saku028

  
 宗遠日乗  
    
    闇に言い置く     私語の刻


  平成十六年元旦より一月末日まで、日付逆順に書き込んでいます。



      
宗遠日乗  「二十七」        



* 賀 正    平成十六年(2004) 元旦  木曜日
 
清泉泓泓   ご多祥と、世の平安を祈ります。 

   めをとぢてこの深きやみに沈透(しづ)くなり
          ねがはざれ 我も 我の心も    
      今・此処をつひの栖(すみか)ぞ 松立てて     六八叟
    
   よきひとのよき酒くれて春ながのいのち生きよと寿ぎたまふ
   
        ふつうに一夜をすごし、ふつうに朝を迎えました。
      
               西東京市下保谷 e-OLD  秦 恒平

* あけましておめでとうございます。
 新しい年がお健やかにお幸せな一年でありますことを心よりお祈り申し上げます。
 昨年の「私語の刻」で沢口靖子さんの写真などについて「強力で最良のビタミン愛」というお言葉がございました。こんなうまい表現があるなんてと、ひそか に感歎いたしておりました。年を重ねるごとに恋のチャンスは減りますが、この「強力で最良のビタミン愛」は年々必要になります。沢口靖子さんにはずっと健 康的な笑顔をふりまいていただきたいものですし、今年はさらに新鮮に輝く「強力で最良のビタミン愛」が増えて、先生を「強く引きとめる」力の加わりますこ とを願ってやみません。   東京都

* はやばやと新しい年の賀詞をいただきました。ありがたう存じます。
 本年も変らぬおみちびきを賜りますやうおねがひ申しあげます。
  めをとぢてこの深きやみに沈透(しづ)くなり
          ねがはざれ 我も 我の心も 
 大つごもりを「ふつうに一夜をすごし、ふつうに朝を迎えます」とおっしゃるひとにして、このおうたがあるのでございましょう。
 催馬楽の「榎の葉井に白珠しづくや」、釋迢空の「沈透きみゆ」、そして今、「深きやみに沈透くなり」。
 わたくしはふつうにいまも仕事をしつつ、見えない新しい年へ一歩を踏み入れました。
 遠くで花火が鳴っています。     茨城県 
  
* あけまして おめでとうございます。
 ご健康をお祈りいたします
 <湖の本>のお陰で 楽しみの範囲が広がりました。
 いつもいつも感謝しています。      愛知県

* お元気でご活躍のことと、思っております。
 私も56歳になり、健康を維持するために毎日歩くようにしています。毎日1〜2時間ぐらい歩いています。
 どうぞお体に気をつけて、これからもご活躍ください。
 みなさまのご多幸をお祈りしています。    滋賀県(甥。母方長姉の嗣子。まだ逢ったことがない。)

* あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 子供は順調に育っています。というより、育ち過ぎて、二カ月目にして六カ月児の標準体重になってしまいました。
 とはいえ、日々驚くほどに新しいことをおぼえていて、変化する様子を見ることができるのは、非常に有り難いです。
 いろいろとやってみたいことはなくなりませんが、今年一年は子供をよく見て行こうと思っています。
 お邪魔でなければ、一度先生にも、子供を見ていただければと思います。(かわいいうちに(^^;)  東工大卒業生

* あけましておめでとうございます。
 秦先生、お早々とお年賀ありがとうございます。昨年、先生にはお忙しい中、たびたびうちのイベントにお出掛けいただき、励ましのお言葉頂戴いたしまし た。今年もなにかとお声おかけいたしますので、よろしくお願いいたします。
 お茶に引き続き、昨年秋からお花のお稽古を始めました。
 これからの目標は、「静かな囃子」です。にぎやか、お祭り好きな私ですが、「音無しい音」をつくります。こんな風に思うことができるようになったのも、 少しおとなになったからかなって思う ?回目の、年女です。
  ありがたやまさるめでたきあらたまに 楽しき音と願う人の和  浅草 望月太左衛

* 楽しみだ。

* 小一時間に、たちまちに二十人ちかくメールの賀詞が届いた。ペンの小中理事からも。早々に出稿してもらえるらしい。もう仕事が始まっている。
 さ、朝には息子達が来る。もうやすもう。静かな、温かな元日だ。朝あかねの美しいいい春に成るらしい。

  
* 元日 つづき

* 八時半に年賀状を読み、十時過ぎ、帰ってきた息子たちと、四人で雑煮を祝った。
 頂戴していた三浦景生さんの函を開いた。申歳のお茶碗を戴いていた。猿の絵が渋く美しく、小振りのツクリながら、堅実に手びねりされていて、土はしっと りと石味をふくんだように、重め。総じて銀灰色に沈透(しづ)かせた肌合いで、息子達には、渋すぎると思われたかも知れない。三浦さんはいわゆるお茶碗や さんではない。独特の絵ごころの染色に境涯を深めた藝術家。
 当年申歳の息子の新年を祝って戴いたと思い、昨年奮励の秦建日子に贈った。

* 天神社に四人で初詣した。ことしは社前の行列が長い。地元旧来の古い村社で仰々しくなく、古朴簡素な境内がこころよい。大きい銀杏の木の根方で焚き火 されていて、テントの下で鏑矢、神矢や小絵馬を、物静かに売っている。少し日の当たった境内空き地の遠くに、たわわに、柑子であろうか黄色い実の枝が地に つくほど垂れていた。
 鳥居前から、ぐるりと一回りして家に帰る。息子達は、夕飯まではいるのだろうか。明日からは芝居の稽古をもう始めるという。六日の初日と十日の券を用意 してくれているそうだ。

* 新年、明けましておめでとうございます。
 早速、メールを頂きました。お元気にお過ごしのご様子なによりです。
 当地は元旦、快晴。例年のように三上山に早朝登山し初日の出を拝みました。5年ぶり、やっと雲間から現れました。
 登山者は老若男女、こもごもですが、若い人は赤々としたご来光を、携帯の写真機で撮影するのがしきり。今風に迎えておりました。
 当方、少し仕事をし、それより多めに遊んで過ごしております。
 さて、お聞き及びかもしれませんが、渡辺千万子さん(=谷崎松子さん子息夫人。潤一郎「瘋癲老人日記」颯子モデル)が小田原へ転居。終いの住みかとのこ とです。
 新年がいい年になりますように祈ります。   滋賀県

* 元京都新聞社の記者さん。湖の本をずうっと最初から支援して下さっている。

* 月様 新年を寿ぐメールをありがとうございました。
 年末の四日間は相変わらずの忙しさで、食事するときだけが腰を下ろせたという、16時間連続勤務は、過去最長かも。でも勤めはじめた最初の頃のように、 がむしゃらに働き、疲労で元旦に寝込むということはなくなりました。
 今年は、初日の出を見に出掛けました。吉野川河口近くの堤防からなので水平線からではないのですが、おおどかな太陽の姿には心新たになりますね。
 新しい年もたっぷりと豊かに湖に抱かれて過ごしたいと思っています。ご本楽しみに致しております。
 どうぞ、どうぞ、くれぐれもご自愛なされてくださいませ。 花籠   阿波国
 
* 霽  謹んで新年のお祝詞を申しあげます。
 まもなく東のそらが黄ばらのやうに光り、琥珀いろにかゞやき、黄金に燃えだしました。丘も野原もあたらしい雪でいつぱいです。
 朝刊の連載は、「風の又三郎」「注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュ」と続き、年のおさめは「水仙月の四日」でした。雀は昨晩、“赤いけつとのこど も”になつた気もちでそれを読んで、寝ました。
 年賀のメールうれしかつたです。いつも、深く、あついお気持ちを向けてくださつて、本当にありがたく、心より御礼申しあげます。 囀雀

* あけましておめでとうございます。メールの御賀状ありがとうございました。
 先生のご健康と『湖の本』の発展をお祈り申し上げます。
 9日から3、4日間、北京へ行ってきます。新型肺炎にかかりに行くようなものだと周囲からは憎まれ口をたたかれていますが、何とかなるさと本人は楽観し ています。
 何とぞ本年も、お導きのほどよろしくお願い申し上げます。  九州大学教授

* メールボックスに溢れそうに賀詞が届いている。わたしはといえば、和泉委員から早々に届いた田岡嶺雲の雄叫びのような「嶺雲揺曳」の校正点検に没頭。 旧かな正字の文語文の難訓・難字に、仮名遣い正確にヨミガナをつけるのは手間がかかり、みな和泉さんにあとから訂正して貰っている。
 四国松山の会員からも校正が戻ってきていて、これがまたシンドイ感じ。

* 建日子たちは九時過ぎまでゆっくりして行った。いっしょに「ハドソン河のモスコー」を見たり。建日子はわたしの機械部屋に来て機械を触っても行った。 「日比谷東天紅」からの正月料理をほとんど全部、四人で平らげた。元日ぐらいは好きなだけ飲んで食べて宜しいと聖路加日野原先生の太鼓判を信頼し、あとは 自分で調整してゆく。建日子達の御陰で、寂しくない元日が過ごせて嬉しかった。

* 明けましておめでとうございます。
 早々にお年賀のご挨拶を頂きまして、ありがとうございました。
 丁度メールを頂いている時間に私は近くの神社へ友達と初詣でに行く途中でした。除夜の鐘の音を聞きながら、久しぶりに冴えた星空をあおぎました。北斗七 星が随分おおらかに見えました。
 新春早々の新聞にも心の痛む記事が多いですね.秦さんのお歌は簡潔にそこを突いていらっしゃいますね。私は長い事短歌は人様の歌を好きで読む事はあって も自分で詠む事はしませんでしたが、関心がないわけではありません.今年は秦さんの「青春短歌大学」を参考にしながら、試みてみたいと思っています。
 明日は二人の孫娘たちが来ます.我が家もいっとき賑やかになります。
 今年もいっそうのご健筆をお祈り申し上げます。   川崎市

* 早々のお年賀恐縮です。 本年もよろしくお願いします。
 暮のうちから気になっていたことを、この機会に書きます。
  竹馬やいろはにほへとちりぢりに   久保田万太郎   の読みについて。
 ご説おもしろく拝見しましたが、わたくしはいままで少しちがった読みをしてきました。
 竹馬で遊んだ仲間、「いろはにほへと」を学んだ手習いの仲間、これがみなばらばらになって、消息がつかめない。この句碑は今、浅草寺のとなりの浅草神社 の境内にありますが、これを読んだときの思いはそんなものでした。
 東京の下町の子どもは、子どものうちは貧富の差、境遇のちがいを気にせず遊ぶのですが、年をとるにつれ、上の学校へ進む子、働きに出る子と、次第に疎遠 になってゆく。いまだったら行く学校の偏差値の差などというのもあるでしょうね。
 東京は震災と戦災で形を変え、さらに最近ではバブル期の地上げで町の解体が進み、小学校の同級生などもうどこにもいなくなった。万太郎の句はそういう都 会人の悲哀をいつも湛えています。
   神田川祭の中を流れけり
のような一見華やかな句でも、そうした悲哀があって、わたくしは好きです。

* メールを有り難うございました。今年もよろしく。
 万太郎句のことですが、私の本文をお読み下されば、仰っている全く同じ所を一番大切に読み取っていて、その長い前段は、其処への「入り口」であること、 お分かり願えると思いますが。
 十三頁の、「およそこんな読みかたで十分ではあろう、が、もう一段踏み込むなら」以下に、此の句の「奧」をみているつもりです。
「もう一段踏みこむなら、やはり「竹馬の友」に懸けての、「ちりぢりに」に、子どもの昔をひとり追憶する老いごころとでもいうところを汲みたくなる。する と「色は匂へど」という、中の句がそこはかとない人生の哀歓や無常の思いへひしと繋がれて来る。竹馬遊びに、おきゃんな少女もまじっていたかと想像するの もよい。往時ははるかに夢の如く、老境の夕茜ははや心のすみずみから蒼く色褪めはじめている。かつての友は故郷にほとんど跡を絶えて訪う由もない。想像は 想像を呼んで、この一句、さながらの人生かのようにずっしり胸の底に立つ。」と。
 たいていはそれ以前の「表」でたちどまって終わるのですが。仰る、ほぼそのママを、わたしもそもそもの初めから、読み取ろうとしてきました。玄関から座 敷の奧まで、いろいろに読める句のサンプルとして挙げているつもりです。
 ただ、こういうことは有ります、わたしは久保田万太郎の実像や実体験に引かれ過ぎずに、日本列島のあらゆる土地土地でも共感の可能な、(万太郎により代 弁して貰っている)誰しもの思い句として読まれて佳いのだと考えています。東京の下町に限定して読む必要はなく、わがこととして、どの地方の出身者にも愛 されていい句境のあるのが、此の句の、秀句名句たる所以であると。  秦 恒平

* 十一時が過ぎた。すこし落ち着いて、よく休んでおきたい。あすからは、もう普段通りに仕事をして行く。年賀状を二、三百枚は戴いている。湖の本にお断 りしたように、「古典愛読」上をお届けした方には失礼させて戴くとしても、かなり気になる沢山があるが、仕事の方を優先させてもらおうと思う。

* 源氏物語は宇治の「橋姫」を渡り始めた。馬籠の青山家は、本陣、庄屋、問屋の三役から、維新後の戸長にさまがわりし、広すぎる家屋敷のかなりの部分も とりこわすなど、時代の変化が歴然としてのしかかっている。幕末ではない、東京遷都ももう過ぎている。どきどきしてくる、胸が。

* Life 2003.12.31   小闇@TOKYO
 若い母親が、二人の娘を連れて電車に乗ってきた。ひとりは車椅子、ひとりはベビーカー。急停車したらどちらもが車両の端まで行きそうに見える。一駅だけ 乗って降りていった。乗るときも降りるときも、駅員が車両とホームの間に架けるスロープを用意していた。「業務連絡。お客様が乗車中です」とアナウンスが 入る。こういう体制が整うまで、どれだけの時間が必要だったろう。
 一年振りに会ったそのひとは、その頃よりずいぶん元気そうで、もともとの饒舌さを余すところ無く発揮した。私が来ると機嫌が良くなる、と聞いていた。
 狭い集合住宅の四畳半に置かれたベッドは初めて見た。そのひとは横たわったまま、ベッドを操り、半身を起こしたり、足の部分を少し持ち上げたりして見せ た。寝返りを補助するというエアマットのコントローラーを指し、これがあるから床ずれしないですむんだと説明する。
 ベッドのレンタル料金負担額は、月額3000円。介護保険のおかげで自己負担は一割に留まっている。介護保険の存在は知っていたが、ここまで身近なもの とは自覚していなかった。そのひとは「要介護4」。すべてを託した手術を春に控えている。
「どうだ、ベッドの寝心地試してみるか」。遠慮しておいた。
 帰りの電車でまた、「業務連絡。お客様が乗車中です」の声を聞く。
 私は二本の足で立ち、そしてときどき転ぶ。寝返りは自分でうつ。だから布団を蹴飛ばして風邪をひくこともある。
 半月の照らす駅ホームは防寒態勢の整った女の子ばかり。改札の外、暮らす街は閑散として、人も車もいない。
 それぞれのlife。私は私で生きていく。

* 建日子の元旦のサイトをひらくと、或る視聴者の佳いメールを紹介していた。佳いものだった。わたしも嬉しくなった。


* 一月二日 金

* ゆっくり朝寝した。あれで夢をみなくてすめば、安眠、なのだが。正午前の血糖値105。椅子席で、雑煮を妻と祝う。まだ相当ねむたい。

* 「たけくらべ」がかくれている。  読み過ごしたわけではないけれど、表に気をとられ、奥まで回りませんでした。たしかに。
 しかし、「往時ははるかに」「老境の夕茜ははや」というのは、これも引き付け過ぎかなとも思いました。
 瞠目すべきは「いろはにほへと」を「色は匂へど」と読まれているところ。
 云われてみれば、これは「散り」の縁語。「色は匂へど散りぬるを」が隠れています。子どもには、たしかに女の子もいたのですね。
 美登利も、信如も、正太も、見えます。
 こうして、いろいろいちゃもんをつけながら、ご文を読ませていただいておりますが、これもひとつの読み方と、お許しください。
 いま、ちょうど鉢木、井伊直弼、細雪のところにかかっています。 またお便りします。  佐倉市  

* 又一つ 年を重ねたことに あへて気付かぬふりをし、
   終の栖を探しているこの頃 老いに向かう覚悟もして       大学教員

* 賀正 メンデルスゾーン聴きながら メール拝読。
 白猫とふたりきりの 訪れるものもない小家に ありがたい便り 感謝します。
 さて 連れを逝した我が家に 迎える春は ありやなしや。 
   濁り血に 眼かすみ 耳ふさがり 世の中 修羅の巷。
 お元気で ご活躍ください。     ペン会員

* 賀 正    平成十六年 元旦
  晴耕雨読−−−現在1ヵ月の仕事休みをもらいリラックスすることに努めています。近くに、鎮守の森かがあって大樹に呼びかけたり、その樹から伝わってくる 何かしらの気を感じています。その合間の−−−です。
 アフガニスタン、イラク、北朝鮮などのことを考えると、21世紀になっても世界・人間はお互いに将来の地球の平和というものを考えないものですね。みす みす森林伐採を続ける環境破壊のようなものです。
 何れ何億年後に地球が滅亡するにしても、寂しい限りです。
 短いリフレッシュ休暇ですが、まちかど博物館(仮称)蔵書館オープンまで2,3年、ふたりの子供が大学を卒業するまで仕事をがんばりたいと考えていま す。 名張市

* 新年、明けましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願いいたします。
 今年は、千葉で新年を迎えました。(仕事の都合で)息子は高知の祖父母のもとにいます。
 穏やかな年明けに、何かほっとした気分です。
 今年は、少しでも自分の目標に近づけるよう一歩前進の年にしたいと思っています。
ただ、気負うことなく自分で納得できるものを形にしていきたいです。
 暖冬とはいえ、これからが冬本番です。くれぐれも、ご自愛ください。   千葉県

* 新年おめでとうございます。
 「去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの  虚子」
 時の流れの一瞬を走る年始のご挨拶を有り難うございました。ご多忙の中を恐縮しております。
 年末から今日迄好天気に恵まれたお正月を、秦様の闇に言い置く風景を、飛び交う会話を、爽やかな文学史観を、源氏物語の朗読を、親しみある各界の方々の 素描とその著書を、時事評論をその他その他をリアルタイムで覗けることの文明の恩恵に今年も浴する我が日本の豊かさ。もったいないと思います。
 読書始めは漱石全集第一巻(昭和40年12月発行)にしました。我が輩は猫である。
 よい年でありますように感謝しながら。   川崎市


*  一月二日 つづき

* 元旦に総理は靖国神社に行ったという。理屈をさきにしっかりつけてよく覚えて、トクトクと出向いたのだ、戦死した、戦争で死んだ人達にいい顔向けの出 来る理由など有るわけもないから、「初詣ですよ、なにがわるい」くらいの気分だろう、とてつもない、愚なはなし。

* 会員のすこし長いエッセイ二編が届いた。いま少し文藝として推敲が利いていたら、とても材料としてはいいのだから、と、ただ回想的な随筆にしてしまう のが惜しまれた。
 その人の曰く因縁にまつわられた故地には、平家の落人町かという伝説があるという。地名にもまた土地の名家の氏姓にもその雰囲気はすぐ感じられたが、筆 者はその辺についてあまり知識がないのかも知れぬと想われた。

* 秦テルヲのどんな絵が好きだろうと、引き抜いて選んでみた。まず、二十数点。

* 新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。
 私の方も早いもので突然のサラリーマン生活終焉から四年目に入っております。急なリストラであったので、お金も時間も何の準備もなかったので、これから どうなるのかと正直不安の連続でした。(実際は現在進行形ですが。)
 しかしやれることしかできないと自然体にかまえて、先の事はあまり考えないでその日暮の心境にてエネルギーのみで走ってきました。
 パフォーマーとしてのアート影絵芝居(画商)の仕事は週の後半を中心に、企業内デパートショップを始めとして現在の中心は、イベントホールでの大骨董祭 (京都、神戸、大阪、名古屋、今年三月には東京六本木予定)にて、月一回(3日間)位の割合で出店しております。
 その他年3〜4回位、嵐山の画廊(借りて)にてアート影絵芝居主催の企画展(殆ど見せ展)開催。
 さらにまだまだ殆ど売上には貢献しておりませんが、仕事を通じて社会還元するをコンセプトの、チャリティーネット(京都美術品おまかせ倶楽部と言うネッ ト店名)にて販売しております。売上の5%をお客様の希望する寄付先(例えばユニセフとかかなりたくさんの寄付先が明記されている)に、自動的に当店の売 上の中から寄付するというしくみのネット販売です。
 何れにしても妻をビジネスパートナーに否、代表者にしてワゴン車にて走り回っております。骨董業者の市や骨董祭中心に活動しているせいで、骨董仲間の方 が画商仲間よりも増えてきている昨今です。景気もよろしくない状況ではありますが、前、あるのみです。
 平和な世界を造り出し貫いていく日本国になろうとしない限り、残念ながら経済も文化も、発展の要素薄の現状日本のようです。しかしそんなこといっている より、一人でも二人でも喜びを共有できる愛好者との出逢いを求め、結果として暮らしが成立つように動いているのが、精一杯の、アート影絵芝居です。
 話は変わりますが2月1日迄、東京の渋谷区立松涛美術館にて「谷中安規展」が開催されています。微力ながら強力しておりますのと、安規大好きにつき昨年 末に見に行ってきました。裏切られる事の無い素晴らしい展覧会だったとおもいます。秦さんお忙しいとは思いますが、是非見ていただけたらとの思いです。
 それから週の前半を中心に、京都真空マテリアルという屋号にて真空にまつわる装置や部品そして蒸着材料など消耗製品の営業活動をしております。こちらも ようやく今年はもう少し発展しそうになってきましたので、これが軌道に乗れば安定してくるので、もうひとふん張りかふたふん張りというところかと思ってお ります。代理店制度がかなりの部分で崩れてきているので、大手からの仕入れも可能な会社が増えてきているのは、個人営業としては有難い事です。
 まあいずれにしてもくだらない話ですが、何をするにもお金が価値あるものとして存在せざるをえないのは滑稽では有りますが、仕方の無い事実です。ともか く今年は美と夢を求めて、より一層精進し前進するつもりでおります。
正月そうそう失礼ながら長々と近況報告してしまいました。
 秦さんの益々のご発展ご活躍お祈りいたします。   京都宇治

* がんばって下さい。


* 一月三日 土

* 暫くぶりにメールをくれた卒業生、ずうっと大学にいて、無菌培養されていたか、三十そこそこの男一匹としては、心持ち人が良すぎるかも知れない。一つ 一つの言葉が観念としては練れていないし、具体的な生活感にも乏しい。それで通せるならいいのだが、それでは通りにくい世の中であるが。

* 明けましておめでとうございます。東工大の文学概論でお世話になった***です。
 先生、お久しぶりです。
 研究の道からコンピュータ会社に就職へと進路を変更し、昨年は、人より遅い社会人1年目の生活でした。そんな私にとっては全てが新しく、全てが勉強の毎 日であり、1年はあっという間に過ぎ去ってしまいました。たくさんの同期や先輩と出会い、みんな素敵な人ばかりで、刺激もたくさん受けた1年でもありまし た。
 今年は2年目。もう「新人」というラベルはなくなってしまいます。甘えは許されず、責任も増えますが、これからが自分との本当の勝負だと思っています。 周りの人からのアドバイスを真摯に受け止め、自分らしく精一杯頑張るだけですね。
 忙しさに甘えて、昨年は先生のHPを拝見することは出来ませんでした。友人は、今も先生の息子さんの演劇を時折、観に行っているようです。
 今年の冬はまださほど寒さは厳しくないようですが、周りには風邪を引いて体調を崩している人が多く見られます。
 先生もお体は大事にしてください。
 最後に、私が大好きなアーティストの最近の歌の歌詞から。
 「出会いの数だけ 別れは増える
  それでも希望に 胸は震える
  引き返しちゃ行けないよね
  進もう 君のいない道の上へ。。」 (Mr. Children 「くるみ」より)
今の私の心境でもあります。それでは、今年もよろしくお願いします。

* ***君 お久しぶり。メール賀状が届くだろうかと案じていました。みんな、もういいとしの大人になりましたね。はやりの歌詞をあげての心境、ちょっ と、おさなくないかしらん。あれは高校生ふうの観念・抽象のことばで書かれている。わたしが中学の頃に、
  はれやかなきみの笑顔優しくわれを呼べば
  青春の花にあこがれ 丘を越えてゆく
  空は青く緑もゆる大地
  わかき命あふるるパラダイス 二人を招くよ
という歌が、毎週のようにベストテンのトップだったことがあります。わたしも憧れた。それにしてもこれは観念と抽象のことばでしか書かれていない。具体的 な生活意識がない。
 わたしの「e-文庫・湖(umi)」のなかに、佐和雪子という人が、「黒体放射」というエッセイ集を載せています。一日も欠かさず一年書き続けて、今も 毎日書いている。プロなみの根性ですが、これはきみと同じ年の院卒のものすごく忙しい日々を勤務している女性です。わたしの日録「闇に言い置く 私語の 刻」では、この人は「小闇@TOKYO」と名乗っています、よくその文章が載ります。自律して自立し、厳しい。
 社会へ出たら自立し自律して敢然と立っていないと、心も体も病んで衰えてゆく。十分気を付けて。
 広い視野で、人文系の豊かな栄養も摂取していかないと、薄く狭く偏ってしまう。気が付いたときには袋小路に頭がつかえます。意識的に、自覚的に、積極的 に、生活的に、そしてものを見て考えて行動するのに、具体的に。
 いつか**君とも一緒に、会いましょう。 元気で。 秦

* 自分の心境は自分の言葉で言えて欲しい。

* 八十すぎた老母の手作りのお節料理を一品ずつ写真にして全部送ってきた人がある。開いてみるのもたいへんだ。一つ一つは妻の造っているのと少しも違わ ない。母上の健在である証明としては分かるが、六十近いかも知れない学校の先生のメールとしては少し幼い気がする。

*  60年安保改定反対の市民学生の危惧が現実になってしまいました。なぜ、6月まで待てないのでしょうか。
 若い時は何故十五年戦争を起こしてしまったのか、全体主義になってしまうのかと、思っていましたが、こうも簡単に突き進んでしまうのですね・・・
 あのような政治家を選んだ国民に責任があると思うと悔しさと諦めと・・・複雑です・・西欧流民主主義もこんなものかと・・
 さて、元旦は両親の所に弟一家と私共一家が集合しました。今年、父は90歳、母は81歳になります。当日の母の手料理の一部を添付いたします。
 YAHOOのフォトに私の写真を掲載してみました。クリックしていただけたらとIDとパスワードをお知らせします。
 昨4月から初めて日本史を担当する事になり、近年の考古学の発掘を確かめたくて行ってきました。考古学上の時代ばかりでなく、日本史はまだまだ、検証す る余地が沢山あることを実感します。
 ご家族の皆様のご多幸とご健康をお祈りいたします。

* なにか自分の言葉がひたっと身に付いていない。もう何十年も「先生」をしながらこれでイイのかなあと心細い。ぐっと胸を押してくるような真率な言葉が 欲しい。悩ましいものが何も感じられないのが物足りない。

* ペンの古参理事の一人から、「ペンの力を信ずるのは、どうも楽観的にすぎる気がしてきました」とある。日本列島に只今只一人の真の「文豪」もいやしな いのに、ペンの力の信頼できる道理がないでしょうと返事を書いた。このような状態のもとでペンの力を過信するほど危険なことはないのである。
 文豪と呼んで差し支えない人が確かにわたしの若い頃までは存在した。しかし川端康成以降に誰がその名にふさわしく活動していただろう。もういない。大江 健三郎。とてもわたしの目には文豪ではない、僥倖に恵まれた思弁の作家であるに過ぎない。文藝家協会を率いてきた吉村昭、高井有一、黒井千次。みな小粒な 作家で、何が代表作として国民の心に食い入っているかと問えば、ゼロである。日本ペンクラブを率いてきた人達を見ても、文豪など、川端康成以後にはだれ一 人いない。人気の売れるのということを別にすれば、わたしと、チョボチョボである。器量はみな小さい。ほかにも有力そうな名前はいくらか思い出せるが、な にほどでもありはしない。「ペン電子文藝館」のような歴史的な視野の中で仕事をしていると、否応なくそれが分かる。
 小泉八雲が東京帝大で漱石より以前に講義をした最初は、真に「文豪出でよ」であった。世界の世論は文豪こそが創るのだと云い、プーシキンやトルストイや ドストエフスキーやチェーホフが出ない前のロシアが、西欧社会ではただの野蛮国としか見られなかったのに、彼等の出現は一夜にしてロシアへの真の敬愛を産 み出した、いかなる外交や学問よりもその力は偉大であったと。
 日本の現代文学が大江健三郎でのみ海外に知られているような現不幸は大きい。泉鏡花、谷崎潤一郎、川端康成らで語られる日本文学であるのが本筋だ、もし 源氏物語への世界的な尊敬が真実ならば。文豪というか、真のフェイマスとは彼等のことだ。その意味で志賀直哉は日本語文章の神様であるとは躊躇無く認める が、文豪ではない。むしろ島崎藤村が文豪だ。夏目漱石が世界でさほど認められない不思議については考えてみる必要が有ろう。
 ともあれ、今、文豪はお留守である。

* 「ずいひつ」新年号に書いておいた「リッチとフェイマス」とを再録しておこう。

* リッチとフェイマス          秦 恒平  (ずいひつ)一月号
 図書館と著作者とが、へんに角突き合って二年ほどになる。私も所属している日本ペンクラブが、平成十四年、去年、であったが図書館にもの申す声明文を公 にした。図書館は無料貸本屋である、また人気の同じ本を多数冊買い込み貸し出すので著作者の権利が多大に侵害されている事実がある、といったモノで、それ は逸まった推測ではないかとわたしは声明を出すことに賛成しなかった。引き続いて、やはりわれわれの主催で「激突!著作者VS図書館」というシンポジウム まで開いた。討論を聴いていると、どうも図書館側の発言に共感できて、著作者側の一人として閉口した。
 一年経って、またシンポジウムをやるという。推理作家やマンガ作家たちが前に出て、うしろから不景気な大出版社が尻押しして、やはり図書館が本の貸し出 しに躍起なために著作者は損害甚大、「損だ損だ」と云い募りかねない。私は、もはや両者激突の時機ではないと主張し、シンポジウムの題に「著作者・読者・ 図書館」と、少し強硬に「読者」の二字を挟んでもらい、読者棚上げの子供っぽい議論に視野をひろげさせた。
 だいじなキーワードの一つなのに、多くの作家からも出版からも洩れているのは、「読者」への愛や誠意である。読者層の市場調査ということはウルサク云う けれど、それは市場の「買い手」としての「頭数」調査であり、「読み手」の頭の中を探索し感謝したり配慮したりは、二の次にも三の次にも無く、無くて当 然、のようなことになっていたのが日本の「本」をダメにしてきた。わたしは、そう思っている。大量に買わせる目的一つで、読めるレベルを探るものだから、 どうしても、マンガか不出来な推理や浅い読み物になる。紙屑出版といわれるワケである。
 キャンディス・バーゲンとジャクリーヌ・ビセットとが仲良く喧嘩した、邦題「ベストフレンド」の原題は、「リッチとフェイマス」であった。
 キャンディスは売れに売れる読み物作者として大金持ちになり、ジャクリーヌは寡作でも優秀な藝術文学によって名を高くし、敬愛されている。そういう題 だ。
 この場合の「リッチ」は、精神ぬきのお金持ち、お金だけは有り余るという意味で使われ、この場合の「フェイマス」は日本語でいう有名・知名人の意味でな くて、作品そのものの価値高さや内容の豊かさゆえによく識られている、という意味に使われている。あまりお金儲けはできていそうにない。
 日本の出版が、リッチな作家を多くもつことで経営的に安定出来るという大事さ、これは否定しないし、否定出来ることではない。しかしながら日本の出版や 編集者のあやまりは、リッチをフェイマスと錯覚して、真のフェイマスを置き去りに見捨てて行く経済利得感情の優先傾向にある。
 昔はそうでなかった。それがそうなりはじめ、近時ますますそうなってきたのは、フェイマスな作者も少なく乏しくなり過ぎているのだろうが、それだけでは ない。と云うより、フェイマスを敬遠というよりむしろ排除し、リッチにばかり走りすぎた結果として、売れる読み物作家の団体が圧力団体かのように世にも訝 しいことを平気で主張したり要求したりするようになってきた。背後の黒幕に、有力な、しかし経営不安の出てきた大出版の有ること、誰でも知っている。フェ イマスだった文筆家団体も、そういうリッチ感覚に今や占領されて行く気味がつよい。
 井上ひさし氏が会長になり、報道人たちと懇談した場所で、「直木賞作家に成りたい人は日本ペンクラブに入会されるといい、日本ペンの役員や理事には直木 賞作家が五人もいます」とジョウダンを云っていたが、そういう意識である。そういえば井上氏は歴代会長の中で、初の直木賞作家である。賞創設以来の会長で は、第一回芥川賞の石川達三、以来、井上靖、遠藤周作が芥川賞作家であり、先の受賞者も含め、川端康成や中村光夫らは芥川賞の選者であった。フェイマスが ともあれ柱になっていたように見受けられるが、リッチ傾向に転じていることは、理事会の話題の大半が「金稼ぎ」に傾きやすいこの五年六年を体験しただけ で、言い切れる。
 金は大切なものでわたしも軽視はしていないが、文学・文藝となると、やはりフェイマスが心から懐かしい。固定した熱愛読者が「五百人」いるといって他の 作家から羨望され、ときに憎悪もされたという泉鏡花の伝説は極端であるにしても、フェイマスとはそれであった。リッチな文豪になどお目にかかったことがな い。

* いま「ペンの力」を過信していいわけがない。ジャーナリスティックな勘やセンスでは、素早くも冴えた人はいるが、要するに商売勘としてしか働いていな い。

* 或る気がかりにしている好きな能役者の年賀状をもらった。ホームページがあるので覗いてみたら、ご子息(か)がサイトを運営しているらしく、質問など を受け容れるとあったので、能とはどういう「藝」ですかと尋ねた。東工大で学生に突きつけていたより、ご当人が能役者であればなおさら是は大きすぎる難問 である。
 やがて丁寧な返信があった。とても嬉しかった。返答じたいには満足ではないが、応えて貰って嬉しかった。急いで答えてくれなくてもいい、舞台の藝で答え て下さいと感謝した。一つ楽しみが、さきざきに出来た。

*  もう一つ、忘れかけていたがふと思い出したことがあり、すぐメールでお願いした。その人の近い親類に、芥川賞作家がおられると、ちらと聴いたような気がし ていた。それで確かめたら、義理のオジサンに当たる人が、ペン物故会員である長谷健さんであった。失礼ながら、もう記憶している人はかなり少ないであろ う、出来れば受賞作をご出稿願えるよう斡旋して欲しいと、懇請。

* ジリジリと秦テルヲ論が、本道に乗りかけてきた。息を詰めて根気よく向き合うしかない。幸い彼の周囲には実に豊かに藝術家が、知識人が実在した。それ ら彼等の栄養をテルヲが吸収して変容を重ねていったというのは、しかし、或る面でサカサマだというのが私の思いである。ことに、国画創作協会の創立メン バーたちは揃いも揃っておそろしく優れた画家たちであったし、彼等の多くがいつも秦テルヲを支援していた事実も動かない、けれども、テルヲが彼等を意識し て学んだという面を忘れがたくはあるものの、その実、晩花も、また紫峰も、波光も、また村上華岳も、みな秦テルヲの存在と製作に意識して、あたかもかれテ ルヲを彼等「嚢中の針」かのように感じていただろう、それが精神的・経済的支援や後援の推力になったのだろうとすら、わたしは観るのである。なぜか、を考 えてゆく。
 たしか、華岳立ちを書いた私の長編「墨牡丹」のどこかにちらりと秦テルヲが顔を出したはずだと思う。どういうふうにか忘れているのを、ちと探してみよ う。

* 物故会員である芥川賞作家の著作権者から快諾して戴けた。よかった。有り難い。嬉しい。


* 一月三日 つづき

* 新年おめでとうございます。   小闇@バルセロナ
 大晦日の夜は、鐘の音と共に葡萄を十二粒いただきました。いつから始まったか定かではありませんが、葡萄があまりにも豊作だったある年、お百姓さんの商 売知恵から生まれたとか。「年変わりの鐘の音と共に葡萄を十二粒食べれば、その年は健康で幸せに過ごせる。」これが大当たりに当たり、以来、スペインの欠 かせぬ習慣になったそうです。
 鐘の音だけ聞いている分にはゆっくりでも、一鐘ごとに一粒となると、これが結構速いのです。吹き出す笑いを塞ぐように葡萄を口に押し込んで、最後にまと めて噛み下す按配。最近では、皮なし種抜きの粒も売られています。
 元旦は、澄み切った朝でした。
 いつもと違ったのは、プールに泳ぎに行かなかったこと。年363日開いている市民プールも、この日はさすがに閉まります。
 午前中は家で、毎年恒例のウィーン、ニューイヤーズコンサートを楽しみました。指揮者リカルド・ムティの、世界平和を願うメッセージ、月並みと感じた人 もいるでしょうが、あの場であれだけの言葉を述べる勇気はなかなかのものです。"same"という語を繰り返し使っていたのが、印象的でした。
 恒平さん、みちこさん(漢字に変換できずすみません)のご健康を心よりお祈りしております。

* 幸せに過ごして下さい。リカルドのコンサートは、同じものを今日テレビで聴いた。世界は狭いのか広いのか。

* 新年のメール、どうもありがとうございます。気持ち新たに拝読致しました。
 思い立って、勤め先の本郷界隈を散策致しました。地元で「樋口一葉展」が開催されたこともあり、菊坂近辺はささやかな賑わいを見せました。写真中心の ページになりますが、「本郷菊坂路地めぐり」と題して以下のページを作りましたので、お暇な折りにぶらりとお立ち寄り下さいませ。併せて拙文も掲載してお ります。ウェッブ上で文章を見やすく提示する工夫を考えながら過ごす毎日です。
  http://www.kitada.com/keiko/kikuzaka.html 「本郷菊坂路地めぐり1 市井」
  http://www.kitada.com/keiko/kikuzaka2.html 「本郷菊坂路地めぐり2 坂の街」
  http://www.kitada.com/keiko/ichiyou.html 「本郷菊坂路地めぐり3 一葉の面影 霜月の町」
  http://www.kitada.com/keiko/kikuzaka-essay01.html 徒歩記1「本郷菊坂路地めぐり」
 ウェッブの特長を生かした「書き方」というのも生まれつつあるようです。若者に学びたいと思います。
 本年のますますのご健勝をお祈り申し上げます。

* 「ウエッブの表現」をいまや専攻される大学の先生。上のサイトを全部観てみたが、これが十六年もの長きに亘り勤めた医学書院のごく近所で、よく歩いた 懐かしいところばかり。本郷界隈の文学散歩を心掛ける人には、写真も文章も絶好のもの。
 そういえば昨日東京の小闇も写真をサイトに出していたが、写真と文との扱いでは、北田教授はさすがに手際がいい。楽しませてもらった。

* それにしても三が日、遠慮会釈なく食べて飲んだものだ。卒業生が送ってくれた紹興酒も、辛抱できずに、さきほど箱をあけた。すてきな青磁の小壺が二 つ。一つをあけて、東天紅の正月料理の残りで酒も旨く料理も旨く、三が日の打ち上げに恰好であった。ありがとう、岩崎君。「日比谷東天紅」の料理を注文し たのは成功だった。良心的なうまいものを巧みに品揃えしてくれて、メニュも巧かった。

* 秦先生、あけましておめでとうございます。
 ご無沙汰しておりました。私は、昨年10月半ばから一人暮らしを始めて、自宅が近いこともあり、お気楽極楽、悠々自適にすごしております。
 冬休みに入って2日間ほどは、実家にも戻らず、家事+ちょこっとαの傍ら、久しぶりに「闇」を拝見したり、湖の本を読んだりしてゆっくりすごしました。
 引っ越しの直後から、仕事の方では、一皮むけなさいとすこしばかりしごかれました。
 このたびは、自分の力に固執して、そして、もううんざり、懲りました。チームで仕事をする場合は、メンバーそれぞれが持っている能力をいかに発揮しても らうか、が大事だなということを学ばせていただきました。それにしても、いやー、参りました。笑。今笑っていられるのもまわりの優秀な皆様のおかげでござ います。しかし、優秀なたくさんの頭脳をもっと平和や美しい地球を維持していけるような社会の実現に(振り向けたいもの)、そのために、もっと一人一人が 自分を知って、人とふれあって人の痛みを知って、そして助け合って生活できるような社会の基盤づくりに利用しなくていいのかと、最近はよく思います。
 古典愛読(上)、古典独歩(一)、面白かったです。
 一番印象にのこったのは、加賀少納言、でした。宮沢賢治も好きだと思いましたが、(といっても、宮沢賢治も大学卒業以来読んでいませんし、そもそも作者 を問わず読んだ小説の数が少ないですが。。。)、源氏物語とそれを書いた紫式部という人には、時代を飛び越えて敬愛の念を持つことができました(翻訳しか 読んでいませんが)。その紫式部が、自身の「影」と対話しながら「源氏物語」を書き、そして、加賀少納言との贈答歌が、最後の自問自答であり、そして、先 生がそう読まれたことについて、深く感じ入るものがありました。私にはそれについて、共感したり、そうにちがいない、といった判断をする力はないのです が。。。
 もうひとつ、谷崎潤一郎の「細雪」について。
 私は小学生のころを除き、繰り返しんできた本、というのもないですし、内容を覚えている本も少なく、特に、大学生までに読んだ本の内容は、ほとんど覚え ていません。その中で、谷崎潤一郎の「細雪」は、読んだ後、まるで自分の記憶の一部であるかのように、場面が鮮明に焼きついたことと、ちょうど夕刻だった ことも影響しているのか、なんとも言えない寂寞感に襲われ、しばらく自分の部屋でぼーっとしていた記憶が鮮明にあります。内容は思い出せないのです が。。。
 とりとめもなくなりましたが、最近はこんなことを考えています、ということで。。
 秦先生に、楽しいことがたくさんある一年でありますように。それでは、また。            千葉県

* とほほ、とほほと喋っているようで、「加賀少納言」や紫式部のような所へガチンと正確に触れてくる。この人は数学者。じつにユニークな個性と余裕を 持っていて、いつのまにか時代の上へ煙のように抜け出て行く。加賀少納言といい細雪といい、相性のいいことは確かだ、私とは。そういえば東工大の卒業生 で、わたしの「湖の本」を全巻買って揃えてくれている、じつに有り難く実に珍しい、只一人である。

* 新年明けましておめでとうございます。
 昨秋、「こころ」の「K」はなぜ死んだのか、という題で、学部の研究論集用の拙稿をものしましたが、査読を依頼した先輩に、まあ酷評され、ちょっと落ち 込んでいます。それでも、四月に出ることは出ますが、先生にお送りする勇気が出るかどうか、不安です。が、しかし、勇気を持ちたいと思っております。
 今、英語で書かれた「神道」という本の翻訳の仕事を頂いていて、それに追われています。実は三月に一ヶ月ほど、スロベニアのリュブリアナ大学という所に 行かせてもらうことになっており、それまでに終わらないかと頑張っているのですが、ちょっと難しいかもしれません。
 スロベニアでは、記紀神話について、日本語で、話をさせてもらう予定です。とにもかくにも、私のような者の話を聴きたいと言って下さる方々が、世界にい るということに、心から感謝したいと思っております。
 それではまた。本年もどうぞよろしくお願いいたします。   群馬県

* 明日からはますます普通の日々に立ち返る。


* 一月四日 日

* 政治討論会も経済予想ももの憂く、視聴の根気が失せている。福島瑞穂が健気に話していても、なんだか傷ましいばかりで。

* 秦先生、大事なところ、まちがえてしまいました。一人暮らしが気楽なのは、会社が近いからではなく、実家が近いためです。
 実家の両親や妹と、それから私と、互いに何かあっても行き来に40分くらいしかかからないので、気持ちの上でも気楽ですし、また実際母が何度となく私の 一人住まいにやってきました。私の心の声が呼んでしまっていたようです。かきとみかんがとどいたから、持って行くよ、などといってやってきては、夕飯のお かずが机いっぱいに並べられたりしていたものですが、なるべく自分で頑張るね、かきは、そのうち食べに帰るから、というと、最近はやってくる回数はめっき り減りました。
 「加賀少納言」の話を読んだときに、ふと、「ビューティフル・マインド」という映画を思い出しました。先生の好きそうな美女はでてきませんが、主人公の 数学者の、若かりし頃から年老いてノーベル賞(経済学)を受賞するまでの人生をテーマにしていて、自身のつくりあげた人間たち(幻覚)に、ときには励まさ れ、支えられ、ときには振り回されて妻や子供が危険な目にあうこともあります。実在の人物を基に書かれた小説を映画化したものでした。
 映画の中で、幻覚のために妻に危害を加えそうになり、そのまま妻と過ごすのは無理で病院に入ろうか、というすんでのところで、本当にそうしてしまってい いのか迷う妻に「私に危害を加えないか」と質問されて、「わからない」と答える、その不安と孤独の入り混じった俳優の表情を思い出すたび、今でも涙が出て きます。

* 一人暮らしは気楽なようで安易にもなりやすく、翻弄もされやすい。十分気を付け、あらゆる意味で「鍵」掛けを、慎重に、と。若い人の自宅をあえて離れ た一人暮らしでは、なにかしら、女の人の場合の最終的な破綻のケースが多そうに感じられるから。自由のつもりがいつ知れず不自由に拘束され、ときに支配さ れてしまうこともある。
「ビューティフル・マインド」か。題を聴くだけで、つらそう。「マインド」はけっしてビューティフルにはなれない。ハートとかソウルならばとにかくも。 「マインド」の機能は、迷・惑、そのもの、つまり思考・思索・論理・分別。そして自我の肥大増殖が残り、どこかで失調する。ふつう手ひどい失調にまで陥ら ずにすむのは、よくしたもので人間様がどこかで分別や思索を投げ出しているからだ。失調もしないかわり、たいした論理も残らない。理屈の断片だけが貝塚の ように積まれ、人はのんきにそれを自分の思想だなどというが、ナニ、ただの堆積だ。これは自嘲。

* いま、しきりにわたしを呼ぶのは、上野の東洋館。いとほしく潤んで深い色の、青磁の小盞。唐三彩の武将像。宋の白磁。めをとぢてこの深きやみに沈透 (しづ)くなり。いま、わたしは、真実、何を愛しているのだろう。同じ問いを十年まえ学生達に突きつけていた。それが彼等との出逢いであった。

* 朝星も、雲に見え隠れする月も、時を止めたくなるような輝きです。
 伏見長建寺の八臂辨財天開扉中とのこと。浄瑠璃寺の吉祥天と、はしご拝観しようかしらん。女としてのパワーを頂けそうな気がしますもの。
 そのハスキーな声もセクシィでいいよ、なァんて誰も言ってくれない、ひどくかすれ声の囀雀です。
 昨春、ひどい風邪をお召しのようでしたが、いかがお過ごしですか。どうか、おすこやかにいらしてください。

* あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
 ご無沙汰しております。
 去年は帯状疱疹、そして交通事故とほんとうに半年間くらい仕事をやすんでしまうほどの出来事がありました。その中でペースダウンをしながら自分の生活を 振り返る時間をもらった気がします。時間的には失ったというよりも再度自分の時間のすごし方を考え直すいいきっかけだったと思えます。松葉杖の私に席を 譲ってくださる人の優しさ。あわただしさのなかに自分を失っていた日々。本当に学ぶことが多かったです。
 今は仕事に復帰して審査で各地を飛び回っています。社会人学生として論文に苦心もしています。しかしながら日々の忙しさの中でも、去年の経験をわすれな いで人に感謝しながら地道にこつこつと進んでいく一年にしていきたいと思っています。 今年一年が平穏のなかにもすばらしい年であることをおいのりしてお ります。  京都大学

* 大河ドラマの一回目特番かと勘違いして「大友宗麟」を観ていたが、食い足りない駄作であった。宗麟は喰えないキリシタンであった。戦国大名としても腰 は据わっていなかった、戦はむしろ下手な方であったし、経営の方略もすぐ破綻して、中国筋の毛利や大内と、南国の島津と、菊地の残党等とに囲まれて確乎と した領国経営ができず、キリシタンとしてもご都合主義のむしろ貿易の利にさといところが本音になっていた。結果は秀吉に泣きついて島津からの侵略を食い止 めたけれど、六カ国の守護とか鎮西探題とか、所詮は荷が勝っていた。
 なんで大友宗麟なんて大河ドラマにするんだろうと不審に思っていたら、簡単に生涯をスケッチしただけで終えた。正月早々つまらない時間をつかってしまっ た。

* 一度ぐっすり寝ておきたい。建日子の芝居がはじまる。初日と五日目とを観てくれと云われている。梅若万三郎の「翁」にも行く。俳優座劇場の芝居にも招 かれている。京都行きがあるので、今月前半はとくに外出をおさえているが、それでも気の抜けないスケジュールになっている。歯の治療も聖路加診察も委員会 もある。

* 寝もせず、物故会員中村星湖の一つの代表作・記念作である「女のなか」をスキャンしてみた。明治の末頃に早稲田派の自然主義というよりむしろ私小説を 書きながら、いつしかにヒューメンな反省をも加味していった作家である。すこし評論・論説を多く扱ってきたので、漱石の「猫」についで、味わいのいい星湖 の小説をと思い立った。物故会員のなかでも俊秀をうたわれた作家達の作品を、どんどん取り込んで行きたい。


* 一月五日 月

* 卒業生の中から、秦さんと昔のように絵や陶磁器などいっしょに観たいという人が出て来た。現に先日もいっしょに西洋美術館に行ってきた。わかい人達と 視線をそろえて同じひとつのものを観るのは、自転車の二人乗り三人乗りのように危なっかしくはあるが、楽しい。はやく京都から帰って、何のきがねなく楽し みたい。
 卒業生の年賀状は、ハガキとメールとが半々で届いている。生まれる子供、結婚しようとしている、恋の悩み、ハイだけれど漠然としたマニフェスト、着実、 家庭の幸せ。いろいろある。

* この春は、湖の本の読者には、あとがきで賀詞失礼をお断りし、それに従い、すこし正月がラクであった。年賀状返礼に追われつづける正月ではシンドイも の。

* 竹西寛子さんから、賀詞とともに年始の「昆布」を嬉しく頂戴した。

* おいしいお酒に豊かに恵まれた歳末年始、心おきなく飲んできた。

* 正月と誕生日が次第にお目出度く感じられる歳になりました。
 田舎大学の初期メンバーとして例外的に定年まであと2年。遊ぶのはそのあとです。
 この正月は古い写真の整理とPC(デジタル)化で過ごしました。あれこれ「その後」を考えねばなりません。 福井にて

* 高校の昔からの友人で、遺伝学者として生涯をささげてきてまだ定年に二年とある。ご苦労さま。ゆっくりしたら、話したいことはたくさんある。

* 三月の地唄舞の発表会には「こすの戸」を舞います。
   うきくさや 思案の外の誘ひ水 恋が浮世か 浮世が恋か ……
 来るか来ないかと女の待ち焦がれる相手は、先生のように蜜の「言葉」を書ける男かもしれないと想いながら舞ってみると、私の下手な舞もすこしは艶がでる かもしれません。  
* 誘はれて誘ひてぬるむ春の水浮き世のこひの道しるべせよ

* 京都出身という詩人会員の詩が送られてきて、読んだ。仮名遣いの誤りを二カ所正し、詩集の初出データが揃えば入稿出来る。同僚委員の村山氏を介して作 品が届いた。半年前にも村山氏の紹介で詩人の作品が送られてきたのを、ふと思い出した。詩のスタイルはずいぶんちがう。


* 一月六日 火

* 訃報は時をえらばない。NHKで久しくドラマのチーフディレクターを勤められた、松井恒男さんが亡くなった。太宰賞受賞のそもそもから今日まで途切れ ることの一度もなかった、有り難い読者であり、支持者であり、助言者であって下さった。私の仕事ぶりなど歯がゆい想いもさせていたに違いないが、変わりな い姿勢であった。一度渋いワキ役の老俳優と三人で渋谷でゆっくり語りあったこともあり、奥さんの画展に呼ばれたこともある。定年退職の記念の宴会には、わ たしたちは夫婦で参加した。なごやかな佳いパーティだった。竹下景子ら華やかにわかい女優も大勢みえた。一回りとは違わないが、温厚の長者だった。たしか 「おはなはん」などの朝の連ドラも手がけられ、退職後も何作も、またいろんなジャンルで演出されていた。
 また一人。寂しさが深まる。

* 今日は秦建日子作・演出「リバース2004」の幕が下北沢で明く。入りの心配は全くないるらしい、もうわたしが八方手を回して応援する必要もない。有 り難いことだ。無事をねがう。

* ビルの上の渋谷「松川」で、早めの夕食、わたしは「西の関」一本と妻の生ビールも半分以上貰い受け、鰻。
 下北沢は少し苦手な町だが、息子は何度か此処の「劇」小劇場を使っている。師匠のつか・こうへいさんと挨拶したのも、此処で建日子が「ペイン」を演出し たとき。今日は、「リバース2004」で、作品じたいのre-birthにも、かなり成功していた。セリフが簡明に要点を掴んでいて、四人芝居が生き生き した。
 但し、これは怖い芝居。観念的な創作劇で、基調のフィロソフィがかなりしんどい。感動して涙を流すという建日子の通例の芝居とはちがい、乾いてくる。作 劇も相当に難しい方の一つで、はやばや音を上げたらしい年輩の男客ひとりが、開始十分ほどで超満員の客席の奧からむりやり出て行ったのが、いっそ可笑し かった。
 建日子達の芝居は、説明的な通俗演劇だけを見慣れている人には、どだいその演劇文法について行けないかも知れない。間違って入場すると出て行くのも大変 だ、立錐の余地もない。それでも出て行くのだから同情に値する。
 本が読めない読めないと言われるわかい人達が、ああいう難解そうな、展開と飛躍と転換の烈しい舞台を楽しめるのは、彼等なりの訓練が利いているのでなけ れば説明しにくいが、わたしは、劇画やマンガで仕込まれている御陰なのだろうと思う。劇画やマンガは、コマからコマへ、当然続かない、ないしは隠れている 時間と空間とをもって、見た目はヒョイヒョイと飛躍して行くではないか。ああいう、線は線でも、断続展開する鎖線状の場面展開には、通常の小説読者より も、はるかに劇画フアンの方がついて行ける力を持っているだろう。わかい人達は少なくとも漫画的時空間で小劇場演劇の実験にむしろ親しみを覚えやすいので はないか。
 今日の舞台は、三人の女優と一人の男優で演じられ、わたしがはじめて観る主演した女優(滝佳保子)が力量十分、面白く演じてくれ、楽しめた。この人が傑 出していて、舞台を成功に繋いだ。ドラマなどで見ているのだろうか、初目見えのようで新鮮でタフだった。
 アコムの広告に出ていて顔はよく知っているもう一人の新顔女優(小野真弓)と、正月にわが家に来てくれた連れ添い女優とは、ま、顔なじみ。患者役の築山 万有美は二度目の役か。あれはあれで悪くはないが、いかにも、さもありそうに、ありふれた、ふつうの答案を読んだ感じでもある。わたしが演出するなら、 もっと様変わりな患者として、極端にいえば、透明な天女かのように人間臭さすべてを吸い出されてしまった一見善良な、軽い空気のような、意識と肉体との乖 離した、しかも言うことは痛烈な女として演じて貰ったろう。アコムさんは、少し役回りが掴みにくそうであった。
 巨大な肉体の男性君(横山一敏)には、ただもう圧倒されました。
 主題は、人間のウソであろうか。それを、登場の四人(カウンセラーの卵、カウンセラーの上司、カウンセラーを受ける患者、三人の女にややこしく関わって くるマッチョな男)共にそれぞれ復人格として画いている。「人間」に、烈しい糾弾が加えられている。それを、そんな風には露骨に感じさせずにドラマの展開 で面白く見せて、渋滞や遅滞やへたな混乱・混雑を見せなかったのは、ま、お手柄であった。前回より「倍ほどよくなったよ」と作者に褒めて帰ってきた。

* どっと「ペン電子文藝館」の仕事が動き始め、煽られる。メールも数知れず多く、その場その場で返事すべきはしていないと埋もれてしまう。大阪成駒屋か ら二月歌舞伎座の案内があり、日付は任せますと、昼夜通しでお願いし注文した。扇雀丈は「良弁杉」に役があるらしい。夜は「三人吉三」の通しだというが、 配役など何も知らない。楽しみに。

* 年賀状とアドレスブックとの調整も、かなり能率良く大方済ませた。メールが取って代わるのでハガキの方はひと頃よりかなり減り、三百枚ほどか。返礼は 百枚までに力づく絞った。

* 金澤の井口哲郎さんの「さるも木から降りる」という一句がよかった。井口さんも久しい校長先生から石川近代文学館の館長さんを勤め上げられて、すこし ゆるりとされた頃か。久しぶりに逢いたいなあと思う。そこへ行くと同い歳の天野悦夫君など、まだ教授の定年に二年あり、その先のことを夢見ているという。 たいへんだ。昭和石油の代表取締役からとうどう降りた新制中学同期の團彦太郎君は、ときどき我當を観ている、是非今度一緒にと書いている。そういえば、同 じく日立の重役から系列の社長も勤め上げた西村明男君、引退後どうしてるかなと思っていたら、なんと、このごろときどき「大学」へ教えに行っているという 年賀状、ビックリだ。つもるハナシがしたくなった。


* 一月七日 水

* 七草粥の雑煮を祝う。

* どうっと「ペン電子文藝館」の作品が「校正室」に上がってきて、通読の割り振りやら、校正されてきたものの、原稿や原作による逐一点検・決定やらで、 ほぼ終日文藝館関係に追われた。この状況は暫くつづく。わたしが入稿を加減して少なくすれば、しぜんこれがラクになるが、昨二○○三年は大晦日まで毎日の ように入稿し続けていたので、年頭が賑わって来るのは当然の成り行き。
 講演の用意、尻に火がついてきた。そのためか、めずらしく久しぶりにストレス腹痛らしきものが、かすかに。じりじりしてくると、つい、飲んで食って気を 紛らせる、これがあとへ響く。それでも血糖値はよくコントロールしている方だと思う。ほぼ正常値をいつも保っている。コレステロールの何のというのが、つ かみどころなく、分からない。
 それにしてもどれもこれも飲み尽くし、今は神戸の芝田さんに戴いた「奧丹波」だ、酒をよく知った人の選択で、たまらなく美味い。ちびちびなんかやれない タチで、比較的行儀の佳い萩焼きのなかでは、鬼の掌のような大ぶり豪快な盃に、なみなみついで、ぐうっとやるから、ハカが行って仕様がない。奈良六条の人 から頂戴した本格の奈良漬けを肴にして飲むうまさ。しょうがないなあと思いつつ、腹痛の兆しはこっちが原因かなあとも思いつつ、ま、よかろう。「余霞楼」 という純然京ことばで「太陽」に書いた一種のスリラー短編をもっている。作中の粋な建物の名前を題に使ったが、すこしだけ出来映えに胸を張った感触もあっ た。
 ときどき「騒壇余人」と書いているが、騒とは、風騒、詩や文章を書くことや人達のことだが、あまり通じのいい字面のいい語ではないなと思っていた。いっ 「余霞楼」がよかろうか。

* 年賀状を整理していて、電話番号や郵便番号やMail to の異様に小さい活字に何度も辟易した。どうしてあんなに超極小の字で表記するのだろう。一字間違っても、「,」と「.」と間違えても役に立たないのに。わ たしは電話をかけるのもかかってくるのも好きでないから、メールで話せるととても助かる。たとえ真夜中でも、向こうを煩わせることなくいつでも好きなとき に送っておける。何を書いたかは暫く手元に残しておける。
 メールが通じたら話したいと思う相手は何人もいる。一番が、娘、そして孫娘。どんなにして暮らしているのやら。中学で出逢って姉とも妹とも愛した人達と も話したいが、行方知れない。叔母の茶室でだれよりも可愛く思っていた六つ下の人は、パソコンどころではない大忙しのおばあちゃんらしい。

* 薫中将はとうどう都から木幡の山も越えて宇治八宮のもとへ通い始めた。そこには大君、中君がひっそりと父八宮に愛育されている。それだけではない、薫 出生の秘密に深く触れていた人物もここに身を寄せている。宇治の川瀬ははやい。風も鳴る。今の宇治平等院の対岸辺りと眺めて読んで間違いない。妻と、京都 ホテルからチャーターの車で、山科随心院、三法院、法華寺を経て平等院まで行ったのは何年前になるだろう。この前は稲荷から羽束師を経て桂川にそい、嵐山 へむかった。
 あまり懐かしくて、京都の風光を、東西南北、ひろやかに、こまやかに思い浮かべると、くるしく、胸がきしるようだ。

* さ、明日からまた歯医者通いだ。堪らんなあ。疲れているのか、酒のせいか、すうっと瞼を押さてくるちから。
  めをとぢてこの深きやみに沈透くなり ねがはざれ 我も 我の心も

* 柳君の設計で竣工した木造個人住宅のオープンハウスを、知らせてきた。この土曜の午前と日曜だという。京都の仕事を考えると、今回は動けまい。土曜午 後に約束の用でどうしても出なくてはならないから。じつは、じつは、マンションと違い個人住宅ならぜひ参考に見たいのだが。そんなに豪邸でもなさそうだ し。しかし今は何も何も京都講演で、行き止まり。

* 中村星湖の「女のなか」が、なんとも味がある。おおむかしの秦の父と母と叔母とのような感じ。むかしはこういう小説を書いていたんだ。

* 兵庫県のある親愛の読者が、その方の知人に、湖の本を送り付けている封筒を再利用して、べつのなにかを送られた。その封筒から私の名前がみつかった。 受け手のご当人でなく、その父上が、秦恒平の本を多年買い集めておいでだということが分かった。偶然が幾つか重なって、ご縁が浮かび上がりつつある。ご縁 である。私、読者、女性の詩人、その父上(秦の読者)という環ができかかっている。今もその娘さんから直接メールが届いて返信したところ。
 いろんなことが、ある。


* 一月八日 木

* 建日子の三十六歳、誕生日を祝う。力満ちたまた此の一年を、怪我なく、努めまた楽しむようにと言祝ぐ。

* 三十六年前を懐かしく思い出す。特製の年譜をくれば、さっと早だしが出来る。太宰賞受賞の前年になる。まだ作家として世に出ていなかった。

* <<昭和四十三年(一九六八) 三十二歳>>
 元旦、払暁ひとり尉殿(じようどの)神社に迪子無事を祈る。女子なら肇日子(はつひこ)と。「母ひとり産むにはあらで父も姉も一つに祈るお前の誕生」祝 い雑煮。改めて朝日子とも参拝す。同二日、朝晩味噌雑煮。同三日、清汁雑煮、晩は自前の闇鍋。病院事情が日常化するまで保たせたいと緊張の三が日、また静 かに過ごした三が日。同四日、迪子が仕事を再開。同五日、迪子予定日の通院、八日より入院と決まる。一階の永井家一足先に出産。学士会館の年賀会に朝日子 と参加。この日、母上京、疲れてタクシーで少し吐き入れ歯落とす。遠藤周作「影法師」よむ。「文学」ということばで創作を真剣に考えることができ、有り難 いと思う。
 一月八日、朝入院手続きして出社、午後出血前兆ありと電話受け午後休暇保谷に帰り万端を用意し、潤一郎全集第十四巻、文学界二月号、松田権六『漆の話』 を用意して病院に。永い永い経過があって午後十時十五分頃、日本大学病院で長男建日子(たけひこ)誕生。三千三百三十グラム。「赤ちゃんが来た・名前は建 日子・男だぞ・ヤマトタケルだ・太陽の子だ」迪子は出血多量で千百cc輸血で凝固能を維持。深夜に帰り母に伝える。朝日子は眠っていた。同九日、五時に目 覚め六時前に出て産院へ。迪子明け方にリカバリールームに移り落ち着いていた。事務室で手続きなど。「建日子」の名に事務では「次女」と間違い、訂正す。 安堵し出勤。三時で早退し母と朝日子に池袋「けやき」でしゃぶしゃぶ。禁酒を解き大いに祝い産院で建日子に初対面、大感激す。京都の父も喜ぶ。同十日、建 日子血小板不足で小児科特別乳児室に移る。同十一日、建日子入院手続きする。健常やや尿量少なし、対面すやすや寝ていた。同輸血分の預血返還を求めらる。 同十三日、富士預血センターで預血。向山肇夫、持田実・晴美夫妻も献血に協力呉れる。同十四日、朝日子熱発を押して産院に行きすやすやの建日子と対面、帰 宅後九度まで発熱深更に至り解熱。同十五日、ナースらへのお礼を買い調える。同十六日、板橋区役所へ届け出。迪子のみ退院、八日以降執拗に続いた出血も収 まり婦人科的な問題無し。建日子は血小板浮遊液投与等でもう数日入院、すやすや寝ている。帰宅途中池袋西武で母にお礼のハンドバッグ買い、「名匠展」で泉 仙の鉄鉢を食べて帰る。同十七日、とにかくも一人まず生還の実感。同十八日、建日子の退院延びると迪子少し泣く。同十九日、略称「KH」の単行本スタイル ハードカバー新創刊綜説誌『小児医学』見本を筆頭編集者日本大学馬場一雄教授に届ける。建日子月曜に退院と決まる。同二十二日、迪子やや情緒不安に陥るの を和らげるため建日子退院、トットトッターで父が迎えに行く。ときどき草笛のような声を発し車中もすやすや寝ている。自分に似ていると思い一度思わず頬を 寄せる。同二十三日、岩波文庫『法華経』を読み始む。「これやこの建日子の瞳に梅の花」同二十四日、馬場一雄先生にお礼。晩、免疫学叢書企画に監修者帝京 大学安部英教授らと会議、うち一巻に「後天性免疫不全症候群」いわゆるエイズを含む。同二十五日、母疲れて吐く。同二十六日、母帰洛の切符用意。朝日子に やや動揺あるか、いじらし。よく頑張って助けてくれた。これからが親子四人の試練の時期となる。同二十七日、母疲れて、帰洛、ほんとうによくしてくれた、 感謝に堪えない。朝日子祖母が帰るとオイオイ泣く。親孝行は子供たちが代わってしてくれる。「仏」主題の掌説を考える。「仏」とは自分にとって何か。「書 く」方へ気力を向ける。同二十九日、迪子腹痛吐き気、朝日子頭痛、建日子夜になって吐く。同三十日、一酸化炭素中毒を疑い近所の山田硝子店主人を頼み日本 大学病院に急行、穿刺と血液検査で大過無く暫時休養後に帰宅。迪子も出血の治療受く。冷汗三斗。同三十一日、終夜面倒をみる。明け方、大勢至、観世音、阿 弥陀如来が相次いで輦車に乗って渡るのを夢見る。その直前に久しぶりに京都の西村龍子を夢見ていた気がする。二月二日、建日子の存在に深く感動している。 大国真彦助教授によれば血小板は正常値、むしろやや白血球多く風邪かも知れぬと。同三日、テレビで川端康成原作の映画「古都」観る。同四日、役に立たず文 芸雑誌を読むのをやめる。同十日、伊藤整『伊藤整氏の生活と意見』秋山虔『源氏物語』読む。同十二日、「或る折臂翁」読み直しほぼ良しと。今年にも新しい 私家版をと思いつく。

* 馬場先生、大国先生、向山君の名前など出ていて、懐かしい。安部英先生の名前がエイズとともにこんなところに出ている。わたしの企画したこの免疫学叢 書の中の一巻が日本の「エイズ」研究書の嚆矢であった。安部先生しかこういう本を出そうと思える人はいなかった頃だ。
 龍ちゃんの名前が出ている。これまた、とても懐かしい。
 ちなみに私が三十六歳の一月をざっと見てみると、ざっとこんなところを歩んでいた。荻原さんに突如として戴いた額が今もすぐ左の壁にある。「秦恒平雅兄 一餐 井泉水」とある。すでにたいへんな高齢であった。「春秋」に連載していた花と風の論を愛読しているという添え状がついていて感激した。なにしろ瀧井 孝作先生の先生であった人だ。
 阿部智子とは、今の作家梅原稜子さん。当時「婦人公論」編集者で私に「怨念論」や「長女論」を書かせてくれた。生方さんも梅原さんも、今でも「湖の本」 を応援してくれている。

* <<昭和四十七日(一九七二) 三十六歳>>
元日、帰洛。一月六日、両親とともに帰宅。荻原井泉水より揮毫「花と風」の大字など到来。二月七日、阿部智子、生方孝子が「廬山」芥川賞に外れたのを「樓 外樓」で慰労してくれた。同月二十七日、「精衛海を填む(=みごもりの湖)」六百二枚でとにかく脱稿。直ちに手直しに入る。三月二十二日、新潮社へ届け、 以後刊行まで二年半を費した。四月、建日子がみどりヶ丘保谷幼稚園に入園。この日、芸術生活社と『廬山』出版契約を交し、筑摩書房に叱られた。「青井戸」 を三日で書きあげた四月十六日、川端康成自殺。同二十六日、書き下ろし単行本『慈子』(筑摩書房)見本出来。

* 懐かしい名前の作品が並び、授賞から三年近く、ようやくエンジンがかかり掛けているか。建日子が幼稚園だというから驚く。

* 明けましておめでとうございます。年賀メールをありがとうございました。
 わたしは、そわそわと、落ち着かない新年を迎えています。不思議に、興味深いことがあるのですが、まだほとんどその解答を得られていないからです。
 何が気になっているかといいますと、イギリスにはどうして社会階級があるのか、どうしてあんなにはっきりと体制批判ができるのか、ということです。まっ たく唐突な話ですが。
 今、手始めに、中村光夫の「知識階級」をじっくり読み直しています。読みたいときに読みたいものを読んでいるので、楽しくて仕方ありません。
 きっかけは1969年からBBCで放送されたモンティ・パイソンズ・フライング・サーカスという、イギリスのコメディ番組をビデオで観たことでした。日 本を含む世界二十カ国で放送されたその番組は、あらゆるものを笑いのネタにしているのですが、特に反体制の姿勢が過激でした。確かに時代はカウンターカル チャーだったのでしょうが、その一言だけで片付けられない気がして。体制批判、また、批判を許容する気風は、イギリスの伝統なのだという気がします。源流 はやっぱりマグナカルタかな、ということくらいしか、今のわたしには思い浮かびません。
 ヒントになるものはないかしらんと、日本ペンクラブの電子文藝館から、題名だけ見てダウンロードしました。夏目漱石の「私の個人主義」、平林 初之輔の「政治的價値と藝術的價値」、植村 正久の「宗教と文學」、宮内 邦雄の「民主主義の原点」、宮嶋 資夫の「第四階級の文學」などを。
 まだとっかっかったばかりで、頭の中が混沌としています。極東の日本から何をこんなに英国のことを考えているのだろうと滑稽ですが、興味深いのだから仕 方ありません。欧州の国々は密接に関わってきた歴史がありますから、話はイギリスだけでは終わりそうにない予感もします。久々に人文学です。
 新年早々、勢いにまかせた内容のメールをお許しください。こんな熱にうかされたような状態ではありますが、秦さんのご健康、そして、世界の平和を祈って います。
 ぐんと寒くなってまいりました。お体には、くれぐれもお気をつけくださいね。  群馬県

* 興味ふかい佳い問題意識だ。「ペン電子文藝館」がこのように利用されることを心からよろこぶ。これがわたしの願いであり、だから論説や評論も大切に選 んでいる。小説だけが文藝でも思想でもない。
 この群馬の人の精神は、いつも前へ前へ踏み込むように働こうとしている。でろりんと斜に構えていない。いつも逃げ道を用意しがちな大人とは、ちがう。組 み付いている。

* フラクタル 2004.1.7   小闇@TOKYO
 電磁波を箱に閉じこめることに成功した、というニュースを聞いた。それなりに興奮した。閉じこめた箱は「メンジャースポンジ」型の絶縁体製。メンジャー スポンジ、が分からない。
 正方形を九つの正方形に区切り、その中央の正方形をくりぬく。残った八つの正方形をそれぞれ九つの正方形に区切り、またそれらの中央の正方形をくりぬ く。その作業を無限に繰り返したものの立体版で、「表面積は無限大、体積はゼロ」の立体だという。
 こういう、目には見えないものの存在は昔から好きだ。虚数(-1の平方根)とかパルス(高さは無限大で幅がゼロ、面積が1の波)とかと同じように。
 もうひとつ、そのメンジャースポンジのように、細部が自己相似からなるものも好きだ。フラクタル。つまりは細部を拡大すると、全体と同じ形というよう な。
 昔、今よりずっとはったりに弱かった頃、当時の頼りなさげな数学教師の専門が、「マンデルブロ集合」と聞いてのけぞった。そんな言葉を初めて聞いた。そ れが私にとって初めてのフラクタル。今思うと、マンデルブロ集合の何を専門にしていたのか、分からない。
 フラクタルに触れるときいつも思うのは、細胞分裂だ。人間も、身体の一部を切り取ると、それが全体のミニチュアになったら面白いのにと思う。もしこれが 可能なら、私は何人かの好きなひとの身体の一部を手に入れ、ミニチュアになるのを待つ。普段は籠に閉じこめておき、気の向いたときに取り出して遊ぶ。私自 身の一部が誰かの籠に入るのはごめんだが。

* この手のハナシの学生から聴ける場所であった、東工大のわが教授室は。それで、授業のある日は終日教授室に網を張って、学生達がいろんなハナシの種を 運んでくるのを貪欲に待望していたのである。
 このハナシなど、めざましいではないか。しかもここがミソだが、刺激はあっても智解は殆ど効かない。それでよけい面白い。刺激はみな若い人が運んでくれ る。


* 一月九日 金

* あまりにいろいろ作業輻輳して、あたまがボヤーッとしている。気力充溢して踏ん込む、ということが出来ない。なんだか綱渡りしているように時間との付 き合いが危ない。今・此処が沸騰している感覚。ま、こういうときは図太く居直るにしくはない。死ぬことと恥をかくこととを何とも思わなくなれば、人は強く なる(良くなるとは言わない)。死ぬことは今は言わないが、恥なら、もういやほどかいてきた、今更尻込みすることではない。

* 建日子の芝居、大入り超満員で好調らしい。やはり、芝居に精神面の重きを置くことで、脚本にも重みがつくことになる。当人が芝居を見放しかけるつど、 どう赤字であろうが大変であろうが、やはり芝居は書いて演出し続けた方がいいと奨めてきた。
 今は、ま、昔風にいえば小芝居をやっている。今の舞台、狭いうえに四角い函様のもの二つを使っているだけで装置は全くない、いつものことだ、大体。客席 もあまりにあまりなほど超満杯につめこんでいるが、一回公演の客数は知れている。そうとうお断りを出しているらしいが。
 はたして大舞台に転じて行けるのか、行く気があるのかという「壁」が、問題だ。今までは徹頭徹尾秦建日子の内部世界を舞台化してきた。観念的な心境短編 のようなものだ。小劇場ではこれがほぼ通例かも知れない。だが演劇はそれだけではない。歌舞伎や能・狂言はともかくとしても、わたしが観てきた芝居ですら いろいろある。そこへ同じる必要は少しもないが、いずれは舞台でもドラマでも「超えなくてはいけない課題」として、例えば「脚色」があるだろう。人の作品 を演出しなくては成らぬ場面もあるだろう。そのときものが「読める」のかが厳しく問われる。「読み込む」力を鍛えねばいけない。

* 勤めていた会社をやめたいと言ってきたとき、わたしは留めなかった。わたしでも同じことをしてきたのに、どうして留められるだろう。彼が退社したとき は、正直わたしの退社時よりもはなはだ基盤は脆弱で、前途に何の保証もなかった。よく伸び上がってこれたなと思う。がまんづよく、続くように。
 猪瀬直樹氏が、わが息子の悪戦苦闘を聞いて、「何が何でも泥水を飲みに飲んででも辛抱して書き続けるように言うて下さい」と激励してくれたのを、感慨深 く覚えている。あの忙しい限りの猪瀬氏は、なんと建日子の「ペイン」を事務所の人と一緒に観に来てくれている。彼は「奮闘」と「勉強」の人である。この 「勉強」の方も建日子には学んで欲しい。持ち前の才能だけでは必ず涸れてくる。清くても濁っていてもいい、泉は、泓々(おうおう)として湧き続いていた い。才能の泉は奮闘と勉強とで湧き続ける。

* つかれて下へ降りて観た映画「アルマゲドン」が予期したより佳い映画でおもしろかった。ま、そのように成るであろうお話の行方は見えていたけれど、映 画の魅力がしっかり画面から画面を繋いでくれて、少し長い時間であったのに、前のめりに観ていた。ブルース・ウイルスらしい。実録ではない劇映画ながら、 実写も効果的に取り入れていた。こういう地球そのものの絶滅の危機に至ってしか、世界の民族は心を一つには出来ないというふうにも読み取れて、それは皮肉 に過ぎる苦みであるが。

* 北朝鮮の拉致問題が少しずつ捩れている。うまく行く公算が高いとはまだ思わない。世界が立ち会って国家的な契約ならばと思いたい一面、そんな契約がど れだけ紙屑のようであったかも、イヤほど見てきている。危ない藁すべほどの下策を模索しているようで心許ない。


* 一月八日 つづき

* 五時間足らずの睡眠から目覚めて、妻と、朝いちばんの赤飯を祝う。建日子誕生日、健康と、公演の盛況無事を祝う。

*「日本の歴史」は第十五巻「大名と百姓」の巻に入る。
 前の「鎖国」は、もっとも濃厚且つ広範囲に世界と触れた重要な巻であったが、鎖国の政策評価はいまなお定まっていない。鎖国は成功した面も喪失した面も 大きな、歴史的政策であった。粟散の辺土という島国であり地勢的にはいつもゆるやかな鎖国状態にある国家であったし、それが国民のいわば歴史観にも影響し ていた。いつも袋の中へ頭をつっこんだようであったのは確かだ。それを瞬時的ではあれ積極政策で打ち破り掛けたのは、信長や秀吉や家康の広い広い世界、球 体世界への好奇心の強さであった、欲と二人連れにしても。この辺、さすがに傑出したセンスであった。
 日本を意図的な強固な鎖国国家へ完成させた三代徳川家光が、地球儀や世界地図を前にして、「だから」鎖国必然と意志を固めているのは、気宇という点では 先の三人に格段に劣り、了見が狭かった。とはいえ、以降二百年余の鎖国が守った国の安全は、たしかに有った。結束度の高い島国ながら、進んだ文化意志を 持っていた日本には、それが出来たから、それを敢えてしたという一面は有る、と思う。十七八世紀の西欧列強の覇権意志は苛酷なほどの暴力で裏打ちされてい て、十九世紀に、アメリカが十分に成り立ち得ていた時機の世界史とは次元がちがっていた。家光と井伊直弼とがサカサマの位置にいて指揮していたら、日本の 運命は悲惨であったかも知れない。
 さて次は、いわゆる幕藩体制の、民政ならぬ藩政、また知らしむべからず寄らしむべしの幕政が焦点になろう。ここではいやおうなく「治者の横暴」が突出し て、いかに「被治者」の自覚が削り取られて行くかの、私民としてはつらい江戸時代を読み進めることになろう。

* 北朝鮮のうまい「毒」を飲まされてきた拉致問題の政治家たちが、ピョンヤン飛行場までいったん五人を送り返して、子供たちを受け取ろうという誘いに乗 りかけている。
 何度も言うが、一度降りた飛行機を二度と飛ばせなくするぐらい簡単なことはない。滑走しなければ飛べない。拉致された大人が取り戻されてしまい「交渉」 へ持ち込まれたとき、日本は何の手札も持っていない、ものを貢ぐ以外に。まさか国際的な視線のまえで無道なことはすまいというのは、甘い考え。外交は悪意 の算術、その算術の凄さでは日本は鬼の前の赤ん坊なみであることは、この二年が示している。ピョンヤンから帰路の飛行機はとべないだろう、充たされた思い では。元の木阿弥に戻される懼れは十分だ、慎重にして欲しいものだ。

* やはり秦テルヲのことが頭から離れず、何を観ていても読んでいてもそこへ縛られている。それでひどく疲れる。「ペン電子文藝館」の仕事がどうっと滝の ように流れてきて、どんな一つも不注意に処理してしまうとあとあとへ響くのである。ほとんどかたづけたが、一つ頭が混乱して手のつかないのがある。

* まよひつつやみのひとよ(人生)をあけぐれのゆめうつつとたれにつげばや

* 今夜の007はごくつまらない。バーグマンとハンフリー・ボガートとの「カサブランカ」は佳い。本当にどの部分を観ても映画が粒立っている。眠気はさ め、少し酒をふくみ、いらぬことに少し夜食までして、また二階に来た。


* 一月十日 土

* 湖の本、味わいつつ拝読しております。長くなりますが、拝読しつつ思った雑感を書かせて頂きます。お時間のある時にでもお読み流し下さい。
 四谷怪談の「岩」と「花」。
 先生の解釈に膝を打つ思いでした。
 歌舞伎好きの割に四谷怪談は見たことがなく、あの話の主人公が「お岩」と「お花」であると知ったのは本で読んだ時でしたが、その時に、日本人の考える女 性の典型例はやはり「岩」と「花」に大別されるんだなぁ、と、実は、古事記を思い浮かべていたのです。
 木花咲耶姫は、私の大好きな登場人物で、(これは恐らく女としてちやほやされ損ねてきた人生の裏返しだろうと思うのですが)子どもの名前を考えたとき、 なんとかこの中の字を盛り込めないか、と悩んだこともあります。
 「さく」の部分が「咲」の他に「開」「佐久」と、本によっていろいろありますが、開子と書いて「さきこ」と読ませようか・・・など。
 結局、字画を少し気にしてこれは諦めて「*子」となりました。(三年経つのに子どもの名前はお伝えしていなかった気がします。)これは字画がよかったこ との他に、字の雰囲気が気に入ったこと、そして山本周五郎の小説にこの名の凛とした武家の令嬢が登場した記憶があること、などがありました。
 そして、子どもが生まれて暫くして、暇つぶしにもう一度、同じような作業で字を探していた時、期せずして同じ字画で気に入った字を見つけました。なぜ、 名付ける時に見つけなかったのか不思議ですが、もしそのときに見つけていたらどちらを採用するか相当に迷っていたでしょう。
 ですが、長女を名付ける時に「*子」しか目に入らなかったことを考えると、この子は最初から「*絢子」と名付けられるべく生まれてきたのだな、と少しば かり運命論者な思いがしました。
 もう一つ見つけた名前は「*子」です。
 実は、この二つの字を気に入った自分というものに、ふと「やっぱりな」とかすかに苦笑するものがあります。
 覚えていらっしゃるでしょうか、私が日本の染めや織りをやりたくて高分子を志したこと。結局、染めや織りそのものではなく、それらの近傍で有機質文化財 を扱う身ですが、底流に流れているのは、たおやかな有機的文化を生んだ日本への思いです。
 有機物と無機物の違いは、炭素と酸素と水素と窒素が主体なのが有機物で・・・などと先生のアタマをくらくらさせるのはやめましょう。
 端的に言えば、燃やして二酸化炭素と水蒸気になってしまうようなものが有機物です。石とか焼き物とか宝石とかの類いは無機物です。
 有機物とは名の通りで、使われる元素が限られているため、物質の性質を決めるのが「その中でどのよう元素が組織(結合)されているか」に左右されます が、無機物の方は、様々な元素を持つものがあり、「どのような元素で作られているか」がその性質上、ある程度重要になります。
 海外へ行くたびに、特にヨーロッパへ行く度に、街を歩いている時、私は妙に息苦しくなります。
 なぜだろう、なぜだろう、と思ってきたのですが、ふと先日思い当たりました。街が無機質でできているのです。向こうは石の文化圏です。煉瓦、大理石な ど、街を構成するのがひたすらに石です。すべてがフィックスし、積み上げたものは崩れません。ゆえに、論理の積み上げもでき、科学も発展し、キリスト教が 契約の概念で、と、これは既にあちこちで言われている文化論ですね。
 ただ、私としては、自分としては息苦しくなるほど無機物的文化に対して違和感があるのだ、という発見が重要でした。
 私の日本への思いは、不可分に有機物を専攻したことに結びついていたのです。
 ここで冒頭の話に戻ります。
 私は木花咲耶姫が子どもの頃から大好きなのです。
 仲のよい先輩に*屋さん=鉱物学出身の人がおりますが、彼から冗談まじりに「有機物は劣化するからいや!」と言われる度に「変わっていくから面白いの」 と言い返します。彼は星を見るのが趣味で、顔料(要するに鉱物です)について彼の右に出るものはいません。彼とは日本への深い愛が共通している癖に、彼は 「変わらないもの」が好きです。
 私にとって、花-有機物-日本、は同一線上に乗っているため、あれほど日本文化を愛している先輩が、岩-無機物-日本、というラインを作っているのを面 白く思っています。一度ゆっくりこの点を語り合いたいな、と思っていますが。
 そう、天孫に木花咲耶姫と岩長姫を対でめあわせようとした父神オオヤマツミは、この世が有機物と無機物で構成されていることを示していたのだと思いま す。
 そして私は木花咲耶姫が好きなのです。意外にも彼女の芯は強く、タフに一人で子どもを産むなどするあたりも私が気に入っている所以です。
 有機物は意外に丈夫なんですよ、日本の木造建造物、よく残っているではないですか。古い文書も。
 そして有機的日本に思い入れのある私は、期せずして子どもの名前に「*子」と「*子」を選んでいました。
  まだわからないのですが、今秋あたりもう一人の「*子」の顔を見られるかもしれません。
 寒さがまだまだ厳しい折り、先生もどうぞお体を大切に。

* こういう嬉しいメールが一番に届いていると、ほうっと顔がほころぶ。いいおめでたの重なりますように。底荷の豊かな知性だということが、よく分かる。 航海のやすらかさは、豊かな舟の底荷がきめてくる。

* 秦先生 あけましておめでとうございます。
 私、あと一肌は脱ぎたい。30歳にしてそう思うこのごろです。まだ、このままでよいとは思いたくないとあがいています。
 ところで、念願叶い、やっと開発の部署にまわされています。今やっているのは*****・*****の新型機(輸送機・哨戒機)です。慣れないもので、 怒られまくっていますが、やっぱりやりがいが違って充実しています。
 先生もお元気で。   南米

* 僅か三十で上がりという双六はありません、まだ一学期始まって、ゴールデンウイークにも来ていないと思うこと。
 思う部署へ動けてよかったね、おめでとう。幅広く努めてください。
 目の前のことしか見ていないと、目の前のことも見損じるものです。目当ての本を本屋で探していて、探し出した本のすぐ隣に、それよりももっと良い本が見 つかると云うことがあるものです。パソコン型検索の弱点はそれだとよく云われていますが、豊かに活きた視野をもつように。日本語を、その魅力も長所もまた 欠点も、こまやかに忘れないように。元気に、怪我なく過ごされよや。 秦

* 懐かしい青年のはるかな地球の向こう側からのあいさつ。元気でいてください。

* 京都講演の案内を見つけた、行く行く、嬉しいと、知り人や読者のメールが来るつど、ひときわ憂鬱になる。そういう人ほど講演会場の前の席にいたりし て、とたんに気が滅入り、顔の向けどころもなくなり、ヘドモドして気が萎えてゆく。ヴォルトがみるみる下がって行く。京都での講演を引き受けたくないの は、それだから。
 以前、まさか此処へはと思った会場の、最前列まんなかに中学時代の女先生が座ってられ、恩師と思ったとたんアガってしまい、じつにじつに閉口したのが、 懐かしいほど、忘れがたい。
 もう一つは、そういう講演のあとさきで、どうしても誰にでもとは行かずに失礼ができてしまうのも、苦の種になる。講演だけは知り人のいない会場でしたい ものだ。その点大学の教室は超満員でも平気だったがなあ。

* 建日子の芝居、今日も来てという話で出掛けるが、入れる隙間があるのだろうか。あと、妻は友人とお喋りするという。わたしは、三時半すぎという半端な 時間に下北澤のような不案内なところで一人になる。やれやれ。どこかで校正でもしてから家に帰るか。


* 一月十日 つづき 

* 今日は、狭いが二階のテラス正面に我々二人の席が用意してあり、見やすいことでは最良であった。手入れが入り舞台はさらに要領を得て分かりよく、通じ もよくなっていた。

* なににしても観念で造った「理」の作劇で、いわばコンパスと定規で書いたように、パタンが、下敷きにある。セリフも場面も「繰り返し」が音楽的効果を あげつつ、三人の女の内なるもう一人ずつの「影」のような存在が、バトンを渡し渡し場面を運んで行くような按配。こういう、着想の重層化という「つくり」 は、どこかで機械的になり、機械は精密な方が美しく機能的なものだから、要するに演出効果で磨きをかけることになる。つまり「うまさ巧みさ」で舞台を完成 させ洗練して行く。その意味では初日より磨きがかかり、初演の昔より遙かに作劇も演出もじょうずに仕上がってきた。
 ただ、こういう劇は機械的に磨かれていればいるほど、ヒューメンな人間劇からはじつは遠のく。観念と概念と出組み立てた作り物だから、生々しい感動と興 奮は生じにくい。建日子のしごとでいえば、「地図」「タクラマカン(サハラ)」「ペイン」の終幕には劇場がふくれあがるような興奮というものがあり、それ を感動といっても不都合でなく、涙が溢れやまぬような生気の迸りが特徴的であった、かなりに感傷も含まれ、作劇として完成度完璧と言うにほど遠くても。
 だが今回の「リバース」は玄人の舞台としては作劇にも演出にも格別の進境があるのに、舞台はそうは熱く熱せられていない。終幕の拍手がおとなしく、やや とまどってすらいる。
 この大きな理由の一つは、今回に限りいうなら、作・演出に対応する、わずか四人の俳優が、よく応えられていなかったと断定できる。
 試験採用されている新人のカウンセラー、この女優だけは、終始活躍している。その身動きもともあれ見るに堪える対応である。一人だけのわけのわからない 変な男は、その役どころを活かし、わけのわからなさで烈しく動き回り、舞台が狭いほど働いている。あれで成功なのか、鈍なのか掴みにくいが、ある種の空気 ぬき的存在でもある。なにしろマッチョである。
 しかしもう二人の女優は、大方が棒立ちで、立ち姿に工夫がない。生身の動く美しさが、からだでも声でも表情の変化でも出し切れない。
 なにより作と演出とに応じ得ていない欠点がある。一人の人物中にもう一人の難儀に曰くある別人が生き続けている設定なのに、(それは姓名の違いでも指定 されているが)その差異が、せりふや演技そのもので顕著に演じ分けられていず、マコトに曖昧模糊。ちがう姓が呼ばれてああそうかと分かる程度のぬるい演技 で、舞台がすすんでくると、初見の人は混乱するだろう、どだい一人の人が二人になりかわる機微は、てんと掴みにくい。それは役者の表現力の弱さ、その根に ある作の理解力の弱さ、以外のなにものでもない。把握が弱いために演技表現もよわく分かりづらい。
 それで、ますます、設計図は機械的なまでにかなり精密に書かれていても、建った建物は、影薄く入り乱れて貧相に曖昧で、譬えにも居間と客間との違いが、 おおそうかそうかと目に見えてこない。つまり、へたなのである。身を削るような工夫で役を造っていない。これでいいのかしらんという悩ましい自問自答が演 技に見えてこず、ワンパタン、活動的でない。
 おもしろかった、けれど、ものたりなかった。やはり感動したい。工夫されたうまい演技が観たい。たった四人で創るような芝居は、四人共が相譲らずうまく なくては、活気づかなくては、魅力に欠ける。
 少し厳しいが、また、粗筋をさえ書かないで言いつのるのだから、此の批評自体が分かりにくいものだけれど、心覚えにも、こう言っておくとしよう。建日子 には分かるだろう。

* 妻の友人にはツレがあったので、劇場前で別れて、下北澤の店でひとやすみし、わたしはビール。それからもう遠くへ動く気になれず、渋谷経由池袋に戻っ て、馴染んだ天麩羅の「船橋屋」で夕食にしてしまい、「笹一」二杯に気分良く酔って、西武線は保谷まで眠って帰った。それでも往路の電車で、湖の本の校正 を大略ひととおり終えてしまえたのは助かる。よく整えて、京都の前に凸版へ戻して行きたい。

* 今日は、こちらで「おいべっさん」と呼んでいる、えびす祭り。暖かかった昨夜、宵えびすに参って来ましたが、人に押されて歩くといった賑わいも、昔の 話になってしまったようです。
 今回のアメリカでの狂牛病騒動の波紋は、牛肉だけにとどまらず、食肉関係はかなり深刻なものとなってきているようです。このはね返りがどこまで波及する のか、消費者の買い控え等もあるでしょうし、ますます不景気という泥沼は底無しになっていくようです。景気浮上とは無理でも、せめて底が見えて欲しいも の。
 商売繁盛の神様に、よくよく、お願いをしてまいりました。
 話は変わりますが、年末の代休をもらえることになり、22日に京都へ行く予定です。久しぶりの京都行き、嬉しいですねぇ。だって、京都はというよりも、 日帰り旅行さえも、地域の役員を務めていたここ二年間、定休日(平日)の半日は諸々のことどもに費やされることが多く、遠出は無理でしたから。
 行けぬものとあきらめていた「秦テルヲ展」だけをゆうるりと観てきたいと思っています。講演を聴けないのが残念ですね。空気が乾燥しています。どうぞ、 お風邪を召されませぬように。  阿波

* 作業がものうくて。糖尿病がひどいのだろうか。血糖値は抑えているつもりだけれど、血糖値だけの問題でもなく。なんとも、今度ばかりは十七日を済ませ てしまいたい。新年はそれからだというぐらい、気が重い。


* 一月十一日 日

* 鏡割の餅を小豆と煮て、善哉につくってもらう。純日本のうまい食べ物。京味噌雑煮、煮〆、焼き餅澄まし雑煮、七草粥、この十五日の小豆粥、そして鏡割 の餅善哉。簡素明浄。

*「本文」要再校の用意は出来た。跋文だけは京都から帰って入稿する。京都女子駅伝は好きな見物の一つ。京の風光がきらきら伝わってくる。見ながら聞きな がら少し面倒な作業を仕上げた。
 二階では、綱島梁川の「病間録」を起稿し、校正し、更に音読してから入稿した。明治という時代は、こういう一種パセチックではあるが優れて高揚した基督 者の感化が、地の塩のように文化界を刺激した。わずか三十五歳で亡くなった思想家であるが、この一文は一の文藝としても凛乎とした独特の名文であり、いま やこういう思想から社会を動かそうという批評家や宗教家の地を払ってむなしいとき、或る哀情とともに、ひしと懐かしまれる。これまた「明治」の一魅力で あった。

* 都立大学人文系、奥羽大学文学部、と立て続きに文学系の学部がつぶされていきます。「文学部冬の時代」と言われて久しいですが、ここへきていよいよ本 格的な厳冬期に入る様相です。憲法改悪と雁行している教育基本法改悪も、審議上程こそ見送られましたが、いずれ必ず浮上してきます。文化審議会国語科部会 の答申では、「文学
復権」が謳われますが、これは藤原正彦、齊藤孝氏らによる「愛国心」教育の路線に乗ったもので、文学そのもの、あるいはその研究や教育にとって決して望ま しいものではないと愚考します。
 文学をめぐる情勢の厳しさのなかで、改めてその意義や意味を問い直す日々です。
 新年早々暗い話題で失礼しました。どうぞ益々のご健筆を祈り上げます。文学の「力」を見せて下さい! 山形県

* 文学部問題が行政手法上の限定された問題か、日本の教育ないし文化の根本に触れた問題か、関心を深めてフォローしないと、気が付いたときはとんでもな いドツボに嵌り込んでいて脱出不可能に成ってしまうかも知れない。日本ペンクラブには中西進氏など文学部社会に重きをなす人が自ら進んで副会長席にある。 ペンの議題たるべきかどうか、レクチュア願いたいもの。関連の情報や意向を具体的にもっと大学当局や関係者から欲しい。立ち上がるなら広い力の結集なしに は何ともなるまいし。

* ご子息の誕生日の時代の模様を懐かしく拝読いたしました。
 時間は忘却するカタリシスでありますが、思い出すと今の命のように感じます。いいお父さんを持っておるなあと思います。
 堂々と息子と話す姿に僕は感動しました。
 話題が多く、元学生の方々の「直球」メールは紺の海に染まず漂う。いや僕が漂っていることの「鏡」のようです。懺悔ですが。僕の息子の電話で、昇進の朗 報の時、「そんな大切な喜びは手紙で書け」と切りかえしましたが、僕は喜怒哀楽は時間を置けというつもりでしたが、世代が違います。嬉しいことは「噛み締 めて」こそ。
「猫」は読み続けています。  神奈川

* しかすがにてにまくちからわきいでよまことやひとは愛しきものを   老愁


* 一月十二日 月
 
* 夜前、卒業生クンが、恋人との間に問題発生と、なんと二時間はたっぷり電話で相談してきた。こういうときは聞くに徹して、ハンパには口はきかないが、 かなり難儀な瀬戸際だと感じた。やり直すよりも、立て直せ、立ち直れと云いたい。

* 1 2004.1.11   小闇@TOKYO
「世界に一つだけの花」という歌が売れているようだ。唯一無二だからこそ素晴しい、という内容で、イラク戦争に際しては反戦歌としても使われた。私も紅白 歌合戦でSMAPが歌っているのを見た。中居君、意外とうまいじゃないか、と思った。
 友人の結婚式で、新婦友人が、振り付きでこの歌を歌っていた。彼女らのうつろな目が、プラカードを掲げて練り歩くひとびとのそれに重なって、嫌な気持ち になった。
 私は街頭でのデモが嫌い。あんなことをして何の意味があるんだろうと思う。署名活動も同じ。それによって何か事態が好転したという話を聞いたことがな い。
「赤ちゃんが乗っています」というステッカーを車に貼ることにも、同じにおいを感じる。だからなに? それでなにか変わるの? と。まあ、このへんは個人の自由なんでどうでもいいんだけど。
 ちなみに、「世界で一つだけの花」の作詞作曲者は自分でも歌を歌うひとだが、彼は何年か前、「No.1」という歌を歌っていた。それが今や、「♪ナン バーワンにならなくてもいい、もっともっと大切なオンリーワン〜。」
 所詮そんなもんなのだ。そんなもんで「派兵反対」なんて片腹痛い。某新聞の「彼をイラクに行かせないで」並みにお粗末。

* 午まえから渋谷へ向かう。松濤の観世能楽堂で、梅若の研能会発会、万三郎が「翁」を。新年ではあり、「翁」はご祝儀として、やはり魅力。
 万三郎の付けていた白式の尉面は素晴らしい表現力を発揮して、目出度かった。
 だがそれだけ、で、どうも今日の演能はちぐはぐ、面箱を持ち出した役者が舞台に面箱をおいたまま、なんと、にじり口から運び出されてしまうのもおよそだ し、千歳の梅若紀長も、三番叟の野村与十郎も、なんとなくお粗末なのに、ガッカリした。気合いの乗りが淡く、がさつ。いちばん困るのが、鈴になってからの 鈴を振る高さ。まるで畑の野菜に虫除けの駆除液でも撒くみたいに、腰をかがめてチッチッチッと鈴を振る。下品なことこの上ない。「眼より下にて鈴振れば  神腹立ちたまふ」という今様の句もあるではないか。丈高く凛々と振らねば天下招福擾災の祈念にならないし、いかに農事にかかわるしぐさとはいえ、根本は祝 言藝ではないか。高らかに品良く大らかな藝で祝って貰いたい。ここ三年ほどの梅若の三番叟が、だいたいみなハズレなのは残念無念。
 羽衣と恋重荷とが予定されていたが、失礼して渋谷の街に出た。

* 渋谷という街が手に負えないと感じてからは、ここで落ち着ける店を探す気にもならなかったが、たまたま通りがかったビルの八階に、ワイン・レストラン があった。料理は世辞にも旨いとはいえなかったが、値段の内で、食前のシャンパン、そしてかなり吟味した赤と白とのワインを各二種、飲ませてくれた。つご うグラスで赤白を五杯は、堪能できる。そんな店があった。あれで料理がいいと、かなりなものだが。
 食べて飲みながら、自分の作品にアカを入れて、ゆっくりできた。どこへ回るにも時間ははやく、山手線を池袋まで寝て帰り、西武線も保谷まで寝て帰り、家 までタクシーに乗った。
 そうそう池袋の駅構内に出ていた文庫本の古本屋で、ひっさしぶりに分厚いミステリーを二冊買った。京都へ持って、行き帰りの列車で読みふけろうかなと。 講演、はやく終わらせてしまいたい。

* 秦テルヲのことを、考えている。考えている。じいッと考えて、ときどき書いている。
 京都へ行くということも想い描いている。今度も、行ったら帰ってくる。行きの列車内時間も役立てねばならんほど今回は切羽詰まっていて、せめて帰りの車 中ぐらい、となり座席にいい人が並んでくれるといいなあ、などとラチもない空想で時間をとってしまう。今回は珍しく行きも帰りもまだ切符は用意していな い。正月あけだし、なんとでもなるであろう。あけて月曜が病院と電子文藝館の会議。これでは向こうで遊んでいるヒマがない、いつものことだが。京都では、 ぜひ何処へ行きたい、何を食べてきたいということは、かえって、ない。行ったつもり、食べたつもりが利く。それがわたしの、京都。

* きちんと湖の本の初校ゲラも返送した。


* 一月十二日 つづき

* 山の美しさ   あけましておめでとうございます。
 6日に福岡に戻りました。新潟はちょうど寒波の谷間で、雪の降らない正月でした。
 暖冬傾向とのことで、こちらは穏やかな冬晴れです。明日は冷え込むそうですが、去年の暮れからわりと予報を裏切る暖かさなので、意外な陽気がまだ続くか もしれません。去年はやっかいな風邪で喉をやられましたが、今年は無事に滑り出しました。ほっとしています。
 7日、太宰府に行きました。
 さすが天満宮は広くてきれいで、参道沿いにお土産の店舗がずらり。正直、あまりの賑わいに面食らって、ろくろく境内を見ずに引き返してしまいました。印 象に残ったのは、立ち寄った喫茶店のたまごサンドが美味しかったこと。お土産を買いに行ったようなものでした。
 帰りに都府楼跡を訪ねました。ここが気持ちよかった。
 本殿や門の跡に礎石が残っていて、もう読み取れない明治あたりの記録文が刻まれてあります。近くの石に老人
が腰かけていたり、祖父と孫が凧をあげていたり、母娘連れが日向ぼっこに来ていたり。勤め人が昼の息抜きに散策しているのも見かけました。
 「跡」だけに、ほとんど平らな野原です、が、うしろに広がる大野山、文字通りの「壮観」でした。麓から頂上へ緑がだんだん影がちになって、頂きは青空と とけあうように霞んでいました。
 徒労の仕上げでもいい。自分もあの山へ。姉の帰ったあの山へ。ちょうど「みごもりの湖」を読み終えたばかりで、藤原岳が思い出されました。 
 今日は、佐賀との県境に立つ雷山へ行きました。
 中腹に千如寺大悲王院という真言宗の古刹があります。帰化僧が聖武天皇の勅願を受けて開いたとのこと。大きくはありませんが、このあたりの観光地らし く、家族連れの参拝客を多く見かけました。
 標高955mの山奥にはスキー場があるそうで、駐車場のそばにPRの看板が立てかけてありました。近くを流れる雷山川の瀬音は静かに、目を上げれば濃い 緑が迫ります。山の気は、少し寒く、澄み切っていました。
 山を抜け、来た道を引き返します。ゆるやかなカーブを下っていくと、佐賀と福岡をつなぐ糸島郡の町が遠く望めます。往路では目につかなかった菜の花畑、 キャベツの群れ。糸島半島の小さな山たちが遥か前方に並びます。
 唐津から東へ伸びるJR筑肥線に沿って、前原(まえばる)の市街地が広がっています。その町並みがようやく見えてきたあたりで東に折れ、あとは福岡まで 国道を一直線。
 帰りは成人式で混むかなと思いましたが、意外に空いていました。
 寒さは募りますが、無理のない程度にいろいろなところへ行こうと思っています。九州にはいつまでも住んでいられるわけでなし、行ける時間と手段のあるう ちに行っておきたい。そして、暖かくなったら県外、また本州にも足を伸ばそうかと。
 ドライブの一番の楽しみは、山の美しさです。街を抜けるあたりで、ビルや団地の向こうからすっとのぞくシルエットに、いつもわくわくします。
 新潟ではしょっちゅう海や川を見に自転車をこいで行ったものですが、今は海より山に惹かれています。近いうち、「長女論」など読み返してみようと思いま す。よりおもしろく読めるような気がします。
 大学のほうは、3月4月の入学生歓迎のイベントをにらんで、かなり忙しくなってきています。いっぽうで月末から試験。大学の忙しさは別に苦でなく、楽し みながらやっています。試験の落ち着いたあたりに、またメールできればと思います。
 それでは、迪子さんともども、どうかお身体お大切に。

* 親愛なる九大法学部の理史君から、いつもながら、きびきびと言葉の生きた今年初メールが来た。彼の運転する車に同乗して、同じ視線で一つのモノを観て いるような楽しさ。理史君の文章からはいつも颯爽とした風が走ってくる。彼の若い息吹とも、九州の風光がたたえた生気とも。願うのは、いつもただ、怪我な くて、と。父上や母上にもこういうメールをいつも送り届けているのだろうか。
 もともと理史君のご両親が、はやくからわたしの作品を読んでいてくださり、少年は小学校からわたしの本に手をふれ心を寄せてくれていた。なんやかやとい ううちに、この春には三年生ではないか。早いなあ。

* 梅原猛さんが日向神話を足でかせいでいろいろ書いていた。理史君に、あれを送って上げようかな。

*「夜明け前」の青山半蔵は苦渋の道を歩んでいる。明治維新。青山家累代の本陣、庄屋、問屋の三職も廃止され、新たな戸長の役柄も、免職されてしまう。木 曽の山で生きてきた多くの地元民のことが新政府の地方官に理解されず、あまりに無謀な短絡な虐政が平気で強行される。半蔵は必死に奔命奔走してその不可で ある所以を訴えんとし、それが忌避され免職されたのである。
 半蔵は、思いの外の維新の成り行きに心を乱されて行く。単身東京に出て教部省にいっとき籍をおくものの、観ること聴くこと、すべて復古の清純を願う彼の 思いとは逆へ逆へ行く。思いあまってか、半蔵は慕い奉る陛下行幸の列へ駈け出て、歌一首をしたためた扇子を投じてしまうのである。先導の車とみたそれは帝 の御輦であった。収監され保釈され裁判をうけ、辛うじて五十日の懲役は免れて三円なにがしかの罰金を支払って済んだ。彼は、神社につかえて宮司でありたい 希望をかすかに叶えられようとしているが、そこは、馬籠からまだ二十五里もの雪深い山奥の社のようである。

* 藤村の筆は悠々と緩急自在に大波打つように流れて行く。明らかに漱石にも潤一郎にも書けなかった古今未曾有の境地が、きびしく畏ろしく進行して行く。

* 「日本の歴史」は難関である。徹して江戸初期の農村史である。ここを越えてはじめて元禄時代へ辿り着く。いちばん時間がかかる山坂である。

* 薫中将は、父八宮の不在に宇治をおとない、二人の姫にはじめて近づく。そこには薫出生の秘密に触れていた老女も同居している。薫との応対に、たぐいま れな資質を感じさせる姉大君との歌の贈答は、まだ相聞ではないけれど、しっとりと、とても心懐かしい。

* 現会員、宗内敦氏の随筆、堀内みちこさんの詩、水野るり子さんの詩をたてつづけに入稿し、そして招待席へは綱島梁川の論説を送りこみ、いま、片山孤村 の「神経質の文学」を起こしている。やがて新潮社創業の佐藤義亮の回想、現会員松田章一氏の戯曲その他が入って行く。平塚らいてう女史の青鞜創刊の辞も用 意している。「ペン電子文藝館」そのものが「批評」活動である意義を得て行くのである。

* ハイネの詩に、シューマンが曲をつけている。「詩人の恋」48。ギーゼンのピアノでテノールのヴンダーリヒが歌っている。惜しいことにこの人は家の中 で事故死したらしい。
 ハイネの詩を日本に初めて紹介したのは「嶺雲揺曳」の熱血田岡嶺雲だった。わたしが、生まれて初めて翻訳ながら外国人の詩集を買ったのは、あれはアテネ 文庫の「ハイネ詩集」であった、なにしろわたしでも手に出来たほど廉価本であった、アテネ文庫は。岩波よりみな厚さは薄かったけれど、いつでもいい本がや すく買えて有り難かった。そしてハイネ詩集は若い日に出逢うのに本当に懐かしい恰好のものであった。いささか、へんてこな翻訳のようにも感じながらその稚 拙な韻律が可笑しくもおもしろく身につまされて愛読し、しらずしらず暗誦したのである。
 この年になってハイネの詩にまた出逢って、また、こと新たしく身につまされるとは思わなかった。

* 母のちがう妹が川崎に二人いて、両家にむかしは小さい子が何人もいた。けれど。みなもう大きくなった。姉の方の長女が今夜初めてメールをくれた。或る 会社に三年、別の会社に三年勤めて、石の上にも三年で落ち着いていますという。とても珍しい心地。
 娘の所の孫娘はずうっと幼いけれど、それでも、姉のやす香は高校生だ、たぶんカリタスという学校にいるのだろうと想像している。検索で名前が出たことが ある。妹のみゆ希はもう中学生になったかどうか、この子がなんと碁がつよくて、碁をうちに中国にまで行ってきたと、まわりまわった別の方角から教えてくれ る人がいた。これまた、びっくり。今の子だもの、メールぐらい出来るだろうになあ。


* 一月十三日 火

* ネグリジェ 2004.1.12    小闇@TOKYO
 ネグリジェで寝ている。ネグリジェという語感字面から想像されるものよりは、ワンピースとかロングシャツと謂ったほうが近い。要は下履きのない寝間着で ある。毎朝、目が覚めるとかなりキワドイ格好になっている。もう三ヶ月くらいこの状態が続いていて、一向に慣れる気配がない。
 パジャマだと思って買った。「婦人物パジャマ」と書かれ、袋に詰められていた。色もデザインも好みで価格も手ごろだったため、ふたつ買った。帰って一度 洗おうと袋から出し、想像していたパジャマとは形状が異なっていることを知った。
 昔、ネグリジェで寝ていたことがある。写真が残っている。たぶん小学校三年生の頃だ。ネグリジェ姿の私のほか、父親の釣り用ズボンを穿いた弟(ぶかぶ か)、同じくベストを着た妹(ぶかぶか)が写っている。実家の居間に無造作に、しかし明らかに飾ろうという意図を持って置かれていた。二十年以上前のもの だ。その頃は、まくれ上がりに困ったことはない。
 当時と違うのは、丈の長さである。写真の中のネグリジェは、くるぶしまで長さがある。一方現在着用しているものは、ふくらはぎの一番太いところまでしか ない。このわずかな差が、快適な目覚めに貢献しているのだろう。そういうことは、わりとよくある。
 それとも、ひところ裸で寝ていた後遺症かなと思う。学生生活最後の三年間くらいは、季節を問わず、裸で寝ていた。だれかが部屋にいるときは仕方なくT シャツを着たが、たいてい裸でいた。思えばあのころが一番不眠知らずだった。その反動か。こういうことも、わりとよくある。
 それにしてもなぜ、衣料品に関してはいまだに「紳士物」「婦人物」という呼称が残っているのか。紳士なんて、この世から消えてもう何年も経つだろうに。

* こういう、艶な想像の領分をリアルに提供できる文章は、この「小闇」ならで読む機会がない。今一度推敲すれば粒のいい珠になる。惜しいのは、結び。 「何年も」ではつまらない。「何千年も」とあって、男が立つ。
 小闇は、リードに、「私も良いワイン飲んだのですが、シノワですか?」と書いている。昨日能楽堂の帰りに、東急本店からのゆるい坂通りで見つけ、八階ま でわざわざ上がった店が、名前など覚えてなかったが、確かめてみると「Chinois-shibuya」と領収書にある。目敏いナ。小闇はめったにメール を書いてこない、湖の本もたぶん積んで支払いも忘れている方の人だが、ときどき、いや屡々かも知れない、このホームページのリードで、親愛にものを言い掛 けてきてる、ようだ。食べ物のことが多い。いろけのない闇だ。

* 松濤の能楽堂では、めずらしく、誰とも知った顔と出逢わなかった。二番目の「羽衣」は観たいものの一つだったが、シテが物足りなく見捨ててきた。松濤 の招待券は指定席以外の自由席だから、そんな時は一番右の奧手すり寄りの席へつく。視野がいい。どうせ眼鏡をつかわなければ今はどこにいても霞んでしまう のだから、明いてさえいればウシロの右奧へ入ることにしている。昨日は、なんだか人恋しくて、だれか来てないかなあと眼で探したりしていた。誰とも逢わな かったので「シノワ」へあがる気になった。

* 建日子の舞台も、あの翌日にも昼・夜と打ち上げて無事に終えたようだ、よかった。掲示板の反応も「大好評」などという字が目立っている。いい上げ潮に 丁寧に乗ってゆくがいい、勘違いせぬように。

* ようやく「京都」に曙光が見え、ほうっと今、たった今、一息ついている。力は尽くした。今夜から明日には、ホームベースに滑り込めるだろう。木曜には 散髪して、すこしマシになって出掛けられる、かも知れない。

* 文藝館も着々掲載されて行く。「出版・編集」特別室も、短期間によくと思うほど充実してきた。これから校正する新潮社創業の佐藤義亮の「出版おもいで 話」に興味津々でいる。

* 深夜に二時間も三時間も失恋のおそれを悩んでいた青年、危機を乗り切った、元気ですとゲンキンな喜びのメールを寄越した。しっかり、やりや。

* 行く人来る人  2004.01.11  小闇@バルセロナ
 若ければ、気には留めなかった。何も珍しい話ではないから。
 その人は、控えめに、そして少し恥ずかしげに言った。
 「ここに住みに来たいと思っているんです。」
 穏やかで落ち着いた物言いに、100%無謀とは感じない。そう譬えるには行き過ぎた歳なのに、どこかしら柔らかな蕾を思わせた。よい年金生活を送って欲 しいと願った。
 ちょうど前日に会った人を思い出す。退職し、スペインに来て一年。日本へ帰国することになった。今さら大変だろう、と思うのは、歳のせいだけではない。 その人は日本が嫌いで、当時、まるで日本から逃げてきたような感じだったから。
 したかったことがうまくいかない時、誰だって失望する。でも「Aするのを避けるために、Bした」そのBがうまく行かなかったら、絶望するかもしれない。
 大学時代、その大学から逃げ出す道ばかり探していた。失望はしたけれど、絶望はしなかった。逃げなくてよかった、と今にして思う。
 
* バルセロナがスペインのどの辺りとも自覚がなかった。東海岸とでも謂うのだろうか、あれは地中海なのか、貼り付くようにして「バルセロナ」とした分か りいい略地図を、テレビのなんだかしれない番組でバッと見せられ、フーンと納得した。

* 渋谷は手に負えないと書いていらっしゃいましたが、成人の日の渋谷の雑踏を想像するだけで、私は眩暈がしそうです。以前は落ち着いたよい街でしたの に、人間の数と騒動はすさまじくなってしまいました。渋谷のオーチャードホールや文化村の映画館、観世能楽堂に用があるとき以外は、渋谷に出かけることを ついつい敬遠しがちです。
 でも、渋谷の奥の松涛は今でもひっそり静かですね。松涛の都知事公邸のさらに奥まったところに松涛テニスコートがあり、中等科の頃はそちらにテニスの試 合にまいりました。スポーツ嫌いの私がテニス部などに入ったのは、ただあの白くて短いスカートをはきたいという不純な動機でしたので、弱かったことったら ありません。無惨な初戦敗退を続けテニスは結局私の人生から消えました。
 さて松涛から渋谷の雑踏に戻れば危険がいっぱい。世界的なテノールでワグナー歌手のルネ・コロは原宿を歩いていて若者たちからお金を脅しとられたそうで す、ゆめゆめご油断めさるな。   品川区

* 浮き名立ちゃそれもこまるし世間のひとに知らせないのも惜しい仲

* 三遊亭圓生が長い枕で都々逸坊扇歌のはなしをしたのが、すてきにおもしろかった。その長い枕をそのままそっくりパクったようなサイトがあって、圓生が 教えてくれた都々逸の中でも耳に残っていたのを含め、沢山な都々逸が蒐集してあって、楽しんだ。ラジオ時代に寄席が入って柳家三亀松が話したりすると、な みの咄より大喜びして聴いたのだから変な少年であった。上に挙げたのは、機微をほろ苦くついているが、次のは、機微は機微でも品がない。「ほととぎすいき な声して人足とめて手を出しゃおまえは逃げるだろう」とは、すこし笑えてしまうけれども。
 都々逸は、川柳よりおもしろい、かも。

* 金網の上で脂をしぼるような焼き肉というのを、たしか、一度だけ食べた気がする。あれはかなわないと思った。生来肉は嫌いどころか好きな方であった し、いまでも食べるけれども、意気でなく粋でもない。日本酒が合わない。
 銀座に、とても高級ととてもネタよしの二軒の寿司屋が、二軒とも閉業したのが今も惜しい。いま寿司というと、数軒の行きつけがあるが、三百人劇場の帰り の巣鴨「蛇の目」が気に入っている。銀座の「福助」池袋メトプラ地下の「ほり川」も。俳優座劇場裏の「枡よし」も馴染んでいて、よろしい。簡略に美味い魚 が食べたいときは、池袋東武地下の「寿司岩」の狭苦しいカウンターで、シヤリはおしるし、特上を食べる。いと、やすし、但しビールだけで酒がない。


* 一月十四日 水

* それにしても、「電子文藝館」招待席、秦さんの幅広い目配り、たくさんの人の教養を偏りなく高めます。近着では、山路愛山の「徳川家康論」、いろんな 意味で、見事な! と思いました。ますますのご活躍、祈念しています。 八王子

* 朝一番に、面識のないペン会員のメールが来ていた。こういう自ずからな感想に、励まされる。

* 昭和の敗戦ではたしかに他律的に世の中が変わった。わたしは子供であったから責任のある感想とはいえないが、あの大変化を待ち迎えたことに深刻で意外 で足場を喪うような凄い失望はあまりなかった。むしろ希望と期待がもてた。敗戦が国民学校の四年生、疎開先の丹波から京都に帰り少し落ち着いてきた頃に、 思春期そして中学生。素直に民主主義と新憲法とを歓迎できた。アメリカから押しつけられたという現時のいろんな声は、むろん当時は、京都市井の新制中学生 には聞こえても来ない。そして、由来はいかにあれ、それが憲法という国是として国民的に了承し受容していた重みを、やはり何より大切に感じていた、大人に なっても。
 が、そんなことが、今言おうとしていることではない。この昭和敗戦の変動よりもはるかに質的に大きな変革であったのが明治のご一新ないし明治維新であっ たらしいのを、藤村の筆は木曽馬籠宿と青山半蔵(藤村の父にあたる)の運命を通してひしひし伝えてくることに、深々と胸うたれているということが云いた かった。
 こういう筆あとに揺すぶられたあとで、翻訳物のミステリーは、その文章の索漠一つのゆえにも、とても読みつげたものでない。おはなしにならない。

* かなり多く続けて、このところ明治の文語文と付き合った。凛々たるものだ、膝をうつ名文にも幾つも出逢えた。それらはみな、時代と対峙して必然の感慨 をこめ、迸る正心誠意で書かれていた。むろん、時代が変わり日本語が変転して、誰にも読めるとはゆくまいが、同じ日本語であり、漢字が使われルビも豊富 で、その気になれば平安の古文よりはるかにやさしい。それらは、論説もまた、評論もまた、随筆も当然ながら「文藝・文学」であるという魅力をおしえてくれ る文章だった。
 対比して今日の、現今の、総てをナミして云おうなどとは決して思わない。同じように、文藝・文学の魅惑に、ファシネーションに溢れていると喜べる作にも 出逢えるであろう、それを、大切にしたい。時代を乗り越えて行く新しい真に優れた文体の創造は、若い書き手の天才に期待するしかない。前衛の沸騰は、「現 代」がいつの時も常に直面した運命であり、運命に淘汰されて金無垢の作品があとへのこることを「歴史」はいつも期待してきた。僥倖は一時のもの、結局は何 が大事かは、書き手の、また読み手のちから次第となる。鋭い鞭撻が聴かせるあのヒュッと撓い鳴る生気。あれが無くては「かびくさく」腐り出す。腐っていな い、ただ不幸にして忘れられかけている作品を、一つでも、一人でも多く「ペン電子文藝館」に蘇らせておきたい。それがわたしの、又一つ現代への「批評」 だ。

* 長谷健の昭和十四年上半期芥川賞受賞作が、遺族の快諾とともに出稿され、スキャンを終え、校正に入る。「はせ けん 小説家 1904.10.17 - 1957.12.21 福岡県山門郡東宮永村に生まれる。「あさくさの子供=星子の章」に対し昭和十四年(1939)上半期芥川賞受賞。教師体験を活かして真摯に書かれたけれん 味ない受賞作は高い評価と広い支持を得て、続編「桂太の章・律子と欽弥の章」とともに読み継がれた。 掲載作は授賞対象作で、昭和十四年(1939)同人 誌「虚実」第二号初出、長谷は三十五歳であった。」やや長いので、校正に時間ががかかる。
 新潮社創業の佐藤義亮「出版おもいで話」も、読書家にはちょっとこたえられない話材に富んだ、長編、なかなかの好文章である。このスキャンも出来た。H 氏賞詩人二人目の水野るり子さんの詩編も本館に掲載になった。

* 思い通りにスライド画像の操作をしてもらえるかどうか、分からないが、それは出たとこ勝負として、やっと明日一日の余裕ができて、ほぼ万端気持の用意 は出来た。ここまでやれば、アトの成功も失敗も気にならない。けっこう追い込まれた歳末年始だったけれど、ここまで来れて、「秦テルヲ」はかなり手に入っ た。

* 都々逸がおもしろくて再訪したサイトを、今少しイジッテいたら、此のサイトの本家筋の主人が、案の定圓生好きの固まりのような人らしいと分かり、敬意 を表しすこし挨拶した。掲示板には咄に出て来そうなイキな江戸っ子が多くて、わたしのようなヤボはお呼びでないが、おもしろい世間があるものだなあと。都 々逸やら名調子やらを読み、また圓生の噺の演目だけでもずらあっと並んでいる、それが面白い。圓生だけは百席だけでなく、よく聴いてきた。
  明けの鐘 ごんと鳴るころ 三日月がたの 櫛が落ちてる四畳半
  明けの鐘 ごんと鳴るころ 仲直りしたら 過ぎた時間が惜くなる
  もうこんなんなっちゃったと 鬢かきあげて 忘れちゃいやです今のこと
 フーン。そうなんだ。

* わたしの宗旨は、江戸の都々逸よりだいぶ溯る。
  盃と 鵜の食ふ魚(いを)と 女子(をんなご)は 方(はう)なきものぞいざ二人寝ん  梁塵秘抄
  身は鳴門船かや 阿波でこがるる  
  きづかさやよせさにしざひもお   閑吟集
  よのふけのひとのことばはうつくしくふるへてゐるといふがかなしさ   


* 一月十五日 木

* 小豆粥の雑煮を祝った。

* 電子メディア委員会の山田委員長から、下記「住基ネットに対する意見表明・案」の提言があった。かねて希望していた。山田さんがしばらく療養中であっ たのが、よほど恢復されたようで喜ばしい。
 趣意に異存はない。ひろく合意と姿勢とが纏まって行くといい。あえて、われわれの目下の思い(検討して、より良い形で有効に発信したいと思う。)を、こ の「闇」へ放っておきたい。

* 住民のプライバシーは誰のもの?  ペン電メ研・起案
 インターネットに代表される情報のデジタル・ネットワーク化は、これまでの個人情報の管理の仕方や運用の方法を根本から変えることを求めています。
 それは私たち個々人がもっている場合や、民間企業が収集・保有している場合にも当てはまりますが、とりわけ公的機関が所有する個人情報において重大な意 味を持ちます。
 デジタル化は、大量データの集積・結合・検索を容易にするとともに、その恣意的な改竄を跡形なく実行することを可能としました。
 ネットワーク化は、どこからでも情報に接近できる可能性を作り出し、いったん漏れた情報が瞬く間に世界中に広がる危険性を内包することになります。
 もちろん、これまでにもそのための対策は行われてきましたし、いまでも多くの努力が日夜なされていることを私たちは知っています。
 たとえば、ネットワークセキュリティー(コンピューターシステムの安全)を守るために、技術的にさまざまな試みがなされ、また法律が整備されつつありま す。ファイアーウォールの強化や不正アクセス禁止法の制定・強化などがそれに該当するでしょう。
 しかし、先の長野県が実施した侵入実験でも明らかなとおり、そのシステムに「絶対安全」はあり得ません。侵入の可能性、危険性を常に意識したシステム構 築が求められているのです。
 そのためには、セキュリティー対策とともに、組織が保有する個々の個人情報をどう守るか、いわゆる「データ・プライバシーの強化」をどのように確立する かが必要になってきます。
 そのもっとも基本的な考え方として、個人情報の収集・管理を行う国・地方公共団体に対し、私たちは改めて以下の三つを求めます。
 1.データはできる限り分散管理すること。
 2.データの名寄せ(結合)は行わないこと。
 3.データベースごとに異なったパスワードを使用するなどのアクセス障壁を設けること。
 そして、住民基本台帳ネットワークについてはさらに、地方公共団体に、以下の点を強く期待します。
 1.住民(の情報)を守ることこそが地方公共団体の最大の責務であることを強く認識すること。
 2.市町村区は主体性をもって、積極的なプライバシー強化対策を施すこと。
 3.都道府県は臆することなく、国に対してシステムの変更を求めること。
 現在の住基ネットが集中管理方式を採用し、いったん侵入があった場合はその被害を大きくする危険性が高いシステムであること、数多くの行政事務が集約さ れ、事実上、個人名の名寄せが無限定に行われていることは、個人情報の安全管理としては、最も危険な状態が増殖しているといえます。
 地方公共団体は勇気をもって、住民の立場に立って声をあげて下さい。国が決めたことに従うことが、住民利益を損なうことになるからです。私たちは、勇気 ある自治体を応援します。

* これは単に声明として打ち上げるのではなく、可能な限り国と自治体へじかに働きかける「基本」を纏めてみたのである。早い時期の委員会討議が待たれ る。

* 味噌汁talk 2004.1.14   小闇@tokyo
 部署の飲み会。少し遅れたらそこしか席が空いていなかった。隣には、去年この部署に異動してきたひと。よく知らない。あまり話もしたことがない。どうし ようかな、と、向こうも思っているのが判った。
 ところが、味噌汁でエキサイトした。
 「僕ねえ、妻の味噌汁が許せないんですよ」。奥さんの味噌汁は具沢山で、具は単品、せいぜい二種類まで派のそのひとには、それが許せないらしい。
 「だって豆腐とかにんじんとか大根とかねぎとか里芋とかもう、そんなに入ってたら、豚汁じゃないですか」。いや豚肉入ってないと豚汁じゃないと思うけ ど。結婚八年、猫と子どもがいなければ離婚していたそうで。
 「ところで家で味噌汁って作る?」。私はほとんど作らない。朝は週末にまとめて作ったものを電子レンジで温めるだけだし、昼は外食、夜は食べない。「作 らないですね〜ここ数年で二、三回ですね」「ええっ信じられない味噌汁作らないの? 飲まないの?」「飲まないです」「じゃあ何食べてんの、朝」。
 納豆とか切り干し大根の煮たのとかヒジキの煮たのとかおからの炒り煮とかそんなのですよ、と、言うか言うまいか逡巡しているうち、ほかの話題に移った。 けれどそのひとは、思い出したように味噌汁に言及していた。私だけでなく、周りが皆呆れ、それを楽しんでいた。
 しかし。いいじゃないか味噌汁作らなくたって。何食べようと勝手じゃないか、それに何を飲んでも。その席でも指摘されたが、二時間の宴会、ずっとビール で通したっていいじゃないか。紹興酒は苦手なんだよ。
 と、思いつつ、昆布とぐらぐら煮立つ鍋を横にワカメを戻し、豆腐を切り、タマネギをスライスする夜十一時。あんまり味噌汁味噌汁って聞いたんで、飲みた くなってしまった。具は三種類、これが私の味噌汁のルール。次は麩と海苔とオクラ、それからネギと菠薐草と馬鈴薯だな。

*「部署の飲み会」という体験を、ほぼ全く持たないで過ごした、勤務の昔。十数年の前半はそんなことに使える金が、足りないと言うより、持てなかったし、 持つ気がなかった。後半はひたすら創作に打ち込んでいた。この小闇は、ほとんど中毒のように飲み会に加わっているみたいだ、体力に感じ入る。ロスとプラス と、どっちが多いのかなあと余計な想像もする。楽しそうだし、「いいじゃないか」。
 わたしは、群れて飲み食いというのが好きでない。酒も、一人酒か二人酒がいい、男と二人では少し寒いが。なにより日々「書く」ことに捧げられていた若き 日は、時間と気力とが宝であった。そして思うのだが身の回りにもそのように群れて「飲み会」をしている人が多いとも感じていなかった。それはわたしの迂闊 というもの。
「ハタクンも、もう少し如才なく生きるようにしてれば、もっともっと大きな存在になったやろに」と、京都の、中学だか高校だか同期会で誰かにわざわざ席を 起ってアイサツされ、ビックリしたことがある。顔もよく覚えていない同窓生であったが、そんな風に遠くから見てくれていた批評家があったのに驚き、そうな んだろうが、そりゃ無い袖のうちだなと苦笑した。
 みそ汁は蜆だけでいい。澄まし汁は蛤と柚子がいい。

* それよりも小闇に、もう言ってあげなくてはならないのは、この「闇の私語」の文体が、巧みに強く固まってくればくるほど、小説の文章へ転じるのに、 おっそろしく堅い難しい壁を打ち破らなくてはならないよ、と。小説はコラムではないから。

* 高津神社のとんど焼きへ行っての帰り、近鉄劇場で「法王庁の避妊法」を見てまいりました。月の綺麗な晩でした。
 以前に一度見た芝居ですが、今回は、勝村政信さんが、謎を説き明かしたい一心で、周りを振り回す“研究者”オギノ先生を描いていて成功しています。アン サンブルも良く、越後弁に笑みこぼれつつ、研究が神の領域に至ることに気付く終盤、受胎 産む 生まれる―それぞれの深さを、あらためて思いました。    大阪

* この芝居、わたしも東京で見ている。荻野式の発見。科学と摂理。たしかに、深いものに触れざるを得ない舞台であった。荻野博士の、芝居にも大事に語ら れる当のご子息が、わたしの勤務時代初期の執筆者先生で何度もお目にかかりよく話していたので、ひとしお懐かしい想いも添う舞台であった。

* 散髪して、万端、落ち着いた。車内でする湖の本の校正もなく、機械は持たない旅なので、明日の列車は京都まで寝て行ける。文庫本の「捜査官ケイト」は いまぶんあまり乗らないから。帰りも寝て帰れる。会場には知った顔が現れませんように。心行くまで秦テルヲと向き合いたい。それにしても美術館はどっち。 岡崎の、市立、国立。そんなことも頭に入っていないのだから、ノンキな講師。

* 中村星湖の作品を読もうとすると少し手づるが必要になろう。それでも此の作家は山梨県では有名な筈である。「少年行」という長編小説で認められたあ と、島村抱月と「早稲田文学」に殉じたような文学経歴を経て、抱月の死後は農民文藝会を起こしたり渡仏してロマン・ロランに接したりして、太平洋戦争が起 きると郷里に帰り自適した。今度起稿した「女のなか」は作者の自愛作。著作権者が幸便に知れて、いま電話でお願いし即座に快諾された。校正も済ませていた のですぐ入稿した。五百人近い、錚々たる文学史上の人達を既にあつめているので、ずいぶんお願いしやすくなっている。有り難い。

* 大阪日経と明日夕刻前に京都の美術館で打ち合わせると、電話で決めた。さ、荷物と着てゆく物との用意。

* 異様な気圧変動でここ数日天候の動揺ははげしかったが、すうっと今夜あたりから冷静にかえるらしい。今鳴いた烏のようでおかしいほどである。カンと音 がしそうに夜気がこわばってきた。見えない物まで見えてくる。
  冬の水一枝の影も欺かず  草田男
 風をひかぬように行ってこよう。

* 二月歌舞伎座通しの日がきまった。券がとれたと。鴈治郎、玉三郎、団十郎、仁左衛門、三津五郎、梅玉、左団次らと覚えている。扇雀丈も「良弁杉」に。 寒い盛りであろうが、心温かに楽しみたい。三百人劇場の「羅城門」も招待が来た。俳優座も。


* 一月十六日 金

* 寒いが早起きした。綱島梁川の校正を山石氏に連絡し、メールを一つ送り、もう一時間以内に出掛ける。源氏物語では「橋姫」を過ぎ、今朝から「椎本」 に。バグワンも少し読んで行く。明日帰る。

* 自然に。自然に。


*  一月十六日 つづき

* なにもしない、呆然として、ときどきペットボトルの茶を飲む。少し眠っていたと思う。名古屋から先は用心して眠らないが、ぼうとしていた。簡単に京都 に着く。地下鉄で市役所まで行き、外へ出ると曇って心持ち霧のような雨。ロイヤルホテルは直ぐ近く。
 シングルが用意してあったらしいが、顔を見てツインの部屋にとり替えてくれた。
 三条河原町の画廊は琳派っぽいやすい展示でよくない。三条大橋をわたり、さてと立ち止まり縄手に入って「今昔」に寄り凱(ときお)クンの顔を見てきた。 母上はすっかり二階で寝たきりだという、気の毒に。
「龍ちゃんは元気」
「はい、元気にしてます」と、それだけで安心して、古門前を東に。至文閣を覗いて、近いうちに会長か社長か販売部長と対談したい意向を申し入れておく。切 り通しに入り正観堂で、体調わるいと風の便りに聞いていた主人を、ちょっと見舞う。声がかすれている。元気に「はやくよくおなり」と言っておいて、直ぐ近 くの菱岩を覗き、主人岩松サンにいつも歳暮にごちそうを頂くお礼を言う。岩松氏、元気。
 新門前で、もとの我が家はどこかいなと。家を出て目の前西よりの電柱がなかったら、通り過ぎてしまう。ひどいテナントビルになっていたのが、すっかり変 わり、小ぎれいな今風の美術店に。ほほうと覗いていたら、店の人に見咎められた。むかし此処に暮らしていたというと「そらなつかしやろな」と言われたもの の、さて変わり果てていてそんな感じも湧かなかった。
 白川沿いに三条へ出て、星野画廊を覗いて星野さんに声をかけただけで、近代美術館へ。画廊の主人公、「あしたは、ぎょうさんきゃはりまっせ」と言われ て、なんだかかえって意気阻喪。
 秦テルヲ展をたっぷり時間を掛けてみた。練馬美術館より広くて明るい。展示の仕方も少なからず違うが、絵は絵で変わりなく、やっぱりよい展覧会だった。 星野画廊は、なにしろ時期がわるい、と。歳末年始は、人出がどうしても春秋ほどよくない。それは確かに惜しい気がするが。
 学芸部の島田康寛氏と担当の小倉さんに会う。初対面の小倉さんは、わたしの専攻の後輩にあたる。大阪日経の須山氏もみえて、スライド映写の打ち合わせを した。
 さっさと済ませて解放してもらい、ひとりで、神宮頃道から青蓮院前を瓜生岩まで行き、西するかすこし思案して、懐かしい坂道はくだらず、知恩院三門を見 上げたくてまっすぐ南にすすんで、圓山公園に入った。夕闇迫る池で、鴛鴦や鴨の泳ぐのをながめ、大枝垂れの桜木に烏の二、三、四、五羽もじっととまってい るシルエットの美しさに感じ入る。枯木に寒鴉は似合う画題であるが、そんな常識をはるかに打ち破るほどの美しい風情に見とれた。長い豊かな枝垂れの優しさ に、鴉。黄昏れて行く空を背に、黒い上の黒い鴉があんなにしんと寂しく美しいとは。
 八坂神社に賽銭を投じて鈴を振り、下河原へ出て「浜作」まで行ったら、さまがわりして、此処がもう残った唯一の店になっている。祇園富永町の「浜作」は 長いながい歴史を閉じた。不運の続いたあげくの最期の牙城になった下河原店だが、ちょっと店のさまは案じられる。幼なじみの女将とも言葉だけ交わしてきた が、おもわずウーンと声も出そうに老いていた。
 京都も、かわりなくすばらしい場所はいくらもあるが、「人」だけは容赦なく老いてしまい、見る影もない。つまりは私もそうなのだけれど、勝手なもので、 自分はいまだに中学高校大学生波の気分でちっとも変わっていない気で居る、いい気なものだが、そういう気で昔の女友達の顔など見にゆくのは「残酷なわる さ」に過ぎぬということを実感する。歳々年々人不同とは、無残な真実。京都へ特別いつもいつも行こうとわたしがしないのは、人が変わり果てて、しかも数を 減らしているのが辛いからである。
 八坂神社境内にもどり、思い出の深い辺りにやすらい歩いてから、楼門の石段を下りた。すっかり四条は宵の街なみとなり、こころもちとぼとぼと歩いて、ホ テルに戻るよりも気分の嬉しい食事を、ぜひ祇園でして行きたくなった。中華料理の盛京亭も懐かしいけれど、もうすこし奢りたく、大原女屋でもその気分には 物足りなかったので、よほど「味舌(ました)」の前で気は動いたが、それならいっそ通りの向こうの「千花」が恋しいと思い、縄手で下(しも)へ渡って少し 戻り、心安い路地の奧の、風情の暖簾を分けて、予約もしていないのに声を掛けた。暮れにはめでたく恒例の昆布をもらっている。顔をみて、店中で愛想良く迎 え入れてくれたのが、時間はまだ早い五時少し過ぎであった。
「千花」なら、料理は任せておいて何の不安もない。まだ刻限も早く、店中を独り占めにして、八十すぎた老主人に、また跡取りの板さんに、話し相手をして貰 い貰い、酒もうまく料理もうまく、なにとなく寂しかった身内の京都に、ほうっと、佳い灯がともった。万という札を二枚出して足りますかという程度の奢りで あるが、とても気分が好い。なにより出される器が総じて京風に華奢に美しいのもそうだが、酒器も瀟洒で、しかも徳利一つに酒のたっぷりなのが嬉しい。徳利 の小さい貧相な店はイヤやなあといつも思うのは酒飲みの意地がきたないからか。
 ここでは歌舞伎の今昔が話し合える。ほうほうと思う裏話も聞けるし、かなり役者の藝に厳しい。役者だけでなく、料理屋の板前の藝にもなかなかしたたかに 中身の濃い噂が聴ける。むろん客がわたし一人だからの内輪な話だけれど。
 さらには祇園のあれこれの老妓、ということは、つまりわたしも知って覚えているような名前のこと、また今いまの舞子のはなしなども聴けるから、酒のまず かろうワケがない。咄の肴にホンモノノ酒肴がこきみよく出てくる。いつもいうことだが、この店は、食べ物の出る「間」がすこぶるよろしくて、気持ちよく流 れに誘われるように食べて行ける。刺身も吸い物も焼き物も煮物も、「千花飯」とひそかに読んでいる独特のご飯にも堪能する。明日の講演など忘れてしまって いた。
 露地まで見送られて、四条通りに出たが、もう何処へ寄る気もない。木屋町か此処も馴染んだ「たん熊北店」のわきを河原町の賑わいに抜け出て、ぶらぶらと ロイヤルホテルへ戻った。
 もう少し飲みたいなあと、たががはずれている。地下へ降りて、瓶出しの紹興酒をグラスに一杯だけ飲もうと思った。伊勢海老を半身に料理したのがあり、そ れで、とろりと濃い、だれかさんがセクシイなと謂うていた紹興酒、を眼をとじて、ひとり、ゆっくり味わった。
 部屋へ戻って、やっと、明日の心覚えに用意したものに目を通し、湯につかり、また缶ビールを一つ冷蔵庫から出し、テレビのチャンネルをぱらぱら押してい たら、おっそろしいようなポルノ場面がテレビから飛び出し、呆気にとられた。
 もってきた翻訳物のミステリをしばらく読んでいる内に寝入って。夜中に、軽く咳が出たので、起きてそのための風邪薬をのみ、また寝入った。百人一首を六 十幾つまで数えていたが、枕元で起きろとベルが鳴ったのはもう朝の九時前だった。


* 一月十七日 土

* 日経がタクシー利用券を昨日呉れていたので、利用させて貰おうと、チェックアウトするとすぐ車に乗り、出町柳の菩提寺で墓参。小雨。花をかえ水をか え、墓の中の父や母や叔母に暫く話しかけ、迪子のまずは息災、建日子の元気な活躍など報告して、お寺さん夫妻にもアイサツしてから、車を曼殊院に走らせ た。
「猿の遠景」を持っていたので、お寺に置いて来たかった。驚いたことに、お寺の人が、それは若かったり女の人たちであったりのためか、曼殊院に伝来の伝毛 松筆の重文「猿図」を、この寺のお宝の一つであったと、知らない。ま、そういうものだ。
 佳いお庭。わたしの来た京はいちばん寒い時期かも知れない、ダウンも待たせた車に置いたままで、素足で院内を歩むと、舞い立ちそうに足冷たく、冷えに冷 えた。寒いなあと全身をかたくしながら、懐かしい庭と、しばらくじいっと向き合っていた。
 ついで、やはり円通寺。おかしいほど、いつもの道行きだ。比叡山に雪がかなり降りていて、借景は、冷え冷えと冴え渡った。円通寺へは、なかへ入って行く 感じが何よりも静かで嬉しく、臘梅が咲き匂っていて、時を忘れた。円通寺へは、そこまで行く道、そこから出て行く道も、険しい坂有り、迫る山かげあり、学 生のむかしは妻とひたすら歩いてきたのだなあと思い思い、やはり今昔の感に包まれてしまう。学校に、教室にいる、何倍もの時間を妻とよく歩いておいたの が、えもいわれぬ私には財産になった。
 深泥池(みどろがいけ)をざっと眺望し、上賀茂の社家町を通り抜け、わたしの願いは、あとは広沢の池の冬景色を眺めることだけであった。
 水をぬいて湿田の水たまりに雪が消え残り、少し凍ててもみえる広沢池の向こう、遍照寺山のやさしい姿。しばらく、ただ、眺めていた、児(ちご)の社のわ きから。
 はい、もういいです、と、新丸太町から一路岡崎へ、美術館の方へ車を返した。こういう時間には今回は恵まれぬものと諦めてきたのに、心豊かな午前を、思 い残しなく楽しめた。
 星野画廊の前につけてもらい、星野さんに二三質問をした。この人の尽力が、今回の秦テルヲ回顧展に大きな蔭の力であったことは、関係者はみーんな知って いる。少しわたしの認識を確認しておきたくて、質問し、安心した。画廊に、折もおり、ずいぶん秦テルヲの小品を並べていた中から、明治三十年頃の、という のは秦の父が生まれた頃の「出町橋」遠望の雪景を描いた佳い一点を、躊躇なく買った。明治の京都を想いだして、テルヲは優れた作画を重ねていたが、それら の中へ置いて遜色のない、それはもう「じょうずな」筆技の小傑作であった。絵を買うときは躊躇しない。一つには画廊の誠意を信じられるところでなければそ んな気は起きない。
 コーヒーが飲みたくて、広道西側の、星野さんの教えてくれた静かな喫茶店で、トーストを食べ、一服した。バターがしみ焼き目も香ばしいトーストを口に入 れながら、小さな店内の何点もの佳い繪を楽しんだ。こういうところは、京都だ、ほんものの佳いモノが当たり前のように在る。美術館で館長らと昼食をといわ れていたのは、事前に勘弁して下さいとお断りしておいた。講演の前の心地澄む時間がをもてた。

* 約束通り十五分前に美術館に入った。いきなり、中学高校の女友達に出迎えられた。なにしろ、つい、此の近所住まいだもの、仕様がない。これやから、京 都で講演するのはこわい。ロビーで、次から次から声を掛けられた。おどろいたことに、淡交社の大御所、臼井史朗老人にまで挨拶された。お元気で何より。昔 は「茶ノ道廃ルベシ」の連載で臼井編集長にずいぶん心労させた。
 整理券は百人限定、その百人満席の上に数人増えていたらしい。
「秦テルヲの魔界浄土」ちょうど九十数分で、話し終えた。図版の映写を贅沢なほどに依頼しておいたので、絵を観ながらの具体的なスケッチ風の講演が、狙い 通りにはまり、まずまずわたし自身も、感動をおさえる気味に話し終えることが出来た。あの拍手の音はだいたいほんものであったと感じた。
 講演し始める直前に、故麻田浩画伯の奥さんが挨拶に前へ出て来られた。やっとやっとこうして外へ元気に出てこれるようになりましたと、長かった強烈な 「鬱」から脱却されたのをよろこび合った。
 講演が済んでからは、どっと古い知人や読者達に声を掛けて貰った。おおかたは久しい「湖の本」の支援者でもあり、中には東京へ出た昔々の新婚新居アパー ト「みすず莊」の、隣室木下夫妻にまで、高槻市から出て来てもらっていた。鍾馗の写真集でお馴染みの服部正実さんにも初対面。ああ、無事に済んだ良かった という安堵でいっぱい。星野画廊の夫妻も来てくれていた。
 臼井老に、俵屋でご飯をいかがと誘われたが、有り難く遠慮させてもらい、小雨のあの平安神宮大鳥居下からタクシーで一気に駅に走り、買って置いた帰りの 列車を一時間早くして、のぞみに、飛び乗った。ほおっと息をつき、売り子のウイスキー「水割り」をことわり、ミニの「竹鶴」「ロイヤル」を、水とは別々に 買い占めて、少し佳境に入ってきた「捜査官ケイト」に読みふけり、しばらく寝て、また読み継ぎ、とにかくも大いにくつろいだ。三人席を一人で占めていたの で、酒も、幕の内も、遠慮無用だったのもラクであった。

* さてこそ、やっと本当にゆっくりと息が付ける。明後日は病院に行き、そのあとが「ペン電子文藝館」の今年の初会議。その翌日には俳優座の芝居に招かれ ている。

* それにしても人寂しくなりまさる京都であると、痛いほど感じてきた、それは、それほどに人恋しい気持の裏返し、かな。 


* 一月十八日 日

* 朝いちばんに、京都の臼井史朗老人の電話。「秦恒平の供養で秦テルヲもみごと成仏できましたな」と。笑ってしまった。この人は、当代の出版編集者とし て出色の大きな存在の一人であり、ペンの会員。出稿をつよく奨めてきた、そのちょっとした相談の電話。昨日、国際美術館が撤収して、大阪へ移転の閉館式が あった。それをサボってわたしの講演会場に足を運んで貰ったのだ、恐れ入ります。

* それにしても此の開放感。仕事は少しも減らないが、約束の日時が済むまで終わらない講演だのテレビだのという仕事は、ほんとうにイヤだ。
 会場で、秦テルオ血縁者の夫人で同志社女子大名誉教授という秦芳江さんの挨拶も受けた。この大学では、昔、いちどわたしをスタッフに招こうかという話が 出ていたらしい。これはしかし、必ずお断りしたと思う。大学の先生になって京都へ帰るぐらいなら、東京へ出て行かずに、大学院にいすわっていた。

* 京都に漂い、雪の舞う東京へ、指先まで冷えきってお帰りでしょうか。
 今日は街を歩いていまして、肌を刺すような寒さに、ふと氷の冷たさでもやけどをすることを思いました。
 私は外ではめったに飲みませんが、寝酒は毎晩。今夜はいただきものの越の寒梅を少し飲んで温まってやすみます。どうぞ旅のお疲れがでませんように、暖か くゆっくりおやすみくださいませ。  港区

* 十七日。こんばんは。群馬では、雪はちらついただけで、予報されたほどではありませんでした。明朝、どうなっているかわかりませんが。
 京都から戻られてお疲れのところ恐縮ですが、「親指のマリア」の上中と下をお送りいただきたく存じます。急いではおりませんので、お時間のありますとき に。
 東京の雪のようすは、どうでしょうか。積もっていたら、お足下が危険ですので、溶けてからご発送ください。
 宣教師と切支丹を迫害した戦国武将たちは、その鋭い政治的嗅覚で、欧州強国の宗教を使った巧みな占領戦略を察知していたのではないかという気がしていま す。この疑問に、「親指のマリア」は答えてくれますかどうか。
 楽しみです。

* 嬉しいこと。こういう関心から作品に触れてきて貰えるのが有り難い。清水九兵衛さんのようにシシリアをよく識った藝術家からも、あのシドッチ世界は好 きですねえ、アレが一番好きだなあといわれたことがある。わたしはシドッチも新井白石も好き。二人の「一生の奇会」がもった金無垢の燃焼も好き。

* 晴れました。一面の銀世界です。昨日は払暁から積もり始め、日暮れまですっかり降り籠められてなんともかとも動けませんでしたわ。空も山も何もかも一 色に埋もれて…。京もさぞ寒うございましたでしょう。お江戸も雪という予報でしたが、いかがですか。お怪我などなさいませんよう。
 こころばかりですが、月遅れのバースディ・プレゼントをお送りいたします。お疲れ直しになるとよろしいのですけれど。お仕事、ご無理なさいませんよう に。   奈良

* 神戸の芝田道さん、田中荘介さん、あいついで日本ペンクラブに入会の書類が届く。国立京都近代美術館からも、館長、学芸課長にも入会してもらえる。星 野画廊主人の桂三さんも、どこからどう見ても適格者であり、奨めたい。

*「眼下の敵」という、只一人の女性も姿を見せない、潜水艦と駆逐艦の死闘映画を観た。十度できかないほど観ているのに、ロバート・ミッチャム駆逐艦長と クルト・ユルゲンス潜水艦長に痺れるように感銘を受け、終える頃は涙をたっぷり溜めていた。名画というのはほんと何度観ても、小説の名作と同じに、新鮮。 くだらないものには、この幸福がない。筋などすっかり忘れていて、ただ、前にも読んだかなあ、観たかもなあと想う程度の通俗読み物や不出来映画は飽きてし まって投げ出すのに、筋は愚か、会話の端々まで覚えていながら、それに出逢うこと自体が楽しくて読み進み、観ていく、それが優れた文学藝術、映画藝術の紛 れもない魅惑だ。「今度はロープを投げないぞ」「また投げるさ」とタバコを分け合って顔を見合う二人の艦長の、ただ立った後ろ姿ふたつに、みごとな反体制 人間の心優しいドラマがにじみ出る。
 妻が横で、「今(二十一世紀)は、こういう戦争も出来ないんだわ」と嘆息した。同じ言葉を、さらに以前の戦争と引き比べて、映画の中で、潜水艦の副長相 手にクルト・ユルゲンスは嘆息していた。戦争に違いはないようなものだが、戦争自体が人間的な次元から機械的な、非人間的な、乾燥しきった無残なものに変 貌してきているのは事実だろう。アフガニスタンやイラクの国土をどのような弾丸が貫くように底深くまで破壊しまた汚染しているか、その事実についかぶって くるのが、ブッシュ大統領の顔であることに、真実ゲンナリする。大統領選挙の行方を、他国の一人としてすら、よかれと願わずにおれない。ブッシュにはヤメ テ欲しい。
 韓国映画の「シュリ」はものの十五分とは観ていられなかった。

* 長谷健の「あさくさの子供」と松田章一氏の戯曲「花石榴」の校正を始めた。

* たった一日二日の旅であったのに、しっかり疲れが湧いて出てくる。今日ははやめに階下へ。眠るのが一だ。京都にいる間に痛切に自覚し実感を深めたの は、視力の低下と混乱。遠くがまるでくらんでいて、近くもぼやけている。必要なのはまた眼鏡の新調か。医者を咎めるわけには行かないが、聖路加眼科では、 そんな視力のことなど何一つ心配してくれず、緑内障の進行の度合いだけしか示唆してくれない。視力は眼鏡屋さんとの問題ですというのだ、そういうものかな あ、眼科学の能力は。近所の眼科に行ってみようと思う。それから眼鏡だ。

* 秦家に、たぶん祖父鶴吉の蔵書としてあり、むろん現在もわたしが所蔵している古典に、「湖月抄」の木活字本がある。わたしが「湖」と便宜に名乗ってい るのは「みごもりの湖」に拠るけれど、まだ国民学校の昔から手に取ることもあった名著、二つの帙入り八冊か十冊の源氏物語注釈の表題が、脳みそに刷り込ま れていたのかも知れない。
 それと並んでわたしは「春曙抄」と聞いた本の題にも、ながく見果てぬ夢を、今ももっている。佳い本が欲しいなと思っているが、手にしていない。
 春は曙。日本語でこんなに美しく完結された批評を、他には知らない。「あけ・ほの」「明け・仄」という日本語自体も美しい。そしてわたしは、紫上びいき であるから当然に春派である。今は花粉に悩まされ、かつては春闘に悩まされたけれど、桜咲く春の曙は絶対のもの。
 曙   あけぐれのほのかにひかり生(あ)るるときいのちましぶきひとにみごもれ 湖
 そういえば与謝野晶子の歌集に「春曙抄」をよみこんだなまめいた歌があった。あれはかなり気取っていた気がするなあ。


* 一月十九日 月

* 寒い。すこし、くらっとしそうに眠いが、今日の委員会のための心覚えを書いた。会議が散漫にならぬようにと。みぞれが降っている。
 午前中に聖路加へ入り、今日はナースが対応する。前回よりインスリン液が変更され、注射したら「十五分以内に」必ず「食べ物を口に」入れなくてはいけな いことになった。便利とも不便ともつかない。効き目が強くなったのかどうかも、シカと分からない。出掛けるのが寒いことだけ分かっている。

* オバ 2004.1.18   小闇@TOKYO
 伯母が母とやってきた。何年ぶりかに会う伯母は、もういない祖父そっくり。もしかしたら祖母にも似ているのかも知れないが、私は祖母を知らない。そして 母姉妹は似ていない。
 前回母が来たときも、近所まで一緒に来ていたのに、伯母は遠慮して部屋まで来なかった。今日は苺を提げてやってきて、忙しいのにすみませんねと言い、母 の案内で遠慮がちにしかし鋭い視線で部屋の中を見て椅子に腰掛けた。
 どうしても母は、今の私に不満がある。理想通り育った部分もあるはずだが、その分強く、こんなはずじゃなかったとも思っている。それを口にするのを最近 はずいぶん我慢しているのがわかるが、それでもときどき、出る。
 つまり今、母は孫が欲しい。私の同級生が相次いで母親になったことがその思いを加速している。まあ、しばらくすれば落ち着くはずだが、今日はその外堀を 埋めるような話になった。私は黙っていた。
 「あのねぇ、心配したって意味ないんだよ。必ずなるようになるんだから」。言ったのは伯母。
 伯母は定年まで公社に勤めた。銀行、今はもう名前の残っていない銀行勤務の夫を早くに亡くし、二人の娘を育てた。今は孫が四人いる。孫はみな女。女系家 族の長である。
 物言いは穏やかだったが、その迫力は凄まじいものがあった。伯母ってこんな人だったろうか。母は家のことを思い、私は仕事のことを思い、そうだよなぁな るようにはなるんだもんなぁと、力尽くで納得させられたような気がした。
 伯母は紅茶を二杯飲み、帰りがけに玄関で、「あんたも身体には気をつけなさいよ」と言って、母の先導で帰っていった。伯母さんも身体には気をつけて下さ い。苺、ごちそうさまです。

* ま、こういうのを「朝刊」で読むと、妙に、ほっこりとする。当人はこっちの身になってとぼやくかも知れないが、自分自身に触れて率直に状況を描写した 文章は、話題が正であれ負であれ、届いてくる。わたしなどは、明らかにこの母上叔母上の方に近い思いで暮らしているから、その点、秦サンも、うっとうしく 思われるにちがいない。世代のせめぎあいか、単なる慣習か。

* 京都での秦テルヲ氏の講演も無事に熱く終わられたようで、ほっと一息ついていらっしゃることでしょう。私は急な寒さと過労のせいでしょうか。先週39 度の熱を出し、インフルエンザと診断され、土曜日から今日の昼まで48時間、薬を飲みながらうとうとと寝ていました。久しぶりのことです。
 おかげで雑誌「ひとりから」の、「この時代に・・・私の絶望と希望」をゆっくりと読むことができました。感動いたしました。
 晩年の義父と私はよく言い争ったものです。
「これから時代は悪くなる一方だ」「昔と比べて何もかもだめになっている。心配だ」という義父。
「昔よりよくなっていることがたくさんある。今ほど便利で清潔で豊かで平和な時代はないでしょう。女性にとっても、今のほうが自由で良い時代だと思う。こ れから人の英知はもっと住みよい社会を作っていくと思う」という、私。
 我が家の小さな下降史観と上昇史観の対立だったのかもしれません。
 今、「これからの時代はよくなるでしょうか?」という問いかけがあったら、どう答えるでしょうか?
 おっしゃるとおり、「今・此処」だけが存在すると答えると思います。
  >> はてしもない一枚の澄んだ鏡のように、落ち着いて、写ってくる何の影も拒まずに和み楽しみ、去っていった何の影も追わないで、愛だ けは感じていたい。そのうち、涯しない真澄の空のほか何一つ写さない鏡になりきりたい。そうなんだ、そんな「希望」を楽しんでいるのだ、わたしは「今・此 処」に生きて。>>
 心に沁みる文でした。涙がこぼれそうになりました。このことばを飲み込んで、明日はなんとか職場復帰したいと思っています。   
 インフルエンザ予防注射なさいましたか? くれぐれも気をつけられますように。  川崎市

* 今年はじめて、インフルエンザの予防注射を受けに早く行った。絶対ではないが、心理的に或る落ち着きを得ているのは有り難い。老境へ歩みいるほど、い よいよ風邪は気を付けたい。

*「秦テルヲの魔界浄土」 先生の生のご講演、はじめて拝聴させていただきました。
 整理券を確保して、約一時間「秦テルヲの軌跡」展を見て参りました。どの作品を解説されるのかと一番にそのことを楽しみに、自分なりに幾つか覚え書きを いたしました。
 「絶望」の前では、立ち止まって近ずいたり離れたりしながら、女の覚悟のようなものを感じて、何かに打たれたような思いで見ていました。
 「母子」縦長の大きな作品、縋りつく子供を無心に抱きとめる母、慈愛の大きさに胸がつまってきました。
 秦テルヲは初めて見ましたが、先生のお話を会場で拝聴でき絵の素晴らしさを、目蓋にあるうちに教えていただきました。「眠れる児」らと共に忘れることは ございません。私の大切な(胸蔵品)です。
 ご著書「墨牡丹」は、単行本に加えて湖の本には、第六章百枚を追加完結分が収録と案内されています。秦テルヲの時代の京都日本画家の群像を改めて読ませ ていただきます。
 ご講演のあと、先生の周りは挨拶を交わされる方が続いておられましたので、室外に出て暫くして中を見ましたが退出されたあとでした。ご挨拶もせず失礼い たしました。
 濃紺のスーツがお似合いで若わかしく、お声も後ろの席でもよく拝聴できました。
 寒中 どうぞお大切になさってください。      和歌山市

* スライド映写を意図してふんだんに使ったため。場内が暗くされていて、参加者のお顔は殆ど見えていなかった。ま、そうしてアガルのを防いだのである が、済んで、別階段から学芸課の方へあがり、そして通用口から小雨の外へ出たために、三宅貞雄さんが見えているのに気付かなかったのは、残念残念。感謝。

* 手書きと電子化 http://homepage3.nifty.com/willowbrook/      英国
 秦恒平様  初めてお便りを差し上げます。
 以前平家物語や梁塵秘抄を語るラジオ講座を拝聴していたおり、古典への深い造詣に敬意を感じていましたが、その時は評論家という肩書で紹介されていたは ずで、それ以上には存じ上げませんでした(ラジオ第2放送で平家物語を聴いていた時に、都の歓楽街のお話をされたかと思います。このような場所には古来か らの人間の脂のようなものが染み付いていて、中々場所が移らないものであるという指摘をなさったことを、今でも覚えています)。
 今回ホームページを見て、やや詳しくお仕事のことや、お考えになっていることが見えてきて、お便りを差し上げる次第です。ホームページは、ご職業がら当 然なのでしょうが、その分量に圧倒されました。それでエッセイの部分からまず拝見して、秦様が出版社を介さず直接読者に本を送る試みをして長くなること、 ホームページに色々な作品を収蔵・展示していることなどを知り、また文章から拝察される、行動とその根底にある考え方に極めて共感を覚えました。
                *
 例えば、書家石川九楊の文章を述べたエッセイです。石川九楊の文章は、一時もてはやされたときに読もうと試みましたが、直ぐに読むに耐えないものである と感じ以後全く手を出しておりません。難しげに書いてあるが、言うことは機械に頼らず手書き礼賛の主張でしょう。
 それに対しての御主張は、どのような道具で文章を書くかは問題ではないし、環境についても拘泥しない。重要なのは内容であり、要はその人次第なのである という論旨で、それはこちらの思っている通りでした。石川九楊の悪文を例にしながら、大切なのは内容で、道具は関係ないという議論の展開を興味深く読みま した。
 大切なのは表現すべき内容であり、手段に拘泥する必要はない、という主張を更に拡大すれば、言語という手段をも越えることがあります。私は、日本語でな く外国語でも、意義ある主張を適切に伝えることが可能と考えています。
 機械か手書きか、文体は、場所は、言語はなど、手段の選択は各人の嗜好であり、他人のことに容喙する必要はありません。また、それぞれの手段には個性が あり、それはそれで滋味があったり情緒を付加したりするので、否定することもありません。目的を大切にする人もいれば、手段に凝る人もいるのは、世の中の 常です。しかし、正直な所を述べれば、様々な手段を用いることができれば、それはその人の容量の大きさを測る目安となると思っています。
               *
 もう一つ興味を惹かれたのは、日々の書き込みについてです。「耳にする限り、最も関心をあつめ毎日欠かさず読んで下さる人もあるのが、わたしの「生活と 意見」を忌憚なく日々にただ率直に、筆を枉げず書き継いでいるページらしい。」という部分です。私もホームページで、余り使われていない掲示板を、訪問者 との交流だけではなく、日記代わりに使ってみようと思っていたので、この記述は注意を惹きました。人は人に関心があるものです。
 もう一つ、ここには大切なものがあります。ホームページへの書き込みは、それが日記の体裁を取るものであっても、自分だけのノートに日記を書きとめるの とは異なり、外部の読者を想定せざるを得なくなるという点です。書くものが、どのような形であれ公開されることになれば、そこには緊張感と責任が伴うので す。このことに私もある時点で気付いたのですが、そのこともきちんと指摘されていました。公開により文書は私的な性格を変質させるのですね。
               *
 ホームページに限らず、電子化した文書には様々な可能性があります。私は日本の外におります。日本語の書物を簡単に入手できず、冗費を抑える必要も考え れば、読書を電子化したものに頼るのは避けられません(これは英文など外国語の読書も同じです)。それで、これまでにもかなりものを画面で読んできました が、電子テキストと在来の書物との比較をして、感じたことがあります。
 まず在来の書物の利点。これは一覧できる情報量が格段に多く、必要なときにすばやく検察できることです。将来は電子本も改善してくることと思いますが、 今の時点では普通の書物の方が格段に優れています。装丁、挿絵、写真、著者や自分の書き込みなど、情緒的なものも含めての情報総量は書物の方に軍配が上が ります。
 しかし、収納の問題や複製・伝達については、電子文書の方が効率的です。収納についていえば、読んだもの      は、書棚に納める替わりにハードディスクに入れてしまえば、相当の分量のものが、全く場所をとらずに保管されます。
 切り貼りは、自分の考えを作らず、安易に他人の意見を引用することになりかねないので注意を要しますが、人間の考えることは万古不易と思っているので、 自分の主張(あればの話ですが)を根拠付けるために、適切な引用をするのを否定する必要はないのです。例えばお書きの文章に「魂の色の似た人をいつも捜し ている」という表現がありました。これは自分と同じである、貰おう、と感じたとします。それはホームページからコピーして文書ソフトに移すだけで済みま す。
 電子文書は読むだけではありません。外部から取り入れたものに自分なりの価値を付加して、それを再び外部に発信することは、電子文書であれば在来の書物 と比較して、かなり容易にできます。適切な手段を選べば、個人であっても、これまでには想像もつかなかった世界に繋がることができるのです。多くの人に見 てもらい、そこから新たな刺激を受けるというのは、ホームページによる方が書物によるよりも迅速であり、今後の可能性を秘めているような気がします。
               *
 やや長くなりましたが、このような事を考えるきっかけになったのが、お作りになったホームページでした。それで一文を草し、こんな読み手もいますという 御挨拶をさせていただいた次第です。どうぞご健勝で、ますますのご活躍をされますよう、お祈りしております。         
    
* 一昨年から英国に暮らしている壮年の人のようで、開いてみたホームページは、瀟洒に美しく創られていて、日本語が優れて正確である。バルセロナの小闇 など参考になるのではと思うし、上に書かれた徹頭徹尾明晰な観想など、この方面に関心の深い東洋女子大の北田敬子教授にも読んで頂きたい気がする。
 こういう方の目に触れて、こういう風に言っていただくと、逆に、私のサイトの性格的な雑駁が目立ってきて、恥ずかしい。「闇」は深く深く遠く、まぢか く。有り難い嬉しいメールを戴いた。申し訳ないが、こういう考え方やこういう表現が、これからの時代の一つの基盤を成してゆくと思うので、ふたたび「闇」 の奧へ放っておく。
 今後もメールを交わしながら、親愛を深めたい。

* 四国(讃岐)丸亀の****です。ご多忙の中早速のご返事感謝いたします。
 お言葉に甘えて、湖の本エッセイ16 『死なれて・死なせて』1冊に、著者識語と共に、私からの贈り物である旨を明記し、下記に直送していただくようお願いいたします。本代も次回にまとめてと のこと。重ねてご好意にお礼申します。
[本の宛先]----------------------------------------
 私事ですが、文学には若くから関心を持ち、友人には才能に秀でた詩人や歌人が多数います。でも、残念ながら私自身は文筆には自信がなく友人たちの協力者 として過ごしてきました。
 特に壺井繁治賞、自費出版文化賞、現代詩・平和賞(昨年)、高松市文化功労賞などを受賞した詩人・赤山勇は40年來の友人です。
 彼の8冊の詩集はすべて書き下ろし長編で、その膨大な資料あつめと、本の普及活動には本人以上に力を入れてきたつもりです。
 「創造と普及」は車の両輪。読者あっての著作という立場で、県内だけでも十数人の販売のネットワークを築き、それらの方々が一冊一冊と普及してきまし た。図書館への納入や書店への依頼も含みます。でも、普及の実務と作品への理解度が必ずしも一致しないのが悩みです。
「秦恒平の文学と生活」は驚くほどの膨大な情報量と中味の濃いサイトですね。また、ペンの電子文藝館も充実しています。これらは、私も書込みに参加を許さ れている関西の文学仲間のサイトで紹介しました。お閑をつくって一度、下記へアクセスして頂ければ幸いです。URLよりも直接タイトルで検索する方が早い ようです。
「文学の仲間リンク集」→「詩人集団『D』」→詩人集団「D」Home pageが出ます。なお、「お知らせ」をクリックすると冒頭に、昨秋実行した「ふ るさと紀行」の写真とコメントがUPされています。恥ずかしながら私の投稿です。ハンドルネームは円亀山人です。
 長くなりました。また、ゆっくりお話を交換させて下さい。送本の件、よろしくお願い致します。  讃岐丸亀

* 篤志という言葉がふさわしい、こういう方々の支えで、地の塩を得て、文学の仕事の深まっているのは、よそながら嬉しいし、それどころか、私のしている こと、してもらっていることが、即ちそれなのである。力及ばないために、「湖」は容易に広まらないが、深くはある。


* 一月十九日 つづき 

* 聖路加病院へ十時に入り、十一時半に解放された。まずまず。
 で、午後の会議までに三時間半、日比谷線で銀座へまっすぐ、そして映画館は素通りして、寿司の「福助」に。昼どきなのに空いていたのは、あまり外が寒く て、霙とも雪もようともあったかららしいが、銀座は、ほぼそれもやんでいた。空いた広い店を綺麗に独り占めして、若い板さんとおしゃべりを楽しみながら、 おまかせの寿司種が、つうっと十二三、二列に並んで、言うこと無し、佳い吟味。正二合の徳利も小気味よく、ご機嫌。
 で、ホテルのクラブへ。商談らしい幾組もいたけれど、昼間の窓に近くは外光明るく、小さい字でプリントしてある自分の長篇を、ゆっくりゆっくり丁寧に読 み進め、ばっさばっさと大鉈をふるうように推敲。夜とは雰囲気がまるでちがって、仕事にも読書にも明るいぶん、向いている。コーヒーはお代わりが幾らでも きくし、わたしには利用価値が高い。

* 時間をはかって、また日比谷線でペン本部へ。「ペン電子文藝館」の今年初会議は、暮れの三倍ほども賑やかに委員が参集、話題は沢山あり、それも急いで ギチギチ決めなくては成らない難題はないので、概ね軌道の上で意見交換をたくさんした。
 加藤弘一氏と少し話したが、「ペン電子文藝館」の仕事で、いろいろ文字コード上不便を蒙っている実例があるのだから、やはり、こういう文字の実相の貧弱 は、文学団体として困るということを、公式に、伝えるべき先へ伝える用意をしましょうと。ルビはふれない、記号は出ない、漢字も無数に化けてしまう。これ ではインフラにはほど遠い。

* 会議の後は、成り行きで自然に独りになり、成り行きで気に入った店に入って、小懐石で小一合、それから佳い焼酎をすこしストレートでやりながら、二時 間近く原稿を読んでから帰った。電車では「捜査官ケイト」が佳境に入り、電車を乗り違えて豊島園へ行ってしまった。練馬へ戻って、保谷へ。つまりそれだけ の時間、ミステリを楽しんでいた。


* 一月二十日 火

* 朝一番に、ペンの同僚理事でもある吉岡忍氏より、急な、難儀な原稿依頼があり、内容的にわたしが受けざるをえないものなので、ま、努めるからと、返 事。今月の二十四日までに書けと。
 湖の本新刊の再校も出揃ってきた。なかなかどうして、遊ばせては貰えない。

* 昼前から、妻と新宿へ。まちがえてサザンシアターへ直行したが、紀伊国屋ホールの間違い。で、回れ右して。時間に余裕を持って出ていたので十分間に合 い、八列目の中央通路側の席をもらう。
「三屋清左衛門残日録=夕映えの人」は、藤沢周平原作。仲代達哉主演のテレビドラマを観ている。テレビでは仲代はむろんだが、南果歩の嫁役がとてもよく、 指折りのテレビ秀作だった。俳優座がそんな人気テレビドラマの後追いとは、謙虚というか安直というか、そんなことでいいのかなあと、見にゆく前から少し失 望の気味があった。
 だが、配役がいい。その魅力一つで、楽しみにしていた。主役清左衛門は、多年お馴染みの児玉泰次。仲代とは柄が違うが、抜擢の好配役に期待に応え、大柄 にしっかりと好演、アレで児玉の役は十分というところまで、けれんみなく演じてくれた。この人は声の質から、すこしし損じると妙なけれんに陥りかねない損 を帯びているが、全くそういう気配のない、ひょっとして最高作に成っていたのでは。
 そして、可知靖之、立花一男、伊東達広とならべば、俳優座の今や強力な背骨役者達である、芝居の中身が何であれ、これは観たい。観なくては気が済まな い、わたしには最高の顔ぶれ。
 三人が三人とも、渋い、が、すっきりと水際だった芝居を見せてくれた。甲乙つけられないが、「不忠臣蔵」このかた眼から鱗を落として贔屓の、伊東達広の 板前清次、カッコ良かったなあ。この舞台は男優達、ほかにも何人も何人も適役に恵まれて、ちょっと覚えが他にないほどの引き締まりよう。
 そして女優陣も、川口敦子が、けれん芝居ながら熱演で「実(じつ)」を技で見せ、情で見せ、嫁役森尾舞も無難に上品に力演した。
 八木柊一郎脚色は間然するところ無い巧さ、ただ内容の重なりもあり、どうしてもテレビの画面と流れとが思い出された。しかし巧いもの。舞台装置もよく応 え、安川修一の演出も、まず、お見事の緊迫度。舞台の完成度はほぼ文句なく仕上がっていた。文句を付けたいのは、音響・音楽。ばかばかしいほど騒がしいだ け。苦痛だった。

* で。だから佳い「俳優座」公演であったか、というと、それはダメ。
 原作が、いささかも新劇フアンの期待に応えてくれない。人情時代劇テレビ版をまるまる一歩も超えていないのである。
 藤沢周平は下品な読み物作者ではないが、人情時代物を大きくははみ出てこない微温の読み物作者であり、この作品も、これだけ藝達者を揃えればそこは「し んみり」した見せ場は十二分に作ってくれるけれど、それ以上には、決して「劇」の熱度を上げ得ない、要するに通俗講談なのである。
 要領よく主派流に乗じて生き残ってきた会社員(藩士)が、会社(藩)を、幸か不幸か無事定年退職(隠居)。しかし友人の同僚(奉行)に請われ、なおも嘱 託(派内協力)ふうに居残って、社内派閥抗争(藩内主導権争い)にキャリア(用人そして剣術)を活かす。それに、行きつけの飲み屋のママ(小料理涌井のみ さ)との純情な交感が人情の色を添える。つまりそれ以上の何物でもない。人間の本質をえぐるというより、この程度の俗欲は、誰にも容易には捨てられないと いう平均値を指し示しているに過ぎない。だから抉られる痛苦も感動も何も生まれない。「演劇」として劇的な血の滲みなど無く、だれかが座席の近くで言って いた、「しんみりするのねえ」と。たったそれだけ、そこまで、の舞台にしか、とても成らないから、ご馳走はというと、ただただ俳優達の「うまさ」脚本や演 出のソツの無さ、巧さ、だけ。それらだけは、むしろ、稀に見る緊密度でよくお芝居を引き締めた。それには満足した。
 不満は、こういう帝劇風、芸術座風の見せ物舞台を、なんで俳優座が、ということ。商売としてはともかく、意欲としては低調そのものだという物足りなさ。 なに一つとして魂に突き刺さってくる嬉しさも高まりもなかった。拍手は役者達のためにいっぱいしてきたけれど、ぬるま湯で風邪をひきそうというのが実感で あった。

* 伊勢丹わきに馴染んでいた「田川」という魚とフグと鰻との老舗が無くなっていて、寂しかった。
 それならと、新宿駅わきの老舗「柿傳」へ。八階の、あそこはすべて谷口吉郎設計であるが、静かなフロア(我々だけ)で、「すっぽん懐石」を奢った。にご り酒は四合瓶、残ってもお持ち帰り下さいと、綺麗な女中さんにすすめられて。
 久しぶりのスッポンは、前菜から、鍋から雑炊まで、それは美味かった。これが観てきた舞台の風情とうまくつりあい、妻と二人あれこれ芝居のはなしをして いて、食べ物が、飲み物がよく似合った。満ち足りた。

* さ、原稿を二つ、いそいで書かなくては。明後日に歯医者のあるのが、時間的に圧になりそうだが、どんな原稿も、うまく書き始められれば、何とか成って ゆ。躊躇が禁物。


* 一月二十日 つづき

* 「お父さま、いくらお元気でも一日五カ所も動きまわるなんていけません」
と娘は心配し、
「お父さま、飲み過ぎです」
 娘ならば、きっとここ数日の酒量に怒ることでしょう。娘はコワイです。父親に対して世界で一番手厳しいのが娘。容赦なく父親の健康チェックをします。
 娘は叱りついでに、もう一つ。
「お父さま、早く眼科に行ってちょうだい。それも近所の眼科じゃなくて設備の整った病院に」
 診断に少しでも不安があれば、他の医師に診てもらうことは鉄則。何もなければ安心が得られ、何かあれば早めに対処できます。とくにお父さまのような眼を 酷使するお仕事にとって視力は一番大切なものです。放置してはいけません。是非他の病院へ。視力が急速に落ちた原因があるはずです。電子文藝館の校正であ まりに眼をいじめすぎているためということも考えられますが、どうか診察をと、娘はやきもきしています。
 それにしてもお父さまは大学病院の眼科なんてイヤでしょうね。さんざん待たされて、瞳孔を開く目薬なんかさされて色々な検査も面倒くさい、どうせろくな 医者はいない、時間がもったいない、疲れる、もし変なこと言われたら気が重い……。
「お父さま、これはお父さまのためなのはもちろんのこと、お母さまのためでもあるのよ。お母さまはお疲れになるから病院についていけないかもしれないけれ ど、とにかくどうあっても行かなきゃ。どうしても気がすすまないならしかたないわね。お父さま、私がついていってあげるわ。私がいたら、少しは気が紛れる でしょ。病院に行く日時を教えてちょうだいな」
 娘だったら、こう言って、父親をなだめすかして首に縄をつけるようにして病院に引っぱっていくことでしょう。

* いま、たくさん書けない。わたしは息をしていない。


* 一月二十一日 水

* 機械の前でおもわずじいっと眼をとじてしまう。ふねが岸を音もなく離れるように、闇に意識が溶け込んで行く。一枚の葉よりかるく闇の海の底へ沈んで行 く。グラン・ブルー。あこがれがひたひた身に迫り、……うたたねしていた。目覚めると機械の画面が、かっとあかるい。

* 一日呆然としていたのではない、解決を求めてくる用事が、ほんとうにヒマなく訪れる。気が急いて、階下に降りても椅子にも座らない、立ったままそそく さと用事をして、また機械の前へと思っていると、マット・デーモンが、見るから佳い映画に、ズブズブの新人弁護士役で孤軍奮闘している。悪徳と強欲の巣 窟、海千山千のすれっからした恐喝的な保険企業の弁護士団。もう少し少しと、立ったまま、一時間半ほど観てしまった。損のない映画作品であった。

* ラクになんかならない、明日明後日の二日の内に気の張る原稿を片づけてしまわないと。ところが明日は歯医者の予約が入れてあった。眼科にぜひ早く行き たいが、来週以降にもちこすしかない。

* ご返事を有難う御座いました。また「闇に言い置く」には懇篤なコメントを書いていただき、嬉しく思っています。
 日々の書き込みを拝見していると、電子メディアの様々な可能性を専門の方が充分に論議をなさっていることが、非常に良く見えてきます。
 私も実は、手紙ではできない双方向の迅速な対話の結果を、ホームページに反映させて見ようと思っています。そこに新たなページを作り、当方の文書だけで はなく、それへの反応も載せてみようと考えているのです。連句を巻くのと同じようなものでしょうか。「闇に言い置く」に色々な方のメールが載っているのも 同じお考えかと思います。
 それでお願いなのですが、新たなページにおいて「闇に言い置く」で書いていただいたコメントを使わせていただきたいのです。個人的なメールと異なり、 「闇に言い置く」のコメントは多くの人の目に触れるものと考えておりますが、念のためご了解をいただきたく、お便りを差し上げる次第です(尚、私の秦様個 人へのメールは、公開されても全く異存はありませんので、そのことも申し添えておきます)。
 今後ともご縁が続くことを願っております。  英国

* 今朝、客間兼寝室兼書庫兼物置の本棚にならんだ新版の岩波志賀直哉全集を見ながら、半数以上が「日記」と「書簡」なのに改めて気付いた。わたしは、そ れも全部読んだ。それだけのことはある、と思った。
 わたしの仕事がもしも何かの形で残りうるとして、この電子版「闇に言い置く 私語」は、秦恒平といういささかならず狂を発していたような作者が、それでも日々に断然生きて在ったことは示してくれるだろう。とても誇りになる日々では ないが、非力な一人の言葉は此処に生きていて、ひょっとして最大の作品となるのかも知れない。その意味で、ここに慎重に選んで採り上げられる多くの他者の 声々は、じつは、わたし自身の生の照り返し(失礼)なのである。有り難いと思っている。

* 人は、われ一人しか立てない小島に立ったまま、広い海原に投じられた存在であり、どう呼び交わしても、無数の島から島へ橋は架からない。
 ところが、そんな狭い孤島に、二人で、三人で、五人十人で立っていると実感するときがある。おそろしくも貴重な「錯覚」であるが、その錯覚ゆえに人は孤 独の地獄を免れる。真の「身内」とはそれほどの錯覚を共有しあえる同士のことであり、血縁も地縁も俗縁も、何の身内をも保証しない。むろんそれも夢であり 錯覚に過ぎないが、貴重な錯覚であり、唯一今もわたしが抱いている「抱き柱」があるとすれば、この錯覚一つだろう。
 人間には、「自分」のほか、「身内」と「身内崩れ」と「他人」と「世間」の四種類以外に無い。親子・兄弟・夫婦など、いかなる「関係」の名で呼ばれる間 柄も、つまりは他人である。他人とはたんに「知っている」人のこと、世間とは名前も「知らない人たち」のこと。それだけのこと。だが、「身内」は、他人か ら、「他人」は世間から、生え出てくる。錯覚が過ぎて「身内崩れ」も出る。あたりまえである。
 政治も社会も経済も、決して人を幸せにしない。国と国の交際は悪意の算術以上に決して出ない。平和も戦争も、「身内」という「島」の思想抜きには虚妄・ 虚仮でしかない。極めてチープな「抱き柱」の一本一本に過ぎない。
 生身の人同士だけでなく、幸い、人は優れた藝術、優しい自然とは「身内」の仲に成れる。だが其処へだけ逃げこむのは、同じ夢に過ぎぬとはいえ、やはり不 幸であろう。
 あらゆる意味で政治家、聖職者、教育家、知識人が人を不幸へと惑わせる。彼等は無責任な「抱き柱」の強引な売り手になる。平気でなる。しかし生きている 間にただ一人の身内をもつ幸福の方が、他の何より、深い。身内ひとりいない平和、教養、富裕。なんでそれが幸せなものか。
 そういう自覚を、わたしは、多くの古典からも学んだのである。どんな人との出逢いにも丁寧・的確であることで、自覚したのである。
 秦の母が享年をもし言うならば、わたしはなお二十八年の生を待たれている。わたしに必要なのは、無意味な平和でも無道な戦争でも、無益な知識でもない。 もう一人でもいい、二人三人ならさらにいい、一人しか立てない「島」に「身内」と立ちたい。他人と世間とへ放つわたしの視線が、なおさら明るく健康である ようにと願わずにおれない、あれは狂っていると嗤うものが無数にいようとも、もう一人、もう一人の身内と出逢う為に。
  

* 一月二十二日 木

* こいつァ春から  縁起がいいかどうか。
 日本で一番大きな図書館へおもむきネット配信サービスの利用者登録を済ませたあと連絡が入りました。入力の手違いで生年月日が一千年さかのぼっていたの です。まもなくめでたく? 還暦を迎えますが、生年1944(甲申)が0944(甲辰)となっていたので、訂正手続きをするとの詫びかたがたの報告でし た。
 堅いお役所仕事ですから登録文書の交換もあります。公開データではありませんが、一度(二日間)は満年齢1059歳となり、記録は秘されたまま半永久に 残るという結構な僥倖です。正月に「招福の鶴の千歳図」をかざったら早速吉祥が飛び込んできました。先週から、新収古文書の件で、平安中期のことを調べて いた矢先でした。こいつァ春から、、、、きっと縁起がいいんだ。
  久々に電話口で大笑いしました、やや堅めの口調だった電話対応の女性担当者もほほえんで、、、、。これで風
邪っ気も抜けそうです、たまには吉祥を早めにおすそわけしたく。      国分寺

* めずらかなことを聞いた。めでたくもあるか。

* 昨夜来の降雪情報をラジオで聴きながら、今朝の京都行きを心配していましたが、今、外を見ますと駐車場の車の屋根に積雪はあるものの、道路には雪は無 く、ホッとしているところ。これから身支度をして、七時過ぎの京都行きバスに乗る予定です。道中、積雪等による支障がなければ、三時間後には京都です。
 この度は、贅沢に(時間的に)「秦テルヲ回顧展」だけの京都行きですの。と言いつつも、デジカメをお供に連れているのは、なぜ?(笑)
 やはり雪の京都には惹かれますもの。通りすがりの寺院の屋根の積雪だけでも被写体には十分ですからね。
 天気予報では大阪方面のみの降雪情報でしたが、寒い京都のこと、期待しつつ出掛けることにいたします。
 こちらで低温注意報が出ていましたけれど、東京もお寒いのでしょうね。歯医者への通院、温かくなさってお出掛けくださいませ。   徳島

* 平安神宮の大鳥居が、疏水上からの東山、粟田山が、目に見える。水をぬいていた朝の広沢池も、曼殊院も、円通寺からの比叡山も。まだ、そこそこに我が 身をおいたままのような気がする。なぜか、しんしんと寂しい。春は、あけぼの。鴨川がみおろせ、東山が一望の、ホテルフジタの部屋が、あけぼのを見るの に、いちばん佳い。                 

* 一月二十二日 つづき

* 歯科医院を出ると、絵のような青空を、冬ざれた静かさで光が流れていた。歩きたいと思った。江古田駅までのバス道、歩けない遠さではない。
 はじめのうち、「何が何して何とやら」と、歌舞伎セリフのいろいろを実演しながら歩いていた。「歌舞伎」に登場する、ありとあらゆる人物のセリフ廻し は、この成句一つで演じ分けられる。その道の人にそう教わっていたから、機嫌がいいと、人知れずこれを演る。弁慶でも助六でもお夏でも清十郎でも光秀でも 熊谷でも清姫でも政岡でも奴さんでも腰元でも、要するに、「何が何して何とやら」を言い分けて表現できるから、面白い。そういう奇抜なことを口にして歩い ていても、ほぼ誰とも出会わない静かな町なかのバス道であった。
 それから次は、目に見える看板でも表札でもポスターでも新聞の見出しでも、何でもかんでも、文字と言葉ならみんな数珠繋ぎにして「謡曲」の節にして謡う のであるが、これが実に旨く行くから面白い。退屈するということがない。
 このところ退屈しないために、道を歩きながら百人一首の和歌を思い出していたが、数日前は六十二三が限度であったのに、今日歯医者への往きの保谷駅まで 十数分、八十五六も出て来たのは好調であった。好きな歌があるなあと、いまさらに思い当たってしんみりする。歌留多取りが旨かったとは言わないが、好きな 歌ならごくの少年時代から無数にあった。恋のことは、みな、この歌留多歌で覚えたのである。
  なには潟みぢかき蘆のふしのまも逢はでこのよをすぐしてよとや
  あらざらむこのよのほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな
  なげけとて月やはものをおもはするかこち顔なる我がなみだかな
 こんなふうに挙げていると五十も六十も書きだしてみたくなる。

* 午過ぎて、大江戸線の新江古田駅を通り過ぎた頃に空腹をおぼえた。目の前に、バスからは見ていたかも知れない、こましなレストランがあり、フランス料 理であった。表に出ているメニュも悪くないので入った。冴えないオヤジが入ってきたと思ったろう、若い男は八百円の朝飯喫茶室の方へ追いやろうとしたの で、コッチと、食堂の方へ顔を向けた。窓際の隅席へ自分から行ったのは、むろん持参の「湖の本」校正を続けたいからで。いやみのない店内はあっさりと明る く、期待していなかったフォアグラのサラダが、そこそこグラスの赤ワインに合って旨かった。機嫌がぐんとよくなり、すっかり落ち着いた。馬鈴薯味のスープ も隠し味がきいていて、よろしい。あれでパンがもっと佳いと。しかしあれは鱸だろうか、いや焼き味のヒラメか、何でも構わない、魚の皿が上等の味で。
 ワインのおかわりにさっきのボーイが来て、なんとなみなみと注いだから嬉しかった。二つ目のパンは行儀悪いがワインで湿して食べた。そうするのが最近の わたしのお気に入りなのでもある。
 年のせいか、ナイフ、フォークがますます苦手。で、最近は、周りに人がいない限り、必要に応じて平気で指を使うことにしている。サラダ菜なんてのは フォークで突き刺すより指で摘む方が遙かに食べやすいではないか。だから、わたしは人と一緒に行儀良く食事したいと思わないのだ。
 おしまいのヒレ肉の皿は、むかし、京都の花見小路「ぼうる」で食べた極上のステーキに迫る調理で、小さな紡錘形にソースで料理してあり、三切れは満腹す ぎたけれど、しっかり食べて、苦手な緑や白のナントカ謂ううまくない野菜も、義理にもぜんぶ平らげたのは我ながらえらかった。コーヒーも濃くてうまかった し、デザートの皿には大きな苺二つに挟まれて、白いシャーベツトが気持よかった。苺にもすこし手が加わっていたか食べやすかった。

* 目立たない町なかで目立たないこういう小洒落たレストランを見つけると、少し幸福感がある。静かに仕事まで出来ると、ひとしお有り難い。これで、邪魔 にならない「美しい人」が親切にしてくれると最高だが、それは、どうも。
 で、何の心残りなく帰宅して、午後はずうっと原稿。一つは、夜前にファイルにして、もう送稿済み。残る一つは明後日中に吉岡忍氏に電送すればいい。工夫 は要るけれど、材料は手に入っていて何の困難も無いのであるから、明日には送ってしまえるだろう、だが、一気にやらない方がいいタチの原稿である。

* 手元に、あれやこれやと沢山わたしが手をつけるのを待っている仕事が、来ている。十や十二で利くまい。ま、今月中はぐっと気は楽な日々が続くので、根 がつまったら、街へ出て息をぬけばいい。
 ま、それにしても、わたしぐらい、好きな人を誘うのがへたで苦手な男はいないだろう。いつもいつも独りで食べて飲んで仕事をしてくる。妻と出かけるの が、世間のどんな亭主よりも莫大に多いのは、あやしく胸もときめかずに、気楽で気が置けなくて、なにより話題に困らない。しかし亡くなった杉森久英さん に、むかし、言われた。あなたに助言しましょう、もっと銀座に出ていらっしゃい。但しあなた独りで、ときた。銀座へよく行くけれど、独りと二人と、半々 か。人はめったに誘わないし、簡単に「誘われない」ようにもしている。

* 長谷健の芥川賞作「あさくさの子供」も、佐藤義亮の「出版おもいで話」も、松田章一氏の戯曲「花石榴」も、長篇で、なかなか校正が捗らないが、それぞ れに興味深い。交替交替に、じりじりと併行して読み進めている。戯曲が佳境へ来ている。嬉しいメールを心待ちに、また戯曲から読んで行く。


* 一月二十三日 金

* 建日子が引っ越すという。新しいマンシォンの保証人を引き受けるため、いま、実印証明をとりに、近くの庁舎へ建日子は自分の車で出掛けた。彼が少し風 邪気味らしいので、車に同乗するのを遠慮した。風邪は万病中の難儀な病気、努めて避けている。

* 寒い日が続いています。お医者通いやお仕事でお忙しそう、そして少し「悲鳴」も聞こえてきそう。くれぐれも大事に、のんびりされますようにと・・。 「お父様・・」の文章に託されたさまざまな思いを痛く痛く感じました。

(*娘に仮託しわたしの眼を案じてくれたメールは、むろんわたしの「創作」ではない。親切な人が娘になりかわってくれての病院眼科受診の勧めであった。 「どうしても気がすすまないならしかたないわね。お父さま、私がついていってあげるわ。私がいたら、少しは気が紛れるでしょ。病院に行く日時を教えてちょ うだいな」とまで書いてあった。)

 寒さにはどちらかと言うと辛抱強く部屋の温度も省エネで暮せるわたしですが、さすがに風邪ひかないように、血圧の心配しないように、そして部屋にある植 物のために暖かくして暮しています。
 長いこと「ちゃんと」メールを書いていませんね。確かに慌しく一人で過ごせる時間が極端にない状況。そして半分は少し恨みがましく、あなたからのメール がほとんどないことも・・。
 十二月に長女がシンガポールから戻って暫くして東京で短期の仕事。そして今朝再びシンガで半月位の仕事に旅立ちました。昨年娘の仕事が決まりましたと書 いたのは次女の方で、これまで一年半ここから通えるところで仕事をしていましたが、これはアルバイトの待遇で、彼女は人間関係など本当に勉強させてもらっ たと言っていますが、遅かれ早かれ明確に方向を模索しなければなりませんでした。わたしが京都に住みたいのを知っていますから、彼女も京都にママと二人で 住もうなどと職探しをしていました。
 ヒョンなことから彼女にとっては願ってもいなかったほどラッキーなところに正式に採用されて・・二月半ばから東京で勤めることになりました。長女も東京 で従来の会社の東京オフィスに誘われて、結局二人とも東京です。既に住む場所も決めて、目下手続きやら引越しの準備に入りつつあります。娘がニューヨーク にいた時はたとい僅かでも仕事があってニューヨークに行くことはできませんでしたが、今はその点ではかなり自由です。やはり楽しみです。そして勿論、あな たにも逢える。素直にそう書いて、さてあなたは心底喜んでくださるかしら? そうでありますように。

* 逢いたい人がいつでも有る、とは、わたしの拠り所の一つだ。が、このように逢いたい、逢えると思って下さる人もあるのは心強い。わたしは根から不徳人 であるが、孤立していたいなどと願ってはいないからである。さりながら、人と逢うのは楽しいばかりではない。生産される何かの有ることは確かでも、それは 若ければ若いときほどではなかろうか。この年になると費消されるものを惜しむことが増している。人と逢うのは妙な意味ではないが力を要して、けっこう疲れ るものだ。
 最近も、つくづくあの子猷訪戴の故事を思い出したことがある。王献之が親友戴安道に逢いに水路を舟で出掛けた。逢えばどんなに楽しいであろう。楽しみを つぶさにつぶさに舟中想い描いて小王は、王羲之の子は、歓楽これ極まるほど幸せであった。そしてもうそこに親友の家が見えていながら、すうっと舟をもとへ 戻したのである。逢う楽しみはもう十分尽くした、この上に何を求めようと。
 古来風雅の一絶とされている。この故事の頃の王子猷らがどれほどの年齢であったか知らない、が、いまのわたしの年頃とおなじように、ふと想像する。三十 代の昔に、この故事をまくらに置きながら「畜生塚」という小説を書いて、だが敢えて作中妻のある「私」は、人と結婚するという京都の「町子」のもとへ東京 から逢いに行く、逢わずにおれない、と。若い「私」には子猷訪戴の故事を蹴飛ばしてしまう力があった。いま私六十八叟はそれを思い出し、苦笑を禁じ得な い。老いたなとも、それが老いの智慧かとも、いやいや理屈ではない、小王の風雅は絶して真実だとも。
 逢いたいといってくれる人の存在は、たとえようなく力になるし嬉しい。事情が許す限り逢いもするだろう。しかし逢わなくていいのだとも思っている。風雅 がるなど笑止で、なみの凡骨なら結局逢わないのが普通の心理である。わたしの凡庸は計り知れない。「苦笑」とはその意味である。この闇になにもかもさらけ 出しているのは、凡庸な障壁を築いている気であろう、苦笑のほかない。

* もう半年ばかりになるか、機械の前でマウスを握ったまま寝入ってしまうことが増えた。そしてビックリするほど場面鮮明でしかも経験のすべて外のような 夢を見る。具体的な言葉や会話が、印象的にリアルにくっついている。そしてハッと覚める。目の前には、機械のもとの画面か、待機画面か、まっくろけの画面 が、くらっとするほど別世界の顔付きで、わたしを待っている。
 なんで、あんなに了解しがたいかつて知らぬ夢をみるのか。なぜに、夢から覚めた現実視野の方が、それこそ夢に想えてわたしを頼り無く迎えるのか。
 渇望するように待っている、どっちの夢も、コトリとまくらの闇に落ちて消えよと。鬱。そうではない、わたしは元気にしているし、意欲もあるし、なにより 愛している、現がどう夢であろうとも。

* 吉岡忍氏の「反戦・反核」特別室の作品群に関する依頼原稿は、ほぼ依頼趣旨に応えて、指示の枚数のままに書き上げ、ファイルにして送稿した。よしよ し、気分はラクになった。

* 事務局より、退会会員の掲載作品は削除して良いかと尋ねてきたが、少なくも現状ですぐ削除はせぬよう指示した。「削除しないままにしておいて下さい。 いっときでも会員であったわけですし、物故会員として扱っている人が、入会から逝去時まで継続して会員であったかどうかは、保証の限りではないのですか ら。
 此の件は何れ委員会の話題にします。招待席がこれほど充実拡大されているのですから、退会したら即座に削るというのは、少しく報復的で狭量のように感じ ます。少なくも当面は現状を維持して下さい。賑わいも、今は大事にしていたいし。 秦 委員長」

* 松田章一氏の戯曲「花石榴」を「反戦文学」特別室に送るべく入稿した。
 河竹黙阿弥・正宗白鳥・泉鏡花・岡本綺堂・郡虎彦・菊池寛・福田恆存・梅原猛・井上ひさし・松田章一と、各世代作者の戯曲が並んだ。 

* こんばんは 秦さま。御挨拶のお手紙も差し上げないで、勝手に(お酒を)お送り致しまして、失礼致しました。
 ご丁重なお言葉、かえって恥ずかしく思います。本当に色々とお気遣い感謝しております。
 そして、お送り戴いたご本は、今はエッセイを拝読しております。文藝館のほうは「清経入水」のような夢幻的な雰囲気が。私は好きです。
「慈子」は、拝読中です。独特な、奥深い情緒がじわじわと辺りに漂う感じで、騒がしい日常生活から遊離し浮遊しながら、不思議にも、自分自身を顧みるとい う感情が湧きます。どうしてでしょう。
 いままで、好みのままに乱読して参りました。それが、すうーっと、浄化されるような、浄められて落ち着くような、妙な表現ですが、新たな世界に身を置い ている気分になります。「慈子」を読み進む内に、詩においても、何かが生まれたらという期待も持たせられる、面白い現象を体験させて戴いております。あり がとうございます。
 また、(ペンの)例会にはまだ出席したことはございません。なんとなく、遠慮する気持ちがあります。でも、秦さんともお会いして、お礼も申し上げたい し、お話もお聞きしたいしで、都合がつけば、初めて出席してみようかしらと思っております。
 ぐんとお寒い日々が続きますね。くれぐれも御身御大切に、お風邪など召さずにお元気で。お医者様に行かれたとメールにございましたので。これからも、よ ろしくお願い申し上げます。  品川区
             
* 米田利昭氏の「子規の従軍」「土屋文明と日本の母」をスキャンした。一つの題を付けて「招待」したい。
 平塚らいてうの「元始女性は太陽であつた。――青鞜発刊に際して」もスキャンした。

* スキャンしながら日本の歌をCDで聴いていて、鮫島有美子の「遙かな友に」に突然声を放って泣いてしまった。なるほど「悲鳴」だと呆れながら。
 静かな夜ふけにいつもいつも 思い出すのはおまえのこと おやすみ安らかに たどれ夢路 おやすみ 
と鮫島は、美しく歌う。わたしが思い出しているのは「友」ではない、幼い日々の「娘」朝日子、だ。この歌に日頃わたしは弱いが、何かが胸の奥で砕けたの だ。
 昼間、妻から聞いていた。もうだいぶ前になるが、妻は十何年ぶりに清水の舞台から飛び降りる気持で、久しい禁断の電話を朝日子にかけたという。娘が出て 第一声は「よかった」と。しかし母の声が聴けて、ではなかったのだ、朝日子の傍に夫がいなくて「よかった」のだと娘は言った。それを聴いてわたしは黙って いたが、刺されるように傷ついた。そういう子には育てなかった……。
 それが胸に滞っていて、鮫島の歌で破裂した。どうしていいのか、分からない。

* 今はイタリア男歌手の美声の民謡を聴いている。意味は何もわからない。分からないことに救われる。涙がとまらない。


* 一月二十四日 土

* 色佳い大粒の苺を、また栃木から送って頂いた。

* 夜前、おそく階下におり、しばらくトム・ハンクスの「フォレスト・ガンプ」を観ていた。トム・ハンクスという俳優をハッキリ認識した、きっかけの映画 であった。彼のことをアメリカのやすいボードビリアンの一人なのかと全く錯覚していた時期があった。「グリーンマイル」その他、名画と呼んで憚らない作品 を幾つも持った名優と、今は愛している。
「フォレスト・ガンプ」は心温まる。けれど底知れず寂しくもある。気持の衰えているときに観るのはすこし辛いが、佳い作品。フォレストの母親役をサリー・ フィールドが演じていたとは忘れていた。この女優はたしかジェームズ・ディーンとの共演がなかったか。最近では、「ER」の終盤で、烈しい情動不穏の母親 役を捨て身に演じていて強烈だったが、観た女優なのにと思いつつ、サリー・フィールドであったとは思い出せなかった。彼女の娘役のナースが、名前は忘れて いるが感じのいい女優であった。リチャード・ギアとローラ・リニーが共演の裁判劇「真実の行方」で、リチャード弁護士の助手役に出ていて、いい感じであっ た。
 こんな風に頭の中に海外映画のおぼろな地図路線ができかけている。その意味では日本映画には興味索然として、ほとんど近寄る気にもならないのは何故だろ うか。昨晩も「シャル・ウィー・ダンス」を放映していたが、一度観ていて佳い作品であったからもう一度観てもよかったけれど、そこまでの引力がなかった。 ダンスものなら海外作品にとても魅力的な幾つもがある。

* 『親指のマリア』をお送りいただきまして、ありがとうございました。代金の振り込みは済ませました。
 冒頭から、清まはる心地がいたします。急かず、じっくり読ませていただきます。
 来月早々、歌舞伎座の夜の部を観ます。玉三郎のお嬢って、どんな風になるのでしょう。わたしのお嬢のイメージは、菊五郎なのですが。
 今年は、秦さんに逢えると、いいな。   群馬県

* 歌舞伎座、十*日に通しで観ます。玉三郎は土手のお六のような悍婦に文字通り凄みの利く役者、期待出来ると思います。菊五郎は藝がおおまかに躰も少し 太り気味で、父梅幸のようになりそう。美しい女になれる役者ですがね。
 本格のじいさんだけど、ますますじじいにならぬうちに、逢えるといいですね。おつとめがあるから、なにかと難しいでしょう。  湖

* 人と逢うこと、会うことについて書かれていることを胸に沁みこませて読みました。沁みこませてと書いているあたりが、わたしの微妙な揺れです。・・ま だまだ煩悩だらけじゃな、と言われること予測済み。会いたい人には会う、単純に大らかに生きられたらいいのですけれど、ね。風雅・・考えさせられてしま う。   岡山

* 年にだいたい三百日近く家で過ごしている。かりに百度外出するとして、理事会・委員会・会合と通院・受診と観劇・食事、仕事の旅が、主たるほぼ全部。 観劇と食事は、全部に近く妻と一緒。会合の殆どが文壇・美術の関係と東工大卒業生達との歓談。マンツーマンで人と逢って食事したりは、年に十度とない。こ う眺めてみるとずいぶん淡泊に暮らしているなあと驚く。淡泊というのではない、それは、メールなどのパソコン環境で描いたヴァーチャルな賑わいに満足して いるのだろうという、批評・批判がありえよう。その通りだろうと思う。そういう賑わいは「虚仮」と知っているが、拒む必要も考えていない。むしろとても大 事な真実とも膚接していると思っている。
 とはいえ、メールだけで例えば恋物語が書けると想うのは、かなり情けなく侘びしいことではなかろうか。本気でそういうことを想う人も、無いではないらし いが、恋こそは金無垢でなければ光らない。「子猷訪戴」風雅の故事は真実をつたえているのかどうか、わたしはかすかには疑いを挟んでいた。今は。さぁ…、 と瞑目する。闇は深い。

* ハムカツロール 2004.1.23   小闇@TOKYO
 自動販売機は飲料と煙草とが並んで設置されていて、そこはフロアに一カ所の喫煙スペースでもある。通称ガス室。誰もいなかったので、嫌煙家ながらそこで ぼんやり缶コーヒーを飲んでいた。午後九時、金曜日。
 かさかさと、コンビニの袋よりはいくらか固い音と、聞き慣れた足音がした。同僚。奴は煙草を吸いに来た。と思ったら違った。
 「パン食わない?」 袋の中身は確かにパン。聴けば彼の地元のパン屋のもので、今日の昼食にするつもりが上司につきあった中華のせいで宙に浮き、その時間まで持ち越されたもの だという。パンはふたつ、パストラミのベーグルサンド、それとロールパンにハムカツをはさんだもの。いわゆるハムカツロール。 消灯時刻を過ぎた入院病棟 のような暗さのガス室のテーブルの上に、散らばった煙草の灰を避けるようにサランラップにくるまれたふたつが置かれる。冷えた油が浮いてラップがなまなま しい。「両方で350円、ちなみに俺が小学生の頃はハムカツロール50円。ベーグルサンドはその頃はなかった」。
 焼きそばパンとかコロッケパンとか、パン+炭水化物+ちょっと古くなった油+ソースの組み合わせを、ほとんど食べてこなかった。実家にはなかったし、購 買でも買わなかったし、今はときどき食べたくなるけれど、でもツナサンドやクリームチーズのベーグルサンドを選ぶことが多くて、コロッケパンなど滅多に食 べない。
 奴はそれを知っていて、じゃあ、と私が手を伸ばした先のベーグルサンドを取り上げて、ハムカツロールを渡す。
 懐かしい。食べたことなどほとんどないのに。紙のように薄いハムに、分厚く均等に、そしてさくさくとした衣が纏われている。そしてソース、やや下品に。 マヨネーズであえたキャベツの千切りとパセリも一緒くたになって、ロールパンにはさまれている。
 そのロールパンが、美味しいのだ。給食で食べたパンのような、ちょっとジャンクな甘めのパン。
 奴が言うには、そのパン屋の食パンは、2日目には黴が生えるという。最後にパンに生えた黴を見たのはいつだったか。そしていつかアルバイトをしたことの ある、製パン大手の工場を思う。コンベアで食品の塊が流れてきて、すべてはアルコールで消毒しさえすればいいというような。
 無言で完食した私を見て奴がいう。「次はハム玉子ロール買ってきてやるよ」。奴はプロセス部屋、私は測定部屋へと別れる。
  
*「会社」という、一種隠微な、時に淫靡な環境のうすぐらさを捉えている。勤め人ならだれしも、もやもやとした感覚で、体験的にこの一文の生温かな「うま み」を、捉えて、読めるだろう。
 会社という環境をふり捨ててまる三十年ちかい。誰もがそうではあるまいが、わたしには「会社」と「仕事」というものに、越えがたいほど断層が、断絶が あった。会社が愛せなかった。仕事は面白かった。
 只今では「会社」にお世話になった有り難さを、しみじみ頭をさげるほど自覚し感謝しているけれど、会社が「同僚」を意味するのであれば、わたしは、殆ど なにものもあの当時価値として実感できなかった。それは、たぶん、わたし自身の異様な冷淡さによるのであろう。当時の老社長と、編集長で鴎外学の泰斗で あった長谷川泉氏にだけ、わたしは深く学ぶものを持っていた。十数年のうちには数人の心惹かれた女性たちがいたけれど、ありがたいことにその中の三人は今 も「湖の本」を支えてくれている。品良く敬意のもてる人にしか、わたしは心からは惹かれない。それにしても、わたしの根は冷えているのであろうか。

* 手作りコンサート  一月はモーツアルトの生誕月で、例年モーツアルトだけを聴かせてくれます。家でCDを聴けば、必ずナガラになるので、公民館へ出 向いたこの二時間は、眼を閉じて只々聴き入り、そのままスーと寝入る一刻もありと、自在な時空です。
 パバロッティーを聴いているHPを読んで、同じものを聴きながらキーを打っています。少しは共有したいもの。何度聴いても「カタリカタリ」で涙が溢れま す。ツアーのカンツオーネデイナーで必ずリクエストしようっと。
 今夜も独り。ナガラで、次々とオペラのアリアを聴くつもり。
 明け方、色気皆無のいやな夢でした。娘の結婚式に母親の私がなんと綿帽子に白無垢姿。式半ばで気がつき、留袖を自宅へ慌てて取りに帰ろうとする支離滅裂 さ。目覚めてこの深層心理はナニゴト、と、いやーな気分で起床。
 佳い夢、みたい。  京都

* 子猷訪戴の故事はずっと以前に何かで読んで、恐ろしく片手落ちの話だと、大切な部分が欠けていると感じておりました。親友の訪問を心待ちにしていた戴 安道は逢うことなく帰ってしまった友を見て幸福を、友情を感じたでしょうか。とてもそうは思えません。  東京

* 思いがけず「子猷訪戴」が話題になる。この故事に関しては、わたしは昔に小林太市郎の本で教わった時から、「それでも」と思った、「町子には逢わずに いられない」と。「町子」の気持になることの方が大事で、作中の「私」は汽車にとび乗った。上のメールは、まさしくそれを衝いていて、風雅の故事に承服し ないという。

* 平塚らいてうの有名な「元始女性は太陽であつた」というマニフェストを、校正しながらみ終えた。もう一時半になっている。
 この、題の言葉だけなら、ずいぶん大勢が知っているだろうが、本文を読んだ人は今では数えるほどもいないだろう。らいてうこと平塚明子と塩原の自殺行に ともに奔った久米正雄作の、いかにも「煤煙」の女が、高潮しながらぐいぐい書いている。言っていることは、この時代の女性としては抜きんでた、一種の悟り をさえ想わせるが、表現の観念的に過ぎるところは、惜しい。中島湘烟のガンとして胸を張った稟烈の古武士的な大人ぶりとは、かなり様子が異なり、文学少女 的かつ禅的な境涯に、お嬢様の風情が添っている。よくもあしくも「青鞜」は女性意識の高い分水嶺を成していたとは謂えるだろう。らいてうこの時は二十六歳 である。いま小闇達の歳には、もう「青鞜」は、一時代を画して終刊していた。
 らいてうは若くより参禅していた。そういう流行も有ったことは、漱石「門」の宗助も座禅をくみに鎌倉の寺まで出向き、しかし空しく門を出て陋居へ舞い 戻っていたことでも分かる。静座とか静観という工夫も世に受け容れられていた。らいてうの見性がどんなであったたか知らないが、この稍長い、時代に対する マニフェストには何と無く、明らかに禅の香気または口気が漂っている。

* 今日、わたしもまた、わたしに黙然と真向かっていた。らいてうのようなマニフェストは書かないけれど、記憶に値する日付になる。


* 一月二十六日 月

* 会わずして帰る
 先日は当方のお願いを御快諾いただき有難う御座いました。
 ふとした御縁でお書きになっているものを、時々拝見するようになりました。東工大でのお話、日中の作家の交流での御発言、「闇に言い置く」の持つ意味な ど、色々な感想が沸いてきますが、いずれ折を見て申し上げることができればと望んでいます。
 一つだけ、友と会うことについて。
 訪ねて会わずに帰るという故事のお話を読ませていただきました。その境には達しませんが、「何処かで健在に息をしているだけで良いのだ、それが古き友情 なのだ」という一節を見つけました。偶々見つけた詩の中にあったもので、訳をつけてみました。

   古き友情
        ユーニス・ティーチェンス 

   美しくも豊かなり古き友情
   親しくして永くあること
   有り難き古代の象牙の手触り
   年を経たワインの滑らかさ
   煌きの残る綴れの光沢のごと

   涙あり情けあるこそ古き友情
   もはや勲の証しは無用
   いや如何なる証しも要らぬ
   何処にか友の健在に息ある限り
   古き友情、歌のごと         (柳沢正臣・訳)

 加えて、メールの交換も、友と心が繋がっていると感じさせる不思議に便利な手段です。
 それでは又。どうぞご自愛下さいますよう。   英国

* 光沢は「つや」 勲は「いさをし」 何処は「いづく」 と訓んだ。「子猷訪戴」の故事の指し示すところと、微妙には逸れて感じられる、が、西欧的な友 情とはこうなのであろうなと思わせる。
「子猷訪戴」の故事を著書から教わった小林太市郎という美学者・神戸大学教授は、まことにユニークな碩学であり、達人であった。この人が裏千家の雑誌「淡 交」に藝術論を連載されていたあたりが、わたしのあの雑誌熱中愛読のピークであったろうか。その連載からわたしは「畜生塚」「加賀少納言」という好きな作 品に、つよい力を得ている。小林氏の他の論文からは、「あやつり春風馬堤曲」も生まれている。雑誌淡交のいろんなちょっとした記事からは、「蝶の皿」「青 井戸」「隠沼」が生まれている。
 わたしの創作を刺激したものとして「学術論文」がかなり重いことを、思わずにいられない。恩賜土居教授の論文集がなければ、「閨秀」「糸瓜と木魚」は書 いてなかったかも知れない。「秋萩帖」も東博から出た小松茂美氏らの優れた論文に恩恵と刺激を受けているし、幾つもの作品が民俗学・歴史学の諸論文に莫大 な刺激と恩恵を受けている。角田文衛博士の論文集はたくさん読んできて、「風の奏で」「夕顔」などは大きな示唆を得ている。
 古典そのものから展開していった作品の多いこと、いうまでもない。
 処女作「或る折臂翁」も、そのまま白楽天の詩を入り口にしていた。育てられた新門前の家の暗い梯子段の上がりぎわ、古い黒い箪笥にもたれて祖父の蔵書の 中から小振りな白楽天詩集を持ち出し、るびを頼りにはじめて兵役忌避の反戦詩「新豊折臂翁」を読んだ衝撃を、わたしは今もそのときのように思い出す。国民 学校の生徒だった。兵隊さんになりたくなかった、しかしあの時代は兵役にぶつかることは決定的な未来図であった。いややなあとほとほと辟易して、それを想 像していた或る寸時の幼い記憶もある。その時自分がどんなポーズでものにもたれて憂鬱であったかも覚えている。意識下にすでに白楽天の詩は忍び込んでい た。

* だが、なんでこうわたしは、今、懐古的・回顧的なのだろう。根の根の根のところを何かしら病んでいるのか。衰えているのか。それともこれはわたしなり のインスパイアなのか。

* 青山半蔵は跡継ぎ宗太に迫られ、涙を流して黙って手を縛られ、俄に造った座敷牢に閉ざされてしまった。祖先が開山した菩提寺松雲寺を無用であると障子 に火を放ったのだ、半蔵の無垢の魂はぼろぼろにされていた。そして明らかにあれは酒毒にもあたっている。妄想と幻覚と絶望とモノの影に対する恐怖と反撥。 可哀想な小説の主人公とは無数に出逢ってきたけれど、青山半蔵のようにわたしに迫ってきた人はいない。つらいわたしの頭痛をともなって、「夜明け前」を喘 いでいる青山半蔵の、ゆらゆる傷つき果てた魂が、身のまぢかに来る。
「終章」へ来て、もう今夜にもすべて読み終えてしまうだろうが、いま、わたしの眼には、秦テルヲが遺した「絶望」と題された絵が迫ってくる。あの絶望に つっぷした女は、半蔵とは遠く無縁な、近代の苦界にうちひしがれた女。だが絶望という苦痛においては半蔵もあの女も同じだ。わたしは。いやいやいやいや。 ただこの闇の底までかくもこまやかに充たしている寒さは何なのか。

* 半蔵は、抱き柱を捨てることが出来ない。平田国学、復古の理想。神の御心であらうずでござる、と。「夜明け前」をはじめて読んだ昔、一言にしてこれは 「神と仏との戦」だと思った。それがこの大作への印象だった。こんど、こんなに丁寧に嘗め味わうようにゆっくり読み進んできて、もっと他のいろいろな感想 を持っていたが、ここまで終盤に来て寂しい極みへ荒廃して行く半蔵をながめ、そしてついに松雲寺放火の挙にまでくると、まぎれもなく「夜明け前」の歴史 的・精神的側面を一語で尽くすならやはり「神と仏との戦」としか云いようのない堪らなさの厳存しているのを認めざるをえない。藤村の、父半蔵の狂を発して 行く経緯を書く筆つきは、おそろしいまでに精確で印象的で粗忽が無い。こういう神業は、鴎外にも漱石にも、ましてその後の作家達には有りうべくもないと、 驚嘆、たたそれのみである。半蔵は柱に抱きついて放せなかった。そんな「柱」は時代遅れだと嗤われ嘲けられて狂うしかなかった。深酒の毒が手伝った。彼は しんから酒が好きで、酔ったようには顔へ出なかった。弟子達は深い愛情から師の半蔵に酒をえらんで土産にした。半蔵の喜びようにわたしは泣かされた。朦朧 の夢中、ひとり酒を買いに深夜家を忍び出て行く半蔵のあしどりの危うさ。夢から覚めて自ら妻にそれを告げる半蔵の弱り…。   
* テルヲの「絶望」の女は、抱き柱を、はなから持たない、何とかして抱きつきたい神も仏も金も人も、一切をもとうにももたない絶望を描かれている。わた しは、その女の前から動けなかった。

* わたしが、たぶん半蔵にも、絶望の女にもならずに済むだろうと思うのは、「抱き柱」を離れて捨てる以外に、人間としての自由は得られないことを、少な くも分かりかけているからだ。わたしは、抱き柱をむしろ何種類も持ってとぼとぼと来た人間だ。だが「抱き柱はいらない」と思うようになり、大方は捨ててし まった。いま何をまだ抱き残しているとも直ぐには謂えないほどだ。
 サルトルは謂った、自由とは刑罰だと。言い直して、自由とは凍えそうに寒いものだと謂えるかも知れない。しかしサルトルの自由が、自由な自分を見つけよ うという意味であるかぎり、つまり自分以外の何か桎梏から自由になりたい意味であるかぎり、自分という「抱き柱」からはやはり不自由にのがれ得ていない。
 自分=自我=自己自身からの自由でなければ、何の自由であろうかと、わたしは震えそうに寒々と予期している。その寒さを経て行かないと自由自在はないだ ろう。何のアテもないが、願う自由は、サルトルのそれではない。自分自身からの自由である。

* 秦テルヲの軌跡  朝一番の高速バスは、駅前から三人、途中で一人。乗車人数四人という貸切状態。予約席は最前列でしたが、運転手さんが「前は寒いで しょう。真ん中辺りが暖かいので席を移動してくださってもいいですよ」と。道中の交通状態を連絡しつつ運転されていたのか「停滞が二箇所で発生しているよ うなので、急遽、山陽高速道に路線を変更させていただきますのでご了承ください」とのアナウンス。この的確な判断で、定刻には無事京都駅前に。
 ステーションビルの観光案内所で国立近代美術館への交通手段を聞くことにしました。
「すみません、秦テルヲ回顧展が開催されている国立近代美術館へはどう行けばよろしいですか?」
「近代美術館の秦テルヲ展ですか。ちょっとお待ちください、今資料を見てみますから…。ここは今、竹久夢二展になっていますねえ…」
「えーっ、そんな!」
 よく資料を見直してみると、ちゃんと出ているではないですか! 会場に展示してあった竹久夢二の作品なんて数少ないのに、名前だけが一番目立つところに 記載されているとはねえ。
 秦テルヲを時間を掛けて観てきました。
 《血の池》《絶望》に魅入られて、思わず座りそうになった私に、係りの方が椅子をどうぞと勧めて下さるというハプニング。勿論、丁寧にご辞退を申し上げ ましたけれど。
 苦界の女たちを描いた作品。俯ける顔、顔。その中に、したたかに上(生く末)を見据えた目を持つ女性に共鳴。心惹かれる作品はたくさんありましたけれ ど、一番好きな作品は《母子》。子を抱きしめながら、天に向かい少し開いた口元から発せられた言葉が…聴こえたような気がしたのは、錯覚でしょうか…。
 足りない時間を補うべく、冊子「秦テルヲの軌跡」を求めましたが、実物を観てしまうと、写真は少し修正(明暗を)されているようで、物足りなさを感じて しまいます(贅沢かしら?)。
 心を残しながらバス停へ。晴天の京都。雪景色のお土産はとても無理で、見目良い市立美術館をデジカメでパチリ。ところが、神戸三宮で時間待ちしている間 に雪が降り出したからびっくりです。悠長に構えていたのにこれは大変! もし大降りにでもなれば交通渋滞になるかも。時計を見ると一便前のが五分後に出ま す。慌てて、購入していたチケットを変更してもらい、乗車。
 でも雪はそれ以上は降る様子もなく、徳島入りするまで順調に走行。市内に入り、ホッとしたのもつかの間。渋滞に突入です。ふと、外を見ると、中央分離帯 に雪の名残りが。いやぁ、雪のせいで込んでんのやろか。
 遅々として進まない車にやきもきしながら、平常なら十分もかからない距離を四十五分かけてバスは終着へ。バスを一便早めたこと、これ正解でしたわ。約束 の時間に会合に出席できましたもの。
 同席の方たちから「今日は一日中、雪降りの寒い日だったよ」。でも渋滞はそのせいではなく、八十一歳の女性一人暮らし宅を襲った強盗犯人の検問のせい だったようです。ぶっそうな世の中になってしまいました。
 寒波がまたやってきそうな様子。冷えが一番体に悪いのは私も実感してのこと。どうぞ、温かくなさって、ご無理なさらないでくださいませ。   徳島市

* 四国も寒中は午前の室内温度が5度程度です。立春までしばらくはほどよく身がひきしまる程度の寒さがつづくことでしょう。
 引き続くイラクへの自衛隊の派遣に伴う、テレビの映像で制服組の姿が目につきだして何か怖い気がしています。情報統制の動きといい、日の丸の小旗をふる 「出征」兵士を送る映像といい、かつての白いエプロンとモンペ姿のイメージがだぶり「いいかげんにしてくれ」と叫びたくなります。命の重さを、今こそ自他 ともに基本にかえって再考をと想う日々です。この寒さの中でもすでに小豆島の「島四国」の巡礼は開幕しています。主に関西、中国地方の方々のご参加です。 地元の人はもう少し、暖かくなって動きだします。本「四国八十八ヶ所」も同様です。  香川県丸亀市

* このメールの人の、お遍路道や遍路墓などを探訪されているホームページも見せて貰った。

*  東京も寒いことでしょう   お変わりございませんか。出雲寺紘氏からハガキがまいりました。秦テルオ展での講演会のとき、秦さんに会えて、30年来の望 みが叶ったと書いてありました。「四度の瀧」というお酒を見つけられたそうですね。お元気でいらっしゃるようなので、こちらからも安心して倉敷のお酒をお 送りします。寒い季節ですから品質が変わる心配もないと思います。ゆっくりお召しあがりください。2月に入ってから届くように発送してもらいます。
 それにしても日本の政治はどうなるのかと心配です。小泉にかわるもう少しましな人間がいないものでしょうか。秦さんなら分かってもらえるだろうと、つい 愚痴を言ってしまいました。   岡山県

* 小泉総理は全く居直ってしまい、意地にかけて、強健を恣意的につかっている。国民の声を聴くよりも、国民に自分の思うままを強いるを以て正義だと、国 益だと、政治だと思っているようで、国会答弁や記者会見を聴いていても、怖ろしくなる。
 今朝もわたしは思い出していた、小泉総理は、日本に総理大臣が生まれてこの方「最悪の総理」だと、梅原猛氏は理事会の席などで、極言されたものだ、三年 も前か。おお、そこまで言うかと、同感しつつもわたしでもまだ幾らか小泉を受け容れるところがあった。梅原さんの洞察は当たっていると、今は、何とかしな いと日本の道は奈落へ陥ると、恐怖せざるを得ない。
 強弁して憲法を蹂躙することに精力の限りを尽くすような総理を、われわれは選んでいる。もしや悪法かも知れない、が゛、自分は日本国の総理大臣である、 率先憲法を侮辱することの出来ない地位と立場にある、と、そう言うような本質的に立憲国家の長らしい総理をもてなかったのが、国民の、いやわたしたち私民 一人一人の不徳と不能である。
 憲法よりも、また民意に考慮するよりも、政府方針を強行するのが「政治」だと考える総理を、われわれは選んでしまっている。悪魔に国を売り渡したよう に。
 小泉総理の声と姿にふれるつど、絶望に近い哀しみに捉えられて、奔って隠れたくなるが、いったいどこへ。なんという情けない國に日本は成ってゆくのだろ う。

* 瀧田樗陰という凄腕の編集者がいたのは文壇人なら多くが知っている。この人は自身ではあまり書いた文章がなく、それでも「ペン電子文藝館」の「出版編 集」特別室にはぜひ欲しい名前だ、その瀧田哲太郎の文章が少しずつ委員会の尽力で探索されつつある。なんとトルストイやツルゲネフの翻訳まで確認されてき た。
 私も含めて「電子文藝館」には、委員が二十三人。この中から、試みに「出版・編集」小委員会ふうに城塚朋和副委員長と中川五郎委員、向山肇夫委員を指名 して、私のすることとは別途に、その方面の掘り起こしを頼んであり、少しずつ成果が見えてきた。また「女性」作家と作品とを、「反戦・反核」作品と作家と を専ら年頭に置いてもらう小委員会風をも設けることし、委員長指示を出した。
 とくに大事な作業として、本館にすでに掲載されながら、なお、本文に瑕疵を抱えているに違いない実情をフォローしてゆくことにも、具体的な大作と構想を もとうと提起がしてある。
 読者への「窓」をどう開くか、ぜひ開きたいとわたしは願っているが、名案は委員会から未だ出てこない。文学愛に溢れ機械にもさわれて編集感覚のある者達 を、モニターとして協力して貰う「友の会」型の実現はどうだろうか。

* 長谷健の「あさくさの子供」をやっと入稿した。あさくさの小学校の先生が、六十人もの担任教室の、一人の問題多き少女を愛して、心を悩ませている。あ あ、昔の学校の先生はこういう風に感じ、こういう風に語り、こういう風に悩んでいたのか、今では信じられないなあと思ってしまう。この先生の名前が読めな い。「江礼」先生だとあるが、「えらい」先生か「えれい」先生か。いちおう「えらい」先生と読んでおいた。この先生の手記にはさまれて問題の少女や少年の 章があり、そこでの彼女や彼等は、えらい先生の思惑などはるかに越えて出た、澄んだ時空間で、生き生きと呼吸している。それらの章が秀逸で、先生の手記に 当たる章は、奇妙に私には違和感があった。先生よりも子供達の方へわたしは身を寄せて読んでしまっていた。
 長い作品だった。読み終えてほっこりと疲れた。心寒かった。

* 心寒いとき  解決にはなりませんけれど、甘く濃いお汁粉などいかが。小さめのお餅を焼いて二つほどいれて──。温まりましたか。
 お汁粉を召し上がったつもりになったら、私のそそっかしい話など。
 若い頃から階段からよく落ちていましたし、私の責任ではない交通事故にも三度遭っていますが、一番の事故は一昨年家の中で貧血により気を失い転倒して、 救急車というのがあります。後頭部をうって脳震盪でした。
 幸い大事にはいたりませんでしたが、救急室のベッドで倒れる前後の記憶がないのにショックを受け、これ以上バカになったらどうしようと涙ぐんでいまし た。
 その救急室に、私の事故とは別に新たに登場したのが、サラリーマン風の二人づれ。一人が腕を抱えて、もう一人がしきりにすまんと謝っていました。診断 は、腕相撲をして骨折というものでした。
 その経緯を隣のベッドで聞きながら、バカは私だけじゃないのかもと、妙に慰められました。
 心寒いのはあなただけではない……のかもしれません。ややこしく悩むのをちょっと休んで今日こそ早めにお布団に。頭痛も早く治してくださいませね。    

* この腕相撲には笑ってしまった。わたしは、ずうっと最近まで、建日子と腕相撲すると、十回が十回とも簡単に勝つ。なぜか腕力がある。いつまでのこと か、分からないが。握手をしても、ちょっと肩をたたいても、力が強いとよく言われた。なぜだか分からない。

* 渋っていた、しかし、どうしてもそれは済ませないと困る用事を、日付が変わったところでやれた。これからは、当分、また発送の態勢で細々とした、併し 必要な用事がいろいろ出来る。
 今夜は早めに床に入っても、「夜明け前」を読み上げるという、沈痛な関所を通り抜けることになる。藤村は数寄屋橋の泰明小学校に通い、数寄屋橋とはあの 北村「透谷」の雅名の由来でもある。晩年の半蔵は、はるばるやむにやまれぬ心配から、東京に勉学に出させた我が子藤村少年の顔を見に木曽から出て来たが、 少年はこのいかにも「山の者」のような父親の言うことなすことを、身を引いて迎え、父親はいたく落胆し失望して木曽へ帰り、にわかにいろいろに動揺して、 正体なく松雲寺放火の挙にでてしまう。
 そのような父親を、じつに後年の藤村はしっかり把握し表現しているのに驚く。

* 弱りがちなわが腕力を、夢に回復し、こころよく闇に沈んで、あけの朝を迎えよう。


* 一月二十七日 火

* 昨夜『夜明け前』を読み終えた。青山半蔵の最後は悲惨な窮死であったが、馬籠宿や近在の人々からは、「清い」人柄に深い敬意と親愛を持たれ続けていた ことが、悲しいけれど有り難いことであった。半蔵乱心の真意を読み取っていた松雲寺住職の言葉には肯かされる。読者には、それが見えている。青山家先祖が 建立し歴代の墓も位牌もある松雲寺である、それをなぜ焼亡させようと半蔵は狂ったか。謎でもあるまい、それは廃仏毀釈の根深い希望、復古理想の不動の(硬 直した)姿勢に出ていた。「神と仏との久しい戦」というわたしの初読このかたの感想は間違っていなかった。無残であった。わたしは、壮大な作品の巻を閉じ るに当たって暫くのあいだ、深夜、独りの床の中で泣いていた。半蔵のためにも、日本という国の歴史のためにも、今の日本のありようにも。
 重い重い腰をあげて木曽の馬籠まで講演に出向いたのは暑い真夏であった。だが、馬籠の藤村記念館(島崎家旧居)、また禅宗の法要のあった菩提寺や島崎家 墓地から眺めたはるかな恵那山容の晴れやかな大いさ。わたしは予期した以上に深く眼にも胸にも焼きつけてきていた。帰宅して、わたしは寸時もおかずに『夜 明け前』を読み始め、少しも急ぐことなく、そのかわり作品の立てる波間に身を沈透(しず)くように読み進んで、ほぼ五ヶ月を閲(けみ)した。近代日本文学 の最高峰によじ登った実感に打たれている。

*「ペン電子文藝館」運営での肝腎要の一つに、本館掲載後にも継続した、「校正」と「訂正」のための点検作業がある。今は大原雄委員が継続して読み直して くれているが、委員の眼を増やして分担して貰う方がいい。今朝も大原さんから数人の作品について不審箇所の連絡があり、幸い大方は、ま、そのママで差し支 えなかったものの、数カ所は訂正を要した。すぐ業者に連絡した。こういう所はぜひこまめに辛抱よく続けていないといけない、たとえ句読点一つのヌケでも不 用でも、間違いでも。

* 本当に頑張りすぎですよ。でもいたましいとは思わない。夢中になれることがあるのは幸せなんですから。闇とか現、夢などの言葉をこの頃とくに使われて いるのは少し懸念しますが、それでも「鬱」についてはわたしも分かる、たとい自分に執着し、自由自在の境地に到っていなくても、鬱に負けてしまうことは、 恐らくあなたは、ないと信じています。勿論、体は大切に、大切に、大切に。  兵庫県

* 書いたこともあろうか、わたしが「湖」というありようを意識した最初は、盆の仏壇を母が飾ろうとしていた時だ。仏前の蓮の葉に、みづみづしく野菜やほ おずきが盛られる、その前に母は蓮の葉に、潔く清水をそそいでそして外へ流した。葉には無数の露が珠と散り、それも瞬時にひとつにたまり、葉の底に小さな 湖水を成した。ああ美しいと、わたしは少年の眼も魂もをそこへ吸い取られた。「みづうみ」 それは無数の珠の、個の、かがやきの静かな裂け目のない集結で あった。わたしに独特の「身内」という発想は、あの息をとめたような感動に、もう、みごもっていた。
 いま「みかた」という語を漢字になおすと、見方、御像はべつとして、同じ意義で味方、身方、御方と辞書に出るのが普通だが、なぜか味方を採る例が多い。 しかしわたしの「もらひ子」の意識で身をすこし硬くして暮らしていた幼来の実感では、絶対に「身方」であり、しかも身の回りを見回しても「身方」が見つか らないという寂しい実感こそ原点であり、トラウマであった。わたしの謂う「身内」 独りしか立てない島に一緒に立っていると実感をかわせる存在とは、当然 にわたしの「身方」にほかならなかった。欲しいのは「身方」だった。
 ものを書いて創りたいと、国民学校の二年生頃には思いついて、秦の叔母が寝物語に教えてくれた俳句に関心をもち、ついで百人一首から短歌(わたしの場合 は明らかに和歌)により強い興味を覚え、小説にも。書くことを介して得られるかも知れない「身方」ないし「身内」とは、謂うまでもない。面識も相識もない 全国の「読者たち」にわたしは支えられている。作品を通してながくわたしは読者に見守られ、時に痛烈に批評も受ける。

* 即決の仕事を二つ、郵便ポストへと電送とで。歩一歩、前へ。力士が一番一番とよく云う、あんな気分。それにしても和泉委員から、既載分河竹黙阿弥の 「点検」連絡が来て、これは参った。先ず本を隣の二階から探し出してこなくてはいけない。歌舞伎台本のこと、文藝の書き物よりもかなり仮名遣いも文字遣い も出たとこ勝負があり、漢字のルビなども文法や歴史仮名遣いに忠実とは行かない。ま、少し腰を据えて少しずつ点検するとする。
 米田利昭の子規論も、奥さんから送られてきたプリントが見開きの行のねじれゆえに殆ど全面化けで、打ち直しの箇所が連続し、またプリントが薄くてスキャ ナが字を読み取っていない。わたしの眼もかすんでしまい、遅々としてすすまない。
 亡き夫君会員の千枚をはるか超す畢生唯一の長編を、全編一度に載せてもらえないかという奥さんからの申し入れにも、絶句する。ま、それほどの存在として 「ペン電子文藝館」が、晴の場に成ってきたと云うことだろうと、喜ぶことにしている。

* 夕食のあと、「フォレスト・ガンプ」を見終え、したたか泣かされた。ジェニイ(ロビン・ライト)と、発達にやや異状のあるフォレストとの純な純な波瀾 に満ちた愛。ダン中尉とフォレストとの親愛。フォレストの無垢で盛んで「歴史的な」な生き方、そしてフォレストの母の愛と確かさ。そしてジェニイの残して くれたフォレスト・ジュニアと父フォレストとの、これから。ジェニイの墓の前で、「ジェニイ、さびしいよ」と泣いて呼びかけるフォレストにはまいった。映 画の創りも見事で、少しの弛みもない。トム・ハンクスに脱帽、そしてジェニイ役の女優ロビン・ライトの優しさにも美しさにもわたしは傾倒した。佳い女だっ た。ジェニイや母親の終焉の描き方も静かに美しく、愁嘆場の無いことで、かえって深々と哀しみも感動も、胸へ来た。ジェニイの病気はけわしい難病であった に違いない、のに、映画は最期まで清潔な美貌を温存し、フォレストの悲嘆を庇ってくれたことにも感銘を受けた。魂のように、人生そのもののように、空に舞 う一枚の羽毛のはてしなく遠くへ去っていったラストも、胸を揺さぶるはかなさであり、美しさであった。わたしが涙脆いのか、映画が素晴らしいのか、後者で あると信じるが、こういうふうに溢れる涙は、やはりカタルシス。

* 郵便局の後、頼まれてスーパーでパンなどを買ってきた。預けられた金額からのおつりが四百円あまりあり、さてこそはと食品スーパーの隣の酒類スーパー へ入り、物色したら、有った。「上海老酒」が税込みで四百円と少し。中国の酒はよくよく体調の悪いときでも口に合う。「マオタイ」のような高級酒でなくて も、けっこうご機嫌になれる。酒毒にやられてしまうほどは、飲み続けない。お酒どころか、眼科はどうしたんですかと、叱声が飛んでくるかな。

*「秦テルヲの魔界浄土」を「講演録 3」に収録した。スライドをつかっているので、文字だけでは分かりにくいところも有ろうけれど、大体、とおるだろうと思う。

* 二時になった。少しインターネットで世界旅行してから、都々逸のサイトを拾い読みして、やすもう。
  重くなるとも持つ手は二人 傘に降れ降れ夜の雪    ちと理にかった句だが。

* 三時。太左衛さんの鼓が響いてきた。元気づけられて、やすもう。

* 秦先生、お元気ですか? 先週土曜日、トウキョウワンダーサイトで、ビデオアートとサウンドとのコラボレーションに、鼓で参加しました。若いアーティ ストとの「時」は凝縮され、一時間以上打ちましたが疲れはありません。空間に展示された若手作家たちの作品のパワーも加わり、ますます元気になりました。 みんなが頑張っている姿をNHKが取材にみえていました。二月一日の、「おーい、日本」にでるかもしれません。長時間の番組ですが御報告させていただきま す。現代の夜神楽! といえる体験で、鼓の、新たな可能性と強さが発見できました。

* 秦先生、起こしてしまいましたか。変な時間にメールしてしまいました。ごめんなさい。励ましのメールいただき、うれしいです。ますます頑張ることがで きます。テレビはビデオとりますので、映ったら御送りさせていただきます。ありがとうございます。おやすみなさいませ。  太左衛
    

* 一月二十八日 水

* 朝一番に、京都の星野画廊から、秦テルヲの絵が届いた。湖の本のあとがきゲラも来た。
 血糖値が88とは、低い。気温が影響するのだろうか。トーストと紅茶だけの朝食、この血糖値ならインシュリンはパスして夜分に補強しよう、そういうのは いけませんと云われるだろうが。朝から晩まで測り続けるわけではないので、朝起きの値をメドにしている。ここで125以下であれば宜しいと、聖路加では指 導している。学会は110以下としている。低血糖はこわいので、80以下にはなりたくない。

* 朝食の後「やまな」サンの番組で、いま若いタレントでは早くから特に注目してきたアヤヤこと松浦亜弥のトークを見聴きしていた。この子の魅力は尤も優 れた意味での「健康」、むろん今まさに得意のときであるから、或る程度当然だが、しかし、十七歳にして、バランスよく、全く自分自身の言葉と生気とで目を 輝かせて話すなかみが、想像以上に健やか。したがってスレず品良く、なによりも話す言葉にムダも乱れもない。ヤックンの矢継ぎ早な質問にも瞬発の確かさ で、話題へ自然に試聴者をひっぱる。あれでは表情も冴え冴えと澄んでチャーミングなのが当然だと思う。清潔で聡い子だなあと嬉しくなった。
 あややをはじめて認識したのは、テレビでも舞台でもない。あれはたしか東京駅の八重洲口あたりでみた大きな看板広告の写真であった。吹き付けてくるエネ ルギーに感心した。だれだろう、こんな子は知らないなあと印象づけられた。以来、気をつけてみているが、コマーシャルが多く、今朝のようにトークは初め て。よほど割引しても、十分われら老人二人を同時に惹きつける魅力であった。べたついて甘えた、気取ったところが無く、無遠慮に高ぶっていないのも、稀有 の好感度。
 もうひとり上戸彩というアヤもいい。この二人にはいつも目を向けている。
「やまな」サンの番組といった。これは番組の芯にいる美人ホステスの、むかぁしの出演ドラマでの役名で、その美しさと感じの良さから、本名は忘れても、と いうより覚えていなくて「やまな」サンで通っている、我が家では。典型的な日本の美女であるが、あややの前ではすっかりおばさんだった。致し方ない。そし ておばさんにはおばさんならではの魅力が横溢しているものだ、やまなさんも、女のもっとも美しい時機にいることを活かし欲しい。それには姿勢だろう。背筋 力がよわいかして、よく前屈みに卓に肘をつくのが木になる。

* さて美味しいものに手をつけずに楽しんでいたが、いよいよ「秦テルヲ」の絵の荷を開いてこよう。

* 二度は言わない 2004.1.27   小闇@TOKYO
 教師が生徒に向かって、あるいは親が子どもに向かって言うと思われている科白に、「一度しか言わないからね」というものがある。子どもにそんなこと言っ て、通じるわけがない。大人だって理解できないのだから。
 約束を忘れられることが何より嫌いだ。「え、なんだったっけ」と言われたら、それまで。二度は言わない。優先順位というものがある。私との約束は常に一 番ではない。しかしその事実と、それをあからさまにするのは別の話。
 ビジネスでそれをやったらまず次から仕事は来ないだろう。親しき仲でも見る目は変わる。少なくとも私は、口にするかしないかは措いても、あとあとまでネ チネチと、この手の記憶は温存する。
 ま、要はすっぽかしくらって機嫌が悪いんです。

* こういう小闇が、可愛らしい。「すっぽかしくら」うのか。そうかそうか。

* 秦テルヲの絵は、小品だけれど、京洛帖や京洛追想画譜の一群であろう。画譜の方に出町橋があり春色を帯びているが、私のもとめてきたのは同じ出町橋 の、雪景で、樹木や橋や鴨川の風情はさらにしみじみと、筆は丁寧で魅力に富んでいる。樹木の描き方は京洛帖の花売女のに似ている。画廊にはものの十分とい なくて。その間主人に質問していたのだから、この絵に目をとめて買おうと決めたのは、まさに一瞬一瞥のことだった。テルヲと星野画廊との、ふたつともを信 用していた。

* あすはまた歯医者。あすの帰りは、どこへ向かおうか。校正をもって出るので、落ち着いて明るい店を見つけたい。あたたかいといい、風邪はひきたくな い。
 五日には、久しぶりの電メ研が茅場町で、三時から五時。帰りにはクラブへまわれる。

* 眼科どうされましたか? すこしプンプンしています。叱声が飛んでくるかなというところも、確信犯的で。
 今日は友人と神楽坂界隈を歩いていました。日仏学院のレストランで、フランス人に囲まれて、手頃で味のいいランチをとり、よせばいいのに有名な甘味喫茶 で関西風に言えばお善哉を食べてしまいました。
 神楽坂にはまだ古い露路が残っていて、開店前のお酒のおいしそうな小料理屋があちこちに。この街は夜遊ぶところですね。京都の露路はもっと風情があるこ とでしょう。
 明日はお稽古です。
 歯医者さん、痛くありませんように。今日こそお早めにおやすみください。

* 淡交社がくれたカレンダーの一月の写真は、正月の床飾り。軸は懐紙「初春 内大臣実萬」。高くから「結び柳」がしだり尾のながながしく床畳に垂れて、 これが正月らしい。曲げ物に寶槌が載っているが、今一つ、冴えていない。何より軸の下で畳み目一つほど左にずれている。こういうのは気になる。真の板に唐 物らしい瑞獣ものの尊式の瓶に、追羽根と堅い椿の蕾はわるくない。好きな瓶ではない。
 機械部屋のもう一つのカレンダーは山種美術館が毎年呉れる、今年の一月は、土牛の金地に紅白梅。柱には細身の、先日縄手「今昔」で咄嗟の土産に凱クンの 呉れた木版の簡素なもの。
 深夜にぼおうっと見入っている。東大倫理学の竹内整一教授から「『おのずから』と『みずから』」という著書が贈られてきた。日本思想文化論と帯にある。 意図するところは朧に察しられる。目次を観ると、第四章で古学にふれているらしい。仁斎などが語られていそうだが、国学には触れていない。近代の国木田独 歩、柳田国男、夏目漱石、森鴎外、正宗白鳥という名前が見えているし清沢満之の名もある。しかし、目次をみるかぎり宣長・篤胤の思想は検討の外らしい、島 崎藤村にも触れていないらしい。「神の御心であらうづでござる」という国学の「おのづから」にもぜひ触れて欲しかったなあと「夜明け前」読了の今は説に感 じる。竹内さんにはお礼を言い、その辺を伝えておきたい。

* 講談社の大立て者であった野間清治、また中央公論社の世帯を背負っていた瀧田樗陰の文章を入手した。出版・編集特別室も日々に充実して行く。
 小説に限って全筆者と作品とを作家生年順に表覧にしてみた。手持ちの資料だけであっというまに出来てしまう。評論も、戯曲の部も造ってみた。すぐに出来 上がる。さらりと平明に造ればすぐに出来るのだ、機械的に妙に凝ると二ヶ月掛け三ヶ月掛けて仕上がらない。仕上げてみても、それを発信した先の機械で開け ないようなことになる。「おのずから」に任せて平明に仕事はすればいいのに。


* 一月二十九日 木

* まっしぐらにボールを追いあって激突、大怪我をする選手がいる。野球の守備に多い。その一方でポテン・ヒットと称して、双方で譲り合い譲り合い、ボー ルが野手同士の間に落ちて安打や塁打に、時にはランニングホームランにもしてしまい試合に負けることがある。盲目の恋と臆病な恋とに似ているだろう。どっ ちもどっちだが、お互いに見送ってあたら大事なものをフイにするのは、かすかに滑稽な感じがする。
 人間の選択では、明らかに「見送る」という選択や姿勢もある、大方の場合、そうしているのが常識人のつねであろうと思う。あえて火中の栗は拾わなくて も、それほど空腹ではないというわけだ。おかげで人生にある種の安全が生じる。安全を常に常に選択することで、いつのまにか退屈してしまい、そのためにま た新たな危機に迫られている人生は少なくない、それも真実のようである。怪我はせぬよう大胆に機会を生かすということを、人は生涯に何度か繰り返している のかもしれない。
 給料が二、三万円もあったかどうかという時期に、前後四回、五十万円ほどつかってわたしは私家版を四冊造り、むろん売れるわけはなく、バラまいた。妻は ひと言もヤメテと言わなかった。その四冊目が人手をまわりまわって、わたしの目の前へ「太宰治賞」と文壇への招待状を運んできた。あのとき、わたしは賭け ていたのではなかった。したことは、バカのようにただ本を知らぬ人にまで送っていただけだ。文学の先生もなかったし仲間もなかった。書いて応募したり投稿 したりということすらしていなかった。見ようでは途方もない怠け者であった。いわば勘定を度外視した浪費であったからは、ま、ケチでは出来ない怠け方で あった。売れて欲しい買って欲しいという努力は何一つしなかった。ほんの少し自負というものだけが有った。
 わたしは子供の頃からものに怯えるこわがり屋であった。暗闇など、しんそこ怖かった。それが今は、ともすると闇へ沈もうとする。無類の安息だ。
 ま、それはそれとして、この「私家版」出版と似たような「つっこみ」を、ここぞという時には、自覚して何度か繰り返した。大学院を捨て京都を捨てたのも 大きい一つだが、会社勤めをやめたのも、ガンとして自分のしたい仕事以外は受けなかったのも、湖の本の敢行も、東工大教授の就任も、コンピュータへの認識 と実践も、ペン理事会入りや電メ研・電子文藝館の創設運営も、みな、一つ間違えば「大衝突」してわたしは潰れていたかも知れぬ。いやもう実は潰れ潰されて いるのかも知れないが、怠け者の図太い本性か、潰れているとは思っていない。なによりもその一つ一つで躊躇していたら、打球は「それら」とわたしとの間で バウンドして遙かに遠く逸していただろう。人生は退屈したことだろう。
 とてもとても多くのいろいろを、つまり安全に見送って見送っていたからこそ、「それら」はキャッチ出来たのだという判断も、むろん、可能である。たぶ ん、そうだろうなと思う。どうでもいいことは見送って良かったのである、時に冷静に、時に怠けて。時には甚だ冷淡だったこともあろう。
 だが、やはり、見送るに見送れない大事なボールは、幾歳になろうと人生のフィールドを襲ってくる。飛んでくる球は踏み込んでキャッチし逸らさない、そう いう気力が、意欲が、守備力が無くならないように。気の衰えがちに足の縺れることのどうか無いように。その自覚が、つまり「今・此処」ということだろうと 思う。

* 歯医者は、来週に支払いをして終わる。
 すばらしい好天は先週とまったく同じ、先週の木曜より暖かかった。またバスに乗らずにとことこ歩いた。そして「ラ・リオン」に昼食に入った。先週は閑散 として静かだった店が、今日はなんと女、女、女たちにタップリ占領されていた。二十代、三十代、四十代も五十代も、狭くはない店をめいめいに占めてみな楽 しそうに食べて話していた。ここは女性専門のお店なのかと、思わず店員に聞いて笑われた。そして店の真ん中の小さな二人席に入れてくれた。いかにも風采の 上がらないおじいさんが、女の中に一人というのも、わたしはちっとも気にしない。読まねばならない校正ゲラを、テーブルに余裕がないので手に持って、真面 目に読みふけった。すぐ傍の席の話し声も聞こえなかった。食べるのはフォークだけを使った。ワインのサービスの良い店で、たいへんけっこう。

* 保谷駅ビルで頼まれたパンを買い、「ぺると」で珈琲を買い、小一時間もマスターと歓談。同年配の夫婦の客が入ったところで店を出た。めずらしいほどの 好天が嬉しかった。天気がいいと元気もいい。嬉しいことがあるのですかと人に聞かれそうな、手ふり足ふり、歩きようであったかも知れない。

* ずうっと仕事に没頭。しかしときどきくらくらっとするほど睡気がくる。たぶん、たんに眠いのではない。血糖値の波動が烈しいのであろう。そばにペット ボトルのお茶を一口含むだけで、瞬時に睡魔は消散する。一種の異状であり油断できない。

* 秦せんせー、こんにちは。京都の講演、お疲れ様でした。
 私の勤めている会社は、外資の親戚なので、12月が年度末なんですよ。私のいる部署は、年度末や、年度が始まってすぐは、比較的時間がとりやすい方で す。ですので、休日はちゃんと休んでいます。誘って下さい。
 昔、やりましたねー。教授室で午のお食事会。今はああいうことできるかなあ。
 私は、いつも遅刻してくるので(ごめんなさい)、授業中は小さくなっていましたし、先生の話をききながら、アイサツを書くことで手一杯でした。もう一 人、数学科の子がいると、いつか先生がおっしゃっていましたが、その子と先生は、今交流ありますか?
 東京の小闇さんも、同じだったのですよね。どんな方だろう。私のことは、(遅刻してくるなんて問題外。しかも、いつも。あかの他人。)とそのとき思っ て、やっぱり覚えていないか?!   外資系

* 卒業後何年か、建日子の芝居に来てくれて、スカアッとした美人に育って! いるのに感心した。教室ではアイサツを書きながら涙をいっぱい溜めていたり して、ビックリしたこともある。数学と聞いただけで尊敬した。書く気になれば個性的な世界をくりひろげるだろうと見ているが。

*「子規の従軍」は堅実な力作だけれど、遺憾なことに、送られてきたプリントのインクが薄く、その上見開きの頁が併行でなく行が揃わないため、スキャンが 概ねうまくない。全面に打ち直しながら、化け文字のわずかな合間を縫って行くのに、ほとほと疲労した。八ポの二段組みで、一つの見開きで四百字用紙の七枚 以上あるだろう。胃がむかむかするほど疲れてきた。もう二頁半ある。明日の仕事にする。かなり文藝館の仕事がわたしの手元に集注してきている。湖の本の作 業を優先しないと、これが崖に乗り上げると、パソコンのコンテンツとは違うから厄介なことになる。本の出来る頃には発送の用意が調っていなくてはならな い。

* バグワンと、宇治十帖を階下で読んでくる。

* それに、またまた、ジャン・マルク・バール(ジャック・マイヨール)、ロザンナ・アークエット(ジョアンナ)、ジャン・ルネ(エンゾ)の「グラン・ブ ルー」を見はじめている。この映画は、いつもいつも、わたしを深いブルーに染めてしまう。危険な誘惑の、名作。
 愛し合うジャックとジョアンナが、はじめてからだで結ばれる。そのベッドからジャックはそっと抜けだし、深夜シチリアの海で、余念なく、ながくながくな がく一夜中イルカたちとともに泳ぎ戯れ、果てしがない。いるかはジャックの唯一の家族(身内)なのだ。ジョアンナが、そばにいないジャックを渚に探しに来 ると、沖合で、ジャックは魂を海に溶かし込むように、いるかと泳ぎに泳いでいて、ジョアンナは砂浜にひとり寝入ってしまい、朝が来る。ジャックといるかの 輪に入れないと感じたジョアンナは、別れてニューヨークに帰って行く、が、ジョアンナの愛は深く、ジャックもまた…。
 海ほどおそろしく海ほどなつかしい世界は無い。海の子のジャックもエンゾも、やがて永遠に海へ帰って行く。陸にひとり、いやジャックの子をみごもって残 されるジョアンナは、だが哀しみの深みから我が子と生きて行こうと決意する。

* あやや 2004.1.29   小闇@TOKYO 
 部署の長は確か四十二歳で、小さな会社じゃ割と知られた「優秀な人」だ。だが、と続けるのが良いのか、そして、と続けるのが良いのか、若干ミーハー気 味。
 ある夜。隣の部署の人間から長に電話が入る。取り次ぐ。「ええっ本当? いやーありがとう、感謝するよ」。ただならぬ興奮の仕方。
 どんなルートか知らないが、あややのサインが手に入ったというのだ。聞けば長はあややの大ファンで、なんとかそれを手に入れられないかあちこちに頼んで いたのだという。
 職権乱用。ということよりもまず、何故にあやや? ありゃ中高生のアイドルだろうに。
 長の後輩でかつ私の先輩にあたる人物に聞いてみた。「どうなんですかねあややってのは」「あややって十七歳だろ? 異常だよ」。だよねぇと口にしそうになって飲み込む。「ところで先輩はどんな風がお好みで?」「最近は小西真奈美かな」「・・・」「なんだよ年齢差十二歳 くらいだぞ。そんなの誤差誤差」。
 小学校高学年、小田急線の駅の改札で「大人でしょ」と言われたことを思い出す。いいえ私は大人じゃありません。大人料金を支払う年齢でもないし、私の思 う大人ではない。けれど三十歳を超えた今、私の描いていた大人は、ひとりたりとも周りにいない。年が同じでも離れていても。私自身もそうではない。どれだ け年齢を重ねても、あの頃の大人像には及ばない。
 だってあややだもんな・・・。

* 深夜に笑ってしまった。少し湿っていたのが、元気になった。
「大人像」 ?
 大人になってみると、そんなものに三文の値打ちも無いことが分かる。
 大人の値打ちは、いかに「子供」を精神に保存しているかで決まる。子供のように感動し子供のように喜べない、悲しめない、怒れない大人が、どんなに多い か。また、変に大人に早成りしたがってじつは大人になど成れない若者達を眺めていると、自身のうちなる子供を見失っている例が多すぎる。根が、無いのだ。
 人にもよるだろうが、あややを好きになれる大人は、一般にはヘンタイでもなく幼稚でもナントカ症候群でもなくて、弾む若い命をきちんと嘆賞し佳い意味で 羨望し感動できるという、それだけのこと。
 小闇の「私の描いていた(あの頃の)大人像」というのが、要するに今となれば妄想に近く、アヤシくてアヤフヤなのである。そんなイリュージョンは捨てる にしくはない。
 あややでもひばりでもマダム・キュリーでも紫式部でもマリア・アテレサでも、はかる物差しはいろいろあり、或るものさしではかれば、何の区別があるわけ でない。とても大切な意味で言っている。
 若い東山紀之を公然と愛していると明言する、わたしよりもずっと高齢の女優森光子をわたしは肯定し、尊敬すらしている。あの魂は、生き生きと弾んでい る。ゲーテは八十すぎてハイテーンの少女に本当の愛と敬意を抱いていた。わたしはあややのサインなど欲しくない、が、あややと逢って話せる機会が有れば外 さない。卓球の愛チャンにも同じような気持でいる。人間的に魅力を覚えるし、それだけ私の中に、まだ、ものに憧れて感動する少年の気持がある。今も、あ る。それを喜んでいる。恥ずかしいと思ったことは無いですねえ。

* 一時半 いま長谷健の長編「あさくさの子供」の校正が届いたので、校正室の再現と、原作原稿を睨みながら逐一点検し終えた。改行の極端に少ない原作 で、当該箇所を発見するのに苦労した。さ、もうやすまないと。左胸に、錐で揉むような痛みが来ている。肩凝りだろう。

* この間からふと思い出せなくて気になっていた与謝野晶子の一首を、そうだ「ペン電子文藝館」の晶子歌集に選んであるだろうと当たってみたら、簡単に見 つかった。歌集「恋ごろも」からの自選冒頭に、
  春曙抄(しゆんじよせう)に伊勢をかさねてかさ足らぬ枕はやがてくづれけるかな  とある。「しゆんしよせう」と濁らずに読みたい。
 

* 一月三十日 金

* 本日「初恋」頂戴致しました。
 「墨牡丹」息つく間なく読ませて頂きました。「国画創作協会」はあのような形で立ち上っていったのですね。文展に抗う発起人の中に秦先生も連座しておら れるような情熱・息吹を感じつつ読みました。どの頁も画家の画か゜眼裏に浮かび楽しゅうございました。麦僊の「春」に心揺らす佳子夫人、評する華岳。次々 とドラマを見せてもらい、小花さん、相良成子の哀切の人生も華岳の筆に生きて画に映されているのを知りました。何必館も何度か訪ね、一昨年は知人が「鉄齋 堂に華岳の観音さんが゛出ているから拝みに行きましょう」と誘ってくれて、手を合わせる想いで拝見して来ました。終生、初心を貫く華岳の姿勢とその悩みは 六甲の山並の墨の色かとも思います。
 終章、波光との対話の中、秦テルヲの悲しみも読み取れて同情しました。改めて秦テルヲ図録を読み返し、最後まで、武田五一教授、中井教授、波光、華岳、 紫峰さんが推されているのを知り、秦テルヲの藝術の力を知りました。誠に多才、京洛帖、畑之婆の闊歩の有様目に残ります。絵日記も驚きです。
 秦先生のこと友人に申しましたら、その人先生のフアンでして、早速「慈子」とNo42「丹波」を届けてくれまして、先生の生いたちの記も拝読させて頂き ました。
 寒波が居座っているようですが、ガラス越しの日射しは明るく、先生のお書き下さいました「春在枝頭」を感じつつ、お作を読ませて頂くことの幸せを感謝し て居ります。  本当に有難うございました。
 時節柄 御自愛遊しますように。  かしこ     京都市深草

* 先日の講演会場で声をかけられ「墨牡丹」上下巻を注文され、ひきつづき「畜生塚・初恋」の注文もあった。不況にも煽られて悪戦苦闘の「湖の本」にこう して新たな読者との出逢いがあると、嬉しい。わたしには宣伝の手段もないので、こういうお便りを借用するのも、一人でも二人でも自分も読んでみようかと 思ってくださる人と出会いたいからである。

* そろそろ  この寒中、洗濯機のホースを凍らせてしまい、数日、難渋しました。
 今年の山焼きは、風の具合ですべて焼けなかったとかで、先日、焼き直されたそうです。昨日はもう風は穏やかで、暖かな日差し。ほわほわ花粉が飛んでる わ、と思っておりましたら、肩と背中がごりごり凝って、キモチは悪い、やたらに眠い、耳と目がかゆい、鼻はくしゅくしゅ。
 大丈夫ですか?どうかお大切に。
  歓抃(かんべ)   「こうべ行くのに近鉄テ変やな思ててん。かんべなんやぁ」
 簪のびらびらが揺れて擦れ合うように、若い女性のグループが、伊賀神戸駅で降りていきました。
 木津川のほとりの神戸神社。百地砦があった喰代。界外、摺見、比自岐、沖、岡波…雀にとっては、ふしぎな地名ばかりです。名張に越してすぐの雀が肝を消 した台風は、比自岐神社の巨きな木を何本も折り、建物も壊していました。
 再読のつど、ひとつふたつ、あ、あのこと…! と、わかること、また、少ォし増えた経験に援けられ、楽しみが波のように続きます。  三重県

* 花粉か。季節のたよりとはいえ、ユーウツ。
 見るからに古代な地名が並んでいる。比自岐と聞くと、反射的に「ひじきおもの」が思い出される。雄略天皇の頃であったか天皇自身のことであったか、崩御 のあとはなはだ荒れすさんだ霊魂に辟易したものの、鎮め役の者があいにく払底していた、という「遊部」発祥の故事の中に、漸く鎮魂慰霊、そのときに「ひじ きおもの」を捧げたとある。
 この人のメールには「どうかお大切に」など労りの挨拶の他は観念的・概念的なスローガンが何もなく具体的に終始し、それでイメージが生(き)のまま豊富 に届いてくる。四角四面にならない。

* 燦燦とふり注ぐ光や、草花の早い芽生えを庭先に見つけると、真冬は何処へいったの、春は傍まで来ているの、と惑わされ、老人にとっての暖冬は嬉しいも のの、これまた地球環境からみれば困難な問題点だと、手放しでは喜べずのこの頃です。それにしても今差し込む光がまばゆい。
 孫税をしっかりと納入しています。   東京都

* 「孫税」をおさめる一方、「地球環境」も憂えて、おばあさんは忙しい。


* 一月三十日 つづき 

* 大日本雄弁会講談社の創業者野間清治の「わが半生」より「キング」創刊前後を抄録して「ペン電子文藝館」に送った。「キング」というのは、多くて雑誌 の部数が二三十万の時代、それは関東大震災の翌年であったが、じつに百五十万部に達する創刊雑誌として、まことにマスコミ時代をぐいと引き寄せた大成功創 刊であった。そのサクセスを大いに自負しているが、それだけの苦心をはらっており、震災で創刊が一年遅れになったことを「損害」でなく、「幸運」であった と評価しているのを興味深く読んだ。
 さらに今、新潮社創業の佐藤義亮の回想も読んでいる。
 いろんな出版・編集人がいたし、「ペン電子文藝館」は、開館二年の記念にと私一存で理事会に諮って通して間もないが、明治初期から昭和の花森安治まで、 もうあれこれ十数人の顔ぶれにまでしてきた。岩波茂雄や長谷川巳之吉のような理想主義を成功させた人もあり、明治の人達は警世の意志巌のような時もあっ た。売れる・売れたという部数に重きをおいて大をなした創業者もいる。いろいろだなあとつくづく感じる。
 京都の淡交社を支えて名編集長であった臼井史朗氏の出稿も獲た。いろんな候補作が来ているが、「紙を汚して五十年 一編集者の懺悔」を戴こうと思ってい る。筑摩書房の創業者も素晴らしい人であった。少し砕けた感じでは「ミセス」などで一世を風靡した編集長も、また群像の大久保房男氏、新潮の坂本忠雄氏な ども念頭にある。

* 米田利昭の「子規の従軍」は佳い評論であった。正岡子規と、また俳句とを、大きな「明治」という時代の政策や思潮とのかねあいで、微妙に踏み込み踏み 込ん考察を展開してくれて簡潔、犀利の魅力を覚えた。「土屋文明の『日本の母』」と並べると、かえって求心力が分散するので「子規の従軍」だけにする。八 十枚はあり、評論としては十分な長編である。

* そろそろ私自身の作品もまた積み増したい。小説にするか、評論にするか、歌集にするか、戯曲にするか、講演録にするか。

* 十一時にならないが、階下で、発送用意の仕事に転じよう、映画を「聴き」ながら。今夜は みづうみ が寒い。

* エンゾはジャックに抱かれて海の深みへしずかに帰って行く。そしてジャックは決定的な潜水病に。ジョアンナは妊娠、しかしもう助からぬ命と覚っている ジャックは海の底へ帰りたがる。「いいわ、行って。わたしの愛をたしかめるたに」と妊娠を告げたジョアンナは、愛するジャックを手づからグラン・ブルー、 深海へ放つ。
 ジャックは愛していながらジョアンナに三度痛い目を見せている。いちどは、愛を買わしたそのベッドから、ジャックはいるかとの戯れに夜の海へ溶け込ん で、ジョアンナを浜辺に置き去りにしている。二度目は、海中のことをジョアンナに聞かれて、海に入ってしまうと上の世界へ「戻る理由がない」と言い放ち、 妊娠を告げようとするジョアンナに耳をかさない。かろうじてジョアンナも、そんなあなたのそばに自分がいる理由が見つからないと悲しく呻く。そして三度目 は、海へまさに逝ってしまうのだ、ジョアンナに決定的に手伝わせて。
 むごい、悲しい、しかも底知れぬ懐かしさにひたされてしまう。「戻る理由がない」別世界をもったジャック・マイヨール。それはジャックの大きな創作世界 でもあるのだろう。創作する人間は別世界を胸に抱き込んでいる。ジャックの懐かしさはそのままわたしの懐かしさである、別世界への。
 海の底でジャックを迎えて「すべるように」海の闇に欣然と消えていったいるかは、憎むべきなのだろうか。

* こういう映画を観ていると、国会で演じられている、酷い、あくどい欺瞞に満ちた茶番劇の不幸と直面する気も失せてしまう。政治家と聖職者ほど害悪な職 業人はいないとバグワンが言うのは、あまりにもっともだ。


 * 一月三十一日 土

* 米田利昭の「子規の従軍」を正式に文藝館に招待した。これは文藝館の評論中でも屈指の秀作に属するだろう。少なくも子規があれほど熱心に「俳句」に取 り組んだかを、明治の体制とからめて斯く的確に示唆したのは、ありそうで無かった視野の適切であろう、それを「子規の従軍」という、だれもが思わず心いた めて顰蹙したほどの「決行」と、しっかり絡めて説いてくれたのは有り難い。いい樹をまた一つ得たという実感である。
 気ぜわしかった一月にかかわらず、今月も十二作入稿し十作は校正も終えて本館に掲載されている。
 それにしても、確かにわたしのスキャナーは発狂しているかと思うぐらい識字率がわるい。向山君に頼んだスキャンは見違えるほど綺麗に出来てくる、それで も相当の誤写が出ているけれど、わたしの機械とは較べものにならない。常務理事米原万里さんの提言に従い、スキャナーを予算で買って貰いたくなってきた、 が、この視力減退の甚だしさから言うと、新しいスキャナーどころか、新しいわたしの後継者を捜すのが絶対の先決事項である。

* 聖路加病院にながく世話になっていて、このごろ漸く感じることは、専門医が初診時の患者愁訴にしたがって、何となく「それ一つ」をフォローし、全体の 違和や不安にはあまり応じてくれない、ないしは踏み込んできてはくれない点である。
 糖尿病は、いわば全身違和で影響が多方面に噴き出しかねない難儀な病気だが、検査データの点検だけで大丈夫なのかなあと心配になるときがある。血糖値は 測っていてほぼ正常の範囲内にあるけれどふくらはぎが張って、昔と較べものにならぬほど日常的にともすると痛烈に足が攣る。掌がじんじんする。時ならず眠 くなる。くらくらと眠くなる。一にも二にも運動ですといわれても、簡単なことではない。
 眼科でいえば、わたしには当面する視力の減退がなにより迷惑なのに、緑内障の視野狭窄推移を半年ごとに様子をみるだけで終わる。視力の方は眼鏡屋で調節 して下さいというばかり、あまり科学的に感じられない。むかし「臨床眼科」という雑誌にも間近く勤務していたが、目玉の外側からレンズ調節でしか調整でき ない眼科学というものに、かなり不信感を覚えたそれがそのまま生きている。視力周辺の病変にも治療は進んでいるけれど、眼鏡依存を当然とする思想は変わっ ていない、変えようがないようだ。

* 先日、(京都太秦の)蛇塚古墳にびっくりしたあと、廣隆寺へ寄ってみましたの。中学の修学旅行で行ったはず、なのに、なァんにも憶えてない。
 宝物館でみる、それは、もう、いまは受け入れるほかありませんが、半跏思惟像は、遠くに見ても、間近く向き合ってみてもオーラが感じられなくて、洞ろな きもち。薄寒い風に白い骨が鳴って、(奈良の)三月堂への恋しさが急に沸き上がってきました。
  聖林寺の観音も、コンクリの匣とガラスの中にあり、悲嘆の息を漏らしたのですが、対面しているうちに自分でも不思議なほど、それらが、心から消えていきま した。合い性のちがいなのでしょうか。

* これは分かる。宝物・宝蔵の保存という大事のまえに、個々の尊像や仏像などの本来のありようが消え失せた、まことにおおまかな陳列として曝されてい る。すばらしさが噴出してこない憾みが遺る。あの宝物館は、その上に、寒い。一室にすべてが陳列されているから、一人でそこへ入る客は一種畏怖以上の恐怖 にすら襲われるだろう、感じやすい子供ならあんなに怖い空間はなかろう、なにしろ見事な仏像が並ぶだけに生きて見える。この人も、ほぼ一人か二人の少ない 客としてこの寒い季節に迷い込んだのであろう。気の毒な気がする。広隆寺にも、今少し保存だけでない工夫がないか。殺風景な宝物館である。

* やるべき家事も夕餉の買い物もばたばたと手早く済ませて、の――んびりとした時間を確保し、好みに過ごすのが好きなんです。
 明治生まれの伯父、末っ子の父の長兄が、何処を旅しても山と川があるだけと嘯(うそぶ)いて、父が京都観光させた一度以外に故郷を出なかったそうです。 平安神宮の赤い鳥居の前での兄弟の写真が証拠のように、二三枚手元にあります。明治生まれの田舎暮らしの市井人なら、それが普通だったかもしれないです ね。
 旅好きのこともあり、国内の目ぼしい観光地は、一度は訪れていると思っていますが。お付き合い以外の旅の地を只一つと挙げるなら、京都。
 海外、ここ数年は環地中海に関心大で、地図が脳裡に描かれていますが、危険性のある処は意識して避けたく。今年は待望の春のシチリアかな、と。
 どうして観光旅行をしたいのかと問うてみるに、日常生活の雑事からの逃避が先ず挙げられます。でも、ハタと気付いた事の一つに、絵画、写真、机上の空想 は二次元、平面ですが、その地に立てば三次元、立体に観る事で心が浮き立つのではと。
 同じ出し物でも、どうしてもテレビの舞台中継は退屈し勝ちなのに、劇場へ出向いて観ると、ウキウキと楽しい。
 馬篭に行かれる寸前までは、根っからの都会人でとメールにありましたが、ウソのように、180度裏返しのように、そんなの有りかと云いたい程に、その旅 を、馬篭を絶賛しています、ネ。
 未知の地を訪れ、その景観、文化に触れる悦びを味わえるのは、動ける身体があっての事、とひしひし感じています。あなたは腰が重過ぎます。イタリア旅行 の名紀行文を読みたいと切望しているのに、これは夢そう。ナニ、ホンの十日程の時間を作り、ゆったりとしたツアーに参加すれば、別天地、感動の旅が出来る というものです。観るも一生、観ないも一生です。
 テルヲの佳い絵を身近に置けてよかったですね。父の丁度十歳の頃だなあと思いを馳せています。講演のいい記念のご褒美になりますね。  京都

* 海外へ、我が家で誰よりも行きたがったのは、妻。だが、そんなことの言い出せる時期には、つまり三人の年寄りが亡くなったあとでは、妻はもう都心へ遊 びに出ても、時にひどく疲労した。余儀ない法事などの帰省でも、滅多には二泊と家を空けていない。一泊よりは二泊の方がからだにラクなのだ、が、三泊は思 いも寄らない。ただもう、一病息災をわれわれは願っている。ばか息子殿は、お母さん自動車で北海道中をドライブすると楽しいよ、行こうよと母親を喜ばせた くて親切に誘ってくれるが、出来ればそれは楽しいに違いない、だが、自動車で旅行線を延ばすだけの旅が、どれほど疲れるものか、九州中の窯場を二度に分け て何泊もタクシーで走り回った平凡社の取材旅行で、また西行の跡を訪ねて四国や近畿をタクシーで走り回った「太陽」取材の旅で、よくよく知っている。妻は 半日と堪えられないだろう。まだしも列車の方が、立ちも歩きも出来て心臓に優しい。
 つまり、飛行機に釘付けから始まる海外の旅は、心から妻のために残念だが、今となれば夢でしかない。腰が重いのでなく、行かない、のである。意味は明 白。一人旅も、せいぜい仕事がらみのものか、あっても二泊限度。行きたいが、じつは行かないのである。でも、行きたい。長い自作の小説をつくづくと更に推 敲すべく、近間でいいから出掛けたい、どこかへ、二日ほどでも。しかし海外は論外、それこそ中国やソ連の時のように、井上靖や高橋たか子や日中文化交流協 会が誘ってくれた、何か公式のよほどの機会でもなければ。

* 臼井史朗氏の送ってこられた沢山な出稿資料を読んで、これで行こうと決めたのが、講演録であるが、内容がいかにも編集者臼井の全容に触れている。「紙 を汚して五十年 編集者の懺悔」の用意が出来た。編集者には運根力が大事。「運根力」はわたしの勝手な造語であり、「うんこんりき」と読んでもらう。わが往年の編集者体験 に徴しても、これは大事な三字で、謂えている。
 わたしが「ハイネ詩集」にふれた最初は「アテネ文庫」だと先日書いていたが、この廉価な人気の高かった弘文堂書房の文庫本の企画実現者が、臼井史朗さん であったとは驚いた。淡交社の前にそんな時代があったとも初めて知って、びっくりしている。明日、校正する。

* ドラマ「ホワイトハウス」を見てから、また機械へ戻って、青鞜創刊号の巻頭を飾った与謝野晶子の詩「そぞろごと」全編を起稿し、校正、入稿した。つい で、電送されてきた現会員北村隆志氏の評論「加藤周一『ある晴れた日に』論」を読んで、形を整え、よし入稿と思うと、筆者「略紹介」のデータが添っていな い。ただこれだけのことで作業の流れは停滞してしまう。 

* たちまち午前一時をまわった。こんなことは、SOHOだから出来る。コンピュータなしで今の私の仕事を同じように纏めて行こうとしたら百倍の時間でも 足りないだろう。そして、まだこれから階下の仕事が待っている。湖の本の全読者にじかに謝辞と言祝ぎをしなくては。これには一週間以上かかる。
 ホオッと眼を閉じると懐かしい闇がわたしをとらえてくる。だが、まだ、「戻って行く理由がない」などと謂えるわたしではない。だが、待っている。待って いる。今日は両方の耳の下がみりみりと痛い。ビタミン愛の写真を目の前へ動かして見ている。眼球が乾いてカサカサしてきた。