている。「彬彬至樂」は心境「彬彬として」楽しむ意味になろうか。)れる)
 選挙間近く。一票期日前投票します。女子高生の頃 政治をよく話し合った事思い出しました。
 昨日、今日は少し過ごしやすいですが、また猛暑が戻ってくるようで、どうぞどうぞお二人共にお身体お大事にお過ごしくださいますように。  晴美  妻の久しい親友
 
 ● y君  自身を「写真」で表現するのは 毎年の年賀状に見るとおりに東工大生、卒業生の「共通した」ような甘い特徴で、少年の青年の昔から何十年、ええオッサンになっても変わらないね。ツイッターやフェィスブックの「存在」表現も「写真、写真」で、失語症のように 現代の日本語で、しかと伝えてくる「生命感」が、以前にも一度伝えたが、受け取れない。残念というより、頼りなく、心許なく、寂しいです。
 この難しい日本と世界の現実や日々の生活から生まれた喜怒哀楽が、生きた「言葉」で訴えられてなない、訴えてこない。変わらないねえ。よほど現状に満ち足りて幸せなんだなと、よろこんでもいますけれど。 今もみな、そんなんかなあ。 秦サン
 
 ○ 秦先生 御本をいただいておきながら「ご挨拶」なく申し訳ありません。
 湖の本、ありがとうございました。
 先日、新座の方へ行く途中、先生のご自宅近くの大通りを抜けました。顔を見せようかとも思いましたが、既に夕刻であったため、またの機会にと、辞めてしまいました。まだコロナも納まりきっておりませんから、お顔を見に行くとしても、お外で少し話をする程度かもしれませんが、お顔を拝見するだけでも、良いかと思っております。
 さて、
 写真での自己報告に甘えているというご指摘は、耳が痛いばかりです。
 80年代に始まったデジタル化というのは文章、画像、動画などすべてを単一の記録方法に置き換えた、という点で、画期的な技術で、それがCDやDVDといった簡易なメディア、ひいてはケータイ電話やスマホといった通信機器へ置き換わっていく流れを作り出しました。それは東工大生だけの共通した傾向ではなく、全世界的な情報発信の流れ、と言っても過言ではありません。
 そうやって、逆に言葉に自信が持てなくなっている、ということでしょうか。
 先生は東工大時代から、映像は確実な情報伝達手段ではなく、そこから伝えられるもの、伝わってくるものを言葉にし、自分の感じたこと、考えたことを明確にしなさい、と言われておりました。
 その危惧が現実のものになっているということでしょう。
 現代はあたかも写真が全てを語っているかのように錯覚してしまうようになっています。トランプ大統領の時代を「ポスト・トゥルースの時代」と呼んでいましたが、映像は真実ではありえないので、事実を装って、いくらでもうそをつくことができます。私達が言葉より写真を好んでしまうのも、あたかもそれが真実かのように装ってくれるからかもしれません。自分の思いを、事実で隠してしまいたい、と。
 そういった意味でも、先生の言われるような生命感が発せられない、無意識的に抑圧されている、ということかもしれません。
 現状に満ち足りて幸せだんだな、と また、厳しい言葉ですね。
 息子を見ていまして、やはり同じように思います。今の状況に満足しているのか、と。
 ただ、この「完成されたように見える世界」に生れ落ちてきた彼らに、反抗し、変革せよと言っても、それもなかなかに難しいのかな、と思います。
 そういう私が、自分自身の仕事で手一杯になってしまっており、自分の感覚で生きている、という意識が薄らいでいますから。
 正直、どうしたらいいのかわからないという感触です。
 自分は必死に生きている、でも、世の中はよくならない。
 まずは自分の周りだけでも楽しくしたい、そう思って、毎日頑張っていはいるんですが。
 やはり、どこか甘えているんでしょうか。
 からめとられてしまっていますか。
 週末、もしかすると先生宅へピンポンするかもしれません。また、厳しいコメントをもらいにいきます。   新潟出張への新幹線にて   柳  (建築家)
 
 * 参議院選挙の応援演説中に奈良縣で元総理 狙撃され、夜には死亡と報道された。犯人は「政治信条の問題ではない」と供述していると。
 
◎ 令和四年(二○二二)七月七日  木  七夕
    起床 6:30 血圧 154-80(64) 血糖値 89 体重 56.0kg
     (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 形式の豊かさは無限の内容を取り入れうることに在り、内容の豊かさは無限の形式に入りこめることに在る。二つの無限が相逢うて豊かな創作が生まれる。  (六)
 
 * 昨夜、就寝前にまた素晴らしい映画を嘆賞した。谷崎潤一郎の、五百年に一度のと賞讃された『春琴抄』の映画化で、春琴に山口百恵 佐助に三浦友和。その、のけぞるほどな「初々しく美しい、恰好の名演」に「最良の好感」を得た、演技にも構成にも映像にもかなり口五月蠅い私が息を呑み続けた。これ以外の春琴も佐助も無いと、しみじみ降参し感嘆した。原作も完璧、以外や映画化にも立派に成功していた。
 トウの大昔に録画はしてあったのだが、春琴と佐助を誰が至妙に演じられるものかと端から見放していたので、この「板」で演じている主役達の名も知らぬまま、もう何十年も放ってあったのだ、百恵といい友和といいなんといううら若さ。『伊豆の踊子』でも好感を得ていた最愛のコンビではあったが、春琴、佐助が演じられようかと予想だにしていなかった。私の負け、降参した。谷崎先生はご覧になっていないが松子奥様は満足されたので歯無かろうか。
  嬉しい、有難い、最良の出逢いであった、なにもかも、と。
 
 * 八時の朝、往年の作を必要あって点検し添削していた。息をやすめたく、『遊仙窟』詩情の交歓を暫くにこにこ、いや、にやにや、愉しんだ。
 女が誘う 平生好須弩
      得挽即低頭
聞君把提快
更乞五三籌
 
 男が出る 縮幹全不到
      擡頭則太過
      若令臍下入
      百放故籌多
 
 何をか謂わん。
 
 * 寝入っていた。正午近い。
 
 * 寝入っていた。四時近い。
 
 * 井口哲郎さん 持田鋼一郎さん あきとしじゆんさん 芝田道さん 吉岡幹男さんそして 松本白鸚さん さらに早稲田大学 上智大学 大東文化大学 皇學館大学 山梨県立文学館とうとうから「湖の本 158」受領の来信あり。
 文面などぜひ記録しておきたいのだが、量も豊かで、視野はもう暗く疲れ切っているので、今日は見送っておく。いずれも様に感謝。
 
 * 夕過ぎてから、半ば勉強のような関心で、リチャード・バートン演じる長編映画『アレクサンダー大王』を観終えた。マケドニアからギリシヤ、ペルシャさらにき印度までの長征の人生、これは参考までに視野にしかと認めておきたかった。
 
 * 明日、建日子が車で来て、参議院選挙の期日前投票所へ載せて行ってくれると。コロナ感染はむしろ激しくブリ返していると聞いていて案じられるが、投票当日に投票所へ歩いて出向くのは、ことに天候したいでシンドいのが知れている。建日子の配慮にまかせると決めている。酷暑でないように願う。
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)七月六日  水
    起床 5:40 血圧 142-75(59) 血糖値 89 体重 56.35kg
       (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ それ自身必要な条件というものが、具体的なものを生み出すに十分とは限らない。また十分な条件というものは是非に必要なものではない。   (五)
 
 * 朝一の起き抜けに『遊仙窟』を読み進めると、鏤めた主客の美女美男翻逸の詩に情欲が沸騰しはじめ、男は「終日在皮中」と「小刀」で迫り、女は「空鞘欲如何」と「鞘」で誘う。「おやすくない」と、侍る五嫂がひやかす。「やそろく」老とても熱くなる。
『遊仙窟』を愛読された村上天皇さんとお話がしてみたい。
 
 ○ 今日、湖の本 (158)受け取りました、有り難う、御座いました、ご無沙汰して居ります、長い間、機械を使わずに居りましたので、使い方を忘れてました。やっとです。時候柄、お大事に!     渋谷    華
 ○ メール有り難う、御座いました。変わらずお忙しそうで!
 私は体力減退で ふらっとしてます。
 湖の本、有り難う、御座いました。楽しんで読ませて頂いてます。
 そろそろお祭り(=祇園会)で賑います。
  私は一向に体力減退です。   渋谷    華
 
 * 夫君を喪い寂しいですと嘆いてきていた。「やっとです」に泪が滲んで見える。同じ嘆きを何人に聞いてきたか。
 この「華」は、高校生の顔しか 想い浮かばない。茶を点てて、柄杓の構えや扱いのきれいな一年生だった。わたしは三年生。茶道部を指揮して点前作法も諸道具のこともみな教えていた。校舎の一画に「雲岫」と呼ばれた佳い茶席を、校長室から「鍵」も預かって、気ままに、いつも、授業をサボってでも遣っていた。部員は増え、私の青春に男子の影はほとんど無かった。「女文化」ととなえ「身内」と説く「もらひ子」の心根は、京都東山に育って、遙かに遙かに、深い。国民学校で『百人一首』に親しんで短歌を創りはじめ、敗戦後に秦の祖父が旧蔵の小型な『選註 白楽天詩集 全』から七言古詩「新豊折臂翁」を識って愛読し、新制中学一年で与謝野晶子に教わって『源氏物語』を識りはじめ、三年生で、始めてお年玉で岩波文庫の先ず『徒然草』を、すぐ次いで『平家物語』を手に入れ、耽読した。『祇園の子』が短編の処女作となり、白楽天からは妻の励ましで『或る折臂翁』が、徒然草からは「菅原万佐」の名で長編『慈子 (齋王譜)』が、平家物語からは本名で受賞作『清経入水』が成った。ためらいの無い「一本道」だった、どの蔭にも「女子」の影が添っていた。男の影は、祖父(の蔵書)独り。メールを呉れた華さんも懐かしい「影」の一つ、云うまでない。
 
 * 昨日、半ば観ておいたノーカット映画『ウエストサイド物語』後半を、泪を払うようにしてシーンの一つ一つに賛嘆また感動しながら観終えた。ダンスの面白さ、歌う美しさをわたしは此の名作映画に教えられた、今回でほぼまちがいなく五、六度めを、新鮮無比に賞讃しながら観終えた。感性が、まだ、全身に拍動する嬉しさも味わった。選び抜いてある謂い映画を繰り返し観るのは、私には嬉しい「仕事」の一つなのだ。
 映画藝術の「魔」のような魅力を、日本人で最初に受け容れ理会してご自身も製作に関わろうとされた谷崎先生の、まちがいなく私は門生である。
 
 * 佳い「創作」にはためらいも紛れもなく、真率受け容れて感銘し驚喜できる「感動」と謂う才能の生きてあるかぎり、数で数える年齢は表札に過ぎない。
 
 * 羽生Cさん、京、鶴屋の夏菓子に添えてお手紙を戴く。
 
 ○ 『湖の本 156 157』 ありがとうございました。
 「父の敗戦」の<鳩山首相に對する提言>は、今日の日本 そして明日の世界に向けて書かれているようでした。
 「資本主義といヽ共産主義というも共に夫々人間が考え出したものであり、時代の変遷とヽもに絶対のものでありますまい、 双方ともに歴史の悠遠な流れから見れば短期間に生じた現像にすぎないと想います」
 何故、いま、あたかも資本主義や自由主義に普遍性があるかのような物言いで争いを続けなければならないのか、夫や息子たちの命が奪われなけばならないのか 分かりません。
 
理りお父様 に対して
情のお母様
くろがねも巌も溶けて流れなむ
涙は火なり熱きものぞも   鏡
 
おふたりの愛の結晶
「あなたって 生きた小説ね」という
 奥様の言葉がすべてを物語っているように感じました。
 奥様という読者のために書かれた小説を 私も読ませていただける幸運に感謝しております。
「複雑多岐な人間関係のうち 一番複雑で且つ困難なのは結婚らしい、………ここには 人間の幸福と人間の束縛の両極が伏在している」
 一番複雑で且つ困難な事業に成功された
 おふたりにあやかりたいと思いましても……私は…
先生
の御長寿を心よりお祈り申しあげます。
奥様
                    羽生 清    (大学教授・美学)
秦 恒平先生
 
 * 妻にくださった勲章と感謝して お手紙は 先日に戴いていた仙台の遠藤恵子学長のお便りと揃え 妻に手渡した。
 
 ○ 「湖の本 158」をありがとうございます。
 万華鏡のような變化に油断無く緊張して読みました。わたくしのピアノは困ったことに昔より譜読みが出来るような… ホントかな。繪は、人にはただのキャンバスと絵具ですよね。
 どうぞ お元気に。  沙   専攻の同窓 妻と同期
 
 * 下関の大庭碧さん、涼しげな菓子を送って下さる。感謝。
 
 * 夕刻から晩へかけ、また一つ、クリント・イーストウッド監督描く感動の映画『インビクタス 負けざる者たち』に共感し、胸熱く緊迫の内に愉しんだ。
 祖国「南アフリカ連邦」を傷め続けてきた久しい白人の黒人差別、アパルトヘイトの中で「三十年もの監獄生活」を強いられて来たあと、ネルソン・マンデラが敢然、初の黒人大統領に占拠で選ばれ、新しい健康な祖国を創造すべく誠心誠意の人間力で、国民的なスポーツ、ラグビーの代表チームを後押しし、大きな国際競技会で激闘の「優勝」へ盛り上げ押し上げた実話だ、名優モーガン・フリーマン演じる「大統領マンデラ」の率先で、まこと立派に「感動」そのものが描かれていた。豊かに美味な名作映画で、また一つ、心身の栄養が得られた。感謝。感謝。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)七月五日  火
    起床 6:40 血圧 140-71(53) 血糖値 89 体重 56.3kg
       (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る)
 
 ◎ 今日からは 清水幾太郎の訳に助けられながら、ジンメル(一八五八 − 一九一八)がその完成と園熟の頃の日記抄『斷想』に聴こう。大学院に学んだ頃、岩波文庫の古本を買った。以來六十年の余、手放さない。
 
 ◎ ジンメル(一八五八 − 一九一八)の 『斷想』日記抄 (清水幾太郎の訳に依りて)
 ◎ 自然現象は斷えざる變化と變遷の中にあるが、しかも自然は永遠に同一であり、動揺なきものであり、一なるものである。然るに、思想は多様であり、變ずるものであり、對立と単なる相對性とのうちにあつて 自然の周囲に漂つてゐる。   (四)
 
 * すこしは食も増えたか体重が戻って、にわかに58kg台にもと思っていたが、昨日、つくづく両脚の「浮腫んで太い」のに不審し、妻が投薬されているという薬を気休めほどの気で一錠貰って服した。とにかくもこのところ尿意しきりで感覚が短すぎると閉口してもいた。
 で、一時間も経ったか、ふと観ると両脚がしゃきっと堅く細くなっているのに驚いた。浮腫んでいたのだ。「このところ以前」の、しかと細い脚に変わっていた、有難し。
 今朝の体重は、56.3kg ほぼ2kも減っていた。腕も、手指も、自分で云うのも変だがほっそりと気もがいい。想い出すが、就職した年か翌年か、会社をあげて熱海か伊豆かへ一泊しに行った晩、どうも宴会が苦手で、独り抜け出して近くの飲み屋の暖簾を潜った。小さな例の L字を囲んだ止まり木に三人も客がいたか。わたし極韓ソに普通の酒・肴を頼み、黙然と独りで飲み食いしている内、急に女将がこえを掛けてきた、「きれいな手をしてるわねえ」と。赤面モノの世辞だが意表に出てわたしは、思わず日本の手指や袖を抜けた腕を見た。間違いない自身のソレであった。そだけのことだか、忘れない。女将の世辞をかすかにも受け容れている意識があった、理由もあった。
 私は、敗戦からまぢかな小学校五年生正月ころ、同居していた秦の叔母、宗陽社中の初釜に加わって以來、猛烈に熱を入れ日々に稽古し、勉強してモノもたくさん覚え、いつしかに土曜の稽古日に通ってくる自分よりも年嵩なひとや小母さんたちに叔母の代稽古を勤めて、叔母ならただ点前作法の手順をおしえているのに、少年の私は茶道具の手での持ち扱い、運び・歩き、その姿勢を、見られて美しく、自身はごく自然に作法出来るようにと、ウソ゛なく、思いを籠めた。むろん社中におしえただけでなく自身も好き好んで機会ごとに稽古した。腕と指と、それは、重くはない華奢な茶道具を持ち扱って遣う絶対のまさに「手段」、それを繊麗に磨いて身につける、それが茶の作法を稽古する大なる意味となる。
 新制中学でも、高校へ進んでも、佳い茶室の在ったのをさいわい、すぐ、率先茶道部をつくり、指導できそうな部長先生よりも生徒の私に任せた方が早いとみられて、稽古の指導は一切私が差配して過ごしたのだった。
 「きれいな手…指」と熱海の飲み屋の女将が世辞とも本音ともつかぬ声を掛けてくれたとき、のちのち思えばあの女将からなにか免許を授かったように思い出せて、他他田大事に忘れなかったのである。
 いま、機械のキイを終え蘭で押している私の手・指は、いわゆる熟練の「機械上手」のあの手早さとはまるで違う。私は文章を「速く」打ち出す必要を持たない。思案しながら作文して行く。細い、比較的長めな十本の細い指は 左右 相い逢い相い別れるようにキイを求めて黒い鍵盤上をむしろ躊躇いがちに静かに舞う。茶杓や棗や袱紗を扱うほどの気でわたしたしかに自分の手・腕・指をだいじに感じている、いまも。浮腫んではいけない。
 
 * 朝の八時になった。階下では「ま・あ」ズが「ごわん」を貰っているだろう。私も降りようか。
 
 * 悪いことでは全く無いのだが、ことの「手順」としてやや困った穴に嵌まっている。収まるとは思うけれど。
 
 * 梅若万三郎家 ありがたい漬物を下さる。この時節、念入りの漬け物は極く貴重で、飯にも酒にも まことに嬉しい。
 筑摩書房とのご縁いらい極親しい元編集者、新鮮な香気にはち切れそうに立派な桃を大きな箱に六顆も戴いた。桃、梨、枇杷、桜桃、西瓜、トマト 子供の頃を想い出しても懐かしい夏の美味。感謝。
 紅書房主の菊池洋子さん、いつもながら、選りすぐりの洋菓子を下さる。食の進まない私には、ありがい佳い糖分になります。感謝。
 
 * 映画『リトル・ダンサー』 素晴らしいラストシーンへ向けて一路しみじみとした感動作であった。
 
 * 静岡大の小和田哲男教授、写真家・作家の島尾伸三さん、大阪高槻の旧姓八木(三好)一子さん、本の礼状。星野画廊の「大阪風景展」の一枚刷り作品集。頂戴。
 八木さんもそう、八十過ぎて夫君を見送った夫人が、胸痛むほど多いのに驚く。
今もまた、久しぶりにメールくれた人も。
 
 * 早めの夕飯後、今度は『ウエストサイド物語』マリアとトニーのダンスホールの出逢いまで見惚れていた、が、二時間ほど寝入っていた。寝入るのが名人技になっている。
 
 * 妻も寝入っていて、わたしは二階から降りると、独りキッチンに入り、長谷川一夫以下、先々代中村鴈治郎や鶴田浩二、京マチ子、若尾文子ら懐かしい大物等が総出演の『忠臣蔵』後編を夜更けまでたのしんだ。
 、むろん名品に限るが佳い映画に心から魅入られ得ることをわたしは、ま、心身の健康の証とよろこんでいる。感動することを大事な「仕事」なみに観ている。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)七月四日  月
    起床 6:40 血圧 140-71(53) 血糖値 89 体重 58.2kg
       (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る)
 
 ◎ マルクス・アウレリウスの 『自省録』抄   (神谷美恵子の訳に依りて。)
 ◎ 時に適って来るものを善しと観、世界を眺めている時間が長かろうと短かろうと構わない、こういう人には死も恐るべきもので無い。   (第十二章 三三)
                      ◎ 愛読の「鈔出」を、これで終える。
 
 ◎ 明日からは清水幾太郎の役に助けられながら、ジンメル(一八五八 − 一九一八)がその完成と園熟の頃の日記抄『斷想』(岩波文庫 昭和十三年(一九三八)八月の三刷本)を選んで、聴こう。大学院に学んだ頃、古本を買った。以來六十年の余、手放さない。
 
 * 戒(いまし)めと謂う。縛(いまし)めるとも謂う。生きようを自身に「戒め」ながら、つと、自身を「縛め」ているかと「感じ」ては逃げ口上でないか「戒め」る。蒙昧の境に這い回っているのだ。情けない、が、いまも目を開けてられないほど睡い、午前ももう午へ長けているのに。
 
 * 夕飯の前後に、トム・クルーズがベナム参戦で脚を喪っての帰国兵を演じた映画『七月四日に生まれて』を、最大最高級の賛意と感動とで、息をのみ言葉も喪い見入った。完璧の映像による「戰争否定」の主張だった。ただし此の映画ではアメリカの若い兵士が、あまり理由の無い海外での戦線で傷ついていた事実を見落としてはならない。もし彼が、自国の国土と国民とを盛るために戦っていたなら、別の視野と視線をもたざるをえまい、現在のウクライナのように。
 
 * 映画に次いで聴いた、子供に伝えたい「日本の歌」にもみみを傾けて二人で聴き入った。美しい歌声であった。
 
 * 二本の手へ十本の手が握手を求めてくる感じ、気の動いて仕掛けもついてある「書き仕事」が幾つも「お手を拝借」と誘ってくる。どれも払いのけるワケに行かなくて目が舞う。映画など観ているなと??られても、これまた観るべきは観て栄養を摂るのだし。
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)七月三日  日
    起床 7:00 血圧 140-71(53) 血糖値 89 体重 56.5kg
       (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る)
 
 ◎ マルクス・アウレリウスの 『自省録』抄   (神谷美恵子の訳に依りて。)
 ◎ 無限の時という測りしれぬ深遠の、なんと小さな部分が各人に割り当てられていることよ。それは瞬時にも永遠の中へ消え去ってしまう。それを思い知り、内なる自然にしたがい行動する以外には、何ごとにも過剰に重きを置くまい。   (第十二章 三二)
 
 * 今朝、いつになくヒゲを剃っていて思わず独り笑いした。世紀の発見ぞ。
 少年の昔から、「口を(ヘの字)に結んで」という表現や物言いを読んできた、聞いてきた。繪や写真を見ても判った、観なくても判っていた。明治の元勲などという勲章をやたらぶら下げた連中がそうで、だから「えらい人」は「口を、への字に」結ぶのかと少年は理会し、格別の不審も疑念も持たなかった。
 が、今朝、自分の顔を鏡でつくづく見ていて、ハタと判った。あれぁみな「上も下も歯抜けの顔で、ああせざるを得ない、自然にああなって替えようのない顔なんやと判った。唇を「一文字に」など出来やしないのだ、上、下の歯の大方が抜けて無いのだもの。畏まって「ウム」という顔をすると「口は、唇は、見事に(へ)の字」になる、成るしか無いのです。それだけのことです、が、自分の顔を鏡で見て「気づく」など、老耄の自然と謂うしかないわ。呵々。
 
 * 「文士」としての自分の日々を「読み・書き・読書」と要約しているのは、私の場合、ほぼ言い尽くせている。
 最初の「読み」とは、現在・未来を分かたず「書くため」の資料文献の調査や検討・研覈・吟味・鑑賞、つまりは、必要な勉強。たがって私の関心や意欲が多彩多般に亘っているときは、余儀なく、多く時間を割いている。勉強と禁欲との釣り合いを見失うと、膨張破裂を招いてしまう。
 「書き」とは、事実上の執筆・創作行為。
 そして無差別に広範囲の「読書」。
 ほんとうは、善き人との「対話」「検討」の加わるのが望ましいが、今の私には人も機会も、望んでも得にくい。
 
 * ボー然と過ごした。それでいいと許していた。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)七月二日  土
    起床 7:00 血圧 140-71(53) 血糖値 89 体重 56.5kg
       (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る)
 
 ◎ マルクス・アウレリウスの 『自省録』抄   (神谷美恵子の訳に依りて。)
 ◎ 忘れるな。すべて起こってくるものごとは、いつでもそのように起こったのだし、将来にも起こるし、現在も至る所で起こっている。そして各人の生きるのは現在であり、失うのも現在のみであるということ。   (第十二章 二六)
 
 * 夢見は、例の、善くなかった。高い窓の外が白んでいて、正七時、床を起った。
 
 ○ 七月になりました。お見舞い有難うございます。
 場所がら、それほどの暑さはありませんが、確かに暑い日々です。
 ご自宅で涼しくゆったりとお過ごしかと思っております。
 私はほぼ一日中、涼しい台所で水遊びをしております。
 
 きれいな朝です。4時前にはあけぼの、5時ころからはうぐいすやホトトギスが、大声で鳴きだし、カラスも何処かへ。もうすぐ、隣の雉がかすれた尺八のような声でなきます。田舎の夏の朝です。よい夏を。   セシリア  和邇
 
 ○ お元気ですか、みづうみ。
 早くも梅雨が明けて七月に入りましたが、この急激な暑さについていけません。お変わりなくお過ごしでしょうか。
 六月二十三日 「最近の私です」ありがとうございました。すぐにお礼を申し上げたかったのですが、どうしようもない鬱気分に陥っていました。
 原因は一つではありませんが、あえて言葉にすると、今の世界は二十世紀の愚行を繰り返そうとしている、日本社会は大失敗しようとしているという、どうにも否定し難い考えが頭から離れなかったせいです。きっかけはもうじき参議院選挙があるということかもしれません。コロナ感染者がまたじわじわと増えだしているとか、ウクライナの戦争が長期化しそうとか、中世に戻ったようなアメリカ最高裁の中絶権利の禁止判断とか、フランス選挙での極右、極左の大躍進とか、今現実に起きている色々なことの根底にある無気味な蠢き、世界は、日本は、近い将来むごたらしい場所になるのではないかと暗澹たる思いにとらわれていました。
 周囲に大惨事が起きているわけでもないのに、必要のないことを想像して怖れる私は「暇人」のひと言で片づけられそうですが、暇人の存在が嘲笑されるような、無駄な時間の使い方が許されていない社会状況が きっと問題の根にあります。
 常に効率を求められ、時間を無駄にしないことを求められ、一日の大半をデジタル環境にどっぷりつかり、大量に押し寄せてくるガラクタ情報でものを知っている気分になり、気晴らしの娯楽やたえまない新しい刺激にせわしなく目を動かし、いつも気が散っている現代人。
 高齢者でもそうですから、とくにデジタル漬けが常態の日本の若い世代が心配でならないのです。生まれた時からデジタル機器に囲まれているZ世代の若者たちは映画や動画を倍速でみたり、セリフのない場面は飛ばしたり、先に結末を知ってから観るという習慣をもち、コスパならぬ「タイパがよい」行動をふつうにしている。それは人生で一度しか与えられない自分の時間をただ消費するだけ。世の中がどんどん加速して、振り落とされまいと必死な彼らは、LINEの人間関係や自分の知っている情報の「範囲の外」に出ようとはしない、というより出ることを「夢」見ない。現状に大きな不満がない。
 もっと考えますと、親世代は若者に生きる甲斐ある「理想」を与え損ね、彼らの「言葉」を奪ってしまった。私にとっての理想は「文学」とも言いかえることができますが、日本だけでなく、世界的に若い世代で「長い文章や 過去の大作、名作、一冊の本」をじっくり読んで考える認知・忍耐力がなくなってきて、若者の記憶力、集中力、共感力の急速な低下の「報告」がいくつもあります。現代人は、静かな場所で丁寧に本を読み熟考する、かけがえのない習慣を失いつつあるらしいのです。
 
 読書がなぜ大切なのか。それは読書が「恐ろしい世界への一つの抵抗の行為」だから。深く読んで内省し、物事を慎重に、批判的に聡明に処理・分析できなければ、他者への共感や異文化の多様性を尊重する人間の叡智は養われない。集団の思考・批判能力の低下は集団的良心の低下になり、結局民主主義は維持できない。
 自分で考えることを外部に譲ってしまう集団が大多数になれば、大衆扇動はおこりやすくなる、というより現実にもう始まっている。無知、無関心な人間たちが「一部の人間の権力」を支え、彼らはいずれ「最悪のこと」をし始める。野蛮な世界はすぐそこに来ている。ハンナ・アーレントが警告していたように、無思考な人間が増えると、悪が、表面をおおうカビのように社会に広がってしまう。
 というような考えが次々と頭をよぎり、迫りくるファシズムの予感に意気消沈して、早朝目覚めてしまってそのまま眠れなくなったりしていました。やっぱりわたくしは生粋の「暇人」なのです……。
 
 今は何とか小康状態。理由は不明ですが、自分が、民主主義の理想が潰えるさまを見届ける役割 を与えられた世代の一人であることを、心ならずも受け入れ始めているのかもしれません。あるいは、みづうみのようなつよい叛逆者の足元に遠く及ばないので、せめてみづうみがあきらめていないうちはあきらめまいと、また思い直したから。生きている間は精一杯抵抗はするけれど、日本や人類が亡びるまで長生きしたくはないと願っています。
 
 昨日老猫を検査のため病院に連れて行きましたが、恐ろしい暑さにくらくらし、さらに、覚悟していたとはいえ診察料金のあまりの高さにも目まいがしそうでした。最近「電力逼迫」情報が頻発していますが、「原発再稼働のための情報操作の一つか」と疑っている私は、ネコと自分の生存のためクーラーを使いまくっています。ちなみに、エアコンよりテレビのほうが電力を食うそうです。知りませんでした。テレビは、「節電」してくださいというのに、「テレビを消してください、紙の本を読みましょう」とは絶対いいません。ずるいです。私たちはよほど目をみひらいていないと「騙され」っぱなしです。
 
 猛暑はまだ始まったばかり。どうか「猫ちゃんズ」と、みづうみお気に入りの書斎の中で快適に、涼しく、心ゆくお仕事の時間をお過ごしくださいますように。
 熱中症にはくれぐれもご用心。    なつは夜
 
 * 残りなく共鳴。こういう「視野」と『言葉』の生きた人に立候補して欲しいよ。立憲の福山クンや、共産の市田、穀田さんに推薦しようか。
 
* 書き足していたハズというファイルが隠れてしまい探し出すのに時間が掛かる。 ナンデやね。
 
 * 毎日読みの枕辺図書から、『イエスの生涯』と、読み終えた『失楽園』とを書架へ返し、ルソーの『人間不平等起源論』と『遊仙窟』『大和物語の人々』それに、この「私語の刻」に暫く抄記していた大冊『明治歴史』を持ってきた。大いに楽しめる。本の読めているうちは、老境とて、生動している。
 * ようやく昨夕あたりで都内へも「湖の本」が届いているようで。土日には手紙もとどかない。メールの使える方にはメールを頂戴したい。私、掌も指先も痺れて使いづらく、自筆の手紙も差し上げられないのです。
 
 ○ 本日、『湖の本』158 「よに逢坂 彬彬而楽」 をいただきました。このお歳でのご無事のご出版を慶祝いたします。大したものです。早速に拝見しました。後半で、「体」の言語化のことについて私が差し上げたメールが載っていて驚きました。私のメールにミスタッチがあったことも。よくやるんです。失礼しました。
 ウクライナ侵略の暴挙を予見していたようなプーチンに対する辛い評価を数ヶ月も前になさっていた。脱帽です。実は私も彼の登場以来、将来なにかやらかすと警戒していました。
 ウクライナ侵略の問題は一言で言えば、「法」の無視です。個々の人間を超える「法」の権威が成り立っていない。法の感覚もない。突き詰めれば、人間の感覚がない。だから、これほどまでに非人道的にロシアの権力は振舞える。人間の感覚を喪失する恐ろしさをあれだけ執拗に告発したドストエフスキーの国から、悪霊が現実の姿を取って現れた。日本も過去にはかなり人間の感覚を失っていたし、これからの日本が国家主義の悪霊にいつ全面的に捕らわれるか分からない。緊張して暮らしております。
 お身体が維持されますように。ありがとうございました。 浩  icu名誉教授
 
 ◎ ぐったり バテてます。コロナもまた舞い戻りつつあるようで、動きもとれず。感染はぜひ避けたく。朝露を踏んでの散策どころか、もう久しくバスにも電車にも乗っていません。
 楽しめるのは、読書だけ。読書慾は、旺盛。 
 もとは支那の本ですが 支那では完全に見失われて、日本でだけ、奈良、平安の昔から、風流な天皇さんにも愛読された『遊仙窟』というのを、今も読んでいました。濃厚な性愛を風雅な詩の応酬で仙境へ盛り上げて行く名品です。
「漢字」というのは一字一語が奥深く美しい。西洋語は めったに読みません。漢語・漢文には日々親しんでます。史記列傳 水滸伝 が面白く。
 せいぜい 食べて 衰えきらぬようにしていますが。食欲が無い。ほっそりほっそりしています。 湖
 
◎ 令和四年(二○二二)七月一日  金  文月朔
    起床 7:00 血圧 140-71(53) 血糖値 89 体重 56.5kg
       (血糖値に限り 以降5の倍数日にのみ、測る)
 ◎ マルクス・アウレリウスの 『自省録』抄   (神谷美恵子の訳に依りて。)
 ◎ 主観を外へ放り出せ。そうすれば、助かる。誰も妨げない。  (第十二章 二五)
 
 * 目薬が視野を明るくする。目回りの清浄綿が視野を明るくする、仕事していると「目やに」が溜まる。ジャリジャリ溜まるのを拭いとると、ウソのように視野が清む。朝目覚めて、手でさと拭った目でみると部屋の隅までウソのように明晰に見えておどろく。真名に決定的な故障かと懼れるまえに、手持ち目薬をよく用いて、きれいに柔らかに拭うこと、目やにを拭いとるのを実行したがいいと、気づいてきた。疎い話だが、気づくのは、いいことだ。
 
 * 『失樂園』は、やはり、すばらしかった。またまた読み進んでいる『ファウスト』も精緻に研究された成立史も参照しながら読んで行くと、ゲーテという偉大な詩人にして超絶の才能に、名のためらいもなく手を牽かれてその世界へ導かれる嬉しさに浸れる。
 
 * 『神曲』は、まだまだ手強い。ダンテの昔の、当時に実在した著名な死者達に触れた知識をほとんど持っていない。ま、どんな本も、ミルトンもゲーテも、もとは手強かったが、胸を開いて繰り返し近づくことで作世界へ馴染んでこれたのだ。
 しかし創作ではないシュヴァイツァーの学究『イエスの生涯』となると、基督者で無く、聖書をうわべの知識としてしか読めていない私には、「理解」の手がかりが余りに少ない。私には「時期尚早」と断念しかけている。
 その点では史書としての『史記列伝』講釈本としての『水滸伝』夢想の『遊仙窟』など中国古典は、私自身の背に、世界に冠たる「詩」と「漢字」世界への敬愛・傾倒を負うて読んでいるので、大いに親しめる。ただし、私自身の不埒ゆえか、老子、莊子、論語とうとう道學の方面へは手を引っ込めたままでいる。
 今、知りたいのは、朝鮮半島の詳細な「全史」が日本語で読めるなら、とびついて勉強したい。ナニ、殊勝なはなしではない、わが家では日本勢のチャチなドラマに飽き飽きしていて、韓国製と思われる大作「い・さん」「とん・い」 いま、とりわけてペク・カンヒョンの「馬醫」などを、それぞれ少なくも二度以上も愛して見ていて、自然とこの國と国土の歴史が識りたいなと願うのである。幸いに「古代史」のよく出来た大綱ほんは持っている。中近世の深切な教科書が手に入らんかなあと。
 
* ご近所数軒のポストへ「湖の本」を入れてきたが、燃えさかる暑さに仰天。
 来る参議院選挙の投票が気になる。京都は暑い寒いが一つの看板だったが、少年の昔の記憶で、真夏最高の暑さで33度が上野限度だったとしっかり記憶している。
 いま、この下保谷にして40度を冒している。
 
  ○  御礼 e-old katsuta  千葉
  『秦 恒平 湖(うみ)の本 158  よに逢坂 彬彬而樂』
 ご恵送いただき大変ありがとうございます
 彬彬而樂 そうありたいです
 ほんとうにありがとうございます
 されてください
 
 *「コロナまだまだです くれぐれもお大切に」 これが重い現実。政府や都が浮かれ声で「コロナ解除」を言いだした来、わたくは、言下に「不可。必ず元へ戻ってしまう」と云いきっていた。どうみても、政府や都の「ノーテンキ」に慎重さが無かった。浮ついていた。また「万」感染へ戻ってしまわぬコトを祈りたい。安心におちつくには感染者数が日に「300」止まりになる頃と私は口にしていたが。
 
 * 何故とも無く、けれ゛観たいとははっきり数の中からえらんで、先に、リチャード・バートンと若いクリント・イーストウッドとの『荒鷲の要塞』を観た。ま、記憶のママだった。ついで『エディット・ピアフ 愛の賛歌』を零時までかけて二人で見入り、聴き入った。胸がはずんだ。
 録画の板は惘れるほど数あるが、なかにはもう現在使用の器械で再生できないと云われるのもでてきた。「観たい」のを選び出すのも数の内から探すのでややこしく、手当たり次第に掴んだなかから選ぶかない。今回は配役に惹かれて『荒鷲の要塞』そしてなにりも『ピアフ』の歌に再会したのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
    ◎ わが徒然草  2022 11 3 朝 起筆
 
 
    容れ物
 
 茶の湯、生け花の「先生」を、若くから死ぬまで続けた秦の叔母(つる 宗陽 玉月)は、小さな「紙」切れすら、白ければ、片言でも字が書ければ、捨てない人だった。「用が足せる」なら使い、用が済めば捨ててよろし、と。
 私も、やや叔母の「風」を継いでいるが、今は「白い紙」でなく、「箱 函 筺」ないし「容れ物」のはなしで、この私、もう用済み、空の木函であれ紙箱であれ、捨ててしまえない。もとより必要に迫られてに違いなくも。人類が、初めて「はこ」を発明したときの「感動」を、今以て私は「実感」して「尊重」してしまう。で、私の書斎はタダさえ狭いのに、やたら高い処にまで天井へ触れそうにも、用の済んだ、しかし色々に工夫され組み立てられた紙箱・木箱が、めったには、いや全然にも再使用されぬままただ積み重なって、在る。地震が来れば頭上へ算を乱して落下してくる。
「函や箱」でなくてもいい、およそ私は、「容れ物」に向いて「人類史的な敬意・讃仰」の思いが捨てられない。人類が、必然か偶然か、初めて「容れ物」を仕出かし用が足せた、使えた「その折」の歓喜・満足を私は想像してしまうのである。「文化」とは「容れ物」から肇ったのではないか、たとえ風呂敷ようの「包む」程度から肇まったとしても、である。
 そして、それのみか、おそらくは人類は、おそらくは男も、女も、「いれもの」に互いに「包み合う」歓喜を分かち合える生理に対しても、もう歴史を何歩か歩み出している存在として微笑みかわしたに違いない。逢う
 
 
    抜けろーじ   橋    科白
 
 東京での暮らしは、京都で生まれ育って暮らしたより、優に三倍も永い。東京での最初の二年間は、新宿区河田町の、東京女子医大病院の真裏、崖下のような場處で,、窓近くに柿の木のある静かな和風アパートだった。
 二年後に、幸い勤め先が北多摩郡保谷町に鉄筋で六世帯の社宅を建ててくれたので、その三階へ、生まれて間もない朝日子と親子三人で転居した。いらい、六十年にもなる。その回顧にいま手間を掛ける気は無いが、一つ気の付いている話題を探ってみたい、何事か。突飛に聞こえようが、私、東京で暮らして「ろーじ」の在るのを「実感」した覚えが「一度も」無い。
 京都では、浄土宗總本山知恩院の「新門前」通り中之町で育って、大学院の途中から東京へ走ったまで、戦時丹波の山里へ疎開一年半の以外は、びっしりその新門前で育ち、勉強も遊びもし、暮らしていた。家の西真脇に、裏の新橋通へ、途中微かに折れ曲がって幅は二メートルと無い「抜けろーじ」があった。私の三疊間二階の勉強部屋で、西向きガラス窓を押すとその「ろーじ」が真下に見下ろせた。地のしたを下水が通り、一、二ヶ所板の踏み蓋が在って、我が家の持ち地所なのに父は点けてもすぐ「割られる」からと、事実そうてあったけれど、明かり電灯をつけなかったから、夜分は眞の闇になった。細い「ろーじ」の奥には二,三、間口狭い民家があったが、我が家の奥行き分は、真西側も同じくびっしりと板壁、「ろーじ」は夜更けとともに真っ暗で、「こわいこわい」とぼやきながら通り抜けて行く人声や足音がした。ときには下水の踏み板を踏み抜いてしまう悲鳴も聞いた。暗闇を利してたぶんラブシーンを演じる手合いもいたし、ことに敗戦後、進駐軍の兵隊が町なかを我が物顔に往来していた頃は、当時のコトバで「ぱんぱん」めく売笑らしき若い女か年寄りもいたか、私の窓下で気忙しい低声も吐息もして毎晩のように幾組もが抱き合うべく「ろーじ」へ入ってきた。
 このような、南の新橋通への「抜けろーじ」が、東に梅本町、中に仲之町、南流した白川を渡った西に西之町とつづく新門前通りに、我が家の脇の東一本それを含めたった二本だけ、南向きに「抜けて」通れた。西の「抜けろーじ」もやはり途中で微かに中折れしていたが、こちらは新門前寄り北出口から目の前真っ直ぐ、仕出しの「菱岩」前を「古門前通り」へと通り抜けて行ける「切り通し」路になっている。「ろーじ」内も我が家の脇とはちがい、民家の電灯も漏れ、脚もともやや広めに舗装もされていた、が、通りから通りへ渡す道路はハナから無かった、戦前は。それでは爆撃になど遭えば危ないと、戦時中に一気に十数メートル幅の疎開道路が四条から三條大通りまで容赦なくブチ抜かれたのだったが、それへは今は触れまい、そんな大通りの無かった時節には二本の「抜けろーじ」がどれほど必要な通路だったか、それは判って欲しい。それにつけ、晩がたの暗闇ならぬ時分の一つ懐かしい想い出を。
 南と北と、「通り」道の間に細い「抜けろーじ」が二本だけという「不便」には、もともと通りと通り、南地区と北地区とを「隔て」手痛い見合いを酌まねばならない。北の新門前通りはもともと總本山知恩院の門前町、南の新橋通りは昨今も変わりない「祇園」で知られた広範囲な花街・遊郭で。通りと通りはむしろふさがれていたので東西に僅か二本の細い「抜けろーじ」はいわば双方からの往き來を黙許の「抜け道」なのであった、全く行き来が成らなくては双方住民の不便は小さくない。祇園甲部で頭抜けた芸妓、都踊りで忠臣蔵ならきっと内蔵助というのの常の住まいは、祇園で無くて新門前通り梅元町の「ろーじ」に在った。着飾った姿で我が家の脇の「抜けろーじ」を新橋へ抜けて祇園町へ「出勤」していた。新門前通り、東の梅元町には和風の雅な宿屋が二、三在って、師走の南座「顔見世」となると、その一軒に高麗屋の幸四郎一家が泊まって、そこから「出勤」そこへ「帰って」きたが、行き来には必ず我が家わきの通路を利するしか他に道は無い。時には当時の幸四郎(後に初代白鸚)丈の家族が我が「ハタラジオ店」に立ち寄って「乾電池」のような買い物をして行くこともアリ、實はまだ高校生ほどな私が応対したこともあった。お客が松本幸四郎らと私はむろん判っていて、連れの少年らがのちのちの現二代白鸚さんや惜しくも亡くなった中村吉右衛門さんであったことも承知していた。高麗屋さんとのご縁は、じつに今日只今もり、白鸚さんの奥さんの電話に妻が出たりもする。この恒左、かのもはや消え失せた「抜けろーじ」の余録なのである。
 
 
      ろーじ
 
「抜けろーじ」は、細くとも、短くとも「道路」「通路」「歩道」だが、ただ「ろーじ」と謂うと様子はちがう。通り抜ける歩道でなく、家屋と家屋との間を、「行きづまり」に入り込んで「どん衝き」のある、細くも、広くも、永く深くも、浅く短くも、優雅に贅沢でも、雑然とただ実用され時に物置場になっていても、まことに様々、私の知る限り京都市内には、家屋が密集の地区ほどこういう「ろーじ」が街なかに「いろいろに」「さまざまな顔をして」「隠れるように」実在している。
「ろーじ」の奥に「邸宅」が在り、表の外道路からは桟扉や小門で隔たなかに、両側は美々しい塀で隔て、中には片側に土蔵の入り口があったり、石灯籠や草花・植木などで飾られた如何にも豊かな一軒家の「ろーじ」もあれば、左右にちいさな長屋を連ねて奥には一軒家の「どん衝き・ろーじ」もあり、この方が大方を占める。なかには、私らが子供の頃には遊び場にも隠れ場にも使った、奥がy字などに別れてたり、近所の別「ろーじ」と奥で繋がってたり謂うところの「パッチ(猿股)ろーじ」も稀に在った。子供等はよく知っていて、奥で寸だ大人に??られても怒鳴られても「隠れん坊」でしばしば忍び込んだり駆け回ったりしたものだ。
 では、何故にそのようないろんな「ろーじ」が、京都市内に出来たのか。
 平安京は、縦「通り」と横「筋」とで仕切られた四角い「町」単位に造成されていたと、ま、思って良い。そんな「町」を大貴族は幾町も占めていた。今日の京都御苑(御所)はそんな遺例のように諒解しても佳いが、世するに市街はそんな「四角」姿りの「町」「町」集積で、一町を一家族で占め得る例でのみ也はしなかった、市民宅がそれぞれの「町」に集住した。と謂うことは、「四角な一町」の四面から家屋が詰め合ったのだから、中央部に空き地・餘地が出来たり、それへ向けて鰻の寝床と謂われる間口は何軒もで限られ奥行きは深い家々が出来やすかった。しかし貧富の差があり、間口は同じ幅でも奥行きには差が出来ると、勢い家と家との間いに「抜けロージ」や「どん衝きロージ」や「ぱっちロージ」を造らねば四角い「町」地所の内側に無駄なアキ地が出来てしまう。で、「ろーじ」を設け、露地奥にも小さな長屋が出来たりし、各戸の貧富に応じて表通りに面した家に住んだり「ろーじ」中の長屋にすんだりの棲み分けが必然出来ていった。豊かな家は専用の「ろーじ」を占めて奥に建築し、貧しい人は強要の「ろーじ」内に長屋で犇めき暮らしたというワケである。京都の、鴨川西、桂川東、そして上京下京という衷心は部はもとより、昔で謂えば郊外に当たった東山、左京、洛北も洛南も、おおむね似たふうに、表通りの奥に「ろーじ」を組み合わせた戸建ちや長屋の街区が成り立ってきた。東京では、「通り」と「筋」との市街構成が「都」として予定されていず、自然拡張して市街が広がったので、「通り」「筋」「抜けろーじ」「「どん衝きろーじ」「パッチろーじ」など謂うのが、合っても少なく、滅多に出逢わない。
 すくなくも私は六十年もの年久しい東京暮らしでそのように実感してきた、いわばそれだけのことを書き置いたのである。
 
 
      狸橋
 
 東京で暮らして、はじめ二年の新宿でも、そのご六十年ちかい郊外の保谷暮らしでも、「橋」という存在に親しむ機会が、ほとんど無かった。隅田川などの近くへ行くと大橋がアリ、河と謂うより堀に掛かった橋を渡ることも多いが、いわゆる頒価の衷心町には河が亡く橋も当然のように、少ないより無いに等しい。ま、似たことは京都市街でも謂えたかも知れないが、私の記憶には、なにより四条大橋、三條大橋、南へ団栗橋、松原大橋、五条大橋、北へは加茂大橋、葵橋、さらに西へ行けば名高くて美しい渡月橋も在れば東の東福寺には通天橋がアリ、平安神宮前にはそすいを渡る橋々が掛かっている。
 なによりも私の育った知恩院新門前折のまぎわを清流「白川」が流れている。知恩院下白川筋は柳並木と細い太い幾本もの石橋と北へ遠景の比叡や鞍馬山であの俳優マーロン・ブランドに二本で一の佳景と賛嘆させた。私の家からは巣うんと掛からず歩いて行けたし、津ぷんと掛からぬ北向き横丁に個性的な石造りの「狸橋」が渡っていた。西へいっ゜んは(?_?)戸無く白川が北から南へ折れて行く上にやはり石の「新門前橋」が、底から望める南寄りでは白川の西向きへ転じる新橋、辰巳橋が渡ってロケーションの「おはこ」になっている。すぐそばに吉井勇歌の「かにかくに祇園は恋しねるときも枕の下を水の流るる」の鞍馬石に刻んだ歌碑がある。
 が、何というて懐かしいのはごく近所を東から西向きに流れる白川を渡して新門前通りと古門前通りを繋いだ切通二掛かった名も「狸橋」と昨今名所にもなろうという頑丈に小ざっぱりと洒落た石橋で。
 なにより家に近い。東へ二十歩、北へ折れて五十歩とあるなしに頑丈に飾ったようなイ部厚な石の欄干から目の下二メートルとなく清い川波がかなりの早さで波打ち流れている。わたしは、めをこらし息もこらして益したの波の流に食いつくように見入って時を忘れるのが好きだった。お好み瞑想の時であった。波うって鳴る川、白川の聲をひたすら聴いてもの思うのだ、川幅は、せいぜい十メートル余の小川だが波打つ瀬音は高く、それでも場所により時と次第によって少年でも少女ですら三年清和過ぎていれば素足でも下駄ばきでも川波を犯して流れに降りることが出来た、降りて何が出来る遊べる葉無い、流れは速く、うかとは歩けない、だから誰も遊ぶべく流へ脚をおろしはしない、流れる波音にただ耳を澄まし欄干に顎を乗せて十斗見下ろす「哲学」少年は、たとえ橋の上で何人もが遊んでいようとも瞑想を邪魔されはしないのだった。
 そんな私でも、一度だけ橋之南西詰めからおそるおそる川波を脚で分けたとき、意外な深さにたじろいだ、臍のへんまであり、走り来る波の勢いにあやうく総身を持ち崩しかけてとっさに元へ戻り這い上がるように上へ波から抜けた。怖かった。怖い…といえば、もっと怖い怖ろしい思井も私は狸橋のきわで見知ってふるえあがったことがある、其の底から川波へ脚を降ろしたその、あの場所。まさしいその其処へみるから長い怖い身をうねらせた蛇があがってくるのも私は観た事があった、息を呑み声も出ず、あとじさりにわたしは家の方へ走って逃げた。振り向いた遠目にの蛇は橋の上を幅五メートルとない西から東へわたってみずから川波へ身を落として消えて失せた。
 京都では蛇は家にも棲んでいた、天井裏を這い、幼稚園まえであったか一度など叔母と一つ床に寝ていた枕元へまだコヘ人思われる細い短めなのが扉閾を這ってきて、わたしも叔母も寝たままの姿勢で布団ごと弐三尺もウシロへ飛んだことがあった。苦手どころで無く蛇は怖かった。戦時疎開した丹波の山奥暮らしではイヤほど蛇との出会いや衝突に怯えた、京都へ帰っての夏の盥行水のその盥の縁を長い青大将がゆっくり渡って行くのを素っ裸で見つけたことさえあった。その家とあの白川との直線にすれば四十かとても五十メートルとないくて蛇はおそらくあちこちに隠れ棲んでときどき人を仰天させていたのだ。それでも私、中学高校生になっても、大学時代にでも時として狸橋の欄干にもたれこんで白川の流と波とを凝視し沈思するクセは捨てなかった。京都となつかしむとき、狸橋の白川は一首の象徴とさえ私を引き寄せるのである。
 
 
 
     有済
 
 我が家の娘も息子も、都下の旧北多摩郡保谷町「保谷第二小学校」に入学し卒業した。簡明な校名であるが、私の育った京都市内の戦時下国民学校・戦後小学校の校名には、例えば「粟田校」のようにその地域「(東海道の)粟田口」の名を名を負うのではない、いかにも「出典ただならぬ」らしい難しい校名の学校が、まま、見受けられる。少なくないとすらいえる。並べ挙げないが、まさしく身近に私自身が入学し通学した、知恩院下、古門前通り「元町」へ校門を開いている小学校は舊來久しく「有済小学校」で、「有済」という地縁や伝承は無い。誰かが新たに名づけた「名」に相違ないが、昭和十六年十二月八日に日本軍は米領真珠湾を襲い、十七年四月花の春早々に私は「有済校」の一年生に入学、しかし、だれとして「有済」とは何ぞとは教えてくれなかった、事実は、同じその有済校を卒業していた明治生まれ秦の父長治郎も叔母つるも何も識ってはいなかった。先生方とは、家ぐるみでは何人もの「先生」と折衝も交際もあったいえだが、誰の口からも「有済」とはとおしえてもらえなかった、じつは思っているだけで私も訊ねはしなかったのだ、ただ「何で屋やろ」とは入学し、卒業し、大人にも親にも成ってなお「有済」を識らぬままだった。
 アレはもう何年の頃か、東京に暮らして久しいある夏休みに京都の家へ帰ったときだ、買えればもう家に居座るよりとにかくも近在のさんぽを、また都心や郊外への散策を楽しまずおれない、あの日はごく気散じなご近所の散歩だったか、新門前から不問前通りへ転じて元町の有済校門前へ来ていた。夏休み中で生徒らの気配もない。やや堂々めく門の内は、敷石の歩道がまっすぐに奥へゴジュウメートルほど、突き当たりにやや他人行儀な和風の玄関口が静まり、横一線の木造建物は、それは秦の叔母ツルらが昔から併設されていた実務女学校の校舎、小学校校舎はその奥に開けた広い運動場や、かなりに立派な、体育館を兼ねた講堂のその奥に白堊三階の東西に長大な校舎が在る。屋上には当時も今も一首のめいぶつと観られた旧時代からの火の見櫓が載せられ。よほど遠くからも眺められた。運動場の校舎寄りには屋上を越えるほどの緒小高い銀杏樹や、碑を建てて祭り囲われた雄渾な橡の大樹がいかめしい。碑は、平家のむかしのさる女人の爲のみのと聴いていた、照日の前とかと。だが今は、それら広い運動場でみる景観のことは忘れて、古門前通りから覗き込んだ「校門」内の石疊道に戻らねば。その日もわたはいつもそうするように気軽に門の内へ入っていった。左手には淺いがいろいろに灌木の植え込みが道に沿い、その西側奥は何軒かの民家の居た壁などが視野を塞いでいた。道の右手には警防団等の事務所や倉やの隠岐らしきが並んで、ソッチの眺めは雅でもなく懐かしくも無い、視線も気持も自然と西・左を青やかいろいろに占めた植え込みに向かうが、別に珍でも妙でも無い混んだり空いたりの植え込みの列二過ぎない、のに、この日、これまでに無く、初めてアレと気が向いて手で掻き分けて一つの木むら草むらを手で分けてみた。大きくも無い小山姿の変哲無い小岩が目に見えた、おやおやと思った。すこし目をよせて観るとタダの捨て石で無くなにやら文字の彫られたのが見えたので、おややと際入れて目を近寄せた。
 おう。 「たえてしのべば なすありと」そう読めた。おう、これか、そうかあ…これやったんか、。私は棒立ちになっていた。
            
   堪えて忍べば 済す有りと
 
 一瞬もおかず「判っ」た。ただ「堪えて忍ぶ」のは「善行」に類すると訓誡し「推奨」しているので無い、謂うまでも無い「済す有り」に諷諭が籠めてある。「済す」とは何か、「有済校」だからことさら石にも彫られ、しかも隠れ隠すかのように植え込みの下蔭にそっと置かれてあり、少年來、オチ無い理会が出来ていた、「有済」校とは生徒らに「堪え忍べ」よ、さればいつか「済す有る」日が来ると陰に励まし陽に訓示しているのだ、「済す」は「為す」でも「成す」でもない、「済む」「済ます」「済ませる」何故か。一瞬もおかず「判っ」ていた。
「有済」学区とは、「南端」を祇園花街の「弥栄」学区と「細い抜けロージ」二本だけで背を合わした「(知恩院)新門前通り」で区切られ、、北辺を、大方「三條大通り」で限られている。東は、昔なら「知恩院前」という「市電駅」をはさんだ電車道の「東山線」が、西は、鴨川のすぐ東に沿って漫漫と速く深く南流している「疏水」を限りの、大凡そ真四角な大きな一画、これが謂う所の「有済小学区」を成していた、たぶん今もだろう、が、「その真四角」をほぼ真中で、東西に大きく打ち抜いている一画を、その余の住人はややこえをひそめて「三条裏」「寺裏」と謂うていた。西限の三條縄手または大和大路へ西向きに門をあけて路よりやや低く石段を降りて大きく永しかとした誇示が数軒に注目せずに済む済まぬのが、そのほぼ真四角学区のうち、古門前通りの背と接したより以北、三條大通りまでの大方を、かすかに色目はたがえながら、東寄りの巽町、教業町一帯と、現在の花見小路より西、有済校の校舎や運動場を抱え込んだ一帯、若竹・若松町などいわゆる「三條寺裏」とに別れながらも、この両区域が倶にいわゆる旧天部村の「被差別地域」成してきていたのだ。              
 それを逸れた地区はと謂うと、三條大通りよりより「北」側の町内「二丁目」「三丁目」、また南、いわゆる祇園町なる華街とただ二本の抜け路地で背中あわせにつながる「浄土宗総本山知恩院」下の「新」門前通り、白川を北へ渡った「古」門前通り二た筋の「門前通り」と、疏水際を南北する「縄手(大和大路)」とであった。有済小学校の表門は古門前通りへ開き、裏門や隠し戸は寺裏に向いていた。町内の名もほぼしかと記憶しているが、大要は南北三四情の間桟市場間矢野と大路ょ)。『子信徒古と都「門前通り。区」衒うとの。に得
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月三十一日 神無月尽
    起床 6-10 血圧 135-67(60) 血糖値 76 体重 54.5kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合     の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  十一番
 * 琴の音に峰の松風通ふらし いづれのをより調べ初めけむ  齋宮女御(徽子女王)
 * 岩橋の夜の契りも絶えぬべし 明くる侘しき葛城の神     小 大 君       〇 「のね に ねの」とさながらに遠山風の「通」い流れる上句の感嘆に価する「うた」声のうつくしさ「希有」の表現と褒めたい。しかも下句の「いづれの」「を=緒 峰」よりという「調べ」と把握した適切と適確には驚嘆する。一首の「うた」が遠山なみを流れる風を、人智を越えた大自然という楽器が奏する「さながらの音楽」と成りきっている。いささかの渋滞なく「魂」に協和して「日本の和歌史」に卓越の「名歌」と賞讃してやまない。{
 小大君の一首も渋滞なくたくみではるが、何と謂うても総じて各句とも葛城、岩橋という伝説と神話に負うており、それが、容易くは越え難い高い観賞の限界を自ら爲してしまっている。,
 * 体重がややに戻りつつあるか。
 
 * 弥栄中學三年生のむかしの、西池先生がたもおいでで、盛大に群集しての楽しい夢をみた。学校生活として最良最高に楽しいいい時代だったなあ。三年担任の西池先生はむろん、一年の音楽小堀八重子先生、二年の英語給田みどり先生、国語の釜井春夫先生 図画・体操橋田二朗先生、理科の佐々木葉子先生、社会科の高城先生、数学の牛田先生、教頭の喜尾井先生、秦一郎先生、寺元慶二先生、
 小学校でも高校でもこうは覚えていない、が、小学校の中西秀夫先生は私の作文力をしかと後押しし、卒業式では五年生送辞、六年生答辞を寄せて下さった。高校では国語科の歌人上島史朗先生により短歌人へと強力に背を押され、太平記への詳細な注釈を遂げられた碩学岡見一雄先生には源氏・枕なと古典の朗読と愛読に火を点けていただき、創作者への背をぐいと推して戴いた。三年担任の先生には、受験勉強は嫌いですというと、そかそかと即座に三年間の成績表を調べられ、これは無試験推薦に有り余るよ、推薦しようかと、ボボンと同志社へほとんど先生が即座に決めて仕舞われた。この先生は、我が家打ちの大人らの超絶不穏を聞かれたか、ふっと家に見え私話祇園円山へ誘い出して励まして下さった。今にしてしみじみ有難く思い起こされる。
 
「先生を慕う」とは「先生に励まされる」のと表裏の同義、そういう方との出会いがあったから永く満たされて歩いて来れたとは、決して忘れては成らない。
 
 * 初の単著を出した深澤晴美さんから 今日の午、池袋で会いたいとメール、とてもそんな体調でなく、断った。寒けがきつい。一番の夢は、大きな温泉に五体を沈めて芯まで温まりたいと。温泉体験もほとんど無い私、妻と、四度の瀧を見に行った日の、瀧に近い宿の温泉が懐かしい。井口哲郎さんに教わって行った温泉もよかったが、今や石川県の山中は遠すぎる。熱海の地へは出向いたが、魚屋で盛大に海老や刺し身は食ったが、宿には泊まってないので「温泉」は知らないのだ。
 
 * 身をもてあますほど気怠かった、が昼、過ぎから観た映画、ロバート・デ・ニーロ、デビ・ムーアらの『俺たちは天使じゃない』は感銘の秀作、心洗われ励まされ、気怠さも遁れていた。感謝。いい映画は、宝だ。
 
 * 「鎌倉殿の13人」 和田義盛の哀れな最期で、北条小四郎義時の強硬な悪役が「京鎌倉」の時代をもうすぐらく転がして行く。人のいい剛勇和田も巴の行く末ももの哀れであった。
 
 〇 「私語の刻」にございますさまざまな作の一節と秦先生の日常とをつづれ織りされたご文章「花筺」世界に惹き込まれております。そして一向に治まる気配のないウクライナの戦渦へのお言葉をかみしめております。  甲府市 和子拝
 
 〇 先生の作品をゆっくり読ませていただくことを楽しみにしております。本当にありがとうございます。 府中市  誠
 
 〇 お手紙、読み返しています。
 お体の具合の悪いのは心配です。なにでもおいしそうに召しあがる秦さんが食欲不振とは何とも気になることです。「私語の刻」では気持が活かされても、体を保つことはできますまい。何とかその回復を祈ります。
 私は身長こそ一六○センチをきってしまいましたが、体重五二から五四キロの行き来。この何十年も変りません。偏食なりに、身を保つ栄養が摂れているようです。ただ先日検査(エコー)を受けまして。頸動脈狭窄のうたがいあり、と診断されました。それに対する主治医のコメントは「ま、お年ですからね」でした。
 秦さんにお手紙する度に、無為の毎日が反省させられるものの、日に数時間の読書ほかうつ手もありません。「私語の刻」を拝読しては、そこに気持のよりどころ(5字ボーテン)を見つけている次第です。
 今日は快晴でした。夕方(昼に近い)散歩してきました。久々に赤トンボの群れ飛ぶのを眼にしました。お天気なら歩くものの、一時は二キロぐらいだったのに、この頃は四百メートルあまり、それでも三百メートルを過ぎると家内はへばって、私の腕にすがりつかないと歩けなくなります。これもいつまで続くことか、と思っています。
 メールのこと、さき頃、秦さんのおことばがあって、パソコンを開いてみたのですが、送信トレイや受信トレイがゴチャゴチャらなっていて、いらいらして閉じてしまいました。今度こそトライしてみます。隣りに住む長男のヨメに頼んで整理してもらおうと(いつも頼っています)思います。
 しかし立ち直ってもお伝えするような「ことがら」が何もなさそうです。いつものように秦さんのお話をおうかがいしたいと思っています。果してうまくできるか、自分でも努力してみます。
 ますます寒くなります。その上にもお体をお大事にと願っています。食欲のない秦さんを前に奥様のお気持いかがと、このことも気になります。よろしくお伝えください。
   十月二十六日十七時三十分    哲郎   (前・石川近代文学館館長)
  秦 恒平様
 
 * 28にちとあるお手紙は、メールアドレスを貰い、それに即返信した28日交信は遅れている。「朗報」を喜んだ私からの返信が読んで戴けているかどうかは判らないが、メールのこと、送った28日には届いているし、メールでの即の応答が31日の今日無いと云うことは受け取れていないらしい、ナ。
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月三十日 日
    起床 5-20 血圧 138-77(72) 血糖値 76 体重 53.8kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合     の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  十番
 * 有明の月の光を待つ程に 我がよのいたく更けにけるかな   仲  文
 * まだ知らぬ古里人は今日までに 來むと頼めし我を待つらむ  輔  昭  
 〇 有明を待って、夜の「更け」は、当たり前のはなし。だが、「よ」は、夜と謂う以上にわが老境の自覚・感慨を託した一字一語で在ろうよ。
 輔昭の地方官に認知へ赴く者の代作といわれる一首 なにをか云わむ。、
 
 * 毎朝が寒くなって。
 
 * 文字が継続中の所定位置に普通に書けず 機械クンが待ったをかけ、ノーという。これは、まるで別の一太郎画面で書いている。「対応」が掴めない。こんな風に仕事に一一の障りが生じて、ただ立ち往生してしまうとは.弱りましたね。 
 
 〇 絶不調の九月十月でした 生きた心地しなかった 辛うじて食と体重が微かに戻ってきたかと。判りませんが 「読み・書き・読書・創作」は続けています。
 
前便で 鳶は なにやら「花筺 はなかたみ」のことを やもや謂うてましたが「花かたみ」とは、 鴉が少年のむかし 枚朝夕に 大原女がアタマに笊話を載せ、「花やあ 番茶ぁ」と売り歩きにきた あの笊と同意。気に入り目に付いた花や草や小枝や木の実などざっくり容れる「笊」を雅に謂うた女のモチモノです。「はこ」と打てば「筺」と出る。容れものです。雑然と気ままに気に入りを 摘んだり取ったり拾ったり容れて、中身に大小や種別の統一感は無用。その気楽さを愛した「花筺 花かたみ」です、そのように雑多に書いた文や作を投げ容れていたでしょう。 書き放したままの切れ端も拾って置いてやろうという「老境の遊び」と笑って下され。
 
 * 露骨な疲弊感に負け午前の二時間ほど寝ていた。十一時前。
 
 * 午後も晩も不調、何も為らず。チャップリンの『殺人狂時代』の批評に身震いしていた。
 風邪か。身震いし寒けが在る。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月二十九日 土
    起床 5-20 血圧 138-77(72) 血糖値 76 体重 53.8kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合     の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  九番
 * み吉野の山の白雪積もるらし 古里寒くなりまさるなり   是 則         * 年ごとの春の別れをあはれとも 人に遅るる人ぞ知りける  元 眞         〇 是則、「山」とばくぜんとより「峰」とおいて「み」音の連繋に「うた」をひびかせたかっ、上句まつの「らし」という推測も聴く耳に硬く、言い切りが過ぎて上下句くのなみうつ協奏をえぬまま「おっさん」天気予測終わった。
 元眞歌には「ひとに死なれた、死なれようとする」悲しみが、花の春という盛りの季のいましも去り離れ行く哀情とが歌い手の胸をついている。秀歌と謂える。
 
 * 毎朝の一番に「王朝和歌」の名だたる歌合わせを評し審判するなどいう丈高い行為には、おろそか無きを期している.令和の世に、かく「千年の昔」の風雅と心して向き合い楽しんでいる文士が、いるよ、と謂うこと。
 
 〇 痛み和らいで  メール頂き有り難う、御座います、ご心配して頂きうれしいです、22日に退院しましたが、今一ふらっとして、ぼんやりとし過ごしてます。通院したりして、今日は、やっとこでさで食事を作りました。ぼつぼつ頑張って居ります。有り難う、御座いました。   華  京東山北日吉
 
 * 七十余年、東京へ出るとき心づくしの眞を貰って別れていらい逢わない茶道部後輩
その頃のきりっとした美貌だけが眼にありあり、「左のお乳が無くなってしまいました」という知らせは哀れであった。予後を、大切に、気を変えて長生きするようにと励ましたい、が、久しい夫君を亡くされている。同じような方の多さにもおどろく。
 
* 深澤さん 初の単著『川端康成 新資料による探究』出来を祝う。
 
 * 映画『ペン・ハー』完璧と謂える大作の感動の深さに、真率感嘆の間々泣いた。全映画作の一二を争える「名作」と賞讃を惜しまない。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月二十八日 金
    起床 7-05 血圧 140-66(55) 血糖値 76 体重 53.3kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合     の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  八番
 * 色見えで移ろふものは世の中の 人の心の花にぞ有りける   小野小町       * 秋の野の萩の錦を我が宿に 鹿の音ながら移してしがな    元  輔 (清原)  〇 小町の透徹した心眼が、無駄音一つ無く 「の」音連弾の成功、この効果で「ぞ」という強調の濁音も場を得て響き、倶に完璧に表現されている。歌意にも深切の含蓄あり、躊躇わず秀歌と云う。
 元輔歌は、これでもかと、いささかにふざけも見える趣向で、独り笑いにいちびっている。しかも韻のいきおいは濁って、結句にも締まりが無い。
 
 * 愉快で無い、が、責めはわたくしにもある夢で目覚め、そのまま起きた。
 
 * マゴマゴと奮励、いささかアヤシゲながら「湖の本 161」を入稿、usbで郵送した。なんとか、なってくれよ。
 
 〇 秦さん (メール)何とかつながりそうです 井口哲郎 (前・石川近代文学館長)
 
 * と、メール着。ヨッシャ。
 
 ◎ 朗、朗、朗報 
 私の此の返信が無事届きますように(迷ように と誤記)
 手筆 書字が出来にくく まことに困惑し ただただ「書く」日々は機械に頼っていますが、その機械クンにも??られてばかりの老耄で往生しております。
 この残暑と九月は、疲弊の極、日々に 天上より「もういいかい」と呼ばれ続け 生き(息)もかすかに「まあだだよ」と猶予を願いながら、瘠せに瘠せて  最低52キロにまでなりました。まったく絶食に同じく「食べられない」のでした。十月も末になって、やっと少しずつ食せるように。
「読み・書き・読書・創作」の日々はガンコに護っています。「モウイイカイ」が催しますのか、「まあだだよ」のうちに 湧くように「書いておきたい文章」たちに襲いかかられています。纏まりも無いままにも 仕方なく 「花筺」とゴマカシ気味に長短、ハンパでも「摘み溜め」ておきます。まさしく「私語」の日々に化しているのかと。
「花かたみ」という「籠」には、さまざまな「花の切れも、草の切れも、枝葉の折れ」も入り、少年の昔、大原女たちがアタマに笊をのせ、「花や番茶ぁ 野菜」を呼び売りに訪れ来た日々を懐かしむ事が出来ます。「花かたみ」 好きな日本語の一つです。
 ごめんなさい、嬉しさに舞って 我が事ばかり。
 お元気でおいでか、奥様のご容態は良くなられてかと、想う日々でした、メールが  書いて戴けなくても せめて受け取って戴ければ話せるのにと嘆いていました。 これ(私の返信)が 無事に届くか、届くと判るだけで宜しく、お知らせ下さい。
 疲労困憊の疲弊の などという「言葉」を、痛いほどの実感で日々に感じ書いている現実に惘れますが しぶとく「まあだだよ」と呟き続けています。
井口さん 井口さん  日々お大切にお元気でいて下さいませ。    秦 恒平
 * ラブレターのようにナッテしもたか。ま、待ちかねてましたので。返信がきちんと届きますか。書き・打ち損じ イッパイ。察してご判読下さい。
 
 * 何度目かの映画『ベン・ハー』の出だしに、胸倉を掴まれている。今夜にも、觀おえようかな。曲がりなりに「161」入稿すると、「湖の本 160」三校が届くまで、ポカっと余暇が出来た、嬉しい嬉しい。映画『パリは燃えているか』も善い大作だった。
 
 * 『ベン・ハー』のシーンごとの緊密と華麗な悲劇色に魅され魅され妻と零時前まで観て、「インター・ミッション』明日にしてと 寝て、疲れを取る方に。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月二十七日 木
    起床 5-10 血圧 140-66(55) 血糖値 76 体重 53.75kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合     の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  七番
 * 夕されば佐保の川原の川霧に 友まどはせる千鳥鳴くなり   友 則 (紀)    * 天つ風吹飯の浦にゐるIの などか雲居に帰らざるべき    清 正
 〇 友則歌の下句「友まどはせる」は、夕暮れに友鳥を「見失っている」意。上句「さ さ」「か か」の音色の「追い」がきれいに効いて夕景色が美しく目に見えるよう。秀歌と謂えよう。おい
 C正歌には昇殿をはなれて地方官として宮廷をに出る感情の渋みが一首の「翳」をなしている、また殿上の日々へ帰って来ずにいないと。地方に「ゐる」という一語に、「などか」「べき」と気張って返すもの言い、音を上げた感触、いかにも。お気の毒、だが。
 
 * 時間を忘れる。五時に機械の前に座り、いま正午。目の負担ははなはだしく視野は水の中のように滲んでいる。それでも朝食にカレーライスを一皿食した。体が要求するのだろう、時として空腹を感じる、が、別もの別ごとの感触か知れないが。
 
* 横浜の相原精次さんに善いお手紙を戴いている、ここへ記録しておきたいが、疲れが、待てと言う。スキャンの機能があるのに、使い方を忘れている。同じような物忘れがアレコレ有る。ショがない。
 
 * 東村山の写真家、近藤聰さんお葉書そしていつもの名酒一升をお送り下さる。時世というのか、フィルムカメラと「全て縁が切れ淋しい毎日」と。「デジタルの印刷写真はいまだになじめない」と。「マリオ・ジャコメッツイ」などに「心奮われていいます」と。
 
 * 松田章一さん冊子「續左葉子」頂戴。
 奈良の櫟原聰さん、新歌集頂戴。
 潮出版 もう来年の「文化手帖」戴く。「手帖」用いなくなったなあ、昔は不可欠のモチモノだったが。一つにはパソコンの便利からか。ま、ウシロの名簿に時ら助けられる、住所など。
 
 * 寒けに、イヤな嚔を一日中 連発している。洟をかむのもメンドくさい。茫然と怠い。之は此処数日の無茶な早起きと深夜まで時間を忘れる「書き」仕事に熱中の咎であるが、出来る内に内にと逸るからだ。
 
 * 映画『パリは燃えているか』  日本人は故郷や国土を占領されて、幸いにもドイツがパリと市民とを拘略したようなメにほぼ遭わずに済んだが、一つには闘う日本人の強さや怖さを穏便な支配のために考慮したから。日本人はたしかに闘って強い国民であった。が、敗戦して八十年近い歳月にみたされた日本人にそんな「歴史的な」強さが消え失せているとしたらそうは遠からぬ将来に苦痛の被支配、被占領の事態が、無いとはとてもいい切れないことを案じる。
 やっとこさ、最近になって「防衛」を口ににするように政府も国民も強いられはじめている。防衛の一の力は「武器武装」ではない「悪意の算術」に徹した「外交力」だ、が、じつにじつに心許ない。国民はしかと気づいてその空気を總がかりでつかみ強化しておかねば。其処へ気づいている議員や大臣を選びたい。
 
 * 機械がうまく使えない。機械クンのせいではなかろう。体?の衰えはふふらつきに顕著だが、判断や理解のそれももう甘くは見逃せない。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月二十六日 水
    起床 4-00 血圧 140-66(55) 血糖値 76 体重 54.41kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合     の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  六番
 * 人の親の心は闇にあらねども 子を思ふ道にまどひぬるかな    堤中納言(兼輔)
 * 逢ふことの絶えてしなくはなかなかに 人をも身をも怨みざらまし 土御門中納言
 〇 「子を思ふ」藤原兼輔 「逢ふ恋の情動」藤原朝忠 ともに表現に遜色なく、過不足なく真情を詠いきり 吟誦に耐えて読む胸に鳴ってせまる。「秀歌」と謂う。
 
*  * 家にいても、、ついつい、よろめいている。「よろめく」が色めく流行り言葉だったのも、むかし話。今、私は、老い衰え、とかく「軽く」だがよろめいている。今し方は、両膝からがくと落ちかけ、驚いた。
* おやまあ、翌日の零時二十分。何をしていたか。成果有りともいえず、機械の上でただ迷走を繰り返し続けていたか。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月二十五日 火
    起床 4-00 血圧 140-66(55) 血糖値 76 体重 54.41kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合     の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  五番
  * 行きやらで山路暮らしつ時鳥 今一声の聞かまほしさに   公 忠(源)
  * さ夜更けて寝覚めざりせば時鳥 人伝にこそ聞くべかりけれ 忠 見(壬生)
 〇 公忠の一首、意味は通っているが上三句がぶつ切れの「説明」 下句「聞くかまほしさに」と理付けの鈍くささ、和歌ならぬ不味い散文に過ぎぬ。音
  忠見の一首、上句の「ざりせば」が音汚く執濃く、下句の「にこそ」「べかりけれ」も「うた」としてCらでなく押しつけがましい。「ほととぎす」の置場のたまたま揃ったのを番えたにしても、美しい利きとはいえず、二首ともに「理屈」を「述べ」ただけ。
 
* 夢ともなく夜中の床でもの想いが潮騒のように寄せてきて、それはわが老境の胸騒ぎに似て想われるのだった、四時に手洗いに起き、そのまま妻や「マ・ア」を起こさぬよう跫音を忍ばせ二階へ来てしまった。暗闇の寝床で想い想っていた波立ちはもう失せて思い出せない。
 
 * 夕方四時半をすぎている。四時に起き、午前に二時間ほど寝たが、他は機械に向かい、書き、かつ、読みっぱなしで目は霞んでいる。湧くように、「して」おきたい、「したい」「読み・書き」仕事に逼られる。疲れ切っているが、元気は、疲れををワキへよけて通ろうと。
「まあだだよ」
 やれるかぎり、やる気。
 
 * 夕食後読書しつつ寝入って、七時半。さすが四時から起きていて、たくさんなことをし終えて、このまま寝入りたく疲労を覚えてはいるが。
 いま、九時になろうと。もう少し。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月二十四日 月
    起床 7-30 血圧 129-72(70) 血糖値 76 体重 54.1kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合     の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  四番
  * 春立つと言ふばかりにやみ吉野の 山も霞みて今朝は見ゆらむ 忠岑(壬 生)
  * 千年まで限れる松も今日よりは 君に引かれて万代や経む   能宣(大中臣)  〇 忠岑歌に、一首の、謂わば「音声・音調」の美しさは優に認められる、が、「言ふばかり」という予期・推量で一首の幻像が成ると便乗し期待しているのは、乗れない「理くつ」である。
 能宣の一首は、敦實親王が正月子の日の遊びに、要は「おべんちゃら」、一首に多用の「カ」行音の連弾も工夫の不足、和歌として無神経に粗い。
 
 * 昨今の例に無く、朝寝した。やや空腹も感じている。
 
 * あの「習近平」は、まちがいなく中国に「清朝」以來の「王朝」を布いて長期に「王政」が世襲されるだろう、トランプもプーチンも彼の前には「メ」じゃないと、私は世紀の「初め」から予見し「私語」し置いていた。習近平は化け物であり、かつ日本に最大の脅威である。国会議員らよ、日本の青年壮年らよ、わかってるのかね、何か思案と対応の策は「お有り」なのかね。
 今日の日本國に、あの明治維新を実現し構築し支持した一人の勝安房も大久保利通も伊藤博文も岩倉具視も、いない。なんという心細さよ。
 今ほど若者らが、興国の意気に燃えた明治青年らの如く在らねばなるまい「危地」を踏んでいてその懸念も自覚も無いとは。危ないぞ。危ないぞ。
 敗戦後の旧日本軍日本の海外兵士らは、多くがシベリアや中国で強制労働に追われて苦役し、年経てかろうじて「帰り船」で異国の丘や砂漠から日本へ帰れた、が、おそらくこのままノンビリした享楽日本人、ことに能生の薄い若者らがただ向こう見ずに怠けていたなら、今世紀も半ばするにつれ、故国の国土と歴史を喪い家庭と文化を喪い見も知らぬ異国の地や丘や谷間」に拉致さ移住を強いられ、ただの「労力」として追い使われかねないのだ、判っているのかねえ。習近平も、キム・ジョオウンも、プーチンも、すぐ目の前で露わに脅して来ているのに。 日米の協力…それは「おとぎ話」に過ぎません、さっさと退散しソッポを向くでしょう、あめりかサンは。私がアメリカ人なら、危ない日本には関わりたくないと思う。
 
* 今日も、奮励、よく書いた。
 
◎ 令和四年(二○二二)十月二十三日 日
    起床 6-00 血圧 130-65(72) 血糖値 76 体重 54.25kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合  の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  三番
  * 世の中に絶えて櫻のなかりせば 春の心はのどけらまし  在五中将=在原業平
  * 末の露本の雫や世の中の 遅れ先立つためしなるらむ   遍昭僧正 
 〇 業平は、散りに散る櫻の美しさに胸さわぐまでの春を いとひ顔にしかし賛嘆している。上句、「理」に執くくどさは感じるが、一首の趣意には王朝びとの季の盛りを待ちまたいと愛しむ歓びを謂ひあらはし、實感によく逼っている。
 高位の「僧」遍昭の抹香くさい「きまり文句」でお茶を濁したしたり顔は見にくく、「葉末」の露に番えている雫の「本」一字に謂い足り無さ露わで、取り柄の何も無い。
 
 * 冷え込む。暖房していて、機械の前が寒い。
 
 * 朝早くから、今は晩の八時半、午前に二時間ほど寝入ったけれど、他はぶッつづけ「書いて」いた。書いておきたい事がむやみと利売りに湧いて出て、おいおい疲れるよとボヤキたい気分にもなるが、書ける限りは書き続けたい。「まあだだよ」
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月二十二日 土
    起床 5-50 血圧 150-72(70) 血糖値 82 体重 53.5kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合  の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。
 ◎ 前十五番歌合  二番
  * 今來むと言ひしばかりに長月の 有明の月を待ち出つるかな  素  性
  * 散り散らず聞かまほしきを古里の 花見て帰る人も逢はなむ  伊  勢 
 〇 待つ女に身を換え坊主らしからず色めいた素性のうたは、上句を下句へ繋いで二た色の「月」のかさねも「の」の連動も、巧みに聲美しいが、下句「出(で・いで)つるかな」の紛れが一首を「もたつかせ」た。才媛伊勢の歌は聲韻美しく斬り込む上句ではあるが、下句「人も」の「も」は適確でなく、一首を曖昧にした。
 
 * 寝起きて、空腹を感じていた。ちいさなパンを持って二階へきたが、機械に向いている内に「マ・ア」ズに囓られていた。ま、いいか。
 
 * 「湖の本 160」責了紙 宅配で送った。装本郵封への住所印・贈呈印も凡て用意出来た。受け先「宛名」の印刷と貼込みも用意して居る。
 
 * いま、いっとう代表的な読書はと謂うと、源氏物語とドストエフスキーの『悪霊』 これが面白いほど、場亂張らんとして気ままな、しかも逸れないブレない語り口に於いて至極似通うて思われる。紫式部とドストエフスキーとの「物語り」ように親縁を感じるなんて、読書の恵みで或る。
「手」の出るままの漢籍、ことにいわゆる『四書』の面白さにも只今「イカレて」いる。
 
 ◎ 天の「命」 これを「性」といふ。性に率(したが)ふ、これを「道」といふ。道を「脩」むる、これを「教」といふ。
 なるほど、斯く『中庸』の一節を読んで 「性質」また「脩養」の本意に触れる心地する。「天」と謂う眞意に思い致すことの浅かったナと、今にして、ふと気づく。
 
 〇 今日は   ご無沙汰しております
 あっと云う間に暗くなってしまう季節になり淋しい気がしております
 十月七日 湖の本 159 頂戴いたしました
 いつもありがとうございます ご連絡が遅くなり申し訳ございません
 花筺 魚潜在淵 読み終りました
 いつもぶれない切り口に拍手しております
 朝早く起き ご自分でお茶を入れる姿を想像し とてもすごいことだと思い見習いたいです
 迪子奥様をだいじになさる先生のやさしさが うらやましいです
 体調が万全ではいとおっしゃりながら頑張れるなんてーーー
 テレビも新聞も暗い報道が多く気が滅入ります 最近はユーチューブの動画にはまっております
 和歌山のパンダ、尾瀬の歩荷さん、三才と七十六才の孫と祖父の会話 九十六才と三十一才の祖父と孫の食事の風景などに元気を頂いてます
 まだまだ外出もまヽならず家族以外の方との会話も余り出来ません
 車には乗れますが家族に心配掛けたくないので 遠出は出来ません。七十代までは関東のの道の駅巡りを楽しんでおりましたれど 今は近所の買物だけです
 二女夫婦と男女の孫が仕事に出掛けると一人です
 日増しに寒くなり年を重ねた身体には日常生活も大変ですね
秦先生 奥様におかれましても 呉れぐれも無理をなさらず 自壊の配本を心待ちにしている読者に勇気を与えてください
 これからもよろしくお願い申し上げます
  令和四年十月十八日    住吉一江 拝   群馬 桐生市
    最近郵便物の配達が即手困ります 働き方威嚇も結構ですが どんどん
    利用者が少なくなりますね
 
 * 「しみじみ」としたお便りです。感謝
 
 〇 (京都 同志社校内クラーク記念館の色絵葉書に) 拝復 『湖の本159 花筺 魚潜在淵』をご恵送いただき、誠に有難うございました。 私も 里井陸郎先生(『謡曲百選』の著者)に感化されて、謡曲を卒論にとりあげる気でいたのですが、途中から泉鏡花に変更したのです。秦様と似た経緯があって、おもしろく思いました。「筒城宮」跡の碑は、同志社大学京田辺校地の敷地内にありますね。一般の歴史フアンは、受付で申し出なければならない。 戦後京都の写真集、楽しんでいただけたようでうれしく思いました。 まもなく時代祭です。 草々   田中励儀  同志社大名誉教授 国文学
 
 * 懐かしいなあ、同志社。京都。帰りたいなあ、もう一度でいい、帰りたい。
 
 * よく秦さん、なんで京大でなく同志社へ、と聞かれたものだ。あの当時の京都の高校でそこそこの生徒なら、皆が皆、「京大」受験に文字通り血道を上げ、教室の授業よりも「受験勉強」にカンカンだった、だが私は「受験勉強」というバカげたことに大事な青春を費消するのは断然イヤで、むしろ京都の歴史や自然や文化の堪能に時間を割き、茶の湯や短歌や和洋の読書を心底楽しんで過ごした。熱中した。当時「ハタ」が受験して京大を「すべる」と思う友達は一人も無かったろう、中学でも全校試験で首位をゆずったことはなかったし、高校生になって「三年共通試験」をされても、国語や社会科など一年生のころから三年生より上位の成績を取っていた。それでも私は茶道部のために茶室で助勢とたちに点前作法を教えたり、先生方お楽しみの短歌会に生徒の身で呼び込まれていたり、教室に居るより、間近い泉涌寺や東福寺に埋もれているか、市内や郊外の寺社や博物館にいる方が心底好きで気楽だった。のちのちの歌集『少年』や小説『秘色』『みごもりの湖』太宰賞の『清經入水』などはみな此の高校時代そして続く同志社時代に育んでいた。同志社へは「あたりまえ」に推薦され無試験入学したのであり、京都大学二敗って国立感覚に嵌まるのはハナから好まなかった、むろん受験もしなかった。実兄の北澤恒彦は三度筐体受験にすべっていたとか、彼の養家には京大生が下宿していたりして、かぶれて高校生で火炎瓶を投げたりし、有罪判決まで受けていた。「京大」にはその気が有りそうともわたしは横を向いていたのだった。むろん、受ければ良かった、入れば良かったなど後悔などしたことが無い。同じ大學の同じ専攻から妻までも私は得てきたのだ。
 
 * 国文科の田中励儀教授から、時折り戴く「同志社」の写真はがきや、正門から真ん前、広やかな京都御苑C寂の想い出など、飽かず懐かしい。私、西棟の書斎には、母校正門内の真の正面に立つ校祖新島襄先生の美しくも丈高い碑の言葉を、軸にして掛けてある。
 一度は、書き置こうと思っていた「述懐」に時間をかけた。一仕事終えた程の気がする。
 
 * 晩、ふんれいしているうち、気づくともう本日が果てて明日になりそう。びっくり。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月二十一日 木
    起床 6-00 血圧 127-70(76) 血糖値 82 体重 53.5kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ 前十五番歌合 藤原公任 撰  時代の異なる歌仙の歌各一首を左右に選び出し歌合  の形に番えている。勝ち負けの判は無い。私(秦恒平)なりに読みと感想を添えてみる。 ◎ 前十五番歌合  一番
  * 櫻散る木の下風は寒からで 空に知られぬ雪ぞ降りける    紀 貫 之
  * 我が宿の花見がてらに來る人は 散りなむ後ぞ戀しかるべき  凡河内躬恒 
 〇 上代平安朝和歌を率先・堪能・著名の二人。「寒からで」「空に知られぬ」は理に執くが貫之の歌は美しい。躬恒作は「花 見がてら」「花見がてら」と紛れ、「がてら」も汚い。下句も「理」に陥ちている。
 * 疲弊の日々にも、毎朝の これは心行く楽しい作業になるだろう。
 
 * トラス英首相の辞任など。トピックニュースの一端を、ツイッターからの映像で、つまむ程度には見ている。新聞は(視力弱くて)まったく手も触れないし、テレビでも巷間の噂等は見聞きしていないが。
 
 ◎ お元気で都心より願いながら
 心より親愛の テルさん
わたしは、疲弊の極 86キロもあった体重を 弥栄中学時期の52キロにまで減らし 笹のように細く揺れ動いてます。「食べられない」のです。「読み・書き・読書」と「私語の刻」はまだ保っていますけれど。 昨日・今朝の様子で、お察し下さい。
 (略)
テルさん. 内閣は やっとこさ 寝言なみに 「防衛」 という事を口にし始めましたが、手の内は 空っぽ。私など 20年前から案じてきたことを やっとこさ。
何処の國でも「憲法」という「表札」は、惘れるほどリッパですが。「表札」は「表札」  イザの際には ただに無力であるか あの優れたワイマール憲法をただ「表札」の ヒトラー・ドイツのようにも成る。  
「防衛」は必至です、が、「海に囲まれた」日本列島の「危うさ」は言語に絶しています。対馬、隠岐、佐渡、能登、淡路島、沖縄、小笠原等々の「島嶼」は素早く奪われて攻撃拠点化し、浸攻の潜水艦は、瀬戸内、大阪湾、紀伊水道、伊勢湾、東京湾の奥深くまで、「今日只今」でも浸入不可能では 無い。 武力で防ぐ防衛など、茶番にもならないでしょう。
いまこそは「外交」それも精度と確信にみちた私の所謂「悪意の算術」に拠らねばならぬとき、いま、日本の「外交力」は、その自覚や覚悟は、如何?
もう残り少ない吾々の世代は、壇ノ浦に「みるものはみた」と叫んで海中へ沈んだ平知盛を演じられても、子孫たちの「未来」や如何? 案じています。誰が眞に日本を「防衛」して呉れるのか。平和憲法」という立派な「表札」を眞の「防衛力」に生かす優れた「悪意の算術=外交」家たちの登場を切に待望しているのです。 ペリー来航から「明治維新」までには日本の「外交力」はいい「算術」役を果たしていました。井伊直弼、水戸烈公、徳川慶喜、勝安房、岩倉具視、大久保利通、伊藤博文、等々。  今の日本は???
「核」戦力を誇示のプーチン、習近平、北朝鮮らに立ちはだかられ、戦かざるを得ません。今や「防衛」は「戦力」では成るまいと。真剣無比な「悪意の算術=外交力」こそと。
テルさん。 こんなふうに思っています。 お元気で。   秦 生
 * 元気そうに振る舞っていながら、洋服ダンスの上の荷の一つを持って降ろそうと倚子に乗って、背伸びの瞬間にワケ判らず傾き、横倒しに閾と廊下へ背から顛落した。腰も背中も頸筋も、呻きもならぬほど痛かった。幸い厚着していたので外傷無く堪え得て、這うように床に就いて、寝た.倚子の上で大きく左へ全身の空に傾いた瞬間が怖かった。仰向きに「背か」らで、良かったのかも、だが怖くて、痛かった。廊下と閾の段差に当たったので、だんだんに腰骨に痛みが来ている。
 「豫」のこころ用意が無く、いつものことと倚子に乗った。端っこに乗ったのだろう。
 
 * そんなところへ、たまたま、懇切な「体調お見舞い」のメールを戴いた。感謝申します。
 
 〇 一読者として 失礼をあえて、申し上げます。
 ご体調不良のなかご返信いただきほんとうに申しわけなく思います。今朝届いた「二十日の私語」も、心配で嘆息しつつ拝読しました。
 それにしても52キロとは! パリコレモデルにでも転職なさるおつもりでしょうか。いけません。ひとは、食べなければ、大変な勢いで衰えて命つきます。疲労困憊なさる一因は食べていらっしゃらないから。どうかご無理でも、必死に食べてください。
「まあだだよ」です。
 おとりになる道は、二つだと思います。
 湖の本160巻を無事に刊行するために何かの生活支援を受けるか、あるいは数日、数週間以内に入院するかです。当然、前者のほうがよいに決まっています。
 市役所の電話番号まで知らせてくださった勝田(貞夫)さんは、ほんとうに行き届いてご親切な方です。それでも、少しも積極的に動かれないのは、すでに電話すらしんどくてその気力体力を失っておられるとしか言いようがありません。
 ご夫妻は、八十六歳の今まで本当に自立していらして稀に見るご立派なご夫婦ですけれど、さすがに典型的な高齢者になりつつあるようです。高齢者は段階的ではなく、ドーン、またドーンと一気に身体的能力が落ちていきます。どんなにご不調でも、それでも高齢期は長く続いて人生は長いのですから、うまく対応していただきたいと切に切に願います。
 他人がご家庭のなかにもの申しすのは、億劫で、イヤです。わたくしの母も毛嫌いして、大変でした。ですが、ケアマネさん、ヘルパーさんに頼らなければ、どうにもなりません。ドクターや看護師の訪問診療は 可能なら是非実行なさってください。薬も届けてくれるものですし、インフルエンザワクチンも自宅で接種可能です。便秘すれば、お浣腸も摘便も、必要なら入院手配もしてくれます。
 しかし、介護申請をして認定を受けなければ、そのようなサービスは何一つ受けられませんし、受けられたとしても自費の高額負担になります。何のために長い間税金や介護保険料を支払っていらしたのでしょう。
 このようなことを書いても、きっと何もなさらない。既に、ご自身で何とか出来る段階を「越えているから」です。今 ご夫妻に可能なことは たった一つ。建日子さんに助けを求めることで、電話一本、メール一本ですみます。
 食事の世話や付き添いのような実質的な介護を頼むなら、建日子さんにもご都合がありましょう、が、お二人が一日も長く自立した生活を続けるための、事務的手続きを整えていただく「だけ」です。これは「生活支援」といい、広い意味の介護で、子どもがすべきこと 子どもにしか出来ないことです。たとえばわたくしが申請しても、血縁ではないので、役所では受付けてくれません。
 建日子さんには頼りたくない、迷惑をかけたくない、という姿勢に 憤りすら感じます。
 そのご配慮はもちろん愛情からなのですが、結局 別のかたちで建日子さんの迷惑となりましょう。
 今は奥さまにも支援が必要な状況とお見受けしています。このままでは、いつ「お二人共倒れ」になってもおかしくありません。そうなれば一番困るのは 突然現実の重たい介護生活がふりかかる建日子さんで、迷惑を超えて 大迷惑になりましょう。放置すれば保護責任者遺棄の嫌疑をかけられる場合もあります。お名前に傷がつきましょう。
 公的支援をためらっている場合でしょうか。今すぐ建日子さんに小迷惑をかけて、大迷惑を防いでいただきたいと思います。
 たとえ、今回介護認定で要支援がもらえないとしても(最近とても認定が厳しくなりましたが)、ケアマネさんと繋がることで 次善の策が選べます。お風呂場や階段に手すりをつけることなども無料で出来ます。転倒骨折など本当にどうにもならない状況になる前に ぜひぜひ動いていただきたいのです。(さらにつけ加えますと、認定基準が厳し過ぎるので、介護認定の日は 実際よりも大袈裟に 身体的に衰弱し生活が困難であると訴えていただきたいです)。
 このままの状況で人生「終えられるおつもり」かもしれません、が、現代人はそんな簡単に死なせてもらえないことをご存知でしょうか。生きているのがしんどい、「早くお迎えがこないか」の母の愚痴を何度聞いたことか。コロナの後遺症で嚥下機能が落ち、ものが食べられなくなった際には「看取り」を覚悟しましたが、現代医学で見事に復活。今はよれよれ状態でも すっかり元気なのです。
 このまま建日子さんに頼らず、公的な生活支援も拒んでいらしたら、近い将来の「入院、施設入所」の選択肢しかありません。自立してご自宅で、「読み・書き・読書」を「続け」ていただくために、一日も早い「生活支援と適切な医療支援」が必要なのです。
 建日子さんには、生活支援が必要になったこと、介護申請の手続きを手伝ってほしいことをお伝えいただき、「勝田さんに教えていただいた電話番号」をお知らせするだけのことです。今日、明日にも実行なさっていただきたいと思います。
 失礼は承知のプンプンメールでした。これまでも さんざん失礼なこと申してきましたので、今さら礼節を守って何も言わない選択はございませんでした。 どうかお許しくださいますように。  一読者として
 
 * 家内と息子とへも 伝えます。お気持ち、有難う御座います。感謝します。
 幾ら軽くなっていると謂え、からだが空に傾いて墜ちるのは怖かった。背から平に墜ちたらしく、腕や脚に骨折が無く、良かった。寒くてゴワゴワ着ていたのも良かった。 
 
 * 本の発送前には、1200枚の封筒にどうしても私の住所印と「謹呈」か「贈呈」印を捺しておかねばならず、これがかなりな力仕事。それも一気に終えて置いた。これに、宛先宛名印刷したシールを貼らねばならず、更にはシールの無い人の住所氏名は手書きしなくては成らない、そこまで用意しておけば、あとはダンボール箱に決めた數ずつ容れ、宅配に「発送」依頼が出来る。そこまでの力仕事は老夫婦にはとても「お手軽」でない。36年前の{創刊}販売の頃にはときに3000部も送り出したことも有り、以來今回が160巻め、「出版」とは「力仕事なり」と感じ入った。ついには「売り買い」の手仕事の煩瑣に嫌気し、いつ頃からか、一切「呈上(贈呈・謹呈)」に替えた。いまさら「お金儲け」しても意味も仕方も無いと。
 
 * 新しい「医師もの」の、大門未知子よりシビアな外国製連続ものを見聞きしながら封筒へ「はんこ捺し」を大方終えた。体痛み、疲れました。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月二十日 水
    起床 6-40 血圧 134-72(77) 血糖値 82 体重 54.0kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ フローベール『紋切型辞典』抄  (小倉孝誠「岩波文庫」 の訳に依りて)
 * フランスの作家 ギュスターヴ・フローベール(一八二一--一八八〇 主著に『ボヴァリー夫人』など。)   の遺稿。知識を提供のいわゆる「辞典」でなく、この作家特有の辛辣なアイロニーと犀利な諷刺にいろ   どられた「箴言」集と読もう。「紋切型」の妙をどう汲み汲めるかは人次第。
 ◎ 医学  健康なときは愚弄すべし。
 ◎ 医者  いつでも「立派な先生」と云われるが、くだけた会話の席では、「いやは       !」と付け加え、「いやはや ! 先生!」と言おう。
       信頼されているうちは名医だが、仲違いすればたちまち藪医者に過ぎなく       なる。「メスの先に信仰が見出されるわけじゃないからね」
 
 * 泪が沁みて痛む。
 
 * フローベールの『紋切型辞典』は、西欧世間の感覚に偏しているとみて、断念する。岩波文庫『王朝秀歌選』樋口芳麻呂校訂の「歌合」を私なりに批評し鑑賞することに。これは楽しめよう。
 
 * 『四書』「中庸」にこんな句が。「凡そ天下国家を爲すに九經有るも、之を行ふ所以のものは一也」と、そして此の「一」に「豫(あらかじめ)」の「一字」を以てしている。「凡そ、事、豫すれば則ち立ち、豫せざれば則ち廢す。(言ひて)前に豫め定まれば則ち躓かず、則ち困(くるしま)ず、則ち疚(やま)しからず、則ち窮せず」と。
 
* 「豫」一字一語の含蓄、まことに深く思い当たる。私は少年、学習の昔から「豫定」の必要と大事さとを、いつも「期末試験」をメドに、忘れなかった。
 今でも「当面の必要と豫定」と名づけた「備忘」メモを恒に機械の中に置いている。
 
 〇 秋空   如何お過ごしでしょうか。
 晴れ渡った青空に黄葉が目立つようになりました。青と黄、何やらウクライナの国旗も連想してしまいますが、此処は静かすぎるほど。
 先日NHKの日曜美術館で、朝倉摂に関する番組を見ました。彼女が舞台美術の演出家だったのは昔から知っていましたが、それ以前に日本画画家だったと初めて知りました。時代の反映ですが、戦後の新しい日本画を求めての模索、最初は健康的な若い女たちの連作、続いてピカソの青の時代のような打ちひしがれた労働者や女たち。現在の日本画の中に僅かながら残存、或いは貴重な存在として在る画家の姿勢。
 興味深く見て、さて自分のことを考えると・・やはり自然の風景や古い文物を描いているのです。人間は描きたいけれど・・。
 今は思いっきり本を読んで楽しみたい。読んだ本の殆どを読み返す時間はもう残されていないのは確かだからと、ヘンな焦りもあります。
『花筐』は不思議な構成で、ポツポツと切れる感覚が面白く読み進めて、さて何も読み解けていないと嘆息にも似た思いに突き放されます。もう少し続けていくと異なった感覚、面白い展開が生まれそう。読み手にとっても。
「鳶は、鴉としゃべくりたいです。」
 植木鉢に桜の苗が自然に生えてきました。地面に植えてあげたいのですが、既に全く余裕がありません、それでも何処かに地植えするでしょう。シュウメイギク、薔薇、様々な雑草など 皆 綺麗です。
 お身体大切に、風邪引きませんように。  尾張の鳶
 
 * ただただ羨ましいお暮らし、お身の周り。
 私は、ただただ、疲労困憊の間々を懸命に、まさに命懸けにすり抜けようと足掻いている。86キロあった体重が、中学生並みの52、3キロいう現実。
 
 * それでも、仕事は仕事、読書は読書。ただ、容易に「食べ」られない。赤間の雲丹と、尾張の鳶が京都から送ってくれた「鰊蕎麦」だけを、長い日かずかけ、ありがたく細々と食べ継いできた。俄然、次の「湖の本」の発送と入稿とが近寄ってきている。「湖の本」創刊以来じつに160巻を越えて行く。「湖の本」一巻の「質・量」ともども優に一冊一冊の「単行本」に同じい。つまり、もう目前の「八十七・やそしち」歳に手を掛けながら、昨日も、今日も、明日も秦恒平、「本」を書き続け出版し続けている、ということ。出版社からは、単著・共著あわせ、筑摩書房、新潮社、講談社、文藝春秋、平凡社、中央公論社、放送出版協会、春秋社、淡交社等々から、とうに100冊に余っている。書き殴った一冊も無い。昨今、そんな作家が、いたか。いるか。東京へ駆け出てきて就職した医学書院での編集者体験が、多彩に実を結んでくれた。
 
 * 晩、八時前.夕食もせず寝入っていた。洟みづ流れ、空腹。元気、まるで無し。
 
 * 深夜十一時半、宵からずうっと寝入っていて、尿意で目醒めた。尿意で生かされている。機械を止めに、二階へきた。
 さ、また寝入りに階下の寝床へ降りる。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月十九日 火
    起床 6-00 血圧 129-80(64) 血糖値 82 体重 54.6kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ フローベール『紋切型辞典』抄  (小倉孝誠「岩波文庫」 の訳に依りて)
 * フランスの作家 ギュスターヴ・フローベール(一八二一--一八八〇 主著に『ボヴァリー夫人』など。)   の遺稿。知識を提供のいわゆる「辞典」でなく、この作家特有の辛辣なアイロニーと犀利な諷刺にいろ   どられた「箴言」集と読みたい。「紋切型」の妙をどう汲み汲めるかは人次第と「見られ」ている。
 ◎ 過ち  「それは罪よりも悪い。過ちだ」 (タレーラン  ナポレオンの命令で
          アンギャン公が処刑されたときに 政治家タレーランが云った。)
       「もはや過ちを犯すことは許されない」(ティエール  一八六六年          に フランス議会で 政治家ティエールが発言した。)
     この二つの句は深遠な調子で口にすべきである。
 
 * 『バルジ大作戦』は、大作にして疎漏のない力作であった。三重丸に☆をつけた。
 
 * 相変わらず機械とスッタモンダしている。グレン・グールドのピアノに救われている。ほとほと情けない。
 * 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月十八日 月
    起床 4-50 血圧 143-73(66) 血糖値 82 体重 54.3kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ フローベール『紋切型辞典』抄  (小倉孝誠「岩波文庫」 の訳に依りて)
 * フランスの作家 ギュスターヴ・フローベール(一八二一--一八八〇 主著に『ボヴァリー夫人』など。)   の遺稿。知識を提供のいわゆる辞典でなく、この作家特有の辛辣なアイロニーと犀利な諷刺にいろどら   れた、「箴言」集と読みたい。「紋切型」の妙をどう汲み汲めるかは人次第と「見られ」ている。
 ◎ 厚かましさ  常に「たえがたい」あるいは「ひどい」と形容される。      ◎ アメリカ   世間の不当さを示す好例。発見したのはコロンブスだが、アメリカ          という名称はアメリゴ・ヴェスプッチに由来。
          アメリカが発見されていなければ、梅毒やネアブラムシ(ブドウに           寄生する害虫)は蔓延しなかったろう。
          それでも、とにかくアメノカを賞讃すべし。特に行ったことがない          場合には。
          自治(self-government)について長広舌を振るうこと。
 * アルチュール・ピザロが、フレデリク・ショパンの15曲を静かに聴かせて呉れている。暁けの五時四十分。
 
 * なにやら、ワケわからずに時間を費消している。
   なにやら、ワケわからずに午後三時前。
 
 * 昨日は、高麗屋 松本白鸚さん親書を頂戴。久しくお舞台が観られていない、ひとしお懐かしくも、また心寂しくも。御夫妻 幸四郎さんご夫妻 紀帆さん まつ子さん、また元気なお舞台でぜひぜひ再会したいもの。
 
 〇 急にお寒くなって参りました。
 先生御夫妻には、お体お元気でいらっしゃいますか。
 先生のお力で家族の者がペンクラブの会員にしていただいて十五年になります。月日の経つのは早いもので、家内共々御礼申し上げます。
 いつも頂く先生のご本の数々、大切に大切に読ませて戴いております。
 『湖の本』には子供達のことも書いて頂き、重ね重ね懐かしく拝読させて戴いております。
 吾々の仕事は、一舞台済むと、身も心もカラカラに渇いてしまいます。その時らに秦先生の御本のお言葉は「オアシスの水」のように読む者の心を潤してくれます。
 恒平先生、迪子奥様の御健康とお幸せを祈っております。
秦 先生 机下   二代  白鸚 (鸚鵡自画 添えて)(いずれも高麗屋さん自署)
 
 * 国立の安井恭一さん、神戸市の芝田道さん、所沢市の藤森佐貴子さん、聖教新聞社の原山裕一さん、大阪池田市の江口滉さん、都・練馬区の高本邦彦さん、横須賀市の濱敏夫さん、数々の頂き物があった。恐れ入ります。奈良女子大、神戸松蔭女子学院大、立命館大、神奈川県立文学館から「湖のほん」新刊受領の来信があった。
 
 * 本日は 弥栄中学からの友の西村明男(テルオ)さん佳い便りに添えて、テルさんの親しい、私も面識の文藝春秋編集者岡崎満羲さんの『葉書に書いた人物スケッチ』という一冊も「進呈」と書き添えて、和菓子の一箱までも頂戴した。
 〇 湖の本159号拝受。ありがとうございます。秦さんの筆力でむかしの記憶がたくさんよみ返り、うれしかったです。p103 渡辺節子さん中村時子さん(敏子さん)元気でおられるのはうれしいです。
 p116 お説のようにプーチンの北海道侵攻はありうると思います。 日本はウクライナのように戦えるでしょうか。日本人の智恵と覚悟を問われるときです。その時、力になるのは ウソまみれでたよりにならない政府ではなく、75
年間「平和憲法」を守りきった市民の力と思います。
           静岡 函南  西村明男  元・日立役員
 * 建仁寺蔵の あの美しい 風神 雷神の絵葉書も有難く。岡崎氏の『葉書に書いた人物スケッチ」一冊「最近友人の出した本です。 進呈」と添えて。
 * 奈良五條市の永栄啓伸さんの『秦恒平論』350を越す大著になると。恐縮しつつも感謝に堪えない。
 千葉県の石内徹さん、毎度のように、手厚いお志を賜る。感謝。恐れ入ります。
 岩淵宏子教授、天理大国文学会、松山大學、久留米大学等、受領の来信。
 
 * 田島周吾クン、「日本画展」の案内。縦長の「八蝶 三毛猫図」葉書が,妙。
 
 〇 お元気ですか、みづうみ。
 ご体調いかがでしょうか。心配でなりません。
 前のメールではご不快なことを書いたかもしれません。失礼はいつものことですけれど、猛省しておとなしくしていました。それでもあまりさびしくなかったのは、胸の内で毎日みづうみと話しているから。みづうみのお声が、小さな書斎の「湖の本」と「選集」でいっぱいの本棚のなかに生き生きと感じとられているから。
 数日前に森林消防隊の映画を観ました。山火事に立ち向かうには、飛行機からの散水程度ではとても無理で、江戸時代の火消しのように、火災燃料となる木々を切り倒し、長い溝を掘り、迎え火をする、という人の手による方法しかないのは知っています。地形によって風向きや乾燥や気温など刻々と状況が変わる複雑な要因のため、一般の建物消防士よりもさらに危険な、命がけの仕事であることはわかります。いかにもアメリカ映画らしいアクションヒーローもののバリエーションの一つとして、山火事に立ち向かうエンタテインメント映画だと思って観始めて、予想通りの展開をしていたのに、突然の結末に唖然としました。えっ、全員殉職してしまうの、と……。
 ただし、映画としてお勧めはいたしません。不出来とまでは言いませんが、事実に頼りすぎて真実を見失ったともいえます。ですが、一か所だけ「詩」を感じた場面がありました。
 消防隊隊長が、テラスで友人に語る小さな体験談です。山で消火作業にあたっていた時、突然森から一匹の火だるまの熊が飛び出してきて、そのまま森の闇の中に走り去って行った。自分は今まであれほど美しいものを見たことがないと。
 これは、おそらく脚本家が頭で考えたものではなく、消防士を取材していて実際に聞いたことではないかと思っています。思いつきで出てくるような話に思えなかった。そして、この映画は、この短い場面ただ一つで救われました。脚本家も監督もうまく表現したとは思いませんが、「あれほど美しいものは見たことがない」という言葉のなかに、後の殉職の運命を暗示したかったのでしょう。
 火だるまの熊には、ヘミングウェイの『キリマンジェロの雪』の冒頭に書かれている、キリマンジェロの山頂近くで見つかった豹の凍死体と同じように、現実には何の意味もない、しかし詩人の魂を揺り動かさずにおかない何かがあります。凍りついた豹も、燃え上がる熊も、雪と炎のなかで最後にこのうえない美と一体化する、天翔ける詩人の魂の化身とも想えるのでした。
 どうかお元気で、書き続けてくださいますように。   秋は、ゆふぐれ
 
 * なかみの濃い「檄」を戴いた、と感謝。                         
 〇 「湖(うみ)の本 159 花筐 はなかたみ 魚潜在淵」を拝受しました。
 練馬光が丘病院の紹介で「国立国際医療研究センター病院消化器内科」に入院しESD(内視鏡的粘膜下層剥離術)による施術を受け無事早期がんの撤去に成功しました。(入院期間8日間)
 手術に使用する電気メスが、ペースメーカーの誤作動を引き起こす恐れがあり難易度の高い手術でした。胃全摘の秦さんからすれば取るに足らない事案でしょうが取り敢えずご報告まで。 令和4年10月18日  靖 (妻の従兄)
 * ああ よかったよかった 安心しました
 日本の医学技術 誇れるもの あるのですね。
 靖さん
 家内と駆け落ちのように京から東京へ奔っての「編集者」としての就職先が、本郷台 東大赤門脇の医学書院でした、ガチガチの研究書誌の出版社でした。1959年でした。 その入社した年のことでした、私の初任給は一万二千円の、初め三ヶ月は八割支給で一万円を割っていました、が、丁度その時機に、会社は、『脳腫瘍』という研究書を「決死の勇で」で出版しました、一冊がじつに「三万円」定価でした。「癌」、まして脳内の腫瘍・癌の研究や医療は、まさに肇まったばかり、業界でも「珍奇」がられるほどの分野、かつ高価でした。
 けれど、その頃から日本の「癌」医学は進歩し深化して、私が編集担当した雑誌『胃と腸』には日本の癌研究の先頭をせりあう医師・研究者が集いました。日本の、ことに「胃がん」治療の成績は、世界的にも誇らしい水準に達し、関連の診断や治療機器も進歩に進歩しました。
「二期胃がんだね」と診断宣告されましたとき、私は動揺しませんでした。雑誌『胃と腸』体験から、大丈夫と強気に身構えることが出来ました、丁度10年前の診断で、胃全摘、結果は胆嚢も全摘しました。決して油断はならぬ大敵ですが、医学は、かなりにガンバッテ助けて呉れるようになりました。
 よかったですね。予後を大切に、しっかり回復して下さい。よかった、よかった。  お大事に。  秦 恒平 
(と、いいながら、現在、私は、極度に食がすすまず、体重86キロありましたのが、いま、中学生時代の56キロに減り、笹のように細く軽くなり、今夏の猛暑 残暑にひしがれて へとへとに疲労したままの毎日を揺れ揺れ過ごしています。医書の編集者でしたのに、病院や医療を受けるのが嫌いなのです、バカげていますが。 呵々
 
 * 京都から、二歳若い女ともだちが、初期乳癌の手術を受けると言って来たのにも、乳癌診断と治療とは最も早期に進展した、結果安心できる処置だから動揺しないようにと励ました。
 手術、無事に終えたと。「お乳がひとつ無くなりました」と云うのには、同情。
 
 * いろいろ、あるなあ。
 
* 戰闘映画の名大作『バルジ大作戦』を胆嚢、夜が更けた。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月十七日 月
    起床 5-45 血圧 133-74(74) 血糖値 82 体重 53.55kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
◎ フローベール『紋切型辞典』抄  (小倉孝誠「岩波文庫」 の訳に依りて)
 * フランスの作家 ギュスターヴ・フローベール(一八二一--一八八〇 主著に『ボヴァリー夫人』など。)   の遺稿。知識を提供のいわゆる辞典でなく、この作家特有の辛辣なアイロニーと犀利な諷刺にいろどら   れた、「箴言」集と読みたい。「紋切型」の妙をどう汲み汲めるかは人次第と「見られ」ている。
 ◎ 悪夢   胃に原因がある。
 ◎ 顎ひげ  精力のしるし。  顎ひげが濃すぎると髪の毛が抜け落ちる。  
        さまざまな刈り方がある。
 * 昔勤めの医学書院、なにかしら建物内の大きな模様替え現場で汗して立ち働いているさなか、同僚、少しく若い男子社員と「茶の湯」につき言葉を交わしている場面で、目覚めた。妙なもんだ、夢は。
 やや睡い、が、朝早やにでも、少しでも何か書くなり片付けるなりしておかないと、昼間には疲れ寝を重ねてしまう。どこへ、だれかと出かけたり会ったり約束事など、今日この頃あるワケがない。寝たければ寝る。起きれば私語はいろいろに在る。
 
 * あれこれしていて、まだ朝の七時二十分。頂いた「つぶあん 黒糖 虎の助」とある大きめの歯当たり柔らかな包み菓子を、機械前、冷えた茶で「朝飯」に頂いている。
 
 * 午まえ、ようやっと三通の手紙が書けた。キイを捺すのでなく手指で字を書くのは大変な気苦労。
 
 * 四の五の、なにも謂えない、ただ、難儀にどよんと、しんどい。寝るに如かない。八時。とは云えど。
 
 〇 秦 恒平 様
 今回も又「湖の本 159」ご送付有り難う御座いました。待ち侘びた気分で嬉しく拝受、拝読。学ぶ事、驚く事、懐かしい事、夢中で読み耽りました。
 随所に国を憂う言葉の数々が?、私が想像もしなかった貴君の一面を拝見した思いです。プーチンの暴挙なかなか治まりませんね。
 幼い頃からの微細に至る記憶力にも驚愕です。
 「逢ふみのうみ」 の K先生。
 住所から察し、金田教授に違いないとは思うものの、私の中の先生とは、まるで別人。袴姿の先生なんて?、どうしたってイメージ出来ません。 西洋美術史御専門だつた記憶、お能お謡をなさつていたとは思いもかけない 初耳 でした。 聡明で尊敬もしていた片山先輩とは 先生を交えてよく話し合ってはいたものの お能お謡の話は出なかったなあ、全く気が付かなかつたです。あの三山木のお宅に度々お伺いした時だって?。 そんな雰囲気感じ なかったし。
 全くの鈍感、馬鹿ですね、私。先生はやはり学生の個性を見て話題を選んでおられたのでしよう。
 滋賀県野洲郡は私の母も生まれた場所、ひと駅隣の守山です。
 戦争中には私も疎開で過ごしました。
 野洲川は、夏休みなどいちばんの なごみ場所、思い出すだに大切な 望郷の河原です。
 貴君の 詳細な歴史逸話を伺って興味満々、変わり果てたであろうあの 町並みを、久々一緒に歩いて欲しいなと思う歳下の従兄弟にも、つい最近先逝たれてしまいました。
 胸踊るばかりの懐かしい話の数々、久し振りに記憶力を磨きました。
 私事ばかり連ねて御免なさい。
 どうか呉々もお元気でお過ごし下さいますように。 
 迪子様にもお宜しくお伝え頂くと嬉しいです。   やそはち婆  半田  久拝
 * 書きがいが在って、嬉しく。
                                        
 
◎ 令和四年(二○二二)十月十六日 日
    起床 7-15 血圧 126-76(78) 血糖値 82 体重 52.9kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ フローベール『紋切型辞典』抄  (小倉孝誠「岩波文庫」 の訳に依りて)
 * フランスの作家 ギュスターヴ・フローベール(一八二一--一八八〇 主著に『ボヴァリー夫人』など。)   の遺稿。知識を提供のいわゆる辞典でなく、この作家特有の辛辣なアイロニーと犀利な諷刺にいろどら   れた、箴言集と読みたい。「紋切型」である妙をどう汲み汲めるかは人次第と「見られ」ている。
 ◎ アキレス  「俊足の」とつけ加えるべし。ホメロスを読んだと ひとに思わせる     ことができる。
 ◎ あくび   あくびが出たら、「失礼。退屈だからじゃなくて、胃のせいなんです」     と云いなさい。
 * 書き継いでいる創作を皿へ押し出して行くべく読み返し、読み進んで、道ありと視線を先へ送った。楽しむほどに書き進みたい。
 
 * 源氏物語を「日に一帖」などと息巻くように若い頃は奮励して読んだ。それは、ま、それなりに私の「源氏物語体験」として生きもし役立ったけれど、本来は先を急く読み方は邪道におもわれる。今は、むしろ十行二十行のしみじみと奥深く静かな物語りよう、物言いの妙味にこもる「時・空」「人がら」の美しさ、視野のやさしさをしみじみと堪能するよう、聲・言葉にして読み耽っている。素晴らしい美味妙味であるよ。
 さきを急ぐなど、私にはもう全く要がなく、たとえ数行であれ、その音楽美、感想の眞味妙味に誘われゆく嬉しさで接している。
 ここまで、ようやくこれたなあと嬉しがりながら。
 
 * 坪谷善四郎の大著『明治歴史』の上巻・
 第一編「維新前期 従米艦来航至政権返上」ほぼ300頁
  維新の革命は開闢以来の大革新なり
  維新革命の原因
  我国の革命を促したる外国の形勢
  嘉永癸丑米国使節の來朝
  幕府外交談判の失擧
  修交条約の締結、米使登営
  養君治定並に井伊直弼の性行
  安静戊午の大獄
  井伊直弼の横死並に水戸烈公の性行
  安藤對馬守の施政
  薩長両藩の動静
  勅使東下の始末
  勅使再度の東下将軍上洛
  長藩攘夷の開始並に英艦鹿児嶋襲撃
  廟議變更七卿西竄始末
  将軍再度の上洛
  長藩の陳情
  水戸藩の内訌
  長藩士禁闕に砲撃す
  四国連合軍下ノ關砲撃
  長州征伐
  外国軍艦兵庫入津、将軍辭表を呈す
  薩長の秘密同盟
  長藩處分長人梗命
  長州再征討幕軍敗刔将軍薨去
  幕吏郡縣制施行を謀り英佛二國日本を賭せんとす
  一橋慶喜將軍宣下並に主上崩御
  將軍慶喜の施政
  倒幕密勅始末
  三條岩倉兩公の合躰
  大政返上始末
  政権返上後關東に於ける諸藩の意見
 
 * 第一編に、是だけの目次が出てある。これら本文は、もう読み終えて莫大に学んだ。
 第二編「維新實記 従維新大號令発布 至外国公使始朝見」
  王政維新の大號令
  長藩兵士上京始末
  徳川内府下阪の事情
  徳川内府辭官納地の始末
  幕府江戸の薩摩藩邸を襲撃す
  伏見鳥羽戰争始末
  大に政躰を更革す
  維新當初の財政始末
  諸外國公使の参朝並に癸丑以來の外交始末
  維新に伴ふ宗教の變革
 
 * ほぼ150頁、上の第二編を読み終えたところ。以下「上巻」の第参編「維新後記 」ほぼ120頁ほどへ読み継いで行く。
 
第二編「維新實記 従王師東征至廃藩置県」
  王師東征、江戸城の軍議
  徳川慶喜恭順罪を待つ
  王師江戸城を攻む
  上の戰争始末
  東北戰争始末
  箱館戦争始末
  版籍奉還始末
  諸藩石高並知事家禄表
  廃藩置県始末
 
 * 実に精緻に正確な記録・文書を収攬しつつ卓越の見識は「説得」の力と妙とに富んで,頗る歴史が面白く、かつ詳細に亘っていて興味津々尽きない。
 さらにこれへ『下巻』が続いて、總千百頁を超えている。得も謂われない感動と教訓とに充ち満ちている。もっとも識りたい一つの「明治・前半史」が此処にある。祖父「鶴吉」遺産旧蔵諸本の中に実在している。感謝感謝。
 
 * 『鎌倉殿の13人』が険悪化しつつ在り、小四郎義時北条氏の辛辣な支配意志が板東武者ばらを震撼し動揺反撥させて行く。鎌倉殿実朝は性的異様をそれとなく親愛気味の泰時に漏らしている。豪傑の和田義盛・巴夫妻、またいつも言を左右にしつつ小四郎の傍に居た三浦にも気分の差し引きが見えてきた。女たちは、揺れ動きながらだれがどう悩乱し始めるか。鎌倉の自壊が動くかその先に京都との大衝突になるか。
 
 * 私から出さないのだから、当然のようにメールボクスにメールは来ていない。
 
 * 此の弱り果てた疲労感は、何から来るか。食べないからか。食べると妙に苦しい。ときに微かにも空腹なのかと感じるのだが、要はシルなら呑めるというアンバイ。
 
 * 何人かにどうあっても手紙を書かねばいけない、それも疲労感に繋がる。字が.書きたくないのだ、言葉は機械で書ける。いま、背の方でグレン・グールドがピアノを弾いている。思えば今日、創作をはじめ、校正も、私語そして各種の読書等も相当に量を積んでいた、疲れるのも自然か。九時半。階下へ降り、そのまま寝入ってもいいではないか。 
 
 
 * 令和四年(二○二二)十月十五日 土
    起床 5-30 血圧 126-76(78) 血糖値 82 体重 53.0kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮0000フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 当を得たわずかな才気の方が、奇を衒う豊かげな才気より、長い間には人をうんざりさせる事が少ない。  (五〇二)
 ◎ 嫉妬はあらゆる不幸の中で最もつらく、しかもその元凶である人に最も気の毒がられない不幸である。  (五〇三)
 
 * 体不穏で目覚めた。そのまま起きた。幾いろかの夢を観継いでいたが みな、霧消。
 
 * 機械のある二階で、ひとしきり用がある。「マ・ア」ズはお行儀よく倚子の足もとで待っている。「削り鰹」を嬉しそうに食して、階下へ、今度はカーサンを起こしに行く、これは難儀。彼ら定時の朝食は、正八時。
 
 * 今はもう晩の八時過ぎ。「マ・ア」ズの晩ご飯も済んだ。わたは、今日は、ひたすら寝入っていた。やや風邪引き気味でけだるく膚寒く、床に就くと、すこしの本読みで寝入ってしまう。なにをしたか。「撮って置き」大事の板で、『ターミネーター 2』に深々と満足した。このシリーズ為すの傑作編、ターミネーターと闘う母子をしゅわるつねっがー扮するターミネーターが援け、最期は溶鉱炉へ自ら沈んで去りゆく。みらいげきではうるが、今日只今で身手の近未来地球の核による滅亡トテモリアルに説得力有る映像と展開で見せるので、はじめて観た頃よりもさらに面白く惹かれる。初めてこの作を観たのはよほど緯線で在り映像世界は近未来とはいえ「かなりの未来」噺だった。だが2022,年の今日でいうと、地球は核戦争で既に数年前によほど毀れ、コナーズ母子が目前の運命に奔命する今は2022年現在をすでに超えて、世界の悲惨なクライマクスが予期されているのは2029年、いまわれわれの手のもう届くとき。映画制作者が相当な近未来とみて描いていた世界破壊の時期は、今の私たちには、現実にもう六七年で現に到来するのだから、想定外の迫力が生まれている。ろしあとウクライナとの西欧戰争は既に起きていて,世界的に拡大しないという名何の保証もない現実なのだ。ただ、ターミネーターは。まだ現に登場してきてはいないが。
 
 * 今日、思いがけず京山科日岡の渡辺節子さんから「手編み」という翠色毛糸のジャケットが贈られてきた。びっくり、恐縮。弥栄中学の同年、組は三年間とも違って何の接触もない女生徒だったが、たしか別の組で学級委員だったと思うし、わたしは二年生から生徒会を率いていたので「委員会」等では顔は合うていたはず、つづく日吉ヶ丘高校の三年間ではまったく接点も片言を躱した記憶も無くて、今日まで70年、消息だに識らなかった。なにかで往年「同期生の名簿」が送られてきてたのに便乗し、この夏、初めて「湖の本」を送ってみたのへ返信が来た。読んで貰えるのは何よりと、続けて送った、それへのごアイサツであるか、有難う。
 
 前略  湖の本 私にまでお贈り頂き有難う御座居ます。 毎回なつかしい先生や友の名に昔を想い出しています。何故か あの頃の記憶ははっきりとしています。(いまはよく忘れますが
 朝晩 冷え込んで参りました。
 よい毛糸を見つけましたので 秦さんの御健康を念じながら 編みました。
 ひとりで早起き 寒い朝に着て頂けたら嬉しいです。(お気にに召さない折は。ア・マ の寝床に強いて上げて下さい)御笑納下さい。
  どうぞ御自愛下さいまして お元気でお過ごし下さいませ。   渡辺
 
 * 弥栄中学の同じ学年で、講堂の大きなピアノの弾けた{二人だけ}の女生徒の一人であったと思う。
 
 * 読者の方々、いろいろに頂戴物を送って下さり、なんのご挨拶も私自身ではしていないが、感謝市いたく恐縮もしている。
 それでも「作家」に成り立ての頃、当時名高かった「蝦蟇センセイ」のたってのお薦めで東横女子短大の「おしゃべり」講師としてたか一年間だけ務めた時の女學生、卒業後暫くして故郷広島県の山手へ帰ってった、懐かしい吉原知子さん、土地の名産、色美しく皮まで甘いすばらしい大粒なマスカット幾房もを贈ってきて呉れたのは、ひとしお嬉しかった。まことに愛らしいいい気立ての女学生だった、忘れない。あれから50数年になるが、お互い歳のことは思うまいよ。
 
 * 放送局のディレクターで、何度もお世話になり家族ぐるみ親しかった、今は亡い松井さんの奥さん、瀟洒な画家でもある由紀子夫人から、私の極端な「食足らず」を案じたように、、おうと聲も出たほど精撰された「葛湯」をたくさん頂戴した。感謝感謝。
 大阪の久しい読者、河野能子さんからも、選りぬきの、いつも、美味軽妙京の名菓「穏池煎餅」を、嬉しくこの程も頂戴している。 ありがとうございます。
 
 * しぜんと目が閉じ 小刻みに震うほど膚さむくて、しんどい。なにもなにも慌てまい、眠れるときには安気に寝入ろうと思う、九時半。疲れているなあ
 
◎ 令和四年(二○二二)十月十四日 金
    起床 5-00 血圧 151-77(68) 血糖値 82 体重 52.5kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 極度の吝嗇はほとんど常に勘違いする。これほどしばしば目的から遠ざかる情念はなく、これほど現在に強く支配されて将来を犠牲にするケチは無い。  (四九一)
 ◎ 世間サマへ仲間入りの若者が、有能そうに落ち着いていると、不躾けだとやられるのが常である。  (四九五)
 
 * なにとはなく、正五時の尿意のまま,起きて。二階へ。体重やや減り血圧は高め。音を低くして、誰かが弾くシズに佳いピアノをこのところ愛聴している。たしかに愛しているが、曲や演奏に関連の知識は私には無用、なにも識らなくてかまわない、なんという美しい静かに優しいピアノの魅力か。
 
 * ピアノのある二階隣室(子供部屋というていたが、今は妻が用い、他に繪や茶道具や本など、諸々の物置場)「天井の養生」工事は今日で終えるだろう。工事のめ多くが廊下に出され、私ひとりの通行が真横向きに背と腹ですり抜けているありさま。
 
 * ねむけか微かにのこっている。ボーゼン、独り機械の前に温かにして腰掛け、ピアノを聴いている。
 
 * ラ・ロシュフコー公爵フランソア六世(一六一三 - 八〇)の、岩波文庫の訳・解説者二宮フサによれば「愛され親しまれる古典というよりも」「あくの強い刺激的な古典」と、あのジャン・ジャック・ルソーからサルトルにいたるまで,後生、高名な読者に「反撥、怒り、苛立ちを感じさせ」た相当に嵩の高い古典と、暫く付き合ってきた。「私語の刻」の此処へ先だって潜は登場の上古ローマ皇帝マルクス・アウレリウスや近代にさきがけた哲学者ジンメルの「ことば・述懐」とは多く異なった、が、あきらかに聴き捨ての成らない「箴言』週には相違なしと私は承服したのだった。
 さ、次なる登場者は。楽しみに、いま、思案している。
 
 * ピアノ演奏の「ひとやすみ」というところで「板」を見ると、おう、「ベートーベンのピアノソナタVOL6」を、グレン・グールドが弾いていた、美しいはず。私愛蔵のせいぜい七、八十枚のクラシック録音版で、「ピアノ」を演奏してくれる一等数多いのが、グレン・グールド、何故か、など言えないけれど。楽曲の前後周辺に私の知識は皆無と謂える。詮索も勉強もしない。上のピアノソナタ もう当分この板を機械に容れておく。
 それにしても、ふしぎなのは、いつのまにたくさんな、こんな名曲たちの「板」が手もとに居並ぶか。「買った?」いやいやそんな買い物に財布をあけた記憶など、三,四度も有るか無いか。私の佳いもちものは、みな「天与」と謂うしかない。
 
 * 早起きして、こんなにボーゼンとしてていいヒマ人でないのだたけれど。七時半。何かしら朝食してくるか、熱い茶で京菓子を頂くか。
 
 * 午過ぎて。 二階一室の天井張替工事も無事終えた。ヤカマシイい雨樋からの雨漏りも防げた。やれやれ。
 
 * 午前に妻と映画『ニュールンベルク裁判』劇の迫真壮絶な緊迫にぶちかまされていた。スベンサー・トレーシが裁判長、米国側検事にリチャード・ウィドマーク、ナチス側重要被告の一人ヤニングにバート・ランカスター、被告側弁護人にマクシミリアン・シェル、ある証人に女優マレーネ・ディートリッヒ男優モンゴメリ・クリフトらが立ち。ヴラウン管が爆発しかねない緊迫、息もつけず三時間の余。立派な映像業績として完遂されているのに感嘆した。もう一度観たいほど、胸を鳴らした。繰り返し見返しモノを思うに相違ない。
 
 * 疲れは疲れ、気、意識が淡む感じだが横になれば本が読める。読書に惑いは全く無いのが嬉しい。九時。もう目が開いていない。
 
 〇 秋も少しずつ深まってゆく今頃ですが、如何お須越でしょうか。本日 湖の本159が届きました。いつもながらの精神力に敬服してます。
 お会いしたいと、端末を調べましたが,今年六月十四日が最終受診日で,今後の予定がありませんでした。事情はわかりませんが、くれぐれも、どうぞ、御自愛下さい。
     中央区明石町 聖路加病院 副院長  憲
 
 * 恐縮です。 院内チャペルの美しい写真ハガキで。
 糖尿美容の方は「完治」と解放され、泌尿器科へ啻利尿剤の処方箋を貰うだけの築地までの通院は、心身の負担も大きく、途中コロナ感染被害のおそれもあり、もう行かないときめてしまった。利尿剤は薬局でもお金を払えば買えるので。
 しかし林田先生とは逢いたい。妻もお世話になった。わたくしももう何十年ものお付き合いである。
 
 * 文春の元専務さん寺田さんの電話を『悪霊』読みの途中で受けて、数分、ひとりで喋っていた。顔の見えない電話は気を遣ってせいぜい喋ろうと務めてしまう。
 
 * 餅岩波「世界」の高本邦彦さん、神戸市のE−OLD芝田道さん、大阪池田市の陶芸家江口滉さん、国立市の安井恭一さん、妻の従弟濱敏夫さん、二松学舎大図書館、文教大国語研究室、山梨県立文学館館長三枝昂之さん、城西大水田記念図書館とう、のらいしんまた受領来信あり。
 
* 二世望月太左衛さん、紀尾井ホールで芸術祭参加の『鼓樂』公演と。コロナに家中で罹ったというのを複数聞いていて、ことに第八波とインフルエンザ合併の歳末から春へ危ないという。外出は控え続けるしか無し。
 
* 映画『ニュールンベルク裁判』を、晩にもまた観た。心底、震撼、身じろぎもならぬほど、感銘を受けた。日本人としても考え感じて気づかねばすまぬ厳しい提示がある。逃げ腰になれない。また繰り替えして観て、考え直したい問い掛けが有る筈。
 
 * へとへと。いっさいは明日へ見送って、寝る。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月十三日 木
    起床 5-40 血圧 143-70(72) 血糖値 82 体重 53.4kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ われわれは肉体よりも精神の中にいっそう大きな怠惰を抱えている。  (四八七)
 ◎ 人間はたとえどんなに邪悪でも、敢えて美徳の敵を標榜する勇気はないであろう。そこで人は美徳を迫害したい時には、それを偽物だと信じるふりをしたり、美徳に罪をなすりつけたりする。  (四八九)
 
 * 昨夜 就寝まえに妻と、室生犀星作『あにいもうと』を成瀬巳喜男監督、森雅之と京マチ子、それに久我美子、また浦辺粂子らが添うてのしみじみと心懐かしい佳い映画を観た。好きな日本映画の十の指には入れたい逸品。雅之も京マチ子も文字通りに心懐かしかった、この二人黒澤明監督の世界作となった『羅生門』が初の競演でなかったか、成瀬監督は黒澤の門下では無かったか。いとも心惹かれてきたホンモノの「お姫さん」久我美子も、しっとりと美しく演じていた。「情け深い」とはこういう小説・映画を謂うのだ。
 
 * 四時過ぎに三度目の手洗いに起ち、そのあと、床の内で夢うつつ無く「一つの発想」を揉み揉みし続けていた。創作ではない、いわば方面と時期を限った史料の記録蒐集、出来はするが、大変な労力精力と時間を要するのは知れている。しかし、私なりにもし成れば大事なモノにも成るだろうと。しかし今の私にそんな体力や精力や尽きぬ根気が残っているか、心細い。暫く苦吟、首を捻るか。
 
 * 「湖 160再校」出。 体調宜しからず、苦痛に耐え、凌ぐしかない。目が重い。校正にも、原稿作りにも、手は止めない。十一時。
 
 〇 如何お過ごしでしょうか。
 一昨日のメール、お疲れの時に書いてくださった様子が窺われました。泥のように眠ってお疲れをいくらかでも和らげ、次の時間へ明日へ繋げてくださるよう。
 三連休の京都への旅でしたが、今回は人の多い処は極力避けて「静かな京都」を楽しみました。
「今熊野」は半年の短い期間でしたが暮らしたこともあり、懐かしい地域です。
 東福寺境内の北側を歩いて日吉ヶ丘高校の敷地に沿い、高校生の部活に興じる声に励まされながら雲龍院、泉涌寺に至りました。来迎院、この「静けさ」はいつも素晴らしいと感嘆します。同時に暗くなって帰宅する時には「慈子」は怖かったのではないかしらと思ったりします。緑に溢れて縁側でお茶をいただき・・鴉に羨ましがられるのは必定・・。本当に庫裡で微かな気配があるだけで、部屋も茶室も庭もひたすら静寂でした。
 戒光寺は、目下屋根など修復中でシートが掛けられていました。ここは依然として拝観料も求められません蝋燭を買い求めて燭台に・・長い時間坐っていました。途中まで描いた釈迦如来像、その色彩を改めて実地に見たいと思ってきたのです。様々なことを思い祈りました。
 最近意識している「京都トレイル」の道を辿って阿弥陀が峰から清閑寺まで行きたかったのですが、雨が降り始めたので諦めました。そして何故かこれまで行ったことのない将軍塚にも、次回は辿りたく。
 世界のさまざまなこと、憂うことが多すぎます。
 ともすれば日常に飽き、気力も衰えそうになりますが、鴉の努力気力を思えば、わたしなど甘すぎ、優柔不断、ただの怠け者。4回ワクチン接種を済ませてもコロナに感染して、幸い全くの無症状で、ハイブリッド感染。それでも注意して過ごしていきます。
 どうぞお身体くれぐれも大事になさってください。気温の変化も極端な東京の昨今ですが、無理なさらず乗り切って下さい。    尾張の鳶
 
* 心身とも病む鴉に代わって、もとは京大生の尾張の鳶が、自身も想い出の京の空をしたしく舞ってくれる。羨ましく、有難し。
 
 * 今日午前の恐怖は、排便の苦痛、言語を絶し、愕然。かつて覚えない苦難。拙に長命すると斯かることもあるのか。
 
 〇 マイナンバーカード公私併用の国民悪支配への思惑が露骨化してきた。そんな約束では、決して、無かったぞ。
 
 * 一昨日來、二階隣室の「天井」養生に職人が入って作業、やはり落ち着かない。午を挟んで、妻と戰闘映画のめいひん、四時間近くもの映画『ライアン』を観た。まず三度目ほどであろう、歩兵の戰闘映像としては抜群の迫力と哀しみに面満ちた静かな感動感銘、共感すらも。
 
 * なかなか仕事は捗らず、疲れて横になり、源氏の藤壺にしのび逼る悩ましい「賢木」巻、とらえどころの無い茫漠の『悪霊』の半ばを、『参考源平盛衰記』では、法皇の三井園城寺で灌頂をとの仰せに逆らい、比叡山の悪僧ばら、三井寺一山を焼き滅ぼすと。平家物語世界では、くそ坊主ばらの悪行、実もって甚だしい。どうしても武侠へ親しんで近寄れないのは平家物語時代に一人の名僧も顕れないから。
 
* 僅かに寝入っていたか。四時。
 
 〇 『湖の本 159 花筺 魚潜在淵()私語の刻』を拝受いたしました。
 必ずし体調万全でいらっしゃらない
 秦さんが送り出して下さった花々の種子、発芽をまつもの,既に発芽したもの、蕾のもの、咲きかかったもの! おぼろな視力で期ままにつまみ食い(読み)をさせていただいたい縷と、ていちょうな当方にも元気がでてきます。。
 いつもありがとうございます。
 コロナの終焉とその末をみたいものです。
 どうぞお大切になさって下さい。 二〇二二年十月十日  講談社役員  敬
 
 * 「花筺」へのの私の思いを適確に捕らえて戴けた。感謝。{}
 
 〇 いつもいつも本当にありがとうございます。毎巻 楽しみにしております。「私語の刻」読み終えるのを惜しみつつ、拝読しています。教えられること多々です。
 今治(いまばり 愛媛)ではコロナ感染者数がやっと下降に転じてきたようです。早く普通の日常生活にと,思います。不自由な生活、くれぐれもお体 大切に。早々
                 今治氏波方 木村年考  もと 市立図書館長
 
 〇 常々精進なさってる あなたのこと お元気なこととお喜び申します。そして今回もまた、ご本ありがとうございました。
 日課にしている散歩、ここ琵琶湖畔は樹木も秋色に包まれてきて、散策、らくに楽しめるようになりましたよ。年齢相応に躰は弱って来ましたし、右手指が動かしつらく、お箸もペンも使いつらくなり、時には自分に喝を容れている時もありますが。
 奥様もお元気でしょうね  お二人くれぐれも お体を大事なさって下さいね。
 ありがとうございました。  大津市雄琴 水谷葉子  弥栄中学の頃の理科の先生
 
 〇 三日前の暑さが信じられない寒さです。今度は冷え切っています。
 場所をかえ 眼鏡を換え 姿勢をかえて 一息に読ませていただきました。青から赤への變化、冬は暖色? 
 気をつけても切手がまっすぐに貼れなくて、ゴメンナサイ   美沙  美学同窓 
 
 〇 寒さのいささか荒っぽい訪れに戸惑っておりますが、今日は娘の手を借り堀ごたつを仕立てるつもりでおります。
 秋の夜長をゆっくりと「花筺」を楽しませていただきましょう。豊かな刻をお贈りくださり心よりお礼孟子あげます。かしこ  十日 さいたま市  由紀子
 
 〇 発想のご苦労を思い ただただ痛み入ります。
 この五日に 信州大学図書館に恃まれて恥じての講演をしてきました。草稿をつくって行ったのですが長くなり、圧縮に四苦八苦してひたすら棒読みするだけになってしまいました。折角用意した図版も生かせませんでした。
 秦さんは講演のときどのように構えていらっしゃるのか、聞いてから準備すべきだったと反省しています。早々    大田区   吉正  評論家
 
 * おもわず笑ってしまった。講演は、話せる要点を個条にちっちゃくメモするだけ、聴衆の顔つきを見るほどの気分で、すこし散漫ぎみに、しかし脱線で時間を食われず話した方がいいのです。
 
〇 ともあれ、コロナはかからぬのが最良の策、ぜひくれぐれも穏用心下さい。
 日本ペンクラブもようやく舊來の姿を取り戻しはじめた様子です。まずは安心できるかと。 御礼まで 不一   詠
 
 * 後段 意味不明、わからない。ペンも協会も とうに無縁の気でいる。回避も払っていない。除名になって、少しも構わない。も
 
 * 東大大学院国文学 早大戸山図書館 三田文学編集部  大東文化大がく日本文学會 皇學館大国文学 等々 『湖の本』受領の来信。 
 
 * も少しと思っていたが、疲れきって根気が枯れている。今晩は階下へ降り、おりをみて早く寝てしまいたい。
 とりあえず当面の課題は、@「湖の本161」の前半「メイン」に何を樹てるか。『160』が「責了」となる前に発送の前のココロヅモリや注文、そして容易に着手。むろん一に、「創作」の続行。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月十二日 水
    起床 5-30 血圧 129-76(72) 血糖値 82 体重 53.0kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 眞の善良さにも増して稀なものない。善良だと自分で思っている人さえ、ふつう、愛想のよさか弱さしか持っていない。  (四八一)
 ◎ 精神(エスプリ)は、怠惰と慣れから、自分に楽なこと、もしくは自分の気に入ることにしがみつく。この習性が常にわれわれの知識を一定の限界に閉じ込めてしまう。                                   (四八二)
 * 無難に七時間寝ていた。早朝をむしろ楽しもうと。二階廊下の窓を開けると、路上ほのかに、かすかに、淡い紅らみの匂うようにこもって朝明けつつあるのが美しかった。
 
 * 昨日までのお手紙を読む。
 
 〇 十月六日 能美 井口哲郎さん 前石川近代文学館館長 元小松高校校長先生より
  いかがお過ごしでしょうか。お変りないことを願っています。
  この所、全く無為な毎日を送っています。ただそれが当り前みたいになっていることに気づいた時,いささか怖い気持になります。
 前にもお伝えしたと思いますが、家内の身の不自由さから、家事の負担が毎日の仕事です。この頃、思うことは、毎食の献立の、何と大変なことか、ということです。わけても二人の好みが異なるので、それをどう扱うか苦労します。
 隣りに長男夫婦が住んでいますが、いざとなれば,何でも手伝ってくれるものの、長年の別生活で,毎日の「生活」にかかれることは、なかなか無理です。
 まだハンドルは執れますので,買物にはことかきませんし、その運転をあやぶんで、娘(車で20 分ほど離れているが)が周一くらいに入浴の補助、日用品の買物,月一度の通院を助けてくれています。娘は、二人の子も巣立って、週に三、四回の仕事に出ている夫と二人暮し。夫の理解もあってうるさいくらい?手伝ってくれています。
 九十歳になって、家事まもれになり、それが普通になってしまっているようでも、ふとそんな自分を省ることもあります。
 最近の「作家」はあまり知らぬ人ばかり、その文章を読んでも、なんでこんな日本文を書くのだろうと、時宜に遅れている己れを忘れて,思ったりすることがあります。
 本棚の目についた「草枕」を読み始めています。少年時に「『おい』と聲を掛けたが返事がないない。」いうところが好きで妙に気に入り漱石のものの中では好きな作品です。何ともとらえどころのない(私には)ところが、きを引きます。
 秦さんのお作は、すべて机の横にありますので、それは十分に淋しさをまぎらわせてくれます。しかし、何を読んでも、何か気遅れをしてしまいます。事に向う姿勢の質が違うからだと卑下しています。
 ご無沙汰のお詫びと思って筆をとりましたが,内容のない手紙になってしまいました。お二人のご無事を祈っています。
 老いぬれば事ぞともなき秋晴れの
 日の暮れゆくもをしまれにけり  潤一郎
   十月四日            井口哲郎
  秦 恒平様
 
 * 泪のこぼれて拭えないお便りであった、親しみ合うてきた何十年もの虚空を想いがはせめぐって、そしてどうかご無事でと心底祈った。ご無沙汰を気にし気にしながら残暑に負けて疲弊の日々にも,もう少し少しでせめて「湖の本」が送れると励んでいた発送の前日か当日かに此のお手紙はいただいた。遅かりしと呻いた。
 井口さんのお身近には息子さんや娘さんの温かな目や手が働いている。
 私たちはどうなるのだろうと寒けがする。建日子には大事な同居人はいても、私たち両親には頼りに思い願える「嫁」はいない。押村高家の朝日子は数十年音信無い。
 もうもう本気で「ケア」の頼めるという人との接触交渉が緊急の必要に成っている。
 
  〇 何もかもむかしの秋のふかきかな  万太郎  (はがき表、住所印の脇へ)
 「二月二十一日…秦さんへの手紙投函、二十六日、『湖の本』着」と日記にメモがありました。今回は、手紙は十月六日、『湖の本』は翌七日でした。「私語の刻」の濃い内容に比べて、私の手紙のなんと浅薄なことと毎日の生き方のちがい,頭に溜めたものの質の「ちがい」からくるものでしょう。
 娘がいいました。「父は母の世話があるから元気なのだ」と。
 秋です。いろんな展覧会が,各所で開かれています。当地ではいずれも観るに価するものばかりです。しかし、本年は出かける気持のうすらいでいるような現状です。お大切に。
 (はがき表下に)昨日、今日と寒くエヤコンの「暖房」を押しました。私の日記はこの所ずっとメモばかり。食事(=の爲の)の記事が目立ちます、(本の=)受取まで
  (朱印で) 寒露               石川県能美市  井口哲郎 
 
 * 井口さんとは「メール」は無い。自筆、それも「秦恒平 用箋」とある原稿用紙を所望され、近年のお手紙はそれで戴き、私もそれで。最も自身手書の指先がジンジン痺れて、うまく書けないのが、苦。私にはなくて成らない心温かな先人である。
 
 〇 「湖の本」159巻を頂きました。ありがとうございます。
     九十にしてまだ口にする雛あられ  
 というのを作りました。なぜかまだ元気で、天気のよい日は自転車をこいで買物にも行っております。
     バンクシー楽書をしてもほめられて
     女より車の好きなオニイさん
       エンジンうならせどこへ行くやら
     神主が手順あやまる夏祭
 お粗末でした。   令和四年十月七日  平山城児  文藝批評家 元・立教大教授
 
 * やや先輩、怕いほどな批評家だったが。
 * 九七歳の文藝批評家 高田芳夫さん九月十五日にご逝去の報。
 
〇 拝呈  いつも『湖の本』穏恵贈頂き、ありがとうございます。
 さてもっと早く気付くべきなのに全く失念していたことがあります。
 実は私も月刊紙を作って身辺の友人に発送していました。近々のものをお送りすると倶に、、これからも送らせて頂こうと存じます。 お受け取り頂ければ 誠に幸甚に存じます。 敬具  十月七日  金沢市  松田章一  元・金沢大教授
 
 * いつ頃の「発刊」であったか 12乃至20頁ほどに紙を畳まれた冊子「續左葉子(しょくさようし)通信」を出し始められ,その節すでに数冊戴いた。もう110号にもなっている。一種の文藝日誌である。松田さんとは同歳であったと思う。お元気でと願う。
 
 〇 秦恒平 先生  湖の本159号、「花筐」をご恵贈賜りありがとうございました。
御礼が遅くなりましたことをお詫び申しあげます。
 ガン治療薬の副作用で発熱を繰り返しパソコンもあまり触りませんでした。
 湖の本158号110頁記載の『薔薇の行方』は、多分ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』と推察しております。この本はぜひご一読をお薦めしたく その理由等々情報提供をと準備していたのですが、上記のような事情で遅れております。追ってご送付いたします。
 p.s. 添付写真は、この秋今までになく美しく咲いてくれた キツネノカミソリです。
 キツネノカミソリはヒガンバナと同じヒガンバナ属(Lycoris)、早春に葉が伸び出し夏には枯れます。
 この葉のかたちををカミソリにたとえたといいますが 余り似ているとは思えません。
 秋になると茎だけが突然地上に現れつぼみをつける、この段階では ヒガンバナと見紛う姿です。開花して初めて見分けがつきます。   篠崎仁
 
 * なにからつけ篠崎さんには教わってきた。きれいな風が吹きいるようで心地よく嬉しく。お大事になさって下さい。
 
 * 書庫に入って座り込み、かなりな時間、本を並べ替えていた。読んで欲しいという声が鳴り響くよう。ごめんごめん。そんな中から坪谷善四郎著『明治歴史』下巻を手に持って,出た。文久二年(1862)生まれ。東京専門学校(現・早稲田大学)政治科に学びながら博文館に入社、編集局長を経て、取締役、著名な雑誌「太陽」を創刊初代の主筆,編集主幹、世辞かとして東京市会議員7期、東京市立図書館(現・日比谷図書館)を建設に尽くし、日本図書館協会会長という「実力」の人の主著のひとつが、この大著上下巻の『明治歴史』で、私はかなりに歴史書には触れてきたが此の博文館蔵版坪谷善四郎の『明治歴史』は、感嘆、第一級の名著にして充実と謂わねばならぬ。祖父鶴吉旧蔵遺産のなかでもこの書に出会えたのは、まことに有難かった。著者にも祖父にも敬意を惜しまない。
 
 * ドクター「大門未知子」がテレビに帰ってきた、が、第一、二回とも「下品な二番煎じ」で、ガッカリ。これにくらべ、フランス版か、あらたな連続医師ものの「ベク」が、みごとな感動のスタート、胸を衝かれ、期待十分の楽しみになる。
 日本のテレビドラマ作者たちは、先日の『鎌倉殿の13人』途中での「出演者らのおしゃべり回」など、視聴者をナメてかかっている、大方「へたくそ」なくせに。
 さすがに映画への力の入れ方はちがう。旧作だけれど、森雅之と京マチ子に好きな久我美子が加わっての映画『あにいもうと』など、あたまの15分程でも、しみじみと魅して呉れる。
 
 * 家の内・外の「直し」仕事に職人が入っていて、「ま・あ」ずがヘキエキしている。
 
 * プーチン・ロシアに疲労の悲鳴が上がり掛けているとか、最期っ屁のような無茶を遣らせたくない。 
 日本では、どうも岸田政権に不埒な驕りとダラケがハナにつき始めて、不快味が目にも耳にも鼻にもつき始めている。所詮はコウかと、おもうだけに、野党どものちぐはぐなボンクラ振りにも、ガッカリ。
 
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月十一日 火
    起床 6-30 血圧 120-64(97) 血糖値 82 体重 53.0kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 同情されたい、もしくは感心してもらいたいという欲望は、しばしばわれわれの打ち明け話の最大の要素を為す。  (四七五)
 ◎ 毅いところのある人だけが眞の優しさを持つことができる。優しそうに見える人は,たいてい弱さしか持たず、その弱さはしばしばとげとげしさに変わる。  (四七九) 
 
 * 明後日の午前には「湖の本160」再校がが届くと。
 
 * 午までに、と、危ぶみながら妻と郵便局へ、其処から、タクシーで駅前の銀行へ。妻が家計の通帳へ三年分に余るだろう金額を移しておいた。私自身が、いつ、どうなっても当座妻も私も安心していられるように。あとは建日子に依頼する。
 疲れはしたけれど、往き帰りにタクシーを使ってかえってこれた。
 
 * 往年の弥栄中で理科を習ったいま琵琶湖畔在の佐々木(水谷)葉子先生、美しくも見事な京菓子と甘酒とをお手紙も添えて下さる。有難う存じます。 
「尾張の鳶」さんも京都から、見事な鰊の蕎麦を六食ぶん、ほかにも老舗の京菓子などを大きな箱にとりまとめ送って下さる。好物の京南座脇の「鰊蕎麦」で、食足らずのやせ細りに美味い「活」を入れて戴く。ありがとうよ「鳶」さん。
 
 * 「湖の本 159」へ、石川県能美の井口哲郎さん、金澤の松田章一さん、埼玉県川越市の平山城児さん、懇篤の佳いお手紙下さる、有難うございます。明日にも繰り替えして拝読したい。
 
* まこと、滑稽も滑稽な私の粗忽で、妙齢の作家さんと勘違いして、西国の某縣勤めのエライらしきお方に「湖の本」を送り続けていたのが、お礼のお手紙を初めて戴き判明した。やるんだなあ、こういうトンマを、私は。御免なさい。
 * 高麗屋の幸四郎が、師走の歌舞伎座へ誘ってきてくれましたが、いまのコロナのようすと私の体調では。残念、乗れないなあ。なにより歌舞伎座まで通えるだろうか、往復路をタクシーを使うしかないか。
 もう一度、街を,銀座、浅草、上野そして博物館など、歩きたいがなあ。
 
 〇 秦様
 「湖の本」159号のご恵投、ありがとうございました。早速拝読しております。秦さまの日本古典文学に関するご造詣の深さに改めて敬意をいだき、感心しております。とにかく『源氏物語』を十回の余もお読みになっていることだけでも大変なことと存じます。またお若いころからたゆまず勉強を続けこられたことにも敬意を抱きます。私は筑摩書房時代、酒場通いの悪癖を身につけ、貴重な時間を無駄にしてしまったのを大いにいま悔いております。
  マルクス・アウレリアスの『自省録』をお読みになっておられますが、わが愛読書ギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの私記』にも登場、いつか読まなければと思っておりましたが、いい機会と思っております。
「ヨブ記」は『旧約聖書』の中で『コへレトの言葉』と並んで私の好きな章で、いまも時どき開きます。私はカトリック教徒ですが、ヨブの持つ信仰の強さはとても持てません。踏み絵をすぐ踏んでしまう人間です。
 このほか秦様の御文章を読みながらいろいろのことを教えられ、また楽しんでおります。今後もよろしくご指導のほどを。
  ナチの世のタンゴ切なくわが胸に響きてやまぬ深夜の酒亭
  喜びも哀しみも淡くただ虚無の拡がる胸よ「薔薇のタンゴ」よ
  失ひしもののみ多く人生(ひとよ)朽ち古きタンゴに胸を灼かるる
  夜の酒肆に「小雨降る径」鳴りてゐつ湧きては消ゆる一人の記憶 
                      茨城四街道    鋼 生
 
 〇 京土産数々  有難う存じます。鰊蕎麦の美味 ひとしお、
 名菓とお茶は 折をかえて楽しみに。こころより御礼。
 やはり泥のように寝入ります、数時間また数時間。根気が腐ろうとしてるのか。なるべく気楽なことを、思いも、独り口にしつつも,狡く躱そうとするのですが。 結局横になり、すこし読み進んでは寝入ります。
 いま、九時過ぎ、機械の前へ来ました。メールもなく。明日の要に備えておくだけで、寝ます 明日の体調に希望(のぞみ)を持って。
   鳶  お元気で。高らかなピーヒョロロを聴かせて。  鴉カア
 
 * いま異様に気分悪しく 寒け。もう床へ逃げるしかない。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月十日 月
    起床 6-50 血圧 134-70(70) 血糖値 82 体重 53.3kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 吾々の素質はすべて善とも悪とも不確かでアテにならず、ほとんど全部がきっかけ次第でどうにでもなる。  (四七〇)
 ◎ 自負心にも、他の情念と同じく支離滅裂なところが有る。  (四七二) 
 
 * 「もう一寝」をえらんで七時前になった。空腹感がある。
 
 〇 「湖の本 159」有難うございました。
「花筐」は、もう何年も前に、腹案中の小説のタイトルとして伺った記憶があります。
読了してからメールをと思い、読み始めましたが、やはりなんだか落ち着かず、先にメールすることにいたしました。
 早く読み終えてしまいたいような、読み終えるのが惜しいような。
「魚潜在淵 秦恒平・私語の刻」も、今年の二月から四月末まで。直近のものになってきましたね。こちらも楽しみです。
 私の単著は、今月28日頃刊行予定だそうです。早くお目にかけられればと思っています。 10月になって、寒暖差が大きくなってまいりました。お風邪など召しませぬよう、お大事になさって下さい。ますますのご健筆をと願っています。  市川  はるみ
 
 * 今少し 決まり文句でない發明な文面になりませんかねえ、川端康成研究で「単著」が成るほどの研究者ならば。
 
 〇 御礼 湖の本 159  花筺 はなかたみ 魚潜在淵
 ご恵送頂き 本当にありがとうございます 創刊 第百五十九巻 拝掌致しました
 『花筺 照日の前 継体天皇』この絵を見つけたのでお送りしてみたくて(もうご覧になっているだろうなと思い乍ら)メールを作り出したのですが 絵と文とうまく乗らず 2通にしてみました (どうもメール造りが うまくいかなくなりました)
 秦さんに 渋谷(能楽堂)へ連れってっていただき お能で「神様に出会えた」のを思い出しております
 魚潜在淵 或在干渚 もやっと 詩経・小雅 鶴鳴 に辿り着きました やはり「大学」や「詩経」とも付き合ってみねばと思っております
 寒くなってきました
 この冬は コロナとインフルエンザが重なりそうで心配です
 くれぐれもお大切にされてください  千葉 e−old  ドクトル勝田
 
 * 映像は出て呉れれない。私、機械との付合いベタは亢進一途。残念。e−old勝田さんのメールはいつも往時の愉しかった出逢いや食事などを想い出させて戴ける。フレンドと謂う仲なんだなあと有難い。
 
 * 昨日「尾張の鳶」が京都泉涌寺の来迎院から送ってくれた院の正門や建物や茶室やお部屋や回遊の前庭や 等々、スライド展開で一つ筆に食い入るように見入っている。もうあの庭先の縁に腰掛けて静かに静かに夢を観られないのか。先生の提案で、慈子のお手前で月明の茶会を楽しんだ昔昔があまりに懐かしくて、つらくなるほど。
 
 * そうだなあ……。日々にあくせくして、なおまだ「此の先」へ何かをと喘ぐよりも、もういいではないか、それより、思い切り心地を解放して全善三十三巻もの『選集』作を静かに読み返し味わうがいい…と深い内心の要望が疼くようになってきた。心弱っているからか、天来の「もよおし」か。なにはあれ、もう一度「尾張の鳶」に、有難うと。
 
 * 朝であったか午であったか、塩鮭を焼いた一切れを食した。久しぶりの「食」だ、魚は苦手の,事に煮た魚は嫌いな私が,小さい頃から焼いた塩鮭は、箸を付けやすくも在って食べた。平目とか謂うのを焼いたのも、背側はむしろ好んで食べた。鍋にするベニス骨のない鱈も淡泊を好いた。刺身というのは、近頃になってきみわるくなり、寿司から腰を引いている、干瓢やなどの卵焼きなどの淡泊な巻き寿司をのりの味を好いて注文したり。
 
 * ともあれ塩鮭の一切れでも口に入ってよかったと、妻も喜んだ。日本酒にも洋酒にも、なぜか、あまり手が出なくなっている。四、五合瓶なら二日、一升瓶も四日ほどで明けていたのが、今は、手が出ていない。佳いか善くないか、なら、いい傾向か。
 
 * ここの家二軒を繋いで 私のモノやモチモノの整備と所蔵に宛てたいという意向を妻にも建日子にも漏らしてあるが、現状「無視・無反応」 予期の通り。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月九日 日
    起床 6-45 血圧 140-71(70) 血糖値 82 体重 53.0kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 罪はずいぶん庇い立てされるが、無実の方はそんな庇護を見出せるどころではない 世の中である。  (四六五)
 ◎ 虚栄心は、理性よりもいっそう数多くのわれわれの好みに反することを、われわれになさしめる。  (四六七) 
 
 * からだに、ことに腹中に空疎に力ない感覚、食べたいという気が沸かない。味を濃くした汁(スープ)を呑むだけ、小さく刻んだ餅はおろか、小刻みの豆腐にさえも手が出ない。強いていえば、「まだ生きてるぞ」という気張りがあるだけ。睡いか。瞼は重い。シャキシャキととても仕事できる気分でない。。
 
 〇 十三夜
 秦さま 昨夜は、夜空も晴れ渡ってとっても綺麗な十三夜の月を見ることができました。
芋名月とも豆名月ともいうようですが、わが家ではいつも栗のお菓子をいただいています。
 早速のご親切なコメント・ご助言、ありがとうございます。
 特に「要望や要求の段階で「事足れり」のような半端な自己満足を引き摺り、何も達成実現してないと謂ったところへ嵌まり込み兼ねない。市民活動という名目の散漫化しかねない盲点では。」とのご指摘、いつも私たちが気にかけていることで、身に沁みます。これからも半端な自己満足に陥らないよう、一層頑張らなければ・・・と思います。
 継続は力なり、を信じて粘り強く根気よく、しっかり結果・成果が得られるまで。
「野党と市民の共闘」については、私たち市民はガッカリさせられることばかりです。最終的な目標は同じハズですのに、共産党と一緒には共闘できないとか、何とか小異にこだわってなかなかうまくいきません。「安保法制廃止」の時に「市民と野党の共闘」体制を作った頃は、それでも一応上手くいっていたのですが。
 その後、野党同士がギクシャクして、私たち市民はいらいらしているところです。そんなこんなで「市民と野党の共闘」は、もう崩れかけています。小異を捨てて大同につく、というのがこんなにも難しいものなのですね。
 愚痴ばかりのメールで申し訳ありません。
 私は、今から「湖の本」を楽しんで心安らかに就寝します。
 夜はやはりすっかり寒くなりました。暖房がほしい季節ですね。
 秦さま、迪子さまも お風邪など召しませんようお大切に。   仙台 恵子
 
 * 人間がせいぜい強い弱い程度の分別で固まっていた太古はともかく、今は、バベルの塔が崩壊のまま、万人いれば「万」の別種の欲に駆られた自己主張で人間が混在している。 まず、どうしようも、ない。神はためらわれず「方舟」の世を心聡い少数のために爲し與えたまえ。
 
 〇 みづうみ、お元気ですか。
 昨日、159巻を無事に頂戴いたしました。ありがとうございます。毎回頂戴するばかりで、本当によろしいのでしょうか。申しわけない気持ちです。『花筐』読みたかったのです。繰り返し読むことで少しでもご恩返しになるとよいのですが。
 たまたま、みづうみの「九月の私語」のなかで、ご自宅の大量の荷物等をどうするかという話題を拝読。
 家財処分で全部廃棄などは絶対おやめくださいますように。
 これは身勝手な読者わたくしの提案ですが、将来、建日子さんに、ご自宅を「秦恒平」文学館・文学資料館として保存、活用していただきたいと思います。
 書斎もそのまま、蔵書も、可能なかぎりそのままです。本に埋もれてつぶれそうなお部屋があるとしたら、本好きはアドレナリン全開で胸がキュンとします。
 谷崎松子夫人の見事な巻紙のお手紙なども是非展示していただきたいと思いますし(管理が大変と思われましたら、近代文学館に寄贈なさるという方法も。文学史的価値ある資料でございましょう)。
 もし「湖の本」にまだ在庫などございましたら、来館者にも販売する場所にしていただけると嬉しいです。
 大真面目に実現を願っていますので、どうかお笑いになりませんように。
 急に肌寒くなりましたが、身体がまだ暑さの記憶を残していますので変な調子です。お風邪など召されませんように。    秋は ゆふぐれ
 
 * わが家は、家屋にして「二軒」が左右に繋がっていて、隣家を買い取った西の家の階下は「湖の本」在庫で埋もれている。二階は使用しないでいる。是を取り毀し、現状をほぼ遺したままの東の家に西の家を繋ぐように簡素で堅固な洋風の建物が建たないかと、夢は観ていた。上記メールでの提案にほぼ一致している、但し建日子に任せられるかどうか。ありたけの蓄えをはたいても、これは私生涯の仕上げと思ってきたが、この今にも千切れそうな生命力・不健康ではと、残念至極。設計なら、東工大建築出の現役バリバリが力を貸してくれるだろうに、時機、既に遅いか。
 〇 一昨日、御本が届きました。
 今日は、娘の用事で京都に来ています。
 東福寺北側から泉涌寺の方に歩き、来迎院で豊かな時を過ごしました。
 昼過ぎから静かな雨です。お身体大切に大切に  尾張の鳶
 
 * うらやましいを超えて、ヒガムほど。東福寺、そして泉涌寺の「来迎院」とは、強烈無比の刺激。『慈子』や「先生」「お利根さん」と過ごした昔が、山なす潮のように私を覆い尽くす。写真が何枚か添うてあるが、こと来迎院や泉涌寺・東福寺と鳴門、踏む足もとの砂利や地面の音やぬくみまで蘇ってくる。「尾張の鳶」はまだまだ元気に京都を飛び回りに行けるのだ、眞実、羨ましい。 想い出させてくれて、有難うよ。
 
 〇 秦 兄  湖の本第159号ありがとう。同年生としてこころから敬意と感謝を表します。何事にもキリがあるので、半端な数字でなく200号を「必達」目標とまでは言いませんが、せめて努力目標にして健筆ねがいます。
 同年生が何人、その「達成記念号」の読者として生き残っているか分かりませんが、その一人として精進・節制したいとおもいます。
 趣味の音楽も他事にかまけて愉しむ時間がなく、「戦後流行歌史」の作成も数枚のCDで中断のままですが、BGMとしては聴いています。
 当時の歌は、名の通り、引揚げ兵の「かえり船」にはじまり、菊池章子の絶唱「星の流れに」など世相を映し人を歌ったものを聴きながら当時をあれこれ思い出しています。
 多感な敗戦後新制中学生の頃、ほんとうになつかしい。
 (筆者が当時思いを寄せていた)石塚公子のピアノを聴いてみたいが、どこかで元気でいるだろうか。兄の今回の号に石塚をモデルにした短編とあるが、ぜひ読んでみたいものだ。
 その石塚から最初にもらった本が シュトルムの短編「みずうみ」だった。いまから思えば石塚が結婚した「コンニャク」こと理科の伊藤先生からのプレゼントだったのでは、と思われてほろ苦い気持ちだが、その時は舞い上がって、この短編を原語のドイツ語で読もうと丸善で買った「対訳本」はボロボロながら未練がましく手もとに残っている。
 この齢になって、世直しのために背中が丸くなるまでパソコンの前に四六時中すわっているので家人に嗤われているが、これも一種の呆け予防と心得ています。
 お互いに体を労わり人生を全うしましょう。いつもありがとう。  森下辰男
 
 * 佳いメールですねえ、しみじみと「旧友」という温かい熱い実感に包まれている。そして、なんと面白いことも読ませて貰ったなあ、あの「石塚公子」に「貰った本」の目の前最初が、シュトルムの『みづうみ』とは、こりゃどうじゃ。
 同じ馬町の京都幼稚園へ毎日バスで通い合った石塚公子とは、吾が「ハタラジオ店」の目の前、幅七メートルも無かった道路のお向かい、長屋を二軒西へ、奥の深い屋根路地門の西真脇の家に育っていた。私からいえばずぶずぶの同い歳、恰好の幼な馴染みだった。対抗心のつよい女の子で、罵詈雑言でケンカもしたし、大声で覚えてる限りの歌など唱い合うて飽きない仲良しでもあった。ただ、あの家にピアノは無かった、のに、同じ弥栄中學に進んでの、他に人のいない大講堂で、独りグランドピアノを、ただ鳴らすのでなく、確かに曲らしく弾いていたのにはビックリ仰天した。
 シュトルムの『みつうみ』にも、ま、仰天した、何故かなら私が自分のお金を財布から出し、本を、「岩波文庫」という本を河原町の大きな書店で、二、三度も通い何時間も掛けて「選んで」買ったのが、シュトルム作『みづうみ』であったから。一つにはあの当時「岩波文庫」に独特、背表紙に ☆ が入ってて ☆一つ の本は即ち、当時「十円」を意味していたのである、同じ年の内であっかも知れず間もなくに「十五円」に値上げされたのもよく覚えている、つまり、私・秦恒平は、金「十円也」の岩波文庫一冊を「生まれて初めて」中学生で、自分のお金で、買いました。、「書物を買う」という、生涯初の「ド大変な経験」をしたのだ、忘れもしない、しかもその『みづうみ』の縹渺としたロマンチックにも嬉しく心惹かれた、大いに満足したのだ。むろん記念に値する ☆ ひとつ「十円也」の昔々の岩波文庫『みづうみ』は、現在「やそろく」歳の私の文庫専用書架に保存されて在る。そして、無論とと云うていい、此の『みづうみ』なる、外国人『シュトルム』の筆で書かれた「岩波文庫」という「小説本」を、お向かい同い歳の石塚公子に吹聴し見せびらかしたのも当たり前であった。
 その同じシュトルム作『みづうみ』を、京都在の友森下君は石塚公子に「貰っ」て、いまも懐かしく所蔵していると今日のメールに明記されある、何時にとも、状況も知れないけれど、これは「佳いハナシだよ」と驚嘆、「おもしろい」とも感じ入った。「書ける」なと、大いに頷けた、ま、「書きはしない」だろうが。
 石塚公子を私が「小説に書いている」とも森下君は触れていた、覚えはあった、が、ハテとすぐは大もなかみも思い出せなかった、が、私の『選集』第十一巻に入ってた『羲(よ)っ子ちゃん』がそれで、これはもう現実の石塚公子とはかけ離れ、放埒なほどのフィクション作であった、ちょっと気をよくしたほど面白くは書けてましたけど。
 石塚公子は、森下君のメールにある、当時「(糸)こんにゃく」とあだ名の、若い男先生同士でも生徒にもあまり買われてなかった理科の伊藤先生と「結婚」してたとは、よほど後々に漏れ聞いた、あり得そうな仲じゃわいと思い、それも忘れていた。伊藤先生はのちにどこかの「税関」とやらにお務めともかすかに聞いた、が,何も知らない。
 
 * 連続劇として観ている『鎌倉殿の13人』が劇でなく出演関係者らの「ダベリ番組』されているとは、心底アタマに来たよ。ふざけるな。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月八日 土
    起床 5-30 血圧 140-71(70) 血糖値 110 体重 52.75kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 吾々の敵は、吾々について下す判断に於いて、われわれ自身では及びもつかないほど眞実に逼る。  (四五八)
 ◎ われわれは、自分の情念が自分にさせることの全部を知り尽くすどころか、およそほど遠い。 (四六○) 
 
 * 52.75kgまで体重が落ちたとは。中学時代へ帰っている。
 
 〇秋冷の候、という挨拶がぴったりくる季節になりました。仙台はきょうも一日中冷たい雨です。
「湖の本」159号、ありがとうございます。秋の夜長、ご本をゆっくり拝読します。
 岸田政権は、国葬強行や統一教会問題を抱えながら いつまで持ちこたえられるのでしょう。(居座る気なら、党内に激震級の騒動が起きぬ限り平然と続くでしょうね。 秦)
 野党がだらしない上、連合の姿勢もあやふやで、岸田政権がずるずる続くのでしょうか。
 (ちっちゃな野党が幾つあっても政権批判や刺激の何の役にも立たず、同士討ちの滑稽劇を演じ続けるだけが「日本国の野党」。もし今、野党「協力」が成るなら、一致して叫ぶべき合言葉は「即時の国会解散…選挙」要求の筈。ケチにシミッタレては仲間割れに嵌まるのが彼等毎度の愚行、自民党はラクラクとタカを括って居れます。バカみたい。 秦)
 別件ですが、私たち「共学教育の充実を求める会」では、過日 県教委に「県立高校すべての教職員にジェンダー平等研修を受けさせてほしい」旨の要望書を提出し、併せて宮城県文教警察委員会宛に同趣旨の陳情書を提出しました。要望書の方については、既に県教職員課長や高校教育課長と面談の上、「了解しました。適切に対処します」といういかにもお役所的・官僚答弁をもらいました。
 それでは、本当に実施するかどうか怪しいので、県議会でも取り上げてもらうために文教警察委員会にも陳情書を提出した次第です。
 文教警察委員会はまだこれからですので、今後の県の動向を注視しているところです。
 また、女川原発再稼働阻止の活動や、「改めて国葬問題を検討する」活動などにも参加しています。
 私の近況は以上の通りです。 (今日の人間社会には、気がつけば為し成すべき要望や要求は数え切れないほど、有って普通。 それだけに聡明に取捨して幾焦点かに引き絞らねば、要望や要求の段階で「事足れり」のような半端な自己満足を引き摺り、何も達成実現してないと謂ったところへ嵌まり込み兼ねない。市民活動という名目の散漫化しかねない盲点では。 秦 )
 秦さまも迪子さまも、いかがお過ごしでしょうか。「湖の本」の荷造り・発送等々でお疲れのことでしょう。寒暖の差が激しい昨今、どうぞお身体をお大切にお過ごし下さい。
   仙台:  惠
 
 〇 「湖の本」159をいただきました。ありがとうございます。
 秦さんの「体が衰えても意気軒昂」の姿が目に浮かびました。読み終わって中扉を眺めて紅葉狩りの気分のまま、果ては裏茶屋の落ち葉敷く飛石の上を歩く自分がいました。「花筐」のそれぞれの命が色のタペストリーのように甦って息づいていました。外出困難の折から眼福を堪能させていだきました。
「逢ふみのうみ」では、越前から擁されてきた男大迹王(おおど)の音が神世七代の中第五代の「意富斗能地神」(おほとのぢ)を思い出させ、越前出身の野路(のぢ)と結びつく幻想に誘われました。
全編は「まるでフーガの技法で配列」されたかのような高揚と余韻の連続で 今までにない不思議な読後感でした。
 秦さんのご勉強、ご努力が私の励みにもなっています。どうぞ更なるご健筆を楽しみにいたしております。  野路
 
 * 今回「湖の本 159 花筺 魚潜在淵」の前半は、よほど凝って創っていて、ダイジョブかな、通るかなと気に懸けていた。並木さんや野路さんほどの読み手に、ま、認めて貰えたらしく、ほっと息をついた。女の気持ちで女の言葉を、話し言葉や書き言葉を「創る」のは、むくつけき老耄の悪趣味かとも思うけれど、易しくはないのです。
 
 * 到頭 間に合わず、一日先に井口さんのお手紙を戴いた。きっとこの夏場、お互いにしんどいことだろう、お手紙差し上げたいと思いつつ、新刊の本が先に届けばとガンバッた、が、一日違いで先にお手紙が届いた。やはり、よほど日々のご苦労が増しているようで胸が痛んだ。思えば、私の今夏も散々の疲弊・困憊であった、当分はまだ治まるまいと疲労感の重さを、これ一身で手に受けている。
 
 * いまも保ちきれぬまま正午を挟んで二時前まで寝入っていた。妻の従弟の濱敏夫さんから届いた葉書が、名にしおう大観の富士、もう蒙の白雲から突と顕れた黒い霊峰富士の頂容、素晴らしいのに見入って、俯きがちな思いを励ましている。佳いものは佳いなあとと嬉しい。
 
 * それにしても、なんと苦痛にけだるく力無いのだろう、夕食のすきやきも一片として食せなかった。青い紙に▼に包んだチース片を一つだけ食した。甘酒を少量呈されたが、吐き気がした。いま、七時過ぎ。せめて、ぐっすり寝入りたい。横になり、せめての「読書」だけがクスリめいて効く、か。
 井口さんに返信したいが原稿用紙に手書きの根気がない。
 「ホンヤラ堂」が写真集を。小さい頃の「恒」「猛」そして「北澤の兄の顔」も出ていたが。兄も、甥の猛までもすでに「自死して」此の世にいない。「そっちから、呼ばないで呉れよ もーいいかい などと」「まあだだよ」「まあだだよ」 だが、なんという疲労困憊の「グタグタ」か。
 
◎ 令和四年(二○二二)十月七日 金
    起床 6-40 血圧 140-75(76) 血糖値 110 体重 53.35kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ いかに世間が判断を誤るとはいえ、偽の偉さを厚遇する例の多さは、眞の偉さを冷遇するのに幾層倍もしている。  (四五五)
 ◎ ありのままの自分を見せる方が、ありもしないものに自分を見せかけけようとするよりも、ほんとうは得になる筈なのだが。 (四五七) 
 
 * 前夜 十時半に床に就いた。眠りは有った。敷かしながらほぼ正一時間ごとに尿意に起こされ手洗いへ。実に七回。尿量はまともに有った、が、これは苦行というものであった。幸い一時間ずつは寝入っていた、但し終始歌声を聞いていた、それはあの火野正平が自転車で走る番組のテーマソングの冒頭一節「だれだってイーイ」とという女声の叫び。
 安眠とは謂えないが、不快な夢に悩んだというではなかった。体重は、相応にまた減っていた。食べなくては。体力の逓減は著しい。
 
 * 時間の感覚がトンでしまい、今何時と見当も付かなかった。
 
 * 不快な寒け、暖房を強め、着るモノも厚めにして、宵のうち寝入っていた。八時半。眠ったまま、夢中に今度は兄恒彦を私・恒平なりに書いておかねばと思案し続けていた。
 
 * 此の四日、五日のうちに発送した呈上本の、到着を告げるメールが、まだ、ゼロというのが不審、どうやら宅急便からの発送が遅滞していたらしいと。
 思うように事は運ばない、と謂うこと。やれやれ。
 
 〇 秦先生 「湖の本」159 嬉しく拝受いたしました。
 ありがとうございました。
 端正な宛書の文字にしばしみとれました。
 先生の勢いのあるお手とは また異なる味わいの美しさですね。
 急な寒さ、どうかくれぐれもお体ご自愛くださいませ、先生も奥様も。
 キュ−バ危機以来、とのバイデン大統領の言葉に、いよいよ「渚にて」が近くに、と・・・。  岐阜縣  以都  詩人
 
 * おう。新刊到着のお知らせ、第一着。ありがとう。ペンクラブで仲良く、そして二人ともペンクラブから離れてきた。お元気に、また美しい詩をいろいろ読ませて下さい。                  
 〇秦恒平様  本日、『湖の本』159 花筐 魚潜在淵 を いただきました。いつもながらのご厚情に感謝を申し上げます。熱心に拝見しました。
 今年の世界の情況、日本、ご自身の情況考察を交えたご文章に引き込まれ、共感しつつ、忙しいにもかかわらず、ゆっくりと読んでしまいました。
 ご自身の葬儀に関するご希望は理解できます。私もそうありたいとは願いますが、他方、キリスト者である私には、礼拝による生者と死者の交わりの時ととしての葬儀を避けることができません。躓きつつ、傷つきつつも、罪の赦しを祈りつつ歩んできた人生が人々に提示されるでしょう。このような人間を生かして下さった主への感謝が人々に伝達されることを願います。キリスト者には死はもっとも私的な事柄であるとともに、公的な意味を持っています。
 『花筐』の中の「かなしきものを」が妙に心に残りました。
「ジィドには毒の昏い味がする」。そう思います。毒のない小説は物足りない。「カソリック」は「カトリック」とお書き下さいますよう。
 今後も、「体調を維持しつつ、書き続け」て下さいますよう。
 聖路加国際病院に出かけなくてよくなったようですね。今後は通院の気疲れが大分違うでしょう。私は幸か不幸か、武蔵野日赤の循環器科の主治医によって体調の変化を見張られています。有り難いことだと思いますが、心電図を取る日には何事もないことを願って、未だに緊張します。先月は無事にパスしました。ちょうど1年前には心臓にステントを入れて、窮地を脱しました。
 ご夫妻のご健康をお祈りします。ありがとうございました。  浩  icu名誉教授
 * いつもながら、お励まし下さる。ありがとう存じます。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月六日 木
    起床 6-00 血圧 128-69(77) 血糖値 110 体重 53.5kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 頭のいい馬鹿ほど はた迷惑な馬鹿はいない。  (四五一)
 ◎ 大事に当たっては 欲張った好機を狙って待つよりも、到来した好機に乗じるのを心がけたがよい。  (四五三) 
 
 * 四書五経 いまや顧みる人は少ない、無いに同じいかも知れぬ、が、今日の高校生が目指す大方派「大學」ではないか、『大學』は「四書」の筆頭であり、その概要に当たる字句を昨日、こに掲げておいた。其の旨は、何一つ古びるどころがこの二十一世紀に唱えられて毫も古びていない、古び於呂得て無自覚なのはいわゆる現代人と自称の実はたんなる「今日人」に過ぎない。
 
 * 「ちゅうよう」という言葉を今日人もおもいのほか日常にしたり顔に用いているが、程ほどに中を採っておこうぐらいな意味を謂うている。が、始原の語は「四書・大學」の次なる「中庸」であるなど、もはや誰も意識も記憶すらもしていないと見える。
 
 * 「天の命(めい)」之を「性」と謂う。「命」とは「本然」ほどに受け取っていいか。れはまた「本性」であり、今日の人の好きな「セックス」とは大きく超えたすべて「モノ・コト・ヒト」の本質をいうのであろう、それならは首肯定できる。
その「性」に「率(したが)」うて歩み生きる率土や本徒をすなわち「道」と『中庸』の教えは指さす。その「道」へ導き体得する、それが「教」という指導で在り会得に他ならないと。「道」は瞬時とても逸れていもので無く、逸れるはを即ち「非道」と。
 現題のわれわれも「非道」ともちいており、より便宜には「ひどい」ヒト・もの、ことを指さしている。ひどくてはならぬ、と、それが「中庸」の教えのまさしく肝要なのである。そのどこにも古くさくていまや無意味・無価値と擲っていい物は無い。
 今や当たり前のように「古くさい」代表のように忘れられた、これら「大學」「中庸』は実に孔子が「初」の発言・発語であった。覚えていて佳いではないか。
 * 疲労と謂うよりも、体力のひどい低下とみるべきか、目覚めていても、終始首ががたっと落ちて俯いている。
 今日は、寒い。四肢の冷えが痛いほど。是非ははかれないが、昼まえだが湯に浸かろうと思う。なんだか失神へ小刻みに這い寄っている心地がしている。
 
 * 潰れたように、少し食した後、床に就いたが寒いのに驚き、厚着に替え暖房もして、久しく明けたままのドアも閉めた。
 いま、機械をとめに、二階へ。
 
 〇 膝を意識して、以前の様には歩かず、歩数を減らしています。
 関東地区に住まいする弥栄中の仲良しが、老人ホームに入居したので 手紙を出して下さいとのメールが娘さんよりあり、そんな年齢になったんだ、と、改めて高年齢を意識しています。
 イヤですね…   (ちなみにこの人、秦に一歳若い。)
 デイサービスに週二度行くのが、私の、今の外出です。同世代と話せるのは、マア楽しい。東京は全国の集まり、関西人も何人かいて、話は弾みます。   又…  千恵
 
 * 私には、人と会ってハナシを弾ませるという習いも望みもごく希薄。ハナシなど特別せずに済む方が懐かしく逢える気がするが。
 
 * さ、寝入りに階下へ降りよう、部屋も床も 十分温めてある、着衣も手厚く選んである。
 
◎ 令和四年(二○二二)十月五日 水
    起床 6-00 血圧 128-69(77) 血糖値 110 体重 53.5kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 自然に見えたいという欲求ほど自然になるのを妨げる者はない。  (四三一)
 ◎ 人間を一般に知ることは、一人の人間をよく知るよりも容易い。  (四三六) 
 * からだのためには、も少し朝寝すべきであったかも。しかし、今、とは、老い深まる、この頃ということだが、「朝明け」の澄んだこころよさが何とも謂えず「惜しまれ」「懐かしい」のである。むざと喪いたくない、のである。
 
 * さ.今日も出来るだけの力仕事で新刊の『花筺 はなかたみ 魚潜在淵』を送り出し続けよう。総題の美しいせいか、なにとなく愛着の一冊。
 
 〇”九月の”メールをいただき 本当に有難うございます ”三日間の小憩”をどうされたのか考えてみましたがわかりません ちばのそれとは大違いだと気づき なさけない頭をボカボカしております 
 漢文は高校で少しだけ付き合ったのをおぼえています 
「大学」: 詩云、緡蛮黄鳥、止于丘隅。子曰、於止、知其所止。可以人而不如鳥乎
意味を解説されても実践ならずお恥ずかしい限りです
『渚にて』見てみたいです
人間はなぜこんなになってしまったのでしょうか
 視力低下 テレビ画面がぼやけてきました
 パソコンの機械も通信もアウト寸前です(コロナからいまだに対応できていません)
 コロナまだまだくれぐれもお気をつけください
どうかお大切にしてください  千葉  勝田e-old 拝
 
 * お互いe-old で出遭って、久しく仲良くして戴いている。「友」という感覚での交際の少ない少年だった。口にはしないが好きかどうかで人と出会いまた離れてきた。しあわせなことに、『湖の本』や仕事のお蔭で作家として歩み始めて以降、「友」に多く恵まれ親しみ続けている。これは頑なな私の進歩と謂うもので在ったろう.勝田さん然り。懐かしいといつも思う友、またe-old  が、男性女性とも人に、近年は羨まれるほど多くなった。しみじみそれを有難いと思う。
 
 * 午後三時、な、なんという能率 老夫婦協力し、「湖の本 159 花筺・魚潜在淵」の「全発送」を終えたよ。これ、スゴイよ。感謝感謝。
 すこし休憩できる。
 
 * 夕食も殆ど摂れなかった。鰹出汁のスープのような、汁ばかり好んで呑んでいる。
 
 そんな夕食を挟んで、夕寝、晩寝して、十時に床を起った。すこし疲れからもちなおしたろうか。
 寝入る前の読書は先ず、『悪霊』しかしまあなんと掴みづらいおはなしであることか、ただただ独り人の人柄や言葉や行為や、場面の対話や事変転変の謂うなら「ロシア」っぽさをに驚嘆しているばかり。それらはみな異様にしつこい執着力と此処の性格で書かれている、が、ハナシの流れはどんよりおもくるしくて、何を謂いたいかは無条件の共感でうけいれるしか無い、あらがえば、世界からはじき出されるだけ、か。
 もう一冊、進んで手にとり読み耽るのが琉他に善四郎著の明治に書かれている詳細に徹底した、しかも筆致は確実に高揚した『明治歴史』の、幕末、維新前夜の波瀾万丈を越え来ての、まさに明治維新の新政体の具体的に精緻な証言、胸の鳴るほどの興趣と共感と感銘。こんなにも惹かれる書物とも思わずに書庫から持ち出したが、いま、一.二のまに「愛読」書。残念なことに、数百頁の「上巻」だが、古書と手、製本が崩れきて、頁を繰るごとに本がほどけて行く。ま、それもそれほどの古書故といとおしみ大事に読んでいる。まだ「上巻の半ば。いまから「下巻」にも期待が湧いて軽く興奮気味。日本の「歴史書」には『古事記』『日本書紀』このかた数々、じつに数々読んできたが此の『明治歴史』の充実感と精緻に正確なことには驚嘆している.鶴吉祖父の旧蔵。おじいちゃん、ありがとう。もう八十七歳になろうというこの孫は、そもわが子や孫に何が遺してやれるのかとおもうと、「貧寒」ただ恥じ入る。
 
 〇 十月。 今日、東京は肌寒いとか、風邪引きませんように、お身体休ませてくださいますように。
 映画『渚にて』の核、放射能の「情景」を思い出します。焼津漁船の被曝、久保山さんの死は幼い昔ながら「身近に」感じて怖かった事、今も鮮明に記憶しています。
 ロシア、北朝鮮など切迫した状況も。
 思う事多い日常ながら 何とか暮らしています。 
 「湖の本」発送作業、ご無理なきように。 尾張の鳶
 
 〇 寒い。ニュ−スでいわれたときは本当かと思いましたが、突然さむくなりましたね。当地はやはり東北寄りで、寒いです。広い木造家屋ですから、夏向きです。
 余り食欲の秋にも関心が向かないようにお察しします。残念で心配ですが、そのうち風向きがかわるでしょうか? お風邪など引かれないように、祈っております。 那珂
 
 * 寒がりで。寒さへ「立ち向かう」気まぐれも時に起こすけれど、寒いの、苦手。
 
 * 十一時半になる。肩の荷を少し降ろして、こころよく寝に就こう。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月四日 火
    起床 5-45 血圧 141-76(74) 血糖値 110 体重 53.6kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 老人たる術を心得ている人はめったにいない。  (四二三)
 ◎ われわれは実際に持っているのと正反対の欠点で自分に箔を付けようとする。気弱であれば自分は頑固だと自慢する。  (四二四) 
 * 今朝のうちに「湖の本 159」納品になる、直ちに発送の作業。夫婦の体力に鑑み、作業を急ぐことは避ける。
 
 * メールボックス開くと、世間からのいろんな声や報知が届いていて、殆どは無関係ないし無感動なものだが、そんなことも在るのか、起きているのかと惘れる思いに落ちることもある。が、あえてそのまま通過し、忘れるようにもしている。指一本の動かしようも無い。.
 
 * 孔子の孟子のといえば古くさい代表のように言い慣れてきたひさしい歴史の尻ッぽに現代日本人はくっついているけれど、さて現題日本にどれほどの「哲学」が生まれて生きて人を導けているか、貧寒として無にひとしいのを自覚しているか。
「大学」の巻頭は、こう謂う、「大学の道」とは「明徳を明らかにするに在り、民を親しむに在り、至善に止まるに在り」と。更に継いで、「止まるを知りてのち、定まる有り、定まってのち能く静か。静かにしてのち能く安し、安くしてのち能く慮る、慮ってのち能く得る」。 國にも政治にも我一人にも言いえて、たがわない。
 また言う。 物に「本末」有り、事に「終始」有り、「先後」するところを正しく知れば、即ち「道に近し」と。
 さらに言う。 古え(人)の、明徳を天下に明らかにせんとせし者は、まづその國を治む、その國を治めんと欲する者は、まづその家を齋(とと)のふ、その家を齋ふと欲する者は、その身を脩(おさ)む、その身を脩めんと欲する者は、先ずその心を正(まさ)しくす、そのこころを正しくせんと欲する者は、先ずその意を誠にす、 その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致す、知を致すは物を格(きた)すに在り。
 物格(きた)して后(のち)知至る、知至つて后、意、誠なり、意、誠にして后、心正し、 心正しくして后、身脩まり、身脩まりて后、家齋(ととの)ひ、 家齋ひて后、國治まる。國治まり而して天下は平なり。
 天子より以て庶人に至るまで、壱に是れみな身を脩むるを以て本と爲(な)す。其の本亂れて末治まる者 否(あら)ず。
 
 * 簡明にして感銘を尽くしている。「修身・齋家・治国・平天下」とは、私など戦後の小学生の頃から、史上の偉人たちの行状と思い合わせながら「至難かな」と感嘆していた。二十一世紀の今にして、これら、啻(ただ)に陳腐な贅言であろうか。これらを超えた新たな哲学は、日本の何処にどう芽生えていたと認められるのか。孔子の「大學」とはかく簡明にして至難の教育なのであった。古くさいと、しんじつ此の先を言い切れるどんな「現代人」が何処にいるのか。
 
 * 『湖の本 159 花筺はなかたみ 魚潜在淵』 納品され、すぐに発送にかかる、が、二人の疲労を考え七、八分がた作業で今日は終えた。また、明日。明後日にも延びるか。本の仕上がり、気に入っている。が。疲れた。
「アストリットとラファエル」とかいう連続ドラマの録画を「見・聞き」しながら送り作業していた。おもしろく良くつくられたドラマで感心していた。
 
 * しかし、今晩はもう寝たい。読書したい。いまは坪谷善四郎の『明治歴史』に圧倒され、面白く出仕方ない。気安くには、『水滸伝』が、恰好。気を静めるには「源氏物語」の「賢木」の巻、懐かしい野宮の風情など、心の故郷、家に、帰ったよう。
  
 
◎ 令和四年(二○二二)十月三日 月
    起床 7-40 血圧 138-69(63) 血糖値 110 体重 53.4kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ 才気は、時にわれわれに手を貸して敢然と愚行を犯させる。  (四一五)
 ◎ 年を取るほど壮んになる血気などというモノは、狂気から隔たること遠くない。                                   (四一六) 
 * 着るモノも穿くモノも、ダブダブ。二〇一一年末には86.5kgmもあった体重が明けて三月の胃全摘・胆嚢全摘以降60キロほどに減った。仰天ものであったが、今夏の疲労衰弱で またまた目に見え体重減が進行している。食べないのだから、当然。それでいて、美味いものが食べたい、あの店へ行ってアレを、その店ではアレをなどと思う。しかし出かける体力・脚力も落ちて、しかもまだコロナ禍は何としても要心の足止めをしている。
 
 *『アストリッドとラファエル』という意気のいい連続刑事ドラマが終えた。アストリッドは天才的な力を持つ発達障害女性でラファエルは心優しい敏腕の女警視。いいコンビだった。続きは来年の五月からと。気の長いことだが、楽しみに待つとしよう。
 
 * この籠居逼塞の三年に、「読み・書き・読書」は私の暮らしでは必然として、もし他にテレビが無かったならどんなに鬱屈したであろう。ニユーズにはさして気は動かない私だが、「撮って置き」の、また新放映の「映画」や佳い「ドラマ」にどれほど心慰んだか、数え切れない。誰方にとは分かりませんが、アタマをさげ、感謝しておく。
 京の新門前通り「ハタラジオ店」に、初めて「テレビジョン」が「商品」として入り、店頭で放映して見せたときの、文字通りに「山のような」人だかりの凄かったこと、怖いほどだったのを、昨晩のことのように覚えている。投手で監督若林、三塁藤村、外野に金田らがいた関西で大人気の「阪神タイガース」と、川上、青田、千葉ら強打者の居並んだ「巨人ジャイアンツ」とのナイトゲーム、また、空手チョツプ力道山のプロレス、大相撲など「放映」と知られて、店外へ向けて「見せる」と、店ヤウインドウが毀れやせぬかと、道路は人山で塞がれ、狭い店内にまで老若男女が犇めき充満したものだった。「時代が変わる」とあのとき、ありありと実感した。
 
 〇  みづうみがお元気でないとは知りつつ、「お元気ですか」のご挨拶させていただきます。明日新刊が納品とうかがい、驚くというより、懼れを感じています。どんなにご体調すぐれなくても、「湖の本」の途切れることはありません。みづうみにとって仕事をしないことは呼吸しないことと同じなのでしょう。
 今日はお願いばかりのメールになります。
 ※ 発送作業が、今のみづうみのお具合に影響しないはずがありません。ご発送には長い時間かけてください。一日数冊くらい、少しずつにしていただけますように。かえってやりにくいと叱られてしまうでしょうか。
 ※ 時々お送りいただいてはおりましたが、九月分の全部の私語の刻をお送りくださいませ。
 ※ 八月二十三日の、記載部分ですが、みづうみが誤解され批判にさらされる事態を招くことをおそれます。補足説明していただくか、部分的に削除していただけると嬉しいです。「* すこし躰をやすめ気味に、午前は少し寝入り、午後は韓国ドラマ『花郎(ファラン)』最終回を観、そのまま映画『フィラデルフィア』を観終えた。映画はトム・ハンクスがゲイの性関係からエイズにかかり、弁護士事務所を解雇されたのに抵抗の裁判劇で、デンゼル・ワシントンが弁護にあたっていた。あまり気味のいいものとは云いにくかった。」以下です。みづうみほど差別を憎んできた方はいらっしゃいませんのに、とても残念なことです。差し出たこととは承知していますが、ご再考いただきたくお願いいたします。
 平年より気温は高いとのことですが、それでもかなり過ごしやすい季節になりました。暑さが過ぎるとすぐ寒くなるのが最近の日本なので、この短い秋をいっぱいに楽しみたいと思います。食欲の秋、読書の秋、映画の秋なら、手が届きます。栗ご飯とか大好きな栗のお菓子、柿や梨を食べ、色々な「湖の本」と「映画」で幸せに過ごそうと思います。
 みづうみ、お願いですからお元気でいらしてください。  秋は ゆふぐれ                     
 * 知己の言、感謝して反省します。
 * 坪谷善四郎の力作『明治歴史』の上巻は、井伊直弼やペリー来航の昔から、明治維新前夜の国情を実につまびらかに且つようりょうをおさえて丁寧に懇切に多くの文献や記録を引用しつつ詳細に解き明かして行く、じつに見事な論攷で有り史実の展開と彫琢を為し得ていてほとほと感じ入るが、維新の大業なり明治早々の五個条ご誓文にいたるまでの草創期国家大成の組上げ組立て職制と人材の配置等々の詳細をつぶさに明記していて呉れる。是までの明治維新への知識など、その詳細の@割にも遠く達していなかったと分かってほとほと「降参」の思いがしている。そして、うろ覚えながら私少年以来の感心にとどめていた人材の詳細を究めた政権への配置を見届けて、のけぞるほどに感じ入っている。ことに「大久保利通の遷都論の意義」の大いさなど、何ほども知らず関心もしてなかった事実の疎さに恥じ入ってしまう。
 まだ上巻の半ば。下巻までを通して「明治」の意義を強かに、したたたかに、私は初めて教わることになる、胸が鳴るとは、これ。八十七歳になろうとして、私ほど「歴史」に重きを認め続けてきた読書人にして、かかる莫大に新鮮な知育にあずかるとは。まこと、最敬礼するほど祖父鶴吉「おじいちゃん」の知的遺産はすばらしい。感謝に堪えません。
 
 
◎ 令和四年(二○二二)十月二日 日
    起床 3-30 血圧 132-71(73) 血糖値  体重 53.9kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  (二宮フサ「岩波文庫」 の訳に依りて)
 ◎ われわれが自分のすべての欠点の中で最もあっさりと認めるのは、怠惰である。
 怠惰は柔和な美徳の凡てに一脈通じるところがあり、且つその他の美徳も完全に打ち崩すわけではなく、単にその働きを遅らせるだけ、と信じこんでいる。  (三九八)
 ◎ われわれは、たとえどれほどの恥辱を自ら招いたとしても、ほとんど必ず自分の力で名誉を挽回できるものである。  (四一二)  
 
 * 実に不快な、曾て見知らぬよその母子に、わが家を、家庭を、妻をももろとも撹乱占領されてゆく不快に家を出、見知らぬ市街をさまよい歩く夢で、目覚めた。三時半。
 そのまま起きてひとりキチンで少し酒を呑み、二階へ来た。
 もう一度寝るか、このまま起きてしまうか。何故こうも夢見が悪いか。
 
 〇 やそろく兄上様
 先日はメール頂きながら、あまりにお辛いご様子で、何とお返事すれば良いかと悩んでいてそのままになってしまいました。きょうのメールでは お忙しかったとのこと、今はだいぶ体調も良くなられたようでほっとしています。
 今年の12月には、87歳! ずっと現役でお仕事されていて素晴らしいですね! あまり無理をされずに、ずっと読んだり 書いたり 映画を観たりの生活を続けて下さい。
 私も いつまでも応援出来るように頑張りますよ。 いもうとより  (妻の妹)
 
 〇 先にいただいたメールではご体調がすぐれないご様子でしたので、少し安心致しました。
 最近会社は3ヶ月単位で動いており、先週は7-9月期の最後で、色々報告したりとバタバタとしておりました。
 映画いいですね。しかし核戦争の凄い結末を見せるハナしなのですね。残念ながら、今次の戦争でも核使用の可能性が取り沙汰されてます。まだ終戦が見えない以上、その可能性を警戒しながら生きていかないといけないというのは、とても苦しい。自身もさることながら、子どもがいると別の気がかりな重い荷を背負っている気がします。
 暗い話ばかりですみません。コロナが一旦収束しそうなのはよい兆候ですよね。少しずつ人と会う機会が出てきそうなのが数少ない救いになってます。 聰  東工大院卒
 
 〇 金木犀が香りだし、庭に出るのも、道を歩くのも楽しみです。
 このきつい残暑の中 新刊が出来ますとのこと、楽しみです。
 送っていただきました平家物語、吉川英治の訳以来の原文をあたまに、そのお謡をお稽古するようにしています。りますでしょうか。
 九月にはインドのバンガロールで、曾孫が生まれました。次男の長女の子供です。夫の赴任先で頑張ったようです。コロナ禍で、行き来が自由でないこともあり、出生に立ち会いたい、生後すぐの時を一緒に過ごしたいとの思いが強く、帰国出産はしなかったようです。LINEで生後6・7時間後に母子の写真を送ってくれて、驚きです。
 嬉しいニュースなので遠慮なくお知らせさせていただきます。
 ご本を発送されるまでのしばしの間でも 充分ご休養くださいますように。力仕事。どうぞお体にお気を付けていただきますように。
 迪子様ともどもどうぞご無理なさらないようにお願いします。  晴
 
 * もう一五分で六時になる。もう一度寝直そうか、このままか。用は幾らも在る、が。 
 〇 おはようございます。新刊の発送作業など、お一人(あるいは奥さまとお二人)で、なさるのですか? さぞかしシンドイことかとお察しします。
 「渚にて」は、大好評の作品のようですが、私は残念ながらまだ観ていません。
 プーチンは、「やけくそになって核兵器を使うのでは?」とか「シリアに亡命か?」とか「冬将軍の到来をまっている」等々の噂がありますね。
 核汚染は、福島・宮城の私たちにとっては、身近な恐怖です。大熊町や双葉町からの避難者のかなりが仙台で暮らしています。そもそも仙台自体が女川原発50キロ圏内なのに、村井知事は、女川原発再稼働を認めたのです。私たち市民・県民が必死で「再稼働反対運動」をしましたのに・・・。
 私たちは、どこぞの国から核兵器で攻撃されるかもしれない、という怖れより、つい隣町にある「原発事故の恐怖」が更にリアルです。
 10月に入って急に涼しくなりました。庭の金木犀も薫っています。最近は晴天つづきで気持ちのいい朝です。
 先月は宮城県美術館で「ポンペイ展」を楽しんできました。充実したとっても佳い美術展でした。
 今月半ばからは「フェルメールと17世紀オランダ絵画展」がありますので、ぜひ観に行く予定です。
 秦さま、迪子さま共々
 どうぞお身体をお大切に、さわやかな秋をお過ごしください。   恵
 
 * 二時間ほども寝入っていたか。体調 とても平穏と謂えないけれど、焦ることなしに時の流れに穏和に身を寄せていたい。遅くも此の七日には本包みの持ち運びという力仕事から解放されているだろう。その先は、「読み・書き・読書」と創作に集中出来る。師走冬至、一年で一番日の短かな「八十七歳」誕生日を、心静かに穏やかに迎えたい、妻と二人して。
 
 * 目が泪にしみて痛いほど。疲労の徴と体験的に知れている。と云うてすぐ寝入れるものでもない。五体に不穏な不快感が往き来する。本を読み疲れて寝入るのが賢いか。
『悪霊』への挑戦はまだ半途に届いていない。これを終えたら本格に、ドストエフスキー絶筆の名作とされる巨峰『カラマゾフの兄弟』を登りつめたい。
 『源氏物語』は、「葵」の巻をすべり出て、「須磨・明石」の方へ重い脚を光源氏と倶に運んで行く。与謝野晶子現代語訳の豪華大冊を古門前の大家林さんに借り受け、夢中で読んだ、返すのが惜しくて繰り返し三疊の勉強部屋で読みに読み、またまたせがんで借りては読み耽った中学生高校生の昔が懐かしい、はや、七十年も過ぎたか。高校二年から岩波文庫での原文に転じ、『源氏物語』こそ世界の古典の筆頭かのように私の心身から離れなかった。なんという幸せであったか。
              
 
◎ 令和四年(二○二二)十月朔日 土 神無月
    起床 5-35 血圧 132-71(73) 血糖値  体重 53.9kg    朝起き即記録
      (血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
 
◎ ラ・ロシュフコー『箴言集』抄  ○ 自分が間違っているとはどうしても認めようとしない人以上に、たびたび間違いを犯す人はいない。 (三八六)  運も健康と同じに管理の必要がある。好調なときは十分に楽しみ、不調なときは気長に構え、よくよくの場合で無い限り 決して荒療治はしないこと。 (三九二)  
 * きつい残暑だった。疲労と病いに沈み、心励ますなにも得られずまた月が革まった。
   ○ 神無しといはでめざめて為すすべも忘るるままに腹すかしをり
   ○ 誰がうへと想ひもなくにけふの日のやすくといはふ神無月かや
 * 撮ったという色んな写真を、若い友らが盛んに送ってくれる。遊楽、団欒、佳景。
 わたくしは、若い彼らが、この「今」に迸る「明日」への「ことば・言葉・発言」を聴きたい。老いの野暮か。そう思い、ふと口噤めよと自身を??ってしまう。「人にも理を見ようと思わなくなる時は、もう自身にも理はない」とラ・ロシュフコーは嗤うが。
◎ 孔子『大学』 止まるを知って定まるあり、定まって而るのち能く静まり、静まってのち能く安けく、安けくしてこそ能く慮り、能く慮ってこそ、能く「得る」ぞ。  
 * 斯く「現代」もありうるか。、ただ「古代」の異習に過ぎぬのか。
 
* 「湖の本」160 「あとがき」原稿電送入稿し、「要再校・本紙」「表紙・あとづけ」入稿原稿を宅急便で全部送り終えた。「159」刷りだし分届き、本体納品は十月四日と。ほぼ三日分をやや休憩気味に、発送心用意が出来る。これは助かる。しんどかったが、九月、めイッパイ頑張った。疲れた。
 * 寝転んで読むにはドストエフスキーの『悪霊』は大冊過ぎて重い。それでも心惹かれてつい長い時間、持って捧げて読んでいる。『戰争と平和』では感じない「別」世界が『悪霊』には、ある。凄い。
 
 
 
 
 
 





述懐   恒平・令和三年(2021)四月 

  * ここに「恒平」三年としてあるのは、
    私・秦恒平の死期をかぞえる三年目であるという気持ちを示している。他意はない。


 
たのしみは難しい字を宛て訓んでその通りだと字書で識ること

 たのしみは難しい字を訓みちがへ字書に教わり頭さげること

      ☆ 此のごろの最中仕事での楽しみです  恒平

               ☆

 たのしみはふたりのね子に「待て」とおしえ削り鰹をわけてやる時

 たのしみは好きな写真のそれぞれに小声でものを云ひかける時

     ☆ 此のごろの仕事疲れの癒しです  恒平


 たのしみは誰(た)が世つねなき山越えてけふぞ迎へし有為(We)の奥山

 たのしみは割った蜜柑をひよどりの連れて食ふよと「マ・ア(仔ネコ兄弟)」と見るとき

       ☆ 結婚して62年 ともに八五歳の境涯です 

 たのしみは誰にともなく呼びかけて元気でいるよと黙語するとき

 たのしみは誰とは知らず耳もとへ「げんき げんき」と声とどくとき

     ☆ 逝きし人らとの このごろの対話です

 





          小学館版・ 日本古典文学全集と  秦 恒平選集・完結33巻




     
          
  速水御舟・畫   名樹散椿

 
       

  
 
      
  おじいやんの大好きだった 幼い日のやす香            川端龍子・畫  牡丹獅子






          慈子の像  小磯良平・畫
   朱らひく日のくれがたは柿の葉のそよともいはで人恋ひにけり







            高木冨子・畫  南山城 浄瑠璃寺夜色

  秦の実父方菩提寺とか  一度だけ吉岡守叔父に連れて行ってもらった。




  令和三年(二〇二一)四月十六日 金       

   起床 9:00  血圧118 -62 (71)  血糖値 80  体重 58.6kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ 

★ 歌へや歌へや泡沫(うたかた)の あはれ昔の恋しさを 今も遊女の舟遊び 世を渡る  ひとふしを 歌ひていざや遊ばん

 ☆ 往事渺茫の懐舊は、閑吟集編纂者の根深い心境です。底に「いつ忘れうぞ 寝乱れ髪の面影」というあの巻頭歌謡の嘆息が沈澱しています。それが「秋」の歌謡を読み進むにつれて、はっきりしてきたという感じは、なさいませんか。
 「世を渡るひとふし」は、一節(ひとよ)ぶし即ち尺八による小歌のふしでもあるわけです。遊女が舟遊びをするのではない。遊女と、男が舟遊びをする。そこに遊女風情の尽きぬ哀しみがあるのを汲まねばなりません。






  令和三年(二〇二一)四月十五日 木       

   起床 9:00  血圧118 -62 (71)  血糖値 80  体重 58.6kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ 

★ 何となるみの果てやらん しほに寄り候(そろ)片し貝

 ☆ 粋な小歌ではありませんか。「なるみ」は歌枕の鳴海潟を 踏まえながら、どうなる「身の果て」へ意味を懸けていますね。「しほ」は原文は「塩」なンですが、意味は潮、そして女の「しほ」とした魅惑に懸けていま す。「片し貝」は、二枚貝の片割れ、半端、つまりは片恋のなる果てを身にしむ思いで嘆いた小歌です。身につまされます。

* 終夜寝た明けのことだが、脚の、上脇各一点へ刺すような神経痛の来ることがある。根気仕事が過ぎたかという警報に右の首脇へも一点の小さな刺痛がきりきりと来る。気づくと、即、作業を一時停止している。寝起きの脚の痛みも着替えのうちに失せている。記録しておく。

* 毎朝かならず来て蜜柑や林檎の餌をつついてゆき、おおいに「マ・ア」を喜ばせていた鵯や目白たちが、例年通り来ない時季になった。かわりに書庫うえの 庭をよその猫が通ってゆき、大いに「マ・ア」を口惜しがらせる。キッチンの大きなガラス窓からテラスも書庫も書庫うえも見える。黒いマゴにはさせていた外 出の自由をさせていない。ふたりに汚れて帰ってこられては室内の衛生にもこまると、そう決めた。ふたりを連れてきてくれた建日子からも、「出さないで」と 厳禁されている。 

* 歌集『少年前』を機械に清書・整備していて、われから呆れている、七十年昔の「少年前」としても、文字通りに京の「女文化」を呼吸していたこと、現代 ふうの現実や世相には目もくれていない、ひたむきに京の自然、ささやかな花や草木や枝葉や日の光や空ゆく雲や風に親しみの目と思いとを向け、点綴されて、 そこへ、愛した人への思慕や親愛がひかえめに詠われている。「もらひ子」の「ひとり子」という境涯を抱えたまま、「身内に」と願ったのは兄や弟でなく、母 とも頼むほどの(たった一歳ちがいの)姉やその妹たちであった。
 「少年」とはそんなものであったか、「野菊のごとき君」などまだ識りもしてなかった、が、堀辰雄の「風たちぬ」には近寄っていたし、芥川龍之介の生い立ちなども識りかけていた。そんな風情は、近年の作「花方」にもにじみ出ていた。
 これでは「少年」でなく「少女」やないかと笑われて仕方ないほど、私の「短歌世界」には男めく人くささが無く、感傷に充ち満ちていたと今にして我ながら惘れる。驚く。
 叔母の、花や茶の稽古場には男性の弟子など、何十年のうちに一人二人、他は、みな京の女たちだった。わたしは其処で唯一人の男の子、叔母が晩年まで、「コヘちゃん」の呼び名で通っていた。代稽古でその「コヘちゃん」にしぼられるのを、皆、いっそ歓迎してくれた。
 国民学校一年生になった昭和十七年、ちいさな町内で、私と同学年は、女の子ばかりが八人だった。「女の中に男が一人」と他町の男の子らに囃された。
 新制中学へ進んで三年間、男子の良い友達も何人もでき、田中勉や團彦太郎など競い合って仲良かったし、西村明男や藤江孝彦ら今にも親しい付き合いはつづ いているが、「心情」世界では女ともだちが何人も何人も絶えなかった。それが、拙いながら、「情緒表現」に、或いは障りとも、しかし力ともなった。

(91)何ゆえの舞妓姿と同窓のひとの晴れ着がふと心哀(うらがな)し
                    昭和二十七年二月十六日

(92)丘に立てば北風いささよはまりぬかなたの岸辺連れて行くあり
                    二月廿日

(93)水かれて川床むさき高瀬川児らつどひゐて石くれつめる                                              二月二十六日

(94)山の道はかよふ風さへなかりけりあふげば蒼き夕やみの空

(95)」むらさきの夕やみせまる清みづの舞台の老婆何の惟ひぞ
                     二月二十七日

(96)母なくて病む子の泣けば裏町の夜のしづけさに細き雨ふる
                     二月二十八日

* 一言で言えば 「変わってる」少年で、しょっちゅう「ハタは、変わってる」と謂われていた。「なんも変わってへんよ」と内心反噬していたが、ノートの 歌集『少年前』を機械に逐一書き写していると、我ながら、「こんなであったか」と胸を衝かれる。ハッキリ謂うて、感傷の濃さに呆れる。

* 大阪も東京も コロナ四波は凄まじい。ワクチン接種はおそらく秋も過ぎよう頃でさえ、国民の期待に副えまいか。政治の決断は 鈍い。避けねば済まぬモ ノが目に見えていて、素知らぬ顔で通って行こうとしている。オリンピックは感傷の歓喜とはなるか知れないが、亡国の強行に終わりかねない。おそらくボイ コットする國が来た朝鮮についでまた一つ出れば、将棋仆しにも成りかねない。無観客で実況は映像でとなるだろう。人の外出過多を抑制できるかも、しかし、 世界の選手達に安全な競技会でほんとうに終えられるのだろうか、そうあって欲しいが。

* 録画の「剣客商売」で、懐かしい、いまは亡い役者と再会した。「竹取物語」を英・和の朗読劇として書き下ろしたことがあり。日本語版での、「竹取の 翁」を演じてくれた、その、じつに佳い俳優が「剣客商売」に剣客としてではなく、出演していた。剣客ではなかったが、しみじみと佳い芝居だった。名前はド 忘れして咄嗟に出ない。「翁」と対の「媼」は俳優座で突出した大女優の大塚道子が語ってくれた。往時は渺茫、もう録画や録音でしか出会えないが、印象は強 烈だった。

* 入浴し、「剣客商売」を観て、九時半過ぎた。もう寝む。


  令和三年(二〇二一)四月十四日 水       

   起床 7:30  血圧130 -75 (59)  血糖値 88  体重 58.65kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ 

★ ただ人には 馴れまじものぢや 馴れての後に 離るるるるるるるるが大 事ぢやるもの

 ☆ 馴れてしまうと離れづらくなる。「る」が八つもという例は、他本にもあります、調子づいているというより離れる辛さを強いて我慢しているのだと言っておきます。「大事ぢゃる」は「大事である」おおごとである、のつまった物言いです。

★ 塩屋の煙々よ 立つ姿までしほがまし

★ 潮にまようた 磯の細道

 ☆ 塩を焼く煙の立ちのぼるさままでが、塩じみひなびて見える。
 その実は、女の立ち姿が「しほ」らしく、可憐に見えるのですね。
 女の「しほ」とした風情に恋の細道へ迷いこんだよという寓意が、あとの小歌。表面は、潮の満ち干につい通いなれた磯の細道をまちがえたと謡っていますが。

* 大阪市はコロナ潰れに陥った。いまや東京都が大阪へ逼迫している。しかし町歩きの市民都民、若い人達の「平然」と謂うに似た街頭でのコメントにはほとんど危険緊迫への実感がない。
 しかし、なによりも医療崩壊は各地に歴然、感染者も他の緊急要治療・介護患者らの「生き地獄」がひろがりかけている、この政治行政の無為無策にちかい現状維持では。
 もはや明瞭に「緊急事態」であり、「ロックダウン」も「行政命令」も必要というに同じい「大危機」に陥ろう、いや既に陥っている。
 誰よりも菅総理自身が、聡明に事態を認識し、率先「つよい手」を打ち続け、自治体の首長らがそれに対応すべき「日本は危機」にある。このままで、どうしてオリンピックなどあり得るのか。
 自民党をはじめ各党政治家の率先した危機認識と政府対策を猛請の空気が何故見えないのか、異様なまで訝しい。緊急事態により経済的な打撃を蒙る人、店、 事業には、今こそ躊躇いのない資金ないし生活費の「供与」という援助を、「無駄なないし不急の予算をとり崩し」てでも実践せよ、その気なら十分に出来る財 政余剰の政府ではないかと、私は言う。
 幸い私たち八五老は、なんとか健康な意識を抱いたまま「コロナ籠居」をかたく持しつづけ、好ましい夜明けの到来を、意思づよく、待つ。  

* とはいえ、「湖(うみ)の本 151」の発送作業は必然目の前へ近づいている。十分注意しつつ宅急便に託さねば。早くと急がぬこと、体力を喪わないこと。無事に凌ぎたい。
 今度の本は 興味を覚えて下さる人と 読みづらいと難渋される方に分かれそう、それもまた成るままに覚悟きめているが。なるべく、読める範囲だけでも読まれて欲しいなと。

* 七時。がっくり草臥れている。機械に向かっている時間が長かった、とはいえ昼食後、二時間ほどは寝入っていた。目覚めた時、朝かと想った。

* 寺田英視さんの新著、文春新書『婆娑羅大名 佐々木道誉』を戴いた。
 南北朝の頃から謂う中世の、「陽」の代表に此の佐々木道誉、「陰」のそれに山名宗全と見立てて、もうもう大昔に、小学館の『人物日本の歴史」に書いたことがある。
 私には、いわば「母」國なる「湖」国近江に根ざした氏族であり、『みごもりの湖』の昔から地に着いた「佐々木」を念頭にはなさなかった。
 幾むかしにもなろう「室町時代」は陰気な時代とされた歴史観も有った、が、わたくしは恩師岡見先生の「室町ごころ」という御説に教えられ導かれて、左右なく「陽気な中世」と観てとり、足利義満とならべて佐々木道誉を「時代の筆頭」に重く置いてきたのだった。
 寺田さんの議論を傾聴したい。

 ☆ 好きな人物を
 好きなやうに書きました 御笑覧戴ければ幸甚です 秋にはお目にかかれるのではないかと思つてをりますが 御自愛を祈り上げます 寺田生   

* 橋本徹がやたらめたらまくし立て、バス会社の社長が冷笑する 実りのみえない討論番組に呆れていた、あれはシャベクリ漫才か。
 そにしても、コロナは問題が大きくしかも周辺に余分の問題をぶら下げすぎている。この際、オリンピックは断念してコロナ排撃に集注しましょう、コロナの ほかは大方一時停止に待機とし、政治も医療も、コロナに集注して第四波を凌ぎきり抑え込みに國をあげ尽力しましょうとでも成らないと、沈静は無理なので は。そんな懸念が現実に傍聴を極めてきている。考え過ぎと思いますか。

* 九時半をまわった。昨夜は一時ちかくに寝入って七時半には起きた。もう寝ていいか。



  令和三年(二〇二一)四月十三日 火       

   起床 78:00  血圧140 -68 (65)  血糖値 92  体重 58.65kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ 

★ 薫(た)き物の木枯(こがらし)の 洩り出づる小簾(こす)の扉(とぼそ)は 月さへ匂ふ夕暮

 ☆ すこぶる優艶な、閑吟集の編者には似合っても、「職人尽絵」世界とはちょっと縁の遠げな、王朝物語めく小唄です。
 「木枯」は、名香の名で知られています。「木枯のもり」となると、その森の名が、静岡県下のふるい歌枕になっている。むろん薫き物をほめるだけでなく、 名香を薫きしめている当の貴人の、けはいのみして婆の見えぬ御簾(みす)の向うが奥ゆかしく、木枯の森に浮かぶ月さえも匂うて眺められる夕暮の風情よと、 幾重にも情緒をてんめんさせているのです。
 九一番の「誰そよお軽忽(きょうこつ)」といった調子と、ずいぶんな違いに微笑まれます。

* 「気色わるいやないか」と、京都の亡き母などはよく口をゆがめた。リクツはどうあれ「カン」に障って受け取れない意味だった、ろう。
 金や地位、名誉や利得の露わにかかわった「恋」ないし「婚姻」などというのも、(社長の娘・息子と社員と、など)不快に舌打ちされた例は大昔から山と積 まれ、はために気色いいものでなかった。むろん善し悪しの「良し」に傾いて誰の目にも祝福できた例もあったし、悪しないし気色悪さに傾く例も多々あった。 要は、当該「関係者」の「人柄」「親柄」如何で落ち着いた。
 最も望ましく美しく祝福出来たのは、平成天皇さんと美智子皇后さんの例で、ご当人達はもとより、背後の正田ご実家の徹底して謙遜沈静であった麗しさをよく覚えている。
 金銭の貸借事や親の色事につき、まるで論文のような長文で自己・自家説明が提出さ世間へまでれねば済まない縁談かと聞くと、遠目にも、「気色」はよいと 云えない。妙な時節だ。「そんな、妙やないか」「妙なハナシやな」「妙な人え」などと京の大人らが声を顰めるのは、おおかた褒められたハナシではなかっ た。 

 ☆ カアカア鴉に
 先週の桜の写真、下手やなあと率直な感想。堪忍。狭い庭の樹木がひしめいている中で、構図も何もない撮り方で、ごめんなさい。
 まだ満開を過ぎたあたり、咲き誇っています。
 今日『ホビットの冒険』注文しました。数日中に届くと思います。娘の名前ですが、この頃買い物する時には娘のカード払いにし、ポイントをあげることにし ているからです。ネットで手軽に本を入手できるので、最近はあまり本屋にも出かけず、古本屋歩きの楽しみも忘れてしまいそうです。
 夜遅くになって、やっと一人の時間。
 鴉は既にお休みでしょうか? 取り急ぎまして。お休みなさい。
 くれぐれもお身体ご自愛くだされ。そちらのワクチン接種はいつ頃でしょうか?   尾張の鳶

* 何度も 大作の文庫複数冊を送ってもらってきた。おかげで、本屋というところへ出向かず入らない私が、この、四半世紀のうちに、指折り数えて世界的な私未読の大作を、何度も、都合すれば数十冊それ以上も送って来てもらったのではないか。
 本屋へも行かず、ネットとかでモノを買う手段も全然心得ていない、利用したことのない私は、尾張の鳶の好意に甘えてきた。ありがとうございます。おかげ で私の最愛読の三巻マキリップの『風の竪琴弾き』は、なんと英語版まで読み通した。日本語版は、訳者の脇明子さんから戴いていた。
 さてさて『指輪物語』八巻、やがて何度目かを読了する。その「前編」に当たるらしき『ホビットの冒険』は何巻あるかしらん、映像ではもう観ているけれど、これはトールキンの世界的な名作小説、やはり「言葉の表現」を読みたい。

* 思えば、私の書庫に満ち溢れた本、単行または選集の小説本や詩歌本は、尽くというるほど、著者からの戴き本。手に重たい各方面の研究書も、すべて著者からじかに戴いている。
 おう、こんなのがと思う、明治この方の大事典、辞典、和漢稀覯の珍冊はみな秦の祖父鶴吉の遺産。
 わたしが自身の必要で買ってきたのは、大冊の歴史年表、『名月記』や「玉葉」のような公家日記、そして新編の大辞典・大事典・大地誌・地図のたぐい。そ れと、いつしかに溜まってきた美術の本とたくさんの大きな重い画集。文藝誌は残さない、雑誌は歴史もの、茶の湯もの、美学会誌だけ。
 いま、それらを残すのか処分(廃棄)するのか、考えている。
 秦建日子の現在の仕事柄からして、彼が欲しがりそうな本はほとんど無い、が、藤村、漱石、潤一郎、鏡花、柳田国男、折口信夫、辻邦生、加賀乙彦等々の全 集・選集その他、著名作家や批評家の業績本もたくさん戴いて在る。幾らかは建日子も欲しいと思うだろうか。朝日子のことは判断がつかず、考慮しない。
  むしろ、両親からの血を事実わけもった、甥で、力有る文学作家の北沢恒が、もし必要で、大いに利用できる、手元に欲しい、という各種広範囲の辞典・事典・ 年表・地誌・古典・史書・漢籍などあれば、車を傭ってなり受け取りに来てくれるなら、現状、私の仕事に差し支えない限り、譲る。
 私自身の著書や初出誌は 全書誌に挙げたように単行本だけで百冊を超えている。大冊の「秦 恒平選集」33巻完結、「湖(うみ)の本」はすでに150巻を超えている。初出誌となれば全部保管はしてあるが、呆れるほど膨大量。
 私の本を蓄えて下さっている読者の方で、欠本分などご希望が有れば、どの本もいくらかずつ余裕があり(無いのも少しあるが)可能な限り差し上げたい。
 これまでもときどき実行してきたが、東工大卒業生らのお子さんが読書年齢へ来ている。読書好きときけば、和洋の文庫本などを選んで上げてきた。ただし少 年少女の場合は、読書の「向き」をまちがうと無意味に近くなる。どんな向きのを読んでいるか親御さんから耳打ちして下されば、選べる。
 私が愛読してきた日本の古典全集は大きな二種あがるが、他に、手も触れていない大きな全集に、「二十世紀世界文学全集」何十巻かがある。誰の何作が入っ ているのかも、覚えぬママ書架を埋めている。カフカが第一巻だったような。せめてリストにしておけば、欲しい方に差し上げられるのだが。これも古典全集 も、みな版元からの寄贈だった。自身の費用で買った書物は、書庫の中の5パーセントもあるかどうか。作家生活半世紀のこれもみなありがたい対価・報酬・親 交の賜なのであった。
 いまは図書館も、書架に余裕がなくて「寄贈」を必ずしも歓迎ばかりはしない。ま、同じ事は個々の人によっても云える。私としては、現在から此の先々へ役立ててくれる若い世代や、とにもかくにも「読書人」「愛書家」といった友人読者らに委ね手渡せればと願っている。

* 送り出し前の、肩の凝る用意や心がけに疲れている。いっそ早く本が出来てくれれば、などと。堪え性もなくなっているのだろう。
 歌集『少年前』を、高校の頃の歌帖を顧みに、機械に書写している。手入れはせず。それでも、ところどころに、現在での覚え書きを添えている。
 今日は、いましがた、触れていた、昭和二十六年(一九五一)七月二十五日だと、日づけ鮮明、忽として家の表に立たれ、夏休み中の私を、大和薬師寺、唐招提寺へ連れて行って下さった中学時代の給田緑先生との、嬉しくもビックリもした遠足の短歌を読み返した。
 歌は拙い、が、忘れがたい、なにもかも初の美の体験を想い出しほろほろと泣いた。その後の私の行く道が、あの夏の日、「母」とも慕った女先生との、言葉すくなな静かな遠足で、もう見えていたのだろう。
 給田先生は、それは静かな、ことば美しい立派な歌人であられた。けれど、歌を、詠めよ創れよなどと決して強いられなかった。あれを読めこれを読めとも言いつけられなかった。いつも優しく観ていて下さった。
* 夕寝していた間に 早や 尾張の鳶さんとお嬢さんのはからいで、トールキンの『ホビットの冒険』が届いていた。早い! びっくり。大感謝。即 お礼のメール 飛んで行ってくれるといいが。
 
* もう八時半。椅子坐りの座りがわるいのか、右腰に痛み。  




  令和三年(二〇二一)四月十二日 月       

   起床 8:00  血圧141 -73 (58)  血糖値 88  体重 58.6kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ 

★ 身は浮草の 根も定まらぬ人を待つ 正体なやなう 寝うやれ 月の傾く

 ☆ これぞ前に触れました、「やすらはで寝なましものを小夜 ふけてかたぶくまでの月を見しかな」の「小歌」版ですね。「根も定まらぬ人」とは、「寝(処)も定まらぬ浮気な男」よということで、「正体なやなう」はそ んな男へのいまいましさと、そんな男を待ち暮らす自身へのいまいましさとを、「狂ってるわよ」と憤怒かつ自嘲しているのです。
 「寝うやれ」が面白い。寝ちまへとくらいの口吻です。ここで「身は浮草」は、浮わついた男の描写であるとともに、また女のかかる身上(しんしょう)のこともちゃんと指さしています。その場合は「根」はやはり暮しの根っこの意味ですね。懸詞の妙味です。
 一○六番。

★ 雨にさへ訪(と)はれし仲の 月にさへなう 月によなう

 ☆ うがったものですね。いやな雨の日にも訪ねてくれたあの人が、さわやかな月夜にも来てくれないなんて。こんないいお月さまなのにねえ──。
 しかし一方にまた「月の障り」もいとわないで抱いてくれるの、ほんとよ…とも、ちゃんと読めるのですね。

* 街へ溢れ出ている若い人たちのマイク向きの表白は、「タカをくくる」という風情。世をあげてあの調子 が瀰漫化してくれば、コロナ禍は、このまま半年一年してもとても治まらないのではないか。治まりうる要因が見あたらない、入手停滞の「ワクチン事情」のほ かには。しかし海外での断然の沈静化か進行しない限り、西欧は日本へのワクチン提供を、いろいろな含みから意図的にも抑制するだろう、何故かならここにも 「悪意の算術」と謂う「外交戦争」が歴然と在るのだから。分かっていて政府はそのことに触れないのか、いや、菅総理以下の政府の人材に、そんな自覚は生じ ていないのだろう、か。
 中国は、すでに明瞭に、「コロナ」は「第三次世界戦争」だと表明して憚らないではないか。政治も経済も「日本の劣勢・劣化」は、それとはなしに今や世界 的観測と化しているかと案じられる。口にするのは怖いのだろう、もうやがて、タブーとなっている「オリンピック」「パラリンピック」の開催問題が世界的な 「悪意の算術」の対象になって来かねない。北朝鮮はボイコットの旗をまっさきに振った。背景にどんな国々の「悪意の算術」がはや働いているやも知れまい。  

 ☆ 当節二階節 遅ればせ初春漫才

  金庫番だけが自慢の「二階」の旦那
  コロナ転んだそれがどうした 
  愚の字痴の字の閑事の鼾 
  うすらバカづら吠えづら晒し
  鼻息あらくもアダ夢の間も
  かかえた梯子が「二階」の命

  だれか外せとヘボ番頭ら
  くやしまぎれで自棄にも酒が
  只で呑みたや「二階」の旦那よ
  仰せは何でもハイ御もっとも
  自由も民主も気ままのお肴
  世間のヤツらはただ出汁昆布

  「二階」座敷で梯子の只酒
  それやい旦那のお振舞ひ
  寝ちゃ食ひ食ちゃ寝て会食つづき
  これこそ世渡り心得おれと
  「二階」の旦那はテンから金持ち
  ハハァ ヘヘェ と 梯子の神へ
  柏わ手うつうつ 打たぬは居らぬ
  大番頭もガースーと 鼾真似てのお諂ひ

  令和は三年 誰もが惨念 成らぬ忘年 怖(お)ぞや今年(こんねん)

* 気色わるくて。 で、写真の模様替えをした。

* 夕方から 食事を 中に宵へ、トールキン『指輪物語』の、最後の八巻にまで読み進んだ。この長大かつ精緻な物語は仮構の粋を究めた作で、われわれの現 世現実とは一抹の関わりも持たない、のに、リアルな感銘と賛嘆の思いで些かの停頓も疑念もなしに共感に溢れつつ愛読、また愛読できて、読中読後に透き通っ て充実の喜びがある。
 『フアウスト』にはギリシァ神話が大切に喚起融合されて実感に触れてくる。
 『失楽園』はまぎれもない広遠な宇宙に浮かび上がる長大の基督教神話詩篇である。
 『指輪物語』は背後に背負った現世のモノを持たない、しかもじつにリアルでクリアな「命」の物語に成りきっている。
 この系列に、ル・グゥインの『ゲド戦記』あり、マキリップの『風の竪琴使』があることは、繰り返し確認し続けてきた。
 私はこれらの作をあと追って為しうると思えないママに、しかし、「現実の直話」から柔々とはなれた仮構世界の想像と建設とに心惹かれつづけてきた。藤 村、漱石、潤一郎に惹かれあこがれて来ながら、鏡花がアタマに在った。その以前に秋成の雨月・春雨が在った。遙かにもっと重くに平安物語への拭えない親愛 があったと自覚している。

* もう八時が過ぎた。今日は、なんとなくなんとなくなんとなく何も仕事はしなかった。

☆ 返信が遅くなり申し訳ない   辰
 秦 兄  しばらくのご無沙汰でしたが、パソコンの不調でメール箱も開けず、ようやく回復して相当量の受信欄から 兄のメールを見て 返信している次第です。

 仰せの通り、ガキの頃からのグループもメンバーが年々減って淋しい思いをしています。
 とくに残念なのは、各グループとも音頭取りがいなくなったことです。兄と共通の友では西村肇はんで、粟田と弥栄の幹事役だっただけに司令塔を失い 茫然としています。

 七、八年 ? ぐらい前でしょうか、君はちがうクラスやけど、うちの弥栄のクラス会に「出て来いひんか」と誘われて 松尾君、瀬尾君、奥谷君らと久しぶりの再会を喜びあいました。また次の時もお出でよと言ってもらったのが最期でした。 高城先生のクラスかな ?

 高校は小橋君が休眠中で 目覚まし時計を鳴らしているのですが、まだ起きてくれません。

 東京も年に一度は出掛けていたのですが、こちらの名幹事は酒を飲まないのに家を出たら帰る家が分からなくなる厄介な病気に罹って、この会も自然消滅の有様です。

 此の本人は、呼吸器系統以外では アル中ハイマーの気配と左眼と右耳がほ とんど機能不能で 音楽と読書の愉しみが失せる恐怖感に時々襲われています。女房に達者なのは口だけやね、と馬鹿にされていますが、ぼやくネタ元のテレビ や新聞も気の滅入るものが余りにも多くて最近はぼやく気にもなれません。

 「責任者出てこい ! 」で茶の間を沸かせた昭和30年代の漫才コンビ人生幸朗、生恵幸子夫婦のような芸人もすっかり姿を消して、誰も彼も園遊会や勲章ほしさに為政者にゴマをすったり、しっぽを振ったりの体たらくでウンザリです。

 そんな為政者を一掃するために「否認票を新設の一人二票制」と「赤ん坊にも選挙権を与えよ」、に加えて「無投票当選は違憲」との改革案を提唱して 四年になりますが、ネット上ではネトウヨの妨害か入ったりして埒が明かず閉口しています。

 それでも最近になって橋下氏が出演のテレビ番組で、赤ん坊にも選挙権を与えよと発言しているのを知って意を強くしています。ただ不服なのは、「否認票の新設が最優先されるべき」なのに為政者には自死制度のため、美味しいところだけ取り上げているところです。

 ぼやくのを控えるつもりが長くなりました。
 三つの主張が陽の目を見るまでは老けるわけにはいきません。
 どうか、兄も私の主張が実現するのを見守ってください。
 盃を交わす日のあらんことを楽しみにしています。メールありがとう。 京・岩倉  辰

 

* 正直、彼もか…とかなり本気で無沙汰を心配していた、ひとまず安堵。がんばりや。


  令和三年(二〇二一)四月十一日 日       

   起床 7:45  血圧156 -81 (55)  血糖値 97  体重 59.75kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ 

★ 秋の夕の蟲の声々 風うちふいたやらで さびしやなう

 ☆ 蟲の声々を、風が吹きおこした天然の笛の音と聞き惚れな がら、音色の奥から人の世のたそがれ行く寂しみを引き出しています。人間万事「春」あれば「秋」もあり。数ある秋の歌から、「桑門」の選択が、この辺でつ よく物を言っています。和歌ならぬ漢詩に取材した小歌がつづきます中から、唐の元槙の詩に取材した一○一番へトビましょう。

★ 二人寝るとも憂かるべし 月斜窓に入る暁寺(げうぢ)の鐘

 ☆ この上句は、さしもの春情もかかる秋思とは沈静するものかと、ひとしお寂しい。これを梁塵秘抄四八一番のこんな濃厚な歌とくらべてみて下さい。

  ★ いざ寝なむ 夜も明け方になりにけり 鐘も打つ 
    宵より寝たるだにも飽 かぬ心を や いかにせむ

 ☆ はっきり「飽き(秋)」ならぬ「飽かぬ」愛欲の昂揚が、梁塵秘抄の歌謡には、ある。時代の若さ、ということを考えさせられます。謡っている当人の、いわば天真の青春と、閑吟諦悟の老境との、さも落差かとさえふと想われて、しみじみと目が冴えます。

* コロナ禍は、英国系変異株により悪病化を強めている。軽率の油断が大事を招く。自分の 車だからといった安心を杖に走りまわるのも、病魔と出会う不可知の懼れをましてくる。まして出歩くことで生業を成している人は、籠居の人の何十倍もの危険 を身に浴びて帰ってくる。要慎の紐をゆるめ慣れて陥穽に陥ちないことだ。
  ほどほどに対応してそれが賢いと自ら慢心するのがもっともハタ迷惑にもなる。風邪と同じようなモノでは決して無い。

* 仕事の向きや量が多岐にわたってくると、混乱して、手の舞い足の踏むところを見失い、停頓する。「当面要処理作業」を、順位をつけデスクトップに「常 置」してしかも「書きあらため」続けていないと 手ひどい「ど壺」に嵌ってしまう。「仕事」の「できる・できない」の岐れに成る。
 物置から、医学書院時代の諸記録の大きな包みを持ち出して置いた。
 その中には、毎週一度の、社長または専務が司会し許可決済する「書籍企画会議」へ「提出」しつづけた私の「企画書」が、少なくも「おそらく」百数十点の余も、重いほど分厚く束ねて、残っていた。
 一年に50週ほど。そして或る年は、ハッキリ意識し目標にして、毎週欠かさず少なくも一点ないし以上の「企画書」をわたしはその会議に提出し続けていた。「やってみよう」とまるで競技のように決めてかかったのである。

* 書籍出版企画は容易でない。「主題と書籍名 的確な趣旨説明と、期待ないし予定している監修ないし編者と筆者を、その人達の専攻・業績・地位・現活動 を含めて紹介せねばならない。医学・看護学専門書では、専門学外の例えば編集者の私などが執筆できるワケがない。医学研究は三年経てばもう「古く」なって いる。湯気の立ったような期待の領域へ目を付けねば企画にならない。
 私の新人ほやほや「初」の提出企画だった『新生児研究』は、東大の小児科・産婦人科の両主任教授を監修者に両科の助教授、講師、医局員そして麻酔学等の 協力参加筆者ら総勢50人ほどの「先生」を専門項目に応じ「論題」も定めての文旦執筆目次を、企画提出時にすでに用意していた。専門医書では、単独筆者で 書き下される本の方が、共同執筆本より多いとは云えないのである。そして最新専門研究図書、教科書のほか、いわゆる家庭医学書・健康相談書などは一切扱わ ない会社であった。

* 提出企画のねらいは、企画編集者として「可能な限り頭に入れ」ていないと、会議で「趣旨説明」も「討議」も出来ない。会議主宰の社長は自身で「まむし」 と称するおッそろしい人だった。先輩編集者らは怒鳴られ続けていた、こりゃ叶わんと思った。
 そんな次第で、社員編集者から企画会議へ持ち出される「企画」 はそうも誰からも毎週出るものでない、まるで企画しない編集者も居て歯痒い思いもした。私の編集部勤務になった年に、おずおずと先輩達の「企画」ぶりを傍 聴するうち、では、と動き出したのが、『新生児研究』企画だった。我が家では妻に無事に赤ちゃんを産んで貰わねばならない、それが推力になり、私は活動し初め た。医学書院初めてと、「編集長」も手助けしてくれたほど大勢の筆者一同の編集会議も実行した。あげく、日本医学會に「新生児学会」が加わることにもなった。
 私 のこの企画本が成るまでは、生まれたあかちゃんは産科では「新産児」小児科では「新生児」と呼び、まるで奪い合いだった、それは「困るよ」と若い父親になりか けていた私は、東大両科協力の『新生児研究』を刊行して日本中多くの病院に「新生児科」が建つ契機にしたいと「企画」した。この趣旨が、医師たちにも、社内の「まむ し」以下上司にも受け容れられた。

* それから何年目か。わたしは、毎週の企画会議に、必ず一点以上の「企画書」を提出し続けてやろうとひそかに決心し、事実ま、るまる一年間励行 した。まるで私 のための「企画会議」であった、一点一点に私なりの事前の勉強が必要だったし、医学・看護学の諸「先生」方とのお付き合いは多彩にひろがった。スポーティ に仕事を攻めた。かなりの医学の知識ももった。裁可企画の、その後の取材も大方自身担当し、次々に本にしていった。医学書は、教科書以外はだいたいが「三 年で千部」見当、そして三年もすると 質的・内容的にもう「古い」とされて行く。研究も診療も手技も機械も新しくなってゆく、そう在らねばならないのが医学・看護学というものだ。
 そんな、退職まで十余年間の提出企画書が、でっかい山になって束ねられ、うちの物置で埃をかぶっていた。私の歴史には意味をもっても、学問的にはも うほぼ無価値。
 表向きそんな社の仕事を熱心に積み重ね続けながら、わたしは、小説も書き続けていて、私家版本も創りつづけ、四冊目の『清経入水』で太宰治文学 賞が舞い込んできた。作家生活へ道がついて、受賞後五年で、退社した。その同じ日に、あの「まむし」社長が相談役へ退かれたのだ、たったの一度も私は怒鳴られな かった。授賞式には、にこにこの笑でで顔で参会して下さった。

* 医学書院時代の仕事に取材した小説を一作も書いてこなかったのは、何故だろうと自身不思議に思う。

* 歌集「少年前」の、高校期以前を再確認し電子化した。昭和二十八年七月四日に跋を書いている。日吉ヶ丘高校三年生夏休み前か。既刊の歌集『少年』とか ぶっている。「少年前」と思しきを容赦なく落としておいて、大學・院、東上・就職・新婚、そして親になったまでで歌集『少年』を編んだのだった。すでに「老蚕」と自認し つつも、第三歌集『光塵』第四歌集『乱声』も本にしているが、八五老の今も、私は、根は未熟な「少年」のままに過ぎない。諦めている。

* 忠臣蔵 というと余りに「お定まり」ではあるが、日本のドラマで胸に響いてくる第一でほぼ唯一の題目、掛け値無し、講釈が下絵と承知でいてしっかり 泣かされるのは、ことに後半、大石東下りから討入り、そして永代橋からの引揚げと決まっている。
 女ドラマの線の弱さに飽きていると、今夕観た「忠臣蔵」後編は、長谷川一 夫を筆頭に、中村鴈治郎、千田是也、鶴田浩二、勝新太郎、志村喬、市川中車等々なつかしい男の顔で、ふんだんに魅してくれる。女も、京マチ子、若尾文子、山 本富士子ら粒が揃って凛と丈高い。みな、着物が美しく着こなせて、きちんと昔風に歩けて、セリフは明確に美しい。
 この映像だけは、上出来の韓ドラ連続もの にヒケをとらない。男優の大方はもう亡くなっている。それゆえに、ひとしお懐かしい。
 この世代を一つ二つ時代をさげると、ドラマ「阿部一族」が立派な一本立ちの感動編であった。寅さんやハマちゃんものは、佳い娯楽であった。

* 映画に、八千草薫の「蝶々夫人」は日本では稀有のミュージカルだったが、果たして日本製であったのか。日本には他に印象を刻む優れたミュージカルが一 つも思い出せない、「ウエストサイド・ストーリー」や「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」のような秀作が観られない、漫画はお得意らしい けれど。漫画は観ない。
 日本の歴史もの映像は、概して陳腐に概念的で平凡にしか仕上がってこない。作り手に先入観が
先立っている。「櫻姫東文章」や「四谷怪談」のような舞台の怖い秀作が現代なかなか現れ出ない。へたな企画崩れのような思いつきが散発されても、つよい「時代の肉声」として響かない。

* 七時すぎ。もう眼が見えない。
  


  令和三年(二〇二一)四月十日 土       

   起床 8:30  血圧148 -71 (51)  血糖値 106  体重 59.9kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ 

★ 夢の戯れいたづらに 松風に知らせじ 槿(あさがほ)は日に萎れ 野艸(ののくさ)の露は風に消 え かかるはかなき夢の世を 現(うつつ)と住むぞ迷ひなる

 ☆ 田楽節です。 「夢の戯れ」の「夢の世」を「いたづら」「はかなき」と認めていますから、末の一句の取りようで、趣が右へも左へも動きます。
 「夢」を否定して、「夢」は夢、所詮「現」ではない間違うなよ。そう誡めていると取るのが普通の解釈でしょう。
 けれど、「いたづら」に「はかな」いのは「夢」の本来、また愛と人生の真相なのだから、「現」の思いで「夢」をひとかど批評しえたなどと思う方が「迷 ひ」である。「夢」はやはり夢、「現」など実は実在しないのが現実の姿と見究め、「夢」に徹して生きればいい、と、そういう主張も十分ありえたのが、閑吟 集の「ただ狂へ」なのでした。
 私も「夢」派です。
 九六番。

★ ただ人は情あれ 槿(あさがほ)の花の上なる露の世に

 ☆ 「槿花(きんか)一朝(いってう)の夢」と定まり文句があるのを、思い起こすにも及ばないでしょう。あくまで「情(なさけ)」とは自身に、他者に、何ごとであるか、ありうるかを問いたい気がします。

* なにもかも、と謂うてもいいほど私は生来の「閑吟集」派に自身を育ててきた気がする。「NHKブックス」の此の私の一冊は「私」を解説の一冊にさえ成っている。

* 土曜の朝テレビでは読売がコロナ対策で政府へ険悪なまで対応の緩慢ないし怠惰を責めていた。田村厚相も懸命に応じていた。この大臣は、下書き答書の棒 読みを滅多にしないことで、問題の把握へ彼なりに勉強しているとは認めているが。なににしても「ワクチン」接種が医療関係者にすら大きく足りていない現状 は、一つには日本の外交力の貧弱拙劣による。あの気で突っかかるだけの河野大臣がワクチン大臣になったとき、これは巧みな「河野潰し」だと感じたが、私の 常に謂う「外交」とは「悪意の算術」だという理解と本腰が当今日本の政治家にはまるで出来ていないのだから、河野はみるみる無能という「ど壺」にはまるだ ろうと予測した私の見立ては不幸すぎるほどに疾うに当たっている。いまの日本の外交力で、西欧世界から「ワクチン」を欲しいだけ早くになど入手し難いのは 歴然としていた。「日本ら」は今や、政治外交力でむろん、「金力」においても見くびられていて、河野型の「気」だけ先行する姿勢はむしろ見放されやすいと いう批評が不幸にも外れなかったのだ。「金」の遣い方でハナから河野努力は足りなかったと見える。政権の目的は「ワクチン」であるより政敵化しかねない 「河野潰し」にあったと観ている。「小池潰し」にも菅一派は躍起になっている。

* 政治家達よ、覚えておけ。「外交とは、高度に悪意の算術」であると。中国の、西欧の、米国の「歴史」をしかと学び直せ。 

* 「湖(うみ)の本 153」の入稿前予稿を造った。

 ☆ たのしみは「したい」仕事の「すべき」よりもほどよく我を誘(いざな)ひ呉れる

* 「湖(うみ)の本」35年 150巻 いつも本が出来てくる間際の息苦しさを堪え続けてきた。届いてしまうと、ほっと開放された。決して泰然剛毅な人では私は無い。
 今日、夕方近く、歌集「少年前」の編まれていたノート三冊の最初の方を機械に入れ始めていて、敗戦後の新制中学三年での「修学旅行」をうたって四十首近く。そのうち、明晩には京都駅から東向きにみなで汽車に乗る、そして駅に集合し、いよいよ汽車が出る、そこまでに十首のみんなが、何とも「旅行」に感傷的に気弱でうじうじ気が進んでいない。呆れて、つくづく書き写し「読み返し」ながら、少年前の私の、或る意味呆れるほど本性脆弱な「あかんたれ」が露呈いや暴露されているのだと、その歴然に八五老ガクッと来た。

* 幼稚園でも、国民学校でも、丹波の戦時疎開さきの山暮らしでも、戦後も一年余に病気で京都へ帰ってからも、わたしは、目立ったあだ名で友達に呼ばれて なかった。近所では幼児のママ「ヒロカズさん」と呼ばれ、学校では「コウヘイ」「はたクン」「はたサン」だった。それでいて戦後京都の小学校では率先生徒 会を率いて生徒会長をしていた。中学へ入ってからも生徒会でガンバリ、三年生で生徒会長に選挙で当選し、当時の吉田茂総理のあだ名だった「ワンマン」と同 じく秦の「ワンマン」と呼ばれていた。運動場でも講堂でも、いつも演壇に立って号令していたし、教室では、先生に代わって教壇で国語や社会の授業を進めた り、ま、活躍目覚ましい校内でのまさに主将だった。
 それなのに 今日久々に、つまり七十年ぶりに読み返した修学旅行前夜の短歌の「めそめそ」したひ弱さは、自身で否認がしにくい自己露呈に相違なかったのだ、どっちが本当なのか。
 ひ弱いのが「ホンマ」で、目覚ましい活躍は「ガンバリ」であったと謂わざるを得ない。
 そんなことを七十年後の老耄に自認させてしまう幼く拙い「短歌ひと」として歩み出していたのだった。マイッタ。が、性根から出るモノが滲み出ていたの だ、そんな歌集『少年前』が、三冊のノートを719首と拙い詞書とで満たしていた。「文藝」としての価値はないからその多くを、ほとんどを、うち捨てて、 そしてあの処女歌集『少年』を世に送り出したのだった、幸いかなりに好評を得て、「昭和百人一首」にも選ばれ、「国語」教科書にも紹介された。今にして余 分なそれ以前の習作を持ち出すことは無いのだが、私独りには、やはり無視しきれない「根」がそこに在った、暴露していた、と謂うしかない。短編「祇園の子」などの紙背にまさしくこれら幼稚の短歌たちは貼り付いていたのだと思う。思わざるを得ない。
 「あんたが そのまま小説なんですな、小説を書くか、小説になるか、それしか生きようのない人ですな」と、詩人の林富士馬さんら何人かに謂われ、笑われてきた。このあまりに幼稚な三冊は、その意味では、資料いや肥料にはなっていたのだろう。 



  令和三年(二〇二一)四月九日 金       

   起床 7:10  血圧156 -83 (67)  血糖値 91  体重 59.85kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ

★ 浮からかいたよ よしなの人の心や  

 ☆ こ の小歌が、自分を有頂天の夢中へと漂わせてしまった恋人の、愛と、性との力″を、喜びつつかつ長嘆息しているのが、いかにも「夏」の終りにふさわしく、 下句の嘆きは、男女のそれぞれに懸かっています。「浮からかす」という表現が、面白いですね。そして次にくる「人の心」の「秋」は、はや「飽き(秋)」の 季節のようです。

★ 人の心の秋の初風 告げ顔の 軒端の荻も怨めし
                                         
 ☆ 「秋(飽き)の初風」を告げ顔の軒端の荻のそよぎに、「人の心」の頼りなさをふと思い初(そ)めています。「男(女)心と秋の風」を嘆じているの が、まさにこの小歌です。「軒端の荻」は実景であってよく、しかも源氏物語に、人ちがいされたたまたまの成り行きから、一度は光源氏に抱かれながら忘れら れ捨てられた「軒端の荻」という、うら若い女人の切なさが遠景に見えていても、よろしいでしょう。見えていなくても、よろしいでしょう。
 
☆ お元気ですか みづうみ。
  春らしい明るさになんとなく嬉しいこの頃です。
 『秦 恒平選集 第十六巻』の「あとがき」、以前にも拝読していたのですが、四月六日の私語の中であらためて読み返し、感銘を受けています。新時代の「私小説」論、ネット環境下の文学への視座が開ける素晴らしい批評だと思いました。

 現代文学が「ネットの問題」とますます不可分に成ってゆくこと、それが「法」ともからんで、ややこしく悩ましい事件を引きずり起こしてゆくこと。今、ま さに、それを「わたし」自身体験している。文学も批評も、いずれ、「ネット以前」「ネット以後」と、または「旧文学時代」「新文学時代」と「分類」されて ゆくだろう。多くの近代文学が、文豪たちも手だれたちもその他大勢も、「ネット以前」の「旧文学」という「箱」のなかに蔵われるだろう。
  このわたしの予言、賢明にだれかが「記録」し「記憶」していてくれますように。

 読者は勿論しっかり記憶していくでしょう。
 
 秦恒平ほど過去の遺産の古典に精通した文学者は稀で、秦恒平ほど現在と未来文藝への透徹した眼差しを持つ文学者を私は他に知りません。
 わたくしにに、ドナルド・キーンの日本文学の歴史シリーズを頂戴して「文学史」を勉強するようにとご指導いただいたことがありましたが、その理由が少しだけ分かってきたように思います。

 わたくしは判で押したように毎日同じような生活をしていますが、コロナがなくても結局似たような生活だったと思います。すべきこと、本当にしたいことをしていると、出歩いている暇がありません。それはとても幸せなことでもありますし、元気に努めていたいと願っています。
 お元気でいらしてください。「たのしみは誰とは知らず耳もとへ「げんき げんき」と声とどくとき」ですから……。      踏青   青き踏む影も恙(つつが)を離れたる   皆吉爽雨 

* 何がどうしたか分からないが、この人への私からのお礼など返信・発信メールは、このところ数回、みな機械から飛び出して行かず、こっちに停頓したまま。他の人へのメールには そんなことは起きていない。ワケが分からない。
  
* 「げんき げんき」と声が届く。

 ☆ 秦先生へ 
 ご無沙汰しております。

 外出することがままならない世の中になってしまいましたが、お元気でいらっしゃいますでしょうか。
 こちら倉敷は、関東と比べると落ち着いているのですが、工場内でコロナをまん延させる訳には
いかないので、緊張感のある業務が続いております。
 昨日の昼は お電話ありがとうございました。
 仕事のためお電話に出ることができず申し訳ありません。
 緊張感のある生活が続いているためか、あまり余裕が無くご無沙汰してしまっております。
 コロナが終息しましたら 東京に伺いたいと思っております。
 是非お元気でいらっしゃることを願っております。  子松

 

* この学生君こそ純朴に無邪気な勉強家だった。しょっちゅう教授室へ、話すためより、仲間のもふくめ、聴くために通ってきた。
 私は、妻も、 このピアノをひく人から、いろいろ音楽のたのしみを伝えられた。妻は、手に入れたかった楽譜ももらっていた。これを聴くといいですよと私にCDも送ってきてくれた。マリア・ジョアオ・ピレシュのピアノに出会わせてくれたのはこの人だった。
 あちこちの美術館へもよく連れて行った。縁のうすかった美術へも気が動いたのは、東工大生としてわるいことでなかった、そして院を出ていらい「倉敷」勤務が永い。何かを製作しているのだろうか。倉敷の美術館は私たち夫婦にも懐かしい思い出がある。風情が想い出される。
 元気でいてほしい。

 * 小田野敦さんからも「秦先生」と書き出しのメールをもらった。耳よりの私事も書かれていた、が私が「選集 16」後記で「私小説」にふれて文学感想を書いたとは、先夜の、この「私語の刻」で転載してたのを、読んでもらったらしい。
 むかしに『慈子』を読んだ、『閑吟集も」も読んだ 「あれはいい本です」とも書き添えてある。感謝。「昨年十月の『文學界』に私小説を載せているのでお送りします。」と、電送されてきている、らしい。私の腕前で、無事一太郎へ転写できるかしらん。このごろ、私、頓に機械操作の手順や記憶が怪しくなっているので。
 小谷野さんがこの「私語の刻」に目を触れてくれていることにも、感謝。このごろ どうしてるのかなと思っていた。

* たのしみはあれやこれやをかき混ぜて仕事らしきへ気の弾むとき 

* そうは言いながら、もういいではないか、という内心の声にしたがいたい気が兆している。
 なんという騒がしいばかりの時代になっているのか。テレビの映像に観る世相は、もう私の同居できる、同居したいものでない。あまりに しだらなく 喧しい。昭 和に生まれ昭和に育ち、平成を懸命に生きてきたが、令和は、もう、生きて行くに懐かしい魅惑を、少なくも静かさという美しさを持っていない。機をえて早く立ち 去りたい。

* 小谷野さんの私小説というのを辛うじてメールから移したが、今の私の視力では、この線の細い小さな文字でかなりの長いものを読み通すことは不可能。わたしのこの「私語の刻」は緑の背景に「最大の太字」で書いている。それが視力に可能な限界。

「私小説」の書き手は、昔は文士の殆どがそうであり、そんな中でラコニックな文体の志賀直哉はやはり文章が傑出していた。瀧井孝作の悪文かと読みまがう独 特の習字にも文藝が光っていた。そして概して私は私小説よりも創作された世界の妙味を好んでいた。事実レベルを饒舌に書き垂れただけのものは読まなかっ た。「現代の怪奇小説(河上徹太郎評)」と受け容れられた『清経入水』の道を歩き続けてきた。一つには私 は「物語」の「語り口」という創造に関心があった。どう「語るか」それも出たとこ勝負のだらだらな語りは「イヤ」だった。主人公ないし語り手にどんな語り 方を生み出して貰うか、それが書き出すまでの思案だった。比較的近来の創作では「黒谷」「オイノ・セクスアリス」「花方」など、語り口の私なりの新しい出 かたを(成功・失敗に関わりなく)苦心した。いつも避けたかったのは、「垂れ流しのような饒舌」で 「事」 を吐きつづけること、それは、あえて遣るなら  それなりに「藝」のあるやり方でないとつまらぬと思っていた。咄家にも名人といわれた園生、志ん生、馬琴、小さん、ないし三平等々、みな独特の話藝だっ た。甲乙を付けても無意味だった。ただ彼らはどの話もヽ語り口だったが、小説家は、たとえ話に過ぎないが、時に園生風 時に志ん生風など、自身の藝として の語り口の変妙を作に応じて「発明」できないなら作家としては無価値な存在と謂えるのではないか。

* 
倍賞千恵子の歌を「遠くへ行きたい」など二曲、岸洋子の「希望」 誰で あったかの「学生時代」をしみじみ聴いた。わたしは、ちっとも老人らしからぬのか、いや老耄してこそ、そういう前時代、前前時代の歌声がせつなく恋しいの であろうよ。美意識として がさつ さわがしい というのを最もよからぬこと。ものとして確信しつつ時代に育てられた来た。静かに、美しいもの・こと・ひ とを貴び尚とんで世の中を歩いてきた。今の日本は、もう堪らない、イヤだ。 

* 発送分への追加分の宛名書きなど、終えた。もう少し もう少し と先へ事を運んでいる。

* そのあいだにも、「ま・あ」は「削り鰹」をいそいそと分けてもらいに私の傍へ来る。
 「あこ」は神妙に待ち 「まこ」はせき立てる。二つの革のペン皿に分けてやる。
 感心に、けっして取り合わないし、向こうへ口を突っ込むことはしない。神妙で、心得た兄弟です。しかし、以前、「アコ」が二日半家出して家中で心配した のが「マコ」にはよほど堪えたようで、「アコ」が外へのドアへ近づくと、毛を逆立て唸って吠えて兄貴を叱る。「出てはいけない」と言うのだ。
 賢いではないか。
 どっちがイタズラか。ま、「あこ」の被害が多く、書架へ伸び上がり谷崎先生夫妻の写真の上へ手を掛けに来る。もう、家の中で破れていない障子も襖も無 い。ちょっとした隙間へ二人して潜ろうとする。襖も障子もドアも明ける。破れは放ってあるが、それでもさまざまに対抗処置はして、懸命に知恵比べの日々で す。 
 



  令和三年(二〇二一)四月八日 木       

   起床 7:15  血圧148 -73 (58)  血糖値 89  体重 60.5kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ  

★  思へかし いかに思はれむ 思はぬをだにも 思ふ世に

 ☆ こんなのを、畳語といいます。同じような物言いを微妙にずらして畳みこんでいます。舌も噛みそうですが、頭も痛くなります。すこし時代がおくれて、『宗安小歌集』にこんな類歌があります。

   思ふたを思ふたが思ふたかの 思はぬを思ふたが思ふたよの

 ☆ 恋いこがれた相手を恋いこがれてみて、向うも同じに恋いこがれてくれたか。いやいや。恋いこがれもせぬ相手を恋いこがれた顔をしたら、向うは夢中で恋いこがれてきたことさ。
 いやはや、ままならぬ──。
 独白でよし、唱和と読んでもよい。ちょっと切ないような、宗安小歌の言葉遊びの面白さです。が、閑吟集の八○番は、趣味的に言葉遊びで終らせない、さし 迫った覚悟、が言いすぎならば、意気ごみを帯びています。これは自分で自分に、または親しい相手に、噛んでふくめて訓えているとみたい内容です。
 「思ふ」は愛する、恋する、惚れこむ意味に違いない。「思へかし」は命じるくらい強い勧めです。そうすれば自分も強く深く人に「思はれ」ないではあるまい。愛されるためには先ず愛せよと、この小歌、謡いかけ勧めています。そしてそのあとが、独特なンですね。
 愛してないはずだった相手でさえ、愛してしまうことになるのが、男と女との「世」の仲だもの。愛の不思議なンだもの。そう言っている。つまり人を愛さずには生きてられない存在として「人間」を見ている。
 これを諦悟ととるか耽溺ないし頽廃ととるかは、読者の自由でしょう。
 「思はぬをだにも 思ふ世に──」ふしぎに涙ぐましくもなる、真率の凝視が詞句の内に生きています。
 少くも、すこしもふざけていない。

* 憎しみにみちみちた夢に驚いた。おどろくとは 夢やぶれる古語である。誰と知らず耳へ「げんき げんき」と励ましくれてあの世の声がとどく。

* 「湖(うみ)の本 151」 校正かたから印刷かたへ廻ったようで、一週間もすれば出来本が玄関へ積まれるだろう、八五老には重労働のときが来る。まだ、発送用意が全ては調っていない。小走りに遂げて行かねば。

* 宛名を手書きせねばならぬ先が、六、七十人、宛名を書くより、人を選ぶ方が難儀、それもともあれ終えた。宛先を書き込んで行く。それを終えれば、ま、準備は成る。成れば納品を待つだけ、気はラクになる。

* もう六月の歌舞伎座案内が来た、が、出かけられまい。それどころか、そのころには五輪開催をどう左右するか難中の難題になっていようかも。
 播磨屋が仆れたという。高麗屋に、ムリして欲しくない、要心願いたい。
 学校友達の、松嶋屋を統べている片岡我當が久しく顔を見せていない、心配していますよ。

* なにがという理由もなく、いや有るのだろう、沈滞をぢっと堪えている心地。一つには発送の用意という作業は文字どおりの作業、しかし抛ってはおけない 作業なので。一つには、韓国ドラマの「い・さん」で、世孫の祖父王世宗の最期を、またまた見入ってしまったこと。二本のドラマであれほどの感銘を呉れるこ と実に稀有なのもつらい。日本の半年一年にも及ぶドラマで、「イ・サン」や「ホ・ジュン」や「トン。イ」ほど気を弾ませて感動させたドラマは、やっぱり誰 それの何度かつくられた「赤穂浪士」だけかも知れないのは残念。「おしん」をわたしは観ていないのである。

* 歌集『少年』より以前のいわば『少年前』歌集(整頓されたノートが、三冊残ってゐる。)を読み返していた、胸に波立つモノを静めたく。 八時半。

* 『失楽園』は、いよいよイーヴとアダムとの破戒になる。ここに至る天使ラファエルの永い永い語りで「神の創造」がつぶさに語られるのが、身にしみる。そして、夫婦という存在の不思議な美しさと危うさとが壮烈な劇となって先へ、楽園の外へとはみ出て行く。

*  鴎外訳に導かれて『ファウスト』はしっかり読み終えた。ふかぶかと胸に落ちた。鴎外の日本語、感嘆のほかない。

* 『指輪物語』の想像と創作との精緻を極めながら、じつに自然な叙事の妙に心惹かれる。

* 一転して「史実」としての中国を、春秋、戦国、三国志から 前後の漢時代も過ぎて、隋へ、唐へ流れ込むまでの大波乱を読み進む。
 なんという國であること か、中国とは。秦始今日の中國政権は最高の皇帝であり政治家だったとしている。前漢・後漢の儒教的な混乱の歴史も面白かった。そのころはまだ「日本」とい う國は、「存在」すらしていなかったのだ。


  令和三年(二〇二一)四月七日 水       

   起床 8:30  血圧132 -65 (65)  血糖値 95  体重 59.8kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ  

★  我御寮(わごりょ)思へば あのの津より来たものを 俺振り事(ごと)は こりや何事

★ なにを仰(おしゃ)るぞせはせはと 上(うは)の空とよなう 此方(こなた)も覚悟申した

 ☆ 「我御寮」はこの時代の二人称です。あなた。お前。相当の親愛を籠めています。それだけに目上の人への物言いではありません。男女の限定はないが、先の七七番では、男が女へ。
 「あのの津」は伊勢の安濃津、現在の三重県津市にあてて構わないのですが、むしろ「あの」という遠い指示詞の効用へ一般化してみた方が、いい拡がりを産むようです。
 この小歌の妙味は、むろん「振り事」「何事」という脚韻にありましょう。実際に「振られた」というより、あだけた睦言(むつごと)の感じが面白いのですね。
 あとの七八番は、女からの応酬ですね。深刻に読めば、はや帰宅の時間でもしきりに気にかけている男の、上の空の物言いをプンと怒って、女からも、「いっそ別れましょうよ」と投げつけたふうに想えます。
 「せはせは」は、受け答えも頼りなげに妙に気にさわる早口で、つまり「上の空」で、と取りたい。
 けれど、この際の女の、「此方(こなた)も覚悟申した」という科白を、そう深刻に取ってはかえってつまりません。むしろ「男の扱いに慣れた女の口吻(くちぶり)」という臼田甚五郎氏の理解に賛成です。
   「俺振り事は こりや何事」
   「此方も覚悟申した」
 こうやり合って、瞬時に微笑か微苦笑か、あるいは咲笑をさえ交しあっている仲よさがここに見えて、そういう見えかたを誘っているのが、閑吟集のなかなか 手だれに「自然な趣向の冴え」と言えましょぅ。この編者と思しい「桑門(坊さん)」がたいした「狂客」でも「粋人」でもあって、広い意味でも狭い意味でも 社交場裡の甘い酸いを噛み分けていた人、妙な比較ですがプーシキンの「イフゲーニェ・オネーギン」みたいな人物、そういう体験の蓄積を過去にいやほどもっ た人と想像するのは、きっと正しかろうと思っています。 

* もう淡らいで覚えないが、奇妙に喜ばしい夢もみていた。どんな ということすら思い出せないのだが。

* ネット世界での犯罪または犯罪にひとしく、思慮不足に蒙昧の人たちを騙り、法外の金を貪り盗む例が報じられる。こうした「ネット悪」はまだパソコンが 使われ始めた頃から、ペンクラブの電子メディア委員長として私は警告していた。なにより青少年の精神環境への害毒禍は免れまいと、いまや自然環境も大事だ が はるかに精神環境への毒害にこそ深甚の用意が必要と繰り返し発言していたが、当時のペンの理事会では、私の発言を注意理解できる人が二、三人ともいな かった。そして、おそらく今でも、文科省にも厚労省にも、ここへ深い配慮が看て取れないのは、ただもう「危うし」と謂うしかない。
 インターネットの計り知れぬ効用の広大はむろん私は信頼している。しかし、いかに宜しきものにも害悪の副う事実にもいまや政治的配慮があって当然と思 う。機械の機械的回答にのみ人間の思考力を明け渡して、機械とただ浅はかに戯れ生きているのでは、世界をより堅固に維新してゆくことは難しい。明治の若者  大正の若者 昭和敗戦前の若者 昭和敗戦後の若者、平成の若者、令和の若者に それぞれ適切で共通の質問をして、その回答が解析検討されたなら、大事な 何かが浮かび出るのではないか。私が、東工大の大教室で学生たちと「挨拶」していたようなこと、を、各時代の青少年らに問うてみたいものだ。

* 午後ひさびさに京の浜作女将の洋子ちゃんの声を電話で聞いた。電話のこととて何ほども話せないが、思えば、向こうも同い歳。元気な声なのが何よりだった。

* 毎週水曜に生協からいろいろ妻の買い物に加わって清酒(四ないし五合瓶が、二、三本)・添え物のワイン・ビールが届く。清酒は飲めば一本は行ってしま う、が、なんとか二日保たせよと。このごろは、一日半かナ。そして少しでも飲むと、30分から2時間ほど寝入ることもある。それが良いのか良くないのか、 分からない。だいたい、二本しか来ないと日曜か、三本でも月曜中に無くなって、ワインやビールで水曜まで、繋ぐ。足りない時は自転車でセイムスへ走り、気 付けの安い洋酒を買ってくる。酒肴は概して不要。

* 何と無く  立処皆真 というより 皆脆 という頼りなさ、宜しくない立ち方。
 夕食して、またそのまま 十時まで寝入っていた。



  令和三年(二〇二一)四月六日 火       

   起床 徹夜起き  血圧174 -86 (74)  血糖値 97  体重 59.3kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ  

★  仰(おしゃ)る闇の夜 仰る仰る闇の夜 つきもないことを

 ☆ 「つき」は「月」でもあり、ふさわしい「拠りどころ」の意味でもあります。「つきもない」という物言いには「月もない」闇夜の意味と、「いいかげんなことを」という非難が懸け合わしてある。
 「まァ仰ること。闇の夜だからいいだろですッてェ」 「まァ仰るわ仰るわ、聞の夜だからいいだろですッてェ」 「つきもないことを」と。
 たいそう面白い。
 こう読むと昨日の七二番

★  恋風が 来ては袂(たもと)にかい縺(もつ)れてなう 袖の重さよ 恋風はおもひ物かな

が、男から女へ、今日のこの七三番が女から男への、剽軽なしっペ返しとして 一対のものに想われる面白さも加わりますね。つまりこの一対、恋仲のお二人さんが 逢引の散策を楽しみながら、軽口でやり合っていると読めるのです。
 配列の妙がここに生きています。

* 深夜二時、二階。どうしてもと思い立ち、掌に重いほど私の「選集16巻」本で、長編 『父の陳述 かくの如き、死』 を読んでいる。どうあっても読み返したくなり、まだ、五分の一。自作を語るのはじつは容易でないのだが、「法廷」へ提出という此の「陳述書」形式 まこと内容は多年・多岐にわたりながら、ま、「簡かつ要」の構成と文体で相応に「表現」できていた、か、と、ほぼ納得できそう。

* 誰方であったか、過ぎし「平成」文学の一画に、私近年の長編『オイノ・セクスアリス』を挙げてくれた人がいたようで、ま、有り難い、が、だが、的を絞って 散漫を避け、主意を執拗に追いかつ煮つめる「かたり」としては、この『父の陳述 かくの如き、死』の方が、という欲目も、笑止にも、なんだか持てそう な。

* 但し、この作、避けえない手痛い弱身を持っている。表題にも露わな、「陳述者」つまりは「法廷の被告」その人が、数ある著作で賞も受け国立大の教授も務めた「父」親 で。そんな初老の父を、愛されて育った実の「娘」と陰湿に嫌みなその「婿」先生とが、「夫婦連名」で、実父・岳父を「名誉毀損」「賠償金1500萬を支払え」と訴 訟していて、何とも不快、不可解なのである、が。そんな、法廷へ提出の「陳述書」なる「語り口」を、私は、「文藝」としてぜひ「編み上げ」てみたかったのだ。驚くべ し、しかも当訴訟の「正体」がじつは「実話」、取材するのもおどろおどろしい実話であったが、ま、何とか研覈も推敲も遂げて「書き下ろした」のが「此の作」であった。

* で、歳月を経て、読み返しまして、サマになっていたか、それはまだ確言できませんが、なにしろ人も話も不快も不愉快、その苦々しさを「生(き)」のまま嘗 めてみようと、私は書き下ろしを「思い立っ」た、私の別著『死なれて 死なせて』の話体に並走の「小説篇」に成るかなあ、とも。それで副題めかして 「かくの如き、 死」と主題に添みた。え、誰か、死んだのか。
 ハイ、それこそが主題。老父被告には愛おしい「孫娘」が、原告夫婦には二人娘の「長女」が、成人の誕生日 を目前に、しかも母親の誕生日と同日に、難も難の医学もお手上げな「劇症」に、みるみる奪われたのであった。 

* 暁けの、五時になった。

* 小一時間もソファで眠ったか、また、読み継いだ。が、この作を他の短編、中編とで編んだ『秦 恒平選集 第十六巻』の「あとがき」も読んで、私の「文学」への思いの割合はっきり書けているのに気づいた。かなりの量になるが、目下の思いと齟齬なしと 見て、重ねて今此処に心して添えたい。。 (もう八時になる。)

☆ 秦 恒平選集 第十六巻刊行に添えて
        (『父の陳述 かくの如き、死』に添えた部分。) 

 創作とは「実験」なのである。
 ことに小説の場合一作一作が「方法の実験」でありたいとわたしは願ってきた。同じ方法でどれも似た作品を積むマナリズムをわたしは恥ずかしいと思い、一 冊の創作集を編むとき、題材が変わるという意味ではない、一つ一つの作がべつの作者の手で書かれたかと見えそうに異色の「方法」を試み、試みた。昭和五十 二年『誘惑』の場合の「誘惑」「華厳」「絵巻」「猿」がそうだった。そう批評されたし、しかも間違いなく秦恒平の文体、秦恒平の創作だと言われた。嬉しい 批評だった。
 わたしの作品史で、太宰賞の「清経入水」以来、「蝶の皿」「秘色」「慈子」「廬山」「閨秀」「墨牡丹」「みごもりの湖」「迷走」「罪はわが前に」「初 恋」「風の奏で」「余霞楼」「北の時代」「冬祭り」「親指のマリア」「四度の瀧」「秋萩帖」「加賀少納言」「月の定家」「あやつり春風馬堤曲」「鷺」 「ディアコノス=寒いテラス」「修羅」「掌説集」「お父さん、繪を描いてください」「逆らひてこそ、父」等々、試みた「方法」は一つとして同じでない。一 つ一つが思い切り意図的に「異なる方法」の実験になっている。今回『父の供述 かくの如き、死」の場合も、(「湖(うみ)の本101版 『凶器』でも同 じ」)出来不出来は作者の口にするところでないが、方法の実験という点では期した以上に容易でなかった。

 (湖の本では「凶器」ともした表題の意味は作品に語らせて此処で言わないが、)この小説、普通にいわゆる「小説の文章」で書くに書けない、自然描写・心 理描写やリアルな会話などを受け付けない、即ち裁判所に提出の「被告陳述書」そのものであり、陳述という目的と効果のためには、よく煮つめた、しかも攻撃 と主張を孕んだ「批評」であらねばならないそういう「小説」なのである。攻撃や主張のためには場面場面で重複も反復もあえて冒しながら、議論上も法廷を説 得し相手方を批判していなければ役に立たない。喧嘩腰が喧嘩と見えぬように、判事の心証を冒さぬようしかも際どく窺狙いながら、弱腰のゆるされない闘い、 いやな闘い、不愉快極まる闘いをとにかく一本槍に「表現」しなければ済まない「小説」なのである。
 一本槍は、曲がない、まして読む小説としては。作者は、更に一思案を迫られる。
 で、此の、「陳述」という曲のない「小説」を、そっくり別の「額縁」に嵌め込んで、「もう一つ」の「べつの小説」にしみようと「実験」した。
 説明までもないが、つまり、この長い小説を、一人の、露骨でがんこな、しかし真剣で率直な「父親・清家次郎」のただ陳述書でなく、優にあり得ること、今 や「亡き父」の「長き苦しみ」を表す「遺稿」に変身させた。ガチガチに戦闘的な文書を、当の「父」からでなく「息子」の手で、「法廷」にでなく「世の中」 へ「提出」させてみた。法廷にでも弁護士にでもなく、実の父を訴え出た実の娘夫婦にでもなくて、「世の中」という名の「裁判員」に「父・清家次郎」は訴え たかったはずと、父と同じ創作者である「息子・清家松夫」はこれを、「遺書」でもある提案・主張と読み取り、そういう「小説」に、全然「仕立て直した」の である、儚い、憐れな、しかし父への供養として。

 もとよりこの小説、「名誉毀損」とは、或いは憲法が重く認めた「言論表現・思想信条の自由」とは、「親子・家族・親族」とは、「人間の愛憎」とは、或い は「インターネット」とは、「裁判」とはとも烈しく問うており、それらの表題でべつの方法を実験されてもいい「提議」ではあった。
 父と母との二つの陳述書の「前・後」に置かれたいわば額縁には、そういう小説家・秦恒平の苦くて深い惑いと思いとが提議として摺り込まれている、と、そ う読まれれば有り難いが、だが、それも作者が読者に強いることであってはならぬ。ただ、わたしは此の長編を、(わたしは此の『凶器』を)、まこと「私小 説」かのように書いた。正直書きにくい「実験」になった、(気持ちの奥に、「平成二十一年八月三十日」の革命的な衆議院選挙とも繋がる命脈を、希望を、感 じながら書いた)とだけを書き置く。(半世紀も待った勝利の選挙だった。「怨みを晴らすように」待ち得たのだ、そういう気持ちとかっちり「生きの緒」を繋いだ「私小説」を、わたしは、可能という以上に欲しい、必要だ、試みたい書きたい)と思ってきた。)

 以下、述懐としても方法論としても、この巻のためにも「私小説」という「実験」に触れて、ぜひ此処に書いておきたい。
 
 「蜻蛉日記」「とはずがたり」以来、花袋、泡鳴らを経て、秋聲も秋江も、直哉も善蔵も、高見順も太宰治も、安岡章太郎も吉行淳之介も、無数の私小説をわ たしは読んできた。私小説論もたくさん読んできた。「谷崎愛」で谷崎文学ばかりを読んできたのではない。その谷崎にも私小説ふうの作は数多い。
 かねて、貰っていながら、手に触れる余裕のなかなか無かった小谷野敦氏の『私小説のすすめ』(平凡社新書)も読み始め、読み終えた。感想は、肯定的か、否定的か。肯定的…。
 小谷野氏の論調はことさら破壊的な乱暴を含んで厳しいのだが、状況や背景は博捜し、あざといアテズッポウは言っていない。言わずもがなの言い過ぎはこの 人の得意技で持ち味であるから、不愉快には目をつむってとばし読みをしても義理を欠くことはないが、著者の包丁はかなり肯綮に当たっていて、面白い論策と いうより、裏の取れてある興味ある放言なみの新説である。奇説とも読める。
 しかしながら小谷野氏「定義」の、およそ「女にフラレ男達」の情けない自虐的な告白「私小説」だけでは、「二十一世紀の私小説」は言い尽くせまいと思 う。わたし自身は、今も、これからも、私小説も非・私小説も書く気でいるが、「私小説」の場合、小谷野敦氏定義ふうには、決して書かないだろう。
 手もとへ、「私小説の問題、きっと、以前から秦さんは『ネットの介在』をおっしゃってきたと思います。やっと、それが自分にも考えられるようになってき ました。ひとりひとりの権利意識とも絡んで、難しい問題だと思います」と、読者・批評家の反応メールが届いている。いまの批評家達も作者達も、たしかにま だ其処へまで、視点も視野も届いていない。方法としての足場もできていない。そして難儀なネット上の「問題」だけが起き、行儀わるく独り歩きして行く。
 現代文学が「ネットの問題」とますます不可分に成ってゆくこと、それが「法」ともからんで、ややこしく悩ましい事件を引きずり起こしてゆくこと。今、ま さに、それを「わたし」自身体験している。文学も批評も、いずれ、「ネット以前」「ネット以後」と、または「旧文学時代」「新文学時代」と「分類」されて ゆくだろう。多くの近代文学が、文豪たちも手だれたちもその他大勢も、「ネット以前」の「旧文学」という「箱」のなかに蔵われるだろう。
 このわたしの予言、賢明にだれかが「記録」し「記憶」していてくれますように。

 事実インターネットの時代である。優れた新才能が現れてくるとき、「私小説」の相貌は小谷野氏ふうのそんな情けない脆弱な厚かましい動機を越えて、自爆 的なほど良質にも悪質にも強い問題を社会に投げかける「私小説」が現れうる。サイバーテロや情報操作の私小説も、多彩なオーガニゼーションの私小説も、新 手(あらて)の恋愛・性愛・人間関係の小説も、グローバルに展開する私小説もきっと現れる。それらは当分は、概して「社会への批評・不満・不平」を孕んで 戦闘的に働くであろう。
 ともあれ、徐々に「私小説」も書こう、書きたいとわたしは意識してきた。意識の外側から事情に強いられる気味もあったとはいえ、老境に入れば私小説が好 かろうと若い時から覚悟していたし、人生未熟な若いうちに「発見のある私小説」はムリと思っていたのだから、七十四老、いわゆる後期高齢、時機はとうに来 ている。

 このところ、実は、亡き川嶋至の遺著『文学の虚実』(論創社)も読んでいた。
 巻頭の、安岡章太郎作『月は東に』を論じた「歪曲された事実の傷痕」からして、衝撃に満ちた弾劾の批評であり、この一編に限って云えば、かつて東工大での同僚川嶋教授の筆鋒は、問題の核心を刺し貫き、それなりに批評本来の役を完璧と見えるまで果たしている。
 『月は東に』作者のモデルに対する悪意と自己弁護は、かなり醜い。侮辱されたモデルの苦痛は計り知れない。その一方、この小説は文壇では高く顕彰され、 また、ここが微妙であるが九割九分九厘の一般読者にはそのようなモデル問題など見えようがなかった、見えてなかった、だろう。
 こういう傾向と手法の私小説しか書けない「書き手」で安岡氏があることは、多く氏自身の述懐やエッセイを通して推量できたし、書かずにおれなかったから 書かれたとしてそれは作家の負う宿業といえる。言えるけれど、だからといってモデルがこの表現を憎悪し赦せないことも火より明らか。そういうことに関連し ては、もう十余年前、柳美里の小説に触れて「作者は、覚悟を決めよ」とわたしはわたしの考えをサンケイ新聞に書いている。(「湖の本エッセイ47 濯鱗清 流・秦恒平の文学作法上巻」76頁)
 川嶋さんはこの評論集ゆえに文壇で多大の顰蹙・排撃を買い、逼塞をさえ強いられたと仄聞してきたが、そういう文壇であるのをわたしは嫌った。その辺のこ とは、更にオイオイにべつの場で別に書く人も出るだろう、ひとまずこの話題を離れて「私小説」への関心に戻りたいが、それでも、実もって、川嶋さんが面貌 の皮をひんめくった上の安岡作のような私小説なら、わたしは書かない。現に書いていない。

 むかしから、男女間の、家庭内の、交際上の、生い立ちの、暮らし向きの、貧しさ等々の「情け無い恥」「うしろめたさ」を、敢えて忍んで「そのまま書く(掻 く)」のが「私小説」であるという「説」がもっぱら通用してきた。その代償として、作品は「純文学」「藝術」といわれ、作者は「藝術家」という名誉を手に 入れてきたと。書き手たちは、けっこうその積もりでいた。
 わたしの考えている「私小説」は、ちがう。どうちがうかを、わたしは書いて実現して行かねばならないが、一言でいえば、「いま・ここ」に在る人間の 「私」自身を書き、「私」自身の思想を社会的にも文学的にも定置し表現して行く「手法」「方法」として「私小説」を書く。「日記」を書く。「年譜」を編 む。そういう気である。
 わたしは「男女間の、家庭内の、交際上の、生い立ちの、暮らし向きの、貧しさ等々」ゆえの「情け無い恥」という観念や概念にほとんど毒されていない。ほ とんど実感が無い。鉄面皮なエゴイズムと叩かれかねないが、わたしにはそれらが何故に「恥」なのか、ピンとこない。生きていてその日その日に遭遇する体験 の集積は、ただに自己責任ないし自己実現と謂うに過ぎないし、まして「生い立ち」など、どうあろうと、わたしの「知ったことではない」。
 高見順は「私生児」に恥じて拘泥しつつ私小説を書いたが、自身が私生児として恥じてきたはずの「私生児」を、生涯に二人も(一人らしいが、作家自身はある期間二人と自覚していた。)妻でないべつの女たちに産ませていた。それを「私小説」に書いていた。
 芥川龍之介は生い立ちへのこだわりを事実の説明としては書かなかった、書けなかったのである、どうしても。しかも深く深く拘泥して恥じていた。太宰治はどうであったか。
 わたし自身は、自身私生児であった生い立ちを、それと知った子供の頃から恥じたりしなかった。「私の知ったことではございません」からである。終始一貫、ほとんどあっけらかんと「自由」だった。
 むろん「恥じ入り、恥ずべく、恥ずかしい」ことは他に山のように有る。みな、生きものとしての人間なら、どうしようもないこと、ま、少しでもそんなもの 少なくありたいと願うし、わたしの場合、むしろその恥ずかしさを、儒教その他の道徳律でなんとか正そうとか制しようなどというコトのほうを、「あえて避 け」てきた。
 不自由は、イヤだ。自分の問題だ、ただ目を逸らすまいと見つめてきた。わたしの生きてきたエネルギーは、「自由」でいたい欲求と、ほんのちょっぴりであ るが、漱石のように「私怨は忘れない」という熱だろう。その足場に立ってわたしは「わたしの私小説」を書きたい。自然それは書き手の「いま・ここ」に在る 思想や感想を背負って、自身を確かめ確かめ、世の中へ厚かましく主張し提言し表現する「私小説」になる。「花に逢へば花に打(た)し、月に逢へば月に打 す」。告白ではない。ただ心境の表現でもない。まして高みの見物のモデル小説でもない。優越でも、愚痴や泣き言でもない。『蒲団』でも『新生』でも『和 解』でも『生命の樹』でも『月は東に』でも『宴のあと』でも、ない。
 わたしの場所は、過去にも未来にもない、「いま・ここ」にある。「いま・ここ」でどう生きているか、そこに自分の花であり月である思想や感想が産まれて いるなら、それをしっかり書きたい。そういう「私小説」が書きたい。わざわざ自分の筆でわざわざ「恥」が書き(掻き)たいのではない。
 恥は掻こうが掻くまいが、たんに恥の「ようなモノ」に過ぎない。それを書(掻)けば、なんで「藝術家」や「藝術」が自動的に保証されるものか、問題が違う。
 もう一度、言う。
 わたしはこの長編を、「私小説」かのように(5字傍点)書いた。正直書きにくい「実験」であった。(気持ちの奥に、「平成二十一年八月三十日」の革命的な 衆議院選挙とも繋がる命脈と希望を感じながら書いた。半世紀も待った勝利の選挙だった。「怨みを晴らすように」待ち得たのだ。
 そういう気持ちとかっちり「生きの緒」を繋いだ「私小説」こそ、可能という以上に、欲しい、必要だ、書きたい試みたいと思ってきた。その気持ちをかきた てるほど、わたしを励ました近刊に、かつてペン言論表現の同僚委員であった清水英夫氏の『表現の自由と第三者機関』(小学館新書)があった。)

 顧みて気が付く、溢れる喜びで妻とともに「娘」を此の世に得て以来、沢山な小説の中に「娘」を登場させてきた。『慈子(あつこ)』『罪はわが前に』をは じめ『ディアコノス=寒いテラス』『逆らひてこそ、父』『華燭』そして日録『かくのごとき、死』に、小説『父の陳述』に、と。運命であったし、運命ならば 運命として見遁すのでなく、「書き表す」のがわたしの「仕事」と思う。従来の情けない告白型の「私小説」としてでなく、時代へ社会へ繋がって、批評のあ る、主張のある、凹まない「私小説」かのように実現したかった。一つの文字通り本作原題であった「凶器=言葉」ともなるだろうが、怖れまい。新世紀「純文 学」の道はそこへ、その先へ続くだろう。
 奇妙なことだが、こう書いていてわたしのアタマに今ある一つ「印象的な私小説」は、あの沼正三作『家畜人ヤプー』を此の世に導いた人、天野哲夫氏の大作 『禁じられた青春』(葦書房)なのである。ごった煮の雑炊のようで見た目も上出来でない、が、濃厚に旨い味はあり、けっして「味気無い」「情け無い」告白 本ではない、生涯「いま・ここ」を凄みの表情で生きた人の、警醒・震撼、おそろしく凸出した主張作だった。強い人だった。但しインターネットの世界からい えば、「旧人」の一世界だった。

 そのネット社会に接しながら仕事をする、ものを書く者として、「陳述」中にも特記し強調してあるが、今一度念を入れておく。すなわち「文責者」の姓名や 立場の明示されていないネット上の発言・言及は、原則、取り合うに及ばないということ。まっとうな主張や批評や批判であればあるほど「文責」を明らかにす るという社会慣習が築かれねば、公衆便所の落書きなみに、言論の自由と責任とが汚穢にまみれて了うのを私は懼れる、と。必要ならネット上で討論・論争すれ ばいいと。

 さて、おまえの本来は、しみ一つ無い青空のような一枚の鏡なんだよと、バグワンに言われ言われてきた。無影で無垢の鏡、それがおまえの本来「静かな心、 無心」なんだが、真澄の空を雲や雨や雪が去来すると同じく、おまえの鏡はおまえのマインド=心=思考=分別という無数のもの影で曇っている。マインドと は、おまえが眠りこけて見ている「夢」なんだよ。夢から覚めて気づきなさい。バグワンはそう言う。
 幸いにわたしの鏡は、あれを映そうこれを消そうと動き回らない。青空をくもらせる雲や雨が来れば映し、去れば去らせ、求めて呼びも、追い縋りもしない。 年々歳々花は相似て見え、歳々年々人は同じでない。無数に影は去来するが、在ると思えばいつしか在り、無いと思えばいつしか無い。ただうっすらと、俺は 「夢」を見ているんだと分かってきている。それでいて、せっせせっせといろんな影を鏡に映している、まるで生き甲斐かのように。
 わらってしまう。わらいながら、年を取る。     秦 恒平 平成二十八(二○一六)年十月


* 心肉を抉る苦しみや憎しみが毒箭のようにさし迫って、耐え難い日々に襲われることがある。だれかに分かち持ってと理不尽に心に願ってしまう事があり、そんな時、こんなふうに、つい遁れたがるのです。

 たのしみは誰にともなく呼びかけて元気でいるよと黙語するとき

 たのしみは誰とは知らず耳もとへ「げんき げんき」と声とどくとき

* 徹夜なんて  何十年ぶりだったか。 さ、 自転車で、内分泌処方薬を薬局へ受け取りに行く。

* 自転車は、二、三度 危なかったが帰ってきた。

* 昼食してから 四時まで寝入っていた。
 夕食しながら 「イ・サン」即位へ歩み寄る、要所をだけ、観た。
 心身をいためてはならぬ。幸い 予定の仕事への時間的な距離がいやおうなく生まれている。やすむに如かず。

* 六時半だが、もう機械から離れて、やすみやすみ寝入りたい。



  令和三年(二〇二一)四月五日 月       

   起床 8:30  血圧132 -65 (65)  血糖値 95  体重 59.8kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ  

★  恋風が 来ては袂(たもと)にかい縺(もつ)れてなう 袖の重さよ 恋風はおもひ物かな

 ☆ 『魔風恋風』という流行った小説が、明治の頃に小杉天外 作で書かれています。「恋風」は、銘々の語感で好きに読んでいいはずです。恋慕の衝動に性愛が混じるくらいに想っていい気がします。「掻い縺れて」は、払 いのけても絡みつくようなまことに余儀ない情動を言い表わしている。「おもひ物」は「重い物」と、ものを思わせるものとの両方に懸けていますね。ちょっと 歌が重い感じです。
 で、いっそ私はこう読みたい。
 これは独詠の述懐でなく、今しも座敷で、(戸外でもいい)袂にからんでくる女にむかって、男が機転のご愛嬌でからかっているのだと。
 すると、歌が軽くなる。ぐっと面白くなります。そして、男と女との表情や身ごなしまで眼に見えてきます。

* 今日は妻の誕生日、85 同い歳になった。
 心身を労りながら実のある老境を怪我無く元気に過ごしてくれますよう。
 どこへご馳走を食べに出ることもならない。
 朝いちばんに赤飯と、戴いた若筍などで、一献祝いました。

* 「湖(うみ)の本 152」 初校を終えた。「湖(うみ)の本 151」 責了にはしてあるが、難漢字のヨミなどにふりがななどのアカが多く、難航しているらしい。一つには、コロナ等々の関わりでも業務の停頓などありげに思われる。「湖(うみ)の本 151」 の刊行は、更に遅れが出るかも。
 ま、成りゆきに任せるしかない、それでよい。
 「湖(うみ)の本 152」には、表題脇にこんな字句を添えた。

   我無官守、我無言責。則吾進退、綽綽餘裕。  <孟子>

 私自身が病み頽れないこと、それが大事と戒めている。

* 夕刻五時半 「湖(うみ)の本 152」 要再校ゲラを郵送した。

* 妙に一息をついた感じで、夕過ぎから、機械の中をさすらいつつ、夥しいファイルの重複を整理したりしていた。ややポカンとこんな時間の持てたのが、ボーナスでももらったようで。
 少し冷えてきた。背のあたり、冷やっと。

* 


  令和三年(二〇二一)四月四日 日       

   起床 8:45  血圧137 -70 (72)  血糖値 86  体重 59.55kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ  

★  やれ 面白や えん 京には車 やれ 淀に舟 えん 桂の里の鵜飼舟よ

 ☆ 六五番。 珍しいのではない。風情があり目に立ちやすいその物を「車」「(渡し)舟」「鵜飼舟」と挙げているのですね。「やれ」「えん」という囃しを交互に出してくる。アイヌのユーカラでもこういう囃しかたが目立つそうです。
 六六番と六七番は、連れて読みましょう。

★ 忍び車のやすらひに それかと夕顔の花をしるべに

★ ならぬ徒花(あだばな) 眞白(まっしろ)に見えて 憂き中垣の 夕顔や

 ☆ 六六番の小歌は、明らかに源氏物語「夕顔」の巻に取材しています。が、それに捉われてしまわぬようにと言いたい。
 歌謡への身の寄せかた、ことに閑吟集のようにわざとと言えるほど主語を欠いた語法のものでは、敢えて、その表に出ない主語の箇処へ自分か、自分でなくて も自分同等に大切なもう一人を据えて読んでみるのが、ごく自然な感情移入の本道です。徒らに周辺の知識に足をとられ、いきなり光源氏や薄幸の美女夕顔を外 側から傍観者の視線で眺めるといった読みでは、歌謡にふさわしい対い方と言えなくなる。
 「やすらひ」は誤解しやすい古語で、つい「安」や「休」の漢字をあててしまいがちですが、これは「躊躇する」「ためらう」意味です。百人一首に赤染衛門の名歌があります。

  やすらはで寝なましものを小夜(さよ)ふけてかたぶくまでの月を見しかな

 ☆ まこと凄いほど身にしむ、待ちて逢はざる恋の秀歌なンで すが、ためらってないで寝てしまえばよかったわと愚痴っています。「来る、来る」という言葉を心待ちに月を見ながらつい宵も過ぎ、夜も更けて、傾きはてた お月様を山の端へ見送ることになってしまったわという歌でしょうか。
 この赤染衛門の「やすらはで」は、たしかにそういう意味なのですけれど、閑吟集六六番の「やすらひ」は、たいてい、小休止の意味と取られています。ある 人の現代語訳ですと、「女のもとへこっそり通ってゆく車、その車が休息のおりに、あれは自分が思っている女かと、そこに咲いている夕顔の花を道案内として 訪ねた」と、あります。
 残念なことにこの訳は、まともな日本語になっていない。十分に意味をなさない。
 なぜ「忍び車」が「休息」するのでしょう。女のもとへ車で忍んで行く者の気持にすれば、「ためらひ」こそあれ、人目立つ途中の休息などとのんびりしてい られるわけがない。が、男の逢いたい思いと、それをためらう思いとが、忍び車のえも言われぬ足のおそさにはなっている。それがここでの「やすらひ」の本意 でしょう。
 なぜ「やすら」ふか。なぜ「忍」ぶか。
 日かげに咲く夕顔の女だからです。辻君や遊君のような女だからです。それでも愛しいからです。
 ここの「夕顔」は、源氏物語も踏まえながら、夕暮れ時からほのかに町かげに咲いて出るような女の身上なり素性なりをうち重ねています。「それかと」「し るべに」は、源氏物語の中の「心あてにそれかとぞ見る白露の光添へたる夕顔の花」や「寄りてこそそれかとも見めたそがれにほのぼの見つる花の夕顔」という 男女の応酬に示唆をうけています。
 六七番の「夕顔」は、ものの言いまわしからは一応源氏物語を離れています。が、恋の対象としての「夕顔」であって、しかも「憂き中垣」のむこうに裏白に 咲いたのが、見えてはいて、手は届かない、そういう「憂き仲」の花の夕顔でもある。この恋、どうも実を結びそうにない、だから「ならぬ徒花(あだばな)」 でもあるわけです。
 六七番の「夕顔」の女を、遊君と見るか。垣がへだてた人妻と見るか。「人妻」説によれば、これは源氏物語を遠くに感じとって読むのがいい。はじめて光君が夕顔と出逢って、先の歌のやりとりをした時は、女はまだ頭中将の思い妻の一人であったのですから。
 けれど、「ならぬ徒花 裏白に見えて」は、必ずしもあの「夕顔」にふさわしい物言いでない。どこか町の小路の遊君めく女と取れます。どう取ってもいい、十分に物語めいて面白い小歌です。

* 要するに目下コロナ禍、執拗・面妖な攻勢に人間・日本國は、お手上げでの「只待ち」のありさま、大臣や大阪知事や医学・商業要人らの談合を傍聴していても、とても愁眉をひらく気分でない。困るなあ。

* 京都の橋田有子さん(亡き橋田先生のお嬢さん)、京の薫り高い若筍をたくさん贈ってきて下さった。ありがとう存じます。

* 美味しく、筍を若布と煮て、また甘皮を鰹と和えて、頂いた。主食には精白の好きな絹漉し豆腐を。酒が旨かった。
 今日は「湖(うみ)の本 152」の初校に精出していた。「151」の送り出しがいつ頃になるか、まだ分かっていない。その所要はまだ残っている。
 コロナはちょうど去年の今頃にもう火の手をあげていた。安倍内閣は途方に暮れたように末路を辿っていた。 

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 ハ ッ ピ ー ニ ッ ポ ン ☆ 邦 楽 ネ ッ ト
           ☆2021/4/1鼓楽庵メールマガジン
 
*☆**☆**☆**☆**☆**☆**☆**☆**☆**☆*
 
 皆様、お元気ですか?
 望月太左衛です。 ◎^-^)v  
 新しい年度が始まりました。
 と共に、新しい時代がいよいよやってくる!
 という感じがします。
 
 3月下旬、例年より少し早めの桜が咲く
 東京・港区の虎ノ門金毘羅宮様にて
 御奉納の演奏に参加させていただきました。

 日本舞踊の観帆真伎さんによる
 「空と海と」という創作作品です。
 観帆さんは、お父様の跡を受け継ぎ、
 造船の会社の社長もなさっています。
 「こんぴらふねふね」という歌の通り、
 船舶にご縁ある金毘羅宮様に、
 以前より海上守護のお詣りをされていました。
 
 コロナ禍の中、
 神様への祈りを込めた奉納をされることになり、
 私もご一緒させていただくことになりました。
 御神前に向かい、無観客です。
 拝殿の中で、
 御祈祷いただいた後、
 そのまま奉納の演目に入りました。 
 御神前に向かい、無観客です。 
 
 ご自身が襲名なさった時
 御祝いにいただいたという
 謡から始まりました。
 
 日の光浴び
 水にうるおい
 風のそよぎに
 身をゆだね
 
 と、謡の後、
 鈴の音が 響く拝殿の中で
 舞が始まりました。
 尾股真次氏の神楽囃子の笛が鳴り始めると
 観帆氏の心の中の風景が現れてきたように、
 お母様の子を思う愛を
 やさしい女方の振りで表現されました。
 
 一方、後半は、
 海という大自然を相手に航海してゆく船の
 動きを力強く再現されていました。
 船の会社の社長・観帆さんならではの、
 リアルな船の振付で、
 広い畳敷きの拝殿が一瞬、
 大海原にみえました。

 御奉納を終えさせていただき、
 拝殿の外にでると、
 高層ビル群が見え、
 「あ、ここは東京だった」と
 私は夢から覚めたようでした。    抄
   
* 七時半になる。初校を一段落させたい。




  令和三年(二〇二一)四月三日 土       

   起床 8:30  血圧149 -70 (59)  血糖値 77  体重 59.75kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ  

★  思ひ回せば小車(をぐるま)の 思ひ回せば小車の 僅かなりける浮世哉

 ☆ 近江節です。「恩ひ回せば」「回せば小車」と言葉を懸けて回旋の速度感がよく出ている上に、同句を繰返すのも「小車」らしい佳い効果になっています。
 「浮世」とは、後代に浮世草子などが盛んに書かれ読まれます、『浮世床』などという読物も人気をえますし浮世絵もあって、言葉としてはなじみ切っていますが、意味はとなると簡単にいかぬ言葉です。
 あさはかに、ふわふわと頼りない世の中というふうに「浮」くという文字からつい取りたくなるし、まァそれで大異はないようなものですが、根本に「憂き 世」という感受があり、それを批評的にかるく「浮世」と思い直した経過に、意味深長な時代感情のあやは汲まねばなりません。やはり 閑吟集を特色づける語 彙の一つと言うべきでしょう。
 しかしそんな印象ばかりを言うのでなく、たとえば、よく「浮身をやつす」と言います、あんな謂いまわしとの関連からも「浮世」のことは考えてみたいものです。
 番茶も出花の年ごろになると、どう大人が制しても、とかく漂いがちに世間へふらりと出歩いて行く若い男や女の、やるせもなく春情ゆたかな、けれど心もと ないそぶりを指して、「浮身をやつす」と昔の人は謂ったンですね。「浮世」とは、そういう男女の「世」の仲でこそあるのです。するとこれも、前章で読みま した、四九番の、

★ 世間(よのなか)はちろりに過ぐる ちろりちろり

 ☆ の 「ちろり」と同じ効果で、「小車」が使われている。「世間」と同じように「浮世」が使われている。ともに「僅 かなりける」時間、まさに逢う瀬の束の間が嘆かれているわけです。さらに徹して読むと、遠景に 邯鄲一炊の夢、夢幻や南無三宝といった感慨が浮かび上がる のですね。

* ミヤンマー國軍の国民に対する無差別の致死暴虐に対し、日本政府はなに ほどの態度決意と抗議かつ国民支援を計っているのか、ゼロ印象に留まっている。日本政府にも政治家にも、ないし国民にも、そう遠からぬ時点で日本人があの ミヤンマー国民の受け手いるのと全く同じ目に「占領他国軍」から受けるであろう蓋然度の高さに目を向けていない。中国とロシアが明白にミヤンマー国軍の図 に乗った暴虐の尻押しないし支持支援をして、国連では拒否権により安保理を無意味化しているのを見ていよう。その中国とロシアこそが日本国と国土と国民の 支配を念願としているのを、日本の政治家達は忘れたフリをして、むだに、かつ危険にばかな「会食」同然の政治ならぬ政治遊戯に耽っている。
 あの悲惨はミヤンマー国民のそれであり、近未来日本国民の悲惨映像であると何故気づけないのか。  

* 処方箋を薬局へ届けた。

* 時に暑く 時に肌冷えて。*   

* いま、それを思うのは不適切かもしれないが、1984年8月末までのか なり詳細な、だが自筆「略」年譜が出来ている。朝日子が結婚の一年前まで、その後に私の作家・創作生活は前世紀末に16年 今世紀に20年強続いている。 「年譜」を確認しておくなら、もう最期の機会かと思われる。それだけに没頭は出来ない、日々新たな歩みがある、が、放っておけばもう私の足取りを辿ってお くことは曖昧模糊かつ不可能に近くなる。ばらばらではあるが個々の「記録」は、手帳もカレンダーも残してある、とはいえ、個々のそれぞれに付着した私の 「記憶」「感慨」は日々に喪われて行く。老人性の耄碌は確実に始まっていると見て覚悟している。関連の資料は可能な限り「積み上げた」が、それらから記事 をつくって行く作業には、没頭しても少なくも一年かかるだろう。
 えらいことを思い附いてしまったと、かなり慌てている。
 区切って、前世紀2000年(平成12年・65歳)までを念頭に、二度懸け で造るか。
 なんで、こう、次々に仕事を造ってしまうのだろう、とてもとても体調堅固など謂えず、ヘバリながら。ヘバッテいればこそなのか。

* アオ大将の昔はともかく、あの「北の国から」の好演を経て親愛を覚えていた俳優が、「老衰死」を報じられたのはショックだった。私より三歳の年長の88歳だったと。胸を拳骨で衝かれた思いがした。

* 目の前のちいさな置き時計、の、針がどの辺なのか、見えにくい。八時を過ぎて行こうとしている、らしい。
 この時計、昭和五十五年(一九八○)三月 朝日子がお茶の水高校を卒業の時、PTA会長を押しつけられていた私への記念品としてPTAからも贈られた金ピカの、小さいが重量のある置き時計で。
朝日子は四月から同じ女子大へ進んだ。お祝いに銀座でもとびきりの寿司の「きよ田」でご馳走してやり、まもなく私に中国へ行かないかとグループのお誘いの あった時、私は勘弁ねがうことにし、朝日子に進学祝いに行っておいでと出してやった。西安だか洛陽だか、いろいろへ行ったらしく、旅中だいぶ大人達の中で はしゃいでたらしい。指折るまでもなくもう四十年も昔、朝日子も還暦とか。どんな顔をしているのだろう、想像もつかない。  



  令和三年(二〇二一)四月二日 金       

   起床 7:20  血圧155 -79 (66)  血糖値 91  体重 59.7kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ  

 ☆ 季は「夏」に転じています。弥生は三月で春、卯の花咲く卯月は四月で、もう夏、と、そのような暦の上での中世と現代とのちがいもちゃんと頭に入れていませんと、古典を読むさいに往々季節感をあやまりますので、ご注意ください。
 五九番。

★ わが恋は 水に燃えたつほたるほたる もの言はで笑止のほたる

 ☆ 「笑止」は、今日では失笑、冷笑、喋ってやるといった意味に使われ易いのですが、もとは、この小歌の時代では、気の毒な、可哀想なという意味で使われています。間違いやすい言葉ですから、注意が要ります。
 その上で「こひ」「燃え」「ほたる(火垂とも書く虫です)」と言った「火」の縁語を読みとりながら、反対語の「水に」に「見ずに」の意味を懸け重ねて読んでください。
 蛍は、物を言わずに恋い焦がれる「忍ぶ恋」のシンボルにされてきた夏の虫です。「見ずに」「もの言はで」忍んで燃えているわが恋ごころの切なさへ、「蛍」よ「蛍」よといとおしむように呼びかけています。

* これから久々の聖路加病院へ。とにかくも、出かける。往復の無事を願う、今はこういう時期、しかもコロナ禍への行政対策は衆目一致して後手後手さらに後手に回って、何を遣っているのかワケが分からない、と、私が謂うのではない専門家の大方が口を揃えている。困ったこと。

* では出かけます。

* 糖尿病は、朝晩のインシュリン注射も朝不要、晩は半量に減らされるほど、良好のようでした。なにしろ胃袋を全摘しているのだから、糖尿の改善には絶対的であった。
 ま、これからの問題は、日々に寄せ来る「老いボケ」「もの忘れ」です。はっきり自覚して強気に対応することに。

* 櫻は、もう何処も色あせていた。
 銀座へ車で出て、三笠会館で食事し、中華料理と紹興酒とを少しく奢り、帰りは電車を避け、家までタクシーを遣った。銀座は、かなりの人出だった。油断はならないなと感じた。

 ☆ メールありがとうございました。
 この不穏な世の中ですが、私たちの生活スタイルはあまり変わりなく、なんとか元気にしております。
 ただ、何かと集まることの多かった姉妹や親類と会えなくなったのが寂しく、つい考えが暗いほうへと行きがちです。
 医学書院のことは私たち(夫妻)の間でも最近よく話題に上ります。夫も、医学書院に入社できたことは本当に幸せだった、そうでなければ今の生活はなかったと話しています。
 遠藤恵子さんは立派に活躍されているのですね。たった2年のおつきあいでしたが、懐かしいです。
 どうかお身体お大事になさってください。
 「湖の本 151」楽しみに待っています。   由美

* 夫君も一緒に、いつかまた会って話せると嬉しいが。もう夏にはわたしは退社した、その雛祭りの頃に結婚された。たしか、
   ひなの春 われら左大臣右大臣  
 社内でのお祝い會で、そう祝意を表したように思い出す。
 ありがたいこと、ほんとに久しく、「「湖(うみ)の本」を応援してもらっている。遠藤恵子さんにも。

* 勝小吉の「女房」を美しい限りの沢口靖子がまことにまことに美しく演じているのに、驚嘆。

* 老子と孔子を紹介しつつの「空旅中国」映像にも魅された。

* 九時半。もう寝みたい。この半年余に際だっての都心への「旅」であった、今日は。
 

  




 


 *
 令和三年(二〇二一)四月一日 木       

   起床 8:30  血圧161 -83 (59)  血糖値 84  体重 60.25kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

 ☆ 閑吟集の小歌に歌詞としてのコクが有るか無いかと、一つ 一つについて論(あげつらえ)ば、これは少くも梁塵秘抄とくらべて、分がわるかろう、というのも、私の見かたです。けれど、それを補うものも、たしかに、 有る。閑吟集のいわゆる連歌的編纂です。配列です。思い切って四九番から五五番まで七つを一度にならべて見てみましょう。すると、連歌めく情緒の展開のな かで、たとえば梁塵秘抄の編集でならばそうは打ち出されてなかった、閑吟集ならではの或る宣言、主張、態度として、読者の胸へひとかたまりに感銘が迫って きます。  

★ 世間(よのなか)はちろりに過ぐる ちろりちろり (49)

★ 何ともなやなう 何ともなやなう 浮世は風波(ふうは)の一葉(いちよう)よ (50)

★ 何ともなやなう 何ともなやなう 人生七十古来稀なり (51)

★ ただ何事もかごとも 夢幻や水の泡 笹の葉に置く露の間に あぢきなの  世や (52)

★ 夢幻(ゆめまぼろし)や 南無三宝 (53)

★ くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して (54)

★ 何せうぞ くすんで 一期(いちご)は夢よ ただ狂へ (55)

 ☆ 四九は、閑吟集を代表する小歌の一つです。しかも問題含 みの一つです。「世間」を「よのなか」とどの本どの学者も訓んでいますのは後生の解釈で、一応私も従ってはいますけれど、そういうアテ訓みを強いる用字 が、存外閑吟集に数寡いのを思えば、文字どおりの「せけん」と訓んで正しいのかも知れません。もっとも文字どおり歌謡は、黙読に先立って口誦第一に唱歌さ れるもの。おそらく編者も、これが「よのなか」と訓まれることに疑念はもたなかったでしょう。しかも「せけん」の意味も、この二字が体していたこと言うま でもない。そしてここからこの一篇の二重構造、趣向の面白さが真実湧き出すのですが、ところが私の見たかぎり、「よのなか」と訓んだ研究者たちが、口をそ ろえて「せけん」の意味でしか、この「世間」の面白さを汲んでいないのにはおどろきました。
 そもそもこの四九番で謂う「ちろり」が、はたして、ちらり、ちらッ、ということか。光陰の過ぎ易く、少しずつ移動する状態を「ちろり」と浅野建二氏らの ごく通常の解で本当に十分かどうかです。当然のように古語辞典でも、@一瞬目にふれるさま、ちらっと、Aまたたくま、さっとの二種の解を示しています。ど うも、どれも閑吟集のこの四九番を原拠としていて、それ以前に溯る用例は示していないンですね。
 近世、近代の語感で溯って行って、閑吟集の小歌に分かりよく安直に解釈をつけたと、皮肉に言えなくもない。なるほどムリのない理解で、けっして私も反対ではなかったのです。
 とはいえ私自身「ちらッと」「じろッと」「じろり」という瞬時の瞥見を意味する副詞なら、たまには使ってきたでしょうけれど、「ちろり」という、音便で も何でもないむしろ澄んだ発音の名辞か、あるいは擬音のような物言いでは、もっとべつのことを考えます。例えば真先に、酒好きの私なら酒器の「ちろり」を 思い出します。それと秋野にすだく「ちんちろり」のような虫の音を思い出します。
 しかもこの二つは、燗のついてくる時のさやかな音≠ノかぶって、親密に、印象として重なり合っています。「ちろり」と「ちんちろり」──どちらかが、 他方の語源であるかとさえ想像したいほどです。事実、長崎ちろりといって、色硝子のそれは美しい酒器が遺っていますが、そんな南蛮・舶来めくものと限ら ず、やはり古語辞典が教えています「酒の燗をするに用いる容器。銅または真鍮製の、下すぼまりの筒形で、注口や把手がある」と説明しています、錫の品も多 いこのような酒器の名前は、後撰夷曲集の八より引いたという、「淋しきに友まつ虫の寝酒こそちんちろりにて燗をするなれ」とある、燗のつくさわやかな鳴り からも、またその注ぎ勝手のやさしさからも、来ているわけです。
 この手の酒器を、では、いつの時代から「ちろり」と仇名ふうに呼んだか。にわかに確認できませんけれど、この閑吟集四九番の用例などは、松村英一氏や藤 田徳太郎氏の示唆もあったとおり、早くにあらわれていた証拠の一つと、十分考えられます。いかにも閑吟集ふうの名辞、語彙として、しっくりこの場に嵌まっ ています。
 もっと溯って平安王朝の女房がたで日常に使われだした愛称、仇名だったかもしれない。閑吟集時代にはもう市民権を十分もって広まっていたのではないか。
 こう察しをつけておいて、その上ではじめて、この名辞の語感の根に、先にあげたような「ちろり」の通解を、さらに語意を拡張されたものとして思ってみたいのです。
 私の理解を率直に言いましょう。
 この小歌で眼に見えている近景は、まず酒器としての「ちろり」です。そしてその蔭に遠景となり背景となってひそみ、懸詞ふうの隠し味にもなってふくらん でいる意味が、いわば通解どおりの無常迅速の「ちろり」なのです。こう意味を取ってはじめて、「よのなか」の訓みがはっきり生きてくる。つまり「せけん」 のことはと話が漠然と拡がってしまう以前に、この小歌では、男女の「世」の仲こそが、艶に直接にまず謡われているのです。
 愛し合いなじみ合うた二人が、濃厚な「世」の仲をいましも枕を倶に満喫し充足している最中≠ナあると想像しましょう。
 一つ床のまぢかに、あと≠フお楽しみの旨い酒が「ちろり」で煖められているのです。ちんちろりと燗はついてくる、その「ちろりちろり」の間にはや二人 の愛の高潮も過ぎて行く。ひしと寄合う二人の思いが、あるいは男の、あるいは女の孤心が、夢うつつにその「ちろり」の迅さをしみじみ認識しているのです ね。相愛の営みが、わずか「ちろり」の鳴りはじめるまでの、酒に燗がつくまでの寸時に過ぎてしまう、果ててしまう、そのはかなさを惜しみ、呆れ、なげき、 そして男女ともどもに酒の方へ這い寄って行く。そんな、やや醒めてうつろな睦まじさとして読むのが面白い。
 松村、藤田民らはここまでは読まれていなかった。
 「ちろりに過ぐる」の「ちろりに」という形容動詞ふう語法は、酒器「ちろり」で燗がついてくるほどの時の間に、束の間に、という意味でなければたしかに 不自然です。そしてあとの「ちろりちろり」はその時の間を擬音ふうに表現し描写している。リアリティはすべて眼前の酒器「ちろり」が面白う確かに支持して います。
 そのものズバリ、有力な応援を、太田南畝先生、即ち天明狂歌壇の大将格だった四方赤良のこんな面白い狂歌に願いましょう。
                          
  世のなかはさてもせはしき酒の燗 ちろりのはかま着たり脱いだり
                                           四方赤良

 ☆ 酒器を容れて置く「はかま」と着物の袴とを懸けている。袴を着たり脱いだりとは、すでにエロスの情景を直写しています。四方赤良は閑吟集のこの小歌をどうやら本歌にしていたかとも言えそうですね。
 まずは、この小歌は、こう読まねばならぬはずの秀句です。そしてこれほどの具体具象を経て、さらに広く遠くに、「世間」は、時世は、人生はとおし拡げて行けばよい。「世の中はさてもせはしき酒の燗」です。「ちろり」の妙に、かくてこそ意味深長に手を拍つことができます。
 四九番は、いわば二重底、三重底の面白さなのです。それをは なから無常迅速調で単調に片づけてはへんに説法くさいものに終ってしまう。はじめに愛欲耽溺のはかなさがしたたかに感じられて、ついで男女「世」の仲の行 く果てが想われ、それでこそ世間虚仮、無常迅速というほろ苦い諦念も遠景に生きてくる。身につまされるのです。ともあれ目前の景としては、男は男の、女は 女の事後″のしらじらをこの小歌で思いつ見つしているンで、真の意味の、これが「きぬぎぬ(後朝)」の情緒というものでしょう。
 さあ、先に挙げた一連の七篇は、最初の四九番一つをこう読まないと、すべて浮足立って生悟りのお説法くささに鼻をつままねばならなくなる。五○番は「浮 世は風波の一葉よ」といい、五一番は「人生七十古来稀なり」といい、五二番では「あぢきなの世や」とふッと口をついている。それをさえエイと振り切るほど いっそ勢いよろしく五三番は、「夢幻や 南無三宝」──。一炊の夢に夢さめた謡曲『邯鄲』に出てくる一句です。
 一度はおちこみかけた「あぢきな」という否定や消極を、今一度「何ともなやなう」「何ともなやなう」と否定の肯定に反響させ逆転させての、すべては、 「夢・幻」という真実の現実。これをすべてそのまま、「だからどうだと言うの」「何じゃいナ」とまたバサリ夢幻(無間)の底へ切って落とすわけです。その 原点に四九番の男と女との愛恋夢幻、無限抱擁の束の間が過ぎ行きつつある。「ちろり」と酒が煮え立つほどの儚い時の間にも、しかし、よくよく想えば、よそ の現実社会では決してえられなかった甘美と充実とがあった。あったはず……だ。
 「浮世は風波の一葉」それで、けっこう。「人生七十古来稀」で、けっこう。「水の泡」「露の間」で、とことん味わいつくすいとまもなげな「世」は世ながら、それとて南無三宝、「夢幻や」であるわけです。
 観念だけの諦悟は机上の空論です。最初に人間らしい愛欲の真相が寂然かつ「ちろりちろり」と据えられているから、四九番から五三番までが、みごとに緊密 な、少くも一つの態度≠毅然と表わしえている。この態度の毅さは、この時代の人々にすれば、世間万事心細く心もとなければこそ、こう生きぬくしかない 強さであったのでしょうね。またこの一連をこう編集しえたことで、閑吟集の編者は、「狂客」たるの真骨頂を表わしえていると言えましょう。
 こうまで断乎読み切ってみると、もう、五四番の、また五五番の、「うつつ顔」を嗤って「ただ狂へ」と噴きあげる歌声に、余分の註釈は不要というもので しょう。男女の仲を、そして現世を、徹底して「夢の夢の夢の」と幾重もの合せ鏡の奥をのぞくような覚悟があれば、「一期(生涯)は夢よ」と見切って、だか ら肯定して、「ただ狂へ」と両手両脚を奔放に虚空になげ出すのは、語の真実として極めて "自然≠ナす。この自然≠リアリティ≠ニ訓みたくなるのは、根本に男女の愛を据えて動かない『閑吟集』の人間肯定があるからです。
 ここで「くすむ人」というのは、一般に「まじめくさった人」ととるだけでは、じつは味わいがまだ稀薄です。明らかに「夢の夢の夢の世」つまり性愛の秘境を、はるばる訪れていながら、なお「くすむ人」は、尻ごみする人などは、とても「見られぬ」と嗤っているのです。
 「ただ狂へ」も、どれほど深遠に釈義してもいいのですが、根本には、男女愛欲の海のなかで狂い游ごうよと、徹した思念が第一義に謡われている真相を見忘れては、聴き遁しては、いかな説法も屁ひとつ、何の足しにもならないのです。
 『閑吟集』が説く「春」とは、まさにこういう小歌に寄せて認識される「春」なのでした。そしていつしか「夏」が、そこへ来ています。  

* 四月バカ ウソはつきません、ン ?。

* 愉快に嬉しい夢には容易に出会わないもの。しようがない。夢覚めて、そのまま、よかったこと、うれしかったことを暗闇のままあれこれ思い出し気分を直す。それは存外に出来ることで、よかった、うれしかったことは想像以上に蓄えられているということ。

* 『オイノ・セクスアリス』三部を終える前に、妻と、西院の寺、わたくし吉野東作孤りの本籍が創られたという松院で、実父と生母が「倶會一處」の墓に手 を合わせたあと、南へ一路の川沿いを車で走り、桂川近くでたまゆら独り車から出たところで妻も、車にも消え失せて仕舞われる。
 しかたなく暮れて行く上鳥羽から下鳥羽、おおむかしの佐比の暗闇へ疲れた足をはこびつづけ、あげく桂川と鴨川の合流する浪間へ沈んで行きそうになる。
 大昔からの、うち捨ての死者の墓場、賽(佐比)の河原だったが、そのあとの夢うつつとなく夢ならではの「世自在王佛」にみまもられてつづく場面が、私に は身に沁み、繰り返し思い出し思い出し、不思議の世へ心身をあずける。広らかな久我の水閣にしつらえた釣殿で 姉と妻と妹と四人でそれぞれの思いあまった 歌を詠みかわす。

 ☆ 櫻
 HP冒頭毎日の、詩歌に関する文章を楽しんでいます。鴉の思うところがくっきりと伝わってくるように思います。
 桜が咲いたと思ったら低気圧の前線が通って風雨強く、そして今日は黄砂とか。早くも満開を過ぎた桜の景色です。家から200メートルくらい離れた川沿いの桜を数日楽しみました。
 (一歳の)ちびちゃんは散った桜の花びらにご執心でした。毎日トラックやパトカー、ごみ収集車などを興味深く見るので 連れていきます。
 我が家の桜はまだ蕾です。
 数日前から『花方』を読み返しているのですが、以前理解できなかった箇所に再び立ち止まっている為体(ていたらく)です。熊野に関連して、昔行ったことのある熊野の長藤を思い出しました。天龍川東、磐田市池田の行興寺は藤の名所です。
 鳶は 婀娜な姿どころか、汚れ目立たず洗濯が容易な服ばかり着ている日常です。時にはお洒落もしたいのです・・それは自分の気持ちを奮い立たせるためでもあるのですが・・。
 モーツアルトの軽妙な曲・・? 何でしょう? 教えてくださいな。(鳶は、何故かモーツアルト全集をもっているのです。モーツアルトは軽快で美しいけれど、哀しい。)
 取り急ぎ
 花粉症にも負けず、この季節をどうぞ楽しまれますように。  尾張の鳶 

* ヴァイオリン・ソナタ第24番 ハ短調 K296 と思われます。15歳の少女テレーゼ・ピエロン嬢に捧げたとか。ヘンリッキ・シェリングがヴァイオリンを、イングリット・ヘブラがピアノを弾いていて、その鳴りが素晴らしく美しくて愛聴していました。
 今は、あしュケナージの弾いているピアノでベートーベンの「月光」を聴いています。ホロビッツが「熱情」と「悲愴」とを弾いています。
 
* いよいよ、機械がだか私がだか分からないか、送った気のメールが飛んで行かなかったり、今までと同じ機械で聴いているCDが、冒頭一楽章分だけしか聴かせてくれずに繰りかえし続けたり。

明日、久々も久々の聖路加病院予約あり、診察前の諸検査を受けたいので、慎重に出かける。久しぶりで、道を間違えずに行けるかな。隅田川堤の遠櫻が見られるだろうか。弱った脚でちゃんと歩けるのか。
 街へ出るという楽しみは淡く、事無しに帰宅したいと思う。





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  令和三年(二〇二一)三月三十一日 水       

   起床 8:30  血圧162 -81 (69)  血糖値 83  体重 59.7kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

  ☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

 ☆ ところで、俳諧ないし川柳のことを念頭におきますと、わざと後廻しに残しておいた、四二番のこんな小歌を、ここでご一緒に読まずにおれません。

★ 柳の蔭にお待ちあれ 人問はばなう 楊子木(ようじぎ)伐(き)るとおしあれ

 ☆ この恍けた物言いのおかしさ。
 楊子は、書いて字の如くやなぎ(楊)の木で作るのが良いと言いますね。セームタイムのセームプレース、つまりデートの約束を、とある柳の木蔭でと決めて おいて、もし誰かが通りがかりに何とか言うたなら、いえ楊子木を伐っているのですと「おしぁれ」仰言いナ あるいは 言っておやンなさいナ……と。
 女から男へ知恵をつける「おしぁれ」でしょう。軽みのきいた、私の好きな小歌の一つです。
 話題をもどして、閑吟集の小歌に歌詞としてのコクが有るか無いかと、一つ一つについて論えば、これは少くも梁塵秘抄とくらべて分がわるかろうというのも、私の見かたです。けれど、それを補うものも、たしかに、有る。

* 朝から 世事、政事に話題うんざりは、もう、つくづくイヤです。

 ☆ 「今すぐにも人生を去って行くことのできる者のごとくあらゆることをおこない、話し、考えること」とマルクス・アウレリウスは云う。十年、三十年、五十年前に聴いていたら厳しいことで、あったろう。
 今は、あたりまえに思える。

* 午前の十時半。とほうもない疲れが背中から覆い被さり、眼があいてられない。七時間はしっかり眠ってたはずなのに。

* 午後二時半、まだ、茫然としている。モーツアルトのバイオリン・ソナタを聴き続けている。曲の美しさはもとより、イングリット・ヘブラーのピアノの音色の精妙に美しいこと。ピアノという楽器の底知れない可能と魅力とに、ただ感嘆。

* 中国史は、後漢がほろび、まさしく三国志、曹操 劉備 孫権の時代に。通俗の三国志を何種か何度か読んでいるので、一気に「唐」へトバしてもいいが。 太古から春秋・戦国という時代を漢籍で読みとおして秦そして前漢・後漢という時代を経てきた。このころの日本列島にはまだ文字らしきもなく、縄文末から弥 生時代へ土器と貝塚と農耕の始まりで、主に水辺と高台に暮らしていた。「日本」という名乗りにはなお数百年を要した。中国という途方もない國の変遷をあら ためてより確かに識っていたい。元寇このかた、二度目の衝突が起きねばよいと願いつつ、日本の政治力のまっとう目覚めと奮発と用意を切望する。

* 寝ては過ごした一日のよう。夕食は済ませたが。

* いつ可っていたやら、書庫に『京に田舎あり」という昭和十七年五月五日「京都三条広道東」の晃文社発行の一冊があった。大東亜戦争が始まってまだ戦果 の報道されていた、私はといえば幼稚園で真珠湾奇襲を聞いて年を越した春四月、国民学校一年生として「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」と習い始めて間も ないお節句の日付だ。装幀もいかにも京に田舎の風情よろしく、榊原紫峰の
序に始まり当時京都にゆかりの名士が五十人のきままな随感随想の随筆集に なっている。当時一年生とはいえ、戦前往年の「京にも田舎」風情がおもしろく懐かしく書き込まれてある。装幀挿画もゆかしく吉井勇の自筆短歌 向井久万、 池田遥邨、廣田多津の挿絵も嬉しい。ご縁をいえば、後年、廣田多津さんとはNHK日曜美術館で対談していたし、池田遥邨さんの子息には京都新聞朝刊に一年 連載した『親指のマリア 白石とシドッチ』の挿絵をお願いしたし、今もお付き合いが出来ている。
 まこと、京には田舎が存している。そこに得も云われない風情が生き残っていて懐かしい。
 こういう本は いまや私のようなものしか有り難がるまい古本だが、よう買って置いたと思う。





  令和三年(二〇二一)三月三十日 火       

   起床 9:30  血圧137 -71 (62)  血糖値 76  体重 59.7kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

  ☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

 ☆ 44・45・46番を、次に一連で読みましょう。

★ 見ずはただ宜からう 見たりやこそ物を思へただ

★ な見さいそ な見さいそ 人の推(すい)する な見さいそ

★ 思ふ方へこそ 目も行き 顔も振らるれ

 ☆ 「見ずはただ宜からう」は、含んだ物言いです。見なければ差支えなかろうといった浅い解釈では、かりにこの一句の解決はついたようでも、つづく一句とのかね合いに緊張が乏しくなります。
 ここは、二つある「ただ」をどう読むかも大事なところ。見ないうちは、評判どおりの「ただ宜からう」で、よそごとに想うて平気でおれたのです。それなのに「見たりやこそ」 現に見ちゃったもンだから、おかげでこの物思いさ、惚れこんで──。
 前のは、気軽な「ただ」です。後のは、ひたぶるな「ただ」です。
 四四番、これは男の口吻ですね。女でもありえます。
 つづく四五番の「な見さいそ」の「な」「そ」は、禁止を示しています。「見ちゃァだめ!」「人が怪しむわ(けどられてしまうわ)」と、当時の女人の直接 話法そのままを想わせます。「推(すい)する」は、推量し推察するのでしょう。ことば≠ェ自然な "うた≠ニ化している好例ですね。
 四六番は、「振らるれ」という、受身とも自然とも両様にとれる「らるれ」のラ行音が、いとまろやかに耳に響きます。「だってェ。好きな人の方へ目も顔も 行っちやうんですも−ん」といった嬌声が聞こえてきます。酒席宴席や祭礼などでの、臨場感旺盛な咄嗟のギャグが、「あはれ」に「をかし」い人の思いを把握 しえた小歌ですね。男が、女の口説き文句に謡ってもなかなか有効だったでしょうし、さぞ愛誦されたことでしょう。
 そうは言いながら、さて、どうも閑吟集の歌詞は淡泊で、コクというものが乏しいと物足らずお思いかもしれません。

  仏は常に在せども 現ならぬぞあはれなる 
  人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ

 ☆ 染塵秘抄の二六番、随一の秀作として広く知られた今様で す。七五音を四句つらねた、少くもこういう型の整いは室町小歌には、ない。ない、のが特色とすら言えます。型の整いならば、謡曲つまり大和節や近江節など の方があるでしょう、が、それでも七五、七五と四句をつらねるといった定型というのではありません。謡曲のそれは、むしろ梁塵秘抄の今様より時期的にやや おくれて流行した、宴曲(早歌)の詞句のつらねかたに近い。

  恋しとよ君恋しとよゆかしとよ 逢はばや見ばや見ばや見えばや

 ☆ 梁塵秘抄の四八五番、二句神歌のうちから、一等閑吟集の 率直な謡いぶりに近そうなのを一つ、抜いてみました。が、これにも或る整いがあり、閑吟集四五番の、あの「人の推する、な見さいそ」などというあたかも日 常の物言いそのままとは、よほど違っています。これを譬えて、まだ和歌的な梁塵秘抄と、もう俳諧的な閑吟集と謂ってみてよいかどうか。これは、あなたに、 質問として呈するに止めておきましょう。

* 今年はテラスに鳩が来なかった。鵯と目白とが日々にしげしげと来て、妻が用意の割った蜜柑を食べていった。「マ・ア」はガラス戸越しにいつも歓迎して眺めていた。鳥たちも遁げなかった、ときにはガラス戸近くまで寄ってきた。
 そんな鳥たち日々の来訪も、季節というものか、終わろうとしている。また来年を願って、元気な「マ・ア」たちと一緒に、待とう。
 とは言えど、

 人が失いうるものは現在だけなのである。彼が持っているのはこれのみであり、なんぴとも持っていないものを失うことはできないからである

と、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスは二千年前に云い置いている。 

 ☆ 秦恒平様
 音信ありがとうございます
 私、姉家族ともに元気で過ごしております
 ただ昨夏は 吉岡嘉代子伯母(吉岡守夫人)が亡くなり コロナ禍の続く中で 寂しい見送りとなりました
 それでも春は暖かくなってくれています
 この日曜日に久しぶりに星野画廊(京都・粟田口)に行ってまいりました
 河合新蔵の東海道五十三次 大正10年頃の東海道が広重の五十三次とどちらも複製ではあるものの、並べての展示で「日本の昔」をみせてくれていました
 星野桂三さんもお元気でした
 河合新蔵の竹林の一つが原画で展示されてありました
 今 山城南部は孟宗竹の筍のシーズンで もうすぐの新茶に向かっての慌ただしも始まっています

  恒平様 皆様  お元気で    孝一   実父(恒)方従兄弟

* 懐かしく。当尾の吉岡本家を単身訪れた時、守叔父に 浄瑠璃寺へ連れて行って貰った、忘れない。孝一君のお母さん(吉岡家でのいっとう若いけい子叔母)は、たしか孝一君も一緒に、この保谷の家まで訊ねて見え たこともあった。幼來ひさびさにこの叔母を訪ねた日の嬉しい再会を「けい子」と題して書き置いてある。南山城の筍と新茶か。当尾の本宅には大きな柿の樹が 聳えていた。

* こうして、まだ、私は実父方とも実母方とも曲がりなりに「縁」を繋いでいる、が、建日子も朝日子にもそんなことに何の思いも動きもない、あり得そうに ない。私の世代ではまだしも「家」のつながりは念頭にあった、とは謂え、私の場合は、根から父方とも母方とも「縁の絶たれた」生まれたての私ひとりの本籍 が造作されていた。実兄の北沢恒彦にも同じだったようだ。かろうじて実父「恒」の名一字をわれわれ兄弟は伝え持ち、恒彦長男は吉岡の祖父そのままの名を (父恒彦の思いが籠めてあるのだろう)与えられている。
 私の場合、娘朝日子とは、不幸にも、おそらく死に目にも互いに会うことはないだろう。両親が大病時の見舞いも朝日子は電話口で即拒絶したと聞いている。
 このようにして、人は世代をへつつ昔とも血縁とでも自ら縁を絶ち打ち棄てててゆく。今に始まったことか、人や、家に、よるか、もうそんな穿鑿も無意味になってきている。
 それよりも、私も心親しい京・粟田口の星野画廊主と南山城の従兄弟孝一君とは親しいらしく、こういうのも「心ぬくもる縁なのだな」と思う。こういう縁の方が心に親しく伝わり合うのかな。

* 幼少を秦家に養われてガンとして生母と実父を忌むほどに遠のけて成人した。兄とすら、四十五十近くまで受け容れなかったが、自ら最期をはやめた兄の晩年とは、沢山な文通ちちもに懐かしく結ばれたのは嬉しいことだった。
 私の境涯を一語にこめれば、「もらひ子」だった。それを真に救い上げた鍵は、「身内・真の身内」一語に尽きた。私の生涯最高の不動の創作は、「真の身内」だった。
 母にははやく死なれていたが、母のあしあとを追って、その「生きたかりしに」と呻いて歌った辞世歌を慕うように長編『生きたかりしに』を書きあげた。そ していま実父の苦渋と失意に充ち満ちたような「遺筆また遺筆」のうず高い山に「子の思い」で私も登りかけている。そのためにももう少しく命を賜れよと天を 仰いでいるが。 

* ゲーテの『ファウスト』には基督教の影はたくみにと云いたいほど匿されてある。ミルトンの 『失楽園』は神へのサタンの反逆を神の「御子」が圧倒して地獄へ追い落とし、そして「創世記」アダムとイヴの楽園追放劇になるように顕然として基督教を壮 大に謳歌の大詩編である。そして露わなまで言葉露わに烈しく女性蔑視は覆えない。私は長編『オイノ・セクスアリス」上巻の饒舌の中でもその点に触れておい た。
 いま私の親交している明治維新時の、いわば一人の「志士」 でも「言論人」である男子も、親交のあった西欧人がともすると日本人を男女同権を知らぬ野蛮 人のようにいうが、欧米世界に出てその社会で人とともに暮らしてみれば、かれらこそ女性蔑視は甚だしくて嗤えると断言していた。バカらしくて付き合いも 絶ったとまで書いている。わたしは基督者ではない、日本人であるが、日本の神話の冒頭、國生みの場面でも、女神先行を咎め、男神からの「あなにやし ゑを とめを」の妻まぎから大八州ぐにを生んでいる。それでも日本は、「女ならでは夜も明けぬ國」と、天の岩戸に隠れた天照大女神を、岩戸前で裸踊りした女神と ともに、頌えかつ褒めそやしてきた。
 どうも、基督教世界は わかりにくい暗闇をかかえていると昔から感じてきた。あのジャンヌ・ダルクが少女でなく少年であってもら、火あぶりにしてたろうか。ときどき鬼女はいても、西欧のような「魔女がり」などというきつい風習は日本にはなかった、鬼退治はあっても。
 『失楽園』 いよいよ、地獄からはい出たサタンによる神への報復劇として神の愛し子人間への「わるさ」が始まる。女のイヴがねらい打ちされてイヴは堕さ れる。しかし男のアダムは夫として「妻とともに楽園を出て行く」のだ。ミルトンの世界史にもかがやく壮大無比の詩篇である。『フアウスト』をも凌ぐ歴史的 名作と思う。  



  令和三年(二〇二一)三月二十九日 月       

   起床 8:30  血圧144 -66 (52)  血糖値 82  体重 59.8kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

  ☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

★ さて何とせうぞ 一目見し面影が 身を離れぬ

★ いたづらものや 面影は 身に添ひながら 独り寝

 ☆ 「面影」は、閑吟集の動機に深く沈んだ一つの「鍵」語です。巻頭一番の歌謡から、面影は見えていました。今あげた三六番の小歌は、一言もつけ加える必要のない、まさしく真率の情というものでしょう。
 次の三七番は、「いたづらものや」という謡いだしの感慨をどうか正しく読みたい。今日の語感で「おいたをしてはいけません」と、母親が愛し子を窘めるような意味では、ない。
 近世このかた大正、昭和の初年までも、「いたづら者」と批評したりされたりする背景には、必ず男女の公に認められない「世」の仲が隠れひそんでいたと言えます。時に不当に、この言葉には度はずれた好色者というくらいのつよい非難も籠もっていました。
 けれど十五、十六世紀の「いたづらものや」を、そうまで非難がましく決めつけては、気の毒というものです。
 ここで「いたづらものや 面影は」とあるのを、主語と補語の倒置と早合点するのは禁物です。「いたづらものや」で、一度区切って読むべきです。人の面影 を身に添わせつつ独り寝の己れ自身が、そんな己が状況、そんな己が心根、そんな己が愚痴こそを 「いたづらものや」 と嘆息しているので、決して「面影」 が「いたづら」をする、わるさをするとばかり言うているのではない。ああ「いたづらものや」と我と我が身を先に詠嘆している。天を仰いで自分の顔をトンと 打っている。そう想像したいものです。
 いたずらに急ぐな、身をいたずらにするな、などと言います。むろん「いたずら」もこの場合の「いたづらもの」も、否定に傾き易い語と結びついて意味をもつ批評語です。
 でもこの小歌の場合、独り寝していとしい「面影」を身に抱いている男が、当のいとしい女を(女が男をでも妥当しますが)否定でき否認できましょうか。そ れどころか「色」好む者なら、かかる「いたづらものや」の境涯さえ本懐とすべき風情でもあり、情趣であり、粋の粋とは、この嘆息この愚痴の中ではじめて結 晶するのかも知れはしない。「思ひみだれ、さるは独寝がちに、まどろむ夜なきこそをかしけれ」と兼好法師も 徒然草の第三段 で言っています。
 源氏物語や枕草子いらいの好色を「あはれ」とも「をかし」とも「ながめる」伝統は、このように生きている。とても、ただ否認してすむ美意識ではなかった のです。「いたづらもの」こそ実存者であったような時世を、日本の時間はたっぶり抱きこんでいます。まこと、「萬にいみじくとも、色このまざらん男(女) は、いと寂々(さうざう)しく、玉の巵(さかづき)の當(そこ)なきここちぞすべき」と言い切った兼好法師の美意識は、この小歌をふしぎに倫理的な魅惑で 飾ってさえいます。
 必ずしも私は今、それを讃美ばかりはしませんけれど、そうした特色ある歴史的感情に眼を背けて、「いたづらものや」を説明して「無用な物よ」と教え、独 り寝のことを「いたづら寝」とも謂うとただ言い替えて読みおさめてしまうのでは、この小歌の嘆きを無価値にしてしまいます。
 いい本歌や類歌のある小歌ですが、これはこれ、心優しく身にしむ実情歌ではありませんか。

* 昨夜、十七世中村勘三郎追憶の歌舞伎座映像で、孫の勘九郎と曾孫勘太郎とのそれはそれは美しく見事な「連獅子」の要所を観せてくれて、賞賛と 感激の涙にくれた。涙の内にはあの懐かしい十八世勘三郎への恋しいほどの思い出も溢れていた。勘九郎が立派に美しく成人してわが子を舞台で鍛えるさまに、 ああよかったよかったと手を拍った。染五郎時期の今の幸四郎が息子の当時金太郎とみごとに踊った「連獅子」も思い出した。すばらしい舞台だった。金太郎 は、今、市川染五郎で活躍し、お父さんは十代目松本幸四郎として重きを成している。

* コロナ禍で、もう一年余も歌舞伎座へ行けていない。劇場は対策していても、そこへ行き帰りのバス、電車、地下鉄、タクシーなどがとてもまだ油断成らな い。歩ける元気のあるうちに、何としてももう一度歌舞伎座へ行きたいと、昨夜のテレビ前で妻と嘆いた。「袖萩祭文」の貞任といい勘九郎の内外ともなっての みごとに美しい成熟、勘太郎の覇気に溢れた童顔。叔父の女形七之助もとうから存在感の大きさ美しさで人気に光っており、「中村屋時代」が来つつあるなと頼 もしい。

* 勘三郎と謂うと 思い出は果てないが、なかでも、平成中村座で、宙乗りの若くて元気な勘三郎法界坊が桟敷のうえを回遊し、妻のペットボトルを空からかすめ取って喉をうるおし笑い抜けていったたのが、今もありあり目にある。
 三十三回忌の十七世でも懐かしく心親しい思い出がある。あのころ仲良くしていた今は亡い藤間由子に誘われ、第一列中央席に二人で並んだ。あれは、若旦那 の勘当が赦りためでたい上方芝居の最後で、例の手ぬぐいを舞台から客席へ景気よく投げるとき、主役の大中村屋は、とことこと我々の目の前へ来て、笑顔でポ イと、手渡すように手ぬぐいを呉れた。由子への挨拶だったのだろう、が、あの中村勘三郎の親しい笑顔、忘れられない。
 この十七世が、まだ「もしほ」と名乗っていた頃、京都南座の顔見世へ、初世の吉右衛門と東京から来て、その舞台を観たのが、高校一年生の私が「歌舞伎」 を観た、いの一の初体験であった。初代の亡き白鸚、その以前は八代目松本幸四郎であったのも、当時はまだ市川染五郎で、その顔見世へまさしく「もしほ」と 並んで出演、人気上昇中のころだった。立女形は、なんと、のちにあの中村歌右衛門を襲名した超美形であった。

* こんな思い出に耽っていたら、とうていキリがない。

* 〜しながら 〜する という姿勢はたいてい緩い成り行きへ頽れやすい。景気も保ちながらコロナ禍は撲滅したい。それはムリという成り行きを、何度も何 度も繰り返してきて、政府も行政自治体も打つ手がない。ねりり見えた医師は、口を揃えてそれではコロナは撲滅できないと云うている。一方は、コロナは或る 程度ガマンしても金儲けはぜひ必要と云う。國がダダ余りの予備費や対策予算を遣って金銭援助すればと云っても、オカミは出し渋って予算を懐に抱きしめてい る。いつまで繰り返しても、〜しながら 〜する では所詮ラチはあくまい。

 ☆ お江戸は
 興味ありませんでした。(まえの高層の住まいからの=)スカイツリーもビルの林立する窓外の風景も
私の心からは想像以上に隔たっていたといっていいでしょう。
  お体お大事にお過ごし下さい。
            いまなお小さき鳥
        ちぢこまりつつ生きながらえて 

* 引っ越しが趣味かと思えるほど日本列島を動いて行く人で、よほど世に憚る女大盗でもあるか、よほどの富豪かと想うほど。繊鋭な語感で蜃気楼のような詩 を書く人、のようであった。この前は&#28665;上を見渡せそうな高層ビルの高いところに暮らしていて、花の頃は櫻堤十数丁が見晴らせるのかしらん羨ましいと想って いたら、花の季節を見捨てて惜しげなく繁華の街なかへ、越しましたと。
 わたしは京都から東京へ出てきて、六畳一間の新婚二年のあと北多摩の社宅三階へ、太宰賞後、社宅に身動きを制されたくなくて今のこの家を建てて移った。 社宅の窓からはまだしも廣く多摩野が見えたが、今のこの家屋は、ただこぢんまりと小さなテラスを抱いただけ、眺望はゼロ、もう半世紀も手一つ加えずに暮ら している。「
ちぢこまりつつ生きながらえて」とは思っていないが。

* 酒が切れ、セイムスへ走ってちょと仕入れてきた。洋酒をダブルで二盃ていどで、機械の前で行儀良く寝入っていた。
 
 ☆「今すぐにも人生を去って行くことの出来る者のごとくあらゆることをおこない、話し、考えること」と、マルクス・アウレリウスは云う。出来ません。

* 歌舞伎座で、公演後に中村吉右衛門が仆れたという。大事なきを拙に願う。兄松本白鸚と並んで、いまや掛け替えのない立役者。踏ん張って持ち直し、またの舞台での対面を切望する。代役に甥の松本幸四郎と。飛躍へのシカとした踏台にして欲しい。

* 八時まわった。もう、やすみに入る。つまり機械は離れて、床で、書物へ。 

  





  令和三年(二〇二一)三月二十八日 日       

   起床 8:00  血圧144 -79 (55)  血糖値 85  体重 59.55kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

  ☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

 ☆ 『梁塵秘抄』を楽しんですでにお読みなら、この辺で、はっきり気づいておいでのことが、一つ、あるはずです。かの法文歌はべつとして、四句や二句の神 歌、ことに雑の歌には「巫女」「武者」「殿」「関守」「咒師」「鵜飼」「遊女」「海人」「博党」「近江女」「土器造り」「受領」「尼」「法師」「樵夫」 「兵士」「舎人」「禰宜」「祝」「聖」「山伏」「山長」などと、指さすように歌詞の中でそれと判る人物、その様態、が眼に見えていました。
 ところが、少くもこれまでのところ『閑吟集』にそういう様態を背負うた人影が見られない。まるで個別から一般へ、とでも言えそうに、人がただ「男」と 「女」の「世」の中に、さながら抽象化されています。理念化されています。現実の「巫女」も「遊女」も、また「兵士」も「樵夫」も、歌の背後にそれぞれ固 有の身なりを隠し埋めてしまっている。そして男に、女に、ある意味で本然の姿にかえって、さまざまな小歌のなかで生きています。
 今一つ、『梁塵秘抄』では、かなりの頻度ではっきりした「我」が歌詞に顔を出します。例えば「我等が修行に出でし時」「我が身は罪業重くして」「妾らが柴の庵へ」「我を頼めて来ぬ男」「我が子は十余になりぬらん」「我が恋は」などと。
 むろんこの「我」も、個別の我と、一般化された我とに丁寧に弁別すべきではありますが、それにしても『閑吟集』にこの手の「我」表現が、これまで、全く目立たない。したがって二人称を指す「君」の表現もまた、ごく数寡いのです。
 右の事実を、どう理解しておくか──。
 二つ、見当がつきます。梁塵秘抄の時代そして今様の雑の歌を見ていますと、ある日ある処で生れてはじめて出会ったような同士が・円座になって膝をつきま ぜて互いの体験や心境を歌語りに語り合うてでもいるような歌謡が多い。巫女同士・修験者同士、遊女同士のこともあれば、それらの人がたぶん混在もしている のでしょう。互いの体験や心境が珍らかであり、また身に泌みて共感もされ、そしてそれが明日から先のまた漂泊の日々を支える知識や情報や判断の素地とも材 料ともなって行く。そういう人たちのそういう時代にふさわしい、具体的に生々しい歌謡群として、あれら今様は、紛れない時代の表情をむき出しにしていまし た。「我」を表に出して謡い語ることは、さまざまな人が階層を越えて意志疏通するための、前提であり、仁義でさえあったことでしょう。
 閑吟集の時代では、小欲は、もはや必ずしもそのような漂泊者たちばかりの所産ではなかったようです。むしろ俺とお前との仲に、名乗りや「我」の強調をさ ほど必要としない、お互いお馴染みの場所で謡われていたのでしょう。あまり具体的に表現しすぎては、それが限定、制約となって歌謡のスムースな疏通をそこ なうという配慮さえあったでしょう。
 逆説でも何でもない、つまり「我々」と「彼等」との区別が世の中でいろいろに明確になってきて、他のグループや人の体験から身を退きがちに、疎遠になりがちになっていたのです。
 「古代」にも人は寄合って日用を弁じました、が、「中世」の寄合の場は、古代のそれよりももっと強く「我我」の連帯を欲し、「彼等」との対決を鋭く意識し勘定する場になっていた。ならざるをえなかった。
 そうですから、顔なじみとまでは言わずもがな、しいて己が職分や身分を告げあう必要のないような場所へ、たとえば遊び女のいるような中立の場所へは、個 別、特殊としての「我」を持ち出さないのが、むしろ作法でした。そして日常の場所では、むしろ個よりも衆としての「我々」が、よその「彼等」との間で利害 をたしかめたしかめ相い集わないでは心細い時代、頼りない時代、身を守れない時代だったのです。
 「中世」とは、一つにはそんな時代でした。だからこそ、と言いましょう、そうして寄合う場所からは、陽気に面白い藝能が生れもしたし、じつはこっそりと 時代変革のための謀議も重ねねばならなかった。陰気な逸機は「中世」では命とりであったのです。隠遁とは、そんな「中世」の特異な陽気活気になじみ切れな かった者の、あるダンディズムだったのかもしれない。私はそう考えています。
 小歌でも謡おうかという場所で、人は、男であるか女であるか以外に、個別の特別の役割分担はもう必要としないどころか、危険でさえあったのですね。「我 々」同士の仲ででも、その紐帯から「我」ひとりはみ出ようとする個性は、大成功して支配者に変身するか、退いて隠遁するか、村八分にされて屈するといった 存在でしたろう。まして「彼等」の間へ紛れこんだ時に「我」はと主張してみても、窮屈になるか、無視されるか、排除されるのが落ちでしょう。
 閑吟集歌謡は、どこかで一味同心の場を囃すうわべは浮かれた宴遊歌のようでありながら、時代の激流に呑まれまいと、危い孤心を隠しておく、陽気な隠れ蓑でもあったはずです。
 そこで、それならば「閑吟」とは何かという問題に、ようやく遭遇します。
 「閑」とは閑居の閑、「しづか」でも「ひま」でもある。「吟」はまさに「口遊む」こと、謡うこと、それも高声にでなくて、浅酌低唱する心地ですね。梁塵 秘抄は「梁塵」の文字から合点のいきますように朗唱です。そして哄笑でもあり驚嘆でもあり喝采でもある。閑吟集は、それに対してよくよく熟れた共感です。 笑うも泣くも、古代漂泊者の野性が放った逞しい情感とは自ずと別趣の、同じく漂泊に等しい乱世流離の境涯は生きていながら、さすがに定住への希望と手段と をようやく抱きかかえた生活者たちの、少くも「我々」同士の間でならもう眼と眼で頷いて分かりあえる泣き笑いです。
 けれど、小歌の一つ一つを現に謡い楽しんだ男女の心境が、即ち、「閑吟」なのかといえば、それは違う。違うはずです。「閑吟」とは、序にいう「桑門」 「狂客」の孤心が望んだダンディズムなのであって、現に小歌を謡い楽しんだ人の気分はもっと流動しています。揺れています。時には面白ずくです。

★  我らも持ちたる尺八を 袖の下より取り出だし しばしは吹いて松の風  花をや夢とさそふらん いつまでか此の尺八 吹いて心を慰めむ

 ☆ 「我らも」という梁塵秘抄ばりの物言いが見える、ほとん ど唯一の "述懐≠ナす。これは「我々」でない、孤り在る「我」の意味なンですね。この辺にも編者がもう時代の波間から願わくば彼岸に身を預けたいと夢みている「狂 客」の、いっそ懐古的なと呼びたい態度が表われています。「いつまでか此の尺八」というのは、前途に不安をもった者(男)のもう抗うことは諦めて、ただ 「閑吟」に生きる表明なのですね。集の全部を読んでまたこの二一番を読み返してみますと、編者の孤独な息づかいと、「しばしは吹いて松(待つ)の風」とい うしみじみ胸にひびく「閑吟」「往生素懐」の趣致とが、こんなによく示された述懐歌≠ヘ他に無いと言い切れそうです。
 さて、この二一番の述懐に、次に三四番の大和節をひっそり寄り添わせてみますと、編者のひめやかな或る動機が忍び忍び輪郭をあらわして、あの得異な巻頭歌一番と呼応するようであるのも、一つの読みどころと思います。

★ 離れ離れの 契りの末は徒夢(あだゆめ)の 契りの末は徒夢の 面影ばかり添ひ寝して あたりさびしき床の上 涙の波は音もせず 袖に流るる川水の 逢瀬  はいづくなるらん 逢瀬はいづくなるらん

 ☆ しみじみ低唱してみて下さい。さながらに『閑吟集』編者へ現代日本の私たちからの、手向け歌かのように、ふと錯覚されてしまいそうです。

* モーツアルトのヴァイオリン・ソナタ(24 28 35)を、ヘンリック・シェリング、ピアノはイングリット・ヘブラーで聴いている。ピアノの鳴りがじつに美しく、おおいに楽しめて嬉しい。

 ☆ 死からその空想的要素を取り去るならば、それは自然のわざ以外の何物でもない。自然のわざを懼れる者があるならば、子供じみている。  マルクス・アウレリウス『自省録』

 ☆ 仕事に精を出す人間は多いが、その中で仕事の方が精を出しているという人間は少ない。   ジンメル『断想』
  鋭い。

 ☆ いえいえ
  楽隠居はよその世界。 あいも変らずに走り回っております。 年ふるにつれ、ため息が多くはなりましたが。
 いつの間にか老婆となり、出会った方のお顔も、はやおぼろげに 今は何も映らない青空をただ見つめております。明日は雨模様というニュースが流れた夜にも
 
なおかがやく朝を願いながら。  霞み鳥  詩人

* さて「仕事」くんの方に、より精出してもらわねば。使用者のボケは日を追って深まりありて。

* 午後一時。ほぼ「湖(うみ)の本 151」を責了の作業を仕収めた。

*  三時前、三校了。 自転車で、責了便を郵送、すこし櫻の満開もみてきた。ごく近まなのに、疲れた。坂がすこしきつくなってきた。二階の靖子ロードに置い た脚踏み機械、すこし重い目に設定はしてあるが、以前は200回踏めたのが、いまは100回が稍やきつい。それでも踏み続けていた方がいい。背筋をも守れ そう。

* 照之富士 「三度目の賜杯」手に、大関から序二段まで一度は落ちに落ちた怪我故障を克服して「大関復帰」を確保した。頌えるに足る立派な成績に、拍手。

 ☆ ご無沙汰して居ます 秦さん、
 メールいただきありがとうございます。
 昔お渡ししたのは、フルートの曲だったでしょうか。選曲を考えながらテープを作るのも楽しかったものですが、今の若い世代だと、SNSにアップする動画を器用に作ったりで、時代はどんどんと進むものですね。
 最近は音楽もオンラインで聴くことが増えましたが、レコードやテープの良さが見直される動きもあるようですが。
 お蔭さまで、わたしも家族(含むネコ)も、元気にしております。
 子供はこの4月で中学2年生になりますが、身長ではそろそろ抜かされそうです。
 中学ではバスケットボール部に入ったようですが、コロナ状況下では活動もままならないようで、
そうこうしているうちに後輩が入ってきてしまう時期を迎え、ちょっと可哀想ではあります。
 コロナ状況下で、人と会ったり食事したりしにくい、むずかしい時期ですね。
 学生時代の友人たちにも、もう長い間会えていないですし、
 職場の中でも、テレワークが多くなっており、歓送迎会などの機会もありませんので、色んな人とざっくばらんに話しながら仕事を進めるというよりも、一人一人の役割を、それぞれで淡々とこなして進めるやり方に、大きくシフトしている感じです。
 この流れは、コロナが収まったとしても、変わらないのかなとも思っていますが、昼夜を問わず何となくワイワイと話しながら、その中で新たな「気づき」な ども得ながら進めるやり方が懐かしいと感じてしまうのは、ちょっと時代に取り残されつつあるのかなあと、もっと柔軟にならないと行けないなあと、考えさせ られるこの頃でもあります。
 わたしは50が目前で、それでも体力が落ちて何かと無理が利かなくなったと痛感することも多いのですが、秦さんが85老で、まだまだ意欲的に色々と取り 組まれているのを伺うと、まだまだこれから、新しい時代のなかで、多くのことにチャレンジしていきたいなと、改めて元気をいただいた想いでいます。ありが とうございます。
 もう少しの間、過ごしにくい時期が続きそうですが、お身体を、どうぞ大切になさってくださいね。
 また落ち着いたころに、ぜひぜひお目にかからせてください。  東工大院卒  孝  

* 昔のママの懐かしく 落ち着いた行文と感想、嬉しくなる。みなさん、お元気で。 

* 中国史を後漢の滅びたまで読んだ。漢とは、おもしろい時代だった。后妃の大権と外戚。宦官の跋扈。学者達の実力、黄巾党など農民の蹶起等々。このまま続く唐・宋・元へと読んで行く気。
 「失楽園」も「フアウスト」も面白く読み進んでいる。
 機械クンのご機嫌すこし斜めらしく、今晩はもう終える。
 



  令和三年(二〇二一)三月二十七日 土       

   起床 9:15  血圧155 -80 (57)  血糖値 90  体重 59.5kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

  ☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

★ 新茶の茶壷よなう 入れての後は こちや知らぬ.こちや知らぬ

 ☆ 「此方(こちゃ)知らぬ」が「新茶」に対する「古茶知ら ぬ」でもあることは、すぐ、分かりますね。となれば、この小歌は濃艶至極の性の歌謡です。「新茶」は昨日読んだ三二番の、「若立ち」に通じます。若い女の 性の、みずみずしい外見と味わいとを謂うています。その新茶の「茶壷」とは──。
 「壷」は言うまでもない容れものです。即ち女体本来の機能です。「新茶の茶壷よなう」とは、まさしく若い美しい女の幽所秘処をずばりと眼下に直視して形容しているのです。嘆賞しているのです。「入れての後は」を、だから今さら説明の余地などないわけですね。
 ああ、ああ「古茶」のことなんか、知ったことか。知ったことか。
 わるい男──。
 可哀相な「古茶」よ。
 傑作!

* そういう季節なのか 時節なのか 年季であるのか テレビ画面に現れる若い美人の「売り子」や「呼び子」や「看板」が なにか 一斉に交替しつつある気がする。 
 そういうことは何度もあり、そして生き残って女優やスターに、タレントになって行く子が、ごく若干数生き残る。宮沢りえ、沢口靖子など最右翼、綾瀬遥香ほか数人もみごとに生き残り多く私を喜ばせ嘆賞させてくれるが、九割九分がたは小さく消え失せ、その辺でかすかに瞬いている。

* こんな感想を言うているのでは、まだまだ自身俗塵にまみれて、ただ老いぼれている。

 ☆ 「今すぐにも人生を去って行くことのできる者のごとくあらゆることをおこない、話し、考えること」と、二千年前の皇帝マルクス・アウレリウスは云うていた。

* とにかくも「湖(うみ)の本 151」 三校し、かなり紙面に朱は残っているが、印刷所に後事を預け託そうと思う。明日が日曜なので、「責了紙」を宅急便に託せるのは月曜になるか。
 記録によると本文を入稿したのは、旧臘十二月九日だったとある。漢文の訓みと、難漢字の難訓とに苦心惨憺したが、苦労のし甲斐の私には興趣の仕事であった。
 本の出来るのは 四月中旬かと思われる。ついに「湖(うみ)の本」で秦も音を上げているかとご心配も掛けている、が、印刷所でもかなりの数の「作字」を 要して校閲に苦労されたらしく、本の図体こそいつもと変わりないが、制作費はかなり上増しになるだろう、それは気にしていない。怪我無く、無事送りだせる といいが。発送の用意は、思いの外に多岐にわたるのへ、すぐ取り組みたい。封筒へのハンコ捺しは私がすませ、封筒へ、読者のみなさん、図書館・研究施設・ 大学院・大學・高校への宛名貼りは妻が終えてくれている。残るのは、各界への謹呈先を今回はよく私が選んで、宛名は手書きするしかない。「難しい」「読め ない」という声は 或る程度必然と覚悟して製作した一冊であり、「湖(うみ)の本 150」と緊密に連携独立の一巻になっている。 

* 骨休めに階下へ降りると、録画の、子供達に残したい日本の歌の、「朧月夜」「山紅葉」や「狭霧消よる湊江の」等々を泪を浮かべながら、よろこび聴いていた。

* 白鵬怪我 鶴龍休場引退 大関ボロボロ負け の大相撲で、私は只一人 贔屓の照之富士に優勝を兼ねて大関復帰させたいと応援してきたが、もう三敗して いて、こころもとない。但し二敗高安が先頭という映えない場所。せめて照関が十一、二勝を確保して強い大関へ立派に立ち直ってもらいたい。もう一度 白鵬 の優秀が観たい。五十回はもうむりでも、キリのいい四十五回優勝という途方もない大記録を担って行って欲しい。

* 照之富士が大関朝の山に勝った。明千秋楽、貴景勝との大勝負。夢を勝ち取れ。



  令和三年(二〇二一)三月二十六日 金       

   起床 8:00  血圧152 -84 (57)  血糖値 94  体重 59.9kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。

              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

  ☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

 ☆  ここで、ぜひ心づいて欲しいことが、一つ。「お茶」が もう十六世紀のこの時点で、かなり日常ふだんの飲料として出て来ている。むろん茶室の茶ではない。淹し茶の類、焙じ茶の類でしょう。   が、紛れない庶 民の飲みものに「お茶」がある。茶は、栄西禅師が宋から種子三粒をたずさえ帰って以来の普及と、よく言われます。一つの画期が禅院茶礼のその時分からとは 確実ですが、日本人がそれ以前から「茶」に類する何らか植物性の味を、淹(だ)したり焙じたり溶いたり煮たりしないで来たとは、とても思えませんね。水 か、湯か、ないし酒だけという飲みもので鎌倉時代までの三千年、五千年を植生豊かな日本列島の住人がすごしてきたなどとは、かえって想像もできない不自然 な話です。
 「茶」の歌がつづきます。三二番。

★ 新茶の若立ち 摘みつ摘まれつ 引いつ振られつ それこそ若い時の花かよなう

 ☆ 「娘十八番茶も出花」と今でも謂うじゃありませんか。と かく学問の本ではズバリと敢えてくれないことですが、若駒が笹を喰む、という類の表現は、まず男(性)と若い女(体)との合歓を寓意している例が多いンで す。それと同じで、ここの「新茶の若立ち」の場合は、男女ともお互いの、気恥ずかしやかな青春の二次性徴をピンと感じとった方が、かえって気分もさっぱり します。「摘む」「引く」「振る」みな男女の出逢いで自然とはずむ肉体の上にあらわれ出る媚態なのですから、すこしも猥褻に想う必要はない。そしてこの歌 謡からは、そんな若さを喪ったか、はや喪いかけているらしい年増の嗟嘆の声になっている趣を受取ってみることです。「それこそ若い時の花かよなう」とは、 なんとまァ真率な嘘のない息づかいでしょうか。

* コロナ禍第四波は歴然と見えてきた。政府のやりかたは、医学の指摘や提言を渋々聴いて、つねに警戒に遅く、解除に早すぎる。だから、いつまでたっても 克服の足場が固まらない。田村厚労と西村経済とのチグハグを已め、厚労一本で政府対策を厳重警戒基本で慎重かつ大胆であってほしい。

* ビクトリア・ムローバのバイオリンで、チャイコフスキーの協奏曲ニ長調作品35を、この曲が好きで。小澤征爾指揮で聴いている。鳴らしている、と謂うべきか、仕事しながら。

 ☆ 秦さん はい
 「何としても」・・元気が出ました 世の中がとても明るくなった気がしています ありがとうございます ほんとうにありがたく うれしいです
 「ガンバッテ(また会える日を=)待ちます」

「2センチ四方ほどのチップ」は SDカード(secure digital) と称する メモリーカード かと思います  「カメラで撮った写真を カメラに入ったSDカードに保存し これをパソコンに挿入すると パソコンで写真が見られる筈」 だそうです 私は経験もなく心許ないのですが 秦さんのお心当たりは如何でしょうか
 それにしても 『一太郎 17年!』 と 『機械も同じ』 と 敬意 敬意 です
 メールを開けるのもまるで久し振りで 機械の操作も覚束なくなってしまい遅くなり失礼しました ごめんなさい
 また「メール」させてください
 (診療に出向いてられる=)地方の老人施設も益々戦々恐々   千葉  勝 e-OLD

 ☆ ご多用中のところ、
 早速のご返信、ありがとうございます。すっかり安心いたしました。幕末・維新に関する御作とのこと、私が一番関心がある時代なので、とても愉しみです。秦様独特の史観が展開されることを大いに期待いたしております。
 それにしても秦様の底知れぬエネルギーに驚いております。
 また余計な心配をいたしまして、申し訳ありませんでした。
 今後もよろしくご指導の程を。  茨城  鋼  歌人 翻訳家
 

* 妻は近所を花見に歩いてきたらしいが、すこし早いと。櫻は、四月と想ってきた。
 法政大学の前のお濠土手うえのはなやかに咲き満ちて静かだった櫻が、想い出される。一年生の内に亡くなった孫やす香は、敢えて「法政」と選んで願って入学したのだった。
 東京の櫻は やはり千鳥ヶ淵を見渡しの櫻だろうか。
 このホームページ冒頭へ写真で添えた、京の祇園 辰巳橋から白川へ枝垂れて優しい花櫻が懐かしい。我が家から下駄をかたかた二分もかからずに此処へ行けた。松湯、鷺湯。花街の湯へ通うにかならず此の橋を渡った。橋ぎわに、こぢんまりと辰巳稲荷社があった。劇映画の場面に舞子らとさかんに撮られて、多くの人は見ているはず。

* 東工大の 豪快な大櫻並木を観たいがなあ。

* 昼過ぎまでチャイコフスキーとシベリウスの、午後からはパガニーニ、ヴュータンのバイオリン協奏曲を聴き続けている。ビクトリア・ムローヴァ。指揮は小澤征爾。興が乗るとわたしも手を振って指揮する。いい体操になる。

 * けれど…、両の手のひら、十本の指、ジンジンと音もしそうに痺れている。疲れてくるとヒドクなる。からだは、もう休みたいと云うている。わたしも憩みたい、が、「湖(うみ)の本 151」の三校を読み遂げねば。目はもう霞みきっている。
 急ぎたいが慌てまいとも。
 いま、数えてみると、手近に置いた紙箱に、レンズ入りのまともな眼鏡が十個在り、すると今掛けている一つが十一個め。さらに額へ巻き付ける拡大眼鏡もある。どれも今の視力には、古物、では可哀想だがほぼ役立たない、のに、未練に傍に置いている。




  令和三年(二〇二一)三月二十五日 木       

   起床 8:45  血圧145 -76 (67)  血糖値 91  体重 60.4kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。

              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

  ☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

★ お茶の水が遅くなり候(そろ) まづ放さいなう また来(こ)うかと問はれたよなう  なんぼこじれたい 新発意心(しんぼちごころ)ぢや

 ☆ 「お茶の水を持ってくる(持って行く)のが遅くなります わ。さアさ。放して下さいな」というのですから、ここに女が一人いる。女をつかまえて「また来(こ)うか」と問うている男も一人います。そして男の振舞い が、「新発意心」と女にからかわれています。「新発意(しんぼち)」とは頭をまるめて間のない若僧のことですが、若僧、小僧というここは一般に通用の意味 を生かして、事実どおりの丸坊主、僧侶と限定してしまう必要はすこしも無い気がします。
 この小歌、梁塵秘抄の「雑」の今様に似ていて、情況がたいそう面白い。面白いのに、そのくせ、ちょっと分かりにくい。能狂言「御茶の水」での表現どおり に納得すれば、まさに若い僧侶の新発意が、女を引き留めようとしている。それを迷惑がる女の言葉として、ほぼ同じ物言いになっています。団扇(うちわ)踊 りの歌詞を見ましても同様で、なるほど水汲み女と若い坊主となら、情景はそのままの「歌舞伎踊り」といった趣向ですから、まるで眼に見えるようですね。 「お多福」と「ひょっとこ」位の対照の妙はあるわけです。
 但し団扇踊りですと 「お新発意やの」と言うています。これを「新発意心」とひき直されてみると、もうものの譬えに転じて、必ずしも姿どおりの色坊主と はかぎらず、ちょっと逸れた意味合いを生じています。ごく功者(こうしゃ)な女が、世なれぬ若僧、小僧をうまく「あしらい気味」の表現になり変わっていま す。
 ここは、「また来(こ)うか」の読みが大切なンです。男が女に、「また来るか」と訊いていると解釈した本がある。放したらもう二度と戻って来ないだろ う、だからまた来るか、と「問う」意味に取っているのですね。これはとりあえず、「まづ放さいなう」という女の声に対し、道理の通った反問のようです。 が、じつはつづく「なんぼこじれたい新発意心ぢや」の取りようで、およそその重みが変わってしまいます。
 女にすれば「なんぼこじれたい」「問はれ」ようであるかが小歌の眼目なのですから、ここでこそ「また来うか」の意味が、効果をもって生きて欲しい。
 第一、「また来うか」は「また来るか」と他人の行為を問い訊す物言いでしょうか。かりにこれを京言葉として読みますと、私も京生れ京育ちなンですが、 「また来うか」「また来うなァ」と言う時は、他者にむかって自分自身で来る、来たいという意志を告げる物言いなンですね。たとえば清水寺の花を見に行って 大いに満足した。思わず身近な他人にむかって「また来うか」と提案するとか、内心誰かを連れてもう一度、来ようかなと思ったり、門前の気に入った茶屋女に でも、また来るよと満足を世辞がわりの約束にかえて、機嫌よく言い表わす。
 「来(こ)う」は、自分が「来よう」と思う意向でして、他人が来る来ないを問うなら、「来うか」ではなく「来るか」「来てくれますか」であるはずです。但し京言葉の場合です。
 次に、場所が問題です。文字どおりに坊さんなら、ここは寺内といったふうな場所なンですが、遊所、茶屋ふうの場所とも十分考えられる。すると場数を踏ま ない青道心めく若者と、苦界(公界)無縁の達者な女との出会いに場面が変わります。どちらかと言うと私のはそういう説です。「また来うか」は耽溺の味を覚 えた若い男の、それでもおずおずと「またお前のところへ来てよいか」という甘えなのでしょう。
 「まあ。あまりといえば小焦れッたい坊やちやんねェ」と女は苦笑い。そういう応酬です。来て良く、来て欲しく、来て貰っての身すぎなのは女には知れたこ と。それをおずおず「問はれたよなう、なんぼ……」と呆れながら、その男がもうすでにちょっと可愛らしくなっている。その女にしても、心根に可愛げの生き た、気のいい遊女(あそびめ)なんですね。
 こうなると、「まづ放さいなう」は、けっして行きずりに袖をそう引くなと窘める程度の軽々しい場面ではない。今しがた巫山雲雨(ふざん・うんう)の夢を見たその合歓の床なかでの、いっそ睦言なのではないか。
 「お茶の水」は、のどの渇いたお二人さんの口直しです。ここまで読んでいっそう面白い小歌のように思えます。いかが。

 ☆ ご機嫌 如何
 秦様 最近、湖の本が届かないので、何かあったのではないかと心配いたしております。もしお体の具合が悪いようでしたら、くれぐれもお大事になさってください。
 一日でも早くまた秦様の御文章を楽しめる日が来ることを祈っております。 鋼 拝  歌人 翻訳家
 
* 多くの方にご心配懸けていると思うが、「湖(うみ)の本」の刊行に間が開いているのは 一に掛かってその内容、その引用の史料に難漢字、難訓漢字が溢れるように多くて、原稿を創るにも、校正をするにも、呻くほどの手間と時間を要したのが原因 で、ま、このコロナ籠居による体調・体力の衰えもあるにしても、それが理由で時間をかけているのではありません。ご心配頂き、有り難うございます。 もう やがて責了、そして遅くも四月半ばまでにはお送り致します。

 ☆ お元気ですか、みづうみ。
 コロナ禍で桜の季節の嬉しさも感じにくく、みづうみのご体調のすぐれぬご様子に益々気持ちがふさいでしまいます。「元気」という言葉が大好きですから、祈りをこめてみづうみに「お元気でいらしてください」と申し上げます。
 みづうみにとってお仕事はすべてですから、お休みになってくださいとはとても言えませんが、どうか今よりゆっくり進んでくださいますように。何よりしっかり栄養のあるものを意識的に召し上がってください。食べているものが身体をつくります。
 みづうみの背がゾワゾワする感じは、少し前のわたくしの体調不良によく似ています。二週間くらい続きました。発熱したり咳が出たりするわけではなかった のですが、小手術と言われる処置でしたので体力の消耗だと思います。幸い今はそのゾワゾワの感覚は消えました。ただ神経の違和感は残り、まだまだ回復まで 時間がかかるでしょう。元の体力に戻るのはいつのことか。気力をふりしぼっています。
 術前の先月、森鴎外の『渋江抽斎』(旧字体で書くべきでしょうが、岩波文庫ではこの記載)を読了しました。難しくて読みにくいだろうと今まで敬遠してき たことを恥じています。辞書を引きつつ、系図を書きながら読めば(子どもの数は多すぎたので二頁にわたりました)、少しも難解ではなく、抜群に面白くて頁 を重ねるごとにぐんぐん惹きこまれ、深い感動と共に読み終えました。と申しましても、レベルの低い読者なので「読者それぞれに自分の身丈にあった評価をす るほかない」わけなのですが、読後に世にも美しいものを経験したと思いました。渋江抽斎や五百はじめ、私心のない凛とした佇まいの日本人たちの肖像に「高 貴」というしかないものを感じ、自分の曇った目が澄んでいくような読書でした。
 以前にみづうみが眠れなくなる文体の魅力とお書きになり、石川淳が「一点の非なき大文章」と評した理由もわかりました。誰が何をしたということを書き続けてこのような文藝の高みに達することに感嘆したのです。
 所謂小説的展開のないこのような作品が、もし現在の日本で書かれたとして、はたして出版流通するだろうかと考えますと、志ある個人出版社以外ではあまり 希望がもてないのではないでしょうか。森鴎外の名前があればこそ、この史伝は現在も出版されて愛読者がいますが、新人なら、いえ大家の書いたものでも、 「売れない」という理由で知られぬまま黙殺されて終わる可能性が高いのではと思います。
 岩波文庫の中野三敏氏の解説の次の文章を読んで考えさせられました。

 恐らく当時の新聞の読者の中にも、ややとまどいを覚える人も生じてはいたろうが、すくなくとも文字を識る人であるならば、鴎外を目して現在我々のいう小 説家としてよりは、極めて高度な知識人、一時代前の表現を以てすれば、文人・学者中の有数の人物として遇していたに違いない。すくなくとも近代の「文学」 「文学者」という概念を江戸時代に戻してみれば、まさにこのような「学藝」「文人」「学者」の謂であり、それは詩文・書画・学問・思索のいずれにも通じた 人であって、小説も無論その一斑ゆえ、気が向けばそれにも打ち興じるが、別にそれに専念すべきとは一向に考えもしなかったろう。そして明治・大正期までは なお、その感覚はまさしく鴎外の読者を以て自任するほどの人々の間には、辛うじて残っていたものと思う。いやそれほど限定するにも及ぶまいか。現に新聞紙 上の続き物としてこれが企画され連載されるという事そのことが、当時の読者の感覚をも見事に現わしているものと受け取れよう。当今の新聞の連載小説との懸 隔は言うにも及ぶまい。つまり史伝ものは鴎外にとっても、その読者にとっても「小説」ではないが立派な「文芸」であり、いわば「文学」であった。何もそれ が「小説」でなければならぬ必要は全くなかったのである。

 現在の日本は、渋江抽斎やその周辺の「文人」、森鴎外などに代表されるほんものの「詩人・知識人」と、何よりそれを支えていた読書社会を喪いつつあるのではないかと暗澹たる思いです。

 秦恒平を「学匠文人」と名づけた読者のかたは本当にものをよく見ておられます。みづうみは現代日本の稀少な「文人」ではないでしょうか。日々の日録『私 語の刻』や『オイノ・セクスアリス 或る寓話』はまぎれもない「文人」の所産だと思っています。作家たちが、近代以降の既存の小説形態に捉われたまま、売 れるだろうものを反復再生産することを続けている限り、文藝は衰退の一途ではないでしょうか。
 「文人」はファシズム国家の政治的検閲や、市場原理の経済的検閲の下では生きられません。権力や富に少しでも屈する限りは俗物であって文人精神の、創作 の、自由は得られない。文人の手にしていた高貴な自由の復権は可能か、『渋江抽斎』を読んでからそれを考え続けています。

 どうか長く永くお元気に書き続けてください。
          方丈   爐ふさぎや床は維摩に掛替る  蕪村  

* 爐ふさぎの時季なんだと、「方丈」さんに、何ともなく ほっこりさせてもらった。

* 鴎外先生の『澁江抽斎』は、真に、ならぶものない程の大文学・文藝であり、これに感嘆して薬籠中に収め得ないようでは、とても日本語の作家・文学者とは謂えないと思ってきた。
 どこが面白い? 面白いもなにも、ない。ただもう読んで読んで投げ出せないのだ。この作を読んだ頃、並べて露伴の史伝ものも読み、大いに惹かれた。けれ ど露伴のそれらには、物語が下絵に下敷かれていた。「抽斎」にはそんな「おはなし」など無い。無いのに、ずんずん、ずんずん惹き込まれ読まされる。無為の 大力(だいりき)に「みち惹かれ」て行くのである。

* ようやく、「湖(うみ)の本 151」 後半を通読念校すれば「責了」出来る。

* 使いこなせぬままの新機(=今や超古機)大画面を利して、「隅寺心経」一枚を凭せ置いた。折りごとに誦するも黙読もできて、有り難い。わが生涯でもっとも永く身近にあって読み続けた最たるもの、般若心経。

* ゲラ校で目が疲れきって。 ヴィクトリア・ムローヴァのバイオリンで、チャイコフスキーの協奏曲二番を聴いている。なぜか好きな曲で。音楽の約束事な ど何の常識すらわたしは持たないが、ワケもなく聴いてて楽しめるのだから、有り難い。だれもがすることか、バカげているのか知れないが、いい気分で音が追 えると両手首をコマコマと、また静かに豊かに動かし、自分が指揮でもするような気分まで楽しめる。ことにこのチャイコフスキー二番は大いにソレが楽しめ る。バカみたいだけれど、ひとりで陶然と酔う。バカみたい。

* 「湖(うみ)の本」創刊第一巻の『清経入水』の奥付にただ一度だけ遣った 「秦」 の大きな丸印を、たまたま大泉辺での用事から、車で、顔だけ見せに来てくれた建日子に遣った。家には入らず、路上で数分の立ったままの対面だったが、顔を見せてくれて嬉しかった。
 老々してくると 顔もまともに合わせられないコロナ禍が憎い。

* とにかく疲れる。分かりいいので疲れるとは謂うているが、もっと微妙に複雑な不快感である。感情が カッと爆発しやすい。

* 八時。まだ宵ながら疲れも疲れ ろくに目が見えない。何としても三校を校了したいが、ナミの電灯で、10ポイントの字が読めないとは。ルビはまして見えない。投げ出すわけに行かない。

 ☆ だいじょぶ ですか
 一歳ちゃん は精一杯日々を生きて成長しています。
 婆はお疲れ?  一人の時間が殆んどなく、本も絵も彼方に漂っていますが、何とか暮らしています。描きたいという強い衝動がやがて生まれると信じています。突然やってくるのが楽しみです。
 
 「 どの辺から天であるか
   鳶の飛んでゐるところは天であるか

   人の眼から隠れて
   ここに
   静かに熟れてゆく果実がある
   おおその果実の周囲は既に天に属してゐる 」

 高見順の詩を届けてくださいました。が、
 鳶の飛んでゐるところは 未だ天・あの世 ではありませぬ
 この土から微かに離れ飛行するのみ
 人の眼から隠れるまでもなく ただひそと目立たず
 萎び腐れゆく果実であります
 が、腐り滅してゆくもの また既に天に属しておりまする・・か

 十年ほども前のことになりますか、鴉が 胃がんの手術を受けられた頃、鴉より四半世紀も長生きしなければいけませんと言われたことがあります。これからそのような時間を生きたら!鳶は何と百歳を超えてしまいます・・?そこまで生きられないという思いが
ジワジワひたひたと迫ります。
 姑を102歳で送って、改めて自分の年齢と生く末を意識します。父が亡くなったのは私が40半ば、母の死は私が還暦を迎える頃でした。それでもまだ次に やってくるのは自らの死期と思うことなく、まだ時間は残されていると漠然と考えていました。今現在、さすがに切迫した思いが沸き上がります。それでも自然 に生きていきたい。
 コロナの状況は油断できないものがあります。京都にも行かず、ましてや最寄りの地下鉄にも乗らないで過ごしています。桜に浮かれて歩き回りたいです。
 少しだけ一人の時間、なかなかメールも書けませんが、とにかく元気です。
 くれぐれもくれぐれも大切に過ごされますように。   尾張の鳶

* 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是  だいじょぶ ですか 

  




  令和三年(二〇二一)三月二十四日 水       

   起床 8:15  血圧137 -81 (73)  血糖値 84  体重 59.35kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。

              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

  ☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

★ 花ゆゑゆゑに あらはれたよなう あらうの花や うの花や

 ☆ 「うの花」は「憂の花」であってまた「卯の花」でもある。「あら、うの花の」と歌った本歌が古今和歌集にあります。が、この小歌の生命は、むしろ 「露はれたよなう」という嘆きの声そ籠もっています。あまり「花」が美しいので、忍ぶ想いの花恋いの真情がつい「色に出にけり」で人に知られるまでに なった、それをあら「憂の花や」と謡う。
 けれど「憂」という感情を、消極的に否定的にばかり受取っていると、この小歌の微妙な歓喜や満足を読み落とすことになる。美しい花に出逢うて、心中の愛 が思わず外へ露われる。純な人間のそれはむしろ当然で誇らかな心の動きなのですから、この「あら憂」という物言いには、初々しいはじらいや当惑を乗りこえ て 溢れ溢れる恋の喜びもふくまれているのです。
 古今集の本歌は「世の中をいとふ山べの草木とやあらうの花の色に出にけむ」とあって、妙に厭世的なンですが、閑吟集の小歌では、「うの花」を恋愛に身を 濡らす美しい四月の花として、むしろ明るく輝かせています。「花ゆゑゆゑに」の一句を、わたしのこの花ごころに裏切られて……露われた、という趣で読みま すと、恋知りそめた女の愛らしい嬌態が眼に映じてきますし、「花」を女と、「あら憂」と嘆くのを男と取りますと、どこか年かさな男の、余裕のようなものが 巧くよく出た、そう騒々しくない酒席での世なれた反語か喃語のように耳に聞こえてきます。
 ところで、この三○番までの歌謡は、いずれも目前の場面描写ないし体験者の即座の実情というより、より民謡に近いほどの普遍性を私たちに想像させて来な かったでしょうか。それだけに、一種の諺だの箴だのに近い趣致が伴っていて、いささか歌詞によせて「実相」を「談じ顔」でもなくはなかった。おそらく編者であ る「桑門」の「狂客」の知識人ふうな心境や態度が、余儀なく反映し反響していたのだろうと思います。
 が、そういう小歌ばかりでない証拠が、次(明日)にあらわれます。

* 不愉快な、秋篠宮家と小室家の婚姻をめぐる諸問題の成行きは、少なくも私は不愉快なままに閑却・看過したい。

* 秦の母は九十六歳まで長命した。叔母は九十三、父は九十一歳で亡くなった。生前にいちばん虚弱と見えていた母が長命した。さしあたり私たちもこの秦の 母を文字通りの目標に起てて、そこまでは歩いて行く気で日々を迎えたいと思っている。日本は、世界は、どんなに変わって行くのか、人類は存続し得ているの か。無責任だがただ好奇心で眺めながら好き勝手、二人三脚の旅路でありたい。

* 漢字の読みとルビの要不要をこころして点検しながら漢文を日本語に訓み下しているうち、ヘンク バン ツィラートのバリトン サキソフォンのためアレンジ されたというバッハのチェロ曲を鳴らしたまま、機械の前でどれほどの時間か熟睡していた。やがて四時半。胸やけで目覚めた、そばに水分無く、ポケットの ヴィックスを一粒口に含んだ。不快を少なくも清めてくれる。

* 昨日、相当量の雑多な古物に目を晒していた中に、京博蔵「守屋コレクション」の『隅寺心経(般若心経)』を何方かに戴いたのが仕舞われていた。少年の 大昔に秦の家の仏壇で馴染み。高校一年、角川文庫の『般若心経講義 高神覚昇』を夢中で傾倒愛読して以来馴染み続けたお経だ、いまもほぼそのまま誦するこ とが出来て浅はかながら主意は概念・観念ともに承知し親しみ続けている。とても清明な書であり、狭いながらもどこかに場をつくって額装しておきたくなり、 幸いに簡素ながら恰好の額が在ったので、埃をはらい、妻に収めて貰っている。常時に目に触れ得るとは、嬉しいことだ。

* こうなってハタと思い出した。
 中国に招かれ、周恩来夫人にも人民大会堂で迎えられた半月余の旅中、北京の名高い美術骨董史料等の街衢で、むろんコピー、精緻のコピー(レプリカ)だ が、真作は英国ロンドンの国立大博物館に在るという、『唐周ム 簪花仕女圖』その『部分之四 &#28366;寶齋木版水印』原寸大の長軸を買って帰ったのが、我が家に はてんで懸かる床も壁面もなく、空しく珍蔵されたママなのを。ウーン。原畫は世界史的な至寶とされていて、今もじつに美しい。
 中国の美術骨董の原作コピーの精緻に見事なのはよく識られ、私たち訪中の折りにも井上靖団長ほか六名の「日本作家代表団」は、広壮な「故宮」内の一画に、レプリカ専念のための施設と工場のあるのも親しく見学していた。
 文学と違い、美術や史料は真一点しか実在せず、中国のような広大世界で、国民が実物に目を触れる機会など、まず、あり得ない、だからこそ中国政府の、国 民のために分かつ真に迫って見事なレプリカ製作はまこと精緻を極めている。真に国策であり文化事業として力技と誇りとが一点一作に凝っている。みな、感嘆 した、我々一行も。
 在るのかなと、押し入れを覗くと、在った、くるくると大きな柔らかな紙に幾重にも巻き取られて。
 ドー、シヨウ?
 ほかにも買って帰った繪の一点は亡き水上勉さんに、硯は谷崎松子さんに差し上げた。が…
 サ、ドー、シヨウ? 道具屋はやかましく電話してくるけれども。
 
* おや。六時近い。階下へ。

* 八時まえ。三校は、その最難所を通過したので、よほど順調に一両日でメドが立つだろう。「発送」用意に重点を移せる。ずいぶん前と間があいたので用意 の手順を自得するのに慎重を要しそう。それと、妻も私も体力を落としているので荷造りした本を重いまま粗忽に持ち運べば容易でない怪我につながる。二人で 数日掛けていた手間を十日ほどにも延ばす気で作業しないと危ない。慌てまいと思う。わたしはひれで仕事は可及的速やかにと身に覚えてきたので、よほど自身 をなだめなだめゆっくり終えることを覚えないと怪我をする。

* 朝の一番に 「閑吟集」と組み合ってはシンドイので、前夜に、翌朝分を書き出している。「閑吟集」は、じつに雅゙に軽妙に肉親に触れて、面白い。






  令和三年(二〇二一)三月二十三日 火       

   起床 7:50  血圧162 -80 (58)  血糖値 101  体重 59.25kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。

              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

  ☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

 ★ 散らであれかし櫻花 散れかし口と花心

 ☆ 金無垢の価値としての真実を「桜花」に想い籠める。これ は、遠く上古来のすぐれて日本的な風尚というものでしょう。「散らであれ」という願いには、ただ桜の花を愛で想う真情にくわえて、男の、女の、まごころの 佳さ優しさ確かさを祈願する「真」の熱望が表わされています。
 それに対し「散れかし」とは、ほとんど吐き捨てる口吻です。まやかしの実相を談じ顔の「口」や、そんな口が吐きだす浮気ごころは、のろわれよ。
 この小歌、閑吟集に珍しい、直截の表現が見えます。ほとんどこれは例外に属しています。
 
*  花盛りらしい。この下保谷でも、か。散歩しましよと誘われている。二、三日早いか。
 テレビの伝える世間図は乱れざまに汚れがち。つきあう要はなく、「マ・ア」にせがまれて二階で削り鰹をすこしずつ二枚の革ペン皿に平等に分けてやり、わたしはピレシュのピアノを聴いている。椅子での脚もとが少し冷える。膝かけすっぽり蔽う。

* 大學で英文学教授を務めていた大叔父の吉岡義睦と学生の頃ただ一度偶々出会い、三条河原町辺の店でごちそうになったとき、「音楽も聴くように」と云われたのだけを長く記憶していて、今では私の日々にクラシックの器楽曲、ことにピアノは欠かせなくなっている。
 美術品と出会には身をはたらかせて出歩かねば済まないが、音楽のための機械はまことに重宝、ありがたい。なによりも、仕事に障らないのが有り難い。音楽 ゆえに書きちがえることはない。ときに眼をとじていても音楽は聞こえている。良い音と ことばを紡ぐのとは、邪魔をし合わない。
 いやいや、騒音のなかでさえ、言葉へはいい感じに集注がきいて、たとえ喫茶店での他のおしゃべりがどうあろうと気にならなかった。わたしの初期作品は、ほとんど全部、勤務時間中の喫茶店で書かれていた。
 勤めた医学書院で、わたしらの編集長、社の外では国文学研究の碩学であった長谷川泉教授は常々曰く、「編集者は24時間勤務」、どこでどう時間を使って も生かしても「仕事」が成るなら良い、構わないと。わたしは、有り難く拳々服膺して、いたるところの街なかで小説も書いていた。騒音が邪魔などと感じたこ ともない、ときには喫茶店でや昼食の店で人と話しながらでも書いていた。文章が「雑」になるなど、全然なかった。昭和三十七年七月末に「或る折臂翁」を書 き始め、昭和四十九年八月末に退社したが、それまでに脱稿し、九月早々には新潮社から「みごもりの湖」、集英社「すばる」で長編「墨牡丹」が一挙掲載されたまで、みな「原稿用紙に手書き」の全作、家でよりほとんど街なかで書いた全作が、それを証している。
 むろん、さらさら書き放しでなく、用紙がまっくろになり、自分でも読みづらいほど徹底推敲していた。街なかでしていた。そして、妻が、全作、新しい原稿用紙に清書してくれた。出版社は、私の書き文字でなく、たいてい妻の文字原稿を読んでいたのだった。
 私は思っている。作家の才能とは 「推敲の根気と力」にあると。書き損じ用紙をまるめて捨てたりせず、即、そのまま推敲した。必要なら同じ原稿で何度も重ねてした。
 コンピュータは、文学の味(こく)を機械的な走り書きで薄めてきたのではないかと感じている。

* 気晴らしに、すこしく 上下階の模様替えをした。バラついて散乱したあれこれを仕分けて不要分は捨てた。靖子ロードのあれこれが少し整ったかも。

* 目薬をさすと眼が清む。聖路加で、掌で掴むほど点眼薬を貰っていたのを、いまも重宝している。

* 夕過ぎて。胸から喉へ灼ける苦痛に閉口する。たいして食べていないのに。飲んでもいないのに。
 もう九時半、いまもかすかながら、執拗に胸灼け。

* 結婚して五年半になる、母方長兄の孫娘が、奈良で、一刀彫名手と聞く夫と暮らしている。写真入り結婚通知葉書がひょこっと手に触れたので、ケイタイを遣ってみた。一分足らずだが、話せた。

* 心覚えに紙切れに無数にメモを走り書いて、そのまま山になっているのを整理した。記録していない短歌なども十ほど救いとれた。メモとはいえ、今にも大事な内容のも遺っていて、背を押される気がした。
 今日は、不要不急といえばそれに近いが、片づければそれだけの意味のある用事を、階下でも二階でも機械の前でもしつづけた。新作の「三校」は半ばまで。体違和は午以降やまない。どうしようもない。もう機械から離れるが、疲労感の重さ、気分悪い。


  令和三年(二〇二一)三月二十二日 月       

   起床 8:45  血圧149 -71 (66)  血糖値 83  体重 59.5kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。

              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

  ☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

★ くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して

★ 何せうぞ くすんで 一期(いちご)は夢よ ただ狂へ

 ☆ この「くすむ人」の「うつつ顔」が、ちょうど「実相を談 じ顔」の「燕子」と相応しているのですね。「くすむ」はまじめくさるというほどの、ここではかなり強い否定語になっています。その読みは後刻のこととし て、ここら並んだ小歌は、閑吟集傑作の一つと言っておきましょう。

★ 人は嘘にて暮らす世に 何ぞよ燕子が実相を談じ顔なる
                                        
 ☆ 「嘘」を肯定し推奨するというのでは、むろん、ありませ ん。が、じつは「嘘」という「真相」もある世の中に、ただ浅く眼をそむけて、口先の「実相」ばかりをだらだら「談じ」ていて済むことかという意気は、少く も中世の荒いあの時代を生きぬく「力」でも「思想」でも、十分ありえた。それは、より高次元の真実や誠実を求めての、かなり切ない手さぐりでした。逆もま た、真。そこで…、

* マリア ジョアオ ピレシュ のピアノでモーツアルトを聴いている。ピレシュのピアノは、グールドと双璧あるいはそれ以上に懐かしく美しい。音の粒が清んで鳴る。
 それにしても今、わたしの背後にほぼ60ほどもCDケースが並んでいる。一つで二枚三枚と板の入ったのもあり、それらが私の傍の此処になぜに在るのか、 分からない。自前で買った記憶はマリア・カラスのソプラノしか覚えがない。あの人に貰ったと思い出せるのは数枚しかなく、しかし、ぜんぶ、貰ったものには ちがいなく、そして、いつしかに私はクラシック音楽を板(CD)で 「聴く」楽しみを、(音楽会に出かけたことは稀有に属するが)満喫できるようになっている。感謝しきれない。美術展には出かけられず、今は行っても視力が ダメでよく見えず、しかも一度観ただけで美術の魅力は胸に定着しないし、印刷画集の「色校正」は所詮信頼しきれない。色ほど真実「記憶し難いモノ」はない のだから。音もそうかもしれないが、同じ色と思いつつ、人はだれもが違う色を観ている。
 音楽の録音にも限界はあろうけれど、機械技術は精密化していて、わたしは信頼と謂うより感謝を寄せながら繰り返し繰り返し、時を選ばず、一日中でも、何 日でも、同じ板(CD)を愛聴している。わたしの聴いている「音」と同じ音をほかの人も聴いているとは保証の限りでないが、それでも、まあ、なんとピア シュのピアノ  美しい。

* 昼食前から体違和を感じていて、食後、横になってでも三校を進めようとしたが、即 寝入っていた。妙な心地で目覚めて夜昼が分からなかった、時計で午 後三時と分かり起きて手洗いへ、キッチンへ動いたが体感の異様ぬぐえず、手先は震えていた。ハテと、血圧をはかったが尋常。妻が、血糖値はと聞くので思い 当たった。すぐ測ると、なんと、54。これは低すぎる。もう少しく下がれば世界は疾走する白い風気に音たてて変わるのを、九年前の入退院中にも以後にも数 回は体験している。
 すぐ白砂糖を十匙ほど口にし、林檎ジュースや煎茶、珈琲をのみ、さらに甘味の和菓子を一つ口にした。震えはとまった。
 なぜ血糖値が下がったか。この近時、毎朝測っていてたしかに低めであった。食が細くて、代わりに酒、ワイン、ビールを熱量にしていたのは慥かで。まだ、というか、この一、二年は 音がするかと思うほど手先がびりびり痺れていた。

* ま、また仕事へ戻る。

* 「湖(うみ)の本」前半を今日のうちに責了可能なまで読み終えたい。

* ナチスドイツによる世界の名画を夥しい数奪い取り隠匿していた事実、その隠微な経略等を経てナチ壊滅の戦後、秘蔵愛着の作を奪われていた持ち人の返却を求めて達成して行く等々のさながらの「劇映画」を(略奪の事実などあったのは他の映画や報道で識っていたけれど)肌寒く震えるほどの驚愕で、観た。テレビが無ければとうてい識りようもない劇的史実であった。

 ★ 繪も描かれ 詩も書かれていますか
 それもゆかしいが コロナ禍を賢く躱されて ご家族のみなさんともども しっかり 健康でいて下さいね。 懐かしく フト メールを書きました。   恒平

 ☆  メールありがとうございます。
 お久しぶりですね!
  お元気そうで良かったです。
 
躱す=かわすという字を初めて知りました。忘れませんように。
 この頃は詩は読むことを楽しみ、絵は鉛筆画を描いて楽しんでいます。

 引きこもりにも慣れてしまい、体はよろよろしていますが、それなりに暮らせています。

 どうぞ迪っちゃんと猫さんたちと、いつまでもお元気でいて下さいね。  
  琉  妻の妹

* 八時を回って行くが、機械の用は ほどよく終えて 床に脚をいれ、責了紙づくりにかかりたい。




  令和三年(二〇二一)三月二十一日 日       

   起床 8:30  血圧142 -67(63)  血糖値 84  体重 59.25kg
                  
  ☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。

              一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

  ☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

★ 人は嘘にて暮らす世に 何ぞよ燕子(えんし)が実相を談じ顔なる

 ☆ 孔子、孟子などと聖人を呼ぶ。その手で、渡り鳥の燕を、 ご大層に「燕子」と呼んでいる。燕尾服が式服礼服でありますように、燕という小鳥、どこかおつに澄ました気味がある。電線に並んでとまっている時など、と くに賢(さか)しげに見えますね。人生の、此の世の、説くに妙にして聴くに趣ありげな真実真相を、したり顔に何とはなく論じあい談じあっているかに見えま す。そんな燕たちの真摯げなお談義を高くもちあげながら、この小歌、人の世の軽薄な嘘をいたく窘めているのでしょうか。どうやら、それが逆さまのようなン ですね。むしろ、したり顔した「燕子」の、まじめくさった顔の方がかるく嗤われている。おいおい、よせやいといった余韻がわざと「燕子」といった調子にの こっている。それが、この小歌の姿勢です。「人は嘘にて暮らす世に」という物言いの方に、存外につよい肯定が籠もっているのです。
 真実真相といい、道理法則といい、それがとかくくるくる移り変わって、アテにならない。その変わりようの早く烈しく果敢(はか)なかった時代に閑吟集の 小歌は生れ、謡われ、受容れられていた。「何ぞよ」 つまり何じゃい阿呆らしいという気持で、「実相」とやらの「嘘」にいやほど人は付合っていた。
 大事なことは、それはそれで必ずしも悪い一方とは限らなくて、世の中が本当にくるくる移り動いて行く時代には、そのアテどない流れ自体を図太く肯定する ことで、かえって前途に希望を託するという態度も必要だし、また可能でしたろう。その態度がとれない、頭のかたい、嘴の青い(赤い)若い燕のような澄まし かえった手合いに、「嘘」の妙趣をさらりと笑って訓えている、そういう、これは小歌なンだと取っていいと思う。

* 「世界」における「日本」の存在理由や価値が、いまほど低迷し、消え失せ掛かっている そんな外交と政治不在の時期が、下痢のように続いた安部内閣のころから、いましも長々と心細く続いている。コロナ禍にしても、政見が事態を見通し、適切に 対処したとはとても謂いにくいまま、不安と焦慮の時期が居座ったまま。国民にも咎なしとは言い切れない漫々的が有る、が、コロナウイルスの変化自在に要は 嗤われている現状。
 菅総理の、バイデン米国大統領へどんな従属状を奉呈に行くのか、案じずにおれない。まともに口が利けるのか。原稿をたどたどしく読むような「外交」では優れて良い意味での「悪意の算術」はとてもなるまい。内容ある的確で適切な日本語を明瞭に話してきてもらいたい。

 ☆ ご心配 ありがとうございます 
 秦 恒平 様
 メール、嬉しく拝受致しました。
 コロナ禍が宮城県では急増していることへのご心配、本当にありがとうございます。
 実は、つい先ほど宮城県で震度4~5の地震がありました。
 秦様のご指摘通り「天変地異」がなにかと当地に向かっているようです。
 でも、どうぞご心配なく。私も家族も友人たちも皆元気でおります。
 秦様も迪子様も、くれぐれもお気をつけてお過ごしください。

 下記の二首、おもしろく読ませていただきました。

たのしみは難しい字を宛て訓んでその通りだと字書で識ること
たのしみは難しい字を訓みちがへ字書に教わり頭さげること

  下記の二首もお気持ちがよくわかる気が致します。

たのしみはふたりのね子に「待て」とおしえ削り鰹をわけてやる時
たのしみは好きな写真のそれぞれに小声でものを云ひかける時

  子どもの頃、ジャーマンシェパードと一緒に育ちましたので。

 また、下記の二首を拝読し、秦様のユーモア・ウィットと遊び心が偲ばれ、お元気な様子が窺われ、安心致しております。

たのしみは誰(た)が世つねなき山越えてけふぞ迎へし有為(We)の奥山
たのしみは割った蜜柑をひよどりの連れて食ふよと「マ・ア(仔ネコ兄弟)」と見るとき

 どうぞ、益々お元気で。ご健筆をお祈り致しております。     遠藤恵子
     前・米沢短大学長 東北学院大教授   (昔・医学書院の同僚 同じ社宅住まいで、建日子が生まれるまで一緒に茶の湯を楽しんだ。この遠藤さん、会社では、ごっつい太い枠の眼鏡でいつも熱心に仕事をしていたが、あるとき、眼鏡を外したホンの数瞬、素晴らしい美貌に驚嘆した。)

*  昨日の東北地震は 西東京でもけっこう不気味にながく揺れた。宮城へは一メートルの津波も寄せていた。東北に目立つ原発に、ことに福島の廃炉もならぬ立 ち往生の崩壊放置原発にさらに決定的な放射能禍があれば、東北も関東も北陸も危険極まる。このまえの津波での東電原発破壊の時、在日の欧米人はいちはやく 国外へ奔ったのを覚えている。少なくも富士川天龍川の辺にまで命に関わる放射能禍が及びかねないと聞いた時の、心底冷えたのを忘れていない。

* 目の前の書架で視線の特等席に谷崎先生ご夫妻の、視線豪快な、そして臈 たけてそれは美しい顔写真がならび、脇には、先生自筆題字の大判和紙和活字の珍本で、随想『初昔 きのふけふ』が起ててある。なにとなく懐かしく心惹かれ 今朝その「初昔」冒頭数頁を読み返して、久々に谷崎文体のおおらかに自在な美と妙とを満喫した。
 谷崎全集そして自身の選集を心ゆくまで読み返してから行きたいなと、しんみりと思った。

* あああ、目下の仕事は、「湖(うみ)の本」最新巻の三校でした。

* 再校から三校ゲラへの赤字点検は、もう25頁ほど。そのあと、三校ゲラ を166頁まで、あらためて三校しなければならない、そのあとへ、今回はあとがきに代わるやや長い「私語の刻」の初校決定する。どう遅くなっても今月中に は「責了」できるだろう。並行してて「発送」用意、かなり前と間が空いていて、「手落ち」ないよう気をつけねばならない。次々巻になる「湖(うみ)の本  152」はもう入稿してあり「153」原稿も用意できていて、からださえもてば、順調に進むはず。その間に、新たな創作書下ろしを進めたい。

* ひょこッとノートブックが三冊現れ、昭和二十年、敗戦直後の秋第一首に 始まり、昭和二十八年(高校三年生)七月四日作の第718首に至る、いわば私の第一歌集『少年』に先立つ処女歌集を成していた。『少年』は高校一年生から 以後の作で編んで、版をかえること三、四度に及んだが、高校三年間の作は、この総題のないノートブック三冊目から取捨していた。第一、二冊は、もとより版 にして人に問えるものとは思わなかった、が、拙は拙、未熟は未熟、恥ずかしながら我が「文藝」への初歩一歩を刻した『少年以前』なのは確かで、謂わば、こ こにも「少年前自筆年譜」ないしすでに「選集」に収めた「作家以前自筆年譜」の青春編を成している。
 しばらくの間、読み返て、多感に青くさい少年時代をひとり味わい返したい。
 ここまで書いて、そらに思い出す、このノート三冊のほかに、たくさんな歌稿を書き留めたものがあったはず。それは、「ハタラヂオ店」のためにナショナル や東芝やシャープ、三菱などメーカーが持ち込んでくる裏白でA5大宣伝リーフ。私は、裏白紙にはいつも多大の欲望で欲しがる子だった、どっちみち余るモノ だった。わたしはこのA5裏白紙を裏表に几帳面に折りたたみ、それに自作短歌を几帳面に書き入れ、沢山溜め込んでいた。それが、今も家の何処かに必ず遺っ ていると思う。ノートブック作と裏白作とに当然重複があると思う、ないしこの裏白集からノートブックへ取捨して編成したのかも知れない、分からないが。
 中一 三学期 21番目の一首は
 
 紫の雲ながれたる朝の空に
     ひかりほのぼのとみちわたりゆく

とある。私が好みの、「字あまり」を、「同音のハーモニイ」を、意識したか、せずにか、もう用いている。弥栄中学の屋上へ出ると、祇園八坂神社の奥へ東山のふとん着た影が映え、左右へ連峰をなしている。清水の山へ空へも、まっすぐ視野はひろがる。

   









                ☆ 丑の歳 ☆

      山口薫・畫                 土牛・畫 部分
               牛になってみたい時があった。

              秋の夕日に照る里紅葉



       堤いく子・画 一水会展

 



* 妻の描いて置いてくれた愛猫ノコ(ネコの子)の在りしまま。

              在りし日の 黒いマゴ 


 
 黒い猫のマゴは逝きしか生きの緒を
    静かにゆらし吾ら観てをり
 九月七日八時二十分に黒いマゴは
    ややに顫へて生きおさめたり
 その時し無言電話ひとつ鳴り来しか
    マゴを抱きくれし亡き孫の声ぞや
 ネコとノコもこころ優しく迎へくれて
    父・母(=われら)のことなど聴かされをらむ


     林檎の空き箱であそんだ少年時代の黒いマゴ

        新緑に映えて 黒いマゴのテラス

      胃全摘した九年前  明日は退院

        谷崎松子夫人より初のお手紙 「蝶の皿」へ、
            色美しい巻紙も ながながと





  二○一四年十月十日
 「平和憲法九条を守り続けた日本国民」へのノーベル賞受賞、期待していた。
 期待は酬われなかったが、大きな評判とともに有力候補視された。
 天皇皇后お二人に、授賞式に出て頂きたかった。

 受賞のきまったあのマララさんに、満腔の祝意と激励とを贈る。
 すばらしい真摯な勇気と知性。建設的で理性的な、美事な言動。
 願わくは、不幸な危害の絶対に襲いかからざる事を。

 そして、日本人のわれわれは、もう、今日即刻から、
 再度のノーベル平和賞推薦活動を開始したい。諦めてはならない。
 根気よく旗をかかげて、「世界」規模の「日本国平和憲法運動」を続けよう。

                                作家  秦 恒平             
                     
                            

              マチス画





 

作家である私・秦 恒平(元・日本ペンクラブ理事、東工大教授)は、

「反原発へ八策」の必要を、声明する。

 @  「2030年原発ゼロ」目標を堅持しつとめて実現に向かおう。
 A  原発擁護推進を鮮明にしている自民党の政権復帰を来る総選挙で徹底阻止しよう。
 B  政府・政治家に対し、核廃棄物、放射能瓦礫や劇害放射能物質の「永久隔離」策を、また電力企業の発電・送電分離を、 間断なく要求しつづけよう。
 C  広域に亘り国民の内部被曝や発病のおそれにも目を向け、科学的に正確な線量検査態勢を要求しつづけよう。
 D  国民による全国的な「反原発運動やデモ」の我慢強い継続・持続をつづけ、結集を図ろう
 E  政治家や官僚や特権企業・財界の悪辣な「欺瞞と隠蔽」姿勢に対し容赦なく糾弾しつづけよう。
 F  知性と洞察と探索に長じた誠実な科学者・ジャーナリズム・メディアを応援して行こう。
 G  謬り多き原発安全神話に跳梁した学者・政治家・企業人への告発を強め、差別的に排除されていた良心ある少数科学者たちの声をいま新たに国民は聴こう。公正な意図と運営とで真摯な意見交換を企画して行こう。
       2012.10.01

 原文の損改無しに、広範囲の転載を希望します。

 


  ーーーーーー☆ーーーーーーーー☆ーーーーーー






   秦 恒平一家の記録として 控え

 沿革                
 
* 昭和三十四年二月末  東京都新宿区市ヶ谷河田町十二 みすず莊 に入る。恒平、医学書院に入社。
*           三月十四日 恒平・迪子結婚届
*    三十五年七月二十七日 長女・朝日子誕生
*    四十三年一月八日 長男・建日子誕生
*    四十四年六月十九日 恒平 小説『清経入水』により第五回太宰治文学賞受賞 日本文藝家協会会員
*    四十九年八月三十一日 恒平 医学書院を退社。
*    五十一年 恒平 日本ペンクラブ会員
*    五十五年四月 朝日子 国立お茶の水女子大哲学専攻に入学
*    五十九年四月 朝日子 サントリー美術館に就職 
*    六十年六月 朝日子 押村高(早稲田大学教育学部助手=現在、青山学院大学国際政経教授・学部長)と結婚
*    六十一年四月 建日子 早稲田大学法学部に入学  
          同六月十九日  「秦 恒平・湖(うみ)の本」創刊。
          同九月 孫・やす香誕生
*    六十二年 恒平 京都美術文化賞選者・同財団理事に就任
* 平成二年四月 建日子株式会社JCBに就職 
     三年十月 恒平 国立東京工業大学(工学部)教授に就任
*    四年三月 孫・みゆ希誕生 
*    六年 秦建日子 つかこうへいに師事し劇作・演出家として初公演 
*    八年三月 恒平 東工大教授を六十歳定年退官。 
       同四月 恒平 日本ペンクラブ理事に就任
*   十年三月 恒平 ホームページ『作家・秦 恒平の文学と生活』を設営、「e-文藝館=湖(umi)」を創設・責任編輯。
*   十四年 秦建日子 テレビ脚本家として連続テレビドラマをも担当し始め、以降「天体観測」「ラストプレゼント」「ドラゴン櫻」「逃亡弁護士」 「スクール」「ダーティ・ママ」等々を発表。
*   十六年十二月二十日 秦建日子『推理小説』(河出書房)処女出版、ベストセラー。小説家としてもデビュー。以降『チェケラッチョ』 『SOKKI}』『明日、アリゼの浜辺で』『CO  命を手渡す者』『インシデント』等々を出版
*   十八年七月二十七日 孫・押村やす香 十九歳 肉腫により死去。八月早々より、やす香両親押 村高・朝 日子、秦家に対し「名誉毀損・夫妻鋳にに千数百万円の賠償支払い請求」の裁判沙汰に及ぶ。具体的にいったい何の「名誉毀損」であるのか、最初は押村高への ホームページ上での批評が気に入らず、しまいには娘朝日子への虐待を言い募るなど、すべて訴因は一々に秦の反論により転々捏造変更され、全く理解されず、 判決文もじつに曖昧なまま、二十三年六月三十日結審された。
*    二十一年桜桃忌 『秦 恒平・湖(うみ)の本』創作とエッセイ通算第百巻刊行、以降も第百十二巻まで継続刊行中。
*   二十三年四月、四半世紀続けた京都美術文化賞選者・財団理事を辞任、同時に六期十二年務めた日本ペンクラブ理事も退任。七十五歳。
*    二十三年六月三十日、やす香死以降つづいた裁判沙汰結審、終了。原告押村高・宙枝(長女朝日子改名)訴因のほ ぼ全部が「棄却」された。夫妻に対し(やす香見舞金のつもりで)各百万円を支払った。「名誉毀損」の名目は結局雲散霧消、要するに漠然とした金銭解決の判 決となり、訴訟費も両家で分担した。関連する全経過の完全に近い「記録」「写真」「通信」などを漏れなく「保管」している。
*   二十四年一月五日 恒平 聖路加国際病院人間ドックで胃癌Ua型と診断され、
           二月十五日 同病院消化器外科により胃全摘・胆嚢切除手術を受け る三月三日退院。
           三月十五日 術後全身感染と強度脱水により、聖路加病院に再入院。三月二十六日退院。
           五月 一日 抗癌剤「ts1」一日三回 三カプセルの一年連用(休薬挟む)開始 
           七月二二日 右眼黄斑前膜と白内障手術のため入院、翌二十三日手術、七月三十日退院。
*   二十五年四月三十日  抗癌剤連用終了
          四月五月六月 新歌舞伎座柿葺落 各三部制興行の全部を観る。
          五月      右眼に縦揺れの波状視。医師・眼鏡師ら処置無しと。
          五月      秦建日子 創作・出版、劇作・演出・公演、テレビ劇作等にこの十年相次いで活躍、 
          六月      秦建日子 初めて大阪で「タクラマカン」公演。 
*   二十六年四月五日奥付「秦 恒平選集」第一巻創刊 四月二十五日出来「みごもりの湖・秘色・三輪山」収録 10ポ組 500頁弱
                   150部限定・函入・布装・非売本 奥付創刊の日 迪子七十八歳
         四月十九日桜桃忌奥付 「秦 恒平・湖の本」第120巻達成 搬入六月二十五日
*  二十七年一月 第33回京都府文化功労賞受賞の発表  体調を考慮し二月六日の授賞式は欠席
*  二十七年五月八日奥付「秦 恒平選集」第六巻「祇園の子・糸瓜と木魚・あやつり春風馬堤曲・秋萩帖」刊行
         六月十日生母ふくのために「秦 恒平・湖の本第125巻 新作・生きたかりしに 中巻」刊行
*  二十八年六月十九日 「湖の本」第130巻を刊行。
*  二十八年十一月 日本ペンクラブ表彰会員に推さる。 
*  二十九年二月十五日「秦 恒平選集」第十八巻「梁塵秘抄・閑吟集」刊行。
*  二十九年四月五日 迪子八十一歳  「秦 恒平選集」第十九巻「花と風 手の思索 日本を読む」刊行
*  二十九年五月十六日 迪子黄疸を発症し保谷厚生病院に入院、手術には及ばず二十四日幸いに退院。
*  二十九年六月五日「秦 恒平選集」第二十巻「谷崎潤一郎を読み直す=夢の浮橋・蘆刈・春琴抄 昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち」刊行
*  二十九年十月二十日 恒平聖路加病院へ受診の留守 迪子腹部の激痛、救急車で保谷厚生病院へ緊急入院。痛みは胆石によるまでの診断          ついたが、治療方針に躊躇があり、集中治療室に入り、数日後に手術と決まり、壊死していた胆嚢を摘除。
*  三十年三月二十九日 「秦 恒平選集」第二十五巻「千載秀歌 能の平家物語 茶ノ道廃ルベシ 利休の茶と死」等を刊行
* 「平成」が、三十一年四月末まで続いた。
* 「;令和」とか聞いた新元号には習わず、私自身の今後を私自身で処置すべく「平成三十一年四月末日」以降を 「恒平元年」と自覚する。
* 「恒平」元年 六月十九日 桜桃忌 作家生活満五十年を記念し 新作長編『オイノ・セクスアリス 或る寓話』全を、『秦 恒平選集』第三十一巻として刊行、同時に『秦 恒平・湖(うみ)の本』創刊満三十三年を記念、その第144巻として同じく『オイノ・セクスアリス 或る寓話』の第一部を刊行発送す。「第二第三部 145 146巻」も追って刊行完結。
* 二○二○年、新型コロナウイルス感染症蔓延猖獗繰り返し東京都等「非常事態宣言』下におかれ、二○二一年に及んで沈静の兆し無し。
* 二○二○年桜桃忌に「秦 恒平・湖(うみ)の本」第150巻に記念の書き下ろし『山縣有朋の「椿山集」を読む』を刊行 また「秦 恒平選集」を『第33巻』を以て刊行を完結した。
  


  東工大教授の頃、妻の誕生日に東工大で花見。
  ともに59歳。学生が撮影してくれた。

  妻、平成十三年四月五日 喜壽  ともに77歳。 
  妻、平成十六年四月五日 米壽  ともに80歳。
  妻、平成二一年四月五日      ともに85歳。

  朝日子も建日子もこの二人から生まれ愛された。
  表情晴やかな以下写真のように。  

 愛らしい懐かしい。
 両親は斯く分け隔てなく姉も弟も愛した、
 今もむろん。



 
 やす香・みゆ希の写真は、一九九三年七月のこのハガキの、なお二年ほど後
 に母の朝日子が送ってきてくれた。




上は筑波の朝日子ら宿舎。下の孫みゆ希とは、このときが初対面。
 下は 清瀬の病院へ孫(娘)と曾孫娘二人のお見舞い。 1992.09.09水


母娘三人で保谷の両親宅に泊まり、女四人は仲良く雑魚寝。1993.01.15金  19: 30 着
秦の祖母を、二人の娘とともにちゃんと見舞い(清瀬救世軍病院)に来てくれていた。1993.01.16土



 やす香には祖父母の家もわが家だった。
 後年、祖父母を訪ねて いつも楽しそうだった





     保谷のテラスでご機嫌サンの
    朝日子とやす香。むろん撮影は父。






結婚後も朝日子は始終保谷へ。
母のカメラに、父と。この笑顔! 




おじいやんが一等好きな、
可愛いやす香。保谷で。


  父のカメラにご機嫌の朝日子。弟も生まれ、幸せそのもの


   

二十歳の朝日子と愛猫ノコの雛祭り


サントリー美術館勤務の頃の朝日子
 
 


華燭の日 父のカメラに笑む朝日子。
夫を引き合わせたのも、結婚式場
を奔走用意したのも、父。 1985.06.08



父のソ連旅行を横浜埠頭に進んで独り見送ってくれた朝日子 十九歳か。
同年齢で、孫・やす香は死んでいった。






 父へ全身で笑む可愛い朝日子。我が家の原点!

 父親のカメラに、姉も弟も腹からの笑顔。子宝!

* この写真。上のが六九年秋深く、九歳数ヶ月の娘・朝日子が、二歳に近づきつつある弟と大笑い している。撮影は、むろん父親のわたし、ニッカの愛機で。保谷泉町にあった医学書院社宅時代。翌年早々には下保谷に新築の新居に移転した。この写真の年の 六月桜桃忌にわたしは第五回太宰治賞を受賞し、文壇へ。

 この頃わたしは激務の編集管理職のかたわら、新潮社新鋭書き下ろしシリーズ『みごもりの湖』をすでに依頼されていた。受賞第一作に旧作『蝶の皿』を慎重 に、また新作『秘色』を書き継いでいた。編集職の繁忙と新進作家への意欲や不安とで寧日なき日々、こういう写真を写せる機会が、ほんとの憩いと楽しみで あった。わたしは一にも二にも自身とひたと向き合い創作に打ち込んでいた。さもなくて生き延びられるる世間ではなかった、純文学の文壇は。
 この当時の医学書院鉄筋六世帯の社宅は、一世帯、襖で隔てた六畳と四畳半だけ。家族は妻と四人。妻はわたしの夥しいきたない手書き原稿を日々家事と育児 のかたわら懸命に清書してくれていた。

結婚後にも、文壇のパーティや結婚披露宴等に朝日子
は喜んで父と同行していた。




1991 年1 月:
結 婚し母となってなお、父と嬉々として旅する朝日子。
婦人雑誌「ハイミセス」の企画で、母に代わって。

雑 誌「ハイミセス」1991年3月号の「旅」企画に、娘を伴い、
松山、柳井、厳島などに遊んだ日々のスナップ写真。
娘はもう結婚して母であった。



在り し日の 愛しき孫 やす香 十九歳にして七月二十七日遠逝。

花の十八、年賀に訪れたやす香
ま だ、ちっちゃかった保谷のや す香
                   祖父母が大好きな写真。



十 四年後再会した、大学合格通知の 保谷のやす香。
やすかれ やす香 生きよ とはに。逢いたいよ、また。



       作・演出 稽古中の作家・秦 建日子




   一九九一年十月 東京工業大学 工学部教授に就任 五十六歳
『死なれて 死なせて』 『修羅』 『青春短歌大学』『親指のマリア』の頃