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    宗遠日乗  


  平成十三年(2001)十月一日より大晦日まで。


 

    宗遠日乗  「十」

       
闇に言い置く  私語の刻   



* 平成十三年(2001)十月一日 月

* 徳田秋聲作「或売笑婦の話」の校正を終えた。秀作 と謂うに何のためらいなく、散文による文学の藝術的達成とはこういうものかと嘆賞を久しうする。底知れず寂しい読後でありながら、胸は静かに洗われて、そ こに溜まる清水は澄んでいる。人情話として噺家が話しても成る題材であるが、そのような落ち付け方ではなく、あくまでも人間の、生きている哀しみに視線が 注がれ、強いて解決を与えようとしない。解決のつくことなど、そう有るワケのない人の世なのだから。
 日本文学の一方に泉鏡花の文学を置くなら、対極に徳田秋聲の文学をと思う。この二人は共 に金沢から出て、前後して尾崎紅葉の門下生となり、愛憎こもごものライバルであり、お互いに理解者であったろうとも想う。表現し到達した日本語は、まった く質を異にしたものだが、甲乙なくたとえようなく光り輝いている。文豪と謂うにふさわしい。

* 昨日の高橋尚子のベルリンマラソン、世界最高記 録、初の二十分割れはすばらしかった。やや人手のかかった不自然さもあったけれど、高橋に走れる力がなければ出せる記録でなく、本物の実力である。同じこ とはマリナーズのイチローにも言える。ものの憑ったように活躍している。日本でも卓越していたが、その日本でよりも遙かにすばらしい成績をアメリカの大 リーグで挙げているのが、すばらしい。誰の助けも受け得ない中での実力であり舌を巻く。不調かなと思った松坂大輔もきっちり最多勝を確保したというし、野 茂も大リーグ投手としては三振奪取王といい勝ち星といい好成績を残している。いまどき、掛け値なくすかっとした気分にしてくれるのが、スポーツだけとは、 これは情けない。

* 「リーサルウェポン4」は、前三作に劣らない面白 さであった。
 愛妻を死なせて自殺願望にも悩んでいた刑事役メル・ギブソンが、いま心から愛する同僚女性役ルネ・ロッソの妊娠出産を前に、「結婚」の二字に 懊悩する心理を縦糸にし、成功している。妻の墓の前で亡き妻に切々と新たな結婚を問いかける夫の前に現われて、レオ・ゲッツ役が語る「蛙」の話は泣かせ た。あれで、びしりと締まり、おそろしく騒々しい過酷なバイオレンスの連続劇を、もののみごと、しっとり縫い上げた。おみごと。こまぎれで二度見直してい るが、楽しめる。ダニー・グローバーの先輩刑事が佳い。この黒人デカ長の人柄の美しさがどんなにこの映画を通俗からすくい上げているか計り知れない。
 昨日 昼間から来ていた息子と夜更けてコーヒーをのみ、彼が隣の仕事場へもどり妻も寝てから、ひとりで、この映画を、また最後まで見た。体力的な衰えを自覚しな がら難敵に捨て身で挑み行く二人の刑事たち。強いばかりのこれまでの作にひと味深みも添えた。

* ピュアーなものが、欲しい。自分から失われてゆく のがそれという懼れが、いつもあるから。だが、ピュアーとは、センチメンタルなものの意味でないことは、知っていなければならぬ。たとえば涙は、ピュアー の保証ではない。反射的な生理でもあり、涙もろさは何か価値あるものの保証ではない。お涙頂戴という批評語で人はそれに気づいてきた。感情のあふれやすい ことは、人の善さとは何の関係もない。涙もろいが酷薄な悪人もいないわけでない。

* 寝る前にかなりの長さ読みふけった馬琴「近世説美 少年録」の文章力に浮かされ、夢に馬琴調の文体で盛んに文章を書き募っていた。久しぶりの経験。むかし森鴎外の「渋江抽斎」幸田露伴の「連環記」などを読 んだ晩にも、文体が夢に渦巻いておそろしいまで興奮したことがある。

* 古今亭志ん朝さんの訃報。正当派の落語家。へつら わない風格が私のお気に入りでした。高座で一度も聴く機会はなかったけれど、その昔、若き頃に、珍しく浅草ものの舞台を観ています。美男子でした。二日前 の夕刊で朝日名人会に志ん朝の突然の病気休業で云々を読み、たった一日置いて今度は肝臓がんでの訃報を聞くとはショックです。歳もほぼ同じ、冥福を祈りた い。

* これからの噺家だったと思う。まだ、もう一つ余計 な肉が落ちなかった。大名人志ん生の薫陶をうけ、早く脱線していたテレビのドタバタから足を洗い、姿勢のいい噺家になっていた、惜しい。

* 泉鏡花についての頼まれ原稿を一つ、書き送った。
 

* 十月一日 つづく

* 親しい「詩人」の有り難いメールである。

* 『青春短歌大学 』を、ありがとうございました。
 タイトルの「青春短歌大学」という文字に、実はとまどっていました。秦さんの小説は好き ですが、今回だけはちょっと憂鬱でした。「青春」という言葉に、二度と繰り返したくない青臭い自分を思い出し、さらに苦手な「短歌」までくっ付いているタ イトルですからね。しかし、読んでみて驚きました。短歌は、やはり詩であり、しかも相当に深い心境まで表現できることを教わりました。
 「青春短歌大学」というタイトルにも理由があることが判りました。東京工業大学で、以前 「文学」教授をなさっていたことは存じ上げていましたが、その時の講義をまとめたものだったんですね。19歳や20歳の学生に一般教養として短歌を取り上 げていたわけですから、「青春」であり「短歌」である必要があったことを理解しました。「虫食い短歌」に私も挑戦してみました。これはハマリましたね。正 解率は50%ほど、短歌になじみがないとは言いながら、詩らしきものを書いている身としては不本意な結果でした。まだまだ詩が判っていないのだな、と改め て感じた次第です。ありがとうございました。

* 痛み入るご挨拶であった。
 少し驚いたのは、詩人による、「短歌は、やはり詩であり、しかも相当に深い心境まで表現 できることを教わりました」という、言葉。
 日本の詩の伝統はなんといっても和歌を基本に育ち、近代に入っても錚々たる業績が積み上 げられている。或る意味では近代詩のそれより層は厚いし質も優れている。影響力からすれば、近代の短歌や俳句は、現代詩より質的にも勢力は旺盛なのではな いか。藤村や晩翠や泣菫や有明の詩を読んで「感じ」られる人はもう払底しかけている、が、子規や晶子は生きている。左千夫・節、茂吉・赤彦・文明、また白 秋や牧水や夕暮や空穂や迢空や、ひいては佐太郎、斎藤史らに至る豊かな短歌の「詩的」表現には、和歌世界を乗り越えてきた力強い魅力がある。日本語の詩人 が真に底根ふとく豊かに詩の妙境をねがうならば、「短歌」「俳句」や、さらに「和歌」「歌謡」からの栄養をも、意識的に深く丹田に蔵してもらいたい気がす る。短歌的な詩や俳句的な詩がよいと言うのではない。文化の素養は分厚い方がいい、把握と表現をつよくするためには。

* あすは具合のわるいことに、同じ病院で、早朝に眼 科、午後に糖尿病の受診。一日がかりになる。もう十月かと、頭をかかえこむ。


* 十月二日 火

* 建日子が二泊して、仕事でまた五反田へ戻っていっ た。建日子が来ていると、話す時間はごく少ないが、心温かくわたし自身安心しているのが分かる。

* 緑内障をおそれよと医師の無表情にわれも無表情に 眼をあげて「はい」  遠
  緑内障は眼の癌のようなものと遠き日に『緑内障』を本に、編集者われは

* 数日前であったが、遅く遅く床について、ながい時 間読書の後、電灯を消したとたん、あ、緑内障かも知れないと直観した。それで、今日の、一年ぶり早朝八時半予約の眼科検診をすこし気にしていたが、視野テ ストが良くなかった。テストを受けながら、自分ではいいように思っていた。結果は両眼とも芳しい成績でなく、もう少しデータを増やしてから、投薬等の治療 に入る必要があるかもと、来月の診察日がきまっった。驚かなかった。
 午後の糖尿専科の方は、データはどれも安定し、たいへん結構と、例によって褒められた。

* 一病息災と思っていたが、余儀ない二病息災を考え るときに立ち至った。夕食をともにして行った建日子を心配させてしまった。 

* 眼科がながびき、十時半になったが、有楽町経由 で、上野の都美術館で一水会展を観てきた。フロアが三つ、たいへんな数であり、一階と三階だけしか時間的・体力的に観ていられなかった。観て欲しいと頼ま れていた、或る室内を描いた作品は、展示も優遇されていて、一見してわるくなかった。数多くの中で、わるくなかった。だが、とくに良くも感じなかったの は、終始コンポジションで作り上げた繪で、作者の、ヴィヴィッドな、何かに弾んで生き生きしたいい顔が見えてこなかったから。繪にすることに苦心惨憺して あるが、この繪を描くことが嬉しくて堪らないという顔を、繪が、していなかった。微妙だが、観ていて、作者にじかに触れて行けるような喜びが持てないの は、作者が繪を「作る」ことにだけにかまけているからだ。それではファシネーションは輝いてこない。

* 時計を見ながら、西洋美術館のれすとらん「すいれ ん」に入り、気に入っている閑静な内庭に向かいながら、特別メニューのコースを食べた。赤いグラスワイン一つ。そして中村光夫先生の「正宗白鳥」論をとて も面白く読んだ。十二時半がまわったころで、また午後診察を受けに聖路加病院に戻った。

* 病院を出てからは、いかにも「解禁」気分で、つま みものもなしに、一気に中くらいのジョッキを二つ運ばせ、生ビールを肴に生ビールを堪能したりして、街をうろつき歩いた。池袋まで戻ったら、無性に「仙太 郎」の店が覗きたくなり、東武地下に入り、ごく少しずつ幾いろもの和菓子を買ってしまった。それでも足りず、黄粉をまぶしたお萩を一つはだかで買い、ご機 嫌で歩き食いしてから西武線に乗った。
 家では、もう戻ってゆく前の建日子と夕食をいっしょにした。
 東大法学部長をされていた福田歓一さんから、『青春短歌大学』へ丁重なお手紙が届いてい た。毎度必ずお手紙を下さる。時には誤植を教えて下さる。前回は、「島田修三」という歌人の名前が出ていますが「島田修二」では、と。これだけは、二人の べつの歌人であった。そう返事したのへも、今回謝辞が添っていた。

* 作家高史明さんのメッセージが届いていた。この 際、ここに書き込み、伝えたい。去年の十一月にわたしは、高さんに戴いたメールにこう応じていた。高さんは、その一文も今日のメールに添えておられる。そ れから先ず書く。

* 高史明様   秦恒平
  このような回路でお話が出来るようになったのを、嬉しく思っています。実務的な手紙のほかに、ずいぶん話し合えるメールです。ホームページでも、闇に言い 置く感じでいろいろと書いています。書ける場がこのように手に入ったことも、私の場合は天佑の思 いでした。
 自分ひとりで書いているだけでは惜しくなり、広場を持とうと思いましたが、掲示板のよう なむやみな書きっ放しではいけないと思いました。こういう場が、少しでも文藝を培うに足る畑となれるならばと。
 ときどき、襲われるように不安になります。安心が得たいと戸惑っている自分をもてあます ことがあります。育ててくれました母の享年まで生きられるなら、なお三十一年。言葉を喪います。「今」の重みを担うしかないなと思います。お導き下さいま すように。
  寒くなりました。お大切に。

* いのちの深い願い   高 史明
 私たちは、いま何処にいるのでしょう。
 二〇〇一年の九月十一日、世界中の人々は、テレビの前にくぎ付けになりました。飛行中の 旅客機が、ニューヨークの世界貿易センタービルの陰に現れたかと思うと、不意に旋回して、音もなく滑らかな壁面に吸い込まれていったのです。
黒煙が吹き上がりました。まるで、新しいテレビ・ドラマを見るようでした。実際、旅客機 が、アメリカ経済の象徴でもあるビルに激突する情景を、誰が現実のことと信じましょう。
 だが、この情景は現実だったのでした。この日、アメリカで同時多発テロが発生したので す。ハイジャックされた旅客機が、二機同時に世界貿易センタービルに突っ込み、ニューヨーク最高のビルは数千人の人々を呑みこんで崩壊しました。また、ほ とんど同時刻に世界最強を誇るアメリカの国防省にも、真っ黒い猛火が吹き上がりました。
 この瞬間から、世界中の時計が、かつて誰も聞いたことのない不安な時を刻み始めていま す。世界のいたる所に報復の大合唱が起きたのです。
 ブッシュ大統領は、このテロを自由と民主主義に対する戦争行為であると規定したのでし た。それとともに十一世紀末、西ヨーロッパに起こった十字軍という言葉が、悪夢のようにマスコミに登場しています。報復のための軍事行動が、世界的に発動 されたのです。いまアフガニスタンのタリバン支配地域は、一触触発の危機にあります。アメリカは、かの地にテロの元凶犯が匿われていると見なしているので した。日本も、後方支援という名目でもって、アメリカの報復作戦に参加するために、重火器携帯の自衛隊を出動させようとしています。
 現代戦争の特徴は、総力戦だと言われていました。あらゆる場所が戦場になり、あらゆる人 が戦場に駆り立てられるのです。報復の大合唱とともに重苦しい不安が、世界中に浸透しています。世界中の母親が、思わず愛児の顔を見つめたことでありま しょう。報復の大合唱は、この合唱に加わらない者もまた、テロリストと見なされかねない勢いなのです。保育の現場でも、無邪気な子どもたちを前にして、深 いため息がもれ出ているのではないでしょうか。
 だが、いまこそ、まっすぐに子どもたちを見つめていいのです。怨みに怨みをもって応える なら、ついに怨みが止むことはないのです。それがお釈迦さまの教えでした。
 そもそも自爆テロに走った若者たちの胸中に渦巻いていたものからして、近代文明の登場と ともに、繰り返し、かの地の人々に強いられてきた積年の血と涙に対する怨みと、恐ろしい貧困下の屈辱と絶望ではなかったでしょうか。報復は、さらなる報復 を生み、世界中に何百万という新しい犠牲者を作りだすことでしょう。
 お釈迦さまの教えが、深く思い返されます。「すべての者は暴力におびえる。すべての(生 きもの)にとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」テロ根絶のためにも、いのちの原点が見直されていいのです。 赤ちゃんが果して報復を考えるでしょうか。最近の新聞にはアメリカでも、怨みに怨みを持って応えるな、という声が起きていると報じていました。
 長い間イギリスの支配下で苦しんだインドには、世界的な詩人タゴールが生まれています が、その詩人のいのちを見る眼差しが思い起こされます。彼は、赤ちゃんから、わたしはどこからきたの、と尋ねられた母親のこころを通して答えるのです。 「あさのひかりと いっしょにうまれた/天からの はじめての いとし子よ/せかいの いのちの 川にうかんで ながれて とうとう わたしの/こころの  きしべに のりあげたのよ!」(はじめ) 母と子の出会いは、いのちといのちの出会いです。この出会いこそが平和の原点です。また、原点こそが、永遠に 変わらない子育ての原点だと言えましょう。
 阿弥陀さまは、いま不安の深い私たちをまっすぐに見つめておられます。
   二〇〇一年十月二日 
 

* 十月二日 つづく

* 懐かしい以前の学生が二人、懐かしいメールを送っ てきて呉れた。一人は昔の学生ではなかった、現在博士課程三年生の女性である。一年飛び越えで大学院に進んだ。もう一人は修士課程を卒業して勤務していた が、雄志を胸に、研究もかねて外国へ鹿島立ちしようとしている、もと合気道の全国チャンピオンである。

* 秦さんはお変わりありませんか?先日は湖の本エッ セイ23『青春短歌大学』をお送りいただいて、ありがとうございました。というより、以前より湖の本をお送りいただき、本当にありがとうございます。電車 に乗る時間が短くなって、読む時間が細切れになってしまっていますが、わたしの通学の友になっています。特に今回お送りいただいたのは、あのときの授業を 思い出して、「挨拶」に答えてみたり虫食いを埋めてみたりして、つい、電車を乗り過ごしてしまいそうな勢いです。
 久しぶりに、あの授業で覚えた自分に向き合う時間を、取り戻した気がします。教室で毎時 間の返答はつらかったけど、充実した時間でした。あの時とは自分の周りの環境、人間関係などなど今は異なっているので、まったく違った答えや読み方、挨拶 への返事が出てきます。もう、6年経ってしまいましたから・・・。
 ずいぶん前のメールに、「近況を」伝えるようおっしゃっていたのに、ちょうど研究室の引 越しのごたごたが年明けからあり、メールのマシンの変更で、新しいパソコンに前のアドレス帳を移行せずにいたため、かなりの方と連絡が疎かになってしまい ました。(言い訳ですよね。すみません。)
 わたしは、ただいま、博士課程3年。来春の学位取得をめざしています。データがそろわな いため、まだまだ実験をせざるを得ない状況ですが、そろそろ博士論文に本腰を入れようとしているところです。
 わたしは「腐食疲労」という現象について研究しています。金属に一度加えられても壊れな い程度の弱い力を、何度も繰返し加えると壊れてしまう現象が、「疲労」といわれています。飛行機の事故や原子力発電所の冷却水漏れの事故の原因として、名 前の出てくる現象です。その「疲労」現象が、水中で、「さび」の発生するような「腐食」と共時に共存すると、とても厄介なことになります。
 これまでも、数々の研究がされていますが、 わたしの注目点は、雨が降ったりやんだりする場所に置かれている場合や、結露して薄い水の膜に覆われたり、温度があがって乾燥してしまったりする環境で、 この「腐食疲労現象」がどんなメカニズムで起こるのか、ということです。降雨、結露、乾湿繰返しというのは腐食界(?)では現在注目されている環境のひと つ「大気腐食環境」として、いろんな研究が盛んに行われています。(そもそもわたしの所属している研究室が、腐食(さび)の研究をしている研究室です。)
 金属がさびる(腐食する)とき、溶液にどっぷり浸かっているよりも、表面に乗っている水 溶液の厚さが薄くなるほど、すなわち乾燥していくほど、さびる速さが速くなることが知られています。どんどん早くなって水の厚さがもっと薄くなると、今度 は、さびる速度ががくっと遅くなり、完全に乾ききってしまうと、さびはストップする。これが「疲労」と一緒に起こるとどうなるか?これを調べているのです が、まだまだ、課題山積みです。
 学生生活がやっと終わりそうです、が、先のことはまだ決まっていません。春頃に大慌てし ているかもしれませんが、今は何か無理して行き先を決めようという気がしません。取りあえず、今は、学位取得のみに目標を定めています。
 こんなところです。秦さん、お体にお気をつけて。また、メールします。

* 研究の機微にふれて披露するのはどうかと心配だ が、とてもとても、彼女たちのやっている研究は精微を極めて、計り知れないものであるはずゆえ、わたしも興味深いところをそのままに書き込んでみた。わた しは、こういう話を学生から聴くのが好きだ。自分の限られた関心や知識や判断を確実に相対化してくれるからである。こう教わらなければ、こんなことは、わ たしの目にふだん見えてこないし、考えつきもしない。しかし、こういうことが確かにあると知るのは、不用意に己一人の鼻を高くして暮らす日々の愚を示して くれる。
 こういう学生が、授業の後で友人たちと教壇へ近寄ってきて、「秦さん、歌舞伎というのを 観てみたいんです」と声をかけてくる。「うん、行こう」と、わたしは躊躇なく切符の手配も、幕の内の弁当も手配して、おそろしく見やすい良い席に横に並ん で「弁天小僧」の通し狂言を楽しく観たのであった。学生たちのためにこうして金を使うのは少しも惜しくなかった。「腐食疲労環境」に真剣に首を突っ込みな がら、彼女の脳裏の一点に稲瀬川勢揃いのつらねの美しさも生きているかも知れぬと想えるのは、幸せなことである。

* 「青春短歌大学」受け取りました。有難うございま す。始めのほうを読み進めていくと、ありあり学生時代を思い起こし、あの頃の良かったことや、自分の愚かさを、今の自分と比較して感慨にふけってしまいま す。そのため、なかなか頁が進みません。

> いよいよですね。着々と、歩一歩を歩んでゆく君なので、実行するであろうと想っていました。

 実行するというと聞こえは良いですが、現実ないし日 本からの、逃避かもしれません。今は、そうなってしまう怖さに日々おびえて暮らしている気がしてなりません。
 そう考えると、会社勤めを続けるとは、自分が社会の一員であることの証明と安心感とを求 めることでもあるんだと思います。つまり、日本における会社勤めは、欧米社会(だけではないですが、)における、あたかも「教会」のような、宗教的な要素 を含んでいるということなのでしょうか…。日本という島国特有の宗教観や社会構造の上でビジネスをしていくには、大きな課題です。

* 何を掴んで帰国してくるか、その日までも元気でい たいと思う。学生たちのことを思ってこう時間を過ごしている間、微塵も緑内障なんてことは思いもしなかった。ま、そういう風に生きて行こうと思う、これか らも。 
 

* 十月三日 水

* どうやらこの親機に何かが侵害してきたらしいと、 McAfee.comが告げてきた。告げてきただけで、それ以上のメッセージも対応指示もしてくれない。様子を見て、暫くこのまま待つ。

* 歴代会長著作権者、物故会員著作権者および日本ペ ンクラブ現会員宛て、それぞれの「出稿依頼状」を用意し終えた。亡くなった方や遺族に原稿を作成してもらうのは難しいから委員会で手伝うが、現会員には自 分で用意してもらうのが原則になる。その際のいわば作成要領をめぐって、だいぶ議論があった。一つ提出された最終案は、詳細に長大なものであった。こんな ながいものをわたしが一会員として受け取れば、その煩雑で難儀なことに音をあげ、「電子文藝館」自体から目を背けてしまうだろうと、途方に暮れた。
 かりに、わたしや、委員会の委員には理解できても、そもそも1900人の現会員のなか で、メールの使える会員はまだ300人そこそこ。ホームページを開いている会員はそのうちの一割もあるかどうかだ。そんな会員に、数百行にわたる「原稿作 成規定」をおくりつけるのは、あまりに現実的でなく、器械を未だ買っていない人に分厚いコンピュータのマニュアルを送りつけるような、いわば委員会独走の 独善、デジタルデバイドを犯すに過ぎないのではないか、と、それが、わたしの強硬な意見であった。
 で、下記のような「出稿要領」の委員長案を今日提示し、委員の賛否を問うている。

*  「出稿表記の方式」  現会員「出稿」希望者には、器械に対する親和・習熟度に甚だしい落差があると推知されます。等水準の原稿作成を一律にお願いしても無理を生じます。下記の ようにご承知のうえ、ご負担の少ない「出稿」をお心がけ下さい。

1  原則、会員各自の「出稿」表記が、その原稿内で統制されていれば良しとします。

2  初心の方は、最も簡単な方式にしたがい、原稿を作成してください。
 例 侃々諤々(かんかんがくがく)  いわゆるオドリは、「いろいろ」「さまざま」
    傍点は、 真実(2字に、傍点)  
そして、同じ段落内では「1行字数」を決めてわざわざ改行したりせず、すべて、ベタ打ち に、器械の自然改行に従って下さい。これで、概ね統一が利きますし、器械の種別、ソフトの種別により混乱することは避けられます。いわゆる新聞方式で、と くべつ読みにくくはありません。

3 原稿作成と器械の駆使に習熟した方は、電子文藝館 のサイトに、「参考」までに掲示した「手引き」を参照しながら、各自原稿の表現効果・伝達効果に見合った仕方で統一表記し、送稿して下さって結構です。但 し、
 ルビや傍点をふれば、現状では、行間の広さに差が出ます。指定のオドリを用いれば、やや 見苦しくなります。その点はご承知ください。

4  作業の簡明と「読みやすさ」「書きやすさ」からは、「2」の簡明表記が、現在の機械環境では最も合理的で、混乱や間違いが少ないであろうと思います。この 方法をはみ出て処置仕切れない場合は、上記「手引き」を参照されるか、個々にご連絡下さい。

5 現在の機械環境はさまざまに不備と不足をまだ抱え ています。自然、活字表記と同じに行かぬことも僅かに生じますが、著者と委員会の協力で、極力妥当なところへ落ち着けたいと思います。試行錯誤はやむをえ ない段階とご諒解下さい。
 大事なのは原稿作成の煩雑に躓いて出稿意欲を殺がれないことです。研究者用のテキストで なく、一般読者が「読めて楽しめる」本文として、これでよいと作者自身が思われるように自由に表記して下さい。

* まだみなの賛同をえられるかどうか分からないが、 ここへ纏めるまでに、実に実に多くの時間と体力気力を要した。次の会議は明後日。
 

* 十月四日 木

* 楽観はできないが、どうやら、インターネットエキ スプローラーの厄介な侵入者を一掃したような気がする。清潔な画面に戻せた、と思う。パネルコントローラのインターネットオプションを操作してみた。も し、成功していたら、新しい獲得があったことになる。まだ、アテになるかどうか確信はないが。

* そんなことをしているうちに、ロシアの方で飛行機 が不自然な落ちかたをしたという。乗客の大方はイスラエル人であるという。もし、これがテロであったら。そんなことのないようにと、不幸中の幸いを祈らず におれないが。
 これがテロであり、しかも空中爆発を仕掛けた犯人が機内に同乗していないテロだとする と、「サイバーテロ」も疑われる。米国防長官が中東のアラブ主要国を歴訪している最中の計画的なテロだとすると、その行動力と計画力、恐怖に値する。しか も報復に関しては異様にしつこく厄介なイスラエル目当ての計画的な攻撃であったりすると、米英のタリバン攻撃が目に見えて始まる前の露骨な挑戦であり、世 界の世論は、かなり動揺するのではないか。日本の飛行機も列車も危ないかも知れないと思うと、ゾッとする。新聞に「サイバーテロ」の脅威を説くコラムが出 ていたところだ。テロ攻撃ではないように願わずにおれない。

* 二十一世紀が、第三次の世界大戦に塗りつぶされて はならない。テロの撲滅に、テロじみた作戦で世界を巻き込んでゆくブッシュ流儀は、また、それをやみくもに胸だけ張って支援してしまう小泉流儀は、底知れ ぬ落とし穴を足下に掘り返していると言える。
 冷静に、平静に。
 あの事件の起こった時、即座にわたしはそれを「私語」した。アメリカを盟友と本当に思う のなら、日本が付和雷同するのでなく、冷静に、平静に行く手を誤らせないようにものを言うのが、友情というものであった。
 えらいことにならなければいいが。国際警察力と国際司法の力をフルに強化する道をとれば いいと言っていたのに、わたしは。大勢もそう言っていた。聴くべき言葉に耳を傾けようとしない暴走首相には困ってしまう。世界の平安が心から願われる。だ が、そんなときに、小平の方で外国人の巨額強奪の事件があった。犯人たちは西東京の方へ向かったと脅されている。疑心暗鬼であれもこれもみな一つに繋いで 仕舞いかねないのが、冷静を欠いている証拠だが、無関心にやり過ごせることでもない。注意深くいたい。

* 子どもたちの悲鳴   『青春短歌大学』を、あり がとうございました。今、嫁いだ娘が持ち帰り しっかりと楽しんでいる様子です。

 自閉症の子にやりたきをやらせをり(  )をとぎ一粒の( )も零さず  真行寺 四郎

 この虫食いは、理解できました。
 教室の、おなじ子供の正直な悲鳴を聞いてください。
 小学1年生、重度の自閉症と診断されている男の子です。
 指先に触る感触が好きで、教室に入ってくるなりパソコンのキーを叩きます。これは故障す ると困るから、触らないでねと言いますと納得してやめることができます。まだ言葉が出てこないので、自分から話すことはなく、嫌なことがあると、大声で拒 絶します。
 3週間前頃より非常に気持ちが不安定になり、片時も母親より離れることができなくなりま した。少しでも姿が見えないと、パニックになり、大騒ぎをしてひっくり返ってしまいます。先週頃はひどくなり、ご飯もおやつも何も食べなくなってしまっ て、お母様にしがみついていたそうです。
 不安が、長く続くので心配でした、が、その原因が分かりました。NewYorkのテロ事 件のTVの放映です。ひっきりなしに繰り返される、爆破の画面です。戦争へ動いていくための「正義への証明」でしょうか。納得いくまで繰り返し見せるので しょうか。その子供の目にどんな恐怖を植えつけたかと思うと、腹立たしいものがあリます。
 字は読めませんが、アナウンサーの口調で、関連事項だと分かるのです。関係のニュースが 流れると泣き出して大騒ぎになるそうです。言葉で恐怖を語れない子供には、パニックを起こして訴えることしかできないのです。好きなパソコンのキーでも、 説明してとめれば触るのを我慢できます。けれど、その子供に「報復」はどう説明できるのでしょう。
 子供たちのために平和的解決を望みます。大国の面子も捨ててください。大国へのへつらい はもっと捨ててください。命令を出す人たちの安全はプライドは保障されるでしょう。一番弱い子供たちのところに、途方もないひずみが、しわよせが、行くの です。
 「私語」を読ませていただいて、同感したり、溜飲を下げたりはしていますが、余りにも痛 ましい子供を見て、もっと大きな声を出したい気持ちです。

* さすがにアメリカでは、影響が深刻に出て自粛した ようだが、日本では、平気で映しに映していた。そして、やはりアメリカに追随して遅れて自粛した、のか、どうか。むごいことである。「もっと大きな声を出 したい気持ちです」というこの先生の声が輪になり渦になりしないものか。昔なら、まず学生が立ち上がっただろう。学生にエネルギーのないことは、東工大で もつくづく情けなく感じていた。自治会すらよう持たない学生たち。自治会はしゃにむに押しつぶす大学当局。からだもろくすっぽ自由にならないわたしなど が、こういう場で「私語」していても、ことは大きくは動かないと思うと情けないが、言いやめることはしない。
 

* 十月五日 つづき

* 「北」の時代=最上徳内。……いい日本人を、あり がとうございます。これからも、いい日本人を、書いてください。
朝顔が小さく涼しくなりました。お大事に。勝田貞夫

* 長大な三巻をことごとくスキャンして送って下さっ た。なんという嬉しい有り難いことだろう。

* 電メ研は、一時過ぎから、ぶっ続けに続いて、ほと んど終えたときはグロッギーであった。久しぶりに甲府の倉持光雄
氏が参加された。庶幾した目的はおおかた果たした。ATCの山石裕之氏が来て、いよいよ実 験版を引き渡すことになっ
た。こまかな打ち合わせも出来たと思う。経費的な折衝は事務局長にすべて委ねた。七月理事 会以来、数次の会合とメ
ーリングリストの討議とだけで、よくここまで持ち込んで来れたと、いまさら顧みてほっとし ている。

* かなり気張っていたのだろう、途方もなく疲れた。 帰りの電車で途中下車してでもどこかで本でも読んでゆくかなあと
思いはしたものの、胸苦しいほど、胃のあたりまで、けだるかったので、そのまま池袋経由と にかく帰宅した。家には家で
仕事が待っていて、休息は無し。見るつもりだった映画もみないうちに、十一時過ぎた。今日 はこのまま休みたい。
 

* 十月五日 金

* テルアビブを発った飛行機の、事故かテロか行方知 れないが、ロシア内部での事故でまだしもあって欲しい。いたましい。

* 中秋の名月は見事な姿を見せてくれましたけれど、 (牛肉)業界はいよいよ厳しさを増しています。肉骨粉流通禁止、焼却処分のめどが立たない肉骨粉業者は、残さ(牛の解体でできる)の引き取りができなくな り、そうなると食肉処理場の機能も停止せざるをえないと。「県内処理場・牛肉流通ほぼ停止」の大見出しで、今朝の新聞は伝えています。買物客の減少に追い 討ちをかける、商品不足の状態に陥りそうです。
 先日、経営者がふともらした「もう、店閉めようか」の言葉が、冗談でなくなりそうです。 それほど深刻さを増しているのです。流れに身を任すしかないのですけれど…。
 それにしても、国と行政の不手際が次々と露見する様といえば !! 苦々しくも、はがゆい、不安な思いがつのります。
 朝からバッドニュースでごめんなさい。御身体どうぞお大事に。

* こういう有様を続けながら適切に情報開示も出来 ず、その一方で日本国を「戦争の出来る国」にしたい下心の、小泉総理ら「正義ぶりっ子」の暴走が仕上げに入っている。数の足りない野党を支援すべきは、国 会の外にいる国民でなければならないのだが。
 国会審議で、民主党横路節弘の質問に応じている総理や、やや頼りない中山防衛大臣の答弁 を聴いていると、穏健そうな衣の下に、事態に応じて鎧を着ている実績をうむをいわさず発動できるようにしておく思惑が、ありありしている。たしかに自民政 府はこの際に自衛隊を海外で動ける軍隊たる前例を世界の目の前でつくってしまいたい、今後への危険な布石に躍起になっている。テロ撲滅の「正義」の「旗」 は、じつは「軍化」主張の隠れ蓑にすぎない。

* 嫁いだ娘が、一泊で沖縄へダイビングに出かけたそ うです。基地のあるかの地、観光客も修学旅行も控え気味の昨今ですが、海はグランブルーに夢のように美しかったと携帯メールが来ていました。
 昨日娘に会って、話の続きを、戦争を知らない世代のショックを、聴きました。半日タク シーで観光をして、ひめゆりの塔の傍にある「ひめゆり平和祈念資料館」に入ったそうです。
 当時国民学校一、二年生だった私の世代あたり以上は、まともに戦争の被害がしっかり記憶 にあります。もっと大きく影響を受けた世代は既に他界した人の方が多いでしょう。生涯に二度とあのいやな思いをしたくなく、敗戦後、戦争放棄をした時点で 子供なりにホットしたものです。そして、あの朝鮮戦争。あの内乱を私は非常に悲しく同情していました。
 現在アフガンでは二十年続く内戦があり、思い出したくもない日本の戦中、戦後を思い出さ せます。近くには、多発テロ報復か戦争の勃発かとはらはら案じられるこの日頃です。どんな時代でも女、子供、動員される庶民が被害者です。
 娘は、その「資料館」で、ジックリと戦争のリアルな悲惨場面に接して、これほどまでにと 喫驚したそうです。この世代はそうなんです。この類のものを眼にしたのはおそらく初めてでしょう。映画で沢山の戦争映画を観ても、それはあくまでも絵空事 で、実感ではないのです。
 今国会で政治家達が討論の武力行使の件、なんとか回避して欲しいものです。

* 電メ研、今日の会議は、前半と後半とに分かれる。 業者委託に入らねばならぬ前半の会議が、なんとか無事に行って欲しい、が。早くから出掛ける。昨夜も三時頃まで馬琴を夢中で読んでいて、六時には目覚め、 起床。林芙美子をおもしろく校正したりしていた。器械の中の息抜きソフトを削除した。息が抜きたければ器械から離れて眼をやすめるようにしようと。
 

* 十月六日 土

* 梅原猛氏に、「電子文藝館宣言」の英文を送った。 ついでに現状を概略報告した。本格的に「出稿」依頼段階に入ることになる。

* 昨日の電メ研で感銘を受けたのは、すでに「電子文 藝館」準備サイトに掲載してある上司小剣の「鱧の皮」を読んだ委員の一人の高畠二郎氏が、言葉を尽くして作行きに感嘆され、ああいう素晴らしい作品をいま どきの作家たちは書いているのでしょうかねと慨嘆されたこと。耳も痛かったが、この作品を躊躇なく選んで掲載した私の気持ちも、まさしくそれであった。今 日にも掲載されているおそらく徳田秋聲作「或売笑婦の話」もそのように読まれるだろう、読み手の人には。林芙美子の「清貧の書」を一字一字校正している と、ほんとうに文学っていいなと思う。

* 宜しくないと思いつつ、今宵も湯船の中で歴史小説 =時代小説を読んだ。二つ読んだ。一つが三浦哲郎作「贋お上人略伝」もう一つが平岩弓枝作「ちっちゃなかみさん」で、二つとも面白く好意的に読めて、嬉し かった。歴史小説ではない、平岩のなど文字通りの時代人情話で、亡くなった志ん朝などが、ゆっくりしっとり語り聴かせたらさぞいいものだろうと思う。話の 運びが自然な流れをもっていて躓かない。セリフがいい。ほろりほろりとさせられる。出来たお話にすぎないが文藝としての藝が利いていて、やすらかに心を預 けられるのが心地佳い。三浦の話は面白い。ただ、雑な語り口で、あるいは意図してそうしているとも言えるが、そう気を弾ませることで、原材料に寄りかかっ た作行きへの照れを、はずし隠ししているとも見える。その一つの表れが、段落の変るたびに文頭にでる、わたしはこれを自分でも「申し訳」とか「言訳」とか よんでいるのだが、しきりに「それが」「こうなってしまうと」「いかにも」「ところが」「だが、待て」「けれども」「ただし」「たとえば」「そんなふう に」「実際」といったたぐいの、実は慎重に省けば叙述がかちっと立ってくるところを、ぐずつかせたことばがやたら多出すること。これでは文章はだれる。雑 になる。この材料を、料理はこのままでいい、文体は例えば鴎外先生の歴史小説のような抑制されて簡潔な文章語で仕上げられていたら、藝術的な感銘作になり えたろうになどとわたしは読んでいた。ま、そう思わせるほど面白いお話であった。だが、二作続けて佳い話に出逢うなんて、この「55選」では珍しいのであ る。

* 昨日のへとへとは本物であったらしく、昨夜は珍し く早く十二時には寝入ったと思うが、目覚めたら今日午後二時であった。取り戻すようにぶっ続けで仕事していて、やがて夜十時。

* 「A君。なんだかこのメールがブラジルに通じると いうことが、信じられな い思いで、君を思い出してもついメールには手が出なかった。きみのこのメールがほんとにブ ラジルから届いているのだとすると、驚異を覚えます。 ま、それぐらい旧人であるわけ、私は。すると、その気なら、わたしのホームページで、「私語の刻」や「e? 文庫・湖」も読めるのかなあ。不思議でならない」と、昨夜に返事を書いた。その「返信」が来た。

* 私も同感です。それも、光の速さ(!?)でメール が届きます。※理論上ですが。私も、旧人の部類です。はっきり言って、ブラジルに来るまで、本当に日本のホームページを読めるとは思いませんでした。驚異 を感じます。
 それはそうと、閑吟集の秦先生だったら、聞いてくれると思って、書きます。
 今晩、筆卸なるものを体験しました。
 肌を重ねるという行為が、実にいいものだとは感じましたが、別にまぐわうことが、いいと は感じませんでした。そういう意味では、半分しか楽しくなかった。
 やはり、思いやりのないまぐわいは、意味がない。何と言うか、恋愛小説みたいなものを期 待していたのに。
 今度、恋人ができたら、もっと思いやりのあるものをやってみたいです。やっぱり「恋」が ないと(気持ちがこもってないと)、どんなものでも、愛着は湧きません。※仕事も然り。
 馬鹿なことを書きました。それでは、失礼します。

* こういうメールを、元の学生君からもらえる先生 は、ざらにいないだろう。相手の女性のことが分からないのでその人への配慮は別事として今は触れずにおくが、このA君のメールを、わたしは、清潔な気分で 読んだ。嬉しいし豊かな気分で読んだ。うまくは説明できないが、不思議に希望を覚えて胸がふくらむようだった。性には病気もついてまわる、気をつけよとだ け付け加えて、また気持ちよく返事した。
 

* 十月七日 日

* 「近世説美少年録」の配本第三巻めは、読み進みや すく、もう最後に近い。自然、たいへんな夜更かしになり、外へ出たがる黒猫クンに早く起こされて、そのまま起きてしまった。三文の徳どころか、早起きする とベラボーに仕事がはかどり、「電子文藝館」関係の用事を、次から次へと片づけていった。理事会への書面報告、会報への原稿送付、電メ研ホームページへの 情報公開手続き、三種類の「出稿」依頼状の作成と事務局への複製依頼。その他メーリングリストによる各委員への伝達や依頼やルール確認など。めまぐるしく いろいろ片づけた。林芙美子作品の校正も。

* 原作者の原稿に即して、スキャン原稿を誠実に注意 深く校正してくれる人を捜さなくてはならない。物故会員の氏名名簿を作成する仕事もある。これも手元で作ってゆきたい仕事の一つで、「出稿」依頼先や作品 を、思いつくつど書き留めて置きたいから。眼の心配は甚だ募るが、早い段階で卒業してしまえるよう、今は集中するしかない。近所の眼科にも行きたいし眼鏡 も替えたい。
 妻にはパソコンでの手伝い、あっさり断られた。自分の体調を「自衛」したいと。

* サンライズ サンセット。望月は欠けるものですが、英国の威厳の無さはどうしたことでしょう。政党交代のせいかしら。アメリカよりずっと以前から深刻なテロを抱えてい たはずなのに、喜々として「アメリカに味方しようよ」と欧州を説得して回ってるブレア首相は、「ボクが米国の一の子分なんだから、忘れないでね」といっ た、おみごとパシリの顔つき。悔しさも無く。日本も「忠実な子分だよ」と売り込んでいるようですし、それを要求されてもいますが、政府間だけのこと。国民 同士がそう思っているわけではないわ。

* 新手の「呟雀」さん登場で、甚だの辛口。しかし、 わたしもブレアはよう言うなあと思っていた。ブッシュに意外や意外の人徳があるのか、小泉などコロリとたわいなく巻かれてきたから、怖いのう。朝の政治討 論会でも、辻元清美が、共産党が、やはりまともに論点を出している。自由党も、ここへ来て旗幟鮮明に政府とは違う線を喋っているが、小沢一郎率いるこの党 には、うかうか聴いていると、どこへ連れてゆかれるか知れぬ、また別の怖いものを持っている。

* 宵のうちに曲亭馬琴作『近世節美少年録』を巻六十 まで読み終えた。刊行されたのは、そこまでだが、あと一巻分が稿本で見つかっているという。何にしてももう二十巻も書かないでは、陶晴賢と毛利元就との決 戦まで達しまい。ただ、この終ったところまでで、善玉の美少年元就の前身が大いに活躍してくれるので、それが気分良くてどんどん読み進んできたのだが、配 本の第一、二巻では美男子ながら陰険な悪党の晴賢=末朱之介の話がえんえんと続き、気分が悪くて、いいかげんウンザリしていた。それが読後のサッパリした ところで、ともあれ綴じられていて結構であった。この大長篇を高くは買わないが、馬琴という人は、言葉の、いや語彙の、豊富な駆使という点では芯から感心 させてくれる。文字コードに加わっていないだろう難漢字をみつけたければ、この本がいいと思う。途方もない漢字を無茶に豊富に用いてくれる。文体というか カタリであろうが、人の心を浮かして夢見させるだけの力がある。読み返すというのでなく、版面を眺め眺めもういちど全部頁をくって文字遣いや口調を鑑賞し 直してみたいと思うほどである。

* 現代小説として林芙美子の「清貧の書」に惹かれて いる。貧乏たらしい小説だと思われる貧乏暮らしの描写なのであるが、その描写、表現にも、えもいわれぬ余裕と温かみとがあり、作者の天真がみごとに浸透し ている一字一句である。感動する。文学の魅力はさまざまに奥深く幅も広いけれど、この作品にもかけがえのない妙味というものがあり、いくら面白い、うまい とは思えども、三浦哲郎の「贋お上人略伝」にも、平岩弓枝の「ちいちゃいかみさん」にも、この芙美子作品が匂いたたせている「文学」的真実感は味わいとれ ないのであった。

* NHK大河ドラマ「北条時宗」が、グサグサした妙 味のないツクリであるにかかわらず、奇妙に惹きつけて、毎週を気をつけて見ている。時宗役が嵌ってきて、ドラマを支えている。うんうん、やはり主役だわい と思えるようになってきた。むしろ今では時輔役が難しい芝居を強いられて、泣きべそ渡辺篤郎が戸惑っている気配がある。安達泰盛の柳葉や北条実時の池谷慎 之介がそこそこ場を纏めてくれるので、鎌倉方は何とかなっている。博多は太宰小弐役が凛々しくやっている。何と謂ってもこのドラマを成り立たせているの は、個々の役どころを遙かに超えて威圧している、蒙古=元の存在である。この未曾有の有事を思う故に緊迫してくる。演技ではないようだ。
 

* 十月八日 月

* こういう朝には、こんなメールがいちばん胸に深く 来る。

* 逢ってきました。華岳と薫に。
 目がよくないのに、京都へゆく用があり、何必館の予定を見ましたら、華岳と薫、それに魯 山人。
 朝、シャッターの開くのを待ってとびこみました。
 なんと、しあわせで贅沢な時間――。だーれもいない。
 じーんと何かが染みこんでくるような、わたくしというものが透明になって失せてゆくよう な。
 目をつむっても感じられる気がしました、繪の放っているものが。こまかな震えに襲われま した。
 五階の楓は、ほんのわずか、朱の色を帯び初めている枝がありました。
 楓に目をあずけているうち、震えはしずかにひいてゆきました。
 お目の具合がおもわしくないご様子、どうぞおたいせつに。
 目がよくなったら、一番に、「墨牡丹」と「美の回廊」を、読み直してみたいとおもってお ります。

* 梶川芳友のあの美術館は、すみずみまで、胸にあり 目にある。まして村上華岳、山口薫、北大路魯山人は、梶川の原点、何必館創立の原点作家、である。「だーれもいない」美術館は珍しいのか珍しくないのか、 しかし館主の方で客を特別期待しない、そのために何とも入りにくい雰囲気の入り口をもつ美術館というのは、珍しいだろう。入ってみると、たしかに別世界な のである。オープンニングの少し前に、楓のある最上階の茶室で、今は亡き山口蓬春画伯、そして梅原猛氏、私とが招かれて、秘蔵愛蔵の華岳作「太子樹下禅那 図」の前でお茶のご馳走になった。この難しい時節によく維持していると、梶川の健闘と健康とを祈っている。
 この世界に帰りたい、とびこみたいと、わたしも切望しているが、心はなれているわけでは ない。いつも胸奥の一点に「静」の極として在る。だから今の私も在りうる。

* いちばんに、米英によるアフガニスタン空爆の事変 について語るところなのだろうが、暗澹とした気分で、その気になれない。わたしには、湾岸戦争の時より今回の米英による戦争行為の火ぶた切られたのが重苦 しい。湾岸戦争の時も、名分はいろいろ有ったけれど、アメリカの理屈だけを聴く耳にはなれなかった。アメリカには反省という言葉が辞書にないのかとおもう ほど、鉄面皮にあつかましいところがある。都合良く鈍感に振る舞えるのだ。国連のいわば会費すら平然と滞納してきたではないか。
 そもそも、イスラエルのテロ行為には何も言わないではないか。今度の戦争も、最後的には アフガニスタン領内にアメリカの空軍基地を確保しようと当然の顔をするのではないか、そうわたしは予測している。そうなればロシアとイランと東欧と中国と インドは多大の脅威にさらされ、猛反撥するだろう、その辺が混乱した世界大戦争の真の引き金になりかねないと予想している。
 そういう成り行きに、もし、なったとき、日本は、いったい何を世界平和のために今回貢献 したかを苦々しく噛みしめなくてはなるまい。中国が小泉の慌ただしい日帰り訪問にいい顔を見せたとは、とても思われない。失礼とすら感じただろう。

*  静かに もう 静かに見ているしかありませんね。世界情勢のますます緊迫する中、家の小さな庭には細い雨が降っています。旅行会社の娘は、仕事が皆キャン セルになってしまったと、少し寂しそうに言っています。今年の賞与は出ないかもしれないわよと言うとうなずいていました。あと数日でイタリアから帰る娘の 飛行機が無事につくようにと祈る気持ちです。今まで心配したこともなかったのに。ささやかな庶民の家庭にもテロの影響が少しずつ現れてきていま す・・・・。
 徳田秋声の「或売笑婦の話」を読みました。題名から予想されるものとは異なり、飾らぬ美 しい文章をたんたんと、澄んだ気持ちで読みすすめることができ、最後のシーンが悲しく、哀れに心に響きました。
「電子文藝舘」の校正をする人が必要とのこと。ぜひお役にたちたいと心ははやるのです が・・・ おそらく生涯で心に残る仕事になると思うのですが・・・ どの程度の分量で、どの程度の速度ですすめられるものなのか、私には、やはり無理なこ となのかと迷っています。
 あしたからまた忙しい日々が始まります。そろそろ休みます。おやすみなさい。

* ほんとに「静かに見ているしかありません」のか、 どうか。そこは、考えねばならない。こういう「私語」すら、少しでも何かをしてみようという気持ちなのだから。

* 息子も電話してきて「校正のアルバイト」を斡旋し ても良いよと言う、稼ぎたいやつは何人かいると。しかし、稼ぐが主であるのはその人にすれば仕方ないが、校正というのは、一字一句を絶対おろそかにしては ならない容易でない技量と誠意の仕事。手が抜けては何の役にも立たないばかりか、二度手間がかかる。様子をよく聞いて、残念ながら辞退した。 
 

* 十月八日 つづき

* 林芙美子を校正しつつ読んでいて、心底感嘆するほ ど、細部の表現が利いている。無技巧とみえてさにあらず、天成の人間把握の強さが生んでいる確かな表現で、舌を巻く。嬉しくなる。高畠さんが、上司小剣の 「鱧の皮」に舌を巻いたのも、さこそとわたしは会心の笑みを禁じ得なかったが、芙美子の「清貧の書」も、秋聲の「或売笑婦の話」も、微妙にしたたかに時代 と渡り合って毅い文学なのである。こういうのを、大勢に読んで欲しい。みな「e?文庫・湖」第二頁、第十五頁に収録してある、多くの出逢いが望まれる。

* 駅から家に帰る途中の喫茶店「ぺると」のマスター が、じつはコンピュータのプログラマーだと前に聞いた。彼にときどき相談していたが、今日、突如として、ホームページのリニューアル案を圧縮したファイル で送ってきてくれた。初めて解凍という手順を用いてテスト版を見てみたが、とてもすっきりし、いつでも簡単にいろんなファイルを即座に選んでジャンプ出来 る。ただ、画面を左右に二分割しているので本文画面が狭くなり、城景都の佳い繪の効果が少し弱くなる。他にも一つ二つ注文は有るが、全体として、すっきり と美しい使いいいサイトになっている。欲をいえば、ホームページの中に取り込まれているとても大きな塊である「e?文庫・湖」部分にだけ、索引式の便利な 組み立てが出来るといいがなあと、感想をメールで送り返したところである。
 いろんな親切に取り巻かれている暖かさを、我が身の不徳に照らし見ても幸せなヤツだなと 思う。不徳而不孤。有り難いことである。

* 今日もほぼ終日、間断なく「電子文藝館」関連の折 衝や応答や提示のために、気を遣い時を費やしていた。もう機械から離れよう今夜は。やがて日付が変る。アフガニスタンは、また空爆されているのか。
 

* 十月九日 火

* 零時半ごろ床について、バグワンのあと、正宗白鳥 晩年の秀作「今年の秋」を読んだ。驚嘆ものの達人の筆致であり、筆意である。白鳥のものでは初めて心底感嘆した。著作権者のおゆるしをぜひ得て「電子文藝 館」を飾らせて戴きたい。白鳥の後、「うつほ物語」を読み継いだ。あて宮が東宮に娶される日がちかづくにつれて、あて宮に恋いこがれる無数の公家たちが、 さながら狂態をさらして恋の歌をおくり物を贈るが、女ははなはだ冷淡を極め、返事もしない。へんな物語であるが、さきざきの落としどころがどうなるのか実 は知らずに、とても楽しみにしている。配本は第二巻で、第三巻まであるのだから「美少年録」なみの大長篇である。完結にはもう暫く時間がかかるらしい、そ の前に「狭衣物語」の方が二巻で次回配本で完結する。百何十巻、残りなく寄贈を受け、有り難い。感謝し、またトテモ楽しめている。
 で、寝入ったが、二時半には目が覚めてしまったので、林芙美子の小説を校了し「e?文 庫・湖」に収めてしまった。読書人として自信をもって秀作を選び出せるのは、励みであり、興ふかく、また新たな出逢いに道をつけられるかも知れない。少し は人の役にも、先輩作家の役にもたちそうだ。もう明け方の四時過ぎた。

* 電メ研のメーリングリストは今はパンクしそうなほ ど往来が激しく、またそれも必要な時機にある。長い間、事務連絡程度にしか用いなかったものが、今は「会議室」になりきり、これは何十時間の顔を合わせた 会議に匹敵する。これだけのことを二時間の電メ研会議ではとてもこなせない。メール往来は煩わしいと云えばじつに煩わしいけれど、いながらに、自分の時間 管理のもとに対処できるラクさは、はかりしれない。委員の皆さんがそのように受け入れてくださるのを望んでいる。今朝からも幾つもの応対があったが、その 中で、倉持委員からの以下の提言は、電メ研を超えても、重大な問題点に触れているので、氏のホームページからの転載お願いというかたちで、ここへ書き込み たい。
 今度の世界的な軍事攻防のなかで、気のついた人は多いと思うが、たとえばビンラディン氏 がフランス在住の母親に「携帯電話」したことが、ある種の証拠事例として報道されていた。どのようにしてそんな携帯電話がアメリカ側に確認できたかについ て、報道はチェックの姿勢も疑義の提示もしていないように見受けるし、テレビ等で話している有識者からも、国会討論でも、誰も触れた様子がない。
 だが、変ではないか。
 これは戦闘行為の範囲で当然だというのか。戦闘非戦闘とは離れて、こういうことが簡単に 何故可能なのか、その可能は、われわれの私的で個人的な通話にも当然に及び得るという事態は、これも時代の当然必然でやむを得ぬ事と涼しい顔をされていて よいのかということだ。わたしは、これを問題視して「エシュロン」等にも、また「個人情報保護(=収奪・盗聴)法案」についても発言してきた。書いてき た。だが、まだまだ、法案のことでも、わたしの思いからは本質を逸れた論議に終始している。「保護」だから支持しようなどと云う頓狂な誤解すらある。法案 の名前のなすトリックなのに。
 で、倉持提言を掲げねばならない。

* アメリカの報復戦争が始まりました。この一連の日 米関連報道に対する、アメリカと日本の「メディア・ウオッチャー」の記事が、新聞に載っていました。とりあえず、私のサイトの「双方向曲輪日記」に書き込 みましたが、捜査当局による電話盗聴、インターネット監視の強化に関連する内容もありますので、そのまお伝えします。/倉持

* 以下の内容の記事が、10・6付け東京新聞朝刊に 掲載されている。アメリカの報復攻撃について、アメリカのメディア・ウオッチャー「FAIR」によると、「アメリカの報道では、リポーターが、『兵士』に なっている、番組では、戦争を支持している」という。反テロ法案で、電話の盗聴やインターネット監視に対する捜査当局の権限強化の報道も、アメリカのマス コミでは、殆ど取り上げられていないそうだ。
 こういう事態をきっかけに、将来に禍根を残す「普遍的な」人権の侵害が行われるのは、権 力の歴史の示すところだが、そういう指摘をしないマスメディアなど、己の存在原理の放棄でしかない。これでは、アメリカも、まるで、日本の戦前の大政翼 賛、大本営発表と変わりがない。
 記事によれば、日本のメディア・ウオッチャー「メディアの危機を訴える市民ネットワーク (略称「メキキ・ネット」)」は、近く「9・11報道に関するジャーナリスト・シンポジウム」を開くという。「メキキ・ネット」の事務局では、日本のマス コミの報道姿勢について、大局的な視点が欠けていて、権力へのチェックがおざなりで、充分な確認や検討を経ないまま、情報を垂れ流している。その結果、実 質的な改憲の流れを後押ししている。こういう状況を生んだ歴史的な背景や市民として、いまできることをシンポジウムで考えたいという。
 「日本ペンクラブ」をふくめて、各国のペンクラブは、今回の事態について、どういう対応 をしているのでしょうか。「表現」が、政治や歴史を質すことは、どんな時代にも必要だと思います。

* 直ちに引き続き、高橋茅香子委員からも、貴重な情 報追加があった。メーリングリスト情報をいたずらに公開すべきではないが、廣く伝えることに今や意義大な点に限り、ここへも書き込むことで、せめてより廣 く遠くまで伝えたい。ホームページのこれは大きな役割と考えている。提供の高橋さんに感謝して。

* 倉持さんの情報を興味深く読みました。本当に傍観 してだけではいられないことですね。
 私は「メディアの危機を訴える市民ネットワーク(略称「メキキ・ネット」)」のメンバー です。ちょっと長いのですが、あまり報道されないものを入手しましたので、ご参考までに。
 アメリカ連邦議会は9月14日にブッシュ大統領に報復戦争の軍事力を行使する権限を与え る決議を採択しました。上院は全会一致、下院は420対1でした。唯一の反対票を投じたのがバーバラ・リー議員だったことは報道された通りです。彼女の格 調高く真摯な下院での演説は感銘深いもので、その全文を「日本カトリック正義と平和協議会」が訳しました。「転送は歓迎」とのことです。

バーバラ・リー議員の報復戦争反対の議会演説 (和訳文付き 長文)

  Statement of Rep. Barbara Lee on the floor of the House of Representatives

  Sept. 14, 2001.

  Mr. Speaker, I rise today with a heavy heart, one that is filled with sorrow  for the families and loved ones who were killed and injured in New York,  Virginia, and Pennsylvania. Only the most foolish or the most callous would  not understand the grief that has gripped the American people and millions  across the world. This unspeakable attack on the United States has forced me to rely on my moral compass, my conscience, and my God for direction.

  September 11 changed the world. Our deepest fears now haunt us. Yet I am  convinced that military action will not prevent further acts of  international terrorism against the United States. I know that this  use-of-force resolution will pass although we all know that the President can wage a war even without this resolution. However difficult this vote may be, some of us must urge the use of restraint.

  There must be some of us who say, let's step back for a moment and think through the implications of our actions today--let us more fully understand  its consequences. We are not dealing with a conventional war. We cannot  respond in a conventional manner. I do not want to see this spiral out of  control. This crisis involves issues of national security, foreign policy, public safety, intelligence gathering, economics, and murder. Our response  must be equally ulti-faceted.
  We must not rush to judgment. Far too many innocent people have already  died. Our country is in mourning. If we rush to launch a counter-attack, we  run too great a risk that women, children, and other non- combatants will be caught in the crossfire. Nor can we let our justified anger over these  outrageous acts by vicious murderers inflame prejudice against all Arab  Americans, Muslims, Southeast Asians, or any other people because of their  race, religion, or ethnicity.

  Finally, we must be careful not to embark on an open- ended war with neither  an exit strategy nor a focused target. We cannot repeat past mistakes. In 1964, Congress gave President Lyndon Johnson the power to ``take all necessary measures'' to repel attacks and prevent further aggression. In so doing, this House abandoned its own constitutional responsibilities and launched our country into years of undeclared war in Vietnam.

  At that time, Senator Wayne Morse, one of two lonely votes against the Tonkin Gulf Resolution, declared, ``I believe that history will record that we have made a grave mistake in subverting and circumventing the Constitution of the United States.........I believe that within the next century, future generations will look with dismay and great appointment upon a Congress which is now about to make such a historic mistake.''

  Senator Morse was correct, and I fear we make the same mistake today. And I fear the consequences. I have agonized over this vote. But I came to grips with it in the very painful yet beautiful memorial service today at the National Cathedral. As a member of the clergy so eloquently said, ``As we act, let us not become the evil that we deplore.''

  アメリカ下院議会におけるバーバラ・リー下院議員の発言
  2001年9月14日

 議長、私は今日、ニューヨーク、バージニア、ペンシ ルベニアで殺され傷つけられた家族と愛する人々への悲しみでいっぱいになりながら、耐えがたい気持ちで演説に立っています。
 アメリカ国民と全世界の何百万もの人々をとらえた悲しみを理解しないのは、最も愚かな者 か最も無神経な者だけでしょう。
 アメリカ合衆国に対するこの筆舌に尽くしがたい攻撃のために、私は向かうべき方向を求め て、自らの道徳指針と良心と神に頼らざるをえませんでした。

  9月11日は世界を変えました。最も深い恐怖が今や私たちの心に付きまとっています。しかしながら、私は、軍事行動はアメリカ合衆国に対する国際的なテロ リズムの、これ以上の行動を防がないと確信しています。
 私は、大統領はこの決議がなくても戦争を行なうことのできることを、私たち全員が分かっ ているにもかかわらず、この武力行使決議が通過するのだということを知っています。
 この[反対]投票がどんなに困難なものであろうとも、私たちの何人かが自制を行使するよ うに説得しければなりません。

 しばらく距離を置いてみて今日の私たちの行動のもつ 意味を通して考えよう、その結果をもっと十分に理解しよう、と言う何人かが、私たちの中にいなければなりません。
 私たちは従来型の戦争を扱っているのではありません。私たちには従来型のやり方の対応は できないのです。
 私はこの悪循環が制御不能になるのを見たくありません。今回の危機には、国家の安全や外 交政策や社会安全や情報収集や経済や殺人といった諸問題が入っているのです。
 私たちの対応はそれと同様に多面的でなければなりませ ん。
 私たちはあわてて判定を下してはなりません。
 あまりにも多すぎる罪のない人たちが、既に亡くなりました。
 
 アメリカ合衆国は喪に服しています。もしも私たちがあわてて反撃を開始すれば、女性や子 どもやその他の非戦闘員が十字砲火を浴びるという大きすぎる危険な目に遭う恐れがあるのです。
 同様に私たちは、残忍な殺人者によるこの狂暴な行為に対する正当な怒りがあるからと、あ らゆるアラブ系のアメリカ人やイスラム教徒や東南アジア出身者や他のどの人々に対しても、人種や宗教や民族を理由として偏見をあおることはできません。

 最後に、私たちは、退場の戦略も焦点を合わせた標的 もなしに、無制限の戦争を開始しないように、注意を払わなければなりません。
 私たちは過去の過ちを繰り返すことはできません。
 1964年に連邦議会は、リンドン・ジョンソン大統領に、攻撃を撃退しさらなる侵略行為 を防ぐために、「あらゆる必要な手段をとる」権力を与えました。その決定をした時に、本議会は憲法上の責任を放棄し、長年にわたるベトナムでの宣戦布告な き戦争へと、アメリカ合衆国を送り出したのです。
 当時、トンキン湾決議に、ただ二人、反対票を投じたうちの一人であるワイン・モース上院 議員は、言明しました。
 「歴史は、我々がアメリカ合衆国憲法をくつがえし台無しにするという重大な過ちを犯した のだということを記録するであろうと、私は信じ る。……次の世紀のうちに、将来の世代の人々はこのような歴史的な過ちを現に犯そうとしている連邦議会を、落胆と大いなる失望をもって見ることになるだろ うと、私は信じる。」

 モース上院議員は正しかったのです。私は今日、同じ 過ちを私たちが犯しているの ではないかと恐れています。
 そして私はその結果を恐れています。私はこの投票をするのに思い悩んできました。
 しかし私は今日、ナショナル・カテドラルでの、とてもつらいが美しい追悼会の中で、この 投票に正面から取り組むことにしたのです。
 牧師の一人が、とても感銘深く、「私たちは行動する際には、自らが深く悔いる害悪になら ないようにしましょう。」と語ったのです。

* 心して心して読み返したい。読んで欲しい。そして 自分の言葉で考えたいのである。
 

* 十月九日 つづき

* 電子文藝館への出稿を依頼して、日本ペンクラブ歴 代会長の著作権継承者に宛てね梅原猛館長名の依頼状に電メ研担当の依頼状、わたしの手書きの依頼も書き添えて、希望候補作品を選び得た先ず六人、正宗白 鳥、志賀直哉、芹沢光治良、中村光夫、尾崎秀樹、それに健在の大岡信氏にも、郵送した。また大きな一歩が踏み出された。矢は弦を放れていった。手紙を書く のにかなり緊張した。

* 昨夜から今日へ、秦さんの作業を少し手伝いましょ うという申し出を一人また一人と受けている。有り難いことで感謝に堪えない。さて、具体的にどのようにしてよいものか手順が難しい。
 一つには、文藝館のスキャン原稿の校正がある。忙しくしている日々の仕事の中で林芙美子 の「清貧の書」は、一日で原作をこぴーしてスキャン、スキャン原稿をプリントを片手に一字一句を慎重に校正校閲してゆくのに一週間を費やしている。楽しい 仕事、仕事の合間の仕事ではあるが、候補作は増えてくる一方になる。これをやがては電メ研の大きな対処課題にしなければならない。
 今ひとつは、私自身の湖の本から、勝田貞夫さんの絶大なご厚意で、続々とスキャン原稿が 出来ている。これを厳密に紙の本版と照合校正して置かねばならないが、なかなか手が回らない。これは私自身の手当てでぜひ推進しなくてはいけないと気にか けている。
 問題は「校正」というあまり簡単ではない仕事なので、誰にでも出来ることではない。魯魚 のあやまちで、校正に校正ミスはついて廻りやすいのは多くの編集者・校閲者を悩ませ続けてきた不変の難関。しかも百パーセント誤植や不備のないことを目指 して当然の、それが目的の仕事なので、軽率には取り組めない。昔の作家のものはすべて旧カナヅカヒであり、底本により正字も多く、ルビも傍点も多用されて いる。建日子が云ってきてくれたような、「稼ぎたいヤツならいるよ」では、とても安心ならないのである。申し訳ないが、申し出てくださった方には、一つだ けでも、仕事の正確さを見せて欲しいという慎重さと厚かましさとを持ち出さねばならない。「仕事」はすべて自分でと、つい考えてやってきた苦労性のわたし も、ここへ来てウーンと唸っている。バカじゃないかと見ている人もあろうなあ。根がバカに出来ているのである。分かっている。

* 睡眠不足と歴代会長依頼などいろいろで疲れたか、 夕食後に潰れたように寝入り、ふと気がついたときに、もう朝だと思い、血糖値を測らなくてはと思ったが、外が暗い。時計をみると九時。朝九時でこんなに暗 いなんてとドキッとしたが、どうも晩のうちの九時であると分かるのに、二三瞬を要した。どうかしている。
 お気に入りの田村正和現代劇「さようなら小津先生」の幕開きだったので、見た。脚本の出 だしがテンポ宜しく緊密感もあり、大いに宜しい。やせこけた田村が、いきり立った「幽霊」の感じから、失意の底でひとり泣き伏すまでを、段取りよくセンス もいい、臭みも自然に利かせた達者な芝居で、したたか見せてくれた。けっこうであった。
 この俳優は、かつての、「時代劇べたづけ」のような持ち味から、捨て身と自然な貪欲さと で、もののみごとに藝域をひろげた「達人」である。彼のねっとりした眠狂四郎ほかもわるくないが、現代サラリーマンものや色男ものでも、面白く大いに楽し ませてくれるサービス精神旺盛で、持ち味にこだわらずに持ち味をうまく押し広げている。加藤剛にこういう藝当の無いのが歯がゆいといつも思っているのだ が、田村正和の、それこそあの世界貿易センタービルで金融界を牛耳っていた境涯から、一転スケープゴートとして禁獄され、その後転落のきわみに追いやら れ、家庭も失い、あげく破滅的に荒廃した中学校の臨時教員になって行くという成り行きは、設定も、場面の展開も、まず上等のエンターテイメントとして面白 いと思えた。くさいくさい役者だが、田村正和に限ってわたしはくさいところがうま味のアクかのように、賞味している。美空ひばりに似ている。
 
 

* 十月十日 水

* あいにくの強雨だが、板橋まで出ておられる勝田貞 夫さんと歓談のときを持とうと約束していて、池袋に向かう。夜前も、「うつほ物語」のあと二時半に灯を消したが、四時には起きてしまい、九時まで仕事をし て、あと四時間眠った。変則が習慣化されないように気をつける。外に内に騒然としている反映がからだに来ているのだと思うが、つとめて取り合わずに体調に も自然に付き合おうと思っている。

* アメリカの爆撃は、続いています。心配したとお り、一般市民に犠牲者が出始めています。国連関係の施設も「誤爆」され、NGOの4人が亡くなりました。
  アメリカの攻撃開始を前に、アメリカの治安当局は、「報復をすれば、100%報復テロがある」という状況認識を上に上げていて、ブッシュ大統領らは、それ を承知で、攻撃に踏み切ったわけです。「暴力の連鎖」は、承知の上という権力者たちの判断です。そして、「誤爆」をふくめて、一般市民の死者です。
 政治や戦争を質す(正す)のは、「表現者」の役割でしょう。
 ブッシュ大統領は、アメリカのCNNなどのテレビを利用し、一方ビンラディン氏も、「中 東のCNN」と言われるテレビ局「アルジャジーラ」を利用して、世界にメッセージを届けるという「メディア合戦」を繰り広げています。今回の事態は、イン ターネットもテレビも操っての「メディア合戦」の様相を濃くしています。
 世界各国の「表現者」の集まりである、世界ペン、あるいは、日本を含む各国のペンは、こ うした権力者たちの「メディア」合戦が、今後の表現に及ぼす点までふくめて、幅広い人権擁護のために、発言すべきでしょう。
 秦さんのメールには、下記のようにありました。「メディアウオッチャー」のことなど、そ のまま電子文藝館の「意見」欄に入れたいぐらいです。ああいう発言が次々に連鎖しながら、「ペンクラブ」の意向を反映して力になって行く、しかも、また別 方角へ自然に話題転移してゆく、そういう付け合わせ「連歌」のような展開に期待したい、と。
 権力者のメディア利用ばかりでなく、市民サイドのメディア利用が、秦さんの言うような方 向に展開して、冷静で、落ち着いた世論形成ができるように人類の英知が働かないものかと痛感しています。

* お忙しくお過ごしのことと存じます。
 12月は三宅坂文楽と木挽町で「妹背山」競演との事で、「杉酒屋」「道行」を思い、大和 へ、雀一羽。三輪明神から長岳寺まで歩いて参りました。
 季節もよく、昨今のウォーキングブームで、山の辺の道は賑やかです。
 誰も居ない玄賓庵の庭で、「三輪」の僧気分で、カミサマを想いながら新米のおにぎりを食 べました。想像の世界に浸る雀のお気に入りのひととき。
 午前は国会中継のラジオを聞きながらの人、午後は競馬中継を聞きながらの人に出会いまし た。「俗塵を持ち込まないでよぉ」なぁンて、逃げてきた雀が言えたこッちゃないか。

* いろんな世間がある、あり得る。そのことが気持ち を廣くしてくれる。

* 土砂降りの中を池袋へ。メトロポリタンホテルの喫 茶室で、久々に勝田さんと会い、場所をかえてなんと九時近くまで歓談、歓飲、歓食。昭和十年生れのおじさんが二人でいろんなお喋りを楽しんだ。焼酎の「無 一物」。和食。終始の雨には遠方へ帰られる人にお気の毒であったが、心おきなく話し合える時間にたっぷり恵まれて嬉しかった。

* ATCという業者に従来から日本ペンクラブはホー ムページの運用を委託してきたが、電子文藝館の新設にともなう運用もちゃんと引き受けてくれるのかどうか、内容面に関する打ち合わせはみな先日に終えて諒 解が成り立っているが、経済面での約束事は事務局に一切委ねてわれわれは関知していない。その方面がうまくいっているのか、それが今の心配の種である。業 者からの連絡がまだもわたしの方へ、無い。

* 無いと心配していたATCからの連絡が、ともあ れ、今入ってきて、愁眉を開いている。関連の連絡も、ともあれ済ませた。また明日からのこととする。
 

* 十月十一日 木

* 免許皆伝のことを瀉瓶(しゃびよう)と謂った。瓶 から瓶へすっかり中身を注ぎ移す意味であろうか。後白河天皇が今様うたひの技量を、ことごとく愛弟子源資時に伝え終えたときに、こんな語彙を「口伝」のな かで用いていたと覚えている。
 技量だけでなく、事業を前任から後任へ引き継ぐときにも、こういう漢字がついてまわり、 慎重に大切に成されねばならない。いま電子文藝館でも、委員の実験室段階から業者の準備室段階へまさに引継「瀉瓶」の時機であり、引き渡します、引き受け ました、では前段階の実験室は撤収します、結構です準備室準備できました、そして撤収、となる。親切で慎重な計らいとはそういうもので、常識ではなかろう か。この辺の手順を間違えて、速断や独断がもし働けば、はらはらしなくてはならない。むろん、そういう事態も考慮し、実験室の全容はわたしのMOにバック アップして置いたけれど。
 今のところ、撤収の方が先行して、引継が無事に出来ているかの確認がまだとれていない。 だが、業者からの、撤収についての問い合わせ連絡では、同様のバックアップはしてあるらしいので、愁眉をかすかに開いている。かなりドキドキしてしまっ た。人の寄り合ってすることは、まこと、難しいものである。

* スクリーンがかなりまぶしく感じられる。以前使っ ていたサングラスを眼鏡にとりつけてみると、暗いが、ラクである。

* アフガニスタンは地獄の状況で、隣国パキスタンの 反米聖戦の混乱も、極めて危機的になっている。パキスタンが内戦になり、インドや中国を巻き込み、核攻撃の一触即発ともなれば、タリバン制圧どころの騒ぎ では納まらない。バキスタンのイスラムが聖戦に多く身を投じはじめれば、戦場は両国領土の全域に拡大されて、すると日本の自衛隊派遣による「後方支援」の 「後方」は、パキスタン国外へ当然下がることにならねばならぬ。さもなければ、危険環境のなかで自衛隊が戦闘行為に及ぶ「違憲」状態に容易に陥ってしま う。日本の出来ることは、自衛隊派遣以外に、あり得ないとでも謂うのか。よく考えよ。

*  年末に予定しているイタリア旅行も、この世界情 勢では難しいかなと、溜め息まじりに毎日重苦しいニュースを見ております。相変わらず激しいお仕事ぶりのご様子でいらっしゃいますが、どうかご無理なさい ませんように。片隅の読者の切なる願いです。
 先日は「私語の刻」のなかで、緑内障の可能性がおありのことと拝見しまして、心を痛めま すとともに、少し安心もいたしました。緑内障と伺い、厄介でも、闘いようのあるご病気で、ほんとうによかったとほっと胸を撫で下ろしています。 昨年六十 枚ほどの短編を書きましたときに、眼の病気の人物を書く必要があって、いろいろな医学書を読みました。そこには遺伝子で決められたものや救いようのない眼 病があまりにたくさんあって、思わず身震いしたことを憶えております。緑内障は完治する病気ではありませんが、進行を抑えることのできる、将来に希望のあ る病気ですので、病名がわかりましたことは何よりの幸運でいらしたと思います。
 先生のほうが私より遥かにお詳しいことと存じますが、緑内障は四十代以上の三十人に一人 が患う、よくある病気でございます。私のごく親しい関係のなかで、ざっと数えただけでも五、六人はいるでしょうか。私の大学時代からの友人は二十代から発 病していましたし、親から受け継いだという遺伝性の緑内障の秀才の友人もいます。歴史学者の叔父は発見が遅かったので、かなり進行していましたが、それで も昨年、長年の研究の集大成の本を仕上げて満足していました。それぞれの病人が投薬と眼圧の検査を受けながら、元気で普通に生活を続けています。
 そして私の夫なのですが、今年の会社の健康診断の眼底カメラでひっかかってしまいまし た。緑内障の疑いがあるということで、視野検査までしました。軽微の所見で近視のせいか、検査に不慣れなのか、病気によるものかは、半年後の視野検査をし てみないとわからないということでした。今はとりあえず灰色の状態です。
 夫の三十分ほどの視野検査を病院の廊下で待っておりましたら、ふらふらになったご婦人が 検査室から出てきました。視野検査は疲れるもののようですね。
 健康に絶対の自信をもっていた夫は、少し落ちこんでいましたが、緑内障を早期発見できた としたら、勿怪の幸いと慰めているところです。
 先生の「私語の刻」のなかの、こんな文章にとても心うたれました。
 「学生たちのことを思ってこう時間を過ごしている間、微塵も緑内障なんてことは思いもし なかった。ま、そういう風に生きて行こうと思う、これからも。」
 私は先生の自由な心のありかたが羨ましくなりました。ささいなことに心も生活も乱れて悩 みまくる私の精神は、自由とはほど遠いところにあります。病気から無縁でいられる人間はいませんが、そういう重苦しさや失望に縛りつけられることなく、先 生のように心静かな、陽のあたる枯野の境地にいたいものだと、つくづくそう思います。
 今日インターネットのあるページのなかで、不謹慎ながら、笑える一文を見つけました。  内容は、ブッシュ大統領はテレビ映りではものすごくウサマ・ビンラディンに負けているから、アフガニスタンの制空権をとることよりも、そっち(見栄え)に 気合をいれたらどうか、というものです。先の見えない戦争に突入したブッシュ大統領に対するやけくそのようなコメントで、思わず笑ってしまいました。テロ リストと大国それぞれの「正義」の武力戦争など、不毛でしかありませんが、批判のしかたにもいろいろあるものです。
 お見舞いのメールが長くなってしまいましたが、文学史に残るお仕事である「電子文藝館」 の立ち上げでお疲れになりませんように、くれぐれもご自愛くださいませ。

* なんとなく、クスリと笑わせてくれる、空気穴のう まく通った文章世界をもっている人である。意表に出たものが、自然にある。緑内障でよかったでしたわと慰められるとは思いもしていなかったが、慰められて みると、これは賢い励ましである。有り難い。

*  突然のメールにて失礼いたします。松山に居りま した ***子でございます。 「湖の本」 いつも ありがとうございます。
 8月に転勤になり 13年振りの引越しとなりました。早くご連絡をしなければならなかっ たのですが、遅くなりすみません。
 引き続き 下記の住所まで「湖の本」を送っていただきますよう、よろしくお願いいたしま す。もし8月?の間に「湖の本」の発刊がありましたら、お手数をおかけしますが お送りいただけませんか? 重ねて よろしくお願いいたします。
 私事ですが、関東に住むのは始めてです。四国から出るなんて、思ってもみなかったのです が、不況だリストラだというご時世、私の勤める会社も雇用確保のため組織の見直しを始めており、その流れの中での転勤となりました。
 中学3年生の息子と二人、日本語の通じる所ならどこでも暮らせるさ!!と、上京した次第 です。 (この子は「湖の本」刊行の年昭和61年9月に生まれました。)
 何年住むことになるか(もしかしたら定年まで・・・)。でも ?住めば都? と楽しみた く思っています。

* 十六年も、湖の本をはさんで四国と東京とでお付き 合いを重ねてきた。本を68冊も買って戴いていた。丁度第二巻の『こころ』を出した頃に生まれた男の子がもう中学三年生も二学期半ばだと。感慨深い。お近 くへ、ようこそと、千葉県下の住所を眺めながら、心温かくいる。

* 日本ペンクラブは、昭和十年(1935年)十一月 二十六日に丸の内の東洋軒で創立総会を開き、初代会長に島崎藤村を選んだ。副会長は堀口大学、有島生馬、主事は勝本清一郎、会計主任は芹沢光治良と、当時 の名簿にある。百二十六人の氏名が住所とともに上げてある。わたしは、この一ヶ月近く後、十二月二十一日に生まれている。
 戦後昭和二十九年七月の名簿では、会員四百六人、三十二年三月には五百七人に達してい る。ちょうど、わたしの大学学部時代に当たっている。現在では、ほぼ千九百人。隆盛でけっこうと思っている人もいるようだが、必ずしもそうとばかりは言え ぬ。文筆家が、同じ日本の社会で、そんなに増えている現状に、良い意味で必然の読みとれる道理がない。会費収入を増やして新館を建てたりしたいわけだが、 どこかでは地道に文学・文藝の質的な充実に思いをもどすことも必要なのではないか。「電子文藝館」を企画したのには、どうかして先輩物故会員達にひけをと らない自覚が、現会員に、むろんわたし自身にも必要という、わたしの「批評」意識、少し意地悪い皮肉な思いも、まじっていたことは否めない。
 古い名簿から、単純に物故先輩会員の氏名一覧をつくっている。これを文藝館の一画に掲載 しておくことに、わたしは大きな喜びを覚え、またそのことに何かの期待もかけている。

* 忘れかけていた。今日、山折哲雄氏との対談『元気 に老い・自然に死ぬ』春秋社(1900円)が出来てきた。胸を借りた気でぶち当たっている。この題も、わたしの提案が容れられたもの。出来たか、とうど う。そういう気分であり、なにほどの感慨もない。

* 明日は夕刻に言論表現委員会、そこから谷崎賞の パーテイに移動したいと思っているが。
 

* 十月十二日 金

* 著書の出たのはしばらくぶりなのに、特別の興奮も 感激もなく、ああ出たんだなとうとうと思っただけであった。届いたまま、就寝時間まで、台所の卓の上にそのまま載っていた。出来映えが気に入らないのでは ない、いい機会に、かなりわたしは気分よく話している、話し過ぎなほど。不真面目では少しも無いが、かなり偏跛で偏屈な枯れない初老人の口舌になっている だろう。みなもう、通り過ぎてきたこと。

*  先日は『青春短歌大学』を送っていただき、あり がとうございました。リストラに毎日怯える、そんな中、しばし、我に返るタイミングを頂きました。
 ところで、早速本題に入りますが、ぼくは昨日・今日と非常に興味深い記事を読みました。 それをご紹介したいのです。
 それは、国連難民高等弁務官事務所カブール事務所所長 山本芳幸さんという方と、作家の村上龍の対談です。
 これは10月1日に行われた対談で、アフガニスタンで長いこと(多分5年以上)仕事をし てきた人の、今の報道に対する様々なコメント、事実関係の指摘があります。
 内容的に、意外なものと言うわけではありません。が、今の日本でこの記事に匹敵する情報 は、得ようにも得られず、そんな中、テレビで「アフガニスタン国内からレポート」という類の番組の「現地の人々の声」というものを見聞きしているだけで は、自分で気をつけていても、どうしても一面的な情報ばかり入ってしまいます。記事を読んで、今まで自分が北部同盟とタリバンを同格に扱っていたことに気 づかされました。
 さて、記事ですが、無断転載禁止だとのことなので、JMM(村上龍のメールマガジン)の バックナンバーページで、読んでみて下さい。ほかにも見ていただきたいところもありますが、キリがありませんので、上記だけご紹介します。
 風邪が流行っています。ぼくもやられました。先生も気をつけてください。

* つい先日、「いま、表現が危ない」というシンポジ ウムを、われわれの言論表現委員会主催で開きました。これは「いま、報道が危ない」の意味でつけた題でした。報道されていることと、その背後からの別の報 道や情報を、幸いにわれわれの委員会や仲間達は、さすがにその筋のプロたちで、かなりえぐり出すようにして所有していますし、わたしのような何も知らない 仲間にも分かち合ってくれます。いままさに「報道・情報」は、真実という点で「危なく」偏して流布されています。程度の差はあれ、いつの時代いつの時点・ 事件でも、実はそうでしたが。君が、そういう方角から、なにかを考え始めたのを喜んでいます。
 その上で、わたしなど、「報道・情報」というものが、如何に表向き、如何に裏側にわたろ うとも、所詮は「正しい正しくない」と謂った議論に耐えられるものでなく、相対化の視線や姿勢でクリティックしなければお話にならぬもの、割り切って謂え ば、信じてしまってはならぬもの、と、久しい「歴史」にも教えられ、冷淡に距離を置くようにしています。所詮は人間のマインド(利害の分別)が作りだして いる「幻影に近い事実」に即した情報であり報道であり、正しいも正しくないも、堆積する時間や時代の中で結局はルーズに「意味を変えてしまうもの」である のは、当たり前の話です。少なくも「同時代情報」のもつ頼りなさの例は、歴史的に枚挙にいとまがない。その辺を、よく心得てかからないと、結局は、自分を 見失って、「情報(に操作された)ロボット」になってしまう。
 本質的には、情報も報道も「まぼろし」です。正しいも正しくないも、本当も嘘も、つまり は無いこと、まぼろしであったことに、どんなに多く気づかされてきたことか。深く生きる意義に照らして謂うなら、まさに「虚仮」に向き合っているのです、 われわれは、日々に。しかも、そうと承知の上で付き合っています、そういう「虚仮の情報」と。便宜的に。
 それが、わたしの思いです。
 村上龍は現実の人です。現実は、真実をなにほども保証しないと識っているわたしは、聞い て面白いものは聴きながら、とらわれないでいます。
 何が大事か、わたしにとって。やがて人生を幕引きする身にとって、大事なのは、現実の 「我」をきれいに見捨てる、かき消す、ということです。地獄も望まないが天国も望まない。テロも戦争も、芸術も哲学も、虚仮であると思っています。そのう えで、日々を虚仮に楽しもうと。長く時間をかけた山折哲雄(宗教学)との対談『元気に老い、自然に死ぬ』春秋社が刊行になりました。大いに語っています が、それとても虚仮であると分かっています。真実は言葉にすれば途端に真実でなくなる。それこそが、すべて偉大な人の知っていた真実なのですからね。 秦 恒平

* バグワンが、寺院の入り口におかれた「ミトゥナ 像」について話していた。国会の論議がダラダラ嘘くさいと、朝から嘆いてきた人もいる。わたしも聴いていた、見ていた。男女抱擁のミトゥナ像に即して謂え ば、真実に真に近づきうる瞬間をミトゥナが体現し示唆していると、バグワンは、適切に教えている。ドンマイ=don't mind なのだ、基本の姿勢は。二が二でなくなり、一ですらなく溶け合っているそうそう長くは保てない瞬間の、無我。覚者でない我々凡俗には、その余は、ぜーんぶ 虚仮=コケである、すべて。虚仮には虚仮と承知で楽しく付き合うが、覚めれば何も無い、夢。夢でないと深い暗示が得られるのは、ミトゥナのような、二が二 でなく一ですら無くなったような極限でだけ。ちがいますか。国会なんて、コケのコケ。文藝館もドルフィン・キックも、みーんな虚仮である。ミトゥナ像が寺 院の「入り口」に置かれる意味深さは、「入り口」を奥へ入って虚仮でない世界にまでは容易に進み得ない者には、理解が遠い。自我の心を落としきるのは容易 でないが、それなしに、虚仮に振り回される幻影地獄からは出て行けない。

* 牛の忠信  体調のほうはその後いかがでしょう か。血糖値をコントロールするのが快感になってきていらっしゃるのではと、雀は勝手な想像をしてますの。お健やかな毎日でありますようお祈りしておりま す。
 さて、飛騨高山に日本一の太鼓がお目見えというニュースを見て、常々、ああいう大太鼓の 胴や革はどういう材料なのかしらんと不思議に思っていましたが、カメルーンから樹齢1300年の木を切って運び、このためだけに特別に大きく育てた和牛の 一枚革を張ったと聞きましたわ。
 観光のためだけで? ひッど?い! 囀雀

 恐怖 「これをやりたかったんだよ」「ペンタゴンを 壊し損ねたのは惜しいよなぁ」と言いながら、オウムは、ニュースを見ているのでしょうか。ニューヨークやワシントンで、どんな報復テロが行われるかという 恐れから、交通機関や人の集まる場所に行くことのできない人々がいるのは、あの頃の東京と同じ。
 個人情報を投げ出してでも、危険な人々の潜伏場所が露わになるなら、そうしてほしいとい う方向に国民の意識は進むでしょうか。
 ところで米大リーグに、新庄とイチローという、ともに阪神大震災の経験者が、二人。野球 での活躍と「がんばろうN.Y」が、若い彼らの今後に、いい影響をもたらすと信じています。呟雀

* この二つのメールが、一つのメールアドレスで届い てくる。どういう人だろう、一人か二人なのか。おもしろい世の中である。「牛の忠信」は謂うまでもない吉野山の「狐忠信」を踏んでいる。母狐の皮で張られ た小鼓の音色に母を恋い慕う子狐。牛の皮の太鼓では、だれが泣いているのか。
 

* 十月十二日 つづき

* 言論表現委員会は、出席人数が少なかった分、話題 に集中でき和やかでもあり、二時間、勉強できた。山田健太氏の知見と解説は篤実で犀利で、情報は新しく深く、感じ入る。次の機会には山田氏が、新たに持ち 上がってきているサイバー犯罪法等の電子メディア関連の新法をめぐる問題点を、取り纏め解説してくれることになった。可能なら電メ研有志にも聴いて欲しい 気がする。いろいろ話題があって書いておきたいこともあるが、もう二時になる。明日以降のことにする。

* 谷崎賞のパーティーは、以前は帝国ホテルで、そこ へは乃木坂での会議室から千代田線の最短距離なのだが、読売支配の会社に変ってからは、会場がパレスホテルになってしまい、足の便が、わるいほどではない が倍ほど時間がかかり場所も分りにくいので、同僚委員と帰る方角が一緒なのをしおに同行し、そして途中、食事した。

* 帰宅後、常は見る気のない「ホテル」というドラマ につい見入ってしまった。ラストはいけないが、途中は一本筋をぐいぐい押して、主役の任侠親分さんも、ホテル勤務の清潔なヒロインも、うまく噛み合って緊 迫感をにじませた。剣劇が本職の俳優がうまく気を入れて主役の芝居をし、純真な美しいレディーが素材の魅力でみせ、目を放させなかつた。キャストだけで勝 負をかけ、うまく成功していた按配。
 ひきつづき「ER」を見ないわけに行かなかった。さすがに、これは、ドラマの仕立ても撮 影も脚本も、めちゃくちゃ上手いい。ドラマを見ているといった気分でなく見せる力がある。リアリティー。
 じつは先夜、「はみ出し刑事」とかいう続き物の一回分を、息子の脚本だというので見始め たが、どう身贔屓してみても最後まで見ている気になれなかった。カッタルく、ダレてしまい、ドラマという「劇」性も律動感もなかった。借り物のセリフ。み んなが低調なカッタルイ仕事を「言訳だけ沢山に」濫造している世間なのだと、だれもがこの業界を謂うが、そうだろうとは思うが、そんな姿勢では、所詮は坂 を転げ落ちてゆくことになり、お話にならない。「もの創り」の誇り、それが肝腎だと思う。
 

* 十月十三日 土

* 「MacAfeecom Peersonal Firewall データベースに不整な変更が加えられています」と警告が出ているが、どうしたとも、どうせよとも分からない。ソフトが防御してくれた報告であり、そのまま にしていていいのか、どうか。分からない。加藤弘一氏の話では、頻々としてこういう機械への妨害攻撃というものがあるのだそうだ。分からない。

* お元気そうでなによりですわ。お褒めにあずかり囀 り雀、恭悦に存じます。甘いものの分、お酒がお預けになってしまいましたかしら。
 三輪明神へ行ったときに「ご神水」へも行ってみましたの。長い道筋はきれいに整えられ、 新しい灯籠がずらりと両側に並んでいましたわ。見れば大阪の製薬会社各社からの奉納。水と薬。切っても切れない大事なものですものね。道修町の「しんのう さん」は「神農さん」、ここが元と初めて知りました。菊原初子さんが亡くなったことで、「春琴抄」の時代がまた遠のいてしまったかしら。囀雀

* 言葉や文というのは不思議で、文は人なりと昔から いうものの、その解釈は難儀である。この囀雀さんも、ご当人と顔を合わせてみればスチャラカチャンチャンかも知れないが、失礼、ただ囀っているような中 に、ふしぎと色気もただ者でない知性も表現されている。メールの妙味である。笑い話だが、わたしでも、知らない人は片岡仁左衛門のような人が書いているの かと想っていたと言われたことがある。孝夫が怒るだろう。ところが実物に会ってみたら高木ブーみたい、失礼、なので驚いたらしい。

* 昨日のことより、今日の作業が押せ押せ迫っている ので、そちらへ顔を振り向ける。
 

* 十月十三日 つづき

* 昭和十年創立当時以来、昭四十三年春まで、九冊に およぶ日本ペンクラブ会員名簿を校合して、物故会員氏名一覧を、昨日から作成し始めている。重複と脱落をふせぎ、今日健在の会員を万一物故者扱いしないよ う細心の注意を払っての作業で、甚だ視力と根とを費消するが、また一種のビタミン効果もあり、退屈な作業では全くない。貴重な資料が出来てゆくよろこびが ある。昭和四十三年といえば、わたしが太宰治賞を貰った前年に当たっている。大江健三郎氏がここで初登場しているが、現在の日本ペンの役員は、梅原猛、加 賀乙彦、三好徹、井上ひさし氏ら殆どの人がまだ名簿に登場しない。僅かに堤清二(辻井喬)氏、瀬戸内晴美さんらが入っている。歴史は面白い。時めいていた 人有って去り、時めいている人もやがて去る。時めこうと、うずうず待っている人が名簿の中にも犇いている。思わずフフッとわらってしまう。

* それにしても、今なお鳴り響くような名前が続々と 現れ出てくるので、その人達の著作から秀作を一作ずつ集め得ても、大変貴重な「ライブラリー」になる。現会員は本人の自信と意思に任せて成り行きを待ち、 彼らを刺激するに足る先輩作家達からの作品提供に大きな大きな期待をかけたい、希望は持てる。あと一年半、努めてみようと思っている、おそろしく時間も体 力も奪われるのは必至だが。東工大でも定年の時点ではわたしはもう今にも倒れそうであった。今回も、そのようにして任期を果てたい。欲は、なあんにも無 い。いいじゃないか、いいじゃないかと楽しむだけのことである。

* 十一月二十六日の「ペンの日」に、東京會舘の会場 で電子文藝館「開館」のデモンストレーションをややりませんか、経費の面倒は見ますからと秋尾事務局長に言われてきた。ま、一つの区切りではあり、会場に は例年大勢会員が集うのであるから、内容を解説し宣伝する好機会にはなる。ただしわたしは機械操作のこと、何も分からない。大岡山の大学の頃、機械をつ かって講義しませんかと、他の先生が機械を貸してくれたり、学生からもそんな希望を一二度聞いたが、結局一度も使用しなかった。使えそうになかった。
 電メ研副座長の村山精二氏が、フイルムだの写真だのの関係の人なので、段取りを願いたい と依頼している。

* 山田健太氏が配ってくれた新聞記事から、「サイ バー犯罪法」等の解説を此処に書き込んでおきたいのだが、今夜も、もうへとへと、休みたくなった。
 以前だと、麻雀ケームでも一卓まわすかと「休憩」したこともあるのだが、今は、そんなお 遊びはみな機械から削除し追放してある。目もやすめたいし、目の休憩にはならないから。だが階下へおりても、酒も甘いものも無くて、テレビではね。
 ほんとは今日はペンの京都大会に出掛けたかった。だが、月曜、火曜と会議などが続くの で、また家での仕事も放っておけば際限なく増えてしまうので行かなかった。

* やすむと言いながら、やっぱり、十二時まで。これ で休めば、いつもより早いのだが。
 

* 十月十三日 つづきの続き

* わたしの機械にハッカーが入り込み「裏口」を作っ たらしいと、加藤弘一氏からの恐ろしげな警告。
<「MacAfeecom Peersonal Firewall データベースに不整な変更が加えられています」とあるのを拝見して、急ぎ、メールします。MacAfeeのファイアー・ウォールは使ったことがないので、 確かなことは言えませんが、極めて危険な状況にあるようです。すでに裏口を作られているかもしれません。MacAfeeのファイアー・ウォールがどうなっ ているかわからないので、ウィルスチェックをやり直すくらいしか思いつきませんが、システムを作ったお弟子さんに緊急に相談された方がいいです。> という。
「ぺると」のマスターは、<ハッカーにやられたのかも知れません。セキュリティーの 隙間をかいくぐって、外部から秦さんのパソコン内部に侵入できる入り口を作られてしまったのではないでしょうか。(裏口のこと)至急、専門の人に見ても らったほうがいいと思います。>とも。
 「裏口」とはどういう意味で、なにが危険なのか、何のトクがあっての侵入なのか、皆目分 からない。邪魔くさい、パソコン全体を解除し断念してしまおうかとも思う、一つのチャンスかも知れない。とにかく、お手上げ。ワケが分からないので恐怖感 も湧かないのだけれど。トクトクと、陰気に、機械自慢でこういうことをやりたいヤツがいるということか。しかしわたしの機械になど入り込んで、なにのタシ になるのだろう。

* いまのところ、取り立てて何処にどうという不都合 が起きているとも思わない。微妙に、こころもち機械が重くなっているだろうか。それも強いて言えば、である。「ぜひみて下さい」というメールをあけたらぜ んぶ記号であったので、即座に削除したことがあった。その後に同じメールは来なかった。そんなことが絡んでいるというのも、実感は持ちにくい。
 どういう「危険」「不都合」が起きるというのか、それだけを教えてくれる人は教えて下さ い。最悪の場合は、また原稿用紙とペンの生活に戻れば済む。だが、実感がない。加藤氏に熱心に薦められた「ファイアウォール」とは、いったい何の役に立つ のかも、こうなると、化かされたように分からない。
 

* 十月十四日 日

* また、y0083m@livedoor.com のアドレスで「宜しくお願いします」というメールが入り、開くと全面に数字とアルファベットとの羅列なので、すぐ削除した。覚えのないアドレスで、名乗り のないメールには、いま、神経質になってしまう。わたしにも難なく読める文で送って下さい。

* >>私の機械にハツカーが入って「裏 口」を作ったらしい恐れありと
 ADSL等の常時接続では、よく聞く話ですねえ。
 「裏口」というのは、おそらく、ルータのFireWall設定が壊されちゃったってコト だろうと思います。でもひょっとしたら、FireWall(あるいはウイルス感知ソフト)に「謎のファイル」が引っ掛かっただけかも……。
 まずはルータのFireWall設定を見直して、何か異常があったら直すか、もう一度イ チから設定し直すのがよろしいかと。
(今いろいろ調べてみたんですが、これ!という解消法が捜せなかったので、抽象的なことし か書けなくてごめんなさい……)
 >>いっそパソコンなんてやめちゃいますかね。
 んもぅ先生??!(笑) 
 こんなのに負けてやめちゃうなんて悔しいですよ。続けましょうよ。私なんか「もしハッキ ングされたら逆ハックしてやる!」ぐらいの勢いでネットしてますよ。私だけでなく、教え子さんや機械に詳しい人たちもきっと応援しますから、できることか ら少しずつ……ね。

* 即座に親切なメールを戴いた、感謝。
 機械の過敏反応で、実は何でもないなーんてことを願望し、対処の能もないので、放置して ある。ルータの云々も業者が設定しているし、わたしの買い足したソフトもワケが分からないものなので、勉強心のない話だが、とにかくボヤーッとしている。

* わたしのパスワードを用いて勝手な買い物など金銭 的な被害を与えうると電話で教えてくれる人がいた。カードでおろせる口座には、用心して必要最少額程度しか入れていない。カード会社と銀行にも連絡してあ る。パスワードを替えた方がいいとも教わった。裏口から入ればパスワードも盗めるのなら、替えてもすぐ盗めることになるのでは。
 問題は、ADSLでインターネットを使うのがいけないのだろうか。それは何となく感じと して、ありえなくない感触。世界を相手にしては勝負にならない。機械作動が早いので助かるとは思っているのだが。このあたりは、『DSL』の著者芝田道さ んに教わろう。
 なんだか、騒然としている、生活が。

* また電話で、ウイルスには潜伏期間があり、一週間 もすれば、出るものは出てくるだろうとのこと。ただ、パスワードで、ハッカーが中をいじくることは可能としても、金融カードの番号などは読みとれないだろ うと。さほど心配はないのではないかとも。どうもいろいろである。愉快なのかなあ、そういういたずらが。

* 文藝館の英文宣言の表現に、執行部と国際委員会か ら助言が届き、これも今日中になるべく直し、明日の理事会に臨まねばいけない。
 

* 十月十五日 月

* 三時から東京會舘で日本ペンの理事会。テロ問題 で、声明を採択。いろんな問題が輻輳していたが、電メ研からは、必要なことは書面で提出してあり、質疑がなければ即ち理事会承認を得たということになる。 みなが辟易の長談義を延々とされるより、この方がよっぽどスマートに決着する。「電子メディア対応研究会」からスタートした電メ研が、「電子メディア研究 小委員会」を経て、今日の理事会で、「電子メディア委員会」とすっきり名称決定された。理事会席上で、出席理事の全員に電子文藝館への出稿依頼状を手渡し た。正宗白鳥、志賀直哉元会長のご遺族より、作品掲載快諾の手紙が届いていた。嬉しいこと。かくて確実に仕事が前に前に進んで行く。井上ひさし副会長から も、原稿依頼「しかと承りました」と。心強い。

* ほっこりしたので、日比谷をゆらゆら歩いて、「日 比谷東天紅」でマオタイと老酒で、中華料理をのーんびり楽しみ、さらに間近の「クラブ」に立ち寄り、ブランデーとウイスキーを少しずつチーズで堪能してか ら、丸の内線で帰途に。理事会が済むと、ほんとに、ほっこりとしてしまう。

* おはようございます。ホントご無沙汰しておりま す。
 まず、湖の本ありがとうございました。もとの本もいただいた覚えがありますが、今回のを また読み返しております。学生時代に感じなかったことを発見しています。
 もう前になりますが、先生に、「先生と呼ぶことはない」と言われましたが、未だ「先生」 と呼んでしまいます。私も既に社会人となり、先生も先生をおやめになって長くなりましたので、そろそろと思うのですが、なかなかその気になれません。これ は甘え以外の何ものでもないように感じられますが、お許しください。
 ゼネコンでは設計事務所の設計者及び建築家の人々を「先生」と揶揄して呼ぶこともあり、 最近の私にとって良いイメージがないのですが、私は彼らにそのような呼び方はしておりませんし、先生と呼べる人も少なくなってきている私の周辺の状況も含 めて、当分の間、先生と呼ばせてください。
 さて、私が担当しておりました集合住宅(=マンション)が、9月末に竣工し、建築主の方 へ引渡されました。私の初めての竣工した実作となります。法規や近隣問題、現場とのやり取り、コストなど、学生時代では関係ないようなこと、コンセプト と、現実に立ち上がる空間との差異など、いろいろ学びながら竣工させた思い出深いものとなりました。
 つきましては、是非、先生に見ていただいて、感想などをいただきたく思います。私が案内 いたしますので、お時間の都合をつけていただければ幸いです。私の方の都合は、極論をすれば平日でもかまわないのですが、週末のほうがありがたいです。今 週末でも来週末でもいつでもかまいません。もっと、わがままを言えば今週末がいいです。お考えください。
 また、先生に話を聞いてもらいたいこともあります。
 自分の心がとても騒ぐことがありました。正直に言いまして、恋の悩みです。自分で先生に 「相談に乗って欲しい」と書こうとして、「そうではない、話を聞いてもらいたいだけじゃないか。先生にこの状態の論理的説明をしてもらいたいだけではない か」と感じました。しかし、それでも、聞いて頂きたいのです。いや、このようなことを書いておきながら、お会いしてそのことを一切お話できないかもしれま せん。勝手な私をお許しください。
 上記二点の件で、是非先生にお会いしたく思っております。よろしくお願いします。

* むろん、わたしは創作された建築もみたいし、彼に も逢いたい。常平生はホントご無沙汰していても、こういうふうに声がかかる。「先生」でも何でもないが、嬉しいことである。
 

* 十月十六日 火

* しばらくぶりに松嶋屋の我当が歌舞伎座にもどって きた。楽しみにしていた。

* Sold Out  身の回りからだんだんなくなる、「売り切れ」。蕎麦屋、寿司屋、菓子屋などの売り切れ御免、米、味噌など一年に一度しか作れないもの。名残の茶 もそうでしょう?
 「在庫にせず品切れにせず」がビジネスでしょうが、いつも消費と供給が一致するはずな く、余った物は? 足りないときは? と考えると、いつでも同じ物が有って「売り切れのない日々」の不自然さも感じます。自然の産物も、人の手で作るものも、機械で作るものにも、限度というも ののあるのを忘れて過ごしていますわね。囀雀

* 霜降まぢか。  ご機嫌はいかがでしょうか。
 今日、名張で「恋重荷」(九郎右衛門、宝生閑)「千鳥」(万作、萬斎)が上演されます。 すぐ近くのホールですが、切符があっと思う間に売り切れましたのよ。見ることができませんの。観阿弥ゆかりの地という事で「移動芸術祭」の会場に選ばれた そうです。
 師走、木挽町の「源氏」は、末摘花:勘九郎に、光の君:玉三郎。「妹背山ー道行・御 殿ー」は、お三輪:玉三郎、橘姫:福助、求女:勘九郎、入鹿:段四郎、鱶七:團十郎、豆腐買おむら:猿之助との事。
 早いもので霜降も間近。くれぐれもお大切になさって充実のお仕事お続けくださいますよ う。囀雀

* かるく揺すられ、そして気が和む。静かにもなる。 こういうメールを書き続けるのは、日記の域をこえた批評行為となり、日々の張り合いになっているのではなかろうか、雀さんの。初めからこうではなかった。 ただの浮いた「囀り」が多かったように覚えている。「書く」ことで動いてゆく、何かがある、あった、のだろう。
 

* 十月十六日 つづき

* 「への18 19」という絶好の席で、昼の部が、先ず、中村福助と市川新之助に美吉家上村吉弥や片岡愛之助が手伝っての、「おちくぼ物語」。宇野信夫の脚色は、原作の 前半を巧みに再現して、じめつかせない楽しませる継子イジメの芝居になった。達者な吉弥が憎まれ役の継母で活躍し、左近少将新之助が澄まし返ってて面白 かった。福助にも好感をもった。原作の落窪姫もこんな感じかなあと思った。原作は、源氏物語よりも古い時期の物語とは思われぬほど話がしっかり決まってい て、読みやすく、面白く、割り切れている。継子物語と聞いて久しく忌避していたのが大損であった。むろん、この演目と知って、普通は新歌舞伎はあまり歓迎 しないのだが、どうやるのかなと楽しみにしていた。歌右衛門と先代幸四郎が初演と言うから、もう歌舞伎界の財産の一つになっている。学芸会みたいなところ もあるのだが、ま、からりと笑えて気楽になれた。新之助の美しいのにも感嘆した。親父の団十郎より、祖父の華奢だった海老蔵時代に似ている。
 つぎが「絵本太功記」のたしか十段目、「現われ出でたる武智光秀」を、その親父市川団十 郎がおおらかに演じ、妻には今や大御所の中村雀右衛門、死に行く母にベテランの沢村田之助、そして初々しい光秀子息の若武者十次郎役が、えらく二枚目の息 子新之助で、親子での親子役、梨園ではこれが多い。で、祝言を上げて夫を死地に見送る花嫁初菊に、中村福助を配したのがこれまた神妙で、この日の昼夜を通 して、福助の充実というか気を入れての自信のようなものが感じよく伝わり、印象を良くした。言うまでもなくこの「太十(山崎閑居)」には友人片岡我当が、 間柴久吉での座頭役。いつもながら音吐朗々の惚れ惚れする口跡だが、もう一段力強く大きく光秀に対峙して欲しいところ。
 昼のキリに、坂東玉三郎と片岡仁左衛門、まさしく「ご両人」でお定まりの、夕霧伊左衛 門。むろん「吉田屋」の夫婦役には我当と同じく片岡秀太郎という、松嶋屋三兄弟が競演の「廓文章」だ、わたしの大好きな出し物である。これは関西役者の仁 左衛門に、いまいちばんふさわしい芝居だろう、遊冶郎ぶりがいやらしくなってはならず、妙に可愛く見えるように演じるから憎まれないで済む。玉三郎の夕霧 は、もう当節では極めつけの一人舞台で、美しさも大きさも一番。大いに満足。

* 夜の部開幕が、福助と片岡孝太郎の「相生獅子」。 仁の息子の孝太郎が、まだ踊りがうまくなく、この辺と組むとさすが成駒を背負って歌右衛門襲名の声もあがっている福助は、美しい上に、場数も格段に踏んで いるから、踊りは悠々としたもの。席を二つ前へ出て、舞台は手に取るよう。、わたしは孝太郎は見捨て、福助に終始ひたと視線を合わせていた。連れ舞いもの は、席が舞台に近いと、視野に二人をおさめるのはやや困難。
 お目当て「伽羅先代萩」の通しがとても面白かった。花水橋の序幕で、又しても福助の太守 頼兼おしのびのダンマリがサマになっていて、坂東弥十郎もおおらかにタテを踏んだ。
 二幕めは言うまでもない「まま炊き」の政岡と千松。政岡の大役を玉三郎は実意豊かに美し く演じて、いささかの粗忽もなく、大きな役者になったものだなあと感心した。栄の前に田之助。八汐役には団十郎が大柄につき合い、添えには秀太郎や孝太郎 が政岡同格の気構えできりっと並んだ。玉三郎はともかく、可憐な子役千松の上手にほとほと舌を巻く。昔から千松、鶴千代というこの子役は、後年大きな役者 になる幼年の試金石のような大役だが、今日の千松、おみごと。
 次の、問注所の場から大詰刃傷の場では、仁左衛門の仁木弾正と我当の渡辺外記が力いっぱ いがっぷり四つに組合いもみ合い、まことに充実の好舞台を作ってくれた。本悪の仁木弾正に篤実の老外記の必死の対決は、この松嶋屋兄弟(長男が我当、三男 が仁左衛門。女形の秀太郎は二男。)の、記念に値する力の入った死闘ぶりで、さすが団十郎細川勝元も片岡蘆燕の山名宗全役も、遠慮して脇に引いていた感じ だった。ここに我当の息子の進之介が出たが、これはもう、まだまだで、甚だ心許ない。
 それよりも縁の下の場で、大鼠をがっしと踏まえての男之助役の荒事が、市川新之助であっ たのには、なにも不思議でない家の藝なのだが、実は仰天するほど驚かされた。大音声なのである、じつに小気味よかった。ところが彼新之助は、昼の「十次 郎」役では声かすれてそれはひどかったのだ、おやおや若い役者が声なんか潰してと思い、しかし一つ前の「左近少将」ではさほどでもなかったのになあと、気 の毒に感じていた。それが夜の部の男之助役では、大きな歌舞伎座が鳴り響くような堂々の大音声なのである、綺麗に化かされてしまった。だが、とっても心よ かった。

* わたしの体調が万全でなく、疲労困憊のなかで「昼 夜通し」の歌舞伎見物は、じつは、気分としてはすこし荷が重かった。だが、今回の出し物が昼夜に変化に富み、しかも舞台の出来もよくて甲乙なく、お目当て の我当君が渡辺外記左衛門や吉田屋の喜左衛門で活躍してくれたし、仁も玉も団十郎親子も、さらに福助、新之助も大いに大いに楽しませてくれて、不足を言う ことは何もなかった。躰は重かったが、気持ちは暖かに楽しんでいた。この日は、妻との、忘れがたい記念の日でもあった。
 夜には、幕間に「吉兆」の懐石を、「吉兆貞寿」一合の酒で賞味、これにも意外に大満足し た。よくない体調も、このご馳走でなんだか持ち直した。我当の付け人が、お土産の菓子袋を席まで届けてくれた。九時二十分にはねて、そのまま銀座一丁目か ら、有楽町線でまっすぐ帰宅。

* 十数本のメールに返事や仕事の処理をして、いろい ろ片づけているうちに、もう午前二時。すべては明日に譲り階下へ降りる。
 

* 十月十七日 水

* 中村光夫先生の奥様からお電話をいただき、電子文 藝館への「出稿」を許可して戴いた。しばらくお話しした。大岡信氏ももうペン事務局の方へ原稿を送って下さり、これには英訳文もついていると事務局の話。 有り難い。これで、藤村、白鳥、直哉、中村光夫、そして大岡信、梅原猛と、歴代会長十三人の半分が快諾。おいおいに依頼した著作権継承者からもお返事があ るだろう。

* 九冊の名簿をすべて校合して、物故会員の氏名一覧 も今日私の手で一応仕上げた。亡くなっている人と健在の人とを混同させられないので、いま、同僚委員に確認して貰っている。昭和四十三年四月現在で作業を 限定したのは正解だった。それより以降の名簿は分厚くなり、しかも健在会員が大半になって来るから。

* 問題は、出稿が一時的に増えるだろうと思うが、 ディスクで届くよりもプリントで届く方が多くなると、これをスキャンし校正し念校するのは、途方もなく大変な作業になる。どこかでアルバイトないし業者に 委託となるが、予算のないペンクラブであるから、多くは費用がかけられない。
 ある人の参考意見では、相場として「一字一円」と。これは、予想していたより遙かに高く つき、百五十枚の作品一本を文藝館に掲載するのに、校正だけで六万円かかる。百本掲載するのに六百万円もかかるのでは、ちょっと手が出ない。まして湖の本 一冊一冊の校正を頼むとなれば、巨額の費用を用意しなければならない。弱ったなと思い、簡単に直ぐ断念し、メーリングリストで他の電メ研委員の耳にしされ ている相場のようなものを問い合わせてみた。
 先刻一人の委員からファックスを貰った。「初校 ワープロ・印刷物原稿なら、一字35 銭、手書きなら、40銭」「再校なら、一字30銭」等とあり、かなり違う。「校正者はプロです」ともある。もう少し実状に近づいて妥当なところを把握して おかないと、この事業が行き詰まる。
 委員の中には、会員のボランティアでという声もあり、有り難いけれども、校正はいわばプ ロの仕事であり、厳格厳正に耐えるものでないと困る。親切だけではなかなか出来ない、プロでないなら潔癖なほどミスの嫌いな性格でないと、なかなか厳重に やれない。じつは、わたしでも満足に出来ない、おろそかには決してしないのだけれど。
 これからは、この方の対策も電子メディア委員会でしてゆかねばならない。分かっていたこ とで、驚いてはいない。

* 半日ががかりでわたしの次の本のスキャンもした。 一度途中で操作をあやまり、何十頁分も消去してしまい、閉口した。キレかけたが、キレてはわたしが困るだけなのでガマンしてまたやり直した。はじめDVD で「タイタニック」を英語で聴きながら作業していたが、この映画は身につまされるものがあり、ドキドキと興奮してくるので、中途でやめ、昔の歌謡曲や唱歌 を聴きながら一冊分のスキャンを終えた。どうもスキャンは苦手な作業である。

* 秦先生 秋真っ盛りという感じのお天気ですね。一 年で一番好きな季節です。空が高くて、空気がひんやりとしていて、息を吸い込むと鼻の中が冷たさでつーんとする感じがとても好きです。つい一週間くらい前 までは、金木犀の匂いもしましたね。トイレの匂いといって嫌いな人も多いですが、ぼくは大好きです。懐かしい気持ちになります。
 さて、昨日一級建築士の実技の試験がありました。今年で終わりにしようと、かなり頑張り ました。模擬試験等も合格圏内にはいっていました。まだ、最終的な結果はでていませんが。
 周りを気にせずゆっくりやろうと思います。ただ、周りを気にせずというのはけっこう難し く、考えてみれば自分は小さいころから、人との比較の中で生きてきたように思います。自分で決めて、自分の考えで動いているように見えたことも、実はけっ こう人との比較の中で決めてたように思います。
 組織の中で、周りの目を気にしないでこつこつやっていくことは僕にとってけっこう難しい ことに思います。ただ、そういうスタンスも持たないと、このままじゃダメになりそうな気がします。周りとの比較でしか物をみれなかったら、とうぜん仕事 だって中身のあるものにはならないですよね。
 考えてみれば、学生の頃専攻の教授からいわれたこと、以前先生にメールでしかられたこと も、結局同じことだったように思います。30に手が届くころになっても、結局変わってないんだなあ、と思うと、寂しいです。今はほんとうに考え方を変えて 行かないと、自分が苦しいだけだな、と思います。変えていく過程も苦しいとおもいますが。
 とりあえず試験が終わったので、発表まではゆっくりします。
 先生から送っていただいた本もちょっとしか目を通していないので、ゆっくり読みたいと 思ってます。

* 数日前にもらっていた。この人の嘆息は、若い人に 限らず、人の世の中で「位取り」に揺すられ揺すられて生きているインテリには、何処へ行ってもついてまわる苦しみである。むろん、人によりそんなことは苦 にしない(ように)生きている人も少なくないだろう、いや、少ないと思う。幸い私は、もうそんな嘆きも悩みもほとんど痕跡のようにしか持たない。だが、そ の苦痛は体験してきたからよく分かる。
 東工大の教室で、ある日、「位」という語を漢字の熟語にして、一つだけ書け、そしてその 所感もと命じると、その日、授業の済んだ後に数百人の学生が最も多く提出してきたのは、さて、何だったと思われるか。
 それは「位置関係」「位置」であった。一位でも首位でも優位でも地位でもなかったのであ る。これは痛切な一つの精神状況を示している。東工大ほどの優秀校の選り抜きの学生達が、人との「位置関係」に不安や孤立感や焦慮や不如意や憤りをすら感 じていたのだ、優越感どころの騒ぎでなく、一つ間違うと落ちこぼれてしまうのだ。かなり参ってしまう学生が多かったようだ。
 一つには他者を知ろうとしない、知る機会を活かしていなかった。だからわたしはひたすら ものを書かせて、次の時間に選んで読んで聴かせた。むろん、誰とは知れない配慮をして。これで、大勢がラクになった。みな、似たようなことを考え、似たよ うなことで不安や悩みを抱えていると知れてきたからだ。退学しようと決めていた人が、頑張って院にまで行けたのは秦さんのあの授業のおかげですと、何人か に感謝してもらったが、退学してしまう人もわたしの側から一人出してしまった。悔やまれる。
 このメールをくれた秀才も、やはりまだ「位置関係」に悩んでいる。マインドで生きている とどうしても、こうなりやすいが、なかなか「ドンマイ」とはゆかぬものである。『青春短歌大学』を、虚心に読み直すと佳いと思うよ。元の学生君達がメール を今も大勢呉れるのは、彼の当時の教室での「挨拶」習慣が、自然に生きているのだと思う。そう言う人も何人もいる。
 次のメールも、そう。この人は大学二年生で文学概論に出てきた頃は、毎日のように大学を やめてしまおうかと思い詰めていた。すっかり元気になって、スペインで幸せに暮らしている。

* 秦恒平さん。 この夏にコンピューターを買い、再 びメールが使えるようになりました。
 恒平さんが湖の本を送ってくださったこと、母から聞きました。本自体まだ私の手元に届い ていませんが、ありがたく読ませていただきます。湖の本をようやく自分で購入できる身になって初の本、私にとって特別です。郵便が、無事届いてくれますよ うに。
 アメリカで起こったこと、想像を絶する出来事でした。にもかかわらず、この地で私たちと 周辺がまず思ったのは、
 「今起こったことより、これからブッシュがやろうとすることの方が恐ろしい。」
 残念ながら、懸念が現実のものになりつつあります。
 恐ろしいのは、アメリカの国民の90%以上が、アフガニスタンへの攻撃に賛成し、それを 正義のためと考えていること。
正義のために闘っていると信じきっている人間ほど恐ろしいものはない。(アメリカの死刑制 度も、もしかしたら、これらの正義に支持されているのかもしれない、そう思い到ったら、背筋が寒くなった。)テロリストを正当化する気持ちはさらさらない けれど、恐らく彼らの大半も、彼らの正義のために闘っている、と信じきっていたのではないだろうか。
 世界はいつも、アメリカの都合でまわっている。
 武力行使を憲法で禁じている日本に向かって、アメリカのために戦わないと公然と非難す る。一昔前、かのビンラディンを軍事支援し、タリバンの勢力増大を助けたのはアメリカだった。ソ連占拠後のアフガニスタンが、タリバンに政権略奪された結 果、アフガニスタンの人々の生活から、自由が、教育が、音楽が、文化が、極端に奪われ、途方もなく苦しい生活が強いられてきたことを、アメリカという国は どんな正義で言いつくろえるのか。アメリカの国民はタリバンを育てたのがアメリカだと、まさか知らないわけではないでしょうに。
 アメリカはいい。自分たちの大統領を、政府を、自分たちで選べるのだから。アフガニスタ ンの人たちは、それすらできない。押し付けられた独裁政権の下で苦しみ、挙句の果ては、「ビンラディンが、タリバンが、いる国」と言う理由で、攻撃され る。苦しむのは、いつも弱い市民。理不尽ではないか。
 アメリカがこれまでイスラム社会に落としてきた、例えば1ヶ月あたりの爆弾数、それに よって失われた無垢な命の数、悲惨な生活にあえぐ人々の姿を、アメリカの人々は知らされているのだろうか。それがどんな正当そうな理由のもとに行われて も、罪のない人間にとっては、それは理由もなく殺されたことにしかならない。マンハッタンで亡くなった人々のように。
 ニューヨークのマンハッタンで働いていた人間の命が奪われることは許されず、貧しさで生 きていくのが精一杯な人間の命の奪われていることは、知らず知らされず、しかも国民としてそれを許してしまうのか。罪なきイスラム教徒の命の奪われるの は、非難しないのか。アメリカは、あまりにもinnocentだ。自分たちがしていることを、わかっているのだろうか。
 世界がテロリストの思惑に落ちている。アメリカの報復は、アメリカへの憎しみを掻き立 て、今までそうでなかった人間すらをも過激な思想に導いている。失うものもないほど貧しい彼らの国が、地が、生活が、(彼らにしては)理由もなく、さらに 破壊されてゆくのを前にして、どうして、アメリカに憎しみや反発を感じ得ないでいられるだろう。
 彼らは恐怖におびえ、アメリカをテロリストの国と信じ、復讐を誓う。
 アメリカは新たなるテロを警戒し、アメリカ国民はその恐怖に脅かされる。
 どこまで走れば、気がすむのだろうか。核兵器を持つパキスタンにクーデターが起き、反ア メリカ政権が誕生するのも、時間の問題かもしれない。
 この事件では、メディアから受ける影響の恐ろしさを、つくづく感じた。日本、アメリカ、 ドイツ、スペイン、フランス、イギリス間ですら、ニュースや新聞での取り上げ方は異なった。自国の都合の悪いことは触れないにしても、その国その国で、見 る角度、注目すること、取り上げ方、知らされる内容が違う。だから、それを受ける国民間にも差が生じるのは、当たり前なのかもしれないけれど、私たちはみ な、ほんの「一握り」知らされてきたことを「すべて」と信じ、善悪を判断してしまうかと思うと、やけに恐ろしかった。
 それにしても、アメリカにこんなに気に入られようとしている日本のザマは、嘲笑を誘うほ どで、見ていて情けない。
 この事件で、あれほど騒がれていた外務省のスキャンダルは、陰に隠れてしまった。会計に 携わる現地職員の話からすると、此処は、それ程ひどくないらしい(つまり、ある)。彼らが時折催す配偶者も含めた食事会は、最近そのレストランの格をワン ランク落とし、一人当たりの奨励額7000pts(感覚的に12000円ほど)ぴったりで済んだ、と感心していた。
 彼らの、地に足をつけられず中途半端で退屈な生活を見ていると、外交官にならなくてよ かった、こう虚しい生活では、せめて高い給料でももらって贅沢な生活でもできないとやってられないだろうと、そう思っていたから、給料、待遇の差も大して 気にならなかった。でも、こう金銭スキャンダルの内情ばかり聞くと、満足していた自分がほんとうに馬鹿に見えて、意味のないことと分かっていながらも、自 分の給料を円に換算せずにはおれない。
 私の年収は130万円に満たない。スペインでの事務職の平均に達するか、ぐらいだ。現地 職員の給料の1.2?3倍の住宅手当をもらいながら、文句言い言い、私たちに家探しをさせる人、何かにつけ「安い!日本じゃ、、、なのに」の話をする人。 比較的人間関係がうまくいっているから、「無神経な人たち」ぐらいで済んできたけれど、それも最近、神経に障りだした。皮肉にも、外務省非難の風に当たる のは、窓口に出る現地職員。外務省改新(改心)アピールのため、窓口受付時間延長の指令が出れば、そのために働くのは現地職員。仕事は楽しいけれど、ずっ と続けていけるものではないな、と思う。
 いずれ日本に住むことも、二人でよく話すけれど、目下自分は何をしたくて何ができるか、 いつも念頭におきながら、自分に磨きをかけています。
 とにかく、よい日々を送っています。恒平さんはいかがですか?インターネットも使えるよ うになったので、また秦さんのホームページを訪れたいと思っています。それでは、またすぐ。

* これは「挨拶」そのものである。元気である。懐か しい。自分の脚であるき、自分の言葉で生きてきた人だ。

* おやおやまた午前二時になる。しかし「うつほ物 語」をいまわたしは楽しんでいる。バグワンも。

* 何の歌だか、さっき、「思い出すのは、おまえのこ と」「おやすみ」といった切々とした歌曲がCDから流れ出していた。こう呼びかける人が、わたしには大勢いる。とりわけて、娘。
 

* 十月十八日 木

* 終日雨で冷え冷え。文藝館に困った問題が起きてい た。マークアップした方法で原稿を再現すると、例えば、私の小説が各段落ごとに一行開きで出てくるのだ。創作の場合、どこかで一行開きを作ることはよくあ り、だが、何処でどう開けるかはかなり苦心して決める。一行開きも「表現」なのだ。それが、機械的に一律に段落ごとに一行開きされては、作品そのものが電 子メールのようなことになってしまう。読みやすいからという問題意識を全面否定はしないが、創作は作者のもので、作者に断わりなく機械的に一律にそれをや るなど、非常識な暴挙であり、機械的な操作を作品よりも優先してしまった本末転倒そのもの。こういう事になっているとは、機械の組み立てというか、 HTML言語がどうでこうだか理解仕切れないが、目の前の作者に断わり無くそれをやっていたのが、文学に無縁の業者ではなかったので、わたしの驚愕は大き かった。私の作品は、直ちに私の方法で原稿を作り直し、差し替えることになる。これが、他の著者・作者の原稿にも及んでいるとなると、由々しい事態にな る。
 底本に従った「原作の同一性保持」は著作人格権の基盤であり、いかなる再現にも可及的誠 実に守られねばならない。むろん、正字が略字にされた底本もあるし、現代仮名遣いに変えられた底本もある。社会的慣行であり、研究者用のテキストではない から、それは、此処では深く問わない。機械環境の制約でオドリ記号も用いられない以上、「いろいろ」と直したり、ルビも「侃々諤々(かんかんがくがく)」 という風に新聞方式を使わねばならなかったりすることは、有る。(ルビはふれるのだけれど、その為に行間がバラツクという版面の見苦しさが、今の機械環境 では出てしまう。)
 だが、一行開きなどは、忠実に原作に従える簡単なしかも大切な「表現」なのである。どう して、段落ごとに機械的に一行開くなどという設定を気儘にもちこんだものか、理解に苦しむ。

* この後始末などに思いがけない時間と神経を無駄遣 いしている。ただし、おかげで「清経入水」をまた読み返せる。三十二歳頃に、書いていた。今の文章感覚でいえば推敲したい箇所も多いが、あえて文字遣いな どもそのままにしている。若いという意気はもとのままでこそ感じられる。途方もない昔の作品なので、他人のものかのように新鮮に引込まれてゆく。

* 大岡信氏、元会長から、「詩」原稿を和文と英文と で受け取った。これで健在の会長経験者二人の原稿が揃った。早速スキャンして和文は校正した。初代藤村のは念校が必要になったが、二代正宗白鳥と三代志賀 直哉とは、これから。これも原稿はわたしが作らざるを得ないようだ。

* 天気なら創画会展など観に行きたかった。いろんな 会や催しに不義理を重ねている。夜前も床に就いたのは結局四時であった。
 

* 十月十九日 金

* 今日も終日、文藝館の作業をしていた。大岡信氏の 詩を日本文で校了し、ついで英訳されたその詩の校正もした。英文での方がなにか身にしみてくるものの有るのに驚きながら。
 わたしの『清経入水』を完全に読み直し、再入稿原稿に仕上げた。
 横光利一の『春は馬車に乗って』を小学館版でスキャンし校正をはじめた。
 正宗白鳥の『今年の秋』をスキャンした。
 親切な読者の協力して仕上げてくれた岡本かの子の『老妓抄』を点検した。
 森秀樹氏から神坂次郎氏の『今日、われ生きてあり』からの五編分が、ディスクで送られて きた。岡本綺堂の『近松半二の死』の仕上がりを待っている。
 井上靖夫人から『道』の掲載を快諾する旨の連絡が事務局に。志賀直哉の作品をもう一度選 び直そうと調べ返し始めた。
 また全国のメール使用会員に流した「電子文藝館」のことに、すでに何人かから「歓迎」の 返信が届き始めた。まことに、こういう事がなければ、東京から遠隔地の会員は、名刺に肩書きとして会員であることを印刷する以外に、ほとんど何のメリット もなくかなり高額の年会費を支払い、維持会費も期待され、さらに新館建設費の寄付まで頼まれる始末になる。この状況は何とかしなくてはと、理事就任以来思 い続けてきた。

* ま、余儀ないことと覚悟はしてきたので、作業の負 担は、せめてもう半年はこの調子で引き受けるが、疲労の度は日一日と増してゆく。疲労というより、心労か。何と謂っても人間関係や実務関係のなかで芯の位 置を引き受けているのだから、投げ出せない。ふつうなら黙っていることも言わねばならない。黒いピンを十本も刺された気分だが、それも境涯、いいではない かと思うことにして、「なんじゃい」と。

* 雨のち秋日和  きのう、冷たい雨とつよい風の中 を、「信濃の一茶」を観てきました。あるグループの企画で、半分おつきあいで行ったのですが、どうということない芝居でした。
 役者ではとぼけた味の島田正吾、新派の女形の藝を見せる英太郎に、心がひかれました。老 いても枯れるどころか、俗臭ふんぷんたる一茶を、コミカルな味つけで見せようというもののようでしたが、観終えたあと、先生のおことばを借りれば、「ほっ こり」した気分には、なれませんでした。
 芝居のあと、グループの人たちには失礼して、ひとりで銀座に出、旭屋で『元気に老い・自 然に死ぬ』と、『斎藤史歌文集』を求め、プランタンでハーブティーを買って帰ってきました。せめて「先代萩」だけでも観にゆきたいと、先生の歌舞伎座の観 劇記をおもいだしながら。
 先日、京都にゆきました折り、月輪観の行のときのものらしい、掛物を見つけました。
 随心院の、あれは境内の外なのか、はずれなのか、百夜通いの伝説の榧の樹のほとりに、大 ぶりの箪笥ほどの、お堂めいたものがありました。中に、神鏡とも見えるものがくらい光を放っている――。こわごわ、さし覗いてみましたら、壁に、掛けもの がかけられていました。縦四十五センチくらい、幅三十センチくらいで、漆黒といいたい黒い地に、銀箔をおいたのでしょうか、大きな銀の円がにぶくひかって いました。小さなお堂も掛けものも、ごく近年のもののようでした。ここで、そうした修行をなさる方が、今もいらっしゃるのでしょうか。
 その銀の月をみているうちにふらふらしてしまい、そーっと離れてきました。
 「炭疽菌」のこと、恐ろしうございます、飛行機激突テロどころでなく。
 足音を殺した忍者のような刺客が、世界中にちらばっている気がいたします。さっきすれ 違った、顔も気配も記憶に残らぬ一人の手から炭疽菌が撒かれているかもしれない――。滅びへの速度がにわかに加速したような。
 きのうの雨があがっておだやかな秋日和になりました。プランターに、数珠玉がどっさり稔 りました。二年前、廣澤池、遍照寺へまいりましたときに、拾った幾粒かが増えたものです。
 たいへん、お忙しくて、お躯にも無理を重ねていらっしゃるごようす、どうぞ、おたいせつ に。
 同人の冊子を送らせていただきます。目の調子がよくないのと、つまらぬ雑事にふりまわさ れ、あげく、何もする気が起こらなくなって、くにゃんとなっていたりして、だいぶ、遅くなってしまいました。 

* 物静かに美しい日本語で語りかけられるこういう メールに、それこそ「ほっこり」として憩うことができる。

* そういえば、今、わたしの身内でジンジンと何かを たぎらせているのは、三十四年も昔に書いた『清経入水』校閲の余韻のようだ。ほんとうの処女作ではないが文壇的にはまちがいなくこの一作でわたしは家の中 から外へ踏み出した。その作柄は、たしかに世の常のものではない。だが、まぎれもなくわたしの創作する力が、若々しく漲っている。読み進むに連れて自分で も興奮してくるが、身の芯の深くに支えきれないほどの寂しいものも凝っている。「非在」のものに恋をしていた、わたしは。それこそが眞実在かも知れぬと心 渇いて求めていた、それが、大嫌いな「蛇」のような「鬼」であろうとも。
 

* 十月二十日 土

* 仕事に追われ先週見られなかった「北条時宗」を昼 過ぎに見た。
 ようやく無学祖元が登場、あの役者はわたしの大学の先輩ではないのか。それは、どうでも いいが、時宗は宜しい。時輔は鎌倉武士にしては泪もろすぎる。桐子役の木村佳乃といったか間違いかも知れぬが、このタレントに打掛姿の時代劇はとても無 理。時宗妻の祝子は、ただもう神妙にしているのでボロは出ていない。平頼綱役の役者の面構えのまがまがしさは、この先の波乱を予感させて不気味に面白い。 何と謂えども、クビライと対決する仕方が時宗と時輔とで変ってくるのが、ドラマの寄せ場であり、評判はどうなのか知らないが、わたしはごく好意的にこのド ラマにつき合い続けている。
 おそらく日本史上、第二次大戦が済むまでと敢えて言うが、北条時宗ほど、アジアの国際関 係で危機感を嘗め尽くした政治家は、他に一人もいないのである。そこが、みどころになる。クビライとの戦争は一文のトクにもならず、莫大な損費と犠牲を要 した。ご家人に酬いうる余力は幕府には無かった。足利や新田が、後醍醐政権が鎌倉幕府を倒したのは、現象的にはその通りの事実だが、根は、蒙古襲来によっ てもう倒されかけていた。
 あの若さで未曾有の国難に立ち向かった史実には、敬意を覚える。いわゆる神風もものを 言ったか知れぬが、毅然と立ち向かった時宗の歴史的功績は評価に絶するものがある。平安時代であったなら、日本は滅びていた。神風だけが幸運ではなかった のだ。
 禅宗という無心の教えがまさに鎌倉に到来したのも幸運であった。渡来僧たちはみなクビラ イらに逐われてきた、宋の僧であった。大元がどのような国かを、時宗に知らせる姿勢も、彼らは備えていた。情報は必要であった。

* 三時間半の睡眠で、六時から機械の前に。早起きす ると仕事ははかどる。早く寝ればいいのだが。明日は元学生君の設計担当処女建築の竣工したのを、設計者の案内で見に行く。さぞ嬉しいことだろう、楽しみに している、が、うかとメールを消去してしまったらしく、西武新宿線の何駅で待ち合わせであったかを確認しなくては。携帯電話にかけても只今運転中だとい う。運転中には携帯に出ないというのは、聡明なことである。明日でも間に合う。

* 横光利一は「春は馬車に乗って」という不思議な味 わいの作品を選んで、今校了した。川端康成と並んで新感覚派の旗手と謳われた優れた作者であった。この作品は新感覚派のここちよい優れた特色に溢れてい て、悲しい物語であるにかかわらず、作家が「表現」の喜びにうちふるえるように初々しく確かにモダンな日本語を績み紡ぎ出していて、魅力横溢の初期代表作 である。何十年ぶりかで読み返した。

* e-友の勝田貞夫さんが、名酒「越乃寒梅」を一升 贈ってきて下さった。恐縮し、謹んでお礼を申し上げた。

* そんなによろこんで戴いてうれしいかぎりです。新 潟出の女房が手に入れてくれました。
 月を眺めてひとりで飲む、なんてぇのは、ほんとに羨ましいです。飲める人、尊敬します。
 只今「あやつり春風馬堤曲」で、蕪村を尊敬しています。辞書見て地図見て遊んじゃってま す。「浦島朋子」さんのようにはいきませんが、おじさんも宿題?やってみました。座興に提出してみます。酒、まずくなったらごめんなさい。

 ウマレタ村ヘ一日ガカリ/ 川ヲ渡ッテ堤ヲ行ッタ/
 クニニ帰ルトイフ女/ 後ニナリ先ニナリ/ ハナシモシタ/
 姿モイイシ/ ナントモカワユイ/
 ソレデナ/ 女ノ気持デ歌ヲツクツタ/
 ココハ摂津ノ毛馬村辺リ/ 名付テ春風馬堤曲/

 寒くなって、炬燵を入れています。お大事にしてくだ さい。
> ---。湖 
 いいサインですね。
 

* 十月二十一日 日

* 秋たけなわ  短い尾を曳いた飛行機雲の消えたあ とには、爪のような月。薄い枇杷色からブルーグレーへと暈し染めにした、シルクシフォンのような夕暮れでしたわ。
 朝夕の冷え込みがキツくなりましたね。晴れた朝、窓を開けて見る山の景色はそれはもう うっとりする程ですけれども。
 鼻や喉を痛めないよう、お風邪など召しませんよう、どうかお大切に。

* 西武新宿線沿線の鷺ノ宮に新築成った四階建て、広 壮なマンションを見に行った。買いに行ったのではない、柳博通君が担当し設計した竹中工務店施工の文字通りの柳君処女作なのである、めでたい限りで、さぞ 喜ばしいであろうとわたしも嬉しくて出掛けていった。外回りも見、中へも入り、モデルルームをつぶさに見せてもらった。抑制の利いたすばらしく清潔な外観 と内部構成で、整斉感に富み、けばけばしい嫌みが微塵もない。生活感覚を身につけて趣味ももった大人が自在に暮らし活かすことの出来る、しっくりと落ち着 いた建物であり部屋であった。白から銀色へ、かすかな濃淡=ディスコードで直線を活かし、緻密なタイルとガラスとが沈静にかがやく建物の中では、温かみの ある木材質の自然色が統制よく控えめに呼吸している。このあとは、この清潔な素地の上へ住人の好みで自身の色彩や物を自由に配すれば佳い。どんな好みをも 受け入れて落ち着かせる用意が行き届いている。うん、これはこれは、柳君らしい自信に溢れたまっすぐな行き方と、静かさをうまく活かした毅いセンスとで、 本人は六十点と謙遜したけれど、わたしは、十分好もしく出来た成功作だよと褒めるのに何の抵抗もなかった。
 その昔、わが教授室に現われて、よしよしとばかり部屋の模様替えをしてくれた。借り物の 猫のように落ち着かなかった新米教授が、急に主=ヌシのように落ち着けるようになった、その日から。懐かしい想い出である。柳君はまた専攻の課題で、茶の 湯も楽しめる或る作家の私邸というふれこみの設計図を書き、その模型を教授室に運び入れて飾ってくれたりした。茶室が付属していたが、これでは水屋が狭い よなどと文句をつけ、ほんものの茶室を見に出掛けたこともあった。
 三十前の独身青年の次の飛躍への処女作かと思うと、感心してしまった。

* で、新宿線で移動して、それからは、また別の柳君 の話題で、八時半まで飲みかつ喰い、とことん話し合ってきた。美しい人の静かな言葉にも迎えられた。ビールと冷酒と焼酎。言うこと無しの数時間を、ゆっく り、柳君と久闊を叙してきた。

* 帰ったら、見損じた「北条時宗」を妻はビデオに 撮っていてくれた、早速見た。今日も、時宗、そして死んでゆく北条実時も、時宗を支える安達泰盛や妻祝子も、落ち着いて「歴史」を想ういいヒントをわたし に投げかけてくれた。わが先輩の筒井康隆が無学祖元を厳しく演じていて、うまくなったなあと感心した。黒澤明に鍛えられ愛されてきたピーターこと池谷慎之 介が渋い名演技でここまでドラマを支えてきたのは、いかにも時宗の守役らしく好感がもてた。一人また一人と古老、老職が逝去してゆくのも見てきたが、そう いう場面が身にしみる年に、わたしもまた成っているのだなと思う。
 柳君は、いま、なにをしていても自分が一番若い部類に属していると話していたが、わたし も、ある時期、なにをしていても、どこにいても自分が一番若いと感じて、安心なような物足りないような思いをしたものだ。だが、ふと、気がつくと、わたし より年上の人の少なくて、だれもかれもが自分より若いことに愕かされる事が増えている。愕きながら、すうっと気持ちが冷えて落ち着いていることもあり、肩 をすぼめるように寂しいときもある。

* 今日は良い日であった。良い日というのは向こうか らただ訪れてくるものではない。自分からも歩み寄ってゆくから訪れてくる。
 

* 十月二十二日 月

* 小鳥のさえずりが聞えてくる。七時過ぎ。二時半に 灯を消し、三時半に目覚めてまた「うつほ物語」蔵開き上の巻を読み、また灯を消したが眠れそうになく、四時半に二階に上がって今まで次の「湖の本」入稿の ためにスキャンした原稿を校訂していた。メールを開くと、夜前遅くに書かれたメールが一つ届いていた。

* とても涼しくなりました。お変わりありませんか。
 わざわざ、メールいただきましてありがとうございました。演奏会は、また是非機会があり ましたらご連絡させてください!
 仕事は、12月中旬で退職することにしています。
 ****は、研究所がたくさんある地域ですが、そこで、実験の助手などのアルバイトをた くさん募集しているようです。しばらく主婦を満喫して、4月くらいから定時で帰れるような仕事を探そうかと思っています。
 彼は11月から仕事が始まりますので、引越しや各種手続きに追われていますが、元気に やっています。 
 ****は緑が多くてとてもよいところです。散歩やサイクリングを楽しもうと、今からわ くわくしています。
 先生も、相変わらずのご活躍のようですね。急にがくんと寒くなるときもありますので、く れぐれもお大切になさってくださ
い。 それでは。   2001.10.21

* この人の退職は結婚のためであるが、不況ゆえにリ ストラを心配するといった、東工大卒業生にはかつてなかったような厳しい風が、世間に吹き起ころうとしている。日本の道をあきらかに過っている小泉内閣と 与党とは、今まさに為さねばならぬ課題を棚上げ同然に、アメリカに、というよりブッシュ個人に追随して右往左往している。テロ撲滅には結局は役立たないの は察するにやすく、せいぜいビンラディンを捕えて殺すだけの話に終るか、別のもっと大きな火種が爆発して戦火もテロ禍も拡大するかの、いずれかへ展開して 行くだろう。ブッシュ一人の満足満悦をあがなうためにバカな金をつかっている。同じ金をいかすにも、時機があろうに。壊滅的な破壊に手を貸す金づかいでな く、人の安全と建設や復興にあてる金にすればいい。誰の悪知恵だか「旗を見せよ」といわれたなどと迂遠な口実で、バタバタと急きに急いて、愚かしい奔命を 重ねながら、狂牛病一つにもろくな対策が立てられない政治。不況は悪化の一途という、ザマはない政治。或る哲学者は「小泉は、あの東条よりも危険だ」と 語っていたが、十人に九人などという狂気の沙汰の支持率を与えた国民にも問題はあまりに多い。異常なのは内閣もそうだが、国民にもそれがある。もう気がつ かねばいけない。

* 息苦しいほど片づけて行かねばならぬ仕事がある。 せめて文藝館の仕事半分、自分自身の仕事半分と時間も割り振り体力も割り振りたいが。ああ、眠気がさしこむように来ている。階下に降りて朝のインシュリン を注射しよう、その前に血糖値を測らねば。
 手洗いに、妻が庭からはこんだらしい、柄も色も佳い草の葉が、古い伊万里の土から出たき ずものの徳利にさしてある。名前は知らないが、可憐な葉の一枚一枚の真ん中に、輪郭に相似の赤い色変わりが美しい。そういうのを目にとめてくるだけでも気 持ちいいものだ。木の花も草花も好きだが、木の葉、草の葉の多彩な造形には見飽きしない。
 「うつほ物語」が、巻を追い、あて宮の東宮入内が済んだあたりから、「内侍のすけ」の巻 あたりから、うってかわり面白く興深くなり始めて、読み始めるとやめられない。たしかにこの物語には、女物語と異なる克明さが感じられて、それが最初のう ち負担であったが、だんだんにそれまた時代と世界とのリアリティーの如く伝わって来始めると、ひょっとして源氏物語の宮廷社会よりも、男の見て生きて書い ている「うつほ」の方が現実に近い調子をもっていそうな気もし、それが或る迫力・魅力とさえ感じられてくる。ながく、左大将正頼家に偏して「あて宮」への 求愛行為が公家達を騒がせ翻弄していたのが、またもとの俊蔭一族の話に戻りかけてくると、物語に求心力が働き初めて惹きつけられる。古典はいいなあと読め ば読むほど惚れ込んで行く。まあ、なんと二十歳代の青年のようにうぶに可愛い感想を書き付けていることと苦笑もされるが、本音のところ、わたしには六十六 になろうなどという実感よりも、二十歳台に噴出した感性のあの波立ちのまま今も揺すられ続けている気分が強い。つまり年ほどはとても成熟していない。仕方 がない、どう繕い隠すわけにも行かない。

* 今朝は初めてストーブをつけました。
 目覚めても、いつもならぬくぬくとお布団から思いきりよく抜け出せない、毎日が日曜日の 我が家も、早立ちの人に合わせて六時にとび起きました。
 今日は一日私の時間です。
 永く永く何人分かの食事の用意が頭から離れる事がなく、まだ食材をやや買いすぎで、嫁い だ子が冷凍室を覗いてびっくりしていますが、それが楽になってくると、皮肉なもので体調が比例して退化しています。老化症状(というのは妹が同じ症状で、 私は放っていましたが、彼女は医者に看せています。老化で内臓が痙攣をしているそうです。)に悩ませられます。ホンの十分位ですが、蛇が胃裏でくねくねと のさばっている様で痛みを伴い、呼吸器が押されるのか息苦しく、あの足の攣れを少し軽くしたような痛さで、なんとも異様な症状です。
 忘れた頃に現われていたのが、この処続きました。昨夜中はソレが現れ、落ち込みが重なり ました。悲しいかな「老化」と「ナニ」につける薬はないのですね。覚悟で付き合います。ドンマイ。馴らされて、苔むしてきました。何時綺麗になるかなと 思っています。
 夜中の訪問者のおかげで、珍しく朝ご飯はまだなの、お腹が空いてきました。
 今晩十一時から「夢伝説」マレーネ・デイートリッヒがあります。
 自然に逆らわず、穏やかに流れたく想うこの頃です。あれこれ強がりを言っても、何が起こ るか分からない歳と、切実に想うのです。元気にしています。

* このような症状を初めて聞いた。何だろう。やはり 診察を受けておいた方がいいのでは無かろうか。世間が騒がしすぎ冷えすぎている。健康で元気でありたい老人環境が息苦しく窮屈になっている。じつはラクで ありすぎるのか。いいや老境のマインドが微妙にものに障るのであろう、ドンマイ、ドンマイと行きたい、ほんとうに。
 昨深夜、眠れぬまま床の中で眼を見開いていた。完全な闇であった。この頃この真の闇を パッチリ眼を開いて見るのがわたしのお気に入りの「行」である。とても安楽で平和で落ち着きどころに在る意識。なによりもわたしに五体が皆無に失せてい る。感覚も失せている。ただ闇を見ている、いや闇に在る「意識」以外のいかなる私も存在しない。空の空に意識だけが眼のように在る。形ある何の影すらもな い。これでこのままこの意識すら失せたならどんなに安らかであろう。そう願いながらいつか寝入るのだろうか。寝入ると夢が来る。夢はいやだ。だが夢の話を こう書いている今のわたしが夢のなかにいるのも間違いないことだ。ほんとうのわたしは、あの闇にみひらいて在った「意識」以外になにも無いのだなと思う。

* 昨日から雨が降り続いています。午後、友達から電 話があって長い時間彼女の人生相談に乗って・・人を元気付けたら、何だか自分がとても疲れてしまいました。テレビの画面はテロ以後のアフガンやパキスタン のことを放映しています。常に関心を持ちながら暮らしています。
 お忙しそう、睡眠時間を確保して無理なさいませんように。大切に。
 

* 十月二十二日 つづき

* 芹澤光治良もと会長の記念館から「死者との対話」 掲載に快諾の返信が入った。うれしい。すぐコピーをとってそれをスキャンし、校正に入った。正字使用なので三倍ほど時間がかかるが、襟を正して読み進めた くなる。
 正宗白鳥の「今年の秋」も校正しながら読み返している。こちらは底本が正字使用ではない ので比較的らくに進む。これもまた優れた選り抜きの作品、白鳥の到達した境涯がさらさらと、しかも深々と表されている。
 井上靖の「道」はまだスキャンが出来ていない。わたしの好きな作品である。

* 昨日の建築家柳博通君がメールをくれた。この思い は後々のためにも記録に値する。

* 秦先生 こんばんは。昨日は鷺宮まで足を運んでい ただき、どうもありがとうございました。初めての担当作品で、目の行き届いていない部分もたくさんあり、お見せするにはためらわれたのですが、見ていただ かなければ助言も得られず、それによる成長もありえないと思い、見ていただくことにしました。
 会社の人からの批評はテクニカルなものが多く、「そのテクニカルなものが何を表現するた めにあるのか」といった話題には至りません。つまり、ものそのものの納まりは評価できても、コンセプトの実体としての建築への納まりの話題にはならない事 が多いのです。
 私としては「うまく納まっている」ということの向こう側に見える「何か」に、興味を持ち たいし、持ってもらいたいと思っているので、これからも、その「何か」がもっと見えてくるような努力を続けていきたいと思います。
 先生の、色に対する批評が、自分の意図したとおりの指摘であったことは、自分の自信とな りました。
 今回の色の選択は、素地色を使うというものとしていました。金属であれば素地の銀、塗装 済みのものは色あわせをし統一する、建物全体は好き嫌いの出る強い色を使わず白とする、といったように素地色を選ぶことによって、建物全体が生活の素地と なっていくことを意図したのです。また、これらのことが、中庭のウッドデッキの木質とゴシキナンテンの緑をより一層ひきたてることになったと思います。
 「自然」というものをどう扱うかは難しいですが、今回は、抑制された色が自然との対比を 作り出し、より大きな全体の構成を成功に導いたと感じています。
 次回の作品においては、より大きな環境にも目をやり、かつ小さなところにも優しさを持っ たデザインのできるよう努力していきたいと思っています。
 夜の食事もたいへん楽しくいただけました。 本当に、どうもありがとうございました。  柳

* 昨日に書いて置いた感想と、およそ、呼応してい る。昨日はそんなことは話さなかったが、住宅建築は人が暮して真価が生きてくる。人がいない内からやたらにものの形や色彩で主張が多くては、入居して人の 手を下しふれてゆく楽しみが奪われる。小説にも、書ききって仕舞われると呼吸をやどす隙間が無くて風通し悪く息苦しいものになる。辻邦生という優れた作家 に、ややそういう呼吸困難を感じる秀作があった。そういうことと共に、建築はさように人間の生活の場になるからは人間の生活と心理については、十分な観察 と洞察が必要になる。昨日の建物で言うと、子どもは一人の家庭が想定されたモデルルームであった。小さな子なら男女でも二段式で暮らせなくはないが。それ はそれとして、ベッドのある子ども部屋の壁と親夫婦の寝室の壁とは軟らかに一枚で隔てになっていて、隣家との境のようにコンクリートではなかった。子ども がもう小学生であったりすれば、まだ若い親夫婦の寝室は、少し落ち着きの悪い神経をつかう夜々になるだろうなと想った。
 春琴抄のなかで春琴が火傷をするとき、床の側に湯の沸いた鉄瓶があるのは都合が良すぎる ではないかと、若い学者が書いていたが、電気暖房でなかったむかしである、冬は就寝前には火鉢に埋み火して、用心のためにも鉄瓶や薬缶を掛けて置くのは常 識の範囲内である。そういう人の暮らしの時代に応じた知識や思い入れがなくては文学は深く読めない。建築でも、きっと似た意味で「人間の暮し」についての 理解が分厚く設計や施工の基盤に置かれていなければならないだろう。建築ほど多くの各種の理論や考察を受け入れる藝術はないかも知れない。そして、建築家 がいちばん勉強の足りなくなりがちなのは、建築理論の方であるわけが無く、じつは人間理解、生活理解の方である。こういうものは、日常の自身の生活感覚も 大事だが、多くは見聞と読書、それも優れた表現の小説をたのしんでよく読む習慣がぜひ必要であろう。それが欠けると、つい建築物の構想に力点がかかりすぎ て住人の暮らしが冷え込んで仕舞いかねない。みな忙しくてそういうヒマはないと言うかも知れぬが、大事なことではあるまいか。
 

* 十月二十三日 火

* 今朝は、とにかくも四時間は寝た。六時半には起き て、すぐスキャン原稿の校閲に。白鳥と光治良とわたしの湖の本一冊分とを並行して触っている。靖の「道」がこれへ加わる。芹澤さんの作品の底本にしたのが 正字と旧かなづかいなので、芯から疲れる。しかし「死者との対話」も「今年の秋」もすばらしい。

* ぎりぎりまで仕事して、昼過ぎに妻と千石の三百人 劇場へ。日差しのつよい秋日和のなかへ家を一歩出ただけで、途方もなく疲労していることが分かる。眠くて、からだは重くだるくて、しかもフラついていしま う。こんな体調は初めてだ。
 劇団昴の招待に応じて席をもらってあるので、演目も、ハインリヒ・マン原作の「嘆きの天 使」とあっては、どう疲れていても見たいという欲がある。巣鴨でコーヒーを飲み時間調整してから劇場に入った。

* 芝居は、いつもの昴とちがい、生煮えで、ドラマが 爆発しなかった。舞台装置の使い方は面白く、巧みですらあったものの、脚色の力点の置き方が観念的で、的が定まらないまま何を観客の胸に叩きつけたいのか が、はっきり煮え立ってこなかった。もっとナチスの重圧を具体的な背景にし、また前面にももちだしながら、そういう中での教授とヒロインとの「愛」にせよ 「真実」にせよ、もっとはらはらどきどきしたものに設え、盛り上げてゆくべきだった。道化の失踪と、道化を動かしていた気持ちと死とに、ナチスとユダヤ人 の問題を集中しながら、そういう重苦しく嶮しく危険な時代の中での主題の煮込み方があるだろう、思い切って脚色をそこへ突き進めて欲しかった。あれでは、 なにかしら舞台の進行が、台本の筋を説明するために有るような、分かるけれども胸は少しも震えてこない芝居になっている。このところ絶好調といえる昴の公 演が、今度のはやや半端に冷え込んだまま済んだ感じ。教授の内田稔はとても気の入った良い演技をしていたが、ヒロインの芝居が貧弱で、とくに前半の、結婚 に至る表現力が貧弱で、舞台の魅力をアツアツにふくらませるオーラが全く立っていない。あれでは、教授が全てを抛ったことが訝しいとすら思えてしまう。あ の舞台を成功させたいなら、マレーネ・ディートリッヒに相当する魅力の持ち主を劇団の外から物色してくるよりないのである。だが、さて、どんな女優ならそ れが可能だろう。澤口靖子があれを出来るぐらいなら、教授の気持ちが、わたしにも無理なく分かるのだが。背もありスタイルもいいし。ウーン、まだ無理か な。捨て身になってやれば、やれそう。

* とても街なかへ出てゆく元気なく、池袋に戻ってパ ルコ「船橋屋」で天麩羅を食べて帰った。笹一を二杯飲んだ。食欲は無くはない。うまかった。だが、いつもだと食べると元気になるのに、持ち直さなかった。 保谷駅から、先を歩き出した妻を呼び戻してタクシーに乗って帰った。家まで歩く気がしなかった。

* 帰ってすぐ、また校閲の仕事にかかり、とりあえず 自分の入稿用原稿の七八割にあたる、芯の原稿だけはつくりあげた。もう十二時だ。疲れた。白鳥と光治良とをもう少しずつ進めて置いて、靖の「道」のスキャ ンは明日に回して早く休みたい。馬鹿なことをしていると嗤う人が多かろうが、こういうものだ。流れのままに疲れようではないか、今は。
 

* 十月二十四日 水

* 正宗白鳥作品と横光利一作品、及び「日本ペンクラ ブ物故会員氏名一覧」を、業者の手に入稿できるところまで用意した。芹澤光治良作品の校訂に手間取っている。石川達三、高橋健二、遠藤周作、そして尾崎秀 樹各元会長作品はまだ選べていない。
 湖の本用の候補作品をスキャンしていたら、関連のものだけで二册分にもなるほどあり、ま た選別に汗をかかねばならない。ときどき、泥のように機械の前で居眠りしてしまう。

* 今晩、McAfeeのウイルススキャンで、また以 前と同じ内容の「警告」が出た。「MacAfeecom Peersonal Firewall データベースに不整な変更が加えられています」と。十月十二日か三日だったから十日経っている。潜伏期間がすぎて悪さを始める気か、何なのか。

* からすの行水  ご覧になったこと、おありでしょ うか。
 わたくし、今日はじめて見ました。
 近くの公園の端のほう、松やくぬぎなどが、ちょっと森めいた感じに植わっていて小暗いと ころがあります。そこにできた水溜りで、からすが二羽、水を浴びていました。
 何度も、浅い水に身体を浸して身体をふるわせては、立ちあがり、羽ばたきをして、ひかる しぶきをあたりに散らしていました。木洩れ日に、濡れたからすの漆黒が、折々、つやつや玉虫色を帯びてひかり、「髪はからすの濡れ羽色」、それは
それはうつくしい見ものでございました。
 そばでいっしょに眺めていたお掃除の老人に、よく見られることかと聞いてみましたとこ ろ、「からすの行水っていうけれど、見たのは初めてだ」と言っていましたから、めずらしいことなのかも知れません。諺とはちがって、ていねいなものでござ いました。
 からすの飛び去ったあと、櫻落ち葉の浮いている水溜りのふちを、きじばとやそのほかの小 鳥たちが何かをついばんだり、水を飲んだりしていました。
 たいへん、お忙しくしていらっしゃる先生に、のんきなおしゃべりをしてしまいました。
 やっと、目の調子が少しよくなり、「ぎしねらみ」を読みました。ふたりの少年の心のふる えに、心ふるえました。
 ただならぬお仕事の量、ただならぬお疲れのごようす、ただただ、お案じ申しあげるばかり でございます。

* からすの行水というと、そそくさと粗略なものと 思っていた、が、ほんとはどんなふうなのかと、わたしも想っていたことがある。印象的な報告で、記憶に値する。

* 連載「ミマン」の読者解答が届いた。今回はよほど 難しかったか。いかが。

 (   )の世を蔑(なみ)するほかにすべ知らぬ、戦後の民のひとりか。われも

 (   )なかばにて逝く年と思ひけり

 ともに、著名の作者のもの。原稿を早く書いてしまお う。

* 「e?文庫・湖」のほうの手当がなかなか出来な い。
 

* 十月二十五日 木

* 文化の日にスペインに発つ河村浩一君と新宿で歓 談、歓飲、歓食。学部三年生の最終授業で別れてからもう六年七年が経っていたが、昨日別れたようにお互いにすこしも空白感がない。沢山話したし沢山飲ん だ。お店の人に心配させてしまうほど。一年で帰国する予定だから、また此処で逢おうと約束した。芹澤光治良の対話とは違い、幸いわたしはこの人を戦地に送 り出すのではない、それが嬉しいことである。中世以来のまず大学都市に入って勉強するのだという。スペインは少年時代からの念願の国で、まよいなく出かけ て行くという。この合気道の全国チャンピオンを送るのに、わたしは何一つ心配しないで済む、健康にだけ留意して呉れればよい。それほど信頼している。

* 白鳥と利一との小説、また物故会員の氏名一覧を業 者の手へ送った。森秀樹氏による岡本綺堂の新歌舞伎と神坂次郎氏の小説も送った。いよいよ、あと一ヶ月で「ペンの日」が来る。最善は尽くすがデモンスト レーションが出来るかどうかはまだ様子が分からない。成るように成るであろうと深くは気にしないことにしている。

* 今、わたしの心をとらえているのは、いったい何で あろう。

* 「私語の刻」を読みますと、秦さんお疲れのごよう す、心配です。
 秦さんの電子版湖の本や、「e?文庫・湖」は、さらにまた今度の電子文藝館も、優れた文 藝に触れるよい機会です。
「ばかなことをしている」だなんて、とんでもない。秦さんの「湖」は拡がっています、わた しのひと雫の加わるのがゆるされるならば。
 ネットで小説を読めるようになることは、市場のニーズにかなっていると、わたしは思いま す。読みたい本を書店に注文すると「品切れです」という回答ばかり返ってくる昨今ですし、図書館でも、全集の類いは奥に整理されてしまう始末です。本が売 れないという現状において(売れないのは本だけではありませんが)、まず人の目に触れることが大事だと思います。それが手許に置きたいという購買欲につな がってゆくと思うのです。優れた文藝は消耗品ではありません。折にふれて味わいたいものですからね。
 音楽CDだって、聴いたことのないものは買いません。ラジオでかかっていたり、映画の挿 入歌になっていたり、テレビで見たりしたものを、いいな、と思えば買います。これって、極めて一般的な消費者の意見だと思うのですが、どうでしょうか。
 高史明さんの「いのちの声がきこえますか」は、大きな問題を明晰に明解に論じてあって、 わたしにはとても興味深いものでした。わたしがいいと思っても、人はまた違うということはわかっていますが、あんまり示唆に富んだ論だったので、近しい人 に紹介しました。ひとりにはテキストデータで、もうひとりにはプリントアウトをして。夏前のことです。未だ何のレスポンスもありませんけれど、彼らが読み たいと言ったわけではなく、わたしが勝手に渡したので、仕方ありません。いつかふと思い出して読んだときに、何か感じてくれれば、それでいいかな、と思っ ています。
 それと、こちらは「何か読みたい」と言った友人あてに、秦さんの「蝶の皿」と三原誠さん の「たたかい」、「白い鯉」を送りました。「面白かった」とひとこと返事がありました。釣り好きのその友人は、「白い鯉」を読んでふつふつと釣り熱がわ き、次に開高健を読んだそうです。ま、いいかな、と思っています。
 文藝館の岡本かの子は、やはり「老妓抄」でしたか。代表作ならそうでしょうね。わたしは 「鮨」という小さな作品が好きです。これを映画にするなら配役は誰で、フラッシュバックはこんな風にして、などと考えてしまいます。
 きのうは「陰陽師」という映画を観ました。原作も漫画もテレビドラマも未見で、予備知識 なく観ました。久しぶりに映画館へ行きましたが、さしたることもなし、野村萬斎さんのいい声と姿勢のよさだけが見どころでした。萬斎さんがジャパンアク ションクラブ出身の真田広之さん相手に、機敏な立ち回りを演じたところはなかなかで、萬斎さんを観に行っただけのわたしは満足でした。
 平安のお話でしたが、現代劇を観ているようでした。”そこはそういう抑揚で言うんじゃな くって”などと心の中で役者に注文をつけながら、観ていました。しまいには”顔が平安時代じゃない”とまで(これは無茶かな。でも「L.A.コンフィデン シャル」というアメリカ映画で、キム・ベイシンガーが、1950年代の顔をしていたという例もありますから)。
 鬼やもののけに妖しく怪しい感じはありませんでした。「清経入水」を読んだ者としては、 蛇や鬼を描くならば、という気持ちは禁じ得ません。あからさまにCGを多用して、サイコキネシスエンタテイメントにしたかったのかも知れませんが、過剰な のは、かえって希薄な印象を与えますね。
 安倍清明や陰陽道はたいそう人気があり、いろいろなところでとりあげられていますが、あ やかしあやかしと、しつこく言われると全然あやしくないですね。過剰な表現は禁物、と自戒を込めて。
 前回のメールで気弱なことを申しましたが、わたしは元気です。できることがあったら、い つでもお手伝いします。デジタルプリプレスの仕事に携わる者のはしくれとして、校正の難しさは身にしみているので、絶対間違えないとはなかなか申し上げら れませんが、こんなわたしでよければ、遠慮なくおっしゃってくださいね。またぽつぽつ書いている文章を見ていただくための余裕を、秦さんにとっておいてい ただきたい、ということもありますので……。
 わたしは秋の花粉にやられていますが、秦さんは大丈夫ですか?

* 季節が巡ってくると、確実に鼻がぐあいわるくな る。季節の乾燥度のせいだろうと思ってきた。ある時期になると確実に治る。これは、ひょっとして秋の花粉症であるのかなあと、今、はたと思い当たった。と すれば、ずいぶん多年の患者である。目はさほどでない。
 こういうメールを深夜になってみつけると、ふうっと呼吸が温かになる。いいものを選んで 自由に、読みたければ読んでもらえるように。だからバラエティイーも豊かにと願っている。あまり、しかし、作業に足をとられて前へ進まないと言うのでも本 末転倒になると恐れていた。懼れが現実化しているのか、「規則的・機械的」な作業に拘泥っていると能率があがらない。そして正確にも行かないのでは困惑す る。

* 泥酔の泥とは、どろどろの泥のことだと思うだろう が、この泥とは、もともと、どろどろのどろのような「虫」の名前だと中国の本に出ている。拘泥の泥もそうである。
 「清ら」「清げ」とは、ともにりっぱに美しい意味であるが、「清ら」にくらべ「清げ」は やや下り、二流のよろしさである。こんな微妙なところも古典では読み分けて行くと自ずから批評が見えてさらに興味深い。

* またもや一時半。これから横になってバグワンと 「うつほ物語」を読む。何冊も新刊を戴いているのも読みたいが、歴代会長のなかの遠藤周作と石川達三の作品を読んで、掲載候補作を選ばねばならない。わた しは疎い方なので、お二方の佳い短編小説を、どなたか、教えて欲しい。
 

* 十月二十六日 金

* 阿刀田高氏の原稿が事務局に届いたとか、感謝。電 子文藝館の企画に理事会で率先して賛成してもらった。理事の原稿が増えて欲しい。神坂次郎氏についで二人目。

* 湖の本新刊分の原稿を作り上げた。一冊分をスキャ ンし、校正し、編成して、入稿できるようにフロッピーディスクに収めた。

*  (今)の世を蔑(なみ)するほかにすべ知らぬ、 戦後の民のひとりか。われも

 こう、卒業生の一人が答えてきた。 「今」という解 答は実際にも最も多いのだけれど、あなたは何を考えての、この「今」
ですか。どういう意味になる歌なのか訊きたいな。あなたの「今」そして「戦後の民」観を訊 き確かめたい。そう反問したら、
「おこたえします」とメールが届いた。

* (今)の世を蔑(なみ)するほかにすべ知らぬ、戦 後の民のひとりか。われも
 蔑(なみ)するべき世は、今の世だ、という判断です。
 確かに、今の米国とも違う雰囲気で、過去に戦争へ突き進んだそういう「世」もあり、それ こそが、蔑まれてしかるべきかも知れません。しかし、戦後の民である私は、今の世よりも本当に、悪い世だったのか自信を持って言えないのです。戦後とある ので、戦争に絡めてその前をひくのが正論だったのかも、とも思いますが。
 もう少し言うなら、おそらく私は、戦後の民、ではなく、高度成長期以降の民、あるいはバ ブルの後のオトナ、かと自覚しています。ここで歌われている戦後の民、とは、同じ気持ちは持てていないと思います。

* これは分かる。同時にまるで違う「今」理解を示し てきた高齢の女性が何人も何人もいたことは言って置かねばならないだろう。
 「短い文章では言い尽くせない難儀な短歌を出題してしまいました。どんなに現象的に 「今」の時代がひどく見えようとも、過去に、本当に今より良い時代があったとは思えぬ、と、高齢の女性たち、はっきり今を是認する・是認したいのだと解答 している人が、何人もいました。今がというより、わたしは、この後が、これから先が、イヤな時代に後戻りしてゆきそうなのを案じています。若い人、学生た ち、が立ち上がらない時代は暗いなあと心配しています。
 わたしは、「飢の世を蔑するほかにすべ知らぬ、戦後の民のひとりか。われも」が面白いよ うに思いました。」
 

* 十月二十七日 土

* 昨夜は録画で、見知った俳優は一人もいないけれ ど、比較的最近のマイナーなフランス映画を観ていました。
 愛のイザコザよりも、ちょっと複雑な台詞が面白く、そんな中で皮肉を篭めたこんな言葉が 気を惹きました。アメリカ映画は些細な事に大金をかけて作り、フランス映画はお金はかけられないが、深い思想のある物をつくる、と。
 ケースバイケースでそう一概に言えるものでもありませんが、今のアメリカには、映画の世 界だけでなく、唯我独尊の驕りがみえみえで、そんな物も含めて肯いていました。
 そんなで、ニュースを見ていなく、先ほど新聞で寂聴さん断食の記事を読みました。納得、 それなりの意義がありますもの。

* 深夜に疲れているだろうが、ともあれ公開している 文章なのだし、変換ミスに気をつけよと叱られた。正字が政治になったり、我が割れになったりしている。気にしているが、読み返したことがなく、恥じ入る。 保存して日付順に直すときに読み返して訂正している。

* 午後、原知佐子らの芝居を見に行くことになった。 楽しめると佳いが。湖の本の入稿が出来る。ディスクで渡すから、あっというまに初校が届く、と、またこの作業が被さってくる。日々が寄せる波の中で揺れに 揺れているが、揺れていなければ心静かとも言いきれないものである。船はまっすぐには進まない、ローリングがあるから進む。器械に向かっている間、昨日 は、繰り返し、むかしの歌をディスクで聴くとなく聴いて、時には小声で和していた。「故郷」「いなかの四季」「早春賦」「春が来た」「春の小川」「朧月 夜」「鯉のぼり」「茶摘」「青葉の笛」「海」「牧場の朝」「われは海の子」「村祭」「村の鍛冶屋」「紅葉」「雪」「冬の夜」「冬景色」「四季の雨」「あお げば尊し」と。これだけで、どれほどの時間であるか、二回三回繰り返して聴きながら仕事の進むのを確認して、一休みする。懐かしい歌ばかりで、感傷的にも ならず、佳い選曲になっている。つまらない、好きでなかった歌も入っているが、上手に美しい声で唄われると、あらためて佳いなと思い直したりする。無邪 気。それが憩わせる最良のものと気付いている。世界は今、邪気にあふれ混乱を極めている。
 例の「ミマン」出題短歌に、圧倒的に、「(今)の世を蔑=なみするほかにすべ知らぬ、戦 後の民のひとりか。われも」と解釈した人の多かったのは、何故だろうと、また考えている。原作は「今」ではないのであるが。思いの外にこれは複雑な問いか けをはらんでいる。「戦後の民」と「今」と。己の位置と質と姿勢とを、こう一首にして人はどう考えているのか。一概に行かぬものがある。

* 夫のリストラで、もう、気儘な贅沢がしていられな くなりましたという、或る便りも。
 

* 十月二十七日 つづき

* 吉祥寺までバス、井の頭線で下北沢まで。
  以前に、秦建日子が「タクラマカン」を上演し、師匠のつかこうへい氏がわさわざ見に来てくださった「小劇場」で、今日の、原知佐子さんらの芝居はあった。 ジェシカ・タウンゼントの戯曲『エンジェル&セイント』で、登場人物は四人。知佐子演じる老母と、演出も兼ねた中村まり子演じる四十六歳になるミ スの娘と、その娘を墓地で犯す男と、娘の告白を聴く神父と。モチーフも分かりよく、まずまずよく書けている「退屈な純文学」、そういう芝居であった。四人 とも、巧みに演じて、それぞれベテランの域にある。俳優としての表現力にさほどの文句はなかった、が。便器とバスタブをそのまま据え付けた舞台装置は融通 が利かず、「物そのもの」の視覚がとかく邪魔になった。一時間四十五分の十場面ほどが、どうソツなく連続しても、舞台の温度は冷え冷えといつまでも盛り上 がらない。希望というものを殺された状況から舞台が動き始め、それからの漸くの脱出も、生き生きとした希望に繋がると思えない一時的な安息休息にしかなる まい、と、そう悲観的に思わせるような舞台の進行だった。オールドミスを美女にかえ、エロチックに刺激的な舞台にする手も有りえたか知れない。
 それにしても、開幕していきなりオールドミスのだらけきった(疲れ切った)のが、便器に またがり下着をおろして、リアルな音で排尿の場面から始まったりする。途中で、男が下半身をすっ裸にして女の目の前に見せつけたりする。そういう下ネタに 流れなくても成り立っている脚本意図なのだが、舞台装置の生々しさと共に、その手の芝居が、かえって観劇気分を濁らせたり騒がせたりしてしまう。
 要するに微塵もカタルシスのない、何の楽しみもない、どうしようもなく袋に頭を突っ込ん でしまい息苦しくて動けないような芝居であった。
 大学時代のわがマドンナであった原知佐子も、老耄して死んでゆく、老母 !! を演じて、むろん何のソツもない好演なのだが、いかんせん、魅するように萌えたち燃え上がる脚本ではないのだから、あれは、仕方がない。
 身びいきでなく、同じ此処の舞台で息子が作・演出した『タクラマカン』は、熱気と興奮と 問題意識とで満員の客をしびれさせていた。「劇」とは、「はげしい」意味ではないか。今日の脚本じたいには、老人介護にアプアプさせられる世代女性の深刻 な今日性がある。そして、性ないしセックス。古くさい主題では全くないのだ、が、なぜにあのように退屈に沈み込む芝居に成り終わるのか。主演・演出の中村 まり子は力のある人に思われただけに、じかに聞いてみたいほどだ。

* 妻はまたも少しギックリ腰気味であり、すぐ吉祥寺 に戻ってタクシーで家まで。芝居を見る前に劇場の近くの「橙橙」という和食の店で、自家製の酒をコップでもらい、「うな玉丼」を喰ったのがうまかった、そ れが下北沢迄行っての収穫であった。

* 簡単な夕食の後は、ひたすらに仕事。十二時半にな る、まだやれるけれど、ま、休もうか。

* McAfeeは使ったことがないので、確かなこと は言えませんが(また警告が出たのは)やはりかなり危険な状態だと思います。
 ファイアーウォールというのは都市を囲む城壁のようなものです。城壁が破られていないか どうか、守備隊が定期的に点検し、ソフトによっては修復してくれるものもあるようですが、その定期点検で抜穴が見つかったということでしょう。
 潜伏期間ということではなく、穴が開いているという警告ですから、抜穴をふさがない限 り、定期点検のたびに警告が出ると思います。
 問題は穴がどうしてあいたかです。原因は行儀の悪いソフトが間違って穴を開けた、外から の攻撃、内側からの攻撃という三つのケースがあるでしょう。
 外からの攻撃にファイアーウォールが易々と破られるというのは考えにくく、内側からあけ られた可能性の方が高いと思います。
 内側からというのは、城壁を築く前に、山賊のアジトが都市内部に作られていたか、メール などでウィルスが忍びこんだかして、出撃のための抜穴を作られたケースです。この種の内側からの攻撃手段をトロイの木馬といいます。
 山賊が活動する際は、一台のコンピュータを秦さんとネットの向こうの犯罪者が同時に使う ことになるわけで、動作が通常よりも重くなることもあるようです。
 いずれにせよ、なりすましを防ぐために、パスワードを変えるぐらいはやっておいた方がい いです(トロイの木馬なら、変えてもまた盗まれますが)。
 御心配なら、テキストだけをバックアップして、ネットワークに繋がったコンピュータ全部 を真っ白にし、インストールし直した方がいいでしょう。
 不安をあおるだけの結果になってしまったかもしれませんが、あの警告は無視しない方がい いでしょう。

* 加藤弘一さんから再度の助言だが。わたしの機械に 木馬を送り込んでも陥落させたいどんな価値あるトロイがあるのだろう。だれか陰湿なユウレイのような木馬とともに機械を運営して、わたしの作品やら何やら が滑稽に書き直されて仕舞ったりするのなら、迷惑だけれど、また滑稽におかしい状況とも言える。経済的な迷惑がかかるのならさっさとこんな機械はうっ ちゃってしまうけれど、そうでない限り、ユウレイ君に何が出来るのか見てやりたいとも思う。変なことがこの機械で、ホームページで起きたらわたしの発狂で はなく、ご苦労な「ハッカー氏の作品」が現われたものと思って欲しい。

* こんばんは。
 御所(ごせ)駅から葛城の径を三時間歩いてきました。なかなかキツくて顎が上がりました わ。途中で見つけた菓子屋のお饅頭が、餡たっぷりで形は、大和三山のようにかわいらしく、道道食べながら雀はゴキゲンでした。人のいない道で、明るい秋の 日差しなのに、どこか悲しげでした。
 高天彦神社は諦め、土蜘蛛の塚や九品寺、京の上下の賀茂のお宮の総本宮、高鴨神社を訪ね ました。日陰にあったお地蔵さんのところにきた瞬間、ひんやりと別世界に紛れ込みました。藪のなかにひとつ実っていた烏瓜の赤が、目にしみました。囀雀

* 葛城と金剛とのみえる御所の山沿い道を、わたし も、もう今は昔、上田秋成の戸籍をさぐろうと、二度訪れて、よく歩いた。なつかしい。葛城といえば天智天皇の幼年期はこの辺で守役の手で育ったのではない か。何とも言えぬ古代の、いや上古の奥行きを感得できる風土風景であり、また行きたくなった。こういうメールがこういう時刻に舞い込んでいるところがパソ コンの嬉しさで。ハッキングに興じているような人にはとうてい分かるまい。
 

* 十月二十八日 日

* 熟睡とは行かなかった、へんにこんがらかった夢を 幾つも繰り返し見ていて愉快ではなかったが、時間だけはゆっくり寝た。田原総一朗の番組に猪瀬直樹が登場、石原大臣とペアで、自民党の抵抗勢力の中でも乱 暴な物言いと乱暴な議論で印象の悪い松岡なにがしらと、激論していた。改革しなくてはならないときは、それが成功の保証だけを要求するのでなく、試みてゆ かねばますます事態がひどく不幸なところへ沈み込むのを防げない。純然と論理的に反対するのなら、族議員たる利害の立場から潔く一度切り離れてものを言う て欲しいと思う。

* いまフト思い至ったが、テロに反対しその撲滅を願 うのは万人の思いであるが、自分の利害と都合だけで「テロ」を定義されては叶わないと思う。その点で中国やロシアのテロ観のなかには、都合のわるい少数民 族の抵抗や反対勢力の政治的・武力的弾圧を正当化しようとする思惑があるように見受けられ、警戒心を覚える。どんな激論でも良い、が、弾圧は困る。それに つけても、アメリカの無差別殺傷にほかならなかった原爆投下に対して、小泉純一郎は真っ先に言及しアメリカの謝罪をテロ戦争撲滅の最初にとりつけるべきで はなかったか。一度でも、あの原爆投下が、史上に例のない残虐なテロ戦闘行為であったと言ってみたことがあるのか、日本の総理大臣達は。

* いま書きながら耳に聴いていた「海は広いな大きい な」の歌詞の中の、「行ってみたいなよその国」に、またしても耳がとまった。海外への旅をおもう、そんな歌詞では、あの、わたしが国民学校でこの歌を習っ た頃は、ちがったのである。そこには南洋の島々がありアジアの国々があり、世界があり、日本から外へ外へ領土や政治支配を拡大したい政策の要請がはっき 有っての歌詞であった。そのように仕向けられていた。そういう仕向けが空気のように身のまわりをとり包んでいた。いま聴くような無邪気な憧れとは質が違っ ていた。そういう子ども向けの唱歌や歌謡が数少なくなかった。
 たしかにメロディは純然と懐かしさを誘いはするねが、忘れられない批判や批評は体内に生 きている。わたしは「行ってみたいなよその国」とはたいして思ってなかった。「何しに行くのン」と思っていた、世界地図の上に日章旗がピンで刺され続ける 日々にも。

* 日本は狭い島国である。海外に領土を発展させねば ならぬと、たとえば本多利明のような開明的な江戸時代の経済学者は真剣に論策した。その影響下で蝦夷地探検などが発起され、最上徳内のような民間から出た 優れて先見的な探検家が活躍しはじめた。徳内が大きな成績を積み上げ、幕政の北拓展開に寄与したのは、近藤重蔵や間宮林蔵らの活躍より遙かに先行してい た。徳内は本多利明の最も優れた門弟であった。重蔵も林蔵も徳内のいわば後輩であり、徳内の先導や指導により、徳内の耕し拓いておいた道を辿って活動して いたのである。日本全図をつくった伊能忠敬のような人達も、そういう意味では最上徳内の、また本多利明の、さらに謂えばさらに先駆して世界をしっかり見て いた新井白石の、後輩達なのである。こういう江戸時代の系譜を思うべきであろう。と同時に、彼らに働いていた「行ってみたいなよその国」の思いの延長上 に、近代日本の拡大政策が出来ていった事実も忘れるわけに行かない。日本は狭い島国なのであった。今もそうだ。その事で最も早く苦労し若い命をすり削り果 てたのが、北条時宗であった。時宗のつらさを知っていた戦国大名や天下布武の織田信長や豊臣秀吉は、部下に対して切り取り御免という領土拡大政策であた り、その結果が、秀吉の朝鮮はおろか大明国までもという出征を思い立たせた。元寇の逆を行こうとした。それ以外にもう日本列島に恩賞の土地が無くなってい たのである。「行ってみたいなよその国」とは、思えば、そら恐ろしい意図も託された無邪気そうな唱歌であったことを、海に囲まれた狭い日本の国民は、忘れ きれないであろう。

* 芹澤光治良作「死者との対話」を校了した。深くに も何度か嗚咽をこらえた。このような作品の前で、靖国神社に参拝することで死者たちへの感謝が表現できるのだと考えている日本の総理大臣を思うとき、暗澹 としてしまう。この宇野千代に会ってゆきたいと語り、先生の語ったベルグソンの唖の娘のはなしに涙ぐんで最後の別れを告げ、人間魚雷回天に搭乗して死地に 赴いた若い知性は、政治的意図を抱いて靖国神社に来る総理に、戦死者として何を逆に語りかけるだろう、よく来てくれたと名誉に思い感謝するのだろうか。昭 和二十二年の歳末に書かれたこの文章は、わたしのまだ小学校六年生時代の戦後さなかの苦渋と反省との作である。こう結ばれている。

*  そう、そう、忘れるところだった。十九年十月九 日の手記に、君は書いている。
「この頃私は、時々女の夢を見る様になった。大竹は勿論、武山でも夢といえば、食物か家の 夢しか見なかったのだが、身体と気分が楽になって、そろそろ私にも男性としての本来がもどって来たのかもしれない……」
 女のことを書いてるのはこれがただ一度ぎりであるし、長い師弟関係の間、君が女のことを 僕に語ったのもただ一回ぎりだった。
 壮行会でみんな集った時、諸君は出征前に会っておきたい人々の名を次々に挙げて、女流作 家に会って行きたいが誰がよかろうかと、冗談らしく僕に質問した。僕はその時宇野女史の名をあげた。その少し前に、出征している夫を思う妻の手紙という形 式で愛情にみちた美しい小説を発表していたし、人柄といい薔薇のようなきれいな印象を諸君にのこしてくれるだろうと考えたからだった。次に野上(弥生子) 女史の名をあげた。諸君に理解ある母を感じさせるだろうと考えたからだった。殺伐たる戦場で、諸君が遠く故國を想う時に、宇野女史も野上女史も諸君の胸を あつくはげますような印象をきざんでくれるだろうと信じたからだった。
 その時、僕は諸君に誰も紹介状を書かなかったが、諸君は紹介状はなくても、どんな人物の 門をも叩くフリーパスを持っている様子であったから、必ず二人の何(いず)れかを訪ねるものと思っていた。ところが、君は最後に独り訪ねて来た時にいっ た。
「先生、宇野千代さんに紹介状を下さい。女を訪問するに紹介状がなくては失礼でしょう」
 僕は、うん書くといいながら、紹介状を書く前にいろいろ話しているうちに、ベルグソンの 話になり、その果てに、君は訳のわからない感動に涙をこぼして、それがてれくさくもあったのだろうし、又、叔父さんの家の晩餐の時間がとうにすぎたのを気 付いたのであろう、あわてて帰り支度して、紹介状のことも忘れて帰って行ってしまった。出征前に宇野さんを紹介状なしに訪ねたのであろうか。あの翌日、紹 介状をわたさなかったことに氣付いたが、もうおそい気もして苦にした。帰還したらばおつれすればいいだろうと、家人は簡単に僕を慰めた。君が戦死しようと は考えなかったのだ。
 今日も君の手記の十月九日の手記まで読んで、はっとして、紹介状をわたさなかったこと が、またしても悔いられた……
 それにしても、人間魚雷とは、悪魔の仕業のように怖ろしいことだ。それを僕達の唖の娘は つくりあげて、それに、君があれほど苦しみぬいて神のように崇高な精神で搭乗して、死に赴いたのだ。
 君の手記は、その悲劇を示して僕達に警告している。僕達がまた唖の娘にそっぽを向けてい たらば、僕達は崇高な精神に生きながらまた唖の娘のつくるちがった人間魚雷にのせられて、死におくられることが必ずあることを。
             (昭和二十三年十二月)

* なにもかも、どこかで有機的につなぎ合わされてい る。わたし自身のこのような毎日の思いも、また、つなぎ合わされたなかの一つの小さな結び目である。思想も人生もこうして形を持って行く。

* 「頭を雲の上に出し 四方の山をみおろして 雷様 を下にきく 富士は日本一の山」と、いま、無邪気に唄っているのが機械の中から聞えるが、この歌なども無条件には好きになれなかった。べつの意図が隠され てあると気付いていたとは言わないが、すなおな自然賛美の歌とは思えぬ擬人化が察しられて、イヤな心地がした。独り勝ちを望む国は、人は、こういう表現が 好きだろう。

* 「日本ペンクラブ電子文藝館」は「恐ろしい場所」 になるだろう、無条件に比較されてしまう真剣勝負の場所、「文藝合せ」の現場になるからだ。
 わたしは、頭の中でよくやる。美術展に行き、目の前の作品に見入りながら、べつの最高最 良と思っている作品をその横に置いてみる。「そんなのと比べないでよ」と言うことは、「創作」の場合けっして許されない。比較を絶する作品を自分は書いた か、書けたか。それだけが残る。
 三筆、三跡、光悦、良寛。これらと並べられて比較を絶する個性を、その「書」が成し得て いるか。そのようにして、絵の場合も焼き物の場合も彫刻でも工芸でも、わたしは、推服し称賛する最高の作品と容赦なく押しならべて、目の前のものを簡単に はゆるさないのである。だめなものは、だめなのだ。小剣の「鱧の皮」秋聲の「或売笑婦の話」白鳥の「今年の秋」藤村の「嵐」芙美子の「清貧の書」かの子の 「老妓抄」利一の「春は馬車に乗って」綺堂の「近松半二の死」そして光治良の「死者との対話」を、物故会員のそれぞれ一代の作中から、条件も考慮しつつ、 選んで、わたしは用意した。追って靖の「道」や直哉、康成、中村光夫らの作品も掲載してゆく。われわれ、なお生きてある者は、これらと、真剣で渡り合うほ どの気迫の作品を用意し「電子文藝館」に提出しなければならない。安易な気持でいると、無惨な恥をかかなくてはならない。自信が、自負が、度胸がなければ なかなか提出しにくいほどの「試合場」を、早く作り上げておきたい。同じことは、今生きてある者同士にも、言える。もっと厳しく言える。
 この「場」では、もはや虚名という看板で、言いわけは利かない。大衆文学であれ純文学で あれ、そんな区別で何の言いわけも出来ない。それが深い感銘を与え、優れた表現を得ているか、どうかだ。それだけだ。依怙贔屓はこの場では通用しないし世 評も定評も通用しない。読者が、同業者が、それぞれの能力に応じて、ただ判定する。彼らも又作品群により試され鍛えられるであろう。
 こういう、公平で公正な文学・文藝の「場」がこれまでなかった。文学全集の人選など依怙 贔屓の最たるものに流れがちであったし、文学賞もそのようなものでありがちなのが今や常識である。選者といえども、五十歩百歩の水準だ。
 わたしは、「電子文藝館」の根の意図の一つに、こういう「恐ろしい場所」を創ろうととい う仕掛の気持も堅く持していた。物故会員の作品を先ずと言いだしたのは、それ故であった、ただ選択しやすいと言うからではなかった。世に時めいている「い いかげんなもの」を容赦なく炙り出さねばならない。この意図を本能的に見抜いているファジイな著名作者たちは、むしろ尻込みする方を選ぶだろう。

* 昨日路上で拾ったパチンコ玉の一粒を、廊下にころ がしてやると黒いマゴが大喜びに興奮し、失踪して追いかける。可愛い。
 いま「荒城の月」を男性歌手が歌っている。哀切なのは作柄であり曲調であるから当然にし ても、なんと日本の名歌・名曲はみなこうなのだ、今日から明日へわたしを励まそうとはしない、顧みよ、振り向けとばかり言う。「水師営の会見」など、ほぼ 実状を歌ったではあろうが、二将軍のかげに、支えて死にに死んでいった兵達の死骸がぬぐい去ったように見えてこないのが物足りない。
 記憶しているわたし自身の歌い方とレコードの歌手の歌い方がすみずみで少し違っていたり する。むろん私の方がでたらめに歌ってきたのだが、むずかしいものだなと、歌唱には閉口する。
 

* 十月二十九日 月

* 夜前は発熱ぎみで辛く、めずらしく十一時前に就 寝、バグワンと「うつほ物語」を少しずつ読んでから寝入った。夜中に少し発汗しているのを自覚しながら、難儀にこんがらかった夢を幾つも見続けていたが、 一度猫に起こされてまた寝て起きて、七時。すぐ二階へ上がり、井上靖「道」のスキャン原稿を、楽しんで校了した。全集からスキャンしたので字が大きく、 99パーセントの識字率で校正はラクだった。何度も読んでいる秀作であり、懐かしい井上先生の肉声をそのまま耳にする思いで読み通した。晩年のえもいわれ ぬ話術で語られている。寸法がよくとれていて、すこしとれすぎているぐらいであるが、しんみりとする。
 これで十三人の歴代会長の六人分(島崎藤村、正宗白鳥、芹澤光治良、井上靖、大岡信、梅 原猛)が、掲載原稿として用意できた。志賀直哉分と中村光夫分の承諾が取れている。石川達三、遠藤周作、高橋健二分の依頼が出来ていない。川端康成と尾崎 秀樹分の返事を待っている。
 物故会員は、徳田秋聲、上司小剣、林芙美子、岡本かの子、岡本綺堂とそろい、与謝野晶子 も用意できる。現会員でも六人が原稿を出している。開館までに、二十人は超えるだろうから、ほどよい展観であり、読者に楽しんでもらえるだろう。安心して 読める読書館=ライブラリーとして、気が向けば訪れて貰って失望させない内容を備えたい。
 あとは、業者の手もとで、安定した読みやすい索引しやすい電子文藝館にどう仕立ててくれ るか、それだけの問題となった。まだ、無事にスタートラインに並んだという保証は見えていない。
 

* 十月二十九日 つづき

* とうどう創画展へかけこんだ。なんという寂しい展 覧会になったものか、松篁さんも秋野不矩さんも亡くなって追悼の遺作が並んでいた、ほかにもう三人四人も会員作に黒いリボンがついていた。松篁さんの一代 の傑作と言える「丹頂」一双が出ていて、ほろっとした。松篁さんをしんそこ尊敬し得た作品だ。不矩さんのも代表作が出ればよかった。
 創画会はいきおい石本正、加山又造の肩に掛かってくる。加山さんは富士の雪景にあたる胸 から上だけを、清潔な線と淡泊に冴えた色とで纏めていた。写真を描いているように見える。石本さんは、なんといつもの裸婦を、炭塗りにくろぐろと描いたの はどういう心境か、ぎょっとした。しかし二人の裸婦の肉体は分厚く正確に描けていて美しいのである、さすがであった。だが、仰天した。絵そのもので先輩作 家達に弔意の喪章をつけたみたい。
 お目当ての橋田二朗先生が秀作で、優作で、今までよりも図抜けて美しく丈高い草花の「白 い秋」これには大満足。去年もよかったが、今年はさらに素晴らしい画境と画品とで、またしても随一と言いたい。嬉しくなった。めぼしいお目当ての画家の絵 が同じ一室に集中していたので、もう他は見る気にならなかった。通り抜けてきたどの部屋のどの作品にも目を惹くほどのものが一つもなかったからである。

* その足で銀座へ出て、松坂屋の裏の方の小画廊で、 知った人の娘さんの個展を見に行った。イタリアのアルノ川のほぼ決まったアスペクトの風景を、小さい繪に幾つも描き、二三のやや大きい絵もあった。絵から 吹き付けてくる気迫がほとんど感じ取れなかった。河畔の建物が愛らしくは捉えてあるのだが、おとぎの国の蜃気楼のようにひ弱くて人間の生活空間といった見 方はしていない。把握が弱いために表現も弱い。弱々しく、掴んだら壊れそうな筆致で、きれいごとに片づけてある。一二、これならと思えるのは、建物をみ な、霧や闇の奥に溶かし込んで、濛々と川の風情が空や雲と馴染み合った中に、確かに川の流れの感じ取れる作品であった、が、だが上出来とは言えなかった。 迫力。そう、それは画法の迫力と謂うこともあるが、情念の燃焼した、やむにやまれぬ表現の迫力、それが無い。動機として出ていない。個展をひらくまえに、 たった一作の名作をもとめて、自分自身の内奥を孤独に旅すべきであろうと思った。デッサン、スケッチ、そういう基本に苦心惨憺したことのない趣味的な絵に とどまっている。

* で、もうどこへもよらず、有楽町線でまっすぐ帰 宅。
 

* 十月二十九日 つづきの続き

* 今日という日は、日本史にイヤな記憶の日付として 残るだろう。テロ対策法の名に借りて、とうどう平和憲法の日本が「戦争のできる国」へと、衣の蔭の鎧を大きく現わして見せた。テロなど、小泉の頭にはたい したことでなく、おそらく対岸の火事と思ってタカをくくっているのだろう。それよりもこれを好機に、どさくさに軍事日本へのレールを敷いてしまおうとして いる。既成事実という先例をつみあげることで、二年後の再検討の時にさらに積み増しして、本格の改憲と再軍備へ日本の国を導くことを己の功績だと誇りに考 えている。いみじくも梅原猛が、小泉は東条秀樹よりも危険だと断言していたことにわたしは頷く。わたしも早くからそれを恐れていた。イージス艦の派遣な ど、そもそもの発想からすれば、とんでもないまさしく武器そのものの軍艦なのである。それを派遣するということは、とりもなおさず、今後への前例としての 布石なのは明白。悪辣に日本の前途はねじ曲げられてゆく。わが家の息子が、三十を幾つか過ぎていまだに孫を我々両親の前にもたらさない親不孝が、あるい は、未然の子孝行になるのかと思うと、割り切れない。将来がおそろしくなる。 

* 芹澤光治良の「死者との対話」は初出の時は「死者 との対話または唖の娘」となっていた。この作品では哲学者ベルグソンの娘が「唖者」であったこと、その娘と平然と対して深切に娘の絵に批評を加え、唖の娘 もそれに深く教わっている、そういう場面に遭遇した語り手が、それと比べて、日本の世界的なといわれた哲学者の言葉の難解を極めてほとんど何の役にも立た ないことに批判を向け、日本の知性たちの、さながら「唖の娘=一般大衆」を無視した、人の苦悩に応えるどころか仲間内だけの伝達に満足した傲慢な「言葉」 こそが、日本を不幸な戦禍へと巻き込んでゆく結果になったという強い批判。
 それにしても「唖の娘」という提示には痛みを覚える、実際の「唖者」には不当にむごい言 葉では無かろうかという疑念は、きっと読者の幾らかに、あるいは多くの胸に兆すかも知れない。唖であることは知的に低いということではない、が、そういう 比喩になっていはしないかと読む人もあろう。現にわたしのもとにそういう訴えが届いている。
 わたしは、それを押しても、この作品をやはり取り上げたいと思った。こういう差別的言辞 に気付かない世間と時代にこの作者ですら住んでいたらしいのには、わたしも気付かざるを得ない。いかに文豪であるかどうかは知らず、例えば志賀直哉でも夏 目漱石でも、時には無茶な言葉を作品に吐き出している、今の時代の思いでは。その中では、芹澤さんのこの作品での姿勢は、いかにもいかにも実経験、実見聞 を通しての象徴的比喩として、これを用いなければこの作品が成り立たなかったことは、認めたい。わたしは、その上で、この発言に納得し共感し感銘を受け た。
 折しも今日成立したいわば「日本国の再軍事発動法」を前に置くとき、「それにしても、人 間魚雷とは、悪魔の仕業のように怖ろしいことだ。/君の手記は、その悲劇を示して僕達に警告している。僕達がまた唖の娘にそっぽを向けていたらば、僕達は 崇高な精神に生きながらまた唖の娘のつくるちがった人間魚雷にのせられて、死におくられることが必ずあることを」という予言に、戦くのである。 
 

* 十月三十日 火

* 田原総一朗、田島陽子、佐高信を囲んで大勢の男女 が、男女の構造改革と題して議論していたが、田島の声ががんがん響いて、その「硬直した正論の喧しさ」に辛抱しきれず逃げてきた。

* うまくいえないのですが、戦争と死という極限の状 態を経験した人と、平和と衣食住足りた生活にひたっている人は、ものの感じかた、考え方の深さ 厳しさが、自ずとちがってくるでしょうね。
 満ち足りた半世紀に 今、しっぺがえしが来ようとしている気がします。「唖の娘」のつく りあげた「人間魚雷」にまた載せられるときが迫っているような・・・。

* 寒中にここに一人で立っていたら、あっという間に フリーズドライになりそうな、葛城の「風の森」。
 一人、高天彦神社の美しいご神体山を背にして、重なりあう大和の山々を見下ろして、(本 当に誰もいない葛城の道でしたわ !) 「全部俺のものだァ !」なンて、豪族って、こんな気分でいたのかしらと雀は想像しましたの。ですが、同時に、山岳地帯の戦いを熟知したアフガン兵の前、にソ連が撤退し、今 回、米英の「精鋭」部隊も苦戦しているニュースが「土蜘蛛」と重なり、苦い思いがしましたの。囀雀

* ここへ「土蜘蛛」の連想できる知性を、わたしは、 只の知識でない、只の正論でもない、民衆のうちに潜んだ苦い批判精神の反映のように感じる。裏の、蔭の、弱者敗者の、いつも、いじめるよりいじめられる側 に置かれてきた者のシンボル、土蜘蛛。タリバンの進行の有り様も暴力もテロも、わたしは決して容認しない。その一方で彼らを土蜘蛛のように生息させている 「硬直した正論の喧しさ」にもウンザリしている。

* お変わりなくお過ごしですか。
 TVの「素晴らしかったですねぇ」という声に画面を見ると、名古屋からの生中継。慌てて 窓に駆け寄ると、夕焼けが燃えるように赤く、つかの間で消えましたわ。
 さて、CS放送のBBC,CNN契約数が急増しているそうです。NHKニュースはひどい 出来だし、一応、民放も少しは見ますが、雀はこのテロ以来、CNN,BBCを中心に見てましたの。ですが、事件当日からの数日間はともかく、ブッシュ、ブ レアのように、仲良し報道になっていては意味がないでしょう。アルジャジーラは無理だとしても、中国、ロシアなどのニュース番組を見てみたいわ。呟雀

* 「唖の娘」を、もはや、舐めてはいけない。
 社民党人事で辻元清美が幹事長を固辞したのは惜しい。福島瑞穂は人が良く、押されると言 葉をうしなって退いてみせる弱い美徳の持ち主、社民党復権活動の先頭に立つには大人しいし、論理の爆破力も弱い。「ソーリ、ソーリ、ソーリ、ソーリ」と食 らいつく迫力と冷静な論理力の辻元に期待したかった。社民党は解体して女性党をつくった方がいい、今は潮時だと思うし、実は女が女である故に成功するとも 限っていないのだが、というのは女の敵は女で容易に揉めるからだが、だが、もう社民党は社民党本来の体を成していない。土井以下は社民党を脱ぎ捨てていい し、残された男どもが奮起して日本社会党を建て直すべきだ。
 

* 十月三十日 つづき

* 俳優座劇場稽古場公演で、亡くなった秋元松代さん の「日々の敵」を観てきた。これは、今年一のみものであったかも知れない、児玉泰次と中寛三の兄弟役噛み合わせが絶妙で、弟中の妻役、昔には東山千栄子の 演じた役を岩瀬晃が軽々と演じ、巧みなトライアングルを成していた。その三角の土台の上で、劇の中核になる、児玉の娘役、かつてレイプされ、裁判には勝っ たものの徹底したダメージをうけている森尾舞と、この親友を、意図して仲間の不良を唆しレイプの被害へ追い込んでいたさとうさゆりとが、久しぶりの再会場 面でがっぷり組み合い対決し、「劇」的に舞台が進行する。十一人の登場人物がすべて有機的に組み合い、活躍し、隙間なくはげしく変動してゆく流れに無理が なく、起伏と緩急とさまざまな衝突があり、上演時間の二時間五分が、ものの燃えて爆けたように熱かった。面白かった。演劇というのはこうでなくちゃと大満 足した。
 このところ、俳優座の「坊ちゃん」昴の「嘆きの天使」原知佐子らの「エンジェル &セイント」と、三本続けざまに体温の低い生煮えの芝居を観てきた不満が、一気にふっとぶ嬉しさ。一つには、稽古場という空間の凝縮度もあるにせ よ、やはり、いいものはよくて、至らぬものはつまらないという、正直な結果がよく出たと言うよりない。
 じつにじつに不愉快な話で不快な連中なのだが、そんなことで演劇の面白さが殺されるわけ ではない。厭な芝居という意味では極めつけ不愉快な、レイプとそのあとあとの不快な成行話なのに、舞台に観入っていて、気分うれしく、えも言われない魅力 に酔っているというのは、これはもう舞台が、純に演劇として熟していたという以外のなにものでもない。太陽族時代の良家のチンピラどもが起こす性風俗の悲 話を描きながら、問題を、人間性の根にまで、生活の根にまで掘り下げ問い直している秋元戯曲の、みごとな勝算であり結果であった。出掛けて行ってよかっ た。最良の招待席が用意されていて、見やすく、妻も出来映えを大いに喜んでいた。

* 大江戸線で六本木に行き、帰りは日比谷線で有楽町 帝劇モールへ迂回し、また「きく川」で鰻。「菊正宗」の燗がよろしく、鰻も鰻だが、酒も酒であった。気も晴れ晴れした。芹澤さんの「死者との対話」の話な どをした。開店のまだ五時前に店に飛び込んだのでゆっくり静かな店内だった。足下の有楽町線で一眠りしながら保谷についてまだ五時台、「ペルト」でモカを 飲んでから、ゆるゆる家まで歩いた。黒いマゴがさっと玄関へ迎えに出てきた。

* 「e-文庫・湖」第十四頁、詞華集第二輯に、佐怒 賀正美氏の自撰五十句「炎声(ほごえ)」を掲載した。優れた句を選んで戴いた。第十五頁の創作第二輯とともに、愛読してもらえると嬉しい。選り抜きの人と 作品とが「e?文庫・湖」には集めてある。まだまだ、増えてゆく。今はペンクラブの「電子文藝館」開館へ相当な力を割いているが。
 

* 十月三十日 つづきの続き

* 外務省の官僚達の、またそれを尻押ししている官邸 の、悪辣で傲慢なことはどうであろう。田中真紀子をないがしろにすることで官僚は官邸にゴマをすり族議員におもねっているし、官邸や族議員は完全なセクハ ラでもって政治を冒涜している。福田家と田中家との過去の私怨や私憤が、官房長官とそれを黙認する首相の前で、おはなしにならない醜い田中イジメを天下に 公然と披露している。こんなことで、国会や政界は国民に何を言おうとしているのか、答えて貰いたい。

* 小泉首相。あなたは何をしている気なのか。これで は、まさにまさにフランス国王とジャンヌ・ダルクそのものではないか。ジャンヌにより国王にしてもらい、国王になったらジャンヌを敵と法官たちに売り飛ば したフランス国王。火あぶりよりも惨い立場に置いたまま、辞めよと言わず、辞めるというのを待っている卑劣な態度。このことを国民は忘れないであろうか ら、陰険な福田官房長官の行く末は暗いであろう。これは誹謗ではない、批判である。国民はこれを言う権利を持っている。
 

* 十月三十一日 水

* 滑り込みセーフになるかアウトか、ぎりぎりのとこ ろで、月曜日講演の支度をしている。電メ研委員の弁護士牧野二郎さんからの依頼ではお断りならなかったが、著作権問題でまともに私に話せる蓄えの有ろうわ けがない。
 しかしまた、著作権問題に絡み合った仕事をずうっとしていたとも言える。「湖の本」の刊 行自体が、根にそれを抱えているし、今では「電子版湖の本」も公開している。ホームページで、電子的にボランティアの作家活動・編集活動もしているし、電 メ研でのこの五年、関心を向けてきたのははひたすら、それだった。言論表現委員会にはその倍の年数を在籍して権利問題に関わってきたし、文芸家協会でも、 著作権委員会から知的所有権委員会にと、ずいぶん年久しく委員を務めてきたのだから、まるで知らぬ顔はできない。
 ま、体験的に問題や問題意識をなげかける程度は不可能でないにせよ、聴衆が弁護士達であ るというのはどうも勝手が違いすぎ、閉口している。ま、成るようになるであろうと、投げ出さずに用意している。

* それよりも、来年二月へかけて、一つは「川端康 成」の話を、もう一つは「禅」にも触れてゆかざるを得ない日本の美意識に関する話を、講演として用意しなくては成らない、期限が刻々と迫ってきた。この方 がよほど大ごとであるところへ、さらに十二月初めには、京都で、芸大教授の榊原氏、学芸員の大須賀氏と、お二人の「日本画」に関する論考論文を材料に、鼎 談しなくてはならないハメになってきた。司会者としてもうまく話の舵取りをしなければならないが、楽しいような用事でありながら、責任が重い。
 そのためにも、とにかく「ペンの日」までに「電子文藝館」をうまく進水式へもちこんで、 門出をはんなり祝ってしまいたい。これらの通り過ぎて行く途中で、新しい湖の本が二冊進行してゆく。ウーン、こう書いて書いて自分の頭に呪文でも掛け、し かと自覚させようとしているのだが、キイを叩きながらじわっと汗がわいてくる。
 十一月は、もう、ぎっしり予定が入った。カレンダーの赤いこと。その僅かの間を縫って、 こんな私にも会って話がしたいと言って来てくれる人達がいる。創作のこともあり、私的な相談事もあるようだ。今年の私の秋は「十一月」がまさに紅葉期で、 京都行きは、押し込まれて師走に入ってしまいそうである。

* さいたま市の榊政子さんに電話して、著書の中から 埼玉県内の或る伝承考とそれに関わる詩作品とを頂戴したいとお願いした。七十過ぎられた在野の学究で詩人である。お目にかかったことはないが、湖の本をと どけるつど、丁寧に手紙を下さる。
 長老の加藤克巳さんや石黒清介さんからも、好きに短歌などを「e?文庫・湖」に掲載して 宜しいと預けられている。みな文藝館の煽りで、手が着いていないが先の楽しみは増えてゆく。
 

* 平成十三年(2001.11月)十一月一日 木

* 昨日、哲学者三木清の『哲学ノート』の冒頭四章を 抜抄、スキャンした。今日その最初の「新しき知性」を校正。文庫本をスキャナーにかけたが、とても綺麗に写せていて、校正がラクに進むのが有り難い。この 仕事は、スキャンがうまく行くかどうかで、えらく作業が変ってくる。
 三木清といえば戦後直ぐ、わたしの、いわば物心がほんとうについてきた少年期に、たいへ ん大きな名前であった。わたしは、少年期から青年期へかけ、いわゆる評論や論考の文章よりも直ちに小説読みにのめりこんで他をあまり顧みなかったので、三 木清も、小林秀雄同様に読まなかった。
 思うにおそらく梅原猛さんが『闇のパトス』を二十五歳で書かれたのと、この敗戦直後の九 月に、当局の暴虐により獄死した三木清の哲学とは、どこかで渡り合い関わり合っているだろうと思う。今度は採らなかったが三木は、「不安の思想とその超 克」「シェストフ的不安について」などの代表的な論文を持っていて、梅原猛さんの「絶望と不安」という主題とも交叉しているのである。同じ「電子文藝館」 の論考のなかで、隣り合ってこの梅原論文と三木論文とが読める面白さにも注目されるといいが。

* 三木清の「新しき知性」は明晰な、しかし平明な語 彙と構築とのめのさめるような好論文である。科学、技術、知性、歴史を深く見入れながら、構想力へ触れてゆく論考の流れように美しさをすら感じ取れる。あ の不幸な戦争の最中にこれが書かれていたかと想うと、思わず頭がさがる。以下「伝統論」「天才論」「指導者論」を採り上げた。やはり日本ペンクラブの会員 であった。
 中村光夫会長のものを、「正宗白鳥論」でと思っていたが、夫人のご希望で「風俗小説論」 か「知識階級」という題の論考かで決めたい。前者は一冊の本であり、やはり前半ていどを抄するよりない。後者は未見のものであり、いま青田委員に依頼して 国会図書館ででもプリントして貰おうとしている。志賀直哉のは、「早春の旅」をと思っていて、志賀直吉さんから「それでもよい」ペンクラブの判断に一任す ると言われ、考え込んでいる。あまり簡単に手に入るものでない、良いものを選びたいのである。石川達三会長のものは、第一回芥川賞の「蒼氓」第一部が欲し い。
 白柳秀湖の『駅夫日記』という歴史的に非常に問題をはらんだ秀作を用意できるのも嬉し い。かなり長いが。
 しかし、電メ研内の「手伝います」の声もなんだか細く遠のいて、この分では、こういう作 業の全部にちかくわたしがしなくてはならぬかと思うと心細い。だが、し甲斐はある。

* 「わが体験的な著作権の諸問題」について、一時間 程度の話になるよう、四十枚ほどの講演草稿を作った。ま、体験してきたことは、いろいろ在る。

* Trick or treat  ベランダから川面は見えませんが、川霧かと思う朝の景色。蛇口から出る水がすっかり冷たくなりました。穏やかに晴れた昼下がり、雀は日向ぼっこの誘惑にか られましたわ。ふさふさの尻尾があったら、くるりんと丸まって、あの日溜まりで日がな一日うっとり過ごしてみたい。
 昨夜のような晴れた月夜に黒猫になって歩き回ったら、魔法のひとつも使えそうでしょう?  ハロウィーンの夜をいかがお過ごしでらっしゃいましたか。キッチンに、食べられることのないままカボチャが転がっていますの。一陽来復を祈って、冬至に ふかして食べることにしましょう。囀雀

* 気の和むメールである。

* 「哲学ノート」の第二章「伝統論」も、優れて興味 深い展開であった。あの時代に、歴史と伝統と文化と芸術にかかわりながら、人間的な理解と洞察を少しも形崩さず揺るがずに、明晰に解き明かしてゆく魅力は たいしたものだと思う。
 

* 十一月二日 金

* 三木清の「天才論」を読み終えた。カントの『判断 力批判』に多くを拠りながら語られ、大学時代に戻ったような気分。この本は美学の教室ではバイブルほど大きな存在で、妻の卒論はその「構想力」についてで あったから、まさに三木清の関心や論策に重なっている。彼はあの戦前戦時にここから「指導者論」へ繋ぐことにより、戦後日本の混乱と再生を予見し、また洞 察したのであろうか。

* 今、ファックスで、現代文学会の「問題提起とディ スカッション」というふれこみで『作家に未来はあるか 著作権とメディア・流通」という催しをやると伝えてきた。十二月一日だという。
 わたしは幾足か早く、来週、十一月五日に、霞ヶ関弁護士会館の「著作権」テーマの研究会 で、同傾向の主題で講演する、「ネット時代の文藝活動と著作権」と題して。
 これからは、こういう催しが増えてくるだろう。それにしても「作家に未来はあるか」とい う提示は意味があまり無いように思われる。未来はあるかどうかでなく、創りだしてゆくしかない筈のものではないか。

* 気にしていた汚い髪を散髪し、気分すっきり。しか し、「お風邪ですか」と訊かれたように、すこし熱っぽいのかも知れない、かすかに頭痛がある。昨夜就寝前にかなり左の首筋に危ない痛みが来た。そのままバ グワンと「うつほ」とを読んで寝た。
「うつほ物語」は、最初の方での俊蔭漂遊や琴の伝奇などがえらく面白かったが、そして、巨 木の「うつほ」住まいをしていた俊蔭女と一粒種仲忠が、ついに父であり夫である兼雅に見つけられるあたりまでは、べらぼうに面白かった。だが、宮廷社会 で、権門源正頼の娘「あて宮」への、大勢の公家達のあまりな求婚騒ぎになってから、じつは、興味をぐんと失っていた。
 だが、少し長い中断のあと、また読み始めて行って、ちょうど「あて宮」が東宮に入内して しまったあたりからは、また「俊蔭女」「仲忠」母子に物語の軸芯が移動して行く、と、これがまた面白くて堪らなくなり、一日の最後に「うつほ」を読むのが 楽しみでその日を頑張るような昨今になっている。源氏物語が完成された女物語とすると、「うつほ物語」は、どうも、男社会の男物語で、筆者も男で、男の関 心と興味とで宮廷社会の日常を克明に、表現、と言うより記録し記載して余すところ無く、そのあまりな克明さに音をあげていたのに、今度はそれ自体が面白 く、興味深く、とてもリアルに感じられるようになってきて、これにくらべると源氏物語など、やはり女のつくり物語であるなあという感想
もつ。、「うつほ」には(物語のことを云うのではないが、)実録的な重量感が大きな魅力に なっている気がしてならない。
 『狭衣物語』ももう完結しているのだが、この、女をとらえ、女を捨て、しかも後悔ばかり して、しかも女を泣かせ続けて果てしない、いずれ天子にも登位する狭衣大将のことが、主人公としては、源氏物語の薫大将よりもいじいじと煮え切らず、どう にも好きになれそうにない。いや、まだ読み終えていないのだから、早合点は止しておこう。

* 新聞もテレビも、ニュースとなると不愉快なことば かりで、気が腐る。
 

* 十一月三日 土

* 四時に起き、三木清の「哲学ノート」から、序・目 次とともに冒頭の四編「新しき知性」「伝統論」「天才論」「指導者論」を抄出し終えた。西田幾太郎門下の最優等生として知られた哲学者で、 1897.1.5 - 1945.9 兵庫県揖保郡に生まれている。昭和二十年(1945)三月、共産党員高倉テルをかくまったため検挙され、九月、豊玉拘置所で獄死。『哲学 ノート』は昭和十六年真珠湾奇襲の直前十一月、河出書房刊。著者は「序」にその緊迫の刊行日付と共に、こう書いている。

*  これは一冊の選集である。即ち「危機意識の哲学 的解明」という最も古いものから、「指導者論」という極めて最近のものに至るまで、私の年来発表した哲学的短論文の中から一定の聯関において選ばれたもの であって、その期間は『歴史哲学』以後『構想力の論理』第一を経て今日に及んでいるが、必ずしも発表の順序に従ってはいない。程なく『構
想力の論理』第二を世に送ろうとするに先立って、私は書肆の求めによってこの一冊の選集を 作ることにした。ここに収められた諸論文は如何にして、また何故に、私が構想力の論理というものに考え至らねばならなかったかの経路を直接或いは間接に示 していると考えるからである。
 これらの論文はたいてい当初からノートのつもりで書かれたものである。種々様々の題目に ついて論じているにも拘(かかわ)らず、その間に内容的にも聯関が存在することは注意深い読者の容易に看取せられることであると思う。もとより私はそれら を単に私の個人的な感心からのみ書いたのではない。現実の問題の中に探り入ってそこから哲学的概念
を構成し、これによって現実を照明するということはつねに私の願であった。取扱われている 問題はこの十年近くの間、少くとも私の見るところでは、我が国において現実の問題であったのであり、今日もその現実性を少しも減じていないと考える。その 間私にとって基本的な問題は危機と危機意識の問題であったのである。
 私のノートであるこの本が諸君にもノートとして何等か役立ち得るならば仕合(しあわせ) である。すでにノートである以上、諸君が如何に利用せられるも随意である。必ずしもここに与えられた順序に従って読まれることを要しないであろう、──初 めての読者は比較的理解し易いものを選んで読み始められるのが宜い。その選択はすでに諸君の自由である。私が示した問題解決の方向に諸君がついてゆかれる かどうかはもとより諸君の自由である。ただ、これはノートである以上、諸君がこれを完成したものとして受取られることなく、むしろ材料として使用せられ、 少くとも何物かこれに書き加えられ、乃至少くとも何程かはこれを書き直されるように期待したいのである。
  昭和十六年(一九四一年)十月廿一日            三 木 清

* 哲学者が殆ど身を挺して警世の言を発していたこと が察せられる。その内容は、太平洋戦争勃発直前にのみ適合するのでなく、読めば読むほど、現在只今の我が国の「危機」にも当てはまっている。「e-文庫・ 湖」第六頁に収めた。三木清もまた日本ペンクラブの会員であった。獄中作家の一人であり、不幸にして獄死した先輩である。

* 先日の理事会で、獄中作家委員会から「獄中作家」 の名になにか別の言葉を当てたいと希望が出された。国際ペンのこれは正式な委員会名称なのであるが、「獄中」というと、今日の世情に刺激が強く何かと不便 するという理由であった。だが、だからこそ「獄中作家委員会」のいかにもペンクラブたる使命が生きているのではないか、へんに妥協的に名乗り替えるのはど うかと三好徹副会長の発言があり、わたしも同調した。「獄中作家」とはどういう人達のことか、具体的にむしろ積極周知をはかる努力の方が大切であり、幸い 日本には今一人もいないが、世界中に獄中に苦しむ思想的・政治的に拘束されている作家達は多いのである。その救援はわれわれの大きな仕事の一つなのであ る。日本では、たとえば吉田松陰など、また渡辺崋山など、また三木清も小林多喜二もそうであった、軍と内務省による戦前・戦中の思想弾圧時代には数え切れ ぬほど獄中作家達がいたのを、忘れてしまっては困るのである。

* 文化の日、いま、朝の七時半。もう三時間余も機械 にむかっていたことになる。過剰なのは分かっている。真夜中、ふとピピという音に目が覚めると、妻が、寝床の中で携帯メールの通信中。そのまま目がさめて しまい、二階にきた。ディジタルの、変な世の中。おかげで、三木清のことばを深く聴いた。「指導者論」など、彼が何を言いたいのかが痛いように察しられ て、小泉だの田中真紀子だのの指導者としての失格性にも思いが落ち込んでいった。(歯の根がガクガクしている。)
 

* 十一月三日 つづき

* 朝八時半か九時前に疲労困憊してベツドに倒れ込 み、気がついたら夕方の六時だつた。かすかな寒気と発汗の感じがあるが、ま、大丈夫だろう。建日子が置いてある自動車をつかって吉祥寺での打ち合わせに行 くのでと、雨のなか、小一時間立ち寄り戻っていった。

* 青田吉正氏にプリントしてもらった中村光夫先生の 論文「知識階級」を、スキャンして、校正し始めた。奥さんは、これか『風俗小説論』の前半でもとご希望であった。後者の文庫本はまだ手にはいるので、雑誌 論文であった「知識階級」を戴くことにし、読み始めてみると、平易に、大きな問題があざやかに概観され詳論されている。とても優れたお仕事であり、「電子 文藝館」の読者にふさわしいものと喜んでいる。
 ぐんと分厚さが増してきた。想像以上にこれは大きな豊かなライブラリーに育つだろう。現 会員の出稿を強いて期待するよりも、物故会員の優秀原稿が積み上げられ再開発されてゆけば、それを堅い根雪にして、いやでも雪は降り積むだろう。次から次 へと昔の先輩達の良い業績に再びの日の目を見せてゆく仕事に、わたしは喜びを感じている。

* はるばると「秦恒平さん」への「挨拶」が届いた。 ここに書かれていることは、この人自身で記憶している以上に、わたしは、よく胸に刻んで覚えている。ああそうかと思い当たることよりも、そうであったなあ と思い出すほうが、濃く、強く、よく逞しく生き延びていってくれたと、喜びは深い。沢山な心配を掛けられたとは思わない、豊かな感銘を幾度も幾度もわたし のために残していった学生であった。母への溢れる愛と、父への根深いこだわり。わたしはそれに対し何を言いもしなかったが、他の学生達にもそうするよう に、じっと傍観していた。見てくれているから安心と、思われていたかどうかは知らないが。
 就任し、文学概論を初めて暫くのうち、馴れないことに疲れ、学生達の気持もなかなかつか みとれず気落ちしていたような時であった、ある夕方、家に帰ろうと図書館前を門の方へ歩いていたわたしに、向こうから、溢れる笑顔で駆け寄ってきて、全身 でとびつくほどに晴れやかに挨拶してくれ、「文学概論の教室に出るのが嬉しくて楽しいんです」と叫ぶように語りかけてくれたこの人を、わたしは忘れないだ ろう。そんな学生がいるのかほんとに、と、胸に灯がともった。まさかに、うそを言う人の表情でも声の弾みでもなかった。わたしもまた、学生達に日々救われ ていったのだ。
 いまこの「挨拶」を読みながら、わたしは、何度も涙をぼたぼたこぼしていた。若くして死 んでいった人も、いる。生きていることを本当に大切にしなくてはと思う、無念に死んだ若い人達のためにも。

* 弦楽四重奏のコンサートに行ってきました。     1.11.3
 22年前の”Rosamunde”にはかなわなかったけれど、弦楽四重奏の、” Rosamunde”のコンサートに行けたことで、充分でした。
 ミュンヘン時代に録音したカセットを見つけたら、そこから昔話になり、その後すぐ、夫 が、弦楽四重奏のコンサートを探してくれたのでした。
 あの当時、私はまだ7歳、千葉もまた田舎の市原市に住んでいました。国鉄に乗るにはその 1時間前に家を出て、千葉駅までさらに1時間電車に揺られるという、寂れた工業団地でした。
 そんな曇り空の団地生活で、ある日、母が私と兄二人を、クラシック音楽のコンサートへ連 れて行ってくれることになったのです。昂揚と緊張で躍る胸を、父の手前抑えても、まだ、ドキドキしていました。
 学校が引けてすぐ出発した私たちは、3時間の旅といえども、コンサート会場である日経 ホールに、かなり早く着きました。そこで突然、母が「夕ごはんを食べましょう」と言い出したのです。生まれて母と一度もレストランで食事をしたことのな かった私は耳を疑い、嬉しいよりも申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。メニューを前に何をどう見てよいのかわからず、それでも目だけは数字にいって しまう。結局、だれが言うでもなしに、私たちは一番安いビーフシチューを食べていました。生まれて初めてのビーフシチュー!そのおいしかったこと!肉が 入っていたかなんて、ぜんぜん問題ではありませんでした。
 食事の後ホールに入ると、なにやら母は、「演奏者への質問」を書き始めました。演奏の合 間に、演奏者への質問コーナーを設けるというのです。司会者が、集めた質問用紙の中から4、5枚選んで質問し、演奏者に答えてもらう、というものなのです が、選ばれた質問を書いた人はその場で舞台にあがって、演奏者のサイン入りのカセット(パンフレット?)をもらえるという、すてきなおまけがあるのです。 一人一枚ということで、母は、私たち3人と、誘いに応えてやってきた東京の妹の分4枚を、せっせと書いていました。
 この幸運な二人目に選ばれたのは、なんと私の兄でした。内気な兄はなかなか立ち上がら ず、私たちをはらはらさせましたが、舞台で演奏者の大男たちと握手をしたときの兄は、うらやましいより誇らしい兄でした。そして、なんという運でしょう、 最後の5人目に当たったのは、母の妹でした。慣れた足取りで舞台にあがり、堂々と握手をするバイオリン奏者の叔母を、どんなに誇らしく思ったか!
 生まれて始めてのコンサート、そうこれは、忘れもしないライプチッヒのゲバントハウス弦 楽四重奏団でした。ひげもじゃのゲルマン大男たち(私の映像では、なぜか彼らはひげもじゃなのです)が奏でる音色は、重厚でもの悲しく、いまだにあの深い 響きは忘れられません。
 あのコンサートに、母はどんな思いで私たちを連れて行ったのでしょう。不機嫌極まりない 夫を後に、往復6時間もかかるコンサートに、翌日学校のある小さな子供二人を連れて行く、狂気!!。あの時の母は、必死以外の何ものでもなかったのだと思 います。
 文化から断ち切られてしまいそうな自分たちの生活に、切迫していた。必死で自分たちの行 けそうな、でも質の良いコンサートを探し、必死で子供たちを連れ、必死で質問を絞りだして書いた母は、恐らく、楽しむ余裕もなく、必死で演奏を聞いていた に違いありません。
 18年間、幾度となくあのとき聴いた曲を思い出しました。メロディーは口ずさめるのに、 曲名がわからない。どうにかして知りたい、そんな気持ちを抱き続け、4年前ドイツ、ミュンヘンにやってきました。図書館に通い、懲りもせず弦楽四重奏の CDを4枚ずつ借りてゆく。そんなことを続けて、とうとう再会したのは、シューベルトの弦楽四重奏a-moll D804,op.29 Nr.1の”Rosamunde”でした。22年前、母と一緒に聴いた、ゲバントハウス弦楽四重奏団が奏でた曲でした。
 今年、バルセロナで最も素晴らしい演奏が聴ける演奏会の、会員になりました。
 好きな演奏会に自分で行けるようになったことの意味は、とてもとても大きく、母がここに いたなら、一緒に連れて行きたかった。手紙にそんなことをぽろりと書いたら、「かわいそうに。あの頃、もっと連れて行ってあげたらよかったね。」と返され たけど、あのひとつの演奏会にあれだけの意味を与えることのできた母に、私は感謝の想いしかない。
 1年が10年がそして20年が過ぎて、何とはなしに思い出した事柄が、自分にこんなに意 味のあるものだったと、ある日突然気づくときの驚きと感慨。一生懸命すぎて、よく人を疲れさせた母だけど、それでも今は、素直に感謝できます。
 久しぶりに、思い出に耽りました。
 思い出に耽る理由は、ほかにもあります。

<この人は大学二年生で文学概論に出てきた頃 は、毎日のように大学をやめてしまおう
<かと思い詰めていた。

 大学を何度もやめようと思ったことは忘れもしないの に、この文章を読んだとき、何だかとてもドキッとし、ああそうだったんだ、ああいう時があったんだ、苦しくて妙に懐かしい気持ちに襲われました。毎日が苦 しくてたまらなかったけれど、ほんとうに大切な時代だった気がします。
 * * * * *君は、あの苦しくて大切な時代のすべてでした。おかげさまで、彼のホームページを見ることができ、長年のしこりを少しほぐすことができました。元気で、 自分の好きなことをやっているのが、何より嬉しかった。彼と共にしたものはあまりに大きく、美しく、悲しく、深く、あの闇から抜け出せたのは、アルフレッ トに逢ってからだった気がします。
  今の私の生活は、動揺させられないほど満たされ幸せだから、* * *君に連絡をとってもいい気がするけれど、彼の幸せな生活を動揺させることにならないか、との思いもあり、まだ連絡していません。なんて思うのは、私の思 い上がりですね。* * *君、どのような感じでしたか?
  東工大の想い出に寄せて。
 東工大でできた友達、いえ作った友達と言ったほうが適切でしょうか、私にもふたりいまし た。“唯二の友だち”、一人は私の高校の親友と結婚し、一人は京大の院へ進みました。* * * * *と* *、二人とも秦さんの「虫食い」詩歌を熱心に埋めていた学生です。そういえば、恒平さんも覚えていらっしゃるのではないでしょうか?次の話を。
 雨模様の朝、人気のない、あれは神護寺だか西明寺だったか、階段を昇っていくと、一人の 青年が膝をついてカメラを覗いている。目線を上に追うと、そこには母親らしき人が静かにたたずんでいた。なんて母親想いの青年、なんて優しい風景、そっと 足を止め息をとめたら、立ち上がった彼がこちらを振り返った。その青年は、なんと* * *ちゃんだった。
  その彼が、今年7月14日、京都で亡くなりました。祇園祭の宵山が、ちょうど彼の告別式の日になりました。サイエンスに携わる者にとって一番の成果であり 誇りである、雑誌natureに論文が載った矢先のことだったそうです。肝臓癌とわかり、手術から肝機能不全に至るまで、あっという間だったらしい。
 なぜ、あの彼が。と、同時に思い出されるのが、あの風景なのです。息子のまなざしにやさ しく応えていたあの母親。一人っ子で両親にすごく可愛がられてる、と自分でヌカしていたくらいだった。* * *ちゃんの孤独な闘い、死なれた両親の悲しみを思うと、胸が苦しくて、痛い。
 前回も、今回も、恒平さんへの言葉もないまま、ひたすら書いてきた気がします。伝えたい ことがありすぎて、と言うのはよい言い訳で、ひとは結局、誰かに聞いてもらいたい、知っておいてもらいたいのですね。井上靖の「猟銃」にもあるように。
 秦さんが、東工大の元学生たちと、いまだに膝をつき合わせているのが、とても嬉しいで す。
 スペインへ行くのが夢だった少年、今ごろスペインに向かっているでしょう。驚嘆、落胆し ながらも、満足のいく1年をすごして欲しいです。どこからそういう力が湧いてくるのか、こういう話を聞くと、素直にすごいなあ、と思います。* *子

* 合気道のチャンピオンもスペインに発って行った。 みな、みな、元気でと祈る。機械の奥から藤山一郎が清潔な声を張って「長崎の鐘」を、いま、歌っている。
 

* 十一月四日 日

* 友枝昭世の「三井寺」は、前シテ幕入りまでは少々 索然としていたが、後段鐘の前へ出てから実在感のあるシテとなり、ちからづよく我が子を再び我が懐に入れて舞台から去る、その気合いがよかった。ただ、与 十郎の狂言は、もっと上手くやればこの場が活躍するのにと思わせる通りいっぺんで、鐘突に、実景も実感も見て取れなかった。宝生閑のワキも今日は終始妙に セカセカしていた。例によって鼓方が、北村治だったか、が、右に傾いた半端な姿勢のまま、しきりに鼓の裏皮をつばで湿らせるのが、度が過ぎ、イヤ。今一つ 純熟の舞台にならなかった。

* 萬の「文荷」は、萬の狂言顔、狂言腰、狂言間が生 き生きしていてよかったが、ま、あんなものか。

* もう一番の能は失敬して一人能楽堂を出、途中で ちょっと飲んで帰った。体調が調わない。
 昨日に次いでまた建日子が帰って来て、今日は泊まってゆくらしい。ビデオの映画を一つ、 いっしょに観ないかと誘われ、階下でいっしょに観た。実話に基づく「銀行崩壊」とか。大味なツクリで、結果から結果へと説明的に場面が連結されてゆくだ け、共感も同情もわかず、気色悪い映画だった。主人公のからっとした小柄の妻役だけが少し可愛らしく、その他は、救いもカタルシスもなーんにも無い。
 この気分のわるさは、昼間から読み始めていた三田誠広作「菅原道真」の、およそ文藝の藝 の感じられない、索漠として説明的で、歴史年表を滑り台にして滑っているような、しかも無茶なつくりごとに、かなりムカムカしていたのを増幅してくれた。 もっとも、題材が道真の時代となると、「秋萩帖」を書いたわたしには興味がある。どんどん読んでゆく。
 あしたの講演に気が乗らなくなってきた。弱った。バグワンと「うつほ」を読んで、風邪薬 をのんで寝てしまおう。何が何でも明日を済ませてしまって、明後日の眼科診察だ。
 

* 十一月五日 月

* 冬のはじまり  日曜日、ゆっくり目覚めました。 窓を開けると、大きな雪粒がたくさん降っていて、地面は真っ白。初雪。七ヶ月ぶりの雪景色です。あわててスノータイヤを引っ張りだし、車も冬仕様に衣替 え。その雪も午後にはすっかり融けてしまいましたが、半年近く続く冬のはじまりを、少し嬉しく、ちょっぴりおっくうに感じました。
 ご不調の様子、どうぞお大切に。講演がスムーズに進みますことをお祈りしています。 maokat

* 札幌はもう、雪。

* 今日は霞ヶ関、あまり縁のない弁護士会館内で話し てくる。わたしとすれば、いずれワキ筋の話題で、「ネット時代の作家と著作権」を。帰途雨にならないよう願っている。

* 夜前の「うつほ物語」では笑ってしまった。仲忠が 父兼雅に向かい、父のうち捨てて顧みなかった多くの妻妾を、自分の生母のために父が盛大に造営し一緒に暮らしてきた三条殿へ、すべて引き取って差し上げる ように提案するのである。源氏物語六条院の前駆であるが、この成行きの中で、父が官位のことや女のことで、息子仲忠や愛妻俊蔭女に話す中身や物言いが、こ れが平安貴族の左大将ほどの人のものかと目をみひらかせる奔放、というよりもむちゃくちゃなもので、猥雑この上なくかつ可笑しい。これが薬になったのか、 就寝前に172もあった、血糖値が朝には105の正常値。結構であった。心用意して、昼過ぎには出掛けようと。

* 歌人篠塚純子から、与謝野晶子と二人での開館ス タートは「光栄」なので、わたしの撰した「e-文庫・湖」歌稿を、そのまま「電子文藝館」に掲載して欲しいと。たぶんそう言うに違いないと思い念のため確 認して置いたのへ、返事がきた。
 
 

* 十一月五日 つづき 

* ともあれ「ネット時代の文藝活動と著作権」のこ と、予定通り話してきた。弁護士会館はえらく立派な建物でおどろいた。二時からのシンポジウムを聴き、四時過ぎから話した。時間のことなど特に斟酌せず、 話せるだけは話した。良しとしよう。

* 霞ヶ関から日比谷に戻り、「クラブ」で、サイコロ ステーキと三種の酒肴で、ブランデーとバーボンをむろんストレートで二杯ずつのみ、かやく飯を食べて来た。帰りがけ、ガルガンチュアで、一つ六百円のケー キがひどく旨そうなので二つ買って帰った。濃厚かつ豪華なケーキ。保谷駅をでると小雨で、いそいで、折畳み傘をひらいた。明日は、どうやら激しい雨のなか を聖路加まで行かねばならぬ。眼科診察である。近所の医者にも行くとか、メガネを作り直すとか考えていたが、すべて、出来なかった。次の目標は、無事にペ ンの日に「電子文藝館」公開へ持ち込めるか、それだ。雨の音が激しい。

* 中村光夫原稿、ついで、白柳秀湖原稿を追いかけた い。与謝野晶子原稿がそろそろ届くだろう。新規依頼が出来ていないが、出来るだけのことを一つずつ確実に終えてゆく方がいい。

* 近代文学館へ行き、川端康成の生原稿を目にして、 その上で年明けに講演をしなくてはならぬ。近代文学館を訪ねてゆく仕事をはやく済ませてしまいたい。来年二月が済むまで、息の抜けない、息苦しいほどの日 がつづきそうだが、もう一つの「静」の研究の方もあわせて、悔いなく進めたい。
 

* 十一月六日 火

* たしかに視野検査の結果はあまりよろしくなかっ た。ただ、糖尿病の経過はよろしく、この緑内障も眼薬投与で眼圧をおさえて、さほど案じること、心配することはないであろうと、点眼薬を処方して貰ってき た。機械をさわったりとは、直接関係はなく、パソコンを制限しないといけないと云ったことは、少なくとも緑内障の関係では気にしなくて宜しいと。少しく、 ほっとした。十時の予約であったが、薬局を出て解放されたのが正午をまわっていた。病院は時間がかかる。

* 和光で江里康慧・佐代子夫妻の展覧会があり、覗い てみた。今回は夫君の仏像も大小かなりの点数が出品され、夫人の創作範囲も格別展開してた。
 仏像は「肱を張って」もいけなかろうが、そこに力無くても例えば不動像など弱くなる、む ずかしそうだなあと思った。夫人の「花」と題した棗が、目立たない展示なりに華やかに優美であった、色も意匠も。以前から作品を一点さしあげたいが、どれ がいいかと云われている。どうも展示会場でそういう話題になるのは恐縮の度が過ぎるので、そうっと抜け出してきた。

* 銀座で吉原英雄氏も京都から出てきて版画の展覧会 をされていたのを、次いで見に行った。
 銀座でも、昼飯時には八百円、一人前半なら千円というような寿司屋があるのでおどろい た。しばらくぶりに遅い昼飯にやすい鮨を食べてみた、一人前半。お銚子を一本つけたのが効果あり、味噌汁がうまかった。
 ゆらゆらゆらゆらと歩きまわって、心地よく疲れた。気持ちよかった。

* 池袋駅で大学イモなんか買ってしまい、妻に頼まれ たパンも買い、おまけにカンビールまで衝動買いして帰った。いろんな連絡が来ていた。
 電子文藝館に、規定の何倍もの分量の掲載依頼が来ていたり、これからは、この分量でかな り困るだろうなと思う。どうしても欲しくての分量と、寄稿者の安易な分量とでは問題が違ってくる。厳格にするしかあるまいなと思っている。

* 妻の買って置いたDVD「ホブソンの婿選び」を見 始めたら、想像を絶して面白い出だしで、ぐいぐい引込まれ、かろうじて中断した。映画をぜんぶ見通すほど時間に余裕がない。
 中村光夫「知識階級」の校閲がちょうど半分、かなり長い。啓蒙的な書き方だが、要点を押 さえながら漸進してゆく。明治維新から明治以降へ、日本の歴史を動かしたような動かし損ねたかも知れないような「知識階級」への批評が、そのまま日本の近 代論になっていて面白い。前へ進みたい。まだ半ばなので。
 中村先生独特の口話体の批評はかなり読んでいた、小林秀雄は敬遠しても。志賀直哉論、谷 崎潤一郎論、風俗小説論、カミュの異邦人論など、愛読したと言える。それだからこそ、中村光夫の推薦で太宰治賞に知らぬうちに最終候補へ差し込まれたのだ と聞いたときには、嬉しかった。しかし中村光夫に「清経入水」を送っていたわけではない。批評家で一番偉いのは小林秀雄らしいと思っていたから小林秀雄に は送っていた。筑摩書房に送っていたのではなかった。小林秀雄はどうやら中村光夫の師匠格であるらしいという程度はものも知っていたが、小林秀雄は読まな かった。だけど私家版はいちばん偉い人に送るものと思っていた。だから小説家では谷崎と志賀直哉に送っていた。新人というのはおかしな人種である。なつか しくなる。
 

* 十一月七日 水

* 国立劇場の通し狂言「義経千本桜」を昼夜見てき た。我当が川越太郎重頼と覚範実は平教経という昼夜に座頭格の重い役で出るので。
「堀河御所の場」は我当の川越に義経が市川新之助、静が芝雀、これが美形。卿の局が沢村宗 之助。すてきに新之助の義経が綺麗であった。右之助の駿河次郎がすっきりと佳い役者ぶり。ほどほどの序幕。
「伏見稲荷鳥居前の場」は忠信狐の登場に必要なお狐場。団十郎の狐忠信、おおらかに。愛之 助が逸見藤太で儲け役。しっかりやっていた。団蔵の弁慶は初めて見たが、この場より大物浦での方が見馴染んでよかった。ここでも新之助の義経がすてきに綺 麗。静は芝雀、可も不可もなし。
「渡海屋の場、大物浦の場」は、これはもう団十郎の渡海屋銀平実は平知盛が圧倒的。新之助 の義経はやはりすかっとしていたが、我当の息子の進之介がよくない。入江丹蔵で出たが、控えていても目の玉がキョロキョロ行儀悪く、つまり役に入っていな い。困りもので、これでは良い役が付かない。雀右衛門の典侍の局は前にも見ているが、今日は終始普通の出来。
「道行初音旅」は雀右衛門の静に団十郎の忠信実は源九郎狐の道行で、大らかに美しく。
 これで前半の昼の部、それぞれに楽しめて退屈させないのは、配役の妥当もいえるが、原作 の名作であることが強みであろう。通し狂言で見る長所が、名作であればこそ生きてくる。

* 「下市村椎の木の場」ではいがみの権太の出で、団 十郎が歌舞伎役者の味で終始一貫大柄にこせつかずに演じてみせる。若葉の内侍の友右衛門はいかつく、やはり新之助の主馬小金吾が二枚目で出て、「竹藪小金 吾討死の場」で凄絶に死ぬ。その死首をとる坂東吉弥の鮓屋弥左衛門が、終始味よく演じて、上手い役者なのだと実感させる。ここで秀太郎が権太女房小せんで 出て、人気。いい女形でわたしも好きである。
「下市村釣瓶鮓屋の場」は大きな舞台で、団十郎が大きな芝居にしてみせる。梶原平三景時役 の団蔵が花道でじつにみごとで、弁慶よりもずっとよく、花道近くで手に取るように花道芝居をみられたため、芝居が肌身に通る心地がした。昼の部は五列目の 中央、夜の部は四列目の花道に近く、近眼の私には最良の席が取れていた。この場では、芝雀のお里が可愛らしく、権太はべつにすれば、吉弥の父親役にしみじ み納得した。妻がとなり席でしきりに涙を拭っていた。
 大詰「河連法眼館の場」は狐物語に決着の付く大事の場であり、今度は、わたしが、団十郎 の狐にさんざ泣かされた。ここでは芝雀の静による狐詮議の場面が哀れに美しく、この女形の気の入った佳い演技に心惹かれながら、初音の鼓に父母を慕う子狐 源九郎の情にほだされて泣いた。
「同奥庭の場」では、我当が座頭として全幕をしめくくる大きな平教経役を、左右で団十郎忠 信、新之助義経の成田屋親子が引き立てて、晴れやかに幕。

* わたしも妻も十分に満足して、一日がかりの国立劇 場を引き揚げてきた。家に着いたら十一時前。ざっと心覚えを書いて置いただけで、もう一時半だから、今夜はこれだけで寝よう。通し狂言を通しで見るのは体 力的にはかなりな消耗だが、そこは長編小説の魅力と同じで、作品がよければ魅力は増して盛り上がる。あとへ行くほど退屈など吹っ飛んで、ぐいぐいと引込ま れる。当然の功徳である。

* 予定通りスペインに何事もなく到着しました。
 今は、毎日スペイン語の語学学校に通っています。授業は全てスペイン語ですが、きちんと 理解するまで教えてくれるので、私も一所懸命にやっています。
 食事もビールもワインも皆おいしいです。歴史のある教会や大学などの建造物がとても美し いです。もう少し語学の勉強が落ち着いてきたら、市内を色々回ってみるつもりです。
 昨日の朝、マドリードで、バスク祖国と自由というテロ集団による爆弾テロがあり、警官が 一名亡くなったようです。また、南の方では、洪水の被害があるようです。でも、私のいるサラマンカは今の所安全なようです。
 先生もお身体にくれぐれも気をつけて下さい。またメールします。

* 明日以降数日は、家で落ち着ける。秋冷えも深まっ ている。芝居も楽しく読書も嬉しいが、政治がらみのニュースに触れると虫ずが走る。小泉総理は、ダメだ。外務大臣の出席が、まともな者の思いでは十人が十 人当然としている国連総会等への出席を、政権与党のごり押しのセクハラに同調し、外相を後押ししてやることなく、なんと、時代遅れな超高齢の宮沢喜一を送 り出すと。こりゃなんじゃと云いたい、開いた口が塞がらない。

* 「知識階級」の校正をしていて、二時半になろうと している。目が痛くなってきた。もう寝床へ行こう。湖の本の新刊分が組み上がってきている。これの校正も作業に加わってくる。

* 少し安心  眼科の結果が、お薬で、ということで すこし安心いたしました。じつは、私ももう三年ほど前からドライアイで眼科にかかっております。先日も、私の前のひとが、緑内障で手術と医師からいわれた のを控えの席できいたばかりでしたので、案じておりました。今日から冬と暦は告げております。どうぞ御自愛くださいませ。

* 有り難く。目は大事にしたい。
 

* 十一月九日 金

* 昨日は、珍しく「私語」も忘れるほど。おかげで中 村先生の「知識階級」を校了した。明治の知識階級を論じて終っているが、優にその後にも意義は通じて、たとえば芹澤さんの「死者との対話」にも、ボタンを かけたようにきちっと繋がっている。維新の知識階級は、福沢諭吉と森有礼のように在野と在官の差こそあれ政治や国家への視線・姿勢を優勢させていたが、明 治二十年頃、四十年頃をふたつの画期として、知識階級は支配の道具機械と化して精神を見捨てるか、精神世界へ沈淪して痩せ我慢するか、運命の別れを体験し た。精神界にのがれた者は、仲間内だけの言葉を操ってゆくことで、さらに歪んで痩せていった。

* 土井晩翠の「荒城の月」と、作曲者瀧廉太郎を追憶 しつつラジオ放送した話とを、取り上げようと用意した。

* ペンの日まで、半月。どこまで用意できるか。胸突 き八丁でこの辺が気の萎えやすい苦しいところだが、要するにこれも一つの通過点で、事実上、もう「日本ペンクラブ・電子文藝館」はペンの内部では発足して いる。梅原さんの和文英文の開館と発信の宣言は会報で全会員に報じられているのだし、出稿要領ももれなく配布したのだから。ペンの日は、いわば外向き公開 という意味になり、されば静かにもう通過してゆくだけである。わたしの大仕事は、そこで、一区切りとなり、あと、これをどう育てるかは、日本ペンクラブの 意識次第である。大樹に育つも、痩せて枯れるも、もうわたしや電メ研の全責任ではない。会員相互の責任である。力と時間とのゆるすかぎり、優れた先輩作家 達の作品を、一つ一つまた一つ、ゆっくり送り続けるだけで、わたしはわたしの此の「創作」行為に孤独に思いを注ぐことだろう。

* 兄が自決して、はや今月のうちに満二年、三回忌を 迎える。「妹」として少年時代に愛した一人にも、今年、逢うことなく死なれていた。こういうことが、年々に増えてゆき、わたしもまたその数にいずれ入って ゆく。明日かも知れず、もう二十年もあましているかも知れぬ。後者の方と思って、何が出来るか、何がさらに「創れる」か、胸を絞らねばならぬ。
 わたしはもう、ほぼ十余年、主として家の外へ出て活動してきた。京都美術文化賞選者、東 工大教授、ペンクラブ理事その他。わたしの生活をこれらが強く輪郭づけてきて、今も輪郭に囲まれ、ときにきつく緊縛されてすらいる。内へ帰れと、多くの多 くの声が聞え、その声の一つが自分自身のそれだとも知っている。わたしに必要なのは、ただ一枚の鏡になりきることか。うつるものはくまなく映し、去りゆく ものはけっして追わず、とらわれない。すべては映像、虚仮のもの。鏡自体はなにも所有していない。もたない。
 渇望しているのは、この鏡が、ある大きさの、限りある、鏡縁のある一枚と数えられるよう な有限の鏡から、無限に拡大し、縁というもののない、また何ものも映さない鏡になり切りたいということ。空。無。
 いま夜中に目をみひらいて「闇」を見る。縁というもののない無限真如の闇のやすらかさ。 この「闇」が澄んであかるいただ「空無」と見えるようになれば、どんなに安心だろう。どんなに嬉しいだろう。もがくことなく、待つだけである。待つ思いの 前には、内も外もない。今は有るがままに来たものは映し、去るものは忘れて、日々に新たであるよりない。ジタバタはすまいと思う。
 

* 十一月九日 つづき

* 時雨のつくばより  公園に散り敷いた櫻紅葉をひ そひそ時雨がわたっています。
 お目が、おくすりでよろしいという程度とうかがって、ほっとしております。わたくしも目 医者さんからのおくすりで何とかしのいでいますが、無茶はいけませんと言われております。
 鏡のお話、月輪観をおもいました。が、鏡になりきられるとおもうと、少し、こわく、少 し、さびしい。
 観劇のごようすをうかがって、わたくしも国立劇場にゆきたくなりました。秀太郎の「小せ ん」、よいでしょうね。わたくしがはじめて見た小せんは、門之助でした。花道を縄を打たれて曳かれてゆくときの、素足のさむさに涙したことを思い出しま す。
  朴落葉の溜めてゐる雨 足裏を濡らしてのがれし遊女もゐにけむ
  とほき祖(おや)にあそび女などのゐざりしや湯あがりのにほふ足の爪剪る
                                  香 魚

* 目薬をさすと鈍い頭痛が起きる。いずれ慣れるの か。

* 中村光夫「知識階級」についで土井晩翠の「荒城の 月」と関連の一文を原稿に起こした。また志賀直哉のものはやはり小説らしい小説にするのが礼儀かなと思いあまり、志賀直吉氏あてに手紙を書いた。「クロー ディアスの日記」「赤西蠣太」「邦子」のどれかでどうでしょうか、と。「早春の旅」は好きで選んだものの、いかにも随筆であり、小説家志賀直哉に礼を欠き たくないと思った。
 三木清、中村光夫、土井晩翠、それから与謝野晶子自撰の明治短歌抄、さらに日本ペンクラ ブ現会員の名簿を、合わせて日曜日の内に業者へ送稿する。

* 一休みして、見た「ホブスンの婿選び」がやっぱり 気持ちよく面白い映画であった。デヴィド・リーン感得の代表作の一つだろう、靴店の主人に名優チャールズ・ロートン、三人の未婚の娘達の長女がブレンダ・ デ・バンジー、彼女が選んで夫にしてしまう靴職人がジョン・ミルズ。きちっと仕上がった舞台劇さながらのモノクロ映画で、下敷きにシェイクスピアの「リア 王」や「テンペスト」がさりげなく忍ばせてある。スペンサー・トレーシーとエリザベス・テーラーとの「花嫁の父」とは味わいは違うが、気持は似通ってい る。「屋根の上のバイオリン弾き」とも話は似通いながらはるかに救いがあり温かい。むしろ印象は「クリスマス・キャロル」にも近いかも。それもあれよりは 心温かい。ブレンダ演じるマギー・ホブスンの小気味よさ、知情意のととのった魅力がドラマを押し切ってゆき、父と夫との対面を面白く仕立てて佳い喜劇に なっている。ずいぶん高価なDVDだったけれど値打ちはある。

* 昨夜の内に「うつほ物語」配本第二巻分を読み上げ た。もう一巻の配本が待ち遠しい。兼雅と俊蔭女の夫婦、その子息仲忠と妻女一宮のいわばホームドラマのように読み出せてくると、物語に筋が動き出して、ら くになる。こんなに毎夜楽しみに読み進む物語だとは思われなかった。もっと期待していた「狭衣物語」の方が手にするのが気が重い。じれったいエゴイストで ある、狭衣という大将は。それよりいっそ、時代は降るがまた鎌倉時代の物語を楽しむか、それとも浄瑠璃に挑んでみるか。「義経千本桜」を通しで堪能したの で、今度は黙阿弥の「三人吉左」が観たくなった。師走は、もう気らくに過ごしたい。あ、そうか、今度は湖の本か、ラクは出来無いなあ。
 

* 十一月十日 土

* 文藝館の前途はなお多難。作品が、きちんとした形 でサイトに再現されなければ意味がない。それが、一部混乱したままである。与謝野晶子短歌抄がどうなるか、とても心配だ。わたしの「e-文庫・湖」方式で 表記していれば、索引方法にだけ工夫を凝らせば、それで済んだのではないかと今も思う。事大主義が、それなりにマットウできなくて半端なままにややこしく なった。混乱は暫く続くだろう。

* 大岡信さんの詩の英訳者から訳使用快諾の返事をも らった。志賀直吉氏に作品選定で相談の手紙を書いた。石川達三、遠藤周作の作品を早く依頼したい。芥川賞作品を戴ければ有り難いが。谷崎潤一郎、江藤淳、 大江健三郎、石原慎太郎、水上勉各氏への依頼も急ぎたい。この仕事が面白くてたまらないという新委員がもう二人ほどみつからない
かなあと思う。ま、無理だろうな。

* 湖の本新刊のために原稿の補充作業で半日を費やし た。少しでも面白い一冊にしたいと思って。
 ミマンの読者から「青春短歌大学」にかなりの注文が入ったのは有り難かった。もっとも、 あとへ続かないだろうけれど。それはそれで、いいのである。
 

* 十一月十一日 日

* 石本正展だけを観てきた。八重洲口の大丸ミュージ アム。これはもう言うことなしの充実した石本さんらしい展覧会で、三度四度と繰り返し観て満足して帰ってきた。裸婦が、なんとなく今度のは光って充実して いた。気が入っているなと感じた。会場へ入ってすぐ目の前の作品など、吸い込まれそうに良かった。石本さんの裸婦は、衣裳や絨毯などの背景も凝っているの だが、あくまでも女のからだの造形的に深々とした情感豊かな把握の確かさ、表現の確かさが魅力である。それで作品が決まってくる。裸婦だけで数十点、これ はと気に入った作に手控えのシルシをつけていったら半分以上に○がついた。素晴らしいと言うしかない。二十代の末に描かれたという大作の馬もこころよい表 現で、なるほどこれほどの下絵をと感心するほど佳い下絵が数十枚添えて展観されていた。石本さんには逢えなかったが、満たされてきた。

* 創画展での橋田二朗先生「白い秋」草花図もすばら しかった。京都の親しい人の力作で美術の秋には恵まれた。

* 狂牛病による不況も、たぶん原因の重きをなしてい たのではないかと察せられて、胸が塞いでいます。
 食肉卸業者同士の殺人事件はお聞き及びのことと思いますが、殺した当事者(その場で自 殺)が、勤務先の縁者なのです。その方を知っている先輩の同僚は、いまでも信じられないことだと申しています。温厚で、いつも笑顔の腰の低い方だったと。 殺された方は今日、そしてその方は明日のお葬式です。
 あらゆる方面に影響が出てくることを覚悟しなければ。流れのままに、とは思いますが、暗 く、深いこの激流はいつ変化を見せてくれるのでしょう。

* 言葉を喪ってしまう、つらい、ひどい事件でした ね。政治の見当違いと、行政の貧困、経済政策の無責任な遅延が、こういう惨い渦を、これからどれほどあちこちに巻かせるかと思うと、暗澹とします。あなた の上にもどんな荒い波が被るかと思うと胸が凍えます。ご家族が智慧と力をあわせて対応し堪えて乗り越えて下さるようにと祈るよりないのが恨めしく。健康を と。まずはそれを祈りますよ。

* 小泉総理は相変わらず自衛隊の出動のほうへばかり 向いている。いったい、経済対策はどうなっているのか。わたしは構造改革が必要なら断行して欲しいと思うが、かけ声ばかりで、やっていることは、ブツショ とテロをダシにした日本国の右傾化、軍事化へのドサクサの施策だけ。外交は田中に任せて、自分は死にものぐるい血みどろになって構造改革の先頭に立つべき だろう。石原なんかのただ尻をたたいてばかり、田中真紀子のいじめばかりでは、もう一日も早く退陣せよと言いたくなる。が、残念なことに誰が代ってくれる のか。共産党に期待しようか。他にだれがいると言えるのか、情けない情けない。
 

* 十一月十二日 月

* 電子文藝館の開館を「ペンの日」の懇親会場で映写 披露する計画は、わたしの意思で断念した。会場が広すぎ座が乱れているのが例年の出席経験で予想され、そんなさなかに機材等に十万円以上もかけて僅か五分 十分で何が出来るとも効果的とも思われず、むしろ、通常の例会時に披露した方がよほどマシだと判断した。もう一つには、掲載作品の機械上での表示に、ごく 一部とはいえ甚だ不十分な混乱が出ていて、安易に強行すると逆効果になると考慮した。
 しかし、十分な質と量との掲載作品はすでに用意され掲載されていて「開館・公開」に何の 不都合も起きていない。行事を企画してはではでしくは披露しないが、ごく自然な開館・公開へ予定通りに向かっている。あと二週間にさらに作品を一つでも二 つでも増やしたい。

* 仕事を堅実に着実に仕上げてゆくというのは、容易 なことでなく、場あたりのいいかげんは混乱と失錯のもとにしかならない。会社づとめをし、長い間管理職として部下の仕事をみながら、数え切れぬほど月刊誌 や単行本の校了に立ち会ってきた私には、いやほど分かっている。理屈ではない、現場は現実問題で構成されている。現実問題に誠実に対処しようとすれば、一 つには慎重、一つには決断。そして成り立たないことにいたずらに拘泥しないで、その時点で一番良いと信じられる選択をすばやくしなければお話にならない。 論語読みの論語知らずでは、仕事はけっきょく膠着し、うまく出来あがらないものである。
 出来ればいいなとは願ったものの、「ペンの日」のデモンストレーションは、無理であろう と暗に予測し、いつでも断念できる腹づもりでいたが、そのようになった。強行しても利はなにも無い。ほっとしている。

* 小泉総理の予算委員会での答弁の多くが、かなりズ ルいごまかしに傾いてきた。アフガニスタンの空爆が民間を多く悲惨に巻き込んでいる事実を指摘されても、空爆をやめればテロが無くなると思うのかと居直っ たり、無差別空爆への批判に対し、タリバンが民衆に与えてきたこれまでの被害と比較して答えるなど、全くのすり替えで、温かいハートで応答していない。
 馘首・解雇の意味で「リストラ」の語を用いながら、大企業のエゴイスチックな無際限リス トラに歯止めを掛けられるのは国でしかないという、野党の切実な問題提起に対しても、小泉は、「リコンストラクション」の意味に「リストラ」を狡猾に押し 広げて、企業のリコンストラクションを国が制しては、産業が崩壊するなどと、まったく馬鹿げたすり替えとゴマカシを平然と口にしている。彼の行き詰まりは 質問に聴き入る苦渋と無気力な表情に、もう、どうしようもなく露われている。小泉内閣に求心力が衰えて内閣自体が弱気に陥っている。
 誠実になることだ。我々の言葉で話すことだ。あんなに凡百の政治屋どもとは言葉がちがう と称賛された小泉総理が、いまや、まんまと旧来の永田町言葉に戻っている。

* 昔、学研から二十一巻の「日本の古典」が出た。カ ラー写真を豊富に使った現代語訳を中心にした啓蒙的で華麗な大判本だった。井上靖監修で、わたしは「枕草子」を担当した。同じ趣旨の「明治の古典」シリー ズでは「泉鏡花」を担当した。その日本の古典の方で、村上元三さんが担当された「義経千本桜」を、三夜かけて通読したのが、とても読みよかった。通読した 巻は、じつは、自分の担当巻はべつとして、初めてだった。うまく編集してあるなと、当時の学研編集者にいまさらに敬意を表したい。
 ついでに、馬琴の「椿説弓張月」を読みたくなった。黙阿弥の「三人吉左廓初買」も読みた いが、探したが家になかった。

* 左幸子が亡くなった。美人ではなかったが、すぐれ た人材であり演技者であった。敬意のもてる数少ない芸能界の一人であった。病気とは聞いていたが、惜しまれる。三国蓮太郎が話していたが、この業界ではと ても難しい「自分を失わないむと謂うことを、最期まで遂げて崩れなかった、亡くなるのは早すぎる、と。同感である。爪の垢を煎じて呑ませたい手合いがどの 世間にも多すぎる。
 

* 十一月十三日 火

* エヤーバス墜落  今回はテロと関連はないらしい と発表がありましたが、事故の墜落であっても多くの人の命を奪ったことに違いなく、ニューヨークの災難、二度ある事は三度あるなんてジンクスを、こんな時 には思わずにはいられません。わざと軽く躓いたりして、三度目の難を逃れようと、この歳でも子供っぽくすることを思い出しました。もう当分、度肝を抜くよ うなニュースには出会いたくない心境です。
 グレーゾーンですか。インシュリンを使っていてその状態ですから、くれぐれもお大事に。

* テロでなくてもテロと同じほどのテロ効果を持って しまった衝撃に、声もない。なんという時機になんという事故を。しかしテロであって欲しくない。まだ分からない。

* 二時過ぎにテレビから離れバグワンを読み、すこし 湖の本を校正し、それから馬琴の「椿説弓張月」を平岩弓枝さんの紹介で読んでいった。馬琴は北九州の辺から話を起こすのが好きなのか、「近世説美少年録」 もそうだったが、この物語のヒーローの源為朝も、九州から琉球へ動いた末に、また大きく運命に誘われて琉球へ流れよる。おもしろい。お話だけで面白く読み たいのなら、この学研版「日本の古典」はすこぶる読みやすいし写真も豊富で楽しい。

* この数日、朝の血糖値がグレーゾーンにある。よろ しくない。

* 夜遅くに血の騒ぐ事件が報じられたり、文藝館関連 の難儀なメールが舞い込んだりすると、これで夢見よかれと願うのは無理かも知れないが、とくべつ変な夢も見なかった。

* 今日の言論表現委員会はなんと五時始まり。猪瀬君 も行革にふりまわされているのだろう、頑張って欲しいと思う。働き盛りの「忙しさ」には独特の栄養分も豊富。ただ病気にだけは陥らぬよう用心して尽力願い たい。
 

* 十一月十三日 つづき

* 少し早く出て原宿駅から表参道まで歩いた。医学書 院にいた頃、この原宿の坂道途中に看護協会があって一度二度用事で訪れているが、その当時はほとんど人も通らない静かな並木道でしかなかった。よほどの知 恵者が両脇の古びた家々を小店に利用することを発案したのだろう、文字通りに小洒落た町並みへのてがかりが出来た。いまでは、東京の中でも別格の面白い商 店街でかつ散歩道になっている。竹下通りへはわたしはついて行けないが、表参道は樹木の大きいおかげで歩いていて風情がある。店店も、足を止めて中に入る ことはなくても、眺めて通ってさすがに面白く感じるところが多い。
 画廊のエモリに入ってみたが、さしたる画展でもなかった。表参道の蕎麦の「古道」に入 り、天せいろうに熱燗を一本で、湖の本の校正も少し出来た。蕎麦のうまい店だ。

* 言論委員会は、めずらしく三田誠広君が早く来てい て、追いかけて猪瀬君も。メンバーは六人そろい、話題も揃って、聴いているだけでいろいろ国会での法案事情も教えられる。それにしても、なんと、あとから あとから国民を縛り付け締めあげ、権利を奪い取ってゆくための法案が出てくること、しかも民主党も大方同調して、成立させてゆく。一つが成立すれば、あれ が成立して何故これも成立しないかと、次々に締め付け法案が数珠繋ぎに国会を通ってゆく。あれよあれよという間に成り立ってゆく。これはひどいよ、これは 許せないよと、反対声明を出して出しても、そんなことは屁のカッパで、政権与党に民主党も同調してことを軽々と運んでゆくのだから、幾分、われわれは毒気 に痺れている有様だ、虚無感すら漂って、いわば全敗。
 その手の法案に反対するのはいつも社民党と共産党だけ。
 日本ペンクラブも、出てくる法案のあれにもこれにも反対声明を出し続けているのが現実だ が、それなのに社民党や共産党には強烈な嫌悪アレルギーの人が多いこと多いこと。猪瀬委員長も社民党などというと顔をしかめる。自民党小泉政権の政策を助 けて奔走し奔命している。しかも、政権与党の提出法案の殆どに例外なく反対の声明を起案しているのは、彼が率いるわれらが「言論表現委員会」なのだ、どう なってるのと、時として笑えてしまう。こういう矛盾や撞着が平然として渦巻いている世の中なのである。虚仮といわずに何と謂うか。

* まっすぐ帰ろうとしたら、山手線が全線止まってい た。どこかで車両の下の煙が発見され、点検にヒマ取っていた。今更迂回して地下鉄に乗り換えるのも面倒なので、原宿に停車している電車にのりこみ、ずっと 校正しているうちに、いつか発車した。途中下車も億劫になり池袋から寄り道なしに帰宅した。

* 迪子が、昨日は徳田秋聲作品を、今日は林芙美子作 品を念校してくれた。やはり、ぱらぱらとミスや抜けが出ている。念校しないと危ない。見る目が複数で交代しないと誤記誤植はなかなか避けきれない。わたし のスキャンした仕事を今迪子に手伝ってもらって点検を急いでいる。
 志賀直吉さんから、作品の選択は任せるとお返事を貰った。少し癖はあるが、直哉自身は気 に入っていた「邦子」へ落ち着けようと思う。直吉さんも賛成であるし。「早春の旅」が好きだけれど、直吉さんも自分が出てくるし好きだといわれるけれど、 小説家志賀直哉の作品を、あまりに随筆的なものではと遠慮した。直哉自身、自分の文学では小説と随筆のけじめはぼやけていて、それには拘泥していないと書 いているのだが。「赤西蠣太」と「邦子」なら、後者が良いと妻も言う。わたしもそう思っている。妻は林芙美子の「清貧の書」に泣かされたという。校正しな がら細かに読むとひとしお情の深い秀作なのである。

* 文藝家協会ではわれわれの「電子文藝館」の「課金 版」を考えているらしい。向こうの理事をしている三田君の話である。金を取って成り立つかどうか、微妙に難しい分かれ目であるが、成り立てばまた別の希望 も持てる。

* 白柳秀湖の「駅夫日記」を読み始めたが、すばらし い。作品の存在すら念頭になかった初の出逢いだ、作者は明治十七年生まれ、昭和二十五年に亡くなっている。この作品は、明治四十年十二月の「新小説」に発 表されているので、自然主義作品としては花袋の「蒲団」に重なってくる。まだ予感ながら「蒲団」以上の社会性に富んだ自然主義先駆の記念碑作のように思わ れる。これが電子文藝館や「e-文庫・湖」に拾い採れるのは、とてもとても誇らしく、また嬉しい。
 山手線の目黒駅を舞台に語り始められている。目黒はね東工大に通った頃の目蒲線への乗り 換え駅だった。今はずいぶん立派な駅になっているし、権之助坂辺の景色もこの作品の頃の寂びしやかに武蔵野めく風情からは、ウソのように都会の顔をしてい る。またも、佳い作品に出逢える予感で頬がゆるむ。こういう先輩作家の秀作をこうしてまた世に送り出せるのが、言いようもなく嬉しい。
 

* 十一月十四日 水

* 吉川英治記念館から作品が届いた。現会員で三島賞 の久間十義氏も作品を送ってこられた。白柳秀湖はスキャンを全部終えて校正をずんずん進めている。志賀直哉のスキャンも急ぎたい。どう慎重にやっても、ス キャン原稿を一度校正しただけでは誤記が出る、初校だけで誤植がないなんてことは普通あり得ないのだから、やはり二度は最低、それも読む眼の変るのが望ま しいが、なかなか委員も皆生活を抱えていて時間はとりにくい。

* 午後、池袋で人と会い、かなり辛い、厳しい事情の 相談を受けた。相当な落ち込みと見えた。時間を掛けて、いろいろ話を聴き、わたしも話して、どうやら方針と活路とを見いだすことが(暫定的にと言わねばな るまいが、)出来た。帰りがけには、あんなに初め暗かった顔に笑顔すら見えるようになっていた。要するに、心の餌食に身を貢ぐなと言っただけである。ま、 用いた言葉はもっとあったけれど、核心に触れていただろうと思う。
 笑顔が出れば、自分も晴れ晴れする。晴れ晴れした気持になれましたと喜んで帰っていった が、先のことは、とてもラクではあるまい。しかし、一山は越えただろう。諸悪萬苦の根源は心である。よけいな、腐った、自分を苦しめる以外に甲斐のない虚 仮の心根は抜き棄てるにしくはない。

* 喉が渇いたので、ビヤホールへ行ったら、店が潰れ ていた。それならと、二階の精養軒に、ボジョレーの新酒が入っていたので一本綺麗にあけ、帰ってきた。

* 機械部屋が冷え込んできた。膝から下がさっきから 痛いほど冷たい。また毛布を脚に巻いての日々がやってきたようである。
 

* 十一月十五日 木

* 埼玉市在住の詩人榊政子さんの「辻谷の寅子石」に 関する論考と詩一編を「e-文庫・湖」第四頁に掲載した。榊さんの本領発揮といえる史実と伝説との考究であり実感に満ちて美しい詩編である。七十を過ぎて みずみずしい詩精神を湛えた篤実の文学者であり、いまなお文学少女の純粋と克明な探求心とを、詩の創作で、つよく結びつけられている。寅子石は実在し、近 隣ではよく知られている。哀れ深い印象強烈な伝説にからめられている。
 「e-文庫・湖」の掲載も増やしてゆきたいし、文藝館の手作業がなかなかのもので、らく な日々ではないが、文学文藝にずぶりとはまっているわけで、何の不足を言う筋ではない。

* 「椿説弓張月」のストーリイの面白さは「近世説美 少年録」を優に遙かに凌駕している。「南総里見八犬伝」よりも大らかに楽しめる。日本の文学史にこういう面白い読み物の伝統があったことは、忘れがたい。 溯れば西鶴があり御伽草子があり、遠くは竹取物語へ達するか。

* タリバンは巧妙にアフガニスタン国土を北部同盟に 委ねて山に隠れ、国内の新たな混乱に乗じてゲリラ活動を展開するのだろう。少なくも国土に北部同盟兵士と民衆とが混在するとなると米英は空爆の自在を手放 すより無くなる。今のところ北部同盟を攻撃してしまう結果は避けねばならないだろう。タリバンはかなり自在にそのなかへ潜り込んでくるのではないか。ゲリ ラ戦術としては、いまのところ敗退と謂うより戦術的韜晦を展開しつつあるのではないか。

* 今日は終日、白柳秀湖の「駅夫日記」に心惹き込ま れながら校正に努めていた。かなりに長い。しかし素朴な中に叙情性も叙事性も豊かで、読んでいて嬉しくなる。恋愛小説のようで居て社会性の小説になってゆ く。明らかにこれは花袋の「蒲団」的な自然主義でなく、藤村の「破戒」に肩を並べる同時代の忘れ去られてきた秀作である。ことに今、目黒駅を中心に世田 谷、太田、港、渋谷区界隈に暮らしている人には、この明治四十年頃の東京の風景がおどろきと懐かしさとでイメージを湧かせるだろう。おそらく、こういう小 説はこういう文藝館のような試みと意思とが再発掘しなければ本当に忘れ去られてしまう。しかし当然忘れられて致し方ないような凡作ではないのである。
 わたしは、ますます、この仕事に誇りを感じ始めている。新鮮な佳い読者に新鮮な佳いおど ろきと喜びを伝えたい。
 

* 十一月十六日 金

* 白柳秀湖「駅夫日記」を書き起こした。正字で旧仮 名遣い。仮名遣いは生かせるが正字は化けて出る事例が多く、試みにこの原稿では正字略字の混在を敢えてした。主人公が、年齢相応にやや感傷的で俗に云う貧 困に育ったことを恥じ入りすぎているのが、劣等感の強すぎるのが焦れったいけれど、たいへん素直な前期自然主義の美しい描写と感動のなかで、素朴にストー リーが績み紡がれ繪を成してゆく。時代は古いがモチーフはかっちり強く捉えられていて、この先の闘争がどう展開するかといろんなことを考えさせる。無理矢 理の妥協や不自然な作為のない、得難い古典性を帯びた秀作に出逢えてほんとうによかった。「破戒」から「駅夫日記」へと自然主義が伸びてゆけば、よほどま た別の趣の近代文学史もありえたろうに、埋もれてしまったのが惜しまれる。不運の秀作と呼ぶに憚りないものであった。

* 一日一日がいまは「電子文藝館」の用事で終えてゆ く。湖の本の作業も今日は一区切りまで進めた。どうしても校正ミスを犯しているのを、外では倉持光雄さんが、家では妻が着々と読み直し続けてくれて、だい ぶ安心の利くところまでこぎつけた。今度は志賀直哉の「邦子」のスキャンにとりかかる。吉川英治の作品を記念館の城塚朋和氏が選んで送ってこられたが、せ めてスキャンするか、プリントして欲しいと頼み返している。少しでも委員には作業を助けて欲しい。久間十義氏の作品も単行本で届いている。
 転送等の作業を委託している業者に、原稿の校正までをさせることは出来ない、それは約束 の外で、原稿は委員会で責任をもって校正し終えたものを渡すより無い。いわゆる完全原稿で印刷所に渡すというのが原則であった、昔から。内校してくる印刷 所もあったが、ディジタルでは、我々が責任有るコンテンツを渡して、なるべくそのまま転送して済むようにしておくのが当然だろう。

* いつのまにか、今夜も午前サマになっている。明日 は、今日はというべきか、恵比寿で子松時博君が名古屋勤務から戻ってきて、仲間達数人と音楽会をする。二度目。一度目は会議で行けなかった。明日は聴きに 行こうと思っている。シューマンやショパンを弾くという。白柳秀湖の小説を読んでいると、目黒駅から恵比寿麦酒会社の工場が見えていたという。明治四十年 のことである。山手線はまだ単線であったのが、複線化工事をはじめ、その時に恵比寿新駅が計画されている。それまでは山手線は客車よりも、貨物に力が入っ ていたらしい。その恵比寿の麦酒会館だかが子松君たちの演奏会場だという。初めて行く。そのあと、保谷に引っ返して、今度は地元で映画があり、これは息子 の大の推奨作品なのである。

* 学研版の啓蒙「椿説弓張月」を読み上げたが、原作 が読みたくなった。これに比べると「近世説美少年録」は駄作である。構想といい、為朝伝説で琉球の不思議をふんだんに奔放に、しかも幾らかは拠るべきモノ に拠りながら書いてある気がする。この原作を読み、ついでに敬遠してきた「南総里見八犬伝」も読んでやろうかなとうずうずしてきている。
 

* 十一月十七日 土

* 恵比寿三越の奥の、麦酒記念館内ホールで、子松時 博君らの仲間による、二回目の「恵比寿ガーデンプレイスミニコンサート」を聴いてきた。先ずバイオリンと子松君のピアノで、マスネーの「タイス」やカタロ ニア民謡など三曲、まず無難だが、会場がいわば開け広げなので雑音が入る。バイオリンをもっとつよく鳴らした方が効果的ではなかったか。静かな選曲では負 けてしまうおそれがあった。次いで、子松君のピアノソロで、シューマンの「森の情景」より一曲、ショパンの「バラード三番」は、学部の頃以来の子松ミュー ジックで、ショパンは少々手荒くはなかったろうか。三番目はクラリネットとピアノのモンティ「チャールダッシュ」は無難だが、バイオリン同様にクラリネッ トがおとなしくて平板に鳴っていた。ボーカルとバイオリン、ピアノで、これには子松君とどうやら妹とが、ピアノ伴奏を一曲ずつ交代した。これは肝腎のボー カルが声量とぼしくて、魅力に欠けた。最後に女性二人でのピアノ連弾があり、バッハの「メヌエット」ほか三曲に、「アンコール」の声がかかってもう一曲。 可もなく不可もなく、ピアニストの一人の長い髪が美しくしなやかに見えた。これできちっと一時間。まじめで、素朴で、清々しい演奏会であり、音楽の質より もみんなの、会場の、雰囲気にとけ込めて楽しかった。子松君とは久闊を叙し、健康を祝して、別れてきた。せっかくエビスビールの本場へ来たのだもの、ビア ホールへ入り、ソーセージ一本で中ジョッキを楽しんでから、また延々とエスカレーターの歩道を通り抜けて保谷まで戻ったのが、五時十五分。

* 迪子と待ち合わせた中華料理の「保谷武蔵野」で夕 食し、歩いて市役所のこもれびホールに入った。建日子が推奨の中国映画「初恋のきた道」を観た。途中のかりん糖工場で買ってきたかりん糖と食事の時の老酒 と、その前のビールがきいてしばらく寝てしまったが、いいところで、きっちり目覚めて、映画を十分楽しんだ。

* 父親に死なれて一人息子が故郷に帰ってくる。母は 夫の死を心から嘆いて、遺骸を遠く離れた病院から、車ではなく古式にのっとり担いで帰りたいと、つよくつよく息子達にねがう。
 父は死ぬる日まで学校の先生であった。すばらしい先生であった。新任してきた若き日の先 生に、愛らしい村娘であった母は恋し、二人は愛し合った。その恋と愛とが、いかに清純に深く豊かであったかを、息子の回想と語りとで描き出されてゆくの が、それはもうみごとな繪になっていて、すばらしい。主役の少女が魅力横溢、ほかの何も要らない少女が画面に映ってさえいればただもう嬉しく感銘を受けて しまうと云った映画なのであった。
 そして、その、夫であり父である人の遺骸は、吹き降る雪のなかを、教え子達や遺徳を偲ぶ 大勢の手に担がれて、村へ帰ってきたのである。
 息子は、父がそうしていたように、村の学校で、父の書き残していた文章で、一日、村の子 ども達に授業する。それこそは、死んだ父が望み、死なれた母も心から望んでいて息子の果たせなかった大きな心残りなのであった。老母は、息子の音吐朗々と 読み上げる授業の声にひかれて、やがて改築される昔ながらの学校の前に、かけつけるのであった、昔
も、いつも、そうしていたように。

* 大味でありながら、心美しく澄んで優しい映画で あった。中国辺境の大自然を描いた映画に通有の設定とも言えるが、この映画には悲惨な悪意が働いていないので、後味がとても美しいのが嬉しかった。

* この秋は何故か二回も嵯峨野を訪れました。水曜日 は東京に転勤で移動した友達と逢って嵯峨野に・・よく歩きました。以前行ったときの記憶となにやら符合しなかったり、それでも大いに嵯峨野を満喫しまし た。さすがに紅葉の時期とあって、週日でも人は多かったです。渡月橋のたもとで買った桜餅、美味しかったです。
 今日は少し体調が悪く、部屋にいます。
 全く一人の週末が、稀ゆえにとても貴重に感じられます。何もしない、と言っても本、テレ ビ、など布団の中で見ながら過ごしています。先程までNHKで沢口靖子の「お登勢」を再放送で見ていました。これは途中まで見て、イタリアに行ってしまっ て見ていなかったので・・。あのような純粋さが自分にあるだろうかと、自問しますが、答えは分かりません。
 アフガニスタン情勢は急激でしたが、不思議なほど驚きませんでした。北部同盟がカブール に迫って或程度の時間が過ぎたとき、アメリカなどの意図や牽制と別に動く力を予感していました。
 以前のような過ち、権力抗争、を繰り返すことなど、決してないようにと願っています。
 かなり前のことになりますが、マリアのことを聞かれたことがありましたね。あの時はイエ スの母マリアのことだったと記憶していますが、マグダラのマリアは今でも関心の外でしょうか? 私は絵画の主題にあらわれるマグダラのマリアが時折気に 懸っていましたが、ラテン語の先生が、マリアがイエスの「妻」だったのではないか・・と言われて、ああそうかもしれないなどと思ったり・・。
 またメールを書きます。今夜は暖かくして眠ります。

* ほうっと懐かしい心地のするメールであった。嵯峨 野の光が目の底にたまっている。嵯峨野というと自然に慈子を思い出す。どんなヒロインもわたしは愛しいが、慈子はひとしおである。それでいて慈子がどんな 顔をしていたのかわたしは覚えがない。ときには澤口靖子のように思われるが、時にはむかし愛した少女達のどれかのようにも想われる。

* 城塚さんから送られてきた吉川英治の文庫本「柳生 月影抄」を読み始めている。久間十義氏から戴いた「海で三番目につよいもの」の書き出しから導入部のはこび、すてきに新鮮で息をつかせない。ああいいなと 嬉しくなっている。
 

* 十一月十八日 日

* 高木冨子さんの詩集『今は』を、「e-文庫・湖」 第十四頁に一括掲載した。折々の詩的な「ノート」を含んだ一巻の旅詩集として読んだ。おそらく推敲も吟味もなおなお可能な、あるいは必要な詩篇であるが、 散文でもあるが、優れて実意に富み、このままで、あらあらしいほど生きて言葉が呼吸している魅力を受け取った。今後のことは作者に委ねたまま、掲載した。 機械の環境により改行などが作者の最初の思いを裏切りかねない。いっそ、改行の不明な箇所は、機械の自然改行にまかせて整理しておこうとも編輯者として考 えているが。おそらく作者にも、そして編輯者にも、佳い収穫として一つの形にして示したい。

* 湖の本のツキモノやあとがきを用意して要再校原稿 を送り、志賀直哉の「邦子」を慎重に校正校閲し、関連して幾つものメールを書き、二十六日「ペンの日」の開館と公開を理事会に正式に報告の書面を作成し た。あああと思っているうちに、もう二十四時に残り二、三分。疲れるわけだ。なんにかしらこの数日、ワインが利いているような、ある種の元気がある。無念 無想とも行かないが、着々と、いやジリジリとことを前へ前へ運んでゆく。もうどうしようもなく、一つのゴールが目に見えてきている。あと一週間のそのゴー ルは、自然にただ通過して行き、次の目標へまた動いてゆく。

* 直哉の「邦子」は何度も読んできたが、ある読み違 いをしていたような気が今度はした。これは夫の浮気で妻が自殺する話ではあるが、直哉の意図には、芸術家と家庭との問題意識の方が重く沈んでいる。直哉 は、なかなか「書けない」文豪であった。その「書けない」苦しみと平和な家庭との相克は、他者の評論以上に直哉にとって重いことであった。それがこんなに 真正面から主題化されているのに、わたしは、ながくこれを「山科もの」の同作というふうに読んできていた。明らかにわたしの大きな間違いであったと気がつ いた。本質的にたいへんな苦悩がココには書かれていたのだ。

* 今日は迪子が息子といっしょにグローブ座の芝居を 観に行った。留守番して仕事がはかどった。水曜にはわたしが、俳優座の稽古場の芝居に行く。木曜はいわば文藝館開館直前の電メ研。そして三連休して「ペン の日」になる。
 

* 十一月十九日 月

* 昨日と同じように過ごして、いま、午後十時。二時 間分ほど今日はラクであった。文藝館十八人十八作の最終点検済み原稿を一枚のフロッピーディスクで、業者に発送した。「ペンの日」までに、ぎりぎりいっぱ いの作業となった。まだ不十分で不安は残っているが、この種の校正仕事では余儀なくどこかで見切らねばならない。べつにもう七人の原稿が入るから、また現 会員、物故会員の「名簿」も入ったから、内容的には重みのある良いスタートになる。
 あとは追加の出稿依頼。その方の仕事が進まないでいる。あすは、そちらへかかりたい。

* すっかり日が落ちるのが早くなりました。空気が乾 燥し澄んでいるのでしょうね。見惚れる程の三日月ですわ。
 新聞に子供の発した一言投書欄ってありますでしょ(今時の子供の名前ってスゴイのがあり ますわねぇ!)。
 花火大会で月の近くに上がっているのを見て、「見とってみィ。お月さんそのうち壊れン でェ!」というのが、気に入ってます。

* くすんと笑えた。夜前、二時前頃、屋根に出てしば らく獅子座流星群を拾い取ろうと見上げていた。二時よりもあとが本番だと分かっていたが、寒いのと首の痛いのとで、なかに入った。不思議といえば不思議だ が、なんでもない自然現象である。眼を凝らしていると大空に星のそれはそれは多いことにあらためて驚かされた。だんだんに、闇の底から浮かび出るように見 えて来る。あれが美しい。晴れ晴れと夜空が清らかであった。

* 少しずつ、家の中も冬支度に入ってきた。暖房の用 意も。
 

* 十一月二十日 火

* 業者の手で「日本ペンクラブ電子文藝館」作成中の 準備段階サイトを見ていて、(自分で手掛けたコンテンツの念校に追いまくられて、今日までよく見ているヒマもなかったのだが、)ひとつ、複雑な作手順にし たがい、作品に難儀なルビ打ちを試みられた起稿分が、そのようには出来ていなくて、私の従ってきた新聞方式の括弧内「よみがな」に統一されてある。これに 該当するのは、少なくも与謝野晶子、岡本綺堂、神坂次郎三原稿で、担当者が長期間掛けて仕上げられたもの。
 見たかぎり、岡本綺堂、神坂次郎原稿は、わたし自身は、現に掲載されている方式で、(本 文念校をきちんとすれば、)このままで良いように感じている。ルビを頻繁にふり、行間が均分に整わないのでは、とても文学作品は読めたものでないからだ。
 ただ、短歌作品の場合は、評価が難しい。数百の短歌が、行間ばらばらでは、均質な感銘を もって読みにくいのと同様に、漢字の後ろへカッコつきで「読み」の入る方式も、感興をそぎ読み下しにくい言える。どっちが、どうか。
 業者の方で結果的にどう判断してそうしたのか、二十二日の会議で聴くしかないが、わたし の作成した二十本ちかい作品が、みな新聞方式に準じた簡明な再現になっているのに従ったものと思われる。そうでなく、別の何かの支障が有ったのかも知れな い。いずれにせよ、相当な長期間かけて作成された「ルビ打ち」作業であったが、結果的に無にされているのを見て、正直気の毒で、困惑している。わたし自身 は現掲載で読んでゆくのに、とくに支障を覚えないものの、時間と神経を費やされた方にはお気の毒な結果になっているからだ。
 読者の読みやすさと、作者の満足度と、これから先の寄稿者たちの作業の難易と。それが絡 み合っていて、評価は容易でない。
 が、確かに守らねばならぬ「二つ」が、厳として、有る。
 寄稿してもらう一人一人に、おじけをふるうほど難儀で煩雑な手順での寄稿など、とても要 求出来ない、してはならない、というのが、一つ。間違いの少ない原稿を数多く出して貰いやすくする、そして二つには、どんな読者(の機械でも)にも均質に 読んで楽しまれるように作品を提供する、という最初からの大原則、この二つが何より優先する。これは拙速ということではないのだ。ものの宜しく成るために は、電子文藝館のための本質論なのである。

* なかなか八方うまくは纏まらない。生きて動いてい る仕事とは、こういうものだ、やはりここ半年一年はいろんな試行錯誤を重ねながら調整改訂してゆくより無いのであり、そういうものと、わたしは予期し覚悟 していた。大事なのは現実を注視しながら、机上の理想論にだけ流されてしまわず、しかも理想は大切にする、ということだ。その意味では、だいたい理想とし ていたように事は成り立ってきている。余す一年半足らずの任期のうちに、一つまた一つと、優れた内容の作品を積み重ねてゆきたい。もう、わたしに、あれも これもは出来ない。

* 川端康成、石川達三、高橋健二、遠藤周作、尾崎秀 樹各歴代会長の遺族あてに、梅原館長代理で出稿依頼状を発送した。また谷崎潤一郎の遺族および石原慎太郎氏にも出稿依頼を送った。大きな一段落でほっとし ている。文芸家協会の理事長達へもおいおいに依頼してゆきたい。しかし、白柳秀湖のような人が大勢あり、こういう人達をぜひ見いだしてゆきたい。

* 吉川英治の『柳生月影抄』のなかでは、「大谷刑 部」「鬼」が、まずまず、よかった。まだ皆は読んでいないが。
 

* 十一月二十日 つづき

* いま、妻と、半日かけて神坂次郎氏の『今日われ生 きてあり』を読み合わせ、念校を終えた。想像以上にスキャンから校正した原稿自体に間違いが多く、結局、少なくも150箇所ほども修正したり補正したり訂 正したりした。正直のところ、このまま「公開」していたらと想うと冷や汗が出た。なんでこういうことになるのだろう、分からない。どんな校正でも、一人が 急いで一度読んだ程度では、たとえ二度読んでも、誤植はなかなか免れがたいものではあるが、ちょっと……、驚いた。ともあれ、神坂原稿は無事に開館に間に 合うだろう。
 明日は、岡本綺堂の『近松半二の死』を同じように読み合わせて直してゆくしかない。今、 他に気にしているのは上司小剣、島崎藤村である。この分では、ぎりぎりまで緊張が続く。

* 倉持委員から、つぎつぎに念校の指摘が入り、有り 難い。息つく暇なく、今夜ももう十一時半になり、まだ、休めない。膝下がじんじん冷えてきた。
 ゆるんでしまったら、潰れてしまいそう、気を張って、全力疾走で一つのゴールを駆け抜け たい。ずいぶん乱暴な委員長だと委員達のなかには辟易したり顰蹙している人もいるだろうが、今という今は慎重な中にも勢いを欠くワケには行かない。顧みて 他を言うていても仕方なく、自分で自分に鞭をあてるとすれば今しかないのだと想っている。そして奥深くでは楽しんでいる。これは苦行なんかではない、一種 の創作なのだから。
 

* 十一月二十一日 水

* 午後、六本木俳優座の稽古場公演永井愛作「僕の東 京日記」を観に行った。満員、しかも老人が多かったのは、劇団後援会の鑑賞日であったかららしい。一番観やすい招待席が用意されていて恐縮した。めったに 見ない舞台装置で、ふつうの正面舞台下手から鉤の手に客席の左へグーンと延びた、ちょうど「L」字を向こうむきに逆さまにしたような大舞台で、1970年 代はじめの安下宿という造り。1970年というと、わたしが受賞して作家生活に入った翌年であり、まだ会社勤めをしていた。安保闘争や破防法闘争の話題が 出ているのだから、舞台の上をはげしく右往左往する若者や学生達は、ちょうどわたしや観客の大勢と同世代ということになる。それだから妻は遠慮したが、わ たしは観に行った。どんなことをやるのだろう、と。
 楽しみはしたが、芝居そのものは平板な、求心力を持たない普通の「スケッチ」で、とびか う「闘争的な」セリフの数々も、ただ何となく懐かしやかな古物か骨董品のようであった。突き刺さる棘が抜けるか摩滅していた。だから、気軽に笑うこともで きた。笑っていていい話ではない現実が、この2001年にも現に渦巻いていて、1970年の頃の惑い多きエネルギーをすらいかに今喪失しきっているかの実 証を、客席の笑いが逆に「演じ」ていたようなものだ。
 舞台は求心力をもたぬゆえに訴求力も何ももてなかった。懐古的な微温の雰囲気を与えて、 懐かしのメロディを聴く按配に、老人達が照れくさげに笑って、何かをめいめいに思い出していたのである。だがそれで目的を遂げるという芝居の意図ではある まい。では、何が意図なのか、そこが出ていない、表現できない、即ちそれが「平板」とわたしの云う意味なのである。
 久しぶりに  たつの演技を観た。達者であった。片山万由美の母親役がいつもより若づく りなのも珍しく、そして美苗にも久しぶりに舞台で出逢った。劇団員はその三人で、他は総員準劇団員と研究生で、初舞台も多いようだった。演技をとやこう言 うほどのものではなく、人物の出し入れに工夫があって、飽かせたり間が抜けたりしなかったのが演出安井武の手柄であったろう。それより何より、開幕から暗 転を繋いでゆく音楽の選曲がじつによかった。とくに開幕前の「残したものは」「他には何も残さなかった」の歌声のしみじみと切なく美しいのには惹きつけら れた。あの功徳で、舞台が生きて観ていられた。

* 気分はよかったので、美しい人のいる店に寄り道し て、三種の鉢物で熱燗の酒と焼酎無一物をゆっくり堪能し、森瑤子の「情事」という第二回すばる賞作品を読み始めた。彼女のその授賞式にはわたしも出てい た。じかにお祝いを言うたかどうか記憶にないが、ちょうどわたしが「すばる」巻頭に長篇『墨牡丹』を出していた頃にあたっていた。そして今日観てきた芝居 のまさにその時期に当っていた。森瑤子は、早くあっけなく死んでしまった。「情事」は彼女のいわば文壇的処女作に当っている。のちのちの乱作ものより、か くべつよく練れていると思う。吹っ切れて書けている。
 しかし作品よりも、相客のいない静かな割烹の店で、黙然と酒を啜って放心できるのどかさ が、わたしにはさらに有り難い薬であった。くつろいだ。

* 帰宅後に、留守のうちに妻に手伝っておいてもらっ た岡本綺堂の戯曲原稿を、さらに丁寧に体裁に至るまですべて修正し、念校済み原稿に仕上げた。これで、結局わたしは、電子文藝館開館作品「25」編のうち 「21」編を手掛けたことになる。加えて物故会員名簿なども。新世紀の一仕事として「電子文藝館」企画と発足とは、我が年譜に遺せる記念の一大晩景となっ た。もうこの先は、わたしのものでなく、日本ペンクラブの財産である。どう育てて行くか、それも日本ペンクラブの見識と自覚による。できるかぎり、手伝い たい。
 明日は、開館直前の最終の打ち合わせ電メ研である。よく漕ぎ着けた、ここまで。協力して くれた電子メディア委員会の委員皆さんと事務局に感謝している。
 

* 十一月二十二日 木

* 夜中、闇の中で立ち上がり、方角をうしなって、あ わや障子の桟を蹴折ってしまいかねなかった。このようにして老齢者は家の中ででも怪我をしかねない。心得ごとだと身にしみた。

* 開館直前の「電子文藝館」最終状況を、梅原館長へ あらまし報告の手紙を送った。午後の電メ研、二十六日の理事会、その晩の「ペンの日」懇親会を通過した段階で、自然に、離陸「公開」段階に入る。今夜の遅 くにも、もう、URLの知れている人には、ウェヴサイトが一般に見られるようになっているかも知れない。すこしでも、滑走段階で手直しの出来るよう、委員 会としても正規の公開サイトで点検したいからの措置である。

* 午後、乃木坂へ、電メ研に。ATCの山石氏に加 わってもらい、「電子文藝館」の最終段階でのチェックや意見交換を重ね、むろん、ここ当分はいろいろな試行錯誤を重ねてより良い環境と発信のために手を尽 してゆくと確認の上、まずは、無事に今夜の遅くにも開館と公開に踏み切ると決めた。実験段階から準備段階を経て、いよいよ滑走を始める。苦労の割にいろい ろの不備が見つかったりするであろうが、それは、或る面からは当然のことで、誠実により良くしてゆきたい。
 日本ペンクラブ・ホームページの中に、「電子文藝館」と「広報」とが並立する。
 電子文藝館のサイトは以下の通り。 http: //www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/

* 島崎藤村以下歴代会長十三人のうち、正宗白鳥、志 賀直哉、芹澤光治良、中村光夫、井上靖、大岡信、そして梅原猛現会長(電子文藝館長)八人の作品も揃い、さらに与謝野晶子、土井晩翠、徳田秋聲、白柳秀 湖、岡本綺堂、上司小剣、横光利一、岡本かの子、林芙美子、三木清らの秀作が揃い、現理事からは阿刀田高、神坂次郎、そして私の三人が出稿している。現会 員からも、小説、詩、短歌、評論、意見などの各種の出稿があった。どれも甲乙無く、均等の扱いで見て行くことが出来る。大勢の訪れて満足できる読書館ほラ イブラリーに育てて行きたい。今暫くは、僅かながら化け文字が出たり、誤記が見つかったりするかも知れないが、おいおいにそれらも克服して進みたいので温 かく見守って欲しい。

* 暫くぶりに病気癒えて中川五郎委員が、元気な顔つ きで以前と変わりなく出席してくださり、ほっとした。

* なにとはなく、一人になったので、千代田線で日比 谷に、そしてクラブに入り、オマール海老と海草とのサラダ、サイコロ・ステーキで、ブランデーとウイスキーをそれぞれ二杯ずつ、例のストレートで楽しみ、 久間十義氏にもらった小説を読みふけってから、丸の内線、池袋経由で帰宅した。なにはともあれ、一段落が付き、あとは二十六日の創立記念日を穏便に只通過 して行くだけ。それで自然に「日本ペンクラブ・電子文藝館」は「開館」となる。ひとまず電子メディア委員会とわたしとの開館責任は果して、それから先は 「日本ペンクラブ」自体の責任で事が運ばれるのである。

* それにしても創立記念の「ペンの日」を即ち「福引 きの日」かのように心得ている事業感覚はなにとも情けなく、甚だ先が心許ない。
 そういうマンネリの「俗化」現象も、何から生まれるかというと、「理事の固定化、担当委 員長の固定化」から生じるのである。委員長が適切に交代して行くことで、活動にも飛躍が生まれる。好例が猪瀬直樹委員長の言論表現委員会であろう、めざま しくこの数年「ペン」らしい仕事をし続けてきたのも、彼の、彼なりに溌剌とした前向きのセンスから出ている。チョコマカと理事がさながら「宴会幹事屋」に なり、福引きの景品集めに奔走して「ペンの日」事足れりという顔つきは、どこか間違っている。本当なら、「創立記念日」らしく、「P.E.N.」活動に則 したイベントを計画し、藤村・白鳥・直哉・康成らの昔からを思い起こし、心新たにペン憲章に思い至る「お祭り」にしてこそ、本来の「事業」ではないか。こ こ何年も何年ものばかばかしい「ペンの日=福引きの日」に、わたしは、とうからウンザリしている。 
 

* 十一月二十三日 金 勤労感謝の日

* 「冬祭り」である。よく晴れている。いま、  http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/ を開いてみた。わたしの機械では即座に表紙画面が現われた。こまかな点 検はしていないが、昨日のうちか、今暁にか、「日本ペンクラブ・電子文藝館」は開館・公開段階に入った。すでに電子メディア委員会のメーリングリストに業 者も加えて、細かな連絡等も手早く行えるように配慮した。

* 平成十三年十一月二十三日、創立六十六年「ペンの 日」に先立ちまして、 記念の「日本ペンクラブ・電子文藝館」が開館・公開の段階に入りました。
 どうぞ、御覧ください。 http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/
 まだまだ機械上での十分な安定に至りませんが、よく手を掛け改良して参ります。お気づき の点などご指摘・ご示教下さい。
 開館時には、初代島崎藤村より、正宗白鳥、志賀直哉、芹澤光治良、中村光夫、井上靖、大 岡信、そして現梅原猛(電子文藝館館長)まで、歴代会長十三人のうち八名八作、また物故会員では、与謝野晶子、徳田秋聲、横光利一、白柳秀湖、岡本綺堂、 岡本かの子、林芙美子、上司小剣、三木清、吉川英治らの優れた作品を揃えました。現会員を含めて、三十点ちかい作品をすでに展示しています。
 この電子文藝館は「無料公開」です。半永久的に、Digital Libraryとして、過去から未来へ、日本ペンクラブに所属した全会員の文藝・文章を少なくも一作・一点ずつ展示してゆくことで、Japan P.E.N.の存在理由を示して行きたいと企画し実現の緒についたところです。物故会員、約千人、現会員は二千人に成ろうとしています。小説、児童文学、 戯曲・シナリオ、詩歌、評論・論考、随筆、翻訳、外国語、オピニオン等を網羅します。
 どうか、より広く読者の得られますように、ご吹聴・ご支持下さい。
        日本ペンクラブ 電子メディア委員会 (文責・秦)

* 続々と反響が入り始めている。いろんな注文が届く ことを願っている。「鱧の皮」など、ややこしい操作を加えて出稿されたのがうまく行かず、明らかに不具合で変な本文が出来てしまっている例も指摘できる。 そういうことを予期して、「ペンの日」より数日早い見切り発信を指示したのである。字の大きさにも早速注文がついている。大きいか小さいか、機械の操作で も按配できるので、発信時の大きさがどうであるか一概に言いにくい。
 

* 十一月二十三日 つづき

* 電子文藝館開館、心よりお慶び申し上げます。お知 らせを戴き、早速、島崎藤村の『嵐』をコピーしてみました。ご苦労を拝察し、本当にありがたい事と感謝しております。タイヘンダッタロウナアなんて、待っ てただけのくせに先ずはほっとして、嬉しいかぎりです。
 「親指のマリア」上中下(のスキャン原稿) 送ります。
  「勘解由。身をいたわり、相変りなく勤めてくれよ」と家継に言われた時には・・涙が出ました。
  ひとのことは言えませんが、転倒は骨折につながり困ります。くれぐれもお気をつけください。

* 祝メールを沢山もらった。みんなからみんなへ吹聴 してもらえればうれしい。みんなのものとして愛用される電子文藝館でありたい。だが、たいへんな作業がまだまだ続く。今夜も気がかりだった「鱧の皮」を結 局またもとのわたしの作っておいた原稿に差し替えようと、念校作業を繰り返した。

* 昨日の文字コード委員会には代理で加藤委員に出て もらった。機械にない漢字の、入れて欲しい漢字の事例を提出してくれないではないかとかとうしは叱られたらしい。気の毒した。委員会に久々にメールを入れ た。

* 春以来、「日本ペンクラブ電子文藝館」の開館作業 で、とてつもなく追われ、文字コード委員会の方、手が回らず失礼しておりました。幸い、私より文字コード問題にくわしい加藤弘一氏に代理に出てもらえ、適 材と胸を撫でています。
 文字の提出が無いとお叱りがあったと聞きました。無いから出さないのでなく、有る(と思 う)のに出せなかった、という言訳。「メールで手早く送れない」のですね、当然ですね。すると、一字ずつ手で書き抜いて整理しなくては。その時間的な余裕 がとてもとれなかったという実状です。
 この宿題もあるので、意図して「椿説弓張月」「南総里見八犬伝」「近世説美少年録」等で 著名な「滝沢馬琴の作品」を読み進んできましたが、精査したわけでなく、すでに拾われているかいないのか分かりませんが、夥しく、ややこしい、まれに見る 文字が拾えます。馬琴は、おそろしく漢字の駆使できる、ま、偉大な作者の一人ですから、作品も、国民の大きな財産です。
 しかし、仮に馬琴作を、開館したばかりの我が「日本ペンクラブ・電子文藝館」で再現しよ うとすれば、全然お話にならない、文字が再現できず不可能だ、というのは動かぬ現状です。たとえ特殊な手をいろいろ繰り出して無理に手元で再現してみて も、送信した先で「化けてしまう」ことは、ほぼ必定ですし、図像貼りつけという手が、不特定多数対象の「Digital Library」では、見苦しく読みにくい、へんな結果に成ることの多いのも、いやほど分かってきています。
 いくら起稿者の手元では出来たにしても意味がない、送信した先の機械で化けないことが必 要なのだと、それが双方向インフラである意義だと、口を酢くして言い続けたことを、今なお確認し続けて「文化的に」苦労しています。
 オドリや音曲記号のまだ自在に使えないことにも、ほとほと閉口しました。
 ともあれ、例になる漢字を拾っておいても、これがメールでは送れない、つまり、これ、で すね問題は。一つ一つ書き出している余裕がなかったと、言訳を兼ねてご無沙汰をお詫びします。 日本ペンクラブ 秦 恒平

* もっと難儀な、判断の容易でない、しかし気分の重 い別問題が起ころうとしている。あのテロ実行犯がニューヨーク公共図書館で利用者に開放しているパソコンを使ってメールの交換などを行っていることがわか り、図書館に対していろいろな圧力がかかってくることが、危惧されている。ああいうテロは「自由」そのものの基盤を揺るがしてしまうと関係者はとばっちり を憂慮している。
 公明党はひところ口を開くと文化政策と唱えていた。なにをやってくれるかとお題目に終ら ぬことを期待していたが、ここのところ、東京都の文化政策で渦の巻きそうな形勢である。ここへ来て、にわかに都立図書館が「局」から「部」へ格下げにな り、14万冊あまりの本が処分される話や、江東区立図書館の窓口サービスを派遣会社に委託するという計画など、大変な話が続出し、これまた関係者はきりき り舞いを強いられているらしい。つまり都の文化政策の結果として、図書館全体がリストラの嵐に巻き込まれているという。
 そんな際の日本ペンクラブは「電子文藝館」開館で、すばらしい試みだと言ってくれる人が 多いとはいえ、実は、文藝関係者の思いの底では、複雑なもののあるのをわたしは感じている。
 ところで駒場にある都立の近代文学館がなくなるという話まで出て来そうな形勢だととい う、都の政策として。組織が変わるという話なのか、閉館してしまうのか確かめる必要はあるものの、文化関係のものが、非常に石原都政の中で軽視されてしま い、「恐ろしい時代になったと思っています」と訴えてくる声をわたしは聴いている。「知事自身が作家なのに、どうしてなのか、と大変不思議です」と言うの である。これは、確かめねばならない情報である。

* 闇に言い置きたい問題はまだ幾つもある。ここしば らく、そういう方で時間が取れなかった。まだ取れない、十分は。三連休の初日ももう午前二時になっている。時間が足りない、疲れても来た。
 

十一月二十四日 土

* 電子文藝館開館おめでとうございます!
 そして、こういう素晴らしいものを実現してくださったことに心から感謝しております。
 日本語の読めるありがたさを、とくに海外に住んでから痛切に感じています。今は、仕事場 上、日本語の本に触れる機会も多いのですが、1年前までは、運良くて年に数冊、多少興味がなくとも友人の間で後生大事にまわし読みをするのがせいぜいでし た。
 日本人は文字を読まないと落ち着かない、という話を聞いたことがあります。真偽は別にし ても、時々「そうかもしれぬ」と感じることがあります。
 日本語の本に渇望していたあの頃、日本の文学をインターネット上で読めないか、探したこ とがありました。英語でもドイツ語でもフランス語でも、一昔前の名作が自由に読めるからです。探し方のせいもあるでしょうが、満足な結果を得ることができ ずがっかりしたことを覚えています。
 それでも、秦さんのホームページが、私に日本語を読む機会を与え続け、同時にあれ以来、 日本の文学がインターネット上で読めたら、と願い続けてきました。
 だれがそこまで労力をかけて、と思う傍ら、いつか読める時が来る、と確信していました が、それが、すでに私の日本語の供給源である秦さんによって叶えられるとは!
 長い冬の夜が楽しくなりそうです。

* はるか海外からの声も届いてきた。それにつけて も、少しでもより良いものにしたいと思う。晴天。心持ち暖かい。小春日和か。
 

* 十一月二十五日 日

* 抵抗勢力=橋本派を主軸とした族議員の猛反対に遭 い、構造改革の難点であった、幾つかの懸案が、手品をみせられたように、シャンシャンと、密室の談合で片づいていった。またしても五人組の密室談合であ る。おかしい。人を思いきりバカにした自民党旧来の陋習がまたしても土壇場で出てきた。何が何やら分からない。小泉も抵抗勢力も頭の構造はおなじで何一つ 改造されていない、頭で違うのは、なかみでなくヘヤスタイルだけだと外国の新聞にまで嗤われている。この手で、基本的人権を縮小して、国民を、政権と官僚 とが締めに締め付ける法律が成立し続ける。

* われわれの言論表現委員会ないしペンクラブ理事会 は、数え切れないほどの「声明」を発して、政権与党の繰り出す多くの法律に反対し続けてきた。それはよい。さて、われわれと同じくそれらに概ね常に反対し てきたのは、むろん自民党でなく、公明・保守でもなく、多くの場合民主党でもない。反対することの多いのは社民党と共産党にほぼ限られている。反対の姿勢 からだけ見れば、日本ペンクラブの政治的な姿勢は、意見は、いつもいつも社民党や共産党のそれに接近している。同じだとすら謂える。
 それにもかかわらず、言論表現委員会を率いる猪瀬委員長は、大の社民党嫌いなのであり、 どうやら梅原会長もそのようである。どちらかといえば自民党寄りにポジションをいつも持っている。
 これは、何とも奇妙な現象ではないか。

* 吉川英治作品をスキャンし、吉川英治記念館に校正 を依頼した。蒲原有明が早い時期のペンの会員であった。有明集巻頭の「智慧の相者は我を見て」のような詩を、おどろきとともに昔に朗唱したことがある。土 井晩翠の「荒城の月」とまつわる回想の一文をもらったように、「『有明集』の前後」を添えてこの詩を入れたい。

* 昨日、テレビでスティーブン・セガールとケリー・ ルブロックの映画「ハード・トゥ・キル」を見た。その少し前だったがクリント・イーストウッドの「目撃」も見た。もう何度も見てきたものだが、見飽きしな い。セガールとルブリックとが実の夫婦であったときに撮っているこの映画は、何とも言えず面白い。筋もセリフもみなすみずみまで覚えているほどだが、運び に緩みがない。二流の娯楽ものだと思っているが、それなりに面白い娯楽ものを幾つも覚えていると、ビデオで再見の出番がある。
 眠れないときに、外国の男優や女優のフルネームを数え上げてゆく。男優が百人をこえると きがあり、女優が七十人をこえることもある。競演した男女優をあげていく複式では、なかなか五十は行かない。途中で寝入ってしまう。

* なんとか言いながら「狭衣物語」を読み継いでい る。すばらしい男であるように書いてあるが、妙な男である。優雅の極みの変物である。子どもを産ませた女が二人いて、一人には徹底して嫌われ、一人には死 なれている。死んだ女に産ませた子を、たまたま引き取って育てていた最高貴の女にうかと近づいて、結婚してしまうハメになりながら、これまた徹底して嫌わ れている。それでいて、宮廷社会に褒めないもののいない奇蹟のような男なのだから、こんな奇妙な作り物語もないと思いつつ、この物語、文章がじつにこなれ て美しいから、こまってしまう。結局読まずに寝てしまうことが、ここずっと一晩もない。

* バグワンの「一休」上下巻を読み終えた。また「存 在の詩」か「老子 道」かを読み始めようと思う。
 

* 十一月二十六日 月 ペンの日 電子文藝館開館

* ご尽力ご支援戴いたみなさんに心より感謝する。蒲 原有明の「智慧の相者は我を見て」および「『有明集』の前後」を「詩」の頁のために用意した。著作権者の許諾を得て掲載の運びとしたい。

* 勝田貞夫さんのご好意で次々に仕上がってゆく「湖 の本」のスキャン原稿を未校正のままだが、ホームページ「電子版・湖の本、湖の本エッセイ」として掲載して行っている。これらの校正はたいへんな作業にな るが、少しずつ手を着けてゆく。エッセイの方は、頁が足りなくなっている。転送のための増頁作業もまた必要に成ってきた。

* 午後は理事会、夕景より「ペンの日」福引き懇親会 である。どこかで静かに盃を挙げてきたい。
 

* 十一月二十六日 つづき

* 理事会前に帝劇モールの「きく川」で、大串と菊正 で一餐。昼過ぎで、個室に他の客はなし。いい気分で、「ひとこふはかなしきものをならやまに」などと浅酌微吟。テーブルを指で叩いて拍子を取りながら、 ゆっくり歌っていた。

* 理事会に梅原さんが欠席、体調を崩されていると。 いたく心配。梅原さんがいないと理事会の重量が半分方減ってしまう。あの人はそれだけ陽性のよろしさを備えていて、梅原さんに欠席されると、とたんにみん なが小粒になって仕舞う。これは先行きが心配な話である。

* ペンクラブの新館建設地に、地下埋蔵残骸がみつか り撤去に三百万円ほどもかかるという。ビルの跡地を買いながら、その辺のチェックを怠っていたとは、さすがに文士の商法と言わねばならない。もともと見積 もり予算のぎりぎり一杯の資金でビルを建設するなど無謀な話なのである。予算の1.5五倍の資金を持っていて、なんとか間に合うかというのが通常のこと で、資金難に陥るのははなから分かっている。その上に地下埋蔵物が出てきて、もはや尻の持ち込みようもないとは。
 で、新館建設の寄付集めになるわけだが、本来無用の費用に充てられてしまう寄付というの も、つらいものではないか。はっきり言えば、これは不始末に近く、情報公開して責任を取った方がいい。
 わたしは、だいたい、「立って歩ける大人たちの団体」に対する寄付行為は、「思想とし て」しないことにしている。日本ペンクラブにも文藝家協会にも、規定の会費以外に寄付などしたことがない。会費の範囲でできることをやればよく、それでも 足りないのなら妥当に一律に会費を上げればよいと考えている。それよりも寄付の本当に必要な団体や個人が世の中には一杯いる。そういった方へは寄付も支援 もする。よくある維持会費などという便法にも賛成でないので一切応じない。よけいなことに金が足りないのなら、よけいなことをやめればよい。たいていろく なことはしていない。必要なら合法的に会費を値上げすれば宜しい。

* 嘘いつわりなく、わたしは、今、月に十万円ほどし か稼いでいない、平均して。もう稼ぐのが邪魔くさいので、蓄えをゆっくり食いつぶしてゆく生活に、意識して、入っている。そのわりに贅沢ではないかと言わ れれば、それだけ過去に頑張って置いたのだからと言えるのである。で、そういう暮らしを好きにしているときに、月収の半分も寄付せよなどといわれてもまっ ぴら御免蒙るとしか言えない。そんなお金は、例えば、維持の厳しい「湖の本」を一冊でも多く長く出す方へ使いたい。
 それとてアフガニスタンでの医療活動とかアムネスティーとか、そういう方には寄付も惜し まない。「立って歩ける普通の大人達の団体」に寄付する意味は乏しいと考えている。そのかわり、自分に課された仕事はしっかり努める。手抜きはしないし積 極的に身銭を叩いてもやっている。わたしは理事会に欠席したことも委員会に欠席したこともない。自ら企画して仕事をすることに骨惜しみはしない、が、無用 な寄付行為はしない。

* 「電子文藝館」の開館報告をした。六十六年前の今 日、島崎藤村を会長に戴いて日本ペンクラブは発足した。六十六年後の今日、その島崎藤村の「嵐」が、電子化されて世界に発信されている。正宗白鳥も志賀直 哉も徳田秋聲も横光利一も、与謝野晶子も土井晩翠も三木清も発信されている。そういう時代を「電子文藝館」は体現している。そういう過去の偉人達の作品に 混じり、おなじ場におなじ形でわたしの「清経入水」も掲載されている。太い伝統に一つに乗り合えているうれしさにわたしは率直に感激している。
 現実に開館され作品が公開されてみると、もう、疎々しかった人達の反応がまるでちがう。 もう矢は弓をはなれて天空にとびたち、この事業は続いてゆくしかない。お祭り騒ぎの福引は、来年には或いは無くなることがあっても、「電子文藝館」はむし ろ一年ごとに日本ペンクラブの誇りにもなり文化財になって行く。

* 大勢に原稿を依頼し、何人もの人から取捨選択を委 託もされてきた。加賀乙彦氏はわたしの奨める「フランドルの冬」第一部の出稿に納得した。新井満氏も辻井喬氏も倉林羊村氏も、原稿を送ります選びますと約 束してくれた。長谷川泉氏や伊藤桂一氏は原稿選びもわたしに任せると言ってくださった。原稿を送らせて下さいと何人もから声がかかったし、事務局にもう何 人もの起稿が届いている。なんとか、わたしの元気なうちに堅実に前へ進めたい。

* 大勢の人とふれ合った。なかには、むかし、妻が見 合いしたと聞いている人もいた。向こうはそんなことは知らない。知らぬ顔をして共通の話題の谷崎潤一郎や松子夫人の思い出話を楽しんだ。

* さいごには、いろいろ苦労を分かち合った電メ研の 村山副委員長、高橋編集主任とで、乾杯し歓談し、ゆっくりした一時を分かち合ってきた。

* ぬくぬくと暖かい日が続いていたせいか、私のお気 に入りの山もみじと欅の盆栽が、少しも色づいてはくれなくてがっかりしています。十一月というのは、私立や国立小学校のお受験シーズンであることを先生は ご存じでしょうか。私がよく利用する都バスは沿線に私立の有名小学校や幼稚園が多くございます。
 先週のことでしたか、私がそのバスに乗っていますと、幼稚園に向かうらしい母親と女の子 が二組乗り込んできました。その制服を見れば、ある私立初等科のお受験で有名なミッション系の幼稚園であることがわかります。
 バスに乗り込むと、一人の女の子があたり憚らぬ生き生きした声で、連れの少し背の高いほ うの女の子に訊ねました。
「カナちゃんは小学校どこか通った?」
 そう質問された、賢そうなようすの背の高い女の子は、
「それが、じつは通らなかったのよ」と、口調だけはすっかり大人のように答えました。声が 元気いっぱいで、バス中の乗客に聞こえるでしょうに、まったく気にしていません。
 そこで質問した女の子の母親がすかさず、
「まあ、ナツコのいじわる。あなただって受けたところ全部通らなかったじゃないの」
 と、自分の娘をたしなめました。母親に叱られた女の子は、きょとんとして母親の顔を見上 げましたが、自分が禁忌事項に触れたとは夢にも思っていないようです。
 横でこのやりとりをみていた私は、笑いをかみ殺すのにとても苦労しました。二人の女の子 たちのあっさり不合格を受け入れているさまがおかしくてたまりません。あどけなさをたっぷり残しながらも、六歳の童女なりの分別があります。
「お母さまはがっかりかもしれないけれど、わたしそんなこと知ったこっちゃないわ」とでも いう雰囲気でした。
 しばらくして女の子たちは母親に手をひかれてバスを降りていきましたが、私は久しぶりに 心から笑ってしまいました。この少女たちがあと十何年後に大学受験を経験しても、「入試なんてなんじゃい」というこの心意気を忘れないでいてほしいものだ と思います。公立の小学校では学級崩壊だのイジメだのと空恐ろしい問題ばかりですが、この愛らしくて、ちょっとしたたかな女の子たちなら柳に風と受け流し てしまうでしょう。
 どうか二人とも元気な小学生になってねと、陰ながら応援せずにはいられませんでした。将 来に明るい展望を抱けなくなるニュースばかりの昨今ですが、二人の女の子はその日一日、私をとても幸福な気持にしてくれました。
 先生が開館にご尽力なさいました電子文藝館は、あのかわいい女の子たちのような、未来の 子供たちのものでもあります。学校の宿題の提出でさえ電子メールを使う時代ですから、電子文藝館という新しい読書スタイルの登場は必然のことでございま しょう。今までこのような「場」が与えられていなかったことが不思議なくらいです。
 また電子文藝館は、過去の名作が手に入りにくい現状を打開する意味でも、文藝の愛好者に とりまして大きな福音となります。電子文藝館が今後益々発展していかれることを信じて疑いません。作家活動のうえに、時代の先鞭をつけた画期的なお仕事ま でなさいます先生のスーパーマンぶりに、ただただご尊敬の気持を深くするばかりでございます。
 お仕事が一区切りつかれましたら、お好きなかたとおいしいものでも召し上がって、お疲れ をおとりになるのでしょうか。どうぞお大切にお過ごしくださいませ。
 このたびは電子文藝館の開館、心よりお慶び申し上げます。早速訪問してみたいと思いま す。

* 少し褒めすぎであるが、励ましてもらったと思い感 謝する。では、また次へさらりと歩を転じたい。
 

* 十一月二十七日 火

* 日本ペンクラブ・電子文藝館の開館、おめでとうご ざいます!!
 時代に向き合う日本の文藝家の方々の意気込みが感じられ(実際には、秦さんがおられては じめて開設が実現できた、というのが実情でしょうが)、世界に向かってその姿勢をアピールできる試みだと思います。もとより、日本ペンクラブのPRのため ではなく、すべての人類の未来に向けて託された文藝の保存と開放、「持ち寄りと分け合い」への営みとして。(これは図書館の思想と同一です。)21世紀は じめの年にこの壮大な試みがスタートしたことに対し、心からお祝いを申し上げます。 西尾  肇

* 鳥取から祝って戴いた。図問研で活躍されている方 で、ながく湖の本も支えてくださっている。

* 西尾さん、お言葉に感激しています。スタートした までで、今後がだいじですが、今後もこれを気永に維持してゆく「気」のある理事や会員がいてくれないと、心配です。そのためにも、この一年半ほどの任期内 にせめて百人の作品は公開してゆきたいと願っています。
 都の文学館廃館の噂や、現代の焚書にあたる多数書籍の廃棄や都立の図書館廃館ないし統合 や降格の政策など漏れ聞いて、心寒く。昨日の理事会でも話し合いました。さすがに関心を寄せられました、おおぜいの出席者からも。
 図書館と著作者との協和協力のいきなりの議題が(一つ覚えのように)「公貸権」一本槍に なるのでなく、行く先はそこへと切望していますが、それも世界的実状を良く調べおく一方で、やはり「本」とは何なのかという基本の本質に足をのせた話し合 いが必要なのだろうとわたしは感じています。
 文藝館も、digital library 広い意味で図書館の形式をわたしは発想しました。しかも無料公開なのです。そこにわたしの「文化人」としての思いがあります。師走、お大切に。  秦恒平

* このところの奮闘さなかに、一方では、国内を小旅 行している人たちから幾つも幾度もメールをもらっている。羨ましい。ほんとうは、今日は京都で鼎談というはなしもあったが、昨日の今朝早くに新幹線はきつ いので、師走の十日過ぎに日をかえてもらった。

* 在住のイタリアから帰国の娘さんと京都へ行ってい た人は、京料理の「千花」へ行ったり、永観堂の「見返り阿弥陀」に逢ってきたり、「何必館」で華岳、山口薫、魯山人に感動してきたり、ま、これだけでもと ても佳い京都だと思う。むろん少なからず示唆したわたしの好みが濃いが、まちがいはないと思う。もっとも「千花」でお酒抜きはお互いに気の毒ともいえる し、永観堂では、阿弥陀様だけでなく、そこへ辿り着くまでの柱細く華奢にしかも奥深く造られた、みやびな建築の陰翳にも、無意識にもさぞ心惹かれていただ ろうと思いたい。「何必館」主人の梶川芳友は元気であろうか。

* 名張の囀雀さんも、さかんに大和や近江や尾張や大 阪へ出歩いている。じつに佳い場所に居を据えているものだと羨ましい。ご主人と、思い思いに別の方角へ出掛けて行きながら、ぐるっとまわりまわってどこか で出逢い、いっしょに帰宅するような風流な風情を共演しているようすも、なかなか佳い。
 テロの騒ぎで海外旅行の落ち込んでいる今どき、身近な日本の秋を満喫して楽しんでいる人 はどうやら少なくないようだ。

* 日の光がまぶしく部屋に入り込み、いい気持ちで す。
 談山神社へ行き二上山を見て以来、ボーと昔を、ルーツを想っています。
 ちょうど飛鳥と山を挟んで反対の河内(今の羽曳野市)で育った母や大伯母の口から、ニ ジョウサンの名をよく聴きました。ニジョウサンを人の名と永らく思っていたお笑いもありますが。
 此処での一学期間の疎開は、まだ二年生、祖母と二人きりで寂しく、学校の記憶が何も残っ ていません。
 駅で貰ってきた近鉄の地図を見ていると、覚えている懐かしい駅名が幾つかあり、今になっ てその地理関係が分かり、そうなんだと肯いています。
 古市、道明寺、富田林、白鳥(日本武尊の白鳥陵があり、白鳥になり、羽を曳くように留 まったという伝説から、羽曳野の市名が生まれたとあります)等々、墳墓の多い処です。当時はアベノや、京都へはどうして行けるのかしらと思っていました。
 地図に誉田八幡宮があり、母の生家は逼塞してからお宮さんの前に移ったとか、あそこでよ く遊んだなあとか、街なかからは珍しく思えた野菜やぶどう畑を歩き、応神天皇陵の汚れたお堀の横を通ってお墓参りに行った記憶も微かにあります。
 祖母からは、中将姫のお話や、同年輩で女学校の頃にはもう名前の知られていた与謝野晶子 の噂話、坊城さんへ行儀見習で住み込み、お手水の時には袂を持ってかしづいた話など、今になればもっと聴いておけばと悔やまれます。
 八幡様を訪れたい願望は、多分夢で終わると思っています。

* 日本ペンクラブの図書室ご案内どうもありがとうご ざいました。過去の素晴らしい作品がインターネットで読めるのは便利だと思いました。また、インターネット上で公開すればいろいろな人に関心を持ってもら えると思います。ただページをめくるような訳にはいかないので、ワープロソフトにコピーをして読むと、読みやすくて良いと思いました。
 先日は本当にありがとうございました。先生の前で演奏するのは数えてみましたところ、先 生の退官の年以来ですので6年ぶりです。昔に比べるとだいぶ整った、聞きやすい演奏をするようになったと思っていますが、どうでしたでしょうか。また今回 は多彩なプログラムでしたので、楽しんで頂けたと思っております。遠いところですが、また是非入らして頂きたいと思います。
 週末は奈良の当尾の里へ行ってきました。浄瑠璃寺と岩船寺へ行きましたが、特に岩船寺は 静かで良い雰囲気のところですね。行きがけに月ヶ瀬を抜けて行ったのですが、ここは梅だけでなく紅葉もきれいな場所だということが分かりました。写真を添 付しますのでよろしければご覧下さい。
 寒い日が続きますが、どうぞお体には気をつけてください。またお会いできるのを楽しみに しております。

* 当尾はわたしの実の父の里で、わたしは、生まれ落 ちると暫く当尾で育ちました。吉岡家は当尾村の大庄屋で、浄瑠璃寺や岩船寺は村の中にあります。明治の廃仏毀釈の騒ぎの時、寺の仏像の金箔を剥がしに盗賊 が襲ってくるのを、わたしの曾祖父や祖父達が身をもって守ったと聞いています。また当尾にはたぶん柿がたくさん色づいていたと思いますが、柿を地場産業と して村に持ち込んだのも祖父達であったと聞いています。あなたは、そういうところを訪れてきてくれたわけで、何となく、感謝しています。元気で。湖の本 も、頁をめくって、ときどきは読書にも身を入れてください。
 岩船寺の写真、あなたが何処に立ってシャッターを押したか、よく分かります。懐かしく、 有り難く。感謝。

* ま、こういうメールを読みながら、よぎなく、わた しも想像の旅をしている。
 言うまでもないが、自分の内側に無量の過去世と人物達が同居している。架空の世間や人物 もそこでは区別無く同居している。時間は直線の延長でなく、球体にとり包まれて渾然融和しているというわたしの時間感覚からすれば、そうしたものたちと 「同時代の共存」にちかく感じ取れている。今の気持で言えば狭衣大将も倭建命も福沢諭吉も中村光夫も同じようにわたししの内側で語り合いながら生きてあ る。むろん、羽曳野も京都も湖北も比良も鈴鹿も、かと思えば釧路もノサップも、グルジアも、紹興も、みなそのように同居してある。昔とか遠方とか言うもの が、今や此処にかなり包摂されている。それがあるから、日々の少々の動揺や混乱や違和でキレるようなことは無くて済むのだ。ナンジャイと片づけてしまうの である。

* 歴史や歴史上の人物、亡くなった人達と、つき合い があまりに少なく、むしろ断ち切られ裁ち落とされているのが、若い人達の、いや多くの人達の日々であるように、昔から感じてきた。あんなことでは索漠とし ないかしらん、ようやれるものだと、不思議ですらあった。
 明治以降の作家や詩人達の多くが、その歩みのあとが、同じ道に歩んでいる人達からも当然 のように多く裁ち落とされ忘れられている。それで構わない、自由な処世である。そのかわり、そういう生き方では批評のものさしもひどく貧相にしかもてない だろうなと思う。事実、そうなので、手近なお互いの理解だけでかるく一丁アガリに決めている。自己批評の厚みが段々薄くなり干上がってくるのは、当然だろ う。時間をただ直線のようにしかみていないのだから、まさに過去は過ぎ去ったものでしかない。過去や過去の人・業績をも、同時代、同時代人のように親しめ る力が、時間観が、無いからだろう。「文藝館」の発想には、一つの球空間のなかで平等に明治から平成までの作者達に、作品を手にして同居してもらおうとい う意図もわたしは持っていた。昨日の宴会で、二人の小説家から、自作と物故作者の作品群とのある「落差」「異質」を告白されたとき、ああ、これでいいの だ、こういう意識が広く生まれてくるのが大事で貴重なことだと思った。
 

* 十一月二十七日 つづき

* 湖の本の再校が出揃ったので、頁の調整をつけ、建 頁と追加原稿一本を送った。また遅れたと謂うより忘れていた「月刊ずいひつ」新年号の原稿を書いて、ファックスで。承諾の返事すら出し忘れていた。伊藤桂 一さんといっしょに、もう十何年も、新年と六七月とに一本ずつ書いてきた雑誌だ。

* 建日子が来て、置いてある車に乗って帰っていっ た。だれだか若いというより幼いタレントのCDを演出して造ったらしい、ちらと見たが、三十分ぜんぶは見なかった。はみだしデカの柴田恭兵の新しい娘役だ とかで。

* 今日ばかりは少しくつろいだが、もうそんなことは 言っていられない。十二月の京都鼎談は主題が「日本画」である。芸大の榊原教授と研究員の大須賀氏の司会を務める。容易ではない奥のある話題なので、わた しは話を引き出す方へ方へだけ気を配り、あまり自分の考えを、余分に口出ししないようにしたい。

* 苦手なスキャン仕事が溜まっているし、新たな依頼 状も出したい。師走は電メ研も休むことにしたし、すこしラクをしたいのだが、ただ走るどころか疾走しながら越年してしまいそう。病院の診察が眼と糖尿と二 つあり、京都行きがあり、湖の本の発送用意と発送があり、誕生日などもある。理事会ももう一度年内にある。義理を欠いている約束半分の約束も幾つもある。 年賀状は湖の本の「あとがき」で兼ねさせてもらう。
 

* 十一月二十八日 水

* 吉川英治の「べんがら炬燵」、わたしがスキャン し、妻が校正したのを、もう一度わたしが丁寧に念校し、形を整えてから、ATCに送った。一太郎で原稿をつくり、しかしメールで送ると、しておいた指定が 向こうでみな消えてしまうようだ、準備サイトに掲載されたものを見てみると、改行箇所や、中見出しの指定がとんでしまい本文に埋もれている。それをメール で指摘して直してもらうのだが、まだるっこしい。意思疏通も微妙に齟齬しかねない。こんなことは、わたしの「e-文庫・湖」なら、ぜんぶ自分で簡単に直せ るし、転送も何でもない。転送ソフトさえ手元にあり設定できれば、痒いところまで手が届かせられる。
 ひとの原稿ばかり見ていて、自分の作品をやっと見られたのが今日だが、送った念校済み原 稿と微妙にちがい、十箇所ちかく、不要な行アキがあったり、必要なアキが無かったりしている。それを直してくださいとATCに伝える伝え方が、ややこしく て、とてもとても煩瑣。一字二字の直しを告げる場合、向こうで長大作品のどこからそれをうまく見つけだして直せるか、心許ない。これは、今後よほど工夫し ないと、完全原稿で渡してもなおこういう齟齬を生じてくる。思わず長嘆息。

* 湖の本の再校と、挨拶書きという体力と集中力を要 する作業も急がねばならない。目の前が眩んでくるほど、難儀づくめで神経もギトギトしている。

* 細川藩あずけになった大石内蔵助以下十数人の死罪 切腹の日までを書いた吉川作品を逐一校正して、不覚にも二度ほどぐっと胸に来た。信じられぬほど、記号的なほど簡潔な文章の、文節ごとに句点がふってあ り、改行は無数に多く、したがって読みやすいといえばこれぐらい読みやすい読み物はない。大衆文学の一つのコツのようなものが見えてきた。従おうとはユメ 思わないけれど。これはこれで、したたかにさすが文豪の筆であった。師走の討ち入りまでに掲載は十分間に合う。折りに叶い、なによりであった。

* 伊藤桂一、長谷川泉氏は、わたしにすべて任せる と。加賀乙彦氏には「フランドルの冬」冒頭を、わたしが奨め、本人も進んで承諾。井上ひさし氏、猪瀬直樹氏につづき、新井満、中西進、倉林羊村、眉村卓、 辻井喬各理事諸氏が出稿を承諾し、尾崎秀樹分は清原康正氏に委託した。久間十義氏の原稿はもらってある。太田洋子、大原富枝、耕治人、木山捷平、開高健、 片岡鉄平らの作品も遺族に依頼すべく作品を選ばねばならない。高橋茅香子編集委員は、自身で手の届く現会員に依頼をはじめている。と、なると、こういうの が、大方わたしの肩に被ってくる、わけか。ウーン。医学書院の激甚編集時代に戻ってゆくわけか、また。妙なことになったが、乱れそめにし「誰」ならなくに であり、ことは「文学」である。楽しもうと思う。それに何も慌てたり急ぐことはないのだ。

* 経済人や理系人や事務人なら何でもなく見逃してし まう、飲み込んでしまう、が、文芸の表現ではどうしてもそこは許せないと言うこまかなところに、表現上の意図や工夫や苦心があるのを、機械のセイというこ とでガマンしていては、パソコンという機械が不具な道具のままになってしまう。いまや、経済人や理系人や事務人の道具をちょいと拝借しているわけではない のだ、文学人間も人文人間も自身の大事な道具にしているし、そういう人たちも顧客にして機械屋は商売をしているのだから、こまかなことまで可能なように行 き届かせて欲しい。

* 亀裂・凍結・迷走・・三部作  ほんとうにご苦労 様でした。「森課長」さんは、どうしているかと思ったりしています。
 あの頃(昭和四十九年・オイルショック、大学紛争)から日本中がやり過ぎで、今も世界中 がやり過ぎです。  
 いつだったか、学校の先生が、忙しい忙しい、放課後は部活もあって忙しい、とあんまり言 うので、それなら「夕やけを見るクラブ」なんかを作ったらどうですかと言ったら、いやーな顔されました。おじさんはすぐあやまってしまいました。
 寒くなって椿が似合うようになって来ました。お大切に。

* 勝田さんにまたスキャンして戴いた。あの頃は、あ れは何という時代であったのか、「やりすぎ」て後退に後退を強いられていった愚かな闘争、というよりも、迷走の時節だった。あの頃の社内で攻防した連中の 殆どが、管理職も組合員も定年退職して行っている。亀裂・凍結・迷走・・三部作。よく書いて置いたなあと思う。
「いそがしい、いそがしい」と、そう言いさえすれば免罪符を握ったような顔の人が多い。大 概ないそがしさではわたしは驚かないが、イヤなのは、口を開くとやたら「いそがしがる」人、「忙しがってみせる」人。わたしでもお忙しそうですねと言われ て、べつに否定しないが、挨拶替りに忙しい忙しいなどとは言わない。つらくなれば、それをむしろ楽しんでやろうと思う。その方が気も楽になる。「夕やけを 見るクラブ」なんて、勝田おじさん、やるものだ。
「寒くなって椿が似合うように」とは、ピタリである。我が家にももう椿の花があちこちに。 毎年、おなじ嬉しさで椿の季節を迎えるが、勝田さんとうまく気息があい、心地よい。
 

* 十一月二十九日 木

* 少し早起きをして(液晶劣化の)ほの暗い闇に向 かっています。今日新しい器械を買ってきます。早く使える所まで行くとよいのですが・・・。
 一昨日は会社の器械にウィルスつきのメールが30くらい侵入して、駆除するのに半日費や しました。ウィルス対応ソフトで調べた結果、全滅できたようでほっとしています。風邪と同じようにウィルスが蔓延していますのでご注意下さい。添付書類つ きの英語の題名のメールが来たら、知っている人からのものでも、開けないで捨ててください。ウィルス対応のソフトは入れていらっしゃいますか?大切な書類 がなくなってから箱にならないよう、必ずお使いになりますよう。
 文藝館 時折訪れています。
 仕事については鋭くご指摘くださった通りで、大きな商社との連携の話が入ったこと、新事 業を他のライバル会社に先に展開されそうなことに悩んでいます。悩みや愚痴は力不足の表れと、省みています。

* 商売のことはわたしに分かるはずがない。気になる のはウイルス蔓延の風潮。今日も二つほど削除した。

* 「狭衣物語」の主人公の理想化は、ことばでの表現 のかぎりでは至れり尽くせりで、それが逆に自然さを欠いて趣向倒れにちかくなっている。文章がいいので読ませてくれるけれど、義理にも贔屓にはできない、 むしろこうなると、終始寄せ付けない理想の女人、「源氏の宮」、犯されて子を産み尼になってからは、子の父の狭衣を避け通す「女二の宮」、成り行きの夫婦 になってしまい、夫狭衣を嫌い抜く「一品の宮」などのガンバリに、声援したくなる。狭衣大将は光源氏にならんで大人気のヒーローであったようだが、うつほ 物語の仲忠、落窪の中将、浜松中納言、寝覚の大将達の方が、伊勢の昔男や源氏物語の男達の方が遙かに佳い。そんなことを思いながら、情趣のよさに読み継ぎ 続けて飽きないのだから、すばらしい。

* 「ヒーロー」というキムタクと松たか子主演の人気 連続ドラマがあった。何人もの脚本家の分担連続であったが、あれが、ノベライズされて本になったのを、息子が黙って一冊置いていった。秦建日子も脚本作者 の一人であったから、本の後ろの方に名前が小さく出ている。
 映像のノベライズ小説というのは外国でもたくさん例がある。「氷の微笑」とか読んだこと もある。ノベライズする人により面白さは格段に変る。「ヒーロー」がどうかは、売り出し中なのだから、息子のためにも黙っていよう。置いていってくれたの はそれなりに嬉しい。せっかくだから、お気に入りのキムタクと松たか子のサインが本に入っていても佳いなあなどと、安直で浮薄な父親はちと夢をみたりし た。

* いま「ヒーロー」を超人気だったと書きかけて 「超」をやめた。いい表現でないから。ところで、さきごろ、「立ち上げる」ということばを秦さんが使っているのには失望しましたと読者の一人に叱られた。
 だが、わたしこれを思慮して使っている。近来の新用語の中で、「立ち上げる」は、文法も 間違いでなく、含蓄があり、巧みで有用な方の語の一つと評価し、その上で自分も便利に用いている。この言葉に代えて「立ち上げる」意味を伝えようとする と、かなりのむだな言葉数がいる。コンピュータ時代には、また企画の時代には、なかなか効用のある旨い一語だ、「立ち上がらせる」よりも、と考えている が、どうだろう。
 

* 十一月二十九日 つづき

* NHKの、「死者からの手紙」という極めて不出来 なドラマにつき合いながら、湖の本の挨拶書きを始めた。エミール・ゾラの原作の翻案劇なのだが、演出がへたで芝居にダイナミックな流れが無く、ギクシャク の思わせぶりで、やたら岡田茉莉子のこわい顔ばかり印象づけられ、こんなものなら翻案でなくても毎日のように火曜サスペンスなんかでお手軽にいっぱいやっ てらと思った。期待はずれ。これは取材もミスなら脚本も演出もダメで、演技者もやりにくそうにもたもたしていた。あれぐらいなら澤口靖子の「科捜研の女」 を気楽に見ていた方がよかった。

* ペンの会員からメールが入り始め、中には開くのが 危ない変なウイルスものも混じる。厄介なのは即座に削除してしまう。文藝館原稿も、いろいろと入ってくる。掲載に関して、これで本サーバに送りこんで良い という最終判断をわたしが全部する約束になってしまい、ATCの予備サイトでの直し意見なども送り出さねばならないから、途方もない仕事量になる。月刊医 学研究雑誌五冊の統括編集長を勤めていた時の雰囲気に似てきた。やれやれ。たいしたボランティアである。
 

* 十一月三十日 金

* 文藝館への問い合わせや寄稿など、活況を呈してき た。遠藤周作元会長の夫人からも作品選定その他をわたしに一任しますとご連絡戴いた。さて、腹案は「白い人」であるが、名案があれば聴きたいもの。あれも これも、仕事輻輳、一つにかまけていると他が停滞するので、小刻みに幾つも併行して、頭が混乱しないように、じりじりと漸進させてゆく。集中力が、結局は ラクを運んできてくれる。

* 夕方から浅井菜穂子ピアノリサイタルに、サント リー小ホールへ。湖の本の読者である浅井敏郎氏のお招きで、菜穂子さんはお嬢さん。ミラノ・ヴェルディ国立音楽院ピアノ科を首席で卒業しイタリア政府より ピアノ教授の学位を得ている。国内外でリサイタル活動を展開し、モスクワ国立フィルのソリストであり、国立シンフォニーオーケストラと、連年チャイコフス キーやベートーベンなどを共演し、ロシア総合芸術大学の「音楽博士」を授位されている。もうわれわれは何度も聴いていて、新聞に感想を書いたこともある。
 今宵の演目は、前半でベートーベン「ピアノソナタ第30番」バッハ=ブゾーニ「トッカー タ ニ短調」、ことに後者がよかった。後半は、ハイドン「皇帝讃歌の主題による変奏曲」ベートーベン「ピアノソナタ第32番」で、これもあとのベートーベンが 上出来だった。前から四列中央に席をもらっていた。挨拶するピアニストとはっきり視線の合う位置で、となりの妻と席を交替した。元新潮編集長の坂本忠雄氏 に声をかけられた。以前にも同じこの会場で会っている。
 菜穂子さんのピアノは文学的な解釈にはしらず、極めて音楽的に音をじつにしっかりピアノ から掴みだし、構築的におおらかに盛り上げて行く。堂々としている。

* リサイタルの前に全日空ホテルの「パティオ」で、 赤ワインでイタリア料理。コースのほかにイタリアのパルマ生ハムも一皿。ホールの見渡せるいい席に案内され、きもちよく夕食ができた。
 リサイタルのあとは車で日比谷まで行き、「クラブ」でブランデー。エスカルゴ、銀杏。そ して、わたしは、かやく飯も。妻は文庫本で森瑤子を読み、わたしは湖の本の校正をすすめ、ゆっくり、のんびりしてから、丸の内線で帰った。遠藤周作夫人の 手紙が届いていた、これで歴代会長作品が九作になる。ありがたい。歌人の二人からも、その他にも、文藝館関係のメールが溜まっていて、応対に追われている 内に、もう午前二時。そうそう、名古屋勤務の卒業生が千葉へ転勤してくるとも。顔の合う機会がふえるだろう。
 
 
 

* 十二月一日 土

* 皇太子ご夫妻に内親王誕生の朗報は、心和んであま りあった。心の底から、ああよかったとお祝い申し上げた。天皇皇后のおよろこびもさりながら、若いご夫妻にあまりにも過重な負担を国民も強い続けてきた。 理不尽な渦の中へ引きずり込むような按配であった。出産はあきらかに性的な事象であり、しかもなにかしら能力に絡めて是非する思い習いを人は持ちすぎる。 八年に及ぶその種の関心の的になり話題にされ続けていた夫妻への同情をわたしは棄てられなかった。お気の毒に、おつらいであろうと思い続けていた。だか ら、無事に、平安に安産なさるよう祈っていた。まれに見る安産であったと聞く。そして国中が、およろこびの声をあげていた。そういう声ばかり報道されたの ではあろうが、わたしたちも素直に共感した。泣けるほど嬉しかった。
 天皇制には、必ずしも熱い思いは持たないが、現在の天皇家には理屈抜きの敬意と親愛の思 いを持ち続けてきた。いまの天皇さんも皇后さんも、これぐらい優れた人がまたとあろうかと思うほどだが、皇太子さんも妃殿下もすばらしい。優れた家庭の優 れた品位と知性と愛情をてらいなく発露されている。そういう家庭に、理不尽なほどの負担を強いているのは、これが天皇制の宜しくない一つには違いないが、 そのことはべつにして、どれほど安堵されたことかとお察しする。それが嬉しくて泣けたのである。心からおめでとうございますと申し上げる。

* 夜に、またまたまたの「釣りバカ日誌」を見た。こ こにも一つの家庭があり、不壊の値をみせて或る「身内」が成り立っている。現在の天皇家・皇太子家とくらべるのは、おかしいかもしれないが、ハマちゃんと みちこさんと鯉太郎クンの家庭にスーさんも寄り添っている、その根底の愛は、理念としてさほどちがうものには見えない。
 この映画で、わたしは「スーさん」の境涯に関心を持っているが、彼と同じ憧れを感じてい る人が多いだろうし、そういう人には、地位の高貴とは無関係に、天皇さんと皇后さんとが革命的に実践されてきた家庭設計に共感しつつ、ハマちゃんみちこさ んたちを眺めてきたのでは無かろうか。

* 遠藤周作「白い人」をスキャンした。これはすうっ と読んで行けそうだ。加賀乙彦氏の太宰治賞候補作「フランドルの冬」は当時の「展望」から採る以外にすべがないが、雑誌のノドがつまっていて、容易にきれ いなプリントも作れないし、長い。スキャンしても相当打ち直しの必要な難儀な識字に終りそうで、途方に暮れる。ゆっくりやるか、だれかプロに任せて費用を 作者に負担してもらうか、悩ましい。

* 東京新聞の夕刊に「日本ペンクラブが電子文藝館を 開館」の、要領のいい、中身のある囲み記事を出してくれていた。まだ、メールの使える会員と「ペンの日」親睦会に出ていた会員と、わたしたちがメールで知 らせた範囲しかウェブアドレスは知られていないが、この五日間で順調にアクセス数が延びている。アクセスの数などどうでもよく、一本一本の作品を読んで、 読み進んで、楽しんでもらえれば嬉しい。

* 正字に好ましい意義のあるのは、人一倍感じていま すが、日本ペンの「電子文藝館」では、なるべく均質に、どんな機械にも文字が化けて届かないよう念願し、機械的な独善に走らぬよう心がけています。正字作 品は正字でと、当初こそ考えていましたが、それでは案の定、とても双方向の安定受発信は望めないと実験段階からよく分かり、現在は、たとえ明治作品でも、 また正字初出作品でも、化けない通用文字になるべく替えています。この辺が紙の本と電子の本との性質の差の一つでして、いくら厳格なことを望んでみても机 上の空論にまだまだ流れざるを得ない。
 このライブラリーの意義の一つは、研究者にテキストを提供するのでなく、新世紀の読者 に、作品を「読む楽しさ」を届けたいと謂うにあります。「文字が化けずに作品が読める」ようにと、発案者として、当初から考えを変えずに来ました。結果と してそう成らざるをえず、その方向で、こまかに手直しをつづけて参ります。
 文字が、途方もなく最初大きかったのです。それで、小さくしました。品良くはなりまし た、が、やや小さいかなという感想が、いま、委員会でも出ています。機械により、「表示」の機能でいくらか操作は利くものと思いますが、さらに工夫し善処 いたします。今後ともお声をお届け下さい。あなたからも、お仲間からも、自薦・自愛の出稿を、お待ちします。 秦

* 激励のエールを送ってきた会員に、こんな返事をし た。機械の分かる人は何でも出来る出来ると言うが、こっちで出来たものが、そのままあっちへ届くという保証のない自己満足を、いくら言い立てても役に立た ない。大きな仕事をするためには、仕事そのものを、追々に、段々に育ててゆく辛抱がなければならない。
 つくづく思うが、機械は機械である。ほどよく付き合うしかない。
 テレビの内部構造に詳しい人が、そんなことは何も分からずテレビをただ見て楽しんでいる 人を、得意げに見下し軽蔑してみたとて、何の意味もない。それと同じことを、パソコンでやってしまいがちなのは、それだけ「機械」としてまだ安定していな い証拠だと言えるだろう。たかがパソコンを、他人よりずっと詳しくいじれるというだけで、そうでない初心者にむかい、機械的完璧を強いようなどということ があっては、愚かしいただの自慢話になる。古い機械を永く使って仲良くしている人にむかい、機械を新しいのに買い換えれば、こうも出来る、ああも出来る と、それをしないのは怠慢かのように罵ってみても、滑稽なはなしにしかならない。
 しかし、現実に委員会ではそういう議論で、よけいな遠回りをしっかり体験した。そして、 落ち着くところへ落ち着くしかなかったのである、現実問題として。それがまさに試行錯誤であったのだから、そういう混乱を体験したのは良かったと思う。今 は自信をもって、上のような「返事」が出来る。「e-文庫・湖」で率先体験していたことが、そのまま役にたった。
 

* 十二月二日 日

* 作品を一つ一つ校正していると、それがよく推敲さ れた作品か、そうでないかが、自然に見えてくる。また時代差による物言いのかすかな差異や特徴も見えてくる。

* 日本ペンクラブの「電子文藝館」のご案内、ありが とうございました。ジャンルごとに、さまざまな作品を掲載していただき、また無料公開というのは、大英断と思います。著作権の切れた「青空文庫」とは異な り、新しい文学の公開だけに、ご努力は大変なことと思います。早速、御著の『清経入水』にアクセスし、ダウンロードしました。やはり、読むのはどうしても プリントしたくなります。御礼申し上げます。また、このアドレスは登録いたしました。

* 関西の国立大学教授からの激励。すこしずつ口コミ やWEBコミで知られてゆくようになれば有り難い。
わたしの「e-文庫・湖」 
 http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/e_mag1.htm/  から e_mag20.htm/ までも訪れて欲しい。

* 「若い勇者達たち」という午後の映画が、見終えて 以外に印象をのこした。アメリカの、山岳地を負うたいわば広大な田舎のハイスクール校庭に突如として落下傘部隊が降りてくる。演習ではなかった、映画では ソ連とキューバの連合軍らしく、それは、「アフガニスタン」以後に何年もたっての突如とした第三次大戦、アメリカ本土侵攻の一瞬だった。容赦ない銃弾に多 くが死に、市は、郡は、州は制圧され、多くが過酷に収容され過酷に殺されてゆく中、あの日以来辛うじて山へ逃れた若きチャーリー・シーンその他数人の少年 達が、或る兄弟を芯にして果敢なゲリラ活動をつづけ、戦い抜いてゆく。
 彼等を山岳地に追いつめて一人また一人殺してゆく占領軍の地上兵や空爆隊は、まさに現に 今タリバン兵たちを追いつめているアメリカ軍をそのまま髣髴させる奇妙に刺激的画面になっている。しかも少年達は捨て身の攻撃でついには占領軍の仮借ない 将軍をうちとり、侵略者たちが撤退と敗北への道を開いて行く。
 近未来の架空の物語でありながら、異様な仕立てにせず、リアルないわば普通感覚での少年 ゲリラにしてあるのが成功していた。どうして今の今にこういう皮肉な映画を御蔵から引っ張り出してきたかと、番組の意図を忖度してみたくなるシビアな作品 だった。

* 昨夜がおそかったため、八時半まで寝ていたのに一 日中目が痛むほど眠くて参った。入浴して、これから手仕事をしながら「時宗」を見る。

* もう予算編成の時期なのに、小泉構造改革は、玉虫 色の妥協の産物としてこねまわされている。ハッキリしているのは、金融と財政とはちっとも改善しないどころか、大手銀行などの、じつは笑いをかみ殺したよ うな赤字決算の続出で、またぞろわれわれのお金を濡れ手で粟に掴みドクしてやろうと公的資金に手ぐすね引いている按配。明らかに「銀行族」といっていい小 泉首相の銀行への甘さは目に余るのに、なにもなにもドサクサまぎれに、進んで行くから怖い。
 

* 十二月二日 つづき

* 「時宗」は、二度目の蒙古襲来と台風。ま、あんな ものか。撮影技術の進んでいることが分かる。ドラマとしては博多よりも鎌倉の方に緊迫があり、安達貞盛と平頼綱の決闘にも、駆けつけた時宗の弓射にも迫力 があった。もう次回が最終回という、少し残り惜しい。時宗の死で幕にするらしいが、愁嘆場だけでは見たくない。元弘の変へ傾斜してゆく鎌倉幕府と京都との 折衝もドラマとして見たかった。
 世評は知らず、ドラマの出来を越え、元寇と時宗とのドラマには、途中からだが心惹かれ続 けた。昔は、北条時宗はほんものの英雄として人気だったが、すこし排外思想や神風むきの関心事でもあった。それはつまらない。日本列島にじかに及ぶ「有 事」に対して気力を見せた政治家として、明治以前に稀有な人物の一人だった、そこが大切だ。

* 引き続いて映画サミュエル・ジャクソン主演の「交 渉人」が、儲けものの面白さで、満足した。根の深い犯罪に巻き込まれ犯人にはめられた「交渉人」ローマン警部補が、真犯人容疑の人質を抑えてオフィスに立 てこもり、信頼できる練達の「交渉人」を交渉相手に選んで、じりじりと犯罪の真相に迫ってゆく。佳い設定で、見せてくれた。

* 医学書院の昔に部下であった友人も、管理職を経て もう定年になっている。定年後も、人により、まだ働いている。電話をくれて、明晩、会うことに。湯冷めか、少し寒気がする。はやく寝よう、今夜は。
 

* 十二月三日 月

* 早く寝るどころか夜更けまで校正などして、眠れ ず、疲れて昼まで起きられなかった。午後、めいっぱいいろいろと片づけて、夕刻から、医学書院の向山肇夫君と会うべく街へ。久しぶりの久しぶりで、さすが に話題は尽きず、酒を飲まない男を相手にけっこう楽しい酒を沢山飲んだ。しょうのない糖尿患者だが、これでバランスは考え用心しているので、結果的に血糖 値は、正常を、安定して保っている。用事らしい用事も向山君は用意していたけれど、それはまあたいしたことでなく、たくさん話せたのが何より。あの会社で はめずらしく人品のよろしさをきちんと保ち続けて定年に達した友人で、今も嘱託で医学界新聞の編集長をしている。入社してきたときからわたしの係りや課に いて、長い長いつきあいである。
 たまに、こういう楽しいこともなくては、もたない。今日は、これだけ。

* 月曜日、新しい週の始まりです。私の月曜日は、午 後から中国人が来てことばの練習、これはお互いの勉強。そのあと夕方は頼まれて数ヶ月だけ数学を教えています。ずっと人と話し続けるのは月曜日だけです。
 冬の寒さはまだあまり感じません。やや遅れた今年の紅葉に山々がまだ名残の色を燃え立た せています。庭のレモンが黄色になってきました。かぼすやすだち、レモンなどがあって、今の季節は醸造の酢をあまり使いません。
 12月になるとキリスト教徒ではないけれど、何となくクリスマスの雰囲気で赤い花に緑の 布などを使って、部屋が暖かになりました。
 日本画とは何か・・繰り返し言われるテーマながら・・分かりませんわと逃げたくなります ね。でもあなたは司会という立場でなくて、発言したくないですか?如何でしょうか?発言を引き出し、話の方向や取りまとめをしなければならないのは大変な 役ですが・・個人的には、あなたに思いっきり発言して欲しいな。

* 日本画論を雑誌「美術京都」に書いてもらった二人 の研究者と語り合うのであるが、その論文を今日も街への行き帰りに読み直しかけていて、大問題なので、唸っている。研究者はどうしても新しい時代での論点 に決めてきている、文献的にも。
 わたしなどは、久しい美術史の中で鑑賞者の立場から頭の中にも目の奥にも日本画とは何か という問題意識を抱いている。話したいこともあり、しかし、わたしは話してもらう立場で司会しなくてはならない。とんぼ返しになるだろうが、いい京都が 待っていて欲しい。
 

* 十二月四日 火

* 眼圧はかすかに改善していたが、点眼薬を欠かして はいけない、と。しかし緑内障であること自体は恐れなくてもいい、と。目薬を差すと視野がしばらくうす暗み、やや刺激痛のあるのは、そんなものであるとい う話であった。それだけのことを聞き、目薬をもらうのに、病院は時間がかかる。

* 午後の診察では、血糖値には全く問題なく、も一 つ、なんだか大事なものも、わるくない。ただ悪玉コレステロールが少し増えて、尿にやや蛋白が降りていた。薬を飲むほどではなく、このまま行きましょう と。

* 京都芸大の榊原教授の「日本画考」を読み終えた。 大須賀潔研究員の論考も読んだ。病院というところはけっこう仕事の出来てしまう場所である。腹もペコペコにすいた。
 旧有楽町そごう百貨店跡が大きな電機店に変貌しているのを見に行った。かなり一心に好奇 心満々で見て回りながら、目移りばかりして、結局なにを見ているのやら目が回りそうだった。シエナ美術展をやっている東京駅まで歩き、地下の日本料理店 で、純米の「天狗舞」で、おそいおそい昼飯にして、そして帰宅。からだの芯にふかい疲労と睡魔とが住んでいて、これを回復させる必要がある。帰りに東武の 「仙太郎」で、どらやきと、お萩と最中を買ってしまった。

* 遠藤周作「白い人」をとにかく原稿に仕上げてしま いたい。それに気が急いていて、帰ると直ぐ。字義通りに「凄い」作品である。もっときちんと推敲されていたらさらによかったろう。「凄い」とは当節の軽薄 な嘆賞の俗語だが、もともとは、そんなものではない。心にまで粟立つ寒気がするような、顔のこわばるような、こわさを言う。

* 石川の清酒「萬歳楽」が届いていた。いつしれず、 ワインも戴いて三四本。動物蛋白質や卵を控えるようにいわれてきた。酒は少しにと。飲む機会、今月はこれから幾度と無くあるだろう。さしあたり明後日は久 しぶり旨いものを喰う「みらくる会」に出るつもり。蕎麦づくしだそうだ。
 

* 十二月五日 水

* 区の勤労福祉会館内にある体育館コートを利用して いますが、多分終戦後に建った古いものらしく、今は勤労者の利用度も少なく、用を達したと、二年先には取り壊しにの通達を受けました。都知事による洗い直 しの息も掛かっていそうです。今の若者はダサイ処でスポーツをしなくなったのでしょうね。すぐ隣の都立高校も取り壊してリニューアルしています。
 木場の東京都現代美術館、昨日娘と行った恵比寿の東京都写真美術館と、どちらも近代的な 建物、中に一歩入ると別天地の空間です。でも、あまりにもギャラリーが少ない。文化的なものは勿論必要であっても、血税で建てられ、フルに機能していない 有様に都知事でなくても考えさせられます。企業ならば、とても放置しないと、行く度に思うのです。

* 東京都は企業時空間ではない。都民の生活空間であ り日本の首都である。その一方で、商店や企業はそれなりに現金を稼ぐであろうが、もともと博物館や美術館やホールや体育館はそういう性質のものではない。 だれもが義務のように通ってゆく場所ではなく、行きたければ行く所である。行く回数が少ないから、行く人が少ないから、「生活」には無用なのではない。在 るということが意義をもっている。そういう施設こそ、稼ぎ出した金で建てたり維持したりするのでなく、税金を使うのがむしろ自然な政策であり文化的配慮で ある。市場ばかりの東京都であって佳いわけはなく、また市場のように稼ぐ必要はそれらにはない。東京都は企業ではないから、企業と同じ論理で美術館や体育 館を考えたりすれば大事なところをまちがうだろう。ホンモノのむだと、必要なゆとりとは別ごとである。石原都知事にそういう配慮があるといいがと願ってい る。
 ホンモノのむだは是非省いて欲しい。民の豊かな暮らしに必要なゆとり部分を継子扱いにむ だだと切り捨てすぎないように。花屋で売れば花も金を稼ぐが、人気のない深山の奥や山のてっぺんで、むだに花など咲く必要がないとは、さすがに誰もいうま い。

* 狂牛、まだまだ出ますから驚かないでと、農林水産 大臣。内閣の構造改革に、こういうのを先ずリストラしてはどうか。愚の骨頂。外務省の事務次官も、外務省の構造改革のためには、いちばんにリストラして当 然の、あくどいアクの骨頂。田中真紀子は何を叩かれても根気よく組織悪と闘い続けている。その不退転のど根性は見上げたものだと思う。叱られるのは覚悟し て真に「男勝り」と褒めておく。
 都政から国政へと、石原慎太郎をよいしょするバカが、マスコミにもいっぱい。よせやい。 狂った牛より物騒である。やすみやすみ冗談は言えと言いたい。

* 高木卓という人がいた。芥川賞のながい伝統の中で 只一人芥川賞を要らないと辞退した当選作家である。「遣唐船」で候補になり有力視されながら惜しくも外れ、次回に「歌と門の盾」で当選したが、断った。文 藝春秋の経営に当っていた作家菊池寛が熱心に推していただけに、菊池寛は大憤慨したが、選者達は冷静に辞退そのことを評価した者も何人もいた。作品として は前作の方が優れていたというのがほぼ一致する見方であったらしい。辞退の理由は知られていない。
 今は亡いこの高木卓に心寄せの電メ研委員から、その作品を戴けないかと著作権者に依頼し てもらうことにした。

* 遠藤周作原稿「白い人」は重みのある、凄みのあ る、主題深甚の一佳作であった。こういう現代作品、信仰と人間を深みから把握しようと試みた思想性の烈しい小説作品を、われわれの電子文藝館が抱えている 意味深さを考える。どんな人のどんな作品も、何を書いてもいいが、質的には、こういう作品と真摯に鎬をけずり火花を散らす作品であらねばと思う。文藝館に どれほどそういう作品が出てくるか、それが楽しみでならない。ここは、そういう「場」だ。「白い人」の校正は永くかかったが、力強く読ませてくれて嬉し かった。つぎは久間作品をコピーし、加賀作品をとにかくも試みにスキャンしてみる。
 

* 十二月六日 木

* 念校分の届くのを待ちかね、一瀉千里の集中で、 「湖の本」新刊を責了にした。必要な連絡なども幾つか済ませ、今宵は久しぶりの「ミラクル会」がはやめの年越し蕎麦の会、神田である。これが済めば、金土 日を、京都での鼎談の勉強につかえる。榊原、大須賀両氏の関連原稿は一通り読んである。

* もう十二月だというのに、なかなか冬らしくなって くれませんね。暖かくてありがたいと思う半面、キリッとした寒さが待ち遠しくもあります。
 このメール、四国は香川県で書いています。一ヶ月間の予定で、企業での研修に来ているの です。
 こちらは何もないところですが、東京とくらべて空気は清々しく、先週の満月も、はっとさ せられるくらい綺麗に見えました。残念ながら、獅子座流星群は見逃してしまいましたが。
 久しぶりに、見知らぬ人たちの中に単身で入ってゆく機会で、普段の生活では受けられない 刺激を、いろいろと受けています。平均年齢30歳弱という非常に若い職場で、私のように社会人四年目ともなると、もう立派に中核として仕事を任されてい て、自分の職場とはえらい違いという感じです。(まあそういう職場はちっとも珍しくないでしょうけれど。)
 もの作りを、ほんの少しですがお手伝いする機会を得て、こうして作られたものが、出荷さ れて、全国に送られて、買われていくのかと考え、ふっと、社会の一員というか、輪の中の自分を実感しました。不思議と嬉しい気持ちでしたね。普段の仕事で は、書面ばかり相手にしているためか、ほとんどそうした感覚を持つことはないのですが。
 ものを作って売ることの楽しみは、お金儲けばかりでなく、生み出したものを他の人に受け 入れてもらう、認められることにあるのかな?、などと今更ながら思ったりしています。
 パソコンでバッハの「ゴールドベルク」を聴いています。せめてCDラジカセは持ってくる べきでした。
 それではまた。お元気で!

* 特許庁勤務の卒業生、フーン、こういう研修にも行 くのか。いいことに思う。わたしの「湖の本」など、とても「売る」の「お金儲け」のといえる仕事ではない、十六年も続いているのが不思議なほどだが、「も のを作って」人様に「届ける」「送り出す」という点では、作品も作る、本も作る、一人一人に挨拶を添えて、手づから送り出すということでは、まさしく人と 人の出逢いの「場」づくりである。「生み出したものを他の人に受け入れてもらう、認められる」嬉しさに満ちあふれているから続けられているので、価値観の 違う人からみれば、愚の骨頂のような出血サービスだろうが、ものごとの有り難みは金勘定でだけ計れるものではない。こんどの新刊も、楽しまれるものになっ ていると思う。
 卒業生たち、いろいろな社会に出てゆき、地の塩のように働いている。一月にはまた結婚式 に招かれている。今度は女性。池波正太郎と歌舞伎の中村吉右衛門が好きだといっていた、美しい笑顔の、弓をひく、麗人である。難しいテーマをかかえた研究 者でもある。

* 蕎麦で会費一万円はやはり高い。神田「まつや」を 借り切っての「みらくる会」は、あまり、「みらくる」な食事会ではなかった。酒は石川鶴来の吟醸酒、つまりはアルコールを混ぜた味付酒で、値は高くても、 純米ものではない。自分から出掛けていったのだから文句の言い様はないけれど、まがい物の酒ではしようがなかった。これなら、帝劇モールの「きく川」の鰻 で、「菊正」の熱燗を安く飲んでいる方がマシだった。しかし、まあ、年に一度ほどの参加であるから、あまり偉そうなことを言ってはならない。
 

* 十二月七日 金

* ストンと小さなエヤポケットに入った心地、すべき ことは沢山あっても、校了とか入稿のように相手あって待ち設けられている用がバタバタと済んだときは、こういう心地になる。

* おかげで、夜更かしして本を読みすぎ、朝も寝過ご してしまう。籤とらずのバグワンは「般若心経」に戻っている。
 そして「狭衣物語」が佳境から大団円に近づいている。狭衣大将は理想の「源氏の宮」によ く似た美しい「式部卿の姫宮」を、この度こそ我から望んで東宮を出し抜くほど熱心に妻にし、一通りの幸せにやっと辿り着いた。あまつさえ天照神の託宣を得 て東宮を超えていきなり天子になり、いまは内裏住いしている。冷酷に手痛い目をみせ尼にしてしまった「女二の宮」との間には、祖父母の嵯峨院と皇后宮との 子として育った若宮があり、狭衣の子であることを天照神は夢告している。また思い侘び入水を救われた後に出産して死んだ「飛鳥井の君」も、美しい姫宮を父 狭衣の手元にのこしていった。
 式部卿の女宮との出逢いから結婚へかけて、狭衣ははじめて家庭らしい家庭の愛にちかづい たところで、即位という大変を迎える。此処まで来て、源氏の宮も女尼入道の宮も飛鳥井の君も一品の宮も、式部卿の宮も、女が一人一人しっかり書けているこ とに気付く。それが主人公で男の狭衣を照らし返すように生かし得ている。

* 久間十義氏にもらった上下巻の「ロンリーハート」 は、外国製のハードボイルドを乱読してきたのと調子が近い。頁を開いて数行のうちに、女の子が車にひきずりこまれ、一頁もすすまぬうちに下半身裸にされて 車の外へ棄てられている。そのテンポの早さ荒さなまなましさは、外国ものでもなれているが、日本にもこういうハードボイルドな暗黒風俗警察ものが、成り行 きの凄いのに比べて、まぶしいほどしらじらと書き次がれて行く時代なのだ、面白いとかどうとかではない、襟髪をつかまれてながら、自分でも走っているよう にして読めてゆく。この作家の「ダブルフェース」もこういう気分で前に読んだ。文章に停滞や渋滞のない劇画タッチのシナリオふうである。

* 少しずつスキャンし校正をはじめた加賀乙彦氏の 「フランドルの冬」は、遠藤周作の「白い人」と同じく、フランスに取材の太宰賞候補作であるが、導入のあたり、遠藤さんの作よりも文章がざらざらとあら く、今一つ表現に妙味がうすくてドキドキしてこない。かなり長いので今後の展開を待たねばならぬ。
「校正しながら読む」というのは、作品の評価にはじつに厳しい、しかし良い道である。小剣 も、秋声も、芙美子も、白鳥も、利一も、みな「校正しながら読」んで感嘆した。「白い人」でもそうだった。もうちっと推敲して欲しいなあと思いつつ読まさ れていった。

* ジュリア・ロバーツの映画をみた。「プリティー・ ウーマン」「ペリカン文書」ほどではなかったが、それなりの魅力を滲ませていた。リアリティーは乏しいし、おはなしも陳腐な方に属しているが、なんとなく 魅せられた。ビデオを「置いておく?」と妻は聞き、「うん」と返事した。
 

* 十二月八日 土

* 真珠湾から六十年が経った。わたしは京都幼稚園に 通っていた。「九軍神」という三字をはっきり記憶している。まつわる詳しい事情を知っていたのではない、新聞の見出しにとても大きかった。日清、日露戦争 のことも、支那事変だの満州事変だのと耳にし目にし、戦争は茶飯事とはいわぬまでも「する」ものであり、日本は負けたことが「ない」と知っていた。だから 米英に対する開戦を深刻には受け取っていなかった。幼稚園生活があまり好きでなかったことに比べれば、宣戦布告からたいした影響は受けなかった。以来六十 年。昨日のことのように思われる。

* 機械のまえについ座り込むので、デスクワークが滞 りやすく、郵便物の整理などが一週間分も溜まってしまうと、どの郵便が何曜日に来ていたのか、さっぱり分からなくなる。片づけ仕事をして過ごした。

* 何日もかかるのがいやで、あけがたまでに久間十義 氏の「ロンリー・ハート」を下巻まで全部読み上げた。無縁と言うしかない世間のようでいて、何時どのように巻き込まれるか知れない犯罪時空間である。主筋 は、三人の高校生男子が、行きずりに知り合ったベテラン警部補の十五になる娘を、それとは知らず、誘惑し監禁して強姦する話である。そこへいろいろの副筋 がからむけれど、ま、そんな話が陰惨にというよりも、甚だドライにハードボイルドに渦巻くように書かれて行く。二度は読みたくないが、刺激はつよく、まち がいなく現代東京のすさまじい青春が書かれていて、小説であるが実話のように読めてしまうほど、端的に、ト書きをトントン並べるように書けている。十五の 少女というと、遠いよそごとでなく、上の孫娘の年である。
 ロンリー・ハートという題の切ないニュアンスはあまり伝わらない。ただもう殺伐と乾き きっている。
 

* 十二月九日 日

* 「北条時宗」が死んだ。なんだかんだドラマの外で は、気難しいおじさんたちにわるくちを叩かれ続けながら、このドラマでは、和泉元弥クンはよくやったと思う。佳い顔をしていた。はまっていた。だんだんに 誠実に賢くなって行った時宗に、現実の元弥は謙遜にあやかり学ぶとよい。この一と役で、彼はながく記憶に値する感銘を、最後の最期まであたえてくれた。無 学祖元の鞭撻に服しながら、最期のときに、現世に精いっぱいの思いを隠さなかった、静かな死。よく盛り上げていた。
 こう最後まで来ると、妻祝子役の西田ひかるが、品のいい優しい妻であった。覚山尼に変じ た十朱幸代がさすがに魅せてくれたし、一年間のナレーションにしっかり締めくくりをつけた。
 いろいろと印象的な人物があり、よく時宗夫妻をたすけて好演していたと思う。最後に出て きた無学祖元役の筒井康隆と、早くから出ていた日蓮役の奥田某とでは、素人の筒井の落ち着いた貫禄勝ちであった。感じ入った。クビライが、よく一方でバラ ンスを取り得ていたのも、わるくない。むかしむかし、今回謝国明役の北大路欣也が若き日に連続ドラマで演じた果敢な時宗役よりも、今回のドラマは悠然と大 きく、世評は知らないが、一昨年であったか、モックンの端正に演じた徳川慶喜に劣らない北条時宗を、和泉元弥は、たぶん受け身にであろうが、造形しえてい た。あまり器用でなかったのがかえって好感が持てた。

* 前夜、妻と、ビデオの「冒険者たち」をみた。とり とめなく始まるようでいて、リノ・バンチュラとアラン・ドロンのすてきな組み合わせに、さっくりしていながら一抹の哀れを包み込んだ若い佳いヒロインが加 わり、これもまたまさしく「身内もの」のしみじみと悲しい、佳い映画に仕上がっていて、見終えてからもジンジンと余韻にうたれた。うそのように不思議な 「島」が出てくる。一人でしか立てない大きさの島に三人で立てている嬉しさを、三人は味わえないままバンチュラ一人が生き残って、最愛の二人に死なれてし まう。「グラン・ブルー」に通う、また別の、趣深い佳い映画を拾い上げた。リノ・バンチュラもアラン・ドロンも、これ以上に好もしい映画が他にあったろう か。

* そして「狭衣物語」を読み終えた。かなりグチグチ と悪口を並べながら読んできたが、読み終えたところで言うと、さすがに佳い古典であった。もう一度も二度も心静かに楽しんで読み返したい。「好色」物語の 一つの有り様、最も自然に近い有り様を見せていたのではないか。男って、こんなんだわと、なんとなし苦笑混じりに思い当たらせてしまう。女がよく書けてい るので、逆にそれが見えてくる。凹型の男である、狭衣は。

* 朝の番組に久しぶりに亀井静香が相変わらず騒がし く現われて、つべこべと喋っていた。ああいう顔をみてああいう言葉のあらさに接していると、不本意にも小泉純一郎には買われない、代われもしない男だと、 背後にいる江藤だの橋本だののぞっとしない顔まで目に浮かんでくる。
 ともあれ小泉は、これまでの政治の試みなかった道を歩いている。亀井の言を聞いている と、要するにこの十年余やってきて成果の上がらなかった目先の小手先芸当をくりかえそうよと言っているに過ぎない。絶対に越してゆかねばならない見上げる ほどの瓦礫の山が、なかなか崩せないからと、退いて当座の弁当を食い、酒が在ればそれも飲んで、それから「考えよう」「ない智慧を絞ろう」と言うようなも のだ。この山は崩すより、他に通り越せる道はつくまい。目先の空腹に弁当を喰っているまに、またぞろ、瓦礫を平気で積む奴らがいる。存外にそういう連中が のんきな弁当を政治屋や官僚に「差し入れ」ていることがあるから、困るのである。許永忠や「ものつくり大学」周辺のことなど、忘れてはいないぞ。
 

* 十二月十日 月

* 今日は、高麗屋父子を芯にした「三人吉左廓初買」 を通しで観てくる。一部分なら観ているが、通しは初めて。しかし大筋は、ごく子供の頃に、明治版「歌舞伎概説」という家にあった本を繰り返し読んで、つぶ さに知っていた。覚えていた。へええ、そんなややこしいめぐる因果ってあるんだと、驚く筋書きであった。有名な「月はおぼろに白魚の」の長科白も暗記し た。一番早く覚えた歌舞伎の「知識」であった。理屈の所はとばしとばし読んでいた。
 その本は蜜柑色の堅い表紙で、分厚く、今見てもきちんとした参考文献である。安っぽいと ころは少しもない。ところどころ主要な歌舞伎劇の梗概が小さい活字で書き出されていて、そこが、幼いわたしの目当ての読み物であった。能の稽古本でも、梗 概をかたはしから読んだ。

* 昨夜おそく息子が自動車を置きに来た。いま、階下 で朝食を食べているらしい。あいにくの我々の外出で。一日、こちらにいるのか帰るのか。
 元気ならいい。お互いに、怪我無く過ごしたい。

* 河竹黙阿弥作「三人吉左廓初買」は、珍しく「文里 一重」の部分も通しての通し狂言で。おかげで筋立てが分かりよいだけでなく、ふくらむ。常はこうはやってくれない。
 黙阿弥の芝居はけっして華やかではない。ピカレスクものというか、悪漢の美学めいてい て、所詮は社会の底辺に取材された陰惨なものである。この芝居も三人吉左の出逢う大川端こそ華麗な長科白で酔わせるものの、次々の幕は陰気に地味なほどの 世話物で、たとえば「義経千本桜」や「助六」なんてのとは大違い。おまけに刀一振りと金子百両を生き物のように追い立てての趣向の底に、めぐる因果の、絶 句するような近親相姦が書かれている。それも親が犬を殺した祟りで、双子の兄妹がそれとは知らず果ては夫婦になり、さらには二人とも肉親に殺され、末期の 姿には犬のふりまでする。そういう下地のうえで義兄弟をちぎった三人吉左が、義理を重んじ「身内」意識に殉じた体で、降りしきる雪のなかで大勢の取り方に じりじりと追いつめられてゆく。

* 梅玉という役者は、これまで余り好きでなかった。 ひとつには、痩せて酷薄な二枚目という、「籠釣瓶」の二枚目ふうの役が多かったから。ところが今日久しぶりに観ると、ふっくらと幅が出来て、科白に余裕が あり、お坊吉左を、情もあり姿もよく好感の持てる佳い役にしていて、意外の儲けものだった。染五郎のお嬢吉左は精一杯のところ、ま、力演といっておこう か、妻は佳い佳いといっていたが、わたしは、可もなく不可も、ま、無いかと冷静に眺めていた。歌舞伎は冷静になど眺めさせていては、ダメではないか。
 幸四郎の和尚吉左は、はまりの役で、本人は自信の役のようでもあるが、声量のない科白に 途切れかすれが出たり、情感過多で、はしばしにやり過ぎがでたり、歌舞伎にするより「演技」が先立ち、そこまで演じてくれなくても、もっと大らかに大らか に願いたいという、いつもの幸四郎へのじれったさを、相変わらず感じさせた。弟の吉右衛門の方が向いていよう。
 それでも大詰め火の見櫓の場面では、三人吉左が出揃って、少し切なく悲しく場面をしめく くったので、ウンウンと「歌舞伎」を観た気がした。楽しめた。松江の花魁一重は尋常なもの。東蔵の吉野がまるで甲斐荘楠音描く女のようなのがおかしかっ た。花道に近い「と」の席で、それは結構に、ゆっくり見せてもらえた。

* むかしよくカンヅメにされた、三番町、オークラ経 営の霞友会館が、もうホテルではなく、企業の幾つも入った建物に変っていて、それならと車で逆戻りして、サントリー美術館下のイタリアンに走り、盛りだく さんに色々食べて、ワインをボトルで。のーんびり出来た。
 むかしむかし、黒谷で紅葉を狩り、叔母の茶室で妻を客に茶をたててからきっちり四十四年 になる。年々歳々の思いはまことに遙かであり、走馬燈のように想い出ははてなくめぐりめぐる。イタリアンの料理はどうということのないものだが、騒々しく ならぬ程度に店内は広く暖かく、あいたカウンターのコーナーに席を占めて、屈託なくいろんな話の出来る相手は、やはり、妻。
 もう何処による必要もなく、赤坂見附から永田町まで歩いて有楽町線で帰ってきた。建日子 が夕方近くまで留守番をしてくれていたようで、玄関にはいると黒いマゴが嬉々として迎えに出た。

* 夜前はおそくまで長谷川泉著「森鴎外論考」の大著 を読んでいた。歴史小説論でもある「阿部一族論」を電子文藝館にもらおうと決めた。文体は独特の調子を持っていて、しかも論旨は明快、さすが碩学の風趣に 富んでいて、読みは極めて深い。評論家の読みではない文学鑑賞学の大家である真実学者の精緻な読みである。これは電子文藝館に更に大きな幅を加えるに違い ない。任すよと言われている。任された期待に応える選択をと緊張していたが、自信がもてる。
 加賀乙彦「フランドルの冬」第一、二章がもうすぐ掲載にまで運べる。それ以上、もう倍も 長くとなれば、アルバイトを頼むより無い。伊藤桂一さんの作品は、やはり中国への兵隊体験の生きた小説を選ばせてもらいたい。これも「任せる」と言われて いる。

*1年間の育児休業が終わり、12月の最初に職務に復 帰いたしました。育児にかまけていた1年間、論文こそ何報かまとめましたものの仕事の感覚は忘れているのでは、と、心配しながらの出勤でしたが、意外にも 以前より頭の中の整理が素早く行われるようで、大局的に要領を得て仕事ができている気がしています。気がするだけかもしれませんが。
 ただ、思うに、子どもを相手にしていると時間をするする吸い取られていくので、その合間 を縫って生活しているうち自然に物事の要領を掴みやすくなる、という効用があったのかもしれません。今までの私が、あまりにも仕事に時間を費やしすぎてい たのかもしれませんけれど。
 ホームページで書いていらした日本画論、まとめられたのでしょうか。仕事柄、とても興味 があります。
 私が(文化財保護という)この仕事に関わりはじめて日本画に触れ、一番感動したのは「裏 彩色」の存在でした。絹という「透ける」素材を生かしたこの技法は「日本やなぁ」と思わせるに十分なように思えます。黒髪の生え際や水に泳ぐ魚の鰭など日 本画の中でも最も優しい表現と思っていたこれらの部分が、この技法によって描かれていると知って、本当に感動した記憶があります。素材あっての技法で、技 法を生かす素材ですよね。そしてこの「素材ともちつもたれつの技」という流れは、今でも日本の中に脈々と受け継がれているように思います。
 小さなプラスティックのパーツを見た時、そこに施された細かな造型が射出成形によって大 量生産されたものなのだ、と確認できると、日本の底力はまだまだあるんだ、と私は安心するのです。こんな扱いにくい面倒な材料をこんなに細かく造型できる のだ、日本はまだまだ大丈夫だ、と。
 プラスティック成形はそれ自身を扱う技術もさることながら、金型の精度にかかっており、 それで大森あたりが世界的に金型成形に名を馳せているわけですから。
 主人は海外に出かけるとすぐにビルのエレベータの製造会社をチェックするという癖があり ます。エレベータを水平にピタっとそのフロアに一発でつける技術は、コンピュータ制御や機材の組み立てなど、総合的な技術力が端的に表れる場所なのだそう です。あちこちに行く度に、その国の主要都市のビルの中にいかに日本製のエレベータが納品されているか確認してきて嬉しそうに報告しています。
 日本画の話から、随分とそれてしましました。お忙しい先生にお目汚しの文章で申し訳ござ いません。
 冷え込みの厳しくなる季節、どうぞご自愛下さいませ。

* 転居いたしました。と言いましても、ほんの数分歩 いただけのところへですが、そこへ家を建てて越しました。育児休業の最後を、この引っ越しでばたばたと過ごしましたが、おかげで子どもを預かってもらって いる実家に近く、便利に過ごしております。
 家というものを建ててみると、自分の人生をつかさどる力学が面白いように解明されていく 過程を体験したように思います。自分がなにを重んじているか、簡単なことを言えば、日照か利便性か静けさか。そういう自分を構成してきた小さな要素が、ほ んの一つの壁を動かすだけにしても、明るみに引き出されたりしました。
 また、ただ何気なく使ってきたユーティリティと言われる水周りなどが、どういうふうな重 さと注意深さで作られているか、あらためて痛感され感謝したりしています。
 この総合的な構成物である建築というものは、住む人の建てる人の人生を深々と照射してく るように思えます。高い買い物で、えらく労力もかかるものでしたが、それでも自分の人生や生き方を見つめ直させるものだった、実感しています。そして自分 一人が生きていくということに際して、どれだけ周りからの力が集合されているか、つくづく教え込まれたようにも思います。
 残念ながら家を建てることに「憧れ」など持たずにいたため、メーカーさんには「夢のない お客さんだ」と言われながらも、現実的に家を建てていくことを通じて人生の構成要素とも言えるものを認識できたのは本当に得難い体験でした。言葉足らず で、この経験の中から深々と「掴んだ」と実感したものを十分にお伝えできないのがもどかしいのですが、家を建てる、というのは私にとっては、世間が考えて いるような「おめでたい」「すてき!」などというものではなく、「人生の力学の解明」とでもいうかのような体験でした。
 最後になってしましましたがそういうことで引っ越しましたので、今後、湖の本は新しい住 所にお送りいただければ幸いです。瑞泉寺の参道です。お近くにいらっしゃることがありましたら、お声をおかけ下さい。山門の中なので、すぐにわかる場所に ありますから。
 お寒い京都、どうぞお気をつけていってらして下さいませ。

* はしばしの表出に少し力の入りすぎた気味もあるに せよ、きびきびと感想のことばが「生・活」している。こういうことばを掌にすくいとり、そっと口に含むほどに玩味していると、鼓舞される。教室にいた頃 と、変わりない「人」の姿まで髣髴とする。それにつれて、またたちどころに十人も十五人ものいろんな若い人達のあれから以後の歩みや消息が脳裏に甦ってく る。みな元気かな、げんきでいろよと呼びかけている。わたし自身も、これで、ま、元気なのだろうと思う。
 

* 十二月十一日 火

* 朝一番に飛び込んだメール。

* 今春の年賀状を整理しました。
 家族を養う男性から、出向、転職、求職、退職に適応しようとする痛々しい心境の書き加え られたものが、何枚もきていました。2000年、カウントダウン、新世紀と、華々しくも浮かれた元旦に届く年賀状と分かっていても、書かずにいられない。 また、あえてそれに触れない人もいたはずです。構造改革の成果、で済むかァ。
 ワークシェアリングで生まれる心と身体の健康、ゆるやかな時間の中で築かれる和やかな人 間関係、家族と過ごす穏やかな時間、自分との対話を楽しむゆとり。その消費で支えられる景気こそ健全な好景気と呼びたい。

* 朝はやの話題には重いけれど、やはり、考えねばな らぬことがある。

* 賃金を得て働く人が、労働することの基本的な権利 を、努力なしに保証されているものかのようにいつしか甘く錯覚して、権利を守ろうとしなくなった。守る備えを当然のように放棄した。つまりは労働組合を無 視し潰した。或る意味では体制を守ろうとする政治の意図の前に、幻惑されて、権利維持の、権利拡大の姿勢をだらしなくゆるめてしまった。憲法や労基法が支 えていたものを安閑として保守政治屋の前に貢ぎ、労働組合費を惜しんで組合を疲弊させながら、自身はバブルの幻惑に泡踊りをしてしまった。泡が消えたと き、身を守る基盤を労働者はもう見失っていて、リストラという首切りを「こういう時代ですからねえ、しようがないと言うことですが」などとため息を吐い て、いまだに、体制の意図に、あきらめの姿勢でいる。
 こんなことをやっていたら、自壊するだろうと思えるほど驕った闘争へ、無反省に無茶に 走って、案の定徹底して自壊した一つのシンボルが、私の書いた小説「亀裂・凍結・迷走」三部作という、1974年の労働争議であった。あの会社では、あれ 以来二度と労使の対決は繰り返されなくなり、しかし、社内のモラルも冷え切ってしまったという。
 健全に労働組合を維持し育て、労働協約の健全な相互検討の機会を確保し合うのが、少なく も労働する人達には絶対に必要なのであった。安易な首切りを、経営に対しさせない歯止めにはそれしかなく、首切りが出来ないとなれば、経営は、戦略をバブ ルへむけ煽り続けることはしにくかった。経営の失敗を、労働組合の正確に機能していない企業ほど、当然のように「リストラ」の名の首切りで補綴しようとす る。
 誰も自分を守ってくれない、自分さえ頸切られねば、仲間のリストラにあうのも知らぬ顔 で、労働者たちは茫然と見送る。小心翼々と見送る。手を繋ぎあい、もう一度輪になるすべも知らないでいる。学生運動ができなくなっている社会的なエネル ギー疲弊が、そのまま、会社社会に送り込まれるのだから、当然だ。
 そういうことの決してなかった時代があった。ところが社会の上層へ登りつめたい能力者達 の欲望は、そうした労使社会では支配的に不利と見抜く目をもち、労働の政治力を根から殺そうと、徹底して、社会党と総評とをつぶしにかかる戦略に出て、大 成功した。それでバブル経済へ走るのが可能になった、組合に邪魔されなくなった。そして当然のように泡ははじけたのである。
 「構造改革」を、財政や金融の意味でばかり喋りまくっている、識者達は。労働者すらがそ うだ。
 しかし労使の「構造」を、健全に、法に基づいて再構築し回復しなければ、少なくも賃金を 受ける立場の人達に安心な社会は、二度と回復できないだろう。

* 先日のペンの理事会で、ペンの掲げかつ働いてきた 基本の「声明」路線は、政策的・立法的にみれば、まぎれもなく与党政権や民主党などの姿勢と相反し、明らかに社民党や共産党の姿勢に九割九分がた同調して いる、が、しかも日本ペンは、どうみても「反政権」が本音とは見えにくい現状を歩んでいないか、かなりの自己矛盾を、むしろ偽善に近いウソの態度を衣の下 に隠していることにならないか、と発言した。
 今のままが本音なら、声明をほんとうに意義あらしめ有効にしたいのなら、論理の自然とし ても、社民や共産を力づけねばならないのが普通の理解だろう、ところが、日本ペンの現政権はと謂っておくが、むしろ、社民や共産は嫌い、ないし徹して嫌 い、なのである。どうなっているのかと、思う。
 三好徹副会長は、それが自己矛盾ではないという説明を長々とわたしにされていたが、大体 に明快に話すいつもの三好さんにしては、よく分からない言訳にしか聞えなかった。
 この辺に、どうも日本の社会そのものが「構造」的に歪み毀れている端的なあらわれがあ る。声明という口先では、政権与党に徹して批判を加えながら、選挙となれば野党へでなく与党に投票するのと同じことをやっている。政権側につくのが本音 で、野党はますます痩せさせたいのも本音。そして政権の政策や立法に反対し続けるのは、カッコよげなただの建前になっている。これは、やはり茶番である。 虚偽である。構造改革は、こういうウソを改めて行く国民的な盛り上がりが来ない限り成功しない。

* さりとて今の社民党や共産党になにが期待できるだ ろう。労働者を守る組織化もできない、そんな能力がない。
 一つには、彼等はテレビを利用できないでいる。テレビに出て時を得顔に喋りまくっている 連中は、みな、建前は口にするものの、腹の中では、バブルっぽい自民保守政権のままである方が「稼げる」と信じ切っているのだから、世論は偽善的にしか誘 導されてゆかない。
 現代の階級とは「テレビに出る(与党的)少数」、「テレビを見るだけの(怠惰な)大多 数」に二極化しているという、早くからのわたしの認識は、本質に触れていると思う。
 

* 十二月十一日 つづき

* 紀尾井町小ホールで、望月太左衛の会、「神楽囃 子」に「式弓」の舞のついた演奏と、今は古典の坪内逍遙作詞「新曲浦島」を聴いてきた。明日の朝が早いので少し気は重かったが、妻に聴きたい気があり、わ たしもせっかくの鳴り物だからと、寒いけれど四谷駅から歩いて会場に入った。昼間は風の吹きすさんでいたのが、むしろ晩にかけて弱まり、それにこのホール は清潔で心地よく、ぼんやりと夢心地に、古典の音曲の妙趣にひたってきた。もう一番太左衛の新曲が用意されていたが、わるいけれど遠慮して帰宅し、入浴。 入浴中にウイーンの甥から電話があった。風呂の中で吉川英治の短編一つを読んだ。

* あすは京都にいる。あさってのことはまだ考えてい ない。湖の本もまだ出来てこないだろうから、もう一泊京都で過ごしてくることは不可能でないが、いま、切実にどこへという希望が湧いていない。
 

* 十二月十二日 水

* 京都での鼎談に発つ。十分の用意は出来ていない が、榊原教授、大須賀研究員のおはなしを聴いてこようと思っている。トンボ返しに帰ってくる。京都はもう冬に入っている。南座のまねきでも見上げてくるぐ らいで、とくに望みはない。

* @ニフティの調子が悪く、メールも使えず、ホーム ページの転送も出来ない。なにか方式を切り替えるようなことを伝えてきていた。その時期での、向こうの作業のせいならいいが。帰ってきたら動いてくれてい ますように。
 

* 十二月十二日 つづき

* 車中で勉強をと思っても、ボヤーとしていて、途中 寝入っていたりして、はやばや京都へ。

* 鼎談「日本画の問題」は九十分の予定を大幅にオー バーし、スムーズに、問題点もおおかた拾い採って、予想以上に好調に終えた。榊原氏の以前の論文は、「日本画」という言葉がいつから誰により使い始められ たかの検討から、「描く」べきを「塗る」ことへ押し流された日本画を憂えていた。大須賀氏の今回の論文は、近代はじめの東京と京都の日本画感覚の差異を検 証していた。
 鼎談では、もともと「日本画」意識が日本の中にあったわけでなく古代以来、いつも、海外 絵画との対比の中で「日本」が意識されてきた事情を、歴史的にわたしから提起し、いま、「日本画」を考えることが、今後へのどのような有効性をもつのか、 二人の論点の重なりや異なりから語り合ってゆこうとした。
 歴史的な推移と、「日本風」「和様」の認識や評価とを軸に、近代現代の日本画だけでな く、今後がどういうことになるかまで考えた。もう日本画と西洋画との対比以上に、これらを一つの「手で描く絵画」とひっくくり、「ディジタルな絵画」と相 対する時代になろうとしているのではと、試みにわたしから発言して置いた。

* ホテルにもどり、レストランでひとり静かに川端康 成の「雪国」論を読みながら、魚はすずき、肉は鴨のコースを、赤のグラスワインで。閑散として、わたしひとりの貸し切りのようであった。
 食後、先日来気がかりであった、中学のクラスメートが多年闘病の兄上をうしない独りに なっていたのを、古川町の家に見舞い、霊前に線香をあげ暫時慰め励ましてきた。
 弔問は気が滅入る。ホテルに戻るのも気分が暗いので、四条木屋町の「すぎ」に寄り、ふぐ の白玉に、刺身、それに琵琶湖のもろこを三尾焼いてもらい、冷や酒。信楽のすごみのある大壺に千両と小米桜の大枝が豪快に挿してあった。いま京都へ来て、 なんとなく懐かしい心地になれる、極めて数少ない佳い店のひとつなのである、「すぎ」は。
 たまたま店にいあわせた、染色作家の玉村咏氏と親しみ、是非にと誘われて宮川町の茶屋 バー「かな子」に河岸をかえ、染色や茶の湯や心のはなしで談論風発のまま、うまいワインをたっぷりご馳走になった。車で送られてホテルに戻ったのは零時す こしまわった時分だった。来年三月に東京銀座で個展をと。再会を約して別れてきた。もらった図録では、非常に優れた作品で、国際的に高い評価を得ている作 家だった。
 京都はふところが深い。なにとはなし、昼間から夜中まで、今日は絵画を論じあい染色や創 作を語り合い、しかも酒も肴も旨かった。十分だと思った。
 

* 十二月十三日 木

* ホテルで目覚めたら、十時過ぎ。雨。もう十分だ と、すぐ用意し、朝食抜きで京都駅にはしり、十一時九分発の「のぞみ」に乗って、一時半前には東京駅にいた。車中、川端康成の雑誌特集で何本かの論文を読 んだり、放心していたり。はやばやと東京に着いて、こちらも雨。保谷駅でタクシーを待って帰宅。

* 機械は、或る点まではやはり先方の事情で解決して いたが、或る点からはこちらで「設定し直す」用事が出来ていた。サポートへの、通じるまでながく永くかかった電話相談のおかげで、簡単にことは解決した。 二十ちかいメールが入っていて、その中で四本ほどはウイルスのおそれある要削除ものであった。夕食を挟み、ことこまかに必要な返事や対応に時間をかけて、 はや九時前になっている。

* 結婚式に出席してくださるとのお返事をいただき、 大変嬉しく思っております。お会いできるのを楽しみにしております。
 お願いがございまして、このようなメールをお送りしております。お願いと言うの は・・・・結婚式の時にぜひお言葉をいただきたいのです。本来は、お電話もしくはお手紙でお願い申し上げるのが筋なのですが、なるべく早く先生にご連絡申 し上げたかったことや、引越しの用意で部屋でゆっくりお手紙をかける状況ではないこともあり、大変失礼とは存じますが、メールを使用させていただきまし た。失礼をお許しくださいませ。
 ぜひお一言を、いただけませんでしょうか。大学時代の私を一番良く理解してくださってい る方は、実は秦先生だと思っておりまして・・・。ぜひお願いしたいのです。
 ご来席下さる方々の顔ぶれや、お言葉をどのようなタイミングでということをお話ししてお くのが良いように存じます。
 いらしてくださる方々は、友人が多いのですが、その他は会社の人です。会社友人、中高時 代友人が多いので、私の大学時代を知る人は実は少数です。更に、1月19日は大学のセンター試験ということもあり、出身研究室の教授助教授は式に参加され ません。大学時代をご存知の先生は、秦先生しかいらっしゃいません。
 ご言葉をいただくのは、乾杯の後、新郎新婦を知っている上司、恩師のお話のところです。 新郎側は会社上司が話をする予定でいます。といっても、仲人も立てていないような、くだけた形式の披露宴ですので、あまり固く考えてくださらなくて結構で す。アットホームな、柔らかい雰囲気の結婚式を目指して準備しているので・・・。
 いかがでしょうか・・・?
 秦先生にお話しいただければ本当に嬉しいのですが・・。お返事いただければ幸いです。
 大切なお願いを申し上げますのに、メールで失礼致しましたこと、重ねてお詫び申し上げま す。
 ぜひ、よろしくお願いいたします。

* 二年生の一年間は、階段教室の階段や教壇の上まで 学生の座りこんで聴くような、人いきれで気の遠くなりそうな教室だった。この人もそこにいた。次の年には三十数人の特別講義で、そこへも前年の仲間達と一 緒に、ほとんど休みなく、また一年間聴きに来てくれた。この年の「総合講義B」というこのわたしの教室はことに和やかに、そのまま親しく今も付き合ってい る学生が、何人もいる。女性だけでも七人の内五人が親密に、湖の本もずっと支えてくれている。男子では、このホームページを作ってくれた、そもそもパソコ ンをただの箱から生き物に作り替えてくれた林イチロー君などがいたのである。
 その林君の結婚式に今年よばれ、また美しきエンジニアから祝辞を求められている。若い人 達を主体にした堅苦しくない披露宴は、なかなか楽しいのである。若返る気分がする。祝意を身いっぱいにはらんで参会したいと返事をした。

* 電子文藝館で、志賀直哉の「邦子」を読みました。 横に字数が多くて、少し読みづらいのですが、一気に読みました。
 十分に作り上げられた「小説」なのでしょうけれど、淡々と 作り上げた感じのしない自然 な文体で綴られていますね。主人公の男のいつわらざる気持ちと 邦子の女の純粋な気持ちが、その他の登場人物やできごとを黒い背景にしてくっきりと描かれ ているように思えました。悔恨 というよりも 必然性に縁取られているようにも感じ取られました。
 多くの志賀直哉の作品の中で、これを選ばれたのはなぜなのでしょう。
 志賀直哉はあまり読んでいません。少し他の作品も読んでみようかしらと思っています。

* 創作と平和な家庭(妻)との難しい桎梏を書き、書 けない作家の苦痛を書いている藝術家小説として、問題点をさりげなく鋭く射抜いている作である。直哉のモチーフはそちらにあり、うっかりすると、夫の浮気 で妻が悩み死ぬ小説のように読んでしまいがちだが、それでは読みが違うように思う。「邦子」は優れた作だと思ってきたが、なぜ優れているかは、痴情の果て を書いたからでなく、直哉の身にも痛かった書けない苦しみを率直に書いたところに意義がある。わたしは、今度、それを思い知った。

* 雪がちらついた気がした一昨日は、氷点下。今朝は ひさびさのお湿りです。
 「石川県に、雷注意報」と聞いて身をすくめた頃、大阪では「天神さまの美術」が終ってし まいました。
 北陸の冬将軍は、雪を降らせる前に雷で知らせ、去っていく時も雷を轟かせます。「雪起こ し」を聞いて覚悟を決め、数ケ月間、雪に閉ざされて暮らし、そして「春雷」に顔を輝かせ、伸びをして外へ出、天を仰ぎ雪囲いを解く。あれはたまらなく嬉し い雷さまなンですのよ。
 2月の木挽町と4・5月の文楽は「菅原伝授」の通し。仁左に、怨霊になる「天拝山」を 演ってほしいなと思っています。

* こういう「冬」到来の雷様や春雷のうれしさを、わ たしなど、なにも知らない。北の雪国で生まれ育った人からこういうことを聴かされると、しんと冴えた思いがする。

* 利き手も、多数派の右利きのために普段は気にしな かつた。社会の、多くの不可欠なツールが右利き用に作られているために、受話器にしても切符機にしても左利きの人達はずいぶんと不自由や不如意を感じてき たであろうことを、人に言われるまで思いも寄らなかった。
 むかし、富山の女性に雪のふるのは美しいと言って、とたんに「あんなもの、イヤ」と言わ れたときの驚きを思い出す。

* 妻が気付いていたことだが、西武池袋線の駅アナウ ンスで、「ドアがしまります」と言う駅と「ドア、しめさせていただきます」という駅のあるのに、わたしも気付いた。
 「ドアがしまります」の方が、はるかに適切である。「ドアが」と言われて注意を喚起さ れ、「しまります」で完結する。どうていねいそうであろうと、「ドアが」でなくただ「ドア、」では分りにくく、「しめ・させて・いただき・ます」とは間延 びしている。あわやの瞬時のアナウンスだということを忘れている。
 

* 十二月十四日 金

* 討ち入りかと思い出しながら、今年は、忠臣蔵の映 像に一度も出逢ってないなと思っていた。しかし電子文藝館に吉川英治の「べんがら炬燵」をもらい、わたしが起稿し、校正していた。念校しながら、一度なら ず、ぐっとこみあげたことがあり、大衆小説の骨法のようなものを感得できた。一字ずつの校正であったればこそだ。千葉の勝田さんからも「べんがら炬燵」は よかった、ああいうのが嬉しいとメールをもらっている。

* 「湖の本」の搬入が二十日となり、次の日が満六十 六の誕生日、日本ペンクラブより一ヶ月の弟になる。
 この分ではクリスマス過ぎまでばたばたと落ち着かない。近年にない珍しい師走になった。 十七日が歳末の理事会で、そのあとは講談社のパーティーがある。十八日はペンが主催の戦争と平和を考えるシンポジウムが予定されている。三百人劇場からの 恒例の「クリスマスキャロル」招待もあったのに、たぶん発送作業と読んで、お断りしていた。こうなれば二十日までの時日をせいぜい活用して、仕事の山を低 くしておきたい。
 今日も、加賀乙彦の「フランドルの冬」第一、二章を校正し終えた。掲載は予定の半分にし たが、それでも多い。遠藤周作の「冬の人」とはかなり容貌のちがう作品だが、やはりフランスの、加賀さんらしい教会立精神病院のクリスマスを書いてある。
 とにもかくにも、これで、理事会から、現副会長作品を一つ「電子文藝館」に展示できる。 名誉会員長谷川泉氏の「阿部一族論─森鴎外の歴史小説」も追いかけて初校を終えている。もう一度丁寧に読み直したい。碩学のすばらしい論究で、原作の感銘 を新たにしえた。
 さらに伊藤桂一氏の小説「雲と植物の世界」のスキャンが明日にはできる。久間十義君の長 い現代小説は、単行本からのスキャンに手間取っている。
 わが委員会の中で、「スキャン」出来ますという人が殆どいない。これには参る。一本の作 品に長時間かかるだけでなく、スキャン作業の間中、脇見もならず集中していないと能率も上がらず、間違いもしでかす。
 初めての「随筆」欄原稿が、今日私の手元へ直接栃木の会員から送られてもきた。
 しようがない、文藝館のことはやるべきはやるしかないのだから、同じなら楽しんでやろ う。などと、言い過ぎてはいけませんと勝田さんに窘められているのだが。

* 電子文藝館ほんとうにありがとうございます。大原 雄『…Rさんへの手紙』ほんとに冗談じゃねぇよと思っています。
吉川英治『べんがら炬燵』いいですね。こうゆうの好きです。感謝々々です。
 と、読ませて戴くたびに申し訳ない気持ちで・・さて、「・・ゆっくりやるか、」「・・も うすぐ掲載にまで運べる」と、つまりは、テキスト化の実際をほとんど全部なさってるということですよね。しろうと判断ですが、イケマセンデゴザリマス。何 故かというと、・・ソレデハ、マ、ヤッテシマイマスルカ・・となりそうだからです。「・・だれかプロにまかせて」の方が、やはり楽だと思いますが、それで も、ヤッテシマッタホウガイイ・・のでしたら、(だからなさっているのでしょうから、) 中略 
 師走は勝手にはやくなりますね。老化かなぁと思っています。お大切に。

* わたしは義経には近づけても、頼朝のようにはな れっこないので、鵯越は先頭で駆け下りてしまうのである、つい。

* 胸の深くからラクになるような、嬉しいメールが卒 業生から届いていた。待っていた。

* 幸福を追っています。  秦さん、こんばんは。ご ぶさたいたしました。
 先週土曜の夕方、石神井公園の会社の先輩宅へ招かれ、行きがけの西武線で寝過ごして、保 谷駅で乗り換えました。上り電車を待つ数分間、秦さんにお会いできるかもしれない、と、ちょっと、どきどきしました。一、二か月にいっぺんくらい、秦さん にお会いする夢をみます。
 いろいろご心配をおかけしましたが、心身の負担になっていたことを一つずつ解決してい き、いま、幸福な日々を実感しています。引っ越しをし、彼との新生活をはじめました。
 先頃、両親を、伊吹山のふもとの彼の実家へ連れて行きご挨拶。長浜の、古い蔵をそのまま 使った小料理屋で、自然食のコース料理を美味しく戴き、二家族でやんわりとくつろいで、日本のかつての野原のようすや畑仕事の大変さについて語り合 い・・、それで事実上の結婚です。簡単ですね、ふふ。
 雨上がり、風に洗われた琵琶湖岸の星空は冴え冴えとうつくしく、冷え込んだ翌朝は金いろ の光のなか湖面にしっとりと靄が立ちこめ、大層なカメラを抱えたおじさんたちが、5時起きでやってきた、いや4時起きだと言いながら、夢中になってシャッ ターを切っていました。
 ぬけるような青空、澄んだ空気と光、まぶしいほどの紅葉、大らかな山襞とゆたかな水 面…。
 結婚式はしていませんが、それにふさわしい、光あふれる、それに人も自然も何もかもがや さしい、1泊2日の旅でした。
 引っ越し先は賃貸マンションで、***駅から歩いて15分近くかかりますが、いろいろな 意味で願ったりかなったりの住まいです。3方向が窓で、***川が近いために東側には広々と空が見えます。寝るときは必ずカーテンを開けておくのですが、 早朝ふと目覚めると、みごとな朝焼けや明けの明星が目に飛び込み、目覚めと驚きと快感が同時にやってくる、という贅沢を味わえます。本格派の自転車を手に 入れたので、早起きができた日には、2人で多摩川沿いを走らせます。西側には多摩につづく丘陵が望め、その上に富士山が顔を出しています。一番ちかいスー パーに行くには、梨畑のなかのうねった小径を通らなくてはなりません。月のない夜は懐中電灯を片手に。(距離はほんのちょっとですけど)
  部屋のなかでは楽器の練習もできます。洗面所がやたら広いので、写真に凝っている彼は暗室を作ろうとたくらんでいます。
   実家を出てから、雑多な街中のアパート暮らしを2軒体験しましたが、私にとって、自然を見聞きし、ふれること、自然の静けさにひたることがどれだけ切実な ものかということを実感しました。そして、世の中の人は案外そうでもない、ということも知りました。人間にとってある程度普遍的な欲求だと思っていたの で、ちょっと意外です。意外と思った自分を、世間知らずとも認めましたが。
 引っ越し先は以下の通りです。(略)
 とりあえずのご連絡と思ったのに、なんだか長くなりました。マキリップを久々に読んだこ とや、辻邦生の「嵯峨野名月記」のことなどもお話したかったのに。でもまた今度にします。
 ほんとうにご心配おかけしました。力になっていただきました。ありきたりの言葉しか出ま せんけれど、感謝の気持ちでいっぱいです。

* 久々にこの人の、本来持ち合わせているのびやかな 文章に接し得て、お祝いの気持にありがとうという感謝すら籠めて嬉しかった。佳い結婚式ではないか、それもまた佳いと思う。わたしたちも、似た結婚式を二 人だけでしてきた、親の代りに、若王子山頂、校祖新島襄と弟子達のお墓に立ち会ってもらって。
 この若い人達が琵琶湖の朝の美しさに心身をときはなって結婚してきたことも、「みごもり の湖」の作者には心親しい。あの世界からは伊吹山も長浜も比良も鈴鹿もつねにまぢかい。なによりも琵琶の湖が懐かしいくらい器のようにしんとしずんでい る。

* 長谷川泉さんの「阿部一族」論を読んでいると、原 作もそうだが、テレビ映画の「阿部一族」も思い起こす。ずいぶん数多くの単発テレビドラマも観てきたが、もし只一つと限定されればわたしは「阿部一族」を 挙げるだろう、少なくも歴史モノとしては、他にあれを凌駕した秀作は思い浮かばない。娯楽ものなら五社監督の「雲霧仁左衛門」なども思い出すが、感動作と いう批評性と完成度からは「阿部一族」を取りたい。そして森鴎外のと限らず、近代以降の歴史短編としても「阿部一族」を最高の作品の一つと認めている。た いていの読み物の歴史物は時代物でしかなく、なによりも文品いやしきものが多すぎる。

* 遺品あり岩波文庫「阿部一族」  という無季句の 傑作が六林夫にある。大岡信さんが最小で至純の戦争文学というふうに受け止められていたのに、わたしも賛成である。
 東工大の学生諸君の多くが、この句を読み替えて、  気品あり岩波文庫「阿部一族」とし ていたのが懐かしい。
 

* 十二月十五日 土

* あさ、七時半に血糖値を測って、86、よしよし と、また寝てしまった。うそのようにスウスウ眠れた。幾つもの宅急便らしいベルを夢うつつに聞いていたが、十一時半に、その一つにわたしが出てゆくはめに なった。もう郵便も来ていた。

* 原稿依頼をうけながら忘れてしまうことが、今年は 何度もあった。若い頃と違い、原稿依頼もよほどツボにはまっていないと、心ときめかない。書いても書かなくてもいいようなものだと忘れてしまう。意図して ではないが、どこかに「忘れちゃお」とする気もある。

* 昨日は久々のいいメールが二つ三つあり、そのうち の一人から、むかぁしに、わたしがその人に言ったらしいこと、批評、について反問があった。自分ではどう思っていますかとだけもう一度返事したが、それ自 体への関心はもうわたしの中で薄れていた。よいこと、わるいこと、賛成なこと反対なこと、むろん無いわけではなく、政治や社会の事件では意見をもつことが 多い。しかし思いの深くでは、大概なことには是も非も、賛成も反対もない向かい方をしていたいと思うようになっている。咲いているバラの花に向かって賛成 したり反対したりしない。月が昇り、朝日の輝くことに是非をいうようなことはだれもしない。およそのことに、それぐらいな気持でいられるようにと、わたし はこの頃願っている。願うだけでそうは問屋が卸してくれないけれど、いわばそういうことである。北風がとげとげしく吹けば、是非無く襟をかきあわせる。陽 が照ればやわらかに顔をふりむける。賛成や反対の意見・分別でそうするのでなく、自然にレスポンスする。

* 年々歳々花は同じように咲き、歳々年々人は動いて いる。動く人にたいして執着するのが人生であり、そこに愛憎会苦が生じて青くなったり赤くなったりする。一枚の鏡になっていれば、花は去っても確実にまた 咲いて現われる。人はそうは行かない、行くことも行かぬこともあり、それはそういうものだと分かるようになっている。われから去ることも行くこともない が、去るのを引き留めたり、来るのを拒んだりしてみても、ともに始まらないと分かってきている。人の世に無用に賛成や反対や、是非の分別を持ち込みすぎな いことで安心しながら、だからといって仙人のようになるのでなく、生き生きした好奇心や嬉しさや楽しさや、むろん怒りも憎しみも、あるがままに去来させ、 また発動したいと思う。寒ければ襟をかたくし暖かくなれば肌をくつろげるのと同じほど、無心に自然に喜怒哀楽したい。それは、出来ないことではない。矛盾 でも撞着でもないようだ。
 自分の中に、相変わらずとげとげしたものの、欲深いことの在るのが、苦痛の最たる一つに は、ちがいない。それを承知でそういう自分のトゲや欲と付き合っていなければならない。ま、そういうことらしい。善人になりたいなどと思ったことがない。 いわゆる悪いこともいっぱいしている、修辞的に言うのではない、わかっている。善悪なんて何だろうと、重く考えたことがないし、分別していない。人の世の 作り出すいちばんつまらないモノサシではないかと、軽蔑さえしているかも知れぬ。感じると泪が吹き出る。かっと怒るし、どきどき胸がさわぐ。善悪だの正邪 だのより、そういう自分の方がだいじである。

* 昨夜から、「東海道中膝栗毛」を読み始めた。弥次 喜多というコンビは、世界に類のない日本文学にほぼ固有の存在であり、しかも今も未来にもだれよりも長生きしてゆくであろう日本人であり、人間なのであ る。読み進めば進むほど、ばかにし侮り憤慨しながら、憧れもじつはもっているような、こんなであればどんなに気楽に楽しかろうかと思い秘めているような、 それが我らが弥次喜多なのである。弥次喜多とだけいって、大方の日本人にすいと受け取られるそんな人間像は、他に誰一人なく、他に誰一人も創り得ていな い。ばからしさの、軽薄さの、ずるさの、なさけなさの、しみったれの、そういうものの普遍不変の価値を思い知らせる古典である。これぐらいに分かっている のだから今更読まなくても佳いようなものだが、じつは、そう読みやすいモノでもないのだが、とかく賢くなってしまおうとする自分を、我から「おちょくる」 ためにも当分道中に付き合おうと思う。

* 長谷川泉著作選十二巻は、たとえば朝日賞などにふ さわしいものと推薦したことがある。なかでも博大な「森鴎外論考」「川端康成論考」の弐册は、座右に置いてあるとついつい手が出る。文体の魅力に富んだ詩 人である国文学研究者であり、この人に出逢っていなかったら、わたしは「小説」を書き始めるきっかけをとても掴みにくかったろう。
 今から「阿部一族論」を慎重に念校する。
 

* 十二月十五日 つづき

* 長谷川泉「阿部一族論ー森鴎外の歴史小説」を面白 く読み終えた。いつでもATCにおくりだせるものが、加賀さんの小説と、二つ揃った。伊藤桂一作「雲と植物の世界」をスキャンし終えて校正を始めている。

* 夕方、空腹で階下にゆくと仮名手本忠臣蔵の山科閑 居の場を、玉三郎の戸無瀬、勘九郎のお石、勘太郎の娘、孝太郎の力弥、そして仁左衛門の本蔵、富十郎の由良之助で放映していた。由良之助山科閑居に玉と勘 の母娘が入り、大星妻の勘九郎と渡り合いだすあたりから見始めた。これは実の舞台も観ていたので、すみずみまで面白く興味津々。どうにも仕事場へは引き返 せずに、おしまいまでたっぷり観た。観させてくれた。玉三郎が頑張る頑張る、勘太郎は当たり役とすら言える初々しさ。当節では一の顔ぶれか、力弥がすこし 軽いが、まずまず。
「阿部一族」の殉死犬死にのむごさを論じた周到周密な論考を読み終えたところであり、忠臣 蔵の意義が関連して迫ってくる。人ひとりの命までかけて手順を踏み踏み、一夜切りの祝言がかない、しかし明日は花嫁をのこして花婿は江戸の仇討ちに立って ゆく。娘の父は娘の夫に自身の命を授けて死んでゆく。殿中での刃傷を半ばに抱きすくめて遂げさせなかった加古川本蔵と、主君の無念を報じに江戸へ向かう大 星の、娘と息子は許嫁であった。いやもう、大層な作りたてでありながら、芝居はくまなく完成されていて、おそろしいほど美しく人が動く。色彩、音楽、腹と 腹。
 気がつけば、この師走の、やっと討ち入りゆかりの芝居に触れていた。映画よりも凝縮した 名作の名場面に堪能した。

* サラマンカより。  秦先生お元気ですか。12月 に入って、引越しだのなんだのと、かなり忙しい毎日を送っています。引越しと言っても同じサラマンカ市内です。
 最近こちらはまた一段と寒くなり、昼間太陽が出ていてもマイナス3度を指しています。天 気予報の話では、夜にはマイナス10度になるらしいです。
 こちらの生活は既に一ヶ月半が過ぎ、かなり慣れてきましたが、これというものがまだ見つ かりません。まぁ、あせらずにやっていこうと思っています。
 とりあえず、日記は欠かさずに書いています。パソコンでですが、一日に必ずA4で1ペー ジ以上書くことにしています。実は、そのうち先生に読んでいただけたらと思いながら書いています。
 年末年始は学校が休みなので、スペイン国内を旅行しようと思っています。
 日本もクリスマスを控えて寒さも一層増していることと思いますが、御身体にはくれぐれも お気を付け下さい。
 

* 十二月十六日 日

* 討ち入りも済んでまだこの何日も先から、からだを つかう大仕事が控えていると思うと、かなり気が重い。六十五から六十六歳へ足掛け二年の送り出しで、「湖の本」の第六十九冊目を荷造りすることになる。

* 弥次喜多が道中へと滑り出した。口から出任せのよ うな狂歌が巧みにおかしい。江戸者とみると宿銭外の酒を謂わなくても小女がせっせと運んできて弥次喜多を閉口させる。籠に乗れば籠かきが前後ろで連れて喋 るなかみが、凄まじい。宿の呼び込みも、なにもかもくそリアルな地の言葉で、傍注や脚注と首っ引きでないと舌を噛みそうになるが、鉋屑をめらめらと燃し附 けたような直接話法の連続また連続で、地の文は小さい字のト書き程度。とてつもない古典である。「うつほ物語」「狭衣物語」「浜松中納言物語」など、立て 続けに読んできたが、これが同じ国の古典文学かと呆れるほどの大違い。もしこれが当然の時代差の魔法のようなモノとすると、海外の文学を読むにしても、な んだか海外物は全部一と面の同時代モノのように錯覚しているけれど、言葉遣いも語法も語彙も、十七世紀と二十世紀では大違いのはずと心得ていなければなら ない。
 言うなれば、翻訳小説というのは、時代の差をすべて均した現代語訳でもあるのだ。シェイ クスピアは近松門左衛門の頃の人である。近松と竹田出雲と南北と黙阿弥では、歌舞伎そのものがえらく違う。表現も言葉も生活も違う。そういう違いが、ぼん やりした違いの程度ではない、烈しい。そんな激しさが、「クレーヴの奥方」や「高慢と偏見」の訳文と、最現代の文学の訳文とで、たいして違わない日本語に 置き換えてわたしたちに与えられている。二百年の言葉の差が翻訳では「現代語」へみな均されていて、読む身の方で、風俗や人情の差にそれと察して、ああこ れは昔っぽいな、これは今今の感じだなと読み分けている。「若きヴェルテルの悩み」も「異邦人」も、訳文そのものに言語の時代差は、その通りに表現されて いない。出来ない。
 翻訳小説とは、原文の忠実な再現ではなくて「現代日本語訳」なのである。鴎外の「即興詩 人」は雅文の名訳であり、アンデルセンの原作原語の訳では、むしろ、ない。訳したのは筋書き・事柄だけで、表現は鴎外の胸の内なる文学言語であり、現代語 ですらない。

* 同じ日本語でも、日本人により、明治以前の日本語 は全然読めない分からない人の方が圧倒的に多い。翻訳を業とする人でも同じで、現代の英語作品を日本語に置き直せる人が、雨月物語程度でもまともに読めな い、徒然草などとてもとても、源氏物語となれば皆目だめな者がいるはずだ。そういう翻訳者に、海外作品の二百三百年の言語差が正しく翻訳できるとはなかな か信じられない。せいぜい出来て、ひとしなみに現代語訳してくれているのだ。外国語の「翻訳」なんてものは、正体はそういうモノである、大方が。享受の恵 みには限界限度があるということだ。あらすじだけは読めるのである、あらすじだけでも、面白いモノは面白い。「ドンキホーテ」などを、なまじ古色をつけて 訳されるとよけい退屈するとも言える。坪内逍遙のシェイクスピアよりは福田恆存の訳のほうが有り難いのである。

* はんなり、なんどり、ふっくら、やはらか。見た目 も心ばえも、ことに女の人は、これにかぎる。そして聡明。賢くなくてもいい、聡いのがいい。男も女も、ぎすぎす、つけつけ、がさがさ、ばたばた、ちょこま か、はイヤだ。鉄幹が「才たけて」と挙げている「才」とは、たぶん教養や技能でなくて、家庭を切り盛りする骨惜しみしない才覚・機敏のことだったろう。た とえ「みめうるわしく」ても、そういう生活の「才」がなくては保てない。従って「みめうるわし」いよりも、遙かに「情けある」方が大切で、これも、ただ優 しいの親切のという意味であるより、四時の折々に風情を感じ取れるヴィヴィッドなセンスを鉄幹は期待していたように思う。はんなり、なんどり、ふっくら、 やはらか、そして聡明。この聡明とは上に謂う「情けある」の意味にほぼ等しい。
 谷崎松子さんを想い出す。仲忠母、仲忠妻、落窪、紫上、宇治中君、寝覚、式部卿の一品 宮。謂うまでもないが、琴瑟和する必要があり、つまり性的魅力を欠いては話にならない。性は生活の全面を占めてはならないが、また必要十分な10-15 パーセントほどは金無垢の宝である。老境これが2-3パーセントに縮め得ようとも 0 にしては、はんなりも、なんどりも、ふっくらも、やはらかも、乾いて渇くようになる。鉄幹にはそれが歌えていなかった。

* 早くて二十五日までは汗だくの歳末です。かつてな いほどの歳末になりました。
 むかしは、歳末が不安でした。どんな来年だろうと。
 いまは、そういうこと全くありません。どんな来年であろうが、来年です。来れば映し、逝 くものは行かせて、いつまで歩んでも「橋なかば」です。無理なことや不自然なことは出来なくなってきました。

* これはわたしのメールである。来年も仕事があるだ ろうか、書けるだろうか、暮らせるのだろうか。昔から、よほどの人でもしょっちゅうそういう不安を抱いていたと漏れ聞いている。むろんわたしも、恵まれ続 けていたが緊張して、歳末は、年初も、気が重かった。気がつけば、それが消え失せている。元気に生きて楽しみたいと思っていて、その楽しみの中に書くこと もしっかり混じっているけれど、暮らしに不安はなく、健康であればとだけ、そして身の回りのあの人もこの人もみな元気でいて欲しいと願うばかりである。 「もっと、もっと」とさえ願わなければこんなにらくなのだ。

* 伊藤桂一作品の初校に妻がかかりきりだったので、 ちかくのお宮前の小さなビストロに行き、うまい夕食をした。魚も肉もあり、デザートまでふくめて六皿、赤坂で店じまいしたサンキエームより、凝って旨い料 理をやすく食べさせる。だいたい料理がどんなものであったかなど説明されるのもうるさがる方なので、洋食の場合はとくに何を喰ったとも言えないが、魚は鱸 で、肉は豚のシチューが逸品だった。アスパラガスのスープも、前菜二皿もいたく気に入った。デカンタのハウスワインがもう少し旨ければ、満点をあげたいぐ らいで、話題は文学と文藝館の作品。
 映像の「阿部一族」の話をしていると思わずこみ上げてきそうで困った。山崎努、蟹江敬 三、藤真利子、石橋蓮二など、顔を想い出すだけでわたしは興奮する。
 伊藤さんの小説も佳いのだ、時代読み物ではない、兵隊さんと馬と中国のはなしだ、妻はグ ズグスと鼻をつまらせながら一字一字読んではスキャンの認識ミスを直している。
 家の近くに佳い店が欲しいと思い、「ふぃれんつぇ」が出来ていたのが、ま、片道十分はか かるのに、「ケケデプレ」は五分とかからずにサンダルで行ける。おしゃれな店ではないが料理は出来る。ありがたい。

* オサマ・ビンラディンやオマルが、捕捉されそうで されずに、時日を経ている。もし国外に自然に抜け出ていたりすれば、どういうハナシになるのか。タリバンやアルカイダは潰したと鼻を高くする気であろう か、アメリカは。捕捉しても捕捉できなくても得るところは殆ど無い、未来に禍根の種をさらにさらにまき散らしただけのことで、終りもしない一段落になるだ ろう。アメリカとイスラエル。正義をふりまわすぶん好きになれない。
クリントンの方がブッシュよりものが分かっていた。 
 

* 十二月十七日 月

* 谷村玲子著『井伊直弼 修養としての茶の湯』(創文社)を戴いた。学術研究書である。秦文学研究会でお目にかかり湖の本も支えてもらってきた。こういう研究に従事されているとは 聴いていたが、満を持しての出版で、襟を正させるおもみが本そのものに備わっている。泉鏡花や折口信夫や、若い、と思われる女性研究者による良い追究の本 が、続いて贈られてくる。門玲子さんや上野千鶴子さんなどを先駆に、この数年、印象的な、女性による学究の開拓と出版がつづいている。とても力強い。
 これは歌集だが、水沢遙子さんの「空中庭園」北澤郁子さんの「夜半の芍薬」もさすがに心 深い表現で、吸い込まれるように読み継いでいる。
 研究も短詩型のも苦にならないが、詩情の意味でなくジャンルとしての「詩」となると、難 しい。詩、散文詩、散文のあいだに方法と内在律の自覚がどれほどあるのだろうと読んでいて惑うことも多い。そして感動の問題。詩は、読むのが難しい。似た ものを書けといわれれば書ける気がする。書くのは俳句が難しい。

* 今年最後のペンの理事会に午後は出てゆく。
 

* 十二月十七日 つづき

* 石川達三元会長の遺族から、第一回芥川賞「蒼氓 第一部」の掲載許可を戴いた。電子文藝館にまた一つ記念作が加わる。また異色の記念作とでも言おうか、芥川賞受賞を拒んだ只一人の受賞者高木卓の歴史小 説、大伴家持を書いた「歌と門の盾」が手に入った。これもぜひ掲載へ持ち込みたい。三好徹副会長の「ゲバラ傳」がもらえそう、三好さんのチェ・ゲバラに関 する著作は日本では稀有のもので、前に読んでつよい感銘を受けた。一人一人が力作をというきもちになってくれれば、ますます充実する。随筆、児童文学、ノ ンフィクションなど、積み重ねたい。現理事から十五人をはやく実現したいと思っている。

* 梅原さんがずいぶん疲労しているように見受け、気 になった。気の毒な気がした。理事会、もっと、テキパキやれないものかと思う。書面で済むものは書面報告すれば、そして書いたことはくどくど繰り返し喋ら なければ、もっと要領のいい会議になるのにと、いつも思う。司会者も時には交替してはどうか。

* どういうわけか、理事会例年の忘年会は省きなが ら、くじ引きの福引きがあった。有り体に言えば、「ペンの日」に、当たり籤なのに受け取らず帰った人が大勢いたと言うことらしい。そして、わたしは、一番 の当たり籤という日光のあるホテルの二人宿泊券を引き当てた。来年の五月頃までに、都合のいいときに予約してゆけばいいらしい。先日ははずれ籤であった。 今日は一番籤。残り福ということか。
 だが、恐ろしい数量の福引きの品々をいろんなところから寄付させている、このやり方は、 誰かも言っていたが、問題がありはせぬか。やっぱりわたしは、「ペンの日」が「福引きの日」で終るなど、低調に過ぎると思う。帰ってしまう人も多いのが分 かる気がする、じつは、以前はわたしもさっさと帰っていた。

* 理事会の後、帝国ホテルでの、講談社野間賞の授賞 式に出てきた。瀬戸内寂聴さんが野間文芸賞。ほかに新人賞が二人、児童文芸賞がひとり。驚いたことに四人とも女性。最近の文学賞は女性のものと相場が決 まっているみたい。
 選評を聴き終えたところで退散し、四国から夏に転勤してきた「湖の本」十五年来の読者を ロビーに迎えて「クラブ」に入り、ブランデーとバーボンとで、軽い食事と四方山話を楽しんだ。
 私の作品との出逢いは、奈良の帝塚山に学んでいた頃の「みごもりの湖」で、「清経入水」 も人に勧められ、ちょうど朝日新聞が「湖の本」創刊を報じたのをきっかけに、書店経由では手に入らぬと知り、じかに購読を申し込んできたのが、初め。後年 に、あやめ池の母校帝塚山へわたしが講演に行ったことも、知っていたという。
 その頃からの四国でNTT勤めだったのが、世の転変で、東京品川へ転勤とバタバタ決まっ たのがこの夏で、十六歳の、湖の本と同い歳の少年と二人して、高知からはるばる上京してきた。東京で暮らすのは初めてだが、スムーズに適応しています、 と。このリストラ時代に、むしろラッキーに人生の曲がり角をうまく曲がってきたのだと言えようか。
 歓談の後、クラブから送り出して、わたしは少しあとに残り、客もいなかったのでクラブの 人達と暫時談笑。わたしが、この週末には六十六歳になると言っても、みな冗談だと請合わないのに、びっくりした。クラブの支配人の小柄な小父さんを、わた しは私より幾つか年輩だと見ていたのが、幾つも年若いという、これにも仰天した。誕生日にはシャンパンを用意しておきますからなどと、小父さん、結構な挨 拶を言ってくれる。

* このクラブで知り合いと出会ったことはかつてなかったが、今夜は、どこか集英社筋の子会社に出ていると聞く家の近所の編集者が、何人かで別室で客を接待し ているか何からしいのと、一緒になった。仕事で酒を飲まなくてはならないのはつらいなあと、ふと、同情した。

* 荻江の家元壽友氏の久しぶりの手紙が来ていた。わ たしの作詞の「細雪 松の段」をNHKが録画することになったと。これまでに藤間由子が弟子と舞い、今井敬子が一人で舞い、京都先斗町の芸妓が舞ってい る。こんどは誰が舞うのか、荻江の新作では曲の佳い作品だと思っている、楽しみだ。

* 京都での木屋町で出逢い、宮川町の座敷バーでうま いワインをご馳走になってきた染色の玉村咏氏も手紙をくれて、文章も幾つか送ってきた。私より一回り若い。どこで誰に出逢ってもこのごろはみな私より若 い。しようがない。
 文章を読んでみると、なかなか書けている。独特の佳い色気のある、字義通りのハンサムだ が、それが文章ににじんでいる。ぜひまた逢いたい。こんどは東京で、いやまた京都で一月に、とも。一月には京都美術文化賞の受賞者展覧会がある。財団母胎 の理事長が勲章をもらったので二月初めには祝賀会をとも言ってきている。これは、ちょうどたてつづけの講演が予定されていて出掛けられないが、そうこうす る内に、また賞の選考に行く。京都に若い気持のいい創作者の友達が出来たのは、出かけて行く励みがついて有り難い。
 

* 十二月十八日 火

* 真っ暗闇の内に跳び起きて、発送用の封筒に宛名は りしたり、一つ一つに挨拶の紙や払い込み用紙を入れていったり、絶対に欠かせない作業に午前中かけて、いま眠気覚ましの濃い茶をがぶ飲みし、ムカムカして いる。やがて昼になる。午後も同じことを続ける。今夜のペンのシンポジウムには梅原さんはじめ、瀬戸内、加賀、井上ひさし、三好全副会長が勢揃いしての戦 争と平和を考える会なので、出掛けたいのだけれど、本は刷了の一部抜きがもう届いていて、予定通り明後日朝に届くなら、何としても作業はし遂げてしまわな いと難儀なことになる。

* 高木卓遺族との掲載交渉は、電話のあった中川五郎 さんにお願いした。長谷川時雨の本は、森秀樹さんがみつけて送ってくれると。スキャンスキャンスキャンに追いまくられてきたが、まだまだ続く。それも余儀 なく本の発送で中断せざるをえない。

* 夜前は、二時間半も寝ただろうか。弥次喜多と道中 していて、くすくすくすと笑わせられながら、つい夜更かししたが、絶対必要な宛名はりなどの残っているには逃れようなく、五時前に起きて仕事にかかった。 朝の血糖値は正常値であった。弥次喜多はグルになって世間にちょっかいを出すだけでなく、お互いにだましつすかしつろくな真似はしない。それでいてやはり 弥次喜多道中なのである、ふたりとも風呂釜の底を抜いて下駄履きで入浴し釜を抜いてしまったり、弥次が宿の女をちゃっかり口説き落とせば、喜多は女にあれ はたいへんな病気持ちだと吹き込んでオジャンにしたり、そのくせあっけらかんとして俗の俗のおかしみに溢れている。
 

* 十二月十八日 つづき

* とうどう今晩のシンポジウムに出掛けられないま ま、終日発送の用意にかかっていた。あすもまだ。この作業は、いつもそうだが、ここで終りというキチッとしたゴールがない。このへんでイイヤと断念してし めくくる。九時だが、とても眠い。それでももうすぐ妻の初校が済んだところで伊藤桂一さんの小説を念校しようか、久間氏の長篇を三分の一ほどプリントした のをスキャンし始めようか、石川達三の「蒼氓」をまず全集本からプリントしようか、いっそ今晩は早く寝てしまおうかと迷っている。ぼんやり息子のホーム ページの彼の恋愛観を読んでいたが、いっそう眠くなった。

* 玉村咏氏が北国の新聞に書いている文章を読んでい て、「お嬢さま」「奥様」という言葉がでてきた。氏の京都のアトリエに着物を誂えに、買いに福井市から来たお客との話のようであった。それはそれでいい が、京都では「さま」「様」はあまり用いないのである。天子様でなく天子さんであり、宮様でなく宮さんであり、「貴様」「貴様まいる」というような侍の田 舎言葉や江戸の遊女の無心の手紙のような「様・さま」はそう大事がることはなかった。あんなのをむやみと流行らせたのは銀行などでの客の呼び出しであろ う。東京では「様」はごく丁寧語と言うことになっていて、病院の外来や会計でも、銀行でも、ホテルのクラブでも「秦様」と呼ばれる。京都であまり「秦様」 と呼ばれた記憶がない。「秦さん」「秦はん」である。ぞんざいなようでそうでなく、よそよそしくない。
 玉村氏は東京で勉強して、京都に来て居着いている人らしい。「お嬢さん」「奥さん」でい いのではないか。そういえば、漱石は『こころ』で「奥さん」「お嬢さん」で終始している。一箇所も「様」は使っていない。「先生」呼ばわりの安っぽいこと では京都も東京も差がない。わたしは「先生」とよばれようが「秦さん」であろうが、呼ぶ人の勝手だと思うことにしているから、気にしない。「先生」はよし てくださいなどと断ることさえばかばかしいと思う。しかし「秦様」と呼ばれるとたいていちょっとイヤな気がする。「秦さん」にしてくれと言いたくなる。

* 谷村玲子さんの『井伊直弼』は、すうっと引込むよ うに冒頭から読ませる。
 「彦根藩井伊家は、慶長六年(一六○一)初代彦根藩主直政が旧石田三成の居城跡であった 佐和山城に入って以来、幕末まで一度も所替えはおこなわれることがなかった。現在彦根市金亀町にそびえる彦根城博物館は、江戸時代を通じて彦根藩歴代藩主 が政務をとると共に、日常生活をいとなんだ表御殿の跡を復元建築したものである。現在でも彼地に立てば、溜間詰筆頭大名三十五万石の威風が感じられ、荘厳 かつ華麗な藩主の生活ぶりがしのばれる。さらに城の北北東には、城の内濠とかつての琵琶湖の内湖の間に位置する庭園玄宮園が広がっている。唐の玄宗皇帝の 離宮に基づく池庭で、かつては舟遊びも楽しまれたという。」
「おこなわれることがなかった」は単に「おこなわれなかった」でありたいが、この筆致でと んとんと読まされてしまい、気がつくとずいぶん先へ進んでいる。これはしかし小説の文章ではない。谷村さんの本は研究論述の本である。

* 高木卓の芥川賞を拒んだ「歌と門の盾」だと、こう いう筆致である。
「天平二年も押しつまった年の暮、十三歳の大伴家持は弟妹と共に父大伴旅人に伴はれて五年 ぶりで九州から奈良へ帰つてきた。久々で見る平城京(ならのみやこ)の物珍しさもさることながら、思へばやはらかい少年の胸に数々の忘れがたい印象を刻み つけた太宰府の五ヶ年であった。」
 これは小説の文章である。
 この差異が掴めていないと、読めていないと、歴史物の小説はなかなか評価できない。

* 妻がぼろぼろ泣きながらスキャンを初校した伊藤さ んの小説を、階下から持って上がってきた。「泣かされた」とあかくした目に泪を溜めている。さて、それを早く念校してしまおう。わたしはこの「雲と植物の 世界」は以前に読んで感銘を受けている。伊藤桂一さんとは、二十数年前に、井上靖団長の一行で一緒に中国を旅した。井上先生の奥さん、巖谷大四さん、辻邦 生さん、清岡卓行さん、大岡信さんがいっしょだった。この顔ぶれをみてもいかに井上先生によくして戴いたかが分かるというものだ。わたしは海外へ初体験 だった。伊藤さんは敗戦後初、久方ぶりに踏まれる中国の大地であった。馬と共にくらした伊藤さんはかつての兵隊さんであった。一行の誰よりも感慨迫るもの をもっておられた。昭和二十七年の作、伊藤さんが初めて芥川賞候補に挙げられた中国ものの先行作である。伊藤さんは芥川賞に三度、直木賞に二度候補に挙げ られて、そして『蛍の川』で直木賞を得られた。いつどこで逢っても初対面以来懐かしい優しい大先輩である。

* 建日子がほどなく帰ってきて、あすは一日こっちに いるという。わたしの六十六の前夜祭をしようというらしい。なににしても嬉しいことだ。
 

* 十二月十九日 水

* ATCに、伊藤桂一「雲と植物の世界」加賀乙彦 「フランドルの冬」長谷川泉「阿部一族論ー森鴎外の歴史小説」を送稿した。それぞれに重きをなすであろう。伊藤さんの小説、終局へ来て泣かされた。

* 森秀樹委員に送ってきてもらった長谷川時雨『旧聞 日本橋』がすてきに佳い。時雨が創刊した「女人藝術さ」誌のいわば白を売らないために埋め草として書き継がれていたという原稿であるが、今日時雨の表芸で あった戯曲を読むよりもこの本を懐かしく面白く愛読する人の方が遙かに多い。見ようによれば編集者が書く「埋草」という編集余技の文章のようでありなが ら、どうしてどうして短編小説の連鎖ともみまがう溌剌と生彩豊かな好エッセイなのである。さて、どの辺を選んで電子文藝館に入れるか、悩ましい。

* わたしも息子も忙しく追われているので、昼はたっ ぷり鮨をとりよせ、友人からもらってあった上等のワインで乾杯し、二日早めの六十六歳を祝った。宮沢りえ、澤口靖子、安田成美、牧瀬里穂を特集した写真の 綺麗な大きな雑誌を息子はおやじにプレゼントして、もう夕過ぎには仕事の打ち合わせに街へ戻っていった。心ゆく仕事を生き生きとしてほしい。

* 明日朝には本が出来て届く約束。妻は定例で病院受 診。ひとりで出来るだけ発送作業にうちこむ。

* ウサマ・ビンラディンもオマルも捕捉されていな い。アフガニスタンを抜け出しているのなら、次は抜け出ていったと思われる先の国へ軍事行動を、作戦を展開するとアメリカは言っている。もしほんとうに脱 出しているのなら、このラウンドは明らかにブッシュのアメリカの負けである。テロは反対であるが、アメリカの図に乗った力づくのやり方に理解は与えられ ぬ。いちまつ、バカメッと罵りたい気分が胸を染めていて、ブッシュがテレビなどで何か言うたびに軽い吐き気を禁じ得なかった。アメリカは、口実をつけてア フガニスタンにこの後長く居座ろうとする見通しは高いが、愚かな真似はやめたがいい。

* 小泉の改革らしきものは曲がりなりに進み始めてい るように見える。妥協を重ねながらでも、他の誰にも期待できない改革の、たとえ半分でも漸進させて行けるなら、橋本派の薄暗い策士どもに委ねるよりは小泉 にやらせてみたい。

* 毎日のように歌集が贈られてくる。水沢遙子さん 「空中庭園」北澤郁子さん「夜半の芍薬」はそれぞれに静謐で清冽な憂愁と諦念にいろどられ美しく表現されている。昨日は松坂弘氏の「草木言問ふ」が、今日 は高崎淳子さんの「風の迷宮」が。松坂さんは愛妻歌人だと昔から思っているが、わたしと同年、老境ますます穏和な夫妻の歌が歌われている。高崎さんのは才 気のようなものが、さきへさきへ跳ねるように飛び出て行き、頁から頁へキャンキャンと言葉が叫んでいる。いろいろあるものだ。
 歌集ではなく、吉野光氏の長篇書き下ろし「棹歌」も戴いている。京都五条楽園などが舞台 であるらしい、私より僅かに若い京都の書ける作家の一人である。鴨川沿いには昔から遊郭が流れるように延びていた、そのなかで五条楽園は七条までもつづい たごく庶民的な歓楽地帯で、商店勤めの若い住み込みの店員などが大阪からもこっそり遊びに来るなどと聞いたことがある。東本願寺の東の川沿いに当っている から、古代で謂えば左大臣源融の「河原院」に近い。吉野さんのことだから、きっとその辺のハナシにも絡んでいるかどうか。
 じつは小説の大册で、不思議に融や家持や雲林院などに絡みついた小説を三冊四册人に贈ら れていて、あまり大冊なので、未読になっている。文庫本で三田誠広君の「菅原道真」だけは持ち歩いて読んだ。文学作品としては物足りなかったが、関心のあ る人物なので読み込んでいけた。

* めったなことで本は、とくに小説は買わない。書店 へ行かないし、専門書は注文して買う。小説は贈られてくるのを読んでゆくだけで有り余り有り余る。狭い家の中にそんな本があふれ出て、書庫など、もう私の 手では始末に負えない、踏みこむのも難儀になっている。だが本は処分できない、心を鬼にして整理を初めても、つい読んでしまい、惜しんで残してしまう。や れやれ。いまも歌集を読んでいて、早くも一時半。明日は早起きして湖の本の新刊搬入に待機する。
 

* 十二月二十日 木

* 朝一番の本が届かない、十一時半になっても。歳末 だから、もうどこも仕事は押せ押せなのだろう。

* 空は白んでいますが、まだ部屋は暗い。一日、一 日、朝の表情はみな違います。雲の動き、月の満ち欠け、星の運行・・・などなど、心奪われて、飽きることありません。
 明日はお誕生日ですね。よい年月をかさねられるよう、心から祈ります。健康であって欲し い。
 メールでの指摘。胸衝かれる思いで読みました。「家」「周辺」そういう限定と違う次元で の「今」「此処」を考えていくということ・・。「家」「周辺」を中心にして私が「今」「此処」を考えていたのは恐らくほぼ正確にその通りでしょう。「解き 放たれる」のは環境からではなく、マインドからと、あなたは私に告げたいのでしょう。この点に限っては、本当に全面的にそのまま受け止めます。そして同時 に私自身の生き方、在り方を探っていきたいと・・もうずっと長い間考えてきたのですから。決してそれは「無謀」なものではないと思うのですが。
 今日はラテン語。まだこれから少し勉強、です。

* 「生き方、在り方」と書いてあるが、そんなもの、 在るのかな。観念=マインドの分別、に過ぎないのでは。生きる、在る。名詞でなく、動詞で。生きる・在る、ことには意味・意義はないし、「もっともっと」 と先へ目的を望むのは疲労と衰弱のもと。まして、わたしなどの年齢では。「今、此処」を平静に満たす、写しとる。借り物のことばみたいだが、異様な決心や 計画へ自身をドラマチックに運んでゆかないように。日々を、意図して劇場にしないように。そう自身にも願っている。どんまい。ノホホンと軽やかに。口先だ けでなく。

* 本の搬入は午後二時にと連絡があった。歳末の押せ 押せで、予想しないではなかった。妻が聖路加へ行くので、独りで受け入れ独りで作業することになる。十五年半もこんなことをし続けてきた。いろいろあるも のだ。

* 昨夜寝入る前に、建日子のくれた雑誌で、宮沢りえ のと澤口靖子のと、インタビュー記事を読んだ。ま、予期したとおりであった。宮沢リエは天性の演技者で才能であり、澤口より随分若いけれど話すことには深 い蓄積と覚悟と洞察がある。読んでいてもおもしろい、とても。それに比べると澤口は、年齢は十分に大人だが、演技者としては漸く目が開いてきたと思わせる 素直に明るいものが感じられる。これからがさらにさらに楽しめる女優になるだろう。宮沢りえの方は、成熟にもう向かおうとしている。デヴューした頃から、 この子はすごいねとまだ幼かった息子と感心してテレビを見ていたことがある。掛け値なしの才能だという思いは、作品に接するつど、美しいときでもやせ衰え ていたときでも裏切られたことは一度もない。澤口靖子はそうは行かなかったが、だんだんに階段を上ってきているのは確実で、このごろはかなり安心して見ら れる。本人にもそれが分かってきている。いいことだ。やすい連続ドラマのヒロイン慣れしてほしくない。テレビの世界で連続ドラマの主人公を確保しているの は業界的には大変な重みなのだと、むかし俳優座の演出家島田安行に聞いたけれど、大俳優加藤剛のために「大岡越前」が真にプラスしているのだろうかとい う、あの時のわたしの不審は晴れてはいない。宮沢えりは作品を悠々と選んでいる。選んで行ける地位と覚悟を手にしているということか。定期的な連続ドラマ のヒロインになどならない宮沢の自覚は大きい重みである。

* 一時半に本が届いた。妻はもう病院に。独りで受け 入れてから、手順よろしく作業に入って、飲まず食わず。四時過ぎには妻も戻り、夕刻過ぎて業者に出来た分を渡してから食事した。食後も十時半まで作業。も つとも、八時から十時までは澤口靖子の「科捜研の女」最終回を耳にしながら。「泣きの靖子ちゃん」が二度ばかりいい泣き顔を見せ、とにかくきびきびと清潔 に綺麗に役を仕上げた。
 本は、思い通りにすっきり出来ていた。ひところは製本の仕上がりに難のあることが多くて 発送にひどく困ったこともあったが、多年のお付き合いでこっちの気持もよく汲んでくれるようになり、不出来製本は滅多に無くなった。
 

* 十二月二十一日 金 六十六歳誕生日

* 誕生祝いを妻がくれた。札幌から、「初雫」という 酒米でつくった北海道一の清酒が贈られてきた。二十日の作業後に、乾杯した。うまい。三十分で二十一日になった。

* hatakさん おめでとうございます。良いお誕 生日をお迎えでしょうか。
 札幌は早くも真冬。屋外はマイナス10℃、氷と雪の世界です。ここ何日もプラスになった ことがありません。
 今日はお米と相撲のお話です。
 北海道に稲穂を実らせる、それは内地からやってきた人々の夢でした。古くは元禄五年に、 函館近郊で稲を育てた記録があり、以来連綿と試行錯誤が続けられますが、北海道での稲作は軌道に乗りませんでした。五月まで雪に覆われ、九月には霜が降 り、四年に一回冷害に見舞われる厳しい気候に打ち勝てる品種が見つからなかったのです。
 明治二年に、政府の招きで北海道開拓の方針を勧告しにやってきた米農務長官・ケプロン は、北海道での稲作を禁じてしまったほどです。
 しかし明治六年になって中山久蔵という人が、現在の札幌南方で「赤毛」という寒さに強い 稲を試作することに成功、不可能に見えた稲作に一条の光が見えました。その後明治大正昭和にかけてブリーダー(育種家)と篤農家の執念ともいえる努力が続 けられ、寒さに強い品種がつぎつぎと世に出されてきました。あまり知られていませんが、現在では北海道の稲作生産額は一兆円を超え、作付け面積、生産量と も全国一の「米どころ」となっています。
 北海道でお米が穫れるようになると、つぎに市場は美味しいお米を求めました。またまたブ リーダーは涙ぐましい努力をします。平成5年に出た「きらら397」、平成8年の「ほしのゆめ」という品種は、それまでの「不味い道産米」から「美味い道 産米」へと市場の評価を覆しました。
 しかし市場の欲求はとどまるところを知りません。
 今度は折からの地酒ブームに乗り、道内産酒米で本格的な地酒をという声があがりました。 耐寒性低蛋白米「北海278号」は、こうした声に答えるべく産み出された品種です。
 稲の育種は相撲と一緒、出世するに従って名前が変わります。相撲の新弟子さんが簡単なし こ名をもらうように、稲では、「北海278号」といった風に育成地と番号をとって名付けられます。何年もかけて試験が繰り返され、そのすべてに勝ち残り、 相撲でいえばとっくに横綱になったころ、稲ではようやく品種名がつけてもらえます。これまでに十数年の歳月と何十人という研究者の手を経ています。しかし 最終的な評価は市場が下します。「こしひかり」のような歴史に残る大横綱になるのは並大抵のことではありません。多くは市場に名を残さずにいつの間にか消 えてゆきます。
 道産酒米「北海278号」には、「初雫(はつしずく)」という品種名がつきました。北海 道の蔵元がその「初雫」で造った日本酒をお送りします。この名が永く世に残れるか、ご賞味下さい。
 また一年ご無事でお過ごし下さい。良いお年を。  maokat

* 嬉しい、おもしろい、鑑賞に堪えるすてきなお祝い のメールである。お酒をみると大きく「278」とラベルが貼られ、何のことか分からなかったが、メールが追っかけて来ていた。専門家が書いてくれているの で、安心して面白いなあと感心する。夕食の時は、正月にとふと惜しむ気になっていたが、もう三十分で六十六かと思ったとき、いま戴かずに何の意味があろう と、喜んで栓を抜いて、妻と盃を挙げた。どことなしフルーティーに新鮮芳醇の純米酒、最高である。maokatさん、ありがとう。

* 12月21日お誕生日おめでとうございます。先生 のご健康とご多幸をお祈りいたします。
 先生に初めてメールをさしあげましたのが、昨年の12月23日でした。思いがけずお返事 を頂戴してどんなに感激したことでしょう。もう一年が過ぎてしまいました。この一年は母の原稿の上に、私のとても長い原稿までお読みいただきありがとうご ざいました。「e?文庫・湖」にまで掲載していただき、光栄でございました。
 お誕生日に、どうしてもと、ささやかではございますが鯛を送らせていただきました。先生 のお口にあうとよろしいのですが……。ご笑納くださいませ。
 私は先週からひどい風邪をひいて、なかなか咳がとれません。湖の本のご発送など益々ご多 忙のことと存じますが、くれぐれもお身体お大切にお過ごしくださいますように。

* 名作「細雪」で育った私は、籤取らずに花は桜で魚 は鯛が好き。あの作品のあの箇所を読み解いたことがいわば我が初の谷崎論のお手柄であったと大先輩に褒めて戴いたが、好きだから出来たことだと思う。鯛で 祝ってくださるなんて何と嬉しいことだろう。

* 床に入り、目覚めての一日は仕事のこと忘れて、 ゆっくり木挽町や銀座、日比谷で楽しみたい。が、留守をしていて「鯛」が機嫌をそこねませんように。

* 伊藤桂一、加賀乙彦、長谷川泉三氏の作品がATC 作業室版から「本館」掲載になる。ぜひ読んで欲しい。
 

* 十二月二十一日 つづき

* 朝一番に「おめで鯛」が贈られてきた。片身は一 塩、片身は昆布しめの尾頭つき、柏手をうつて頂戴した。妻が用意の赤飯で。

* 六十六歳のお誕生日 おめでとうございます。昨年 よりも 一昨年よりも、ますます心もお体もお元気な様子、とても うれしく思っております。
 六十歳という山頂、登ってみれば 来し方が見え、行く道も見える場所なのでしょうか。今 日は お誕生日の記念として六十歳の山頂に向かう者として『元気に老い 自然に死ぬ』(春秋社新刊)を書店で求めたいと思っています。
 いっそうお元気に歩まれる六十六歳でありますよう。

* なにはともあれ、よかったな、誕生日おめでとう。
 まだ数日、本の発送にお忙しいのですね。ペンで字を書くのは手紙でもいやそうなあなた が、一枚一枚に言葉を添えていかれるのですから!大変でしょうが、それはとてもとても意味あることなのだと思います。終わったらほっこりして下さいね。
 私は元気。昨日は頑張って?勉強して行ったのですが、クリスマス前だからと、先生はラテ ン語の聖歌をプリントされてきて、それを解説。アヴェ・マリアの変遷などとても興味深く・・スペインなどでの強烈な印象が思い起こされました。

* 早朝から誕生祝いのメールつぎつぎに届いていて、 中には「@ニフティ」からも。

* 小雨の心配もしながら、温かに着込んで、歌舞伎座 へ。前から二列のま真ん中、これはもう役者の視線も捉え放題に、のめりこんで楽しめた。このところ歌舞伎座の昼夜、国立劇場での昼夜通し、また「三人吉 左」の通しと、かなりハードだつたので、師走は昼だけにしたのが楽しい番組で、思惑通りの大満足。
 まずは猿之助演出、右近の孫悟空で「華果西遊記」はじつに気の入った猿之助子飼いの役者 達の溌剌芝居で、はじめからしまいまで思わず口をあいたっきりのように引込まれて笑ったり驚いたり。端役まで行儀のいいきびきびとした舞台づくりで、小気 味いい。孫悟空快演、西梁国女王実は蜘蛛の精の笑三郎、同じく女王妹の春猿とも、大らかに美しい
化けぶりで迫力満ち、盤糸嶺での多数の蜘蛛たちも、また孫悟空の分身小さな子役を大勢並べ て見せた猿たちも、ともに隅々まで気の入った集団演技で、気持ちよかった。ま、これは大いに予想し期待していた通りで、この一芝居で、うん今日は最高と思 えた。侍女の金枝役をした市川段之の女形ぶり、ことに横顔が若い頃の京マチ子のように冴えて美しく惚れてしまった。
 この幕間に二階予約の「吉兆」での昼食が、この前の時の上行く豊かな美味と佳肴で、冷酒 もうまく、満腹した。かたわらに鏑木清方の美しい母子の画もまた佳いご馳走であった。嬉しい食事であった。
 次が団十郎の「弁慶上使」で、これは彼の大柄がはまり、おまけにおわさが当代の名優芝翫 ではわるかろうわけもない。成駒屋の孫七之助が卿の君とおわさの愛娘腰元しのぶの二役。しのぶは父弁慶の手にかかり、主君卿の君の身代わりに母に抱かれて 死に果てる。卿の君のもりやく侍従太郎と妻花の井には歌六と芝雀は、これはもう立派なものであった。舞台をしっかり引き締めた。無残な筋の途方もない歌舞 伎だが、おおらかにゆったり演じられてカタルシスもあり、こういう後味のよさに、五人の役者がきちんと噛み合っていたのは、さすがに演し物の練り上げられ た確かさであろう。七之助はまだ胴体がはたらかない(妻の説)が、可憐なせりふと初々しさとでわるくなかった。やっぱり泣かされた。
 だが、次の源氏物語「末摘花」では思いがけずもっと実のある泪にしたしたとせめられて、 佳い芝居を観たなと、今日一番の心地よさであった。末摘花は勘九郎がピュアーな人柄に常陸の姫宮を創り上げて成功し、玉三郎の光源氏、勘太郎の従者惟光が 抜群によろしく、さらに福助が侍従といういい役を懸命に演じていて、これまた前回前々回に引き続いてこのところたいそうウケがいい。とかく薄情そうな体温 の低い舞台の美女であったのが、吹っ切れたように血の気の温かい気持ちよい演技を見せ続けてくれる。源氏物語の読み手としては、やはり光君の書き方に関心 があり、玉三郎の位と品の演じ方、また日本語に、満足した。演技をさせれば比類ない魅力で人物が描き出せる役者である。団十郎が病でめしいた実直な求婚 者、東国の受領雅国役でつきあい、姫宮は、久しく久しく待ちわびた光源氏の再訪をうけて幸せを噛みしめながらともに情けある一夜をすごし、そして源氏なら ぬ受領のもとへ身を寄せようと決意する。脚色した北条秀司の心意気である。源氏物語絵巻「蓬生」の場面を髣髴させる舞台も、異色の源氏物語ものらしい。
 最後には、澤潟十種の一「浮世風呂」を市川猿之助が、水際だった湯屋の三助をさらりさら りと余裕の踊り。三助に惚れて花道にせり上がったなめくじ娘の亀治郎が軽妙にからみついて踊り、また花道で塩をまかれて沈んでゆく。湯屋のからんと明るく 温かくいきな舞台に、刺青の若い衆が大勢出て三助にからむのを猿之助はらくらくと捌いてゆく。さながらに猿之助塾の公演のように、みなきびきびと一心に。 「西遊記」といいこの「浮世風呂」といい、猿之助がたいした指導者で尊敬されていることがよく分かる(妻の説)気持ちよい歌舞伎だった。

* 小雨をさけて地下道をゆっくり銀座、日比谷へも どってゆき、打ち合わせなどで忙しそうな建日子に電話して無理に出てくるに及ばないよと解放してやり、妻と帝国ホテルに入ってロビーの大きいところでお茶 をのんで一休みしてから、クラブに入った。四人で行くかも知れないと言って置いたのが二人になったが「当クラブのお誕生日お祝い」と大きな瓶のシャンペン が用意されていて、他の酒には手が回らず、ありがたくシャンペンを飲み放題にいろんな珍しい小料理を五種ほど注文して、のんびりと芝居のことや文学のこと や昔のことを話し合いながら静かな時間を過ごした。おしまいに奨められてモンブランやレアチーズでわたしはエスプレッソ、妻は紅茶、それで上がり。
 雨も上がっていたので、日比谷から銀座一丁目までゆるゆる散策、DVDをまた二つ買っ た。八時前に乗った有楽町線で、わたしは気持ちよく寝ていたようだ。

* たくさんなメールが届いていた中でも、嬉しい誕生 祝いの一つに、猪瀬直樹氏の電子文藝館のための原稿があった。これはもう話題作である。衝撃の力ある評論として注目をあつめるだろう、中味は今は明かさな い。ありがたい、嬉しい。いま日本中でいちばん忙しい一人でありながら、配慮してくれたことに感謝します。

* 新潟のお餅をお祝いに贈りますと言ってよこした人 も。餅は大の大の大好物、よろこんで。

* 五年ごとの今年は節目の年であった。湖の本が創刊 満十五年を迎え、電子文藝館を思い通りに企画創設できた。山折哲雄氏との対談『元気に老い 自然に死ぬ』も出版した。そして、かつてはそれが決まりであった来年に脅える物書きとしての歳末の不安が、ぬぐい去ったように今のわたしには無い。有り難 い。
 また明日から、湖の本の発送にかかる。今日一冊持って出て初めの方のエッセイを読み返し てみたが、編集意図どおりの効果を各編挙げている気がする。どう纏めるか、ずいぶん以前から考えあぐんでいたのが、一気に纏まった。
 

* 十二月二十二日 土

* 昨日逢えなかった建日子からお祝いのメールをも らっていた。前々日にわざわざ来てくれて食事もいっしょに出来ていたので、あれで十分。忙しい年頃は忙しく働いた方がいいのだ、怪我せず、風邪ひかず。そ れだけでいい。心ゆく日々を過ごして欲しい。
 そしてバルセロナからも。

* 66歳の誕生日おめでとうございます!
 今ごろ、白い息を吐いているところでしょうか。バルセロナも例年にない寒さ。肌を切る空 気の張り様に、どこか懐かしさと心地よさすら感じています。
 先週はめずらしくも小雪に見舞われ、街は大打撃を受けていました。小雨が降るだけで、必 ずどこかの信号が停まる具合ですから、雪で町中の信号がとまったのも、不思議はないかもしれません。信号どころか、街灯も家の灯もエレベーターも暖房も消 え、ラジオ局の緊急電流すら切れて街はまさに闇夜に包まれました。いえ、渋滞に巻き込まれた車のラ
イトだけ点点と。
「寒さで住民が暖房をフル回転させた」のが、国際都市バルセロナの大停電の原因だそうで す。地震の一つでも起きたら、この国は一瞬にして瓦礫の下でしょう。
 それにしても、日本でスペインのような太陽が降り注いだら、きっとスペインでは考えられ ない不都合が生じるのでしょうね。おもしろいものです。人間の知恵や工夫って。
 恒平さんが今日もよい一日を過ごされるよう、願っています。

* 外国のハナシって面白いな。

* 昨夜はおそくまでかかって猪瀬直樹論考を整頓して いた。メールできた原稿は、段落のところなど気をつけて整備しないと歪みが出ていたりする。面白い刺激的な原稿で、掲載が楽しみ。
 そして今朝からはまた発送作業にうちこんでいる。堀上謙氏の電話で出版記念会発起人に名 前を貸してと。お安いご用。出版記念会の好きな人が多い。
 

* 十二月二十二日 つづき

* おめでとうございます。みなさんにこんなに祝って 貰える六十六歳はそうはないと思います。益々の、明日への力が湧いてきているご様子が目に浮かびます。心よりご健勝をお祈りしております。
 (電子文藝館)『伊藤桂一:雲と植物の世界』 おじさんも、ぼろぼろ、くしゃくしゃに なって泣きました。国民学校の頃、何も知らず、慰問袋を作ったことを思い出しました。
 「馬はだまって戦に行った/馬はだまって大砲ひいた/馬はたおれたお国のために/・・・ /馬は夢みた田舎の夢を/田んぼ耕す夢みて死んだ」という歌も思い出しました。どなたの作か知りませんが、そうだったのか、「東聯」だったかも「沼好」 だったかも、と涙が止まりません。感想など言える才覚はありませんが、この小説に出逢えたことを心から感謝します。ありがとうございました。

* ああよかったと思う。伊藤さんの作品の一二に好き な作品を選ばせて戴いた「任せるよ」て言われて。何とも言えず佳い小説なのである。伊藤桂一さんの温顔がずうっと目から去らないまま読める。伊藤さんを現 実知らない人にもまちがいなく、同じ感銘を与えるだろう、この千葉の「おじさん」と同じに。

* あすはクリスマスイヴ、たぶん、夕刻までにあらま しの発送を終えるだろうが、郵便局扱いの分は月曜も天皇さんの誕生日なので、火曜日の発送になる。荷造りは明日のうちにできるだろう。

* 鹿児島の南海で不審船と海上保安庁の巡視船との間 に銃撃の接触があり、不審船は沈没したという。威嚇射撃したのに対し、抵抗の銃撃があった、負傷者が出たので法律に基づき正当防衛の反撃を加えた結果沈没 し、十五人ほどが海上に浮かんでいるが、なお発砲等の反撃を受ける危険性があり慎重に対応しているという。北朝鮮の工作船かとの観測も出ている。拿捕はで きなかったが不審船を取り逃がさなかったのは、主権による一つ意思表示として大事な選択であり結果であった。工作船等の跳梁をゆるすことは出来ない。

* 次の日の午前三時十分、いま、猪瀬直樹氏の力作評 論「『黒い雨』と井伏鱒二の深層」を丁寧に通読し終えた。『ピカレスク 太宰治』であらましは承知し、大きな衝撃をうけたし文壇を揺るがせた。その趣旨を 焦点を絞ってさらに彫り込んである。明日にはATCにディスクを郵送してすぐ掲載してもらう。「小説」欄と「評論」欄とが拮抗して力強く充実してゆくのは 最も望ましい。電子文藝館が望みの方向へ好調に動いている。
 

* 十二月二十三日 日

* 天皇誕生日。話されているのをじっと聴いている と、小泉首相の話し方は天皇の言葉をえらび区切りゆっくり考え考え話されているのとよく似ているのに気付く。彼の政治家としてのある練達感は、またこっち が気をつけて付き合わねばならぬ点は、あの話し方で、答弁や所信表明に、前の森総理のような愚劣な失言をしないところにある。弁論に図抜けてたけていて、 そのようにあまり感じさせない。確実にバントヒットしている。

* 西海での不審船沈没に至る攻防は、微妙に難儀を秘 めている。それにしても自爆はわりと早くに予測できた、わたしにでも。難しい対応であり、その意味では情報公開は有り難いが、北朝鮮を名指した推測はむし ろおさえたかった。「国籍不審の危険船」に緊急正当防衛して沈没にいたったが、最後まで正体は不明の儘であったというようなことでいけなかったろうか。

* 発送作業はほぼ終えた。日曜に祭日がつづくので郵 便発送分の一部最終便だけが二十五日に残る。凸版の製本がきれいに上がっていて作業の能率がことに良かった。
 猪瀬直樹氏の寄稿ディスクも調えてATCに郵送した。歳末までに「ねばならぬ」仕事は 「ミマンの連載」分ぐらい。ゆっくり来年へ助走する。ホームページ・ファイルの大きな拡充と可能ならばリニューアル。二つの講演の用意。
 

* 十二月二十四日 月

* 建日子たちに誘い出され、池袋メトロポリタンホテ ルで夕過ぎに逢い、地下の「ほり川」でたっぷりお任せの「鮨」を食べた。カウンターで、妻は築山真有美と、わたしは建日子とならんで、歓談・歓食・歓飲。 引き続き西口のビヤホールで、飲みかつ喰いながらたっぷり歓談した。途方もなく楽しかった。池袋で別れて家に帰ったら、もう二十四時に近かった。べつに何 のために逢ったというのでもない、たまたまクリスマスイヴであったが、そっちの方の思い寄りはなにもない。ただもう逢って楽しかった。朝日子や孫達もいっ しょならなと思いはしたが。

* 昼間に前進座の討ち入りものをテレビでみた。梅雀 の大石、梅之助の堀部弥兵衛。あれれと思う間に全編を見てしまい、けっこう泣かされた。玉・勘・仁・富・勘太郎らの仮名手本忠臣蔵「山科閑居」の場につい で、やはり歳末には忠臣蔵に行き当たる。またそれが、わるくない。

* 鹿児島南海の不審船銃撃交戦沈没事件は、なにはと もあれ迅速に沈没船を引き揚げて捜査することだ。他のことはすべて措いて敏速にこれを実行しなければならない、だれが判断し決めることか知らぬが、小泉総 理が先頭指揮するぐらいにして遺漏なく進めた方がいい。あらゆる意味で今後を卜する大きな判断材料は沈没船そのものがもっているだろう。

* 栃木からまたたくさん苺を頂戴した。また新米も戴 いた。三重からはいろいろな甘い菓子を二つずつ多彩に頂戴した。新潟のお餅もパックに詰めた包みを沢山戴いた。心温かい降誕前夜である。
 

* 十二月二十五日 火

* 昨夜楽しく過ごした勘定書が今朝の血糖値117で 届いたが、朝110から126までのいわゆるグレーゾーン真ん中の値であり、インシュリン注射でなく、のむ薬だけで治療している人は、150から200ぐ らいで推移していることが多いらしい。食後二時間なら、140までが正常、200までが「良」とされている。血糖値は安心しているが、寝て夢をみるのは閉 口だ。もっとも、わたしは夢判断だの分析だのいうフロイト亜流の仕事をまったく信用していないので、どんなひどいこわいいやな夢をみても、夢に過ぎないと 気にかけない。現実だと思いこんでこう生きている、これも夢だし、いつかこの夢からさめるのだと思うほうが、リアリティーがある。ずいぶん夢を書いてきた が、それは夢の夢。書いていること、生きていること、それが夢に過ぎないと思う。まだわたしは「夢」しか知らない、その向こうへは出られないと、悲観する ならそれを悲観する。ただ、それを強いて掴もうとはしない、掴もうとして掴めることでないことだけは分かっているから、ただ気にかけずに突然のそれの到来 を待っている。

* 『おもしろや焼物』が届きました。ありがとうござ います。
 巻頭の「面白や京焼」を読みました。読んでいますうちに、うたのことをかんがえていまし た。わがうたの在りようなどを。
 「趣向」ということは、ほかのところ、たとえば『趣向と自然』などでもおっしゃってです けれど、むつかしうございます。
 ぎりぎりのところで踏みとどまっているけれど、人目にはそうと見えず、ほどがよくて、な まぬるくなくて。かくあれかし、かくあらまほしと、「面白や京焼」を読みながら、身のほど知らずにおもったことでございます。
 ペンクラブ。来年は書き溜めたものに手を入れて、見ていただけるようにしたいとおもって おります。
 友達がミニコミ紙というのでしようか、月刊で二十ページほどのものを発行しています。
 「今年のイチオシ」というタイトルは好きでないのですが、みんなに勧めたいもの、推薦し たいものといわれて、書物として、「日本ペンクラブ電子文藝館」のことを書きました。
 それと、今年、一番の人に、「戦争反対」を訴えるTシャツを着て登校したアメリカの少女 を挙げました。彼女はとうとう退学に追い込まれました。それを、ただ、見ているだけのわたくし。
 風もやんで静かな夜更けになりました。どうぞ、おたいせつにお過ごしなされますよう。  降誕清夜

* 元講談社出版部長の天野敬子さんからも、湖の本に ふれて手紙いただき、また「電子文藝館」に「画期的な事業」とねぎらいの言葉をもらった。

* 発送、終わりましたか?
 来年への不安が、いつからか消えているとのこと、或る境地に達していらっしゃるというこ と、ですね。これは形容し難く、説明し難いことでしょう、しかし真実なのでしょう。「今、此処」の大きな肯定、ですね。
 来年への不安は、私にもありません・・いつもありません・・違う意味で。したいことのほ んの僅かしか実現できないことへの哀しさはいつも予測できるのですが・・そのように書くと、ああ、マインドの塊さん!と言われてしまいますがね・・でも、 それが本来的な私の「良さ」でもあると思っています。弱いくせに常に好奇心も冒険心も大いに持ち合わせております。年齢の差だと言われたら・・それは部分 的に肯定しますが。
 目下、子供の出国が延びたり・・まだヴィザが取得できていません・・。年末は母の部屋の 大掃除に**に行き、その後は**での年越しなど用事が詰まっています。怠け者の私は本が読めたら、それが最高なんですが。
 しばらくメール書けませんが、どうぞ健やかに、静かに、良き年をお迎え下さい。NTTの アイモード携帯が3000万を越えた時期に、私の対応は遅れているかもしれませんが、まだ携帯も持っていません。どこでもメールが可能・・買いたい、です ね。
 繰り返し、良い年を迎えますよう。大切に。

* なかなか怠け者どころではない人に想われるが、す こし気になるところありお節介ながら返事を書いた。書いておきたいことでもあったが。

* 明日は無い。
 叔母の稽古場の欄間に、万葉仮名で「あすおこれ」と、お花の家元に書いてもらったという 額が掲げてありました。「明日怒れ」だと叔母は訓んでくれました。「怒るな」という意味であろう、「明日」とは、決して来ない時間の意味だと思いました。
 「好奇心」や「冒険心」はいいが、それを本当にたたき込めるのは、自分の足元の「今・此 処」でしかあり得ない、「明日」「明後日」ではありえない。
 日々の虚ろな空回りは、明日に冒険し明日に好奇心を満たそうとする姿勢に生じるのではな いか。あなたとは謂わないが。
 高校一年の漢文の時間に、「除夕よりはじめよ」と習ったときにも、「明日怒れ」と同じも のを教わりました。ほんとうにしたい大事なことなら、今日が大晦日なら大晦日からすぐ始めればよい、新年からなどと言うな、と。新年という「明日」とは、 永久に来ないものの意味だと。「今日」しかないと。裏千家が「今日庵」という意味もそうなのだと覚えました。
 「俺たちに明日はない」という映画が感銘をもたらしたのにも、一つには、それがありま しょう。
 元気にいい新年を迎えるには、元気に、「今・此処」で自己実現しえてこそ、と。元気に新 年を迎えましょう。 遠

* 郵便局からの発送も終えた。ミマンの原稿も昨日の 内に送った。ちょうど年内に一週間がのこった。儲けものだと思い、一日一日だいじにつかいたい。
 

* 十二月二十六日 水

* 加藤一夫の「民衆は何処に在りや」を書き起こし た。大正七年(1918)正月号の「新潮」に載っていた。ただの平民ただの労働者でない、真に己の権利と意欲に目覚めた自覚せる「民衆」とともに「藝術」 を創造し享受しようと、殆ど、筆者は叫んでいる。
 基盤にはトルストイやロマン・ロオランの「ヒューマニズム」がある。基督教がある。この ころには武者小路実篤の「新しい村」の運動もあった。いうまでもなく彼等の雑誌「白樺」も、またべつの方角からヒューマニズムを日本に持ち込んでいた。
 以来八十余年。昨日のようでもあり、遙かな昔語りのようでもある。
 加藤は大正九年に同志と春秋社を起こし、トルストイ全集の刊行に手をそめている。文壇的 には主として大正期に活躍し、昭和二十六年一月になくなった。わたしが中学をやがて卒業する頃である。日本ペンクラブ創立に参加していた先輩会員である。
 そしてこの人の起こした春秋社で、今年わたしは山折哲雄との対談『元気に生き自然に死 ぬ』を出版した。初の文化論、初の連載、の「花と風」を二年にわたり雑誌『春秋』に書かせてくれたのも、春秋社にいて『春秋』編集長をしていた山折さんで あった。

* 前田夕暮の二冊目の歌集『収穫』の上巻を、いま校 正している。「木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな」の名歌が入っていて、明治四十三年三月九日に「自序」が書かれている。明治十 六年(1883)七月二十七日に生まれ、(わたしの娘朝日子の生まれた日だ。)昭和二十六年四月二十日に亡くなった。尾上柴舟に学び、若山牧水、三木露風 らと同輩、島崎藤村や田山花袋に親しみ、山村暮鳥、萩原朔太郎、室生犀星らと交遊し、北原白秋とは「日光」を創刊している。結社誌「詩歌」は子息前田透に 受け継がれた。透さんも、もう亡い。いわば近代短歌史の第二世代として大きな足跡をのこした前田夕暮も、日本ペンクラブの創立会員であった。
 この人ともご縁がある。秦野市での大きな記念行事にわたしは行って講演しているし、わた しの歌集『少年』に最もはやく深切に好意を示されたのが前田透氏であった。
 一首一首ていねいに校正していると、歌人の情感が乗り移ってくる。生涯をかなりダイナ ミックな歌風の変遷で自ら彩った、溌剌とした、生来飾り気のない、「正直な」詩人であった。その歌を「電子文藝館」で採り上げられるのは、ひとしお心嬉し い。

* 三島賞作家久間十義氏の青春小説も、いま校正している。言論表現委員会の仲間として知り合い、何冊も本をもらって読んできた。ドキュメンタリー調の力作が ある。
 長谷川時雨の『旧聞日本橋』は、あんまり面白くて、ついつい「読んで」しまっている。何 編か有る中から選ばねばならない。
「俳句」「川柳」が、また「随筆」が、まだ一本も入っていない。栃木の渡辺通枝さんの寄稿 随筆が随筆欄の開幕作品になるかも知れない。
 「詩」「短歌」「評論」そして「小説」は充実している。「戯曲」も入っていて、もし井上 ひさし氏の作品が来れば、嬉しいが。
 何といっても、これからプリントし、スキャンして、校正の必要な、石川達三元会長の第一 回芥川賞作品『蒼氓』第一部がドーンと重い。氏の生涯で、もし一つとなればこれだとわたしは思う。かなり長い。

* 他でもない、すべて選り抜きの文学に触れている仕 事なので、手はかかっているが、批評や想像の大いに楽しめる特異な「読書」体験だと思えば、贅沢な喜びでもある。わたしなら…という思いも、むろん滾々と 湧いてくる。頭の中でいろいろにわたしなりに書いている。「電子文藝館」がわたしを必要としている間は、手掛けていよう。

* シチリア産の珍しいワインを戴いた。マフィアの島 ではない、わたしには「親指のマリア図」を新井白石の目の前にもたらした、あのシドッチ神父の生まれ故郷である。ラグーザ玉がシチリア人の夫と共に帰国 し、日本の女流画家として幾つもの秀作を遺しているシチリアである。
 わたしの小説でも、この島の特産ワインを日の恵みと共に文化史的な宗教史的な背景と共に 書かずにおれなかった。シチリアは知らない国だが、よく知ってられる世界的な彫刻家の清水九兵衛さんは、わたしの小説の中でいちばん『親指のマリア』が好 き、しかもシチリアがよく書けているのでとても好きと云われる。一度行ってみたいなあと思いつつ、ま、機会はあるまい。
 で、戴いたワインを元日の晩にご馳走になろうと「来年」のことを想って、鬼に、笑われて いる。たっぷり栃木の「苺」も戴いている。ワインに合うだろうなと想っている。

* 夕食時、チャプリンの「独裁者」を最初から見た。 こんなに強烈な動機に押されて創られた作品は、そうそう多いものではない。チャップリンの心臓が映画の中で破裂したように、魂がすみずみにまで籠もり、主 張と表現の一致は、すばらしい。映画的に完成されていて無駄も隙もない。しかも笑わせられ魅せられる。最後に演説する顔が美しい。チャップリンの「藝」は 優雅で確かで真実面白い。ポーレット・ゴダードも美しく、チャップリン映画の宝石のようだ。
 

* 十二月二十六日 つづき

* 今回はどのようなご本かと楽しみにしておりました ら、焼物についてのエッセイでした。焼物についてもお詳しいのは当然のことなのですが、あらためて先生の守備範囲の広さに驚いております。女というものは 日常的に器に触れているせいか、焼物の類が大好きです。それでもただ好きというだけでは、教養がついていきませんので、このエッセイを読んでもっと勉強し たいと思いました。
 先生のご本を読むたびに、私の心のなかに美しいものの増えていくのは、何よりの喜びでご ざいます。素敵なご本をありがとうございました。先週から風邪のしつこい咳に悩まされて年末の大掃除を一日延ばしにしているのですが、もう一日風邪という ことにして、一気に読んでしまいたいともくろんでおります。悪妻の極みですが、年末年始に御馳走を作るということで、家族に許してもらうつもりでございま す。
 「頑張って」というお励ましは「書いて」ということと解釈しており、粘り強く書き続けて いきたいと切望しています。
 今年も残すところわずかとなりました。どうぞよいお年をお迎えくださいませ。

* 文藝家協会でも同じだが、日本ペンクラブにも入会 希望者の資格審査がある。ペンには編集・出版者も入るのが一特色で、この人達には著書はないものとされている。しかし小説家や随筆家には著書があり、資格 として、最低二册は出版していなければならぬ。むろん、従来の常識としてそれは「紙の本」であった。私家版ははずれているとも謂えなかった、詩歌の本は、 おおかたが私家版というよりも、自費負担出版なのであるから。それも暗黙受け入れてきた。
 ところが、もう今や「紙の本」だけの時代ではない。「紙の本」にすることを考えず、電子 作品として公開し続ける書き手が増えてきて当然である。そういう時世に見合うようにと、電子メディア委員会の責任者のわたしは、もう以前に、しかるべき条 件を満たしていれば、「最初から電子化された電子上の出版物」でも、日本ペンクラブ入会審査が受けられるように提案して、理事会で正式承認されている。い つか、電子作品による入会者が現われるであろう、現われて欲しいと願っている。
 自分のホームページをもち、そこに作品を公表し続けている人、またはしかるべき電子文藝 の「場」に作品を書き続けて、質的な審査に堪えうるなら、当然、会員として迎えて良いという、「電子作品」の文壇的要件が「公認」されているのである。 「頑張って」欲しい人がいる。
 

* 十二月二十七日 木

* なんだかとても愉快な心持ちで「焼き物」のご本を 読んでいます。お気に入りな、心惹かれたものたちを手にニンマリとされてるお姿が思い浮かんでしまい、一人笑ってしまいますの。ほうっと、温かい想いが流 れ込んでくるようで嬉しくなります。物言わぬものの物言いが聴こえているみたい。それが惹きつけられる要因かしら?
 私にも、何度も行きつ戻りつしながら諦めて、それでも惹かれて、あともどりして買い求め たリュックがあります。ブランド品などでは勿論なく、ある施設で作っている「さをり織り」の製品でした。パッチワーク風に継ぎ合せられた織布片。色合いの 全部が気に入るなんてことは滅多にありませんでしたから。
 今日はとても暖かいようです。お布団を干して、部屋いっぱいの冬陽射しを身体に受けなが ら、行儀悪く寝そべっていますの。二時を過ぎると影に占領されてしまう、貴重な時間なんです。今年もあと少しですね。来年こそは明るい話題で包まれる、そ んな年であることを祈ります。
 よいお年をお迎えになられますように。ご自愛なされてくださいませ。美酒の誘惑にはくれ ぐれもご注意を(笑)。

* 『湖の本』「おもしろや焼物ほか一篇」お送りいた だきましてありがとうございます。たずきとしがらみに何かと気ぜわしい年の瀬に、結構なお手前を頂戴した気分になって、眉間のたてじわが一つ消えたよう な。
 まず「光悦の雪峯」は、過不足のないすばらしい一文。中世と近世のはざまにあった「本阿 弥」と「光悦」の<光と影と>を見事に見抜いておられます。感服いたしました。前に「太陽」でも光悦論考を読んだ記憶がございます。
 楽しみの「反古しらべ」はとんとご無沙汰ですが、今宵は所蔵の「法華教略義」一編を、久 々に鑑てみたくなりました。光悦の手になると、勝手に思い込んでいる本ですが、あの時代の京と光悦の法華のことが、どこかにひっかかっております。
 ホームページでご紹介のあった、加藤一夫の春秋社との事蹟、初めて知りました。
 良いお年をお迎えください。多謝。

*  自転車で走り回ると今日あたりはひと際冷気を感 じます。まだまだ新年に向けて気温が下がると長期予報をしていました。気が付いてみれば残すところ四日でした。この時期あっちもこっちもお掃除や整理をし ておきたい気持ちはあるのに、又々やり過ごして大晦日を迎えてしまいます。まあいいか。
 今年の行く年来る年で、知恩院の除夜の鐘の音が聴かれるらしいです。好きで、懐かしい場 所。この秋も覗いてきました。この釣り鐘が落ちて下敷きになったらどうしよう、なんて想った可愛い子供の頃がありましたが、今でも行ってみるとそう思って しまいます。
 今日は取敢えず新年の必需食料品の買出しにあちこち走りました。
 今回の焼き物のエッセー、お茶の先生が喜んでいました。湖の本、北海道の実家への道中に 携えたりしてよく読んでいますと。携帯しやすい本という趣旨には、ぴったりですね。

* 師走の街へ出歩きたいとも思いつつ、ついつい思う に任せずに「校正」を先へ先へと急いでいる。久間十義小説を予定の箇所まで読み終え、次いで前田夕暮短歌をもう半ば以上読んだ。いやもうもう、「かなし い」「さびしい」「恋しい」「わかれ」「泣く」の多い青春短歌であり、歌人や詩人とは「かくある」もののように夕暮以降に或る型=タイプが出来ていったの か知らんとさえ思ってしまう。流行歌や演歌の歌詞のいわば原型を、明治大正の詩人や歌人が大まじめに創り上げていたという理解は的はずれであろうか。
 夕暮の歌、それでいて佳いのである。当人も「自序」に宣言しているように、文字通り「正 直」にうったえている。「うた」とは「うったえ」であることをはっきり思わせる。いまも、やはり恋とはこうであろうか、そうかもしれない。
 夢中でやっていて、もう二時半になろうとしている。

* 山口の俳人で「湖の本」の読者から、稽古の第一句 集に添え、心祝いの純米大吟醸が二升とどいた。豪快そうな、九州京都(みやこ)のお酒である。新年を祝う清酒が出来た。おめでたい。
  夕汽笛鳴りをり独楽の澄んでをり 孤城
 佳い。感謝。そういえば、こう寒くなってくるとまたうまい酒粕も出来る季節だ。
 この家を設計してくれた池田忠彦氏からは、建築の本が届いた。郵政省に勤めて郵便局建築 をもっぱら手掛けて居られ、その頃に、昭和四十三年に我が家を設計してもらった。保谷でご近所住いだった。そのうち神奈川県に越され、たぶんKDDに移っ て常務取締役まで進まれ退任されたようである。やはり「湖の本」を支えて貰っている。池田さんはこの大きな本の、巻頭にちかいところで、通信施設の建築の 歴史を執筆されている。
 先日、「ペンの日」に会場で初対面の光本恵子さんから、無定型新短歌の歌人で小説も書い た『金子きみ伝』を送ってきてもらった。
 もらった本が、泓々と湧くように我が家に溢れる。わたしから差し上げる本も、いろんな家 を狭くしているかも知れぬ。それでも本は、本を読むのは、読めるのは有り難い。
 

* 十二月二十八日 金

* 「優先順位を考えよ」と言われたことがあります。 あと幾日と数える昨日今日、優先順位をかんがえず、目の前にある仕事(これがつまらぬ雑事だったり、義理人情に絡まれて致し方なくだったりということが多 いのですが、)に追い立てられ、時に気のおもむくまま好きなことをしたりして過ごしたきたツケが、まわってきた気がいたします。
 そう、おもいつつ、書庫の整理をしていて、つい、読みふけってしまい、前より乱雑になっ てしまった周りにため息をついたりしております。
 わりとあたたかなこの年の瀬でございますが、風邪などひかれませぬよう、おたいせつにお 過ごしなされますよう。

* 優先順位はおのずからあるものだが、このところわ たしの優先順位は、すわりこんだその場の目の前から、となっている。機械の前にすわると、我を忘れて誘い出されるままにつぎつぎ仕事をしつづけている。階 下に降りれば、書斎でも、台所ででも、べつべつに仕事がある。それをその場で片づける。仕事に追い立てられている気はしていない。どうやら仕事の尻を追い 立てている気分でいる。

* 釈然とはしないが、不調だった機械を、あれこれと 試み試みて直してしまった。なぜ直っているのか分からないが、とにかく何かを替えてみたら直っている。ワケは分かっていない。

* 猪瀬直樹「『黒い雨』と井伏鱒二の深層」が電子文 藝館「評論」に掲載された。井伏鱒二に、また名作と謳われた『黒い雨』に関心の深かった人は衝撃をうけるだろう。ぜひ読まれたい。
 もうATCにフロッピーディスクを送っても、年末年始はどうにもなるまいから、加藤一夫 「評論」久間十義「小説」前田夕暮「短歌」は、新年早々に入稿する。その際に同時に谷崎潤一郎「小説」石川達三「小説」長谷川時雨「随筆」渡辺通枝「随 筆」も送り込みたい。その辺でわたしの文藝館作業は一時休止して、二月の講演二つに備えねばならない。卒業生の結婚式にも出る。著作権問題での共著のハナ シもある。そして京都では受賞者展覧会のテープカットも予定されている。鼎談の手直し作業も待ったなしでくるだろう。次回「湖の本」入稿の段取りもつけね ばならぬ。これが、たいへん。
 正月二月、相変わらず寸暇無き戦場になりそうだ。
 

* 十二月二十八日 つづき

* 夕暮短歌も読み終えたので、クラブも開けていると いうので、今宵独りで出掛けようと着替えているところへ、筑摩書房を退社した日比幸一氏の懐かしい電話。今から逢おうよと誘い出し、奥さんもいっしょに五 時半、大泉学園駅で待ち合わせて、日比谷へ。もう以前に若きアーサー・ビナードや建日子も一緒に池袋の美濃吉でにぎやかに食事して以来だから、さ、何年ぶ りか。そんな何年ぶりといった空白感は少しもなく、いやもう、よく話し食べて、飲む方は、奥さんはすこしいける口だが日比さんは昔のようにさほどはやれ ず、もっぱら機嫌良くわたしが飲んでいて、あれれという間の時間切れ十時半に、残り惜しく出てきた。同じ道を通って帰宅。
 とりたてて何の用事も話題もなく、ただもう出逢って「歓談」に時をうつしてきた。定年退 職ではなく、自発的な五十五の退職で、これからの三十年を元気に楽しんで暮らす気構えとみた。退職を祝って「乾杯」したのがピタリ時宜にかなっていた。

* 思いがけない再会と歓談とやや深酒とで、帰りは少 し眠かった。今夜はもう休もう。
 

* 十二月二十九日 土

* 予感があったが、案の定、夜中から体調優れず今日 は終日床にいた。晩には聖徳太子のドラマを聴きながら郵便物などの処置を。

* 大岡信、高田衛、福田淳江(恆存先生夫人)、馬場 一雄といった諸氏から「湖の本」にたくさんお手紙を戴いていた。焼き物はどうかなと心配していたが、幸い好評で、追加の送本依頼が何人も有った。前半には んなりしたエッセイをならべて、後半へかたい長い議論を置いたのが好編集であったようだ。「日本語にっぽん事情」「能の平家物語」「青春短歌大学」「おも しろや焼物」と、巧まず変化がついていて、毎回新鮮に喜んでもらえる。そのあいに小説も交えてきた。次には何を、と考えることが私自身の楽しみでもある。
 随分多くの方がわたしのこのホームページを見ていて下さるようだ、それだけインターネッ トが普及してきている。

* さ、今夜は早々にやすもう。大晦日には雑煮のため の白みそや蛤を買いにゆくお役がある。寒気をはやく追い払いたい。
 

* 十二月三十日 日

* うらうらと晴れた真冬の好天。気に病むことなにも なく。とくに書くこともない。こういうとき、「平成」の二字がなかなか佳い。「恒平」という二字も似た意味かと、思う。平安京で生まれた恒の息子といった 「説明」は、忘れておきたい。兄は彦根で生まれた恒の息子で恒彦と命名されたと云うから、わたしの方もツロクはしているが、恒に平らか、「恒平平成」をこ そ好みたい。

* 体調優れず、午後を床にいた。建日子がきて隣家の 自分の仕事場などを片づけている。
 わたしは、片づけ仕事など一切せぬまま越年しそうだ、あすには雑煮の白味噌と蛤だけはわ たしが池袋へ買いに行かねばならぬ。

* おそい夕食をいっしょにし、手近にあったサミュエ ル・ジャクソンとケビン・トレイシーとの映画「交渉人」をみなで観て、そして建日子は五反田へ戻った。元日の夕方に来ると言う。
 

* 平成十三年 2001年 大晦日 晴れ

* 体調も戻り、街へ、恒例の買い物に。昼食には、寒 さをとばそうと、焼酎無一物で鍋焼きうどんを、ふうふうと食べた。「すこし多めに」くれたストレートの焼酎が、よく体にまわり、温まった。
 先ず蛤をたっぷり(じつは勘違いで例年の半分)買った。ついで京の雑煮用白味噌もたっぷ り買った。売り場が遠くへ移動していて、戸惑った。年越し蕎麦のための大きな海老を三尾。京の漬け物。

* 一年が              大切に
  あーっという間に        また 次の一年を !!
  過ぎるのに、
  この頃は、                            恒平 様
  その一年が                   迪子
  貴重ね。                2001年12月21日

* 六十六の誕生日にカードを呉れた。池袋で、妻にな にやら覚えられない名前のユリ科の変り種のようなきれいな花を、赤と黄色と、末広がりに八本買って帰った。大きな大きな大きな茶筅のような包みになり、電 車の中で照れくさくなりサングラスをかけた。
 年越し蕎麦は、今年はじめて妻と二人だけで。
 一年を感謝し、来年のために祈った。

* 居間と書斎と庭正面の書庫と、山になり、山も崩れ て、手の着けられなかったのを、むりやりダンボールの箱につめこんで、すこしだけ格好をつけたつもりでも、見苦しいことは相変わり無く、重い本をああ積み こう運びして、腰は激痛。やれやれ、どうしようもない。が、こうでもするしかなかった。
 きれいにはならない身の回りである。これも老境か。
 二階のこの機械部屋は、カレンダーを取り替えただけで、なにも片づかずに越年する。

* 今日は母のおせち作りを手伝いながら、合間に式の 準備を進めるという、まさしく師走といった感じの、忙しい一日となりました。
 式でお客様をお迎えするうさぎの作製を進める予定です。家族には、**に似すぎている、 と笑われてしまいましたが、当日受付に置いてあるうさぎの感想をぜひお聞かせ下さい。新婦作製です。ウェルカムボードも作製する予定(まだ作っていないの ですが)なので、ぜひぜひご覧下さい。
 お忙しいと思いますが、お体にお気をつけ下さいませ。
 良いお年をお迎え下さい。

* 新年の華燭、幸あれと祈りながら、新世紀の第二年 をやがて迎えよう。