平成十四年(2002年) 四月一日から六月三十日まで。三ヶ月
* 平 成十四年(2002年)四月一日 月
* 湖の本の通算第七十巻が届く。単行本でもそれ以上各種出版してきたが、「湖(うみ)の本」で七十册も 出し続けられるとは、さすがに当初は夢にも見なかった。一年もてばいいと云われた。それが十六年。これも夢にも見ないことだった。ひとえに読者、関係者の おかげである。その七十冊目がこの今日届く予定、この待っている気持ちはいつものことで、すこし息詰まる。妻が午後は病院に行く日なので、わたし一人で迎 え入れ一人で発送を始めることになる。今回の作は、これまでにせいぜい百人ほどの人しか見ていない。或る意味、動かし難い「処女作」である。
* 川崎展宏さんに、「掘りたての筍の先風呂敷より」という、季節の匂うようなかるみの妙作がある。この 「先」一字を虫食いにしておいた。すると、こんな句が雑誌「ミマン」の解答者から飛び込んできた、「掘りたての筍の飯風呂敷より」と。原作は土の香のする 筍のとんがった頭が風呂敷からはみ出ている季節感。それが一転、一字のちがいで、お裾分けの到来物に化けた。目の前へ「掘りたてですのよ」と、お鉢か重箱 かで香ばしい筍御飯がもたらされた嬉しい句となる。名解である。わたしの「創始」になるこの虫食い詩歌のそれぞれの「表現」には、こんな新鮮な発見も生ま れる。見渡していると、ずいぶん、この試みがいま流行っているようだ、中学でも高校でも新聞や雑誌でも。授業報告も幾例も出た。
* 福田恆存先生夫人から、ペン事務局を通じて、戯曲のプリントを頂戴した。嬉しい。綺堂が入り恆存戯曲が入り、
これに加えて井上ひさしかつかこうへいかの戯曲が入ると、戯曲の頁にぱっと花が開くが。
* 四月二日 火
* 今日の電子メディア委員会は、創設以来いろいろと記憶に残る段階があった中でも、大事な段を一つ大きく踏み上
がった会議になった。
山田健太氏を迎えて、レクチュアを受けた。氏は、先ず当面差し迫って問題になっている法的な諸問題を解説し、
次いでそれらがサイバースペース上に及ぼしてくる諸問題とその難点や対応について説き、それらに対し「電子メディア委員会ないし日本ペンクラブ」として、
どんな姿勢で目標をとらえて外の世界へ働きかけて行くかの私見を展開された。要を得て分かりよく、各委員もともに話し合った。
電子メディア委員会の「構造改革」自体の必要は明白であり、各位異議なく賛成されて、山田健太氏を委員会に迎
えて「文藝館以外」の委員会活動にイニシアティヴをとってもらうことに一致して意思統一が成った。根回しには十分な時間と手数をかけたし、事を具体的に固
めて、新しい機関車で、逡巡無く走り出すと決めたのである。小田原評定をどう重ねても落ち着くところは必ずこういうことであり、最善の選択で最善の人材を
えたことを、何より日本ペンクラブのために喜びたい。こういうことには幾らかのなお紆余曲折はあろうにせよ、基本線がぴしりと決まったことは動かず、この
先は、山田氏や法律家牧野二郎氏らを芯に、面目一新の委員会活動へ踏み出して行きたい。
* 四月三日 水
* 夜前、「曾我物語」をおそくまで読んだ。単に十郎、五郎兄弟が、父河津三郎の仇工藤祐経を討ってめで
たしという、そんな簡単な話ではない。敵討ちというと、討つ側がいい、討たれる方はわるいと単純に思いがちだが、曾我・河津・工藤と、すでにして三つの苗
字が入り乱れている。さらに伊藤がある。すべて一族なのである。
兄弟の母は河津の妻であった、が、夫を工藤に討たれてのち、舅伊藤祐親の命で、祐親の甥に当たる曾我祐信に再
嫁している。この、曾我兄弟からすれば父方の祖父に当たる伊藤祐親が、そもそも、難儀な火種であった。彼は、かなり陰険に、工藤祐経家の財をかすめとり、
自身の子に継がせてもいたので、祐経が伊藤・河津父子を殺そうとした最初の怨みは、伊藤祐親に発していたのである。ややこしいのである。
伊藤の家長たるこの祐親は、平家により伊豆に流されていた源頼朝の最初の愛妻の父親でもあった。二人には男子
も生まれていた。ただ、この二人は、舅=父である祐親が京都へ上っていた留守に結ばれていた仲であり、時代はなお平家全盛、頼朝は流罪の弱冠で、はなはだ
未だ肩身狭い存在だった。祐親は都から帰ってきて娘のまぢかに子どもの居るのをみて不審に思い、頼朝の子と知ると激怒、いとけない子を家人に殺させ、娘は
頼朝から引き離して強引に他家に嫁がせ、それでも足りず頼朝も討とうと兵を差し向けているのである、それほどに当時の頼朝は心細い力弱い存在であったし、
伊藤祐親という男にはまた苛酷に容赦ないところがあった。頼朝は辛うじて逃げ出して北条時政を頼り、そこで後の尼将軍政子と出会い相思相愛の夫婦になる。
曾我兄弟は、有力であったがはなはだ穏健でない一族のなかで成人した。幼かった兄弟には単純に父の仇は工藤祐
経であったが、祐経にすれば、十郎・五郎兄弟のあずかり知らない苦い過去の怨念も身に抱いていた。複雑であった。「曾我物語」がくらくて重苦しい背後を抱
えているというのは、こういう悪因縁がとぐろを巻いているからで、しかもそれには十郎・五郎は無頓着でただもう一途なのである。単純と複雑とが葛藤したお
話なのである。つまり筋書きは甚だ面白くなる。だから読みふけるわけである。
* それでも黒い少年マゴが、障子にちちっと爪をかけるふりをして、早朝にわたしを起こす。おしっこに行くから戸
外へ出せという合図である、やれやれ。
で、そのまま起きて、今日は終日、夜遅くまで発送の作業を続けた。創作シリーズの第四十六巻は『懸想猿』正
続。凄いようなシナリオである。むろん「凄い」を、わたしはこの頃の若い人達の連発してそれしか知らないのではと苦笑してしまう、あんな称賛の意味で用い
てはいない。「凄い」とはふつうは「凄惨」と熟してつかう言葉であり、一種荒廃した心事をいうのが本来だ。この処女作は、読みにくくは少しもないが、心凄
いことで心萎れるところのシロモノである。
だが、これを講評してくれた当時の松竹専務も高名な批評家も、口を揃えて「小説」をお書きなさいと示唆し奨励
してくれた。わたしは二十七歳半であった。いまその作を、湖の本の「創作とエッセイと通算」第七十册めに発送している。それも、明日には一応予定したとこ
ろまで済む。
明後日には、中村松江が「魁春」襲名興行昼の部を見に、歌舞伎座へ。そして夜は友枝昭世の能「忠度」を観る。万作・萬
斎父子の狂言もある。
* 四月四日 木
* 強い風の、晴。作業は午前中で終えた。また心もち新しい日々へ入って行く。
スリリングに気がかりなのは、この組み立てパソコン機械。よく分からないが、いろんな細部で不具合の進行が感
じられる。マックアフィーへの不正侵害がときどき警告されているが、それよりも一太郎の文字変換支持機能がうまく働かないのが不便だし、作業を終えて機械
を仕舞いたいととき、必ず二三度ソフトリセットを繰り返さないと消えてくれない。近いうちに機械そのものがダウンしてしまいそうな恐怖感に迫られている。
決定的な異常はまだなくて、仕事はいろいろと捗っている。
* コーン婚 春も朧ろな空の下に、緑の見本帖のようになった山。ところどころに桜色。そして人の暮ら す地が、ひろびろと霞んで、視野の果てまで延びています。蕩々と、逝く川も。古都橿原のホールロビーの大きなガラス窓越しに、すべて、ひとながめ。のォん びり、のどかァな、大和の景色のなか、桂文枝さんが語るのは、長屋の男たちが得た、花見の季節の婚姻ばなし。ひとりは幽霊を、もうひとりは狐を女房に。 「葛の葉子別れ」なンですねェ、「天神山」って。<身内>をおもい慕う、ひとときでした。
* 室町時代に「狐草紙絵巻」がある。狐の化けたとしらずに女房となかよく暮らす男が、伴侶は狐と知るや 怖じ惑い疎んじる常の成り行きだ、が、絵巻をはじめて観て、惚れているのならなんで狐ではいけないんだと思った。うらみ葛の葉の信田狐のはなしで、わたし は子どもの時から狐の母=女房に同情した。
* 永田町はどうなっているのか。出てくるニュースのどれもかも、いまいましい。社民党の末路も哀れすぎ
るが、密告合戦のようなことばかりやっていて、日本の国はどうなるのか。小泉に、もう少し、期待したのに近い線まで戻って欲しいが、望み薄。このままでは
自民党ならぬ、国が、潰れる。森派という派閥から結局一歩も出られずに取り巻かれたままではないか、自民党を潰しても改革だなんて、なんというウソ八百
か。「誇大妄想虚言癖」は「スカートを踏む総理」小泉純一郎の地金であったか。
床屋政談だか南瓜政談だかにも、ほとほと飽きて来るが、投げ出しもならない。
* 漱石の「私の個人主義」という講演も立派なら、徳冨蘆花の「謀叛論」にも感服する。大逆事件で死刑が
なされて一週間と経たぬ間の「講演」草稿であり、よくもまあと舌を巻くほど率直に当局の非をならし、死刑は政権による暗殺であると断言している。文学者で
大逆事件にきっちりしたものを云った唯一の言説であり、「詩」による表現としては与謝野鉄幹に「(大石=)誠之助の死」があり、妻晶子の「君死にたまふこ
となかれ」に勝るとも劣らぬ作を成している。過去の優れた文学者たちのとびきりの作品を文藝館に「招待」することで、現代の「現在文学」を何らか問いつめ
ることも大切と考える。
* 四月五日 金
* 妻も、わたしの歳に追いついた。中村松江の魁春襲名披露を観に行く。松江との出会いは早い、かなり早い。
* うれしいことがございました。 『春は、あけぼの』が手に入ったのです。古本屋さんからですが、きれいなご本
です。
おいしいお菓子を惜しみ惜しみいただくように、ゆっくりゆっくり、時に音読したりして、たのしみたのしみ、ご本に向き
あっております。
このご本、装幀もうつくしうございますね。「枕草子繪巻」。『女文化の終焉』の「平家納経」を思い出します。
『女文化の終焉』をさきごろ、読み直していて、「今様」にある「藤原伊通伊実父子」の名にはっとしました。小
侍従の夫とその父――。このご本、何度か読んでいますのに、見落としておりました。伊実が笛に堪能だったとは、『今鏡』にありますが、今様はどの程度だっ
たのでしょう。歌うたひと深い仲になっていたと後白河院が書き残している。そう、ご本にはありましたけれど。
再読、再々読こそ、というようなことをおっしゃってでしたし、わたくしも、じっくり落ち着いて読める再読が、
とおもっておりますけれど、再々読しましても、固有名詞すら、きちんと読んでいなかったとは、なさけなくなってしまいます。『梁塵秘抄』の「口伝」を再読
してみようとおもいます。小侍従周辺のひとたちが思わぬ横顔を見せてくれるかも知れません
新しい「湖の本」をお届けくださいました。ありがとうございます。今度は、初めてのお作とか。『春は、あけぼの』がな
かばですので、ちらととおもったのですが、魔物に捉えられてしまいました。
正篇の「エンド・マークがダヴる」まで、一気に、そう、何かに憑かれたように読んだ、いえ、読まされていました。
こわいお作――。
それは主要登場人物がみな、血まみれになって焉(おわ)っているというだけではなく、彼ら――新十郎はべつで
すが――の持てる業、性(さが)といったものは、わたくしにもある。ただ、危ういところまで行っても、極限状態に立ち至らぬ前に、ずるがしこく、あるいは
臆病に、気づかぬふりをしたり、逃げてしまったりして、やり過ごして来ただけ。そのことに改めて気づかされた――。
続篇は、ちょっと、続けては読めません。
今日、東京へゆくバスから見た、土手に散り敷いた櫻のうすべに色が、なぜか、目に浮かんで来ます。 四日
* 『湖の本』通巻70巻は大快挙です!心よりお慶び申し上げます。ほんとに映画のように読みました。昭和三十九
年にもう出来ていたのですね。年表にも、昭和三十九年/8・20/懸想猿(正・続)/シナリオ/私家版/菅原万佐一〇〇部とありますね。
インターネットブラウザ用の秦恒平著作年表(自昭和二十二年至昭和五十九年分)が出来ました。下記ページの下方をク
リックしてご覧ください。せめてものお祝いの気持ちです。ページのソースをコピーして秦さんのページに移していただけるといいと思います。
幸田露伴の「幻談」、森鴎外の「冬の王」いいですねぇ。やっぱり文豪です。電子文藝館のこうゆう素の文書(プ
レーンテキスト)は受け取った人が縦書きにしたり、本来のふりがなにしたり、好きにして楽しめます。あらためてご尽力いただいた方々に感謝申し上げます。
花乱れの春、くれぐれもお大事に。
* 最初の私家謄写版『懸想猿』、どれほどの部数造ったか、ま、150部が限度だったと思い、そう今度の湖の本
あとがきにも書いていたかも知れない。勝田さんのメールで、ああ100部だったんだと分かった。何万と支払ったのはたしかで、その当時としては我が家では
気絶しそうな出費であったが、妻は、一言も苦情を言わなかった、今も心から感謝している。
* 四月五日 つづき
* 妻の六十六歳に、中村松江改め二世中村魁春の襲名歌舞伎を観にでかけた。「ち」の真ん中に。
* 先ず「鴛鴦襖恋睦
おしのふすまこひのむつごと」は、例の曾我もの。曾我兄弟の実父河津三郎祐泰(梅玉=魁春の兄、故歌右衛門の長男)と敵役俣野五郎景久(橋之助)が、遊女
黄瀬川(福助)を争って、相撲を取る。河津は今にも相撲の手に「河津がけ」があるように、相撲が強かったそうだ。河津は勝ち、俣野は、うわべは綺麗に黄瀬
川を譲りながら、計略をもって河津を討とうとし、その手だてと犠牲に、一対の鴛鴦の雄が殺される。雌はあとを追って死ぬ。その鴛鴦の魂魄が、河津と黄瀬川
とに化けてあらわれ、俣野を討つ。実の河津・黄瀬川も死んでいるというツクリで、相撲と仇討ちという「曾我」ならびの趣向を凝らした歌舞伎舞踊劇である。
福助がしっかりし、梅玉にも余裕があった。この二人には、ながく或る物足りなさを感じ続けてきたが、この一年
のうちに見違えるほど気迫と余裕がにじみ出て、見応えが出来てきた。こうなれば、この二人は、仁左衛門と玉三郎とにならぶ佳い成駒屋コンビを組むだろう。
福助はやがては歌右衛門を襲名するだろう。祝言ものの序幕として、幕の引ける間際まで、けっこうであった。
* 次の真山歌舞伎「元禄忠臣蔵」南部坂雪の別れは、吉右衛門の大石内蔵助と鴈治郎の瑤泉院のしんみりと 抑えた応酬応対がみどころで、さすがに名優の佳い出会い。これに我当が羽倉斎宮、蘆燕が落合与右衛門、東蔵が腰元おうめで付き合い、友右衛門もひさしぶり に女形ぶりを見せた。真山歌舞伎のある種の臭科白が気にならぬではないが、新解釈で売る才気が娘の真山美保演出にも見えて、これもまた近代の歌舞伎。花の 春に雪の南部坂は少しお寒いが、これも趣向か。何と云っても吉と鴈の二人に、平仄のあった調和があり、役者を観るという悦びを感じた。我当は少し神経質に 浮き上がっていたか。
* 幕間に「吉兆」で妻の誕生日を祝った。めでたい鯛づくし懐石で、冷酒もとびきり旨く、三十分で食べてしまうの が勿体ないほど。引き出物には、妻の贔屓「勘九郎」富樫のテレフォンカードを売店で買って置いた。
* 三番目が魁春披露目の「忍夜恋曲者=しのびよるこひはくせもの」将門の一幕。云うまでもない三姫の一 役将門娘の瀧夜叉姫。対する大宅太郎光圀は市川団十郎。密度の濃い所作事で、姫は妖術で大蝦蟇を遣う。怨みを含んで天下の転覆を狙い、光圀は気付いて姫を 討つ。大がかりな荒屋での大立ち回り。新魁春はすこし緊張気味ではあったが、凄みよりも、ある種の濃厚な歌舞伎味をみせ、まず成功した舞台と云っておく。 団十郎はゆったりと冴えて若く映え、佳い役者ぶりだった。この芝居は、だれが演じても何度観ても楽しめる。残念ながら、常磐津の芯になった大夫が、どうし たことかひどい歌い方で、興を殺いだのは、イカン。
* 最後は極めつけ玉三郎の「阿古屋」で、梅玉が畠山重忠、これは仁でも団でも観ているが、阿古屋の藝は 当節玉三郎しか出来ない。琴を弾じ、三味線を弾き、胡弓を擦る。その至芸を迫るのが、夫景清の行方を白状せよとの重忠流の「拷問」で、つまり嘘発見器とし て音曲を利用するという趣向。この舞台に悪道化役の赤面岩永を、勘九郎が人形ぶりで演じ大受けに受けていた。人気者の勘九郎らしい演出で、あれは素の役で やると、損。玉三郎の綺麗なことは、やはり女形の花であり、これを魁春の前に出していると、ちと、まずい。四番目にじっくり演じさせて昼の打ち出しとは、 たいへんけっこうであった。
* この興行は亡くなった六代目歌右衛門の追善興行でもあり、梅玉、魁春という「歌」の子息たちを盛り上 げて、叔父芝翫、従兄福助、橋之助、従妹婿に当たる勘九郎やその子息たちが応援していた。二階ロビーには歌右衛門ゆかりのいろいろが陳列された中に、襲名 時に谷崎潤一郎が請われて原稿を書いた、それに添えた墨色豊かな佳い書状が出ていて、二度も読みに行った。
* 四時過ぎにはねて、日比谷線で茅場町に行き、妻に、日本ペンクラブの新しい本拠の建物を見せた。先日
はひどい雨の日であったが、今日は好天、建物の中へはまだ引っ越ししていないので入れないが、外回りをくるりとまわって、正一位鳥居稲荷社にも柏手を打っ
てきた。建物のまわりがまわれる地形で、土地面積はけっして大きくない。個人の家の規模であり、たしかに雫型の妙な形をしていて、外装のタイルは、黒。
坂本小学校をみてから、桜の公園を通り抜け、地下鉄日比谷線茅場町の駅近く、下町らしいいわば居酒屋に入っ
て、大ホッケを焼いて貰い、二合徳利。妻は手巻きの鮨を二本。いい感じの休息が出来て、そこから地下鉄で秋葉原まで行き、JR総武線で、妻は市谷から有楽
町線に乗り換えて帰り、わたしはそのまま千駄ヶ谷まで行き、国立能楽堂の友枝昭世の会へ。
* 萬斎と父万作の狂言「八句連歌」がひどい出来で、しんきくさいこと、しんきくさいこと。これでひどく
気が殺がれてしまった。昭世は「忠度」を舞って、後シテは上乗、ことに討たれるまぎわの哀れな緊迫は一流のものの映えであったが、この能の前シテはどうも
しんきくさい。おまけに、アイ狂言の長たらしいことと云えば、前シテ分に匹敵するかと思うほどいつまでも喋っている。だらだらだらだら、しまりのない語り
でいやになった。囃子も、笛の一噌仙幸はいいが、大小の鼓が出来の悪いこと、一方はやたらカンカン叩くし、小鼓はよく鳴らなくて、例の如く鼓の革を唾で湿
し舌で嘗め、行儀の悪いこと甚だしい。
で、昭世はやはりたいしたシテだけれど、会の全体の印象は、少なからず索漠感をのこしたのが残念だった。小山弘志さん
と握手してきた。馬場あき子、堀上謙、それに高橋睦郎も来ていた。済んだらさっさと一人で帰ってきた。
池袋駅で、評判のポテトアップルパイの最後の一つを買った。保谷駅について、つい欲しくなって生ビールを一杯のみ、売
店でブルーチーズも買って帰った。
もう新しい湖の本の払い込みが届き始めていた。
* せっかく春になったのに体調を崩しています。最近運動する時間が減ったためだと反省しています。
来月また恵比寿で演奏会を開きます。5/26(日)15:00?17:00です。詳しい事は又ご連絡を差し上げます。
お忙しいとは思いますが、楽しい演奏会にしますので、どうぞよろしくお願いします。
今回はピアニスト数人と大阪より木管五重奏団を呼び寄せます。木管五重奏はご存知ですか?明るく楽しい楽器の
編成です。フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットから成り各楽器の個性を生かした曲が多いです。弦楽四重奏のようにいかにうまくまとまる
かというのとは、少し世界が違うような気がします。むしろ個性のぶつかり合いです。+ピアノという編成の6重奏(テュイレという作曲家です)も演奏しま
す。非常に難しいのですが楽しい曲です。
今回つれてくることはできませんでしたが、非常に素敵な人が兵庫にいます。上記の木管五重奏の仲間の一人でクラリネッ
ト奏者です。ゴールデンウィークに会ってきますが、なかなか東京で遊ぼうと口説くのが難しいです。
関西人には、向こうのノリの良さに合わせた爽やかな弁舌がないと、難しいのでしょうか?関西の女性の惹かれる人はどん
ななのでしょうか?何かアドバイスがありましたら教えていただきたいです。
大阪学という本を読んでいましたら、とにかくかざらず本音を言うのが関西人だということがかいてありました。あと非常
に考え方が合理的だそうです。確かにそういう面は私の友人も強いです。あと、自分を落として受けを狙うのが特徴だと思います。
それでは、演奏会よろしくお願い致します。
* 関西といっても、京都と大阪と兵庫とではずいぶん違っていそうに思う。妻は兵庫で生まれ大阪で育ち、京都で大
学生活をし、親たちの根は和歌山県。複雑なモノである。しかも東京がいちばん長い、もう四十年過ぎている。あまり参考にならない。弱ったな。
* 四月六日 土
* 一息ついて、少しく衣更えの気持ちで身辺の片づけなどしながら、文藝館の入稿分を六本用意した。明日 には送れる。また、物故会員、現会員の出稿者へ、館長と連名の報告と感謝の書状文案を書いた。現在数えてみると、若干の予定分も含め九十六七人が今月総会 までに掲載できる。おそらく百人百作に達するであろうと思う。「歴代会長」「招待席」「物故会員」でずいぶん作品の質が分厚く豊かになっている。刺激され て現会員からの力作が寄せられるようでありたい。
* 永田町の末期症状はほとんど国政の断末魔を聴くようである。情けなく腹立たしく、つい顔を背けている。明日の
京都府知事選挙がどんな様相を呈するか。横浜市長選のあとを追うかどうか。
* 四月七日 日
* 芥川龍之介の「或旧友へ送る手記」を読んだ。昭和二年七月自殺の際の遺稿遺書の一つと目されてきた。
芥川作品は主要な大方が比較的簡単に入手できる。彼の自殺は近代の精神世界を震撼した大事件であった。「ぼんやりした不安」から死ぬと書いていて「末期の
目」という有名なキイワードも含んでいる。自殺の直前まで谷崎潤一郎との間に小説表現の本質をめぐって論戦があった。谷崎は筋のある小説こそといい、芥川
は筋のない小説に惹かれていると論じていた。昭和十年十一月に日本ペンクラブが創設され、その少し前に芥川の名にちなんだ第一回芥川竜之介文学賞が石川達
三作「蒼氓」を当選作として発足した。石川は後に日本ペンクラブ会長を務めている。その受賞作「蒼氓第一部」もペンクラブの「電子文藝館」は収録してい
る。
会員として亡くなった福田恆存作一幕の喜劇「堅塁奪取」をスキャンした。
* 開幕七連勝していた阪神タイガースがヤクルトにやっと一つ土をつけられた。
* 「懸想猿」にメールがつぎつぎ届き始めている。
* ペンの「電子文藝館」に専ら手を掛けて、わたしの「e-文庫・湖」がややお留守になっていたが、著作権の切れ
ている作品や、「湖の本」を介して親しい人の作品は、頂戴している。スキャンしたり校正したりの尽力にも、そのメリットがある。
* 四月八日 月
* 「懸想猿」が秦さんの出発点であると知って早速拝読しました。歴史や風土への姿勢、人間の情念のとら え方、まぎれもなく秦さんの作品ですね。〈正・続〉そろったシナリオで一層よくわかります。シーンごとの描写は小説的興趣をよびおこし、40年前にお会い したらやはり小説を書いて戴きたいと言った気がします。70册目、おめでとうございます。
* これは、小説読みのプロの中のプロ編集者に戴いた、メール。此の道を来てよかったと感慨深い。以下にも幾つ か。
* ご高著『湖の本』46をいただき、ありがとうございました。
年齢は関係ないのかもしれませんが、27歳の折のシナリオということで驚いています。その若さでえんや芳の心境を描け
るという驚きです。
また、シナリオ作家にならずに、あくまでも小説の勉強として、という点、それを今でも貫いていることに敬服し
ます。1963年ならば、シナリオ作家の地位が固まりつつある時期と思いますが、それを選ばなかったところに、秦さんの秦さんたる所以があるのかな、など
とも思っています。
信一に「もらひ子」の原型を見た思いです。それにしても人間の業の深さを思わずにはいられません。文学の究極のところ
を拝見しました。かなわないまでも、私の血肉とさせていただきます。
* 「湖の本」(懸想猿)拝受。ありがとうございます。通算七十巻上梓、大慶に存じます。それにしても、奥、幅、 域ともに深く広きこと、感服しております。
* 「懸想猿」を有り難うございました。隣家の新妻ほど食欲をそそるものはなく、逆に自分が新妻を持てば立場は逆 転、これはまさに世界的な主題ですね。しかもこれは中身も時空配分も大変複雑な結構のドラマのようで、演じるほうも大変でしょうね。
* いま、千葉の勝田さんには、作品年表のことで手厚く応援して貰っている。趣旨は二つ有る。一つは、昔に妻の手で作成し、記念の豪華本『四度の瀧』に収めた 総作品年表をホームページ上に再現すること。勝田さんの手では完成しているのに、わたしが、どうしてもそれをホームページに組み入れられずにモタついてい る。もう一つは、その年表が昭和五十九年の暮れまでしか出来ていなくて、以降十八年分もが手元の保存カードのままに放置してある、それを、以前のと同じ形 式の、書き込みと増殖可能な「表枠」をつくり、少しずつカードから書き込んでゆきたいという願いがあり、これも勝田さんの手では仕上がっているのだが、う まくまだ私の手元で安定した「表」作業用に落ち着けかねている。なんとまあ物おぼえ物わかりの悪いわたしかと、自己嫌悪に陥りそう。しかし、諦めずに粘り たい。
* いま一つ別に、喫茶店「ぺると」の若いマスターが、先ずはホームページ表紙と目次のリニューアル案を
作ってくれている。城景都さんの絵はむろんそのまま使用するが、文字の配置や配色に工夫がしてある。気に入っている。が、これまた、挿入手順まで附けても
らい受け取っているのに、さわるのがひどく怖くて前に踏み出せない。ホームページとは、なんとややこしい組み立てで出来ているのだ。ムウムウ唸るばかりで
ある。
「ぺると」は同じ保谷の近所なので、家まで行ってあげると言われているが、さ、そうなるとこの蟻地獄のよう
な、わたし一人が辛うじて腰掛けられる程度の機械の前へ、どう招き入れるか、モノのひっくりかえったような所をまずまず片づけてかからねばならぬ。ムウム
ウ唸っている。
* しかしわたしがコンピュータに執心したのは、当然ながらホームページへの熱望があったからで、メールが使いた
いからではなかった。今もそうだ。ホームページをより使いよく、より美しく、より豊かに出来ることなら、試み続けたい。
* 四月八日 つづき
* いいメールが幾つも来た中でも、心地よいニュースが舞い込んだ。女性である。
* ご挨拶 秦恒平さま、こんにちは、ご無沙汰しております。**です。お元気ですか?
明日は東工大の入学式ですが、本館前の桜は青々としています。しかしながら、サークルの勧誘のためか、桜の下には例年通り青いシートを敷いて場所とりをし
ている学生もいます。
秋にメールをお送りした後、なんとか博士論文を仕上げることができ、3月に、無事、学位を頂きました。
また、4月より、同じ学科内の別の研究室で助手として働くことになりました。建物の中で1つ下の階への移動でしたが、
同じ学科内とはいえ、専門分野が異なるので、新たな挑戦が始まります。幸い、新しい研究室では暖かく迎え入れてくれたことと、学生と年齢が近いので、スト
レスを感じずに過ごせています。本当にありがたく思っています。
先日、引越ししました。住んでいたところが学生専用であったため追い出されました?! 新しい住所は以下の通りです。
(連絡が遅れて申し訳ありません。)(略)
引越しの荷物を詰めているとき、秦さんに、約6年前に頂いたお手紙を見つけました。飛び級のご相談をした時のもので
す。
あの頃は、先に進みたいんだけど、自分自身で一歩踏み出すことに躊躇していました。その時、いろんな方に相談
しても、みなさん「すごいね」という言葉がほとんどで、かなり萎縮していたところ、秦さんからの手紙には、機会を逃すことがあなたの気質に合うだろうか?
との問いかけがありました。この言葉が、あの時の私への決定打でした。
また、それまでたくさんの「飛び級」の学生をご存知だからこそ、デメリットも、苦労する点をもご指摘いただいたおかげ
で、新たな仲間になじむことができ、今では、学部までの同級生と大学院からの同級生と、2倍の友人が増えました。私の財産です。
それでは,今後ともよろしくお願いします。
* こういうことになるものと、安心して三年生から院へ後押しの出来た学生であった。なにしろ何百人の大
教室の中から、教壇へとことこと友達を連れて寄ってきて、「先生、歌舞伎に連れてってください」と申し入れる人であった、毎日やっていることといえば、わ
たしなど計り知れぬことばっかりの、あの工学と物理の大学で。喜んで、三人だったと思う、歌舞伎座へ連れて行った。それは楽しかった。
じつは何の「博士」と聴いても理解できないし、こういう博士が、こういう先生格が、もう何人もいる。わたしのそんな助
言だか激励だかが少しでも役に立ったのなら、嬉しい。
* 今年はあいにく、お天気とわたしの時間とがチグハグして、とうとう退官後初めて、東工大の桜を見損 なった。頭のどこかに、シンボルですらあった講堂わきの佳いスロープが、桜樹や緑樹もろとも昨年無残に殺されていたのが、気を滅入らせていたとも言える。 桜の根本に青いビニールシート。あれが桜のためにはたいへんな害毒と、天下の桜博士で桜医者の植木の大先生が、先日テレビで悲しんでいた。それにくらべ て、酒飲みのヘドにしても排泄物にしても、「こやしになるだけですから」と涼しい顔だったのが可笑しかった。
* 涼しい顔と絶妙との間でせいぜい十分のあいだに何度も何度も笑わせたのが、「笑点」で前座をつとめた漫才の夢 路いとし喜味こいしだった。たいしたことは演っていないのに、可笑しくて笑う。うまいとは、円熟とは、ああいうものかなあと思う。
* 某新聞が、たった三枚で「電子文藝館」を書けという。説明もしたければ、楽屋の苦労も読者からの反応
も、今後のことも、となるとどれもこれも半端になる。字数を節約しようとすると文章がきつくなる。半日苦労した。すこしイージィににげようとしたが記者さ
ん簡単には許してくれない。苦労しました。
* 四月九日 火
* 「電子文藝館」に掲載した大勢の出稿者に、ペンクラブ及び文藝館からの謝辞と報告とが、作業輻輳にかまけ遅れ ていた。物故会員、現会員、著作権切れ作者への感謝と報告の文案を事務局に送った。
* 午後は久しぶりに三省堂編集者の伊藤雅昭氏と出版打ち合わせに、池袋まで出る。
* 昨夜、一気に「曾我物語」の残りを読み上げた。原文はすこぶる読みやすい。すでにして説経節の文脈と呼応する
息づかいも感じられ、おそらく「ごぜ」や歩き巫女のたぐいを中心に語られ唱導されたであろうという民俗学からの提言は正しいであろう。
繰り返し言ったように、これはただの敵討ちの物語ではない。素朴な原始の風紀を備えた武士の時代から、頼朝の
権威を頂点に秩序化された武家政権体制へ移行の時節に、そうは簡明に「適応」しきれない武士達の暗く鬱屈した気持ちも内部に取り込み、いわば体制へ「謀
叛」の性質をも否応なく帯びた敵討ちになっている。兄弟の初一念を支持する層も厚く、しかし身内にすら、まして一族には、敵討ちなどを否認し危惧する保身
の感情も渦巻いている。そんな中で、十郎、五郎の兄弟は遮二無二父河津祐行の仇工藤祐経を狙い、討ち果たし、あまつさえ将軍頼朝の座所へも足を踏み込んで
いる。
兄弟の「心情」はひたぶる父の敵討ちだが、討たれた祐経には、兄弟の祖父伊東祐親に親からの遺産を横領された
怨みが先行していた。それだけでもない、祐親にすれば、祐経の父というのは、自身の父親祐継が、後妻(祐親には継母)の連れ娘に産ませていた子であった。
一家系の中の血縁の混濁と、財産の葛藤。それらが、武士達の世間の冷暖こもごもの環境内で発酵してゆきながら、祐経が受けるはずの工藤の資産が、伊東祐親
を介してこの河津祐行に動いていた。それで祐経は祐行を殺し、しかし祐行の子、母の再嫁とともに曾我家に育てられた十郎、五郎は、遅疑なく専一祐経を殺す
ことに若い身空の一切を賭けたのである。
どうしようもない、暗い重い、しかもどこかに呆れるほど無頓着に澄んだものの感じられる敵討ちでもある。話は単調に似
て複雑に変幻する。だが淡泊な物語の筋であるのも事実だ。
荒木又右衛門の仇討ち(助太刀)は、大名と旗本との深刻な葛藤の中で世間の耳目をあつめた。
赤穂浪士は幕府裁断の不公平を糺すべく、幕府の面目をさながら失墜させようと大がかりに吉良上野を討ち果たす。
日本三大仇討ち物語は、いずれも私的と見えて、大きな「公」との葛藤をはらんだために、興味ぶかいものになった。
それにしても「曾我物語」の兄弟も、女達も、まわりの武士達も、頼朝でさえも、よく泣くよく泣く、泣きの涙の
連続の中で物語は終始運ばれてゆく。頼朝はともあれ秩序的な管理社会への余儀ない移行を泣いて嘆いているように見える。敵討ちなど時代遅れだ、やめておけ
おけと言い募る連中は、だが、涙を流さない。仇討ちよりは訴訟して裁判にかかればよいと、そういう男達は、兄弟に助言する。だが五郎たちには、裁判と敵討
ちとが一つの土俵のものとはとても信じられない。敵討ちは武士の魂の問題なのだ。この撞着は大きい。
そして弟五郎の一途にして冷静な判断、大磯の遊女虎と相愛深く、とかく判断のミスや甘さを弟に窘められながら
も、純粋な優しい兄十郎。こんなに運命的な仲良し兄弟は珍しい。敵討ちの是非はおくとも、この兄弟や大磯の虎を嫌いになる人はいないだろう。この物語で
は、頼朝ですら好感の持てる情けある一面を物語の結び目でしっかり見せてくれるから頼もしい。畠山重忠も和田義盛も、何人もの武士達が情け深く登場して物
語を豊かに分厚くしている。
古典の一巻を、実質数日のうちに読み上げたのは珍しい。一昨夜はほぼ夜通しで仇討ち成就まで読みふけった。
* 三省堂が「ことば」の本を一冊書くように、と。書き下ろすもとでは在るので、時間的にかえって急かれることに なる。ま、いいだろう。
* しばらくぶりに、池袋で、編集者と話したあと、街恋しくて、あいにく曇り空に風も吹くお天気であった
が、ゆらゆらと過ごしてきた。なに、食べるよりも飲みたかったので、行き着くところ新宿へ。聞きおよんでいた、京湯葉料理が売り物の地下店で、小味にいろ
いろ調理された湯葉中心の鉢や皿で、八海山を二合、焼酎をコツプで、そして濁り酒を片口で、時間を掛け楽しんだ。おしまいが卵でとじた鍋の雑炊になった。
いいではないかと手を拍った初の店であった。
機嫌良く大江戸線に乗り、きれいに寝過ごして、筋違いに豊島園の向こうまで。
* 四月九日 つづき
* 「電子文藝館」で新たな技術的問題が生じ、困惑している。なんとか乗り切りたいが。大事なのは作品と 読者であり、出来うる限り五体満足の文章を受信し楽しんで貰いたい。神経の焦点をそこへ注がねばならず、委員間の便宜好都合だけ考えていては始まらない。 委託した業者が、技術的に真価を示して貰いたい。
* つくづく思うが、コンピュータはやはり計算機であり、文字の再現はその応用で、十分な対応はまだまだ 出来ない未熟者であるらしい、ということ。漢字や記号が足りないと云った程度ですまない複雑怪奇な不十分さが予想もつかずに現れ出る。仕方がない、とは、 だが云ってていいことではあるまいに。
* 春の旅終えて hatakさん
大阪の千里、堺で春の学会。桜の散り際とタイガースの熱狂と、湯木美術館の静寂を楽しんで一昨日札幌に帰りました。ポ
ストで私を待っていてくれたのはhatakさんの処女作。「懸想猿」とはどんなお話しでしょう。
三月から締切に追われる日々。今は論文・雑誌原稿を四つ抱えています。催促の電話が鳴ると逃げ出したい気分。作家・秦
恒平氏はいったい幾つの原稿を抱えていたのか、片手で音を上げている私には想像もつきません。
さて、目下の仕事を仕上げて、連休までには御本を開くことにしましょう。
楽しみにしています。ありがとうございました。 maokat
* 今日は蒸々する一日でございました。昨晩は読書に過ごされて睡眠不足ではございませんか。どうぞお身体お大切
に……。
本日湖の本二冊分の振込みをさせていただきました。プレゼントした『谷崎潤一郎を読む』は先方に大変喜ばれまして、も
う一度谷崎を読み直してみるとはりきっていらっしゃいます。
また昨日はポストに新刊『懸想猿』を見つけ、嬉しくなりました。とても楽しみに待っておりました。処女作に
は、その作家のエッセンスがちりばめられていると思います。『懸想猿』は手にとりましただけで、本からの気迫を感じてしまいました。しばらくの間、家庭を
忘れて読み耽ってしまうことでございましょう。ありがとうございました。
* 作品には品位から来るカタルシスが必要だが、「懸想猿」には、読む人を暗澹と歎息させる暗さが、カタ
ルシスの悦びや安堵を与えないだろう。それで、最初の百部(が正しいらしい)だけで、外へ出さなかった何十年も。今も心配している、こんなものを持ち出す
なという声も届くのではないか。
* 四月十日 水
* 夜中に建日子が西の棟へ帰っていた。昼頃に起きてきて、しばらく親子三人で話し合った。なかなか世代も違い価
値観も違いして、保谷での親たちとの対話は辛いところも多かろう、重かろうと少し可哀想にも感じる。父親が少なからず頑迷に出来上がっているから。
妻の兄は、建日子らの業界では、相当な稼ぎ手であった。ごく若い頃は谷川俊太郎らと仲間で、村野四郎に作品を
選ばれたこともあったり、詩人風であった。だが、次第に詩を離れてラジオや、草創期テレビの世界で、徐々にバラエティーや催しの構成作者と成って行き、ド
ラマの主題歌歌詞なども書いた。最近谷川俊太郎が『風穴をあける』という自著の一節にこの義兄保富庚午をとりあげ、出会いと早い別れとを書いていた。谷川
の想い出は義兄に関する限りいろいろに読めるが、ともあれ顔が合うと、テレビ世間の仕事は「ヘンに忙しくてね」と照れる義兄が書かれている。複雑な含羞と
でも言おうか。詩は陰に隠れ、歌詞やナレーションづくりへ奔走していた保富を、むろん私は見知っていた。まだわたしが、医学書院に勤めはじめて間もない頃
から、財布というものも持たなかったほど貧しかった頃から、だ。
建日子は、この伯父を、名前と噂以外は知らない。だが伯父のしていた「構成」という仕事などのことは、どんなものか我
々より遙かによく知っている、当然のように。「稼ぎにはなる」そうだ。
どんな世間で生きるのも、それぞれに難しい。自分の胸の中で自分に向かってもう一人の自分がいろいろ問いかけ
たり話しかけてきたりする、その声に耳を傾けて、本当にいい声(都合の良い声ではない。)はよく聴き、わるい声は聞き流す。それより仕方がない。外からの
声は、たとえ父親の声でも「参考」以上のものではないのだ。
忙しい息子は二時間ほどでまた戦場に帰って行った。
* 総理との党首討論の、小泉首相の弁は、空疎な詭弁と不誠実なはぐらかしや強弁ばかりで、白けた。表情も薄汚く なった。何なんだ、アレは。
* 九十過ぎた押し掛け弟子の石久保豊(とよ)さんが、二三年前に書いて送ってきた「微苦笑」という、原 稿用紙で二枚余りの小説を「e-文庫・湖」15頁に入れて、それで、この頁の「輯」を満了にした。よく書けている。これで、いいのだ。これが九十になろう とする老女の自筆の原稿か、作かと、驚嘆する。この頁の他の作品、すこし機械の表記に問題が出ていて、手をかけねばならない。
* 今日燕の囀りを聴きました。
ペンクラブの会館が完成とのこと。さぞお忙しくお過ごしのことと存じます。どうか、おからだくれぐれもお大切に。一層
のご活躍をお祈りいたします。
ご本、読み終えました。思いが交錯しています。さまざまに。それは、マイナスではなく、いつもの複雑さと、秦
さんらしい強引さに、どこか、敗北を嬉しがってのもの。そして今回は、それに増して、真っ直ぐに放られた重く苦いエネルギーを受け止められない自分の力不
足に、今後の不安を感じました。
* メールよりも数多く、手紙やハガキや、払い込み用紙の通信欄に、夥しい数の感想が送られてくる。これが、湖の 本の作者の冥利冥加なのである。
* 福田恆存戯曲を、妻が苦心してインデント設定を覚え、戯曲らしく整理し初校してくれた。わたしは、そんなこと
も出来ないのである。前に岡本綺堂の戯曲を整理したときは、だから、途方もなく苦労した。少し変わった組と整理をした。
福田先生のこの喜劇、わたしは好きである。だからお願いしたのだが、これは現代という時代のおそろしい「病状」を書い
たもののように味わえる。これから私が念校する。
田山花袋の「蒲団」をスキャンした。この作品は、それ以降の夥しいいわゆる私小説に慣れてしまった現代の我々
には、もはや微笑ましいほどのものだけれど、発表された明治四十年には、たいへんな騒ぎになったのも分かる。そういうことはさておいても、その文章のさら
さらと読みいいことに、花袋という大きな作家の文藝を賞味したい。「田舎教師」は真の名作だが、この人には幾つもの秀作が他にもある。「蒲団」の告白的私
小説の印象からだけこの大作家を云々しては大きな間違いを犯す。また自然主義の旗手であった花袋とはいえ、根は徳田秋声などと比べても遙かに花袋はロマン
チストである。少なくも巧まざる抒情味が作品ににじみ出る。「時は過ぎゆく」など、主義主張をこえたところで、文藝が、静かに深い呼吸を楽しんでいた。読
む方も楽しめる。いま、妻が初校している。
ともに、程なく、文藝館に招き入れられる。
言ってくれれば初校もしますと委員は言われるが、みなさん、生活がある。真実忙しいに違いない、義兄の弁では
ないが、どこでも、だれでも「なんだかヘンに忙しい」のだ。気の毒で、初校は、どうも、頼みにくい。さっささっさと自分でやってしまう「いい癖・わるい
癖」が出ている。巻き込まれている妻が可哀想だ。だが、おかげで、もうほどなくわたしよりコンピュータのテクニクは沢山覚え込むことだろう。
* ある地方のペン会員から、ペンクラブは、えらい金をつかって自前で自社ビル四階建てを建てたとか、寄付金も繰 り返し頼まれていますが、その建物、会員のために何の役に立つのですかとメールを寄越された。すぐには言葉が出てこない。
* メディア規制法案への反対意見を、もうこの期に及んで、政府や与党や賛成している野党に訴えても時既
におそいと思われる以上、この際は当の「メディア」に対してこのままでいいのか、もっと声を挙げるべきはメディア自身であろうと「檄」をとばそうと、わた
しは、ペンクラブの言論表現委員会で意見を述べた。猪瀬委員長も田島泰彦委員等も即座に賛成し、結果として日本ペンクラブはね三月十五日の理事会決定を経
て、上の趣旨の声明と要望を各メディアに伝えた。記者会見もした。
その「効果」とまではまだ言えないが、新聞やテレビなど多くの大きなメディアが、その以後に、かなり声をあげて、いろ
んな角度と方法で、これら法案への疑義を訴えつづけている。世論形成ができつつある。
それでも政府と与党三党は「個人情報保護法案」「人権擁護法案」を今国会で成立させると発表した。
何度も何度も言うように、法案の命名は美しく、関心の浅い人は、好い法律ではないかと思うだろう。しかしなが
ら、これは「国民による、国民のための」法とは、到底考えられない条文で構成されている。鈴木宗男のような政治屋のボロが追究できないようにする法案だ
と、断言していいのである。涼しい顔で詭弁を弄しながら国民の首を締め上げてゆく法案なのである。「待った」の声が奏功して欲しいと切に願う。
* 今日の党首討論では共産党の志位委員長の追究が光った。どう転んでも論理的に志位の方が信頼でき、小 泉はごまかしたに過ぎない、ごまかし切れてなどいないのである。鈴木宗男は、北方四島返還交渉に際し政府に先立って、外務省高官と同席のうえ、二島返還を さながらにロシアと「単独交渉」していた事実は覆われない。小泉はなぜ誠実に受け止めないのか。鈴木の意見だでは済むまい、だからこそ鈴木と同席して事に 当たった東郷某局長は、現に先日の外務省人事で罷免されたではないか。小泉首相の態度は極めて悪質に不誠実である。
* 懸想猿 八重歯のある信一は作者そのものです。お芳にじゃれて甘える猿も。お芳は・・母。
そう思いながらまた読み返し、作者の非凡な物語世界に引き込まれ、私の平凡な言葉では語れぬほどの思いに打ちのめされ
ています。五葉松を草刈鎌で八つ裂きにした激しさにも。
* 四月十一日 木
* 以下は、西尾肇さんという、鳥取県の秦の読者(図問研その他組織の会員。市民図書館司書)からのメールです。
秦から、この際ご意見をと求めたもので、信頼できる人です。
我々(日本ペンクラブ)が「著作権」から問題提起しているのに対し、「図書館活動」全体から西尾さんが考え
(或いは考えすぎ)ているのは無理からぬことと思いますが、その辺に、両者の論の交叉点があるとして、少なくも誠実に「問題」を整理して訴えられているの
には、耳を貸す度量が必要だろうと思います。
同じような「嘆願」は都内や他県の図書館長からも個人的に繰り返し秦の方へメールや手紙が入っていました。ペンの姿勢
に対し関心はとても強く、なんとかうまく連帯したい、著作者と図書館とが敵対してはいけない、という考えで一致しています。
問題を訴えかけるなら、いきなり攻撃からでなく、図書館とその活動について具体的・数値的な把握が先ず前提に
なければならないと、秦は、言ってきました。明日十二日の言論表現委員会議が、そういう契機になればいいなと思います。西尾さんのメールをご本人の了解の
もとに、委員会宛、転送します。秦恒平
* お便りで、12日の日本ペンクラブ言論委のことを拝読、大慌てでこのメールをしたためています。
時間が無いので詳しくは書けませんが、私が日本ペンクラブ会員の方々に切望したいのは、まず「日本の図書館の歩みと現
在の状況を、よく知ってください」ということです。
ペンクラブ会員たる著述家の方々に図書館の歴史をなどというのは誠に不遜な言い方かもしれませんが、何世紀も前の図書
館の歴史のことを言っているのではないのです。
戦後、それも1960年代以降、東京の三多摩を中心に、燎原の火のごとく全国に広まった「市民の図書館」運動のことを
知っていただきたい、ということなのです。
それまでの保存・管理・良書主義の図書館を変革し、貸出しを中心にすえ、市民サービスを前面に押し出した「開
かれた図書館」・・・言葉を変えるなら、自ら考え自ら判断できる「市民」のための図書館へと大転換させるため、先人たちがどんなに血のにじむような努力を
積み重ねてきたか。
そうした歴史があって、現在の公共図書館の発展があるのだということを、まず分っていただきたいのです。
ベストセラーの貸出しや複本の購入、コピーサービスの問題などは、日本の公共図書館が、自らの発展過程で招きよせた
「乗り越えるべき壁」であろうと思います。
それまでは、読書家といわれる人々から「そんな本は個人で買うべきものだ」と言われていたベストセラーや実用書、ある
いはコミックやビデオ、CDといった視聴覚資料までも図書館で貸し出すことで、住民の方々は、
「ああ、図書館というのは身近なものだったんだ」
と感じ、その図書館の運営費は自分たちの税金でまかなわれていることに気付き、予約やリクエストを「自分たちの権利とし
て認識」してこられたのではないでしょうか。
今では、図書館が、地域の経済や産業の活性化のための「情報拠点」になったり、情報公開の場として市民・行政の両者に
対する「資料提供機関」として機能したり、あるいは「地域の情報を世界に発信」する場としても大きな期待を集めているのです。
また、それらにもまして、児童に対するサービスやヤングアダルト(かつてティーンエイジャーと呼ばれた世代)
に対するサービス、そして学校図書館との緊密な連携など、幼児から青少年まで、資料の提供(幼児・児童にあっては、読み聞かせやストーリーテリングなど言
語によるサービスも含めて)を通じた図書館の役割の広がりは、かつて見られなかったほど、大きな広がりを見せているのです。
だからベストセラーの貸出しや複本の購入はささいなこと・・とは決して申しません。「問題」は、市民の要求に応えるに
必要なベストセラーを購入することで、それ以外の大切な本を購入できなくなってしまう「貧しい図書費」にあるのです。
日本ペンクラブがお取りになった全国の公共図書館のアンケート結果の分析に期待しています。
恐らくそこには、満足な図書費もなく、司書を専門職としてきちんと配置していない「日本の図書館行政のおそまつな実
態」も浮き彫りにされることでしょう。
ロクに選書もできない図書館員が多い・・・そう嘆かれる「市民」の声があることを承知しています。しかし、民
間委託やら職員派遣やら自動貸出機やら、さまざまな合理化で図書館の発展を阻害し、「ロクに選書もできないような」状態に図書館を「放置しようとしている
力」があること、それに異議を唱えながら「民主主義の礎」としての図書館を守ろうと必死で戦っている現場職員もいることを識った上で(今、東京都立の3図
書館で起きている問題が恰好の事例ですが、皆さんはそれについてどの程度認識しておられるでしょう?)、「市民・国民の権利としての図書館」をどう守り、
どう育てていくのか、そういう視野にも立って是非ご提言いただきたいと思います。
どうか、まず、ご自分が暮らしておられる地域の図書館に出かけて、「一市民、一納税者として」利用してみてく
ださい。それが役に立たない図書館だったら、なぜ役に立たないのか・・例えば職員に専門職はいるのか、資料費はいくらあるのか、蔵書の収集方針や館の経営
方針はどうなっているのか、そうしたことを、館長や職員に質問してみてください。地元図書館協議会の委員になってでも、「改革のために提言」してくださ
い。
図書館が変わることで地域が変わる・・私はそう信じています。そう信じているから、図書館司書という職業を選んだので
す。
ところで、『季刊・本とコンピュータ』の2002年春号に浦安市立図書館の常世田良館長が「公共図書館は出版界の敵に
あらず」という一文を寄せています。
浦安市立の統計データをもとに、「図書館における書籍貸出が書店の売上を阻害する要因になっているのかどうかを検証」
したものです。
それによれば、浦安市立図書館では、 1
2001年中に受け入れた本が同年中に借りられた割合は16%で、「新刊」の貸出率よりもそれ以外の蔵書の貸出割合の方が高い。
2
浦安市の書店の店舗数は、浦安市立図書館の貸出点数が市民1人当りで日本一になった1983年以降も増加し、総売上額も、全国平均を大きく上回っている。
3
利用者アンケートによれば、「(図書館が存在しないとして)いま図書館で借りている本を購入しなければならなくなった場合、どの程度購入できるか?」とい
う問いに対し、平均で、いま借りている本の16.8%しか購入できないとの回答があった・・等々の結果が紹介されています。
また氏は、1971年からの「書籍の総販売点数」と、図書館における「総貸出点数」の推移をグラフで比較し、「両者の
間に因果関係は認められない」ことも指摘しています。 具体的な数字をあげて実証した、興味深い論考です。ぜひ、ご一読願えればと思います。
また、蛇足ながら、私が大修館書店の月刊誌『言語』の本年1月号に書いた「情報化と言葉の魔力」という拙文をご覧下さ
いますよう。
図書館の世界は、今、急速に変わっています。私たちにも予測の出来ないような猛スピードです。でも、不易流
行、変わらないものもあるということ、その部分を大切に考えるかどうかが、今後の図書館の運営の決め手になるのじゃないかということ・・そんなことを考察
した一文です。ご笑覧いただけましたら幸甚です。
この10月には、日本中から2,000名以上の関係者が集まる「全国図書館大会」が群馬県前橋市で開催されます。私も
著作権の分科会(今年初めて設けられる分科会です)に関わっております。
また同じ10月の下旬には、鳥取県で開催される国民文化祭の一環として、鳥取県の大山で、国民文化祭始まって以来の企
画という「出版文化展」が開催されます。「本の学校」や江藤淳さん肝入りの「文芸書専門店」で有名な米子市の今井書店・永井伸和社長が仕掛け人です。
こういったさまざまな機会に、日本ペンクラブの方々と図書館員(そして出版流通に関わるすべての人々)との話し合いの
場を設定していけたらいいなと思っています。
* 一読して、言論表現委員会やペン会員の中で関心の高い、海外の「公貸権」など、著作者の権益保護に関
連した対応等への言及がすっぽり抜けている。これでは、意見がすれちがう一方になる。その点は此処に指摘しておきたい。それでも西尾さんの意見や感想は理
解する。触れられた自稿を此処へ転写は出来ないが、論点の中に興味深いところのあるのを一部紹介させてもらおう。
* 西尾さんはこんな事を書かれている。「技術革新による情報化の波を受けて、いま図書館の世界も急激に変化し
ている。コンピューターの導入によって、書名や著者名の一部からでも、まるでピンポイント攻撃のように、めざす資料を探し出せるようになった。もし目的の
資料がその図書館にない場合は、図書館同士のネットワークによって所蔵館を見つけることも容易だ。インターネットを利用して、家庭のパソコンから図書館の
蔵書にアクセスすることも可能になった。2、3年後に商品化されるだろうといわれている「電子ペーパー」は、さらに図書館の世界を変えてしまうかもしれな
い。なにしろ、1枚の電子ペーパーがあれば、書籍や雑誌の内容を必要な分だけ入力コピーして手軽に持ち運ぶことができるのだ。しかも、何度でも書き換えが
可能だというのだから、極端な話、電子ペーパーを利用して資料の提供をすれば、何万冊、何十万冊もの本を収蔵するためのスペースも不要になる。遠くない将
来、図書館にはサーバー機だけが設置されていて、図書館員は「情報」を管理・配信するだけ。「貸出」ならぬ「配信」資料の返却期限が来ると自動的にペー
パー上の情報が消去されて、延滞の心配もなし……などという光景が出現するかもしれない。文字を発明することで人間は言葉の魔力を失ってしまったといわれ
るが、電子の紙の発明によって、今度は文字の文化や読書の在りようも大きく変貌するのであろうか。
それはともかく、図書館の蔵書目録が電子化されることで、利用者は本の森に迷うことがなくなった。忙しい現代人にとって、もちろんそれは便利なことでは
ある。でも便利なことが、果たして人生にとって本当に幸せなことかどうかは疑問だ」と。
これはもう、わたしが委員長の電子メディア委員会の課題。関連議題になる。著作権者へも大層深刻に影響してくることで、とても見過ごしには出来ない。
議論が深まることも大切だし、国の文化行政をしっかり監視し、刺激し、働きかけ続けることがもっと必要だろう。協力の
しどころでは無かろうか。
* 四月十一日 つづき
* 鳥取市民図書館司書の西尾肇氏から、追加のメールが来ていた。(届いたのは十三日朝で、十二日の夜に書いてい
た私の私語はまだ読んでいない時点のものなので、経時性を保つべく、十三日夜の時点で、そのままここへ挿入する。)
大事な指摘を含んでいるし、問題視を避けられない情報も含まれている。著作者の一人として、当面、図書館側の
立場からの声には耳を傾けておきたい。読まれる方にも図書館は疎遠な存在ではないはずで、それぞれの意見を持って欲しいと思う。いずれは世論に問わねばな
らなくなる。
*
ホームページ拝見しました。補足説明を入れていただいてありがとうございました。 おっしゃるように、感情的になるあまり、公貸権の問題について触れるの
を忘れてしまっていました。
あわせて、図書館における複写サービスの問題もあろうかと思います。(横浜市立図書館で行っている著作権法第
30条を根拠とした複写サービスの問題です。公立図書館では法第31条で図書館資料の複写が認められているのですが、横浜市立ではそれ以外に、館内の別の
複写機で法30条にのっとった私的なコピーも許可しており、複写権センターや図書館界で問題になっています。複写権センターでは全国の図書館からコピーに
対する補償金要求の動きもあるようです。)
私個人は、公立図書館で購入する資料について出版社や著作者へ補償金を支払ったり、特定分野の本については貸
出猶予期間を設けるといった方策に全面的に反対するものではありません。日本の公立図書館や図書館行政がもっと成熟してきたら、著作者の団体あるいは出
版・流通業界の方々と共同で合理的なシステム作りを進めていくべき問題だと考えています。
しかし、現時点で公貸権の制度を導入したら、現場はもちろん混乱するでしょうし、日本の文化にとっても得策と
は思えません。例えば、自治体の財政当局が公貸権の本来の意義を理解してくれなければ、結局、現在の図書費の中で補償金を処理することになって、図書費が
目減りするだけになるのではないでしょうか。
確かフランスでは、図書館で購入する資料について国が補償金の一部を交付するようなシステムになっていたよう
に記憶します。このように、国をあげて人権としての学習権(あるいは「知る権利」)や文化を保護・育成していくシステムや意識が醸成されていなければ、結
局、損をするのは納税者である住民自身ということになるのではないでしょうか。 また現実問題として、補償金を支払ったり、貸出期間を猶予することで得を
されるのは一体誰なのでしょう。
全国の図書館から集めた補償金の「分配」システムは、どのように構築されるおつもりでしょう。
もし、図書館で何冊も複本を購入するようなベストセラー作家、あるいは年間の貸出が何百回にもなるベストセ
ラー出版社にだけ利益が傾斜するとしたら、不公平感を増大するだけではないでしょうか。ましてや、ただでさえ儲かっている人のところへさらに補償金が積み
上げられるというのは、私は納得いかないのですが・・。
むしろ、採算度外視で出版活動を行っていらっしゃる方々(著者も編集者も)は、補償金や貸出猶予よりも、1日でも早
く、1人でも多くの人に、その著作を読んでもらいたいと考えられるのではないのでしょうか?
公貸権制度導入によって、図書館で購入できる本が減ったり、情報が滞るようなことがあったら(特に、身近に書店もない
ような地域では)、出版文化にとって本末転倒の事態ではないかと思うのですが。
まず、手を携えて意識と環境の整備から、というのが私の持論です。
以上のこと、秦さんのホームページに追加していただけるとありがたいです。なお私の肩書きは「鳥取市民図書館
司書」というふうにご紹介願えましたら幸いです。所属団体は、図書館問題研究会のほかに、日本図書館協会や日本図書館研究会、児童図書館研究会等の会員で
もあります。たくさんの会に所属しているからどうということもありませんが、図書館員の職能団体にもたくさんの会があるということのご参考までに・・。
西尾 肇
* 何をしているとこう一日が早く過ぎてゆくのだろう。気がつくと夜になっている。京都から若筍がたくさん贈ら
れてきた。おきまり、若布と煮て、筍飯にして。荷にした竹籠まで新鮮な香り。ありがたい。血糖値も上がる心配がない。今晩は日比谷でのパーティーに出る気
でいたが、出れば酒を飲みたいし、飲まない方が佳いに決まっている。そこへ筍だ、健康にかこつけて欠席した。おかげで新聞原稿の校正もできた。
* こんどは「住吉物語」を読み始めた。改作物語である。原作は「落窪物語」の頃に出来ていたから、継子 イジメ物語の双璧であったろう、だが、原作の「住吉物語」は今では散逸して、後代の改作が残っている。改作されたのがいつ頃かという判断はかなりの幅で学 者の間でも意見が分かれている。ある時期には原作と改作とが併存していた可能性もあり、出は何故原作と別に改作が現れたかというのも問題になる。詮索は専 門家に任せるが、とても人気の高い物語であったからこそ、これは江戸時代頃になってなお絵入りものなども出来ている。ともあれ、王朝古典の中でも一二かと 思うほど本文が、分かりやすく読みやすい。すいすい行ってしまいそうだ。要するに継母が娘の婚姻をさんざん妨害するはなしであり、結末は暗くないはずだ。
* その一方で、宮沢賢治、葉山嘉樹、有島武郎という毛色の異なる三人の作品を読み始めた。葉山嘉樹はプ ロレタリヤ文学の中でも傑出して才能に恵まれた佳い作家の一人である。小林多喜二と葉山とは、近代文学のその方面では欠かせない質の高い文学作家であっ た。その中でも佳い短編を「招待席」に招きたい。宮沢賢治と有島武郎のことは言うまでもない。
* 湖の本を支えてもらっている、川柳作者で、大学の先生でもある速川美竹氏から、俳句・短歌・川柳という「国際
化した日本の短詩」を編んだ一冊を頂戴した。
* 四月十二日 金
* 午後おそめから、乃木坂へ。ペン事務局に寄ってから、今日は近くの陽光ホテルへ。会議室を借りての言
論表現委員会。全国公立図書館へのアンケートに予想を超えて綿密な回答が集まり、それらを資料に整理した上で、今日は、新潮社と講談社の販売等の役員や責
任者を招き、図書館問題の初協議。ただし一時間余。意見交換は、ま、それなりに出来たと思う。出版者の口からいきなり「図書館は無料貸本屋」といった口走
りが出たのには、窘めざるをえなかった。そういう発想からはじまるのは困る。
大手の出版十数社では、図書館の貸出状況の詳細な情報公開を求める予定だという。或る程度の情報公開は望まし
い、が、図書館に対して求める以上は、出版者も、場合により「損害」を口にする著作者にも同じことが必要だろうが、出来るのか。わたしなど労働の現場で働
いてきた者は、事務現場の作業量や人員不足をすぐ考えるので、厖大な調査の必要な情報公開を求められる司書や事務員たちは途方に暮れるだろうなと、つい
思ってしまう。今度のアンケートも、よくこれだけ書いてくれたと感謝したいし、精読したい。凄いほどの量である。
* まだお互いに決めつけ合いの気味が、発言の口つきに見えるものの、図書館と著作者とには、連帯と協調をさぐる
雰囲気が出てきたと想える、いいことだ。根気よく、喧嘩腰にならずに理解し合いたいが、まだ、論調には大差がある。
正直なところわたし個人は、多くの図書館からの回答や感想や意見に聴くべき事が多いと感じている。図書館にはそれなり
の「歴史」がある。その点、著作者が著作権をしきりに口にしはじめたのは、いわばまだ昨日今日のことで、かなり意見が青い。
二十年三十年も前の原稿料でまかり通っている出版社に対して、印税率もとかくして引き下げ傾向の出版主導に対
して、出版契約で著作者にかなりの不利を求めてくる出版慣行に対して、著作者たちが、協同で、なにか権益保全を働きかけたということが一度でもあったろう
か。公貸権についても、そんな言葉すら知らない物書きが圧倒的に多く、じつは、我々関係の委員にしても、イギリス等のそれらについて識ったのは、ついつい
この間のことで、コンセンサスをはかるだけの周知努力もしていないし、具体的正確な知識も、知識に対応した具体案もまだ持ってはいない。その権利制度が日
本事情と、どうフィットするのか、つめて考え出すには、あまりにも我々が図書館の戦後史や今の実状に暗すぎることだけが、実にハッキリしたアンケートだっ
たと、わたしは読んでいる。
一方、著作権を、図書館によって物書きが「危機」的に侵されているとは、圧倒的大多数の物書きは考えていない
はずだ。少数の物書きが感じている危機的苦痛を無視できないが、諸分けを正してやらないと、あれもこれもいっしょくたの議論になってしまう。数字を操る際
に、マクロとミクロとの数字の質差を無視して、我が田に水をひいて都合良く使い分けてしまうのは、正しい議論にならない。ペンや文藝家協会の各二千人の会
員のうち、図書館で困惑している物書きがどれほど存在するのか、その辺の情報公開を求められたら、どうなるのだろう。
出版社からの最初の発言は、図書館による「大変な、壊滅的な被害の危機」があるとのことだったが、「実態」を
情報公開して貰いたいなとわたしは感じた。「危機」という言葉の出てきかたが安易すぎる。交通事故を起こした同士が、先に大声で怒鳴らないと不利というの
に似たような「危機」発言を急ぎすぎないで欲しい、実りある話し合いや協力の前提のためにも。
出版者は売れる本が売れなくなっていて危機だというが、本当かどうか、情報公開して欲しい。図書館は、貸し出
しこそが図書館活動で、それに掣肘を加えられては危機的だと思いすぎないで欲しい、著作者はただ金銭欲でものを言うのでなく、著作権のありようを正した
い、分かってほしいと思っている。著作者も、あまり性急に高飛車になりすぎないことだ。やりすぎると愚かしく見える。
今日の話し合いに加わりながら、女性は独身(かな?)俵万智一人で、あとは、いい年の男ばかり。そこで、わた
しは想っていた。銘々の家に帰って、妻子とこの点で意見交換した場合、「無料貸本屋」呼ばわりする出版人の家庭でも、多数決で現行の図書館活動にイエスを
唱えるのではないかなあと。
図書館というのは、うまく使うととてもいいものなのだ、市民には。その便益の歴史にむきだしで抵抗するのなら、よほど
の理論武装が必要だが、それにはまだ用意が足りなさすぎる。わたしは、そう見ている。
わたし個人は、図書館で迷惑していない物書きに属するだろう。こればかりは、わたしが例外的希少派ではなかろ
う。そんな自分のことだけを言うてもという叱責があるだろうか。しかし、自分レベルから問題は提起されていたように感じている。それでよい。なら、物書き
がみな一人一人自分レベルの意見を開陳するか。物書きも情報公開をとなると、つまりは、そうなるだろう。
* ひき続いて、梓澤弁護士委員から「人権擁護法」のレクチュアを聴いた。これは前回田島教授委員からも 聴いた。審議委員会にアンケートを出す用意が出来ていた。国会はお構いなしに可決させる構えだ。今になって日弁連が反対姿勢に転じたが、梓澤氏らごく少数 の最初の頃の悪戦苦闘はたいへんだった、敬意を表する。それにしても今更では遅すぎないか。日弁連が、当初政府与党と一体の法案推進姿勢であったことは、 今も苦々しい。利敵行為もいいところだった。
* こんな美しげな名前の法案で、ごまかしごまかし「悪法」を通し続けてゆく趨勢にたいし、全て、日本の 法律は、その頭に「国民による、国民のための」という角書きを附けねばならないという国民運動の先頭に法曹界は立って欲しいものだと望んでみたが、専門家 は、こういう素人の発想にはてんでメモくれない。木を見てばかりいるのだから、無理もないが、存外素人は山を見て木のためのことを考える。「国民による、 国民のための=日本国憲法」ではなかったか。それすら危なくなっている。真っ先に「憲法」からその角書きを附けたいものだ。「個人情報保護法」「人権擁護 法」こんな美しい名前で騙されてゆくのだ、名は、体を、裏切り続けている。それに勝てないのなら、勝つための方法としても、「国民による、国民のための= 個人情報保護法」「国民による、国民のための=人権擁護法」になっているかどうか、なつていないではないかと、「抵抗の拠点」が持てるではないか。できる ことをやらなければ、官憲や政権の国民支配の野望をどうして突き崩せるだろう。
* 千代田線で乃木坂に通うのもそろそろ最後に近い。やがて引っ越して、ペン事務局は兜町に移る。その千
代田線で日比谷へ出て、クラブで、バーボンとブランデーをむろんストレートで飲みながら、今日の、図書館アンケートをかなりの分量読んだ。これは事務局の
手間も大変だったろう。このままホームページには無理である、転換ミスや誤記が夥しいから。
クラブのおかげで、かなり気分もくつろいで、ゆっくり家に帰れたが、帰ったら忽ちいろんなメールやファックスの処理に
追いまくられて、もう、やがて午前二時になる。フウー。あと、もう少し。
* 四月十三日 土
* 昨夜は二時半まで、いろいろと仕事があった。それから床につき、バグワンを読んで、次ぎに「住吉物
語」の下巻に入ったが、どんどん読んで、読み上げてしまった。こんなに読みやすい古典は珍しい。なぜだろうと思ううち、学問的に謂われている改作物語と
は、原作の「現代語訳」に近い性質のものではないかと思い当たった。
十世紀の半ばに書かれていた原作が、通説に従えば鎌倉時代に改作されたとすると、少なくも三百年近く経っている。
我々現代の人間は、古文をたいてい苦手にしていながら、いわゆる古文で書かれていたおよそ千年間の昔人たち
は、みな同様にすらすら古文は読めていた、同じように書いていたと思い込みがちだが、そんなバカげたことがあるわけがない。当節の人が、すでにして露伴も
一葉も読めない。文語は読めないと謂うが、そうでない読みやすい鴎外や漱石ですらそろそろ苦手にしている始末で、三百年とは行かない上田秋成の「雨月」や
「春雨」も読みわずらうどころか、英語より難しいという学生もざらである。
とすれば、古今集の後ぐらいに出ていた「原作住吉物語」が鎌倉時代に現代語訳的な「改作」を望まれても自然だろう。こ
の読みやすさは現代語訳に通有の読みやすさではないかと思った。これ、或いは「発見」かも知れない。
* 「住吉物語」は「落窪物語」より淡泊であり、継母とそれに同心するえげつなく凄い悪女の二人だけが表
立った悪役で、その母の二人の娘は気だてよく、母にいじめられて住吉へかろうじて逃れていった異腹の姉姫を慕い愛し、ヒロインの姉姫も妹たちを純粋に愛し
て、末々まで面倒を見たようである。実の娘達にも夫にも疎まれて死んだ継母をも、この姫が後生を弔っている。その辺が、落窪とはかなり違う。落窪の継母も
その娘たちも、ヒロインをひどくいじめるし、同調する悪役も続出するので読んでいてハラハラした。そこがスリリングであり、聡明な落窪とその恋人、また忠
義者の侍女夫婦らの、心をあわせた闘いぶりも面白い。復讐すらも面白い。よくもあしくもアケスケにぶちまいているのが落窪の長であり、住吉ははるかに品が
いい。あっさりと淡彩の美しさで、しかも都を離れた住吉という海浜の名所を使っているので、変化もめざましい。この辺が人気物語の大きな売りであったにち
がいなく、改作の実現した理由であろう。その点落窪は、まさに落窪に軟禁状態のなかで闘う姫である。
次は、やはり改作物語の「とりかへばや」を読む。何とも言えず心嬉しい、古典世界へしずかに心身を解き放っていると。
* 「懸想猿」正編では、フランソワ・トリュフォーの「隣の女」という映画を思い出しました。
小説を書くためのシナリオ修行だったというこの作品を読んで、劇・映画のためのシナリオと、小説の違いを、なんとなく
感じました。ですから、「懸想猿」にあった「小説を書くといい」という講評は、さもありなん、です。
先日、たらの芽のてんぷらを食べました。やわらかくておいしいこと!近所のおばさんが、採れたてを両掌いっぱいに持っ
て来てくれたのだそうです。
春は、あと、ふきのとうもたのしみです。どこかから戴けるのをあてにして、ですが。
家の前の土手を臨めば、左にソメイヨシノ、右に花桃が、路に沿ってずらっと並んでいます。ソメイヨシノはすっかり散っ
てしまいましたが、花桃は、濃い色の花弁をつけて、まだ頑張っています。
東京の劇場へは遠いけれど、山の暮らしもなかなかです。
ころころと気温の差の激しい毎日ですが、風邪など引かぬよう、お気をつけください。
* 庭といえるほどの庭ではないが、横長に二軒続きの細長いところに、もさもさと木や草が生えていて、い
ちばん大きくなっているのが、西(イリ)の、桃の木。食べた種を放り込んで置いたのが芽を吹いて、どんどん、という程ではないが小屋根より随分上へ行って
いる。お隣へも枝をはるのが気兼ねである。けっこう、という程でもないが、花をつける。先に育っていた木蓮より大きくなっている。
わたしたちは東の棟に暮らしているが、こっちの細長い庭には細長い書庫が建っていて、庭はその屋上。昔帝国ホ
テルの総支配人をしていた読者から、よく歳暮にもらっていた盆栽の梅なども、面倒が見続けられないので、日当たりのする此処の土へおろしてしまい、大きく
はならないが根付いて、季節には満開の花を咲かせる。
今は色とりどりのチューリツプなどがいっぱい咲いて、雪柳も。金雀児はあまりはびこったので抜いた。狭い幅の
細長い屋上庭園で、足元をふさいで危なくもあるので。とにもかくにも半端な庭だが、季節ごとに、ちょっとカメラを持ちたくなることもある。だが、わたし
は、たいていそれも忘却している。
* 左利きの私は、鎌が嫌い。右で持っても要領が掴めず、左でなんとかやってみてもどうにもならず、その
うち指をざっくり切ってオシマイ。ハサミ、包丁、ナイフ、カッター、彫刻刀…刃物で、気分良く何かをしおおせた記憶がありません。ストレスとケガだけ。脳
が反転しそうになります。
あの(懸想猿の信一の)ように振り回して、物を切って。どんな手応えと、気持ちがするでしょう。
鎌…鎌首への連想?
* 丹波に疎開して一番に心をとらえて手に持ち、変身したように感じたのは「鎌」であった。山村の農家に は鎌も鉈も常備されていた。鉈は重く、鎌はかたちにも惹かれた。鎌首への連想があったかというこの読者の推察は厳しい。わたしの初期作品のなかで凶器にな るのは、鎌か鉈か、蛇だから。
* 黄砂を含んだ春の雨が降っています。汚染された物質が飛来しているらしいとのニュースに、恵みの雨が生物に影
響を及ぼしはしないかと、そんな心配をしています。
お昼時の時計代わりにしているテレビで、新ドラマの紹介を、出演者がしていたことを思い出して「ビッグマネー」を見て
いました。植木等さんの演技に最後まで惹きつけられたまま。建日子さんの脚本だったのですね。(秦注=これは、知らない。)
幼児虐待・性的虐待・不倫・夫婦間の愛憎殺人・いじめ・捨て子・近親相姦…。ここ数年の、いとも簡単に命を奪ってしまうニュースのなんと多いことでしょ
う。三十八年も前に書かれた作品「懸想猿」だというのに、このシナリオには、現代の病む部分が凝縮されている気がして、とても怖いです。
愛情の欠落?…、欲しても得られぬものならば拒絶?…、トラウマは?…。
頭の中で映像化してみようと試みても、顔が浮かんできません。「慈子(あつこ)」であれば、この配役はあの人に、などと思い描くことができますのに。
なんだか取りとめなく書いてしまい、申しわけございません。あまりに重くて、うまく言えないのが情けないです。日を置
いて再読、再々読すればもう少し要領を得ることができるかも知れませんけれど、続けては辛いです。ごめんなさい。
* NHKの昼下がりに「ホームズ」をやっていますが、本でも映像でも、いつだって、最後の種明かしで、
「あぁ?!
もいっぺん最初から見なくちゃ」。おマヌケな、私。
丹波、もらひ子、早春の3部作を読んだときに、あぁ、なるほど、と思いましたが、今回のお作を読んだときより、ずっと
ずっと、おキラクな気持ちだったこと、白状します。これまでのご本を読み返したくなる力がとても強い「懸想猿」。読後、一番に「少女」を思いました。
辻村寿三郎に長年惚れている友人が、「仏サマを創り出した頃は、心配でたまらなかったけど、そのあと『源氏物語』に
行ったのでほっとした」と言います。今回のご本。彼女と同じ気持ちになれそう。
* 「少女」は、「懸想猿」より前に会社の組合新聞か何かに言われて書いたものの、出さずに終って置いた
処女短編。きみのわるい老犬と、その老犬と気の合うらしいきみのわるい少女に引き込まれる、平凡なサラリーマンを書いている。シナリオを処女作とあえて銘
打っているが、それより以前に兵役忌避を書いた「折臂翁の死」「少女」そして「祇園の子」などがある。「折臂翁の死」も、同じ丹波の風土を舞台に想像して
いた。ここで「鎌」を使った。「清経入水」にも「四度の瀧」の中でも、同じ丹波を舞台にした。
永井龍男先生に、「祇園の子」のような作品を二十ほども書けばすばらしい、と言われていた。が、わたしは、そ
の方向へ行かずに、「懸想猿」でシナリオを卒業後、「身内」観の追究と「絵空事の真実味」を追い、「畜生塚」「慈子」「或る雲隠れ考」「蝶の皿」そして太
宰賞を招き寄せた「清経入水」へ奔走していった。「廬山」へ必死で登ってかなり鎮められたように思われる。
* セヴィーリヤより すっかりご無沙汰しております。3月は、こちらではかなり大きなお祭りがあり、面白かっ
た反面観光客が多過ぎてまともな生活ができず、苦労をしました。そんなお祭りもやっと終わり、今は普通の生活に戻っています。
今はとりあえずスペイン語の勉強と料理の勉強をしています。スペインの料理は日本人の口にも合うものが多く、なかなか
面白いです。まぁ、なんとか精神だけは平常に保って生活しています。
日記の方も続いており、もう少しで300ページになりそうです。まだ先生にお見せできるような段階ではないですが。
そちらはいかがですか。最近は異常気象で桜もかなり早く咲いてしまったとか。くれぐれもお身体にはお気を付けて下さ
い。それでは。
* 四月十三日 つづき
* 鳥取市民図書館司書の西尾肇氏から、図書館問題に追加した意見が届いていたが、それは、十二日の言論 表現委員会にふれて書いたわたしの「私語」を読む以前に書いて送られていたので、四月十一日「つづき」の項に書き入れた。経時経過という点からそうした。 わたしの昨夜の「私語」を読んでさらにまたメールが届いた。本日のメールは、12日夜の秦さんの「私語」を読む前に書いたものです。メールを書いたあとで 「私語」を開き、自分の思いを「100%代弁していただいた思いで、感激いたしました」とあり、「著作権という権利そのものへの理解」が、関係者ですら、 まして世間一般では「今だし、というのがわが国の現状です。ようやく機能を始めた複写権の集中処理機構の進展もきちんと見据えながら、著作権に対する認識 が、あらゆる人々の間で日常的なものになるよう、関係機関が手を携えていきたいものです。全国の図書館からのアンケート、きちんと読んでくださってありが とうございます」とも。
* アンケートの分析は、量的にも質的にも容易ではなく、貴重な資料の持ち腐れになるかもしれない、むしろあの資 料は図書館側へぜひフィードバックして参照して貰うべきではないか。早くペンクラブのホームページに公開したいが、誤植の訂正が先ず必要だ。
* ハリソン・フォードとアン・アーチャーがジャック・ライアン夫妻を演じるシリーズの「今ここにある危
機」をビデオで楽しんだ。何度か見ているが、てきぱきとした運びで見せる映画になっている。それにくらべると今夜テレビが流した「TAXI2」は、第一作
に比べて退屈な失敗作であった。第一作はめざましくも面白く、ラストは抜群であったのに。
* 宮沢賢治の詩集「春と修羅」から掉尾の二作と、「手帳」に書き留められていた遺作を数編、「招待席」のために起稿し
た。葉山嘉樹短編の代表作「淫売婦」はスキャンした。二つとも云うこと無しの作品である。
* お送りくださった「懸想猿」拝読 cinema noir の台本として興味ふかく読ましていただきました。暗く熱い情念といい、母恋いの妄執といい、ここには確かに大兄の処女作というしかないものがあります。そ の後の作家秦恒平の成熟の胚種が歴然とうかがえるようです。「小説を書きなさい」と評したという城戸四郎の批評眼の確かさに感服しました。御礼まで。
* 今回の「湖の本」には、こういう文学のプロからのハガキや手紙での丁寧な言及が多く、ことに城戸四郎 氏や岸松雄氏の期せずして口をそろえて「小説を」と勧められた「批評眼」「慧眼」に共感し同感した内容が多い。シナリオとしては問題があった、足りなかっ たというだけの事とも言えるが、わたしはとても励まされた。
* もう少し一般の読者にはどうであろう、読みにくいと云うよりも、凄惨な思いを強いられた人が多いかも知れな
い。
* 四月十四日 日
* このホームページは、平成十年三月下旬に、田中孝介君の手で、丁寧にまた手早く基本の形がつくられて、直ぐ稼
働しはじめた。「闇に言い置く
私語の刻」はすぐ書き始められている。表紙は、咄嗟にこの繪でと頼み、田中君はわたしの望むままに美しい表紙をつくってくれた。城景都氏の名作原画がよく
映えて嬉しかった。
それ以来、増頁というかたちで、内容が飛躍的に増殖した。「e-文庫・湖」も加わった。そのつど、田中君もも
とより、林丈雄君や布谷智君の莫大な智慧と手も拝借した。いまの機械は布谷君が秋葉原電気街を奔走して手作りしてくれた、大きなデスクトップ型である。こ
れにノートパソコンがネットワークで繋いである。
あまりにファイルが淡泊な形のママ大きく増えたので、或る意味では使いにくくもなっているという意見も聴い
た。加藤弘一氏が基礎設計された日本ペンクラブの「電子文藝館」は、検索目次がうまく出来ていて、あれらを見ていると、わたしのホームページも、わたし一
人のコケの一念だけでなく、アクセスして下さる人達のためにも親しみやすく便利なものである方がいいに決まっている。さしあたり、「e-文庫・湖」を文藝
館タイプに組み立て直したいが、その前に、表紙と目次とを作り直して、新味を、と思い始めた。
保谷駅の近くにできて、たまたま顔なじみになった喫茶店主が、もともとプログラマーであったのが今はドロップ
アウトして、喫茶店という、より志の深い珈琲の焙煎に打ち込んでいる。この若い森中さんとしたしくなるにつれて、彼の方で自発的にわたしのホームページの
リニューアルに取り組んでくれ始めていた。
まだ「e-文庫・湖」まで行かない。やっと今日、表紙と目次の辺を、家に来て付け替えてくれたのである。御覧
の通りである。これから「e-文庫・湖」を考えてもらえると有り難いし、じつは、いちばん読者も多く、また内容がフンダンなためにもっと検索が便利になる
といろいろに使えるのにと言われている、「生活と意見 私語の刻」にも改良を図りたいのが本音である。いつまでかかるか分からないが、とにかくも、表紙は
基本は替えずに表情をあらたにした。
森中さんに心より御礼申し上げる。またあらためて田中君、林君、布谷君ら東工大出の諸君にも感謝を捧げる。
* 真ん中の余白が気になるので、自作の歌一首を入れてみた。
しかすがに寂びしきものを夕やけのそらにむかひて山下りにけり 十七歳
うつつあらぬ何の想ひに耳の底の鳥はここだも鳴きしきるらむ 二十六歳
この、どちらにしようかと迷った。小説が書きたくて堪らなくなっていた頃の、後の方にした。
* 千葉の勝田さんに創って戴いた作品年表の第一ファイルを、森中さんに見せたら、なんだか知れずチャッ チャッと、作品年表の第一頁に入れてくれた。早業でわたしは目を回していたから、何がなんだか分からないが、マイクロソフトエクスプローラで開いてみた ら、表が入っていた。ゆっくり点検し、納得がいったら第十二ファイルまで年表があるので、まずファイル数の増頁をしておいてから、先の早業を習って、容れ てゆきたい。この作業も落ち着けば、とても有り難いものになる、少なくもわたしの記録としては。
* 私自身が新しい構成に慣れる必要がある。また卒業生の諸君から助言も得て、さらに佳い感じに育ててゆきたい。
* 福岡からの初便り 暖かいでしょ暑いだろと、遠く離れた仲間たちには言われています。が、思ったより冷え込
みはきつく、天気もころころ変わります。
逆に、新しく知り合った人たちは、新潟って寒いよね、まだ雪があるの、と。「新潟出身です」の一言でずいぶん覚えても
らったから、トクといえばトクな立場です。あまり気負わず、ゆっくり大学に馴れていこうと思っています。
「懸想猿」ありがとうございました。顔を歪めながら、ぐんぐん惹き込まれました。
今は「蘇我殿幻想」をひさびさに、こちらも惹き込まれています。秦さんの作品を「麻薬」と表現した人がいたそうです
ね。同感です。
福岡に着いて間もなく、「元気に老い、自然に死ぬ」を買って読みました。山折哲雄の文章は一度読んだことがあ
ります、受験国語の問題文として。なかなか読み応えのある印象だったのですが…この対談、山折氏が何を言いたいんだか、よくわかりませんでした。秦さんの
ほうは論旨がはっきりしていて、とてもおもしろかったのに。
特に忙しいというのでなく、新しい生活に落ち着いていないだけなのですが、落ち着かないなりにどうにかやっています。
身体は元気そのものです。
「生活と意見」、おもしろく、またとても勉強になっています。毎日覗くのが楽しみです。お忙しいようですが、迪子さん
ともども、お身体を大切にしてください。
* ようしと、わたしは一声入れた。気象情報でも分かるように、九州は、日本列島のお天気の入り口でもあ
る。九州から始まっていろんな情報が東へ北へと運ばれてきたのが日本の歴史だ。たとえば「竹」がそうだ。竹は民衆の工芸の木とならんで大とも取らない工芸
素材であったが、植物としての竹も、竹の手芸も、九州の南の方から北上してきたのである。わたしの年少のこの友人が、あわてず騒がず北九州の学窓から何を
睨んで何を発信してくるか、落ち着いて楽しみに待ちたい。彼が大きくなるまで生きていたいとよく思う。
* 四月十五日 月
* 葉山嘉樹の「淫売婦」を初校した。「セメント樽の中の手紙」というごく短い衝撃に満ちた短編があるが、「淫売 婦」はさらに腰を据えた力作で、どこかシュールなリアリティーをもっている。一読忘れがたい訴求力に満ちている。
* 新たに読み始めた「とりかへばや物語」は刺激的な設定でありながら、おそらくは「新しい女」創造への
意欲すら秘めた、時代の批評を示していそうに思われる。二人の異腹の兄と妹が、兄は姫君として育ち、妹は若君として育ってゆき、若君は女の身でありながら
官界で栄達し妻ももつ。姫君として育った男君にも波瀾の日々が訪れくる。
日本の物語は、あまりにも源氏物語に被われているものの、優れて面白い問題作が他にもいろいろ在る。
「竹取物語」「伊勢物語」を先駆に、「うつほ物語」「落窪物語」「住吉物語」「夜の寝覚」「浜松中納言物語」
「狭衣物語」また「松浦宮物語」「堤中納言物語」やこの「とりかへばや物語」など、ともあれ面白い物語が数ある。早い時期の「平中物語」なども異色を帯び
ている。そして中世にもけっこうの数の物語があって、スローダウンして行く。
近代の選りすぐりの秀作と併行してこういう王朝物語にしみじみと日々に触れていると、とても贅沢な世界が身近にあるこ
とが嬉しくなる。
永田町のあれやこれやの暴露合戦など戦記物にもならぬくだらなさで、ウンザリだ。だが、やがて政治家の悪徳不
正スキャンダルの暴露取材にかぎって防御的に取り締まれる悪法律が国会で成立してしまう。作家達のデモ行進など、遅すぎた。声明を出してさえいれば何かし
ているような錯覚から、ないし言い訳から抜け出して、早い段階で街頭に出るなり躰を動かす運動をしないといけないだろうと何度か提案したこともあるが、も
う目の前で国会通過成立が見越された段階での声や行動は、じれったいが、遅すぎる。
その点で、陶中国外相が訪中の古賀代議士に機先を制して靖国参拝に釘を刺したのは、あっぱれな素早さである。
日本でも希望を伝えて置いたとおりに、木島始さん達のグループが動き出されている。できれば、三人の有志の声でとどめずに大きな声と行動の輪にする努力が
ほしい。宇治川の先陣争いのようなことで済んでは、大きな戦力にならない。
* 運動が大の苦手なのに、小学生の頃、ドッジボールで、どうしたわけか、一人生き残ったことがあります。取れそ
うにもない男の子のボールを、正面から受けて、落球。ゲームセット。
いつか、「まだ、書かない」とおっしゃるモティーフが形をとって示されたとき、その質量と重さを受け止める、精力も、
知性も、私にはないでしょう。それでも、秦さんから、手がしびれて取り落とすほどのボールが放られるのを待っています。
* ありがたい。だが、二十三十代、四十代、五十代。人はそれぞれの過程で器量に応じた必然の生を生きた
り表現したりする。ゆるやかな融通性も持ち合わせながら、人生はほぼ不可逆的に流れている。「夜明け前」を書こうという藤村に「若菜集」を望むのは筋がち
がう。質は通っても表現の姿勢がちがっている。「渋江抽斎」の鴎外に「舞姫」を望むのも、「幻談」の露伴に「一口剣」を望むのも自然でない。例外的に「瘋
癲老人日記」で最晩年の谷崎潤一郎には、ほぼ処女作「刺青」と畳み合えるものがあった。「たんぽぽ」の川端康成はどうであったろう。
ともあれ、「いま・ここ」での「いろんなこと」をわたしは真っ直ぐ迎え入れ、楽しんで自分の一生を過ごした
い。書いたものを、どう人が、読者が、受け取られるかは、その人たちに任せたい。「人のため」に書きたいと書いてはこなかった。「人のため」になりなさい
と教えた昔の倫理に、わたしはとうに背き果てている。「懸想猿」の頃に、作家になれるかどうかは、極めて前途不透明だった。太宰治賞が向こうから飛び込む
なんて夢にも思わなかった。賞を受けたときでも、筆一本でいつか立てるかどうか、よく分からなかった。わりとあざやかに二足の草鞋を脱いだとき、むろん
「湖の本」を予測もしなかった。東工大教授を頼まれるとも夢にも思わなかった。そして「ホームページ」や「電子文藝館」などインターネットでこのわたしが
活動するなどとも。そもそもわたしが京都という街から離れて暮らせるとは親たちも信じなかったし、多くの友人達も信じなかったものだ。だが。みな実現して
きたことだ。なら、この先にどんな展開があるか、わたしにも分からないのである。だから楽しめるのである、毎日が。「元気に老い、自然に死ぬ」と山折哲雄
さんと話し合ったのは、つい先頃だ。どうなって行くか、分からない。それがいい。六十六。いま一編の名作か、灼熱畢生の恋か、となれば、さあ、さあ、さ
あ。さあ、どっちだ。決まっていると簡単には言えないが、鏡を、見なくても、我ながら苦笑は禁じがたい。名作は独りで書ける。恋も独りでできるが、見よい
ものではない。ゲーテの真似はできそうにない。
* 田山花袋の「蒲団」では、くすくす笑ってしまう。美しい女弟子に惑溺し懊悩する小説家の「竹中時雄」
は齢「三十六」である。ごく相応なことを云ったりしたりしているのだが、くすくす笑わせる。明治四十年、わたしの死んだ秦の父が数え年で十歳の大昔に書か
れている。それを思うと、このかなり率直な書きぶりはそれなりに強い意欲の作品だと分かる。ルソーの「告白」のような先駆作に標題からだけ学んだ気味もあ
るが、誰もがやらなかったことをやり抜いている小説だという点では、はなはだ日本的にオリジナルである。踵を接して掻かれた白柳秀湖の「駅夫日記」も告白
小説だが、此処には鉄道の職場があり、労使の、階級間のすでに闘争姿勢があり、社会的な現実にしっかり目が向けられている。その点では藤村の「破戒」を
かっちりと後追う姿勢で書かれている。田山花袋の「蒲団」は、だが、徹頭徹尾中年男の愛欲無残である。その徹頭徹尾のさまが読ませる。花袋は読ませる力の
ある間違いない大作家の一人なのである。
それにしても花袋の前にあの「告白」を支えてくれた外国文学の輸入があった。ルソーもハウプトマンもツルゲー
ネフも。同じように藤村の「破戒」にもあった、ドストエフスキーの「罪と罰」が。そして「罪と罰」は、我がプロレタリヤ作家の第一人者といえる葉山嘉樹の
代表的短編「淫売婦」にも、顕著に作の基盤にそそり立っている。
作家達も画家達も、明治大正の人達は魂を入れて西洋から学んでいた。西洋からと限定しなくても、いろいろ学ん
でいた。現代の創作者にはもうそんなことは必要がないと謂えるものだろうか、わたしはもうあまり若くもないので自分のこととしては何とも言えないが、学ん
でいる方だろうと思っている。
わたしの身の側には、少なくも甥は小説家で、息子は劇作家であるが、どう考えているのだろう、聴いてみたこともない
が。
* 四月十六日 火
* 風が吹き荒れている。あわや「みらくる会」を失念しそうだった。前に一度失念し、高額の会費だけを罰
金に支払ったことがある。今晩は神楽坂に。神楽坂の上の方の矢来、新潮社や矢来能楽堂のある辺に花袋作「蒲団」の主人公は暮らしていて、神楽坂辺を歩きな
がらの妄想が笑わせる。男なら考えそうなあんまり当たり前のような妄念をストレートに書き付けるから、ムズ痒いのである。
神楽坂は、東京へ出てきていちばん早く新婚の気分で覚えた江戸らしい場所だった。河田町に暮らし、妻が僅かな
期間勤めに出たのが、神楽坂からも近い、全音楽符出版だった。わたしの勤務先で新入生だけで初めて会合したとき、法政卒の山本誠君が連れて行ってくれたの
も、もう矢来の、赤城神社前あたりの「正一合」だった。妻も一緒に誘われた。
* リニューアルしたホームページに何種類もの目次(idx)が創られたが、その整理をして現状と整合さ せておかないといけない。いろんなことに手をかけている。「罪はわが前に」三册分も、スキャン原稿を未校正のママ、所定の位置に仮掲載した。「e-文庫・ 湖」と「電子文藝館」とが双子のように面倒見を要請してくる。
* 宵の神楽坂は昔の風情をやはりまだ残していて、懐かしい気持ちで歩いてきた。坂の町というと、京都で
は清水坂があるが、あれと神楽坂ではまるでちがう。神楽坂は都会の風情、そして文字通り狭斜の巷を内蔵した坂の街なみである。平均してみれば、渋谷や新宿
より清潔で雰囲気がいい。自由が丘や原宿や六本木よりも小綺麗である。
「みらくる会」は、坂の途中をすこし折れて入った「二葉」が会場で、寿司屋であろうが、座敷で懐石風に料理が
出た。調理のみばえなどは言うのが野暮で、実質的にサービスのいい食べ物が次から次へ出てきた。浦霞や吉の川などが出て酒はうまかった。東京から京都へ移
り住んで、京都を堪能し満喫している会員がこのために上京し、わたしの隣に来てさも楽しそうに京都の話題を聴かせてくれた。もともと医師や医療器具や保健
関係の会員達で出来ている「うまいものを食う会」で、わたしは今では完全に場違いなのであるが、そんなわけで、今日は話題に窮することが無くて済んだ。そ
の人も、もともとはその方面の「先生」なのだが、定年退職後は、思い切りよく京都へ移って、茶会や香の会や、食べ歩きに、独りで旺盛に歩きまわっている日
々だという。
* 九時頃に果てて、また飯田橋から有楽町線でまっすぐ帰ってきた。とても便利。今度はフリーでふらりと
神楽坂散歩を楽しみに行きたい。新潮社や講談社にもこの界隈で何度もご馳走になった。そんな店で永井龍男先生に出会い、優しい励ましの声を掛けて貰った嬉
しい記憶もある。
* 四月十七日 水
* 午後、三百人劇場で「フィリップの理由」を観てきた。舞台装置が洒落ていて、開演前から嬉しくなった。二階最
前列真正面といった感じに最高に見やすい席が用意されていて、満喫できた。妻のがわに、藤田洋氏が来ていた。能楽堂でもよくいつしょになる批評家だ。
芝居は、何とも説明しにくいが、わたしはとても面白く観た。効果音と道具や人の出し入れがうまく演出されてい
て、舞台の奥があたかも能舞台の橋がかり然とつかわれて、舞台前面で演技していた俳優達がなにかで退場してゆくときは、或る位置から、とたんに能役者の引
き込みのように静々とした足取りで退場してゆく。
「フイリツプの理由」というやや分かりにくい題の戯曲そのものよりも、俳優達の演技と演出とがリクツ抜きに楽し
めて、有り難かった。俳優も演出家もたいへんよくやったと思う。戯曲づくりの間とテンポとが、うまいのだろう。どんな芝居だったかとストーリーに戻して言
うのが億劫になるほどなのに、推移の全体が演劇的に効果を挙げていた。珍しいほどの舞台に感じられた。ただ涙をうかべるような感動はなにもないのだった。
* ひどい風が吹いていたが、六義園に行ってみたくなり、タクシーに乗る必要など無いのに、地下鉄駅口の
前でタクシーを拾ったら、目の前をすぐ左前方へ折れたら直ぐの所を真っ直ぐ走り抜けてその先で、あるまいことか左へ折れて東洋大、白山経由、本郷通から吉
祥寺前を通って行くという悪徳タクシーに乗ってしまった。やれやれ。
しかし六義園はよかった。本郷に勤めていた頃から何回か行っているが、今日が最良。緑が季節がらか柔和に繊細
で、気分が落ち着いた。ただ強い風が木々をしきりに鳴らし、烏が夥しく飛び交い鳴き交わし、ヒッチコックの「鳥」なみにスリリングであった。烏は、だが、
何のイタズラもしなかった。散策小一時間。なんだか庭園の全容、最近にもすっかり手入れが行き届いたかと思う綺麗な整いようで、以前はいつ来てももさもさ
していたものだ。「藤代峠」と名付けた高台の頂上にベンチがあり、並んで腰掛けて、池の面や中之島を見下ろしている心地は爽涼としたもの、ときどき上体を
突き倒されそうに強い風がむかって来たりして、それも心地よかった。森の向こうに街の建物の見えるのが、残念なような安心なような。
赤穂浪士の大河ドラマで、柳沢吉保別邸として再々登場の六義園だ。東京では屈指の、一といって二のすぐに思いつかない
ほど佳い庭園なんだと、今日、再認識できた。
* 駒込駅へ歩いていって、妻がさすがに草臥れたので、目の前のなんだか鄙びた「上海料理」店に入った。 トリを半羽焼いて貰った。焼き餃子も春巻きも観たことのない形と味わい。マオタイもコップに大サービス。老酒もコップで出た。中国野菜がとてもうまく、 ピータンも独特の濃厚な味で、生姜との相性がなかなか乙であった。最高の料理が「蝦球=シャーキュー」で、好物なのである。そして炒飯。卵と野菜と飯とが 等量かと思うほどの、しかも大盛りの中に、蟹が姿のママ揚げてはいっていて、そのまま食べられた。中国人の店のように思われた。なんともはやクラシックに 鄙びた、中国の公園などで店を出している小屋がけのようであった。椅子もテーブルも粗末至極だが味はよかった。こういう店に飛び込むととても楽しい。二人 で一万円とはしなかった。
* 池袋に戻り、メトロポ(リタンホテル)へ立ち寄り、先日三省堂と打ち合わせたあと、アーケードで見つ けて置いた、妻の服を買った。この店のデザインには気をひかれるものが時々有る。上機嫌の妻に、仙太郎の最中一つを買わせて、食べ食べ西武線で保谷へ。 「ぺると」へ寄って、モカ。先夜の御礼をしてきた。
* 階下へ息子が来ているらしい。
* 四月十八日 木
* 妻が聖路加定期受診の留守番で、終日、いろんな仕事を前に進めた。うしろのソファで黒いマゴが安心して眠って
いて、ふと目をさますと二階から書庫の上の庭へ降りてゆく、やがてまた戻ってくる。チューリップも盛りを過ぎた。
ホームページの顔が表情あらたまって、なにか新しいことがしたくなってくる。
* しようのない映画やなと思いつつ、本を読み継ぐように何度にもこまぎれで観ていた「昼下がりの情事」 であったが、それでも最後にほろりとした。オードリー・ヘップバーンのえもいわれぬ魅力には負けてしまう。不思議な女優だ、しかもうまい。ゲーリー・クー パーのしょうのない漁色ぶりにはゲンナリするが、いいジイサンに見えるから辛抱しておくとして、ヘプバーンの父親役、私立探偵がいい役だ。
* きのうの晩、ちろりとやって来て少し仮眠し、すこし話してから芝居の資金の足しにだとかを百万借りだ して、息子は、あたふたと戻っていった。先日、ある連続ドラマの初回分に秦建日子が脚本を書いていたのを、わたしたちは見損ねていた。三人で観た。題は、 忘れた、原作もののようだ。長瀬某と、以前「編集王」で主演した某とが、一対で張り合い、植木等がおさえて出る「マネーゲーム」のような、金融や銀行の出 てくるドラマであった。タイトルバックなど面白く、二十分ほどはまず好調に感じ、どこかから普通の平凡なドラマのように感じかけたが、まあ持ち直して、初 回分を終えた。70点ぐらいかなあ、次ぎも観てみていいが、建日子は初回だけで、オリているらしい。初回分にも特別建日子らしいものは出ていなかった。誰 かと二人の名前が「脚本」として出ていた。もうすぐ、八千草薫主演のドラマが有ると聞いている。
* 花袋の「蒲団」が長い。なかなか校正が進まない。ダレているのではない、けっこう面白い。ウヘーッ、 ウヘーッと思いながら読み進んでいる。ごく若くてウブな頃に読んでいて、へえ、こんなもんなんかなあと想っていた。主人公より三十も年かさになってしま い、そやな、こんなもんやなあと苦笑いしている始末。これを書いたなんてエライものだ。
* もっと驚いたのが、藤村。井出孫六氏に、解説を書かれた岩波文庫「千曲川のスケッチ」を戴いた。有名
な作で、味わい深いまさにスケッチの文集である。信濃の風光をとらえて自然描写の豊かなのは当然としても、藤村の関心はいつも人事にあるから、そこで捉え
られた人間たちは、淡彩ではあれ風貌の内側まで陰翳ふかくクリアに描写される。藤村である、当然のことである。だが、とりわけて驚いたのは、人間ではな
い、殺されてゆく牛や豚を冷然と観察しスケッチしている藤村に、だ。
或る正月早々、藤村は人の案内で、積極的に、意図的に、「屠場」を見学に行き、スケッチの四節分にわたって、
克明に、雌雄の牛四頭、豚一匹が完全無欠に屠殺され捌ききられるまでを書いていて、微塵の動揺も感傷や感動も不快感も文章の上に示していない。凄いとは、
こういう藤村の眉一つ動かさない態度を謂うのだろう。読んでいる私の方が少し弱った。これを書いたなんて、やはりエライものだと謂っておく。花袋のエラサ
とは対蹠的である。
そういえば、国木田獨歩がもう死ぬという臨終に近い時に、花袋と同席で枕頭に見舞っていた島崎藤村は、じつに
沈着な面もちと口調とで、危篤の友にむかって、「いま死んでゆく気持ちとはどんなものかね」と質問した、びっくりした、と花袋は書き残している。人生の従
軍記者を自認していた作家の多かった時節の中でも、藤村のその姿勢は冷厳なまで徹底していたと謂うことである。驚いたとかいている花袋もまた素顔である。
* 「とりかへばや物語」も佳境に進んで、いる。女性の身で男として宮廷社会に入り中納言にまですすみ、
あまつさえ貴紳に育った姫と結婚までしている「男君」は、よそ目には穏和に暖かい理想的な夫婦生活の間に、親友である宮の宰相に、妻を奪われ、妊娠させら
れる。実は女である「夫」中納言にはありえないことで、話がややこしくなる。
一方、男性の身で女として、これまた最上級の尚侍=ないしのかみとして女春宮の補佐に宮廷入りした「女君」
は、春宮との日夜の同衾の間に、抗しきれずに春宮と肉体関係におよんでいる。やがては妊娠というのっぴきならぬ所へ進むだろう。父親も、それぞれの母親
も、ごく身辺にいた者も、真実を知っている。少なくも確実に中納言が妻の四の君を懐妊させることは出来ないのである。
夜更かしをついつい強いられてしまうほど、面白い。面白い読み物はほんとのところ限りなくある。
* 昭和十年どころか、わたしが中学の頃まで存命であった中で、ペンクラブの会員ではなかったけれど、ど
うしてもこの二人、永井荷風と太宰治だけは、著作権保護年限も切れているので「招待席」に迎えておきたい。もっと早く亡くなった人ではやはり泉鏡花は見過
ごすわけに行かない。そして官憲に虐殺された小林多喜二。この中で私には太宰治がいちばん作品を選びにくい。正直のところ、その名を冠した文学賞で世出し
てもらったのに、そうは好きな人ではなかった。「冨岳八景」「津軽」などかなり時期的に限定される健康な印象の作品以外には、なんとなしに躓くことが多
かった。
* 四月十九日 金
* 卑怯未練、卑劣な、似非道徳家の偽善者である、花袋作「蒲団」の主人公竹中時雄氏は。そう決めつける のはごく易しい、とにかくヒドイものだ。しかも噴飯モノで可笑しくて、何度もグハグハ笑わされ、その笑いがすぐ凍り付く。顧みて、「おれはチガウぞ」と言 える男がどれほどいるかと、我が身わが心にも問うてみるとき、ウーンと唸ってしまう。こういう内向痴漢を克明に書ききっているのだから、これは「問題作」 だ。同じ作者の「田舎教師」のような清冽な名作でも「百夜」のような円熟の秀作でもないが、文学表現の歴史を震撼した難儀な問題作、かなりよく書けた佳作 なのは疑いもない。竹中時雄だけが問題でなく、堕ちた「新しい女=芳子」を書いている。その点、神学生崩れの「田中」は平凡だ。とにもかくにも、やたらに 「神聖な清い恋」の「肉」の「霊」のとさんざ繰り返される空疎さのなかに、花袋自身が自覚していなかったろう今日的な批評が露出し噴出している。今でも新 「蒲団」論は可能である。
* 西山松之助さんから、佐高信さんから、井出孫六さんから、李恢成さんから、今西祐一郎さんから、つぎつぎと興 味津々の著書を戴いている。御礼を一気に書いて出した。著書の御礼は、たやすくは書きにくい。
* 野村敏晴氏のところで出る本に原稿を書いていた。忘れていた。校正刷りが届いて、それも物の下に忘れていたの
を電話で催促受け、急いで済ませた。180字の自己紹介文も書いて送った。
図書館問題でアンケートを今度はわたしが求められている。さっさと書いてしまわないと忘れてしまいそうだ。
忘れてならないどころか、六月中に仕上げろと言われている本一冊分の、ま、書き下ろし。うかうかと機械を触り続けてい
るとトンと忘れ果ててしまいそう。そうこうするうちに、次の湖の本、創刊満十六年記念号の入稿も心がけないといけない。何を出そうか。
* 来週はぶっつづけ七日間ともいろんな予定がある。稼ぎ仕事は一つもない。昨年末のペンの忘年会で引き 当てた日光のナントカいうホテル宿泊券を使ってくる。ひさしぶりにいろは坂をバスで登るかな。日本ペンクラブの理事会・総会・親睦会が午後から晩へ引き続 く。理事会でも総会でも委員会報告がある。愛華みれの主演ミュージカルに招待されている。筋はたわいないものと聞いているので肩はこらない、いい歌を、ダ ンスを見せてもらいたい。佳い舞いも観せてもらえる、万紀夫改め梅若万三郎の「清経」だ、期待しよう。そして糖尿病の検診がある。お天気がどうだろう、好 天を得たいもの。
* 「今とりかへばや」の女中納言は、吉野へ、唐土から素晴らしい姉妹の姫を伴い帰国していた大徳の古宮 を訪ねてゆく。源氏物語の宇治八宮に相当するとみれば、直ちに女中納言は薫大将に、そして彼(=彼女)の妻四の君を奪った好色殉情の宰相は匂宮に擬してみ ることが出来る。同時に、吉野の姫宮たちは、宇治大君、中君姉妹に相当して読めるうえに、浜松中納言物語の唐土帰りの中納言たちも影を落としている。こう いう影響関係が王朝物語ではおもしろく絡み合い浸透しあっていて、一つの「王朝物語」という鯛の兜煮をこまごまとせせり食らうような味わいようも出来る。 こういう楽しみは、飲み食いのそれとも、観劇や繪を観る楽しみともひと味も二味もちがっている。「古典愛読」である。「古典研究」は堅苦しくも細かく細か くなりすぎるが、わたしのような素人は、好き勝手に縦横無尽の「古典愛読」を堪能しても許される。
* 母子家庭の平均年収は二百二、三十万円だとテレビが言っていた。年金をのぞけば、去年度のわたしの文
筆収入総額がそんな程度だった。もっと減らそうと思えば、簡単にゼロに近くなるだろう。多年経過の出版の仕事もあり、すでに事実上かなりゼロ収入に近く
なっている。さばさばと、精神的な負担は軽くなり、ものごとが楽しめる。「電子文藝館」にも打ち込める。建日子には親の金などアテにするなよ、覚悟して独
りで生きろよと言ってある。これまたゼロに等しい超低金利こそ大きな思惑違いだったが、若い頃にそうあれればいいなとかすかに想っていたのに近い、気楽な
老境に入ってきている。妻一人を楽しませるぐらいなら何でもない。天変地災のないことを祈ろう。当然のこと、立ってまともに歩けて食える人、ないしその団
体のために、寄付はしない。
* 四月十九日 つづき
* 四月理事会、総会への書面報告書を書いて事務局に送った。
* 今西九大教授から送ってもらった「文学」巻頭論文、「近代『蜻蛉日記』研究の黎明」は、台北帝大教授 であった国文学者植松安の足跡を丁寧に辿って、学者の研究生活が抱きこみがちな運命の明暗にふれた、こころにくい論説であった。興味深い追尋で、角度的に は史伝への誘惑を秘めて見えた。小説を読んでいるかとふと錯覚しそうなほど、たとえば鴎外の渋江抽斎などへの近接すら感じた。今西氏の論文抜き刷りは、私 の好んで耽読するものの一つである。少しでもよい本文、原典がないなら原典に少しでも近い写本を求めに求めて何十種類モノ古本を蒐集し謄写し校合して行く 努力。そういう仕事を同時に何人かの学者が併走して進めているとき、思わぬ機微明暗が生じてくる。蜻蛉日記なら蜻蛉日記を評論するのはわたしにも出来なく はない。しかし異本の厖大な蒐集と校合から少しでも善い本文の発見や定着へという研究生活は、わたしなどの想像を超えているが、今西氏はときどきそれを垣 間見せてくれる。学者の知己をもつありがたさである。
* 今西さんが同時に送って下さった九州大学出版会からの編著『文字を読む』は、すこぶる知的好奇心をゆ さぶる。世界の言語は五千ほどあり、そのうち文字言語は三百程に過ぎないが、それだって、文字の同類とも思われないほど顔かたちが異なっている。読みは もっと奇々怪々に異なる。二十章にわけて研究者が分担し、今西教授は王朝女流文学に於ける「かな」を読んでいる。変体仮名の字形一覧など出ていて、わくわ くする。他にハングルも満州文字もタムやインドやアラビアの文字を読んでいる章が見える。文字だけでなく「ことば」にもふれてある。「ことば」に触れるの なら、わたしぱ日本の「からだことば」「こころことば」を誰か専門家に読んでみて欲しいと前々から希望している。わたしが造語しわたしが論究してきた程度 では初歩に過ぎる。それでもまた、わたしは「からだことば」「こころことば」を当分の間目の前に置いて仕事をすることになる。
* 日本文化史の西山松之助さんは、いろんなことで有名な先生。茶杓を削られる。わたしも優しいのを一本 頂戴している。家元研究によって日本文化史の側面を突破された。禅の難関を透過されている。亡くなった下村寅太郎先生と三人で鼎談したことがある。お二人 は仲がよろしく、京の新門前の、実家の間近な道具屋などをお二人でよく覗きに来ておられたと聴いてびっくりしたこともある。西山先生の米壽をお祝いして三 人の大きな学者で西山先生をインタビューして出来た一冊「ある文人歴史家の軌跡」を今日頂戴した。おもしろい。「青年時代から今日までの行状記」だとあ る。古稀の時にやはり『誕生から小学校五年生ごろまで」の一冊が出ていたという。禅と家元制度と茶杓。それだけでも私を惹きつける。角田文衛博士の自伝的 な回想も面白かった。碩学の人生は豊かで刺激にも富んでいる。
* 今時分、テレビで、秦建日子脚本の八千草薫ものをテレビが流しているはずだ。コマーシャルをはさんだテレビド
ラマは焦れったいので、妻がビデオに撮っておくのをあとで観る。
* 四月二十日 土
* こんな書き出しのメールが来ていた、「私の旅は日常生活逃避であり、帰路の機上ではもう次の国を想い浮かべて
います。臨場での初対面の感動、それが次の夢に繋がります。老い先も短く。秦さんは関心ないでしょうが」と。
海外への旅に関心がまったく無いわけはないが、夢に夢見るような「日常生活逃避」がしたいとは思っていない、
それはほぼ病気のようなものだ。熱塊のようなモチーフをもって海外への旅を重ねる人もあり、逃避どころか精神の修羅場へとびこんでゆく戦士のようでもあ
る。これは分かる。また単に仕事の人もいる。仕事は仕事だ、必要だ。健康な老人は夫婦で旅するだろう、わたしもそうしたい方だが、妻の健康はいたわりを必
要とし、海外の長旅は思い寄らない。
歌人はいながらにして名所を知るという物言いを、少年の昔には軽蔑していた、痩せ我慢のようなものかと。齢をすぐるに
つれ、ある種の真実が籠められていると肯定に近い気持ちになっている。
子猷訪戴の故事を識って「畜生塚」という小説を書いたのはシナリオ研究所を卒業して直後であった。友人の戴安
道に逢いたくて舟で訪れてゆく、相見ての楽しみをつくづくと想像しながら。そして門前に到ってはたと翻意、そのまま舟をかえしてしまう。想像の中で歓は尽
くしてしまった、逢うまでもないと。
この逸話をわたしは、全面的にと云わないが相当に愛している。この美意識を規範にしていたずらに動じないでき
たことが幾らでもあった。同時に、自分の現実とは何ぞと思う気持ちがいつもある。現実そのものが夢であるのを知っているから、夢に夢をかさねるのに無用な
「遠出」は望まなくなっている。いながらに夢はみられるし、夢は夢だと覚めた気持ちもある。
* 脚本を息子が書いたドラマを、二十分ほど観て、機械の前へ戻ってきた。八千草薫が老いてなお綺麗に
すっきりしていた。おはなしは、あまりにスローで、かえって落ち着いた気持ちになれなかった。若い女弟子の匂いに汚れた蒲団の襟に顔をうずめて泣くような
花袋の凄まじき作品、宮沢賢治が手帳に書き留めていた祈りの詩、蛞蝓に似た三人の貧しげな男に「守られ」て、廃工場の片隅のような物陰に素っ裸で寝かされ
客を迎えている瀕死の「淫売婦」との出会いを、痛々しい怒りと感動とで書いた、葉山嘉樹の小説。そういうのが頭にあった。
「藝」とはなにか。藝のある創作は強い。ものつくりの中にも、「藝術」という言葉を軽侮し軽視し遁走する人達
が多いのだが、「藝」と「術」とに分けて想えばまさかに不用とは言えまい。「藝」とは何なのか。辞書をひけば分かる、たいした深みのある字義ではない。
習って覚える技、あそびごと、遊芸、そして仕事のやり方。その程度のことを、だが、名人上手や名匠や文豪はだいじに個性的に深く磨いた。多くの藝談のなか
で、わたしが感化を受けたのはやはり谷崎潤一郎の「『藝』について」のちに改題しての「藝談」だった。テレビドラマが藝術であるわけないじゃんという人も
いる。それなら、小説も繪も藝術であるわけないし、事実、藝も術もなくても小説として売れているし繪の展覧会も出来ている。掃いて捨てるほど有る。心がけ
の問題であり、そんなのは遁辞の最たるモノに過ぎない。藝術でなくていいとして、だが「藝」と「術」まで無くていいとは逃げ出してほしくない、藝術でない
なら余計のこと。
* 田中真紀子が秘書給与のことなどで党の政治倫理審査会から「質問状」を出され、週刊誌が書いているだ けで何が審査会かと反撥、そんな安易な話をしたいなら「槐よりはじめよ」と党幹部の週刊誌疑惑を問う抗議書を首相に提出した。小泉首相は人のことを云わず 自分のことを明かせと薄笑いしていたが、わたしなど田中真紀子の問題より、機密費と目されるものから多くを現に受け取っていたという証拠資料に関して、小 泉自身が「記憶にない」などと逃げずに、機密費上納ないし流用の本質を抉る姿勢を明かして欲しいと思う、山崎幹事長の「女」疑惑報道よりも、よっぽど小泉 機密費受領の方が大問題である。田中真紀子の「戦略」をわたしは今ぶん支持し理解している。変なのは自民党であり、同時に週刊誌の姿勢でもある。聡明な報 道ではなく、売れればよいというアクドイ商売に週刊誌は狂奔している。鈴木と田中とで何十万部とか売りに売ったからなと、トクトクと話した出版社販売責任 者の顔つきが、卑しいモノに見えた。週刊誌という媒体がわるいのではない。編集者魂が腐っているのではと、恐ろしい。
* 「電子文藝館」へ出稿された大勢、百人、に展示報告と御礼の挨拶が大きく遅れていた。どこかに四月ペ
ンの総会までには、ないし、百人に達してからという思いがあったが、幸いその両方を達成したので、今日、梅原館長と私の連名で正式文書で、わたしの担当は
歴代13会長その他9人に、発送した。その余は事務局から発送した(と思う)。重かった肩の荷が一つ降りた。
「本とコンピュータ」が図書館問題について率直な意見をとアンケートしてきたので、書いて送った。
三省堂から書き下ろしの本のための資料をディスクにして送ってきた。さ、これはもう放ってはおけなくなった。
ATCに宛てて、総会前最後の入稿分を郵送した。
とんとんと用事が幾つか片づいて、新しい執筆と、新しい満十六年経過の「湖の本」の決定と、へ姿勢を振り向け
ねばいけない。六月の桜桃忌まえに沼津桜桃忌の会から講演に来てと頼まれてもいる。いい機会だから太宰治を読み返したい。そういえば今日、新しい太宰治賞
の授賞式に来るようにと筑摩書房と三鷹市から招待があった。新しくなってから、まだ一度も出席していない。
* 夕方、元岩波書店の野口敏雄氏から東京堂出版刊・栗坪良樹編『現代文学鑑賞辞典』が贈られてきた。氏
が、わたしの「清経入水」紹介を担当してされているとは、聞いていた。この種の紹介では、ずいぶん以前小森陽一氏の書いてくれた「慈子」の読みと解説が抜
群で、作者の私が教わった気さえした。野口さんのは、まだ読んでいない。
二葉亭四迷にはじまり、さ、だれが一番の新人なのか、とんと昨今の文壇には疎いが、早稲田文芸科でわたしの教室にいた
角田光代も入っている。平野啓一郎も入っている、が、黒川創はまだ届いていない。
全部で、348人の名があがり、紹介された作品数は、390作とある。二つ作品を紹介されている作者は、文藝
館「招待席」の参考になるだろう。五十音順に「索引」を追ってゆくと、芥川龍之介、安部公房、有島武郎、有吉佐和子、泉鏡花、井上ひさし、井上靖、遠藤周
作、大江健三郎、大岡昇平、開高健、梶井基次郎、川端康成、国木田獨歩、幸田露伴、河野多恵子、小林多喜二、小林秀雄、佐多稲子、志賀直哉、島崎藤村、高
橋和己、太宰治、谷崎潤一郎、津島佑子、永井荷風、中上健次、中野重治、夏目漱石、花田清輝、林芙美子、樋口一葉、松本清張、三島由紀夫、宮沢賢治、武者
小路実篤、村上春樹、森鴎外、安岡章太郎、山本周五郎、横光利一、吉行淳之介となっている。
面白い。他の人と差し替えたい名前もあるが、批評はしない。
これぞとわたしの思う人は、ほぼ洩れていない。いろんな意味で参考になる。文藝批評家は入っているが、詩歌人
は抜いてある。大衆小説やノンフィクション系もだいぶ落ちている。2作組では山本周五郎一人である。私小説という意味でない「純文学」の顔ぶれが主に並ん
でいて、一つの判断を示している。ペンの会長も、副会長でも、専務理事も入っていない。
* 四月二十日 つづき
* サイトを見て下さる人には、目次がいつも左欄に常駐していて消せない。うるさく感じられる人は、境界線をマウ スで抑えて左へ引いてもらえると、めいっぱいの広い画面になるそうだ。
* アーノルド・シュワルツネッガー主演の「トゥルー・ライズ」が予期したよりずっと面白くてトクをした 気分。ヤに面長な、だがハダカのスタイルは抜群の奥さん役が、だんだんに頗るセクシーに感じよく美しくなってくるのも、甚だ結構であった。あらっぽくて間 のいいサスペンス映画として、上出来。ニューヨークの航空機テロと酷似場面があらわれるためか、お蔵入りであったと漏れ聞いていた。なるほどと思ったが、 映画は映画、娯楽ヅクリで深刻さはない。シュワ君にはコメディアンのセンスがある。幾つもの映画で見知っている。それが今夜の映画にプラスに働き、スリリ ングであっても、安心感があり、恐ろしげなかった。かなり楽しんだ。
* 図版が入らないワケが、漠然と見えてきた。図版は、すべてノートパソコンで入っており、ネットワークが働いて
いないときは、こちらの親機画面に再現しないのではないか。ときどき忘れたものを見つけたように現れていたりする。どう換えればいいのかは分からない。
* 四月二十一日 日
* 田原総一朗の番組に石原慎太郎都知事が出て、放談三昧であった。いま一番警戒し要慎して付き合いたい 危険な政治家の一人である。小泉総理に九割もの支持を与えたような愚かしさももっている日本人は、目先の宣伝に煽られるとすぐ乗りたがるが、「都知事」程 度に「野」に置いておく以上に、うかうか「国政」を委ねるとなれば、今、彼の危険度は超弩級と「私語」しておく。外側からの評論には適した言葉を豊富に 持った人であり、それはせいぜい場をもたせ喋らせてみたいが、大きな逸脱と、なによりも他者を見下して限度のない傲慢は、もし日本人がワンマン独裁に賛成 ならとにかく、とてもとても危ない。彼の意見にはわたしもところどころ大いに賛成する一面がある。しかし意見は言葉で言われ、言葉は深くは信用できないこ とを、言葉で食ってきたわたしは識っている。言葉をわたしは懼れている。石原慎太郎のハートを問いたいが、あの顔と言葉とを見聞きしている限り、大きな 「?」をつけずにおれない。付和雷同して尻馬に乗るまいぞ。
* 好きな番組であった野沢那智ふきかえ「ナッシュ刑事」らの活躍するシリーズドラマが、いつ知れず田原 番組の裏に貼りついていた。すこし残念。溜飲の下がるテンポのよさで楽しませる。なんで、こういう具合に日本の刑事物、探偵物のドラマは創れないのか。む かしの「七人の刑事」や「事件記者」はもっとリアルにテキパキしていた。映画シナリオを書いていた人が、テレビドラマにも顔を出してきた頃の脚本は、映画 的な藝があったということだ。「シナ研」で、ド素人のわたしが感心して聞いたのは、映画は金をとって見せる。客が金を出してくれなければ話にならない、と いうのが一つ。厳しい条件で創られている。また映画は退屈させては話にならない、最初の三十分に精魂を尽くして藝をみせる、というのが二つめ。あまりに当 たり前のようだが、上の二つが、テレビドラマにはない。金を払ってでも見たい藝ではない、客の程度を舐めきって、視聴率稼ぎだけでやっつける。説明また説 明で、表現がない。「ナッシュ」や「ER」の十五分分に、二時間もかけている。だらけるのは当然だ。
* 19日、成田へ送りまして、ロンドン経由でコペンハーゲンの家に着いたと今朝の4時頃電話が入りました。それ
でやっと安心して眠りました。今日は夜勤で、今は帰ってきて、お香を焚いて、楽しんでいるところです。
若い夫婦は、見ていて気持ちのいい本当にいい関係です。
私は動物好きなので、小さい人は大好きです。可愛いし、私が育てたい気分です。育児が人生で一番楽しいことだったと思
います。今でも。
* 申し分のない幸福そうなメールと読める、が、小説家は、見逃さない。非在の存在。書き手の夫がここに いない。その事の照り返しが子や孫のうえへ、ペットへ、輝いている。育児が人生で一番楽しかったのは「母」のおのれであり、「妻」のおのれは痛ましく脱 落・欠損している。こういう夫婦の少なくないこと、残念だが多数例識っている。無意識にも意識しても、子どもに、気持ちの上で縋り、ぶら下がろうとすらし ている。それが幸福ということであると、却って自分を説得し納得させようと努めている。相変わらずの「日本」の母である。夫もよくない。だが妻の、老いて なお「母」への退避は痛ましい。「老夫婦」の時間が長ぁい長ぁいものになって行く中で、日常的にコツコツと積み溜め固い石と凝ったような「寂しい夫婦」乖 離現象は、二十一世紀、深刻な孤独をますます助長するようだ。「親子」か「夫婦」か。こなれない難しい議題だが、二者択一ではないという自覚が、ま、落と しどころか。
* 雨の日曜日
今朝、夕べから泊まっていた母の家を出るとき、「ひょっとすると仕事がたまっているので、今夜は独りで食事をするかもしれない。」というと、母は、少しさ
びしそうな顔をしました。
孫の世話はしましたが、私についてはほとんど同居の伯母や祖母に任せていた母が、八十歳を目前にした今、孫娘たちの不
在も原因なのでしょうけれども、しきりと私と一緒にいたいというようになったのです。
そうは言っても、わざわざ日曜日は母と過ごすためにとあけておくと、自分は仕事の取材だからと日帰りや一泊くらいの旅
にでかけてしまうこともあるのです。
「やはり、仕事があるので、悪いんだけれど今日は家で食事をするわ」と、電話をかけると、「悪いんだけれど なんていわ
ないでほしいわ。もっとあまえてちょうだい」と言われました。
そう、母を尊敬してきましたが、本当に甘えた記憶は数少ない気もします。二十歳しか離れていない母娘なのに、母一人娘
一人なのに、互いに求める気持ちが、微妙にずれてきたような気がします。
幼いとき、ほんの少し甘えたいと思うと、「仕事で忙しいから」と言われた思い。助っ人のいない離れた土地で
の、年子三人の子育てで、まだ二十代だった私が甘えたいと思ったときに、「あなた母親でしょう」と言われた思い。あれから、母の気持ちは、ひたすら孫かわ
いさに向かっていた気がします。
もう甘える年ではなく、母をいたわりたい、母に甘えてほしい、と思う今になって、「甘えてほしい」といわれて
も・・・。
さまざまな事情があり夫と別れて、母の家から数分のところに住むようになって、三年。「近くに帰ってきてくれるなん
て、思っても見なかった。なんて幸せなのかしら」と言われるときの、ぴりりと塩辛い思い。
結婚生活を続けていたとき、母と一緒にくらしたい・・・母がそう願っているから、という思いが心の奥にいつも澱んでい
ました。
母が大好きです。母の生き方をずっと憧れの思いで見つめてきました。母を幸せにしたい思いをいつも持っていました。
けれども、この呪縛されたような思いは何なのでしょう。月曜日からまた始まる窮屈な仕事の生活の前日に、独りの自由な
心の時間を持つことさえ、母と一緒にいてあげられないという小さな罪悪感にぐらついてしまうのは、なぜでしょうか。
いいえ、ひょっとして私の方が親離れしていないだけの話かもしれません。母は私が行かないことをそれほど寂しいとも思
わず、同居の姉(伯母)と二人で、テレビを見ながら談笑しているのかもしれません。
しかし、私は母の無意識の呪縛につながれて、母の近くに来る人生を選んだのかもしれないと、ふと思うこともあるので
す。母は決してべつにそう望んではいなかったのですが。
とりとめのないおしゃべりをお許しください。
今日は、本当は娘・・・ なくなった娘について書き進めたかったのです。
けれども、あまりにもそれは重いテーマです。
両親の離婚 離婚に到る両親の葛藤の日々 三姉妹の真ん中、姉妹との関係 内向的な性格で特に父に疎まれてい
たこと 発病 など。雨の日 くちなしの花を見るたびに、祈るような気持ちで、冷たく細い娘の手を引いて病院の中を歩き続けた日を思い出します。細い雨
がくちなしの花をぬらし、甘い香りを漂わせていました。
病院の夏祭り、うれしそうに踊っていた娘の哀しい姿。
退院、初恋、幸せな日々、そして就職活動 過労 再発・・再入院、完治しないままの退院・・自ら病気を理由に出産を諦
めた新年 机の上にあった幼稚園時代の親友の赤ちゃんの写真 病気の悪化 絶望
空に飛んだ日。
娘を産んだこと 娘を育てたこと 娘に死なれたこと 自分を責め、苦しんだこと。
もう、とらわれていないつもりです。そして少しずつ、あるいは一気呵成に書くことで、娘を産み、育て、死なれたことを
ありのままに受け止めてみたいと思っています。
これから母に明るく電話をして見ます。つらいことも多かった人生を支えてくれた母ですから。甘え下手の私ですけれど
も。
母とでもなく 娘とでもなく 独りでいるときにいちばんくつろぐ私は 相当な偏屈者なのかもしれませんね。
雨の日曜日。玄関にラベンダーの鉢を置きました。
疲れて帰ってきたときにラベンダーの香りに癒されるように。
* 「母と娘」とでも題して、「雨の日曜」の素直によく書けたメールで、首尾の整いもある。なかなかこう
は書けないものだ、文章に自然な力が出たか。この内容、ひょっとして朝のわたしの「私語」が刺激したかも知れない。胸の底から噴出せずには済まない動機を
この人は抱いている、モウンニング・ワークが続いているようだ。
* 四月二十一日 つづき
* 電子文藝館に、厳格な「底本」明示のあるべきことを、当初は、それこそ厳格に意図していた。だが、実
際に作業してみると、言うは易いが至難で、単に何社のどの本を参照して本文を起稿したとぐらいしか言えない。それも「参照」の域を出ない。参照本を一字一
語厳密に翻刻再現するということが、作品によっては直ちに暗礁に乗りあげる。
一例を云うなら、参照本が完璧な旧かな正字本であるとし、それに従った再現起稿となると、幸か不幸か自分の手
元の機械では相当に比率高く再現できたにしても、一字ないし数字、ときに十数字もそれ以上もが、送信した先方の機械で文字化けして出るおそれがある。いや
確実に化ける。で、余儀なくそういう字は、略字通用字に置き換えざるを得ないが、それすら全部が可能でなく、どうあがいても代替不可能な文字が使われてい
る。仕方なく、例えば「石ヘン」に「薄」などと、カッコの中で説明をつけなくてはならない。旧かなづかいはおよそ再現できるが、オドリ字はつかえないし、
変体仮名も通らない。謡曲ていどの音曲の記号も殆ど使えないし、図版で貼り付けるのは、何ともいえず見苦しくなりかねない。
さらにフリガナや傍点であるが、泉鏡花など、明治の作品には総フリガナが多い。ところが、ふりがなしたり、傍
点したりすると、堪えがたく行間がばらつき、文学作品を読むには致命的に美観を損なう。妥協して新聞方式に、つまり漢字の後ろにカッコしてよみがなを書く
としても、総ルビ作品にその通りやれば、カッコばかりで、何を読んでいるのか方途がつかなくなる。仕方なく特にぜひこう読んで欲しい漢字には、よみを振
り、不用と判断すれば、参照本にあっても省いた方が、ぐっと読み良くなる。つまり、不特定大多数の「読者に、読みよい」ことを第一義に配慮する以上は、参
照本からも細部に於いて相当にズレを生じてしまうのは、今日の機械環境では避けられない「必要悪」なのである。
谷崎潤一郎の「夢の浮橋」は、正字使用の全集を参照したものの、化けるのを避けて、漢字はむしろ略字に多く取
り替え、ふりがなも、若い読者に配慮し、判断して、かなり数加えた。美しく返り点を打てない漢文は、むしろ白文と、読み下し文の併記にした。それが最良の
配慮と信じて、した。そういう場合、参照した全集本を直ちに「底本」として挙げることは、事実にも異なり、厳格でも厳密でもない。出来上がったのは、いわ
ば「電子文藝館版」本文になつているのである。余儀なく、作品初出の記録を挙げ置くにとどめようと考えたのも、インターネットで発信し、発信通りに受信し
て貰うには、今はそれしか出来ないからだ。つらいが、覆しようのない重い現実だ。
* 古典に限らず、近代の作品でも、厳密な原稿からの校訂で良い本文が研究され安定してゆく過程について
は、私も、かなりよく識っている。そういう学問研究の努力のすえに「活字化」されてきた本文の、さらにどの時点かの「本」を参照して、現に「電子文藝館」
の昔の作品は起稿されている。参照本と厳密に同じに再現されている例は、しかし、戦前作家の物では一つもないであろう。わたしの「清経入水」でも、余儀な
い工夫がしてある。
WEB上で文学に初めて結縁する、老若の新読者たちにも安心して「読める」本文を提供するのと、研究者の「研
究に資する本文」を発信するのと、そんな「両立は、不可能」とわたしは考えている。研究者レベルで本文を議論し始めたときに、どんなに複雑微妙なクリ
ティックが必要になるか、少しはわたしも識っているから、そういう期待に応えたくても、「電子文藝館」と「文字コード標準化」の現状からして無理なこと
と、わたしには、分かり切っている。そういう厳格で厳密な原稿の再現は、学術的な団体がそれなりの技術と資金とで根気よくされる以外にない。だが「電子文
藝館」がそれをやろうとしては、五ヶ月間に百作、単行本にして優に三十巻に及びそうなコンテンツを用意して、国内外に発信することなど、夢物語となる。日
本近代文学全集なら「月に一巻配本」でいいが、「電子版ライブラリー」と銘打った以上、能う限り良心的に誠実な本文の作品を、やはり何本も追いかけ追いか
け「読書用」に提供してあげたい。
誰のための「電子文藝館」かと問うなら、やはり不特定大多数に愛される「digital
library」であるのが何より先決で、研究者用にと的を絞るのは、難しい。それで、いいのではないか。それがパソコン環境での現実ではないか、と、わ
たしは考え、日々孜々としていろんな作品を、参照本から一つまた一つと、起稿している。実状、やむをえず、殆ど単独で担当している。
* 四月二十二日 月
* 終夜、よく降っていたが、もう雨はれて、鳩が啼いている。
* 「とりかへばや」では女中納言が、親友の宮の宰相に女体と見あらわされ、犯された。宰相は中納言の妻 四の君とともにその「夫」である中納言も犯し、さらに男尚侍=中納言異腹の兄にも、男とは知らずに迫っている。なまめかしくも混乱した場面がつづく。王朝 貴族の好色はほとんどがレイプだ。女はそういう際に「情け知らぬ顔」ではありたくないという自意識から、めったに身を守らない。「夜の寝覚」の寝覚の上 が、宮中で帝に押し入られたのを抵抗し抜いたのが稀有の例だろう。「とりかへばや」で宮の宰相が尚侍に挑みながら果たさなかったのは当然で、じつは尚侍は 男なのだ。
* 西山松之助さんのインタビューが、頗る面白い。とてつもなく独特な「達人」である、この老碩学は。ちょっと類
がない。
似た感想が寺田寅彦を追想した、元岩波社長小林勇氏による縁辺のインタビュー本にもうかがえる。この本では、小宮豊隆
の序文からすでに情意を尽くして暖かい。
そして、バグワン。全ての言葉が豊かな清水の味わいでのどもとを降りてゆく。
* 四月二十二日 つづき
* 浅草寺にまいってから、東武電車で日光へ。ペンの忘年会の福引きでひきあてていた宿泊券を利用すべく。前夜は
降り続けていたが、朝にはあがり、雨の心配はもう無かった。二人ともウォーキング・シューズでの至って気楽な恰好で。
輪王寺は、かたどおりに。二荒山神社は心謹んで参拝。樹木の
きいことがなにより嬉しく。
バスで、いろは坂を中禅寺湖までのぼった。曇り空で肌寒いが、それもさほどでなく、寒暖自在の略装でいたの
で、華厳の滝ではレインコートで瀧しぶきを防いだ。水量豊かで、今までみた華厳の滝で一等雄大に見栄えした。今年は早いという栃木の「県花」八汐つつじ
が、遙かな山壁をほの紅いろに彩って、新緑の美しさは雨後のためもあって、目を洗うばかり。
バスを乗り継いで、光徳の日光アストリアホテルまで。夕食前に、近くの山から鹿の鳴いて妻を呼ぶ声にひかれ、
まぢかい牧場の柵にそって高原の木々のなかをゆっくり散歩してきた。鹿の鳴くのを、はじめて聴いた。牧場には牛や馬が三十頭ほど出ていた。光徳沼もみてき
たが、浅く澄んだ水に牛蛙の卵が沈んでいるのが不気味で、辟易した。数十センチもの大みみずが組んずほぐれつ絡み合っているのだ、怖気をふるった。
温泉は硫黄。おそろしく熱く、ぐっとこらえて身は沈めたものの、動きも成らず、ことに湯の中の両手先がものに
噛みつかれたように痛かった。露天風呂はそんなことはなく、空も明るんでいて、夕暮れのなかで、好きな温泉をゆっくり楽しんだ。口ずさみに、鼓拍子が出た
りして、ホテルも浴室も閑散としていた。温泉には弱い方の妻が、わたしよりもゆっくり女湯ですごしていたのは、珍しいことだった。
清潔な大食堂での夕食では、猪豚の鍋と、大振りなやまめの唐揚げが断然うまかった。やまめは頭も骨もみなおい
しく食べられた。赤ワインのボトルを、しかし、三分の一ほどあまし、部屋に貰って帰った。わたし一人、もう一度湯につかりに行った。こんどはさほど熱くな
くてよかった。そのかわり露天風呂に出ようとして寒気にひゅっと襲われ、断念した。百パーセントの天然温泉だそうだ。硫黄はさほど強烈でなく、浴室を独り
占めに、リラックス。
部屋へ戻ると、酔いを発したか、ころりんと寝入って、夜中に一度起きたが、そのまま朝まで。
* 四月二十三日 火
* 素晴らしい晴天。山が美しい。高原はまだ早春で、ものかげには残雪も。若い翠に灰色の木々。鳥の声が透明に光
るようにひびく。
朝食前に、またわたしは温泉に。今朝も独り占め。露天の方も爽やかな好天にめぐまれてさえざえと静かであった。
バスで、戦場ヶ原を経て、龍頭の瀧で途中下車し、好きな瀧をあかず眺めてきた。
日盛りのバス停ベンチに夫婦ならんでちょこんと腰掛け、往来の車を眺めながら、木々のやさしい緑や鳥のさえず
りに、放心。そのうちバスが来て、中禅寺湖駅でまた下車。妻がたっての希望で、ロープウェイで茶の木平まで登ったのが、大アタリ。蒼天のもと、男体山の秀
麗を真ん前にふりあおぎ、中禅寺湖はもとより、はるかに日光白根など、なみよろう山並みの美しさに、時を忘れていた。いたるところ、てんてんと八汐躑躅の
紅色が涙を誘いそうに美しく、広大な遠近のパノラマを彩って春、春と告げていた。
どこをどう歩くのにもウォーキング・シューズがよく働いてくれて、気がのびのびした。落ち葉やそだの山原を柔らかに踏
んで、疎林の中を歩きまわった。
またロープウェイで下山、いろは坂をゆっくりバスで降りた。高原は早春であったが、日光市内に近づくと、桜に
すら早いほどだが桜もまばらに咲き初めていて、春はようやく爛漫に近づこうとしていたし、木々の繊細な緑ははや新緑の風情豊かに、まさしく「あらたふと青
葉若葉の日の光」であった。胸そこまで洗い流されるように美しい新緑だった。
わずかな時間待ちに、東武日光駅のわきの感じのいい喫茶室でコーヒーをお代わりして、チーズケーキを食べた。
東武特急の車窓の眺望を一時間あまりちくいち楽しんでいたが、いつしか二人ともうとうと寝入っていたりした。
* 浅草へ戻ると、もういちど仲見世からお寺の裏へまわり、お気に入りのすきやきの店「米久」にあがっ
て、ビールで、旨い肉を十分食べてきた。この店は、客が入ると人数分ドン、ドンと、玄関の大太鼓を打つ。座敷からは鯉の泳ぐ泉水が望めて、浅草っぽい鄙び
たような粋なような店である。
満腹し、言問通りでタクシーを拾い鶯谷駅までのった。保谷へ着くと例の「ぺると」でモカを入れて貰い、ちょうど六時に
帰宅。黒い留守少年の喜んだこと喜んだこと、まつわりついて離れなかった。
* 明日は午後一時からぶっ通しで、ペンの理事会と総会と懇親会。委員会報告などをしなければならない。
* 湖の本『懸想猿』大きな期待をもって読み、濃厚な美酒を飲んだ気分になりました。(私はお酒に強くな
いのですが、海外生活でいろいろ飲み、ヨーロッパ一おいしいというお酒まで試したので、味はわかります)二作ともに、一種殺気だったエロスの感じられる凄
い作品でした。このような言いかたは品がないかもしれませんが、「女」の私が読むと強烈に「男」を感じました。このような世界はどうあがいても女には描け
ないなあと、読み終えて思わず溜め息がでました。すっかり酔わされてふらふらになっております。かなり毒のある火酒でしたから……。処女作の段階から、い
かに大きな可能性を孕み、なおかつ完成されていたかが痛感されます。
また、これはどなたもご指摘になられていないようですが、二作の梗概の見事さには舌を巻きました。梗概はこれ
ほど書きにくいものもないと思うのですが、先生はなんと簡潔に美しく書かれていることか。小説を書けとすすめられたのは当然のことで、「簡潔に書けるのは
才能です」という先生のお言葉を思い出しました。
テレビも新聞も見たくないほど政治絡みの不愉快なニュースばかりの昨今ですが、魅力的な本さえ手にしていれば
生きている喜びが感じられます。次回の湖の本は何を読ませていただけますでしょうか。この世の深さと美しさを、先生の作品のなかに見つけに行こうと楽しみ
にしています。
* 明らかに過褒という類だが、何十年前の作のこと、ありがたく頂戴しておく。書く動機というか、火熱が
燃えていた。それがないと、書けるモノでなく、それなしに書いたものはつまりはツクリものに過ぎない。プロの書き手は生活のためにツクリものしか書かない
という例もいっぱいある。一生に一つ書けば、あとはつくりものだと言った人もいたように思い出す。
* 四月二十四日 水
* 理事会報告も、総会報告も、電子メディア委員会はテキパキ済ませた。両方とも書面で報告内容を尽くし てあり、補足すれば足りた。足りない時間で、一委員会につき五分で報告をといわれていても、平気で二倍も三倍もかけ、たらたらとやってくれる報告には、例 年ウンザリする。委員会の構成委員氏名など、事務局で全一覧を一枚用意しておけば、どんなに時間が節約できることか。また、誰が何をしたという口頭のこと こまかな人名の羅列など、耳で聞いてどれほども記憶は出来ないし、意味もない。報告要件の大方は箇条書きに書面にしておいてくれれば、なまじの説明が無く ても、分かることはみな分かる。なみの会社企業でああいうドジに無反省な長報告などやれば、管理職でもクビがとぶだろう。文学者の社会の美徳だ等とはとて も言えない。くだらない。
* 懇親会の席で、梅原会長が寄ってこられ、しっかりしたいいものに「電子文藝館」が成って来た、「どう
もありがとう」と謝辞があり、更に、十三人の歴代会長作品だけで「出版」が考えられませんかね、貴方が解説を書いてくれればいい、とも。そういうことは、
わたしも考えていた、成り立つ成り立たないは別としても、意義は生じている、と。すくなくも、この企画だけは不可能ではないし、日本ペンクラブとして在っ
て良い一册であるだろう。いや、一冊にするにはかなりの大冊になるが。
懇親会も、その余はなんとなしに低調で、長居無用と抜け出した。
* 保谷へさっさと戻り、久しぶりに鮨の「和可菜」で旨い肴を食ってから、帰った。「ミマン」の原稿を仕上げて
送った。
* 四月二十五日 木
* 昨夜親機が故障して使えなくなった。今日、帝劇の帰りに買ってきたウイルス除去ソフト「ノートン」によれば、
ウイルス感染はしていない。となると、どうしようもない。組み立てて貰った機械で、マニュアルもない。
かろうじて子機で急場を凌いでいるが、じつに遅い、重い。こちらも甚だ危うい。
* 愛華みれ主演のミュージカルを、二階最前列の真ん中から見せてもらってきた。たわいない話で感動とは ほど遠いけれど、舞台装置も演出も適切で大いによろしく、群舞もソツなく魅せた。ただ、ヒロインが小柄に見え、出番の大方がメガネでジーパンの普段着だか らというわけではないが、主役にぜひ必要なオーラが立っていない。それが難と言えば難であったが、妻と二人で楽しんできた。地下のモールで鰊そばを食べて 池袋へもどり、「さくらや」でウイルス除去のソフトを買って帰宅。
* このところ飲食過多で血糖値が高い。明日は診察日。すこし、これも、はらはら。
* 四月二十六日 金
* この数日、わたしの一番深くでわたしを揺すっていたのが何かと言えば、「電子文藝館」でも「電メ研」でも「日
光への小旅行」でもなく、「とりかへばや物語」だというしかない。いやな対極には小泉内閣や国会の危険きわまりない汚濁がある。
物語のことを今詳しく書く時間がないけれど、わたしが、結局の所いちばんやすらかに故郷に帰るほどの気持ちで
陶酔できる世界は、文学的には王朝物語の「端正と優雅」なのだと思い当たらずにおれない。事柄としての物語ではない、それは現代の文学以上に実は生々しい
のである。一例を挙げれば男女関係はほぼことごとく男のレイプであることに間違いない。そういう事を懐かしんだりはしていない。ものの「書き方、語り方」
その端正と優雅に襟を正す思いがある。「とりかへばや」はあまりの面白さに夜更かしを強いる。古典なのに、全集本にして百頁を越してゆくほど就寝前に読み
ふけっていて、慌てて灯を消して寝付こうとするが、夢にも文体が蘇ってくる。
この明け方も遠い昔に返った懐かしい夢を嬉々として見ていた。
* 親機が大破とはどんな状態なのか、本当に困りましたね。サポート体制を早急に確保できますように。
わたしがバグワンからどんどん遠避かり???
そう解釈されるのは単にメールのことばを鵜呑みにされていますよ。
わたしが「勉強」し我が身を何かに駆り立てようとしているのは、生きている証拠。生きる僅かの努力です。それ
だけの単純なこと。落ち込んで無気力だったら・・嫌でしょう?そういう無気力ではなく、異なる意味で無常観を抱えて転変をみつめて、生きる根底で、わたし
の内部で、バグワンの言葉は静かに響いていますよ。
* 勉強に、我が身を「駆り立てる」のでなく、勉強を「楽しんでいる」のでは「生きている証拠」になりま
せんかね。所詮無益な夢だもの。無常とはそういうことでしょ。そんな無常から大きく目覚めて、常の定(じょうのじょう)の体(てい)で、帰れ海へ、ちいさ
な波よ、かすかな波頭の一つよ、と。
なににしても「駆り立て」ればシンドク疲れる。疲れるとはマインドの餌食になっていること。ドント マインド、ドンマ
イ。そういうこと。どこへ急ぐ。いまここを、自然にゆったり楽しんでは、たとえここが地獄であろうと。ま、そういう気持ち。
* 楽なことと楽しむこととはちがう。楽なことなら楽しめるというわけではない。
* 血糖値よりも、別の何だかの値が右肩へすこしあがりぎみなのを、用心しましょう、と。体重は八十キロをすこし 割っている。
* 早めに行き早めに検査を終えておいたので、一時半予約の、二番目にはもう呼ばれて、すぐ済んだ。行か ないとインシュリン等が出してもらえないから行くが、ひどいときは予約時間から二時間も遅れる。今日は早々と、二時よりだいぶ前に済んで、あまりの空腹で もあり、有楽町「きく川」で昼飯を済ませた。とまっすぐ地下鉄で保谷駅に。
* 西山松之助さんのインタビュの本が面白くて、糖尿病外来で待っているうちに読み上げた。家元制の研究
とともに「江戸」学の権威であるが、学風は、生活民俗に徹底的に取材した文化社会史研究であり、文学でいえば、作者でなく読者の側から、藝能でいえば役者
でなく観客の側から、基盤構造や機能が追及されてゆく。
茶杓の実測比較研究でも著名な成績をのこされているが、拾い上げ究明された名杓が2700本ほど。だが西山さ
ん自身が、竹を求め求め歩いて、自身の手で曲げて作られた杓は8000本を数える、と。それに付随しての銘名なども夥しい数にのぼるが、それとても更に多
くの活動からみれば氷山の一角であり、これほど人生境涯の隅々に至るまで楽しんでされて健全無比の学藝生活というのは、近代に類がないのではないか。たい
がいのことには驚かないつもりでいるが、この老碩学の楽しさと深さとは途方もない。けっして楽なことをされていないのに、楽しんで尽きない。しかもどれも
浅くも薄くもなく、学藝世界に革命的な見解を打ち込んで説得の度は広く深い。こういう人の人生に触れるのはじつに嬉しい。しいて「駆り立てて」そうなって
ゆくのでなく、自然にゆったりとそう結実してゆくのだから素晴らしい。
* 寺田寅彦の回想もじつに面白い。
* 四月二十七日 土
* 望の月でしょうか、中天に浮かぶ朧ろ月。
最後の最後まで、花をかがやかせていた巨木が、みずからのふりこぼすはなびらにつつまれながら、しずかに倒れました。
齋藤史先生が、とうとう……。
昨日のちょうど今ごろ、まだ夜深いというか、明け近くというか。
史先生のたましひがふはり、地上を離れたとき、やわらかな、おぼろ月のひかりがひろがっていましたでしょうか。
身辺、いよいよ、さむくなりまさってゆくようでございます。
* 与謝野晶子以降の大歌人、真正の詩人であった。全うされた生涯と想うことで、黙送している。処女歌集 をのぞけば、斎藤さんの頂点の大きな一つは、「ひたくれなゐ」であったろう。わたしはその帯の文を書かせて戴いた。実に重厚に大きな栃の木の鉢を戴いてい るし、全歌集や単行の歌集も何冊も戴いている。普通の歌人にはどうしても、五・七・五・七・七と「数えた」ように、その上に「言葉が置かれ」てくるが、斎 藤さんの歌はそういうことが感じられず、音数句数など感じさせない渾然と一首であった。わたしは歌人と呼ばず、詩人と、より大きく呼んできた。
* 「とりかへばや物語」大団円、満足した。物語として首尾整い、巧みに構成・構築された構造的美観の豊
かな作で、美しい。面白い。佳い物語であった。繰り返し読みたい。「今尚侍」も「今大将」も、女に戻り男に戻り、揺るぎなき中宮と関白にのぼりつめた。好
色の宮の中将も、内大臣に。前の二人の宜しく書かれて端正優雅なのに比し、この好き者内大臣の評価はぐっと低く書かれている。人物はそれぞれに表現に統一
感があり、存在感はつよい。
次は曾読の「松浦宮物語」を読み返したい。
* 勝田さんにいただいていた湖の本のスキャンの、取り込めていなかった幾つかが、親機とともに消えた
か、MOで救われているか、いまのところ親機から子機へ戻して繋いだMOが、繋ぎ方を間違えているのか働いてくれない。余儀ないこと、新機械を手に入れて
設定し直すよりない。急場、電子メディア委員会の持っている機械を借り受けてでも、容量の心配なく電子文藝館を働かせないといけない。
* 四月二十七日 つづき
* 練馬から大江戸線で六本木の俳優座劇場へ。稽古場公演の「八月に乾杯」は、久しく村瀬幸子と松本克平
の人気二人芝居であったのを、岩崎加根子と小笠原良知が引き継いでの初舞台。女のリーダが、ひどく感じ悪い女で感じ悪く出てくる。感じの悪さをわざと岩崎
は感じ悪く表現し、孤独な外科医師ロジオンをいやがらせる。観客は自然ロジオンと同じ感じでリーダをみる。客はロジオンの身になり舞台にとけ込んでゆく。
小笠原は器用な役者ではないが、大きい。懐を深くして芝居の出来る素質、を持っている。今日の舞台では、大女
優と言っていい岩崎を、感じの悪い女から感じのいい女へ、ゆったりと導いてゆく。小笠原が佳いだろうと想ったのが的中し、岩崎は自在に舞台を創り上げて行
けた。それだけの厚い胸板と大きな掌とをロジオン役がリーダ役に終始差し出し得ていたのが、感銘の基盤であった。すばらしく見やすい三列目の真ん中に席を
もらって、妻は後半涙を流しっぱなし、しきりにハンカチを動かしていた。
六十数歳、危険信号の心臓をかかえた外科医ロジオンは、この町に、かつて戦場で外科医師として「戦死」させた
妻の墓を、ひとり密かに守り続けており、サーカス団で切符売りをしてきたかつて女優だったリーダも、同じ頃に、ただ一人の息子をドイツ人との戦争で「戦
死」させていた。
二人だけで、短い場面を幾つも幾つも綴り合わせてゆく舞台。演技が過剰でも不足でも調和はたちまちに毀れてしまう。
金を掛けない簡明な舞台をちいさく巧みに動かし回しながら、袋正演出は、簡潔に、適切であった。こういう舞台なら毎日
でもみたいなあと想わせた。わたしの頬にも涙はじわっと流れつづけた。
* 乃木坂下、ペンの事務局があるホテルまで歩き、妻をロビーに待たせて、引越しの荷造りで大わらわな事
務局に顔を出し、昨日秋尾事務局長から電話があった要談を済ませ、一応の結論を導く「秦」私見を聞いて貰った。要談の中身はここに書けないが、「電子文藝
館」に「買い」がかかったのである。だが、著作権上の問題点があまりに露わなのと、たとえ何かしら打開をはかるにしても、今日明日に結論をと日限が切られ
ていては、電子メディア委員会もひらけず、理事会や役員会にはかることも全然できない。
ついでに、申し入れておいた「委員会専用機」を荷造りして貰って帰る事にした。
想えば、乃木坂へは、今日がもう最後の機会で、名残の訪問であった。三十日にこの事務局は兜町の、自前のペンクラブ新
館に引越す。五月八日の電子メディア委員会はもう新館で行うのである。
* 青山辺ももうめったに来ないだろうと、妻と千代田線青山駅まで歩き、途中ラーメンが食べたくなって、
早めの夕食代わりに、縄のれんラーメン専門店に入った。久しぶりに麺がうまく、それ以上に、湯飲みについできた老酒が、失礼ながらこの程度の店にしてはな
どと思ったほど、べらぼうに旨かった。大いにトクをした気分だった。
千代田線で日比谷へ出、クラブはもう割愛して、地下道で休息かたがた冷たいコーヒーをのみ、有楽町線に乗り換えて保谷
へ。
車中で、小林勇編「回想の寺田寅彦」を最期の最後の弔辞の行列までみんな読み上げ、目頭が熱くなるほど涙を溜めた。真
に徳高き人の最期であり、死なれた人たちの悲しみが溢れんばかり一冊を満たしていた。
* 四月二十八日 日
* 梅若万三郎の「清経」ではなく、門弟の演目であった、それに気が付いた西武線の中で、思案し、この際
だからと、一駅分の大泉学園から保谷へ舞い戻り、地元の「フィレンツェ」で簡単な昼食。市の図書館分館に立ち寄って、ちょっと司書と、例のペン声明やアン
ケートに関連した意見交換をして、帰宅。
家の中は朝のうち冷え冷えしていたが、昼過ぎに保谷から帰る道々は、うらうらと、ぽかぽかと、うっとりするほどのお天
気で、思わず「気持ちいいなあ」と口にしたほど。
* これから子機の方に幾つかの試みをし、また持ち帰った委員会機械に一太郎などインストールして、電子文藝館の 作業に対処したい。
* 仏像と純ちゃん みうらじゅんの本業は、よく目にしていましたし、ウルトラマン世代の雀は、仏像と ウルトラマン、仏像と怪獣、と結びつける彼の絵に、興味本位、面白半分で、吉祥寺パルコでの展示イベントを見に行きました。10年ほど前でしたでしょう か。彼が小学生のとき作ったスクラップブックを見て、軽い物言いをして、おもしろおかしく描いてみせてるけど、違うな、と、襟を正し。それからなんとなく 気になっていました。先日のNHKの番組で、京の生まれ育ちと知り、やはり、と納得がいきました。一番は東寺ですって。行ってこようかな。
* 昨年来取り組んでおりました『IP?VPNのしくみ』がやっと出来上がりました。お手元に届きましたでしょう
か。対象は企業ユーザー向けとなっておりますが、第5章や第6章の暗号化あたりだけでもお目を通していただければ幸いです。
ところで、先生のホームページ一新されましたね。フレームを使うと多少画面の幅が小さくなりますが、操作性が向上しま
す。ずいぶんと使いやすくなったと、私は感じています。
一方パソコンは、あまり使いやすくなりません。私のメインで使用しているPCが2,3日前に突然故障してしま
いました。原因はマザーボードがダメになったようです。すぐに修理ともいかず、代替のマザーボードを入手してから取り組む予定です。その間は、ノートPC
で作業していきますが、予備のPCやWEBサーバの必要性を身をもって感じました。ではまた。
* 「マザーボード」とは何かが分からないので、事情は具体的に分からないが困惑は分かる。コンピュータ
を使い始めてから、四機使い、一機めはあまりに古い機械でだめだったが、二機めはそうでもなかったのに二三度も秋葉原に運んだし、三機目も運んだ。四機目
は組み立て機で、大きくて運べない。五機目はペンの事務局から昨日運んできた。
こんなことでは、まだまだ安定したインフラとは言われない。「みづほ銀行」のていたらくを見ても分かる。だが、それで
も、便利だ。どんなに仕事を助けられてきたか計り知れない。芝田道さんの著書が役に立ちますように。
*
外付けからスキャナーを外し、MOだけを取り付けることでMOが使えるようになった。スキャナーと交代してソケットを差し替えるのは面倒だが、いずれ、三
つ連携のケーブル設定を見つけだすだろう。そうなっても、ホームページの転送や、メールのタメには、外付けディスクの利用を一時断念して機械を「ネット
ワーク設定」に戻さないとインターネットが使えない。厄介だが、しようがない。
外付けとMOとが機械に連携すると、バックアップも取り出しも、たいへん便利になる。もともと周辺機器は、プリンタも
含めて、みなこの子機の方にあった。
* 四月二十八日 つづき
* 新潟で自民が負けた。田中真紀子が選挙応援をしなかったからと、自民は、何が何でも「真紀子いじめ」
にかかるらしいが、田中真紀子は、「参院選で群馬へむりやり応援に行かせて置いて、落選したらおまえの応援演説が原因で落選したのだと仰々しく査問譴責さ
れ、二度と同じことをやれば今度は除名するぞと脅されているのに、誰がそんな危ない真似が出来るものですか」と、当然至極の反撃をすでに始めている。これ
また、わたしは田中真紀子の方に賛意を表したい。群馬の落選で、あの査問譴責の時、わたしは憤慨した。何という党であろう。それにしても、田中は強い。辻
元清美は、田中真紀子のように井として頑強にジタバタすべきであった。あれは議員辞職の必要な事案ではなかった。加藤紘一は辞めて当然だったし、あの鈴木
宗男などのいまなお議席にへばりついているのは腹立たしい限りだが、今度は山崎拓が潰れるようだ。小泉総理の命運は絶たれようとしている。解散へも逃げ込
めない、勝ち目が見えにくくなっている、極端に。新潟の負け方はひどいものだ。
いくら田中真紀子を落とそうとしても、新潟からの田中真紀子はほぼ不死身だろうから、本人が辞職しない限り田中は衆議
院議員を続けるだろうし、「ザ自民」を自称する田中を自民党は除名できまい、反動は大きく、政局は、ぐらつく程度では済むまいから。
* 折しも佐高信氏が「泣くまえに怒れ」という本を贈ってこられた。辻元清美を反射的に思い出した。同時 に、いっしょに闘うと言っておきながら掌をかえして辻元に辞職をせまった党首土井たか子にも怒りがこみ上げる。党をあげてジタバタともっと闘うべきであっ た。自民党の悪ははるかにでかいのだ、それでもジタバタとしぶといではないか。彼らのしぶとさに「理」はないが、辻元清美には「理」が通せたはずだ。土井 の狭量と勇気のなさが露呈した。根があたたかい配慮にかける硬直した政治家なのだ、土井たか子は。
* 男は女はというおおまかな議論は好きでない。男にも女にもいろいろな人がいる。ほんとに、いろいろな
人がいる。会社員だったむかし、「男は嫌い・女ばか」と、ま、思っていた。「女ばか」とは「女好き」の意味で、裏返せば、聡明でなく「かしこがる=我は顔
の」女は嫌い、という意味だった。「男は嫌い」とは、男同士は、いやでもいろんな場面で競わねばならなかった、それが気重だとの意味であった。
男の場合、「ごますり」と政治家の国民無視だけは、断然嫌いである。ほかは、たいてい目を背けて済ます。つまり、他
は、たいてい、その場になれば自分でもやりそうだから。
男にしろ女にしろ、これと、決めつけられる物でない。自分で自分を「うそはつかない」の「善人である」のとい
う人がいたら、男でも女でも、とても、好きになれない。そんなことは、他人が言うことだ。人はふつううそつきだし、十人に九人以上は善人などと言えはしな
い。せめては、見え透いた言い訳はしないようにしている。
* 親機のディスクはもう「無い」と決まった。親機はもう使えないが、目下はADSL設定がされていて、
それが子機も支配しているので、急に取り外してしまえない。別の本体だけを買ってきて、業者に再設定して貰わねばならないだろう、金もかかり時間もかか
る。いまの親機のハードデイスクを買い換えて付け替えるのが順当だろうが、私にそれは出来ないし、忙しいに決まっている組み立て人の布谷君も煩わせ得な
い。業者に頼むことも出来ない。
* 四月二十九日 月
* 湖の本70巻を祝す 「懸想猿」正・続は湖の本で出版され 多くの読者からの感嘆の文面をホーム
ページで次々と拝見しています。当地地方紙(別送致します)に 恩田雅和氏が今月の一冊として紹介しています。私も着本後すぐに再読、のちに小説になった
「猿」は疎開生活という惨めな体験を思い出して強く印象に残った作品でした。「清経入水」や、「マウドガリヤーヤナの旅」とも重なって感銘を新たに致しま
した。*
* * *さんからもすぐに拝読した事を知らせてくれました。
「根来寺の能面」展があり 招待日にゆっくりと観て来ました。「小面」や、「孫次郎」と共に 紀伊徳川家伝来
の「満媚」という初めて知った名の古い能面、頬が引き締まり、口角も下がり気味で媚びたところがなく、上品な女性を表した面で「小面」より少し年長のよう
ですが飽かず見ほれてきました。
「美術京都」のご鼎談を拝読しながら、先日の京都創画展のことをあれこれ思い浮かべています。美術は美しいも
の、という単純な理解があります。会員外の作品の多くは、私には美しいと感じ取れない。鑑賞眼の低さでしょうが、どういう見方をしたら良いのかと強く思い
ます。 パソコン やっとやっとです。
* 朋あり遠方より。そういえば「美術京都」での「日本画」鼎談ももう刊行されていた。まずまずか。
* 終日機械に触れていた。電子版「湖の本」のスキャン原稿のままでいいから、該当頁のファイルに組入れ て置きたいと思うのが、量の多さと重さとで、はかばかしく行かない、神経をつかう。不具合も発見する。他と同じように転送して、「成功」しているはずなの にサイトの上で見あたらない、出てこないファィルが有る。出ないと思っていると出ていたりする。
* ペンの機械でやっとCD-ROMドライブが動いてくれて、早速必要なソフトをインストールし、勇躍ス キャナーを繋ごうとしたが、接続ケーブルのピン数が適合しない。機械はともにシャープ製品なので楽観していたが、合わない物は何としても合わない。頭が混 乱してくる。仕方がない。
* 今ひとつ、勝田さんからのスキャン原稿を子機で開いてゆくと、此の機械では全部WZEDITORが受 けて開く。それをホームページに「転記」すると、テキストで移らずに図版として行ってしまい、どうやってみても「校正可能」な原稿として送り込めない。ど うとかすれば、変換できるのだろうが、手順が分からない。これで作業がガンとして前へ進めない。親機には、以前「秀丸」を布谷君が入れていってくれ、辛う じてどうにか成っていたのが、秀丸も親機と運命をともにしてしまった。
* よく分かった人からは可笑しいほどのモタツキようだが、これもこれなりの境涯で、E-OLDの面目ではないか
と勝手に胸を張っている。自分の仕事も電子文藝館もまさに「連休」体制。いいではないか。
* 四月三十日 火
* 晩春。春昼微雨とも、この前の「湖の本」の挨拶に添え書きした。鴉が飛んで鳴き交わしている。
* 昨日は肌寒く、夕方には雨も降りました。そちらは上天気のようですね。
GW中に、「天神さまの美術」と「榊莫山展」、そして見たかった台湾映画「聖石傳説」のために、名古屋へ行こうと思い
ます。
GW明けには香港映画「少林サッカー」が封切られます。これも見たい。くッだらない、しょうもない、マンガみたいな、
おバカ満載、香港お得意爆笑映画で、涙流して笑うンだ。
* いま「涙流して笑」いたい、笑っている日本人が多かろう。有事法、メディァ規制法。イヤな流れがそのまま濁流 化している。斎藤史であったろう、時代の「濁流」をみつめて歌った若き日の詩人は。
* 一月末日から四月二十四日までのメールと同時に、メールアドレスをみな失ってしまった。この私語を聞き、思い 当たられる人は、もう一度メールを下さい。子機にアドレスが入っていないので。
* 有島武郎と永井荷風の作品をスキャンした。荷風は戦後に亡くなった作家であるが、わたしは、昭和十年 以後に亡くなっているしかも「招待席」の「例外」を、五人だけゆるして貰おうと思っている。葉山嘉樹、永井荷風、泉鏡花、太宰治。もう一人は、大事にとっ ておきたい。この四人らなら、いない方が淋しい。
* 会員の山中以都子さんから、上等の詩編が出稿されてきた。この詩人の作品にははやくからわたしは心惹かれてき た。「訣れまで」八編、荷風、武郎の小説とともに、掲載を急ぎたい。
* 五月に芹沢光治良記念館で、六月に沼津桜桃忌で、講演が予定されている。「死者との対話」をめぐっ て、また「太宰治と私」に関して。三省堂の書き下ろし仕事が、手をつけたと思うや機械のダウンで頓挫し、気分が甚だよくないが、それもあり、湖の本の新刊 の用意が大幅に遅れている。今年は桜桃忌に出せそうにない。
* 明治座の「居残り左平次」に招待された。これはぜひ観たいが…と、一瞬他の予定との差し合いに胸が冷 えたが、時間差がぴたりうまく繋がって、オーケー。つかこうへい氏が手塩に育てたと聞いている、風間杜夫と平田満が張り合うらしい、楽しみ、楽しみ。そし て晩には、辰之助の「尾上松緑」襲名口上と勧進帳が待っている。舞台二つ、観客として妻が元気に持ち堪えてくれるのを祈りたい。「涙流して」笑ったりしび れたりしたい。
* 明日はメーデー。インターナショナルの歌声も遙かに遙かに遠のいた。だが、わたしの政治的なものの考
え方は少しも基本で変わっていない。わたしは、民主主義者であり現在の日本国憲法の基本を尊重している。国民の「私」を尊重しない「公」などを<容易くは
容認しないのである。
* 四月三十日 つづき
* 午前中の青嵐が止んで、つくばは雨になりました。
濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ 齋藤 史
「有事法、メディァ規制法。イヤな流れがそのまま濁流化している」というおことば通り、イヤな濁流が、すぐそこに
迫っているような。
暗澹たる思いがいたします。
亡き父が、ロシア文学の徒というだけで特高に追われた時代に逆戻りしそうで、怖ろしうございます。
大勢のひとが血と涙であがない、わたくしたちに贈ってくれた「自由」は、たった、五十余年で、失われようとしていま
す。血と涙を流してくださったひとびとに、何と言ったらよろしいのでしょう。
しずかな雨のけはいに、亡き魂を感じております。
* 斎藤さんの夫君は、2.2.6事件に連座された軍人であった。自決し又死刑にされた青年将校達は少女
であった斎藤さんのいわば友だちであった。上の歌は、斎藤史の出発を告げてほとばしり出た痛切な批評であった。「ひたくれなゐの生ならずやも」と歌った人
の根底の視覚である。
*「ペン電子文藝館」には、当然のことに、難しい問題が幾つもある。当初から気づいていながら、起動にノルまではと目を
つむっていたことも有る、幾つも。
一つには、テキストとしての再現精度であり、これは、現況では万全をはかりがたく、誠実な「対策」で凌ぎつつ、原拠の
原稿を精神的に逸脱しないように、入念に努める以外にない。
今一つは、ウェブ上の著作権をどう防衛し自衛するかだが、これはもう、前の問題以上に難しい。委員会の大きな課題がこ
こへ集まるだろう。
電子文藝館が、おいおいに会員による手持ちストック原稿のはけ場に用いられることで水準が下がって行きはせぬ
か、と心配されている委員もある。わたしは、そんな事もあろうと、だから「歴代会長」「物故会員」「招待席」に執着したのだ。質的水準を保つにはそれが有
効なのは確実である。今のところ成功している。理事役員達の出稿が鈍いのにも、いくらか心理的に、他との比較で安易に作品は出せない遠慮や思惑が、自身の
ぐらつきも有るかも知れない。「あれほどの中へ」うっかり自分の原稿を持ち込むのは「遠慮です」とわたしに云った会員も何人もいる。それはそれで「いいこ
と」と思っている。読者のためにも、現会員は誇らかに最良の「自信作」を出して欲しい。
歴代十三会長の作品中、十人の作を、わたしは、選んでお願いした。無理だろうなあと思いつつ「最良を」と思っ
た。石川達三、遠藤周作二氏の作など本当に代表作なのであるが戴けた。感動した。現会員では、木崎さと子さんの芥川賞作品など、申し訳ないほどいささかむ
りに出させて戴いたが、文藝館のためには大きな重い土台の一作になっている。同じことは谷崎先生の小説にも福田先生の戯曲にも、より大きく言えるのであ
る。
「ペン電子文藝館」を、わたしは真の宝石箱として大切に作をあつめたい。だから、意識の半分以上を、今は、
「物故会員」「招待席」にかけて、現会員からは自発的に自愛自負の作品の届くのを「待つ」姿勢でいる。その姿勢のまま、むろん的確な「出稿依頼」も続けた
い。質的水準をわたしは極めて重視している。だが顔をしかめるようなのも混じってくる。
委員の森秀樹さんから、大切な提言がメーリングリストに出されていた。有り難いことであり、皆で謙虚に大胆に考えてゆ
きたい。
* 五月一日 水
* 有島武郎の「An
Incident」と永井荷風の「花火」をスキャンし校正した。それぞれに興味深く読んだ。
有島を「観念の作家」というと、わるく謂うように日本では取られるが、観念は、西欧の作品では重い意味をも
ち、大なり小なり観念的な深みに感銘の理由をもっている。ゲーテでもシラーでも、ホフマンのような作家でもそうだ。トーマス・マンに至るドイツの作家達ば
かりではない。シェイクスピアもアンドレ・ジィドでもそうだ。日本の作家は観念をむしろ苦手にし、そのついでに観念的という姿勢を鍛える前に排斥してき
た。有島武郎は観念を表現した珍しい作家の一人である。観念的なものを忌避した例えば広津和郎が、有島を頑固に認めようとしなかったのはその辺の事情を対
蹠的に見せている。こんど「ペン電子文藝館」のために採り上げた有島の短編は、書かれていることは具体的である、が、夫の心理の推移に焦点を絞りながら
の、「苦渋の孤立感」の持ってきかたには、観念操作を経ている。どう受け止めるかは読者によるが、一字一句を校正しながら読んでいると、有島の生苦の重量
感がひしひしつたわって来る。
永井荷風の短編「花火」は荷風という作家の転回点を明示しながら、峻烈に日本の近代社会の「濁流」化を批評し
ているが、むろん、批評あらわな「藝」の無い作ではなく、巷に隠れた市隠のさりげない姿勢と物言いから、恐ろしいほどの皮肉を利かして文学者としての底意
を見せている。佳い作品なのだが、「略紹介」を書き始めて、没年を十年早く思い込んでいたのに気づいた。太宰治と混同していた。荷風が亡くなったときわた
したちは新宿河田町で新婚生活をしていた。「招待席」にぜひ欲しい作家であり作品なのだが、遺族と折衝できるかどうか。筑摩の現代文学体系で読み返した
が、全集本奥付に「永井」と検印紙が貼ってある。ペンの会員ではなかったし、作品を寄付して戴くことは難しいか。
* 機械の重くなるのを覚悟で、この子機にも、ヨクできていると評判の、新しいウイルス防止ソフトをインストール
した。そのかわり、多くのアプリケーションを機械から割愛した。メモリの残がすくなくディスクの容量も危険水位にあるからだ。
* 五月二日 木
* 快晴の五月。昨日はメーデーのメの字も見なかった。荷風は花火、祭り、の連想から、日本の祭礼がいつ
しか社会的な祭りへ動くに連れ、提灯行列や万歳やなにやかやと変容してきた明治以来の推移を、淡々と回顧している。そして近代社会と政治との汚濁や混乱
を、仮借なくしかしさりげなく「示唆」している。大正七八年の作である。
藝者組合が祝祭に乗じて練り歩いたところ、見物が殺到し、果ては藝者達を路上暴行凌辱、いのちからがら悲鳴を
あげて藝者達が逃げまどい、悲惨な被害者がひた隠しの中で仲間内で見舞われていたとも荷風は書いている。狭斜の巷にあえて沈倫していた荷風ならではの情報
であり、批評の言葉はほとんど書かれていないのに、その意思も意図も、つよく伝わってくる。
以来、ほぼ百年。日本は、「また新たな戦前」の抑圧時代にさしかかっている。
* 「歌人のイメージが強かったものですから」「シナリオ研究所に通われ、シナリオをお書きになられてい
たとはまったく存じ上げませんでした。おどろきました。電子メディアといい、まったく多彩ですね」と、ペン理事の一人から手紙をもらった。歌集「少年」か
ら出発していたのだから、また短歌に関して発言し続けてきたのだから、そういうことも、有るわけだ。
そのシナリオ「懸想猿」を、「和歌山新報」紙上で写真入りで大きく紹介してくれているのを、三宅貞雄さんが送って下
さった。親切な紹介で有り難い。
* 先日、文藝家協会事務局の電話で、ある人が「入会」申し込み書類を送ってきた推薦欄に、梅原猛と秦恒 平の記入がある、が、同筆で、二人とも捺印は無い、覚えがありますかと問い合わせてきた。申し込んだという人の名前は知っているが、文藝家協会に推薦署名 した覚えは全くない。梅原さんも無いだろう。放埒な勝手を平気でする人がいるものだ、呆れた。こういう人が自称文芸雑誌を称して主宰していたりする。
* 千葉県の高校の先生が「月刊国語教育」にまた漱石の「こころ」について書いたのを送ってこられた。手
紙があり、わたしの「こころ」の説が、小森陽一氏の発表よりも時期の早かったほんとの「新説」であったことを知り、「驚きました」と。よく誤解されている
が、小森氏の説が公表される以前に、氏からの驚きと興奮の手紙を貰っている。わたしが、上の、三宅貞雄氏に出して貰った五十歳記念の豪華本『四度の瀧』の
跋文に書いていた「こころ」の新説を読んでの手紙であった。その時には電話でも小森君と話している。自分もいま同じような趣旨の論文を用意していると書か
れ話されていたのである。
「私」と「奥さん=静」との男女関係や子供や結婚にまで最初にはっきり言及したのも、わたしであった。そのお陰
でずいぶんあちこちでやられていたようだが、今日では、もう否認できる人は居ないも同然になっている。わたしは学者ではないから、学界でのオリジナリ
ティーなどどうでもよいが、事実はその通りだったのである。
* 五月二日 つづき
* 太宰治作品から「桜桃」と、佐高信氏新刊から、「お任せします、宜しいようにどうぞ」とのことであっ
たし、佳い読み物、感動編を一章分、抜粋させてもらった。直前にスキャナーが云うことを聞いてくれず、途方に暮れた。「不正な処理をしたので強制終了す
る」というのだが、何が不正な処理か思い当たらず、ブチキレそうになるのを我慢して、ソフトをいったん削除し、再度インストールし、マニュアルをひろげて
設定し直した。それでも、どこをどうしたから元へほぼ戻ったのか、結局分からない。
だがわたしの手元でスキャンが不可能となると、じつは「電子文藝館」は事実上立ち往生となる。この仕事に準専
従できる人は、委員にも、一人もいない。余儀なくわたしと妻とで入稿までの作業をし、業者の手でテストサイトに掲載の段階で、割り振って「常識校正」して
もらうが、みなさんお忙しいと分かっているので、とても遠慮である。自発的に甲府放送局からいつも局次長の倉持光雄委員が、読んでは訂正してもらえるの
で、助かっている。わたしがお手上げになったら、例えば機械が壊れ、スキャンナーが云うことを聞いてくれなくなったら、この事業、どうなるか。今日半日、
奈落を覗いたように寒くなった。
そうはいえ、スキャン作業は、たまらなくめんどくさいものの、作品の校正は楽しめる。優れた書き手の一字一句から多く
の感想が去来し、ウズウズする。
* 布谷君から電話が貰えて、ほっと一安心した。ディスクの全破損か部分破損かは前者寄りの予測だが、大
方はMOディスクにも残してあるし、ハードディスクの入れ替えで事が済めば有り難い。ディスク持参で明後日に行ってあげるということで、地獄で仏の思いが
する。この子機の仕事の遅さ・重さにはまいってしまう。
相次いで子松君が会いたいと電話をくれたので、明日昼前に池袋で昼飯を食う。恵比寿の演奏会で顔を見て以来だ。山登り
よりも音楽らしい、この頃は。
* 「ダーティ・ハリー」4 を、とびとびに見た。以前にも見ている。このシリーズはイヤではないが、暗い。中でも今夜の映画は、ソンドラ・ロックとの共演がかなり陰惨な復讐劇で、し んどい。だがそれなりに何かに迫っている意欲は買える。二人の共演では「ガントレット」の方がすかっとする。殆どが夜の場面。暗いのも当然だった。
* 定家の「松浦宮物語」には、浮かぶような陶酔感を誘う魅惑はうすく、固く、男性の書く物語はこんなふ うになるという、見本のよう。浜松中納言にかなり影響されていて、中国の后や皇女との幻想的な恋が書かれる。なまめかしく、ひたぶるな情感で夢うつつの出 逢いが書かれて、この辺も女の物語よりせまっている。二度目の読みだが、昔読んだよりも面白く感じているのは、わたしの古典の修行もすこしは進んでいると 云うことかな。
* だが、やはりバグワン。降参する。
* 「出稿者が少なくて秦さんの顔が立っていない、とのことでもあるので」と、小説を出稿してくれた会員
がいた。理事の何人かがそんなふうにいって、その人に薦めてくれたのらしい。有り難い。ただ、見ても分かるように、開館五ヶ月で百人というのは、当初一年
間の目標だったのだから、わたしの顔は大いに立っている。目が回りそうな半年であった。さらにどしどし原稿が集まるだろう、わたしの願いは質の高い作品の
集まることである。いろんなジャンルがそろって欲しい。
* 五月三日 金 憲法記念日
* 憲法を祝うのが偽善的に恥ずかしくなるほど、国や公により憲法の精神は蹂躙されつつある。主権在民、 基本的人権、戦争放棄など、憲法の根幹をなすところが、盗聴法、有事法、人権擁護法、個人情報保護法等により確実に冒されてゆく。名は体を逆に陰険に現し ているこれら法律・法案の名に騙されず、政権与党の狡猾な詭弁にも絶対に騙されまい。
* 路地 子供が道へ飛び出すのを防ぐため、足の形をしたマークが、当地旧い街のあちこちに、真ッ黄色のペン
キで描かれています。こンな細い道を人が通るの? 奥に人が住んでるの? 入る勇気が無いまま。
秦さんのお作でも、たびたび路地の話が出てきますし、先日、戦前の神田に生まれ育った渡辺文雄さんの文を読みました。
私には遠い世界です。高度成長期で、路地がなくなったせいもありますが、あれは地元の人のもの。よそものにとっては、
見えていても見えない道。出ていきたくない道。今でも通るだけで冷汗が出ます。
* こういうものなのかと、路地いっぱいの街で育ったものは驚く。先日も、京の祇園町の路地から路地で遊 んだ昔を「ぎをん」というタウン誌に書いた。東京でも路地の生きた町並みは、上野、浅草、佃島などいくらも見られるが、激減し、雰囲気も変わってきている のは確かだろう。路地は「地元の人のもの」か。謂えていると思う。わたしの育った京の家のワキにも抜け路地が通っていた。外から祇園町へ入って行く、祇園 町から外へ出る、そういう路地だった。あの路地のある生活感は、体臭のようにわたしの感性にしみついている。その路地をぬけて、先代幸四郎一家は南座の顔 見世に出演していた。新門前通の旅館「岩波」に一家はよく泊まっていた。行き帰りに、わたしの父の店で乾電池などを買ってゆくこともあった。今の幸四郎も 吉右衛門も小さかった。お父さんにして、まだ市川染五郎であったかも知れない。
* 昼前に、池袋で子松時博君とひさびさに逢い、パルコの「船橋屋」で天麩羅と甲州の酒「笹一」をご馳走 した。ひとしお細く背が高くなっている気がした。もう二十九だという。光陰矢の如し。しかし昔とすこしも変わりなく歓談二時間。五月末の恵比寿での音楽の 催しに誘ってもらい、新しい仲間達のことも聞いた。山登りより、このところ音楽寄りであるらしい。珈琲もご馳走して、喫茶店でさらにお喋りを楽しんだ。池 袋の人出、たいへんであった。
* けさは黒いマゴに四時半に起こされ、そのまま起きて、太宰の「桜桃」を校正し、夫馬基彦会員の小説を通読念校
したりしたので、体力も考慮し、子松君と別れるとそのまま家に帰った。
* 五月三日 つづき
* 「新潮」巻頭に甥が、黒川創が長編を発表しているのに、ふと目が届いた。あやうく見過ごすところだっ
た。まだ通読に及ばないが、ロシアだの「湖」だの「鏡」だのと、わたしの『冬祭り』を思い出させるワードが惹句に謳われていて、おやおやといった妙な気分
になる。詳しく読んでいないから何とも謂えないが、ロシアへの旅で不思議の少女と出会うのは『冬祭り』の「法子」がそうであり、かの地ロシアで様々幻想的
な愛の物語が展開する。黒川が、何を、どう書いているのか、読み進めたい。
出だしのアタリは、すこしこれまでと手触りがちがい、ザラザラしている。いい文章を読みたいものだが。ねばり強く頑
張っているようで頼もしい、嬉しい。よい作品でありますように。
* ラボ教育センターの請いで昔に書き下ろした「なよたけのかぐやひめ」を読みなおしている。
* 秦先生 世の中、ゴールデンウィークですね。観光地に住む身としては、内心あまり有り難くない季節ですが、鮮
やかな若葉の色や香りに包まれていると、そんな思いを慎まねば、という気もしてきます。
「山粧う」は秋の季語でしょうが、今のこの季節の若葉も様々な色を示しますね。
そうそう、秦先生に一度伺おうと思っていたのですが、春は「山笑う」秋は「山粧う」冬は「山眠る」 夏の山はどんなこ
とをしているのでしょうか。夏だけ思い当たらないのです。
随分とごぶさたしておりました。
「仕事と育児の両立」という言葉は大嫌いですが、今の私はまさにこういう状況にあるようです。
正直なところ、仕事をしている間は育児をしていないのですし、子どもの相手をしている時は仕事はしていないの
ですから、どちらも手抜き(主に育児のほうですが)をしているに過ぎないのが働く母親の実情のように思っています。決して「両立」なんてことはあり得ない
ですよね。
育休をとっている間にずいぶん考え抜いて、仕事を再開したつもりでしたが、それでも押し寄せる現実に自分を見失うま
い、と踏み止まるだけで精一杯の数カ月でした。
どうやら私は、同世代の他の女性よりも「遊び嫌い」のようです。学生時代に歌舞伎だコンサートだと遊んでいた
身としては、先日、指摘されて少し驚きましたが、確かに何日間でも家の中にこもっていても苦痛でないことは確かです。子どもを生んだ女性が、家の中にいる
と息が詰まる、などと言っているのを聞いてもピンときませんし。
家の中でも本を読んだり、調べものをしたり、おいしいものを作ったり編み物をしたり、庭仕事をしたり、たくさんの楽し
いことができますよね。つまりこの性向は、専業主婦向きなのかもしれません。
毎日、私が帰ってくると満面の笑みで迎えてくれる娘を見るにつけ、「仕事をやめようかな」という思いが頭をよぎりま
す。そのときに、家にいるの好きだし、とさらに後押しされるわけです。
けれど、仕事をはじめて5年目。特に職場に復帰してからは、急に仕事が面白くなりはじめたのです。教習所で免
許をとっておっかなびっくり運転していた自分ではなく、自分の手足のように車を動かす、そういう時期が来ますよね、暫くすると。ちょうど、いま、仕事上で
その時代が来ているようです。そしてそこで得られる知識、思考、方法論などは、子どもに伝えてやりたいものでもあるのです。
そうは言っても、仕事をやっていれば「なんでこんな下らないことに時間を割かれるのか」という日もあるわけで
して、そんな日は「仕事をやめる!」に大きく気持ちが傾きます。そのあたりのバランスをどうにかこうにか飼いならしつつ、ようやく秦先生にメール差し上げ
る余裕ができてきたので、さっそくお便り差し上げている次第です。
ホームページで拝見しましたが、子松君、お元気なのだそうですね。実は、彼とは同じ学科の同期です。一度もお話したこ
とはなかったのですけれど。それでも、かつての同級生のたよりを聞くというのは嬉しいものですね。
あの頃にはほとんど感じなかった男女差ですが、社会に出ると、やはり男性陣のパワーに圧倒されます。そんな思いもあっ
て、女が子どもをおいてまで仕事を続ける意味がどこにあるのだろう、と考えこんでしまうのです。
先生の「男は嫌い、女はバカ」言い得て妙ですね。わたしも「おバカだな」と言われる女でいたい一方、仕事の上では嫌わ
れるくらいになるべきなのでしょうけれど。
あいかわらずのご多忙、どうぞご自愛下さいませ。まぶしいほどの五月を堪能なさいますよう。
* しっかりと便りらしい便りをもらったという手応えがある。安心して聴ける佳い「挨拶」である。夏の山は「山燃 ゆ」であろうか。最近読んだ夏の歌に「山喘ぐ夏」という句があった。木を伐り過ぎた山か。
* 寺田寅彦の長女が幼い頃、父寅彦から天文の話をしてもらいながら、宇宙が無限だなんてこわくて気味悪 く感じると感想をもらすと、寅彦は即座に「宇宙が有限であるほうが、よっぽど変で気味が悪いよ」と話したそうだ。これは端的で、わたしは、小手をうつ気分 でその「回想」を読んだ。
* 「松浦宮物語」読み上げた。
一の感想は、全体が、とは言わないが、後段に入ってすばらしく文章の佳いことに気づいた。文章として書かれて
いない物語は多い。物語られているのだが、「松浦宮物語」はさすがに定家という最初の専門歌人というか文学者の意識が、文章表現にも集中しているのが分か
る。感心した。簫女と皇后とがイメージの上で入り乱れながら、幻想的な愛欲の場面がつづくあたり、定家の文章はきもちよく潤って妙である。
もう一つ、特色は、国と朝廷の存亡にかかわるほどの戦闘場面が書かれていることで、あまつさえ、日本から渡っ
た遣唐使の中でも年少の主人公が、住吉の神に守られて強豪の敵将を斬り捨てる場面など、およそ王朝の他の女物語では想像も出来ない風変わりな場面である。
戦争嫌いを日記「名月記」に言い放っていた定家が、事も有ろうに戦乱戦闘の場面を不思議の恋の物語のなかに書いている。
「松浦宮物語」の三つ目のつよい印象は、歌のうまいことだ、これは当然としておこう。もっともこの物語を書いていた頃の
少将定家は、出世は停滞し、歌作はいたって不評で鬱屈のさなかであった。だが定家らしい濃厚な措辞でみごとに心境を表現し得ている例が多かった。
「うつほ物語」の最終巻が届くのを待ちわびている。
* 五月四日 土
* 浅草の望月太佐衛さんから、くわしい近況といっしょに浅草小桜屋のかりんとうを戴いた。あの中村屋の 濃厚な大ぶりのかりんとうではない、華奢に色好くできた、小さい細い菓子で、品がいい。そして、あっさりとアトをひく魅力の味、妻にわらわれながら、つい 一袋を、夕方に少し、夜に残りみんな食べてしまった。てきめんに血糖値はグレーゾーンの上の方へ。この数日、120台を上下している。いかん。
* 竹取物語の世界をただよって頭の芯がやわらかい。
* 表面家庭苦を書いたように見える有島武郎の短編「出来事」と太宰治の短編「桜桃」と。小説合せふうにどっち
かの肩をもつとしたら、どうか。比較に堪える問題を両方ともいろいろにもっているが、一つ共通して謂えるのは、成った作品でなく、「つくった」作品だとい
う事。こう書こうという最初に方法的なものが意図して働いて、作者はそれを追っている。その追い方に、太宰は己を用い生かし、有島は己を抑制して意図を生
かそうとしている。さすがにどっちも旨いが、太宰には見せる芝居気が露わになり、有島は苦渋という薬品をのみこみなから自分の中で起きる薬効を確かめよう
としている。ともに観念的な作品である。小説合せとしては「持=引き分け」と判定せざるをえない。
* 五月四日 つづき
* 昼過ぎ布谷君が家まできてくれて、親切に新しいハードディスク(40G)を入れてくれた。作業はすこ
し難航した。前のディスクは完全に破損していた。なぜか、最終的にやはり「電源を切る」のがうまくなかった。余儀なく、MS-DOSプロムプトから切るこ
とにした。不具合の原因にならないことを祈る。
今、新しくソフトを入れ始めて、大方はうまく行くのだが、転送にぜひ必要なFFFTだけがうまく設定できな
い。前にも、とことんてこずったので、脂汗が流れそうだ。設定できたときは設定事項を「メモ」して置かなくてはと思いつつ、ついその日その日の仕事が優先
してしまい、こうなってから、後悔する。
* 俳句も短歌も、もっぱら受け手の方におりました。時折、「らしきもの」を作るために言葉を並べ、ああ、自分に
は才能がないな、と溜息をついておりましたので。(そればかりはわかるのですが)
ただ、自分の思いを表出するために言葉を探す、という行為は、純粋に快感ではありますね。
最近、がちがちと思われがちなあの学問の世界ですら、得られるものは実に官能的な快感であることに気がつきました。人
間は結局、官能的快感に結びつくもののみを追求してきたのかもしれません。
お言葉に甘えて下手くそな手すさびを、ときおり送らせて頂こうと思っております。
山藤の間借り上手や友に似る
春蝉の突然鳴く夜ひとり飲む
髪洗い 実験結果を解き放つ
出土したばかりの漆器に風薫る
* 第三句が面白い。上の感想も面白い。
* 「初めてのお使い」という佳い番組が有る。今夜は傑作特集だったが、そのなかに叔父さんの楽屋へ、鼓
の締め緒を一心にかけて届ける女の子がいた。あのお母さんが、昨日かりんとうを送ってきてくれた望月太佐衛さん。締め緒を受け取ったのが望月流家元の太左
衛門。届けるだけでなく、また駆け戻って自分の勤めの舞台。みごとに太鼓を打ち、終わってほっと笑んだのが、すてきに可愛かった。小十年前のフィルムで、
今は中学生。あんな年少で、母のアトを追うべくみごとに太鼓を打つ。藝道である。
他の「お使い」もみな、感動した。
* 五月五日 日
* 黒川の小説をなかなか読み進めない。スーリーとの相性なのか、すぐ飽きてしまう。ストーリーがなかな
か見えてこないせいもあるが、余計なことを書きすぎているのかも。最初の十分です、勝負は。映画監督もシナリオライターもそう教えてくれた。必ずしもいつ
でも何にでも適当な説かどうか断言できないけれど、本人が満足しているほど読者は作者の知識や見識に乗ってきてくれない。乗せたければ文章の妙で引きずり
込むしかなく、それは容易でないが、文学作品の決戦すべき要所だ。但し文章の妙は、時代や年代で受け取りかた、受け取られかたがマチマチになる。鴎外や露
伴の文章なら誰でも感嘆するとは限らない。また長く書けばいいというものではない。冗漫は、長編になら許されるというわけではない。短く書ける作品はより
短く書き上げての「藝」なのではなかろうか。短くて済む話を長く引き延ばすのは、欲でこそあれ、藝ではない。「読ませる力」が大切だ、どんな時も。
新潮には小島喜久江さんという編集者がいた。わたしの出逢った中で、編集者としてもっとも厳しく最も優れてい
た。言われることの一つ一つが的を射ていて、作者を黙して反省させた。口に出して多くは語らないが、鉛筆のひゅっと引いた線だけで、よく考えよと指摘して
くれた。自分で考えよと。小説に瑕瑾を許さなかった。不用意な口語体が文章にまじるのでも、黙って指摘した。例えば「花みたいな人」なら「みたい」にすっ
と線が引かれた。今の小説は瑕瑾だらけで満身創痍になっていて、だから文章の底光るファシネーションを失っている。その文章を読んでいるのが嬉しくて堪ら
ない、ストーリーなど二の次だと言うほどの文体の魅力が必要なのに。真の文豪にはそれがあったし、ただの売れっ子にはそんなのは無い。フワフワのポンのよ
うなものだ。ふくれた砂糖菓子にすぎない。 黒川にはそうならないで書ける才能がある、はずだ。「きみは書けるよ」と、励まし勧めてきた、小説への道を。
少年の昔から。やって欲しい。
まだ読み上げていない作をとかく言うのは当たるまい。しかし、いい作品は全部読まなくても分かるし、良くない作品の九
割九分は、出だしから分かる。良い例外であって欲しいナと願いつつ、ゆっくり読み進めている。
* 暫くぶりに親機で音楽が鳴っている、ベートベンのピアノソナタ、情熱。だが肝心要のホームページはまだ「転
送」出来ない。転送ソフトの設定ができないので、ダウンロードしてくることも出来ない。じれったい。
* 五月五日 つづき
* 滋賀県能登川躰光寺の読者から、わたしの生母・生母の里にかかわるいろいろを、分かりよく教えて貰っ
た。わたしから頼んでいたのである。母の姉が家を継ぎ、その嫁にあたる人阿部一枝さんとは、わたしも一度逢っているが、もう九十歳、入院されているとい
う。母は或る大きな家の分家に嫁ぎ、一女三男の母になってから夫に死なれ、その後に、兄北澤恒彦やわたしの父にあたる吉岡恒と出逢った。彦根高商の生徒で
あった吉岡は、母からすれば長女と同年齢。下宿させていた書生であった。
母の嫁ぎ先の本家二階建ての母家は、文化財指定を受けていると。それだけを思っても恒彦を産みさらにわたしも
産んで、先夫との四人の子を置いたまま京都に趨った母の「立場」のわるさは、推察にあまりがある。これだけを書いて、すでに小説の世界であり、だからわた
しは書きたくないのである、そのままは。
まだまだ多くを教わっている中で、長女が、つまりわたしには年かさな姉が、没後の母のために建てた歌碑が、い
まもそのままに建っているという。わたしも、その歌碑は二度見ている。能登川から安楽寺へ、かつて朝鮮通信使が道中した古道に沿って、高さ一八三センチ、
横七一センチの仙台石に歌一首が刻されている。
此の路やかのみちなりし草笛を吹きて子犬とたわむれし路 鏡子
「鏡子」は筆名であった。裏に「昭和三十六年二月二十二日昇天 阿部鏡子書」と。この歌は、はやく、講談 社の「昭和万葉集」が出たおり一文を求められたときに、他の十首ほどとともに遺歌集から選んで紹介した。本巻には採用されていなかったろうから、せめて私 の手で、栞の中ででも「昭和万葉集」に仲間入りさせてやりたかった。わたしの歌集「少年」からも何首かが選ばれていた。
* 母達のことを書き出せば、とてもわたしはペンクラブだの文藝館だのをやっていけないだろう。没頭して しまうだろう。わたしは、フィクションのフィクションらしいものが書きたいのかどうか、いつも、母達の強すぎる圧力におされて迷いがある。昔は、親を愛さ ないことで、書くための抵抗力を持っていた。今は愛しているなどとは言わないが、言葉は品がないが赦してしまっているから、すこししまつがわるい。同じこ とは秦の親たちにも謂えるが、これは、丹波、もらひ子、早春をあっさり記録してしまうことで「卒業」し、今では位牌の前を通るたびに、可笑しいほど心から 感謝のあたまを下げている。
* 京都神宮道の星野画廊主人が「石を磨く」というすこぶる個性的な画論を、関西の産経新聞に連載し始め た。石を磨いて珠に帰してゆく、そうとしか謂いようのないほど優れた発掘者でコレクターである星野さんの、本領発揮の面白い興味深い読み物で、コピーを 送ってもらうのが待ち遠しいほどだ。めったにない画商さんである、研究者も真っ青、いつも彼に助けられているような美術館関係者が多いはずだ。
* あ、そろそろ息子がやってくると予告の刻限だが。
* コンピュータは、相変わらず転送ソフトが設定できないために、あたら何十ギガもの機械が、働かない。仕方なく
容量のない子機でハラハラしながら、書いている。転送している。ffftpには、毎度徹底的に泣かされる。
* 五月六日 月
* 単純な書き違いで引っかかる。www2sを、www.2sと書いているだけで絶対に動かない。四苦八 苦し、勝田さんに教えてもらったサイトを参照し、プリントし、一からやり直していて、それに気がつく。直すとポイと正解になっている。機械は正直で間違う のは、わたし。間違いを見つけるまでが地獄の沙汰。まだ、確信できないでいるが、ともあれ「転送」できそうなところへにじり寄れた。
* 明治座の「居残り左平次」の前に、三遊亭円生の噺を聴いておいた。うまいものだ。風間杜夫がどう演じるのか、
平田満がどんな芝居を見せるのか。
浜町へは久しぶりだ。朝日子のサントリー美術館就職では谷崎松子夫人が動いてくださり、何百人から二人だけの
採用に押し込んでもらった。関係者のお礼に接待をと、松子夫人が場所も決めて下さったのが明治座前の料亭で、場なれないわたしと妻とで、ぎごちないお礼の
席を勤めた。汗をかいた。
いい職場だとよろこんでいたのが、結婚し、妊娠してのつわりがつらいという口実で、フイと辞めてしまった。「口実」で
あったろうと、思う。妻=嫁の勤務を、夫も婚家もこころよしとしなかったのだろう。
* 狂言師和泉元弥が、「時宗」の好演をフイにしてしまいそうな愚行の連発で、自称「宗家」を告発されて いる、らしい。早くに、早くから、「新・能楽ジャーナル」の堀上謙氏らが先頭に立って批判・非難を言い続けていた。わたしは、元弥よりずっと以前から姉の 和泉淳子のコマーシャルに疑問を感じ、何度か発言したり書いたりしていた。だがあれは狂言の「演じよう」の問題だった。元弥のは「宗家」とは何かの問題で ある。家元と宗家とはちがう、または違っていてよい、という説がある。家元は藝の頂点、宗家は免許等の権利の世襲と。それが往々にして一人一家に世襲され ているので、元弥のような、わたしなどから見ても藝のはなはだ不出来で未熟な「宗家」に、藝の頂点顔をされては堪らないと弟子筋からも仲間内からも苦情か 出てしまうことになる。謙虚に稽古でも励めばいいのに、考え違いの母親や姉たちがよってたかって若者をスポイルし、本人にも何より肝心な「離見の見」が無 い。世阿弥の教えの中でもすぐれて大切な「離見の見」つまり、自分を客観視できる視覚が無いのだから、はた迷惑な、裸の王様である。免許状や謡本などの発 行権だけをもつ宗家でもいいのである、歌舞伎でいう昔の座元のようなものである。藝も出来るなら舞台に立てばいいが、いまのあのていたらくで、自分の藝は 一番などといっていてはみじめを極める。中村勘三郎も守田勘弥も、中村座、守田座の座元の名前だが、名優の名前にもなっている。和泉流の宗家でありかつ家 元たるの狂言師として大成するには、ここは母や姉からはなれ、謙遜に同門の名人野村萬に膝を折ってみっちり教えを請うべきだろう。たかが野村萬斎ていどと 張り合って、嫉妬半分で自分の方が上だ上だは、見苦しい。聞き苦しい。萬斎は普通である。関西には狂言若手にかなりの大敵が伸び上がってきているし、萬の 息子たちも勉強熱心である。稽古もろくにしないで「宗家」を登録商標したり、やることが和泉元弥の一家、見当違いも甚だしい。もう、イヤになってきた。
* なぜか写真のアップロードが利かないけれど、本文は、無事に。やっと、機械環境が九分九厘元へ戻った。やった
ぜ! これで、子機の負担を減らしてやれる。
* 五月六日 つづき
* 建日子と妻と三人で、近くの保谷武蔵野で、久々の中華料理。四方山の話題で気持ちよく楽しめた。
* 科学者で作家でもある人から、「ようやく連休で少し時間ができたので、『懸想猿』を一気に拝読いたしました。 ふかく心を打たれたことを申し上げなくてはなりません」というメールをもらった。
* はじめは、「若い頃書かれたはずなのに、さすがに地の文といい、台詞といい、言葉の選び方もみごとなものだな
あ」などと思いつつ頁をめくっておりましたが、いつしかグイグイと作品世界に引き込まれていきました。たいへんな筆力に脱帽です。
冥い、怖い、そして哀しい世界ですね。土と血のにおいがツーンと漂ってくるようです。高度成長後、こういう日
本はどこかに行ってしまったようですが、実はわれわれの身体の奧深くに潜んでいるのでしょう(パソコンやネットワークの陰で、人間の情念は相変わらず蠢い
ているはずです。
* もっと長いメールだが。遠い昔の話だが、また、今の今にも私の中に息づいている。ありがたいメールであった。
* 一日に五六本もヘンなメールが入る。出所に察しのつかない、察しがつくとすれば怪しげなウイルス気味 のメールだと想われるヤツばかりで、むろん一顧もせず削除している。かりに普通の善意のメールかもしれぬものでも、信用しにくいと勘のはたらくものは、失 礼を生じるかもしれないが、削除して読まない。その辺は発信者にも配慮をお願いしたい。
* 親子して、連休最後の晩をのんびりと、シュワルツネガーのお笑いの大アクション映画で過ごした。映画を見なが
ら、これだからアメリカはよくないと建日子が繰り返し漏らすのを、耳新しく聴いた。こういう言葉はめったなことで彼からは聴かれなかったものだ。
* 五月七日 火
* 「やったぜ」にこちらの胸もすく。日々パソコンに惑わされている身にはこの気持ちよくわかります。
漆の若先生(と勝手に名付けておりますが)の述懐も、実に興味深い。私の場合は官能的というよりも、スポーツの快感に
近いものがありますが・・・。
連休は、風邪引きでずっと寝ておりました。ようやく起き出して、炉の灰の始末を。番茶で練って、寝かしました。半年先
の炉開きが楽しみです。北海道には霜注意報。hatakさんもお大切に。
* maokatさん、健在。囀雀さんも。
* 雨の名古屋 今回の「榊莫山展」で、初めて目にした、中国のスケッチと、「大和八景」「伊賀八景」。大和、伊
賀、それぞれの八景には、「あぁ、あそこだァ!」と思う景色が描かれ、くっ、と涙が浮かびました。
また、お爺さんや少女が出てくる映画をおもわせる中国のスケッチにも、目頭が熱くなりました。
静かに降る雨のなか、しばらく歩いて見つけた、アジア風のカフェは、レトロなジャズが流れ、のォんびりおっとりとした
若い女性が、二人。
熱いチャイに角砂糖を二つ落として飲みました。
* 連休のうちあげに、すこし雨もよいだけれど、終日外で楽しんでくる。明治座「居残り左平次」と、歌舞伎座の
「尾上松緑襲名」と。
* 五月七日 つづき
* すこし雨に降られたが、明治座まで順調に、一時間あまりで。シックないい劇場で、ロビーや廊下を飾る
絵画の質の高さは、かなりなもの。山口華楊の「黒豹」など。緞帳にも片岡球子の富士など。新橋演舞場や日生劇場並みの落ち着きで。しかし客の質は高くな
かった。芝居の「居残り佐平次」も、円生の噺からして段違いに低調な、体温の低い低いものだった。
そもそもこの落語は、サゲが「おコワにかけられた」という、これは円生師匠の理解では、「おーコワ」という恐
怖の被害感を示している。度はずれた無銭飲食からの「居残り」を「商売」にした佐平次は、一種の悪党・悪漢であり、大恩ある旦那をすら、みようでは「ほと
け」だが、言い換えれば「ばかだ」と言い放つ凄みをもっている。髪結新三や法界坊なみの、根が土性骨の座った、藝のある、生活力のあるひどい「ワル」なの
である。そのワルの面白さが、まったく風間杜夫演ずる佐平次には出ていなかった。なまぬるいドタバタにしてしまっていた。平田満の清水の次郎長など、何の
妙味もないつくりものでしかなく、脚本が悪いのか役者もへたなのか、ま、後半へかけてやや持ち直したかという程度の、娯楽性にも物足りない半端芝居であっ
た。二人の主役に、オーラが立っていない。むしろ高橋由美子ら遊女たちの群像がそれなりにはんなりしていた。ま、「明治座」という劇場を楽しんだが、芝居
はやや退屈すらした、という塩梅。
このところ、劇団昴の「フィリツプの理由」俳優座稽古場の「八月に乾杯」と、新劇がたいそう好調だったので、比較して
も、今日の商業演劇はずいぶん煮え切らないと感じた。
* 馬喰横山から都営浅草線で東銀座の歌舞伎座へ。瀬戸内寂聴さんと顔が合い、雨を話題に、挨拶。
まず一番目「舌出し三番叟」は片岡我当が翁で、静やかに翁帰りし、千歳が芝雀、三番叟は言うまでもない三津五郎。舌出
しけっこう、むろん。新之助代役の芝雀も神妙。踊りの楽しさにあふれた祝言劇。
そして辰之助の四代目尾上松緑襲名「口上」は、中村雀右衛門と尾上菊五郎が主役をはさみ、両端に中村富十郎と市川団十
郎。実のある口上が多く、三津五郎のなど、すこしほろりと来た。
* 極めつけは三番目の「勧進帳」で、たいした期待をじつはしていなかつただけに、堂々の襲名芝居ぶり
に、いたく泣けた。新松緑には親代わりの菊五郎富樫が気迫に満ち、重鎮富十郎がみごとな源義経を演じ、四天王は団蔵、秀調、正之助、松助というベテランで
かため、ところが弁慶は、これらの面々を大きくつかみ込んで颯爽と若々しく、激しく、勇壮で情感にあふれた、予期をぐんと上回るすばらしい弁慶像を描き出
して見せた。
花道での第一声から、じつは仰天した。佳いのだ。花道にごくちかく、本舞台にもごく間近い佳い席にいたせいも
あるが、数々観てきた勧進帳のなかでも、新しい時代の大弁慶役者を予感させて、藍よりも青く、出色。演じるにしたがい、とにかく「大きく」成っていったの
がえらい。いうまでもない、まだ成熟感はない、荒削りともいうしかないが、新襲名しての弁慶が、あんなに感動をともなう確かな熱演になるとは、まったく期
待していなかった。うまくやってくれよと応援しに行ったつもりだった。とんでもない。名演と謂っていい、すかっと熱い勧進帳が仕上がったのは、はなはだ目
出度い。
* 勧進帳で、帰ればよかった。その足で日比谷のクラブでうまい酒で乾杯していたら、どんなによかった
か。四番目の、三幕もある「半七捕物帖」のくだらないこと、演じている団十郎がかわいそう。これはもう宇野信夫の脚色もわるく、榎本滋民の潤色だか演出だ
かの全責任で、およそ歌舞伎座で観てきた多くの出し物の中でも法外な愚作であった。気に入りの右之助の女形といい、家橘の悪といい、三津五郎の若旦那、時
蔵の花魁、相当な顔ぶれをそろえながら、なにしろ芝居の筋が、運びが、成っていない。按摩と二役の団十郎には「お気の毒様」と心から見舞いをいってやりた
かった。「勧進帳」が圧倒的にすばらしかったので、ま、辛抱して雨の中を帰った。すっかり忘れていた「居残り佐平次」ですら「半七捕物帖」よりはマシに思
い出されたものだ。
* 五月八日 水
* 今日は初めて、兜町新館での、「電メ研」会議。その前に「赤旗」に頼まれた文藝館開館にかかわる原稿 を書いて送り、またミマンの校正も返送。梅原猛氏とわたしとの名前を勝手に書いて捺印なしで文芸家協会に入会申し込みをした非常識な不届者当人から、弁解 の電話が来た。やれやれ。
* 保谷駅で有楽町線の最後尾にのり、有楽町で日比谷線の最後尾に乗り換えて茅場町駅下車。後方の出口から地上に
出ると、最短距離でペンの新館に行ける。電車の便も良くて、家から一時間半以内でついた。円卓の、広い新しい会議室で気持ちがいい。なにもかも新しい。
* 山田健太座長の車が渋滞で遅れているうちに、電子文藝館の話題で、今日は議論がはずんだ。某電機メーカーか
ら、「ペン電子文藝館」をまるごと「MOディスク」の新製品宣伝サンプルに入れさせてほしい、ペンクラブには三百万円を支払うという申し出があったこと、
断ったこと、を報告したからだ。
断ったのは当然のことであった。なによりも緊急で、どの会議にも諮っているひまのない居催促の申し入れだった
こともあるが、文藝館のコンテンツは、趣旨に賛同して会員がいわば寄付にひとしいかたちで出稿しており、一企業の宣伝物に二次利用されることは趣旨に反す
ること、日本ペンクラブないし電子文藝館の名前と実質が一企業の宣伝に用いられていいわけがないこと、何より、ここの出稿者は著作権者であり、その一致し
た同意が得られない限りどうにもならないが、仮に得られても、電子文藝館は今後も限りなく増殖してゆくものであり、未然の出稿者の賛同をえるのは難しい
し、それを無視は出来ないこと、著作権の切れている筆者の作品をも扱っているのは法的に問題ないとしても、結果的に電子文藝館ないし日本ペンクラブがそう
いう作品を「売る」ことになるのは問題がちいさくないということ、等、どうみても無理であると、話し合われた。
もっとも、二次利用については模索してはいかがかという意見も出ていた。だが、大勢はやはり道義的にも法的にも、個々
の著作権者の意向が第一であるとともに、一致した意向であらねばならぬとすれば、安易な二次利用をゆるすべきではなかろうという結論が出たと思う。
わたしは、「ペン電子文藝館」の内容の二次利用には期待を持ちたくないし、課金しようとも決して思わない。課
金に関しては「十年先ならば」という加藤委員の意見もあり、ペンクラブだからこそ出来るこの価値ある事業を、今のまま維持し守育ててゆきたい、そう有るべ
きだというのが「結論」となったように理解している。
* じつは今ひとつ、似た話題があり、それには意見がいろいろ出た。歴代十三会長の作品だけで「紙の本」 が考えられないかという梅原会長の意向に関連してである。これは、いわば前の話題の縮小版のようなもので、売れないという説もあり、この一点だけならば、 売れる売れぬは別にしても成り立つのではないかという説もあった。微妙な問題である。
* 山田座長を迎えて、次回からの現実的な志向ないし試行への合意が探られて、六月五日を次回予定日と決めた。
* 帰り、一人になったので、気ままに茅場町をあるき、越の寒梅ならぬ寒中梅という奇妙な酒を売る店に 入って、肴をたっぷり切らせ、酒にしてきた。日比谷線で日比谷にもどり、クラブに立ちよってブランデーを少し飲んでから、丸の内線池袋経由で、保谷に。 「ぺると」でモカをたててもらい、一服して帰宅。
* 湖の本の入稿が大幅に遅れているのを回復しようと懸命に頑張っているうち、一時半になった。この数日、みるか
ら危険なウイルス性のメールが日に数本ずつ入ってくる。みな弾き出しているし、防御ソフトも防御有効と報じている。気を緩めてヘンなのを開かぬこと。
* 五月九日 木
* やっと湖の本新刊分の入稿が出来た、完全にではないが。頁数がうまく読めなくて、量感が測れないまま、少な目
に入れてみた。ディスクを郵送するまでは少し胃が痛かった。普通でいえば一ヶ月ほど遅れていた。創刊満十六年目の桜桃忌に出せるか、かなり懸念される。
メールのかなり多くが、親機の故障でほんものの闇へ運ばれてしまい、予定だの約束だのの怪しくなりかけている
のが、幾つか。今も、講演の依頼が五月だったか六月だったか気になり、かろうじて子機の方で確認できた。機械を二台、すぐそばで連結もして使っているの
は、助かることが多い。
* まだ松緑「勧進帳」の気迫がわたしのなかで余韻を響かせている。先輩や玄人からみればむろんまだまだ ぎくしゃくがあったろうし、流暢ではなかったかもしれないけれど、感動を与えるのはそういううまみだけではないことの、あの「勧進帳」はみごとな一例で あったのだ。うまければいいなら、技術の問題であるが、藝術・藝能には、力がいる。力とは、時に誠意であり、時に無心であり、時に熱血である。松緑の弁慶 にはその三つともが生きていたとわたしは観た。だいじなことだと思う。
* 坪内逍遙の「小説三派」は明治初期の日本文学の胎動や動向をとらえてその後の文学批評に道筋を報せた
先駆の仕事である。石川啄木の「時代閉塞の現状」は、大逆事件当時の日本をまさに喝破した大批評である。こういうものが「ペン電子文藝館」に載っても、必
ずしも大勢の読者は得ないかもしれない。しかしながら、こういう先達のこういう仕事の上に、近代文学・文化と、創作・批評の生活が開かれてきたことを思う
と、これらをこそ、われわれは、基本の文献として永く伝えて行かねばいけないだろうと、わたしは信じているのである。
「ペン電子文藝館」を、現会員だけの場から、物故会員のためにも広げ、さらに誘導して、「招待席」をもうけた
ことで、ゆるぎない「近代文学史」の根がこの展示場にひろがってきたことに注目したい。現会員は、そうした先達・先輩の仕事に刺激されながら、それらが、
単に過去の「忘れられた所産」ではなく、全く対等の、いや同時代の、同じ土俵の存在であり、博大な力量と精神において現代のわれわれと競い合う命を保って
いる真実を、よく識り、覚悟しなければならないと思う。藝術家の土俵にも大相撲と同じくハンデはない、じつは横綱も前頭もない。どうせ自分なんか、などと
言わせない純然対等の土俵なのである。どの現会員にも、いかに漱石であれ潤一郎であれ直哉であれ、このような作品は自分でしか作れないと言い切れる「出
稿」を願いたい。「ペン電子文藝館」とは、ごまかしの利かない、そういう「真剣勝負の場」でもあるのである。全くその積もりでわたしは発議し計画し実現し
てきたのである。
* すでに「電子文藝館」をそっくり数百万円で買おうとしてきた大企業があるのは、コンテンツとして価値 が評価され始めたわけで、業界の通は、これからますますそういう働きかけは増えるだろうと読み、対応を助言し提言されている。だが、根本は、出稿作の「品 質」である、それも現会員の。最良の自信作を持ち出さないと恥ずかしいという「場」に育てたいのである。
* 三好徹副会長のいわば処女作が、文学界新人賞発表の初出誌の紙の劣化で、スキャンが利かないという残 念な結果になっている。野間宏が強く推し、他の選者の賛同は得られなかったというが、雑誌に掲載されたいかにも「問題」の力作なのである。その、単行本に も入らないで終わっている三好氏の力作を、どうにか掲載したいと頭をひねっている。全部打ち直すのは大変だが、プリントを切り刻んでスキャン出来ないもの か。作者が命がけで書いたような作品でこそ、「ペン電子文藝館」は埋めたいのである。
* 王朝から転じて、今度こそという意気込みで西鶴「好色一代男」へ取り組んでいる。こんどは、するすると読み進
めている。
* 五月九日 つづき
* 秦建日子作・演出「タクラマカン」の、最初から数えて第四演目だろうか、力を入れて台本をまた新たに
し、新配役で、六月十九日から五日間、七か八ステージかを新宿で公演するという。過去十指にあまる芝居を作・演出している中でも、完成度と迫力とで、もっ
とも人気のあった舞台の一つ。舞台が終えると、ほんとうに目を真っ赤にした人がいっぱい出てくるのをわたしも見たことがある。師匠のつかこうへい氏にも
「ウン」と言ってもらったと聞いている。わたしも、大いに提灯をもってやりたい。
昔は、東工大の学生君たちを大勢わたしが招待してみてもらったが、もう、みなサラリーマンになって、途方もなく忙しい
ことが遠目に見えているので、遠慮して、直接は声をかけないようにしている。
一つの作品をねばりづよく繰り返し上演している劇や劇団は、珍しくない。今度はどうやるだろうという楽しみもある。
* 五月十日 金
* 終日、機械の前に。坪内逍遙、石川啄木を起稿し校正し、妻が念校した。それでも、どこかしら誤植はの こる。機械の画面での校正は、ゲラで読むよりも目が滑ってむずかしい。それにしても明治二十三年の逍遙「小説三派」の至れり尽くせりにも感心したし、わず か二十五歳の啄木が、大逆事件の大々的に報じられるや、直ちに筆を執って書いた「時代閉塞の現状」にも感嘆を新たにした。自然主義文学を論じるかの筋道か ら、近代日本の「強権」の背後基盤をなしている真の「敵」とは何かを慎重に示唆して、大胆かつ的確である。彼の警告はむなしく、不幸にしてあの大戦火に至 り付いて敗戦、今に尚余燼は火を上げかねない。天皇制という「敵」は、幸い当代皇室の比類ない叡智と誠実さとで、むしろどの政権与党よりも人間的に信頼深 いものがあるが、しかしながら「制度」というものは悪辣に利用されやすい。しかし「敵」は、啄木の頃からすると、大逆事件の頃からすると、いまはむしろ 「政権与党」こそが国を誤るおそれの「敵」になっている。政治家の質が悪すぎる。そういう連中を選んでいるのだから、「敵」は我が身うちに腹蔵しているの だと覚悟すべき時だ。
* 折りも折り、中国北部での日本領事館がしでかした、前代未聞、世界でも類例の少ないであろう怠慢な亡命者への 対応には、情けないを通り越し、惘然自失。
* 三好徹氏の「遠い聲」苦心惨憺スキャンしてみたが、数十ペイジの五分の一ほどがそれらしく識字反応 し、他は化けに化けて、モノにならない。だが、乗りかかった船であり、力の入った作品をつぶさに読むという楽しみに切り替え、とにかく頭から打ち直しはじ めた。一月ほどもかかるだろうか。三好氏ほどの作家のいわば出世作が、単行本にも入っていないというのは、作品のために可哀想という思いがわたしにはあ る。値打ちがないならともかく、「真空地帯」を書いた野間宏があれほど強く推して「文学界」も掲載した次席作である。一肌脱ごうと思った。
* 梶井基次郎から「檸檬」「蒼穹」「闇の絵巻」を選んでスキャンした。中島敦の「名人伝」もスキャンし た。「おまえの仕事はいつするんだーい」と、あちこちから声が聞こえてくるようだ、が、今のところ「これもわたしの仕事だーい」と答えて置くしかない。こ の没頭が、生きる力にも次の力にもなるだろうし、たとえならなくても、没頭はいいことだ、しかも拘泥は少しもしていないのである。何をしたって、どっちみ ち夢に過ぎないと分かっている。
* そうそう。秦建日子作・演出の「タクラマカン」のパンフレットによると、
六月十九日初日午後七時 二十日同 二十一日同 二十二日土曜は二時と七時 最終二十三日日曜は一時と六時
開演。 場所は 新宿アイランドホール(03−5323−2141) 問い合わせは エム・エー・フィールド(03−3556−1780) 前売り
4000円 当日4500円 と、ある。
* 五月十一日 土
* 終日、今日も機械の前にいた。三好氏の原稿をほぼ全面書き起こしている。遅々と進まないが、作業はい やではない。氏はわたしよりほぼ五歳年長で、問題の小説は二十八歳頃に書かれている。「活字になった初めての作品」と聞いている。つまりわたしの「懸想 猿」を書いた年頃、前年に「或る折臂翁」を書いた年頃に書かれていたわけで、そういう年頃の創作者心理にはかなり「分かる」「分かる」と頷けるものがあ る。むろん上手ではないが熱気がある。熱心があり気負いがある。そういうものを、上手さと引き替えに置き忘れてゆくのが「年を食う」ということで、それが よろしくなければこそ、「初心」の二字がいつまでも語られる。しかしまあ年を食った代表のような「選者」には、おいそれと通じないのも「初心ゆえの下手」 で、熱よりもそっちへ目が走る。いろんなことが、いっぱい目に見えてきて身につまされるので、作業ははかどらないが、退屈しない。わたしの「懸想猿」は凄 惨な世界であり、だから読ませてしまうと共に、呻かせたりもする。「或る折臂翁」は兵役忌避の話である。そして三好徹氏の作品は「死刑執行者」の苦悩であ る。「なんでこんなものが書きたいか」などと選者の中には眉をしかめている人もあるが、一つには、若いから書きたいのである、そういうのが。年を食ってし まうと決して手を出さない材料が出来てくる。そういうものだ。わたしの好みの題材ではなく、愉快な物語ではあり得ない、が、熱気にあてられて、さりとて致 命的に破綻しているとも見ない。人はどう読むか分からないが。
* 梶井基次郎の「檸檬」を校正したが、さすがに傑作である。「春琴抄」や「金閣寺」や「雪国」の面白さ とはちがい、直哉の文学にちかい、散文詩の清明と透徹で、しかも味わいは濃くかつ洒落ていて、軽くない。随筆に近似しつつ、これは小説である。ふかいもの が味わいとして胸に残る。この人の短編は「蒼穹」「闇の絵巻」と三編を掲載する。「世界的」に通用する散文による詩的達成である。
* 昔に一年間連載した「からだ日本誌」「こころ日本誌」を、請われて、読み返し字句を訂正し始めている。
* 或る会員からディスクが送られてきた。開いてみると、なんだか、あやしげである。念校の仕様もないの で、原稿プリントを送るように云ったら、単行本が送られてきた。ディスクは、アルバイトに頼んだという。頼んだはいいが、せめてプリントさせて、著者みず から目を通してもらいたい。デイスクを読んでゆくと、なんとルビの振られた漢字は、ルビだけでなく漢字まで全部抜けてある。熟語の一字も、出ないと見ると 放置してあるが、そんな字も殆どがやれば簡単に出る。ひどいのは、ぼかっと段落ごと抜けている。こういうアルバイトも困りもので金を捨てているようなもの だが、仕事の結果を自分で確かめないで送ってくる会員もひどい。後始末を、わたしと妻とでしている。むろんわたしたちは一文もとらない。この会員は「日本 随筆家協会」という団体を束ねている編集長で書き手でもあるのだが、困るなあ。
* 或る女の詩人会員は、一冊の詩集をポンと送ってきて、「よろしく」と。よろしくない。事務局を通じて、注文を
つけることにした。
パソコンの出来ない会員には、たしかに、気の毒である。これもデジタル・デバイドだ。だが、わたしにも限度がある。
* 佳い散文詩を出稿された作品が、掲載されると、行末がぐさぐさに出てくるのに、ガッカリして本館に送り出せず にいる。いまの機械での技術は業者にゆだねてもこんなひどいものかと情けない。作者にも申し訳がない。
* 静岡の病院に転じていた九十すぎの石久保豊さんが、自宅らしき住所から新茶を贈ってこられ、嬉しくなった。容
態は不明とはいえ、退院されたか。石久保さんの小説二編、短歌選。わたしは「e-文庫・湖」のなかで大切に思っている。
やはり静岡の読者から例年同様に新茶が薫り高く贈られてきた。感謝。
* 五月十二日 日
* 梶井基次郎の「蒼穹」「闇の絵巻」とも、しみいるように美しい深い文章で、ともにわたしの関心深い「闇」に触
れている。こういう名品を、一字一句校正してゆく功徳ははかりしれず、一言で言えば「嬉しい」というに尽きる。中島敦の「名人伝」にかかっている。
京都の会員から短歌百五十首を選んだので、人に頼んで電子化してもらい、ディスクかメールかで送ると。有り難い。どう
しても出来ない人には手伝ってあげたくなる。そんなときも、梶井や中島があたえてくれるような「嬉しさ」をどうか恵んでもらいたい。
* 三谷憲正氏に戴いた「太宰文学の研究」を読み始めたが、切れ味がいい。最初の「葉」試論から、巻をお
かせない。作者の実像を作品にもちこんで安易に論じるのでなく、作品の表現に、文章の中に突入しながら、背後の典拠に手を触れてものを言おうというのだ、
いい姿勢だと思う。両々相俟ってよりいいであろう。本文に即して「読み」をはかり、作者の資質や特徴にも考慮しつつ、典拠にも斟酌する。大切さは、この順
番である。思いつきでは困るのである、一頃流行った「佐助犯人説」のような。
太宰が富岳百景で、富士山を高さ三七七八米と書き、じつは三三七六米ではないか、こういう「基本」のところで
太宰は杜撰であり、この二米の差に、太宰という作家の重大な問題がひそむなどと論じた松田修説に、三谷氏は、べつの「基本」文献で、富士標高を三七七八米
としている例はあり、それゆえに太宰が杜撰などと断罪する愚を指摘している。
こういう例は他に幾つもあり、たとえば日本橋の往時の長さ、三七間四尺五寸、昨今の長さ廿七間と太宰の書いて
いるのに対し、こんな数字の実否は太宰にはどうでもよく、実は「三七四五即ちミナシゴ」で、「二七はフナ」を意味すべく工んで太宰はこう書いたのだなどと
言う、長篠康一郎説に対して、三谷氏は、まさに日本橋に関して上の通りの実数字を掲げてある文献、太宰が参照した文献をあげて、慨嘆かつ批判している。こ
んな「読み」の延長上で、三七四五は足して太宰の十九(重苦)、二七は足して太宰の九(苦)などと落し話にされたのではかなわない、とも。
まことにもっともだ、こういう脆弱な論拠から太宰治の創作や作家性そのものを論じられたのでは堪ったものではない。文
学研究には多くの方法論が立てられているけれど、思いつきでの詭弁は方法のらち外で、はた迷惑と言うしかない。
* 五月十三日 月
* ある高齢の歌人から、ペンクラブに入会したいと希望されてきた。資格は十分ある人だが、八十歳にほど ない。聞いてみると「ペン電子文藝館」に生涯作品から自選して、新しい世界へ作品を示しておきたいと。こういう希望の人が他にもある。与謝野晶子や与謝野 鉄幹の作品と平等に同じ「場」に作品を発表できること、しかも無限に広く遠く世界に公開できること、かつてない新しい読者との出逢いが可能なこと。この三 点からも、大きな夢が見られる。思えば、これが「電子文藝館」をとわたしの構想した当初からの意図の一つであった。
* ご挨拶 突然メールをお送りいたしますことをお許しください。私の携帯でも送信出来るのか試してみたかった
のです。いつもご直筆を添えて、ご本をお送り戴きまして有り難うございます。何もお返事を申し上げないことをお許しください。
*
早速お返事恐れ入ります。こんな遅い時間にお邪魔してご迷惑であったと反省しておりました。またあらためて先
日戴いた「無明」のページを繰っていたところ、私の名前を発見して驚きました。あのように仰言って戴くのは身に余ります。いつも「私語」は何はさておき
真っ先に目を通しますのに。
私の携帯はロングメール契約なので、発信は5800字余可能、受信も同じと思います。秦さんのホームページは
さっき試してみましたが、タイトルだけしか出ません。ずっと前から関心はあったので、この間隣家の奥さんのところで開いて貰って少しだけ拝見しました。彼
女が興味を持ち、毎日読むわと言っていました。
携帯のメールは以前から友達とよくしていますが、器械に弱いので、通り一遍のことしか出来ません。機能を充分使っていません。一度オフィスへ行って説明を
受けようと思っています。それでホームページを見られるようになるかも知れません。が、いづれパソコンを買うつもりでいます。
長話をいたしました。どうぞお元気でますますご活躍くださいますように。
*
この人はわたしの「湖の本」継続購読予約の第一号読者。ご主人の画会で一度ご挨拶し、どこかの講演の場で他の大勢と一緒に、本に識字署名したことがあった
かも知れない。もう十六年も昔のこと、そして今も「湖の本」を支えていただいている。
ホームページで「タイトル」だけとは、たぶん城景都氏の美しい絵が二点出て、その「タイトル」というか表紙の
どこでもいいクリックしてもらうと、目次ペイジが現れるのだが、表紙のどこでもいいから「クリックしてください」という表示が隠れていて見えなかったので
はないか。
また、わたしのホームページは、現在約30MBに肉薄する分量を収録している。画像写真はほとんど使用しな
い、文字ばかりのホームページだが、1MBは日本字でだと50萬字、従って約1500萬字相当が入っていて、400字原稿用紙に単純に換算すると
37500枚になる。どう割り引いても原稿用紙で三万五千枚分ほども収録されているので、普通の機械で全部ダウンロード完了するのに、しばらく時間がかか
るかも知れない。表示完了のメッセージ前に操作すると、ファイルの後半が途切れていたりすると思われる。
* 瀋陽領事館亡命事件のことが、頭から離れない。ペンクラブはどう動こうというのか、人権委員会はどう
対応するのか。わたしの気象だと、外務大臣が電光石火北京に乗り込み、とにかく苦情を披瀝してくるところだ、そういう「姿勢」「覚悟」の表明がこういう時
は世界にもアピールする。外務大臣からも特に小泉総理からも、いっこうに国民の共感を求める強い声が出ていない。こんなのは自動車の接触と似ていて、何は
何でも大声で自己主張し合いながら、下で交渉すべきなのだ。その点、中国は久しい外交の国だから巧みであるし、ふてぶてしく譲らない。日本外交は、いつも
遠慮がちに会議などし調査などしてから何かを言うのが、誠実かのように錯覚している。時すでに遅くなってから言ってみてもダメなのだ、こういう交渉ごと
は。外交とは「悪意の算術」だとわたしはもう久しく言い続けてきたが、中国ほどそういう外交の巧みな歴史を持った国は少ないし、イギリスでもフランスでも
ロシアでもそうであった。彼らはなりふりかまわず「悪意の算術」をやり通してきた。アメリカの現在もそうではないか。
小泉純一郎という男は、ろくでもない法螺に近いことは大声で言い続けているが、こういう肝心要の所になると、貝の如く
黙し、尻をぶたれた幼年のように縮み上がっている。こういうときこそバカバカしいほどガンガン言うべきなのに。
イスラエルの虐殺容疑に国連は査察団を送ろうとし、公正の誉れ高い人選をしたという。中にわが緒方貞子氏も
入っていて、しかしイスラエルは「公正」なるが故にこの査察団の入国を拒絶したと伝えられている。こういうイスラエルに、何故、小泉総理は批判の声を発信
しないのか。必要な声はいちはやく高く掲げて日本の姿勢を世界に見せるべきだ。それこそが、SHOW
THE FLAG という意味だ。ペコペコとアメリカに媚びて軍隊を派遣し忠誠をアピールするなど、それぞ卑屈というに近い。
* 亡命事件に限らない、広く人権問題、広く核問題等で、日本にも幾つかある日中関係団体は、これまでど
んな役割を果たしてきたのか。わたしも日中文化交流協会に属しているが、この協会が、目に余る中国の核開発や人権抑圧に対し「老朋友」として直言したとい
う話は聴いたことがない。文化と政治とは別物だというのなら詭弁である。各界の顔が役員に並んでいるが、お高く、言わず聞かず語らず、か。日本ペンクラブ
ですら、中国というだけで、直言は避けよう避けようとしてきた。獄中委員会で苦労してまとめたスパイ容疑で逮捕されている東大大学院生救助のアピールなど
が、例外に近い。今回事件に日本ペンクラブ執行部がどんな対応に出ようとするか、十五日の理事会に期待したい。秋尾事務局長には、役員会で正式議題として
検討してくれるように申し入れもした。
* 五月十三日 つづく
* 外務大臣の記者会見を聴いたが、踏み込んで強い抗議を示す姿勢など微塵も感じられず、冷静という建前
の、「事なかれ」の本音がなまぬるくにじみ出ていた。記者会見とはいえ、目の前の記者にだけものを言うているのでなく、世界に日本の姿勢を示すのだという
根本の理解に欠けている。この大臣の役人上がりという弱点がこんなに露出したことはない、国の利益と威信を預けている政治家とは思われない。本来、これは
総理大臣の出てくる仕事だ。
人権問題であるのも確実であるが、この際の第一義は、武装した外国人による恣な「日本領土侵犯」である事実
が、全面的に強く声高にまさに毅然として繰り返し「断言」されねばいけなかった。あのなまぬるい日本語には腹立たしいどころでない、デスペレートな日本政
府の姿勢の弱さ、外交の下手さが露出している。あんな記者会見なら、テレビに映らない方がいい。
* 全面に新規書き直しの三好徹氏の「遠い聲」は、読み進むに連れて、野間宏をのぞく他の新人賞選者たち の「読み」は的はずれであるようにしか思われない。非難されている何れも、作中にそれなりの強い理由を持っているし、荒削りで若さから来る観念的ななまな ものも無いではないが、要所要所に文学として優れた、読者として頷ける「表現」が決まっていて、佳いではないかという「得点」の方が、マイナス点よりずっ と多い。これだけの題材を徹底して追及したのは、決して材によりかかって文学を犠牲にしたといったものとは思われない。うまいへたではない。これをこうま で書いている力と意気は確実に文学的に構成されている。しかしまあ、絞首刑執行の現場にまでこう間近に立ち会うとは思わなかった。凄い。しかし文学として 読んでいるので、緊張は凄いが、不快感とはちがう。
* 中島敦の「名人伝」はまだとばぐちで何かと言うことは出来ないが、この作家のほんとうに佳いところば かりが喧伝されてきたとは、わたしは考えていない。「山月記」「名人伝」がなにかというと取り上げられるが、とりあげかたに「ことごとしい」ものも無いで なく、あえてペダンチックに出たこけおどし的なお話の部分にのみ惹かれていてはなるまいにと思う。梶井基次郎といずれとなれば、わたしは梶井の「詩」に惹 かれ、中島短編の「話」を警戒する。評判とちがい、「李陵」や、最晩年の長編の文章と志とを、わたしは、中島敦の場合、愛する。
* あさっての理事会が初の新館開催になる。円卓会議、どうなるか。司会者が会議をテキパキ運んでくれないと、い つも委員会報告の寸がつまってしまう。必然書面で提出しておかないと、なにも説明できなくなる。
* 散文詩が送られてきて、電子文藝館に掲載すると、例えば同じ一行25字なのに行末がグサグサになって
しまう。どうにかならんものかと、考えて貰うのだが、どうも手がないと言う。こちらでそう発信しても受信側の機械や環境しだいで変わってしまうらしいの
だ。電子メディアの世界では、そうなると、井上靖「北国」のようなきちっとした散文詩は組めない、送れないことになるのか。情けないではないか。そんなこ
とでいいのか、パソコンが。
* 五月十四日 火
* 中国の出方は、早い、そして強引に強硬で、シナリオのように具体的だ。嘘だと分かっていても、早く言
う効果、はあげてしまい、もう論理で否定するのは出遅れては不可能だ。しかも中国は国をあげて日本の非難に声高なのに、日本は、たかが部長級が出ていって
調べた程度で、大臣はゆるゆるに、男で喩えればふんどしがゆるんでいるし、小泉総理は他人任せで高みの見物、アメリカでのテロに上げた程の怒りも見せな
い。何という総理大臣だろう。
そして鈴木宗男のまたも野放し。幹事長に一任しました、とは、政府と国会とを混同させないという屁理屈らしい
が、彼は、総理でもあるが自民党の総裁を辞めているわけではないだろう。官房長官が政府の女房役なら、幹事長は党総裁の女房役、決まりをつけるべきは、小
泉が仕切るのが筋だろう。彼の声も言葉もなかなか聞こえてこない。大事なときほど聞こえてこない。どうしたの。「感動した!!」と一度国民に言わせて欲し
いよ、総理。
* この間は読売新聞に、今日は赤旗に、「ペン電子文藝館」の署名記事を掲載した。今月末には掲載数は百 二十人を超えるだろう、今日も起稿が三人あったし、五人入稿した。うまくすると、今年のうちに二百人二百作に達するだろう、正直なところ、あまり殺到する とわたしが音を上げる。ディスクにして出稿してくれる会員よりも、今までの所は「お任せします」と本やプリントをよこす人の方が多い。滑り出しをにぎやか にと願い、余儀なくスキャンし校正しての作業を全面的に引き受けてきたが、いつまでもは出来ない、わたしの為の時間もやがては取り戻さなければいけない。
* テレビを見てくつろいでいる暇がない。読んで読んで読んで、校正して校正して校正して。いいお仕事を 創り出したわねと妻はわらう。書くことをのぞけば、読むのが、結句一番好きなことであった、少年時代から。実際に読んで共感して評価の下地が出来ているか ら、自信を持って作も選べる。これは、今言って今すぐ誰にでも出来る仕事ではない、誰にもは、とても出来ない。
* バグワンは「習慣」で生きるな、習慣は落としてしまえと言う。きまりにしたがい、原則や作法をきめて 線路の上を往来するなと。「死んだ生き方」だという。わたしもそう思う。昔からそう思っていた。こうあらねば、ありつづけねばとは、自分に強いない、固定 しないから、自由に発想できる。小学校の頃から、決められた宿題よりも、自由研究が好きで、夏休みが済むと、成果を職員室にいろいろ持ち込んだ。なにかち がうことを考えてみようみようとしていた。人によれば、それは正道でない、横道であり邪道に落ちることだと言うだろう。だが、習慣に強いられるのは、自分 自身とのつきあいかたとして、なさけない。人に決められたレールの上を、いや、自分で決めたことでも惰性的にハイハイと右往左往し繰り返しているのは、死 んでいるようなものだ。自分で自分に強いている習慣でも同じ事だ、自縄自縛になる。習慣にとらわれないで自在でいたいから、私家版を創ったし、「湖の本」 を実践したし、東工大にも飛び込んだし、「青春短歌大学」も発想したし、「電子文藝館」も創り上げた。まだこの先に何が出てくるか、わたしにも分からな い。たのしいではないか。ただ、なにをするにも、それが「習慣」となりわたしを縛らないようにと気をつけている。
* わたしが今いちばん気に掛けて大事に考えているのは、妻の健康である。それが有っての私の日々である。慎重
に、注意深く元気でいて欲しい。こどもたちは「母の日」も忘れていた。子供たちの分もわたしが気をつけている。
* 五月十五日 水
* ペンの理事会の前、新川にかかった新亀島橋を渡ってきた。とても静かに綺麗な運河で、汚れていない。日本橋という土地柄が気に入っている。とびきりの店は ないが、下町らしい飲食店も多い。
* 梅原会長も副会長たちも全部欠席、ばかばかしいようなラフな会になった。瀋陽領事館事件についても、 日本ペンとしてはとくに何もしないと。難民問題などの対応をいずれ人権委員会等でよく検討してと。「いずれ」「そのうちに」というのは、何も出来ない、し ないという意味でしかない。この際何かをぜひ即座にしなくては、とは、わたしも考えないが、日本ペンとして話し合って置いていいことは沢山あると思う。中 国に抗議をというのではない、むしろ日本政府の問題が大きい。人権問題以上に、主権と領土の侵犯に先例をあたえていいこととは考えられない、基本的にこれ こそ「平和」の前提ではないか。人道問題はむしろ水面下でなんとか第三国亡命が交渉されて実現するだろうが、侵犯問題はケロイドのように残るのだ。その辺 を話し合いたかった、もう少しまともに。べらべらとラチもない長談義はやるが、大事なところへ来ると先延ばしにしてしまう。
* 少し凝った和食で銚子三本。客が多くてにぎやかであったが、独り酒はそんなことは気にならない。美しい人がと きどき来てくれる。のんびりと。そしてすうっと帰ってきた。
* 今夜は早く寝ようと思っていたのに、「電子版・湖の本」の各巻ファイルにスキャン原稿を送り込む作業をしてい
るうちに、夜ふけてしまった。
* 五月十六日 木
* 冷える。妻が病院へ薬のカルテをもらいに行っている留守に、ホームページへの「湖の本」スキャン原稿の書き込 みを進めていった。小説の方は、おおかた何とかなりそうだ。「みごもりの湖」三巻も入った。
* 懐かしい人、逢いたいなと思う人が、いつでもいる。それは幸せなことだ。そういう人は遠くにいる。わたしは電
話が好きでないが、もし聴けるなら声だけでも聴いてみたいと思うときもある。
そういう中にはついぞ行方知れない人もある。妙なもので、そういう人とでも語り合うことは少しも不可能でない。空想だ
といえばそんなものだが、日々の暮らしもいわば空想の所産のようなもの。まじりものが加わらないだけ、そういう対話がわるくない。
* いろんなことを次々に考え出して、欲のある人だな、と思われているかも知れないが、自然に流れながら の「思うまま」をやるだけの話で、誰に強いられても、自分で自分に強いているわけでもない。泓々(おうおう)と水の湧くようなもので、湧くものは勝手にさ せておけばいい、インシュリンの注射など、また緑内障の眼薬なども、それも流れのうちの必要と思い、必要に従っているだけ。
*
昨日、理事会で隣り合っていた若い松本侑子さんが、インターネットの中での何とやらいう掲示板だかサイトだかで、どんなにむちゃくちゃが匿名で書き散らさ
れているか、そのひどさを縷々述べて、わたしにもぜひ覗いて見るようにと勧めに勧めてくれたけれど、そんなものに何の興味もない。聴いた耳を洗いたいだけ
だ。そんなにひどいものを、なんで見るのだろう。なんで人にも見せたがるのだろう。そういうのをやっているのが、一人か複数か、なにも知らないが、そんな
のは問題外で、無視しておけばよろしく、それと知りながら関わる気が知れない。たぶんヒドイもヒドイに違いない、想像出来る。インターネットではそういう
のが許容されてしまうのだ、技術的に。たぶん現状は防ぎきれるものではない。「知らぬが仏」は、「インターネット現代」のものでこそある。
* 五月十七日 金
* 「電子版・湖の本創作」は、第40・41巻「迷走」上下および最新刊分以外の四十四巻すべてを、とも あれ「原稿掲載」した。多くはスキャン原稿のままの未校正ではあるが。同じく「電子版・湖の本エッセイ」は全二十四巻を漏れなく掲載した。こういうこと の、此処まで出来たのはすべて千葉の勝田貞夫さんの親切なご支援による。心よりお礼申し上げます。幾重にもバックアップをとった。これで「冊子版」と「電 子版」とが形の上でも並列した。東工大の教授室でさかんに夢想した空想が、おおむね正確に実現した。「E-文庫・湖」という予想になかったものも軌道に乗 り、その体験から必然「ペン電子文藝館」も可能と確信し、一気に実現させた。この「保谷のe-OLD」は、技術的には未熟も甚だしいが、パソコンという機 械の可能性は、わたしなりによく利用してきた、引き出してきたと自画自賛させてもらおう。ホームページで走り出したとき、いわゆるホームページの常識的な 形をあまりに逸脱していると、親切にブレーキをかけてくれる人もいたが、機械の方で量的に負けると音を上げるのならともかく、わたしのような素人にでも 「50MB」までを予期してホームページを開かせてくれている以上、機械から文句の出ない以上は思うままやってやろうと思った。機械の重くなるのに途中往 生したが、それもADSLの導入で、大いに助けられた。「40MB」まで申請してあるが、今、きりきり「30MB」に達するまで使用している。四年と二ヶ 月足らずで、単純にいえば、漢字とひらがな「1500万」字を埋めたことになる。電子化してあるがホームページには入ってない原稿も、「500万」字ほど はあろうか。よく書かせてくれた、それも、雪の降り積むように、いつの間にか。
* 谷崎先生の口述筆記者として知られる、元中央公論社の伊吹和子さんとは三十年来の知己であるが、電子文藝館の
ために、谷崎でなく、川端康成にかかわる作品を、単行本に丁寧に手入れした上で送ってきてもらった。スキャンしての校正が、楽しみだ。
理事の新井満氏からも、小説を、今日送ってきてもらった。もしディスクがあれば欲しいが、無ければこれもスキャンして
の校正が楽しみだ。一字一字校正すると、その書き手のくせや心の動きもよく分かり、たいへん興味深い。いい作家いい書き手であればなおさらである。
尾崎紅葉と泉鏡花の作品も選んで、伊吹さんの作といっしょに、スキャンしやすいように、今日、妻にコピーしてもらっ
た。館への掲載は、五月末現在、百二十名を大きく越えよう。
* 五月理事会に報告した書面は、書き添えをして委員会委員各位にメールした。
* 「ペン電子文藝館」を、新製品宣伝に利用させてほしいと某社より申し入れあり、「相当額支払い」提示があった
が、「即決」を求められたので、委員長の判断で断った。
(断った理由) 1 百人を越す出稿者「全員の無条件の同意」がなくては、著作権上、許されない。2 仮に
「現」出稿者の同意が得られようと、今後も「ペン電子文藝館」の趣旨に賛同して作品を「寄付・付託」される建前からも、先輩作家や現会員の「作品」を、一
企業の宣伝物に二次利用させるのは、「日本ペンクラブ」として、信義に悖る。金銭の取得や配分にも著作権がらみの問題がつきまとう。3 島崎初代会長をは
じめ著作権の切れている作品も多数収録しているが、「日本ペンクラブ」がそれら先人の「遺作」を、一企業の宣伝目的を承知で引き渡し、現金を受け取るの
は、法的にはともあれ、信義に欠けると非難されても弁解できない。4 役員会理事会はおろか委員会を開いて討議する時間的余裕も全く無かったため、即決し
た。以上は、弁護士である委員の判断も請い、また五月八日委員会での統一見解でもある。
「ペン電子文藝館」は、著作権問題および日本ペンクラブとしての信義に抵触する、いかなる二次利用にも応じないと、委員
会は意思統一している。
また「ペン電子文藝館」へのアクセスに対する「課金」はせず、今後も「文化事業」として「無料公開」を貫くと共に、展
示内容の質的レベルの維持に一層配慮してゆきたいと、委員会では方針を定めている。
* これらの報告と同時に、「ペン電子文藝賞」設定を試案として提示した。新世紀の創作や執筆の電子化
は、現に広範囲に進んでいる。必然、電子機器利用による新たな文学・文藝の質的向上と展開が望まれる時にあたり、「電子文藝館」をもった日本ペンクラブ
が、率先「ペン電子文藝賞」を以て時代にアピールするのは、正当の姿勢と考える、と。
具体的な試案も何点か持ち出した。
賞の設定は、容易なことではなく、どう対応できるか労力問題も大きい。作品が出てくるかどうかは、未知数。そ
れらの難点や問題点を克服できるのなら、「面白い」「考えるに値する」企画だと、さらなる検討を求められた辺りで終えてきた。いま、文学賞の賞金はすごい
額であるが、わたしは、「賞金は出さない」「電子文藝館」に「特別席」を儲けて掲載すると同時に「日本ペンクラブ会員」として迎え入れるという、その線を
守ることで商業主義に染まらない「価値あり名誉ある」厳選主義を考えている。形として授賞することよりも、良い電子作品を待つという姿勢に徹したいものだ
と考えている。ペンクラブの打ち出せる一つの姿勢ではないかと考える、冊子本の賞は要らない。
* 六月には、単行本一冊分の締め切りと、二度の講演予定と、湖の本通算71巻めの出版と発送と、があり、厳しい
梅雨になりそうだ。気持ちのいい夏を迎えたい。
来週には前進座の「天平の甍」を観に行く。月末には「京都美術文化賞」の授賞式と理事会がある。帰って直ぐに糖尿検査
なので、飲み食いを楽しんでくるわけに行かない。めずらしく理事会と懇親会は「木乃婦」だと聞いている。
* 五月十八日 土
* 湖の本初校が出たのはいいが、デイスクで入稿しても、思ったようにゲラが出ないことでは、凸版印刷で
すら同じ按配で、おかげで建頁が読み出せず、次の作業に差し支えるので、ともあれ出た分を一気に校正した。追加が必要なのは分かっていたが、どれほど追加
すべきかが、わかりにくい。
ま、やるかと、追加分のスキャンを数十枚。忽ちに真夜中となって、まだだいぶ今日のうちに済ませたい用事が残ってい
る。
* 有事法制への民間の反応・対応の「こういう情報はあまり届くことはないかと存じ、ご参考までにお送りします。
読みにくいリストでごめんなさい。私も多分5月24日のぐらいは参加することと思います。
メディアがこういう情報を前もって知らせるなどということをしないために、いわゆる「活動家」や「運動団体に
属している人」だけの行動になるのが、私は残念です」と、ペンの親しい友人から知らせてきた。同感である。ここへも、転載させてもらう。少しでも多くの目
に触れて「行動」して欲しい。
変なことを言うようだが、日本の現状が大きく動き出す二つの徴表がある。一つは市民や学生が街に出て、戸外に
出て、大きな圧力となって「もの申す」こと。もう一つは、「労働者」が組織的な一つの固まりに再び成ろう、成らないと大変なことになると、動き出すこと。
これらが過剰に過度に押しつぶされすぎた。
* STOP!有事法制の連続行動(ピース・ウィーク)のご案内
●5月20日(月)12時〜13時「STOP!有事法」国会前路上集会。衆議院第2議員会館前。 雨天決行。主
催:日本山妙法寺、キリスト者ネット、許すな!憲法改悪市民連絡会
●5月20日(月)13時〜「有事法制NO!市民のリレートーク」発言は佐高信さん、川田龍平さん、ほか市民のみなさ
ん。衆議院第1議員会館第2会議室。路上集会に続いてご参加を。主催:「テロにも報復戦争にも反対!市民緊急行動」
●5月21日(火)12時〜13時「STOP!有事法制」国会前路上集会。路上集会はいずれも衆議院第2議員会館前で
す。雨天決行。主催は「STOP!有事法制」5.24大集会実行委員会。
●5月21日(火)15時〜18時「新聞労働者が訴える、メディア規制3法案反対!有事法制NO!院内集会」衆議院第1
議員会館第1会議室。主催:新聞労連。
●5月22日(水)12時〜13時「STOP!有事法制」国会前路上集会。雨天決行。主催:「STOP!有事法制」
5.24大集会実行委員会。
●5月23日(木)12時〜13時「STOP!有事法制」国会前路上集会。雨天決行。主催:5.24大集会実行委員会。
●5月23日(木)18時〜「意義あり!有事法制」大集会。日比谷野外音楽堂。主催:平和フォーラム、テロにも報復戦争
にも反対!市民緊急行動。
●5月23日(木)女たちの座り込み。11時〜16時。国会前路上? 銀座マリオン前リレートーク。17時から18時。
主催:戦争への道を許さない女たちの連絡会。
●5月24日(金)14時〜16時「女たちの声 ちょっと待ってよ!有事3法案」
講師;古関彰一さん。アピール;航空客室乗務員内田妙子さん、看護士中小路貴子さん。国会議員より審議状況。呼びか
け:ふぇみん婦人民主クラブ、日本
YWCA。NCC平和・核委員会/女性委員会、日本キリスト教婦人矯風会 VAWW-NETジャパンも賛同団体になっています。
●5月24日(金)18時〜「STOP!有事法制」5.24大集会。5万人規模。明治公園。集会後デモ。主催:同集会実
行委員会。
●5月24日(金)11時〜16時女たちの座り込み。国会前。17時〜18時マリオン前リレートーク。連絡:戦争への道
を許さない女たちの連絡会
●5月26日(日)14時〜平和をつくる市民の行動(仮称)。場所宮下公園。主催「テロにも報復戦争にも反対!市民緊急
行動」
●5月28日(火)18時半〜20時半「有事法制を許さない!女たちのつどい」水道橋全水道会館。国会議員による審議状
況報告。問題提起「憲法と有事法制」藤野美都子さん。 歌とアピール吉岡しげみさん。会場発言など。主催:戦争への道 を許さない女たちの連絡会
※国会前女たちの座り込みは27日、28日も、マリオン前リレートークは27日も行われます。また、続報します。
* 学生たちが動こうとしない。彼等こそ時代を動かす真に政治的なエネルギーなのに。
* そんなことを書くわたしだが、のめりこんでいるのは、「なよたけのかぐやひめ」で、実は。あいたッ。今日が締
め切りの原稿が一つあったぞ、参ったな。
* 五月十八日 つづき
* あけて二時半になっている。ふらふらする。この一両日ががんばりどころのようだ、火曜の文藝家協会総
会など、今年も失敬することになる。一気に「湖の本」の入稿を終えて、すぐ発送の用意にもかからないと、京都行きも先には予定されている。自分で綱をかけ
ておいて、綱渡りしてゆく按配だが、綱から落っこちたとて、それも仕方がない。落ちないように気配りしていても、足りないこともある。
いま、目の前で使用中のフロッピーディスクを数えてみると、ちょうど二十枚有る。その大半が満杯で、追加しよ
うとすると機械に断られる。紅葉の「金色夜叉」を読みかけていたが、ふりがなが大変、遅々として進まぬうちに、自分の尻にも火がついてきた。あと何人もの
作品がスキャン出来ていない。他の委員の誰かに頼めるといいのだが。
* さ、もう、やすもう。
* 機械を開け閉めするときに、なにかの雑誌から切り取っておいた「沢口靖子」の普段着ッぽい気楽さでさ
わやかに笑っている佳い写真が出てくる。からりとしてとても気持ちがいい。笑顔に、ふうっと疲れがぬける。あちこちから「沢口靖子」がわたしの仕事を見て
いる。よほどあきれたのか、この部屋に入ってきた「ぺると」主人も卒業生の布谷君も、黙っている。ぶらんこに乗った感じのおもしろい写真をインターネット
で見つけて拾っておいたのが、機械の破損で消え失せた。残念。
* 五月十九日 日
* ブッシュの頭にはすでに第四次世界戦争が「展開」しているという。イラクへの侵攻はもう秒読みの段階 かもしれないと。日本政府の「有事法」の拙速にも、米戦略の一環たらんとする姿勢が透けて見える。当然のように核と石油とが問題になる。テロがとりつくだ ろう。地球をどうする気だ。
* 奉天だった瀋陽、日中が化かし合っている瀋陽、かつて関東軍が陰険なわるさをした奉天。いやな気分だ。
* 「慎重によく協議して」と小泉首相の口癖になった。つまり、なにもしないで先延ばしの意味だ。どこのどんな世
間でも、「慎重によく協議して」が出たら、おしまい。ペンの理事会でもよく出る、これが。
「慎重によく協議して」が結論になるときの特徴は、だれもその事の責任者にならないということだ。責任者なしにどう「協
議」するのだ。
電子文藝館に「招待席」をと提案したときも、「慎重によく協議して」という意見が出、梅原会長も「ま、よく考
えてください」とは言ったけれど、誰と誰と誰とでとは言わない。それでどう「協議」するのか。「一緒にやるかい」と誘っても、「慎重によく協議を」と言っ
た本人が逃げ出すていたらく。わたしは、猪瀬直樹氏が「そんなことを、ぐちぐち言うことはないだろう」と大声を出してくれて、そのままになったのを幸いと
し、どんどん事を進め、いまは「招待席」作品が「ペン電子文藝館」に一層の厚み重みを与えている。「誰が人と作品を選ぶのか」と言われたので、言下に「わ
たしが選ぶ」と言い放ち、だれも反対一つしなかったのだから、実績を創っていったわけだ。「慎重によく協議して」に従っていたら、まさに棚上げになってい
ただろう。
小泉政治は棚上げ政治だ、大事なことほど。真に慎重であらねばならない「個人情報保護法」や「有事法」には、あの手こ
の手も辞せずのさばり出る。どうしようもない内閣だ。
* 布谷君が電話をくれて、一時間あまりあれこれ指導してくれた。それに従いあれこれやってみたが、親機 と子機とが連携していないことが確実に分かっただけで終わった。一つ、なにかメールで届いたソフトをインストールして、そのためか、やっと機械の電源が普 通に切れるようになった。今、こころもち機械が固くなった気がしている、キーの感じが変わったような。分からないが。
* 昨日出た初校はツキモノも添えて再校にもどし、追加分の原稿づくりにも大わらわ。大わらわだけれど中身は面白 く、いやではない。面白がっていると作業が進まない。
* どんなに遅く床についても「バグワン」と「好色一代男」を読んでいる。それから芹沢光治良の出世作 「ブルジョア」を二夜で読んだ。日本人作家では、芹沢さんの頃だと、きわめて新鮮に珍しい作風であったろう、これは。西洋の小説を読むようにデッサンがた しかで面白かった。海外を書いた作品では横光利一の「旅愁」を、とくに前半を愛読した。辻邦生の作品にも外国はよく出たが、芹沢さんのものとは随分違って いた。むかしに芹沢さんの「巴里」ものの一作を読んだと思い、その印象はやや感傷的で中間小説めくかなあというところがあつたが、少し気を入れて読み直し たい。
* 黒川創の作品が読めていない。妻は読了したらしいが、特に何も言わない。そんなことで、まだ、作品については
何も見えていないし言えない。
そうこうするところへ、妻の妹がきれいな本の「詩集」を出して、送ってきた。この義妹は、死んだ自分の兄に熱
烈な思いをもっていて、捧げる詩を書いたようだ。義兄は詩人にはならなかったが若い頃に詩を書いていた。その当時の友人谷川俊太郎氏が跋文を呉れている。
花神社から出た。大岡信氏らの詩集をよく出している専門の版元だ。お金を掛けた私家版だが、ま、いいところから出せてよかった。わたしは何も手伝っていな
い。どんな作品だか、まだ見ていない。
なんだか身の回りで、創作活動するのが増えてきた。黒川創の妹の北沢街子も佳い文章が書け、著書もある。独特
のセンスを持っている。画家だが文章の方でも生きられそうに思う。わたしの娘の朝日子も、才能はあったが粘りが無く棒を折った。環境に恵まれ努力していれ
ば、何かし遂げえただろうにと惜しい。
建日子は、必死に頑張っているようだ、連続ドラマをチーフで書き続けている中で、六月の「タクラマカン」に手
応えを感じているらしく、妻の話では彼のホームページでもボルテージがあがってきたようだ。わたしの機械が壊れて以来、彼のホームページは見られないまま
で。佳い舞台を楽しみにしている。
* 五月二十日 月
* 顧みて、講演という仕事を、なかば余儀なくだが想像より多く引き受けてきた。活字にしてきた講演録も 少なくない。現代文学を語ったことも、古典を語ったことも、少なくない。茶の湯や絵画・陶藝や能狂言や日本語についても、また京都や、歴史的な時代に関し ても、何度も語ってきた。話し言葉で話すことに比較的向いているのかも知れない。いま、その中で連続三回かけて一つの主題を、名古屋、京都、東京で語り継 いだものを、本一冊分にちかいが、スキャンした原稿で校正している。これはわたしの仕事である。さ、どういう効果になるか、湖の本にまとまるのが楽しみに なってきた。
* 先週、2週間ぶりに実家に戻ったら、演劇の案内がエム・フィールドから来ていました。是非、観にいきたいと
思っております。ただ、今回はウィークデーの夜になると思いますが、当日券でも入れますよね? まだ先の話ですが、今から楽しみにしております。
それと、もう一つ、秦先生にご相談したいことがあります。
今、付き合っている彼女に対して今後どう接していいのかわからないのでお話をしたいと思いました。
実は昨日彼女とそのことについてお互い真剣に話し合いました。すぐに結論を出す、ということは全くなく、ちょっと距離
を置いた方がいいのかな、とお互い今回の結論に達しました。
理由は、主に二つあります。
一つは、お互いの考え方のずれ。当然個の人間ですから考え方は全く同じではないことはわかっているのですが、彼女の方
は僕とのずれに違和感を感じ出しているようなのです。
僕はどうしても変えられないところは受け入れ、変えられるところはゆっくり自分のペースでいいから変えていこうとする
考え方なのですが、彼女は無理に変えるとその人の人となりが壊れてしまう、と考えているようなのです。
それともう一つ。恐らくこちらの方が大きな理由だと思うのです。
昨年2月から僕と彼女は付き合い始め、1年と3ヶ月ほどが経ちました。しかし、彼女の心の中には解決できていない、以
前の彼の存在が常にあったようなのです。彼女自身過去の思い出として整理しようと努めてはきたようなのですが、今だ解決できていないようなのです。
このような気持ちで僕と今後付き合うことに不安と申し訳ない気持ちで一杯になってしまっているようなのです。
僕は、彼の存在は付き合う前から知っていましたし(会ったことはないですが)、ゆっくりでいいから一緒に前に進んでい
こうと思い、今日まで来たつもりだし、これからもそうしていきたい、と考えています。
実は昨年の今ごろも彼女は気持ち的にまいった状態になっていました。恐らく5、6月ごろに以前の彼とのつらい思い出が
あったのだと思います。
そんなこともあり、僕としては一緒に解決していきたいと思ってはいるのですが、ちょっと距離を置いて見守ることにしま
した。僕自身辛いですが、彼女はもっと辛いと思います。
6月の2週目には彼女の26歳の誕生日があり、二人でお祝いすることにしました。但し、プレゼントは、なしで。
そして、建日子さんプロデュースの「タクラマカン」も二人で観にいくことにしました。
僕はこれからも彼女のことをずっと大切にしていきたいと思ってます。
秦先生、僕、間違っていますか?
とりとめもない文章になってしまいもうしわけございません。秦先生にはいつも突然長文を送ってしまい失礼だとは思って
いるのですが、ほんとにすみません。
今はすべきことをして、できる限りのことをして、頑張るのみです。
秦先生もお体を大切に。それでは失礼致します。
* 基本的にあなたの姿勢は紳士的で不満はありません。しかし不安はあります。
恋はエネルギーですから、爆発的に強烈であれば、現在の幸福が、経緯はともあれ過去を凌駕するものです。あれ
やこれや「相対化」がされているとすれば、双方の恋の温度が高まり得ないまま、なんとなくお互いに「思いやり・やり」つき合っているのかと思われますが、
まま、こういうつきあいは、温度の冷え行くに任せて消滅することになりやすい。そこが不安です。紳士淑女の恋も恋ですが、恋は危険なエネルギーであるとこ
ろに魅力も真実もある。
タクラマカンを二人で見てくれるのはいいと思います。当日で入れなかった例は以前にいくらもありました。小劇場ですか
ら。無駄足をおそれるなら前売りがいいでしょう。
この時代です。過去を清算しきれないまま生きる男女がすべてとすら言えるでしょう。それを乗り越えて行ける現在の熱、
それがすべてでしょうね。自分を殺した妙な思いやりや紳士的な遠慮が、彼女をかえって冷えた不安に湯冷めさせている原因かも知れないのは、念頭に。
* 思ったままを答えた。若い男性世代の恋の不調の多さを恐れている。いい青年ほど、いい女性たちから体
温が低いと感じられていはしないかと心配する。昔のように大人が仲に立って取り持ってはくれない時代だ、その時代が紳士的な青年たちを立ちすくませないよ
うにと祈りたい。
* 五月二十日 づき
* 小泉内閣の支持率が不支持率より低くなったのは当然だ。内閣は例の瀋陽連行事件を、人道問題を主にし
て恰好をつけているが、見当違いであろう。すでに中国側に五人が拉致検束されてある以上、しかも頑なに中国側が抱き込んでグダグダ世迷い言を言っている以
上、もう五人のことは中国の責任ですよと見放してしまい、さて、彼等がひどい措置をすれば世界が見据えているわけだ。日本もそのときは大声をあげればよか
ろう。今は人道の、五人の身柄の、という時機ではなく徹底して領事館への不当侵犯を国際法上でつつきまわすべきだ。幸い、門のところの写真は、明白に中国
武装警官らの暴行に類する侵犯ぶりを立証しているし、中へ入った男の二人を強制連行しに入った事実も動かない。このウイーン条約違反を徹底的に世界に言い
続け報じ続け譲らないことが、位負けしてしまっている現状回復に結びつき、力関係は逆転するだろう。なぜなら、中国は今、世界の視線の中で人権や暴力の問
題で名誉の傷つくのをいやがり恐れているからだ。
五人のことは、どうぞご自由に、しかし領事館内侵犯は許さない、謝罪せよと表では広く世界向けに突っ張り続け
ながら、水面下では冷静に交渉なり外交なりを続ければよい。小泉内閣は人道などいうきれい事にのがれているつもりらしいが、トンチンカンな、本質思考の欠
如集団という以外にない。
* 「金色夜叉」の熟語のよみの特異さにふりまわされる。校正はしていても、誤植をみつけるのでなくふりがなし続 けることで疲労する。それなのに、貫一お宮の熱海を叙する紅葉の筆はとっても興味をそそるのである。
* 近藤富枝さんから「服装で楽しむ源氏物語」が、愛知のペン会員紫圭子さんから詩集「受胎告知」が贈ら れてきた。先のは文庫本、詩集は泰西の名画に飾られたしんと重い佳い装丁だ、ざっとみた感じ、紫さんの代表作に成り得ている気がする。この人にも「電子文 藝館」への出稿をぜひ声かけよう、ただ残念ながらこの人も機械が使えない。「e-文庫・湖」のときもわたしがスキャンして掲載した。まだまだパソコンは、 そうそうは浸透していない。
* 好きな小さんが亡くなり、テープで、またテレビで、いくつも彼の噺を聴いた。天性の落語顔をしてい
る。名人とまでは言わないが、しかし円生、志ん生、文楽とならべるなら、好きな三木助や可楽ではなく、小さんだろう。関西の米朝や文枝がここへ入ってきて
もいい力量だし、松鶴家にも一人うまいのがいて、昨日かおととい「ひとり酒」をやっていて酒が飲みたくなった。小さんでは「粗忽長屋」が好きだ。「うどん
屋」でのうどんのたぐりようが堪らなくうまかった。寂しくなった。
漱石を読んで、いちぱんはやく「小さん」という名人の昔いたのを覚えたものだ、噺家の名前で一番早く覚えたのは「小さ
ん」だった。
* 五月二十一日 火
* 一昨・昨・今日かけて、ほぼ三百枚の気の疲れる校正をし遂げた。その半分はスキャンしてからの校正 だった。我ながらよくやれたものと思う、とても気を遣った。体力も使った。桜桃忌を大きくは遅れないで、満十六年記念の大冊が送り出せるのではないか、見 通しがやや明るんだ。追加入稿の八十頁分ほどをディスクに入れ、今、速達郵便にしてきた。仕事というボールは、握っていたら埒があかない。仕事は捗らな い。向こうへ向こうへ投げ返さねば仕事に成って行かない。
* 夜前は、一時間しか眠らなかった。その仕事のためではない。芹沢光治良の「巴里に死す」を読み出した ら、引き込まれ、眠くならなかった。それでも強いて電気を消したが、一時間して、四時過ぎに外へ出たいマゴに起こされた。玄関から出してやり、寝ようとし たがもう目が覚めていた。そっと二階に上がり、機械の前で自分の仕事にかかった。おかげで捗ったが、昼前ごろは眠かった。
* 「巴里に死す」は意表に出た構想であり、また「ブルジョア」を先に読んでいるので、なんとなし作風の 脈絡が感じ取れていた。日本の文壇では孤独な作家とされながら、しかも日本ペンクラブ会長も務められたし、ノーベル文学賞候補にも推薦者にもなった人だ。 文壇くさくない。それがいい。この長編に書き出された長い手記の女性筆者の個性など、あまりお目にかからない特異な心理と神経と我を備えていて、こういう のが実はいちばんリアルな女の人の書き方ではないのかなと感じもした。芹沢さんという人そのものが、甚だ「普通に変わった」人だ。
* あすは前進座の芝居がある。
* 電子文藝館用の、分量の多いスキャンが、少なくも三本、手元で順番を待っている。スキャンは、途中で
やめられない、はじめれば量が多くても遂げてしまわねばならぬ。数えてみるとほぼ百五十枚の原稿プリントがある。つまり百五十回は、同じ単調な、しかし間
違えるととても厄介な作業を繰り返すことになる。CDの音楽を、四枚分は聴きながらやらないと仕上がるまい。だが、その三作(泉鏡花・新井満・伊吹和子)
とも、はやく読んでみたい。だが紅葉のルビ打ちの難儀な「金色夜叉」をし終えてしまわないと、手が着かない。そのうちに京都行きが来てしまう。今晩は文藝
家協会の総会懇親会だが失礼する。
正岡子規の句と歌とを百ずつぐらい選んでみようとしたが、予想どおり、さて「選ぶ」となるとそうそう佳いモノ
ばかりではない。「竹の里歌」から百も採ろうとすると、無理が出る。安くなる。人口に膾炙した幾つかはどうしても目にとまるが、今から見て月並みに緩い句
や歌が多い。正岡子規は批評の方が俊秀の感、濃し。
* 六月は三省堂の本と、わたしの湖の本とが作業量として拮抗してくる。文藝館に割ける余力はあまりない。基盤は 固めた、すこしゆっくりやろう。
* 湖の本は今度で通算七十一巻めになる。そのうち単行本の復刊でなく、新刊・新編集の巻がどれくらいあ
るか、知らぬうちに随分新しい本が出来ている。出版社から出せばそれぞれ立派に単行本になったろうが、幾分は面倒で、そう働きかけること、売り込むことを
しなかった。もともと売り込むぐらいなら自分でやるという、わたしはそういうタチだ。ものぐさになっていたこともあるが、湖の本への愛着が増し、こっちで
出す方が気が晴れた。
* 五月二十一日 つづき
* 気がかりの原稿も、書いて送った。一つ一つボールを投げ返して、軽く、そう軽く一息ついている。
千葉の勝田さんのご厚意で、「電子版・湖の本」が、創作もエッセイも通して、全巻内容を所定頁に書き込むことが出来
た。ながいあいだ願ってきたのが、やっとその段階まで。あとは、気を入れた落ち着いた校正を。しばらくは、このまま、温存しておく。
* 胸の内に異種類のあれこれがゴッタに縺れ合ってごろごろしている。なんと「ニューズ」はイヤなことば かり届けてくるのだ。犬をめったうちにするかと思えば、級友の肛門に寄ってたかって鈎の着いた鉄棒を突き刺し捩り回したとか、傘で顔をついて殺人したと か、看護婦が三人四人で合議して夫や身寄りを冷酷に計画的に殺すとか。脅すとか騙すとか、虐めるとか、頚を切るとか。それでいて、人道こそ大切だが、中国 側に拉致連行された五人への接触は「毅然として断念する」とか、もしどっちか選ぶなら、主権侵害より人道配慮だとか。スットコドッコイばかりだ。渡しきり にした五人の人道なんか、中国に下駄を預けるよりもう手が無い。それよりも国際世論に主権侵害の前例を容認させないように、八方キャンペーンすべき時であ ろう。そもそも最初に川口大臣が十人ほど引き連れて北京に乗り込むべきであった。一人の部長が行って調査の無能ぶりを発揮しただけだ。あの領事館門内での 動く写真をみたとたんに、「川口、行けッ」と怒鳴ったモノだが。いやになる。
*そこへ行くと、優れた文学に触れているのはいい、すくなくも清々する。そして目の前の女優沢口靖子の笑顔がい
い。いいものは、いい。ほっとする。
* 五月二十二日 水
* 井上靖先生のご縁から、案内のあった国立劇場の前進座公演「天平の甍」を観てきた。鑑真和上を嵐圭
史、起ち上がって拍手したかったほどの佳い鑑真像で、それ一つで舞台の全部を支えていたのは立派であった。感動した。どんなにそつなくうまく演じても、鑑
真和上が普通ならば、舞台はお話にならないだろう。聖者の熱情が最良の信仰と人間とにささえられていてこそ成り立つ作品であり、嵐圭史は前進座を支える今
や大黒柱の実力と誠意とを渾身表現し得ていて、感銘を受け、心を洗われた。梅雀の栄叡も力演であった。国太郎の普照はやや軽い感じのママ、懸命に、出ずっ
ぱりの大役に耐えていた。
感じ入ったのは、群像の配置のみごと絵画的に美しく一糸乱れない舞台構成、その実現を可能にした依田義賢の的
確な脚色であった。一糸乱れない舞台というのは、一つ下手すると感情の感動を阻害しかねないが、この舞台では清潔感と共に志の高さを保たせ、成功してい
た、たいへん成功していた。
観客の平均年齢は確実に五十代の後半を上回っていただろう。そしてこんなに自然に拍手がわいて、その拍手の内
容の納得できる舞台というのも珍しい。ひいきの役者が出るから、あざとい笑いをとろうとしたから、というのとは全く違い、ひとえに鑑真和上へのいわば人間
としての自然な感謝と感動に発した拍手が、回を追うに従いますます広く高く多くなっていたのは、観客の気持ちの佳い反応であった、気持ちが良かった。気持
ちよく感動して涙を流すことができた。真摯な、高邁な志で、統一感をみせた良い演劇の達成だった。むかし滝沢修で観た「その妹」の舞台の冴えを思い起こし
たりした。冴えていた。
* 妻は、先日池袋のメトロポリタンホテルで買った服を着ていた。例によって、わたしが眼をつけ、あれはいいよと 予め選んでおいたもの。妻のために服を選ぶわたしの眼も、自然に高くなっている。
* 佳い舞台だと機嫌もいい。勘違いして青山一丁目に行ってしまったので、大江戸線にのり、途中下車して 喫茶店で時間待ちしてから、「八海山」のある、食器の吟味のなかなかいい新宿の店で、うまい和食を食べてから帰宅した。練馬駅の構内で久しぶりにケーキの モンブランを二つ買って帰った。玄関へはいるとさっとマゴが足下で出迎えてくれる。
* 有島武郎のAn Incident(ペン電子文藝館招待席)を読みました。
子どもに対して、自分にこんな感情があったのだろうか というような激情 を感じたころを思い出しました。
愛しく 尊い存在であることは十分に分かっているのですが 激情はプラスばかりでなくマイナスにも働く・・こ
と、 夫婦に子どもが存在することが、必ずしも幸せばかりもたらさないこと、 さらに、ある子どもに対して、親としてあってはならない 不条理な憤りの激
情がおきたこと・・その後必ず陥る自己嫌悪。
母親にも こんな気持ちがないとはいえないのです。虐待をするのが必ずしも父親ではない のです。
太宰の作品「桜桃」(文藝館招待席)に続いて 子どもに対する 親の偽らざる気持ちの一端が吐露されている有島作品と
感じました。
* 有島武郎の小説に対する読者のこの感想は、踏み込んで強いものがある。こうはなかなか言えない・云わないとこ ろを、突っ込んで率直に言っている。作品の力かがさせているのだろう。
* 五月雨も五月晴れも、6月の話と思っていましたのに、なんだか太陽暦に季節の方が合わせてくれているような陽
気が続いていますね。
昨日は出張、日帰りで岡山へ行ってきました。観光などできないスケジュールでしたが、ほんわかとやわらかな街の雰囲気
はやはり伝わって来るのでした。なだらかな山に囲まれて、瓦の家の多い街でした。
いつも思うのですが、私には観光旅行の醍醐味がわかりません。観光地に生まれ育って、観光客の身勝手さばかり
目にしてきたせいでしょうか、観光のために街を訪れるのではなく、仕事で出かける時の方が何倍も充実しているように思えるのです。仕事で用事ができている
限り、その街が「おいで」と言ってくれているんだな、という解釈をしてしまうのです。
単なる遊び下手なのでしょうね。年をとれば、気軽に街を歩く楽しさも理解できるようになるのでしょうけれど。
またも下手な俳句を勝手ながら送らせて頂きます。
最後の句だけ季節が違いますが、毎日通勤途中で痛感している思いです。たくさんのマンションやアパートや家々
で布団を干している。布団を干すということは、布団を取り込める時間、まり日のあるうちにその家に主婦がいるということ。電車の窓からこの風景を見る度に
私は胸が傷むのです。仕事を続けている限り、疲れた平日の家族にあたたかな布団を提供することはできないので。
今日はよい天気です。世の中にも、それに見合うだけのよいニュースなどあればよいのですけれど。
卵孵す燕のごとくデ−タ読む (燕のやうに、か。平談俗語がいい。)
雨の匂い不思議と日なたの心地がし (不思議といわずにその感じが出てほしい。)
五月雨の合間に泣く子を抱きしめて (合間に がわかりにくい。幾つにも取れる。抱きしめて は、しまらな
い。)
やうやうに忌憚なく言ふ三十路夏 (ウーン)
蒲団干す窓の数だけ主婦ありき (理に傾いて、平凡。ありき の過去完了形も気になる。)
* 掲載作品を選ぶ。コピーを取る。スキャンする。スキャン原稿を校正する。妻が念校する。入稿する。仮
サイトに掲載される。委員に宛てて常識校正を依頼する。常識校正内容の通知を原稿で当たって、細かに判断し訂正する。業者に通知し、訂正後に本館に上げる
か、もう少し検討するか指示する。本館に掲載後出稿者に通知と感謝状を郵送する。
一本の原稿について、これだけのことをし遂げながら、「ペン電子文藝館」は、一作ずつ掲載先品を増やしてきた。この根
気仕事がこれからも延々と続く。上に上げたような読者からの「感想」が届くと酬われたように嬉しい。
しかしまた、「ペン電子文藝館」に、もしかして読者が一人もなかったとしても、会員や先輩作家たちの作品がそこにアー
カーイブとして遺され保存されているだけで意味深いのである。
* 作家高史明さんから、メールに添えて講演録「真実のいのちを見つめて」を送ってきて下さった。すぐ、「e-文
庫・湖umi」第六頁「人と思想」欄の冒頭に掲載させていただいた。高さんの思いを汲んで下さる方の多いのを祈ります。
* 五月二十三日 木
* 朝、三好徹氏の小説が、著者校正され送られてきた。機械に容れて訂正し、「招待席」中島敦の小説、米田律子さ んの短歌ほか、計五本のディスク原稿をATCに送った。
* 頼まれ原稿のやや量のあるのを二本書いて、他にもあれやこれや。晩にはスチーブン・セーガルの「沈黙の断崖」
をみたが、二度目か三度目。セガールよりも、ヒロインを演じた女優が金髪の美しいすかっとしたいい女優なのが、値打ちだけの映画。
相変わらず「金色夜叉」のふりがなに音をあげながら、じりじりと前進。
注文した発送用封筒も配達されてきた。住所印など押して、もう即座に発送の用意にもかからねば。
三省堂の本のためにも原稿を作らねば。
* さっきどういうわけか、この機会の画面が一度ぐちゃぐちゃの、雑炊のようになった。リセットして元へ戻った
が、不気味。
* 五月二十四日 金
* 入稿すると、ATCがテストサイトに仮掲載し、委員に割り振って常識校正してもらう。誰の手元にも其 の作品の「参考原作本」があると限らないので、起稿段階で極力よくチェックして原稿にしておく。常識校正がメールで戻ってくると、それらをいちいち吟味検 討して、ATCに指示を送るのも私の役目で、これがたいへん煩雑煩瑣な難儀な仕事である。しかしこれをなるべく緻密にやって、それでも残りやすいのが、誤 記誤植。ことに機械では、スキャンの際のヨゴレまで克明に再現されてしまうので、気が抜けない。
* 「金色夜叉」前編第七八章は「熱海の海岸」というクライマックスの一場面である。明治三十年元旦から 二月二十三日まで読売新聞にこの前編は連載され、江湖の人気をえた。あの花袋の「蒲団」より十年早いのである。いまから百五年前、十九世紀末の仕事だとい うことを念頭に読めば、この作品が爆発的に朝野こぞって愛読されたというのが、分かる気がする。おもしろい。やがて掲載になるから、せめてこの畢生の、 「絶筆」にもなった大作の最高に受けた場面を堪能されたい。ま、ふりがな一つをでも鑑賞してもらいたいものだ、いや、苦労した。
* 湖の本の、追加入稿分はまだだが、戻した初校分の再校が出てきた。全部もう読んだ。150頁を越すだろう、ま たまた経費の負担は重くなる一方だが、仕上がりの満足は得られるだろうし、読者にも喜んでもらえると思う。
* 今日、堀上謙氏の電話で、野村喜之の「定家」を見ませんかとお誘いがあった。明日だとか、明日はあいにく出か
けますのでと返事した。電話のあとで、出かけるのはあさってだと気付いた。
昨日、堀上氏に頼まれていた原稿も書き上げていた。そのまま送ってもいいが、もう一度読み直してからと思っていた。い
ま読み直して、書き換えるところはないと確認。「退席の弁」と題してある。「観るだけに」としよう。
* カメルーンのサッカーチームが、九州のキャムプ村に到着しないのでヤキモキする話題が此の二三日の、ほろ苦い
が妙に笑えるものだった。どこでどう道草を食わされているかが報道されているので、分かりはいい。
六月に沼津まで公演に来てくれと電話で頼まれ、ところが、その後ナシのつぶてに放置されている。いたずら電話
かと思うしかない。太宰はそう好きな作家ではなく、講演などちっともしたくないから、中止なら大いに有り難いが、宙ぶらりんは実に迷惑だ。苦情を伝えよう
にも先方も正確に分からないのだから、イタズラであったと放念したい。のんびりした主催者で、その気で居られたら大いに困る。これでは心用意をする気にも
ならない。
こういうことで、事務的な反応が鈍いため結果的に「断った」企画が、長い間には、二三度あった。事務はテキパキという
ことだ、わたしの美学では。
* この前、ペンの事務員から、「入会申し込み」の申請書類などがチャチいので改めたいが、理事会で発言
してくれと頼まれていた。入会希望者が受け取る案内の書類がある。見てみると「入会資格」が規定されていない。「入会手順」として理事一名と会員との最低
二人の推薦があればいいと、事実上なっている。「著書二冊」以上が資格の限度だとわたしは思いこんでいたが、ウカツであった。
日本ペンクラブの入会には「資格基準」がなく、推薦だけで佳いのだ、しかし、ヘンな組織ではないか。情実縁故入会に道
が太くて、理事に縁のない遠方の人は容易に申し込めない。不公平であり、また会員の精選もできない。
道理で、と、思うことがいくらもある。会員はどちらかというと、世事に疎い物書きだと、文藝家協会の方なら謂
えるが、ペンには実務的ないろんな人が入っている。それでも、組織の体格をしっかり作り支え、記録も保持保存し立案能力も持たねばいけないのは「事務局」
だ。事務局長が交代したことに希望を持っている。本当は、機敏な行動力のある、視野の広い若い男子事務員がほしいところだ。
* 五月二十四日 つづき
* 新しい作家の作品に触れて、不満の残るのは、文章の推敲の出来ていないことと、説明の多いこと。それ
と、表現に熱い噴出感がなく、だらだらと「注文」をこなしている。書いているうちに考えを形にまとめて行くかのように、これが書きたくて書きたくてという
動機の強さが感じられない。馴れてゆけば行くほどそうなるのだ。三好徹氏の「遠い声」などは、作品が噴煙をあげるように熱い。新人賞で賛同しなかった選者
たちの全部の人をわたしは知っているが、たぶん、こういう火傷しそうな作品に腰が引けたのだろう。厭な気分になって八つ当たりしたのかもしれない。その人
たちの美学からは、文章も題材もかけはなれている。だが野間宏には受け止められた。それも分かる。
「遠い声」のような力作と組み合って読むのは確かにしんどい。だが、しんどいほどのものを書くことも初心の尊さではない
か。初心を忘れては話にならない。原稿料稼ぎの小手先の小説なら、書かない方がマシだし、そういうのを読むのもいやだ。読まされるのは、もっと、いやだ。
* ERを見損ねた。いまテレビのドラマでわたしを感動的に満足させる連続ドラマは、これだ。今夜は「サ
トラレ」という題の妙な映画があって、わたしは観なかったが、妻にビデオ撮りを頼んで仕事をしているうちに、「ER」が通り過ぎた。撮影現場も出来たらぜ
ひ観てみたいほどの映像の迫力。
* 五月二十五日 土
* 昨夜就寝前に、元「新潮」編集長の坂本忠雄氏から贈られてきた、これは岩波の「文学」だろうか、特集
の中で氏がインタビューを受けている記事を読んだ。坂本さんは、むろんよく存じ上げている。わたしと同年の1935年生まれ、在任中に「春琴自害」や漱石
の「心」論を載せてもらった。湖の本にも毎回欠かすことなく懇篤な感想の返信をいただく。わたしから見て優秀な編集者は、そういう姿勢がじつにハッキリし
ていて、共通している。坂本さんも名をあげている元「群像」の大久保房男氏、同じ講談社の天野敬子さん、元「文学界」の寺田英視氏、元「中央公論」の平林
孝氏、元岩波の野口敏雄氏など、はがき一枚にしても懇切で一貫している。
そういうことよりも、この坂本氏のインタビューには、さすがに共感し同感し、さながらにわたしの思いを各所で的確に代
弁して貰っているようで、心強く感じた。いくらかを抜き書きして、わたしだけが言うわけでない要所を、今一度も二度も確認しておきたい。
* こういう長閑なたよりもある、が、ほんとうに長閑なのか、何かに耐えて長閑そうなのかが分からない。ときどき
は悲鳴のような苦しい声も届くので。
最近にも、三人のメールで、偶然同じ「現実逃避」という文字を読んだ。怺えきれず漏れた本音と聞こえて、事情
はよく知れないが、胸に痛みがのこった。ありふれたとも、この時節だからとも謂えるのだが、「ゆったり自然に」「いま・ここで生きるよう」にとバグワンの
いう深い意味と警告とが、切に思い返される。
* 滴るような緑濃い山。汗ばむ肌を乾かす風。小さな橋の途中で、若い男のコが自転車を止め、お喋りに興じていま
す。緑を映して、川はさざ波をたてて流れ、釣り人がひとり。
ビールがおいしい好天の土曜日いかがお過ごしですか。
さきほど、ラジオのクイズで、築地だかどこだかの、なんとかいう寿司店で、今週一番人気があったネタはなんでしょう
と。寿司っていうと、すぐ、ウニだのトロだの言うでしょ。そう思って聞いていたら、イサキですって。
ソラマメ場所の大相撲も明日が千穐楽。おなか空いてきたわ。
* 大相撲もまるで見なくなった。武蔵丸が全勝できるかだけの関心も、掌をさすアンバイで、土。昔の栃錦
は別格として、北の湖、千代の富士、北勝海、小錦、貴花田のころまでが、わたしのお相撲時代だった。もう、余分なものに打ち込んでいるヒマが残っていな
い。あちこちから「退席」したい。相撲より映画がいい。能狂言より歌舞伎がいい。肉食より酒がいい。肩書きよりラクがいい。
* 五月二十五日 つづき
* 正岡子規「万葉集巻十六」を招待席に起稿し、校正を終え、日吉那緒さんから届いた自選短歌百五十首を スキャンし、慎重に校正しはじめ、新井満氏の「函館」もスキャンを終えて校正し始めた。紫圭子さんの詩編も、起稿中。何をしているのかと「いい読者」に叱 られてばかり居るが、ものには潮時がある。これがもし良くない潮だというのなら、わたしの不運というものであるに過ぎない。たいしたことではない。これが いいのわるいのとは考えない。いいこともなく、わるいこともなく、そんな何かが実在するわけではない。あるのは、わたしは生きているだろうかという根元の 問いだけだ。
* 晩の映画の「相続人」は途中で退屈し、機械の前へ戻った。子規の論説の方がはるかに面白い。
* 五月二十六日 日
* 斎藤美奈子というわたしの識らない人のインタビューに答えて、元新潮編集長の坂本忠雄氏が「文芸雑
誌」を主宰した体験から答えていた。文芸雑誌の昔の部数は「四千部」だったそうで、いまも「最上の読者」は「三○○○人くらいだと」思って仕事をしてきた
とある。「湖の本」という私単独の全集刊行体験からして、たいへん興味深い。もっと減っているという説も聞いたことがある。中間小説の雑誌は当初は部数が
多かったが、それも現在では「赤字です」とか。さもあろう。
次いで純文学と中間小説を「分かつもの」を問われて答えている坂本氏の言葉、聴くべきものがある。
「純文学は正確さを目ざすものだ」と氏は考えてきたという。「執筆の動機、主題、表現などの課題を、自分のヴィ
ジョンに照らしてもっとも正確に表わす。類型的なものは極力排す。それを『純』という言葉に惑わされて、純粋化を求めるあまり文学を狭く追いこんでいくと
考える必要はない、とぼくは思っています」と氏は言い切り、さらに「中間小説はやはり類型的なんですね」と言っている。全く同感。
インタビュアーはそこで、中間小説たるもの、「むしろ、類型的でないといけない」と、質問するともなく措定している。
何故かと反問したいところだ、「そうでないとおおかたの読者には通じない」とでもいう含意があるのだろう。
坂本氏はその点はなんとなくかわし、「類型化」は何より文章にあらわれていると、こう話す。「この頃純文学と
中間小説の区別がつかなくなってきたといいますが、これは文章の類型化というのがどんどん進行していますからね、文壇の中でも外でも。消費文化の質量に正
比例してくると思いますが、文章が類型化してくることに対する違和感もどんどんなくなってくる」と。
そうなのだ、わたしが文壇の外へ自ら出ようとしたのも、大きな一つの理由にこの風潮があり、我慢成らなかったからだ。
で、「文章の類型というのは、たとえば」と問われ、坂本氏はこう答えている。「あるものを表現するのにこの一
つの表現でいい、と容認されてしまっている言葉を平気で使うということでしょう。ところが純文学というのはそういうふうに使っちゃいけないんですよ。どう
いうふうに見たか、という自分の言葉(=表現)をひねり出さなくちゃいけない」と。「そこが純文学作家にとって大事なんですね」という質問にも坂本氏は、
「非常に大事なんです」と言い切る。
何度私は「私語」してきたろう、通俗文学は、要するに「文章という文藝」の段階で落第している、類型叙述が平然当然の
ように安易に用いられ、手あかにまみれている。だから簡単に見分けが着く、と。
「表現の一般化が休息に進んでいるし、今のようなIT時代になるとますますベッタリと決まった言葉がどんどん行
きますからね、そういうものに抗しているというのが、豊かな言葉の生命力を死なせてはいかんというモチーフをもっている表現者、それが純文学の作家だと思
います。」
「中間小説はストーリーですか?」と問われた坂本氏は、「まずめずらしい素材とストーリーから始まるでしょう」
と答え、「純文学の優秀な作家になろうという人は、どうしても書きたいというモチーフを必ず一つは持っています。どうしても小説(=創作)じゃないと書け
ない、これを書かないと死ねない(笑)という。」「──パトスがある。」「編集者はそれをキャッチしなければならない。漠然と作家になりたいとかではな
く、どうしても自分にとって書きたい主題があるということです」と言う。そして一般に処女作は興味深くはあるにせよ、「まだまだ十分には書けてないんです
よ。だんだん鉱脈が深く見えてくる人もいます」と。全く全くこの通りなのだ。「純文学の場合一番まずいのは自作を模倣することだと思います。これは厳しい
言い方かもしれないけど、自作を模倣するようになったらおしまいですよ、作家は。非常に辛いことですが、掘り進んでいかなきゃいけない。エンターテイメン
トの作家の苦しみとはちょっと違うと思いますね。純文学の作家は自分の中で何度も何度も問いを重ねていくこと(が仕事)だから。でも、それがうまくいった
ら作品は時代を超えて残っていく」とも坂本氏は指摘している。その通りであり、だからこそわたしは過去の作のあんなのが読みたい、また書いてと言われても
動かないできた。前作模倣をするぐらいなら、いっそ書かない。そのおそれがあれば、書かない。
* この先にも「作家と編集者」の関係などが語られているが、それはもう別のことで、坂本のような優れた
編集者ばかりがいたわけでも、いつもいるわけでもないから、今は触れない。上に引き出してみた記事は、いま、また、これから、エンターテイメントでなく藝
術としての文学作品を本気で書きたいと考えている人たちには、ぜひ伝えたくて、書き抜いたのである。たとえば、甥の黒川創に対しわたしが信頼しているの
は、ここに坂本氏の言うその覚悟が、たぶん出来ていると思うからだ。かりにそうでなくても、彼はここに言われたことを理解するだろう。身贔屓ではなく期待
している。ああ、こういうことは、娘の朝日子に言ってやりたかった。
秦建日子は彼なりに、今日も芝居の稽古に奮闘しているだろう。作・演出も脚本も、容易成らない力仕事だ、健
康にはくれぐれもと気を配って、悔いない成功を祈っている。「タクラマカン」の前評判はわたしへのメールでも、なかなかいい。
* 「ペン電子文藝館」を訪れてくださる読者にも、坂本氏の弁は一つの道案内になるだろう。「豊かな言葉
の生命力を死なせてはいかんというモチーフをもっている表現者」「これを書かないと死ねないという」「パトス」で書かれている作品と、「類型化」に安住し
ようとしたものが、ある。根本は其処=底にある。「e-文庫・湖」に投稿をと思う新人は、前者の志をもっていてほしい。
* 五月二十七日 月
* 昨日の坂本忠雄氏のいわれた「類型化」という発言のだいじなところを、もう少し氏の言葉で補足してお いた。「文章の類型というのは、たとえば」と問われ、坂本氏はこう答えている。「あるものを表現するのにこの一つの表現でいい、と容認されてしまっている 言葉を平気で使うということでしょう。ところが純文学というのはそういうふうに使っちゃいけないんですよ。どういうふうに見たか、という自分の言葉(=表 現)をひねり出さなくちゃ(=創作しなくちゃ)いけない」と。「そこが純文学作家にとって大事なんですね」という質問にも坂本氏は、「非常に大事なんで す」と言い切る。この通りである。三好徹氏の事実上の処女作でもあった「遠い聲」をわたしがあえて何度も取り上げるの理由もそれで、じつに真っ向から「自 分の言葉をひねり出」そうと苦闘している、その汗みづくの誠意が作品の力になっているのである。うまいへたという問題がそこではじき飛ばされている。まぎ れもなくこの作品で作者は、坂本氏の言う「純文学」の表現に挑みに挑んでいたのだ。それがあるから、それに惹かれてわたしは長大な作品をスキャンもならな い劣化した印刷から、一字一字拾って電子化をいとわなかったのだ。初心の昔が懐かしかったのだ。
* 午前中に泉鏡花の小説をスキャンしておいて、午後、妻と柳沢の出田家を訪問した。リフォームしたので と誘われていて、ながく行けないままになっていたのが実現した。ふっくらと卵色をしたおとなしい猫が居た。秘蔵のテキーラをだしてもらい、ストレートでか なり飲んでしまい申し訳なかった。下の二人などは生まれて以来のつきあいだ、あんなに小さかった娘たち三人が、みな大学を出て、勤めに出ている。上と末と は新聞社に入っている。上は署名記事も書いている。うちの建日子よりほんのちょっと若い。中の子は、人材派遣会社で派遣する側の仕事をしているという。若 い人の時代なのだ。テキーラよりも、そのことに酔った。
* さ、明日は京都、朝が早い。昼と晩に会合が二つ。さっと帰ってくるだろう。
* 昨日の夜中に、芹沢光治良の「巴里に死す」を読み終えた。堅実な中編の「ブルジョア」より、だいぶ長
い。それが長短こもごもに作品を揺すっていた。母というより女であり妻である内面が、少し珍しいリアリティーでよく書けている。これにくらべると、たいて
いの女の書き方はよくもあしくもホンマではなく思われるほどに。
* 五月二十八日 火
* 芹沢光治良の「橋の前」と「秋扇」を読んだ。前者には伏せ字が多く、それなりの時代色はあるといえる が、少なからず風化したとも、いやこの官憲の権勢復活時代にはよそ事でなくなって居るとも、いえる。緊迫感を維持しているとは、だが、言いにくい。後者 は、けっこう凝ったストーリーであるが、深い感銘はない。「ブルジョア」から受けた緊迫と文学的な厚みがうすれている。やはり「死者との対話」を選んだの は正解であった。
* ロサンゼルスの親しい人から、湖の本に二万円の送金と、懐かしい手紙が届いた。四十数年という歳月が 我々の間に横たわっている。われわれに大切な人にも、死なれている、その間に。繋いだ糸がピンと張っている。思えばこのような糸が無数にいろんな人との間 に張られて、生きてきたのだなと思う。たるんだ糸も、切れた糸も、こんぐらかった糸も有るにせよ。
* この年になると、寂しい話題にも事欠かなくなってくる。晴れやかに思い直し思い直し我が身を励まして 日々を過ごすよりない。せめて「無用の習慣」のトリコに我が身を縛らせないようにしたい。自在にゆったりと生きていたい、流れるように。寝食のようにほん とに必要なことって、そうは多くない。ゆったりと自然に、楽しみたい、いま、ここを。
* 今夜は京都で泊まる。明日には戻ってくる。
* 午後二時都ホテルで第十五回京都美術文化賞授賞式。日本画、彫刻、陶芸から受賞者を決めた。選者代表
のような梅原猛氏が余儀ない欠席で、小倉忠夫前倉敷美術館長が受賞者紹介と選評を。南禅寺から比叡山、また黒谷や吉田山、その向こうの北山や西山が一望の
会場なので、わたしはここへ来るのが楽しみ。日本晴れの美しさに山々の緑がわきたっようであった。珍しく石本正氏が乾杯役。受賞者へのおめでとうをすっか
り割愛して、亡くなられた秋野不矩さんの思い出などで、さわやかに乾杯、一つのみものであった。
記念撮影があって。
都ホテルが何故かウェステン都ホテルと名乗りを変えていて、ホールなど模様替えがあった。ながく湖の本の読者であった
総支配人の八軒敏夫氏もリタイアされていた。
* 宿のからすま京都ホテルに戻り、五時半から、新町仏光寺の「木乃婦」で理事会と宴会。梅原さんがいないので、陽気に欠ける。財団母胎の理事長がそのぶん一 人で座を持っていた。祇園甲部から藝妓舞子が五人。みな、弥栄校の近辺の人で話題がかみあう。さて舞子の踊りは普通だが、ばあさんと年増藝妓の歌三味線は 歌い込みも音もよく、さすがに上手だった。食事も酒もそこそこうまかった。冷酒の聖徳をよく飲んだ。甘口だが純米で、うまかった。
* 宿は五分ほどの近く。帰って、家に電話して、テレビを見ているうち寝入ってしまい、真夜中にテレビの声で一度
目覚め、寝直して、八時半まで。
* 五月二十九日 水
* 入浴、朝食、どこへもまわらず京都駅へ。のぞみ満席で一台待ち、その間駅前の都ホテルで今度の湖の本
を念校した。十時六分、のぞみに乗り込んでからも、あれで横浜まぢかまで、ぶっ続けに校正したり、また持参した幾つかのコピー論文を読んで過ごした。往き
は二時間ほど眠っていったが、帰りはいたく勤勉に過ごした。そして寄り道せずに帰宅。
留守に湖の本追加分の校正が出ていたので、建頁を建て、すぐ跋文を用意した。百五十二頁の大冊になる。やれやれ、出血
だ。だがとても気に入った嬉しい一冊になる。
* 防衛庁が、情報公開による利用者たちの身上調査書を作成して、部内で高官たちが配布をうけていたことが判明し
た。途方もない、しかしやりそうな逸脱で、世論も永田町も沸騰している。だれのための個人情報保護なのかがますますはっきりしてきた。ひどい連中だ。
小泉内閣になってから、政府と自民党とで、どれほどの「問題」を起こしてきたか、なんともかぞえられないほど、やたら
いろいろあった。こまったものだ。
* 歯ぎしりが出そうに仕事が山になっている。おちつきがわるい。連絡のない沼津桜桃忌の方は、いまから
もし連絡があっても断りたい。六月九日の講演に、少し纏まった論文を書いてみたい気がしている。何処へ行かなくても、誰に逢わなくても、京都のただ空気を
吸ってくるだけでなにがしかの感化や刺激はきっとある。想像力が働いて、書かない小説の幾つかの場面が頭の中でもやもやし始める。そういう時が楽しいので
ある。そこで慌てたり焦ったりは宜しくない。
ともあれ、あさっての糖尿の診察をおとなしく通過しなくちゃ。そして、いよいよ六月だ。湖の本と、講演と、なによりも
三省堂の本の進行だ。汗がどっと噴き出す。
* ご無沙汰しております。お元気ですか。暑くなってきましたね。当地では厳しい花粉の季節は過ぎましたが、なん
だかわからない花粉の、まだ飛散しているのは感じられます。スギやヒノキほどひどくはないのですが、いろいろな花粉に反応するようで。
秦さんにお逢いしたいな、と想います。
「ペン電子文藝館」久間十義さんの「海で三番目につよいもの」を読みました。軽妙な文章で、すいすいと読ませな
がら、描写は、的確で揺るぎなく、嬉しくなってしまうほどの見事さでした。それでいて作者は筆に酔っていない。彷佛とさせる「赤頭巾ちゃん気をつけて」の
ようなペダンチックさもない。よい作品との出逢いは、喜びです。
お逢いする日までに、もうちょっと痩せるよう頑張ります。
* 顔を見たこともない人で、痩せたが佳いかどうか見当も付かないが、久間氏の作へのこの反応は嬉しい。単行本一
冊をまるまるスキャンして校正したのは、この人のこの作品がひとつだけ。わたしは、佳いと思った。
* 五月三十日 木
* いまだに田中真紀子いびりをやつている自民執行部。そんな時か。山崎拓も地に落ちた。この男の宰相への出番は
もう無いだろう。
田中真紀子をおいて誰が外務省を、鈴木宗男を、あそこまで的確に燻り出せたか、誰一人としてこれまでやれな
かったことを、田中は敢然とやってのけた。少なくも其の雰囲気を作りだした。赤坂城にこもった楠正成のようであった。もっとやらせるべきであった。小泉な
ど、田中真紀子の応援がなかったら、十が十まで総理になれはしなかった、それは確実だ。外務省問題といい小泉政権の誕生といい、小泉にとってそれだけでも
大変な功労であった。女に感謝の出来ない「けちな男」になりはてた小泉総理は、もう事実上の泥まみれの泥人形。森愚物内閣と何の変わりもない。森はまるで
後見役気取りだ、バカバカしい。
もう一度言うが、田中が頑張っていなかったら、あの腐れ果てた外務省は、元のママ腐臭を隠したままで、やがて
金権と蛮声との鈴木宗男の組閣なんて事態を招きかねない「日本の悲劇」もありえたのだ。自民党も野党も、挙げて田中真紀子に感謝していいのではないか。町
村某のような、卑屈な薄笑いの腰巾着が、せっせとゴマをすっているのを見ていると情けない。半ば日和見の麻生総務会長の薄笑いも醜くて汚い。そうとも、田
中真紀子をいっそ除名してみるがいい。次の選挙で思い知るだろう。
* 湖の本の校了へ大きく踏み出し、三省堂へ三分の一以上の原稿を送り、講演の用意にも入った。発送の用意がのし かかってくる。踏ん張って、かなりの汗をかくとしよう。スリルがある。
* わたしの体調は、このところ、あまり宜しくはない。自覚的にどうという変調はないが、予感がある。明日の診察 は少し気重である、が、ま、いいでしょう。せっかちに考えても仕方がない。
* 黒川創の作品が時評で好感されているのが、嬉しい。文学に何が結果というようなことはないが、健康に文運を伸 ばして行ってほしい。
* この機械を開いたときも閉じるときも、大きな画面の左寄りに、はがき大に沢口靖子のそれは清潔で爽や
かな笑顔が、健康な笑顔が、わたしを迎えまた見送る。そのいい笑顔に気持ちが洗われ、いやなこともふっと失せて、思わずゆっくりとした笑壺に入れる。沢口
靖子という「女優」が私にそう働きかけているのではない。わたしがこの人の「写真」を、そのように受け入れているだけのことだ。名前はどうでもいいのであ
る。こういういい「笑顔」が私には有り難いと、そういうことだ。嬉しい笑顔だ。
* 五月三十一日 金
* 暑い日で、汗でシャツがぬれた。
* 診察は簡単にすみ、「安定している」ので問題はあまりなく、何とかの値が6.5がいいのだが、6.9で、もう 少し頑張りましょうと、これは血糖値のことではなかった。血糖値の方は、ほとんど心配していないらしかった。
* 安心して、ま、今日はよかろうと、昼飯には病院近くの店で地鶏のカツを食べ、早めの夕飯には洋食を コースで食べてきた。ビールとワイン。食欲はすこしも衰えなくて、うまいものは、うまいのである。もっとも大量に食べたというわけでない。このごろ、全体 に食べる量は落としている。
* 京都と病院とが済んだので、ほっとしている。集中して、つぎの山へとりついて行きたい、この山がかなりものの 繁ったやまなので、踏み分けてゆくのに息が上がりそうだが、進まないとつらくなる。
* 電子文藝館の、作品選び、スキャン、校正、入稿、そのあとの仮サーバに載せてからの又の校正の調整も 大変に煩雑な仕事で、しんどい。しんどい仕事が、業者の手できちんと訂正されていないと、途方もない徒労感にとらわれる。文学作品は、少々の間違いぐらい いいでしょうというワケには行かないのだ。きっちりした仕事をしてほしい。
* 「招待席」に、北原白秋、萩原朔太郎、近松秋江、葛西善蔵なども用意している。これは、一つには現会
員の出稿を意欲的に促す意味もある。「物故会員」の場合はどうしても著作権継承者を確認の上で依頼しなくてはならないが、わたしには、そのツテが無いので
ある。そういう基本的な資料を、どうやら日本ペンクラブは備え持っていないらしい、近代的な組織としては、基本・基盤のところでいろいろ用意が欠けてい
る。物故会員全員の整備された資料も調えてないらしい。
いわば事務的にはほぼ素人集団のママやってきた、脆弱体質の組織なのだ、日本ペンクラブなどと大きく出ている
けれど。どんな資料なら事務局に揃っていて、それを会員はどう利用できるのか、何にも分からない。企業の総務部と同じ仕事ができていない。できない理由は
言い立てるが、出来るようにするには何が必要かといった順序だった問題の整理力がない。困ったものだ。
* 五月三十一日 つづき
* サッカーのワールドカップが開幕、早々に王者フランスをアフリカの初出場セネガルが、しぶとく一対零 で降す大番狂わせ。後半をテレビで観ていたが、いい攻防で、惹きつけた。ワールドカップ自体にはさして関心はなく、日韓の双方主催国で事変が生じないのを 祈る思いでいる。無事に済んでほしい。
* ジャン・クロード・ヴァンダムの一度前に観ている映画の、これも後の三分の二ほどを観た。やたら強い 男の一人で、映画の中でだれが一番つよいのだろうなどと、たわいないことを想っていた。双子の弟が殺されていて、兄が乗り込んで復讐的に悪を一掃する。そ の手の映画の中では、楽しませて悪くない方の作で、最後まで観た。彼の映画では、ロザンナ・アークウェットと競演の逃亡者だか脱獄者だかいう映画がハート があって印象にのこっている。あれでは、女優の方に惹かれていたか。彼女は「グラン・ブルー」でもすてきだった。
* 深く感動したのは、もう深夜になって始まったのをたまたまスウィッチして観た「E
R」で、これまでの中でももっとも優れた場面を展開した。ことに、父とも敬愛した恩師が、臨床現場で初期痴呆化症状をみせたのを、教え子の女性部長医師が
臨床からはずす決意をする二人の場面では、泣いてしまった。夫に死なれてゆく老妻の場面も、麻薬をやっている危険な妊婦を警察の手で保護するつらい主任
ナースの決断後の表情も、幸せを得て病院から去ってゆくエイズを身に持った女性黒人小児科医も、自分の子かどうか判明せぬまま愛している黒人の外科医師の
涙も、どれもこれも珠玉の見せ場を盛り上げてくれた。
これぐらい群を抜いて優れたテレビ映画を観ていると、群百のつくりものはむしろ気の毒、とてもつらくなってしまう。
* バグワンは、このところずっとティロパの詩句を語る『存在の詩』を、もう三度四度めを読んでいるが、 心底、動かされる。よろこびを覚えて帰服する。多くの宗教は、わたしの謂う「抱き柱」を与えようとする、神だの仏だのと。バグワンは根底から「生きて在 る」ことを示唆してくれる。「抱き柱」をなどとは全く口にしない。地獄の極楽・天国のなどというまやかしも謂わない。まっすぐ、生死の本然をどう生きるか を語る。その安心感と的確とは、身内のふるえを呼び覚ますほどで、卓越している。真に宗教的であるが故に、それは宗教を超えた印象を与える。それが安心を 呼び覚ます。
* そして西鶴の「好色一代男」を読み進んでいる。昨日は、室の津で世之介が出逢った、美しくて振舞優し
い若い遊女の話を読んだ。徳川初期には多かった、由緒在る家の子女で、よぎなく苦界に身を置いた女たちのなかの殊に優れものの一例で、深夜に読んで、思い
もしんと正しくされた。この連鎖的に一口話の続いてゆく西鶴代表作は、さすがのもので、出逢うのが遅すぎたと悔いている。
* 六月一日 土
* 発送用意前の面倒な雑作業をクリアして、仕事にとりかかれる段階へ持ってきた。
「知識人の言葉について」も原稿を二十数枚まで用意し、もう倍ほどは書かねば済むまい。
* 昼間のカメルーンとアイルランドのサッカー勝負は面白かったが、晩のドイツとサウディアラビアのはワンサイド ゲーム。かと言って「極道の妻たち」などという映画ぐらいイヤな見ものもないので、仕事へさっさと戻れた。
* ときどき、「私語」とはいえ「闇」にとはいえ、こういう風に「生活と意見」を開放してしまうのは苦に ならないかと聞かれる。苦ではなく、むしろラクをしているのだと思っている。表向きの暮らしで、くどいウソをつかなくて済む。何もかも書いているわけでな く、そんなことは倶生神でなければ出来る技ではない。つまり書けることと書きたいことを書き置く形で「闇に言い置く」だけのこと、別の言い訳やウソをつか なくて済む。思いの外、ラクである。口は、心ならずもウソに流れることがある。書くとウソはうまくつけない、読み手が真っ先に自分だから、その自分に分か り切ったウソを言うのは、気持ちのいいことではない。責任は自分でとらねばいけない。ウソとマコトを使い分けて書くというのは、容易なことでないから、わ たしは、この場では思うままをすこし言葉粗く言い置く一方にしている。それでいい。
* この「私語の刻」を、どうかして、もう少し私自身がこの先、別の仕事で利用できるように、せめて一ヶ月きざみ
でファイルにしておきたいと心づもりしている。
* 六月二日 日
* アルゼンチンとナイジェリヤのサッカーはたいそう見応えがした。イギリスとスウェーデンもいい展開であった が、仕事の方へ席をかえてきた。あれこれ、時間は逼迫している。のんびりした顔はしていられない。
* はやめに寝て早置きしてしまうのが一番効率がいいが、枕についてからの読書という楽しみは、容易にやめられな い。
* 二階の機械部屋がだんだんと蒸し暑くなってきた。なるべく冷房したくはないが。
* 六月三日 月
* 「知識人の責任と言葉 ─
今、なぜ芹沢光治良作「死者との対話」が大切か」を、ほぼ五十枚近い草稿に書き上げた。湖の本の新しい通算71巻めを「本紙」責了にした。他に幾つかの頼
まれ仕事も片づけた。
三省堂の仕事と、発送の用意と、講演。三つの柱が、いよいよむき出しに眼前に現れてきた。明日は言論委員会、あさって
は電メ研、追いかけて理事会と、会議も続く。
* 席を変えるつど、家中のその席ごとに別の仕事が待っていて、綱渡りのように、あれもこれも少しずつ前
に進め、少しずつ多く捗ってゆきますが、際限がない。桜桃忌が過ぎた二十日頃から発狂しそうな輻輳状態になるでしょう、それもいいではないかと。なにもか
もが、ほとんどお金儲けと縁のない仕事であることを、清々しく感じています。理想的な状況です。
汗まみれで、我ながら、くさいくさい。晩まで待たずに入浴します。
なにかうまいものが喰いたいなあと、そんなことを今も思っています。元気なのでしょう。
そちらサンは、強迫観念じみた習慣運動のツケで、疲労しやすくなっているのだと思います。過剰な習慣はやめる
勇気と柔軟さも大事、ほんとうに楽しむためには。自然にゆったりとして。坂を転げ落ちるように老衰しないためには、悪しき習慣から自由になり、必要なこと
だけを必要に応じてきちんとこなし、他は、自在に自然に。これは理屈でなく、ほんとうにその通りなんです。この多忙の中で、わたしがそれ自体に困り果てて
いないのは、つまりそういう忙しい一つ一つに、過度に重きをおいていないからです。必要から強いられているのでなく、自分でテキトーに迎え入れているだけ
のことなんです。だから、ラクなんです。
* 昨夜二時半まで鏡花の「龍潭譚」に惹かれて、スキャン原稿を校正し終えた。ぐいぐいと最後まで持って
行かれた。現代語訳までしたゆかりの傑作であるが、この明治二十九年の作品は二十四歳で書かれている。そして鏡花の抱え持っていた可能性の端緒が、いろい
ろにつかみ取れる。「ペン電子文藝館」招待席のまた一つ美しい目玉として光るだろう。
招待席に菊池寛の戯曲「父帰る」をスキャンした。中学か高校か、高校だろうと思うが京都祇園の弥栄会館で、こ
の上演を観た覚えがある。劇団も配役も覚えていない。むしろ朧な印象に過ぎないが、主役の長男を演じていたのは批評家の小林秀雄だったような気さえしてい
る。それだと文士劇だということになる。舞台の印象よりも、やはり戯曲として読んだ感銘、生き生きとした台詞の日本語とみごとに引き締まった幕切れ。
鏡花と菊池寛。いろんな作者がいたのだ。当然である。菊池寛は、藝術第二・生活第一と言い続けた。わたしのよ
うに二言目には文学・藝術を語る者でありながら、上に私語したような「必要」という言葉の範囲内に、わたしは藝術も文学も容れていない。茶の湯をとても熱
心にしていた昔にも、「たかが茶の湯」と思わねばならない真に「必要」の前では、未練なく捨て去ること、棄てされることが大事だと思っていた。
そういうことも書いたことがある。わたしは鏡花の徒であるが、菊池寛の生活第一も人生第一と翻訳して当然と受け取って
きた。
* 核は持ち込めるし使える。福田官房長官が衣の下の鎧をぎらぎらと露わした。いずれは必ず本音を出してくる男だ
と思っていた。これで、分かり良くなった。小泉と森と福田。もっとも危険な日本の害毒化しつつある。用心に用心し、早く潰したいが。
* 六月四日 火
* 原稿をまとめられ、ほっと一息なさっていますか?
・・・だからラクなんですというHPの文章を読みながら、あなたは老い支度ではなくって「老い」を生きてらっ
しゃるのか・・と、ふっと感じます。オーイ、老人扱いしないで欲しいなという反論も聞こえてくるのですが・・。如何? まだまだ健康に留意されて長く生き
てください。食べ物が美味しい、美味しいものが食べたいと思われるのは生きる意欲の表れ!!そういうわたしも、ああ何か美味しいもの食べたい派で、困るの
ですが。
夏日の気温になって来ましたが、肌寒さを感じない今の気候は、意外に、わたしには過ごしやすいのです。人よりいくらか
汗の量が少ないらしいですが、汗を掻くのは嫌い、とても気になりますが、梅雨はあまり苦痛でなく、雨の中を歩くのも楽しい時があります。
ほとんど「閉じこもり」生活をして、反動で弾き飛ばされるようにしてどこかに行きたくなります。今週は大阪まで春の院
展を見に出かけるつもり。
* 幸いわたしにはもう定年退職は無い。医学書院を退社したとき、三十九歳だった。東工大教授を退官した
のは、規定の六十歳誕生日を過ぎた年度末で、すぐ作家生活に戻って六十六歳半に至っている。いつも思うことだが、秦の母は享年九十六歳であったから、その
歳まで、わたしは三十年を生きねばならぬ。そのためには、「元気に老いて」ゆく以外に道はない、だから山折哲雄氏との対談本を、『元気に老い、自然に死
ぬ』と題してもらった。「老人扱い」するなどころか、老人だとまともに思うことから始まっている今の生活だ。いたずらに若がってみて何になろう、元気な老
人でいようと心がけている。「秦さんはいつも元気そうだなあ」と、先日も京都で清水九兵衛さんらに驚かれてきたが、年齢差を思えば、清水さんも石本正さん
も、みな、ほんとうにお元気である。梅原猛さんにもぜひ元気でいて欲しい。
ただ、老人の元気と青年や壮年の元気とは質が違う。それを勘違いして無用に元気がっていると間違いが起きる。
骨は弱くなっているし、心臓も視力も衰えている。これでわたしは無茶はしていない。そして「元気な老い」はぜひ夫婦揃ってでありたく、片方が欠けてしまっ
たら、もたないと思う。その点はわたしは弱気である。また親しい人たちにも元気でいて貰わないと、此の世に在る意味が寂しく薄れてゆく。或る意味でわたし
の日常は機械の前での「閉じこもり」生活と見えるかも知れない、事実は近いけれど、想像力もあるし、非現実へつながる地平をいつも胸の内に持っているの
で、「反動で弾き飛ばされるようにしてどこかに行きたくなり」はしない。かぐやひめの月世界へも、世之介の女護島へも、寝覚の嵯峨へも、もっともっと広く
遠くへ時間を超えていくらでも行って楽しめる。それは夢ではない、それが夢ならこう書いている今のわたし自身も夢なのだ。
問題はそんな夢から覚めたいのか覚めたくないのか。ハッキリしている、こんな一切の夢から大笑いで覚めるときが私に訪
れてほしい。求めて覚められるものでないと分かっている。待とうとはせずに待っているけである。さ、どっちが早くくるか、深いおそれ、は、ある。ある。
* 六月四日 つづき
* 言論表現委員会が四時から六時では、六時キックオフの日本初戦はとても観られず、あきらめて、有楽町 帝劇地下の「きく川」で、例の鰻とキャベツと、菊正二合。そして中村光夫「知識階級」をプリントで、もう一度精読した。優れた論文で、しかも面白い。考え させられる。中村論文と芹沢作品とが縦に並んで、左右に、いくつもの論考が思い出せる。透谷、啄木、蘆花、独歩。「ペン電子文藝館」に何を選んで載せてき たか、そこから多くをわたし自身の問題とすることが出来ている。同時にそれは多くの読者にもとても無縁であり得ない、現実の課題性を帯びている。
* 帰宅してから、韓国とポーランドのサッカー。ビデオに取っておいて貰った日本とベルギーのサッカーを全部観 た。日本は善戦し惜しい勝ち試合を引き分けたが、勝ち点1を手にした。面白かった。
* 会員紫圭子さんの詩を、妻が起稿してくれたので、その校正をしていて、深夜に。
* 六月五日 水
* 兜町の新館での会議に出るのが、乃木坂の頃よりも気が晴れて楽しい。日本橋という界隈に気が惹かれる のだ、有楽町で乗り換え日比谷から日比谷線で銀座、築地、八丁堀、茅場町まで乗るが、その先は小伝馬町、人形町や馬喰町があり、名前を数えているだけで面 白い。茅場町で下車してぶらついていると、ちょっとそそる飲み食いの店が、小ぎれいとも言えずいささかは野暮な印象でいろいろ店をあけている。生活してい る街である。150円でたっぷりの熱いコーヒーを飲ませる気のいいスタンドもある。茅場町駅まで少し早く行き着いて、兜町辺をゆっくり歩いていると気が落 ち着く。
* 電メ研は、人数はそう多く集まれなかったが、山田座長、牧野弁護士を囲んで、なかなか実のある意見交換と方向の模索・見当がつけられて、好もしい二時間 だった。山田氏も牧野氏も穏和な、バランス感のあるお人で、整理して提示される話題や、臨時の質問への解答も明晰で感じがいい。言論委員会で猪瀬委員長 に、山田健太氏を引き抜いてとゲンコツを振り回されたが、電子メディア委員会としてはいい結果を得て、とても有り難い。もう一度二度は馴染みあうためにも ざっくばらんに物を言い合い、そのあとは、二人の提示されたままに、協力し、ついてゆこうと決めた。
* 昨日の言論表現委員会と人権委員会との合同会議で、梓沢人権委員弁護士から、「個人情報保護法」が
IT時代の治安維持法になるという解説を聞き、大いに前途を危惧した。そういう怖れはあるとわたしも予感していたが、素人のあてずっぽう。それを専門の弁
護士から盛んに言われて、ことはわたしのこんなホームページにも十分に及んできそうな成り行きであり、この点をもっと電子メディア委員会で聞きたいと思っ
ていた。
山田座長も梓沢氏の言説はよく知っていて、いくらか和らげ気味に解説を受けた。安心は成らないが、少し「読み
過ぎ」の気味もあるのではと、山田・牧野両氏とも、法案の決定的な不備や不足を「廃案」へまで今回持ち込むと共に、新たな我々の側からの踏み込んだ法案提
起まで行くのが必要だろうとのことで、その点は昨日の委員会と全く軌を一にしていた。いよいよもって、新法案を自ら起草してゆくぐらいに動こうとするので
ある。理事就任から五年を過ぎて、身贔屓でなく、いろいろのことを我々はやってきたし、これからもやれる気がする。
そういう政治活動にちかいところから、本来の文筆家団体としての有り様を見せる物として「ペン電子文藝館」が軌道に乗
り充実に向かいつつあることも、正直、わたしは嬉しいと思っている。そういうことがなければ、ときどき法律家団体にいるような錯覚に陥るからだ。
* 地下鉄に乗り損ね、間違って秋葉原まで行き、逆へ戻って日比谷でおり、クラブに入って、主にヘネシー
を飲んだ。すこしだけブラントンものんだ。「伊勢長」が割烹の酒肴を用意していたが、いきなりの鱧きゅう、つぎに、茄子が主の野菜の煮物、そして稲庭うど
んでは、落胆した。これなら、よその店で、美しい人にときどきお酌して貰いながら、よく吟味した刺身、焼き物、煮物の小鉢の方が、献立がいい。で、気分直
しに、寿司の握りを頼んで、酒にした。気分はおちついたし、置き酒がいつものようにうまかった。それに此処にもさすが帝国ホテルらしく、行儀のいい美しい
人がいる。何人もいる。自室のようにアットホームで、わたしは「常連」なんだそうだ。商談や会議の流れのグループがおおく、わたしのように純然と独りで憩
いに来る人は少ない。それがわたしをくつろがせる。
ゆっくりした気分で池袋経由帰宅。ドイツとアルゼンチンがサッカーの後半戦を闘っていたが、なんとなく引き分
けるであろうと予想し、二階の機械の前にすわりこんで、もう零時半になった。日比谷に座り込んでいるうちに雨が降ったらしい。保谷にもどった時は涼しくあ
がっていた。もう初夏どころではなく、しかしペン新館は冷房がきくので、ジャケットを持参で出かけた。
* 六月六日 木
* フランスとウルグワイの猛烈なサッカー白兵戦に昂奮しながら、発送の用意を思いのほか前へ運べた。時
間に縛られていて、間断なく手作業を続けていたおげで、少し見通しが立ってきた。本の出来てきた日までにこの用意が出来ていないと、玄関に積み上げてしま
うことになり、プレッシャーが大きい。なんとか間に合わせておきたい。今日、表紙やあとがきも、すべて責了に持ち込んだ。
講演の用意も、出来た、と思う。これは、聞き手の気持ちはともかく、私としては良い機会をいただけたと感謝している。
* 村野幸紀という人から『万葉の朝の夢』という短編小説集をもらっていて、手頃の厚さなのをさいわい、
二度の外出で、読み通した。「傑作短編小説集」とは帯の売り文句が少し過ぎるけれど、この人は的確に平明ないい文章の書ける人で、いささかも読み煩うとこ
ろなく、むしろそれが味わいを淡くしているかとすら思うぐらい、よく推敲されていた。感心した。らくらくと書いてある。また万葉時代のかなり面倒な政界
を、きばらずによく把握し、ごたごたさせずに一編一編のモチーフを形にしている。淡々とし過ぎると言えば言えるが、いやみがない。その点は、もう少し古い
時代を、かなりの意図と解釈とでケレン味たっぷり書いて読み物にしていた『百済花苑』『新羅花苑』の宇田伸夫氏とは行き方がだいぶちがう。
感じからすると、往年、芥川賞を固辞して受けなかった高木卓の『歌と盾の門』に近く、あれよりも小説としてきれいに纏
まっている。文章もすっきりしている。住所不明でお礼の言いようがないので、ここに感想を言い置く。
* 栃木から小ぶりの西瓜を六つも送って戴き、妻はそのまま、わたしはジュースに絞って貰って堪能した。 品のいい甘さで、今年の食べ物のなかで、いちばん美味しかった一つにあげたいほど。忙しさにかまけ、お礼を申し遅れているうちに、毎日一つずつ、みんな戴 いてしまった。嬉しかった。
* 絹のように温かいメールの新しい友達がまた一人。
* 六月七日 金
* 核保有にかんする福田官房長官詭弁の詐術が崩れ去り、そんな詐術は国民はとっくに見破っているのに、隠れ蓑に まだ隠れ得ている気でいたらしいとは、思わず失笑。
* 世は、サッカーのワールドカップ一色。関心のあまりなかったわたしも力戦の期待にテレビ特等席につい 心惹かれる。今夜はイギリスとアルゼンチンの遺恨試合だという。テレビの前でいくらか手作業ができるだろう。九日の芹沢記念館での講演も遅くも四時には済 むから、八時半のキックオフにはらくらく帰宅できる。激しいゲームになりそうだ。
* ひょっとすると月末、梅原猛さんの代わりに、京都での美術対談が組まれるかも知れない。俳優座の芝居 がある、建日子作・演出の公演もある。沼津桜桃忌からその後連絡のないのが幸いで、この太宰講演が気乗りしない負担であったが、もう当然キャンセルする気 でいる。これであれこれ乗り切れるだろう。
* 菊池寛の一幕物『父帰る』を久々に読み、一字一句校正して、分かり切った筋でありながら、胸にツンと
来た。言うなれば普通の収まりようで物足りないはずなのだが、しかも、読まされ、納得させられてしまう。長男賢一郎の思いもつらく、他の家族の思いもつら
い。六部の気の弱りのように自分で見捨てた家と家族の元へ虚勢をみせて帰ってくる父親には、いまでも共感できないが、よく描けている。
これで「ペン電子文藝館」の戯曲は、岡本綺堂、菊池寛、福田恆存と、大きな三人の三作が並ぶ。井上ひさしかつかこうへ
いの作品が欲しい。戯曲を充実させたい。
* イングランドとアルゼンチンの熱闘は、前評判に背かない一戦で、堪能した。
* 緊急の美術対談に橋田二朗さんとと思ったが折り合いがつかない。染色の玉村咏氏はどうだろう。
* 六月八日 土
* イタリアとクロワチアのすばらしいサッカー試合に釘付けにされた。イタリアが押し気味で、このぶんで はクロワチアの勝ち点は無理ではないかと思いかけていた頃からの見事な逆転劇と、押し返そうとするイタリアの最期の猛攻また猛攻、きわどい判定の幻のゴー ル、すべてがドラマであった。昨日のイギリスのベッカムといい、今日のイタリアのトッティといい、男、であった。
* 歌舞伎座を満員にした桂米朝最期のというふれこみの独演会。「百年目」がじつによくて、大阪桜宮の花
見。むかしの円生のはむろん隅田川の花見。円生の独演も殊に佳かったが、今夜のテレビの米朝は遜色のない上品の「百年目」で、思わず高く手を拍った。「一
本笛」もおみごとであった。まだまだ楽しませてくれる。
小さんに死なれてみると、関東にはもう名人級が払底している中で、上方の米朝と文枝とには期待がかかる。大事に長命し
て欲しい。
米朝門下の御番頭格桂ざこばの「阿弥陀池」が大笑いさせてくれた。息苦しいぼやき口なのだが、それなりに向いた噺を選
んでいた。
昼にも三遊亭圓楽の「死神」をテレビは用意していたが、これは聴きよい話ではないので、また圓楽では物足りないので聴
かなかった。
* 急遽、京都での対談相手に気鋭の染色作家玉村咏氏に声を掛け、つき合って貰うことにした。ご本人の承 諾は得たので、スポンサーの方でお膳立てができれば、五月についでもう一度京都へ行く。「染」めには詳しくない。教わりに行くのだが、玉村氏はテキパキ話 す人だから、いい意味で論客ぶりが引き出せればと思う。
* あすは中野坂上の芹沢光治良旧居へ話しに行く。すべて初めての、聴き手で場所であるから、格合いが分
からない。用意は出来ているので、出たとこ勝負に、しかし、誠心誠意でやってくる。じつは、まだ話す全てが段取りとしてアタマに入っているわけでなく、ギ
リギリまでかかりそうだ。一つには依頼者のために、一つには「ペン電子文藝館」のために、きちんとした仕事をしてきたい。
* 六月九日 日
* なぜか心持ちが波立っている。夢見のせいかもしれず、思い当たらない。日程で追われているからだろう、ざあっ
とモノの流れる前の、停滞したあれこれが幾つもある。「染」の勉強もしなくてはならん。六月いっぱいはこの落ち着かない感じのまま行くだろう。
それにしても、信じられないような、部分に至るまで精微に整った、まったく無縁な場面を夢に見る。もう殆ど忘
れているが、どうして見るかより、どうしてあんな夢が見られるのか、可能の機構が知りたい。面白くもあり、気にもなる。あけがたは何か難しい企業内の会議
に出て微妙な立場にいた、気がする。
* 母が居たら百二歳になると妻が言う。叔母なら百三歳に、父なら百五歳。あさっては叔母の命日。じつ は、こういう年齢で三人ともに、という、期待とまでは言うまいが想像はしていた。夢であった。隣家の仏壇からこっちの、廊下の奥の棚に持ち出してある三人 の位牌に、いつも挨拶している自分が時に可笑しくなり、時に神妙に感じる。位牌は位牌に過ぎないのだが。
* スキャンしたいと思いつつ、溜まっている作品が四つ五つとある、これが気がかり。その中に伊吹和子さ
んに貰っている『川端康成』も有る。長いので、やりだせば二時間ほどはかかるだろうが、纏まって二時間という時間がひねり出せない。近松秋江『黒髪』も長
いが、ぜひ「招待」したい。白秋、朔太郎、そして葛西善蔵も用意してある。が、まず作品のコピーをとることから始めないと。楽しみなのだが、負担は負担。
肩にのっかっている。
「ペン電子文藝館」は業者に入稿すると、何日かして仮サーバに仮掲載してくれる。それを委員に割り振って「常
識校正=念校」してもらうのだが、これは編集用語としては「無心の通読」で、疑問点を見つけだす仕事。しかし通読では頼りないので、やはり各自に原作を身
の傍に置いて読まれることが多い。だが、同じ作品といえども、知らない人は驚くだろうが、出版社によって、けっこう本文が処理されていて微妙に異なってい
る。講談社の本を参考に起稿してあっても、新潮社の本や筑摩書房の本や岩波の本や、国会図書館でかり出した原作初版本では、まちまちなところが、びっくり
するほど多い。勝手気ままなことをしている大出版社もある。そんな、それぞれの本によってチェックされてくるものを、わたしは、いちいち判断して、ここは
このままとか、此処は訂正とか、決着をつける仕事もしている。歌合わせで判者が判をするような、じつに細々とした、しかし絶対に必要な仕事なのである。い
ま、紅葉の『金色夜叉』で悪戦苦闘している。しかしいい加減に通過させてしまうわけに行かない、誠実を要する仕上げの根気作業。「ペン電子文藝館」は決し
てラクラクとは出来ていない。「意義」を見失っていないから、情熱を注いで出来るのであり、それが無ければ一月とはもつまい。
* 六月九日 つづき
* やはり真っ先に、ロシアに勝った日本サッカーチームを褒めたい。終始優勢を保ちながら集中力をとぎら せなかった選手たちに、脱帽して拍手を送った。フーン、強くなっているなあと、ドーハに泣いたあの悲劇の一瞬を思い出しながら、すかっとした佳い気持ち。 フェアな試合であった。中山ゴンを送り出してくれたトルシェ監督にも感謝。
* 芹沢光冶良「旧居」であるのかどうか、そういうことも知らないでいるが、東中野のマグノリアホールで
の講演は、ホールいっぱいの、とても聴き上手な人たちを前にして、正味一時間半ほど、用意したままに気持ちよく話せた。今度ばかりはきちんと用意して置い
てよかった、噛んで含めるように力点をおきながら話せた。これは芹沢さんの原作がよく、中村光夫先生の論文がまたよく、それらに助けられている。というよ
り、わたしはそれを祖述したに過ぎぬとも言える。
だが、それらの作品と共にわたしが「ペン電子文藝館」に寄せてきた熱情、その真意を伝え得たのでは無かろう
か。いい機会を与えてくださった記念会の岡さん、芹沢さんの娘さんに、まず感謝申し上げる。講演の草稿は何らかのかたちで公表しておきたい。趣旨からすれ
ば、「ペン電子文藝館」の「意見」欄に適切ではないかと思っている。明らかにこの頃の「日本」を視野に入れた、それは、私の「意見」であると共に、じつは
「ペン電子文藝館」そのものが広く訴えている「意見」だからである。
* 集っておられたのは謂うまでもない芹沢文学に傾倒している人たちばかりで、それにふさわしいシックで清明な、 分かりいい大人たち。気持ちよく歓迎してもらい、恐縮した。
* 東中野は初めて。で、辞してのち新宿に戻り、好きな和食の店に落ち着き、こぢんまりした懐石を、燗の 酒でゆっくり、ものを読みながら時を忘れるくらいに。美しい人が迎えてくれ、見送ってくれる。ときどきお酌に来てくれる。ろくに口も利かないし、名前も知 らない。そんなことは、どうでもいい、一人でいて落ち着けるというのが何よりのご馳走である。そういう店が都内に何軒か在ると、深刻なストレスからも逃れ られるし、それよりも、心嬉しく、しんとしていられる。
* あげく帰宅して、サッカーに気分良く酔えた。こういう日もなくてはいけない。この勢いで、月末までに「湖の 本」新刊を発送し終えると共に、三省堂の本をせめて八割まで書き進めたい。ま、六月一杯でとは無理と思っているが、諦めることはない。
* 西山松之助先生は、おばあさんから、「炒り豆にも芽が出ることがある」と教えられ、それを生涯忘れないで生き
るつもりと言われていた。書かれていた。この言葉、すばらしいと思う。あきらめてはいけない。
* 六月九日 続きのつづき
* 今日の講演草稿を整えたので、思い切って全文をここに書き入れてお く。新たな読者とこの問題との良い出会いを期したい。
* 知識人の言葉
と責任
──今、なぜ、芹沢光治良作『死者との対話』が大切か。──
秦 恒平 (作家・日本ペンクラブ理事 ペン電子文藝館主幹)
お招きにあずかり、恐縮しております。芹沢先生とは、ご生前 に、ご縁を得る機会は、一度もございませんでした。むろんお名前も、お写真等でのご風貌も、御作も、存じ上げておりました。もっとも、読者として、そう深 いおつき合いをしてきたとも申せません。みなさん方のほうが、遙かに遙かに、なにもかもよくご存じです。私の場合、拝読のつど、いい感じを得ていた、と、 そう申し上げるにとどめておきます。
それで、どうして此処にと、ご不審であろうと思います。
ご紹介にありましたように、私は、現在、日本ペンクラブの理事をつとめており
ます。ご承知のように芹沢先生は、日本ペンクラブの第五代会長でいらっしゃいました。昭和四十年秋のご就任で、『人間の運命』第2部の第一・二巻が続けて
刊行された前後でした。
私の身の上で申しますと、ひっそりと独り小説を書き始めておりまし
て、私家版の本を、一冊また一冊と、作っておりました。その四冊目の本が、私の知らぬところで、まわりまわり、中の一作『清経入水』という小説が、第五回
太宰治賞候補にあげられまして、受賞しました。選者は、井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫という、凛々と鳴り響くような諸先生
でした。昭和四十四(1969)年の桜桃忌のことで、やがて、満三十三年になります。それ以来の作家生活ということになります。当時私は、本郷の医学書院
という医学研究書の出版社に勤務しておりました。芹沢先生は、その年、たしかノーベル文学賞の推薦委員をなさっていたのでは、なかったでしょうか。
で、時代はぽーんと飛びまして、昨年の十一月二十六日、日本ペ
ンクラブが昭和十(1935)年に創立されまして以来、満六十六年めの「ペンの日」に、「ペン電子文藝館」が、インターネット上に開館になりました。私の
提案によりますもので、昨年七月の理事会で決しまして以来、熱心に開館をめざして、準備に勤しんでおりました。
「ペン電子文藝館」とは、どのようなものか。それは、お手元にお配りし
たもので、おおよそご判断いただけると存じます。一つには、ペンの過去・現在の会員作品の「展示場」であり、二つには「ディジタルな(電子化された)読書
室」です。現会員が約二千人、物故会員が、まだ正確につかんでいませんが、ざっと五百人以上。その方々の、さし当たり作品一点ずつを、いわば会員の「顔」
つまり存在証明として展示公開すると共に、どんな人材により、日本ペンクラブが歴史的に構成されてきたかを、会員本来の「文藝・文筆」により、広く国内外
に識っていただこうというのを、当面の目的にしております。
その際の、先ず魅力の一つとして、歴代十三人の会長作品を、お一人残
らず揃えたいというのが、責任者の私の、希望でした。それが成れば、他の会員も進んで作品を出して下さるだろうと。じつは、この「ペン電子文藝館」は原稿
料をさしあげられません、ペンの財政はいつも逼迫しております。そのかわり、アクセスされる読者に対しても完全に「無料公開」し、これでペンクラブが稼ご
うとは致しておりません。ペンクラブだから出来る「文化事業」としてお役に立てればと考えております。
お察しいただけると思いますが、こういう事業は、「会議」を重
ねていても進行しませんし、「よろしくお願いします」を幾ら繰り返しても、いつまで待っても出来上がることでなく、歴代会長の十三人、ついでに申し上げま
すと、初代が島崎藤村先生、以下敬称略で、正宗白鳥、志賀直哉、川端康成、芹沢光治良、中村光夫、石川達三、高橋健二、井上靖、遠藤周作、大岡信、尾崎秀
樹、そして現在の梅原猛さんに至りますが、梅原さん、大岡さんのほかは、みなさん、お亡くなりになっています。自然、ご遺族に出稿をお願いしなくては成ら
ないのですが、「お願いします」だけでは、とてもとても、ただ「一作」を選んで戴くのは難しいことと、それはもう、分かり切ったことです。大変なお仕事の
山から、一つだけ選んでくださいと、これは、お気の毒すぎる難作業です。
で、私が、もう独断専行、ただし誠心誠意よく考えました上、どうかこ
の御作を頂戴できませんでしょうかと、そのように、「候補作品」を具体的に挙げまして、そしてお願いに上がりました。実は現会長の梅原作品も、私が選びま
して、「これで行きましょう」と薦め、幸い、「うん、有り難う」と、一発で決まりました。もし此処で躓いていたら「ペン電子文藝館」は未だに「開館」出来
てなかったかも知れません。が、幸いに、これが、すべて成功しました。
芹沢先生の御作では、私は、躊躇なく『死者との対話』をと記念会の方
へお願いに出まして、幸いに、ご賛同戴くことが叶いました。そしてその結果として、何故に『死者との対話』を選んだかを、この懇話会に来て話すようにと、
ご息女岡玲子さんの再三のご希望がございました。ご辞退しましたがお許しがなく、厚かましく、こうして参ったわけでございます。
『死者との対話』は、私は、少なくも両三度読んでおりました。そ
れについて、書いたり話したりしたことこそ無かったけれど、忘れがたいと言うだけでなく、進んで時に立ち戻って行く、そういう御作でありました。感銘を受
け、深く物思うところがあったからと、ともあれ、さよう申し上げる以外にありません。「ペン電子文藝館」に何をと、思案よりも前から、芹沢元会長には『死
者との対話』をと、だから、迷いなく、腹を決めておりました。
その際──、この私は今、六十六歳半、つまり日本ペンクラブが誕生し
た翌月(昭和十年十二月)に私は生まれておりまして、ま、ペンとはちょうど同い歳なわけですが、その私の頭には、ごめんなさいお年寄りではなくて、「若い
人」「若い新しい読者」のことがクッキリと有りました。『死者との対話』をぜひ読んでほしいのは、これからを生きて行く、今からの、若い人たちなのだと。
作品は、みなさんよくご存じなので細かには繰り返しませんが、この作品
には、もともと「唖者の娘」という題も考えられていたのでした。いわば全体のキーワードでもあり、執筆の動機に直結し、また此処が、主題にもなっていま
す。
しかしこの題は、最終的には『死者との対話』で落ち着きました。
堅いことをいえば、確かに、小さからぬ問題が、この「唖者の娘」とい
う言い方には含まれます。作者の言わんとする「趣旨」自体が明白であり、深切・誠実であるために、表立った問題にはなりませんが、聴覚と言語機能に負荷を
負った女性が、やはり、やや不適切に比喩的に用いられたことは否めないようです。
なぜなら、作品に現れます大哲学者ベルグソンの娘さんが、事実「唖
者」であったのは致し方なく、また、それ故に、発声等に大きな異変を示していたのも、これまた無理からぬことであり、そのことと、彼女の知性や理解力と
は、ほんとうは、ま、無関係なのです。ところがウカツに其処のところを読みますと、この際の「唖者の娘」が、即ち「理解力」に乏しい知的に遅れた存在かの
ように、だからそれ故に、父ベルグソンは、「唖者の娘」の絵の制作に対し、噛んで含めるように平易な言葉を用いてあげねばならなかった、分かりよい批評や
感想で懇切に手引きしているのだ、と、こう、作中の「僕」の思いを「誤解」してしまいそうになります。その上に、引いては、さよう理解に遅れた「唖者の
娘」なみに、日本の、知識人ならぬ一般の「国民」が比定され、その比定の上で、幾つかの「本質的な意見や疑問や反省」が持ち出されている、と、そのように
「誤解・誤読」されてしまいかねない隙間が、たしかにこの作品には、在るといえば、在りますね。じつは誤解なのですが、誤解されかねない気味を剰して書か
れています。ちょっと残念な気がします。
芹沢先生の真のモチーフを受け入れるに際して、ですから、私は、あまり「唖
者」「唖者の娘」という所や言葉にはこだわらないで、もっと大事な、根本の主張、芹沢先生が打ち出された真の意図に即して、以降、ものを申し上げて参りた
いと思います。
肝心の所は「言葉」と「知識人」、それも「日本」の運命を左右してきた ような「日本の知識人」「日本の知識階級」と「言葉」とが、その「責任」が、『死者との対話』をぜんぶ通じて、厳しく問われています。
発端は、この作品の主人公でもある、即ち「対話」の相手の、今は「死者」である、「和田稔」という学徒兵──実在した学生でした──の、痛切な疑問の言葉
にありました。疑問を突きつけられたのは、即ち「哲学」、具体的には、世界的存在と当時の日本が誇りにした、西田幾太郎博士の哲学、「西田哲学」でありま
した。
私は、はじめてその箇所へと読み進みましたときに、大砲で胸を射抜かれたほど
の思いがしました。若き和田稔は、出征直前に語り手の宅を訪れて、恩師と膝をつきあわせての対話の中で、真率に、悲痛に、こう語ったと、作品にあります。
「君は戦争に懐疑的であるばかりでなくてまだ死の覚悟ができていないから
と、神経質な目ばたきの癖でいった。君は死の覚悟をもつために哲学書、特に西田博士のものを一所懸命に読んだが、なにも得るところがなくて、却(かえ)っ
ていらだつばかりだったと苦笑していた。」
「覚えているかしら、その時君はいった」と、こうも書かれています。
「死を前に純粋な心でこれほど切実にもとめるのに、何もこたえてくれな
い哲学というものは、人生にとってどんな価値があるでしょうか。それは日本の哲学者はほんとうに人生の不幸に悩んだことがないので、人間の苦悶から哲学を
しなかったからでしょうか、それとも哲学というのは、生や死の問題には関係のない学問で、学者の独善的な観念の体操のようなものでしょうか。」
和田青年は、やがて出征、「人間魚雷回天」に搭乗して壮絶に戦死してゆく人です。そういう若者の口から、呻くように語られたこの言葉には、千鈞万斤の重み
と痛烈な「非難」が感じられます。そしてその時に、先生は、さきの、哲学者ベルグソンとその「唖者の娘」に会った昔を思い出して、答えるともなく、思い出
話を彼に聴かせたのでした。
そこが発端です、が、この発端に呼応して、すでに戦後になり、こうい
うことが有ったと、「先生」は今は帰らぬ「死者」となっている和田稔に向かい、語りかけるのです。この語りかけによって、「主題」が、ベルグソンや唖者の
娘との「大過去」、和田稔との最期の対話という「中過去」、そして一月ほど前の或る「近い過去」の、三重唱になります。そしてそれらが、最後には「現在の
思い」へと結び取られてゆく、そういう「構造」をこの作品は持っています。
その一月ほど前の「近い過去」の事とは、こうでした。
「つい一ヶ月ばかり前に、東海の或る都市で講演したことがある。
僕といっしょに、西田博士を想うという題で、博士の愛弟子の一人が講演した。講演後、山ぞいの古寺の書院で座談会を催したが、集ったのはその都市の高等学
校の生徒がおもだった。学生の質問は主として若い哲学者に向けられたが、学生諸君は敗戦後の混乱のなかに、生活の秩序をもとめ生きる希望を得ようとして、
みなひたむきに哲学、特に西田哲学を読んでいるといっていた。しかし、その哲学は学生諸君のひたむきな心にはこたえてくれないといって、うったえていた。
哲学を理解するのにはそれだけの準備がいるのだろうが、西田哲学の難解はその準備が足りないためではなくて、人生の苦悩の上につくられた哲学でないばかり
か、表現も一般人の理解できないものをつみかさねているが、これは、哲学が本質上凡人の縁のない観念的な遊戯であるからだろうかと、次々に若い哲学者に質
問した。
『哲学は実生活にすぐ活用できる応用学ではないから──』
『僕たちが哲学にもとめるのも、そんな手近なことではなくて、生死の問題にかか
るようなものをもとめるのです』
『それは宗教にもとめるべきだろう──』
『先生(若い西田門下の哲学学者ですが、秦。)はさっき西田哲学は世界
に出してはじない哲学だというように話しておられましたが、日本人の僕達が必死に読んでも、読後少しでも生き方を変えるようなものを与えられずに、ただ脳
神経のくんれんをしただけの印象を受けるのですが、それでも世界の人を動かし得るのでしょうか』………」
此処までは、いわば西田哲学ないし哲学、いいえ正しくは「哲学
学」が厳しく糾弾されていまして、これには弁解の余地が全くない。生死の瀬戸際に立つ者にとり、そんな「哲学学」は何の役にも立ちはしないのでした。有名
な『善の研究』にしても、正直に、あの日本語がすらすら読めた、分かったという日本人がいたらお目にかかりたいぐらいです。
私も、そのように思いました。まるで成っていない日本語で書かれた哲
学や美学の書物・翻訳にほとほと愛想をつかし、大学院の哲学研究科から脱走し、小説家になったという一人です。胸を大砲で射抜かれるほど愕然としたのは、
意外なことを聴いたからでなく、あまりにも真率にまともなことが、若い人たちの胸の底から吐露されていることに感動したからでした。そうだ、そのとおり
だ、と思いました。この作品を初めて読んだ時は、もう大人でしたが、いま読みました先生方と学生たちとの懇話会の実際に開かれたのは、敗戦直後、まだ戦禍
の影響の、物質的にも精神的にもたいそう生々しかった時期のことです。芹沢先生のこの作品の発表が、昭和二十三年の暮れちかくであったことを思い出しま
しょう。ちなみに、私が、戦後新制中学の一年生二学期を終える頃の、この御作なのです。
で、芹沢先生の真意をくみ取るためにも、作品に即して話題をお
さらいして行くのですが、「ベルグソンの哲学のなかに、独り娘が唖者であるという人間的な不幸が、影をとどめていない筈はなかろう」と、作中の「先生」
は、往年のベルグソン体験を反芻します。「ベルグソンの哲学自身難解ではあるが、いろいろ卑俗な日常性のなかに面白い引例をたくさんして、理解させようと
努力しているスタイルの平易さは、唖者の娘に話して、.唇を見ているだけで理解されるようにという父性愛からうまれたのではなかろうか」というわけです。
もっとも、この見解は、それ以上は精査されてはいません、一つの大きな大きな
「感想」に留まりますが、本当に言いたかったことは、べつの言葉で、もっと明快に話されています。
「手取早くいえば、日本では、学者にとって大衆は唖の娘であろう
が、学者は頭から唖だときめて、唖の娘にも分るように話そうと努力してくれないのだ。そして、学問も結局は唖の娘に理解させ、唖の娘を一人前の娘に育てる
ことであるが、それを忘れて、学問のメカニズムにばかり心を奪われて、それを学問だとしてしまう。それ故、唖の娘はいつまでたっても一人前の娘にならず、
不具な娘にとどまってしまうのではなかろうか。
君(=和田稔)が出陣の直前最後に訪ねてあんな風にうったえた時、僕
は唖の娘のなげきとして聞きとるとともに、唖の娘として見すてた学者に対する憤(いきどおり)としても受けとったから、あのベルグソンの話もし、日本人の
不幸であるとして、君や僕が唖の娘だという立場で話したことを今もおぼえている。その時、君はあの癖のまばたきをして眼鏡のうらに涙の粒をごまかした。僕
は君の涙の意味がよく分らなかった。今も分らない。
しかし戦争がすすむにつれて、僕たちの日常生活も苦しくなったが、僕
は君や僕も唖の娘であるとしていたが、実は、西田博士ばかりでなく、僕や君をふくめてすべての日本の知識人が、大衆を唖の娘にしていたために、唖の娘に復
讐されるような不幸な目にあっていることに、おそまきながら気がついたのだ。学者や藝術家など、あらゆる知識人が、現実からはなれ、現実に背をむけ、凡俗
を軽蔑して、自己の狭い専門を尚いこととして英雄的に感情を満足させている間に、一般の大衆はもちろん、軍人も政治家もかたわな唖の娘になって、知識人の
言葉も通じなくなって、知識人を異邦人扱いするところから、日本の悲劇も生じたが、知識人は復讐を受けるような不幸にあったのではなかろうか。」
ここへ来て、批判されていた例えば「西田哲学」はじめ難解な言 葉で話すことで、理解の届かない読者たちを「縁無き衆生」と見捨てたような「哲学・学問」への不審や疑念が、どっと拡大され、この「先生」や「学生たち」 も含めた、即ち「知識人」全部と、そうではない一般国民との「対立」として、問題が、より大きく、深く、取り上げ直されます。「知識人」としての先生自身 の、自らの「反省」が大きく立ち上がってくるわけですね。それも、問題点をいたずらに拡散してしまうまいと、「書く言葉」「語る言葉」つまり「言葉と知識 人」の問題に、焦点が結ばれてきます。
しかし、この辺から、ふっと作中の状況は逸れまして、あの戦時
下の困窮や迷惑の話が、K公爵と愛人との話や、過酷な勤労奉仕や、人心のすさみなど、いろいろに語られて行きます。一見するとメインテーマを逸れた話のよ
うでいて、決してそうではない。即ち「起きてしまった戦争」の、悲惨と間違いとが、具体的に、語られていたのでした。
そして、では何故に不幸な戦争は「起きてしまった」のか、その根が探られなが
ら、もう一度本題へ戻って『死者との対話』が結ばれて行く。
「……こんな(戦時下)経験をなぜ君にくどくど語ったのか。僕達のなめた
不幸が戦争から生ずる不幸であるよりも、僕達日本人の人間としての低さから生じた不幸であったことを、君にいいたいばかりだ。
みんなで避けようとすれば避けられる不幸だった。それに苦しめられな
がら、僕はあの唖の娘のことを思いつづけた。西田博士ばかりではなく、日本には多くの善意を持つ偉い学者や藝術家や思想家がおろうが、この人々がみな仲間
同志にしか通用しない言葉を使って、仲間のために仕事をして来たので、日本人は唖の娘としておきざりされて、民度をたかめることもできなかったが、これは
そうした知識人の裏切りであったと、最後に君にあった日に憤ったのだった。
しかし、僕は不幸をなめながら、僕自身もその裏切人の一人であったことを意識
して、唖の娘から復讐せられるものとして、甘んじて、不幸を堪えた。僕だけではなく、君がいたらば、君をもまたその裏切人の中へ数えいれたかも知れな
い。」
もう一度、大事の点を繰り返しますが、「日本には多くの善意を
持つ偉い学者や藝術家や思想家がおろうが、この人々がみな仲間同志にしか通用しない言葉を使って、仲間のために仕事をして来たので、日本人は唖の娘として
おきざりされて、民度をたかめることもできなかったが、これはそうした知識人の裏切りであった。」「僕は不幸をなめながら、僕自身もその裏切人の一人で
あったことを意識して、唖の娘から復讐せられるものとして、甘んじて、不幸を堪えた。僕だけではなく、君がいたらば、君をもまたその裏切人の中へ数えいれ
たかも知れない」と言うのです。
「仲間同志にしか通用しない言葉」でしか話さない、いいえ、話せないよ
うな「知識人」が、結果的に日本を裏切ったから、「戦争が起きてしまった」と先生は語気をつよめ指弾しています。これも弁解の余地のない事実、日本の近代
史を歪めてしまった大きな事実だと、私も考えます。
「先生」は「死者」へ、さらにこう語りかけています。
「同じ言葉を使わないことは、いつか思想を同じくしないことに
なって、外国人同志のような滑稽な悲劇が起きる原因になる。そうだ、君に極東裁判の法廷を見せたいと思う。日本では、陸軍は陸軍の言葉を、海軍は海軍の言
葉を、外務省は外務省の言葉を、陛下の側近者は側近者の言葉といふ風に、めいめいちがった言葉を使っていて、他の者を唖の娘扱いしていたので、お互に意思
が疎通しなかった滑稽を暴露している。
誰も戦争をしたくはないが、その意思がお互に通じあう言葉がないか
ら、肚(はら)をさぐりあっているうちに無謀な戦争に突入して、戦争になってみんなあわてたが責任がどこにあるのか、分らないといいたい様子だ。おかしな
ことだ。国民はもちろん太平洋戦争のころには戦争に飽いていたから、日本人全体が同じ言葉を使っていたらば、戦争にならなかったかも知れない。
敗戦後、僕達はその過失に氣付いた筈だ」と。
「敗戦後、民主主義ということが流行しているが、すべての唖の娘が口をきき出し
て、しかも同じ言葉をどの方面に向っても話すということでなければ、民主主義も戦争中にいくつも掲げられた標語と同じことだろうと、僕は心配している」と
も。
言うまでもないことですが、誤解を避けるために、即座に此処で 申し上げておきたいのは、「日本人全体が同じ言葉を使っていたらば、戦争にならなかったかも知れない」とは、例えば中国人のいわゆる国を挙げて「一言堂」 などといった思想統一のファッショ志向とは全く逆の人間理解、自由を基盤にした相互性を求めた発言であるということです。「同じ言葉」とは、互いに理解の 届き合う「垣根のない言葉」の意味であることを申し添えます。
で、この辺で「先生」は、先生らしく「文学」にふれて行きま
す。以上のような「考え」から引き出されてくる、文学上での「いい仕事」とは何か、先生の考えでは、「唖の娘にもわかるように努力して唖の娘の言葉で書き
ながら、なお藝術的な作品であると理解している」と、「死者」からの末期の「励まし」に対し先生は応じているのです。だが、戦後に発表されつつある若い人
たちの多くの文学作品は、まだまだというか、またもやと言うか、「みいちゃんはあちゃん、太郎くんはもちろん、大衆を唖の娘としてうちすてて、やはり同じ
仲間の言葉でしか物を書いていないようだ」と慨嘆しているのです。「唖の娘を対手にしたからとて立派な仕事ができない筈はない」とも言い切りながら、で
す。芹沢光治良という世界的な作家の文学的信念が、此処に特徴的に露われていると申して宜しいかと、私は信じています。
それかあらぬか、ここまで、手も加えず、ただもう原作のママに引いて読み上げました、要所要所の言葉・文章・発言の全部が、まったく説明を要しない、誰の
耳にも目にも思いにもそのまま等条件で正確に届く、というふうに、芹沢先生は書いておいでになる。その物の言いようは、ま、先生のいわゆる「唖者」にも、
また「知識人」にも、共通して正確に伝わる話し方・書き方、が、されています。
むろん、一種の「解釈」をさしはさんでみたい表現もあります。問題が提
起されて、その理解を、その思索を、読者側に預けたままにしてある箇所も、じつは有ると私は感じています。
この一編の小説──私は作品『死者との対話』を、エッセイだとは思いません。
小説として受け入れておりますが──この小説は、こう結ばれています。
「それにしても、人間魚雷とは、悪魔の仕業のように怖ろしいことだ。それ
を僕達の唖の娘はつくりあげて、それに、君があれほど苦しみぬいて神のように崇高な精神で搭乗して、死に赴いたのだ。
君の手記は、その悲劇を示して僕達に警告している。僕達がまた唖の娘にそっぽ
を向けていたらば、僕達は崇高な精神に生きながらまた唖の娘のつくるちがった人間魚雷にのせられて、死におくられることが必ずあることを。」
ここでの「唖の娘」と「僕達」という区別は、どうつけられてい
るのでしょうか。話の続き具合からして、「僕達」の二字には、「我々」仲間内にばかり通じて、「彼等」である他者を無視した「言葉」に酔い溺れてきたため
に、日本国を、混乱と不幸の戦争に導いてしまった責任有る「知識人」の意味、が預けられているのは確実です。
それとの対比で、「唖の娘」とは何の譬えなのかと、此処の所を繰り返
し読みますと、「日本国民ないし日本国家」は、と含意されてあるようにも受け取れます。あるいは「思索し表現する知識人」たちは置き去りに棚上げにして、
「生産する非知識人=国民」を巧妙にまた悪辣に統制・統御して、両者ともに、上から、ガンと支配した、即ち「国家・権力」のことを諷した「唖の娘」とも解
釈出来ます。
そして、その上で、芹沢先生の「懸念・危惧」を、今日ただいまの我が
国の政治社会情勢に引きつけて、よくよく眼を瞠いてみますと、市民の安全を口実にした「盗聴法」にはじまり、保護の名目で実は市民のプライバシーまで管理
し収奪してゆく「個人情報保護法」、国民のではなくもっぱら政治家の不都合隠しに手を貸す目的の「人権擁護法」、国家有事に際しては、国民の安全よりも国
家体制の安全を優先して恣意的に国民の資財や労力を徴発しうる「有事法」等々の、法の「名前」が、決して法の「実体」を表わしていない諸法案の、続々成立
やら成立の画策やらが進んでいます今日のていたらくを、芹沢先生は早くも予感され憂慮されていたのかも知れぬと、暗澹たる思いに陥る日々を、今まさに我々
日本国民は、私どもは毎日迎え・送りしている現実なんですね。
この、あんまり正確すぎて怖いほどの『死者との対話』なればこそ、私
は何の躊躇もなく、他に名作・傑作の数有るのも承知のうえで、長さが好都合というような小さな配慮は抜きにして、「この一作」を二十一世紀の、インター
ネット上の読者たちに、もう一度も二度も三度も読み直して貰いたいと思ったのです、願ったのです。それが、今日のこの場へ私を引っ張り出して戴いた岡玲子
さんやみなさんへの、まずは、お答えということになります。
しかし、ついでというわけでなく、せっかく「知識人の言葉」に焦点を結 んで戴いたのですから、その方向で、今少しお時間を拝借しようと思います。
その前に、「死者との対話」で、少しく別方角からの問題箇所が、少なく も二つ、感じられたことは、深入りはしませんが、申し上げておきたい。
一つには、こういう箇所がありました。和田稔の最後の訪問の、もう別れ
際のところです。
「君が出陣の直前最後に訪ねてあんな風にうったえた時、僕は唖の娘のな
げきとして聞きとるとともに、唖の娘として見すてた学者に対する憤(いきどおり)としても受けとったから、あのベルグソンの話もし、日本人の不幸であると
して、君や僕が唖の娘だという立場で話したことを今もおぼえている。その時、君はあの癖のまばたきをして眼鏡のうらに涙の粒をごまかした。僕は君の涙の意
味がよく分らなかった。今も分らない。」
此処の「涙」には、たしか、もう一度言及されていましたが、ここでこ
の先生の、「僕は君の涙の意味がよく分らなかった。今も分らない。」が、今も、私にはかなり「気」になっています。この「分らなかった。今も分らない」と
二度も強調されているのは、何故なのでしょう。「分らなかった。今も」とは、真実なんでしょうか。どう分かるのが正解なのか。この問題は、皆さんに今日は
お預けして帰りたいと思います。
もう一つが、やはりその時に、和田稔という今まさに死の戦陣へ出で立つ学生が、作家「宇野千代」に是非会って行きたいので紹介状がほしいと言い出します。
先生は、作品の中では「うん、書く」と承知されているようですが、事実は、紹介状のことは二人の間で自然に置き去りにされまして、そのまま、その日和田稔
は先生宅を辞します。そして二度と帰らぬ「人間魚雷回天」での、爆死を遂げました。
先生はそれを後に思い起こし、「後悔」されています。芹沢先生は、別
の文章「幸福について」のなかでは、彼、和田稔が宇野千代に会いたがるのに対し、「その希望をかなえてやらなかった。(略)
会うのはよせと、私は無情に答えてしまったが、(略)
後悔した」と書かれています。ここでの「宇野千代」なる存在は、作品『死者との対話』をとび超えまして、かなり本質的な「芹沢文学論」の一つの足場、大き
な切り口の一つになるであろう、ならざるをえない気持ちを、私は持っております。
ま、これは大問題であり、今日のところは、これも皆さんにお預けして行くと致
しますが、忘れがたい大事の要所かと考えております。
さて、芹沢先生は、「知識人の責任」と、責任を正しく果たすた
めの「知識人の言葉」とを関わらせ、適切に問題を差し出されたわけです、が、此処でこの「知識人」とは何か。近代日本の激動の歴史にあって、どんな役目を
果たしてきたのか、または果たせなかったのか、その辺にも、私どもの「ペン電子文藝館」のコンテンツがらみで、簡単に触れておきたいと思います。
「ペン電子文藝館」で一番に作品を決定したのは、初代島崎藤村会長の「嵐」と、
現会長梅原猛さんの「闇のパトス」でした。そして『闇のパトス』に梅原さんのOKが出ると、即座に芹沢先生の『死者との対話』を選ばせて貰いました。
梅原さんは、言うまでもない「哲学者」であり、西田哲学の感化の濃厚
であった京都大学の出身ですが、しかも彼は、西田哲学主流からかなり逸れた、むしろそれに批判的な、つまり「哲学学」的な「哲学学・者」ではありませんで
した。「いかに生きるか」に、のたうちまわる青春を生きて、副題通り「不安と絶望」の中から書き上げたのが、二十五歳の『闇のパトス』でした。当時身辺の
「哲学学」の師友からはたいへん不評で、これが哲学の論文かと冷評されたそうです。ちょうど「和田稔」の位置にあって、戦時から戦後へと苦悶のうちに生き
延びた人でした。在来の「哲学語」に強く飽き足りない不満も持たれていたのでしょう。
私も、近来とみに、「哲学」と「宗団宗教」に対し、ほとんど期待はもて
ないと考えている人間の一人でありますが、学生時代、ことに日本語で書かれた「哲学」「美学」の殆どが、あまりに独善難渋、広い世間の眼には、たんに無用
の存在と言いたいほどに思っていました。
で、梅原さんの『闇のパトス』の、青春の身も心ももがくような痛切な
日本語の駆使、けっして熟していない、巧くもない日本語での、切々としたねばり強い思索に、世代の近い者としての共感を覚えていたのです。ひょっとして芹
沢先生の『死者との対話』から生まれ出てきた梅原さんの『闇のパトス』なのかも知れないほどに私は感じたのです。
それについては、これ以上は言いません。が、次いで、芹沢先生のあと
を継いで第六代日本ペンクラブ会長に就任された、中村光夫先生の、ずばりその題が『知識階級』という、まことに優れた興味深い論考を、奥様のお許しを戴い
て「ペン電子文藝館」に掲載させて戴いたです、この論文は、いわば『死者との対話』の主題・訴えをその基盤から、歴史的に解明するていの、みごとな解説で
ありました。ただ漫然と作品を選んでいたわけではないのです。
知識階級──。なるほど、こういう呼び方をされて、それなりに妥当適当
な人たちが、近代以降と限りましても、かつていたこと、今もいること、は、確実なようです。それは資本家と労働者といった今や古典的な階層とは、意味がち
がいます。門閥と庶民というのとも、違います。
幕末から明治初年にかけ、日本の「新・知識階級」を名乗り得たのは、
かつて武士身分の中でも、むしろ「門閥制度は親の敵」とすら考えていた、下層の武士出身者でした。福沢諭吉、森有礼、西周、津田真道、加藤弘之、西村茂
樹、箕作麟祥ら「明六社」という同人を成していた知識人、同じく菊池大麓、中村正直、外山正一などという「知識人=洋学者=西欧渡航経験者」らは、みなそ
うでした。新島襄も、いわばそんな一人でした。彼等と同類の下層武士出身者たちで作られた「明治新政府」に、かつての対立関係なども忘れて、彼等が惜しみ
なく「讃辞」を送って熱心に肩入れしたのは、政府が彼等の知識を必要としていたのですから、これは自然なことでした。この人たちを、近代日本の第一次知識
階級と呼ぶことは、大きな間違いではないでしょう。彼等に共通した特色は、その得たる新知識の力で、「国家」「日本」の行くべき道を示唆・指示し、自分た
ちで操縦できる、舵が取れると自負していた、その強烈な自信でした。国家・政府・時代もそれを期待し、尊敬の念を惜しみませんでした。彼等の背後には、
「西洋」という「世界」が(その実質はともあれ)背負われていて、嘗ての上層支配者たちでは、そんな広い「世界」に伍して「国の行方」を誤らないで済む能
力は全くなかったのです。
明治政府の推進者であった例えば伊藤博文も、彼等と同じ程度に西欧を
体験してきた新知識階級の一人でした。「末は博士か大臣か」と謳われた相互呼応の蜜月関係が現にありえました。大臣だけでなく、博士も、たいした重みを持
ち得ていたのです。いま「博士」を表に掲げるのは町の開業医さんぐらいなものでしょう。福沢諭吉ら第一次知識階級たちこそ、そう呼ぶ呼ばないは別として時
代の「博士」でした。それも実践的な処方の書ける博士でした。
幕府の頃の蕃書調所から、開成校になり、明治十年には東京帝国大学になって
いった「大学」等の教育機関の道筋が、此処へ積極的に開けてゆきました。鴎外は十四年に、坪内逍遙は十六年に、それぞれ帝大医学部、文学部を卒業していま
す。
第二次の知識階級は、この「大学に学ぶ」という、さらには「西洋へ洋
行・留学する」という経路を経て、なお、相当の重きを日本国の広い分野で成しえたのでした。森鴎外・夏目漱石ら文学者の名が典型的に思い出されます。「博
士」の称号は光り輝いていました、「博士」の代表者の一人が坪内逍遙でした。シェイクスピアを初めとする西洋の学藝の紹介と祖述、また演劇等での実践で、
尊敬を集め、博士といえば大きな「紋所」でした。だからこそ夏目金之助・漱石が文部省授与の「文学博士」を辞退し退けたことが、大きな話題になり得まし
た。
しかし漱石は「文学博士」をガンとして拒み通し、公よりは「私=個
人」の心の掟や誠に従った、人間的な文学世界を築き上げますし、医学博士森鴎外は、作品「舞姫」では恋と官途の板挟みに悩んで官途に従い、専門の知識を
持って帰国し、終生国に奉仕しますが、しかもその遺書では、政府による死後の栄誉のすべてを辞し、「岩見人森林太郎」としてのみ死んで行くと言い切りま
す。知識階級のうちに、国ではなく、少なくも国優先だけではなく、吾、己れ、人間として生きるための、意識の変容が、深いところで進んでいたと思われま
す。しかしなお、明治二十年代、そういう知識人は世の表には現れにくく、ごく少数派でした。
では第一次の福沢や森有礼たちの頃と同じであり得たか。そうは、あり得なかっ
たのです。
明治は、ご承知のように四十五年続きました。明治十年に起きた西南戦
争は、西郷隆盛による政治的な内乱でした。此処までは、明治政府による維新の建設と、社会的・文化的にはいろいろにまだ混乱がありましたものの、国は、玉
石混淆、西洋人を大勢お雇い教師に採用もしつつ、挙げて、和魂洋才による文明開化と富国強兵を模索追求し、いわば新国家の草創期でしたから、少数の優れた
洋学者・先覚者たち「新知識階級」には、発言と活躍の場が、有り余るほどにありました。福沢諭吉に代表される彼等知識人は、身に付いた武士道と儒学漢学の
基盤を生き方の底に抱きながら、西洋舶来の新知見をもって、「無学」な政治的上位者たちの「政府・政策」を実質的に動かしてゆく、リードする、自信満々の
勢いと活気とを持っていました。
中村光夫先生の観察を待つまでもなく、たとえば旧藩主等の支配層と、
福沢や森有礼らとを比べれば、西洋風の学藝や知識において、前者の「無学」は、歴然としていました。だがまた、福沢諭吉たち明六社同人を初めとする知識階
級の「西洋学の程度」はといえば、まだまだ専門学の実質を著しく欠いた、いわば彼等自身も実は「無学」に等しかったのです。鴎外や漱石のように、専門学を
西洋で学習してこれたわけでは無かったのですから。外遊の時期・年限や、学習術の未熟・不備からも、それは、さもありましょう。
それでもなお、むしろ、それが幸いしてとも謂えるのですが、彼ら新知識階級
は、確かに、政権の内側でも、外からでも、たとえ猪突猛進であれ、明瞭に「国家」の前途を視野に入れた、とにかくも「大きな」ことがやれたのです。
その意味では彼等は幕末以来のあの「志士」の変身したもので、嘗ての
身分は総じて低く、それが希望と力とになり得まして、国を新しく変えてゆく上で、これはいい、これは大事と思うことなら、何でも、どのようにでも、その方
向へ「蛮勇」をもって「邁進」する気概やモラル、武士道的な儒学的な秩序への奉仕意識を、意識の下に隠したまま「理想への意欲」だけは、溢れるほど持って
いたというわけです。また、それが、時代からも、権勢の側からも、期待されていたのですね。知識階級の、もっとも幸福な環境、活躍出来る環境が在った、存
在した、そういう時節でした。つまり真に変革期でありました。
知識階級のこのように幸福な、得意な時節は、むろんのこと、国家建設
が進み、秩序化・支配体制が整うに連れて、無惨なほど速やかに崩れてゆきます。明治二十年までに、つまり西南戦争からの十年のうちに、西洋の学藝や藝術に
学ぶ人は、何よりも、人数の上で増えてゆきました。
学問して偉くなろう、出世しよう、出世できるのだという希望を抱いて
郷関を出てきた人が、大都市に集中し、永井荷風その他海外にまで学びに出た人も幾らもいました。各分野での専門教育が進み、大学やそれに準じた学校が、増
えてきます。「書生・学生」が、維新の初期に比べ、比較にならぬほど増えていました。
すると、当然にも、逆に「知識・才能の希少価値」は相対的に下落しま
す。能力が求め迎えられるどころか、相応の「地位」を官途に獲得することにも、彼等遅れてきた知識階級は、無惨な奔命を強いられ始めています。しかも迎え
られ方が、明治初期とはまるで違い、国や政府は、専門の知識を持って唯々諾々ということを聞く、道具に等しい単に技術者としてしか彼等を用いなくなってい
ました、なまじ意見や主張や理想のある知識階級などは、もうむしろ五月蠅い無用の存在でした。知識階級は、黙々と車を牽く車夫同然の存在に甘んじて職を得
て出世を狙うか、その路線から転落しいたずらに零落するかの選択に早くも迫られていました。車を牽くのはそれなりの技術であり力ですが、それに乗るのは
もっと力のある他人であり、何処へ走ってゆくかも車夫の自由ではなく、車上の主人がきめることでした。福沢諭吉は、このような辛辣な譬えで、第二次の知識
階級の余儀ない変貌を描写しています。福沢だけでなく、知識階級の一角から、先駆的な文学者がこういう苦渋の知識人を造形し始めます。
その最初の典型が、明治二十年、二葉亭四迷作『浮雲』の主人公内海文
三でした、彼は、上長の求めるままに従順な車夫に成りきれない存在として、落ちぶれて前途も見えない敗北者に成ってゆく。その一方で、如才ないあたかも上
の自由になりきった道具のような本田昇は出世への街道を軽やかに歩み、文三の許嫁の女も奪い取ります。十年後、明治三十年の尾崎紅葉作『金色夜叉』で、あ
の熱海の海岸で、宮さんを争った、間貫一と富山唯継のような按配です。もうこの十年のうちに、知識階級の多くは、殆どは、上の言いなりに長いものに巻かれ
て生きるしかない存在になり、その気のない者は落ちこぼれるしか無くなっていました。
日本の知識階級の特色の一つは、昔も今も「貧乏」なこと、と中村先生
は、ためらい無く指摘されています。門閥や資産などに恵まれない経済的な下層から、学問し知識を持ち出世したいと這い上がってくるのが普通の形でした。そ
ういう階層の青年たちが、学歴は得たけれど職が得られない、政官界もそんなに多くの書生・学生を受け入れられない、と言うよりも、都合良く使える者しか使
おうとしなくなっていました。当然のように実業界も又同じでした。得意の絶頂にいた知識階級は、急速に失意の集合を成しまして、すると、知識や学藝に培わ
れた彼等の内なる人間が、個性が、うめき声と共に適切な出口を求めて悶え悩み始めます。、あの鴎外でも漱石でも二葉亭でも、まさに誠実に呻いていたのでし
た。
知識階級は、だんだんに、学校を出たあとは、いわゆる先生になるか宗
教家になるか、大概二つに一つという時代に、遭遇・当面したんだと、国木田独歩は、自分が何故「小説家になりしか」というエッセイで、はっきり知識階級に
とって打つて変わり果てた時代を、概括し、総括しています。そのエツセイも「ペン電子文藝館」は拾い上げています。
知識階級のうめきのはけ口のように、詩歌や文学が、藝術が、俄然とし
て彼等に意識され始めます。心ある知識人ほど、もう「国」「国家」「公」よりも、自分自身の内側へ目を向け、いわば魂の表現に向かう方が、人間的に生きる
方が、意義深いこととして意識されてきます。鴎外も漱石もそうしてきたわけです。尾崎紅葉を中心にした泉鏡花らの我楽多文庫派の文学者たちも、北村透谷や
島崎藤村ら文学界の若き魂も、正岡子規から流れ出た俳句や短歌の人たちも、みな、次の明治三十年という次の画期へ向けて、活動を始めよう、いいえ活動し始
めています。その丁度明治三十年に、芹沢先生は生まれておいでです。先生ご自身が知識階級に身を置かれるまでには、もう四半世紀が必要でした、少なくと
も。
日清戦争、そして日露戦争、さらには大逆事件と、明治時代は奥 深く進むにつれて、もう知識階級は政治的な経世家であるよりも、優秀な人ほど、思想家的な相貌を己のものにしてゆきます。批評は出来る。しかし、社会や政 策を動かす実践的な力には容易になれない、半失業者的な存在として、かなり貧しく苦しく生きることを意味します。三文文士の通り名どおりに、「借金」は常 のことでした。貧困ゆえに一葉も啄木も窮死し、藤村は妻子を次々に死なせました。日露戦争後は、機械的人間たりえない、道具としては生きたくない知識階級 の逼塞は深刻度を増しました。官界・実業・芸術、どこでもそうでした。
あげく、得意であれ失意であれ、深く、そして狭く、「知識階
級」は己の専門たる教養をそう理解したかのように、広く世に受け容れられようなどと思わず、一つは傲慢から、一つは断念から、「我々」という垣根の中で、
垣根の仲間にしか通用しない「言葉」を平気で、それが当然の思いで用い始めたのだ、と、そう言えるでしょう。
ついにと言いましょうか、芹沢先生が『死者との対話』で、鋭く表に出
された「知識人・知識階級の自己閉塞」が、そう進行して来たのです、石川啄木の言う「時代閉塞の現状」に押しひしがれるようにして。この「閉塞」は、初期
知識階級とは逆に、国に対し、体制に対し、背を向けて道具扱いの、車夫扱いの協力は「もうご免だ」という意思表示で示されてきました。啄木は「もうご免
だ」を、繰り返し、書いています。
この有名な啄木の論文は、明治四十三年八月、大逆事件が報じられて、
社会が大きく揺れだした最中に書かれたものです。若き日本の「知識階級」は、未だ真の「敵」を認識してこなかったという意味深長な言い方の中で、明治初年
とは逆さまに、むしろ国体や体制と闘うべく立たねばならない知識階級の前途を洞察しつつも、時代は絶望的に閉塞していると嘆いて、知識人たちの自己閉塞ぶ
りに檄をとばしたのですが、現実はどうにもならずに、明治は果て、大正の擬似的なデモクラシーを経過し、関東大震災を体験します。
そのあと、「ぼんやりとした不安」から芥川龍之介は自殺し、めくるめく早さ
で、「公」は容赦なく「私」を弾圧的に押さえつけたまま、あの大きな不幸な戦争へ日本国を追い落としていったのです。知識階級はむしろ国家の余計物でし
た。
中村光夫先生もこう断言されています。
「国家(支配者と民衆)に無関係の地点で、自分等だけの思想や感情を理
解しようとしたので、自然主義以来の文学が文壇の文学者同士を相手に書かれたといわれるのは、こういう知識階級や気質の現れの一端なのです」と。落ちたプ
ライドの裏返しに、自分とは他の「彼等」なんぞにまるで通じなくてもいいかのように、「我々仲間内」だけの言葉を平気で誰もが話し始めて、狭く固まってし
まっていた「知識階級」の、数知れない各集団は、全く無力に、結果として「大政翼賛の協力者」を演じたあげく、芹沢先生のいわゆる「裏切人」に成りはてて
いたあげく、哲学も宗教も科学も、藝術や文学すらも、日本国ないし日本国民を、「唖者の娘」なみに「暴走」させただけで終わったのでした。
適切な把握であるかどうか、みなさんが個々にご判断なさるでしょうが、
こういうことを念頭にして、私は、私の発案し実現を推進してきた「ペン電子文藝館」に、大きな期待をもって、あの芹沢光治良作『死者との対話』を、ぜひ掲
載しなくては成らぬと考えました。
折しも、新聞テレビ等は、日本の現在のかなり危うい後ろ向きのありよ
うを、日々に、イヤになるほど報道し続けています。永田町の言葉は永田町でしか通じない。野党の言葉と与党政権の言葉とは、同じ日本語かと思うほど引き裂
かれています。そしてこの国の真の主人公であると認め合った「国民」が、日増しにまた「唖者の娘」かのように政治的支配のもとで、外側で、不安と不自由を
強いられつつあり、国民の多くがなかなかそれにも気がつかずにおります。
ほんとうに必要な「対話」が、共通の言葉によってよく成されていれば生じない
であろう「危険の予兆」が、ひしひしと身に迫ってきているのではありませんか、と……。
以上を以ちまして、岡さんからのお尋ねへ、「今、なぜ『死者との対話』
が大切か」の、私の、お返事とさせていただきます。
甚だ堅苦しいお話に終始しましたことを、みなさんに、お詫び申し上げます。
(平成十四年(2002)六月九日 於・芹沢光治良旧居マグノリアホール)
* 六月十日 月
* 「知識人の言葉と責任」に触れて、ぜひ付記すべき一点があ る。仲間内にしか通じない言葉で良しとし、「我々」ならぬ「彼等」広範囲の他者=国民の存在を、軽視ないし無視して「知識人」が顧みようとしなかった、そ れが不幸な戦争を抑止できなかった一つの大きな理由であるという芹沢さんの強い指摘は、まったくそのとおりである。それと、誰もかもが同じように同じ言葉 を話して、国民の思想が統一化されるのが望ましいなんてバカ話とは、これは全く関係のないこと、そんなファッショというか、中国で謂う「一言堂」に成るな ど、芹沢さんの思想には絶対に無いということを、付記しておかねばならない。次元の違った話である。揚げ足取りの向きは、つい、そういうタメにする言いが かりも付けるものだが、誰もそんな話はしていない。そんな声が届いてきたわけではない。だが、予め言っておく。
* 湿度の少ない晴天で、庭の草花が風に揺れている様は、気持ちを和ませ
ます。モンシロやアゲハ、蜂もよく止まります。ヤモリ、トカゲ、ミミズ、去年は手のひら程のカエルが住み着いていました。
そう言えば、昨日、里帰りの娘が、マンションのベランダにあるレモン
の木に大きな青虫が居座って、気持ちが悪くて駆除出来ず、鳥肌が立つなんて、話をしていましたが、いい歳をして情けない主婦です。それでもご贔屓イタリア
のサポーターになって、男性並の応援を送っていました。終盤きびしく鋭い審判で、惜敗でしたネ。さすがW杯の主審です。今晩の対ロシア戦、勝てればいいけ
れど。いいゲームを期待して、楽しみます。
* 興奮 マイナーな世の中、あまりにも落ち込んでいる日本を明 るく興奮させた勝ち点でした。もし、決勝リーグに出られれば開催国としては、熱狂のルツボでしょう。W杯二度目の出場とは思えない程、経験のあるヨーロッ パに互するこんな若者達に大拍手です。中でも中田の統率力は素晴らしい。
* オリンピックとまた違った刺激に、国を挙げて湧いている。冷
淡だったわたしでも、悦んでテレビの試合を見て拍手している。昔は、サッカーってなんと退屈なゲームなんだろうと呆れていた。とろとろとろとろとボールを
蹴転がしていた、日本での話である。外国との差が有りすぎた。それが三浦選手が海外に出ていった頃から、ドーハでの惜しい惜しい暗転を経て、目を見はる面
白い技とガッツと組織プレーを見せてくれるようになった。ゴールが有ろうと無かろうと、目が離せないほど中味が熟してきた。たいしたものだ、敬意すら覚え
る。トルシエ監督の不屈の姿勢が感化している。日本人のわるいところで、外人いじめでさんざんトルシエ叩きが続いたのは苦々しいことであったが、よくやっ
てくれたと感謝する。正直の所ベルギーにもロシアにも負けるだろうと思っていた。引き分けたり勝ったりしてみると、ゲームそのものからその自然さがリアル
に納得できる。此処まで来たらチュニジア戦にも引き締まって突貫して欲しい。
小泉首相の観戦の昂奮ぶりはそれでよろしい、が、政治は、断然よろし
くない。苦々しいかぎり。サッカー熱のかげで、政治改革、景気回復のもともと低い熱が冷え切らないよう、日本の舵をしっかり握って貰いたい。「感動し
た!!」と、あなたが選手や力士に叫ぶのと同様のことを、あなたに対して国民が叫べる政治をしてもらいたい。
* 話が大きく変わりすぎるが、昨夜も夜中まで西鶴「一代男」の 好色人生をおもしろく読みふけっていた。太夫と呼ばれる最高級の遊女から極めて下賤とされた売色の女まで、たまに素人の女も含まれるが、主人公世之介の人 生行路に出逢う数々の女たちとの、文字通り「多彩な」交渉が「多彩に」描写されて、鎖のようにつながってゆく。すてきにいい女もいて感動したりもするし、 ひどい女もいる。それらの女に対峙して世之介自身もいい男だったり男を下げたり、いろいろ変化して興趣が尽きない。場所も、諸国に散開しながら、そういう 買色の諸制度がピンからキリまで甚だ具体的に描かれていて、その方面での知的な刺激も大きい。驚かされる。さすがに西鶴の一大傑作として古典の中の古典 と、亡き森銑三先生もこの一作だけは揺るぎない西鶴の真作と折り紙をつけておられたが、悠々の書きぶりに驚嘆する。西鶴苦手でこの年まで放っておいて老い たのが悔やまれるほど、面白い。読み上げたら、くるりと最初へ戻って、もう一度、今度はノートとペンをそばに置いて読み直してみたいと本気で思っている。
* ごぶさたしています。先日、二十歳になりました。大学にというよりは
九州の空気にようやく馴染んできて、毎日を楽しんでいます。その中で節目を迎えられたのは、本当によかったと思いました。
大学の授業は…今はいわゆる一般教養が大部分です。科目や内容いかんよりも、
教授によって「当たり外れ」があります。そして、「外れ」のほうが多いというのが正直な感想です。
自分の友人を見ていて、「学生が本を読まない」というのはたしかです。ただ、
彼らはきちんと物を考えているし、したたかでもあります。「学力低下」という言葉がはやっていますが、学生はずいぶん見下げられているんだなと実感しま
す。
法律、今は主に民法ですが、これはおもしろいです。さすがに懐が深そうです。
じっくり腰を据えて、ものにしていきたいと思います。
サークルはサッカーを選びました。正規の体育部ではないから、気を張らずに参
加しています。女性とまったく縁のないところなのが、珠に瑕かな。
サッカーといえばW杯、おもしろいですよね。もともとスペインが好き
で、大学でもスペイン語を学んでいます。無敵艦隊といわれながらいつもぴりっとしないのですが、今期は勝ち進むと見ています。水曜日にNHKで南アフリカ
戦が放映されます、お仕事の合間にでもぜひ見てください。粗削りですが、攻撃は見応えがありますよ。
いま付き合っている女性が、同じ法学部の一年生ですが、なかなか刺激
的な人です。もともと理系だったこともあって、数学が好きでパソコンも好きだといって、知識も技術もとてもかないません。彼女の影響で今でも数学を少し
やっています。こだわりのない爽やかな人で、出会えてよかったなと思います。
一息に書き上げてしまった感じですが、とにかく元気です。秦さん、今日は講演
だったようですね。疲れをあとに残さぬよう、大事になさってください。どうも最近は全国的に暑いようですしね。今週の半ばから九州は梅雨入りだそうです。
迪子さんともども、どうかご無事で。
* わたしの一番若い友人の読者君は、変わりなく溌剌としてい
る。いい恋もいい自由も身につけて欲しい。彼も言うように学生を一般論で見下げてもらっては困る。また見下げられて萎縮されても困る。世の中をほんとうに
刺激し動かしてゆくのは、政治家よりも学生であるような時代が来て欲しい。二十歳になれば、若いの何のというハンデをへんに意識しないで力を蓄えて欲し
い。蛮勇も、許される時期がある。あまりに佳い意味の蛮勇がすたれて、自棄の暴力や無気力な逸脱ばかり。乗り物を暴走させて迷惑をかけていたりする、あん
なのは臆病と未練の裏返しに過ぎず、時代を沸騰させるエネルギーとしての蛮勇でも何でもない。
* 六月十日 つづき
* 土砂降りの中のポーランド対ポルトガルのサッカー前半が過ぎたので、 機械の前に戻ってきた。夕方のチュニジアとベルギーの引き分けも見た。雨の中のゲーム、凄かった。
* 泉鏡花のいい作品が委員複数の佳い校正を経て「ペン電子文藝 館」に入った。尾崎紅葉の「金色夜叉」はいまなお校正の調整で、わたしの手元にある。昔の文語作品の場合、ほんとうにどれを底本にとるかで、編集処理がさ まざまなために、痩せるほど苦労だ。ほんとに痩せるのだといいのだけれど。
* また試合に戻って、四対零でポルトガルの圧勝したのを見終えた。見ながら、ずいぶん手作業が出来て両得であった。
* 国会討論の小泉首相、絵に描いたような「お疲れサン」で半分
寝ていた。答弁は人をこばかにしたようなズラシ答弁ばかり。非核三原則は不動の国是で堅持するというのなら、たった一言、その気持ちを世界に対しても米国
に対してもまっすぐ向け、不退転の姿勢を力強く打ち出してくれればいいのに、質問がそこへくると、決してそれを言わない。理想と現実などという詭弁を平然
と言う。「感動」できない。
* 六月十一日 火
* 秦の叔母つる(宗陽・玉月)の命日。平成三年頃であったか、 享年は九十何歳かであった。明治三十三年に生まれた。裏千家教授、御幸遠州流師範として斯道約七十年。ユニークな個性であった。ほんとうは、この人こそ京 都で死なせてやりたかったが、また天涯孤独の独りきりでは、よう最晩年を過ごさなかったであろう。で、父と母とは垣根一重の隣家を手に入れ、叔母はわたし たちの棟の二階、今まさに機械を使っているこの部屋に暮らしてもらった。悔いの残るほど、叔母に良くしてやれたとは言い難いが、猫のノコを相手に叔母はこ こで静かに過ごしていた。いくつもの宿痾も抱え持っていて、最期は昭和病院でさながらクラッシュしたように亡くなった。だが、叔母の生涯は独立自尊の藝道 師匠として、裕かに終始したといって過言でない。或る意味でたいした女であった。私が無理でも、私の妻を自分の後継にしたい気もあったろう、だが、それに は酬いられなかった。私にその気も無かった。よくしてもらいながら、よく酬い得なかった。いろいろ不親切であったと悔いている。冥福を祈る。南無阿弥陀 仏。
* 昨日の福田官房長官、安部官房副長官の核保有食言の集中審議での、二
人の居直った弁明、小泉総理のおよそ率直からは万里も遠い詭弁の連続は、思い出すも不快でならぬ。
野党に押し出す力が蓄えられていないのもさびしい極みで、もし総選挙
してどうなることかと心配だ。せめて民主党が菅直人の体制に早く戻って欲しい。鳩山には陽性な真の勢いがない。共産党は党名をすみやかに一新してかかれば
政権にすら手が届くのに、ちいさな我を張っている。あれでは三百年経たねばどうにもならん。社民党はこんなわけの分からない党名からもういちど日本社会党
に立ち戻り、堅実に労働戦線と女性路線とを大胆な水平思考で太い柱にアマルガムすべき時機だ。辻元の潰されたのは土井さんの責任とも言える。惜しいことを
した。此処には他党に比べて好壮年の闘士が見あたらない。独り演説の長い見当違いな元マスコミ人がいるが、わたしは、採らない。
政局は混濁・迷走。ほとほと、いやになる。
小泉は郵政改変を熱心に言い続けてきた。それはそれでよい。だが彼が
郵政に真に熱心で言っているとはわたしは思っていない。彼の真意は「銀行保護」に限りなく近いのではないか、もともと銀行族議員であったではないか、小泉
純一郎は。このところの自民政権の失政に継ぐ失政、そして鍋底の不景気のかつてない世界的に観ても超長期の継続の原因は、「銀行あまやかし」にあるのは、
明白ではないか。銀行に預金すれば、利息どころか預金手数料を取られかねない、こんな無利息時代を放置したまま、福祉も瀕死状態に削ぎ殺して置いて、そし
て庶民や老人に「金を使え」とは、何なんだ。政権与党の代議士を横一列に並べて置いて、一人ずつ横面を張ってやりたい。
* 加藤剛が森鴎外を演じる俳優座公演が三越劇場である。午後は
一休みして出かける。同じかどうか前にも一度剛サンは鴎外を演じているが、程度のよくない失敗作であった。鴎外というネームバリューによりかかっては、芝
居の純度が低くなる。加藤の芝居は、伊能忠敬とか漱石とか鴎外とか、その手のものがこの数年多い。多すぎないかと心配なほどだ。わたしの見た限り、一つと
して真に成功した感動の舞台はなかった。失敗の理由の大きな一つは、脚本づくり芝居づくりでの「人間」理解の浅さであった。ことに鴎外は一筋縄で行かない
文字通り苦悶の「知識階級」の代表的存在だ。割り切れない深みという点では、こんなに難しい知識人はいない。国家と地位と、人間的・家庭的な苦悶とやりく
りとが、混沌として深い渦を巻いている。「舞姫もどき」だけでは理解しきれない。
今度の舞台がみごとな燃焼度をもって感動させてくれるかどうか。虚心に観てき
たい。
* 六月十一日 つづき
* 三越劇場は客席に傾斜がなく、前席を丈高の頭に塞がれるととても観に
くい。それを配慮して貰ったような、見やすい席が用意されていて、オペラグラスを併用しながら、快適に舞台を楽しむことが出来た。感謝。
森鴎外
舞姫の恋 を解釈した舞台であった。前半は薄っぺらくて、エリーゼとの出逢いも恋も、帝劇の通俗な芝居なみ、お話にならなかった。加藤剛の感傷的な「ぼ
く、いい子でしょ」といったひ弱いお人好しな面ばかりが続いたので、あの複雑無比な「鴎外森林太郎」を観ている気がテンでしなかった。それに、こういって
は悪いが、「心 我が愛」の時の、先生と奥さん、先生とお嬢さん、先生と私、私と奥さんを彷彿させる場面や言い回しが、やたら繰り返され、失笑してしまっ
た。そのうちに退屈さえしてきた。
先日に、俳優座稽古場公演で「八月に乾杯」の高度に演劇的ないいものを観てい
たので、商業演劇並みに水準を落としたメロドラマでは、とうてい満足できない。それに前半の筋立てに特に新機軸も出てこなかった。
ただ、開幕のところで、一の親友賀古鶴所に書き取らせた名高い「遺書」と、立
花一男の賀古役の出来は、スケール大きくて、たいへん先に期待を持たせてくれたことは言っておかねば不公平だろう。
だが、すぐに期待は裏切られていった。加藤が出て話し出し、芥川龍之
介などという、とってつけたような、芥川内面の片鱗もない役が出てきて舞台の味を薄くし、またしげ子夫人役のおなじみ香野百合子が出て、加藤との夫婦の対
話になると、これはもうあの「心」の「先生」「奥さん」そのままの台詞になってしまって、なんだこの役者たちは「別の演技」は出来ないのかと、憤慨するぐ
らいガッカリした。
後半になると、当然、筋書きも持ち直して盛り上げにかかる。だが、例
えば「釦」という鴎外の優れた詩作品は、そのまま「読み上げ」ただけでは鴎外の「文藝」であり、即ち「演劇」とは謂えない、のである。演劇の中に直接文藝
作品をもちこみ、どう朗読しようとも、そこで却って演劇の密度は薄くなり安易になる。そういう意味で「脚本・台本」も手薄のそしりを免れなかった。
二万哩をベルリンから鴎外を追ってきたエリーゼを、森一家が、総掛か
りで追い返しにかかる。現実にもあった名高い事件そのもので、そのままがすでに「劇的」なのだから、相応に興味は引かれ、じっと舞台に真向かう気持ちにな
る。当然である。あげく感傷的な哀れもさそわれ、私の妻のように泣く客が居てもおかしくない。わたしでもほろりとした。だが、それは舞台の手柄ではなかっ
た。舞台に感動していたのではなかった、少なくも私は。
実際の鴎外は、追ってきたエリスとの再会を、小説「普請中」などに書
いている。物静かに、冷え冷えとした日本批評がらみの別離の場面だ。「キスしてあげましょうか」とエリスは言い「ここは日本だ」と鴎外は退けている。たぶ
んフィクションだろう。この事件でどうエリスが追い返されたのか、舞台の作者が「解釈」願望をもつのは無理もない。わたしも、其処を「どうやるのかな」と
待つ気持ちがあった。
結果的にいえば、あんな「ごまかし」で、エリーゼが、すんなりと、嬉
々としてというほどの「芝居もどき」で追い返されたわけがなく、森家の側の願望妄想のようなものだ、一族エゴそのものの理由づけでしかない。舞台のエリー
ゼは、鴎外からもコケにされているに過ぎない、作者「解釈」のたわいない餌食になっているのだ。
はっきりいって、森鴎外は生涯「芝居」をして生き抜き、その苦渋が、
あの岩見人森林太郎の仮借ない「遺書」への「逆転」になった。それは明らかだ。かれは帰国後ただもう「かのように」生きて「芝居」をしぬいたが、だがベル
リン時代のエリスとの恋は芝居ではなかったろう。いや、それも甘くは観られない、作品「舞姫」の太田豊太郎の恋こそは真実であったろうが、それを書いた森
林太郎は「創作という芝居」を演じたのであったと言える。そして豊太郎も林太郎も等しく恋を棄てて、官途についた。国に「機械」として雇われた。追ってき
た現実のエリスも「機械」の冷たさで断然追い返した。生身の鴎外は苦しく悶えたではあろう、が、彼には「芝居をして生きる」という覚悟がもう出来ていた。
だが、同じ覚悟がエリーゼももてたという今日の芝居の「解釈」には愉
快になれない。そんな「芝居」をエリーゼも競演して悔いなかった、そして進んで帰国したという解釈ほど、鴎外側独善の「ごまかし」は無いだろう。あんな舞
台の鴎外のうすっぺらな述懐にエリーゼが感激して結婚をあっさり諦めたというのは、あまりに女を愚弄したはなしで、あの追い返しは、寄ってたかっての森一
家と、日本陸軍と、日本国とのまさに「明治的欺瞞」劇なのである。鴎外は物陰に隠れてその「結論」に従った。従うしかない、典型的な第二次知識階級の鴎外
であった。彼は西周や森有礼ら第一次知識階級ではあり得なかった。専門の知識を期待された技術的な「車夫」的な知識人として、車夫がイヤなら頚を切られる
存在だった。事態はエリーゼ側からすればバカにするなというような理屈で、変な譬えだが、金に目のくらんだ宮さんに熱海の海岸で袖にされた、間貫一かのよ
うなエリーゼ解釈だ。すべては我が文豪の鴎外のために「よろしく落ちを付けた」ものに過ぎない。二人で徹頭徹尾の修羅場を演じて呉れた方が、遙かに演劇と
して誠実で、鴎外・エリスの恋としても真剣であったろう。エリーゼに代わって「バカにしないでよ」と言いたい。
森家親族の西周が出てきて、ものの見事に林太郎君の恋をぶった切る。
鴎外は西の説得に反駁せずただ従ったのである。西周は、わたしの一昨日の講演でいえば、第一次の知識階級として、徳川慶喜のタメにも明治新政府のために
も、有能に働いた幸福な知識人の一人だった。福沢諭吉らと共に歴史上もっとも幸福に恵まれた得意の知識人であり、明治国家に対するその誠実な入れ込みよう
からして、鴎外森林太郎の甘い恋を一蹴したのは、あまりに当然な結論だった。
鴎外はそれに逆らえないほど、すでにして上長の言うがママを強いられ
ていた技術的な道具並みの官僚であった。まして彼が、市井の一開業医で終わることなど、断じて許さない森一族の姿勢も、当時としてはあまりに当たり前で、
鴎外にこの壁を突き抜くなど不可能であった。鴎外はこれにも従った。そして妻帯し、離縁し、また美術品のような若い妻と再婚して「デレツク」の愛妻ぶり
を、終生「芝居し」つづけた。芝居・芝居・芝居の人生の、魂の奥の奥で鴎外は激越に苦悶し呻いていたが出さなかった、表には。その表れが彼の文学文藝で
あった。いや、文学・文藝すらも「芝居」でなくはなかったろう、どこか。「かのように」「かのように」彼は生きた。
だから、エリーゼを追い返そうと、或る「芝居の共演」を女に持ちかけ
る舞台の鴎外は、あり得なくはないのである。だが、「はい、そうですね」と「共演に応じる」女として「エリーゼの二万哩」を、あっさり解消したつもりの今
日の舞台は軽薄至極で、恋する女の真実をコケにしている。そんな「芝居」のウソなんぞ心から蹴飛ばせる女であるから、二万哩の波濤をあえてして、日本にま
で鴎外を追ってきた。彼女は、ゲットーで苦しい生活を強いられていたユダヤの女性だったという。「芝居し」て生きられるような甘っちょろい環境にはいな
かった。惚れたから追いかけてきた、そんな程度の生き方ではいられなかった。実の鴎外が、実のエリスと、会ったうえで追い返ししたか、ついに会わずに、森
家一統が必死に説得し脅しすかし金に物を言わせたか、細かな事実は、長谷川泉氏の研究などに教えてもらえようが、とにかくこの舞台は、こと「舞姫の恋」の
始終という点では、女の愛をウソくさい芝居にこと寄せて、かわそう、かわそうとコケにした「ごまかし」の決着に成っていた。不快だった。
だが、鴎外最期の場面はわるくなかった。加藤剛はここへ来て「鴎外の死」をよ
く演じてくれた。拍手出来た。腹の底からそれには拍手できた。だが舞台の始終を肯定したのではない。ああまたしても上滑っての失敗だと思った。
加藤剛は役者バカになれず、配役の役になれず、しつこいほど「加藤
剛」という評判の「高潔で誠実な俳優」役を、「いい子にいい子に」演じようとしている、どの舞台でも、だ。それでは、いろんな人間の悲劇も喜劇もとうてい
実現・再現できないではないか。結果として、やたら演技が女性的に、ひよわく見えてしまう。
鴎外も漱石も伊能忠敬でも、男の中の「男」である、しかも善人ではなく、むし
ろ悪人だと認識した方がいいぐらいな激しさを抱いていた。悪人である男のエゴを男っぽく貫いて、そして誠実に苦しみ、狂ってさえいた。誠実な善人なんてい
やしない。
それなのに加藤は、一昔前の教室での「先生のお気に入り」優等生っぽ
く振る舞っている。終始、「加藤剛であるぞ」の姿勢や意識が見え見えで、人気スターの顔から脱却出来ない。それではとても真実感のあるリアリティーに富ん
だ、例えば鴎外も漱石も、舞台の上で生きてこない。いい読者なら頭に入れている、複雑で魅力ある彼等の人間像が、そこに現じてこない。当たり前だ。作り声
で、声が浮いて、透けて、たるんで、歌なんか歌っちゃって。気持ちが悪い。気色が悪い。
加藤剛よ、どうしたんだと呻いてしまう。ちがうよ、ちがうよ。彼等は
モットモット、カッコわるいんだよ、だから凄いんだよ、と。凄みが彼等の秘密なんだよ、言い換えれば彼等の個人主義とは、根のところで悪い男の深い深いも
のすごいエゴイズムであり、それ無しには、「明治」という「時代」のどす黒いエゴイズムに、とうてい対抗出来なかったんだよ、その耐えて闘っていた苦しみ
を、えぐるように造形し演じて見せてよと、わたしは心親しい俳優加藤剛にぜひ伝えたい。エリスを犠牲にするしか鴎外は生きられなかった。鴎外はその悪が分
かっていた。そんなせつない鴎外に、あんな薄い「芝居ごっこ」で、エリーゼが眉を開き面を明るませて帰って行ってくれるなど、思えたものか。そう言いた
い。
* ま、けっこうわたしは昂奮したのだから、舞台に載せられてい
たとも言える。三越八階の特別食堂で遅い昼食をともにしながら、妻と、飽かず今の舞台を話し合っていた。和食をドライシェリーと清酒「梅錦」で美味しく食
べた。新献立だそうだがわるくなかった、値も張らずに。銀座に戻り、木村やで小粒の餡パンを沢山買った。帰ってからカメルーンが力つきてドイツに敗退し、
決勝トーナメントに出ることなく帰国する結末をみた。フランスも一勝もせずに敗退した。日本はどうか。チュニジア戦が残っている。集中力が失せていないの
を祈ろう。
* 六月十二日 水
* 高史明氏の意見と講演とを、わたしの講演録も、ともに「e-文庫・ 湖」第8・13頁に収録した。
* 沼津工業高専の鈴木邦彦氏より手紙が来た。わずか四日後に沼
津へ来て太宰治について九十分講演して欲しいと。電話で、即、断った。「沼津桜桃忌」からだと電話があり十六日に講演をと頼まれたのは、優に二ヶ月ほど以
前であったろう。太宰治についてとなると、相当の用意をしないとわたしにはできない。谷崎や鏡花ではないのだから。追ってご連絡ということで、依頼の細目
は電話口では知れなかったし、連絡先なども向こうは言わなかった。すべては、せめて二三日後に、郵便物できちっと具体化される、それが講演依頼の場合常識
である。それがなければ、電話自体がイタズラ電話ですらあり得て、とても用意には掛かれない。いらいらしていたが、いつか、もう無かった話と思い棄てた。
そうしないとストレスだけが溜まってしまう。
そして今日になって正式の依頼の手紙だ、これは非常識も度が過ぎてい
る。即座に断った。この多忙でたいへんなさなか、四日間で講演の用意は出来ない。マグノリアホールでの講演は、わたしにその心づもりが出来ていて、それで
も慎重に十日以上かけて草稿を作っている。とんでもないはなしだ。これはわたしの所謂「ドタキャン」ではないことを、此処に言い置く。
* 鈴木氏の手紙が届いたとき、「クルーシブル」という恐ろし
い、興味深い映画を観ていた。アーサー・ミラーの「坩堝」を元にしたものらしい、十七世紀マサチューセッツ州で起きた大規模な魔女裁判の悲劇を、ねばり強
く描いていて、奇跡も起こさず、深刻なキリスト教の問題をなげかけたまま、暗然と終えていた。神の奇跡を誘い出すことなく映画にエンドマークを出した見識
は買いたい。ウィノナ・ライダーが成熟した少女の恐ろしさを不気味に出し切り、それにひかれた村の少女たちの集団ヒステリーが、無惨な大量処刑へと識者た
ちを導いていった。キリスト教の牧師と政治的・法的な知識人である。ジャンヌ・ダークのような奇跡とはかかわりない、妻帯の誠実な男とふとした出逢いで通
じた少女の、欲望と邪知が悲惨な結末を現出した、それに教会内聖職の者たちの暗闘がからんだ、すべて人間の犯罪であったが、「悪魔との契約」事件がフレー
ムアップされた。デッチあげられた。
魔女裁判には関心をもっていた。が、なかなか適切な参考資料に目を触れる機会
がなかった。興味深い映画が観られた。
* 映画の試写会招待が二つ届いている。観に行きたいが、ついつい物忘れ
して逃してしまいそうだ。一人で出て行くのがつい億劫になりもする。
* 六月十二日 つづき
* 昨深夜、偶然始まって間もない大林宣彦監督の「告別」という 映画に独りひきこまれて、三時まで、食い入るように観た。赤川次郎の原作は知らないが、映画には敬服した。静かな静かな映画でありながら、胸の波打って耐 え難いほどの感銘があった。遠い日に失ったものへの執着が、現在の不如意と共に幻想的に形象化される。主人公は山の中に孤立した電話ボックスを見つける が、そこから電話すると、二十年も前に死なせた学校の女友達が、なにごともなく昔のままに電話口にあらわれ、彼の誕生日に、二人だけで弁当も持って自転車 で遠足に出る約束などする。
* 既に死んでいる女と、電話でだけは平常に会話出来る掌説は、 わたしも書いている。もっと大きくふくらませてみたいと思っていた。映画は、しみいるように懐かしく悲しかった。そしていい結末へ流れ込んでゆき、わたし は、いっとき放心のまま映画の余韻に寝に行くことも忘れていた。
* フランスが、アルゼンチンが、南アフリカが、カメルーンが、ワールド カップから敗退して行った。劇的な逆転がみられ面白くはある、が、ドーハの悲劇を経験している日本人の一人として、敗者への思いは複雑。そして日本はまだ 安心は出来ない。
* 「ペン電子文藝館」は現在コンテンツを横組みで発信している。縦組み
で発信するのが文藝団体である日本ペンクラブの「責務・責任」ではないか、という「声」が、事務局に届いている、一人だけであるが。委員会での討議にとり
あげて、意見交換の最中である。
だが私個人の見解は、一見もっともそうではあるが、この投じられた意
見にすぐさま賛成できぬ現実の理由をもっている。日々に作品を選び、苦心して起稿し校正し、入稿後にさらに委員間で校正している、そういう実践を体験して
いる中で、じつは数え切れないほどの問題に遭遇している。それは「ペン電子文藝館」独特の問題であり、また現在のパソコンという機械環境がつきつける難条
件との、折り合いの問題でもある。
さらに言えば、新世紀における、文学作品と、縦組み・横組みということとの、
本質的な、ないしは非本質的な、真剣な対決思考の問題でもある。咄嗟の個人的反応であり、このさき他委員とも話し合ってゆくのだが、とりあえず委員に伝え
た私の見解を略記しておく。
* 現在通行の機械は、原則・初発、「横書き」に仕様されていま
す。それを「基本に」さまざまなソフトが開発されて、ユーザーの好み通りに縦にでも横にでも読みとれる工夫がされている、と理解しています。横組み横書き
発信したコンテンツは、一応、どんな機械でも「その通りに」受け取れます。ところが、予め手を加えて縦組み縦書き発信したとして、どこの誰のどんな機械で
も「等条件でその通り縦で受け取れる」と限らないのが、現状だとも。横書き受発信が一応原則仕様の機械をわれわれは等しく使用しています。
「ペン電子文藝館」は、基本的に、よく内容を整備したコンテンツ=作品
を、不特定大多数、文字通り世界中の読者に向けて「等条件で受信できるよう発信」するのを「責務」としています。その上で受信者が自分の機械環境に自由に
手を加えて、受信したコンテンツを、横のママ読もうと、縦に組み替えて読もうと、プリントして読もうと、さまざま「好きにして貰えばけっこう」という「原
則」でやって来ました。
「パソコン」という機械の現状は、そういうものだと考えています。「ペ
ン電子文藝館」は機械の実情に応じながらの「電子化読書室」を提供しているのであり、所与の条件である「パソコンの自然」に応じて、いたずらに作業を特殊
化しないことを大切に考えています。大事なのはコンテンツの質であり、読みとり方は読者の自由な選択に任せて良いということです。任せられる条件は幾重に
も揃っているからです。その点、届けられた「声」は、いささか狭い、いや狭すぎる議論のようです。受信者は自由意思で好む形で発信された文学作品を読め
る、それがこの機械の長所であり、与えられた「組み」を変更できない冊子版の本との決定的な違いが此処に有るのは明白です。「ペン電子文藝館」はその点で
融通の利かない紙の本をていきょうしているのではありません。
現在「ペン電子文藝館」がPDFを使用しているのも、実はユーザーのためとい
うより、委員会で原稿校正用「仮サイト」を用いて内々の「校正」作業を徹底する便宜からで、そのこと自体、「本館」発信に、何ら特別の影響を持たないこと
もよく承知しているからです。
つまり、こういうことです。無事に作品を送り出し、送り出したとおり
に受信してもらえば、「それより先」は、受信者の「好みに任せ」ています。文藝館主幹の秦はそう考えていて、人に聞かれても、「どうぞ、その先はお好き
に。縦で読めるソフトもあるし、縦組み印刷して読むこともできますし。お好きにどうぞ」と返事しています。これは間違いでしょうか。
最初から仮に「縦組み発信」しても、一律の「等条件」受信は望めず、
是非にとならば、「縦・横複式の発信」を考えるしかなくなります、が、その手数を「ペン電子文藝館」は引き受ける「責務」があるかどうかに、秦は、疑問す
らもっています。その必要のないのが「パソコン」なのです。縦がぜひ必要なら、誰でも縦にして読めるのですから。例えば「T-TIME」のような佳いソフ
トも簡単に手に出来るし、機械そのものが縦書き印刷してくれる時代です。
さらにまた、べつの問題もあります。届けられた「声」には、こういう文言が
入っています。
「日本の文学を体裁面からも護らなければならない日本ペンクラブが、文
藝作品を率先して横組で公開していることに憤りすら覚えます。」「もし文部省が小・中・高校などの教科書に日本の文藝作品を横組で掲載したときも了とされ
るのでしょうか。文部省に『了』の口実を与えてしまうのではないでしょうか」と。前半と後半とに区切りましたが実際は一つながりに書かれています。
この前半は二つの誤解を含んでいます。「日本の文学を体裁面からも護
らなければならない日本ペンクラブ」という認識は、何を言いたいのか、日本文学は縦組みでなければならないという確信を述べて居るのでしょうが、文学文藝
は、書かれる内容も自由なら、どんな組体裁を選ぶのも本来は作者の自由に属しています。護るべき統一的な規則的な体裁があるのではなく、文字と言語の自然
に従うだけです。従ってこの声の主の「憤り」は無意味です。
この後半は、冊子本=紙の本である教科書と、電子化されている機械画面のコン
テンツを混同している点からも、少なからず見当はずれです。
「せっかくの小説を味気ない論文を読まされる気分になり、私はすぐに閉じてしま
いました。」「内容さえ伝わればいいという姿勢であれば、日本の文藝は俳句、短歌を含めて成立しないのではないでしょうか。肝腎な内容も縦組と横組では感
じ方がまるで違うと思います。」
これも一つながりに書かれています。この声の主は、機械の初心者でな
く、一種相当の「通」であることは識っています。そういう熟練のユーザーですから、「味気な」ければ「縦」にして読むぐらい、簡単なことで、欠乏している
のは「読みたい気」であるに過ぎない。秦は、「ペン電子文藝館」の殆ど全作品を責任上、横組みのまま起稿し読み校正していますが、わたしとても縦組みの紙
の本が読みいいのは人と同じですが、しかも横組みであろうが小説も批評も詩歌も面白く感動できます。横組みなら味気ないのは実感でしょうが、文学愛が有れ
ば簡単に縦組みに直して読める便宜の有る人が、「すぐ閉じてしまう」のでは、つまり読者ではないのだからどうしようもないと言うしかありません。
「文藝作品を公開するのであれば,縦組掲載の努力をすべきではなかったでしょう
か。」同感ですが、その必要があるだろうかというのも実感です。一半の理由は機械そのものに即して、もう述べました。
もう一半の理由を述べます。
日本語の文学作品は「縦読み」というのは、久しい「習慣」に従った
「思いこみ」でもあります。むろん文学作品以外には横組みで読まれる日本語は、時節を追ってますます増えています。「読解」ということからすれば、文学と
その他の表記とが、根本的に別物の根拠はありません。ことに筆記具が柔らかな毛筆から硬筆に、また機械まで参加してくれば、縦書き絶対というのは、要する
に硬直した融通の利かない姿勢に今や近似しています。それは習慣、確かにかなり根付いて深い習慣ですが、絶対のものではなんらない。
まして機械=パソコンが、確実にインフラ化を進行させてゆく現在・近
未来では、根からこの習慣も新たまって行くかも知れぬこと、「文明」とは好む好まぬにかかわらず、そういうものだという人間の歴史的事実に目を向ければ、
少なくも現状、機械の「横」を建前としている自然に従って発信し、「その先は受信個人の自由裁量にゆだねる」ことが、不自然でも怠慢だとも、秦は、一向思
わないのですが、いかが。
さらに内輪のことを言えば、「ペン電子文藝館」の作品送り出しの方式
を、「縦・横」変化を付けてサービス出来ればいいはいいけれど、作業の煩瑣と費用増とが加わっては、組織的に痛くシンドイことになります。さきざき文藝館
の予算と労力に余裕が出れば、出来る限りをとも私とても希望しますが、現状の「起稿」作業に、さらに手数がかかっては、全体が破産の危険を招きかねない。
今でもキーマンである秦の負担は過重でアップアップしています。
もし手間いらず金いらずの、うまい方法があるものならぜひ誰方からでもご教示
願いたい。
* このわたしの見解が異端のものであるかどうか、参考までに他の「一委 員」から出ている意見をあげさせてもらう。
* 私は、電子画面ではコンテンツないしグラフィック・デザインこそ重要
視されるものの、画面で見るものが、機械によって送り手と受け手とで異なる場合が多いのですから、「文字の組み」に拘泥するのは無理だと思っています。
また「電子文藝館」が責任を負うべきは「コンテンツ」であって、それ
が横書きか縦書きかは、受け取る個人の好みの問題でしょう。日本の文学だから横書きは許されないというのは、形にのみとらわれた思い込みだと思います。文
学(と、広い意味で使いますが、もちろん評論なども含めて)は、状況によっては、斜めでもさかさまでも、読みたい人には関係なく、そこから汲み取った感動
はなんら形には関係ないはずです。
私はソフトを使って縦書きを読むこともありますが、電子画面での文字
は、どんなに工夫されていても、紙に印刷されたものとは当然違い、どうしても縦書きにしたければ、そのようにプリントします。その選択が許されている「基
本形が横書き」であって、従来の紙の出版物にならってなにがなんでも縦書きにする、という考え方をもつ必要はないと思います。
意見を寄せてくれた方は、きっとまだ電子画面を使い慣れていず、その利点に目
が向けられないだけではないかと思います。
* 同感である。この最後の推測は実は逸れていて、この声の主と
はかつてメールの往来もあった、わたしよりも遙かに機械慣れした「通」である。だが「通」の見識からは発言されていない。文学・文藝に対してやや固定観念
が抜けていないように思えて、ご意見は有り難いのだが、説得されないのである。
* 六月十三日 木
* 不誠実。国会や永田町での総理や官房長官や自民党幹事長や防 衛庁長官の答弁を聞いていて、なにより真っ先にこの言葉が頭の中で堅く結晶してゆく。黒を白と平気で言い逃れる。ひどく暑い日に、「暑い」とは言ったが 「ひどく暑い」とは言わなかったというのは、正しい否定だろうか。「伏せろ」とはいったけれど「隠せ」とは言わなかった、だから隠蔽はしていないという言 い訳は成り立つのか。鈴木宗男が言い逃れるのと全く同じ言い逃れを総理は平気でする。誠実な政治家と言えるのだろうか。政治家が誠実であるわけがないだろ うとはっきり言われれば、まだしもマットウだと思う。十人に九人が支持するような手合いに、まともな者はいるわけがないと、わたしはあの頃に此処で私語し ている。その通りの食わせ者であった。
* 日本国憲法に忠誠を誓い、尊重し遵守する。その「一言」を確約してく
れるなら、石原慎太郎に一時日本をゆだねてもいい気持ちになってきた。だが、日本国憲法を足蹴にする宰相には、断固敵対する。
それに、石原が、あんな怪しげにやかましい一方の亀井静香などに乗せ
られて動き出すのでは、甚だ国政への不信感を禁じ得ない。わたしが当初の小泉総理にいい感じを持った点としては、亀井などの怪しげな自民内の存在を一律排
除して組閣し、また三役も決めていたことだった。おやおや、これはいいと思った気持ちは今も変わりない。
その点石原の自民体質は、あの当時の小泉よりはるかに古くさい怖れが
ある。石原慎太郎の動きには十分注目を要するが、警戒心と監視の能力はもっともっと大きく多く必要である。ただ、何としても石原の用いる「言葉」は、賛成
反対を超えて、ヴィヴィッドであり、そういう作家性にはどうしても甘い点を入れたくなる。言葉が分かるからだ。随分「同じ考え」の所も多いのである、彼と
は。
だが、それだからと言って「憲法」を足蹴にさせることは出来ない、それは容認
しない。
* 二日続きの雨で、紫陽花の色が引き立っています。葉っぱには絵に描い
たように、マゴ(お宅の猫ではないです)が喜びそうな大ぶりのカタツムリがいました。長袖を引きずり出したりお布団を重ねたり、気候の変化についていくの
に気ぜわしい昨日今日。
どうやら症状も小康状態で、家事などは順調にこなせます。動き過ぎないように
セーブしなくてはと気を引き締めながら。良くなってくると何かいい事ないかなと、欲張りばーさんになります。
チュニジアも強いから、さて明日はどうなるか、心臓によくないです。
時々自分を変な人だと思います。
* 年寄りの冷や水を浴びすぎて危険な痛みに見舞われているらしい。体力 だけは若くありたいというのは無理で、無理を通す心理には「老いへの恐怖」がしのびこんでいる。老いとは仲良くし、自然に手なづけねばいけない。
* イタリアとメキシコのサッカー試合は、引き分けた。上位トー
ナメントへの進出をかけたイタリアの猛攻が期待されていながら、メキシコが幸運に先行し、イタリアは苦渋の試合であったが、もうダメかという時に同点に追
いついて、双方合意のような痛み分けで終えた。この二チームが上位に進むことになった。メンタルなゲームで、ちょっとした集中力のとぎれをついて、得点さ
れる。何が起こるか分からない目が離せない意味で、野球よりよほどスピーディーであり昂奮する。
明日は日本がチュニジアと下位リーグ戦の最終試合。勝ってこのグルー
プの一位でトーナメントに進出して欲しいが、うかうかしていると途方もない悲劇に見舞われかねない。「炒り豆にも芽がでる」ことがあるから凄い。油断は禁
物で、ドーハでは、最後の最後のロスタイムに一発のコーナーキックをヘディングで得点されて、日本選手たちは泣き崩れた。絶対の優位がひっくり返された。
あれは、もうご免だ。
* 長谷川泉さんの浩瀚な『森鴎外論考』から「舞姫論」を読んで
いるが、資料博捜と堅実な解釈、他の研究者の意見も公正に斟酌された、みごとなもの。たしかこれは長谷川さんの文学博士論文であった。エリスが鴎外を追っ
てきた時の事情なども、鴎外の態度や対応もよく分かり、いかに親族一統が懸命にエリスを説得して追い返したかもよく分かる。鴎外のエリスに対する言葉など
もいろんな親族の証言から察せられるし、それがどれほどの含みのものかの深読みも利く。昨夜も、寝るのも忘れて読んだ。
その、人を知るという点では、夏目漱石よりも遙かに森鴎外は複雑微妙であり、
興味も津々だが、手短に結論の出せないことでも、いつまでたっても難儀な人物である。好きかとなると漱石がすきだが、興味では鴎外に惹かれる。
* 六月十四日 金
* 韓国の領事館に駆け込んだ北朝鮮亡命希望者を、暴力的な威力
行使で中国の官憲が領事館内へ踏み込んで拉致監禁したと、証拠の「動く写真」そのままにテレビで報じられ、韓国は厳重抗議して、身柄引き渡しと中国の謝罪
を要求している。これに対し中国はこの強行を、当然の権利・義務行為として、居丈高な声明を発している。どうみても中国には重大な故意の事実誤認と、国際
法への故意の逸脱解釈があるように思われる、少なくも極めて不快な態度である。
こういう行為を中国が正当化する場合に、すでに日本政府の腰抜け対応
が、一つの前例のように悪用されていると思わざるをえない。韓国が今後どのように外交手段を中国および国際社会に展開するか、みものであるし、声援を送り
たい。サッカーでも共同開催国であるが、私は、これはサッカー以上に、国の尊厳と安全のかかった根本の大事だと思っている。あの瀋陽事件の後処理でも、亡
命者の身柄を中国に確保され、にっちもさっちも行かないなかで、なお「人道」の美名に隠れて、「国の権利」を主張し損ねウヤムヤにしたのをわたしは怒っ
た。肝心の問題は、此処にあるのだ。日本がウヤムヤにしたのをいいことに中国はつけあがっている。中華思想も働いて、数千年を自儘にやってきた国だ。心し
てつき合うことが必要な国だ。
いわゆる文化人の中で、対中国に基本的に強い姿勢なのは、ほんとうに
石原慎太郎ぐらいしかいない。日中文化交流協会に名義を貸して、日中名士の温室ぐらしを満喫している各界文化人たちに見識を問いたい。とりわけ日本文藝家
協会新理事長にも就任した黒井千次氏は、この協会でも要職にあると聞く。「相当」な感想ないし意見表明の声を挙げてもらいたい、それが地位に伴う義務では
無かろうか。事なかれ交流が、真に文化的であろうか。
* 六月十四日 つづき
* 日本はチュニジアに快勝、グループ一位でサッカーワールドカップ決勝
トーナメントに進出、十八日にはトルコと対戦する。韓国も強国ポルトガルに勝ち、やはり上に上がる。主催国として役割を果たせて、めでたい。
昼間、日本の試合は、後半に早く一点先取してからは安心して見ていられた。む
しろ晩の韓国戦は、人数を二人も退場で欠いたポルトガルの再三の惜しい惜しいシュートに呻いた。よほど肩に力が入った。
* 昨日であったか、ある新聞社から「図書館」問題に触れた原稿
依頼があった。ブックオフ=新古書店と一束ね・横ならびにして、著作権侵害を咎める声明を日本ペンクラブ(言論表現委員会)で出したのが、一つの発端と
なって、その後も継続して議論や意見交換が各所で盛んに行われているし、我々は大きなアンケート調査もした。その結果もホームページで公開の用意の調う頃
である。
数日前には、「本とコンピュータ」での小特集も出た。わたしも請われ
て意見を述べているが、わたしの意見は、ペン理事会でも委員会でも、もともと少数委意見に部類される。どっちかといえば、頭を冷やし落ち着いて対処し協力
せよ、立ち向かうべき先は別にある筈だというようなところだ。わたしは居丈高に著作者団体が、図書館現場にものを言うには、我々の側にも手元足許があまり
良く見えていない性急さを、最初から憂えていた。ペンの理事会でも委員会でもわたしは少数派である。孤立しているとも言える。図書館は著作者の権益を、憂
慮すべく現に侵害している、対策をいそがねばと言う声の方がずっと大きい。その事例はたしかに存在すると言わねばならない。同時に、それがどの程度の侵害
かとなると、とたんに話は推測の域を大きくは出ない、むしろ甚だ曖昧になる。その曖昧は、追求すればクリアに出来る。クリアにする手順手続きが踏まれてい
ないように見える、適切には。わたしは、やはりその辺の曖昧さに眼をつむったままの感情的な激語は、有害で無益だと考えている。
図書館とは、日本の社会にあって何であり得たか、何であり得ないでい
るか。著作者の側にその理解が、理解した上でモノを言おうとする姿勢が、薄くて乏しいのは事実である。図書館に反省と改善を強要するなら、そういう基本の
理解も持たないと厚かましい、尊大なはなしになってしまう。
図書館によって利をえたり便宜を得たりしている著作者の大勢いること、その大
勢は、現に図書館の複本購入で被害を得ていると確認できる人数より、多いか少ないか、すら調べていない。
* 日本と韓国とのサッカー試合が昼間に晩に二つもあり、そのお
かげで、テレビの近くで相当な手作業がはかどり、幸いに、明日に本が出来てきても発送の用意が調った。ほっとした。入稿からここまで、ほぼ一ヶ月で今回は
此処まで運んだ。集中して仕事できる意欲も力もまだはっきり残っている。
発送そのものは肉体労働で、時間と体力の仕事。残るは、三省堂の本の
ために書下ろす原稿であるが、飛び込みで出てきた対談の主題が「染色」で、この勉強が容易でない。「色を染める」という上古来の作業ないし創作は、多岐に
わたり文字通り多彩で、ちっとやそっとの知識では追いつかない。二週間で俄かに勉強するのであり、同じ二週間のうちに本の発送も原稿書きも含まれる。「ペ
ン電子文藝館」の起稿も校正も含まれる。さらには秦建日子の芝居の公演もある。わくわくする。すべて成るように成るモノだ、成ろうと成るまいと、どうとい
うことではない。五百時間も過ぎれば、あらかたはきれいに通り過ぎているし、何かが残ったとしても、それはそれだ。
* 六月十五日 土
* ようやく「湖の本」新刊までに発送用意が追いついたので、今日は気が 抜けている。ドイツが辛勝したパラグアイ戦もすかっとしたゲームではなかった。
* 小沢昭一という人、この人は俳優と言わずたしか自称「役者」であった か、から、永六輔作詞の歌を吹き込んだらしいCDが贈られてきた。
* 文藝家協会が図書の無料貸し出しを著作権者の脅威であるとし
て、「公貸権」設定への基金設立を求める声明を、文科省と文化庁に提出した。これは原則として在るべき提言である。これが出来るのは我々としても望ましい
し、出来る限り図書館側にも原則協調して欲しいと言うのが、わたしのもともとの意見であり、協調は、ぜひ前提としても必要だという認識である。さもなけれ
ば、著作者からの希望が一種の自利益主張のエゴとなりかねず、それでは急いだ分が逆に遠回りになってしまう。二艘の舟を筏に繋いで、足はのろくても途中転
覆を避けた方がいいとわたしは考えてきた。
今一つ、西洋の「公貸権」を乗り回して議論しすぎるのも、慎重でありたい。そ
の成立から実施状況、問題点等について、詳細な得失を、実はわたしなどまだよく知らない。西洋でも、せっかく作った公貸権だが見直しを迫られている動きも
あると小耳にしたこともある。
それよりも、西洋各国での図書館機能と、日本のそれとの間に、もし沿革的にお
おきな質差や運営方法の差異が目立っていれば、安易な直輸入で済むのかどうかも、前提として精査されていい。
議論が、「日本の図書館」という現在の足場を軽視ないし無視して、西
欧からのただ一つ公貸権という権利の知識にのみ飛びついた短絡輸入によって、問題の混乱することもおそれねばならない。文藝家協会には、いま、わたしも含
めて二千数百人の会員がいるが、どれだけの人数が「公貸権」なるものを理解しているか、それはもうほんの小一年前になるならずのところで、初めてわたしも
委員をしている日本ペンクラブ言論表現委員会で耳にした湯気の立っている新知識でしかなく、その内容や運営のくわしいことは何の説明も受けていない。
そういうものが出来て欲しい、そのためには、著作者が図書館に要求し
ても成るわけがなく、むしろ両者が協調して関係官庁に働きかけるしかないのだ、向かうべき相手はもっと上の方にいるとわたしは言い続けてきた。文藝家協会
の知的所有権委員会でもわたしはそう発言している。ブレーキをかけるためではない、正確に相手を見定めるのが勝負に勝つ筋道だと思うから、やたらに図書館
非難ばかりするのは愚策であると言ったのだ。協会がその線で動き始めたのは佳いことだ、賛同する。だが、本当をのぞめば、もう少し海外事情を詳しく情報公
開してもらいたい。「公貸権」をまるでヒラケゴマの呪文のように振り回していると足許をすくわれる。
* 近松秋江の名作「黒髪」 葛西善蔵の少なからず異色の秀作
「馬糞石」 そして萩原朔太郎の詩集「純情小曲集」をスキャンし、校正を始めた。脇腹の機械でDVD映画「アマデウス」を映したまま、もう一台の機械でス
キャンをはじめ、退屈せずに三本がすらすらスキャン出来た。いい作品の校正は苦にならないどころか、創作の秘儀に参加するように一字一句の斡旋がおもしろ
い。作品が良ければ、である。
秋江の「黒髪」など連作を読んでつよく揺すぶられたのは、もう会社勤
めをしていたか、いや大学までに買いためていた本の中でもう読んでいたかも知れない。なにしろ舞台は祇園であり、しかし祇園であろうがなかろうが、この男
の惑溺の深さには、かなり前向きに驚愕したのを忘れない。
むかし恋は、押しの一手などと云った。いま押しすぎるとストーカー法にひっか
かる。わたしの「初恋」という作品なども、ストーカーのような恋を書いている。近松秋江に学んだわけではないが、こういう情痴の境涯もいいなあと感じ入っ
て読んだ昔が懐かしい。
* 六月十六日 日
* 長谷川泉氏の「舞姫論」に堪能した。長谷川さんは有るほどの
議論のほぼ全部を巧みに紹介し、必要な原文を読ませてくれながら、要点をついて議論してくれる。これは知的にも情緒的にもすこぶる興味を惹くうまいやり方
で、そうは云うものの、たいへん難しい手法なのである。へたな料理人がこれをやると、砂を噛み舌の攣るような悪文を読まされる。長谷川さんの漢文脈の明快
さは、詩人でもある彼の文藻の豊かさと相俟って快い「文藝」そのものを成しているが、論考の名に恥じない周到な説得力を持している点に最高のメリットがあ
る。鴎外の作「舞姫」を論じて至らざる無き面白さに、この数夜、眠気を覚えなかった。これまで知らなかった多くを教えられた。
太田豊太郎と森鴎外を同一視しすぎてはならないこと、舞姫エリスと
「普請中」のエリスを語る場合よりも遙かに大きい。豊太郎の恋はそれなりに信じて語れるが、「鴎外の恋」はあやしい。鴎外はことエリスに関する限り周到に
在独時代の証拠を自ら湮滅抹消していて、ほとんど作品「舞姫」以外の痕跡を残さぬように処置したことが明白である。
その一方で、親族にたいし漏らしていた限りの口吻からすれば、鴎外
は、エリスを独身男性の当然の性的伴侶以上のモノではなかったかのように扱っていたらしい。またそれが当時の風であった傍証や証言には、事欠かない。鴎外
がドイツ時代に接した女性は数少なくはなく、なかにはルチウスのように、真実鴎外を魅していた上流の女性、相愛と云うに近かった存在も知られている。性的
につき合ったと思われる固有名詞や状況をも彼はエリス以外は秘匿していない。
エリスは追いかけてきた。エリスの心情は「二万哩」が証言している。
そのエリスは森家の総がかりの意思で追い返されたが、その意思に鴎外自身も確実に加わっていた。彼がエリスに会うのは、エリスが帰国を承諾して以後であ
る。「普請中」がその一度で、もう一度は、去りゆく船を見送ったときであるらしい。
鴎外は二度結婚している。最初の妻はエリスの事件後に母に強いられた
不本意の相手であった。長男はなしたものの、鴎外の意思で一途に離婚へ進んだ。小説「舞姫」は鴎外が身構えて成した幾重もの意図のある小説であったと、多
くの論者だけでなく、暗に鴎外自身が認めている。「舞姫」は斯く書かれた、エリス事件の風評を「済んだこと」として自身の手でおさえこむために。母や妻へ
の抵抗や刺激のために。その意味では島崎藤村が姪との二度のあやまちや渡仏のかげの事情を、長編「新生」を書くことで自ら暴露し告白してしまった「効果」
にちかいものが意図されていた。それが「舞姫」であった。
鴎外はエリスを追い返し、最初の妻を離別し、二年ほどの独身のあいだは性の処
理のためにのみ「かくし妻」を抱え持ち、そのあと、「美術品」のような若い妻しげ子を得て、みずから「デレツク」の境地を「かのやうに」生涯演じた。
鴎外は美人が好きであった。エリスは美しかった。最初の妻はそうでは
なかった。母は森家の柱である期待の息子のために、とびきりの若い美女をさがし、鴎外の後妻にあてがった。鴎外は大いに気に入ったが、この妻しげ子は姑の
峰子とは、終生不倶戴天の仲になって鴎外を悩ませ続けた。
* 「舞姫」は一気に読める短編である。近代文学の劈頭を飾る青 春の感傷をみごとに描いた流麗の擬古文であり、傑作と謂う以外のことばがない。こういっては何だが、同じ時期の知識人の苦悩を書いた二葉亭四迷の「浮雲」 よりも、読後の感銘にはるかに美と堪能とがある。文藝にあやなされてしまうのであり、ファシネーションとはこれである。「浮雲」は、よくぞ書いたと思う力 作であり歴史的な意義はまことに大きいが、読んで楽しかったという読者は少ないであろう。文学を男一生の事業としては認めずに、政治的な気持ちを持ち続け た四迷と、文藝・文学に最大級の知識人としての全てを秘匿することでしか、最高級の公人として生きねばならなかった己の苦悶や苦悩を「バランス」出来な かった鴎外との差が、見える。鴎外文学をもし欠いた軍医総監・低湿博物館総長の森林太郎が、いったい何ほどであり得たか。それを思えば鴎外は「舞姫」その 他を成し遂げたことで、家にも親族にも陸軍にも国に対しても、徹底的な少なくもバランスをとることに成功していた。その最終評価が、官憲による一切の「外 形的」扱いを拒絶し、一岩見人森林太郎として死ぬと宣言した、不動の遺書であった。
* ものを「色で染める」 こんな楽しいことを人間は思いつい
た。根元の手探りが見つけ得た生活の喜びであったろう。「色」のもつシンボリズムは、執拗に有力だ。たとえば、つい昨日まで「アカ」は厭悪され恐怖されて
いた。「火色」と呼ばれた赤い装束が繰り返し禁制された九世紀末から十世紀はじめには、怪火が屡々都を迷惑させている。「火色の禁」は「竹取物語」の一難
題にも基盤を与えている。源氏物語の不動のおんな主人公は「紫上」であったし、聖徳太子の制定した官位官職はまた服装に定められた色彩と連動していた。赤
勝て白勝ての競いには、平家と源氏との葛藤が記憶されている。金閣、銀閣、楽茶碗の黒、緑の日、黄色いハンカチ、灰色高官、白か黒か。限りない。だから
「色彩は瞞着だ」と言い切って、線の行者を名乗った村上華岳のような画家も出た。
染色は、だが色では終わらない。その色を出しその色を布帛や糸や紙や他の生地
に「染める」のでなければ意味をなさない。何という面白いことだろう。
素人の私のこういう興味に専門の染色作家はどういう意識と集中度と技術で真向
かっているのかを問いに行くのである、京都まで。
* 田原総一朗の番組がせっかく小沢一郎と鳩山由紀夫を呼んでき
たにしては、体温の低い煮えない話で、つまらなくなって二階へ来た。鳩山でなく菅直人で有れば、もっと語気鋭く小泉失政を具体的に衝いて盛り上げ得ただろ
う。小泉はもう死に体総理。蘇ろうというのなら、よほど思い切った悔い改めが必要だ。自己正当化の詭弁と譫言だけでは信頼は加速度で落ちてゆく。内閣では
ない、党三役をもう一度信頼可能な中堅へと一新するのが先だろう。山崎は失格、麻生は獅子身中の毛虫で、実力の程は信頼に足りない。もう一人が誰なのか思
い出せもしない。小泉に大事なのは「たいしたことは何も出来ていない」と自覚して、「何故だ」とよく考えることだ。その原因を絶つことだ。くだらないパ
フォーマンスではなく、テレビの前で真摯に、薄笑いのゴマカシなどやめて、面を冒して具体的に語りかけることだ、国民に。それが成功すれば脈はある。他に
いないのだから。いまのままでは「不誠実」首相以外の何者でもない。
* 六月十六日 つづき
* 昼のセネガルがスウェーデンを破った試合もよかったが、晩の、スペイ ンがかろうじてアイルランドに勝った、延長三十分からPK戦までの熱闘には、ただただ感嘆した。みものであった。
* ようやく鈴木宗男に司直の手が届くらしい。野中広務も退い
た。自民党は事実上政治的には破産している。民主と自由との合体が、小沢一郎主導ではどんなことになるか、安心できない。わたしは、田原総一朗が買ってい
るほどは、小沢に期待していない。政局屋ではあるが、政治家としては国民軽視のおそれを感じさせる。小泉総理とはまた別方角からの、アメリカ追随型である
とも。ブッシュは、フセイン暗殺をCIAに対し許認しているというニュースがある。国家元首に対する暗殺を公言し指示する大統領とは、テロリストそのもの
ではないのか。とんでもない。小泉はこれもまた、テロへの毅然とした闘いだと言い逃れるのだろうか。よく見守りたい。
* 六月十七日 月
* 午前に前ぶれなく「湖の本」新刊の出来て届いたのには驚い た。独り家にいたので、受け入れに少し慌てた。ついでに腰を痛めた。幸か不幸か腰の真後ろに痛みが走り、片方に寄っているよりラクだ。問題なく午後はペン の理事会に出かけた。梅原さんが今月も休み、すると、ちっとも会議が面白くない。数度、あれこれと発言したが、特別のこともなく、次いでの例会もなにごと もなく、さっさと帰った。
* サッカー、ブラジルとベルギーとが激戦中。
* 朝に、妻が初校してくれた萩原朔太郎の『純情小曲集』を校正した。佳 いぃ気持ちで校正した。いいものはいい。つまらないものはつまらない。葛西善蔵の『馬糞石』もおもしろかった。文学の優れた作品に真面てに触れるのが、い ちばんすかっとする。
* 理事会では隣席の辻井喬氏が、もうすぐ原稿を出しますと。楽 しみにしている。だんだん、出そうにも出す作品のない人と、出したくても出すだけの自信のない人とが、見えてくる。これは厳しいことだが、そういうことに なるとわたしは見ていた。作品が殺到して困るだろうと云う人も、事の肇めごろにはいたが、とんでもないと思っていた。
* 例会の席で配布した展観現況の「招待席」をみながら「これは、すごい
な」と呻いている会員がいた。そうなのだ。そういう優れた先輩と平等に作品が並べられるというのは、恐ろしいことでもある。
「招待席」にわたしが力を入れるのは、そこに「文学」が在ると思うからだ。現代
の書き手は、現代を呼吸しながら、それらと拮抗する「表現」をもって自ら肩をならべねばならない。
* 今日も「ペンのちから」「ペン会員の存在」を示す云々と発言
する理事にたいし、その具体的な表れは「ペン電子文藝館」に作品を出して示して貰いたい、壮語も空念仏ではしようがないではないか、だが、いま名前のあ
がった誰も彼もまだ作品が出せないとはどういう事かと、揶揄した。
作品の審査もなしに、パチパチ拍手だけで会員になれる会員とは、安い
ものではないか。規定を調べたら、じつは日本ペンクラブに入るのに、一冊の著書も必要がないのだった、理事の推薦だけでいいとは。なんと安直な。可笑しい
ではないか、変ではないかと発言したが、例によってグズグズと、そのままに。潮時が近づいている。
* 言論表現委員会と人権委員会が一部の専門委員で、寄り寄り、
人権保護法に対する対案を法文の形でつくって秋の再開国会までに打ち出そうと、先日の委員会で話し合われ、人選もされた。むろん私は参加する意思も力も無
かった。そんなことまでペンクラブはすべきだろうかと、昔からの疑問があった。
結局対案づくりは断念されたらしい、そういう報告が理事会で猪瀬、関
川二人の委員長から報告された。おやおやと思っていたが、それは田島泰彦委員の意見に動かされたもののようだと、事務局から送られてきていた資料で分かっ
た。詳しくは触れないが、田島氏は、それは日本ペンクラブの「責任範囲」であろうかと指摘している。これに尽きている。わたしは、かつて、言論表現委員会
がまるで法案審議委員会のようになり、そうなると弁護士等の専門家委員でなければ対応しきれないが、言論・表現をもっと文筆家団体たる自覚に引き寄せなが
ら問題意識を高めないと逸脱が激しくなると、苦情を述べたこと、再々であった。同じ考えが、田島氏のような専門学の人から出たことに心強いものを覚えたの
で、深夜にかかわらず言い置くのである。
* ブラジルが二対零でベルギーを降した。熱戦で、ベルギーの健闘を称え
たいが、順当の実力差とも見た。明日は、日本がトルコと闘う。勝って欲しい。
* 六月十八日 火
* 山形県の読者から、すばらしい桜桃が贈られてきた。うまーい。じつに 美味い。石川県の鶴来からは純米大吟醸の「白山」が一升。そして栃木からは二種類の芳醇のメロンが五つ。感謝。明日は桜桃忌。二つ目の誕生日である。
* トルコに一点先取されたあと、ノーゴールで日本は負けた。試合を見て いて順当負けであった。決勝トーナメントに予選リーグ一位で進出、ベスト十六に入ったのは望外の上出来で、日本選手はよくやった。トルシエ監督にも心から 感謝する。ご苦労でした。
* 鈴木宗男代議士は明日にも逮捕となるだろう。山口敏夫のアトを追うに 違いないと予言したとおりになる、遅すぎたが。
* 発送の第一便を託した。緒についた。慌てずに。
* 明日の桜桃忌は、早朝八時半から眼科の視野検査と診察、さらに糖尿の 定期診察。晩には、秦建日子作・演出「タクラマカン」新宿公演の初日。
* 韓国が死闘してイタリアに勝った。熱闘は幾度もあったがこんな凄い試
合は無かった。韓国一丸のプレーに拍手を送る。脱帽。
* 六月十九日 水 桜桃忌
* 五時前起床。血糖値105。インシュリン注射、三十分して、山形の芦
野さんに戴いたうまい桜桃を五顆賞味。牛乳少し、茶。
聖路加で八時半予約の視野検査から、次々の診察を受ける予定で、まもなく出か
ける。
* 昨日のサッカーは、やはり日本の試合ぶりは「当然負け」で あったし、韓国の逆転は、「気迫」堂々の圧倒的な勝利。日本は、政治といい経済といい社会の基盤崩落的なざわめき・ゆるみといい、かなり情けない。その中 で、日本チームは本当によくやった。一瞬の集中力のゆるみを衝かれて敗退、それも今の日本事情と連動している。残念というよりも、立ち直らないと。財政 の、十余年もの失政と無策。そこから立ち直ることが、一番だが。国民にツケを回すだけの政治では話にならない。国民が安心して金を使えるようにするには、 いまの金融のあり方は逆立ちしている。今のままなら国民は自衛のためにもてる僅かな財布のひもを、もっと堅く引き絞るしかない。その限りではデフレスパイ ラルの底なし沼はふかまるばかり。無利息時代の不健康に、痛みを伴っても政治がまず改善の対応をすべきなのに、銀行等の保護に奔走してきた銀行優遇政治を 転換する気配すら無い。
* 視野検査は左眼があまりよくないようだ。もっとも、心配しなくてもい
いタチの緑内障です、進行をおさえるようにしましょう、と。目薬をさしつづけることになる。他の薬との差し合いなども心配しなくてよいと。
視野検査は、スペースに点滅する光点を認めてはボタンを押すのだが、年齢によ
り反射神経により疲労度にもより、ずいぶん変わるのでは無かろうか。そう精度のいい検査法に思われないが。ともあれあまり気にしなくても良いとのことで、
次は師走の誕生日前日。
* 糖尿の方も血糖値安定していて良いです、このままの状態でと、診察は
ものの一二分ですみ、それは有り難いが、待ち時間のかかるのには閉口する。
院内の食堂で軽食、そのまま池袋に戻り、私用一つを済ませて帰宅。夕方からま
た新宿へ息子の芝居を観に出かける。
今日はこのまま休息の桜桃忌。
* 辻井喬氏の作品が届きましたと事務局より連絡有り、有り難い。井上ひ
さし氏、また瀬戸内寂聴さん、また中西進氏の作品も欲しい。
* 六月十九日 つづき
* 新宿アイランドホールは、かつて建日子が公演した中で、いち ばんリッチな劇場環境だった。贈られていた花束などもいままでとは桁ちがいに多く、派手で、建日子がこの業界でともあれある位置を占めていることは、よく 窺えた。それはいささか私を安堵もさせたが、そういうのが虚名に過ぎないのも分かっている。とにかく「付き合い」の社会なのだから。七八つのステージでた とえ満席にしても営業的にはさぞ苦しかろう。だが、芝居公演がやれるとやれないのとでは、使い捨ての消耗品になるか、一つの才能として認められるかの分か れ目にはなるだろう。経済的にはむしろマイナスに近いだろうが、芝居の公演はやった方がいいという以上に、やるべきだろうと私は勝手に観測している。
* 今晩の舞台については、初日のことであり、論評は控える。あまりに平 場で、わるいことに目の前に巨大な壁のように大男が席を占め。半分がた舞台は見えなかった。
* 早々に帰宅、萬歳楽「白山」で太宰治賞三十三年を自祝。桜桃のうま
さ、格別。
* 六月二十日 木
* 今、これは仮説であるから、失礼はお詫びして「たとえ」話を するのだが、イチローが、またはサッカーのヒデが、車の運転でひき逃げでもしたなら別であるが、かりにスピード違反や駐車違反で、あるいはものの支払いで ミスがあったとかで、法に則って厳正処罰で牢屋入りを願うだろうか、わたしは願わない。かれらが与えてくれるものの大きさと比較してしまう。イチローに ビーンボールを投げる投手は、必ずしも違反ではないが、わたしは憤慨する。イチローやヒデが心ないファウルで大怪我をし身をひくことになれば、どんなに損 失か、みなよく知っている。昔ホラふき金剛といわれた人気力士がいて優勝したことがある。人気と強さの前でホラふきは愛嬌であった。力士には優勝は大きな 業績である。金田正一という四百勝投手がいたし落合という大打者もいた。どっちかといえば、わたしにはイヤなやつであったけれど、そんなことよりも何より も彼等の業績のすごさに素直に感嘆し、敬愛していたとすら言える。
* 政治家の倫理は、それにくらべれば重く厳しくあるべきだし、
彼等の業績や功績の評価は難しい。だが、倫理的な政治家がいるものなら一度お目にかかりたいぐらいなもの。叩けば埃も出ない政治家がいたら笑えてしまう。
そして業績や功労の、国民にもしかと見える政治家なんてものは、もっともっと稀である。
田中真紀子が倫理的に問題なしとは思わない、が、彼女の日本語はよく胸に届い
てきて、彼女のしてきたことは、その日本語を大きく裏切っては来なかった。だから人気があるので、マスコミが作り上げたウソ人気ばかりであるとは思わな
い。
人間的に私人の田中真紀子が好きか嫌いかは問題ではない。ここ何年、
十何年、田中真紀子のしてくれた「伏魔殿外務省」への勇敢なメスの入れ方に匹敵することを、だれがやったか。鈴木宗男という毒物に近い政治屋を、ついに国
会の外へあぶり出したきっかけは、田中真紀子の功績であり、それ以外の何であろう。これ以上の政治的功績をあげたどれほどの政治家がいたか、いたら教えて
貰いたい。
わたしは、田中に、もっともっと働き場を与えたいとこそ思え、イチローの頭に
ビーンボールを投げてニヤつくような自民党はとことん嫌いだ。
個人的に云えば小泉純一郎は、田中真紀子に足を向けて寝られた義理か。彼のし
たことはスカートを踏んで真紀子人気に嫉妬した、それだけだ。改革はゼロに近い。自民党をぶっ壊すだって。笑わせるな。
各派閥の親分どもの恥知らずな高言と薄笑いは、女一人に勝てなかったと自覚し
た卑屈さの裏返しだ、その表情のうす汚いこと、橋本、森、江藤、高村、そして元宮沢派の保身別派、寒気がする。
* 田中真紀子への自民党の党員資格二年間停止という処分には、
失笑を禁じがたい。最大の動因は、嫉妬による集団ヒステリーである。選挙応援に関する自民党の態度は矛盾しかつ間違っている。群馬候補への応援演説に不適
切な印象は有ったかも知れないが、田中のキャラクターであり、あれで落選したような責任の押しつけ自体が卑怯である。そして今後を厳重に拘束したため、新
潟候補に対しうしろへ身をひいて問題になるのを避けたのは、いくらかしっぺい返しに類するにせよ、そもそも大人げないことをやった自民党への嘲笑であり、
わたしは理解できる。ワルイのは自民党の体質である。大人げない。
秘書問題は、正直、明細はわたしには分からない。が、鈴木宗男の巨悪
とくらべれば自民党総横並びに近い「叩けばほこり」の程度であると感じている。自民党の嫉妬体質がいやがらせに転じて、それを山崎拓幹事長やスカートを踏
んだ連中が後押ししたのは云うまでもない。実にミットモナイ決定で、委員会に顔をならべた連中の薄汚い顔をみるだけで、あれはもうみな男ではない。なさけ
ない。
* 昔、気に入らない藩士をクビにしたときも、いやがらせをしたのが「お
構いあり」処分だった。「お構い」があるとき、その浪人はもとの藩の承認がない限り他藩に抱えられ得なかった。「お構いなし」でなければ他藩も雇わなかっ
た、雇えなかった。
田中真紀子を除名にもしないで党籍を剥奪と同じ処分にした陰険さは、たいへん
なものだ。
* 秘書給与の問題は、かねてその制度自体に問題が指摘されてい
るし、叩けば永田町に埃は濛々。わたしには、実体は分からない。が、田中真紀子いじめの材料に悪用されていると思っている。田中が無能な陣笠の一人ならこ
んなバカなまねは自民党は絶対にしなかった、現に他の連中にはしていないのだ。
わたしなら小泉の失政を咎める。山崎幹事長の無能と醜態を咎める。福田官房長
官のウソと食言を厳しく咎める。国の領土を侵されて「毅然」としてこれを「甘受」した外務大臣の不実を咎める。田中真紀子と比べれば罪は死にも値してい
る。自民党は陰険偽善党になった。
* その同じ陰険さでいま「猪瀬直樹」が自民・与党の総スカンを 喰って排除されようとしている。それはいかに猪瀬が的を射た話をしてきたかの、みごとな反証なのだ。ここで小泉総理が猪瀬直樹人事に「ノー」をだすような ら「小泉改革」は「アウト」と言い切った久米宏に、わたしも心から賛同する。
* 今晩は建日子の芝居をパスした。妻だけが出かけた。わたしは
街へ出て独りでうまい酒をのみうまい肴を喰った。飲んで喰って「染」の勉強もゆっくりできた。よかった。刺身の鉢が、気のせいかいつもの二倍量も盛られて
いて、鯛もひらめもマグロもうまかった。ぐじの焼き物も、わらびをあしらった煮物も。酒の量はひかえて、アイスクリームとお茶でさっぱりし、きもちよく見
送られて店を出た。
芝居のはねたあとの妻を迎えとって都庁前から帰った。
* 森玲子会員の俳句百五十句が届いた。俳句はやや人数が少ないので、歓 迎。
* かぐやひめの掌説を読んで以来、聴くことは叶わなくても、せめて読む
ことだけでも、と、ずっと願っていた「竹取」。嬉しい!
おとといの晩、くっきりとした輪郭の、白く輝く半月に、見惚れました。
* 六月二十一日 金
* 罵倒してみるものだ、小泉総理が、およそ考え得る限り最善に ちかい顔ぶれで道路公団の改革のための委員会委員を人選し、その中に自民与党をあげて反対の猪瀬直樹氏も加えていた。やっと一つ、立ち直りへの決断をし、 死にものぐるいになろうというのなら、いいのだが。分からない、まだ。だが猪瀬氏を委員に入れるのは絶望と思っていた。自民党総裁としてはその党をあげて 向こうに回し、かなり苦戦をこれから強いられる。だが、これが、一歩、再度の前進であるように願う。
* 発送作業は一応終えた。疲労がある。それでも、イングランド が逆転されて破れたブラジルとの試合をみた。ブラジルは十分にうまく、優勝候補一の貫禄たった。ベッカム人気のイングランドは疲れ負けのようであった。晩 にはアメリカとドイツの激しい好試合をみた。ドイツが一点を守りきった。
* 林丈雄君がメールをくれた。丸山宏司君もメールをくれた。丸
山君は明日の昼の芝居を柳博通君と一緒に観てくれるらしい。わたしは晩の方に予定があり、しかし、体疲労がかなりしつこく襲ってきている。いま労っておか
ないと、対談の準備と京都行きとに差し支えそうだ。その前に神経をつかう約束の原稿が少なくも二つある。「ペン電子文藝館」の方の仕事も溜まっている。
「e-文庫・湖」へ小説の起稿もあるのだ。
辻井喬氏の小説が二つ出稿候補として送られてきた。読んで、どちらかを選びた
い。葛西善蔵の校正、萩原朔太郎の校正、森玲子さんの俳句の校正もある。スキャンも溜まっている。六月のうちにぐっと捗らせて佳い七月を迎えたい。
* 六月二十二日 土
* 最後の荷を送りだして、「湖の本」創作シリーズの第四十七巻 『なよたけのかぐやひめ』は全国の読者に届けられた。ラボ教育センターでもう十年あまり前に制作した和英対訳繪本・和英朗唱テープの、日本語版及び三連続 の講演「竹取物語」を中心に、古文で書かれた一連の「竹取翁なごりの茶会記」を中に組み入れた。日本語朗唱には鈴木瑞穂や大塚道子といったベテランが揃っ て出演し、音楽も録音もよかった。市販はされなかった。聴くところでは、海外へ皇室や政府要人が訪問時の相手国への土産としてもよく持参されるとか。
* 韓国が、PK戦も勝ち抜いた、スペインに。こういうことが、有るの
だ。
晩八時半からの試合では、セネガルが健闘むなしくトルコに延長戦前半で負け
た。息子の芝居を失礼して、この稀に見る速さの試合を観た。感心した。感心しながら疲れた。
* 明日は秦建日子の芝居の千秋楽。今回は初日の晩とラクの晩だけの観劇 になる。昨日だったか一昨日だったか、出来を気にして携帯電話をかけてきた。すこしだけ話した。
* なんとなく頭がゴミ袋のよう。虚と壱の状態を欲していながら、さりと
て、とくべつ騒がしいわけではない。
一昨夜であった、『一代男』の世之介は、好色丸(よしいろまる)に、
ありとあらゆる怪しげな性具や媚薬・強精薬を積み込んで、親しい仲間とともども、もう日本中の女という女は識ったのでと、女護島めざして遙かに船出して
いった。傑作であった。恥ずかしい話だが、西鶴は初体験。このオリジナリティーはたいしたものだ、こんなに剛毅で健康な好色文学が他にあろうか。
* 六月二十三日 日
* 夕方六時、新宿アイランドホールでの「タクラマカン」秦建日子作・演
出、大谷みつほ・納谷真大主演の、最後の舞台を観てきた。
初日には、わたしは、実は妻もそうだったというが、いたく不満を覚えて帰っ
た。二日目以降、わざわざ出かける気がしなかった。二日目は妻だけが観に行き、私は美しい人の顔を見に飲みに行った。
三日目に、建日子が車中の携帯電話で感想を聞いてきたので、不満の理由を簡単
に話した。思い当たるらしき応答であった。そして二度目の今晩、最後のステージを観に行った。
「ずいぶん手を掛けたよ」と、開演前に、ちらと本人に聴いた。今夜も見
やすい席ではなかったが、妻が少しでもよく見える方をわたしに譲ってくれ、初日よりは、舞台がとらえやすかった。それだけでなく、舞台の「推敲」が格別に
すすんでいて、十のところの九から九半までの完成度は、みごとだった。俳優の出し入れ、動き、情感の乗せかた運びかた、音楽の効果、すべて的確に配役・配
置され、舞台の上に、幾度も幾度も動的な佳い画面が創られた。その点では、稽古の途中に建日子からのメールが、「脚本のクオリティとしては、過去最高で
しょう。あとは、演技がどこまで追いつけるか。自信はあります。TVと掛け持ちなのがやっかいですが」と言ってきた、「クオリティ」云々が、それなりに謂
えていたし、それに近い称賛の感じは、不出来な初日にすらわたしは持っていた。ただ、初日の舞台は「自信」が裏目にでて、ちょうど、ワルく推敲しすぎた文
章が味気なくなってしまうように、舞台の肌理がかえってあらくザラついて、上滑って行く感じがあった。しかも、それだけが不満の理由ではなかった。
今晩は、場面の呼吸に深いゆとりが出来、舞台に砂のこぼれたようなザラザラし
た不満がよく拭い消され、肌理しっとりと、ある種の「あはれ」が、香りの佳い油のように流れていた。今夜こそ「脚本のクオリティ」は、たしかに高くなって
いた。
少し皮肉に言い直せば、作者が「クオリティ」を、技術的な「うまい・
へた」の意識から口にするときは、かえって危険なのである。やりすぎ触りすぎてザラつき、それに気付かずに満足してしまう。第一、うまいかへたかは、もう
少し別の意義の「クオリティ」に奉仕する効果なのだが、作者は、それが「目的」かのように度々勘違いする。その結果が、初日のような、へんに味気ないせっ
かちな舞台になって出る。わたしの不満はもとより、息子には点の甘い妻ですら、初日は、やや「天を仰いだ」という気味であった。「観てやって下さい」が人
様に言いにくかった。
ものの順序として、初日根本の不満を書いて置いていいのだが、それはもう当の
作者に電話で伝えたことだし、今晩の舞台でさっき保留しておいた、十のうちの最後の一ないし半のところの、つまり終幕部での不満、ないし不審を書き留めて
おけば足りる。
* 物語は、不特定なある国の、海にまぢかそうな地域(東京都の
ように思おうと、地方の町程度に思おうと、もっとべつの国であろうと、かまわない。)に、「浜辺育ち」の「ひとでなし」が、「町育ち」の市民に徹頭徹尾あ
くどい差別をうけて暮らしている設定になっている。人によればぎょっとするほど刺激的で過激に大胆な図柄だが、リアルな設定ではなく、むしろシュールリア
ルに、よくもあしくも物語がルーズに組み立てられている。それが味噌になっている。
「ひとでなし」は、四人の青少年と、一人の少女「けい」と、「じじい」
が一人。青年のうち一人の「カラス」は、町の女郎屋の親方の用心棒がつとまるほどの腕っ節。そして他の男三人と年取った「じじい」との、喰うにも窮した空
腹と貧寒との日々は、知恵と敏捷とで「盗み」の名人である少女「けい」が、かろうじて養っている。字も読めない若い男たちは、いかなる希望も絶対的に叶え
られっこない侮蔑と排除の悪環境に閉塞を強いられ、働くこともならず、ただもう「あの国」への渡海をだけ日々に夢見ている。その差別・被差別の徹底は、も
のすごい。少なくもそういう建前に舞台は作られる。
私は、そういう差別状況を、京都という都市で、小さい頃から、体験的
にも学習においても、人より遙かに関心深く多く、識ってきた。そして、それについて丁寧に語り合うことは、我が家での子供たち教育の一つの柱ですらあっ
た、むろん差別への強い批判である。建日子が今度の舞台を通じて謂う、「この国」の「町育ち」社会と「浜辺育ち」疎外という図式にも、自然とその感化の反
映していないわけがない。誤解されてはならない、この「タクラマカン」は、徹頭徹尾「浜辺育ち」を「ひとでなし」と呼び捨てるモノたちへの、お前たちは
「ひとでなしで(すら)なし」とする批評と批判を、最も多くの汗をかいて強調している。
その上で、作者のその主張が、舞台の最後の場面には、どう生きていたか、活か
されたか。それが問題として残った。
作者は、一人も「町育ち」市民を舞台に出さない。いや例外として、町
の女郎屋から逃げ、たまたま「カラス」の貧しいすみかに飛び込んでかろうじて追っ手の暴力を免れる、「はづき」という少女が一人いる。彼女は、今、上に
謂った意味ではない、文字通り「ひとでなしでなし」として、「ひとでなし」の身内になりきり、「カラス」との純な相愛を演じ始める。だが、その仕返しに
「カラス」は「町育ち」の暴力で、強かった膝を撃ち砕かれ、「あの国」でいつかボクサーになりたい夢も打ち砕かれる。「カラス」を愛し励ます「はづき」も
また「あの国」へと心の底から切望するが、それどころか「カラス」を治療の金すらないのである。
作者は「町育ち」市民社会の「権力的顕現」として、治安の軍隊を舞台
に登場させる。その手法に工夫がある。新任の責任者「ツキノ」少尉は、或る動機から、「浜辺育ち」の「ひとでなし」に熱心に接近し、ついには一少年の就職
のために町中を説いて奔走する。上官に批判的な根から差別者だった部下二人も、いつか少尉の行動にひきこまれて、大変な苦労の末、「くさいくさい」「さわ
れば手がくさる」ような「ひとでなし」少年のために就職先をみつけてやる。「浜辺育ちのひとでなし」は、一人も字が読めずろくにものも知らない。余儀なく
「ツキノ」と部下は、少しばかりの教育をすら彼に授けてやった。
この就職できた少年は、恋心を抱いた仲間の少女「けい」にスカートを
買ってあげたい。そして初の給料をつかんで感動と愛情のあまり駆けつけた先は、以前に「けい」のためにスカートを盗んだその店だった。盗んだスカートなん
かいらないと、少女は内心の嬉しさを噛み殺して突き返したのだ、だが、今度は稼いだ金で買うのだと、少年は、その店の中で夢中に愛の言葉を叫ぶ。だが、少
年は、駆けつけた官憲に蛇を打つように簡単に撃ち殺されてしまう。公園で撃たれし蛇の無意味さよ 草田男。
少女も仲間も絶望を深める。そんなときに「じじい」が言い出す、多年
ひそかに心掛けておいた、死ねば五千ギースおりる生命保険のあることを。「じじい」は愛を失った失意の少女にそれを告げて、自分を殺し、その金で、是が非
でも「あの国」へ行けと勧めるのである。少女にナイフを握らせたまま「じじい」は「けい」に向かい挑発に挑発を重ね、激しくも衝動的に少女の刃物を身に深
く受ける。「人殺しだ、じじいが殺された」と叫べと教えながら「じじい」は死ぬのだが……。なんと、「浜辺育ち」の者に保険金は支払えないと、死なれ・死
なせて残された若い「ひとでなし」たちは、支払いを、乱暴に拒絶されてしまう。
抗議に立つ若者たちの集団演技には迫力がみなぎっていた。
「だれがどろぼうか」「だれが暴力的か」「だれがホンモノのひとでなしか」とい
う問いかけの、電気の走るような訴及力。
あげく「どろぼうなら負けないぞ」と、若者たちは、「ひとでなしのな
し」の「はづき」も加わり、「四人」だけで国の銀行を襲い、治安軍の武装兵士に囲まれる。「ツキノ」少尉は、保険金支払いについても「浜辺育ち」の側に立
ち、支払い側の不当不正を主張していたが、当局はこれを無視し、銀行に閉じこもった四人に対し「撃て」の命令を「ツキノ」に強いる。苦慮のままの「構え
銃」の叫びがむなしく繰り返され、誰かしら別の声が「撃て」と叫ぶ。若い四人は勇戦して潰える…ので、あるらしい。
* ここまでは、いろんな細部の展開をともない、ルーズな構成と設定を利
して、かえって緊密に物語が運ばれて行く。今晩の芝居は、そこまでは満足の行く、なかなかの「クオリティ」であった。
だが、このあと、ひとり取り残された少女「けい」が、「ツキノ」の尽
力でえられた「じじい」遺産の五千ギースの袋を足許に投げ出され、その金で「あの国」へ行け、「あの国」で教育を受け、「あの国」で歴史を学べ、ウソも学
べと説教される。「けい」は、今自分が「生きて在る」この事実が大切だと納得して、「船出」への決意を、直立の姿勢で示す。解任された元少尉「ツキノ」
は、「浜辺育ち」に荷担した罪を問われて裁判に掛けられるのである。
* 「タクラマカン」は最初「砂漠」の題で構想され、そんな題は
味気ない、いっそ「サハラ」の方が面白いぜと冷やかしたので、「サハラ」で初演された。再演の時から「タクラマカン」に変わった。が、この固有名詞自体に
特定の意味はない。いろいろに「読まれる」題として投げ出してある。それはそれで構わない。
だが、以前の舞台では、主役の「けい」ももろともに、総員が銀行襲撃で撃ち果
たされ、しかしまだ稚い少年の一人だけが、「ツキノ」の配慮であったろう、「あの国」へのキップを手にした。
その程度なら、むしろ良かった。
今回は、なんと主役の「けい」が、はなから銀行襲撃に加わっていないのであ
る。襲撃や仲間の死をすら知らないらしいまま、「ツキノ」少尉の口から、そして手から、仲間と保険金の顛末を聴き知り、その金で独り「あの国」へ出て行く
というのだ。それはないのではないか。
初日、わたしは、前半大半の「クオリティ」なんかにではなく、この終
幕部分での大きな後じさりに不満を爆発させた。仲間全員の死と残った「けい」との間に、紐帯が抜け落ちているのである。仲間に対し終始生活力ある指導者と
していわば君臨してきた「けい」が、仲間を死なせておいて独り「あの国」に逃れたとして、それでは、息を詰めてきた観客の胸の内からは、むだに空気が漏れ
てしまう。喜びよりは落胆が、希望よりはみじめで半端な敗北感が、ただ観客にはのこるだけではないか。
「タクラマカン」の「差別」は、リアルな事実事象でなく、作者により構
想された観念の所産である。だからこそ、ルーズな設定を利して思い切り徹底したことが言えるし、やれるのである。事実、そういうふうにわりとうまく書かれ
ている。それはそれで少しも構わない。むしろ、それだからこそ徹底的に差別被害のひどさを、観客の胸に叩き込めるのだ。批評や批判の観客への刺し込みが、
深く、厳しくなるのだ。観客は解決不能の「絶望」を与えられることで、反発反感の火を胸に抱いたまま劇場をアトにして行く。観客の胸に呻くほど「絶望」の
棘を刺し込んで帰すのでなければ、「タクラマカン」上演の意味なんか無いぐらいなものであるのだ。感傷的な「生きる」なんて一言に甘えて、「けい」だけが
「じじい」の金で「あの国」へ。やめてくれ、と私はむかついた。
その結末自体は、今晩の舞台でも改めようがなかったけれど、それまで
を丁寧に、美しいほどに演じ直していたため、全体の感銘は密度も温度も高めていた。手放しで泣いている人の多いことに驚かされた。最後の暗転の中へ、最初
の拍手を送った客は、わたし、であった。わたしの頬も早くから涙にしとど濡れていた。作者は、かろうじて「炒り豆に芽を」出させたと、拍手してやったので
ある。
* だが、「乱暴」に、もし私があの舞台を作り替えるとしたなら、最後の
場面はこうなる。
仲間たちの銀行襲撃を告げられたばかりの健気な指導者「ケイ」は、保
険金の五千ギースと銃とを手にした「ツキノ」少尉により、無惨に、額を撃ち抜かれ殺されるだろう。「ツキノ」の行為の一切は、「このようにして、やつら浜
辺育ちのひとでなしは、一人残さずこの国から処分する計画であった」と語らせるだろう。「ツキノ」の裁判は、すべて「形式的な決着」のためのものだとうそ
ぶかせるだろう。
それぐらい徹底的に描きだすことで、「カラス」や「はづき」や「じじい」や、
その他の心優しい「ひとでなし」の若者たちの、「あの国」へ賭けた切ない切ない脱走願望が、単なる逃亡願望以上の、絶対の選択であったことを、食い込むほ
どに観客の胸にたたき込む。
それでこそ、あらゆる差別への批判・非難になり得るかもしれない、そ
れは簡単には言えない。この問題は簡単には言えないことを、わたしは、少なくも建日子よりは深く識っている。「タクラマカン」の若い作者、いやもう、三十
四歳、わたしがちょうど太宰賞を受けた年齢だ、けっしてもう若くはない彼は、まだ、この問題を甘く半端にしか知らない。船の底荷が軽いのだ。
* もう一人、ほかの人の批評も此処に書き込ませて貰い、間接に秦建日子 へ伝えておきたい。ますます耳が痛いであろうが、良薬である。
* お久し振りです。
HPを時折見させていただいていますが、実際お会いしたのはもう半年以上に
なってしまいますね。最近疲れがたまっているようにHPに書いておられますが、身体には充分気をつけてくださいね。と、私が言う以上に、身体のことはわ
かっておられるとは思いますが。
昨日、建日子さんの「タクラマカン」を見て来ました。再演でしたが、内容をほ
とんど覚えておらず、芝居が進むに連れ思い出し、こういうものだったな、と思い出しながらみていました。正確に以前の演出を覚えていませんので、間違いが
あったらお許しください。
学生時代に見たときには、建日子さんの芝居は「状況提示」のみで、そ
こでの解決法や何をすべきかということに対して、投げ出したままであるような気がする、というような感想をもった覚えがあります。それはみているものにそ
の問題を投げかけるという形式をもった芝居であったのかな、と、今は思うことができますが、そのときはもどかしい感じがしました。
それが、今回は、よりメッセージ性が強いといいますか、芝居の中で使
われる「前向き」というものを前面に押し出す演出になっていたのではないかと思いました。現在の状況を提示し、その状況に対して「前向き」に対峙すること
が、その状況を変えることのできる唯一の方法だと、はっきりと宣言しているのです。
これは時代性の問題かもしれません。
私が学生の頃は世紀末(これが本当に関係していたかはわかりません
が)でもあったし、今以上の閉塞感が感じられる状況だったのかな、と思うからです。しかし、エンディングなどは、まったく逆の終わり方をしているのですか
ら、この2-3年の変化というより、演出すべき世界が変わったことが大事だと思います。また、そのような「前向き」なメッセージ性を語る自信が建日子さん
についたということなのでしょうか。
つまり、私はこの芝居を見て、わかりやすさの向上と、強いメッセージ性を強く
感じたのでした。
しかし、もう一方で、前回以上の歯がゆさを感じてもいました。それは表現され
ていた社会と個人の関係についてです。
一方ではより明確に「前向き」というメッセージを掲げていながら、
浜辺<まち<あの国
という構図、もしくは
個人<警察=国家
という構図によって社会を捉え、さらにそれを「固定されたもの」として
描いているのは、この枠組みを打破することに対する「前向き」な姿勢の表現という意味では、「わかりやすく」よいのですが、その境界を「越境する」ことに
よってしか「現状は打破できないむと語るのは、「わかりやすすぎ」ではないか、本当にそれは「前向き」なんだろうか、と感じてしまうのです。
というのは、実は「浜辺育ち」と「町育ち」を分けているような枠組み
は、非常に流動的であり、ある意味で、自分=個人、が作り出しているのではないか、と感じているからです。確かに、社会がその枠組みを作り、保持している
のは確かです。しかし、その枠組みに対して、無抵抗になるのは「個人」の選択ではないか、と感じるからです。無抵抗だからこそ、「あの国」であればどうに
かなる、という別の世界への憧れという形をとるのではないか。
実は、枠組み自体を動かそう、と、ほんの普通に頑張ること、頑張って
いる人って、いっぱいあるんじゃないかと思うんです。そういう「もがきやあがき」を真正面から描いても良いんじゃないか、そういう中に表現されていない何
かがまだうずもれているんじゃないか、と思うのです。そういう何かを見せてほしいな、と思いました。
以前の「タクラマカン」は、その「何か」を見つけられないもどかしさ
がそのまま出ていたのではないかと、芝居の後に感じました。だから、状況提示で終わっていたのです。状況を、そのまま、どうしようもないものとして提示し
ていたのです。それによって作る者と観る者とがそのもどかしさに、一緒にのたうちまわっていたのではないか。それが本気で「物足りない」と思わせていたよ
うに思います。
今回はそのもどかしさはなく、わかりやすい「前向き」というエネルギーのよう
なものに全てを託していることによって、逆に物語(状況)との距離をとっており、「歯がゆく」感じたのではないか、と思います。
私も、普段の生活でこの枠組み自体をほんの少しでも良いから、動かしたい、と
感じています。
今やっていることが、なにか、どんなことでも良いから「作る」ということを変
えられたらいいな、と。つまり「あの国」なんてものはなく、「この国」で「前向き」でいたいと、常に思っているということではないか、と思っています。
だから、簡単に「越境」を語ってほしくないと感じたのだと思います。
独り善がりの感想になってしまいましたが、今の自分がやらなければいけないこ
ととダブっているような気がしたので、秦先生にお伝えしました。
今度は直接お会いして、「今、作る」ということに関して、お話できたらよい
なぁ、と思っています。
* この感想が、どういう「的」を正しく射ていて、どういう「的」は大き
く逸らしているか、それは建日子が考えねばならない。
だが、わたしも一言は書き添えておこう。
実は「浜辺育ち」と「町育ち」を分けているような枠組みは、非常に流動的であ
り、ある意味で、自分=個人、が作り出しているのではないか、と感じていると書かれているが、たぶん、それは同じ「町育ち」同士の中での流動や個人のよう
に思われるからである。
「あの国」へ行きたい。
それは、譬えば、「真の難民の絶対の苦境」から出ている呻きであり、
そんなのは単に越境であり、逃亡であり、努力無き敗北であると言えるのは、そういう難民状況に立たされたことのない、意識するとせぬとにかかわらず「浜辺
育ち」を「ひとでなし」として当然な「この国」の「町育ち」普通の市民同士の、痛みのない立場から、なのである。「タクラマカン」は、あまりに痛切なテー
マを書きながら、これほど好意的に深切な観客の胸にも、けいやカラスやはづきたちの「あの国」願望を、ただの、努力無き「逃亡」ではないか「越境」にすぎ
ぬではないか、と、物足りなく感じさせる程度に「不徹底で甘かった」のである。それがまた、わたしの、創作者であるわたしの、今回「タクラマカン」への根
本の批評である。非難ですらある。
それでも、もう一度言って置かねばならない。この「浜辺育ちのひとで
なし」状況を、現在の日本は、現に、まだ、確かに抱え持っていると。これは放恣な作り事でも夢の設定でもない。もしかして「あの国」があるなら、必死に
「あの国」へ行きたいほど絶望に心萎えた人など、「この国」にはいないなどと思っていては、少し、のんきすぎる。「とりわけて歴史を学べ」と作中の一人が
言っていた。そんなことは真実心でも言えるし虚偽と瞞着心からも言えるので要注意であるが、それでも、「この国」の「市民同士の意識」だけではお話に成ら
ないほど、えげつなく「人外」を隔てた険しい垣根は、歴史的にも現実現在にも、実在している。その認識上で、だれが、「本当のひとでなし」かと、「タクラ
マカン」の作者が、ねばりづよく声を挙げ続けることを、「この国」の一人として、あの「はづき」の友の一人として、わたしは希望する。
* 芝居のあと、ホールの地下の和食の店で、千秋楽を祝って「めで鯛」の
刺身と小懐石で「上善如水」を飲んだ。さらに一階のカフェレストランで、妻はお茶とケーキを頼み、わたしは、壁の宣伝写真に惹かれて「ビーフシチュー」と
パンをまた食べた。コーヒーも飲んだ。
帰ろうと街路に出たところへ「カラス」を演じた納谷真大君が飛び出し
てきて、挨拶してくれた。上でわたしたちも彼を探していたのだ、一言感謝したくて。彼はこの役は二度目であろう、特に今夜の「カラス」はまことに傑出して
いた。秦建日子が創りだしたもう大勢の人物たちのうち、「タクラマカン」の「カラス」は図抜けてよく書けている一人であり、それは納谷君の力に多く負うて
いる。声を掛けてきてくれて嬉しかった。同じように建日子の盟友である「じじい」の井元工治君にもホールで声をかけてもらった。この力量在る脇役の存在に
建日子の舞台は繰り返し幾度も助けられてきた。そして「じじい」も「カラス」も、初日より今夜はまたさらに佳い芝居をしてくれた。大阪弁のうまかった白国
秀樹君、「地図」いらいお馴染みの中島一浩君、同じくうまくなったせきよしあき君とも話せた。女優の三人いや四人とは出逢わなかった。「けい」の大谷みつ
ほは可愛らしく健気であったが、最後に労られたように一人船出していったのは、作者作意の齟齬。同じなら彼女一人の壮絶なガンバリと犠牲のうえに他の仲間
全員が「あの国」へ行けていたら、まだしも納得しやすかったかも知れぬ。そういうリーダーであった、同じ役を「サハラ」で演じた生方さんの「けい」は。あ
れは名演だった。
* 芝居より前に、林丈雄君とこれもまた久しぶりに会い、おそめの昼食を ともにし歓談した。
* 初日以来書かずにいたことを、さて書くとなって、もう二十四日の午前
五時十分、徹夜だった。おやおや、である。ま、その程度に快く昂奮させてくれたのだと息子に感謝しよう。ただし鼻なんか高くして欲しくない。
* 六月二十四日 月
* つねひらさま はだのつねひらと本名がそのままぴったり古
典的に決まってしまうのは、何と素敵なことでしょう! 今し方、「なよたけのかぐやひめ」と「茶会記」まで読みました。本が届いたのは金曜日でしたのに、
わたしには珍しいことですが忙殺されるほどの数日が続いて、本が読めなかったのです。
文章がしみこんでくるのを感じながら読みました。
茶会記は、この種のものは、本当につねひらさまでなくて誰が書けましょうか!
姿あらわしたかぐやひめが夜更けて消えていくなど・・これは、そのまま、能のようにも感じられました。
愛は逢いであり、哀であるともわたしは理解しています。
まだ疲れを感じていますが、今日は改めて読み直し、講演集もこれから読みま
す。
* 来るべき人から、間髪を入れず便りが来る。湖の本の冥利である。
* 梅雨の時雨 今夜は雨降り予報。月が満ちてゆきます。
肌寒いほどの気候が続くのを幸い、ぽくぽくと、考え考え、振りかえり、立ち止
まりしながら、ご本を読み進んでいます。
宙を見つめる。紙面に戻る。ぶつぶつ言う。涙を拭ったり、微笑んだり、時に吹
き出したり…怪しいにんまり雀。
* 『湖の本』「なよたけのかぐやひめ・他」ありがとうございます。
「竹取物語」は親しい古典です。だいぶ以前に、皇室の竹の名称・呼称のかかわり
が気になって、竹中生誕譚について調べかけたことがありましたが、奥が深く手にあまり、断念しました。ご本の箇所、少し読みましたが、大変すぐれた考察で
あるとすぐに分かりました。
さきおととい、ひょんなことから藤田嗣治の日本画を買い求めることと
なり、おととい、その絵を某コレクターのところへ持参しました。名品所蔵にふさわしいコレクション環境のなかで、フジタ等の油絵の逸品をたっぷり鑑賞でき
ました。美術倉庫から出して架けておいてくれました。「眼福」。いいものはいい。名があるすぐれものは、さらにいい。秦さんのお好きな村上華岳にも話が及
びました。帰ったら、太宰治ファンのカミさんに、近くの喫茶店の奥さんからサクランボウが届いておりました。2日遅れの桜桃忌。
きのうは、3日遅れの、ふたりの「桜桃忌」となりました。カミさんに
せがまれて、重たいリュックをかついでくれるというので、都心からの帰り三鷹で下車、禅林寺をおとないました。墓前には、19日午後の5分の法要の名残が
あり、おおぶりのサクランボがまだみずみずしくそなえられていました。近くには、墓参者が食べたであろうサクランボの種に蟻んこが行列をしていました。
墓参のあと、三鷹駅裏で銭湯を見つけ、疲れた体を癒しました。珍しく
先にあがったカミさんは、見知らぬおばあさんとなごやかに話をしていた。カミさんのペンキファッションのジーパンをいいとほめてくれたとか。80過ぎの女
性で若い女性のファッションやしぐさに好意的なひとは少ない。絵描きのご主人を亡くされ、猫5匹の世話にかまけて遠出も出来ないと笑っていたとか。目がき
らきら輝いていた、とカミさんは素直に感想をもらした。
昨夜は床のなかで、反古のなかからみつけた、筆者がまだ分からない明
治35年の20丁ばかりの稿本を一気に読んだ。「月の初瀬」など和歌をまじえた数編の随筆で、とても美しく哀しい文章でした。離れた実兄を恋う背徳の女心
が切々と伝わってくる。女手の水茎がもの哀しい。名がなくてもいいものはいい。
秦さんのご本の後記にある「いいものはいい、よくないものはつまらない」をか
みしめております。が、なかなかに書けない。
私のフジタの絵は新しい持ち主に落ち着きそうです。私にはまだもったいない。
ふさわしくない。たった一泊二日のフジタ。これもいい。三日遅れの桜桃忌、これもこれでよし。
今日は、一ヶ月ぶりに、奥多摩の「気」に触れてまいります。車中でご本を読ま
せていただきます。
「いいもの」は一気に読めるでしょう。まずは、御礼に代えて一筆。ご自愛くださ
い。
* 公演パンフレットとして秦建日子が「挨拶」している文章を読んだ。さ
らりと書けていた。スキャンして、ここへ紹介したいと思っている。
* 六月二十四日 つづき
* これは、「タクラマカン」を作・演出した秦建日子が、配役の役者たち に触れた、劇場で当日配布の「ごあいさつ」で、じつは、徹夜明けの今朝に初めて読んだ。こういうこと、であるらしい。「闇に言い置く 私語」のなかに混ぜ ておきたい。
* ごあいさつ 秦建日子
23歳の夏。ぼくは、カード会社の営業マンだった。月々新規開拓*件
というノルマのために、ぼくは新宿のとあるマンションの扉を叩いた。偶然、部屋の主はいた。偶然、彼はその時暇であった。偶然、彼は社会人半年のひよっこ
と雑談をしてもいい気分だった。雑談の中で、彼はふと、ぼくに尋ねた。
「面白いホン書く若いやつ、知らんか?」
カード会社の営業マンに、そんな知り合いがいるわけない。が、単に「知りませ
ん」じゃ会話が終わってしまう。そこでぼくはこう答えた。
「シナリオライターですか。格好いいなあ。いっそぼくが書きたいくらいです」
彼は一瞬きょとんとし、それから急に、電話をかけはじめた。
彼「あ一、**だ。この前のドラマの話……あれをな、(急にぼくに)おまえ、
名前なんていう? はた? (電話の相手に)はた! はたってやつに書かせることにしたから。うん。よろしく(切る)」
ぼく「……」
彼「(ぼくに)内容はこれだ。三日で書いて来い」
ぼく「あの……」
彼「早く帰って書け」
ぼくは、訳がわからぬまま、三日でホンを書き、それは、そのまま関西テレビの
深夜ドラマとしてオンエアされた。
これが、師・つかこうへいとの出逢いである。
脚色は一切していない。
つかこうへい事務所に出入りするようになり、25歳の時に、初めて舞台
の作・演出をした。
最初のうちは、「記念受験」くらいの気分だったが、一度やると欲が出てきた。
サラリーマン人生には早くも飽きがきていた。おれも、プロの物書きになれないかなあ……などと、タクラマカンのセージのように、甘ったれた想像ばかりして
いた。
そんな時に、井元工治と出会った。
その頃ぼくは旅行会社の広報部門に所属していて、パンフレットの印刷
をどこの会社にするかを任されていた。いくつもの印刷会社が、是非うちともお付き合いをと営業に来た。その中に、井元の会社もあった。井元は、ブリキの自
発団、劇団3○○、パラノイア百貨店といくつもの劇団を練り歩き、芽が出ず、30歳にして役者を断念し結婚して子供を作って平和な生活を送り始めたばかり
であった。
「井元さんがおれの芝居作りに協力してくれるなら、うちの仕事、おたくに回して
もいいっスよ」
ぼくは傲慢に言い放った。その会社は、井元を人身御供として差し出し、その
年、1千万円近くの売上げをぼくの会社から上げた。ひどい話である。
27歳。ぼくは、井元からのアドバイスをもとに、見よう見まねで一本の
芝居を作った。
「地図〜朝焼けに君をつれて〜」
そのキャストの中に、せきよしあきがいた。いや、最初からいたわけで
はない。友達に誘われて稽古場に遊びに来たら、話の流れで、その場で出演が決まってしまったのである。この、せきが客にバカ受け! 大塚のジェルスという
100人入れば超満員という小さなところでやったのだが、口コミであっというまに客が膨れ上がり、最終日には150人以上の客が入った。ぼくは、「当た
る」という感覚に酔い痴れ、後先考えずに会社を辞めた。
これからどうしょう……
つかこうへい事務所の中にいて、つかこうへい風の脚本を書き、つかこ
うへいの真似をして無理に口立ての演出をつけ、つかこうへい事務所の役者とばかり付き合う毎日では、未来は開けない気がして仕方が無かった。つかこうへい
事務所で偉大なのは、あくまでつかこうへいだだひとりである。
そんな時に、大学時代の友人の紹介で、築山万有美と納谷真大という、
富良野塾出身の役者と出逢った。納谷の紹介で、中島一浩とも出会った。三人とも、やたらとわがままで気難しく、何でも自分が一番じゃないと嫌という連中
だった。ダメだしには露骨に嫌な顔をした。でも、芝居だけはチャーミングだった。彼らと作った「サハラ」という舞台は、いろんな意味で、ぼくをタフにし、
フリーにした。
ぼくはつかこうへい事務所を離れ、TVドラマを本格的に書き始めた。
その後、44歳にしてパラサイトシングルのゴクツブシという松下修とい
う役者と知り合い、ぼくの人生観はますますラクになった。
六本木で飲み屋を経営してその金で芝居やってる豪傑・白国秀樹とも出会った。
人生は何でもアリである。なら、楽しく生きよう。書きたいものを書こう。もっ
ともっとわがままに、やりたいやつとだけ仕事をしよう。
そして、大谷みつほを見つけた。
初めて会って10秒で、「大谷主役の芝居を書きたい」と思った。稽古
初日、あまりのド下手ぶりにクラクラした。いまは、持ち前の根性で、普通の下手にまで上達した。公演初日には、まだ一週間ある。もしかしたら、奇跡を起こ
すかもしれない。いや、きっと起こすだろう。起こせ。ぼくは、大谷を信じている。(親バカ)
人生は結局、誰と出逢うか、だとぼくは思う。いいことも悪いことも、す
べて「人」からやってくる。
舞台稽古が始まってから、いろんな事情で女優さんがひとり降板した。
既にチラシを5万枚印刷し、プレス関係にも写真を渡していた。大ビンチ! でも、結果として、ぼくは、矢部美穂という女優と新たに出逢えた。彼女が、急な
オファーを快諾してくれなかったら、この舞台は実現しなかったと思う。当日パンフレットで、出演者に感謝するというのも妙な話だが、書いてしまおう。あり
がとうやべっち。
「タクラマカン」を通じて、ぼくはまたいろんな役者と出会い、スタッフと
出会い、そして、観客の皆さんと出逢えた。
その昔、初対面同然のぼくにむかって「どうして生きてるんですか?」と聞いた
キミ! ぼくは思う。
生きることって、悪くない。
本日はようこそいらっしゃいました。
最後までごゆっくりお楽しみください。
* 「書きたいものを書こう。もっともっとわがままに、やりたい
やつとだけ仕事をしよう」とは、口でこそ言え、容易なことでないのは、特にテレビドラマの仕事で、吐き気のするほど思い知らされているようだ。だが、芝居
の方はどうやらその一筋に頑固を貫いてきたらしいが、見ようでは、頑固過ぎるかも知れない。思いつきの小劇場作品は書けても、例えば、原作ものの脚色など
注文されたときに、どれほどホンと時代と人間が「読める」のか、そういう蓄えや備えも要るのではないか。他人の創作劇を演出してみる機会も有った方がい
い。だが、今のところは気が動いていないらしい。
* 六月二十五日 火
* 心はずむ日で、いろいろ対応しているうちに、もう一時になった。
はじめて、近江能登川の甥にあたる、とはいえもう五十過ぎた、姉の子息芳治氏
のメールをもらった。
生母の長女の千代姉は、もうずいぶん以前に亡くなったが、生前に一度だけ、能
登川を訪れて逢った。母の感化か、歌をつくる人で、亡くなるまで繁くわたしたちは文通した。作品もたくさん読んだ。この甥とはまだ逢ったことがない。『な
よたけのかぐやひめ』を贈ったのである。
* かぐやひめの話は、小さい頃、母親に何度もしてもらったことを、うっ
すらと覚えています。私も今年で55歳になるわけですから、もう50年近く昔のことになりますが。
でも、小さい頃のことは、結構よく覚えているものですね。今回本をいただいた
ということにより、話をしてもらったなということを、思い出すのですから。
ご活躍のご様子、いろいろと伺っております。どうぞお体に気を付けて、引き続
いてご活躍下さい。
* 心嬉しい便りは幾つもあった。ことに本省でもうはや責任有る地位に進 んでいるらしい卒業生クンからのメールは、とても確かな読みごたえがした。立場上もあるだろうから、あまり引き合いにしては迷惑かも知れないが、気をつけ て。
* 4月に更に忙しい部署に異動してから(異動の話を先生にしていなかっ
た様に思います。申し訳ございません)、時間的にも、精神的にも辛い・・・というか、圧迫された生活を過ごしています。
色々と考える事はあるけれども、とりあえず何とか頑張って過ごしています。*
君にも色々と励まされながら。
お気遣い何かとありがとうございます。時々、自分の仕事の役割を見失
う事があります。大きな枠組みの中での、私たちの役割や全然違う視点から見た世の中の事など。先日、私の知り合いもいま話題の事務局へ異動辞令が出たよう
です。面白い仕事かもしれないけれど、かなり辛いのではないでしょうか。色々な意味で、頑張って欲しいと思います。
毎年の事ですが、最近、学生の官庁訪問が始まっています。昨年くらいから、私
も学生さんと話す機会を与えられる様になっています。あまり偉そうな事は言えないけれど、それなりに話し込む事の出来る相手には、大きく2つの事を心がけ
て伝える様にしています。
1つは、役所に入って“自分が”何をやりたいのか、明確な意識を持つ
こと。どんな街が良い街だと思うのか。なぜ、その街が良い街だと思うのか。こんな簡単(だと思うけれど・・・)な質問にも窮する人が結構います。「霞ヶ関
の駅を降りて、この街をどう思った?」という質問にさえ答えられない。
もう1つは、仕事のやり方について。折角国家公務員になるのであれ
ば、国民から信頼される様な行政組織にしたいと思いませんか?と。逆を言えば、今は“ん
?
”という状況ですよ、と、正直に。少なくとも、私は“仕事のやり方”を、国民に信頼されるような形に変える事も、若い官僚の大きな仕事だと思っています。
社会から信頼されていない、こんな組織を、信頼される組織に変えたい。こんな思いを持った人と一緒に仕事をしたいと思います。
*君は今週が仕事の山の様子。彼とも話をして、夏までには是非セットすること
で同意しています。先生のご予定もあるかと思います。*と相談の上、またご連絡致します。
* とても嬉しい。学生たちに、いつまでもいつまでも「ご馳走」できるの が、わたしの健康法である。
* 榛原にて 室生寺、長谷寺に挟まれた榛原駅に降りてみまし
た。残念ながら、観光案内所は休みでしたけれど、[旧伊勢街道]の案内も濃やかに、本居宣長宿泊という旅籠が駅近く。その先、おばァちゃんにつられて○○
温泉と暖簾のある銭湯に入りました。出ると目の前には、<揚げたてコロッケ80円>の仕出し屋。隣は酒屋。自販機ビール有りマス。出来すぎ!
「左あをこえみち、右、いせ本かい道」の石標が、おかげ灯籠と並んで。名張・青
山阿保越え、室生古道美杉越えの道とのこと。
絶え間無い霧雨、大和富士ほかの山々が夕さりに霞み、人恋しい寒さに季節を忘
れました。松虫ではないけれど、このままずんずん山中に入り込み、死んでも悔いなしといった風情です。
榛原も室生寺同様に、台風の被害に遭った神社がありました。鬱蒼と繁る古木の
杉のなか、明るく陽の通る隙間が痛々しい、しんみり寂しい神社に詣でました。やはり、旅はひとりに限ります。
車窓からいつも気にかかっていた看板<宇陀川>という銘の、和菓
子を買ってみました。白餡に大納言を合わせた餡の、焼き菓子で、大きさも程よく、おいしかったァ。
* 電子メールで、こういう生きのいい文章に出逢うと、これまた、嬉し い。とはいえ、この手紙のかげに籠もった寂しそうな息づかいも見落とせない。この人は、女性。しかし能の「松虫」は男だよと言ってあげたい。
* 建日子さんとつかこうへいさんの出会いのエピソードがよかった。こう
いう話が大好きです。
きのうは、先々週から続いた検診が終わり、結果は悪いところがなく
ホッとした。近くに医療生協の診療所があって、医師も設備もあるていど整っている。なにより、算術としない懇切な医業がいい。薬も安易に出さない。地元の
個人、法人が2000名余出資して医療生協(組合)をまかなっている。私も少しづつ出資金を積み増ししながら、ときおりお世話になっている。それでも、出
資しない患者や無料に近いお年寄りがだいぶ多いので、出せる人は出していかないと経営が難しくなる。
こういう方法がうまくいくと日本の医療も捨てたものではない、と思う。お年寄
りや子供の患者が多く診療も手厚いが、それは「やさしい、安心できる医療」の証明であって好感がもてる。
昨晩は、仕事を早めに片付けて、久しぶりに手料理の独酌となった。といって
も、ありあわせのつまみに一工夫程度であるが、少しはこだわりがある。外食が続くと、外のメシが味気なくなることがある。
一、支那竹(水煮のメンマをおかかでいためる。味付けは醤油と味醂。水気がな
くなる前に酒をいれ少し蒸す。火をとめてゴマ油を少々加える。)
二、ワカメと胡瓜とシラスの和えもの(やや甘酢が好みで、きのうは寿司酢を用
いた。天塩を少々。味の素を少しふった。冷蔵庫で冷やしておく。)
三、冷奴(木綿ごしを好む)半丁(おかかと練り生姜)
四、生姜(こうじ味噌。生姜はほどほどにやわらかく洗い水気をとる。「諏訪の
郷」という無添加の安手の味噌がけっこういける。)
五、ゲソのバターいため(残り物のイカの一夜干しを、バターと胡椒でサッとい
ためる。塩は不要。)
六、トマトの薄切り一ヶ。
七、トウモロコシ(三本百円を丸ごとふかす。少し固かったが、甘みは十分。塩
を少しふる。一本を食し、残りは明朝。)
八、お酒は、缶ビールを二本。(ビールから焼酎に切替えはじめているが、検査
終了日の「かつえからの解放感」には、ビールの喉ごしがいい。)
毎晩、こういうわけにはいきませんが、これで、好きなビデオ(映画)でも観れ
れば御の字です。
* 思わず、にやりと来る。関西弁でアイサツすれば、「やってはりますな あ」かナ。
* 韓国が負けた。ドイツは強かった。
* 「私」の、政治家たる政治生命を何としてでも断とうというの
が、自民党幹部の圧倒的な意思だ、と言い切る田中真紀子の言葉を私も認める。田中真紀子が存在して小泉内閣が出来、抵抗勢力に追い落とされた派閥は、小泉
はどうにでも成ると田中真紀子に恨みを抱いて陰険に立ち回った。小泉も福田も山崎も、男の嫉妬からうしろで「スカートを踏む」ことに専念して失政を続け、
今まさに今度は「スカートを脱がそう」としている。言葉はどぎついが、事実上のこれは集団レイプであり、マスコミの多くも面白がって野次馬のようにはやし
立てているに過ぎない。
此処まで来れば、もしたとえ田中真紀子に秘書給与問題で小過があろう
とも、有能な政治家を寄ってたかって陵辱し抹殺しようとする大悪にくらべれば、おはなしにならない醜行を、暴行を永田町は国民の前で演じていることにな
る。田中真紀子と鈴木宗男を同じに処置するのは、あまりに形式論理である。そしてそもそも政治家に正義と廉潔な倫理的姿勢ばかりは求められないことは、少
なくも明治政府このかた、いや世界史的に通念である。少々のことを何百倍千倍万倍に政治的に返してくれるならばと、はかなくも国民は期待するしかない。
よく見よ。
田中真紀子に何千倍する巨悪に手を染めているはずの輩のなんと多いこ
とか。繰り返して言うが、伏魔殿外務省を的確に指さし続けて鈴木宗男をあぶり出した功績一つとっても、百年、だれにも出来なかったことを田中真紀子は国民
の目の前でやってくれた。鈴木のマイナスは底知れず、田中真紀子のプラスは、かりに聊かのマイナスを差し引いても比較にならないほど大きい成功をおさめた
と言える。秘書給与のわずかな着服(そんなことが有ったとも無かったとも私には断言できないが。)にくらべ、外務省の機密費流用、上納金の底知れぬ不可
解、ロシア外交等の私物化などの途方もない巨悪の前には、正常で健康な政治的判断なら、あんな馬鹿馬鹿しい弾圧的裁定はありえない。
さらに、ましてや、万が一、小泉が構造改革の実を成功裏に自ら誇った
として、それが可能になったのは田中真紀子に応援して貰ったからなのは、衆目のみるところで、田中なしに彼が首相に慣れた目は一つも無かったのだから、田
中はかげの功績を小泉純一郎に主張できるし、ましてや失礼な「スカート」踏みや脱がしのレイプまがいに怒るのは、アッタリマエである。
その小泉は、サミットに期すべき挨拶に、「ワールドカップの真っ最中
でもあり……じっくり考えましょう」などと意味不明の頼りない顔色の冴えない始末。いいかげん、こんなことから顔を背けたい、目も耳も汚れると思うのだ
が、そうすることはヤツらの思う壺だと思うとそれもならない。
* もう一つ、心はずむことがあった。敬愛する牧者の野呂芳男さ んが、身近な人たちの熱意と技術的な参加で、ホームページを開かれた。インターネットに野呂さん自身はまだ「抵抗」があるよし、それは、なみの文士などが 言うぶんには好きにすればよいが、教会をもたれたという人には、インターネットが教会だと思って欲しい。難しい神学の旧著を復刻保存されるのもいいだろう が、いちばん牧者として願われるのは、インターネットでさえも、生きて胸をうつ肉声を聴かせて戴きたい。ホームページの「管理者」という人からリンクの申 し出があったのをよろこんで、わたしは、それを伝えて貰った。
* インターネットへの「抵抗」ということはよく聴くのです、ど
の世間でも。わたしは、端的に言ってそれは執着または怖れ・囚われの一種だと思います。肯定も否定も、大方の場合は、同じモノへのとらわれた両極の形で現
れます。凡庸な信も不信も信仰の両面であるように。そういう執着からどう自在になって、信仰そのものが無化できるかどうか、真の安心がどこにあるか。
野呂さんほどの方がそんなやすい「抵抗」に安住してては困るなあ。たかがイン
ターネット、抵抗心をおくほどのものじゃない。だから便利は便利で、利用し活用しています。
野呂さんの為されようとしていることにこそ、インターネットは力を発
揮するでしょう、発揮しなくては成らないとすら思います。「インターネットが教会」だと「思う」ことは、簡単に出来るはず。事実その通りなのです。「私
語」を「闇」に発信し続けていて、それを感じます。生きた「今ここ」の言葉を送り出して欲しい。わたしは聴きたい。紙の本の電子化は、記録保存以上のもの
ではあり得ないでしょう。
メールで、多くの声を聴き、深い声を発してほしいものです。ホームページが形
作られかけているのを見ましたが、もっと体温を高く熱く、神学者でなくて、真の牧者のすはだかに爆発する声を、乱暴ななほど生き生きと伝えてきて欲しいと
お願いしてください。
いつか野呂さんと、お互いのホームページで、同時・交互にメールを往来しなが
ら、何か大きな議論になり、読者がどちらのサイトでもそれを読んでくれるという、そういうファイルも力をあわせて創作したいものです。 秦生
* 図書館問題での新聞原稿が、心持ち長くなったので、一行字数を考慮し ながら慎重に書き直してみた。1800字にと言われているので、1792字に纏めてみて電送した。結局自分自身の思いのままを書いたが、言論表現委員会で も文藝家協会でも、やられそう。
* 交叉路をわたる雑踏にわが子居り少年期過ぎし( )しきその顔
とうに亡くなられた高名な独文学者で歌人だった方の作である
が、「ミマン」で、ただ一人として作者と表現をともにする人が無かった。興味ふかい結果であった。漢字一字を補って欲しいのだ。いかが。なぜ原作の一字が
思い浮かばないのだろう。いかが。
* 六月二十五日 つづき
* 寝に行こうと思って念のためもう一度確かめたら、卒業生君のこれまた とても嬉しいメールが来ていた。みな同じ学年で同じ教室にいて同じように教授室で話し合ってきた、専攻はちがえども。
* こんばんは! 秦さん、お久しぶりです!湖の本ありがとうございまし
た。「なよたけ」ゆっくりと声に出して読みたいと思います。
なんだか暑くなったり寒くなったりですね。
このところ、ご多分に漏れず、サッカー漬けの毎日です。今日は韓国負けてし
まって残念!!
恥ずかしながらこれまで、韓国にそれ程興味を持っていなかったのですが、あの
気迫あふれるプレーに、にわかに興味が出てきました。
考えてみれば、日本人は、アメリカやヨーロッパの事情には詳しいくせ
に、お隣さんにはあまり目が向いていない気がしますね。逆にアメリカやヨーロッパの人たちは、日本のことなど、実はほとんど知らないみたいで、韓国の人た
ちは、良かれ悪しかれ、日本のことは気になって仕方ないように見えるのに・・
建日子さんの「タクラマカン」、土曜日昼に観てきました。
あの設定のような状況を、実感としては知りません。両親が京都育ちと
いうこともあってか、話には何度か聞き、読みもしますが、「あの国」にすべてを託すしかないような、そんな悶えるような絶望的な心境を、想像や推測や知識
以上のものとすることは、今の私には、無理そうです。
思い浮かんだのは、このところ報道されている、北朝鮮からの亡命者たちのこと
です。
でも彼らはまだ救いのある状況なのでしょう。中国に逃れることが出来ていたの
ですから。真に思いを致すべきは、彼らの背後にいる、国から出ることも出来ない、数知れない人々でしょうね。
望まずして世界から孤立し、未来への展望もない閉塞した社会。
多くの貧困の極にある人々と、少ない富を独占する一握りの人々からなる社会。
そこで貧にあえぐ人々は、豊かな生活を享受する同国民を、外の世界の国々を、
一体どんな気持ちで眺め、受け止めて生きているのか。想像を絶します。そこには、「浜辺育ち」と「町育ち」の関係と、どこか共通するものがありそうです。
一番共感できる登場人物は、「ツキノ」でした。「町育ち」でありなが
ら、忌み嫌われる「浜辺育ち」の中に入り、向けられる猜疑の眼差しを、ほんの少しずつ少しずつ、溶かしてゆく。命をかけて救ってくれた人を前に、触られて
「体が腐る」と泣くしかなかった、「人の心の分からない」「ひとでなし」だった自分。その自らの姿を、鋭く身中の棘として、おそらくは、真の「ひとでな
し」とはなんなのかを問い続け、行動し続けたのでしょう。
しかし厳としてある、「この国」の硬い現実は、そうしたツキノの想いとは関係
なく、彼女と彼女の関わる人々を、容赦なく押し流していってしまいます。
必死にかけずり回った末に、ようやく就職させたハルキは、初の給料で恋する女
性へのプレゼントを買おうとし、訪れた店先で、あっけないほど軽々しく、撃ち殺されてしまう。「彼女の船になりたい!」と叫びながら。
そして最後には、ほかの四人さえも、自身の部隊で葬ることになってしまう。
・・なんという不条理でしょう。
最後に「ケイ」だけが銀行襲撃に加わらず、ひとり「あの国」へと旅立ってゆく
展開には、正直とまどいと、どこかに何か引っかかる感覚がありました。
ハルキやカラスたちの死は、図らずも全て、ケイが起点となってしまっ
ています。ケイを想う気持ちゆえにハルキは職につき、結果命を落とし、それが引き金となって、ジジイはケイを挑発して保険金を残そうとし、保険金が出ない
怒りにかられた末に、カラスたちはツキノの部隊の前に散ります。
仲間たちの死に、「死なせた」との思いを、ケイは生涯痛烈に抱き続けるでしょ
う。
そのケイだけが、ジジイの保険金とともに、あの国へ旅立ってゆくなんて。・・
一体彼女は、どうやって生き抜いてゆくというのでしょうか。
ツキノはそのケイに、「私には、何が足りなかったのか」との言葉をかけて送り
出します。それが「この国」の法律では、重大な犯罪に当たることを承知の上で。
ケイの旅立ちは、容易には変わらないであろう「この国」の未来への、力およば
なかったツキノの想いの実現への、一条の光のようにも思えます。
ですがそこにあるのは、確かな勝算などではあるわけもなく、空気のひと揺れで
消えてしまいそうな、幻のような光。ただただ、信じること祈ることしかできない、宗教にも似た飛躍です。
「人間を信じてみようかと思います」と言って、ツキノは裁判に臨んでいきます。
とことん行動の人だったツキノの口から、ただ「信じる」との言葉。
ケイの旅立ちは、ツキノの、そして作者の祈りなのかもしれないと受け止めまし
た。
長くなってしまいました。
またお時間のある時にでもお会いしたいです。それでは、お体くれぐれも大切に
なさって下さいね!
* 的確に観てくれている。これほどのことを二時間の中で受け取ってくれ
ている、正確な言葉と文とで。作・演出家は、謙遜な思いで感謝していいだろう。
ツキノをこう評価した観客は珍しいのかも知れない。アンケートではどうなのだ
ろう。わたしは根性が曲がっているのか、ツキノの真情を好感を持って察したことはあまりなかった。ウサンくさい気がしていた。「なるほど」そう見るか。胸
を少し突かれた。
この人の感想がより広い範囲へ敷衍されてゆく確かさにもわたしは希望をもつ。
有り難うと言いたい。そして相変わらずしっかりと健康な声音を聴くおもいを楽しんだ。
* 六月二十六日 水
* 北原白秋の抒情小曲集『思ひ出』を起稿校正。楽しんだ。岩波 文庫で白秋詩集を人に借りて読んだのは中学時代、若山牧水歌集とならんでいた。ことに「思ひ出」には、年齢のこともあり、措辞の魅力もあり、心惹かれた。 久しぶりに読み返しても、やはり、いいなと思う。先日朔太郎の『純情小曲集』を読んだばかりだ、北原白秋に捧げられていた。白秋は大きな一大源泉であっ た。優れた詩人があとに続いた。白秋ともう一方の極に、高村光太郎がいた。わたしは白秋の天才に傾倒した。
* 白秋と朔太郎と、葛西善蔵の小説と、現会員女性の自選俳句と評論が、 明日には入稿できる。
* いまトルコとブラジルが準決勝を争っている。どっちが勝っても負けて
もいい。
* 六月二十七日 木
* 湖の本『なよたけのかぐやひめ』を頂戴しました。ありがとうございま
す。
その昔、まだ本を読みはじめたばかりの少女だった私は、かぐやひめと
アンデルセンの人魚姫が一番のお気に入りでした。この二つの物語と出逢わなければ、私は本好きにはならなかったような気がします。どちらの物語もハッピー
エンドにはならないのに、ほかのどんな楽しい物語よりも子供の心を惹きつけたのが不思議でなりません。かぐやひめや人魚姫のように、人生には避けがたい悲
しい別れがあることを、幼いながらも漠然と予感していたのでしょうか。先生の「かぐやひめ」の音楽のような日本語をうっとり味わいながら、すっかり忘れて
いた少女の日々を思い出しておりました。
掌編「遠い遠いあなた」は、以前にも読ませていただいた、美しい散文詩のよう
な作品ですが、私はこの「遠い遠いあなた」という短い題名に感嘆してしまいました。この言葉だけでストーリーがいくつもうかんできそうです。
自分のもとめる誰かは、いつも遠い遠いところにいる。たとえ恋人どう
しになっても、夫婦になっても近づけば近づくほど、「あなた」はどこかでますます遠くなっていく存在です。「遠い遠いあなた」は、先生の使われる「一瞬の
好機」のように、簡潔ななかに人生の真実をきりとっている凄い言葉です。やはり先生は類まれな文学者でいらっしゃいます。
私語の刻で先生宛のメールの数々を拝見するたびに、先生にはすばらし
い読者がたくさんいらっしゃるのだと、感動してしまいます。先生はもっとも幸福な作家のおひとりかもしれません。謙遜ではなく、私は知性教養の点でもっと
も末席にいる読者ですが、先生のご本を読むたびに新しい視界が開けて旅する喜びを味わっています。
最近の先生は、エネルギーを消耗するようなお仕事に明け暮れていらっしゃるよ
うで、ご案じ申しあげております。ご無理なさらず、どうぞご自愛くださいませ。
追伸 芹沢光治良ファンの友人に、先日の先生の大変印象的なご講演を印刷して
プレゼントしたいのですが、eーmagazineの18頁で見つけることができません。これは私のコンピューターの具合のせいなのでしょうか?
* こういうことを言ってくださると、わたしは、心して、少し受け入れの 扉を狭めて聴く。甘えてはならないから。講演は、わたしが、転送を忘れていたために、サイトに送り出せていなかった。高史明さんに申し訳ないことをしてい た。このメールのお陰で気がついた。感謝。
* タクラマカンの事。 例えば東京育ちの人には、これを実感と
しては理解出来ない筈。根強い差別の実態、そしてそのツケを。現に、以前長男にこれを話題にした時、頭ごなしに母親が叱られた事があります。そんな事が念
頭にあるのも時代錯誤だと。けれど狭い私の交友の中ででも、これまでどれだけ多くリアルに話題に乗りましたか。
その状況に強く立ち向かう講演を聞いて強く感動し、更に彼女が中学時
代の当時目立たなかった同級生だと気がついた話、永年その調停の仕事に携わり、夜昼なくの呼び出しで、神経をめためたに病んだご主人の事、私達の卒業後の
中学での手に負えないツケの話、聞き合わせに雲を掴むように出向いた話、婚約が解消の話等々。
先が見えない程、遠く遠く、それでも、少しずつ好転して行くのは確かな気がし
ます。
* タクラマカンは、必ずしもわれわれの知っているソノことと限
定無く、一般に、人間社会の、日本のといわなくても、根強い人間の差別本能、たえず自分ではない被差別者をつくりだすことで自己満足しようとする不当な
「位取り社会」への批判を表現しているのだと思います。だからナニを思い浮かべてもよく、領事館に駆け込む人を思い浮かべてもよく、極限に追い込まれた広
義の「難民」のやむにやまれぬ渇望を描きたかったのだろうと思います。
人間が人間でいる限りは続くであろう業病です、なにかにつけて他を差別し、自
己の優位を護りたいあくどい執念は。これは「時代」だけの問題ではない、「人間」の愚かな傲慢と本能の問題です。
本質的には、深い好転の望みにくいものだと思う。
イスラエルのあのエゴイスティックな暴虐も、裏返せば、歴史的な罰にはまりこ
んでいます。イスラエルもパレスチナも。アメリカも。
不幸にして「この国」に、近い国々との間で一度深刻な深刻な事変が起きれば、
日本中が「あの国」を渇望するようなことになりかねない、とは、思いませんか。
* 作者のテーマはそうかも知れません。広義のものかもしれません。
世界の歴史は人間のエゴで始まり、人類が滅亡するまでエンドレスです。だから
こそ、桃源郷を求めるのは人間の永遠のテーマであり、そして叶わず臨終が来ます。
こんなことを言える歳です。
本能の傲慢と欲望、多かれ少なかれ、私もあなたも、そしてあの人もこの人も、
それを持ち合わせた愚か者です。世捨てを装っている人にも見え見えです。反面、その状況から多くの文化が産まれます。つまりは批判の対象として。
広義の被差別ではなく、ソノことと絞って考えた方が余程観客には分かりいいか
と思うのですが、これは無理ですね。少なくとも、私の場合、他は考えませんでした。差別行為と、そのツケがまわってきた状況を、近辺で余程見てきたからで
しょう。
今回は残念ながら舞台を観ていませんが、幕が下りた時、若い観客の何人が、あ
なたの言う、人間の「世界」にまつわる差別・被差別を想い描いたか、と思うのです。
* 芝居を見ている殆どの東京人が、歴史的なコトを知りません。実感して
いる人は伏せています。
私の所へ届く若い人のメールを読んでいると、北朝鮮やカンボジアやケルトやパ
レスチナや、ナチの時代のユダヤ人や、日本の統治下朝鮮の、比喩的表現とみているようです。それでもよかろうと思います。
* 近松秋江「黒髪」が、佳い。筆の運びに騒がしさがない。
* 明日は京都で玉村咏氏と対談し、明後日には妻の私的な会合が大阪千里
山である。明日は朝早くにいっしょに出て、妻が、わたしの対談中京都を楽しみ、明後日は午後いっぱい、私が京都で楽しむ。新幹線でいっしょに夜遅く帰って
くる。
* 六月二十八日 金
* 早く起きて、『黒髪』に引き入れられながら、校正。やがて京都へ発 つ。
* 十時二十分の「のぞみ」で昼過ぎに京都へ入り、二時から、染 色作家玉村咏氏と「対談」した。済んですぐ、妻と高島屋で逢い、三浦景生さんの染色作品展をみた。独特の物象染めであり、小筥などの陶芸へも。書の佳い老 大家であり、いま対談してきた玉村氏とは行き方はずいぶんちがう。ごくユニークな幻想世界が美しい発色をともなって魅力的。
* 妻が死ぬほど空腹だとふるえ始めたので、とりあえずその辺の
イタメシやに飛び込んだ。それから出町まで墓参に。墓参のアト、常林寺わきのちいさな喫茶店で休息した。地下鉄で四条南座わきまで戻り、大橋を西に越え
て、木屋町の「すぎ」に入る。この前来たとき、玉村氏とはここで初めて出会ったのだ。
天然の、生き鮎を取り寄せて焼いてもらった。うまかった。ぐじの頭の
方を焼いてもらったが、食べ方が「へたくそ」だとおすぎに笑われてしまった。汁にしてくれたのが、すこぶるうまかった。鱧のおとしも最良の味わい。妻は賀
茂茄子の田楽や貝のぬたも食べていた。「しめはり」の冷酒がうまいうまい。わたしはご飯まで食べてしまった。
ゆっくりホテルまで歩いて帰った。酔いが発し、あっとうまに寝入ってしまっ
た。
* 六月二十九日 土
* 青もみじの美しい永観堂に行き、ゆっくりと寺内を上へ上へ、
奥へ奥へすすんで、見返り阿弥陀を拝んできた。じつに美しく、じつに有り難い。永観堂へは、以前建日子と一緒に上へのぼるまでは、境内しか知らなかった。
いまでは、「一つ」と選んで奨めるときは誰にでも永観堂へいらっしゃいと言っている。(曼殊院や随心院や東福寺の普問院も好きだ。)山が間近く、建物に奥
行き有り曲折有り、しかも静かで華奢で平安貴族の住まいのようですらある。開創も至って古く、「永観」は年号寺であり、門跡寺でもある。
この一つで「京都」は足りた。妻は千里山での、幼稚園時代に溯る記念行事へ
と、四条河原町から阪急に乗った。わたしは体調にかすかな違和を覚えながら、錦などをあるきまわり、結局、河原町六角の映画館で、メル・ギブソン主演の
「ワンス
エンド
フォーエバー」を一人で観た。からだを休めたかった。ものすごいコンバットもので、戦場の悲惨さは言い尽くせないが、夫の戦死をつぎつぎに知らされる妻た
ちの悲しさも深い。わたしはこういう映画を、身に課するようにときどき観ることにしている。
* ホテルに預けた荷物を受け取り、四条烏丸から阪急の特急で、 梅田へ。大阪駅から新大阪へ。五時五十三分発、妻は会場で合流した妹と新幹線のホームに現れた。東京までわたしはぐっすり寝て帰り、妹とは東京駅で別れて 大急ぎで家に帰った。もうインジュリータイムに入って三対一でトルコに負けていた韓国が、一点を取り返す最後の場面に間に合った。八時半キックオフだと思 いこんでいて、三十分ほど観られるぞとせっせと帰宅したが。だが韓国は最後まで健闘、いい幕切れであった。
* 『なよたけのかぐやひめ』をいただき、ありがとうございまし
た。「竹取物語」も秦さんの手にかかるとこうなるのかと驚いている次第
です。私のかすかな記憶の中では、「5つの難問」というものはありませんでした。実在した貴人が登場するというのもおもしろいし、世界各国に類似の説話が
あるというのも興味深いことです。それらの中で「竹取物語」は泉のような清冽さを持つというご主張にも賛同。不二山の由来にも瞠目させられました。かぐや
姫のその後とも言える「遠い遠いあなた」もおもしろいですね。男の、ある意味での馬鹿さ加減と、かぐや姫の本音が表れて、これで一作の小説になりそうだな
と思いました。
苦手な古典を親しく読ませていただいたという思いもしています。古典
に限らず、本の読み方に規則はないのだというお教えは、文学を専門としてこなかった私には救われた思いです。私の専門分野である化学工学も実は同じと思い
ます。解るところを少しずつ増やしていくしかないのです。文学も工学も基本は同じ。まったく同感です。
秦さんの著作が本箱の中で少しづつ少しづつ増えていき、ニンマリと眺めていま
す。ありがとうございました。
* やなせさんが、つぶ餡好きなので、「アンパンマン」のアンはつぶ餡な
のだそうです。「彼の脳細胞は餡だから、ボコボコしているほうがいい」とのことですが、雀は、言われるまで、こしか、つぶか、なンて、考えもしませんでし
た。
竹取物語が成立したのはいつか、作者は誰か、また、竹取の翁の意味は、など、
雀は、アンパンマンのアンのときと同じショックを受けました。
* 六月三十日 日
* 昨日の朝、永観堂の辺で、あ、変だなと感じ、すぐ持っていた
風邪薬を飲んだ。この風邪気は二三日前から持っていたのかも知れない、ときどき胃へ来て、予防的に胃薬をのんでかわしていた。妻を大阪へ送りだして置い
て、さて独りで京都の何処へ行こうという元気がなく、ゆっくりゆっくり散歩の果てに、メル・ギブソンの映画を観た。幸か不幸か刺激の強いコンバットで固唾
を飲んでいたから、映画館を出たときは軽快していた。
帰りの新幹線は、幸い、妻は妹との久々のおしゃべりを楽しんでいたから、一つ
ウシロの席で、殆ど寝ていた。鼾もかいていた。
サッカーの三位決定戦が八時半キックオフだと思いこんでいたので、一
途に帰宅を急ぎ、保谷から家まで、これぐらいの小雨はと傘もささなかった。おかげで、最後のインジュリータイムのうちの韓国ゴールが観られたものの、二三
分で試合は終えた。郵便物の山を始末し、湖の本の払い込みをきちんと始末し、床についたのは一時半頃か。夜中にひどい悪寒に襲われて、発熱し発汗し、一夜
寒気と熱気とで輾転反側、全身、罅が入ったように痛い。いま熱気はさほどでないが、汗ばんで気持ち悪く、身体が痛い。
ま、さほど心配もしていないし、通り過ぎるのは早いだろうが、夜の、ブラジル
とドイツとの決勝戦までやすんでいようと思う。
* 能登川の甥から、わたしの生母の、最期に近かった頃のベッド にいる写真があるが観ますかと聞いてきてくれた。母の写真は一枚ぐらいは観ているかも知れないが、若い、少なくも元気な頃のもの。衰えきった母をいまさら に瞳に残すこともなく、辞退した。甥の夫人も、それはよした方がいいのではという意見だったそうだ。
* 意識的な生活者というのだろうか、つぎのようなメールをもらうと、き りっとした気分になる。
*
湖の本、ありがとうございました。ゆっくり噛みしめるように読んでおります。端正な日本語に触れていると、心まで洗われていく思いがします。最近は、本屋
に立ってもこのような文章に出会えることが少ないのですけれど。
6月上旬、ドイツに一週間ほど行ってきました。はじめて子どもを置
いていくことが心配でしたが、タフな子でけろっと留守番してくれていたようでした。
今まで何度か海外出張はしていたのですが、いつも一刻も早く帰って
き
たくてなりませんでした。ですが、今回ばかりは不思議と「まだいたい」という思いに捉われました。行き先はベルリンでしたが、日本人の妙な英語も理解して
もらえ、かつ排他的でなく、植生が日本に近く、なによりこちらのロゴスが通じる、そんな心地よさがありました。日独伊三国同盟は、結ばれるべくして結ばれ
たのかもしれない、などと思いを巡らしたりもしました。目の保養になるようなナイスガイもたくさんいましたし!
今の仕事は、打ち込む甲斐のあるものはありますが、それでもたくさ
んの問題は抱えており、中でも、研究者の母集団の少なさ故に研究の質の向上が困難で、研究上の問題意識を共有できる人のほとんどいない点が寂しくてなりま
せんでした。
しかし、ドイツでは、拙い英語で伝える問題意識が吸い込まれるよう
に理解してもらえる快感があり「専門性」という絆の強さを再認識いたしました。おかげで少しリフレッシュして、新鮮に仕事に取りかかれている毎日です。出
かける前は、きりきりとしていたのでしたが。
最後に、またしても下手な句をお送りいたします。お目汚しにしかな
らないかしら、と思いつつ。
ミマンの歌は「険しき」でしょうか。少年期の少し過ぎた青年がやや
眉間に皺を寄せたような沈思した表情が好きなもので。
お風邪気味とのこと。どうぞどうぞ、お体をお労り下さい。今日一日
何もせずに休まれても、そのぶん寿命を伸ばしていく算段をなさったほうがいい場合もありますから。
梅雨寒や十年過ぎしこと気づく (やや曖昧か)
半熟の想いを包みジャスミン香
帰国して長く思えり夏至の夜 (把握弱く表現も弱い)
知り合いの草花多しドイツ夏 (把握弱く表現も的確でな い)
いとしけれど活けてはならじ夏野花 (把握弱く表現が不的 確)
短夜に不眠の小海老となり閉ざす (把握弱く表現が不適 切)
心持ちのゲルになりゆく半夏生 (「の」が不要か)
* 六月三十日 つづき
* 2002サッカーワールドカップは、ブラジルが、予想通り二対零でド イツを降し、優勝。ほんもののサッカーをこの開催期間中、堪能した。思っていた以上に刺激的に楽しめた一ヶ月であった。四年後はドイツが開催国となる。
* 少し節々から熱が落ちて、痛みが和らいだ。六月尽。元気な七月を迎え
たい。七月は書き下ろしの進行、そして「ペン電子文藝館」のさらなる充実を。
「招待席」はやがて限界に来る。限界まで充実させることで、「ペン電子
文藝館」のいわば文化財的な「質」を高めておきたい。そのあとは物故会員の秀作を増やしてゆきたい。質的な水準を高く高く維持してゆくことで、現会員の出
稿に、佳い意味でのプレッシャーをかけ、誇りを持って作品を自選して貰いたいのである。自分のもちもののうち、最高度の作品をここに展示したいと思うよう
に成って欲しい。こういう場所で恥をかいて欲しくない。
* 辻井喬さんの「亡妻の昼前」を丁寧に校正し終えた。静かに胸
に落ちる感銘作であった。才気で書かれていない、落ち着いたハートの波動が自ずからな変化と脈絡を得て一編を玉成していた。渋いけれど、切ないけれど、ほ
ろりとくる秀作で、また「ペン電子文藝館」はしっかりした作品を加え得たと悦びたい。辻井さんの作品を読んだのは初めてである。
このようにして、他の理事諸公も佳い作品を送り込んで欲しいものだ。