21世紀に聖書を読む〜「テモテへの手紙第1」シリーズ26〜
執事もまたこういう人でなければなりません。(8節)
パ
ウロは「監督」についての審査基準と誰がその職につくことができるのか、ということについて述べたことに続いて、「執事」についての話題に移っていきま
す。「監督」という職務が「全体を見る人」という意味であって、日本語の印象とは異なっていたように、「執事」についても、聖書の世界の言葉として、その
意味を捉えなくてはいけません。
「執事」その意味と働き
こ
こで使われる「執事」とは、ギリシャ語で「ディアコノス」と言って「ディアコニア」を行う人のこと。「ディアコニア」は「奉仕」と訳されることのある言葉
ですから、「奉仕者」という意味の方が、言葉のイメージはつかみやすいでしょう。ここで言われている「奉仕者」というのは、教会の中で、食事を作ったり、
会計をしたりということ以上に、教会の福祉的で宣教的な働きに、教会の支援や認定を受けて携わる人たちのことなのです。4章を見ると、テモテも、「奉仕者(ディアコノス)」だったことがわかります。
こ
のディアコニアは、旧約聖書の中で、理想とされた社会、お互いに助け合い、貧しい人がいなくなる、そういう社会の実現のために、実際に何かをする、そうい
うものです。残念ながら、旧約聖書の世界では絵に描いた餅で終わってしまいましたが、イエス様が来られたことにより、この理想が実現し始めました。イエス
様が、この理想社会の実現のためにディアコニアを、身をもって教えられたからです。それは「へりくだって仕える」全人格的な献身、お世話の姿勢です。イエ
ス様は、貧しい人、困っている人、弱っている人のところへ出向いて、具体的な必要に奉仕されました。この世界には、誰もやりたがらないような、けれども誰
かがそれをしなくてはいけない、そういう仕事、面倒できつい仕事があります。この世は、そういう仕事を、お金や権力に物を言わせて、弱い立場の者に押し付
け、無理やりにさせることでしょう。けれども、そのような方法では、問題は解決するばかりか、もっと悪くなるものです。
イエス様は、そういう仕事を世の中からなくすのではなくて、愛のゆえに喜んで引き受けるという奉仕の姿勢をこの世界に持ち込まれた。イエス様こそ、本当の「ディアコノス(奉仕者)」でありました。そして教会は、このイエス様にならって歩むのです。
私たちは奉仕というと、教会の中のこと、教会運営に必要な働き手という狭い意味だけで捉えてしまうかもしれません。けれども、聖書が教える「奉仕」は、それを超えて、世の中に働きかけていく、そういうものであります。
今日、制度としての社会福祉は充実
しているかもしれません。けれども、教会は福祉的な働きを、教会の外に任せておいてよいわけではない。大事なのは制度以上に、人です。キリストの愛をもっ
て、そのわざに従事する、そういう人を育て、送り出し、あるいは教会として、そのわざに携わることが求められているのです。
* これだけ分かれば、十二分。感謝
* わたしの小説世界も、「畜生塚」「慈子」「清経入水」「秘色」「みごもりの湖」の昔から、
それは大きく変わってきた。作者は人間であり生活者であり勉強家でもあって、いつもいつも同じ調子の仕事しかしていない、出来ていない作者で在る方がヘン
なのである。しかし読者の好みは、どうしても固まってくる。愛読した「あんなのを」と望まれる。わたしはそういう希望に揺すられることは避けてきた。
「今」これをこう書いて自分として当然、必然の題材に真向かって行く方を選んできた。中村光夫先生は小説は老人の藝術であり、老人は自然と私小説を書くも
のだという趣旨を語って居られた。わたしも、必然そのように動いて行くだろうと思い、作品を出版社に売る生活をしていると、自由にそれが果たせまいと諦め
ていた。「湖の本」三十年の健闘は、そうした転進への意識的な場所づくりであった。
それにしても老境へかかっての私小説は厳しかった。
「迷走 課長達の大春闘(三部作)」は、まだサラリーマンとしての働き盛りであった、が、おいおいにキツクなった、ならざるを得なかった。
明後日に出来てくる「秦
恒平選集」第十二巻『生きたかりしに』はわたしの私小説突端の大作になった。そのあとへ、文字どおり人生の苦境が実に理不尽に襲いかかってきた。だが、一
作家としては、それも書いた。当然だ。第十五巻以降の一、二巻には自身の血を絞るような作が来る。避けては通らない。