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宗遠日乗 
   
    
 闇に言い置く  私語の刻 
    
   

  平成十四年(2002年)十月一日から歳末大晦日まで。 三ヶ月
 



 
 
 宗遠日乗 「十四」



* 平 成十四年(2002年)十月一日 火

* 原作のプリントだけ用意して、なかなか手がつかなかった、明治期歴史小説屈指の秀作と謳われた石橋忍月作「惟任日向守」と、明治期の翻訳小説家として 馴染み深い若松賤子訳の「いなっく、あーでん物語」とを、長時間かけてスキャンした。勢いで、プロレタリア作家里見欣三の秀作「苦力頭の表情」も。
 もう二編、原民喜の原爆被災の代表作「夏の花」と水上瀧太郎の名作「山の手の子」もプリントが用意してある。十月十五日の理事会までに此処までは校正も 終えて掲載の運びとなろう。開館の満一年を待たず「展観全筆者」が、二百数人に達する。「ペン電子文藝館」は、「招待席」「歴代会長」「物故会員」をあわ せて、さながら「日本近代文学史の観」を立派に備えてきた。
 そろそろ掲載満一年経過者から第二作をも併載してゆく作業に入る。

* きのう東武で気まぐれに買って帰った「桂花陳酒」というのが、甘いシェリーのようなもので、度数は15%でたいしたことなく、口当たりがいいのかわる いのか、とにかくも二日で一瓶呑んでしまった。おかげか夕過ぎて眠くなり、うたたねのつもりが気が付くと十一時半。史上稀とかいう前評判の強力台風が、ど うやらほとんど存在を示していない。

* 小泉純一郎の強いところがよく出て、北朝鮮行きから内閣改造まで、成果は未知数ながら政治手法においては、自民党内の古株が束になってかかっても叶わ ない力量を見せた。これで死に体と言われていた小泉がまた噴水し始めたのは間違いなく、引き立てるように民主党がバカの一語に尽きる党首選と人事をやり、 いま選挙されたら民主党は沈没だろう。後継が誰であれ、無能な鳩山を取り替えるだけが第一目的の党首選であるのに、その鳩山に勝たせた愚策も愚策、その後 の鳩山人事もおはなしにならない。
 責任は若手にある。ここはとにかく菅直人にひとまず乗り換えて党に勢いを付け、その上で次世代固めをしっかりすべきであった。若手ががたがたやり始めて 候補が乱立したときからこの愚はもう見えていた。やれやれ。


* 十月二日 水

* 昨晩の台風は、桂花陳酒で宵寝したため凄い雨も風も覚えなく、そして今日は、えらく暑くて、のぼせそうであった。
 いろんな事情から電メ研が流れたので、里村欣三の「苦力頭の表情」を校正。捨て子で育ち故郷を出奔して満州を放浪する青年の、いわば「底辺」を這う姿と 思いとが、実存的な実態として粘りづよく書き取られている。見も知らぬ父を慕い母を慕う気持ちがあるために、ひょっとしてこれが父かも母かもと思うため に、無情無惨な世間の人が憎みきれなくて、だからテロリストにも人道主義者にもなりきれない、と思うに至っている。そのどん底の彷徨の中で、「乞食」にも 「労働者」にもなっている。
 好感を持って読めた。
 若松賤子の翻訳物はヘッドをつけておいて、先に妻に読んで貰うことにした。石橋忍月の明智光秀は、一字ずつ読んで読み仮名を付けてゆくのが難儀な作業で あるが、なかなかの大文章で。一日に一頁か二頁の校正が限度だろう、かなり長いので苦労するが、読ませる力があり楽しみである。

* 北朝鮮へ拉致邦人の調査に行った、政府報告を聴いた。なんともやりきれない。いずれにしても、拉致問題は日本人としては開けて見ずに気の済まない「パ ンドラの函」で。この先、えらいことが続いてゆくだろう。抛っては置けず、かつ納得することの容易ならぬ事案だというよりない。

* 拝啓 ますますお元気なご様子心強いばかりです。『私の私・知識人の言葉と責任』かたじけなく拝受早速読ませていただきました。どの講演でもつねに変 らぬ貴兄の凛とした心の姿勢がうかがえ、文字通り心打たれました。文藝評論家にせよ研究者にせよ仲間内の言葉ジャーゴンを連らねて事足れりとしている始末 (これは日本ばかりのことではありません)。小生も、世を、ことに人を憂えています。たぶん貴兄とはちがって私は「大衆」というものを信じていません。御 礼まで  匆々

* もう久しく文通のある、敬愛する或る名誉教授のお手紙である。適当なことを言うような人ではない。そしてこの手紙では、最後の、「大衆」というものを 自分は信じていないと言われる点に、一つの問題が呈されている。
 信じる信じないはひとまず措くとして、どうしようもないほどの「大衆」のあることを、むろん識っている。付和雷同し暴徒としても凶徒としてもいささかも 恥じなきものになれる人達がいる。老若男女を問わずである。否定は出来ない。こういう「大衆」の判断や言動を「信じられず」思うことでは、わたしも例外で はない。
 だが、それも一概には謂えない。餅は餅屋のような、凄みのきいた個別の措信の芯を、どんな人も抱いていないではない。政治的な判断はボロボロでも、人情 あつく、正直な大衆もいる。とても及ばないと頭を垂れてしまう自然人もいる。
 それに、こういうことが、ある。
 もし判断を求めるなら、人は、概して、大衆に限らず知識人であろうとも、単に習慣に従っているだけでしかもそれに気付かず、概ね他者の判断を待って自身 では決断出来ないという人が、あまりに多いのである。いや、実のところそういう人ばかりで、人の世の中は出来ている。
 人は、自身に問うてみるべきである、自分はおおかた単に過去来の習慣に従って身を処してきただけでは無かろうか、自分は自分から事を決断して怖れること なく生きて来たろうか、と。さよう、そう問うてみるべきだろう。そのような問いの前には、実は「大衆」も「知識人」も差はないようなものだと、すぐ分か る。

* とは言え、同時に、健全で中正で「信じる」に足る多くの「大衆」の在ることをも、わたしは信じている。なみの「知識人」よりも人間としてバランスのと れた、屈強で自然な知者が「大衆」として現存している。もし知識人なるものが、そういう信ずるに足る「大衆」と別に在るのだと思うているなら、そんな思い は歪んでいる。良き「知識人」とは、そういう信ずるに足る「大衆」のゆるやかな核となり、内側から牽引車の役をしなければならないだろう、いや、望ましい 知識人とは、今謂うこの良き「大衆」に溶け込んだ存在として、その「大衆」の輪と和とを内側から押し広げうる人達でありたいと思う。
 あまり信じにくい「大衆」をして、少しでも自身信じるに足る「大衆」に誘い込めるだけの度量が、必要と思う。
 わたしは、自分が知識人ではないなどとラチもない卑下や謙遜で責任逃れはしたくないし、自分はだから「大衆」ではない別物であるとも全く考えない。少な くも「大衆」にいろいろある事実に、わたしはむしろ希望を置いている。わたしが大衆なのである。


* 十月三日 木

* 昼前に銀座三越前で、スペインから帰省の卒業生とそのハズバンドであるスペイン人アルフレッドと出逢い、一丁目の銀座アスターで昼食かたがた初対面、 久闊を叙した。
 なにしろ夫人に通訳して貰わねばならない、しかし夫君もなかなか日本語への理解がありげで、そんなには不自由がなかった。ま、わたしからいろんなことを 質問しながら、なごやかに食事ができた。
 海老が二度も出て二度とも指を汚さねばならなかったのは閉口だった。料理はまずまずだが存外量がなかったか。ウエイトレスの行儀の佳い店で好感は持てた し、静かな一郭に席を得たので、話しやすかった。
 夫人は背が更に高くなったかと思うほどほっそりし、健康そうでなによりだった。夫君は年かさに落ち着いた知的な人。カソリックの多い国で、確信の無神論 者なのもわたしには興味深く、その辺でもっと深い話し合いもしてみたかったが、ま、仕方ない。
 台風にかすられた尾瀬から戻ってきたばかりで、次ぎには又山に行くのだという。日本の植生の、こまやかな緑色に惹かれるという、さもあろう。日本の緑は たしかに美しい。
 もう少しどこかへ付き合ってもよかったが、夫妻の時間を奪うのも憚られ、二時前には銀座の路上で別れて、有楽町線で帰った。

* 「モンテクリスト伯」はもう止まらない。モンテクリスト島の招待、山賊ヴァンパの物語から、ローマの祭りでのこれから見せ物として死刑執行がある。い ずれも文章を記憶しているほど頭に入っているが、一行一行引きこまれて丁寧に読み進んでいる。外出時の読み物のつもりなのに、家にいても読みたくなる。
 就寝前にはバグワンを読み、室町物語草子を一編ずつ読み、そしてモンテクリスト伯へ。寝入るのがどうしても遅くなる。
 お伽草子は一寸法師、酒伝童子、浦島太郎、そして肉付き面の磯崎、橋立の本地、熊野の本地などと進んできて、どれも趣向あり興味深い。読みやすい。
 今ひとつは、広末保氏の「芭蕉」を少しずつ読み進めている。何を読んでも、佳いモノが待っている。広く遠くはとても歩き回れないが、読みたい本は跡を絶 えない。だいいち、過去に読んだものが、より一層新鮮になって立ち返ってくる。

* NHKスペシャルで放映された、「知」はだれのものか、インターネット時代の著作権というビデオを、NHKに送ってもらい、今日二度目を見た。佳い特 集で、「パブリックドメイン」の思想を芯に、著作権問題の、海外、ことにアメリカの事情を要領よくまとめてあり、たいへん教えられることが多い。電メ研で 皆で一緒に見てみたいと思うくらい。

* モンテクリスト伯、楽しんで読まれているのが伝わってきます。文庫本がないってHPに書かれたのはいつだったでしょう。あの時本屋さんに2冊を除いて 揃っていたので、注文して送ろうとしていたら、筑波の方から本が到着したと書かれてあったので・・本は自分のために取って、これから読んでいこうと思って います。
 今日は栗ご飯を炊こうと、栗の皮を剥いていたら、手が疲れました。食べきれないほどあると、保存のために皮剥きしなければなりません! 楽しみ半分、疲 れ半分です。届けて下さった方には・・言えません。有り難うございます、ひたすら有り難うです。皮を剥いて水に浸してアク抜きしたら冷凍庫に入れます。
 八月、九月と「日録」も書かないで過ごしてしまいました。日付なしの散らし書きだけ少々。たくさん本も読みたいし、器用に物事が進みません。少しずつ、 少しずつです。
 明日は友達と京都に行く予定です。美術館めぐりと、錦かデパ地下で食料を買って終わってしまうでしょう。
 どうぞ良い日々をお過ごし下さい。

* 涼しい日と真夏日とが遠慮無く交替するので疲れが出やすい。気を付けないといけない。


* 十月四日 金

* 家の中での捜し物に困窮する例が、年々増している。在るに間違いなく、簡単に見つかるはずと安心しきっていたものが、見つからない。捜していると、へ え、へえっと驚くような別のものが次から次へ出てきて、忘れ果てていたのに気付く。ところが肝心の捜し物は出てこない。今日相当の量を思い切って故紙回収 用に処分した。また押入の中のものを移動した。ものを移動してスキマの出来たところも、すぐ、別のもので埋まる。体は使ったが、目的は達しない。苛立って くるのをおさえおさえ、仕事は仕事で少しずつし続ける。仕方なく時々はこういう日を迎えねばならない。そういうものだ。

* 例の北朝鮮の「拉致」は無いもの、「創作」であると往時の社民党が公然と語っていたという報道を、信じられない思いで、茫然と聞いた。しかるべき弁明 なり見解なりも聞きたい。ありとあらゆるニュースが疎ましい。

* 「ペン電子文藝館」展観全筆者を生年順に整理した。河竹黙阿弥の1816年から、最も若い現会員の1959年まで百四十余年にわたって二百数人の作 者・筆者と作品・文章が揃っている。「朝の読書教室」といった実践がひろがりつつあると或る新聞でみたが、毎日新聞でも大規模な読書調査を試みた結果につ いてコメントを求めてきている。どんなアンケートであったかの実物が今日郵便で届いていた。

* 「ペン電子文藝館」の実例について貰えば一目瞭然で、わたしは、招待席その他の作品を選ぶのに、自分の文学上の好みを以て優先させていない。作品は佳 いかどうか、歴史的な意義があるかどうか、その作者の中で占める意義と読みやすさ等をこそ大切にしても、よくいう鏡花も秋声もわたしは「偏して」は読まな い。潤一郎もとり葛西善蔵もとる。北原白秋もとれば里見欣三もとる。その辺は信頼して貰いたい。もし高校などでパソコンを利用しての自由な読書、但しピカ ピカ今日的な作品は作家に稼いで貰わねばならないから外してあるが、そのかわり日本の近代百五十年にわたるさまざまな文学現象に触れようと思えば、一人に 一作ではあるが、優秀作品に触れて貰うことが出来る。高校の先生方にどうか注目と生徒諸君への示唆とをお願いしたい。

* 世界の推理小説で史上ベストテンの常に上位を占めてきた「わらの女」は、ジーナ・ロロブリジータとショーン・コネリーで映画化され、きっぱりした文法 で楷書風に描かれている。つまりあまりドキドキはしない。黒髪のジーナ・ロロブリジータの美しさを保存したいがために、ビデオは残してある。
 ショーン・コネリーは、ニコラス・ケージとの「ザ・ロック」やアレック・ボールドウインとの「レッドオクトーバーを追え」などだんだん好きになってきて いる男優だが、「わらの女」での役は陰険で、その陰険も完全犯罪の典型作といわれる原作を受けているのだから仕方はないが、見ていて気分がわるい。だが ジーナの魅力はぬきがたい。港のホテルへ逃亡し、黒いスリップ姿でベッドに倒れ込む色っぽさなど、ゾクゾクする。
 残念なことに、たいていのラブシーンや性行為の場面に心身を動かされることが、殆ど無くなっている、だが、やはり、タマに佳い女にであうと、強くそそら れる。いま、階下のテレビで、アーノルド・シュワルツネッガーと共演しているシャロン・ストーンという気の強そうな女優の顔(身体ではない)にも、ときど き強く魅される。ジャン・クロード・ヴァンダムの演じた「脱獄者」だったかに共演していた、ロザンナ・アークエットのハダカに切ないほど魅された記憶もあ る。日本映画は原則見ないことにしているし、日本の女優に性的に魅されたという記憶がほとんど無いのは、何故だろう。十朱幸代のあの柔らかい印象ぐらいが セクシイかな。


* 十月五日 土

* 朝いちばんに、加藤弘一さんから、例の社民党による「拉致創作」声明に関する痛ァい情報が入ってきた。昨夜のわが「私語」に応えてもらったか。電メ研 のメーリングリストでのことながら、こういうことは、国民の知っていてしかるべき事に思われる。

* 社民党が五年前に機関誌「社会民主」に掲載した「食糧援助拒否する日本政府」と題する、拉致事件を「創作」と決めつけた記事をサイトから削除した件 が、話題になっています。以下のurl
 http://www5.sdp.or.jp/central/gekkan/syamin07kitagawa.html
は消えていますが、いくらサイトから削除したところで、Googleのキャッシュには残っています(笑)。
「拉致疑惑事件は、日本政府に北朝鮮への食糧支援をさせないことを狙いとして、最近になって考え出され発表された事件なのであるる。」等々、えぐい断定満 載。これでは弁明のしようはなく、朝鮮新報同様、こっそり削除するしかないでしょう。
 しかし、Googleを知らなかったばかりに、頭隠してなんとやらというお粗末。
 先月、中国政府はGoogleを一時、閲覧禁止にしましたが、ミラーサイトがたくさんできて抑えきれず、とうとうGoogle禁止を解除しました。
 紙媒体のつもりで発禁にできるつもりになっていたわけで、これも無知というかなんというか。所詮、社会主義者ですね。

* このテイタラクでは、わたしのような、いささか社民党を声援してきた者はナサケナイ。五年前の情況が記憶に全くないが、北朝鮮の拉致工作がタメにする 「創作=デマ」だと思った人は少なかろうに。社会党時代の悪しき名残であろうけれど、これは党として公式にきちんとコメントする責任が在ろう。幹事長福島 瑞穂ペン会員の声が聴きたい。

* こんなメールで少し気分を持ち直したい。

* やっとかめ おもだかやッ!  おもだかさんが御園座に出るのは、相当、久し振りだそうで、こんなかけ声がかかりました。名古屋の松緑襲名披露は、菊五郎劇団に、猿之 助、梅玉という顔合わせ。
 冒頭の、時蔵・梅玉の「毛谷村」をパスして、雀右衛門の「鷺娘」から、昼の部を見てきました。菊五郎劇団の長唄囃子連中が揃い、気持ち良く酔えますが、 ジャックは動けなくなったわァ!
 襲名披露は、昼が猿之助を迎えての「対面」、夜が梅玉を迎えての「土蜘蛛」。菊五郎親子の「京人形」で昼が終わりましたが、思ったより空席がありまし た。
 帰りに、津で、寿三郎展を観てきました。
 源氏絵巻縁起では、なにものによっても癒されることのなかった孤独感の中に、生涯を送った、彼のことを、表現したかったとのこと。人形の造形や、細かな 仕事が目を奪いますが、昔の日本には、こんなに豊かな布の文化があったのだと、つくづく感じ入ります。織り。染め。刺繍。職人技。手仕事の素晴らしさ。ち りめんが多いので、余計にそう思いますが、まさに、趣向と自然の、美意識。

* わたしも今日は昼過ぎからの芝居に出掛ける。楽しませてもらいたい。


* 十月五日 つづき

* 俳優座公演は、藤沢周平の原作を三つ程寄せ集めに脚色した、長屋ものの時代娯楽作で、川口敦子や可知靖之のようなうまい役者が悠々とやるから、たるみ は無いが、いかにせん、何のために俳優座劇場での俳優座公演にこのような体温の低い、批評性の微塵もない娯楽品をみせられるのか、理解に苦しむのである。
 凛々たる新劇が見たいと思う。
 藤沢周平は持ち上げる人もこの頃多くて、佐高信などもえらい提燈の持ちようだが、同郷人の贔屓に過ぎない。わたしが二三(二三で言っては公正を欠くとは 思うが、)読んだ限り、ぬるい人情話ばかりで、モチーフからの感銘も表現からの感嘆も、なに一つ無かった、温度の低い作品だなあといつも思ったものだが、 今日の芝居も、原作者の責任ではないといえば言えるものの、要するに、毒にも薬にもならない低調なシロモノでしかなかった。もっぱら俳優達の演技だけを見 ていた。
 川口や可知のうまさは、この芝居を待つまでもなく十分知っている。うまい。岩瀬晃といったろうか、馴染みの女優も、その亭主役の男優も、申し分なく演技 で楽しませてくれた。青山眉子も例の如く達者だし、阿部百合子、香野百合子も、ま、そこそこ。役者達にはピンからキリまで文句は無かったのである。
 ただ、この長屋芝居の、ヤスモノのテレビ時代劇より低調で、どうでもいい類型的な陳腐なおはなしには、ウンザリした。ラチもなく笑っている分には、その 場限りそれでいいものの、芝居がはねてみると、オイオイ俳優座サン、こんなのでいいのかいと、心配も本音で言いたくなる。招待して貰ってこんなセリフはな いだろうと言われても、困る。やはり思ったとおりは言うのが「感謝」だ、わたしの流儀では。
 これなら先日の帝劇の「残菊物語」の方が、五十倍百倍身にしみた。長屋モノでもいい、話材は何でもいいのだ、そこから何をつかみ取ってわたしの胸にたた き込んでくれるか、だ。なーに、娯楽ですよ、ちょっと笑ってくだされば上出来、上出来などというセリフは、お雇いの劇評家なら言うのかも知れないが、俳優 座劇団がそうバカくさくおさまってもらっちゃ困ります。そもそも、今日の題も脚色・演出家も、みな、もう忘れてしまい思い出せないのである、今。

* 劇場の地下へ張り出しているような地下店におりて、妻と、浦霞の冷やで、刺身、新そば、牡蠣ふらい、貝の甘煮などをゆっくり腹に収め、くつろいだ。そ れから、日比谷へ出て、開店十二年を祝っている「ザ・クラブ」へ入って、ボトル・フェアにちと便乗。ご祝儀に出たグラスのシャンペンで乾杯し、今年初の松 茸飯を食べて、疲れの取れたところで銀座一丁目までぶらぶら。明治屋でパンとチーズを仕入れ、九時ちょうどに帰宅。肩の凝らない休息の一日であった。ああ そうか、芝居とは、こういう暢気な一日のバランスシートから、むやみにハミ出ちゃいけない、そういうものであるのか。わたしの考え方が窮屈だというわけ か。フーン。

* 来週の仮名手本忠臣蔵通し狂言には、堅いことは言うまい、当たり前の話。
 歌舞伎座では歌舞伎を観る。能楽堂では能や狂言を観る。帝劇や芸術座では商業演劇を楽しむのである、楽しみ分けるすべは幾らか心得ている。
 俳優座や三百人劇場では、俳優座らしい劇団昴らしいパリッとした演劇が観たいのである。

* これからすると、偉大な通俗小説の「モンテクリスト伯」は、地下鉄の中でもたちまちに底知れず引きこんでくれる。この今日の身の回りのどんな日本人よ りも、主人公の伯爵はもとより、アルベールもフランツ・デピネーも山賊ルイジ・ヴァンパも、遙かに手応え確かに語り始め動き始める。小説とはこういうもの だ、やはり力づよい。


* 十月六日 日

* 長い間、湖の本の新刊原稿はプリントで入稿していた。それをディスクで入れるようにしてから、製作日数は著しく短縮。入稿してしまうと校了までかなり 早い。入稿の用意がいちばん気重な肩の凝る作業となり、じっとしているとずるずる遅れる。一番の作業が、ま、一冊分のスキャンと校正になる。すこし危機感 に襲われ、とにかくも今日はそのスキャンに取りかかり、一気に八十枚ほどをスキャナーにかけた。一冊必要量の半分ほど用意でき、残りのまた半分ほどはディ スクでの用意が既にある。

* 石橋忍月の「惟任日向守」、これくらい真っ向微塵という文章があるだろうか。大まじめな力作で、ルビふりにふうふう言わされながら、すこぶる行文の迫 力に魅されている。長いが苦にならない。
  うまく整理できず雑然としているが、以下の資料、高校・中学のIT環境における「読書」の示唆に、先生方に利用して貰いたい。単なる作品コレクションでは ない。日本ペンクラブの事業の一環である。

* 「ペン電子文藝館」展観全筆者 生年順一覧
      2002.10.15現在 予定含む200人超
                                                                          
河竹 黙阿弥  1816.2.3 - 1893.1.22    島鵆月白浪 序幕  招待席・歌舞伎
福澤 諭吉        1835.1.10 - 1901.2.3  学問のすすめ初編   招待席・評論
三遊亭 圓朝     1839.4.1 - 1900.8.11    牡丹燈籠 第壱編壱貳回  招待席・怪談噺
新島 襄           1843.1.14 - 1890.1.23   同志社設立の始末  招待席・エッセイ
中江 兆民        1848.11.1 - 1901.12.13  君民共治之説   招待席・論考
小泉 八雲        1850.6.27 - 1904.9.26   文学と世論  招待席・講義
坪内 逍遙        1859.5.22 - 1935.2.28   小説三派   招待席・論考  
森 鴎外       1862.2.17 - 1922         冬の王   招待席・翻訳  
岡倉 天心        1862.12.26 - 1913.9.2   美術上の急務  招待席・評論
中島 湘烟        1863.12.5 - 1901.5.25   漢詩・最期の日記  招待席・日記 
二葉亭 四迷     1864.2.3 - 1909         あひゞき    招待席・翻訳  
若松 賤子    1864.3.1 - 1896.2.10    いなッく、あーでん物語  招待席・翻訳
伊藤 左千夫     1864.8.18 - 1913.7.30  伊藤左千夫短歌抄  招待席・短歌
石橋 忍月        1865.9.1 - 1926.2.1     惟任日向守  招待席・小説
夏目 漱石        1867.1.5           私の個人主義    招待席・講演  
幸田 露伴        1867.7.23                 幻談    招待席・小説  
正岡 子規        1867.9.17                 萬葉集巻十六  招待席・評論  
尾崎 紅葉        1867.12.16 - 1903.10.30  金色夜叉 抄  招待席・小説  
斎藤 緑雨        1867.12.31 - 1904.4.13  わたし舟・小唄  招待席・小説
内田 魯庵        1868.4.5 - 1929.6.29    文学一斑 総論  招待席・論考

                  ──以上、明治以前に生まれる。──

徳富 蘆花       1868.10.25        謀叛論  招待席・講演  
北村 透谷       1868.12.29        各人心宮内の秘宮  招待席・論考  
戸川 秋骨       1870.12.18          自然私観  物故会員・論考  
高山 樗牛       1871.1.10 - 1902.12.24   一葉の「たけくらべ」を読みて 招待席・評論
国木田 獨歩    1871.7.15       我は如何にして小説家となりしか 招待席・随筆
土井 晩翠      1871.10.23       荒城の月 他    物故会員・詩
徳田 秋聲       1871.12.23        或賣笑婦の話    物故会員・小説  
田山 花袋       1872.1.22        蒲団    招待席・小説  
島崎 藤村       1872.3.25           嵐  第一代会長・物故会員・小説  
樋口 一葉       1872.5.2 - 1896.11.23   わかれ道      招待席・小説  
岡本 綺堂       1872.10.15       近松半二の死  物故会員・戯曲  
岩野 泡鳴       1873.1.20 - 1920.5.9    醜婦  招待席・小説
与謝野 鐵幹    1873.2.26        誠之助の死  招待席・詩  
河東 碧梧桐    1873.2.26           季感に就いて  招待席・評論 
泉 鏡花          1873.11.4 - 1939.9.7     龍潭譚    招待席・小説  
上司 小劍       1874           鱧の皮  物故会員・小説  
児玉 花外       1874 - 1943           失業者の自殺  招待席・詩
上田 敏     1874.10.30 - 1916.7.9   海潮音 抄     招待席・詩
野口 米次郎    1875                 われ山上に立つ  物故会員・詩
蒲原 有明       1876.3.15        智慧の相者は我を見て    物故会員・詩  
近松 秋江       1876.5.4 - 1944.4.23    黒髪  招待席・小説
島木 赤彦       1876.12.7 - 1926.3.25  万葉集諸相  招待席・評論
薄田 泣菫       1877.5.19 - 1945        ああ大和にしあらましかば  招待席・詩  
伊良子 清白  1877 - 1946           淡路にて  招待席・詩
有島 武郎       1878.3.4            An Incident  招待席・小説
寺田 寅彦       1878.11.28        喫煙四十年  招待席・随筆
与謝野 晶子    1878.12.7        明治短歌抄  物故会員・短歌  
正宗 白鳥       1879.3.3           今年の秋  第二代会長・物故会員・小説  
長塚 節     1879.4.3 - 1915.2.8      鍼の如く(全)  招待席・短歌
永井 荷風       1879 - 1959           花火  招待席・小説
長谷川 時雨    1879.10.1           旧聞日本橋 (抄)    物故会員・随筆
魯 迅               1881                 藤野先生      招待席・小説
小山内 薫       1881 - 1928           千駄木の先生  招待席・随筆
岩波 茂雄       1881.8                読書子に寄す  招待席・評論
志賀 直哉       1883.2.20       邦子     第三代会長・物故会員・小説  
前田 夕暮       1883.7.27           収穫    物故会員・短歌  
白柳 秀湖       1884.1.7           驛夫日記      物故会員・小説  
山村 暮鳥    1884.1.10 - 1924.12.8  赤い林檎  招待席・詩
北原 白秋       1885.1.25          思ひ出 抄     招待席・詩  
木下 杢太郎  1885 - 1945           食後の唄  招待席・詩
若山 牧水       1885.8.24 - 1928.9.17   別離 抄  招待席・短歌
石川 啄木       1886.2.20 - 1912.4.13  時代閉塞の現状  招待席・論考
岡本 一平       1886.6.11 - 1948.10.11  かの子の栞  招待席・追悼文
谷崎 潤一郎    1886.7.24        夢の浮橋  物故会員・小説
古泉 千樫    1886.9.26 - 1927.8.11   古泉千樫短歌抄  招待席・短歌
萩原 朔太郎    1886.11.1           純情小曲集  招待席・詩  
葛西 善蔵       1887.1.16           馬糞石  招待席・小説  
加藤 一夫       1887.2.28       民衆は何処に在りや  物故会員・評論  
水上 瀧太郎  1887 - 1940           山の手の子  招待席・小説
宮島 資夫       1887.8.1 - 1951.2.19    第四階級の文学  招待席・評論
新居 格          1888 - 1951           文藝と時代感覚  物故会員・評論
千家 元麿       1888.6.8 - 1948.3.14    自分は見た  招待席・詩 
菊池 寛          1888.12.26         父帰る    招待席・戯曲  
岡本 かの子   1889.3.1 - 1939.2.18   老妓抄    物故会員・小説
佐藤 惣之助    1890.12.3 - 1942.5.15   女の幼き息子に  招待席・詩
芥川 龍之介    1892.3.1 - 1927.7.24   或旧友へ送る手記    招待席・遺書
吉川 英治       1892.8.11        べんがら炬燵   物故会員・小説  
長谷川 巳之吉 1893.12.28 - 1973.10.11 理想の出版  物故会員・随筆
片岡 鐵兵       1894.2.3           幽霊船    物故会員・小説  
葉山 嘉樹       1894.3.12           淫売婦     招待席・小説  
竹内 勝太郎    1894 - 1935           黒豹  招待席・詩
宮沢 賢治       1896.8.27 - 1933        イーハトヴの氷霧 他     招待席・詩  
村山 槐多       1896 - 1919          童児群浴   招待席・詩
牧野 信一       1896.12.             父を売る子  招待席・小説
三木 清          1897.1.5                  哲学ノート 抄    物故会員・論考  
芹澤 光治良    1897.5.4           死者との對話    第五代会長・小説  
十一谷 義三郎 1897.10.14 - 1937.4.2    静物  招待席・小説
八木 重吉       1898.2.9 - 1927.10.26    秋の瞳  招待席・詩
横光 利一       1898.3.17        春は馬車に乗って      物故会員・小説  
黒島 傳治   1898.12.12 - 1943.10.17  豚群  招待席・小説
萩原 恭次郎   1899.5.23 - 1938.11.22   愛は終了され  招待席・詩
川端 康成      1899.6.14           片腕    第四代会長・小説  
淺見 淵       1899.6.24       「細雪」の世界   物故会員・評論  
戸坂 潤       1900.9.27       認識論としての文藝学    物故会員・評論  
富永 太郎      1901 - 1925            秋の悲歎  招待席・詩
小熊 秀雄      1901 - 1940            蹄鉄屋の歌  招待席・詩
梶井 基次郎   1901.2.17        檸檬・蒼穹・闇の絵巻   招待席・小説  
山本 勝治       生年不明 - 1929.3.17   十姉妹  招待席・小説
里村 欣三      1902.3.13 - 1945.2   苦力頭の表情  招待席・小説
高橋 健二      1902.9.18           ゲーテの言葉    第八代会長・翻訳  
田畑 修一郎   1903.9.7 - 1943.7.23      鳥羽家の子供  招待席・小説
島木 健作      1903.9.7 - 1945.8.17     黒猫  招待席・小説
林 芙美子      1903.12.31        清貧の書     物故会員・小説
武田 麟太郎   1904.5.9 - 1946.3.31     一の酉  招待席・小説
原 民喜         1905 - 1951            夏の花  招待席・小説
石川 達三      1905.7.2           蒼氓 (そうぼう)    第七代会長・小説  
高木 卓       1907.1.18           歌と門の盾     物故会員・小説  
中原 中也      1907 - 1937            盲目の秋  招待席・詩
井上 靖       1907.5.6 - 1991.1.29  道   第九代会長・小説  
中島 敦       1909.5.5           名人伝    招待席・小説  
太宰 治       1909.6.19        桜桃     招待席・小説  
中村 光夫      1911.2.5           知識階級     第六代会長・論考
左川 ちか       1911 - 1936            雲のやうに  招待席・詩
                  
            ──以上・明治時代に生まれる。──

福田 恆存      1912.8.25           堅壘奪取 (喜劇一幕)   物故会員・戯曲  
織田 作之助   1913.10.26 - 1947.1.10   蛍  招待席・小説
立原 道造      1914.7.30 - 1939.3.29   萱草に寄す 他  招待席・詩
北条 民雄      1914 - 1937          いのちの初夜  招待席・小説
菊地 良江      1915.1.1               鼓打つ  短歌・P会員
伊藤 桂一      1917.6.08              雲と植物の世界     小説/N会員  
長谷川 泉      1918.2.25         「阿部一族」論    研究・E会員  
石原 八束      1919.11.20          仮幻の詩    物故会員・短歌  
志賀 葉子   1921                  教育と戦争  評論・E会員
筒井 雪路      1921.11.29         梔子(くちなし)の門     小説・E会員  
渡辺 通枝      1923.1.20        道なかばの記     随筆・E会員  
大林 しげる    1923.2.1           怒らねば      広場・P会員  
遠藤 周作      1923.3.27           白い人    第十代会長・小説  
出口 孤城      1924.1.21              稽古  俳句・P会員
日吉 那緒      1924.5.4           色なき風      短歌・P会員  
武井 清       1925.3.4           川中島合戦秘話     小説・N会員  
梅原 猛       1925.3.20       闇のパトス   第十三代会長・論考・E会員
  
          ──以上・大正時代に生まれる。──

神坂 次郎      1927.3.2           今日われ生きてあり     ノンフィクション/N会員  
辻井 喬         1927.3.20       亡妻の昼前   小説・N会員 
森 玲子         1928.5.19        銀座  俳句・P会員
阿部 政雄      1928.5.25     もう一度人類のルネサンスへ 広場・E会員  
米田 律子      1928.5.26        風のいろ    短歌・P会員  
速川 美竹      1928.8.13      微苦笑      川柳・P会員  
濱 幸子         1928.10.22       日本の文様  随筆・E会員
尾崎 秀樹      1928.11.29   「惜別」前後─太宰治と魯迅 歴代会長・評論・E会員  
伊吹 和子      1929            川端康成 瞳の伝説  エッセイ・E会員
加賀 乙彦      1929.4.22     フランドルの冬     小説・N会員  
望月 良夫      1929.6.10      ある邂逅    随筆・E会員  
倉持 正夫      1929.9.20        塔のある町で     小説・N会員  
池田 實        1930.6.15        寓話              詩・P会員  
福島 美恵子   1930.8.24        幾春別             短歌・P会員  
三好 徹        1931.1.7           遠い聲            小説・N会員  
大岡 信        1931.2.16          原子力潜水艦「ヲナガザメ」の性的な航海と自殺の唄"                                                    歴代会長・詩・P会員  
宮内 邦雄      1931.4.17        民主主義の原点    評論・E会員  
倉橋 羊村      1931.4.28     有時(うじ)    俳句・P会員  
篠原 央憲      1931.6.9        いろは歌の謎    評論・E会員  
堀上  謙        1931.8.8        能狂言私観    評論・E会員  
高田 宏         1932            山へ帰った猫  児童文学・N会員
田崎 纓         1932.2.12        モダニズム俳句  俳句・P会員
豊田 一郎      1932.3.20     性と愛     小説・N会員  
井口 哲郎      1932.5.8    科学者の文藝    評論・E会員  
川桐 信彦      1932.8.24  世界状況と芸術の啓示性  評論・P会員  
松田  東        1932.9.1    海洋少年団の秘宝     児童文学・E会員  
田才 益夫      1933.10.7    カレル・チャペックの闘争 (抄)     翻訳・E会員  
井上 ひさし     1934            金壺親父恋達引  義太夫台本・N会員
高橋 光義      1934.3.5         クレバスに立つ  短歌・P会員
眉村  卓        1934.10.20     トライチ    小説/N会員  
阿刀田 高      1935.1.13            靴の行方    小説/N会員  
松坂 弘         1935            言葉の自画像  短歌・P会員
尾辻 紀子      1935.2.10      チャプラ(草小屋)からこんにちは     児童文学/N会員
紀田 順一郎   1935.4.16        南方熊楠     評論・研究/E会員
和泉 鮎子      1935.7.30        果物のやうに    短歌・P会員
秦  恒平        1935.12.21     清経入水    小説・N会員  
権田 萬治      1936.2.2        記者クラブ制度改革論    評論・研究/E会員  
篠塚 純子      1936.4.7        ただ一度こころ安らぎ     短歌・E会員
岩淵喜代子    1936.10.23     螢袋に灯をともす    俳句・P会員  
崎村  裕        1937.1.18        鉄の警棒    小説・N会員  
武川 滋郎      1937.7.4        黒衣の人     小説/・会員  
竹田 真砂子   1938.3.21        言葉の華     随筆・N会員  
渡辺 豊和      1938.8.1         建築風景の再生     評論・研究/E会員  
神尾 久義      1939.1.27        ふるさとの少年     小説・N会員  
木崎 さと子    1939.11.6        青桐    小説・N会員  
平林 朋紀      1940.11.19     北斗七星     随筆・E会員  
鶴 文乃    1941.7           明日が来なかった子どもたち 児童文学・E会員
平塩 清種      1942.2.4            季節の詩情他      詩・P会員
畠山 拓         1942.12.2       水の神    小説・N会員  
夫馬 基彦      1943.12.2            籠抜け    小説・N会員  
山中 以都子   1944.1.18            訣れまで    詩・P会員  
佐高 信         1945.1.19     遺言と弔辞    評論・E会員
  
                   ──以下・敗戦後に生まれる。──

新井 満         1946.5.7       函館     小説・N会員
猪瀬 直樹      1946.11.20     『黒い雨』と井伏鱒二の深層    評論・N会員  
大原 雄         1947.           テロと報復軍事行動の狭間で、何を見るべきか  広場  
大原 雄         1947.           新世紀カゲキ歌舞伎     評論・研究  
大久保 智弘   1947.8.23       海を刻む       小説・N会員  
西垣 通         1948.12.12      N氏宅にて・ルイス・キャロルと思考機械小説/E会員
紫  圭子        1947.12.25    春分点    詩・P会員  
恩田 英明   1948.3.13        燠  短歌・P会員
牧田 久未      1948.4.9           世紀のつなぎめの飛行    詩・P会員  
佐佐木 邦子   1949.5.2           オシラ祭文(オシラさいもん)    小説・N会員  
村山 精二      1949.7.31           特別な朝       詩・P会員  
矢部 登         1950           結城信一の青春  評論・E会員
米原 万里      1951.4.29           或る通訳的な日常     随筆・会員  
川浪 春香      1951.5.26       妖妄譚    小説・N会員
秦 澄美枝      1952.11.16       二つの『高山右近』     評論・E会員
櫟原 聰         1953.6.1       歌の渚     短歌・P会員
久間 十義      1953.11.27    海で三番目につよいもの    小説・N会員  
加藤 弘一      1954.1.15            コスモスの知慧 石川淳論   評論・E会員  
島  秀生        1955.1.18            生きてきた人よ        詩・P会員  
佐怒賀 正美   1956.6.27      四方のくちなは       歌・句/P会員  
山田  岳        1959.8.17            エピタフ(墓碑銘)   詩・P会員  

       予定数人を含み、2002.10.15現在 「ペン電子文藝館」秦恒平 報告


* 十月七日 月

* 終夜つよい雨がふりつづけ、朝八時、まだ雨音のしじにやまず。雷までも。午後には雨も上がるだろうと予報はあるが、秋雨というより雨台風の感じに、風 も。暑い暑いと言っていたのが、もう十月中秋。

* 雨の高台寺  嵐の日、京都に行っておりました。
 新聞もテレビも見ませんでしたので、時折、ザッザッと降る颱風性の雨を、そうと気づかず、「雨もまたよきかな」などと気取っていて、帰りは嵐と道連れと いうことになってしまいました。止まり止まりしながら時々うごく新幹線の中で、退屈しのぎに歌仙を独吟で巻いたりいたしましたが、東京まで五時間は長うご ざいました。
 連れがあったのと、つまらぬ用があって出かけたものですから、おもうような行動が取れず、それでも折から特別拝観というのを催していた高台寺へはゆくこ とができました。
 『初恋』の「私」と雪子をおもい、『風の奏で』をおもうはずでございました。が、書院に展示されている、霊屋の厨子から外された漆の扉や、そのほかくさ ぐさの宝物を拝見しているうちに、不意に不整脈、そして頻脈に襲われてしまい、息がつまってきそうになり、あわてて、外へ出てしまいました。
 連れが秀吉は好かないというのに同調して彼のわる口を言ったせいかも知れません。
 あのへんにある喫茶店に入り、しばらく休みました。
 『冬祭り』の母と子に逢いにもゆけず、長楽寺へもゆけず、喫茶店の窓から雨の降るのをながめていました。
 霊屋の天井に消えかかっている迦陵頻伽と飛天に心がとまりました。
 お庭の萩は盛りを過ぎていましたが、雨の雫をあつめてふっさり枝垂れていました。冬子たちのお墓のあたりの萩をおもいました。
 捜しもののお話、わたくしもも時に人生の四分の一、いえ、三分の一くらいは捜しものをしているのではないかとおもうことがございます。「神さまは、捜し ものをする時間までは恵んでくださらない」ということばも聞いたことがございます。
  天に翔けたか地に潜つたかと捜しものばかりしてゐる 今は指貫(ゆびぬき)
 こんなうたができるありさま、それだけ整理整頓されていない暮らしをしているということになりましょう。捜しもののお話をうかがって、あ、先生でも、 と、失礼ながらおもったことでございます。
 『モンテ・クリスト伯』、わたくしも読もうと、古本ながらぴかぴかのを入手しました。十一月にはデュマ生誕二百年を記念して映画「モンテ・クリスト伯」 が公開されるそうでございます。映画と小説はちがいましょうが、ちょっと心をそそられます。それから、岩波から「デュマの大料理辞典」というご本も出てい るそうでございます。

* 昨日、「まつと利家」を後半視ていた。なんだかかんだか女達のホームドラマのように進めてきて、それなりに定着していると見た、わたしは単純に、お気 に入りおね役のノリピー酒井法子を見ているだけだが。
 信長、秀吉、家康と続いた天才的な三人の武将によって、自分は何をえられたろうと、子供の頃からよく想った。言い換えれば好きか嫌いかだが、感情的に は、覇者などみな嫌いである。高台寺はだが好きなお寺の一つで、念頭の故郷に深く埋めこまれ、因縁も濃い。テレビエッセイで、ゆっくり語り歩いた朝早やの 撮影や放映も思い出すが、記憶はもっともっと遠く子供の頃へとんでゆく。萩の寺、高台寺。はるか昔の、雲居寺。『初恋』は、はじめ「雲居寺跡」と題してい た。その題でちょうどふさわしい未完の長編が、まだ書きかけの昔のまま二百枚もほこりをかぶって家のどこかに隠れているはずだ。捜すといえば、人生はあて どない捜し物の連続で、この先もまだ捜す気かと我と我が身をときどき嗤ってやる。暢気にしていよ。すくなくももう過去を捜すな、未来にまだ隠れた何がある かは知らないが、できれば「今、此処」をありのままに捜すがよい。
 

* 十月七日 つづき

* 雨がやみ、終日歌舞伎座に。
「仮名手本忠臣蔵」昼夜通しで、とことん楽しんできた。さすがに名狂言。
 大序(足利直義=勘太郎、高師直=吉右衛門、塩冶判官=鴈治郎、桃井若狭守=勘九郎、顔世=魁春)から討入(大星=吉右衛門、力弥=扇雀、その他大勢) まで、旅路の花嫁、山科閑居の力弥・小浪の筋だけを省き、たいへん分かりのいい「通し」の工夫。
 勘九郎が颯爽の桃井と、純な勘平を腹切りまで、ていねいに演じてくれて、私も妻もしたたか泣かされた。おかるは道行を福助、山崎と祇園一力のおかるは玉 三郎。この大和屋と団十郎の兄寺坂の場面も双方力演で、ここでもしたたか泣かされた。この場の吉右衛門の由良之助も大きな出来でよかった。
 鴈治郎の判官は兜改めから磨いたように若く美しく、切腹もあわれ。判官切腹から城外の大星由良之助は、団十郎。こういう昼夜配役の変わり映えが歌舞伎な らではの楽しさで、ご贔屓富十郎が石堂一役なのが、唯一の寂しさ。
 ま、これほど「歌舞伎」を総て総て楽しめるというのは名作「仮名手本」だからこそで、学友我當も不破数右衛門に出てくれたし、この松島屋、番頭に託して お土産までわれわれの席へ届けて呉れ、なんとも隅から隅までズイーッとサービスのいい歌舞伎座の一日だった。
 吉兆は昼にし、夜は歌舞伎座なじみの鯖寿司を食べた。これだけ書いておけば、いつでも、いろんなことが思い出せる。松緑襲名以来の、その上越す、いやい や数ある歌舞伎見物でも屈指の佳い一日を楽しめた。

* どこへも寄らず、銀座一丁目からまっすぐ有楽町線で帰ってきた。十一時だった。
 あすは、歯医者に行き、そのあと、毎日新聞の記者とすこし込み入った話をすることになる。済んだらさぞほっこりしているだろう。

* 田島ナントカいう社民党の議員がトクトクと「離党」をテレビで話しているのを見て、むかついた。例の「拉致デマ」にからんだ離党だという。これは潔い というより、いやらしい。田島がこの問題に関わっていないことなど、時期的に見て分かり切っている。社民党で議員になったのだから、正々堂々と党内での正 論と討論により、あらためて社民党をより良い党にしてゆきますという挨拶こそ本当だろう。もともと好かないワンパタン女史だとは思っていたが、何故好かな いのかの理由を、本人が暴露した。

* 土井たか子のボロがだんだん出てきたと言うことか、こういうときは彼女がいち早く身体を張ってでも表に出て、党の立場からの言明をすべきなのに。福島 瑞穂では、田島と同じで過去のことはよく知るまい。土井にはいいところもあるが、根の深いところで全くダメなものがある。人に犠牲は強いても自分で犠牲に なる気概の全く無い女史なのである。わたしは体験的にそれを知っている。


* 十月八日 火

* フランスパンで虧け、ガムを噛んで割れ落ちた歯を、また直しに、医者に通っている。やれやれ。古いモノが弱くなってきた。

* 毎日新聞の若い女記者さんと、二時間半も、池袋で話した。読書のこと、日本語のこと、図書館のこと。よくこんなにと思うほど話題が連続し、あまり時間 がたっているのでビックリした。

*「モンテクリスト伯」を心を落ち着けてとっくり熟読することの出来るのは、長年付き合ってきた新潮社版二冊の重い全集本でなく、七分冊の持ちやすい岩波 文庫だから。どこででも没頭・没入できる。池袋へ少し早く着いていても、この本を読み出すと、記者さん遅れてきてもイイよという気になる。
 デュマは、真っ直ぐの太い主軸を高々と延ばしている。それを単調に進むのではない。主軸の幹から、前後左右へ豊かな枝が出てこんもりとした物語の葉を茂 らせ花を咲かせ、そしてまた幹に戻り先へ進んでまた大きな枝葉を茂らせる。魅力的に話に花を咲かせる。ファリア法師の物語、フランツ・デピネーのモンテク リスト島の物語、ローマの謝肉祭と山賊ルイジ・ヴァンパの物語、そして家令ベルッチオとフォートイユの邸の秘密な物語、こういったものが太い幹を介して濃 密に関わり合ってゆく面白さ。この枝葉に分かれる塊の魅力を煩わしいなどと思うのでなく、コクがあると思うようになると、全体の大いさが途方もなく生きて くる。
 はやモンテクリスト伯こと復讐の鬼のエドモン・ダンテスは全知全能に近い力量を、満身に秘めて、パリにいる。そしてモルセール伯爵こと、漁師のフェルナ ンとも逢った。フェルナンの妻になっているあわれな許嫁メルセデスにも逢った。かれらはエドモン・ダンテスを見分けることが出来ないが、メルセデスは何か を感じている。分かっていたのだ。銀行家になったダングラール男爵とも、検事総長になっているヴィルフォールとも、エドモンはもう逢っている。だれもがモ ンテクリスト伯の財と知と底知れぬ魅力に圧倒されている。
 これからが、いよいよ巧緻に仕組まれた復讐の実現になるが、単調ではない。もののあはれをはらんで、物語はとてつもなく面白く展開するはずだ、わたし は、それを記憶しているけれど、そんな記憶が何の邪魔にもならず、新鮮な驚きにひきこまれながら、もう文庫本の四冊目に入ってしまった。しまった、とは、 もっと長いとイイのにというもの惜しさの気持ちである。

* そして「惟任日向守」の、ここまで真っ向微塵にものが書けるかものが言えるかという異数の魅力。一字一句とそのふりがなとに立ち止まり立ち止まり、だ が、魅されている。
 室町物語草子は、最後の一編、これは蘇り物語ともいえる地獄遍歴で、すさまじい。お伽草子には、縁起物、本地物、そしてこういう絵解き物がある、むろん 祝儀・祝言物とべつにである。それぞれに面白いが、どれを好むかは人に寄るだろう。わたしは「猿源氏草子」などが好きである。「磯崎」のような肉付き面の 話などは、子供のむかしに講談社絵本などに、もしなっていたとしても、怖がってわたしはよう見なかったろうなと思う。「百合若」や「阿新丸」でもわたしは 怖がった。「孝女白菊」でも「万寿姫」でも本の表紙を伏せて投げ出した。逃げ出した。

* いま、べつに、心をとらえているのは、浄瑠璃と枕草子とである。どうしてこうなるかなあ。ま、ビールもウイスキーもワインもマオタイも老酒も、腹の中 へ入ればみなアルコールだ、そんなものか。うまいかどうかが問題だ。

* ペンクラブも世話になっているトヨタ財団より、事務局に連絡があり、マレー人作家モハメド・ハジ・サレさんという人が現在東京に滞在中で、日本の作家 と意見交換の場を持ちたいとの希望があったらしい。同氏は特にウェブ上での作品発表について関心をお持ちらしく、出来ればわたしにという意向が伝えられて きた。
 残念ながら日程の上で折り合いが付かず、ま、通訳を介して文学の微妙な点に触れるのはシンドクもあり、お断りした。日本語の堪能な人となら存分に日本に ついて意見交換してみたいものだが。

* 仕事をしながら、ビクトリア・ムローヴァのヴァイオリンを、小沢征爾らの指揮で聴いていた。チャイコフスキー、シベリウス、パガニーニ、ヴュータンと いう魅力のディスクである。バックに聴きこみながら、ここ二時間ほどは枕草子を読んでいた。なかなか双方が良かった。


* 十月九日 水

* 医学書院のころの部下であった小林謙作君が、先考小林篤司氏の遺著『ソ連市民になった二年間』(昭和二十七年刊)を、五十年忌に際し、立派に復刊・復 刻された(発売星雲社・発行愛生社 1400円)。
 父君が新聞記者であられ、家族して戦後に樺太から内地へ生還されたことは、むかし、仕事の机をならべていたころに聞いた覚えがあり、そういう著書の出来 ていたことも耳にかすかに残っていた。戦後の動揺のまだまだ激しかった頃に、樺太での稀有の体験を冴えた筆で証言されたこの実録は、刊行された地元秋田市 では好評に読まれて、速やかな再版も実現し、新聞その他で大いに当時評判された様子が、残っている資料などでつぶさによく知れる。だが知れはするものの、 いかにも時機は時代の奔流期にあり、日本の国はあれよあれよと、戦後の混乱とも復興ともないし爛熟ともいえる方角へひた走るうちに、この本が深く時世の底 流に置き忘れられて、読者の記憶もうすれ、また原本そのものももう容易に手にできない稀覯の本になっていったのは、無理もなかった。
 だが、この著述自体の示している内容は、「樺太」という、江戸時代このかた日本とロシアの中にあって極めて因縁深い歴史的な大島における、あの世界戦争 当時の、また終戦に至る当時の、さらに戦後の領土問題処理においてロシアがいろいろに動いた当時の、いわばまさにドサクサのさなかにあった日本人や現地人 やソ連人たちの、政治的・社会的な坩堝の中でのあれこれを、如実に証言したものであり、今となって、かけがえのない記録であり体験であり資料であること は、誰の眼にも歴然としている。
 小林謙作君はそれらを合わせ考慮して、父上の逝かれて五十年を記念し、また終始行を倶にされたやはり今はなき母上をも哀悼すべく、この本の復刊・復刻を 思い立った。立派に成って、頂戴した。有り難いことである。
 わたしと樺太では、あまりに縁が遠いかと想う人もあろうが、さにあらず。
 わたしの作に、岩波の「世界」にながく連載し、後に筑摩書房から刊行した『北の時代=最上徳内』(湖の本32・33・34)がある。樺太というと「間宮 海峡」の名から間宮林蔵を思い浮かべるのが常識で、彼が北方政策の先駆者かと誤解している人はあまりに多いが、日本の蝦夷地、樺太や千島をふくむ奥蝦夷地 への幕府政策の、最も早い先魁をなし偉大な成果をあげたのは、間宮林蔵等よりも二昔もはやくから活躍してきた幕吏最上徳内であり、彼は、樺太の地図も、は やくにかなりリアルに描き得ていたばかりか、樺太が半島でなく、大陸とは海峡を隔てた一大島であることも、間宮らの登用されるよりずっと以前からよく認識 していた。むろん何度も樺太に渡り、一時はシベリヤ経由し欧州へもという探検感覚をきらめかせていたのである。
 間宮が、樺太に、そして間宮海峡を確認したのも、それは徳内の認識を「確認」した展に意味があり、けっして彼が前人未踏の「発見」をしたわけでは無かっ たのである。この時の間宮等の樺太行も、実は最上徳内が自身行く予定であったのを、彼のような北方政策の先覚・実行者で見識に長けた高位の者を、万一酷烈 の極地で失ってはいけないという当路の緊急の判断から、若輩の間宮林蔵等が代わって、「確認」の意図も含めて派遣されたのであった。林蔵は、最上徳内のは るかな後輩であり、いわば蝦夷地探検等での最上徳内配下なのであった。
 もとより最上地方の農民から出た徳内には、蝦夷地政策の当初から上司が何人も居た。だが、最初期の普請役たちがことごとく幕府政変の煽りで消え去ったあ と、抜群の行動力と、アイヌへの深甚の理解や共和・協働の実績等が高く評価され、ついに独り最上徳内だけが、その後の幕府にも重用され、有名な近藤重蔵ら とのクナシリ・エトロフ探索等でも、実質の働きをなしたのは常に徳内唯一人と謂うしかないほどのことであった。有名な「大日本恵登呂府」の標柱を押し立て 得たのも、ロシア人=赤人たちと実生活を共にしたのも、幕府の官僚では、すべて最上徳内の単独行としか言えない結果であった。
 樺太への関心も大きく、彼は回数を重ねて樺太に渡り、単独最北端近くまで探索している。
 この最上徳内に関心を持ち続けたわたしにすれば、樺太は、チェーホフによる「サハリン紀行」の面白さにもたすけられ、いつも大きな比重を保っていた、少 なくも一時期保ち続けていた。関連の小説を書き始めたときにも、だから小林君のお父上に、樺太から帰還の前後をめぐる著述のあったこともかすかに、しかし ハッキリ思い出していたのである。
 遺著自体の値打ちもたいしたものである、が、それとともに、樺太の収容所にいた当時わずか四歳ほどであったという小林謙作君が、父上の著述に大きな愛と 誇りとをもちつづけ、記念の復刊を成就・実現されたその供養の思いにも、わたしは敬服する。
 この種の復刊には、花巻の照井良彦氏が、やはり父君の遺著『天明蝦夷地探検』を繰り返し刊行されてきたことが思い出される。わたしはこの著に、莫大に教 えられた。この著がわたしを導いてくれなかったら、『北の時代』は容易なことで成らなかったろう。はしなくも、今それを思い起こし、先人の地道で地味な、 しかし根底からものを掘り起こされた徹底した著作の力に、心新たな感謝を捧げずにおれないのである。
 わたしの『北の時代』は、徳内さんを主人公にしている、が、実にまた現代小説でもあり、終幕の一椿事として大韓国旅客機の樺太沖のあの悲劇的な墜落事件 を描くことで、われわれの眼のまえに、「北の時代」はいまもなお続いていることを、愛すべき一韓国女性と語り手の作家の関わりなどから、うったえていた。 或る日本人家族が、樺太で「ソ連市民になった二年間」をもっていたという稀有の体験とも、うえの私の創意は、遠く、また近く、関わり続けていたのである。 そういうことからも、小林君の贈ってくれたこの新刊を手にし、たとえば作家李恢成氏のことなどを反射的にわたしは思い出した。氏には樺太にかかわって、韓 国同胞のひとたちと分かった苦渋の帰還問題などを書いた長い作品があり、戴いたことがある。

* もう一冊戴いた本のことを書かずにおれない。田島征彦氏よりこのまえ戴いた随筆『ピコちゃんを食べた』にも触れられ予告されていたが、たじま ゆきひこ・作の絵本『てんにのぼったなまず』復刊・限定出版の一冊を贈って戴いた。1987年世界絵本原画展金牌受賞の傑作で、なんと見返しいっぱいに、 わたしの宛名も添え、実に大きな、むしろ美しいといわねばならない墨描きの大なまずが描かれてある。ありがたい、これは金額には換算できぬわたしの「お 宝」になる。手紙も添っていて、
 秦 恒平様
 月皓く死ぬべき蟲のいのち哉
    そんな季節です
と、わたしの作句を引いて嬉しいご挨拶が附いている。「うみべのむらに えのすきな おじいが すんでいた。」と大扉に書き出してある物語は田島さんなら ではの批評味もこめてある。これまた、心よりお礼申し上げる。

* 朝日子の仲人さんである早大小林保治さんからは共著の注釈『続古事談』を頂戴した。有り難い。室町物語草子集をもう読み終えるので、引き続きすぐ楽し ませてもらう。

* つくばの和泉鮎子さんから歌誌「谺」がとどき、巻末この人の執筆になる「作品評」を読んでいる。たいへんこまやかに、さりげない歌のささやかな命脈に ふれて歌の意義を立ち上がらせる寸評の、よく行き届いているのに感じ入っている。思いがけない出逢いの中に佳いモノは静かに隠れているものだなと思う。


* 十月九日 つづき

* ノーベル賞受賞者が日本から別部門で二人も出たことは、くさくさするようなイヤなニュースばかりの時に、なんとも気が晴れて、よろしい。若い方の人の 内容は、二階へ報せてきた妻の話以上にはまだ知らないが、一階の技術系サラリーマンで博士でもないという、これが嬉しい。またニュートリノの方も、恐らく それ自体がわれわれの日常に対して役立つことは絶無だろうが、なんとも遠大にして気の遠くなるほど極小の世界だと思うと、それがまた劇的に嬉しい。

* さて仕事もかなり捗らせた。ちっとやそっとでは追いつかないが、焦れないでジリジリと前進してゆく。それが精神衛生にもいちばん効く。なにをやってい たか。一日、清少納言と紫式部の世界に漂い続けていたのである。

* 久しぶりに小林謙作君とメールで話せた。今度逢うことになりそうで、楽しみ。

* そして十月理事会に意見書を書いた。没後著作権の保護期限に関連して、パブリックドメインとこの著作権保護年限延長という欧米事情への、基本姿勢を持 つ時機だろう、少なくも時間を割いて討議すべきだろうと。また更に、日本ペンから堀武昭理事が国際ペン理事に当選したのを期に、国際ペンに電子メディァ委 員会を新設するよう提議してはと。二十一世紀の国際ペンが、複雑怪奇な問題をかかえて奔流する電子メディアの潮流に棹ささずにいられるなど、あまりに時代 遅れではないかとわたしは思う。この二つを十五日の理事会で提案したい。


* 十月十日 木

* 電子メディア委員会の同僚委員から、すぐさま昨夜遅くの「私語」に賛同の声が届いた。
「10月25日、17時〜、電メ研出席します。NHKの放映見逃しており、会の冒頭、かいつまんでご披露いただけるとありがたいのですが。夏に読んだ、柏 書房の新刊、米国著作権事情の本にも通じるのではと。また、国際ペンに電子メディア委員会設置のご提案、賛同します。先月、中国・南京の大手翻訳出版社、 訳林出版の李顧問と会食したおりにも、アジアでの電子メディア、著作権事情、そして連携の話が出ました」と。
 すこし仰々しく書いてしまったが、以下理事会用に心用意の提言を、そのまま、言い置くとしよう。

* 以下に、堀武昭氏の国際ペン理事当選を期に、電子メディア委員長として、一理事として、二つの事を、問題提起したい。

* 一つは、死後著作権保存期間の問題である。すでにNHKスペシャルでも取り上げていたが、アメリカでは、死後著作権年限が70年から95年に延長さ れ、これが憲法違反であるとする提訴に伴い、激しい論議を呼び起こしている。ジェファソン大統領の昔に制定された法では、14年に限り認められたものが、 いつしか延長に延長を重ねて95年になった。憲法違反の声は、「知」の所産はいわゆるパブリックドメインであり、無道な延長政策は、一握りの企業と政権の 利益画策以外の何ものでもないという。
 それはそれとして、日本ペンないし国際ペンも、この大問題の帰趨に基本の論議や姿勢をもたねばいけないのではないか。日本ペンはすでに現在「ペン電子文 藝館」を無料公開して、パブリックドメインへの一寄与を明らかにしているが、現在50年と定めた死後著作権の期限を、延長か据置きかの議論が政府官庁に夙 に起こりつつあると聞く。
理事会は、一度は時間をさいて、この問題に、各理事の意見を徴すべきではないか。

* 今一つは、前回理事会で、国際ペンに「環境委員会」をという、国際ペン会長要請について話し合われたが、その際にも疑義を呈したように、我々の中でも 「環境」なる把握には、かなりの混乱に基づく認識の浅さが見受けられる。環境とは「自然環境」のことという発言もあったが、この爛熟した機械時代の広義の 「環境破壊」を考えるとき、自然環境破壊は、ほぼ常に、人工環境の過剰な暴走や爛熟の酷い結末として露呈されている。
 かかる認識のもとに、ペンを持つ者の「環境」に、また世界的な「環境」悪化や破壊や犯罪的事態に、多く関ってくる元凶の一つが、たとえ極めて「便利」な ツール性と表裏しているとしても、ITないしインターネットないし電子メディア的な工学や経済感覚であることは、もはや否定できまい。それを仮に措くと も、文筆著作者達の「環境」問題で、今世紀にまともに影響してくるのが、インターネット等を主とした電子メディアであることは明瞭である。二十一世紀の国 際ペンが、電子メディア委員会をもたずして、果たして成り立つものか、上はエシュロン等の国際的通信傍受やサイバーテロの恐怖にはじまり、下はインター ネット時代の著作権保護の難問題等々まで、関わる範囲は無際涯といわねばならない。日本ペンは、いち早く電子メディア委員会を設置し、「ペン電子文藝館」 によりパブリックドメインに寄与する姿勢をみせてきたが、堀新理事の登場にともなう我々の「新提案」として、国際ペンと各支部とに「電子メディア委員会」 または「IT委員会」新設の緊要なことをいち早く提議されてはどうか。 会長以下各位のご意見が聴きたい。              2002年10月15日  理事意見として 秦 恒平

* もう少し簡明に云っていいのだが、口頭で趣旨を伝えると長くなるので、ま、この程度まで前もってペーパーで伝えておき補足する、というのが、わたしの 時間の節約法。他の理事もこういう方法を少しずつ採り始めたかな、という気がしている。限られた会議時間をひとり占領してずらずらと喋り止めないなんての は、実にハタ迷惑である。

* 方面のちがうこんなメールもとびこんできた。

* 鞍馬の竹伐り会の青竹って、あの青竹は蛇のことなンですか? 吐き気がしてきました。堪えられない祭りですね。

* この手の「見立て」祭事は、他にも縄や蔓をもちいて至る所にある。あの茅の輪、巳の輪も同じである。あれは潜ることで生気や精気を身に受ける「あやか り」だが、大縄や大笹を村はずれへひきずって行き焼くなどという祭事は、いわば厄払いに見立てた民俗であり、もし「むざね=正体」を強いて問うならば蛇体 の「見立て」であることは間違いない。やまたのおろち以来の山国で水の国である日本では、ごくあたりまえの伝承といえる。
 
* 小津安二郎の映画「秋刀魚の味」やわたしの小説「畜生塚」にからめて、こんな声も届いている。

* 秋刀魚 小津安二郎が、市内の中学に在籍していたかなにかの縁で、先頃、イベントがありました。
 婚期を逸した娘を嫁がせた父の話、という程度の認識でしたが、「秋刀魚の味」の娘は、(「畜生塚」の)町子さん同様の結婚だったのですね。
 消極的な婚姻は、世に多いものです。ですが、それが、布に合わない針で縫い進めているような生活として、日々続いていくなら、ほどいて洗ったとしても、 決して縫い目が消えることはなく、その子は、潜伏性の疫病の中で育つようなものだと思うのです。町子さんは、その病を自分の代で絶ったでしょうか。

* これには少なくも即座には答えたくない。答えられないと云うより、じつは答えてはならない気がするからだ。「町子」は、すでに妻をもった男に、自分も 結婚することになったと伝えてくる。東京の男は躊躇なく京都の町子を訪ねてゆく。二人の久しい愛を知っているものは、二人のほかには町子の母しかいない、 世界中に。男を迎えて、母は家の藝である小謡で、胡蝶と梅とのかなわぬ恋を謡い、町子は男のために別れの茶をたて、たて終えて、呻くようにむせび泣くので ある、あなたと結婚したかった、と。
 男が町子と結婚しなかった理由は、この小説の一つのふしぎでもある。それは、ここへ書くまい。町子の母もまた上のメールが示唆しているような結婚で娘町 子を産んでいた。町子は「潜伏性の疫病の中で育」ったのだろうか。町子は他の男と結婚しても子は成さなかったろうか。ちなみに「畜生塚」を書いたのは昭和 三十八年か九年ごろ、わたしは三十歳になっていなかった。
 それから二十年もおくれて、偶々、未知の歌人に贈られた歌集「線描の魚」に、こういう歌をわたしは見つけた。これらは、わたしの選歌でわたしの「e-文 庫・湖」にも「ペン電子文藝館」にも入っている、歌人篠塚純子さんの作である。以下に挙げたのは極く一部。
  しばしばも夫(つま)と離るるわが歩み森洩るる陽を胸にうつして
  新婚の妻なるわれに異国びと問ひかくるなり不幸せかと
  何ゆゑにかくもしきりに憶はるる幼くわれの住みし雪国
  あらはなる憎しみ顔に浮かぶかと立ち上がりざま鏡をのぞく
  夫を措きて帰らむとこころ決めたる日われに医師告ぐプレグナント(=妊娠)と
  嫁ぐとも子は産(な)さずよしといひし母に書きてやるなり身籠りたりと
  このわれの母とならむを訝しみ朝の窓辺に髪梳きてゐる
  毒薬の説明の箇所とばしつつ古き小説を読みをりひとり
  降るごとく新年の鐘ぞ鳴りひびく星空凍つるハーグの街に

* 小説を読んでいるような気がした。殆ど即座に「四度の瀧」を書いた。この歌人とはまだ初対面も果たしていない未知のままであったが、書き上げてから歌 集に触発されて書いた事情をおことわりしたような記憶である。
「嫁ぐとも子は産(な)さずよしといひし母に書きてやるなり身籠りたりと」にわたしは愕いた。こういう覚悟も女の人達にあるのだと。
 今朝届いたメールの読者も、この辺に眼を向けているようだ。
 だが、わたしは、安易にはこれへ答えまいと思う。

* 「ミマン」の連載、最終回の校正も終えた。四年間、気持ちよく仕事してきた。「残念ですが、誌面をまた新たにしていい時機と思い、今年で終えさせて戴 きます、ながらく有り難う御座いました」という挨拶があれば、まったく何でもなかった。わたしが編集長なら、そう云う。
 ところが、「好評なので好評の内に終らせたい」という挨拶だった。
 雑誌編集と限らず、どんな仕事でも「好評」を得ようと努力し、事実好評なら、いやましにその好評を持続させ拡大させ営業のプラスに繋げようと努めるの が、常の道理で、この、顔を見たこともない編集長の挨拶は、編集者の常識を逸れた、まことに稀有な「終らせ」方だという話になる。つまり、未熟なお世辞を まちがったレトリックでつかったわけだ、よせばいいのに、と苦笑した。
 ある周期で誌面を清新にしたいのは、編集者の常、それは立派な理由になる。ところが、「好評なので好評の内に終らせたい」というケッタイな挨拶は、事実 なら明白に間違った判断であり、お世辞ならへたなお世辞で、云わない方がはるかにマシであった。つまりウソをつかれた気持ちにさせるいやみな挨拶であっ た。四年にわたるとてもスムーズだった気分を、最期にぶちこわされた心地は、いいものでない。


* 十月十日 つづき

* 終日、必要な文献を読み続けては、機械に入れて整えていた。書けばこれだけのことだが、遠い遙かな「旅」を続けていたような、快くも酔ったような思い がある。

* 二人目のノーベル賞の人のニュースは、どれもこれも楽しい。一企業の若い研究職社員で管理職でもなく学位もなく、四十二歳だという。厄年なんてものは ふっとんでいる。どれだけ多くの人達をこの受賞は勇気づけることか。なんだか、思うつど胸が熱くこみ上げてくるほど嬉しい。

* わがことに立ち返ると、言いしれずいろんな用事が押し寄せていて、この波をうまく乗り越えないと毎日が息苦しいのも現実。母の七回忌がある。あわただ しい一泊二日のとんぼ返しではあるが、前後に会議がならんでいるし、新聞の締め切りが入っている。ふうふうと息をはきながら、だが、主としてやっている今 の仕事は、優雅に優美な世界を旅しているのだから、文句は何もない。


* 十月十一日 金

* 朝の内に、湖の本新刊分を、一太郎のファイルで入稿した。機械の便利さにアタマがさがるが、さて、またこの機械が多くの厄介をも「人」社会にもたらす のだから難しい。

* 兜町の新館で四時から二時間半ばかり、言論表現・人権委員会が、合同しての熱心な会議になった。言論の猪瀬委員長も人権の関川委員長も顔が揃い、上智 大学の田島泰彦教授から、人権擁護法、個人情報保護法等の国会での行方や、住基ネットへの観測や解説や対策についてレクチュアを受けた。
 住基ネットの「前提」としての個人情報保護法であるという考え方を、本質的に深く訂正してゆく必要があると、まず教わった。個人情報保護法は、真に目的 にかなう国民のための良法であるなら当然必要で望ましいのであるが、現在用意されているものは、住基ネット実施の前提になるもならぬもない、極めて不備不 当な内容である。また住基ネットの実施が、近い将来のIDカード化へ展開してゆくとき、個人情報の国家による徹底した収奪と管理は目に見えており、抵抗の 道は、二つしかないのではないか、と。この法の実施から、一つには自治体が対応を選択できる自由を、二つには個人の判断による離脱の自由を、かちとる必要 がある、と、たじまさんは説く。これに対しては政府は頑強に認めないであろう。だが有効な道は其処にあり、他には無いと、田島さんの論旨は、明快であっ た。
 何かを、して、揺るがして、抵抗しなくては成らない以上、言説上の関心や理解だけでなく、些末なことの積み上げで揺らしてゆくしかない。パフォーマンス にせよ何にせよ、机上の議論と帯同しての行動が、もっともっと根気よく細々と続いてゆかねば勝ち味などどこにもないだろう。

* 猪瀬氏が連載中の「菊池寛」を論じた「作品」に、読売新聞が大きな誌面をつかって「盗作」騒ぎをぶちあげた。見たところ、そういう問題になる仕事でな く、第一、「盗作」されたとする被害著者と猪瀬氏との関係は良好で、讀賣の記事そのものを逆に二人して非難している。時節的に、出る杭にされて打たれてい る猪瀬氏への、タメにするいやがらせであろうか、これはどうみても讀賣とその尻馬に乗った連中が軽率である。
 この連載が、必ずしも小説的にわたしの好みにも堪える作かどうかは別として、被害者も居ないまま、仕事の半ばにもまだ達していないところで読売新聞が軽 薄に動いたというのは、あまりに苦々しい。幸いに「噂の真相」ほど常は猪瀬氏にきびしく当たっている雑誌まで、讀賣を批判し、政府委員としての猪瀬氏に へっぴり腰にならず此処は「改革」のために頑張れと、別方角への声援を送っている。同感であると共に、要するに猪瀬氏は前作「ピカレスク」を凌駕するほど の力作に書き上げればいいのだと思う。それが達成すれば「心の王国」への雑音は、晴れて雲散するだろう。

* もう一つの大きな話題は、柳美里作の私小説が実在のモデルを作品の中で傷つけたとする最高裁の判定をめぐる議論であった。
 この問題では、人権委員会の梓沢弁護士は最高裁判決を支持し、田島教授は反対意見をもっていた。
 結論から言えば、これは、ペンの話題としてみるかぎり、「文学・創作」の問題である。「法律の問題」に身を寄せて考えるのは、そのあとでいい。
 わたしはそういう考え方であるから、こと「文学・創作」の立場から言えば、「書く」自由(権利ではないし、まして特権ではない。強い動機や衝動に促され てする創作の自由の意味である。)は、侵されては成らないというのが基本の認識。
 作家が、せひともそう書きたいのなら、そう書けばよい。そう書くな、それは書くなとは、言われたくない、言って良い筋合いはない。
 したがって柳美里が「書いた」ことをわたしは問題にしない、真にそう「書く」以外に根底の動機を表現できなかった、というのであれば、である。
 その一方で、時代は二十一世紀であり現代であり、明治でも大正でも戦前・戦中の昭和でもない。時代の推移に従い、われわれは、個人の基本的人権を拡大す ることに多くの努力を重ねてきたのである。
 その現代・今日では、当然ながら、不当・無道・気儘に、人を傷つけて良いわけはなく、決して許されない。法的・常識的なその根拠は、過去の時代とは比べ 物にならず手厚くかつ大事にされていて、それは、いわば現代の、過去に対して持ちうる「誇り」でもある。
 したがって、いかに創作者の動機が真実深い強いものであろうと、法の行われる社会では、法に照らした判断が成されるであろう事、市民社会として当然で、 特権的に免れることなど、また有ってはならないのである。創作は本質的に「自由」であるが、それは社会的な「権利」でもましてや「特権」でもないからであ る。
 だからわたしは、柳美里問題の起きた時から、変わらず言っている、「書く」自由は不可侵であるが、「書く」ことで他者の人権を「傷つけても良い権利」な どはないこと、つまり法的判断の結果として「牢屋」入りのあることは覚悟をして「書く」べきであると。
 柳美里の対応でよろしくないのは、「書いた」のはいいが、人を傷つけたことまでを「文学・創作」の名において、当然の権利・特権かのように自己弁護して いることだ。それは間違っている。これは良い作品で自信がある、わたしはぜひに「書き」たかったと主張するのは宜しい。しかし傷つけられた人の痛みを、文 学への供物か貢物のようにあしらうのは、もう、今日の人権感覚では許されない。
 さらに別の大きな問題は、田島さんの言われるように、これが「最高裁」判断として判例を成すに足りる内容や誠意をもったものかどうかの、疑問である。 「文学・創作」の問題にいったい最高裁は真の理解を示しながら判決したかというと、とてもそんな片鱗も判決からは見受けられない。しかもなお、稀有の、い わば「出版差し止め=販売禁止」というところまで踏み込んでいるが、そこまでいう必要があるのか。

* 会議の席で梓沢弁護士は、「文学・創作」に人を傷つけてもよい「特権」を求めるのかと、わたしをまるで誤解していたし、作家と称している小嵐某氏は、 文学が人を傷つけることのあるのは当然だと発言していた。
 結果として人を「傷つけてしまう」ことのあるのは、事実で、わたしにも身に覚えが多々あるし、小嵐氏のいうように、文学に限らない。人の世は、そういう ものだ。
 さりとて、だが、文学・創作行為が、故意に意識的に「人を傷つけて良い・傷つけてもやむをえない」と社会的に正当化することなど、許されていいわけがな い。作者たるもの、そこのところでも微妙に文藝という「藝」を磨いているのだと言えよう。自己中心の言い訳はきかないのである。

* 会議のあと、パレスホテルという足の便のよくない会場での中央公論社のパーティーは失礼し、美しい人のいる店で、すこしだけ、旨い酒をゆっくり飲ん だ。会議で配布された大量のペーパーを読み返し、それから家に帰った。田島教授の柳美里作品判決に関する見解を読み、教えられ事多く、まことにもっともと 感じ入った。


* 十月十二日 土

* 妻の初校してくれた、テニスン卿作・若松賤子訳「いなっく、あーでん物語」を読んでいる。適度に古く感じられる上品な明治の日本語が、今にして、たい そう佳い効果をあげている。感心する。胸に迫る物語で、こういう仕事をじつに近代の早い段階でしてくれた先人に感謝したい。大人にも今の子供にも読んでほ しいが、お母さんが肉声で子供に聞かせてあげて欲しいとも。
 今ひとつ校正中の石橋忍月「惟任日向守」は、なかなかハカが行かないけれど、手を付けていると他の仕事を忘れてしまいそうに、時間長く引きこまれて困る ほど佳い「文章」である。声高に語られていて佳い文章というのは少ない。他には幸田露伴の「運命」を思い出す。忍月の明治期屈指の、いや最高の歴史小説と 評された作も、露伴の「運命」も、いまでは読まれていない。読みたくても本がなかなか無い。

* 若松賤子の翻訳はテニソンの長詩を小説のように翻訳したモノで、明治二十三年(1890)に、明治女学院校長であった夫君巌本善治の編集・発行する 「女学雑誌」に、一月から三月まで連載した。同じ年には、今も読まれるバーネットの「小公子」の翻訳がある。、典雅な日本語で海外文学を多く我が国に紹介 した人である。元治元年(1864)に生まれ、明治二十九年(1896)にはなくなった。三十三、四という若さであった。
 明治二十三年春といえば、二葉亭四迷の「浮雲」から三年と経っていない。森鴎外があの「舞姫」を発表したのが全く同じ年の一月であった。慶應に大学部が 出来、お茶の水の前身女子高等師範が設立された年である。それを念頭に「小公子」やこの「いなッく、あーでん物語」を読むと、よくまあここまでやわらかに 品のいい言文一致の文章がと、心底驚嘆。こういう先人先達の業績に、くりかえして言うが、感謝を禁じ得ない。

* さて今、プリントはしてありスキャンを控えている作品に、水上瀧太郎の「山の手の子」と原民喜の「夏の花」がある。京都での母の法事から戻らないと手 が附きかねる。この二作も立派な記念碑的な作品として知られてきた。とはいえ、本当に今は多くの近代の秀作や力作が読書人の手に入らない。ポピュラーとい う名の著名なものは幾つも出ていて、金無垢の底光りする作品はなかなか目に触れない。たとえ一人に一作ではあるが、それら埋もれかけ作家と作品に、二十一 世紀の日の目をあてて広く読まれやすくすること、それが「ペン電子文藝館」でのわたしの努めでもよろこびでもある、もう暫くの間の。

* 田島泰彦上智大教授の「柳美里作『石に泳ぐ魚』最高裁判決について」という一文を「ペン電子文藝館」に戴き、もう体裁を整えて入稿した。本質をついた 優れた指摘に満ちていて、ペンクラブ会員の一証言として価値高いと思う。むろん会員の内にまた意見のある人の起稿も得たい。

* 版画作家田島征彦氏の贈られてきた本の添え状にわたしの昔の句が書き込まれていて、この「私語」に引いておいたところ、
  月皓く死ぬべき蟲のいのち哉  恒平
とあるべきが「無視のいのち哉」になっていた。メールで指摘してきてくれた人が、「変換違いになっていて、クスクス笑ってしまいました、でもあの句、佳い ですね」とついでに褒めてくれた。ちょっとだけ嬉しい。

* なにとなく疲れているのは、根の入れすぎでもあろうが、気温と体温とのアンバランスもある。知らないところで風邪にでもやられているのではないか。こ の二日で難しい原稿を一つ書かねば成らず、医者と理事会をはさんで京都往来に二日。これが気にも荷にもなっている。
 だが六年前に死んだ母のために、また父や叔母のために、坊さん父子と妻と四人で、いっしょに仏堂で念仏を高唱してくるのは、わたしや妻のまさに「生きて いる」あかしなのである。三人のそれぞれ百日、一年、三回忌、七回忌、十三回忌を、少なくもわたしと妻とは京都で欠かさなかったし、まだ来年の叔母の十三 回忌、五年後の母の十三回忌がのこっている。最低まだ五年間は元気に京都へ出掛けねばいけない。ま、楽しみとしておこう。


* 十月十三日 日

* 田原総一朗の番組で、猪瀬直樹が桜井よし子にかなり手痛く噛みつかれていた。あの組み合わせは猪背君には可哀想のようなもので、彼は能弁でない、訥弁 もいいところで、しかも気のせく人。あの桜井さんは四チャンネルのキャスターの頃から、まあ、抜群の日本語で、きれいに、綺麗すぎるほど慇懃に、的確そー に話せる人だから、喋りという土俵で猪瀬直樹には勝ち目がはじめから無い。
 もう一つ、彼のこのところの弱みは、政治的な「折り合い」を無意識にも強いられるであろう場に、地位に、いるから少しずつ古賀だのナンだのにすり寄って いるかと推測されたり、図星をさされたりしやすいこと。「噂の真相」記事も話をそこへ持っていって、頑張ってくれよ、でないとと、凄みを利かせていたの だ。桜井よし子ももともとは猪瀬直樹の声援者の一人であった。そうだった。
 桜井よし子の追及も、猪瀬直樹の弁明も、あの田原司会のあんなやりとりでは、判断が付かない。だが、委員会で猪瀬がわたしに呉れた新刊では、国土交通省 とのあいだに太い一線を画して頑張っている。彼は、現実主義者であり、立場上、その素質がだんだん有効に働いてくる。働きすぎると、外野からは「変質」だ 叩かれるだろう。
 やはり頑張って初心の筋を通して欲しいと、声援しておく。

* 夜前、気分が悪いほど疲労していたのに、寝に行く前に、卒業生のホームページをのぞいて、「闇に言い置く」私語の大方を、逆順にずんずん読んでいっ た。一日一日を区切ってときたま読むのでは、大きなものが掴みにくい。面白く興味深く、しかも一気に読み直して行けるほどの量であったのも幸いしたが、 「いいよ、これはこれでいいんじゃないか」と頼もしかった。強い雨が、土を岩を叩いてしぶきを上げるように、生き生きと、ときにはランボーな物言いももの ともせず、書いている。男性ではない、女性である。結婚もしている。
 気合いがいいのと、根が研究室育ちの技術者でも実験者でもあり、社会に出てからの視野や体験も広がっている。読書と観劇の積み重ね、この人はただならぬ ものをもち、当然、フレッシュである。わたしのようなオールドファッションのダサイおじいさんは、その勢いに吹っ飛んでしまいそうな、奔流のような生活感 を、心身にしっかり帯びている。投げ込んでくる球種もフクザツで、ソフトボールの投手のように凄い速さで、ブアッと来る。勝手に本文はここへ引用できない から、紹介も抽象的になるけれど、なんだか、「やれやれッ」とけしかけたくなったほど、楽しい刺激を受けた。
 うちの脚本家の先生も、これくらいきびきびと若々しく、しかも若さに甘えないシビアなコメントを、万般、彼のホームページで読ませて欲しいものだ。どう してるかな。

* またべつの卒業生の、久しぶりのメール、長いメールが今朝届いていた。下書きをしたか知らんと思うほど、とほうもなく、ま、微妙なことがらが、きちっ と書かれてある。さきの卒業生もこの卒業生も同じ教室にいて、アイサツのたしかなことでも対照的な双璧といえた。この人も女性で、結婚している。
 このメールは此処に書き込めない。わたしは、読んで三十分ほど考え込んでいた。いい考えが浮かぶかと思ったのではない。ま、いっしょに考えているハタさ んがいるよと、少しでも安心してもらいたかった。

* 有名な建築会社に勤務の男性卒業生からは、今月一日から六日まで勤務先主催の展覧会があるので来てくださいと誘われていたが、いろいろ用事に煽られ、 行けずじまいだった。用事の中には、スペインからスペイン人の夫君と一時帰国した卒業生との会食もあった。あの夫婦ももう向こうへ「帰国」した。柳君、行 けなくてわるかった。仲間の丸山君は、これから本省予算の時期になり、国会も始まって気も体も休まる日がないだろう、風邪など引かぬよう、大事に。

* 毎日新聞のための難しい原稿を、一稿をとにかく書き上げて、いまさき、メールで送ってみた。担当記者サンの意見も聴いて、書き直せる時間の余裕も見て 書いた。ほっこりと疲れ切って、ねむい。あたりまえだ、ゆうべはホームページをたっぷり読んだあと、寝床に行ってから「長宝寺よみがへり草紙」もとうとう 読み上げ、モンテクリスト伯四冊目の文庫本の、うしろ半分を最後まで読んでしまった。なにしろこの伯爵、腕にヨリをかけて復讐にかかっている。手の込んだ 凄さ。わたしには出来ないことだと思うと、引き込まれる。ちょっと、ヘンかな。


* 十月十四日 月

* 少しのんびりできた。ビクトリア・ムローヴァのパガニーニとヴュータンを繰り返し聴いていた。パガニーニはヴァイオリン協奏曲第一番、ヴュータンは同 じく第五番。指揮は、サー・ネヴィル・マリナー。近年は聴くと云えばピアノがもっぱらであったが、久しぶりにヴァイオリンが聴きたくなった。ムローヴァの らくらくとパガニーニをこなす技巧の冴えと確かな音楽の構築は、音を大きくもっぱら聴いていても、小さく仕事のあいだに聞き流していても、美しい。

* 忍月の光秀はいよいよ爆裂のときを迎えんとし、なお悶えている。石橋忍月というと反射的に山本健吉さんを思いだし、あああの方のこれはお父上なんだと 思いながら校正している。
 全編はとれないが、樋口一葉を文学の世界へしたたかに引きずり出す牽引車の役割をした、三宅花圃の「藪の鶯」を第一回分だけ「招待席」に入れた。坪内逍 遙の「当世書生気質」が出ると忽ち、その女学生版を思い立ったという「歌子塾」元気じるしの才媛であり、明治二十一年に刊行され、好評。いたく刺激され、 原稿料というよりもまさに生活費を「稼ぐ」べく創作の決意をしたのが、同じ萩之舎塾の先輩花圃女史の成功を羨んだ一葉樋口夏子であった。
「藪の鶯」では鹿鳴館の貴嬢たちの会話から長い物語が始まる。記念には値する書きっぷりである。

* 矢崎嵯峨の屋「初恋」江見水蔭「女房殺し」平出修「逆徒」相馬泰三「六月」中戸川吉二「イボタの蟲」松永延造「ラ氏の笛」佐々木俊郎「熊の出る開墾 地」加納作次郎「乳の匂ひ」など、近代前半期にうかとすれば埋没して終いかねない、しかし忘れては成らない作家達の秀作優作がある。「ペン電子文藝館」の 招待席は貴重な役割を果たして行くであろう。わたしに能うかぎりを、よく読み、よく取りげておきたいと思う。これは私の意思でも何らの利得でもない、ただ もう純粋に「よかれ」と願うだけの尽力である。わたしにも照らせる「一隅」が此処にもあるというだけの話。

* 桶谷秀昭氏から新刊を贈られた。三十余年、桶谷さんの本を戴き続けてきた。昭和精神史のような大著も。

* さ、今晩はもう機械をとじて階下へ降りる。旅の用意を今夜の内にしておかないと。
 明日は朝に医者へ行き、街で二三時間のあきまが出来るが、三時から理事会。死後著作権の保護年限と「パブリックドメイン」について、また国際ペンに「電 子メディア委員会」が必要ではないか、日本から新理事当選の機会に提議提案してはどうかと、二つの問題を提出して置いた。本気で取り上げられるという期待 は持てないでいる、いつものようにハアハアと聞き流しておわるのではないか。ま、それでもいいですが。
 で、十五日にはいよいよ京都の菩提寺へ、妻と。

* 日本舞踊家の西川瑞扇さんから速達があった。この同じ十五日に国立小劇場で、わたしの作詞した「細雪 松の段」を舞うので観て欲しいと、じつは数日前に電話があり、妻が受けていた。あいにくの日程で残念ながら観られない。「細雪」の題で先ず谷崎作詞の「花 の段」そしてわたしの「松の段」を舞い、さらに「花を添えて」という舞が用意されている。
 うーん、観たかったが。松子さんと重子さんとをやはり二人で舞うらしい配役になっている。正月の芸能花舞台で舞った人達である。メールで、今度舞う機会 には一人で「松の段」を舞われてはと勧めて置いた。松子夫人は一人舞いでの「松の段」を望まれ、今井栄子が舞ってくれた。よかった。二人の方が分かり佳い だろうが、一人舞いの方が舞い手の藝が深く見える。松子夫人もそういうお好みであった。いやもう、惜しいことで。 


* 十月十五日 火

* 歯医者と理事会との間が三時間もあいてしまい、「モンテクリスト伯」の第五巻を、「きく川」の鰻と茅場町の喫茶店で読み上げてしまった。何の苦もな く、時間を忘れるほど入って行けた。ヴイルフォール検事総長家の連続毒殺事変が渦巻くところで、令嬢ヴァランティーヌと、モレル家のマクシミリヤンの甘い 恋が痛い試練に逢う。モルセール伯爵家へも暗雲が覆ってくる。銀行家ダングラールは損を重ね追いつめられてゆく。端倪すべからざるモンテクリスト伯の打つ 手が、一つ一つ効き目を見せてゆく中で、全身不随眼光一つで生きて頑強な、ブ。フォールの父ノワルティエの存在がずっしりと重い一冊で。もうはや残り惜し い心地で、明日明後日の京行きに、のこる第六・七巻を連れにする。

* 理事会は、例の如く、はじめにだらだらして、議題は追われ追われ時間が窮屈になり、後へ行くほど、議題は、勢い端折られてしまう。
「環境」問題では、ま、言うだけは言った。批判に再批判や反論は出なかった。出るわけもないと想うが。

* 愕いたのは、「パブリックドメイン」の方で。
 わたしの問題提起は、言うまでもない、「パブリックドメイン」という「現代思想」に対する討議と認識が必要な時機であろうというので、「著作権」が主で はない。
 だが、理事会全体に「パブリックドメイン」という考え方が、てんで問題にされないのだ、話が通らないのである。耳に馴染んだ「著作権」ばかりが口にされ た挙げ句、そもそも著作権は職能団体である文藝家協会の管轄、そちらで話が纏まったら、ペンは、それに協調すれば良いではないかと。ばかみたい。
 あなた自身の作や文章を、どの時点から「公共の財産」として一般社会に無償で開放できますか、そういう考え方は採らず、出来るだけ長く死後もファミリ アーな私有著作権益を主張しますか、という、そういう問題提起なのに。わたしよりもずっと若い今日の「評論家」ですら、そんな提起の意味もとらえられず、 文藝家協会の問題だなどと言い出す。ダサイなあと、このおじいさんが呆れてしまう。
 われわれの、或いは現代人の「知的所産」は、最終的には「パブリックドメイン、つまり市民財産」として活用されるのが「良い」という考え方がある。わた しも、同感している。
 ジェファーソンの制定した憲法・著作権法では、死後「十四年間」に限って著作権保護を認めた。つまり配偶者の生存期間程度でよい、以後はパブリックドメ インであると制限を加えていた。人間の知的財産はいずれは市民・人類共有の資産という「思想」に基づいていたのだ。
 ところが、段々延長に延長を重ねて、日本では現在「五十年」だが、アメリカはすでに七十年だったのを、最近更に「九十五年」にまで延ばしてしまった。 ディズニー等一部大型企業が延長を強硬に政治に働きかけることで、この死後著作権期限の米国型大幅延長は、「パブリックドメイン」という考え方の前に、繰 り返し繰り返し大きな壁を立てて遮ってきたのである。
 むろん、アメリカの中でも、こうした無道な延長政策を真っ向「憲法違反」であるとし、現に激しい法廷闘争に入っている。
 そういう、世界の「知」の現実、を眼の前にして、文筆・創作による知的団体として、我々日本ペンクラブも団体としての討議をし、或る程度基本的な態度 を、必要に応じ「表明」できる用意がないと、パブリックな責任が果たせないでしょう、と、わたしは言うのである。これは、職能団体である文藝家協会が管轄 している日常的な著作権問題とは、かなり次元を異にした、一つの「現代思想の大きな課題」なのに。

* こういうことが、理事会で、スラッと理解されない。時代の先へ先へ視線をとどかせる用意が、あまりに乏しい。惰性的な派閥構成型の情実に拠った多選理 事ばかりが、理事職を多年にわたり独占しているから、淀んだ沼のようになってしまう。多選理事の半数改選半数退任による、人事の新鮮な回転がはかられるべ き時機ではないかとの印象をわたしは持っている。
 そういうことだから、例えば問題の「環境」とは、当然に「自然環境」のことですよ、などと手薄い浅い認識に足踏みしてしまう。今日「水」や「木」に悪影 響をもたらしている根元の環境破壊は、むしろ哲学の未熟と、機械化社会の暴走や荒廃にある。「根から絶たなきゃダメ」という広告の文句通り、何が荒廃の根 かと考えるなら、目の向かうべき先は、ただ山や川だけで済む道理がない。「諫早」にしても同じだ。
 こんなに洞察に欠けていてよく文筆家だなんて言えるなあと、つい失礼なことを想ってしまうほど、諸事認識の深度が、なんだか、あさい。わたしが深いとい うのではない。わたしのような者よりなお浅くては困るなあと思うから言うのである。

* で、もう読む文庫本も鞄にないので、日比谷から有楽町線でまっすぐ帰った。司会拙劣、三十分以上も「だらしなく」会議時間超過、五時半でまだやってい たが、席を立ってきた。

* あす朝早に、京都へ。その用意ももう少し残っていた。天気はどうか。去年の父の十三年は、台風に襲われて、日本海側から長岡経由で東京へ帰ってきた。 さっきから雷が鳴り、雨の音も。好天を祈る。

* ロシア通の米原万里さんが理事会で隣席にいたので、ちょっと話して置いたが、小林謙作君の父上の遺著「ソ連市民になった二年間」は、実に優れた証言集 で、繰り返し読んで何度も何度も小手を打つ面白さである。面白さというと誤解があるなら、まことに興味津々教わることが多い。今はロシアになっている。し かし今の北朝鮮がおそらくこの往時のソ連に近いのではないかなあと想像され、これがまた刺激的である。
 今日、五人の拉致被害者が二十数年ぶりに一時帰国してきた。再会の場面など、ほろりとさせられた。じりじりと少しずつ良い結果へと国を挙げて近づけてゆ きたいものだだが。


* 十月十六日 水

* 雨や雷は過ぎていった。今から京都へ行く。四十五年前の今日、妻と初めて大文字山に登った。魔法瓶に飲み物を持っていたのに、行きしなに山道でぶつけ て割ってしまった。山の奥は紅葉していた。比叡山が大きく美しくまぢかに見えた。

* モンテクリスト伯のおかげで、あっという間に京都へ。一休みのまもなく、菩提寺へ。まず墓参。境内の萩はすっかり刈り取られて、一株だけかすかに白萩 が。
 住職が、次男僧に襲職されていて、読経も主役は若い住職、前住職は脇に。阿弥陀経と念仏を唱和。墓地に新しい卒塔婆を立てて、墓前でも念仏。四時過ぎに 終わる。
 日は高かったのでどこかへ車で走ろうかと思ったが、やめ、出町の商店街を歩いて「ほんやら洞」で店主の甲斐夫妻に逢い、コーヒー一杯の間を、歓談。夕暮 れて行く同志社のキャンパスを、栄光館の前から烏丸通りまでゆっくり通り抜け、地下鉄で宿へ戻った。ホテルのレストラン「グランドール」で、洋食にグラス ワイン。元気回復した妻と祇園まで車で走り、「権兵衛」のまえから辰巳橋白川の方へ、そして膳所裏から四条通へと宵の散策。馴染みのクラブ「樅」がしまっ ていたので、満腹もしお酒も足りていたし、そのまま四条通を烏丸まで歩いて、宿へ戻った。
 朝が早く、新幹線でもずっと本を読んできたので、からだに残ったワインと、部屋でのビールが利いてしまい、すうっと忽ち寝入ってしまった。


* 十月十七日 木

* ひとり目覚めたのが、五時半。好天。ホテル十二階の窓辺で、東山三十六峰の「あけぼの」をひとり楽しみ、そのままソファでまた「モンテクリスト伯」を 読み出して、七時半まで。
 朝食後、協議は一決、個人タクシーを頼み、五条から、桂、大枝、沓掛などを経て、老の坂旧道を昔の丹波篠村へ越えた。亀岡市に入り、矢田の鍬山神社に参 り、山上の銀鈴の瀧を拝み、また待たせた車で、山の奥へ奥へ上っていった。
 この前出した湖の本のシナリオ「懸想猿・続懸想猿」の舞台である疎開していた村まで行き、あの頃にお世話になっていた大きな農家に挨拶した。「丹波」に も出てくる当時の田村美智子さんが嫁いできて長沢美智子さんになっている。息子夫婦のいる未亡人になっている。立ち話で、そうは長く話さなかったが、お互 いいい年寄りになってしまったなと笑いあった。
 妻と、静かな静かな村のうちを、山上から春日神社までも、懐かしい思いで歩んできた。
 指折り数えて、ここへ疎開してきたのは五十八年ほども昔になる。国民学校の三年生を京都で終えて、まだ雪の凍てて残っていた春休みの最中だ。数えて十五 軒とは今でも無いほどこぢんまりとした山間の峡谷。昔は京都府南桑田郡樫田村であったのに、今は大阪府高槻市の奥の奥地に編成替えになっている。高槻から のバスがこの杉生部落でまわれ右して大阪の方へ帰って行くのだ。
 世話になっていた農家は、当時は六人家族であった。お年寄りは三人ともなくなり、いいお姉さんであった娘の二人はよそへ嫁ぎ、末の息子さんが、わたしよ り四つ五つ年かさの亀岡農学校の生徒であった。この人に同じ部落の中からわたしの同級生が嫁いで男の子が出来たのに、気の毒に夫君の藤次さんは、事故で早 くなくなった。息子夫婦も今は余所に暮らし、未亡人が大きな、「本陣」ほど大きな農家をひとりで守っているような様子であった。
 待たせて置いた車で、さらに一山を越えてとなりの田能部落に昔の樫田国民学校を見に行ったが、すっかり鉄筋の新しい建物に変わっていた。廻れ右してき た。
「丹波」に、事実通り記録的に書き、小説では処女作「或る折臂翁」と「懸想猿」に書き、太宰賞の「清経入水」に書き、少しく「四度の瀧」にもとりこんだ、 私の文学とは切っても切れない血の通った場所である。
 此処での、敗戦をまたいで一年八ヶ月ほどの日々は、まこと貴重な財産になった。だがあの当時は、はやく京都に帰りたいが一途の、「都会もん」には過酷に シンドイ日々であった。
 好天に恵まれ、静かで静かでひっそりと晴れ渡った村の風情が、満喫できた。妻が喜んでいた。
 亀岡市に下り、JR山陰線の亀岡駅でタクシーを帰した。地元のくるまに乗り換え、「楽々莊」へ。ここで、おちついて昼食した。山陰線の開通に尽力し、後 に更にトロッコ電車を保津峡谷に走らせた田中某氏の豪勢な旧邸で、佳い建物と広いはれやかな庭園がある。広い座敷を借り切りの感じにわれわれだけで占め て、松茸や柿・栗を用いた懐石を楽しんだ。濃いうまい酒が出た。ざんぐりと飾らない懐石で、それも一興の、疲れをやすめるにいい静かな昼下がりであった。
 亀岡駅から各駅停車で、保津峡を長い六つのトンネルで縫い取るようにし、嵯峨から円町や丹波口を経て、京都駅に帰った。そのまま手持ちの「のぞみ」切符 を二時間早く切り替えて貰って、新幹線に飛び乗った。この二時間の切り上げは、疲労のためには良薬であった。いくらかうとうとしたが、「モンテクリスト 伯」をわたしは第七最終巻の真ん中まで読みふけり、妻は小林謙作君の父上が遺された「ソ連市民になった二年間」を読み切った。
 七時のニュースに間に合うように家に着き、黒いマゴは手足を舞わせて喜んでくれた。

* とは言え、さすがに、ほっこりと疲労している。今夜は早くやすもうと思いつつ、いろんな用事にかまけて、十二時になろうとしている、明日は骨休めした いが、なんと、はや次の「湖の本」初校が出そろってきたし、二十二、三日には新刊の『からだ言葉・こころ言葉』が三省堂で出来上がるという。装幀はどんな か知らない、なかみは、ちょっと面白い本になっていると思っている。


* 十月十八日 金

* 石橋忍月の「惟任日向守」をやっと初校し終えた。忍月は第一高等学校の在学中に既に非凡を認められる評論・批評を以て世に立っていた。帝大在学中には 幾つかの好評作を出し、小説家としても安定した地位を確保していた。いま彼の批評や小説を多く読み返すことはなかなか難しいけれど、その中で、逆賊光秀の ために万斛の熱涙をふるい衷心からその「人と一族」の美を称え評した小説は、ひとり忍月小説中の傑作であるのみか、明治歴史小説の名作に伍して優なるもの と称賛されている、一代の代表作のひとつである。
 こんなに熱の籠もった光秀論にはお目に掛かったことはないが、瞠目に値する力作で、その声高であることもあまり邪魔になっていないのが、文学として、有 り難い。
「ペン電子文藝館」に招待を思い立ってから、此処までに、だが、びっくりするほど長い日数を要した。起稿も校正も容易でなかった。読み泥んだのではない。 したたかに読まされたがルビの多く必要なのには参った。

* 三宅花圃の「藪の鶯」第一回も入稿。

* さ、これでまた、すでに選んである多くの新たな「招待」作品に取り組める。まずプリントしなくては成らない。雑にやるとスキャンに往生し、スキャンが 綺麗に行ってないと校正は惨憺たる難行になる。プリントは、仕方なく妻が入念の助力に頼っている。

* 現会員の自選短歌を読んだ。念入りに校正して欲しいと伝えてあるが、やはり気になり読み進んでゆくと、たかだか百あまりの作中に、誤植かと思しき二三 が目に入る。この心労にが省かれればどんなに助かることか。

* なんだか、へとへと。

* 昨日の「丹波」の風景が、明るく静かに、澄み切った輪郭を保って眼に蘇ってくるのが嬉しい。ながいあいだ、わたしはあそこを底知れず陰気にばかりイ メージしてきたが、そんな印象をぬぐい取るように、きのう妻と歩んできた村道や山道や古社の境内や石段がわたしは懐かしい。あの美しいかぎりの、静かさ。

* 北朝鮮のことや、日米政府の対応や、拉致被害家族のニュースや。みんな、私たちの気持ちを重く塞いでくる。

* 秦さん、お元気ですか。わたしは、秋の花粉にあまり反応せず、ほっとしています。これなら、気にせず外出できます。
 先日、ビデオに録画しておいた「北の国から 遺言」を観ました、ほとんど泣きどおしで。
 今回は特に、消費社会への批判が濃くあったなと感じました。廃材を集めて家を建て、賞味期限切れのお弁当をこっそり持って帰り、人糞発電まで試みていま したね。
 今の日本は、個人消費が冷え込んでいると言われますが、今までが消費しすぎだったのだと思います。これくらいで丁度いいのです、いや、相変わらず盛況し ている高級装飾品店のニュースを見ますと、まだまだ、です。
 地球環境のことを念頭に置いたら、物を大切に使おうと考えるのが自然で、個人消費を促して景気を回復させようというのは、ズレている気がします。物を大 切にして、リサイクルもうんとして、それで回る経済を、これからは模索していかなければならない、というのは、素人考えでしょうか。
 1970年代後半に活躍したイギリスのパンクロックバンドに、セックスピストルズがいます。彼らの曲、「アナーキー・イン・ザ・U.K.」を、当時のイ ギリスの世相と絡めて紹介した番組がありました。数字をきいてびっくりしたのは、若年層の失業率の15%を超えていたことです。大不況だったのですね。イ ギリスではじまったパンクロックムーヴメントは、若者の怒りであったという説明に、納得しました。あのすさまじくロックンロールスピリットに溢れた曲は、 そういう時代に生まれたのかと。
 「ブラス!」という、イギリスの映画を観たことがあります。舞台は80年代、サッチャー首相による改革の嵐吹き荒れる中、閉鎖の危機に瀕した、とある炭 坑のブラスバンド部の話です。全編をとおして物語を覆っている経済的な困窮は、救い難く、今日の日本を観ているようでした。
 炭坑の閉鎖により、坑夫たちは失業しますが、既に予選を通過していたので、ブラスバンドの全国大会へ出場します。炭坑と年月を共にしてきた、伝統ある部 の誇りをかけて。見事優勝するという映画的な結末は、しかし、彼らの状況を変えるものではありませんでした。肺を病みながら指揮をとったリーダーの、壇上 でのスピーチは、大きな経済を守るため、その基礎である小さな経済をばったばったと切り捨ててゆく政治を、静かに、整然と批判して、素晴らしかったです。 小泉首相に聴かせてやりたいほどでした。
 二、三年前、イギリスは好景気だと言われていました。映画に描かれていたあの不況から、どうやって抜け出したのでしょうか。
 わたしの英会話の先生は、イギリス人で、日本人女性と結婚しています。その奥さんによりますと、出逢った頃、先生は服をあまり持っていなかったそうで す。また、イギリスの粗食は有名ですが、外食もあまりしないそうで、イギリスで外食するとなると、先生の家族の女性たちは、美容院で髪をセットしてくるそ うです。それほど気合いの入ることなんですね。ちなみに、この先生は、ノートを、一番上の欄外から使っています。
 もし、贅沢をしない人たちの国が好景気なら、その経済を、日本は真似できないのだろうかと、目下、イギリスの経済に興味津々です。
 秦さん、お忙しいお体、ご無理だけはなさらないで下さいね。

* 群馬の遠くから、シャープな佳い便りである。一方で金を使えといいながら、一方でそれがとりかえしのつかない環境破壊を加速しているとしたら、滑稽な 話だと、わたしも思っている。ひどい混乱と撞着と矛盾とが渦巻きながら、失業と不景気と、そのくせ小さな贅沢とは同居している、都市生活。何処に不景気な んてあるのか知らんと思わせる都会の表情も、少し注意深くみると、どすぐろく疲労している。疲労の中で、なにを人は病んでゆくか。精神である。いたまし い。

* 菩提寺で、若い新住職に、「心は、頼れますか」と尋ねたら、じっとわたしの顔を見ていたが、「いいえ」という端的な答えであった。その先まで聴きた かったが、これは聴いても話にならない、じぶんでもっと考えるしかない。「心はたいせつです、頼らねば成りません」と言われていたら、わたしは途方に暮れ たろう。

* 百まで、きっと。  今にして思えば、第一子の私に対して、父は良き父であらんと思い、また、母は良き母であろうと願い、それぞれに、心を砕き、時間 を裂いて、行動に移してくれました。
 ありがたいこと。ですが、夫婦としては、愛しあっておらず、ぎくしゃくした数年を過ごした後、父と母になったことで、互いにほっとしたのではないかと思 うのです。そんな夫婦の間で、取るべき位置、態度、行動など、無意識のうちに考え、怯え、憶病になり、つい、はしゃいで、失敗する。
 その繰り返しは、今も変わらず、「あぁ、まただァ!」と天を仰ぐのです。

* この告白はとても重く真率で、無垢。こういう例はだが無数にあることにより、ますます世の中をつらいものにしている。


* 十月十九日 土

* とうとう「モンテクリスト伯」全七巻を、夜前、寝入る前に読み終えた。第七巻の集結部への盛り上げは、デュマという作家の才能を十分に感じさせる、大 きな、真率な、大胆な展開であった。メルセデスと最後に別れて、モンテクリスト島でマクシミリヤンにヴァランティーヌを引き合わせ、エデとの愛を確認し て、幸せの内にフランスから永遠に去ってゆくエドモン・ダンテス。
 待て、しかして希望せよ。
「モンテクリスト伯」はこれで少なくも数度目を読み、じつに細部に至るまで記憶していて、曽遊の地を逍遙するようでありながら、感銘は新鮮で喜び大きく、 一つ一つの記憶を確かめ確かめするつど、読書の喜びとともに長く生きてきたことをも喜び思う気持ちがわき上がった。
 名場面、印象的な場面を無数に象嵌した物語であり、加えて大きな戯曲家でもあったデュマの趣向の、構築と変幻とに、こころよく揺られて旅をした。モンテ クリスト伯はさながらに神の如き超能力を得ていて、源泉はあの牢獄の底で出逢ったファリア法師に在る。シャトーディフを訪れて、恩人であり第二の父である ファリア法師渾身懸命の遺作・遺著を牢屋番から受け取るダンテスの感慨。思わず泣けた。少年の昔にまざまざと実感をもってわたしは帰っていた。ありがたい 読書を果たして、さあ、もう何度これを読むだろうかと、前途を思ったりした。

* あの「丹波」と「モンテクリスト伯」と。はからずも、太い深い己が根をさぐりえた昨日一昨日のことを、大事に感じている。
 くさくさしたことを忘れたい人は、なんだバカバカしいと思わず、またせかせかと読み急がずに、その場その場を堪能しながら、デュマの思索や思想にも挨拶 しながらこの大長編を読まれるよう勧めたい。読んでいる間は他のウンザリなことは忘れているようにと、も。動機は復讐心の強烈さにあるが、収束は愛と希望 とに在る。とても朗らかな天地へと開かれて物語は遙かに去ってゆく。復讐は無比に厳しいが、後味は美しいと謂えて、とても佳いのである。

* 息子が、そう、まだわたしと一緒に風呂に漬かるぐらいな年齢であった。ある日、彼は、浴室で、それはもういろんなことをわたしに向かい喋りだした。
 そのなかで急に、唐突に、「お父さん、此の世ってね、墓場に入る待合室なんだからね」と言い放ったものだ、わたしは驚嘆し、幼い息子は上機嫌で笑い飛ば していた。
 たぶん「モンテクリスト伯」に触れて飛び出した警句であった、彼は確かに、その少し前、家にある新潮社全集上下版の「モンテクリスト伯」を読んでいた。 だが、わたしはそんな言葉を記憶していなかった、彼の口から出任せではないかと疑い、それにしては気の利いた、と言うより、ものおそろしい警句であるなと 呆れたのである。
 以来、記憶にこびりついていた。何がさて、「モンテクリスト伯」になら有りそうな警句だと思うのだ、が、その後もしかと見つけられなかった。今回読み始 めたときにも思い出し、頭の片隅にずうっと置いていた。
 それを、今度こそ見つけた、と思うのである。
 文庫本の第五冊190頁の始めで、「やあれやれ!」と、ボーシャンという男が言っている。
 「人生そもそもなにものなんだ? たかが死の控え室での、足がかりといったところじゃないか。」 
 これは、
 「お父さん、此の世ってね、墓場に入る待合室なんだからね」の方が、翻訳としても気が利いている。
 果たして此の箇所に拠った建日子クンのおしゃべりであったか、いやもうまるで別ごとであったのか、そもそも、本当に息子はそんな風に言った・または言え たのか、なにしろ同じ一つ屋根の下の同じ浴槽につかっていた時なのは確かであり、その幼さとこの言句とには、釣り合ったリアリティーを納得しにくいのだ が、わたしの「記憶」は確かなものとして、ずいぶん久しく覚えこまれていた。で、念のため息子に聞いてみると、全く彼は覚えていないと言う、さもあろう。
 なににしても、しかし、久しい胸のつかえの一つを下ろした気がする。そしてこの、「死」ないし「「墓場」への「控え室」というよりも「待合室」という、 くだけた言葉での「人生」ないし「此の世」解釈は、(残念ながら、デュマによる地の文でも、モンテクリスト伯その人の言葉でなくて、一人の若い皮肉な伊達 男の警句ではあるけれど、歳のせいで、あの頃よりもひとしお身にしみ、胸に落ちる。

* さてまあ、その「待合室風景」の一つと言えようか、高校(東京)同窓会というのが、今日慶應プラザの高い高い所であった。だが残念ながらこういう催し に今のわたしは心を惹かれない。
 それより先に、橋田先生や、石本正氏から案内されていた、上野での「創画展」を観てきた。上村松篁亡く、秋野不矩も亡い。石本さんの絵はモナリザを意識 されたか、または本尊画のようにして、遠い山水を背景に半裸婦が真正面に大きく描かれていた。わるくはないが、いつもの絵でもあった。橋田さんの絵は品格 ある草花の絵であるが、去年のよりおとなしく少し力よわい感じを受けた。わずか二、三、目に留まる作品があっただけで、例の如く、凡庸に騒がしい絵ばかり の並んだ雑駁な展覧会であった。

* 帰りは雨にふられ、保谷駅で数十分並んでタクシーに乗った。そのあいだ、鞄に入れていた小林篤司著樺太での「ソ連市民」たりし二年間を、読んでいた。

* 帰ってからは、植村正久の「宗教と文学」という一文をスキャンし校正して、メールで入稿した。

* 昨日にはもう次の「湖の本」が組み上がってきた。
 そして今日は、これは大きな一の区切りであり、ゴールインなのであるが、「小学館版日本古典文学全集」第一・二期を通して「全八十八巻」が、最期の『日 本漢詩集』をもって、遂に完結し配本完了した。
 配本とはいうが、全巻を小学館の厚意で寄贈してもらったのであり、こんな有り難いことはない。大きな立派な本が八十八巻揃った嬉しさだけではないのだ、 じつにわたしはこれらを、多く、良く、読んだ、読んでこれた。それが嬉しく有り難い。毎月一巻としても七年の余を経てきた。小学館からは、この前の、小型 版の古典全集も戴いていた。筆舌に尽くせない恩恵であり厚意である。
 感謝は、「読んで」示すしかなく、さらに願わくは、得たものが肥やしになりべつの新たな仕事へ流れ込んでゆくと良い。どうすれば、それが可能になるか。 答は、道は、比較的よくわたしにも見えている。あまりにせわしい人生の二学期を、いやいやもはや正月冬休みを「終了」してしまうことだ。三学期に静かに踏 み入ることだ。


* 十月二十日 日

* いきなりですみません。まごまごしているうちに着いてしまいまして。「・・お酒じゃぁなあ」と呟いたら、こうなりました。ご笑納ください。
『丹波』へ行かれて、ほんとによかったですね。『コワーイ気持』も少しわかる気がします。秦さんが何をおっしゃるか楽しみです。大切な大切な『丹波』です ものね。
 私の(戦時)疎開は『湯河原』ですが、よく憶えていません。いやなことばかりだったので、脳味噌が、ひとりでに消したがっているのかもしれません。裏の みかん山に登って、軍用列車がトンネルに吸い込まれて行くのを独りで見ていました。木の窓は全部閉まっていました。
 さらさらと秋がいそいでいるような気がします。くれぐれもお大事に。

* コシヒカリをたっぷり頂戴した。お礼を申し上げたお返事が上のメールで、わたしは、此処にもいわば「メール文藝」の一例がみえると、感嘆久しうした。 段落ごとに一行アキがあるから、もっと詩的に美しく読めるのを、わたしの勝手な便宜でつめているが、どのセンテンスひとつをとってもこの「chiba e-old」さんの文藝のナミでないしなやかさが見えている。
「 私の(戦時)疎開は『湯河原』ですが、よく憶えていません。いやなことばかりだったので、脳味噌が、ひとりでに消したがっているのかもしれません。裏のみ かん山に登って、軍用列車がトンネルに吸い込まれて行くのを独りで見ていました。木の窓は全部閉まっていました。/ さらさらと秋がいそいでいるような気 がします。」
 愛誦に値する。

* 拉致された人の家族が永住帰国すれば、政府が生活を支援すると政府筋高官が言明したのはいいことだと思う。一時的に公務員に迎えることも出来る。二組 の夫妻が「日本人夫妻」として結婚届をし、パスポートも出て「日本人」として再確認されたのも、いい。北へ帰らず、政府間交渉で向こうの家族をも日本へと いう交渉が、ないし成人している子弟の自由な往来が保証される環境づくりが進むと良いように思う。拉致された当人達には、やはり日本に帰って欲しい気がす るが。
 もし北へ戻る・戻らざるを得ない事態が、一時的にもせよ進行するのなら、ピョンヤンに拉致された日本人家族安全保障の「連絡事務所」を政府は設置すべき ではないか。これだけの帰国事情の「北朝鮮型」反作用は、険悪であるおそれがあり、五人は北へ戻るとすぐさま検束され、厳重な訊問等で長期間苦しめられる オソレがある。それに対しては日本政府として責任有る保護の手を出さねばなるまい。
 日本はアケスケの報道垂れ流し国家であるから、それが良いとも言えるものの、五人の日本での逐一は北朝鮮で悉く把握しているに違いなく、その反動で、五 人が過酷に北朝鮮への忠誠を強要される悪しき事態も優に推量できる。せめても、せめても、そんな酷いことからは護ってあげないといけない。

* 小泉首相の交わしてきた共同宣言は、やがて空文化され一枚の反故紙になるだろうと、あの時にも予測して置いたが、核開発継続中という北朝鮮の居直りの 確認された今、はやくも予言は的中した。
 心情において拉致問題は重い、しかし、長期的いや短期的にも、より重苦しい懸念事項は北朝鮮の「核」その他有事にかかわる姿勢であり、そのチェックは瞬 時も怠っておれないと、やはり、小泉訪朝のときにわたしは指摘した。これが、まともに、現実に、難儀な問題として表に出てきた。核戦争でアメリカと張り 合ってみせるといった、金正日の愚かな盲目的暴発には、厳重警戒を必要とする。

* 小学館版八十八巻の古典文学全集完結に、昨日は興奮と感謝を禁じ得なかったが、今日、またずらりと玄関に並べた全巻構成をみていて、実は質問も受けて いるのだが、何んな巻がまだ欲しいか・抜けているか、つらつら考えてみて、これまでの気持ちを改めて追認した。
 まず、古今・新古今の間の勅撰集から「古代和歌集」抄録が欲しい。物語和歌は物語が完備されていて不要だが、後撰集から千載集までのせめて「勅撰和歌 集」の抄、また代表的な「家集」の集、つまり『古代和歌集』が一巻か二巻ぜひ欲しい。和歌はこの時代の「根」であり、多すぎるということは、ない。
 ついで『中世物語集』が一巻欲しい。改作ものの「とりかへばや物語」「住吉物語」また定家の「松浦宮物語」など代表的なのは揃ったが、見落とせない短編 物語の佳いのが、中世の前半に数多く残っている。
 近世に入ると、各界からいわゆる「随筆」が厖大に増えるが、その中から、たった四編で一巻だけが提供されている。しかし、もう少なくも二巻分ほど『近世 随筆集』を補強して貰いたかった。
 またせめて鶴屋南北・河竹黙阿弥を中軸とした『歌舞伎狂言集』が、既刊の「浄瑠璃集」と並んで欲しい。
 もう一巻、柳亭種彦の『にせむらさき』を入れて置いて欲しかった。馬琴の「近世説美少年録」三巻は、ま、感謝に値するが、出来映えからすると、『椿説弓 張月』か、ことに『南総里見八犬伝』という真の代表作のどっちか一つも入れて貰えていたら、大サービスであったのにと思う。
 最後に、学問の要請からすれば、『総索引』が出来れば、この全集の真価は、倍増といってもきかないほどになろう。

* 水上瀧太郎「山の手の子」の校正を始めた。スキャンをペンの事務局に頼んで置いたもの。続いて原民喜「夏の花」を。

* 来週も四日間外へ出て行く。今年のインフルエンザが恐ろしいと報道している。風邪は大の嫌い。気圧が低いのだろうか、ふうっと時々息が詰まるような感 じ。喘息持ちではないがときどきかるく息が詰まる。そういうときは天候が良くない。書庫へはいると冷えるようになった。季節は確実に動いている。足の踏み 場にこまるほど本が書架から溢れている。一度書庫にはいると、ああこんなのがあった、読みたい、読みたいとなって際限がない。
 今日はヘーゲルの「美学」に誘惑された。だめだめと呟いて押し込むように元の書架へ。就寝前の枕元には本が増える一方である。


* 十月二十一日 月

* おかえりなさい 京都はいかがでしたか? 比叡の山もうっすらと秋の色がつき始めていたのでしょうか。
 洛北岩倉三宅町に三年暮らしました。秋は彼岸花が野辺に燃えて、三宅八幡のお祭りを楽しんだものです。
 隣の家に、連休に空き巣が入りました。ご夫婦でカナダに行った間のことでした。隣にいて、まったく気づかなかったのがショックで。日曜日にセコムをつけ ます。お二人でお出かけのことがありますから、ご用心ください。まさかホームページを読んでお留守を知って・・・ と言うことはありえないと思いますが、 この世の中物騒なことだらけ。十分お気をつけください。在宅のときに賊に入られるのも気持ち悪いですね・・・。

* セコムの工事と一緒にADSL接続 成功しました!  初めのうち、どうにもわからなくて、電話サービスに相談してもうまくいかず、結局AOLのサー ビスに聞いたところ、送付されてきたCD−ROMを入れればすぐ接続できるとのこと。そのとおりにしたら、難なく出来ました。格闘すること五時間あまりで した・・・。
 確かにホームページの検索がすばやく出来ますし、「電子文藝館」を何十分訪れていても、接続時間を気にする必要がなくなりました。遅ればせながらこれか らが楽しみです。
 セコムの工事も、朝の九時半から夕方五時半までかかりました。大の男が物も言わずに二人がかりで動きっぱなしの大工事でした。セコムをセットすると、窓 から入る風の中でまどろむこともできなくなります。物騒な住宅地になってしまいました。
 母たちが自分の住まいに引き揚げたあと、新しいセコムの機械の上に、何か忘れ物があると思って、見ると、小さな「ばった」さんでした。そっとつまんで、 霧雨の闇の中に返してあげました。
 ともかく今夜からは安心してぐっすり眠れます。明日の朝、お寝坊しないように少し早く休むことにします。

* よそ様の暮らしを覗き込ませてもらっているようなメールだが、実感豊かでおもしろい。先日帰省帰国した卒業生の、はるかスペインからのメールも届いて いる。八ヶ岳体験がおもしろい。

* 帰って来ました、バルセロナに。  今回の日本滞在は、色々な意味で、重いものとなりました。
 一つは、恒平さんとの再会。お逢いした後、私はずしーんと落ち込みました。疲れて褪せていた自分を認識させられたからだと思います。(通訳しながらの) 夫と三人の食事が難しい状況を招いたとしても(夫に逢っていただけたのはとても嬉しかったのですが)、それ以上に今回の私は、何も話せずに終わりました。
 興味深い話題は本当にいくらでもあったのに、ここ数ヶ月、日常の疲れにまみれていた私は、そのおもしろさすら忘れかけていたのでしょうか、何も口を衝い て出て来ませんでした。
 半年を経過した義理の両親との生活には心底疲れていました。でも疲れる理由は、実はいくらでもあるものです。そして、これからも絶え間なく出てくるで しょう。疲れているという立派な言訳と伴に終わってゆく人生が、どんなに多いことか。かなたの夢と今の無能さをひしひしと感じて、あの日私は恒平さんと別 れたのでした。
 ここでちょっと「山」の話を。
 お逢いした翌週、八ヶ岳をたずねました。「八ヶ岳」はその響きがとても好きで、いつか必ず登りたかった山の一つでした。
 予定では、朝六時三七分一番早い千葉発の特急「あずさ」に乗り、茅野10時前到着。10時25分の諏訪バスに乗れば、遅くとも11時半には登山口であ る、美濃戸口から登り始めているはずでした。それがお茶の水駅の信号故障により、各駅電車でも70分で着く新宿に、70分遅れで到着。新宿からも高尾まで 各駅電車の後を走らなくてはならず、茅野到着は100分遅れ、結局美濃戸口に着いたのは13時すぎでした。
 山に昼過ぎに着いた上、雨も強くなり、かっぱを来て登山者データを記入した私たちは、本当にいそいそと出発しました。実はこれが間違いのもとでした。
 私たちが目差していたのは、赤岳でした。赤岳の頂上小屋に泊まれれば願ったり、無理なら手前の行者小屋に宿泊する予定でした。
 出発時一つの標識に「阿弥陀岳  赤岳」とあるのを見て、赤岳方面への道がいくつかあるのを知っていたにもかかわらず、いずれ両方面への分岐点に着くだろうと、よく確認もせずその方角に向 かったのです。
 おかしいと思ったのは、しばらく登ってから。本の説明と違い、かなり急な尾根道続きなのです。それでももう私たちはかなり山の上の方にいましたから、そ のまま登り続けることにしました。ところが上に行くに連れ、雨がみぞれに、みぞれが雪になり、霧が出て来たのです。山頂が遠くに見え始め、あそこさえ超え れば、行者小屋に下る道があるのはわかっていました。戻ることも考えましたが、それもかえって危険でした。
 山で、それも山頂付近で霧が出たときの怖さはよく聞いていました。急な尾根道をずんずん登る鼓動より、恐怖の鼓動が心臓を支配しました。私は山頂ばかり に目がゆき、霧で遮られてゆく前方に、霧の向こうに浮かんだ尾根の険しさに、そして頂の遠さに戦きました。しかし、降りしきる雪に、落ち着きを保っていた 夫の手が凍り始めると、私にも不思議と勇気が湧き、後は私が先導することになりました。
 「助かった、あとは何とかなる」と思ったのは、阿弥陀岳山頂に登り詰め、赤岳方面と行者小屋方面の二つの標識を見つけたとき。行者小屋方面をしかと確認 し、雪の中慎重に下りだしました。
 行者小屋に着いたのは16時20分。出発してから3時間10分が経過していました。かっぱからはみ出た前髪はばりばりに凍り付き、夫の手は魂を失ったよ うに、血が通っていませんでした。
 私はストーブの前に張り付き、興奮と寒さで震えていた心身に落ち着きが戻るまで、じっと座っていました。外は闇、一段と強くなった雨の音が、屋根を叩い ていました。
 前日の予報に違わず、翌日は天気も回復したので、私たちは赤岳頂上のすぐ手前まで登りました。山頂は濃い霧に包まれていたため諦めましたが、そのすぐ横 に聳える阿弥陀岳はくっきり拝め、その尾根線の険しさをしかと目に収めました。そして、霧の晴れた横岳、硫黄岳を縦走してから、美濃戸口に下りることに決 めました。赤岳から横岳、硫黄岳と続く白い尾根線を見渡すと、昨日の恐怖が思い出されました。行く道行く道、その恐怖を吐き出すがごとく、険しい山頂の威 圧感を話すと、夫はこう言いました。
 遥か彼方を見ないで、目の前の道を見れば恐くない。ほら、道は続いている。山は、山頂がいかに遠いか困難かを考えていると登れないけれど、目の前にある 道を一歩一歩着実に踏み進んでいたら、いつのまにか山頂に着いている。そういうものだよ、と。
 確かに、遠くを見ると道がすっと消え、とてもたどり着けそうにないけれど、目の前を見ると、道が見えてくる。一歩が踏み出せる。そして一歩を踏み出せ ば、またそこから一歩が踏み出せる。
 何でもそうだよね。芸術家になりたい、作家になりたい。そう考えても、気が遠くなるばかりで、何をしていいのか分からない。良いものができないからと何 もしなければ、何にもならない。こつこつと作品をつくり、物を書き、気がつくと評価されていて、気がつくとプロ、成功者と言われている、そういうものでは ないかな。そして頂上にたどり着いたその本人ですら、その頂上の高さに驚き、今からその道をもう一度登れと言われてもとてもできない、と感じることの方が 多いのではないかな。
 登山にたとえた話は今までも聞いたことがあったけれど、今回ほどそれが身に染みたことはありませんでした。恒平さんに逢ってからの胸のしこりも消え、山 を降りるときは、久しぶりに晴れやかな気分でした。
 無茶をしたといえばそれまでで、人に進んで語れる話ではないのですが、これは是非、話しておきたかったことです。

* 「山」にことよせて何かを告げている。いや自分自身に納得させている、ようだ。むりに分かろうとは思わないが、なにかしらモノは見えている。
 それにしても、山、無事でよかった、よかった。
 通訳してもらいながらの食事、わたしは、特別疲れはしなかったが、彼女は大わらわであったのかも知れず、いやいくらか放心していたのかも知れない。お疲 れさんでした。足元を見て、歩一歩。佳いスペインの家庭人になるか、どうか、これからが決めるだろう。まだ三十にも手が届いていない。若さが豊かな財産で あることを忘れずに、元気に生きて欲しい。


* 十月二十一日 つづき

* 国会の鳩山民主党代表の質問演説は要点を尽くしていたが、小泉首相は答えるのでも応えるのでもなく、ただもう用意されたモノを読んでいた。議論する気 などありはしない。

* 拉致被害者たちの家族(子供・出来れば米人の夫)も、急遽政府間折衝でなんとか日本にこの際迎え取って、若い眼に「日本」をよく見せ、その上で、親 子・夫婦して永住帰国を「判断」してもらうのでなければなるまい。本人の「自主的な判断」など、牢獄なみの北朝鮮に帰ってからでは、絶対できっこない。ア メリカが、ここは大きな判断で、曽我ひとみさんの夫の日本国への移転を容認し、逮捕等の訴追を見合わせてくれれば、他の二家族は純然親子共に「日本人」な のだから、帰国こそ自然で当然だと思う。子供達の面倒は、丁寧に日本人同胞がみてゆくべきだし、大人達には外務省系統の政府職員として働いて貰える道があ るだろう。それぐらいは出来そうな人達に思われる。
 なにしろ、ここでおめおめとまた北朝鮮に人質を取り込ませておいて、国交の正常化交渉に入るといったバカ正直はやめてもらいたい。外交上そんなお人好し を演じていては、あの人達の「二度目の帰国」は絶望に成るだろう。北朝鮮流の「事故」は、あっというまに起きる。だいいち、親や親族友人達の気持ち、日本 人同士の気持ちとしても、ここで、小泉政府の面子のようなもののために、やっと手と手で触れあえた肉親や友人を、なんのために無法な国へ送り返すのか、こ れは堪らない。

* 宮本百合子の「刻々」は、小林多喜二の作品とも並んで、戦前・戦時下の日本の思想弾圧がどんなにもの凄いモノであったかを、手に取るように証言してい る。長い作品のとりあえずその「一」だけを、プリントし、スキャンした。もう一人、歌人土田耕平の大正十一年の処女歌集「青杉」全編をスキャンした。ム ローヴァのバイオリン・ディスクを一枚聴いている間にスキャン出来た。音楽を聴いていると、無味乾燥な機械の操作中も心穏やかに楽しんでおれる。

* あすで歯医者が済むだろう、前の治療後に思いがけず砕けた歯の一本が、入れ歯になった。これで今回は都合五本、昔むかしに一本入っているから、なんと 六本の入れ歯である。ほかに冠をかぶったヤツが何本かある。歯一本傷むと十万円かかる勘定で、ま、とんだことであったが、それだけの分、きっと齢がのびる というのであろう。やれやれ有り難いことである。

* 明日夕過ぎてから、唐津焼の「西岡小十と八人の会」のレセプションがある。世話人の一人が石川県鶴来の銘酒「万歳楽」醸造元の小堀甚九郎翁で、「湖の 本」の久しい読者。この人が会に顔を出してくれと声を掛けてきた。賛助出品の八人の中には、茶杓削りで名高い西山松之助老先生も有れば、茶碗を自作する細 川護煕氏も藪内の家元も加わっている。西岡老人は茶碗が佳い。唐津のごつい水指や花生けがそうは好きになれないが、この人の井戸や朝鮮唐津の茶碗には品格 が感じられ、ま、高くて百五十万円ほどの売値は、それぞれ三分の二か半額が良心的なところだろうが、ま、三越だから、上乗せ分がキツイのは仕方ないか。
 鶴来から出て見える小堀さんや、西山さんの顔を見に行こうと思っている。

* 観世栄夫さんが、「卒塔婆小町」を舞うので観に来るようにと、今日招待券が届いた。有り難い。御大の野村萬が、子方と共演の狂言も楽しみ。
 これに少し先立って、十一月三日には、当代一の人気役者、実力もなみなみならぬ友枝昭世の「羽衣」があり、この会では子息が「道成寺」を披くというオマ ケもある。これも昭世さんからいつものように招かれている。氏は、おまけに「湖の本」も支援してくれている。忝ない。
 堀上謙氏らのやっている「新・能楽ジャーナル」に、もう能は「観るだけでよい」能に関してとやかく「書く」のはヤーメたと書いたのが、暫く前だ。和泉元 弥らの事件で、なんだかの会が、なんだか彼に対し「退会命令」を決議したとか、今日報じられた。退会命令とはものものしくややこしい。除名なら分かりやす いが、能・狂言の役者が、いつのまにかエライことをやり合うモノだと、そんなこんなで、つくづくイヤになった。
 観世栄夫と友枝昭世と梅若万三郎、選り抜きのこれだけの人から、念に一度二度観においでと呼んでもらえるなら、十分、十分。なんで、それ以上の欲がある ものか、十分有り難い。

* もともとわたしには、縁故とかヒキとかいうものはない。京の新門前の小さな電器屋の息子に、名士も顔役も縁は無かった。いま、わたしに声を掛けて下さ る大勢の人の有るのは、有り難い事であるが、一つにはわたしのいわば「はたらき」の内であり、それ無くてはあり得ない。だから、べつだん厚かましいとも思 わず、知己の厚意や厚情を心から感謝しつつ喜んで悠々と受け容れている。気持ちよく頂戴している。卑しくてしているのではない、嬉しく戴いているのであ る。
 

* 十月二十二日 火

* よく晴れた。

* 秦の母に「折檻」される夢を見た。異様に半身が痛かった。起きて、見ると棚に置いた位牌が歪んでいた。黒いマゴが跳び上がって供えた水を呑むのだ、だ が、そんなことのセイにしてはいけないか。日頃、ロクなことをしていないからなあ。

* 強力な政府間折衝で、当事者も国民も胸のかるくなるような拉致問題の良いコムマを打って貰わないと、日ごとに新たなプレッシャーが増してくる。

* 『モンテ・クリスト伯』読書記?でしょうか、拝見しながら、わたくしの〈モンテ・クリスト伯〉は何か、いや、〈モンテ・クリスト伯〉を持っているか、 と、かんがえてしまいました。
 こんなふうに読んだ作品をわたくしは持っているか。おとなになってからのそれは、なくはない。でも、先生ほどに熱く読んではいない。まして、子供のとき から続けてとなると、ない、というしかありません。
 いま、何度目かの『一言芳談』を読んでいます。齋藤史先生の
   さびしくて今宵雪のそそぐを聞く とうとひびきて打たむ鼓(こ)もあれ
に逢ったとき、あ、これは『一言芳談』にある、比叡の社でなま女房が「ていとう ていとう」と鼓を打って、「とてもかくても候。なうなう」と言ったという、その鼓。とおもいました。
 史先生のこのうたについて書きたいとおもいまして、もう一度と、あちこち、拾い読みに読んでおります。
   往生は一念にもよらず。多念にもよらず。心によるなり。
 お寺さんに「心は、頼れますか」と問われたお心をかんがえております。

* 一言芳談とは、なつかしい。この「なま女房」のはなしは印象に濃い。「心によるなり」とは、心にどう振り回されず生きてきたか・これたかに依るという ことであろう、か。


* 十月二十二日 つづき

* 三越本店での「西岡小十と八人展」は、唐津の小十を中心に、長唄の今藤長十郎、学者の西山松之助、元総理の細川護煕、画家の小杉某、徳禅寺の住職とか 藪内の家元とか、要するに「けっこう」な遊び人たちが、、絵付けしたり何をしたりの賛助出品。こういう組み立ての会は、お遊びとしてあちこちでよくやって いて、ほんとに「けっこう」な人達である。
 小十の作品は、朝鮮唐津や粉引などの茶碗が格高く、絵唐津や井戸はボテッと重く、気に入らなかった。もともと、わたしは、重くて分厚い日本の土ものが、 さして好きでない。ま、小十といえども最良とは思わない。だから見え透いたお世辞たらだらの画商や坊さんやフアンの長い挨拶には閉口した。タネのいい寿司 をちょこちょこっと戴いておいて、さっと引き揚げた。展覧会だけで帰ろうとしたが、万歳楽の会長がどうでもレセプションまでいてくださいよと引き留めた。 引き留められた御陰か、お土産に小十作のゴッツイ鯛の箸置きを一対貰った。これは佳い。
 日本の国は平和で暢気である。細川元総理の暢気なこと、ともあれ世界中を飛び回っているカーター元大統領とはえらい違い。どっちがエライかは分からない が。

* 久米宏のニュース・ステーションが、アメリカからの司法長官と日本の前の国家公安委員長の会見を報じていた。拉致被害者の曽我ひとみさんの米人ハズバ ンドに関する意見交換であろうか。このケースだけでも、何らか「善処」可能になると、この際強硬に五人と家族の帰国が実現出来ると思うのだが。
 正常化交渉の直前に、もう一度おめおめ五人を帰してしまえば、恰好の人質外交で北朝鮮はイチビルだろう。わたしの妻は言う、「誘拐犯=テロリストの手 に、一度取り戻した人質をまた送り返すバカがありますか」と。仰せの通りです、ヒヤヒヤ。世界の嗤いものになること必至。犯罪行為を介しての脅迫的な「約 束」など、日本は反故にしてもいいのである。少なくも引き延ばしに引き延ばしつつ、別途に政府間交渉し、同時に拉致問題を今一度も二度も新たな視野のもと に国際的世論に訴え、北朝鮮を外交的に追いつめていったらどうか。
 本人の意向以上に、国内で、多年粘りに粘ってやっと此処まで頑張ってきた親きょうだい家族や友人達の気持ちを考えると、ムザと五人を向こうへ送り返すな んて、考えにくい。子供達のことは、それこそ外交ルートで強硬にとりもどすことを考えてよろしく、唯一のネックは、曽我さんの米人夫。常日頃卑屈なほどア メリカに協力してきた日本だ、一度ぐらい、こちらの事情に協力させたらどうか。

* 核問題などを軽く見るどころか、何よりこの際、重いことに思う。思うなればこそ、この際、拉致問題で、負担をさらに負うべきではない。少なくもこの五 人と家族はきちっと先ず取り返すべきだろう。「拉致」は国家の犯罪行為で、本来「交渉」なんかの議題でなく、犯罪訴追の案件に相当していると、北朝鮮のば かげた要請は突っぱねて欲しい。
 横田めぐみさんの娘のことは、日本人の母親がもういなくて、父親が朝鮮人では、どう処理できるか、わたしには判断はつかない。とにかく目の離せないこと ばかりだ。


* 十月二十三日 水

* 齋藤史先生の最後の「てがみ」をご紹介させてくださいませ。
 逝かれたあと、ご長女の章子さまが見つけられたそうで、詩の中にある〈みんな〉とは「おせわになった全ての方と解釈して」お伝えくださったもので、たぶ ん、一般の雑誌などには、まだ、載せられてないとおもいます。

    てがみ  齋藤 史

  明日 わたしは 鳥になり
  あなたのそばから 飛んでゆきます
  わたしの いつも 居たところ
  茶の間のあかり 消えるでしよう
 
  あした わたしは 風になり
  空の向こうへ 帰つてゆきます
  雲の間を 駆けながら
  星のことばを 聞くでしよう
 
  いつも わたしは 何処かにいて
  みんなのことを 思つています
  花や水やが きらめいたら
  それは わたしの てがみです

 史先生の第一歌集『魚歌』の第一首目は、
  白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう
 でした。
 偶然であろうはずはない、と、おもいました。詩人としての幕を、みごとにひかれた、と、おもいました。

* 少なくも昭和以降の日本の詩人(歌人俳人詩人)のなかで、最も優れた、卓越したお一人であった齋藤史さんのこれは「辞世」の「てがみ」であり、わたし の占有していいモノとは思わない。わたしは齋藤さんを歌人と呼ばず、この人に限って「詩人」と言いてきた。その詩人「史」の最期を告げる「詩」である。頭 をたれて聴き入っている。
 少女期、二二六事件の渦に家ごと深くまきこまれ、そしていまや歴史的と評価できる処女歌集が生まれた。その巻頭作に呼応して、高齢を生きた齋藤さんのう ちなる「乙女」のことばが素直に流露している。

* いつも「湖の本」を読んだり、ホームページの「闇に言い置く=私語の刻」を読んだときに、いろんなことを想います。メールを書こうとしてキィを叩きは じめると、想いの漠然としていることに気づきます。文にするには、「把握の強さ」がないとダメなんですね。
  でも、想っている。アラブの戦争のこと、アメリカのこと、日本の全体主義に向かっているように見えること、柳美里さんの判決のこと、芝居のこと、映画のこ と、そして、書くこと。少しでも、言葉にできたら、と想っています。
 先日の「私語の刻」、バルセロナの女性の、山のお話に共感を覚えました。わたしも、一歩一歩、足を前に出すだけです。
 NHKの「アクターズスタジオ・インタビュー」で、創作について何かアドバイスを、と言われたロバート・デニーロが、「言えることはひとつだけだ。他人 の望むものを、はじめから創れる人もいるが、自分のやっていることの他人に受け容れられるかが、心配で仕方のない人もいる。今はまだ失うものは何も無いの だから、自分の感性を信じて努力することだ。そうしてはじめて、人と違うものが創れるんだ」と言っていました。
 今書いているものに対して、これでいいのだろうか、と疑問を感じていたわたしは、涙が出るほど嬉しくなりました。
 日々、いろんな言葉に、勇気づけれられています。

* 拉致被害者をめぐる問題が、ますます困難の度合いを険悪にしてきた。朝からいろんな意見をテレビで聴いたが、難しいなあという心痛だけが沸騰し、考え はすこしも整わない。
 テレビのおかげというか、人の表情にいたるまで、ある面で微細なまで国民はモノゴトを共有出来る。日清・日露の昔にも「国民感情」は在ったけれど、不正 確情報や情報操作で、国民感情の表現も動きようも、あまりにアバウトであった。無方向に激発もした。大本営発表の頃も同じであった。
 今は、さすがに、政府首脳や省庁の責任者が何と言おうとも、それとは逸れた・逆さまの見解や情報も国民は簡単に入手できる。「国民感情」の質や密度は、 むろん相変わらずの床屋政談めく程度であろう水準であろうけれど、その問題やその事件に現に「参加」した気分で自分の声や言葉が出せている。ものを思った り言ったりが、はるかにしやすくなっている。ただ、その分、国中が一つの「劇場」化して、かえって事が微妙に狂ってゆくこともありうるのが、怖い。これは 用心していないとロクなことにならない。だが、それは怖いけれども、今日現在のこの「参加」可能な情況の方が、大本営発表だけに振り回されていた昔より、 何倍も良いのは間違いない。


* 十月二十三日 つづき

* 三省堂の新刊『からだ言葉 こころ言葉』が刊行され、見本が届いた。わたしの本の中では珍しい、簡易装本の親しみやすい本になっている。「からだ言葉」も「こころ言葉」もわたしの提 議し提唱した命名で、大事な問題提起になっていると思うが、この本は難しい議論の本でなく、すべて具体的な、誰にでも親しい日常の言葉に触れて、切り込ん でいる。わたしの読者にはもう二三十年前からのお馴染みの提唱だが、「からだ言葉」とは、「頭打ち」「顎を出す」「腹芸」「足が早い」「膝談判」「目に物 見せる」「お手の物」「爪弾き」等々の物言いであり、「こころ言葉」とは「心構え」「心根」心が騒ぐ」「心がける」「気は心」といった無数の物言いであ る。誰でも使い、誰にでも分かる。しかし、なぜにそれが日本人の日常生活に創出され定着しどんな意義を占めているかの認識はすすんでいない。

* 此処で一つ断っておくことがある。なかに、古典を材料に、具体的には和歌と歌謡を材料に「こころ言葉」を語り、俳諧と川柳を材料に「からだ言葉」を 語っている頁がある、その中に、
   身から出た錆は心の吹き出物  古川柳
とした一例があるが、申し訳ない、これだけは古川柳ではない、この私の創作である。「身」と「心」とが一つの作中によみこまれたものが欲しかった。うまく 見つからなくて、えいとばかり創ってしまった。こう書いてしまうと、古色に乏しいいかにも新作だが、ま、誤解を避けるため此処で断っておく。間違っても 「古川柳」として引用などされないように。

* 去年には山折哲雄氏との「対談」を出した。今年もまた一冊の著書が出来たのは喜ばしいが、正直の所、興奮するようなことは何もない。よかった。それだ けである。三省堂にはたいへんお世話になった。見た目はハンディな本だけれど、なかみはかなりのものと実は暗に自負している。

* 二時開演、昴公演のアーサー・ミラー作「転落」を、三百人劇場で観てきた。すこぶる面白くて、大満足。
 ちょっと簡単には言いかねるフクザツに出来たドラマだが、うまいのである、作劇が。演技者達も上等の芝居を見せていた。わずか六人の登場人物がしっかり 組み合い、葛藤する。いわば重婚の物語なのだが、開幕から展開を経て終幕までの動きに、途方もなくややこしくも厳しい議論が積み重ねられている。セリフ劇 である。だが単調にならない、出し入れの演出は巧妙で自然、快く観ていられる。流れはすこぶる自然に、美しいほどスムーズで、心地よく睡魔が誘いを掛けそ うなほど。
 ま、こんなことを言うてみたとて、何も伝わりはしない。観て感じるしかどうしようもない、それほど、つまり純然と「演劇」なのである。佳い演劇である。 アーサー・ミラーの作劇にわたしは脱帽し、1500円の台本を買ってきた。
 ここ何度か昴劇団は不調であったが、これで回復。これこそ新劇だと、嬉しかった。新劇の劇場で、舞台で、イージィな時代劇や現代風俗劇は願い下げにした い。俳優座も昴も、なんだか、競ってやすい時代物をこのところ見せたが、お手軽過ぎた。

* 有楽町へ出て、妻と小一時間お茶を飲み、妻だけ帰宅し、わたしは、約束の時間に、医学書院の向山肇夫君と小林謙作君を帝国ホテルで迎えた。小林君と は、1974年のわたしの退社以来であったが、そんな空白はお互いにほとんど問題にならなかった。長時間、三人で四方山の歓談、の、メインの話題は小林君 の父君の遺著復刊のお祝い。わたしはわたしの胸の内で、今日届いた見本の新刊の自祝。楽しい時間が持てた。
 小林君にもう一軒と誘われて、姉妹でやっているというカラオケのバアに寄った。歌は謡わなかった。ふくよかな姉ママが、親切に、ヤボな男三人の話題に付 き合ってくれた。店の名は「典子」と。
 小林君に池袋まで車で送られて、めずらしく遅い帰宅になった。
 
* 知るところではないが、小林君の話では、医学書院退社後、社内で、よほどいろいろ私の評判もあったそうな。気の毒に、私の真意など、あの頃、社内の誰 一人も、何も、知りも、分かりもしなかったであろう。あの頃のわたしには、ただ創作だけが有った。夢中であった。具体的には「みごもりの湖」と「墨牡丹」 があった。
 創作その他の文壇活動に打ち込むためには、会社の仕事上でうしろ指を差されてはならないから、ノルマはきっちり果たしていた。他のことは、勤務上のこと も人間関係も、まるきり関心がなかった。おっと思うほどの昇任人事が内示されても、むろん即座に断った。医学書院で地位を得たいなど、思ってもいなかった のだ、片腹痛く感じた人たちがいたかも知れない。
 噂などというのは、おもしろづくに下卑てゆくものだ、三昔近くもたっているが、今にしてお気の毒さまと思うばかり。


* 十月二十四日 木

* 宮本百合子の、昭和八年作、発表は戦後の二十六年という「刻々」冒頭の一章を起している。獄中記だ。百合子の一徹なリアリズム作品で、往年の思想弾圧 がいかなるものであったかの歴史的証言の一つである。言うまでもない百合子は十七歳で「貧しき人々の群」で文壇に出た。当時の中条百合子はいわば名家の令 嬢であったが、作品は徹して闘争的な人道主義文学で、その後の人生で過酷な思想弾圧に対しても一歩も引かず、転向せず、拷問にも耐えぬいて戦後を迎えた、 鉄の闘士であった。共産党議長であった宮本顕治、というより、「敗北の文学」で芥川を論じ、コンクールであの小林秀雄をおさえて第一席をえた宮本顕治の夫 人であった。「伸子」「二つの庭」など優れた大作がある。

* 宮本より少し早く生まれていた歌人土田耕平の第一歌集「青杉」全編を起稿し、校正している。
 島木赤彦門下で赤彦の歌風を独自に磨き上げ、師よりもなお魅力的な流露清淡の境涯に達した歌人。この若き日の、しかも病気を養って孤寂の境にひとりまみ れて過ごした、伊豆大島での数年の療養歌集の、懐かしい調べは、嘆賞のほかない静謐の魅力。短歌を自分でも作ってみたい人には、心静かにこの「青杉」を音 読してみることを勧めたい。

* 肉体に対し、過酷な暴力や腕力をしたたかに受け続けた体験を、拉致被害者に対し、想像してはし過ぎであるとも思われぬ容赦なさを、かりに個人は持てな くても、北朝鮮「国家」はもてるのである。拉致は「国家」の意図した犯罪であり、いかなる暴力や腕力も「国家」の名に吸収される限り、関わる「個人」は、 己一人で為す暴力や腕力の場合より、はるかにゆるやかに罪責感を、うしろめたさを、解消されている。「個人」としては極く善良そうな人が「国家」の名にお いては信じがたい暴虐を平然としてきた事例は、北朝鮮に限るまい、日本にもドイツにも、いやアメリカにもロシアにもあったし、現にありうる。
 そう思った上で、拉致被害者達が自身「さほど不幸ではなかった、いや幸福ですらあったんだ」と言うのを、よほど心入れ深く読みとらないと、誤解が生じる だろう。
 彼等は、いわば戦利品としての俘虜であり、いや捕虜として連れ去られた。「個人」「私人」の犯罪で奴隷売買されたのではない。
 今、この段階で、あの人達に「本人の意思」だの「本人の決断」だのを求めるのは、むしろ間違っている。今は二十余年も続いた譬えようもない重症の状態か ら、故国という病院にやっと保護された情況に同じく、個人としての確たる判断や決断を求めるのは無理である。それは、当然ながら、日本国と家族とがきちっ とつけてあげるしかないであろう。
 少女時代に誘拐されて信じられないほど長く監禁されていた女性が、かろうじて救出されたときに、もう一度あの監禁されていた部屋に戻りますかなどと「判 断」させはしなかった。犯人は直ちに逮捕されたし、女性は病院に保護され、ながい治療を必要とした。じつは拉致被害者も同じなのである。
 本人の気持ちに任せて静かに思案させてあげては、という考えの人もいないではない、が、それはちがうナとわたしは感じる。帰国永住。政府の判断は、この 際家族の意向とも根底で合致し、時宜にかなっている。おそらく曽我さんの米人ハズバンドに関して、アメリカとの間に何らかの諒解がとれたのだろう、政府の 動いたのもそれゆえと想像できるのだが。ただ日本政府はその「見通し」をもち、米政府は少なくも表面は「反対」せざるを得ないだろう、「軍規」が絡むだけ に。これは悩ましい高いバーである。

* 横田めぐみさんの娘のことでは、想像を絶した「裏」の事情が、無いとはいえない。めぐみさんの娘であることが確定的なキム・ヘギョンと名乗る少女の 「父」が、名前だけで、実体不明のままである。一方少女の表情には、母に自殺されたような暗い痕跡がみられず、北朝鮮「的」でないと断言したいほど、和や かに安心感の漂った美しい表情をしている。絶対に「身柄の安全な世間」を生きてきた、かなり「特別の存在」かのようにすら想像され、かつは母親の生存も、 まだ視野に入れたままでよい気すらしてならない。しかしもしそうなると、問題は、横田さん祖父母らにとって、もっとややこしく難しくなるかも知れぬ。孫に 会いたい祖父母の気持ちは疼くように同情される。が、無防備にピョンヤンに入ってしまうと、「不帰国永住」の罠に陥るかも知れない。


* 十月二十五日 金

* 佐高信氏にもらった「タレント150人を斬る」という怖い題の本を読了した。斬られている人の実人数が150人なのか、猪瀬直樹氏のようにめったやた ら繰り返し繰り返し斬られている人も多いので、もっと人数は少ないのか、勘定する気はないが、わたしの、知った人も知らない人も大勢いる。知らない人のこ とは分からない。何となく知っている人の場合、斬られようにいろいろあることが分かり、面白い。ほとんどは、頷けるのである。わたしの好きでない人も実に 多いからだ。だが、これは気の毒にと感じる例もある。
 こういう罵倒型の月旦は、誰しもが内心一度はやってみたいものだ、が、当代では佐高氏の「特技」である。そして段々効果や意義は薄れている。訴求力が逓 減し、どぎつさを増さないと読者はマンネリに飽きてくる。同時に、同じ斬られ方をこの著者自身もされることになる。この「特技」にかかれば、斬られずに済 むどんな人があり得ようかと思われる。あげく水掛け論の果てしない応酬が、アチコチで現になされているのかも知れぬと想像させる。ウンザリする。
 書いていても書かれていても、むろん愉快ではないだろう。それでも「書く」には、それでも「斬る」には、それなりの意義と効果がたえず必要になる。「意 義」はリクツとしてたとえ識認できても、読書の魅力は速やかに減ってゆく。失せてゆく。すると「斬る」自体が著者の徒労に終わることになる。
 佐高信氏ほどの「ちから」が、より効果をもって、うまい工夫で社会に浸透することの方が大事であり、この「斬る」方式は、もはやキワモノめいてゆく一方 に傾きつつあるのではないか。こういう「キレる人」が、何時の世にもいて欲しい。だが、ただゲリラでは保ちこたえられまい。信頼されながら深く斬る工夫。 難しいが、此の著者にそれの必要な時機だろう。

* 山田美妙「胡蝶」広津柳浪「黒蜥蜴」川上眉山「ゆふだすき」小栗風葉「寝白粉」のそれぞれに時代に訴えた問題作力作をスキャンしようと用意した。こう いう仕事も、われわれの近代現代を先達先導してきた。忘れられて当たり前では、ないのである。

* 身からでた錆は心の吹き出物  これが「古川柳」でなく、わたしの咄嗟の創作であったことは告白した。そしてこの句、実感であった。わたしなど、佐高 さんに百万遍「斬られ」てもしようがないほど五体錆びついた男だが、その錆は、われから、わが心根から吹き出てきたので、他人のセイには決してない。 「心」というモノを落とせば、身に付いた錆は、だが、意味を喪う。心が、無に帰したときは、そもそも錆もピカピカももともと無いのである。

* さ、今夕はしばらくぶりの電メ研である。午後に、佐久間良子主演の帝劇に招待されていたが、わたしも妻も少し疲労気味なので、ご近所に券をさしあげ た。喜んで行ってくださると聞いた。兜町の会議は五時からの異例。おかげで午後もゆっくりからだを休めておいて出掛けられる。来週は少し落ち着ける。湖の 本の新刊作業を前へ前へ運びたい。


* 十月二十五日 つづき

* 五時からの会議。会議室がすこし反響しまた広いので、乃木坂での狭苦しいが密度のある会議が懐かしくなる。会議室に電気的な設備が出来ていなくて、ビ デオ一つみられないし、コンピュータもない。機能的な配慮の少しもない、いかにも素人臭い仕上がりで、設備のしてあるのが同時通訳。だれが、いつそんなも の使うのかと、ビックリ。それもこれも予算ギリギリで強行した建築の、当たり前の成り行きだ。

* 七時半になり、空腹。美しい人のいる店に行って、お銚子を三本と佳い肴、静かなテーブルにひろげて、湖の本の校正ゲラをゆっくり、たっぷり、読んだ。 仕事をしている間は放って置いてくれるし、このところ家の中に機械は動いていても仕事机の無いも同然なとき、大きなゲラをひろげて読める机つきの酒の席は 有り難い。ときどきお酌に来てくれる。それで、けっこう。他に望みは何もない。料理がうまければいい。

* 帰宅、すぐ、横田めぐみさんの中学三年相当の娘に対する日本のテレビのインタビューを観て聞いて、フクザツな思いをした。うまくものが言えない。よく 話していたが、全面的に自然なのか演出や指導があらかじめ有ってのことか、分からない。ただ、話しているのは紛れもない孫娘で、見入って聴き入っているの が間違いなく祖父母で。母親はいない、のだ。

* 民主党の硬派の代議士が刺殺された。オドロキ!!

* アメリカはイランを占拠し統治するなどと、ムチャクチャを言っていると。バカめ!! 金正日は核でアメリカと不可侵条約をなどと言っている。狂ってい る!!


* 十月二十六日 土

* 父として幼き者は見上げ居りねがはくは金色の獅子とうつれよ 佐佐木幸綱

* 愛読しているサイトに、佐佐木幸綱の短歌を前置きにして、拉致被害者の帰国永住に関する政府決定にふれた見解・理解が書かれていて、朝一番に、感心し た。わたしに宛てられたメールではない、ホームページ上での一文ゆえ、軽々に此処へは引かないが、上の短歌一首が、佳い前置きになっていた。
 この短歌では、思い出すことがある。
 今も親しい東工大のもと男子学生が、登山を教わった「父親」をわたしに語ってくれたことがある。この短歌の「獅子」の「獅」の字を虫食いにして教室で大 勢の学生達に考えて貰った日だ。「獅子」と応え得たのは少数であった中に、つねはこの手の出題を苦手にしていたその学生が、何の苦もなく、「獅子」だと思 う、父の背中を見上げながらその先導で幾つもの山に登ってきた体験からも、これは「実感」ですと、生き生きと嬉しそうなアイサツがあった。そして、この頃 はその父にも、ようやく年齢の負荷が見えてきたようですと思いやり、これからは「ぼくが父をはげまさねば」と。
 こういう学生の声を聴くとわたしは嬉しくて、よくぼうッとして書かれた鉛筆の字をみつめていたものだ。教授への点数稼ぎのパフォーマンスだなどと下卑た 邪推をわたしはしない。そう書きたかったから彼はこう書いた。それを、そのままに読む。
 ちなみに解答されてきたのは、「天子」「赤子」「玉子」「童子」「親子」「皇子」「王子」「吾子」「君子」「稚子」などと、みな苦しかった。難しい出題 であったようだ、二四一人一年生の教室で、かろうじて二十人だけが「獅子」と読んでくれた。
 今朝読んだ一文は、山登りの今も好きな青年の感想とは、おのづからまた別の感慨に彩られているが、通底するところも深いのである。
 小学生の頃、クラスメート男のいじめっ子を、筆者(女性)の父上が吹っ飛ばしたという。彼女は一方的にいじめられているとは思っていなかったものの、父 親の敢為の振舞いにビックリした。父とは日常至って疎遠に過ごしていただけに、むしろ呆気にとられ、明日からわたしはどうすればいいのと思ったが、一方 で、この父親を家長とする家庭に自分は属しているのだなと、今更に思い当たったと言うのである。
 日本政府に、帰国と永住を確認し宣言された拉致被害の五人が、これと似た思いではなかろうか、と筆者は言うのである、いやおうもなく、「belong to 日本」を意識させられたであろうと。日本政府がこういう挙に出るなどと思われなかったが、その挙に出られてみると、ああそうなんだと思う。
 わたしのこんな拙い紹介では気の毒だが、その辺をスカッとうまく書いてくれている。

* ここへ来て、福岡某とかテリー伊藤とか、マスコミ人に、政府の今回この挙に疑問を云う人も出ている。やはり一度五人とも北朝鮮に帰して、よく家族で話 し合って、それからなどと言っている。そういう生温い、いや尋常な常識の通用する、往来自由な外国であるならとにかく、なにからなにまで非常識ないわば警 察国家のなかへ、もう一度戻して、日本は彼等被害者の安全をどう確保できるのか。工作員の集落のようなところへ日本側を自在に出入りさせるわけもなく、話 し合うと言うほどのこともどう保証できるものか、考えてみればいい。
 帰したら、かの地を踏んだ瞬間から完全に北朝鮮の管理下に拘束されて、日本人はもう近寄れもすまい。日本国内ですら北からの赤十字型工作員を切り離した ではないか、ましてや北朝鮮国内はとても自由に異国の人間を歩かせはしない。つまり北朝鮮国という途方もない拘禁空間に放ちやることになり、行方も知れな くなるおそれがある。交渉を重ねてまさに人質外交の不利な取引へ日本は引き込まれるだろう。少女を表に出して、えもいわれぬスリカエの心理戦に、すでに北 朝鮮は巧妙に踏み込んできている。
 リクツも重々あるけれど、リクツぬきにでも、此処は、国が判断し国力を注いで打開をはかるべきで、当人の判断などということを強いる方が、どんなに酷で あるかに気付くべきだろう。彼等は自由な日本に帰国してさえ、自由な言葉をだせないでいるぐらい分かるではないか。まして北朝鮮にもどされてから、どんな 自由な当人の判断が可能か、言うも愚かなことだ。当人の判断とは、即ち金正日ひとりの判断である、そういう国家ではないか。福岡も伊藤もサカシラが過ぎて 愚昧である。


* 十月二十六日 つづき

* 「フイレンツェにて」という長い作品を含めて、今日は、沢山なメールが次から次ぎに。中には「ペン電子文藝館」の委員校正も幾つかあり、ご苦労をかけ ている。

* 土田耕平の第一歌集「青杉」は、東工大での出題短歌を探していた頃に、読んだ。「草まくら(  )にしあれば母の日を火鉢ながらに香たきて居り」を出題し、「旅」と答えた学生は多かったが、正確に歌を理解していた者はむしろ少なかった。「母の日」の 読みも「火鉢ながらに」も読めていなかった。だが「草枕」「旅」という繋ぎは、受験勉強してきた彼等には「知識」に属していた。だが知識だけでは、読めな いものがある。
 孤絶した自然環境での療養の数年が、寂しき極みの中にほの明るく温かく静かに歌いあげられていて、ただの写生ではなく、しかも徹した写生のもつ確かな輪 郭を、この歌集全体が獲得している。いま確実な記憶ではないが、ひょっとして岡井隆であったかが、わたしの歌集『少年』の息づかいを、この土田耕平風を学 んだかと推量していたことがあった。事実は今も言うように、五十代も後半での出逢いであったが、ひどく懐かしく感じたのは事実だ。
 さて、ただ今は、宮本百合子の「刻々」水上瀧太郎の「山の手の子」原民喜の「夏の花」を、こもごも校正して読んでいる。

* 明日の毎日新聞が、読書調査に基づく特集を組んでいる。一文を寄せたので、目にする人もあろう。


* 十月二十七日 日

* 時間があったので鶯谷で下車し、いつも通る博物館のわきでなく、両大師のほうの静閑な道をひっそり歩いて、上野駅公園口改札の外へ。北関東からわざわ ざ出てきた読者と会い、目の前の西洋美術館に入り、ウインスロップ・コレクションを観て貰った。わたしも二度目を、今回はゆっくりと観た。ギュスターヴ・ モローに主にわたしは目が行き、その人はビアズリーの繊細で尖鋭な線画を喜んでいた。それも見るから佳いもので、少し重いロセッティーやバーン・ジョーン ズのタブローより目にしみた。
 レストランの「すいれん」が満席で人だかりしていたので、常設展もぜんぶ観てまわった。ひとまわりして展示場を出ると「すいれん」が空いていたので、お そい昼食にした。いつもならせいぜい私を含めて二三人が普通の静かな店内が、満員盛況。そのなかで、ラストオーダーまで話し合っていた。メールだけの初対 面なので、さほどは深い話題にはならなかったが、話されることは一つ一つきちんと気が入っていて、気持ちよく聴けた。
 芳賀徹夫妻もレストランに見えていて、しばらく話せた。
 四時過ぎていたが、腹ごなしに公園をひとまわり歩いてまた上野駅にもどり、その人と別れて、まっすぐ帰ってきた。そういう日曜日であった。

* 毎日の「読書」特集記事にふれて、幾つかメールが入っていた。校正ゲラでは観ているが新聞は届いていないし外で買う機会も無かった。

* 七つか八つほどの補選がどうなったか、そろそろ開票速報が出てくる時分。投票率は軒並み甚だ低調であったらしい。

* 朝、新聞を読まなくなりました。読むと、胸が痛くなったり、気分がふさいでどうにもならなくなってしまうことが多い、いえ、多すぎるからでございま す。
 でも、今朝はちがいました。先生のお書きになったものが、載っているとうかがっていましたので。
 日ごろ、折りに触れておっしゃっていることでございましたけれど、一つにまとまり、ていねいに説かれていますのを拝読しますと、すとんと胸におさまり、 新たな発見もあり、まさに「再読」のおもむきでございました。
 柳田国男の、「国民が選挙権を大切に用いる為には、「国語」の力を付けるしかない」というくだり、そして、それをもとに展開された先生のお考え、さら に、今の、ことば、本をかんがえますと、わたくし如きでも、慄然といたします。
 「ご本」といい、「本屋さん」といって育ちました。本をまたいだり、雑に扱うと叱られて育ちました。
 図書館には「古事類苑」「廣文庫」といったような資料を見にまいります。ときに、まだ読んだことのない――詩ですとか小説、エッセイなど――を借りてく ることもございます。でも、気に入ったものは、けっきょく、本屋さんに注文することになるのが、常で。
 市の図書館は、おっしゃるように「貧寒」たるものでございます。ベストセラーは複数購入とかで、同じ本が三冊も四冊もあるようで、一時の熱がさめると、 それがうらぶれた感じで棚に並んでいます。 また、「安倍清明」についてのアニメや清明読本みたいなものはけっこうあるのに、陰陽道についての専門書は見 あたりません。
 さきごろ、「源平盛衰記」について知りたいことがあって、ネットをうろうろ探していまして、「日本文学学術的電子図書館」というのに逢いました。 ペン クラブの電子図書館で払われているようなたいへんなご苦労が、この「学術的電子図書館」にもあるのではないかと、おもいました。
 電子図書館の、今、これからのことを、読み手もかんがえねばと、今朝の論を拝読して、あらためておもったことでございました。


* 十月二十八日 月

* (齋藤史の)辞世詩、読みました。ありがとうございます。なんと言っていいのか分かりません。
 どうも私は詩や短歌を咀嚼するのに時間がかかるようで、学生時代に触れた短歌の読みも、当時はずいぶん浅かったなと思っているところです。きっと何年か しても同じことを思うでしょう。しかしこういう経験を、もう5年も前になるのですが、していたことが、現在の生活を豊かにしているなとつくづく感じます。
 金色の獅子、覚えていらっしゃらないかもしれませんが、私もその「獅」は正解しています。空白に文字が浮かび上がってきました。かつて父はずいぶんと強 かったのですが、いまや……。私がずうずうしくなったということだと認識していますが。
 実は本業の原稿が切羽詰っていましてこのメールを書くのも逃避のひとつです。しかしこういうときこそ、何か自分のために書きたくなります。テスト前にな ると机の上を片付けたくなるようなものです。

* 節度の美しい、ムダのない行文。こころづよくなる。「生きている」と思う。

* 恒平さん 今日は、アメリカ、イギリスそしてスペイン政府の、イラク攻撃に反対するデモ行進に行ってきました。アフガニスタン攻撃に対するデモ、イス ラエル、シャロンのパレスチナ制裁に対するデモ、これで、少なくとも3回目になります。参加者は決して多くないけれど、それでも、反対の声を上げる人間 が、街のそこら辺の人々の中にもこれだけはいる、ということを知ることができるのは、小さな救いです。デモをして何になるのか、どれだけ意味があるのかわ かりません。でもこれだけはっきり反対の意志があるのに、何もせず何の声も上げないでいるのは、どこか違う、何かしなければいけないと思う。いつも当たり 前のようにデモに赴く夫は、帰り道そう言っていました。
 今日、日本とスペインとの時差が、7時間から8時間になりました。一日一時間多かったのに、日が暮れるのが早くなり、なんだか損した気分でした。この夏 時間冬時間の制度も2007年には見直すとか。

* 良い「夫」だなと嬉しくなる。「妻」の方も意識は深い人。ここにも「生きている」人たちがいる。

* ありがとうございました まっすぐ帰りました。少し休んで、やっと、腕のしびれから解放されたところです(相当凝っていたようです)。
 絵も、お昼も、ごちそうしていただき、ありがとうございました。食事を(少し)残してしまってすみませんでした。うまく噛めなくて。矯正をはじめて三年 以上経ち、普通に噛む感覚を忘れてしまっています。
 くどいようですが、わたしはオーブリー・ビアズレーの作品を観られて嬉しかったです。それと、ギュスターヴ・モローは初見でしたが、とてもよかった。常 設展示にありました肖像画も。18世紀頃の肖像画を見るのが好きなので。
 かなふはよし、かなひたがるは悪しし、と思い、普段どおりにしていたつもりです。それにしても、わたしは話下手でした。
 お忙しい中、お時間を割いていただきながら、とりとめのない出逢いになってしまったと、気にしています。わたしの方は、「頑張るぞ」という決意を新たに できました。
 データベースのことは、ご遠慮なく。ただ、WINDOWSを触らなくなってしばらく経つので、どの程度アドバイスできるか不安です。
 恋ができないのはなぜでしょう。ジュリー(沢田研二)や染五郎には、恋してる気分になれるのに。恋は、理屈でなく、難しいです。今日は、眠る前にこのこ とを考えます。それでは、おやすみなさい。

* 途中、文学への、創作への思いの部分は此処には書き取らなかった。それはこの人が自身で培い育てた方がいい。

* 宮本百合子の「刻々」を、(一)だけだが入稿した。もっともっと長い(二)(三)があるので残念ではあるが。作者の強さは伝わってくるだろう。それに 何といってもその気になれば作品に今も出逢える大作家である。
 拷問され傷つき衰え虱にたかられ、監房の不足で廊下の隅におかれ床に弁当を投げ与えられていながら、なんという晴朗な強靱さであろう。日本帝国のものす ごかった思想弾圧と凶暴に堪え得ずに「転向」した文化人の人数は、夥しかった。敗戦の日までガンバリ抜いた者は数えるほどであったという、そのごく少数の 一人として、宮本百合子が戦後文学のためにも頑張った精力は瞠目された。こういう人達ががんばって少しずつ手に入れ積み上げてきた市民の人権や権益を、い ま、われわれは当然のように抛ちまた奪われて、気も付いていない。経済のバブルよりも、精神のバブルの方が、日々に壊れ行くのを見ていると、遙かに恐ろし い。だが気付いていない。
 昨日の自民圧勝・超低投票率補選の結末を見ていても、ただ、ソラおそろしくなる。

* 昨日の毎日新聞読書調査特集に添えて書いた依頼原稿を、此処に転記しておく。

* 本と、ことばと、図書館と   秦 恒平

 「読書」でなく「本を読む」と言った、わたしの小さかった頃は。「本」が、本当の本物として深く本質に触れているという、信頼・信仰が先立っていたのだ ろう。だから「本を読め」と言われた。「本」とは、図書・書物・ブックを超えた、敬称のようであった。敬われていたその「本」が、なにやら根の細い浮薄な モノへ落ちぶれているという深層の失望は、活字離れの理由の一つとして、いかにも大きい。とても「本」屋サンとは敬愛しにくい、昨今「書店」の店頭・店内 の殺風景ではあるまいか。
 我が田に限っていうが、読者が良い作家や作品に出逢いたいように、作者も良い読者を期待している。このお互い「良い」のとらえどころで、「書物」の評判 は、高下も広狭もいろいろ質的に岐れてくるが、この微妙な所へ、読書アンケートは容易に踏み込めない。
 ナボコフという作家は、自分にとり「良い」読者とは、記憶力あり想像力あり辞書を億劫にせず、ホンの少しは芸術的センスをもった人だと言っている。わた しはこれに「繰り返し読む」人と付け加えている。一読でもむろん「本」の魅力の伝わらぬではないが、本ものの読書とは、「再読」から始まると体験的にわた しは信じている。だからアンケートでも、何冊読んだかでなく、同じ作を何度も読むか、再読の習慣があるか、などと問うて欲しかった。「本」を読みとる体験 を大切に思う限り、一冊ではなく基準は一編であり、一葉の「たけくらべ」と、百倍の長さが有るデュマの「モンテクリスト伯」とでも、作の感銘は質的に拮抗 する。何冊という数え方は、こと文学の場合、あまりにアバウトだといわねばならない。良い読書は良い旅と同じ、再訪し歴訪してなお新たな喜びが得られる。 「本もの」の本=作品とは、そういうモノではないだろうか。

  ことばの暮らしは、もともと「眼」よりは「耳」に基盤があった。今も同じで、そう在りたいと、わたしは考えている。本が、読めない・読まないのは、文字や 文章の問題以上に、日常の「聴く耳=耳ことば」が鍛錬されていないからで、このごろ「声に出して読む」のを勧める書物がブームという風聞にも、好意的に思 えば、眼の「文章」から耳の「ことば」へ、日本語の「反省」が働いているのかも知れない。
 早い話が文字=漢字に依頼し過ぎないこと。人の話しことばを「耳」によく聴いて分かってあげること。その習熟が、「本」の行間や紙背を読みこむ語感の豊 かさになり、文章・文体を読み解く力を培い助けるのである。よく読むには、よく聴きよく話さねば、というのが、わたしの思いである。用いる語彙や文体・語 法は、また意見や判断はどう分かれても良いし、好みのジャンルも何でも良い、そういう暮らしの根を支えて、本当の本質をもった「本」に、一人一人が、どう 出逢えたか。
「読書」を問うのに、そこを置き忘れては意味をなさない。
 むかし柳田国男が、国民が選挙権を大切に用いる為には、「国語」の力を付けるしかないと言ったのは、恐ろしいほどの洞察だったと思う。
 より良い日本語の受け容れが家庭や教室で浸透し、その結果として鍛えられた「判断」のよさ確かさが、迂遠なようでも、例えば選挙等の「選択」のよろしさ へと繋がる。柳田が「国語」と謂ったとき、念頭にあった一字は、ただの書物ではない、まさしく「本」であったろうと想うのである。だが現実には「末」が氾 濫している、だから、ややこしい。

  日本にも貴重稀覯の「本」を蒐集した施設が、古来無くはなかった。だが、明治以降今日におよぶ公共の図書館は、文字通り普通の「図書」を、人気に応じて提 供・利用する「読書」館として多く機能してきた。アンケートの数字は、今もそれをやはり期待していて、さてそれだけでいいかという、内から外からの新しい 問題提起にも揺れているのが、昨今の図書館事情であろう。貧寒とした現状が多くの公共図書館を今危機的におおっている。その上、紙の本と電子の本との、共 存とも移行ともつかぬ渦に巻かれて、図書館の現場は戸惑いを日一日と深めているのではないか。
 今はもう図書館と著作者と出版とが、また読者という名の市民も適切に加わり、アクティヴに一つのテーブルにつき、知恵を絞って力づよく「公」の政策に関 わって行かざるをえない時機であろう。己が目先の利益を言い合い、協力すべき関係者がお互い「激突」などしていていいわけがない。必要なのは、問題点を先 送りにしない有効な協議だろう。

* 繰り返し読んで分かる「本」の魅力 と、大きく欄の下に記者さんは出してくれていた。一月に「何冊」本を買うか、借りるか、読むかというのも一つの質 問項目に相違ないが、そこでとまると、読書からうける感銘のような質的な中身に視線は届かない。極端なことを言うと、例えば全集の一巻に、百人もの作家の 代表的な短編の秀作をあつめたものも一冊なら、それと等量の長編作品一つで一巻にしたのも一冊。「カラマーゾフの兄弟」や「戦争と平和」や「源氏物語」を 一度だけ読んだ人と、五度六度読んだ人の思いとは、おなじではありえない。繰り返し読ませるかどうかも、大きな、作品のまた読書の分かれ目になる。「モン テクリスト伯」のような大衆的な読み物でも、この生涯に五度六度と間を置いては渇いたように読み直してきて、退屈どころではないのである。繰り返し読ませ るのも能力なら、繰り返し読めるのも才能に属する。そこに本物の「本」が成り立ってくる。

* 早速有り難うございました。
 ランチとおしゃべり、誘われればあまり断りませんが、一人で過ごす時間の貴重さがいっそう感じられることが多い・・気疲れて帰ってくることも。ついでに 野菜を買ってきました。最近は田舎ではさまざまなところに道の駅という野菜や果物を販売するところが設けられています。丹波黒豆のぷりぷりした枝豆や、和 ニンジン、水菜、かぶ、柿などを買いました。
 タブローとスケッチの喩えは的確にわたしにも理解出来ます。本当にそのとおりですね。スケッチの類は自分の心に引っかかった言葉を、書き留め、取り出す だけでも次から次へ・・まあ、そんなに簡単にはいきませんが、自然の流れになって出てきます。これは傲慢か? ただし、詩的言語が必ずしもその「自然」だ けに頼って作られていくものではないと、わたし自身は考えてもいますので、それなりに立ち止まったりしています。

* 「ペン電子文藝館」の招待席にいま十四人スキャンの用意がしてある。六人は事務局にスキャンを頼んであり、八人はこれから妻にプリント原稿をつくって もらう。開館満一年の十一月二十六日「ペンの日」には二百二十人を超えるのは確実となった。そしていよいよ一年経過の人から第二作掲載を許可してゆく。
 梅原会長の第二作を早く決めてもらい、それを皮切りに第二年度へ入り始めたい。わたしは。小説を追加するか、他のジャンルを選ぶか。異分野作の出稿で は、その分野でも二冊以上の著作を公刊していることを条件にしている。さもないと安易にレベルが崩れ落ちてしまいかねない。
 ついでながら、「招待席」を加えているのは、「ペン電子文藝館」が自ずから近代文学史の流れを証言する意図に出ている。一作者一作品の出発点を踏まえ、 文学史的にも優れた足跡をのこした作者たちの作中、「歴史的な証言作」「比較的異色作」「出逢いにくく成った評判作」「忘れがたい秀作」等のどれかに該当 する作を選んでいる。「作者略紹介」はわたしが目下総て書いている。普遍妥当のものさしのある道理なく、上のどれにも相当しないと異論のある場合は、会員 から他の作品を推薦・提出してくれればよい。必要と認めればこだわりなく差し替えるつもりでいる。
 

* 十月二十八日 つづき

* 秦先生 ずいぶんとご無沙汰をしているように思います。
 前回の「湖の本」を頂いて、その中の「私の私」を読み始めてから、何か書かなくては、と言う思いをずうっと持っていましたが、なかなか時間が許さず、こ んなに日が経ってしまいました。
 何より、私の“読み”違いがあるかもしれないと思いつつ、また、先生と私との根本的な認識は同じである、という思いを持ちつつ、私の考えた事を、淡々と 書いてみました。
 ご批判、ご意見があるのは重々承知しておりますが、私の考えも先生にご理解頂きたいと思いメールにて送付致します。

* 以下は一読に値する、本質への議論をふくんだ一石である。筆者は国家公務員とだけ紹介しておく。理解の便があろうから。いろんな場所で、世代をこえ立 場をこえて、議論の弾むことが望まれる。

* 私の私について
 最初、私は、先生の講演録を読んだ際、「私の私」の前後の“私”の区別を明確に認識できなかった。だから、文脈自体に違和感を覚えた。「私」という言葉 を使われている文章を読むと、「何か違うんじゃないか」という感覚。でも、その周辺を読み進むと、私の心にスッと入ってくる。「私の私」の前後の“私”の 区別が明確に、自分の心の中に定まっていないから、でしょう。今でも、はっきりしません。この文章中でも、こんがらがってしまうかも知れませんが、お許し 下さい。
 この際、過去がどうであったかは、また別の話として議論すれば良いとするならば、私は「公」と「私」との関係を、そんなにキッチリと対峙するものとして 認識はしていませんでした。
 言われるとおり、「公」は「私」無くしてはありえないから、「私」が集まった者が「公」であると思っているから、「公」と「私」をそんなに分け隔てて思 考しなければならない理由が、私には思い当たらない。
 もっと言えば、「公」と「私」を別のものとして考えれば考えるほど、「公」に対する批判が高まるのは、当然と言えば当然。でも、「公」は実は“私”が作 り出しているものだという認識を、もっと私達は持たなくてはいけないのではないのでしょうか。
 “私”と書いたのは、「私の私」の前の「私」と後の「私」のどちらななのか、自分でもはっきりと判別が付かないから。
 だから、「私」の充実は「公」の充実でもあり、「公」の充実は「私」の充実でもあると思います。
 日本は「公」は豊かだけれど、「私」は豊かではないのでしょうか。私は全然そうは思いません。日本の「公」の豊かさは、本当の意味での豊かさには、ほど 遠いのではないでしょうか。何が、と言われると、明確には答えられませんが。「私」もまた同じでしょう。つまり、日本は、いずれにしてもまだまだ豊かさに はほど遠いのではないでしょうか。
 私は、今が(あるいは、これからが)、転換期では? と思っています。
「公」と「私」を対峙するものとして、一部の特権階級のみが「私」に「公」の衣をかぶせて、あたかも「私」の無い「公」かのように振る舞ってきた過去があ るのは事実でしょう。しかし、今は「私」はいつでも「公」の一員であり(それが民主主義だと先生も書かれています)、だからこそ、「私」の誰もが「公」に 対する責任を負うべきだと思います。
 少しづつ、「公」と「私」の境は、本来無いものだという認識が、広がってきている様に思います。世界は、グローバル化していると同時に、住民参加の地域 密着型の積極的な活動が至る所で息吹始めています。何が「公」で、何が「私」かという事を意識しながら、この様な様々なレベルの行政活動に参加していくこ とが出来るほど、私は適応能力は高くありません。恐らく、私には、全てが一様であると思い、全てに同等の責任感を持って、対処するしか無い、と思っていま す。
「外」と「内」についても、同じような事を思いました。どちらが「外」で、どちらが「内」かという議論ほど、むなしいものは無い、と私は考えます。どんな に頑張って日本の「外」と「内」を議論したところで、国際社会から見れば、そんな事はどうでも良い話。常に、動いている世の中を考えれば、いつかは地球自 体を「内」として認識しなければ、生きていけない日が来るかも知れませんしね。
 誤解を恐れずに言えば、やはり、10年以上前に話された内容だと言うことでしょう。 最近の「公」と「私」の関係は、否、一時代前の一部特権階級として の「公」の存在は、確実に縮小していると思います。また、『「私」の無い「公」など存在しないんだ』という「私」の存在は、確実に拡大していると思いま す。

* ペンクラブの現在所属全会員の一覧が事務局から届いた。開館満一年の「ペン電子文藝館」に掲載の用意である。ついでに物故会員の資料を求めたところ、 平成十一年一月以来、今年の十月中に亡くなった会員の一覧が届いた。なんと、百四十二人も亡くなっている。一人一人の氏名をすでにある一覧資料に時間を掛 けて付け加えて行きながら、そぞろ無常の風に吹かれた。寂しくなった。
 いきなり夏堀正元さんの名前が来る。言論表現委員会にいきなり副委員長として新参加した頃、夏堀さんは元気旺盛にみえ、その大きな声で決めつけてくる論 客ぶりは圧倒的であった。だが、わたしは氏の議論がやや横暴になると、食いついて反駁した。そういう委員が他にいなかった。いつか氏の方で私に信頼を寄せ てくれるようになった。にわかに衰えられたようで、猪瀬直樹が新委員に入ってきた頃には委員も退かれていた。寂しい思いをした。この人の議論の筋はまっす ぐで、わたしとも大きくは違わなかったが、なにしろ大声で決めつけにかかる。あの当時の委員会は佐野洋さんが委員長で、いかにも日本ペンクラブらしい 「野」性に満ちていた。
 夏堀さん一人でもこんな風に思い出す。百四十人の中にはあまりに若い人も、まだまだという人もいっぱいで、心しおれる思いをした。人づきあいがわるいよ うで、わたしもずいぶん大勢と交流がある。淡き交わりに意識して徹しているけれど、それだけに心に親しい懐かしい人が多いのに、今更に愕く。いちいち書い ていたら一冊二冊の本がすぐ書けてしまうだろう。


* 十月二十九日 火

* 日一日と忙しくなっているだろうに、佳いメールをもらって喜んでいます。「私の私」に関して、これはあなたから何か一言なくちぁと、暗に期待し願って いましたよ。ありがとう。いろんな意見が練り上げられるといいなと、新たな期待もかけています。
 晴と褻というでしょ。公と私とは、必ずしも国家・政府・官庁との関わりだけでなく、例えば普通のサラリーマンには、会社と家庭といったのも公・私の別で しょうね。「家庭」すら構成員の一人一人に対しては「公的」に働くのは誰しも覚えがあります。
 いま拉致被害者は、銘々の「私」の上に、家庭や、家族会や自治体や、外務省や、政府や、さらには北朝鮮国家という「公」を、こもごも圧倒的な重圧として 対決しているのだろうなと、想像を絶した同情を禁じ得ません。しかも、彼等一人一人の「私」に、どう「公」が役に立つのかを、いま、公は試されてもいる。 今日からの日朝交渉はひとり政府だけの仕事ではないと思っています。その意味ではこのわたしもまた「日本人」という一つの「公」的存在として、この拉致問 題に、ある責任も持って関与しているというべきでしょう。
「私の私」と、講演上、曖昧な日本語であえて重ねてものを言ったのは、「趣向」でもありました、が、英語で言い分けるとどうなりますか、ね、分かりよいか もね。
 公・私と向き合わせたときの「私」は、むろん個人である自分の意味つまり「一人称のわたし・僕・俺=自分」のことではありません。公的性格に向き合う私 的性格。万人がともに分かち持っている現実の基盤です。これに比べると、公は、一種の契約・約束により成り立った、かなり観念的で抽象的な「機関」のよう ですね。
 アイヌのように国家や政府といった「公」を持たなかった民族もありました、そしてそれは彼等を「強い・安定した存在」にはしなかった、不幸にして。
 「公」は「私」が創りだした機能であり、その機能の「預かり手」が、そのまま自分自身を「公そのもの」と錯覚するときに、常に社会的不正義が生じてくる 危険にさらされます。
 過去と現在 歴史的に批評し、今の公・私が、昔の公・私とを「比較してどうこう」だけでなく、「現在只今の公・私」は、これはこれで「幸せな良き均衡を 真実得ているかどうか」の批評へと、直進もしなければなりません。さ、その評価はどうかと、そこが「問題点」になりそうですね。
 よく考えてみましょう。 
 予算前でたいへんなんでしょう。息抜きがしたくなったら、いつでも声を掛けて下さい。 
* 秦先生 早速のご返事ありがとうございます。
 先生の言われる事、その通りだと思います。公は私が創り出した機能でしかありません。公は、人間が複数集まれば、何かしら、創り出さざるを得ない機能で は無いか、とまで思います。そういう意味で言えば、「家族」という形態も、一種「公的」なものなのでは無いかとも思います。
 今の公・私は、幸せな良き均衡を得ているのかどうか。難しいですね。こういったものは「相対的」にしかありえず、あるいは、相対的に考えた方が理解し易 いのですが、私自身にとってどうなのか、「絶対的な」感覚を持たないと、強い意志となって、外に表現することは難しいとも思います。が、少なくとも、今の 私には、未だ「絶対的な」ものとして、公・私を捉える事は難しいようです。
 年末までは、バタバタした日が続きます。また、落ち着いたらご連絡致します。

* 「公務員」氏の「公・私」論、早速一読しました。この論調でいいのだろうか、それも踏まえ、感想をまとめ、早めにレスポンスしたいと思います。

* これも、卒業生。いろんな意見が出て欲しい。

* 秋の夜 さらさらと深まることもなく日々が過ぎていきます。家に帰り、一人でいる二、三時間をただただ無為に過ごしています。電子文藝館の招待席 秋 の詩が多いようですが、今日は山村暮鳥の、「赤い林檎」
   林檎をしみじみみてゐると
   だんだん自分も林檎になる
をじっと見つめていました。
 私の目の前にも赤いりんごがあり、ぼんやり見つめている私は、林檎になることも出来ず、ルーティンワークに疲れ切った平凡な一日を終えようとしていま す。
 いつまでたっても確固とした自信をもつことも出来ず、焦燥感に追いたてられながら、結局何も深く見つめることも出来ず、軽薄にアバウトに日々を過ごす私 自身を、別の私が嘲笑しているような気がします。秋は深まっていくのですが、私の毎日は上滑りにさらさらと流れています。
 あしたも早く起きて、大学のエクステンションセンターで講義をしなければなりません。ともかく、何も飾らず、自分の言葉で話してこようと思います。話し べたの私に、90分 120分という講義が毎週1、2回あるのは結構プレッシャーでもあります。そろそろ休みます。早く休まないと・・・・。
 少し沈んだ気持ちの秋の夜の独り言です。

* 真面目に生きている人が、かくも、多く、疲れている。


* 十月二十九日 つづき

* 小中高校の先生から声掛けられ、つよく「印象」に残っている「言葉」を、東工大の学生に書いて貰ったことがある。ことに一年生には、遠く故郷や家族か ら離れてきた学生が多く、なんとなく浮き足だってもいた。せいぜい自身の根をもう一度覗いておくことを暗にわたしは奨めていたのである。故郷の山や川の名 や地名を尋ねたりした。自分の名前についても尋ねた。
 この際の「言葉」云々の質問には、だが、多くは求めていなかった。何故か。つよく印象に残るのは、極めて私的な情況下の言葉だからで、言葉自体は他人に は無意味な例の多かろう事が容易に察し得られたからだ。たいそうな格言が語られるのでも、箴言が与えられるのでもない。そんなものでは人は感銘をうけにく い。わたしは一例として「がんばれ」があるに違いないと思っていた。
 案の定、あのときのあの「がんばれ」には感動しましたという思い出が、たくさん出た。それ自体は面白かった。ちなみに、わたしたちが教室中でどっと驚い たのは、「十七にして親をゆるせ」であり、また「男は風邪をひくな」であった。この二つにはわたしもビックリした。
 だが、ちっともビックリはしないあの時この時の「がんばれ」の一言も、その学生にとっては、言われたその瞬間、爆弾のような力があった。それは疑えな い。言葉は、言葉の意味だけで訴えるのでなく、発せられる情況と発する誠とで響く。言葉で生きる者はそれを心得ていたい。百曼陀羅言うよりも平凡な「がん ばれ」で十分な時も人もある。伝わる人には伝わるものである。「がんばれ」と、自分にも言ってやりたいし、声を掛けてあげたい人も二人や三人ではない。厳 しいきつい時代である。
 ある新聞が、「心の言葉」だったか「心の頁」だったか、ま、似たような知名人たちの告白を、毎日夕刊に載せている。他人が読んでいる限りは、これは大概 がつまらない。個と個との絆はとくべつのもので、片言で公開しても感銘はあまり伝わるまい、大層有り難いような説法も、ピンとは働くまい、「弱い企画」だ なとはなから思っていたが、そのとおりに、ただダラダラと続いている。

* 若い記者さんだと真実思っていたら、母は秦さんと同年、お子さん達と変わりない年なんですと言われ、びっくりした。朝日子と建日子のまんなかをとって も、フーンそうか。しかし、それは「天与の財産、大切に」と返事した。本気だ。

* ウインスロップ・コレクションを二度観たが、わたしの注目したのはギュスターヴ・モローやビアズリーだけでなく、とても快い印象を得ていたのは、アル バート・ジョセフ・ムーアの三点だった。「花」「銀梅花」そして「ふたりづれ」はそれぞれリクツ抜きに「美しかった」のだ。画面から読みとらねばならない 文学も伝説も神話も排除して、それらからの影響や侵略を避けて、ひたすら美しく描かれている。美に徹している。
 ウインスロップは、モローといいバーン・ジョーンズといいロセッティといい、あるいはアングルの場合もそうだが、絵画がそのまま神話や伝説や文学・聖書 に奉仕した例が多い。奉仕が語弊をうむなら、相互に余りに緊密なのである。それがかなり鬱陶しく、また画風も重い。モローの何点かは抜群に美しいが、画題 の知識や図像学的な知識があるとないとで、絵解きには相当な差が出てしまう。出てしまうと思う分、よけいにそれに囚われる。
 ムーアの絵の完璧な美しさもさりながら、彼の場合、画家がみずからそういう鬱陶しい負担を排してくれているぶん、素直に画面に陶酔できるのが、心安らか なのである。唯美主義といい美の信仰といい芸術至上主義などというと軽薄なように聞こえるが、ムーアの絵は、実に確かに構築されて魅力的である。「花」の すらりと丈高いギリシア風の女の白いロープ姿。「銀梅花」のヴィーナスを思わせるほど完璧に美しい半裸座像。そして「ふたりづれ」の見事な絵画的勝利。こ の三点を観るだけのためにも、もう一度出掛けても佳いなあと思う。

* 蹄鉄屋の歌  小熊秀雄

泣くな、
驚ろくな、
わが馬よ。
私は蹄鉄屋。
私はお前の蹄(ひづめ)から
生々しい煙をたてる、
私の仕事は残酷だろうか。
若い馬よ、
少年よ、
私はお前の爪に
真赤にやけた鉄の靴をはかせよう。
そしてわたしは働き歌をうたいながら、
──辛棒しておくれ、
  すぐその鉄は冷えて
  お前の足のものになるだろう、
  お前の爪の鎧になるだろう、
  お前はもうどんな茨の上でも
  石ころ路でも
  どんどんと駈け廻れるだろうと──、
私はお前を慰めながら
トッテンカンと蹄鉄うち。
ああ、わが馬よ、
友達よ、
私の歌をよっく耳傾けてきいてくれ。
私の歌はぞんざいだろう、
私の歌は甘くないだろう、
お前の苦痛に答えるために、
私の歌は
苦しみの歌だ。
焼けた蹄鉄を
お前の生きた爪に
当てがった瞬間の煙のようにも、
私の歌は
灰色に立ちあがる歌だ。
強くなってくれよ、
私の友よ、
青年よ、
私の赤い焔(ほのお)を
君の四つ足は受取れ、
そして君は、けわしい岩山を
その強い足をもって砕いてのぼれ、
トッテンカンの蹄鉄うち、
うたれるもの、うつもの、
お前と私とは兄弟だ、
共に同じ現実の苦しみにある。

* 懐かしい詩を「ペン電子文藝館」で見つけました。
泣くな、
驚ろくな、
わが馬よ。
私は蹄鉄屋。
私はお前の蹄(ひづめ)から
生々しい煙をたてる、
私の仕事は残酷だろうか。
若い馬よ、
少年よ、
私はお前の爪に
真赤にやけた鉄の靴をはかせよう。
そしてわたしは働き歌をうたいながら
・・・・
 学生時代2年間、コーラス部に入っていました。六大学合同音楽祭(そんな名前ではなかったと思うのですが、ともかく六大学のコーラス部が競演する音楽会 でした。)の、合同合唱曲だったのです。作曲家の名前は忘れました。メロディは初めの部分を覚えています。これが大ホールに響き渡るはずでした。
 でも、ともかく六つの大学のインスタント合同合唱、まるでエコーのように、輪唱のように、左右のテンポがすっかりずれてしまったのです。でも失敗とも思 いませんでした。精一杯歌いました。この歌を。小熊秀雄という方の詩だったのですね。遠い昔の歌の一節を、青春時代のひとかけらを今日は思い出すことが出 来ました。
 ジャネット ベイカーの「オン ブラ マイフ」が、CDプレイヤーから聞こえています。ほっとするひとときです。
  

* 十月三十日 水

* 気がかりな仕事を、ガマンし集中して片づけた。郵送した。ボールが向こうの手にある間、少しの間、二三日だけでもラクができる。その間に雑用を片づけ ておく。

* クアラルンプールでの日朝交渉の報道に、大勢が釘付け。日本列島がさながら劇場化している。それはそれで、いい。しかし大事なことがお留守になっては こまる。

* へんな物言いを聞いた。石田ナントカという女優が妊娠したという。それで父親のコメントを取りに行ったという。それを聞きながら、スタジオにいたその 辺の事情通が、その父親のことを「オチチ」と謂った。そう聞こえたが、まさかと思った。すると今度は、ニュースワイド番組に出ていた男が、細君へのサービ スの話をしながら、自分の妻のことを「オツマ」と、わりとハッキリ口にした。唸った。きもちわるい。

* 水上瀧太郎の「山の手の子」は、第一作品集では文字通り「処女作」という表題にされたような処女作だった。この手の作品は永井荷風の「狐」が近く、中 勘助の「銀の匙」も、ま、谷崎潤一郎の「少年」も近いが、谷崎の作品は下町の中でのもの、瀧太郎や荷風は文字通り山の手の「坊ちやん」であった。
 こういう作品を読んでいると、もう夢を見ているようである。こんな山の手のお屋敷なんてあったにしても家の奥の奥までテレビや新聞の、また電話やイン ターネットの情報が侵蝕し尽くしている。
 かろうじてわたしの世代、それも意識して明治や大正の風俗や生活にも郷愁とまではなくとも、関心のある・あった世代には、こういう景色も人情も、やっと であるが実感に近く受け容れられる。いいなともいやだなとも思わないが、すべてが懐かしやかに夢の中の夕暮れて行く景色のように見えてくる。
 水上には「大阪」「大阪の宿」のような、若かった昔に読んでしっとりの胸に落ちた秀作があるが、この処女作も又捨てがたい魅力で迫ってくる。お屋敷を抜 け出て坂の下の町の子らにまじって遊びたい気持ち、お鶴という年上の娘にいつも膝に抱かれ抱きしめられて、憧れているお屋敷の稚い少年。夕方になるといろ はにほへとちりぢりに夕餉に帰って行く町の子に、まるで見捨てられたほど寂しく気重に、厳めしい父の率いる晩餐の沈黙へととぼとぼ帰って行かねばならない 山の手のお屋敷の子。
 もう二度と書かれないであろうこういう小説を、ただ天然記念物のように思ってはいけない。じつに佳いのである。もう五頁ほどのこしている。

* 次いで原民喜の原爆体験「夏の花」そして明治初期の山田美妙が苦心奇抜の文体で練りだした小説「胡蝶」が、わたしの校正を待っている。

* さてクアラルンプールでの日朝交渉は、二日間の日程で、ほとんど何一つの妥協も決定も引き出せないまま終えた。来月に引き続き交渉があろう、北朝鮮の 政治的・経済的窮地は深まっており、日本はあせることは何もない。ピョンヤンに残された拉致被害者の家族にも日本に残った五人の親たちも、またその家族 も、どんなに気がもめて不安か、言葉もなく気の毒だが、わたしは、交渉団ないし日本政府の粘って譲らないという方針に賛成したい。親子夫婦が心おきなく相 談できるのは、ピョンヤンでであり得ようわけがない。日本か、最大限譲っても無事に邪魔の入らない外国ででなくては意味をなさない。五人の帰らなかったの を約束違反などと言える立場を、拉致犯罪の犯人国家は、言える権利など持ってはいない。ここは、ぐっとガマンして十一月の機会を待ちたい。


* 十月三十日 つづき

* 「お題・私の私」と題してあるので、「闇に言い置」かれた別人の一文ながら、これは「頂戴する」としよう。公務員君の提示した議論の幅を、さらりと拡 げて、あざやかなエッセイがここにある。ありがとう!!

* お題;私の私 2002.10.30
 そのメーカーは私がまだこの部署に配属されて間もない頃から「担当」していた。要はここの記者会見には必ず出席、人事と新製品の情報もおさえ、お座敷が あればその手配もする。そういう役割である。
 この業界は誰もが知る歴史ある2大メーカーと気鋭の人気メーカー計3社が大きなシェアを持っており、それ以外は文字通り「それ以外」の扱いを、店頭でも 誌面でも受けている。ところが最近、そのそれ以外から、このメーカーが頭ひとつ抜け出した。何よりなかにいる人たちに自信と元気が出てきて、はたで見てい て気持ちがいい。担当していて良かったなと思う。
 今回の新製品もなかなか魅力的。担当者の前で私は言った。「自腹で買いたいと思った初めての御社の製品です」。
 その発言を受けてかどうかは知らないが、後日そのメーカーの担当者が「個人的にお話があります」ときた。
 仕事上での付き合いに個人的な感情を持ち込むのをご法度とは言わないけど、だってそしたら職場恋愛なんて成立しないからね、かなりの覚悟が必要だ。こう 切り出される話はたいてい、利益供与がらみ。その「お話」ははたしてそうであった。私がほめたその新製品を「差し上げたい」というのだ。
 そんなの受け取れませんという私をさえぎって「1年間のモニター、ただし返却義務なし」ということにしたいそうだ。敵も考えたようだ。
 モニターなら、仕事の一環として私がこの話を受けることは不自然ではない。つまり公の私を縛るルールはなく、むしろ誌面作成の都合上は、受けたほうがベ ターという見方もある。言葉を額面どおり受け取って上司に相談すればきっと、「受けたらどう?」となっただろう、おそらく。
 しかし私の心がそれを許さない。こういったものを貰う必然性がない。自分をジャーナリストとは思わないが、常に取材先に対しては読者の代表として接した い。
 モニター。言わんとすることは理解できるけれど、やっぱり大枚はたいてそれを買って触って初めて読者の気持ちが分かるんだと思う。もっと個人レベルに落 とすと、それほど親しくないひとから高価なものを貰いたくない。
 結局断った。
 公(social)な私を措いて、私(intimate)な私の判断を優先させた。それで、それなりに長い付き合いのメーカーと関係が悪くなるならそれ でいい。私は所属する会社の社員であることよりも、独立した個人であることを優先させたい。  結論。 私の私は気持ちで判断し、公の私はルールで判断する。

* この颯爽とした「結論」へも、またべつの声が届くといいが。


* 十月三十一日 木

* 初雪 hatakさん  昨夜来みぞれが時折雪に変わりまして、札幌に冬がやって参りました。
 ずいぶんとごぶさたをしておりました。御本を頂きお礼も申し上げぬまま何をしておりましたかといいますと、「モンテクリスト伯」を読みふけっておりまし た。「岩窟王」という字面と音が嫌いで手を付けずにいた本が、今は題名が変わっていたのですね。「闇に言い置く」で盛んに取り上げられまして、ふと読んで みたくなり、あとはすっかり引き込まれてしまいました。この年で夢中になって本を読めることを幸せに感じました。ダンテスの復讐劇は圧巻ですが、その他に も、ノワルティエ氏の「そうだ、そうだ、そうだ」の眼力に、人間の生きる力強さを感じ、現実の悲しさから目を背けるために仕事に没頭してゆくヴィルフォー ルなどには、我が身を省みて人間の弱さを痛感しました。ほんとうに人物が良く描けているものです。
 夢中になって「モンテクリスト伯」を読みながら、聚光院へ利休居士の墓参に行ったりもしました。また先日は父の三十三回忌に帰省しまして、ついでに出光 (美術館)で、高野切と蘭亭序を堪能。見努世友が質量共に素晴らしかった・・・。ついでに一度食べてみたかった「きくかわ」のうなぎも堪能。こちらも質量 共に素晴らしかった。
 根津青山で濃茶も練り、サントリーホールでは『TEA』というオペラの世界初演を観てきました。
 ずっと前「闇に言い置く」で「グリーンディスティニー」という香港映画が話題になりましたが、その音楽を担当していたタン・ドゥンの作曲指揮でした。茶 経を求めに中国へ渡った日本の皇子が皇帝の娘と恋に落ち、茶経争奪の中で最愛の人を失う。日本へ戻った皇子は今日も禅寺で空の茶碗を持って空の茶を点て、 「茶を育てることは難しい、茶を摘むことは難しい、だが茶を味わうことはさらに難しい」とつぶやいて空の茶を味わう、というストーリーです。水面を叩く 音、こぼれる水の音、紙を破く音、紙の幟で風音を作ったり叩いたり、随所にタン・ドゥンのいう「有機音楽」がちりばめられていました。
 春先から抱えていた論文を書き上げ、共著者に査読をお願いして手放したら、身も心も軽くなりました。
 その勢いに加え、根津美術館の茶室で同席した、竹久夢二の絵から抜けだしてきたような女性に聞いた「かげろう」という銘の茶杓の話。父の法要。父方の家 の祖先が住んでいたという甲賀の寺の話。そして深夜に帰宅し目が冴えてしまった時に良く聴く、NHK深夜放送の語り物。これらが渾然一体となってストー リーが出来ました。一度だけ訪れたことがある父方の故郷、甲賀の山里にこんな風に住んでみたいという気もします。
 今日突然辞令が出て、昇格を告げられました。室長待遇、大学でいえば教授職にあたります。さて悦びを告げるとしたら誰がいるか考えまして、誰もいないこ とに、唖然。私の「公」はそこそこに充実しておりますが、「私」は何もないということをはっきりと気づかされました。hatakさんには顔をあわせられま せん。
  どうぞお大切に。 

* ファイルが一つ付いてきているのは「創作」らしく、これから開いてみる。清々しくも心豊かなこの人らしい日々をメールに読み、嬉しくなる。自足という 二字の最も佳い意味を、朝一番に感じさせて貰った。
 そして昇進。自然当然に滑り入るように来た慶事だろうと想像する。何一つとして故意も無理も不自然もなく、こういうのが、ほんとうにほんものの昇進であ る。ますます、おつとめ下さい。嬉しい。ふとノーベル賞の田中耕一さんを想い浮かべたりした。かくも親愛なるmaokatさん男性の顔を、わたしは一度も 見たことがないのである。

 
* 十月三十一日 つづき

* 原民喜「夏の花」を一気に読んだ。
 広島で被爆した作者は、便所にいて激甚の被爆をかろうじて免れた。その目に映じたすべてを彼は「書き」おこうと決意して、克明に書いている。凄いという 言葉はこういう体験にこそ用いなくては成らない。
 読み終えて「ペン電子文藝館」に入稿したが、今の感想は、この作品をこそ英仏独西、また中国語韓国語に翻訳し、「ペン電子文藝館」に掲載したいというこ と。一片の声明よりもどんなに優れた意義をもつかと思う。一度に出来ないなら、一カ国語ずつ、順にやっていって良い。翻訳の費用が問題になるなら、わたし が負担してでもやってみたい気がする。おそらく過去にこの作品が翻訳されていないわけはないだろう、その訳者が分かれば助力をお願いもしたい。
 なにはともあれ、委員の常識校正が済み次第、文藝館へ掲載になる。一人でも多く読まれたい。

* けさ札幌から届いた小説が、たいへん面白く、いま読み終えて思わず深く息をしている。茶杓縁起とも茶室縁起ともいえて、品のいい人情噺のよう。噺にな りきらぬ方が佳いとは思うが、ほうほうと声も出そうにうまく運ばれていた。

* 竹中平蔵大臣の提案には頷けるものがあったし、もうもうこういう具合にやるよりない日本国の危機と思っていた。
 またしても自民党はそれさえも潰してしまい、鬼の首を取ったような顔をしている。小泉は今度もまた部下の大臣を、むざむざ見殺しにするのか。何のために 二つの省の大臣を兼務させた。竹中は、たぶん言っているのだろうが、総理にも支持されないで提案が骨抜きに滅多切りされる内閣なら、潔く身を退いてよいと 思う。代議士ではないのだ、政策が入れられないなら、大臣の地位に拘泥してはいけない。大臣病にかかっているか、それとも。



* 十一月一日 金

* 分厚い原本の、字の小さい原作を、一度拡大コピーする。歪んでは困るので見開きは避け、一頁ずつ真っ直ぐ丁寧に、妻にコピーしてもらう。校正するとき に、原本の重いのを片手に持っているのは左肩も腕もしびれるように痛む。コピーすると、字も、難儀な細字のルビも、軽く、大きく、読みやすくなる。
 そのプリント原稿を渡して「ペン事務局」にスキャンの仕事を頼んだら、原稿のルビ全部をわざわざ白く塗って抹消し、スキャナーにかけた。識字率はぐっと あがる。けれど、校正しようとなると、もとのルビが全く読み出せない。ところが明治初期の作品は、やたらに難儀なルビがたくさんついている。オマケに歴史 的仮名遣いのルビだから、自在に勝手に書き込めない。結局重い原本の小さな字とルビとを確認しいしい校正しなければならない。元の木阿弥だ。
 たしかに「ルビ」があるとスキャンが綺麗に出ない。その分混雑する。それはさんざ体験し泣いてきたから、よく承知している。だからといって、原作の必要 としたルビをはずすと、作者の意図通りに作品が読めない。「和女」とあって、何と読みますか。「あなた」か。いいえ山田美妙は、「おこと」とルビをふって いる。そのルビが抹消されていては途方に暮れる。「一入」は「ひとしほ」であり、「伯耆」は「ほうき」でなく「はうき」だし、「行宮」は「あんぐう」だろ うと思うと、「かりみや」とある。
 仕事の「協力」というのは、言うはやすく、実地にはさまざま「問題」が出る。大事なのは、一言、「これでいいか」とお互いに確かめ合う手数だ。未然に防 げる失敗は、気の使いよう言葉一つの掛けようで、たしかに防げる。気儘に気を利かしたつもりが間が抜けていては、二度手間三度手間になる。わたしもその前 に一言言うべきであったろう、が、明治小説のルビを抹消されるとは、想像もできなかった。かりにもペンクラブである。事務の質が一般に落ちているのは、つ まり気働きに、深切が欠けているからではないか。

* 南も冷たい秋風です。  おひさしぶりです。もう十一月なんですね。例年より冷え込みが早いそうです。気温そのものは新潟も福岡もあまり差はありませ ん。ただ、新潟は何かというと雨風に見舞われたもので、福岡では冷えても天気は荒れずにすんでいます。
 先月の半ばから講義が再開しました。大学では楽しく過ごしています。思ったよりずっと自然に、今の生活にも九州の土地にも馴染めているようです。母は、 家の中がもっと寂しくなるかなと思っていたけれど、そうでもなかったと笑っていました。受話器を通してでも、元気でいることを自然にわかってくれているよ うです。
 「私の私」「知識人の言葉と責任」、じっくり読みました。自分には何ができるだろう…と思いました。「小説を書きたい」という憧れはあっても、「小説を とおして伝えたい」という動機が、たとえば以前の我が作品にはありません。憧れだけでは何も進まないとわかっています。秦さんの言葉の一つひとつが、「伝 えたい」動機に溢れているのを感じました。 
 「筑摩現代文学体系」の97巻を、古本屋で見つけました。竹西寛子、高橋たか子、富岡多恵子、津島佑子をおさめています。ほとんどは短編ですが、どの作 家のどの作品にも、それぞれに「小説をとおして伝えたい」動機が読み取れます。自分には何ができるだろうと問いかけながら、丁寧に読み進めていこうと思い ます。
 九州大学の学生のうち、7割は九州の出身だと言われています。ちなみに北海道大学での道内出身者は4割程度とのことです。
 自分のクラスは50人ほどで、そのうち福岡県の出身が30人を超えます。女性が男性より少し多いことも関係あるのでしょう。特に女性は自宅から通ってく る人がほとんどのようです。驚いたのは、九州以外の出身が4人しかいないこと。うち2人が山口、1人は沖縄です。さすがにこのクラスは極端ですが、「新潟 出身」はとにかく珍しい例ではあります。
 日常会話に標準語はありません。新潟では、父や母の世代でもまず標準語で、「新潟弁」は田舎でしか聞けないものです。或る友人が、以前東京へ行ったと き、道ゆく誰もが標準語で話しているのを聞いて、なんだか気味が悪くなったと言っていました。彼らにとっては、九州の言葉が自然なもののようです。
 福岡の人は、世代も地元も関係なくまるまる福岡弁です。しかも小倉の人は北九州弁で、長崎の人も熊本の人もそれぞれに訛りを持っています。そして、彼ら が一堂に会しても、言葉は統一されることがありません。
 もちろん九州の訛りは全体に似ていますから、彼らはそれで会話が成り立っています。が、こちらにとっては大問題でした。会話が聞き取れなかったのです。
 「けん」や「ばい」などの特徴的な語尾はご存知と思いますが、それ以上に彼らはすごく早口です。聞き損なうと、「**しとるけん、**やよってから、 **せないかんばい?」と、語尾だけわかって、自分が何を答えたらいいかわからないという。わからないので、「うーん…」と考えるふりをしてみると、「ま あ、どうでもええけど。それよりさ」とすぐに話が変わってしまいます。最初のうちはついていけませんでした。
 馴れるまでは、自分でもどこか身構えていたようです。思ったように話すことができず、不安を覚えたこともありました。それが、九州だからこその今の仲間 たちなんだと感じるようになりました。まだ知り合って半年ですが、素直に信頼できる人がいます。そんな出逢いがあってこそ、南での旅はかけがえのないもの になると信じています。
 少し長くなりました。でも、九州でのこと、ほとんどお話していなかったので。法学のこともいろいろ考えているのですが、これはもっともっと勉強を積んで から言葉にします。
 今の文学集がひと段落したら、また「電子文藝館」のお世話になろうかと思います。「生活と意見」を読みながら、何を持ってこようか探しているところで す。
 この秋は、一段と競馬がおもしろくなってきました。九月の末には新潟の競馬場で大きなレースが行われて、実はこっそり見に行きました、試験後の休みを利 用して。
 レースがまた名手のすばらしい活躍で、最高の思い出になりました。ああ新潟に生まれてよかったと思いました。
 体調には気をつけながら、とにかく元気にやっています。迪子さんともども、お身体をどうか大切に。

* 「小説を書きたい」という憧れはあっても、「小説をとおして伝えたい」という動機が、たとえば以前の我が作品にはありません。憧れだけでは何も進まな いとわかっています。秦さんの言葉の一つひとつが、「伝えたい」動機に溢れているのを感じました。/ 「筑摩現代文学体系」の97巻を、古本屋で見つけま した。竹西寛子、高橋たか子、富岡多恵子、津島佑子をおさめています。ほとんどは短編ですが、どの作家のどの作品にも、それぞれに「小説をとおして伝えた い」動機が読み取れます。自分には何ができるだろうと問いかけながら、丁寧に読み進めていこうと思います。 
 この辺にとても大事なことが籠もっている。この前にも画家の「モチーフ」とわたしたちの謂う「モチーフ」の違いに触れたが、「伝えたい意欲」とはモチー フに直結している。どうかして伝えたいと思いもしないで、ただおもしろ可笑しく書けばいいと言う小説が増えているとしたら、文学は衰弱していると言えよ う。
 この青年は、書いているように「新潟」の出身。法学部。さればぞ、問題の「拉致」でも、わたしたちを超えた「言葉」や「思い」があるのでは。それも聞い てみたかった。

* 時間をさいて、書きかけの長い小説に手を入れていた、昨日、今日。小説の仕事を始めると身の回りの空気が澄み渡って弾んでくる。時を忘れる。

* 昼過ぎに連続物の「ニキータ」を一時間見ていた。なぜかしらこのドラマが切ない。超現実的に陰惨な正体知れぬテロ組織に入れられて、絶対抜け出せない 定めの儘、それでも自律し自立した女のハートとつよさを喪わない、組織に掴みこまれた不思議に美しい女性、ニキータ。出口のない陰謀と殺戮の時空に生き て、機械には成り得ない心臓を鼓動させるニキータ。どうという筋書きでもないのに、わたしはこのドラマに惹かれる。一時間見ると、ながく余韻を体内に感じ 続けている。

* もう一つの「闇に言い置く」を訪れました。そうそう、と頷けるものと、そうでもないものと。にしても、まあ、強い強い。気の弱いわたしは、恐る恐る読 みました。
 彼女はBARBEEBOYS というロックグループのファンだったのですね。わたしも大好きで、そこの元ボーカリストの出ていた芝居を観ました。暗い舞台の上の美声の持ち主は、彼女の 言うとおり、昔と変わっていませんでした。
 表出はさまざまですね。ネット上をうろうろとしていると、日ごと月ごとにテーマを決めて書かれたものによく行きあたります。皆、「せめて書いて表現」し たいのだろうと想います。
 第二次大戦後、ソビエトで捕虜になった日本兵たちが、連日過酷な労働を強いられる中、いつ帰れるとも知れぬ故郷を、家族を想い、歌を詠んでいた、という 話をよく憶い出します。日本語は厳禁、見つかれば仕置きのあるのは当然で、まともな食事を与えられない中で罰を受ければどうなるかわからないにも関わら ず、詠まずにいられなかった彼らの、命を賭した創作に、わたしは身の引き締まる思いがしました。
 群馬は寒くなってきました。秦さんも風邪をひかぬよう、お気をつけくださいね。

* 九州の便りを読みながら、この当時少年の創作に関心を寄せてくれていたこの群馬の人を思っていた。そこへメールが来た。わたしのサイトを場に、いくつ もの目に見えない交感がWEBを成してゆく。ひとりで心細く悩んでいる人の余りに多いこのごろ、わたしの「闇」に、ある温度が湧いてくるのなら、それもい いだろう。


* 十一月一日 つづき

* 「ニキータ」を語って、「海の上のピアニスト」を忘れてはならない。似ても似つかぬ二つの映像作品だが、佳いものは佳いと思う。
 ティム・ロスの切なく演じた、名匠ジュゼッペ・トルナトーレ脚本・監督の「海の上のピアニスト」は、そう、感動の質から謂うと、「グランブルー」に似て いる。ともに海の映画だ、だがこれは、深く海にとらえられ、生まれてから死ぬる日までを巨大な客船の底で生き、どうしても陸地を踏もうとしなかった、まさ に天資天才奇跡のピアニストにささげた映画だ。その設定の妙が、盛り上がるように批評の冴えになって行く。廃船になり爆破をひかえた巨船の奥底で、ダ ニー・ブードマン・T.D.レモン・ナインティーン・ハンドレッドは、弾くべきピアノもなく、うずくまっている、目に見えないピアノを自在に弾きながら。 澄んだ瞳で。
 かつて船内の楽団で演奏をともにしたトランペットの親友マックスが、とうとう彼を見つけだし、陸へ出ようと誘う。だが彼は静かに静かに友に語って、わ らって、おどけさえして、しかし船とともに果てる人生をえらぶ。マックスも頷いて永久の別れをつげ、抱擁する。
 1900はいう、ものごとには終わりがなければいけないのに、あの陸の上にはそれが無いとみえるほど、ありとあらゆるものが氾濫し延長し際限がないよう だ、あそこでは生きられない、あんなところでは生きたくない。終わりを選ぶことで生きることを全うしたい、と。
 やがて、海上の大爆発。1900の静かな声と思いが胸に残る。そして数々の奇跡を聴くようなピアノの音色・旋律のいろいろ。いま、この銀座で買ってきた ビデオのなかに付録で付いていた小さなドーナツ盤で、演奏されたピアノを聴いている。びっくりするほど美しい音色だ。深海から届いた宝石のように。「グラ ンブルー」や「タイタニック」が想い出される。

* この映画を少しずつ少しずつ本を読み継ぐように楽しんで見終えた日、盲目の日本の少年が、それは美しくみごとにチャイコフスキーとショパンとをオーケ ストラと共演するのを聴いて、わたしも妻も泣いた。嬉しくて、感動してである。「神います」思いがつよくした。「同感」と妻も頷いた。

* これはごく初めと終わりの半時間ほどを見たにすぎないが、「ドラキュラ」にも心を惹かれた。ウィノナ・ライダー、キアヌ・リーヴス、アンソニー・ホプ キンスら名だたる俳優が真剣に競演していて、佳い映画に想われた。
 ドラキュラなどの材料は、宗教映画として批評の腰が据わっている作品では、画面も展開も俳優達の意欲も訴え深くなるのが常で、ドラキュラなんかイヤとい う受け取りようをわたしはしない。日本の幽霊ものとはその辺が違う。このドラキュラは、全編見られればよかったなと、少し惜しい気がした。
 なにか「伝えずにおれないもの=モチーフ」を力強く持った作品は、映画でも、小説でも、毅い。

* ADSLの御陰で、インターネットでサーフィンして休息していることもあり、思いがけない発見に恵まれることもある。今夜、一つ、胸のときめく見つけ 物をした。もう深夜であったが階下まで妻を呼びに行き、二人で小一時間も或るサイトを見ていた。捜し物をしていた。いとしい捜しものを。


* 十一月二日 金

* 山田美妙の「胡蝶」を起稿・校正した。何度読み返しても奇態な作品だが、作者は自負と真面目で胸を高く反っていた。明治二十一年(1888)の仕事 だ。百十四年も昔である。日本近代文学のまさに意識的な先駆者の渾身の工夫だった。試行錯誤だった。今の眼からは、わるくすると噴飯物かも知れないが、命 を削るように苦心した言文一致の地の文と会話との調和をはかった、趣向といい苦心といい、此処を通り過ぎて来てのわれわれの今日だと謂うことを、わたしは 「大事」に考え感謝している。
 壇ノ浦、安徳幼帝の御最期に取材している。筋は歌舞伎である、よく譬えて。だが美妙齋は「文学」として真剣であった、意識を尽くして。そこを深切に汲ん で立ち会いたいと思い、やっぱり校正しながら、ときどき噴き出したのも白状しよう。

* 秦さん、こんにちは。寒くなってきましたが、お元気ですか? この週末は久々天気も穏やかで清々しいですね。
 つい先日(10月31日)、ついに30代に突入してしまいました。これまでの誕生日とは、ちょっと違った感慨ですね。以前秦さんに、30までは準備期間 で、それからが人生本番、というようなお話をして頂いた記憶があります。ある意味では、とうとうスタートラインに立った訳です。気の引き締まる思いが、少 しします。
 4日の振り替え休日、根津美術館でお茶会です。初めての炉の濃茶点前、稽古では曲がりなりにもなんとかという感じでした。当日は、お客をもてなす心持ち で点てられれば良いのですが、人前に出るとそんな余裕はなくなってしまうかも知れませんね。
 「私の私」読ませて頂きました。
 「公」と「私」との関係、今でも決して良好とはいえない状況でしょうね。どちらかが強い弱いの問題より、うまくかみ合っていない、機能していないという 印象です。本来両輪として回転すべきものが、それぞれが逆に回転しようとしてるとさえ見えてしまいます。
 無論ここでの「公」は、国家のみならず、民間企業なども含めてです。
 国は、政府は、会社は、一人一人の生活を幸せにしようとしているか?
 一人一人は、自分の属する公を、より充実しようと願っているか?
 私には、両方ともNOであると思えます。
 国や会社は、その集合体全体の存続、繁栄を指向し、一人一人の幸せは、あくまで結果に過ぎません。
 一人一人にとっては、自分たちの生活が守れれば、国や会社の充実は、決定的な関心事ではないでしょう。
 そんな風にすれ違っている存在であるにも関わらず、今の世の中でも、「公」なくしては「私」が社会を存続させることは難しく、「私」なくしての「公」 は、そもそも存在意義がなく、また非常に危険でもあります。
 そうであるならば、お互いの垣根をもっと低くできないものでしょうか。
 「公」を構成する人々も、本来「公」そのものなどではなく、見る角度を変えれば、やはり「私」な訳ですし、「私」も、生活のあらゆる側面で「私」でいら れるものでもなく、ある局面ある局面では、「公」としての振る舞いをしているのです。本来的に両者は、なんら別のものではないはずなのですから。
 これからFluteの演奏会に出かけます。
 それではまたメールいたします。どうぞお体お大事にして下さいね!

* 男性の国家公務員クン。温厚で穏当、このようであれれば、本当にいいのにと思う。わたしなど、年甲斐もなくジレて、気短かにものを言い過ぎているのだ ろう、いささかならず恥じ入るが。
 むこうが二十歳のころに出逢った若い友人達が、おおかた三十歳というおりめへ駆け寄っている。
 自分が二十歳になったとき、特別な思いはもてず、大学にいて道半ばの気持ちだった。三十の時は、とほうもなく心細く、しかももう希望も意欲も持って具体 的に走り出していた。いつ、どこに、大事な踏切板があるのか見えていなかったが、毎日、孜々として何かへつっかかっていた。有り体に言えば、一日も欠かさ ず小説を書いていた。仲間無く、先達無く、文壇へ何一つ手がかりもなく、そもそも投稿する気さえなかった。
 だが出版社勤めで編集と製作を担当していたから、印刷所とは毎日付き合っていた。9ポ活字にその頃会社は一本90銭支払っていた。刷代紙代その他の請求 書を仔細に点検し、値切らぬまでもクレームをつけるところまで、わたしの役職であった。
 いつでも出してあげられる注文仕事のあるわけでなく、仕事が欲しい欲しいと印刷所の外交さんはデスクに寄ってくる。よし、このわたしの原稿をあげるか ら、会社並みでやってよと、小説を束にして渡し、簡易な製本まで、みんなやってもらった。それがわたしの「私家版」の最初で、三十前に、なんと、医学雑誌 や週刊誌と同じB5版、但し縦二段組み、9ポどころか小さい8ポで組んで、一頁に、原稿用紙六枚ほどをつめこんだ。活版私家版の第一冊『畜生塚・此の世』 だった、巻頭には「歌集・少年」も、これはゆったりと組入れていた。ワケ分からずに谷崎潤一郎や志賀直哉に送りつけたのは、こんな型破りな本であった。
 二冊目は、鴎外研究で知られた長谷川泉編集長の助言で、四六版にした。本らしくなった。巻頭に「蝶の皿」をおさめ、メインの作はのちに「慈子=あつこ」 と題をかえた長編「齋王譜」であった。この時、もう谷崎潤一郎に死なれていた。

* もし一生の内で、「頑張る」などという好きになれない言葉をつかっていいのは、あの「三十歳」という一つの峠をはさんだ年頃ではないかと、わたしは肯 定している。よく頑張りますねと、じつは今でも言われるけれど、わたしは今は頑張っていない。遊んでいるようなものである、あの昔に比べれば。


* 十一月二日 つづき

* 以下は、スキャン起稿のものを校正し始めた、廣津柳浪の深刻小説とうたわれた中の「黒蜥蜴」の書き出しである。カッコの中はすべてルビであり、一カ所 の例外もなく私が手打ちで補っている。補わねば、とても誰にも作者の意図どおりになど読めるものではない。ルビそのものが表現の一翼を担っていること、歴 然としている。ところがこのルビは、スキャンしても全部飛んでしまうか、いたく本文を混乱混雑させる。一々修訂してゆくのはたいへんな手間。だがいくら手 間でも省くことはできない。
 いまわたしは、重い古い全集本の、劣化した活字で、しかも極細字のルビをいちいち確かめながら、この作品の原稿を綴りあげている。明治の作品は、どうし てもこれが大変な手間になる。廣津柳浪のは殊に凄じい。やはり尾崎紅葉らの同時代人だと唸ってしまう。だけれど、作品は面白い。勢いがある。山田美妙のよ うにケッサクではない秀作である。少し味わって貰おう、ほんの出だしである。柳浪は作家廣津和郎の父、廣津桃子の祖父である。三代の作家が増えてゆくこと だろう。フクザツな気持ちだが。

* 年齢(としごろ)廿五六の男、風體(ふうてい)は職人。既(は)や暮れんとせる夏の日の、暑熱(あつさ)尚ほ堪へ難くてや、記章袢天(しるしばんて ん)の胸を開きて、浅黄の色褪せし手拭に汗を拭きつつ、腿より脛には蔽ふものもなくて、表も鼻緒も砂塵(ほこり)に古びたる麻裏を、突掛(つつかけ)草履 の歩(あゆみ)いそがしげなり。
 身材(せい)は短(ひく)き方(かた)にて、肉肥満(しゝこえ)たり。憎気(にくげ)なき丸顔の色白く、鼻は高からねど形恰(かつかう)好く、細く長き 眼は常に笑(ゑ)めるが如く、口は屹(き)と結びたれど、むつかしげならず、耳を蔽ふばかりに伸びし頭髪(かみ)は、垢づき乱れたり。
 日本橋区濱町三丁目を傍目(わきめ)もふらず、頭(かしら)は重げなれど歩(あし)はせはしげなり。ふと面(かほ)を上げて我ながら呆れし風情。
「何の事だ。おやおや。」と呟きつ歩(あし)を返し、右側なる薬種屋(やくしゆや)の横手の露路へ入りたり。
 露路を入れば、裏には三軒立(だち)の棟割長屋。取付(とりつき)には相用(あひもち)の井戸あり。井戸に沿ひし長屋の一軒(ひとつ)より、足音を聞付 けしにや顔を出(いだ)せしは、霜降(しもふり)頭の老婆なり。
「與太(よた)さん。」と、老婆は通掛(とほりかゝ)りし男を呼び掛け、「如何(どう)だつたい。産婆(ばアさん)は居たかい。」と、眉根(まゆ)を顰 (ひそ)めて返辞を伺ふ體(てい)。
 與太郎は上眼に老婆を見て、点頭(うなづ)く様に会釈し、「あゝ、直きに行くツて。」
「そりや好(い)い塩梅(あんばい)だ。早く来て呉れねえぢや、何だか心細くツて。其(それ)もね、私に経験(おぼえ)がありやア訳やねえんだが、はらは らするばッかしで、役に立ちや為(し)ねえ。何(どツ)ちにしたツて早く来て貰ひてえよ。それにお前(めえ)、困ツちまふよ、れこにも。」と、拇指(おや ゆび)を出して眼を丸くし、「一方にやアお都賀(つが)さんが、今にも出産(とびだ)しさうに陣痛(かぶ)るツて、うんうん吁鳴(うな)つてるのに、徳利 と首引(くびツぴ)きか何かで、怒鳴りツ通しだらうぢやないか。お都賀さんが可哀想だから、私もお前の歸宅(けえ)る迄ともつて、今し方迄介抱(つい)て たんだけれどね、終(しめえ)にや私に喰つて掛るんだよ。お都賀さんにや気の毒だが、仕様がねえから、いま引上げたところさ。お前早く歸宅(かえ)つて遣 (や)んねえ、お都賀さんがお前を待つて泣いてるわな、可哀想に。」
「すまねえ、すまねえ。叔母さん勘忍して呉んねえ。」と、與太郎は気の毒さうに打詫(うちわ)びつゝ嘆息す。訴へ顔せし老婆も今は慰め顔。「なにお前(め え)、お前にや実(ほん)に気の毒さ。性来(しやうぶん)だから為様(しやう)がねえが、お前の爺(とツ)さんだけれど、彼様(あんな)人は無(ね)え よ。お前は親孝行だし、お都賀さんは順(やさ)しくするんだし、何(なん)にも不足アあるめえに、如何して彼様(あんな)だらうかねえ。」
「どうも為様がねえ。叔母さん、お前にや実(ほん)に済まねえ。」
「あれ、また怒鳴つてるよ。早く歸宅(かえ)つてお遣りよ。」
「実(ほん)に為様がねえなア。」
 與太郎は老婆に辞(わか)れ、空屋(あきや)を一軒隔てし長屋の奥隣、我家の門口(かどぐち)を入るより早く、小言(こごと)は脳天へ落掛りぬ。

* 明日は、友枝昭世の会に招かれている。名手昭世の「羽衣」を観、子息であろうか「道成寺」の披きを観る。野村萬の狂言も楽しみ。来月、わたしの誕生日 には観世栄夫の「卒塔婆小町」を観せて貰う。余儀ない差し支えがあり、このまえの梅若万三郎は能の好きな人に観てもらった。一年のうち、この三人に間をお いて出逢えるなら、こんな贅沢なことはなく大満足、有り難いことである。

* けさの明け方、娘を目の前で「拉致」される夢を見た。幸せにしているといいが。


* 十一月三日 日

* 友枝会。当主の友枝昭世が、「羽衣」を、舞込の小書で舞ったのが、ちょっと他に記憶の無いほど美しくて、感動のあまり涙がこぼれた。羽衣で涙するなど 覚えがない。
 ワキの宝生閑とワキツレ二人が出てきての出だしは、謡がうまく揃わなくて騒がしく、ちょっと前途を危ぶんだ。もともと漁師白龍に「ツレ」がつくなど気の 利かない話で、白龍と天女との、他を交えない対決であり対話であったほうが、より神話的に晴朗で清潔単純である。舞台正面に松を置いて羽衣をかけておくの は辛抱できるが、ワキツレの二人は邪魔で、ましてその謡が下手と来てはかなわない。まいったなと思ったが、さすが昭世の天女がそんな不満をふきちらし、 「いや疑ひは人間にあり、天に偽りなきものを」「あら恥づかし、さらばとて」羽衣を返す白龍とのいさぎよい問答のよろしさ、こういう場面は、余人を交える 必要、毫も無いと思うが。
 羽衣をつけてからの、昭世の天女のまばゆい可愛いらしさ、おおらかさ。見事な衣裳がまみどりの正面の松を右に左に出入りする、あでやかにして清潔なすが たかたち、こんなに官能的でかつ純潔な羽衣に出逢うとは、予期以上であった。
 昭世は小柄ではない。横にも幅がない方ではない。なのに、そういう恰幅をかき消すように華奢に昇華し、舞いに舞う。まさに「清まはる」嬉しさ、すこぶる 満足した。かすかにかすかに上半身を右傾して立つときもあったけれど、それさえ含めて、生き生きとした天人ぶり、美しさに自然に惚れた。
 ことに「舞込」で、橋がかりを、富士より高いなかぞらに見立てて、雲をふみ下界をみおろす風情でかろやかに幕に入っていったのは佳い演出、流石の昭世 で、出から入りまで宙をふむかろやかさを難なく見せた。天女が地を踏んでは仕方がない。
 
* 「羽衣」は、はじめて京の大江能楽堂で、観世元正のを観て感激している。その印象が十年ほど後、小説「畜生塚」に生かされた。秦の父が近所の娘さんに 謡を教えていたときも、「鶴亀」のつぎには「羽衣」を謡っていたし、父は、よく一人ででも謡っていた。父の謡は大江の舞台で地謡に呼び出されるほどで、素 人離れしていた。溝川桂三とかいった先生に習っていた。
 そんなわけで、わたしは自分では歌えないが詞はおおかた耳に記憶しており、昭世の舞台でも謡は終始よく耳に入り、ことばの懐かしさにも涙ぐんだ。
 視線にまっすぐの、正面も真中央というすばらしい席を貰っていた。最高の見栄えがしたのも当然。昭世さん、有り難う。

* 野村萬、万之丞ほかの狂言「泣尼」は、道具立ての出るたいそうな狂言だが、要するに狂言であり、たいして期待もしなかったが、ま、あんなところという しかない。萬の味は佳い、好きである、が、狂言というものが、今日、情念として冷えてしまっている。つづく一調は、「班女」を粟谷菊生だったか一族の長老 格が謡ったが、鼓役がえらく攻撃的にというか挑発的に、すばらしい鳴りで緩急はげしく打ちに打ち込むので、謡い手の息があとの方続かなくなったような気が した。

* 隣席に劇評の藤田洋氏が、その向こうに保谷の堀上謙氏が、氏の前に小山弘志先生がというふうに能楽堂での知人多く、少し離れて馬場あき子がいていつも のようにやあやあと握手し、彼女が紹介するすると連れて行った先が、東大の久保田淳さんと歌人の岡野弘彦さんで、お二人とも本のやりとりあり、また旧知の 間。ただわたしは、あまり日頃顔を合わせる付き合いをしないので、久保田さんと言葉をかわしたのは初めてだった。
 馬場さんに、「いい顔してる、ほっそりしたわね、エライエライ」と褒められた。こういうアイサツは、何十年来聞いたことはなかったのである。
 藤田洋氏に日本ペンに入るよう奨め、入りたい、と。隣り合ったご縁である、この人の劇評活動はよく識っている。歌舞伎座でも三百人劇場でも俳優座劇場で もよく顔を見合ってきた。

* 昭世さん子息雄人クンの「道成寺」の披きは、いろんな面で退屈しなかった。お世辞にもうまい謡でない。鐘からあらわれて、下半身を露わにしたときのま るで運動会に出た少年のような、素朴で、身構えも何もない感じなど、修業の未達成は歴然としていて、出てきてからしばらくは気が気でなかったが、小鼓との 対決になってからは、かなり気の強いシテかもしれない落ち着きを、取り戻しつつ、頑強に頑張る。小鼓が又さきの一調の打ち手で、若いシテをいたぶるように 長大に間をとり、激しくかけ声で威嚇する。シテは、かすかに上半身や下半身を揺らしながらも、屈せずにねばり強く演技し、何と、五時に終了の予定が五時半 に成っていた。
 鐘入りは颯爽と成功させた。鐘からの鬼面の出も、不思議に小さく可愛らしく、しかしこの鬼は「女」なのだからそれでよいのである。そして調伏される段に なっての、おやおやこんなふうにやるものかなと感心し驚いたほど、アクロバチックに身軽に、フクザツな身ごなしをして、哀れ調伏された女の苦悶を、はでに 美しく見せてくれた。
 幕へ追い込まれ逃げ込んで、えらい音がした。鬼サン、ぶっ倒れたのではないか、あれほど小鼓に責められたのを過度なまでに堪えきったのだから、卒倒した かも知れない。とにかく、ウーンと「道成寺」を楽しんだ。
 ワキが三人、これがまたこどもっぽくて、調伏のために数珠を押し揉む姿が、まるで高校の文化祭みたいだった。道成寺のワキは行力多大の修験僧でなければ ならないのに、少年団のよう。全体に「羽衣」の厚みにくらべると「少年道成寺」であったが、だから退屈というのではなかった。シテは、総合的にはよくがん ばったと言っておく。

* 食事はひとりする気で、すうっと抜けてきた。一時間あまり、お銚子を三本もらい、本を読みながら。美しい人が三度四度、静かに来てお酌してくれた。あ りがとう、としか口は利かない。店に入ったときはわたしひとりだったが、帰るときは満員だった。淑やかに見送ってもらった。

* 矢崎嵯峨の屋、平出修、加能作次郎ら、八人分のプリント原稿をペン事務局に送った。手元にも、スキャンを終えた廣津柳浪、川上眉山、小栗風葉の作品が あり、他にも宮嶋資夫の評論がある。山本勝治の秀作「十姉妹」ももうスキャン出来る。また数日、家に落ち着けるので、どんどん片づけたい。
 もっとも、引き受けたとも返事すらしていない頼まれ原稿の郵便が、三通身の傍にあり落ち着かない。たった今、倉敷美術館の館長高階秀爾氏から電話で、雑 誌「日本の美学」に原稿依頼があった。以前「水」の特集に「蛇」を書いた。あれが気に入ったらしい。今度は「風」の特集だと。『花と風』の著者である、ま た久しぶりに一工夫してみようか。

* 都立大学の高田衛名誉教授から、南北四谷怪談の『お岩と伊右衛門』という、刺激的な題の研究書を頂戴した。伊右衛門を、南北らしい「主役創造」だと 思ってきた。高田さんには、たくさんのことを教わる点で、有り難い極みの面白い著作が多い。高田さんとも、思えば久しい心親しいおつき合いであるが、お目 にかかったことは一度もない。ウソのような本当で、こういう知己の多いのを心からの喜びにしている。

* 11月7日のNHK「クローズアップ現代」で、図書館問題を取り上げるそうです。先日、群馬県前橋市での全国図書館大会会場で、私も突然インタビュー を受けて面食らいました。(「無料貸本屋」という批判に対してかなり激しく抗議したので、私の場面は、あるいはカットされてしまったかもしれませんが。)
 小学館の相賀社長の発言や日本ペンクラブのシンポジウム結果について、「出版ニュース」に発表した文章、郵便で後送致します。
 余談ながら、全国図書館大会の会場で会った多くの図書館員が、ホームページや新聞紙面で公共図書館のあり方に対して理解を示してくださっている秦さんの 発言に、感謝と共鳴の言葉を述べておりました。
 さらに余談ながら、前橋市での全国図書館大会の著作権問題分科会では、私が公共図書館の代表として報告をさせてもらいました。この資料も、後日送らせて いただきますが、図書館に対する著作権者からの要求も年々、厳しさを増しているようです。公貸権問題、複写サービスへの補償金問題、ビデオ映画の無料上映 問題(個人ブースでの上映に対しても)等々、何でもお金で片をつけようという風潮には、私は同意しかねるのですが・・・。
 本当に、厳密で有効な課金システムや配金システムが構築できるのでしょうか? 

* 山陰の親しい図書館員のメールである。図書館はますます大揺れしてゆく気配であるが、図書館だけを揺さぶってみても、何も振り出されてくるとは思わな い。意欲のある人は多いが、気の毒なほど組織としても団体としても力のもちにくい貧寒とした現況で、けれど力など持って欲しくない、持たせまい、しかも働 きはあげてもらうというのが、取り巻く外堀の、内堀の圧力になっている。
 今日、大学関連の集団が出している小冊子で、幾つかの論文を、晩食しながら読んでいたが、書籍出版の関係者の発言には、おどろくべきモノが多々あるのに 気付いた。わたしが「出版主導」という際にいつも胸の奥で憂慮してきた「支配」の座を、より露骨に、未来へ掛けてぜひとも「確保しよう」「手放すまい」と いう意図が、公然と提言されている。
 日本ペンの「電子出版契約の注意点」で強調した、紙の本の出版と電子の本の出版は、性質が違う、だから紙の本契約時のどさくさに電子化の権利提供を併せ て決めてしまわないようにとした点など、真っ向から、逆に、紙の本出版の際にすでに将来電子化の権利も契約で確保してしまおう、作者が自分のホームページ 等に作品を出すことについても、出版との事前協議制を確かにし、出版主導と支配の電子本時代を構築しよう、などと言っている。

* さきのメールの趣旨から逸れたが、どうも、これから先も、作家の自立どころか、ヤバイ時代が続くようだ。暢気なトーサンの多い文壇は、出版主導こそ便 利で好都合、有り難いと思っているばかりの有力な書き手に牛耳られているのだから、気が付いた頃は、またしても二十一世紀の丸裸文士が、大量、都合良く 「飼育」されていることだろう。


* 十一月四日 月

* 羽衣 いらしたのですね。「いや疑ひは人間にあり、天に偽りなきものを」「あら恥かし、さらばとて」・・・。初めての能を、羽衣を、観たときの、体 を、閃光が走り抜けて行ったような感動を忘れることはできません。
 この連休は、二つほど仕事の将来にもかかわるシンポジウムがありました。迷って、結局参加しないことにしました。そろそろ人生の最後の季節に向かって準 備を始めないと。
 知人が末期がんに侵されています。年齢の近い女性で独身のまま社会的に貢献してきた人です。彼女の存在は個人的にも多くの人に影響を与え、その活躍は評 価されてきました。でも、今ある大学病院の病床で残された小さな命の灯を、かすかに燃やしています。母の友人で「呆け」の始まった人がいるとききます。
 走り続けてきました。限りない仕事の発展と可能性を求めて。モウンニングワーク=悲哀の仕事でもあった施設の仕事も順調に進み、地域での支持を集め始め ています。業界の団体での今年での出版も終わり、これからの研修活動の有用な教科書になっていくことでしょう。
 結局、この一年、有能な、支えてくれる片腕には恵まれませんでした。有能な人は、「海外の児童文学を翻訳する仕事」に自分の将来を絞りたいと会社の展開 の業務からは離れていきました。
連休、一時帰国している娘と多く語る機会がありました。11月19日には一緒にイタリアに経ちます。こんなひととき、幸せを感じます。
 シンポジウムを欠席した日は、DVDで、マリオ デル モナコやシミオナート プロッティなどの出演した昔のNHKイタリアオペラを家族そろって、みま した。ときどき涙して。
 背伸びして前へ 前へ進み、大きく 大きく手を広げようとしてきた仕事の方向や規模について、身の丈より少し大きい程度のものに見直すときがきたかと 思っています。「この分野の仕事はしない」という決断や勇気は、決して後ろ向きなものでも敗北でもないと思いたいのです。絞り込んだ仕事を、より質高く、 内容の深いものにしていきたい。限りある命ですから。人生最後の季節が目の前に来たと、身の引き締まる秋の気温や黄色く染まりだした庭の木々を見て、実感 しています。

* ややハイな感想かも知れず、気分の表明として、あえて言っているとも読めるが、年がいって仕事を続けている者には、或る程度通有の、いわばブレーキを かけているというコトか。はためには満帆とみえる航海にも、航海者の胸の内は、いつもあやしく揺らいでいる。あたりまえである。そして一瞬の後に、仕事上 の活気に火照ってくると、ばあッと何もかも忘れ、昨日までと変わりなくまた吶喊している。そういう繰り返し。それが凡人の冥利なのであろう。


* 十一月五日 火

* むかしのものを読んでいると、形見の品というのでもなく、これを私と思ってなどと、ちょっとしたものを渡している。鏡とか念持仏とか。指輪とか。そう いう習慣がこっちにはないので、そんなもんかなあと思っていた。
 このまえ、「ペン電子文藝館」の岡本かの子「老妓抄」を校正して貰った人がある。初対面もしていない、ウェブ上の通行者で、アルバイトしたい、そのテス トにとメールで言われて、校正を頼んでみた。機械は便利で、電送だけで用が足りる。
 きっちりしたとても良い仕事であったが。ただ、希望の価格で今後も支払い続けてゆく力が日本ペンクラブになく、テストだけで終わらざるをえなかった。お 礼に、銀座の三河屋で、わたしがご馳走した。その日が初対面で、その後は会っていない。その人は失職したばかりで、少し気の毒であった。今日、久しぶりに その人から今朝メールが届き、新しく再就職できましたと。ほっとした。
 ところで元の話題だが、昼ご飯を一緒に食べた日、この人はわたしにプレゼントを持ってきてくれた。女性であり、若いとは分かるが、年齢をいう自信はな い。貰ったのは、就寝時に眼におく「アイピロウ」で、よほど柔らかい砂が細長い袋にゆるやかに入っていて、自在に顔面に馴染む。そのうえ両眼をふさぐと何 ともいえない静かな芳香を漂わせる。強い香りではない、あるかなきか、たしかにある、佳い香りである。それを、二つも贈られて、以来、それが欠かせない。 読書を終えて疲れた目をとじ電灯を消すと、すぐ両眼に横たえる。そうしないと落ち着かない。
 気に入ればいるほど、そのつど、ああこれを呉れたのはだれサンだと、名前を自然に思いだす。それでいてその人の風貌などはもう香りほどにかすかに成って しまっている。だが毎晩必ずその人の名は、つい思い返す。
 こういうことってあるんだ、もしもこれが愛する人、恋しい人からのもらいものだったりすれば、どんなにいいだろうなあと、その人には失礼ながら想ってし まう。人にものを贈るのに、それはそれなりに気を遣う。誤解されてもいけないだろう。日頃目を酷使しているに決まっているわたしに、眼に優しい香りの佳い モノとは、今にしてわたしは感心してしまう。有り難い。新しい職場に楽しく定着されると佳いなと思う。職と職場をみつけるのも難儀な時節だ。よかった。
 この人は、パソコンのベテランであるらしい。そういう時代なんだなあと、それにも頷いている。
 たしかに贈り物は難しい。めったにしないくせに思う。よく思う。

* 柏崎へ帰ってきた蓮池さん拉致被害者の記者会見を聴いて、簡要の弁に感心した。気持ちが、よく分かった。相当出来る人だ、お兄さんの方も立派に役割を つよく演じてこられ、感心している。
 感心ついでに言えば、わたしの若い友達がホームページに、こんなことを書いていて、それにも頷いた。
 この拉致被害者が母校の校友に送ったメッセージの最後の日付に、「2002年」でなく、「平成十四年」と書いていた。彼女はそれへ的確に目に留め、この 被害者は二十四年前の昭和時代に不幸にも拉致された人なのだから、あの、「ヘイセイ」と発声して「平成」の元号を国民にかかげてみせた小渕さんのことも全 然知らない。それなのに、意識してか自然にか、今やまことにきわどい「立場」にありながら、まぎれなく「平成十四年」と書いている事実の奥からは、この被 害者の「日本人」として己を感じているリアリティが露出しているように思う、と言うのだ。それと読みとった自分にも、なにがしの感慨無きをえない、と、言 うのである。自分は西暦派で、元号にはかねて抵抗を感じており、不便なものだとと思って暮らしているのだが、しかもなおこの拉致被害者の「平成十四年」を 無意識にも共有し合っている自分自身に今更に気が付き、正直のところ驚いていると書いている。わたしの要約よりずっと旨く書かれていて、感心した。

* 一年がすでに経過して、わたしの作品も「ペン電子文藝館」に追加できることになっている。わたしの場合、小説でも論考やエッセイでも、著書二冊以上は 超えていて、出稿の資格がある。さあどうしようと思いつつ、何気なく「慈子」を機械に取り出してよんでいるうち、「旧かなづかひ」にしてみたくなり手を付 け始めたが、これは大変。えらいことを始めた、やめようか、続けようかと悩ましい。
 わたしは根は「旧かなづかひ」が良いと思っている。だが、成り行きで現在の仮名遣いでやってきた。いささか、恥じる気もある。歴史的かなづかひが、少し 修正すれば、たいへん合理的なことは、福田恆存さんの論考で明瞭だと思っている。現代のは、なんとも索漠な気がしている。

* 昨夜から、源氏物語をすべて音読してみようと、始めた。いつもは一日一帖をかならずと決めて読了してきたが、それは黙読。今回は音読してみようと思 う。だから日数は莫大にかかるだろうが、櫻の散る頃には夢の浮橋を渡り終えるかも知れない。もっと、かかるかな、それは構わない。

* 九日から五島美術館が「名碗展」をひらく。今日、立派な図録と招待券を五枚贈ってきてくれた。五島美術館へはパスも貰っているので、この券は、よほど お茶碗に興味のある人に贈りたい。
 帝劇からは森光子主演のお馴染み「ビギン・ザ・ビギン」の招待券が、やっぱり今日届いた。二年前の舞台をわたしたちは楽しんでいる。森光子がすこぶる佳 いのである、この舞台は。


* 十一月六日 水

* すべるように日が経ってゆく。すこしコワクなる。晴れている。有り難いと思う。日光ほど無心に力づけ励ましてくれるものはない。

* 同僚委員に調べてもらったところ、原民喜の「夏の花」は、わたしの予想どおり、かなり数多い國で翻訳されていると分かってきた。
 わたしの発想は、こうである。原民喜「夏の花」室を「ペン電子文藝館」内に設け、日本語の原作とともに、各国語での翻訳を一つでも多く取りそろえてゆ き、「日本ペンクラブ」の反核戦争・反核実験の強い意思表示の象徴として、世界に発信しようと。同時に、多くの原爆小説を纏めて蒐集して行こう、と。
「ペン電子文藝館」に各国語での原民喜「夏の花」館を用意することは、すでに各国個別に存在するのだから「もう無用」という「以上の価値」があると思う。 唯一被爆國に存在する日本ペンクラブが、「核」に対しどんな認識と批判を持っているかの、これは「象徴的な姿勢表示」になると思うからだ。
 日本ペン理事会は、核保有国の核実験に対し、「原則」無協議で即座に反対声明すると決議し、実行してきている。それはそれでいい、が、機械的反復行為の 価値逓減は免れない。儀式化もしてきている。むしろ必要なのは、そのつど理事各位の強い意見交換だろうと思うがそれは今は言わない。
 そういう日本ペンの姿勢を本質的・文学的に補強する意味でも、優れた「文学作品」の訴求効果を以て世界に訴えようとする行為は、日本ペンクラブらしく、 また「ペン電子文藝館」の趣旨にもかなっている。
 なぜ「夏の花」か、原爆ものには他にも佳い作品が有るのにという当然の議論も有ろうけれど、そういう議論こそが、えてして、ものごとを混迷と腰砕けに誘 い、なにの建設的なものも持ち出し得ない結果に終わらせる。
 「夏の花」は、昭和二十二年という発表時点が示すように、GHQの禁止の目をかすめるようにして「三田文学」に発表された、稀有の作品、最も早い時期の 原爆文学の古典である。数多く一時に望めない以上、この一作には「代表力」が在るとわたしは思う。インターネットの性格を活かすならば、外国語で、日本ペ ンの統一された意思で、世界へ発信することにこそ意義があると思う。その資格のある「一作」となれば「夏の花」の右に出る作品は無いだろう、質的にも適当 な長さでも、書かれた時期の早さでも。
 同時にまた、「反戦・反核」文庫を「ペン電子文藝館」のなかに設けることも容易である。それも好企画ではないか。かねて梅原会長以下、日本ペンクラブの 出版物として「戦争もの」が出来ないかと繰り返し言われながら出来てこなかった。それは紙の本企画に執して金銭利益を挙げようとするからであり、「ペン電 子文藝館」を活用すれば、そういう特別室を設けて、広く統一的に公開するなど、紙の本に比べれば何でもない。費用も殆どかからない。金儲けが主での「戦争 もの」出版をというならやむをえないが、「戦争もの」の文学と日本ペンクラブの姿勢とを質的に繋ぐ気なら、「ペン電子文藝館」を活用すれば良いのである。
 世界の、この作「夏の花」の翻訳者にはたらきかけて、何らかの「協力」「協議」に応じて貰えるよう、日本ペンクラブの名において折衝する力は、「国際委 員会」もあるのであるから、発揮できるのではないか。
「ペンの日」理事会に提議する気でいる、が、さあ、理事諸公の反応はどんなものか。 

* 澄み渡る空気  急に寒さが増して、先月終わりには青嵐だったもみじが、見事に紅葉し始めました。京都が無性に恋しくなる時期です。
 ホームページに「小説の仕事をしていると、身のまわりの空気が澄み渡って弾んでくる。時を忘れる・・」と書いていらっしゃるのを読んで、本当に嬉しかっ たです。評論も日誌も・・文学的な営為であることは十分に弁えておりますが、やはり本領は小説にあって欲しいと、これはわたしならずとも願っていることで しょう。もっともこんなことを書くこと自体大いに礼を欠いたこと、僭越と思いながら、つい書いてしまいました、お赦し下さい。どうぞ澄み渡った、弾んだ気 持ちを大切に、仕事が進まれますように。
 そして一日一帖の割り合いで源氏を読まれるとか! これは「大計画」ですね! 最初はいいですけれど・・若菜のあたりになったら、わたしだったらもうギ ブアップでしょう。まあ、その時は数日で一帖で・・春までの、冬の楽しみですね。何よりも音読の耳に心地よい楽しさ。語るのは我か彼かというような「音読 の物語」のもつ呪縛性さえいっそう強まるのではないでしょうか。バグワンは暫く少し脇に置かれるのでしょうか?
 わたしの「作業」は捗っていません。文章を書くこと、それを再構成すること、「編集」することに関しては、原稿用紙に書くのと違った便利さを享受してい ますが、やはりデジタルでなくアナログ的な思考や作業に頼りたいと痛切に感じることがあります。コピーして全部を目の前で見る形で、俯瞰的に全体を見なが ら再構成したいのですが・・
 目下わたしの器械は問題続出です。人に頼んで他でコピーしてもらったりすればいいのですが、今の段階で殊に身近の人には読まれたくないのです・・家族に も友人にも。わたしは臆病で神経質で、表現者としてはおそらく失格でしょう。
 一番大事なことは、何を伝えたいかということ・・その衝動、衝迫力はありますが。足踏みしながら、それでもあれこれ考えあぐねて時間が過ぎていきます。 去年あたり、よく言われましたね、お気楽主婦って。わたしはそれを返上しようと努めているのかしら!?
 先週は外出が多く、そして今週も金曜日、土曜日と姉たちと京都、奈良に行きます。美術展の梯子も疲れますが、気合を入れて? 楽しんできます。レンブラ ント、一遍聖絵、メトロポリタンなど、そして勿論もみじを楽しんで・・。奈良は数年ぶりに正倉院展を見て、あとは散策するでしょう。そして美味しいもの食 べたいという欲張りも、でもこれはよほどでないと、もうなかなか驚きませんが・・日頃は質素ながらも楽しんでいるのですから。
 風邪など引きませんよう、目、大事に大事になさいますよう、大切に。

* 源氏物語は、ずるずる読んでいても必ず挫折する。なにか、機械的に自身を迫めつけていないと途切れるおそれがある。それでわたしは、昔から、読み出す 限りは「一日一帖(以上)」を自分に強いた。この人のメールにもあるように、「若菜」上も下もそれだけで中編小説ほど長く、此処を乗り切るのがきつい。し かし此処まで来ていると、物語世界にも浸染されていて、それに力づけられいる。頓挫したことは一度もない。
 この人は、アバウトに読み違えているが、わたしは今度は、別の迫め方をしようとしている。一日一帖ではない、「音読で毎日」である。音読では一日一帖は 無理である、声が続かない。永くかかってもイイから「音読」を楽しむのであり、二日め、桐壺更衣の死を読み終えている。声に出して読むのが昨今のはやりだ そうだが、音読習慣をわたしのようにもう十数年毎日欠かしたことのない人は、少ない。始めても、みな、一時の気まぐれでやめているようだ。
 むろんバグワンの音読は、やめない。幸い傍にいる妻が、バグワンをいやがらない、この昨今は進んで聴いているらしい。ときに感想も言うが、賛嘆の気持ち が汲み取れる。
 言うまでもなく、源氏の音読は「美しい」体験である。心地よい音楽に遊ぶようである。同時に、こちらの理解や味読の度が如実にためされる。
 むかし、娘の大学受験勉強を手伝って、古典は声に出してどれほど正しく読めるかがポイントだよと、本を積み上げ、片っ端から音読させ、聴いて間違いを正 すという、それだけのおつき合いをしたことがある。娘は、おぼえているだろうか。声に出してまともに読めてしまうなら、かなりものは見えている。

* 雑誌「ミマン」に、もうずいぶん昔のことだが、電子メールに関して原稿を頼まれ、電子メールは、一種の「恋文効果」によって人を魅するであろうと書い た覚えがある。携帯電話の若いひとたちのあの夢中ぶりを、もし一言で尽くすなら、恋文、または擬似恋文に浮かれているのだと解説出来るだろう。われわれの ような、フツーの大人でも、電子メールでは、意識無意識の別なく自然に「闇」を介して恋文的にものを書いているのに気付いている人は多いはずだ。わたしな ど、電子メールと限らず、手紙は、たとえ事務的なものでも、多少は恋文のように書いた方が佳いと、勤め人の頃から実行してきた。べつの言葉でいえば「ハー ト」で書くということだろう。「手紙は恋文」とわたしは思うことにしている。わたしの恋文は日本列島の多くへ無数に飛んでいる。
 上に戴いたメールでも、自然に恋文めいて覗き込む人はいるだろうが、これも少し軽薄な口をきけば、顔の合わない「メルトモ」メールの自然な流露なのであ る。ハートが感じられる。

* 電子文藝館の入稿・校正にまつわるエピソードに触れ、ああ、頑張ってばかりでなく、楽しんでもおられるのだなあ、とほっとして、嬉しくなりました。
 昨夜は、二つ年上の作家氏とうまい酒を酌み交わしました。水上瀧太郎の「山の手の子」も読んでおられ、麻布のお屋敷で少年時代を過ごした話も出ました。 ほんのちょっぴり私にも楽しみのおすそわけをいただきました。「公と私」のそれぞれの想いを、とくに近現代史の流れのなかで吐露しました。実生活の哲学と いうべき珠玉の短文語録を残したフランスの評論家・アランを、彼は引用し、楽天的に生きる喜びを、「公と私」にも敷衍していたような。秦さんのメール論議 に参加できなくても、これも受け売り・あてがいぶちの楽しみの一つかとも。
 原民喜「夏の花」選択・評価の慧眼、感じ入っております。今朝の新聞の金言に「速く書くことのできる人の欠点とは、簡潔に書けないということだ。」(英 国の小説家・詩人、ウォルター・スコット)とありました。「私語の刻」の達意の短文、毎日楽しみにしております。おみちびきありがとうございます。

* これも或る意味の恋文を頂戴した気分である。思いの流露。それが手紙では自然な作法か。

* 「蛇と公園」の中で 「四度の瀧」のことにも触れて居られましたので、今、また読み返しています。
 水戸の夜のドライヴの場面を読み進みますと、私は決まって遠い昔の日のことを思い出します。「知ってたら 言(ゆ)ぅて」と言われた この言葉。45年 経った今も脳裏から消えません。
 永平寺大遠忌に参詣の後、白山スーパー林道で紅葉を楽しみ、白川郷で合掌造り集落、ここでは民家にも入って散策して来ました。人が多くて、写真で見る風 情とは随分違いました。
 岐阜の休憩場所で、小器に入った”うるか”を買って帰り熱燗で一献飲りました。初めて食しましたが、歯が軋むような、舌が痺れるような不思議な食感で、 家族らにも奨めてみましたが好んでは食べてくれません。そんな肴で一合の酒で赤くなります。
 百万遍知恩寺での 古本まつり、若い友人の車で出かけてきました。秋声全集の端本など と、北沢恒彦さんの「方法としての現場」を手に入れました。「家 の別れ」は、以前、読みましたがこの著書は知りませんでした。
 一月に、東京に行く予定です。お目にかかれますと本当にうれしいです。
 急に寒くなりました。どうぞ お大切になさってください。

* このメールも、胸を静かにふるわせる。ご本人にしか決して分からない、むろん、わたしと出逢うよりもはるか以前の思い出に、そっと触れておられる。そ ういう思いを触発するように、わたしの作品=小説がはたらいたのなら作者冥利で、友人としても嬉しい。「四度の瀧」は、かくも京都=上方の男であるわたし が、珍しく茨城の袋田の瀧を書いた妖しくも時空を超えた恋の物語。その物語へ利用させて貰ったのが、たまたま贈られてきたばかりの未知の歌人篠塚純子さん の第一歌集「線描の魚」であった。


* 十一月六日 つづき

* 日本酒を贈ります。  秦さん。ある蔵元は秋に購入希望者からお金を集めて米を買い、それでお酒を造ります。この仕組み、「酒蔵トラスト」と呼ばれて います。出資者には山廃仕込純米大吟醸が、春から合計三升、無濾過生原酒、原酒、熟成原酒の順に宅配便で送られます。
 近いひとからこの話を聞き資料を取り寄せましたところ、商売上手なのか数え違いなのか、申し込み用紙が一枚多く入っていました。
 勝手ながら今日、私の自宅のほか、秦さんのところへも送るように申し込みました。来春、富山県西砺波郡から荷物が届きます。
 飲みすぎをすすめるようでちょっと心が痛みますが、ぜひ楽しんでください。おいしいはずです。

* おおきに。佳い香りがもう届いたような気がする。「文学概論」満員の階段大教室の、向かって左端、前から七八つ上の席から、いつも教壇へつよい視線を 送ってきた白い顔を想い出す。何年前のことだか、思い出せないほどになったが。
 ありがとう。
 年はわたしの半分に満たないが、あの頃のみなは、もう若いとばかり言っていられない場所へ出て仕事をしている。気持ちの上できつい坂へかかっている。た ぶんお酒の味はわたしの方が厚かましくも堪能できるかもしれない。だが、酒など一滴も口にしなかった、したくてもそんな余裕の無かったのが我が三十前後で あった。その頃が、だが懐かしい。その頃ではないか、わたしが「慈子」の初稿に没頭していたのは。
 来る春が、楽しみである。
 やはり元の学生クンに、栓をあけるのは来年のお正月にしてください、ぼくらも呑みに行きますからとシチリアのワインも預かっている。もう幾つ寝るのか な。


* 十一月七日 木

* 冷え込みのきつさに気が萎え、かろうじて郵便局まで。欠かせぬ校正や本の郵送があった。坂道を自転車ですべる胸もとへ、危険なほど差し込んでくる痛み があり、怖くなった。日光のささない日は気が晴れない。

* 高田衛さんに戴いた『お岩と伊右衛門─「四谷怪談」の深層』がおもしろく、忽ち半ばまで読み進んだ。
 わたしは怖がりだから、怪談には好んでまで触れようとは思わない。しかし怪談にはどこか「怕」いという文字が暗示しているように、心を真っ白にするよう な働きがある。秋成の「雨月」や「春雨」を愛読書の上位に早くから置いてきたには、それだけの感銘があったからだ。
 四谷怪談がべらぼうに怖いことは、まだ物心さえ頼りない小さい頃に、祖父の蔵書の中に、明治か大正の『歌舞伎概説』があり、文中、細字で幾つも狂言の梗 概が挿入してあるのを、そこだけ拾い読みして興がっていた中でも、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」の粗筋に惹かれ、黙阿弥の「三人吉三廓初買」などととも に、印象深かった。
 活字で読む限りお岩さんの幽霊も、さほどは凄くはない。そして印象の中で、お岩のあわれ以上に伊右衛門の悪の凄みに、何かしら創作の意義を覚えていたと 思う。

* 大人になってからも、舞台を、観に行く気はなかった。歌右衛門のを初めとして四谷怪談は、歌舞伎以外でも上演ごとに新解釈の演出が評判になる。それほ どのつまり「深層」のありげなことを興味をもって推測していた、いつも。
 高田さんは、この材料はイヤがる人もあるので献呈を遠慮していたのですが、やはり差し上げたいと、送ってきて下さった。嬉しかった。ご厚意も嬉しく、し かし「お岩と伊右衛門」とはズバリ関心に応える好題で、「待ってました」という本であった。期待も裏切られなかった。
 それにしても四世南北の台本には、先行する実録小説「四谷雑談(よつやぞうたん)」があり、それらに依拠して、馬琴も種彦も読み本を書いていた、また南 北歌舞伎に先行して「謎帯一寸徳兵衛」などの歌舞伎劇も在ったことなど、わたしは初めて克明に教わった。いや、そういうことをきっと教われるだろうと期待 したが、章を追って期待は酬われている。だが、四谷左門町のへんにあるという「お岩稲荷」や「民谷神社」にまで行ってみたい好奇心は、ない。怖い。

* それよりも、ここでわたしの一つの感想を、いや感想へ纏まるかも知れない手がかりを書き留めておこう。高田さんの本で、出てくるかどうか、後半はまだ 未読であるが、勘では、出てきそうにないから。
 四谷怪談は、もともと実録に依れば、一つの幕僚組織の中で旗本三家に襲いかかった絶滅の物語である。そのうちの一家がお岩の家で、岩は、稀代の醜婦で あった。父亡きのち、婿に来てのないのを、悪く謀るようにして浪人の伊右衛門を迎えたが、彼は妻のたとえようもない醜貌を祝言の盃をかわし、民谷家の相続 者と成り終えてから、初めて見知った。仰天したがあとの祭りであった。
 この民谷と職務上ごく親近した上司には二人もの妾があり、伊右衛門は、その一人の花という美人に心惹かれた。上司もそれと察していたが、そのうちに花は 上司の子をはらみ、体面上よろしくないと思った上司は、花と伊右衛門とを夫婦にし、腹の子を伊右衛門に預けてしまいたいと画策した。そのためには、妻の岩 が邪魔であった。
 だが邪魔者は何とかして遠ざけた。事実上岩は納得づくで伊右衛門と離縁したが、彼と花とのことは、岩は知らなかったのである。
 伊右衛門と花とはうって変わって仲良い一組の夫婦となり、さらに三人の子を花は産んだ。ところが、それと知らずに家を出て他家に奉公していた岩の耳に、 そのことが聞こえたのである。岩の逆上と変貌と狂走・失踪の場面はすさまじい、が、ま、その後四十年もの歳月をけみして、その間に関わった三家の上には、 陰惨で不思議な死がおちかかるが、その方は、今は措く。
 実録小説だから事実どおりと思うのは早まりで、それはそれ、潤色も脚色もあろうけれど、ここで、気になるのは、伊右衛門をはさんでの二人の妻の名前が、 「岩」と「花」であること、これに着目すれば、なにかしらこの創作的実録のまさに「深層」に、古事記の天孫妻問いの場面がよみがえるではないか。美しき木 花咲耶媛と、あまりにも醜き岩長姫。親神の大山祇神は天孫にむかい二人ともに娶れと奨め、しかし、天孫は岩長姫に辟易し木花咲耶媛だけを妻にした。父神と 岩長姫はのろいを発して、岩の命のとこしえをうち捨てて人の世に生きようとする天孫の子孫は、あわれ、寿命みじかいであろうと。

* なんとも符合して、「岩」「花」なのである。伊右衛門は水際だった美男であり、天孫の風情を或いは承けてもいようか。
 さ、こんな気の遠くなるような所ヘまで高田さんの筆がのびているかどうか、読み進めて行く。

* 柳浪の「黒蜥蜴」は、凄まじいとはこれだという悲惨小説であり、うんうん唸りながら、ぐいぐい読まされる。読ませる力にまた凄みあり、一種の傑作であ る。
 川上眉山の「ゆふだすき」は、深刻でも悲惨でもない、さりとてただの人情話でもない。やはり最後の最後までだあっと一気に引っ張ってゆき、そこで趣向に なる。やはり観念小説では仲間であった、一時の鏡花の感じにもちかいが、鏡花の天才とはくらべられない。いい男であった、樋口一葉はこの眉山に好意ある印 象を生き生きと書き残しているが、この美男子作家は自殺している。彼をよく知る同時代作家は、一言「貧窮」の死なりと、ことわりを付けた。自殺でなくて も、貧しくて死んでいった優れた文学者は過去何人もいた。一葉も啄木も。紅葉でも鏡花でも広壮なお屋敷に住んでいたわけではない。昨今では、古い大きなお 屋敷住まいが看板になり、ワケの分からない栄爵にあずかっている物書きもいる。家しか自慢できない文士なんて、バカみたい。


* 十一月七日 つづき

* 絶対にいけません。いやだな とか、おっくうだな と思うのは、天が教えてくれているのだと思います。欠かせぬ事も、欠かせましょう。
 しとのこと云えませんが、私は冬用の「ニトロ」を新しいのに変えて財布に入れました。
 何べんでも言います。寒さ、自転車、無理、はだめです! 絶対にいけません!
 どうか、どうか、お大事にしてください。

* しない積もりでしているのが、無理不自然。楽しめる無理や不自然のあるのも知っているが、たかが小さな用事のための無理は、叱られて当たり前だ。恐 縮。

* 今日も一日機械の前にいた。晩にはテレビ映画でもみるかと思っていたのも、気が付けばそんな時間はとうに過ぎていた。明日も冷え込むとか。ふらっと出 たいと思っていても、日が照ってないと心弾まない。そのうえ、やたら仕事が重なり合っている。依頼された原稿、書くとも書かぬとも返事もしていないが、む かしはそんなことは夢にもしなかった。が、たとえわずかなお金にはなっても、新しい思いや発見の追加できそうにない仕事は、ただの繰り返しに終わるおそれ の仕事は、もう、したくない。
 さ、階下におり、バグワンを読み、源氏の桐壺を読み、お岩と伊右衛門との葛藤をとおして、もっと、ものを考えてみたい。
 気が付いてみると、文化の日、お能の「羽衣」のあとにうまい酒をのんでから、以後四日、わたしは一滴もアルコールに恵まれていない。そのせいか、今朝の 血糖値、久しぶりに100を割り込んでいた。若山牧水を中学三年頃に愛読し、秋は静かに酒をのむ季節と覚えたが、なに、四季おりおりに酒は佳い。インシュ リンのご厄介に朝昼晩となりながら、気持ちは、上田秋成の遊印にある「生涯在酒」となるらしい。その実、秋成はすこしも呑まなかったと云う。その辺が及び がたく、呑まずしてわたしは少しアカクなる。


* 十一月八日 金

* スペインに勉強に行っていた卒業生が、一年余を経て帰国したと昨深夜に連絡があった。落ち着いたら私とも逢いたいと。どんな土産話があるだろう。
 五島美術館の「名碗展」招待券を卒業生の二人からそれぞれに希望してきた。男性と女性と。
 茶道具の中で、何といっても最も興味深いのは茶碗である。茶碗ほど微妙に「空間」を餌食に生きている道具は少ない。茶室という時空を、源点になって、支 配してくる。展覧会の陳列棚では、嘆賞するには限界ありといえばその通り。五島でも出光でもサントリーでも、茶碗となるとガラスケースに陳列している。致 し方ないが、茶碗の魅力は掌に抱いて唇をつけた時、最高に生きる。ま、ないものねだりしても仕方がない。
 男の卒業生は、「先週末、お茶会に参加してきました。そんなに緊張するでもなく点前する事ができましたが、大盛況で、朝から夕方まで休む間なく、けっこ うハードでした。良くもこれだけ人が集まるものだと感心してしまいました」と。たしか根津美術館の茶室をつかったようで、あそこの茶会は、いつも大寄せで 賑わっている。
 女の卒業生はいま心に傷を負うている。ひょっとして偶然に、国宝の青磁「馬蝗絆」や「満月」、木の葉天目や青井戸や、楽初代長次郎の「無一物」「大黒」 などを、二人が偶然にならんで熱心にのぞきこむかも知れない。それぞれの思いに、無比の名椀がどう呼びかけるか、楽しみだ。明日が公開の初日である。

* 夜前は例の読書で夜更かしし、今朝は一度起きようかと思いながら、あまり床の中が温かに居心地よくて、いいや視力をゆっくりやすませてやろうと思いつ つ、いぎたなく正午まで熟睡していた。
 起きてるとひっきりなし視力を消費している。寝ているのが強制的な休息だと思い、幸い何の義務も負わないで済む老境だものと居直って、ときどき、どか寝 をしている。
 医学書院のむかしの同僚が、インスリン等の経口投与の新手法を報じた日経の記事をメールで送ってきてくれた。わたしが、いと気軽に注射器の針を腕に刺す のをみて、ちり毛立ったらしい。刺すとき次第で痛かったり痛くなかったりだが、ま、何でもない。子供の頃は注射だというと反っくり返ってあばれたのがウソ のようだ。

* 人権擁護法案の再審議が国会で進んでいる。ちいさな修正などで法の真の底意を看過しないでほしい、大きな目的が、「政治屋悪行擁護法」化にあるおそ れ、十二分にある。個人情報保護法の方は、住基ネットを拡大拡張してゆくことで個人情報収奪と管理は出来ると、もう総務省は、踏んでいるのだ。だが、住基 ネットの方も、加藤弘一氏の探索と情報提供を逐一見て行くと、とんでもないシロモノであることがますますハッキリしてきている。マスコミがこの方面のキャ ンペーンをもっとやってくれないものかと、ジレッたい。


* 十一月九日 土

* 福田歓一さん(元東大法学部長)から、わたしの新刊『からだ言葉 こころ言葉』にお手紙をもらった。本をお送りすると、必ず読んで感想を下さる。今度の本では、最後に入れて置いた「からだ言葉と日本人・ ことばと暮らし」のところで言い及んだ、「正座」ということばと慣行にふれておられる。前から「正座」が気になっていたと。
「私の年になると不祝儀など弔問して正座が本当につらくなります。早くから椅座に馴れたせいもあるかと思いますが、八十になろうとする身にはもう立つこと がむつかしく、(秦の謂う)由来を学んで、明治体制が江戸時代の武家のならいを強制したこと、それには旧民法の家族法もあります、が二十一世紀に残る災厄 のように感じました」ともある。わたしなどより年輩の方から、正座についてこれほど明瞭に辟易の発言をされたのは珍しい。
 わたしは茶の湯を習い始めた少年の昔から、脚の甲高にもよるが、正座がつらくて、じつは「先生」をしていた昔でも、時間が長びくと胡座を余儀なくされ た。茶会に出掛けるのもかなり苦行になった。お道具拝見などで、延々と時間が延びる悪習慣に懲り、大寄せの会はひとしお逃げたくなった。
 その体験から、わたしは日本人の座り方に疑念をもちはじめ、利休の時代までに正座習慣などとうてい日本人の日頃に認めがたいことに気付いたのである。老 若男女、階級を超えて、正座は尋常な座法でなく、極度の謙譲(如来の脇侍)や、極度に強いられた卑賤、罪人以外に、正座などはしていないと多くの例証にあ たって確認した。茶聖といわれる利休の座体を何点もの肖像画や彫像にあたっても、正座例は一点もない。しかし孫の千宗旦が八十代の画像になって正座で描か れる。同時代の尾形光琳描く国宝「中村内蔵之助像」も正座である。ともに元禄の頃で、この頃からは日本人の日常に正座が普通のようになる。
 江戸の武家の城内作法が整い、主従関係が強化され、また厚畳の建物が、またそれに相応した衣服の変化が出てきて、ようやく正座が市民権をもちはじめ強制 力も持った。
 そしていつのまにか、この、韓国人ならあらわに「罪人の座り方」とわらうような座法を、日本人は「正」座と名付けるようになった。わたしは、この「正 座」ということば、物言いに不満をもった。裏千家の「淡交」誌に連載を頼まれた大昔、はじめて私が利休居士の像に正座例などないことを指摘し、茶を点てる 姿勢が正座でと定まっていったのは、時代が下がってからではないかと疑問符をつけた。映画で競うように利休が主人公になったときも、その点からの批評をわ たしは書いている。   

* からだで覚えると謂う。正座で脚が辛かった、身にしみるそんな体験が、なんでもない、だが大きな事に、気付かせた一例である。人の思想は、こういうふ うに作られて行く。知識だけで出来る思想はたかが知れている。

* 昨夜もバグワンを読んでいて、頷いていた。論理は、ちいさいものにしか通用しないと。小さいモノゴトには論理は大きな顔をして幅をきかせるけれど、命 の底へ触れて行くようなことになると、生死のことや無心のことや、思いも及ばぬ不思議を前にしたとき、論理は何の役にも立たない。そういうものにくらべて 論理がいかに小さいか狭いかはハッキリしているのに、人は論理にとかくしがみつくことでエゴ=心を守ろうとする。


* 十一月十日 日

* 昨日、東大教授の上野千鶴子さんから、『サヨナラ学校化社会』というおもしろい本を贈られた。教育学というより、社会学の本で、堅苦しくはないが本質 へ鋭角に触れてゆく上野千鶴子流の体験論になっている。すうっと、本文に溶け込むように惹き込まれる。上野さんには会ったことはないが、京都から東京へ出 てきた人という妙な親しみがあり、うじうじしていないところも昔から好感を持って見ていた。この人と田中優子とは必ず表へ出てくると期待していて、その通 りになっている。上野さんからは、これで三、四冊も本をもらい、いずれも歯ごたえ確か。『発情装置』といった「題」よりも、いつも中身は堅実で、深いし、 鋭い。

* 昨日の遅くに、松永延造の「ラ氏の笛」を一応校正し、今日妻に補校してもらって入稿した。この作者の名前も昭和二年(1927)に書かれていたこんな 作品の名前も、今では殆ど誰の記憶にもないだろう。いわゆる湮滅作家の一人であり、わずかに宇野浩二、平野謙、また草野心平や伊藤信吉、さらに滝田樗蔭ら が記憶していて、掘り起こしてくれた。その人達も今は悉く亡き数に入っている。「ラ氏の笛」は波乱に富んだ物語ではない、ひとり日本に在って病に窮死した インド人のことを書いている。地味な作品だが、得も謂われず胸に実存の音楽を響かせる。この作者は重いカリエスのため、身動き不自由で通学もならず、独学 で哲学や心理学をまなび、白樺を介してトルストイやドストエフスキーに学んで、一種風情に飛んだ実存的諦念を身につけていた。それが作風に結びついた。苦 労して書き下ろしの長編小説を、継いで戯曲集も出版したが、おそらく自費出版ではなかったか、その後に滝田樗蔭に認められたか「中央公論」に作品を発表し たが、終始文壇のアウトサイダーに徹したまま、カリエスの悪化から若くして死んだ。
 こういう作家の作品を「ペン電子文藝館」に招待することに、わたしは喜びを覚える。
 いま校正している松本勝治の「十姉妹」も、プロレタリヤ文学の忘れられた秀作の一つであり、黒島傳治の「豚群」とほぼ時を同じくして、優るとも劣らな い。
 わたしは、自身の作風や好みは、それとして持っているつもりだが、他方、どのような作品でも優れているかどうかは理解し受け容れることの出来るタチであ る。プロレタリヤ文学や非合法活動で苦しんだ人達の優れたものは、時代の証言としても、ぜひわれらが「招待席」に呼び入れたいと思い、多くを、精力籠めて 読み直している。
 校正を始めた平出修の「逆徒」は、大逆事件の被告弁護人の立場で、最も緊密に事件に接した問題作。
 わたしは、日本の近代史を省みるとき、いつも大逆事件を大事な原点の一つと見る。与謝野鉄幹の「誠之助の死」徳富蘆花の「謀叛論」石川啄木の「時代閉塞 の現状」なども、それを念頭に、大切に採り上げた。平出の「逆徒」は一つの極めつけになる小説であり、この作品の背後には森鴎外が隠れている。鴎外は平出 のためにひそかに世界の社会主義なるものについて指導を惜しまなかった。
 大逆事件は、「私の私」が「公」の弾圧とフレームアップ(でっちあげ)により潰されて行った最たる歴史的事件の一つであり、忘れてはならない。

* 新しい「湖の本」発送への準備は、順調にスタート。去年の暮れは、誕生日が過ぎても仕事が残って歳末はてんやわんやであった。今年は、きれいに締めく くってゆきたい。


* 十一月十日 つづき

* 刊行した「湖の本」新刊講演集『私の私・知識人の言葉と責任 他』への、ドカーンと響くような言説が、メールで届いた。ちなみにこの講演集の内容は、「私の私」「マスコミと文学」「蛇と公園」「心は、頼れるか」「知 識人の言葉と責任」の五つを収めている。
 東工大の教室で、「アイサツ」という形式でわたしと「対話」していたのを記憶している諸君は、銘々の生活の場で、少し、この新たな起稿者に付き合って欲 しい。ものすごいまで忙しくしている中で、こう腰を据えてアイサツを返してくれた人に、感謝します。

* さきに、この「闇に言い置く 私語の刻」に、「私の私」を題材にした感想・意見が書かれていました。
 それに関連して、返答ないし感想を、私も、講演集『私の私・知識人の言葉と責任他』を題材にし、書きたいと思います。
 「湖の本エッセイ25」は講演録集ということもあってか、秦先生の編集能力が遺憾なく発揮されている一冊となっている、と感じました。
 これは私が自身の「表現活動」において、表現としての「編集」を発見したことによるのかもしれません。例えば制度に対する講演録を編むということ自体 も、編集であるばかりでなく、五つの講演を集めながら内の二つをタイトルに用い、また、「私の私」のみに質疑応答が収めてあることにおいても、表現の場に 触れた明白な編集意思を感じます。新しい小説やエッセイを創るのと同等の創造行為に類するものだと確信しています。「編集」に関するこの上の考えはまたの 機会に譲るとして、少なくもこの「編集を読み」落とすと、この本に埋め込まれた大きな流れを読み落とすような気がします。

 「私の私」は「3部+質疑応答」という構成をとっています。これは重要なことだと思います。「手」があり、「私」があり、「外」が話の展開をします。そ して「黒い影」の話が、ポンッと投出されたまま終わります。そのあとへ、この講演録でのみ聴衆(高校生)との質疑応答が載せらたことによって、より具体的 に秦先生の思いが語られます。
 まず、第一印象から述べます。
 さきの「投稿」での「私の私」に関する議論で、私は、あの「仮面」のことを思い出しました。
 大学の頃、秦先生の教室で、「仮面」について問われ、それへのアイサツに、「私は仮面をかぶっていない」と書きました。あれから十年経て、「仮面」に対 する自分の考えは変わりました。
 私は、仮面をかぶっています。仮面をかぶらない私は存在しない、という考えになりました。つまり、「仮面をかぶっている私」という考え方が暗に前提して いる「仮面をかぶってない素のままの私」なんてものは、いないのではないかと今では考えているのです。
 これは、「仮面をかぶっていない私」と謂うのと、同じようでいて、まったく違うところに自分が来たな、という感想を持ちます。「仮面をかぶってない素の ままの私」が全ての状況に対処していく・いけるという考えと、それぞれの環境・状況に対して、それぞれの私=「仮面をかぶっている私」が対処していくとい うアプローチでは、180度違からです。この考え方をすると、現実に起こる事象には統一性があるわけではないので、環境(時間・空間)の差異によって、秦 先生の言葉に借りて言えば、"位置取り""立ち位置"により対処が変わり、一個の私の中に矛盾が生じます。しかしこれは避けられない現実、もしくは受け入 れるべき現実、なのではないでしょうか。
(離れた議論になるので突っ込みませんが、この「現実」と「受け入れ方」によって、多様性が生まれてくると思います。)
 このような「仮面」に対する考え方から、「私」とは、矛盾を常にはらんでいる「曖昧な全体」を形成しているものなのではないか、そういう「おぼろげな全 体が一個人なのではないか」と感じ始めています。
 例えば関係を距離と大小によって切り分けたとします。
 「対他の関係の大小」によって曖昧な「私」の形は、関係の強くある方向の一部は大きく成長し、逆に関係の小さなところは収縮していきます。そのような、 他の世界との距離の取り方で、出っ張りや引っ込みが作られます。そのような関係の中で生ずる「私」の中の矛盾は、矛盾する要素同士で距離を取ろうとするで しょう。それによって対他・対自関係の両面によって、異常なほど不思議な全体が作られるでしょう。
 イメージで謂うと「こんぺいとう」のような突起のある不定形な全体というか、アメーバのように全体の形を変えるものです。その変形した形を「仮面」と感 じることがあるのだと思います。
 こういった考えを下敷きに、前提に、「私の私」を考えてみると、(前のメールで説かれていたような)「私」の延長上に「公、つまり私の私」が存在すると いう考え方は、適当でない、のではないかと感じます。
 逆に、最奥にある「私」、譬えて謂うなら、玉ねぎの皮をむききった中に残る芯としての私=「仮面をかぶってない素のままの私」、と「公」を対(つい)に して考えることも可能で妥当ではありましょうが、その対概念は、「私」が持っている「関係」の中の一つであると考えたい。
 先述したように、集団の中の私は、集団という錯綜する「関係」の中に置かれます。当然その中での自分の位置取り、立ち位置は重要なものとなります。これ は「単体」として在る時の私にはまったくありえない状況です。これを考えただけでも、単純に、私の集団化による公は、私の欲望の先にあるとはいえないで しょう。

 つまり、他の何者も措いて、「私だけ」があるという考え方に対し一番違和感を感じるのは、「私」に対する絶対的な信頼です。つまり、対概念として公と私 を考えるときに、「そんなことはないんだ、私だけがあるんだ」というのは、私を単純化しすぎていて、問題を曖昧にしているのではないかと感じるのです。
 重要だと感じるのは、先ほど書いたような、アメーバのように伸びちじみする「私」が、どのようにして対他(対多)関係を作っていき、単体のアメーバとし て「私」を束ねていけるのか、ということだと感じます。
 絶対的な「私」に信頼を置くより、相対的に変化している「私」に関心を集中しておいくことが、より正確な「関係」を造ることができると思うし、正確な 「私」像を把握できるのではないでしょうか。そのとき初めて、豊かな「私」が作り出されていくのではないか、と考えます。
 次に「外」に関して考えてみましょう。
 「私」に関して先のように考えるこの私は、どんな人間関係においても線を引くことは好きではありません。アメーバのように変化する境界という意味での み、「線」はあるべきだと考えるからです。
 しかし、一方で、私も、好むと好まざるとにかかわらず「線」を引き・また引かれてしまう場合が、多々あります。線を引くとは、すなわち、こちらとあちら を作り、内と外を形成することです。これは単体としての私だけを考えていたのでは理解できない事柄でしょう。さらには私(内部を持っている実体としての 「私」を仮定すれば、特に)といった瞬間に「わたし」と「あなた」を切り分ける線を引いていることになっているのかもしれません。とすれば、好むと好まざ るとにかかわらず、自分が直接的に関与するかはともかく、内と外とに線を引いているのです、現実に。そういうことが一つの「手」として存在する社会的とも いえる「つながり」の中に、「私たち」はいます。
 ここでそれは、私の「手」ではない、私は「まっ黒い影」にはならないと言っただけでは済まされません。
 つまり、私はいつのまにか、どちらかに「据えられている」のです。このどうしようもない事実に「意識」を据えなければならないのではないでしょうか。講 演「知識人の言葉と責任」て使われている「知識階級」なるものを形成する(してしまう)人々は、特によく深く意識せねばなりません。知識階級の歩んだ道の りによって、いろいろな形で不可効力的に「線」は引かれてしまっている、引いてしまっている可能性が高いからです。
 「線」は、様々な方法で引かれてしまいます。地形というわかりやすい方法もあれば、言葉という見えない境界によるものもあります。ですから、空間(物的 空間・言語空間など)が作り出す世界、すなわち観念が形成する世界には、「世界の境界」には充分に十分な、過度なほどの注意が必要です。
 最後に「黒い影」に関して。
 「私の私」において、「手」「私」「外」という流れと、ある意味独立した形で、黒い「影」が存在していると思います。それは「手」「私」「外」という考 えから生み出される得体の知れない恐怖として描かれている気がしてなりません。内と外とを作りだしてしまう「線を引く手」があり、それを引く力を「黒い 影」が象徴している、と感じます。逆からいえば、手によって「私」が不用意に「線」を引き、不用意に「内と外」を作り出し、「外」の世界の暴走を見て見ぬ フリをすることが、或る恐ろしい「黒い影」を育てることだと、語っているようです。
 ここで象徴的だと感じるのは、「黒い影」が実体を持たない「影」として表現されてあることです。実体を持たないがゆえに「得体の知れない力」となって常 に「私」に覆い被さってくるように感じます。その「影」はしかし、存在します。内と外という切り分けを飛び越えて、全ての「私=人=市民」の上に得体の知 れぬ「力」を圧のように行使します。しかも、それは決して、いいえ容易には、誰にも掴み取れないモノのように。少しややこしく謂いますが、つまりこの「黒 い影」は、内外を引き裂く線引きの結果に生まれてきてしまう、線を飛び越えてしまう見知らぬ「第三の存在(領域)」といえるのではないでしょうか。
 外の世界の暴走による「得体の知れない第三の存在」を、どうすれば、作り出さずにいることができるのでしょうか。現実を見回してみると、実はこのような 「黒い影」は、常に私たちの周りを徘徊しているのではないか、と恐怖感を覚えます。すでに、そういう切迫した状態におり、さらに加速させる社会へ走りだし ているような気がしてなりません。
 とても怖いです、この影が。
 引かれてしまう「線、内・外」をどのように「無化」できるのか、そういう方法、見方を開発していく努力をしていかなければならないと感じています。その 解の一つが、「仮面」との関係において書いたような、線を引かずに自分自身を常に変形させていくことなのではないか、と思います。それが「私の私」を、よ り認識し、線引きを無化する=私を大きくしていく方法のような気がするのです。
 以上、思いだけが先行し、まとまりのない文章となっていかと思いますが、私の思いをつづりました。さらなる意見をいただければ光栄です。

* わたしが、東工大で、学生諸君に三万五千枚ものアイサツを書きに書かせたのは、彼等の内側から自分の「言葉と思い」とを自然に引っ張り出すためであっ たが、その趣旨は、良く生きた。さもなければ、だれがそんな厖大な手記を書き続けるものか。
 上野千鶴子さんの本によると、東大の学生達のレポートを読んでいると、自分が講義した内容の巧みな「要約」ばっかりで、自分の言葉で自分の考えを書いて くる者の皆無に近いのに、驚いただけでなく怒り心頭に発して、何時間か、教壇から学生達に「吠えた」と書かれている。上野さんとは立場も違ったが、わたし が、「文学概論」といった講義をするひまに、学生諸君に書かせ書かせまた書かせ、さらに詩歌の虫食いを埋めさせ、さらに文学の機微を彼等のお得意な「論 証」という誘惑で鑑賞させたのは、学生達が、引き出しかた次第では、蜘蛛が糸を吐くように自分の「思いと言葉」を見つけだすに違いないと確信していたから である。要は、引き出し方なのである。大学の先生方は、多くこういう方角から学生を誘発することに手薄、気乗り薄だと、わたしは感じていた。先生方から学 生への信頼も薄かった、概して。
 どっちみち、高校を出てきて、成人したかしないかの学部の学生たちである、が、何の、彼等はすでにして「研究者に準じた」自負と、知性をもっていた。そ れが言葉で綴られてたとえ幼稚で未熟であったとて、それ自体は問題でない。要領のいいそらぞらしいオウム返しでしか者が言えない書けないより、はるかにイ イのである。

* 今日のこの「十年後」の元学生君が、社会人としての現場から投げ返してきた言葉が、たとえどうであろうとも、こういうふうに考えを纏められるのは、そ れはもう、すばらしいことである。会社に同居している大勢をみてごらんなさい、仕事から離れての言葉を、こう一心に紡げるなんて人は、なかなかいるもので ない。田中耕一さんのようにノーベル賞を取るかどうかは別としても、こういう人達が、自分の言葉と思いと、願わくは今ひとつ行動とで、世の中を支えていっ てくれる。そう、頼りにしたい。
 わたしもまた、この提言に応じてアイサツが返せるように考えてみたい。
 
* 人のサイトから引くのは気もひけるが、こういう「言葉」を紡いでいる人もいる、闇の奥へ。そこからひとすくい掌に受けてきたこういう文章も、紹介した い。

* (前略)少し迷ったがダウンジャケットを着た。部屋を出て階段を下り駐車場を横切る。思っていたよりも風が冷たく、空は相変わらず暗い。角を一つ曲が り、二つ曲がったところで白い何かがふわふわと降りてくる。
 雪だ。足が止まる。11月上旬東京都心。通り過ぎる見知らぬ女性が「鳩の糞かと思った」とつぶやく。雪は1分ほどで止んだ。雲は高速で流され、ジャケッ トの胸元を結ばれた水滴が滑り降りてゆく。
 もしかして、と私は思う。「生」とは、こういうことではないか。それは静かに天から降りてきて、刹那確かに存在し、そして跡形もなく消える。立ち会った ひとの記憶には残るが、それも新しい記憶によって葬られる。その場にいなかったひとにとっては聞き流すだけの物語。
 すべての用事を済ませ帰路に着く頃にはすでに晴れた晩秋の夕方。東の空に拭き忘れたような雲が残っていた。帰宅しテレビで見た気象情報では、初雪は北関 東で観測されただけだった。

* 清明で、少し寂しい。そしてものを思う。故郷をしのぶように。
 松永延造作「ラ氏の笛」の、「ラ氏」ことラオチャンドの死に目に遇えなかった、此の日本で唯一人故人と親しかった作中の「語り手」は、物語をこう結んで いる。

* 最後に、私は此処で、ラ氏が言ひ遺した一つの思念を想起する。
 「私は何んな場合でも、極く自然に、幸福を自分のものとした例を知らない。何時も不幸でもつて、幸福を買つたのである。」
 それなら、最も大きい不幸たる彼れの死を條件として、漸くに買ひ取つた幸福がありとすれば、それは一体何物であつたらう。
 私は思ふ。それは彼れが日本の地で持ち慣れた横笛を故郷の母へ無事に送り、その笛をして「汝の息子は平和に息を引き取つた、そして、汝の息子がこの地上 から影を隠すといふ事は、結局、月の一部が虧(か)けるのと同じで、本統は何一つ失はれて居ないのである。」といふ諦認を物語らせる事に他なるまい。
 然し、幸福といふには足らぬ、そのやうな浅い喜びを除いたなら、他の何処に彼れの死を以て買つた幸福が発見されよう。私は全く、その問ひに対して、正し い答への出来ないのを寂しく思ふのである。

* この最後の、無念とも不審ともいえる言葉をもちいることで、作者は幸福を否定したととるか、容認したととるか、判断をすててその向こう側に跳び越えた とみるか。
 不幸に哀しみ悩んでいる人は、少なくない。


* 十一月十一日 月

* 高田衛さんの『お岩と伊右衛門 - 四谷怪談の深層』を読み終えて、お礼に代え、下記の手紙を送った。関心ある人の反応も得たいと「闇」の底へも送り込む。

* お岩さんという名前 
 お手紙と、ご本『お岩と伊右衛門』を頂戴して、数日を経ました。ご本を読み終えてからと思っておりました。夜前、ことごとく読了、あらためて御礼を申し 上げます。
 私は怖がりで、芝居は殊に好きでよく観に参りますのに、「四谷怪談」等の怖そうな狂言は敬遠しております。とは云え、ご存じのように根が上田秋成の愛読 者ですもの、文字では、読んで、いくらでも楽しめます。四谷怪談は、ことに私には馴染み深い狂言でして。まだ国民学校の昔、祖父の蔵書中の「歌舞伎劇概 説」のような単行書に、主要狂言の梗概や抜粋が細字で多く載っていましたのを、それのみ大いに愛読し、ことに四谷怪談と三人吉三とに心を惹かれておりまし た。おそらく、血縁のややこしい趣向立てなどを、なにとなく我が身の生い立ちに引き比べて興がったものかと思います。
 ことに四谷怪談では、忠臣蔵との表裏の関連や、伊右衛門の個性に、ま、知的興味をこえた、泥深いおそれや、時代の煮詰まりなどを追々感じとるようにな り、「問題に富んだもの」という意識と関心とをずっと持して参りました。さりとて、それ以上に自ら踏み込むほどでなかったので、ご本を頂戴したときは、好 機到来、四谷怪談に関して頭の中を整理して戴けるぞと、ことのほかに歓迎し、喜びました。期待を裏切られなかったのも、云うまでもなく、たいへん楽しんで 着々拝読し終えました。
 で、読み進みながら、いつしれず私の頭に浮かんで、ひょっとして中で触れておられるかなと思いつつ、実は最後まで触れておいででなかった、むろんたわい ないことですが、また一つの「深層」「遠層」というか、「関連」というか、いいえ「無関連の連想」というか、それを申し述べて、お礼にかえうるかなあと。
 以下、お笑い下さい。
 ご本では「伊右衛門」の名前に関して、その異同など、精細に多方面から考察や挙証がなされました。
 その一方「お岩さん」の名前は、実録でも南北狂言でも柳桜講釈でも、例外なく「お岩」さんであり、それが「実名」であるか「趣向」であるかの詮議はなさ れていなかったと思います。登場の男達の姓名はモノによりずれて、かなり動揺しながらも、どこかそれぞれ類似しています。類似さえしていたらそれでいいほ どの、或る程度ルーズな命名になっています。
 ところが「お岩」だけは不動です、なんだか洒落を云うようですが。
 あまり動かぬだけに、当然根拠ある「実名」のようでもあり、同じ理由で「ツクリ名」であるとも謂えるかも知れません。ご本に、その点で特別議論のアトの 見られなかったのは、多くの研究者達も、「お岩」に限っては籤取らずと、無駄な詮議を割愛されたものかと想像しました。そうでないのかも知れませんが、一 応そのまま申し上げます。
 私は、今度、実録資料をも詳しく教えて戴いて、その感を深めましたのが、「お岩」という命名は、誰だか分かりませんが、この怪異物語を語り始めた(脚色 ないし流布した)ある種の知識人の思いに発した、「ツクリ名」ではなかったろうか、と思うのです。
 そのたわいない私のコジツケを白状すれば、実録でも講釈でもそうですが、「伊右衛門」をはさんで対立する二人の女の名が、「お岩」と「お花」であるとい う、その表現上の事実に、痛く刺激されるからなのです。
 申すまでもなく、この「美・醜」によって対立した二人の女は、遠く遙かに「天孫」の妻問い神話、醜き「岩長姫」と美しき「木花咲耶媛」を、直ちに、私に 想起させるのです。南北は「お花」を「お梅」としていますが、「咲くや木の花冬ごもり」の古歌からしても、此の「花」は、また、季節にさきがけた「梅」に なぞらえ詠んだものでした。
 四谷怪談の「深層」としては、まぎれなく、この「岩」と「花=梅」との、凛々しき「天孫ニニギ」をはさんだ神話的対立も、また、加え読まれてしかるべき ではないか。それを感じました。
 そもそも、実録(とは云え、細部に渡り、また要所に触れても、それがすべて真実事実通りであるとの保証などありべくもないわけですが、)「四谷雑談」 を、またそれに取材したと思しき南北の名作「四谷怪談」を、他の何より先ず最初に緊縛した発想の根元には、この「お岩」「お花」という、「なぞらえの命名 意識」が働いていなかったか。そう思いました。働いていたのは確実ではないか。
 単に、美貌・醜貌の明白な「符合」からしてもそう思われるのですが、その意義が、「古事記的な深層意識」とともに深く読み込まれ得るモノなのか、それと も単に其処ドマリの浅い「趣向」に過ぎないのか。その「読み込み」や「判定」を経ないままでは、「四谷怪談」の、生世話にとどまらない国民的・民族的な怪 談の真義が、云いおおせないのではないかなあと、そんなことを強く感じつつ、ご本を拝読していたという次第です。
 たんに「岩・花」「醜貌・美貌」の対比だけでなく、天孫ニニギをめぐる妻問い神話には、父神オオヤマツミが花だけでなく岩もいっしょに娶れと奨めていま すし、ニニギはこれを退け美しきコノハナサクヤビメだけを娶(い)れていますし、これに対し、山神も、おそらくイワナガヒメもともに、以降の人間の寿命・ 短命にふれた、激しい「呪言」を浴びせていますし、さらには、この美しき妻の「出産」をめぐっては、一夜孕みの疑念などからも、奇怪な火立ての産が強行さ れています。
 これらの多くは、四谷怪談の中で巧みに脚色されて居るともいえますし、そうでなくても、ここに男女の愛欲や嫉妬や疑惑や、人間的な感情のドロドロのすべ てが、既に描かれていたのだとも、謂えるようです。
 四谷雑談でも講釈でも、「お岩」さんは、殺されはせず狂走し、多年失跡していますが、その後の恐ろしくも血腥い成り行きを、予期また既知した人ないし人 達が、この女のほかでもない「実名」を、此処へ明らかに露出し固定しえたでしょうか。深い深い、遠い遠いオソレからも、はるかに日本神話に思い及んで、確 信犯的に、伊右衛門(天孫)をめぐる二人の女に、「岩」と「花」との名を与えたと見た方が、より根元的・心理的に妥当ではないのでしょうか。
 あまり深入りしてもたわいないボロがでるだけですから、ここでヤメます。またこれだけの話です、お笑い下さい。
 殺風景な機械の文字で書きましたこと、お許し下さい。
 どうぞ、日々お大切に、またますますのお仕事の加わりますことを祈念し、待望いたしおります。ご健勝を切に祈ります。

* 『古典愛読』という中公新書を出した冒頭に、わたしのような素人は、本を読むときに、極端に云えばありとあらゆる読書体験や実体験を総動員して一つの 作品に向かうと書いた。しかし専門家になればなるほど、そういう視野の展開はむしろ避けているようだとも書いた。江戸文学研究の泰斗である高田さんから、 何か云ってきて下さるか、少しワクワクと楽しみにしている。

* せっかく建日子が来てくれたのに、電話での打ち合わせ要請に呼び出されて、とんぼ返しにまた都内へ戻っていった。

* 山本勝治「十姉妹」は、幕切れが辛かった。平出修「逆徒」には緊張する。佐左木俊郎「熊の出る開墾地」は出だしから引っ張ってくれる。中戸川吉二「イ ボタの蟲」は巧みに語り初められ、何だろう、と少し息を呑んでいる。
 着々と起稿も校正も進んでゆく。わたしの仕事も進んでゆく。家から出なくて済むと、なにかとハカが行くが運動不足にもなる。体重は、だが、願っている水 準をかたく守っているし、血糖値も正常値に落ち着いている。


* 十一月十二日 火

* お察しの通り、日々忙しくしております。
 妻も、土日も無く、働いております。
 私も妻も何をするわけでもなく、普通に仕事をしているだけ、のハズですが。
 二人とも、子供を欲しいと思っていますが、それもままなりませんね。
 新たに投稿の人の「私・公」に関する文章を読んで、自分の思考力、発想力等々、格段に落ちている事に気が付かされました。当たり前です。正直に話すと、 この1年間でまともに読んだ本の数は、5本の指で充分数えられます。
 じっくり、ゆっくり新投稿の「メッセージ」を汲み取ろうと思います。
 今日も、未だ仕事です。また、ご連絡します。

* この卒業生のメールが、とても嬉しかった。こう「気が付かされ」それがごく自然に率直に表白されていて、まったくイヤミがない。このとおりなのだろ う、このとおりにものの言える、柔軟で温かいこの人の気持ちに、わたしは信頼を寄せてきた。気稟の清質最も尊ぶべしと。

* 佐左木俊郎「熊の出る開墾地」が読ませる。もっとも優れた農民文学の代表的な一つと目される。思想的には左から右寄りへ動揺の大きかった作者であった が、農民文学では地に足の着いた佳い成果をのこした。とくに「熊の出る開墾地」は小説としてよく出来た、表現の魅力に富んだ秀作で、まぎれもない代表作で ある。出だしからクライマックスへかけて、相当ドキドキさせる。もののあわれがある。

* 「年譜」を人がどれほど読むか知らないが、わたしは、文学全集などを揃えてゆくとき、まず一人一人の年譜をかなり丁寧に興味深く読む。それによりその 作家への共感や敬意やオドロキの念をもっておく。
 日本では近年「年譜学」的な関心も動きかけたと見えて、すぐに引っ込んでしまいがちだが、素晴らしい「年譜」は或る意味で最良の「研究成果」なのであ る。作家論をする人がその作家の年譜を、たとえば論じている具体的作品の周辺に限ってもよいが、どれほど書けるか、それが鼎の軽重をおしはかるポイントだ とすら思っている。
 年譜にも、まるで役立たずなものが多い。が、ほんとうにいろいろな人生があるのだという感嘆と、人間社会の相対化の果たせるのが、年譜の「徳」である。
「年譜」の大切さと、作りよう次第で恐ろしいまで成果を上げることも、わたしは、高田衛さんの名著『上田秋成年譜考説』に教えられた。わくわくしながら読 みふけり、ものを思い続けて、何十年になることか。

* 竹西寛子さんに「吉野拾遺」という、云うまでもない吉野葛の逸品をわざわざ贈って戴いた。佳い葛は、ほんとうに美味い。谷崎潤一郎の「吉野葛」を読ん だ昔がどんなに恋しいことか。岩波文庫の星一つ『吉野葛・蘆刈』をどんなにいとおしんで耽読したことだろう。最良の吉野葛の味わいと共に想い出す。高校生 であった。星一つの文庫本をいつも探していた。昼飯をはぶいても買いたかった。

* 上野千鶴子さんの『サヨナラ学校化社会』がベラボーに面白い。へらへらした読み物ではない、最新の学問を斟酌しながら上野さんの体験が光っている。口 調はいつもより温和であるのに、辛辣味も濃い。ウーン、ウーン考えさせるし、眼からウロコを落とす創見に富んでいる。さすが、ただものでない。

* 秦先生、大変ごぶさたしております。いつぞやは、いつもご連絡もろくにしないのに、突然お電話をしまして、ご心配をおかけしました。父も母も年をと り、若干糖尿病の気が・・・といったことはありますが、楽しく暮らしております。
 先生にお電話をしたころは、家族にもいろいろ心配をかけ、母は寿命が縮まったと申しておりました。当時単身赴任をしていた父も私の起こすさわぎのため に、急にこちらに戻ってくることもなんどかありました。相変わらず、人には甘えて迷惑ばかりかけて、自分は人のために何もしてあげない、エゴ娘のままで す。
 今はおかげさまで、私の方は、幸せです。いつだったか、建日子さんのおしばいを、学生のころゼミが一緒だった男の子をふたりつれて見に行ったときに、先 生にお会いしました。そのときに一緒だったうちの一人の子と、最近お仲良くしています。とてもいい子です。
 先生も奥様もお元気でいらっしゃいますか。ご無理をなさらず、日々お過ごしください。

* どうしているかな、幸せに佳い勤務と日常を楽しんでいるだろうかと想っていた、早い時期の卒業生から、メールが届いた。元気そうで、ほっとしている。 この学年の人とは、「総合B」という講座で、お互いにとても親しんだ。この人が、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を放送劇にしたテープは、いまでも大切にし て、時に聴いている。早くに外資系の大手企業に勤めて、もうベテランに近いだろう。授業のアト何人かで五島美術館や山種美術館に行ったりしたが、この人 は、館のタイムアウトになっても、気に入った作品の前からなかなか動かなかった。感極まると、よく泣いた。「とてもいい子です」と来たナ。

* この時期、昼の東福寺を訪ねたいと、毎年のように思い、そのまま冬を迎えます。
 一度だけ訪れたのが、紅葉の盛りの、日暮れ間際。通天橋は人混みを通過しただけ。とっぷり暮れたのち、あちこちを。人気の失せた境内。見上げる建物の 影。中から漏れる光。前を行く雲水さんの足音、衣のシルエット。夕闇のなか歩いた東福寺は、いくつものティンパニが響き渡るようでした。
 今は、清水寺など、たくさんの建物がライトアップされ、釣瓶落ちの日と駆け競べして訪ねる必要もないようです。

* 京の秋か。清閑寺やあの御陵の紅葉はもう燃えて燃えているだろうか。学生の頃、十一月二十六日に妻と鞍馬へ行ったのを覚えている。酔いそうに全山が紅 かった。京都へ行きたい。


* 十一月十三日 水

* 佐左木俊郎の「熊の出る開墾地」は、迫力あり面白みもあり、秀作と呼ぶに憚らない佳いモノだった。映画にもなったらしい、成りうると思った。何といっ ても移住開墾者集団の辛苦が、共感豊かによく書かれ、物語が惻々として身に迫ってくるのが佳い。大勢に読まれて欲しい作だ。妻に念校して貰い、今日にも入 稿できるだろう。さらに同僚委員に念校して貰い、キーマンとしてわたしが業者に最終指示してから、ようやく「文藝館」に掲示する段取り。一つ一つの作品の 展示までに、じつに多く手をかけている。

* 先生からじきじきにメールをいただき、仕事どころでなくなってしまいました。(笑)お持ち帰りの仕事は、この時間も放置されたままです。なんでもいい から、何かお話したくなってきました。
 久しぶりに、ホームページ「私語の刻」を見ました。今でもすぐ怒り、よく泣きます。
 あのころの授業で先生の話されていた、当時はよくわからなかったけれども、今はしみじみそう思う言葉は、「神様は不平等だ」というものです。不平等と は、幸、不幸を人と比較しているのではなく、ただ、どの時代に、どの家族のもとに、どういう素質を持って生まれてくるかといったことは、だれもが本人では 如何ともしがたく、一生その縛りからは解き放たれない、という意味で、そう思います。
 先生の若きお友達(!)の何人かが今年30歳を迎えているようですが、私もその一人です。先生は「よく頑張りますね」と、今でも人にいわれるとおっ しゃっています。私も昔から、頑張りやさんと人にいわれますが、無自覚でしたので、頑張ってはいませんでした。自分の人生でほんとによく「頑張った」と肯 定できるのは、就職してのここ数年です。
 30歳前後には、先生も「頑張って」いらっしゃったということですが、私ももうしばらくは頑張ることになりそうです。なんとなく、今は頑張らないと落ち 着かないのです。「頑張る」は好きになれない言葉とおっしゃるのも、なんとなくわかるつもりなのですが、わかっていないでしょうか。自分の運命を受け入れ て、生をまっとうしたい、と思っています。
 しかし、自分でも何を頑張っているのか、よくわかりません(笑)、というと荒っぽいのですが、頑張るテーマはそのときどきで変化しています。
 文化祭で放送した「銀河鉄道の夜」のテープを、ときどきいまも聴いてくださっていると知り、とてもうれしいです。幸せです。このようなものの世界は、い つも心の片隅に居場所はあるのですが、創作意欲というものがありません。当時も、作りたいから作ったというよりは、好きで調べたことがきっかけで作ること になった、という感じでした。だから、かえって力がはいってない自然なものが出来上がったのかもしれません。
 最近は、ひたすら好きな音楽を通勤時に聞きつづけて、うるおいを保っています。
 占いの勉強は依然続けています。Systems Engineerのお仕事は、つらいこともあるし、それに割いている時間が異常に長いので、手放しで好きというには抵抗がありますが、かなり好きなんだと 思います。コンピューターが社会のインフラになってきて、それらが動く仕組みを垣間見られるというのが、楽しいです。
 でも今一番楽しいのは、お付き合いしている人とすごす時間です。今までこんなに週末が待ち遠しかったことはありませんでした。好きだけど、タイミングが 悪いとか、自分にゆとりがないとか、そういう問題がないのがよいのだと思います。これは年の功です。(30歳で年の功などというな、と怒られそうです が)。そろそろ落ち着きたいと思っているんですけど・・・・どうなることやら。
 先生がいつかおっしゃっていた、「大切な相手に、すべてをぶつけてはいけない」という言葉、つくづくそう思いますが、難しいです。(泣)。ほんとに落ち 着けるのだろうか。。
 とりいそぎ、第二弾でした。

* いろんなことを云ってあなたを混乱させていたかも知れないね、あの頃は。でも、あなたはあなたの佳い道を本とうに気持ちよく歩んできたように想像して います。娘を、世の中へ嫁がせた、ような心地できました。娘などというのはちとサビシイかな、いかにジイさんであるにしても。呵々。
 幸せに、気持ちよく落ち着けるといいですね。神様のことは云わないけれど、「大切な人に、すべてをぶっつけてはいけない」というのは、これからも、あな たには妥当した言葉かなと。そして健康。心も、からだも。いい栄養をとってください、ハートのために。 湖

* 人に合わせ、その時、その場に応じたことを云うから、わたしの話したという言葉が、自分自身にいま、へえっと新鮮に戻ってくる。朧に、その時、その場 のことも思い出されてくる。「神は不平等」「大切な人に、すべてをぶつけてはいけない」とは、普通は逆にいうところだろうが。この人は数学を専攻してい た。「数」が何を含蓄しているかを学んでいた。「数」の不思議、根元の不確かさ、そこから立ち上がる規則性について思索の可能な場にいた。この人が「占 い」に関心をもっていたのも、それと関係している。数奇の運命と云うではないか。幸田露伴の名作「運命」の初稿での表題は、同意義の「数」であった。さ、 どう落ち着くか。幸せに落ち着いて欲しい。

* 世界中がキナくさく、アメリカもイランも、北朝鮮も中国もロシアもチェチェンも、大わらわに火種を振り回している。日本の経済は底なしの沼にはまりこ みながら、政治屋どもは公を私すべく目先のことに血眼だ。そんななかで国政支配へと虎視眈々、というより見え見えの意図から咆吼し始めている、あまりに我 の張った石原慎太郎。危ないなあ、日本は。清冽に流れる水音が聞こえて来ないと思いこまされてしまう、日々。そうではないのだが。

* ゆうべ、たまたまテレビの百物語で、「吉備津の釜」に取材した怪談を見た。秋成原作で、雨月物語の中でも、また数ある怪談中でも白眉の傑作であるか ら、観るかと聞かれて観るとすぐ誘いに乗った。怖かった、これが、やはり。椎名某の正太郎役に対して磯良役はお気に入りの冨田靖子。この磯良が凄かった。 正視できない場面が重なり、身内をジンジンと音立てるように恐怖が走り流れた。そのあと暫く、なんでもない暗がりが気になった。仕事に没頭して忘れようと したほど。あれが、心が真っ白になると書く「怕い」の真義なのだと思う。優れた怪談の功徳は、この、心を白にかえす「怕さ」に在る。それを、わたしは秋成 の「吉備津の釜」に学んできた。「於菊」という三十枚ほどの小説に書いたことがある。磯良の「怕さ」は、多くの汚濁を追い払うに足りた気がしている。

* 数年前まで、冬になると、祖母のあつらえの半纏を着たきり雀でした。身体機能の低下から、祖母が縫うことを諦めて、もう何年になるかしら。
 市販の化繊綿のものは軽くて落ち着かず、綿のトレーナーは重いうえに思うほど暖かくなく、流行りのフリースは静電気が起きて、なんとなく落ち着かず…思 い付きに、古い羽織を普段着の上から羽織ってみたら、暖かくて、軽くて、肌触りも、気分もよくて。この冬、雀はこの格好で、伊賀におります。
 昨日は黄砂だったそうですが、今日は、強く乾燥した北風が吹き荒れています。

* あすは一人。妻は息子と芝居に。わたしは湖の本責了への校正など、も。


* 十一月十四日 木

* 日本は、こんなことも出来る寛容で自由な国なんだ。そのことを先ずいちばんに感じた、したたかに唇をまげ、怒りながら。少しでも肯定的な点をさがそう とすれば、それだけだ、他は無い。
 時代が違えば、国民感情は牙をむいただろう、官憲は発売禁止の処罰を加えただろう。そういうことのない国でよかったとは思う。けれど無念であった。
「週刊金曜日」が曽我ひとみさんの夫と娘二人にインタビューし、その記事の乗った雑誌を、曽我さんに「読め」と押しつけて行った。傲慢な仕打ちではない か。無礼である。
 ジャーナリズムの本道を行ったかのように、編集長は平然と記者会見した。筑紫哲也も、それに近いことを公然と彼の番組の「多事争論」で喋った。言ってお くが、たしか、筑紫哲也は「週刊金曜日」の創立メンバーである。佐高信も本多勝一も椎名誠も落合恵子そうだったと思う。他にも何人かいて一緒に創刊した週 刊誌であった、元は。今もそうか、今は身売りしたのか、それは知らない。わたしは、その人達にむしろ親近感や信頼をほぼ持ってきた。筑紫が、しかし、その 点に一言も触れなかったのは、卑怯だ。少なくも自分が「週刊金曜日」と浅からぬ縁のある身で、この取材も承知していたならいたと、いなかったならいなかっ たと、明言の上でコメントすべきでないかと、とても不快である。
 筑紫は、こんな例を挙げた。自分が報道カメラを捨てて手を出せば助けられる人間を、助けるべきか、助けずにカメラをまわすべきか、という問題に、ある高 名な二人のジャーナリストは口を揃えて「カメラをまわし続けるべきだ、それがジャーナリストだ」と答えたと、筑紫はその場の自分の見・聞を挙げて、「週刊 金曜日」を非難はしなかった。暗に擁護した。「自分には其処まで出来ないだろうが、それは自分が仕事に不徹底なんだと恥じる」ような物言いにより、擁護し たと取れるのである。
 しかしまた、先の二人のジャーナリストの「本道」発言に、その場に居合わせた大勢は、「さすがに誰も賛成しませんでした」と筑紫は云っている。筑紫も其 処にいたのであるなら、彼も又、賛成しなかったと言いたげである。
 こういう尻尾が二本あるような物言いは、筑紫哲也というジャーナリストが恰好ばかりの「ぬるまゆ文化人」と揶揄される、だれもしなければわたしが揶揄す る、批判する、最も悪しき本領なのである。
 そもそも「週刊金曜日」の取材の仕様は、胸の張れる「本道」をふんでいるだろうか。否。
 彼等は取材相手を尋ねてその私生活に忍び寄るまで、危険を冒して潜入し、極秘裏に、かれら夫や娘のまさに「自由な本音」を取材してきたと言えるだろう か。否。
 北朝鮮政府お墨付きとセッティングを有り難く頂戴の上で、あてがい扶持のご馳走を「ただ食い」してきただけではないか。成人した大人たちが出てきて、自 由な質問に対し、自由に答えたのだって。否、否、否。そんなバカを云っていて、何がジャーナリズムで、何が自由か。記者の質問は遮られなかったから自由に 質問できたまでは、ま、いいだろう。だが自由に答えたなどと、とても言えない「背後」「楽屋裏」が斟酌できず、すべての「場面」をすべて打ち合わせ済みで 「設定」されてきただけではないか、まるで案山子のような立場に身を置いただけではないか。それでいて、かれら夫や娘がどう本当に「自由」だと見定めるの か、それがジャーナリズムの根義ではないか。
 極度の偏向が明らかな事態で得た、いや与えられた情報は、百害あり一利もない一理もない混乱の元でしかなく、それをしも、ごり押しに強行するのを、 ジャーナリズムでは、恥ずべき「やらせ」というのではなかったか。
「週刊金曜日」のやったことは、ジャーナリズムでも何でもない、きわもの雑誌のはた迷惑以外の何者でもない。そんなアカやキイロの新聞が外国には多いし日 本にもあるが、「週刊金曜日」は、かりにも筑紫哲也や佐高信や本多勝一らが創った、誇り高いはずの雑誌であったとわたしは記憶している。ほこりくさい雑誌 になっていたとは残念だ。それにしても筑紫哲也らTBSスタッフらの奥歯に物の挟まった潔くないおどおどの態度や表情にもむかついた。どこかで、拉致問題 を否認してきた社民党の愚劣さ、その後の対応の愚劣さに通う、「週刊金曜日」の狂態である。

* 七階のわが窓から富士山が眺められる季節になりました。今の季節は、富士山の右肩にお日さまが吸われるように落ちてゆきます。そして、寒茜の空にくっ きり浮かぶ濃むらさきのシルエット。
 ごぶさたいたしました。
 闇に言い置かれるおことば、湖のお部屋を訪れた方々の声。しんと胸の底にとどいたり、わが頭には納まりきれなかったり、ご返事を差し上げたくなったり。
 どなたかもおしゃっていましたが、どうぞ、ご無理をなされませぬように。

* 思えば今年はもみぢを一度もそれらしく眺めていない。今日も、その気なら出て行きやすい日であったのに、終日、湖の本の校了のために机にいた。一人で 昼飯もめんどうなので、出入りの寿司屋に出前を頼みついでに酒も運んでもらって、喰いかつ呑んで、仕事をしていた。黒いマゴがそばでお相伴していた。

* 源氏物語は、いま「帚木」のなからを読んでいる。急がずに続けようという方針で、そのためには楽しむ気持ちがいちばんだ。まあ、よく、これほどのもの が書けたなあと感嘆に掛け値は微塵もない。


* 十一月十五日

* 秋のたより  ヨーロッパの秋には、なぜか、たまらない淋しさがある。美しい黄葉の写真は幾度も見てきたけれど、胸を締めつけられるばかりで、しみじ み見ていたいと思ったことはなかった。
 先週末、ピレネー山脈に行こうと思ったのは、この秋の帰省で訪れた尾瀬が忘れられなかったから。燃える草紅葉に、色彩とりどりの林。秋は「寂しい」とい うのに、「華やか」という言葉がすぐ浮かんだ。
 私たちは、あの日本の秋をスペインに見つけたくて、山に向かった。
 朝十時、ピレネーの谷間にはもう午後の光が射していた。これだわ。胸をひりひりさせたのは。木々は黄金色でも、その放つ光があまりにも褪せている。この 黄土色を含んだ黄葉がもう少しでも赤味を帯びていたら、ヨーロッパの秋も、また別の風情を見せるのかもしれない。  ヨーロッパの秋には廃頽の匂いが漂 う。
 海のことも話したい。
 スペインに来るまで、「海」は私にとって哀愁を帯びた暗いものだった。「海は広いな大きいな、、、」歌いながら、どこか悲しかった。「浜辺の歌」のよう に、思い出し懐かしむ場所だった。海辺に青年がひとり背を向けていれば、青春のほろ苦さを感じた。
 スペインの海、地中海には、それが感じられない。暗さがない。海はひたすらあおいエメラルドグリーンで、人影のない冬でも、あっけらかんと陽に照らされ ている。こういう海が在るの、と驚き、呆れもした。
 「彼は、海辺に腰をかけていた。」
 こんな文も、その人の背負ってきた背景によって、全く違うものになってしまうことに、驚いてしまう。

* 行文。文を行(や)る。気を入れすぎるとゴツゴツする。メールを送ってきた人は、上の文章をみて送った原文とは微妙にちがっているのを知るだろう。最 小限推敲するだけで、きばったものが、すこしだけでも和らぐ。語尾の「のだ」という強調や漢語系は意識して避けた方がいい。「のだ」は議論ならともかく エッセイには無用にちかく、漢語系は効果的に正しい使用はむずかしいもの。

* ざあっと記憶をたどっただけで、依頼原稿が大小五本と講演が一つ、この月末から師走の初めへなんだか固まっている。ひとごとのように思っていたが、ひ とに代わって貰えることではない。そして本の発送が、師走最初の仕事になる。そう約束ができている。えらいこった。
 今日はこれから散髪して、電メ研に行き、明日は井上靖を偲ぶ会。
「ペン電子文藝館」のために手元に用意し、わたしが校正しなくてはならぬ「招待席」作品、十一作。ウーム。

* 湖の本は責了紙を送った。

* 電メ研、人数が少なかったけれど、目的は果たせた。帰路、少し食事に落ち着き、預かっている原稿二本の出がけにプリントして持っていたのを、ゆっくり 読んだ。一つは小説、一つはエッセイ。良く書けていた。安心して読めた。もう一度吟味して、「e-文庫・湖」にもらいたい。さしあたりは本発送の準備作業 をし遂げておかねば。


* 十一月十五日 つづき

* 推敲ありがとうございます。「私語」のお返事、まさに「打てば響く」大変ありがたいものでした。というのが、実は、今回私は意識して「〜のだ。」調で 書いたからです。
 小学校の頃から、私は作文でもなんでも「〜だ。」で書く傾向にありました。「〜です。」「〜ました。」より、自分がよく表れている気がしていたのだと思 います。
 それが、この何年間、語尾に意識が向くようになりました。感情で吐かれた言葉、乱暴に放たれた言葉、わめかれた主張は、耳を傾けられにくいことに気がつ いたからです。せっかくいいことを言っているのだから、もう少し静かに話せば、もっと聞いてもらえるのに、と思うこともままあります。このような言い回し には反感を覚えやすいことにも気がつきました。対照的に、朝日子さんのパリ滞在記など、ころころと鈴が鳴るように心地よく、すっと読めたものでした。そん なこんなで、この1年ほど、静かに話すことを心がけてきました。
 ただ、最近読んだものに「〜だ。」と言い放って爽快な文章があり、また使ってみるのもどんなものだろうと思ったのです。確かに、私が書いた「〜のだ。」 はごつごつしています。今回書きながら感じてはいましたが、今読み返すと、そう、肩に力が入っているように見えるな、と。
 もう遅いので、今日はこれまでにしますが、とにかくすぐお返事したかった次第です。感謝を込めて。

* 金井美恵子という同業の人がいる。小説は読む機に恵まれないが、何であったかエッセイであろう、「のだ」文章に厳しい感想が書かれていて、自分のこと は棚に上げて賛意を覚えた。もうどれほどの昔になることか。
「語尾」はほんとうに難しく、それが日本語の難しさだと思う。日本語は語尾で結局させる言葉で、そこまで聴かないと是か非かも分からない。つまり言葉を濁 す、口ごもることに意外に効果を生める。また是か非かを其処へ来て強調もできる。その一つが「のだ」であり、一時期の人は「で、あるのである」などとも 云った。なんでもかでも「候べく候」と書くのがはやった時代も、それを筆くせにした人たちもいた。
 自分の書くものもむろん含めて、ずいぶんムダな語尾を不用意にムダに付けているのに、気付く。その辺の推敲がきれいにきまると、文章は、さらりと静かに なる。
 娘の朝日子にはいつも心してこういうことを習わせた、子供の頃の読書感想文などを読みながら。だからと言えよう、大学時代までに、極少ないながら代筆し て貰ってもとくに見咎められない文章を書いてくれた。どこかで他の人達と一緒に文庫本に入っている、「李陵」「徽宗」はわたしの名で朝日子が下書きを書い ている。こういう学習が今にも役立っているといいのだが。
 建日子にも、そういう注意はやはり「思想の科学」に寄稿の少年時代から繰り返したが、これは身に付いたとも付かないとも云いにくい。ホームページのコメ ントなどときどき覗いているが、文章としても中身も、たわいないなあと苦笑されることが多い。ま、少し気を入れて書く、たとえば「タクラマカン」の開幕前 に書いたパンフの挨拶など、気張らずによく書けていた。まだ気を入れた長い散文はみたことがなく、これまでの「小説」とか称する小品も、わたしはまともに 読んでいない。


* 十一月十六日 土

* 「ペン電子文藝館」のために、平出修「逆徒」の校正を終えた。大正二年九月に「太陽」に発表し即「発禁」を喰らった。予期できたろう、それでも、よく 書いた。よく公表した。いまの我々の考え得ることでないほど、この意思と決断はすばらしく、それも身に危険のおよぶ賭けであった。西洋型の法治国家となっ てせいぜい二十年の「明治」天皇制国家のなかで、天皇や皇太子の暗殺を企てたとする大逆事件なるモノがどんなに一世を震駭したか、はかり知れない。二十数 名の被告のほぼ全員近くに「死刑」判決が出ただけでも分かる。平出はその裁判の弁護人の一人であった。外部にいて想像力を働かせて書いた小説ではない。作 中に一人称かの如く繰り返される「若い弁護人」とは平出修その人を謂うと読んでいいのである。ことの性質上、大逆とも謂わない、露わな物言いは殆どしてな い。韜晦を尽くしている。しかも明らかに大逆事件の裁判であり、判決が出る。
 平出は、石川啄木や平野萬里らと「スバル」という雑誌を創刊した「文学」の人であり弁護士でもあった。森鴎外の知遇を得ていた。裁判の法廷に出るに当た り彼は森鴎外から世界の社会主義思潮について学習していた。そういう人の、いわば決死というべき作品の執筆であり公表であり発禁であった。平出は、発禁の 翌年に若くして、四十歳に間のある年で死んだ。自然死であったのだろうかと身震いも出る。石川啄木の名高い論文「時代閉塞の現状」がいかに平出の存在に刺 激を受けていたかは容易く推量できる。
 で、……

* こういう私語を、よそのホームページで聴いた。
「もちろん広告をとらない雑誌もある。例えば「週刊金曜日」「パソコン批評」。広告収入がない分価格は高いが、広告主に臆することなく読者のためだけにつ くることができる。理論上は。
 しかし実際のところはどうか。「広告をとらない」自分たちに酔って、自分たちのいいように雑誌を作って、結局のところ読者の方を向いていないのではない か。ここに挙げた2誌は、私にはそうとしか見えない。
 かつて「暮らしの手帖」や「たしかな目」が同じスタンスで雑誌を作っていた。しかし暴走はしなかった。作り手に、誰のための雑誌なのかという意識が、確 固としてあった。
 今は違う。広告のない雑誌こそ疑ってかかる必要がある。」

* 「こそ」かどうかは別にして、広告のない雑誌「も」疑ってかかる必要があると、今度の「週刊金曜日」の軽率としか云いようのない取材には呆れることば かり。「帰りがけの駄賃」を北朝鮮政府にちらつかせてもらい、いやしくも食いついてきただけである。どこにジャーナリストの質の高さを示す根性があった か、筑紫哲也の「多事争論」など噴飯ものでしかない。筑紫も佐高も本多も、もし今も「週刊金曜日」の刊行に責任を帯びているなら、丸坊主になって出直せと 云いたい。まこと命がけで報道写真をとったりインタビューをしているジャーナリストと、恰も同列のことをしたと云わんばかりの編集長や、暗にそれを擁護し たような筑紫哲也など、顔付きまで醜いと断言しておく。 筑紫のコメントなど、さも自身の不徹底を卑下するが如く、じつはどっちへでも、自分一人はニゲの打てる卑怯なものであった。平出修のまえに恥じるがいい。 世の中をナメてはいけない。

* このところ超お忙が氏の猪瀬直樹の「謦咳」に接しない。つまりペンの言論表現委員会が途切れている。顔は、ときたまテレビで観ているが、テリー伊藤の 横でウッソリと歯切れわるく演説しているのを聴いていると、健康は大丈夫なのか、リフレッシュ出来ているのかと、少し案じられる。公団問題で頑張って貰う ためには、当分ペンの委員会ぐらい忘れていてもいいのではないかと思ってしまう。



* 十一月十六日 つづき

* 井上靖を偲ぶ会、東京會舘で。巌谷大四さんが車椅子での出席、「腰が痛くてね」と。井上先生とご一緒に中国に行ったとき、すでに腰の痛いお人であっ た。相変わらず日本酒で、献杯の時、日本酒のガラス杯を、座ったまま高く挙げておられるのを感慨深く見た。
 小学館の相賀会長が井上さんの遺影に手をあわせ、一人挨拶されているのも目に付いた。古典の全集が完結したお祝いを云い、有り難かった、よく読みました とお礼も言った。お仕事の上にイキルといいですね、と。
 黒井千次氏にも三好徹氏にも伊吹和子さんにも、その他も大勢に出逢った。井上先生の奥さんにも懐かしくご挨拶した。少し早いめの十三回忌である。もう十 余年が過ぎたのだ、残年のとぼしきをそぞろ思わせられた。
 黒井さんが一通り井上先生について概説した。まず穏当と思って聴いたものの、或る一つの言葉遣いでは、むろん彼の真意はくめはしたものの、芥川賞を受賞 された後の井上さんの活躍は「凄まじいものでした」というのは、ただの人ならともかく、日本文藝家協会の会長の言葉づかいとしては戴けなかった。「凄まじ い」は「凄い」もそうだが、激しい負の感情や感想と共に用いる言葉である。四谷怪談のお岩さん、あるいは伊右衛門、あれは凄まじいよというのなら分かる。 井上靖の芥川賞以降の仕事が「凄まじい」となると、嘆賞の気持ちはもちろん分かっているが、レトリックとしてはでたらめである。こういうことでは、困るな あと思わず唸った。
 次の三好徹さんの思い出話は、もう個人的に三好さんからわたしはよく聴いていて、とくに目新しいものはなかった。井上先生も毎日の新聞記者から、三好さ んは讀賣の新聞記者から作家に。その辺に絡んで、戦後の大事件に取材した新聞小説で、毎日・讀賣が、他殺説・自殺説で対立していたことから、両社内での井 上小説への評価や反応が違ったなどは、初めて聴く話で、面白かった。
 ついで女優栗原小巻が井上さんの詩を数編、彼女なりにアレンジして朗読したのが、それなりに面白く聴けた。朗読する女優の、しなしなと壇上で演技的に身 動きし身振りする眼遣いなども面白かった。多少は気持ち悪くもあったが。吉永小百合ならもっと気持ちよく読んだだろう。
 献杯のために映画監督の熊井啓氏が壇に上がり、なにやら面白そうにいろいろ話したが、もう少し会場に飽きが来ていたかも知れない。彼もハナシを「カッ ト」「カット」しながら無難に献杯へ持っていった。熊井さんとは、そのあと、奥さんも交えて三人で、利休と茶とのハナシをしばらく続けた。
 そうそう竹西寛子さんとも逢い、お互いに久闊を叙した。頂戴した葛の「吉野拾遺」のお礼を申し上げた。
 そしてすうっと会場を出て、日比谷のクラブにひとり席を移した。

* クラブは静かであった。そして特別に28年もののすばらしく美味いバーボン、わたしの置いているブラントンよりもまだ美味いバーボンをサービスしても らった。今夜はバーボンだけを呑んできた。食べ物は、お酒も、東京會舘ですでに十分体に入っていたが、クラブでもウイスキーを数杯(わたしはストレートで しか呑まない)とキノコの美味い飯を食った。偲ぶ会のお土産に貰ってきたのが井上靖第二詩集の新潮社復刻版で、昔のママなんと刷り込まれた定価は、350 円。今夜のお土産のために新潮社が特に製したらしい。書架に井上先生の詩集はほぼ全部揃った。
 おまけに学研の編集者が新刊の文庫本、井上さんの「西行」を、会半ばに、わざわざ持ってきて呉れた。それもクラブで読んだ。井上さんが監修で学研から古 典の現代語訳集を出したときに井上先生は自ら「西行」を担当された。その巻の文庫本化であった。あのときわたしは「枕草子」を担当させて貰った。今書架に あるのを見上げてみると、何人もの人がもう亡くなっている。梅原猛、大岡信、水上勉、竹西寛子など健在なのは半数に満たない。
 そういえば、一緒に中国に行った中で、井上先生と共に辻邦生さんが亡くなられているのに今更に気付く。今日の会には巌谷さんとわたしとだけで、伊藤桂一 さん、清岡卓行さん、大岡信さんは姿がなかった。
 
* 明日から、また用事また用事になる。三好徹さんが雑用ばかりに追われてるよと苦笑していたが、ま、そんなものである。それもいいだろう。


* 十一月十七日 日

* 編集者は「良い原稿」を世に送り出すのが仕事であり、それが採算的にも利をうめば何よりである。
 採算を度外視できる編集者と、そうは出来ない立場に置かれる編集者とが居る、それは厳然として事実であるが、根の所では、「良い」原稿を手にすること・ 送り出すことに編集者の使命がある。
 ところがこの「良い」の判定が、いまいう「採算利」ともフクザツに絡むから、ややこしくなる。
 なににせよ前提として編集者は、その原稿を「良く読め」なくてはならない。他者の原稿はもちろん、自分で書いた記事原稿も、編集者の目で自己批評出来ね ばならない。
 この「読む」という批評選別行為のまた中身が問題になり、ここへも「採算利」が絡んでくる。
 こと左様に、この資本の社会では、いろんな段階でこれの介入してくるのは余儀ない前提になるが、これを免れている者は極めて少ないのだが、やはり良い意 味で「読める」……字や文が読めるだけでなく、原稿をめぐる状況や大局や本質が……「読める」能力が編集者にはじつに肝要と云うことになる。動かせない。
 「週刊金曜日」の記者・編集者が、咄嗟の状況下にも「取材」意識でものごとへ対応したのは、ま、自然で当然であるとして、事態・状況や自分達の書いた記 事が深く良く「読めて」いたかとなると、決定的にノーである。編集長の判断には軽薄さがあり、さらに「採算利」への誘惑や重圧への安易な追従・屈服があっ たと見る。かんじんの記事の表現も持ち出し方も、お座なり・出鱈目だ。へたなバクチに等しい。

* 編集者は行司ではない、呼出だ、という説が昔から行われていて、うまい比喩のようであるが、盲信すると、大きな過ちをする。「無責任」の逃げ口上にし かならなくなる。
 考えてみるがいい、呼出がいて行司のいる相撲の土俵にのぼれるのは、だれでもいいのではない。序の口には序の口の、幕下には幕下の、十両には十両の、幕 内には更に厳しい幕内なりのセレクトが、いわば「読み」が、勝負ないし番付のかたちで事前に精確に行われていて、その上で「呼出」しているし相撲も取らせ ている。幕内の呼出しは、幕下の相撲取りを呼出さない。力士の実力が前提として「読め」て確認できているからだ。
 編集者は、大きな書き手も呼び出すし、しかし無名の新人も呼び出すことが出来る。だが、その際にこそ編集者は「読む」力を発揮してきた。その力が当然に 問われてきた。彼はすでに「行司」的な役割を、或る程度まできちんと果たしていなければ済まない。
 「週刊金曜日」は、ジャーナリズムとは無考えの「呼出」役に徹して良いという、無考えの「編集」未熟を、平気で犯した。それに気付こうともしないこと で、二重にハダカの王様を鼻高々に演じた。編集汚染である。軽率で傲慢なジャーナリズムが、このようにして世にはびこるとき、読者である市民にも「読む」 力が薄いと、横合いから「法による規制」などという邪道が正義の旗をふりかざし持ち込まれてしまう。
 編集とは、良かれ悪しかれ「情報」なら何でも彼でも世間にそっくり提供するのが役目だというのは、滑稽な勝手な自己過信である。少なくも採算利を第一義 にしがちな自分自身の腹の内はよく「読んで自己批評」して、ほんとうに「良い」原稿や記事に仕上げてからにして貰いたい。

* 小栗風葉作「寝白粉」は、「ペン電子文藝館」に「採用しない」と決めた。作品が、作品としてわるいか。とんでもない。たいへん力作であり、秀作と称す るのもわたしは憚らない。だが、この作は、不当な人間差別の固定化に繋がる、あまりに露骨な表現・欠陥をもっている。読み返してみて、大先輩作家風葉の力 量に敬意を覚え、文藝作品を読む喜びは強く感じたけれど、この小説を日本ペンクラブが積極的に公表し流布する必要は「無い」と私は結論した。
 風葉は紅葉の愛弟子。力ある短編作家。しかしまた急速に古びていった風俗小説作家であった。彼がある時期、それはそれは大変な人気作家であったなど、誰 が記憶しているだろう。その中で、「寝白粉」は、今なお凄みのある感銘作なのは間違いない。おそらく古びてさえいない。だが、藤村の「破戒」が問題になっ た以上に、無批判に、手前勝手にだけ人間差別を話題にし過ぎている。その上に近親相姦が暗示されている。
 発禁作品で、この戦後まで世間に出なかった。この作品が、公開後に議論や批判の対象になったかどうか知らない。しかしこんど風葉を「招待席」にと考えた とき、候補作として直ちに思い浮かべたのは「寝白粉」であったし、文藝の出来の良さとして、その判断に間違いはないと信じる。しかし、「ペン電子文藝館」 で、「さ、お読み下さい」と広く公開するのは明確に間違っているとも、わたしは信じる。
 妻に起稿と初校を依頼し、例の無いほどの厖大な「読みがな」振りに他作の数倍もの苦労を掛けた上だが、やはり、掲載は断念。
 岩野泡鳴作「醜婦」と少し似た作の境遇であるが、さすが名文家風葉の趣向と行文は、フォービスト泡鳴とちがい、絢爛として派手で、また深くあわれであ る。ヒロインは嫁き遅れているが、とても美しい女。惜しい。が、わたしの決断は変わらない。

* 今朝、寝床から身を起こしたとき、頭の芯から空気が抜けたように、ゆらゆらした。立ってからも、よろめいた。しばらく椅子に腰掛けて、テレビを見てい た。ぼんやりしていたが、血圧が高いのかと、つねは低い方のわたしが危ぶんだぐらい不安感が停滞した。で、椅子席のまま、その場で出来る仕事を手早く始め た、が、書き仕事はちゃんと出来た。或る程度でやめ、二階の機械の前へ来て、ここまで書いて、ま、額の内側に遠くて苦いような痛みがあるけれど、すぐそば の沢口靖子の顔もみなきれいに見えるし、谷崎先生のにらんでいる顔もいつものようである。早い話が、肩こりであろう。

* 職場で思うように仕事が進まなかったり評価されなかったりに、気が滅入ってしまうことは誰にもあることだが、反応の度が過ぎると、つらい自己破損へ自 分で自分を追い込むことになり兼ねぬ。このところ、東工大卒業生の同期の、つまり勤め初めて同じ時間経過の三人から、そういう訴えを聞いた。内の二人はカ ウンセリングを受けたり暫く仕事から離れたりしていた。いろんな凌ぎようがある。その人に適したうまい凌ぎ道をせひ見つけて欲しい。「モンテクリスト伯」 なんてのを読み始めて、読み終わるまではイヤなことは考えない、忘れている、というのもいいだろう。「待て、しかして希望せよ」と最後にサインが出る。そ のサインの説得力はリアルで大きい。しかもべらぼうに面白い小説である。


* 十一月十八日 月

* 気がかりで、幾分ストレスになっていた、ヤボだけれど生計の安全に必要な用事を、済ませてきた。そういうことも、すべきはしなくて済まない。

* 機械の前から、椅子のママ左へ視線をややさげると、ファックスのわきに、一枚の絵はがきが立ててある。第九回日展(日本美術展覧会)の京都会場で、な けなしの小遣いで奮発して買った、おそらく生まれて初めてそんなのを買った、それほど感銘を受けた、絵だ。かちっとした、革らしいソファに素足で腰かけ こっちを見ている、細面の理知的な女性像である。作者は、鶴甫。題は「寸憩」で、「特選・朝倉賞」を受賞している。この絵ほど「受賞」に納得した絵は、そ れ以降の莫大な絵画展体験でもめったにない。
 日展の数え方が年一回展だったか、春秋二回あったか忘れているが、昭和二十三年の第四回展から「書」が加わった。以降年一度とすると、この絵に出逢った のは昭和二十八年、高校三年生の春か秋かである。それより遅いと云うことはない。
 そんな数十年もむかしの絵葉書が、なおわたしを惹きつける。把握のつよい、ゴマカシの微塵もない毅然としたフォルムと表現で、描かれている女性その人を すら、わたしは子供ごころに尊敬したぐらいであった。袖無しの白いヴラウスの、襟ぐり胸元でちいさく蝶結びにしてあり、結び目の下がブローチかのように素 肌がのぞいている。上半身かすかにかすかに前掲しているのかも知れないが、胸はしっかり豊かで、スカートは淡泊なほどのブルー。右脚はスカートをはね膝か ら真っ直ぐ強く素足で前へ踏み出され、左脚は膝もろとも左へ、クイと開いている。スカートがながめで少しも行儀悪く感じない。視線も真っ直ぐ、強く、凛 然。無造作にひきつめた髪は、だが豊かである。なんとなく、この絵を観ていると励まされるのである。
 鶴甫という画家のことはくわしくは知らないが、ウェブサイトで検索可能な人のようである。

* 階下で作業しながら、デンゼル・ワシントン主演の「ボーン・コレクター」というサスペンスを聞き、ひきついでビートタケシらの「TVタックル」を聴い ていた。拉致問題等が出てくると、もはや社民党は壊滅的な事態にある。云われているとおり責任は土井たか子において重い。この政治家の硬直した情味にかけ た至らなさが、みな露出した。衆議院議長で勇退するか、新党をたてるかすべきであった。わたし自身の体験として、席を同じくして、つくづくと、ああこの人 はダメだと実感したのが十数年も昔であるが、直観は残念ながら当たってしまった。
 さはさりながら、自民党の傍若無人な悪政がよぎなく永久政権化するのは、ほんとうに、心から困る。野党の出来ない日本。それは、お上に右へならえのよく よく好きな国民性によるようだ。


* 十一月十九日 火

* 秦先生、お忙しそうですが、どうぞあまり根を詰めないでください。私のような、とりとめもないメール相手には、返信も辞退いたします。どうぞ、気の向 いたときに、「一服」読んでやってください。(実は、「寸憩」2、というSubjectにしようかと迷ったあげく、おそれおおくてやめました。)
 休日は、半分はいい子と一緒にすごしていますが、半分は私のものです。
 先日、上野の森美術館に、ピカソ展を見に行きました。ピカソがごく若かったころの絵で、日本では初公開でした。まだいわゆるピカソっぽくなく、しかし無 駄なく力づよく情感にうったえる絵でした。うっとりするものがいくつかありました。天才とは、こういうものかと思いました。
 その前の週には、渋谷のBunkamuraにエッシャー展を見に行きました。
 かつて自分が写生をしたときに、ものの遠近感とか立体感ばかり強調されてしまって、ふんわり情感あふれる絵をかくことができず、そういう絵を書いて展覧 会で入選するような子がとてもうらやましかったものでした。今回エッャーの絵をみて、そんなことを思い出し、今までエッシャーをすきだと思ったことはな かったですが、今回はじめて親しみをおぼえました。(かなりエッシャーに失礼でしょうか。(笑)。
 ちなみに、エッシャーは、数学者たちに興味をもたれたことがきっかけで、有名になったと聞いています。私は数学の才能はなかったのですが。
 昨日、「早春」(湖の本44)読みました。
 そういえば、我が家に文藝春秋のあることはまずないのですが、(芥川賞が発表されているときに、あることもある、くらいで。)95年の芥川賞が発表され ているときのものがたまたまあって、その本に、先生が弥栄中学校の同窓生の方々と写っておられました。「!!!」と感激したものです。その年の夏休み、私 は京都に遊びに行き、八坂神社の、先生が写真をとられていた場所も一人で訪れて、写真にうつっていた提灯などが記憶にあたらしく、さらに感動したもので す。
 「早春」のなかに、was bornとか、先生が人間を観察するのが好きだったとか、以前読んだときにはあまり印象に残っていなかったキーワードがあり、先日先生にメールで、「神様 は不平等」とか、「美しいものは人ばかり」、と、まるで新たな発見のようにうれしくお話したのに、先生にとってはずいぶん昔から重要なキーワードであった かと、苦笑いしてしまいました。そんなひとりひとりのつぶやきに、律儀に応対してくださる先生のご意志に、動かされます。
 実は日々のお仕事におわれるままに、まだ目を通していない湖の本が何冊かあります。今読みかけているのは、中世と中世人(二)です。
 私もまた、歴史、地理がもっとも苦手な生徒でした。意味のない年号の暗記がまったくできなくて、高校時代は世界史で、23点という自己最低点を記録した ことがあります。興味のない地名の暗記も同様でした。理系が得意だったのは、覚えることが少なく考えてとけばよいから。
 浪人時代、模試で一番高得点なのは、たいてい「現代文」という科目でした。漢文、古典はやっぱりおぼえなくてはいけなかったので、だめでした。
 最近は、時間の流れを意識することが多く、また、出張などで外国人にお世話になると、自分が日本人であることを強く意識したり、いずれ子供を育てるかも しれない、と思うことで、日本の文化、歴史を知りたい気持ちが大きくなってきています。
 また、四柱推命のバイブル、滴天髄とよばれる本があり、漢文で、シンプルな美文であるがゆえに、難解とされているらしく、ふれてみることもせず、夢見が ちにあこがれています。
 今、人生を一年とすると。。。梅雨明け直前、でしょうか。

* おもしろい子!!   「早春」はわたしが戦後に丹波から京都市内へ帰った小学校五年生の三学期から新制中学二年生の夏休み前までの、自伝と云う洒落たものでもない、「記憶の記 録」である。
 最後に出てくる「 今、人生を一年とすると。。。梅雨明け直前、でしょうか」という述懐は、東工大の教室で、そんなことを考えて貰ったのだ。一学年に当たる四月一日から翌年 の三月末日までを即ち自分の「一生」とすれば、今日只今何学期のどの辺りを生きているかと問うて見たのである。これは、とてもおもしろい、興味深い回答と 感想で満たされたアイサツであった。四月の一日二日という者もいたし、もう二学期が終わるという変に生き急いだのも何人かいた。各学年で、合わせると千人 ぐらいが答えたのではなかったかと記憶している。
 このメールの女の「子」が、あの頃にいつ頃と自覚していたかははきと記憶にないが、「梅雨入り」というようなことであったろうか。もう十年たち、「梅雨 明け直前」か。足取りが早いかおそいか、三十歳ではまだ少し早すぎている気もするが、ま、六月のうち、二十日過ぎぐらいということなら分かる。
 先日「私・公」を論じてねばり強かった同年の青年は、学部の一年生かまだ二年生であったか、すでに二学期の初め辺りを生きてますなどと云い、教授室で秦 さんに少し絞られたはずだ。だが彼も、いまは、同じく「梅雨明けの、まだ前」ぐらいとと思っているのではないかなあ。人生の梅雨は、そうはカンタンにアケ ないぞ。

* 終日、いろんな用事をいろいろに捗らせてきた。歯が浮いて頬がむくんだように痛い。眼もかすんでいる。明日一日をがんばって、一つ峠を越してしまいた い。

* 拉致被害者の胸から「あっち」のバッジが消えている。もうあの人達には「北朝鮮」ですらなく「あっち」になっている。それこそが報道に値するニュース ではないかと云う人がいた。パソコンの稽古を始めたなんてことよりも、と。同感だ。と同時に、日本は情報で氾濫していて、「あっち」にすればイチャモンを 付けやすかろうなと思う、何もかも観て聞いているようだから。今は「あっち」にいる家族に、また不明のママに「あっち」にいるに違いない拉致被害者の身に 安かれと、よく配慮した言葉が用いられて欲しいと思う。それが今の焦点であろうから。


* 十一月二十日 水

* 『からだ言葉 こころ言葉』 実に愉快なひとときを満喫させていただきました。著者ご自身もさぞかし楽しんでお書きになったにちがいない、そんな気配がいきいきと伝わっ てきます。それにしても「からだ」と「こころ」を故郷として成熟した文字どおりの熟語のなんという豊かさか、あらためて日本語の美しいエスプリに感銘をお ぼえました。

* ハムレットやリア王の訳者に頂戴した。わたしより、少し年輩の英文学者である。もう一人、わたしより少し若い国文学研究者にも、こんな挨拶を戴いてい る。

* 拝啓 秋を飛び越して一気に冬になったような昨今ですが、お変わりなく御健勝のことと存じます。
 先般来、「湖の本」エッセイ二十五、『からだ言葉・こころ言葉』をつぎつぎにお送りいただきながら、御礼状も差し上げず失礼をかさねております。
 実は、御礼をかねて小生の書きましたものをお送り申し上げようと、その出来上がりを待っておりましたら、刊行の日付に大幅に遅れて出たりしたもので、今 日に至ってしまいました。不精、怠慢のほど、何卒ご容赦下さい。
 「湖の本」の「知識人の言葉と責任」、襟を正して拝読いたしました。お恥ずかしいことに、「芹沢光治良」の名は知れども、『死者との対話』なる作品はそ の存在すら知りませんでした。
 そこに指摘されている西田哲学、さらにらは哲学研究への懐疑は私自身学生時代に、西田哲学の後継者田辺元の著作を多少かじりました経験からも、まさしく その通り、よくぞ言われたりと感動いたしました。
 そして、その論旨は私たち文学部の教員が現在直面している卑近な問題に対しても、光明であり、心強い援軍でもあります。と申しますのは、哲学研究(の一 部であることをきたいしますが)には、今日なおその弊害あり、哲学者仲間にだけ通用する生硬な言葉で語って事足れりとし、ほとんどの学生から見放されてい る、という現状があります。「考える」という意味での哲学の重要性を認めるのに人後に落ちる者ではありませんが、多くの哲学研究者が文学部をつまらなくし ている事実は、文学部関係者のほぼ一致した認識ではないでしょうか。『死者との対話』を、哲学研究者に薦めなければなりません。
 同封の拙文二篇のうち、とくに御批正を仰ぎたいのは、『伊勢物語』の方です。そのような読み方は許されるでしょうか。読みの名人秦先生の御意見を是非と も拝聴したいと念じております。
 はなはだ時期を失しておりますが、御礼と御報告まで一言申しあげます。  敬具

* じつは、趣旨においてかなり通じる内容の、やはりある大学教授からの手紙を、さきごろ貰っていた。もっと激しく書かれ、慨嘆されていた。さきの手紙で は哲学研究者と書かれているが、つまりわたしの謂う「哲学学」者の意味であろう。わたしが学んできた美学藝術学もまた哲学研究科の一支学であり、遺憾なこ とに、まったく同じ弊をいまなお引きずっている。
 つい最近、岩波文庫でハイデッガーの『存在と時間』という世界的に名著とされ時代を変えたとすら評された哲学書にまた挑戦してみようと思った、だが、桑 木某氏の翻訳された日本語に、わたしは吹き出しこそすれ、何の感銘も与えられそうになかった。こういう本は原書で読む方がまだしも読みよいことを、院のこ ろ、カントの『判断力批判』にわたしはつくづく実感した。翻訳は無理。しかし日本語で書かれる日本の哲学学者の哲学は、もう少し琴線に触れてきてくれない ものか。なんだか、われわれのような読者には分かって貰って堪るかというような尊大さを、多くの哲学や美学の論文に感じてきたし、最も残念なのは、学生が その悪しき伝統を模倣して得意を感じてしまうことなのである。あやうくわたしも、そこへ陥るところであったが、きわどく気付いて、哲学はやめ小説や短歌の 表現に人生の軌道を修正した。
 いまも母校の研究室から届く紀要を観ることがあるが、哲学学的に晦渋な論文のやっぱり多いことにおそれをなす。そういうことからすると、梅原猛さんの行 き方はユニークである。ただし、最近の新聞エッセイなど、かなり雑駁な普通の「評論」ではないかと、物足りない。ああいう「哲学」の行き方であるなら、よ り一層、たとえ二三枚の原稿であれ、底光りのする感銘と真理のひらめきをみごとな言葉で見せて貰いたい。

* ところで「伊勢物語」について突きつけられたアイサツは相当に手強い。「是非とも拝聴したい」とはパンチなみの先制ジャブで、えらいプレッシャー。 ま、ゆっくり物語を読み直してからのことにしたい。弱気である。楽しみでもある。

* 終日の作業で、ともあれ、いつ本が出来て届いても、九割がた発送に差し支えないところまで用意した。昼間は、ジュリア・ロバーツとデンゼル・ワシント ンというお気に入り二人の映画「ペリカン文書」をずうっと耳に聴いていた。晩にはアルゼンチンとのサッカー試合を聴いていた。おかげで、仕事ははかどっ た。
 そんな中でも、平出修「逆徒」についで相馬泰三の「六月」も校正し終えて入稿した。いま、加能作次郎の小説「乳の匂ひ」、平林初之輔のよく知られた論文 「政治的価値と藝術的価値」をわたしが、矢崎嵯峨の屋の「初恋」と江見水蔭の「女房殺し」を妻が、校正している。事務局にスキャンを手伝って貰っている作 品が、他にまだ五作品ある。二十六日の「ペンの日」までに、つまり開館満一年目までに、一作でも多く掲載へ運びたい。

* アイピロー。あの中に入っている砂のようなものは、亜麻の種なんだそうです。この種には冷却効果があるんだとか。
 香りの由来は、乾燥させたラベンダーの花です。ラベンダーの香り成分にはリラックス効果がありますので、以前お送りした香油も、どうぞお使いになってみ てくださいね。
 再就職した新しい仕事のほうは、時間を忘れるほど、楽しくやらせて頂いてます。機械のこと、DTPの決まり事は少しずつ覚えてきたので、あとは「どう いったデザインにするか」です。以前の会社で、デザインやコピーを見る目は培っていたつもりだったけれど、実際自分が作る段になると難しいんですね……。 そんなことを実感する毎日です。
 乾いた冷たい風が吹くようになりました。風邪も流行っているそうです。お身体、どうかお大事に。

* 「アイピロー」ですか、あれは。なるほどいい香りだけでなく、ひんやりして眼に気持ちよく、無しでは寝入れなくなっている。感謝。


* 十一月二十一日 木

* 鳥越某の、とこかのテレビワイド番組で、「週刊金曜日」の報道に対して、現実直視の必要および曽我ひとみさん=拉致被害者は、あんな報道でまいるよう なヤワな人ではないと信じている、と、コメントしているのをたまたま聞いた。
 その限りで言えば、 後者の「信じている」は、たんに鳥越某氏の勝手な何の根拠もない推測に過ぎない。曽我さんにどんな辛い永い過去があったかは推量に 余りあり、だから今度のあれしきで動揺するような人ではない、などというリクツは、少しも成り立たない。自己都合の屁リクツに過ぎない。
 鉛筆が倒れる、それだけで「遂に」自殺してしまう人がある。これはよく知られた譬えである。そこまで耐えぬいてきたけれど、もう堪えられなくなった時 は、そういうものだと謂う。曽我さんの場合、鳥越氏のような勝手気儘な推測でものを謂うには、あまりにキツイ状況に置かれている。身を揉んで地団駄ふんで も、すぐには活路の開けない状況で、一家離散の苦境にあり、満身の不安で堪えている。彼女自身の身の安全はまず大丈夫であるが、北朝鮮にいてあのように顔 をさらした夫や娘達が、どういう立場にいるか、妻であり母である曽我さんは、イヤほど体験として知っていればこそ、不安と動揺は恐怖に近い、いや恐怖その ものであるだろう。
 いかなるジャーナリズムも、それをしも推測の必要、斟酌の必要がないと言うか。テレビに寄生してヌクヌクとしたジャーナリストは、気楽な稼業である。曽 我さんは堪えられますよと、そんな気楽な無責任な推測一つで、胸のうちへ手を突っ込んでも構わぬというのか。それなら、ジャーナリズムとは、なにをやって もいい無際限の権能をもつ暴帝に等しい。無軌道そのものだ。傍らに人なきが如きそういう傲慢が、、逆に悪しき「世論」ないし「法規制」を誘発して、真の言 論表現の自由を根底から傷つけるに至る。
 鳥越氏は、あの家族もあのように世界に顔をさらせば、まさかに北朝鮮は殺すことが出来ない、その意味で「生命の安全保証」をした意味も「週刊金曜日」の 報道にはあるなどと口走っていたが、正気か。命があるだけかえって辛いような、いっそ死ぬほうがマシだというような弾圧や抑圧の在りうることを、あの国で なら当たり前にあり得ることを想わず、ノンキなテレビ慣れしたジャーナリストは自己都合のヘリクツをいい加減なつじつま合わせで連発する。命はとるまいと 仮定できても、ほかに何の安全な保証をしたと言えるのか、聞きたいものだ。
 あのインタビューの「場」から、ドア一枚通り抜けた瞬間から、彼等家族への北朝鮮側の処遇がどんなものであるか、鳥越さん、あなたは確信が持てるのか。 あれほどヒドイ、ムチャクチャを平気でやれる政府国家の手中に陥っている、あの父と娘との立場は、そうは安直なコメント一つで保証され安心できるものか、 「絶対に出来ない」ことを、百も千も知っているから、曽我ひとみさんは怒って号泣したのではないのか。

* わたしは「週刊金曜日」に結集した何人かを個人的にも知っているし、他との比較において多く重く信頼してきた。親近感も持っていた。だが、今度の件で は、筑紫哲也の物言いをはじめ、気に入らない。まだ佐高信氏が何を言うたか聞いていないが聞きたいものだ。

* ハリソン・フォードの「推定無罪」など観ながら、今日はやや虚脱の気味で夕方になった。「ペン電子文藝館」関係のメールを幾つか発信し、ゆっくり講演 の用意にも。次年度には作品の追加または差し替えを容認しており、もう二人、三人と申し出が来ている。


* 十一月二十一日 つづき

* 家から歩いて五分のフランス料理店に。保谷にはすぐれものの店で、しかもボジョレー・ヌーボーが新着早々、750ml フルボトルで、美味い料理を満喫してきた。このあいだから行こう行こうと言いつつ、冷蔵庫のあり合わせ料理で済ませてきたが、一息ついているところで、ふ らりと出掛けた。
 妻とは話題がいつもいっぱいある。「ペン電子文藝館」の校正を手伝って貰っているので、作品の感想だけでも、話は尽きない。
 妻の仕上げたばかりの矢崎嵯峨の舎作「初恋」は、気持ちいい作品で、この作者の経歴もまた興味深い。文久から昭和二十二年まで長命した作家で、戦争だけ でも、明治維新、西南戦争、日清・日露戦争、満州事変・支那事変から太平洋戦争、ぜんぶ体験している。こんな名前だから古くさい爺さんだと想いやすいが、 露西亜語を学んで二葉亭四迷と相識、ともに露西亜文学の紹介に大きく貢献した。日露戦争の時は大本営幕僚事務取扱に任じられ、その後は出版社を経営した。
 「初恋」は、明治二十二年一月の作品で、四迷の「浮雲」が成った時期に当たる。近代文学の他の大きな仕事よりも一時代は早いのであり、しかもその日本語 表現のしなやかに新しく美しいこと、眼を見張る。もし二葉亭の仕事がなかったなら、この作品こそが画期的な地位に就いたに違いない。そういう小説が、ま た、あの伊藤左千夫の「野菊の墓」に、はるかに先立つ可憐な恋物語なのだ。物語るは残年乏しい老翁である。事実そうとしか思われない翁ぶりで書かれている が、書いている作者は二十六・七歳のまさに気鋭。文字通りのこれは創作なのである。

* ボジョレーヌーボーは、フレッシュにさっぱりと甘く美味であった。おかげで一本すっかり呑んでしまった。オードブルからデザートまで気が入っていて、 パンも自家製で暖かく美味い。こういう店が家の近くにあるのは有り難い。そして気軽に気楽。


* 十一月二十二日 金

* 夜前、おそくに建日子が来た。起きていたわたしとしばらく話し、母親にお古のデジカメを呉れるという。また京都の清水寺のお守りやチリメンジャコを土 産に持ってきた。
 一泊のトンボ返しながら、女優田畑智子の招待で、「天体観測」のディレクターだかプロデューサーだかと二人、祇園の老舗「鳥居本」へ行ってきたという。 この家はわたしの通った中学のすぐ裏、祇園甲部のまんなかにある。料亭としては老舗中の老舗である。娘の田畑智子が、弥栄中の卒業生か別の私立へ進んでい たかは知らないが、同じ弥栄卒業生だとすると、わたしの遙かな後輩になる。
 もともと祇園の子のために出来た弥栄小学校であった。日本で一二に古い小学校としても知られている。それがわたしの入学の年から「市立新制中学」に変わ り、わたしは隣学区から弥栄中に進学した。二年生も三年生もいたけれど、事実上の第一期生のようなものだった。昭和二十三年(1948)の入学だった。
 田畑智子が祇園の出とは、ながく知らなかった。知るずっと以前に、幸田露伴の孫の役で田中優子と共演していて、名優田中とはひと味違う新鮮な味わいをみ せる若手だと、とても感心していた。目を付けていた。菊池桃子と共演の何だかのコマーシャルでも、いいアンサンブルを演じながら、いつしかに可愛らしい姉 役の桃子チャンを喰ってゆく生気に、家で、いつも妻と拍手を送っていたのである。あの息子の書いた連続ドラマ「天体観測」に田畑智子もと初めて聴いたと き、ビックリし喜んだ。

* 冬曇り。へんに冷えている。気が晴れない。なんだか、日本列島がこぞってジレている。拉致問題は進まないし、金融不安は深刻だし、政治はいかにも無策 である。

* 「帚木」を読み終えた。深夜、床に座っての音読だ、多くは読めない。寒いのである。それでも、まずバグワンを読む。必ず読む。ついで源氏物語を読む。 やすまない。それからからだを横にして、いま、山折さんとの対談を読み直している。上野千鶴子さんの『サヨナラ学校化社会』は多大の興味を覚えつつ読了し た。高田衛さんの『お岩と伊右衛門』も読み上げた。いま、伊勢の論文集を読んでいる。

* 伊勢物語九十八段は、こういう内容である。
 ある「太政大臣」に、お仕えしている或る男が、頃は九月、季節でもない梅の作り枝に雉をつけ、こんな和歌一首を添えて贈った。「わが頼む君がためにと折 る花はときしもわかぬものにぞありける」と。その「おほきおほいまうちぎみ=太政大臣」は、「いとかしこくをかしがり給ひて、使に禄(=当座の褒美の品) たまへりけり。」と、ただそれだけの短い一段なんだが、で、「これは何なんだ」という話になる。


* 十一月二十二日 つづき

* 「ぎをん」という雑誌が京の祇園甲部から出ている。編集しているのは大学の先輩で、ときどき執筆依頼がある。もう何度となく書いていて話題がうかとだ ぶらないか心配になる。今回気分良く書いていたら、ざっと頼まれ分の二倍になったが、なかみは「ぎをん」に向いている。念のためにと今、ファックスで送っ て、よければつかって欲しい、だめならよそへ廻すアテがあるからと。こういうとき、先方にメールがあると早いのだが。

* 建日子はあいかわらず、またそそくさと帰っていった。機械は持ってきていても、資料が必要になると、やはり住まいに戻らないでは解決が付かない。忙し く、また正月からの新しい連続ドラマにかかっているらしい。


* 十一月二十三日 土

* 中村光夫の『風俗小説論』は、小栗風葉の「青春」と島崎藤村の「破戒」との、厳粛な比較からはじまっている。作品が公表された当時の「小説家」として の人気も、たぶん技や巧さも、藤村は、風葉の敵ではなかった。尾崎紅葉の愛弟子、小栗風葉の勢いはおそるべきもので、文壇を肩で風切りのし歩いていた。藤 村の方は、「若菜集」などでしられたロマン派の一詩人に過ぎなかった。
「破戒」を自前で出版するまでの藤村の困苦と勉励はまさに凄まじく、おかげで愛児を次々に死なせ、夫人にも死なれた。一「破戒」がそれに値するというのだ ろうかと、険悪に非難した作家もいた。我が家でも、大昔、作品『破戒』と藤村の家庭の惨苦をめぐり、険しいほど妻と議論をした覚えがある。コレに比べれ ば、大作である「青春」の出版は順風に乗っていた。
 だが、その「青春」はおろか小栗風葉という作家もまた、無惨かつ無残に忘れ果てられ果てられて久しいのである。他方「破戒」も島崎藤村も、盛名は高く保 たれて、今日も大きな大きな存在である。
 何故にかかる岐れが起きたか。運と不運との問題か。いや、ちがう。それは「文学」「創作」への姿勢の故であると中村光夫は詳細に説得する。何一つの異論 もなくわたしは同感する。
 風葉作品は巧者である、が、綺麗な「売り絵」にほぼ等しく、彼の魂の苦悩から呻くようにして発したモノでない。そのために風俗の変容とともに作品も古く さく、力なく、話の面白みも干からびた。おそらく、この間来、「ペン電子文藝館」に招待したくて、だがあまりに心ない「差別」の意識と表現のゆえに、難在 りと見捨てたあの「寝白粉」のような作のほかには、読み直すに値する、読み直したいと思わせるモノが、ほとんど無くなっているのである。本当に無いも同然 なのである。
 どうかして「人に伝えたい」「伝わらないまでも書いておかずには済まない」、そういうものを、島崎藤村は終生書き続けた。まぎれもない文学史の事実であ る。小栗風葉作品にはそういう「動機=モチーフ」の強烈さが感じ取れない。無い。よしよし、こう書けばおもしろくてよかろう、こんな話だと人は面白がるだ ろう、という風にしか風葉は書いていない。それだけなのだ。むろん短編小説の巧いことは名人級で、今時の通俗小説より遙かに技巧的に達者でソツがない。で たらめは、ない。細部の措辞や表現の工夫など見事と言うにも憚らない、が、肝心要の、「これが言いたい」、「これを伝えたい」、「これを書かずには死ねな い」という真の「勢い」というか、生気や動機が無い。だから時間の風化に堪えきれず、古びて古びて、もうお話にならないのである。
 みまわせば、同様に、モチーフに欠けた、材料への興味から小手先でつくりあげたつくりもの小説が、なんと世の中には多いのだろう。有名には細心に、無名 には大胆に接しなければ、本当のモノは、見損なうのである。

* 黒いマゴに元気がない。外でなにかしらよほどのプレッシャーを受けてきたらしく、昨夜来、ほとんど身動きもしないでわたしの床の上で寝続けている。息 はしているが体温が少し低い。顔を寄せてやると低く啼いて、手をわたしの手に重ねる。猫たちは自力で治してゆく。母猫のネコも娘のノコもそうだった。マゴ は男の子だ、元気になるだろう。

* 江見水蔭の「女房殺し」の一校があがり、平林初之輔の「政治的価値と藝術的価値」の初校が済んだ。加能作次郎の「乳の匂ひ」、小林多喜二の「一九二八 年三月十五日」、田中英光の「野狐」がスキャン出来ている。もう忘れてしまったが、「ペン電子文藝館」に「招待席」を作ると提案し、いささか議論あって理 事会で認められたのは、今年の何月であったか。まあ、それ以来のわたしの奮励努力は、鬼でも憑いたようであった。
 今度の芸術至上主義文芸学会のために、その一覧などを学会の役員さんに今送ってきた。大きな固い封筒がポストに入らなくて暗い夜道を大きなポスト求めて はしりまわり、ダメと分かり、一度家に帰って、封筒の寸を鋏で縮めてから、また投函に走ってきた。昼間観たら、狂って見えそうなほど、ぶくぶくに着込んで 寒さをよけながら。

* 福島の人から、笹かまぼこと牛たんペッパーを戴いた。四国の人から、例の美しい牛肉をたくさん戴いた。一週間、まるまる家にいた。週があけるとすぐ 「ペンの日」の理事会。さ、「夏の花」館および「反戦・反核」文藝室新設提案がどう迎えられるやら。


* 十一月二十四日 日

* 夢には、いい夢と変な夢といやな夢がある。一喜一憂したものだが、どうせ夢は目覚めれば一瞬に崩れ去る。覚えている夢はめったに無い。
 今では、よほどの夢でも一切こだわらない。いい気分のモノは気分が残っていれば味わうが、変なのやいやなのはすこしも気に掛けず、忘れるに任せる。夢な んて、くだらない。

* 「まつと利家」を観た。猿之助と浜木綿子との息子が、ようやく秀吉という大役をあてがわれたのは、めでたい。風の変わった太閤をなんとか演じている。 前に竹中直人の演じた秀吉は主役であった。おねが沢口靖子なんてもったいないと思ったが、あの汚らしい秀吉もおもしろかった。今度の酒井法子のおねも、か つてない描きようでわたしは賛成している。好きなノリピーが、こういう役を一心に演じているのは大いに宜しい。なんといっても松嶋菜々子がまつを豊かに丁 寧に演じていて、この女優のうまみが味良く出ている。おおまかなようで、こまやかにやっている。利家はひれがなくて貫目がやや足りないが、馬鹿正直にやっ ているのが、あれでいいのかも。

* ほっこりと草臥れている。あすもう一日休んで、あさっての「ペンの日」を待つ。とうどう一年が経ったなあと、感慨と言うよりも、しんそこ草臥れた。だ が、今は草臥れておれない、週末にモスクワ音楽院教授の浅井菜穂子ピアノリサイタルがあり、そして講演が控えている。そのころには、もう発送すべき本が届 くのである。


* 十一月二十五日 月

* 殆ど唯一、毎日のように、ふと深く息のしたい時に開くサイトを、思うところ有り、卒業生の何人かにしらせた。むろんご当人の了解を得てのことである。

* よけいなことのようですが。秦恒平  このごろ、ほぼ欠かさず私の読んでいる、或る人の「闇に言い置く」です。佳い一服になっています。勇気づけられ る日も有ります。
 日によりバラツキはありますが、ストレートに真率に書かれた、いわば自分で自分にしている「アイサツ」とも読めます。鋭いちいさい礫がパッと飛んでくる ような刺激を、老人の私でも感じます。机をならべていたあなたには、また別様の届きようかも知れませんが。
 人それぞれに、こういう「日々」もあると。
 とても忙しい職業のようですが、必ず毎日、短く書く、と自身に課しているようです。自分を見失いようのない舵取りでもあります。
 こういう「闇に言い置く」独り言も、簡潔でいいですね。良い「闇」が無数に深まるのをひそかに期待してしまいます。
 はじめは、秘密で、ひっそり書いていたようです。あなたに報せる了解は得てあります。そういう「段階」へ来たという自覚のようです。しかし、読み手のこ とは意識しないで書くのが、だいじ。

* ご無沙汰しております。メールありがとうございました。お変わりございませんか?
 ご紹介いただいた「闇に言い置く」、拝見しました。日付の新しい方から読んでいったところ、女性だとは思わなかったのですが、途中でわかり、余計に面白 く刺激をいただけました。今後も覗きに行こうと思っています。
 仕事の方は、少々、周りの“ガツガツ”したやり方に息切れしそうな時もあるのです。しかし、私の勉強不足がそうさせていることは明白で、頑張るしかない と言い聞かせている毎日です。春からしばらくは「期待」と言う言葉に甘えてゆるりと時間を過ごしすぎていたのでしょう。今は結果が出せずに焦っています。 こつこつやっていくしか道は無いのは分かっていますが...
 学内はずいぶん様変わりしています。秦さんがいらっしゃった西4号館も改修工事が始まっています。建物の外側は残っているのですが、ほぼ枠だけの状態で す。小さな部屋をつなげて大きな講義室をたくさんつくるのではないかと思われます。学内全体、工事ラッシュ、久々訪れるOBは変わりように戸惑っているよ うです。
 こんなところです.
 秦さんの「闇に言い置く」を拝見していると、時折体調がすぐれないときの様子が出てきてドキッとします。どうぞ、無理をなさらないよう、お気をつけ下さ い。それでは、また。

* 早速のぞいてみました。ぴしぴし痛く、背筋が伸びて、すこし胃まで痛くなりそうでした(笑)。でも、自分に対する厳しさは尊敬します。
 最初は男の方かと思ったのですが、「S川くんへ」を読んで、ああ女性だったかと。そういわれると、男性の方がやさしくて、女性の方が大胆なのが、最近の 傾向なのでしょうか。本来そうかもしれませんが、表立ってきたという意味で。
 最近では、30歳前後が、社会の中で、自分の立場を明確にして、ものをいいはじめる、そんな年頃なのでしょうか。
 仮面について、やはり同年の男の子二人が秦先生の「闇」をおとずれて発言されていましたし、自分が「梅雨明け」と錯覚したのも、社会参加をしていかなけ ればと思うようになったせいだと思います。戦後を生き、「社会性」「自主性」と新制中学のはじめから発破かけられてきた先生方からみたら、ずいぶん遅い目 覚めでしょうか。親鸞が法然とであったときは、たしか20代後半、やはり自分の思うとおりに一通りもがいた後の出会いだったのですね。
 それで思い出しましたが、先生、例のお題(生涯を一学年と見立てて、現在何日頃を生きているつもりか。)には、私は確か教室では、4月の1日とか2日と か、ごくごくはじまってすぐの日を答えました。うーん、梅雨ももう終わりと思ったのに、ちょっと合間に青空が見えただけでしたか。そうですよね、いくらな んでも。
 湖の本「中世と中世人(二) 日本史との出会い」、後白河院と乙前の梁塵秘抄のお話、法然と親鸞のお話、を読みました。今まで、過去と現在とに共通する、普遍的なもの、を、ほとんど知 りもしない歴史の中に見出すことはもちろんありませんでした。今回これらのお話を通し、今も昔も、物事の本質を突き詰めてゆく人は、同じ境地にたどりつく のだと、そして、その人たちが、よけいなものをとりはらった後に見出す真実というのは、非常にシンプルなものだと思いました。そしてまた、魂のこもった先 生のお仕事を尊敬しています。
 かつて、プラネタリウム用の番組「銀河鉄道の夜」をつくるときに、賢治の『銀河鉄道の夜』をテーマにした、かなり昔の雑誌を読みました。そこでは、別役 実氏と、天沢退二郎氏の対談および、銀河鉄道の夜の各シーンに対するコメントがのせられていました。私はこのお二方については、その対談で初めて知り、今 もそれ以上のことはあまりしらないのですが、それでも、天沢退二郎氏が賢治の思いに、できるだけ忠実に読み解こうとされているのを感じました。一方、別役 実氏のひとつのコメントをみて、氏自身のひらめきというか想像力は「おおっ」と思わせるものではありましたが、「...と宮沢賢治は思っていたのではない か..」のような記述が最後にくっついているのをみて、不愉快に感じました。
 ほんとうのところはわかりません。別役実氏の推察があたっていないとはいえません。すくなくとも、私などは賢治についてはあまり知らず、氏はよくご存知 のはずですから。でも、私はそのときそう感じました。
 最近先生が、報道に携わる人の無責任な言動について、触れられています。
 自分も、職場などで人に勝手に決め付けられて、軽んじられるのはたまらなくくやしいです。しかし、自分の発言に責任をもつということ、相手の立場を考え るということを、私自身もこれまでの人生で恐ろしいくらい軽んじてきました。30歳を前に、大切な人を苦しめて、ようやく過ちに気が付きました。
 仮にもメディアを通して公に発言する人は、それが人に与える苦痛を「知りませんでした」ではひどい。。。聞き手がそういう発言に疑問をもてないで、それ に甘えてそういう報道が成立している、というのもお粗末でありますが。

* すばやい反応で、また研究生活にある人からは大学の様子もきけて、この「私語」を聴いている卒業生達は感慨があることだろう。
 私たちがよくかたまって話し込んでいた、沢口靖子和服の正装写真にドアを守られていた秦教授室も、もう無い。一九九一年の十月一日からその部屋はドアを 開放し、四年半後の九六年三月末日にドアは閉ざされた。桜が咲こうとしていた。

* 言葉や文字には抜きがたい限界がある。本当に本当に大切なモノゴトは言葉では、文字では伝え尽くせないと言うことを、痛いほど識っている。しかしま た、それを殺してしまっては、命が血潮をうしなってしまう。血潮だけでは生きがたいが、血潮が生き生きと流れていなければ生きられない。学生達に授ける知 識を自分が持っていなかったとも思わないが、知識の役立つ範囲はさらに狭い。与えられた知識はとくにそうだ。知識を自身の意思で産み創れるための言葉を豊 かにわき上がらせて欲しいと、その手伝いを少しの間しただけがわたしの東工大時代であった。べつに胸の張れることではない、ただ、今も自分の言葉でものを 言いかけてくれる若い友人達の少なからず有ることは、ほんとうに嬉しい。
 簡潔に、義務としてでなく、一期一会の新鮮さで「闇に言い置く」人が静かに世に満ちてくるかも知れない。闇を相手にするとは個に徹するということだが、 「闇」には限界も境界も自他の区別すらない。夜、床にいて、灯を消して、完全な「闇」を覗き込むとわかる。意識以外の一切が失せている。自分すらいない、 そこには。

* 「あなたは何ですか」と聞かれる。研究者です、学生です、会社員です、編集者です、小説家です、政治家です、教授です、大統領です、ノーベル受賞者で す、拉致被害者です。こんなのはすべて問いへの正しい答えではない。それは「していること」に過ぎない。しないときや、しなくなったときの答えが本質的に 抜け落ちている。「あなたは何か」と聞かれているのに、「していること、それが自分だ」と答えてみても、DOING は BEING  ではない。
 「闇」がそれに答えてくれるとも、くれないとも、私には言えない。しかしあの「闇」に溶け込むと、わたしは少なくも小説家でも理事でも教授でもなく、男 でも女でもなく、夫でも父親でもないことに気が付く。わたしは、そこにいない。いないのでなく、わたしなんて、もともと、どこにも無いのに気が付く。そう 感じられて初めて エゴではない、BEING=実存 が間近になる。
 いくらしゃかりきに「ペン電子文藝館」にいそしもうと、食べて呑んで観て楽しもうと、それらは DOING という「夢」にすぎない。夢は醒める。醒め て気付くのが「何か」の答えであろう。気付いたとき、覚醒したとき、生も死ももう区別はないであろう。なかなか。わたしは、まだ夢のなかにいる。

* 大岡信さんの最新の詩集を戴いたが、氏の数多いコレまでの詩集をグンと図抜けた面白さと言葉の確かさで魅了する。ああいいなあと、全編手を拍ちたいほ どの初の大岡詩集だといったら怒られるかな。趣向もいい。趣向を磨き上げた真実性=リアリティがいい。
 神坂次郎さんからは、おもしろい読み物を頂戴した。当代この人の独擅場である江戸時代の武家もので、材料も趣向も珍らかである。多くの文献や資料を操っ ての実録だが、軽妙な語り部の語りを聴く気合いで藝がある。そもそも江戸時代に、たったの百二十石どりで十万石の大名並みに柳の間詰めという武家の実在し たなんてことは、知らなかった。
 昨夜、寝床の上掛けの裾でとみに大きく重くなった黒いマゴに横に成られて脚も伸ばせず輾転反側どころか身動きもならぬまま、浅い眠りがさめてしまい、そ れで神坂さんの分厚い本を、とんとんと半分以上も読んでしまった。このごろ、床のそばに本があるというよりも、本の間へ床がとれているといった按配であ る。

* 花籠さんからの牛肉が、とびきりうまい。生協から届くわずかなワインも飲み干してしまった。ところが血糖値は安定して正常値を保っている。体重も増え ていない。有り難い。今は、左手の小指の側が手首の上までジンジン痛む。さするとビリビリする。キイの打ちすぎであろう。この「私語」は、一日の作業量の 一部なのである。過剰なDOINGではある。


* 十一月二十六日 火

* ペンの日に、関西より遠来の客有り。歓談。

* 理事会への提案は二つとも問題なく賛成されたが、戦争モノに関連した作品の選定に選定委員会をと、また梅原さんが言い出した。けっこうそうなご意見で はあるが、つまり、コトは始まらずに始めないで終わる、いつになっても何も出来上がってこないということだ、現場の仕事の分からない人だ。常務理事二人の 耳打ちで、従来通りにやりながら、これでいいですか、異議や異見が有れば云って下さい、で、いいでしょう、と。その気のない船頭を何人雇ったからとて、な にも動かない。

* 電子メディア委員会のなかに、現在、「電メ研」と「文藝館」とが共存しているが、もう切り離すべき時期に来ている、少なくも任期切れ、新体制の来年四 月には分けて貰いたいという発言もして置いた。
 電メ研は、この時節であるいつもむずかしい問題を抱えていて、必ずしも文藝館とは関心の方向が違う。一方は社会・経済・産業・政治・法律・そして表現と 現代とにかかわり、文藝館は文学・文藝そのものに関わっている。いまでは、もう質的な次元の異なる二つの「別もの」として、お互いに自律している。それを わたしが一人で一つの「委員長」として率いていては、大きく何かが伴に損なわれる。

* 国際ペンの新理事に当選した堀武昭理事に、国際ペンに今こそ「電子メディア委員会」の新設が必要でしょうと立ち話で持ちかけ、堀さんもそう思います、 尽力したいと。心づよい。

* 六十七年めの「ペンの日」の会長アイサツで、梅原さんは、「ペン電子文藝館」に戦争文学の集積も考えていると、話のおしまいに触れて、わたしの名を挙 げて苦労を多としてくれた。思えば、今日は「ペン電子文藝館」の最初の誕生日であった。
 苦労はどうということはない。やるなら「ちゃんとやる」というだけのことだ、が、手足を縛られては出来ない。

* 相変わらずの「福引きの日」、主な役員達はすいすい帰ってしまい、参加しない。「ペン電子文藝館」で会員達に個別に声を掛けてゆく用事がなかったら、 わたしも気が乗らない。

* 医学書院でわたしが部下を持った最初の年に就職してきた向山肇夫君を、エディター会員に推薦した。承認され、直後の「ペンの日」パーティーに早速夫人 と参会。
 福引きは当たらず。社民党幹事長の福島瑞穂さんがきていて、仲良く、ずいぶんいろいろ話し、激励も。逢うのは二度目だが大昔からの知人のように。

* 会場では呑んだけれど、結局何も食べなかった。あの混雑の中で、立ちながら妙な食い物を口にするのは苦手。で、日比谷のクラブに行き、軽い和食で、山 崎とインペリアルとを、ダヴルで三倍ずつぐらい。少し風に吹かれて有楽町線まで歩き、幸い座れたので保谷までぐっすり寝て帰った。


* 十一月二十六日 つづき

* もうひとつの「闇に言い置く」を教えていただいて、ありがとうございます。
 短い文章でその時々の「思い」を表現していると思います。ふつうの事に潜んでいる、ふつうでない事を見透かしている、もしくは見透かそうとしている感じ がします。何気ない文章ですが、「これ以外にはどんな思いを持ったのだろう」と、こちらに思わせる何かがあり、一つ二つと読み継いでしまいますね。
 内容を読んでみると、私と変わらず忙しい毎日を送られているようで、親近感が沸きます。(笑)
 しかし、私とはなにかが違う、そんな気がします。
 なんなんでしょうね。
「強さ」「苛立ち」・・・そんな言葉が浮かんできます。でも、僕とは質が違うような、そんな気がします。
 忙しさを理由にしたくはありませんが、今日は頭がうまく回っていないようです。
 今週末に展覧会に行く予定です。茶碗と建築(吉田五十八設計)、両方楽しみです。
 では

* お久しぶりです、こんばんは。最近めっきり寒くなりましたね。先生、風邪など引かれていないでしょうか? 我が家は夜の暖房&加湿器で風邪知らずで す。
 メールありがとうございます。教えていただいたWebを見てみました。彼女の「闇に言い置く」文章、先生の言葉を借りて言えば、地に足をつけて血の通っ た言葉を連ねている、そんな印象です。ぼくらと同世代なんですね・・。
 このWebの、観劇記には、引っかかりました。この人にとって、芝居はもしかしたら、ツールなのかもしれない?
 ただ、いまのぼくにとっては、それっきりです。人それぞれの日々に、興味はありません。いま、ぼくは、いかにすれば自分の生活をリアルなものにできる か、いかにすれば自分に好き嫌いを増やせるか、そういうことに腐心しています。
 夏に、歌と写真を始めました。
 歌のレッスンでは、指導の先生にコテンパンに言われます。「あなたは人に向かって喋ろうという気がない!」今の課題は、人に、喋るように、歌うことで す。表現の手前で足踏みです。
 一方、写真は手軽かつ奥が深いという、ぼくのような人間に便利な表現手段です。そして、写真にとって、全ては獲物です。この写真のお陰で、緊張とか、わ くわくといった感情に、久しぶりに出会いました。
 こういうことをふとした拍子に親に漏らしてしまったところ、「夢も希望もないのか」と言われました。暗に、仕事のことを言われているらしく、残念。この 世の中、成すものと成さざるものとで構成され、どこへ行っても、ガムシャラだけが愛される。
 ぼくは、ぼく自身になんとか価値を与えるべく必死です。
 911以降、「良心の使い道がない」ということの問題について考え続けています。
 このような日々を、送っています。
 寒い季節、湿度を保ってウィルスを殺菌し、風邪など引かれぬよう。それでは。

* 思いも寄らない「人の言葉」を聴いては、驚いたり呆れたり刺激されたりすることを、教室の若き学生達は、想像以上に求めていた。それほど他者の胸の内 がみえなんいと悩ましげであった。位置とか位置関係というのは、理系の学問に馴染んだ学生には、そんなに特別の言葉ではないのですと、以前に聴いた。その 意味はじつは理系感覚に疎い私には分かっていない。「位」一字を含む熟語を一つ選んで理由を述べよと言った答えの中にも、そういう理系独特のかつありふれ た説明は見いだせなかったように思う。やはり、それよりも、他人は何を考えているのか、それが分かるともっと気もラクになれるだろうに。人なかで自分の 立っている位置や位置関係がつかめないで悩ましい。そういう嘆きが最も多く聴かれたことは、今も印象に濃くのこっている。
 すくなくもわたしの教室や教授室に来ていた卒業生達は、こういうそれぞれに様子の違った自分を提示してくれることで、何かを思うきっかけにしたことだろ う。「余計なことかもしれませんが」と断りながら、やはり余計なことをしたのか、そうでもなかったのかは、わたしは気にしていない。
 さて、蒔いた種の「闇に言い置く」さん、ホームページに「私事」という一行を加えている。

* 私事 小闇 → 1972年東京生まれ * ♀ * 会社員 * 辛党

* 「小闇」はよかった。百万の小闇が寄って溶けて一つの闇になる。いのちの、ブラックホールである。

* 美空ひばりの「津軽のふるさと」は、よかったですね。
 「ペン電子文藝館」開館満一年、こころよりお慶び申し上げます。
 新島襄:「同志社設立始末」には涙が出ました。中戸川吉二:「イボタの蟲」いいです。
 「招待席」だけでも、数えたら99ありました。しなければならない日常のことをしたら、こうゆう処へ入り込むのを楽しみにしています。おじさんには、こ こでしかお目にかかれない作品ばかりで、本当に有難く、厚く御礼申し上げます。
 恙なくお過ごしで何よりです。
 私の腰痛はずっと以前からのものですからご懸念無くお願いいたします。動ける内は動こうと思っています。気が向くと佐倉へ行きます。ぶあいそだけどうま い葛餅屋があります。
 やっぱりそろそろ冬です。くれぐれもお大事にしてください。


* 十一月二十七日 水

* 今日、またのぞきにいきました。同年の女性の「闇に言い置く >オンナコワイ」。
 こわいだろうな、私も怖がられそうだと思いました。「ああ、なんでオンナのひとがいるの〜。」とはっきりいっていて、「こんなことを気にする自分は本当 に小さい。」といって 、とくに言い訳もなし。
 私の場合は、ついつい背伸びをしてしまいます。
 ちょっと過去のものまで足をはこんでみました。この方の個性が目にしみてきました。きれいに簡潔にまとまったサイト、率直な思い、人がどう思うかに影響 されない強さ、現実にしっかり根ざした「LIFE」。こつぶでぴりっと光っているサイト、この人もそんな感じの方のように、想像が膨らみます。
 よし、負けないぞ。でも、きっと私のこのしずかな闘志はほとんど気づかれることもないでしょう。これだから、女はこわい?
 私が公に、「闇に言い置く」場合は、どんな感じになるだろう。。
 大切な人たちに、触れたくなるけど、大切な人たちは、どう思うだろうか。言葉だけが、一人歩きしないだろうか。優等生にならないだろうか。悪意ある人の コメントに、うまく対処できるのか。いや、なにもうまくやる必要はないか。醜い自分が浮き上がったときに、どう思うのだろうか。熱心に議論をもちかけてく る若者や、好みでない訪問者に、きちんと応対できるのだろうか。感情にまかせて、暴言を吐いたりするのではないか。。。うーん、公はきついなあ。
 あらためて読み返す自分の言葉、読む人の中に映る私、それらをはりあわせて、色や形の見えなかった私の器ができてくるのかなあ。読む人の心の中に、際 立っていたい、だから自分に正直に、率直に話すけれども、読む人を強く意識し、読む人に影響される。
 先生の「BEING」は……まだよくわかりません。私は感じること、感覚に、とても頼っていて、それを「私」と感じます。私が無い、という感覚(笑、 やっぱり頼っている)はよくわかりません。
 あ、闇をのぞいているとき、無心なときは、そうすると、私がない、ですね。そういうことでしょうか。それで「DOING」と「BEING」の違いも、理 解したつもりになりました。
 さて、送信しよう、その前に、先生のホームページみました。同年の仲間のメールがつぎつぎ届いているのですね。
 いつも長くてごめんなさい。

* この卒業生=女性のメールなどは、かなり自身仮説の「小闇」サイトへ接近している。それでも、「メール」の表出と、「闇」に掛けた独白=私語の表現と は、性質を異にしている。メールは読み手の存在あっての言葉だが、「闇に言い置く」とき読者はいない。いないと厳しく考えていた方がいい。そして強くなけ れば書けない。こんなところで他者を意識した飾りを考えたりするなら、そんな行為は止めた方がいい。ノートに書き付ける日記より、「闇に言い置く」方はゴ マカシが利かない。ゴマカシていることは自分自身には分かるのだから、そうすると微妙に文章は赤面してくる。そういうものだ。

* 源氏物語から言及されていること、女の女による男のための文化、考えさせられますね。現代は男の男による男女のための文化みたい・・・確実に社会は変 化していますが、それは認めますが、女がいくら元気だなんだと騒がれても、本当のプロとして第一線にあるのはやはり男ですね。そして所詮男の世の中よとい い出したら途端に時代錯誤と非難される。表面的にはそうです。が、やはり男性社会です。この先をあまり書くと「叱られそう」なので・・
 源氏・・の続き
 光の恋の遍歴が犯す行為、レイプだと書かれていますが、生物的な構造からは変えられない部分があるにしても、性がレイプでおわるかどうかは、オスである 男性の行動如何に懸っているでしょう。それはほんの些細な、しかし極めて繊細な、優しさがあるかどうかの、その一点で。欲望に始まり、レイプに近い行動で 局面を迎え、その後こそが・・。だからきっと多くの女は「優しい男」がいいと口を揃えて言うのです。わたしもそうです。
 女の女による男のための 女文化、今かてそうやん・・と書きたい部分もあります。男性的な要素が強く現われる文化、女性的な・・の文化、時代は変化して いきます。

* 光源氏の空蝉に加えたレイプと軒端の荻に加えたレイプとは、ずいぶん味わいがちがう。
 空蝉に対しては、空蝉自身も心の深くでゆるして受け容れたほどの、その後の永い久しい交感と交流とがこの二人にはあった。夫に死なれ尼になっていた空蝉 を、光源氏は六条院にむかえとって節度のある世話をしている。空蝉も光のそういう優しさを受け容れている。
 軒端の荻は、空蝉の衣をむなしく抱かされた若き源氏が、身代わりというよりも行きがけの駄賃かのように犯して置いて顧みなかった女である。ずいぶんひど いと思う、が。
 この女二人の分かれは、何であったか。それは源氏の「女に対する敬愛」のあり得たかあり得なかったかで分かれている。この辺が「女文化」の一ポイントに なる。皇后定子が清少納言らに、あれほど熱心に「枕草子」を、「枕ゴト=日常の心得ゴト」のマニュアル化を推進させたのも、此処へ繋がってくる。
 男の性行為は、おそらく敬愛無しにも動物的に敢行なされうる。それをさせるのは女の責任だというぐらいの「女への敬意」を王朝の貴族男子たちは逆説とし て持っていたように想われる。「女の女による男のための文化=女文化」は、在っただろう、やはり。
 このメールの人の、「性がレイプでおわるかどうかは、オスである男性の行動如何に懸っているでしょう。それはほんの些細な、しかし極めて繊細な、優しさ があるかどうかの、その一点で。欲望に始まり、レイプに近い行動で局面を迎え、その後こそが・・。だからきっと多くの女は「優しい男」がいいと口を揃えて 言うのです。わたしもそうです。」という微妙なコメントに応える、わたしの、また少し別の「読み」である。女の人が、このポイントをころっと忘れているこ とが、存外のケースを世間に多く産んでいる理由ではないかなどと、もし言ったら、源氏かぶれが過ぎているとやられるかな。
 尊敬できるけれど、性的にまでは敬愛できない・しない女性はいっぱいいることだろう、男達には。性的にも敬愛できる女性こそ、理想の女性であると、明ら かに源氏物語の男達は確信しているし、逆もまた言えるのだろう。レイプ云々は、一つの入り口でしかないという、この人のコメントは、とても微妙で、精妙な のである。「空蝉」「花散里」など、いわゆる美貌と言うに当たらぬとされる女達の、この物語における意味は、男達の主張や願望や自己都合のためにとても役 立っている。男のための、と、わたしが女文化を批評的に規定するのはその意味でもある。
 源氏物語の音読は「夕顔」に入っている。びっくりするほど感じのいい文章で、夜気の濃い「帚木」「空蝉」からは、夕まぐれへ戻って、夕顔棚の目先がぐっ と清しくなった。だがやがてまた物語は深夜のドラマに入って行く。

* 日本のフェミニストはまだまだ成熟していないというのがわたくしの感想です。フェミニストを名乗っている人の多くは、被害者意識が強すぎるし・・・そ うでない人は違う意味でフェミニストを馬鹿だ、時代錯誤だとして無視したり。女の足を引っ張るのは女だと言うのも、半分以上は本当。
 わたくしも意識の中では大いにフェミニストなのですが、時々たまんないなあ・・これは方言?・・・と考えたくなりますね。わたくしが中途半端な人間だか ら。もっとフェミニストだったら、殆どすべての男は批判の射程内ですね。男の人は気づいていない、分かっていない・・。だからきっと糾弾、批判する! あ あ、恐いでしょ? まあ、人間は矛盾の塊です。わたくしはフェミニストになりきれません。ますます矛盾だらけの女になりそうです。

* ときならぬ、ご婦人達の「しゃべり場」になってきた。くわばら、くわばら(これって、どんな語源なんだろう)。


* 十一月二十七日 つづき

* 伊勢物語の九十八段をこんな風に読んでみたがと、今西祐一郎氏のお手紙をもらい、しばらく考えていた。

* 古今集雑上に、「よみ人知らず」「さきのおほいまうちぎみ=前大臣」の歌として「かぎりなき君がためにと折る花は時しもわかぬものにぞありける」とい う一首があり、左注に「ある人のいはく、この歌はさきのおほいまうちぎみ(=前大臣) のなり」とある。大臣はいっぱいいるし、前のといっても誰のことか特定は不可能であるが、古来これを太政大臣(=おほきおほいまうちぎみ)良房であろうと するあくまで推定がなされてきた。根拠は不明。
 伊勢の九十八段を論じた人は、「むかし、おほきおほいまうちぎみときこゆるおはしけり。つかうまつるをとこ、なが月(=九月)ばかりに、梅の作り枝にき じをつけてたてまつるとて」次なる和歌一首を献じた。
   わすがたのむ君がためにと折る花はときしもわかぬものにぞありける
「とよみてたてまつりたりければ、いとかしこくをかしがり給ひて、使に禄たまへりけり。」と、これだけの一段である。
 この不明な根拠を一方で前提とし肯定しつつ、古今集の和歌は太政大臣良房の作とし、伊勢物語のなかで在原業平は、官位の昇進を望んで、(他にも追従の例 のあるように、)古今歌初句「かぎりなき」を、機転ないし趣向で「わがたのむ」ともじって作り替えた。この「業平」の「秀歌と趣向」を「過剰」なほど大仰 に愛でて、「良房」太政大臣は、使いの者に当座の褒美を与えた、と、そう今西氏は読まれたのであり、引証適切、その限りでとても綺麗に読み切れている。
 これで良いだろうかと改まって問われ、ではと考えてみると、よく読み通せないけれども、それなりに不審点や問題点が無いでもない。で、それだけを以て答 えにしようと、以下のようにわたしは手紙を書いた。

* 伊勢物語第九十八段
 この段の私の第一印象は、和歌が「へた」ということでした。「秀歌」とはとてもいえない、在原業平に擬して読むに足るモノが感じられない、と。この評価 では、少し意見の差があるようですね。
 次ぎに、時節を選ばないとしても、なぜ梅の花か、でした。作り枝なら、藤でも桜でも桃でも梨でもよろしいのに。梅でも桃でも良かったのか、梅でなくては いけなかったのか。これには、触れてられませんね。
 またこの雉が、1 生きた雉か、2 死んだ雉か、も気になりました。「雉も啼かずば」などという後代の口気を気にするわけでなくても、また歌のなかの「きし」に仮にかこつけたにせよ、「雉と 梅」という似合わない(と私は感じましたが、)取り合わせが、「何でやろ」と思わせます。この取り合わせに、1 理由がある。 2 理由のないことが理由である、の何れか、気になりました。雉と梅との取り合わせは、他にいくらも例があるか、俄には言えません、私には。この点にも、触れ て居られませんね。
 歌の意味は一読して「意図した追従」ですが、太政大臣がなんでこう喜ぶのかは、仰るとおり余程の事情を絡ませない限り「過剰」で、分かりにくいですね。 それが本心からか、苦笑混じりかも。
 だいたい、伊勢の「男」は、たいがい自身で身を働かせて事を行う方ですが、この段では、和歌を自身では捧げていないようです、「使」に「禄」が出ていま すので。そのために献歌が、やや間接の行為となり、文藝的に訴求力がうすれています。これは何故でしょう。「使」と「禄」にも、触れてられませんね。じか に捧げなかったのは場所柄の制約があったのでしょうか、しかし梅花の作り枝に雉をつけるなど、えらく派手やかに使者が届けているのは現実のことですし。
 そして献歌の衷情が、作者の上に「めでたく酬われたのか、どうか」も。官位ねだりであったのなら、「使」に「禄」で済ませたのは、太政大臣の、出し惜し みとも、皮肉なお返しだとも見て取れますが。
 で、次ぎに例の「かぎりなき」の「前大臣」作とされる歌ですが、これがまた、ひょっとしてこれも業平作かも知れぬよちがあるにしたところが、本来の歌か らはほど遠い駄歌で、先の「わがたのむ」も、ともに業平の集に見えていないのは、当然のように感じます。
 一つ、「かぎりなき」と「わがたのむ」とが、どっちが先に出来た歌か、ですが。和歌が拙いという私の趣味判断を先にすれば、伝「前大臣」歌が先で、伊勢 の「男」のは、やはりその「もじり」だということになります。この「男」が業平とは確定出来ないので、もし他の人間なら「わがたのむ」のような拙な歌をひ ねり出し、ぶっつけに先ず追従したとも言えますけれど、、そしてまた「前大臣」(良房かどうか、伊勢の記事を利用して、古今集へアト添えの左注がついたと も。)が、それを「かぎりなき」と改めまして「上」に献じることもありえましょうが、伊勢物語の「物語る趣向」としては、これはあくまで「わがたのむ」で あり、意図して先行の「かぎりなき」をもじったのでしょう。古今の歌をネタにして、伊勢が、後発追加のの創作にし、それを受けて、更に古今の歌に左注「一 説」が添っていったという、全体にたいへんひねった「創作」モノのように、やはり感じられます。
 古今の「前大臣」を太政大臣良房と仮定しますと、こんな「かぎりなき」などいう「賀歌」を献じた「上」人は、天皇か、上皇か、皇族以外に無いでしょう ね。女にも親族対してでも、感じがうまく合いませんから。
 清和天皇では、両者の実の力や年齢のひらきからして、リアリティーを感じにくい。
 文徳天皇はいわば良房達が天子の位から押し下ろした人で、作歌の時期にもよりますが、へんに白々しいと。
 むしろある時期に、惟喬親王のような敵性の存在に追従の意図で贈っていたなどが、業平がらみですと、曰くありげで面白いのですが。
 業平と良房との関係も、もともと、まともな「上と下」ではなく、立場的・信条的・政局的には相当にねじれた仲らいでありましょう。業平から良房へとする と、「わがたのむ」にはブラック・ジョークに近い慇懃さすら感じられます。加えて、似せモノの梅花と、(仮に)死んでいる雉との「ときならぬ」取り組み は、妙に気色が悪いともとれます。
 のちの藤原基俊の「させもが露をいのちにてあはれことしの秋もいぬめり」に似た、一種のいやみか嘆息か失望を、昇任がらみか、他に何かのワケあって、 「男」からもちかけた腹に一物の狂言なのかもしれないと、そして太政大臣の反応にも、むしろ「このヤロー」といった「苦笑」を感じ取ってもいいのでは、 と、いうぐらいの印象でした。
 「使に禄」の読みが、この一段の普通の結末なのか、その先に、別の成果や挫折が見られたろうとまで推測するか。「含み」の残る、舌足らずな「段」の組み 立てですね。
 良房と業平との縁で、特別記憶されたり記録されたりしたほどの「良い事」があり得たか。染殿の高子をはさんでの「まずいこと」等の方が、一般に印象にあ るだけに、「わがたのむ」には、少なくも直球を投げた颯爽は、感じにくいようです。
 ま、思いつきを申し上げてみました。昇任希望の、或いは何かの要請を秘めた「男」から「前大臣」への追従または運動と、仰有るとおりに綺麗に読み切れる のも、その通りです。欲を言えば、いま挙げたような関連のことがらにも、綺麗な説得が利くと嬉しいなというところです。
 御礼にかえて、駄文。ご容赦、お笑い下さい。凛々歳暮。お大切に。

* 異説が聴きたい。

* 北朝鮮との関係で、拉致被害者自身が整然と落ち着いて日本復帰を果たしている際に、たかが一月二月のことで考え直せの、政府は早まったの、北朝鮮のメ ンツを立ててやれのと、どうしてこう日本のマスコミは腹が座っていないのだろう。コップに嵐を吹かせて商売に利したり、自身の売り込みに利したり、卑しい ではないか。
 ピョンヤンの飛行場まで拉致被害者をもう一度送る分には、などと、ばかなことを平然と口にするマスコミ人がいる。飛行場と飛行機が、どんな場所でどんな 道具か考えてもみよ。拉致被害者を渡せと迫られ、飛行場の滑走路を封鎖されれば、飛行機なんてただの箱であり、軍の急襲から十分間と守れるわけでなく、燃 料を抜かれ電気をとめられ食料を絶たれれば、どんな抵抗も出来ない。そんなバカばかなことは、まさか、と。それを平然とやる国だから拉致もする、国民を餓 死の苦しみに曝してもいる、危険な核は我が儘に開発する。彼等の政府は何も手出しはしない建前で、「怒り」にまかせた北朝鮮「民衆」が(じつは政府に強い られて)我が飛行機にどっと襲いかかり、機内の拉致被害者を拉致し殺害することも、簡単に可能なのである。そういう最悪も考慮しない限り、飛行場までは、 などというウツケたことは言えない。アホかといいたい。
 国交正常化をいま急ぐ何の必要があるか。新潟への航路も、金融機関の送金等も、むろん援助物資も、凍結したり抑制したりすることが、より高度の人道措置 として必要になれば、ためらうなとむしろ言いたい。米を贈り、モノを贈っても、困窮した国民の手には届かないで、北朝鮮の軍事補強にしか使われないそんな 援助では、余りに不自然で不当で、形式論的な援助でしかない。利敵行為だ。
 中国やロシアを、アメリカも動かそうという外交努力も必要だろう。
 官邸のなかと、外務省とが、メンツで綱引きなどしないで呉れよと是非言いたい。それは、先々の政局を見越した、安倍と福田の競り合い、代理戦争になりか ねない。これが一番いけない。福田は、田中真紀子をまんまと潰した手筋で、外務省とはもともとえげつなく繋がっている。外務省には別の田中某という、北朝 鮮への追従外交を専らにしていたらしい局長だかが在任している。福田の息が、早くからこの男にもかかっていたのではないか。田中某の蹉跌を盛り返したい、 外交の舵を占有したい、という外務省=福田筋のタメにすべくとばしている、「早まった」論や「妥協必要」論で、もしあるならば、わたしは、安倍副長官の不 動心の方へ支持の票を投じる。
 軽率すぎる日本のマスコミよ、聡明で節度あれよと、腹立たしくも失笑する。

* ここでも「私の私」「公と私」のことを考えてしまう。国民を守らない公なら、要らない。そう言い切っておく。


* 十一月二十八日 木

* われ思う、ゆえに我あり ということばを大変な発見として子供の頃から聴き知ってきた。この年になると、そんな言葉とはかなりの距離にあることに気付 く。「われ」「自分」なんて在るのだろうかと。落語の「粗忽長屋」であったか、路上に行き倒れて死んでいる、あれは「おまえ」だと親友に言われて惑ってし まう「おれはだれだ」という悲鳴のお笑いは、端的に此処を衝いていた。この落語をテープで聴いてから、「自分は誰か」と学生達に書かせたことがあった。
 自分と思っているソレは、ありとあらゆる他人がこの自分のことを「こういうモノと思っている、思っているであろう、思ってくれているであろう」、それら の集合像にすぎず、夢と同じぐらい根のないものだ。自分とは何だろうと思案してみて、自分は男だ、女だでは意味をなさない。妻の夫だ、子供の父親だ、親の 息子だ、だれそれの従兄弟だ、叔父だといってみても、何の証明にもならない。それは此の世でうごきまわる際のただの立場と関係をさしているに過ぎない。作 家だ、理事だ、選者だといってもそれは仕事は示すけれど自分自身を定義づけるような何事でもなく、すぐに消え失せてしまえるDOINGでありJOBに過ぎ ない。
 見つけようと願っても容易には見つからないのが本当の自分であり、そんな自分なんてモノは本当は無いモノなのだと気付いた方が早かろう。在るなら出して お見せといわれて、辟易してしまうのがオチである。在るように夢見ているだけで、つきつめれば、これが自分ですとはとてもとても持ち出せない。そんなモ ノ、嘗て一度も見たことがない。これが自分ですと差し出せる人がいたら、拝見に上がり教えを請いたいものだ。
 人間に行状は在る。行状が自分だとは言えない。大統領が、かりに閻魔の前に出て、われは大統領なりと胸をはってみて、何の役に立つモノか。それは地位と 仕事ではあったけれど、ブッシュやクリントンのBEING=実存の証明にはならない。死と直面して答えうる「我」など、在ればむしろ不幸なことで、そんな ものはもともと無かったのだと気付いて死ねるのが「安心」なのではないか。
 いやいや、なにも慌てることはない。わたしには、わからない。

* 大勢の客の前で、故人を偲び業績を称えて、その活躍は「すさまじいものでした」などと、市井の人なら仕方もないが、文藝家協会の会長が軽率に口にして はこまるなあと、黒井千次氏が「ペンの日」に祝辞を述べに来てくれたアトの歓談で、「クレーム」をつけた。「あ、そうか。悪い意味があるのか」とは、やれ やれ。それを承知でのアイサツなら、それもまた一つの文藝批評であるが、そういう演説ではなかった。礼儀正しく賞賛の言葉が並んでいた。
 「すさまじい」には、顔を背けたいほどの凄さという、非難や否認の語気があり、それが本来である。わるくすると、黒井氏にはそういう本音があって言った のかと誤解、いや言葉の上では誤解でなく正解になるのだが、ま、誤解されかねない。ま、よくても、かるく「呆れるほどであった」と褒めたんだ、という感じ になる。「凄い」「ものすごい」もそうで、それこそお岩さんの幽霊に対して、恐れ避けて用いる言葉なのである。わたしは、イヤな気持ちの混じる場合にだけ 用いるように気を付けている。

* 明後日の講演、用意が出来た。スベリコミ、セーフ。落ち着いて話せば、趣旨は遂げるであろう。
 勢いで、一本べつの依頼原稿も書いて、ファックスで送った。残るは何か。一本少し長いめのを送って、構わないかと問い合わせてあり、何も言ってこないの は、あれで免責と。残る師走・年初の三本は、量的にも重い難物ぞろいだが、師走内に腰を据えて順にみな片づけ、月初めは真っ先に、「湖の本」新刊を発送す る。
 あすは二ヶ月ぶりに病院へ。今朝の血糖値は、77。低すぎると、低血糖値を心配されそうだ。前日の夜を粗食・少量にして、夜分にいやしんぼうをしなけれ ば、まず正常値。量を食べなければ体重もおちつくし、コレステロールだか何だかも安定する。二十六日には酒ばかり飲んで、あまり食べなかったが、調整はす ぐ着いたようだ。

*  空蝉と軒端の荻と    秦 恒平    (ずいひつ)2003新年号に
  物忌みの方違へに一夜の宿をえた若き光源氏は、同宿していた縁もない女に忍びより犯した。忘れがたく、縁を手引きにまた近づき、しかし、察した女はのがれ 出て、源氏はむなしく脱ぎおいた女の衣だけを手にする。「空蝉」の女。ところが源氏はその場で、べつのうら若い女を抱いて、物言い巧みに犯してしまう。 「軒端の荻」と呼ばれる女。
「空蝉」の衣をむなしく抱かされた源氏が、あつかましく軒端の荻を身代わりのように抱いたのは、抱いたのではない、力で犯したのである。空蝉の場合もそう であった。この以前に、すでに光源氏は、父の愛妃藤壺とも密通している。藤壷がまさか柔らかに受け容れていたわけなく、力づくであったろう。平安物語で男 と女との性的な出逢いは、殆どがレイプであることは、おおかた、誰もが察していた事実である。源氏がレイプしそこねた唯一の女人は、「帚木」巻にちらと名 の出る「朝顔」という高貴の女人だけであろうか。むろん婚姻の妻である「葵上」とは普通に接したであろう。それに準じた「明石上」とも、比較的穏やかに接 していたかも、そうでなかったかも知れない。
 後深草院二条、「問はずかたり」の著者が、少女の身で、親代わりのような後深草院に手荒く犯されるくだりは、あの古典の一番最初の衝撃であるが、あのよ うなことが、光源氏と「若紫」との間にもあった。王朝の貴族社会もすさまじいものであった。それが、わたしの提示した「女文化」なる実質の、根底に在る。
 はじめて与謝野源氏を読んだ昔、新制中学の二年生であったが、この軒端の荻のありようを、とても可哀想にも、いおしいようにも感じた。空蝉を犯したとき も、またこのときも、源氏は、じつに口当たりのいい嘘八百を女の耳に囁いて、以前からあなたのことを想っていたのですよと言っている。うそつきめと舌打ち しながら、こういう嘘に籠められた「文化」のようなものに、わたしは気付いていたと思う。これが紫式部や清少納言らの担っていた「女文化」なんだと。「女 の女による男のための文化」なのだと。断って置くが、肯定していうのではない。
 じつは、女性であろう、こんな文章をわたしは最近に読んだ。
「平安の昔の性がレイプでおわるかどうかは、オスである男性の行動如何に懸っているでしょう。それはほんの些細な、しかし極めて繊細な、優しさがあるかど うかの、その一点で、欲望に始まり、レイプに近い行動で局面を迎え、その『後こそ』が・・。だからきっと多くの女は『優しい男』がいいと口を揃えて言うの です。わたしもそうです。」
 光源氏の空蝉に加えたレイプと、軒端の荻に加えたそれとは、ずいぶん味わいがちがう。
 空蝉に対しては、空蝉自身も心の深くでゆるして受け容れたほどの、その後の永い久しい交感と交流とがこの二人にはあった。夫に死なれ尼になっていた空蝉 を、光源氏は六条院にむかえ、節度のある世話をしている。空蝉も光のそういう優しさを受け容れている。
 軒端の荻は、空蝉の衣をむなしく抱かされた若き源氏が、身代わりというよりも行きがけの駄賃かのように犯して置いて顧みなかった女である。ずいぶんひど いと思う、が。
 この女二人の、源氏から見た分かれは、いったい何であったのか。それはこうだろう、源氏の「女に対する敬愛」の、あり得たか、あり得なかったか、で分か れていると。この辺が、「女文化」理解の一ポイントになる。皇后定子が清少納言らに、あれほど熱心に「枕草子」を、「枕ゴト=日常の心得ゴト」のマニュア ル化を推進させたのも、此処へ繋がってくる。
 男の性行為は、おそらく敬愛無しにも動物的に敢行なされうる。それをさせるのは女の責任だというぐらいの「女への敬意」を、王朝の貴族男子たちは逆説と して持っていたと想われる。「女の女による男のための文化=女文化」は、在っただろう、やはり。
 上に挙げた女性の、微妙なコメントに応える、これがわたしの、また少し別の「読み」である。女の人が、このポイントをころっと忘れていることが、存外の ケースを世間に多く産んでいる理由ではないか、などと、もし言ったら、源氏かぶれが過ぎているとやられるかな。
 尊敬できるけれど、性的にまでは敬愛できない・しない女性はいっぱいいることだろう、男達には。性的にも敬愛できる女性こそ、理想の女性であると、明ら かに源氏物語の男達は確信しているし、逆もまた言えるのだろう。レイプ云々は、一つの入り口でしかないという、この人のコメントは、とても微妙で、精妙な のである。「空蝉」「花散里」など、いわゆる美貌と言うに当たらぬとされる女達の、この物語における存在感は、男達の主張や願望や自己都合のためにとても 役立っている。「男のための」と、わたしが「女文化」を批評的に規定するのはその意味からでもある。
 いまわたしは、源氏物語の音読をはじめて「夕顔」巻に入っている。びっくりするほど感じのいい文章で、夜気の濃い「帚木」「空蝉」からは、夕まぐれへ 戻って、夕顔棚の目先がぐっと清(すず)しくなった。だがやがてまた物語は深夜のドラマに入って行く。
 毎日少しずつ音読して、「夢の浮橋」を渡り終えようと思っている。紫のゆかり、桐や藤の花の色佳く咲く頃まではかかるだろう。凛々歳暮。元旦にはやはり 「若紫」を声に出して読みたいなと、うさんくさい此の時節に、世離れたことを思っている。


* 十一月二十八日 つづき

* 江見水蔭の小説「女房殺し」、現会員中川肇氏の詩「花のゆめ いのちの像」を入稿した。
 いま、妻の校正した加能作次郎の小説「乳の匂ひ」を読み進めている。どれもこれもを二人で読むわけにも行かないのだが、二人の目の通っている方がやはり 間違いは少ない。それでも委員の常識校正の通読で、数カ所の訂正を入れることもある。
「乳の匂ひ」は全くの京都、それも四条から先斗町へ入るきわにあった浪華亭だの、三年坂だの、西洞院だとか、懐かしい。なによりその昭和十五年頃の京こと ばの嬉しさ。この小説の主人公は十四歳ぐらいで伯父の店の浪華亭へ越前の方から丁稚小僧として奉公に来ている。わたしはこの年までに秦の家に貰われてきて いる、戸籍には入れられずに。満で四歳ぐらいではなかったか。
 この小説の少年は、伯父の養い娘で、もとは河原で乞食をしていたものの子であったという、今は一人の嬰児をかかえて、漉き在った男とともに上海へ行こう としている「お信さん」を姉のように慕っている。
 わたしにも、似たようなことが何回となくあった。なにしろ叔母の稽古場へは「きれいなお姉さん」達が何人も稽古に来ていて、わたしは小学生もまだ小さ かった。中学生になってもまだ年若かった。慕わしい人が何人もいて、やはりそれは姉とか母とかいう感じであった。ちいさな、掌説とも随筆ともつかない創作 がどこかに在る。そして「月皓く」といった小説がたちどころに思い出せる。「罪はわが前に」の「姉さん」もそうであった。思いがけず、加能の作品はわたし に昔を思い出させた。佳い作品だ。
 現会員の萬田務氏が、芥川の「地獄変」を論じた論考を送ってこられた。

* 「ペンの日」理事会で、「ペン電子文藝館」一年目を記念して、新たに「反戦・反核」の分室を新設し、さらに原民喜「夏の花」各国語訳展示室の新設へ動 くことが、異議なく承認されました。
 「反戦・反核」室も、技術的・機能的には、現行の「招待席」と同じ扱いになります。「反戦・反核」というロゴを、検索欄の「招待席」の右横に新たに加 え、各ジャンルの作品も「反戦・反核」文学と目されるモノは、例えば小説作品なら、「小説」室と「反戦・反核」室との両方で検索出来るようにします。それ が「招待席」作家ですと、「招待席」からも「反戦・反核」室からも「小説」室からも、三カ所で検索出来るようにします。
 「反戦・反核」作品に限り、ペンの会員外からも出稿を依頼することになります。したがって、現会員でも物故会員でもない作者の「反戦・反核」作品は、自 然と「招待席」にも入ることになります。既に掲載の作品作家からも「反戦・反核」室に入ってもらう人が出ます。さしあたり「ノンフィクション」室の神坂次 郎作「今日われ生きて在り」を、早速「反戦・反核」室へ入れます。
 「夏の花」室実現への方策と手順を、委員各位、具体的に思案・模索して下さいませんか。手がかりをご提案下さいますようお願いします。 「ペン電子文藝 館」主幹

* どこまで充実するか、これは、来年度の仕事であり、わたしは、その入り口を用意した。「ペン電子文藝館」一年目の、私なりのけじめである。
 むかし、日大の院長になられた馬場一雄先生が、まだ東大小児科で助教授をされていた頃、東京医大の村上勝美教授の小児科へ手を貸しておられたが、その出 向記念のためにと、『小児の微症状』という、当時画期的な企画を提案してくださり、村上先生の監修、馬場先生と東医大助教授の植田穣先生が編集というトリ オで、とても良い本が刊行出来た。sub clinical disorder という発想は、当時まだ無かった。小児には殊に必要な視点であるし、「微症状」というのも馬場先生絶妙の造語であった。
 この時に馬場先生は話してくださった。東大小児科の一つの慣例というか心意気として、何かの協力体制が出来ると、その記念に其処へ「一つ」仕事を残して ゆくのです、と。わたしは編集者として、いいお話を聴いたと嬉しかった。「けじめ」のところで、気の入ったシルシを付けてゆく。わたしにも、そういう心意 気が出来た。これまでの久しい自分の仕事にも、そういうフシメ・ケジメの仕事が、幾つも、私自身には見えていて、懐かしくもあり励まされることがある。
 ペンの理事に引っ張り出されてからも、おなじ遣るなら、その席についている限りは、わたしの為にもそうだが、日本ペンクラブの為にもそういうフシメ・ケ ジメの仕事をして行きたいと思ってきた。あとあとへ残る足がかりを置いてゆきたいと思った。すぐ電メ研をつくって、ホームページを立ち上げた。電子環境で 生まれた電子作品でも、紙の本と変わりなく入会資格審査の対象にするという決定も、一つの時代を画した。電子出版契約についての手引きもそうた。そして 「ペン電子文藝館」は最たるけじめになった。いつでも、心残りなくきれいに辞められるようでいたい。

* 私は、やらないよりはマシ、やったという記録が免罪符のように後々に残ればそれでいい、現実の効果なんぞ上がらなくても構わないのだ、というようなこ と――声明・シンポジウム・署名など――は、所詮好きになれない。効果主義者として言うのではない、曖昧にその場しのぎなのがイヤなだけだ。わたしはウソ つきであるが、ウソもマコトも偽善的でなく、本気でやりたいではないか。これは、理事会での私一人の少数意見である。

* ブラジルより。 ご無沙汰しています、不肖の弟子です。変わらずお元気そうで、何よりです。
 アイサツ。世俗の意味でのそれすら出来なくなりつつある今日この頃、不摂生を反省する今日この頃、です。
 私は、現在、世俗にまみれて、遮二無二仕事に打ち込み、「ああ、俺の夢は叶いそうで叶わないなぁ。」と、秋の夜長をしみじみ噛みしめる日が多いです。
 飛行機を造りたいのに、いや、造っているはずなのに、
 「こんなはずじゃない。こんな単純作業の繰返しじゃない。もっと、すばらしいエレガントな仕事をするんだ!いや、そういう仕事があるはずだ!!」
 という、「夢」という名の妄想が、私を縛ります。これを私は「向上心」と名付けてはいますが・・・うーむ、情緒不安定です。
 なんだが、愚痴なんですけど、でも、秦先生だと言えてしまうから不思議です。

* 健康にだけは気をつけような。


* 十一月二十九日 金

* インシュリン、6.4.4 という朝昼晩の注射単位を、4.4.4 に減らしましょうと。横ばいの体重をもう三キロも減らせば状態はもっと良くなるで しょう、と。一時半の約束が、十二時半に済んでしまい、さっさと帰ってきた。
 理事各位に、「反戦・反核」室への作品・作家の推薦を依頼すべく、文面を事務局に送った。返事が集まれば良し、集まらなくても、仕事は少しずつ、やれる ところまで進める。いちどきに、どっと出来る仕事ではないのだから。
 
* 夜はピアノ。モーツアルト、バッハ、ハイドン、ベートーベン。そしてヘンデル。横綱ばかり。はやめに夕食し、保谷駅からタクシーで、まっすぐ三鷹市芸 術文化センターへ。清潔な音楽ホールで、浅井敏郎夫妻にまず招待を謝し、浅井奈穂子ピアノリサイタルを妻と聴く。
 ベートーベンの「熱情」はこの人に最もあった曲目で、この演者ほどあのピアノという楽器から巨大な音量の引き出せる人は、まして女性では少ないが、しか も「音楽」が大きい。圧倒的な力感がよく統御され、「音」がしっかり成熟している。バッハのトッカータとフーガの「ブゾーニ」も堂々と美しく速く逞しく て、さながらバッハを爆破し突破してゆく爽快感に溢れた。
 活躍の舞台はモスクワと、武蔵野音楽院。はでには動かない人だが、力量は大きい。 五、六曲を聴いてきたのだが、あっというまに感じたほど充実してい た。
 済むとすぐさまセンターの前でタクシーを拾い、真っ直ぐ帰宅。好物のブルーチーズでボジョレーの赤を少し呑んでから、加能作次郎の「乳の匂ひ」を校正し 終えて、いましがた業者に送った。佳い作品であった。
 さて明日は午前に「湖の本エッセイ26」が届き、午後は大正大学の会場で、芸術至上主義文芸学会のために講演する。その用意が、もう少し今夜に残ってい る。


* 十一月三十日 土 霜月尽

* 幸いに、十時前には「湖の本」新刊が届いた。落ち着いて午後の講演に出て行ける。

* 北朝鮮はワルあがきし、つられて軽率に蠢く日本のマスコミや政治屋もあり、外では同時テロだの餓死だの。なんとも落ち着きのない現実である。昨日「乳 の匂ひ」を校正しながら感じていた「永遠」を思わせる感動の無垢な底光りとくらべると、醜悪としか言いようがない。
「乳の匂ひ」という題から、人はどれぐらいな想像が働くだろう。わたしはそのワケを知っているけれど、何も予備知識なくこの題を見て、小説の行方が具体的 に読める人はほとんど無いだろが、そこにこの小説の意外性というか、構想の妙も曲も、あった。

* きのう、矢部登さん(「湖の本」の読者)が年譜を書いている、結城信一の文庫本『セザンヌの山・空の細道』から、「空の細道」と「鶴の書」を読んだ。 この作者は、二十歳頃に少し年若な「初恋」の少女に会い、死なれ、生涯繰り返し繰り返し此の女性の面影を書き続けた。幻想味のにじみ出る、またそれしかな い書き方でしっとり静かに書き次がれた。何度か受賞の機会を重ねたモノの、支持する人からも「懸賞かせぎには向かない」とむしろ名誉ある除外にあった。そ して最期の最後に「空の細道」で大きな賞を得てから亡くなった。
 結城のたしか「蛍草」であったかについて、平野謙は言っている。一見古めかしい作品でも、伝えずには、書かずにはいられないで落ち着いて書かれたもの は、かならず人の胸を打つものだ、と。わたしのツネに言いたいのが、ソレだ。それがモチーフ=動機というモノだ。だが、そんな強い純粋な動機を持ち続ける なんて、ナミたいていな事ではない。だから、世の中には、動機があるといえば、ただ売りたいから、金にしたいから、評判が得たいから、またおもしろづくだ けで書かれたモノの方が圧倒的に多くなる。ただの読み物である。消耗品である。
 結城の作品にはパンチのつよさは無い。が、静かに、ぬきさしのならない文章と思いとで綴られている。見ようによれば美しい妄想が書かれている。
 評判だった「空の細道」など、それだけを初めて読む人は、よく筋書きもつかみにくいか知れない、病熱に浮かされたような筆致と見えるかも知れない。この 人は生涯の複数作品で一つの物語の変奏曲を書き続けていたのだから、最後の一つだけをとっても、むしろ頼りないと感じるだろうが、これが結城信一の「夢の 浮橋」であったのだ。
 「鶴の書」は、わたしの提案した「ペン電子文藝館」の「反戦・反核」作品室の中に収めたい「空襲」の悲惨を書いているが、それもまた結城生涯物語の一章 を成していて、どこか夢のようである。

* 伊勢物語九八段に関連して、ペンの日のパーティーで会った和泉鮎子さんに、この段は、「何ななのか」読み直してくれませんかと頼んで置いた。良い感想 が届いている。

* 伊勢物語九十八段、あらためて読んでみますと、むつかしうございます。
 このお話、わたくしはひとつ前の段、あの、
  櫻花散りかひくもれ老いらくの来むといふなる道まがふがに
のあります九十七段の続きといいますか、同趣のものが並べられている、そういう感覚で、ぼんやり読んでおりました。この九十七段の「櫻花散りかひくもれ」 という、藤原基経の四十の賀の祝いに詠んだうたですが、一応、賀のうたとなっています。けれど、不吉なことばがいくつも重ねられており、結句を見るまで は、何とも薄気味わるい感じがいたします。結句にしましても「まがふ」ということばも、めでたいといったおもむきのことばとはおもわれません。致し方なく 賀歌を詠んでさしあげはするけれど、といった、業平の意志が透けて見える。けれど、結句でくらり、ひっくり返して見せるという機知に富んだ賀歌とも見え、 それゆえ、贈られた側はとがめだてすることもならない……。
 呪詛ともなりかねない賀歌を贈られた基経は、このとき、どうしたでしょう。腹の立つのを抑えて鷹揚に「いや、みごと」と言ったか、苦虫を噛みつぶしたよ うな顔つきでふいと横を向いたか――。
 九十八段も同じような場面を想像いたしました。
 「わが頼む君」と、追従口の一つも利いたりして権力者良房に膝を屈せねばならぬ口惜しさを、業平とおもわれる「仕うまつる男」は、毒を隠した機知で遣ら おうとしている。その小道具が、「九月ばかりに、梅の造り枝に雉をつけ」たものであり、口上に代るうた。そう、読んでみましたが。
 木の枝に鳥をつけるのは、鷹狩りなどのおみやげとして『源氏物語』などにも見えますが、雉ですと冬の大鷹狩りの獲物。それを秋の季節に、春の花の木につ けて奉るという念の入れようは、「ときしもわかぬ」と言いたいためとは申せ、いかにも盛りだくさんで、業平自身の美的感覚からははずれた悪趣味なもの、お ふざけかともおもいます。もしかしたら、おふざけついでに、この小道具では缺けている「夏」を、使いの装束にでもあらわしたか、いや、そんなのんきなもの ではなく、「夏」の缺けていることに何か、意味があるのかも知れない、などと、これも、想像でしか、ありませんが。
 また、業平が献上したのは、現実にはあり得ないものです。そこに、みーんな嘘いつわりという寓意を籠めたとしたら、たいへんな悪意を相手に突きつけたこ とになります。
 最後の、良房が「いとかしこくをかりがりたまひて」云々は、良房ほどの人物が、単純に興がりよろこんだとはおもわれません。業平の底意を知りつつ知らぬ 顔をしたのか、業平の演技、見抜いたぞと、ことさら大仰に「いとかしこくをかりがりたま」うたのか、それとも、書き手の潤色、いえ、書き手は業平の側に立 つひとで……と、わたくしの想像は、通俗にかたむき過ぎていて、つまるところ、わたくしという読み手の器をさらけ出したことになってしまいました。
 この、九十七段と九十八段は、年代としては順序が逆になっています。うたも、「櫻花散りかひくもれ」のほうが、格段にすぐれていると、わたくしはおもっ ていますが、幾年かのちがいにせよ、少し、角ある振舞いとうた、それと、練達のうたを並べてみせた編者のことも、おもわれます。
 実は、この小文、秦先生のを拝見する前に書き始め、書きさしたなりになっていた、思いつくまま書き連ねた体のものでございます。
 先生のを拝見しましたあとでは、作者に疑義のあること、異同といったこと、なぜ、梅なのかといったこと、そのほか、思いの至らなかった点が見えてきて、 臆するばかりでございます。けれど「異見を」というおことば、それに宿題をくださったということで、お恥ずかしく存じますが、送らせていただきます。

* 古典は、世離れて、奥が深い。妻の兄が訳詞を書いた「大きな古時計」が今年は盛んにはやった、あれは「癒し」とか謂うらしいが、伊勢物語や源氏物語を 小声で音読していると、魂の奥の方でふしぎな旋律が湧いて出てくる。根底の癒しである。昨夜も六条の御息所をおとずれた源氏が、つとめての帰りがけに、お 気に入りの侍女の中将の袖をひかえて戯れる辺りの、前栽やにはたづみの美しい風情。読んでいるだけで、うっとりとそこへ引き込まれてゆく。理事会や「ペン 電子文藝館」や委員会なんぞであれこれ出入りしている自分ではなく、この気色に引き込まれて共生し得ている自分がほんとうの自分にちかいのだと感じる。 「乳の匂ひ」に感じ「鶴の書」の哀しみに感じている自分の方をわたしは大切におもう。


* 十一月三十日 つづき

* 西巣鴨の大正大学で、芸術至上主義文芸学会秋季会があり、東海大学院生の研究発表につづいて、「新メディア時代の文学」と課された題で、二時間近く話 してきた。話すべきは、すべてといえるほど話してきた。あとの親睦会へも参加してきた。殆ど食べずに、ビールと紹興酒を飲みつづけて、宴半ばで失礼し、空 腹を感じていたので、途中、すこし脚をのばし、美しい人に「おめずらしい」といわれながら天麩羅を食べ、ほっと一息。心嬉しい日本酒を少し飲んで、帰宅。 セルロイドが裂けて破損ぎみの、胸のカード入れ(昔なら定期入れ)の佳いのをもらった。胸のポケットが温かく上等になった。

* さて、十一月も尽きた。民主党の鳩山由紀夫が、案の定腰砕けた。これは鳩山もわるく、党の若手もわるく、共同責任に相当するが、自由党の小沢一郎と談 合するなど、鳩山も血迷ったとしか言えぬ。小泉総理に、「自由・民主党」になる気かなどとからかわれていてはお話にも成らない。これで鳩山は潰れた。土井 たか子は政界にもう残っている存在理由がない。日本にはもう政党らしい政党は自民と共産党とになってしまった。
 わたしの年来謂うように、いまもし共産党が「共産党」でなかったら、共産党は飛躍し得ただろうに、つまらない昔の名前に拘って、あたらチャンスを活かせ ない。

* あすから「湖の本エッセイ26」を発送し、今年を締めくくりたい、はやく。せめて一泊二泊でも、どこかへ冬の旅が出来たらいいのに。


 

* 十二月一日 日

* 終日、本の荷造り。中途、風邪気味ですこしきつかった。晩は、ビートタケシの「BROTHER」という映画を観たが、何なんだ、あれは。むりやりリク ツをつけてホメあげる連中が、いるのだろうか。
 夕方に「ちいさな留学生」というルポルタージュをみたが、これには感動した。帳素という名の中国少女が、父母と一緒に二年間八王子に暮らした間の小学校 生活を主に描いたモノだが、対象を追い続けるカメラの女性の愛ある意欲が良く伝わった。


* 十二月二日 月

* 朝一番、夜前に貰っていた佳いメールを読んだ。

* 秦さん、こんばんは!
 五島美術館の名碗展、見に行って来ました。
 別室で解説講演をやっている裏でならば、多少余裕があるかと思いきや、凄い人出でした。展示室にはいるまでに30分以上の行列で。
 展示内容には、かなり圧倒されてしまいました。どれもこれも力のある作品ばかり。
 南宋時代の油滴天目や室町の白天目、黄天目など、存在すら全く知りませんでしたが、良いものですね。じいっと見入ってしまいました。
 名前だけは知っていた長次郎の茶碗も、現物自体が初めてですのに、あれだけ揃っていると壮観で。楽茶碗はやはり人気のようです。いつも大勢の人だかりで した。
 初めて見た長次郎の黒楽でしたが、とても厳しいお茶碗ですね。点前をする方にも、茶を飲む方にも、精神の集中と緊張を強いるような。それが修行としての 茶道には、ピッタリなのかも知れませんが。格はどうあれ、自分が頂くなら赤楽の方が・・などと贅沢なことを考えてしまいました。
 ですが個人的には、華やかさと無骨さが同居しているような志野のお茶碗が一番でしたね。なんとなく志野というと白のイメージでしたが、赤みがかった釉薬 のものが幾つか出ていて、その微妙な色具合がまた見事で、茶碗の姿形とも相まって、いつまで見ていても飽きない感じでした。
 焼き物も面白そうですね。素人が作っても案外と味があるものが出来たりするようですし。普段家で使っている茶碗は、亡くなった祖母の手作りなのですが、 黒い瀬戸で、何とはなしにいい形をしていて、かなり気に入っています。
 機会があったら陶芸にチャレンジしてみようかと画策中ですが、ちょっと調べてみても、案外費用のかかるものらしく、二の足を踏んでいます。。
 そろそろ初雪も見られそうですね。暖かくしてお過ごし下さい!
 ではでは、また。

* あの東京工業大学で、わたしなどには何を学問しているのか見当もつきにくいほど難しそうな研究に取り組み、大学院を卒業後も、それを抱えたまま勤務に いそしんでいる卒業生のメールである。茶碗を観て、これぐらい懐に余裕のある感想が自然に出てくるのは、勤めはじめて程なく茶の湯の稽古をはじめ、先日 も、根津美術館の茶室をつかった茶会で、客の前で手前もしてきたような経験をつんだ嬉しい「成果」といえる。「焼き物も面白そうですね」と。ついこの間、 「おもしろや焼き物」という湖の本をこの人にも送っていた。わたしとしても、ほうっと笑みのこぼれる嬉しさである。しっとり落ち着いた日々を過ごしている 一人であり、だが、なかなか、こうは行っていない人も多い。こうは落ち着かないでいる人の方が残念ながら多いのは、やはり時節の過酷さ故のようであるし、 また仕事=勤務=職場というせっぱ詰まった一本の脚で日々を歩まざるを得ない人に多い。揺れたときにバランスがとれないらしい。
 名碗展の招待券をあげたもう二三人が、何を見てきたろう、元気でいるといいがと願う。
 わたしも、会期中に行ってきたい。案の定の人出らしいが。

* こんな幸せなカップルも。

* 先生お元気でいらっしゃいますか? 日々の生活に追われ、すっかりご無沙汰、大変失礼しております。
 昨日で結婚一周年を無事迎えました。おかげさまで二人とも大きな病気もせず、元気に暮らしています。毎日会えることを嬉しく、ありがたく思いながら過ご していたら、あっという間に一年過ぎていました。
 主人も(ちょっと照れますが)頑張って仕事しています。詳しいことは私にはわかりませんが、昨年11月に就職して、半年弱しか経っていない三月の学会で も、きちんと成果を発表していましたし、論文も投稿できる段階に入っているようです。(1年に1本出すというのは大変なことのようです。)
 毎日遅く帰ってきては、それからでも専門書に目を通しているような状況で、妻としては身体が心配なのですが、若いうちにいろんなことを吸収したいと思っ ているのか、とても精力的に研究をしているようです。
 という感じで、主人の仕事が時間的に不規則なので、私の仕事は再開せずに、専業主婦をしております。でも、全く外に出ないのも・・と心配してくれたこと もあって、近くのジャスコで、お中元とお歳暮の受付の短期アルバイトをしています。 (今日も仕事をしてきました!)
 そのおかげで、当地にも、主婦(と学生)の知り合いが出来て、今も一ヶ月に一度、みんなで集まるような良い仲間にめぐり合えました。
 主人との付き合いは、もうすぐ丸六年年経ちますが、同じ家に住み、疲れているときも良いことがあった日にも一緒にそばにいられることが、今はとても幸せ に感じます。そして二人で生活する上での協力を、惜しまずしてくれる姿勢に、とてもとても感謝しています。
 主人の家の両親(祖父母)にも、実の娘(孫)のように大事にしてもらっています。こちらもそれに応えようと頑張っていますが、なかなかお料理の腕は上が らず、レパートリーも増えません・・(笑)。来年への努力目標です。
 まず、一年、二人で暮らすことが出来ました。これからもよろしく、とお互いで言い交わしたところです。
 先生の「湖の本」の送られてくるのを、二人で楽しみにしています。先生のお誕生日ももう一ヶ月もないですね。
 今年も寒い季節になりましたので、奥様とともに、どうぞどうぞお大事になさってください。

* この幸せな二人のことは、教室の昔からよく知っている。将来は結婚するとも聴いていたし、優れて落ち着いた家庭を造るに違いないと、間違いなく信じら れるカップルであった。

* 竹西寛子さんから『贈答のうた』を、桶谷秀昭さんから『歴史と文学』下巻を、木島始さんから詩画集『予兆』を、石黒清介さんから歌集『夜のいのち』を いただき、湖の本装幀の画家から「林檎」、萬歳楽蔵元から清酒、茨城の読者からクリスマスを待つ紅い花の鉢を戴いた。
 木島さんの稀覯の詩集は、「ペン電子文藝館」の「反核」室にくださったもので、感激している。木島さんはペンの会員ではないが、この「私語」によく耳を 傾けて、早速反応してくださったのである。

* 最後の一枚になったカレンダー、松篁さんの「柿紅葉」の色好いこと。小枝の小鳥は頬白か、ひたきか。灰色の背景に淡い白のはだれが雪を予感させる。ま だ十一月の風情もはなやかに、柿紅葉のされたあかみや黄色みの、目にも、思いにもほうっとあたたかいこと。卒業生達の、いろいろにメールをくれるつど、よ そへやってある子供達の便りのように胸がことこと弾む。

* 寒さに震えた昨日でしたが、今日は暖かい日差しに恵まれてホッとしています。良いお天気だと、一日の持ち時間が長く感じられて嬉しくなりますの。同じ 二十四時間だというのに不思議ですよね。
 新刊本「からだ言葉・こころ言葉」。読みながら、思わず「クスッ」と笑ったり、ニンマリしたりしているところを他人様がみたらどう思うかしら? 好きな 閑吟集の中からもいくつか小歌が載せられていて、なんだか懐かしい友に出会えたようです。
「脛かじり」
 母の細い? 脛をかじっている息子(まだ来年も、なのですけれど)に、「あんたが就職したら、母は扶養家族になって『今日は遊びに行くからお小遣い頂 戴!』って暮らすのもええなあ」って言ったら、なんて応えたと思います?
「ウン、ええよ。お小遣い二万円あげる」ですって。その息子、朝がなかなか起きられないのです。
「就職難のこの時代、遅刻ばかりしてるとすぐクビになるよ」
「母が起こしてくれたらいける!一回千円でどう?」
「エーッ、いつまで起こさないけんの?ええかげん親離れしてよね。けど、月三万円の目覚まし時計になるんもええかもなあ」
 母の面倒はみるものと思っている息子の「心意気」が言葉の端々に感じられて嬉しくなるのですが、まだまだその言葉に甘んじることはないでしょうけどね。
 気温の変化に油断の出来ない日々、どうぞ御身お大切になされてくださりませ。湖の本、楽しみにお待ちいたしております。          


* 十二月三日  火

* ほぼ九割九分まで「湖の本エッセイ26」の発送を終えた。まるで祝って戴くように読者から純米の清酒を二升贈ってもらった。晩に、片口にとりわけて頂 戴したが、総身に沁みるほどうまかった。木の片口に二杯、正味で二合ほどを、あっというまに吸うようにのみほした。清水のように、喉の奥まで澄んで光る気 がする。感謝、感謝。
 いまその人から、こんな、お心づかいも有り難い、嬉しいメールが届いた。谷崎先生もお口にされたお酒であろうか、身のわきから、わたしをいつもぐいと見 据えておいでの写真にも、一杯差し上げたい。

* 秦 恒平様
 「私語の刻」に毎日元気づけられています。それにしても働き過ぎになっていらっしゃるのではないかと心配しています。小説の中のこととは言いながら、 「迷走」を読んだころから、腕利きの編集者として活躍しておられた秦さんを心に描いていましたが。
 お体に障ってはいけないなと気がかりではありますが、酒がお好きと分かっているのでやはり送ることにしました。日常用のお酒ですが、県南の、室町酒造と 谷崎潤一郎が疎開していた県北勝山町辻本店御前酒のものとをお送りします。一週間以内には着くと思います。

* お酒だけではない、メールにはファイルが付いていて、「四度の瀧」冬風情、と見える写真。お心入れである。お酒といいなつかしい袋田の瀧といい、おか げで、佳い気持ちの打ち上げになった。

* 先月の日録を十二日まで読み直して、変換ミスなどを訂正し、片づけた。変換ミスというのはこの機械の運命のようなものというと逃げ口上になるが、つま りは不注意に過ぎないけれど、有るものだ。メールでは気を付けるようにしているが、この「闇に言い置く私語」では、つい気の走るままにキーを叩き、後日を たのんでそのままにしてしまう。粗忽、我と我が身に恥じ入る。

* 小林多喜二、金史良、木村良夫、田中英光と四人分の校正が手元に積まれている。また萬田務氏、岩崎芳生氏、平塩清種氏、武井清氏ら現会員からの出稿が ある。木島始さんに戴いている反核詩もスキャンで起稿したい。
 発送をほぼ終えてみて、気分はスッキリしたがヒマになったというわけではない。目をつぶって、ふいと旅に出たいがなあ。


* 十二月三日 つづき

* 哀しみ悼みてあまりある便りも来た。いままで「慈子」の序章をずうっと読んでいた、そこへ。

* 妻の事
 「死なれて死なせて」なども使いながら、* *市の市民講座で死と癒しについて語っていた妻ですが、11月29日に息を引き取りました。辻邦生と並んで秦さんの文章を愛していた妻ですが、ご子息の芝 居も楽しみにしていました。
 私が癌の告知をした後、知り合いの看護婦にも私へと同じように、「人の何倍もいろいろ経験させてもらえて悔いはない」そう語っていた妻でした。
 癌と告げたときは「そう」、余命いくばくもないことを告げたときも、「わたしは大丈夫だからあなたこそ帰り気をつけてね」という調子でした。私が化学療 法について俄か勉強して転院を薦めたときも、「そりゃあ私も望みを捨てたわけじゃないから、いろいろ試みてみるけど、そんな勉強に時間を費やして欲しくな いの」そう言い切るのです。
 闘病記やさまざまな手記を私も読みましたが、この八ヶ月妻を見てきてはっきりわかりました。書きたい、書かずにいられないというのはやはり我執が、欲望 が原動力にあること。しかし、その行き方だけでなく、淡々と受け止めて書かず語らずの境地もあるということ。書くという表現行為は、書かないという表現行 為にいわば敬意を払わなければいけないということ。静かに読書していた妻を見るにつけ、自分ならどうしただろうと想像し、やはり書いている私を思い浮かべ ていました。
 この期間の経験が、私の今後の書く行為にどう影響するか、楽しみでもあります。
 とにかく、ここ数日お目にかかる方たちが口々に妻への共感を語るのを耳にし、改めて私を大きく支えていてくれたことを痛感し、同時に本当に多くの方から 愛されて慕われていた妻の姿が浮かんできました。人間的スケールにおいては、私は妻の足元にも及びません。大体が女性に男性は及ばないと思いますが、とり わけ我妻は度量が大きすぎました。本当に私には過ぎた女房だったのだと思います。
 宗教色を廃して、大学の同僚たちを中心にお別れの会を開いていただく事になりました。身内だけで密葬にし、願っていた形で多くの方からお別れのメッセー ジをいただけそうです。これも妻の力だと思っています。
 本当は妻と一緒に、秦さんを訪ねて文学を肴に語り明かしたかったのですが、それも叶わなくなりました。
 一言だけお知らせしておこうと思ったのに、長々と書いてしまいました。すみません。
 いつか、書かないことに拮抗できることばを紡むことができたら、秦さんのページ(e-文庫・湖)にも投稿させてください。
 寒くなりますので、ご自愛下さい。

* なんということだろう、声もない。この人のいまこれを私に告げている胸の内を想うと、胸も裂けそうに痛い。どうしようもなく、繰り返して念仏しおえ た。わたしよりも幾つも若い夫婦なのであった。奥さんには一度もお目に掛かれなかったが、この人とは何度か。それでもゆっくりとは逢えていない。もしもこ んど顔をみても、ああ、なんという寂しいことであろう。
「朱雀先生」の死を知らずに出張の旅先から京都へたちより、来迎院で「慈子」の口から先生の亡くなられたのを聴いた。わたしは庭の茶室に隠れて泣いた。慈 子が来てそばに座った。雨の中を家の裏の御陵下へお墓参りに出た。「お利根」さんは「みんなに死なれて」と若い二人の前で顔をおおい、わたしは「死なれ て」という物言いに生まれて初めて耳をとめていた。そういうところをわたしは、いましがた、読んでいた。いま、幾重にも悲しい。幾重にも悲しい。

* * * さん。 いはでおもふぞ と。奥さんは、そういうふうにあなたの前で生きておいでだったのでしょう。いまは悲しむなとは言えない。わたしでも、こんなに悲 しいのです。お子さまをどうか気を付けて上げて下さい。それを心の杖にして。抱き柱はいらないと書いたわたしですが、心からあなたがたのために祈りたく、 念仏を申しました。  
 いつでも声を掛けて下さい。  秦 恒平

* このところ欠かさず、バグワン、源氏物語のつぎに、二年前になるだろうか山折哲雄さんとの対談『元気に老い・ 自然に死ぬ』をも読み返している、少しずつ。私の発言は謂うまでもなく未熟であるけれど、今読んでもかなり本音と理想とをほとんど過剰なほど口にしてい て、気恥ずかしいとともに、さきざき、ここに言って置いたことはかなりただごとでないと人に読み返されるかも知れぬ予感も持つ。この対談は、私自身も若い と思っていたし、恥ずかしくてあまり人に見せずじまいにしてきたが、六十七歳が近づいている今、逆に読んで貰いたいなと言う気持ちにもなっている。

* 雪空のカナダから  恒平さんと呼ぶ人はもうそんなにはいないでしょうが、私の耳には「こーへい」と呼ぶ仲之町のお母さんの、ちょっとカン高い声が今 も懐かしく響いてくるのです。
 同じ12月生まれながら、20日ほど先立って67歳の誕生日を迎えたばかりです。子供らが巣立ったあと、夫婦二人だけの”ねぐら”をこちらでは Empty Nestということは前に言いましたっけ? 我が家の12月は妻が6ヶ月に及ぶ京都暮らしを始める季節でして、カナダ側はオス一羽となるのですが、ま、一家4人いずれも息災でいるのが何よりです。
 私の日常は、日課となった水泳のほかは、雑文書きやステージショー制作の依頼がポツリポツリとある程度で、恒平さんのこなしている仕事を思えば、量的に も質的にも比較は烏滸がましいのですが、まだまだ迫り来る老いをあるがままに受容する、などという悟りには遠く、それにあらがう姿勢が我ながら見えるので す。
 人生、Productiveでなくなると、もう生存の価値なし、というのが持論ですので、あと何年健在でいられますかね。もちろん Physical に、ではなくて、Mental な意味において、です。
 現今の日本は何でもある国ですので、珍しくもないものですが、海産の品を送らせていただきました。14日前後に到着の見込みです。ナイアガラ瀧近くにあ る「雪国」という日本料理店経由のルートを使いましたので、私の名前ではなく経営者名(* * * *)で行きますが、怪しい品ではありませんのでご不審のないようご案内いたします。
 カナダ ナイアガラ つとむ

* はからず、友あり遠方より来て、励ましてくれる。幾山河越えさり行けば寂しさの果てなむ国ぞ。


* 十二月四日 水

* 親機がクラッシュしたと思われる。フロッピー・ディスクをドライヴが食い込んで排出しないまま、non-system disk or error の状態に。機械には予備のD Eディスクが有るはずだが、そこへ到達する手順を知らないのでどうにもならない。余儀なく子機で作業しているが、月とすっぽんほど速さががちがい、お話に ならない。さしあたり、この私語の十一月十三日以降分は未手入れのこのママ「私語の刻 15」に移すことで少しでも身軽に。これは実行した。無数の仕事をしていたので、影響は計り知れない。メールは、この子機で出来るだろうと思う。これも今 確認した。メールアドレスが子機には保存不十分なので、最近に変更された方はメールが欲しい。またウエブのアドレスも。
 電子文藝館の起稿や校正もかなり遅れることになる。わたし自身の仕事も打撃が大きい。慈子も序章を読みなおしたところで、消えてしまった。この十日ほど に貰っていたメール等の文章類は全部消失している。再度可能な人は戴きたい。

* 組み立てた機械なので私には勝手が全く分からないが、なによりも機械が噛み込んだディスクをどう取り出すか。

* 打ち返すように二三のアドバイスを得た。ディスククラッシュにまではなっていないだろうが、フロピーディスクを取り出さねばいけない、それが今のとこ ろ出来ない。小さな穴をピンで強く突くと、CD-ROMは出せる仕掛けだが、この組み立て機械では、フロッピー用にその対策が無い。わたしには有っても分 からない。布谷君が遅くなっても電話をくれると言ってきている。待っている。

* 加藤周一氏が筑紫哲也の番組で筑紫氏と京都の円通寺で対談していた。京都が毀れると。そして日本語も、と。
 日本の政府は、近代以降、日本を改築改装することに無神経に奔走してきた。景観を保存する、尊重する政策は時代遅れだと思いこみ、ほとんど持たなかっ た。自然も家屋も古いものは、はやばやぶっ壊して、道路でぶち抜く。好き勝手な建築のためにも、じつにイージィに型どおりに建築許可を出す。京都でもそう であった。
 京都のまちなかは、ほんとうに無惨に毀れつつある。伝統的には、毀れても焼けてもすぐ建て直るという安易な条件が、かつては確かに有った。むしろその無 常のさまを自然と見たし、その復興の様も自然と見ていた。
 平安時代から江戸時代まで、日本建築は、概して右肩上がりに豊かに良くなっていたので、建てかわって無惨と言うこともあまりなかった。木や石の材料も あった。
 ところが明治以降、建築様式に雑多な外来要素が加わり、かつ人の生業にも、会社組織や工場が加わり、その便宜のために、伝統的な木の建物では、作業のハ カが行かなくなった。さらに人口が増え、都市の景観は密集をもって特色としだした。木は足りなくなり、木では建設しにくい状況が出来ている。京都は伝統の 街、進歩や便宜の例外ですとは、暮らしている市民にすれば、言ってられなかった。
 京都の人は我が強く、よそはよそ、うちはうちと、「ごりょうし=ゴリ押し」に我を張るから、街通りの景観に寛大に優先権を与えたりしない。「うっとこ= 我が家」のトクに差し支えない限り、大義名分と雖も従わない。街の有様のひどくなる一方なのは、もともとの市民性にもよるし、行政には高度な定見が、見識 が、街への愛情が、てんと無い。法律通りに形式が揃えば、たとえ円通寺の借景の中に、醜い高いビルがヌーッと割り込んで建つのも平気の平左で、それももう 目前のことである。
 失礼だが、加藤さんのはなしはピンとこない、ごたいそうな観念論であった。筑紫氏も例のとろけたバターのように役立たずに曖昧模糊としていた。あんなこ とで、京都という町は、街モノは変わりはしない、「勝手に言うとい」「好きに言うとい」である。こうすればこんなに「おうち」がトクでっせと持って行ける 理屈や対策を立てないでは、誰もが個別にそっぽを向く。面従腹背は京都人の悪しき聡明の一つなのである。 
 

* 十二月五日 木

* 八時前、血糖値97、良好。昨夜も美作の純米御前酒を、少しずつ少しずつしかし盃を重ねては案じていたので、一安心。へんに自信を付けても困るが。
 布谷君から九時頃に電話が入ると。夜前は帰宅がずいぶん遅かったらしい、「すいません」とメール。とんでもない。こっちの方が恐縮している。
 話は別、それにしても「すいません」はよくない。東工大の教室でも教授室でも書いたもので「すいません」日常会話で「すいません」は大勢からしばしば眼 にし耳にした。世間でもそうかも。ま、口で言うとき「すみません」よりも「すいません」の方が音便っぽく何よりもラクに発声できる。耳では許容している が、眼で「すいません」は宜しくない、それで正しいと思いこんでいる若い人が、いや随分の大人にも、いる。これはやはり「済みません」の意味であろうか ら、書き言葉としてはちゃんと「すみません」が良い。見苦しくない。布谷君にもそう注意した。

* 「夕顔」巻で夕顔がものに憑かれて光源氏の腕の中で息絶えた。「なにがしの院」の夜のこわさが、源氏や侍女右近の恐れ惑いとともにみごとに書かれ、ま くらがみに立つ女姿のもののけにリアリティがある。声に出して読んでいて感じがじつに深く、感嘆する。「桐壺」の文章は荘重、「帚木」は直接話法のおもし ろさ、「空蝉」は生活感で心惹くが、「夕顔」は美しさに胸打たれる。小説として場面がとても生きている。
 この「なにがしの院」については私の「T博士」角田文衛さんに有力な別説があり、わたしは、それに従い、「夕顔」という現代と古代との感応する小説を書 いたことがある。ちいさなどこかに齟齬があったかも知れない小説であるが、もう少し長めに書き直すと佳いかも知れぬ。広沢の池、円成寺の御仏、美しい大顔 の失踪、具平親王の嘆き、遺児の運命。それらと現代の夕顔塚を壺庭のうちに抱いた京の女との数奇の出逢い、恋、そして嵯峨野の友、紙屋川の師。短編の中に たくさんを書いた。一度、読みなおしたい。

* バグワンを読んでいて、ふと立ち止まった。これは訳語の問題があり、訳語にとらわれるより意義を深く酌むべきだと思うが、彼は、たしか「孤独ローンリ イ」と「独りアローン」を見分けて、孤独は毒だが、独りは全くのところ望ましいとする。私の物言いに言い直すと、「孤立」は毒であり「自立」は望ましいの である。その辺は、それで解決するだろう。
 バグワンの独自の説得では、孤独な男女が孤独のママ出逢って結婚しても、二人とも孤独の毒から免れるわけがないという。お互いの孤独の毒を相手の存在に 肩代わりさせ合うだけで、孤独は失せたように感じ合っていても、そのかわりに不幸を抱き込んでいるのだと。幸福な愛ある結婚は、自立した独りと独りとで達 成できるものであり、お互いに妻や夫のより豊かな「独りアローン」を成さしめ合えるのが大切なはずだと。孤独孤立に泣く男女は当然のように相手にそれを癒 して貰おうとして自分の不足を放置する。孤立感は支え合われたようでいて、それでは自立した者の充足はうまれっこないから当然のように不幸の坂をすべり落 ちてゆく。支え合うというと言葉は佳いが、自立した者同士だからより確かに支え合えて幸せがありうるので、「独り」に成っていない半端者同士ではどんなに 疵を舐め合おうと癒えて健康にとは行かないと、バグワンは言うようだ。
 これは、深い洞察である。自立し「独り」に成れる前に、孤独をただ嘆いて寄り合っても、根本の姿勢が出来ていなくてどうして孤独の不幸が無くなるもの か、孤独も不幸も、見かけの安寧の下で崩れを増しつつ倍加してゆくだけであると。厳しい指摘であるが、わたしも、その通りだと思う。此処の安易な誤解が安 易な結婚に繋がり、そして夫婦ともども孤独の不幸を、うわべ仲よげに、増長している例が多いのではないか。

* そろそろ九時になる。なんとか、布谷君のリモートコントロールで、ドライヴに食われたフロッピーディスクが吐き出され、機械が元へ戻りますように。こ ういうことになると、再設定のとき至るに備えてね現設定の細部を備忘のメモにしておけばよかったと後悔する。その気はいつもあるのに、つい目先の仕事へ仕 事へ先に走ってしまう。

* 電話での指示通りに機械を働かせ、画面が出るようになった。噛みこまれたフロッピーディスクは、現状では排出の手だてがなく、土曜日昼過ぎにまたわが 家までご足労願えることと相成った。感謝に堪えない。マイコンピュータからのディスクドライヴのクリックで、フロッピーデイスクの内容は取り出せることも 分かり、不幸中の幸いであった。難しい操作をしたようであるが、神戸の芝田道さんがすぐメールで教えてくださった(但しわたしでは出来ない)ことを布谷君 がテキパキ指示してくれたのだろうと想われる。芝田さん、感謝します。

* ごぶさたしております。WEBを見ました。
>* 親機がクラッシュしたと思われる。フロッピー・ディスクをドライヴが食い込んで排出しないまま、non-system disk or error の状態に。
 電源を入れますと、PCのBIOS(非常に基本的な処理をするプログラム)は、フロッピーディスクにWindowsがあるものとして、 @まずフロッピーディスクにアクセスします。フロッピーディスクが挿入されていなければ、AハードディスクにWindowsがないかとアクセスします。
 @、Aの順序を変えることができますが、BIOSの知識が必要になりますし、どのようなマザーボードを使っているかにもよりまして、操作が異なります。 親機を設置した卒業生と連絡が取れれば、電話の指示でA、@の順に変更することは可能なんですが。
 とりあえず、気が付いた事をメールいたします。

* 事のついでに、どうも飲み込みが悪くて出来なかった、親機から子機へ、子機から親機へのファイル移動を、具体的に教えて貰って、今も、この四日五日分 の私語を、その手で移動したところで、これは大いに今後助かります。有り難う。忘れないうちに手順を箇条書きに書いておかなくちゃ。箇条書きに限る。
 

* 十二月五日 つづき

* 雨上がり  身内といっていいひとと、まねきの下で待ち合わせ、遅い昼食ののち、タクシーで清閑寺へ。
 ドアが開いた瞬間、あぁ!と、ふたりとも、深い息を吐いた、浄(す)んだ空気。いいところですね…。雨が上がるとともに、温順だった日が、僅かずつ冷え 込んでゆく夕まぐれ。
 子安塔から茶わん坂、八坂の塔、圓徳院、そして真っ暗に暮れた参道の、大谷祖廟。
 近鉄特急が丹波橋に停まるようになって、四条へは、とても便利になったンですよ。
 ご本、届きました。ありがとうございます。お疲れが出ませんように。

* 清閑寺とは。あんなに懐かしいところは、いかに私でも、そうそうない。紅葉。御陵。阿弥陀ヶ峰。馬町。「冬祭り」へすうっと帰って行ける。「修羅」の 一編にも書いた。

* 「湖」のご本、いただきました。ありがとうございます。
 ひらいた一ページ目に、先日、お話くださった『伊勢物語』八十九段の登場人物の一人、藤原良房の名。この人をそういう役割を果たした人物として見る目 が、わたくしには缺けていたと、どきっとする思いでございました。
 「女文化」ということばに、『女文化の終焉』をおもいだしたりしながら、「平安女文化の素質」を読みました。
 「女」に傾き「女」に身を寄せ「女」のもて遊びとして「男」が創意したもの……
 平安の「女文化」とは男の掌の上で女の一切が開花した文化の意味である。
 こうしたお考え、おことばに、息をのむ思いでございます。そして、その男たちの在りよう、そういう男たちに囲まれていた女たちの在りようを、さまざまお もいみて、かのときのかの女、かの男をおもうて、とりとめのないことでございます。
 これから、おいしいお菓子を惜しみ惜しみいただくように、何度目かの「春は、あけぼの」を、たのしませていただきます。新たな発見、感動に逢うことでご ざいましょう。
 『伊勢物語』八十九段も、もっとよくかんがえてみとうございますし、小侍従も見ていただけるようにしたいと、こころばかりは急くのですけれど。
 今、ゆらゆらとゆれました。とどこか遠くで地震かも知れません。柱に懸けてある明珍の火箸が涼しい音に鳴っています。
          

* 十二月五日 つづきの続き

* 昼前に妻と出て、池袋「ほり川」の旨い寿司で昼食し、JRで目黒へ、東急で大岡山経由、上野毛の五島美術館へ「名碗展」を観に出掛けた。東工大にいた 頃は何度も学生達を連れてきた。一人でも来た。今は芸大教授の竹内順一さんのはからいで、パスをもらっていて、学生を何人かは連れて入れた。今もおなじ特 典を戴いている。保谷からはかなり遠いのだが、思えば等々力の東横短大まで一年間授業に出掛けたのだ、上野毛は等々力のすぐ並びである。
 雨のあとの晴で、大きな木々がしっとり。晩秋ともいえない初冬の残紅残黄はやや色すがれながらも、かえって美しい。妻とは、はじめて。余り遠いのでよほ ど調子の良いときでないと誘いにくいが、期間も残り少なく、はるかな昔の婚約も記念する気で出掛けた。茶碗は、立派な図録が贈られてきて以来妻も観たがっ ていた。

* 期待にそむくわけもない、それはもうみごとな展観であった。展示室にはいるのに、十五分ほど行列待ちしたし中はもう数珠繋ぎに名碗の前からなかなか動 かないような人、人ではあったけれど、それでも、観てきた。わたしが一人ならもう二倍は時間を掛けていただろうと思う、去りがたい佳さであった。
 欲をいえば光悦は出ていない。
 しかし砧青磁の名品「馬蝗絆」「雨龍」があり、天目は国宝もふくめ綺羅星のよう。井戸茶碗は「喜左衛門」以下、鳴り響くように銘碗が揃った。圧巻は楽初 代の長次郎が「大黒」以下、これでもかというほど、かつて知らぬほど居並んでいて、めまいがしそうだった。伯庵ものも織部も志野も。一つ一つあふれるほど 感想はあったが、、むしろ、言葉にはして置くまい、自然に言葉の感想は忘れて、眼に残った美しさ、つよさ、優しさを覚えていたい。

* 深くがけの下へ沈んでゆく、このへんの地勢に素直に馴染ませた紅葉の庭園をゆっくり散策してきた。やっと今年の残り紅葉に間に合った、それほど今年の 秋は出掛けなかったと見える。
 上野毛から二子玉川まで行き、駅の長ぁいホームから多摩川の下流を眺め上流を眺めて、妻も私も気が晴れ晴れした。お天気に恵まれた。昨日は寒いような雨 であった。
 ホームを換えて、半蔵門線に接続している東急電車にのりこみ、社中で妻は増強のくすりを服し、電車終点の水天宮まで乗っていった。
 以前に、京都造形美術大学の東京でのお披露目があり、芳賀学長に呼び出されてこの近くのホテルでの宴会に出たことがある。市川猿之助が副学長だとかで、 彼の歌舞伎談義をながなが聴いたあとさっさと抜け出して、水天宮に一人で参った。谷崎文学にもゆかりの地、気分が直ったので神社の床下のような寿司屋に 入って、一人で旨い酒と肴をたくさん楽しんだ。その楽しかった記憶があり、電車の便宜を幸いに妻を誘ったのである。
 水天宮さんは街より一段高く、まるで二階に浮かんだ風情がおもしろい。ま、安産を誰のために祈る折りではないけれど、お賽銭も入れてきた。
 風情もよく珍しい店もちょくちょくの宵街をそぞろ歩いて、翠蓮という地下の中華料理に入った。そんなには食べられないわと言いながら、出てきた料理がみ な口に合い、妻もほぼ一人前のコースを食べた。瓶出しの佳い紹興酒もたっぷり飲み、疲労も取れて、さらに人形町の方まで散歩してから、日比谷線で銀座へ、 銀座から有楽町線の銀座一丁目まで銀ブラして、地下鉄にもうまく座れたを幸い、保谷まで一本道、ねむりを取りながら帰り着いた。玄関をあけると、黒いマゴ が頚の鈴の音もかろやかに、嬉しそうに迎えに出て足許から離れない。
 と、ま、久しぶりに、のーんびりとした楽しい遠足であった。観ものは名品、食べ物は旨く、上野毛、二子玉川から水天宮までと、予定もしなかった遠足が、 心嬉しかった。

* メールがたくさん。

* 昨日、「湖の本」エッセイ26の『春は、あけぼの・桐壺と中君』を受け取りました。ありがとうございます。本日、送金の予定です。
 さて、このほどようやく吉岡実に関する「吉岡実の詩の世界」というサイトを開設いたしました。
   http://members.jcom.home.ne.jp/ikoba/
 「湖の本」の営為からは、いつも無言の鞭撻を(勝手ながら)感じておりますので、こうしたご報告ができるのも晴れがましい心持ちがいたします。
 吉岡実さんの業績は、(全詩集は出たものの)全集が出ておらず、全貌が把握しにくいのが現状です。本サイトが「本文のない全集」といったものにでもなっ ていれば本望なのですが。
 とりいそぎ、御礼とご報告を認めました。ますますのご活躍をお祈り申し上げます。

* 若い友で研究者である小林一郎氏の、心入れ深いサイトの公開、注目されますように。吉岡実はわたくしにも思い出のある優れた詩人であった。

* 一昨日、湖の本が届きました。春はあけぼの、ああ何と懐かしいと、思いました。
 枕草子のNHKのカセットは昔買い求めて時折聴いていますので、今回のように文字になったものを改めて読むと、また違った印象を受けています。テープは 九本ですから、もしそれを全部本にしたら、どれほどの長さになるのでしょうね。今回の本の続編で全部を活字化されたら、また面白いのではないでしょう か?!
 あの頃、本屋で注文して、何本ほどのテープかも、値段の確認もしていなかったので・・受け取りにいった時、近所の本屋さんが、高くて済みませんねと言っ たことを、何故か鮮明に覚えています。確か2万円近かった。十分に楽しみ、何回も聴きましたから・・決して高いことはありませんでした。いくらか声が高く 感じられるのは、録音というので幾分緊張されていたのか、或いは声の若さでしょうか、録音技術なのでしょうか?
 「桐壷と中宮」は光源氏の系譜の正統の・・と非常に深い記述だと思います。血統、血筋、最近の言葉で言えば遺伝子やDNAということになり・・生みの母 明石の上の存在の意味もまた問われなければならないでしょうが・・。
 以前書いたことがありますが、わたしは朧月夜の内侍と宇治の中君が女としては好きです。朧月夜の華やかさや強さ?は自分にないものだから憧れ、中君は現 実感覚も情感もたっぷりある智恵ある女性だから好きです。紫の上は理想的に描かれすぎて・・そして彼女は本当に幸せだったかと問えば、必ずしもそうではな かったと思えます。
 今し方此処まで読みながら、暖かな今日の一日を楽しんでいます。
 殆ど家に篭っていますので、昨日は思い立って映画を見に行きました。「ハリーポッター」水曜日のレデイースデイで千円で見られるのです。なんで女性だけ 割り引くのと、これは逆差別だよ・・・若い子、男性がぼやいていましたっけ。
 とても評判になった本で、本屋には山ほど積まれていますが、本はまだ読んでいません。本を読んでから映画を見るとガッカリすることが99パーセントです ので。久しぶりに映画館で見るのは、画面の大きさも音響効果も、それなりに大いに、単純に楽しめました。が、書きたいことは・・・ハリーポッターが闘う怪 物は、蜘、最終的には蛇、そしてその闘いに彼を誘いこみ、彼を利用して自分を生き返らせ「支配」しようとするのは過去の「亡霊、記憶」だということです。 またしても蛇が登場するのは、さもあらんとあなたが意を得たりというところでしょう。
 珍しく婦人雑誌も買ってみました。新年の記事が満載されています、意気込んで精いっぱい正月を迎える準備もしてみたいなど、ガラにもないことを考えたり しています。
 本に挟まれた紙に書かれていた「文生於情」は心して現在のわたしの姿勢としていきたいと思います。本当に大切な言葉です。
 目、肩、腕、大切に。心臓も、糖尿も気を付けて。大切に。

* 間に合いました。  明後日 早朝のバスで成田に向かい、老母と伯母とイタリアにいる娘を含め、9日間の女ばかり5人の家族旅行に出かけます。明日の 朝までに終わる予定の旅の準備に「湖の本」が間に合いました。もちろん冬のプラハ ウィーンを、「湖の本」と共に旅してまいります。欧州の旧い街歩きと音 楽に浸る日々、嫁ぐ娘が企画し、手配してくれたプレゼントを心行くまで楽しんできます。

* そして、もう三十数年も逢わない、医学書院時代の親しい友であった人が、今は山形の医療保健の大学で副学長をしているという、懐かしいメールも届い た。朋あり、まことに遠方より電子の声が届いてきた。なんと嬉しいことであろう。


* 十二月六日 金

* これは嬉しい。

* 先週末に五島美術館に行ってきました。大変な人出で、車は停められない、入館まで三十分列に並ぶなど、これで美術を味わえるのか? というような状態 でしたが、幸い、閉館時刻が一時間近く延長されたので、最後はゆっくりと、少数の中で見ることが出来ました。
 さて、展覧会の内容ですが、二つの点で、大変興味深く見ることが出来ました。
 まずは、体系立った展示方法により、茶碗の歴史といいますか、時代的変遷を追うことが出来たのが、私のような茶碗素人には大変助かり、かつ、役に立ちま した。このような時代的変遷にそって、何度も何度も展示室を回ることによって、形や色の移り変わりを、段々と、知識ではなく、感覚として捉えることができ るようになっていきました。これだけでも二時間近くいた甲斐があったと思います。
 しかし、私が、最もおもしろかったのは、その点ではなく、ある一つの茶碗のあり方に、惹かれたからでした。それは、名前が出てきません(申し訳ないで す)が、展示室の左奥にあった、桃色と白の茶碗です。
 この茶碗の印象は、「実体がない」というものでした。
 まず、形が、茶をいただくことにおいて非常に素直な形をしており、(私は茶道のことを知らないので、素直とは言い切れないものがありますが、お許し を。)強い主張が出ないほどに作りこまれています。これは面白みを出すことに対して、つまり表現を作り出すことに対して、貪欲でありながらも、茶のあり方 からは決して外れない意思があって、できるものだと感じました。
 そうでなければ、なんでもない形が、あそこまでの力を発揮するとは思えません。
 次に色です。
 順序は逆になりますが、今回の展覧会で、一番興味を持ったのは、この「色」のことでした。
 様々な色の茶碗があり、それぞれのカタチに対して、どんな色の可能性があるのかをまざまざと見せつけられた気がします。しかも、名碗は、その関係を自然 に、切り離せない一体のものに仕立て上げられています。
 しかし、最も興味を持ったのは、形とモノの関係が切り離されてしまったかのように見えたこと、見えた茶碗、でした。一言で言えば、モノとしての存在感を 強める色ではなく、モノとしての存在感を消し、色としての存在のみを作り出すことのできる色がある…ことを、見たのです。
 心を惹かれたその茶碗は、桃色と白色の塗りが重ねあわされ、かつ、その塗りの重なり方が違う現れ方をしていました。まず桃色の下地に、白い斑点が浮き上 がる胴の部分が絶妙でした。
 その斑点の中心には小さな突起があることによって、その白い斑点は桃色の「上」に浮き出ているのか、もしくは桃色を透かして「下」地としての白が見えて いるのか、どうにでも見えるのです。私には桃色を透かして下地としての白が見えている、と認識しました。
 さらに、茶碗の上端の部分には、胴から続く桃色の「上」にまた白が塗り重ねられているのです。しかしここでは先ほどのような斑点のような「模様」ではな く、筆のようなものによる荒い「塗り」となっているのです。つまり、胴部の斑点状に見える白と、上端部の塗られた白との、形における上下の対比的な使われ 方と、同じ白が下地でもあり最表層を作る色でもある、厚みにおける上下の反復的な使われ方によって、色の重なりがあたかも無限に反復していくかのような構 成を作り出しているのです。
 この、素直なカタチと重層する色によって透明感と柔らかさを獲得した茶碗は、モノとしての強さではなく、色に塗りこめられた硬い粘土=モノの部分があた かも存在しないかのような、桃色そのものの柔らかな強さ(弱さ)を現し出していたように感じました。それが、「実体がない」という印象を持たせたのではな いか、と考えています。
 こんなに文章に書いてから言うのもなんですが、当日は、その茶碗の前に何度も吸寄せられ、ただただ見入るばかりだったのです。
 先生のお誘いのメールに、「茶碗ほど「空間」を喰って生きる生き物は珍しい」とありましたが、なんとなくそれを感じることが出来たように思います。ア フォーダンスというものかもしれませんが、個々の茶碗のあり方が空間を規定し、人をその空間の中に引き込んでしまう力があると感じたことが、「空間を喰 う」ということに繋がっていくのではないか、と思うからです。
 ありがとうございました。

* 茶碗をしみじみ観たのは、この卒業生、たぶん初めてではないか。まして、わざわざ「茶碗を観に行った」のは。だが、そんなこと信じにくいほどの観察で あり鑑賞であり把握であり洞察である。それもガラスケース越しに観てのことである。感心した。
 むろん、初めての見参であることを露わにした「茶碗素人」である証拠は、露呈している。釉薬のことはともかくとしても、この人は、茶碗という「焼きも の」を観ながら、「火」の、「焔」の成していた魅惑と不思議には、一言も、触れていない。そして何度か、色を「塗る」とも言っている。釉がけはあるが、 塗っての彩色は、たぶんあの会場の名碗には一枚もない。だが、それは彼の場合ほとんど問題ではない。素直に観て感じたままをてらいなく語ってくれている。
 そして、じつは、美しい着物を着て連れだって沢山来ていた、いわゆるお茶を教えたり習ったりしているご婦人達の、誰一人間違っても用いまい、しかし大事 に大事な「空間」とのかかわりという茶碗根底の魅力に、彼は、手づよく意識的に接している。ここが勘所であろう。
 「茶碗ほど「空間」を喰って生きる生き物は珍しい」よとわたしが伝えておいたのは、この人が現役の建築家として、現に大きなマンションなどの設計図を次 々に書いては建設を実現しているからであった。彼は意識有る「空間マン」であるから、いれものである茶碗の抱き込んだ空間性、身の外側へ張り出している空 間の張りの魅力が、よく分かるはずと思っていた。わたしの売りことばを、彼は精確に買いとって、入場券を上げようかと打てば、響くように下さいと言ってき た。二枚上げてもよく、わたしも一緒に出掛けてもよかったけれど、一枚しか上げず、一緒に行こうかとも、わざと言わなかった。一人で、向き合ってきて欲し かった。それで、よかったと、思う。このアイサツには高点を上げたい。なにより、誰かが誰かを評していた言葉を借りれば、天皇を論じるために宮城の廻りを ジョギングしているような所もやや有った青年が、タッチの強い言葉で厄介な対象をつかみ取ろうとし、ほぼ成功しているのが、素晴らしいし嬉しいのである。
 歴史的な流れに沿って、先ず、茶碗の造形や機能に一定の大づかみが出来ているし、観察が「茶」のありようにかなり深く触れている。わたしのいう「趣向と 自然」のかねあいをよく観ている。造形の意欲としての趣向の面白さを、自己主張としてでなく活かす自然さ。その辺に「茶碗」たる魅力だけでなく、「茶」の 味わいをもくみ取りかけている。それが、佳い。
 おそらく、えっ「火」ですか、あ、そうだと声を上げてから、彼は「火」「焔」のことも黙って次のステージのために胸に畳んでおくに違いない。つまり、又 の機会が私にも楽しめるのである。

* 親機から子機へ、子機から親機へ、ファイルを移動するのが自在に出来るとどんなに便利か、ネットワークの威力である。ホームページだけで三百からのオ ブジェクトがあるし、一太郎やワードやドキュメントやマイホームにも夥しい数のファイルが保存されている。MOにもとってあるが、機械に入っていると、参 照がラクで直ぐ呼び出せる。一つずつ一つずつ機械環境が成熟し、しかし機械は脆く故障も起こす。決定的な故障になると、データをまるまる逸失破損させてし まうから怖い。

* 田中英光の「野狐(やこ)」を、小林多喜二中編の代表作「一九二八年三月十五日」を、萬田務氏の「芥川地獄変の一面」を入稿した。岩崎芳生氏の作品は 自然改行できていなくて、字数で強制改行されているため手直しが大変で、事務局へ返送した。


* 十二月七日 土

*  布谷君はるばる来訪。3.5インチディスクドライヴからディスクは取り出せたが、ディスクそのものが、電気的には働いているのに、挿入されたディスクの排 出機能が「ヘタッテ」しまっていて、気を利かして途中で買ってきてくれた新しいドライヴに置き換えた。それで、済んだ。済みました。感謝。
 天気が良ければ一緒に街へ出たかったが、彼も次の約束あり、雨もよいで寒々しい天候なのであきらめた。

* 有元毅さんに戴いた美作の御前酒がうまくて、きれいに飲み干した。もう一升はお正月にとっておく。なんでこう酒が旨いか。

* 機械が満載状態で、どれもこれもわたしの手を待っている。「e-文庫・湖」の「更新」方法がフクザツになってから、途方に暮れて、手が附かない。これ にいささか参っている。載せたい作品や文章があるのに、以前のように気軽に手が出せなくなってしまった。慣れないといけないのだろうが。
 午後にかなり粘って格闘したが、一人一作の転送に幾つもの複合した手間がかかるらしく、重い半分と軽い半分の軽い方だけが出来ているような、 だが肝心のコンテンツが送り出せていない。音をあげて「ぺると」の森中さんにお尋ねのメールを送った。

* この師走、ほんものの「師走」になろうとしている。からださえ保つなら楽しいことだが。

* 師走の街は華やいでいて心浮き立ちます。先日銀座を歩いていて嬉しい買物を二つしました。
 一つは未読だった先生のご本です。あるデパートの前で行なわれていた青空古本市で見つけました。先生のご本は見つけたらかならず買うことにしています し、初めて手にする『東工大「作家」教授の幸福』でしたので、喜んで購入いたしました。(新刊『からだ言葉・こころ言葉』はアマゾンで注文しています。) 先生の小説を読んで文藝の至福を味わうというのとは少し趣を異にするご本ですが、私はとても愉しみました。
 先生が優秀な編集者でいらしたことは容易に想像できますが、教育という分野におかれましても(中略)学生を見る目の温かさに胸うたれました。
 自分の経験に照らすと、大学で先生方に教えていただいたことの意味がほんとうにわかるのは、卒業して何年も経ってからです。先生のご指導を受けた学生さ んたちの心のなかは、年を重ねるごとに先生の言葉がじんわり滲みていくにちがいありません。
 また、このご本は個人的にも大変懐かしさをおぼえました。私が学生時代に知っていた多くの東工大の友人たちの学生気質のようなものが、今でもあまり変化 していないような気がいたしました。
 二つ目の買物は伝説の名歌手の一枚のCDです。ヴンダーリヒというテノール歌手の名前は、今では知る人ぞ知る名前になってしまったかもしれません。生き ていれば先生より少し年上という人ですが、三十六歳の若さで酔っぱらって階段を踏みはずして亡くなってしまったので、活躍したのは十年間だけのことでし た。
 ヴンダーリヒが死んだときには「時代がわたしたちにプレゼントしてくれた最高のテノール」を失ったと世界で嘆き悲しまれたそうです。私は小さな子供でし たので演奏を聴いた記憶はなく、母などから噂を聞くばかりでした。それが偶然昔の録音を現代の技術で復刻したCDを見つけました。
 シューマンの「詩人の恋」を満足する演奏で聴くことはめったにないのですが、酔いしれてしまいました。バスやバリトンの声では絶対に味わえない、極上の テノールならではの心がとろけるようなやさしさ、蜜がしたたり落ちるような甘さに溢れています。しかもヴンダーリヒはドイツリートにかかせない、精神性、 文学性もそなえていて、「一瞬の好機」で夭折してしまったことがほんとうに惜しまれる歌手です。
 あまりお金を使わないで豊かな買物をして幸せに浸っておりましたところ、待望していました湖の本を頂戴しました。今回も読みごたえのある何ともおいしそ うなご本で、なるべくゆっくり少しずつ味わいたいと願いつつ、きっと仕事を忘れて読み耽ってしまうでしょう。(中略)先生が京都という日本文化の要の街に お育ちになったのは決して偶然ではなく、神さまの特別のはからいだったとしか思えません。今回のご本も、やはり血のなかに京都を抱えた先生ならではの文藝 の冴えと重厚な古典批評が堪能できますことでしょう。
 あとがきに紹介されていました日本ペンクラブの「電子文藝館」については、おこがましいのですが、日本人の一人として、その素晴らしいお仕事に対して厚 く御礼申し上げたいと存じます。そして、先生の地道な活動をお助けの奥さまにも心から感謝申し上げたく思います。
 先生は文壇とか政府とかメディアの関心などというものを気にかけてはいらっしゃらないでしょう。しかし、これほど日本文化に貢献する有意義なお仕事が、 ただ先生お一人の超人的読書量に支えられ、無報酬で、大々的に宣伝されることもなく行なわれていることに、私は愕然としてしまいます。
 昨今の日本は、文化的なものの正しい評価がまるで出来ない嘆かわしい国になりました。小沢征爾がどんなに望んでも日本の音楽界に戻ってこられなかった、 その一事をもってしても明白です。
 しかし、チャップリンが映画で「時は偉大な作家である。常に正しい結末を書き記す」と言いましたように、後世の人は「ペン電子文藝館」に恩恵を受け、そ れが一人の文学者の独力でなされたことに深く頭をたれるにちがいありません。しつこいようですが、心からありがとうございますと申し上げます。
 そして最後にわがままな愛読者としての希望を申し上げることをお許しください。
 先生は以前の「私語の刻」に「しびれるような女の小説が書きたい、その方へと帰りたい。なにがいいといって、やっぱり女にいちばん心惹かれる。いい女を 創りあげてみたい」と書かれていました。先生の頭のなかにあるいくつものストーリーをお一人だけでお愉しみにならず、新しい「しびれるような女の小説」を 少しだけでも読ませてくださいますように。
 久しぶりに先生にメールを書きまして何とも長くなってしまいました。駄文を読まれて目がお疲れになりましたら、ほんとうに申しわけなくひたすらお詫び申 し上げます。
 この冬はインフルエンザが大流行するとの予測もございます。どうかご無理をなさらず、お身体お大切に奥さまと静かな年末をお過ごしくださることをお祈り しております。

* あんまり恐縮な箇所を途中少し外させて貰った、それは私一人でひそかに頂戴しておく。「一瞬の好機」とある一句は、わたしが昔、そのように「死」を迎 えたいと書いていたのをこの人は記憶されていたのだろう。いろいろ褒めて貰って言うのではないが、非常にレベルの高い「読み手」であり、また「書き手」で もある。こういう人たちとの全国的な数多い出逢いをもたらしただけでも、「湖の本」は心行く仕事になった。幸せであった。
 おりしも必要あって「慈子」を読み返しているときなので、この慫慂は有り難くも心につよく響いてくる。「書きたい、書かずにいられないというのはやはり 我執が、欲望が原動力にあること。しかし、その行き方だけでなく、淡々と受け止めて書かず語らずの境地もあるということ。書くという表現行為は、書かない という表現行為にいわば敬意を払わなければいけないということ。(死の間際まで)静かに読書していた妻を見るにつけ、自分ならどうしただろうと想像し、や はり書いている私を思い浮かべていました」と、いうメールを先日貰ったとき、この一節にわたしは静かに佇んでいた。そして「書く」ことを、思っていた。

* そのあと、こんなメールもわたしは貰っていて、返信もした。

* ご多忙の中、生殺与奪の魂を「機械」へ依存しなければならない時世。トラブルは解消されたと拝察いたします。それでメール致します。
 芥川の「蜘蛛の糸」みたいな「線」に頼って情報の宝を託す。
 物を書き、話し、対話し人間と人間が時間と空間を共有する。蜘蛛の糸の上で。恐ろしい世界です。紙は長持ちする。機械は故障する。磨耗。品質。
 今の日本に、若者に誰が「ものづくり」を教えているか。
 黒潮の底の流れを知る。ことはない。ただ表面の流れにのみ目が移ろう。時流のみ目が追う。薄氷の上を歩いている。電子の世界を知って「バベルの塔」を築 いていますね。すぐ「リカバイ」出来るから物事の「本質」を真剣に知ることも出来ない。「浅薄な世界」に魂を乗せているように思います。ハードの脆さを誰 も知らない。磨耗。バグワンは磨耗をどう見たか。
 山折哲雄。彼はバグワンをどう見るか。失礼を省みず。

* 情生於文 文生於情 なにもかも、それほどのことではありません、無いも同然、意識の浮游ですもの。こだわりなく遊べるのです、だから。湖

* 情生於文 文生於情 ありがとう。打てば響く天の月  浮遊。8文字を大切に。

* バグワンを介して言葉を交わすことのある数少ないメールの人で、面識も知識もない。だが、さきのメールは、切っ先が急所に触れている。わたしは、危う くかわしただけ、かわせてもいない。危ないことだ。
 この「闇」をもし訪れてくる人は、ただわたし一人のことばでなく、もっと多くを豊かに聴かれるであろう。


* 十二月八日 日

* 六十一年前か、昭和十六年、一九四一年の今日、真珠湾奇襲の戦果とともに米英に対する宣戦布告の詔勅が出た。わたしは事情あって宏一(ひろかず)とい う仮名で京都幼稚園に通い、明けての春に国民学校に進んだ。この入学式の日に、はじめて自分の名前が「恒平」と名札にあり、仰天したのを痛いように覚えて いる。
 今日は、「予兆」と題された木島始さんの詩を、記念に、「ペン電子文藝館」反戦・反核室に招待すべく、頂戴した稀覯の私家版から手打ちで起稿するとしよ う。朝一番に木島さんのメールを戴いている。「予兆」という優れた「反核」詩のためにも、転載させて戴く。

* 「招待席」にとのご配慮、まことにありがたく、嬉しゅう存じます。
 以下、ご要望のこと、記します。
 木島始 (きじまはじめ) 1928年2月4日京都市に生まれる。第2回日本童謡賞。「予兆」私家本制作、1971年。のち詩集『千の舌で』(新日本文 学会出版部、1976)に収録。
 以上です。なおこのUの部分だけ、英語訳が発表され、そこからネパール語訳も、重訳発表されました。
 また私家本制作のさい、おおいに刺激をうけた画家山下菊二氏のこと、つぎに略記します。
 山下菊二 (やましたきくじ  1919−1986) 徳島生まれ。『山下菊二画集』(美術出版社)など。パリのポンピドウ・センターなど、欧米での展 示で、注目を集める。
 思いつくまま、記しました。ホームページを拝見していないと、、と考えると、感無量です。よろしくお願いします。   ご無理のきませんように。
     感謝の気持ちをこめて。   木島 始

* 予 兆  木島 始

  T    ぼくらは
            ひととき
            その予兆に
            たじろいだ

原始の沃野から
古代から 中世の信仰へ
その中世から
言い伝えられた魂のように
上昇する一瞬の
煙となって
ぼくらの肉体のすべてが焼きつくされる日
ぼくらの家が バラックが
ぼくらの樹木が
黒く 全人類の 全地球の
空を焦がす日
その一瞬の
偶発するかもしれないぼくらの敗北を
いかなる呪詛とて
地獄の敵にと像(かたど)りえなくなる日のことを
ひとびとは何気なく
じぶんじしんの 毎日のおじぎの
どこかに押しこみ
昨日のじぶんの植民地の半島から伝えられる
拡げた「植民地型」新聞の
戦場の写真 ナパーム爆弾に
見入った

 <ぼろぼろの棒ぐいのようになった屍体の写真──
 地平線にまで連なる残骸の──>


 はやくも くばられる写真の麻酔で
 しびれる舌と唇に
 沈黙を強いてきている
 その日の昏さ!
 未来が失明してしまうその日の昏さ!


  U  破壊せず
            ファシストが
            遁走する
            ことはない

胸も頭蓋も
飛び出た眼玉さえも
轟然(ごうぜん)と
轢殺される屍体のように──
その日は
犇(ひしめ)く
熔岩のように
日本列島は
人間の呻きを蒸気にし
蜿蜒(えんえん)と
噴煙の列を太陽にまで届かせる──

 そして数分
 平野も
 丘陵も
  都市もなく
 すべてが褐色の化石残骸の穴ぼこ砂漠──

後は
鉛色の島の周辺
ただよう
屍体の影の形だけが海に残って

一○○○○○○○…………億光年

銀河系の果からは
きっと宇宙人の高笑いが
電波の弔辞を送ってよこすのだ

……ぴぴぴ(ソリー)……るるぴ(アイムソリー)……
      たぴぴ(ヴェリソリー)………


  V  この夢を
            いつぼくは
            一蹴しうる
            保障をもつ?

かりに
被爆の跡に
亡霊となり
ぼくひとりさまようとして
光熱の法則 宇宙の生成する秩序を濫用したすえ
沈澱した堆積の地殻の屑ただひとつを
ぼくはへめぐって旧知をたずねるほか術がない
もし力足らず
ぼくら
屠殺の光りを浴びせられるその日には
花崗岩の敷石に
ぼくらの愛を
浮き彫りの影として
刻みつけよう
数千万の死者
全土 無記名の墓地となるこの国のうえにも
また愛があったということを
運行する太陽系の座標のうえに
映しかえしてみせるため
夢! あゝ だが愛しあった人間の呼吸のしるし
滅びない無疵のしるしに
ぼくらのいまの抱擁を化石に焼きつけ
ポンペイの遺跡のようにと
のこしたいこの夢はまたむなしい


  W  この予兆に
            闘ういがい
            生きる意味は
      いまありえない

成層圏へ噴出した火山灰のように
四方へ渦巻きつつ
内部から 全身から
静脈へ滲透した注入薬液のように
餓死するまえの胃袋のように
貪婪(どんらん)に
そうだ ぼくらの存在は
あらゆる予兆の抹殺を
追っていかなければ
すぐ死の過去にくりいれられる
遠く近く無言の万物の合唱に
とりかこまれ

梅雨のしめりに
田植に 米に
流れる雲のきれはしに
 すべてから
            すべてに
        水爆の恐れ
            とりのぞけ
      喜びの 産声に
      野菜に 朝に
      夢みの悪い冷汗にさえ
        すべてから
            すべてに
        水爆の恐れ
            とりのぞけ

        四季の果実に
        夕焼に 海に
        自由に航行する権利のうえに
          すべてから
              すべてに
          水爆の恐れ
              とりのぞけ

* ほんとうは山下菊二氏の画も載せられるといいのだが、いまの「ペン電子文藝館」では、文字を載せる以外の余力がない。ナニ私にその技術がないので。力 に満ちた佳い絵が入っているのに惜しいが。

* あの戦争は四年で負けた。三年八ヶ月か。昭和二十年八月十五日敗戦。わたしは、丹波南桑田郡の山深い樫田村に疎開していた、樫田国民学校四年生だっ た。その間に広島と長崎に原爆が落とされた。翌年秋に京都に帰り、引き揚げ家族の子弟で異色を呈していた母校市立有済小学校五年生に復帰した。二十三年に 新制の市立弥栄中学校に入り、梶川三姉妹と出逢った。末の妹貞子はなくなったと聞いている。上の二人とも何十年と逢う折りがない。それでも、もっとも心親 しい身内である、私には。
 昭和二十六年、市立日吉ヶ丘高校の普通科に入った。京都美大の構内に同居していて、当時日本の高校で唯一の美術科があった。二年生から東福寺上・泉涌寺 下に新築の日吉ヶ丘校舎に転じ、茶席「雲岫」に拠って茶道部を興し、部員の指導に当たった。茶の湯は叔母宗陽に習っていた。中学以来の短歌も、ひとり先生 方同好の短歌会に加えられてつくっていた。
 泉涌寺に来迎院をみつけて、しばしば教室をエスケープしていた。「こんなところに好きな人をおいて通いたい」などと空想した。源氏物語や徒然草がもう頭 にあり、それがのちの『慈子=あつこ(齋王譜)』に繋がったのである。

* 小説「慈子」は美しい文章の究極だと思っています。一つと限られれば、『みごもりの湖』が好きです。佳い高校生活だったのですね。
 私の高校三年間は何だったのか、何の感慨も沸いてこない高校生活でした。ガリガリとお勉強をするで無く、知識欲も無く、友人を多く求めるで無く、クラブ を楽しむで無く、歳並におしゃれに、お稽古事に励むで無く、三無どころか、五無の時期です。三年生で茶道を習う機会にも恵まれましたが、一年限りのご縁で した。
 自主的に行動したものはなく、毎日淡々と同じコースをハメを外さず通学するマジメを絵に描いた覇気のない高校生だったなあと。
 今を踏まえて人生をやり直せれば、と時には思います。

* いろんな高校時代がある。「高校三年生」とうたいあげた流行歌があったが、青春は、けっして甘いばかりではない。灰色のようにしみじみ嘆いていたこと もあった。あの当時に、読んでいた本は、土に水のしみるように身に付いている、今も。谷崎と源氏と高神覚昇の「般若心経講義」そしてバルザック「谷間の百 合」やデュマの「モンテクリスト伯」など。いやいや、もっともっと。斎藤茂吉の「朝の蛍」や若山牧水の「別離」なども。
 「十二月八日」なればこそ、こういう回顧もなにかしら身内に音楽を蘇らせる。

* 夜中に西の棟に建日子が帰ってきていた。いま階下からその声がわたしを昼食に呼んだ。
 昼食して、すぐまた「忙しいのです」と帰っていった。

* 晩、昨日のうちに半分がた見当をつけておいた「e-文庫・湖」の書き込みと転送の方法を、残り半分、森中氏の示唆を念頭にあれこれと試行錯誤しつつ、 どうやら成功に漕ぎ着けたようだ。医学書院の小林謙作君が書いた「父の遺作」を「随感随想」の欄にどうやら収め得て、ジャンルからも著者名からも本文が引 き出せるようになっている。
 和泉鮎子さんの文学随想「玉の小琴」も、真岡哲夫さんの小説「かげろふの茶杓書置」も、少なくも著者名かジャンルかどっちかでは引き出せるように出来た と思う。これは大前進で、手順も書き留めた。これが手にはいると、「e-文庫・湖」を従来のもののフォントなど体裁も整えて、より佳いモノに拡大して行け る。いままではシステムは出来ているのに運営者が運営できなかった。

* 木村良夫という経歴不明の人の、昭和五年に「ナップ」に投稿されていた「嵐に抗して」を、招待席に迎え入れた。工場労働者とともにこれこそ当時共産党 の非合法地下活動という実態をリアルに書いて、思想・結社・言論への大弾圧時代をみごとに証言している。こういう時代がウソのように忘れられているが、 もっと陰険に、国民の基本的自由が無残に没収されてゆく、真綿で頚を締めて行く時代が、向こうからありあり近づいてこようとしているとき、今一度も二度も 昭和初年の歴史を読み直したい。作品には警察のスパイと書かれているのはいわゆる「特高」と読替えてよい。地下活動を強いられ日夜検束逮捕糾問に喘いだ人 達は、果敢にスパイと渡り合い逆襲もしていたようだ。ゲバ棒のかわりに匕首やピストルをさえ所持しながら、追いつ追われつを演じている。その最中からのこ れは「投稿」小説であった。或るスピード感にあふれて、一種緊張した爽快感に溢れる。


* 十二月九日 月

* 小栗風葉の大長編「青春」を、昨夜おそくに読み上げた。中村光夫が藤村の「破戒」と比較し、『風俗小説論』で厳しく論難した作品。読んでみて、その通 りだと思った。日本の近代文学中、これほど観念的な、抽象的議論の多い小説は、そう、横光利一の「旅愁」とか、また長与善郎の「竹澤先生といふ人」ぐらい しか思い出せないぐらいだが、議論も観念も、まさに時代の、というよりこの作品のお化粧のようなもので、それ自体が作中人物のファッションでしかなく、し かも、そこから悲劇的に無残なストーリイが展開してゆく。藤村の「破戒」は息苦しいほど真実感のある小説の空気で、表現としてリアルに落ち着いているが、 風葉のは、一言で、浮薄である。彼は「文学界」派の若手作家や詩人たちを、商店の広告文すら書けないようなヘタクソと思っていたようだが、絢爛とも評され たレトリックも、とてものことにいまでは古くさくリアリティを喪いきっている。
「破戒」はいまでも古いの新しいのでなく、主題の、動機の、切実さで読者に迫ってくる。
 先日の芸術至上主義文芸学会の二次会で、風葉の「青春」を面白いと云う人もいたけれど、読み終えてみて、やはり、つまらなかった。関欽哉も小野繁も魅力 的な男女ではなかった。明治の青春も平成の青春も、たいしてかわらないなあと思い思い読み終わった。師匠の尾崎紅葉の「金色夜叉」には、他を以てかえがた い力と魅惑を覚えたけれど、この「青春」は古びていた、無残に。中編の「寝白粉」の方が、はるかに悩ましく悲しく優れていた。

* 「e-文庫・湖」の掲載と転送の手順が概ね理解できて、またぽかりと目先が広くなった。

* 大雪のあとを踏みしめて、新宿に出、スペイン遊学一年余を経て帰国した河村浩一君と食事し歓談。帰国して直ぐ再就職先をさがし、早くも就職は決定し た。さすが。
 お祝いも兼ね、ゆっくり食べ、飲み、話してきた。写真もたくさん見て、スペインやイタリアのおもしろく興味深い話を、たっぷり聴いた。疲れて近国の旅行 先から帰ってきた家近くの路上で、数人の強盗に不意を襲われ、頚をしめられながら、あわや助かったこと、その際、身につけた武道のたしなみから、おそらく 相手には生涯響くだろうほどの反撃を加えておいたことも聞いた。彼は合気道の国内チャンピオンなのである。生化学や薬学の畑で仕事をしてゆくようだが、ま たスペインで「料理」の腕も磨いてきたという。なんとも頼もしい工大生である。まだ三十に少し間がある。独身である。
 一日も欠かさず日記を書いてきたらしい、かなり赤裸々に書いたというそれも、いずれ見せてくれるそうだ。

* いま、河村君から、「スペインのユネスコ世界遺産」に関するレポートがメールで送られてきた。デジカメでとったという綺麗な写真も数葉挿入されている が、写真をそのままホームページへ持って行く手順や技術がわたしになく、残念だが文章だけ、「E-文庫・湖」の「旅の日々」に収めた。まさしく理系の報告 書のようにきっかり書かれてあるが、エッセイとして読まれるように体裁は和らげた。

* こんばんは。そちらもお寒いことと存じます。
「湖の本」の新刊、ありがとうございました。少し前に届いていましたが、秦さんのパソコンの復旧してから連絡、と思っていました。ゆっくり読ませていただ きます。振込は、近いうちにいたします。
 討入りもまだなのに、今日は大雪ですね。昨日のうちにスタッドレスタイヤを買っておくべきでした。明日の朝、道路が凍っているかもしれないと考えると、 憂鬱になります。勤務先は、かなり遠いので。
 泉鏡花を読んでいた高校生の頃、雪の嬉しくて仕方のなかったことを想い出します。駅まで歩く傘の中で、落ちて来るひとひらの向こうに、鏡花の描いた金沢 の積雪を望んでは、足跡を残すのがもったいなくなったりして。
「古今独歩の美しい幻想境を歩む一方、愛憎の念と共に日本の虚栄虚飾社会に批評の視線を鋭く刺し込」んでいると読み得る、体験も学習も、持っていませんで した。美男美女ばかり登場する物語に、ただあこがれていたのです。
 今は、天守に棲み、そこからも追われた彼らのことを想います。「龍潭譚」を、また読みます。
 佳いお年をお迎えください。

* 雪というと、二つのことを反射的に思い出す。一つは徒然草のなかで、ある雪の日、なにかを消息したさきの女から雪のことに一言もふれていないような情 けない人の言うことがきけますかと、兼好サンやられていた。もう一つは、雪の話なんかしないで、雪なんて嫌い、こりごりよと嘆いた富山育ちの看護婦サンの こと。一概なことは言えないのだ、人の世は、と教わった。鏡花が北国の雪を本音ではどう眺めたり思い出したりしていたか、すぐには思い出せないが、雪景色 は美しく書いている。鏡花が急に読みたくなった。「由縁の女」なんかが。


* 十二月十日 火

* ペンの言論表現委員で、上智大教授である田島泰彦氏の、以下の意見が事務局から回付されてきた。一人でも多くに報せたく、お許しを戴いて此処にも書き 込む。

* 各位  新聞報道などのとおり,個人情報保護法案についての与党修正案が昨日提示されました。基本原則の削除や行政機関の法案への罰則導入など,一定 の改善が見られるのは確かですが,抜本見直しには程遠く,到底受け入れられる代物ではありません。
 個人情報のあるべき保護法制は,行政機関への厳格な規制と、民間については重要緊急な特定領域への個別法規制,それ以外の分野での自主規制の強化です。
 今回の修正案は,行政機関のについては一定の罰則導入だけで,適正取得の規制やセンシティブ情報の収集制限,目的外利用禁止の徹底,本人情報開示の大幅 な例外など,厳格な規制と市民の自己情報コントロール強化の課題はほとんど実現されていませんので、これではとても話になりません。
 民間対象の個人情報保護法案についても,基本原則の削除の代わりに基本理念の規定を入れると説明されているようですし,義務規定を民間に広く法の網をか ける方式はそのままで,通信,信用,医療など特定領域に限定して適用するポジティブリスト方式は採用されておらず,大臣ではなく独立機関が行政規制に当た る仕組みにもなっていません。最低でも,基本原則も含め理念的規定の一切の除去と限定的なポジティブリスト方式は譲るべきではないと思いますし、国際標準 である独立機関による規制もできるだけ主張しつづけるべきだと考えます。
 以上、今回の修正案はとても抜本修正とは言い難く、安易にこれを受け入れてはならない、というのが私の結論です。これについては,もとより異論もあるで しょうし,もう少し丁寧な議論が求められるのは確かですから,いずれにしても率直な意見交換の場をいろいろな形で設け,今後の的確な対応のあり方を探って いく必要があると思います。この点も含め,皆さんの意見をお聞かせいただければ幸いです。  田島泰彦

* 同感。

* 大雪だったようですが、お怪我などなさいませんでしたか。激しくなった風の音に、明日はちらつくかも知れないわね、と床に就きましたら、先ほど、山の 向こうが白く霞み、見る間に一面真っ白。霰です。
 冬景色の嵯峨野、行ってみたいなァ。
 と、そこへ、イラク査察の臨時ニュース。八日明け方の放送です。寒さが続きます。どうかご自愛のほど。

* 心祝いの日。好く晴れて。妻と西銀座へ出た。ニュートーキョーの上のシネマで、トム・ハンクス、ポール・ニューマンの「ロード・トゥ・パーディショ ン」をやっていたので、時間をはかってニュートーキョーでまず軽食し、中ジョッキを一つ飲み干してから、久しぶりに映画館に入った。予想通りの、ガラガ ラ。こんな題の付け方で日本の客の入るわけがない。建日子に、子連れ狼の翻案だよと聞いていた。絵に描いたような焼き直しで、例は「荒野の七人」など幾つ もある中で、とくに良くもとくに悪くもないのは、さすがにトム・ハンクスであり、ポール・ニューマン。二人とも名優といっていいし、他に良い作品をもって いる。拝一刀だの大五郎だの柳生烈堂だのの顔をかすかに思い浮かべながら、そこはトム・ハンクスの芝居を見ていた。柄が大きい。父と子とのかかわりもしっ とり書けていて、ラストへかけてほろりとさせた。
「モンテ・クリスト伯」というのも、クリント・イーストウッドの捕り物も、みたいもの他にもあったが、地下鉄を出たら目の前でやっていたので引っ張られ た。まずまず。

* ぶらぶらと銀座を歩いて、DVDを二つ、カミュ監督の「黒いオルフェ」とマリリン・モンローの「帰らざる河」を買った。黒澤明の「生きる」という映画 にはその昔、心臓を掴まれた覚えがあり、見つかれば欲しいとおもったが、いずれ見つかるだろう。
 高校から大学の頃、本を買うのといっしょに「勉強」のつもりで、あの頃の日本映画をよくみた。あの頃は断然日本映画がよく、海外映画をバカにしていた。 「夜明け前」「足摺岬」「日本の悲劇」「七人の侍」「カルメン故郷に帰る」「浮雲」「偽れる盛装」「祇園の姉妹」「東京物語」「彼岸花」「羅生門」「雨月 物語」「近松物語」「切腹」「上意討ち」「野菊の如き君なりき」「二十四の瞳」「煙突のある街」など、たくさんたくさん感銘を受けた日本映画が思い出せる が、西洋ものは、そのあと、テレビで多く見るようになった。
 若いときほど映画に多くを期待しなくなったために、無責任に楽しんでいられる西洋映画ににげたのかも知れないが、質的に彼我逆転したのだろうと思ってい る。たとえば試写会で見た「冤罪」「御法度」「本覚坊遺文」なども、わたしの中で特に佳いモノとしては残っていない。ところが、洋画の方では「グランブ ルー」でも「海の上のピアノ」でも「ダイハード」でも「エイリアン」でも「ブレイヴハート」でも「フォレスト・ガンプ」でも胸に何かが残っている。繰り返 しみたくなる。
 近年の日本のものでは、テレビ映画であった「阿部一族」「踊子」や、「北の国から」シリーズなどがやはり印象に濃い。北野たけしのなど、感心した一つも ない。

* 銀座「シェ・モア」では、開店後もずっと、借り切りのようにわれわれだけで、じつに静かにゆっくりとうまい食事が出来た。シェリーを食前に、そして赤 ワインは濃厚で、ソースのうまいフランス料理によくあっていた。
 明治屋でブルーチーズを、そのとなりではパンを買い、有楽町線で保谷まで。冴えて頬のぴりぴりくる冬夜の気配を楽しむように、帰宅。黒いマゴに迎えられ て、すこしパンとコーヒー。「お宝鑑定団」で秀詮の佳い虎の絵をみた。


* 十二月十一日 水

* 木島始さんの 反核の詩「予兆」、プリントさせていただき、再読、再々読いたしました。おもわず、居ずまいを正していました。からだのどこかがふる え、なみだが流れてなりませんでした。
 ともだちにも読んでもらいたいとおもいますが、プリントを渡してもよろしいでしょうか。
 上野の文化会館の前で、反核の署名運動をしていたひと――日本の人口の十パーセントあつめたいと言っていました――にも、見せてさしあげたい。そうおも います。
 残っている雪を照らして上弦の月がかがやきわたっています。にわかの寒さ、おたいせつになされますよう。

* 木島さんも喜んでくださるだろう。

* H氏賞の岩佐なをさんの自選の詩「霊岸その他」が「ペン電子文藝館」に寄稿され、すぐ入稿した。

* 昨日ペンの会員山中伊都子さんに戴いた詩集「雪、ひとひらの」は、じつに完成度の美しい、まことに「詩」そのものに満たされた佳い詩集で、感嘆した。 思わず、詩に志のある友人に、メールを送った。
「みごとでした。言葉を磨き抜いて完璧な音楽にしていました。すぐれた日本語の書ける人がいるのだなとおどろき嬉しくなりました。
 時間的に集中したからよいわけでなく、深いところでそれをどこまでわがものに生きたかで決まるのだと思います。さわがしくならず、深く静かに、そして熱 く激しく。なにも急ぐことはないが、不用意に手を放してもいけない」と。
 言葉の美しい命を豊かに開放するのが「詩」であろう。この詩人のこの詩集、コレまでの境地をぐんと深く完成ていた、近来これほどの詩集を手にしたことが ない。いい編成で魅力ある力もある日本語で、好きだ。思わず言ってしまう、ありがとうと。こういう「言葉」を生み出してもらい嬉しくてならないが、さ、こ れからどう新たな鉱脈へすすむのか。楽しみ。

* 先刻からとても気分がわるい。頭を振っても髪の毛に響かないから風邪ではないだろうが、深くから、むかついている。少しいつもより早いが、やすもう。 明日は終日外で用事がある。

* DVDで、マリリン・モンローとロバート・ミッチャムの「帰らざる河」を宵のうちに見た。いやみのない、すっきりした佳作である。なにしろ、子役も佳 いが、大人の二人が抜群にカッコいい。二人とも大の贔屓である。「荒馬と女」のモンローがよかったし、「眼下の敵」のミッチャム船長も素晴らしかった。

* さ、やめよう。吐きそうだ。

* 湯に浸かってまた上がってくると、始末の必要なメールが来ていた。二三返信した。

* つい一筆であります。「映画」。
 駆逐艦の艦長とUボートの艦長との映画「眼下の敵」は何回見ても面白く、サラリーマンの世界で「部下をどう見て鼓舞するか」、「リーダ」とはといった模 様を見せてくれました。一流のものの見える艦長で、敵への畏敬と尊敬がありました。ロバートミッチャム、クルト・ユルゲンス。米と独。魚雷を感でそらす。 〔戦争〕にロマンが無いと潜水艦の艦長はぼやく。男の人生の詩を無意識に語る。また映画の音楽も素晴らしい。映画の話を読んでメールをしました。
 「雨月物語」。原文は読んでいませんが、映画で見て、原作の基盤が深いと思いました。
 つい先生の時間を盗みました。

* この人は東工大の卒業生ではない。若い人か。      


* 十二月十一日 つづき

* 湖の本26  読み始めるとやめられない面白さ、清少納言書記役説には説得力充分、確かにより理解が届きます。源氏の、二条院、六条院の筋にしても然り。すっきりと楽し く教えられました。

* 枕草子のところを読みました。平安時代のあのような女サロンのことなど、目からウロコ、とはこういうことかと思いました。

* 『春は、あけぼの』を拝読し、枕草子の成立ちの妙、サロンの情況までが楽しく想像できました。定子のサロンを構成する気品と教養を備えた女房たちが、 遊戯を超えてその才智を競い、火花を散らせたのではないでしょうか。
定子の出題に対して、女房たちが創造力豊かに発したことばを積み上げ、批評し、または割愛し、最後に清少納言が執筆編集したものとして、あらためて枕草子 を読み直したいと思います。

* たくさんなお手紙を戴いている。メールも、また払い込みのカードにも書き込まれてくる。著者冥利である。


* 十二月十二日 木 

* 昨夜の気持ち悪さは、換気の悪さであったかも知れないし、親切に注意してくれた人の曰く、電子画面を長く見すぎて眼精疲労もあるのでは、一日ぐらい何 もしない日をつくりなさいと。もっとも、それは息をするなと言うようなことかも知れないけれど、と。ウーン。まさか。

* 新宿小田急の「上杉吉昭展」へ、絵に志のある人を連れて行った。なにかが掴めるのではないかと、少し余計なお節介をした。絵に志すのも、いろいろで、 小さい頃から描き始めた人もあり、大人になり社会にも出てから、心新たにまた「芸大」を目指して勉強するという人もいる。この道も容易でない。
 上杉さんは私と同年、芸大で小磯良平の教室にいた。温雅に清潔な風景をよくされる人で、基本のデッサンが隅々まで生きて堅固な把握が出来ており、すこし の動揺もなく、画面がしーんと奥深い。それが大きな魅力で、また一つの壁になっている。もう一つ突き抜いて欲しいものもある。何といっても観ていて思いが 落ち着き、気持ちが優しくなる。癒し系という言葉がはやるが、たしかに癒される風景画である。そこに暖かい喜びと、その向うを庶幾したい見えない扉もあ る。
 金沢へ帰った我が友細川君の消息も少し聴けて良かった。亡くなられた懐かしい橋本博英画伯の奥さんは、昨日来られたと。お目にかかりたかった。

* 小田急で、目に留まったフランスの女時計を買った。むかしモスクワでスイスの女時計をみやげに買ったのを思い出した。ほぼ純銀のベースに黄金を被せた かすかに重量感のあるベルトのデザインにも惚れた。魚眼レンズふうに文字盤のとても見やすくなっている全体の華奢に小さいのにも。

* 風月堂ですこし遅めの昼食。ワインと海老フライ。

* 夕方には、また、日比谷で、久しぶりの若い人と逢って、旨いウイスキーをしっかりのみ、そこそこの食事をし、なによりも静かに、ゆっくり歓談。髪をき れいに切っていた、「秦さんに逢うので」。疲れもとれて、ほうっと心楽しい時間。興味ある話題が互いにしっかり選べて、話が、きちんと繋いで行ける安心 感。これが嬉しい。この安心がないと、乏しいと、対話に途方に暮れ、疲れる。
 昼間の人とちがい、美術にはあまり親しめないが、優れた演劇の、優れた言葉にはつよく惹かれるというこの人の述懐は、印象的であった。一種の「音楽」と して文学・文藝を考えてきたわたしの思いに触れてくる。わたしは演劇の「舞踏」性に惹かれてそこから歌舞伎や能へ近寄っていった。しかも演劇言語の魅力に いつも餓え渇いている。なかなか満たされない。演劇言語の迫力と魅惑で観せてくれる芝居は、やはり私には鏡花であり三島であるが、そしてやはり歌舞伎と能 だが、たとえ翻訳されていても、シェイクスピアの総ての芝居が、言語そのものの演劇性でつよく魅するものがある。わたしのひそかに手に入れたいと願ってい るのは、シェイクスピア劇の字幕つきで良くできた沢山なビデオである。
 この十五日には、井上ひさし作の群読らしい忠臣蔵を俳優座劇場に聴きに行く。

* 何でもいい即席でわたしを唸らせる上手な「ウソ」を書いてみるように、学生達に書かせたことがある、その昔に。みな、閉口した。いざとなると、とても ほんとうのように「うそ」は上手に書けるものでない。ものを「書く」志のある今夜の若い友達に、今日のデートを短く「ウソ」に書くよう求めておいた。「講 義を受けにきた」などと色気のないことを言うから、それならと、昔ながらの「アイサツ」を突きつけたわけである。

* 有楽町駅まで歩き、地下鉄に乗った。お連れサンは飯田橋で降りた。降りぎわにかるく握手。家に帰ると、たくさんメールが来ていた。郵便も来ていた。奈 良あやめ池に暮らしている高校の昔の友人から贈り物が届いていた。茶道部にいた二つ下の人で、卒業以来一度も逢わないが、湖の本をずっと購読し、私より一 つ上級生だったお姉さんにも勧めてくれている。
 湖の本の払い込みには、「楠木の籠城に応援します」と多額の送金をして下さる読者が今日はことに多かった。こうしてみると、わたしは、今日一日は、ま、 だいたい何もしないで心楽しんだのである。よかった。


* 十二月十三日 金

* 北朝鮮金正日はほとんど発狂状態だが、アメリカも似たようなものだ。
 この前の大戦へ踏み込んでいったことで、日本側の姿勢や認識に極めていたらぬものの有ったのは、言い訳の仕様もない。が、アメリカの経済的な強圧によっ てあの崖っぷちまで押し出され、断崖へ一か八か飛び降りた気味も確かにあった背景や状況は、当時の資料がゾクゾク公開されるに従い、相対的によく認知出来 るようになっている。どっちが正か否かという議論など水掛け論の不毛に終わりがちだが、起きてしまう戦争状態のもたらす不幸は、無辜の民に最も極重極悪に ふりかかることだけは間違いがない。
 だからこそ北朝鮮のというより、金正日「独り」の発狂状態に、どんな頓服特効の薬があるかは、日本も本気で考えなければならず、それが金大中式の太陽政 策で済むのかどうか、なにとなく今は疑問である。中和的にゆるい、妥協的におそい姑息な処方はダメなのではないかと。毒性の膿を、気長にゆっくりだましだ まし、ただ吸い出して治癒させるのが、手遅れの五体麻痺や壊死に繋がらないよう、願わしい。せっかちに言うのではない、時間の空費が「毒の拡大にだけ」繋 がるのを恐れるのだ。
 毒の箇所を、より小さく局部へ極限させ自壊させるよう、どう効果的に治療を進めるか、なまぬるい中和手法は利くまいとのオソレを、わたしは抱く。普通の アイテではないという怖れがこうまで強まってきて、なお、普通のアイテ同士のようなフリをしつづけ外交的打開と称していていいのかどうか。被害の最小限な うちに、毒部自壊を急速に促進させる外科的対策は、手術は、いつ何時でも取りかかれる、少なくも用意をしておかねばならない。有事対応という「軍事」の悲 劇に至らないで済む、もっと知恵の出しどころのある薬物外科的「毒自壊」への刺激法が、無いとは思われない。なまぬるい対応で時間を空費してはならない。 空気遮断のような、おできの崩し方もある。わるい状態をいたずらに長引かせて苦痛と危険を拡大するような偽善的な生命維持装置を、われわれは北朝鮮に対し 間違ってつかっていないか。

* 一週間ばかり前から、「ペン電子文藝館」校正用の「仮サイト」がどうしても出ない。ガンとして画面に表示されない。つねはパスワードの要求が先ずある のだが、全く無反応。しかし他のあらゆるサイトはちゃんと機能している。ペンのホームページと文藝館の運営、校正往来を委託している業者ATCの校正用 「仮サイト」だけが、どの経路のインターネットでも使用できない。
 アドレスを新たに起こして呼び出しても、先ず「サイトが見つかりました、応答を待っています」と機械に出て、長く待たされ、その結果として「サーバーが 見つかりません。ページを表示出来ません」と出てくる。わたしには、対応出来ない。ATCにも、再三この事態を告げて対策や示唆を要請しているが、何の助 言も対策も来ない。専門の業者としてその種の打開サービスも請負っている筈の契約からして、合点行かない。
 このままだと、余儀なく、「校正のキーマン」を事務局か他の委員の誰かに交替して貰わなくては、私の手元では安心し確信して校正作業が進行出来ない。 「校正のキーマン」が出来ないということは、即ち原稿の選定や寄稿や入校前の校正も一切出来ないのと同じで、つまり辞任することになる。「言い出しッペ」 の責任は十分果たしているので辞任はむしろ本気で望むところだが、三月末の任期までは責任を果たしたいと思っていた。
 この点が解決しないかぎり、今後は大方の「入稿」作業も「校正」作業もストップする。事務局の対応も、最後には、「ま、しばらくお休み下さい」と。その 程度のコトか。電話が切れてから思わず失笑した。
 
* 「夕顔」から「若紫」に入り、源氏は、ごくいとけない若紫をみそめて、その祖母尼に失笑されながら最初のアプローチを、あえてしている。「若紫や」と 禁中で声をはなって作者紫式部をさがしたという公任卿のパフォーマンスが耳の奥によみかえってくる。源氏が治療の祈祷をうけに出掛けていた北山は鞍馬辺と 言われてきたが、岩倉辺と読み替えられている。岩倉には式部の母方祖父の縁があった。角田文衛さんの説は妥当であろうと思う。

* 明夕、橋本敏江さんの「平曲」演奏に招かれている。平曲二百句を通して演じるという大事業に挑戦中の、当代の佳い琵琶演奏家で、湖の本の読者。この師 走には、「五節沙汰」「都還」「奈良炎上」まで進んでいる。まだ平家悪行のさなかであるが、源氏も起ち、平家はもう富士川で水鳥の羽音に追われ大敗してい る。
 演奏の場は西池袋自由学園の明日館。ほんとうの平曲そのもので、世に浮かれている平家琵琶の「まがいもの」とは、ハッキリちがう。

* 日曜は二時から俳優座稽古場で、井上ひさしの原作「不忠臣蔵」を八人の俳優が語るらしい。吉良邸討入りには浅野家中の実に八割以上が不参加であった。 井上氏の原作はこれらの「不忠臣たち」の事情を書いた戯作らしい。趣向である。演出家が語り物に構成したらしい。ひとりで聴きに行く。
 第三週はよく出掛けるが、月曜の理事会以外は、遊び。猿之助の歌舞伎、観世栄夫の「卒塔婆小町」、梅若万三郎の「六浦」などがつづく。小さな原稿はすべ て不義理した。「風」だけを年内に書きたい。 

*  こんにちは。年の瀬に向かって 次第に時間が加速しているようです。
 1〜2ヶ月前 HPで秦先生の著書を知り 「茶ノ湯スタルベシ」から・・数冊拝読させていただいております。先日は「蝶の皿」「春はあけぼの」と 両側 に置いた状態でした。そんなこと不可能なのに両方読みたい気持ちに急かされていたのです。
 それほどまでに・・・。「春は、、、」を途中まで また「蝶の皿」へ。また戻り。。。をくりかえし。そして後から もう一度読み直す。こんどは ゆっく り読み進めていくのです。
 ごめんなさい。こんな失礼な読み方をして。いままで 存知あげなかった分を取り返すように 夢中でした。あまり本を読まない私が ここに来て取り付かれ ているようです。
 「春は、、、」のような解説でしたら もっともっと興味が持てたのではないかしら? 文系が苦手で数学の教師(15年ほど)をしていました。そんな私が 弟妹たちには いつも「本」のおみやげを持って帰りました。 遠いむかしのことです。
 今年は還暦。長いこと 表千家流をたのしみ ここに来て秦先生の「湖の本」に出会えたことは 茶の湯ばかりでなく 読書の楽しみも倍加いたしました。あ りがとうございます。
 表紙もステキです。バッグに持ち歩いたり 汚れないように大切にきれいな包装紙で上表紙をかけます。とても気分がいいです。
 ”感謝のこころをお伝え致したくメールを書きました。"
 どうぞ ご自愛くださいますように。  愛知県  * * * * 
  追記: 私語の刻は毎日のように読ませていただいております。感謝!!

* 始めまして、随分前に 『茶ノ道スタルベシ』が話題に出てからさがしておりますがありませんで、このたび版元に注文との書き込みに本屋さんに注文した り、自分でパソコンから注文したりしましたがダメでした。どのようにお願いすればよろしいのか是非教えていただきたく、失礼ながらこのページをお借りいた しました。どうぞ宜しくお願いいたします。

* 秦恒平著「茶ノ道廃ルベシ」の入手は、至極簡単です。郵便局から、「振替」で、
 00140-8-168853  湖の本版元 宛て 一冊2000円 お送り下さい。他の巻も大方同じです。郵便局から入金の通知ありしだい、すぐ、著者が識語署名して本を送ります。

* 少し長いメールですが。
 魅力ある「私語の刻」に僕のメールが載り、汗が出てくる恥ずかしさと嬉しさを久々に経験いたしました。またご多忙の先生の「時間」を盗むことになります が、僕のある素性です。お忘れ下さい。
 昭和11年共に九州小倉生れの親友が東工大卒で幼稚園から今に至るまで交友が続いております。彼から花田清輝、奥野健男の太宰治論の話等を聞く度に僕は 影響されながら今の僕があるような者です。僕の専攻は機械工学でしたが大学は九州で、川崎 * * 線の電子計算機の会社を4年前に定年です。
  先生を慕っておられる今の東工大卒の方々とは時代が違いますが、先生は魅力のある方々を「文学」を通して「人間たるもの」を教えられた。羨ましく、また、 うべなるかなと思います。「短歌・俳句」の一字を考えさせる授業は凄いといまでも思っています。余談になりましたが。
 上杉吉昭様から個展の招待状を僕も頂きました。先生の私語の刻に以下のことが書かれております。
 「上杉さんは温雅に清潔な風景をよくされる人で、基本のデッサンが隅々までい生きて堅固な把握が出来ており、すこしの動揺もなく、画面がしーんと奥深 い。それが大きな魅力で、また一つの壁になっている。もう一つ突き抜いて欲しいものもある。」
 最後の二行は、他人では本人へ言えません。同感です。
 先生が「絵に志のある方」を上杉さんの個展へご案内された。ああ人というのはこんな「先達」を一生に一回はしたいなあと深く感じた次第です。
 私事ですが、上杉さんとは2年前にたまたま小田急線の秦野駅から登った弘法山で氏が写生をしているときに会った一期一会の出会いでした。不思議なご縁で す。
 今日はトニオクレーゲルのような気持ちでメール致しました。

* よほど若い人と思っていた。同行の年代であった、失礼しました。

* 好きな政治家はめったにはいない。心持ち贔屓にしている人が数人か。
 最も嫌いな一人の保守党党首野田某が、馬脚をあらわし、党を尻目に自分一人で自民党に復帰したいとひそかに画策していたとやら。そういうヤツだとかねて 予言していた。扇千景の党首で大臣がねたましくて、何かというとモジモジうずうずしていたが、党首の座はやっともぎとった。大臣はアテがはずれた。その辺 は小泉総理の眼は利いていた。打算のマインドしかない政治屋。ハートの欠けた、人間の言葉を、保身のためになら平気でふみにじる安い政治屋。そう疑わな かったが、茶番を演じてくれた。あんなのと比べれば、鳩山由紀夫の方がはるかに佳い。次の選挙では落とすべき何人もの中の、最もけちくさい一人である。

* こういう永田町的な人種へのひどい厭悪感を、自分がよほど若くからもっていたことを、処女長編の『慈子』を校正しつつ読み直していて、痛感した。朱雀 光之と肇子、そしてお利根さんたちの深い身内感、また肇子の亡くなったあとへ加わった慈子や「わたし」の来迎院という静寂な小世界の、徹して世離れた設定 には、なにかしら此の世ならぬ時空への、身を絞るほどの憧れと、そうでないものへの徹底的な厭悪がはたらいていた。桶谷秀昭さんがこの作品や「畜生塚」を びっくりするほど評価されたのは、一つにはその背現実のリアリティのためであった。
 だが、わたしには、わたしの書いた幾つもの小説は、「作品」ではなかった。文学のために書いたモノではなかった。
 どんなにか、慈子を「わたし」は、宏は、愛していただろう。いや、今もだ。時の勢いで、わたしはあれから随分馬齢を重ねてきた。あの頃のあれほどの愛や 感動の炎を、もう、わたしはかきたてる力を喪つているに違いない。「お利根さんの話」にいまも耳を傾けながら、身の傍に慈子をありあり感じ、わたしは、し ばらくの間泣いていた。こういう変な作者はあまり世間にないだろう。わたしにはそれは一作品なんかでなく、わたしの命の燃える場所だった。其処でわたしは 生きた。ほんとうに生きた。
「愛は錯覚に過ぎない、だが価値ある錯覚だ」とわたしは戯曲『こころ』の「K」や「先生」に言わせていたが、慈子と共生していた頃、「絵空事の不壊の値」 ということをわたしはよく胸に抱いていたのを思い出す。


* 十二月十三日 つづき

* こんな詩が遠くから送られてきた。

誕生日カード

おかあさんおたんじょうびおめでとうね
1ばん おんぶ
2ばん だっこ
3ばん ちゅう
4ばん あまえ
5ばん おふろ
6ばん おっぱい
7ばん やさしく
8ばん いっしょにねてくれるね
9ばん おてつだいしたらおかねちょうだい、ちょっとた
10ばん おしまいね

おんぶもだっこもちゅうも いっぱいいっぱいしたよね 
いつまでもおっぱいも すったりさわったりしたよね
いたらぬははでも あいじょうはつたわっていると はははおもう

そしてもうあなたは おおきくせいちょうした 
わたしをこえていきなさい 
   
字を覚えたての娘からの誕生日にもらったメッセージ 
メモ用紙に書かれたその誕生日カードは今はわたしのお守りになってしまった

* この詩の「娘」と「はは」が、いま、こんな知性とエスプリの生活をしている。『フィレンツエより』全文は、「e-文庫・湖」の「自分史のスケッチ」に も移しておく。しばらく、此処にも置く。久しいいい読者で、詩もエッセイも書ける人でも。文通とメールだけで届けられた詩が、たいした量になっている。

* フィレンツェより   高木 冨子
 初めてヨーロッパの国々をまわったのは、二十年ほど前のこと。フランス、スイス、イタリア、ドイツ、オーストリア、オランダ、ベルギー、イギリスと、憧 れを一気に満たす限り満たそうと欲張った旅でした。初めての海外旅行が自由旅行。当時下の子は二歳ちょっと、日常とは違う周囲のすべてに危機感を覚えて か、体全体で拒否しました。発熱した子に用意の薬を飲ませ、ホテルの部屋でじっと胸潰れる思いで見守りました・・そのおかげで快晴に恵まれたユングフラウ にも出会えたりしたのですが!
 旅の全期間、彼女=我が子は、親に離れまいと歩こうとしませんでした。おんぶに抱っこ。親子ともども大変な大変な旅でした。親の勝手を半分反省しながら の、それでも記念に値する旅でした。味をしめて「開眼」し、生き甲斐になった海外への旅にその後のエネルギーを注ぎ続けたのも、自然で当然な成り行きとい うものでした。
 
 生来のいい加減人間であるわたしは、やっぱりヨーロッパの中でも、殊にラテンの国が居心地よく、文明の重層した魅力には抵抗できません。興味を持ち続 け、ことばを習ったり、本を読んでは旅をしてきました・・。 
 すっかり成長した娘のイタリア滞在に母親は最大限便乗し、得られるかぎり滞在の機会をもちました。ルネッサンスの花の都フィレンツェを中心に、トスカー ナ地方やさまざまな小さな、しかし気概に溢れたそれぞれの文化、伝統、歴史をもった都市、町々を丹念に訪ねました。
 イタリアに関する文章や本は世間にもう氾濫しそうに溢れていて、屋上に屋を積み重ねる意義などないかの気も強いのですが・・あなたに宛てた長い手紙な ら、書いてもいいかな、と思っています。
 フィレンツエを書くなら、チェントロのウフィッツィやドゥオーモなどから話し始めるところでしょうが、観光案内でも旅の本でもないので、むしろすこし外 れて、アルノ川の向こうのスピリトの暮らしや、折に触れて感じたことから書き始めてみましょう。

 
 1 フィレンツエの職人町で

 ねえ、とうとう完成したわね。娘が突然言い出した時、ああ、あれだなとすぐに分かりました。とうとう出来上がった、完成したね。・・完成したのは・・一 枚の額縁でした。
 今暮らしているアパートのドアーを開けてまず見上げるのは、目の前の庭園、その壁の上の、ローマ兵士の兜をかたどったらしきテラコッタです。赤茶色をし たテラコッタの兜はいくぶん空を仰ぐように置かれていて、遠い昔、古代ローマの兵士が目を細めながら空を見上げた名残のようにみえます。或いは、エトルリ アの兜かもしれないけれど・・分かりません。が、いずれにしても古代の兜をかたどった、あまり古いものではないでしょう。
 強い光を浴びているのに、兜の中は思いがけない深い暗さをたたえ、人知れず兵士の魂が潜んでいて今も空を見上げているのではないかと思ってしまいます。 もはや地上の敵を見張ろうと彼は視線を向けているのではありません。ひたすら待ち望む永遠なるものに向って、空に向って、彼は眼差しをさ迷わせているので す・・そんな有り得ないことが自然に感じられるから不思議です。
 この庭園は、地図によると、かなりの面積をもった由緒ある庭園らしいのですが、なかを窺い知ることが出来ません。高い高い塀があって、たとえ道を隔てた 向かい側、つまり娘のいるアパートの二階三階の部屋の窓からだって、覗き込むのは無理でしょう。つい目の前に暮らしていながら、わたしたちには開かれるこ とのない、まるで秘密の庭なのです。と言っても、この庭園に面してとり囲むように建った建物もあり、住人たちはその庭を借景にして暮らしているでしょうか ら、決して秘密のという庭ではないのですが・・。
 テラコッタの「名残」の兵士を中空に見上げた後は、ドアーの左側方向、カンプッチオ通りをピッテイ宮のある南の方へ向かいます、と、すぐ二十メートルほ ど先に、いま話題にしたい、その「額縁」を作る工房があります。
 ガラス戸越しにちらっと、でも興味津々、大きな期待で工房のなかを毎日のように覗いてきました。もう一月以上になります、蛍光燈の下の作業台で大きな額 縁が制作されていました。取り組んでいたのは若い女性で、ひとり、ひっそり立って、額縁へ身体を傾けていました。
 木を彫る作業も行われていたかどうか、わたしは知らないのですが、額縁は多分彫刻を専門にした工房からまわされてきたのでしょう。近くにそのような家の いくつかあるのも目にしていました。手慣れた腕前でさもリズミカルに彫刻され、そして仕上げのこの工房に運び込まれてきたのでしょう。
 額縁に金を施していく手仕事は、徐々に、しかし着実に進んでいました。作業の進み具合をわたしは日々に楽しんでいました。娘も楽しんでいました。    (以下、「e-文庫・湖(umi)」自分史のスケッチ欄に掲載)


* 十二月十四日 土

* 「ペン電子文藝館」第二年度の追加原稿を受け容れるのに、先ずは梅原猛館長の作品を入れたいと、二、三この辺の作ではどうかと問い合わせたが、少し考 えさせてくれということで、ま、放っても置けず、すでに追加出稿も三、四人の会員から届いているので、責任上わたしが一緒に口火をきることにして、長編 『慈子(あつこ)』をスキャン原稿から校正し、今日、ATCに送り込んだ。会員三人の新原稿も同時に送った。第二年度にも相当の作品数を盛り込むことはぜ ひ必要であり、完全なディスク原稿で提出されるなら、長編も短編と変わりなく簡単に掲載できることも知ってもらいたい。
 問題は、深切で厳格な推敲と校正。雑な推敲でしかも誤植の多いディスクなど送って来られては、堪らない。内容の質的な審査は避けているが、無責任な校正 のモノは、やり直しをと一旦著者に差し戻している。

* 『慈子』の起稿は昭和四十年四月三十日、脱稿は翌年五月二日で、それからもねばり強く改稿と推敲とを繰り返した。今度の電子版もふくめ七度も本になっ ている。

* たかが師走 されど師走  暖かい日差しを浴びてガラス磨きに専念。日々に、たとえ夕飯のお献立であろうと何かを考え、何かを行動するのはボケ防止の 条件とか。どんなお婆ちゃんになろうともボケだけは回避したいものです。
 今、「私語」を読み「慈子」の箇所では泣いてしまいました。
 折りしもCDで、イタリアカンツォーネ「カタリ カタリ」を聴いていたのも加味したかも。大好きで、聴く度に意味なく涙が溢れます。
 友人たちが最初に読んだのも慈子です。「絵空事の不壊の値」が、秦さんの小説全編を貫いているのでは。そんな作者がいいのよ、とつくづく想います。

* 日吉ヶ丘高校にいた最大の収穫は、間違いなく「来迎院」でいつもさぼっていたこと。それが『慈子』になった。こんなところへ、好きな人を置いて通いた いと。光源氏が母に譲られた二条院の邸に手を入れ、「かかるところにおもふやうならむひとをすゑて住まばや」と切望したのを、もう身に切なく覚えていたの だろう。読み直して百パーセントいい気分というのではなく、むごい小説であると胸も痛くした。この小説で、一度は女性の読者をうしない、しかもまた女性の 読者を多く得た。男性の読者もえた。もう少し易しいツクリにしていたらと言われたけれど、それの出来ないのがわたしの本領か。

* にっちもさっちもどうにも稼働しなかった「ペン電子文藝館」校正用の仮サイトが、動かなくなった理由も分からねば、またフイとウソのように復旧した理 由もわからず、とにかくも元へ戻ったので、仕事が前にまた進む。ふうっとため息が出る。

* 「あなたは何ものですか」という問いに「私は、私です」という答えは、不動の正解であろうか。こんな自問自答をしている人に、「お尋ねの私は、どこに もいません」というほうが正解ではなかろうかと、挑発した。挑発に乗ってられるヒマな人ではないから、すこしも気にかけなくて宜しいが、この問題は大き い。

* ソウルへ仕事で行くと言っていた人。気を付けて。ピョンヤンからは、すぐの都会だ。 

* 十二月十五日 日

* 寝たのは三時頃。五時間ほど夢を観ていて、起きた。血糖値は 87、少し低いかも。聖路加では比較的判定がゆるやかで、学会基準の空腹時110まで正常、125まではグレーゾーン、126以上は糖尿病という言い方を しないで、125までは正常範囲とみている。180までは「良」と。朝昼夜ともこんな感じでいいですと、厳格ではない。かえって安心して値を維持するよう に努めている。
 朝食前にすぐ一度機械の前へ来るが、マウスを握ると、はりつくように冷たい。うすいシャツを身につけたまま冷水に入ったように、冷たさがはりついてく る。けさは、手足のさきが凍えるように冷えた。まいったなと思った。

* それでも正午過ぎには家を出た。俳優座稽古場の招待は、余裕のない場所なのにいい席がいつでも用意され、有り難い。休んでアキをつくるのは俳優達に気 の毒、息子の芝居でもよくそれを言われる。指定席をアケられるのはイヤに違いない。今日は千秋楽。
 で、井上ひさし原作、構成・演出宮崎真子の「不忠臣蔵」に出掛けた。妻は遠慮したがわたしは「師走だもの」と楽しみにしていた。赤穂藩は五万石のわりに 家臣の多い藩で、吉良に討入り切腹した四十六人、これに、身分的配慮と遺族たちへの報告役という役儀から切腹に加わらなかった寺坂吉右衛門を加えても、全 家臣のほぼ三割になるならず。七割が不参加だった。そこへ着目したのが井上さんの短編集で、そこから三編を選んで俳優座の八人が読んだ、語った、のであ る。
 簡潔な舞台であった。
 最初の「中村清右衛門」は三人の俳優が語った。一膳飯屋のおやじ役荘司肇など、革ジャン姿。可知靖之が「不忠臣」念流の達人、ちいさな道場主で弾琴の名 手中村清右衛門に。その中村に襲いかかる刺客細川藩の武士役内田夕夜の格好は、右翼の満州浪人のようであった。みな台本を用意し自分でめくりながら読んで ゆく。
 この場では、さすがに可知の呼吸が自然で、荘司は例によって少し下手で聞き苦しく、内田の読みは未熟であった。
 刺客は義士磯貝十郎左衛門の介錯をあやまった武士で、磯貝と中村とは武術でも琴を介しても極めて昵懇、二世を契るほどの念者の関係にあった。その中村が 討入り間際に脱盟したのである。しかも磯貝は中村の琴爪を差料に付けて切腹に望み、清右衛門も磯貝の琴爪や形見を大事にしていた。臆しての脱盟ではなかっ た。主君内匠頭の武士としての未熟についに納得が行かなかったのである。
 大石内蔵助はその清右衛門の言い分を受け容れ、その一方で、もし討入りに失敗し愛する友の磯貝が空しく死んだとき貴公はどうするかと、訊く。清右衛門 は、死にものぐるいで磯貝のために吉良を討つと答えた。よろしい、では「二陣」を任せたぞと大石は言い、しかしもし首尾行くわれらが吉良の頚を刎ねたあと は、そなたの立場はさぞ苦しかろうと予言した。
 この限りで、明らかにこの中村清右衛門、主君のためには「不忠臣」に相違ない。なるほど、この狙いは、わるくない。
 同時に、これだけのことを、原作の短編を「読んで」おもしろく楽しむのと、俳優三人がかりでものものしく、だがなかなかの美しさで語り聴かせてくれるの とで、どう違うのか。どれほどの冥利をわたしはこの稽古場の座席で得ているのだろうか、と、思っていた。とても贅沢な場にいる気もしたし、これだけのこと か、とも思われた。
 語り聴かせて貰えるぶん頭がよく働いた。この「作品」は所詮、脱盟や不参加に「理=ことわり」をつけているが、ことわりは、一度付けてしまえばもう先が 無く、リクツ抜きの感動や感銘とはほぼ無縁のことになる。中村清右衛門をすばらしいと思うよりは、理屈など関係なくむしろ磯貝十郎左衛門の切腹にいたる討 入り顛末のほうが、ほとんど理不尽なほど永く人の胸で生きる。現に生きてきた。此処のところが、至極、だいじな秘儀の分岐点である。井上ひさし流の着目は 鋭いようでも、じつは、一発はじけて総ておしまいという薄さの上に浮いている。真の感銘の裏側にまわって、どこかを、こちょこちょと擽るようなものだ。趣 向はあるが、底は存外に浅い。

* 第二話の「松本新五左衛門」は、明らかに「不忠臣」ではない。「忠臣」のままにさせて貰えなかっただけである。よしなき縁のしがらみの中で、一味の秘 密保持のために余儀なく脱盟を強いられた。同志らの復讐が成ったあと、あまりの羨ましさに身ごもっている妻の前で落涙し、しかも命を惜しんだ卑怯者の汚名 をきせられ妻とは別れさせられ、何の惜しい命かと、みごと割腹して果てている。
 この一編は、同じ一人の「おさき」という語り手を、三人の和服の若手女優が語り分けた。割腹した父を母の胎内にいて知らず、誕生後に母にも死なれた遺児 の、「おさき」はその子の乳母役なのである。旗本社会の内幕に絡み取られた悲劇であり、遺児はいまなお顔も知らぬ亡父卑怯の汚名により、幼い友達にも虐め られている。
 三人の語り読みは、まずまずであり、暢達の妙にはほど遠かった。間合いを計るはかり方が、ほぼ納得のいく「演出」として、言葉の流れに楽譜を刻むように して浮き立ってくる。楽譜通りに、はいはいはいと刻まれたリズムや間合いは当然人工的で、五七五七七を指折り数えながら短歌をつくるのと似ている。つまり は自然に出来上がっていない。玉成していない。女優は中野今日子、坪井木の実、佐藤あかり。しかし、今謂う欠点は、たぶん、演出家の気負いが気負いのママ 残存した「不自然」といえよう。

* その点、第一話のベテラン可知靖之をすらしのぐ「読み・語り」の巧さ自然さで舌を巻かせたのが、第三話「橋本平左衛門」で近松門左衛門役をつとめた、 伊藤達広。いきなジャケットで長身すらり。眼鏡。すがた佳く立ったまま語る間合いの、生き生きと柔らかに、厳しく、すごみもあり、俳優座にこんな巧い人が いたよと、失礼ながら、大いに見直した、というよりこれまで気付かなかったのを恥じ入った。三十年余も俳優座の舞台は欠かしていないのである。
 伊藤の「読み・語り」には、先に謂う楽譜の下敷きがまったく見えなかった。彼の力量というより自然な呼吸が活かしている「読み・語り」の間に成ってい た。間なんてものが実は無かったのである、あるのは目に見えない時間の美しい音楽であった。これの出来る人だけが、名優になれる。

* 第三話には赤穂の浪人が二人出る。一人は大坂曾根崎蜆川の女郎お初と心中した同志「橋本平左衛門」と、脱盟して天満の女郎屋主人となっている「佐々小 左衛門」で、佐々は橋本の心中死にいたる経緯に見極めを付けて、主君仇討ちに結集の仲間を明瞭に批判する立場から、脱盟した。その意味で中村清右衛門同様 に意志的な「不忠臣」であるが、橋本平左衛門は、いささかの動揺もなく別の深い思いからお初を身請けし、苦界からすくい上げたかった。その深い愛情から、 家に重代の名刀を質に入れた。それを盟友二人に心なく罵倒され赤心を疑われたため、余儀なく命惜しまぬ「忠臣」の誠を、愛するお初との心中で表現してし まったのである。
 これまた「不忠臣」ではなかった。だが受け取られなかった。
 森一の演じる小左衛門は、平左衛門を心中死に追いやった軽薄な武士道に憤りを発して盟をあえて破り、女郎屋を営んでいた。だが、今将に門左衛門の目の前 で、世間の慢罵と投石の厄に遭っている。近松は狂言作者として天満屋の心境を「取材」に来ているという趣向である。
 森一の天満屋は、可も不可もない、普通の「本読み」であった。

* 以上、なかなか面白いとも言えるし、家で寝転がって井上さんの本を、好きなリズムで好きな流れや思いで読んでいたほうが、もっと多くを得たかも知れな い、いや、やはり時代読み物の不満足な印象でがっかりしたかも知れない、などと、感想は右往左往したが、要するに一の弱み・薄さは、今日の舞台が、「不忠 臣」たるの「理」の説明に落ちて、いや其処へ落とすしかなくて、そこまでの藝で果てて、その先が無く「おしまい」になるところ、であった。
 第三話など、とても優れた作意で、感動をはらんだストーリーですらあったが、だが、とどのつまり、繰り返しこれを読み返すだろうか、また聴きたいだろう か、思い出すだろうか、というと、そんな気はしないのである。趣向から入ってそこを突き抜けないモノのツクリは、ま、こうなりやすい。
 客の拍手も、ちから弱かった。
 やはり舞台を活かすには「演劇」として話をツクルべきであろう。とても贅を尽くした「巷談」鑑賞という感じになっていた。「演劇」の一部を「語り」とし て魅せたけれど、それは演劇の魅力とはやはり異質である。部分がトータルを凌駕する例も絶無ではないが、そういう一例とはお世辞にも言えなかった。だが、 面白かった。そうでなかったら、こうは律儀に感想を書かない。
 極月の十五日、ちょうど三百年前の浪士達が泉岳寺でお上の沙汰を神妙に待っていた刻限に、平成の俳優座稽古場公演「不忠臣蔵」の千秋楽とは、妙であっ た。それへ出掛けたのは、この日の招待を希望したのも、わが、ささやかな師走の趣向であった。

* 六本木には他に馴染みの場所がすくない。俳優座の裏、ここだけは馴染みの「升よし」で旨い寿司でもつまんでゆければよかったが、日曜日で休み。余儀な いこと。
 で、はやばやと帰った。「ぺると」でコーヒーをのみ、若い主人と「映画」の話などしてから帰った。昨日DVDで観た「黒いオルフェ」から始まり、いろい ろと。

* こんにちわ。 三鷹在住の友人が、「ジブリ美術館ができて、三鷹も、変わンないけど、変わったわ」と笑いました。いまや美術館へ向かう道になった、玉 川上水沿いの、あの小道。拡げられ、舗装され、“風の散歩道”と名付けられたようす。
 あたたかな雨が、音もなく川面を打つ桜桃忌、細い、土の道を、万助橋まで歩いた東京暮らしの昔を、遙かの地で懐かしく思い出しました。
 強く吹く寒風に、空気も、川の水も、一層澄んで感じられます。今朝の霜は、八時を過ぎてもまだ溶けませんでした。お風邪などお召しになりませんように。

* このところ、外へ出るとき少しずつ結城信一の文庫本を読んでいる。二十歳頃に小学校の少女に初恋し、年若くにその少女に死なれたあと、生涯を通じてそ の死んだ人をいろいろにただもう書き続けた作家である。寸刻のひまもなく、死とむきあい死に親しみ、健康に恵まれない人であったが、六十八歳まで生きた。 いまのわたしより年長であった。
 はっきり言ってその死生観に、すこし異議がある。「あなた」が早く死んでしまったのだから、二人の愛の証明のためにも自分は生きていなければならない、 自分も死んでしまったら二人の愛は永遠に消滅してしまうと、作者は言っている。よく分かるし、ふつうはこういう理解が正しそうである。無理のない理解であ り感覚である。が、わたしの『慈子』もまた同じ問題を扱いながら、数百年の、また何世代もの層を重ね、さらに飛躍的な三千大千世界の時空間を透視し、全く ちがう「はからい」を、登場人物は語っている。実のモノは失せるだろうが、絵空事には不壊の値があると。
 結城信一は稀有の作家である。しかし気にはならない。ひ弱さが美しい作者である。敬愛するが、わたしは同行しない。堀辰雄のたよりなさに似ている。


* 十二月十六日 月

* 歳末理事会。かなり議論があったのは、ほどよく小人数であったからか、議題ゆえか。

* 「戦争と平和」を考えるシンポジウムの説明があった。そこで、発言した。
 シンポジウムもいい。けれど、前回理事会で決まった「反戦・反核」文藝室に、どのような作家の、どのような作品がよいか、「衆知をあつめよ」と会長から のことさらな要請があった。で、すぐさま、全理事に、懇切にアンケートを出した。しかし、ただ一人も答えた人がいない。梅原会長は、「ペン」の基本は「文 学の力」だという持説だが、たった一つの反戦・反核作品も思いつかれない。「戦争と文学」をそもそも発議した三好副会長も、戦争について思いの深い作柄の 加賀副会長も、ナシの礫とは、どういうことか。そう、まっすぐ苦情をのべた。あの席で「協力」を約束していた某・某理事になど、問詰する気にもならない。
 要するに、日々忙しくてそこまで手が回らないのだ、それが自然・当然だろう。だからこそ、上滑りな、やれ「衆知」の「選定委員会」のと薄い形式論は言わ ないで欲しいと言うのである。注文を付けるのは構わない、が、注文にナカミが伴わないのではハタ迷惑である。

* もう一つ、かなり揉めた議論がある。
 北朝鮮による、核開発をテコにした一種の挑発や恫喝が、東アジアの強い不安定要因になっている今、たとえば、今度のシンポジウムで、井上ひさし、三好 徹、梅原猛三人のパネラーの予定演題をみていて、誰がそれに触れられるのか分からない。それはそれとして、何でもいい免罪符を発行しておくように「声明」 してきた日本ペンが、いま、まったく北朝鮮問題で発言しようともしないのは、それでよいのか。そう、質問した。
 北朝鮮の「核開発」には「平和利用」の可能性もあり、脅威とは一概には言えないと三好さんは言う。しかし、脅威か脅威でないか、核開発の「客観的事実認 定」など我々の仕事ではないだろう。現に戦争要因をはらんで不安定化している極東の平和不安は、現実であり、国民感情であり、これに手を拱いているのは、 やはり、政府同様に、ただアメリカサマサマの出方を窺っているだけではないか、それは間違いではないか、と。
 二三の声が私の発言に賛同していたものの、話はいつの間にか、「核」から「拉致」問題にすべり込んでしまい、そして梅原会長の、「拉致拉致と拉致一辺倒 はおかしいよ」という発言にもなった。プーンと、「一部自民党」の臭いがした。
 わたしは「拉致」の話は持ち出していなかった。やはり「核」問題であり、同時に米国のイラク戦略との関わりからも、北朝鮮による不安要因は日本国民に現 に心理的な悪影響を及ぼしつつあるのだから、と、「核」問題提起の姿勢を譲らなかった。
 すると、ナニを勘違いしたか、梅原さんは、シンポジウムで何を話すのもパネラーである自分の決めることで、人から「注文」を付けられるのは「嫌い」だ、 それは「言論弾圧」だ、自分が話そうとする内容に注文をツケられるぐらいなら、降りる、会長も「辞任する」と席を立ちかけるという、とんちんかんで滑稽な 興奮ぶりであった。
 わたしは、それは梅原さん、ヘンだと思いますよ。問題提起と意見陳述のための理事会であり、いま、一人ないし数人の理事が、「北朝鮮」問題にも危惧を表 明して、「ペン」は何も言わなくていいのかという、いわば「質疑」をしているのに、「言論の弾圧」だなどとは、少し血迷っていませんか。「注文」を付けら れるのは嫌いとか好きとか、そんなことは、胸の内で人の考えもよく聴いて自分で取捨すれば済む簡単な話ではないか。
 そもそも、日本ペンクラブの主催するシンポジウムで、「日本ペンクラブ会長」が立って話すことは、もはや彼個人の思想だけでなく、日本ペンクラブの「考 え」だと参会した人はすべてそう聴くであろう。当たり前だ。それならば事前に理事達が、それをめぐって多少の議論や質疑をするのは意見交換としてむしろ当 然至極であり、会長たる者、静かによく聴かれるのが当たり前である。
 「拉致」問題のことでも、また総じて会長らが「北朝鮮」にはあまり触れない姿勢も、そういう見当違いな反撥を露呈されてみると、ある種の自民党一部の 「陰の声」を斟酌されているのかと、気がかりになる。
 わたしは、この件に関して、三好さんの言う、北朝鮮の核はいままだ問題視するに足りないという論拠を駁する情報も資料ももたないから、これ以上は言わな いけれど、もし「言論弾圧」というのなら、逆に、執行部のかさにかかって理事達の発言を押さえ込んで聴くまい姿勢の方に、大きな、きつい疑問符を投げかけ ておく。

* もう一つ、ある。理事選挙に関して、選挙管理委員会から説明があった。
 ことのついでに、わたしは事務局長に、理事継続就任年数の最長者は、何年ぐらいか教えて貰いたいと訊いた。答え渋っていたので、梅原会長に対し、同じ人 間がかなりの人数「理事の座」に「多年居座り」続けているこの理事会の傾向は、宜しくないのではないか、「無際限な多選理事」がむやみと多いのは、フレッ シュな息吹を停頓させるのではないか、どう思われるか、と質問した。
 しばし絶句のあと、ま、公職ではないし、会員の選挙なんだし、「多選」で良いのではないかと。なにをか言わんや。わたしは、べつの所感を述べて置いた。

* そして、もう一つ。加賀乙彦氏が思潮社社長と協議して、一気に十数人の「詩人」を、会員として入会の推薦をされた。何れも立派な仕事をしている詩人た ちで、歓迎だ。しかしこういう推薦の仕方は、珍しい。で、加賀さんの言われるに、思潮社社長の曰く、日本ペンの詩人会員の水準があまりに低くはないか、例 会に出てみてそれが分かる、というのであった。思い切った観察である。要するに詩人と限らず「入会審査」がいい加減なのだ。
 だが、例えば早乙女貢理事などは、なにも、「仕事のいい人・力ある人」でなくても構わないではないかと言い切り、「間口はひろげておけばいい」という別 の声も出てきて、これまた、わたしは、おやおやと、いつものように呆れた。「無審査」状況で、理事の顔利きで推薦され、新入会員がパチパチの拍手で次から 次へいともお手軽に運ばれる。それは会費収入の増には繋がるが、へんな「理事多選」の悪しき温床にもハッキリなっている。理事「派閥」が出来ているのでは ないか。そういう理事ばかりがえんえんと理事の座を占拠しすぎるのは、日本ペンクラブのために弊害というしかない。おそらく、永い理事は十五年、二十年で もきかないのではないか。


* 十二月十六日 つづき

* 理事会からは一目散に日比谷のクラブに入り、ひとり、ゆっくり、ウイスキーを含みながら、送られてきた大量の「詩」作品を、読みに読んできた。きれい に鬱散した。
 会議なんてものは、まともに立ち向かえば向かうほど、ほとほと、ヤ、になっちまうものだと、生き生きした「詩」の言葉のはずみに心身を託していると、つ くづくそう思う、そう思うことも、いつか忘れている。

* 暑いぐらい暖かで、思いがけず帰路汗をびっしょりかいた。地下鉄銀座へむかう地下アーケードで、一目惚れした織り目の彩り美しい、とてもお洒落なほっ そりした服が目に付き、アっと思ったときは衝動買いしていた。よく前を通るが、佳いモノのあったためしがないのに。黒い犀角を繋いだようなベルトも面白 かった。妻に少し細すぎたかなと。えらく店のサービスがよく、値段も、痛いと言うほどのことはなかった。

* ものすごく今は雨が降っている。

* カナダに久しく在住の友が、京都の母校に、ホームページがあるよと、高校も、次いで中学のも小学校のもアドレスを教えてきた。高校にも中学にも、すぐ 「ペン電子文藝館」の掲載一覧をメールで送った。
 卒業した小学校が、全校で討入りの義士ほどの人数も無くなっている。中学も三学年の合計が八十人あまり。わたしの頃は、両校とも六百から八百人ほども 通っていたのである。わたしの小学校とお隣の粟田小学校が近く統廃合の予定とも風の便り。なんだか、すうすうと風に背をなぶられるようである。

* 今、少し長めのものを書いています。まだ足りない部分があると思っているのですが、どう付け足すかというところで悩んでいます。慌てずに、推敲を続け ます。
 映画「荒馬と女」の、「迷ったときは、立ち止まればいいんだ」というクラーク・ゲーブルの台詞が、印象に残っています。これからどうしてゆけばいいのだ ろうという索漠とした不安が、ふっとやわらぎました。でも、それはほんの一瞬、すぐにじりじりと焦燥が頭をもたげてきます。そんなとき、井上靖の「愛する 人に」を想います、「白き石のおもてのように醒めてあれ」と。
 外は雨です。ちょっとだけ、大好きな香港のアクション映画を観てから寝ます。おやすみなさい。


* 十二月十七日 火

* 金史良「光の中に」を校正し終え入稿した。
 昭和十四年秋に「文藝首都」に発表された小説で、当時の、朝鮮人差別の環境下で、朝鮮人名をあいまいに日本人の姓のようにやり過ごしている、心暖かな、 まことに心暖かな朝鮮人教師と、ならずものの父と朝鮮人の母を持った少年との交歓が、感応が、じつにやわらかに清潔に微妙に書かれていて、一傑作というを 憚らない。少年の父も又この少年と同様に母は朝鮮人であった。
 こういう小説もきちんと書かれていたかとわたしは感じ入った。同時に、こういう交歓・感応は、狭い場でであれ人は得ようとすれば得られる者であり、それ が小説に書けるような題材に化することも少なくない以上、この作品など、或る意味で微妙な人間関係の書き表し方の、とても優れた手本になるだろうと感じ た。
 こういう先生は知らないが、こういう少年は、小学校にも中学時代にもいて、お互いに容易に巧くは交われなかった苦い記憶をもっている。「ペン電子文藝 館」にこういう作品を収めうることの満足を、わたしは感謝に近い思いで抱いている、今。

* 外は良い天気で暖かでもあったらしいが、ついつい機械の前にいた。講談社のパーティーにも出そびれた。今年もあます二週間。一年がえらく早かった。


* 十二月十八日 水

* なんとなく休息している。山内謙吾「三つの棺」平林彪吾「鶏飼いのコムミュニスト」小島勗「地平に現れるもの」の三作が、スキャン未了でのこってい る。事務局に新たに入ってスキャンを手伝ってくれていた人が、早々の壽退職となり、おめでたいが、痛い。この辺で今年の「ペン電子文藝館」作業を収束した いが、スキャンは残ってしまうかも。
 歳末は忙しく追われている人が多い、あたりまえだろうが、わたしはプライベートな仕事をしばらく機械の上で楽しみたい。「湖」の送本を月初めに終えられ 「よかったわね」と、妻に。おかげさまで。たしかに気持ちは、やや、ゆっくりしている。
 真岡哲夫さんにお祝いを戴いた。かなり照れくさいが励みにしたい。

*  今日の札幌は、午後から雪になり、窓の外を見ると、大粒の雪が、暗闇にまっすぐ降り積もっております。
 昨日、少し早めに、お誕生日のお祝いをお送りしました。ご健康に留意され、来年もまた美味しくお酒を楽しめますようお祈りしています。
 「ペン電子文藝館」、「湖の本」、「闇に言い置く」・・・。たくさんのお仕事を独力で切り拓いてゆく姿勢は、プライオリティーやオリジナリティーを尊ぶ 研究者の私からみても、かくありたいと思う理想の姿です。「湖の本」に掲載されている初期の作品は、今の私より若い頃、仕事の寸暇を盗んで、昼のバーのカ ウンターで書かれたりしたとも。そういう軌跡を、「湖の本」ですから水脈と言った方がいいでしょうか、辿ることで、私も充実した日々を送りたいと願ってい ます。
 暮れから新年にかけ、ご多忙と思います。風邪も流行っております。くれぐれもお大切に。いつか、お目にかかりたいですね。

* 京の名割烹「千花」も松前の最上等「よろこんぶ」を例のように送ってくれた。

* 秦建日子のホームページによると、彼の脚本で、
「最後の弁護人」 2003年1月15日より、毎週水曜夜10時。日本テレビにてオンエア!
 出演  阿部 寛 須藤理彩 今井 翼 金田明夫 松重 豊 ★浅野ゆう子
と。昨日の作者コメントでは、
「脚本、5話に入りました。顔合わせもなごやかに終わり、撮影も、順調にスタート。いよいよ、「新しい祭り」の始まりです。とにかく、撮影したいのにホン がないという状況だけにはならないよう、日々、寝る間も惜しんでパソコンに向かっています。
 今回は、野球でたとえると、1話から5話まで、すべて違う球種のドラマです。王道のアウトロー・ストレートもあれば、インハイ高めのビン・ボールもあれ ば、ワンバウンドになるフォークもあります。なので、もしかして、「あれ、趣味じゃない……」という回があっても、見捨てずに翌週もチェックしてみてくだ さい。」と。
 司法試験への夢と多額の予備校費を、大学一年生ですでに弊履の如く捨て去った我が息子が、どんな「弁護人」をひねり出すのか、とみに脛の細い親父の顔付 きは、はらはらと険しいのであるが。やすいところで甘えてしまわず、一心に、根はまじめな仕事を、してください。

* ある作家が、最近は美人が少ないと慨嘆した文章を書いていた。わたしよりも半まわり以上の年輩である。
 むろんわたしは、そう思わない。なにしろ沢口靖子の写真に今も取り巻かれている。女優は別だといわれても、美しい人は、います。いや、美しい人は、い る、います、のではなく、自分の眼と思いとで、見つけだすものだ。ボケては、むりだ。


* 十二月十八日 つづき

* 今日も十二時間ほどは機械の前にいた。いろんな仕事が捗ってゆく。「作業禅」という野狐禅行である。

* やや早めに届けられ、事務局に預けられていた豊田一郎氏の二年度作品「やがて、やってくるその日」を読み始めている。ディスクをいま原稿状態に画面に 起稿したが、同じものがプリントで貰えている。横書き画面で読むよりは、むろんペーパーの白い原稿は読みやすいし、持ち歩けもする。
 むろん「本」を読む或る改まった姿勢こそないが、作品は、力さえ有ればプリントであれ何であれ支障なく読める。この人の書かれた作品は去年も読んだ。 「性と愛」であったか、かなり濃厚であった。「ペン電子文藝館」は会員作品を選り好みはしない。校正さえきちんと出来ていたら、あとは作者と読者の対話で ある。わたしは昨年の豊田作品もすらすら読んだ。すらすら読ませて貰える作者である。今回作の内容は知らないが面白そうな題だ。

* もう一日、あしたも特別の約束事がない。読み原稿を携えて外へ出て読んでも、家で機械の中で数え切れないほど数々種類のある作業を、あれもこれも、コ レモアレモと進めてゆくのもいい。妻には出来ないスキャンを、三作、自分でやってしまうと、仕事が前へ進む。出来れば「ペン電子文藝館」の仕事をそこまで は年内に遂げて置きたいが。

* 創作的でもあり、また編集的でもあるかなり骨折りの仕事にも手を付けている。どんな実りを手に出来るか楽しみであるが、なかなかシンドイ。けれど、面 白い。

* わが朗読の源氏物語は、とうどう光源氏め、若紫を二条院に攫ってきたところである。流行の言葉では、拉致か。誘拐か。誰も立ち塞がれない尊貴の地位を 利したセクハラか。
 だが、わたしは「若紫」の巻が昔から好きだ。女の子を「教え・育てる」いわばお人形ごっこのような真似を、すばらしい貴公子がやるわけだ。存外、男はこ ういうことをやりたがるものか、だから、谷崎潤一郎の「痴人の愛」を読んだのは「源氏物語」より後であったが、ああ、このジョウジとナオミとの関係は、光 源氏と若紫とのパロディだと、すぐ思った。誰もそんなところに眼も思いも届かずにいたのが、まったく不思議だった。
 わたしの「谷崎論」が、或る安定感とともに高い評価をうけるきっかけになった、「谷崎潤一郎の<源氏物語>体験」という論考の「根」は、此 処に、先ず下りていた。小説「夢の浮橋」を論じたのでもあったが、谷崎の家庭は、しばしば小規模な六条院であったり二条院であったりしていたのである。
 あの「ナオミ」 を思うさまに教え躾けようとして、まんまと強烈なひじ鉄と逆ねじをくらうジョウジは、光源氏のことが概して小癪にさわっていた谷崎による、痛烈なパロディ なのであった。じつはナオミのモデルであった、最初の妻の妹に、谷崎は恋をしかけては翻弄されまくっていた。しかし、そんな谷崎も、さすがに凄い。その体 験をきれいに清算して「痴人の愛」という傑作を書き、いわばナオミを卒業して、次なる松子夫人との出逢いに「昭和初年」の大噴火を賭けたのである。
 大成功した。それは、一にも二にも、松子夫人の優れた素質の中に、「ナオミ」の要素と「若紫=紫上」の要素とが絶妙にバランスされていたからである。壁 の花の芥川龍之介を尻目に、谷崎は初対面に近い人妻根津松子とチークダンスが出来たし、すでに老いしある日の松子夫人は、わたしと妻と三人でしている食事 の座敷で、若い昔に覚えたチャールストンを軽やかにおどり、ミーやケイや田中好子で若い世代に爆発的にもてていたあの「UFO」ダンスすら、面白そうに踊 れるほどの人であった。もう七十を超されていた。
 そしてその一方では、優れて雅びな、まさしく一人の紫上のようでもあった。沢山頂戴している色美しい巻紙の長い長い書簡を見てもらいたい気がする。


* 十二月十九日 木

* 豊田一郎氏の小説を入稿した。「ペン電子文藝館」に迎える二作目の寄稿。二作とも、濃厚な場面をふくむ「性」が主題の作品で、中流社会のふつうの職業 人や家庭の性風俗として読むと、ショッキング。しかし、なにかしら、前作もそうであったが、性が「論じ」られている。特別関心も共感もしないが、今度の作 品からもモチーフはよく読みとれて、ただ性の場面が描写されているのとは違っている。読みやすい。だが、柔軟に胸にしみいる小説の文章ではない、よく謂っ て、乾いている。もう少し辛辣に謂えば概念的な、なにかの報告のような叙事で、味わいもふくらみも無い。無いから、読みやすく読める。それにしても、男と 女。「やがて、やってくるその日」の性と思っていたのが、江戸の昔にも、万葉の昔にも、神代にも、有ったかも知れない。

* 『デジタル著作権』(ソフトバンク社刊)という本が送られてきた。おやおやと思い目次を見ると自分の名前が出ている。おやおや。これはもう何年か前に 弁護士会館に呼ばれてした講演録だ、そういえば何度か校正した。何人も何人もの人の中での共著であるが、電子メディア委員会の牧野二郎弁護士の責任編集さ れた本である。これからの道筋を他の筆者達が照らしていてくれるだろう。雑魚のトト混じりのようで気恥ずかしい。四部構成。デジタル出版権とは何か。デジ タル出版権をどう考えるか。デジタル著作権最前線。クリエーターから見た著作権。四番目のチャプターはともかく、前の三章は、今後へのサーチライトであ る。二千八百円。

* 二十八日の「とうどう光源氏め」に、おもわず、わらってしまいました。たのしんで読んでいらっしゃるごようす、それに、男性の読者ならではの口吻、光 源氏へのまなざしがうかがわれるようで。
 はじめて「若紫」を読みましたときは、光源氏の行動を果敢とおもい、愛情薄き父や継母のところへ引き取られなくてよかった、とおもいました。そして塔に 幽閉されていたおひめさまが、白馬に乗った王子さまに救い出されるという、西洋のおとぎ噺を重ねていたのですから、幼稚な読者でございました。
 光源氏のいやらしさは空蝉をつまみ、軒端荻を手折ったときの言動で充分知らされていましたのに、「若紫」では、夕顔に死なれ、恋にしおれた貴公子の面ば かりを見ていたのでございましょう。わたくしも「若紫」の巻、好きでございます。のちに紫上になる少女の身に立ってですけれど。
 『痴人の愛』には、ちょっとした思い出でしょうか、聞かされた話があります。
 母がほんの小娘で父のところへ来たとき、二十歳も年上の父は、母のために、まず「婦人公論」を毎月とってくれ、次いで『痴人の愛』を読ませようとしたの だそうです。ところが母は、『痴人の愛』を、「こんないやらしい本」と投げ出してしまったと、晩年の母から聞きました。
 そのときは、あえなく挫折してしまった父の妻教育と、おかしく聞いていましたが、 先生の、「若紫」の巻の源氏の振る舞いについて、「存外、男はこうい うことをやりたがるものか」というご感想に、ふっと、目のひらける思いがいたしました。

* 特大上等の紅鮭を頂戴した。切り身大に包丁が入っていて、妻が助かる。冷凍された大物に、家の包丁で両身一尾を調理するのは難しい。ご親切。昨日の、 極上北海道の純米酒によく似合う。
 それはそれにしても、「親切」とは物騒そうな言葉だが、むかし、思案のあげく、「わが親を切ってでもするほどの厚意」と半ば苦しく釈してみた、が、どう かな。

* いま調べてみると、「ペン電子文藝館」はじまってこの方の原稿(寄稿のもの、わたしが原本からプリントしたもの)の嵩が、A4判用紙をひしと積み重ね た高さ、40センチに及んでいる。いまの「ペン電子文藝館」には、少なくも原稿用紙の六、七千枚分、三十五冊ほどに相当する作品が入っている。うまく読者 の手元にも届いてくれるようにと、わが子をあちこちへ旅立たせているような気がする。

* 豊田氏の刺激的な小説を、どうまちがえたものか、とんでもない先へファイルで送ってしまい、これは何ですかと返されてきて、慌てた。まだしも若い男性 になら歓迎したかも知れないが、PTAの副会長のような人に届いてしまい、言い訳に窮した。
 こんなひどいのは無かったが、相手を間違えて送信したことが、二度ある。苗字が同じで並んでいると、かえって気を付けるが。今日のミステークは理由が分 からない。耄碌か。

* 今年最期の梅若万紀夫が、しあさっての日曜に。「六浦(むつら)」は比較的珍しい。都の坊さんが、相模六浦の寺に立ち寄ると、いまを盛りの紅葉なの に、一樹の楓だけは一葉も紅くない。不審に思うところへ女があらわれ、わけを語って聴かせる。昔鎌倉の中納言為相(ためすけ)が、紅葉を観にこの寺を訪れ たとき、満山いまだしの中で、この樹一本だけあでやかに早や紅葉していた。よろこんで歌一首を詠じたところ、楓は名誉に感じ、その後は身をひくように常磐 木の緑のママになった、と。女は消え失せ、やがて女体の楓の精が出て美しい舞を見せ、夜明けとともにまた失せてゆくのである。
 今年は、紅葉の盛りに逢わないで終わってしまい、年の瀬になり、常磐木の緑の楓に逢うとは因縁ごとのようであるが、草木国土悉皆成仏の仏徳をたたえる 舞、やはり紅葉の幻影に、さぞや清まはることであろう。

* あすは歌舞伎座の夜を観る。あさっての誕生日は、うって変わり千駄ヶ谷で「卒塔婆小町」のあと、人形町の望月太佐衛率いる「光響会」に馳せ付ける。佳 い歳末。

* いま、京都の角田文衛先生から電話が入り、わたしの原稿の載った「ビジュアル源氏物語」というのが面白いので、少しまとめて手に入れたいが誰に声をか ければいいか教えてくださいと言われる。心臓がとても悪かったのも入院治療の甲斐あって元気になりましたとも。一安心。すぐ編集制作をを引き受けている先 へ電話で申し入れ、ご返事するようにと。電話の先も喜んでいた。
 角田さんも気が若い。ビジュアルとは、つまりはマンガ。かなり手のこんだ編集で、モノが届いてもそれに自分が原稿を書いていたとは気が付かず、ええっと 驚いた。このごろは、そういうことが多い。原稿が活字になって送られてくることに、さほど強い印象がないのである。
 ことに、書くには書けても、コレまでにも書いたのとあまり変わらないなと思うときは、引き受けたモノでも、書かなくなった。書けばいくらか原稿料は入る 道理だが、原稿は、だいたい「感激」を書いてきたのである、久しく。感激のない稼ぎ原稿はもう書きたくない。新しいことなら書きたい。
 もっともこの「ビジュアル源氏物語」に書いた「野分」というエッセイは、気持ちよく書いている。こういうのを、五十四帖一つずつ書いても大冊になる。

* 現会員の時代小説に委員の常識校正が入ってくる。ディスクで届きプリントも来ているので、信頼してそのまま入稿すると、やはりダメ。ケアレスミスが幾 つも出てくる。史上に知られた人物を書いていて、その姓や名がちがったり、固有名詞の表記の違いが幾つも指摘されると、一つ一つ確認して、業者へ訂正の指 示を送らねばならない。校正おそるべしというとおり、校正に完璧はめったに有るものでない、魯魚のあやまりは容易に避け得ないけれど、そんなのでない不注 意な誤記は、訂正漏れは、こっちの疲れをイヤ増しにする。
 そうはいえ、わたしの「慈子」がどんなものか、仮サイト掲載の電子版を、自分でまたまた読み直し始めた。明らかなミステークに、読みカッコの、前のカッ コ一つが落ちているのがあった。原稿は読んでいると手を入れたくなるが、その気持ちは押し殺している。若書きの文体をいまの呼吸で直し始めれば収拾つか ず、ひどいことになる。
 ま、また読み返せる機会がえられたのは嬉しいとして、丁寧に読んでゆきたいが、目が変われば見つかるのも誤植である。どなたかが、わたしの気付かぬミス を指摘してくださるだろう。

* だんだん明日の歌舞伎が楽しみになってきた、じつは演目すらいま思い出せないのだが。いやいや、猿之助たちの「椿説弓張月」だ。
 あの、文字通りめくるめく物語を、どう脚色しているのか。為朝昇天に猿之助お得意の宙乗りをやるのだろうか。群馬から贈られてきた地酒の小瓶を鞄に入れ てゆこう。午前の聖路加での眼科診察が、大過なく済みますように。すれば、妻とは開演の四時に劇場で一緒になるして、それまでの時間を、街でひとり気儘に 過ごせる。読みたいものはあるし、時間が合えば映画を観てもいい。日比谷のクラブでやすんでいてもよい。


* 十二月二十日 金

* 遠足前のこどものように、よく眠れず、七時に起きた。夜前、バグワンと、「末摘花」の巻のあと、すこし黒いマゴと遊び、それからさらに学研版「椿説弓 張月」の絢爛たる浮世絵挿絵など眺め、何とも覚えにくい名前の登場人物たち一覧解説に目を通していた。前後続さらに続の続・続続の続と、五編にわたる大長 編の、たぶん続編以降、つまり琉球舞台のところを主にするのではなかろうか。

* 韓国大統領選挙は対北穏健派候補、つまり金大中路線の勝利に終わった。ま、予想の範囲。それよりもイラク査察報告書は、イラクの資料提供に多大の不備 ありとし、イラク擁護にまわりそうなロシアもイラクの不備を認めざるをえないらしい。アメリカは居丈高になり、なんとも物騒な「枢軸」に対し物騒な米英と なりかねない。
 拉致被害帰国の五人はきれいに北朝鮮バッジを胸から外した。本音であろう。無理がなければいいが。たかがバッジであり、あれを胸につけ続けていることで 日本の国民世論が逆に引き締まるということも無くはなかった。

* 拉致問題が、永田町では、いまや官邸・外務省・自民党内のいわば勢力争いに引き継がれようとしている気配が、濃い。政界との接触のもともとあるペンの 一部領袖たちの、暗に「拉致」で日本は騒ぎすぎると苦々しげに言い放つ口吻には、中曽根、福田、外務省系の拉致問題で出遅れた苛立ちに「感染」の気味もあ る。拉致問題で活躍する安倍官房副長官の上昇気流への牽制がはたらき、その尻馬に乗っている感じだ、李下に冠をうっかり正したような理事会での一言が、耳 に障る。

* 話はちがうが数日前に、たしか「torigoe」という署名の、題も「non title」であったか、発信者を確認できないメールが届いていた。思い当たる人がなく、こういう「横文字タイトルと名乗り」のメールは、ウイルス対策と して開く前に用心深く削除している。週刊金曜日のことで批判したキャスター鳥越氏であったりしたら。まさかと思うが。


* 十二月二十日 つづき

* 十一時予約の眼科へ、十時半に着き、その時すでに「二時間」は待てと掲示されていた。診察室を出たのは、一時過ぎ。診察室にいたのは、五分。
 視力が落ちているが、眼鏡を掛けてはかれば、1.0は確保できる。メガネが合っていませんねと。近視が一時和らいでいたのに、また進行していると。白内 障の起きそうな段階へ来ると有ることです、と。このごろ機械の前や本の前で眼がかすむので、ともあれ眼鏡を作り直すのが緊急の用件だと分かって、病院を出 た。
 昼飯に日比谷東天紅へ行ったが、時間的にコースは食べられないと言うので、西銀座の「福助」で鮨を、ゆっくり、ワインで食べた。もう午の客もすいてい て、板さんとおしゃべりしながら。
 ぶらぶら歩いてヤマハでまたDVDを二枚買った。二つとも米国映画。
 
* それから歌舞伎座前へ四時に行き、妻とデート。師走興行の夜の部「椿説弓張月」へ。三島由紀夫の脚色。
 猿之助一座だと思っていたら、なんとご贔屓玉三郎、勘九郎、福助が手伝いに来ていたので、大いに喜んだ。花道に近い、前から五列の通路脇という、実に老 近眼には嬉しい特等席がとれていて、しかも派手な花道芝居が多かった。言うことなし。最後の白馬にまたがった猿之助鎮西八郎為朝の宙乗りも、みごと、間近 でみた。
 三島の脚色は「カブキ」の強調で、超大作の原作からすれば、筋も摘んだていどだが、筋なんて無いようなモノとも言え、大がかりな見せ物舞台がふんだんに あらわれた。楽しませ堪能させ、さすがに猿も玉も福も、ことに勘九郎が大サービス。笑わせても呉れ、だがしっかり泣かせもしたから、エライもの。勘九郎は まるでわたしの方をみてお芝居をしてくれるのよなどと、贔屓の妻、大感激。わたしは、人に戴いた小瓶の酒を持参の木盃で乾盃、また乾盃。この頃歌舞伎座で 気に入りの鯖寿司を幕間に食べ、外の路上で買ってきた焼栗の袋をからにし、リクツ抜きにお芝居見物を楽しんできた。
 堅いことは何も言わない。と、言いたいが、大いに満足した中で、一つ、一人、これではいけないと思ったのが、「寧王女」役。
 この琉球の王女は、為朝の身代わりに暴風雨の海に身を投げた妻白縫が、一度は殺された寧王女に乗りうつって生き返り、姿は王女で心は白縫、という大役な のである。その役が、終幕、為朝が昇天して去る場面の少し前に一同居並んだ中に座っていて、その顔付きが、あまりに普通の、どこかのオフィスガールなみの 普通の顔でただちょこんと座っている。これには愕然とした。抜擢されての寧王女であろうに、そういう「並び場面」で気が抜けてしまっているのは、いたく興 ざめ。さすがに笑也も亀次郎も段二郎も、しゃんと佳い顔をして並んでいただけに、期待の春猿があれではいけない。わたしが双眼鏡で役者の眼をのぞきこんで 楽しむのは、役者にすれば甚だ迷惑だろうが、その役に「気」が入っているいないが、無残なほど分かって、それが興味深いのである。寧王女など、双眼鏡など なくても、ぽかんと、ただのツラをさらしていたのだ、むしろ、ビックリした。
 他はもう、たっぷり、わたしも「かぶき」してきた気分である。

* どこへも寄らず、木村屋のうまい変わり種のパンを二種類二つずつ買って、銀座一丁目からまっすぐ帰った。

* あすは、とうどう、六十七歳。今日のうちにお祝いのメールをいろいろ貰っていた。昼に、観世栄夫の能「卒塔婆小町」そして夕方から望月の鳴物の会に馳 せつける。今年は息子との食事もとりやめ。彼はいまは正月からの連ドラ脚本に追われて、おお忙し。武士の情け。 


* 十二月二十一日 土 六十七歳誕生日

* おめでとうございます  今日がいつより光に満ちた一日でありますように。
 新たなチャレンジに邁進していらっしゃるご様子。
 昨夜、まぁるい月がにじんで浮いていた空。雨になりました。それもかなりの。
 今ほど、旅サラダというテレビ番組で、しまい弘法の生中継をしていました。秦さんのお仕事が一層実り豊かになりますよう、お幸せでお健やかな日々をお過 ごしになれますよう、これから東寺でお祈りして、来迎院へ参ります。

* 戴いたお酒と紅鮭と、赤飯とで、朝、ささやかに夫婦で朝食。村上華岳の「裸婦」図のパスネットを添えて妻にパドャマを貰った。わたしは、この間に買っ て置いたフランスの腕時計を妻に。今日は雨、そして雪かもと。夜向きへの外出は避けることにし、わたし一人でお招きの「小町」の能を観て帰ってくることに した。夜は、DVDで映画でも観ながら旨いワインを飲むとしよう。年相応にさらりと誕生日をすごしたい、息子の健闘を祈りながら。

* 札幌は今日も零下ですが、陽も射して良い一日です。私は次の論文が大詰めで、北大の先生と相談しながら、研究室で執筆中です。休日の静かな研究室で、 世事のことを忘れ、論文に熱中している時間を幸せに感じます。今書いている原稿は、ウイーンの学術誌に投稿するか、もう少しがんばってアメリカの学会誌に 投稿するか、どちらかになります。年内に書き上げてしまいたいのですが、どうなりますことやら。
 夕方、今日から始まる映画「モンテクリスト伯」を観に行こうかと思っています。 誕生日をお祝いしながら・・・。

* 昨日のアキ時間に映画「モンテクリスト伯」を観たかったが、映画館へ行ったら開始後三十分、で、諦めた。その代わりに買ったDVDが、アカデミー作品 賞の「アメリカン・ビューティ」と女優主演賞の「ロリータ」だった。

* 小闇サイトでも、見出しにさりげなく、「お誕生日おめでとうございます」と。わたしへの祝意だと思いこむところが、気のよさか、図々しさか。信じてい る。

* ひどい雨で寒いが、ひとりで出掛けた。出掛けて、よかった。

* 国立能楽堂の「卒塔婆小町」(観世栄夫)が、それはもう立派であった。百歳の小野小町役を、「能」形式で「演技」しているかと思うほど、迫真の気品と 知性とあはれに満たされ、老女の面がじつに精微に活かされていた。漠然と諒解していたこの能の「小町」の真相が、ありありと人間の基盤から生えてでたよう な、リアルな迫力で表現されていた。若い日の小町の美貌のはるかに及ばない「百歳の女」の底光りする美しさと毅さ。ゾウッとする魅力の底にはりついた性の 深層。人生の無残と克服。
 ことに小町の「出」から橋がかりの、衰えきった歩みというよりも、森々として動かぬ歩みに、わたしは逆になぎ倒されそうに感動した。小町の歩みには行く 先がない。先を必要とすらしていない。百万力をもってしても動かせないほどに、小町の己れの足を置いた「いま、ここ」だけが、彼女の全世界。小町の世界は 足の底から深く垂直に大地の芯に結ばれていて、地上のほだしを一切もう持とうとしていないかに見えた。その徹した歩一歩が、ふと羨ましかった。
 背をみせるときは、観世栄夫の生身にかわる瞬間が何度かあったものの、こんなによく演じられた「卒塔婆小町」に出逢った覚え、かつて無い。以前の「檜 垣」にも感じ入ったが、あそこには苦しい激情が走った。今日の小町は一瞬深草の少将の霊になやみながら、しかし旅の僧の教化を翻弄して突き返すつよさとい い自得のふかさといい、小町の美がすくなからず「知性の寂光」で照らし返されているのは、心嬉しい発見であった。亀井忠雄の大鼓、大倉源次郎の小鼓、一噌 隆之の笛、それに地頭山本順之の地謡も、力一杯の仕事だった。こころよかった。

* それほどの能を、シテがまだ橋掛かりのうちに拍手する客が居たのは無念であった。いい能ほど、能のはての軽率な拍手は「やめて」もらいたい。客の心得 も悪いし、よくそのことを広く知らせない能楽境界も怠慢である。

* 四時過ぎに、雨中を、飛ぶように秋葉原経由で日比谷線の人形町へ、そして水天宮ちかくの日本橋公会堂=日本橋劇場へ。五回めの「光響会」に、例年変わ らずのお招きゆえ、私ひとりで、やはり参会した。
 朝の十時半から幕があいて、延々といろどり華やかに望月太左衛主催の大きな鳴物の会である。趣向の好きで上手な太左衛さんは、全国にわたるお弟子さん達 を糾合し、大勢の協賛を得て、こういう大会を、とても楽しく盛り上げる。能が無ければ、今日など、半日は楽に此処に居座っていただろう。残念ながら「風流 船揃」と「勧進帳」の二つを聴くだけで今宵は失礼したが。
 ひとつには、空腹で気分が悪くなり。
 先日妻と水天宮にお参りした晩みつけておいた、「ふぐ」店にと思ったが、「ふぐ」ではなんだかあっさりと物足りない気がして、このあいだ美味しかった中 華料理の「翠蓮」に、また一人で入った。好きなマオタイがあり、佳い老酒も。持参のものを読みながら、一人では多すぎるほどを温かくたっぷり満腹してか ら、また日比谷線で銀座へ、そして有楽町線で保谷へ帰った。雪にはならなかったが、ついに雨は上がらず。
 車中でもずうっと読みふけっていた、現会員武井清氏の「ペン電子文藝館」用プリント原稿『武田落人秘話』百五十枚を、終盤へかけてなかなか面白く読み 切ったのが、大泉学園のすこし手前だった。

* 誕生日の晩の食事を、自分ひとりで摂ったのは、生まれてこの方、一度も記憶がない。そういう珍しい日になったけれど、それもまた、わるくなかった。六 十七になった男が、百歳の小町のすがたにシンとした感銘を受けてきたのは、有り難い嬉しいこと。
 また家ではくつろいで、DVDの「ロリータ」を妻と観た。佳い映画作品で、スー・リオンのロリータは、さすが演技賞もので魅力いっぱい。ロリータコンプ レックスのハンバートを演じたジェイムス・メイスンの役が珍らかに面白く、さながら「痴人の愛」のジョージそこのけの惑溺。それよりも、ロリータの母親役 でハンバートを夫にしてしまうシェリー・ウインタースが、娘をしのぐ名演で妙に愛らしく、いつもどことなくウンザリさせる気の重い女役で活躍する女優なの に、ここでは軽快に軽妙で、やっぱり最後は自殺ぎみの交通事故、頓死。なかなか、やるものだ。そしてピーター・セラーズがハンバートからロリータをさら う、何とも厄介そうな脚本作家を演じていた。ずいぶん贅沢な配役に儲けものの思いをした。映画的にも洒落て快適な撮影であり、非凡、という印象を妻もわた しも分かち持てた。けっこうでした。

* 「ロリータ」の原作は世界的な作家であるナボコフが書いている。かなり陰性の抑圧下における人間の深層破壊を警告した人であり、「ロリータ」もそうい う小説であり映画である。映画は深く批評的であり、かつ不思議な笑いを誘う滑稽感をも出していて、何度も何度も吹き出しそうに笑えた。わるい笑いではな い。
 ナボコフには、わたしはお世話になっている。
 彼は、読者が「いい作者」を求めるのと同じように、作者も「いい読者」をもとめていることに気付いてくれと、自分で考えている「いい読者」の資格を、四 つあげている。想像力のある人。記憶力のある人。少しだけでも芸術的センスのある人。辞書をひくのを億劫にしない人。わたしは完全に同感し、何度も何度も 受け売りさせてもらった。もう一つわたしが付け加えるなら、二度以上読んでくれる人、である。
 そのナボコフの代表作の一つが、どのように映画で表現されているのか興味があった。性的なシーンを期待したのではないし、事実、映画ではそういうシーン はほとんど一度として描かれていない。それも興味深い。予想したより何倍も佳い映画を楽しんだ。
 佳い一日になってよかった。

* あすは、もう一つの能「六浦」(梅若万紀夫)を観に行きたいと思っているが。お天気しだいになる。少し仕事も溜まっている。

* 数字が左右対称です。1221。足すと六になります。中国で大事にする数と聞きます。
 電子であろうと紙であろうと生きる今の感動を感謝します。
    雨降りて降るなら雪の師走哉  研一

* 感謝。秦建日子からも、「誕生日おめでとうございます。昼間に電話をしたのですが、お留守でした。こっちの仕事は、それなりに進んでいます。年末帰り ます。風邪などひかれぬよう。建日子 拝
 追伸.母さんにローストビーフのお礼を伝えてください」と。そちらも、どうか風邪には用心して。


* 十二月二十二日 日

* 市議選挙に、自転車のウシロへ妻を積んで近くの小学校へ。新しい広い道路が出来たりして、幾叉路にもなりどこが学校だっけと迷うほど。「朝日子が帰っ てきても、迷うね、きっと」と言いながら、人けない投票所で投票を済ませた。もう二人乗りの自転車は危ない。スローで走れないのが危ない。そして息が上が り、出掛ける用意をしながら、久しぶりにニトロを舌の下に入れた。両手先がジンジンし、気が霧の消えるように細くなりそう、ともあれ水分を補給し、機械の 前にきた。
 渋谷の松濤までがとても「遠く」感じられる。万三郎はよほど観たいけれど、此処でノビては堪らないから、あと一時間のうちに体調を見極めたい。休息して 家でDVDの方が賢明なようだが、能楽堂というところ、だれかしら懐かしい顔とも出逢う場所だし、能は「六浦」だし、少し心残りにはなる。ナニ、たかが能 さ、と思うことにする。いま、眼をつむると、糸をひくように眠気が誘いに来た。すこし階下で寝てこよう。

* 寝もせで、校正に精出ししていた。「白内障」という言葉で警告ともつかない託宣を病院で聞いてきたが、もう年内の眼鏡づくりは間に合わない、新年早々 につくりかえに行かないと、文字が霞んでいる。

* 雨集のしまい弘法  東寺から、来迎院、曼殊院、詩仙堂、金福寺、法然院と回って、青蓮院に入ろうとしたところで、顔見世に来た友人から電話があり、 辰巳稲荷側の甘味小森で落ち合いました。おしるこを食べ、大丸で笹屋伊織のどら焼きを買って。
 人影のない冬景色の、濡れそぼった様は、それぞれに魅力的でしたが、今回は、金福寺が気に入りました。今度は雲龍院を訪ねてみたい。
 清閑寺も来迎院も、そして新門前通も、ミーハー雀が覗いちゃいけない聖域と、長いこと憚っておりましたが、行って、よかったです。
 昨日、出がけに郷里から切り餅が届き、大丸の洋菓子売り場で、おいしそうなチョコが目に止まりましたので、合わせてさきほど、黒猫の宅配でお送りしまし た。ほんのわずかで恐縮です。ご笑納を。

* 慈子。長編なので、仮サイトに載せてからの校正に疲れる。木崎さんの「青桐」や久間氏の「海で三番目につよいもの」と同じほどある。どうしても、若干 のミスが出てくる。それを見つけだすのは容易でない。森秀樹委員が丁寧に見てくださり助けられた。わたしはまだ第二章のかかりまで。

* 「もう二人乗りの自転車は危ない」:あったり まえです。
   「スローで走れないのが 危ない」:冗談ではありません。
     「そして息が上がり、・・・・・」:しょうがねえなもう。

* また叱られました。

* アカデミー作品賞と、ケビン・トレーシーが主演男優賞の「アメリカン・ビューティ」は、それほどの傑作と思わないが小味に機微をえぐって、わるくな い。こういう家庭崩壊の映画に、アメリカが大事なオスカーを与えていることに、ものを思わせられる。「ベン・ハー」でも「アラモ」でも「ザ・ロンゲスト デー」でもない。ハッピー・エンドでもない。しかもハッピーの錯覚のなかで一人の男が撃ち殺されて死ぬ。題して「アメリカン・ビューティ」とは深刻、アメ リカは。ブッシュは戦争に夢見ているし。


* 十二月二十三日 月

* 天皇さんのお誕生日、六十九になられる。すこし違和かおありとか、ご平安をいのりたい。天皇制にはとくべつの親愛はないのだが、いまの天皇ご一家には 敬愛を惜しまない。政治家どものむちゃくちゃに比べれば敬愛に値する静謐で清明なありようが伺える。

* 疲労を癒すために少し寝ていた。そしてともあれ「慈子」を校正してしまわねばならない。せっかくである、少しでも佳い本文を「ペン電子文藝館」にのこ したい。

* 漱石の「こころ」なしに来迎院の「先生」と「宏=私」は書けていなかったろう。ヒロインが完全なフィクションであるのは当然としても、「あつこ」とい う命名にも容姿にも何かしら働いていたものが、あの頃に、あったろう。昭和四十年四月三十日に起稿して翌年の五月二日に初稿を上げている。四十六年十月十 九日に四稿を、同年十二月三十日には五稿が成ったと記録がある。三十一年もまえに五稿もしていた。

* この作品を読み返していると、『こころ』の先生と私とに憧れをもったことが、我ながらよく分かります。わたしの内心を裏切るように、ずいぶんいろんな 点でこの作品はわたしをバラしている気がします。表現上も、あふれるようにわたしの才能(が有るとして)が出ています、よい才能もよろしくない才能も。
 若い日々には、過剰なほどの感動が働いていた。これしきのことにこんなに感動するのかいと今の老人は反問しますが、それは老人がそういう力を喪失したと いう意味にもなります。老いてしまえば、容易に感動しない、分かってしまっているから。それが悲劇です。それが達成でもあるが。
 ヒロインを愛している気持ちは、だからというべきか、今にしてひとしおです。このヒロインはわが不壊の絵空事の原点でしょう。生まれて、こんな少女と出 逢った喜びは、今にして、死への不安をすらも和らげてくれます。

* こんなことを言うと嗤われるだけだが、どうぞ御勝手にと。
 リアリティーという意味からすれば、どのような外的現実も、ひとりの「慈子」に及ぶ者は、妻のほかに何ひとつ無い。それらは、みなけむりのように儚い。 身内と思う存在が何人もあるとして、すべて現実の存在ではない、だからリアリティーがある、不壊の絵空事として。

* 言葉。それは頼れるか。頼れないし、わたしは頼らない。真理や真実も、言葉にした瞬間に真理でも真実でも無くなっているという、老子の教えは徹底的に 正しい。言葉の海をどのように巧みに泳いでみても、なにも得られない。最高にみごとな言葉も美しい言葉も、それが無に帰してしまう瞬間から、真実は光り出 す。
 史上至高の哲学者とうたわれるヴィトゲンシュタインが、自身の哲学大系の全体をさして、その向こうに真実のあるのを見いだすために人がのぼる、いわば梯 子のようなもので、真実を手にしたときはうち捨てられて当然と言っている。それが哲学の定めなのだ。
 拈華微笑の仏説がふかく示唆しているように、言葉は、あるところまでしか連れては行けない不満足な乗り物。大事なモノゴトほどアレゴリックに暗示し寓意 されるしかなく、だからこそ詩は尊重される。優れて詩的な言葉への愛を語るときにのみ、言葉への信頼は僅かに容認できるが、成ろうなら、言葉は超えてゆき たい。しかしその姿勢からもう文藝は生まれてこないかも知れない。
 わたしは、どこへ歩んでいるのだろう。

* 三連休  どうやら雪も降らずに慌しく過ぎて、クリスマスも関係なく、その後数日は多分気忙しく、今年も暮れていきます。何を急ぐわけでもなく、これ 程師走をのんびりと過ごせる気分になったのは、何十年振りでしょうか。新年の為に大げさな用意をしないと決めたのが、非常に気持ちを楽にしました。
 それでも元旦には子供達が年賀に来てくれるので、最低のお祝いの用意はしますが。
 例年この頃は多忙で酷い風邪を引き、それを押してマニュアルとおりに夢中で働いていたのが夢の様です。
 何歳まで生きられるのか、生きなければならないのか。最近はそう永生きもしたくないな、なんて・・・
 いやなことはなるべく避けて、ゆるゆると生きたい気分です。
 眠いです。日付の変らない内に休みます。おやすみなさい。

* なるほど、或る程度の年齢になって行くと、男女の別なく、こういう心境へ推移してゆくわけか。「TVタックル」で政治家どもが、政治評論家もしたが え、喚き合っているのをさっきまで見聞きしていたが、暖炉のうえに降り落ちる屑雪のような言葉がちらついていただけだ。生でも死でもない。いやなことはな るべく避ける、というわけには行かぬ日常であるが、いいのいやのという価値判断をそんなもののためにしたくないとは思う。自分になにが大切だろうか。 DOINGではないと、先ず心得たい。BEINGへひたと目を向けていたい。


 * 十二月二十四日 火

* 「慈子」を仮サイトで、二度目読み終え、原稿を改めファィルで再送した。ほっとした。まだ二三は魯魚のあやまり残っているかも知れないが、校正にも堪 能した。なんだか、これで、今年の外向きの仕事はみな終えたような気がする。ほっとしている。
 あとは新年も松の内が明けたら渡す約束の少し長めの原稿にとりかかる。来年がどんな年であるか、そんなことは予測する必要もない。来る春が来る春である ことだけが分かっている。することはする。同義だ。しないことはしない。同義だ。胸はときめきたいが。

* イヴの街へ出て美しい人の顔でも見たい気持ちだが、見なくても済む。機械の仕事をストップして、DVDで「帰らざる河」のマリリン・モンローを独占し て楽しんだ。最後にモンローのケイが酒場で歌う「帰らざる河=恋人よわれに帰れ」にほろりとし、環視のなかで抱き上げて「ホーム」へ帰る馬車に我が子マー クと並べてケイを乗せる、男らしいマット・コルダー役のロバート・ミッチャムにも心地よく共感した。ピュアでナチュラルで静かな映画、とてもいとおしく て、気持ちが佳い。

* さ、階下で、妻と黒いマゴとのそばで、少しだけ、旨い酒を呑んでこよう。山口県の読者から名酒「獺祭」も贈られてきた。新潟の旨い餅、栃木の美しい 苺、そしてベルギーのチョコレートも。

* お目がお疲れのようで、少し心配ですね。私は、このごろ、床についてからの読書を少なくして、オーディカセットを聴いてうまいを求めるようにしており ます。イヤホンの声が自然の寝入りを誘う。区切りをつけてどこまで聴くといったこともありますが、おおかたは、朝気がつくとイヤホンがはずれてころがって いるといった、そんなこともなげです。
 先日、ブルックナーの室内五重奏を聴きにいって、半分ほど寝ておりました。後日、あるオーケストラのベース奏者にその話をしたら、ステージから気持ちよ さそうに寝いっている聴衆もけっこう目に付きます、それでいいのでは、と言われ、ホッとしたような。
 いま聴いているオーディカセットは、前に面談したインドの聖者、シュリシュリ・ラビシャンカール、それから昔のクリシュナムルティの録音テープ。バグワ ンはビデオテープで、スチル画面に近く座したままのぬしの双眸に魅入られ深い声音を楽しんでいますが、くぐもる英語の声を聴きとろうとすると眠くなってく る。
 昨夜は、ラビシャンカール師の”Buddha, Manufestation of Silence ”を聴きながらいつしか、いつにもまして夜と仲良くなっていたんだと思います。憶えていないのがいいかも知れませんね。頭を空っぽにするには。内容は、 「いきつくところ、言葉はいらなくなる」、秦様が「私語の刻」で紹介された仏陀の「拈華微笑」に通じるかとも。「花をつんではおつむにさして。。。みーん なかわいい小鳥になって。。。」そんな光景が目に浮かびます。
 ラビシャンカル師の声音は、かなりのオクターブの高さ。バグワンやクリシュナムルティの低く静謐な声とは異質でも、実に、同類のたゆたいがあります。 30分の録音でも、活字にすればさほど多くない。多くを語らず、ゆるやかにおだやかに、吸呼気も次第にゆるりと、そんな感じがします。私の乏しいヨガの経 験でも、インドのヨギは、ブリージングイン(吸気)、ブリージングアウト(呼気)の按配を念入りに教えてくれました。「あるがままに」= as you are,  as it is,  ”be” , ”being ” といった導きも繰り返し繰り返しありました。まだ身についているとは自覚しておりませんが。御身おいといください。

* 今日も寒い師走の日でしたが、美味のお酒はたのしまれましたか。
 漱石から始まり哲学の「言葉」へ展開していくこの頁は、つい見ます。それは自分のその日の節目であることもあり、偏りを確かめるヒントでもあります。広 い知識を基盤に自分の価値を大切にされており、自信に満ちた内容は、読む人に光ります。
 開高 健の短編「珠玉」を読み初めて、老子の言葉を知りました。「道ノ道(イ)ウベキハ常ノ道ニアラズ」です。
 ことば。道を「言葉」に置き換えてたらどうなるか。

* どのように真理らしきことも、言葉にし口にしたとたん、真理からは遠いまがいものになる。だいじなことほど、沈黙してあらわすより無い。「わかる人に は、なんにも言わんでもわかるのん。わからん人には、なーんぼ言うてもわからへんの」と、わたしが生まれて初めて心底尊敬した一つ上級の中学三年生女子の 言葉である。仏陀もキリストも、これぞという機微にふれた深い問いには、つねに沈黙でしか応えていないとか。
 何度も書いた気がする。ホフマンの「黄金宝壺」はわが愛読書であるが、あのなかで、壺に満たしたその水に、言葉という言葉を書いた紙を浸してゆくと、こ とごとく文字は溶け流れ消え失せて何も残らない。むかしむかし、初めて読んで、そこのところで厳粛さに総身にちり毛立ったのを覚えている。むかしむかしと いうのはワケがある。お金がないから、岩波文庫も星一つ(当時15円)のものしか買えなかった。その時代の買い物だ。
 わたしは「言葉」を否定しているのではない。魔法の水にひたしても簡単に消え失せ流れてしまわない宝の言葉が書けるだろうかと、シジフォスのように書こ うとしてきた。わたしが通俗なただの読み物を厭悪するのはそのためだ。

* 慈子  この作品は私にとって特別な宝物です。出会えたことに深い感動を持ち続けています。繰り返し味わいたいと思っています。現実は日々雑務に追わ れる俗世界。まだ帰宅の電車の中です。十時。

* 3月の南座夜の部は「源氏物語」(團・新・福・菊五郎・菊之助)。木挽町で「浮舟」(仁左・玉・勘)がでるようです。
 冬の小雨。暮れ方の曼殊院、宵闇の祇王寺。嵯峨野の夜道、嵐山。
 点在する灯りに細かな波がきらめき、瀬音途切れた先、カーブを繰り返す暗い道の向こうに、水を落とした広沢池…。きりきりとした空気、しずかなくらさの 冬の京も好き。
 ですが、ご本を読んで、春はあけぼの、春到来が一層楽しみになりました。この春、京では三月末に桜が咲き、いっぺんに春の花が揃う有り様でしたとか。

* いろんなところから、いろんなときに、いろいろ励まされる。不徳ナレドモ孤デハナイと、つくづく有り難い。


* 十二月二十五日 水

* 四半世紀もの雑誌「淡交」を、ダンボールに収めた。この雑誌、わたしの初期創作には宝庫のようであったし、今でも小説世界に入って行くときは、使う使 わないはべつにして気の支えになる。それほど多彩に「茶の湯」はものを貯蔵している。だから処分はしない、しばらく、書架をあけてもらい、しかしいつでも 取り出せるようにした。厖大な冊数だが、ほとんど一冊の散逸もない。

* 適宜な材料を、断片としてのヒントで得ようとするなら、単行本はあまり役に立たない、雑誌の記事や写真から触発される展開が望ましい。ヒントは少し有 ればいいのだから。その意味で多くの企業広告誌は、使いようでは宝の山なのに、殆ど目も通されずに捨て去られるのが惜しい。
 建日子のような芝居やテレビドラマの脚本の場合、まとまった本をまとめて読んでみても、大味な情報と知識にしか成るまい。わたしのところへ送られてく る、さまざまな企業の広告雑誌にざっとでも目を通し、目に留まったモノは頁を破いてでも保存しておくと、ずいぶんな雑学がたまる。専門知識もかなり具体的 に手に入る。現代味のある脚本など書くには、仕方がない、雑学は蓄えていないと手薄いチャチな知識でやっつけてしまうことになる。優れた劇作者は、ほんと うによくものを識っている。小道具の一つにもそれが出てくる。

* わたしは、もう、そういう方法では書かない。ものを識りすぎていて感動を喪うのは日々老いて行く身にはあまりに残り惜しい。

* 書庫の中と外とで、ずいぶん体を動かした。書物は重い。しかし済んだわけではない。書庫を整理しないと、本当に読みたい叢書や研究書が、いい感じです ぐ取り出せるように並ばない。こんなに収容力のある書庫をつくられて、いっぱいになるのですかと設計士にわらわれたが、なんの、あっというまに書架は溢 れ、溢れ出た本は住まいのいたるところを蚕食し、親の残した隣の棟にも溢れている。ずいぶんセレクトしているので、処分したい、つまりよそへ出したいと思 う本があまり無いまま増えて行くのである。暖房のない書庫へ入ると、冷え込む。それでも読みたい本が目に付くばかりでなかなか出られない。

* 気分はわるくない。休息に、またまたこの機械で「帰らざる河」をひとりで観ていた、今まで。

* 「ペン電子文藝館」本館に『慈子(あつこ)』が掲載展示されている。読みとりのアクロバットで、PDFの使える人はそれで読んでくださると、うんと読 みよい。縦読みの利くT-TIMEを使うと、ほとんど、普通の本を読むよりも読みやすく読める。

* 熊谷某の強引に率いることとなった新保守党とやら、もう話題にする気もしない。政治に思い関わるのが、つくづくナサケナイ。最低限度「投票」だけは守 りたいし、それだけを武器としたい。国民のすべてが、自分で政治を動かせるのは「投票」をおいて無いし、これだけが有効とどうか信じて欲しい。他は、残念 だけど、あまり役に立たない。


* 十二月二十六日 木

* さすがに歳末、気ぜわしく過ごす人が多いだろう。
 例年のことだが、どんなに胃が痛むほどジタバタしてみても、気が付いてみると片づけは半端なまま、元旦が来て、あっという間に三が日も松の内、注連縄 (しめ)の内も過ぎて行く。健康無比に時間は歩んで行く。待ったは利かない。ある人には待ちある人には待たぬという不公平がない。
 わたしは、諦めている。片づけた気になってみてもみなくても、大差がない。
 すす払いの長い笹竹で大仏様の「お身ぬぐい」をしている写真を見た。あれも、お茶の作法で、いわゆる茶杓や茶碗を袱紗や茶巾で拭くのと、同じだ。客の前 で、袱紗でぐいと茶杓を拭いてはいけないのである、見苦しくなる。客の前で、茶巾でごしごし茶碗は拭かないのである、汚く見えてしまう。ふっくらと茶巾も 袱紗もふくらませ気味に幾分は空を拭い空を拭くのである。すると客の目にも清めた感じがする。清めるとは微妙なことである。
 片づけたから片づくのではない。片づかなくても片づいたと思えばよい。ナニ、それもナニもしないですまそうという言い訳である。分かっている。

* わたしはやや放心気味にのんびりしています。ヴィクトリア・ムローヴァのシベリウスを聴きながら。

* 洋画家上杉吉昭氏から、『橋本博英 追悼文集』を送って戴いた。懐かしい人。生涯の出逢いの中で、私には十指のうちに数えているほんとうに懐かしい優れた人であった。優れた画家であった。ま だ東工大に出ていた頃だった。石川の万歳楽利き酒の会の流れで、人に連れてゆかれた銀座の鮨屋。そこで、たまたま、その一度だけ、その店で同席したに過ぎ ない。あとはせいせい三度ほど画会で顔を見合わせた。文通は多かったし、私の送る本をけれんみなく読んではよく褒めてくださった。いいかげんではなかっ た。作品が気に入ると、ご褒美のように新潟の名酒秘酒をよく送ってこられた。ながく足柄におられ、病気が進んでからは東大にちかい西片町に帰っておられた ようだが、例の遠慮をするタチで、伺うこともしないうちに亡くなり、落胆した。
 今も夫人は湖の本を買い続けてくださっている。
 文集を読んでいると、思った通りの橋本さんが生き生きと立ち上がってくる。たまらなく懐かしい。
 文学ではなく絵画の世界の追悼文が並んでいても、そこに文学のよく分かって愛していた画伯の気持ちが、汲み取れる。それと、実に厳しい、基本への愛。こ の人がどんなに石膏のデッサンのうまい人であったかは、いまなお芸大では語りぐさになっていると聴いている。その上で、彼は高雅な自然を暖かに確かに描い た。懐かしい人。俗なものを微塵ももたなかった、磊落で無私なお人であった。


* 十二月二十七日 金

* 用足しに保谷の二つの銀行をまわったが、せまい駅前通はひどい雑踏。
 帰って書庫を片づけた。
 小島勗(つとむ)という大正の作家から、「地平に現れるもの」という代表作をスキャンして校正もはじめた。

* サーフィンしているうちに、懐かしいというか珍しいというか、ふしぎな写真に出くわした。「当尾」で検索しスクロールしているうちに、「松右衛門の 柿」という文字があらわれた。当尾の地に柿を地場産業としてもたらしたのは、大庄屋吉岡家のわたしの先祖であったと聞いていたから、あ、と思い、写真を呼 び出した。
 天をつく喬い柿の大樹が映っていて、その下に別の写真で、目の底に記憶のある石垣の上の邸が写されていた。「Y先生のお宅」と書かれてある。吉岡の祖父 は京都府の視学であったし、叔父は木津高校の校長さんであった。いまも縁者の誰かが地元で教職にある可能性はたかい。吉岡側の親族には、大学教授が何人も いる。「Y先生」にはリアリティがあった。瞼の底に焼き付いている、四歳頃まで祖父母に育てられていたその家に相違ない。特色のある、坂道の上に横に長い 長屋が塞がっていて、その腹を潜るようにして前庭に入って行くのだ、写真は、今もはっきりその記憶を裏付けている。
 私は、この家から、秦の両親に迎えられ京都の新門前へ「もらひ子」になって出ていった。実の父も母も当尾のその家では暮らしていなかったのである。
 巨きな柿の木も祖父の家の敷地内にシンボルのように聳えている。なぜ「松右衛門の柿」なのかは知らない。この間妻と丹波の杉生に行ってきた。お世話に なった長沢家の遠望がややわたしの育った当尾の吉岡家の遠望に似ているのに、あの時も気が付いた。長沢家をいずまいよく慕うようにしてあの家族に溶け込ん だ我が幼き心理に、いくらか当尾の記憶がかぶっていたのかも知れない。

* ADSLのおかげで、気兼ねなく、際限なく、いろんなサイトを検索しては楽しんでいる。京都を中心に滋賀や奈良の沢山なお寺の境内と特徴的な花の写真 を編集しているサイトなど、格好の煙草一服のかわりになる。これも、菩提寺の萩の寺常林寺を検索して見付けた。日本の中だけでも、信じられないほど莫大な 数のホームページが生きている。世界にまでひろげれば、天文学的な数になるのではないか。きらりと光るオアシスのようなサイトに偶然に出逢うことがある。 だが、拘泥はしないで忘れてしまうようにしている。わたしの字ばかりのホームページなどは、まったく、どうしようもなく野暮なものである。


* 十二月二十八日 土

* 昼過ぎにふらりと出たがアテはなかった。大江戸線で、行けるところへと地下鉄に乗った。『デジタル著作権』という本を読んでいた。気が付いたら、門前 仲町。アテもなく、下車。
 これが下町か。足任せに歩いた。大横川に架かった「くろふねばし」から川面を覗き込んだり。
 深川不動の門前仲町がとても賑わっていた。弁天さんを祀るらしい前の路上で、大きながらす壺に白い太い蛇をいれて祈祷のようなことをしている坊主に出会 い、総身がしびれるほど驚いた。不動堂では護摩を焚いて、大太鼓をうちならし陀羅尼を念じていた。堂の内陣にも外陣にも垣外にもおびただしい人だかりが し、わたしも一人だった。最期の般若心経までじっと聴いてきた。
 境内から横へ出て、間近の富岡八幡宮へも詣ってきた。横綱や大関の碑をいくつも観た。こちらは初詣のお宮かして、不動さんの賑わいとはうってかわり閑散 としていた。正月に来れば逆さまなのか。
 上野よりも浅草よりも、もっと下町の感じがした。深川というから、少し色っぽい花街でもあるかと思ったが、見あたらない。あっちをのぞき、こっちでたち どまり、裏道を通ったり横町へ曲がったり、二時間半ほど、好きにただ歩きに歩いて飲まず食わず、また大江戸線で帰ってきた。途中、馴染んだ店で銚子一本と 焼酎を少し、二三肴を食べてきた。美しい人はお休みで、店内が寂しかった。

* 宵のうちに、ケリー・マクギリスの実に美しい映画「目撃」を、ビデオでみた。ハリソン・フォードはなんでもないが、繪になる女優の、素朴で丈高い美し さは、観るに足りた。

* 兄の方は商社二社の合併で役職を格上げされても、給料据え置き、肩の重みだけが増して手放しで喜べない状況だと云い、弟は赤字決算でボーナス半減だと 云い、二人とも帰宅は殆ど十二時だと。リストラからは外れているのをよしとしないと、と。母親からは、まあまあ身体に気をつけてとエールを送る以外になす すべもなしというところです。

* 自民党政治の混乱が「政策効果」を押し殺し続けている以上、非効率波形のなかをグズグズと世の中は推移し、衰弱を深めてゆく。これほど、十余年にもわ たって政策効果が政権政党の悪しき「私」により食いつぶされ続けてきたのだから、或る期間、閾値を飛び出すほどの劇的政策をガマンしなければ、こう失速し た日本が簡単に甦りはしない。なにか仕掛けてはグズついて後戻りするばかりの「骨抜き日本」が続いてきた。上のメールの母親の不安は、このママ行くと、そ んな程度では絶対に済まなくなる。
 小泉にバトンを渡したのだ、自民党の大方も、政局からみの心卑しい党内野党から立ち直り、ともあれ小泉の構造改革に協力して、無私の効果を上げるよう努 めてくれないものか。野党のアテに出来ない今、そして小泉に代われるだけの、国民に納得できる政策が党内野党から少しも出ていない以上、政治の体力の破滅 的な消耗・浪費はもうやめてもらいたい。政治家達が、寄ってたかって政治を食い物にしている。経済の破綻も彼等によるロスだ。国民はつぎの選挙でこそ、本 当に賢く投票したい。

* 黒澤明らの脚本のママ、「赤ひげ」をリメークしてテレビが見せた。江口洋介は清潔感のある男優できらいではないが、三船敏郎の赤ひげに先行されていて はシンドイ。ま、おおむね、彼なりに演じたと褒めておく。若い女優達が競演した。鈴木杏の「おとよ」に可能性を感じた。
 貧と無知(そしてわたしは付け加えるが、政治家の無恥)。それがなければ、人の病も社会の病も、かなりのところ起きはしないと、「赤ひげ」医者の言葉、 よく言えている。日本の今日は、なにより心貧しく、そして決して良き知性には恵まれていない。文化人または知識人といえる、ないし人格者といえる、有力な 政治家を日本の国はもう久しく持たないのである。禍根は其処に在る。ドラマの「赤ひげ」を観ながら、今も変わらないなあと感じていた。恥ずかしい。

* デジタル・マシンの帯びている「毒性」から目を放したことがない。便利で万能に近いけれど、とてつもない「毒」をもっている。その最たるものは、何 か。行き着くところ、限りなくすべて「似てゆき」同じようなものばかりが出来てゆく、その怖れあることだ。デジタルは、そしてインターネットは、空恐ろし いような「コピー」システムである。
 人とちがったことをしようしようとして、無数のホームページが出来ているが、何とどれも「似て」いることだろう。デジタルから真の独創が、真の個性が、 真の文化が創出されてゆかねばならないが、デジタルの本質に巣くっているのは、そういう願いの前提的否認否定拒絶なのである。「毒」は、それだ。この毒に どう克てるのか。それが、私の、頭から離れない反省であり、挑戦である。

* 紺屋の白袴でしたが、パソコンを家に置いて一年が経ちました。自宅に「世界の図書館」があると思う位に「夢の世界の幻惑」を今年は楽しみました。その 気があれば、大学など行かなくても、ヘブライ語でもギリシャ哲学でも、自分の家で学べると。登りたい関西の山々、尋ねたい湖北の十一面観音像のふるさと を、瞬時に「きれいな画像と案内」がホームページに出てくる。まるでアラジンの魔法の絨毯のような「便利な科学文明」の恩恵に浴しております。
 「ホームページ」。
 多彩な色彩と音楽。きれいな画像と知識のもろもろの言葉。宿題をだされても検索で労せずして答えの多くが、「機械」から出てきます。見て欲しい、見て欲 しいという「声」が充満しています。数回見ますと「飽き」を感じます。工業デザインと同じで、内容が、今風の言葉なら「コンテンツ」が、呼吸していないと 僕は感じます。
 「野暮ったい」ホームページ。バッハの無伴奏。七色が織り成す究極の色は「白」であるように、「野暮ったい」ページは、色のあせることは無いと思いまし た。

* 多彩なサイト。ほとんどが、パフォーマンスだ。自己表現のつもりだが、その自己が薄いモノでは始まらず、自己を鍛えるのは機械の中でではないことに、 気付かねばならない。パソコンは、老人にこそ「電子の杖」たりえても、若い人にはただの「毒」にちかいとわたしの言い続けるのが、それだ。機械と一緒に死 ぬことは出来ないのである。


* 十二月二十九日 日

* 暮正月のようなけじめへ来ると、メールにも、例年のように、恒例・常例として、おきまりの、といった文言が増える。いいかえれば「習慣」である。もと もとの意義の生き残った習慣ばかりではなく、意義など褪せ失せた「習い性」ともゆかない惰性のようなのも、情緒のただ安全弁になっているものも多そうだ。 一種の安心をあがなっている。
 わるい工夫ではない。が、そんなのが無反省・無意識に増えてゆくと、いつのまにか「生きて」いるというより「習慣」に支配されているだけのような日々を 送り迎えることになる。
 繰り返すことは、日本のようなきちんとした四季自然を恵まれた国民には、いわば体内に備えられた機能とすら言えるけれど、ただ習慣で繰り返すのと、繰り 返しの一度一度を「一期の一会」として繰り返すのとでは、雲泥の差がある。後者ほどの繰り返しでないものは、わたしは、もう重んじないことにしている。無 意識に繰り返して得られる程度の安心にはよりかからない。断崖にかけられた桟道を一足一足踏んで行く人生なのだから、安心より不安の連続なのは本来の自 然。うかと習慣に泥(なず)んでしまうと崖から落ちる。繰り返すというなら、それほど良き習慣なら、「一期一会」の気持ちで繰り返すよりない。
 むかしから、何百度も繰り返し言ってきたが、一期一会とは一生に一度きりのことではない。一生に一度きりのこと「かのように大切に」同じことを繰り返す ぞという表明である。優れた茶人は「一期一碗」とも謂った。茶人は生涯何千度となく茶をたてて、なおその一碗一碗を「一期の一碗」としておいしくたてたの である。

* ただの習慣で繰り返していたことが、いっぱいあった。多くは、やめた。どんなにラクになれたろう。バグワンを読みつつけている、それなどは私の一期一 会である。ほかに。もう、そうは、思い当たらない。「闇に言い置く」この私語もわたしには習慣ではない。

* 黒いマゴにせがまれて部屋の外へだしてやった。二階の物干しにすばらしい日の光。小鳥の声。嬉しい。

* 執拗に、かなり高サイズの不明メールが繰り返して届く。開かずに削除している。死んだ兄の名前で、兄の勤務していた大学でのアドレスでも届く。クレ ズ・ウイルスの攻撃らしい。ユーミンというウイルスもあるらしい。ソフトが警告してくれる。

* 入念に校正した「慈子」を「ペン電子文藝館」の本館からわたしの「e-文庫・湖(umi)」に貼り付けると、あら不思議や全編段落ごとに行アキがして いる。文藝館ではそうなっていない。こういう文字通りの変化は、妖怪めいて、とても理解できない。だから貼り付けたものの、全部点検し直さないといけな い。貼り付けたからそうなのであるか、単に「ペン電子文藝館」から印刷してもこのように化けてしまうのだろうか、それだとオオゴトだ。作者は段落ごとに一 行アキなどというヘンな小説は書いていないのだから。

* 作曲家古賀政男のテレビ一代記のようなものを途中観ていて、「幻の影を慕ひて雨に日に」の曲には、胸のつまるものあり。やぶれかぶれの変な作詞である が、ソレにも味があり、曲はとにかくうまい。音楽は、ふしぎだ。

* スペインの空をわたって、はるばると、深夜に、佳き声有り。齢三十の主婦卒業生。

* 恒平さん  家の改装工事が終わり、この二十日、とうとう我が家に引越しました! 今日コンピューターが接続でき、八日間心にとめていた恒平さんのお 誕生日へお祝いの気持ちを、やっと伝えられます。67歳のお誕生日おめでとうございます。これからも恒平さんの一日一日を、遠くから共に楽しみにしており ます。どうぞくれぐれもお身体大切に。
 恒平さんにメールを送るつもりで開いた矢先に、恒平さんからのメールを受取りました。気にかけていただいていたと思うと、とても嬉しいです。
 この一年、容易ではない年でしたが、きっとだからこそ、とても良い一年になりました。何かを克服した後の達成感というのかしら。何はともあれ、現在、自 分の時間と空間をもてることのありがたさ、そこから生まれる心のゆとりをひしひしと感じています。そして何よりも嬉しいのは、八ヶ月半にわたった義理の両 親との生活で残ったのが、疲労でも嫌悪でもなく愛情だったこと。今まで、自分の存在が家族の誰にも関心をもたれない孤独さと惨めさにしがみついてきたけれ ど、関心を持ってもらうためには、私自身彼らへの関心を持ち、彼らと時間を共有しなければならないんですね。そう言えば、毎年どうにも耐え難かった十二月 二十五、六日の「家族の集い」も、今年初めて、「二日間の我慢」と思えました。
 まだ家の中はがたがたしています。八ヶ月半、無しで済んでいたからこそ、預けていた倉庫からものが運び込まれる度に、これらは本当になくてはならないも のなのだろうか、と思わずにいられませんでした。必要ないから捨てればよいとは一概に言えず、要らないのに要る、という矛盾と向き合っています。物のもつ 価値は必要性にのみあるのではないから難しいですね。
 今日はこの辺で。どうぞ良いお歳をお迎えください。 京


* 十二月三十日 月

* 市内での用事を午前中に済ませた。あす、例の、デパートまで、京の白味噌と蛤を買いに行くのが、わたしの仕事。片づけごとは、成り行きで。

* (出勤しない日は、家族の起きて来るまでのこの時間が私の時間なのです。朝八時)
 十二月中旬、小樽に行ってきました。屋外の作業だったので、少し時間にゆとりを見て出かけたのですが、少し吹雪いたものの作業は順調に進み、最後に数時 間小樽市内を歩く余裕もできました。そして雪の街に魅せられてしまったのです。
 スキー場のようないかにも雪を楽しみなさい、という場所ではなく街自体が雪に包まれる時、それがどれほどの魔力があるか私は目眩がしそうでした。
 粉雪、とは象徴的な意味でなく、本当に雪が小麦粉のようなサイズで落ちて来るのだということも初めて知りました。寒がりの私は、昔から冬になるとあたた かな街を思い浮かべてきたものですが、街一面が白を基調に色調統一された時に人に与える絶大な効果には、浅はかにも思いいたらなかったのです。
 函館にかつて数回出かけているのですが、一度も雪に遭っておらず、ただ、必ず一緒に行く先輩が最後の函館出張で、歩きながらこんな話をしてくれました。
「GLAYの、Winter Again を知っている?」
「歌ですか? 知りませんけど」
「その中にこんな歌詞があるんだ、『生まれた街のあの××を、あなたにも見せたい』  さて、××には何が入るでしょう? 音で3音、字で二文字。ちなみに、GLAYは函館出身なんだ」
  暫く考えていましたが、「ゆき」でもなし「ふゆ」でもなし。虫食い質問の秦先生なら、お分かりになりますか? その二文字が、どれほどのインパクトのある ものか、私は今回の雪の街で痛感しました。
 答えは「白さ」です。
 小樽で一面の銀世界を見ながら、この街が恋人の生まれ育った街で、「生まれた街の白さを、あなたにも見せたい」と言われたら涙が出てしまいそうだ、と痛 切に感じていました。残念ながら、色気も何もない仕事上の出張でしたが。
 小樽の雪を見ながら、函館の歌詞を思うのもなんですけれどね。
 函館は坂の街で、だからこそ海と街が一面に白くなる光景がより一層美しく見渡せるのでしょうから。
 職場に帰ってきて、先輩に「白さ」を実感した、と話すと、「そうでしょう。私はGLAYは全く買っていないけど、人にはそれぞれ そこに持ち込んだら凄 い!誰もかなわない!という土俵があるんだよ。 血に流れているもので。ヒロちゃん(彼は沖縄出身の島袋寛子のファン) に「花」を歌わせると凄い、とか ね。キミにもきっとあるはずだよ、そういう土俵が。」
 十年前の私だったら(先生に習っていた頃ですね)うるうるして、「私の土俵ってどこだろう」と思うようなコメントでしたが、いたずらに夢見ながら自分探 しするよりも、日々を淡々と社会の歯車になって送るほうに価値を見い出している今の私では、そう簡単には影響を受けることもないわけで。
 先生の土俵は、京都でしょうか。
 またしても長いメールとなってしまい、申し訳ありませんでした。
 お体がご不調とのこと、どうぞおいたわり下さい。
 明日は大つごもり。よいお年をお迎え下さいませ。

* なにとなく誰にも、ひとに話しかけてみたい時がある。そんな時の、わたしは受け手として、聴き手として、わりに適した方の存在である。GLAYもなに も歌も知らないが、函館の冬は目に浮かぶ。一度行ったのは六月で雪は降っていなかったが、山の上にいて雪を感じた。ただもう一切が白かった、眼の底で。
「いたずらに夢見ながら自分探しするよりも、日々を淡々と社会の歯車になって送るほうに価値を見い出している今の私」という述懐は、わたしの卒業生たちの なかでは、最も早く届いた一つであろうか。是非をにわかには言うまいが、健康な人の握力のようなものを感じる。
 そして、次のこの人の健康さも、すばらしい。

* 年の瀬も押し迫り、お忙しくお過ごしのことと思います。
 先日は本当に有難うございました。
 やっと私のスペイン滞在の日記を少しずつ校正し、昨年の11月、12月分ができあがりました。お暇な時にでも読んでいただければと思います。
 改めて自分の日記を読み返していると、1年前の自分と現在の自分との違いに気付き、とても面白かったです。わずか1年の間に、心境も変わっていれば、色 々な体験をしたものだと思いました。何と言っても、最初の頃の、スペインについてほとんど知らなかった自分を見て、驚きました。1年前でも、私はスペイン のことを割と知っているのではないかと思っていたのですが、現在に較べれば、無知と言って良いレベルでした。それが日記を読んでいて、明らかとなりまし た。逆に言えば、この1年でそれだけ様々なことを学んだということの証なのでしょう。改めて良い1年だったのだと思いました。
 それでは、良いお年をお過ごしください。
 新しい職場での勤務は1月16日からになるので、それまでの間に、1月以降の日記も校正して行き、先生のところへ送れるよう、頑張ります。

* 日記を書いておくようにと、旅立ちの日に言い、約束を果たしましたと先日聴いていた。本文は「e-文庫・湖(umi)」の「自分史のスケッチ」に収め ておく。
 一人一人がみなそれぞれに生きる。あたりまえとはいえ、だから人の世はおもしろい。北朝鮮の人達のように均しなみの日々を強いられている国民は気の毒と いうしかない。僥倖のようにして帰国できた五人の拉致被害者達の、内心の、爆発するような「歓喜」をわたしは信じている、いまは表現されなくても。それで ももう抑えようもなく表現されているとみている。わたしは、感動している。
 幸福な喜ばしい「私」の日々のために、悪しき「公」を許容してはならない、その極悪の見本を、いま我々は「海彼」に見ているが、日本もまたそういう国で あったのだ、昭和初年には。敗戦までは。忘れては成らないが忘れられている。だから私は、「ペン電子文藝館」の「招待席」に、時代を証言してくれる優れた 遺産の作品を、一つまた一つ、心して選んでいる。平出修「逆徒」佐々木俊郎「熊の出る開墾地」黒島傳治「豚群」葉山嘉樹「淫売婦」松村延造「ラ氏の笛」山 本勝治「十姉妹」木村良夫「嵐に抗して」金史良「光の中に」里村欣三「苦力頭の表情」などの小説は、そう簡単にもはや読みたくても見つからないが、今一度 も二度も読まれて佳い作品だと思う。
 宮本百合子も小林多喜二も徳永直も読まれなくなっていて、しかし、こうした文学からの声に耳を塞ぐことで得られていったのが、あのバブルであったこと は、明瞭な史実であろう。バブルははじけたけれど、政治家だけではなく、多くの国民が、働く人々を筆頭に、学生も、庶民も、まだ目が覚めていない。まだ自 分の「手」をさえじっと見ようとしていない。


* 十二月三十日 つづき

* 河村浩一君の「スペイン修行日記」を、「e-文庫・湖(umi)」に今、送り出した。
 おどろくべく克明な、シュアーな日記文で、文章にうるさいわたしも、出だし、手出し無用というほどクリアに叙事が進む。旅立ち前のいろんな手続きなども 明快に書かれ、同じことをしたい人には、「手引き」としても漏れなく書けている。手引きとして書かれているわけでないのに、結果は役に立つように書けてい るのが面白い。まず、文学部の学生たちなら、書こうにも書けないであろう理系の明快さと簡潔さ、と驚いておく。
 二ヶ月分が先着したが、厖大な記録になりそうだ。マドリッド在住の先輩卒業生が熱心に読むだろうな。

* 北海道の名酒を飲み干して、今度は山陰の珍しい美酒に酔っている。源氏物語は「末摘花」から「紅葉賀」の巻に入っている。青海波を舞った光君にひそか に胸をとどろかした藤壷は、こらえられず、彼からの歌に返歌する。藤壷という人の、こころ映えのうつくしさ優しさのほろりと洩れて見えるところで、読んで いて嬉しくなる。光源氏がその文をもう手放しもできず嬉しくて嬉しくてたまらない様子なのも、佳い。苦しくとも、恋はかくありたい。


 * 平成十四年 十二月三十一日 大晦日 火曜日 

* 大晦日  お元気ですか、よく冷え込み、七時から七時半に床を抜け出すのが定りになりました。今のお日様を明日まで持たせて欲しいのに、雲行き怪し く、どうやら雪の元旦を迎えそうですね。
 昨日の内にごまめ、好物の薄味の栗きんとん、丹波黒の黒豆を沢山作りました。かつお節と昆布の出汁を沢山とり、野菜の皮むきを終えて今一休み、これから お煮しめにかかります。
 風邪を引かないコツは人混みの中へ出ない、過労に陥らない。歳をとるとそのあたりは避けて通れて、安泰に新年を迎えられ、元気にしています。
  午後は娘夫婦の車で、たらば蟹と毛蟹を買いに寺泊までひとっ走りします。元旦は大阪勢を除いて集まってくれますが、孫は電話の声だけになり、これは寂しい 限り。
 どうぞいいお新年をお迎えください。

* 歳末恒例の買い物に出掛けたものの、預かった買い物用の金額以外に自分の財布をもって出忘れ、致し方もなし。それでも東武の地下の「寿司岩」で、特上 にぎりとビール。この店はわたしの緊急避難の穴場で、とても安く上タネが食べられる。白い京味噌と蛤。年越しの蕎麦のために海老の天麩羅を数本。花も買え なかった。ま、いいであろう。
 僅かに余ったお金を念頭に「ぺると」でコーヒーをのみ、店主がとっておきのコーヒーを二百グラム買って帰る。
 団十郎の弁慶、仁左衛門の富樫、そして菊五郎の義経で「南座」顔見世の「勧進帳」を妻とテレビで楽しんだ。弁慶といえば今年は若き松緑の弁慶襲名を大い に感動し楽しんだ。あれこれ、佳いこともあった年である。

* 結局、書庫の中をやや片づけただけで、わたしの仕事場は階下も二階も手つかずのまま越年する。事無く、そう事無く、それを幸せとすればよい。
 家族といっても妻とわたしと黒いマゴ。娘と孫二人は遠くにあり、息子も都内に暮らして一心に自立しようと創作の日々である。それが生業でやって行けるら しいことを、ただ感謝している。お互いに良い仕事を。そして、だれもだれも健康でと、願うばかり。

平成十四年 二○○二年 満