saku012
 

          宗 遠日乗 「十一」
    
 
     平成十四年(2002年) 元旦から三月三十一日まで。 三ヶ月




 
   宗遠日乗 「十一」

       闇に言い置く  私語の刻



* 平成十四年 2002年 元旦 火曜日

* 新年を迎えまして。 秦恒平

正春光輝 悠々東雲  二○○二年 元朝

 ご多祥と世界平和を祈ります。

 ろくろくと積んだ齢(よはい)を均(な)し崩し
   もとの平らに帰る楽しみ     六六郎 

 日本ペンクラブ電子文藝館 http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/
  作家秦恒平の文学と生活  http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/

* 二台の機械から新年の挨拶を送る内に、返礼を受けている内に、はや二時間が過ぎていった。何と謂うことはな い。めでたい。暮れのうちに堀上謙氏から富士山にのぼる朝日の写真が届いた。

* Re: 新年を迎えまして。恩田英明
 いつも美しいものを見続けていたいものです。
   さむき夜の灰の窪みの燠明り桜花びら散りたまるごと

* 新しい佳い年のためにおよろこびを申しあげます。
 おからだも復調されたごようす、これもおよろこび申しあげます。
 今年も忙しく、お仕事をなされることでございましょう。どうぞ、おすこやかに。
 今年も、お話をどっさりお聴かせいただけますよう。
 晴れわたった空に星さやかな新年になりました。   香魚

* 初夢はいやなものではなかったが、ヘンなものであった。なんでも異色異質の二つの世間をうまく橋渡ししている ような、ゴツい夢であった。
 めざめて気持ちよく洗面などし、居間に田園交響楽を静かに響かせながら、妻と二人きりの雑煮を祝った。東京へ来て夫婦 二人の元旦は、初めてではないか。朝日子の生まれるまでは京都へ帰っていたし、生まれてからも京都での正月が多かった。子供が二人揃ってからは帰らない年 もあったけれど、こどもたちが欠かさず一緒だった。朝日子が嫁ぎ、そして婚家との往来が不幸に絶えてからも、元日は建日子が一緒だった。
 とうどう、夫婦二人になった。静かで和やかに、わるくはないし、初詣も快晴で暖かく、佳い元日である。雑煮を祝ってい る最中に、はや配達便が、日比幸一氏からの立派な蘭の鉢を贈り届けてくれた。なんと「プリンセス雅子」と名がついている。めでたいし、なぜかひときわ美し い豊かにしゃんとした蘭花であった。迪子はすぐ電話でお礼と年賀の挨拶を入れていた。年賀状も三百枚ほどがもう届いていた。
 夕食にはと言っていた建日子から、元日からもう仕事の打ち合わせなど長引いて、食事には間に合わないと。元日から働い ている人は、テレビを観ているだけでも、それは大勢いるものだと分かる。テレビ画面に顔を出さない背後で働く人はもっと多い道理で、建日子も今やそういう 背後の歯車として動いている一人ということか。

* 天神社への初詣、例年よりうらうらと晴れ、賑わっていた。参拝の列がながくのび、焚き火が白い綿雪のような灰 をふきあげ、甘酒が振舞われた。絵に描いたような小さな村社だが、それが佳い。三十余年大事に思ってきた。

* 旧年を見送ったところで、二台の機械を使い、四百人以上に、上記の年賀メールを送った。新刊の「湖の本」の跋 にも挨拶しておいたので、ほとんど新たな年賀状は書かなくて済みそうなものだが、やっぱり、そうも行かない、毎年百枚以上ハガキで追加することになる。加 賀乙彦、三好徹、角田文衛、清水九兵衛氏ら三十人ばかり返礼を書いた。申し訳ないが返礼だけで済ましている。妻が投函しに行ってくれた。わたしは、まだ、 そんなにも元気旺盛ではない。
  わたしの賀詞には、愛子内親王への祝意を籠めて置いた。光輝といった文字はつねは敬遠しているが、皇太子はじめ皇室一家の気持はそういうまばゆさの中にあ るだろうと御慶の気持を表して置いたのである。

* 秦さま。あらたまの和歌、拝受、拝誦。多謝謝。お名前とお人柄にゆかりのある「平」(たいら)というのは、と てもよろしいですね。父の名前にも一字ありました。
 池大雅と賢夫人を描いた土岐愛作の佳作『花咲く扇」』をゆくりなく読み返し、そのあと、「中国語会話語彙集」を繰って いたら、こんな言葉に出会いました。
 「不登大雅之堂」。
 解説に、「自分の作品などを謙遜する際によく使う」とあります。この現代中国語慣用表現のもとがいつの時代まで遡るか は不明ですが、大雅の「雅」は、宮廷芸術のあでやかさの「みやび」というより、俗事を離れた「おくゆかしさ」にあるのだろうか、彼の大らかな南画に独自の 「雅」(平安)が籠められているだろうか、とふと思いました。
 「雅」の元の形声は「み山がらす(雅鴉)」のこと。そして、「平常」の意味を持ち、「詩経」の六義の一でもあるとか。 この「み山がらす」は、胴間声でなくくちばし(牙)の大きい、都会に棲みついた「はしぶとがらす」。そういえば、このところ、あまり声が聞こえませんね。 東京都の捕獲大作戦が進んでいるのでしょうか。み山を借景とし、少し平らな里わに住み着き、野原に都や町を築いてきた私たち。山のはしぶとがらすは、いつ の間にか、かつて平らではあったが今は平らではない、まるで山のような里(都会)へやむなく降りてきて、あげく、定番の「敵役」にされてしまったのでしょ うか。
 (「雅」は、上声では今年の干支の「馬」とありました。)
 中原、中華の国よりの賀状に「春夏秋冬四季平安。 東西南北八方吉慶」と。まずは、平安を祈りましょう。

* 年の終わりの日の入りを紀伊で眺め、京・烏丸御池に宿をとり、夜が更けるに従って増す京の寒さに、震えつつも 心のどこかで楽しみ、歩いてきました。祇園で晦日蕎麦で食べてからだを温め、八坂さんへ行き、知恩院、永観堂へと足を伸ばし、それぞれの鐘を、ひとつ、ふ たつと聴きました。
 磨かれた古代の鏡のように月が輝き、新たな年の夜明けを見届けるかのように、まるく静かに、さきほどまで空の高みに出 ていました。 囀雀

* 夕食に、楽しみにしていたシチリア産96年のワインをあけた。断然旨かった。「うまいワインの味をまた一つ覚 えたよ」とご機嫌。
 じつはすこし体調に違和を感じていたときで、せっかくのお酒をまずく飲んでしまうことになるかと気にしたが、体調まで すっきり回復したほどの美味であった。鯛の方は、息子達の遅参で、とんだ「睨み鯛」のままおいておかれ、残念。年を取ると息子達までが「お客様」になって しまうのか。やれやれ。

* 息子達は十時半頃やってきた。仕事をしていたので、簡単に挨拶だけかわして、食べ物と酒の用意をしてやり、ま た二階に戻った。彼等のテレビが一度ついてしまうと、決定的に趣味が違い、新年早々から、体育系の力比べのような見たくもないものに延々と付き合うのは、 気鬱でもあった。日頃逢わない息子とゆっくり諸々話し合うのは望みだが、彼等がわがことのように喜んで見るタレントたちの芸能番組も、彼等には幾らか仕事 なのだろうが、たいがい私には何の興味もない。退屈するより、退散する方が賢いのである。ところがわたしが席をはずすと妻が気にして追いかけてくる。「お いおい、お客様かい」と、わらってしまう。

* この大晦日から新年へかけては、例年必ずすることを幾つか、し忘れて、しなかった。締めくくりに属すること や、事始めに属すること、今までならとても大事に意識してしていたことを、時間にも追われ、けろりと忘れた。これが「ろくろく体験」であるなら、出来合の 約束事をただ置き忘れてゆくだけのこと、むしろ良いこと、である。「元気に老いる」とは、むりやりに努めたり張り切ることではないのだから。できるだけ、 好きに好きなことをするので、よい。互いに他を労るのは大切だが、顧みて他を気にかけない、ドンマイ、も、老人には必要な良いこととして数えたい。忘れた 言訳ではない。
 

* 正月二日 水

* 本当に世界から戦がなくなり、「正春光輝 悠々東雲」になりますよう、祈ります。
 今年も勝手ながら、むむ、六六、無無のご活躍を楽しみにしております。
 心よりご健勝をお祈り申し上げます。

* 六六老のたいらかな言祝ぎ。良い年明けのメールです。
 狂雲子一休さんに免じて以下お許しを。
 一昨年から昨年暮れにかけて、室長、前室長、前々室長と、「無数の波の一つが、海に」帰っていきました。皆若く、不 惑、半白。心に重い波を抱えて年を越しました。
 「2002年は戦争の年」と米国大統領は語り、テレビが報じる「誤爆」の名の下に人命が奪われてゆくことにも、鈍感に なりつつあります。しかし、身近な人に逝かれてみると、それと同じ悲しみが、いや、もっと理不尽な悲しみが、彼の地に起きているのだと思い知らされるので す。
 そしてこれから起こるのは、モグラ叩きのような「洞窟つぶし」。もちろん、寒さを避けて隠れ住む民間人も巻き添えにな ります。57年前に沖縄の地上戦で繰り広げられた米軍による「洞窟(ガマ)」の掃討戦と同じ事が、また米軍によって繰り返されようとしています。あの時、 日本軍は住民を見捨て、57年後の日本政府は、今度はモグラ叩きに加担する側に立っています。
 「国際社会で名誉ある地位を占める」ことは、戦地に自衛隊を派遣することでしょうか。「今度こそ」などとつまらぬこと を考えずに、武力で迫る頼朝に、秘蔵の絵巻=文の力で応じようとした後白河法皇の老獪さとしたたかさを見習ってほしいものです。「今度こそ」うまく成して ほしいのは、槍ではなくて絵巻の方です。
 大晦日は著書のゲラ刷り校正を投函して仕事納め。年越し蕎麦を作り、お茶一服自服して、秋に訪れた畠山記念館のことを 文章にしてみました。書くのに夢中で、気づいたら年が明けていました。紅白もカウントダウンも何もなく、静かに新年を迎え、満足して床につきました。とん だお年玉ですが、お送り致します。 (「e-文庫・湖」の「紀行」頁に収録。秦)
 元旦は、締め切りが迫っているので、午後から研究室で実験。雪に埋まっている温室やボイラーの見回りもして帰宅後、オ ザワ&ウィーンフィルのニューイヤーコンサートを嬉しく聴きながら、お雑煮でお祝いしました。
 穏やかな一年になりますことを、hatakさんのご健康をお祈りしています。 maokat

* 碌でもない、碌々の六六郎の気でいるが、千葉の勝田さんは親切に「無無老」に読んで下さった。

  元朝の見果てぬ夢や憂=う=有の初め

* 札幌の真岡さんの言われること、つくづくと、頷いて聴く。こういう落ち着いた知性が民間にはあり、国会に払底 しているのが情けない。

* 木崎さと子さんから年始メールをもらった中で、電子文藝館に芥川賞作品の「青桐」をスキャンしてくれていい旨 のことがあり、旧年来希望していたことで、有り難いお年玉を戴いた。
 今日は、妻にコピーをてつだってもらい、戸坂潤「認識論としての文藝学」片岡鉄兵「幽霊船」戸川秋骨「自然私観」三本 をスキャンした。長谷川時雨の「旧聞日本橋」巻頭部分もコピーしてもらってある。わたしが怠りなく気を配り続けさえすれば、このようにして次から次へ先輩 文学者の作品も、現代活躍中の作者の作品も、電子文藝館に姿を現わしてゆく。気難しい読み手の人達が、いいものを読みたいなと思うと反射的に「日本ペンク ラブ電子文藝館」を開いてみたくなる、そして満足されるというぐあいに育てたいのである、読者のためにも、作品のためにも、書き手のためにも。
 原則として作者が作品を自選し自薦されるのであり、作者・作品と読者との「自由で良質な出逢いの場」である。安心して 立ち寄れる文藝広場であり「ライブラリー=読書室」なのである。

* おそい夕食の後、建日子たちはまた仕事先から呼び出され、早々に都内へ戻っていった。あっけなく、また家がし んと冴え返り、妻は「蒼氓」の初校などに、わたしは気になるあれこれを手当たり次第に、少しずつ少しずつ前に進めて、階下と二階、夫婦で機械に向かってい る。かなり疲れる。今夜は、またワインをのみはやく休もう。

* 片岡鉄兵という作家は、新感覚派の旗手のように謂われた当時の花形で、横光・川端は別格としても、最も華やか な存在であった。その彼の、さてどれが今も鑑賞に堪えるか、判断は容易でなく、短いものだが、初期の「幽霊船」を選んで校正している。細部の表現に、また 把握に、確かに新感覚派の特色が花咲いている。
 十一谷義三郎、佐々木茂索、犬養健、稲垣足穂、今東光、池谷信三郎、菅忠雄、鈴木彦次郎、石濱金作といった、大方は今 は忘れがちな人達が、このころ「新感覚」を競いつつ集っていた。片岡鉄兵はなかでも華やかに咲いていたのである。

* あけましておめでとうございます。おはやばやとメールありがとうございます。熊野本宮にて奉納演奏させていた だきました。大晦日、、大坂から夜の道を車で移動しました。お社の明かりとそこに集まる人々を見た時、ほっとしました。
 帰り道、朝にむかってゆく中で、先生のメールを読ませて頂きました。胸にしみました。私にとっての熊野行きの意味 は・・。よくわかりませんが、何かを乗り越えるためのプロセスだと思いました。先生のメッセージに救われました。ありがとうございました。

* 事情は分からないが、元旦に、熊野の宮居に鳴り響かせて、望月太左衛さんの鳴り物は、寒気に冴えわたり神秘的 であったのだろう、その興奮の中で、「藝」道の不思議にも身震いしていたのかも知れない。

* 伊藤若冲の佳い放送があり、なかでも絢爛豪華にして緻密な写生様式を鳴り響かせた「動植綵繪」群に圧倒され た。岸部一徳と山本学を使い、外国人コレクターを絡ませてドキュメンタリーともドラマともつかぬ仕立てで画面構成されていたが、その臭みなど少しも気にな らず、ただもう、この凄みのある風の変わった画家の力の「太さ」に感動し続けていた。声にもならぬ声がノドから鼻から歯の間から漏れ出ているほど、感動し て、観ていた。ひよっとして甥の黒川創も番組に絡んでいないかと期待していたが、それはなかった。恒は、どう過ごしているだろう、このところ、何も知らな い。

* その前に、インターネットで村上華岳を見ていた。「裸婦図」がいきなり大きく目に入り、溜まらなく懐かしく、 そのままあちこち見ていれば、当然ながら祇園の何必館にすぐ直面する。ひさしぶりに「太子樹下禅那図」と梶川芳友の文章に出逢い、大いに満足した。そのま まメールを送って、この文章だけは佳い意味でちからがよく抜けていて、素晴らしいと褒めた。褒めたついでに半分は本気で、この繪と文を電子文藝館の「随筆 欄」に欲しいなと思った。芳友も日本ペンクラブの会員なのである。
 

* 正月三日 木

* 電子文藝館を訪れました。興味のあるものから読んでいます。「阿部一族論」、「邦子」・・・。
 遠藤周作の「白い人」を読みました。
 後味の悪い感じ。
 「最後の殉教者」、「海と毒薬」、「沈黙」などを読んだときと似ています。
 中学生の頃、狐狸庵先生ばかり読んでいました。狐狸庵先生は、自分が一番気の弱い人間だと思っていたけれど、更に上が いたと書いていました。それは、夜、寝床で、過去にあった心苦しいあれこれの出来事が脳裏を駆け巡り、うんうん唸っている人だと。
 滑稽話として読み捨てられず、胸の中にずっとひっかかっていました。あれは、狐狸庵先生本人のことではなかったかと、 「白い人」を読んで想いました。
 川端康成の死を書き立てたジャーナリズムに対し、偉大な小説家が自ら選んだ死について、周囲が何を言えるものではない と、語を強めて書いていた狐狸庵先生。人は誰しも、他人に言えないことを胸に秘めていると言ったのは、「白い人」の作者だったのですね。
 わたしの中に散らばっていた断片が、一本の糸につながった気がいたしました。

* これは優れた感想である。こういう読者を一人迎え得ただけでも、「電子文藝館」は意義を得た。数多い遠藤作品 の中で、この原点作を一作選ばせてもらった甲斐があったと嬉しい。「もともと絹のような文章は書かない人でした。推敲ももう少しきびしくすれば出来る作品 です。が、ここには、大きな一人の作家の初心が鼓動している、それが貴重で凄い」とわたしはこの創作力ある群馬の人に返事を書いた。

* 雪のお正月
 明けましておめでとうございます。佳い年をお迎えのことと存じます。
 あたり一面銀世界のなかから、今年はじめてのメ?ルをさしあげます。昨夜からの雪が今もまだ振り続いていて、もう三十 センチほどは積もったでしょうか。これほど大雪のお正月も珍しいことです。シ―ンと音のない世界に沈み込んで、今年はどれだけの美しいものと出会えるかな と、そんなことを思っています。
 先生の新しい年に佳いこと、美しいものの多かれと祈りつつ。

* 名古屋は記録的な大雪と報じられている。この人の在所は名古屋からまだずっと北のように想われる。せっかく、 ゆかしげなファイルが添付してあるのに、相変わらず私の機械はWZEDITORが不良で使えず、あいにく秀丸に移しても化けてしまい、読めない。まま、こ れがある。ファイルにしないメールで送って欲しい。

* 片岡鉄兵「幽霊船」を念校、いつでもATCに送れるようにした。シナリオや台本のト書きに似た小説で、いくら かたわいないのに、いくらか凄みがある。ときどき読まされる素人の思いつき作品にこんなのがあるものだが、微妙なところでやはりプロの作品になっている。 タクトは作者がつよく振っている。

* 西田敏行演じる一茶を、石田ゆり子が嫁いできたところまで見て、先は諦めてきた。わるいほどではない、が、芝 居のテンポがゆる過ぎる。

* かくて三が日はすこし風情寂しいほどの静かさで過ぎてゆく。このようにして老夫婦二人の暮らしは少しずつ事そ いで簡略に均されて行く。「碌々と積んだ齢を均(な)し崩し」て行くのである。「もとの平らに帰」ってゆくのである。おそろしく寂しいようで、それが、ふ かぶかと楽しまれるのもウソではない。ほんとうの「もとの平らに」まで成れるだろうかという、寂しみはそこに在る。焦りとも惑いともいえる。

* 京都の仏教本の版元がくれた年賀状に、二十一世紀は「心の世紀」と書いてあり、そのつもりで本を作って行くと も。
 途方もないことである。イスラムもアメリカも日本も朝鮮やロシアも、みな己の「心=マインド」を重んじて、エゴイズム に走っている。とんでもない。「心の世紀」というのが痛烈な皮肉であるのなら賛同するが、「心」を頼んで平和に幸せに安寧にと願う気なら、真っ逆様の誤謬 である。いかに「心」が人間社会をわるくわるく複雑な欲の世にしているかを思い知ることなしには、二十一世紀は、破滅の世紀になる。「心を忘れる世紀」 「心を静める世紀」「心を無に返す世紀」でなければならない。「もとの平らに帰る楽しみ」はそれでしか得られないことを、かつがつ、わたしは理解してい る。
 善人になろうなどという話ではない。わたしは悪人でも善人でもない、いい人でもワルイ人でもない。そんなことはどうで も宜しい。「今、此処」で生きているとおりの者である。「今、此処」しか自分の世界の在るワケの無いのを、やっと分かってきたのが嬉しい者の一人である。  
 

* 正月四日 金

* 著しく血糖値低く、59などというのは経験したことがない。べつだん何の異常も覚えない。
 昼には餅を焼き、澄まし汁の雑煮を例年のように祝った。午後にはチーズでワインを。

* ワインを飲みながら、高島忠夫息子兄弟の弟の方主演の、NHK時代劇を観ていた。剣客で、目付をつとめる異腹 の兄の面倒になるべくならぬよう、弟は世間に出て、「よろづ仲裁」のような仕事をしている。これもいい。兄とその妻、嫂もまたいい。比較的穏やかな時代劇 で、キムタクの演じた忠臣蔵とはだいぶ格が高い。キムタクが堀部安兵衛を演じると、、剣術の基本のすりあしもできない。むちゃくちゃである。それでも視聴 率は高い。視聴率などというものの馬鹿らしさである。
 真行寺なんとかという自意識の強い女優が、旗本の妻女をしゃかりき熱演していた。この女優の演技は、いつも万事が外へ 出る。表情や言葉や身じろぎの激しさで出る。真に旨い女優はその逆に、それらを抑制して内に蓄えてうごき少なく、ぎらっと出す。真行寺の他にもこの手の勘 違い女優は幾らもいるが、そうでない優れた演技者もいる。
 昨日の夜に松本清張原作を演じていた秋吉久美子の演技は、その最も美しく完璧な例の一つであった。父を喪失している子 がその故に母を憎んでいた。しかも母に似た恋人を得、だが結婚に踏み切れない。母への思い出の中にあらわれる或る男に拘泥していたのだ。だが実の父は手形 詐欺集団の頭領として官憲に追われていた。母の身近にいると思っていたのは、妻の家に立ち寄るかも知れないのを張り込んでいた、二人の刑事の内の一人で あった。
 そういった事実に隠れた謎を、母の死後に、息子と恋人とは追ってゆく。秋吉はその母と恋人を二役演じて、美しく哀れに 存在性の豊かなリアリティーを「溢れるほどの静かさ」で演じて感動させた。激しく粗く感情を表へ外へ出すことでも女は造形できたろうが、そうはしない方 を、決定的に秋吉は選んでいた。大声を出し顔をつくり身もだえしての芝居は、ラフにはやりやすい。しかし観ていて乗ってゆきにくい。
 秋吉久美子は、さきの時代物で嫂を演じていた原田美枝子とならぶ映画女優であり、ただのテレタレではない。作品が「読 める」。不必要には体や顔で暴れない芝居が出来る。人物の内面がいつも出来ている。大竹しのぶもこれができる。浅丘ルリ子もこれが出来る。うまい役者は、 外へは最小限しか出さぬことで内側からのエネルギーを放射する。
 真行寺は上手い方のタレントだが、白石加代子らと同じで、力ずくのこけおどしをやるので、白けてしまうことが多い。
 昨日の秋吉久美子には脱帽した。

* 華燭の卒業生が、三年生の前期に毎時間書いて提出していた、原稿用紙にして総量25枚ほどを、克明に機械に書 き起こしてみた。とても気持のいい、また紛れもない「人」のよく表れた佳いエツセイに出来ているので、感心した。十年近くもむかしの感想であり、今の思い では書き直したいところも多かろう、が、わたしはそんな必要すらないように思った。これは、いわば純然とした一つの根雪に相当している。借り物でも偽りで もない素直な、柔らかな述懐になっている。わたしが贈れる、最良のお祝いになるであろう。
 よく書いたものだ。この学生は二年生の前後期に「文学概論」を、三年生の前後期に「総合講義B」をわたしの教室で受講 していた。わたしがもう一年早く就任していたら一年生前期だけの「総合講義A」も聴いていたかもしれない。そんな中の、或る前半期だけの手記を書き出し て、25枚も、ある。確実にこの学生一人で二年間に原稿用紙でほぼ100枚以上を書いていたことになる。間違いなく書いていたと思う。洩れなくそれらを当 時のわたしは読んでいた。だから印象は、深く、つよいのである、この女子学生に限らず。

* 少なくもこの三年生の教室には、三人ずつ六人の二つのグループ女子がいた。一人はやがて二人目の子が出来ると 年賀状に写真を添え、知らせてくれていた。一人は結婚し、大学の先生をして、ときどき美しい良いメールをくれる。一人は京都大学の院に行き数学を専攻して もう卒業し、いま短歌を創り始めたから見て下さいと送ってくる。東芝に勤めた吉右衛門フアンの一人は、もう二週間ほどで結婚するから、私に来て欲しいと 言っている。もう一人は風の便りにやはりちかぢかに結婚とか。
 そしてもう一人は、わたしの教室に初めて入って「十年」ですと、懐かしく、こまごまと書いた年賀状を今日くれている。 NTTに勤めている。六人の中では、いちばん創作的な力量のある詩性の人だ。
 この教室の男性諸君とも、林丈雄君をはじめ何人もと今も仲良くしている。あの一年、わたしは、たいした講義が出来てい たわけでもないのに、とてもいい気持であった。

* さて今日一日ももう十分で果てる。戸坂潤の「認識論としての文藝学」校正にいささか音をあげていた。三木清の 後進であり、一時期日本のマルクシズムを先導した第一人者といわれ、戦中、激しく、数次の裁判で思想を国と争い、ついに下獄し、発病して獄死した人であ る。その言説は、或る意味で克明で、また煩雑で、ある時期の日本の哲学や思想表現の短所をもたっぷり帯びている。だが、誠実であり、渾身の思いで時代へむ けて血を吐くように語っている。こういう人も日本ペンクラブの先輩会員であった。地位と名誉と金について露骨に話題にして恥じらうものをもたないのでは、 困惑する。文学・文藝・思想において必死に時代と渡り合った、その歴史、に学んで言論表現委員会は勝ち味の薄い、しかしねばり強い仕事をしてきたつもり だ。「ペンの日」を「福引きの日」にしてしまっているようなペンクラブでは、平和かも知れぬが、気恥ずかしい。
 しかし、仲間の理事や新聞記者や会員からもらった年賀状には、「電子文藝館」の実現を、すばらしいと言ってくれている のが、幾つも幾つも混じっていた。嬉しいではないか。
 

* 正月五日 土

* 夢は夢にすぎない、醒めればおしまいであると心得ているが、嬉しい佳い夢なら気分の晴れることもそのとおり で、明け方の、いや黒いマゴを明け方に外へ出してやって、起きようかな、いやまだ眠いと、もういちど寝床にもどってからみた夢見の、それは嬉しかったこ と、ここ十年、一度たりと他に思い出せない、美しくも懐かしい、嬉しい夢であった。栄誉や名誉や損得のような俗なことでは全然無い。文学や創作のことでも ない。美しく優しく愛された夢である。性的にではない、心からである。
 誰に。それは書くまい。書けばコメディーになりかねない。
 どっさりと掌に黄金の沙を受けたような重みをまだ感じている。醒めたくなかった。

* 素敵なお祝いのお言葉、ありがとうございます。なんとなく当時を思い出して、涙が出てきてしまいました。特に 辛いというのでもなく、悲しいというわけでもないのですが、気が高ぶっているのでしょうか。
 当時は寝たきりだったとしても生きていた祖父は、亡くなりました。もう2年近くになります。祖父を支えていた力強かっ た祖母は、それからめっきり体力も気力も落ちてしまいました。実際は祖父も祖母を支えていたのだと理解しました。
 祖父は亡くなるしばらく前、”頑張ってねお父さん”と話しかけた叔母に、もう頑張れないよ、とつぶやいたそうです。祖 父も、自分がいなくなったあとの祖母が心配で頑張っていたのでしょう。心配通り、祖母は今寂しさに押しつぶされそうになっています。
 当時、私が寂しさに関して書いた時には、祖父が亡くなるなんて随分先の事だろうと思っていたようですね。光陰矢のごと しとは良く言ったものです。祖父にも花嫁姿を見せたかったと思います。
 余談から入ってしまいました。
 以前自分が書いた文章を見るというのは、本当に恥ずかしいものですね。全然変わっていない部分、少しずつ変わってきて いる部分、いろいろで、興味深い反面、恥ずかしいですね。
 随分悩みながらでも一歩ずつ進んできて、その先に今があるのだと思うと、一瞬たりとも無駄には出来ないなぁ、と思った りします。頑張らなくちゃ。
 といっても、私は頑張りすぎるのが短所でもあると言われます。我慢の限界まで我慢してしまうようで、それが時には良く もあり、悪くもあります。何に付けてもそうなので、今年の目標は、
 ”自然体”
です。無理は禁物、自分らしく。
 その意味では、今までの自分も大きな気持ちで受け止め、恥ずかしさもちょっとよそに置いておくのが良いかも知れませ ん。
 ご挨拶、宜しくお願い申し上げます。
 恥ずかしいようなくすぐったいような、隠しておきたいような、そんな気持ちで当日も拝聴いたします。
 以前の文章を探したり選んだり、お時間をとらせてしまったのではと思います。どうもありがとうございます。当日もどう か、宜しくお願い申し上げます。

* 「実際は(臨終ちかい)祖父も(あとに残る)祖母を支えていたのだと理解しました。」という一文は重い。まこ とに存在の重みを適切にこの人は、今しも、とらえているのである。成長したなあと心から悦ばしい。もう、わたしは、この人へのお祝いの気持を尽してしまっ た。わざわざ結婚式の人前で話す必要もないほどに。こういう人を育てた、こういう人を息子の妻に迎える、そんな親御さんに「おめでとうございます」と言い に行くのである。新郎クンに言いに行くのである。
 また一人自分の子を送り出すような気持である。

* 傘壽を前にした栃木の渡辺通枝さんの「道なかばの記」が届いた。初稿より格別に良くなって、「電子文藝館」の 随筆欄に喜んで迎え入れたい。
 これから石川達三「蒼氓第一部」の念校に入る。妻が引込まれるように初校してくれた。芥川賞の歴史を飾る第一回受賞の 記念碑である。悲惨というに値する昭和初年のブラジル移民にまつわる小説であるが、さすがに「読ませる」のである。「読まされ」てしまう。相当の長篇だ が、この受賞対象になった第一部でしっかり纏まっている。
 戸坂潤の「認識論としての文藝学」もやはり佳い論文であった。我々が日々迂闊に用いている「文藝」「文学」という名辞 に関しても縷々見解が語られて、一つの「時代」の思いを明確にしようとしている。興味深いものであったし、また同じ京大哲学の中で、こういう先学のマルク シズム理解に深い悩ましさと疑問などももつところから、例えば梅原猛会長二十五歳の「闇のパトス」の、呻くような新たな現実認識も出てきたかと想われる。
 大勢の会員の作品がモザイクのように日本の近代を描き出してゆく。そう期待して良いのである。

* 夢の名残がジンジンと生きている。映像は遠のいたが精神と情感がありあり生きている。

* 「突然で失礼ですが」という「題」で覚えのないアドレスのメールが届くと、わたしの場合、有って自然な立場にいるものの。このウイルス跋扈の時節にはやは り気楽に開くのは怖い。思案の末、削除する。当方にもし失礼が有れば許してもらわねばならぬ。もう馴染みのアドレスだけで察しのつく人は何の問題もない が、こういう初めての場合、願わくは、せめて姓名は明示して欲しい。よく組織からなにかしら依頼や要望の手紙が届く場合も、個人名で責任者名の入っていな い文書は、よほどの例外は除いて、わたしはそのまま破棄してしまう。特別非公式の場合は、メールでわざと名乗らないで出す場合や、べつの分かり合える名乗 りで代用することはあるが、それは親しい相手だから出来ること。
 また、目上の人には、例えば谷崎様と姓だけにしても、自分は秦恒平と書く。谷崎先生の私にあてた手紙があったとして (残念だが、奥さんのものは多いが、先生はもう亡くなられていたから無い。が、)名乗りに谷崎潤一郎とあれば恐縮して嬉しいだろう、谷崎とだけでも十分納 得する。しかしその反対は決してあり得ない。それは作法である。こういう作法も、若い人からどんどん崩れている。年の行った人でも忘れてかけている。メー ルの時代になって、どうでも良かろうに流され、例えば、reメールの際の題名を一応吟味して、内容に応じて書き換えてくる人の少ないのには驚かされる。 「新年を迎えまして 秦恒平」と送った年賀メールへの返礼が、そのまま返された例はイヤほどあった。あまり尊敬できることではなく感じた。むろん、内容に よってはそのままの方が良い「題」や「要件」もある。わざとそうすることも多い。とりあえずは一考するように、わたしは、している。それでも失礼はあった ことだろう。
 

* 正月六日 日

* 今日は外出したいと思っていたが、ぐずついて出なかった。そのかわり、石川達三の「蒼氓」第一部を読みあげ た。
 新感覚派的に流れても、プロレタリア文学に走っても、少しもおかしくない時機に文学に志しながら、そのどちらにも身を 寄せず、小市民的な視線と場所とをねばり強く守った作家の本領が、みごとにあらわれている。流行作家ではあったし、通俗を恐れない「孤立した常識」の姿勢 を生得守り抜いて、手放さないところがあった。石川達三のあらゆる意味での可能性も原点も特質も、この一作に凝集している。
 昭和十年の芥川賞創設第一回受賞のこの作品は、「星座」という小さな同人誌に、その年の春に書かれていて、達三本人は まだ作家になるつもりすらなかった、帰郷して獣医にでもなろうかと考えていた、という。
 手堅く具体的な描写を連ねて、当時の新進の作にしては、手法に新奇な趣はむしろ皆無で、古めかしいとすら云われた。と ころがその堅実さのゆえに、今もこの作品は少しも古びなくて、生き生きと新しいままなのだ。独特の感動があり、初校した妻もたいへん佳い読後感を得てい た。
 なにしろ悲惨な貧移民の話であるが、概念的にイデオロギーの主張に流れたりせず、ひたすら具体的に、それも特定個人で なく大きな集団を根深く書ききっている。ブラジル移民団、いや事実は棄民団にひとしかった千人近くの大団体の、不安と興奮と生活苦を、脂汗のようににじま せ、また噴出させている。たいへん優れた作品であるが、好んで求めて読む人は、今の時代に多いと思いにくいだけに、「日本ペンクラブ電子文藝館」に、はれ ばれと元会長作品として保存し公開できることは、とても嬉しい。
 この作に比べれば、大概の人の作品は、遠藤周作でも加賀乙彦でも、井上靖でも、つまり特別の意味であまりに「知的所 産」であるが、石川達三のこれは、徹してで市民と農民との具体像を刻み上げた作品である。そこに「個性」がある。

* 中川五郎委員の尽力で、高木卓の遺族から、芥川賞謝絶の異色作「歌と門の盾」という歴史小説が出稿された。今 日正式に承諾の返事を得た。木崎さと子さんの優れた芥川賞作品「青桐」もお任せ戴いている。長谷川時雨の「旧聞日本橋」もあるし、谷崎潤一郎の「夢の浮 橋」も観世恵美子さんにお断りして戴けることになっている。この四本に力を入れたい、が、かなり私の時間は窮屈に窮屈になっている。二月のあたまに、「日 本人の美意識」に関して、かなり突っ込んだ講演をしなければならず、その一週間後には、川端康成を、近代文学館で話さねばならない。ところが、両方共に、 じつはあまり自信がわいていないのである。それかプレッシャーになっていて、いささかブルーなのである。

* 楽しみの一つは、新梅若万三郎の「翁」で。新年のいい舞台に出逢いたい。他に望みはない、当面は。
 レオナルドの白い貂を抱く貴婦人の肖像を、ぜひ見に来るよう横浜美術館のお誘いもあるが、唸っている。京都ではやがて 美術文化賞の受賞者展覧会テープカットもある筈だが、案内が来ているのかも知れないが、それも見落としているぐらいだ。行けそうにない。
 ゆっくりの正月はすぎた。明朝は大好きな七草粥の雑煮を祝い、さてまた、奮起しなくては。
 

* 正月七日 月

* 七草とは行かないが、すずな、すずしろで、白粥に。白餅はいつもより小さく割って入れ、塩味に。年に一度だ が、旨い。年に三十度ほど食したい、なつかしい雑煮である。めでたく、松の内。

* アメリカの十五歳少年の、小型飛行機による高層ビル突入は、第一感としてテロ感化による暴発であろうと思った が、やはり当っていた。テロとの関係をいちはやく当局は否定していたし、そう願っていただろうが、たんなる事故ではそんなビルの近くまで行きはすまい。伝 えられる離陸のしかたも、いかにも腹に一物の不自然さであったから、テロ組織との関係の有無に拘わらず影響下の確信行為であろうと直観できた。その通りの ようである。あのテロ以来数ヶ月に満たず、どういう防空体制なのかと唖然とする。
 パレスチナの火種は火を噴き上げているし、印パ国境では核爆発の危険が拡大している。極東では不審船の出没と沈没。
 昨日のメールでどなたかが「世界中が平和であることは、多分絶対に無いのでしょうが、平和を願ってやみません」と。久 しく平和ボケしていて、「平和」を口にしても空念仏じみていたが、この頃は、ひしひしと実感迫る挨拶になっている。恐ろしいことだ。

* 秦さん。  富小路禎子さんが、亡くなりましたね。
 5日の朝刊で知り、あっと声が出ました。75歳。もちろん直接お会いしたことなどありませんが、「秘かにものの種乾く 季」が、とても印象に残っています。
 年末はのんびりと、年始はそれなりにあわただしく過ごしました。
 今日の初出勤を控えた昨夜、靴を磨きながらいろいろなことを考えました。
 年末年始、実家へ帰れば親戚の噂話も耳にします。それぞれ、誰一人として、平凡に生きている人はいないと感じ、私が去 年、頭を悩ませたり心を痛めたりしたことは、それと比べ、些細なことだなと思います。
 いつか何のために生きるのか、という問いに、Webページで答えを書かれていましたね。そうか、と思いました。何のた めに、ではないんだ、と。
 私たちの時間、体験できる事象は限られている。なら、そのなかでのびのびと、自由にやろうと決めました。去年から、あ まり我慢しないように、と意識しています。刹那主義に堕ちるつもりはありません。
 今年の目標は、無意味なタブーを作らないこと、です。
 昨夜は年初にふさわしく、前向きな気持ちになりました。長い年末年始の休みで、最も充実した一日でした。
 それから、今年もやはり、「そんな少年よ」を読み返しました。毎年違った気持ちになります。

* ああ、これは変わりない、秦教授への、とても佳い、嬉しい、年始の「アイサツ」である。ほぼ七八年は経ってい る、教室で二年間いっしょに過ごしてから。
 歌人富小路禎子の死は、わたしにも少なからずショックであった。顔を合わせていたかも知れないが、認識して挨拶を交わ したこともない人だが、短歌の幾つかには感じさせられた。教室でも二度三度虫食いの出題歌に選んでいた、その一つを、この女子学生は印象深く記憶していた という。短歌に対して最も感度の高い学生で、実作にも興味をみせて実践していた。今でも、と、期待している。岡井隆や河野裕子にアクティヴな関心を示して いたが、富小路歌に対する気持もよく分かる。とうに結婚している。
 こういうメールをもらうと、すぐ目の前に向き合っているような存在感を覚える。
 それは、こんな、三首の連作の体で出題した歌の最初の一つだ。
  (   )にて生まざることも罪の如し秘かにものの種乾く季(とき)   富小路禎子
  誤りて添ひたまひたる父母とまた思ふ(   )を吾はもつまじ
  急ぎ嫁(ゆ)くなと臨終(いまは)に吾に言ひましき如何にかなしき(   )なりしかも
「平凡に生きている人はいないと感じ、私が去年、頭を悩ませたり心を痛めたりしたことは、それと比べ、些細なことだなと 思います。 / いつか何のために生きるのか、という問に、Webページで答えを書かれていましたね。そうか、と思いました。何のために、ではないんだ、と。」
 わたしにだって分からないことだらけで、だから「闇に言い置く」ようにいろんな独り言を書いている、毎日のように。ま たそれを読んで、めいめいの自問自答に少しでも刺激にしてくれている人がいるとは、勿体ないことだ。
 わたしが誰の発言にどのように反応していたのか、むろん覚えている。
 「何のために生きるのか」と悩んでいる若い人に出会うのは、苦しいほど切ない。日を背にして自分の影を踏もうと焦るよ うなものだ、罪深い落とし穴のような問いだ。
 しっかり生きるためには一番先に捨てるべきそれは無意義の問いなのである。
 何百億年だか光年だか知らないが、ビッグバンによって宇宙は生まれたと科学番組で語っていた。子供でさえ問う、では、 宇宙の生まれるそのビッグバンの以前は宇宙でない何が在ったの、と。そんな問いにどう答えられてもとめどない。そういう問いは、発しても仕方がないのであ る、少なくも人間の今、此処を生きることに関しては。答えてもいけないのである。
 わたしは、神のことも含めて、答えようのない質問は自分になげかけない。黙って自分のうちなるブラックホールをのぞき 込みたい、そこへ無事に安心して帰りたい、という願いの方が切実である。それが容易でないということだけを、理解しかけている。
 水平に過去へ未来へ目をはなすのでなく、垂直に「今、此処」を確かに踏んで生きていられれば嬉しいと思う。そのような 思いが、いくらか彼女に響いていっていたのなら、あるいはその人をあやまる種であるのかも知れないけれど、わたしたちは「対話」し「アイサツ」を交わし続 けていたということに相違ない。
「今年の目標は、無意味なタブーを作らないこと、です。」
 賛成だ。
 タブーでもあるが、ま、自分を、激励よりは要するに拘束してしまう惰性に流れた「努力目標」だの、日課や習慣的な「約 束事」などに自分をことさら縛らせ、「被虐の奮発」を、どれほど多く重ねてきたことか、わたしも。「今、此処」から目が離れて、いたずらに向うに向うに 「目的地」を幻想したその手の「タブー」は、大方が、麻薬的な習慣性の毒になる。楽しんだり励んだりしているつもりで、自身を悪く縛って苦しんでいるだけ のことに、なかなか気づけない。欲が絡んでいるのだ。しかも逃避か執着かのどちらかであるに過ぎないそういう「約束」に、「タブー」めく過大な評価をあた えることで、自己暗示をかけてしまう。「なんじゃい」というさらっとした相対化が、できない。
 ただ、自身を怠惰の容認へ突き落とすような放心や刹那主義もまた毒の一種であるが、彼女は、そこもきちんと「前向き」 に見ているようだ。
 そして、「今年もやはり、『そんな少年よ』を読み返しました。毎年違った気持ちになります」と。
 東工大で一緒に正月を迎えた諸君はだれもが覚えていてくれるだろう。必ずのようにわたしは井上靖の詩「そんな少年よ」 を読み上げることから、新年の授業を始めた。懐かしいその詩を、わたしも、此処で読み返そう。

   そんな少年よ  ─元日に─   井上 靖

これといって遊ぶものはなかった。私たちはただ村の辻に屯ろして、
棒杭のように寒風に鳴っていたのだ。それでも楽しかった。正月だ
から何か素晴らしいものがやって来るに違いないと信じていた。ひ
たすら信じ続けていた。私は七歳だった。あの頃の私のように、寒
さに身を縮め、何ものかを期待する心を寒風に曝している少年は
いまもいるだろうか。いるに違いない。そんな少年よ、おめでとう。

俺には正月はないのだと自分に言いきかせていた。入学試験に合
格するまでは、自分のところだけには正月はやって来ないのだ。そ
して一人だけ部屋にこもって代数の方程式を解いていた。私は十三
歳だった。あの頃の私のように、ひとり正月に背を向けて、くろずん
だ潮の中で机に向っている少年はいまもいるだろうか。いるに違い
ない。そんな少年よ、おめでとう。

私は何回もポストを覗きに行った。私宛ての賀状は三枚だけだった。
三枚とは少なすぎると思った。自分のことを思い出してくれた人はこ
の世に三人しかなかったのであろうか。正月の日の明るい陽光の中
で、私は妙に怠惰であり、空虚であった。私は十五歳であった。あの
日の私のように、人生の最初の一歩を踏み出そうとして、小さな不安
にたじろいでいる少年はいまもいるだろうか。いるに違いない。そんな
少年よ、おめでとう。

私は初日の出を日本海に沿って走っている汽車の中で拝んだ。前夜
一睡もできなかった寝不足の私の目に、荒磯が、そこに砕ける白い
波が、その向うの早朝の暗い海面が冷たくしみ入っていた。私は父や
母や妹のことを考えていた。ひと晩中考えた。なぜあんなに考えたの
だろう。私は十九歳だった。あの朝の私のように、家へ帰る汽車の中
で、元日の日本海の海面を見入っている少年はいまもいるだろうか。
いるに違いない。そんな少年よ、おめでとう。

* 「『そんな少年よ』を読み返しました。毎年違った気持ちになります」と。今年はどんな気持ちになったものか、 井上先生のこの豊かな詩を、あの当時にわたしが選んで読んだままの思いを、今なお分ちもっていてくれる卒業生がいる、すばらしいでははないか。
 この詩を初めて読んだ或る年の感銘は大きかった。むろんわたしは大人であった。働き盛りであった、が、井上靖に正月を 祝ってもらった七つの、十三の、十五の、十九の少年の気持で温められていた。

* もしかして、いまこの井上靖の詩にしばらく思いを静かにした新しい友人たちがいるかも知れない。すべての友人 達のために、わたしは、今ひとつの井上靖の詩を贈りたい。この詩を、若い諸君の胸の上に最後にそっと置いて、わたしは、あの教室から、あの大学から、去っ てきた。

     愛する人に    井上 靖

洪水のように
大きく、烈しく、
生きなくてもいい。
清水のように、あの岩蔭の、
人目につかぬ滴りのように、
清らかに、ひそやかに、自ら燿いて、
生きて貰いたい。

さくらの花のように、
万朶(ばんだ)を飾らなくてもいい。
梅のように、
あの白い五枚の花弁のように、
香ぐわしく、きびしく、
まなこ見張り、
寒夜、なおひらくがいい。

壮大な天の曲、神の声は、
よし聞けなくとも、
風の音に、
あの木々をゆるがせ、
野をわたり、
村を二つに割るものの音に、
耳を傾けよ。

愛する人よ、
夢みなくてもいい。
去年のように、
また来年そうであるように、
この新しき春の陽の中に、
醒めてあれ。
白き石のおもてのように醒めてあれ。

* 野心と意欲とに溢れていた東工大の小さな研究者たちに、この詩は、静かに過ぎたかも知れないが、学部を出、殆 どの人が大学院を二年ないし四年以上かけて出て、社会という手荒い日常の中で、わたしの知る限り当然ながらラクラクと過ごしているような卒業生は、昨今、 いないのである。そういう人が、今又この詩に立ち戻ったとき、詩と自身との距離をはかりながら、感慨は深いであろう。
 あんまり佳いメールをもらったので、わたしもまたこんな詩に自分を曝してみたくなったのである。
 そこへまた一つの、ごく珍しい人の「アイサツ」が届いた。

* 新年明けましておめでとうございます。
 新年のメールをいただきましてありがとうございました。
 私は調査研究を主な仕事として、日々働いていますが、成果物であるレポートは使い古された言葉ばかりで、どうも具合が 悪いなぁと思っています。
 かといって、新しい言葉(事実をより正確に伝える言葉)が使えるわけでもないので(使い古された言葉の威力も想像以上 に強いのです)、何となく使い古された言葉を選んでしまうのです。
 と書いていますが、実は言葉が使い古されているのではなく、調査研究の枠組みそのものが古くなっているのかもしれない と思えてきました。
 先生にいただいたメールを拝見しますと、短い言葉でぴしりと意を尽くせているような気がして、感に堪えません。
 それ故、上の独り言みたいな感想を書いてしまった次第です。どうぞお許しください。
 本年も何卒宜しくお願い申し上げます。

* かなり大事なことを指摘している。「文学」を事としている者には、ゆるがせに出来ないのが、要するに「使い古 された言葉ばかり」で書けば、手ひどい通俗読み物に堕してしまうこと、これは覿面の見分けどころで、どれほど高名な大家のものでも、「通俗読み物」は、要 するに「使い古された言葉ばかり」で書かれてある。ほとんど例外がないほどである。
 優れた文学作品では、それが無い。在ってもその場合は真の意味で「使い古された言葉の威力」を生かしている。ここがま た微妙な第二の見分けどころであり、「夕方・夕刻」ふうに書こうが「黄昏・薄暮」ふうに書こうが、言葉をつよく生かして「使い古された言葉の威力」を駆使 しているか、屈して無自覚・無批判にだらしなく悪用しているか、の違いになる。これまた読めば一目にして瞭然たるものがある。わたしは今「小説」の文章を 謂っている。そしてこの問題を突き詰めてゆくと、必ずやこの卒業生クンが、彼の仕事の領分のこととして指摘している、即ち「調査研究の枠組みそのものが古 くなっている」のに比類される文学・創作上のある認識不足や反省・自己批評の不足の問題に突き当たるであろうと、私は推知している。
 思いがけず本質的なことをこの人は伝えて来て呉れている。感謝。

* 今日は大きな作品を二つスキャンし終えた。電子文藝館の展観現況をいつでも確かめられるように、「一覧」も作 成した。戸川秋骨といえば、北村透谷や島崎藤村の僚友であった「文学界」時代の大先輩に当る。この人の文語文の「自然私観」を校正している。
 英詩が原文で入っていて、これが、スキャンしてみると日本文にひきずられて全部文字が化けてしまっている。手書きする しかない。分かる人には、それはこうすればと道が知れているのだろうが、わたしは、不器用に覚え込んだ一本道しか行けない。
 入稿原稿も、わたしの願ったとおりの配字などでATCに組み付けて貰うには、全部フロッピーディスクに入れて、それを 郵送している。電子メールだと、太字も大字も、字サゲも、みんな平板に変わってしまって届くらしいからだ。ファイルして送れば佳いのですよと言われるけれ ど、今もってそんな方法も覚えていないのだから、怠惰なものだ。ばかばかしく初心の手段なのであろういろんなことを、わたしは、未だ覚えないままパソコン を使っている、駆使どころか。恥ずかしくなる。
 

* 一月八日 火

* 建日子が三十四歳になった。昨夜遅くにメールで、祝う気持を届けて置いた。怪我無く元気に心ゆく仕事をして欲 しい。次の仕事は自信ありげだ、楽しみにしよう。

* 戸川秋骨「自然私観」は優れた力の入った文明論で、その文語体も懐かしい律動感に富み、「人間」に基本をつよ く据えた文明批判や日本文化への批評など、時代背景を考慮しても無視しても、堅実で健康な、いささかもひるむもののない毅然とした論旨であった。今読んで も少しも古びたものでなく、むしろ本質的に意義を失っていない。佳い論文を読んだと、嬉しくなった。英文学者であるが、また文学界の同人であり、透谷や藤 村に親しい同僚であると共に、夏目漱石とも親しい人であり、西洋文明や文学、思想の摂取に安定した真摯なものを感じ取らせる。明治の人の踏み込みの確かさ である。秋骨の雅号は藤村によるものという。

* 秋骨論文ととともに、戸坂潤の「文藝」「文学」の意義に手強く触れた論文、石川達三の力作小説、そして現会員 渡辺通枝さんの随筆、都合四本を一枚のフロッピーディスクに入れて、ATCに送れるよう用意した。

* 今日も天気は良し、出掛けてもよかったのだが、なんとなく寒そうに感じて、妻が友人の娘さんの出産祝いに出掛 けたアトも、留守番しながら、秋骨論文を初校し、また全編念校し終えた。今は、仕事の尻を追い立てておくのが、先のためにも有り難い。

* 芹澤光治良元会長の四女岡玲子さんから、記念館であるサロン・マグノリアでの講演を依頼された。「死者との対 話」に関連して話して欲しいとのこと、ただわたしは芹澤さんとの私的なつながりが全くなかったから、ゆかりの人達の集いの中で、さほど話せる材料をもたな い。いずれにしても、二月下旬までは、どのようにも講演の仕事を割り込ませる元気はないと当面お断りして置いた。

* 今日は又、ごっついモノが届いた。
 まず英文で書いてみよう。 Photo-induced Phase transition in spin-crossover complex
  和文で謂うとこうだ。
 スピンクロスオーバー錯体の光誘起相転移
 平成13年度の小川佳宏君の「博士論文」である。その分厚い冊子を送ってきてくれた。まず題だけ見ても、分からない。 中は日本語だから読めるけれど、理解を絶している。最後の98頁に、「謝辞」が書いてある。大勢の先生の指導や援助や、また先輩学友達の支援で研究の成り 立ったことが分かり、胸が熱くなる。その前に「出版リスト」「発表リスト」が三頁にわたり掲出されているが、何度も何度も論文が書かれ発表されて、博士論 文成立に至っていることが分かる。更にその前に「関連図書」が62項目も挙げてある。殆どが欧文の文献である。その前に「配位子の記号表」という一頁があ るが、もうこれは手に負えない。その前の見開きに、論文の「第6章 まとめと展望」がある。読んでみるが、歯が立たない。立たないけれど何となく、ウーン と感嘆してしまう。

* 小川君は、わたしが退任の最後の一年、「総合講義B」の教室にいた。その頃から同じ教室にいた相思相愛の人 と、最近結婚して、九月に、ドクター卒業と同時につくば市の研究施設へ就職し、初々しい婦人との新居を構えたところである。
 夫人は修士卒業後に古河電工に勤務し、初のボーナスでわたしを呼び出し、小川君と二人して、神楽坂でぜんざいを振る 舞ってくれた。
 小川君はこんな難しい研究をしながら、一方で日本の古典に興味をもち、読み続けている。

* 二月の初めに、京都美術文化賞の母胎金融機関の理事長、叙勲の祝いをするがと、電話で出席の意志を問われた が、勘弁願うむね返事した。最初の講演とさしあっている。
 

* 一月九日 水

* 一両日も前であったか、夕刊に、注連縄の写真が、大きく三つほど出ていた。記事の趣旨は、要するに注連縄が 「蛇」体を表してあることへの、或る写真家による「気付き」から、多く実例写真の撮影されてきた紹介であった。注連縄が蛇の模写であり、神・人の結界をな しているぐらいは、吉野裕子の著を待つまでもなく、気付いている者は大昔から気付いていた。わたしなど昔からそれを謂い、そうした関心が、わたしの創作の 根底に動機となっていることは、読者は夙に承知されている。
 人類の歴史と蛇乃至龍とが大きく深く関わり合ってきたことは、歴史的にも各方面で具体的な伝承や形象によりつぶさに挙 例できるが、モノがモノであるだけに、大きな文化史として、グローバルに連携した言及があまりなされ得ていない。国際ペンの「アジア太平洋会議」で、めっ たになく腰をあげて、わたしがこの問題で提言の演説を試みたのも、いますこし関心が国際連携でひろがってくれぬかと思ったからであった。
 泉鏡花のような、純日本的と見えてその実は日本の作家活動の中で最も容易に世界史的な場へ流れ込みうる素質を、「水= 蛇」の面から指摘し、「鏡花の蛇」がいかに本質的な課題であるか、繰り返し説いて倦まずに来たのも、その関心からであった。
 日本の神の大方は、水=海=河川池沼=山・田の神、即ち蛇神である。正身(むざね)を辿れば「蛇」に至る。記紀の世界 にも風土記の世界にも明証がある。注連縄は大きなシンボルであり、茅の輪もそうであり、綱引きの綱も、境神の前へ引きずって行き、燃したり切ったりする縄 も、鞍馬の竹伐りの竹も、そうである。なぜそのような祭事や忌事が広く久しく行われてきたかは、心して考えてみてよい。
 新聞に語られていた通り、鳥居などにかけられた注連縄の容態は、限りなくいろいろで、簡略にしてリアルな蛇そのものか ら、出雲大社のように、雄大にして象徴的なものまで、おそろしいほど多彩である。が、根底にはかなり明瞭に「蛇」のすがたや、その性的な勢力の猛烈さに由 来した容儀がみられる。御柱でしられた諏訪大社の神事の最初は、土の室に籠もった神官の手で、細い藁からだんだんに巨大な縄なりに編まれてゆく蛇体生誕の 振舞いであり、何を意味しているかは謂うまでもない。
 こういう不思議は、なにも神代の昔に限られてはいず、今日の文化的表象のなかにも生き延びて、意味をもっている。
 近時、あちこちでしきりに「水」の「山」の「海」のシンポジウムが「環境」問題として開催されていても、どこでもこう いう根源の人類生活に視線をさしこんでいる例がない。認識がうすっぺらいのである。
 この蛇の問題をぬきにして、世界的な「人間差別」の問題が根底からは読みとれ得ないことも、いま、識者の思いから完全 に蒸発しきっている。ばからしいほどである。単なる好事家の好事ではなくて、考えねば済まない根底の課題のここにあることをまで、新聞記事もとても言い及 ぶことの出来ていないのは、笑止であった。

* ホームページを拝見いたしました。メールを取り上げていただき嬉しかったです。ありがとうございました。
 先生が感想で書かれたことまで、考え及んでいたわけではありませんでしたが、先生の文章を読むことで、日々の違和感自 体、今の自分にとっては失ってはならないものなのではないかと思い至りました。
 先生の感想の引用:優れた文学作品では、それが無い。在ってもその場合は真の意味で「使い古された言葉の威力」を生か している。
 全くおっしゃるとおりで、「使い古されているから」駄目な訳ではないんですね。
 また、先生がおっしゃる「認識不足や反省・自己批評の不足の問題」も自分にとっては耳に痛く響きました。ありがとうご ざいます。
 これからも、ホームページ拝見させていただきます。

* こうして対話の進んでゆくことが、有り難い。
 

* 一月九日 つづき

* 長谷川時雨の『旧聞日本橋』のおもしろさ、懐かしさといったら、ない。わたしは京生まれ京育ちで「明治の日本 橋」とはずいぶん別天地に育っているし、時雨の時代とは幾世代も離れている。それだけに、かえって違和感もなにもなく旧い昔の日本人の暮らしが、町並みと 共に再現される嬉しさは、言い尽くせない。谷崎モノの「少年」時代なども、この読書で、生き生き甦ってくる、ああそうかと。
 永井荷風の東京下町は、山の手の目でみた下町である。時雨のような生粋のものではない。荷風には荷風の面白さがある が、例えば水上瀧太郎の「山の手の子」と比べて、時雨の日本橋回顧は対照的である。水上のものも作品として優れているが、時雨のシャンシャンとしたメリハ リの文章、とても佳い。自序から最初の章を読み終えて、次の「利久の蕎麦屋」へ読み進んでいる。

* 入浴しながら、若い女性研究者の「鏡花論」を二章も読んだ。一章でうだりかけたていたが、二章が「龍潭譚」を 語っていたので、ふんばって、汗たらだらの中で面白く読んだ。
 ただ、どうにも、もう一段深く突っ込めないのかなあとじれったくもあった。鏡花の小説を素直に読めば、呪物も呪性もた いへんなのは要するに常識であり、なんでそれが出てくるのかが解かれねばならぬ問題であろう。鏡花作品では想像以上に人間が対立して、死んだり殺したり恨 んだりしているが、対立の図式はわりとハッキリしている。鏡花の文学的な本性の根には差別被差別問題がとぐろを巻いている。それにズブリと視線をさしこむ ことを躊躇った鏡花論は、ほとんど、ことごとしいまでに観念的なものに韜晦してしまう。

* 映画「アマデウス」は、長篇をやすみやすみ読む按配に、DVDで見ている。いい映画だが、息苦しい厳しい主題 であり、楽しいよりも、あまりに切実である。

* 石川近代文学館の井口館長から、「電子文藝館」に原稿を戴いた。中西悟堂、中谷宇吉郎、谷口吉郎という三人の 科学者で随筆家の文業をそれぞれに纏めて、論じた、論考であり研究である。これをとお願いしたのを聴きいれてもらえ、有り難い。

* 二月最初の講演の草稿づくりにもとりかかった。ま、これは、可不可はともかくとして、話せることもあり、纏ま りはつくであろう。どう、程良く収拾するかが、むしろ困難なほどの大課題になる。手持ちの話題から、ゆっくり渦を巻くように拡げたり絞ったりしてゆきた い。
 

* 一月十日 木

* 新しい年が、もう10日目になってしまいました。如何お過ごしでしょうか?早く書きたいと思いながら、気ぜわ しく今日まで過ごして、疲れがかなり溜まっていますので、メールを書く代わりに、書いてある日々の「断片」を、少し送ります。ただしこれはただの近況報告 です。これからラテン語習いに出かけます。
 元気に元気に過ごして下さい。

* 言葉は不思議に性質を替える。同じメールでも、こういうふうに真っ直ぐ語りかけるものと、思案し論述したよう なものと。どちらも必要な選択であり表出であるが。上の「断片」は、師走から正月へかけての日録の体でもあり、もっと自在に、或る意味ではとりとめなく、 形にもとらわれず書かれている。ぜんぶ取り纏めて云えば、そのようなスタイルの「詩」編のようでもある。真っ直ぐ語りかけられている気になる。かなり長い ので、日録はここには引かない。「詩」のように読める「作品」らしい箇所は拾って、「e-文庫・湖」に写しておく。

* 『元気に老い』 春秋社のご本、昨日やっと手に入り、うれしく帰りました。
 今 ざっと目を通したところ。
 はじめはそれぞれのモノローグとも言えそうなほど それぞれに深く話されていた内容が 回を重ねるにつれてお二人の会 話として絡み合ってくる様子を感じ取りました。
 熟読するのを楽しみにしています。
 お写真も懐かしいものでしたが、目線がちょっとうつむき加減ですね。
 忘れかけていた黒いピンを思い出しました。
 お正月もピンがぐさっと刺さったまま。新年から黒いピンを三本くらい刺して心騒がしく生きています。
 身近な人が亡くなる新年です。あしたは義父の弟の奥さんのお通夜。我が家の老人達は今のところすばらしく元気に老いて います。

* この本のことは、なぜかポコリと意識を洩れ落ちていた。わたし自身「老い」の苦痛にまだ痛切に煩悶していない まま、「老い」を語るのは、つい希望的観測か自己激励めくので、暫く、向こうへ押しやっていたかったのだ。

* 悔悟は十本の指では足りない程ありますが、今更嘆いても十代には戻れませんものね。
 この歳まで、自身、家族も含めて人とのかかわりで、多くの辛苦を嘗めてきたと思います。これも個々の尺度ですが。
 これから先は何が待っているかも分からず、いい事がそうそうある筈もなくそれが人生でしょうし。それをどう楽の気に持 ち変えるかの気働き、が、老後を生きる指針みたいなものだと思っています。
 例えば、以前一年足らずの葛藤を経て、酷い耳鳴りのプレッシャーを克服しています。今も最初の兆候と変わりなく、頭を 振動さす程の季節外れの蝉しぐれです。でも、私は気持ちの変換が出来ました。夜、安眠もできます。
 今朝向かいの奥さんのお話で、私と同じ症状の友人が安定剤も飲み過ぎで効かなくなり、もう死んでしまいたいと嘆いてい ると言います。私の経験を又々話して気持ちの変換を助言してあげてと、伝えました。私が普通に暮らしているので、彼女は耳鳴りがもう治っていたと思ってい たらしいのです。
 あまり欲はありません。
 もう、夢観る歳ではないけれども、夢はいつも追っていたいのです。

* いろんな人生がある。当然である。自分の道を自分で歩んでいる。これも当然である、が、この当然は難しく、じ つは誰にでも出来ているわけではない。だから愚痴が出る。
 
* 肺を病んで入院し退院し、空気の佳い、息子の家にも近いところへ引っ越し、と、ご主人が膝を骨折入院されたと、年賀 状に。こういう例がなんだか今年はひとしお数多いように感じている。大事に日々を送らねばと思う。

* 出稿用の長谷川時雨随筆を読み終えた。念校している妻の弁のごとく、これは「江戸から現代いや近代へつなぐ東 京」日本橋の証言として、限局されているが濃密でリアルな叙事詩である。少なくも町並みとしての日本橋は、完全にいまでは消え失せているとしか思われな い。震災で、戦災で、戦後のあわただしい繁栄で。
 谷崎潤一郎が、見るのも疎ましいと、生れ育ったこの界隈を去って関西に住んだ気持が、今こそ、本当によく分かる。痛切 に分かる。歌舞伎の書き割りにのこされているような町並みと風物とが、まだ時雨の記憶に、はきっちり残っていた。よく書き留めてくれたと感謝したい。

* 「電子文藝館」の掲載分に、いくらか受信者の機械で「化け」が出ているらしいと、倉持委員のメールが、メーリ ングリストに入っている。これは、或る程度予期していた。原稿につとめて忠実にやっていても、例えばわたしの機械では再現できる正字なのだけれど、ひょっ としてこれは「届かない」かもと恐れる字が、これまでも幾らもあった。だが、その時点では、そう決めつけてもしまえなかった。
 この問題に最善の対処方は。発信時にこわごわ憶測していられない、できるだけWEB受信してみて、何処のどの字が怪し いと点検しなければ意味がない。スキャン起稿で初校・念校しているが、さらにWEB念校も必要だということが分かってきた。「WEB念校」は、「読ま」な くてもいいから、ただ逐一画面を追って、へんな箇所を発見し報告するという作業になる。委員の何人かで専従点検してもらえると助かるが。これは、WEBサ イトを開いて、追いかけてもらうだけで済むのだが。ボランティアでモニターを募集するか。

* 気骨も折れていて、今晩は映画「007 殺しのライセンス」を見て過ごした。こころもち不眠気味で困る。一つには「東海道中膝栗毛」が面白いのだ、真夜中にクスクス、ゲラゲラ笑いながら、もう弥 次喜多は、京の都まで来てしまっている。
 なんという小説だろう。職業としての小説家第一号といわれる十返舎一九である。なんという騒がしいケッタイな小説だろ う、なんという卑小な滑稽だろう、それなのに、なんという、からっとした笑いの取り方だろう。笑うわけがないと思うのに、真夜中にも笑わせられてしまい、 やっと寝てからも、弥次喜多のバカげたしくじりのアトを追って、夢を見ていたりする。
 こういうどうしようもない、うつけた二人組を主人公に据えた文学、古典を、どうしても他には思い出せない。しかも途方 もないベストロングセラーであった。

* 眠れないと、ものを数える、のはおおかたの処方らしいが、わたしの数えものは、一つ間違うと頭が働いて逆効果 になる。般若心経も暗記した。歴代天皇を神武から平成まで言えるようになった。外国の主演級男優のフルネームが百人を超えてしまい、女優も七十人から八十 人に迫り、もう興味が失せてきた。百人一首の和歌も作者も、ま、何とか。
 暮れのうちは、赤穂浪士四十六だか七人だかのどれほど覚えているだろうと、あてずっぽうで初めて見たが、半分以上の二 十六人まで思い出せた。これには驚いた。あと二十人は、一度調べてしまえばすぐ覚えてしまうだろう、それでは面白くない。
 しかし面白がっていては催眠効果が出ないので困る。イチバンの難関は、マタイ伝の頭の系図だが、覚えてみても何の役に も立たないからいけない。
 

* 一月十二日 土

* 昨日の午後三時頃、潰れるように寝入ってしまい、十八時間近く昏睡していた。寝過ぎて腰が痛み目覚めたが。そ の前の晩、眠れなくて、五時前にはとうどう起きてしまい、仕事を始めてしまったものの、午後になり堪えられなくなり、床に入り、そのまま晩の食事もぬきに 寝込んでいた。風邪などではなく、ただもう睡眠不足が溜まっていた。石川達三や長谷川時雨など五本の原稿と他のものとをATCにディスクで郵送し、支払い の必要な用事を郵便局で済ませておいて、寝込んだ。酒を飲んだのではない。鏡割りの餅で、恒例のぜんざいを炊いて、食べた。うまくて、満足したのであろ う。

* 京都の受賞者美術展が、去年までは府の大きな施設をかりて一堂で一時に展観していたのが、今年から、京都中信 の御池ギャラリーで、三受賞者順繰りに開催と、展覧会のかたちが変った。最初に三人と、べつに審査員の石本正、清水九兵衛、三浦景生三氏の賛助出品オープ ニング展を一週間ほどひらくが、会場は前年までとはうんと狭くなるので、様変わりするだろう。テープカットにわざわざ私まで出てゆかずとも済みそうな按配 なので、失礼する。
 

* 一月十三日日 日

* 四時間しか眠れなかった。五時に目覚め六時前に床を離れた。暫くの間、ゆうべビデオにとった、キアヌ・リーブ スの娯楽映画の頭をみて、甘酒をあたためて飲み、機械の前に来た。高木卓の小説を読み始める。

* ペンの会員で知り合いでもある人が渡辺崋山を書いたらしい小説風の本を送ってきた。冒頭をちらと読んでやめ た。文章がとてもよくない。その上に、表紙から文中まですべて「華山」になっている。あの渡辺崋山なら「崋山」である。よほどわたしの知らない特別の理由 で「華山」が正しいのだとなれば謝るが、何度も崋山にふれて書いて来ているし、そのつど崋山の「崋」に神経を使ってきた。まさかと思うが、特別の秘密があ るのだろうか。信じられない。

* 「電子文藝館」に湧き出るように問題点が出てくる。ほとんど予測していたことで慌てはしないが、対策はかなり 難しい。例えばドイツ語の詩が戸川秋骨の文中に引かれていて、あたりまえの話、ウムラウトが出てくる。わたしが自機の或るソフトを使用すればウムラウトの 字も再現できる。だが、それをわたしのホームページへ転送してみると、ウムラウトの字はすべて「?」に変っている。文藝館で発信しても、受信機では「?」 なみになって届く確率が高い。
 わたしは、「?」をそのまま残し、その前にウムラウトのつくべき「a o u」などを入れ、詩句引用の前に小文字で注記して、「?」の前の文字は「ウムラウト」ですと告げるより、手がない気がする。手元で再現できていても、先方 でどうなるかと思えば、こういう姑息な方法も必要になる。使用頻度の少ない正字は避け、化ける懼れのある漢字にはむしろ努めてうしろのカッコにヨミガナを せめて書いておく。
 いま、妻と私が交替して初校と再校をしているが、編集者の体験からしても、再校で完璧ということは滅多になく、せめて もう一校欲しい。テストサイトに仮掲載の際に、誰かが一応責任を持って当該作品にざっと目を通し、疑問点を未然に処理できるよう、最低三段階を踏むのが誠 実だろう。委員にはみな生活がある。引き受け手がなければ、わたしがやるよりない。
 原稿の段階で筆者が責任を持つのだから、間違いが出ても、それは筆者の責任だとは言えないのである。機械のセイで出る 化け文字もある。それに、かりに筆者がデタラメ原稿を送ってきたにしても、世間へ公開してしまえば、もう日本ペンクラブないし電子文藝館の姿勢や責任問題 に変る。読者に対し、これは筆者が杜撰だからなんですという弁解は成り立たない。ペンの事業であるからは、ペンとして及ぶ限り「読める」コンテンツを提供 するのが正しい対応であり、当然である。
 問題には少しずつでも解決の努力をしなくてはならない。こういう事があると予測して、開館前にわざわざ予防線の「断り 書き」を、入り口近くに掲示して置いたのである。
 

* 一月十三日 つづき

* 井口哲郎氏の「評伝 中西悟堂・中谷宇吉郎・谷口吉郎」が面白い。野鳥の大家、雪の研究、建築家の三人とも石川県出身である。そういう科学者を、石川近代文学館の館長さんが 「文藝」の面からスケッチし、そして適切な、内容豊かな「年譜」を添えている。「いい年譜を書く」のが人物研究では「上がり」なのである。年譜のついた研 究は或る程度安心して読める。そのう意味でも、一つの立場からの一つの仕事として、たいへん典型的であり、こういう仕事がペンの「電子文藝館」に幾つも入 ることが大いに望ましい。「年譜」への関心がもっと持ち上がらねばならぬ所で、「年譜学」という方法論がしっかり出来上がることを、わたしは昔から希望し 発言してきた。井口さんの過不足なく的確な年譜描写、一つの「文藝」なのである。

* 高木卓の歴史小説は、まだ、頭の少ししか読まないが、物足りない。

* 映画「アマデウス」は、モーツアルトの音楽の美しさにこそ驚嘆するが、見ていてあまりにつらい。舞台を知って いるので結末は見る前から分かっているのだが、サリエリ役もアマデウス役もまるで知らない俳優なので、だれかが演じているようにとても思われず、感情移入 してしまうと苦しくなってくる。雨の共同墓地の死体穴に、袋詰めのモーツアルトがどさりと棺から滑り落とされる無常。ぞっとする。二度と見たくない映画 だ。楽しんでみるのには、題も見ていないキアヌ・リーブスのサスペンスの方がいい。やれやれ。
 

* 一月十四日 月

* 新年の初外出に、渋谷松濤の観世能楽堂へ。梅若研能会初会で、新梅若万三郎の「翁」はめでたく、ぜひ出掛けた いと思っていた。
 上々の万三郎「翁」で、今年はことに悠揚として大きくめでたく、ひとしお「清まはる」思いに身をひきしめた。面箱も、 ま、千歳も若々しくけっこうで、囃子もよく響かせ小気味良かった。
 物足りなかったのは、案の定の、三番叟山本東次郎。神経質で、黒尉の飄逸にして溌剌としためでたさに足りなく、品はい いが、妙に憂わしげな三番叟なのである。鈴の段に入って睡魔に身を委ねてしまう三番叟というのは珍しい。三番叟は、下手は困るが、元気なのが佳い。
 アトへ能が二番、狂言もあったけれど、朝日子仲人の小林保治氏と顔が合っていたけれど、失礼した。

* 地下鉄で銀座に移動し、古山康雄氏の二十七回めの個展を、松屋の裏の方で観た。二十七年欠かさずの個展はえら いが、たいへん意欲的に趣向心のある人で、興味深い展示を試みられる。いわばマントラ画風で宗教画に大別されるのかも知れないが、技量的確で、線のたしか な日本画家が、線を没して色彩を独特に微光の底から輝やかせている。
 湖の本の早くからの継続購読者で、じつはわたしは、小説に志のある人とばかり思っていた。小説にも独自の世界をためら いなく書いて、「e-文庫・湖」にも作品を貰っているが、本来は画家なのである。初対面のつもりでいたが、古山さんの方はそうでもないようで、太りました かと言われ、それではよっぽど昔のわたしをご存じといわねばならない。
 古山さんその人も予想していた人とはかなりちがい、体格豊かな、会社社長といった風体の人であった。すこし、ゆっくり 話してきた。

* 銀座松屋で、源氏物語にあてこんだ宮廷衣裳などの展観招待券を利用してきた。この手の展覧会としては親切によ くモノをあつめた啓蒙性豊かな展示を、満員の人だかりにまぎれこみ、楽しんで観た。衣裳も想ったとおり美しいが、宮廷の日常が、模型で大きく展開されてい たのは、リアルな理解には役立つおもしろさで、にこにこしながらゆっくり覗き込んできた。

* 空腹だったので、店内で気に入りの「宮川本廛」に入り、鰻を、「大丼」の菊で、食べた。出てきた酒の「宮川」 は、例年読者の梅田万沙子さんに頂戴する旨い酒で、すこし大きめの銚子なのも嬉しく、満足した。鰻屋の酒は旨いものと昔から定説。梅田さんは日本橋宮川本 家の出と聞いている。有楽町の「きく川」の鰻とまたすこし違う。ふっくらと蒸してある。ぺろぺろっと食べてしまった。食べての口すすぎに蓋をとった肝吸い がまだ十分熱かったのも気持よかった。

* 身装具の松屋セールで、いろんなものを並べているところを通りすぎ、ふと、珊瑚珠の華奢なネックレスに目がと まり、安くはないが買えない値段でもなく、あわや買いかけて、しかし、少し他のものより値は安いので、何故かと店員に聞いてみた。思った通り、珠が小さい からだと謂う。小さいから上品に華奢な感じなのだと分かっていたが、ま、新年から「小さい」と謂われているものに手は出すまいと、見過ごしてきた。

* もう少しという気があり、場所を変えて、気に入りの「三趣の肴」で酒ののめる店に足をはこんだ。時間はやく空 いていて、美しい人にくりかえしお酌をしてもらい、ほろ酔うて機嫌良く保谷に帰った。駅で、もう一杯生ビールの冷たさだけを味わってきた。ありていは、ず うっと読みながら来た森瑤子の「情事」を読み切ってしまいたくて、足をもう一度とめたのである。
 この小説はよく書けている。他の人は知らないが、この小説は、わたしには書けない、書けないが読んでよかった、と思 う。よく出来た処女作にある、丁寧さと厚みとがしっかり備わっていて、身を寄せて読み入ることができる。
 

* 一月十五日 火

* 待っていた米原万里さんの随筆原稿が送られてきた。日本ペンの理事仲間、ロシア語同時通訳とエッセイストとし ての元気旺盛な活躍で知られている。エッセイが六編、「或る通訳的な日常」という総題をつけ、筆者も賛同してくれた。ちょっとうまい題の気がしている。気 取って上手く書こうという書き方ではない、言葉と文字とが元気に胸の内から吐き出されて行く。勢いが活気になりどんどん読まされてしまい、すべて体験的な 話題が具体的に絵柄として紡がれているので、新鮮な景色を車窓からながめている気分になる。ただ、かなり品のない物言いも平然と吐き出され、それがお好み なのかと思わせられ、嫌みは感じない乾燥したテムポの文章だけれど、その手の露骨さまでも敢えてけっこうけっこうとは思わない。下ネタへハナシを持って行 かなくても、読ませる力はあるのだから。とくべつ「チンボコ」が出たから、「ケツをまくる」から面白いわけではないのである。女もののスカトロジイは、昂 然とした性器玩弄趣味は、へたをすると未熟な気取りに成りかねない。

* わたしがソ連作家同盟の招待で、なくなった宮内寒弥氏や、健在の高橋たか子さんとロシアを訪れたのは二十年ちかい昔だが、モスクワの作家同盟の食堂で、案 内役のエレーナさんも一緒に食事していたところへ、講談社のたしか専務だった三木章氏と一緒に現われたのが、通訳役の米原さんだった。当時から元気溌剌。 同じその人が昨年の春から理事の一人として参加、わるびれないストレートな発言で理事会のヘンな空気をときどきかき混ぜてくれる。言論表現委員会のシンポ ジウムにも参加して貰った。
 こういうふうに、読んで面白い原稿もどんどん入ってきて欲しいものだ。

* 米原原稿はメールで届いた。一定の形に調えるために、やはり「起稿」はしなくてはならず、通読も必要だ。読ん で行くと、どうしても変換ミスや明らかな誤記がエッセイ六編の中に20箇所ばかり出てきた。「筆者の責任」だからとそのまま掲載することは出来ない。この 仕事の当初、わたしも、筆者から送られてきたものはそのまま載せる、誤記誤植は筆者の責任と思いかけていたが、実際に自分で大方の作業をすすめていると、 この仕事は、日本ペンクラブが公開している外向きの「電子文藝館」なのであり、筆者の責任です、文藝館は掲載するだけで内容如何には関わりませんなどと は、言えない、言ってはならないものだと、覚悟を新たにした。
 たとえディスクであれ、メールであれ、きちんと「念校」の上で入稿しないといけないものだと、よく分かる。

* おそらく普通の紙の単行本にして10册を越す原稿が既に出ている筈で、紙の本に作っていたら、生産費に 1000万円どころでなくかかっている。おそらく発足段階ではサイトの立ち上げがあったから、少し費用はかさんでいるだろうが、それでも十分の一とは行く まいし、この先はもっとはるかに廉価で済むだろう。
 ただ、起稿や校正をぜんぶアルバイトに出したりすると、比較すればそれでも問題外に安いものだが相当な費用を用意しな くてはならない。貧乏なペンに金を費わせたくないし、作業をこころよく手伝ってくれる仲間が少ないなら、自分の時間や体力を犠牲にしてでもわたしはやって しまいそうである。困るけれども、事が文藝・文学で、根が好きな仕事だという気があるので。だが、やっぱり困るだろうなと思う。ここから逃れ出るためには 任期をテコにして脱出するしかないだろう、が、すると「電子文藝館」はそのさき、どうなるだろう。やれやれ、余計な心配である。

* 年度替わりで、今度こそわが電メ研も「予算」請求をしなくてはなるまいか。毎年各委員会は予算を得ている。電 メ研=電子メディア委員会は、去年は「いいよ、いらないよ」と考慮外にした。事務局の経費か予備費の範囲で済むと思ったからだが、電子文藝館がスタートし ては、そうも行くまい。こういう手当はとてもわたしの性にあわない。グレン・グールドの弾くバッハのピアノコンチェルトをずうっと聴きながら、米原原稿を 通読していたが、そういうことの方がラクチンである。
 このあいだから、隅々まで覚え込むほどベートーベンの三大ピアノソナタをグレン・グールドで繰り返し聴いてきた。ベー トーベン、バッハ、モーツアルトと、月並みな好みだろうが、尽きない魅力である。

* そしておそらく今夜辺り、這う這うのていたらくで京の都を逃げ出し浪速に滞在の、弥次喜多「膝栗毛」の一巻 も、ことごとく読み終えてしまうだろう。干支ちがいで百両の富籤を拾い損ねた江戸の二人は、とんだ浪速の夢は夢の又夢で終えることかと、笑いをかみ殺して しまう。

* インスピレーションが湧かなくて仕事が出来ないと嘆いてきた人がいたので、返事した。「インスピレーションは かき立てても待ち望んでも来ず、忘れていると突如来る意味で、悟りのようなもんです。悟ろう悟ろうとしても悟れるはずがないように。インスピレーションの ことなど忘れ果てて没頭する、燃焼するほうがいい」と。悟りたくての苦行など、ノンセンスとは言わないが、何の役にも立たない。要するに朦朧として悟りへ の渇望を忘れていたい算段に過ぎない。それほども腐食性の強い自我の欲望なのである、悟りたいとは。インスピレーションに期待するのも同じで、一つのニゲ である。来るものは来るし、待っていても来るわけがない。

* 中西悟堂の年譜を読み上げた。すばらしい八十八年であり、文学活動も鳥学にかけた行動的な意欲も実践も、ほと ほと驚嘆させられる。不都合なことは、大きく政治家に真っ向働きかけることで、中止や廃案やまた成立や推進や保護に結びつけている。その行動力は、ひょん な比較をするなら、「声明」ばかりを発して「わがこと成れり」というような現今文学団体のやり方とは、まるで違う。気迫が違う。野鳥、探鳥、県花県鳥、環 境保護、史跡保護、我々の知る随分沢山なことにみな悟堂の指導力と行動力が関係している、また何かをやろうという際の企画やアイデアの俊敏さにも驚かされ る。詩人にして文学者、天台宗の僧正であり、学会を率いる純然の学者であり、目的に向って旺盛な生活者であった。井口哲郎氏作成の「年譜」は簡要を得て貴 重である。
 

* 一月十六日 水

* 休む間もなく文藝館の原稿づくりや掲載のための調整・打ち合わせで過ごす。井口さんの評伝・中谷宇吉郎。要点 が掴まえられていて、簡潔。年譜が利いている。師寺田寅彦との出逢いと継承の美しさに感銘を受ける。中谷さんも、つづく谷口吉郎氏も、ペンの会員であっ た、早速遺族に出稿を依頼したい。

* 苦労して校正しレイアウトして、わざわざディスクで送稿しても、フラットな掲載原稿になって、指定が生かされ ていない。これには落胆する。なんとか工夫がないか、もう少し的確に原稿の味の出せる作業手順が。疲れる。期待していた高木卓の大伴家持を書いた小説が、 「小説らしき・評伝らしき」ハッキリ謂って駄作で、校正に倦んでいる。これが受賞作に当選したという方がおかしい。選者の大方が作者辞退をむしろ是とした 選評を書いていたのはもっともで、菊池寛がなぜこれを強く推したのか、断られて激怒したのか、分からない。作者の辞退自体が誠実な自己批評であると、わた しはそれを評価する。表現も措辞も把握もはなはだおおまかで、知識の提供としても不細工である。この程度の家持についての知識なら、読まなくても持ってい る。とすれば「小説としての妙味」を期待するところだが、それが無い。やれやれ。この人の歴史小説観に問題がありそうだ。

* 昨日今日、なま暖かい。明日には、ぜひ散髪しておかないと。土曜は、結婚式である。
 

* 一月十七日 木

* また五時に目覚めて起きてしまい、いろんな用事をはかどらせて一日が過ぎた。散髪もした。明後日の心用意もし た。人を祝うという気持はいいものである。

* ペン会員の阿部政雄氏から寄稿があった。率直にあふれ出た書簡体の所感なので、「意見」欄に掲載させてもらう ことにした。気持のいい内容である。わたしよりも一回りほど年輩会員だが、気の若さは往年の学生気質がそっくり残っている。学徒としていつ戦地へ出て行か ねばならないかという思いの中で、健康な青春を誠実に送り迎えていた人の想い出であり、昨今日本への警世の言でもある。

* 「東海道中膝栗毛」は信じられない早さで読了した。これは一体験。優れた文学とはとても思われない、いろんな 意味で二流の才能のものだけれど、無類の才能のものでもある。乾燥した陽気に溢れている。騒々しいから陽気なのでもあるが、世間には騒々しい陰気もある。 不快をながく沈殿させてしまわず、あっという間にこの弥次サン喜多サンは吹き払ったように忘れて、機嫌をなおす。その辺の達人めく底の無さが陽気になって いる。二人とも達者な狂歌で失意も落胆も茶にしてしまい、あんなにヒドイ目に遭いながらとこっちが気の毒がっているのに、泣いた烏がもう泣きやんで次の境 涯へ自身を押し流している。
 ことのついでに、式亭三馬や為永春水のものも読んでみようと、別の一巻を枕元に運んできてある。

* 何ということなしに中村光夫さんの「老いの微笑」もだいぶ読んだ。中村さんの小説は珍しい、が、さほど珍重し ない。やはり独特の話体の批評や随筆がしみじみと佳い。
 長谷川時雨の「旧聞日本橋」はじつに面白いが、猛烈な女の特色が長短ともに露出もしている。米原万里さんにも感じた が、出来る女文士たちは、概して必要以上に猛烈で有りたがる、猛烈に振る舞いたがる。そういう手法で世間に「かなひたがる」とも見える。「かなふはよし。 かなひたがるはあしし」という利休の境地からは男よりも女の方が遠いような気がする。田中真紀子にもそれは謂えようか。温厚で的確な井口哲郎さんの静かな 文章などに触れていると、ほっとする。「清らかな意匠」を称えた建築家谷口吉郎の生涯を過不足なくおしえてもらった。

* しかし、毎夜、底知れずわたしを癒すのは、バグワン・シュリ・ラジニーシだ。
 

* 一月十八日 金

* 終日作業。高木卓「歌の門の盾」を読み終えた。途中の感想はあらたまらなかった。万葉集の家持としては、因幡 での「今日ふる雪のいやしけ吉事(よごと)」という掉尾の和歌一首で終るのは常識のようだが、大伴家の宗家家持の生涯ということなら、これからあとに大変 なドラマが待ち受けていた悲劇的な、悲惨なとすら謂える人物であり、そこまで筆の及ばないのは、あまりに型どおりで、作者自身がつよい不満足を表明し芥川 賞を固辞して受けなかったのは自然かつ誠実な進退だったと思う。そこに感銘を受ける。

* ぽつりぽつり寄稿されてくる形勢で、対応は、ますますシンドくなる。
 「毟」る、「鞠」の程度の字が、まともに受信者へ通ってゆかない機械・機種がある。ドイツ文字のウムラウトも化けてし まう。再現が全く不可能なら諦められるが、手元の機械でなんとか再現出来、やれ嬉しやと送信すると先方では読みとれない。読みとれる人も読みとれない人も 有るというのが大いに困惑の種となる。文字コードの専門家達は、もう二万字もそれ以上にも文字コードは出来ているなんて謂ってくれるが、特別な箱の中に用 意されている絵に描いた餅に過ぎず、万人に共通して利用できる漢字は、相変わらず六千字足らずなのである。ウインドウズやマッキントッシュがそれを搭載し てくれない限り、木の葉の小判、泥の饅頭なのだ、手厳しく謂えば、文字コードも、専門家や関係者間の自己満足に過ぎない段階とすら言える。
 わたしの代理として文字コード委員会に出てもらっている、電メ研委員の加藤弘一さんには、わが電子文藝館での体験や現 在の悪戦苦闘もふまえ、文藝関係者からの切実な意見を折に触れ開陳してきてもらいたい。少しずつでも改善の歩を進めて欲しい。

* 2ジャンルへいきなり寄稿してくる会員も、もう数人になる。いまはまだ一人一作だけに絞っているが、いずれ緩 和して賑やかにしてゆきたい、とはいえ、だれが行く末面倒をみるのか。正直のところその辺はお先真っ暗というのが実感だ。

* 佐高信さんから新刊の『手紙の書き方』が届いた。題を見ていささかたじろいだが、中を拾い読んで、軍神と宣伝 された特攻玉砕兵加藤健一の、「ただ抱いて欲しかった」というたった一行母への遺書に、いきなり、泣かされてしまった。
 軍国の母であった、あろうとした加藤まさは、敗戦半年前の二月、最期のあいさつに帰宅した息子に、黙って先祖伝来の短 刀を置き、「虜囚の辱めを受ける前に、潔く自害せよ」と言い渡していた。
 佐高氏によれば、この母は、当時の流行歌「軍国の母」の三番がうたう、このとおりの母だった。
  生きて還ると 思うなよ
  白木の柩(はこ)が 届いたら
  出かした我が子 天晴(あっぱ)れと
  お前を母は 褒めてやる
「短刀を受け取った加藤健一は、まるで上官に対するように母親に正確な挙手の礼をし」「そのまま一度も後ろを振り返るこ となく発って行ったと謂う。」
 だが、戦死して後日、来訪した戦友から手渡された秘かな母への遺書を開いてみると、そこには、ただ一行、微かな震えの 見える文字で、「僕はただ、母さんに抱いて欲しいと願っていただけなのです」と書いてあった。
 この「母は、まさに慟哭したという」と語り部のように佐高信は伝えてくれている。
 「母」なるものにも問題がある。
 「おふくろはもつたいないがだましよい」という古川柳があったが、息子が母をだますよりも、国が、女である母をまずた ぶらかしにかかっていた、また女が、母が、それに弱いと謂うことも、厳然として歴史的にあったし、これからもありがちだとは覚えて置かねばならない。
 ともあれ「慟哭」というツケを息子からまわされないように、「母」よ、我に返って自分の鼻をつまむがいい。
 本は、題だけでは分かりにくい。ハウツーものかと一瞬たじろいだわたしは、佐高信という著者に失礼であった。彼ならで はの趣向がきちんと出来た、手紙の威力を語る本であった。

* もう一冊、岩波文庫に入った野島秀勝氏の訳になる「ハムレット」を、訳者から頂戴した。以前に「リア王」を戴 いている。補注までも面白く、克明に楽しんで読んだ。新刊も、同じ手法で本づくりをしたとある。有り難い。
 

* 一月十九日 土 晴れ

* 六十五歳で「主婦定年宣言」をしましたと謂った、風の便りが、「シメシメ」とばかりメールで伝えられてくる と、どんなものかなあと首を傾げる。同じように、夫の方でも「定年宣言」して、夫妻で仲良く「自由化」が進んでいる例は世間には今や多いのかも知れない。 が、もしそれが「夫婦停年」の単なる冷却・冷淡との同義語化であるのなら、ロクな話にはなるまいという憂慮がある。わたしの実感からすれば、六十五歳から 先の十年二十年の方が、はるかに老夫婦の相互の「存在」が、頼みになり支え合うもののように感じている。幸も不幸もそこにかかってくる重み、これが、たい へん重いのではないか、否応もなく。
 何十年か付き合ってきたのだから、もうもうお互いに御免蒙ると、妻も思い夫も思う気持、全く分からぬではないけれど、 どこか寒い。「それでけっこう」とは思わない。

* 今日結婚式を挙げる東工大の卒業生、女性、は、もう十年近く前だが、わたしの教室で、一番重んじたい「心こと ば」は、「心の支え」ですと書き、当時、寝たきりの祖父と介護の祖母とをいたわりながら、人間の生きる寂びしみというものを、いま覚え始めていますと書い ていた。
 そして、今年になって、結婚直前のメールのなかで、今にしてはっきり気づいていることですが、「あの当時、祖母が祖父 を支えていただけではなかったのです、寝たきりの祖父が、介護の祖母を支えていたとも言えるのですね」と。
 簡単な一行であったけれど、すこぶる感動した。そういうことの分かること、それがどんなに大事で難しいことかというこ と。

* 人間存在は、根底に深い寂びしみを抱いている。「いろんな寂しさがあるのだと、大学に入ってから気がついてき ました」「寂しさに心して触れ、自分のそれだけでなく、人の寂しさにもいたわりの気持のもてることで、人は一回りずつ大きくなって行くのでしょうか」「わ たしはまだ寂しさ一年生ですが」とも書いていた、あの二十歳の学生が、いま、立派な社会人になり、優秀な研究者になって来つつあり、そして妻になろうとし ながら、あの元気だった祖母を、余命少なかった祖父が、病床から支えてもいたのだという「夫婦」の機微に思い当たって、今しも自身の結婚式に臨んだという こと、それに心打たれ、わたしは、心から祝福した。「良き日ふたり、あしき日も二人、おめでとう」と。

* 目黒迎賓館ちかくでの結婚式も披露宴も、それはそれは心地よいものだった。
 八十人あまりのうち、家族親族と、少数の会社上司とを、わたしも、除けば、全員が新郎新婦の友人達だった。二人とも同 じ大企業の、同じ場所で、同じ上司のもとに研究生活をしているらしい。それにしても会社の同僚、大学の、高校中学の友人達が、あんなに和気藹々と大勢集ま るというのは、羨ましいほど佳いものだった。白人も黒人も何隔てなく混じって、披露宴の経過は、さながらのシンフォニイであった。調和と変化があって底抜 けに楽しく、腹の底から大笑いする場面が幾度も幾度もあった。新婦は朗らかに美しく、新郎はスマートにナイスな青年だった。彼は大太鼓を、プロと一緒にみ ごとに乱れ打ちして、わたしたちを感嘆させた。
 またすてきな黒人男女の、それはそれは美しくも力強い幾曲もの歌声に誘われて、いつか新郎新婦も踊り始め、会場の全員 も立って、手を振り足をならして大喝采しながら踊った。自然に湧き上がるように、そういう雰囲気が生れていた。
 媒酌人もなにもない、ひな壇には新郎新婦が二人いて、宴の真っ先に、新郎がみずから挨拶したようなからっとした披露宴 だ、すべて新郎新婦二人で企画し心用意して出来上がった元学生君達のこういう結婚式の楽しさを、わたしは、もう四度も知っているが、今日はひときわ晴れ晴 れと美しく盛り上がり、そう、まさしく自然な趣向がよく生きていた。わたしの祝辞など、どうというものではなかった。
 おもしろいのは、大学時代の先生は、いや学校時代の先生は、わたしが唯の一人であったこと。今日は国公立の共通一次試 験なのであった。九大の先生も東工大の先生も、この日は総動員で試験場を担当していたのだろう。

* 三時から結婚式、四時から七時まで披露宴。あまり心地よかったので、帰路にひとりべつの店に入って、お祝いの 冷酒「松竹梅」で、少し贅沢した。美しい人にもお酌してもらい、帰りにはオーバーを着せかけてもらった。なにもかも心嬉しいいい気分だった。
 そうそう、新婦の友人である懐かしい昔の学生達とも、三年生の教室で別れてこの方の顔を合わせた。一人とは、だが、以 前から親しいメールのやりとりがある。もう一人とは連絡がずっと取れていなかったが、今日メールアドレスを交換して再会を喜び合った。三人とも、わたしの 教室にいた頃は仲良く一心に弓を引いていた。みな美しい人妻になった。

* さて、ちと勝手違いの話題になるが、夜前来、為永春水の人情本「春告鳥」を読み始めたのが、すうーっと旨い酒 をひくように読めてしまうのに、実はビックリしている。芭蕉や蕪村や上田秋成はべつにしても、江戸文学をやや苦手にしてきて、西鶴ですらあまり知らない。 黄表紙、読本、洒落本、滑稽本、人情本など、敬することもなく遠ざけ、むしろ毛嫌いしてきたのだが、それではよくないと、馬琴の「近世説美少年録」を手始 めに、十返舎一九まで、あれあれという間に読み上げて、それならと、手当たり次第に為永春水に手をつけたのが、案に相違し、「膝栗毛」よりなお遙かに読み やすいし、面白いのである。
 吉原で旧知の花魁と出会う若旦那のはなしから始まるが、キテレツな廓言葉に出くわしても、これは、円生や文楽や志ん生 の名人落語をむやみと沢山聴いてきたから、驚かない。そうかそうかとにやにやしながら読んでゆく。
 そしてその次ぎに出てきた、上品に美しい素人娘と、この若旦那との出逢いが、なんとも艶めかしくて佳いのである。お民 という、まだ十六の少女ながら色ある優しさ、これはもう、若旦那鳥雅でなくても、心から贔屓にしたいと思うほど佳い娘なのである。ほほう、こういう世界の こういう人情も、懐かしいもんやなあと、わたしは今、少し味をしめた気分でいる。
 それと「膝栗毛」の本でも感じ、感心したことだが、近世文学の研究者の頭注の置き方が、じつに佳い。精緻に、しかもツ ボを押さえて、知りたいなと思うことを書いてくれている。じつは、これにも心惹かれて読んできたし、もっと読みたい。へんてこりんな現代語訳のついていな いのが佳い。
 平安物語には訳がついているが、どういう基準で訳しているのか、たいていが、途方もない悪文で、鑑賞になどまるで堪え ない。情けない。

* さ、これからは、講演二連戦の、まず最初の草稿づくりに取り組まねば。京都での受賞者展覧会を、失礼すると腹 を決めて少し気が楽になっている。
 

* 一月二十日 日

* 四時間寝て、六時半には起きた。血糖値92、ヨシヨシ。本当はもう少し眠らないといけない。バグワン「般若心 経」中村光夫「老いの微笑」為永春水「春告鳥」そして山本健吉撰の「日本詞華集」春夏秋冬編の春の章を読んでから電灯を消したのだが、四時間して、ぱちっ と目が覚め、黒いマコを玄関から外へ出してやり、そのまま機械へ来た。

* 昨日の夕刊に、新潟のある高校が、大江健三郎に講演を頼んで承諾を得ていながら、校長が私信を送って、政治的 な話題には触れないで欲しいと注文をつけたため、大江氏は講演そのものを拒絶したと報じられていた。何という愚かしい結末であろう、むろん、わたしでも断 る。物書きにこれは書くなと制限することの無意味さと同じで、講演を頼んだ以上は全面的に聴くべきであろうし、注文があるなら依頼の時に告げればよい。

* 森瑤子の「誘惑」もしっかり書けていて、めったになく面白く読み進んでいるが、気付かせられるのは、いわば文 学世界の中での過剰な「性的肥大」というか、夫婦や男女の致命的な破綻が、どうも「性」ひとつに、あまりにも重きを掛けつつ実現してゆくことである。夫婦 の関係は性の関係だけではない、わたしは、結婚生活のいわば15パーセント程度の重みを性生活がもつものと、実は、結婚以前から何となく考えていた。漸次 その重みが減っていくにしても、たとえ1パーセントでも2パーセントでも、これは必要なものとして欠けてはならないと、今でも思っている。しかし、森瑤子 の「情事」「誘惑」を続けて読みながら、この二つの夫婦ないし男女達のありようには、あまりに過剰に性的肥大が進んで、その重みに押しつぶされて地獄苦を 現じてしまっている気がした。

* 「闇に言い置く」私語のなかで、わたしは、あまり性に関して触れてこなかったが、性的に淡泊だからではない。 おそらく、生死の実感において、ふやけた多くの観念に遊ぶぐらいなら、遙かに至純の体験が性にあることを感じ、とても大事に感じればこそ、かえって森さん の表現に、危うい挫折の必然を感じるのだと思う。性は金無垢、絶対に必要であるが故に、また、若いときですら、多くも生活の15パーセントを超えて「性」 が肥大したときは、その暴力により結婚生活や男女の間が、かえって貧しく窮し行くものとは、確実に、いつもわたしは考えていた。性意欲がエネルギーである 以上は、欲望通り自在に行くはずのないきわめて微妙な人間関係であるのは、自明なのである。森さんの文学の行く手には、気の毒だが、途方もなく苦しい自壊 と荒廃と窮死がありはせぬかと感じた。それかあらぬか、森瑤子は、あまり早く亡くなったのを、今、心から惜しむ思いでこの感想をわたしは漏らすのである。 ただし、まだ「誘惑」の方は、荒廃寸前の夫婦が、夫の生家のあるイギリスへはるばる旅に出た途中までだが。

* もう、わたしの「性」の思惟を、わが「老いの微笑」として、ときどき、漏らしていい時機のように思われる。

* 谷崎潤一郎の「夢の浮橋」をスキャンした。一月中に電子文藝館に送り込めれば、一月の予定は満了。新しい依頼 に手をつけたい。

* 多大の期待をもってNHK芸術劇場の歌劇「トラヴィアータ」を観た、聴いた。生放送で、こうまで望めるかと思 うほど見事に美しいオペラのドラマチックな再現だった。音楽そのものが楽しめ、ドラマには泣かされた。
 椿姫という小デュマの小説を読んだのは、中学二年生の三学期に、人に借りてであった。大人になってからも岩波文庫で二 度三度読んでいるが、お話としては純熟しておもしろく書けているが、面白すぎるという気がして、同じ面白さでもバルザックの「谷間の百合」やスタンダール の「パルムの僧院」やフローベールの「ボヴァリー夫人」などに比べると読み物だという感想を持っていた。オペラとしてはさわりの部分は何度も見聞きしてき たし、有名なアリアにも馴染んできたが、今夜のように、固定した舞台から解放されて、豊かにリアリティーのある演出で全曲全場面をくまなくりあるスペース で見聞きできたなんて、はじめてことだ。満足した。シェイクスピアの芝居の、リアルスペースでの忠実なテレビ再現も有り難く、好んでよく観たが、こんなふ うにオペラを生放送の緊張感とともにまたみせてくれるなら、テレビを、もっと有り難いと思うだろう。いいジェラールですばらしいヴィオレッタだった。ビデ オにも撮りながら妻と二人で観た。ビデオは躊躇なく保存版になる。
 この物語が好きかと云われれば、ノーと答える。それでも音楽も登場人物の演技にも歌唱にも満足した。それだけは書いて おきたい。
 

* 一月二十一日 月

* 真冬には珍しい大雨が降り続いている。気温が低ければ大雪だったか。おとといの花嫁からも、親友からも、気持 のいいメールが届いていた。遠い西の方からは、ふと思い立ち、明日からツアーでアンコールワットへ、とも。十通ほどは、かためて舞い込んでくる。電子の杖 のE-OLDは、いながらに大勢に出逢う。

* 秦建日子からは、戯曲「タクラマカン」をビデオから人に書き起こしたのでと、送ってきた。まだ形は整わない が、「e-文庫・湖」の第十頁におさめた。「さぎむすめ」の吉田優子さんからは小説第二作も受け取っている。

* ビデオの映画「ノッティングヒルの恋人」を本ほ読むように、朝のうちに三分の一ほど観た。ジュリア・ロバーツ が世界一の美女だとは思わないけれど、心根の清々しい、いい女を演じるののうまい人で、この映画も、「プリティーウーマン」にならぶか、それ以上に清々し さの風立つ、気分のいい仕上がり。いま、こういう真情の柔らかに美しいものに触れると、とても強く感じてしまう自分に、少し驚いている。それほど現世はな まぐさくきなくさい。

* 谷崎先生の「夢の浮橋」文藝館用寄稿は、えらく難作業、なによりも漢字が足りない。絶対に欠かせない大事なヒ ロインの名の「茅渟」が、さ、無事に届くかどうか。表具の表に衣ヘンがついているのも、字がない。有ったにしても送れまい、伝わるまい。申し訳ないが通用 の「表具」にさせていただくだろう。日本文学を、現代文学ですら、機械の上で再現し送信するのにいかに不自由であるか、それはもう最初から察していて、分 かり切っていて、何年も前から声高に指摘し請求し続けてきたけれど、関係者には、その必要すらなかなか分かってもらえなかった。愚かにも、自分の原稿でだ け書き出せれば、無差別の誰か受信者にそのまま届く届かぬなど論外だと、じつは学者にすら、見捨てられてきた。商売用・事務用の文書だけで世の中の事は済 むと考えている人達の、または自分一人の都合だけに生きた人達の考え方であり、そんなのことで済まない世界が広大であることを理解できない人が、余りに多 い、今も多い。

* 電子文藝館へ、自発的な投稿が、だんだん来るようになっている。原稿のスタイルがまちまちで、たとえディスク やプリントで届いても、掲載までには、形式上の整頓作業いわゆる「原稿整理」がまた大変で、これは雑誌編集での実製作をしたものでないと、出来そうで出来 ない。それとて自分の機械で調整するならきわめて簡単に即座に処理の利くことも、みな業者の手へ委ねてから転送されるのであるから、微細なところで、直し たくても直しにくい。長い原稿の、ある一箇所の句読点を、「、」から「。」に変更するなどと云っても、機械の中で、その一箇所を見つけてくれと云うのは、 おそろしく大変なことなのだ。現に自分で探して、イヤになってしまうのである。

* 雷が鳴っている。

* 疲れて機械の前でうたたねしていたら、川端康成元日本ペン会長の作品掲載許可が、遺族から事務局経由で入っ た。郵便やファックスが、みなものにまぎれて行方不明であったという、先ず一安心した。尾崎秀樹前会長の作品は、遺族との仲に立ってきた某理事の手元で延 々と動かず、どうやら、やっとこさで何か作品が選ばれるらしい。残るは高橋健二元会長の作品だけで、これも含め早晩歴代十三人が揃うことになり、「電子文 藝館」に不動の態勢が出来た。歴代会長十三人、現役員理事からせめて十五人、総計でまずは百人に達すれば、提案企画実現のわが実行責任レベルには十分届い たものになる。半分は優に越している。はやく肩の荷をおろしたい。

* 騒がしい。これは、醜いとか、きたないとか、ひどいとか云われるのと同義語に近い、手厳しい批判であった。静 かに清いものは、美しく豊かである。静かとは、動きのないことを云うのではない。動くものもまた深い静かさを湛えていることは、大河の流れはやいのを観て もわかる。鳴り物が騒がしいわけではない、みごとなシンフォニイをだれが騒がしいと批評するだろうか。騒がしい人がいる。弥次喜多は騒がしい。おかしいか ら笑わせてもらうけれど、あの騒々しさは願い下げにしたい。だが、そういう人物を創作していた作者の心事は、必ずしも騒がしかった限りではないだろう。存 外に寂々しいものを抱いていたのかも知れない。騒々しいも寂々しいも同じ「そうぞうしい」という読みである。逆転の機微のあることを昔人は知っていただろ うと奥ゆかしい気がする。

* 顧みて自分が騒々しくないのかどうか、忸怩とすることがある。
 こんな「私語」をもし読む人が、筆者を静かな人、騒々しくない人とは、なかなか思い難いであろうかなと、羞じるときが ある。それに、日頃の物言いは声も大きく、ときに粗く荒く、さも騒がしいのではあるまいか。
 それでも、昔、激甚の勤務に堪え、創作との二足草鞋をしっかり履いていた頃、自分の書く文章がどうか静かであって欲し いと、いつも願っていた。騒がしくなるまいと、気をつけ気をつけ句読点に至るまで気配り欠かさず書いていた。「慈子(あつこ)」も「みごもりの湖」も「清 経入水」も「蝶の皿」も、職場では、管理職と何誌もの編集長職をかかえ、本郷といい何処といい、言語道断な喧噪の巷で、取材に通う病院や大学で、人に揉ま れ、立ちながらでも書いていた作品であった。小説を書いているのが気恥ずかしい、原稿を横から覗かれては恥ずかしい、そんな気遣いはしなかった。たとえ喫 茶店四人席の三人がよその人であれ、相席しながらでもわたしは毎日原稿用紙をそんな場所ででも拡げた。狂っていたと云われればその通りだが、文章の世界を 静かにとただ願っていたあの頃、わたしは、どの頃よりもつよく、日本的な価値観に身を寄せていたのだと思う。そして大きな変更を加えられることなく、今日 に及んできた。そう思っているが、人の目は分からない。

* こんなことを書きつづりながら云うても詮無い恥かきだが、人の作品でも騒がしいととたんにイヤになる。文品が ひくく、手触りがざらざらと汚れたような文章がいやである。書かれている題材がどれほど汚いものでもそんなことは構わない。必要があって荒い言葉がフォー ヴの絵のように叩きつけてあっても、その魅力は読み分けられる。泉鏡花も愛読するが徳田秋声も尊敬して読む。保守であれ革新であれそれは問わない。佳いか よくないか。それは書き手の魂が静かに清いか、深く湛えた文品が備わり、血潮ににじみうめき声が放たれていても、それ自体がどんなに清いものかをわたしは 観ている。よしと観ている。

* こんな今更らしい述懐を何が誘っているのかと、ふと訝しいが、不思議にも昨夜の歌劇「トラヴィアータ」であ り、今朝観さしのジュリア・ロバーツの映画「ノッティングヒルの恋人」の印象がわたしを動かしていたらしいと気がつく。うまく説明はできない。

* 結婚式では、とても素敵なご祝辞、ありがとうございました。途中でやはり涙が出そうになってしまい、こらえる のに必死でした。祖母は、秦先生のお話の間、ずっと泣いていたようです。その祖母の後姿を見て、祖母が随分小さくなってしまったのに驚きました。
 当日同じテーブルにおりました、Uさんは、ずっと秦先生のファンだったようで、本は全部読んだんだ、今日秦先生がいら しててとても驚いた、と、興奮した面持ちで帰り際に話していかれました。お話しされましたか?
 親は、とても興味深いお話だったと申しておりました。多分、普段の私とは少し違う印象をもったのかもしれません。身に 余るお言葉で、恐縮してしまいましたが、でも、とても嬉しく拝聴いたしました。
 ありがとうございました。
 これからもぜひ、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。そして、“メール友達”としても、末永くお付き合い くださいませ・・。

* 結婚式でお目にかかれて、とても嬉しかったです。
 受付の仕事をしていたので、あまりお話しする時間がなかったのが残念でしたが…。どうぞ失礼をお許しください。
 先生のスピーチ、懐かしい気持ちになりました。
 あのころ悩んだり苦しんだりしたことが、時間を経た今、果たして解決しているのだろうか?と、自分の書いた文章を読み 返してみたい気分です。
 この年末年始はとても静かで寂しいものでしたが、彼女の結婚式に出て、少し晴れやかな気持ちになれました。
 

* 一月二十二日 火

* 何となく慌ただしく暮らしています。大寒を迎えているのにあまり寒くないのは、やや奇妙な感じがしますが、ま だまだ寒さはこれからなのでしょう。私は明日から一週間、旅行です。関空から夕方の飛行機で発ちます。ツアーの気楽な旅なので・・これから準備をする体た らくです。
 旅はタイ、カンボジアの遺跡巡り、もちろんアンコールワットがハイライトの旅です。乾季で比較的旅行しやすい時期です が、夏の暑さが体にこたえないように、元気に、意欲的に旅を楽しんできたいです。日本の日常からちょっとだけさよなら、です。

* こう気軽なことが出来ればいいなと羨みもするし、しかし、差し迫って、もっともっとしなければならぬことを抱 えて日々生きて行く方が佳いのではと、思わぬではない。ヒガムわけでなく。

* 谷崎と川端の作品を一字一句原稿に照らし合わせて読んで行くのは贅沢な体験で、創作の呼吸や思索や感性そのも のに触れている実感がある。「夢の浮橋」と「片腕」はともに晩年の秀作。どきどきする。「夢の浮橋」論は、わたしの批評では、太宰賞を受けた小説「清経入 水」に重さで匹敵する。こののち、谷崎についてわたしが語れば、人は黙って耳を傾けてくれるようになった。「片腕」はカフカのように昏くせつなく妖しい。

* 電子文藝館に原稿が流れ込み始めている。自分のペースを守り、慌てずに交通整理をして行くより仕様がない。

* アフガニスタン救援東京国際会議へ、幾つかのNGO団体を「閉め出せ」という鈴木宗男自民党議員の圧力に、唯 々諾々として大臣指示の方を無視した外務省事務次官というのは、処分すべきではないのか。何処の世界に、政府方針を批判するからという理由で、公平な立場 での会議にNGO団体を閉め出せる根拠などあるものか。政府とは、批判や非難も浴びて成り立つ存在であり、日本は幸いに一言堂ではない。一言堂とは、一度 その堂内に入れば、主人が右と云えば誰もが右を向き、左と云えば左を向き、一人として反対するもののない場所のことだと、二十数年前に中国に旅したとき、 大岡信氏と私との自動車に配置されていた通訳から聞いた。忘れることがない。その折りの通訳団のリーダー格が今の、陶外相である。
 繰り返して言うが、日本は一言堂ではないつもりだ。鈴木宗男は排除に値する政治的な害毒になりかけていないか。小泉首 相も、しらじらしく薄ら笑っていないで、断固事務次官更迭の指示をこそ出すべきである。

* 湖の本の通算第七十巻記念に何を選ぶか、悩ましい。候補作をスキャンするのも、この時点では大仕事だ。スキャンは間断ない注意力と持続集中力なしには出来 ない。一時間半も続けているとふらふらっとする。その間、他のことは出来ない。

* 昨日は冬の嵐、雷まで鳴りひらめきました。今日はうってかわって春のようなひかり、しめった土や濡れた落葉が やわらかくにほっています。
 おっしゃってくださった百五十首を抽いています。ゆうべは選び入れた作品が、今日みると、どうしようもないものに見え たりして、行きつ戻りつしております。
 つかいたい文字が、器械では出て来なかったり、よしんば、苦心してその文字にしたところで、器械がうまく受け手にその まま伝えてくれるかというお悩み、承っていてせつなくなります。
 じつは二ヶ月くらい前、岩波書店の電子辞書の部門に当てて、メールを送りました。
 外出時に便利そうなので電子辞書を求めにゆきました。そして、「広辞苑」まるごと入っているという辞書で、気になって いる単語をひいてみたのです。
 ところが、というべきか、やはりというべきか、「せみ」「かもめ」「ろうそく」が、「蝉」「鴎」「蝋燭」になっていま した。こうした日常語ですらこうなのですから、他は推して知るべしといったところでございましょう。
 それで岩波書店に、「広辞苑」まるごとという宣伝文とはちがう、これはウソ字ではないか、「新明解」の幾種かはウソ字 でなかったのに、なぜ「広辞苑」はウソ字をつかうのか。今後、改める予定があるなら、それを待ちたいので、知らせてほしい。
 そう、申しやりましたところ、返事がありました。
 コストや電子化する側の意識などから、なかなか、変更できないというようなことでございました。
 予期した返事でしたけれど、やはり、がっかりいたしました。
 以前、ワープロを使っていましたときには、「作字」ということができ、ときにはちっとバランスのよくない字が出来あ がったりしましたけれど、何とかしのぐことはできました。器械が高級?になると、それもできないというのが、わたくしの頭では、ふしぎ、納得のゆかぬこと でございます。
 百五十首を抽きながら、ふりがなの多いのはやめよう、化けてしまいそうなのは、どうしようかしらなどと、かんがえたり しております。
 器械の前でうたたねをなさって、お風邪ひかれませんでしたでしょうか。そう、申しあげるわたくしも、舟を漕ぎ、はっと することがございます。
 曇ってきましたけれど、空気がやはらかで、気分のよい午後でございます。ずっとずっと以前、FM放送から録音したグレ ン・グールドの「ピアノソナタ」K331のテープ(わたくしが、グレン・グールドに出会ったのはこのときでございました)を聴きながら、このメールを書い ております。

* 作字は、かりに出来ても見苦しく、また送信しても化けてしまうようだ。文字セットから図版貼り付けにしても、 他の文字の大きさと頑なに差が出たりする。文藝作品ではいかにも見苦しくて辛い。文字コードを与えて標準化を遂げている字は、事実もう何万もあるが、「有 る」というだけの話で、たとえば「電子文藝館」を少しも楽にしてくれてはいない。繪に描いた餅の儘で、マイクロソフト社などが、機械に実装備してくれない 限り、広い範囲では役に立たない。自分の書いたものを自分だけで利用する分には、かなり出来るが、送信すると、話は全然「別」なのである。そういう「別」 の話ばかりが主として文字コード委員会では巨細に及んで進行しており、わたしは、それにはそれで敬意を表しているが、さて、日々に困っていることも困って いる。コンピュータはインフラであると云われても、少なくも当面の我らの関心事に関連しては、インフラどころか不備不具機械と云わざるを得ない。
 この「広辞苑」読者の声が岩波書店その他の出版者の連帯した声と化して、文化庁や文部省を動かし、他国の業者世間に響 いて行くことを期待したい。
 

* 一月二十三日 水

* ま、なんとか、半月後の「美学的な」講演は、あらましの筋道を見つけだし、用意が出来た。五、六十枚もの草稿 が出来るだろう。話せる時間によるが、もう二三割話題を増やして用意することも可能である。
 直ぐ引き続いて、その翌週の川端康成関連の講演だが、これはまだ何の目鼻も付いていない。そんなことも云っていられな いから、用意は始めないといけない。折しも電子文藝館に許可された作品「片腕」の校正を興味深く進めている。その辺からも話題を探ってゆきたいが。

* 「ねばならない」仕事が、なんでこんなに沢山あるのだろう。ずいぶん仕事の交通整理では記憶のいい方で、捌い てゆくのだけれど、この頃はふと忘れることも、わざと忘れちゃおということも、ほんとに忘れていることも、覚えきれないこともあり、それにも慌てなくなっ てきた。成るようになると思うのだ、しくじっても、次の日には過去のことだ。しかし、新しいメガネを作りに行ったり、目薬は忘れずさしたり、は、しないと いけない。歯も、ぐらついている。こういうのは、放って置いていいことでない。だが、どうしても、作品を読んだり、書いたりしている方が主になる。谷崎、 川端という大先輩の作品はぜひ早く「電子文藝館」に迎えたい、それは誰でもない、わたしの願望であり意欲である。その辺で、すくなくも一つ自分用のコムマ を打ち、少し休みたい。川端さんはなにしろ最長期間の会長をつとめられ、日本で最初の世界ペン大会を成功させた会長であった。どうもこの人の作品を欠いた ままでは落ち着きが悪かった。もう大丈夫である、読者には楽しみにしてもらいたい。「伊豆の踊子」でも「山の音」でも「雪国」でもない。

* もう一つ、どうやら「ねばならない」仕事は、わたしのホームページの根本的なリニューアルであるが、もう、是 までのようには卒業生諸君のお世話にはなっていられない。べつの道を本気で探らねばならず、現実問題として、ファイルも増やして増頁を実現してゆかねばな らぬ。想うだにたいへんだが、その必要には迫られている。

* 就寝前の読書も度が過ぎてきて、数えてみると前夜も六册を、つぎからつぎへ読んで、やっと電気を消している。 頭は冴えていて、どの本にもそれぞれに引込まれる。それだけの時間を一冊だと眠気がくるだろうに、向きを変えてゆくから面白く、やめられない。生形貴重氏 にもらった「利休の逸話と徒然草」も、研究者であり生来の茶家に生れた茶人の著であるからは、そしてわたしも茶の湯好きはむろん、徒然草は大の大の愛読書 であるからは、面白くないわけがない。春水の人情本など、もう終盤へ来ている。

* 昨年(10月から12月)の「闇に言い置く 私語の刻」は、変換ミスなど訂正して、「生活と意見」第11ファ イルに収納した。生活と意見の全てを書き込んでいるわけでは、むろん、ない。出来ないし、意味もない。流れ去って行くもののなかで、ハッと光線をうけたい ろんなことを、自然に書き留めてきた。
 

* 一月二十四日 木

* 一昨日は暖かく、芸大前から谷中を抜けて、日暮里近くの朝倉彫塑館まで足を伸ばしました。此処は何故か心が落 ち着き、何度でも行きたくなる処です。当時と云わず今でも珍しい鉄筋と日本家屋をうまく合致させた、とてもユニークな建築物です。
 しばしば本で目にする馴染みの代表作「墓守」が先ず迎えてくれ、「時の流れ」と題する裸婦像は清潔感に溢れ、大隈さん の巨像があり、「九世団十郎の像」にはうんうんと肯き、二階には無類の猫好きだってと言うだけに、とりどりのポーズの猫ちゃんに魅入られ、コレクションの 陶磁器もすばらしく、意匠を凝らした三階の客間。自然湧水を利用した中庭は、説明書によると「五典の庭」と呼び、自己反省の場として作られたといいます。 儒教の五常を造形化した仁、義、礼、智、信の五つの巨石が配置されて、
  仁も過ぎれば弱となる  義も過ぎれば頑となる  礼の過ぎれば諂いとなる  
  智の過ぎれば偽りとなる  信も過ぎれば損となる  と。
 何よりわたしの好きなのは、緑地になっている屋上です。高層ビルからの眺めとは一味違い、遠くは新宿高層ビル、東京タ ワー。サンシャインはやや近く、不忍池の変なマンションは目のあたりです。ここは下町を襲った東京大空襲の難を免れたらしい。
 大木になったオリーブの葉がそよそよと揺れ、冬の薔薇一輪が咲き残り、都会の喧騒が一分も届かず、遅かったせいか、私 達二人しかいなくて、しばし放心の時間を楽しみました。

* 東京という都市には、その気になれば、喧噪を避け得たいい環境が有る、少なからず。ふしぎなことに、そういう 場所へはあまり現代東京人は寄ってゆかず、だから静寂も明浄も保たれている理屈だが、なんでわざわざと想うほど人は繁華と雑踏に揉まれたがる。静かさが苦 手なのではないかとすら推してしまう。

* 川端康成の「片腕」を念校した。これは一つの物語詩のように読んでいいのかもしれぬ、川端でなくては書けな かった、だが、大勢を魅了するであろう、よみやすい逸品である。わたしは、最初から、長篇はむりなのだし、初期の「伊豆の踊子」か晩年の「片腕」かと決め ていた。まだ読んだことのない人の多いことでなら、また川端康成という天才作家の至りついた独特の「狂涯」の魅惑という意味からも、『片腕』がふさわしい と思った。
 田才益夫氏の翻訳「カレル・チャペックの闘争」と一緒に、今日入稿する。
 谷崎原稿の校正があり、自分の仕事も立て混んでいるので、尾崎秀樹前会長の「『惜別』前後 太宰治と魯迅」は、スキャ ン校正を、ペン事務局に委託することにした。もうお一人の高橋健二元会長作品が未だ決まらない。

* ペン会員の阿部政雄氏から電話をもらった。どういう人か知らなかったが、寄稿された「意見」が快く胸に落ちた ので事務局に伝えて置いたのが伝わったらしく、しばらくいろんな話を電話口で利いた。大道芸や話芸などに興味のある人らしく、保谷へまででも逢いに行きま すと云われ、恐縮した。わたしより六つ七つは年輩の人である。

* 午後は、今日は文藝家協会の、知的所有権委員会。電子メディア委員会と合同で、新聞各社の代表を招き、話し合 いをする。もう三年か四年、毎年一度ずつ話し合っている。ほんのすこうし退屈な会議であるが。
 

* 一月二十四日 つづき

* 新聞社側の参加人数が、文藝家協会側二つの委員会からの出席者よりずっと多かった。新聞データベースにじりよ うに関する本題は、従来手交している契約内容の単なる継続でよかろうとわたしの発言で落ち着き、むしろ電子メディア関連の、意見交換になった。
 さて、何をというほどの議論ではなかったが、それでもその方がよかった。
 本当はエシュロンなどのように腰を据えて話し合いたいことがあるわけで、しかし、そうなると新聞各社がそれぞれの姿勢 にかなりの差を持ち合っていて、大事で微妙な問題ほど、議論にならないというところがあった。通信傍受にしても、反対の社も賛成の社もあるわけで、簡明に 新聞報道と文筆家との割り切れた立場での討議が出来ないのである。

* 四時半に終り、美しい人のいる店で食事して、帰宅。講演内容の検討なども、外出中にだいぶ進め得て、時間のム ダなく済んだ。保谷の「ぺると」でコーヒーを少し買って帰った。眠い。今日ははやくやすみたい。
 

* 一月二十五日 金

* 外務省と政府官房と、低劣無類の一部政治屋との結託に終始する、あの「NGO外し」劇にからめた田中外相「い じめ」の、破廉恥なほどあくどいやり口には、腹の立つのを通り越し、バカらしさの極みに見える。要の位置にいて指揮しているのが福田官房長官なのは、見え 見えで、見え見えの背後に、誰もが小泉総理の裏指示ないし裏支持を取り付けてやっているらしいことも、透けて見えてくる。完全にもう田中は使い捨てている のだろう。かくも、大臣より事務次官の方が省庁に於いて権威を持ちうるという、行政下克上の実例を見せつけに見せつけて、それでいて政治主導など、どう成 り立つのか、ふざけた話だ。大臣の地位にあるからやられているけれど、大臣をやめた暁には、徹底した真紀子流でリベンジを図る日の政界興行を、今から、楽 しみとするか。
 泣くのがどうのというヤカラがいたら、泣けないやつの方が人間的に変なのだと思えばいい。泣くのは能力の一つである、 人間が干涸らびていない証拠なのだ、感性的にも知性的にさえも。日本人がもし泣かぬ人種であったなら、万葉集も古今集も源氏物語も平家物語も成立しなかっ た。男も女も、すぐれものほど、ここぞと云うときには泣く。ただ田中真紀子のあの涙は、限界にまで来た悔し涙であり、水準は低いが、気持は分かる。「泣か せてやった」などとほざいている男どもにロクな末路は有るまい。

* ヨーロッパEU議会は、米軍による世界大の超巨大な通信傍受=盗聴組織である「エシュロン」の存在を確認し、 対応を策した決議をしているが、EU議会から訪日の、イルカ・シュレーダー議員を囲んだ超党派議員懇談会に市民参加しないかと、福島瑞穂議員事務所から、 日本ペンクラブにファックスが来た。福島さんは社民党の幹事長をしている。
 「エシュロン」のことを二年ほど前初めて知って以来、わたしは、これを念頭から放したことがない。ただ、私には「情 報」を集める手段も能力もあまりに足りない。電メ研のこれは大きな課題の一つであり、ペンの理事会にも、どうにかして浸透させたいことである。で、日本ペ ンクラブ電子メディア委員会の責任者として、わたしにはかなりお門違いな世間ではあるが、参議院議員会館会議室での講演会に参加してみようかしらんと、参 加が本当に可能なのかどうか、事務局で再確認してもらっている。

* 千葉の勝田さんが、限定本『四度の瀧』のうしろの作品年表をスキャンして下さった。いや、只のスキャンではな く、もう少し別の工夫なのかも知れない、が、まだ十分に腹に入れていない。この機械ではWZEDITORが使えないために、ファイルで、開けないものがよ くあらわれる。大いに不自由している。
 作品年表づくりは厖大で、たいへんな難作業であり、昭和六十年の正月辺までは、年譜も年表も詳細に出来ているけれど、 その後には、まるで手が着かないまま。
 もし、用意できてある作品カードをどしどし書き込んで行ける「表」が出来て、どんどんと新たに、規定のその表に記入し て行けたら、どんなに溜飲が下がるだろうと、前から、そのための「枠組み表」がつくれないものかなあと、夢見て来た。勝田さんに送ってきて戴いたディスク に、そのヒントがあるのかどうか、時間をかけ、ゆっくり見せてもらおうと思う。有り難いことです。御礼申し上げます。

* 小春  輝く半月の傍らに、くっきりとオリオン座。その分冷え込むのでしょう。雪がちらつく日が続きます。
 先日などは、目覚めたときにはいつもと同じ、凍って灰色に沈む町並が、30分もたたないうちに、きらきらと一面の銀世 界に変わりましたのよ。
 翫雀さんの小春、時間の都合で最初の部分しか見られなかったのですが、習った通りの楷書の芝居が見易く、暗い芝居に、 彼の愛敬と淡白さが救いとなりました。昼は朝比奈と矢の根の五郎。そのせいでしょうか、喉を荒らしてらしたようで。五郎がお人形のように可愛らしく。あの 丸まっちいところが、好き。寒雀

* 大津絵   阿保の菓子店で買ったパッケージに、ナマズのイラストのあるどら焼き風の菓子と釣鐘煎餅(瓦煎餅 と同じタイプ)。
 「河内屋が中座でよゥやったもンや」と文雀さんから伺いましたが、松竹座での「大津絵道成寺」を見て、木挽町で感じた 違和感が解りました。小さな舞台の庶民性が、大津絵の素朴さや役者のサービスを一段と強調し、掛け合いも濃密になり、パロディにも手を叩いて笑えますの。
 豪華な劇場でリッチに楽しむ演目、小さなこやで、ほろ酔いで楽しむ演目がありますわね。太左治さんの太鼓が瓢逸でよ く、立鼓は朴清さん。囀雀

* 夜前二時頃に、為永春水作「春告鳥」を読み上げた。いや、うまい菓子を食べ惜しむようにもう十頁ほどがのこし てある。若旦那の鳥雅とお民とは、波瀾の境遇にながく仲を隔てられながら、幸福な再会に恵まれた。
 作の中ほどに、これが作者春水のやりくちだが、平気で弟子に代作させた箇所があり、その辺が余りにひどい出来なのだ が、春水の書いているお民との出会いや再会の場面は、情緒纏綿、懐かしい極みの上出来なのである。しかも、もう落語の人情話へ臍の緒が繋がっていて、まん ざらその方面に無知識でなく、受容れ用意が出来ていたから、しんから溶けいるように世界に入り込める。こういうの、嫌いでないのである。馬琴の世界のあく どいほど複雑怪奇なのにくらべても、一九が弥次喜多の猥雑で凡庸なのとも違い、鳥雅もお民も薄雲もお熊も、梅里その他も、おっとりと、人情に富んでいる。 不思議な言葉づかいのようで、しかし気疎さや不自然さは感じない、むしろ、こういう言葉から、江戸東京の過渡期に養われてゆく、いわゆる「いい言葉遣い」 や「いい挨拶」や「いい心遣い」の誕生がうかがわれたりする。

* そこでもう一冊の長谷川時雨「旧聞日本橋」が恰好のバトンを受け取っていると読めてくる。時雨の育ったのは日 本橋通油町だが、そこは、江戸末期の滑稽本や洒落本や人情本の産地のようなもの、十返舎一九達のすまいや版元の蔦屋などもあったところだ。時雨の縁戚には 武家筋もいれば芸人達も大勢いた。途方もなく面白いこの本のことは、また書き留めておくことがある。もう寝ないと、またノビてしまう。じつは、何を、と、 まだ「闇に言い置く」のも早い難儀な仕事に、このところ追いまくられている。遅々として進まないが、やらねばならん自分自身の仕事なので、体力をコント ロールして置かねばならない。
 

* 一月二十六日 土

* 「春告鳥」を快く読み上げ、「旧聞日本橋」アンポンタンの名文に読み耽るなどして、目の疲労もあり、今朝は、 ゆっくり寝ていた。秦の父の夢をみていた。地面に雪が凍てて広い坂道が下っていた。父が自転車で坂を下りてゆき、わたしも自転車でいっしょに行きたくて 追ったが、見失った。旧い町通りに入り、ああ、父はあそこにいるかなと、心覚えの店の一軒を尋ね当ててゆくと、店の表に父の自転車があった。魚屋であり、 しかしガサツながら広い店内で鮨も食べさせ、わたしはいつか以前に父と一度来たことがあった。
 店の主人と父とは懇意であった。店に入って行くと、父は、あいた客席の一つで店の主人と向き合って話していた。ところ が、わたしの来たのを見て、なんだか、ひどく慌てたふうに、そそくさと主人との話を打ち切った。直ぐ帰るというのだ、父の表情がとても暗く、いっそ悲しげ であるのが気になりながら、夢から覚めた。
 常日頃あまり見ない方角の夢を、昨夜はつづけて幾つか見ていた。もうみな忘れた。
 夢を見ないで眠りたいというのが、なかなか叶えられないわたしの業のようなものである。ある種の夢はもう何度も何度も 繰り返してみている。その一つには、空を平泳ぎするように泳いで翔びつづけられる夢である。もう一つはめくるめく高見から、はるかなはるかな下界まで、谷 底まで、ポーンポーンと跳ねるように足のバネを利かし、スポーティーに飛び降りて行く夢である。この二つの夢は、ときどき見たいなあと思って寝入る。
 秦の父と母と、北澤の兄とは、ときどき夢に見る。場面は覚えすらないほどに色々突飛であるが。
 夢の話には、秘密にしておきたいのが沢山ある。道理でわたしは、あの落語が好きなのだろう、夢を見ていただろう「話 せ」と云われて、夢なんぞ見るものかと拒絶し、はては、訴えられ罰せられ、天狗のいる山に置き去りにされて、天狗にまで見た夢の話を強いられる落語だ。人 の見た夢は、どうあっても外からは確かめられない。それが、面白いと思う。
 目が覚めたら、いいメールが幾つも来ていた。これは夢ではないが、これもそれもみな夢だったんだと気付く時がいつか来 るだろう。

* 寒中お見舞い申し上げます。東京より緯度が高いにもかかわらず、こちらバルセロナでは、そろそろ春の気配を感 じています。これが、いわゆる「社会」の勉強で習った「地中海性気候」なのですね。ミモザやアーモンドの花も真近です。
 去年のうちに書き残しておきたかったことを、年越させてしまいましたが、恒平さんのホームページだけは、欠かさず追っ ています。本やコラムを読んで、昔ほど共感あるいは感銘を受けることが少なくなってきた現在でも、恒平さんの言葉は、ずしんと響くことが多いのです。もち ろん、私が恒平さんの言葉を聴こうとする耳をもっている、ということも大事なのでしょうけれど。
 昨年末、東工大文学教授秦恒平さんの前任者であった、という単純な理由から、江藤淳のエッセイを手に取ってみました。 そこに登場する東工大、秦さんと江藤さんの勤務された大学が同じだったとは露ほども感じられない、そのおかしさにくすりと笑わせられながら、私たちは幸運 だったと思わずにはいられませんでした。
 「東工大から慶應に移って来て、どこが一番違っていたかと質ねられれば、まず建物と便所の清掃と維持管理が違う、とで もいうほかないような気がする。」
 江藤さんは、東工大についてほとんどコメントをされていません。それでは江藤さんが東工大をどう評価されていたかわか るわけはない、その通りなのですが、その後の勤務先である彼の母校の学生についての誇らしい話と、19年勤務された東工大が「汚い便所」に集約されている こと、そのこと自体に「彼にとっての東工大」がよく表れている気がするのです。一文学者にとって、東工大の学生はその「便所」ほどに染みる存在ではなかっ た。
 見る人によって、その人が何を見るかによって、同じはずのものが驚くほど違って映る。今まで白く(黒く)見えていたも のにも黒く(白く)見える可能性のあることを、ここ異文化で強烈に教えられて以来、よく感じます。そして、色とはもともと持っているものにも増して、それ を見る人間自らに強く与えられるものではないかと考えるようになりました。白を見る準備のある人間に、黒の存在を気づかせるのは難しいし、黒を見る意欲の ある人に、白はなかなか見えない。(エッシャーのだまし絵など思い出しませんか。)そして白が見える人には、白はひとしお白い輝きを、黒が見える人には、 黒はいっそう黒い輝きを見せるのです。
 東工大の学生も、自分に耳を傾け反応してくれる一人の人間に出逢ったからこそ、こうして内なる言葉を発し始めたのでは ないでしょうか。理数系、工業大学の学生というだけで、まるで人間味に欠けるように評価され、下手すると、自らそのレッテルを貼る危険すらあった学生たち に、いかに自分たちが人間臭いか気づかせたのが、秦さんでした。
 かく言う私は、6年間最後の最後まで、入学当初の嫌な思い出を断ち切れず、「東工大の人間なんぞ」という気持ちを持ち 続けた一人でした。秦恒平さんの講義を通じて「東工大にも共感できる人がいる」と感じた後ですら、私自身が「東工大の人間なんぞ」に、胸のうちを開く準備 がありませんでした。
 今、秦さんに寄せられる元東工大生の「挨拶」を読みながら、「この人たちと知り合っていたら、もっと豊かな学生時代を 送っていただろうか」と、静かに問いかけることもあります。

 実は、秦さんに是非お話しておきたいことがあります。父のことです。

 定年退職とばかり思っていた矢先、子会社を立ち上げるための、名ばかりの長として、父が四国 * * に単身赴任したことはお話したでしょうか。母は「春が来た」と言って喜び、私も、父の自立に役立つのではないかと、手を拍きました。スペインに来て半年目 のこと、父に何度か励ましのメールを送った覚えがあります。その後母から、「?を送ってあげたら、電話で“ありがとう”だって。何だか気味が悪いわ。」と か、ゴルフとテレビしか暇つぶしを知らなかったはずの父から、「週末は、お寺巡りをしたりして、結構楽しく過ごしている」などの便りを聞くようになりまし た。初めのうちは、赤面したくなる
ような稚拙な文面にばかり目が行った私も、いつからか、下手でもいいから、「父が私に書こうとしている」ことを嬉しく思 うようになりました。何せ、父と私は相手を想って言葉を交わしたことなどなかったのですから。
 そして一昨年、夫と夫の両親とで日本を訪れた頃から、風向きが大きく変わりました。父が私たち一行に同伴したほんの数 時間が、思いのほか、心地よいものだったのです。むろん私は、「父は外面がいいから。」と流しかけたのですが、その時の父に対する夫の率直な印象を聴い て、不思議と、父を否定的に見ようとする力が抜けたのです。
 去年の夏、父と夫と、四国の山地を旅行しました。就職一年目の短い休暇をやりくりし、母と京都で祇園祭を過ごす計画を 立てていたところ、「それなら一足延ばして四国にも」という話が出ました。全く自然の成行きで、一昔前には考えられないことでした。
 この旅行、とてもよいものになりました。
 待ち合わせの朝、父が嬉しそうに持ってきた、凍った麦茶とビールの入った袋。その袋の中に、3つのコップとお絞りが用 意されているのを見たとき、父がこの旅行をどれほど楽しみにしていたか分かった気がしました。父はむろん大張り切りで、私たちは始終楽しい気分でした。つ ねづね母の写真撮影にはうんざりする私が、この日は父のデジタルカメラに静かに耐えることができました。ゴルフ以外に父が初めて自分で見つけた楽しみ、そ う思うと微笑ましく、私はむしろほっとしたのでした。最終日の夜、旅館風の小奇麗な山の一室で川の字になった私たちは、よくある普通の親子でした。
 簡単なことでした。父を受け入れるのは、こんなに簡単なことでした。
 どうして今までそれができなかったのでしょうか。旅行中幾たびも、父でありながらまるで知り合ったばかりの人のよう な、不思議な感覚に襲われました。誰もが最善の顔でいたのは確かです。でも昔なら苛苛したはずのことが、大して気にも留まらない場面に幾度となく遭い、一 種の感慨を覚えずにはいられませんでした。確かに父も私も変わりました。
 でも、何より変わったのは、父に対する私のまなざしです。
 父への鬱積を吐き続けた母を責めるつもりはありません。母は充分苦しんだのですから。でも、父を責める気持ちも、もう 昔ほどありません。結婚してすぐ、相手の笑窪をあばたとしか見ることのできなくなってしまったこの夫婦は、二人がふたりとも不幸だったはずですから。そし てこの旅行を通じて感じたもう一つのことは、夫婦とは、似るものだ、ということでした。
 この夏以来、夫が安いインターネット電話をセットしてくれたこともあり、毎週末母と父と電話で話しています。週末何を したか嬉しそうに話す父、私の電話を楽しみにしていることがわかるから、私も嬉しい。「毎週電話をありがとうね。」そんな言葉が素直に交わされます。これ も「離れている」という状況が創り出した錯覚かもしれません。錯覚でもいい、でも虚構とは思わない、今の私はその錯覚を大事にしていきたいと思っていま す。もちろん母のことも。

 最後に、一言加えたいことがあります。大学受験で、東工大、慶應を含め4校を受けましたが、その中で「トイレが 汚い!」と驚いて帰宅した大学が1校ありました。それは、日吉の工学部の一校舎、今でも覚えています。
  お元気で。 * * 子

* 挨拶の挨も拶も、ともに強く押す意味である。挨し込み拶し返す。つまり禅の問答は挨拶なのである。わたしは、 東工大の四年間、とても答えにくい答えたくないであろう質問をあえて強いることで、学生達の「言葉」を引きだし続けた。いきなりでは反撥が強かろうと、自 分の名前について書いてもらったり、故郷の懐かしい山や河の名前を書いてもらって、書くことに抵抗の薄れた頃から、途方もないことを聞き続け、すると、も のに憑かれたように、みなが書き続けるようになり、まるで書くために学生が集まるようになった。何と四年間にのべ五千人がわたしの授業に登録し、原稿用紙 に優に三万五千枚を越す「挨拶」が提出された。先日の結婚披露宴でわたしの祝辞を聴いた隣席の主賓のお一人は、わらいながら、告白を受ける神父さんのよう ですねと云われたが、学生からもそう云われたことがある。かならずしもわたしはそれが良いこととも思わないけれど、「言葉」を績み紡がせること以上の「文 学」の授業はないと考えていたのである。
 このパルセロナからの「挨拶」には感慨深いものがある。前段の江藤さんのことや日吉の校舎のことは、ま、措いて置く が、後半の、父上とのいわば「和解」のこと。これはこの人の長い間のトラウマのようであった。私との出会いにも、意識して、また無意識にも、トラウマを埋 めたい気があったかも知れず、ただ、わたしは、この女子学生の「父嫌い」に関しては、終始一貫「黙って」聴くにとどめた。父上については何も知らないのだ し、そもそも人が人について知る・識ることなど、よほどの人についてでも甚だあやしくも浅いことを感じていたから、軽率に同調しないことで彼女の実感を尊 重していたのである。
 こういうメールを、とうとうわたしは取得しえた。どんなにわたしが嬉しく思っていることか、書いている当人にも分かる まいかと思う。ふうっと、久しく溜めていた溜飲をさげた喜びがある。遠いスペインからのメールを読みながら、わたしは、何度も何度もわたしの自身の娘達 の、せめて心身の健康を祈っていた。そしてこの人の久しい父上との齟齬の回復されたことを心から嬉しいと思っていた。

* もう人は大勢知っていることだし、わたしの学生は大方知っているから話すが、わたしは一人の娘と、娘の生んだ 二人の孫とも、十年以上?、逢わない。顔を見る機会も文通もない。いろいろな事情があったからで、娘とわたしたち両親とに直接のあらそいがあったなどとい うことはなく、つまりは、娘の夫とわたしたちとの齟齬に発して、へたをすると娘が離縁されそうな懼れから、すべて身を引いて交通を遮断したままなのであ る、が、三十代という娘の女盛りを見ることなく過ぎ、まして孫娘の上はもう中学を出ようか、中学に入ろうか、その辺も覚束ない記憶なのだが、そういう可愛 い盛りをまったく見ることもできずに過ごしてきたのである。わたしたちは、これを不幸に感じているが、娘や孫の気持は忖度できない。
 ただもう運命を恨めしく感じているだけだが、察しられるように、わたしは東工大の学生諸君に、どれほどこの寂しい恨め しさを慰められたか知れないのである。
  事実は小説よりも奇なところがあるが、わたしが東工大教授に突如慫慂されたとき、娘の夫★★★(現在は青山の国際 政経学科の助教授か教授らしい。)は、大学にポストを求めて浪人中であった。わたしへの教授選考会申し入れを聞いた彼は、言下に、「パンキョウでしょう」 と云ったが、それが「一般教養」への蔑称だとすら、わたしにはあの当時理解できなかった。やがて彼の方は紆余曲折あって、筑波大技官の地位を得たものの、 甚だ不本意な成行きであった。娘が、「●より先に、お父さん就任しないで」と電話で呻いたことも忘れられない。そういうことどもが、つもり積もって、不幸 な、力づくの「生き別れ」にされた。ボーズになって手をついて謝れとまで婿殿にわたしたち夫婦は云われたのだ。何をわたしたちがしたというのだろう。わた したちが貧しく力無く、ただ国立大学の専任教授に迎えられたということだけである。
 妻は娘を取り返したいと云ったが、わたしは、そうは考えなかった。夫婦は、まして子までなした娘は、夫や子とともに生きて行くのが自然なことと、自分か ら、娘の手を放した。手を放さなかったら、娘の離婚が実現していたかもしれぬ。
 その決意にいささかの悔いもない。が、孫達は、孫たちの祖母は、むろん祖父であるわたしもだが、不当に受けてしまった離別の不幸は計り知れない。孫達は 我々祖父母を忘れ果てているだろうか、いやいや下の孫娘など、かろうじてわたしたちに一度抱かれたことがあるきりの、赤ちゃんであった。この孫達の父親 は、早稲田の政経に学んだ昔から、夫君譲りの教育哲学の学徒である。ルソーやモンテスキューの研究者である。「教育」とは「ヒューマニズム」とはいったい 何だろうと思う。どんな学生をどう育てているのだろう。「闇」の底へ、事実のみを「言い置く」のである。

* バルセロナからは、ついでに、こういうことも教えて来てくれた。これは、役立てたい。

* 追伸  ドイツ語のウムラウトで苦労されているようですね。ウムラウトはウムラウトで記されるのが最も美し く、また本来の姿であるのですから、これからお話することが良い解決策になるとは思いません。ただ当のドイツ人たちにとっても、ウムラウトが打てなかった り化けてしまったりすることは多く、その場合どうしているのか、参考までにお伝えしておきます。ドイツ人同士でも、メールを送る場合は、たいてい下の様式 を使っているようです。

 aウムラウト → ae  Aウムラウト → Ae 

 oウムラウト → oe  Oウムラウト → Oe

 uウムラウト → ue  Uウムラウト → Ue

 エスツェット(ギリシャ語のベータに似た記号)→ ss(小文字)、 Ss(大文字)

* スペイン・サラマンカより   秦先生、お元気ですか。
 こちらで無事新年を迎え、毎日スペイン語の勉強に追われています。それ以外はなかなか進みません。文化面での違いは多 いものの、それをいざ仕事にしようとするとなかなか難しいです。なんと言っても、今住んでいるサラマンカはスペインではあっても、日本人の考えるスペイン とは文化がだいぶ違います。仕事は真面目だし、時間も正確、肉ばかり食べています。闘牛はあるけど、フラメンコはありません。
 しかし、そこはそこ、なんとかその中で、今はあがきながら仕事のネタを探しています。
 3月中旬からは、南のセビーリャへ居を移す予定です。それまでは、スペイン語を学ぶ方が優先しそうです。元々語学は苦 手だったので、今回は、なんとか克服しようと思います。
 来週はグラナダとコルドバへ旅行に行ってきます。サラマンカとは違う南のスペインを少しだけ見てきます。
 こちらでは、インフルエンザが流行っています。ニュースで言っているくらいなので、かなり流行っているようです。学校 でも何人か休んでいます。日本ではそんなことはないかと思いますが、くれぐれもお身体にはお気をつけ下さい。
 それでは、またメールします。

* 送別の食事したのが昨日のように思われるが。ブラジルの飛行機野郎の方はどうしているだろう。

* 「片腕」の記憶   「片腕」だったのでございますね、「楽しみにしてもらいたい」とおっしゃっていたのは。 たのしみにしつつ、いろいろ、かんがえてみました。「掌の小説」の幾篇かを思いうかべたりして。
 「片腕」を初めて読みましたのは、中学生のときでした。
 あの、若い女性が片腕をはずす冒頭の、シュールでこわいかったこと、そのあとの男性の振る舞いも、少女にはつよい刺戟 でございました。わたしも腕がこんなふうにはずせ、それをいとしむひとがいたら……。自分が怖ろしい世界――今でしたら「魔界」と申しますでしょう――に 惹かれたがっていることに気づいて、それも怖しうございました。

* 読み尽くせないほどの凄みをもった作品だと思う。全面に肯定したり容認したりしていない自分の好みもありなが ら、躊躇なく一秀作として川端文学の一面を代表させて良いと判断した。遺族に掲載をご承知戴けてよかったと思う。やがて遺児観世恵美子さんにお許しいただ いた谷崎潤一郎の秀作を、電子文藝館に送り込める。文学批評に関心のある人には、川端と谷崎との比較にも対照的ないい選択だと思っている。ぜひ読み比べて 欲しい。この文藝館には、そういう「合わせ」場の意義も、意図している。ともあれ、なにか良い文藝作品に触れたいが、さてアテもないという人には、ぜひ日 本ペンクラブの「電子文藝館 http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/」を訪れて、検索を楽しみながら良い作品に 出逢って欲しい。このURLをぜひぜひご吹聴ねがいたい。

* 倉橋羊村氏の新句集、森詠氏の集英社文庫を戴いた。ともにペン理事会の同僚で、もう五年顔を合わせている。お 二人にもぜひ出稿して戴きたい。石川近代文学館の井口館長からもていねいなお手紙に添えて、いろいろに資料を頂戴した。

* いま、松下電器産業株式会社から日産火災損害調査株式会社宛の「PC設定変更 動作確認手順書」「第一版平成14年1月9日」なる文書がファックスで延々 と届いていて、閉口している。いつやまるかと見ていたが、用紙一巻きが費えてしまうほど。何なんだ、これは。新手のいやがらせか、何かの途方もない間違い か。
 

* 一月二十六日 つづき

* 雪 明日は雪かきをする程積もるかも。
 イタリア チネチッタ撮影所のドキュメンタリーを観ていました。
 1936年に発足したといいます。
 昔々、宝塚時代の八千草薫が「蝶々夫人」を撮る時に、その名前を覚えました。まだ自由化をしていない、ヨーロッパなん て夢みたいに遠い頃、出し店の二階にはイタリアの小物を多数置いていたので、懐かしんで来た彼女に、応対した覚えがあります。
 十五、六年前の「ニューシネマパラダイス」を観ましたか。戦中、戦後のシチリアの村が舞台で、映画好きだった子供が、 多感な少年時代を経て、その後ローマに出て映画監督になる話ですが、音楽と共に哀愁のあるいい映画でした。その子役で好演した地元のトト君が、今青年にな り、ローマへ出て映画の仕事に携わりたいと、熱っぽく話していました。ロッセリーニ、ビスコンテイ、フエリーニ、等の巨匠が名画を撮った処。アメリカ映画 も「ベンハー」「クレオパトラ」等数多く創られています。
 ニュヨーク同時多発テロ事件で封切を延期された、スコセッシ監督、デイカプリオ主演の大作「ギャング オヴ ニュー ヨーク」もここで撮られました。
 又、映画のお話になってしまいました。

* とてもこんな映画通ではない。しかし、高校、大学のころ日本映画の全盛時代であったため、映画への敬意をわた しは強かに我が身に植え付けてきた。かなり真剣に見た。その頃は外国映画はむしろ軽薄だと思い、進んでは観なかったが、カーク・ダグラスとトニー・カーチ スの「バイキング」の美しい写真とあらい物語に魅せられて、洋画も選んでみるようになった。選んでというと可笑しい、それなら入場料の安い映画を選んでと 云うべきだ。ジェニファ・ジョーンズの「女狐」とかいった映画が、無性に印象深い。黄金色に萌えるような山原を駆け下りてきたジェニファが底知れぬ野井戸 に呑まれてゆくシーンが夢のように。
 この頃は、日本映画というと、それこそ試写会に呼ばれる機会にしかみない。そもそも映画館に行くひまがなく、テレビで は洋画なら観てもいいと思ってしまう。洋画はくだらなくてもそれなりに珍しい眺めがある。風俗がある。
 近年印象的に覚えている日本画には、テレビで観た「雨あがる」「しゃる・うぃ・だんす」などがある。

* 小説を書き始めた頃だ、どうも小説が目詰まりして、会話を書かず地の文で押してゆきすぎる気がして、まったく 偶然に、書店の雑誌「シナリオ」の巻末に見つけた募集広告により、すぐさま築地松竹座の中に教室のあった「シナリオ研究所」に応募し、テストされ人数のう ちに入れてもらった。シナリオが書きたかったのではない、場面のツクリやセリフの勉強がしたかった。それと、わたしを刺激したのは、前半期、後半期に一作 ずつシナリオを書いて提出しなければならない約束があり、これに惹かれた。こういう課題が出ていると、必ず「書く」自分が分かっていた。書ければ間違いな しに勉強になるし、講評がもらえるとも聞いた。それで、会社が退けると毎晩築地へ通った。会社にはむろん黙っていたが、必要な編集会議などサボリはしな かった。なみの残業をしなかった。いつもしなかった。残業などせずとも、後ろ指も指されずに自分の仕事はぜんぶまともにやるという習いを、厳然と守ってい た。さもなければ自分のタメの勉強など出来るわけがないからだ。わたしの中には、途方もない怠け者と、途方もない実践家とが同居していた。その頃は酒など 全然呑まなかった。
 シナリオ研究会へは当初七十人以上が在籍した。講師は錚々たるシナリオライターや監督や映画会社の偉い人であった。だ が、みるみるうちに受講者の姿は消えてゆき、二、三人で受講した晩も何度もあった。前後期を通じて二作の課題をきちんと提出したのは、わたしの他にもう一 人いたかいないかだと、事務室の人が褒めてくれた。
 前半期の作品には、当時松竹専務だった、後に社長になった城戸四郎氏が「八十点」つけてくれて、講評に、「あなたは、 小説を書くといい」としてあった。これは願うところであった。こんなに励まされたことはなかった。後半期の作品にも岸松雄という高名だった批評家が、八十 点つけて、読ませるシナリオだと書いてくれていた。「読ませる」とは、おそらくシナリオとしては小説的であるという指摘に違いなく、わたしは城戸さんの評 と合わせて、大いに徳とした。シナリオを書き続ける気は少しもなく、やがて、わたしは小説「畜生塚」を書いた。さらに進んで「斎王譜=慈(あつ)子」を書 いた。シナ研の勉強が役に立ったかどうか分からないが、あの時期、「或る折臂翁」「祇園の子」などを書いたあとシナリオ研究所でああいう後押しを、その世 間でも抜群の人からしてもらえたのは幸福であった。今もそう思う。

* 竹田真砂子さんの「言葉の華」を原稿として整頓し、入稿できるようにした。歌舞伎の台本なども書いている若い 人ではないかと思う。「つらね」つき、歌舞伎の中の印象的なセリフを主題にした七編の長い随筆である。
 

* 一月二十七日 日

* 日曜  雪は積もらず、肉体労働はなく、助かりました。
 息子を夕食にと誘いました。手料理です。仕事が非常に忙しいので、外食ばかりだと云います。景気がいいのではなくて、 人が少なくて仕事の量が多いだけのことだとか。どちらを向いても、いい話はないようです。
 ひとしきり「鈴木宗 *」 と言ういやな男を俎にのせました。

* 同姓同名のおそれもあるので示唆するにとどめるが、こういう家庭が津々浦々に満ちあふれているといい。「男」 と思われない「卑怯な人権・人格」の保有者と見える。この代議士のとち狂っているのは今更のことではないが、裁判を受けている利権屋代議士たちのアトを懸 命に追っかけているのかも知れない、よく注意して観ていよう。わたしとて聖人君子でなし善人でも有徳人でもさらさらないが、幸いと政治屋ではない。政治屋 の悪徳は徹底指弾しなければならぬ。NGOの何たるかも弁えていない外務委員会のタテモノとは、そも何なるや。テレビのカメラに放言したバカ面がきちっと 放映されていたのは、不幸中の好証例であった。あれをわたしは真っ先に観て、あの愚かしい顔を記憶に焼き付けられたのは、新年来の不幸の一つだ。

* 鈴木某などよりもわたしが憎むのは、外務省のうそつき野上某政務次官である。これが諸悪の重末端であり、その 奥の官邸に、得意然とした官房の長の福田某がいて、これがまた彼の亡き父宰相の迷言を借りるなら、とてつもない「ヘンな天の声」を小エラソウに喋る。何の ことはない、要するに父親の代から天敵の田中は嫌いという、それだけだ。私怨で動いているとしか想像できない。我々市民は想像主体であり、それが往々的中 する、だから「人の声は天の声」にもなるのだ、よく耳に留め置くがいい。

* 「女の武器」で田中真紀子が「泣いて見せた」という小泉総理の発言は、はからずもこの男の、心ない内なる修羅 相をみせつけた。どこからどう聴いても紳士の弁ではない、自己利益をしっかり抱いている政治屋の言葉だ。しかも、上位者による下位の異性への公然・絵に描 いたような「セクハラ」であり、女性代議士達や女性の識者たちが何となく沈黙しているのも、おかしい。田中のためにおかしいのではない。「セクシュアルハ ラスメント」に関して、悪戦しながら頑張ってきた社会の努力・尽力そのものが、総理大臣のしたり顔で足蹴に蹴散らされているのと同じで、それを黙認看過は はおかしいではないかと、わたしは、云うのである。小泉が元にあり、福田が図に乗り、野上らが悪しき省利省略をやり放題やっていて、そこへ利権がらみにワ ルイ政治屋がのさばり出ている。そういう図だと、市民は観ているから、上の如き、良家晩餐の気まずい話柄になる。
 

* 一月二十八日 月

* こんにちわ!お久しぶりです。お昼に、外に出ましたが思ったより穏やかでした。
 ?私語の刻?を読んでいて、私の気になっていた事が書かれてあったので、メールしました。
 「田中真紀子大臣の涙」の件です。
 小泉氏が「涙は女の武器だからね」という発言には、ハッキリ言って、がっかりというより、=やっぱりただの男だ=と思 いました。根っこの部分は、男尊女卑(しょせん女は云々)をしっかり持っているのだなと納得しました。
 田中大臣の涙は、女だから泣いたのではありません。(そんなに 軟=ヤワな女性ではないでしょう。)
 私もささやかに仕事を続けてきた(政治家の足元にも及びませんが)一人として、あの涙の意味は分かるつもりです。思わ ず出てしまった涙が、よけいに腹立たしく悔しく思えたことでしょう。
 それに、やはりまわりの女性の反応の無いのには、がっかりです。女性議員から、小泉氏に反論があるかと思ったのです が、こと「田中真紀子」さんとなると、まわりも「触らぬ神に・・・」ってとこなのでしょうか。
 性の壁はまだまだ、長くて厚いものだと、今更ながら思ったことでした。

* 「政治家が人前で涙を見せてはいけない」なんてことは、ない。むろん、「やたらに」と加えるならその通りだ が。
 むしろ、まっとうに涙を流せるほどの人間に政治家をさせたい。血も涙も、恥もない人間が永田町や官庁に多すぎるのが、 あの外務省NGO排除といった、初歩的な認識不足に絡んで典型的に露出しているのであり、野上政務次官の牽強付会の詭弁続出には、涙も恥もない保身官僚の 腐臭がたちのぼる。この根を断たずして外務省の構造改革は有りえまいとは、誰もが明々白々に感じている。いみじくも平沢勝栄代議士の云うように、野上事務 次官は鈴木宗男代議士の「秘書」なみであり、この二人は深いところで政府官房の傀儡にされている。機密費どころでない利権も深層で蠢いているのではないか と注目していたい。
 小泉総理をおいてああいう姿勢と言葉をもった他の保守政治家のいないことを慨嘆し、ま、ま、と小泉政権になお未練がま しく期待も残さざるを得ない歯がゆさだが、この外務省問題にきれいなメスも振るえないのでは、何の指導力かと嗤える。「女の武器」発言に土井たか子はなぜ 黙っているのか。終始「女」方の田島陽子はどこに縮んでいるのか。

* ことわっておくが、「女」の「男」のという物言いには興味がない。この件で小泉を批判するのは、しかし、 「女」差別の国内外の歴史的推移に対してなされつづけた、男女を問わぬ努力尽力に対する、「総理大臣」の無理解と足蹴同然の発言は、そのまま「政治問題」 であるから、わたしはノーと言うのである。

* 二時間半しか眠れず、五時前に起きて、前夜、妻がビデオにしておいたハンフリー・ボガートらの「俺たちは天使 じゃない」を一人で観た。一両日前は、スピルバーグ総指揮の「トゥイスター」を同じように早暁に観た。幸い両方とも面白く、後者のヘレン・ハートもいい女 優だし、前者のジョーン・ベネットの奥さんぶりは、エリザベス・テーラーとスペンサー・トレーシーの「花嫁の父」での母親役を思い出させて、なお若く綺麗 な上品さで、満足した。ハンフリー・ボガートなんて、なんて懐かしい俳優か。「カサブランカ」「麗しのサブリナ」など。今朝の映画では凄みとおかしみとを 兼ね合わせて、飄々然として、すこし不気味な魅力がおかしかった。変ったクリスマス映画であった。

* 「跖婦人伝」という、いわば江戸軟文学の、先駆的重要な布石になった短編がある。洒落本に属しているが滑稽本 にも人情本にも黄表紙にも、ある種の要のような位置にいて、或る粋人学者旗本の手で書かれたもののようだが、文学史的なことはおいても、すこぶる刺激的に 面白く、詳細な注を逐一参照しながら、興奮して読んだ。それでよけい目が冴えたとも。
 江戸の入江に夜鷹として生きた「せき」という姉娘が、吉原で全盛の妹花魁や姉株の有名な高尾太夫を相手に、それはもも う、スカアっとした色道の啖呵を切るのである。妹は、姉が夜鷹では自分も困る、姉もおそらくは卑下していようと、姉株の高尾に頼んで、せめて吉原での女郎 暮らしを説き伏せてもらおうとし、高尾も鼻高々に入江の河岸にまで出向いて、高飛車な説得を始めた、のを、せきは、ぴしゃりと遮り、滔々としていかに吉原 女郎が入江の夜鷹に比べて低俗低級な、不自由極まる偽善的境涯であるかを解き明かし、なみいる大花魁を顔色無からしめて、みごとに追い払うのである。
 その上で、このせきが書き置いたという「色道」十二章の、かろうじて遺ったという六章を掲げている。これがまた。
 むろん、すべては趣向された泥郎子の著作であるが、洒落の滑稽の人情のというところアタマのてっぺんを叩き抜いてし まった「志」の清さすら、この一編は、感じさせてくれ、いいものに出逢ったなあと思う。

* 国会では、外務省田中・鈴木・野上問題での「政府統一見解」なるものの取りまとめという、愚にもつかぬ茶番劇 で荒れている。延々と荒れでいる。簡単なことだ、最大の悪障碍として、事務次官以下の高級外務官僚がいる、それを粛正して、その上で田中大臣の腕前を拝見 すればいい。いまのままでは、大臣は何も出来ないほど、「横柄」無尽の官僚の恥知らずな跋扈である。この毒悪を清めてから回復を、改革と刷新を果し、それ で仮に田中が退任しても、かつて誰も成し得なかったことをしたことになる。まだ大臣が引き下がる時機ではない。
 

* 一月二十九日 日

* NHK番組製作局のディレクターから電話があり、「芸能花舞台」名作文学シリーズ第一回で、谷崎潤一郎「細 雪」を採り上げるにつき、わたしの作詞・二世荻江壽友作曲の荻江節「松の段」を、潤一郎作詞・二世都一廣作曲の一中節「花の段」と同時に放映したいがとい う、依頼。荻江に、前もって聞いていたことで、承知。
 ただ「松の段」としてあるように、これは小説『細雪』の外側でモデルとして現実に生きた、松子夫人と妹重子さん、そし て谷崎の三人三様を書いたもので、「幸子」「雪子」に宛てて書いてはいない。壽友に頼まれて作詞したときは、谷崎と重子さんとはもう亡くなっていて、また 相逢う日を「松=待つ」きもちで、幽明境を異にした思慕を主題にしていた。それだけは、関係者にも分かっていて欲しいと電話で伝えた。企画書では「幸子  花柳春」「雪子 西川瑞扇」となっている。「花の段」こそ小説の内側を歌っていて、「幸子 花柳春」「雪子 西川瑞扇」「妙子 西川喜優」で問題ないが、 それとても谷崎の当時の気持では、作中の蒔岡姉妹以上に、松子、重子、信子三姉妹が色濃く念頭にあったのは間違いないところである。と、これだけを認めて さえ置くなら、こだわる所ではない。企画通りで差し支えない。
 二月九日午後一時教育テレビ「芸能花舞台」放映。同、十六日午前五時十五分、十八日午前○時十五分にも、再、再々放映 とか。わたしたち夫婦のしょっちゅう観ている番組である。

* 「細雪松の段」初演は、藤間由子が弟子と二人で舞い、次いで先日亡くなった名手今井敬子が松子夫人の希望で一 人で舞い、また京都先斗町の芸妓たちが温習会で演奏した。作詞は、あえて谷崎作詞「花の段」や和歌をふまえながら書いており、結果的に松風村雨の姉妹が行 平卿を慕うのに似て、松樹を谷崎に、二人姉妹が幽明境を異にしながら松をめぐって連れ舞われたりしてきた。ともにまた逢い逢うのを「まつ」と契りながら、 空漠々と松子夫人ひとりが此の世に生きてある寂しさを表現した。国立小劇場で二度公演し、ともに松子夫人は泣き崩れておられたのが忘れられない。
 松子夫人は、これは一人舞がよかろうと思われ、二度目はご自身今井さんに働きかけ、いろいろ話し合いもして実現した舞 台だった。わたしも話し合いに加わった。松子夫人もまた最近今井さんも、逝ってしまわれた。

* 予算委員会の紛糾、与党の単独決議、政府見解。ばからしい限り。さこへ雪印の企業ぐるみ詐欺疑惑事件の途方も ない拡大。こんどは民主党大橋某参議院議員の政治不信辞職表明。
 

* 一月二十九日 つづき

* 大橋巨泉議員の辞職は一つの選択だとは思うが、効果は上がらないだろう。ばからしさに耐え抜いて、国会の内側 でよくものを見極め報告して欲しかった。外へ出てしまえば、足がかりは持てない。ばからしさということから言えば、吹けば飛ぶ人数になった社民党の中でも がきながら頑張る福島瑞穂や辻元清美の日々のばからしさは大変なモノだろうが、粘って活動していてくれる姿は、国民はちゃんと見ている。半年で議員投げ出 しは、潔いようだが、これも、ばからしい。

* 昨日朝、帰ってきました。石本正さんの展覧会が京都の大丸で行われていて、最終日と知っていましたので、関空 からそのまま出かけました。今回は作品の殆どが裸婦で、しかもここ1、2年の精力的な集中的な仕事でした。裸婦を描き続けること・・は今の私には、必ずし も理解しきれない要素がありますが・・芸術とポルノ云々はここでは脇に置きます・・81歳という画家の年齢と女性への「感動」・・やはり男の人を理解する のは大変だわ。感動して欲しいのは女性の本音でしょうが・・。
 帰りの電車ではさすがにうたた寝もしたりして、とにかく帰宅しました。暑いのは大の苦手、さらに旅行中の定番の感ある 消化不良にも苦しめられましたが、スースー眠って睡眠不足は克服し、宅配された荷物も整理し、たまった新聞も点検し・・一息ついたところです。
 気楽な旅と私がメールに書いて、「気をつけて」というタイトル、本文なしの返事を下さいましたが、あの・・・だけに は、考えさせられましたよ。「気楽」は、ツアーというお任せの部分だけで、決して気楽な旅であるはずはないのでした。タイやカンボジアへの旅なのですか ら・・。
 旅を終えて思う事は、まだ混乱していてとうてい言葉に表せませんが・・。行ってよかったと思います。遺跡も、そしてな お内戦の傷痕に苦しむ人たちの暮らしも・・地雷などあってはならないと・・鮮烈に胸に響きました、ずっしりと堪えました。涙が出ました。
 寒さはこれからが本番。器械の部屋、出来る限り暖かく、夜、本を読み過ぎないで、風邪など引かないで、自分に甘 く???過ごして下さい。これは老婆心でしょうか?大切に

* アフガンへも行く気でいるらしい、NGOでもボランティァでもないこの詩人と呼ばれたがらない女詩人は、片雲 の風に誘われ、内奥の闇をただかき混ぜるために、半ば呻きながら旅を続ける。タイやカンボジアから関西空港へ戻り、石本さんの展覧会の最終日だというだけ で、家とは逆方角の京都へその足で立ち寄って観てくる。これは、元気というようなものではあるまい。
 わたしなんぞ、唯摩居士でもあるまいに、根が生えたように家から動かない。不健康の極みか。

* 昔に、今や絵手紙で元祖めく友人小池邦夫の絵を、展覧会で買った。二尾の鯛が描かれ「動かなければ出逢えな い」と書いてある。絵に惚れたか、言葉を買ったか。ま、取り合わせの佳い作であり、今も居間の飾り棚にかかっている。息子が前から狙っているが、持って いってもいいと思っている。このごろ「動かなければ出逢えない」という尤もそうな託宣に対して疑義を抱いているからだ。
「動くから出逢えない」のかも知れぬではないか、という深海からの泡のようなメッセージが聞こえてくる。
 そとへそとへ、もっともっと。
 若さのそれはモットーのようなものだが、それが何を人間に贈り物してくれたか、焦燥と失意と不安とだけであるかも知れ ない。外へ外へもっともっとと言い続けていると自然その辺に流れ着く。
 だから座り込んでいるのではない。なんのことはない、ものぐさになっているだけだ、わたしめは。

* 昨夜も眠れなくなったとき、幸い真の闇であったから、眼をみひらき、闇を覗き込んで過ごした。
 仰臥している、その体感や、手足、襟もとなどの感触が初めのうち生きている、が、闇に見入っているうち、徐々に自身の 五体感覚がすべてかき消え、なにも感じないようになる。すると、無限の闇のなかで、存在するのは、ただ純粋の意識だけになり、秦恒平などという世俗存在は 失せているというか、そんなものがかつて存在したとも思えなくなってくる、いや、そんな思いすらなく、ただ深い闇に溶けている。闇は無限である。
 ははん、生れてくる前がこうだったんだ、死んでしまえばこうなるんだ、いやいや、生きていると思っているのも夢に過ぎ なくて、自分の内奥を覗けばこんなもの、生前も死後も生そのものにも、在るのは、この「意識」だけなんだと感じられる。
 真っ暗闇は、怖いよりもとてつもなく安心な世界なんだと、わりと本気で感じ始めたのは、大人になって、さていつ時分か らだったろう。闇を覗き込んでいると、自分がほんとうに何かしらトータルなものと一体であるという意味が、分かる気がしてくる。空であり無であるように感 じられる。
 

* 一月三十日 水

* 野に放たれし虎よ、吠えよ。小泉は濁って涸れた。
 国民の目からは最悪の永田町決着であり、公約違反の田中外相更迭である。鈴木宗男もその背後も、また外務省官僚達も、 ひたすら田中はずしに躍起になってきたのを、ただ受け入れただけの人事であり、政界では不正こそがいつも勝つかの印象を、また与えた。今回のNGOがらみ の経緯では、正しくこそあれ何ら咎められる筋のない田中真紀子だけが、不当に頸切られ、野上らも鈴木らも勝利の盃を現に高く挙げている。ばからしさも極ま れり。
 大臣外交に専念できなかった、させなかった、のは、外務官僚そのものであり、田中がサボろうとしていたわけではない。 外国でのウケもごく自然に良かったではないか。まして外務省には、あきれ果てた機密費問題その他の腐敗があり、何も片づいては居らず、誰の目にも「田中だ から」その改善もなんとか可能かと、信頼してきた。またそのことなしに、国民益にそった真の外交も不可能だという理解があった。
 阻んでいたのは官僚であり、鈴木のような害毒族議員であるのは、あまりにも明白であった。小泉は、少なくも先ず野上事 務次官ら抵抗官僚を処分し、大臣の執務を妨害するものを綺麗に除き去り、任命した当初の信頼のままに田中真紀子に活動させるのが当然の措置であった。それ でなお田中に能がないと見極めれば、頸切るのもまたよしと言える。働く場を与えずに、一番期待の大臣の頸をとって、反対勢力の全てを喜ばせただけの、この 更迭人事は、愚の骨頂、小泉は度し難い不良資質の馬脚をあらわした。
 わたしの観測では、どこからどうみても、これは福田官房長官の陰険な田中追い出し策謀に、総理までがが操られたのであ る。その背後に、アタマのわるい史上最低総理の森喜朗の田中への恨み辛みもあったことが、更迭劇直後の、彼のコメントからも察しられる。もう、これで小泉 内閣に期待できるなにものも失せ果てた。構造改革など成るわけがない、やがて野垂れ死ぬであろう。「東条よりもわるい」と某哲学者の叫ぶような小泉総理で あったのが、こんな愚劣で低能な裁量で追認されてしまい、ナンジャイ、コリャと呟くしかない。

* 参議院の委員会での小泉答弁は、要するに言いくるめる目的だけの浅薄な詭弁なのは、なによりもテレビにうつる 薄笑いの表情で分かる。
 もうこんなイヤらしいことに付き合っていられない。

* 昨日、婚家の母から私達宛てに手紙がきました。私達の結婚を心から嬉しく思って送られた手紙でした。
 その中には、あなたと結婚したことが息子の最大の親孝行です、などと嬉しいこともかかれていました。読んで、心がほん わりと暖かくなるような手紙でした。
 秦先生は、わたくしの「所感」、を、婚家にも贈って下さっていたのですね。そのことに触れてあり、それを読んで、”あ なたが昔から自分の娘だったような気がする”、”自分と似たところが多い”、”安心して2人を見守っていける”と言葉を続けていました。そうして最後に冒 頭の言葉がありました。
 嫁の立場で、更に遠くはなれている姑と分かり合えるというのは難しいことだと思います。最初が肝心だと云いますが、今 回も限られた時間の中で自分を分かってもらうのは、殆ど不可能だと思っていました。
 でも、そんな心配を先生が取り払ってくださったのだと思います。手紙の文面から、私を信用してもらっているのが伝わっ てきました。本当に安心しました。義母のその気持ちは、秦先生のお蔭です。
 どうこの感謝の気持ちを伝えてよいものか、言葉が見つかりませんが、本当にありがとうございました。
 義母も申しておりました。秦先生のお祝いのお言葉は本当に素晴らしかったと。先生の言葉は、じんわりじんわりと、みん なの心に染み込んでいっているのですね。ゆっくりと、暖かく。ありがとうございました。

* こういうメールをもらった。嫌な気分を和らげられるのが有り難い。公よりも私の一人一人が堅実に幸せに成り、 知性に溢れて、の日本を「私」の国にしたいものだ。日本の「公」は、政府も国会も、雪印のような大企業も、腐りかけている。一人一人の「私」が優れた民衆 力をもって日々に堅実に生きられるように「公」を駆使するのでなければならない。「公」のために「私」が在るのではない、幸せな「私」を可能にすべく 「公」こそが「私」に奉仕するというのが当然のことだ。
 

* 一月三十日 つづき

* 夕方から夜のテレビ番組を仔細に見たり聞いたり、こういう時にも、油断ならぬ便乗的な政治屋や評論家・識者と いうのが、うようよいるものだと、注意深くチェックした。
 いったい、いつまで橋本派の青木だの、野垂れ死んだ筈の森前首相だのが、のたのたと動きまわれるのか。官邸には彼等が 送り込んだトロイの馬のような官房長官が、陰険に、導き入れるようにして抵抗勢力という名の橋本派の意向を、忠義顔して小泉に刷り込んでいたこと、報道 は、巧まずして正確に教えてくれる。
 小泉支持率は、最も多数のサンプルでしらべたものだと、三十パーセント台に暴落していた。田中はヤメさせるべきでな かったという声が、多いところでは八十パーセントに達していた。国民の声であろう。少なくも今回の騒動で、正しく動いて誤りを是正したのは田中外相独りで あるが、その独りが、いちばんワリの悪い更迭をくらい、外務省も鈴木宗男も橋本派も凱歌を奏している。こういうのが政治決着といえるのか、小泉は国民の声 でなく、ただもう福田官房長官の耳打ちの声だけを鵜呑みにしてきたが、福田の声には、実に巧みに橋本派の声が吹き替えてあったのだから、あらゆる意味で小 泉は、今回、橋本派に全面敗北し、外務省という伏魔殿を「聖域」として腐臭のまま温存してしまったし、政治改革など絶対にやれない内閣だということを国内 外に麗々しく示した。田中は、もう外務省内部に手が届かない、が、鈴木宗男も外務官僚も、相変わらず利権と省益ばかりを求め、権力を恫喝的に行使し、大臣 をコケにし続けるであろう。卑屈な代議士たちはにやにやとおこぼれに預かるだけだ。小泉は、愚の馬脚をあらわした。彼のうまいのはポーズと標語とだけ、 ハートがとても冷たい。

* もう二三度わたしは書いているが、もう少しすると、某テレビで、ミラ・ジョヴォモヴィッチ主演、カール・ベッ ソン監督の「ジャンヌ・ダルク」を放映するから、ぜひ、見くらべ欲しい。
 現状ではいつまでもフランス国王になれない運命の皇太子は、縋る思いで、カリスマのある少女ジャンヌの助けをかりて、 大抵抗勢力の英国と闘い、やっと国王の位に就くことができた。ジャンヌは献身的に皇太子の即位のために身を粉にして働いたのである。
 田中真紀子と小泉との関係は、まさしく、これであった。誰もが知っている。
 ところが皇位に就いた新国王は、とたんにジャンヌを使い捨てに邪魔にし始め、ことも有ろうに、抵抗勢力の手にていよく ジャンヌを売り渡してしまう。
 これまた、真紀子大臣を何とかして罷めさせよと吠えてまわった橋本派や福田や森や党内俗徒たちの声に、これ幸いと目触 りで仕方ない田中真紀子の身柄を引き渡すかのように、頸をとらせた、小泉純一郎の手口と全く同じなのである。
 ジャンヌは火炙りに殺され、田中真紀子は、喧嘩沙汰の一人として、万人が咎なしと認めている冤罪により、罷免同然に頸 を切られたのである。
 小泉純一郎という宰相が、フランス皇太子変じて国王となった男と同類同質の冷血漢であることが、なぜ真紀子に分からな かったか。ジャンヌ・ダルク永遠の謎もそこにある。映画はその辺に或る答えを出している。
 しかし真紀子前大臣が小泉に入れ込んだ謎を解くのは、ごく簡単である。他に、あまりに人がなかったと見えたのだ、残念 にも事実であった。だが、不幸にして彼女の謂う「変人」は、かなり卑劣な内心をスマートに隠した「悪辣な変人」であった。田中真紀子は無念であろうが、彼 女の方から小泉なんぞは「見切って」もいい潮時でもあった。
 反真紀子で固まっていた連中にすれば、火炙りで殺してしまえないこの時代を恨めしく思っているのであろうが、小泉首相 にすれば、放っては成らぬ強豪の雌虎を野に放ったも同じである。
 虎よ、吠えに吠えよ。
 政治というのは、ジャンヌ・ダルクの頃のヨーロッパも、二十一世紀の極東日本も、変わりなく醜悪なのだという結論にな るが、情けない。人間のいいところが、生かされないのが政治の場だとすれば、人間の歴史の生んだ最悪の所産とは「政治」なのかと思われてくる。こんな悲観 論を吹き飛ばしてもらいたい。
 小泉と巨泉。絵に描いたような誤算であり裏切りである。
 

* 一月三十一日 木

* ジャンヌダルク  のこと、身に沁みて読ませていただきました。本当にそう思います。

* もうニュースは緒方貞子新外相の人事を報じているだろうか、午後三時前、機械の前にいて聞いていない。まとも な人なら固辞して受けないだろうと思う。更迭騒ぎのNGOに対する外務高級官僚や族ボス議員の嗤うべき認識不足を思うなら、緒方氏は二の足を踏まずにおれ まいと思う。この人の活動の背景や近景にはNGOがいつも活躍していたのではないか。その重要さについて知悉している世界中で有数の人の一人であると思わ れる。田中外相は更迭されて、外務省では喝采こそすれ、その利益と体質・体制を守り得たと豪語こそすれ、何一つ改善にはむかっていない。そんな中へ入って 行くのには余程の条件が出せない限り、討ち死にに行くのに等しい。盛んに慫慂の電話をしているというのがあの森喜朗では、緒方氏はたまらなくイヤではある まいか。世界でもいちばん頼りなかった愚昧人の骨折りに乗る危うさはたいへんなものだ。
 だが、この他の人事はあり得ないだろう。引き受け手もないだろう、鈴木宗男のような跳ねっ返り以外には。緒方氏に振ら れたら小泉内閣は瓦解への道を早めるに違いない。
 今、起死回生の妙案は、三方を一律に処置しました、あれはあれで決着したので、あらためてもう一度田中真紀子を外務大 臣に任命し、外務省人事も大臣業務のしやすいよう一任してもいいと出たら、小泉純一郎の支持率は天に届くだろう。外務省改革には、緒方貞子でどうにも成る とは思われない。あたら名声をフイにするにとどまるだろう。

* いささかグロッキーになりながら、やっと新刊湖の本の入稿用意が出来た。これを投函して、直ちに講演の用意に また取り組まねば、とてもとても、乗り切れない。

* ご意見、ありがとうございました。
 「私語の刻」で秦さんの感想に触れているせいか、書きながら、川端・谷崎のことがずっと頭にありました。わたしはどっ ちなのだろう、と。その折りにいただいたご意見がまさにそのことであり、「秦さんはなんでもお見通しなのね」と驚きつつ、わたしの思考が誘導されているの かしらん、と不思議な心地もします。
 わたくしごときが話を作ろうとしたら、いかにもの、あざといものになるだろう、というのが前回の反省点でしたので、今 回は、湧き出るものに沿って書いていました。そういう姿勢は、どこか川端に寄ろうとしていたかもしれません。反面、真似できないな、と思っていました。川 端の文章は、繊細なかけらをそっとつむいでひとつの物語になっている印象があり、あわれにアンバランスな均衡は川端だからこそで、安易に触れてはならない と。
 ただ、川端のように感情を吐露してゆく書き方は、直接的で、ある意味、満足感があると思います。谷崎に寄ったとき吹っ 切らなければならないのは、この満足感のことかなと、今は思いますが、果たしてどうでしょうか。さて、どちらを選ぶかですね。少し、谷崎に寄った方がいい ような気がしています。谷崎を読んでみます。書こうとしながら谷崎を読んだことは、まだ、ありません。
 題は、難しいです。ほんとうに苦手です。
 それでは、推敲して、またお送りしますので、宜しくお願いいたします。

* 小説を送ってきた人の第二作は、前作よりも遙かによく落ち着いて書けていた。だが、前作がストーリィに重きが あるとすれば、今度はかなりに心理的に書いていた。心の内が書き込まれていた。それなりの効果をあげていた、が、ふっと顧みて、これで人は面白い小説とお もうだろうかなあと感じた。それで、たまたま考えてきたことでもあり、こんな感想らしきものを書いたのである。

* そんなに難しいことでは、ありません。が、
 全編一人称世界として運ばれる物語ですから、無用な「わたしは」「わたしに」を、省ける限り省いた方が、行文も波打た ず、作品の「眼」が広く深くなります。
 形容語をだぶらせての強調は、くどい瘤になり、作品の血流を不用にごつごつとさせます。ずいぶんそれは少なくなってい るけれど、まだ、感じます。
 文の末尾を、清潔に音楽的に一定させるか、力動的にとりまぜるか、成り行きにまかせるか、態度を確認して検討してみて もいい。
 ま、上のようなことは、技術的なことですが。

 川端と谷崎とを読んでいると、その特色が明白にわかれ、川端は、精緻にせつないほど内心を表現し、一挙手一投足 にも「心理的な意味や背後」を透かし観て、書きこみます。谷崎は、具体的な人物の行為と事件との推移の中で「筋=ストーリー」に多くを語らせます。心理の 説明に重きは置かずになお心理も書けているはずという主張です。その通りに感じています。
 川端には筋の面白さのしめる比重は、さほどでない。心理表現の犀利と精緻のなかにあわれを感じさせて魅力に富みます し、谷崎は、おおらかに物語の世界を掴みだしてきて具体的であり、心理の説明に立ち止まる神経質はほとんど持ち合わせずに面白い世界へ誘います。
 あなたは、この辺で、どっち寄りであるかを意識的に吟味しておく機です。川端寄りなら、まだまだ川端の足元に及ばない のだから、つまり、たいして面白いダイナミックな小説にはなりにくいまま、心の内を解剖するような仕事が当分続くでしょう。
 谷崎寄りに物語を創り上げて面白くするには、何かしらの部分を吹っ切るように断念しなければならず、多面的な勉強が、 話嚢の充実や話術が、必要になるでしょう。
 今度の作品、わたしは、「スイート サレンダー」という題は、分かりません。もうすこし端的に凝縮したナウい題が欲し いかな。そして、もう一度全体にざっと推敲すれば、これはこのままで一編を成すでしょう。

* そして上の返事があったので、もう一度わたしから書いている。

* 強いてどっちかに寄ろうという必要はないでしょう。小説の書かれ方に、そういう大きな違いのあるのを分かって いれば済むことです。出すのは自身の味ですからね。
 昔なら、谷崎と志賀直哉といったものです。その頃は、谷崎と川端は似ていると思われていましたし、三島でさえも。しか し書き方は三人ともずいぶんちがいます。
 あなたは、無意識にも作品論や作家論にも希望があるのかな。それもいい。ただ、小説の文体を確保しておかないと、文章 があれるおそれはあります。質がちがいますからね、文章の。論理と表現ですからね。
 

* 一月三十一日 つづき

* 外相人事は、当然ながら難航しているようだ。わたしてがもし当事者なら、外務省の副大臣以下、高官人事に徹底 した希望を出し条件をつけ、機密費等の探索に制約を加えない約束をとりつけ、そして田中真紀子と会い、徹底的な意見交換と情報提供を受けるだろう。
 しかしわたしがもし緒方貞子であるなら、この人事は、固辞し続けて、受けない。
 緒方の働き場は、霞ヶ関に跼蹐しているより広く大きく、また、これまでに培った仕事の基盤もあるはずだ。高齢であるこ とも、健康のことも、家族のことも、よくよく考える必要がある、受ければ後戻りは出来ない、大橋巨泉のような軽率は許されない。緒方貞子自身のためにプラ スになることは殆どない。
 さて、では国益になるか。内閣の延命にだけは少し役立つだろうが、橋本派、江藤派、亀井某の仲間達のように、すでに大 臣病をあらわに内閣改造に目を血走らせた連中が、数で押してくるだけのアンポンタン自民党政権のなかでは、いかに緒方貞子の実力があれども、あたら政争の 渦に巻かれ、沈没の憂き目は目に見えている。
 今ごろは独り舌をかみ臍をかみ、しまったあと悔いているに相違ない小泉首相にとって、真に抵抗勢力と闘いつつ国民の支 持を得続けたいなら、わたしの云うように、こう云えば宜しい。「一旦の人事改革は成しとげた。改めて新人事に田中真紀子を還任させる」と。この爆弾のよう な発想をもち実現すれば莫大なエネルギーが国民からわき起こり、喝采は間違いないだろう。もし文句が出たら、「鈴木宗男と野上次官の頸を切るには、あの必 要があった、しかし、国民の声も、自分の本意も、野党諸君の意向すらも、田中復任には異論はないだろう、異を唱えるのは権力と利権の亡者達、つまり抵抗勢 力ばかりで、それはもともとそうであったので、問題外。一寸先は闇の政界には、こういうウルトラCがあり得るんだ、分かったか」と、胸を張ればよい。つい でに、、まかり間違えば小泉の身柄を売り渡しかねない利敵行為のおそれある官房勢力も更迭するといいのだ。
 そうだ名案がある、福田官房長官を外務大臣にして、田中真紀子を官房長官にする、そして、内閣官房から外務省の問題に 督促また督促をかけることだ。これが最良かも知れない。
 こんなことでも闇に言い置かねば、おっとりと酒ものみにくい。だが腹立ち紛れのトンチンカンではないつもりだ。
 
 

* 二月一日 金

* 日本規格協会符号化文字集合調査研究委員会(委員長 樺島忠夫)が、2002年1月15日付けで「JIS「情 報交換用符号化拡張漢字集合」改訂の考え方案公開レビュー 」をしていた。その概略を、電子メディア委員会では委員加藤弘一氏に要約してもらった。 さらに委員会見解も取り纏めることになるが、加藤さんの「要約と指摘」は我々にだけでなく、機械での文字問題にも、それだけでなく日常の文字表現行為にも 関わりが深刻なので、理解の届く届かないには相当な差があろうけれども、参考までに書き込んでおきたい。わたしの立場では日本ペンクラブ内の委員会だけで なく、一作家としてもこの問題は多くの人とともに分かち合い、考え合って行かねばならないと思うからである。加藤委員その他委員のお許しを得ておきたい。

* 現在、JISでは国語審議会の「表外漢字字体表」とJISの整合をはかるための改正作業をおこなっています が、その案がようやくまとまり、1月15日?2月15日の期間、公開レビューとして広く意見を集めています。
 案を読みましたところ、言論人の立場から意見を述べた方がいいと思われる箇所がありましたので、秦委員長にお願いし て、4日の委員会で討議していただくことになりました。
 JIS改正原案は  http: //www.jsa.or.jp/domestic/instac/revue/jcsopen.htm で読むことができます(4日にプリントしたもの を配布します)。
 ご存知の方も多いと思いますが、1978年の最初のJISでは当用漢字表にはいっていない漢字は正字になっていたので すが、1983年の改正で簡略字体に直してしまったために、印刷で一般に使われる漢字と、電子機器で表示される漢字との間に、ズレが生じました。
 森鴎外の「鴎」、掴むの「掴」、冒涜の「涜」などが、その例です。(83改正以前の機械ではちゃんと正字が出まし た。)
 このズレを解消するために、国語審議会では1022字の「印刷標準字体」を決め、「表外漢字字体表」として公布しまし た。一口でいえば、JISの83改正を否定し、原状回復をはかったものといえます。
 そこで、JIS改正となるわけですが、83改正移行に蓄積された膨大なデータがあるために、簡単に字体を入れ替えると いうわけにはいきません。
 もし、字体の入れ替えをしてしまったら、83改正と同様の混乱が生じます。
 電子機器の普及を考えると、影響の深刻さは83改正以上です。
 改正には慎重な配慮が求められますが、具体的には以下の通りです。

 1. 815字(80%)については変更しない。
 2. 「柵」、「閏」、「頽」、「冑」の4字は、ユニコードにはいっている正字の方ではないという解説を附加し、誤解を避ける。
 3. 隙、廻など筆押さえ、跳ねなどの微細な差異のある39字は例示字形を変更。
 4. 「葛」など7字は、印刷標準字体表の字形が別字としてユニコードに存在するので、追加も変更もしない。
 5. 「溢」、「鰯」、「淫」、「冤」、「晦」、「徽」、「秤」、「瀞」、「煽」など100字については例示字形を変更するが、一部の字については変更しない方 がいいという意見が出ている。変更しない文字については、正字を新たに追加し、ISOにも追加申請する。
 6. 三部首許容に関する28字については、
 >>1表外漢字字体表の例示字形に変更するという提案と,2現行JIS 文字コードの例示字形を維持するという提案の両論がある。 「この両論に対する,積極的な御意見をいただきたい。」と特記されている。
 三部首許容というのは「食」偏、「示」偏、「之繞」は正字形でも簡略形でもいいという規定で、「飴」、「榊」、「逢」 などが該当。
 (物書きの立場からは、5と同様、現行字形を維持したまま、正字を追加した方が好ましいでしょう)。
 7. 「鴎」、「掴」、「涜」など28字についてはユニコードに正字があるので、変更しない。
 8. 「嘘」、「具」、「妍」、など10字は正字がユニコードにあるので、互換漢字としてJIS拡張漢字(JIS X 0213)に追加。
  (5と6については、意見を述べておいた方がいいかもしれません。もっとも、JISが改正されても、メーカーがしたがうかどうか怪しいという問題がありま す。
  むしろ、重要なのは、JISの委員会の場でマイクロソフト社の代表が提起したという、「フォントの実装方針」に注意を喚起する方ではないかと思います。
 電子文藝館でも、ユニコードにはいっているのに、マックでは出ない字がありましたが、その後調べたところ、過去のマッ クで出ないだけではなく、現在のマック(Mac OS X)でも出ない字が多数あるのです。
 Windows XPにはユニコード二万字が標準ではいっていますし、Office XPを買うと、さらに七千字が追加されるということです。
 Mac OS Xの場合、ユニコードといっても一万一千字しかはいっておらず、内田百ケンの「ケン」や、タカ村薫の「梯子高」がはいっていません。
 厳密にいうと、一万五千字がはいっているのですが、四千字はフォント切替という技術で表示するので、Windowsと の間でデータの互換性がありません。
 一体なんのためのユニコードだったのか、アップルの姿勢には疑問をおぼえます。
 ユニコードを使う以上、すべての機械で字が出るように、フォントをちゃんといれてくれと意見表明しておいた方がいいと 思うのですが、どうでしょうか。
 意見表明の場としては、情報処理学会の文字コード体系検討委員会(文字コード委員会)の報告書の各委員の「意見」の項 目もあります。
 こちらの委員会は、日本の文字コード政策の大方針を決めるところで、電子政府との関連で異体字を出す技術を標準化した り、国際的な連携について議論しています。     電子メディァ委員会委員     加藤弘一

* 分かりいい纏めであり、附記された加藤氏の所感にわたしも異存がないので、あえてそのまま書き込んでおく。こ ういう問題に、パソコンという機械環境に居住している大勢の人達が踏み込んだ関心を持ってもらえれば、果ては、日々に苦闘している電子文藝館での作品再現 にも、また今後の電子的表現にも遠回りして利益をもたらすだろう、そうあって欲しいと願うのである。

* 緒方貞子さんは外務大臣を受けなかった。環境大臣の横滑り人事という苦しまぎれであるが、女性を矢面に置くこ とで多くの批判や攻勢を和らげようと云う或る面では卑怯な人事であり、これほどの危機的な局面で外務大臣になろうと手を上げる、また指名されるほどの男ど もが自民党に一人もなかった、それこそが、自民大臣病患者どもの卑怯さというしかない。要するに、党員をあてるのが、田中真紀子のアトでは比較されて怖い のである。紛糾した京都会議の事後調整でチェアマンとして粘り腰をみせた新外相に、どうか働けるバックアップを、つまり外務省改革を、官邸が率先行って欲 しいところだが、福田が幅を利かす度合いがふえるだけの話で、微塵の期待も出来そうにない。緒方貞子がやんわりとであれ結果拒絶した、それ自体が今回の小 泉判断への痛烈な非難であることを思うべきである。
 

* 二月一日 つづき

* 今夜、映画「ジャンヌ・ダルク」が放映された、わたしは、不必要にむかつきたくなかったので初めのうち見な かったが、仕事の一段落で階下におりると、ランスでの戴冠の辺から、掌を返したように、ジャンヌが新国王と側近勢力に「用済みの危険な邪魔者」として見捨 てられてゆく経緯、偽善の塊のような聖職や学者や市民から、こともあろうに宿敵イギリスの勢力に手渡されて火炙りになるまでを見てしまうことになった。映 画はシンラツにジャンヌの動機を神自身の威嚇によって暴いてゆき、そして神に赦されてジャンヌは死んでゆくが、それが後世に列聖されるに値する真に殉教と いったものであったかどうかの曖昧さを、映画の作者達は、愛情をもって告発している。その批評は新鮮で深い。
 それにしても、ジャンヌを利用し棄てて殺した「世間」の勘定高さには、やはり、自民政権をめぐるもろもろの臭い勢力を 連想させて、あたら優れた映画の味を陰惨にした、残念な。
 千葉のe-OLDからのメールもほろ苦い。

* 相変わらずのお元気な人生劇場!嬉しくなります。
 それにしても、おもしろがっちゃうしかない変な連中は、ほんとに愉快でないですね。
 国連のおばさんが受けなかったのが、せめてもの救いです。
 

* 二月二日 土 

* 女には出来ない、女なんか、というタイプの人がいる。
 テレビに現われる人でいえば、桝添参議院議員など、その顕著な一人であることは、テレビに顔を出し始めた昔から、そう 公言しているのも何度も聴いている。田島陽子へのじゃれつき方から見ていると、勘定高い売名用パフォーマンスのようでもあり、しかし本音が「女なんか」の 方でありげに見えているのは、否定できない。そして、だいたい、そういうタイプの人は、無意識にも意識しても、田中前外相が嫌いらしい。
 男だから、女だからといったことは、現代では、むしろ惜しいぐらいに、建前としてすらなーんでも無くなっている。わた しは、それでいいし、それが当然のように感じている。魅力の問題ではない、能や力のことである。コンプレックスの強い男が「女なんか」と言いたがる。

* 久しぶりに、猪瀬直樹氏のテレビでのお喋りに付き合った。ちと案じていたが、果たして、彼は小泉さんをもちあ げ、田中前外相はまことに無能の内閣の邪魔者であった、もっと早くやめさせてよかったんだという趣旨を、この際の少数意見を、へんに小声で、しかも執拗に 話していた。
 なるほど、これで小泉内閣がはやく瓦解すれば、「へんな物書き」と抵抗勢力に声高に叩かれ続けていた猪瀬直樹の、政界 での出番は、ほぼ失せて、お茶を引くであろうから、何としても小泉に頑張ってもらい、自分も頑張りたい、ということだろう、それはいい。
 だが、だからといって今回小泉総理の軽率な判断ミスはやはり覆えないのであり、市場トリプル安の落ち込みも悪材料に、 どう烏を鷺と言いくるめようとしても、通用なんかしない。
 それよりも粘りの二枚腰で、「あれは小泉さん失敗だった、が、それでも構造改革の方向は正しく、国のため国民のために ぜひ実現させねばならない。田中さんもそれには賛成なのだから、今後も、国民的人気を背景にぜひ構造改革は応援して欲しい」とでも言っておけば、大らか に、サマになるところだった。
 遺憾なことに猪瀬直樹も、じつは本音も本音の「女なんか」のクチであり、わたしは何度もそれを耳にし目にしている。つ いその辺の本音からも、田中真紀子に盛んに毒づいていたのだろうが、発言内容は芯のところで見当はずれであった。
 田中真紀子は必ずしも外交に無能であったわけでない。有能に働ける場が得られなかったことは、彼女のために正しく見て やらねばならないだろう。大臣外交を徹底的にチェックし、リークし、妨害することを以て「外務省の伝統と利益」を「死守」したと「誇りを持って」公言する ような事務次官たちと、終始闘わずには何もさせてもらえなかったことは、国民がこぞって見て知っている事実ではないか。次官達官僚の横暴な下克上の強烈な 利益感情、その背後にODA利権を狙って虎視眈々の族悪議員。それらと闘うこと自体が「外務省改革」に絶対的に必要と、田中は動き続けざるをえなかったの は、ボケた評論家ではない国民はちゃんと見ていたのである。それにわざと目を背け続けていたのが、総理であり官邸の田中嫌い勢力であり、橋本派たちであ り、機密費やなにかのおこぼれに預かり続けてきた与党議員たちであった。違うとでも言うか。
 田中は、政治改革が出来て初めて行政や外交も軌道に乗せられると言ってきた。まともに話し合うと、識者も、すべて同じ ことを正論として認めて言ってきたのである。現に新外相も、外務省は今までの伝統を守ってよろしい、わたしはそっちには目をつぶって国際外交に専念しま す、なんて事は云っていない。まず外務省の足場を糺したいと、はっきり最初に発言している。全く田中前外相と同じ姿勢なのであり、それ以外にはあり得ない ほど外務省は汚い伏魔殿そのものであることは、田中真紀子の尽力で国民の目にも思いにも焼き付けられている。
 田中真紀子は何もやらなかったのではない。問題の所在を広く国民に知らせた功績は実はかつてなく大きく、その一方で、 政府任命の次官どもが、政府官房と悪しく癒着し、大臣をコケにしつづけながら庇護されていた悪徳ぶりは、田中の罪ではない。総理と官房長官の大罪なのであ る。なぜなら大臣権限では如何ともしがたかったのだ、次官どもに言うことを聴かせるにもヤメさせるにも。次官の任命権者は総理なのだから。彼等は理非を超 えて田中大臣はつぶすべし、追い落とすべしという党内族悪勢力の意向と後押しとを十重二十重に鎧っていたではないか。田中はその点、ニッチもサッチも行か ない有様を知らん顔で官邸から傍観され強いられ邪魔されていた。外務省内のことは「省内問題」として解決せよなんて小泉が嘯いていたことこそ、偽善と無責 任の極致であった。彼が率先して任命権により大臣の道をあけ、障碍次官を排除してやらないのでは、田中の権限ではどうなるものでもなかったのである。次官 達は、大臣に抵抗することをこの際外務官僚の本分と心得きっていたではないか。
 繰り返して言うが、外務省問題を真に打開するには、小泉総理、ないし福田官房長官が率先して、田中改革ないし外交のや りやすいよう、道路を塞いでいた露骨な邪魔者の落石を取り除くべきであった。外務省改革という政治改革を阻み続けたのは、実は、抵抗橋本派などに操られて いた内閣官房長官、ひいては裸の王様で、公正な情報を持たなかった小泉総理なのである。

* 猪瀬直樹ほどの勉強家で切れ者が、そんなことに気付いていない訳はないが、それでいて、小泉総理の判断は間 違っていなかった、田中がよくなかったんだなんてことを、今回のNGO絡みの事態下で言い募っていては、この人の視野もたいしたこと無いな、これはなにか タメにする発言かなどと思われ、揶揄され、嗤われても、仕方があるまい。
 こういうときは、公正に事態をみないと、そんな似非の政治判断で「構造改革」など軽率にやられては、甚だ迷惑なのであ る。小泉のばからしい自大軽率の錯覚は、大橋巨泉の軽率どころでなく、国を大きく錯るのである、猪瀬クン、そこを真っ先に押さえて発言して欲しい。
 小泉の支持率は半減ともいえる地滑りをみせた。なお流動的で確かには見えていないけれど、支持率以外に武器のない小泉 内閣は、最大の力の「解散権」も行使できない状態になってくる。逆に総理は反対勢力の策謀で「強いられた解散」へ追い込まれ、議席数確保の公約に責任を取 らされ退陣という結果も、もう見えていないではない。いや、それ以前に内閣瓦解もありうる。
 それもこれも、やはり小泉が、総理の資質に欠ける判断ミスをやらかしたからであり、そこへ巧みに誘ったのは、遺憾なこ とだが、鈴木宗男と、彼を鉄砲玉に仕立てていた橋本派の謀略なのである。橋本派ではそれをきっと謀略でなく知略だと呼んでいることだろう、現に橋本龍太郎 も野中広務も、鈴木宗男に最大限の賛辞を呈しているし、鈴木は胸を張ってあちこち闊歩しておるではないか。「鈴木議員の影響力は落ちるはず」なんていう小 泉純一郎のうすら笑い発言など、わたしにも、負け犬の悲鳴のようにしか聞こえないのである。
 猪瀬直樹君。あなたこそ、いま、国民世論を背に負わねば、潰されてしまいますぞ。聡明に判断し、「女なんか」式の認識 は賢い鷹の爪のように隠してでも、むしろ、野に放たれた虎の田中真紀子と手を組むぐらいな、放れ業を見せて下さい。
 女の悪口なんぞをテレビで喋っているのは、桝添議員のようなうぬぼれた軽薄才子風にまかせておけばよろしい。みっとも いいことでは、ない。必要なのは、改革を遂行するための気力と施策と説得力であり、今のうち今こそ、お得意のテレビ効果を、もっと俊敏に沈着に駆使し活用 して欲しい。

*  秦 先生(1月29日午後1時38分送信)大荒れの日曜日、五時起きをして長野にゆき、昨夜帰ってきまし た。
 ご入院中の齋藤史先生に、思いがけず、お目にかかることができました。
 お声は変らず澄んでうつくしく、そして、歯切れのよいお話ぶりで、遠いところをよく来たと、よろこんでくださいまし た。
 齋藤先生のお見舞いにあがる前、面会時間までに時間があったので、魁夷美術館にゆきました。
 あまり、興味を持ったことのない作家でしたので、初めて目にするものがほとんどでした。
 そこに、川端康成の「片腕」の装幀試作というのが展示されていました。紺と水色の地に白い鳥が翼をひろげている二枚で した。これが「片腕」の……と、見ていて、ふと、制作年代に目が止まりました。「1965年」。えっ、わたしはこのころ、若気の至りの或る成り行きに後悔 し、鬱々としていたときだった――。
 少女のころに「片腕」に出会ったなどと、どうして思いこんでしまったのか。
 父が毎月、本屋さんに届けさせていた何冊かの雑誌で、ずいぶん、いろんな作品を読み、多くの作家に出会いました。石川 淳、大岡昇平、内田百ケン(あの漢字がなくて)、林芙美子、高見順、三島由紀夫、井上靖、それから……。川端康成の「山の音」や「千羽鶴」「たまゆら」な ども、雑誌に連載されているのを読んだように覚えています。父に「文字の虫、何でもかじる」と、叱られたり、あきれられたりしたのも、今はなつかしくて。
 父在世のそのころが、わたくしのしあわせな少女時代でございました。その少女時代に、どきどきしながら覗いた魔界のい くつか――。
 おとなになり、もう大人の苦しかった時代に読んだ「片腕」を、少女のころのことと無意識に混同し、写真の修整のよう に、記憶を変えていたのでしょうか。自分の記憶が不確かという以上に、かくあれかし、という願望のままに、気づかずに、記憶を塗り替えているらしい自分を 知り、とても不安になりました。
 先ほど、「湖のお部屋」をおたずねしました。
 器械と漢字のこと、アメリカ生れの器械なのだから仕方ないという人もけっこういますし、「鴎」でも「掴む」でも、いい じゃないのと、鈍い人もいます。だんだん、慣らされて、そのうち、現在の中国の、あの奇妙な文字になってしまったらと想像しますと、ぞっといたします。
 紹介していらっしゃる加藤弘一氏の「要約と指摘」を拝読しました。こうなったらよいなと、わたくし如きでもおもいます けれど、「広辞苑」の電子化の部門ですら、仕方ないといった雰囲気の対応でしたことを思いあわせますと、なかなか、たいへんなことのようにおもわれます (わたくしは「大辞林」のほうが好きなのですが、この電子版がなくて)。
 齋藤先生の歌集『風翩翻』の「翩翻」の旁が、別々の「ハネ」でしたことに、はっと胸をつかれましたが、どうなってゆく のでしょう。何とか、よい方向に向かってほしいとねがっておりますけれど。
 外務大臣の首のすげ替え劇も、戦争の出前をしている大国も、みんないや、と、目を瞑りたくなりますが、つむって済むこ とではありません。
 壁にかけた写真の見返り阿弥陀さまのおん眼が、今日は、おやさしくなくて――。

* このわたしの、闇に言い置く「私語」が、めざましい力をもつなどということは、発想自体が否定している。それ でも強いて言えば、わたしは、指一本で釣り鐘を押している。楠木正成が多聞丸の時代に、釣り鐘を指一本で動かして見せたという逸話を、子どもの頃の絵本で とても印象深く胸に沈めた。わたしが、いろんな方のメールをお許し願ってここへ多彩に取り込んでいるのは、釣り鐘の揺れの少しずつの幅のように心強く思う からであり、私一人が私語しているだけではない花やぎもふくらみもが自然目に見えてくるからである。

* 木崎さと子さんの「青桐」が出来上がってゆく。この作品は、佳い。森瑤子の「情事」のよさとは甚だ異質である が、絹のようにきめこまやかに静かな筆致で微妙な経緯と心理とが紡ぎ出されている。文藝館にまた一つの秀作が加わるのであり、わたしは心嬉しい。もう一 つ、潤一郎先生の作品を。それで二月理事会に報告したい。例会で会員諸氏にもお知らせしたい。
 

* 二月三日 日

* 長谷川時雨の「旧聞日本橋」を全巻読み通した。これは、わたしがしくじった、巻頭の二編を機械的に選んでし まったが、他にも文藝として優れて面白い章が幾つもあった。いずれ追加したいものだ。掛け値なく名著といえるし、資料性にも抜群に優れていて、江戸のなお 生きている文明開化の東京日本橋界隈を知るだけでなく、江戸から東京へ、激動の大きな時代転換期をさまざまに生きた庶民生活の手に取るように具体的な細部 までが、美しく、はずみよく、おそるべく個性的に描かれていて、まるで手に触れるようである。この本に教えられることのもう三十年早ければ、どんなに良 かったかと悔やまれるほど。

* バグワンは、また「存在の詩」に戻っている。山本健吉撰の詞華集は「春」の章をゆっくり楽しんでいる。古典 は、洒落本の「遊子方言」と、新配本の「将門記」を併読中。生形貴重氏の「利休の逸話と徒然草」もそのままわたし自身の畑のもので、水を吸うように楽しめ る。電子文藝館の戦友である高橋茅香子さんの翻訳になる、頂戴した新刊小説も読み始めようとしている。ドク・ハタと呼ばれるフクザツな主人公の老境を、韓 国系アメリカ人の若い作者が書いて、ヘミングウェイ賞などを受けた評判の文学作品とか。願わくは翻訳の日本文も優れた文藝をみせていますようにと期待して いる。
 そんな就寝前読書をしていると、マゴに早暁に起こされるからでもあるが、三時間か四時間しか寝ないで起きてしまう。幾 ら何でも睡眠不足である。

* 真っ白な朝です。
 霜降り肉はダメな雀ですが、秦さんの例の黒薩摩の大皿に盛られたそれは、絵として、いいなァと思います。あのお皿、雀 なら、三角に握った塩むすびをびっしりと、波のように並べてみたい。
 輪島の黒い角盆を一枚持っています。自転車の籠に箱のまま放り込み、あちこちの集まりに持って行きましたが、和風のも のはもちろん、オードブル、サンドイッチ、ケーキなども映えて、かなり活躍しました。同じ牛肉でも、色とりどりにせん切り野菜をたっぷり敷いて、ロースト ビーフですわ。やさしいもの、ふんわりしたものが似合います。囀雀

* 昨日文化庁の金子賢治氏から日本の陶芸をいろいろに論策した大冊の評論書をもらった。

* 倉林羊村氏に戴いた俳句集「有時」を読んでいて、やはり、近年いろんな句集で気になっていた体言止めの句のと ても多いことに、あらためて一驚している。ざっとみて六割をこえているのではないか。それに比して切れ字を用いた伝統的な句型は実に少ない。自然、漢字が 多く句は漢字で黒くなり、語調も語勢も重い。かるみの俳句から、現代俳句は離れて離れて深刻な短い詩になろうなろうとしているようだ。
 

* 二月三日 節分 つづき

* ちゃんと豆まきした。六十七の豆も食った。

* 朝のNHK政治討論会では、やはり野党の物言いに利も分もあり、そうなると政権三党の詭弁は聞き苦しくなる一 方であった。社民の福島瑞穂もまじって善戦良く問題点を彫り込んで、率直、好感をもち頼もしかった。菅直人も自由党の藤井も共産筆坂も、今回限りはみな正 確で、公明や保守の論点のすり替えかた自体がへたくそで、失笑。ODRという巨額の鐘の動く部局の差配人が鈴木宗男では危なすぎるという、菅のまともな刺 激に、自民の山崎幹事長が居直って見せたものの、二の矢も告げず沈黙。さんざんのていたらくであった。当然の話だが。

* つづくテレビ朝日田原総一朗の番組では、自民から出てきた一代議士が、明快に、外務省高官どもの間違いを大声 で指摘していたのには、驚きながら、まさにその通りだと思った。国会の委員会に出てきて次官が大臣の言い分を否定するというのは、官僚の分を越した下克上 であり、異存があるなら辞表を出せばいいだけで、国会までのこのこ出てきて大臣の面前で大臣を否認し楯突くなどは途方もない愚かな官僚だと。重家某局長 が、大臣の仰有るとおりですと言い切ってしまえば、何の紛糾も起きず、それが官僚の立場というモノではないかと。なんで、今ごろになってしかこういう正論 が自民党で出てこないのか。話は、それに尽きていた。小泉と福田との、政治改革もない、政治家と官僚との本来を指導する見識も無かった馬鹿さ加減だけが浮 き彫りされたが、もともと彼等は、ことに福田は、何が何でも田中が切れるなら目的達成、政治家でも何でもなく、権力志向の陳旧人に徹していただけのこと、 官房長官としては不公正な政局かきまわし屋に過ぎなかった。だが、このツケは途方もなく高くつく。

* 二台の機械がネットワークしている筈だが、その効用を機能的に操作するすべが知れず、つねづね、一代は外して 使っている。今日久しぶりに繋いでみたが、長い時間いじってたわりに、結局何も出来ないことだけが分かって落胆した。集中的に使っている方の機械が、 WZEDITORを受け付けず使えないために、MOに収めたモノの多くが活用できないでいる。またよそから送られるファイルが開けなかったりする。新しい WZのソフトを買ってくるのは簡単だが、機械との間に相性がないのでは仕方がないし。「秀丸」というのを布谷君が入れて行ってくれたが、WZの完全な代り には成れないようで限界ありげ。

* さ、明日は久々の電メ研である。かなり込み入った討議の日になりそう。

* 妻に聴いたが、「足の裏」という「からだ言葉」も有るらしい。「からだ言葉」とは、頭痛鉢巻、舌打ち、頭越 し、肘鉄、腹芸、尻を割る、足が早いなどを例に挙げれば説明要らない。わたしの命名で、かつて辞典まで作って、「からだ言葉」「こころ言葉」はわたしの一 つの登録商標のようなモノだが、「からだ」の部位の中で「掌を返す」はあっても「足の裏」にだけは「からだ言葉」が出来ていない、他は全身至るところに在 ると言ってきた。
 ところが在ったらしい。節分などに神社が賽銭をどっさり集めることはニュースにも成るほどだが、あの総額を生真面目に 税務申告はしない、幾分かは役員関係者で隠然公然と「分け取る」のだそうで、その金、また行為を「足の裏」というらしい。お金が落ちていると、直ぐ拾って 懐に入れず、いったん「足の裏」に踏んで様子を見てからにする、それなんだと。
 妻の説ではない、見ていたテレビドラマの中で耳学問したと言うから、責任は持てないが、有りそうな話だし、ぴたり「足 の裏」が「からだ言葉」に成りきっていて、わたしは、うーんと唸って教わったのである。
 

* 二月四日 月

* 黒織部   大阪も午後から雪という予報でしたが、逸翁美術館は、呉春の「白梅図屏風」で迎えてくれました。 門、建物、茶室、庭、「歌切と和物道具」に、背中の下のほうがぞくぞくしました。また、逸翁「幻の茶会」(この主茶碗が、黒織部菫文)道具組に、涙ぐみま した。
 翌朝、「題名のない音楽会」で<トリプルピアノ>(前田憲男、佐藤允彦、羽田健太郎)のゴキゲンな演奏に 再会、普段は表情の変わらない名アレンジャー前田さんが、演奏の終わり頃、口の端を緩ませ、ノッテるお顔を見せたことでなお満悦。
 晴れやかに春が始まりました。秦さんもどうかお幸せに。

* 底なしのような「雪印」の食品詐欺行為の報道をうんざり見せつけられてから、こういうメールに触れると、ほっ とする。ほっとしたくなる、と言うべきか。

* 雑誌「ミマン」に連載しているので、雑誌は毎月送られてくる。「ミセス」の昔から、創作の参考によく写真を眺 めていた。血の気の多い若い頃は、稲葉なんとかといったモデルの和服姿をはじめ、「ミセス」たちの美しい写真に、かなり刺激され、わくわくどきどきした。 幾つものわが小説に生かされている。
 「ミマン」は「ミセス」の上世代をねらった綜合ファッション誌で、わたしたちの年代に合わせて、出版社の方で切り替 え、創刊以来送ってきて呉れている。若い世代もいいし、ハイミセスたちのファッションもわるくない。それどころか、どうも美し過ぎるほどだ。「センスde 詩歌」の解答者年齢は五十代後半から七十代前半を核にしているように見受けるが、「ミマン」の写真頁に、モデルで出ている女性達は、一世代以上も若く輝い ている。
 それでも、昔ほど、どきどきもわくわくもめったにしなくなっているのが情けないが、最新刊三月号52-53ページの原 由美子の写真には、久しぶりにいたく心惹かれた。原由美子という人をわたしは知らない、何をする人なのか。だが、この立ち姿も、ことに椅子に腰掛けたポー ズの美しさには、参った。

* 必ずしも顔の問題ではない、エレガントな風姿に惹かれる。がさつで騒がしいのはイヤであり、言葉の美しい人が いい。べつに無理にへんに女言葉にしなくてもいい、知性のにじみ出て腹八分のところで抑制できる人、そして願わくは酒の上手な人。
 最後の所は、いや、最初から、関心の持てるのは「人」である。セザンヌほどに、安井曾太郎ほどになれば、静物で良く室 内画でいいが、やはり背後から人の元気や生気のにじみ出た静物や風景であって欲しい。
 どんな高等な衣裳でも、衣裳だけで鑑賞するのには、あまり乗れない。衣桁にかけただけの装束も、模様としてはいいが、 やはり着ている人の魅力で左右される。馬子にも衣裳で、衣裳が人の魅力を引き出しているとしても、だ。
 久しい友人の絵描きさんで室内画や花をもっぱら描いている性格のいい人がいるが、作品から、「人間」への意欲や関心や 批評がほとんど感じ取れない。気がないというより、無意識に、内面をもった人間と向き合う意欲や気力をうち捨てて、室内や花をただ画材・画題として描いて いる。それでは、絵は底光りしてこない。絵にエロスがにじみ出ない。「人間」と謂ったけれど、それは畢竟「自分」と同義語になるだろう。創作の原点には 「自己」批評があるのではないか。

* 男を感傷的に眺める気はほとんど無い。しかし女性へは、みずみずしい歓びを感じながら意志を放ち続けていると わたしは思っている。反応する感度はとてつもなく衰えているかも知れないが、佳い感じはすかさず認められると思っている。「ミマン」のような雑誌とのつき 合いは、ただ連載のことだけでないそういうメリットを呉れている。美しい人には、いつも素直に感応したい。いい感じの美しい人は、だが、少なくなってい る。わたしが衰えているからそうなのだとは、思われない。

* こんなことを思い思い、雪印や鈴木某や野上某や小泉某らへの不快感を中和していたかと思うと、これは、かなり 情けない。
 

* 二月四日 つづき

* 川口外相の外交演説で、予定稿に入っていたという、外務省の官僚主導を政治家として大臣として勇断是正して行 く旨の趣旨が、議場での演説で省略されていたと聞くと、すでにして、はや官邸の、抵抗勢力の妨害が働いているのではないかと、田中真紀子ならずとも不快に 感じる。

* 「一番傷ついたのは自分だ」などという小泉首相の甘えた物言いにも、しんそこ不快を覚える。外務省問題でもい ささかも反省と国民への謝罪がききとれず、NGOのNの字もクチにしなかった非誠実さ。
 すべての成り行きで、いちばん問題をこじらせたのは、自分が任命した大臣の政治を、寄ってたかって妨害している外務省 上級官僚であり、これを、人事権者の総理として適切に処置せず、つけあがる官僚たちの大臣無視と妨害とを、むしろ黙認放任して仕舞いには応援までした首 相、彼こそが、元凶なのである。国会で、国民の選んだ政治家大臣の述べたことを、野党議員ならまだしも、のこのこと出てきて部下の次官が、大臣と同席の国 会で公然否認するなどというとんでもない非常識を、そこに同座の総理大臣が平然と赦して傍観しているという不見識には、国民は、呆れるしかなかったのであ る。言った言わないなどと言う問題ではないのだ、これは事実、次官と総理が共犯の犯罪行為なのである。とてものこと、大臣と事務次官の間で絶対にあっては ならない、あまりに馬鹿げた事態に総理は気もつかずにいたのだから、不適格というしかない。それなのに、「省内のゴタゴタは省内で」などと見当違いを嘯き ながら、薄笑いを浮かべていた小泉総理は、バカモンと謂うよりあるまい。資質にこれほど欠けた愚劣な破廉恥行為はあるまい。指三本握ったとか握らせたなん て事件で辞職した総理も居たが、可愛いものだ、次官をけしかけて自分の目の前で大臣に楯突かせる総理大臣というのは、前代未聞の国辱そのものだ。

* これだけは繰り返し言い置かないと、「闇」にも義理が立たない。

* 疲れた。あんまりいろんな相談があり、時間足らず、何をどう決めたのやら、呆れるほどアタマが働かなくて、も う夜の十一時になるのに、会議の輪郭もうまく書き記せない。ま、いいか。
 考えてみると、さほどに混乱していたわけでも、議論が沸騰して収拾がつかなかったのでもない。一と一で二と、三に三を かけると九と、そういう具合に割り切った結果が出にくい会議なのでくたびれた、わけである。
 わたしが、原稿の内容にそって事細かにレイアウトし、一太郎ディスクに書きこんで、業者に渡す。わたしとすれば、その 通りやってくれればいいんですと言いたくてそうしているのだが、いろんな分りにくい経緯や機械的事情が介在し、結果的に、電子文藝館に発信掲載されると、 それが、受信者(読者)の千差万別の機械により、必ずしもわたしの意図していた通りには届かなくて、とんでもない、私などにはどうしても理解しきれないほ どの変容が先方で出てしまい、文字が化けたり、行間がとんでもなく広がったりつまったり、字の大きさが勝手に大きくなったり小さくなったり、する。このパ ソコンという機械はそんなものなのだ、というのだ。
 これを聴いただけで、いくらか予測していたトラブルではあるが、だがそれはトラブルというのとも違う、機械環境のいた ずらで出てしまう変化変容であり、「おいおい勘弁してくれよ」と言いたいが、誰に尻の持ち込みようも無さそうなのだ、じつに燻った気分になる。たいそうに 用意したつまりはマークシートなんてものが、逆に途方もなく邪魔をすることになっているらしく、「やめてんか」と嘆かれる。わたしのホームページみたいに 単純簡明なツクリだと、こういう高等な混乱は起きていないと思うと、機械とは、なんてややこしい生き物だろうと思ってしまう。
 結局PDFという方式でやることになった。いや、ほんとはどうなったのか、わたしには分かっていない、明確には。そう やれば、よほど問題点が改良されるという話し合いだったので、「それで行きましょう」と無責任な責任者として決めてきた。賛成してきた。混乱して疲労した ので、もう、そのあとは、何を司会しどう会議が進んでいるのやら、うつつごころが無い有様。
 だが、電子文藝館の、発足以来の急速な充実と展開とは、いくらかの驚きを以て委員会でも再認識されていたようであり、 有り難かった。どういう人のどういう作品が既に掲載になっているかを丁寧に一覧に作って周知をはかっているのは、それが一番分かりいいからである。
 ここまでは、発起人としてのわたしの意欲も意地もあって、かなり苦しくても頑張ってきたが、いつまでも続けられる事で はなく、委員会内での協力関係が進まねばならない、その点は今後に期待するより無い。高畠委員から、ともあれ、もう当分は遅疑することなく電子メディア委 員会の中で電子文藝館も維持し続けて行きましょうという発言に、励まされてきた。

* 電子メディア委員会の仕事は、多岐にわたっている。この時代、政治も外交も経済も警察も芸術も企業も、ITに 触れずに済む領域は無いのだから、この委員会は、サイバーテロやサイバーポリスも含めて、世界の全分野を視野におさめていなければならない。電子メディァ 対応研究会を私が提議し発足したときから、そんなことは、分かり切っていた。しかし、手近なところからと、いろいろやってきた。
 さて、もう四年五年になるが、正直のところ、今後長きにわたって日本ペンクラブ電子メディァ委員会の仕事の遂行できる 委員長には、例えば猪瀬直樹氏のような、私などと段違いに広い情報取材能力のある人が、新たに見つからねばならないだろうと、もう前から思ってきた。この 段階まで委員会を運んできて、このままだと、委員長の能力不足で電子メディア委員会を潰してしまいかねない、より適格な人に委ねないと、電子文藝館はとも かく、電子メディア委員会を、まんまと萎ませてしまいそうな気がしている。

* 週末の講演の方は、泣いても笑っても用意したままで進むことになる。捕捉補充の勉強がしたかったので、委員会 の帰りに落ち着いて酒の飲める店により、難しい資料類を静かにアタマに入れてきた。こっちは、水のしみこむようによく読みとれて興味深かった。酒も懐石も よろしくて心地よかったが、追加の焼酎が過ぎたか、帰路、電車をすこし乗り過ごした。

* 文藝館の新しい出稿分を高橋委員と分担して持ち帰った。自発的な寄稿が来るようになっている。分担してきた一 本は私の推薦で入会した武川滋郎氏の小説。
 

* 二月五日 火

* 支持率が高かろうと低かろうと断乎として、などと小泉総理は「虚勢」をはるが、支持が低ければ退陣という筋に なる、民主主義では。まともな政治家なら、国民の支持が無くなれば「やめます」というところだ、だから支持を極度に失ってはいけないのだ、小泉は言葉の脈 絡を失ってきている。当然責任を取って止めるべき大臣が、責任遂行のために地位に止まって粉骨砕しますなどというまやかしの言明とおなじことを、総理大臣 にまでやられては堪らない。が、彼の代りにまたぞろ旧悪人ぞろいの誰に代られても国民は堪らない。
 こういうときは野党だが、民主党はこのチャンスに勇断して党首交代し、もういちど菅直人で気合いをかけ直し、政権に元 気に手を伸ばしてもらいたい。総選挙すれば自民は議席を幾らか減らし、そのツケは小泉退陣になる。それが抵抗勢力の付け目だ。だが橋本派では絶対困る。江 藤亀井の徒でも絶対困る。野党奮起せよ。

* 電子文藝館に、現会員の詩、俳句、小説が掲載できるよう三編郵送の用意できた。六十二編(予定含む)に達し た。

* わたしの、この事業での次の目標は、会員のデータベースとしての「略年譜30行以内」「業績目録=個人全集書 誌・一般全集収録作品・全出版(単行本・新書・文庫本)書誌・主要共著20册以内・未刊行主要原稿5点以内・主要講演録10点以内」の業績目録を、電子文 藝館記録庫に集積することである。電子文藝館に出稿している著者から提出を求め、これを収容収載してゆくこととする。
 日本ペンクラブ会員といえども、それは狭い内輪の話であり、それでさえ、二千人会員の殆どを、どんな仕事の人と互いに 知らないし、知りようもない。知る必要が有る無いの問題でなく、知る必要が生じれば知ることの出来るというのが堅実な組織というものであり、「データベー ス」という言葉の本来の意義はそういうものだ。名簿などはその初歩の初歩たるものに過ぎない。かりにもし、日本ペンクラブから国際ペンに理事や会長候補や 事務局長候補を送り出すとして、(その幾らかは現実になっているが、)世界の文学者やペン会員が、例えば梅原猛という候補者はどういう仕事がある人か、ど んな経歴の人かと思っても、とっさに資料も何も無いというのでは、鈴木宗男の口まねをすれば、「いかがなものか」と言うしかない。現に国際ペンでのその種 の投票の際や、噂をする際にも、その人物がまるで何者とも分からない場合の方が遙かに多い。片端なハナシではないか。
 こんな記録資料も、もし「紙の本」で作れば途方もない資金が要るが、すでに出来ているホームページとしての電子文藝館 の一画にこれを構築するのは至極簡単で、当人の作成提供してきたディスク原稿を、テキストファイルのまま形を統一して転送すれば、それだけのことで、作品 の掲載よりも問題なく容易に出来る。手間は、個々人の手元でかかるだけで、それは本人の裁量次第である。例えば梅原氏なら編集者か研究者に依頼すれば、大 方は整っているはずだし、梅原さんほどの大量著作者でなければ、自分で一日もあれば簡単に作成できる。何でもない。
 こういう基本の構築作業が「組織」的に抜け落ちているのが、日本ペンクラブとしては、未成熟ないわば自覚の乏しさであ り、同じことは文藝家協会にも謂えるだろう。どんな新館が建設されようとも、こういう杜撰がそのまま放置されているのでは、堅固な組織とは謂えないのであ る。

* 先に昭和十年以降四十三年の間の物故会員氏名一覧を、多数の名簿を交合して作成したが、ここ三年半の会報等の 資料により、この期間内に逝去された全員の氏名を書き加えた。なお三十年ほどの名簿で精査しなければ、物故会員の全容は確認できない。時間をかけても調べ 上げておくことは、歴史資料としても肝要なことだ。
 ただこの場合にも、会費滞納等で自然退会した人、いろんな事情で中途退会した人もある。遠い過去の経緯が分からない以 上、その種の事を問わないのであれば、現存者の場合も、逝去段階で氏名を書き加えた方が、つまり、いかなる事情はあれ一時期でも会員であった人は、感情的 な斟酌ぬきで氏名を記録して置いた方がよいように私は考えている。議論が必要かも知れないが。
 

* 二月六日 水

* 放心というのでもないが、活溌にアタマが働いている風でない。することがなくてと言うより、ありすぎて、手 が、思いが、宙に遊んでしまう。インタネットであちこちサーフィンしているうちに、甥の黒川創が、例の「もどろぎ」で、芥川賞に続き三島由紀夫賞にもノミ ネートされ、また賞を逸していたことを知り、若い選者達の選評をのぞくはめになった。肯定的な少数の評も、ものすごい悪評も、それらなりにわたしには分か るところがあった。褒めているところも貶しているところも、わたしの思いと同じであった。大きな賞を続けざまに逸するのは、わたしにも覚えがあるが、永く 気にかけることはない。根気よく次ぎに又良い仕事を見せてほしい。
 畑はちがうけれど、黒川にせよ従弟の秦建日子にせよ、それぞれの仕事をよくやっている。気がかりは健康だけ。大事にし て息長くマラソンして欲しい。わたしが稼いでいた時代よりよほど今は環境が厳しいと思うが、それだけに体はやはり資本だ。

* 母校校友会でのシンポジウムに出るのは、断った。軍事評論家が基調講演し、「戦争と危機管理」が主題と。お門 違いである。

* 久米正雄の「虎」「小鳥籠」という二短編を読んでみた。この作者の造語として知られた微苦笑を繪に描いたよう なもの。菊池寛とならべて言われることの多かった作家だが、菊池寛ほど徹したものがない。佳い作品の、程良く短いのを選びたい。

* いきいきと気の弾む気合いがいま無く、のんびりしているような間延びしているような。 
 

* 二月七日 木

* 今日は名張の宵えびす。
 必ず一日は吹雪くそうですが、もう厳冬も終わりかしら。
 夜半、雨は暖かさを連れて音もなく降り、日が昇るにつれて止みました。
 山裾から霧が芽ぐみを促すように上り、天は青いガラスをトルコ石に替えました。
 包み込むような潤い豊かな大気に「初春」を実感します。
「お正月」の歌詞が、雪に埋もれる新潟では分からず、東京では寒すぎるような。
 新宮市の女性が作詞したそうです。
 旧暦、そして紀伊半島の陽光の下なら、雀もあのように遊ぶことでしょう。囀雀

* 詩のようなメール。

* 国会本会議での社民党土井たか子の代表質問は、要所を厳しくついて凛然毅然、佳い演説で、息をつめて聴き入っ た。小泉首相の暗い重い表情が印象的で、その答弁はまことに詰まらない官僚メモの棒読み。あ、これは、惜しいが末期の息づかいだと思った。

* 田中外相のあとを臨時に総理が代行したとはいえ両者に大臣事務の引き継ぎの無かったことは明らかだし、それ で、小泉総理は外務省のことに関してどんな大臣引継を新大臣に成し得たというのか。形式的な浅はかな屁理屈をあえてしてまで、なんでこんなことにまで、拘 泥し妨害するのか。子どもの喧嘩のようで、またしても小泉はおかしい。引き継ぎたいという田中に正当な理がある、田中は前大臣として事務懸案を引き継いで いないのだ、誰にも。引き継ぐのは当然だ。
 小泉は田中が憎くて、罷免同然に依願免の形式を田中真紀子に押しつけたのは、いくら言訳しても国民はみな分かってい る。田中が協力的に納得していたのなら即座に辞表に署名しただろう。小泉が田中を憎んだのは、人気において自分は圧倒的だと自負し誤解していたからだ。田 中に確信的な人気があったと分かり、自分の人気は多分に「ほかに人がいない、仕方がないから」の人気だと分かってしまったことへの、嫉妬の憎しみのようで あり、絶叫型のポーズも、いじいじした内心を隠すためでしかないようだ。引継など、閣内で簡単に処理できるだろう、こんなことまで代表演説で質問され、詭 弁でにげるなど、情けない首相だ。内閣に今後も協力すると公言していた田中の言質をうまく利用すればよかろうに、これでは田中真紀子が「打倒小泉」に走っ ても、わたしでも「支持する」だろう、閣外に追いやってからも意地悪をしている。国会や政党内での公然の「いじめ」ではないか、女性差別はないのかと、だ れか女文部大臣に質問してはどうか。

* 此の「闇に言い置く」秦恒平のこれら政治家たちへの「私語」は、わたしの意見や感想として誰が転記されても少 しも構わない。

* 久米正雄の「風と月と」という自伝風私小説前半三分の一を抄録し、「電子文藝館」に入れたい。第何次かの「新 思潮」創刊まで。これは読み物として興味深い。なにしろ読ませる人で、かなりながいものだが、渋滞無く楽しめる。掲載は、物故会員三十人、現会員三十三人 になろうとしている。この十五日例会にデモンストレーションするから、また増える。

* 朝からネットワークの効用を少しでも手に入れたいといろいろ触っていた。子機では機能している WZEDITORが、親機では全く役をなさず、再々新たにインストールしても、子機から親機に「ネットワーク移転用」を使ってコピーしてみても、開けば即 座に機械が凍り付いてリセットするしか無くなってしまう。今日の試行錯誤も通じなかった。このおかげで、MOに保存したかなり多数のファイルが読み出せな い。布谷君が「秀丸」を置いていってくれたので辛うじて読めるものもあるけれど、よそから送られてきたファイルが引っかかると、どうにもならない。一番今 困惑しているのはこれで、かりに、さくらやで、同じソフトの新しいのを買い直しインストールすればうまく行くと分かっていれば簡単なのだが、みすみすお金 がムダになるのも詰まらない。
 

* 二月八日 金

* 五時に起き、古語の「こころ言葉」を大辞典で全部読見直した。信じられないほど多い。妙なもので、初めて知っ たという「こころ言葉」は、二、三もなかった。日本語の特徴とも謂えるが、一つの語に多彩に意味が重複している、それを押さえてゆくととても面白く語のふ くらみが理解できる。起き抜けに本を一冊読んだような勉強をした。日本人が心というモノをどう捉えてきたか、どう捉えきれないで、惑い、迷い、翻弄されな がら適当に付き合ってきたかがよく分かった。

* それからテレビで、昨日の国会関連、政局の報道や意見交換を一時間ほど聴いていた。小泉内閣はドツボにはまっ てきている。もう妖しげな言葉のはずみだけでは誤魔化せない、藁にも縋って正念場を乗り切らねばならないのに、首相は只の「強がり困惑」以外のなにをも表 明していない。どんな勘定をつけても、閣外に出した田中真紀子(人気)をうまく懐柔して、内閣の内と外での新たな二人三脚に打出すしか回復の道はないの に、誰の目にも冷たい、つれない、まさにジャンヌ・ダークを放り投げたフランス国王のようなバカをやっている。たいへんな虎を野に放ってしまったというこ とを、分かってか分からないのか、なんだか更迭人事での自分のメンツやリクツを守ろうとばかりしている。自民党を潰しても改革する、派閥政治を本気で小泉 が毀す気なら、わたしなら、田中を官房長官にする。内閣が出来たとき、わたしの第一人事期待は真紀子官房長官であった。

* 心のはなしに戻るが、茶の湯の道の始祖というべき珠光に、大和古市の播磨法師澄胤に与えた「心の文」「心の 師」と呼ばれる一紙がある。「此の道、第一悪きことは、心の我慢我執なり」と書き出している。「功者をば嫉み、初心の者をば見下すこと、一段勿体なきこと なり。功者には近づきて一言をも歎き、又、初心の物をばいかにも育つべき事なり」と続けている。そこからは茶や道具に触れているが、やがて総括して「ただ 我慢我執が悪き事にて候、又は我慢なくてもならぬ道なり」と、微妙だけれど尤もな所を言い切っている。
 そして、「古人」の言として、こう締めくくる、「心の師とはなれ、心を師とせざれ」と。

* 心にいろいろ有ることは、日本語の「こころ言葉」だけでなく、英語でも、マインド、ハート、ソール、スビリッ トなどがある。普通には前の二つが漠然と混用されていて、現実にはハートを尊重している口振りや身振りでも、よくみているとマインドに終始した心の働きが 多い。マインドは頭脳的な心、ハートは心臓的な心と謂えるなら、日常生活で駆使している人間の心は、大方が思考、知識、利害、判断にかかわるマインドであ り、わたしが、頻りにいう「心は頼れない」「頼ってはならない」というのも、このマインドのことである。ドンマイである。マインドは人をえてして我慢我執 へ導き、トータルなものを分割に分割して多元化し混乱させ、あげくハートを苦しめる。珠光の「心を師とせざれ」とは、マインドに導かれては成らぬ、「心の 師とはなれ」とは、マインドをハートに替えよといった意味にもなる。

* ハートで話す稀有の政治家かのように期待されていた小泉純一郎が、更迭人事で血迷ってからは、ことごとくハー トの抜け落ちた形骸と化した打算と弁解のマインド言葉に終始している。あの薄笑いがでてくるとき、彼の言葉はハートを裏切る自己保身と虚勢のウソを語って いる。
 だが、もっともっとひどい自民党員があんなに大勢なのだ、それを見誤っていい訳がない。野党も、小泉を無謀に引き下ろ したときに自分たちが整然と政権交代へ結束して勝算があるならば知らず、小泉の百倍も愚かしく党利党略のまえに政治を私する旧来自民政権の復権を導き出す のでは、藪をつついて蛇の愚の骨頂となる。冷静に政局と改革日本の筋道を見つめて欲しい。こきおろすだけが政治ではない。政権のために政治が有りすぎたの が不幸だった。国民のために政治があるはずではないか、民主主義とは。
 

* 二月八日 つづき

* 講演が一つ済んだ。七時過ぎから八時四十五分まで、とりとめないハナシをした。「静か」と「清ら」そして「に ぎわひ」を。「一期一会」や「心とこころ言葉」を。そして漱石の「心」を、話した。手持ちの話題といえば、その通り。幾つかの話題に、求心的な訴求と遠心 的な展開を求めながら、組み立てた。

* 会場のワタリウム美術館ははじめての見参であったが、ごく個性的な、興趣に富んだ工学的造形の展示で驚嘆。

* 帰途、クラブに立ちより、少し食べ少し飲んで帰った。オーバーを着て出掛けたのが荷物になるほど、宵のうちは 殊に暖かであった。家に着いたらもう十一時だった。

* 小泉首相がどうしてああだろうと思ううち、一つの思いにとりつかれた。もしかりにわたしが小泉氏の立場であの 調子でいたら、必ず妻や息子は何かの意見を言ってくれるだろう。批判や非難でなくても、せめても世間の声を、官邸内の声とはちがう表情と親切とて゜伝えて くれるだろう。小泉総理には、それが無いのかも知れない。奥さんのいない家、息子はあの程度のタレントで夢中となると、親身に彼のために苦いこと、聞けな いマスコミの状況や声、の伝え手はいないわけだ、それが彼を狂わせているのかも知れない。官邸内では、極端に片寄ったしかも少量の世間話しか届かないのだ ろう、それでは国民の意向を読み誤るだろう。ドジにドジを小泉は重ねかけている。愚鈍無双の前総理森喜朗とはタチのちがう愚行を小泉も又繰り返し始めたの は、危険きわまりなし。
 

* 二月九日 土

* まんまと、芸能花舞台の「細雪」花の段・松の段を観わすれた。晩にはシュワルツェネッガーの「ゴリラ」を観 た。「松の段」がいつ放映されていたのか時間帯も覚えていない。再放送も含めて三度も放映されるので、油断した。

* 谷崎作品の初校が出来、尾崎秀樹前会長の初校済み原稿が届いたので再校をはじめ、理事眉村卓氏の原稿がどちら かをどうぞと二作届いたので、読んで一作をスキャンし校正も済ませた。和泉鮎子会員の短歌百五十首もメールで届いて、原稿に書き起こしが済んだ。着々と充 実してゆく。来週末の講演の方も着実に草稿化が進んでいる。申し分なく働いているが、すべて稼ぎ仕事ではない、奉仕である。奉仕するのは構わない、電子文 藝館が充実してゆくのなら。出来れば、メール交換している人にすべて展示内容を知らせ、その先々でまた拡げていってもらえないだろうかと希望している。

* 千葉の勝田おじさんが、わたしの作品年表のために、パソコン上で便利な表組みを繰り返し工夫してくださってい る。まだ、うまく、仕上がらないが、送られてきているサンプルは実に佳いのである。この表枠がそのまま利用できて、どんどんと書き込めれば最高なのだが、 記入されてある内容の文字だけはコピーして貼り付けられても、肝腎の表枠が例えば一太郎に貼り付けられない、消えてしまう。記事内容は寧ろ新たに書き込め ればいいので、表枠が勝田さんの創られてあるまま、幾らでも書き足して行けて、しかもその各欄に必要記事が書き込めれば、どんなに有り難いことか。
 わたしの年譜は「読める」ほど詳細だが、作品年表も厖大で、どっちも昭和六十年(1985)で途切れている。あとのも のを書き起こすのに、パソコン上に表枠が出来ていれば、遺漏なく書いてあるカードを書き込んでゆけば良く、むろん、漏れの挿入も可能、新たに書き増し書き 増しして行ければ、どんなに便利だろう。千葉のE-OLDは意欲的に試行錯誤してくださるが、保谷のE-OLDは意気地無く、「表」などというものにチャ レンジしたことが一度も無い。

* とにかくも、来週を乗り切りたい。火曜には言論表現委員会で久しぶりに猪瀬委員長の顔をみる、激励したいもの だ、かれの『日本国の研究』以来、わたしは小泉内閣以上に、猪瀬氏の勉強を買っている。なにかしら塵労に終らせたくない。金曜には理事会と例会があり、例 会では電子文藝館のデモンストレーションをする予定でいる。そして土曜にいよいよ川端康成を話さなくてはならない。

* 著作権にも期限があり、没後五十年となっている。だが、五十年の起算が、没翌年の一月一日であるとは知らな かった。ちょうど五十年まえの三月一日に亡くなった久米正雄の著作権期限が切れるのは来年の元日からなのである。いま、わたしの仕事で困惑するのは、著作 権期限の切れた著者で物故会員である氏名を確認することと、著作権継承者の氏名連絡先を知ることなのだが、ペンクラブの事務局に著作権台帳の備えもないら しく、これには、驚いている。文筆家団体であるからは、こういった基本資料の整備と確保は、その自在な利用は、なににも増して大事なことの一つだろう。
 

* 二月十日 日

* 尾崎秀樹の「『惜別』前後 太宰治と魯迅」は力の入った論考で、歴代会長の作品群にまた重きを加えてもらっ た。いま半ばまで念校を終えた。
 高橋委員が初校され、妻が再校して、それでもなお見落とし多く、念校に気が抜けない。その上に、本文と引用と注や、ま た見出し等の整理修飾の全面に、わたしの手を掛けねばならない。
 雑誌編集でも書籍製作でも、いわゆる昔風の「活字指定」とか「組み付け」「レイアウト」とか謂う作業が、結果として、 読者に届けるための化粧の仕事・質的なサービスになる。これを省けば、プロとはいえない。売り物にも成らない。
 電子文藝館では、ただ言葉と文字だけを送り出せばいいという意見もある、が、それでは、原稿に対しても読者に対しても 不親切なことである。文字の大小とか、行間の適正というのが有って、はじめて文意も言葉も伝わりやすくなる。今後も「日本ペンクラブ電子文藝館」がながく 存続して行くとして、いつまでも、わたしが従事してはいられない。だが、アトを受ける人に、こういう心得や心がけのある人が見つからないと、機械的な、殺 風景を平然と現出しかねない。転送の業者にそれは望めない。
 「原稿整理」というのはかなりに高等な技術に属している。形だけでなく、原稿の内容に適応しつつ読み込む能力も必要に なる。加えて一般の製作では写真や凸版での図版組みや表組みがある。十五年余も勤務した医学書院で、亡くなった細井鐐三氏や鶴岡八郎氏らにこまかく指導さ れたことを、今こそ、懐かしく、有り難く思い出す。
 「原稿整理」の適切に出来ない「編集者」なんて、昔は考えられも存在もしなかったのに、今は、編集者とは、原稿取材だ けする者のように、製作は下請けに任しっぱなしの者に、なろうとしている。なっている。昔は校正できる人は製作もできた。製作者で校正できない人などあり 得なかった。

* もっと仕事する気でいたが、トム・ハンクス主演、スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」では、これを 観ない手はなかった。戦争映画の最高傑作の一つであり、スピルバーグの映画の中でもひときわ優れている。ハリソン・フォードのやる考古学者ものの冒険ス トーリーよりも遙かに価値がある。
 

* 二月十一日 月

* いま、声に出して叫んでしまった、「アアッ」と。火曜日の午前二時半。まだ昨夜の内と思いこんでいたが。寄稿 された短歌百五十首を読んで総題をつけ、また百五十句を読んで、不審点を作者に問い合わせ、仕事のメールなどを五つ六つと済ませ、尾崎秀樹の「『惜別』前 後 太宰治と魯迅」を読み上げて、原稿整理を終え、ディスクにおさめて、眉村卓氏のSF「トライチ」、和泉鮎子さんの自撰歌、その他資料類を合わせデイス クに収めて、郵便ポストへ自転車で走ってきた。冷えきっている。

* ペンクラブに入会したいので推薦して欲しいという人が、ぽつりぽつり有る。必要な推薦の署名をした書類を今日 も一通郵送した。

* この間入稿した新しい「湖の本」の初校が、もう出揃ってきた。「日本画」を語り合った鼎談の速記録も届いてい る。そして川端康成の講演は、ほぼ目鼻が付いてきて、ほっと一息ついている。

* 十日の夜、「傾城買四十八手」という洒落本のアタマの一つを読んだ。ウブな若旦那と若旦那に惚れた気のいい若 い花魁の枕ごとで、色気有りイヤミはなかった。なかなかよろしい。

* メールで、あそこへ遊びに行きます、ここへ行きます、お気楽主婦たちでのほほんと温泉一泊ですなどと、聞かさ れていると、なんだ、世は太平なのかと、太平を少し憎む心地も湧くから妙だ。わたしの両肩は石のように重く硬く、首が回らず、目は霞んできている。E- OLDは、それでもこの仕事を楽しんでいるのだが。
 

* 二月十二日 火

* 冬の夜中に自転車は止めましょう。だめです。好きでやっていてもだめです。絶対にいけません。

 おまえのいのちてんからさづかる てんはおまえになにさせる 

 じぶん一人のじぶんではありません。だいじにしなければなりません。今日はこれだけです。くれぐれもお大事にし てく
ださい。

* 御免なさい。

* 講演の用意が、スレスレ、ギリギリ。欲が出ると、継ぎ足し継ぎ足ししたくなる。同時期に相次いだ二つの講演 に、ものすごいエネルギーを長期間かけてきた、実効はなかなか上がらないまでも。二つとも完全にボランティアなのであるが。今はペイをもらうよりも、仕事 として遺せるものであれば良いと思っている。

* 言論表現委員会は、田島委員の「人権擁護法」への、山田委員の「サイバー犯罪防止条約」への、レクチュアが主 で、充実した勉強だった。人権擁護の名においてまさに地引き網で悉く拾い上げるように報道と言論表現とをがんじがらみに法的な規制と処罰の前に引き据える 法律、また同様に電子メディア社会を法の名で制圧しようと謂う世界的な潮流。おそるべきものがある。

* それにつけ、わたしは、かねて考え及んでいたことをもう実効に移さねばならぬ時機が来ていると思うのである。
 わたしが日本ペンクラブの理事に就任したときは、ホームページはおろか、電子メールすら使えないに等しい事務局の状態 で、理事会全体にも、その方面への認識や配慮はゼロであった。とんでもないことだと思い、就任してやがて、私は、電子メディア対応委員会を提案し、電子メ ディア研究会として独立が認められた。直ちにホームページを立ち上げ、会員の意識調査アンケートを実施し、情報処理学会の文字コード委員会にも参加した。 また電子的な場での作品集を、紙の本と対等に入会資格として認めるという決議をとり、ついで、電子出版契約書をめぐる実務的なガイドを製作して全会員に配 布し関心を喚起した。そして、昨年末に開館した「電子文藝館」を提起し企画し実現し、順調に動き始めている。電メ研は、今では、電子メディア委員会として 言論表現委員会等と対等に存立している。そして、総会のつど、電子メディア委員会の視野には、漢字の標準化や電子出版など「表現」に深く関わる方面だけで なく、「エシュロン」に象徴されるような電子的巨大通信傍受のグローバルな浸食行為を初めとした、サイバーポリス、またサイバーテロ、その他サイバー犯罪 等による人権と言論表現や平和・環境への抑圧傾向の一切が入っていることを示唆し指摘しつづけても来たのである。
 此処らまでは、委員長たる私の意欲と能力とで、ともあれ漕ぎ着けえたのであるが、もう、この先は、私の行動力でも判断 力でも、ましてゼロに近い情報収集力では、とても問題の急激な拡大に追いつかないし対応できない。今の委員会のメンバーでは、残念ながら、私より以上に積 極的・具体的にこれに対応できる意欲ある委員は、残念だが、一人もいないと謂わざるをえない。
 
* と謂うことは、これ以上、私の委員会がこのまま存続していると、日本ペンクラブに於ける折角の「電子メディア委員 会」が形骸化するか機能不全で潰れてしまう懼れがある。だが、そんなことでは絶対に困る時代に、日本ペンクラブ自体が当面していると考えている。
 何とかして、現在の電子メディア委員会に、本来の電子メディァ問題に専門的な視野と情報と意識とで取り組める態勢をつ くらねばならない。猪瀬直樹氏ではないが委員会の「構造改革」をしないと、委員会自体が有名無実の障碍・邪魔者になりかねない。

* かねて考えていたように、今日の山田健太委員のレクチュアは、グローバルな視野と情報と判断に基づいた適切な もので、私もさもあろうと深く頷いた。わたしなどは、「エシュロン」は大変だとまでは分かって言い得ても、その先へは一歩半歩も進めなかった。今の委員会 は、その点では、今日のレクチュアレベルからすれば、大人と子どもとの差よりもまだ開いているのは明白で、こういう人にこそ、日本ペンとしての電子メディ ア問題を、より正しくリードしてもらう以外に良い道は無いのではないかと、強く実感したのである。

* わたしは、意欲を棄てたのではない。ますます意欲をもっているが、出来れば適切な配慮と情報に導かれる中で協 力するというのが正しい姿勢だと思う。理事だから、委員長だからとは全く考えない。少なくも、私がその地位に在るために、大事な問題が停滞するかも知れぬ という懼れは断固として自ら払拭する義務があると思っている。ただ、今現在の委員会では、安心してこの電子問題を委ねられる人材はいない。みな年齢が行き すぎている。

* およその考えは、吐露した。あとは、自分の考えと具体的な対応を考案して、委員会にも理事会にも諮りたい。先 日の委員会では、電子文藝館は、もう当分はこの委員会で面倒を見ないといけないでしょうという総意であったし、わたしも、そう考えている。村山副委員長 に、とうざ、電子メディァ問題の方を束ねて担当してもらおうかとも提起していたが、率直なところ、今日のレクチュアをしてくれた山田健太氏の協力を得て、 電子メディア委員会内部に、その方面へのペンの対応を慎重考慮し、具体的に啓蒙活動や抵抗運動などして行ける道を探る方が確実だと考える。また、委員も、 意欲と協力に応じて構造改革するぐらいな姿勢が必要だろう。つくづくと、今、それを思っている。そう思った以上は、私は、邪魔にならないように自身を慎み たいし、うまく道を開きたい。

* 今は読み返さないので支離滅裂に展観ミスも続出しているだろうが、「言い置く」ことである。この趣旨は、山田 氏のレクチュアのあとで、その内容を、では日本ペンクラブはどう生かして対応しなければならないかという観点から、足下の急務として思うまま話し、問題提 起として聴いてもらった。

* 帰路、つきだしの胡麻豆腐と、刺身、焼き物、煮物の酒肴で、ちいさな徳利の酒を二本呑みながら、初校の出た湖 の本を、二十頁ほど校正してきた。和服の美しい人が、何度かお酌にきてくれた。食事の店もなかなか大変らしく、近くのサンキエームは完全に潰れてしまっ た。痛みは身近へ来ている。

* ル サンキエーム本土決戦は絨毯爆撃?
 最期の7日間、戦い終わりました。述べ90人、抜栓したワイン80本あまり、お客さんの熱気で暖房も必要なし、まさに 集中砲火でした。(3キロ痩せました。)
 この2年間、ほぼ無給でがんばってきましたが、万策尽きました。カルザイ議長じゃないけど「この国には何も残ってな い」状態です。復活を望む皆さんのお気持ちたくさん頂戴いたしましたが、現実を考えると復興はアフガニスタン並に難しいものがあります。(日本政府みたい な人がいれば好いんですけどねえ、5億ドルとは言わないから。)
 最後を見届けに駆けつけてくださった皆さんありがとうございました。またEメールでの暖かいメッセージの数々、胸に迫 る物がありました。二人とも感謝感激雨あられのまんまんちゃーアーです。
 ではまた、さすがに疲れてチョト変になって来たので。さようなら皆さん、本当にありがとうございました。

* 猪瀬氏が新刊を呉れた。いまの構造改革渦中で奮闘している彼の精一杯の最期の叫びが、どの頁からもつらいほど 聞えてくる。猪瀬氏の向こうに見えるもろもろの抵抗族議員たちのあの顔この顔、その背後にいる此の国をダメにしてきた策士や領袖たちの顔が思い浮かんでく ると、わたしは、確信を持って猪瀬直樹を応援したいと思うのである。

* ソルトレークの冬オリンピックは、わたしは、モーグルの里谷たえと、スピードスケートの清水選手にだけ関心を あつめて、他は今期は失礼させてもらう。里谷は、結果を出した、清水にはいま一段の勇躍を期待しよう。
 

* 二月十三日 水

* 「川端康成の深い音 体覚と音楽」の用意が出来た。前日の晩の「電子文藝館」のディスプレイの順序も立った。

* 帝劇から浅丘ルリ子主演「にくいあんちくしょー」の招待状が届いたが、今回また聖路加の診察時間と重なってし まい、浅丘ルリ子は、観たいのにダメになるのが二度目である。残念。妻に、友達と行ってもらう。

* 午後は予算委員会のテレビ中継にだいたい費やした。トリを取った社民党辻元清美議員の質問が、みもの・ききも ので、迫力もあり要点にも触れていた。川口外務大臣の答弁には失望したし、疲労の色を隠せない小泉総理の答弁は、人違いかと思うほどいいかげんなものだっ た。外務省の局長や官房長のゴマカシ答弁にも呆れかえったし、行政改革が出来たら不思議だとしみじみ情けなく思わせた。
 農林水産の武部大臣のばからしさにもうんざりした。

* 早くも花粉が目へ来ている。夜前は四時間ほどを浅く眠っただけ、少し疲れて眠い。

* 深夜のサイクリングをおいさめになったのは、千葉のE-オ―ルドさんでしょうか?
 嬉しいこと、と。どうぞ、大切になさってくださいませ。
 はやいもので、今年もまた2月14日がやってまいります。
 ナイショにね。
 昨日、こちらは20センチ近い積雪がありました。* *山も真っ白に輝いております。
 春はもう少しあとのようですね。

* メールからメールへ、文字通り World Web Wide にひろげてもらうのが、なにより「電子文藝館」の周知と広い範囲での愛用に繋がるだろう。趣旨を伝えるだけではだめで、せめて具体的な展観内容を目次風に 観てもらうにしくはないと思い、三百近い知人・読者のメールのある人に、いましがた電送した。インターネットの使える人でなければ、読めない。漠然と広告 するより、私から、直に声援をお願いしようと思った。

* お変わりありませんか。秦恒平です。
 もしも、
 近代・現代の、よく選ばれた小説や評論や詩歌に出逢いたいと思われるときは、「日本ペンクラブ電子文藝館」を訪れてく ださい。
 島崎藤村、正宗白鳥、志賀直哉、川端康成、芹澤光治良、中村光夫、石川達三、高橋健二、井上靖、遠藤周作、大岡信、尾 崎秀樹から現会長梅原猛まで十三代の日本ペンクラブ歴代会長、また徳田秋声、谷崎潤一郎ら錚々たる物故会員、そして現会員二千人の、自負・自薦の各一作 が、ジャンルを問わず、「無料」で読めます。
 開館して二箇月半の「展観現況」をお知らせします。十年のうちには少なくも千人千作を優に越す「Digital Library」が育ってゆくものと信じています。
 どうぞ文学好きな、メールのお仲間に、URLとともに、ご吹聴下さいますよう。Hoya e-old 秦 恒平   

* 日本ペンクラブ電子文藝館  (2001.11.26開館)
   http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/ 無料公開
     展観内容 (2002年2月15日現在 予定)

* 歴代会長
島崎藤村「嵐」 正宗白鳥「今年の秋」 志賀直哉「邦子」 川端康成「片腕」 芹澤光治良「死者との対話」 中村光夫 「知識階級」 石川達三「蒼氓第一部」 高橋健二「(未出稿)」 井上靖「道」 遠藤周作「白い人」 大岡信「長詩・原子力潜水艦『ヲナガザメ』の性的な 航海と自殺の唄及び英訳」 尾崎秀樹「『惜別』前後─太宰治と魯迅」 
梅原猛=現会長・電子文藝館長「闇のパトス」
* 物故会員
「詩歌」 与謝野晶子「自撰・明治期短歌抄」 前田夕暮「歌集・収穫上巻」 土井晩翠「荒城の歌及び回想」 蒲原有明 「智慧の相者は我を見て及び回想」 
「戯曲」 岡本綺堂「近松半二の死」
「随筆」 長谷川時雨「旧聞日本橋 抄」
「論考」 戸川秋骨「自然私観」 三木清「哲学ノート 抄」 加藤一夫「民衆は何処に在りや」 戸坂潤「認識論としての文藝学」
「小説」 白柳秀湖「驛夫日記」 徳田秋聲「或賣笑婦の話」 谷崎潤一郎「夢の浮橋」 横光利一「春は馬車に乗つて」  上司小剣「鱧の皮」 林芙美子「清貧の書」 岡本かの子「老妓抄」 高木卓「歌と門の盾」 吉川英治「べんがら炬燵」
* 現理事・幹事
伊藤桂一「雲と植物の世界」 加賀乙彦「フランドルの冬 抄」 阿刀田高「靴の行方」 神坂次郎「今日われ生きて在り」 秦恒平「清経入水」 猪瀬直樹「『黒い雨』と井伏鱒二の深層」 米原万里「或る通訳的な日 常」 眉村卓「トライチ」
* 現会員
「詩歌」 篠塚純子「ただ一度こころ安らぎ」 和泉鮎子「果物のやうに」 岩淵喜久子「蛍袋に灯をともす」 村山精二 「特別な朝」 平塩清種「季節の詩情」 池田実「寓話」 牧田久未「世紀のつなぎめの飛行」 
「随筆」  渡辺通枝「道なかばの記」  竹田真砂子「言葉の華」
「論考」  長谷川泉「『阿部一族』論ー森鴎外の歴史小説」 井口哲郎「科学者の文藝ー中西悟堂・中谷宇吉郎・谷口吉郎」 川桐信彦「世界状況と芸術の啓示性」 加藤 弘一「コスモスの智慧ー石川淳論」 大原雄「新世紀カゲキ歌舞伎」 篠原央憲「いろは歌の謎」
「小説」 木崎さと子「青桐」 久間十義「海で三番目につよいもの 抄」 崎村裕「鉄の警棒」 武川滋郎「黒衣の人」 武井清「川中島合戦秘話」 筒井雪路「梔子の門」
「児童文学」 松田東「海洋少年団の秘宝」
「翻訳」 田才益夫「カレル・チャペックの闘争 抄」
「意見」 大原雄「テロと報復軍事行動の狭間で、何を見るべきか」 大林しげる「怒らねば」  阿部政雄「もう一度人類のルネサンスへ一歩踏み出さそう」

* 一見雑然としているが、単行本の二十五册分ぐらいは在る。かけた経費は限りなくゼロに近い。紙の本で奈良もう 一千万円はかかっている。    
 

* 二月十四日 木

* 妻からと、遠く西の方からと、チョコレートが。バレンタイン・メールも幾つか。

* 用意の草稿に、目を通した。出来ることは、ここまで。
 明日は忙しい。午に参議院議員会館へ行く。議員有志の主催で、EU議員の「エシュロン」に関する講演を聴きに行く。ペ ンクラブへ、福島瑞穂議員の案内があり参加して欲しいと。それが済んでから三時のペン理事会に出、夕過ぎてから会員の懇親例会で、電子文藝館の映写デモン ストレーション。コンテンツについて駆け足でわたしから説明する。かなり草臥れるだろうが、余力を翌日の川端康成に残しておかないといけない。

* 電子文藝館に作品を掲載した地方会員の一人を、地元の新聞が写真入りで大きな記事にしている切り抜きが送られ てきた。「文豪とならんで」作品が載ったというのである。地方の会員はこれまでは会費を支払うだけしか何の特典も無かったのである。名刺に肩書きとして印 刷する程度であった。わたしは、そんな不公平で気の毒なことはないと繰り返し理事会でも発言してきた。電子文藝館の一つの大きな意図には、東京在住の会員 や役員と同等の場で、本来の文藝作品が少なくとも人の目に届けられるということであった。
 東京に住んで、役員や委員をしているからといって、文筆家として高等であるという保証は何もない。そんなことは作品が 語る以外に分からない。東京はえらくて地方は低いなどと謂う傲慢は改められねば成らず、それにはそれなりの「場」と「機会」が平等に与えられねばならない だろう。電子文藝館は、その為にも必要であった。
 この伝えられた新聞記事には、地方か委員の歓びも籠もっていると思う。苦労が酬われる気持だ。

* 電子文藝館は、また、容赦ない「場」でもある。有名だから、無名だからという不当な差異を超えて作品の質が競 われる。いずれピンもあるがキリも相当たくさんに現れ出て、自然に、日本ペンクラブ会員の質の程が露わになってくる。そのとき、厳しい批評にさらされるだ ろう、入会審査のいい加減なことが、顧みられるであろうことも、そうあらねばならないことも、わたしのこの企画の秘かな意図の一つなのだ。

* 頻繁な折衝で、明日までに、尾崎前会長「論考」、眉村卓理事「小説」、和泉鮎子会員「短歌」までが間に合い掲 載される。谷崎先生の小説は、私がもたついて、それに慎重も期したく、明日の例会でのデモには間に合わない。次いで篠原央憲氏の「論考」と畠山拓氏の「小 説」が届いているが、畠山氏のディスクを機械に入れると機械が凍り付いてしまうので、見合わせている。篠原氏の方はもう原稿に整えて念校も済ませた。著者 が慎重に起稿されたディスクも、読んでみるといくつも直しの必要箇所が見つかる。ディスクで届けば右から左に入稿とは、とても行かない。体裁も整え、校正 もして少しでも問題なくやらねばならぬ。化けるかも知れない文字にはせめてヨミガナを付しておかねばならない。

* どさくさのうちに、いつ知れず、いずれまた靖国問題が、去年のことは忘れたように、またゼロから蒸し返される ことだろう。木島始さんのお話では、その辺を案じて蝋山さんらが働き初めておられるとか、うまく動き出して先手を打ちたいものだ。木島さんのご健康回復を 祈る。
 

* 二月十四日 つづき

* 西東京市というと、わたしの今の住いのある市であるが、たぶんひばりヶ丘団地でらしいニュースに、ショックを 受けた。高齢の夫が食卓によりかかったまま死んでいて、一カ月は経過し、七十過ぎた妻はそれと気付かずに食事の世話なども続けていたという。妻の方は老年 性痴呆に陥っているというのだ、長女たちは、父は元気だと思いこんでいて訪れていず、母が痴呆などで有るわけがないと言う父の言葉をそのまま信用して何の 配慮もしていなかったとか。
 これが、やがての我々夫婦の運命かも知れぬと思うと、やはり憂鬱である。
 と共に、このような事態はこの老夫妻にとってはとても不幸な最期であったのか、この一月二月の夫婦二人での日々は存外 に心優しくも温かい、一種の幸せ状態にあったと謂えるのか、一瞬、わたしは、夢をみてしまった。
 こういう親の「死なせ」方をして仕舞った子ども達は、自然に、「死なれ」たという受け身だけで、これを見過ごすのだろ うか。京都に三人の父と母と叔母を置いていた時期のわたしの不安と心労とがまざまざと記憶に蘇る。
「ぎりぎりになるまで、これでえやないか」とよく親たちは、わたしのもとへ引き取られるなど、考えるのももの憂がった。 自発的にはどうしようもなかったのだ、私は、あの永い期間の心労の果てに、渾身の力で老人三人がまだなんとか元気らしく意志も意識も運動力もある間に、 ひっくるめて東京へ引き取った。垣根一重の隣家を買い取って、両親を迎え、叔母は私たちの二階に迎えた。よく出来たものだ。
 京都の家は取り払われた空き地の中に孤立して地上げ屋のやくざな揺さぶりに喘いでいたが、東京から何度も駆けつけて、 凄んでくる連中を、逆に「書くぞ」と脅し返しながら、交渉に交渉を重ねて、足元を見られていた価格の倍以上に粘り抜いて、無事に売り渡した。バブルの最高 潮期だった。当然、隣家も高くついたが、垣根一重の隣というのはウソのような幸運でもあった。
 父も母も叔母も九十過ぎて亡くなった。私は大学教授の仕事も加わり、たいへんだった。妻は心臓を病んだまま独り老人達 の介護や斡旋に健闘してくれた。息子は浮き身をやつして浮かれた只の少年に過ぎず、娘夫婦ときたらそういう初老の親たちに、生活費の補助や住居の面倒を当 然のこととして迫ってくるありさまだった。わたしが、そんなに売れる物書きだとでも思うのかと、苦笑するしかなかった。
 申し訳なく、最期の最後には、私たちは、父も叔母も母も、順繰りに養護施設に送り入れねばならなかった、妻を共倒れに はさせられなかった。妻は、それでも、こまめに遠い遠い施設にまで欠かさず見舞いによく通ってくれた。

* 死んでいる夫を死んでいると認めず、一カ月も毎日食事の世話をしていた痴呆の老妻は、何を思っていたろう。死 ぬ間際まで妻の痴呆と付き合っていたもっと高齢だった夫は、どういう思いのうちにこときれ、その後一月をどんな思いで妻が用意の食事を受け入れていたろう か、幽明境を異にしたまま。

* 限りなく親たちは重かったが、限りなく多くを享けて育ててもらった。放っておこうなどと思ったことは一度もないし、その健康に気を配らなかったことはな い、決して。愛で、そうしたかと問われれば、仕方なく首は横に振るだろう、わたしは愛というものを知らないのだ。だが、上の例のように、両親がどんな状態 にあるかに気のつかないままの子ではなかった。

* 母がぼけているので、母だけを東京へやるからと父は言ってきた。ぼけているとは私は観ていなかったが、父の言 いつけに従った。母と暮らしていると、ぼけているとも謂えるけれど、むしろ夢うつつでいると思われた。そして失禁した。
  わたしは確信を持って、母の睡眠薬をすべて取り上げ、棄てた。母は、二三日して、ふっと正気に戻った。わたしは、何でここにいるのかねと、不思議でならぬ ようにわたしたちを見た。大量に町医師の与え続けていた睡眠薬の作用で、母はいつも寝ているのと同然だったのだ、食事もしたし話もしていたけれど。
 母は元気になり、東京へ追いやった父に怒りながら京都へ帰っていった。母は、その後は睡眠薬を使わなかった。最期まで ボケはせずに、いちばん弱いと思っていたこの母は、父よりも、父の妹で喧嘩相手の叔母よりも一段長生きして九十六まで生きたのだ。この育ての母を愛してい たとはよう言わないが、深切にいつも目を向けるようにしていた。

* テレビのニュースを聴いたとたん、怒り心頭に発していた自分を、わたしは切ないと思った。誰に対して怒ったの だろう。
 

* 二月十五日 金

* 早起きした。ゴディバなどのチョコレートを、昨日のうち六つ七つは食べていたので少し気にしていたが、六時四 十五分の血糖値は、85。極めて良し。
 もう一つ気にかけていたのが、粕汁。ちょうどこの季節に一番目のないのが、酒粕そして粕汁。酒粕があると、ひっきりな しに、そのまま食べていたい方で、栄養過多になりやすい。粕汁は淡泊につくってもらう、椎茸と薄揚げと蒟蒻と、大根。彩りにかすかに人参か。それ以外は望 まない。魚っ気はお断り。野菜を主にして粕の味で熱いのを食べる。昔は大鍋にいっぱいでも、食べろと言われれば一人でからにするほどだった。酒粕のいいの があれば、酒を飲みたいとも思わないほど、うまいと思う。
 昨日は好きなものが二種類たっぷり口に入り、二つとも血糖値にどうかと案じたが、時間的な配分が良かったか、響かな かった。有り難い。

* さすが三百ちかく同報したので、電子文藝館へのいい返事をたくさん戴く。青空文庫との相似についてもときどき 聞かれるが、はっきり特色の違いがあると思っている。昨夜も、このように返事をしている。

* 活動の性質は明瞭にちがうものと考えています。
 著作権の切れた人達のものに限定して「青空文庫」は頑張っておられます。枠組みはその一点にあり、或る意味で無差別・ 無中心の収拾のように思われます。

* 「電子文藝館」を要約すれば、
 初代会長島崎藤村以来、現第十三代梅原猛に至るまで、「日本ペンクラブ」所属の、過去・現在「在籍全会員」の存在証明 を、「一人一作品」のかたちで展示し、「日本ペンクラブ」が、過去・現在、どんな人材により組織されて来たか・現に活動しているかを、如実に示そうとして います。
 物故会員・現会員を問わず、著作権期限は一応考慮外におき、それよりも、各作品を、できるだけ「読みやすく」十分な鑑 賞に供し得るよう、電子環境での多彩な読者たちのために、配慮しています。(研究者のために厳密な研究テキストを提供するという意図は、一応放棄していま す。)
 むしろ、この一つの「電子文藝館」という「場」で、過去・現在の会員が、「地方・中央」「有名・無名」「ジャンルの違 い」超えて、全く平等・対等に自愛・自薦の「自作」を呈示し、読者の鑑賞ないし評価を求めている、ということです。
 詩歌、小説、児童文学、ノンフィクション、評論・論考、随筆・エッセイ、翻訳、外国語作品等、あらゆるジャンルを問わ ず、また「芸術、通俗」を問わず、同じ一つの「電子文藝館」の中で、読者が自由自在に比較しながら、好きに価値判断をされる「機会と場所」としても、大い に利用して欲しいと企画・提案者は、編輯室責任者は、願っています。
 したがって、この「ディジタル・ライブラリー」の読書に関する「課金」等は、一切求めていません。完全な「無料公開」 です。「電子文藝館」は、国内外に対する「日本ペンクラブ」の文化事業であり、ボランティアなのです。
 おそらく、いずれ読者のうちで、「こんなに素晴らしい作品に出逢えた」という思いと、「なんだこの程度のものか」とい う思いが微妙に交錯してくることでしょうし、そこに、「日本ペンクラブ」の素顔が否応なく浮き上がってくる筈です。そういう
現実を足場にしつつも、しかし「日本ペンクラブ」は、真向から、世界平和を求め、言論表現の自由を心をあわせて守って行 こうと願う文藝団体なのです。「国際ペン」の一環なのです。
 「電子文藝館」が日本ペンクラブ活動の「目的」ではありません、これは、会員全員のいわば「存在証明」なのです。「顔 写真」なのです。筆者の「略紹介」を極端に簡素にしてあるのは、「作品」そのものをして語らせよう、主観的な先入見をなるべく排しておこう、という意図に 出ています。
 クラブ創設六十六年の二○○二年十一月二十六日、「ペンの日」を期して誕生・開館したばかりの「電子文藝館」ですが、 十年を経ず、少なくも「千人・千作」を擁した大図書室に育つことは確実です。

* 上の「要約」は、私、企画・提案者の考え方である、が、この通りに、どこへ引用されても差し支えない。今夜の 例会での映写紹介に先立って、わたしの気持をも要約しておく。
  

* 二月十五日 つづき

* 参議院議員会館の第一会議室で、EU議会が公的に存在を認めたECHELON=エシュロンをめぐる超党派勉強 会があり、市民として、また日本ペン電子メディア委員会の責任者として参加し、イルカ・シュレーダーEU議会議員(EU議会エシュロン特別委員会委員)の 一時間の演説と、質疑を聴いてきた。議員は二十四歳のチャーミングなドイツ人女性。演説は要点を簡潔に整頓したみごとなものだった。呼びかけ人は福島瑞穂 や枝野幸雄や中村敦夫議員ら。
 今夜は疲れがひどいので、このことはき改めて書く。帰りに福島瑞穂議員をつかまえて立ち話しをし、エシュロンはただに 経済産業情報上の侵害だけでなく、思想信条や言論表現への深刻な干渉や管理や侵害になる懼れが濃く、ペンクラブのような団体がどう取り組んでゆくかに今後 の課題があるはずで、ついては日本ペンクラブにぜひ入会しないかと、口説き落としに成功してきた。入ろうと約束された。日本ペンの考え方には、福島さんら の考え方と軌を一にしたところが相当にある。他党のどこよりも多いとすら謂える。ペンの活動に、又一つの刺激が加わるといいと思い、勧誘に努めた。

* 好天の国会議事堂を見て、憲政公園内の、静かに空いたレストランで、ゆっくりビーフシチューとビールで昼食し ながら、湖の本を校正した。青空の下の大内山と濠を眺め、桜田門から一駅乗って有楽町。三時からのペンの理事会へ出た。議事輻輳を見越して、書面をつくっ て提出して置いたので、問題なく意図は通じた。電子文藝館「編輯長=主幹」として、対外的な依頼活動等にも動くことが承認され、また予算措置にも理解が示 された。委員会ないし私の個人的なボランティアだけでは到底永保ちは出来ず、しかし、とても大きな仕事として成長と定着の見込みのあることは十分理解され たようであった。
 エシュロンのことも、あわせ報告した。この問題で大問題なのは、米英加豪ニュージーランド等のエシュロンにEUや他国 が反対に動こうという点では実はなく、むしろ、同じようなシステムを自分たちも持たねばという方向に地滑りが始まっている点なのである。

* 五時半過ぎからペン例会の会場に大きなスクリーンを設えて、「電子文藝館」の逐一を映写し、説明した。まさし く百聞は一見に如かず、会員の関心をあつめたようで、デモンストレーションは成功裏に終えた。デモに先立ち梅原猛会長は挨拶に立ち、電子文藝館についても 多く言葉を費やしてわれわれの労を多とされ、日本ペンクラブに大きな財産とも成る仕事の緒についたことを慶賀されたのは嬉しかった。後刻の懇談でも、梅原 さんはわざわざ私の所へ来て、よくやってくれたとねぎらいと感謝があり、恐縮した。私流儀の虚仮の一念のようなものでもあるが、とにかくも佳いもの佳いこ とに手を染めたかった。日本ペンクラブで良かったと思える仕事がしたかった、というに尽きている。
 倉橋羊村氏から原稿を預かってきた。また大勢の出稿があるだろう。

* おかげで会場を歩きまわっては出稿を頼んだり質問を受けたりしていて、和泉鮎子さんなどの見えていたのにもろくすっぽ挨拶も出来ぬまま、疲れ切り、先に失 礼して東京會舘の外へ出た。日比谷のクラブへ行き、ブランデーのあと、珍しく鮨を頼んで、だがもうウイスキーには身が持たぬ気がした。生ビールを呑んだ。 湖の本のちょうど前半を校正し終えてから帰った。地下鉄丸の内線の終点池袋駅で寝ていて、降りる客に起こしてもらった。しょうがないなあ。

* 家に帰っても直ぐは休めない。メールが沢山入っていた一つ一つを処置し、幾つも発信した。
 あすは、二時には、駒場で川端文学を語らねばならない。先日見逃した芸能花舞台の再放送が、明朝朝の五時台にあるとい う。ふう、これは堪らん。荻江壽友氏から二三日前に電話があり、わたしは留守であったが、放映を観たものとその話をすべく掛けてこられた電話らしく、聞い て恐縮した。放映そのものはたいへんな好評であったという。明朝がだめでも、確かもう一度、再々放映があると聞いている。
 

* 二月十六日 土

* 廊下を走る跫音にめざめて、黒いマゴを外へ出してやったのが、暁け白む前の五時過ぎだった。はからいごとか と、テレビの前に行ってみたら、潤一郎の「花の段」を三人の女達がひらひらと踊っていた。画面に歌詞を、小さくてもいいいっしょに出せばもっと興味がもち やすいだろうにと思った。音曲の水準も踊りも、感心しなかった。もっとも途中から入ったのである、葛西アナと生稲晃子らの前説があったかどうかも分からな い。
 やがて「花の段」は終えて、「秦恒平・作詞」「荻江壽友・作曲」と出て「松の段」の始まる前に、だれやら和服の女性が 出て、しんみりとも、ものものしいともいえるナレーションがあった。話の中身は穏当だった。何よりよかったのは、踊りの主が「松子」で、添えが「重子」と してあったこと。見せられた企画書の段階では、これも「幸子」と「雪子」になっていた。NHKに電話して、それでも構わないけれど、もともと「幸子」のモ デルの松子夫人と「雪子」の妹重子さんとに宛てて書いた「歌詞」であること、「松の段」という題も「松子=待つ」にかけて、幽明境を異にした二人の姉妹 の、やがては相逢う日を「待つ」とよびかわす幻想劇になっていることを、説明して置いた。それがそのように修正されていたのは有り難かった。それでこそ詞 が生きるし、意図も生きる。
 贔屓目だが「花の段」より、格別佳い場面に創られていた、けっこう長く、三場面ぐらいには移り動くのだが、まずまずの 振り付けのように思われた。踊りは、どうもあまりうまいとは観なかったが。曲を壽友が自身でうたってくれると最高なのだが、いま健康すぐれないと聞いてい た。女性が謡っていた。ナレーションでも触れていたが、今井敬子が一人舞いで国立小劇場で舞ったとき、わたしたち夫婦の一つ前の席で観ておられた松子夫人 の、感極まって泣かれたのが、今は夢のように懐かしく懐かしく思い出される。
 予定録画のセットをしておいたと妻はいうのだが、うまく撮れているのか、なんだか分からない、まだ確認しないまま機械 の前に来た。

* 谷崎潤一郎には「妻の妹」は難しい課題である。細雪の雪子も、痴人の愛のナオミも、「妻の妹」なのだ、モデル は。今日の駒場での講演も、その方だと話が弾むのだけれど。
 いっとき、華麗な、だが寂寞の思いにもひしがれる半時を過ごした。わたしの夢のような希望をいえば、吉永小百合と沢口 靖子とで「松の段」を舞って欲しいが。靖子はまだ若いかな。いずれにせよ、踊りでなく、舞が佳い。藤間由子は姉妹で舞い、今井敬子は一人で舞い、先斗町の 温習会は姉妹で舞った。今日も一人で踊り終えるかと思ったが、やはり重子さんが彼方の幻で登場した。どっちでもいい、壽友の曲がいいので、歌詞を明瞭に発 声してくれると、もっといい。

* 「今日の例会では、遅くまでありがとうございました。「ペンの日」以来2ヶ月ぶりの例会のせいか、いつもより 参加者が多く「電子文藝館」への注目度が高くなったように感じました。寄稿について、受け付けでお問い合わせくださる方もあり、今後目がまわるほどの忙し さになると困るなと思いつつ期待しておりますが...今後ともよろしくお願いいたします。どうぞあまりお疲れがたまりませんように」と、事務局からもねぎ らわれた。幾つもこういうメールが届いていた。感謝。

* さてエシュロンであるが、イルカ・シュレーダ議員の話で、いちばん気になったのは、EU議会が、エシュロンの 存在を、米国その他の関係国がいかに否認ないし黙殺しようとも、確実に「存在している」と公認するに至った「そのこと」では、なかったのである。一見、そ のような確認は、次に、それへの「反対」という動きが予想されそうだが、現実は、大いに異なり、エシュロンに対抗し、同様の地球規模通信傍受システムを、 EU自身も、「持とう、持ちたい」という底流に押し流されようとしているらしい。イルカは、これに反対して議会決議案に反対票を投じ、この問題に市民レベ ル参加の道を開き、権利侵害への抵抗を市民社会の中から拡げてゆかねばならないと「少数意見」を書いた一人なのである。
 エシュロンは、いまや軍事的な情報収集よりも、表向きは、もっぱら経済行為、産業企画等の畑でスパイ行為に用いられて いる、と言う。そしてそれには然るべき理もあり必然性もあるといった当事者間の言訳がされていて、その上で、追随的に、EUも、また個別の国・政府も、大 なり小なり同様の諜報システム設置へ動いてゆこうとしているとイルカは警告する。また、さもなくても、エシュロンに身を寄せて協力することで、つまり自国 からの情報を提供することで、見返りの国際情報にもあずかろうという方向へ、世界は動こうとしていると言うのである。すでに日本は、それに相当する協力体 制下にあり、米・英・カナダ・豪・ニュージーランドという「エシュロン同盟国」の周辺には、日本国その他が、相互的な協同体制を敷いている。しかも、何処 の国・政府も、この明らかな事実を否認し黙殺しているのが、現実らしい。
 エシュロン当事者達は、あたかも産業や経済面での傍受をこそ建前のように言っているが、深刻に危惧されるのは、この大 通信略取のシステムが、実は、市民各自の人権侵害に及ぶこと、個人情報や、また思想信条・言論表現の自由に対する莫大な脅威にこそなろうとしていること、 だと、私でも、最初からそれを懼れてきた。日本ペンのような思想的実践的な市民団体や、また個人レベルでの表現や思想公表が、圧迫や弾圧の的にも容易に転 じうるどころか、すでにそのように利用もされていることへの危機意識をぜひ持てと、イルカ・シュレーダの演説は、其処までを容易にうかがわせる重い警告の 響きを持っていた。深くうなずける論旨であった。
  EU議会の特別委員会による分厚い報告書を訳したものが七百円で売られていたのを二册買い、一冊は理事会の席で猪瀬直樹理事に呈してきた。

* 「松の段」と「エシュロン」では、隔絶感がありすぎるけれど、余儀なくこのような二た色に染め上げられてい る、わたしの「今」は。拒むことは出来ないし、また、それだから何かが均衡して「現実」を押し歪めずに済んでいるのかも知れない。

* 構造改革の痛みからというより、行政の不手際や、金融政策の拙劣な失敗続きからというべきだろうが、職を奪わ れたりリストラされたりという例が、わたしの周辺にもほの見えている。四国の花籠さんもつらいめをしているのではと気になる、メールも通じなくなっている ようだ。名張の囀雀サンの方はどうなのか、心配なことは増えこそすれ減らないのが情けない。

* あまりに早起きして、まだ八時にも成らない。川端康成を語りながら寝てしまうかも知れぬ。どうなろうと今日を 通り過ぎれば、気はおさまり、また忙しくいろいろ始めることになる。このホームページのリニューアルも、そろそろスケジュールに上げてゆきたい、だいぶ用 意が出来ているらしい。医者へも行きたいし、湖の本の新刊もすすんでいる。作業が混んでくる。久しく、人と逢うというようなことも、ない。
 

* 二月十六日 つづき

* いま嬉しいのは、帰宅して開いた十あまりのメールのなかに、昔々、昭和五十年ごろか、会社勤めをやめて翌年一 年だけ東横短大に「文学」の話をすべく非常勤講師を頼まれたときの学生が、はるばる広島県の奥地から、突如初メールをくれたことで、題もよし、「お待たせ しました!!」と。久しい時の間を感じさせない素朴なぶっつけの声だ。

* お待たせしました!!   やっとメールを送ることができます。まだ初心者なので子供(中一)に聞きながらうっています。**はまだ寒い日がつづいています。仕事は、8時からの日と 9時からの日があり、毎朝エンジンを先にかけて車を暖めてからでかけています。お返事お待ちしています。

* 四半世紀以上も昔の、たった一年間週一度の授業であったが、その子のことは、などと言ってはわるいもうベテラ ンの主婦であるが、はっきり覚えている。とても懐かしく覚えている。純朴な、しかも際だって美しい学生で、あれでまだ二十歳前であったろう。次の年も来て 欲しいと大学はアテにしていいたらしいが、わたしは、強引にやめさせてもらった。書く仕事に大いに乗っていたし華やかなほどに忙しかった。それに通うのに 二時間以上もかかるのだ、保谷から等々力までは。で、やめるときに、学生達が大勢私の著書を抱いて署名をもらいに来てくれたりした。この人もその中にい て、わたしは、ちらと顔を見て、なんだか識字も書いたように思うが、何を書いたかは忘れた。帰ろうとし外へ出ると、一人で追いかけてきて何か言葉をかけて きた。何を言われたのかは覚えていないが、なんだか真剣そうに頬をあかく染めて、くりくりと瞳を光らせてものを言う顔だけは長く覚えていたし、今も覚えて いる。
 コンピュータとは、すばらしい機械なんだなあと今更のように今日は嬉しくて、わたしはご機嫌である。
 いま写真の写る電話が盛んだが、写真など見られたくもなく、あまり見たくもない。少なくもあれ以来二十七年ほど経って いるのだから、果然変貌していかねないし、少なくともふけているわけだ、あの昔のママの記憶でメールをこれからも楽しみあう方がどれほどロマンチックであ るか知れない。

* 井の頭線で駒場の近代文学館に行き、「川端康成の深い音 体覚の音楽」という講演を思うままにし終えてきた。 丁度九十分ほど、用意の草稿をつかって静かに話してきた。聴く方もみな静かであった。どんな感想をもたれたか質疑の時間がなかったので何も知らない、終え たあと廊下で、一人から、音楽はなにがお好きかと聞かれただけだ。疲れていてあまりまともに答えられなかった。手洗いに入ったとたん、かつて体験したこと もない、全身が、あの潜るようにして跳びこむ縄跳びの縄のように、わなわなと震え始めた。一時的な低血糖か脳貧血か、しまった角砂糖もガムも持っていない と、元の部屋に残っている誰かからガムでももらわねばと驚いたが、暫くして震えはやみ、控え室でお茶と小さな饅頭をもらったことで、落ち着いた。講演の方 は一仕事として原稿を書き上げてあったから、中身にはある種の自信があり、どうとももう済んだことであったが、この体調にはかなり慌てた。

* すこし呆然としたまま、駒場から有楽町東京會舘へ移動した。じつは昨日の理事会前にマフラーをクロークの辺に 落としたまま、夜まで気づかなかった。気付いたときはもう諦めていたが、いかにも東京会館内で無くしたと思われるので、帝国ホテルのクラブから妻に電話し て、東京會舘に尋ねさせた。そういう電話は妻はうまいのである、わたしは電話するのが、嫌いとはいわぬが苦手な方なのである。マフラーはあった、それを受 け取りに行かねばならなかった。
 そのあと、どこかへふらふら歩きまわりたい気もあったが、遅い昼食もとらねばならず、またしても帝劇モールの静かな静 かな「きく川」に入って、一部屋占領して、菊正宗を二合、鰻と、きも焼と、塩もみのきゃべつとで、ゆっくり堪能した。インシュリンの注射もした。湖の本の 校正もできた。机さえあれば酒や食事の肴かのようにして本を読むか仕事をしてしまう。仕事が片づいてゆくのが私にはクスリなのである。
 じゅうぶん機嫌が直ったので、もうどこへも動かず、足元の有楽町線のホームにおりるとすぐ西武線に乗り入れている小手 指行きが来てくれた。保谷まで小一時間、気持ちよく寝ていた。乗り越しもせず下車して「ぺると」でモカをのみ、マスターと話し、ぶらぶらと家に帰った。こ のところの肩の荷物を一気に少なくも三つ四つおろしてしまい、ほっと一息入れている。こうしていても、とても眠い。

* boo  オリンピックでのアメリカ人観客の「boo」ではありません。
 いつだってオリンピック期間中の雀は不機嫌。ですが、今回は―「ふ・ゆ・か・い」ですッ!
 この時期、米国が開催を辞退しなかったことだけでも腹立たしいのに、「悪の枢軸」と彼らが言うところの北朝鮮と同等の 開会式をして国民感情を高揚させ、景気は上昇、ヨーロッパと共に日本へ圧力、買収容疑でロシアを蹴落とし、核実験はする、ヒトの未来より今のカネという京 都議定書代替案を示す。東アジアに乗り込んで、二代目<知性不十分>は何をやらかすの ?
 マーガレット王女も「核の弔砲」とはお気の毒なこと。

* ヨーロッパでは、ぎっくり腰を「魔女の一突き」と云うそうですが。経験者ならではのうまい表現だといつも感心 します。ぎっくり腰でも、椎間板ヘルニアでもないのですが、股関節と臼蓋の重なりが先天的に少し浅いらしく、それに老化が加味され、過労するとそのあたり が炎症を起こして痛みます。
 一昔以上も前、体重のあった母を抱き抱えた時、ギクッときたのが初回で、この症状はまさに魔女の一突きでした。医者に 行き、二日もすれば平常に戻る為、常はあまり念頭になくて、その後もう一度突かれ、それから七年間安泰だったのに、今回やってしまいました。女性は痛みに 強い筈なのに、参りました。
 (お気楽主婦が群れて行って)讃岐の金毘羅さんのご機嫌ナナメだったのかしら。
 幸い患部は片足だけですが、最高に痛い状態は、夜、お布団に横になると両足の何処を少し動かしても頭まで響く痛さで す。こんな時は夫の手も借りたくなく、ひたすらマイペースで寝起きしたいのです。
 自転車の片足漕ぎで整形外科へ行き、シップと痛み止めを二回服用で、前回同様うそのように痛みが退いて、今はしっかり 治まりました。歩行よりもなるべく自転車を使い、体重はこのまま横ばいで増やさず、重い物は持たず、水泳を、なんてご忠告を戴きました。
 自覚する持病を三つ抱えては、一病息災とうそぶいてもいられなく、元気に老いるのはほんに難しいけれど、気持ちの切り 替え素早く、ノホホンと、それでも以前よりは年寄りらしく意識して、大人しくするつもりです。
 家にいる時間が多く、文藝館を訪れています。
 

* 二月十七日 日

* 米大統領「アイク」来日の日の圧倒的なデモが、むしろ懐かしいほどに思い出せる。民衆に大きく渦巻く政治的エ ネルギーがあった。反対の意思表示を、自身の体を働かせて示す意欲があった。ブッシュが来る。これほど危険な米大統領はこの百年に何人いたろうか、とびぬ けて傲慢で好戦的な権力行使の大統領である。きれいな一線を画して付き合わねばならぬアメリカでありブッシュであることを忘れ、欲も得もなく媚びてすり寄 る、そういう日本の首相や政府を見たくない。吐き気がする。

* 「松の段」前半だけでも、溢れる哀しみがたまらなくて。あちら側の「身内」に逢いたい、でも、こちら側にまだ 「身内」がいる。双方に引かれ、やじろべえのように危うくこの世の生を保っているだけ。見終わったら、CSで志寿太夫さんの「保名」(立方は音羽屋)を やっていて、また、涙がこぼれました。
 平野啓子の語りは、思い入れと自負過多で、不自然。あれは余計でした。
 2週間ぶりの外出です。一羽で、奈良の「入江泰吉・杉本健吉・須田剋太」へ。今日の「日曜美術館」の、ですのよ。
 梅葆玖・櫻間眞理・箏曲の「楊貴妃」競演を観て帰ります。囀雀

* 妙なもので、昨日は、終日「松の段」の節がかすかに、しかし絶え間なくあたまの芯のところで鳴っていた。身び いきではなく荻江壽友のつけた曲は力に満ちていて佳いのだ、わたしは、観世流の野村四郎が謡う「清経」と、壽友の唄う「松の段」のテープを愛していて、大 学の頃も教授室でひとりよく聴いていた。

* 今日は、劇団昴が演じる漱石原作の「それから」を、妻と観に行く。福田逸氏厚意の招待。しばらくぶり楽しみの 日である。明後日の帝劇招待にはわたしは差し支えて行けない、妻が友達と行く。浅丘ルリ子の観られないのは惜しい。喜劇らしい。

* やや自覚していたが、どうも一両日心臓の上が、重く、息がつまる。わたしの肩こりはもっぱら左なので、その影 響なのであろうと自己診断している。左手に原稿をもって右片手でスキャン原稿などを校正し続けてきた。その左と右のアンバランスが肩こりになっているのは たしかで、その筋肉痛が心臓の上まで来ているのかも。息をためてしまい、ときどき鯨のようにふうっと息を吐いている。
 

* 二月十七日 つづき

* 三百人劇場、劇団昴公演の「それから」は、杉本じゅんじ脚色、樋口昌弘演出。若手の勉強公演のようであった。 代助役も三千代役も平岡役にも不満はなかった、こんなものだろうという演技で、原作の空気を感じさせていたと褒めてもいい。問題は脚色と舞台装置で、平板 にして混雑。ぜんたいに映画のシーンを長い暗転とおそい溶明を乱発しながら説明的に筋を追ってゆく。緊迫感もなく、鋭い問題提起もなく、材料を、めりはり なく置いてゆくだけの張り合いのない舞台に終始した。舞台装置がなんとも陳腐で消化不良。もっと大胆に、もっとシュールに、代助三千代への批評をこめた面 白い把握と表現が観たかった。拍手に熱が入らなかった。

* 小雨の懸念があり、有楽町の方へは出ずに、巣鴨から池袋に戻り、しばらくぶりに天麩羅の船橋屋へ。わたしは甲 州の酒の笹一が目当てで、天麩羅に主眼。妻は春の味覚。菜種のひたしなど小鉢のついた刺身もついた定食を注文。
 芝居の感想だけで、話題は漱石の上へも広く及んで、ゆっくりくつろげた。
 もっとも、何となく体調は頼りなく、どこかしら五体がゆらゆら。脈は正常そうに打っていたけれど、左の胸の全体に圧迫 感がさしひきして気持良くなかった。なによりも眠い。

* 今夜にも零時過ぎてからまた「芸能花舞台」が放映される。谷崎先生の「花の段」にならんで私の「松の段」が演 奏されるなど、いわば生涯の記念でもあり、もう一度見て、もう一度テープにおさめておこうと思う。

* ブッシュはもう日本に来ているらしい。ソルトレーク冬季オリンピックへの臆面もない介入といい、押しつけがま しい覇権的な傲慢といい、この大統領、まったく好かない。へんな荷物を押しつけられずに、無理難題をつきつけられずに済むといいが。
 

* 二月十八日 月

* 夜前、潤一郎の「花の段」わたしの「松の段」をもう一度録画しながら、妻と観て、今朝、マゴに六時半に起こさ れたのをしおに、ビデオの「松の段」を一人で見なおした。舞踊は花柳春と西川瑞扇、荻江節は荻江寿ゞその他。春にも瑞扇にもしどころがあり、振り付けに苦 心の跡が見えて、観るつどに感じが深まり嬉しくなった。番組の結びを法然院墓所と枝垂れ桜に置いて、「此処に細雪は完結しました」というナレーションもほ ろりとさせた。
 昭和三十九年であったか、谷崎の訃報をラジオで聴いたのは偶々夏休みで家族中京都に帰っていたときだった。たまらず、 夕暮れ前にひとり法然院の谷崎用意の壽塚を訪れて一時を過ごした。最初の小説私家版を、わたしは谷崎潤一郎、志賀直哉、窪田空穂、三木露風、中勘助に送っ ていた。太宰治賞までに、なお五年。

* 感慨深い記念なので、「松の段」を書き写しておきたい。亡くなるまでほんとうによくして戴いた谷崎松子夫人へ の、これは、心からの慕情と感謝の書下ろしであった。言うまでもない谷崎作詞の「花の段」に和している。詞にも、意図して谷崎の和歌のことばなどを繰り入 れている。テレビで観世栄夫氏がすこし触れていたものの、事実は、「松の段」作詞の方が、松子さんのあの著書よりも、先のことであった。
 じつは、我が「松の段」の語るようなきわめて微妙な、妹重子さんと谷崎と松子夫人との間柄には、それまで、人はあまり ふれなかった、むしろタブーであるとされていた。わたしの「谷崎の『源氏物語』体験」という『夢の浮橋』論が出るまでは、だれも三人のことは口にも出来な かったことですと、『夢の浮橋』を口述筆記した伊吹和子さんに聴いたこともある。
 作詞中に「我」とは「松」子夫人、「きみ」とは妹「重」子さん、「人」とはおおかた谷崎潤一郎に宛ててある。

* 荻江「細雪 松の段」  秦 恒平 詞

あはれ 春来とも 春来とも あやなく咲きそ 糸桜 あはれ 糸桜かや 夢の跡かや 見し世の人に めぐり逢ふま では ただ立ちつくす 春の日の 雨か なみだか 紅に しをれて 菅の根のながき えにしの糸の 色ぞ 身にはしむ

さあれ 我こそは王城の 盛りの春に 咲き匂ふ 花とよ 人も いかばかり 愛でし昔の 偲ばるれ

きみは いつしか 春たけて うつろふ 色の 紅枝垂 雪かとばかり 散りにしを 見ずや 糸ざくら ゆたにしだ れて みやしろや いく春ごとに 咲きて 散る 人の想ひの かなしとも 優しとも 今は 面影に 恋ひまさりゆく ささめゆき ふりにし きみは 妹 (いもと)にて 忍ぶは 姉の 嘆きなり

あはれ なげくまじ いつまでぞ 大極殿の 廻廊に 袖ふり映えて 幻の きみと 我との 花の宴 とはに絶えせ ぬ 細雪 いつか常盤(ときわ)に あひ逢ひの 重なる縁(えに)を 松 と言ひて しげれる宿の 幸(さち)多き 夢にも ひとの 顕(た)つやらむ  ゆめにも人の まつぞうれしき 
  ──昭和五十八年三月七日作 五十九年一月六日 藤間由子初演 国立小劇場──

* 山笑う   昨日は、写真美術館から新薬師寺、志賀直哉旧居へと歩き、春日大社を通り抜け、二月堂・三月堂へ 寄って(名張からも松明を寄進しているそうです)、新公会堂の能楽ホールへと向かいました。
 「楊貴妃」は、京劇、箏曲、能の順で上演され、終わって外へ出ると、薄暮の奈良公園は、春浅い雨にしっとりと濡れてい ます。傘を広げた雀は、目の前のカジュアルな洋服の男性が、梅葆玖さんだったので驚きました。駅に向かうバスの中で、パンフも筆ペンも持ってたと気が付き ました。間抜けな雀。 若草山が、薄緑の山際を、雨に煙らせて、笑っていました。囀雀

* 四国の花籠さんが元気に便りをくれて安心した。しかし状況は厳しいようだ。小泉さん、ブッシュにゴマをするの が政治ではありますまいが。

* 月様 ご心配をおかけしまして申しわけ御座いません。おかげさまで、先週の土曜日に金具も外れ、今週一杯、自 宅でリハビリです。26日から、ようやく仕事に復帰いたします。
 病院帰りには、報告がてら仕事場に顔を出していましたが、景気は相変わらず不調のようです。いえ、一層落ち込んでいる のではないかしら。次々と発覚してくる不正が、またもや追い討ちをかけているように思われますが、今回は他の産物にも原産地を偽っていた事実が判明してい ますね。経済の不安定さに、生き残りをかけての手段かもと思えなくもありませんが、消費者にとっては何を信じればよいのか分からなくなってきているのが現 実。
 辛抱のいる時代になってしまいました。どうにかして欲しいと思っても、今の国政に期待はできないですもの。国民のこと など、どうみても考えているようにはみえない国会論争にうんざりしています。
 昨日、友人が誘ってくれて、彼女の所属する手話サークルの方々と梅林に出かけてきました。聾唖者の方たちもご一緒にで す。梅は満開には少し早かったのですが、山間の馥郁とする香りに包まれて、清しい気分になりました。帰りには喫茶店で、急きょ、初級手話講座が。指文字の 「あいうえお」だけしか覚えられませんでした(笑)。
 花を愛でながら、隣接の杉を見ると、びっしり花芽がついていました。花粉症には辛い季節到来です。月様は、まだ大丈夫 かしら? 早い目のご用心をなされてくださいませ。御身おいといくださりませ。花籠

* 出稿されてきたフロッピーディスクを機械に挿入すると、たちまち機械が凍り付く。他のは問題ないのにその作の ディスクだけが機械を凍らせる。甚深微妙。新しい作品を着々入稿してゆきたいが、せめて数本をまとめてディスクに入れて送らないと、手持ちのフロッピー ディスクがどんどん無くなって行く。
    

* 二月十八日 つづき

* 倉橋羊村氏の出稿された俳句は、新刊句集一冊がまるまるで、しかも一頁に二句組みで四百句近い。スキャンする にもたいへんな手間であり、余儀なく、五年間のうちの平成十、十一、十二年の作句だけを、スキャンせず、煙草替りにヒマを見ては少しずつわたしが自分で書 き込むことにした。それなら読むことも出来る。再現不能漢字のある句は割愛させてもらう。
 入会が認められたばかりの佐怒賀正美氏の百五十句はもう戴いてあり原稿になっている。篠原央憲氏の「いろは歌の謎」も 原稿に仕立ててある。
 今日は、中谷宇吉郎、谷口吉郎の遺族に電話して出稿を依頼した。電話ではラチが明かず、やはり依頼状を出すより仕方が ない。著作権のことをクリアして置いて欲しいので、物故者の場合はその方が良い。現会員にも今日はメールで二十人近く正式に依頼した。西垣通氏や紀田順一 郎氏、倉持正夫氏らから早速出稿意志が伝えられて、心強い。

* 電子メディァ委員会の「構造改革」案も下書きを始めた。

* 後味の悪い、あまり前例のない冬季オリンピックになっている。日本勢は予想通りまるでふるわない。日本へ来て 流鏑馬がみたい、明治神宮に参りたい、とアメリカの大統領。明後日には田中真紀子と鈴木宗男の国会参考人招致。なぜ、NGOも呼ばぬ。

* 細雪 やっと昨晩テレビで見ました。切ない、本当に!最近テレビで見た吉永小百合の「細雪」の雪子や「おは ん」のイメージなども重なって、HPの文章を読みながら「おんな」をさまざまに感じ考えさせられました。お気楽主婦の「生きるって悲しい」に、いくらかの 批判はされても仕方のないことですが、やはり生きていく哀切は拭えなどしません。
 講演のあと、お体の不調を感じられたようですが、以後大事にしていらっしゃいますか? いくらか暖冬とはいえ今が一番 寒いとき・・暖かければそれだけ花粉症に苦しまなければならないし・・・。どうぞ無理なさいませんよう。

* 甚だ特殊なものに部類される「松の段」の舞踊であり荻江節であるが、こんな風に感じてもらえると、そうかそう かと身につまされる。
 いま大竹しのぶの演じていた「棘」というテレビ劇の後段を見ていて、大竹のあまりのうまさに嬉しくなっていた。最高の 演技にであうと、もうその劇がどんな筋であるかも関係なく、演技そのものの光ったファシネーションに惹かれ、嬉しい嬉しいという気分になる。藝というのは そうなのだ。「松の段」を亡くなった武原はんがもし舞ってくれていたらどんなであったろうと想像してしまう。神技の持ち主であったが。
 

* 二月十九日 火

* 聖路加で定期の診察。血糖値も中性脂肪もほぼ問題なし。悪玉コレステロールは微妙なところ。体重は抑えた方が いいと。私から希望して、追加の心電図、負荷心電図、胸部レントゲンの検査をしてもらった。結果は次回に聴く。その程度のこと。

* 妻と大昔からの親友持田夫人とで観ていた、浅丘ルリ子の帝劇公演がはねるのと、私が帝劇辺まで戻るのとが、大 体揃いそうであったので、合流し、日比谷東天紅の静かな店でゆっくり食事し、久しぶりに汾酒を飲んだ。マオタイと変らずうまかった。五時半に、近くのクラ ブへ移動して、エスカルゴとチーズとで少し飲んで、アイスクリーム。丸の内線で帰った。

* 高橋健二元会長の出稿はご遺族の希望でヘッセの翻訳ときまりそう、作品を選ぶことになる。「ダミアン」か「シ ツダルタ」が候補に。これが決まると、十三代の会長作品がぜんぶ揃う。ぜんぶ揃ったら(いいのだが)と夢のように期待したまま始めたのが、はや正夢に成ろ うとしている。
 昨日依頼した中から、もう、速川和男氏の「川柳百句」もメールで届いた。西垣通氏、高畠二郎氏、山中以都子さん、森秀 樹氏らの承諾が届いている。うまくすると春たけなわの開館半年で、当面初年度目標にしてきた百人百作が達成できてしまいそう。

* 福島瑞穂さんへ、手紙を添えてペン入会の書類を郵送した。実現するといいが。福島瑞穂なら佐高信氏に共同推薦 して貰うのがいいか。

* あす、田中真紀子と鈴木宗男との国会参考人招致。それにしてもブッシュ歓迎宴に、田中真紀子を加えない政府の 姿勢は解せない。歴代大臣はみな招かれていたと言うではないか、田中大臣は小泉方針に「協力」しての円満な依願免辞任だと、小泉自身が繰り返し言っていな がら、どうしてそんな敵意に溢れた意地の悪い冷たい外し方が出来るのか。
 明日、歯に衣着せず田中が率直に語ることを期待したい。

* 「松の段」のこと、呆れられましょうが、テレビがありませんので、見られませんでした。先生のお話、湖のお部 屋を訪れた方々のお話から、ぼうと想像していました。
 歌詞が拝見したくて、「湖文庫」にお載せくださるようお願いしようかとおもっておりましたら、うれしいこと、ホーム・ ページで拝見できて。
 縦書きに直してプリントさせていただました。ちいさな声で音読してみました。紅枝垂れのひまに、うつくしいかなしいも のがあふれてきました。
 先生の『谷崎潤一郎』を読みましたとき、はじめて、「細雪」を読んだ、知ったという気がいたしましたが、さぁ、それも あやしいものでございます。この詩を拝見しますと。
 川端康成のご講演、いずれ、「湖の本」か「湖文庫」で拝見できましよう。たのしみにしておりますけれど、ご無理はなさ れませぬよう。

* 頭の芯のところで、繰り返し荻江の節が遠く遠く繰り返し鳴っている。川端に関する講演も、なにのことはない、 谷崎との比較で話をすすめたのである。わたしには川端を語りたいという欲求がほとんどなくて、一時間半の話題など持ち合わせはなかった。「講演録」にはも う入れてある。そんなに期待されるほどのことではなかった。
 なににしても、定期検診も済ませて、ほんとうに一息ついている。睡眠を取り返したい。
 

* 二月二十日 水

* 偶然、TVで見た神代植物園の梅園。懐かしさに胸が締めつけられました。立春。春節。もう雨水ですのね。梅見 はなさいましたか。
 小雨降る猿沢の池。松の根元にあるベンチにひとり腰を下ろすと、驚いた鷺が一羽、音を立てて飛び立ちました。木立ちの 向こうに、五重の塔が変わらぬ姿で立っています。開発で変わる景色も、写真家は、巧みにフレームに切り取るのですね。
人生では、それを心で―in a happy frame of mind―初めて知りました。

* ―in a happy frame of heart  と、わたしなら。

* 奈良に近づくにつれ、車窓から見える山々は、動物の冬毛が抜け替わるのを思わせる、色合いと質感になっていき ます。なンだか山もかゆそうに見えました。
  一方、この時期、「おいしい春、志摩しょう」と観光キャンペーン中の伊勢志摩。英虞湾近くの小学校では、自分が核入れした真珠を卒業式に着ける計画がある そうです。この核保有ならいいでしょう?
 

* 二月二十日 つづき

* あさの九時前から夕方まで、国会予算委員会の集中審議をじっと観て過ごした。
 田中真紀子参考人の答弁は、殆ど隙も問題もなく、厳格に実意を述べて聴かせた。さもあろうなと予測していた通りの問題 点を手厳しく述べ立てて、小泉総理や福田官房長官や外務省や鈴木宗男議員の欠陥を明快明確に語り尽くしたと思う。田中の置かれた立場からして、すべて真 情・真実であろうと聴いた。小泉や官邸・官房長官に対する痛烈な批判は、かねがねわたしが繰り返し繰り返し此処に言い置いてきたことと、ほとんど全面的に 符節を合していて、私の述べ続けてきたことが事実から遠い中傷誹謗では全然無い「事実」そのものであったと知らされ、やっぱりなあと思いつつ、ことの情け なさに愕然とした。
 鈴木宗男議員の答弁は、声大きく威圧的であるワリに、だんだんにボロが顕れて、やはり思った通りの「族」悪非道の暗躍 議員ぶりが暴露されたといえるだろう。

* 午後の委員会質疑では、小泉総理、福田官房長官の厚顔無恥な詭弁、川口外務大臣の超級官僚性の暴露が印象的 だった。そして外務官僚の唾棄すべき醜さ。

* 田中元外相の参考人証言はほとんど小泉内閣の息の根を喘息状況にまで喘がせている。こういう攻め方になると田 中真紀子は天才的に巧みで真率であるが、これからは、味方を創りだす能力を持たねばならない。国民との間に巧みに構築的な足場をもつことを奨めたく、もっ と国会の外へ出て、国民に話しかけた方が佳いし、良い仲間をもって欲しい。

* 小泉・福田のチームには引導を渡したい。少なくも真紀子の言う「わるい取り巻き」の筆頭である「福田」とくっ ついている限り、わたしは個人的に小泉内閣の行政も改革も信用しないし、支持もしない。

* いろいろ注文は有るとしても、野党議員の追究を多としたい。共産党の佐々木、社民党の辻元議員の追究は適切で 良かった。

* 「自由にやれやれと言うので、前へでようとするとうしろでスカートを踏まれていて動けない。だれが踏むかと振 り向くと、自由にやれやれと言う本人が踏んでいる」という真紀子の譬喩は、絶妙に、小泉総理のいいかげんな酷薄さを示していた。そんなことに違いないと書 いてきたことが、ばっちり証言されて、却ってうんざりだ。「スカートを踏む男」という小泉像はかつての「変人」などより遙かに的確な批判をこめて、彼の化 けの皮を引き剥いている。セクハラの弱いものイジメで、陰険そのものの二枚舌である。

* ディスクで原稿が送られてくればラクだろうと。たしかにプリントやスキャンの手間は省ける。だが校正の手間は 省けない。今日もやっと機械に開いたディスク原稿の小説を読んでゆくと、たちまちに十も十五もケアレスミスや変換ミスや誤記・誤植が続出する。そういう原 稿に限ってとは言わないが、意味の取りようもない文章に何箇所も突き当たる。とても安心しては入稿できない。そのまま出てしまえば、誰よりも本人が恥ずか しい想いをするだろうが、また、日本ペンクラブの、電子文藝館の無責任にも恥にもなってしまう。手が抜けない。
 
 

* 二月二十一日 木

* めったにない破天荒の参考人招致であったので、昨夜から今日にかけてマスコミの取り上げようが賑やかである。 むろん、田中真紀子に高配点されていて、鈴木宗男の尻には熱い火がついている。官憲の追究もまぢかではないか、これも予言してきたとおりの道筋だ。掌をさ すように推移の悉くが論評に合致していて、わたしがむやみな悪口を言い散らしていたわけでないと判明したのが面白い。

* それにしても小泉という男の限界が、更迭人事はゼッタイに正しかったなどと空威張りしているところに脆くも露 出している。そのくせ、田中さんは田中さんの見解、私はわたしの見解などと、要するに自分でも「言った言わない」に似た千日手に持ち込んでいる。ゼッタイ に正しいのなら田中の言説を理詰めに批判すればいい、それなら聴きたい。水掛け論になるようにわざとニゲを打っている、卑怯者め。

* 国会の委員会の、現に自分の目の前に外務省事務次官が現われて、自分の任命した、次官には上司である外務大臣 をウソ呼ばわりさせて平気で聞いている総理大臣、こともあろうにそんな次官と大臣とを相打ちに更迭して、次官に秘かな凱歌を奏させてしまう総理大臣。この 不見識は、此処でも繰り返し書いてきたが、小泉は、田中にそのバカらしさ加減を面罵されているのだが、それでも何がゼッタイに正しいのか、ぜひ聴かせても らいたいものだ、水掛け論に逃げないで。

* 自民党の森喜朗、青木、江藤らに囲まれて小泉は昨日の晩は、料亭かどこかで「抵抗勢力ごっこ」を楽しんだらし い。なんと、あの五人組の再編成のようではないか。元の木阿弥、「ぶっつぶすべき自民党」へ小泉純一郎はぬくぬくと里帰りしている。三宅某などといううさ んくさい評論家が、したり顔に田中真紀子をくさしているが、彼が政界の小判鮫ほどに馴染んでいればいるほど、その弁は、我々国民の耳にも目にも腐れかけた 古物のようにしかみえもせず響きもしない。天下無双の愚物にしかすぎなかった恥さらしな森元ソーリが、しゃしゃり出て、あやふやな言葉で田中真紀子をこき 下ろしているのを見ると気の毒なほど情けない。引っ込んでいればいいのに。ひどい自民党がまたまたスクリーン一杯に腐臭を満載し始めたぞ。

* 社民党の福島瑞穂さんがペン入会の書類等を送ってこられた。三月理事会で推薦の弁を述べる。

* 朝のコーヒーを飲みながら、縦に直してプリントしました「川端康成の深い音」をゆっくり、拝読しました。
 「声に出して読みたい作家・作品」というお話に、いろいろ考えることがございました。
 ふっと、「母を恋ふる記」と「雪国」の最初のところを音読してみました。「母を恋ふる記」は、ごく自然に一ページ、二 ページと読みすすめられ、そのままずっと読んでゆけそう、そう、おもいました。音読したら、今までのとはちがう「母を……」を知ることになりそう、そう、 おもいました。
 「雪国」は、「信号所に汽車が止まつた」で、もう、続けられませんでした。今まで通りの黙読でも、読みなおせば、ま た、新たな「雪国」があらわれてくるでしょうが。

* たいした事ではないかも知れないが、今度の講演で、川端康成について、かつて言われたことがないかも知れない ところを話してきたつもりである。川端の文章については、みな、言い尽くされている気がして盲点になっていると思ってきた。

* 倉橋羊村氏の句集「有時」の中から三年分の俳句を逐一わたしの手で機械に書き写した。スキャンするよりも、 いっそう深く原作の味わいに迫れるメリットを取った。たしかに倉橋俳句の微妙をいくらか嗅ぎ分けたように思う。
 高齢の叔母上を見送られた後に、幾句かあったが、
  永病みを看取りし妻よ寒昴  羊村
の「妻よ」の「よ」に感じ入った。ただこの一音の一助辞に籠められたものは、温かくて深い。こんなに一字をみごとに響か せた例には決してそう再々は出逢えるものでない。この句が集中に図抜けていたなどと言うのではないのだが、この「よ」には驚嘆したことを書き留めておく。 二百数十句のなかに、二句はどうしても漢字の制限上再現不能と見て割愛した。字は在ったけれど再現できるかどうか不安なものも二三在った。困ったものだ。
 佐高信氏から、「選稿」をお任せしますとハガキをもらった。高橋健二元会長作品も探しに行かねばならない、翻訳作品 を。谷崎先生の原稿も妻が初校したまま、まだ念校出来ていない。そして尾辻紀子さんから児童文学の本一冊が送られてきている。妻にプリントしてもらったの を、スキャンして校正しなければならない。内容の佳いものなら、苦にしないとまでは謂えないが、楽しみもある。推敲出来ていない杜撰なものを送りつけられ ては困惑する。腹立たしくなる。

* 昨日、よそへ宛てたメールがわたしに届いていた。ドジなことだと思っていたら、なんと、今日はそのドジな人宛 にペンの事務局宛のメールを送ってしまった。ドジの上塗りのようなもので、訳分からずに恥じ入っている。気をつけないといけない。
 

* 二月二十二日 金

* 「文藝館」の起稿と校正とをお願いし、きちんとやってもらいながら、何のお礼も出来ないで久しく放っていた人 に会い、せめてものお午食をご馳走させてもらった。ご希望の昼の「三河屋」は少し混んでいたが、しばらく待って、一階に席が取れた。
 ボジョレーのハーフは、わたしがほとんど一人で飲んでしまったが、食事の方は豊富にうまかった。老舗の洋食店で常連客 も多いようだし、昔は知らないが今では上等なレストランになっていて、それで「三河屋」といった名乗りも微笑ましい。その人とは初対面であったが、もとも と、コンピュータで困っていたときに、「私語」を読んで「通りがかりのものですが」と、適切に教えてもらい助かったのが、ご縁であった。もう二年ほどにな るか。文学少女かなあと思っていたが、二十年来の校正やパソコン運用のベテランであった。大きな企業に勤めていたのを、思い切ってこの春のうちにもっと動 きやすくはたらきやすい若い人達のグループ会社のようなところへ転じるという。機械に強い友達は心強い。

* 二時間ほどかけたゆっくりの食後に、銀座三越前で別れ、わたしは一人でDVDの店で立ち読みならぬ物色に小一 時間も過ごした。目移りして何も選べずに出た。手洗いが使いたく風月堂に。八百円のコーヒーの、値段に比して不味いのに憤慨しつつ有楽町線で保谷まで、寝 て帰った。のんびり駅のエレベータで夕暮れの家路についた。エレベータで一緒だった四十恰好の感じのいい奥さんふうの人が、どこまでも、私より二十メート ル先を歩いてゆく。おやおやと思っているうち近所の大きなマンションへ入っていった。こういうこともあるんだなと、妙におかしかった。

* 早くに予言していたように、鈴木宗男代議士の離党勧告をはじめ、刑事告発に至りそうな事態に成ってきている。 かならず山口某、村上某等の跡を追うであろうと思われたが、そのような形勢だ。
 外務省の重家、小町の二人が更迭されるというのも、それこそ田中前外相が口を酢くして求めてきたこと、なんで田中真紀 子在任中にそれが出来なかったのか、小泉総理の判断の遅さなのか、田中への意地悪さなのか、よくよくいい加減さがまた浮き彫りになった。すべて田中が身を 棄てて実現した結果ということになる。国民にはそれがハッキリ見えていて、小泉たちには分からないのか、分かっていても認めたくないのか、ばからしいムダ を強いていたのは、やはりスカートを踏んでいた男の仕業だった。

* 昨日、電子メディア委員会の「構造改革」案をメールで委員諸氏に伝えた。これから議論が始まる。
 

* 二月二十二日 つづき

* 「細雪 松の段」にこんなに感想を寄せてもらえるとは、期待していなかった。

* 二月十六日の「私語の刻」で、講演のあとにお具合が悪くなられたという記述を拝見して、大変心痛めておりまし た。その後、お変わりございませんでしょうか。お忙しいご様子ですが、どうぞご無理をなさらないでお過ごしくださいますよう蔭ながらお祈り申し上げており ます。
 オリンピックでは日本勢の不振が話題になっていますが、新撰組の近藤勇にこんな言葉があると聞きました。「道場で強い 人が真剣勝負で強いとは限らない。しかし、道場で弱い人は真剣勝負でも弱い。」世界選手権でも強くなかった日本選手が、オリンピックという本番で弱かった のは当然といえば当然のことでございましょう。
 ベルリン映画祭で金熊賞を受賞した宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」が最近の日本の金メダルといったところかもしれま せん。私はアニメには興味がなくてこの映画を観ておりませんが、「いつも何度でも」という主題歌はいい歌だと思います。歌詞のなかの「生きている不思議、 死んでいく不思議」という言葉に、なぜかとても心惹かれるのです。人が生きていることも、死んでいくことも考えれば考えるほど、ほんとうに不思議としか言 いようがありません。
 「生きている不思議、死んでいく不思議」などと書きましたのは、実は、先日再放送されました芸能花舞台の感想を申し上 げたかったからでございます。芸能花舞台「松の段」は、生きていることと死んでいくことの境目の不思議な夢幻の世界でした。
 「生と死」の境目は、人生が夢と出会う場所とも言えるでしょうか。生と死、人生と夢という相容れないものがふれあうと き、えも言われぬ美しさに充たされます。私は溜め息をつきながら、谷崎の『細雪』を想い、そして先生の魅惑に溢れた数々の小説と同じ世界に酔いしれており ました。
 「松の段」は日本舞踊よりも地唄舞のほうが似合っているようにも思いました。武原はんが舞っていたらという先生の感想 はそのまま私の願望でもあります。今となっては叶わぬことではありますが、武原はんほど「松の段」の詞の精神を理解し、身体で表現できる踊り手はいないで しょう。武原はんにとりましても代表作になり得たもので、残念でなりません。
 武原はんに憧れたなどと大それたことは申しませんが、実は趣味で地唄舞を習っております。眼ばかり肥えていて実力のほ どはひと言「噴飯もの」なのですが……。それでも十年くらい先には、「松の段」の一部分だけでも舞台で舞ってみたいという蛮勇に近い高望みを抱いてしまい ました。「松の段」の楽曲をどこかで買うことができましたら、是非私の地唄舞の先生にも舞ってくださいとお薦めしてみたいと思います。
 とりとめなく書いてしまいました。先生が一日でも長くこちら側の世界にとどまられて、人生と夢の出会う境目の世界を書 き続けてくださいますことを願ってやみません。どうぞ日々お健やかにお過ごしくださいませ。

* ま、過褒ではあるが、なにとなく松子夫人のために、よろこびとしたい。
 このメールに関連して今思うことは、この人の「生と死、人生と夢という相容れないもの」というフレーズである。昨今の 私の内奥では、この辺が問題になっている。人生もまた夢ではないかと、多くの人が思ってきた。そのように最期に言葉にした表現は辞世の歌などに多い。ああ いうものは特殊な強いてする表現だという考え方もあろう。ともあれ、わたしの内側で、相容れるか相容れないかは別としても、人生は夢そのもので有りそうだ との実感に日々迫られている。真相はそのようだと。夜中、真如の闇に眼をみひらいているうちに、自分が無に帰している境地にときどき入れる。夢も人生も無 い。無いものを有るように思いこんでいるのが人生であり夢であるのではないか。

 
* 二月二十三日 土

* 「出版ニュース」に依頼されていた「電子文藝館への招待」14枚を電送した。大きな要約になり、いい機会が与 えられてよかった。

* 「e?文庫・湖」の第十五頁に吉田優子さんの新作「皆既月蝕」を掲載した。ずいぶんよく推敲されてきた。モ チーフの強い作者であり、足踏みしないで、また前作にとらわれず、次ぎを書くことを奨めたい。新しい力有る書き手の投稿を待っている。第十四頁には、和泉 鮎子さんの短歌、速川美竹氏の川柳、日吉那緒さんの短歌を掲載した。

* 午前のテレビ番組で、民主党議員、自民党議員に挟まれて猪瀬直樹氏が話していたが、なんだか田中真紀子の外相 時代の閲歴をパネルにしながら、「なにもやらなかった、やれなかった外務大臣」などというネガティヴ論評を、自信なげにぼそぼそとやっていたのは、情けな かった。そんな程度の悪口や批判は聴き飽いている。
 国民は、もっと賢く、要するに、誰にも出来なかった外務省の伏魔殿ぶりを世にさらけ出した大功労こそが、後々の外交や 政治への土台になる貢献だと承知している。現に問題の官僚どもを整理せずには済まなかったではないか。しかし小泉総理も川口新外相も、それを自分の功績と は誇れない、それらこそを田中真紀子は最初から精魂込めてやろうとしていたのを我々は知っているし、しかし小泉と福田とが、外務省高級官僚どもが、寄って たかって阻んできたことも、いまや明々白々なのであるから。
 政治改革なくして構造改革などあり得ない、その一つの外務省課題を、田中外務大臣が、あんなにも明白・明確に国民の目 の前にさしだしてくれた御陰で、やっとこさ愚劣な官僚がともあれ更迭できたし、愚劣なあの族議員の整理もたぶんつくであろう。そういう基礎的なことがらに 目をそむけて、未練がましく田中真紀子執務の「ディティル」とやらをゴタクサと非難したりするのが、自民党内の旧悪勢力であれば憫笑して見捨てるとして も、天下の「賢人」猪瀬直樹ともあろう存在が、ぶちぶちと、本末転倒の、相変わらずな女の悪口を未練たらしく語っている図は、見苦しい。
 前にも言ったが、どうして田中真紀子のエネルギーを「改革」のため味方につけて、逆に利用しようとしないのか。それぐ らい、出方一つで簡単ではないか、彼女は「ザ・自民党」であり、「改革」に強い意志を持っていることは、小泉総理を名指しで「改革の抵抗勢力」に成り下 がったのかと批判しているのでも、明白なのだから。
 いま小泉改革が、誰と手を繋げば成功のメドが得られるかと言えば、まさか橋本派でも森喜朗でもあるまいに。それではむ ざむざ「改革」は潰される。橋本も森も、改革を潰してきた総理経験者であり、われわれは滴ほどの期待も掛けていない。今や国民の支持を背後に大きく抱えた 田中真紀子の人間的な政治の力量を取り込む以外に、活路も目もない勝負に出ている小泉ではないか、ひいては猪瀬直樹ではないか、それならばこそ、この瀬戸 際に、自民党森派のへんてこな代議士なんぞと尻馬を揃えて、テレビの画面で田中真紀子をばかばかしく誹っていていいのか、女の悪口など言うている時機では なかろうにと、つくづく思う。
 どうも、まだまだ男どもの政界に、力有る女への嫉妬がむらむらしているようで、ますます政治が醜く見苦しい。本質志向 してもらいたい、猪瀬直樹クン。
 

* 二月二十三日 つづき

* 建日子が、ふらりと帰って来た。二時間ほどよく話して、隣へ寝に行った。

* 夢も人生も無い。無いものを有るように思いこんでいるのが人生であり夢であるのではないか。
 そう、そうなんですね。あなたの声が深く響きました。
 明日は、娘が空に飛んでから七年目の日です。母とお墓参りに行ってまいります。大好きだったピンクの春の花を持って。
 生きていたことも夢。 
 空に飛んだことも夢。
 私が今想い存在していることも夢。
 そう、何の実体もない自分の生を、実在だと思い込んでいるのかもしれません。
 すべて夢だと思えば、闇に漂うことも、空に飛ぶことも、何の違いもないものなのではないかと。
 歓びも、哀しみも、すべて夢。できることならば、美しい夢を見たいと。
 黒いピンを体中に刺して過ぎた1週間が、ようやく終わります。

* 「空に飛んだ」という把握と表現に、やや頷きにくいものがある。「死なれて死なせて」は、そんなもの言いで済 ませられる体験なのであろうか。いいや、そんな風にでも言わずには辛すぎると謂うことか。

* 知り合いのご主人が無類のクラシック音楽愛好家。永年蒐集したテープ、CDを一人で聴くよりも、楽しみを分か ち合いたいと、月に一回の手作りコンサートを始めてもう三年半。近所の公民館へ誘われました。
 サロンというにはあまりにも質素ですが、奥様の趣向で、今日は椿や桃の花を活け、豆雛を其処此処に飾り付け、ささやか に茶菓も出て。二十人ばかりの常連を前に、その方の豊富な知識の解説も交えて、音響よく、マーラー、シューベルト、モーツアルト等の音楽が、三時間ばか り。浸ってきました。
 殆ど持ち出しで、控え目なご夫婦の方針にも好感が持て、来月も是非にと、約束をしました。
 真紀子さん、小泉総理、鈴木宗男。この歳になると、第一印象の90%が当たりですが、この三人も、違わず当たり。

* いろんな人生が有る。有ると思っている、と、それもいつ知れず消え失せてゆく。何かが残ると思うのは錯覚に過 ぎない。だから人は投げやりに生きるだろうか。そうは思わないから人間なのである。いいわるいの問題ではない。

* 一人(  )ることには触れず新茶注(つ)ぐ   

* この「ミマン」出題の解答が、面白かった。どんな漢字一字でどんな場面を創りますか。
 

* 二月二十四日 日

* 昨日から今日へ、気がかりに溜めていた仕事の四つに三つを片づけた。分量にすれば三十枚あまりの原稿を書いた と言うことになる。あと一つ、残っている。当面四つと数えただけのこと、なるべく急がねばならぬ作業は、他に十や十五で実はきかないから堪らないが、気に しないで一つずつ済まして行くのが、仕事のはかどるコツだろう。いつの間にか仕事の山道も一山二山と通り過ぎて行く。

* あまり口にしたくないのだが、本格的にもう花粉が舞っているのだとすると、ことしはわたしは少しラクをしてい るのかも知れない、そんなことは花粉様に知られたくはないが。妻が昨年来、なんだか花粉予防と称して、続けて薬を飲ませる、わたしも素直に飲み続けてきた のが、もし効いているのなら有り難いことだ。

* 反動でだろう、どこの番組でも、田中真紀子の悪口を述べ立てる代議士や識者が、あまり上等に見えない表情でと くとくとがなり立てている。慶応大学の草野某など、以前から田中の悪口をいうことで存在意義を主張している。そのような口舌の徒に、小泉選挙以降小一年の うちに事実上田中が成し遂げてきた「伏魔殿」の扉をこじあける仕事の、舞い立った埃ほどのことも出来はしないのだ。青筋を立てた顔に浮かんで見えるのは、 醜いほどの、女への嫉妬でしかない。学者が本質思考できなくて感情的な口舌に陥るときほど見苦しいものはない。

* この頃、ときどき息子のホームページを覗いてみる。仕事の方のことは見ない、やはり日録のような感想を毎日で はないが書いていて、少し照れくさいけれど覗き読んでいたりする。ひところはバカくさくてかなわなかったが、少し口調と行文に落ち着きの見える日もある。 苦労も多そうで、少なければ不思議なくらいだが、ねばり強く、依存心にも走らずに頑張ってもらいたい。
 わたしの今の希望というか夢のようなものは、娘朝日子と心おきなく二人だけのメール交信が出来ること、もっと飛躍的に 希望をもっていいのなら、そろそろ高校へ上がろうかという上の孫娘の「やす香」から、突如メールの届くことであるが、さめやすき夢でしか、今は、な い。
 

* 二月二十五日 月

* 「私語の刻」が楽しみです。秦さんが最近の田中・鈴木問題に言及されているのを拝読して我が意を得たりと嬉し くなります。おっしゃるとおり、殆どの評論家も政治家も所謂識者も、事の本質が見えていないと言わざるを得ません。
 問題は異なりますが、秦さんがペンクラブの消極的な態度に飽き足らない思いを抱いていらっしゃることにも共感していま す。社会的に影響力のある方々がもっと発言してくださることを願っています。唐突にメールを差し上げて失礼かと存じますがお許しください。御身お大事にな さってください。  (72歳)

* この「私語」は、相当広く読まれているらしく想われる。アクセスの数にはとらわれていないので、カウントも 取っていないが、いわゆる「通りがかりに」連絡のはいることも少なくない。それでも「闇に言い置く」という独語の気持は変っていない。

* 今日はすっかり春めいた青空が広がっています。憂鬱な花粉症の季節がやってまいりましたが、昨日の私語の刻を 読んでひとつ気になったことがございまして、お節介で失礼とは存じましたがメールさせていただきます。
 先生は花粉症のための薬を飲まれているとのことですが、それはどういった種類の薬なのでしょうか。薬については、医学 関係の出版に携わっていらした先生のほうが、素人の私よりもはるかにお詳しいことと思いますが、アレルギーを抑える抗ヒスタミン剤やステロイド系の薬と緑 内障の薬の併用は厳禁だったように記憶しております。たしか緑内障の症状を悪化させる場合があると聞いたことがございました。お医者さまの許可があった り、緑内障の薬と併用しても害のないものをお飲みでしたら心配はございませんが……。もしアレルギーに効果のある漢方薬や健康食品のようなものをお使いで したら、お教えいただけませんでしょうか。飲めない薬がいろいろあって苦労している緑内障の知人に教えてあげたいと思います。

* こういうご注意は、有り難い。一瞬ギョッとしたが、幸いわたしの服用していたのは「甜茶としその実油」の健康 補助食品だった。これが効いているともいないとも何の確証もなく、わたしも何らの判断もなく、妻が言うままに空気を吸うように服用しているだけである。だ が、緑内障とかぎらず、薬というのは、是には効くがあれには害になるという例が少なくない。用心しないと。

* 当然だろうが、内閣支持率はまた大きく下がっている。その一方で民主党と自由党とがゆるやかに繋がろうとして いるが、新鮮味がない。この際は社民も共産党すらも巻き込んでゆくほどの野党連携が無ければ竜巻は起こらない。鳩山、小沢、土井とならべて首班指名なら、 風を起こせるのは鳩山でも今更小沢でもない。しかし土井も今からの人材ではない、うしろで支える存在だ。菅直人に総理をやらせ藤井に財務、辻元清美に官房 長官をさせてみたい。小泉に「改心」の気配がない以上は期待できない。

* 夜前「将門記」を読み終えた。以前、「蘇我殿幻想」を書いたときに、参考にざっと走り読みしたことがあった が、今度はゆっくり読んだ。書き手の足場のやや受け取りにくい曖昧さがあるのだけれど、きびきびとした漢文で書かれ、かなりペダンチックでもある。次ぎに 続けて「陸奥話記」を読んでゆく。軍記物語ではわたしは「保元物語、平治物語」の筆致が好きで、「平家物語」とは別趣のあわれが観じられるけれど、先行し た「将門記」には、相当な古色がついていて、文学的な匂いの底に、論述の響きを聴いてしまう。これは、一種評論のようなものとも謂えようか。

* 今、加賀乙彦氏、庄司肇氏ら何人もの人に著書を戴いている。さらに「電子文藝館」への出稿分も読むので、私の 生活はいまちょっとした「読書屋」稼業である、稼ぎには全くならない稼業であるが。
 

* 二月二十六日 火

* イングリット・バーグマンの生涯を語った番組に目をひかれた。
 いちばん美しい女優と謂うことになるとエリザベス・テーラーを落とすわけに行かないが、一番好きな外国人女優というこ となら、籤とらずに、バーグマンである。ハリウッドではさんざんの悪評であったらしいが、わたしは中学三年でバーグマン主演のテクニカラー「ジャンヌ・ ダーク」を、学校から観に行って魅了された。それより前に観ていた少女エリザベス・テーラーの「大平原」よりも深く魂を揺すられた。もともとわたしは歴史 映画が好きなたちで、しかも信仰にふれた映画であったから、好みからいっても感銘はひとしおだった。ぶるぶる震えていただろう、感動して。最初のアカデ ミー賞の「ガス燈」や二度目の「追憶」よりも、わたしにはジャンヌ・ダークの殉教に惹かれる素地があった。ハンフリー・ボガートとの「カサブランカ」も素 晴らしかった。
 なによりも、悔いなき前進の人生に敬服していた。短いトーク番組で、黒田あゆみの司会も渡辺淳一や美輪明宏の話も今ひ とつではあったが、大写しになるバーグマンの顔は有名な左顔であろうがなかろうが、亡くなる寸前まで、渡辺が謂うように「凛」として美しかった。不世出と いう思いを新たにした。

* いま外人女優の名前は八十人までそらで数えたてられるが、一に指を折るのは、いつでもバーグマンかエリザベ ス・テーラーである。そして、キム・ノバク、ソフィア・ローレン、ジーナ・ロロブリジータ、ヴィヴィアン・リー、ブリジット・バルドー、ベティ・デイビ ス、デボラ・カー、シャーリー・マクレーン、ジョーン・フォンテーン、ジョーン・ベネット、マリリン・モンロー、オードリー・ヘプバーン、キャサリン・ヘ プバーン、グレース・ケリー、カトリーヌ・ドヌーブ、スーザン・ヘイワード、モーリン・オハラ、ジェニファ・ジョーンズ、ジュリー・アンドリュース、ミ シェル・モルガン、マレーネ・ディートリッヒ、グレタ・ガルボ、ドリス・デイ、ジェーン・フォンダ、アリダ・ヴァリ、アヌーク・エーメなどと続く。
 歌手は、ことに外国の歌手はビートルズすら知らないぐらいだが、映画の俳優・女優の名前や顔は、まぎれもない人生の通 過点のようにすら、思い出せてくる。ナタリー・ウッド、メリル・ストリープ、メグ・ライアン、ロザンナ・アークエット、スーザン・サランドン、メラニー・ グリフィス、ジーン・セバーグ、ミレーヌ・ドモンジョ、アンジー・ディキンソン、キャンディス・バーゲン、シガニー・ウィーバー、ソフィ・マルソーなども 思い出せるし、バーバラ・ストライサンド、エバ・マリー・セイント、アン・バクスター、アン・マルグリット、マーガレット・オブライエン、デビー・レイノ ルズ、ラナ・ターナー、リタ・ヘイワース、ピア・アンジェリ、シルビア・クリステル、アンナ・マニヤーニ、マリア・シェル、そしてジュリア・ロバーツや ジョディ・フォスターなど、際限もなくまるで誘い込まれるように思い出せてくる。よっぽど女優が好きなようであるが、男優だと女優よりもいつももう二十人 ほどは多く数えられる。ちょっと退屈の怖くなるときには、これを始めると時を忘れ、雑事も忘れる。たいしたコンパニヨンたちである。

* ほんとはこんな暢気なことはしていられない急ぎの用事があるのだが、どうにも気が乗らない。早く済ましてふ らっと遊びに出たいが、難しい。
 

* 二月二十七日 水

* 高橋健二元会長の作品だけが出遅れていて、やっと遺族との折衝がはかれたが、ヘルマン・ヘッセを訳した「ダミ アン」や「シッダルタ」が候補に挙がっていた。それが、ヘッセの著作権の切れていないことなどが障りになり、ゲーテに変更された。わたしは「ヘルマンとド ロテア」を希望していた。ゲーテといえば、「フアウスト」だが、これは長いことでも論外で、長さを考慮すれば「若きヴェルテルの悩み」か「ヘルマンドロテ ア」が双璧なのはいうまでもない。それでも随分長いものになるが。前者は、書いて以後作者ゲーテが二度と「読み返したくない」とした名作であり、後者は、 終生作者自身が繰り返し「愛読していた」という名作である。前者はあまりに悲しく、後者は神聖なほど素朴に美しい愛の物語。
 しかし高橋家遺族は、「ゲーテ格言集」をつよく推された。
 ゲーテの作品を読むのが主ならそれでもいいのだが、高橋健二という日本人の「翻訳」文藝を読むのには、やはり小説を訳 した藝の冴えが読みたいと、わたしは思う。いかにゲーテとはいえ「格言集」などというものが一人の人間に可能であっていいわけがなく、大方は、作品から切 り抜いた摘録にひとしい。そういう摘録の出来るのが、翻訳者・学者としての「藝」であるという理屈は一応つけられるけれど、所詮、文学作品そのものを無垢 に「読む」感動や感銘からはほど遠い所産であることもまちがいない。遺族の意向は尊重しなくては成らないが、残念だ。

* 著者自身がディスクで寄越された出稿だから安心とも謂えないことに、つくづく嘆息している。
 今日、三人のディスク原稿を三本念校した。うちの二つは妻が一応初念校したものだが、幾つも疑問が出ていて、その一つ はあまりにひどいので、著者自身に差し替えて、もっと丁寧に、と要請してあった。それのまた届いたのを読んでみると、こちらで発見していた疑点の、十に八 つ九つが見落とされたままなのには、殆ど呆れてしまった。もう一人のそれは、まず簡単に直せる数カ所で済み、わたしが直して置いた。最後の一人は東大の西 垣通教授の小説で、これは、さすがに、そのまま手つかずに入稿できる、読みやすい、ディスク原稿だった。本来、こうあって欲しい、それが著者自身のディス クを求める理由なのだが、なかなか、校正と謂うヤツは、書いた本人が出来ていると思うものほど剣呑なのである。経験上よくそれを知っているから、何として も校正に手が抜けない。しかし、労力と神経をつかうことは想像以上で、しんそこ疲れる。

* お忙しいなか、湖の本二冊お送りいただきましてありがとうございました。思いがけずご署名まで頂戴して感激い たしました。「谷崎愛」「静かな心」秦先生の息づかいが感じられるようでした。大切に読ませていただきたいと存じます。
 わが家では一昨日遅ればせながらやっとお雛さまを飾りました。日本の美しい習慣なのですが、いざ飾るとなると押し入れ から引き出して、いくつも箱をあけて組み立てなくてはならず、なかなか億劫です。それでも何とか飾り終えると、部屋のなかの華やぎに心浮き立ちます。
 毎年お雛さまの季節になると、私は昔ヨーロッパで見たいくつもの日本の古い雛人形を思い出します。とくにスイスのベル ンの街角で見た雛人形は忘れられません。
 私と幼い娘、そして婚約中の彼と彼女の四人で、夜道を歩いていました。ベルンの中心を流れる水の澄んだアーレ河に架か る橋を渡ると、河沿いの道に一軒の骨董屋がありました。暗闇にぽっかり浮かぶショーウィンドウの光のなかには、一対の内裏雛が飾られていました。西洋の絢 爛とした装飾品に囲まれながら、しみじみ静かで華奢でみやびでそれは素晴らしいものでした。はるばる海を渡ってきた内裏雛を、四人は溜め息まじりに長いこ と見つめていました。
 そのとき一緒にいた彼と彼女は、数年後なんとも不幸な別れかたをしました。しかし、思い出の傷口から甦る、あの内裏雛 に見とれていた瞬間の二人の映像は、今でもせつないくらい幸福です。

* 内裏雛むきあふことのなきあはれ  という句を、いつか、どこかで見つけた。作者が誰であったかなど思い出せ ない、雑然とした投句欄でみたのかも知れないが、句は一読哀れであった。小説の書けるこの人のこの遠いヨーロッパの一場面からも、なにか胸をうつ響きが聞 こえる。書くといいと思う。

* お雛さまのような若い二人が不幸に別れることは、貴乃花と宮沢りえの時にも感じた。ま、若い人のあれに似た破 局は少なくないのだろうし、若いが故に傷を癒すことも不可能ではない。
 「元気に老い」の著者としてやはり気がかりなのは、それよりも、老夫婦の、冷え切って破局同然の二人暮らしの例が、 けっこう多いらしいことである。夫には夫の、妻には妻の言い訳は有るに違いない、が、不幸に寒い状況には変わりない。戸外生活を我が世の春と謳歌し楽しん でみえる夫があり、妻があり、それも聞いてみると、一つ家の中で「むきあふことのなき」ように心遣ってのこととなると、「老老介護」の時代に、それで剰す 老境二十年三十年が我慢なるのだろうかと、よそながら案じられる。わたしは昔から親子縦型思想の持ち主ではない、「自分の家庭を幸せに築く」基本は夫婦横 型の温かい協調にあると考えてきた。その上で親が子を愛し、子が親を愛するのは自然に望ましいことであるが、基本の軸が縦か横かは、人生への姿勢の差に なってくる。子どもをつくらなければ、この横の価値も分からないし、まして縦の関わりも望めない。世襲の皇室であるが、天皇家にも皇太子家にも、基本軸が 縦から横に動いたという革新的・画期的な価値観の変動をわたしは見ている。それに敬意をもつ。

* 気乗りしない一つの仕事が、まだ半ば。こういうことは珍しいのだが、じりじりと蝸牛の歩みのように。蝸牛であ ろうが蛞蝓であろうが、進んでいる限りはやがて済んでしまう。嫌な仕事は少しずつ日をかけてするように時間配分してしまうことだ。ヤケにやっつけると、ひ どい結果になる。
 
* それも幸い片づけて、今、送稿した。鏡を見ると山賊のようだ。それでも鼓舞すべくわたしの機械は昨夜から人間国宝若 山胤雄社中演奏の「江戸祭囃子」「江戸祭囃子秘曲」「神楽囃子組曲」を繰り返し鳴らしている。望月太左衛が安倍久恵の名で演奏に加わっているから、彼女の くれたCDにちがいない、貴重に楽しい名盤で、十四種も入っている。全曲聴くと一時間以上らくにかかる。鳴っているあいだ、まさしく鼓舞されて仕事に集中 できる。その前に、巧者橋本敏江演奏の「平曲」も聴いていたが、これは仕事の伴奏には向かない。

* 「将門記」についで「陸奥話記」は一晩で一気に読了、これは清爽の文藝味を帯びた軍記そのものであった。経時 的に話が分かりよく進み、子どもの頃の講談社絵本「源義家」などの懐かしい記憶も甦り、水を吸うように読み切った。この漢文が将門記の漢文に比して、上だ 下だという議論があるけれど、わたしは「陸奥話記」の行文は練達の清明感、将門記にはやや程度の低い文飾意識が叙事を混濁させているように感じる。それだ け将門という人物に底昏い分かりにくいものが出ている。その点、源頼時も頼義も義家も複雑ではない。安倍貞任、宗任なども分かりよい。事態の把握に強いも のがあり、表現がよく整理されている。もっとも源氏にとっては大切な軍記であり記録であっても、国家的にはどうであったろう。「陸奥話記」には武家社会へ 向かう最初の胎動が感じられるものの、「将門記」のような国家的な物騒さはうすい。地域の遠隔ということもあろう、そういう感じ方にはやはりわたしの「京 都」が、影響しているとも謂える。

* 次の「湖の本」刊行に力点が動いてゆく。三月には京都で美術賞選考もある。神楽囃子最後の「仁羽(にんば)」 が軽快に、いま、果てて、全曲終えた。鳴り物入りというが、ほんと、景気がいい。
 

* 二月二十八日 木

* ちょうと゛十日前のこんな日録が遠くから届く。

* やっと「細雪の世界」を見る。切ない。情感、余韻。どこかで突き放して、ある距離をもって見る。そうしないと わたしは泣き崩れるだろう。谷崎が妻、松子に、彼女の妹重子に寄せた想いを、そのまま重ねて想い致せば・・わたしは遠く遠くはじき出されたところから、 「異界」から、嘆くしかないのだから・・生きながら「異界」にわたしは位置している。
 同時に、最近テレビで見た「細雪」「おはん」の映像も重なり、互いに影響しあいながらの感想をもった・・これは吉永小 百合が雪子、おはん両人を演じているのでどうも結び付けて考えてしまうらしく、ダブルイメージという感じもするが。映画の中の雪子にはしたたかさ、もっと も強い、女性であるゆえのしたたかささえ感じられた。そのしたたかさをどう考えるかは・・生き方の姿勢の基本を問うことにも繋がるので微妙だ。その点に限 れば、谷崎の美の世界を全面的に肯定しているわけではない。
 「美しいもの」は同時にわたしには恐ろしくもある・・。但し「おんな」の生きかたについて言いたいとすれば、違う感想 も大いにもっている。美しいものは、もっと超越している・・? 生身のおんなに何を見る?
 嘆きながらわたしの時間は過ぎていく、消えていく。 
 日曜美術館の入江泰吉の奈良の風景も。
 昼前からテレビのアイスダンスを見てしまう。自分に全く不可能な世界の一つだからこそ、ただ感心しながら見てしまう。 ダンスする男女から発散されるもの、彼らが表現しようとしているものをわたしは受け取る。現実からいささか距離をもって、心だけの欲望をもって。

* 松子夫人はどう思っていられるかと、わたしは、あの頃も想像していた。谷崎が逝き妹重子さんも逝った。死なれ て生きることはどんなに重いことだろうと思っていた。そういう思いの人は少なくないであろう。
 
 

* 三月一日 金

* 妻が病院に行っている留守に、櫟原聡氏の短歌を読んで整理し、また尾辻紀子さんの「チャプラからこんにちは」 を二度通読した。友人の、ネパールへの農業ボランティア体験を聞き書きした児童文学だが、テキパキとおもしろいテンポのよさで書ききられていて、けっこう だった。こういう素朴な味の作品が、なにげなく電子文藝館の一画を占めるのは良いことだ。
 手元で新たに七本の入稿原稿を用意した。明日には送れる。前便とも合わせ、この半月、わたしの手で、十余本を送り込む ことになる。

*  雨後  ついこのあいだまで、雪がちらついていたとは思えない、暖かい雨が、時に音を立てるほど激しく、夕方まで降り続きました。小鳥が、驚くほど低い所 で、高音で囀っています。早口。まるで恋に憧れるティーンですわ。
 相当乾燥していましたから、虫たちは、きっとてぐすね引いて雨を待っていたことでしょう。掘りやすくなった、温かく 湿った土を、うきうきと退けながら、地表に出てくるのかもしれません。
  ひなまつりの思い出話に花が咲いた美容院で、「染めてみませんか」と言われました。白髪が春の陽光に目立つらしいの。

* いつ知れず、滑り入るように三月になった。こういう詩のようなメールを、この人は、知り人の何人かに同報でい つも送っているのかも知れない、日々のアイサツとして。ほとんど毎日送られてきている。置きならべれば、一編の草紙になっているだろう。

* 名古屋から千葉へ転勤してきた東工大の卒業生が、岐阜のうまい栗菓子をメールに前後して送ってきてくれた。

* 「保元物語」を久しぶりに読んでいる。もう重ね重ね馴染み続けた時代であり筆致でありながら、新鮮だ。平家物 語のかげになりがちな「保元・平治」物語だが、独自の魅力を発している。平家物語の美しさは近乃至遠距離にひろがる画面の美しさだが、保元・平治では、か なり近距離接写されている。話者と事柄の距離が、よかれあしかれ間近いのである。生身の哀れが匂ってくる。
 

* 三月二日 土

* 昨日「曾我物語」が届いた。あらましは講談社の絵本のむかしから知っている。すこし珍しい異本の曾我を人に戴 いて読んだこともあるが、あらためて曾我兄弟にちかぢか見参できるのは有り難い。厖大な古典全集の第二期配本が、あともう六册にまで。次回は「住吉物語・ とりかへばや」そして「うつほ物語」の三、室町物語などが残っている。正直なところ、とても自前では買い切れなかっただろう、どんなものよりも日本の選ば れた古典の本をこんなにも贈り続けられたありがたさは筆紙に尽くせないし、また、よく読んできた。読んで楽しまない全集など、場所ふさぎに過ぎない。

* 胸の内でとぐろをまいたような、手の着かないでいる用事がいろいろある。このわたしのホームページは、文字通 り倉庫になっていて、今までは、ただもうものを押し込んできた。もう少し便利に並べ直しておけば、だれでもないわたしが助かる。それが分かっていても、手 が着かない。

* 久しぶり、ほんとに久しぶりに思い立って街へ出てみた。なんだか街歩きのスベを忘れたかのように、うろうろし てしまい、サクラヤの買い物も半端であった。どうもWZEDITORはいまのわたしの組み立て機械とは相性が悪いようで、絶望。秀丸で不自由ながら代替し ているしかない。新幹線の切符を買うのも、まんまと忘れてきた。では、なにをしたかといえば、つまり、刺身で焼酎をのみ、マオタイに似た中国酒を二杯の み、そしてこの頃、よく覗き込む夜中の「闇」の、あの諸法空相、不生不滅・不垢不浄・不増不減、是故空中無色・無受想行識などなどの実感について、ぼんや り考えていた。あの深い闇を無際限に覗いていると、般若心経が向こうから近づいてくる。
 街には花粉が舞っていて、今年はじめて、目が痒く鼻がぐずつき、よくくしゃみした。

* ATCに七本の原稿を入稿した。正月以来の奮闘期をやや脱した感がある。かるい虚脱感のまま休息している。岡 山の七十に成られるE-OLDから、旨い清酒を二升も贈って戴いた。久しい「湖の本」の読者である。私の著書のずらりと並んだ書架の写真や、愛蔵されてい る限定版の「三輪山」の写真などもいっしょに贈ってもらった。恐縮し、喜んでいる。
 

* 三月三日 日

* 昨日の外出で、爆発したような花粉症、目がやられて終日つらく、夕食後には怺えきれずに寝込んでしまった。冷 たい水で洗う以外に手がない。鼻へ来るのはまだいいのだが。これから花の散り終える頃まで堪え忍ばねばならない、呑み薬の効果も、一度の外出で消散。

* 田原総一朗の番組が、文字通り凄かった。鈴木宗男の怪物・毒物ぶりの深層が浮かんできて、それにつけても、あ の参考人招致は大成功であったと、あそこまで身を以て漕ぎ着けた前外相の功労を思い、それ以前の外相達の不甲斐ないダメ人形ぶりを思い比べて、人形遣い士 たちの悪辣さを思う。いま露出されつつあるあらゆる外務省と自民党の醜悪を抉り出して国民に気付かせてくれたのは、スカートを踏まれながら臆せず本質に着 眼して放さなかった田中真紀子の功績であり、小泉や福田や新外相の功績ではない。せめても川口大臣には前任者の志をうけとって頑張って欲しい。明朝の外務 省調査報告がどんな風に出て、どんな風に鈴木証人喚問が成立するか、みものだ。

* それだけではなかった。狂牛病に関わった農水省判断の官業癒着の不埒さがいかに深刻に食肉・畜産に害したかの レポートも凄かった。寒気がした。小泉内閣、外務省・農水省そして財政・金融。満身創痍の渦中にある。総理の顔つきに元気が失せている。どうなるのか、日 本は。いやいや、どうするのか、日本人は、われわれは、と問わねば。

* 谷崎の「夢の浮橋」をゆっくりゆっくり読んでいる。なつかしい。もし一つだけと問われれば、わたしは、この京 言葉の美しい、懐かしい「夢の浮橋」を好きと答える。

* ADSLのおかげでインターネットを心おきなく使える。昨日、沢口靖子を検索して、一枚、帽子をかぶった美し いプロフィールを手に入れた。わたしはこれまでいつも澤口と正字で書いてきたので、「澤口靖子」と検索するとわたしのホームページが現れる。「沢口靖子」 は三千ぐらいあるが、「澤口靖子」は四件しかないことも知った。「秦」「秦氏」を検索すれば「歴史的な秦氏」について夥しい情報の手にはいることもわか り、インターネットの底知れないちからも知れるが、情報の精粗に対する批評や判断をもたないと、情報の海で溺死してしまうとも分かる。

* 岡山の有元毅さんに頂戴した名酒を、気に入りの信楽の瓶に小出しして、少しずつ頂戴している。

* 「文藝館」の作品をわたしはすべて一太郎で作成してきた。昨日買ってきたMOのディスクに、今日、関連の作品 保存ファイルを全部収容して、一太郎からは削除した。わたしの送り込んだ分で、「文藝館」は、単行本のほぼ二十五册分ぐらいになっている。

* 目が痒くなってきた。もう、やすもう。

* 広島の奥地から「今、大変です」とメールが来て驚いた。「今、大変です。 庭のチューリップは、元気に葉がの びています。私は、合併のことでいそがしくすごしています。明日は、委員会の傍聴にいきます。ここで合併協議会にはいるかどうかの採決が行われるのです。 この目で、しっかり見届けたいとおもいます」と。ほっとした。元気がいい。元気がなによりだ。

* 京の新内  弥栄流新内家元・枝幸太夫をちょっとだけ聴きました。「江戸情緒新内流し」と、客席通路から「蘭 蝶」をやりながら舞台へ。「明烏」のいいところだけ少しやって引っ込み、あらためて舞台で「籠釣瓶」の縁切りの場。
 冷水で洗い上げ、締まった白い肌を、軽く拭ったまま出したような、江戸。ガーゼ一枚くるんだ感じの、京。囀雀

* こういう便りも楽しい。いいことやってるなあと思いつつ、お裾分けにあずかる気分。字面だけでも気持ちがい い。
 
 

* 三月四日 つづき

* 目はまっかに充血して痒さは言語に絶し、立ち居の際の腰の痛みは、思わず歯を食いしばって呻くほど。凄いダブ
ルパンチを食らっている。椅子に腰掛けて仕事をし続けるのも、一度足って怺えられれば、あとは歩くのも階段もさほど
苦痛ではない。ただ同じ姿勢から別の姿勢になるときに激痛が来る。
 おまけに明日は早朝から聖路加の眼科診察があり、午後は電メ研の会議。困ったことに六時からもう一つ遊び半分と
はいえ都心で用事がある。どうなることやら。

* NGOの参考人招致は尋常に要領よく終えた。外務省の調査報告は、たんに鈴木宗男の不届き千万だけでなく、鈴木
議員に一から十まで追随し服従して田中大臣をないがしろにし抵抗し不服従を極めた事務次官以下の官僚どもの不届
き千万が、もっと痛烈にハッキリされてよい。野上前次官、川島前前次官などは懲戒免職にすべきではないか。あれも
これも、すべては田中真紀子の身を挺した不屈の粘りから露わになり、今日の調査報告に繋がった。そのことに一言調
査書は触れるのが礼儀ではないのかと思う。
 野上と官邸の福田官房長官との癒着も、あらためて追究すべきだろう。
 

* 三月四日 月

* 早起きして目を洗っていた。洗面台に屈んでいた姿勢をひょいと起こすと、左腰が、ビキッと鳴った。痛みが右腰 と右背中に走った。
 こうなると、わたしはじっとしていない。痛みを堪えて廊下を早足で往復し、階段を上がり下り繰り返し、動きに動いて痛 みを追いやった。ギックリ腰は、負けて安静にしたりすると、痛みと運動機能とが固定し固着してしまう。動いて動いて元へ早く戻した方がいいというのが私の 療法で、いつも成功している。今度はどうか、保証はないが。

* 谷崎潤一郎の「夢の浮橋」を堪能するように読み終えた。この冷やあっとする狭霧の底のような不思議な物語の魅 力を、わたしは「谷崎の源氏物語体験」と読み解いた。その読みは、正確で揺るぎないと思っている。少年以来の谷崎愛がさせた読みである。わたしのなかに、 この物語を語っている「乙訓糺」への身内の愛のあるのを、いつも感じる。
 昭和三十四年であった、わたしたちは京都を離れて市ヶ谷河田町に新婚の新居をもった、六畳一間のアパートだった。テレ ビ・ラジオはむろん、冷蔵庫も洗濯機も箪笥も、しばらくは食卓すらなかった。カーテンを買い、食卓を買い、そして僅かに京都から持ってきた谷崎の本を、わ たしが朗読し、妻は聴いていた。そういう日々であって、わたしは財布に百円のお金も入れず勤めに出た。会社の食堂で十五円だすと白いどんぶり飯とみそ汁が 出た。わたしは飯に醤油をかけて食べていた。そんな生活であったが苦にならなかった。
 その年の秋はじめであったか、わたしは谷崎が新作を書いたと知り、思い切って中央公論を買い「夢の浮橋」を読んだ。な んともいえない魅力を覚え、魂の底までゆすぶられた。小説が書きたいなあと思った。
 あれから四十二年半ほど過ぎた。その四十二年半がほんとうの私の人生であり、まだ先がある。
 「細雪」「芦刈」そして「夢の浮橋」へ飛んだ。この三つを繋いで貫くものを、わたしは「松の段」に凝縮させた。幸子と 雪子、お遊さんと静、二人の茅渟(と澤子)。水上勉さんが、半ば本気でわたしのことを谷崎と松子夫人との隠し子かと想われたのを、わたしは我が身の上の一 つの悦びとすら数えているが、ときどき自分が、この物語世界の中に紛れ込むような嬉しさを覚えたりする。「細雪」の論を書いて谷崎研究者野村尚吾のつよい 推挽をうけ、近藤信行氏の依頼で「夢の浮橋」論を書きまた「芦刈」論を書いたのは、いわばわたしがものを書いて暮らしたいと願った年来の希望の幾分かを果 たしたようなものだった。それらの下地に、中学以来親炙し耽溺してきた源氏物語世界への愛情も生きていた。こういう体験や経路がわたしの人生をかなり決定 していたのだなと想い想い、今朝早くにまた久しぶりに「夢の浮橋」をわたり終えた。

* 浪速の春  この間の会で、「お水取りが終わって、天王寺さんの彼岸会が来なんだらほんまに春が来た言ゥ気に なりませんな」と桂文枝さんが語り始めた「天王寺詣」。
 文楽劇場へ行った折り、四天王寺へも行ってみました。虎の門だけでなく、猫の門もあるのですね。足を伸ばして竹本義太 夫の墓から庚申堂まで歩き、その門前で、甘納豆と昆布佃煮を買いました。うららかな春の日差しが差し込む、昔ながらの店先で、佃煮屋のじぃさんと常連客の じぃさんが交わす会話が、ちょっとノスタルジックな芝居か映画のようでした。

* こういう日々と感性とをもって生活する人も現にいると知っていることで、わたしは大きなバランスを与えられて いる。鈴木宗男や自民党の天下だけでは堪らない。
 

* 三月五日 火

* 花粉は時期を待ってやり過ごすしかないのが、いまの世の中では不思議です。さぞ辛い毎日だと思います。うちで は上さんが数年前からやられていますので、私もいつやられるかと戦々兢々です。
 花粉症の話になると、最近わたしは、国権で杉をみんな伐って、安く建材に回せばいいと語っています。花粉症が春先の深 刻な社会問題になってもう何年になるでしょう。その間、ずっと放りっぱなしは、明らかに行政の怠慢です。照葉樹は無闇に伐ってはいけませんが、杉はかまい ません。この事については、いろいろな人のいろいろな意見もあると思いますが・・・・・。
  ところで、  新しいWzをお買いになったのですね。それでもいけなかったのですか。使い慣れたAPが使えないというのは本当に辛いものです。苛立たしいお氣持がよく判 ります。

* 「杉はかまいません」に、何の知識も無いのでビックリした。わたし自身の怠慢もあり、毎年花粉では辛い思いを する。わたしなど出たくないと思えば大概は家にいられるのだから、幸せな方だ。だが今日は早朝から晩も遅めまで外にいなければならぬ。最初に行くのがたま たま眼科検診なので、なにか授けてくれないかと期待している。

* 腰の方、就寝前に飛び上がるほど冷たい大きい湿布を患部に張り付けた。これはラクだった。少なくも寝ている間 に痛さで目覚めることなく、いちど手洗いに立ったときも昼間より身動きしやすかった。六時過ぎに起きたとき、痛みは消えていないけれど、ウ、と息をつめて 立ち、なんとか。現状はやや軽快といえても、さて、この機械の前から立ち上がるとき元の木阿弥かも知れない。あまり無理に動いて「炎症がひどくなってはい けません」と朝のメールで注意されている。漢方の医者を紹介しましょうかと親切に。

* 竹中工務店にいる東工大卒業生が、また自作の建築作品が出来たので、赤羽まで見に来てくれと案内してきた。そ の日のその時間は無理だと返事した。頑張っているのが、けっこう。わたしの今日は、聖路加へまず行き、次いで銀座で、今日が初日の玉村咏氏染色展を見、三 時から電子メディア委員会。六時には帝劇で妻と大地真央のミュージカルを観る。痛い腰で、花粉の渦巻く中を終日動き回るのだから、さんざんな一日になるだ ろうが、存外にああよかったと思って帰宅出来るかもしれんではないか。ま、やってみるさと早起きした。血糖値は94、まず上等。あと一時間で出掛ける。 さ、機械の前からどんな程度の痛さで立ち上がれるか。坐っている分には何時間でも平気。立ってしまえば歩くのも階段もそう苦ではない。
 

* 三月五日 つづき

* 腰掛けていて立ち上がるとき、息をつめるようなこわばりと痛みがあり、腰の伸びるまでにちょっと時間がかか る。歩き出せば歩けるし階段も苦にならない。出がけに湿布を新しくしたのが効いてくれる。新富町まで一時間、有楽町線の電車の中はじっと瞑目のままで行っ た。無用に目をあけると痒くなる。
 眼科はべらぼうに混んでいて、十時半の予約だが一時間半は遅れると掲示されていた。本など持っていたが読まず、ひたす ら瞑目、こういう事にも慣れてきた。じっと目を閉じて坐っていることの心地よさなど、せっかちなわたしの久しく知るところでなかった。二時間でも三時間で もじっと、たいして何も考えずに坐っていられる。
 そして診察は、まさしく三分。有り難かったのは花粉症の眼薬ももらえて、これが効き目のかゆみが軽くなった。鼻のぐず つきも、少し。
 目は、視野検査を六月に又するとして、目下は視力もあり眼圧もわるくなっていなくて、「つぶれるなんてことは心配しな くていい眼ですからね」と言われてきた。疲れると霞むので白内障を言われないか気にしていたが、そんなことで、三分なりの功徳はあった。
 病院の診察で待たされ院外処方の薬を待つのに時間がたくさんとられ、やっと解放されたのは一時半。三分治療と投薬に三 時間である。忙しいときだと堪らない。

* 銀座のメルサ美術館で、京都の玉村咏の大きな染色衣裳の発表会があり、立ち寄ってきた。織りではない、まった くの染めで、相当な数出ていた。染色のよさをみる力はないので、玉村氏と言葉をかわしざっと見てから、千代田線へ移動して乃木坂へ。

* 電子メディア委員会、文藝館に「招待席」を設けて、日本ペンクラブ創設以前の文学者の作品も拾ってはどうかと 私が提案、賛成を得た。原則として、創設以前の、会員になり得ようもなかった著名な文学者、漱石でも鴎外でも露伴や紅葉でも、やはり近代文学の先駆と粋と いう意味で、取り上げたいと。ゆるやかなりと、近代日本文学史のあらすじが「電子文藝館」に実現することを、理想としてわたしは胸に抱いてきた。
 委員会「構造改革」の提案には、原則的にみなが賛成であった、が、まだ、ゆるゆるの提案段階に過ぎない、四月に山田健 太氏を迎えてよく話し合い、さてどう動いてゆくか、わたしにも見込みは十分立っていない。ただ、現状の顔ぶれでは「自発的に」問題に対応できる能力は期待 できない、無理なのだ。もう少し私の思案を練って理事会に報告したい。

* また千代田線で有楽町にもどり、帝劇へ。後藤和己氏からの招待で、大地真央のミュージカルレビュー。入り口で 総支配人と顔が合い、即座に、たまたま明いてたらしい前から四列目中央の最良席に切符をとりかえてくれた。オペラグラスの必要もない、音楽的にも文句なし にいい席で、総支配人いわく「リクツもなにもないものですから」というレビューを、妻と一緒に気楽に気楽に楽しんできた。細い細い腰の大地真央がボリュー ムのある歌唱で愛嬌豊か。筋も何もリクツを言い募るような本当に何もないものなので、わりと開放された快感があった。だれだか気の張る客の来べき席だった ようなので、そういうことは縁者達には知れているから、あまり行儀悪くも無愛想にもしていられない。きちんと舞台に目を向け続けていたが、眠くなりようも ない音楽劇であるから、粗相もなかったつもりだ。
 演目は「パナマ・ハッティー」海外で評判の原作ものらしい。可もなく不可もなく、フィナーレでもう一度主なナンバーを おさらいして歌ってくれるサービス付きだった。

* 腰はだいぶ固まっていたけれど、ゆっくり立ち上がり、さすがに帝劇から日比谷クラブへ歩く元気はなくてすぐ地 下鉄で一路帰宅。車中で、中島和夫氏の、結城信一他の文学者回想を面白く読んだ。
 駅から、ゆらゆらと二人歩いて帰ったが、さすがに疲労感があった。重い鞄を持ち続けていたので、絶えず左右に持ち替え ないと背骨や背中が痛む。ギックリ腰のオジサンをからかいながら心配してくれるメールが留守に幾つも届いていた。

* それにしても頭に来るのは、ブッシュ米大統領がノーベル平和賞にノミネートされているという話だ、委員会で高 橋茅香子さんに聴いた。なんという、なんという、なんという愚劣な話だ。
 

* 三月六日 水

* 古の人の植ゑけむ杉が枝に霞たなびく春は来ぬらし
 現在一千万ヘクタールにもなる針葉樹の森林を造ってしまった原因は、軍需要材の大量伐採にあります。戦争で荒れ果てた 山を早く回復させたい。その材で家を建て国を復興しよう。出発点はよかったのですが林業が立ちゆかなくなると、山には手入れをしない木が放置されました。 膨大な花粉は、私には戦争と経済成長に翻弄された「植え捨て」の樹々
たちの叫びに聞こえます。
 杉がいけないとなったら伐ればいい、確かにそうですが、伐るなら伐るで、ではどのような木を植え林を造るのか、そのお 金と手間暇は誰が負担するのか、それを伐る前に考えておかなければ同じ事の繰り返しになってしまいます。
 私は、できてしまった生態系とどう折り合いをつけてゆくかを考える道もあるのではと思います。
 春を待つこんなよい時季に耐え難い不快感を強いられているのは確か。杉花粉のアレルゲン遺伝子は既につきとめられてい ますから、農学研究者の課題は、その合成をうまく押さえ込む方法を考えること、アレルゲンを含まない杉を育成することです。
 人麻呂の時代のように、杉と人とがおおらかに共生できることを願っています。 まおかっと

* 期待どおりのメールが北海道から。感謝。「むかしむかし、そのむかし椎の木林のすぐそばに、ちいさなお山が あったとさ、あったとさ」と、あの時代にしては軽快な歌を聴いた。「これこれ杉の子起きなさい」と「お日様にこにこ声かけて」杉の子の眠っていた杉山はサ カンに生育した。植林したのである。原因があって、今の結果がある。

* もう「湖の本」の再校が出揃い、一部を「抜き念校」にだし表紙も入稿したが、またしても発送用意が追いつかな い。これから、大わらわな日々がまたまた続く。次の作品は、大方の人の、目にしたことのない珍しいものである。

* はやくに予想していたとおり、鈴木宗男の国益を売るような犯罪的ボロボロが、目を覆うほど多く出てきた。外務 省では分かるはずのものが、分からないとして報告された事例も多そうだ。川口外相自身もウサン臭がられぬよう、率先抉決へ堅固な姿勢で刷新を励行して欲し い。もうここへ来て隠し事などしてみても、勢いで、すぐバレるだろう。田中真紀子以前の外相経験者を二三代は証人喚問すべきだろう。事務次官も同じく。出 せる膿は絞り出した方がいい。
 

* 三月六日 つづき

* 弁護士会館でした著作権問題の講演録に手を入れている。出版したいと言われている。わたしに「著作権」で講演 が出来るわけはない、ただ思いつくまま私的に話してきたに過ぎないが。

* 急遽「湖の本」発送用意へ姿勢を振り向けねばならず、とりあえず舵をそっちへ切った。根気仕事だ。

* 野上前外務事務次官の言動には、優に「懲戒免職」に相当する不埒な事実がハッキリしたではないか、小泉総理は 何を考えてそんな次官といっしょくたに、恰かも同罪かのように大臣を更迭したのか、不当ではないか、という田中真紀子の抗議は当然至極だと考える。第一 に、国会の場で、総理大臣の面前で同席大臣をウソつき呼ばわりしただけでも総理は怒って糺すのが当然の道理であるのに、それをしなかった。むしろ次官の弁 に聴いて大臣の発言を受け入れなかった。それだけでも、事の実否を別にして、大臣と次官の関係、政治家と官僚責任の関係からして、一国の総理が大きな考え 違いをしていた。しかも今第二に、明白にNGO参加拒否問題で、外務省次官らは鈴木宗男と結託し、大臣には報告せずに悪事をなしていたこと、明々白々に確 認されたのであるから、「懲戒免職」は当然なのにという田中の抗議は、国民の誰の思いにも至当である。だが総理も外務大臣も曲直を正していない。それどこ ろか、今なお野上某は外務省内に居座り次官同様の待遇を受けている。許されていいことか。
 小泉の息があがっている。元気がないし影もうすい。自業自得のドツボに落ち込んでいる。矛先が鈴木宗男に行っているよ うだが、ちがうだろう、このツケは証人喚問の後に内閣支持率のさらなる落ち込みになって小泉純一郎に襲いかかるだろう。

* 「保元物語」は、かなり源氏に力点をおいて語られているう。為義・為朝が崇徳新院につき、長子義朝は後白河天 皇の方につく。清盛も天皇方にいるが、ものがたりの進展のなかでは、源氏の動静に、記憶していた以上に重きが置かれているのだ、少し驚いた。保元・平治の 二つの軍記物語は、平家物語とのバランスでか、源氏の悲運・悲劇をはっきり表立たせている。義朝がこれから新院御所に夜討ちをかける。そこには、先手で夜 討ちをと主張しながら左大臣頼長に否認された、強弓の鎮西八郎為朝が待ち受けている。まだ清盛方の平家は、源氏の蔭にいて控えめだ。

* 今年は早く暖かくなったようで梅が満開です。昨日袋田の月居れ峠という小さな峠に行って見ましたら、温泉がで きていました。ゴルフ場を作っていたら偶然に湧出したそうで、それをもらって町営で温泉を経営していました。村の銭湯という感じでした。茨城は道だけはど こも立派で、感心します。お元気で。

* 袋田ときくと懐かしい。また瀧をみたくなる。温泉も懐かしい。妻と行ったなんだか面白い名前の旅館の温泉が、 まんまんといい湯であった。好きなのに、それほど温泉を知っているわけではない。
 

* 三月七日 木

* 予期していたように、ポルノ作品が「文藝館」に送られてきた。文章は玄人のもので、ソツはない。作品として一 応成り立っているし、なにかしら「言い分」のある小説ではあるので、むろん会員作品は審査しない約束なので、そのまま展示する。数ある中には必ずこういう のも混じるであろう、それも日本ペンクラブの一現実である。

* 妻が今年の税申告をしてきてくれた。ありがたい。

* 腰のご機嫌はいかがですか? 陽射しは日一日と春めいて、また こころ騒ぐ頃となりました。
 通勤電車はもっぱら文庫か新書を読んでいます。先週は 猪瀬直樹氏の「ミカドの肖像」(小学館ライブラリー)を、今週 は 村上護氏の「漂白の俳人 種田山頭火」を読んでいますが、奇しくも 「ミカドの肖像」に登場する堤康次郎と、山頭火が、同時代に生きていたことに気が 付きました。
 1917年(大正6年) ロシア革命のあった年に堤康次郎は軽井沢の開発に着手、後々のプリンスホテル・西武王国への 第一歩を踏み出し、一方 山頭火はその前年、故郷の山口を捨て妻と一人息子を連れて熊本へ移り住み、放浪行乞の人生のはじまりとなる。それぞれの生い立 ち・生きようがあって、あとあとの生き様があるのだと思いますが、同じ頃に人生の切換ポイントを押していたことに、なにか感慨というか、衝撃(ちょっとお おげさ)をおぼえました。 
 私のイメージの大正時代?昭和初期(戦前)は、何か全体に靄に覆われたような、いつも曇天の空という感じです。でも  大正時代に生きた人々、特に女性は、背筋をピンと張って、まっすぐ前を向いて歩いていたような気がします。(瀬戸内寂聴さんの小説に拠るところ大です が。)
 西洋文明を消化し、近代から現代へのジョイントの時代だったのでしょうか?この時代の男たち(事業家や軍人や政治家) の生き様を追ってみることにも興味が湧いてきました。
 ところで、インターネットで検索をしていたら、鈴木宗男のホームページというのがありました。なんとなく クリックす る気にはなりませんでしたが・・・

* おもしろいメールであった。ああ、しかし、目の痒さよ。そうそう目薬ばかりさしていられないし。明日は花粉が 凄いほど舞うらしいのに、また乃木坂まで会議に出る。

* ちらと玄関で立ち読みした西鶴が、(狭い我が家では、玄関に大部の古典全集が積み重ねるように並んでいる。そ の中間に、古典に守られたように沢口靖子署名入りの佳い写真が、にっこり。)やけに面白く、つづけて読みたくなってきた。いまこの手の誘惑はいろいろ障り 多いのだけれど。
 

* 三月八日 金

* 電子版「湖の本」創作シリーズを、各巻、巻数別に整理しようと、ホームページのその頁を五十頁に増やし、まだ 校正出来ていないスキャン原稿を、当該頁にともあれ配分し始めた。増頁そのものは出来、転送も出来ている。ところが、インデックスの表欄の巻数字がうまく リンク出来ていなくて、クリックしても開かない。数字のリンクについてノートにメモが二箇所あるのだが、どつちも書き方が半端なため手順として有効でな い。試行錯誤を繰り返しているがうまく行かないまま二三日になる。

* 言論表現委員会。猪瀬委員長と田島泰彦、吉岡忍、篠田博之、久間十義、長田渚左各氏らが揃い、田島氏から、国 会に上程されている諸法案のなかでも、メディア規制に関連したものが、四月早々にも、はや手の届かないところまで動いていって仕舞いそうだと報告された。 成行きに頭をかかえながらも、これはもう、大きなメディアが一致して書き立てたり放映放送したりして盛り上げてくれなければ、どうにも成らない、と、わた しは発言した。同じ声明を出すにしても、もう政党や議員や政府へでなく、直接「メディア」に呼びかけるのが今回は緊急に必要だろうと提案した。賛成の声が つよく、その線で文案が書かれることになった。
 法案の名前はそれぞれに美しいが、内容は、擁護とか保護とかの名による徹底的・包括的な個人と団体の人権制圧や収奪意 図と条文とを満載したものばかり。どうなってゆくのだ日本はと、暗澹。
 今ひとつ、全国数百の公立図書館宛てに出したアンケートの戻りが届きはじめ、それをめぐる討議。
 いろいろに回答が書かれていて、集約し整理するのは容易でないが、質的に相当のバラツキが感じ取れた。丁寧に読み通し てみたい。

* 「湖の本」の再校ゲラをもっていたので、帰り、食事しながら、前後半ある前半の三分の二ほどを、通読してき た。能率良かった。もう煮物に茄子が出て、辟易した。手を着けなかったのを気の毒がってか、食後に、アイスクリームをサービスしてくれた。忙しい中で美し い人が美しい笑顔で見送ってくれた。

* ホテルに間借りのような、(実は持ち物の三室だが、)乃木坂日本ペン事務室が、五月には、茅場町の新館「日本 ペンクラブ」に移転する。念願の新館が、かつがつ年度内引きわたしに漕ぎ着けた。今月末に竣工を祝って理事達が初見参にゆくことになっている。
 わたしが乃木坂での言論表現委員会に初めて参加したのは、ずいぶん昔になる。夏堀正元氏が健在だった。委員長は佐野洋 氏で、わたしが副委員長を務めた一年か二年かもあった。佐野氏のあと、短い期間「清貧」論の著者中野孝次氏が委員長をしていて、また佐野氏に代わった。そ れから猪瀬直樹氏に代わった。わたしはずうっと、もう十年以上言論表現委員を務めてきた。他はすっかり顔ぶれが変わっている。その間、ずうっと乃木坂に 通った。その乃木坂時代がもう一、二ヶ月で終わる。乃木坂、赤坂。六本木にも近かった。思えば、わるくない場所であった。

* 二十日が美術賞の選考会。京都行きの切符も今日買った。京都は彼岸。花には早いが、墓参ができる。車を雇って、老の坂から篠村へ、亀岡を経て昔の樫田村へ 走ってみたい気もする。できれば杉生・田能を越えてずうっと大阪の高槻駅まで抜けてみたい。ま、出来ないだろうが。

* 「保元物語」義朝夜討ちを迎え撃っての鎮西八郎為朝の弓勢のすばらしさ、威風堂々と小気味よく、叙事の柄がか らりと大きい。魅力満点で、「平家物語」でもこの為朝褒めほど本格の、気分のいい個人称賛はあまり無い。眠くなっていてから読み始めて、眼がシャンとして しまう。
 

* 三月九日 土

* 恒平さん(と呼ぶのは二人しかいないそうですが。)
   壁のカレンダーの桜を観ています。京都正法寺とはどこにあるんでしょうかね。別のは香雲亭とあり、これも知らない・・・。
   懐かしい円山公園の枝垂桜、枯死した初代を引き継いだ二代目の、花も咲かせずひょろっと頼りなげな幼木を、毎朝ちらと見ながらあの道から八坂神社の境内に 入り、石段下に抜けて弥栄中学に通ったのは、なんと、もう50年以上も昔の話になります。まあ、よく育ったもの、いや、桜も人も・・・という感慨がありま す。
   住まいに近い平安神宮の枝垂れは、人目に付かない横手の柵をこっそり乗り越えて ”ただ見”、ついでにそこから徒歩5分の動物園も有料入場したことのない、そんな少年時代でしたが。
  こちら何十年ぶりかの暖冬でしてね。これで裏手にあるオンタリオ湖の水位がどんどん上がるようだと、ちょっとえらいことになりますが・・・。
  3月20日の京都美術文化賞選考委員会に出席のため入京されるとか。ということは、19日に東京を出て京都に2泊し、21日に帰られるということになりま すか?
   となると、実は私の京都滞在日程と見事にタイミングが合うことになるんですよ。3月18日に関空に着き4月22日迄の滞在です。19日から暫くは旅行の予 定もなく家内の実家西大路四条におります。恒平さんの日程と合えば久方ぶり、多分、15年ぐらいをあいだにおいてお会いすることができようかと・・・。
  昼間はどちらも予定でつまってしまうことでしょうが、私の方は19、20、21日といずれも夕方から空けておくことができます。そちらのご都合、行動予定 と滞在ホテルをお教えください。   カナダ ナイアガラ発
    ( わたしもギックリ腰、付き合いのええことで。笑えてきまっせ、これは。)

* ナイアガラ近くに住む中学以来の友人が、ほとんど、お隣感覚で声をかけてきてくれる。昨晩書いていたわたしの 日録を見ていてくれたのだ、風の便りでもなく、郵便の通信でもない。このすばやさが、すごい。NGOのいちばんの武器はまたは利器は電子メールだと聞いて いる。メーリングリストに十も十五も加わっていて、のべ数千人と意見交換をしているという人もいる。日本ペンクラブも、そういう身の軽さで、たとえば、声 明にしても、メールのウエブを組織してゆく打ち込みが欲しい。声明してホームページに載せ、新聞に小さな記事にしてもらい、それで事足れりではつまらな い。十人ずつのメルトモを持っているとして、一つの声を十人に伝え、伝えられた人がそれぞれの十人に伝えて、三度も波及してゆけば、大変な数になって行 く。それが「広報」というものである。

* さて京都で、うまくカナダからの ツトムさんに逢えるかどうか。

* あい変わらず、腰も痛み、目も重苦しい。ま、ごまかしながら普通の生活はしているが。

* 新潟の年少の友人藤田理史君が念願の九州大学法学部に合格をきめた。よい才能が筑紫で開花するのを心から楽し みたい。
 

* 三月十日 日

* 「老の坂から篠村へ、・・できれば、杉生・田能を越えて」是非行って来られるといいと思います。
 ごぶさたしております。(いつも乍らほぼ毎日ホームページを拝見していると、ぜんぜんそうは思えませんが)人生劇場い ろいろありまして、いろいろに時は過ぎて行きます。やっぱり行くのがいいと思います。腰、お大事に。

* メールの日付を読むと、もう十日。目は、ぼうっと瞼から重い。睡魔ではない、花粉の影響だが、睡魔に等しい。 目を閉じているのがいちばんラクだが、そうもしていられない。「老の坂から篠村へ、・・できれば、杉生・田能を越えて。」いま、わたしの頭の中はほぼこの ルートに覆われている。憑かれている。懐かしいが、怖くもある。京都の東山区は故郷であるが、寄留地でもあった。それなら同じ意味と比重とで「丹波」もわ たしの故郷である。しかもこの丹波からわたしは自分の文学世界を立たせた。処女作は丹波に生まれ、受賞作も丹波に生まれ、その中間にもうひとつの「丹波」 作品があった。それが、いま、わたしを蜘蛛の巣のように捕縛している。

* いまパソコンが難しい。頭が機械に切り結んで行かない、勘も働かないし推察も理解もできない。三月十日の朝を 迎えるために寝に降りよう、階下へ。夕方前、目が重くて二時間ほどうたたねした。晩は、なにも手につかずのど自慢の全国大会を聴いていた。海外からのチャ ンピオン誕生、これは納得した。続いて「フラバー」とかいう、ロビン・ウィリアムス主演の映画をみていた。たわいないものだった。
 十五日の理事会に報告を書いた。
 

* 三月十日 つづき

* あたまが明日の鈴木宗男証人喚問を待つほうへ向いている。なんだか今日が、余分に挟まった一日みたいな気分で は「今日」に対し気の毒で申し訳ない。江戸の祭囃子を聴いている。篠笛の佳い音色と締太鼓の軽やかなリズム。嬉しく嬉しくなってくる。「打込」「屋台」 「昇殿」「鎌倉」「四丁目」「玉打(先玉、後玉)」「屋台」とつづく。このあとへ「江戸祭囃子秘曲など」がつづく。知識は少しも欲しくないので、ただもう 聴いている。聴きながらあれこれしている。

* 「電子文藝館」は七十七人に達している。つぎは、「招待席」を設けて、昭和十年の創立前後までに亡くなってい る近代文学者大先達の、少し珍しい作や記念すべき作を一つずつ掲載してゆこうと思う。尾崎紅葉、幸田露伴、坪内逍遙、森鴎外、夏目漱石、正岡子規、二葉亭 四迷、与謝野鉄幹、樋口一葉、北村透谷、石川啄木、伊藤左千夫、長塚節、徳富蘆花、また芥川龍之介、小林多喜二、泉鏡花など、作品の欲しい人はたくさんい る。こういう人達の努力と伝統があって、その線上に日本ペンクラブがありうるということを示しつつ、さながらに近代日本文学史をも一覧できるようにと、わ たしは願っている。これはそう難しくなく出来るし、経費も限りなくゼロに近い。
 

* 三月十一日 月

* 鈴木宗男代議士の国会証人喚問は、時間も短く、材料が多すぎて、ま、あんなものだろう。密度を求めるのは無理 だ。与党三党の時間を短くし、野党にせめて合計で二時間与えればもっと実のある訊問が可能であったろう、それだけの材料はあるのだから。

* これは、電子メディア委員会より、言論表現委員会の問題でしょうし、すでに、言論表現委員会では、何回も精力 的な声明や意見書を出していますが、人権擁護法案、青少年有害社会環境対策基本法案、個人情報保護法案などのなかに、「インターネットのサイトの規制」と いう問題があります。
 いずれも、表現の規制、メディアの規制ということで、言論表現界を中心に反発の声があがっています。
 いずれの法案も、問題なのは、法規制を目指す側が、同じ発想、同じ価値観、同じ文脈で、一気に法制化してしまおうとし ている点だと思います。
 もともと、価値観の形成は、個人的であり、文化的です。表現の自由は、そういう多元的な価値観を前提とするものです。 また、民主主義も、そういう多元的な価値観を前提に、話し合いで、合意形成をするシステムです。そういう「価値観の形成過程」を法律で規制をし、つまり、 政府の都合の良い価値観で一元的に規制をしようとするところが、これらの法案に共通する問題点ではないでしょうか。その根っこの問題点を批判しないと、個 別に対応されてしまう恐れがあると思います。
 権力の手法は、「分断して、支配せよ」ですから。

* 倉持光雄(大原雄)氏の意見である。言われるところ、本質につよく触れている。
 じつは、これらの法案は、この四月のはじめには遅くも国会に上程されて、どどっと纏めて会期末までに決まってしまいそ うな形勢にある。上程された法案が変更されることはめったになく、廃案や審議未了になる法案はどうもこれらではなく、これらは優先順位高く「一気に」成立 してゆきそうであると、暗い気分で言論表現委員会で話を聴いたばかりだ。鈴木宗男や外務省だけではないのである。時代と日本は、おおきく傾いてゆく。

* ホームページを大増頁のために、設定の作業に半日を費やした。ただし、最後の段階でうまく行かないまま必要な 手順が停滞している。卒業生諸君も、社会人になり二年三年と経てくれば、社内でも先輩格でひときわ忙しいだろうと、尋ねたいことがあってもなんとか自力で やってみようと、極力煩わさないようにしている、が。

* そんな中でも、結婚して幸せになった女性たちもいれば、恋に傷ついて相談してくる男性達もいる。若いことが輝 きであるのは確かだが、輝かしい季節にはかげの部分もあるものだ。

* 夜前は就寝前に「保元物語」中巻、あっさりと夜討ちして白川殿に火をかけた後白河天皇側の源義朝勢により、崇 徳上皇側がむざんに敗退、左大臣頼長は流れ矢に首を射抜かれて苦しみ、院は都の内外を逃げまどう。そして下巻では、信西少納言入道の容赦ない画策でもっ て、清盛は叔父忠正を斬り、義朝は父為義や弟たち、わけてもまだ幼い乙若はじめを船岡山で斬らねば済まぬところへ追い込まれる。「保元物語」は、鎮西八郎 為朝の神のような力量の表現とならんで、下巻の鬼哭啾々の殺戮の光景が凄い。読んでいてはっと泣いてしまう。「平家物語」で泣けるところもむろん何箇所か 有るが、「保元物語」の義朝方の強いられた血族の殺戮は、あまりに切ない。あまりに酷い。しかもそこがじつによく書けていて、佳い文藝になっている。

* 「保元物語」のあとで、中川五郎さんに借りた「事件文壇史」を読了した。「円本」のアイデアマンが谷崎であっ たことが知られていないなど、物足りないところもあったが、この手の本はそれなりに面白い、興味深い。中でも、大杉栄と妻の野枝とが震災のどさくさに虐殺 されたり、小林多喜二が凄惨に官憲に虐殺されたり、田中正造が鉱毒事件で直訴したり、柳原白蓮が、姦通罪も辞せず敢然と新聞に夫への離別状を公表したり、 わたしは、そういう話に心惹かれていた。いやな時代が過去にあった。だが、そこへ事態は戻ってゆかないという保証がない。おまけに、あのアメリカだ、困っ た増上慢である。

* 「文藝館」のために高橋健二元会長の作品として、「ゲーテ格言集」が、校正済みで届いた。
 やはり、残念ながら、面白くない。「ゲーテの言葉」としては重いが、あまりに断片的で、高橋会長の「翻訳」という「創 作」としては全く物足りない。ま、これだけを厖大なゲーテ作品から引き出してくるのは、それだけ親炙研究されてこその成果に相違ないが、原文の魅力が少し 伝わりにくいうえに、「格言」なんぞというのは、出逢いの一箇条に惹かれてこその金科玉条で、莫大にまとめて読んでも、求心力が働かない。「文藝」の冴え を喜びたい者にはちょっと残念だった、故高橋氏のためにも。
 かなり原稿の形を整えて読みやすくしなければならない。しばらくわたしが読んでみる。原稿が手元にないので、掲載のか たちだけを整えながら通読してみる。
 

* 三月十二日 火

* 各局で、昨日の証人喚問の後追い確認をしているのが、問題点を炙り出していて効果的。短時間の質問で問題点に 多くよく触れていたことが分かり、印象通り、あれはあれで効果的にやっていたのだと納得した。与党所属の証人喚問に、与党があつかましくあんなに多くの時 間を占めるべきではない。
 鈴木宗男がロシアとの間で、ほとんど「国家を売るに近い」暗躍をしていたことが明るみに出た。そもそも田中真紀子が最 初に妨害された外務省ロシア課長人事以降、外務省のしてきた売国的な省益行為や鈴木とのズブズブが、如何に深刻であったかがよく分かった。外務省人事の官 邸主導による歪曲がどれほどの大罪に当たるかを、もう一度きちっと糺すべきで、鈴木との外務省関係を否認した例の「政府見解」の糾弾と撤回・謝罪が必要 だ。政府は公然とウソをついて田中の首を切った。今となれば、いかに田中真紀子の行動が最初の最初から的を正しく射ていたか、じつによく分かる。小泉は頭 を下げて出直すべきであり、「鈴木証言は見ていなかった、感想は、あとで人の話も聞いてから」など、言語道断な態度と言うしかない。

* 朝から花粉が鼻に襲いかかり、目へもじわっと重い手を掛けてきている。

* 花粉症対策には杉を伐ればよい――。あ、とおもいました。自然でないことが過ぎて、いろいろ不都合なことが 起っていますもの。狂牛病にしましても、草食動物の牛に不自然な食べもの、それも肉骨粉なんて、つまりは、同類相食むという残酷なことをさせて、それで、 済むはずがありません。
 とはいえ、わたくしたちは、少数の菜食主義者を除けば、日々、おさかなを食べ、お肉を食べ、卵を食べて、わが命を養っ ています。「いただきます」は、そのいのちへのご挨拶、感謝のことばと、教えられましたが、いつかうち忘れ、惰性的に「いただきます」と言っていること が、省みられます。
 先日、何度目かの『秋萩帖』に、雨夜尊」のお名、ふっと立ちどまりました。「都名所図会」、あれが文庫本で出ましたの を、折り折り拾い読みをしてたのしんでいますが、「雨夜内親王」(「あまよのみこ」とふりがなが)というおひとに出逢いましたのを、おもいだしたのでござ います。こちらは光孝天皇の姫宮で、やはり「御目盲ひたま」うてでした。
 齋藤史先生の「鬼供養」十五首について、書いたところで、その十五首の中に、
   喚び聲われにひびきて逆髪の冬木木みだるる山の斷崖
 という一首があり、お能の「逆髪」を、蝉丸を思うたりして、『秋萩帖』のいずれがうつつともゆめまぼろし、とおき世の こととも分きがたい世界に、雨夜内親王の古物語が重なり、ふはふはと。そして、少しづつ、わが鬱も薄らいでゆくような。

* カードの取引銀行支点が閉鎖されたりして、変更手続きなど、春の年度替わりに際し思いがけない用事に追われて しまう。
 
 

* 三月十二日 つづき

* ホームページの増頁作業が軌道に載った。布谷君に最後段階の指導を乞う一方で、朝から粘りに粘って、試行錯誤 のあげく、なんとか思い通りに事が運びかけた。やれ嬉しやと思っているところへ布谷君から懇切な示教のメールが届いた。見ると、ちょうど今し方到達したと 全く同じように書かれていて、バンザイした。
 「電子版・湖の本」を創作・エッセイともファイルを増やして、刊行順に、少なくも一ファイル一巻とした。創作シリーズ はいま第四十六巻を進行中だし、エッセイシリーズは第二十四巻まで出ている。都合七十巻出ているが、第百巻までも可能なように増頁した。その他のジャンル のファイルも余裕を見込んでたっぷり増ペイジしたし、作業の方法も細かくメモしたから、この先の作業は見通しが明るい。
 一巻に一ファイル用意したから、勝田貞夫さんに戴いているスキャン原稿をそれぞれの箇所へ仮に保存して、随時に校正し てゆくこともしやすくなった。校正は気が遠くなるほどたいへんだが、少しずつやっていればいつかはカタがつく。アルバイトを頼むほどの贅沢はとてもできな い。
 ともあれ、かなり胸のつかえになっていた難関を一つくぐり抜けて、わたしは機嫌がいい。
 

* 三月十三日 水 

* ホームページのインデックスに、「電子版・湖の本」の全容を整列させた。「紙の本版」で既刊のものを「電子 版」として整備してゆくという表明で、スキャン原稿も、勝田さんのご尽力でかなり揃っている。戴いたまままだ開いていない作品も幾つもあり、おいおいに、 ともあれ巻数相当のファイルに収容しておく。校正は校正で、少しずつ。この整備がすすめば、また新しい別途の意欲が動いてくる。「紙の本」版はいずれは消 失してしまうかも知れない。「電子の本」は、誰かの手元で遺りうるし、いずれは、国家的な事業等が大がかりな「保存・収容」を考える日が来る。「紙の本」 では場所をとるが、「電子の本」は場所を塞がないので可能性がある。

* 鈴木宗男は、早くに予測して置いたとおり、多くの自民党犯罪者たちのあとを追って滑り落ちようとしている。少 なくも離党は免れないであろう、孤立すれば司直の動き出す日が迫ってくる。選挙のみそぎを称して復活してくることは難しいだろうし、国会議員でいる間には もう一度の証人喚問も免れまい。こういう男が派閥の領袖となり組閣などの日を現実に夢見ていたであろうと思うと、そら恐ろしい。

* それにしても、平成の政局も、十二世紀保元の政局も、すさまじさに於いて変わらないどころか、昔は、人が血し ぶきをふいて大勢死罪にされている。それも政局がらみの殺戮であり、保元も平治も、源氏に上回る平家の、清盛達の辣腕がものを言っている。さんざんの源氏 を書くのが、同情的に書くのが、保元・平治物語の意図であったようだ、そして平家物語では、源氏のリベンジと平家の滅亡。美学は、何れの場合にも敗者にあ るものと物語られてあるのが「日本」の心情か。
 だが鈴木宗男のような敗者に注がれる美学的な涙は、同情は、ない。そこには美しいかけらもない。うそつきと迫られて怒 り狂うウソが、テレビカメラの前では成立しないのを「大勢の国民」は見すえていたのである。
 

* 三月十四日 木

* 昼過ぎて、銀座一丁目の「シェモア」で静かな昼食。新宿区役所に結婚届を出して、四十三年が過ぎた。フランス 料理にワイン。旨いし満腹も満足もしたが、濃厚、やや圧倒された。「よしのや」二階で見つけたハンドバッグがとても妻の気に入り、手持ちのを箱に入れても らって、すぐ新しいそれを持ち、出光美術館まで歩いた。

* 長谷川等伯の国宝「松林図屏風」が出ているのを知っていた。等伯は他に「竹鶴図屏風」など四点、「松林図」と いい「竹鶴図」といい、この画家はいわゆる絵描きの目ではない眼で、余人の見知り得ない世界を透視していたとしか謂いようがない。京都智積院の「桜楓図」 もすばらしいが、あれは金碧障壁画。これは濃淡ただならぬ神韻縹渺の水墨画。甲乙はつけがたく、等伯が、美術史上の日本画の真の天才であり、変な云い方を するが、たぶん第一人者の一人であることだけを、今日、しみじみと納得してきた。松林図のまえを立ち去りかねた。竹鶴図にも心服した。
 もとより尾形光琳の「紅白梅図」や「燕子花図」がある。俵屋宗達「風神雷神図」や「松図」「波濤図」がある。円山応挙 の「雪松図」や「藤図」もある。如拙にも雪舟にも永徳にも山楽にも、また溯れば絵巻にも肖像にも仏画にも、すばらしい「第一人者ふう」の画跡はいくらもあ るから、等伯一人に「第一人者」を独り占めさせてはおけないのだが、それでも等伯という画家には尊敬の思いを心から持つ、いつも。
 参考に出ていたなかの、牧谿「平沙落雁図」にも感嘆を新たにした。吸い込まれるような魅力と敬意を覚え、繰り返し絵の 前に立ち戻った。
 焼き物では古唐津と箱の蓋に記したたっぷりと大柄な高麗茶碗にリクツ抜きに惹かれ、また銘「奈良」の井戸茶碗にもぐっ と惹き寄せられた。いろいろあったけれど、焼き物では茶碗二枚に引きこまれた。もう一点、扇面法華経の下絵に濃厚な彩色男女の物語絵の描かれたのが、十二 世紀末であろう、優れて美しいものであった。絵巻を描いていたのがなにかの事情で中断した。それへ写経供養したものであろうか、死なれた者の死んでいった 者への思いがしみじみと美しく表現されていた。
 もう十日ほど会期がある、この展覧会は、誰にも勧めたい。

* 昼食と買い物と美術展。それに花粉。よほどつかれたものか、美術館の、皇居の見渡せるソファで、ついうたた寝 してしまった。もう十分と、地下へおりて有楽町線で保谷へ帰った。警告されていた雨には、あわずに済んだ。

* 日本ペンクラブから「各メディアへの緊急要望書」案がファックスで届いていた。「人権擁護法案」「個人情報保 護法案」「青少年有害社会環境対策基本法案」が三点セットで成立間近という情勢に、「各メディア」が挙って反対の声を挙げるようにという「要請書」で、普 通は国や省庁・各党への声明を出しているのだが、目睫に迫った事態で、だれよりも規制を受けるメディアに向けてこそ「檄」をとばすべきだという私の意見が 実現したもの。明日理事会に緊急提案される。
 法案の名前だけ見ているとこんな良い法案は無いようでいて、実はことごとく「人権剥奪法案」であり「個人情報収奪管理 法案」であり「言論表現強権制限法案」なのである。由々しい事態に迫られメディア活動を窒息させる意図が見え見えなのに、そのメディアが抵抗の姿勢を忘 れ、また国民の前に事態を説明する義務を著しく怠っている。「要請書」はそこをついている。

* メールという手段でアイサツしたり用件を伝えるのは便利だが、原稿を送ろうと、たとえば題字は大きく、筆者名 はやや小さく、本文の字はこの大きさで、引用文はやや小さい字で、ここは頭を何字分下げてなどと「指定」しておいても、不用意にそのままメール送信すれ ば、一律の平べったい形で向こうへ届いてしまう。受け取った方ははじめからそんなものと読むが、送った方の苦心や工夫は消し飛んでしまっていることが一般 である。「電子文藝館」のように、ある種複雑微妙な意図をはらんだコンテンツ=作品を、メールでやりとりしていると、思いがけずとんでもない失錯が生じて きたりする。一生懸命にやった筈の指定が、ぜんぶ消え失せていて伝わらないでいる。受け取った方は、そんなものかと受け入れて、先方で為されていた細かな 作業が目に見えない。
 これに類した齟齬が、やはり我々の「文藝館」の作業交換の中で起きて、ちぐはぐしてしまうハメになったりしている。難 しいことである。メールは便利な魔物でもある。
 

* 三月十五日 金

* 電子メディア委員会として三月理事会に以下のように呈示・報告した。

* 1. 電子メディア問題ないし世界のサイバー状況に対応し、また当面発足間もない電子文藝館をも順調に運営充 実させるために、残す任期一年の委員会は、次のような「構造改革」を試みて、ペンクラブの活動に対応したい。
 電子メディア委員会内に、
  「電子文藝館」編輯室 と並立して、
  「電子メディア研究会=電メ研」 を新たに設け、
 世界的な情報収集や法的・政治的問題へ的確に対応能力のある新座長に迎え入れて、新委員の人選や活動方向・方法も含め て委任したい。現委員長また現委員がいたずらに現状を占拠していると、あたら日本ペンのこの方面での適切な対応に大きな後れをとりかねないと判断した。そ れは是非避けねばならない。
  残る任期は一年であり、暫定的に現状のままという方策は、時勢に鑑みても適切でなく、むしろこの一年をその以降に向けた助走期として活用したい。現委員は 残る任期は新「電メ研」に緩やかに関わり、明年以降は新委員長の下「電子メディア委員会」が活躍して欲しい。
 当面の新座長候補には、* * * *氏を念頭においており、実現を図りたい。
  「電子文藝館」の方は、軌道に載ったところで、いわゆる「委員会」活動とは切り離れ、例えば「館長=会長」直属の文化事業体として、編輯主幹を軸に、事務 局とも連携し、能率的な数人で構成維持して行けると思う。
  2   「電子文藝館」は(別紙現況のように)ごく順調に充実しつつあり、さらに以下2 点を軌道にのせて、実現して行きたい。
 先ず、即座に十分可能な提案として、文藝館内に「歴代会長」とならべ、「招待席」を設け、昭和十年ペン創立以前の近代 文学者の、比較的珍しい、また記念すべき作品を一作ずつ展示してゆきたい。森鴎外、幸田露伴、尾崎紅葉、坪内逍遙、二葉亭四迷、国木田独歩、夏目漱石、正 岡子規、樋口一葉、北村透谷、芥川龍之介、徳富蘆花、田山花袋、与
謝野鉄幹、伊藤左千夫、長塚節、石川啄木、萩原朔太郎、直木三十五、小林多喜二らを最初の候補とし、「日本ペンクラブ」 が、近代文学史的にこういう先達の伝統を嗣いできたことを記念し、国内外に明らかにしたい。そして、随時、昭和二十五年没ぐらいにまで招待範囲をひろげた い。泉鏡花、菊池寛、宮本百合子、斎藤茂吉、北原白秋、高浜虚子、佐々木邦など招待してゆきたい。「電子文藝館」の姿勢と魅力とを、さらに増す企画になる と思うし容易に実現できる。要望も届いている。
 次には「会員データベース」としての「個別業績目録」作成を、適切な基準を設けて、ぜひ実現してゆきたい。会員がどん な仕事をしてきたかが、文藝館の中で自律的に一覧可能であることは、組織として当然所持したいデータベースであり、かけがえのない貴重な資料となるし、作 品を掲載するより遙かに容易な作業である。現在の「電子文藝館」サイトに単純に増設するだけで、経費はゼロに近い。具体的な提案が出来るよう、鋭意用意し ている。

* これに対し、前半は情勢の推移にしたがうこととなった。、四月理事会に、もう少し具体化した提案ができるであろう、それでよい。
 後半の後半は、これも具体的な提案へ進むべく提言して、、異論は出なかった。
 後半の前半、「招待席」の提案に一部理事から異議が出た。
 異議は、一つにはペンクラブ所属会員に限定した原則が崩れると言い、二つには、だれがどういう「客観性」をもって招待 者を選ぶのか、と。

* この前半分の異議は、尤もなようで、実は殆ど意味がない。原則といえば、当初は「現存」会員だけで行くという 考え方であった。だが「物故」会員も加えてゆこうと原則を拡げ、これが明らかに成功した。質的に「電子文藝館」を底支えているのは、物故会員から選び抜い た作品であるとも謂え、現会員が「文豪」とならんで作品の出せることに感激し出稿意欲に繋がっているのも、大方は、島崎藤村、志賀直哉、川端康成ら歴代会 長を含む「物故」会員のネームバリューと秀作にすこぶる刺激されている。
 これにさらに加えて、「招待席」に、ペン創立以前の、近代文学史の大家と作品をも精選することで、電子文藝館が損なわ れる何もなく、いわば「名誉会員」に新たに迎えとる形で読者にもサービスし、日本ペンクラブも襟を正して大先達からの伝統を再認識しようと謂うのだから、 それもせいぜい三十乃至五十人に限定して済むのだから、尻込みをする理由など、大きな意義と効果の前に、全く無いのである。内容が格別に充実して魅力を増 すのなら、会員に限定する原則よりも、ことが大きい。
 「そんな風に過去へ溯り出せば、近代以前の作者まで引っ張り出さねばならない」などというのは、無意味な屁理屈でしか ない。ペンクラブの思想は近代現代に基盤を置いている。紅葉、露伴、逍遙、鴎外、また漱石や子規や一葉にはじまって、それ以前と切れていても何等問題はな く、紫式部や紀貫之が現れる方がおかしいともいえる。実はだが、読者が望むならそれも不可能とは思わないほどだが、ま、それは「電子文藝館」の入り口に掲 げて置いた「国宝関戸本古今和歌集」で十分だろう。
 一作家であるわたしの思いには、漱石や鴎外や露伴の伝統につながるのを是認し感謝するものがある。励みである。彼等が 日本ペンクラブの会員であった無かったは問題でなく、彼等の時代にクラブが創設されていなかっただけの話である。だが「文学」精神は生きていた。今の時点 で、彼等の美しい名と作品とを電子文藝館に「招待」するのは、われわれの深い敬意の表れであり、「異存」の言葉に、少しの説得力も感じ取れなかった。敢然 と異存に反論した。

* この異存には、後段の、「誰が人選し作品を選び招待状を出すのか」という点で、本音が隠されていたと思われ る。異存は大衆文学の畑の理事から出ていたのだ、「誰が、何を、選ぶのか」。
 複数での選定委員会を設けて選定に客観性を、などとバカなことをいう。「誰がと聞くなら、私が選ぶ」とわたしは言っ た。私が選べば「主観的」で、委員会を構成して選べば「客観的」なのか。そもそも、猪瀬理事が強烈に発言してくれたように、そんな大層で微妙な選定ではな い。そもそも「作品の選定」行為じたいが主観的を免れるわけがなく、人数を何人揃えてもやはり主観的であり、要するに船頭多くして紛糾のための紛糾に陥る ことこそあれ、結果的には、これほどの「招待席」に、そう大差が出る道理がないのである。
 はっきり言って、私の選定は質的にも内容的にも適切である可能性が高い。現に物故会員作品のほとんど全部を私が選んで きたが、それで仕事は有効に捗ってきたし、選択の低俗を非難されたことは一度もないのである。選定委員会などつくって選定していたら、てんでラチがあかな かった。
 例えばもし私が全て選んだ「歴代会長作品」を、選定委員会を設けて議論などしていたなら、騒ぎだけは大きくてまとまり はつかず、ずばり言って、茶番に終わっただろう。第一そんな任に堪える人がその辺にうようよしているわけではないのである。そうかといって、例えば梅原会 長に自作を一つ「選んで」下さいなどと頼んだまま自薦の返事を待っていたら、「電子文藝館」は三年たってもスタートしていなかった。わたしが「闇のパト ス」で行くと決め、梅原さんが喜んで受け入れてくれたから、「日本ペンクラブ電子文藝館」という船は進水できた。百パーセント間違いないのである。

* 「事業」は、理想を持しながら且つ能率的に実践する意欲と判断なしに成功するわけが無く、空論では役に立たな い。現に、熱心に異存を唱えはじめた本人に、では一緒に選定しますかと問い返せば沈黙して、首をただ横に振ったのである。出来もしない空語をただ吐いてい たのである。

* 秦さんの提案に原則的に賛成するが、例えば漱石の作品は、どんな「文庫本」ででも読めると三好副委員長の質問 があった。即座に漱石の場合、小説でなく、「私の個人主義」のような講演を考慮していると答えると、「ああ、それはいい、それならいいね」ということに なった。「比較的珍しい、また記念すべき作品を一作ずつ展示してゆきたい」とはそういう意味であり、そういう具体的な「選定」は、もう、私の頭に大方出来 上がっているのである。言われるまでもなく、その選定は私の主観に発しているけれど、「客観的な哲学」なと在るわけがないように、客観的な「作品の選定」 など在りうべくもない、主観的であるに話は決まっている。芥川賞であれ直木賞であれ主観的に選ばれて、最後は多数決をやっている。電子文藝館の「招待席」 作家と作品の選定など、わたしが主観的に決めようが、五人集まってやろうが、どっちがいいとは言いきれない。私が決めた方がたぶんいいに決まっている。な ぜなら仕事が早くなる。そしてわたしは、実際にかなり多くを「読んで」識っているのである。

* 梅原会長は、「佐々木邦」の名前の出ているのに不審を抱かれていた。これが興味深い。異存を唱えだした一部理 事の考え方と梅原さんの声とは、察するに、逆向きであった。梅原さんは佐々木邦など軽すぎるという考え方であったろう。分かる。もう一方の異存の持ち主達 は、その場でこそそう発言していなかったが、あとの非公式の場所で、「大衆文学」が落っこちては困ると思ったと私に耳打ちしてくれた。直木三十五や佐々木 邦の名前を、敢えて、一例に挙げて置いたのは、そういう声の出るのが分かっていての配慮であったし、私の主観では、直木はもとより、ユーモア小説の力作者 であった佐々木邦が「招待」されても、実は、ちっともおかしくないと思っているのである。それもこれも私の主観だが、反対や反論が有れば、また「招待席」 への推薦が有れば、個別に言って来てくれれば考慮できる。だめなら削除することも、よければ掲載することも、何でもない。要するに、ぐたぐたと手間のかか る、異存のための異存なんかでは、無意味だと思うのだ。

* 結果として、わたしの提議と主張とが容れられた。当然のことと思っている。

* 社民党幹事長の福島瑞穂さん新入会推薦の弁をのべた。元学研の安斎達雄氏とともに入会が決まった。

* 六時前になった例会は、失礼した。疲れていたので、和泉鮎子さんや他にも何人も話したい人はおられたが、ほこ りっぽい場所で起ったまま酒を飲んでいたくなかった。血糖値が、三四日、高い。ま、いいかと、クラブまで歩くのはやめ、帝劇モールのまた「きく川」に入 り、菊正二合で鰻を食べ、湖の本の校正をしてから、有楽町線に乗った。
 保谷では「ぺると」でコーヒーを淹れてもらい、私よりもちょうど三十歳も若いマスターと暫く歓談。

* 鈴木宗男の自民離党が決まったらしい。加藤紘一も。

* 今日の二人の議員の離党のニュース、糾弾の部分は否定して、党への迷惑だけの理由では、国民は納得できませ ん。田中真紀子さんが言うように、水面下に同種の大物小物の議員がいるのが分っているだけに、やはりとかげの尻尾切りに過ぎないと思うばかりです。
 今回明るみに出たエリート集団である外務省の腑抜けぶりにもあきれます。

* 外務省の始末をどうつけるか、小泉総理の誠意の見せ所だろう。一件落着のとかげ尻尾切りで終わらせるような ら、またも真紀子虎の咆吼に怯えるだろう、内閣の屋台骨も。野上、川島事務次官を糾弾し、また少なくも河野、高村元外相の参考人招致を実現して欲しい。す べての発端は、ロシア問題での真紀子人事に横やりを入れて阻んだ川島次官らの、大臣をコケにした反逆行為からであった。少なくもそこまで溯って正してゆか ねばならない。
 

* 三月十六日 土

* 「電子文藝館」ひっかかりの処置を、幾つか。そして島秀生会員からの詩三編を読んだ。総題が欲しいので「生き ている人よ」と題をつけた。当たっていると思う。組み立ては簡単なので、ATCに入稿した。「招待席」の第一次案を、すぐ、つくりたい。

*  すてきな一日  雨のおとのしずかな朝でした。ハーブティーを飲みながら、犀星のエッセイを読んで。数人でしている仕事に追い立てられて、とても疲れてい たのですが、気持ちがゆったり落ち着いてきました。
 昨日早めに家を出て、先生に教えていただいた等伯に逢いにゆきました。「神韻縹渺」とおっしゃってでしたが、ほんとう にこの上ないもの、そのこの上ないものの前にいたすばらしい時間――。たましひが浄められる思いがいたしました。
 ペンの会では、日本の「シンドラのリスト」、という言い方は好きではありませんが、その杉原大使夫人にお話をうかがう 機会にめぐまれました。決意するまで三日、寝ずに考えられたそうです。まだ幼いお子がいらっしゃり、とてもかあいがっていましたからと、夫人はおっしゃい ました。大使ご自身の命はどうあれ、お子たち、夫人のことを考えられて、どんなにお苦しかったかと、うかがいながら泣けてしまいました。
 神さまがいらっしゃるから――。夫人にそうおっしゃったそうです。
 今、世の中が変なふうに変りつつある、過去のこと、自分の体験したことを伝えなければならない――。夫人はあちこちに そうしたお話をなさりに出向かれることも多いそうでございます。もう、九十におなりだそうです。

* 月に一度とない例会の機会を、このように楽しまれる会員の増えることはいいことで、東京へ遠すぎる会員は気の 毒だと思う。

* 先月は「菅原」の立田前、今月は「十六夜清心」の白蓮女房。二月つづけて秀太郎の舞台が観られそう、という文 言もある朝のメールだった。秀太郎とはクラスメートだった片岡我当の弟で人気の女形。その弟が仁左衛門。秀太郎は独特の悪声ながら佳い女形で、舞台を匂い やかにしてくれる。

* 湖の本を責了送付にまで漕ぎ着けた。半日、発送作業に懸かる。

* 二葉亭四迷、幸田露伴、樋口一葉、森鴎外から作品を選んでゆく。二葉亭は言文一致のロシア小説「翻訳」を、露 伴は洒脱な談義ものを、一葉は「たけくらべ」と重なる時期に書いていた短編「わかれ道」を、そして鴎外からは「仮名遣意見」そして「遺書」などどうかと思 う。
 

* 三月十七日 日

* 朝の国会討論会、田原総一朗の番組を見ていても、小泉首相の言葉も顔もいっこうに見えずに、はやくも次期総理 候補の呼び声に笑いの止まらない、しまりのない総務会長の顔が、なにやらゆるゆると話していたりする。
 田原番組でやっていたことはそれとして大事なことばかりだが、個人情報保護法だの人権擁護法だの、今すぐに声をあげて も遅いほど緊急で根本の問題も、なぜ取り上げてくれないかと歯がゆい。明白に時代を後戻りさせる法律、基本的人権を侵したり報道や表現の自由を侵したりす る法律なのに。

* 体調がよろしくないようで、たったいまも、右の首筋に、感じたことのない切り裂くような痛みが数秒続いて、 ちょっと怖かった。たんなる肩こりの筋肉痛であるのか、血管なのか。五日間、血糖値も130-170を揺れていて、ずうっと100前後だったのからみると 高い。睡眠は、ま、必要な程度取れているが。
 わたしは、そういう自分のからだの調子を、なるべく他人事のように「眺めて」いる。おたおたしても始まらない。自分で 自分を眺めている、傍観しているという姿勢は、心理的に、わるいものではない。死を迎えて安心しているのでも、すべき仕事が無くなっているのでもない。静 かに生きるというだけのこと。

* 昨夜、南極に生き抜いた「タロ・ジロ」の映画をみた。劇映画であるから事実そのままとは思わないが、大筋は現 実をふまえたのであろう。犬たちを残さねばならないにしても、なぜ鎖につないだか、その理由は聞き漏らした。それがひどいと怒る向きもあろう。映画を見る のもイヤという人もいよう。だがわたしは、あの際の、その後の、人間のドラマにはあまり気が動かなかった。いわば山男達の緊急になすべき緊急判断に従って 人身の事故だけは避けたのだろう、冷静に。鎖のことはよく分からないが、それをとかく言う気はしなかった。むろんイヌの関係者達の心情は察してあまりがあ る。イヌではないが、わたしもネコを飼って愛している。
 だが、感動したのは、そう、ほとんど「無心」に、可能な限りイヌたちが生きようとし、生きて生きて、そして死んで、そ して二匹だけ生き残っていた、その生死のけわしさと生きる意欲のはげしさに、であった。わたしのような生半可な人間の遠く及ばない生きる意志を描いた映画 であり、高倉健も渡瀬恒彦も夏目雅子もあまり眼中に入らなかった。

* 「平治物語」では、あっけなく信西少納言入道が自死してしまう。信西の評価は平治物語ではとても高い。この手 の物語の唱導には、信西の遺族や関係者が深く関わっていたともみられるので当然かも知れないが、傑物であったのは間違いない、一時の勝者となった藤原信頼 などという愚物に比べれば、遙かに。
 この信西自死の場面をタネに、谷崎はごく若い時期に、「信西」という、読む戯曲を成していたのが興味深く顧みられて、 二重三重におもしろかった。「保元物語」との因果もむろん感じ取れる。「平家物語」を深くたのしむために「保元・平治物語」はじつに優れた前書きである、 成立時点のことは別に考えるとしても。そして、この二作では、単数ないし少数の作者が推定されていいだろう。わたしは、もともと平治に死んだ信西や、保元 に弓射られて死んだ悪左府頼長の個性が嫌いではなかった。
 

* 三月十七日 つづき

* 湖の本の通算七十巻を責了にした。月末には本が届くだろう。発送用意の作業に当分追われる。昨日今日と根を詰 め、少し予定に追いついた。責了の日には此処まで出来ていないとという目安がある。それに近づいた。

* 「電子文藝館」の仕事も、じりじり前へ進めている。二葉亭、露伴、鴎外、一葉の作品を読み始めた。

* 市の大ホールで日本語版オペラ「カルメン」を上演するのを知って一人で観てきました。ホールまでは二分咲き、 三分咲きの桜のトンネルのサイクリングロードを自転車で片道三十分かけて。
 今日始めて出会ったこの「音研21」というのはどんな団体か詳細には分りませんが、オペラやコンサートを無料で提供す るらしいのです。結成十四年、もう十二回目とか。全く知らなかったのが残念です。
 どんなに穿ってみても、何の宗教臭も政治臭も見当たらず、単に各音大出の人々のボランテイアととれます。舞台装置は完 璧、衣装もほどほどによく出来ていて、プロのようには無理としても出演者の意気込みは充分あり、たっぷり三時間楽しみました。どうして無料なの、少し入場 料を払わせてヨと思いながら、とにかくいい気分になりました。
 この世には反吐が出る程に嫌悪感を与える人々もいれば、真剣に音楽を追求し、多くの人に楽しんでもらうだけを目的に、 無料公演をするなんて人々もいて、こんなグループに出会えた今日は、世の中がバラ色にも桜色にも見えてきました。

* こういう、いい思いの人も世間にはいる。
 ひきくらべて、外務省という役所の陰湿で陰険なことはどうだろう。鈴木宗男に同情する気など微塵もないが、田中真紀子 に楯突いて追い出し、鈴木を隠し球で潰した。繰り返し書いているように、そもそも田中真紀子外相の最初のロシア課長人事を潰した当時の川島次官と内閣官 房、官邸。その次ぎには、自分の仕える大臣を指さして、国会内で、国民の目の前で、虚偽の嘘つき呼ばわりした、それこそが虚偽であった当時の野上次官と、 その無法行為を目の前で黙認した小泉総理や福田官房長官らこそが、問題だ。混乱の元凶であり、改革刷新の先ず槍玉に挙げられるべき者達は彼等だと、またも 繰り返しておく。伏魔殿とはいかに正確な批判であったか、よくもあんなところで孤立無援で敢然と闘い抜いたと、やはり田中真紀子という政治家の肝の太さを 称えたい。だれが、出来たか。河野や高村に出来たか。誰一人出来なかったことを田中真紀子はやり抜いたので、鈴木も潰せた。外務省が伏魔殿であることも ハッキリ国民の目に見せ得た。感謝したいとすら思う。「この世には反吐が出る程に嫌悪感を与える人々もい」ると、上のメールの人が言い切るのは、たぶんこ ういう官僚社会や政治屋どもを指しているのだろう。
 

* 三月十八日 月

* 銀行の支店も店仕舞い移転などあり、カードの払い落とし口座の銀行に引っ越されてしまうと、電車で通わねばな らなくなる。仕方なく地元の他行へ口座移転の手続きなども必要になり、朝から、動いてきた。銀行もあたふたしていて、金額の大間違いなどを通帳に記入して くれ、気付かねば面倒なことになるところだった。余儀なく、こういう事にも働かねば済まない。

* 谷崎潤一郎の「夢の浮橋」をさらに校正した。倉持光雄氏から有り難い指摘が一箇所あった。「さすが、読み応 え」ありと。わたしも、またまたその思いを強くもてた。小説欄に谷崎一代の佳作の入るのを喜びたい、息女観世恵美子さんのご厚意に深く感謝申し上げる。
 谷崎ゆかりというのではないが、物故会員浅見淵の遺族から「『細雪』の世界」という代表作にあたる論考を出稿すると連 絡を受けた。依頼に快諾して戴けたのである。

* 森鴎外が、明治四十五年一月に「帝国文学」に送った翻訳小説、ハンス・ランド原作「冬の王」は、短いが、寂し くも胸に沈んでしみじみとさせる佳作であり、翻訳も真実感横溢、こういうのをこそ「電子文藝館」にぜひ「招待」したい。翻訳小説というのは、いろいろの意 義と意味とで近代文学を刺激した。鴎外には「即興詩人」という冠絶した名翻訳作があるが、「冬の王」は時代を感じさせない悠々とした言文一致の達成で、こ れが翻訳かと思うほど、みごとな鴎外その人の文藝である。おそらく「冬の王」を鴎外の仕事として記憶している人は稀だろう。そういう珍しい記念に値する作 品を文豪達から拾い上げ、現代に甦らせる、それがわたしの謂う「招待席」の意義である。日本ペンクラブの悦びである。むろん読者にも作品にも、作者にも、 喜んでもらえるだろう。

* 高橋健二訳のゲーテ格言集は、妻の手を借りて形を整え、わたしも通読し、「ゲーテの言葉」と総題して、用意さ れた全文を掲載することにした。妙な譬えをするが、西洋の映画俳優、男優だとジョン・ウエインかジェームス・スチュアートを先ず思い出す。女優ならイング リット・バーグマンかエリザベス・テーラーを思い出す。その式で西欧近代文学の大家といえば、わたしは一にゲーテと指を折ってきた。並んでシェークスピア であった。それほどゲーテはよく深く読んできた方だから、彼の「言葉」には、実にいろいろ教わってきた。頭を垂れてきた。むろん「切り抜き」としてではな い、豊かな思想と文脈上に於いてである。なにしろ大学へ入ったその日から、或る教授に、耳にタコほど「フアウスト」を聴かされたし、「若きヴェルテルの悩 み」「ヘルマンとドロテア」また「エッカーマンとの対話」等々心魂を多く染められてきた。
 今度、相当な量の言葉を「断片」の形で読み返すことが出来た。さすがにゲーテと感嘆する言葉に満ちているが、残念なこ とに切り刻んでは意義の通じにくい言葉も少なくなく、惜しいと思った。言葉というのは、切り抜いたからと謂ってエッセンスが取り出せるとは限らない。また 量でもない。やはり作品の中で出逢ってひびきわたるもの、それが魅力であるなと痛感した。
 もっともローマの皇帝や、ギリシャの奴隷哲人の語録など、「語録」へ、多くの信頼と興味をあずけた青春期もわたしは経 てきた。ゲーテの言葉が、二十一世紀の、これからの人生にうまく響き合ってもらいたい。

* 夜には続けて樋口一葉を読んでいった。一葉といえば懐かしい、また口惜しい想い出がある。新制中学の頃、家の わきの抜け路地の奥に、市田さんという美青年が、若い綺麗な人と同棲していた。勘当されてきた好いた同士だと聞いたような気がする。青年というのはわたし の読み違えで有るかも知れない、人の年齢はよく知れない、わたしも子どもだった。
 この市田さんが、わたしが本好きと聞き知ってか、ある日、ひょいと一冊の本を呉れた。ちょっと勿体ないような本格の本 で、横長に、草紙でも開くように読んでゆく、厚さと来たら少なくも七センチはあったような、布装の「一葉全集」だった。
 正直のところ、あの頃の私には勿体なかった。和歌と日記と小説と書簡も入っていたかも知れない、まさに「全集」の名に 恥じない一冊本であったが、どういうわけか、自転車の前籠に乗せて走っていて、どこかで無くしてしまった。惜しいという気持ちは、年数が立つほどに逆に深 まる。
 それでも、わたしは、一葉の日記がどのようなもので、和歌を詠んだ人だとも知った。ただ文語文の小説は、容易に取り付 けなくて、だが、「たけくらべ」は読んだし、「にごりえ」はややこしかったが、感じはつかんでいた。「暁月夜」「十三夜」そしてことに「おほつごもり」と 「わかれ道」は読んで印象に残していた。
 そのなかの「わかれ道」を読み直して、「なるほど」と思った。結び目の意味深長が読みとれた。
 

* 三月十九日 火

* 診察も、そのあとも、いろいろと時間がかかって疲れた。花は、街のあちこちで少しずつ咲き初めていて、空は晴 れやか、軽装でも寒いことはない。しかし花粉が、何をしていても身にこたえる。
 心臓機能の方は問題なかった。体重を減らせ減らせ、であった。

* それにしても、疲れての帰宅だった。

* お身体、大切にして下さい。
 たいへんご無沙汰しております。たったいま学会のビブリオグラフィーの原稿を出し終えて、年度末の仕事も何とか山を越 え、ほっとひと息しているところです。(今日はこれから、学校の図書館の文化セミナーの宣伝に、市役所にでかけます。)
 その後、何の連絡も申し上げず、たいへん失礼しておりましたが、このところ、「私語の刻」に、ご体調の不良を訴える記 事の多いのが何としても気にかかり、メールを差し上げることにしました。どうか、くれぐれもお大切にして下さい。
 私の方は、全然順調とはいきませんが、それでも何とかやっています。3年程前に体調を大きく崩して、その後、まだ全快 とはいかないこともあって、体力の不足しているのがツライところですが、それももう自分の心がけ次第かもしれないと反省しているところです。
 ずいぶん前にお話した単行本は、そんなわけで一向に進まず、何とかしなければとプレッシャーばかり感じる悪循環に陥っ ています。でも、これもたぶん言い訳。みんな、そういう苦しみを乗り越えてうちこんでいると思うので、それをしていない私は、実のところ、ただの怠け者で す。
 とは言え、国語教師としての目の前の仕事は何とか片付けていて、昨年は教科書準拠のワークブックの分担執筆、次の仕事 は教材研究です。6月にはささやかな共著(30人くらい)が柏書房から出ます。
 いま窓から見える伯耆富士大山は、とても綺麗です。そういう自然に恵まれ、いい学生もいっぱいいる、そんな申し分のな い環境と言えば言えるのですが……、なぜでしょうね、気持ちが晴れません。人間はどこにいてもひとりなのだと自分に言い聞かせているのですけれど……。当 地に来て8年、まだ孤独の深さみたいなものに包まれていて。強くなりたいです。
 愚痴ですみません。元気なお便りを差し上げないと先生の体調にも悪いかな。そう思ってお便りを差し控えたりもしていた のですが、そうすると全然お便りできなくなるので、今回は思い切って。
 そうそう、こちらに来て、雪をよく見るようになりました。落ちてくる雪だけをぼーっと見つめているときの、ちょっと舞 い上がるような感覚が好きです。宮沢賢治の感覚が、少しわかった気持ちになったことがありました。もちろん、いまはこちらも、もう春です。やわらかな風に 吹かれるのが、とても気持ちいいです。
 では、くれぐれもお身体大切にして下さい。遠くからだけど、時々気にしています。

* 東工大よりももっと以前からの若い「戦友」である。懐かしい。そして嬉しく有り難い。

* 徳、孤ならず。そう聴いた。わたしは、昔からこの教えに懐疑的である。孤独な人は徳がないのか。わたしは、時 には逆さまに感じてきた。不徳にして不孤、とわたし自身を律したこともあった。真に徳高きは、むろん尊い。しかし、汚らしいほど如才ない、真実は悪徳と異 ならないかたちで身の周りににぎやかに人を寄せた徳人の多いことに、わたしはイヤ気がさした、今もそうだ。そんな意味でなら、いっそ世間の目に不徳と見え ようが構うものかと思ってきた。
 孤独と孤立とはちがうだろう。孤立しないように。しかし孤独には本質・本真のヒヤリとした美味がある。
「強くなりたいです」という声に、わたしはシンとする。わたしも強くなりたかった。強くはなれなかった。バグワンに出 逢って、だが、わたしのよわさは、よほど鍛えられた。強くなどなろうとしなくていいのでは。エゴだけを育てて終いかねない。

* 両手両足を車輪のようにふりまわして行動しているように、わたしは、見えるだろうと想う。事実わたしは、自分 のしたいことをそんな具合にし続けてきたし、今もしつづけている。滑稽なほどしつづけている。
 だが、自分のしたい目的、例えば「電子文藝館」自体にはなにか価値があるであろうけれど、それに熱心に「従事してい る」わたし自身の行動自体には、何の価値も無いこと、少なくもそれに自分は価値を置かないこと、を、当然と思っている。
 人間は、およそ、どうでもいいことばかりをしている、毎日。生きる上で不可欠なのは、飲食と睡眠。それ以外はほんとは どうでもいい。どうでもいいことを、どう「して」生きるか、どう「しないで」生きるか、それが人生だが、そこのところに生き方の差が現れる。鈴木宗男のよ うな生き方がある。老子のような生き方がある。「なんじゃい」と思い棄てられる生き方もある。「しがみついて」放さない生き方もある。どっちの生き方のた めに「強くなりたい」か、が問題なのだ。

* 宇田伸夫という人をわたしは全く知らないが、その人の送ってきた小説を読んでいる。ドカンとやられた感じであ る。時代は聖徳太子の死後、大化改新といわれる頃への飛鳥のさわぎである。なんだ、それなら知っているという人は少なくないが、宇田氏のようにこの時代を 考えた人は、民間の歴史家などに何人かいたはずだが、小説にこう書き表した人は少ない。知らない。井上靖に「額田姫王」という小説があるが、たいしたもの ではなかった。あれならわたしの「秘色」の方が遙かに凄みがあると言った人もいた。それでもわたしは、いわゆる天皇家の歴史を軸にしたまま書いていた。
 宇田氏の小説を読んでいると、史実などは史実のままなのであるが、しかも空気と組み立てとが、ガラリと変わっている。 われわれの常識にしてきた皇室が「無い」のである。のちに天智天皇になる葛城皇子も、大化改新で彼に殺される蘇我入鹿も登場しているのに、宮廷の内容がま るで我々の知っている「大和朝廷」とはべつものなのである。読み進むに連れて、そのこと自体がなかなか面白くて、やめられない。信じて読む、信じないで読 む、は人それぞれでいいが、わたしはこういう大胆発想の保つリアリティーを大いに楽しむ。高等な文学作品ではないが、お話がうまく書かれていて、大きな破 綻がないからえらいものである。

* さて明日は、いまごろ、カナダから帰国している中学時代からの友人とまだ話しているか、祇園あたりのどこかク ラスメート・ママさんのクラブで、人の歌うカラオケ自慢に手を叩いているだろう。

* 一葉の「わかれ道」みごと。ふしぎなもので、「にごりえ」でも「おほつごもり」でも「わかれ道」でも、もう三 十年後に書かれていれば左翼小説とはいうまいが、まさしくプロレタリアートの小説と言うことになったであろう。一葉の時代には、貧乏や女の薄幸はまるであ たりまえのようであった、玉の輿にでものらなければ。そして玉の輿がなにであったろう、其処にも不幸のタネはいっぱいだった。一葉の小説のある種の物は 「放浪記」や「清貧の書」の林芙美子に先駆けている。時代の差でそういうところが見落とされがちではなかろうか。
  この小説の結びの先で、不幸せな、愛し合う二人は男女として「結ばれた」とわたしは読んだ。一葉の意地と涙と愛とがそこへ凝っていると読んだ。
 

* 三月二十日 水

* 八時に出掛け、午後一時半には京都で、京都美術文化賞の選考会。そのあと墓参。そのあと田中勉君と会う。

* 選考会は、多くの時間は掛けずに決まった。日本画と彫刻と陶芸。石本正氏の強く推された日本画候補を、作品 も、誰も知らなかった。創画展で受賞していた作があげられていたが、去年の創画展の受賞作で受賞していたなかに一つだけ納得したのがあったが、それが今日 授賞と決まった人かどうか、覚えていない。去年の創画展では橋田二朗さんの絵がわたしは佳いと思った。しかし橋田さんを誰も推薦しないのでノミネートされ ていない。選者は推薦すべきではないとわたしは考えてきた、が、他の選者は推薦しているらしい。それもいい、が、それが過度になると、大勢の推薦依頼人か らの推薦よりも、どうしても選者自身の推薦が、中心ないし優位の選考になる。それはどうかと、わたしは賞のために案じる。他の誰もが認識もしていない人に 賞が決まるのはどうかという気持ちが否めない。ただ石本さんほどの人が熱心に推されたことと、四年間連続創画展で受賞して「会員」にきまった実績がものを 言った。彫刻は清水九兵衛さんの強い推薦があった。それは他の選者も納得して決まった。陶芸は、曖昧なままに決着した印象をわたしはもっている。むかし、 いい仕事をしていたのは間違いないが、ここ何年も作品を見ていない、創っているのかという不審のママに選考してしまったのは、少し釈然としない。

* 選考会の果てたあと、からすま京都ホテルの喫茶室で、石本正さんと一時間半ほど四方山の話をした。あまり座談 会や対談をしない人であり、差し向かいで長時間、絵の創作をめぐるいろいろを聴けたのは、贅沢な有り難いことであったが、さりとて、聞き書きにして書き置 くようなこともしたくない。わたし一人の胸に落ちて、いろんな話題のあれこれがきらきら折に触れ光っていてくれればそれでよい。梅原猛氏は石本さんの顔を みると奇人だ奇人だとひやかす。奇人とは思わないが、懐の広い、ふところに「壁」という物を立てていない、開豁な芸術家である。そして、とにかくも楽しん で楽しんで絵を描いてきた画家で、苦学力行といったむりがまるでない。壁にぶち当たるのが創作だと思っている人はいくらもいるが、壁なんて物がないのであ る。無いと言う人である。わたしは、それが本当ではないかと思っている。
 いま、頭の中は「黒と金との絵のことで一杯なんですよ」と嬉しそうに話される。
 家庭のことも、女性のことも、梅原龍三郎や広田多津や秋野不矩や福井良之助や、またヨーッロッパ中世美術のことや、水 がわき出るようによく話された。女の裸を生まれて初めて美しいと身にしみて覚えたのが、どんなときであったかも話し、これは「はじめて人に喋ったなあ」 と。
 そして例年のように、「湖の本」に出資してもらった。不徳なれども孤ではないのである。有り難い。

* 石本さんを次の会合に送り出すとすぐ、くるまで、出町へ。菩提寺で墓参。おだやかな晴の日で、線香に火をつけ るのもらくだった。墓地にはいつも風が舞い、往生することが多いのだが。念仏を百遍ほど申してきた。住職ともすこしだけ玄関で話して別れて、思案の上、加 茂大橋を西へ渡った。
 加茂川と高野川とが橋半ばの眼下で溶け合う。糺の森を目前に、大小遠近、幾重にも北山が重なり合い重なり合いして灰色 にむせんでいる。まだ川岸に桜は咲いていなかったが、顧みに大橋西南の河原には、一もと二もとの紅しだれなどが色佳う咲き初めていた。
 「ほんやら洞」にちょっと顔を出して甲斐扶佐義氏に声だけかけておいて、西へ歩いた。同志社が卒業式の日であった、花 束を抱いた和服の女子学生も三々五々、あちこちで男子学生達もまじって記念撮影していた。栄光館の前から女子部の門内を歩き、陽気に賑わった本学の構内を 通り抜けていった。「良心を全身に充満したる丈夫の地にいたらんことを」という校祖碑に目をあててきた。どうも「良心を全身に充満」させた丈夫にはなり損 ねているなと苦笑した。
 烏丸今出川から地下鉄でホテルに帰ると、田中勉君がもうロビーで待っていた。すこし痩せて、やはり年を取った。そし て、半分外国人の風情が、握手してくる立ち姿などに感じられた。

* 日本の京都へ帰ってきているのだし、ホテルの洋食なんぞ食べてもらっても仕方がない。和食の店がたまたま閉鎖 していたので、街へ出た。
 祇園まで、えらく雑踏の四条通をゆるゆる歩いて、奮発して「千花」の暖簾をくぐった。歓迎して、二人のために話しやす い場所を店が用意してくれた。京で一ともいわれる「酒店」である、酒の肴を多彩にだしてくれた。老主人も女将も二度三度顔を出してくれて、さ、田中君には どうであったか、わたしは、酒が旨かった。一重切りに白玉と芽ぐんだ糸柳。一つ一つの器の吟味もよくて、食べ物の味に器の味が加わる。
 勉さんの希望で、露地で写真をとってもらい、老主人に見送られて晩景の四条を祇園東新地の「樅」へ歩いた。二三軒の候 補から、田中君が「ちいちゃん」のところと望んだのだ、「樅」のママのことで、われわれのクラスメートだった。
 その「樅」で、精華大にいた画家の佐々木氏と隣り合った。橋田二朗先生の五歳ほど後輩に当たる人で、つまりわれわれよ り五歳ほど年長の人。先日鼎談した京都芸大の榊原教授にびっくりするほど似たひとであった。この佐々木氏、カラオケが実にうまい。二曲聴いたが、玄人より うまい。田中君も二曲うたったが、なんでこんな歌を知ってるのかとおもうほど、聴いたこともない演歌を二つ、すこしかすれた声でまずまず唄って聴かせたも のだ。わたしは、カラオケなんて真似はできない。気がない。

* 客が立て込んできたので、程良く出て、四条河原町で、西院の奥さんの実家へ帰って行く人と別れ、からすま京都 ホテルまで戻った。妻に電話して、ベッドのうえで、気を落ち着かせるために少々念仏をとなえ、ストンと寝入ったらしい。夜中に目が覚めたら二時過ぎだっ た。しばらくテレビをつけていたが、缶のミネラル水を飲み干して、また寝入った。 
 

* 三月二十一日 木

* ゆっくり起きて、湯に浸かり、軽食してからホテルを出た。午後は雨かという予報もあり、京都でうろつく気がな かったから、まっすぐ駅へ。二時間ほど熟睡のあと、往きに東京駅で買って置いたディクスン・カーのミステリーを読んだ。そしてまたうとうとしているうち東 京に着いた。「のぞみ」号が、ひどく空いていた。保谷まで帰ってくると、中国黄砂の巻き添えかのように強烈な風に砂塵が舞い上がり、春一番にせよ珍しいな と音を上げ上げ家路を急いだ。

* 旅の機会にもほとんどくつろぐ余裕のない、むしろ東京へ戻るとほっとするそんな生活になってしまっているの に、驚く。もともと帰巣心がつよいのだろうが、こういう安楽な日々がいつまで続けられるだろうという「老いの不安」も無いわけではない。妻も私も一病息災 というよりもう少しいろいろと故障を身に抱いている。無理なく安全圏にいて時を送り迎えていようという「傾き」があるのかも知れないが、一つには、したい 事が東京に、ないし家に、有るという気持ちがある。もう、あり余っている時間ではないのだから、落ち着いて在るべき場所に坐っていようとするのだろう。
 昨日田中君は「たそがれ世代」というような言葉で、定年退職を余儀なくされて行く友人達の噂をしたが、わたし自身はそ の意味でなら、したいことが、まだこれから先に有るという実感の方が強い。あと三十年かも知れない老境を、「たそがれ」ている実感は実は少しも無いのであ る。若い頃のようにムチャクチャには頑張らないが、仕事場は東京にあり家にあると思うので、無用にセンチメンタルに、京都だからとうろうろしている気がし ないのが本音のようだ。
 

* 三月二十二日 金

* オハヨウ! 床からの抜け出しが順調になり、パソコンも調子がいいようです。
 これまで下谷には縁を持ち、出かける機会も多くあったのに、上野で満開の桜を観たのは、初めてです。
 あの強風下で犇いてお弁当を開いている姿は何かを想像させて滑稽でした。私はちょっぴり覚めすぎかな。
 知る限りでは、一は千鳥ケ淵、ニは小金井公園です。
 今日は二人で、所用がてらに千鳥ケ淵の花見をしてきます。

* 花は盛りをのみ見るものかはとまで言う気はないが、花粉に負ける。それにしてもあの烈風砂塵にまかれて、地面 に桜のためには害悪のビニールを敷き、飲食し談笑し歌舞している人達の酔狂は真似できない。だが、嗤う気も少しもない。
 人はリラックス「しなくてはならない」と口にし、盛んにリラックス「しよう」としている人達の、撞着。「しなくてはな らない」ようなリラックスとは、即ちプレッシャーであり執着であるにすぎない。世の中でいちばんリラックスしているのは、はためにはどうあれ、すべき仕 事、本来の仕事に打ち込んで難なくそれが楽しめる人であり、いやな仕事から離れたときにだけリラックス気分になれるような人ではない。日記をみていると過 剰に忙しそうですね、と言われることもあるが、本人はそれがリラックスとまで強がりこそしないまでも、たとえば花見やデートはリラックスで、仕事は苦渋な どとは、まるで思いもしていないのである。
 だが大岡山の花見にも行きたい、今年も。花見の雑踏が嫌いなわけではない。

* 目薬をもらって目の方はらく。鼻への花粉襲撃は最悪。小泉首相がどうやら花粉症気味らしいと聞いて、あの情け ない表情が読めた気がする。目に来ているときは、ただひたすら眼を閉じたまま眠っていたい、いや半分眠っている気分になってしまう、その気分へ落ち込むよ うに逃げたくなる。仕事するどころではないのが本当だ。総理の花粉症、はじめて聞いたが、同情する。しかし総理である、仕事は抛擲しないで。乾坤一擲とい う。構造改革は政治改革から。「自分自身が抵抗勢力の一味に陥っている」などと的確なことを言われて、その通りだと国民は見ている。乾坤一擲は「わるい取 り巻き」から身を逃れて改革の旗幟をもう一度鮮明にし、国民の人気を一心に浴びた田中真紀子ともう一度連帯して、まず外務省の旧悪高級官僚を懲罰し、官房 長官を更迭すること。そうなれば、人気は忽ち回復し、「解散」の宝刀がピカピカ光り出すだろう。そこを通過しない限りジリ貧ののたれ死には確実だ。いまの 首相談話はただ絶望の虚勢・カラ元気に過ぎないことを、足元の党内だけでなく国民にも見透かされている。特効薬は田中との電撃的な復縁しかない。

* 辻元社民政調会長の秘書問題は、油断して、ひっかけられている。辻元に故意の違反ありとは信じない。たたき合 いの汚い泥掛けをやり合っている、おそらく自民ないし与党内の仕掛けだろうが、ひょっとして女性上位に対する同党内の男の嫉妬がしかけた手かも知れない。 しみったれたことだ。社民党の指示ポイントが少し上がっているのは、前線に辻元清美と福島瑞穂という若い論客を立て並べたのが奏功しているのだろう。が、 言っておきたい、田島陽子センセイはテレビタックルの頃から国会でものの役に立つ才能とはとても思われなかったが、予想が当たっている。天敵桝添にいつも からかわれているが、どっちもどっちの安いタレントに過ぎない。安い人工タレント田島には、政治家辻元清美の代わりはとても出来まい、言うことが、議論 が、いつも薄く、硬い。
 ともあれ辻元問題は蓋をして守るのではなく、明かして、攻め返すことだ。

* 京都への留守に、幸田露伴「幻談」の初校が出来ていた。帰宅して念校を始めたが、悠々「大人(たいじん)」の 語りで、比較を絶している。露伴の史談は「連環記」も「平将門」もみな凄みのきいた途方もない仕事であり、「運命」など人間業とは思われない大文章。「五 重塔」などの彫琢の名作群もある。しかし前半期の多くが文語であり、言文一致の語りになるのは後半期で、其処へ来ると、もう文壇などの枠から遙かに天上し たような大人の風になりきってしまう。そういう露伴の前へ持ってくると、いわゆ小説家の小説がかなりなまぐさくすら感じられてしまう。
 鴎外はそれでもかなり露伴に近いところへ落ち着いていたが、鴎外の史伝は、露伴よりもかるみに於いて、重く沈む。小説 も例えば「じいさんばあさん」まで鴎外は行くが、露伴の「幻談」ほど晴れやかには行かない。むろん晴れやかすぎる、あぶらっけが抜けすぎているという人も あろうけれど、わたしは、そうは思っていない。小説の魅力をたもったまま、からりと枠を取っぱらっているのが魅力だ。
 こういう魅力に、最近に接したのでなく、二十代で十分魅了されていたのが、或る意味でわたしの不幸かも知れない。たい ていの小説が露伴に比べると若すぎる、子どもじみるとさえも、感じてしまうからだ。谷崎潤一郎は、鴎外よりも露伴を深く畏敬していたようにわたしは感じて いる。

* 旅中の友に途次買ってみたディクスン・カー「皇帝のかぎ煙草入れ」を、夜前読み切ったが甚だ物足りない運び で、アガサ・クリスティや江戸川乱歩がほめた程のものではなかった。ひところ、つまり大岡山の大学に通勤していた頃にむやみとこの手の本を電車の中で読ん だが、今は、完全に冷えている。人のほめるミステリーなんぞより、はるかに一葉の「わかれ道」や露伴の「幻談」や鴎外の「冬の王」の方を深いと受け入れる し、また読書として楽しめる。自分の読書に自信がもてる。

* 宇田伸夫氏から続編の「新羅花苑」が贈られてきた。この作者は、韓国と縁のある人か、前作は韓国で大きな評判 だという。日本の古代を、三韓勢力が支配し、朝廷もまた大和朝廷でなく蘇我氏の百済朝廷だったという架設のうえに構成された前作であったから、以前から、 とかくそういう「朝鮮半島主導の古代日本」という意図的発想の現れるつどかの国では特殊な関心の沸き立つらしい事情からも、頷ける。わたしは、ある種の非 文学的な露骨意図に流されて作品が構成されることにむろん賛成でないし、そういう意図的な受取り方で作品意義の歪められるのも好まない。宇田氏の意図が那 辺にあったかは知らない。今日もらった作品も、面白く気持ちよく読めると佳いなと願うばかりだ。

* 日本列島は、樺太や千島を経ても、太平洋南海諸島をへても、沖縄の列島を経ても、朝鮮半島からも、直接中国や シベリアからも、伝うように降るように多くを受け入れてきたから、どのルートの要素が濃いのか薄いのか、簡単にはまだ明言できないし、少なくも一律一様な ことは謂えないことだけは確かだ。推測的に言われてきたわりには、日本語と朝鮮語との重なりは、さほどでないという言語学の報告も出ている。
 なににしても、例えばヤマタイ国にせよヒミコにせよ、大和朝廷をめぐる推測が、ま、興味に惹かれた憶測や私説となって 飛び出すのは「言説の自由」でありわるいことではない。ただ、それらが、ねじ曲げられた民族感情の餌食になることは、わたしは好まない。願わしいのは、優 れた文学の誕生であり、妙なプロパガンダの先兵に利用されて汚されるのはイヤだなあと思う。宇田氏の力作がそのように非文学的に埋没してゆくことのないよ う希望している。
 

* 三月二十三日 土

* おそくまで本を読んで寝たので寝過ごした。鼻へ、花粉が吹き付けてくると思うほど。むかし春闘いま花粉と難渋 しながら、もう何年たったことか。年中行事の春闘に中間管理職として右往左往の迷走を強いられていたのは、1974年春までだった。その夏にわたしは医学 書院を退職し、筆一本の生活に変わった。退職してすぐ雑誌「すばる」に村上華岳らを描いた『墨牡丹』が一挙掲載され、そして新潮社から新鋭書き下ろしシ リーズの『みごもりの湖』が出版になった。花粉症を自覚し始めたのはだいぶ後だったろうと思うが、記憶はさだかでない。十五年以上悩んでいるのだけが確か だ。やれやれ。今朝も花見だよりが届いていて、なんだか取り残されている気分。

* 九段下に移った山種美術館には初めて入りましたが、あまりの縮小にがっかりしましたが、少しでも佳い桜シリー ズの日本画を観られたのは、マア、イイカと。茅場町の美術館が、今や想いを残します。
 千鳥ケ淵は平日のこともあり人出も程ほどで、満開の花に酔ってきました。入学式とセットの桜が、今年ははじめて卒業式 と組み合わせになり、武道館で式を終えてきた美しいはかま姿の女の子達がぴったりはまっていました。二人で、見惚れてきました。

* 例の「千鳥が淵」を国立の記念墓苑にし、靖国神社との国家的な縁を遠のけたい思いを、今年は早めに持ち出して 働いた方がよいのでは、八月間際になってからではまたしても例年の繰り返しに終わり、そしてまた忘れられてしまいますが、と、詩人の木島始さんに、もう一 月以上も前に伝えて置いた。それに呼応していただき、木島さん、蝋山道雄さん、力石定一さんら例の三人が、新しい「呼びかけ」を始められた。その文案 ファックスが、京都への留守中に届いていた。
 趣意はもとより賛成だ。
 一つだけ、八月十五日に、「天皇と首相ならびに内閣閣僚は霊苑での式典に出席し、すべての戦没者への哀悼の意をあらわ す」という最後の一文は、例えば日本ペンクラブの理事会では、去年、異存が多くまた強かった。この一文までは踏み込まず触れないままの提案趣意書でよろし いのではなかろうか。国民的な霊苑であり、国家色を表出させ過ぎないでいいのではないかと、今の段階では、わたしも考えている。提案は、主眼を絞り簡潔な ほうが佳い。
 また、いきなり「超党派議員提案」を望む前に、多くの民間団体に呈示し賛同を得て、広範囲な「声」として共同提案へ大 きく盛り上げて行く努力の先立った方が、三人の個人名での提案より、影響力があると思われる。それが私の感想である。取りまとめへの発声と推進を三人の方 でされるのが望ましい。

* 季節に先駆けて出題した以下の二題。たくさんな解答が届いたが、原作と表現を共有した人数が極端に少なく、二 つとも原作通りの解答者が一人もいなかったのには驚愕した。

 雨の(  ) 女子高生は傘と傘ちよつと合はせて相別れたり

 掘りたての筍の(  )風呂敷より
 

* 三月二十三日 つづき

* 北村透谷を読む人は、専門家以外にはもう稀有であろう、大きな存在だとはうすうす識っていても。藤村作の 「春」の青木のモデルであり、雑誌「文学界」の事実上の要であり、島崎藤村の心から敬愛し兄事していた思想家で詩人だ。だが、そんなことは知っていても、 透谷作品を読んでみた人はやはり稀有であろう、今一般には。
 こんど、「各人心宮内の秘宮」という論文を読んでみたが、文語ではあるけれど理路整然として、曖昧さの少しもない聡明 な文章であることにあらためて感嘆した。明治二十五年(1892)の文章だが、西欧文明と思想の学習においてすでにデッサンの狂いのないリアリティーに富 んだ摂取と咀嚼のさまが、嬉しくなるほど読みとれる。そして、西欧の人間理解の基本に基督教(批判)をしっかり置いて、「心」を重視している。その重視の 仕方に東洋のそれよりも確かさを西欧に求めているかに、今のところ、感じ取れるのがおもしろい。
 同時に透谷より三四歳若い国木田独歩が、明治四十年一月に、三十八で書いている「我は如何にして小説家となりしか」と いうエッセイを読んでいると、生まれた世代は透谷とほぼ同じだが、原稿の書かれた十五年の時間差、年齢差を通して、明治の知識階級が社会にしめる、時代に しめる位置に、微妙な地滑りが起きているのが読みとれる。透谷は日本と日本人を考えているし、独歩はすでに自分の心内におきた一大革命といういい方で、個 人の人生を考えてきたことが分かる。独歩のこの文章もとても興味深い。

* 甲斐扶佐義氏の送ってきた分厚い「ほんやら洞通信」をあらまし通読した。いろんな人の思い思いのスタイルの原 稿を雑多にならべ、ところどころを細字の「カイ日乗」で仕切ってある。
 心惹かれたのは、三人ほどの女性のアラッポイ小説だった。女の人だからこう書くのか書けるのかなあと思うほど書き方が 手荒くてなかみも凄まじい、が、なにかしらを言い切ろうとはしていて、独特な統一感を保っている。褒める気もないが、どれも読んだのである、短くもない物 を。
「ほんやら洞」のような時空間を堪らなく愛している人の少なからぬ事は理解できる、わたし自身は距離を置くけれども。こ こは亡兄北澤恒彦がながく深く関わり感化してきた場所である。甲斐氏はかなりの強度で恒彦兄に近接しつつ、存在感を確かにしてきた。日常という名の視線と 思想に根付いた、甲斐氏は、極めてユニークな写真家でありパフォーマンスの人である、らしい。
 むろん甥北澤恒=黒川創も、幼時から、ここに育ったとすら謂えるらしいが、このところはあまり連絡がないと甲斐氏は苦 笑していた。

* わたしも黒川と久しく接していないが、送られてくる「同志社時報」に、彼が、恩師で考古学者の森浩一氏につい て書いているのを、懐かしく読んだ。巧みに書いてある、すこし巧みすぎているのかなあと、むしろ作文の藝を感じ取りながら、今ひとつ底まで実感はつかみに くかった。「如才なく書きすぎるなよ」と少しだけ呟きながら、健筆は看取し、甥のためにひとり盃をあげた。黒川は、彼のうちなる「ほんやら洞」的なものと 幾らかいま葛藤しているかも知れない、わたしの憶測ではあるが。

* ぽつんぽつんと書いてきたものの掲載誌が溜まっている。「出版ニュース」三月中旬号には表紙に目立って大きく 「電子文藝館への招待」が掲示されている。これは後々にも電子文藝館創立の記念の稿になるだろう。「泉鏡花研究会会報」17号のトップに、「蛇の鏡花」と 題したエッセイが載っている。鏡花わたしとのこれまでの関わりを軽く纏めて回顧している。この手の原稿もバカにならず山積まれてある。むかしなら、すぐ纏 めて本にしてしまうことを自分からも求めたけれど、この頃は、そういうことも、面倒という以上に拘泥しないようになっている。六月には「湖の本」が創刊満 十六年になり、通算七十一巻に達する。「はんなり」と京都のものを纏めてみようか、堅い仕事を送り出そうか、ほろ酔うように楽しみ始めている。それだけ 「湖の本」への久しい愛着がわたしの中で深まっている。なまじな単行本が出来るよりも気が浮き立つこともある。
 

* 三月二十四日 日

* 午後、妻に誘われて、近隣を散策しながら桜の満開をあちこちで、惚れ惚れと、はればれと、楽しんだ。
 下保谷図書館のわきに、すこし、佳い並木がある。わきに小広い空間があり、花びらも散り敷いてしかも枝たわわに桜花美 しくて、大いに満足した。図書館までにも、あちこちと大きな桜樹、小ぶりの桜木が目に立ち、天気は花曇りで歩くに良く、のーんびりした。珍しく二人とも ウォーキングのシューズを履いていた。
 途中、なじみの寿司屋に寄った。わたしは、鰹、すみいか、しめさば、鯛など切らせ、冷酒。妻は、いつもの、佳いところ を一人前。いや、とても美味しいのでと、とろを最後に、亦注文していた。
 変電所の方へ歩いてみた。芝生の向こうの旧家に、天を摩す桜の巨樹四株が、さながら一山となり噴き上げるように真っ白 に花咲かせていた。見事な満開ぶりで。竹林がそばにあったりして、目の覚める色好さに声をのんでしまう。大回りして、大回りして、そして帰宅。こういう花 見も気楽で佳い。保谷は、なーんにもない田舎であるからかえって武蔵野らしい鄙びた野道も遺っている。空の広い場所も遺っている。

* 北村透谷の「各人心宮内の秘宮」には、感嘆した。カソリック教会への歴史的な批判・非難を下敷きに、人間精神 の表層と深層とへの洞察から、人間として真実に生きるありようを明快に説いて倦まない。表現こそ明治二十五年の美しい文語体であり、現在からはかなり煩瑣 に感じられるだろうが、論理は正確で、すこし推察の力が有れば透谷の説くところを大きくは誤解しないであろう。「ホンモノだなあ」と謂う思いが敬意に動い てゆく快さ、まことに嬉しかった。こういう思想家が先ず大きな扉をひらいて我々を迎え、通してくれた。文学や思想の世界に身を置いて、心新たに感謝にたえ ない。

* 物故会員の浅見淵による「細雪」論をスキャンし、校正した。浅見さんの代表作の一つで、「細雪」を「心境小 説」であると論じた点、谷崎の当時を「擬古的生活者」と見た点などに特色がある。また筆者自身が神戸の育ちであり、東京から関西に移住した原作者の関西な いし大阪の表現にも異見を述べている。昭和二十四年の論文で、三巻本が出揃い評判が高かった頃に書かれている。当時わたしは新制中学二年生で、この年毎日 新聞に連載されていた「少将滋幹の母」を毎朝楽しみに読んでいた。小倉遊亀の挿絵にも惹かれていた。そして一年もたたぬ頃に、縮刷版になった一冊本の「細 雪」を読んだ。秦の母にも読ませた。めったに褒めることのない母が、「ええ本やな」と言ってくれたのが記憶に刻まれている。
 浅見さんの論文を読んだのはずうっと後年のことで、講談社版「日本文学全集」の第百七巻「現代文藝評論集」の一編とし て、配本されてすぐ熟読した。昭和四十四年七月刊行であり、ちょうどわたしの太宰賞受賞作が「展望」八月号に出た時期に重なっている。谷崎論を書こう、そ れも「細雪」に焦点を結んで書こうと、もう、とうから私は考えていた。そして書き下ろしたのが、最初の評論集となった筑摩書房版『花と風』の中の「谷崎潤 一郎論」であった。谷崎の伝記で大きな仕事をされていた野村尚吾氏が、まったく新しい谷崎論の登場として評価して下さり、そのご縁は、のちのちのわたしの いろんな仕事によく作用した。

* ゲーリー・クーパーとオードリー・ヘップバーンの「昼下がりの情事」という見逃せない映画をビデオに入れなが ら、発想の作業の合間合間にブルース・ウィルスの名作「ダイハード」を見ていた。このみごとなテンポには惚れ惚れする。日本のドラマはこの快適なテンポの 嬉しさを、滅多なことで与えてくれない。「阿部一族」がいいテンポの凄いほどの悲劇であったが。

* 田原総一朗の番組で辻元清美を、野党、与党、本人にと語らせていた。辻元が迂闊な管理不行届をやっていたのは 確かなようで、それも時効に相当するほど昔の話になっている。まだ新米でウロウロしていた時期の事件でもあるらしく、さ、どう展開するか。彼女は小選挙区 の選出議員であるから、辞職すれば補選が必要になる。きれいに辞職して再立候補することが出来れば辻元は負けないだろうと思うが、辞職しないで頑張ってみ るのも面白い。辻元の責任は責任として、少なくも明快に事情説明して謝罪すれば凌げるのではないか、その上で、全く同様の、もっと故意に悪意をもって成さ れている不正の数々を暴いていくゲリラ戦もやればいい。少数野党なのである、ゲリラ戦も一つの選択だ。
 

* 三月二十五日 月

* こんな予告が息子のホームページに出ていた。
 なにも助けてはやれないので、宣伝に力を藉しておく。この演目は何度か繰り返しているだけに、かなり練り上がっている 筈。そして作者の力のよく入った相当な「問題作」であることは身贔屓なく言える。書き換えもあるらしく、安心してお勧めできる。
 不安定な水ものの業界で、幕が開くまで関係者は緊張の連続であろうが、無事に開幕し無事に千秋楽と願いたい。
 以下は、所属事務所でつくった惹句であろう。八千草薫主演テレビドラマのおまけもついている。はじめて音楽映画「蝶々 夫人」で八千草をみて惚れ惚れした大昔が懐かしまれる。このテレビドラマのことは、わたしは何も知らない。
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* 秦建日子プロデュース公演 vol.9「タクラマカン」日程&キャスト 決定!
 出演 大谷みつほ 遠野 凪子 他

タクラマカン――月明かりすらない嵐の夜、ぼくらは「あの国」目指して船を出す――   
ドラマ、映画、CM、グラビア、バラエティと八面六臂の大活躍を見せている大谷みつほを主演に迎えて贈る、秦建日子1年 半ぶり、作・演出公演。

 物語は、とある架空の国を舞台にしたファンタジー。
 世の中の矛盾や欺瞞と戦い、海の向こうのユートピアを目指す若者たちの青春群像劇。笑いあり、涙あり、アクションあり の、王道エンターテイメント。
 共演に、NHKの朝の連続テレビ小説「すずらん」のヒロインを演じて一世を風靡した遠野凪子。秦建日子舞台作品で数多 く主演をつとめてきた築山万有美。井元工治。倉本聰の新作舞台「屋根」の主演で注目された、納谷真大など。

 スタッフ&キャストのスケジュールの都合上、公演はたったの五日間。しかも東京公演のみ。 どうぞお見逃しな く!

< 公演名 : タクラマカン >

出演  大谷みつほ 築山万有美 井元工治 松下修 納谷真大 白国秀樹 中島一浩 せきよしあき ★遠野 凪子 他

作演出プロデュース : 秦 建日子(はたたけひこ)
演出助手 : 加藤綾子  舞台監督 : 中田敦夫  照明 : 新井富子(あかり組) 音響 : 吉田誠 (NATURAL)
殺 陣 : ジャパン・アクション・エンターテイメント

劇 場 : 新宿アイランドホール (新宿駅西口)
日 程 : 2002年6月19日(水)- 23(日)
開 演 : 平日19時。土曜日14時/19時。日曜日13時/18時。全7ステージ。 開場はすべて開演の30分前。
料 金 : 全席指定・前売4000円/当日4500円。
発売日 : 5/19(日)
プレイガイド :チケットぴあ 03-5237-9988  CNプレイガイド 03-5802-9999  ローソン チケット 03-553
7-9999  03-5537-9955  イープラス 03-5749-9911
お問合せ : エム・エー・フィールド 03-3556-1780
                   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
* 秦建日子脚本作品 フジテレビ 金曜エンターテイメント 「城下町サスペンス 姫さま事件帖2」 4/17 夜9時 よ
りオンエア! 出演 八千草薫
                    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
* 6月の舞台、キャスト決まりました。
 大谷みつほ&遠野凪子とは、いずれも初仕事。(遠野凪子は「編集王」のゲストに出てくれたけれど、残念ながらぼくの脚 本の回ではなかった) そして、ふたりとも、小劇場系の舞台も初。
 誰だって、初めて新しいジャンルにチャレンジするのは不安じゃないですか。その初仕事にぼくの舞台を選んでもらえて、 正直とても嬉しいです。演出家冥利につきますね。
 とにかく「圧勝」の舞台を目指して頑張ります。稽古場の様子など、この「ホームページ」で紹介していくつもりです。

* 舞台はうまくすると「圧勝」の可能性がある。二人の女優はよく知らない。

* ミマンの連載で、川崎展宏氏の筍の句を読んでいて、まだ少し早いが、掘りたての筍飯が食いたくなってきた。原 稿はもう送った。

* 宇田伸夫氏の「新羅花苑」は、唐と三韓にも舞台をひろげた国際小説になっている。文学的な香気は望むべくもな い通俗読み物であるが、そつなく面白く話が運ばれている。読ませる。
 日本列島に日本人が一人も居ない印象を受ける。出てくるのは高句麗人、新羅人、百済人と自覚した宮廷人ばかり、それが 「日本」の朝廷なのである。そんなことに眼くじらさえ立てなければ、史実は史実を巧みに踏まえてある。隅におけない。へんな喩えだが、日本人の会社だと 思っていた会社の構成メンバーが、顔も名前もそのままで、実はみな三韓人として日々を送っている、そういう「理解」の読み物である。
 そういう気味は、いくらか歴史的にあったにちがいない。言葉も不自由なく半島語のあやつれた大和朝廷であったろうと、 それはそう思わないと理解しきれない歴史の場面が幾つも考えられるからだが、「主と客」といういい方をすれば、大化改新の頃には、もう、やはり「日本」と いう国に「客」として「今来」の渡来人も混じっていたと、ま、そう思ってきた。蘇我氏はまったく百済人、天智も天武も弘文もとまでは、考え進んでいなかっ た。しかし彼等が百済贔屓なのはハッキリしていて、だから百済救援に無理に遠征し、白村江で新羅や唐に大敗してくる。
 こういう歴史を、ほんの子どもの頃に、なにかうまくまとめた歴史読み物で興味深く読んでいた。わたしは、朝鮮半島にも 半島の人にもとくべつな思いは持っていない、が、小さい頃に三韓物語を読んだりしていた朧ろな、しかし手強い印象が、たとえば井上靖先生の「風濤」を高く 優れて感じる読書などへと繋がっている。

* 「平治物語」では左馬頭義朝が敗退し、藤原信頼はざまもなく死刑された。清盛が、すべて黒ずくめの出で立ちに 兜だけは真っ白に輝かせ、大将軍の風格で決戦の場に出てくる。源氏は潰えてゆき、日の出の平家が印象づけられる。
 「平治物語」は軍記物としてなかなか優れた風味を示している。「平治物語絵巻」は有名で、一部が切手にもなっていた が、あの清明華麗な印象を静かにこの古典は秘めている。

* だが何がといえば、やはり毎夜のバグワンに心身を沈ませゆく時が、有り難い。枕元に、いま、本が二十冊ほど置 いてある。「曾我物語」に入る前に「住吉物語・とりかへばや」が配本されると、気持ちはそれへ奪われてしまいそう。

* 昨日今日と血糖値は九十、八十台で落ち着いてきた。昨日、花見に歩いてよかったのだろう。
 

* 三月二十五日 つづき

* しばらく連絡の途切れていた遠いところの読者から、ほっと一息のメールが来た。この人のところへも、時代の 「痛み」が忍び寄っているようだ。遊び半分のような政治はほんとうにやめてほしい。わたしの湖の本にも、明らかに不況の「痛み」が反映している。本は受け 取っても払い込んでくれない人が、今回、偶然でもあろうが、かつてなく多かった。作品と本そのものが一人歩きしてくれれば、経費回収に必ずしもこだわらず 本はひろく撒いて、いや種播いて送ってきたが、ま、ひどい数字があまり続きすぎると維持しにくくなる。この一年、殆ど無収入に近い仕事ぶりだが、それは、 いい。過去の奮励努力でさきざきも生活に不安はないが、政治の「痛み」で生活の気力まで弱らせられては叶わない。

* 御無沙汰しておりました。
 わが家の近所でも、白木蓮の早春を楽しむ間も無く 桜がマッスルに咲き誇っております。先生宅のお庭もさぞ賑やかなこ とでしょうね。
 新年より仕事をもう一つ別にもつ事となり慌ただしく過しておりましたが、二月に、念願の琵琶湖周遊の旅に出かけて参り ました。京都で伊藤若沖を見るのが目的でしたが、突然の吹雪にあった湖北の出来事が印象深く、運転手の彼も後になって『あれは 危なかったねぇ』と互いに 無事を喜びました。竹生島に高速艇で向かう時も黒い湖面に風花が舞う様なお天気でしたが、二人とも気持は晴々としておりました。
 実は、二人のお墓を決めたからです。
 どちらからともなく決まったことで、最初にきっかけを頂いた《畜生塚》の瑞泉寺に どちらが先に逝っても訪ねて行こう ね..という約束は、人生に消極的なようですが深い慰めになりました。
 不況の時代のせい?もあるのでしょうか、私には独りで生きにくい状況が続いております。そんな折り、頭で考えるには申 し分ない縁談がいくつか有りましたが結論が出せずに母を心配させております。もう少しこのまま このままと 引き延ばすうちに早くも桜の季節となりまし た。あまりに早い桜の開花が不安になるのは私だけでしょうか。
 今、深く「町子」の気持を探っております。
 時々O.ワイルドの幸福の王子の童話を思ったりもします。私の中では南国に行きそびれた燕がずっと主役だったのです。 燕に家族は居なかったのかしらん、などと 可笑しいでしょう。 のこ
 追伸 花粉症は大丈夫ですか?

* 「畜生塚」は、京都の三条木屋町にちいさな門をあけた瑞泉寺内にある豊臣秀次とおびただしい妻妾子女の三条河 原に斬られて果てた墓むらの称であり、わたしの小説の題でもある。「町子」は、作者が小説創作において、初めて心から愛した女主人公の名で、シナリオ研究 所に学んで直後に書いている。そして最初の私家版に、歌集「少年」などとともに収めた。まだ三十前だった。のちに手を入れ「新潮」に発表し、桶谷秀昭氏に 称賛されたのが懐かしい。立原正秋も褒めていましたよと人に聞いた。だが、「深く町子の気持を探っています」と若い人に真剣に言われてみると、胸の奥から シンとしてくる。幸せであって欲しい。

* 静岡で入院生活の、押し掛けデシだった九十過ぎ石久保豊さんのはがきも届いた。愁眉をやや開いたものの、退院 して帰れる先が無いと聞くと、やはり、胸のへこみそうな悲しみを覚える。

* 寅さんと十朱幸代がマドンナ役の「男はつらいよ」に笑いながらほろっともして、かなり発送用意が前に進んだ。 安心までには、もう数日かかる。東工大の花はもう散り際であろうか。

* 恒平様  心温まるご歓待にあずかり感謝に堪えません。
 十数年ぶりに叶った再会の刻と、心に残る懐かしい語らいを反芻しながら、やがて終の住処と思い定めたかの地へ帰国の途 につくことになります。
 昨日今日と、自分を生み育ててくれたこのまちに刻まれた人生の原点を確かめる思いで、古都逍遥を続けております。
 ひたすらに奔走するというのではなく、時に、ま、わき目をふりながら、しかし粘り強く作家活動にご精励なさいますよう に。ご健勝を祈る心をわが身にもふりあててまいります。   京都発 つとむ

* 「ひたすらに奔走」と人目にはうつるかも知れないが、わたしの日々は、「ひたすらにわき目」でもなく、つま り、したいことをしたいように一心に励んでいるので、自分の気持ちからみて不自然なことはしていない。「電子文藝館」にしても、これほどわたしにハマッタ 仕事はなく、ただもう楽しんでいる。楽しみすぎていると云われれば、そうかも、バグワンの言葉をかりるなら、「文藝館」にしても「湖の本」にしても「ホー ムページ」にしても、むりやり奔走的に「行動」しているのではない。腹が空けば飯を食うように、嬉しいことが在れば悦び、嫌なことが在れば怒るように、た だ真っ当に「行為」しているだけなのである。しなくて済むようになれば自然にやめるだけのこと、腹が膨れれば喰わなくなるのと同じである。
 

* 三月二十六日 火

* 辻元清美議員の不始末が、残念だ。はっきり謂って鈴木宗男の売国に近い巨悪や、加藤紘一秘書のやらかしていた 巨悪に比すれば、微罪だと思う。微罪だから許されるという議論は成立しないが、おかげで鈴木宗男の名前は吹っ飛んで、消え失せたように現れなくなった。そ れが口惜しいし、よくない。辻元の悔しがる気持ちが分かる。ああいう議員こそ国会に置きたいと、わたしは、贔屓目で思っているのを此処にも隠さない。まず いなあ。苦虫をわたしは噛んでいる。

* いよいよホームページのリニューアルに手を着けたい時期が来た。部分的に用意は出来ているが、思い切りが容易 でない。
 

* 三月二十七日 水 雨

* 兜町の正一位鳥居稲荷社のおとなりに、日本ペンクラブの新しい根拠が出来た。自前のビルである。一滴の滴の形 ににた、多焦点円形の斬新で明るい設計である。その竣工祝いを理事会と報道陣とでしてきた。中へ入って、ここちよい環境で、乃木坂の、ホテルの三室の事務 室とは格別の、四階建て。大きな借金もせずに、自前の積み立てで出来た。思わぬ事もあり赤字も出ているが、カバーの不可能なほどではない。井上靖会長の意 向から、実現など夢と思いつつ積み立ててきたものが成就したのだから、ペンの歴史では、ともあれ、画期的なことである。財政難だというのに、贅沢なといえ ば贅沢なシロモノとも言える。ま、その程度の感想で済ませておこう、所詮建物は建物、日本ペンクラブの「質=クオリティー」とはべつものである。あまりや いのやいのと嬉しがることではない。
 で、観るだけ観たら、わたしは、ビールで乾杯のあと抜け出て、お稲荷さんに詣でてから、今日ここまで来た一の眼目、ご 近所の坂本小学校を観に行った。
 坂本小学校、これぞ谷崎潤一郎の通った小学校だ、初めて見参した。もとの山種美術館からこんなに近かったなんて、知ら なかった、気付かなかった。むろん校舎など潤一郎の少年の昔とはまったく違うはずだが、場所は同じ此処ではないかと思われる。雨の降りしきる校庭、その脇 の公園には桜がたくさん咲いて雨に濡れていた。それまでもが懐かしかった。そうか、そうか、ここかと、独り言を言い云い、学校の人に許可を得て、運動場ま で出て、しばらくぼうっと佇んでいた。急に、このすぐ近くに日本ペンの新館の出来たまでが嬉しくなってしまった。(三好徹副会長が、初めて活字になったと いう、いわば三好さんの根の作品を文藝館に出してくれるという話の決まったのも、有り難い。)
 山種美術館にはよく通っていた。来ると、そして見終えると、一つ脇の小路の奥の、鰻屋へよく入る。うまい鰻でうまい酒 を飲む。この店は、昼休み、株屋勤めの人が昼飯に来る。株の景気が悪いとすいていて、景気がいいと混む。店の人がそう云っていたのも覚えている。東工大の 学生達を三四人もつれて、山種美術館へ来たあと、やはり、ここへ寄って盛んに喰って呑んだ日もあった。坂本小学校は、山種から通りを向こうへ渡って、ほん の少し歩いた通りの、奥に在った。とにかく感激した。嬉しかった。

* 雨ははげしく降った。花とは別れの雨足と惜しまれたが、それでも、美しい花の濡れ色を幾らも目にし、傘をしっ かり握って傾けながらも、気持ちは静かにくつろいでいた。楽しんでいた。
 出がけに届いた「日本画」に関する京都での鼎談原稿に最後の目を通したりし、しばらくぶりの外出が雨に降られたのは惜 しいが、夕方には晴れて明るみ、わたしは、のんびりした気分で家に着いた。

* 家でも気の晴れる嬉しいことが幾つかあった。福田恆存先生の名作戯曲「堅塁奪取」を、奥様に、戴けないでしょ うかとお願いしていたのへ、お許しが出た。文藝春秋の方でも許可が出たらしく、と云うことは、きっと寺田英視氏の厚意であろう、有り難い。
 「招待席」の鴎外、露伴、一葉原稿に、余儀ない化け文字二箇所のほかは誤記脱字の見つからないと云う倉持光雄委員の通 知も有り難かった。どの作品にも満足されていた。
「こういう『招待席』の作品を読んでいると、森鴎外の『冬の王』の台詞ではありませんが、『どうも此頃の人の書くもの は』と、言いたくなりますね」とは厳しいお言葉だが、自分のことは棚に上げても、そういう感想も出てくれることをつよく意図して、文豪達にもお出ましを願 うのである。
 「電子文藝館」について原稿依頼が、帰宅後、大手の新聞から来た。短い量だが気を入れて書かねば。

* 千葉の勝田貞夫さんが、作品年表づくりに表枠をつくり、そのまま表の中へ必要事項を書き入れ書き分けて行きな がら、しかも幾らでも増殖させうる、大きさも拡大したり出来るものを、わたしの為に作り出して下さった。数次の試行錯誤の末に、融通の利きそうな佳い 「表」枠が出来、メールで送られてきた。開いてみると一太郎で表が書けるようだ、これは多年の願望であった、「手書きで表づくり」はじつに大変。これは、 すばらしい。感謝感激である。
 勝田さんは、若きエンジニアではない、わたしと同年のお医者さんである。自称E-OLD仲間であるが、わたしにはこん な傑作!!はとても創れない。たいへんなおじさんである。

* ひょっとすると今夜にも建日子が来るという。これも嬉しい。朝日子もいっしょなら、どんなに佳いだろう。
 

* 三月二十八日 木 晴

* 明治座での「伝統芸能の若き獅子たち」のBS放送、遅ればせながらビデオで。
 タバコは美声に障るゾ、(大鼓打ちの)広忠クン。
 今の<伝芸>美青年人気に、芸能当初の有様を想います。伝統芸能に無縁だった若い女性が、たまたま見た 「文楽鑑賞入門ー人形ー」に映った玉男さんの弟子、吉田玉翔クンに一目惚れして、さっそく彼のサイトにアクセスしたという話を友人から聞きました。
 昨年、雑誌グラビアで見た(落語の、桂)文枝さんに一目惚れした雀。ヘンかなァ。

* 藝能当初を探るのは容易でないが、能ははやくから男の藝であった。歌舞伎はそもそも出雲於国というぐらいで、 女が活躍しながら、風俗的な禁令から野郎歌舞伎になり、役者買いといえば、絵島生島の事件のように女が歌舞伎役者を贔屓にしたのであった。雀サンはその辺 を囀っている。これは謂えていて、そんなに今今のはなしではない。宝塚の男役に女の子達が騒いできたのの、ほんの普通の裏返しではなかろうか。もっとも囀 雀サンの「文枝」好きは渋い。文枝は、わたしの、秦の養父の若い頃に、生き写しではないかと思うほど似ている。そしてもう高齢であり、広忠や玉翔の父親な みである。

* 主人が、帰ってきて、「会社を辞めた」と言いました。もともと自己都合でなくリストラですから、会社側は次の 会社を紹介し、その会社も交えて、60才までの給与交渉も済んでいました。さまざまな書類を書き、最後の書類に判を押すだけとなった時、自分から全てご破 算にしたそうです。堪えて堪えて、ついに、という、よく分からないけれどそういう心境らしいのです。事務職の父はOA化で、製造技術職の主人は構造改革 で、同じ54歳での退職。

* こういう痛いメールも届いている。どうなる此の国。

* 鈴木宗男、加藤紘一と辻元清美を、なにがなんでも「等しなみ」にやっつけている一部新聞の姿勢や週刊誌を観て いると、これだから今の新聞はダメなんだと嘆かわしい。法違反は辻元にもあったようだが、わたしは悪の大小をいうのでなく、また悪の質差をいうだけでもな く、こういう新聞論調の結果行き着くところが、相対的に鈴木や加藤の擁護に、「うやむや」にはたらいてしまうところが問題だ、意図が其処にあるかと疑われ てくると云いたいの。辻元は、ま、潔くやめた。だが鈴木はどうか、加藤はどうか。何一つ明らかにならないまま、明らかにしないまま、自民党は「済んだこ と」などといっている。離党した人のことを自民党としてとやかく言えないなどと詭弁を弄している。離党が党利党略だということを自民党が自ら暴露してい る。
 だが、辻元清美の政界再帰を期待する声は少なくないし、うまくすれば大勝ちして戻ってこれるだろう、わたしは期待す る。だが、鈴木宗男や加藤紘一は金輪際もう要らない。彼等は悪すぎる。
 辻元の場合、秘書制度の未熟もある、勉強や配慮の不足もある。しかし法律違反だと騒ぐことの欺瞞性もみすごしたくな い。容認するのではない、が、形式的に云えば法律や規則に違反したことのない日本人が果たしているか。多くが、必ずいろいろ冒している。赤信号でも渡った 人。横断歩道でない車道を横切った人。自慢ではないがわたしは何度でもやっている。気をつけてやっている。車が全く通らない信号のある場所で、青信号まで じっと待つか。待てば法律遵守で、待たねば法律違反というのは、形式的には当たっているけれど、それが生きた理解ともわたしは考えない。方は人間がつくっ た。法が人間をつくったのではない。辻元清美の間違えたことはこの程度のことだったと、過小化はしない。しかし、鈴木や加藤といっしょくたにする連中が、 なにかしらえげつなくタメにしようとそう発言するのなら、わたしは、あえて辻元「無罪」の側へ寄りたい。私腹を肥やしたと謂える問題でなく、形式的な法論 理ならば知らず、心情的には詐欺など決して成り立ちはしない。
 わたしは、形式論理での法優先統治になんか、心から賛成していない。利害をではない、まして権力の都合なんかではな い、個々人の人間味を生かすために穏和に運用されていい法であるなら、どんなに心豊かになれるだろうと思うのである。
 法には、必ず守らねばならぬ法と、ゆるやかに破られてもいい法とがある。こんなことを云うのは、かなり数多くの法が 「支配者都合」に出来ていて、国民市民個々人優位に造られていないことに強く抗議する気があるから、だ。これから強引に成立へ強行されてゆく「個人情報保 護法」「人権擁護法」その他も、「我々国民のための法」ではない、「官権や体制・政治屋」の都合が全面を被っているからだ。

* ペンの言論表現委員会で、弁護士の五十嵐二葉委員らの出席の際に、本気で希望し提案したことがある。
 日本国が造るすべての法律の名称に、例外なく「国民による国民のための」という宣言を角書きするよう「制度化」して欲 しい、と。日本国憲法も「国民による国民のための、日本国憲法」と名付け、「国民による国民のための、個人情報保護法」「国民による国民のための、刑事訴 訟法」「国民による国民のための、道路交通法」といった具合に、くどいようだけれど例外なくそうして欲しいのである。そしてこの謳い文句にふさわしくない 法文・条文は造らないようにしたいのである。
 そんなことは民主主義・主権在民の日本では当然だと、政府与党はうそぶくだろうが、それほど形骸化した口実はないので あって、何度も書いているが、「国民によらない、国民のためではない」「政権与党による、政権与党や官憲支配のタメの」法律が、目白押しに出来てくるでは ないか、現に、今の時節。
 このことを、よくよく考えねばならないだろう。
 こういう素人じみた発言も提案も、なかば玄人じみた通人や玄人さんには通りっこない現実のようだが、わたしのこの願い を分かちもつ人は、国民には少なくないように感じている。どの法律にも「国民による国民のための」と必ず角書きして何がいけないだろう。世界中に誇れるほ どの素晴らしいことではないかと、わたしは本気で考えている。
 

* 三月二十八日 つづき

* 夕食後、建日子と三人で、いや黒い少年ネコもいっしょに、わたしの大好きなキム・ノヴァク、ジェームス・ス チュアートの「媚薬」を観た。一種の喜劇であろうが、リクツは抜きに、キムの美しさ、ジェームスの温かみに、気分が良くなる。せめて、やす香やみ ゆ希ら、大きくなっているだろう孫娘達ともこのように過ごせる時間が、いつか持てればいいのだが、老耄しないうちに。

* 「電子文藝館」が、着々と水嵩を増してゆく。露伴と鴎外を、本館「招待席」に迎えられるところへ来た。一葉も 二葉亭も、すぐに。透谷や独歩も、また浅見淵のも、もうすぐ送稿する。そして新原稿続々と、またまた、日々追われてゆく。
 久間十義氏の「海で三番目につよいもの」を、すでに途中まで掲載していたが、最後までスキャンし、妻が初校してくれ た。あとはわたしが読んで、入稿する。久間作品に執着したのは、作品がいいからだ、若い三島賞作家の処女作にちかいらしいが、得難いのは文章の清明なよろ しさ。こういう現代的で軽快で整った文才には、そうそうお目にかかれない。木崎さと子さんの「青桐」とともに、かなりの量になるが、頑張ってスキャンし た。校正もした。時間がかかったが、佳い作品を送り込めるのは嬉しい。
 紀田順一郎委員からも、「南方熊楠」にかかわる評論原稿が届いた。紀田さんのディスク原稿である、形だけ整えてそのま ま入稿できる。もう二本べつに届いており、さらに福田恆存戯曲が手元に届くことになっている。
 校正はほんと難しい。完璧に行かない。

* 新アドレスでごあいさつ  ホームページを拝見しています。先生の広く大きな宇宙に 吸い込まれて行くような 喜びで読ませて頂いています。思索に触れる このような素晴らしい(一部には辛い気持ちで読む部分もありますが)世界が開かれているのを識るにつけても  もっと早くパソコンに慣れるべきだったと大いに悔やまれます。ご創作はもとより多方面でのご活動ぶり 驚嘆、感心するばかりです。私はいま 時間が余る立 場になってきました。退屈はしませんが つい怠惰に過ごしがちです。もっとキチッとした目標を決めて日々を過ごすべきと自戒しています。
 昨年は東工大の折りから満開の桜をご案内いただき また 長時間に亘ってお話を伺うことができ嬉しゅうございました。 改めてお礼申し上げます。三十年前 保谷の駅の陸橋からお手を上げてご挨拶いただいた あの時の感動が重なるように思い出されました。
 中性脂肪とか 尿酸とか嫌なものが増えています。僅かな酒 中々すぱっとは止められません。先生も 糖尿のご心配 お 体どうぞおいといなさってください。
 メールアドレス このメールのように決まりました。大きい画面で見やすくなりました。前のアドレスは解除しました。
 間もなく京都の創画展 「ひさご」で昼をすませ 絵を見て 少し京を散策 春秋この行動、定着しました。
 また メールさせていただきます。 

* まさしく三十年の友であり読者である人からの、すこしこそばゆいほど嬉しいメールであった。いままでは、奥さ ん名義のメールであったから、めったに受信も無かった。いいご隠居になられているはずだ、懐かしい。

* 文字コード委員会の第二期が終幕で、委員意見を最後に出すことになり、ずっと代理出席して貰っていた電子メ ディァ委員加藤弘一氏に意見書案を書いてもらい、わたしも補足し、委員会了承のもと、連名で、「日本ペンクラブ」からの委員意見とした。広く問題提起した いので、此処にも敢えてかかげておく。

* まず、異形字の必要を認め、異形字をふくむ情報交換の技術的基盤について真摯な議論のおこなわれたことに敬意 を表します。
 われわれは「払い」や「止め」といった文字の顕微鏡的な細部に拘泥しているわけではなく、微細な違いの異形字は枝番や フォント名、グリフ名のような補助的手段によって表現するという本委員会の結論に、基本的に賛同するものです。
 しかし、常用漢字表前文に「字体は文字の骨組み」とあるように、文字の骨格にかかわるような字体差まで補助的手段にま かせる解決法はあってはならないと考えます。
 たとえば、JIS X 0208および、その拡張版であるJIS X 0213では「間」と「&#38290」を同一の符号に包摂していますが、このような包摂はとうてい容認できません。
 また、JIS X 0208では「飲」と「飮」に別の符号をあたえて区別していますが、「蝕」、「館」、「飢」なども正字と通用字体を区別できてしかるべきです。
 現状の文字コードは粒度(包摂の範囲)が大きすぎる上に、右の「食」偏の字の例に明らかなように不揃いです。
 ISO 10646は粒度がJIS X 0208やJIS X 0213よりも細かい点は歓迎しますが、粒度の不揃いも、一層はなはだしくなっています。
 ユニコードが新たな標準になりつつある以上、ユニコードの粒度をもっと細かい粒度に合わせて均一化することを要望しま す。
 フォントの実装についても、つよい要望を書きます。
 「日本ペンクラブ」ではインターネット上に「電子文藝館」を開設し、島崎藤村初代会長をはじめとして、物故会員および 現役会員の代表作を無償公開していますが、MacOS9までのマッキントッシュはJIS X 0208の範囲でしかフォントを搭載していないために、ユニコード使用に踏みきることができません。
 アップル社は早くからユニコード対応をうたっていたにもかかわらず、最近の機種までJISX 0208の範囲のフォントしか載せていませんでした。これはあまりにも不誠実な態度ではないでしょうか。
 アップル社は旧機種ユーザーのために、機械の不得意な人でも容易にユニコード・フォントがインストールできるような手 段を、無償で講ずべきです。
 また、マイクロソフト社とアップル社の間で、搭載するグリフに数千字の異動があるのも、インターネット上で表現をする 者にとって重大な障害となっています。BMPに含まれる漢字2万7千字をすべて搭載するよう、強く要望します。
*
 ついでながら、「日本ペンクラブ電子文藝館」はすでに百人百編ちかい作品を公開し、「招待席」の森鴎外、幸田露伴、樋 口一葉ら、「物故会員」の谷崎潤一郎、与謝野晶子、吉川英治ら、そして志賀直哉、川端康成、井上靖、遠藤周作ら「歴代会長」さらに多彩な現代各種受賞作家 等の秀作力作を含んでいますが、それらの、「発信」に於いてでなく、広範囲な不特定機器による国内外「受信」に於いて、信じられぬほど多くの化け文字を露 呈し、余儀ない苦しい対応を日々に迫られています。
 こんなことで、良いわけはないのです。
 表現に於いて「双方向で安定した正確な受発信」でなければ文化的に意味がない、「いくら文字セットに文字を満載し標準 化してみても」、受発信間で確実に再現し合える搭載漢字数が極端に限定されてある限り、こういうウェブ事業を現実に起こした場合は無残なことになるだろう と、発言し続けました。だからといって例えば「電子文藝館」様の文化事業自体を不用とか時期尚早とか批判し非難することは出来ぬ道理であります。
 文字の搭載・実装にどれほど隘路があるかを承知の上で、これこそが「表現者」団体の痛く不足・不十分を感じている困っ た現実であり、前段に述べた「要望」が、単なる口舌でないことを強く広く訴えたいのです。
 われわれに何が出来るのか、今後をよく考慮し、他団体とも協調したいと願っています。

* 三月二十九日 金

* 宛名印刷を終え、封筒にハンコをおし、宛名を貼り込み、間違えぬように挨拶のスリットを払い込み用紙と一緒に 封筒に差し入れて置く。これをやっておくと、荷造りの時の能率がとてもいい。今日はおおかたそういう仕事に宛てたが、一気にやるより、分けて三日ほど掛け てするほうがラクで能率もいい。十六年もやっていると、ノウハウが身に付いている。久間氏の小説を読んだり、寄稿会員の原稿を整理したり、晩には地球上各 地の信じられないほど美しい自然の写真を堪能したりしながら、作業を捗らせていった。
 夜、息子がすこしだけ「関わった」けれど、だから「脚本」として名前も出るけれど、実際は「ほとんど触っていない」と いうテレビドラマをみかけた、が、すぐ映画「ダイハード」3に、切り替えた。「お気楽主婦」三人のドタバタぶりは、視聴者もそうだが、女性そのものをバカ にしていないかと懼れるほど、例の浅野ゆう子らの薄さ、軽さ。「ダイハード」もこのバージョンは、1や2にくらべるとあまり気乗りしないものと分かってい たので、途中で退散して、それより久間氏の小説を読み継いだ。

* 今朝は、明け方四時半ころまでかけて、宇田伸夫作「新羅花苑」を読み上げた。「百済花苑」の三倍ほども長い。 大化改新から、古人大兄皇子らの殺戮、蘇我山田石川麻呂らの殺戮、有馬皇子の殺戮、孝徳天皇の窮死、斉明女帝の死と白村江の大敗、百済の滅亡、中大兄皇子 の称制から即位、そして鎌足が死に、天智天皇も死に、壬申の乱による弘文天皇の敗死と天武天皇の飛鳥還都までが、唐や三韓の政治的推移も大きく含めつつ、 書かれている。だいたい知っている史実がなぞられているので、「百済花苑」での新鮮な衝撃はもうなく、歴史のおさらいをした感じだが、日本が、まだ日本に 成る前のいわば「三韓コピー環境」として徹底的に我が国当時の宮廷や王族貴族らの社会が書いてあることでは、特色のある歴史読み物と言える。かなり刺激を うけて読んだのは確かである。いい作品かとなると、首はタテにふれないが、少し役に立つところがあったと謝意を表しておく。

* 「平治物語」は下巻にはいると義朝が平賀に浴室で騙し打たれたり、頼朝が苦労して命が助かったり、常盤と牛若 丸ら三人の幼子が悲惨に逃げまどう。みなおなじみの話で、「平家物語」への助走物語のようになる。平家と平治とどっちが先に物語化されたかは微妙である が、事実問題として、保元・平治物語があるから、平家物語は平家に徹し得た。もっとも「平家物語」も「源平盛衰記」という大きな唱導基盤や変容と関わって いる。平治物語のアトへ、「義経記」に前後から抱きつかれたようにして「平家物語」が在るのだとも、一面、言えなくもない。そんなことを云えば「曾我物 語」は源頼朝の平治以後を書いて、これまた「平家物語」を平家だけに純化させるための援護をしていると言えるだろう。
 とにかく、ややこしいようで、また妙に割り切れた前後関係の創られてあるのが、軍記物語成立史の面白さだ。わたしのよ うな素人はそう受け取っていて差し支えない。

* 終日、よく降っている、花くたしの強い雨が。
 

* 三月三十日 土

* 一日中を費やして、およそ九割八九分まで発送用意が出来た。もう刷り上がって「一部抜き」も届いている。今日 は温かい一日だった。明日はまた冷えて雨とか。
 先日の保谷野散策時の桜の写真が出来てきた。佳いのが何枚も撮れていて、アルバムに貼られたのを三枚続きで見ると、満 開の大樹が白雲の青空へ湧き上がるように花を噴いていた。

* 作業しながら、昼にはトム・ハンクスの「プライベート・ライアン」に感動した。夜はジュリア・ロバーツとデン ゼル・ワシントンの「ペリカン文書」を、もう十度も見ているだろうに、緊張して、面白く見た。ま、見たと云うより聴いていたのだが。いい映画だ。「プライ ベート・ライアン」にせよ「ペリカン文書」にせよ、これほどの映画作品なら、どんな端役で出た人でも誇らしいであろう。作品とはそういうものであらねばな らぬ。
 わたしが、作品というのは、AとかBとかいう結果そのものを謂うのではない。それは「作」なのだ。「作品」とは、その AとかBとかの「作」が身に体し帯びている「品位」という意味、「気品」という意味だ、「作品」があるかないか、それが問題なのだ。優れた作には作品があ る。優れた人に人品や気品があるように。

* 志賀葉子会員の「戦争と教育」と題したながい論説を読んだ。戦前から戦後まで、いかにして日本が戦争にやぶ れ、それが果たして軍部だけの独走や責任であったろうか、「我が青春に悔いあり」と、克明に歴史的な経緯を、一女子教員であった体験に徴しつつ淡々と、し かし気力をこめて具体的に書かれてあり、感銘を受けた。1921年生まれの方である。わたしよりも一回り以上も年輩の作家。こういうものが「電子文藝館」 に掲載できることは意義深い。大勢に読まれたい。

* 小泉首相が「米百俵」の話で持ち上げられていたが、志賀さんの原稿の中には、「米四粒」の実話が出てくる。南 島死守の日本兵の、ついには「一日に米四粒」しか食べ物が配られなかったこと、内の一人分の米一粒が半欠けであったため、自分には「三粒半」しか呉れない のかと深刻な喧嘩になったという、九死に一生の帰還兵の告白を紹介しているのだった、こういうことも、もっと知られて佳い。

* 久間氏の長編小説も、佳境を、すっきりした感じで進んでいて、あと三十頁ほどで読み上がる。

* ご無沙汰いたしております。お元気ですか? 先週初め、九段の法務局に行きましたら、すっかり桜が咲いていて 驚きましたが、それからあれよあれよと言う内に、当地のお堀の桜も開きました。
 四月一日にまた三人がデンマークから里帰りで、楽しみですが、あれこれその前にもう私はダウン状態です。
 どうぞお元気で、お気が向かれたら、お遊びにお運びください。

* なかなか東京を離れて旅をさせてはもらえない、すっかり東京人になってしまった。
 

* 三月三十一日 日

* 某「週刊誌」が、辻元清美を「女ムネオ」と報じている話を漏れ聞いて、うんざり。週刊誌というものの荒廃感覚 を疎ましいと思うしかない。こんな報道をするから報道規制ももっともではないかと市民が官憲の尻をおす結果になる。
 辻元清美を「女ムネオ」と感じているどれだけの人がいるだろう。社会党=社民党潰しの久しい歴史が、終幕を迎えている ように思われる。これは日本の崩落を告げる一兆候以外のなにものでもない。

* 北村透谷、国木田獨歩、浅見淵、紀田順一郎、志賀葉子、平林朋紀そして久間十義各氏の作品を入稿した。田山花 袋の作品をスキャンすべく用意した。徳富蘆花の作品をスキャンした。

* 「平治物語」を読み終えた。「曾我物語」はたんなる仇討ちものではない、赤穂浪士の討ち入りや荒木又右衛門の 敵討ちなどもともども、時代の変遷に伴う「公と私」との暗い烈しい葛藤が底籠もっている。曾我兄弟の話はかなり陰気に重いのだが、おかしいことに、曾我も ののバラエティーは、歌舞伎などに満ちあふれて、華麗な祝祭的高揚をみせている。あの「助六」も曾我兄弟の化けたもの。「対面」も。他にもいっぱいある。 能にもある。
 小さい頃、わたしは曾我兄弟の話には惹かれなかった、なぜか本能的に避けたい気分であった。今でも、さ、読もうか、べ つのものにしようかと迷っている。「住吉物語」は典型的な継子イジメだし「とりかへばや」は性倒錯の話である。もう王朝物語と謂うより鎌倉時代の匂いに染 まった改作物語だ。わたしはもともと鎌倉時代が苦手だった。南北朝をくぐりぬけて室町ごころが横溢しはじめるといつもほっとした。戦国時代を暗黒だとは思 わなかった、鎌倉時代の方がよっぽど暗いと感じてきた。曾我兄弟の物語はその鎌倉的な暗さに染められている。

* 田山花袋を「招待席」に招じるのに、どの作品をと迷ったが、名作「田舎教師」「時はすぎゆく」「百夜」などは あまりに長い。やはり文学史的な意義から「蒲団」と決めた。この作品が好きだからではないし傑作とも思わないが、文学史的にはとほうもなく大事な要石とし て評価され、その後の「日本型の私小説」の出発点にされてしまった。それは一応の事実であるが、まだ議論は動いている。「蒲団」を「電子文藝館」で記念碑 として保存することにしよう。もう殆ど読む人も無くなっているだろうだけに。

* やっと散髪できた。千葉のE-OLDさん、わたしを引き離して、どんどん高等技術へ進んでゆかれる、そのお裾 分けの恩恵にあずかりながら、自分の進歩の無さに苦笑してしまう。喫茶店「ぺると」のマスターもまた懸命にわたしのホームページのために智慧を絞ってくれ ているのに、なかなか、それが技術的にわたしに受容できず、モタモタしている。本の発送を終えてからのことだ。