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平成二十五年(2013)九月

  置くとみし露もありけり儚くて
     消えにし人をなににたとへん      和泉式部

 くろがねの秋の風鈴鳴りにけり         飯田蛇笏


 強風に逆行し逆行しこの先に
      憩ひあらんとふと妄想す        富小路禎子

 桔梗(きちこう)や男も汚れてはならず     石田波郷

 生きんとてかくて死にゐる虫をみつつ
       殺さないから早くうごけと念じ    遠

     9.12  孫やす香あらば二十七歳ぞ
 いとほしや狭庭(さには)にもるる朝日子の
       光(かげ)にあそべる九月の揚羽  湖 

 日のくれの山ふところの二つ三つ
       塚をめぐりてゐしいのちはも     恒平 




            マチス画





                岡村宇太郎画





* 九月三十日 月

 起床8:15 血 圧135-72(51) 血糖値94  体重68.1kg。 眼は、均等な状態が保てない。すぐに眼鏡が合わなくなってきて視野が茫然としてしまう。縦の波状視、右は顕著。視野の明るさは右が眩しいめで左は薄茶いろ にくらいと言えば言える。眼鏡屋は左の良かった方の眼をはやく医師にみせて相談せよと言ってくれている。気が鬱してなかなかその気になれないでいる。

* 古希を過ぎた人の歌集に、よくもあしくも老境の切とした喜怒哀楽の憂いや思いが読めず、言葉のあっせんや遊びでただ場や景が綴ってある。こんなのでい いのと読んでいるこっちが不安を覚える。老いの坂を歩みながらの感想は、日々に重いし苦いと感じている。その重さや苦さが貰った歌集の表現にほとんど見て 取れず、齢と表現との間にあまりに暢気な隙間を感じてしまうと、。

* 電話での一度の打ち合わせを経て「選集」のこと、少し具体像も見えてきた。 

 @ 「湖の本」全巻は私のパソコンに保管されている。HP上で校正を完了した巻も未了の巻 もあるが、「定本」出版を考えている上は、全編の綿密な再校正が当然の手続きと考えている。かりに校了した電子化データで印刷所等に渡せれば、一頁行数、 ノンブル問題その他もクリア出来るのではないか。取り急ぎ第一回刊行期待分の「校正」を完了しておくのが先決かと思っている。
  A 昭和六十年一月一日刊、五十歳の賀を祝い、和歌山の三宅貞雄さんが、『四 度の瀧』と、年譜・初出一切とを記念出版して下さった。題字は谷崎潤一郎夫人、口絵は森田曠平画伯 装丁・装画は出岡実画伯、印刷は精工舎、箱は堀製函 だった。端正に美しい本としてとても読者に喜ばれた。ああいう贅沢はできないにしても、手抜きのない清潔に美しい本をと願っている。単に在庫本なら「湖の 本」は揃っており、また各出版社で気を遣って出してくれた当時の単行本も、とりどりに備えて在るのだから。
  B  とりあえず第一回に予定の作の入念な校正を急いでおきたい。造本も大切、しかし誤植のない定本を造りあげるのでなければ形だけの自己満足になる。ゲラ段階でも丁寧に校正したい。編輯や校正に経験を積まれた読者もおいでである。手を貸して頂ければ嬉しくも頼もしいが。

* 黒いマゴは、注射輸液が過剰になると無意識らしく下から漏らしてしまう。加減をよく見極めながら続けねば。
 幸い妻の血管手技の予後はいいようだ。なんとか数ヶ月を無事にのりきってほしい。そこまで行けば安心できるかもと言われている。

* 映画「ママがのこしたラブソング」を観た。ウォームハート。老いたジョン・トラボルタと若い美しいスーザン・ヨハンソン。母(妻)にみちびかれた父と娘。しみじみと。

* 今日はもう文庫本を十数册読んでしまっているが、これからの日々はますます眼に過酷になる。思い切って
「交響する読書」は、当分小説を主に「クインテット」に縮小する。@小説を書く A ホームページに私語する。 B 湖の本新刊を続ける。 C 「選集」構成のための校正作業。 D きまりの五冊読書を楽しむ。この最低五つの「仕事」でわたしの日々はハチ切れる。 楽しみは、歌舞伎など。
 今日、喜多流の名手友枝昭世の十一月文化の日友枝会の招待券が届いた。昭世の演じるのは「烏頭」。凄艶の舞と謡を期待している。十月には国立劇場の歌舞伎、そして歌舞伎座の昼夜通しが待っている。

* 茨城県の北部で、夜、つよい地震。 そして、九月尽。


* 九月二十九日 日

 起床9:00 血 圧125-61(49) 血糖値92  体重68.5kg。夜中左肩・上腕の痛みに負けロキソニン服用。朝、衝き上げる喉元の苦み。体重跳ね上がる。粥、芋、軽菓そしてウイスキーが響いたか。

* 国境からまた国境の外へ外へと過酷な歴史の非道に追われ遁げのびて行くまだ若いケルンの、ありのままの不幸に堪えたつよさ。旅券ももち、持ったヴァイ オリンで美しい曲を奏でられる年かさな男が、もう堪えるということも受け容れられずにいる。食べる気力もなく、配給のスープの皿もケルンの方へ押しやって しまう。

 ☆ レマルク『汝の隣人を愛せ』より 山西英一の訳に拠って
 「スープを、どうもありがとうございました。あなたがご自分でおあがりになったら、もっとよかったんですが」
 ヴァイオリン弾きは彼(=ケルン)を見た。皺で顔が醜くなった。「あなたはまだお若いので、おわかりになれないのですよ」と、弁解するように言った。
 「あなたがお考えになるよりは、よくわかりますよ」と、ケルンは返事をした。「あなたは不幸だ。それだけのことです」
 「それだけって?」
 「それだけです。はじめは何か特別のことのように思います。ところが、もっと長く外国におられると、おわかりになりますよ。不幸というものは、この世で一ばんありふれたものだということがね」

* 年がゆき才能さえもった
ヴァイオリン弾きのことばではない、作者は、若いケルンに言わせている、「不幸というものは、この世で一ばんありふれたもの」と。この慟哭を深くのみこんだことばを、だが、いまがいまこの平和そうな日本に生きるわれわれがじつは迫る寒気かのように体感していないだろうかと、わたしは嘆く。日々に嘆くのである。                             

* 建日子がとうに脱ぎ捨てていったどこかの国の三色旗みたいな長袖を着ています。真夏から一気に秋へ。去年もこうだった。

 ☆ 秋晴れが続き
 9月が過ぎようとしています。武蔵の鴉の、日々の様子はHPから窺え、感心、応援しています。
 迪子様の経過はいかがでしょうか。
 9月12日の記述 (「ブッダのことば」より)
 「・・他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のよう にただ独り歩め。」
 「仲間の中におれば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のように ただ独り歩め。」
 「四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦難に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め」
 読みながら唸るほどの気持でした、覚悟でした。人はやはり孤独、厳しく孤独な存在なのですね。
 また、鴉の、
 「信仰、信心ということばに身を預けきれないもの を抱いてきた。・・こころから褒め称え驚嘆し共感し得て、身をなげ入れるほども愛し憧れ得ても、『信じる』という世 界では『ない』と思ってきた。信仰を教える、または強いてくる宗教からは危ぶみ身を避けていた。」という件(くだり)に共感します。信じるか、信じないか と二者択一を迫られれば、優柔不断なわたしは態度を決められないで立ちつくし取り残されるだけです。それでも常に不可思議なもの、大いなるものへの思いは 確かに内奥に在ります。
 2500gで生まれた孫は昨日にはもう4000gまで体重が増え、起きている時間も長くなってきたとか。アイフォンの画面でほぼ毎日「婆バカ」になって話しかけています。
 帰国して十日ほど、日中はまだまだ汗ばむほどですが、庭の片隅に彼岸花が咲き、秋の薔薇が日差しを受けて輝いています。庭の雑草採りも一人ではなかなか大変です。ススキがはびこって往生しています、根が深いのです。頑張ると後で体が痛みます!
 一日おきに(=見舞いに)病院に通っています。車で行けば30分ほどですが、モノレール、地下鉄、バスと乗り継いで片道二時間。全身の**疾患はほぼ平静を保てるようになりましたが、***の治療についてまだ知らされていません。 
 くれぐれもお体大切に、本当に大事になさってください。  尾張の鳶


* 毎日を人は生きている、それぞれに。とうとう「孫の婆になった鳶」よ。あなたこそどうか大切に元気に平安にと願います。

* 松野陽一さん、橋本孝さんに、本のお礼を申し上げた。

* 札幌のmaokatさん、高梁
(たかはし)の箱入りの大吟醸「白菊」を下さる。不可思議なことに、食欲 はあれどまだ食味のよろしさは品により十分味わえない、のに、かなり早くから酒類は、ストレートのウイスキーを少しずつ、そして日本酒が追いかけて美味く なり、ワインもOKだった。お酒で食事をしていたことが日記の記事でもよく分かる。ありがとう、MAOKATさん。高梁のお酒とは何となし、懐かしい。出 雲へ、はじめて一人旅したときは山陰線からだったが、旅行雑誌からの取材の旅では、岡山県からまっすぐ北上するすてきに良い線を利用した。高梁の名にも感 慨を抱いて窓外の景色をしみじみ見て行ったと覚えている、とんでもない記憶違いでなければ。津山の方へもテレビの仕事や講演で出かけた。あのときも同じ線 に乗らなかったろうか。久しく旅をしていないなあと思う。
 是真描く白菊の葉書に、
    惚(ほう)けたる老いそれなりに花やいで   と、MAOKATさんに、お礼を言う。

 ☆ 
hatakさん  岡山にて
 湖の本お送り頂きありがとう存じます。どこを開いて読み始めても秦さんの声が聞こえてきます。
 新世紀2001年は、猪瀬現東京都知事はまだ作家で、秦さんは東京と京都の間を慌ただしく移動していたのですね。私は、札幌に移った2年目で、前の年とこの年に相次いで上司に先立たれ、同僚とどうしていいかわからず途方に暮れていた年でした。
 先週末に岡山大学で学会があったので、それにあわせ遅い夏休みをとって小旅行をしてきました。鳥取空港から海づたいに西に進み、因幡の白兎の伝承の残る 白兎神社や、羽衣伝説のある倉吉という街、二十世紀梨の栽培地帯を通り、山深い三朝温泉で温泉三昧の三日間を過ごしました。
 ちょうど稲刈りの時期で、北海道や関東ではもう見られなくなった、稲束を田圃で干す天日干しの風景を目にしました。収穫後の稲は今はほとんどライスセン ターというところで機械乾燥するのですが、天日干しは、天日でゆっくり乾かすため、お米が美味しくなるともいわれています。ちなみにこのあたりで作られて いる品種はこしひかりで、旅館で新米を頂きましたが、北陸産のものに較べ、粘りが少なくあっさりとした味がしました。
 幹事をしている学会も無事終わり、岡山から帰る前に、高梁の蔵元の大吟醸を一本お送りしました。こうしてまたお酒をお送りできることをとても嬉しく思います。
 武蔵野も朝晩は涼しくかえって体調を崩す人も多いようです。どうかお体に気をつけられ、奥様共々お元気にお過ごし下さいませ。
 休みも終わり、私はまた明日から、ハンコと会議の毎日です。  maokat


* 尾張の鳶といいマオカットンといい、心優しいメールが届くと、胸に灯が入った気がする。

* 宇治の伊藤隆信さん 御見舞の電話下さる。宇治の景色をいろいろ瞼に思い浮かべながら、しばらく歓談、とはいえ前の三本入れ歯が浮いて浮いて、滑舌容易でない。なかなか「老いそれなりに花やいで」とも言うてられません。

* 国文学研究資料館の今西祐一郎館長に、帙入り上下十巻の『湖月抄』を献呈した。若い学究のお役に少しでも立てばお使い下さいとお願いした。秦の祖父鶴 吉の蔵書で、ちいさいころから、長持ちから引っ張り出しては帙を解き、ほおっほおっと息を吐きはき頁をくってきた。木版の、容易に読める本ではなかったが 源氏物語註釈として聞こえた北村季吟の名著。
 もう私のものにしておいて良いとは思わなかった。送り出して、嬉しくほっとした。

* 昨日 十四日目にして白鵬二十七度目の幕内最高優勝を決めた。喝采。

* 久しぶりに映画の「ニキータ」を観た。連続のドラマでもニキータをむかしよく観ていた。はなしは違うけれど日本の「子づれ狼」に感じるかなしさと等質のかなしみを抱いたままニキータを観ていた。今夜もそんな感じ、すこし懐かしくもあった。 

* ホビットのフロドとサムとが「指輪」をとうどう火の山の底へ葬った。『指輪物語』の再読を始めたのは胃全摘の手術のあとだった。一年半以上掛けてい て、「終わり」までには分厚い文庫本のまだ半分が残っている。そんなに時間をかけ、また他の本たちと併読していては何が何やら分からなくならないかと、 (とくに聞かれたことはないけれど、)そんなことは全くなく、むしろ逆に、よくよく身内に物語が落ち着いてくれる。この大長編をわたしは半行一行もトバシ 読みしないで楽しんでいる。トールキンの天才によるとともに、日本語に翻訳者のことばのセンスがすばらしい。これは特筆すべき大きい恵みである。

* 「後拾遺和歌集」 さらに「もう一選」してみようと思う。よく選べば、こちゃこちゃと和歌を解説したり鑑賞したりしなくても、ほんの少しの示唆で今日の多くの読書子にも愛されまた感想を喚び起こすだろうと思う。 
                                                                               

* 九月二十八日 土

 起床8:15 血 圧109-58(46) 血糖値92  体重67.1kg

* ツルゲーネフの『貴族の巣』を「交響する読書」に組み入れた。ロシア文学でかなり顕著に出会う一種独特の妙な男達がいる。おそらくこの小説の主人公 ルージンもその目立つ一人で、鮮鋭な批評家ドロリューモフの『オブローモフ主義とは何か?』で厳しく分析され指弾もされているオブローモフ(ゴンチャロフ の同名の小説の主人公)と色濃い同類の貴族かと想われる。ツルゲーネフ自身が貴族インテリゲンツィアであり、ルージンとの血族は否めなかろう。「高い理想 を口にしながら自らは行動せず、無関心、そして怠惰」なそれ即ち「オブローモフ主義」と読んでドブロリューボフは糾弾し裁断している。読み終えたモーバッ サン『生の誘惑』にあらわれて純な処女のイヴェットを誘惑しにあらわれる似而非貴族たちともよほどちがう、奇にして変なインテリなのである。『猟人日記』 についで、またツルゲーネフにかかわってみる。

* 国文学で阪大名誉教授の島津忠夫さんより、和泉書院新刊『若山牧水ところどころ 近代短歌史の視点から』を贈られてきた。
島津忠夫集の別巻2に当たっている。御礼申し上げます。
 近代歌人で敬愛する人と歌集は少なくない。なかでも、これが「歌人の歌集」と意識し少年わがものと手にした、最初が岩波文庫の『若山牧水歌集』であり、 次いで斎藤茂吉自選歌集『朝の蛍』であった。牧水についても茂吉についても愛読者の「感想」を請われ公にしたことがある。わたしは小説家。いかなるジャン ルにあっても研究者ではない。小説以外に信じられぬほど多くを書いてきたが、論攷であれ批評であれエッセイであれ、すべては「感想」と謂うに尽きている。 「随筆」と謂うてもよい。だからこそわたしは専門学の研究者の書かれた「研究」成果を読むのが好きなのである。住む世界がちがっているとちゃんと心得てい るつもり。

* 滋賀県湖南市の小田敬美さんから今年はとびきり出来の良いという梅干し、そして梅酢や紫蘇や生姜を贈ってきて戴いた。毎年嬉しく頂戴し、今度ももうた ちまち美味しい三粒もを味わった。秦の父は梅干しからは走って逃げるという人だったが、わたしは幼くから今日まで梅干し大好き人で、奇妙に甘い味付けなど より純粋に秘術を尽くして漬けられた梅干しに感嘆する。中国やソ連から招待されてすこし長い旅をしたときも、わたしの荷物には自分用の秘薬かのように梅干 しの器が潜んでいて、それは安心な健康薬になってくれた。
 小田さんの亡くなったご主人が天才的な漬物名人で、私の熱い読者だった。奥さんは一切を愛豊かにひきついで来られた。

 ☆ 前略
 別便にて今年の梅をお送りさせていただきました。
 今年は大きな粒が大半を占めて例年と比べて数が少ないために沢山(?)お送り出きませんでした。
 昨年の梅も一緒に入れてありますので今年の出来の良い梅との味くらべにお召し上がり下さいませ。
 この十年は以前に比べ 春の天気 夏の天気と 気にかかることばかりで梅仕事も試行錯誤の連続でしたが、その甲斐あって 今年は自分でもよく出来たと満足のいくものになっています。
 梅酢は少しばかりですが御利用下さいませ。
 又 生姜を漬けている梅酢も利用できます。きゅうりの拍子木や千切りにしたものなんか よく合います。
 どうぞ今年の味を御賞味下さいませ。
 まだまだ不安定な気候が続くようですが どうぞ御自愛下さいませ。
 乱筆乱文お許し下さい。 H25   9  26   

* 小谷野敦さんから『面白いほど詰め込める勉強法』という本が贈られてきた。この題名と今日を生きている私の姿勢とは、天と地よりも隔たっている。貰っ たのを感謝してとりあえず棚に上げておく。同じ幻冬舎新書で頂戴した曾野綾子さんの『人間にとって成熟とは何か』は、相原精次さんに頂戴して耽読した『古 墳』に次いで、今も妻が黙々打ち込んで愛読している。わたしたちに間近くもあり、またわたしたちの及ばぬところもいろいろの、簡明で率直な、さすが省察の エッセイである。

* もう目が見えない。


* 九月二十七日 金

 起床8:00 血 圧138-69(59) 血糖値100  体重66.9kg

 ☆ ジンメル『断想 日記抄より  清水幾太郎訳に拠って 
 「神の正義は人間の概念に照して見ると不正なものを生み出すことが往々ある」と
ダンテは考へてゐた。
 「生活を藝術品にせねばならぬといふのは無意味である。 藝術には別に藝術の要求がある。」
@ 「実践の世界に於いて最も悪質の誤謬といふものは屡々極く真理に接近した誤謬である。吾々の観念が殆んど正しいとき、吾々の認識がただ最後の一簣を缺 いてゐるとき−−さういふときこそその上に築かれた行為は吾々をこの上なく恐ろしい過失へ連れ込むのである。極端な誤謬の方が容易に訂正される。」
 「仕事に精を出す人間は多いが、その中で仕事の方が精を出してゐるといふ人間は少い。」
 「吾々を進歩させるものを感謝の心を以つて書物の中から摂取すべきなのであつて、その他はただ素通りすればよい。」
 「教育は不完全なのが普通である。 二つの対立する傾向即ち解放と束縛とに仕へねばならないから。」
 「一般に青年の主張するところは正しくない、併し彼等がそれを主張するといふことは正しい。」
 「青年に於いては凡ゆるものが未来へ向つて進んでゐて、過ぎ去つたものは一としてその場所にとどまり得るだけの重みを持つてゐない。 青年は丁度一つの点のやうにそこに何時も生命の全体が集つてゐる。」
A 「齢をとるに連れて生が益々疑はしいものとなり、縺れたものとなり、掴みどころのないものとなる。 或る年齢を越えるとこれがひどくなつて、つひには 生に堪へることが出来なくなり、人間の適応の力が尽きてしまふやうになる。吾々はそこに解体し、そこに没落する−−さうでない場合は独断論といふ人為的な 固定性に逃れるのである。」

* @Aともに、わたし自身にも実感がある厳しい恐ろしい指摘である。

* 目覚めたまま、夜中に文庫本をたくさん読み、さらに、贈られていた『松本幸四郎 私の履歴書』をずんずんとたくさん読んで敬意を覚えた。ペン会員に推 薦した人ではあり、かねて、書簡の往来や書物の贈答はあるが、その九代目幸四郎と、舞台の外で会ったことは一度もない。だいたいそういうことがわたしは苦 手なのである。舞台だけは、歌舞伎と限らず、十年来機会ごとにほぼ全部観てきて親愛している。その親愛を、この「履歴書」はきちっと裏打ちしてくれて、表 白・表現が簡潔に読んでおもしろいのである。みなさんにもお奨めしたい。

* 寝入れぬまま、「交響する読書」の当座の文庫本の背を、性質べつに並べて眺めていた。
 いわゆる小説は、「八犬伝」「指輪物語」「テレーズ・ラカン」「生の誘惑」「汝の隣人を愛せ」
の五冊。
 神話・物語詩を含む詩歌は、「後拾遺和歌集」「和泉式部集」「ギリシア・ローマ神話」「(沙翁)ソネット集」「失楽園」「湖の麗人」の六册
 論攷は、「八犬伝の世界」「カントとゲエテ」「断想」「アイルランド」の四册
 形而上学は、
「易」「荘子内篇」「荘子外篇」「ブッダのことば」の四册
 エッセイは、ゲーテ「イタリア紀行」 露伴「随筆集」上巻の二册 
 そうか、まあ、取りそろえてあるなと納得した。

 ☆ 地域の「九条の会」に入っています。
 ミニミニ通信に 秦 恒平の「八策」として八箇条の声明を載せさせていただきました。最近「ひろしま 関川監督」「ひめゆりの塔 今井正監督」の作品を観ました。この悲劇を又おこしてはならないと。  京都市  

 ☆ 毎日の日記の
 更新だけでも そのエネルギーにおどろきますが、その一方で創作はもちろん、テレビもかなりご覧になり、読書も複数並行…さりげなく淡々とそれらをすすめていらっしゃる日常に驚嘆です。 お大切に。  世田谷区  

 ☆ 「生活できるって
 楽しいことじゃない」(=私語の刻に引いたレマルク「愛する時と死する時」のなかで。)
 どきっとする言葉ですね。
 「湖の本」117を二册追加で送っていただけたら幸いです。  沖縄県  名嘉

* 作家の津田崇さん、小田原の美味しい蒲鉾を御見舞にと下さる。ありがとう存じます。

* 白鵬の連勝がせめて40勝にまでと願って応援していたのが、目前で潰え、落胆した。今場所の桟敷を頼んでいたら悔しさは倍になっていたろう。ま、もう一番勝てば優勝は決まる、が、甘い気持ちでは危ない。名横綱の気合いで断然の優勝をと、喝を入れたい。

* 十九世紀の八五年にできたモーパッサンの「イヴェット 生の誘惑」を一気に読み上げてしまった。侯爵夫人を名乗る女が経営している曖昧宿の女主人の一 人娘、快活で清潔な処女イヴェットが、貴族を名乗って母のもとへ寄ってくる客達に言い寄られる話である。この二十年近い以前に自然手技の旗手であったエ ミール・ゾラに「テレーズ・ラカン」がある。性の闇と焔とへ情熱のかぎり陥って行く人妻テレーズ・ラカン。ゾラがどう描いているか読みたく、順序は逆だが 前哨戦のように思いモーパッサンの「イヴェット」を先ず読んだ。
 その一方単行本で、橋爪大三郎の『性愛論』と上野千鶴子の『発情装置』を、つよい関心とともに同時に読み進んでいる。上野さんの本にはめざましくも鮮明な論究があり、肯くことが多い。

* 故三原誠の秀作本を二冊、奥さんに拝借していた。繰り返し読み、電子文藝館にももらい、返し惜しむほども永く十数年拝借したままだったのを、やっと礼 と詫びの手紙を添えて返却した。今日、娘さんから電話で、三原夫人も今春に亡くなっていたと聞いた。三原さんはわたしより五つ、奥さんは三つ年配であった と知った。あんなに心に掛け合った同士なのに、顔を合わせたことはいちどもなかった。電話をもらった娘さんにももう十九歳の息子さんがあると聞いた。
 電子文藝館には、芥川賞候補作の「たたかい」や、「ぎしねらみ」「白い鯉」などの代表的な作品がもらってある。読み直したくなった。


* 九月二十六日 木

 起床8:00 血 圧118-58(57) 血糖値103  体重67.0kg

* ちょっとの隙もみせられず、服装を窶し、顔も変え、さもないと逃亡者は秘密警察(ゲシュタポ)に捕縛監禁されて命もうしなう。それでも、彼は、もう二年も会わない妻の姿が見たい。

 ☆ レマルク『汝の隣人を愛せ』より  山西英一訳に拠る
 朝、彼は労働者の服を着、道具箱をもって すぐ市をはなれるつもりだった
 が、その決心がよわった。もう二年も妻を見ていない。彼は市場へあるいていった。一時間する と、妻がやってきた。彼は体が震えはじめた。しかし、彼女 は彼には気づかずに、彼のそばをとおりすぎた。彼は彼女の後からついていって、すぐ後ろまできたとき.言った。「後ろをふり向いちゃいかん。わしだよ。あ るいていけ! あるいていけ!」
 彼女の肩が震えた。彼女は首を仰向けた。それから、あるいた。全身で聴いているようだった。
「やつらはおまえに何かしやしなかったか?」彼女の後ろの声は言った。
 彼女は首をふった。
「監視されているかね?」
 彼女はうなずいた。
「いまも?」
 彼女はためらっていたが、やがて首をふった。
「僕はいまから直ぐここをはなれなくちゃならん。国境を越えていこうと思う。君に手紙を書くことはできないだろう。それこそ君が危険だからね」
 彼女はうなずいた。
「君は僕と離婚しなくちゃいけないよ」
 さっさとあるいていた女は、とたんに足をとめた。それから、またあるきだした。
「僕と離婚しなくちゃいけないよ。明日役所へいって、僕がこんな政治的な思想をもっているから離婚したい、と言うんだ。いままでそれがどんなものかわからなかった、と言うんだよ。わかったね?」
 彼の妻は首を動かさなかった。体をまっすぐに硬直させて、あるいていった。
「君は僕の言うことをわからなくちゃいけないよ」 シュタイナーはささやいた。「それはただ君を安全にするためだけなんだからね! もしもやつらが君に何かしたら、僕は気が狂ってしまうよ! 君は僕を離婚しなきゃいけない。そうすれは、やつらは君をそっとしておくよ!」
 彼の妻は返事をしなかった。
「マリ、僕は君を愛してるよ」 シュタイナーは歯の間から低い声でそっと言った。すると、感動で目がうるんだ。「僕は君を愛しているよ。君が約束しなかっ たら、僕はいかないよ! 君が約束しなかったら、僕はまたもとのところへかえっていくよ! 僕の言うことがわかったね?」
 永久の時がたったと思われてから、やっと彼の妻はうなずいた。
「君は約束するね!」
 彼の妻はゆっくりうなずいた。その肩ががくんと落ちた。
「僕はここで曲って、右側の歩道をまたあるいてくる。君は左へまがって、引きかえしてきて、会ってくれ、何んにも言っちゃいかん。合図もしちゃいかん ー  僕はただ君を見たいんだ − もう一ど。それから、僕はいく。もし君が何も聞かなかったら、僕は国境を越したということだよ」
 彼の妻はうなずいて、足を早めた。
 シュタイナーは道をまがって、右の小路をあるいていった。そこには、肉屋の屋台店がならんでいた。買物籠をさげた女たちが、屋台店のまえで買物をしてい た。肉が陽に照らされて、血に汚れて白く光っていた。たまらないほどひどく臭っていた。肉屋たちは、どなり立てていた。だが、それがふいに消えてしまっ た。 (略)
 彼はまごつき、それから足を早めた。そして、ひとの注意を引かないようにしながら、できるだけ早くあるいた。油布をしいた肉屋のテーブルから、屠殺され た豚のわき肉を叩き落してしまった。肉屋の罵る声が、太鼓の騒音のように聞えた。彼は市場の小路の角を走ってまがって、立ちどまった。
 彼女が市場から向うへあるいていくのが見えた。彼女は、非常にゆっくりあるいた。街の角までいくと、立ちどまって、ふりかえった。顔をあげ、目を非常に 大きく瞠きながら、長い間立っていた。服が風に吹かれて、彼女の体にぴったりまといついた。シュタイナーは、彼女が自分を見ているかどうかわからなかっ た。彼は思いきって彼女に合図をする勇気がなかった。そんなことをしたら、彼女は自分のところへ駆けもどってくるだろうと思ったからであろ。長いことたっ てから、彼女は両手をあげて自分の乳房にしっかり押しあてた。そして、乳房を彼の方へ差し出すようにし、彼の方へ体をのり出した−−口を開け、目を閉じ、 悲痛な、虚ろな、盲目の抱擁の姿勢をしたまま、彼の方へ体をのり出していた。それから、ゆっくりと向うを向いてあるいていった。やがて、街の影の渓間が彼 女の姿を呑みこんでしまった.
 それから三日して、シュタイナーは国境を越えた。その夜は明るくて、風があり、チョークのように白い月が空にかかっていた。シュタイナーは頑固な男だっ た。だが、いったん国境を踏み越えてしまうと、まだ冷たい汗をたらたら流しながら、いまきた方へふりかえった。そして、取り憑かれた人間のように、自分の 妻の名を呼んだ。

* ああ、読みながらわたしは自分がシュタイナーであるように想われ、胸がしめつけられた。彼は国を追われて他国へ入り、歓迎されない難民としてせいぜい 二日ないし五日、奇跡的に運よくて十日間の滞在を許可され期限がくれば官憲の手でどこか希望の他国国境へ送られ追い出されるのだ、そしてまたその国でおな じ事が為される。「ヒットラー・ドイツ」とは人を、シュタイナーと限らず彼の妻も隣人・同胞をすら暴虐のかぎり思想の自由を奪い、命をも奪う国になってい た。彼と妻とのなんという再会であり別れであったことか。
 そういう国へとわが日本を陥らせ地獄にしてはならない。だが言論表現・思想の自由は自民の安倍「違憲」内閣の傲慢な強権のもとに圧殺が着々法の名の下に用意されているのにあなたは気がつかないか。
 そして一朝拘禁と抹殺の危険が生じた日、不幸な日本人有為はいったいどこへどう「国境」を脱け出て遁れられるというのか。
 それが怖くて飼い犬のようになっていれば、人間と生まれた幸せは卑屈に泥まみれになる。わたしは、有為の青年、壮年のために、日本のために心より憂え恐 れている。レマルクの小説は、あの戦前・戦中のおはなしでは無い、まざまざと今日只今の日本と日本人への示唆と警告の小説なのだ、読まれて欲しいと願う。

 ☆ ミルトン『失楽園』第四巻より  平井正穂訳に拠って
 二人(アダムとイーヴ)はこれら(神を)讃美の言葉を共々に唱和したが、このように、神の最も嘉(よみ)し給う心からなる讃美を献げる他はなんらの儀礼 を行うこともなく、互に手を取り合ったまま四阿(あづまや)の奥へ入っていった。われわれが纏っている衣服という厄介な粉飾を脱ぐ煩雑さも彼らにはなく、 したがって直ちに肉体(からだ)を列べて横になった。そして、おそらく、アダムが美しい妻に冷たく背を向けるということも、またイーヴが夫婦愛の秘儀を拒 むということも、ありえなかったと私(=詩人ミルトン)は思う。
 世間の偽善者どもは、純潔や場所の適否や無垢などについて、いかにも諤々の議論を述べたてるが、ゼれは彼らの自由だ。要するに、彼らは、神が純なるもの として祝し、或る者には命じ、すべての者にはその選択の自由を認め給うているところのものを、不純だと称して貶しているいるにすぎないのだ。
 創造者(つくりぬし)は、生めよ繁殖(ふえ)よと命じておられる。だとすれば、禁欲を命ずる者は、まさに人類の破壊者であり、神と人との敵でなくて何であるか? 
 されば結婚愛よ、奇しき法則(のり)よ、汝の上に栄あらんことを!  (略)
 汝の寝床は、現在においても過去においても、聖者や教父たちの場合がそうであつたのと同じく、清浄無垢なものと古来言われてきた。「愛」がその黄金の矢 を放つのも、その変らざる誠の灯を点し、その深紅の翼を羽搏かせるのも、また、すべてを支配し、自ら喜悦(よろこび)に酔うのも、ここにおいてなのだ。こ の「愛」は、愛情も歓喜も親しみもない、金で買われた娼婦の微笑や、一時の浮気や、宮廷恋愛や、男女入りまじっての舞踏や、
淫らな仮面劇(マスク)や、深夜の舞踏会や、或はまた本来なら唾棄して然るべき傲慢な美女に対し恋に窶れた男が捧げるあの小夜曲(セレナーデ)などに見出されるものでは全くないのだ。今、アダムとイーヴは、夜鳴禽(ナイティンゲイル)の歌う子守唄にあやされながら、互に抱き合ったまま眠っていた。裸の肉体(からだ)の上に、花の咲き乱れた屋根から薔薇の花弁が散っていた(朝には再び新鮮な花が咲き揃うのだ。)
   
* シュタイナーと妻も、またあの『愛する時と死する時』のたった数日を永遠と頼んで結婚しそして別れて行かねばならなかった二人も、人間同士の非道の横 行しない時代であったならば、この、幸福の園のアダムとイヴのように、ひたすら抱きあって幾夜をもすごすことが出来た。ミルトンはひたむきに結婚愛と歌っ ているがアダムとイヴとは「結婚」していたのではないだろう。男と女としてひたむきに愛し合える園に暮らしていたのだ。 

 ☆ 彼岸が過ぎ、急に秋めきました。
 27年もの結晶の最新刊、新世紀2001年一年間の「文品」求めての作業、日付を追って拝読しました。
 それにしても、連日の読書=「交響する読書」の仕方に、圧倒されました。12年前、66歳。古典から最新の寄贈される書物にまで、一々「率直、忌憚のな い」姿勢は、本統の文学を求めるお気持が溢れていて、説得ある一本になっているのだろうと思います。谷崎「小野篁妹に恋する事」 上司「鱧の皮」 秋声 「或売笑婦の話」川端「山の音」など、再読、初読せねばと痛感します。
 猪瀬直樹氏への御指摘は、都知事での生き方に活かされねば……。
 右眼の不自由な中での読書、くれぐれも御自愛をされんことを 切に祈り上げます。御礼のみ。  元出版部長  

 ☆ 「湖の本」
 一一七と数字を拝見しただけでただ仰天。
 私もこの二、三年ほとんど横になり、入院を繰り返したりしていましたので、ここはひとつ、最後の屁とやらをちゃんと考えねばとオダをあげています。  宇治市  作家

 ☆ お彼岸に入ってもこの暑さ、
 夜も、きこえていた虫の音もこことだえています。
 本日は、湖の本 ありがとうございました。今も読ませていただき小休止に入ったところです。相変わらずの語り口、小気味よく…。
 それにしてもお目お悪いとか、酷使しないで まだ先あるのですから。
 くれぐれも お大切に まずは御礼まで   京都市  元中学校長

 ☆ 今回の『湖の本』も
 面白く刺戟をうけて読んでいます。
 82歳になりましたが、長生して、もっともっと読みたいと欲ばっています。お大切に。  岐阜県 作家・文学史家

 ☆ 闘病生活お見舞申上げます。頑張って下さい。
 拙僧、88歳、只今、総本山知恩院執事長にて、月、3、4回、京都へ往復しています。只今、御影堂(大殿)工事中です。
 一昨年、法然上人800年大遠忌の仕事の責任を果たしました。   鳥越  長寿院主 

 ☆ とかく
 「賢く」なってしまおうとする自分を我から「おちょくる」ためにも付き合う価値のある弥次喜多のお話、勉強になりました。
 どうぞ 皆さまお身体大切に。  京都  大学教授  

 ☆ 大兄の
 爆発的エネルギーには、毎回、脱帽。
とくに119−120頁、思わず「本物」の発する言葉。  花巻市  医師

 ☆ さわやかな時候となりました。
 御執筆なさりながら、さらに厖大な読書をなさり、只只おどろかされます。 気持のよい御批評に感じ入って居ります。私自身の怠惰をつくづく思います。   堺市  歌人

 ☆ 「秦 恒平文学選集
 ぜひ手にとりたいと思っています。どうか無理はなさらず、少しずつ、ご準備進めていただければと存じます。
 奈良で元気に暮らしています。新しい生活が始まろうとしています。
 迪子さんともども。お体 ご自愛ください。  奈良市  

* 昨日 竹西寛子さんより 大徳寺の胡麻豆腐を頂戴した。お元気か知らんとつねづね気に掛かっていたおりだけに二重に嬉しく頂戴した。
 また妻の友だちから洒落た味噌汁を頂戴し、今日も美学の同窓が祇園松葉屋の鰊蕎麦をたっぷり送ってきてくれた。早速お昼に頂戴した。南座にくっついた松葉屋の「鰊」の美味、さすがに京の逸品で。




              「暫」 清長画

* 今晩、妻と建日子とわたしとは、
思いを話し合って、われらにとり記念すべき一つの取り決めをした。わたしの熱い希望を建日子が聴き入れ受け容れてくれたのである。ありがとう。

 ☆ 「秦 恒平文学選集」の「構成案」

第一巻  みごもりの湖 秘色 三輪山  蘇我殿幻想 消えたかタケル

第二巻  清経入水 風の奏で 雲居寺跡=初恋 

第三巻  慈子 畜生塚 或る雲隠れ考 月皓く 隠水の 誘惑  

第四巻  廬山 華厳 マウドガリヤーヤナの旅  あやつり春風馬堤曲

第五巻  閨秀 墨牡丹 糸瓜と木魚 蝶の皿 青井戸 隠沼 鷺 

第六巻  鯛 修羅 七曜 無明 孫次郎 於菊 露の世 少女 祇園の子 喪心  
      或る折臂翁

第七巻  秋萩帖 加賀少納言 夕顔 絵巻 月の定家 四度の瀧

第八巻  冬祭り

第九巻  最上徳内=北の時代

第十巻  親指のマリア
 
第十一巻 ディアコノス=寒いテラス 亀裂 凍結 迷走 

第十二巻 罪はわが前に 私−随筆で書いた私小説 けい子 ひばり

第十三巻 丹波 もらひ子 早春 余霞楼 底冷え 此の世

第十四巻 心 なよたけのかぐやひめ 懸想猿・続懸想猿

第十五巻 お父さん、繪を描いてください 

第十六巻 逆らひてこそ、父 華燭 かくのごとき、死 凶器

第十七巻  少年 光塵 亂聲 愛、はるかに照せ

 ☆ 製作素案

構成  未定 上の案は凡その見当を示したもの。他の再構成をはかることも有る。

製本  未定 上製(布装) 函

建頁    未定 各巻 およそ既刊「湖の本」の四册または三册量か。 

部数  未定 極少部数  番号付き美麗限定本

非売  国会図書館その他施設等への寄贈・献納を主とする。全巻をご希望の読者にも「いわゆる定価販売」はしない。

版型・装丁・印刷・製本  未定  刊本への工夫もともども印刷所等と入念に打ち合わせる。已に会合を予定している。

版元  湖の本版元  著者 秦 恒平  刊行者 秦建日子

刊行  出来次第随時 秦 恒平が存命の間及ぶ限り継続刊行し、没後の継続は発行者秦建日子の取捨に委ねる。

刊行順序  上の構成順に拘泥せず出来るものから、停滞無く仕上げて行く。新作の小説等も加わる予定。

望蜀  著作者が幸いに長命すれば、さらに「谷崎論攷」「文学論攷」「文化論攷」「古典鑑賞」「日本語・京ことば論攷」「美術論攷」「日本史論攷」「対談集」「講演集」「随筆集」等々を編成することも、十分可能。

「湖の本」は、従来と変わりなく刊行して行く。)


* 九月二十五日 水

 起床8:00 血 圧122-60(58) 血糖値96  体重67.6kg。目が覚めてしまうほど夜中左肩・左上腕が痛むのを、二本の指で石ほど硬いところを強く圧しつぶすのを各五十回ほど横臥のまま繰り返した。ロキソニンなしでまた寝入れた。

 ☆ ゲーテ『イタリア紀行』一七八八年一月五日、ローマ。 より
 受動的な態度を持した数週間の休止の後に、私はふたたび最も美しい、言い得べくんば、啓示をうけている。事物の本質や事実の関係の中を瞥見することが私に許され、その瞥見は私に豊けさの深淵を開示してくれる。このような効果が私の心情のうちに生じるのは、私がたえず学ぶから、しかも他人から学ぶからである。

* 「たえず学ぶから、しかも他人から学ぶから」というゲーテの言葉は尊い。わたしの謂う「濯鱗清流」とはこれなのだ。ゲーテはこう付け加えている、「自 学自修となると、はたらきかける力と消化する力とが一つになり、これでは進歩はより少なく、より緩慢にならざるを得ない」と。
 なまじいに自信満々、しかもたかの知れた持ち前の能だけでやってゆける、やっていると小さく自負している者には「豊けさの深淵」などついに覗き得ないま まになる。薄汚れ頽れやすい才能(鱗)をつねに清流で濯おうという謙遜がなくて、作に作品の備わることは望み薄い。稼ぐ金の問題でも吹けば飛ぶような評判 の問題でもない。

 ☆ ジンメルの『カントとゲーテ』で彼はゲーテの活動の「驚嘆すべき均和」に触れて、こう書いている。(谷川徹三訳)
 ケーテの精神的活動は、現実とそれの提供する総てのものをできるだけ受容れようと心がけることによつて、絶えず養分を得ていた。彼の内面活動は決して磨 滅し合ふやうなことなく、外物に従つて行動しまた語りながら自己を表現する驚くべき能力は、各の内部活動に放出(=表象・表現)を与へ、それによつて各の 内部活動は完全に自己を生かしきることができた。この意味に於いて、彼は、苦しみも畢竟神が与へたものだといふ言葉を感謝の念をもつて特にあげている。

* こういう「驚嘆」を豊かに恵んでくれる「清流」にこそ出会い続けたいではないか。日本ではこれに相当する豊かな清流は源氏物語の紫式部をあげて謂うい がいになく、露伴、鴎外、漱石を各個に敬愛した末流は多いけれど、谷崎が時に当然のようにゲーテの名をあげて尊敬をしめしていたのがわたしには尊く思われ る。露伴、漱石、鴎外、さらに藤村をわたしは深く敬愛するが、ゲーテ、シェイクスピア、トルストイには遠く及ばない。さらに西欧の彼らには古典の古典であ る「ギリシア・ローマの神話」等が在る。古事記も日本書紀も風土記も及ばない。源氏物語は生まれたが、ダンテ『神曲』 ミルトン『失楽園』 ゲーテ『ファ ウスト』のごときを日本は産みだし得ていない。
 アポロドーロスの『ギリシア神話』を読み終えた。三十年まえに今度のような讃嘆の思いでこれを読み得ていたら、どんなにわたし自身の世界も色をかえてい たろうと、今さら歎きこそしないけれど、そうありたかったと惜しむ。これより以前にホメロスの『オデュッセイア』は耽読していたし『イリアス』にも半ば目 を通してきた。アポロドーロスによる原古の色をかがやかせた神話を、「おはなし」にしてしまった他の色々の類書の前に読めたのは幸運だった。これはエキ ス・原酒に近かった。
 これと似た原酒・エキスを口に含む思いでわたしは、今、『ブッダのことば』に聴いている。

* 昨夜もたくさん読んだ中で身に堪えた作はレマルクの『汝の隣人を愛せ』であった。上巻のまだ六十頁たらずしか読まないが、すばらしい表現で絶え得ない 苦渋・苦痛の現実が描かれ続けている。レマルクの作品でよく知られ、わたしも早くに繰り返し読んできた『凱旋門』のこれは前作に相応している。
 この作のことは、さきざき繰り返して此処で触れたくなるだろう。

 ☆ 先日はご高著
 『湖(うみ)の本』百十七巻をご恵贈賜りまして本当にありがとうございました。夫(=元東大法学部長・名誉教授)が逝きましてからはや七年の月日が流れ ご無沙汰のうちに過ごしてしまいました ちっとも存じませんでしたが
 先生もいろいろと病いにお苦しみになり、今なお右眼がご不自由とのこと心からお見舞い申し上げます 文筆のお仕事だけにどんなに大変かと拝察いたします。
 私が元気でいるかとご親切におたずね下さり恐縮でございます。 私も八十代の半ばに達し、(略)杖をつきながら歩いております。
 今の世の中の動きに怒りや不安を感じることが多くなり、戦争で死ななければならなかった方々にくらべて、ここまで生きてこられたのは全く恵まれたことですのに長生きしすぎてしまったとつい考えてしまいます。
 奥様はお変わりございませんか どうぞよろしくお伝え下さいませ
 季節の変わり目でございます どうかおからだをくれぐれもご自愛なさいますよう  かしこ 
     九月二十二日 夕  

* 亡くなられた福田先生は、お届けする「湖の本」の各巻にかならず読んでのお手紙を戴いた。励まされた。一度もじつはお目に掛かったことがない。「展望」での受賞作『清経入水』を楽しみましたよとお手紙を戴いたことも。奥様にもなにかとお心づかい戴いた。

 ☆ 急に
 秋が深まった気配です。ただ今、『湖の本117 作・作品・批評』を毎晩数十ページずつ拝読しております。
 左記の「湖の本」購入いたしたく、お送りください。
  6 7 8 神と玩具との間 昭和初年の谷崎潤一郎(上・中・下)
  15 谷崎潤一郎を読む  夢の浮橋 蘆刈 春琴抄
  28 猿の遠景・母の松園ほか
 以上、5册、よろしくお願い致します。  江東区   歌人

* ご注文戴いて嬉しい本ばかり。励まされる。

* 「秦 恒平文学選集」(限定特装本)刊行の粗案を書いてみた。建日子ともよく相談したい。凸版印刷とは十月に入って、具体的な進行を相談することにしている。「晩年」の大きな仕事になる。気力と体力さえあれば、可能。気力は有る。立ち向かうまでである。

 ☆ 
秦先生
 (=馬琴の)版本にそのようにルビが振ってあるのです。説をぜいと読むのは、遊説、勧説、説苑など、人に説いて従わせる時に使う読みで、椿説は「奇妙な話」という意 味で、「小説」「巷説」などと同じなので「ちんぜい」とは読めないのです。むろん馬琴が鎮西をかけたのは否定できませんが、正式な題名自体がご覧のとおり 「鎮西八郎為朝外伝椿説弓張月」です。  小谷野敦


 * 小谷野さんにもう一度だけ             
  > 版本にそのようにルビが振ってあるのです。
  それは承知の上です。稗史に類する流行本のことで、ルビ自体馬琴その人の内意・真意に即応したはからいであるかどうか、不明です。註釈大好 きな馬琴その人が、きちんとした言葉で「椿説はちんせつと読んでくれないと困る」と明言していますか、それを御存じなら教えてとお願いしたのです。なぜな ら「椿説」はあきらかに「鎮西」と倶に「ちんぜい」と読み得るからです。馬琴の真意まで酌んで、
  > むろん馬琴が鎮西をかけたのは否定できませんが、
とあなたも強い物言いで承認されているとおりなのです。
 それに、「椿説」の語義もよくわたしは承知しています。その上で謂うのですが、「椿説」もまた
  > 遊説、勧説、説苑など、人に説いて従わせる意向を明らかに持っています。小説 」「巷説」「本説」などもみな同じ
なことは、「演説」しかり。椿であれ、珍であれ、奇妙であれ、おおかた「説」示行為は、当然 「人に伝え同意や共感を求める」のが普通です。小説家でもあるあなたが知らぬわけがない。
 「椿説」が「ちんぜい」とは「読めない」などと聞いたら、馬琴はさぞ驚くでしょう。かれの稗史小説中での、無数の「ふりがな自在」を容認しているわれわ れ読者は、「人に説いて従わせる」目的が、演説、勧説には在り、椿説・珍説・小説には無いなどという決めつけは馬琴に向かっては通じない。漢字熟語を自由 自在なまで「宛て読み」させることの達人馬琴が、「椿説」に「鎮西」を重ねていたのは、あなたも認めざるを得ないように、「むろん」「否定できない」姿勢 なのです。
  > 椿説は「奇妙な話」という意味で、「ちんぜい」とは読めないのです。
というあなたの断定は、寸の短い早合点ではないですか。読めると実は思ってられればこそ、「むろん馬琴が鎮西をかけたのは否定できません」のでしょう。
 『八犬伝』をいま仔細に再読していますが、馬琴の漢字や熟語へのあまりに縦横自在な使用・利用・活用は、いまさらわたしの言うことでない。 
 だからこそ、あなたが最後に決然と掲げている
  > 正式な題名自体がご覧のとおり「鎮西八郎為朝外伝椿説弓張月」です。
と言われる「それその事」自体が、馬琴の真意を明かしている。即ち、強弓を謳われた「鎮西八郎」の「椿説弓張月」であるぞよと、あなたも「否定できない」ように、作者馬琴は強烈に示唆しているのではありませんか。
 「読み取れる者だけでいい読み取って興がってくれよ」の謂いを体した「題名」であると、わたしは、平凡な「ちんせつ」より、何倍も興ふかくこの題名を読 んで楽しむのです。そういうことを許す、いや求めているかも知れないのが、「馬琴の文藝」であり「稗史小説の面白さ、味わい方」でしょう。
 わたしはそう思い、これ以上あなたのお手数を取らぬ為にも、これでこのメール往来は打ち切ります。
 応えていただき感謝しています。 お元気で。  秦 恒平

* わたしの「読み」に触れて触れておける好機会を小谷野さんがメールで提供してくれた。有り難かった。二往復で十分であり、鉋屑を削り続けても仕方がな い。この件ではわたしは「私語の刻」のなかで以前にも一度ならず思いを漏らしている。「ふりがな」がふってある程度のことでは、少なくも、いや誰でもない 「馬琴」の話題は放っておけないのだった。「
むろん馬琴が鎮西をかけたのは否定できません」ことを問題にしているのである、わたしは。

* 秦建日子が、当分、フェイスブックやツイッターのために時間を浪費しないとブログに書いているらしい(母親から聴いた)のは良いことだと思う。ひっき りなしに「お知らせ」と称して当然のように流してくるメールの全部が単なる繰り返しの無意味な連絡に過ぎないことに嫌気がさしている。退会の方法を知りた いぐらいだが、わたしの手に負えない。そんなことに関わり合っている時間がむちゃくちゃ惜しい。要は、放っておけば済むだけ。


* 九月二十四日 火

 起床9:30 血 圧115-60(52) 血糖値90  体重67.8kg。目が覚めてしまうほど夜中左肩・左上腕が痛み、堪えかねロキソニンを服した。このところの気持ちの要点は体重増をほうちしないこと。66キロ台維持が難しくなり、今は67キロ台にいたいと食べる量も調節している。それが良いのか良くないのかは分からないが。

* 小説らしきものを書いてみた初めは中学の二年生頃であった。題も覚えている。「襲撃」。
 何事が有ってとは一生徒のわたしには知れなかったが、職員室と、学区域内の青壮とのあいだに悶着が起き、運動場への塀を乗り越え乗り越えて職員室へ襲い かかるのをわたしは二階教室の窓から見た。その様子を見たままに書いた。あとで国語の先生にみせたら、目の前で破られてしまった。
 そのころのわたしの表現欲は、短歌・俳句と詩と散文に分かれていて、それぞれの帳面をいつも鞄に入れていた。俳句は国民学校の二年生ほどのころに拙い作 が記録されてあり、短歌は小学校四年生から六年生まだに二、三首が記録されてある。小説よりはやく短歌・俳句への興味の動いていたきっかけは、一には叔母 が、添い寝の語りぐさに和歌は五七五七七、俳句は五七五とそれだけを教えてくれたこと、また家の蔵書に『百人一首一夕話』が、また百人一首のかるたも手近 に在ったことが決定的だった。
 もう七十年ちかくがあれから経っていて、わたしは今も和歌、短歌、俳句に心を惹かれ、ときどきは汗をかくのと同じように成るがままに拙い作をものに書き 付けている。自身で書いた小説や評論を読み返すことは少ないが、大学の頃に編んだ処女歌集『少年』や近年、胃全摘以前の短歌や俳句らしき口遊みを編んでみ た『光塵』は、なにかというと沈静剤かのように手にとっている。いつか棺の中へも持って行きたいと願うのは、『少年』であり『光塵』である。
 生みの母は短歌をつくる人だった。亡くなる前に遺書かのように歌集を編んで行った。実の兄の北沢恒彦は、弟のわたしが歌などつくる者であったことを「よ かった」と思うと早くに言い寄越していた。母と兄と弟とは、ほとんど一緒に暮らしたことが無かったのである。母の歌は、わるくない。
 源氏物語がもし和歌の一首も入らない純然の散文小説であったらわたしはかくも愛読し続けなかったろう。
 いい歌や句や詩を選んで味わうということを、わたしは何度も繰り返してきた。『愛、はるかに照せ』や『青春短歌大学』や『好き嫌い百人一首』や『千載秀 歌』などの本になっている。今もわたしは勅撰和歌集の一冊を三度も四度も読み返しながら好きな和歌を選抜しようとしている。好きなのである、詩歌が。

* 歯医者への道で、またブックオフに入り、ヒルティの「眠られぬ夜のために」上下巻 キェルケゴールの「死に至る病」のほか、小説ツルケーネフの「貴族 の巣」 ゾラの長篇「テレーズ・ラカン」上下を買ってきた。ブックオフは、ある面で便宜もするが商法は、昔々の古書店にくらべ、過酷にえげつない。好かな い。

 ☆ 作の批評を
 拝読し感服いたしました。一層の御活躍を祈念申し上げます。  名大名誉教授

 ☆ 秦さんの
 「交響する読書」に引き込まれています。
 どうぞ一層お体大切にお過ごしください。   詩人

 ☆ 前略
 先生の御批評の明晰さ、鋭さに感服しながら興味深く拝読致しております。
 どうか御自愛下さい。  編集者 

 ☆ 秦 恒平様
 いつも沢山のことを教えていただける湖の本をありがとうございます。(中略)なんだか毎日全力疾走をしているようで、くたくたです。そういうねんれいなのかと思います。
 人生の極意を教えていただきたく、湖の本をみつめています。お礼まで。  ジャーナリスト

 ☆ 私語の刻を
 まず拝読。わが意を得たりの感がしています。  国語学者

 ☆ 拝啓
 今夜は十五夜 満月の仲秋名月です。
 「湖の本」ありがとうございました。
 既刊本がたくさんあって、どれを読ませて頂こうかと楽しみが増えました。
 中身の濃い、装丁の軽いご本は何よりうれしく存じます。
  「秦 恒平が『文学』を読む」上下巻
  「バグワンと私」上下巻   を、お送り下さい。
 お眼を御大切にと念じおります。 かしこ    高松市  作家 

 ☆ 秦先生
 
先日は湖の本をありがとうございました。
 「椿説弓張月」に「ちんぜい」とルビが振ってありましたが、あれは「ちんせつ」です。 小谷野敦
 
 * 小谷野さんに質問
 椿説弓張月の椿説が「ちんせつ」と読まれてきたことはよくよく承知していますが、馬琴自身が「ちんせつ」と「読まねばいけない」とした「本説」があるかどうかをわたしは知らないので、教えてください。
 あの話の主人公は、「強弓」の、通称「鎮西=ちんぜい」八郎為朝です。馬琴がそれを無視してあえて「椿説ちんせつ」としたかどうか、馬琴自身のたしかな言及があれば、ぜひ教えてください。
 「椿説 ちんせつ」の読みも語義も十分承知の上、でわたしはあえて鎮西八郎為朝に即して「ちんぜい」の読みを推測しています。椿説を「ちんぜい」と読めることは、遊説を「ゆうぜい」と今日でも普通に読んでいることで明らかです。
 だれもが「ちんせつ」と読んできたらしいのを否認する気はありませんが、「馬琴本人の思い・意図」が知りたいとわたしは思う。馬琴に何の明言もない以上は、わたしはわたしの持説として「鎮西ちんぜい」なみに「椿説ちんぜい」の読みを唱えるだけのはなしなんです。
 重ねて願います、馬琴自身が「ちんせつ」と読まねばいけないとした本説があるかどうか、明確に教えて頂ければ潔く承伏します。教えてください。  秦 恒平


* 杉原康雄氏から買い取った黄色い野薔薇の繪が、他のいろいろの繪と遜色なく堂々と玄関を飾ってくれているのに日々満足している。わきにちい さく添えて、簡墨の舞子の繪を掛けているのが対照の妙を得てお互いを引き立てている。わきの壁にはやはり友人が描いてブレゼントしてくれた「蔵王」スケッ チの風景小品が簡素ながらに美しく引き立っている。
 狭苦しい家の中で、まあまあ心静かになれる場所はというと、この玄関と手洗いとだけ。手洗いには妻のいけた美しい蔓蔦がはんなりとおもしろく光ってい る。ほかはもう、階下も二階も隣家も、足の踏み場もない。わたし、どうやら生涯を昔から大好きな唄の「埴生の宿」に住んで終えるようだ。
 いま書いている小説の一つが、幸いに読者の前に披露できるときがくれば、作者がなにやらこつこつと作中人物の「住まい」のさまを書き込んでいるのに、同 情の涙または失笑を浮かべられるかも知れない。ほんとは秦さん、こんな家に暮らしたかったんやなあと。ハハハ。                                 



* 九月二十三日 月

 起床8:00 血 圧120-58(57) 血糖値95  体重67.6kg

* 曾野綾子さんに戴いた新刊『人間にとって成熟とは何か』を、素直に静かな心もちで読み進んでいる。いい言葉でさらっと話されていて、耳に入りやすい。
 曾野さんというと、実の父を思い浮かべてしまう。苦しみの多い人で父はあったようだが、厖大な遺文のなかで、父は作家として曾野さんと、先頃亡くなったなだいなださんの名とを書き付けている。心の慰めや励ましを得ていたようであった。

* 東工大で教授室を隣り合っていた橋本大三郎さんにもう昔にもらっていた『性愛論』も、あらためて読み始めている。ならべて、上野千鶴子さんの『発情装置』も読み直そうとしている。
 文庫本の二十册ちかくは、今日はもう夕方に読んでしまった。文庫本は寝ころんでいて楽しめるが重い本は倚子に腰掛けている機械の前でしか、それとも黒い マゴが占領していがちなソファでしか読めない。今もキイを右手一本で叩きながら、左手には松野陽一さんの『千載集前後』がスタンバイしている。だが、もう ダメ。どの眼鏡にとりかえても霞んでいて読めない。

* 映画「マトリックス」の第一部を見始めた。どんな映画がとアンケートされると必ず答えに加えてきた。年を追い月日を追うに連れ現世と「夢」みている世 界が「マトリックス」であることに気づいてきた。ほとんど疑っていない。そのおぞましき「夢」からどう覚めるか。覚めることが可能か。バグワンに聴き、千 載集などの古代釈教和歌からもひしひしと「夢」の歎きを聴いてきた。人間の世界は失せて、機械的な脳の支配する世界に、それと気も付かずに生きている人間 達。
 映画「マトリックス」を通してさまざまに思索を重ねてきたと思う。またも己が「マトリックス」を凝視するのである。

* あすは、歯の治療に。銀行から幾つかの支払いにも。


* 九月二十二日 日

 起床7:30 血 圧127-62(63) 血糖値101  体重67.5kg。きつい胸焼け、と謂うより喉元焼けが襲いそうで目が覚める。ときどきこの頃それがある。昼間の日常時間にも、無くはない。気に掛けている。
  調製所持の眼鏡全部が、視力の現状から逸れてしまいやすい。視野が微妙に揺れ動いて霞んでくる。機械仕事を長時間つづけると確実に視野が萎える。やれや れ。                                                                                                                                                    
* 二階の窓ぎわ廊下にあふれ出ていた文書や資料を、座り込んで半ば整理している内に時間が経った。つい読んでしまうから。なかには大事に想う手紙や原稿もみつかる。それも読み返したりしていると、整理にも片づけにもならない。わるい時間ではないのである。
 同じことを、しばらくぶりに足の踏み場もない書庫に入って、輪を掛けて時間を費やした。「寶」を埋蔵したようなほんものの「本」に目が触れるともう書架 から抜き出してみずにおれない。あの人にならば、などと人さまに差し上げれば役立ちそうに想う本もたくさん見つかる。やみくもにもらっては困られるかも知 れない。頭の中で、なるべく若い、センスのいい人の五六人に書庫へ入って貰って、役立ちそうな本が在れば差し上げますよと言いたくなる。きっと手を出され る研究書や参考書や辞典や事典がいろいろ「在る」はずと自惚れている。ところがわたし一人が立ってもおれないほど細い通路にも本が山積みになっていて、全 体に整理もきかなくなったままたくさんな書架に各種の書籍が混在してしまっている。整理できれば気持ちよかろうなあと嘆息してしまう。司書力のある若い人 にお礼をしてでもアルバイトして貰えないかなあと思ったりする。
 そんなこんなの恍惚のあげく、今の今にもまた読みたいという何冊かをつい家の中へ持ち込んでしまう。で、家の中もぐしゃぐしゃ。

* ドラマ「半沢直樹」の最終回を興味深く観た。企業に巣食うう限りは、上には上がいるものです。

* いろんなことをしてみた一日だった。


* 九月二十一日 土

 起床7:30 血 圧130-65(66) 血糖値107  体重67.4kg

*  今朝、地元病院を、妻退院。自転車で走ると家から五分で外来にまで入れる近さなのが有り難い。
 昨夜は黒いマゴが、二度、わたしの腕に頤をあずけて寝にきた。子守唄を唱ってやった。

* 松野陽一さんに頂戴した『千載集前後』をすこぶる興深く読み始めた。完璧に国文学者の方法に拠った精緻な研究論考書であり、ま、一般の読者には歯の立つ余地がない。
 ありがたいことに、わたしは書誌学的なまた準拠学的なそういう論考・論究の文章を、なまじい新書版のような解説文を読むよりも好きなので。知識を得るだけなら解説本のほうが噛み砕いてあり便利だろうが、わたしは学者・研究者の方法論と精微な追究そのものに魅される。
 そういうことを、自分もしたかったか。それは全然無い。しかし、仕上がった研究成果の美味はなんとか啜れる唇を、舌を、もっている。「ようやらはるな あ」と舌を巻き感嘆しながら、自身、行文や推論や博捜の中へなんとか潜り込んで行く。徹底した探索の仕事がもう学問の成果として積まれているのだから、愛 読者のわたしにはその苦労が免除されている。行儀わるくいえば、「ひとの褌で相撲」のとれる面白さ、が味わえる。
 では、わたし自身は自分で何をするか。「小説に書く」という本分がある。平家物語の『風の奏で』や、紫式部集の『加賀少納言』や、蕪村にせまった『あや つり春風馬堤曲』や、後撰集の閨秀大輔を追い求めた『秋萩帖』など、わたしの小説には材料としてそれなりの下地や背後がある。とはいえ、なにもかも小説に 「する・成る」というわけでない。気が向けば小説家のままエッセイ・感想を書いてきた。学問から蓄えたうまみを好き勝手にそうして「反芻」するというわけ だ。
 同じ『千載和歌集』への愛情深いとしても、松野陽一さんのような優れた学問的追究はわたしの仕事でない。あくまでも和歌が、和歌を読むのが好きで好きだ から、佳いと思う和歌を選んで選んでは「楽しむ」だけである。むろん研究者にも「好き」という心の動きはあるに違いない、が、それを表立てそれに立ち止 まっていては研究にならない。つまりわたしの場合は、学問にもたっぷり助けられ教えられながら、作品に富んだ和歌の喜びを満喫するだけ。それしか出来ない し、すべきでないのではないか。
 で、わたしの書庫には、錚々たる研究者に頂戴した研鑽の成果がたくさん並んでいる。戴く小説本よりも、より多くより執拗にわたしはその方の研究成果を楽 しむ。そういう人である。今も、よく見えない目で手近な書架をふりあおげば、『共同研究・秋成とその時代』 林晃平『浦島伝説の研究』 萩谷朴『本文解釈 学』 『森銑三著作集・全』そして角田文衛さんの研究書がずらり、山下宏明さんの『琵琶法師の「平家物語」と能』 高田衛さんの『定本・上田秋成年譜考 説』等々が見えている。本棚の飾りではない、愛読の書であり、書庫へ入り込むとそれらにとっ掴まれ、なかなか出てこれない。
 で、いま、「千載和歌集」についで最も縁の深い『後拾遺和歌集』秀歌を、はや四度目を読み読み撰歌を楽しんでいる。わたしには古典を学究する熱烈はうす く、学究の学恩を満喫しつつ好き放題に「楽しむ」欲が深い。大学に残らず、小説家や評論家になりたかったそれが本当の理由だろうなと思ったりする。
 松野さんの御好意が嬉しく、『千載集前後』をまさに今、頂戴しています。

* これは、研究論考の書ではないが、笠間書院の橋本編集長に頂戴した田能村竹田画論『山中人饒舌』の訳解の大冊も、文字どおり舌なめずりしたいほど嬉しい。
 若かりし昔なら知らず、美学藝術学の徒としてこれで論文を書こうなどとは考えない。竹田という傑出した大家の蘊蓄がここに結集されてあることだけは久しい見聞で識っているが、良い本の手引きで無心にとびこんで行けるのが有り難いのである。
 竹田の繪や書は「お宝鑑定団」にもときおり顔を出す。金銭的お宝感覚には親しまないが、繪も書も大好き。しかも「作品」のゆたかに備わった良い「作」に出会いたい。竹田の本は、彼自身の「作品」に富む秘跡を語ってくれているに相違ない。感謝に堪えません

 ☆ 曾野綾子さんからいま評判のベストセラー『人間にとって成熟とは何か』が贈られてきた。扉に、
 「秦 恒平様  お元気でいいお仕事をお続け下さいますよう  曾野綾子」と、書かれてある。有り難く、恐縮している。

 ☆ 颱風一過
 朝夕急に冷え込んで参りました。
 「湖の本」御恵贈頂き有難うございます。
 頁をめくるといきなり「作・作品 全く別もの」
 そのまま絵画にも当てはまりドキッと致しました。処々 拾い読みさせて頂いております。
 どうぞ呉々も御自愛の程を。先づは御礼迄。  画家  池田良則  

* 池田遙邨画伯の孫にあたる画家。京都新聞朝刊に連載の『親指のマリア』挿絵を担当してもらった。
 今回の本では「作と作品」は全く別ものというところに批評軸を置いていたので、こういう感想がいっとう有り難い。

 ☆ 今回の配本で
 「品」ということを考えさせられました。
 また秦さんの読書量のぼう大さ、文学への真剣な想いに感心尽きません。
 次回本を期待しています。御身体お大切に。  横須賀市  

 ☆ 朝夕は
 秋口らしい涼気を感ずるようになりました。
 変らぬ御好意に浴し、深く御礼申し上げます。 (中略)さきほどようやくご本を読了いたしました。二〇〇一年の一年間の読書、所感を数々の幅と奥行き に、感服するばかりでした。たくさんのことを教えられたことを感謝いたします。表記で一つだけ気になるのは「カトリック」を「カソリック」とお書きのこと でした。
179頁、谷村玲子『井伊直弼 修養としての茶の湯』の博士論文には副査として参加しておりましたので、彼女の感覚と才能、気力はよく知っております。そ う言えば彼女から「湖の本の会(=正しくは「秦 恒平文学研究会」主宰は竹内整一東大名誉教授)」のことを聞いた覚えがあります。
 平安をお祈りいたします。  国際基督教大学名誉教授

 ☆ 拝復
 ご恵贈賜わりありがとうございます。
 本日別便にて心ばかりのお礼と御見舞をかねて京菓子をお贈りいたしました。ご笑納いただければ幸甚です。
 くれぐれもご自愛を。
  ケータイもスマホも拒み頑なに
     生きてこの世の空の青さよ  
 神戸大学名誉教授

* みごとに大粒のまさに栗そのものの名菓を嬉しく戴いた。栗が大好き。

* 「秦さんの本ならなにでも買います」と言ってくださっていた多年の「有り難い読者」東宝の後藤和己さんが亡くなったと、娘さんからお知らせがあった。 帝劇の芝居にたくさん招いてくださり、とくに忘れがたいのは大好きな沢口靖子の『細雪』上演のおりは特別席に招かれ、さらに楽屋へまで連れて行ってくだ さったこと。ご冥福を祈ります。
 選者の頃、京都美術文化賞に推し受賞してもらった漆藝家望月重延さんから、秋の新匠工藝展への招待が届いた。二十四年もの選者体験の中で、毎回三人の授 賞者中、五十人近くはわたしが、あるいはわたしも、推して受賞してもらってきた。あの人、この人と思い出せばみな懐かしい。早くに強く推した楽吉左衛門さ んには、わたしの退いたあとの選者を引き受けて貰っている。まだまだ若かった截金の江里佐代子さんは惜しくも亡くなられた。選者同士で仲よくして頂いた清 水九兵衛(六兵衛)さんも亡くなられた。わたしを選者に、財団理事にと推された橋田二朗画伯も亡くなられた。選考会を主宰されてきた梅原猛さんが幸いお元 気なのが喜ばしい。

 ☆ いくつものご病気
 克服しつつたくさんのお仕事 敬服いたしております。くれぐれもお大事に。
 拙歌集にあたたかいお言葉ありがとうございます。   歌人  

 ☆ 私の母は
 94歳の今も元気で 自分の足で歩き 自分の口でおいしく食事しています。元気な姿をみると 娘としては本当にうれしい!
 生きていれば楽しい事がいっぱい。
 長生きしましょうね、先生!   各務原市   

* 京都の陶藝家である松井孝・明子夫妻から手紙と小品とをもらった。手紙は奥さんの筆であろう。

 ☆ きびしい暑さのこの夏も、
 御病中ながら一日としてお休みのない毎日をお過しの御様子 なかなか出来ることではございません。いつも御本をありがとう存じます。はげまされて毎日を二人ですごしております。
 心ばかりの(やきものの=)紙風船お手許にと思い送らせて頂きました。どうぞ御大切に、益々お励み下さい。
 昨夜は満月、そちらの月は如何でしたでしょうか。
 今朝五時すぎの西空に やはり満月がありました。 九月二十日  松井 孝   
                                           明子

* 孝君は日吉ヶ丘高校での同窓同年で美術コースにいた。明子さんは、わたしが早い時期の女流陶藝展で河北倫明さんとともに選者をつとめた会場で、備前の 川井明子さんとならんで大きな賞を獲たときが初対面であった。何年か経て、あの清少納言が仕えた定子皇后の御陵をたずねていったときに、松井夫妻の工房に はじめて立ち寄ったことがある。そのときにも数点の小品を貰ったが、その中にもソフボール大の美しい紙風船があり、もう歳久しくわが家でいつもどこか目に つく場所を占めている。今日貰った紙風船は両掌につつんで愛翫に堪える色彩と触感に溢れている。感謝。
 いまいう女流陶藝展との一度だけの授賞選者としてのお付き合いから、いまでも、川井、松井二人の明子さんだけでなく、姫路夢前窯の原田隆子さん、また西 東京田無に窯をもち人形作家として著名な可部美智子さんとの交際が続いている。川井さんのみごとな大壺は今日もわがやの玄関を飾ってくれている。わたしか ら頼み、原田さんが丹精して贈ってくれた金銀彩のうつくしい「骨壺」と松井さんの可憐に異彩をはなっている紙風船は、居間の棚に座を占め、上に淡々齋筆 「語是心苗」の懐紙軸が掛かり妻が父から伝えもつ十二面の鐵観音像とならんでいる。

* 小説に立ち向かい、視野がうすく滲んできた。もう光る機械画面から離れねば。


* 九月二十日 金

 起床7:00 血 圧132-64(59) 血糖値90  体重68.0kg

*  今日、地元病院で妻は冠動脈の検査手技入院する。検査は一時半から。

* 一時半からの検査手技では、前回ステントを挿入後にさらに風船を入れて血管をひろげた箇所が、またしても細く血の巡りが弱まっているとわかり、検査後 に重ねて冠動脈の懸念箇所をひろげる手術が為された。また三ヶ月後にさらに検査し、同様の結果の見えた場合には「バイパス手術」(天皇さんが受けられた) を奨めますと。
 とにもかくにも三、四ヶ月大事に様子をみて、年明けの結果を見極めたい。協力して、立ち向かうしかない。幸い聖路加の循環器内科の、前副院長先生も周到 に判断し検討してあげるとお電話まで下さっている。懸念を検討し払拭し、生活上の対策もよく樹てて真っすぐ立ち向かうのが妻のために最良ではないかと、わ たし自身は思っている。

* 明日午には退院。前向きに生活を楽しみながら、かしこく立ち向かいたい。

 ☆ 奥様ともども
 お身体 どうぞ大切になさって下さい。
 お仕事がいつまでも続きますように。
 御本が郵便受に届く日はいつも夫婦揃って歓声をあげます……  鎌倉  

 ☆ ありがとうございました。
 「文品」「文位」という言葉、強く印象に残りました。
 ご自愛下さい。   名誉教授 学会長

 ☆ よい方について
 よい方にぐんぐんといきますように。
 蕎麦は花盛りです 一面真っ白です。
 穏やかな四季のうつりを願っています。

 ☆ お会いしたいという思い、
 お会いして何をお話できるかという思いが、こもごもです。現実には(精神的に)あんまり出歩けません。
 本当にお大切に。精神力 あやかりたいと思います。  能美  

* 今日も数人の方から「選集」希望のおたよりがあった。うかうか出来なくなってきました。

 ☆  先生の生きた業績
 117巻めの湖の本、拝受しました。
 私など 小説本を二十冊ほど出して息たえだえですが、先生は一年に二千枚ほどの原稿を活きた字、活字にしてみぎから左へ……文章の神か鬼、いや双方に魅 入られたのだと思います。これは天然ものの文章家、文学研究者です。速成・即製が時の流れの中、悠々と突進しておられる。まねられない偉業、まことに恐れ 入ります。
 少しでも体の痛みが和みますよう祈り居ります。多謝。  府中市  作家

 ☆ 颱風18号は大丈夫でしたか。
 すっかり秋の気配となりました。苦しい闘病の日々を過ごしていらっしゃることに本当に頭が下がります。
 参院選後のお話も。なるほどと共感させていただいております。
 「秦 恒平文学選集』の購入をお願いしたいと存じます、よろしくお願い致します。
 ますますご自愛くださいませ。  静岡市  



* 純白の木槿の撮影「年」データは間違っている。好きな花です。

* 晩飯というよりも、黒いマゴとふたりで、相撲を観、酒を飲み、「ダーティ・ハリー」を観て、もう寐ようか、一仕事しようかと。
 病院の手術中には、廊下で付き添い義務をはたしながら、『ブッダのことば』に読み耽っていた。『指輪物語』も読んだ。妻の術後の点滴にもつきあい、妻は相原氏の著「古墳」にふれて手にした知識を盛んに話していた。

* かたかたと夜風がものに当たっている。
 昨夜は夜中に地震を感じた。軽微であったが遠くでは強い地震だろうなと感じていた。新聞で、福島の方で震度5以上の強震であったと知った。地震は、いつ どこへ来るか知れない、かなりの確率で。福島第一の一から四号機に粉砕がもし起きれば、福島は東京からは遠いなどと世迷い言を言って居れなくなる。現に、 福島も東京も風雨が運び植生と小動物とがはこんでいる放射能は、同じとほぼ言い切れるだろう。知らぬフリして無縁かのように言いたい安倍「違憲」総理をは じめとする利権連中がいるだけのはなし。普通じゃない、彼らは。

 

* 九月十九日 木

 起床8:30 血 圧133-66(54) 血糖値84  体重68.1kg

* 神話ないし叙事詩・ファンタジイ・稗史の類へ読書が傾いている中で、ミルトン『失楽園』第四巻、楽園のアダムとイヴ、悪魔サタン、天使ウリエル、ガブ リエルらによる駘蕩、悪念、緊迫の叙事詩進行の壮大・華麗・神秘のおもむきに魅了されている。正直のところこの作品がこんなに感激と倶に読み進め得るとは 予想できなかった。シェイクスピアの『ソネット集』やスコットの『湖の麗人』を『失楽園』は涯もなく凌駕して魂に迫り来る。悪魔の悪が人間をいかにそこな い行くか、いま、わたしは息を殺している。

* なににもまして手のまず延びるのは『ブッダのことば』で。いま第二「小なる章」の一三「正しい遍歴」を読み終えたところ。幾つもの仏教経典を読んでき た、華厳も浄土も般若も。祖師たちの法話も。それらは、わたしに「抱けよ」と「深信」を迫ったけれど、その殆どがわたしには「ファンタジイ」と想われた。 「ファンタジイ」として信じて敬愛し抱き柱として抱いてもいいけれど、有り難い美しい徹底したみごとな「創作」に思われた。釈迦はこんな幻想を説いていた のだろうかと、いつも思った。
 『ブッダのことば スッタニパータ』は信じうる限り最初期の釈迦その人の存在と言葉を表している。「釈迦その人の教え」と「仏教」との間には、ある意味 で尊くある意味で儚い連絡と断絶とが在る。後世仏教が、ないし日本仏教わたしに迫る「信」「行」と、釈迦の「教え・言葉」とは、忌憚なく言えばとほうもな く隔たりをもち、その実は、「ぶっだのことば」の方が遙かに遙かに厳しく強くわたしに迫って容赦なく懶惰で悪性なわたしの性根をのがれようなく鞭打つ。い わゆる仏典をありがたく讀誦し敬愛しているときも、それと、これつきり私本人とのあわいには緩衝の隙間があり安心も忘却も可能な判断がまじりこんだ。そう いうものだと思っている気持ちがあった。
 ところが『ブッダのことば』はそんなわたしの首根っこをつかまえて、ウムをいわせず迫ってくる。恥ずかしいことにわたしは殆ど全面的に落第している。言い逃れがまるで利かない。
 だからこそ、わたしは釈尊その人の「ことば」に思い屈して跪き、恥ずかしいのである。

 ☆ 『湖の本117』をご恵送賜り
 恐縮いたしました。
 読み取ること、<創作が湛えた「品」をみてとる>ことを日常とし、肉体化なさっているこの記録を拝讀していると、自分の汚れた鱗を秦さんの清流で濯われているような気がいたします。
 新世紀を迎えても(その後も)ぶれない精神の奇跡をまぶしくみつめています。ありがとうございました。
 難関にもめげることなき方とは存じますが、どうぞお身体はお大切になさってください。9月18日  元文藝出版部長

* 有り難う存じます。

 ☆ 啓上
 やっと涼しくなりました。御清祥のうちにお過しのことと拝察します。
 『湖の本117』拝受しました 御好意有難く御禮申上げます。御本いただくばかりで、仕事の面では御禮もできず申わけなく存じております。し
 昭和三十五年十月に発足した和歌史研究会のお蔭で古典和歌の研究に関しては大学の壁が壊れて風通しがよくなったのを享受したのでしたが、その運動をリー ドした藤平春男、井上宗雄のお二人も故人になってしまいました。秦さんをお迎えしてお話をうかがったのは藤平さんの企画だったと記憶しますが、あの時初め てお眼にかかって以来、清径入水、秘色、慈子、畜生塚といった作品群に魅せられてきました。
 中世文学についての色々な御発言も大きな指針となってきましたが、私自身の関心は資料書誌学に傾きがちでとてもお目にかけられる代物ではありませんでした。
 特に昭和末年以降の人文系大学研究期間の改変に際しては、全うな文献資料の学的な保持のために没頭せざるを得ぬ立場に立たされましたので研究もほとんどできぬ状態になってしまいました。
 やっと公務から離れ、さあ、という時になった折も折、 (中略)
 どうも弁解に終始しているようですが、やっと昨年頃から研究の方にも頭が向くようになりましたが、 はや老境、机に向かうこともできなくなりました。
 昨年、旧稿を整理して本に纏めるということを重ねました。
 そのうち「千載集」の方を笠間書院から送らせます。 
 お収めいただければ幸甚に存じます。 不尽 九月十八日  松野陽一 拝 元国文学資料館館長 

* 東京神田の生まれ、わたしと同年齢の碩学。早稲田の文学部長また建日子が進学した早稲田中高校の校長だった藤平先生に呼び出され、早稲田での、錚々た る顔ぶれの和歌史研究会へ顔を出したのは太宰賞受賞後まもない頃であった、懐かしい。まだ建日子は数歳ともいえなかった。
 松野先生のお手紙を追いかけるようにして笠間書院から大著『千載集前後』が送られてきた。有り難う存じます。去年湖の本 で纏めた『千載和歌集と平安女文化』上下巻が、門外漢なりの謂わば「千載集前後」だったのを思いだして下さったのである。論考九篇にさらに「書影覚書」が 加えられ、「研究」とはこうだという勝れたお手本になっている。有り難く頂戴しました、今日から、すぐ読ませて頂きます。

* 懇意の笠間書院編集長の橋本孝さんは、『千載集前後』と一包みの荷で、なんと、田能村竹田の画論『山中人饒舌』を「訳解」された竹谷長二郎著も贈って きて下さった。まだあった、新刊早々の「コレクション日本歌人選」の一冊も、「リポート笠間」の最新の二冊も送られてきた。恥ずかしいが笠間書院で本を 買ったことはめったにないのに、中世物語全集などたくさんの本を貰っている。わたしの申し訳としては、貰ってみんな「読みましたよ」と言えることだけ。感 謝に堪えない。
 そういえばわが家の玄関には、ほかに場がなくて、小学館から全て戴いた日本古典文学全集の百十何巻がならんでいて玄関に入る来客をなかば威嚇している が、これをほとんど全巻に近いまで「読みましたよ」といえる読者は、日本中に十人とは居ないだろうと思う。古典は、わたしのこよない精神安定の糧になって いる。

 ☆ 拝啓
 その後御病状案じておりますが、少し健康回復の由、安心致しました。
 「湖の本」二十七年百十七巻とは大変なことだったと思います。
 私も長い間御世話になりました日本ペンクラブを脱会いたしました。八十九歳になり歩行も困難のうえ、すべての力を失って、ただ読書にいそしむのみです。 僧侶という宿命で小さいながら寺をもっておりますので、必要とされる折のみ、息子の車で田舎の寺まで行っております。
 芹沢(光治良)、井上(靖)、大岡(信)さんと同じ沼津の中学校出身ですが、(略)
 これからじっくりと先生の御著を読ませて頂き、最後の人生の総まとめをしたいと念じております。
 どうかくれぐれも御身体大切にされ、御仕事も完成されますよう心から念じております。
 湖の本の御礼、心より申しあげます。 敬具   文藝批評家

 ☆ 前略ご免下さい。
 「湖の本117」のご恵投に与り、まことにありがとうございました。今巻もまた秦様の文学に対する凄まじいエネルギー、情熱に圧倒されつつ拝読しており ます。G.ギッシングの『ヘンリイ・ライクロフトの手記』を座右の書にしている私にとっては、半ば共感、半ば反発しつつ引き込まれて行くアンビヴァレント な世界、毎巻、愉しみにしております。
 今回はまだ読み切っておりませんが、一○○ページの四福音書について触れた部分に惹かれました。この辺のご考察のさらなる展開を大いに期待しております。
 また歯に衣着せぬ「秦節」といってもいいご文章に敬服いたしております。(後略)  草々
 近什一首
  人生を捨てた酔ひどれ電柱に凭れて眠る祈るごとくに    翻訳家・歌人

 ☆ いつもお言葉を
 ありがとうございます。元気にしています。
 HPでご紹介の本を読んでいくのも楽しみの一つです。残念ですのは品切れの多いこと。近くのブックオフに岩波文庫扱いは少なく、『猟人日記』も家にあった全集版の抄訳でがまんしています。
 『薄暮の京』10年前に挙げられていたのですね。最近読みました。
 字が小さくなってごめんなさい。どうぞお大事に。迪子さんもお大切に。  下関  

 ☆ 117册目ありがとうございました。
 秦さんのおかげで ツルゲーネフの『猟人日記』を識りました。一篇一篇楽しみに読みすすめています。
 どうぞ目を酷使されずに、また、時を忘れる書物を教えて下さい。  狛江  

 ☆ 湖の本116 ペンと政治(二下)
 秦先生らしい考え方に一つ一つ頷きながら 楽しく厳しくページを繰りました。
 今後ともよろしくお願い申し上げます。  桐生  

 ☆ 濯鱗清流
 (四)もお待ちしております。  八潮  

 ☆ 抗癌剤の服用
 予定一年を終わったということで、とても嬉しく思います。私ごとですが、アメリカのホストファミリイの孫は四歳で白血病にかかりましたが、つい最近 「finished!」という嬉しいメールが届きました。七歳の男の子です。皆、いっしょうけんめいに闘病している姿に感動しています。「秦 恒平文学選集」予約をお願いします。  群馬県    

 ☆ 闇に言い置く
 私語の刻を毎日拝見しております。元気そうで何よりです。
 「秦 恒平文学選集」の計画 お知らせいただければ幸いです。  愛知県  

* 今回117巻「あとがき」の最後を、こんな一文で締めくくっておいた。

 「秦恒平・湖(うみ)の本」も、いま仕掛かり幾つかの「小説」脱稿を念頭に、いつか収束を考えねばなりません。その前に、分冊で刊行して きた代表的な長編小説の「一冊特装保存本」や、作柄を同じくする小説の「合冊特装保存本」を、各「少部数」造っておこうと用意しています。『秦恒平文学選 集』とご記憶ください。もしご希望の方は、計画の進行につれご報告しますので、あらかじめ、どうぞご一報下さい。  秦 恒平

 希望者が有ろうと無かろうと、体力と気力のあるかぎり、私家版としてごく少数ずつ創って置きたいとは、妻の願いでもあって、無計画的計画で成るところから楽しみ楽しみ手をかけ費用もかけて行こうと、思うだけは思っている。
 今日の払い込み用紙をみていると、「希望する」と書き添えてきて下さった方が何人もあって、嬉しくもあり、ビックリもしました。一冊規模がどれほどかも 朧ろに想っている現状だが、例えば「秘色・三輪山・みごもりの湖」で一巻にすれば、けっこうどっしりした一巻になるかも。「蝶の皿・
閨秀・墨牡丹・糸瓜と木魚」「清経入水・絵巻・風の奏で」に今仕掛かり新作をというのも思案できる。なんにも決めていないが、乱作は厳しく避けながらけっこう沢山書いてきたといっそ戸惑うばかり。

* 満月 妻とすこし足をはこんで眺めてきた。保谷にはまだ空と月をなににも邪魔されず眺められる場所がある。写真にも撮った。涼しかった。

 ☆ 『露伴随筆集』
 ご教示ありがとうございました。すぐに、アマゾンで注文、きょう午前中に届きました。仕事に出かける前だったので、今、帰宅して荷物を広げたところです。
 さっと目を通しました。ありました。菊合香の証歌。「菊合香」がいっそう楽しめます。
 露伴という方が、こんな随筆を残していたなんて。我が無知。先生のおかげで、良い本が入手できました。楽しみに読みます。ありがとうございました。
 良師。良書 良夜。名月。   愛知県 夜琴

* 幸田露伴は明治の文豪たちの中で、森鴎外とならんであるいは凌ぐほどの精通者であった。夏目漱石はやや別格であった。

                    

* 九月十八日 水

 起床8:30 血 圧117-59(50) 血糖値87  体重68.1kg

 ☆ 「湖の本」117
 有り難く 拝受仕りました いつもいつも恐れ入ります。
 今回の117 読書領域の広さに 驚き入りました。 (御目 御大切に願います。)
 小生も九十八歳という齢となり、恐らくはこれが最後かと思う十七冊目の歌集編みました。
 出来上りましたら 御笑覧願うつもりで居ります。(九月十五日)  清水房雄  歌人

 ☆ 拝啓
 このたびは湖の本『作・作品・批評 濯鱗清流(三)』のご恵贈に与り、厚く御礼申し上げます。
 品格の問題、先生のご意見に賛同いたします。
 気候の漸く過ごし易くなった時節、ご高著を楽しく拝読させていただきます。いつもの厚恩に感謝いたします。
 ご闘病の日々の中にも明日への光明をかかげられる先生のご活躍に感動しております。
 時節柄ご自愛の上お元気にお過ごしなされますよう記念申し上げます。敬具  国文学者  

* 秘密情報保護法に、女優藤原紀香が疑問と懸念を表明しているのは、有難いことだ。日本の藝能人は政治的発言をタブーのように自制しむしろ嫌っているが、その卑小な姿勢は大衆の贔屓を深いところで裏切っている。
藤原紀香ほどの存在が、悪法へのまっとうな疑念を率直に打ち出して述べているのは、敬愛にたえない。人気の花形などがひゃらひゃらと五輪景気などを礼賛しては底の浅い知性を暴露しているなど、まことに見苦しい。「藝」というものの本質の理解を欠いているのだ。

* 昨日、「私」ごとで、或る一歩を踏み出した。希望のもてる「曙光」の目に見えたのを感謝している。詳細をいうのはまだ憚られるが、しかと「闇」に言い置く。

 ☆ 帰国
 
昨日帰国しました。湖の本が届いていました。
 家人が入院したために予定より早く帰国しましたが、フライトが一日早かったら台風上陸の当日になって、さてどうなっていたことかと思いました。
 京都の桂川や鴨川の増水、あんな光景は初めて見ました。
 疲れ残っています・・夜のフライトは眠れなくて・・家事が降り積もっています。
 短い「夏休暇」のあと、宥め宥め大切に過ごされますように。   


  ☆ 近況ご報告  秦建日子のブログより
  二日ほど高熱で寝込みました。久々です。
 今日の夕方くらいから「あ、ちょっと復活かも」という感じになってきました。
 ご心配いただいた皆様、ありがとうございました。
  ☆
 改めて。。。連続ドラマを書きます。書いてます。
 日本テレビ系水曜22時オンエア『ダンダリン』。
 主演は竹内結子さん。
 オンエア開始はなんと10月2日。もうすぐ!
 お仕事ものです。
 お仕事もののシナリオ執筆は、初めてかもしれません。 (医者・教師・サスペンスを除けば)
 第一話の執筆に物凄く時間がかかったのですが、今振り返ると、あれはとても大切な紆余曲折だった気がします。何を面白がって何は捨てるのか、そうした意思統一が、PDW全員で図れたことが、今をものすごく楽しくしてくれています。
 現在、脚本は前半最終話の第五話の執筆中です。
  ☆
 小説は、締め切り飛ばしまくりで、大ヒンシュク状態なので、とにかくこの秋は頑張ります。
  ☆
 舞台の稽古もしています。
  ☆
 今日は、愛しの猫の四十九日でした。
 といっても、特別なことは何もしていないのですが。ロウソクの火をつけて、昔の写真を眺めただけ。
 最近は、近所の野良をよく撫でています。
 (人懐っこいのがいるのです)
 岩合光昭さんの「ネコ歩き」(BSNHK)を見ながら、野良猫のたくさんいる田舎の港町に引っ越したいなあ、などと考えています。将来は、そういう港町の、餌やり爺さんになりたいです。
 
* 多忙であればあるほど、からだは掛け替えのない源泉です。涸らさないように心しつつ頑張ってください。案じながら期待しています。

* どうっと新刊『作・作品・批評』へ手紙など届き始め、とても此処へ採録している余裕がない。

* 「つながる力」などとスマホやケイタイを宣伝にこれ努めているが、「つながる幻想」に過ぎまい。「ながらスマホ」などで本人が怪我しようが命を落とそうが自己責任だが、巻き添えにされるのは傷害や殺人の犯罪にひとしい。

* 夜、歌舞伎座で安倍晴明を演じている市川染五郎に密着取材の番組を、興深く観た。


* 九月十七日 火

 起床8:30 血 圧128-63(54) 血糖値94  体重67.9kg。朝は卵納豆とヤクルトだけに。

* 掛け蒲団をしっかりきて熟睡した。台風一過、めっきり涼しくなった。まだまだこのままは行くまいが、去年は熱夏が果てるといきなり冷え冷えしたのを思い出す。
 この一両日、短い夏期休暇ほどに休息した。おいおいに立ち直って仕事に向かいたい。

  ☆ お礼
 
ご無沙汰しています。
 大雨があがったら突然肌寒くなりましたが、ご健勝のこととお慶び申し上げます。
 さて。
 「湖の本」117号、拝受いたしました。
 いつも有難うございます。
 深くお礼申しあげます。
 参院選後の日本の空気がまことに怪しくなってまいりましたね。
 奇しくも同じ頃、私は、ヴィゴ・モーテンゼン主演の映画『善き人』を見ました。
 これは大学でプルーストを講義する教授が趣味で書いた安楽死をテーマにした小説をヒトラーが読み、「ナチスの掲げる恩寵としての安楽死の思想そのものだ」と気に入って、大学教授を親衛隊の大尉・ナチス党の御用学者に取り立てる、という物語でして、
 「前向きに反対しなければそれは賛成したのと同じ」
というテーマが重くのしかかって来ます。
 今の日本の風潮が、実に、この当時のものそのままと感じられて、私は暗澹たる思いにとらわれております。
 エンターティンメントはいよいよ売れず、文学はもっと売れず、版元も相当に大変そうですね。
 目下はなるようにしかならぬと覚悟を決めて日々書き続けております。
 今後とも宜しくお願いします。
 取り急ぎお礼のみにて失礼します。 拝     作家

* 書きかけの小説を推敲したり書き進んだりしていると、ワクワクしてくる。はやく人に読んで欲しいとも思い、それが惜しい気もしてくる。いまもとっ掛 かっていた作は二○○七年二月十二日に起稿と記録してある。するともう六年半も書き継いでいたことになる。ちっとも長い長い作ではない、今未だ百枚をやっ と越した程度かもしれない。そんなことはちっとも気に掛けていない。誰の為でもない、誰よりも自分が読みたくて堪らないような小説にしたい。ウズウズと渦 巻きながら頭の中はもう数倍ものひろびろとした展開が予感できている。それを文章にしてゆくのは楽しくもキツクも嬉しくもある。
 じつは、少なくも同じように書いてきた小説がもう一作はある。二○○八年二月二日に発想し、本格には十二年十一月十七日からすっかり書き直しの原稿として再開し、この方はもう枚数だけで言えば長編めくところへ一応到達しているが、まだ、わたしは手放す気になれない。

* 黒いマゴの加減がよくなくて、こんごは補液の注射を連日のようにつづけねばならない。かなりの高齢になっている、体調はもう微妙になっていて見た目だけでは判断がならない。よく見守ってやりたい。
 妻も検査手技入院が近づいている。老老介護にマゴの介護も加わっている。覚悟してきたことだ、立ち向かうまで。

 ☆ ご心配頂きありがとうございます。
 テレビ、新聞で報道される嵐山の無残な姿に言葉もありません。
 この春には末の孫娘の十三参りで渡月橋を渡りました。
 被害にあわれた方々の一日も早い復旧を祈っています。
 最近は日本中どこかで災害が立て続けに起こっていますね。
 自然も恐ろしいですが、人による危害もそれ以上です。
 又、京都へもぜひおいでくださいね。
 お彼岸ももうすぐ、そろそろ萩も咲くころですね。
 又、お便りします。
 お元気で。  みち  母方従妹

                   
 ☆ 雪の嵐山、雪の渡月橋、私の心から一日も消えた事ありませんのに、昨日の嵐の様子はショックでした。
 (怪我から=)一年半過ぎて杖無し生活ですが、老残の日々を送っております。  


* わたしの小説があんまり読みづらく腹が立って本を壁に叩きつけたほど元気だった読者が「老残」とはうら悲しい。せめて「老境」を、もちまえの元気をちからに朗らかに生きていただきたい。
 この人、壁に叩きつけた本に、惹き込まれ惹きこまれ、最も熱い読者のひとりに変貌してくださった。元気でいて欲しい。みんなみんな八十周辺(アラ・エイティ)とはいえ。
 妙なもので、現実にはもうすぐ七十八になるわたし自身が、いまだに「少年」の心地にさまよっているためか、同年輩知友の男性も女性もみんな堅固に妙齢のままに想えている。これって、滑稽だけれども妙に嬉しく有難いことでもある。

  ☆  新刊

 秦先生、『作、作品、批評』届きました。ありがとうございます。ゆっくりと味わいます。

 昨日まで博多へ出かけていて、留守中の郵便物が心配でしたが、名古屋は颱風も大過なくすぎてくれたようで、先生のご本も郵便受けで無事でした。

 博多から初めて太宰府へ行き、天神様にお詣り。博物館も覗く事が出来ました。先生が書いていらっしゃる日記、天神様は菊もお好きとのこと。

 香道では、今の季節によく「菊合香」という香りの相違の当てっこをいたします。主題は道真公の「秋風の吹上に立てる白菊は花かあらぬか波の寄せるか」と いうお歌です。前もって、「秋風」という香りを憶えておいて、「秋風」三つに覚えのない「白菊」三つを加え、打ち交ぜ、四つの中で、「秋風」「白菊」それ ぞれを当てるものです。このお歌は古今集に載っており、寛平の后宮(宇多天皇の母班子女王)主催の歌合の折、同時に菊合(最古の菊合)が行われたとき、和 歌浦を写した洲浜に立てた菊を詠んだものとか。天徳内裏歌合ではありませんが趣向をこらした歌合だったのでしょうね。
 時代考証のきちっとした歌合の場面のあるドラマを見てみたいものです。 夜琴


* 「歌合」については幸田露伴が嚆矢となった「在民部卿家歌合」をはじめとして詳細かつ臨場感も豊かに考証している。岩波文庫に『露伴随筆集』上巻「考証篇」があります。 

* 例の「もんじゅ」が、風雨の被害で立往生している。何一つも役に立たない、チエも理も利もない
「もんじゅ」の存続は国益を損なう以外の何一つ存在理由がない。もし一つあるとすれば、核爆弾・核兵器の原料備蓄だけ。ぜったい許せない。

* 福島第一原発のタンク群があいついで汚染水を地下へ海へ垂れ流し続けて、その恐怖量は増して行くばかり、厚顔無恥の東電すら制御できていない、制御で きないと明言している。安倍晋三「違憲」総理が国際公約してきた「まっかな大嘘」は日に日に世界を惘れさせ疎ましがらせている。こういう良心の一片すら持 ち合わせない「うそつき違憲総理」をもってしまった情けなさ、恥ずかしさ。
 地裁、高裁、最高裁での火をみるより明らかな「選挙違憲判決」が、そろそろ続出して欲しい。


* 九月十六日 月

 起床11:00 血 圧111-53(59) 血糖値102  体重68.0kg。 両肩のきつい痛みで夜中目覚めてしまう。余儀なくエアサロンパスで一時しのぎして寝入るようにしている。

* 未曾有の暴風雨に嵐山渡月橋がいまにも流されようとしている。基盤も橋脚も濁流に包まれいまにも木造の欄干が押しつぶされかねない。夢にも見たことの ない光景におののく。避難指示は二十数万人に出ている。滋賀県にも京都府にも初の特別警報が出た。颱風は最悪の被害を近畿以東にもたらし、関東東北に迫っ ている。
 地球の温暖化で海洋の水位と温度とがあがり、その影響が、穏やかな温帯であった日本列島を亜熱帯化しているのが近年のかつて経験したこと無い異常・異様 気象となって襲いかかっているのだろうと素人考えながら推察している。もしもそうならこの傾向は年々に暴威を増しつつ永く継続すると想わねばならない。

 ☆ お元気ですか、みづうみ。
 
今日はタイミング良く湖の本の新刊『作、作品、批評』が届きました。何よりの誕生日プレゼント、と嬉しく頂戴いたしました。ありがとうございます。     低く垂れその上に垂れ萩の花   素十

 ☆ こんにちは 京都です

 新しい湖のご本届きました。
 ありがとうございます。
 こちらは早朝の暴風雨が嘘のようによく晴れています。
 今頃はそちらが風雨激しいのでは。
 被害がありませんように。
 いつもホームページを拝見して、歌舞伎を楽しまれたり、お仕事に励んでおられるご様子に安堵しています。
 一方、ご体調のお悪そうな時や、お眼の不調もお辛いことだろうなと心が痛む思いでいます。
 又、東京へ行く折にはご連絡させて頂きます。お目にかかれる機会がありますよう願っています。
 どうぞ奥様共々お大切にお過ごしください。       みち  母方従妹


* 発送した本が雨で濡れてないといいのだが。中国四国九州が気にかかっている。

* こちら大過なく風雨も遠ざかり。ただもう疲労のためか、ほんのちょっとしたワインにも弱くなってか、びっくりするほどよく寐る。寐ると言っても、本を読んで読んで寐るのであり。

* 『露伴随筆集』に手が出る。菅公といえば「梅」がつきもの、だが、じつはそれ以上に「菊」の好きな天神さんであったとの考証ではじまり、最近では生け 花の歴史を縷々教わり、次いで「しま」文様について教わり、いまは「歌合」についてことこまかに教わっている。随筆の高尚をしみじみ実感できる。なんでも かでも選び無くみんな此処の日録に書き置き言い置いて構わないでいるわたしの姿勢が行儀が、いくらか気になります。

* 『失楽園』では、いましもアダムとイヴとのこのうえない幸せな相愛と、嫉み憎むサタンの悪謀との場面へ来ていて、臨場感ゆたかなみごとな叙事の詩情が匂い立っている。すばらしい実感。
 そして『ブッダのことば』を噛みしめる。
 ドブロリューボフの『オブローモフ主義とは何か?』を知ると知らないではロシア文学ないしロシアの革命にいたる道筋が見てとれないだろう。いい批評の一典型である。
 ジンメルの『カントとゲーテ』にもあらためて教わっている。

* いま、「機械近用」の眼鏡を使わねばいけないのに「読書近用」と「室内近用」とで間に合わせていた。たちまちに視野がぎらぎらと崩れてきた。だめだ。


* 九月十五日 日

 起床8:00 血 圧104-56(61) 血糖値104  体重67.7kg。 両肩のきつい痛みで夜中目覚めてしまう。余儀なくエアサロンパスで一時しのぎして寝入るようにしている。いまひとつ突として目覚めてしまうのが、灼けるよ うな苦みが喉元へ衝き上げてくること。この一ヶ月をおもえば、二三日ないし数日に一度ずつくらいこれが起きる。耐え難いほどの予兆におどろかされ、夜中で も起って含嗽に行く。かつて処方されていたシロップを飲み喉を洗ってやり過ごしている。
 目は、例えば発送手作業などは「機械近用」眼鏡をもちい、家の中ではたいてい「室内近用」を用い、資料読みには「読書近用」を用いている。外出には「戸外遠用」を用いるが、不安定なことが多い。またとくに右眼垂線の波状視は顕著で改善の気配もない。

* 十九日の俳優座稽古場「三人姉妹」招待は、翌日に妻の「検査入院」が決まったので、辞退した。今日から五日間は、外出予定なしに落ち着いていられる。夏バテを静めたい。

 ☆ その後順調に回復してますか。  

 お彼岸も間近く 心地よい季節が待たれます
 (夫君逝去後の=)実残務はまだまだありますが、息子が仕事の合間に出向いてくれたり、娘の手助けもあり 進んでいて、 有り難い事です   
    実家の墓参りを兼ねて、仲良し達と存分にお喋りした二泊の京都旅行以降、何気ない会話や外出が精神衛生上や認知症予防には不可欠と実感し、友人達とランチをしたり博物館の常設を一人で観て歩いたり と、出掛ける努力をしています
 お大事になさって   


 * 
そのまま
 京都に居着いたかと想っていました。どっちへ向いても心通った友だちの多い人だから安心です。
 わたしは、「読書近用」「機械近用」「室内近用」と三つの眼鏡のほかに「外出遠用」三つ、「老眼補助レンズ」までとっかえひっかえして、不安定な視力視 野を支えながら仕事したり読んだり書いたりしています。そろそろ体重のリバウンド気味に脅かされています。いま、67キロ台です。20キロほど減っていま すが。
 食欲は出ていますが、肉や魚のうまみが戻りません。美味しいと感じて食べたいです。胃袋がないので腸へ直行し、量が食べられない、腹がすぐ張って仕舞います。やれやれ。 お元気で。  


* 手伝ってくれる息子や娘のあるというのが、じつに羨ましい。
 肉体労働が、老夫婦ともに、苦痛という以上に不可能になっている。こうすれば、ああすればどんなにかいいのに、助かるのにと願っていること多々有れども、手助けの手が皆無なため、家の中が荒れるまかせて窮屈に古びてゆく。

 ☆ 
順調で結構ですね。

 リバウンドを心配する状態、 なんて幸せな事。 こんなにも美味しい食物が溢れている時代に胃が受け付けずに栄養失調で命を落とした人もいるのですから。
 頭脳明晰 歩行可能 食欲ありで安心ですが、視力だけは気になりますね。
 我が家に続いて、中学友だちも含め、知り合いの八十過ぎの旦那さんが二人相次いで他界されました。
 実を申せば、親友の一人が大手術の末、無事生還、目下静養中で、今回はそのお見舞いとお悔やみも兼ねての旅でした。
 お元気で。
 狭い京都では何処へ行っても落ち着きますが、もう移り住む事はないなあ、と思いました。あなたは如何。
     つきしろくしぬべきむしのいのちかな
 が、口をつきます。  

 * 明日ありと
 
思ふ心のあだ桜 というでしょう。
 いつ急変がくるか知れない爆弾をかかえて、今日を、今日を、今・此処をやり過ごして生きています。
 たとえ昨日や去年や昔は記憶にあるとしても、明日明後日なんてものは実在しない。
    この道はどこへ行く道 ああさうだよ知つてゐるゐる 逆らひはせぬ
 一日一日、どうぞお元気に。    


* ドラマ「半沢直樹」をおもしろく観て。なんとなく疲れ残っていて、一日、ぼんやりと過ごした。眼鏡をかけ違えていると、機械用でなくつい室内用でキイを叩き字を読んでいると、たちまち視野がぎとぎと、いらいらと霞んでくる。 

* 「FACEBOOK」 「TWITTER」煩わしいほどいろいろ連絡が入るが、手を出さない。無くてもいいものだ。


* 九月十四日 土

 起床8:15 血 圧120-56(63) 血糖値101  体重68.0kg

* 効率よく発送、夕刻には見通しつける。作業中、映画「指輪物語」の一を耳に聴いていた。申し分なく、佳いファンタジー、佳い映画。夕食にワイン。

* 作業とワインとで疲れた。しばらく寝入った。他の何をする気にならず。湯に漬かり、「後拾遺和歌集」の三撰めをすすめ、モーパッサン「生の誘惑=イヴェット」スコット「湖の麗人」を少しずつ読んだ。疲れは簡単にはとれない、このまま今夜は本を読みながら寐てしまおう。


* 九月十三日 金

 起床7:30 血 圧121-61(56) 血糖91  体重67.6kg

* 九時、新刊117搬入、すぐ発送作業開始。終日。映画「指輪物語」二と三とに聴き耳を立てながら。

* 夕方、聖路加の前の副院長林田先生、お電話をくださる。山折さんとの老いと死との「対談」を読んでのことと。例の朗らかな声でいろいろ気遣って下さった。二十日地元での妻の冠動脈検査手技についても、検査結果を報せるようにと。有難く、心強いことであった。

* 十月の歌舞伎座、「義経千本桜」昼夜の座席、松嶋屋から着到。国立劇場は高麗屋の当番、「一谷嫩軍記」と「春興鏡獅子」で。


* 九月十二日 木

 起床8:00 血 圧123-64(53) 血糖値93  体重67.3kg

* 韓流のまず「イ・サン」簡約篇を中途からみて、次いで「トンイ」の簡約編を中途から観た。そのあとまた「イ・サン」の全編を中途から楽しみ、さらに今 は「トンイ」全編を見続けているが、今朝から、また「イ・サン」全編の開幕編をみた。ふたつの歴史物語は、それぞれの王とヒロインとがそれぞれに温良で聡 明、純真なので、ひとつには韓国の歴史や文物にも馴染んでみたくて、くりかえし学ぶように観てきたのである。時代でいうと、「トンイ」の王は、今も名王と 称えられる「イ・サン」の曾祖父にあたるらしい。
 韓国・朝鮮の宮廷や王室は、よほど日本のそれとは異なって見えるが、ものの見えだけでは誤解もまじる。謙遜に見入りながら、宮殿や居宅の建築や、街区 や、官制や、貴族社会や女官等の世間、また後宮のありようなどを興味をもって眺めている。各国の現代物ドラマには全く興味がない。

* 「湖の本」117巻『作・作品・批評 濯鱗清流3』の刷り出しが届いた。今日一日休息し、明日午前中から送り出し始める。

* 『ブッダのことば(スッタニパータ)』は、嫌も応もない具体的な教えでせまり、逃げ隠れも誤魔化しもできない。後世仏教の経典の文句とは全然異なり、 素朴なまで率直で言を左右する隙が無い。全然無い。言い訳が利かない、イエスかノーかで自答するしかないが、これって容易ならぬこと。いま、「第一 蛇の 章」の一、蛇から十二、聖者まで、「第二 小なる章」の、一、寶、 二、なまぐさ、 三、恥までを読んできて詳細に註も斟酌しているが、「蛇が脱皮して旧 い皮を捨て去るように」いつも「怒りが起ったのを制」しているかとなれば、頭を垂れて「いいえ」と答えねばならない。秦の叔母の稽古場には華道家元の漢字 で書かれた「あすおこれ」の額が鴨居にかかっていた。けっして「怒るな」の意義は少年なりに汲み取れた。「あす」なんてものは絶対に無い。その「あす」に 怒れという。だが現実には喜寿を通り過ぎて行く老人が、怒りをなかなか堪え切れない。いきなり落第である。ブッダは、この調子で突きつけるように端的に まっすぐ言う。身を避け適当に答えることを許さない。ちっとも無理なことを問われていない。だが、ちっとも守れていない。なんというヤツであるのかと、我 が身の持ちこたえようが無い。痛み入って恥ずかしい。
 ま、この本が、手放せない。恥ずかしくて手放せないのである。仏弟子たるの資格はまったく無いと分かってしまう。

 ☆ パーピマンがいった、「子のある者は子についてよろこび、また牛(=私有)のある者は牛について喜ぶ。人間の執着するもとのものは喜びである。執着するもとのもののない人は、まこと、喜ぶことがない」と。
 師(ブッダ)は答えた、「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。まこと人間の憂いは執着するもとのものである。執着するもとのもののない人は、憂うることがない。」

* この「パーピマン」とは「悪魔」で。悪魔のことばには払いがたい誘惑がある。喜びが欲しいか、憂い無きをねがうか。わたしは今でも迷い惑う。
 ブッダは「犀の角」のように歩めと教える。犀の角は一本。その一本の角のように「ただ独り歩め」と教える。比較的、この教えなどに背を押される思いがある。わたしの欠陥と表裏しているのだろう。

 ☆ 「仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のよう にただ独り歩め。」「仲間の中におれば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のように ただ独り歩め。」「四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦難に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩 め」などと教えられると、ひそかに頷いている自身を体感する。
 以下の、こんなふうに教えられても強く頷く自身を自覚している。
 「もしも汝が、(賢明で協同し行儀正しい明敏な同行者)を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。」「しかしもしも汝が、
(賢明で協同し行儀正しい明敏な同行者)を得ないならば、譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。」「われらは実に朋友を得る幸せを讃め称える。自分よりも勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。」 
 わたしの願い続けてきた「真の身内」への思いとこれらは深く連絡している。

* 夜は創作中の小説世界へ戻って、たくさんな夢をみた。新刊の発送を終えたら、まっしぐらに此処へ戻れる。                             

* 九月十一日 水

 起床8:00 血 圧132-66(58) 血糖値88  体重67.9kg。 食餌の量を減らすようにしている。服薬の種類と量も減らした方がかえって体調のためにいいかも知れぬ。処方されているのは、三種類のビタミンBそして利尿 剤。そのほかに、眼のため、腸のためにいいのではと思うものを、さらには肝油、黒酢、スッポンなどを加えている。食べて薬をのんだあとの気分が概して重苦 しい。

* 今日の歌舞伎座夜の部は、さして気が進んでいない。新作は、余程でないと、練れていない。勘三郎の平成中村座では出来た歌舞伎を新演出して存分に楽しま せてくれたが、なかなかああは行かない。今夜の夢枕貘の新作「陰陽師 瀧夜叉姫」がどんなものか、かなり危ぶんでいる。昼の部の「新薄雪物語」を選ぶべき だったと思ったりしている。ま、明後日からはまた発送という肉体労働になり、来週には妻の検査入院がある。今夜は、染五郎、松緑、菊之助、勘九郎、七之助 ら花形芝居を無心に楽しんできたい。

* 外出まえの体調あまりよろしからず、重苦しい。そして眠い。

* 歌舞伎座夜の部、「陰陽師 瀧夜叉姫」 どうかと危ぶんで待つ思いであったが、幸いにも大柄な歴史を背景に花形役者を適材適所に配して面白くみせてくれた。安倍 晴明の染五郎が舞台の芯を品よくハメも外さず支えて座頭の面目を保ち、松緑の俵藤太も海老蔵の将門も所を得柄にもはまってしっかり面白く演じた。勘九郎の博雅三 位は純良の人と藝とかるみとで舞台を静かに和ませた。瀧夜叉姫の菊之助にはもっと華々しい活躍の荒事でもあるかと期待していたが意外と温和しくしどこ ろ少なめで気の毒だった。七之助の桔梗は今夜に限ってすこし滅入って見えた。国崩しの愛之助、興世王役として使いどころは面白かったが、なんだか彼は このところこんなえげつない役ばかりしている。ワキでは團蔵の小野好古が存在感をみせ、市蔵、亀蔵、亀三郎、亀寿らも楽しんでそれぞれの役に舌 鼓をうっている感じ。総じて、荒唐無稽の空疎さにならず、かっちりと波瀾の舞台を楽しませてくれた。大道具の展開がなかなか気が利いて大きく、上出来と褒め ておく。新作としては及第点、ひとえに花形の若手が懸命のアンサンブルで成功への意欲を結集した成果と謂えた。よく出来ました。
 舞台半ば、安倍晴明の染五郎が客席うしろから登場し、前五列め角席のわたしの真横で、はれやかに科白をいい笑みこぼれていた。絶好席を呉れての大サービスに感謝。

* 高麗屋の若夫人とも開幕前に談笑、妻は番頭さんに筋書きをもらっていた。

* はねてから、茜屋珈琲のカウンターで休息、マスターとたくさん談笑。かれからは梨園のいろんな話が聴ける。
 手洗いに、今夜はひときわ愛らしく雅に花が生けられ、おもわず写真に撮った。
 生け花といえば、いま幸田露伴の考証「一瓶の中」を読んでいる。露伴は生け花の歴史に通じまた生ける技にも驚くほど長けていた文豪。花に限らず、万般暮 らしの技にくわしく優れて長けていたのは、彼の家系のもともと幕府のお茶坊主だったことが与っていただろう。なんでもかでもじつによく心得て子女も薫育し至らぬ ところが無かったのは、幸田文、玉青らの書いた物が雄弁に証言している。
 わたしは、比較的多くこの日録にも庭咲きの花や葉やまた生け花への愛好を隠さないでいる。一つには秦の叔母つる、玉月が御幸遠州流家元直門の教授だった こと、裏千家の茶の湯よりも年永くはやくから稽古場をひらいていて、わたしはその場の空気に小さい頃から感化されていた。わたし自身は手づから花を生 けるというのではないが、妻のそれに、いつもちょっと手を添えたり口を出したりしている。身におびた嬉しいありがたい財産のようなものと感謝している。


* 九月十日 火

 起床8:00 血 圧135-69(58) 血糖値99  体重67.9kg

* 発送用意ほぼ了。これから歯医者へ。

* 往路、江古田のナガノ眼鏡で妻の新調眼鏡を受けとり、銀行から幾つか送金し、帰路には、江古田のブックオフで新たにモーパッサンとレマルクの小説を 買ってから、かねがね一度時間が合えば入ってみたかった小さなスタンドバー「VOVO」で、わたしは辛口のシェリーと店主のすすめるウイスキーを、妻は赤 ワインを。相客とも歓談。それから二階の和食の店「笑雲」へ上がって食事を楽しんでから保谷へ帰った。なんとなく気が晴れ、機械をもうひらくことなく本を 読んで、はやめに休む。


* 九月九日 月

 起床8:30 血 圧133-59(60) 血糖値93  体重67.5kg。 便意と排便は概ね順調で、排泄前に比し体調をめだって好適にする。大きく間をおいて時々左胸にものを置いたような圧を感じることがある。「裸眼」「近々 用」「機械用」「室内用」「遠用」「老眼補助レンズ」を頻繁に交用して暮らしている。疲労が増してくるとおおかたの適用度が混乱してしまうが。眼精疲労に 注意するしかない。

* そうはいいながら夜中に目覚めてしまったりすると、辛抱無く読書してしまう。夜前は、買い置きのブルフィンチ『ギリシア・ローマ神話』を、訳した野上 八重子のあとがきや夏目漱石の序文などを読み、いきなり二七章「トロイア戦争」「イリアス」を読んだ。映画「トロイ」でも「パリスとヘレン」でも馴染んで いるしホメロスの『イリアス』にも馴染んでいて取っつきやすいと観た。
 これよりずっと以前からアポロドーロスの『ギリシア神話』を遮二無二ガアッと棒読みしてきて途中に有るが、これを芳醇な原酒のうま味とすると、ブルフィ ンチの英語からの訳述は軽いジュースのうま味。あらためてアポロドーロスの原話にちかい上古本の無垢に手つかずの味わい・面白さが格別とよく分かる。
 ギリシア神話は神の世界と人の世界とが二重でかつ混淆というに等しく交在し関係し、名乗りにも行為にも区別うすく、ただ神々にはさまざまな神威の異能が 備わっていて、自由自在に神々同士が集い争いそして人間世界のあれにもこれにも仕放題に干渉し支配し従わしめている。何処までが神で何処からが人やら甚だ 混雑して或る不可思議な曖昧世界を神と人で共有している。神のふるまいもちからも善とも悪ともその意と慾と次第で、なによりかより実に甚だしく多様多重多 彩に「男女乱交」「生殖繁茂」の自然当然であることに、驚くと言うよりも妙に感嘆し安堵すら覚えてしまう。そんなことは「あたりまえだよ」と言われている 感じ、しかもまた神々同士が人も巻き添えに、敵はもとより妻子も友も味方ですらもじつにさまざまの仕方でよく「殺す」。「性欲に駆られて相手構わず求めて 交わり子を産みに産み、事情あれば誰彼となく殺しに殺す」のである。ゼウスは、またポセイドンもヘラクレスもみな、いやいや女神達ですらみな、超弩級の情 欲・多産の殺し屋にほかならない。そのようにして、神々の多彩な威力と意志とで人の世界は「文明」を成して行く。ちっとも陰惨でなく不思議に健康すぎるよ うな活溌で機略に富んで妙に明るい。こういう原性質を汲み取り味わうには、アポロドーロスの『ギリシア神話』をひたすら音読するぐらいに棒読みするのが良 い。個々の関係や事情などとうてい記憶も納得も出来はしないほど事細かなのであるから、理解・知解はさっさと諦めて「棒読み」に徹していく内に上にあげた ような一切がアタマに残ってくる。
 その濃厚きわまりない原酒の酔いをおいしいジュースほどに引き延ばし淡めたのが、ブルフィンチの著述である、と、いまのところわたしは承知している。

* なんだかわたしは(時々思ってきたことだが、)自分が中学・高校生のむかしのまま暮らしているような思いにとらわれる。少年なのだ、なんとなくいまだ にへんに幼い。若いのでなく幼稚をのこしてそれに乗って日々をやっている気がする。恥ずかしいとまで思わないが苦笑する。ま、しょがないかと頬を抓ってみ る。

* 都と政府との五輪開催への誠意は、なにより第一に、原発・放射能危害への徹した対策・善処でわたしは評定する。それに尽きる。

* それにしては報道されている安倍「違憲」総理の五輪誘致演説での福島汚染水処理に関する平然たる「大うそ」つきには、やりかねないと思いつつもこちらの方が恥ずかしくなり、怒りに身が熱くなる。断乎として倒閣への足並みをと切に願う。

* そうそう。昨日の機械仕事を終えたあと読んでいた『十訓抄』第五「朋友を撰ぶべき事」の「九」で、おや、この現代語訳はちがってやしないかと思う箇所 に出会った。ついでながら「五の八」では良妻三例と悪妻七例をあげて誡め、そのあとへ、しかし「女もよく男をえらぶべき」とし、白居易の「慎みて身をも て、軽々しくゆるすことなかれ」や、長谷雄卿の「男をえらばむには、心をみよ。人を見ることなかれ」を挙げて女性に警告している。「人を見るな」とは、 「男の姿・かたちのよさ」に囚われるなという意味。それを「五の九」に繋いで、『大和物語』によく知られた「安積山(あさかやま)の女」の説話を引いてい る。挙てあるた和歌一首も広く耳慣れたものである。

 ☆ 
「安積山(あさかやま)の女」  十訓抄より
 大和物語には、昔、大納言なりける人の、帝に奉らむとて、かしづきける女(むすめ)を、内舎人(うどねり)なるものの取りて、陸奥の国にいにけり。安積の郡、安積山に庵結びて住みけるほどに、男の外(ほか)へ行きたりけるままに、立ち出でて、山の井に形を映して見るに、ありしにもあらずなりにける影を恥ぢて、
  安積山影さへ見ゆる山の井の

  浅くは人をおもふものかは
と、木に書きつけて、みづからはかなくなりにけり、としるせり。

* 「男の
外 (ほか)へ行きたりけるままに」
を、この古典全集の担当現代語訳では「男が他所(よそ)へ出かけていた時に」と解してあり、これは、同感。この男女に不和あって、男が よそへ逃げた、出奔したというのではない。日々の暮らしの中でただ外出・他出した留守中の話なのである。参考までに、訳されている全文を挙げてみる。
 「
『大 和物語』には、こんな話が載っている。昔、大納言であった人が、帝に差し上げようと思って、大切に育てていた娘を、内舎人なる(下級の=)男がさらって、陸奥の国まで 逃げていってしまった。そして、安積の郡、安積山の中に粗末な小屋を作って住んでいた。男が他所に出かけていた時、女はふと立ち出でて、山の泉に姿を映し て見たところ、我がかたちは以前とはくらべものにならないくらい、変り果ててしまっていた。それを見て女はひどく恥ずかしいと思って、
  安積山の姿を映している、水浅い山の井のように、私はあなたのことを、
  心浅く思っていたりしたでしょうか。心底から好きでしたのに
と、木に書き付けて、そのまま自ら、むなしくなってしまった、と物語には記されている。」

* 問題は<和歌一首の読みようである。さらにいえば歌の「人」、訳して「あなた」の受けとりようである。この際本文にやや繁簡のある「大和物語」の原文 と、上の「十訓抄」の文とには一線を画したい。いま読んでいる「十訓抄」教訓に添うて読まねば意味がない。『十訓抄』はこの 和歌をどう挙げどう読み取っていたか。『大和物語』ではこの女、妊娠していたとまで書いているが、この教訓説話本は触れてまもいない。あくま で前節「五の八」の「女の男えらび」で肝要とした、「なかにも、(女として)あるまじからむ振舞(男えらび)は、よくよく慎むべし」を承けての「九」の例話なの である。
 この和歌一首は、万葉集の異伝歌でも古今集序への引用でも著名であり、女童たちの「手習い手本歌」でもあった。源氏物語「若紫」にもそんなふうに引いてある。つまり手習い手本歌が即ち女児への誡めになっている。
「(女として=)あるまじからむ振舞(=男えらび)は、よくよく慎むべし」と誡めていること、万々疑いないのである。
 では、上に引いた現代語訳での和歌の「読み」は、どうなのか。「
安積山の姿を映している、水浅い山の井のように、私はあなたのことを、心浅く思っていたりしたでしょうか。心底から好きでしたのに」 とは、誰のことを指しているのか明瞭でなく、このままでは所用で他出している「男・もとの内舎人」を謂うとしか読み取りにくい。浅くなど思ってなくて「 心底からあなたが好きでした」なら、ましてや妊娠してさえ居るかしれないなら、いくら容貌容姿が衰えようと自殺してしまうのは頷けない。
 訳者は、和歌 の文法を読み損じていないだろうか。
 わたしなら、和歌の下句をこう読み解く。
 「
安積山影さへ見ゆる山の井の」の上の句は、ま ちがいなく「(心)浅くも」を導いている。「浅くも人をおもふものかは」の「ものかは」は、文法的にも強意の否定句である。「浅々しくも浅はかに人(=男 の人)を思っていいわけがなかった、思ってはならなかったのです」という女の強い反省と後悔を表白している。「とりわけてしてはならない行いは、よくよく慎みはばからなくてはならな」かったのに、軽薄に軽率に間違えた、恥ずかしいことをしでかしたという後悔に女はうちひしがれたのである。「水浅い山の井のように、私はあなたのことを、心浅く思っていたりしたでしょうか。心底から好きでしたのに」 などという歌で有るわけがない。なにより、「心底から今の男が好き」であるなら、死んでは意味を成さない。本意が通らな い。「浅くも人をおもふものかは」とは自己への禁止であり、それが出来なかった「心の至らなさ」に恥じて女は死んだ。「十訓抄」本文の「五の 八」から「九」へ「意」とした流れからみれば、大納言ほどの者の娘が、あからさまに宮廷の風儀を損ない、うかうかと内舎人の誘うまま陸奥まで駆け落ちした「あるまじからむ振舞」「慎むべき」逸脱の男えらびが自ら責められ、恥じられているのである。
 このような略奪婚の類話は、日本書紀にも、また更級日記にも出ていて、そこでは特段女の行為として責められてはいなかった。『十訓抄』はある種「責め る」のが好きな「お説教」古典なのである。「五の十二」にも、「かかれば(=このような次第なればこそ)女はよく進み、退き、身のほどを案ずべし。すべて父母のはからひにしたがふべきなり。われとしいだしつることは、いかにもくやしきかた、多かり」と念を押している。
 それにしても「浅くも人をおもふものかは」という教訓が少女らの「手習い手本歌」であった意味は、史実としても軽くはない。

* 発送用意は、着々進んで、明日十日と十一日午前と十二日とがあれば、まず間違いなく出来る。用意が有れば発送も捗るだろう。もう一息。


* 九月八日 日

 起床8:00 血 圧114-63(58) 血糖値105  体重68.0kg。眠れぬほど左肩・左上腕が痛んで左手先が痺れる。右も、似た感じ。

* オリンピックの東京開催が決定した。祝着。2020年まで、あと七年を生きて行く目当てができたのを祝おう。
 ばかげて浮かれ騒ぐことはやめてもらいたい。国政も都政も図に乗ってハメを外すことは許さない。なにより成すべきを為せ。

* 機械のまえで、夜おそく『臨済録』を序、上堂、示衆、勘弁、行録そして塔記まで、読み終えた。数十年前に古い岩波文庫で読み、今度新しい岩波文庫 で、日数をかけて懇切に読み終えた。読解するのが適当な書ではない。分かろうとして分かるわけのない、しかし無心に読み読んで何事もないという本ではな い。むかし普化全身脱去のことや「一箭過西天」の句に覚えるものがあり、今回またそれに遇った。この本、座右に放たず繰り返し手に取りつづけると思う。
 ついでながら、寝室で読み続ける十七册とべつに、この機械のそばに読み終えてなおいつでも手に取れるように置いている文庫本は、この「臨済録」「陶淵明 集」「白楽天詩集」「浮生六記」そしてペトラルカの「わが秘密」 サドの「ジュスチーヌまたは美徳の不幸」 フローベールの「紋切型辞典」 そしてマルク ス、エンゲルスの「共産党宣言」 もう一冊「日本唱歌集」。近時のわたくしを、言わず語らず示唆し得ているか。
 さらについでながら重い大型本も手の届くところにいつでも読み告げるように何冊も置いてある。苦手だが面白いのは古典の「十訓抄」で、わたしは叱られっぱなしである。
 そして、バグワン。

* バグワンと関わっていまとても興ふかくついつい読み耽るのが、中村元先生の訳になる『ブッダのことば』で。この本では、ブッダの教えとして示されてい るうちに(少なくも今のところ)「信」「信じよ」ということばの一度として現れないこと。わたしはもともと信仰、信心ということばに身を預けきれないもの を抱いてきた。極楽にせよ地獄にせよ「ファンタジイ」は、こころから褒め称え驚嘆し共感し得て、身をなげ入れるほども愛し憧れ得ても、「信じる」という世 界では「ない」と思ってきた。信仰を教える、または強いてくる宗教からは危ぶみ身を避けていた。その意味でもわたしはバグワンに、また禅に、親近を深めて 少なくもこの三十年を過ごしてきた。
 いま「ブッダのことば」をほぼ直に聴きながら、中村先生のいわれる「これらブッダのことば」とわれわれのこれが仏教だと常識的に受け入れていた知識との 間には、大きく深い乖離がみられるとの示唆に、むしろ喜び頷いている自身を見出すのである。「臨済録」また、そういう感覚からは「仏教」ならぬ「ブッダの おしえ」に繋がると聴きかつ読んでいた。
 さきのことは分からない。いま、わたしは「ブッダのことば」に明らかに教えられている。

 * 今朝、猪瀬直樹の名で、いよいよ五輪開催都市が決定されますというメールが届いていた。努力を尽くしましたという広範囲への同報であったろう。彼の才気と根気との勝算もひめた述懐であったろう。よく頑張った。 


* 九月七日 土

 起床8:00 血 圧125-65(62) 血糖値107  体重67.2kg。眠れぬほど左肩・左上腕が痛んで左手先が痺れる。右も、似たような感じ。
昨日昼夜通しの観劇では、眼の疲れ、段々に亢進して、しまいに右岸に見える役者の顔が縦半分ほどに縮小したり、視野のどこかに一ミリ粒ほどの緑点が浮かん だり。縦波状視は右眼に露骨にひどいが、左は辛うじて縦真っ直ぐに近い。眼精疲労をやわらげるべく眠れるときには眠るようにしている。

* バカげていると言われるだろうが、読書量が減らずに増えている。文庫本だけに限っても、昨日今日、十七册にもなっている。読みはじめると、興に誘われみな読んでしまう、たとえ二三頁ずつではあっても、こころよく、心地よく読んでしまう。
 アポロドーロス「ギリシア神話」 シェイクスピア「ソネット集」 ゲーテ「イタリア紀行」下巻 ミルトン「失楽園」上巻 ドブロリューボフ「オブローモ フ主義とは何か」 ジンメル「断想」「カントとゲーテ」 スコット「湖の麗人」 トルーキン「指輪物語」8 「易経」上巻 「荘子」内篇 「荘子」外篇  「ブッダの言葉」 「後拾遺和歌集」 「南総里見八犬伝」五 高田衛「定本 八犬伝の世界」 幸田露伴「随筆集」上巻。 
 もすこし小説も読みたいのだが、ついつい、こういうことになっている。そして、むろん問題は眼精疲労。

* 五輪誘致のための福島汚染水問題ではないのだ。五輪が来ようと来まいと、汚染水その他の原発問題は大きな大きな越えて克服解決しなければならない根本 の問題。もし五輪誘致に落第しようともこれを投げ出しては絶対にならぬ。「世界」も、じつは五輪との関係でではなく、日本の安全な原発・放射能対策が為さ れるのか成るのかを憂慮しているのだ。海を、国土を、空気をこれ以上に汚してはならぬ。かつての空気公害とくらべて遙かに遙かに危ない。そして、これから は発病の憂いが兆してくる。癌、眼病、不妊。それは遠くの他人の問題でなく、あなたやあなたの家族に迫ってくる病状だ。
 五輪誘致の場で、日本の責任者が「東京は全く大丈夫」と東北と切り離してものを言うている不誠実な故意の切り分けを憎む。昔から、東京は東北の玄関であった。安倍、猪瀬、竹田五輪トリオの人としての誠実も知性も疑わざるを得ない。本末転倒するな。

* 規制委の田中委員長が懸念のママにばかなことを言い始めている、汚染水を薄めてうみに流して何処が悪い、他国もやってきたと。発狂でもしたか。

* 新刊の出来までに残日わずか、発送の用意も頑張っている。なんとか大過ないところまでこぎ着けておきたい。二十日には妻の冠動脈検査入院がまた有る。気持ちの焦点はここへ置いている。わるく緊張しないで、まあるく消化して行きたい。


* 九月六日 金

 起床7:00 血 圧119-63(62) 血糖値90  体重67.2kg

* 夜前、スコット作「アイヴァンホー」上下巻を読み終えた。あるいは巧者なら半分の分量で筋書き面白く書いていたかも知れないが、通俗化してしまったろ う。この小説、等分の四十四章にひとつひとつ主題をあずけて堅固に城を築いて行くような書き方をしており、周到とも律儀ともいう構築術を、そう、楽しんで いるかのよう。稗史といわれ只今も読んでいる馬琴「八犬伝」も、いわば似た積み上げ方をしている。
「ア イヴァンホー」は稗史なのである、その限りにおいて獅子心王リチャード・プランタジネット期のイギリスの歴史をかなり総合的に理解せしめる知的な産物に なっている。ことに美しいレベッカに代表させてユダヤ人の存在感をこの作ほどアクティヴに紹介してくれた作にお目に掛かったことがない。さらにはサクソン とノルマンとの対立がひとつの英語英国へ溶け合って行く契機もよく表現してくれている。
 読んでよかった。
 これで、今、十六、七を読んでいる中に、小説は「八犬伝」と「指輪物語」だけになった。他は堅いめの読書になっている。同じスコットの小説『湖上の麗人』を付け加えよう。スコットは大きな一面で優れた伝承・口承史の驚異的な大家でもあった。
「アイヴァンホー」も「湖上の麗人」もその方面からの収穫なのである。

* さ、新橋演舞場へ。二週間後には妻の循環系数度目の検査手技を控えている。無事を願いながら、歌舞伎を楽しんでこよう。

* 新橋演舞場。まず、松嶋屋の番頭さんと歓談、清月堂のおみやげもらう。我當の舞台、お互いに寄る年波、元気な内に一つでも多く舞台を観ておきたい。
 今日の座席は、期せずして昼も夜も同じ、四列目中央角席の絶好席。感謝。

* 病に倒れた坂東三津五郎に配されていた三役のも綱豊卿は橋之助に、橋之助の持ち役だった富森助右衛門は翫雀に、不知火検校の寺社奉行は左団次に、馬盗 人の悪太は翫雀に。それぞれ適役で、翫雀にも橋之助にもいい勉強であった。さすがに何と言おうと片岡我當の新井勘解由の静かに毅然とした述懐の藝、立派で した。
 もっとも「御浜御殿」の綱豊は一本調子に叫ぶ一方で、とうていあの真摯で温厚な後の将軍家宣の前身とはかけ離れすぎた。翫雀は出来る役者で安心していた。秀調の老女は見せたが、壱太郎のおきよは貧弱、魁春の江島は相変わらずの根深節。喋らないときは佳い女形なのだが。
 橋と孝太郎の男女道成寺は観たこともないほど珍なもので、二人がじつ勝手勝手に踊りまくってアンサンブルの妙は皆目無く、孝太郎はなんだかむしゃくしゃ の体で、鐘入り前から後まで一人で凄んで凄んでいたのが、めったに観られぬ見ものだった。宗之助を先導の聞いたか坊主らも安直。この舞台半ばで、長唄鳥羽 屋初代の大名跡「三右衛門」を名人里長の長男文五郎が襲名披露されたは目出度かった。橋之助、孝太郎連名の投げ印手拭い、ひょいと妻が受けとめたのも一興。
 幸四郎の河内山はもうご案内の通り。翫雀の松江侯は嵌り役でけっこう。左団次、高麗蔵がすずしく演じていた。最初の場で東蔵の
和泉屋清兵衛は勿体ないほどの品格で、秀太郎の後家おまきもこまやかな手ごとひとつで風情も胸を表し見せる。さすが。

* 高麗屋の奥さんと、夜の部のはじめに談笑。筋書き、もらう。

* 夜は久しぶりの新作もの大狂言不知火検校こと「沖津浪闇不知火」を、松本幸四郎が「悪の華相勤め申し」た。人情話に陥りやすい宇野信夫の作としては、 悪に徹した男の生涯を律儀なほど勘定を付けて追い求めていて、それを幸四郎が「彫刻的」な刀の冴えで築き上げ、悪の極みの不愉快舞台をそれなりの「作品」 にきっぱり創って観せた。立派な仕事ぶりであった。魁春、高麗蔵、亀鶴、桂三らに印象が有った。舞台の運びを二幕ものなりに手際に運んでくれたのもダレな くて成功していた。高麗屋、さすがに毅い。
 馬盗人が面白かった。「馬」の活躍に大きな拍手。成駒屋の翫雀が、大和家三津五郎の家の藝を誠実に元気に達者に代役をつとめたのは勲章もの。この一幕があって、不知火検校のあくどい悪の華の火照りをきれいに洗い流してもらえた。三津五郎の健康で早い復帰を切に切に願う。

* 日比谷へ走り、クラブでこころよくヘネシーと山崎を味わいながら、角切りのステーキを。コーヒーを。妻は機嫌良くたっぷりのアイスクリームを。つつがなく、十一時には帰宅。黒いマゴがよく留守居を勤めてくれました。


* 九月五日 木

 起床8:45 血 圧128-62(64) 血糖値94  体重67.8kg

* 青山学院法学部名誉教授であった清水英夫さんが亡くなった。ペンの言論表現委員をながく一緒に勤めていた。お互いに其処を離れてからも、清水さんはわ たしの議論や意向によく賛同して下さり、お手紙や著書も戴いていた。年齢はわたしよりもずうっと上で、余儀ないお別れとはいえ残念なこと。
 一緒にロシアを旅した高橋たか子さんも亡くなった。なだいなださんも亡くなった。永年著書を送っていた知己がつぎつぎに亡くなってゆく。どこへ顔を出し てもわたしが一等若かった時期も永かったのに、いまでは先輩・同年輩の知己が心細いほど少なくなった。若い人たちの多くをわたしは識らずに過ごしてきた。

* 京大名誉教授、元京都博物館館長の興膳宏さんに、せっかく『荘子』の内篇と外篇とをほぼ同時に戴いたのだから、両方を併読している。内と外とは、ずいぶん違う。出来た時代が大きくちが う。その語気と論法とが大いにちがう。内篇は深奥を示唆し、外篇は論究する。もとより双方倶に、儒の仁義を痛罵にちかく批判している。
 内篇を読んでみる。
 「衆人は役役(えきえき)たるも、聖人は愚芚(ぐとん)、万歳(ばんさい)に参じて一に純を成す。万物尽く然りとし、而して是を以て相い蘊(つつ)む。  世人はあくせくと動きまわるが、聖人は間抜けてポカンとしながら、永劫の時間に参入してひたすら純粋さを全うする。万物をあるがままに受け入れ、一切をそのふところに包みこむ。
 外篇を読んでみる。
 「天下を在宥することを聞くも、天下を治むることを聞かざるなり。之を在するは、天下の其の性を淫らにせんことを恐るればなり。之を
宥するは、天下の其の徳を遷さんことを恐るればなり。天下、其の性を淫らにせず、其の徳を遷さざれば、天下を治むる者(こと)有らんや。  天 下を在るがままにさせるとは聞くが、天下を統治するとは聞いたことがない。在るがままにさせるのは、天下の万物がその自然の本性を乱されるのを恐れるため だ。自然のままに在らせるのは天下の万物がその持ち前を変えるのを恐れるためだ。もし天下の万物がその本性を乱されず、その持ち前を変えなければ、天下を 統治する必要などどこにあろう。

* こんな説示や議論がこの科学万能の現代未来になにを益しうるかと疑う人は多かろう。「役役」は生き生きしているようで、今日ではむしろカッコよく肯定されているかに思われる。「
愚芚(ぐとん)」はバカ扱いされかねない。はたして、そうか。わたしはかつて、身に立てた「黒いピン」の夢を語ったことがある。ピンを刺しているときは「役役」として活溌、ピンを抜くと「ゆったり」すると。
 機械が人間を便利に使役し、嬉々として人間が機械に奉仕しているいまどき、天下本然の「在りのまま」など夢も夢、論外の
愚芚(ぐとん)」視されてしまう。しかも人間はさように「役役」とうごめく世界を「統治」している気でいるが、日本の政治を、世界の政治をみわたして、実績安定したどんな統治がどこに実在しているか。まったく、わらってしまう。そのわらいは忽ち恐怖に凍り付く。『荘子』は今日と無縁の寝言を吐いている古典ではない。猛烈な警告でもあるのだ。

* 伊勢崎の杉原康雄君からF10号の油絵「薔薇」が届いた。電話で送ってくれるように頼んでおいた。妻は一目見て大喜びしている。おなじ杉原君の季節外 れではあるが、美しくて確かで好きな、淡彩「紫陽花」を掛けていたのと掛け替えた。起伏の激しい気の病にもだえ家人にも背かれて苦しんでいる才能のある画 家。すこしでも応援したいと申し込んだ。抗うつ剤にもつよい副作用があるのだろう。可能な限り繪を描いて、それを薬にしてほしい。


* 九月四日 水

 起床7:00 血 圧120-68(57) 血糖値92 体重67.7kg。 聖路加の感染症内科受診。諸数値・諸データ問題なし。問題は以前として眼科的な不調のみ。幸いに正午前に支払いも終えたので、築地「玉寿司」まで歩いて、 贔屓の「栄蔵にぎり」これがこの店ではとびきりの上ダネで美味い。酒は今日は冷やの「鬼ころし」。真鰺、小鰭、鯖、つぶ貝等々を追加し、玉であがり。満 足。雨模様ともとれる雲行きなので新富町から一路帰る。「後拾遺和歌集」の撰、そして『指輪物語』を楽しんだ。処方の薬を保谷の薬局に頼み、日盛りの中を 珍しく歩いて帰宅。ちょっと疲労。

* 福島原発の汚染水対処のいいかげんさに世界は警戒の報道を連日欠かさず、五輪誘致に入れあげている関係者には暗い影が被さっている。「対処」の適切を 「必死」に強調しているようだが、都も国も、いったい何を「適切な対処」と言いうるのか、誠意も実質も欠いており、私も、いまのところ全く信用していな い。新たな憂慮事項がつぎつぎに現れているのに関係者は「軽視」と「黙殺」を繰り返すのみ、あまつさえ他国との競合事項であることも考慮せず皇室内に支援を 依頼しているのは、皇室の政事利用への「悪しきキッカケ」をなすもので、国是をなみして軽率強引な踏み込みを示している。そういうことまでして五輪を招きたいとは思わない。「海外メディア」の憂慮の方を大事に見定めたい。

* 政府の決めたという福島汚染水対策は、事実上机上の空論に近い。「凍土壁」の実用化など目先もよく見えず、時間が掛かりすぎる上に、本当に役立つかど うか、曖昧模糊のまま。さらに「核燃料取り出し」などという世界にも類のない作業も、ものがものだけに試行錯誤などと安易に取り扱われては、大惨事に繋が る。さ
 @ 
放射性トリチウムはどうするのか。 A 二年後には処理水は70万噸に達するが、どこにどういう安全の保障あって収容し続けるのか。 B 原子炉内部は今以て不明な問題が堆積している。 C 溶融核燃料の「取り出し」など、想像を絶する危険をともない、強行して無事に収まる見通しはまるで無い。机上の空論そのもの。 D 廃炉解体がかりに出来ても大量の高線量ごみの処分先は全くの白紙である。 E 作業に従事する人員は待遇悪化もあって確保が極めて難しくなっている。東電の社員や政府職員が前線に出て働くというのか。 F 「除染」という作業自体の無意味・無効も専門家は夙に指摘していて、それを押して誤魔化しながら保障や賠償を打ち切って住民の帰宅を強行することで、福島第一原発問題「終熄感」をもたせようという誤魔化しの姿勢も著しく誠意に欠ける。
 
* 琵琶湖上に模型飛行機をいろんな条件で飛ばせる競技は、もう回数も経験も重ねて、とても興味もスリルもある意気盛んに面白い催しで、さぞ人気は高かろうと思う。
 今夜の放映で、東工大チームが、大声援の中、2Oキロを越す美しい飛行を見せてくれた。よく頑張った。嬉しかった。

* 手に入れた岡村宇太郎の「椿と猫」から猫を切り出し、ダメだろうと半ば諦めながらこのホームページへ送り込んでみたら、入った。情けないほど失敗して きた一つが、成功した。もう一つは、「e−文藝館・湖(umi)」への原稿転送。これがまた出来るようになると俄然わたしの精神は活況を取り戻すだろう。 一つ、また一つと行きたい。宇太郎の猫、いいでしょう。

* 明後日は、演舞場で、我當の新井勘解由、幸四郎の「悪の華相勤め申し候」不知火検校などの歌舞伎を楽しむ。気がかりは病気降板した三津五郎。大事ないとよいが。綱豊卿など三役を誰が代わるのだろう。綱豊卿、友右衛門にやらせてみたくもあるが。梅玉か。
 来週からが忙しい。火曜に歯医者、水曜夜に歌舞伎座、金曜には新しい湖の本の発送開始となる。第三週は緊張の連続になる。


* 九月三日 火

 起床9:00 血 圧124-71(67) 血糖値96 体重67.3kg

* 汚染水は公害処罰法に違反していると、福島県民から東電社長らを刑事告発の動きがあると。やれることは、やるべし。
 政府は見えを切り国が表に立ってと言う。表も裏もない、国にも政府にも汚染水や汚染物質の最終処理能力どころか試案すら出ていない。何も出来ないだろ う、当面は。ここで追及をゆるめずに、間近には「福島タンク汚染水の漏水防禦の完遂」、次いでは「海汚染のもたらす漁業と食卓への危険。国際問題への波 及」の監視と追跡、そして「核のゴミ最終処理場計画追及」の手を緩めないこと。「漏水からの高線量拡散」は、時間が経つに連れてより国土へ、人体へ、近海 へ、広範囲の汚染と危険になって行く。

* 安倍「違憲」総理の、核禁止の表明と原発維持推進政策とは、明らかに違背・矛盾である。アメリカから受けた原爆被害に学ばず、国是かの原発温存にしがみついているのは、何故か。戦犯岸信介このかたの家門の名誉心にほかなるまい。
 世界は放射能物質の多彩多量な慢性的「海へ放出」政策の無責任を連日大きく取り上げつづけていると。このまま行けば、たとえ東京五輪がこの秋に開催決定しても、その後の大事故等で潰れる懼れは万々濃厚。若い選手達を放射能大気のなかでプレーさせてはならない。

* 放医研の放射線被曝「早見図」によれば、100mSvで「眼水晶体の白濁」「造血系の機能低下」が顕著化し、
1000mSvになると「一時的脱毛」「不妊」等とともに、「ガン死亡のリスクが線量とともに徐々に増えることが明らかになっている」と報告されている。これらへの「対応」が国を挙げてあまりに遅すぎる。
 「眼故障」への、またわたしの早くから案じていた「不妊増」への不幸な引き金になっており、「ガン増加」傾向に年を追って追い打ちをかけつつある。「ア ベノミクス」や「TTP」どころか、国民を不健康という不幸へ追い入れる自民「違憲」政権や「違憲」国会のこれは大責務なのに、放りっぱなしで「経済」に 浮かれている。なんというザマか。

 ☆ 
原発・ナチズム・安倍政権  
   九条の会・下保谷・北町・栄町 市民の会ニュースno.43 2013年8月25日発行
 T ドイツのメルケル政権は、福島原発事故からわずか3か月で、国策として国内の原発すべての廃止を決めました。これを進言したのが『安全なエネルギー供給に関する倫理委員会』(財界人や御用学者ばかりを集めた「有識者会議」ではない)。
 委員会は、リスクを抱えた原発の利用に「倫理的根拠はない」と結論づけ、「将来のエネルギー供給及び核エネルギーに対する倫理的評価に必要な鍵となる概念は、資源や自然環境を保ちながらの『持続性』と『責任』である」としました。深い判断です。
 「倫理」によって原発が止まるドイツと、「お金=経済」によって止まらない日本。
 この差はどこから生まれるのでしょうか。
 U 先の大戦から68年。国民的議論としてドイツ国内で繰り返し行われた戦争責任に対する深刻な総括。今でも、「ナチズムの過去に時効はない」と徹底しています。
 一方日本では、天皇制を円滑な占領政策と反共政策に利用したい米国が、東京裁判で他国の反対を押し切り、開戦の最高指導者であった天皇を不起訴と決めました。また天皇自身も、道徳的な責任をとって退位することはありませんでした。
こうしたあいまいさが日本人全体の中で戦争責任論を回避する動きにつながつたと言えそうです。従軍慰安婦問題などは、その存在すら否定しようとしています。
 ここに現行憲法の平和主義を否定し、戦前回帰を目指す安倍自民党の改憲草案が亡霊のように登場したり、国際的に笑いものになった「ナチズムに学ぶ」という麻生発言が入り込む余地が生まれます。
 V 安倍晋三氏は現行の平和憲法体制を敵視して、「戦後レジーム」からの脱却を□にしています。しかし戦後レジームを言うならば、天皇制の温存と日米安保体制こそ、GHQと当時の政府によって国民に押し付けられた政治的枠組みとして問題視されるべきです。
 沖縄をはじめとする米軍基地の問題も、今後、日本全土の上空を飛びまわろうとするオスプレイも、集団的自衛権が解禁されれば再び他国との戦闘行為が予想される事態も、今日なお国民を縛りつけている戦後レジームがその根本にあります。
 改憲を狙う安倍政権は、この延長線上に医療制度も、農林水産業も、労働市場もことごとく破壊されてしまうTPP体制を新たに付け加えようとしているのです。
   福島原発事故、その後
★政府は、避難区域を再編し住民を早期に帰還させる政策をとっています。伊達市の小国地区では特定避難勧奨地区 だ解消され、その後、賠償は打ち切られました。再除染に応じず、説明会もなしで。原発被災者の生きる権利をどう考えているのでしようか? そして国策とし て推し進めてきた責任はどうなっているのでしようか? (基準を変えて危険箇所に強引に住まわせる。犯罪?)
 ★汚染水を海に流すということはロンドン条約違反で国際問題となる可能性あり。
地球規模の汚染です。|私たちはこの国でお魚が食べられない状況になってしまうのでしようか?

* 黒いマゴへの輸液を曲がりなりに家で始めた。なかなか難しい。

* 「偽善」は、少年時代に漱石を読み始めていらいの課題であり、ことに『三四郎』の広田先生のくちにする「アンコンシアス・ヒポクリシー(無意識の偽 善)」は、その後の六十年をつうじていつも胸奥に問いかけるなにより厳しい課題・リトマス試験紙であった。「罪はわが前に」と意識し問いつづけて来た。
 ミルトンの『失楽園』に、こんな詩句を読んだ。

 ☆ ミルトン『失楽園』 第三巻より 平井正穂訳に拠る
 人間にも天使にも
 偽善を見破ることはできない
 偽善こそ神のみを除く誰の眼にも見えず、神の黙認によって
 天と地を横行闊歩する唯一の悪であるからだ。しばしば起る
 ことだが、「知恵」が目覚めていても、「疑念」が
 「知恵」の入り口で眠りこみ、自分の任務を「素朴」に任せて
 しまうことがあり、そういう時には、「善意」は悪が歴然と
 現われない限り、悪意をもって見ることをしないものなのだ。

* シェイクスピアは読みもし舞台や映画・映像を見てもきたが、『ソネット集』を読むのは初めて。おおよそどのような作かという予備知識は持っている。楽しみに読み始める。

* 明日は十一時予約、十時までに検査を受けるためには八時過ぎの地下鉄に乗らねば。検査結果のでるのに一時間ほどかかり、結果が出ない内は診察してもらえない。正午に万事過ぎていれば大成功。雨でもいい、涼しいのがいい。

* 発送用意など、何が何やら分からないほど混雑。よほどアタマもわるくなっている。


* 九月二日 月

 起床7:00 血 圧117-58(58) 血糖値85 体重66.7kg。 聖路加内分泌科受診、諸数値・データ良好、問題なし。明後日は感染症内科受診。帰路、院の近くの「塩瀬総本家」で和菓子買い求め、タクシーで築地「宮川本 廛」へ。鯛・赤身・中トロの刺身、鰻重、肝吸い、それに清酒「宮川」。ゆっくり本を読んで。有楽町線で一路帰宅。塩瀬の菓子、美味。

* 責了紙に問題あったらしく、しかし送ってきたファイル開けず要領を得ず。ゲラでの「念校」を要請。急がばまわれと。

* 暫くぶりの聖路加通院で、さすがに疲れてきた。昨日、一昨日よりは気温は凌ぎやすかったけれど、けっこう気疲れはあったようだ。上野の院展へできれば廻ってみたかったが、今日は諦めた。明後日なら大丈夫という自信もない。ぼちぼちでよろしい。
 聖路加の外来で、『後拾遺和歌集』の第二撰を終え、三撰に入った。一首一首読み込んで、われなりの可不可を決して行く、そういう読み方が和歌では、こと に王朝和歌では美味になる。後拾遺ではことに前詞がおもしろい。よくもよくもぬけぬけとと苦笑も強いられ毒気も抜かれる。
 万葉集とはちがい地域的にも階層的にも極めて局限された公家社会の遊藝であり文藝であるが、また「平安女文化」の最たる時期でもあって、晴れがましい勅 撰和歌集でありながら人気の藝達者はというと、大御所的な大納言公任をさえ抑え気味に、断然はなやいで、女たちなのである。採られた歌数でも飛び抜けてい る和泉式部を先頭に、道綱母、赤染衛門、伊勢大輔、相模らが綺羅星めいて、尊貴をさしおき、選者達をさえひきはなし、さんざめくほど花の賑わい。そして能 因法師ら坊主達が、この和歌の世間でなんだか幇間めいてちょこまか回遊している。天皇も上皇も後宮も、摂政も太政大臣も、歌詠みに、贈答に精を出して大い に楽しんでいる。おもしろいことに絶頂の文名をほこった源氏物語の紫式部も枕草子の清少納言も、この和歌集では、ひかえめに脇役をつとめている。
 栄花物語、大鏡などに親しんできたから、男女の歌人達のなまえが知友親戚のように心親しいのも、私、大いに楽しめる理由になる。
 もう当分、繰り返し繰り返し読み込んで行く。その上で一つ前の『拾遺和歌集』へも手をのばしてみたい。


* 平成二十五年(2013)九月一日 日

 起床9:20 血 圧132-63(64) 血糖値98  体重67.7kg
 右眼の黄斑変性と白内障の手術いらい十三ヶ月にして、やっと眼鏡の新調が叶った、が、まだ視力は定まらずもっと変化が出て、健常な左眼に及ぶ だろうと眼鏡士は脅した。ま、それでも、この機械用の眼鏡、手元に持って本や資料の読める眼鏡、室内用の眼鏡二つ、外出や観劇「遠用」の眼鏡二つ、眩しい ときのサングラスと
、加えて老眼用の補助レンズ二つ、弁慶の七つ道具より数多い眼鏡をめまぐるしく使い分けながらの生活となる。なんとか平穏・平安でありますように。胃癌の手術を受けたが初めの喜寿七七「始終苦」のもう一年半だが、いい加減にしっかり立ち直りたいもの。

* 九月になった。やす香あらば二十七の誕生日を祝ってやれたが。月々に思い起こすことのあるいわば記念の日を胸奥に埋蔵しているが、九月にとりたてて言 う日付は、やす香誕生日がいえぬとなると、劇団俳優座によるわたしの「心 わが愛」初演の日であろうか。加藤剛「先生」を、立花一男が「K」を、香野百合 子が「お嬢さん・奥さん」を演じてくれた。立花は惜しくも亡くなったと聞いている。

* 「中2病」といわれる剥離現象が目に余る。「IT」というメディアに全面依存した少年・青年のわるふざけだ。成人式で暴れていたあれとの違いは、
「IT」というメディアに全面依存した顕示行動であること。要するに、生身の人と人の付き合いを喪失し、機械の中で幽霊同士のふれあいに溺れている。
 「付き合う」という言葉が、躰と躰の性的ふれあいを互いに容認する符牒になっていた。思えばそれは「恋」喪失のじつに安易な代替現象であったのだが、狭 い世間ではそういう安直な「付き合い」が黙認され認知されていた「時代」が、このところずうっと続いていた。そういう、謂わば安直な「はだかのつきあい」 すら今や溶解して、よかれあしかれ生身の「ふれあい」をすら無残に掻き落とした、
「IT」というメディアに全面依存した幽霊たちの淵に子供も、かなりの大人達も、沈み込んでいる。性の解放はよかれあしかれ戦後日本のおおきな活性源であったが、「IT」というメディアは、よかれあしかれなまみの人間的興奮である性関係をすら得も云われない毒の働きで溶解してゆきつつある。おそろしい時代だ。まさに機械が人間を蚕食し幽霊にしてしまう。

* 福島の、お手上げ汚染水垂れ流しの「レベル3」異常危険状態は、日本では「麻痺」感覚でとかく日々をうろうろ過ごしているが、海外のメディアは日々 に、日増しにこれを憂慮し批判し「日本の無策」に重大懸念を露わにし続けている。識者ははっきりそれを口にし証言し憂慮している。このままではオリンピッ クも危ないと具体的な声もあがっている。それにもかかわらず日本政府も原子力関係の企業も団体も、黙して何一つ語らない。語れないのである。語れないまま に行けば、いったい日本はどうなるのか。列島と日本人とは山野も都市も海も人間も放射能で汚しつづけながら自滅してしまう。
 だが、こうも恐れられている、「打つ手が無いのだ」と。政治と政治家は、関連の商人達は、この手の付けられぬ「恐怖」を、要するに次代に無責任に手渡そう、今は今だけの甘い汁は吸っておこうとしている。世界はそれを赦さないだろう。

* 江古田の眼鏡屋は駅のすぐまえ、今日のように燃えさかる暑さの日にも、駅からすぐ駆け込んで用が足り、助かる。
 江古田に来て、この頃の楽しみは、ブックオフで廉く岩波文庫をさがして買えること。
 今日は、ドブロリューホフの『オブローモフ主義とは何か?』をはじめ、オフェイロンの『アイルランド 歴史と風土』 ブルフィンチの『ギリシア・ローマ 神話』 そしてシェイクスピアの『ソネット集』を選んできた。その気でいた小説本は結局買わなかった。このところのわたしの頭の働きようが表れているのだ ろう。
 とりわけて『オブローモフ主義とは何か?』の批評につよい関心がある。あのレッシングやディドローに比せられながら、古典としてのこる優れた著述をたっ た数年の内に猛烈な勢いで書き、わずか二十五歳で死んでしまった思想家ドブロリューボフの、畑は違うが樋口一葉や石川啄木なみの天才につよく惹かれる。

* 堺雅人が熱演するドラマ「半沢直樹」の凄み、たしかな作劇のおもしろさ、痺れたように魅されている。ちょこっ、ちょこっとしか顔を出さないのに奥さん 役の上戸彩のみごとなオーラにも魅される。中車も俳優の力量を存分に見せている。愛之助の金融庁検査官役はわたしの好まない彼の持ち味が露出過剰で、イ ヤ。
 歴史劇では、かつて感動した「阿部一族」の上越す作品にまだ出逢わない。現代劇では、この「半沢直樹」はとびきり上等の方に属している、ビート・タケシが主演した「点と線」もよかったが。
 佳い作に出逢う高揚感は、年を取るにつれて純度と熱を高める。幸せなことだ。

* いま、新しい機械用の眼鏡を使っている。明るい。しかし縦の「波状視」は両眼で見ていても蔽いがたい。右眼だけだとイヤになるほど顕著。眼精疲労も響いているのでないかと思う。寐て、眼を休ませること、栄養補給の点眼薬をせいぜい頻繁に用いること、を心がけている。
 とはいえ、寝床へ入ればまた「読書のシンフォニイ」を楽しんで夜更かしになる。覿面の天罰をみずから招いている愚というしかないのだが。



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