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     宗遠日乗 

    2001 年=平成十三年四月一日より六月三十日まで
 




 

     宗 遠日乗 「八」
 
        闇に言い置く  私語の刻
 
 

* 平成十三年(西暦 2001年) 四月一日 日
 
* 深夜床についてから、バグワンを小声で二三頁、読む。心=マインドをブレイク・スルー突破するか、ブ レイク・ダウン破壊するか。この違いを、西洋はともに「狂気」としてしまう。東洋はこれを分別することができるものの、往々にしてブイク・ダウンした者を もブレイク・スルーした者と見錯って、狂気した者を聖者と尊崇している例がある、と、バグワンは言う。突破スルーも破壊ダウンも、ともに心マインドの外へ 出ている点は同じだが、出てゆく向きが違い、たしかに悟りと狂気は似ているようだが決定的にちがうのであると、適切に、ボディーダルマの語録をバグワンは 説き語ってくれる。バグワンの言葉は安定して生き生きし、ブレイク・ダウンした曖昧な揺らぎがない。心マインドに執着しそこに跼蹐していることの危険を的 確に説いてくれる。

* バグワンについで、昨日は、嶋中鵬二氏の、永井荷風にかかわる対談をふたつ読ん だ。一つは荷風その人と、一つは武田泰淳氏との。谷崎との比較にも触れられ、また荷風の口からあらましの経歴と共に「女」観などが端的に語られているな ど、なみの評論よりも対談の持つ利点歴々として、大いに満足した。荷風と嶋中さんとの口にしている「日本語」も面白かった。

* ついで栄花物語を分量多く読みふけった。歴史物語であり、史実への記憶違いや情 報の経路による混線など有るのは致し方ないとして、簡明は簡明に、丁寧は丁寧に、叙事に用捨の妙があり、勢い、読み継がされてゆく。
 村上天皇の後宮は中宮安子の見識温和の故に安定していたが、その村上帝が、こともあれ安子の妹の人妻で もある登子に恋着される。その経緯もなかなかのもので、「夜の目覚」の作意などにもこの件は波及しているだろう。聖帝といわれ藝術家肌でもあった魅力ある この帝は、クイズのように和歌を用いて、後宮の女たちを混乱に陥れたりされている。薫き物をすこし欲しいがという希望を隠し言葉にした和歌表面の意味に ひっかけられて、薫き物どころか、美々しく自身着飾って帝のもとにはせつけ、そのために寵愛をほとんど喪ってしまったような妻妾の一人もいた。この逸話は 大鏡にも書かれている。この物語にも書かれている。この物語の作者は、どうもこの失寵した女のその後へのひそかな作家的関心もそれとなく継続して筆にして いなかったろうかという、これも作家的なわたしの好奇心を刺激するのである。扇を射た那須与一をさらに挑発したために無惨に射殺された犬死にの平家の侍が いると、ふっとそういう男に興味を覚えてしまうように、その恥をかいた妃のこともわたしは気になっている。そういうことを想い想い本を読んでいると、夜の 更けるのがはやい。

* さらに継いで、とっておきの「浜松中納言物語」を読み継ぐ。中納言は、いましも 唐土にいて、唐の帝の后の一人に恋して妊娠させ、ひそかに子が生まれたところである。帝とこの后との間にすでに生まれている皇子は、じつはこの日本の中納 言の前世の父親であった。それを遙かに伝え聞いて、父恋しさに堪えず中納言は、母ややはり妊娠させてしまった愛する姫とも別れて大陸の朝廷を、三年と限っ て、訪れているのである。転生の物語であり因縁の物語であり、場面を大陸にまで押し広げつつ王朝の物語を美しく繰り広げている。いやもう、おみごとであ り、ますます更級日記の著者、菅原孝標女が好きになる。「浜松」はまず間違いなく彼女の創作であり、あの名作「夜の寝覚」も彼女の創作であるとする定家ら の証言を、少なくも否定する証拠は出ていない。わくわくしてしまう。紫式部は別格としても、この菅原氏も、日本の誇りうる古今の大作家の列に加えてしかる べきであろう。願わくは歴史家たちよ、奔走してこの女性の実名を探り当てて欲しい。菅原花子でも菅原妙子でもいい。ちなみにわたしの高校の頃に名乗ってい た筆名は菅原万佐であった。三人の女友達から字を引き抜いてつけ、女名前の匿名で、当時の生徒会長をからかう一文を校内新聞に投書したのである。余り感心 した菅原氏ではなかった。しかし三冊めの私家版まで、わたしは「菅原万佐」と名乗って出し、また谷崎にも志賀にも中勘助にも送っていたことになる。呼び出 されて「新潮」の酒井健次郎編集長に会ったとき、「えっ男かぁ」とのけぞられ、すぐさま本名にせよと助言された。それで本名でつくった私家版「清経入水」 が、まわりまわって太宰治賞にひとりでに押し上げられていたのだ。

* と、こんなふうにとんでもなく夜更かしして、四月一日はもう正午というところで 起きた。おかげでエイプリル・フールにもやられなかったし、ウソも付かずに済んだ。
 テレビでよくみる、ペンの会員でもある池内ひろ美さんの初めてのメールを突如として受けた。いいメール であった。「エッセイ通信」の高田欣一氏からも、直哉がらみに、佳いメールをもらった。志賀直哉全集は昨日で配本を完了した。さて、これから妻と花見に出 ようかと言っている。天気晴朗、すこし気温も和んでいる。

* 御褒詞有難く拝見いたしました。励みとなります。
 櫻を見に行こうと思う気持ちと、その隙に雑事を一つでも多く片付けたいという気持ちが重なっています。
 「熊野」の主人公になったつもりで、「花は春あらば今に限るべからず」と思い、「また来む春には」と身 を慰めておりますが、さて、また来む春があるかどうか心許ないかぎり、やはり花は一期一会、見たいときに見ておくべきかも知れません。ただし、この寒さ で、東京と違って佐倉の櫻は、来週にずれ込みそうです。
 

* 四月一日 つづき

* 中村歌右衛門が亡くなった。もう久しく舞台は見られなかったので、俄かにという 嘆きは淡いが、喪失感は大きい。わたしの歌舞伎というものを見始めた最初の南座顔見世が、初世中村吉右衛門を中軸にした、立女形は中村芝翫即ち亡くなった 後の歌右衛門、脇備えに中村もしほ後の勘三郎、市川染五郎のちの松本幸四郎=白鸚であった。芝翫=歌右衛門は籠釣瓶の絢爛豪華な花魁をみせてくれたし、襲 名後には素晴らしい京鹿子娘道成寺を見せてくれた。後見に出ていた大谷友右衛門いまの中村雀右衛門が、食い入るように歌の踊りに見入っていたのも印象につ よくのこった。
 歌右衛門というと、前の松本幸四郎との真の夫婦者のような風情が忘れられない。幸四郎が白鸚にかわって からの、もう最晩年の「井伊大老」の二人の舞台には泣けた。大老の死を覚悟しての登城と、病の重いと伝えられていた白鸚、それを見送る歌の奥方。じつに息 のふかい佳い芝居であった。歌右衛門に感じ入った。
 大きな名跡がまた途絶えるのだと思う、一方で、新たな襲名の噂も華やいでいる。

* 上野は人出もすごかったが、花は負けていなかった。爛漫の花は満を持して美し く、人波にどう揉まれようと、視野に匂う桜はなにごともなげに湧くように咲き誇っていた。満足した。雑踏の花の下を二度往復した。下りには下りの、上りに は上りの花景色がある。わたしも妻も満足した。
 精養軒のグリルに入り、フェアの、ヴェネツィア料理を食べてきた。赤いワインのほかに食前酒に、ふと思 い立って二種類のリキュールをグラスでもらったのが当たりで、おかげで料理も酒もパンも、デザートもよかった。この店では必ずしもいつも満足はしないのだ が、今日は、オードヴルも、肉も魚も海老も、デザートもたいへんけっこうであった。うまかった。
 満ち足りて上野駅からまっすぐ帰宅。北条時宗の後半に間に合った。

* 久しぶりに、もう六度七度は見ているジュリア・ロバーツとリチャード・ギアの 「プリティー・ウーマン」を耳で見ながら、パソコンに、手書き小説の原稿を書き込んでいた。 花見の日曜日であったが、昨日の悪天候からはいくらか和んだ 気温で、まずつつがないいい花に今年も出逢えた。こういう日も、佳い。
 

* 四月二日 月

* 自身の感情の、制御できるというより、油に火のつくほどぱあっと燃えやすいこと にときどき驚く。

* 今日はお酒でなく、お茶の話です。4月は私にとって名残の茶の時期ですの。5月 に新茶ができると、静岡の茶園から、煎茶と紅茶を一年分一括購入します。すぐ売り切れてしまうので。
 人に差し上げたり、自宅で振舞ったりしたあと、100gずつの袋になっているのを、大きな密閉容器に入 れておきます。 春、容器の底が見えてくると、新茶の頃とは違い、みごとな吝嗇雀になり、大事に大事に喫んでいます。

* こういうメールに、気が和む。

* 今日は寒い中、桜が満開でした。先生は花見にお出になりましたか?ぼくは、用事 の合間に少し、桜並木を歩きました。けれど、こうも寒いと桜を見ても春になった気がしません。 とはいえ、、もう4月なのですね・・・。
 ぼくは、先日体調を崩し、仕事もますます厳しくなってゆき、心身とも参っています。
 ある日、もう駄目だと思い、短編小説を購入し、半年ぶりに読書をしました。
 裏表紙のあらすじに魅かれ、購入したのは、「天平の甍」。実はこれが初めての井上靖の作品です。
 単純な言葉でしかいいあらわせませんが、登場する留学僧各々(日本に鑒真を連れてきた僧、膨大な経典を 写経した僧、中国全土を放浪した僧、そして、還俗妻帯して家庭を築いた僧も含めて)のシンプルでストレートな人生に圧倒されました。
 作中、栄叡という僧について、「瑜伽唯識を業となす。」という記述があり、瑜伽唯識という言葉への脚注 に、瑜伽(主観客観の合致した境地)、唯識(天地の実在は心からであって、すべて客観的なものは空であるとする唯心論)とありました。
 こういう思想を以って彼・彼らが生きていたということ(その結果栄叡が鑒真の人生を実際に動かしたこ と)に対して、時代の違い以上に、ロマンチシズムを感じさせられました。案外、人生を歩むには、こっちの思想の方が、より適しているのでは?(ロマンチシ ズムなんて言っているから、ぼくは、いつまでたっても甘ちゃんを脱却できないのですが、24時間サラリーマン生活を続けるうちに、いつしか「行動」という 言葉に疎くなり、そういう感想が出てきてしまいました。)
 筆が収まらなくなりそうなので、この辺で失礼します。それでは。

* 知能的にはわたしなどお呼びも着かない秀才だが、勤務に負われてか「半年ぶりの 読書」で井上靖に「初」の出逢いと聞くと、少し淋しい。べつに井上靖でなくてもいいのだが。作品への引っかかりどころにも、知的な、マインディな関心がち らつくが、作品『天平の甍』に無心に没入したのではなさそうだ。己れを虚しくして他の世界に没頭してみる幸福は、忙しい日々ではなかなか得にくいのだろう が、だから没入度が深まるという接し方もあるのではないか。「こういう思想」と簡単には言い換えられない生きた魂の呻きのようなところに耳を澄ましたな ら、「ロマンチシズム」といった言葉にも簡単には翻訳しきれない苦悩や感動がくみ取れる。秀才は薄く結論を急ぎすぎるのかも知れぬ。

* 中学時代の日記が出てきたと、昭和二十五年三月の一年上級生の卒業式当日を叙し た文を書き写し、メールで送って来た人もいる。わたしとは無縁な場所での日記とは言え、女子中学生の何十年昔の日記は、具体的で、文も素朴で、面白く心を 惹かれた。
 

* 四月二日 つづき

* 地球温暖化問題への国際協調にアメリカは背を向けた。これで事実上協調の誓約は 潰え去ったことになる。ゆゆしい世界環境の大問題であり、国際会議を主催した議長国日本の顔は踏みにじられた。顔のことはまだしも、事実、地球温暖化の悪 影響は深刻に人類の未来を傷つけるのである。
 大国に正義なしとはわたしの悲しき持論である。かれらは自国の利益以外には正義も簡単にかなぐり捨て る。そういう大国との外交は悪意の算術に徹する以外になく、賢い国ほどそういう外交をしてきたのに、日本は出来なかった。
 そういう事態に当面していながら、日本政府と政権与党の昨日も今日もやっていることは、これはいったい 何事か。国民にあきれ果ててのあきらめムードが瀰漫してきた。これは深刻な危機である。昔なら、国会へ市民がデモをかけたであろうに。
 政治評論家たちよ。キャスターたちよ。いま、きみたちは、何を言うかではない、何をするかではないの か。朝まで生テレビでかりに名論卓説を披露してみても、それだけでは始まらないのだ。

* 米中の飛行機が接触し、米偵察機が中国領内に緊急着陸を強いられた。偵察機と は、機密の巣であり、機内に入って専門家に精査されれば、アメリカ軍の痛手は計り知れない。ブッシュ政権に憂慮された問題点が、はやくも一つまた一つと露 呈している。クリントン政権に比して、またもや一触即発の物騒な国際環境が加熱状態にあるとは、有り難くない。

* NHKの夜十時からのニュースに、美しい森田美由紀が助っ人として戻ってきた。 美貌だけではない。アナウンスの美しさ、存在自体の美しさという点で、この人にかなうアナウンサーは一人もいない。歴代いなかった。できれば、彼女を軸 に、力量をフルに回転させたいが。

* 今日は、長い原稿を二つ、お返ししなければならなかった。一つは未推敲原稿で あった。一つは、あまりにも昔の事件に密着していて、読者に周到で公平な説明をしないと理解しきれまいという原稿であった。どちらも、いいものなのだが、 惜しかった。 
 

* 四月三日 火

* 日ざしは明るいが、風がある。花はどうだろう。新年度に入り、各地各所に人事と いわず、いろんな「かわり目」の渦が巻いているだろう。さらっと、気の入ったこんな季節の便りが届いた。お許しを願い、披露させていただく。

*  かわり目。
  小雪が舞ったかと思えば、ぽかぽかの日和。桜も少し驚いているのでは、と思うような日が続いています。でも、そろそろ花粉症も治まる頃ではないでしょう か。
 昨日、所属する国立研究所が独立行政法人に移行し(正確には一昨日ですが、)研究所の名称から一斉に 「国立」が外されました。ほかの研究所は独法化しても「国立」を名乗れるにも拘わらず、文化財を扱うという、およそ世の中の研究所の中でもっとも「国」の 信用を借りなければならないこの研究所に限って、唯一「国立」の称号をはく奪される事態には首をかしげてしまいますが、これがいわゆる「とかげのしっぽ切 り」というものなのでしょう。それに相応しい、弱小の研究所ですし。
 育児休業中ですが、辞令を受け取りに久しぶりに顔を出した職場では、新しい人的体制が整備されつつあ り、覚悟の休業だったもののこの状況の中に身をおけなかったのは、少しばかり口惜しいような気もいたしました。
 新しい業務内容に関する公式文書等にざっと目を通しても、研究所内の攻防、合併することになった相手研 究所との攻防、ひいては所属庁との攻防と、さまざまなものが読み取れ、平安の昔からお役人が一字のために身を削っていた歴史が、もはや文化となって沁み 通っているのが感じられて、当事者としては、それで煮え湯を飲まされてむっとしながら
も、この歴史的諧謔を少しばかり笑ってもしまうのです。
 正確には覚えていないのですが、藤原道隆が病に倒れ、息子の伊周が文書内覧許可をもぎ取った際、お役人 が「関白の病中の間」と書こうとすると、そばから伊周派の高階信順が「関白の病の替」と書かせようとして失敗する、という有名な話がありますよね。当節の お役人はそんなに根性はないため、気がつくと高階の子孫(?)の言葉通りに宣旨が変
わっていることがままあります。してやられた!と。
 こういう楽しさを味わえなかったのが、すこしばかり残念ですね。
 あとは、業務内容は当面かわりませんし、休業することに大した心配もしていないのですけれど。
 それよりも、こんなときに休んでいる人間が出て、周囲には申し訳ないなぁと、そればかりが身の竦む思い です。
 職場が上野で、ちょうど満開のときに行ったわけですけど、なぜか山のように積もっていた業務や雑用をこ なしていると、預けてきた母乳のストックが底をついた、という連絡が入って飛んで帰ってきてしまったため、花見は来年までお預けになりそうです。昨年の花 見の季節は海外出張中で、ポトマック川のほとりの桜を見ていました。
 今年は鎌倉で、窓から山々の桜を眺めていられる幸せを堪能しています。
 なじみがあるせいか、染井吉野よりも山桜のほうが、私にとっては愛着があります。耽美的な染井吉野よ り、野趣があるせいでしょうか。山桜の下には、屍体は埋まっていなさそうですものね。
 いずれにしても、この風ではすぐに散ってしまいそうですね。寂しい限りです。
 書き始めると、まだまだ長くなってしまいそうです。このあたりで、失礼させていただきたいと存じます。 どうぞよい春をお過ごし下さいませ。

* 東工大の卒業生から、大鏡や栄花物語の匂いのする逸話などまじえた花便りを聴く のだから、楽しい。鎌倉山の花の景色も目にみえてゆかしい。煙草というものに全く縁のないわたしには、こういうメールに触れるときがまさに「お茶の一服」 なのだ。

* 昨夜はバグワンのあと、嶋中さんの本で、村松梢風との対談、谷崎松子・河野多恵 子との鼎談、川端康成・池島信平との鼎談を楽しんだ。川端さんのお話が際だって面白かった。

* 西垣通さんの新刊本『インターネットで日本語はどうなるか』で、第二部「日本語 はどうなるか=インターネット多言語情報処理環境」を読んでいる。
 改訂された新JISの漢字は6355字、これだけが器械で文字コードをエンコード=与えられているこ と、更にJIS補助漢字5801字が追加されているものの、これは事実上「文字集合」としてエンコード候補にされているだけで、「現在でも、日本の大半の パソコンやワープロで使える漢字は」さきの、「6355字」に「限られている」ということまでを確認した。合計して「12156字」がJISの「文字コー ド」なのではない。日本国内にあってもなお文字化けなしに多方向に使えるのは「6355字」だけ。
 使用頻度だけでいえば、おそらくこれで九割近くカバーしているに違いなく、だから理工系・経済系、文部 省系は、十分だとしてきた気味がある。ところが、予想される漢字の数は、学者により、最大200万字ないし以上とすら言う。大幅に割り引いて仮に10万字 としても、JIS漢字は、全体の 10 パーセントにも遙かに足りない。そしてそれら夥しい数の全漢字は、現に一度は使用されたことがあるから「存在している」と、これは原則として認めねばなら ない。過去の文物の研究上、そんな稀用文字など、抹殺してもいい、無視してもいいと謂える権能を、たかだか「今日生きている」だけに過ぎない我々が、無条 件に持てる道理がない。それこそ甚だしい傲慢で越権だといわねばならない。釈迦も孔子も、日本書紀も名月記も殺してしまうことに成りかねない。
 そこで、「文字集合」と「エンコード」との、果てしない道程における、「リーズナブルな折り合い」が必 要になってくる。「文字集合」がどう完備されようと、十全なインターネットで機能するには「エンコード」を経なければその価値に限界のあるのは明らかだか らである。現に「JIS補助」の5801字も、絵に描いた餅に近似している。その辺までは、わたしにも、もう、だいぶ以前から理解できている。コンピュー タは、例えば「わたし一人の器械」でだけ何とかなれば済むという器械では本来ないはずである。それなら昔のワープロにすぎない。世界中のあらゆるユーザー に無条件・無前提に通用する器械として偉大なのではないか。
 そういう理解の上で、なお、わたしは、漢字は「原則」「全部必要」説をとり、「確認不可能=当たり前」 であるその観念としての「全部」から、「リーズナブルな折り合い=判断」により、賢明に「引き算」し、現実問題として、「文字集合=文字セット」に「文字 コードを与える=エンコード」あらゆる技術的・学術的・実用的な対策と研究へ「前進」してくれることが大事だ、と主張し続けてきた。必要になったら足すと いう「原則」にもならない原則は姑息だと批評してきた。
 「エンコード」は少ない方がいいのだと言う議論の背景には、正にいろいろあるのだろう、が──莫大な金 がかかるという経済的なことも、検索の煩雑などということも──、それはそれとして、文化的には、コンピュータが真実人類社会のインフラとして揺るぎなく 定着の可能性があるのなら、なおさら、どんな桎梏も克服されてゆくことに「原則的な希望」をもつことが、それを断念し放棄することよりも遙かに、大事だと 考えるのである。今が今にも直ぐというような事は、わたしは一度も言わない、最初から。
 しかし「原則」を曲げようとも、放棄しようとも、断じて言わなかった。
 技術の問題は、いわば坂村健さんたちが、時間をかけて達成してくださるものと信じたい。検索にも飛躍的 に簡易化した道がひらかれるものと期待したい。
 金のことは大事だけれど、極端に言えばそれは一私人の知ったことでなく、それこそ国と行政とが国家や民 族の文化に誇りを持って「大きく永く対処すべきこと」というに過ぎないのである。

* この辺までは「講習」を受けようが受けまいが、原則の認識として、あまり変わり 様がない。ことは「文字コード」のレベルに終始した話なんかではありえないのだから。「文字・言葉・表現・研究・受容」という「文化」そのものの問題なの だから。これを外しては、国語の表現者、東洋文化の愛読・愛好者としての自己放棄に繋がってしまう。ここの所を、この「コンピュータ世間での先行者たち」 に説き続け、希望し続けることが、目下わたしなどの要務なのである。分かってもらわねばならない。その上で初めて「折り合う」必要が生じ、「折り合う」こ とが可能になる。
 

* 四月三日 つづき

* こんな嬉しいメールをもらった。身の幸せ、有り難く、お許しを得て書き込ませて いただく。

* 桜と雪がいっしょに舞った日に、お送りいただきました『湖の本』エッセイ22 「能の平家物語」を読みおわりました。ためいきと共に。
 ずっと遠ざかっていた、というよりは正しくは一度もきちんと対峙したことのない世界に呼びいれていただ き、心の底に沈んでいた無数の小石の間にじわっときれいな水がしみいった気がしました。「十六」の面の写真の見事なこと! 面といえば、中学生のときに演 劇コンクールで岡本綺堂『修善寺物語』を出すにあたり、面をつくる仕事場を訪ねたことを思い出しました。私は妹のかえでの役を演じたのです。
 そんな他愛もない個人的な思い出をふいに浮かびあがらせてくれたのは、エッセイ全体に流れる筆者の息遣 いでしょう。小督や巴に再会できたのも嬉しいことでした。
 「私語の刻」で、ほっと息をつき、『pain』について触れられているのが、ことのほか嬉しく、ああ、 このように書けるのだと感じいりました。舞台は好きで、脈絡なく観ていますが、なかで『pain』は忘れられないものを残してくれています。
 数日前にフィレンツェ歌劇場の『トゥランドット』を観て、次にチケットを買ってあるのが山海塾であり黒 テントです。
 来週は17年ごしで自宅近くのコミュニティ会館に演奏家をおよびして開いてきた「タウンコンサート」 で、今回は田口真理子さんという若いピアニストの演奏です。900円で本格的な(こういう言葉は好きではありませんが)リサイタルを地元で聴いてもらおう というもの。こういう流れに身をまかせていると『湖の本』は、確かなもの、絶対に必要なものへの憧憬を思い起こさせてくれます。
 ありがとうございました。

* 心豊かに生きている嬉しさを、このようにして、身に抱いていたいと思う。

* いま湖の本の十五年記念に原稿を用意している小説は、未発表の作で、心祝いに は、だが、いくらか深刻に推移していて、心配もしている。いまいまに俄に書いたものでなく、しつに長い間、躊躇うようにこれまた身に抱いていた。さ、どう なるか。

* 西垣さんの本を読み継いでいる。知識が整理されてゆく。へえっと、視野の開ける 気分と、ふっと立ち止まる時とがある。「JISコード」では第一第二水準の6355字しか使えない、現在までは。だが、国際的に「ISO=国際標準化機 構」による国際共通コードを経て、主として米国企業の共同と主導とによる「ISO10646-2 UCS=ユニコード2」にまで用意されて、「万国共通コード」への態勢が出来てきたという。
 これの説明には、まだ理解の届かない箇所がわたしには残るが、目の前のかなり明るくなることも書かれて いる。「現在、すでに『ユニコード2』は、ウィンドウズ2000やウィンドウズNTといった新しいパソコンOSの内部コードとして用いられている」と。わ たしのこの今の器械は確かウィンドウズ98だからダメなのだろうと分かる。ぜひ近いうちに、そのウィンドウズ2000やウィンドウズNTといった新しいパ ソコンに出会いたい。もう売っているのかな。
 そして、こう書いてある。「ユニコード2」の「文字集合」は38885字と。そのうち「漢字は 20902字」と。おお、それほどなら、もう「?」など出てこないのだろうな、だが、待てよと。
 ここに西垣さんは「文字集合は三万八千八百八十五字」と書いているがこれらにすべて「万国共通の文字 コードが与えられている=エンコードされている」とは書いてはいないように読める。わたしには分からない。これが、たんに「エンコード以前の候補文字集 合」の意味ならば、つまり実装されていないのなら、先の望みはあるが、今は絵に描いた餅に過ぎないという「?」の継続というわけだ。
 そうなると、「UCS=ユニコードは、その後、引き続いて拡張されている」と、漢字は「27786字」 が「収容されている」としてある、景気のいい話にも、明らかに「文字集合は」とあって、このあとへも威勢のいい数字がまだまだ続くのだが、それらもみな 「文字集合」として「文字コード」をいつか与えられるであろう「候補文字」に過ぎないのかも知れない。この辺は西垣さんの叙述をどう受け取っていいのか、 わたしには、明快に分からない。
 それというのも、先日の文字コード委員会でも、わたしの発言に対して苦笑まじりに「実装」の話は「マイ クロソフト社の問題」で、希望があればそっちへデモをかけてくれという幹事の解説があった。「文字コードと実装とは別の問題」なのだと言われた。しかしな がら、わたしなど初心のユーザーからすれば、「文字コードと実装とは別の問題」なのではなくて、「文字集合と文字コードの実装とは別ごと」なのだと言われ ているように感じるのである。文字コード委員会といいながら、実は将来「文字コードを与え=エンコード」すべき「文字集合を補充」の委員会のように思われ るのである。べつにそれはそれで必要な作業だから宜しいが、あくまで「ユーザー」感覚で言わせてもらうなら、要するに文字セットで漢字を引き出しても 「?」しか出ないようなのはイヤである、そんなす不備を解消したいという希望が先だって来るのだ。要するに万国共通で使える「文字コード」をもった漢字 を、候補のママにしておく期間を短くできないかという希望が先立つのだ。
 まして西垣さんの本に上げてあるように数万字もの追加が検討されているのはともかく、 「ISO10646?2」の「二万九百二字」をただの「文字集合」にしておかずに、「エンコード」して使い物になれば有り難いなと思うのである。わたし は、「全部必要説」の「引き算」論であるにかかわらず、一方、当面は「二万字」が目標だとも発言してきたのだから、もし新しい器械を買ったその日から 「20902」字が利用可能なら、当分は「文字コード」問題を専門家にあずけておいてもいいかなどと思ってしまうほどである。
 だが、西垣さんの本は、いまのところ、この辺がよく読みとれないので悩ましい。さて、「講習会」で「文 字コード」の専門家は何をどう教えてくれるのだろう。
 

* 四月四日 水

* 西垣さんの本を座右に、器械を扱いながらの「間合い」を利して、じつに少しずつ 少しずつ読んでいる。今、104頁まで読んで、計画中の「ISO10646-2」が実現してゆくとUCSに「収納される漢字の総数はやく七万字近くになる はず」とある。これは言われるまでもなく康煕字典や諸橋大漢和辞典の収容字数を超えている。ただし、「文字集合」の段階なのか、ここに謂う「収容」とは 「実装=エンコード実現」なのかが分からない。「新拡張JIS」のところでも「収容された漢字は」とあるが、「収容」の意味が正確に掴めないでいる。
 それにしても「インターネット上の国際共通文字コード・システムは、すでにUCS(ユニコード)の路線 でほぼ固まった。」「近々、あらゆる国の公用語で使用される文字群は、すべてUCSに収納されるはず」と聞くと、明るいような気分になるのだが、「使用」 と「収納」との間にどんな距離があるのか、文字は集合収集されているけれど、文字コードを与えられてOSの中に「実装」されているわけでは全然ないのか、 が、心許ない。
 使用語彙の定義が確定していると、その定義に沿って語彙が選ばれる、それが科学だと思われるから、この 場合、微妙なところで定義不明のため「叙述」が理解へまっすぐ飛び込んでこない。たんにまだ絵に描いた餅が大盤振舞いの数字としてだけ大山積みなのか、第 一・第二水準の段階以上に、どの辺までが、どんな器械でなら「インターネットで無条件に万国使用」できるのか、わたしの不慣れもあり、愚鈍もあり、どうに も掴みにくい。
 収納されたら、使用できます、というのであれば、これから文字コード委員会は、何をするというのか。ぽ つぽつと康煕字典や諸橋大漢和にもない漢字を探し続けるのが「仕事」なのか。どうも、収納したが、使用できるわけではないぞというように、疑心暗鬼、読め るから悲しい。
 そんな、愚痴を聞き止めて、「ほら貝」の加藤弘一さんから、助け船が入っている。わたしのような人もま だ多い故に、広く伝えさせて欲しいとおゆるしを得たい。

* 多分、「わかった」とお考えになっておられる事でも、誤解されているのではと危 惧しております。
 どの分野でもそうですが、暗黙の前提がありまして、長く係わっていると、暗黙の前提を周知の事実と錯覚 してしまうようです。
 暗黙の前提としたことを、4月3日の条に即して、説明いたします。

  > これの説明には、まだ理解の届かない箇所がわたしには残るが、目の前 のかなり明るくなることも書かれている。
「現在、すでに『ユニコ>ード2』は、ウィンドウズ2000やウィンドウズNTといった新しいパソ コンOSの内部コードとして用いられている」と。わたしのこの今の器械は確かウィンドウズ98だからダメなのだろうと分かる。ぜひ近いうちに、そのウィン ドウズ2000やウィンドウズNTといった新しいパソコンに出会いたい。もう売っているのかな。>

 Windows2000とは昨年出たWindowsNTの新版のことで、プレイン ストール(OSをはじめから組みこんであること)したパソコンは、かなり前から売っていますし、現在お使いのパソコンに、Windows2000を組みこ むことも可能です。年内には、Windows2000の新版がWindowsXPとして発売されます(XPは評判がいいです)。
 つまり、  WindowsNT → Windows2000 → WindowsXP   というように、出世魚よろしく、名前が変わっているのです。
 Windows98でも、ユニコード文書は作れることは作れます(ユニコードは、実装されています)。 しかし、Windows98でユニコードを使うには、めんどくさい手順が必要です。WindwosXPでは、簡単に使えるようになるらしいので、発売まで お待ちになった方がいいでしょう。
 ただし、読むだけでしたら、Windows98でも、ソフトがユニコードに対応していれば、ユニコード を使った文書を普通に読むことができます。ソフト未対応なら、「?」になります。これはWindows2000でも同じです。(画面上で、こっちはユニ コードモードのウィンドウ、あっちはシフトJISのウィンドウと、ウィンドウによって使う文字コードが異なるケースが生じます。過渡期なので、仕方ないで す。)
 UCS=ユニコードの漢字セットですが、次のようになっています。
 1. CJK統合漢字  約二万字  Windows98、WindowsNT(Windows2000)などに実装済みです。
 2. 拡張A  約七千字   いつでも実装できますが、まだ実装例はない?
 3. 拡張B  約四万二千字
   今夏に正式決定されますが、すでにエンコード済みです。
 4. 拡張C  ?  今年九月まで候補を募集中。  漢字統合をやめたので、異体字がはいります。
 「エンコード」とは、文字に符号(文字番号)を与えることを言います。「1」から「3」までの七万字が 「エンコード済み」です。
 「実装」とは、文字データをOSに組みこんで、「実際に使える」ようにすることを言います。 Windowsには、「1」の、2万字すべてではなく、XKP協議会が選んだ1万7千字ほどしか実装されていないのですが(この数字はうろ覚えで書いてい ます)、それは日本で使うことのまれな中国や韓国の文字の一部を、コスト的な理由から、はずしているからです。(ひょっとしたら、Windows2000 には、2万字全部はいっているのかもしれませんが、文字コードから離れているので、わかりません。最新の情報は講習会でお聞きください)。
 「拡張A」はいつでも実装できますが、Windowsにすべて実装されることは、多分、ないでしょう。 幹事の方が、「マイクロソフト社にデモをしろ」と言ったのは、その意味だと思いますが、「僻字がほとんど」なので、無理に実装する必要はないと思います。
 「拡張B以降の実装」は難しいです。サロゲートペアという特殊な方法で実装するので、拡張Aまでのよう に、フォントをいれれば、即、使えるようになるという具合にはいかないのです。しかし、これも時間の問題です。
 「拡張B」が使えるようになれば、7万字、「拡張C」で9万字程度までいくと思いますが、 Windowsにフォントがはいるのは、「せいぜい二万字程度ではないか」と見ています。それ以上のフォントは、必要な人だけがいれればよいということに なるでしょう。5万字からのフォントをダウンロードするには、現在は一晩がかりですが、「拡張C」が使えるようになる時点では、5から6分でダウンロード し、自動的にインストールされるようになっているはずです。

* これは、嬉しい、有り難い、明快なお話で、こんなふうに、これまでも委員会等で 聞いていたに違いないのだろうが、容易なことに耳には入りきらなかった。

* さて、かくて、わが文字コード委員会の目的の大きな一つは、「4. 拡張C  ?  今年九月まで候補を募集中。  漢字統合をやめたので、異体字がはいります。」いう、これらしい。要するに、「エンコードするための文字 集合づくり」だということらしい。誤解かも知れない。当たり前じゃないかと謂われるかも知れない。いずれにしても、どうやれば、「?」としか出ないような 器械から、欲しい漢字が引き出せるのかという、ユーザーとしての貪欲が満たされるような、満たされにくいような、曖昧な按配である。かなりの「魔法」に通 じれば、今でも二万字ていどまで呼び込めるらしいが、魔法使いにはなかなかなれない。ならなくて済むようにしたいものだ。「漢字が足りない」という段階の 議論が、もう全然不要なのか、原則不要なのか、まだまだ喧しく言わないと文字集合での大渋滞こそあれ、文字実用には相当の歳月待ちとなるのか。目が、やは り、放せない。なんだか、もう全部解決したという明るい話では、やはり、ない、のだと思うことにしておく。
 加藤さんに、心よりお礼申し上げる。
 

* 四月四日 つづき

* 陶芸家で、京都市立銅駝美術工芸高等学校の前校長江口滉さんの、充実した「論 説・提言」を戴いて「e-文庫・湖」第十一頁に掲載した。有り難い。

* 階下で原稿書き込みの仕事をしていたウインドウズ95の器械が、よく分からない が故障または大破したらしく、使えない。直前にフロッピーディスクに念のためにバックアップして置いたので原稿は九割九分助かったが。妻のEメールをはじ めわたしのいろんなものがどうなったか、分からない。大方は二階のこの器械で仕事しているので、差し当たっては問題ないが。修理に秋葉原へまた運ぶかどう か、とにかく大故障が四度目の器械で、そのつどの修理費は大きかった。機械を買ったときはまだ大学にいた。生協でも当時43万円ほどした器械だが、今度修 理代を払うと総額がモトの買値を上回るだろう。困ったものだ。しばらくは今のこの器械を大事に大事に使おう。「年内には、Windows2000の新版が WindowsXPとして発売されます(XPは評判がいいです)。 WindwosXPでは、簡単に(ユニコードが)使えるようになるらしいので、発売までお待ちになった方がいいでしょう」と加藤さんに教わっている。年内 がいつの話になるか、そういえば文字コード委員会でもそんな話をちらと耳にしていた。待とうと思う。

* 明日は建日子がわれわれを車でどこかへ連れて行ってくれるとか。湯でもつかっ て、今夜ははやめに休みたい。

* 深夜まで毎晩本を読んでいる。浜松中納言は唐土から日本へ帰ってきた。唐后との ロマンスは、不自然も感じさせずに、ものあわれに面白く読ませた。栄花は、いよいよ東三条殿兼家の大手をひろげるところへ来た。蜻蛉日記の著者をてこずら せた夫だ。
 珍しくも斎藤史さんの小説本というのを頂戴した。わたしが帯の文を書いた歌集『ひたくれなゐ』など、近 代屈指の大歌人であるが、小説も書かれていたことは知らなかった。
 嶋中鵬二氏の遺著は、著者の亡くなっていることを忘れてしまいそうなほど、元気のある佳いもので、有り 難く、儲けものをさせてもらったように喜んで読んでいる。
 真有清香さんの泉鏡花論も読みたいと思っている。
 高史明さんにいただいた本はすぐに読み通した。
 山折さんの日本の美意識を説いた本は、谷崎の『瘋癲老人日記』の部分だけを読んだ。

* 創作シリーズ17「加賀小納言」「或る雲隠れ考」「源氏物語の本筋」お送りしま す。
 お蔭様でゆっくり読めます。どこまで読めているのかわかりませんが、面白いです。「かげ」小納言とは、 さすが紫おばさんてぇのは、やるもんですね。田舎のおじさんは、他では味わえない満足をしています。いつもながら感謝で一杯です。
 「電脳社会」の文字のこと、本当にごくろうさまです。
 素人考えで叱られそうですが、コンピュータを文字に合わせるべきで、文字をコンピュタに合わせてはいけ ません。
 日本の文字が、世界中の文字が、大切にされるよう祈っています。
 BTRONのOS「超漢字3」の講習会というのへ行ってきました。空いていて、講師1対受講者1でし た。とろい生徒に親切に教えてくれて、これはよかったです。
 桜に雪、地震も近づいているようで不気味です。お大事にしてください。

* 千葉の勝田さん、こういう感じのよさを「なんどり」と、母など謂うていた気がす るが。「まったり」という重めの濃さでなく、駘蕩として暖かにかすかに日差しの揺れている日溜まりの宜しさ、か。お目にかかったことが、ない。日々をどう ぞお大切に。
 

* 四月五日 木

* 明け方には冷え込んだ。マゴに障子をやられて飛び起きたのが七時前、血糖値は、 80、すこぶる良好。
 迪子、満六十五になり、わたしに追いついた。聖路加の定期検診にでかけ、そのあと建日子らと合流する予 定らしい。体調は一進一退のもう永い永い横ばいで、日により弱り日により元気。その程度で永く永く無事にいてもらいたい。
 加藤弘一さんから貴重な「教科書」を追加していただいた。

* もうすこし詳しくご説明いたします。
 ワープロでも、ブラウザでも、メールソフトでも、ソフトを立ちあげると、ウィンドウが開きます。
 シフトJIS対応のソフトですと、そのウィンドウはシフトJISモードのウィンドウになり、6700字 種しか表示できません。
 ユニコード対応のソフトですと、そのウィンドウはユニコードモードのウィンドウになり、2万字種 (Windowsでは若干抜けているので、1万数千字)が表示できます。
 ウィンドウに表示されている語句をコピーしますと、その語句はメモリー内の「クリップボード」という場 所に格納されます。
 シフトJISのウィンドウからコピーした場合、シフトJISであるという識別符号をつけた上で、格納し ます。ユニコードモードのウィンドウからコピーした場合は、ユニコードであるという識別符号がつきます。
 「クリップボード」内の語句を貼りつける際は、貼りつけ先のウィンドウがシフトJISモードなのか、ユ ニコードモードなのかを調べます。
 シフトJISの語句をシフトJISモードのウィンドウに貼りつける場合は、そのまま貼りつけます。ユニ コードモードのウィンドウに貼りつける場合は、ユニコードに変換してから貼りつけます。
 ユニコードの語句をユニコードモードのウィンドウに貼りつける場合は、そのまま貼りつけます。シフト JISモードのウィンドウに貼りつける場合は、シフトJISに変換してから貼りつけますが、シフトJISにない文字の場合は「?」にしてから貼りつけま す。
 こういう作業を、Windowsは自動的にやっているのです。
 Windows98はユニコード機能が完全ではないらしく、できるはずのことができない場合がありま す。
 うちのマシンですと、ユニコードにしかない文字を自由に書きこんだり、はりつけたりできるのは、MS Word2000とMS IME 2000の組みあわせの場合だけです。秀丸は使っていませんが、使っている人によるとできるそうです。
 ユニコードに対応しているはずのNetscape Composerなどでは、シフトJISとWindows外字にない文字は書きこめなかったり、貼りつけられなかったりします。
  Windows2000は、1万5000円程度で買えますが、メモリーを256Mくらいに増設しないと、苦しいようです。現在のメモリーの量は、パソコン のスイッチをいれた時、最初に黒い画面にでてくる数字でわかります。メモリーは1万円から1万500円くらいでしょう。合計3万円あれば、大丈夫です。
 ただし、かなり難しい作業なので、お弟子さんにやってもらった方がいいです。

>* 西垣さんの本を座右に、器械を扱いながらの「間合い」を利して、
>じつに少しずつ少しずつ読んでいる。今、104頁まで読んで、計画中の
>「ISO10646-2」が実現してゆくとUCSに「収納される漢字の総数はやく七
>万字近くになるはず」とある。これは言われるまでもなく康煕字典や諸
>橋大漢和辞典の収容字数を超えている。ただし、「文字集合」の段階な
>のか、ここに謂う「収容」とは「実装=エンコード実現」なのかが分か
>らない。「新拡張JIS」のところでも「収容された漢字は」とあるが、
>「収容」の意味が正確に掴めないでいる。

 エンコード=実装ではなく、収容=エンコードです。
 常用漢字表とか、康煕字典のように、コンピュータと無関係に作られた文字集合の場合は、エンコードされ ていませんが、文字コードのために作られる文字集合は、暗黙のうちにコード構造が決まっていて、文字集合にはいった時点で、なんらかのコードがあたえられ ています。
 文字コードは、英語では coded character setと言います。直訳すれば「符号化文字集合」です。
 ただし、一度作られた文字集合に、最初とは別の符号がつけられる(別のエンコードがおこなわれる)場合 があって、その結果、文字集合とエンコードが分離しているように見えるのです。
 なお、文字コードにはいることと、その文字が実装されるかどうかは別問題です。
 芝居でいいますと、エンコードするというのは、一場面として、台本に書きこまれることです。実装は上演 にあたります。いくらいい台本を書いても、上演してくれるところがなければ、画餅で終わりますし、上演にあたって、場面がカットされることもあります。
 西垣先生の御本は拝見していませんが、「文字集合」と「エンコード」を分離して考える立場に立っている ように見受けられます。この立場をとられる方は多く、わたしも以前はそう考えていたのですが、歴史的に見ても、いささか問題があります。
 現状を見れば、確かに「文字集合」と「エンコード」は独立しているかのような形ですが、歴史的に見ます と、両者は一体のものなのです。
 漢字コードの元祖というべき日本のJIS C 6226は、最初にコード構造(入れ物)ありきで、そのコード構造でエンコードすることを前提に、最大8000字という枠で文字集合(中味)を決めていき ました。
 ユニコードにしても、エンコード上の制限から、最初に3万字という漢字枠の上限が決まっていました。は いりきらないことがわかって、後でサロゲートペアという裏技で増やしたのですが、最初に3万字以内に収めようと無理をして漢字統合をやった結果、ややこし いことになっています。
 JIS C 6226は情報交換用の文字コードで、内部処理に向いていないので、シフトJISとEUCという内部処理用の文字コードが作られました。
 内部処理用ですから、JISコードに変換してから外に出さなくてはいけないのですが、当時の技術者の文 字コード理解が不十分だったために、シフトJISやEUCのまま、外部に出し、情報交換に使いはじめました。
 その結果、6700字の文字セットにJIS、シフトJIS、EUCという三つの異なるエンコードがある かのような状況が出現し、いろいろな混乱が生じました。難しいものです。

* こんなに要領の掴みやすい解説は、とても「私」にはできない。関心や興味のある 人たちに加藤さんの理解を分けて差し上げたく、書き込ませていただいた。その気のある人は大いにご勉強願いたいが、わたしの文字コード委員会へ参加の経験 から言うと、これでも、下地がかなり無いと、知らない外国語を聴いているのと同じなのである。わたしは、幸い、薄い色をもう何度も何度も何度も塗り重ねて きたので、だいぶ読みとれる。それでも誤解する。投げ出さないだけである。
 

* 四月五日 つづき

* 聖路加病院で建日子の自動車に乗り込み、お台場のフジテレビの、高い高い球形の 展望台にあがった。今日は天気晴朗ながら強風の吹きすさぶ日でもあった。六十五歳の妻は、めずらしいお台場近縁の景色を声弾ませて楽しんでいた。息子の仕 事場の一つであるということも、フジテレビには懐かしい思い出のあることも、ご機嫌のよさに手伝っていた。
 フジテレビはもともと、我々の上京し結婚したころの、新居といえば聞こえがいいが、市ヶ谷河田町のア パートの、すぐ近くにあった。家にはテレビなどなく、金もなく、よくフジテレビへ出かけて、どこへでも潜り込み物珍しさに楽しんでいた。あげく、当時の長 寿番組であった「スター千一夜」のセット(喫茶店)の客として出演を頼まれたりした。菅原謙二という映画スター、今は新派にいる役者が結婚するか婚約した かの頃であった。数百円の出演料を、ポケットからの小銭一掴み分もらった。それが家計の足しになった時代であった。すこぶる楽しかった。その頃、妻の兄 が、ときどきフジテレビで構成などの仕事をしていた。いまフジテレビはお台場に引っ越し、そこへは我々の息子が、ドラマ脚本の仕事などで通っている。
 フジを出て、近くのヨーロッパスタイルの豪勢なホテルのラウンジで、サンドイッチ一人前と飲み物とで、 一服した。
 妻のつよい希望で、お台場をはなれて自動車は川崎の方へ走っていたらしいが、わたしは小瓶のビール一本 に誘われ、うしろ座席でぐっすり寝入った。前では妻の嬉しそうに息子と話している声がときどき夢の合間に聞こえ、自分が車の中に寝入っていることを忘れた りした。気が付くとガランとすいた大きなトンネルの中を疾走していた。一瞬シルベスタ・スタローンのやった海の下のトンネル大事故の映画を思い出した。そ ういう物騒な印象はすこしも現実にはなかった。木更津へ通じた海底トンネルを、妻が所望の「海ほたる」へと走り続けていたのだ。
 「海ほたる」なんてとさんざバカにしていたけれど、なかなかの光景で、光景どころかよろめくほどの恐ろ しい強風で、幸い寒くはなく、風も景色も、ことに富士山のシルエットが空に浮かんだ方角に、炎々とあかく燃えていた夕焼けと夕陽の美しさには、わたしも声 をあげ喜んだ。息子が何枚も写真をとってくれた。海に囲まれた巨大な船の上という感覚であり、ぐるりと風にさからい回廊を一周して、妻は嬉しくてころころ と笑ってばかりいた。落日のはやいことにも三人でおどろいた。いい眺めであった。
 また川崎の方から陸に上がり、銀座に戻って、ラジオの仕事をちょうど終えてきた息子の相棒の女優とも合 流し、「寿司幸」をめざしたものの全席ふさがっていたので、一丁目の「シェモア」へ歩き、シェフお薦めの料理を満喫した。シャンパンを食前に、赤ワイン一 本を四人で分けた。ゆっくりといろんな話が出来た。誕生日祝いの品などなにも用意も出来なかったけれど、後日に靴を一足と、手形で払って置いた。文句なし に妻には楽しい誕生日となったと思う。
 「シェモア」の下の方の店で、二所帯が、めいめいにパンを買ったところで路上で別れた。足下に有楽町線 の駅がある。地下鉄で妻はうとうとし、わたしは、立ったまま嶋中鵬二さんの「日々編集」に読みふけりながら、保谷まで。宇野千代のこと、司馬遼太郎のこ と、永井荷風のこと、など、よき時代のすぐれた作家や文学者達のはなしは、いっとき私に「フジテレビ」や「海ほたる」や「シェモア」を忘れさせたほど濃厚 な感銘を与えてくれた。
 建日子にNHKでの連続ドラマの打診などが、運転中の携帯電話に繰り返し入ってきていた。金になるなら ぬ、生活がラクか苦しいのか、そんなことは分からないが、生き生きと日々を過ごしているらしいことは分かり、そういういわば仕事の現場に触れるというのも 親には珍しい見聞であった。しっかりやってやと、わらっておれた。
 

* 四月六日 金

* 電メ研、もちろん初めてのことだが、ワインのある会議になった。倉持光雄さんが 勤務先の甲府から「予告」の甲州ワインを二本、高橋茅香子さんもスペインの旨いワインを一本お持ち下さった。今日は懇談会ほどの気軽な顔合わせを予定して いたからでもある。一応三月末で任期が切れていた。新しい任期は次の総会や理事会があってのこととなる。それで、今日はオブザーバーに参加希望の池内ひろ 美さんにも加わってもらい、二時間半、いろんな話題で意見交換と交歓の時をもった。今日の話し合いも踏まえて、二十七日の総会で委員会報告をする。

* たまたま倉持氏と帰りが一緒になり、久しぶりでもあったので名残を惜しんで近く の「サンキエーム」で食事と白ワインとを、また楽しんだ。歌舞伎の話などの出来るお相手で、年久しい付き合いでもあり、話題にはことかかない。今日ばかり は、料理よりお喋りの方が冴えていた。

* 九時に家に着き、すぐ、メル・ギブソンの映画「ペイバック」を予備的にテープに 入れておき、沢口靖子「お登勢」の一回目をみた。千葉の勝田「おじさん」もみておられたようである。ドラマは可もなく不可もなく、今後の展開を待つという 気分である。それはそれ、また「救急治療室 ER」が再開されたのは有り難い。あのアメリカ産医療ドラマは、はげしいカメラワーク一つでも、楽しみ。映画「ペイバック」は殺伐とした三流映画だが、マ リア・ベロという女優に、メル・ギブソンと通い合うハートのあったのが、救い。メル・ギブソンは、「ブレイブ・ハート」「リーサル・ウェポン」その他で、 硬軟ともに比較的気に入っている。

 
* 四月七日 土

* なにとなく気が鬱ぐのは、またぞろ橋本龍太郎が、あのいやみな顔で前へ出たがっ ていると言うこと。この十数年、「日本」丸を壊滅的な破局に追い込んだ無能な船頭は、一人をあげるなら大蔵大臣で大バカをやり、総理大臣としてタダの火だ るまとなり焼け落ちた橋本龍太郎をおいていない。もう一人が宮沢喜一。宮沢に再度総裁総理の目の無いのは明らかとしても、橋本がまたしゃしゃり出る不快感 は深刻だ、あれだけは、何としてもやめさせたい。数では、だが、小泉は勝てないだろう。
 橋本自民で、またあの昔のママの参議院惨敗退陣というスケジュールならまだしもだが。とにかく橋本をか つぐのは橋本派だけの数の論理であり、それに屈従し追従しておこぼれにあずからねばと血眼な他派の自民党代議士どもがあんまり情けなく、朝から鬱陶しい。

* 嶋中さんの『日々編集』を読んでいると、せめても、まだしも文学の世間は、わる くない伝統、すばらしい人材をもっていたな、と思う。それもいまは変質し低迷の気味。もっとも最現在の沸騰というモノは、いつも、かなりに軽薄に映じるモ ノではあるのだが。

* 野茂といいイチローといい佐々木といい、また新庄選手も、日本の大リーガーたち がスカッとした気分にさせてくれる。必ずしもただ成功しているからではない。彼らのがんばりからは掛け値なしの気分のよさが吹き付けてくるからだ。

* 作家の庄司肇さんからも出久根達郎さんからも、作品を自由に「e-文庫・湖」に 使って下さいと言われている。忝ない。新人の小説も読みたい。
 

* 四月八日 日

* 昨深夜、建日子が車で隣の家に帰った来たのが分かった。今日昼食をいっしょにし て、夕方人と会うと出かけていった、人と会うのが「仕事」なのだ、放送製作の世間は。

* 三日つづけて出ていた。外で飲食すると、金がかかるという心配はしないが、明ら かに体力を要する。夜ふかしして沢山本を読むという嬉しい習慣はあまりやめたくないが、夜は寝たほうが健康にいいに決まっている。
 栄花物語は、もう道長が、時姫の生んだ兼家三男として登場して来ている。兄に道隆、道兼がいた。清少納 言の仕えた皇后定子は道隆娘であった。紫式部の仕えた中宮彰子は道長の娘であった。彼らの異母兄弟に大納言になる道綱がいた。母親が、蜻蛉日記の著者であ る。百人一首に名高い「嘆きつつひとりぬる夜のあくる間はいかに久しきものとかは知る」の歌人でもあり、この時代に、一二をあらそう才媛であった。

* 九大の今西祐一郎教授から、その大納言道綱母の一首の「読み」にかかわる論考等 をいただいた。
 この名歌は、藤原定家が百人一首に採るより以前から、圧倒的に人気の高い歌であった。拾遺抄や拾遺和歌 集に採られ、大鏡にも出てくる。
 日記によれば夫兼家の訪れた夜、しきりに戸を叩くが道綱母は入れなかった。そして明くる日、アテツケに 兼家に送ったのがこの歌であり、兼家も立ちん坊の不服を返歌している。そのころ彼は、彼女の家の前を素通りして町の小路の女のもとへ通うことの度重なって いた。道綱母はそれにむくれ、たまたま立ち寄って戸を叩いたのを、知らぬ顔に外で立ちん坊させたのである。
 この知る人ぞ知る名高い挿話の、だが、拾遺や大鏡の記載と、日記の記載とでは、違っている。前者では、 さんざ焦らせて置いて迎え入れ、ぼやかれたのに対する即応の和歌となっているが、日記では、ついに入れずじまい、翌朝以降の夫婦の応酬となっている。その ように読める。どっちがどうかと古来議論があり、今西さんの論考は、また新たな論議を持ち込んでいるのである。
 日記には、立ちん坊で入れて貰えなかった後の兼家の反応が、書かれず省かれていると今西さんは説き、本 当は、兼家の方から、翌日になってであれとにかく何らか道綱母の対処を咎めて抗議していたはず、その夫からの苦情に対して答えているのが道綱母の「嘆きつ つ」の歌であり、それがあまりの秀歌ゆえに兼家もまた、「げにやげに冬の夜ならぬまきの戸もおそくあくるはわびしかりけり」と返歌でぼやいてみせ、事態を 収束した。道綱母は、夫を家に入れず、そして翌日自分から先ず歌を送ったのではなくて、兼家に抗議されたので切り返すように歌で気持ちを伝えた。送った。 それに兼家は返歌したのだ、と。そのように日記本文の経過を、拾遺や大鏡とはべつに整理し、理解された、ということのように今西説を拝見した。

* さて、わたしのような一愛読者は、こう考えてきた。
 まず和歌集に詞書して収録したり、大鏡のような歴史物語に採録される場合は、もはや日記的事実を超えた 編集・編纂の取材もの割り切って、別に自立し自律した脚色と受け入れ、その限りにおいて、事実以上の真実感を酌んで興がることにしている。ウソがウソでは なく、脚色されていていい、そういうものなのだと。
 一方「蜻蛉日記」本文の流れを、わたしは、今西説のように、兼家側からのアクションに対するリアクショ ンの「嘆きつつ」とは受け取っていなかった。
 道綱母という人は、「嘆きつつひとり寝る夜の」つらさ侘びしさをしたたか兼家により体験させられてい る。そんな夜の長さ、夜の明けるまで悶々として寝られぬ長さがどんなにつらいものかを、イヤほど知った人だ。それゆえ情動不穏に陥っている。ヒステリーも 起こしている。それあればこそ、家の前を素通りしてゆくようなむごい夫兼家に対し、気まぐれに表戸を叩かれると、心身違乱、毒くわば皿までと突っ張って、 内へ入れずに追い帰してしまった。
 兼家という夫は、そういう道綱母であることをよく承知して彼女を操縦していたから、立ちん坊に、自ら先 に抗議したかも知れず、しかし知らぬふりで抗議などわざとしないという兼家流も、また優にあり得たであろう。どっちとも言えないが、どっちであろうと、道 綱母の方は、それぐらいやって置いてなお追い打ちに、「嘆きつつひとりぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかはしる」ぐらいは蒸し返し押し込まねば気の 済む女ではなかった。和歌がうまければ、相応に評価もしてくれる兼家だとも承知でつっかかることぐらい、何でもなくやれるお高くてヒステリックな女の性を 道綱母はもっている。それさえも魅力の一つにしている。
 それに、この歌は、香川景樹がクレームをつけるほど、蜻蛉日記のなかで意味不都合があるようには、わた しは、感じて来なかった。
 この一首は、なにもこの時に限って強烈にあてはまった「ひとりね」の歌ではない。いつも慢性的に「まち ぼけのひとりね」体験を強いられている女の、腹に据えかねた味気ない夜の長さをいわば底荷にした、ふだんから憤懣の一首である。悶々と夜の明けるまでが 「いかに久しきものと」「あなたは、知っているのか、知りはすまい、頭に来る」と歌っている。
「少々門の外に立たされ、入れてもらえないぐらいで、文句など言えた義理ですか」とやっている。そのやり 方が、きついけれど、ひどく巧い。おそるべき秀歌なのである。本人もそれは自慢であるから、歌を突きつけた辺りから、もう、怒りもすこし中和されている。 この歌、いつか叩きつけてやると、すでに嚢中に秘匿されていた手榴弾であったかとすら邪推できるのである。ねらい澄まして、うまいのである。
 兼家の返歌は、にやりと、女の歌の巧さに感じ入り、しかも素知らぬ顔で、「しかし、あれはひどかったぞ よ」とぼやく。鷹揚なものである。とくべつ、強いて兼家からのアクションを待たなくても、劇的状況は首尾調って自然に成り立っているものと、わたしは読ん できた。まずいだろうか。
 沖ななもという、現代の、すこし軽薄にみえる歌の達者な歌人がいて、「わたくしがいなければだめになっ てしまう、と思わせておくも男の手なり」と歌っている。
 道綱母は、これを「女の手」と信じたい直情の人であり、兼家はそれを「男の手」として、悠然と、道綱母 を操った。この相い和する歌のやりとりは、その辺の勝負であり男女の齟齬なのであると、やっぱり感じている。やられたのは女で、男ではあるまいと観ている が、道綱母一人は夫をへこませたぐらいな気でいる。「男の手」が見えていないのである。
 「蜻蛉日記」の現状の本文は、こう読んで過不足無いように、今も、感じている。今西教授に、感謝して、 そう返事してみようと思うが、どんなものか。
 
* さて、もう一本「『大嘗会のけみ』考」という論文も今西教授に戴いている。蜻蛉日記絡みである。辞書 辞典の記載如何ということも絡んで、今西さんならではの博捜と実証とで「大嘗会のけみ」と本文にある「けみ」は、検見・毛見などのけみではありえず、「小 忌=をみ」の読み違いであると確証されている。蜻蛉日記の「大嘗会のけみ」を出典により一般の検見・毛見とはべつの意味項目を立ててしまっている辞典編纂 者への撤回改正を求められている。これは、もう両手をあげて賛成し感謝したい。

* 倉持光雄さんとサンキエームで食事のとき、今度の「能の平家物語」もさりなが ら、後段のエッセイ十数編「能・死生の藝」がとてもよかったと誉めてくださったのは嬉しかった。多年の勉強や鑑賞体験をかなりコンデンスしえたものと密か に自負していた。

* 「千葉文芸」という四頁の小型の文芸新聞が、創刊号から第九号まで、庄司肇氏か ら送られてきた。意気なかなか尊いものである。全国から志ある書き手が原稿料なしで、掲載料なしで寄稿している。読ませる文章もある。詩歌にも印象に残る ものが入っている。一部百円。これもなかなかの気合いである。庄司さんは自分の文章は好きに「e-文庫・湖」に使ってほしいと。
 氏は「きやらばん」という個人文芸雑誌を多年出し続けられている練達の作家であり厳しい批評家である。 「千葉文芸」の主軸になって居られるようであり、「くらむ」の倉持正夫さんも「エッセイ通信」の高田欣一さんも寄稿されている。「文芸」の火種を真摯に継 いでゆこうとされる人たちは少なくない。ときどき思うが、日本ペンクラブや日本文藝家協会の役員や理事達は、自民党永田町組のようであり、しかし、全国に もっとべつの政治や国民のことを考えている党員のいるように、文藝の書き手たちの大勢いることを、つい忘れているのではないか、いや軽視しているのではな いかと感じる。
 

* 四四月九日 月

* 秦さん、ご無沙汰しております。だいぶ暖かくなってきましたね。今日などは外を 歩いていて汗ばむほどでした。お元気にお過ごしでしょうか?
 年度も替わり、またあらたに後輩もむかえ、いつの間にやら社会人4年目になってしまいました。
 仕事上は、まあまあ順調だと思います。まだまだ身につけるべき事、勉強すべき事は多いですが、それもま た、目的がはっきりしているためか、楽しく感じます。
 学生の頃、仕事とは生活してゆくための必要と、社会の中で生きて行く条件としてするものであり、人間と しての本来の生活や、生きる意味は、それとは別のところにあると考えていました。(あくまで自分自身においては、ですが。)
 でも、現在の自分の目には、日々に立ち現れる様々なこと、それと関わってゆくことが、実は、人間として 生きることの、重要な大きな部分なのではないかと映るのです。
 生きる意味とは別のものであると捉えていた仕事の中での、一見些細なこととの関わりもまた、紛れもなく 生きていることの一部なのだと。
 逃げの心理なのかも知れません。
 この世界の真の姿を、ただ深く追い求めることこそが、生きるということ、という思いも、ごまかし難くあ ります。
 それでも、日々の生活の中での様々なことを、関われば関わるほどに確かに返ってくる手応えを、実はただ 意味のないこととである、とも言い切れないのです。
 詰まらないことを考えているのかもしれません。。
 でも、そんなことを考えながら、今は良いけれど、ほんとにずっとこうやって生きていくのかな?などと、 正体不明の焦りのようなものも、時に感じてしまいます。
 それでは、どうぞお元気でお過ごし下さい!

* こんにちは!
 今夜のきみのメールは、アイサツは、少なくもわたしには、まさに期待した通りのものです。日々の大半の 時間をそれに注ぎ込む「仕事」が、面白くも楽しくもなるほど、いろんな意味で生産的で健康で力になるものは、無いはずなのです。それでこそ、いいのです。
 わたしは、狂気のように忙しい勤務の時期を永く体験していましたが、会社環境はとにかくとして、いつも 仕事には満足し、たとえ不満に始まった仕事も、工夫して、自分なりに面白い満たされたものに作り替えてゆくようにしていました。だから、創作にも打ち込め たのです。仕事の不満の埋め合わせとして創作へ逃げたのではなかっのです。編集者として評価されていたそのことか創作者への力になってくれました。きみの いまの心境を、嬉しいなと読みました。元気で。健康にだけは留意してください。いつでも声をかけてください。

* 「リンゴの唄」の並木路子が亡くなった。たった一曲で「歴史的な歌声」を津津浦 浦に響かせた「歴史的な歌手」となった。「感謝」と気持ちを表現するのが一等ふさわしいほど、国中が救い上げられ励まされた。たわいない唄でたわいないメ ロディであるのに、あんなに突き抜けるように「赤いリンゴ」と「青い空」とが、敗戦に窶れ果てていた精神と肉体を吹き抜けたのだ。ありがとうと言葉を添え て冥福を祈る。

* 文字コードの勉強をしていて、自然「ことば」と「文字」「書字」「活字」「電子 文字」等についてある種の思索と理解とか生じてくる。自分の考えは基本的にもともとどんなものであったかを整理しておく必要がある。
 わたしは、難漢字、稀用漢字といえども、無用であると言える人はいないという説である。過去に用いた人 と文献とがあるかぎり、その使用者と使用された文物とを無視し去る権能など、たまたま現代に生まれ、やがて後生に席を譲って退場するわれわれの持っている 道理がない。過去の使用者に対しても、未来未然の利用者に対してもである。だから、たかだか近現代の小さな理屈だけで、あまり安易に漢字はこれだけあれば 十分などという尊大で傲慢な態度は原則的に排したいという考え方をしている。だから、「全部が必要、だが、全部などというのは漢字の場合一種の観念に過ぎ ないのだから、リーズナブルに引き算の必要なことも当然」というのが、わたしの「原則引き算説」である。「全部が必要」は理想に過ぎないと言われたとき に、わたしは「理想」ではない、「考え方の原則」に過ぎないと、言下に反論したのを記憶している。なんでもかんでも「多々ますます弁ず」などという不自然 な「全部説」ではないことを、今一度確言しておく。
 では「リーズナブルな引き算」とは何か。何を「原則全部」から引いてゆくのか。当たり前だが、第一に、 先ず「その所在自体が捜索不能」なものを、無理やり探すことは出来ないのだから、当然に引く。どれほど在るのかも、誰にも分からないだろう。但し幸いに発 掘できて、意義も出典もわかり、包摂になじまない自律した漢字は、ともあれ保存収集する。当然のことである。
 次に、「包摂」という考え方を、原則として強く容認し、同じ意義と用字法をもち、あまりに偶然の書法= 書き癖・筆癖・気まぐれ・誤記等で、形に変化こそあれ本来「異字」度の希薄な異体=異形字は、賢明に包摂し、大胆に整理することで、大きく「引き算」す る。将来にわたる原則的な大課題として、包摂による引き算を敢行する。もの凄い数の、本来は同じ意義と用意の、ただ偶然の書字癖や写字癖や誤解にもとづく 異形字・異体字・放恣な造字等が淘汰されるであろう。これは、最初に述べた「尊大・傲慢」とは、全くべつごとの当たり前の処置である。なぜなら、伝えられ た漢字の殆どは、「手書き」されてきた歴史・時間が圧倒的に長く、「手書き」の偶発的な変容・変態・変形に一々重きを置くことの非合理なことは、あまりに 明白だからである。
 当然次には、アイデンティティの名においてされる「氏名・地名」漢字における、あんまりな異形字・異体 字は、これを整理し包摂するのを「原則」とし、「引き算」を有効に進めるべきである。それには意識改革等を働きかける「現代の知恵とキャンペーン」とが相 当の時間必要であろう。言うまでもなく、これらを原則として整理してゆく作業もまた、「尊大・傲慢」には当たらない。異民族による弾圧的な創氏改名は知ら ず、人間や家系のアイデンティティを、奇抜な漢字使用の固守で計ろうなどと謂うミスチックな思想の方が改訂されてゆくべきである。 わたしの姓字も戸籍謄本では現用の「秦」とはかなり奇妙に異なる字形で、どんな文字セットにも入っていないが、困るとは思わない。戸籍の方を直したいとす ら考えている。「秦」は秦の文字形で活字社会では常用され、同じ一つの意義を広く認められている。それでいいではないか、戸籍謄本どおりの字でないとアイ デンティティが失せるなどと謂う衰弱した思いは、わたしには、無い。拘泥しないで包摂に賛同してくれる人の増えてゆくように、現代思潮を先導してゆく働き などをこそ「文字コード委員会」も持つべきではないか。
 今夜は、この辺まで。  
 

* 四月十日 火

* 結城信一研究で知られた矢部登氏から「結城信一の肖像」を寄稿していただいた。 研究の基盤をなす基本の理解が「肖像」のなのもとに要領よく展開されていて、きわめて的確・適切な紹介である。いい年譜がそうであるように、いい紹介とは 研究成果の煮詰まったものであり、貴重なのである。愛読されるのを願っている。結城信一は幸せである。

* 松尾聡遺稿集全三巻の上中巻が、笠間書院の名で贈られてきた。上巻の表題が「中 古語『ふびんなり』の語意」で、中巻は「『源氏物語』──不幸な女性たち」とある。下巻に「日本語遊覧『語義百題』」と著述目録が予定されている。 これまた夫人とご子息、門下生のモゥンニングワークである。享年八十九の碩学であった。語彙の語義・語意を歴史的に追尋して行く独特のねばり強い精査の学 風は印象深く、わたしは、「ほほゑむ」の語意の理解について質す手紙を送り一度ならず文通したことがあり、丁寧に接していただいた。感謝しご冥福を祈る。 直接のご縁はそれだけで、ご遺族のご厚意か笠間の配慮か分からないが、わたしの最も愛読する方面の著書であり、有り難い。嬉しい。こういう本を、軽く誤解 されては困るが、わたしはポワロやメイスンの本と同じほど、楽しんで読む。

* このホームページの「雑輯」第二頁は、「e-文庫・湖」編輯者としてのわたしか ら、寄稿者へ、感謝や、忌憚のない感想や意見や注文を書き送ったものの「控え」である。自然、創作者としてのわたしの感覚と経験とが出ている。多忙に紛れ 昨年暮れからこの三月半ばまでの分がぬけているが、新しいところを追加してある。参考にと思われる方は目を向けてください。

* 花粉の苦痛からやっと解放されかけている。そんな気がしている。何にいま煩わさ れているだろうと思うと、それは、身の回りの片づかない混雑そのものに。備忘とか資料とか、捨てきれない参考物とか。アタマの中の地図がむやみと複雑に なっているので、道案内になろうと思う道標のような「雑物」が、数十年分も家のあちこちに溜まっている。無形の圧迫放射能がそれらから突き立ってくる。働 きかけてくる。煩わしい。きれいさっぱり処分したい。処分しては困るだろうと長い間思ってきたが、ナニ、困ったりするもんかと思いかけている。ただ、むや みと散在するそれらの処分に要する気力と体力を惜しむと、まいいかと放っておくことになり、相変わらず重い気分を背負い続けることになる。

* 橋本派の橋本龍太郎が、総裁候補として立つにも立ちにくい派内の状況とか、これ は良いことである。あれだけの失政で日本丸を沈没の危機に追い込んだヘボ船頭が派閥の長でいられること自体がおかしい。ようやく田中派乗っ取り竹下経世会 のひび割れが始まった。
 とはいえ、他候補の名前の中で、亀井静香だけは「絶対」ツキにイヤである。許永忠で名前が出、KSDや ものつくり大学でもかなり黒い印象で名前が出て来る。政策も目先をねらった叩き売り的な寸の短さがいやだし、報道への露骨な介入や規制を大急ぎでやりたが る恐れがある。そもそも、日本の「顔」としては下品でガサツである。総理大臣になりたいなど、厚顔に過ぎ、反省無き無恥が露骨である。べつに満足はしない が、小泉と田中真紀子の連合に新味を期待したい。
 

* 四月十一日 水

* 本を続けて二度読む。時間がたっぷりあった子供の頃でさえしてこなかったし、今 はもっと、時間を家事を言い訳にしています。「清経入水」は、読み終わってすぐもう一度読みたい本ですの。再確認したい、読み戻りたい、世界に浸っていた い。言葉のひとつひとつが、独善的でなく選びぬかれ、伸びやかで、気爽やかな透明感と重量感の並立は、今なかなかお目にかかれません。謎解きを確認するだ けの二度読みとは、明らかに違いますの。構造がしっかりと巧みな、読めば読むほど心が奪われる幻。覚めたくない夢です。

* ありがたい読者だ、が、読者の好みに繰り返し添おうとするのは、避けている。あ る意味で、そういう読者の好みからどう身を逃れてゆくかが、創作者の志ではないかと思ってきた。これは売りたい売れるようにとばかり願っている作家や出版 人の常識とは正反対であるが、わたしは、創作とは、方法の発見と実験だと思ってきた。一冊の本に五つの作品を入れるときに、五つがまるで別人の作かのよう に方法を異にしながらも、なお紛れなくモチーフにおいて一つの強い根から生え出ているとしか言いようのない創作でありたい。安物の繪の展覧会のように、同 じ手口で似た「おはなし」を並べてみたくはない。だが、このように読んでくれる読者のありがたさは紛れもない。「清経入水」もさりながら、要点は「二度」 に、ある。

* フィリピンから戻り、すぐに学会を二つこなして、日曜に札幌に戻ってきました。
 年度が変わり、私たちの研究所も「独立行政法人」になりましたが、将来大きな波にぶちあたると予想して います。その時に、船と一緒に沈むか、自分で泳いでいけるか、これからの気の持ちようにかかっていると思っています。行政改革の名のもとに、今回バッサリ と切られてしまった分野の中には、採算は合わないが国の存続のためには必要不可欠なものが多く含まれています。文化、医療、科学技術、トカゲのしっぽを 切ってトカゲが倒れないといいのですが・・・。
 三年前にお送りした紀行文を、プリントアウトして持ち歩き、空いた時間に手を入れてきました。初稿のプ リントアウトは、修正で真っ赤になりました。二稿は説明不足が目立ち、書き加えを随所にしました。三稿では、助詞の「が」を他に置き換えるなど、整文に配 慮してみたつもりです。推敲を通じ、この三年間で文章のスタイルにやや変化が出てきたことに気づいています。前に書いた文を改めて読み返してみると、装飾 過多で、句点が頻用されているのです。前者は過剰なサービス精神、後者は当時並行して書いていた学位論文の影響です。しかし、これをすべて直してしまう と、別物になってしまいそうな気がして、なんとか折り合いをつけてみましたのが、この原稿です。
 もう少し手を入れてみた方がいいのか、判断に迷っています。ご助言をいただけますようお願いいたしま す。
 雪の下から、黒い土が顔を出しました。畑ではトラクターがウォーミングアップをはじめ、街を歩く女性た ちは、待ちきれずに半袖を着ています。札幌にも遅い春が来ています。

 * 最後にこういう二、三行の添えられて自然なところが、この書き手の人品なので あろう。

* 暖かくなり、明け方、お布団の中で猫の様にのびをして、ふくらはぎがつれたりで 寝過ごしました。まだ 少し痛いので、今日のバド(ミントン)はパスばかりでしょう。 ハイ お歳です。

* いったい、幾歳なんだろう。
 

* 四月十一日 つづき

* 吉川英治記念文学賞のパーティに出てきた。同じ文学でも、吉川英治では、知った 顔は多いワケでない。で、気楽にたくさんご馳走になり、それでも、元群像編集長の大久保房男氏、英治記念館の事務長で電メ研の仲間の城塚朋和氏、ペンの同 僚理事の森詠氏、毎日新聞学芸部のの女記者さんなどと楽しく話してから、ほどよく一人「クラブ」に席を替え、今日はウイスキーがもう重かったので、「勝 山」という日本酒と青菜の浸しで、ゆっくり休息してから帰宅した。

* 浜松中納言物語は、夜の寝覚とは作行きはちがうが、ロマンチックに面白いことで はヒケをとらない。ストーリィはもう最後まで知っているけれど、本文が佳い。ときどきジンとするほど佳い。源氏物語、ことに薫と匂を意識していることはあ んまりなほどだけれど、源氏にはない「転生」の不思議をとりこんで、その範囲が唐土と日本に及んでいる。中納言が強いて唐土にわたるのは、亡父が唐の帝の 一人の皇子として生まれ変わっていると知り、慕わしさのあまりに渡海するのである。その中納言は、三年の滞在のうちに、父の生まれ変わりの皇子を生んでい た唐后と愛し合い、一人の男子を産ませてしまう。中納言は帰国に際して、ひそかに出産されたその男子を日本に伴い帰る。
 中納言と愛し合った唐后は、もと唐人と日本の女性との間に九州で生まれ、母とは別れて父に伴われ唐土に わたっていた。長じて帝の妃の一人となり、愛されて皇子を生んだのが、浜松中納言の、元の父の転生であつた。
 一方、中納言は日本に帰り、唐后の生母と会う。生母は他の貴族と結婚して女児を、唐后の異父妹を生んで いた。唐后によく似たこの佳人を中納言は愛するが、その女人も中納言を慕うが、運命のいたずらで中納言と親しい式部卿宮=東宮に奪われてしまい、女は、か の唐后の転生した女児を生む。
 こういう転生譚は、源氏物語にはない。唐土も出てこない。作者は新味の提供に精励し、かなりに成功して いる。あわれに物語が面白いのである。

* そして栄花物語もじりじりと御堂関白道長の時代へ近づいている。同じ古典全集で 平家物語は二巻であり、栄花物語は三巻ある。平清盛は生前に既に源氏物語に対する、また栄花物語に対する、即ち平家栄花物語を欲していたが、時期尚早と観 て平家納経の荘厳に力を尽くしたのではないか、というのがわたしの推測である。

* 松尾聡さんの遺稿集もおもしろい。「中古語『ふびんなり』の語意」という表題を 簡単にいえば、むしろ今のわれわれの語感では、「ふびんな」は、不憫な、つまり気の毒な、かわいそうな、いたわしいといったことになり、その語感で源氏物 語等の「ふびんなり」もつい読んでしまう。ところが、源氏物語の時代ではまだそんな意味はなく、「不便な」つまり不都合で、ぐあいがわるくて、けしからぬ といった意味の方がもっぱらだというのである。これは、その通りで、わたしの知る限りでも源氏物語の「ふびんなり」を不憫と読んでいてはほとんど意味が通 らず、不便・不都合の意味になっている。
 しかし、時代が下ると、はっきり不憫のほうへ転意してゆく。そういう語彙は他にもたくさんある。松尾さ んは、そういう実証にじつに丹念な努力をされた。

* 昔、東工大よりも昔に、頼まれて二年間早稲田で文芸科のゼミ指導をした。その時 の教え子の一人が今の作家の角田光代で、五枚、二十枚、五十枚の三作を書かせて批評していた。角田光代のどれかの作を教室で読んで批評したのも憶えてい る。湖の本も何冊か買ってくれている。角田光代より一年上に、宮沢賢治研究などで仕事をしてきた平澤信一君から、今日「e-文庫・湖」へ寄稿があった。懐 かしい。
 

* 四月十二日 木

* 出久根達郎氏にも高史明氏にも庄司肇氏にも、また木島始氏にも眉村卓氏にも、 「e-文庫・湖」に、自分の文章をどうぞご自由にと言われている。よく選ばせていただこうと思う。

* 新潮社から生誕百年を記念した「小林秀雄 百年のヒント」が贈られてきた。小林秀雄に関しては一度だけ書いたことがある。西尾幹二氏が褒めてくれた。小林秀雄その人からは大作『本居宣長』を「秦恒 平様」と宛名して贈られたのが印象に刻まれている。
 なによりも、わたしのかつての私家版の小林秀雄に送った一冊が、選者中村光夫へわたって、太宰治賞の最 終候補へ差し込まれたと聞いている。わたしの産みの親のお一人であった。関口の大聖堂での告別式にわたしはひっそりと身を置いた。もう遠いむかしに思われ る。

* 高校へ入った頃、学校の秀才たちの多くが、競って小林秀雄党であったが、わたし は、ガンとして谷崎潤一郎を愛し源氏物語を尊敬して、いわゆる批評文は読まなかった。読解力がなかったのだろう。小林秀雄の文章をわたしはとりとめなくさ え感じ、苦手にしていた。それよりは高神覚昇の「般若心経講義」や斎藤茂吉の「万葉秀歌」や鈴木大拙の「禅と日本文化」などを愛読した。先生に吹きまくら れ、倉田百三の「愛と認識の出発」だの阿部次郎の「三太郎の日記」だのも手に入れていたが、退屈した。同じ倉田百三なら戯曲「出家とその弟子」の方がいく ら感動したか知れない。大学にはいると、しかし近代文学史には熱心にふれ、国民文学論もよく読んだ。それでもまだ小林秀雄は敬遠していた、「ぼく」「で す・ます」の中村光夫先生のものの方が遙かに面白かった。志賀直哉論も谷崎潤一郎論も中村先生のものを先ず読んだし、「風俗小説論」の影響は深かった。さ らに進んで平野謙や伊藤整や、また山本健吉らの文学論に読みふけるようになっていった。
 しかもなお、文学作品の方では、谷崎、漱石、島崎藤村にかなり限局されていた。読むだけは広く多く読ん でいたが、大きな存在としてはこの三人に目を向けて放さなかった。

 * 小林秀雄の一冊を、静かな気持ちで読んでみたい。
 

* 四月十二日 つづき

* おそめの花便りが届いて、少し心しおれた。

* 花吹雪が水面を染めております。
 市民公園沿いの五キロほどの放水路の両岸に、約千本のソメイヨシノの並木があり、毎年幾度も訪ねます が、この春は、とりわけあでやかな花の姿でございました。
 七十年ほど前、放水路の完成にあわせて、一人の人によって植えられたこのさくらは、今では、その人の名 を冠して呼ばれ、「日本桜の名所百選」の一つにもなっておりますが、私には、亡き父母をしのぶ大切なよすがでもあるのです。
亡くなります一月あまり前、父は、折りから満開のこのさくらへと、母を伴い病室を抜け出しました。私は二 十代半ばでしたが、ふたりが一緒にでかけるのをみたのは、それがはじめてのことでした。命の終わりを悟って、最期に父は、母にふたりだけでこのさくらを観 ようと誘い、母もまた、黙ってあとに従ったのでした。
 咲き盛る花を仰ぎながら、そのときふたりの胸中をよぎったものは何であったろうと、私の想いはいつも、 ここで止まります。何故か母に訊く事もためらわれているうち、四年余り前に母も旅立ってしまいました。
 今年のことのほかの花粉症と、思うようにはかどらぬ体調に疲れて、お見舞いのお礼の遅くなりましたこと を、心からお詫び申し上げます。ありがとうございました。

* 夫婦、親娘。それぞれのものを、それぞれに抱いている。年々歳々、花は相似て。

* 上野重光氏から、短編「泥眼」が届いた。いま、一読した。出久根さんの作品も読 みなおした。もう二時だ。目から疲れている。
 

* 四月十三日 金

* 「e-文庫・湖」第二頁に、直木賞作家出久根達郎さんの創作「貧の功徳」「タン ポポ」の二編を、『門出の人』と題して掲載した。嬉しいことである。また先の「四重奏」の作家上野重光さんの新作「泥眼」を、あえて寄稿されたままの表現 で仮に掲載してみた。編輯者としては、全体にもっと推敲して欲しいと頼んである。前半と後半との微妙な落差も気になっているし、結びの処も言い足りていな いようである、が、力のある書き手なので、どのように直ってくるかを読者と共に期待したいと、趣向にして気の毒だが、掲載させてもらった。
 

 四月十三日 つづき

* 中国からの来客は年齢四十代の文学者達五人の一行で、歓迎する方の平均年齢は六 十すぎていたのではないか。型どおりの文学礼讃と平和待望のアイサツが女性の団長からあったし、黒井千次氏、井出孫六氏の歓迎、乾杯の挨拶も穏当で、その わりには長かった。
 平和を本気で語るなら、中国が、世界で五つか六つの核保有大国であることに何の反省も言及もないのはお かしいし、文学にそれほど魔力的な威力があるのなら、政治からの批評を逆に批評し返して、核や人権問題で、言論表現の自由で、もっと果敢な作品が出てもい い。出てもいるのだろうが、権力から批評され浮かび出てこれない。中国では「批評」とは政治の高みから非難することを意味しているのである。ちょっと日本 語の批評とはタチがちがう。評論がわれわれの謂う批評に近いと中国人作家にわたしは教えられた。『作家の批評』という本を出した昔に、よくこんな代で本が 書けますねと不思議がられてしまった。

* ペンクラブから小中氏や下重さんら何人も理事が来ていて、日頃はあまり話したこ とのない越智さん、高田さんらともゆっくり話せた。井出さんとも久しぶりに話せた。日中文化交流協会からは、白土吾夫氏の姿がなく寂しかった。思えば二十 数年もの昔になる、作家代表団として白土秘書長に率いられ中国に渡ったのは。華国峰氏が新主席で、あのトウ小平氏はまだ地下に追われて影も形もなかった し、四人組が逮捕されて直後、故周恩来氏の夫人がいわば国会議長に就任されたところだった。連れて行ってくださった井上靖先生はなくなり、親切にしていた だいた辻邦生さんもなくなられた。もうそんな古い中国へ行ったことのある人は今日の会場にも少なかったことだろう。あのころは最も若い同行者であったが。
 
* ゆっくりはしてきたが、東京駅のステーションホテルの歓迎会では、乾杯もジュースですませ、何一つ口 にしなかった。今日は天ぷらが食べたくて、インシュリン注射もそれまで待った。昨日今日と十分節食し血糖値もしっかりさげておいた。満を持して天ぷらに立 ち向かったわけで、うまいお酒も楽しんだ。

* 三木聆古さんの自撰五十句「寒鯉」を「e-文庫・湖」第七頁に掲載した。瞬間風 速のような透徹した表現の妙に何度も感じ入りながら書き込んだ。もう詩歌欄だけで二十二人の作品が掲載されている。いずれも、鑑賞に豊かに堪える作品集で ある。

* 自民党総裁選挙のまさに得に描いたような出来レースにつき合わされる馬鹿らし さ、堪らない。小泉の善戦と国民の注視を期待するしかない。
 それにしても、わたしは思い出す。あの参議院選挙惨敗当時に、選挙本部の当時総理の橋本龍太郎がおもわ ず「チクショウ !! 」と吐き捨てていた顔と声とを。
 彼は誰に対して「チクショウ」呼ばわりをしていたか。間違いなくあれは「国民」「投票者」に対して言い 放った声である。彼の自民党にノーを突きつけてやまなかった「国民=投票者」以外に、だれをあの時「チクショウ」と罵れたか。他党とははなから戦っていた 間柄であり、あの時点で初めて「チクショウ」呼ばわりしてみても始まらない。
 そして今また、自民党は、国民であり投票者・主権者である我々を「チクショウ」と言えるような総裁最有 力候補をかついで、ごまかしの出来レースを見せているのだ、情けないではないか。
 見ているがいい、何と吐き捨てられようとも「橋本」自民党の出来たときは、今一度、参議院選挙で、今度 は憤死させてみせるから。それにしても、すでに野中広務ら橋本擁立の蔭の策士たちは、汚く立ち回って、地方の自民党支部の痴呆化を盛んに画策していると か、ああいう陰険なところを見過ごさず、適切に痛烈に批判票を投じてほしい。憲政史上の最低の自民党になりはてている、その多くの責任を橋本龍太郎は負う ているはずだ。
 

* 四月十四日 土

* 新城市の詩人紫圭子さんの「白い野生の馬(ムスタング)」を詞華集 『EUROPE』から頂戴し、「e-文庫・湖」第七頁に掲載した。

* 先にお願いしたワタリウム美術館の講演「内容」と「履歴」について、美術館の方 からパンフレットにする時間の都合上、今週末までにほしい、と、東大倫理学の竹内整一教授から催促があり恐縮した。取り紛れていた。ワタリウム美術館での 講演講義「日本の美の思想」は、竹内さんが「世阿弥、兼好、心敬」、窪田高明氏が「一休、西鶴、宣長」、赤坂憲雄氏が「折口、柳田」、田中久文氏が「和 辻、九鬼」、佐藤康邦氏が「小林秀雄」と、重量感満載のプログラであり、わたしは最終回に、テーマは「日本人の美の思想」として来年の2月8日の夜7時? 9時、を予定されている。学者の中へ雑魚がまじるわけで恐れ入るが、のどかにとりとめなく話させて貰えるものと思い決め、とりあえず、以下の趣旨を書きお くったところである。

* 「さわがしい」ことを、幼年の頃からよからぬことの最たるもののように大人にい われていた。日常の振る舞いにも、人柄にも、藝の表現にも。文章にも。そのためか、自然と「しづか=静・閑」という価値について感じたり考えたりしてき た。おなじように「きたなし」にたいして「きよし」を思い、「清まはる」ことに喜びを覚えてきた。もし禅に接近しているとふと自覚するとすれば、そういう 「静と清」の体験または尊重なしには在りえなかった気がする。そういう思いを日本人の美の思想にそえて話せればと思う。

* さ、うまく話が纏まるかどうか。今年は、気になりながらろくな用意をしていない 大役をべつにもう二つ抱えている。もう近づいている全国国語・国文学会でのシンポジウム出演で、これは研究の質とインターネット社会との関連で恥をかきに 出てゆくことになる。もう一つは、近代文学館所蔵の川端康成自筆原稿に触れながらの文学講演で、訳も分からずに仮題「川端康成の深い音」なんて妙なものを 提出したので、手も足も出ないでいる。ワタリウム美術館での講演もふくめ、この三つがなんとか乗り切れれば一年の仕事としては上等ではあるまいか。やれや れ、ひどいことになってきた。わがホームページ「文学と生活」を場にした日々の書き仕事、その中でのアーカイヴ「e-文庫・湖umi」の日々の編輯、湖の 本の年間少なくも四冊の刊行、ペン理事、委員、文藝家協会や文字コード委員会委員の仕事、京都美術文化賞の選者や雑誌「美術京都」の刊行など財団理事とし ての仕事、むろん本職の創作や批評の執筆。ざっと見渡して、けっして気楽に遊んではいないし遊んではいられない。ぎゅっとタガを締めてかからないと、やっ てられない。

* 伊賀上野、晴れてはいても、ひんやりした一日でした。上野市へ出かけましたの。 芭蕉と荒木又右衛門の生誕地。鍵屋の辻。最近は、榊莫山さんで有名。別名白鳳城の上野城、俳聖殿、高石垣からの眺め、満開の桜。あちこちに見かけるカラフ ルな忍者は、観光スタッフですの。電車に、くの一がペインティングされ、循環バスの屋根に忍者人形が伏せ
ています。4月は、NINJAフェスタ。1日の辞令交付式の市長、先日の市議会も、忍者の扮装で行われた そうですの。古い店構えの和菓子店の奥から、「は?い。」と出てきたのは、くの一。いい和菓子がありました。そうそうポスターをみかけましたの。「桂文枝 チャリティー寄席」5月24日(木)18:30?上野市蕉門ホール。名張への終電、21:58に間に合う、21時終演とお聞きしたので、伺うつもりです の。囀雀

*  三十一日の午後、わたくしは東京に出ていました。二十八階の窓から東京の櫻に 舞う雪を、雪にかすむ櫻を見ていました。
 夜、隅田川添いの高架道を走るバスから、隅田公園の花を見おろして、時の間、夜櫻をたのしみました。雪 がやんで春の月とおもえぬ冴えた半月がてりわたりました。昼間、雪に濡れた花にかがやいて、まさに雪月花の一日でした。
 そのときは知らなかったのですが、この日、わたくしがビルから花と雪を見ていたころ、一代の名女形の歌 右衛門が、あちら側に旅立っていったのでした。
 現身をはなれたばかりの歌右衛門のたましひが、ながめていたのですね、この日の櫻を雪を月を。一代の名 女形の最期のためだったのですね、この日の花も雪も月も。
 先生が、にほふやうな若女形時代をおっしゃるのを、身のほど知らずに、羨み申しあげ、妬ましく存じあげ たりしておりました、わたくし。
 最後の舞台は、吉右衛門が相手役でお静の方でしたが、それを観られたのをしあわせにおもいます。
 先生の「繪巻」の待賢門院、歌右衛門で観とうございました。
 「二ノ矢をのこしてはいけません」
 頭の中に、むねに、いま、このおことばが、しーんとひびいています。
 歌右衛門のあのほそい手に、二ノ矢は、一度たりとも残されたことはなかった。おもわず、わが手をぎゅっ とにぎりしめてしまいました。

* チャットという場所で、いい大人達が内緒話のような、かげぐちやぐちのようなこ とを話し合っているもののコピーを見せられたことがあるが、消費的な、サマにも何にもならないものだった。個と個と。それが基本だと亡き北沢恒彦は教えて くれた。そう思う。上の二つのメールも、ひたすらわたしにだけ宛てられている。分かっている。それをこう紹介するのはある意味で重大なルール違反なのであ るが、わたしは、このインターネット時代に、日本語表現のためになにかしら或る主張も提言もしたくて、これを敢えてしている。

* 源氏と平家  子供の頃、公達あはれの平家よりも、鹿も四つ足の源氏の方が好き だったり 義経や八幡太郎義家の物語や お芝居を又見たいと思ったりしました でも学校で白いはちまきになるのはいやで六年生まで赤になりました。
 ご先祖様のあまり遠くない人の名に頼と付く人がいたからかもしれません 私の中では講談社の絵本で終 わっているのをよしとしているようです
 こんなメールを・・・と思いましたが 子供の頃しかお付き合いさせていただいておりませんので そのうえ子供っぽい性格ですので 子供番組を見ているとでも思ってくださいませ。 

*  お話相手ができるなら、こんなに嬉しいことはありません。むかしでも、ただあこがれていただけで、ろくにお話ができたわけでなく。長生きして、こんな器械 にも触れるようになったおかげです。
  白、朱、緑、黒それに黄金(きん)色。中国でもそうでしたが、京都で育ち、自然や文物にふれてきましたので、やはり、色彩は、この五色が日本的だなあと感 じています。祇園さんの御神輿の色は美しいなと思っていました。松緑、白砂、なぜか神子さんの朱の袴、そして照った黒楽茶碗。
 桜色がぬけていました。わたしは桜が好きです。**さんは桜いろの人でしたよ。お声も好きでした。銀の 糸のひびくように感じていました。丹波に疎開してからも、耳にありました。
 東京の桜もことしはおわりましたね。 お大事に。いつでもお話ししたい。 
 

* 四月十四日 つづき

* 柔らかく薫り高い朝掘り若筍の京より贈られてきたのが、昨日だった。若布と炊き 合わせ、木の芽も添えて、筍御飯。これは、昨日の晩から今日への、季節最高のごちそうであった。叔母の処へ出入りの茶道具を商う家が、いまもなおわたしの ところへきまって毎年の筍を、松茸を贈ってきてくれる。叔母のことが、現金にも、懐かしまれる。妻は永年の腕で、とてもおいしく筍を煮てくれる。今日は和 え物もつくってくれ、焼酎を楽しんだ。
* 二階にいるうちに、スティーヴン・セガールの活劇ものをビデオにとって置いてくれたという。これは喝 采もの、もう午前一時前だが、見に降りよう。
 

* 四月十五日 日

* 自民党総裁候補四人が田原総一朗の司会で発言していた。橋本龍太郎のいやみにお 高くとまった、意図したような寡言に、虫ずが走った。話して頷かせるのでなければ出て来ても仕方がない。亀井静香は喋るだけは喋るが、自民党に対して国民 が愛想をつかしている実情を、すべて「報道」のせいにすり替えるなど、危機感も認識もじつに大きく逸れている。外野でヤジをとばすか、目先の投げ売りをす るかしか、能はなげに見えた。麻生は、自民党員としてのあほうらしいような自己弁護はしなかった。政策がらみでものを言っていた。橋本に迎合するための出 馬でなく、最後までねばりぬく覚悟なら、橋本・亀井よりは見所ありと見た。小泉にはまだ具体策の用意は不十分に見受けるが、目下最も必要な基本の姿勢だけ はだれよりも明確で、党・組織への利益でなく、国民への利益還元を目標にして視野広く自民党を解放してゆこうというのだから、出来るのならば、それがい い。国民へのアピールがつよく野党が暗に懼れるのは自然の数であろう。小泉純一郎首相、田中真紀子官房長官で挙党態勢を組み、適材配置の若々しい組閣を実 現されれば、野党は危ないだろう。そうなるかならぬか、自民党は褌を締め直すときなのだが、まだまだ橋本のような古くさい親分や、亀井のような利権に色気 のその場しのぎのアジテーターたちの自民党であるに違いなく、望みは持ちにくい。

* 「e-literary magazine 湖(umi)文庫」ということに、する。magazine には「価値あるものの倉庫」の意味がある。まさに「文庫」である。第五頁に望月太左衛さんの「お座敷はライブハウス」と題した心意気の文章を頂戴した。邦 楽囃子方の気迫横溢・藝満点の女師匠さんである。第六頁の「人と思想」の欄には作家高史明さんの講演録「いのちの声が聞こえますか」を頂戴できた。かなり 長い。心静かに読んでいただろうと、連載風に、三回ぐらいにわけてスキャンし掲載し行こうと、最初の三分の一を用意した。

* 中村橋之助と三田寛子夫妻のオーストラリア旅行をテレビが流していた。気持ちの いい夫婦で、おもわずこっちまで笑みこぼれてしまう。こうありたいものだ。

* この間まで寒いと震えていたこの器械部屋が、じっとり汗ばむほどの暑さにかわっ てきた。いろんな用事がじわじわと。金曜日、定時診察の日に、やや遅刻して言論委員会にもはせ参じ、土曜日、土井たか子も来るので来いとお誘いの大学東京 同窓会はさぼることにし、日曜には、元学生の結婚式で、ご希望の「長い」祝辞を述べに行く。次週には、日本ペンクラブ総会と新理事会と例会とに出る。欠か せないのが散髪。月内の依頼原稿もいくつか。

* 今日起き抜けのショッキングなニュースは、小学六年生が母親を刺し死なせた事件 です。引っ越しで学校が変わり、以前の友達との別れがつらいので自殺しようとし、留めて叱った母親が逆に刺されたと。
 転校して友達のいない寂しさは、身に染みて覚えがあります。
 国民学校二年生で父は出征しました。 あのころ、先ず学童を強制疎開しましたね。姉は当時病身で休学中。学童は私一人でした。集団疎開はいややと頑張りまして、当時の大阪市郊外に住む母方祖母 と、半年ばかり二人だけで暮しました。寂しかったし 永く永く思えた日月でした。大阪市内に 、夜は花火の様にバラバラと爆弾の落ちるのをボーと見ていた記憶があります。人見知りが激しく、内向で 友達は作れず、偶に祖母の処へ来る伯父や姉からの便りだけを待つ日々でした。寂しかった。まだ 七歳でしたね。
 その後家族たちも疎開する事になり、今度は淡路島の父の実家の離れで、父を待ちながら終戦を迎えまし た。
 終戦の日、強い日差しを受け、色とりどりの松葉ぼたんが咲き、そして雑音の多いラジオ放送は、何だか さっぱり分からず、説明をしてもらって「敗戦らしい」と理解した、あの天皇の玉音放送。
 母に付いてリュックを背中に買い出しもしました。やはり友達は出来ず、只々苦い思い出ばかりです。父が 復員するまで 一年半ばかり住みましたか。
 元に戻りまして。寂しさは充分に理解できます。それにしても「切れる」年齢がこうも低くなるのは、何が 問題なのかという事です。あの「十七歳たち」が次々に「切れる」事件を起こしていた頃が、もう昔のことかと錯覚しそうですね。

* わたしは十歳になっていた。偶然だが、わたしもまた、現在は大阪府下の高槻市、 当時は京都府南桑田郡山村に疎開し、大阪が空襲に遭っている日の炎々と赤く燃えた空の色にちいさい頸を縮めていた。わたしも集団疎開はいやだなと思ってい た。にわかに、かすかな縁故を頼んで、じつは縁もゆかりもない山奥のあれた農家にとびこんだのだった。はじめは祖父と母と、やがて母と二人になり、ときど き父が自転車で老いの坂をこえてはるばる見舞いに来てくれた。叔母は引っ越しの最初に一夜を過ごしておぞけをふるい二度とは現れなかった。疎開してすぐの 四月から国民学校(小学校)四年生だった。
 小学校六年生は、ひとによっては、そんなに子どもではない。むろん、そんなに大人であるわけもない。し かし自信にも自信喪失にもまぢかにいる年齢で、どっちに転ぶかは危ういのだ。私たちの頃は世の中の人みなが飢えと背中合わせにいたので、転校がいやで自殺 したいなどと、暢気な見当違いは言うておれなかったし、飢えていると死にたいどころか生き延びたいと思うものらしい。孤独に弱いのは人の常だが、中学時代 のわたしの年上の人は、「孤独を楽しみよし」と微笑んで勧めるほど強かった。
 東工大の学生に聞いたのだが、高校時代の先生から、「十七にして、親をゆるせ」と教えられたそうだ、な んというすばらしい自立の勧めであることか。「十七にもなったら、たとえ親が至らなくとも、ゆるして親を支えてやれ」ということか、これが本当だ。十七な らそれが出来る。体力的にも気力的にも社会的にも出来る。むしろ親が「切れて」も、十七にもなった若者が「切れる」なんてみっともないのである。
 わたしの十七のとき、育ての父親は女と金とに躓いて家出をした。切れたのだ。母も切れていた。わたしは 親に先を越されて切れるどころのさわぎでなかった。食うものも食わずに本を読み、短歌をつくり、叔母に茶の湯を習っていた。ぜんぶ、しっかり元を取った。 「切れ」ている少年少女たちに、わたしは、そう暗澹とはしないと決めている。大人の責任ばかりとは考えていない。
 出久根達郎さんの上京譚が好きである。「e-文庫・湖」にいただいた『タンポポ』の書き出しに、こうあ る。
 「中学校卒業後の進路は、一存で決めた。私の家は生活保護を受けていた。保護家庭の子女は、義務教育を 修了すると、いやも応もなく働きに出て、稼ぎを家に入れなければならぬ規則だった。国から借りた生活資金は、そういう形で返済しなければならぬ。
 私は就職も就職先も、誰にも相談しないで決めた。昭和三十四年当時の、中学卒に対する求人の大半は、商 店員か中小企業の工員である。月給千五百円から二千円が多かった。
 書店員、というのがあった。住み込みで食事付き、手取り三千円。書店なら思う存分に本が読めるだろう、 勉強も出来る。私はあとさき考えず飛びついた。菓子屋なら菓子が食える、と幼児が単純に思いこむのと同じ発想である。
  上京当日、私は初めて両親に就職の件をうちあけた。出立(しゅったつ)は数時間後だと告げると、両親は仰天した。行先が東京の中央区月島と知ると、母親が 不意に泣きだした。島と聞いて胸をつぶしたのである。鬼界(きかい)ヶ島の俊寛(しゅんかん)を想像したらしい。流人(るにん)ではない、となだめたが、 私にも月島がどういう島であるか見当がつかなかった。銀座に近い島、と職安の係員が説明したが、すると尚更もってイメージできない場所であり土地である。 船で渡るのか、と母が聞いたが、たぶん橋が架かっていると思う、と平凡な答えしかできない。マムシがいるのじゃないか、と東京を見たことのない母が取り越 し苦労をした。人間が多いから蛇はいない、と断言すると、巾着(きんちゃく)切りが鵜の目タカの目で狙っているぞ、とたたみこんだ。
 要するに息子のひとり旅が心配なのである。
 こんな大事を勝手に決めるなんて、親不孝者の最たるものだ、と母親がぐちり始めた。  私はうんざりして、表へ出た。」
 気概、というものである。
 

* 四月十六日 月

* 昨日「三田文学」の百年特集で、吉行淳之介の作品「谷間」を読んだ。読み終えて みて必ずしも成功した感銘作とは覚えなかったが、少なくも導入の文章と語りとには惚れ惚れした。一字一句、句読点に至るまで、そのまま澄んだ水をひくよう に受け入れて、その嬉しかったことは。読む嬉しさとはこういう的確で美しい文章に接することだと、文学するものの深い喜びにひたることが出来た。吉川英治 賞のパーティで大久保房男さんと永く立ち話をして慨嘆し合ってきたのも、こういう文章力にもう容易にはお目にかかれなくなっているという現実・現況の薄さ であった。
 吉行さんのその箇所を書き写してみたい。
 
 その日の空は、盛夏にふさわしく奥深く晴れわたつた濃紺色で、私は大学図書館の前庭の芝生に仰向けに寝 そべり、なかば放心して空の色に眼をはなつていた。
 白い蝶が一羽、風に捲きあげられてゆく紙片のように、とめどなく高く舞いあがつて、強い輝きを孕んでい る空の藍色にいまにも紛れそうになつた。
 ──蝶なんて、あんなに高く飛んでいいものだろうか ?
 そんな言葉が浮んだのがきつかけで、私は放心状態から醒めたらしく、三四郎池の木立で囀つている小鳥の 声が、一斉に耳にとび込んできた。と、ときどき私の網膜にあらわれる三角形や矩形の模様が、からだをふくらませた小さい鳥のかたちに変つて、その形が幾つ となく身をすりよせ、身をふるわせながら重なり合つてとめどなく数を増し、空の果までも積みかさなつてゆきそうになった。失神する直前のような、不安と安 定感の混り合つた奇妙な感覚であつた。
 躯の衰弱のせいもあろうか、このような状態が、時折そのころの私を襲つた。
 一九四五年(昭和二十年)八月九日の正午ごろのことである。そして、その一時間ほど前、長崎市にヒロシ マに次ぐ原子爆弾が投下されていた。
 長崎には私の因縁深い友人が、医科大学に在籍していた。当時、文科の学生は徴兵適齢になると検査を受け て入営させられていたが、文科から徴兵猶予のある理科系の大学へ進むことは特例として認められた。私はそのまま東京の大学の文学部へ入り、大学図書館へ勤 労動員されていたが、佐伯明夫は長崎医大へ入つていたので、その報道は痛くその安否を気遣かわせた。
 八月十二日、ニケ月余り音信のなかつた佐伯明夫から部厚い封書が私宛に届いた。しかし、それは彼の生き ている証明にはならない。通信事情の悪化のため、八月七日の消印の手紙がやつと届いたのである。私はその長文の文面から、彼の安否の気配を嗅ぎ出そうとで もするかのように、丁寧に読んでいつた。

 昭和二十七年の作である。その頃のわたしは高校二年生で短歌にすこし眼を開きかけ ていた。
 吉行さんの当時の文章の癖か、現代かなづかいのなかで、「いつた」「やつと」という表記だけが昔のまま である。もしこの文章でわたしなりにてを入れてみたいと思うのは、「そんな言葉が浮んだのがきつかけで、私は放心状態から醒めたらしく、」の最初を、「そ んな言葉の浮んだのがきつかけで、」に替えたいぐらいで、ほぼ間然するところ無い佳い音楽として、文章・文体は落ち着いて完成度豊かな美感を湛えている。 「た」「た」とらぶ語尾の中に二箇所の「である」もみごとに嵌っている。自然な勢いで、勢いづかず、ことばの内面が平静に流れている。腕前といえばこれは 腕前なのである。筋書きだけでは文学にならない。これは読み物の文章ではなく、文章が命となり光っている文学の文章だ。ほんものの作家の仕事である。ほん ものでない作家がいるのかと聞かれれば、たいがいほんものでないと言うしかない。

* 吉行さんの小説の導入にひかれて一夜をすごし、朝起きて、夜中に来ていた息子の 見たいという(ビデオ撮りを昨晩頼まれていた。おかげで映画を見損なった。)新番組どらま「ラヴ ストーリィ」の一回目を一緒に見るはめになった。ベストセラー作家だが二年も書けないでいる、独身、四十前の人気作家豊川悦司と、三十になった派遣編集者 中山美穂のドラマで、業界でも一といわれるスタッフが鳴り物入りで前宣伝していた、ドラマ。たまたまわたしも前宣伝を見知っていた。
 だがまあ、いくらわたしが古物作家であるにしても、こういう作家像、こういう編集者像が、今の時代には 通用するのか、まさかと、アホクサクて見てられなかった。どこがどうと一々指摘しているほどヒマではないが、若い作家とも識りあっている。先輩同輩でも相 当な人たちと大勢識り合ってきた。編集者など、のべにすれば千人もつき合ってきたと思うが、誰にも相似形のはいなかった。いるかも知れぬ、いたかも知れ ぬ。が、どうでもいいような連中だ。ドラマのこんな作家から、こんな編集環境からは、ひょっとしたら、「あんなのやこんなの」ぐらいは出来てくるのかも知 れないが、とても吉行淳之介や永井荷風は間違っても生まれてこない。先日夫人から贈られてきた亡き嶋中鵬二氏の『日々編集』など読めば、ひとしお、このド ラマは、ただもうバカらしい。そういうものなんですよと、息子は言う。ドラマづくりは、という意味でいうのだろう、気の毒に。
 先頃の「編集王」はマンガ雑誌ではあれ、まだしも編集室を書いていた。これは、ただ薄味恋愛の刺身のツ マていどのデタラメ作家と編集者のおはなしのようである。まちがいなくダントツの視聴率をとるであろうと業界では目されていて、息子なども、「見ておかな いと」と本気なのである。お付き合いにアイサツの一つも欠かせないらしい。気の毒だと思うが頑張ってもらうしかない。仕方がない。
 
* むかし、森鴎外の「渋江抽斎」幸田露伴の「連環記」を読んだ晩は文章・文体をそのまま夢に見た。夢の 中で文章が唸りを生じ続けた。わたしは新しい時代の新しい創作行為や特色を決して否定しない。いいものは、必ずいいと感じられると思っている。若い人に も、理由なく体験もなくただ古いと見捨ててきた過去の仕事の中に、足下にも及べない真にすばらしい名作秀作の今なお在ることを、片端でも自分の思いで確か めて前へ歩んでいってくれないかなと思うのである。
  

* 四月十六日 つづき

* 雑然として使いにくくなっていた器械の部屋を、大汗をかいて、模様替えした。綺 麗になったわけではないが、仕事の手勝手がすこしはよくなった気がする。もともと狭いのだから、どうしようもないが。
 そんな合間にも気がかりな用事を、一つ無事に済ませた。

* 真岡哲夫氏の長編「会議は踊る スコットランド・イギリス紀行」を、まず三分の一ほど掲載した。以前に読んでいて、書きたいだけを全部書いてしまっているが、それがけっこう面白いのを覚 えていた。こういうのを、このままにしてしまうのは惜しいではないかという気持ちも、「e-文庫・湖」の着想に影響していた。平澤信一君の「廬山論」も、 上野重光氏の「泥眼」二稿も届いている。目を通して掲載してゆきたい。

* 東京、京都、奈良の国立博物館の三年パスがまた贈られてきた。有り難い。贈り物 の中でも一等有り難いものの一つである。

* もう一泊しようかなと言っていたが、やはり建日子は仕事にも追われて五反田へ晩 のうちに戻っていった。いろいろあるだろうが、からだは大事にして欲しい。
 

* 四月十七日 火

* もう「湖」新巻の初校が出そろった。一字ずつ植字していた活版の昔が千里も遠の き、フロッピーディスクで入稿すれば、驚くほど速く仕事が進む。だが、つまり、それほど人間の暮らしが器械のスピードに追い立てられるのであり、器械は器 械、わたしはわたしと、時には知らんフリして自分のペースへ仕事を引き戻すことも必要だ。わたしは、器械が稼いでくれた時間を自分の時間的余裕として貰い 受け、トクをするよう心がけている。

* 札幌の真岡さんの文章に、こう添削してみてはと送った原稿を、元原稿とていねい に照合し、線で見せ消ちにし朱字で書き分けるなど、一目瞭然にしたのを見せてもらった。おもしろいものになっているので、貼り込もうとしたが、うまく行か ない。「画像変換」という窓が出てくる。テキスト原稿に直すと、真岡さんの作業がフラットになってしまう。
残念。我が技量では、出来ないことが出来ることより遙かに遙かに多い。

* 河内屋  「関西にも、佳い役者が」とおっしゃる筆頭の壽海も、先代の富十郎、 先代の仁左衛門、先々代の三津五郎も、わたくしは観ていません。辛うじて、先代の鴈治郎と延若くらいでしょうか、その舞台に間に合いましたのは。
 拙い見手ながら、延若にふしぎな魅力を感じていました。いかにも上方風のこっくりした味、国崩しなどに 見せた悪の魅力。かと思えば品格ある覚寿を見せてくれました。先代仁左衛門の菅丞相、立田の前が秀太郎、宿禰太郎が富十郎で、……。と、このへんでやめま せんと、とんだ長メールになってしまいます。
 吉行淳之介の、というより、文章のことをおっしゃっての今日の湖のお部屋、怖くなったと申しますのはお ろかなことでございましょう。

* 河内屋は、まこと、佳い役者であった。早く死んだのがあまりに惜しかった。この 方は、とてもよく観ておられたと思う。あの「こっくり」とした味わいで、国崩しや、品のいい老女。そんな役者が、いま思い当たらない。

* 崩す、崩れるというと、よくないようだが、この季節、赤い椿の花弁の崩れるのが じつに美しい。姿を変え場をかえて二度咲いてくれるような嬉しさで、取り捨てたり出来ない。

 
* 四月十七日 つづき

* 千葉の勝田貞夫さんとの、出光美術館での出逢いが、よかった。ひっそりと静か で、展示を一人いや二人占めだった。中国の磁器も漆器も青銅器も充実していた。福富草子などの絵巻もよく選ばれていて、満足できた。この美術館へ来れば、 まず、まちがいなく「立派な」ものに出逢える。勝田さんにも喜んでいただけただろうか。
 帝劇地下の「きく川」でたっぷり鰻と冷酒。これは、まあまあ。鰻屋だから、もうすこし旨い酒を吟味して いいように思う。
 日比谷の「クラブ」に席を替え、ゆっくり話せて楽しかった。初対面という堅苦しさはすこしもなく、いろ んなことを遠慮なく話し合えたと思う。お互い同年の老人、元気に生きて行きたいとわたしは思っていた。
 けっこう遅く、家に帰った。

* 模様替えして、半畳ほどの澤口靖子の写真がすぐ目の前へきた。こんなに美しいも のとまぢかにいると、言葉を喪ってしまう。カラー写真ではない。セピアがかったモノクロームで、効果がすばらしい。見回してみると、すぐ身近に澤口靖子の 佳い写真が九枚もあり、器械の前のわたしへ視線を集めている。妻も息子もあきれているが、美しいものの佳い刺激は拒みがたい魅力である。

 
* 四月十八日 水

* 長谷えみ子さんの自撰五十首をいただいた。三十年のお付き合いになる。しみじみ と読み、ていねいに書き写した。どうしても、無名鬼村上一郎さんの風貌や肉声がきこえてくる。ああ、懐かしいなあと涙が浮いてくる。「文庫」の第七頁に掲 載した。
 手の入ってきた上野重光氏の小説「泥眼」を第二頁に、平澤信一氏の「『廬山』まで」を第四頁に掲載し た。第六頁では高史明氏の講演録が、第八頁では真岡哲夫氏の紀行が「連載」中である。

* 『路上の果実』という歌集が未知の人の小川優子さんから贈られてきた。巻頭の離 婚の歌などはたわいなげであるが、嬉しく予期を裏切られ、なかなか厳しい批評味に富んだ強い歌、うまい歌、感銘を覚える佳い歌が混じっている。まだ作歌数 年のいわば初心の第一歌集であるが、「歌う」根性に人生に真向かって苦しんできた人の真実の声音が聞こえてくる。これは若い歌人の場合稀有のことといって いい。
 俵万智の歌が、そうだ。魂に響いてきて思わず胸に手をおく作品は皆無に近く、風俗的にも詩的にもただ巧 妙そうなアイデアだけの表現で、ウキウキと世渡りしている。ほんとうは、『サラダ記念日』などを遙か置き去りに、真実心の展開を「短歌表現」に見せて欲し いのに、最初の好評に足をとられ、ただただ前作模倣の「標語歌」作成に浮き身をやつしている。深まらずに、軽く薄くなってしまっている。
 昨日贈られてきた米川千嘉子の「四番目の歌集」という『一葉の井戸』を、期待して読み始めたが、五十五 頁まで来てただの一首も質実に胸を打って表現の光った歌が無い。馬場あき子のところでいかにも売り出された今では名の通っている歌人であり、この前の『た ましひに着る服なくて』には、書き留めて置いたいくつもの作があったのに、今度のは、口先で気取って洒落を言うているだけのような薄い短歌が、まるで枯れ 葉のように並んでいる。あとを読むのがイヤになりかけている。「口先で気取って洒落を言うているだけのような薄い短歌が、まるで枯れ葉のように並ん」だ歌 集が、なぜ、こんなに「世に出た」歌人たちに多いのか。
 それからすると、たとえ数少なくともゴツンとくる凄みの歌を、この三十歳そこそこの小川優子という歌人 は、第一歌集に入れてきた。
 むろん米川さんのも見捨てずに、読む。なにしろ自撰五十首が欲しいと頼んだ人である。さ、呉れるか、ど うか。
 
 
* 四月十九日 木

* 「演劇界」誌に、田之助さんの連載が始まり、ファンの女友達が毎号コピーしてく れますの。第二回は大好きなお相撲の話。武蔵山の引退で男女ノ川が横綱になった事や、安芸ノ海が双葉山を倒した時、桟敷で見ていた事。出羽海、高砂、双葉 山、羽黒山、平幕優勝の出羽湊…
 そう言えば、函入りの「羽黒山」と書かれた本が実家にあります。父も昭和ヒトケタ生まれですから、同様 に熱中していたのでしょうね。雀が柝の音好きなのは、子供の頃、TVの大相撲中継がつけっ放しだったからだわ、きっと。囀雀

* 懐かしい名前ばかり。ラジオの時代、相撲興行に一度だけ父に連れられ、吉田山の 辺であったか大テント張りの中で土俵を遠くからみた。仕切り直しに退屈したのを朧ろに覚えている。あの頃は力士のしこ名だけで相撲の贔屓をしていた。名前 というモノに深い関心をわたしは持っているが、例えば文士や画家達の、また昔の文人たちの雅号もそうだったし、力士の名や、役者の名乗りや、祇園の芸妓達 の座敷名などから、また源氏物語の男女達の源氏名や、なにより皇室歴代の諡号からも、名前には不思議な美学と神秘に近いものを子ども心に感じていた。お相 撲さんの名には、早くから感じ入っていた。双葉山、羽黒山、安藝ノ海、出羽海、玉錦、名寄岩、照国など。それからすると、今日の力士たちの名乗りには、願 い下げにしたい醜いほどの名も少なくない。

* 朝のテレビで澤口靖子が出て、機嫌良く話していた。聴き手は薬丸裕英クンがもっ ぱら勤め、もう一人の主なるホステスの岡江久美子は、すべて薬丸に譲っていた。岡江久美子はわたしも大好きなすこぶるの美女である、が、美女と美女との対 話はしにくいモノなのかも知れない。人によれば岡江の方が美しいと言うだろうし、それも肯えるほど彼女はよく光った美女であるが、惜しいことに、スターの オーラが立たない。我が家では岡江久美子を、昔に初めて見たときの役の名のまま、今でも「ヤマナさん」と愛称している。大きな深い役がつくといいのだが。
 澤口靖子はそこへ行くとやはりスターの輝きをもっている。五月の帝劇「細雪」の雪子にさらに磨きをかけ て欲しい。

* 自民党の総裁選挙戦は、相変わらずの橋本派私利私略で汚れきっているようだ、最 大の、特徴的な汚い手が、幹事長留任を売りつけて古賀現職所属の堀内派(あの加藤派にいて加藤を裏切って出た、裏切り別派たち)を橋本支持に取り込んだこ と。こういうことを平然とやるから、野中広務への国民の嫌悪・厭悪と不信はとうてい抜けないのである。地位を売りつける、それを買う。こんな汚さからすれ ば、口の滑った程度の田中真紀子前の前総理「お陀仏」の失礼などは、謝って済むことだ。野中と古賀との裏取引は闇将軍の手口えげつなく、許せない。
 

* 四月十九日 つづき

* まるで祝い日かのように。朝、澤口靖子のご機嫌のトークを聴き終えたかと思うう ちに、東宝の後藤和己さんを介して、帝劇支配人から五月公演「細雪」に、妻と二人ぜひご招待したいので都合のいい日を教えて欲しいと、電話。開演前に支配 人が楽屋へ案内してくれるという。美しい人に逢うのはすこぶる嬉しいが、ろくに面白そうな何もわたしには話術も話題もなく、去年もかなり窮屈であった。 ま、妻も一緒なら気は楽かと思うが、妻の方も輪をかけて世慣れないから、どうなるかと、もう汗をかいている。だが気の晴れるお招きで、感謝する。

* 栃木から、またもお米が三十キロも贈られてきた。旨い米であるが、老人二人に猫 一匹。息子にもわけてなお五十キロもお米がある。昔は米びつに米のない心細さを家族中であじわった。有り難いことであるが、カビにしてもいけないので、ご 近所にわけて、貰ってもらおうと相談したところ。
 追いかけて京都の筍第二陣が到来、これがまたとても旨く、飽きることがない。木の芽をそえた筍飯は、一 升でも食べてしまいそうなわたしだから、妻は用心して、ぎりぎりいっぱいを炊く。筍と若布とはなんであんなに旨く味がなじむのだろう。

* 戴いていた著書などへの、読み終えての礼状も、気にしていた全部を送り出した し、綺麗に散髪もした。さて、明日は聖路加の診察日。遅刻して乃木坂へ言論表現委員会に駆けつける。
 そして日曜日は神奈川県まで結婚披露宴に。初めに長い祝辞と、宴半ばにもういちど、教室での授業を「再 現」して話せという希望であったが、新郎とねばりづよく話し合って、最初に、乾杯より前に、すこし長いめの祝辞をという段取りに落ち着いている。長い祝辞 は客の受けがわるいものだが、さ、どうなるか、おめでたく話してあげたいが。
 あまり好きでない散髪を済ませたので、いま、気分にちょっと余裕がある。

* 久しいご縁の萬田務さんの、「秦恒平『廬山』」というかなりもう昔の原稿を「e -文庫」に戴いた。神田神保町辺で初対面のインタビューを受けて書かれた紹介記事であった。作品はまだ「閨秀」を出したぐらいな時期で。平澤信一氏の「廬 山論」とたまたま並んだが、それはそれで、有り難い。京都の河野仁昭さんにも頂戴したいと思っている。
 長谷えみ子さんについで、今日は北澤郁子さんの自撰五十首を頂戴した。ワープロプリントで届くと、ス キャンして即刻掲載できる。詩歌の作者達は、それぞれの世間ですでに活躍されていて、わたしの敬愛できる人へ声をかけるようにしている。水準の高いのは自 然なことである。 

 
* 四月二十日 金

* 聖路加の診察日。血糖値に関しては申し分ないと。ほぼ100前後で推移し、一時 的に飛び跳ねるときも理由はハッキリしていて、前日の酒か、ご馳走。あと追いで節食節制するとすぐ正常に戻る。ただ酒とご馳走のため摂取カロリーが多めに なり、体重に跳ね返ってくると、悪玉コレステロールが増える。「すべては体重、もう少し落としましょう」という指導に落ち着く。分かりました。

* 注射液や針などを院外薬局で買っていると遅くなるので、処方箋で地元の薬局にた のむことにし、昼飯抜きで地下鉄で乃木坂へ。ホームで勘違いして逆の端から改札を出てしまい、もたもたと汗をかいたが、かつがつ定刻四時にペン事務局向か いの茜荘に借りた会議室に入った。
 個人情報保護法の立法趣旨に関連したヒアリングで、総務省から審議官、内閣官房から参事官と書記官の三 人が来ていた。言論表現委員の他にも、理事の森詠氏や、オーム事件で活躍した江川紹子さんその他数人が参加していた。

* 参事官による冒頭の解説は、周到に用意されたレジュメとおそるべき早口の能弁 で、さすがに官僚らしいソツのなさであった。だが、法案自体はすでに国会に出されており、今さらいかなる字句訂正もできず、問題点は国会答弁過程で補足さ れたり説明されたりして議事録に残されるという以上のことは、とても望めないのだった。しかも、法条文の表現には、不足、不明、不適切と思われる重大箇所 があまりに在りすぎる。だが、弁護士の五十嵐双葉委員らがどんなにことをわけて主張し意見を述べても、官僚には何一つ頭から受け入れる気がなく、今さらの ヒアリング自体、彼らにはただのガス抜きか通過儀礼たるを超えないシロモノだった。議論にならないなと思い、徒労の感を深めながら、ま、それでも、官僚は それなりに何かよほど我々の不満と希望とだけは内心に感じて帰ったであろう、せめて国会の答弁段階で、少しでも少しでも適切に計らって貰いたいと思った。 徒労ではなく、やはり必要な折衝であり、徒労感は乗り越えてねばり強く努める以外にはないのだと思う。

* 正直のところ、三時間半に及んだ会合の間中、わたしは、「個人情報保護法」の もっと頭越しに、どうしようもなく、いつか近い将来には「個人情報接収法」の到来があるのではないか、「保護法案」などはそれへの目隠しの一歩、名目上の 陽動作戦ではないかという気がしてならないのだった。
 今度の法案趣旨の眼目部分に、さりげなく「個人情報の有用性」ということが指摘されて、そこから保護法 を提出するのだと言っているけれど、「有用性」というのが誰にとって有用かと勘ぐれば、わたしは、保護法の運用の中で、多くの事業者や機関、個人の保有す る情報を、「法」の名の下に「収用する」ことへの巨大な意図がすでにして秘められてあるとの恐れを捨てがたいのである。だが、わたしは、そんなことは一言 も言わないで帰ってきた。

* 朝も少ししか食べていなかった。病院で昼を食べている余裕がなかった。会議は長 く、やっと八時、空腹にも堪えかね新宿で旨い和食を食べてきた。お銚子はいつもより一つへらし、飯は取らなかった。ちいさな個室があてがわれて、明るく、 ゆっくり湖の本の初校が出来た。美しい人が来てくれ、こころよくお酌をしてくれた。刺身の鯛が今夜はひとしお旨かった。
 家に帰ったのはもう十時であった。幽霊党員の白票をかき集めめている自民総裁選挙の腐臭を久米宏の番組 が伝えていた。政治の世界には美しいものはないのだと、さっきの酒の味が恋しかった。 

 
 

* 四月二十一日 土

* 山口大学で「みごもりの湖」を教材に用いたいと、上中下三巻を各三十二冊の注文 が入り、荷造りに一汗かいた。有り難い。明日の祝辞も心用意し、また二十七日のペン理事会、総会の報告書も作成して事務局に送った。全国大学国語・国文学 会シンポ用のレジュメを求められているし、仏教誌からの少し長めの原稿締め切りも近づいているし、三省堂からの、また春秋社の依頼仕事もある、が、すべて は明日のお祝いを通り過ぎてからだ。湖の本新刊の、というよりも創刊満十五年の記念刊行用の用意も、こまごまといろいろ、手順良く運んで置かねばならな い。落ち着いて少しけじめのつくあとがきも書きたい。

* 越乃寒梅を一本戴いた。このところ手に入れにくてご無沙汰だったので、これをお いしく頂戴してからの節酒としよう。などと、理屈をつけている。

* 明日の式場は寒川神社。電車を四回乗り換えて行く。知らない、慣れない電車で場 所であり、午前の結婚式にはもし遅れてはご迷惑なので、披露宴にだけ間に合うよう参会する。それでも朝早いので、今夜はもう階下へおりる。

* 長谷川泉氏の「書縁千里」という、わたし自身にかかわって深切に書いて下さった エッセイを頂戴して、「e-文庫」の第三頁に掲載した。感謝する。

* 同僚理事の越智道雄氏とこのところ繰り返しメールの交換があり、いまも英語圏の いろいろな英語のありようと京ことばとの似通いなどについて興味深い話を聴いた。これまで殆ど対話の無かった人だが、先日の日中文化交流協会のパーティで 初めて声をかけられ、たくさん話し合ったのである。湖の本のことなど関心を示されたので新しい二冊を贈ったのがご縁になっている。

 
* 四月二十二日 日 快晴

* 小田急厚木でJR相模線に乗り換え、宮山下車。相模一宮の寒川神社へ着いたちょ うどその時に結婚式を終えてきた羽織袴の新郎、白無垢に角隠しの新婦が、人力車で晴れやかに披露宴の会場に乗り込むところであった。新婦が先に気づき、路 上と車上とで笑顔をかわした。なにしろ遅れたくなくて早め早めに動いてきたので、一時半の披露宴に一時間の余裕があった。わたしの総合B講座の教室に林丈 雄君と一緒に出ていた木村亮平君らがいて、おしゃべりしながらのんびりと待った。

* 仲人はなく、雛壇には新郎新婦だけ。双方の友人の司会者が愉快に二人を紹介し て、すぐ、わたしの祝辞となり、頼まれていたとおり十五分か二十分たらず、ごく静かに話した。二人の希望で、あらかじめ臨席のみんなに以下のようなもの を、いろ紙に刷って配ってあった。
 
 祝辞にそえて      

  よき( )ふたりあしき(  )ふたりあからひく遠朝雲の窓の静かさ

  わたくしがいなければだめになってしまう、と思わせておくも( )の手なり 

  しづかなる悲哀のごときものあれどわれをかかるものの( )食となさず

  しやつとしたこそ (  )はよけれ 

       (虫食いにした箇所に漢字一字を補って表現を完成してみて下さい。)

 二つ目の短歌は沖ななもさんの、三つ目のは石川不二子さんの作である。林君のこと はよく、新婦美保さんのこともそこそこ識っていて、話題の流れをそれらしく用意して置いた。

* 新郎の友人が「乾杯の歌」を朗唱して、みなで乾杯したのが、洒落ていた。ついで 新郎新婦がすべての参会者を紹介したのもわるくなかった。参会者は半分余りが親類縁者で、残りが大学または演劇活動の仲間達。大人は、主賓のわたしがほと んど一人だけ。じつにさっぱりした客組で、他に、先生方も上司も会社同僚も無し。
 色直しの後、戻ってきたタキシードの新郎と花嫁衣装の新婦とが、いきなり二人で「芝居」をはじめたのに はビックリした。岸田国士の「恋愛恐怖症」であったかと。波打ち際の効果音に包まれて男女が心理的なアヤのある会話を展開し、行きつ戻りつ、最後には抱擁 し接吻する。度肝をぬかれた客も多かったと思うが、拍手喝采で終え、なによりであった。稀有の大胆な演出。
 ソプラノの歌を一人が歌い、イラン人の来客および新郎新婦の友人が一人ずつ要領を得た祝辞で結んで、両 親達に花束贈呈、宴を終えた。さすがに気を入れていただけあり、趣向に富んだ、しかもさらりと若々しく事の運んだ、おめでたい宴会であった。

* かつての国幣中社であるすがすがしい寒川神社に一人参拝し、また宮山駅から厚木 へ、そして海老名で小田急急行に乗り、新宿に帰り着いたのがもう宵の七時。
 今日の新郎新婦に呼び出され、「結婚します」と告げられて「それはそれは」とご馳走した和食の店に入 り、ひとり気持ちよく盃を挙げた。特別メニューで心配りして貰った、「おめで鯛」の酒蒸しをじっくり骨まで楽しんでから、池袋まわりで帰宅。
 なにしろ片道に二時間半もかかる遠方であったため、鞄に校正の仕事を持参していたのが、かなりの長さの 作品ぜんぶを読み切ってしまったのは、能率が良かった。

* さて自民党は、最善の小泉純一郎が圧勝、最悪の橋本龍太郎惨敗が、少なくも各県 予備選挙でハッキリした。愉快。選挙という方法で、流れは少しずつでも変えられるのである。選挙にど投票に行くヤツは愚か者だと政治学者の婿殿はわたしの 前で放言し、その愚かさにわたしは呆れ返ったことがある。但したとえ小泉内閣が発足したにしても、そう簡単に自民党体質が清明に堅実に誠意に溢れてくるな どと期待するわけには行かないのであり、よく環視して、七月参議院選挙には適切な一票をぜひ投じたい。小泉政治に希望が少しでも持てるようなら、見守りた い。

* 木曜日に雪が降ったためか、風邪を引き、金曜の午後からずっと寝ています。今は だいぶよくなりました。
 先ほど目覚めるまで、ふわふわと石垣島を浮遊していたようです。元職場で実験をしたり、珊瑚礁の海で泳 いだり、飛行場へ行って「でも帰ろうかなぁ」などと思ったり。自由にさまよっていました。熱で理性のタガが緩んだ分、魂の一番行きたいところへ飛んでいっ たものでしょうか。また、「マブイ(魂)」が抜けてしまいました。もう一日養生して、科学者に戻らなければ・・・。
 hatakさんもお大事に。体型「も」スマートになってください。maokat

* 「e-文庫」八頁、真岡哲夫さんの紀行「会議は踊る」は、佳境に入っている。 maokatさん、お大事に。
 

 
* 四月二十三日 月

* 「雁信=電子メール千華萬趣」の頁が、心豊かな佳い頁になっている。

* 人に教わり宮崎学という人のホームページに出ている、目森一喜という人の「個人 情報保護法」を論評した記事を読んだ。まことに興味深く、かつ示唆するところ多いもので、読むに値した。「サイバーポリス」の発想と現実化への憂慮にも触 れられていて無視できないものを感じる。

* 電子出版契約に関する要点・注意点が、好評で感謝を伝えてくるペン会員がもう何 人もある。五月の「本とコンピュータ」主催シンポジウムでも話題にして欲しいと申し入れた。

* 浜松中納言は、いわば義理の兄妹になった継妹を愛して妊娠させたとも知らず、父 の生まれ変わりと噂に聞いた異国の皇子に逢いにはるばる唐土へわたり、姫はその留守に出産し、尼姫君となってしまう。中納言は帰国してそれと知り、尼姫君 と夫婦として、しかし一線はかろうじて保ちながら、一つ家に暮らしている。帝の愛する内親王を妻にとすすめられても辞退してしまう。こういうところが、異 常でありながら、自然に運ばれている。不思議と心懐かしい運びになっている。『夜の寝覚』でも男主人公は別人と思いこみつつ今しも妻になる人の妹、女主人 公、を犯して妊娠させ、しかも生涯の恋人とし、また妻にもする。両作の作者がおなじ『更級日記』の著者であろうとされているのが頷きやすい。源氏物語より 一歩半歩でも前に進もうとする作者の努力が、寝覚の大臣といい浜松中納言といい、あの光源氏よりなお心温かい男の像を願っているのも明らかである。
 中納言は唐土にわたった折り、理想の女である后の一人と出逢い、夢の紛れのように愛し合って男子を産ま せてしまうが、異国の朝廷を乱れさせることはならず、厳秘して、男の子を連れ心強く帰国したのであった、が、日本の吉野山中には、かの唐后には異父妹にあ たる姫が、母尼=唐后の生母=男子の祖母と暮らしているのを、后の懇願により中納言は訪れて手を尽くし後見する。
 この辺からが、かなり宇治十帖に似てくる。姉の唐后に似てじつに美しい妹吉野の姫を中納言の愛するのは 自然の流れだが、彼は慎み、その間に親友の式部卿宮に奪われてしまう。そして吉野の姫は子を産むのが、なんと「唐后の転生した女児」なのである。宇治の大 君、中君、また浮舟、また薫大将と匂兵部卿宮とのことが自然に思い出される。大きく異なるのは、やはり転生ということのとりこ込みである。
 わたしにとって魅力的なのは、寝覚の上ももとより、浜松の女たちが、すこぶる懐かしくも魅力的なことで ある。唐后には藤壺の懐かしさがあり、吉野の姫には宇治中君のよろしさが継がれている。わたしは、しびれる。夢にも出逢いたい。

* 妻が、網野善彦氏の『日本の歴史』を生協で買って置いてくれた。これは、楽し み。この間は、東南アジアの写真中心の『龍と蛇』を買って置いてくれた。良い本であった。渡辺千万子さんの義舅谷崎との往復書簡集も買って置いてくれた が、これはあまり丁寧に見ないで仕舞ってしまった。なんとなく、はしたない感じがしたからだ。

* 「e-文庫・湖」第七頁に、神戸の木山蕃氏の記念碑的な歌材「鬼会」を中心にし たユニークな自撰五十首「鬼役」を掲載した。興味深い表現に満ちている。
ラフな「私語」を書き散らしていて恥じ入る。

* 小泉純一郎「総裁総理」が、地方議員達のクーデター的な反乱で、爆風裡に実現し てゆく。いかに自民党の国会議員達のセンスが曲がった腐ったものであったかが、結果を伴って明白に露見したのは、いいことであった。見るがいい、と、言い きって置いた気持ちが幾分か晴れた。
 
 
* 四月二十四日 火

* すばやくも露骨な亀井静香のすりよりを、戦略的にせよ受け入れたらしい小泉純一 郎に、はや、失望感の幽かに動くのを抑えがたい。亀井という政治屋は獅子心中の毒虫にしかならない気がしている。本人自身が政治家は「ずる賢い」ものと話 している。言葉の意味するところは察するし、そうであろうとは思うが、問題はいかなる目的ゆえに「ずる賢く」あらねばならぬかだ。たとえば外交はといわれ れば、大方頷く。しかし地位と肩書にともなう利権のゆえにずる賢く立ち回って政権にすりよるだけの政治屋には警戒してかかりたい。かつて総務会長をしとめ たまでの亀井、いま幹事長を露骨に要求しているという亀井、亀井の尻を押しているという中曽根康弘という妖怪のような黒幕。この黒幕のかげで、ものつくり 大学も村上容疑者も動いていたのではなかったか。

* 午後、自民党に小泉総裁が実現した。山崎拓幹事長までは聞こえてきた。順当であ ろう。もし期待なかばに言われているように田中真紀子が官房長官に就任すれば、あるいは、もっと重い大臣席につくとすれば、夏の参議院選挙でも大勝ちの目 が出てきて、野党は危ない。小泉内閣に過度の期待は禁物であり失望の連続になるであろうけれど、舵を少しでもいい方向へ取ろうと努力してくれるようなら、 見守りたい。ここへ来て野党のよほどの奮発にも期待しないとべつの雪崩が起きかねず、わたしはそれを歓迎はしない。

* 派閥が入閣希望名簿を出さないと決めたこと、小泉が内心人事を一切外へ出さな かったこと、亀井静香が党人事からも内閣人事からも身をひいたこと、は、いいことであった。公明党・保守党は政権から離れたくないのが本音だから、強くは 出られない。保守党の野田幹事長という、保守系一二の亀井にならぶずる賢い政治屋はぜひ排除して近づけて欲しくない。山崎幹事長、加藤紘一政調会長、塩川 正十郎あたりの総務会長で、田中真紀子官房長官なら、かなりすっきりする。人事であやまると取り返しがつかないだろう。

* ながく気になっていた仕事の上での滞貨をひとつ、とにかく今日片づけた。これに はほっとした。次の目標は六月二日であったかの国語国文学会のシンポジウムである。その頃には湖の本の創刊十五年の第六七巻新刊発送の用意も輻輳してい る。手順良く用意してゆきたい。初校は戻した。あとがきを書いて送らねばいけない、これが先。

* 小川優子の歌集『路上の果実』は身を入れて読んだ。読まされた。感情移入をさそ う歌がかなりの数有り、爪印がたくさん付いた。構成のいい歌集で、組み立てに風が走っていた。まともに苦しんで、飾り立てていられないと言う息づかいが魅 力になっていた。歌壇の将校を以て任じ、テレビやなにかで、ちゃらちゃらと、気の利いた歌がいい歌ですと軽い軽い出見世をだし得意そうな連中には、こうい うズーンと重い苦痛との闘いが失せてしまっている。べつに、表紙カバーや本文中のきれいなお尻の写真に惹かれたわけではないのも断っておく。  
 

* 四月二十五日 水

* 一時過ぎに浜松中納言が吉野の姫君=唐后の異父妹のからくも蘇生するのをまぢか に見守る辺まで読んで寝入ったが、三時半に眼が冴えてそのまま起き、階下の座卓で仕事、二階へ上がって機械で仕事、おかげで捗ったのが有り難い。ミマンの 原稿ももう電送した。春秋社へもフロッピーディスクを送った。急ぎ仕事がまだ五つほどある。いらいらすると良くない、一つずつ、気はゆっくりと片づけた い。

* 連想ゲーム : 白は湯豆腐か障紙 赤い神宮の鳥居 緑久しい常磐の松 きれいな人の髪の色 路地の奥にも立派な師匠 正月初釜 まめに磨いたろいろより  真塗りのおなつめ、また台子、 水面に映える金閣より むかしむかしの仏さん むかしむかしの金蒔絵。 絵に書いた桜は 誰のがええやろか、 かく言うわ たしが桜なら、きれいなうちに塩にまぶせばよかったのに。

* 古稀をひかえたおねえさんの、艶な文である。どきどき。

* 名古屋の四人組 : 昨日は、御園座「小笠原騒動」の千龝楽。今回、雀は見ませんでしたが、南座初演を一緒に見た二人の女友達が、二人とも点が辛い。橋(之助) & 染(五郎)やり過ぎ、役者だけで遊び過ぎ、と。舞台も、外も、仲良しこよし。雀は、そういうの、いや。
 TV で、伊東四朗・小松政夫の舞台ドキュメントを見ましたが、アドリブに見えても、本当に良く稽古され、練られた動きと、絶妙の間。雀の見たいのはそういう喜 劇、体を動かす笑いなの。贔屓の翫雀さんには、汗をかいて絞ってほしい、身体も芸も。狐の化身が狸に見えるんですもの (ご本人が、狐より狸が好きとの事)。囀雀

* 扇雀丈に誘われてはいたが、ちょっと気乗りしなかった。四人の組み合わせが固定 すると、さび付いてきたり、ねじがゆるむもの。一期一会の繰り返しは容易でないからだ。

* 浜松の前に、松尾聡の「源氏物語の不幸な女性達」をずうっと読み継いできてい る。光源氏が性的に関わった女性を松尾さんは十二人挙げてられる。わたしの勘定では、源典侍が落ちている。この光や頭中将よりはるかに年上の女と貴公子達 は性的な仲でなかったとは読めないのに。
 ともあれ十二人の、いかに光源氏によって不幸な女であらねばならなかったか、その経過ないし理由が、押 し込むようにぎしぎしと書き連ねてあり、物語の復習には有り難いけれど、必ずしも、男女の機微が深切に汲みとられているようには感じにくい。光源氏はたし かに全ての女性に対し性的加害者にちがいなかった。和姦は、ま、朧月夜が一人だけ、それと承知で結婚したのは女三宮が一人だけ、だ。今井源衛さんは、他の すべてはレイプであったと明言されて話題になったが、この当時の男女の出逢いは概してそうであった。時代は降るが「問はずかたり」の二条が後深草院に犯さ れたときなど、着物はびりびりに引き裂かれている。平安時代でも手強く抵抗すればそうであったに違いなく、だからこそ夜の寝覚の寝覚の上が禁中で帝に襲い かかられたのを徹夜で拒み抜いたのは極めて異例の描写であったのだ。
 だが、それだけで、その後の女の不幸をむやみに強調されたとき、当の女性の方からどんな感想が出て来る であろうかと、何が何でも不幸にしてしまう決めつけには、微妙な違和感がある。性的関係とは、生理的な関係でもあり、肉と性との生理感覚が、心理の表層よ りも相当に根深くものを言っている男女関係というものはありそうな気がしてならない。不幸であったかと問われれば、幸福ではなかったと皆が答えるであろう 気がするが、それは不幸であったという答えとはひと味ちがうだろうという気がする。この辺は女性読者に聴かなければ分かりにくいが、松尾さんの仕分けはあ んまり機械的に線引きしすぎてはいないだろうか。
 いま、紫上の項を読んでいる。松尾説にはかように一言挟んでいるけれど、読み物としてはおもしろくてや められない。源氏物語について語った文章は、論文でもエッセイでもみなおもしろいが、わたしは研究論文の方が、より、おもしろい。ありがたい。
 

* 四月二十五日 つづき

* 吉田優子さんの小説「さぎむすめ」を第二頁にあえて今のまま掲載してみた。編輯 者の思いは、作品の前後に添えて明らかにしてある。すぐれた文学作品に澄み切る要素を持っている。通俗読み物にずり落ちるおそれも持っている。文学の文章 にどう仕上げきるか、作者の勉強に賭けたい。
 

* 四月二十六日 木

* 京都の河野仁昭氏からも、「e-文庫」にいいようにお使い下さいと転載を認めて もらった。「京都」そしてわたしの作品『初恋』を介して、もう久しいご縁である。氏は、京都にあり、盛んに京都を書かれている。『中村栄助と明治の京都』 など優れた仕事であった。京都の谷崎についても書かれている。去年のペンの京都大会で初めて、か、二度目を、逢っている。『初恋』を周到に紹介してくだ さった論文があり、それが欲しいと思う。

* 高史明さんの講演をじりじりと掲載し続けているが、なかなか深い。知識で話さず に魂のはたらきとしては話し続けておられる。胸にひびき、スキャン原稿の校正をしながら引きこまれるように読んでいる。哲学者や宗教家からは、こういう魂 の声がとどいてこない。識で、知識で、彼らは評論する。生死のきわから話してくれない。だから読んでいても、混乱はともすれば深まり、なかなかラクになれ ない。高さんのような人の声が尊い。浅いようで深い。畏ろしい。

* 明後日には布谷君の勧めで、とうとう専用機を組み立てることに決め、秋葉原に彼 の先導で買い物に行く。どんなことになるのか、どういうことを布谷君は頭に置いているのか、実は容易に見当もつかない。楽しみであるのは確かだ、しばらく は、だが緊張が続くことだろう。身震い、いや武者震いがする。
 

* 四月二十七日 金

* さぎ掲載 感謝
 吉田です。ご批評ありがとうございました。
 これまでにいただいた助言の数々、推敲を重ねているうちに、そうか、そういうことか、と納得してきまし た。これは、書くという作業なしでは理解しえなかっただろうなと思います。理屈はわかったつもりでいても。
 そしてまた新たなご指摘、「清潔な文章の力でよごれを清拭」するということも、一人で書いていたらそこ に思い当たるまでにどれほどの時間を要したことかと、あるいは思い当たらぬままに終わったのではないかと、学べるうれしさ、ありがたさを噛みしめておりま す。
 「清潔な文章の力でよごれを清拭」と読んでまず思い浮かんだのは、秦さんは勿論ですが、川端康成でし た。川端康成の作品には、物語だけを追えば通俗小説ともとれそうなほど奇想に展開するものがあります(小説を読むとき、物語を愉しむという姿勢が、どうや らわたしにはあるようです)。おそらく、文学全集にのっかっているような純文学の小説のどれにも、物語はあると思います。アンチロマンでさえも、何かしら 筋はあると。
 では、なぜ川端康成なのかというと、湖面のように静かに澄んでいてうつくしいあの文章から立ち昇ってく るどうしようもない個の寂しさに、わたしは惹かれているのではないかと思うのです。「眠れる美女」は、老人が少女を玩弄する話、とえげつない言い方もでき るものですが、清らかに読ませるのは、筆力というものでしょうか。「みづうみ」は今でいうストーキング以外の何物でもありませんが、劣等感と孤独が哀しく 響いてくる作品です。確か「たんぽぽ」という未完の作では、人だけが見えなくなるという奇病に冒された女性の登場に驚かされましたが、人だけが見えない、 ということの根の奥に思いをめぐらしてみれば、抱き締めてくれる人の存在さえも疑わざるをえない、何と心細い個であるかと、胸の中がしんと静まります。し かしそれらは決して胸蓋ぐものではありません。
 人は、多少の境遇の差こそあれ、生来孤独を抱えて生きていると思います。であるからこそ、秦さんのおっ しゃる「身内」を求めてやまないのだと思うのです。そういう希求が、彼の作品からはもどかしいながらも、伝わって来るのです。文章は、一朝一夕によくなる ものではないと、これは悠長に構えているわけではなく、思っています。何しろ勉強が足りない、修業が足りないのですから、こつこつやるしかありません。で も、もう二十七歳です。川端康成なら「伊豆の踊り子」を書いてる歳です。川端康成を引きあいに出すのもなんですが、せめて思っていることを書いて表現でき るようになりたい、その一心で臨んでおります。同じ道を、と言うとおこがましい限りですが、書くことを志した大先達の秦さんの助言は、具体的なことからそ の意気にいたるまで、的確にして尤もで、深く考えさせられます。
 ともかくも、文章の清らかさを見つめ直してみようと思います。
 ああ、もう二時半を過ぎました。明日も会社です。

* 吉田優子さんの心強い嬉しい反応で、よかった。根気良い精進が、川端文学にこの ように佳い視線をさしこんでいる若い書き手を励ますであろうことを期待したい。いちばん言いたかったところを、いちばんいい感じで受け止められたのは有り 難い。読者の批評を得たい。これで、創作欄に、高橋由美子さん、上野重光氏、吉田優子さんと、書き手がとにかくも登場してきてくれた。もっと、もっとと 願っている。

* 小泉内閣の発足には、顔ぶれの新鮮さも、また選び方に一徹な意志のよみとれたこ とも、画期的とこの限りにおいて賞賛を送りたい。一つには、旧態依然の反発や憎悪が党内にひろがっているという旧自民党体質むきだしの反応の露骨な点に、 小泉流が逆照射されて光ったところがある。まだ分かっていないのだなあと、派閥本位の古くさい政治屋どもへは軽蔑を送りたい。だが根本の問題は、内閣が、 小泉首相たちが、姿勢をこわばらせることなく貫いて、分かりのいい政策を誠実に、不器用にでもいいからねばり強く敢行していってくれることだ。法務、外 務、文科、環境、国土の女性大臣たちが火花をちらしてでも政治目的に競い合って欲しい。石原行政改革相にも期待したい。亡き北沢の兄が、わたしの石原慎太 郎への危惧を伝えたときに、そばにいる息子の冷静な判断に期待したいねと言ってよこした言葉を思い出している。それまでわたしは、この石原新閣僚をただの ヤジ男のようにしか見られていなかった。
 
 
* 四月二十七日 つづき

* 高史明氏の講演「いのちの声が聞こえますか」を、「e-文庫」第六頁に全部掲載 し終えた。これは近代と人間とその闇の深さに対する畏ろしい洞察を経た緊迫の声である。後半から集結へとても盛り上がる。生きのいたみに日々を呻いている 人に読んで欲しい。
 真岡哲夫氏の紀行は、原稿用紙で百枚もの大作であるが、全編を同じく第八頁に掲載した。

* 理事会で説明し、総会に報告した「電子メディア対応研究会」の報告を掲げてお く。すでに総会場で会員に配布し公開されている。

*    <2000年度 電子メディア対応研究会 総会・理事会報告>

座 長:秦恒平
副座長:村山精二
委 員:内田保廣、紀田順一郎、倉持光雄、坂村健、城塚朋和、高橋茅香子、高畠二
郎、中川五郎、西垣通、野村敏晴、森秀樹、莫邦富  (座長以下14名)
顧 問:井上ひさし副会長
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<研究会> 2000年度は研究会をほぼ毎月、計11回ひらき、「電子本」出版契約問題をはじめ、多方面 の議題・話題
で意見交換を重ねた。
(電メ研開催日:5/15、6/9、7/12, 9/8, 10/6, 11/10, 12/8,  1/26, 2/16, 3/8, 4/6)

*5月:日本ペンクラブHPをリニューアルした。

*8月:言論表現委員会のシンポジウム開催に合わせ、メール所有会員約170名を対 象にアンケート調査。44名からの回答は、全て日本ペンクラブ「電メ研」HPに掲載している。(質問は、大きく A  電子メール(通信) B インターネット(検索・取材) C  ホームページ(表現・表出・広報) D  その他の問題 に分けた。)いわゆる「e-OLD」「電子の杖」に対する会員の関心の深まりが印象に残った。Eメール使用報告の会員は200人を超え、 ホームページを開いている会員ももう数十人に達している。

* 10月:「電子本」の規定  ペンクラブ入会の資格審査に「電子本」も対象に加えるとまでは、すでに承認決議されいるが、具体的にどういうものを「電子 本」として提出できるのか。電子メディア対応研究会は、これを、下記のように意見統一し、10月理事会で承認をえた。
 ・インターネットに、現に、公表していること。
 ・長編短編、また小説、エッセイ、批評、研究等の量的規準として、400字原稿用紙換算、300枚以上 相当を以て「著書一冊」と数えること。
 ・審査の用に、ディスクの形で3枚、同内容のプリントアウトしたものを3セット提出すること。審査は、 分野により、理事会が複数理事ないし会員に委嘱することがある。
 ・「詩歌」の規準は慎重考慮をまって、当面は保留とする。
 ・申し込みには理事、会員2名の推薦を要することは、紙の本に同じ。

*3月:「電子本の契約」について、前年11月に研究員として加わった専門家の牧野 二郎弁護士の解説をもとに、積み重ねてきた討議の実用に耐える取りまとめをはかった。その集約として、3月、小冊子『2001「電子出版契約の要点・注意 点」に関する報告』を作成し、4月までに全会員に宛て、送付した。さらなる討議と改訂を得たい。職能団体である日本文藝家協会の仕事であるが、重ならない 会員も多く、アンケート等での要望に応えようとした。

<提言と動向>

 1. 1997年の提案と折衝により、「日本ペンクラブ・ホームページ」が稼働して以来、電メ研の運営により、ペン声明をはじめ各委員会等の活動内容が目をみは る充実とともに世界に発信され、今や不可欠のペン機能を果たしている。電メ研はなお格段の発展を具体的に企図しており、この際、正式に電メ研内にホーム ページ編集室を設け、より便利に検索可能な、より多彩に文学・文藝的な工夫を実現してゆきたく、編集室活動の承認を得たい。かなりの電子メディア・テクを 要するので、電メ研で実現するのが適切と判断している。
 2. 情報処理学会文字コード専門委員会の第二ステージが2000年末に発足し、日本ペンクラブからは電メ研の秦座長が参加と、2001年2月理事会で決定。パ ソコン等の機器における漢字利用度の拡充に関し、文筆家の意向を積極的に伝えながら、より有効な方向へ国際世論にも働きかけるべく、進んで会議に参加して いる。漢字の約2万字ほどが国際
的に標準化された文字コードで機器に実装されようとしている段階にすでにあり、従来の不便と不満は、関係 者尽力により、かなり軽減に向かっている。
 3. 電子メディア上の著作権上のトラヴルはますます増加してゆく恐れ多いが、対応には、経験事例を重ねて行く必要があり、より具体的な報告を会員からも得た い。
 4.  ペン活動との関連で言えば、個人情報ないし人権の保全を脅かす多くの技術的な危険、さらには国際的なサイバーテロリズムによる情報壊乱の危惧、いわゆる IT革命による人間工学的な不自然な環境変異等にも懸念と注意とは欠かせない。日本ペンクラブとしても人権と環境と表現の各方面から、さまざまに不可避の 対応を迫られてゆくであろう。
 この際、「電メ研」の略称はそれとしても、正式に「電子メディア委員会」としてはどうかと提言する。
 5.  電メ研としては、電子メディア機器の普及にともない「日本語表現」にどのような新たな問題点の生じているか、生
じてくるかに、特に大きく関心を置きたい。 以上

* 上で二つの提言をした。一つは、ホームページのさらなる充実のために、この際 「電メ研」のなかにホームページ編集室を設けたい。もう一つは、新世紀ますます多面化してくる電子メディア問題に日本ペンとしてさらに意欲をもって取り組 むべく、この際、電子メディア対応研究会を、電子メディア委員会としてはどうか。
 結果として、梅原新会長と執行部は、現状これを二つとも否認した。
 前者は、会報委員会との折り合いが付いていないと。
 後者は、電子メディア研究「小」委員会とすると。「小」とはどういう意味かと質問者が何人かいたが、何 の意味も無いと。何の意味もないことに抵抗するのも無意味なので、何一つ抗弁せず受け入れた。
 ものごとには時機がある。時機熟さずと見えた以上、ことは何も本質を揺るがすわけでなく、そのように新 会長以下執行部が「見識」を示したのだから、黙って受け入れておけばよいと判断した。

* それより前に、「環境」問題に関して、盛んに「重視」の発言がありながら、環境 「小」委員会からも、この「小」委員会を会長直属にしたほどの梅原猛氏からも、地球温暖化防止京都会議決議に米国が批准拒絶している重大事態には、まった く触れようともしないことに、総会議場で発言を求めてわたしは注意を促した。いずれ何か考えますというような梅原氏の反応であったが、遅すぎる。いまだに 遠い以前の諫早行動を自賛するのもいいが、「環境」問題は諫早だけではないし、諫早問題ですら問題自体の環境が変動している。環境のことは、もっと俊敏に 広く目配りし、対応すべきはきちんと対応を急がねば、することなすことが只のパフォーマンスかデモンストレーションに過ぎなくなる。

* 懇親会は盛会であった。 
 

* 四月二十八日 土

* 秋葉原電気街口に一時に行き、布谷君の奮闘で、専用機組み立てのための部品を沢 山買い込んだ。一部は宅配に託し、他は持ち帰った。わたしには、もともと組み立てという発送そのものからイメージ出来ないのだから、わたしが選んで買うな んて出来ない。お金を預け、わたしはコカピュータ館のどこか椅子席のあるところで雑誌を読んで待ち、布谷君が餌をはこんでくる親鳥のように三度も四度も 戻ってきては品物をわたしに預けて、またどこかへ行ってしまう。そんな風にして、結局約三時間余。駅で別れて、荷物を保谷へ運んで帰ってきた。

* さて明日は布谷君が家まで来てくれる。作業が少しでもしやすいようにと、機械部 屋をまた模様替えして大汗をかいた。重い日立製のディスプレイを隣家の書斎からまたこっちへ運び戻した。建日子の使っていたらしい空の棚も、役立つだろう と、妻に手伝ってもらい、運んだ。家に帰ったとき妻は少し疲労していて、夕食も寿司をとって済ませたが、食後にけっこう力仕事を手伝わてしまった。ずいぶ ん力を出してくれた。

* 同人誌「季節風」が届いたのをそのまま持って秋葉原に行った。布谷君の買い物を 待つ間に、一冊ぜんぶ読んでしまった。三原誠氏がここにおられ、作品をずうっと送ってもらっていた。亡くなってしまった。惜しい死であった。奥さんは誠氏 の遺志を守るようにわたしの湖の本を支え続けてくださっている。同じようにしてくださる奥さんがもう二人三人でなくおられる。切なくも有り難いことであ る。
 「季節風」は水準の安定した同人誌で、安心して読める。安心して読めるところがむしろ限界であるのかも 知れない。数編の小説はみな読めた。だが、鋭い緊張感はなかった。手慣れている。そして、みな似ている、作風が。亡くなった三原さんの小説は厳しい詩性を はらんで魅力があった。

* 疲れたので、湯につかって休もう。

* 「e-文庫・湖」第七頁に、玉井清弘氏の澄んで水をひくような清酒に似た自撰五 十首を戴いた。長塚節を現代に蘇らせたような静かな境涯に現代の哀情の沈透く短歌だと、久しく敬愛してきた。玉井氏のような優れた歌人が世間に大勢ひそや かに隠れている。隠れていると言っては失礼だろうが、東京界隈に住んでただ地の利だけで、やわな歌人がマスコミ受けしているのを見ているのは、ときに苦々 しい。

* 身辺をかたづけて、なんだか、ちょっといい感じの部屋になったみたいだ。うまく すると、あすは、わがパソコン生活の、また大きな曲がり角になりそうだ。

* 最初の機械は、エプソンのノートで、ウインドウズ3.1だった。研究費をもらっ てすぐに買った。新入生用のサービス・パックを生協で売り出していた。21万円ほどであったが、白黒だった。買ったものの、にっちもさっちも行かず死骸同 然の箱のまま放棄せざるをえなかった。どう力んでみてもわたしにはインストールできなかった。二年ほど放置してあったのを、先日結婚式を挙げた林丈雄君が 引き受けて、教授室で、MSDOSや一太郎5を、長時間かけて入れてくれた。それをじっと見ていてワープロの30万倍難しいと痛感した。
 白黒の機械はやはりわびしかった。それで仕事になるなどいう実感がもてなかった。麻雀ゲームですらパイ の識別がなかなかつかない。それで、日立のすこし贅沢なディスプレイを家に買い、機械を持ち帰って繋いだものの、まだまだパソコンをどう使うという手勝手 も衝動もなく、ゲームばかりに時間を費やしていた。仕事には十余年来のワープロばかり使っていた。
 で、今度は43万円ほどのノートで、ウインドウズ95のNECを生協で買った。学長が特別の研究費をボ カッと呉れたので買う気になった。CDROMが使えて、ウソのようになにもかもラクになった。エプソンとディスプレイは不用になった。この95でわたしの パソコンは「仕事」のために稼働しはじめた。もっぱら一太郎を使っていたが、それでも、大学に在職中は、じつは、まだまだワープロの方を使っていた。ワー プロはインタラクティヴではない。わたしはインタラクティヴなパソコン機能に恋いこがれるようになっていった。その必要度が切実に増していると自覚したの だ。
 かくて退官後から、布谷君の紹介で田中孝介君と相い識り、もっぱら田中君の親切な支援で、ノート95が 活躍し始めた。東芝ルポで膨大に作っていたフロッピー原稿がパソコンへ移転できると、その方法を田中君に教わったのは革命的だった。これで、ホームページ を創り出し、紙の本版「湖の本」のほかに電子版「湖の本」が創れると確信できた。そして田中君は鮮やかな手並みで、たちどころに私の望む表紙繪とともに、 第一期のホームページをわたしにプレゼントしてくれた。あの嬉しさと言ったら無かった。太宰治賞が二度目の誕生日としたら、湖の本創刊は三度目の、そして ホームページ「秦恒平の文学と生活」を打ち出したのが、四度目の誕生日のようにわたしは今も思っている。
 この機械ノート95は、だが、よく故障した。わたしの扱いも悪かったと思うし、田中君には夜に日をつい でメールでものを教わり続けたし、ディスクのクラッシュしたときは蒼白になって、田中君の救援を懇請した。彼は保谷まで足を運んでくれ、様々の方法を駆使 してホームページを救出してくれた。そして池袋「さくらや」につき合ってもらって今のウインドウズ98のNECノートLaVieを新たに買った。今よりも だいぶまだ機械が高価であった。
 この機械で、ホームページは、林丈雄君、また布谷智君の工夫で、リニューアルを繰り返し、ずいぶん拡充 され、その勢いで去年の十一月半ばから「e-literary magazine 湖umi文庫」を創刊することが出来た。
 そして明日には、また新しい器械が、初めてのデスクトップ型の専用機が出来ると布谷君は言う。わたし は、まだその実感のわかぬままワクワクしている。嬉しい。

* 「日本文藝家協会のホームページのリンクで、秦さんのホームページを知りまし た。私よりも年輩の方で、これほど電脳空間を使いこなしておられる方を知りません。水上勉さんもメールを楽しんでおられるようですが・・・」というメール を、協会に新たに入会したという人からもらった。かりにも、こんなことを言われるとすれば、それは、東工大の学生諸君のおかげであり、わたしの手柄ではな い。有り難い。 
 

* 四月二十九日 日

* 組み立ての新しい器械が作動した(わたしはまだ使い出せていないが、)。獅子奮 迅の勢いで布谷君は頑張ってくれた。第一段階は、組み立てだった。次に、数え切れないほどいろんなことをやっていた。大方は見ていても分からなかったが、 ウインドウズ98も2000もインストールされ、40Gのディスクが入った。昨日のうちに模様替えをしておいてよかった。放置してあったソニー17インチ のディスプレイがみごとに役だってくれた。ディスプレイが立派なので、どの器械も所を得て美しく見える。二時前から作業が始まって、夕食をはさんで布谷君 が雨の保谷駅から帰っていったのは、もう十時半だったが、まだ、彼はもう少しし足りないと言っている。簡単な仕事ではなかった、むろん、わたしには何一つ 出来ようとは思われず、ひたすら傍観していた。手伝えることも余り無かった。林丈雄君が最初の機械にインストールして呉れた日も、七時間かかった、大岡山 から渋谷まで一度買い物にも出ていったけれど。吉田博史君に手をかけてもらったときも、田中君にいろいろと実現してもらったときも、ただただわたしはじっ とそばで見ているしか身の置き場すらなかったのである。
 今、正直のところ、布谷君が新しい器械と今までの器械を連結して、どんな魔法をかけてどれほどのことが 出来るようにしてくれたのか、全容は見えていない、途中でDVDが設置されてトムハンクスの宇宙映画アポロが写されたときは、美しい画面に感動した。いっ ぱい説明してくれていたと思うが、正直のところ、どれだけが耳に正確に入っているのか自信がない。現にひとりで機械の前へもどって、大きなディスプレイに ホームページを呼び出したものの、新しいキイボードに慣れていないので、咄嗟には何も進められなかった。

* さて仕方なく、今までの器械に戻ってメールを点検してみたが、ニフティーが働か ない。オープンのエラータだそうで、これまでに一度も見たこともない警告が出てくる。接続し、「バスワード確認」した後に「接続処理エラー(接続処理中異 常発生)Winsockでエラーが発生しました。(Openエラー)」と警告している。これは、わたしには処置出来ない。しばらくメールが読みとれないと 思うが、静観する。
 このホームページへ入るのにも、ストップを食らった。何かを何かで共有しているが、よろしくないと「強 く推奨」してくるので応じて再起動したところ、ここまで入ることができた。この「私語」をうまく転送できれば、布谷君にも通じるものと期待している。
 この程度の躓きは、これほどの大事を敢行した以上二つや三つは当然の不具合として、またわたしの不慣れ として生じるに違いないと予期していたので驚かない。新しい家を建てたときは当分の間家がミシミシと音を立て続けたものだ。いずれ、おさまるようにおさま るだろうし、それまでは機械に手慣れたい。

* 今日が、パソコン生活の中で、ホームページが開かれた日以来の画期的な一日で あったこと疑いなく、いい思いをさせてもらった。布谷君に心よりお礼申し上げる。みまわしたところ、わたしの機械部屋は、ふしぎなほど端然と落ち着いたか ら不思議である。

* 案じた通りFTTPが「cannot」と出る。新しい器械と、この機械とを連結 していることで、何か問題があるようだ。連結して手いるコードを外してみようと思う。

 
* 四月三十日 月

* 電話機能がダメになり、ニフティメールとHP転送とが出来ないという最悪事態に なってしまった。わたしの活動はほぼこの二つによってインタラクティヴを機能させているのだから、最悪の状態である。参った。布谷君は明日来てくれるとい う。それまでは何もできない。
 難しいものだ。二台を強いて連結機能させるより、それぞれに使えるようにしておかないと、こういうとき に、二つとも潰れて、もう一方で作業を代替続行ということが出来ない。致命的。

* どうしても、異常な状態が回復の兆しもみせない。ソケット関連の異常のように感 じられる。二台の機械をLAN風に繋いだのではなかろうか、それが不具合になっているのでは。このLaVieを「ノート」と、新機を「デスク」と呼ぶとし て、布谷君の設定のままで起動の場合、
1. ノートが動いていないとデスクは稼働状態に入らない。
2. ノートのネットスケープ起動にも「リソースの容量不足かネットワーク接続のダウンか」で、と警告が 入る。アクトン接続を外していれば、この警告を無視してホームページが開けるし、書き込みも出来る。
3. しかしFFFTPでのアプロードにコネクトしない。更新不可能。
4. ニフティ通信は、接続からパスワードの認定まで進めるのに、そのあとで「Winsockでエラー発 生」し交信状態に入れない。受発信不可能。
5. デスクは無かったものと思えば済むが、ノートは稼働しないとにっちもさっちも仕事にならない。ホー ムページとメール。この二つがインタラクティヴの「窓」だと痛感する。
6.  二台は絶対に切り離して置かねばならない。
7. デスクにフロッピーディスクのドライヴが無いのに気づいた。これは、非常に不便。
8. マニュアルが全くないので、手引きしてくれる手がかりがない。
9.  プリンタは異常なく使える。

* ついにニフティを新たに再インストールし設定を試みたところ、やっと、メールが 開通回復し、受信分が読みとれた。つぎは、この「私語」などをFFFTPで更新出来るかどうかだ、が。
 
 
* 四月三十日 つづき

* 終日ああでもない、こうでもない、やっぱりダメという徒労の努力を繰り返し続 け、夜に入って、もうこの一手だろうと、ノートパソコンとデスクトップとの連結を切り離し、ニフティサーブをもう一度ノートの方へ新たにインストールし、 設定を最初からし直してみた。
 なんと、理由は分からないが、メールが回復して、溜まっていた受信分をぜんぶ読み、そして、これでホー ムページの更新も出来るのではないかと試みたら、新たなニフティサーブで更新にも成功した。インターネットエキスプローラも使用可能に回復して、アクセス 数もちゃんと見た。27509Iになっていた。よくもこんなホームページにと、有り難い。

* よく粘った。二機共倒れは厳しかった。今までの一台は、なんとか救出できた。新 しい器械も、布谷君の手で個性的な自立した一台に育てたい。デスクはデスク。ノートはノート。それで行こうと思う。
 

* 五月一日 火

* 新世紀の元旦を迎えたのがつい昨日に思われるのに、もう、メーデー。こころもち 冷えているが気持ちいい晴れた日差しに窓が明るい。この器械、ノート・ラヴィは朝からおとなしく働いてくれている。

* この粘り たいしたものです。それは今に始まったものでもないと私は思います ヨ。惹かれるもの(関心のあるもの)に対しての粘りは人並み以上にスゴイと。
 白状すれば、そこが又、私の惹かれるところデス。マジメニ ホント。
 まずは メールの送受信再開がクリアー出来ておめでとう。
 もう あなたはパソコンのない老後は考えられなくなっていますね。
 先日 頻繁にメール交換をしている同年輩の友人(彼女とは毎週新宿で会うんですよ)が、息子から譲り受けの器械が壊れてしまい、パソコンのない日は 我慢出来ないと即刻高価だけれども新品を購入したと言っていました。遠くに住む初孫の情報や、写真にかかせないらしい。そんな時代になりましたね。

* お褒めにあずかって照れている。このメールで感じるのは、後段のオバアチャンの 「パソコンのない日は我慢出来ないと即刻高価だけれども新品を購入」「遠くに住む初孫の情報や、写真にかかせないらしい。そんな時代になりましたね」とい う所。まさに「e-OLDの電子の杖」が生きている。器械が無くてはにっちもさっちも行かない生活というのが良いものだとはわたしは考えていないが、器械 が無くなったらどう生活を切り替えて立て直すかには、覚悟が要る。わたしは、昨日のような場合、それも一つの「好機」という気持ちももっていた。それを契 機に、また手書き時代へ戻れば良く、電話と郵便の生活にも帰れる用意は必要だと思っている。いまは一心に器械という馬を乗り回しているが、馬には乗るだけ でなく、いつか下りるのがむしろ本来だろうと、そういう気持ちはいつももっている。しかし、このおばあちゃんの気持ちもよくわかり、頷いている。

* 吉田優子さんの「さぎむすめ」に、高校を出てまもない少年、いや青年、の賞賛の メールが届いた。自分も作品を送ってきてくれた。ゆっくり読む。こういうふうに「e-文庫・湖」が始動してゆくのが望ましい。大勢の文学者に寄稿を頂戴し ているのは、安易なことでは済まないよという誘いのメッセージのつもりだ。

* 「生活と意見」、いつも覗いています。秦さんの文章は勿論ですが、最近とくに秦 さんを慕う読者の方々の言葉や文章に、とても感心させられています。いろんなところに、いろんな人がいるもんだなあ、と、当たり前のことを、とても強く実 感しています。
 吉田優子さんの「さぎむすめ」を読みました。なんだか、この吉田さんという方に会いたくなってきまし た。<面白かった>なんてモンじゃない、モロに感動しました。ときどき、言葉(単語、語句の範疇)がきらきらしすぎて、文章の流れから少し浮 き気味になっているところもあったように見受けられました。しかし、路子さんのなんと美しいこと。最後の場面、思わず作者に頼みたくなりました、「ああど うか消えてしまわないで!」と。これからもぜひ書き継いでいってほしいと思います。
 ものの見事に僕も触発されました。習作とも呼べないようなものですが、投稿させてください。高校時代に 書き溜めたうちの、一番最後のものです。今までの自分をまとめて出す、という心積もりで送ります。お忙しいこととは思いますが、よろしくお願いします。

* 藤田理史君の「牡丹」を未推敲の現状、とりあえず、そのまま「e-文庫・湖」の 「作業頁」に仮掲載しておく。漢字に?で届いている箇所もあり、作者のさらなる推敲がどう進むかを見たい。「作業頁」はいわば作者と編輯者とでの作品検討 の「場」として機能させている。この作品は、まだ次の一行めを見たばかり。
「紫色の花が土の上に転がっていた。近寄ってみて、牡丹の花だと坊やは認めた。」
 問題は、やはり「在る」と見ている。牡丹は転がるだろうか。崩れるとは思っていたが

 
* 五月一日 つづき

* 昼前に布谷君、またご足労願い、ノートと切り離したデスクトップの方の仕上げを してもらった。DVDを観られるようになった。音楽も落語も聴けるようになった。いま志ん生の、好きな「天狗裁き」を笑いながら、今までのノートでこれを 書き込んでいる。また自前のCD-ROMを焼き付けることも出来るようになった。40G。ウインドウズの98と2000とを入れてもらった。
 何もかも全部布谷君がやってくれた。有り難いとも何とも言いようがない。ノート一台とちがい、大きな ディスプレイと洒落た顔をした本機とスピーカーが並び、まことに格好がいい。あとは、キーボードの使用に慣れなければいけない。

* 夕過ぎて、下保谷の「フィレンツェ」で夕食した。料理よりワインが旨かった。ワ インよりも、布谷君との落ち着いた四方山の会話がのんびりとして楽しかった。保谷駅でどうやら無事に有楽町線に乗ったのを見届けて、なんと、保谷駅から家 まで、歩けば十五分の道を、ゆっくりゆっくりとだが、駆け足で駆け通して帰ったのは、もう二度とあるまいと思っていた奇跡的な出来事だった。走るなんて、 昨今、ものの十メートルも無理だったのに。生きていると、おもしろいことが、あるものだ。だが、おかげで今はへとへとに草臥れている。草臥れきったまま落 語を聴いて笑いながら、のんきにこの「私語」を書いていた。ゴールデンウィークである。
 明日は、中学時代の友人に会う。横須賀に住んでいたが、故郷の金沢に帰るという。名残を惜しむことにな る。その前に、早めに家を出て街でとも一人歩きを楽しみしていたが、この数日の睡眠不足と今の疲労とを考えると、明夕まではしっかり休息するのが賢明なよ うだ。

* 尾辻紀子さんという人の『雲水 街道をわたる』という小説本をもらっていた。薩摩の人、越前永平寺六十世住職・臥雲童龍の生涯が書いてある。ペンクラブ会員とは失念していた。貰ってから しばらく放ってあったが、ふうっと手に取ったら手放せなくなった。よほどこまやかに禅寺と禅僧の世間に通暁している作家らしく、それ自体は人によって調べ のつくことだが、感心したのは筆致の軽快と清爽、省筆の妙で、いかにも禅にふさわしい。話よりも話しぶりに魅せられた。こんな読書はあまり例がない。
 読みついでいる途中に、先日ペンの懇親会で尾辻さんにぱたっと出会ったので、大いに賞賛してきた。昨日 読み終えたが満足した。奥をみると、わたしと同年の人であった。

* バグワンは、昨日から、初読の『一休』に転じた。どんな出逢いになるかと楽しみ だ。

* 甲府放送局ご重役の倉持光雄さんから、澤口靖子のいい写真の出ている雑誌特集を 送ってあげるとメールが来た。ご親切である。
 

* 五月二日 水

* 昨夜のジョギングが響いたか、或いは右囲い風に配置した二台の機械で、とかく右 手にある新しい機械へからだや気持ちが向かおうとするからか、右腰にかなりの痛み。いまは、その機械からホロヴィッツの「熱情」が鳴り響いている。教授室 にひとりでいたとき、よく時を忘れてこのCDを聴いていた。アシュケナージの「月光」ホロヴィッツの「熱情」「悲愴」の入った愛盤である。それとカセット テープの謡曲「清経」を聴いていた。よくまあ四年間、ご近所の先生方からじかに苦情を聴かずに済んだものだ。社会学者の橋本大三郎さんがすぐ隣室だった。

* 夕刻より出て、銀座三越前で細川弘司君と逢う。「やす幸」でおでんを食べて話 し、それから「クラブ」で飲みながら話した。昔、安宅コレクションという有名な、すばらしい世界的なコレクションがあった。そのコレクターの安宅氏から才 能を認められ、北陸から京都へ西洋画の勉強に出てきたのが細川君で、当時画壇の重鎮であった人たちにも評価され、新聞などに「天才少年」として大きく報道 されるような才能だった。わたしと同じ新制中学に転入してきたのである。
 数奇なと謂っていい人生を経てきた。一時はイラストレーターとして業界内で声名高く大きな賞を繰り返し 取っていたが、病弱でもあった。そういうことをわたしは何一つ知らないまま、中学時代の天才画家を捜し求めていた、そして近年にまったく偶然に恵まれて再 会したのである。
 その彼が、北陸へ帰って行くことになった。理由はいろいろあるが、家庭の事情といえる。激励したくてわ たしから呼び出したのである。
 よく話せた。楽しいと言うよりは幾らかもの悲しくあり、言葉と思いとを尽くして激励し、いっそうの奮起 と再起とを期待した。私の目から見ても、才能は失せてなどいない、ただ悲運の連続であった。
 別れたくないようであった、そして、或る地下の喫茶店で細川君は手ずからセルフサービスのコーヒーを テーブルに運んでくれ、そして、持参の古い古いスケッチブックの、あいた紙三枚にわたしのボールペンをつかって、わたしをスケッチしてくれた。彼は、空間 を描くことで人物でもモノでも深々と捉えて行く。三枚のスケッチは、いかにもわたしをとらえながら、わたしの存在し呼吸している空間を尖鋭な線で彫琢し尽 くしていた。しみじみとした感動のままに喫茶店の前で、右と左とに別れてきた。
 たかが北陸と東京であり、再会を期することはやすい。だが、身内にこたえる「別れ」であった。おそら く、数年前にわたしたちが再会して以後、彼が心をひらいてものを語った、語り合えたのは、わたし一人であったろうと思われる。それほど彼の藝術家としての 孤独はいたましかった。そのいたましい彼を、わたしは、貪欲なほどに観察し考察し仮構して、まるでべつの人物として組み立て続けてきたのだ、むごいことだ が、また、それほどの愛情もまた無いのである。

* 秦さん。お元気で、何よりです。
 山梨は、林檎の花が咲き始めました。白木蓮、花水木は、散っていますが、春が始まったと思ったら、いろ いろな花が咲き始め、その後も途切れることなく、なにかの花が咲いています。
 また、新緑は、さまざまな緑に山を染め、緑色がこれほど豊かに多彩な色だと改めて痛感させられます。ま さに、「山笑う」です。
 甲府の我が家の玄関の上にある通風孔の上に、燕の巣があります。去年見送った燕かどうか判りませんが、 今年も「戻って」きて、出入りを繰り返して巣作りをしていたと思っていたら、数日前から、巣に籠もってじっとしています。卵を温めているのでしょう。雛が 孵れば、また、雛に餌を与えるために、忙(せわ)しなく出入りを繰り返すでしょうね。
 そういえば、私の甲府勤番生活も、今月末で、1年になります。
 いま、「新府城と武田勝頼」という本を読んでいます。網野善彦さん(この人は、私の高校時代の新聞部の 顧問で、日本史を教えていました。私の授業では、日本史は別の人でしたが)によれば、甲斐の人は、富士川から太平洋に出て、南部氏は、駿河湾から伊豆半島 を廻り、太平洋沿岸を北上し、陸奥の南部から下北、果ては、十三湊の安東氏を追いだし、津軽氏になりました。また、武田氏は、安芸の守護となり、同じよう に、富士川から海に出て、紀伊半島を廻り、瀬戸内海に入り、安芸と人と物の交流をし、さらに、後には、若狭の守護にもなり、安芸、若狭、甲斐という三角形 で交流を深めたそうです。その上、若狭の武田氏は、日本海を北上し、津軽海峡を越えて、北海道に渡り、武田信広のときに、松前の蠣崎氏になったということ です。富士川などの川湊で船の操縦術を覚え、山のない国だけに、海への憧れを高度な航海術にまで高めたのでしょうね。さらに、信玄に象徴されるような攻略 術にも長けていたのかも知れません。
 あすからの連休には、家族らが甲府に参ります。私も久しぶりに、甲府で休日や週末を過ごす予定です。甲 府の湯村温泉という信玄が長期滞在した、かっての「志摩(島)の湯」の、老舗の旅館に泊まります。
 当分、週末都会暮らしを楽しみたいと思っております。では、お元気でお過ごし下さい。                                倉持光雄

* 忙しい倉持さんが、華やいで美しい季節の便り、なつかしい。NHK支局の副放送 局長さんである。澤口靖子の写真などがあると、送ってきてくれる人でもある。「湖の本」よりもずっと以前からの読者で、飲み友達。ペンクラブに入って貰 い、電メ研でも手伝ってもらっている。たいへんな歌舞伎通で、この人のホームページからは歌舞伎囃子が聞こえてくる。歌舞伎を見る視線のつっこみ方がナミ でなく、その分析力は、うまく謂えないが、建築物を建てあげてゆくような素材総合の構築感に溢れていると思う。甲府暮らしが楽しそうで、よかったなと思 う。

* 新しいパソコンのセットアップは、大がかりだったようですね。環境を拡張すれば するほど、思いもしなかったトラブルが発生します。こればっかりはひとつひとつ立ち向かっていくしかありませんよね。「こうしたからこんなエラーが出たん じゃないかな」と、勘をはたらかせながらあれこれ試して、そのうち器械に馴染んでゆく。何となく加減がわかってくる。
 「相性が悪い」などと言ってみたりもします。同じメーカーのパソコンでも、OSのバージョンの違い、ス ペックの違いでエラーの起こり方もさまざま、器械といいつつも、膚で触れて感じるものだなあと思います。
 かく言うわたし個人のパソコンは、ネットワークを組んでいるわけではなく、知っているのは会社の小さな 小さなネットワークのみです。マッキントッシュのパソコンと、フィルム出力機、A0・B0タイプのインクジェットプリンタ、あとはA3サイズのレーザープ リンタ、スキャナ、など、ささやかなデジタルプリプレスの現場です。
 この仕事をはじめて、二年近くになります。以前は経理の仕事をしていました。大学を卒業して、北関東・ 東北に店鋪展開をしているロードサイド型のドラッグストアに就職しました。そこで、*市にあります本部の経理課に配属されました。簿記の知識は皆無でした が、先輩たちの指導もあって何とかやっておりました。その会社、なかなか給料がよくて、一年目の冬のボーナスでノート型のマッキントッシュを購入しまし た。会社では専らウインドウズを使用していましたが、友人のマックを触らせてもらい、そのメーカーの遊び心に惹かれて迷わずマックを選びました。とても高 価でしたがフンパツして。
 それからぼちぼちやっているうちに、現在の仕事(大きく括ればデスクトップパブリッシングとでも申しま しょうか、デジタル組版とでも申しましょうか、ただ、わたしの勤務している会社の扱う印刷物はラベルやパッケージが主です)のようなことをしたいと考える ようになって、ドラッグストアは辞め、また実家にやっかいになりはじめました。
 それこそ朝から晩までモニタの前に座りっぱなしですが、パソコンのない生活は考えられない、というほど にはなっていません。それほど依存するつもりもないし、実際、そこまで依存できる器量はわたしには無いかもしれません。パソコンは、あれば便利ですが、わ たしの中でも無かった時代の方が遥かに長いのです。秦さんのおっしゃるように、無かった時代にいつでも戻れる覚悟は持っていたいと思います。
 今回のニューマシンのセットアップでも、元東工大生が大活躍ですね。
 秦さんのお話の中に東工大の学生さんが出てくると、わたしの理系の友人たちのことを思います。わたしの 行った大学は総合大学でした。そこでわたしは何を思ったか軽音楽のサークルに入ったんですね。音楽は、もうずっと好きだったのですが、まさか自分で演ると は。楽器は結局ちっともうまくなりませんでしたけれど。
 それで、週一回のミーティングに行くと、いました、いました、理系の輩がわんさと。純文系で培養されて きたわたしにとって、異種族である理系の彼らとの出会いは、この上なく新鮮なものでした。
 あるとき友人の部屋に行き、床に転がっている抵抗を見て、「何これ」と訊ねたら、びっくりされました。 「抵抗を知らない女の子がいた!」と。何しろ、入学当時のわたしは練習スタジオに入っても、楽器とアンプを繋ぐためのシールドのどちら側をインプットに差 してどちら側をアウトプットに差せばいいのかすらもわからなかったのですから。
 ライブとなれば、自分と年齢の変わらぬ彼らが、スピーカーからアンプからミキサーからマイクからエフェ クターから何から何まで、ちゃっちゃと繋いで、場所と機材の具合を見ながらできうる限りのよい音づくりをするのです。彼らは誰に教わったわけでもなく、 やっているんですね。役に立たぬわたしは看板を作ったり、弁当を買いに走ったり、椅子を並べたりするくらいしか能はありませんでした。
 わたしなどは勿論見たこともなければ何のことだか想像もつかない数式を、さらっと解いてしまう数学専攻 の先輩や(この人、四月から*市の私立高校で数学の教師になりました。酒が燃料のような人で、共学の高校に就職と聞いて皆が**の心配をしてしまうような 人でしたが)、今は*大の医学部で遺伝子の研究に勤しむ先輩など(昨年会ったときの話がとても興味深かったです。蠅は雄のみが求愛行動をとるのだそうで す。そこで雌っぽい雄をつくるとどうなるか。雄は雄なのだから従来どおり雌に求愛行動をとるか、もしくは雌のように求愛行動をしなくなるのなら納得がいく のですが、予想に反して、雌っぽい雄は雄に対して求愛行動をとるのだそうです。こは如何に)、いろいろいて、それはもう興味津々です。
 その一方で、ある物理専攻の先輩は、エレキギターを弾く際使用するエフェクター(これを介すると様々な 音の表現が可能になります)という機材を、使いこなせないと言って、一番単純なタイプのエフェクターをいつまでも使っていました。音はサイン波の集合なの で、大の得意かと思いきや、彼は特に秀才のようでしたが、それとこれとは違うのかしらんと不思議でした。またある後輩は、いざ就職活動、という時期になっ て、何を言い出すかと思ったら「パソコン使えないんですよう、不利ですよね」。研究室で使ってるでしょ、と言うと、「あんなの、一秒間に原子核の周りを電 子が何回まわったか、とか、そんな計算しかしてないんですよ」。嘆きまでも微笑ましく、そういう一面もまた魅力的でした。
 居酒屋で焼そば食べて、「うーん、肉率が低い」と言っちゃう彼らに対するわたしの気持ちと、秦さんの東 工大生に対するお気持ちとは、ひょっとして似ているのではないかと勝手に想っています。

* なんという楽しいメールをもらうものか。理系への文系からの親愛と敬意、まさ に、こういうところである。そして、この女性もまた文系から理系へ踏み入って暮らしている。こういう感じ方がまた小説家として育って行く推力に転じるのか どうか。インタラクティヴな機械のお陰で確実にわたしの世間も広がって行く。

* 今日は電車の中で、木下順二氏に以前署名入りでいただいた『ぜんぶ馬の話』をま た読んでいた。題が佳い。その年の読売文学賞を受けた本で、国宝の随身庭騎繪のことなどでその後に文通したことがある。かりに『ぜんぶ秦氏のこと』といっ た本をわたしが書くとすると、木下さんのこの馬の本との接点に、さきの絵巻物が上がってくる。わたしは競馬も馬術もまるで知らないが、古代末期から中世へ かけて宮廷社会での秦氏には、馬藝の達者がじつに多かった。さきの随身庭騎繪で乗馬している、只一人をのぞいて他の全てが秦氏である。梅原猛さんは、秦氏 は帰化人の末であるゆえに差別を受けていたという論拠から「法然の悲しみ」を語り始めているが、「国境をもたない王国」を日本列島に築き得ていたと言われ るほど秦氏の分布は、源平藤橘を上越すほどに多彩に苗字分散しているのである。清宮内親王が嫁がれた大名の島津家も、もとを辿れば秦氏である。石をなげれ ば元秦氏に当たるかもというほどではないにしても、梅原さんの梅原も分からない。一概な議論に流れては話の味がうすれてしまう。
 

* 五月三日 木

* 雨の冷え。 居籠もりで、新しいデスク機と前のノートとの調整に。どっちをどう と使い分けを決めたいのだが、プリンタのことやスキャンのことがあり、決めにくい。布谷君の基本の考え方であった「二機連携」がうまく行くなら、そして不 具合が二機同時にということがないのなら、それが一番有り難いけれど。
 肝腎のホームページがうまく新機に移せなくて、今日は終日もたもたしていた。そうはいえ、容量の心配な く、たくさんなソフトをインストールした。新体制を確立するまでには相当な期間がかかりそうだ。

* 幸い九日まで、わたしも連休できる。ここのところ六日間、奮闘の日々であった。 疲れているのも道理である。

* 寝覚の上の生涯には慕わしいほどのよさにある種の敬意さえ加わって感じられた、 が、浜松の女人達は、尼姫君も唐后も吉野の姫君も、ひたすらいとおしい魅力の持ち主である。この作者の女人造形には心を惹かれる。蜻蛉の夫人も紫式部や清 少納言ですらも、どこか鬱陶しい。だが、架空の女人はいいものである。
 

* 五月四日 つづき

* 終日、機械のまえにいて、必要な仕事と連絡の幾つかを片づけたが、新しい機械 で、どうしても、ホームページの転
送が出来ない。FFFTPの設定が幾らいろいろに試みても、電話は繋がるのに、最後のところで cannot login host
www2s.biglobe.ne.jp と出て前へ一歩も進めない。ノートでホームページを進行し更新している限り、大方の関連の仕事も
ノートで続行することになり、この分ではデスク機の活躍にまだメドが立たない。気長にやるよりない。

* そうこうしているうちに、六月のシンポジウムが駆け足でやってくる。
 

* 五月四日 金

* 利根川裕さんのお手紙が届いた。テレビでながく馴染んだ人が多いだろう、が、テ レビ人ではなく作家である。その作品をこれから読む。源実朝。
 利根川さんには、以前、氏名をラベルにした新潟であったかの清酒一本を頂戴した。ここしばらくお目にか かっていないが、お元気のようである。

* 行く春のたよりが届く。物憂いほどの春昼というにはやや冷えているが、今日あた りから暖かくなると聞いている。月半ばからまた忙しくなるので、ほっこりと骨やすめししたいが、締め切りの過ぎた原稿の督促や、連絡を怠っているちょっと した作業などが目前の障りになっている。やってしまえば気が楽になるのだが。

* 行く春やおもき頭をもたげぬる  
 蕪村のこの句さながら、ものうくて、プランターに培う著莪の花殻を摘み捨てたりして、ぼんやりしている うちに、五月になってしまいました。
 大阪へゆくことがありますと、時間さえゆるせば立ち寄っていましたのが、中ノ島にある東洋陶磁器博物館 でした。好きなもののひとつに白磁の梅瓶がありました。なぜか、やさしくなだめられ、魂まるごと抱きかかえられるような心地がしました。もう、五、六年も 逢っていません。
 つらいお別れをなさったのですね。そのおひとも、あの梅瓶のようにと申すのは失礼ですが、一人の目利き に見出された逸材でいらっしゃるのでしょう。にもかかわらず、「悲運の連続」に見舞われたそのおひとをおもう先生のお心に、また、「空間を描くことで人物 でもモノでも深々と捉えてゆく」そのおひとに、ふと、あの梅瓶が重なるようです。少し、さびしいひかりをまとうて。
 「浜松中納言物語」、おもしろいですよ、と、メールでおっしゃってでしたけれど、わたくし、まだ、読ん でおりません。「浜松の女人達は、尼姫君も唐后も吉野の姫君も、ひたすらいとおしい魅力の持ち主である。この作者の女人造形には心を惹かれる。蜻蛉の夫人 も紫式部や清少納言ですらも、どこか鬱陶しい。だが、架空の女人はいいものである。」
 このおことばに、「浜松」の女人たちを想像し、先生の書かれた、いえ、つくられた女人をおもっていま す。
 「どこか鬱陶しい」とおっしゃる蜻蛉の君や紫式部。どなたでしたか、「可愛いげがない」とおっしゃって いたのを思い出しました。清少納言も「架空の女人」と比較すれば「鬱陶しい」ということなのでございましょうか。
 とすると小侍従も。どうしましょう。鬱陶しくないひとなど、現実には存在しないとおもってしまうのは、 ちょっと、つらいことですもの。
 こんな、とりとめもなことをつづっていますうちに、「おもき頭」に、すこし、風が通い出したようです。

* 布谷君が、大河ドラマの「北条時宗」を見ていると言っていた。数学人間で宗教へ の感受性など否認する青年だが、当人の自覚しないでいるものも、有る。時宗の中で、原田美枝子の演じている、足利に嫁いで名越北条氏の台頭に野望をいだき 陰謀を重ねる役などに一種の驚異を覚えているような感想も聞いた。鎌倉時代の女達は、北条政子だけでなく、かなり、わたしには、いろいろと鬱陶しい。日野 富子や淀殿へまでも流れてゆく中世の上方の女達も、である。「とはずかたり」の後深草院二条など気っ風はいいが、彼女をあのような境涯に押しやった宮廷の 男どもとの関わりにおいて、いやでも鬱陶しい、気の毒そうな人生が絵模様になっているのがつらい。女の鬱陶しさを生み出すのも、性格・個性だけのことでな く、どうしても男社会にまみれてしまわざるを得ないところから汚れのようにつきまとう鬱陶しさもある。蜻蛉の女は、両方から鬱陶しい。紫式部は、偉大な才 能と底知れぬ孤心の深さに近づきがたい圧力があるだけでなく、最後の最期まで人間よりは女を感じさせて揺るがぬところがキツい。清少納言の「女」は知れた もので、才能の方がはるかに女を凌駕している。枕草子だけで十分、とくべつプライベートにお友達になりたい気にはなれない。

* 俳優で滝田栄と謂っただろうか、このごろ、名前を正確に覚えられなくなったが、 その俳優さんが大和の秋篠寺を訪れるテレビ番組を、たまたま、一両日前に途中から見た。何年も昔だが、あやめ池の女子大に講演に呼ばれて、妻も一緒に大和 入りし、秋篠にも詣でてきた。美しい伎藝天のおわすことで知られているし、わたしたちの目あてもひとつは伎藝天との出逢いにあったが、この寺にはまた秘匿 された大元像のあるのも知っていた。見せてもらえぬ事も知っていた。
 テレビで「秋篠」と聞いたときから、もしかしてと期待した。期待どおりその大元像が開帳され、わたした ちは、聞きしにまさる凄い像を、テレビでだが、初めて見せてもらえた。テレビだからこそ肉眼でよりもっとあらたかに拝し得たともいえるのであり、昨今これ ほどテレビを有り難いと思ったことはない。
 全身に大小の蛇を纏わらせた、真言秘密のというよりも、うちつけに、神秘の呪術根源の大王像である。膚 に泡立つ物がしばらくはゾクゾクして退かなかった。神威も蛇も生々しく生きて躍動していた。像の筋骨肉体は隆々と、じつに大きな男性美を湛えていて、それ への喜悦も感動も深かった。
 秋篠寺境内は優美に静かで、秋萩寺といいたいほど萩のくさむらも美しい。そんな環境に、あれほど美しく おおらかな伎藝天とともに、あれほど畏怖の二字のぴったりくる魁偉な男性美極致の像の秘蔵されてある事の、さすがに奥ゆかしく、また行ってみたいとしみじ み思ったことであった。それにしてもあの大元秘密の巨像のまえで、即座のナレートを強いられていた俳優さん、気の毒だった。人間の口の吐き出す言葉の浅く 薄く軽いことは、わたしも含めて恥じ入るばかりだ。夥しい「私語」を日々に吐いてインターネットの暗闇に放ち続けているが、なかなか稲妻のようには光って いないだろうと、恥ずかしい。
 小林秀雄の書いた長い「感想」を、新潮社にもらったムックで読んでいて感じるのは、なんでも書けばいい というものではないぞということだ。つまらぬものなら書かないでいる抑制の大切なことだ。
 

* 五月五日 土

* こどもの日を無為に暮らしている。自転車で、出かけようとしたが、なんだか気が 抜けて戻ってきた。例の坂道を二往復してみたが、体力の落ちているのがすぐ分かる。続ければまた回復するだろうが。
 仕方がない、ひばりヶ丘の駅近くでちょっと気に入りの、「ティファニィ」というレストランが気の利いた 料理を食べさせるので、行ってみようかな。

* 医学書院時代に、同じ社宅にいて、友達と二人でわたしたちの家(部屋)へ茶の湯 を習いに来ていた後輩の、そのハズバンドから、機械のことで助言をもらった。わたしのお弟子だった奥さんはパソコンなど無縁の暮らしらしい。おもしろいこ とがあるものだ、このインターネットの世界では。思いもしない方角から声がとんでくる。

* 富十郎の「喜撰」をテレビで堪能した。お梶の藤間勘十郎との藝質のちがいも面白 かった。富の絶妙の踊りを観ていると目尻にポチット涙がわいてくる。

* 何なのだろう、どうしてFFFTPで転送出来ないのか、分からない。

* ナチスドイツの医学的極悪犯罪といえば致死を当然とした人体実験だが、その詳細 な裁判資料にもとづく報告書『非人道的な医学』の出版されたのを、本にした電メ研仲間の野村敏晴氏に貰った。軍事目的で、じつにさまざまに生ける人体が実 験材料にされている。身の毛よだつものだが、本は冷静にその実体を暴いている。かなり大部の著作で、この種のものと比較はできないが、読んでの感じは、中 国四人組や紅衛兵の跳梁とすさまじい人民裁判の実情報告をみたときのそれに通うものがある。「戦場に架ける橋」の頃の捕虜達の日常や死の行軍について読ん だときも、似た感じを受けた。『シンドラーのリスト』も、映画以上に本が凄かった。藝術的には『ソフィーの選択』がすばらしかった。

* 大分・湯布院温泉に金鱗湖という小さな湖がある。湖畔に森を抱いた良い宿があ り、湖の汀に移築した古い民家で、「天井桟敷」という喫茶店を営んでいる。湖から緑匂う庭を抜け、二階の扉を押して店に入ると、ひんやりとして、外のにぎ わいが遠ざかる。高天井の豊かな空間には「グレゴリオ聖歌」。珈琲の香りに満ちている。奥の八角の大テーブ
ルに座り、珈琲をたのむ。テーブル中央に大きく花が盛られ、心楽しい。白いカバー付きの応接椅子に深く腰 掛け、深煎の珈琲を飲む。由布岳を象ったケーキの甘みもよい。窓の外から、春の日のテーブルなかばまで斜めに射し込み、暖かく、まぶしく、眠い。ふっと、 寝入りそうになったとき、「八角磨盤空裏走」という禅語が浮かび、眠気が一気に晴れた。窓には、五月晴れの由布岳。空を飛べそうな春である。(by maokat)

* 小型のVAIOを旅先で駆使し、喫茶店でキイを叩いてこういう文章を記録してい るらしい、わが友のmaokatさんは。

* VAIOは、SONYのパソコンです。CIXFという小型のもので、サイズは 15×25cm。鞄に入れてどこにでも持っていけます。ハードディスクは10Gあり、出先にプロジェクターがあれば、プレゼンテーションにも使えます。前 の職場で、海外出張用に持たされていたのですが、気に入って自分で買いました。喫茶店などでキーボードをたたいている人って、ひんしゅくかなぁ、と思いつ つ、外で書くことが多いこのごろです。
 札幌は晴天が続いていますが、夜はまだ3℃ぐらいになります。温室の植物の管理が難しい季節です。白樺 の芽吹きがはじまり、白い樹皮に淡い緑の若葉が映えて、しばしうっとりします。花見の名所、円山公園では連日花見客がジンギスカンをして、「朝から晩まで ラムの焼けるにおいでたまらない」と近所に住む友人が言ってました。所変われば、花見もかわりますね。
 

* 五月五日 つづき

* 夕過ぎてから、妻と、電車で一駅西のひばりヶ丘へ行き、以前から贔屓にしている ビストロ「ティファニィ」で晩餐。フランスの赤ワインをハーフで。料理はいつものようにシェフに一任して、何が出来るか楽しみに待った。店内がどうという 店ではない。クリムトのレプリカがやたらにあるが、繪は好みではないのだ、ところが料理は失望したことがない。自家製のパンもうまく、シェフが自身で丹精 の赤米の飯もうまい。赤米は皇室の祭事用ぐらいにしか作らない。面白いことにこだわったビストロである。ここのメインはソーセージ。これが文句なくうま い。マリネにした各種の魚や野菜もうまい。満腹した。

* ちかくに「田中」という普通の民家の中に出来た風変わりに佳い蕎麦屋があると、 妻は聞いていた。五時で終わる店でもう明いていないが、満腹していたし、在処だけ観ておこうと住宅地の方へ歩き出したところで、ちいさな店の奥にウーンと 唸る好みの服が、女物の服が、目にとびこんできた。わたしは自分の恰好などどうでもいいので男物にはダメだが、女の着るものには、昔からきちっとした趣味 と目をもっている。あれがと指さしたものは九割以上の打率で、妻に合う。今宵のも、シホンの、タンクトップにふわりと着込める上着で、デザインも柄もイタ リアの、それは気の利いた佳いものだった。よくまあひばりヶ丘のこんな場所にと思ったが、相当にいい値段でもあった。それでも妻はよろこんで買った、蕎麦 屋のことなどそっちのけで。楽屋を訪れて沢口靖子と張り合う気か、まさかね。
 倉持さんの送ってきた「ステラ」に紹介の沢口靖子の写真、なかなかけっこうで。デスクトップにスキャン してとりこみたいが、まだ、二台の機械に対して周辺機器の配分と設置が決まらないでいる。

* 子どもの声のしない「子どもの日」だったが、ま、近間の散策でご機嫌の食事と買 い物が出来、これでよいとしよう。
 

* 五月六日 日

* 暢気な話ではない、北朝鮮のいわば「皇太子」が、ケチな偽旅券の女子どもづれで 密入国に失敗し、ムニャムニャのうちに中国経由で押し返された。この対応は、たぶん模範解答なのであろう、模範的なゆえの或る味気なさで、かなりの憤慨と 失望とを国民は味わった。だがバカなまねをして、藪の毒蛇を、平和の里によびだすことはない。その意味で、同じ処置を実行したにしても、もう二三日も遅れ ていたら、手荒な訊問などしていたら、いかに適法の手続きを行っていたにしても感情的なヤヤコシイ難儀を抱えこんだであろう。今回の処置なら北朝鮮は何の 言いがかりや虚言を吐くことも出来ない。演技力を発揮して総理以下がムニャムニャの禅問答裡に「金正男氏に似たどこの馬の骨とも知れぬ男」を送り出したの は、癪だけれども、適切な厄介払いであったことは認める、わたしは。
 ただ、北朝鮮という国が、いろいろな意味で、「そういうムチャクチャな無法の国」である現実には、より 正確に今後外交内政ともに厳しく対応してゆかなくては、極めて危ない。なにしろ「まとも」ではない。我が国の皇太子夫妻がケチな偽ビザで文明大国の空港へ 下り、入国して遊園地で遊んで帰るなど、想像できるか。
 やたら隠したがる顔写真を世界中へバッチリ公表してしまえたのはせめてものことであった。二度と来させ てはならない。 
 
* 人さまの出歩いて楽しまれる連休には、あまりお邪魔はしないのを習いにしている。それも今日の日曜で 終える。昨夜は三時近くまで起きていた。深夜に入浴しそれからまた本を読んだ。不眠症というのではない。
 バグワンは、「ボーディダルマ」から、初めての「一休」上巻を毎夜少しずつ音読している。バグワンはも のの喩えでわかりよくしてくれる。なかでも「鏡」の話がわたしは嬉しい。明鏡止水とはすこし違う。あの鏡は月のことである。そして動揺する心のことを戒め ているが、バグワンは、心=マインドは徹底的に落とせと言う。人の本性はブッダだと謂う。ブッダの本性は無心だという。無心とは澄んで無一物の鏡だとも謂 う。鏡はなにものも所有していない。来るものは来るに任せて映し、去る者は去るに任せて動じない。鏡と鏡とを向きあわせにすれば、奥深いただの「無」の深 みは底知れず果てしない。ブッダの境地、無心のさまは、そのようだと謂う。このイメージにわたしは惹かれている。
 人は小さな「波頭」のように生まれて生きている。一瞬ののちには「海」にもどりあとかたもない。だが海 はある。波はまた立つ。
 
* 匂宮にむしろ親愛をおぼえ、薫君をどうも支持しきれないのは、宇治の姉君を思うあまりにその愛とはか らいとに背いて妹君を匂宮にまるで呉れてやるという振る舞いが、子供心にも、許せなかったからだ。しかも、姉君の死の後は悔いて妹君を追い慕う。わたし は、もともとが妹の中君贔屓なので薫の仕打ちには昔から憎しみほどの気持ちを抱いてきた。
 浜松中納言が、まんまとこの薫の轍を踏んで、唐后の異父妹吉野の姫を式部卿宮=東宮に奪わせてしまう、 らしい。まだそこまで本文は読んでいないが筋は知っている。いまいましいことである。吉野の姫は、宇治中君とその異父妹浮舟を重ねたような存在で、わたし は、浮舟を昔からさほど贔屓にしなかった。品格と愛嬌と知性とにおいて中君の方にはるかに惹かれて、それは紫上好きに似ていた。中君は紫上に代わって二条 院に天子にもなるであろう男子をもたらす女人である。物語世界における重みは、明瞭に桐壺、藤壺、紫上という紫のゆかりを仕上げるほどに、大きい。
 浜松や寝覚の作者は、稚い年頃から源氏物語の熱烈な浮舟フアンであったと更級日記に書いている。わたし は、いま、浜松中納言物語を好きな食べ物を惜しむように少しずつ少しずつ愛読している。これは、まさしく源氏物語の嫡子といっていいしかも優れた女物語で ある。
 これに対して「うつほ物語」はどうみても男の手で書かれてある。物語の文学的効果を無視してもなお、詳 細に、力をこめて年中行事のたぐいに夥しい筆を用いて、そういう場面に一切省略がない。さながら「記録する」ことを以て義務のように執拗にそういう場面を 書き楽しんでいる。平安貴族のインテリ度数の誇示である。男物語の特徴であると学者達も認めている。そういうものだと承知して読んでいると、女物語とはべ つの興趣に導かれてゆく。男の筆で、女物語のすばらしい先導をしたのは、竹取物語よりもむしろ伊勢物語であろう。

* 連休の昨日 今日 五月晴れの日が続いていますね。ゆっくりとした日々を送って いらっしゃるのでしょうか。
 前半は家族5人で渥美半島 知多半島の旅をしてきました。天候には恵まれませんでしたが、心は晴れ。 80前後の母と伯母をいたわり、30前後の二人の娘とさざめきあい、ひとときひとときが大切なものと思われる旅でした。
 一泊目の知多半島の南にある田中屋という小さな宿では、しゃこ かにのゆでたもの 伊勢エビ ひらめ  サザエのおつくり  すずきの塩焼き(これがたまらなくおいしかったのですが) エビフライ など自然の味を生かしたお料理に歓声を上げました。
 二泊目の、内海にある「ふくさ家」は、石庭のすぐ先に波が打ち寄せる潮騒の宿でした。能舞台もある風情 のある宿で、美しく調理された海の幸をじっくりと味わいました。
 食べてばかりいたのではありません。
 地元の心優しいタクシーの運転手さんに案内されての渥美半島巡りは、自然に恵まれた農村の暖かさを感じ させてくれました。ふくさ家さんで特に出してくださった貸し切りのマイクロバスによる知多半島巡りは、小さな半島にこれほど醸造の 焼き物の文化があり、 信仰が根づき 温泉宿が栄えているのかと驚くばかりでした。
 杉本健吉美術館で画伯にはあえませんでしたが東大寺 平家物語 など、足の悪い伯母の手をひいて一つ一 つ味わいました。
 新美南吉記念館をおとずれたときには、「おじいさんのランプ」のランプを木につるして割っていくシーン を思い出して、涙がにじみました。
 名古屋での母の(人形)個展はすこぶる順調で、伯母も娘も、とても元気な様子です。
 後半は現実の生活に備えて、ふだんできない仕事 家の中のかたづけなどに忙しく過ごしています。
 今日は連休最後の日 やっとパソコンに向かいました。1階にパソコン(NEC 98 Lavie 私が 娘に買ったもののお古)をおろしました。2階とどちらが、使いやすいのか、試してみます。

* 女ばかりのこういう豊かな旅が楽しめる時代で、いいことだ。昔なら真ん中にデン と、男が大あぐらをかいていたことだろう。いまはどんな施設に行っても女性達が旺盛にいきいきと楽しんでいる、ように見える。
 では女が優位の女文化か、女社会かといえば、実質はどんなものか。世の中、「男の手」と「女の手」が手 を尽くして綱を引き合っている。お互いに涼しい顔をし合っている。だが、男の力の相対低下は否定しにくい。
 

* 五月六日 つづき

* 最近に発行をもくろまれてる、ある教科書からの、こんな記事が送られてきた。 

* [情熱の歌人晶子] 与謝野晶子(1878ー1942)は、歌集『みだれ髪」 (1901年)で一躍有名になった。そこには、例えば、「その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」という歌のように、みずみずしい新鮮 な情感が歌い込まれていた。晶子の歌は、明治という時代の、自由な新しい感情表現の試みであり、それまでの形式を脱した新しい短歌の可能性を開いた。そう した歌人としての活動と、与謝野鉄幹とのはげしい恋愛の末の結婚が話題となり、晶子は奔放な女性だというイメージが広がった。
 さて、日露戦争のさい、晶子は旅順攻略戦に加わっていた弟のことを思い、「あゝをとうとよ君を泣く、君 死にたまふことなかれ」という節で始まる有名な歌を発表した。この歌は当時、愛国心に欠けるとの非難を浴びた。しかし、晶子にとってそうした非難は心外で あった。
 というのも、晶子は戦争そのものに反対したというより、弟が製菓業をいとなむ自分の実家の跡取りである ことから、その身を案じていたのだった。それだけ晶子は家の存続を重く心に留めていた女性であった。実際、晶子は、大正期の平塚らいてふらの婦人運動を当 初支持したが、晶子の人生観や思想そのものは、家や家族を重んじる着実なものであった。晶子自身は歌人として活動を続けながら、大家族の主婦として、妻や 母としてのつとめを果たし続けた。夫であり、12人の子の父であり、文学上の同志であった鉄幹の死を、晶子は万感の思いを込めて次のように歌った。
 平らかに今三とせほど
 十とせほど二十年(はたとせ)ほども
 いまさましかば
(原文には随所にふりがな)

* これを送ってこられた人の感想を引用させて貰う。

* ご意見あるいはご感想を伺いたいことがございます。いま主として日本と戦争の関 わり方の記述で論争をよんでいる「あたらしい歴史教科書をつくる会」の中学校歴史教科書についてです。
 この教科書は全体的に極端な国家主義、戦争美化にかたよっているものですが、人物コラムで与謝野晶子を とりあげ、家制度の支持者として描いています。
 晶子は種々の文章で、家のなかでの男性・女性の役割分担に反対していましたし、「子どもは物でも道具で もない。一個の自立独立した人格者である。子どもは子ども自身のもの」としています。弟を家存続の存在として考えて「君死にたまふことなかれ」と歌ったは ずはないと思うのです。子どもの自立性の点で「平塚さんのように社会のもの、国家のものとは決して考えない」と言っているように、この点では平塚らいてふ と考え方を異にしたようです。
 このことをどのようにお感じになるか伺わせていただきたいのです。
 私は晶子をゆがんでとらえていると思うし、文学者をこのように勝手に解釈して(もちろんどういう解釈も 勝手かもしれませんが)若い人を教育するのは許せないと思っています。
 それにしても家族や家の仕事を愛することと、古い家制度を温存することとを切り離すにはどうしたらいい のでしょうか。愛を基盤とする宗教を持たないためのジレンマでしょうか。

* いちおう、この感想はワキへ置いておいて考えたい。と、原稿用紙にして数枚も書 いたところで、ちょっとした手の滑りで、あっというまに、書いていた文章が消去の憂き目に遭った。この頃ときどき起こす事故である。深夜の二時。さすがに 新たに書き始めるには遅い。わたしの感想は明日以降に譲りたい。

* 毎日、ホームページを拝見していると、ちっともご無沙汰しているよう気がしませ んが、ご無沙汰しました。
 「湖」の発信局改造のご様子、すごいと思いました。あの方はきっと神さまです。
 「風の奏で─平家寂光一上」(スキャン原稿)お送りします。おじさんには知らないことだらけで、立止っ てばかりいて捗りませんが、いちばん楽しい時間です。
 「超漢字3」は、いいです。電源を入れて20秒で立上がります。(わたしのMac G3は1分25秒かかります)厖大な漢字はともかく、ハイパーテキストの機能で、註が付けられ、註のまた註といくらでも関連事項をその場に付け加えられる のが何より魅力です。これで「平家物語」や「湖の本」を遊べる!とほくそ笑んでいます。
 緑が精一杯の色をして、いい季節になりました。お元気でお過ごしください。

* 有り難くて楽しい、また好奇心をそそられる千葉の「おじさん」の声である。疲れ が和らぐ。「超漢字」わたしも今度の機械に、入れてみたかった。デモンストレーションもみているので、面白さは分かる。別OSのトロンになる。ウインドウ ズとの兼ね合いを機械の中でどう領国分割するかが問題で、わたしの手には負えない。
 

* 五月七日 月

* 「あゝをとうとよ君を泣く、君死にたまふことなかれ」と始まる与謝野晶子の詩 が、何を歌ったかと考えるのは読者の自由であり、自然、人により読みの力点の置き方が散らばってくるのも、道理であろう。反戦歌だと読む人も、上一人の御 稜威と軍の自儘を諷し嫌悪したと読む人も、即ち肉親への情愛と読む人もあろう。どれかに限定はできず、深く絡み合っていて、どれも否定できはしない。だが 鑑賞にはおのずと作の動機に触れねばならない。
 発表当時に激しい非難をあびたのは事実で、晶子の陳弁につとめたのも事実と謂える。非難の声があがり、 非難の当否はべつとして、当時の世情としてだれもそれを異とせずに観てきたのは、即ちこの作品が、御稜威の名における兵役を厭悪した反戦歌と広く読まれた か、読まれやすかったかを明らかに示している。内心で作者の気持ちに賛同していたか、声高に非難を浴びせたか、いずれにしても当初の印象も読みも、そこを 大きく逸れていたわけがない。
 だが、作者のやむにやまれずそう歌ったのが肉親の情に発していたのも自然当然で、否定できることではな い。むしろ作の動機は、弟の(無道な)兵役と出征とにあったのは明らかである。晶子の陳弁が自然肉親愛に添うように行われたのも、根拠になる動機がもとも とあったればこそで、これまた頭から否認できる話ではなかった。
 だが、それもより深く先行して厭戦の情とお上への怨嗟があった、表現したかったのはそれだったろうと言 われれば、作者も胸の内では頷いていたに違いなく、しかし口に出して国体の意思に真っ向から非難を浴びせはしなかった。当然である。図式的に動機や思想を 分離し対立させて考える方がおかしいのである。ものの表裏である。その上でわたしは、明らかに弟よ戦場にむなしく死ぬなと歌った、痛切な皇軍批判の厭戦歌 であると読む。しかも晶子の、人として藝術家として国を愛した気持ちを疑ったこともない。戦争して負けないだけが愛国心であるわけもない。
 それにしても、教科書本文の、「この歌は当時、愛国心に欠けるとの非難を浴びた。しかし、晶子にとって そうした非難は心外であった。 / というのも、晶子は戦争そのものに反対したというより、弟が製菓業をいとなむ自分の実家の跡取りであることから、その身を案じていたのだった。それだ け晶子は家の存続を重く心に留めていた女性であった。」という行文は、論旨の寸があまりに短く、短絡ということの代表的作文のように思われる。観念的に戦 争そのものに反対したのではなかったが、無辜の若き男子を戦地へ追いやるいわば「仕組み」への強い怨嗟の声になっている。直接には弟を歌っているが、その 歌声は、同じような無数の悲嘆を優に代弁し得ていたから、あれだけの訴求力を持った。「弟が製菓業をいとなむ自分の実家の跡取りであることから、その身を 案じていたのだ」と文章を繋ぐのは、むしろ後段の主張を導きたいタメにする論法で、この叫ぶように丈高い詩は、一実家内のプライベートにとどまる表現では なかった。作者の背には目には見えなくても耳には届いてくる民の声の、あるいは女の声と謂うもいいが、そういう後押しが働いていた。だからあれだけの表現 になった。
 だが教科書は、この優れた詩を、一鳳家の家内感情に矮小化させつつ、「家の(保守的な)存続」をこそ与 謝野晶子は大事に考えた人であったと、見当はずれなある魂胆に賛同協力させようとしてくる。与謝野晶子は奔放な愛欲に目覚めた詩人であったといわれてきた が、事実は、子として姉として、また妻として母として、まことに家庭と家族と家の存続とをなにより大切に考えて生きた人であった、と、先ずは「評価の重 点」を移動しようというのである。だが、そこで終点ではない。それほどに「家の存続」は人間の生き方を左右する基本的に重い大事だと、つまりは晶子をダシ に、そこへ、教育の方向と結論とが設定されているのである。
 与謝野晶子がみごとな藝術家であったこと、奔放な愛に身を賭して生き得た人であったこと、じつに優れた 業績を残していること、は、否定できない。が、同時に子として姉として、また妻として母として、まことに愛情豊かにみごとに生きた人であったのも、まぎれ もない事実である。晶子には、これは、相対立する矛盾ではなかった。両立させた自然であった。
 だが、この自然から、「家の存続を重く心に留めた」と論旨を導くのは、批評が足りていない。日本語で は、家庭・家族と、家とは、そう軽々と同じ範疇かのように認めることはできない。家が家屋を意味する場合は、家庭・家族ともナミに扱えるが、家門・家名の 意味になってくると問題は急に難しく複雑になり、情愛の範囲内に落ち着いていない。教科書は、都合よく「家」と「家族」を一掴みにして「晶子の人生観や思 想そのものは、家や家族を重んじる着実なものであった」と断定したが、家族への愛は溢れていても家には拘泥しない「人生観や思想」の人は、幾らもいる。与 謝野晶子の場合がどうであったか、少なくも検証の必要が有ろうが、最後に上げられている夫鉄幹の死を嘆く名歌には、「家の存続」という人生観や思想は微塵 も受け取れずに、まさに妻の夫への「愛・恋の情」に溢れている。そして、それは与謝野晶子の生涯をみごと証ししているものでこそあれ、その人と藝術との指 さすところが「家の存続」に重きを成していたなどと、教科書に特筆できる証跡は感じ取れなかった。思うに、この教科書編纂の後ろ向きな思想と意向が「家の 存続」に在るのを、与謝野晶子に間違って代弁させようとしたに過ぎないのではないか。魂胆とわたしが指摘したのはそこである。
 かの「きみ死にたまふことなかれ」に立ち返って謂えば、あの詩批判に満ちた視線は、そもそもどこへ向い ていたか。「家の存続」思想の根拠のような、或るやんごとなき一家一族にではなかったのか。
 

* 五月七日 つづき

* お元気ですか? 連休が終わってほっとしています。長い連休と言っても主婦は一 年中が連休のような、仕事日のようなものですが・・・わたしはよほど一人でいる時間の欲しい人らしい。
 もっと早く帰国報告をしなければなりませんのに遅れてしまいました。
 旅のことがもうかなり遠く感じられる・・。途中で体調を崩したり大変なこともありましたが、気力は大い に充実した良い旅でした。これまでトルコやイタリア、スペインで見たローマ時代の建築物に加えて代表的なものをかなり見ることが出来ました。パルミラ、 パールベック、ジェラシュ、ペトラなどなど今思い返しても心が躍ります。日の出前にパルミラの遺跡に出かけて歩き回ったこと、気力だけでペトラの長い道を 歩き続けたことが、私にとっての旅のハイライトでした。アラビアのロレンスに出てきたワデイラムの砂漠に行けなかったことが心残りでした。砂漠にどうして 心惹かれるのか、説明は出来ませんが我が心ながら不思議なものです。同時に以前シルクロードを旅した時のような、さまざまなことも再び痛感しました。
 オランダ経由の帰りのアムステルダムでは、フライト待ちの時間を利用して美術館に行きレンブラントや フェルメールの絵も見ました。ゴッホ美術館に行けなかったのは残念ですが、いつかそんな機会もあるでしょう。
 オランダは以前、と言ってももう20年近く前ですが、ライデン、ハーグ、デルフト、ロッテルダムなど 回っていたのにアムステルダムは駅を通過しただけだったのです。家並みの美しい静かそうな良い町でした。
 桜から若葉の季節へ。私の庭の牡丹も散って、今は薔薇が見事に咲き始めています。マーガレット、ラヴェ ンダーも。連休中に山に行って楓の彦生えを採り、庭に植えました。
 逃げているような、大地に根のつかないような日々かもしれませんが、それもまた私の現在の日々。少しづ つ前に進みます。
 こちらの美術館で「親指のマリア」の絵葉書を売っていました。早速部屋に飾りました。
 良き日々をお過ごし下さい。大切に。

* 自分には思いも寄らない行動力だが、そんなことは、人それぞれで。それよりも、 この一文に流れている命のリズムのようなものに、わたしは、魅される。なにかしら確かなものを感じて、嬉しくなる。人はそれぞれに生きて行くもので、生き 方に干渉してみても始まらない。しかし、わたしはこの頃、命というものの美しいことに少し気づき始めている。
 
* 昨日の午後であった。「天上の村に正月がくる」というドキュメンタリー番組をみて、じわーっと涙を流 し続けた。中国貴州省の、二千メートル近い高地で、十三歳の少女イライが、両親の出稼ぎに出た留守宅を、幼い弟二人を守って、健気に、純にかつ淳に日々勤 しみ暮らして明るく優しく、いつしかに家族の揃った正月を嬉しく迎えるのである。イライは母が丹精の民族衣装で正月の村の女舞の輪にはじめて加わる。その 美しさにも涙が出てこまった。やがて父も母もまた出稼ぎに出てゆく。子ども三人の教育費を稼ぎに行くのだとイライは知っていて、早く、親たちをらくにして あげたいと澄んだ瞳でたおやかに語る。イライのこれぞ「少女」という無垢の美しさも、高地の天に近い自然も、とにかくもわたしには、一緒に観ていた妻に も、まさしく「懐かしい」のであった。身内の奥のこみちを伝って、はるかにはるかに遠く通い合う記憶の共有のようなものを感じてわたしは泣けた。平和とい うことばを最も価値ある気持ちで尊いし守りたいとも思っていた。
 こう涙もろくてはしょうがないねと笑いながら夫婦で泣いていた。

* そして夜おそめには、再放送の芸能まわり舞台で、なつかしい守田勘弥の舞台をみ て嬉しかった。いなせに粋な、万能の役者だった。籠釣瓶の榮之丞とか、伊勢音頭の貢とか、斧定九郎とか切られ与三とか、勘平とか、まあ、きりりと引き締 まって惚れさせた。嫁入りの戸無瀬のような女形もちゃんとやれた。そして息子の坂東玉三郎を世紀のいい女形に育て、またいまの水谷八重子の父ともなった。 玉三郎が勘弥を継いで一段と大きな看板になってくれればと、なんだかこのごろは、先にちらつきだした大名題役者たちの襲名興行が楽しみで長生きしたい気分 なのがおかしい。妻もすっかり歌舞伎の魅力によろこんで囚われているようで、それもおもしろい。

* さて肝腎の新機でのホームページ運用は、まだ成功しない。ホームページがおさま るところへおさまっていないのか、転送ソフトのFFFTP設定が間違っているのか。ソフトは、もう考えられる限りのバリエーションで試行を繰り返してお り、しかし土壇場で「CANNOT CONNECT」と出てしまう。

* 布谷君の二機を繋いでくれていたのが不具合かもしれないので切り離してきたが、 試みにまた繋いでみた。
 音楽の聴けるのがいいし、いずれディスプレイの大きい画面で映画が観られると、うんと気分が晴れるだろ う。DVDで気に入った映画を一二枚手に入れてきたいが、そういう店に行ったことが無く、どこへ行けばいいかと池袋辺での物色を楽しみにしている。欲望し ているのではない。成り行きが成るがままに楽しいのである。

* 小泉新首相の施政方針演説を聴いた。役人の作文とは思われない自前の言葉でだい たい話していたと思うので、いくらかハラハラしながらも退屈なく、また特に眉をひそめることもなかった。及第点と見てよく、野党党首たちちの批判には力が 欠けていた。湿っていた。野党にはえらいことになってきた。三十分の演説でなら、あれよりも個々に具体的になどは無理な相談で、小泉純一郎やるじゃないか とわたしは一応の評価をした。

* エセ金正男事件の処置で、政治評論家の三宅某がボロカスに政府の対応を罵倒して いたが、わたしはこの評論家を昔から認めていない。どこかの派閥にべったりという印象がこく、タメにした言説が透けて見える。そもそも、あの対応を日本政 府が単独で決めているわけが無く、少なくも米国、韓国、中国とは、入念にすばやい意見交換を交わした結果であったのは常識的にも明らかである。なまじ日本 だけの判断で一つ手筋をあやまれば、なお一層の国際的な窮地に立たされ責任まで押しつけられる恐れはあった。田中真紀子外相は、おそらく電話をかけまくっ ていたに違いなく、中国筋の助言が大きかったのではないか。弱腰に見えて賢明な玄関払いをしたと謂えるだろう。あの素っ頓狂な無作法者の素顔をあれだけ バッチリと世界に映像で流したのは、小さからぬ収穫であったとわたしは思う。
 

* 五月八日 火

* :与謝野晶子つづき
 そうなのです。与謝野晶子の芸術性と夫や子ども(もちろん弟にも)に対する深い愛情、それに天性の鋭い 客観性をダシに使って、彼女が持っていたはずのない思想にあてはめるのがたまりません。
 あの部分を書いたのが誰かはわかりませんが、この教科書の執筆者は次の人たちです。伊藤隆、小林よしの り、坂本多加雄、高森明勅、田中英道、谷原茂生、西尾幹二、広田好信、藤岡信勝、八木哲
 とにかく文部省(いまは文部科学省ですね)がこの教科書を検定合格させたのですから、がっかりします。
 どんな思想を持つのも自由ですが、その表明には全責任をもって自分の言葉でしてほしい。敬愛する与謝野 晶子をそんなことに使わないで!! というのが私の単純な反応なのです。

* この教科書がずいぶん問題にされている。わたしは検閲にも検定にも反対で、自由 教科書を考えてきたので、国が手出しをしないかぎり、思想と言論の自由にもとづき教科書がたとえ乱立しても、かならず淘汰されるものと信じている。国が、 政府が、無用な指導を強要しない限り、いろんな教科書の出てくること自体に、わたしは反対しない。しかし、現行の制度では、今度のも、一種の「お墨付き」 を国に得ている点にいちばんの問題がある。だから隣国も内政干渉を敢えてしてくる。
 与謝野晶子がどのようにいわば「利用されて」きたか、これも問題だ。

* 午後、エリザベス・テーラーとリチャード・バートンの「じゃじゃ馬ならし」をビ デオにとった。シェイクスピアをかなりまともに映画にしていたと思う。「わたくしがいなければだめになってしまう、と思わせておくも(  )の手なり」沖ななもの短歌を極めて適切に思い出す。女の「手」なのか、男の「手」なのか。面白くて二度もみた。女である妻はいやがるかなと思ったのに、 「うん、おもしろいわ」と。それも、おもしろい。与謝野晶子はシェイクスピアをどう読んでいただろう。 カテリーナの「手」を女としてどう眺めただろう。

* 昼前から、雨。ひどくはない。一年ぶり、あすは帝劇の「細雪」に招ばれている。 主演「雪子」の楽屋にも。いま階下でベルの鳴ったのは、あした、どうぞ、と劇場から確認の電話であった。

* 歴史の授業で詩を教えるということ。
 秦先生 少しご無沙汰してしまいした。
 先日先生にメールしました後の4月初旬、日暮れ後に自転車を漕ぎながらふと山際を見上げると、やわらか なサーモンピンクの大きな月があり蕪村の「のっと」という表現はこういう月をいうものなのだ、と納得しつつも句の全体を思い出せず、「先生に伺わなく ちゃ」と思いながらもこんなに日が経ってしまいました。
 もう月ものっと出る季節ではなくなってしまいましたが・・・。しかも、今日は雨でせっかくの満月も見え ないようです。ただ、鮮やかな色とりどりの新緑に雨のかかる様は瑞々しくて私の大好きな景色でもあります。
 そう言えば、娘の生まれたのも満月の夜でした。
 人もただの一生物だなぁ、と痛感させられるほど、その夜は病院でも出産が次から次へ続いていたのを思い 出します。
月の満ちる夜に新しい命が誕生するのは、不思議なほど生き物全体の共通点ですね。
 ところで、「のっと」出る月の句はなんと言いましたっけ?
 先生のホームページで、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」を取り上げられておりましたが、私は中 学・高校を通して、この詩を何回も習いました。国語でも歴史でも。
 異常に感じるのは、この頻度です。
 芸術として完成度の高いものであることは疑いようもありません。ですから、国語で習うのは納得はいきま す。けれど、ただでさえ近現代史を教える時間がない、と言われている今の歴史教科書の中で、例えばリットン調査団の記述すら消えてしまっているような教科 書の中ですら、中学でも高校でもくり返しこの詩を教えること自体に、私は疑問を感じるのです。
 歴史の教科書の中で、他に詩を取り上げていた記憶はほとんどありません。それ故に、今までの教科書で は、ある種の意図が働いて、この詩を取り上げてきていたという感触を覚えております。
 与謝野晶子は素晴らしい詩人だったと思います。
 彼女のあの詩を発表することは、あの時点では、かなり勇気を必要とするものだったと思われます。世の中 は、「お国のため」にロシアに戦いを挑むことが大きな流れになっていたのは事実だったはずです。そのあたりの流れを「坂の上の雲」ではしっかりと描いてあ りますよね。
 そんな中で、彼女の詩を発表することは、相当に気力が必要だったでしょう。
 しかし、従来の(少なくとも私の習った教科書では)日露戦争に関しては反戦的な取り上げられ方ばかり で、戦いに向かう大きな事実経緯を詳細に書いてなかったように思えるのです。
 すると、与謝野晶子のこの詩は、普く流布している反戦ムードの中での単なるファッションに見えてしま う。これでは、与謝野晶子に対しても失礼ではないでしょうか。
 彼女は、詩を発表する、それも時流に抵抗するような詩を発表する、その「発表」という事実の中で、激し く生きた人だったと思うのです。そして、こういう「詩」にかける情熱は、国語の中で教えることこそが相応しい。歴史の教科書の中で、それも安っぽい反戦 ファッションとして取り上げるべきではないはずです。
 かといって、この新しい教科書でのとりあげ方が正しいとも思えませんが、彼女の詩を逆のとりあげ方をし て、日露戦争へ向かう時代背景を教えたくなってしまった「つくる会」の意図もあながち否定すべきものとは思えないのです。
 私としては、基本的には、歴史の教科書の中でいたずらに詩などをとりあげるべきではない、ましてや安っ ぽく取り上げるべきではないと考えています。
(古代の叙事詩など、史料となるのならば別ですが)
 そして、今までの教科書がそういう作りだったからこそ、反動でここまで書いた教科書が登場してきた理由 もわかるような気がするのです。ただちょっとあまりにも極端ですけれど。
 でも、与謝野晶子を題材にして、この時代の価値観自体が今と異なっており、その中での、彼女のこの行動 だったのだ、と言いたかったのでは、と解釈しております。ここまで書かなくても、とは思いますけれど。
 またしても長くなってしまいました。
 明日の「細雪」が見ごたえのあるものでありますように。
 やわらかな雨音を聞きながら・・・

* 東工大に来ていたことに女子学生達には、こういう、くっきりとした文章で意見を しっかり述べる人が多かった。この人もそうだった。わたしのような「文学」教授には、それは有り難かった。わたしの教室では与謝野晶子のこの詩は取り上げ なかったが、与謝野鉄幹の「誠之助の死」は、大切に毎年取り上げた。この詩一つのあることて、わたしは鉄幹を意識してきた。晶子の問題の詩とは好一対であ る。晶子の詩が先行し、鉄幹の詩はさながらに呼応している。前者が日露戦役の頃にうたわれ、後者は大逆事件のフレームアップ(でっち上げ)で死刑された一 介の医師をあざ笑う体で、痛哭している。この夫妻が、つねづね何を考えて語り合っていたかは明らかだろう。

* 「のっと」出るのは「月」でなく「日」で、蕪村でなく「むめがかや」の芭蕉であ ろう。
 

* 五月九日 水

* 開幕十五分前に、国井支配人の案内で、「雪子」役沢口靖子を楽屋に訪ねた。一年 前とまったく変わりない、これから亡父の法事に出向く「雪子」の舞台衣装で、あでやかに、親切に迎えられた。もとより、そんなきわどい時間に多くを語りあ うのは考えになく、気持ちのいい笑顔と声を見て聴いて、「雪子」にも誘われていっしょの写真を三枚も支配人に撮って貰った。「いちばん気も張っていて、一 日中でいちばん美しく仕上がっているときにお目にかかりたい」と、去年のときも伝えられていた。さしだされた手をかるく握ってきた。笑顔に見送られた。去 年よりも、いちだんと内から照るほどに美しかった。満たされた。美しい人の最高に美しくある、それ以上によいことはない。

* 「とちり」の「ち」、八列目中央、通路脇の最良の席が二つ用意されていた。手に 取るように舞台はよく見えた。去年は「幸子」が古手川祐子だったのを、今年は山本陽子。「妙子」は去年がたしか純名理沙だったのが、今年は南野陽子。「貞 之助」は去年は誰であったか、今年は篠田三郎。「鶴子」の佐久間良子、「雪子」の沢口靖子、「辰雄」の磯部勉、「御牧」の橋爪淳は変わらず。舞台も変わら ず、脚本・演出もほぼ変わらず。
 結果的に、去年と変わっていた三人が、弱かった。篠田の「貞之助」は、テレビのホームドラマなみの軽い 芝居で、空気が抜けかねなかった。「貞之助の重み」が、この人はよく分かっていない。あれは、背後に作者谷崎がいて、しかもあの世界のほんとうは「家長に 準じた」抑え役であり、原作では、更に微妙に、雪子をそばへ引き付けていたいある種あやうい義兄なのである、が、そういう陰翳がまったく「役」として役者 に読めていないので、ひたすら無難に気のいい夫役になってしまった。彼の押さえが軽くてはドラマの浮き上がる恐れがあり、危ないぎりぎりであった。石井寛 をはじめ過去に佳い「貞之助」を見てきた。篠田は勉強不足である。
 山本陽子の「幸子」役には、原型であった松子夫人を身近に感じてながいお付き合いがあっただけに、厳し いことを言わねばならない。去年の古手川にはまずまずの品位とともに、柔らかな魅力が感じられたが、それでも十分ではなかった。山本陽子は、あれよりもい けない。東京のキャリアウーンのようなキビキビが、言葉にも所作にも露わに出過ぎ、とても『細雪』のあの「なかんちゃん」になれていない。ミスキャストで あろう。関西弁もうまくない。ま、言葉だけは仕方ないが。だが「幸子」はひたすらに柔らかに、しかも、あの世界を事実上率いて確かな「芯」の存在であり、 他の者がみな立てて見守る、桜のような鯛のような象徴的存在なのである。大阪の人である。山本陽子が下手だというのではないが全然上手でなく、役をあたま から山本陽子でやる気でいる。彼女の個性が露骨に強く出て、大阪や芦屋の奥さんではなく、手もなく葉山か鎌倉の奥さんになってしまうのが、見ていてはらは らと落ち着かないのだ。この女優は、もっと自我を殺して生かすすべを覚えねば。
 南野陽子はむしろ好きなキャラクターだが、「妙子」の役は荷が重かったか。演技も存在感もひたすら薄 い。かべてに希薄で、深い哀れと強さと魅力とが残念なことに兼ね備わらない。地唄の「雪」を一人舞の場を貰っているのだが、この舞が、まあ当然としても、 舞好きの眼には当座まねごとの域を出ていない。ひどい。去年の純名理沙の方が、さすが宝塚で鍛えていて芝居が出来た。南野の誤算のひとつは、たとえば泣く ときに、ほんとの泣き顔に顔を歪めてしまい、自然醜い顔になってしまう。ふつうならそれでいい、が、この舞台ではあんなふうにナマで泣いてくれては困る。 美しく、あるいは美しさを失わずに泣いてみせることで、客の胸を絞らねばいけないのである。そういう所作事が南野陽子にはまだ無理なのか、テレビドラマの ようにうわつらで演じていた。「妙子」の劇的な魅力が盛り上がらずじまいで、その辺を「雪子」の沢口靖子におんぶで救われていた。
 この菊田一夫脚色の芝居では、原作とちがい、長女の「鶴子」が重く具体的に扱われていて感心するのだ が、去年よりももっと佐久間良子が落ち着いて、すこし崩れた感じで、無難に演じていた。あれでいい。もともと「幸子」役だった人が「鶴子」役に老けて、そ れがちゃんと似合ってきたのだ。去年はひどく気張って演じていたが、ことしは終始のびのびと丈高く柔らかく演じて、最後に夫「辰雄」のまえに頭を下げ、一 転、東京への移転や本家売却に同意するあたり、自然必然に涙を誘う効果をみせた。けっこうだった。夫役の磯部勉は男役のなかで傑出安定していた。俳優座の 「ハムレット」役者が思わぬところで確かな存在を見せている。余談だが、加藤剛のあとの俳優座ハムレットたちは、どうしてみな退団してしまうのだろう。山 本圭、磯部、また寺杣クン。
 さて、結果として今日の舞台を、上のような問題ははらみながら、しみじみと感動作に仕立て得たのは、贔 屓目は何一つなく沢口靖子の演技力の明らかな充実ゆえであった。去年よりももっと印象的に、「雪子」のはらんだ不幸の自覚と、そこからの脱出=結婚への意 志を、ごく自然に、しかも所作の美しさ・宜しさで懐かしく表現できた。それが舞台の始終に、首尾に、妙薬のように効いていた。
 谷崎潤一郎は「雪子」の根に、しぶとさをはっきり意識していた。松子夫人も意識されていた。だが原作の 「雪子」はもとより、菊田一夫の舞台の「雪子」は特に、しぶとさは降る白雪に秘めもちながら、あくまで、生きて行く「あはれ」を感じさせるのだが、沢口の 「雪子」はそれを託されたままに、全身でよく表していた。場面を追って、雪の積んで行くように「雪子」の魅力がだんだんだんだんと観客の胸に届く。それが 舞台の盛り上がりに成って行く。演出だとすれば、演出家は高い点数を「雪子」の沢口靖子で稼いでいたと思う。妻も、わたしも、心地よく泣かされた。原作の 厚み、脚色・演出の巧み、それを「雪子」は精のように静かに体現して、おみごとであった。「泣きの靖子」かと以前にテレビの役で褒めたことがあるが、今日 の、泣きそうで泣くまいとこらえた沢口靖子はほんとうに美しかった。よかった。この感想に贔屓目は加わっていない。
 帝劇の芝居には、いつも決まって感心するというわけには行かないが、それぞれの舞台が主演の役者をもり あげて特徴と特色をもっている。美点も欠点ももっている。「細雪」はそのなかでも競演・競艶という特色と共に、脚色のうまさで原作をよく批評し得ていて、 完成度をしっかり持っている。芸術座のもふくめて日本の近代の名作ものを幾つも見せて貰ってきたが、これは図抜けて安定した佳作に練り上げられていると思 う。谷崎ものには注文も多くつけたいところだが、この舞台には、それがあまり無い。

* しかし、見通しの付く冒険もして欲しい。往きの電車で妻と話していたが、沢口靖 子のあの美しさと品のよさとは、たとえばわたしの「読み」での漱石原作『こころ』の静=奥さんで、「雪子」なみに微妙で聡明な役をつくりあげること、十分 可能であろう。先生とKとに愛され、その二人ともに「死なれて・死なせて」、若い「私」に愛され、その子をみごもる「静」さん役ほど、この女優に似合う役 は少ないだろう、と。もはや今では、「先生」の死後に愛し合う「奥さんと私」とが、結婚し子をもつというわたしの証明した読みは、学界でも否認しがたいも のに落ち着こうとしている。俳優座の香野百合子の演じた上をゆく沢口靖子の「静」さんを、舞台の上に観たいものだ。

* 国井支配人が手づから撮影したという、満開の桜のもと蒔岡家四姉妹のならんだ A3版ほどの大きなカラー写真をお土産に貰った。わたしの宛名と沢口靖子の自署ももう見慣れた書体で、開幕前にちゃんと用意されていた。平安神宮ではな い、たぶん千鳥が淵爛漫の桜の下であろう。言うまでもない、飛び抜けて沢口靖子は輝くように美しい。

* 三時過ぎにはねて、すぐ車で山種美術館に行ったが、休館。それならと、千鳥が淵 静寂の緑歩道を妻とゆっくり散策、戦没者霊苑に参拝し、おがたまの花などみて、となりのフェアモントホテルで、軽食とビール・ワインとで休息した。桜の頃 とうってかわり、ひっそりとくつろげた。久しぶりのビールとカレーライスがわたしにはご馳走であった。市ヶ谷駅から有楽町線でまっすぐ帰った。黒いマゴが よろこんだ。
 佳い一日を、沢口靖子さん、また東宝の後藤さん、国井さん、紙谷さんに感謝する。晩には、もらってきた 大きな写真を幾つにもスキャンして楽しんだ。
 

* 五月十日 木

* 夕刻から新宿紀伊国屋ホールでのシンポジウムを聴きに行った。「編集者、わが電 子出版を語る」「電子出版の未来・実践編」の二部構成。前半は平凡社の龍沢武氏の司会で、岩波書店、みすず出版、平凡社、文藝春秋の中堅編集者が話した。 後半は「本とコンピュータ」の津野海太郎氏の司会で、九月からの第二期「本とコンピュータ」の拡大編集同人達が話した。前半のメンバーは、体験談が主であ り、それぞれに、よく謂って一隅を照らしてきた体験から、展望と謂うより姿勢と力点とを探り取ろうとしていた。
 紙の本から切れているとも、まだまだ引きずっているとも、当然ながら過渡期的な模索に悩んでいて、パネ ラー一人一人の話の取り柄をつかみ取るのに、聴いていて苦労だった。著者と読者とがせめて一人ずつ加わっていたら、編集者達の言葉を別角度で受け止め展開 できただろうにと思った。同感するところも多く、首をひねる話も何度も聴いた。本は考えているが、本を書く著者、本を読む(買う)読者に対するケアの感じ 取りにくいやりとりが続いていたのが、残念だった。
 後半は、襲名口上のようで、面白いが、話のための話を蹴鞠のように往来させて、趣向はいいが、室謙二氏 の「電子メディア」による出版は金には成らないという推論に実感があり頷けたが、総じてレトリックに富んだ口演会で終わった。

* 近くのビアホールでの打ち上げにも誘われて参加し来た。久しぶりに文藝春秋の田 崎?氏に会った。平凡社の関口秀紀氏にも。パネラーだった岩波の小島潔氏、みすず書房の尾方邦雄氏、平凡社の龍沢氏、また柏木博氏とも和やかに多くを話せ たが、声がかれた。主催者の津野さん、室さん、萩野さんらのおかげで、刺激に富んだ一夕を楽しんできた。問題は山ほどあるなと感じられただけで満足しよ う。

* 五月十一日 金

* 両国のシアターXまで、親友原知佐子出演の芝居を観に行った。息子がまだ会社員 のままこの劇場で処女公演して、自作を演出した。もう、ずいぶん昔の気がする。
 今日のは、フランス人の劇作を、いろんなグループが何本か集中的に公演している中の、「王様と私たち」 という、よく出来た科白劇。原さん演じる老いた母と、二人の娘。その姉の方の夫が家内の「王様」なのだが、だいぶん草臥れている。会社へ行けば末端管理職 であることに無上の誇りとまた苦痛とを味わっていて、帰宅すると養っている三人の女の前で「王様」にされている。ずいぶん神経質に衰弱したこの王様は、三 人の女達の侮蔑と愛情と依頼心とにがんじがらみになっている。妻が幸運に外で職をみつけ、元気に働き始めると「王様」の狂的な衰弱と荒廃は度を増し、しか も会社の「節約」方針の犠牲第一号としてクビになる。

* 舞台の芯になる妻で長女の役は、「ナチュラルな」(と原さんは言っていたが、) 演技で終始破綻をみせず、いやみもくさみも感じさせなかったのは、人の良さもきちんと感じさせて好感情を誘い出していたのは、なかなかのものであった。
 半分は死体のような王様も好演で、ワキの母も妹も達者なものであった。演技的にはなにひとつ文句のつけ ようもなく巧みに演じられた。
 だが芝居自体が、少なからず時節外れであった。このリストラの徹底した失業時代に見せられても、問題提 起にも成らずましてカタルシスの得られる話題では全然ないではないか。うまい劇作だと思うが、芸術演劇の限界が、時代時節そのものにハレーションを起こ し、劇場はガラガラであった。熱気の生じようもない主題であった。原さん、気の毒みたいであった。しかしロビーには協賛の企業からかワインなど出ていて、 お土産まで貰った。

* うまい舞台をみながら、楽しめなくて、なんとも割り切れない気分を癒そうと、妻 と、建日子デビューの日に二人で盃をあげたちゃんこの「巴潟」に時間前にとびこみ、横綱太刀山ゆかりの「ちゃんこ」を食べることにした。これが量・質とも にバランス大いに宜しくて冷酒もうまく、なによりの大おまけに、店員の親切に導かれわたしにも唆されて、向かいの別館に入ってゆく大関魁皇を妻は追いか け、巨大な「綿のような」手と愛嬌よく握手してきたらしいのである。魁皇は横綱をねらう夏場所だ、妻の応援が効くといいのだがな。
 大江戸線まで両国の街をそぞろ歩いて、地下鉄で練馬まで一気に、西武線で保谷に、満足して帰宅した。

* 田中真紀子が案の定、外務省で官僚達の陰気ないじめに遭っているらしい。外交と ともに、いや外交に生彩を得るためにも、当面の闘いを、省内に跋扈した旧態依然の勢力をいい方向へ変質変容させてゆくことに向けてもらいたい。そこを乗り 越えなければ始まらない。国民もこの際お手並み拝見などと高みの見物でなく、応援すべきは応援することで「行政府改革」を進めていい時機だと思う。阿修羅 のように切り結んで外務大臣らしい統率力を見せて欲しい。事務次官は即刻斬るべきであった、首相も外相も心中を覚悟して同じ道を行かないと、内閣の運命線 を細めてしまう。弱気になるべきではない。何をするための大臣かと考えてもらいたい。就任した大臣がその理想を実現できる環境をつくれないのでは、任命し た意味が失せる。

* さて、次の月曜の文字コード委員会の幹事さんから、「宿題」が出されてきた。議 事は公開されるのであるから、問題を広く共有して貰う意味からも、以下にその宿題をかかげる。

* 2.事前準備
 次回の議論のために、以下の件について、ご意見をまとめておいて頂ければ幸いです。 文書にしてご持参 頂ければ幸いですが、間に合わない場合は、口頭でのご発言でも結構です。
 前回の委員会で、次のような漢字の実態モデルがほぼ合意されました:
 漢字の全体像を最初に把握することは非常に困難である(青天井問題:多分、大掛かりな調査の結果とし て、これでこの時点での全部と想定しようと合意できる程度ではないだろうか)。 従って、全ての漢字を集めておいて、必要部分を切り出すこと(あるいは収 集そのもの)。あるいは、漢字の標準化グループが、そのグループとして漢字を集めつづけることには限界がありそうで、いずれは要求ベースでの対応へ移行せ ざるを得なそうである。
 このことは、独立字種と異形字の両方に言えることである。また、これで十分という字種や異形字は、応用 や個人・団体、また時代・時期によって異なり、画一的なこれでいけるという漢字集合を作ることも困難そうである。
 この時点で、字種不足問題に関して、二つの独立した課題が出てきます。
 - どこまで(どの程度)、漢字標準化グループが漢字の収集を積極的にすべきか?
 - それに入らなかったものを、誰が・どこに・どのように提案し、誰が・どのように審査をし、どう規格に反映させていくか?
この二つの課題にたいしての事前準備をお願いします。くわしくは、
 2?1. どこまで収集するか問題
 まず、先日来ご紹介している、拡張統合漢字Bまでは、規格化されるという前提で、かつ、これ以上漢字の 追加をする必要はあるという前提で(不必要と思われる方は、それの理由を説明してください、またこれ以上の収集は非現実的と思われる方は、その理由をご説 明ください)、
 a. 1年以内に、ある種の漢字群を“漢字規格化グループ”が選んで規格化すべきとすれば、どんな出典 などを洗うべきでしょうか?
 b. また、もっと長期間を考えた場合には、どの範囲までを何時頃までに終えると実際的な実現可能であ ると考えますか?
 2?2. 提案制度について、
 上記の自主収集の先は、提案制度になろうと想定されます。
 a. 提案制度は可能と思いますか?
 b. どんな問題点が想定されますか?
 c. 審査機関は、どのようなものが考えられますか?
 d. 提案は随時受け付けられるとして、規格への反映頻度はどの程度が現実的と思われますか?
 2?3. ところで、(異形字の議論にむけて)
 現在の字種そのものについて、新字種は上記で追加するとして、現存の字種の漢字の変形の包摂範囲は実用 上十分ですか? もっと包摂すべきですか? もっと細分化すべきですか?
 おおむね以上のような議論を中心に次回は進めたいと思います。 大変難しい課題ですが、ここをクリヤし ないと、結局文字不足問題は解決しません。 ぜひご協力をお願いいたします。

* 会議日までに二日間しかない今の時点で、これだけのことにレスポンスできる力は わたしには有りそうにない。しかしまあ考えてみなければならない。
 例えば昨日のシンポジウムに出ていた編集者達は、こういうことを考慮しているだろうか。していないよう に思われる。紀伊国屋ホールを満員にしていた大半が編集者達であったが、彼らから機械の「漢字」や「文字コード」についての声はあまり聞こえてこない。問 題がないからではない、どう問題にしていいのかを殆ど知らないのではないかと憂慮される。彼らも漢字の足りないことは知っていて、切実に困ってはいるが、 文字コード委員会にいわゆる出版社の編集者は一人もいない。国語学者はいるらしい。通信社の人もいる。しかし作家は全くもってわたしが唯一人である。国文 学者も歴史学者も仏教学者も詩人も批評家もいない。そういう偏った世間で、こういう宿題が出て、結論が導かれ、国際的な場に日本の意向のようにして提出さ れる。
 漢字の問題はもう程々にしようではないかという結論へ流れてゆく恐れがあり、わたしの人文的な要望は、 現実的には技術と経済と実務との「もう足りています」と言う多数の声のもとにかき消えてしまうのではないか。電子出版を語り編集を語っていたあの人達の考 えているのは、先ず明らかにいま「多数の声」といった声たちの満足とは、かなりかけ離れていて、わたしの念頭に置いている方面の著述・著作をもっぱら考え ている。だが、その仕事の「根」に置かれねばならぬ漢字と機械との関わりには、何の力も努力も及ぼそうとはしていないように見える。出版文化を語る人たち の暢気さであるまいか。
 
 
* 五月十二日 土

* 午後二時に予告されていたとおりに布谷智君の電話をもらい、リモートコントロー ルでFFFTPの不調に立ち向かったが、延々、何としても動かず。
 ところが、「CANNOT CONNECT」の上に「530」が不正確である旨の警告も出ていて、それを伝えると直ちに、布谷君はそれはパスワードのことだから、あらゆる記憶に当 たってそれらしいものを見つけるように指示してくれた。わたしにはこの数字の意味、見当もつかなかった。修理の専門家相手へのメッセージらしいが、こうい うのもマニュァルに入れて貰いたい。
 電話でのやりとりと不成功の連続に、もうほとほと疲れていたけれど、もう一度調べなおした。それらしい パスワード候補もあてがってみたが、やはりダメ。わたしは、頭からBIGLOBEメールのパスワードと思いこんでいて、「ホームページ」そのものにパス ワードのあることを考えもしなかった。なにしろ、立ち上げたその日から全てを田中孝介君に委ねていたから、そういうことに気づいていなかった。田中君に注 意されて記録はしていた。それで助かった。このパスワードで、FFFTPは、重かった腰をやっと上げてくれたのである、バンザイと叫ばずにおれようか。 ホームページが稼働してくれなければ格好のいい新しいデスクトップも大半の意義を失うところだったから、ほっとした。だが、まだ安心はしていない。実地に 使い慣れてみなくてはならない。布谷君、ありがとう、心より感謝しています。

* 午前中は、昨夜深更来の、文字コード委員会用の作業を続行していた。くどかろう と何であろうと、わたしは、考えていることを繰り返し伝え伝えして倦むことがあってはならないからである。幹事の一人から、あまり愉快でないレスポンスが あり、それにも強い言葉で対応しなければならなかった。たとえばわたしのホームページに「文字コード」で親切な示唆を送ってくれる人にまで「生半可な入れ 知恵」などという無用の批評がしてあり、いい態度とは受け取れなかった。そういう空気の中で投げやりにならずに孤独に語り続けるのはスゴクしんどい。
 

* 五月十二日 つづく

* FTTTPはパスしたが、転送すべきホームページの在るべき位置が定まらない。 ネットスケープ コミュニケーターのバージョンが、ノートのよりデスクトップは布谷君によりアップされていて、格合いがちょっと違いとまどってもいるのだ が、ノートのホームページをデスクのどこへ貼り付けると適当なのか、一から始めようとして、これにもまたとまどっている。つくづく未熟・不得心者なのであ る、わたしは。

* 建日子からNHKのドラマ「定年ごじら」をビデオに撮って置いてと頼んできた。 参考に観たいが外での仕事で録画できないという。佳いらしいと言うので観ていたが、あまり作りの薄さに、それと主演女優のあまりな痩せすぎに辟易して、二 階へ逃げた。
 今日はひどく刺激の強い一日だった。ま、新しいコンピュータもネックを一つ通り抜けたし、文字コード委 員会の方ともそれなりの応酬があった。他にも有った。手荒い波の往来の中で、水底に重りを垂らし、アプアプはしないよう気をつけている。
 

* 五月十三日 日

* 花の春らしい便りがとどく。

* ずいぶんとご無沙汰をいたしておりましたが、わたしもようやく風邪をなだめるこ とが出来たようです。約一ヶ月かかりましたの。ゴールデンウィークの忙しさにも、今年は不況で増員が望めず、治りを長引かせていたようです。不況の風はま た一段と厳しさを増し、店長会議のときに、経営者から、社会保険の解除や人員削減などの案が提示されたとのこと。きつくなりそうですが、気分的に落ち込ま ないようにと思ってはいますのよ。
 先日の休日。友人と花三昧の半日を過ごしました。新聞やテレビでも報道されていた、民家に趣味で植えら れているシバザクラを観に行ってきました。絨毯を広げたか、あるいは友禅を流したような風に見事なくらいに植えられているのですよ。たくさんの人が訪れて は感嘆の声をあげておりました。もちろん、わたしたちもです。
 その後、蘭の栽培で有名な河野メリクロンへ。「プリンセス雅子」と命名された蘭もありますの。蘭のお蕎 麦をいただきました。美味しかったですよ。帰りに、高越山(親しみをこめて、「おこうっつあん」と呼んでいます)へ。千メートル級の山ですが、その頂上に 記念物に指定されている船窪のイワツツジの群生があるのです。
 裾野では木の葉は大きくひらいて緑も濃いのに、登るにつれて、葉はかぼそくなり、芽生えたばかりのよう に柔らかに、風景は早春に戻っていくのです。お好きな藤が、垂る房も見事なほどに咲いているかと思えば、谷川沿いに植えられている桐の花が天に向かい、負 けじと咲き誇っていました。紫女(花)の競演です。
 「ツツジ」で想像されるのは?たぶん、低木を思われていらっしゃるのではないかしら。ところが、びっく りです。二メートル以上もあるかと思われる大木が群生しているのです。まだ少し時期には早くて、四、五本しか咲いていませんでしたが、ツツジの間にはアセ ビ(馬酔木)もあり、それは満開で甘い香りがしていました。ツツジも、花が咲いていたからこそ認識出来たようなものですのよ。花の無い時期に一度訪れてい たはずの彼女なのに、冬木のような、それを見ながら「あの木は何の木ぃえ?」と、問い掛けてきたのですから。
 時期には早くて、平日ということもあり、人影も見当たらない静かな山を、二人で満喫して来ました。イタ ドリを見つけて、ポキンと手折って食べてきました。懐かしい味に、山野が遊び場だった子供の頃を思い出しました。感覚が似通っていて、同じものを見ていら れる。そんな友人がいてくれることの幸せをうれしく思った半日でした。

* こういう景色の中に久しく身を置いていない。花も山も匂うようで、読んでいてく つろいだ。江戸の香のする便りも。

* 今日は神田祭で賑やかな一日でした。時代行列と呼ぶそうなのですが、都内の道路 を馬車がパカパカ歩く姿は異様な感じがして、何度見ても面白いです。明日は神輿宮入なので今日以上の賑わいになると思います。
 とうとう機械を組み立てたということですが、その後の調子はいかがでしょうか。ゴールデンウィーク中に 声をかけていただければ遊びにいくこともできたのですが。機会があれば是非見にいきたいと思います。
 ところで、ADSLですが先生のお宅でもサービスを受けられるようになったようです。(会社によっては 6月からです。)
 http: //www.biglobe.ne.jp/service/adsl/acca/index.html
にbiglobeでのADSLの情報が載っています。月々5800円になっています。一度ご覧になっては いかがでしょうか。

* ADSLが話題になる時節で、以前には神戸の芝田道さんから著書を戴いている し、どんなものか、田中孝介君にも教えて貰っている。もうわたしより詳しい人の方が多かろうけれど、以前に教わったところを紹介しておこう、役に立てばい いことだから。

* DSLとは簡単に説明すると、今ある電話回線で高速にインターネットを接続でき る技術となります。将来的には、各家庭に光ファイバをつなげることになると思いますが、それまでのつなぎとしての技術と私は考えています。
 DSLにはいくつか種類があり、家庭用としてはADSLという種類の技術が使われています。
 どのくらい速いのかといいますと、現在の約24倍になります。この値はサービス提供会社により若干異な ります。
 ただ、(今年の二月半ばの話であるが、注)サービス開始からまだ日が浅いため、サービス提供地域が非常 に限定されています。先生のお宅はまだの開始されていませんでした。
 このサービスの利点は、高速にインターネットにつなげられるということと、24時間つなぎっぱなしにし ても月々5?6千円しかかからないということです。24時間、高速にインターネットにつながる環境があると、生活ががらっと変わるかもしれません。
 もし、先生のお宅の地域でサービスが始まったら検討する余地は十分あると思います。
 
* もうすでに戸別勧誘のJ?COMが玄関まで来ている。ニフティーからも勧めてきている。機は熟してき た。在来の諸設定に何らかの変更等の手順上の影響が出るのかどうかをよく確認しながら、加入したい。階下に妻もべつの機械を持ったときなど、いわば二口と いったことになるのか、まだわたしはよくは呑み込んでいない。まだLaVieを芯に使っているが、そろそろ新機デスクトップ(布谷君は機械べつに適切な命 名を薦めてくれる。)へ重点を移動したい。「駆使」どころかまだちょっとも機械の仕組みが分からない。文字コード委員会からファイルで送られてくる資料を 開くと、WZ?EDITORに全く読めない文字が現れたりする。きっとナミの文字に直せる仕組みがあるのだろうが、途方に暮れて本文のままメールにして欲 しいと頼み返すしまつである。こういう未熟の種が山ほどある。

* 二階の機械部屋が、もう、暑くなってきた。季節のめぐりにはいつも脱帽し感謝す る。

* 田原総一朗の番組で森前落第総理がとくとくと田中真紀子外相の批判と手前味噌を ならべていた、メモも読まずに。何一つ「体験」しなかった相変わらずの鈍物ぶりに嘆息した。長野の田中と霞ヶ関の田中と。見守りたい、文字通りに。

* 久々に見ていたテレビ将棋の攻防にぐいと足をとめられた。

* 笠間書院から昨日もらった中世物語二編、平安物語よりは痩せて体温もひくいけれ ど、表現ははるかに読みやすくなっているし、物語の筋には新奇の趣向立ても余儀なくされている分、気を惹く興趣はもっている。絵巻でいえば現存最古の源氏 物語絵巻以降時代ごとに何点も源氏繪はあるが、だんだんに薄く硬く縮んでいる、それと似て物語も、時代を追って痩せてゆく。ふっくらという魅力が失せ続け てゆくのは、風船の空気がしぼんでゆくのにも似ている。覆いがたい事実である。それを心得て置いてから面白く読むという道もある。源氏が春なら浜松や寝覚 ですでに秋深まりゆく風情である。読み返さねばしかとは謂えぬが、鎌倉時代の松浦宮物語までくると、つくりものの度が増して、そのぶん肩も背も肘も縮んで いる気がしたものだ。

* これから新機「やすか=姉孫」で初の更新を試みる。この一行が無事に送れるか。

* 結論からして、更新に成功したと思われない。インターネットエキスプローラで読 み出してみても更新されていなかった。繋いであるもう一台の旧機「みゆき=妹孫」にはちゃんと入っている。LANは効いていると言うことである。まだ、や すかとみゆきとの関連や留意事項が頭に入っていない。さっき試みたときには、みゆきに繋いだMOも、外付けディスクも使えなかった。マイコンピュータにア イコンも現れなかった。この理由も分からない。

* 今、J-COMが玄関へ来て加入を勧めていった。説明を聞いていても全部は頭に 入らない。ADSLではなかった。ケーブルテレビの会社であるらしかった。テレビのチャンネルの増えるなどは歓迎できない。またニフティやビッグローブの アカウントネームの変更になるのも叶わない、という気がした。しかし光ファイバーが来ているのだと言う。この辺も、芝田さんに戴いた本を調べたり、聞いた り、尋ねたりして決めたい。
 今「保存」しようとクリックしたら、そのあと「保存」二字が白転してしまった。同時に「上書き保存」も 白転した。「みゆき」の方ではこういうことはかつて無かったが。
 

* 五月十四日 月

* ニュージーランドは本当に素晴らしいところです.こんなに心休まる旅行はありま せんでした.食事,中でもワインは最高です.料理は非常にシンプルなのですが,味付けがアメリカなどとは違いとてもおいしいです.
 最高峰マウントクックの写真を添付しますのでご覧下さい.
 今年になってからウクライナ人と香港人が研究所に来まして,いろいろと文化の違いを感じています.二人 とも私より若いのですが,日本の文化と言っても都会の文化に興味を示していまして,宗教や神社やお寺の話にはあまりなりません.彼らにとっては珍しい建物 といったぐらいの認識のようです.ウクライナ人からは、なぜ六本木で遊ばないの?と言われましたが、関心のないものはしょうがありません.
 それでも熱田神宮へ連れて行って,鳥居は何かと聞かれて,神社の門だとしか説明出来ないのは自分でも恥 ずかしいと思います.それにこういったことを英語でしゃべるのは非常に大変です.英語力も磨かなくてはならないし,日本のことも知らなくてはと言うこと で、最近はテレビ,ラジオの講座をこまめにチェックしています.また最近は便利な本がありまして,日本の文化について左のページに日本語で,右のページに 英語書かれてある本がありまして、読んでいます.
 それでもいろいろな人が言っているように、やはり頭の中でまとまっていないことをいくらしゃべろうとし ても、それは無理ですね.
 日本語で考え、話すこと,これはいつもしっかり出来なくてはと思っています.

* わたしには、特に嬉しい応答である。最後の一行など、前回に送った湖の本エッセ イ22「日本語にっぽん事情」の表現をそのまま受け止めてくれている。「日本の文化について左のページに日本語で,右のページに英語書かれてある本があり まして」の一冊には、平凡社の『日本を知る101章』がある。わたしも「能」「庭」「畳」「幕の内弁当」を書いている。英文はこのホームページの中の「e -文庫・湖」に収めてある。「鳥居」もたしか載っていた。この手の本の最も早い時期の一冊は旧八幡製鉄が製作していて、書評紹介役を依頼されたことがあ る。
 よく言うことだが、わたしが、外国で外国人からたとえば半導体やコンピュータについて聞かれて分からな いと答えても問題なくゆるされる。だが、たとえ専攻は理系の人であれ、例えば源氏物語、例えば禅や神仏について聞かれて一言も応答できないと、堪えがたく 恥ずかしい思いをするという。
 このメールの青年が、社会人数年に満たぬうちに、こういう体験や感想を伝えてきてくれるようになったこ とを、やはり、素直によろこびたい。
 送ってきてくれた「最高峰」の写真はすばらしい、が、何メートルほどかは書いてない。だいぶ理系ぬけし て来ているのかな。

* お変わりありませんか。雀は元気に遊び、歌舞伎座で久し振りに会った女友達と、 芝居がはねてから、少し話をして、ホテルへ帰ってきました。例の田之助さんの連載より、─戦前楽屋で流行した投扇興は、行司も装束をつけ、呼び出しは、 たっつけ袴をつけた大掛かりなものだったそうです。歌右衛門さんは<魁>、七代目幸四郎は<へるくみ>(お相撲の照国がご贔屓 だったため)、六代目は<音羽山>というしこ名だったそうですわ。
 今月、夜の部で、音羽屋は、二度死ぬ。江戸の芝居がない、上方言葉での團菊祭は、なんだか変な感じがし ます。囀雀

* これはまた文系そのもの。囀りが冴えている。

* 午後は三時間の文字コード委員会。国会は予算委員会が始まる。田中真紀子外相は 集中砲火を浴びるだろうが、効果的にこういう場で、伏魔殿外務省に風穴あける、あけすけの頑張りを見せて欲しい。世論はそうは外相の奮闘に冷たくないと感 じている。ガンバリどきだろう。わたしの委員会での「孤軍」ぶりなど、たいしたことではない。
 

* 五月十四日 つづき

* 第四回文字コード委員会が御成門の技術振興会館で開かれ、出席してきた。先日、 突如メーリングリストで幹事からの宿題が伝えられた。メーリングリストで送信すると、参加している全委員ないしオヴザーバーに同時に伝わり意見交換できる のだが、それとは別にわたしは「文字コード」の自分なりの学習と感想とを、かなり長いので、石崎委員長と二人の幹事にだけ参考までに提出して置いた。小林 幹事と二往復の意見交換があった。その上で「宿題」に答えるものをメーリングリストに送った。宿題への解答自体は、まさに「とりあえず」のものであった が、その前書きに考えを纏めた総括を置いた。何のことはない、この「私語」の四月九日の項をそのまま冒頭に添えたに過ぎないが、その部分について、今日の 会議の席上、秦の考え方はまず全面的に文字コード関係者のそれと合致していて異存無い旨が小林幹事から明瞭に表明された。わたしの方がビックリしたほど明 瞭な賛同であった。
 念のために、この大きな接点となった「考え方」を再度こに記録しておこうと思う。

* 2-1 前回に問われていた「引き算説」にも触れて、原則的なものを繰り返しま す。四月九日の日記をそのまま。

* 文字コードの勉強をしていて、自然「ことば」と「文字」「書字」「活字」「電子 文字」等についてある種の思索と理解とが生じてくる。「自分の考え」は基本的に、もともとどんなものであったかを「整理しておく」必要がある。
 わたしは、難漢字、稀用漢字といえども、無用であると言える人はいないという説である。過去に用いた人 と文献とがあるかぎり、その使用者と使用された文物とを無視し去る権能など、たまたま現代に生まれ、瞬時の後には後生に席を譲って退場するわれわれの持っ ている道理がない。過去の使用者に対しても、未来未然の利用者に対してもである。
 だから、たかだか近現代の小さな理屈だけで、あまり安易に漢字はこれだけあれば十分などという尊大で傲 慢な態度は原則的に排したいという考え方をしている。
 だから、「全部が必要。だが、『全部』などというのは漢字の場合一種の観念に過ぎないのだから、リーズ ナブルに『引き算』の必要なことも当然」というのが、わたしの「原則・引き算説」である。「全部が必要」は理想に過ぎないと言われたときに、わたしは「理 想」ではない、「考え方の原則」に過ぎないと、言下に反論したのを記憶している。なんでもかんでも「多々ますます弁ず」などという不自然な「全部説」では ないことを、今一度確認しておく。
 では「リーズナブルな引き算」とは何か。
 何を「原則全部」から引いてゆくのか。
 当たり前だが、第一に、先ず「その所在自体が捜索不能」なものを、無理やり探すことは出来ないのだか ら、当然に引く。どれほど在るのかも、誰にも分からないだろう。但し幸いに発掘できて、意義も出典もわかり、包摂になじまない自律した漢字は、ともあれ保 存収集する。当然のことである。
 次に、「包摂」という考え方を、原則として強く容認し、同じ意義と用字法をもち、あまりに偶然の書法= 書き癖・筆癖・気まぐれ・誤記等で、形に変化こそあれ本来「異字」度の希薄な異体=異形字は、賢明に包摂し、大胆に整理することで、大きく「引き算」す る。将来にわたる原則的な大課題として、包摂による引き算を敢行する。
 もの凄い数の、本来は同じ意義と用意の、ただ偶然の書字癖や写字癖や誤解にもとづく異形字・異体字・放 恣な造字等が淘汰されるであろう。これは、最初に述べた「尊大・傲慢」とは、全くべつごとの当たり前の処置である。なぜなら、伝えられた漢字の殆どは、 「手書き」されてきた歴史・時間が圧倒的に長く、「手書き」の偶発的な変容・変態・変形に一々重きを置くことの非合理なことは、あまりに明白だからであ る。
 当然次には、アイデンティティの名においてされる「氏名・地名」漢字における、あんまりな異形字・異体 字は、これを整理し包摂するのを「原則」とし、「引き算」を有効に進めるべきである。それには意識改革等を働きかける「現代の知恵とキャンペーン」とが相 当の時間必要であろう。言うまでもなく、これらを原則として整理してゆく作業もまた、「尊大・傲慢」には当たらない。異民族による弾圧的な創氏改名は知ら ず、人間や家系のアイデンティティを、奇抜な漢字使用の固守で計ろうなどと謂うミスチックな思想の方が改訂されてゆくべきである。 わたしの姓字も戸籍謄本では現用の「秦」とはかなり奇妙に異なる字形で、どんな文字セットにも入っていないが、困るとは思わない。戸籍の方を直したいとす ら考えている。「秦」は秦の文字形で活字社会では常用され、同じ一つの意義を広く認められている。それでいいではないか、戸籍謄本どおりの字でないとアイ デンティティが失せるなどと謂う衰弱した思いは、わたしには、無い。拘泥しないで包摂に賛同してくれる人の増えてゆくように、現代思潮を先導してゆく働き などをこそ「文字コード委員会」も持つべきではないか。(四月九日)
 以上を踏まえて、「これ以上漢字の追加をする必要は、ある」との「前提」は、今後も「原則」として放棄 できない。

* 三時間の会議は坦々と過ぎた。御成門からの三田線を日比谷で下りてみたら、目の 前がいつもの帝劇モールだったので、「きく川」の鰻に惹かれて立ち寄った。菊正宗の正一合で二匹の鰻重をたいらげた。じつに結構であった。きゃべつの漬け 物、蕗の煮物も沢山食べた。有楽町線に乗り換えてまっすぐ帰った。

* さて新機の「やすか」は、まだホームページとFFFTPでの転送が噛み合わず、 旧機「みゆき」で出来ることが出来ないまま、閉口している。「餅」は目の前にあるが焼き方が手に入っていないのである、何としたことか。
 新機「やすか」は、どういうメリットからか、全体40Gが四つに分割されているらしい。Cのウイン 98、Dのウイン2000。これが、各5Gずつ。その他に15GずつEとF二つの空き地が用意してあるらしい。この意味がまだよく把握できない。とにかく も新機で、安心・安定してホームページ活動が維持継続できるようになりたいが。ADSLの加入などはその後のことである。

* ぐったり疲れているのが分かる。暑さである。明日はペンクラブの理事会。
 

* 五月十五日 火

* 細川弘司君の描いてくれたわたしのプロィールを、機械で再現してみて、たいへん な力作・秀作であることを認識した。わたし以上の、と謂うのもヘンだが、陰翳ひとつつけないただボールペンの鋭い線のめまぐるしいほどの回旋のなかに、確 実にわたしが生きた視線をもち、しっかり確立し生動している。空気をはらみ立体的に存在して微動もしていない。
 いま電話で話して、かれは今度は酒ぬきで描きたいと言うのだが、いやいや酒の勢いも幸いしていたかとす ら想像される。力のある画家というのは凄いというしかない魔力をもっている。

* 睡眠時間が減っている。この数日、夜中に寝入って七時前後に起きている。すこし 機械からはなれて、またまた溜まってきているデスク仕事を片づけにかかりたい。

* 午後のペンクラブ理事会の議事には、も一つ乗り切れないものがあった。一つには 梅原会長が珍しく欠席、さすがに彼を欠いた会議は、それだけで、空気の抜けたボールをドリブルしているようなもの、正直に言って気が抜ける。

* 先ず、ハンセン氏病に関する適切な法改正を怠ったまま患者差別のあったことに関 し、国に有罪判決のあったのは最近のことだが、政府に対し控訴を避けよという「声明」文が提出されていた。国にも政府関係者の中でも反省と謝罪の弁があ り、おそらく、この件で国の控訴は無いように、無いであろうというのが希望的観測のように思われる。小泉は国民的な心情に票をとうじるだろうとわたしは感 じている。その逆は、今の支持率から見て得策でないのはハッキリしている。
 声明は決してわるい話ではない。だが、出すなら判決の下りる以前でありたかった。季節柄「六日のあや め」でなければよいが。ただ、有ってはならぬことだが、国が、政府が、メンツのために一旦控訴して以後に和解と謂う姑息なこともやりかねない。そんなこと では改革の小泉内閣が泣く。人道上も落ち着くところへ落ち着いてほしい。

* ついで、日本の文学作品を外国語に翻訳して貰うために、例えば京都に「翻訳の 家」を設けて、外人翻訳者に常時仕事をして貰えるようにしたいと働きかけてくる公的団体があり、ペンは協力しようという。趣旨は大筋反対すべきこととは思 わないが、なんだか、シマリのない話にも思われる。なんと、その「翻訳の家」なるものに使わせよと、南禅寺の細川別邸へもちこんで断られ、旧谷崎邸で断ら れ、瀬戸内さんの寂聴庵跡で断られたと。京都人にはビックリのセンスだ。とても「ツロク」しないのである、現実的な判断が的確にちっとも働いていない。 で、仕方がない、明いた寺ならいっぱいあるから何処かを梅原会長が探されるというが、外国人が「翻訳」という仕事をしながら「生活」のできる場所と配慮と が、どれほど京都の秋や同然の荒れ寺で提供できるのか、満足して貰えるのか、だれが世話をするのか。ま、ご成功を祈るとする。
 それより何より、理事の米原万里さんも発言したように、いきなり外人に日本文学を翻訳してもらって、い きなり文学的な佳い翻訳がどんどこ出来ると考えるのは、暢気すぎた話に思われる。ひと味重ねた工夫が必要ではないか。
 もう一つは、こういうことをやることで、本当に日本文学が酬われるのか、それとも関係者少数の奇妙に権 威的利益行為だけが偏跛に目立って終わるのか、気になる。
 なにとなく、この種の「予算分捕り」案こそが役人がらみの終局意図で、「文学」や「ペン」は、ただダシ に使われるだけという成り行きにならぬよう、ぜひに願いたい。むしろ日本人のいい翻訳者をもっと助勢・育成できるように有効な金を引き出したい。
 この話題でも、「国」と「役人」をうまく「利用」し、これを好機にこの際文学芸術のために予算が多く取 れれば、「日本文学」の為になると、わたしにはどうもおタメごかしのように聞こえる情け深い発言も続出していたが、これまた気のいい話である。わたしの気 分は、お好きにどうぞというところだ。国は国、役人は役人だ。 彼らがやることを妨げようと言う気はないし協力すべきはするが、「これを好機にこの際」国や役人の言い分を「利用」して「文学」のためにしよう、素晴らし い話ではないか、などとは、わたしは考えない。文学者・芸術家なら、なるべく国や役人とは遠のくようにして本分を守りたいとわたしは思っている。「利用」 なんてことにかけては、国や役人の方がわれわれよりも何百倍も長けてしたたかであるのは明らかであり、甘い気分ではいけなかろう。
 そもそも昨今のペンクラブ理事会に限って言えば、「利用」だの「金」だの「興行・見せ物」の話題に熱心 なほどは、とても、そんなに「文学」に熱心な集いとは、実感できたことがない。入会者審査のための提示著書にも、とてもとても「文学」とは無縁なただの本 の題が、大手を振ってまかり通っている。著述・著書必ずしも文学でなくて構わないのだけれど、大先輩の伊藤整、高見順、あるいは島崎藤村でも川端康成でも 三島由紀夫でも永井荷風でも、こういう物書きたちの今様にどんな顔をするだろうと思ってしまう。

* 他にもいろいろあったが、割愛。五時に終わって、すぐ東京會舘を出た。とにか く、用のない限り一刻も早くその場から離れたいと思うことの多い会議なのである。あとの時間を楽しまねば身も気分ももたないほどの会議である。
 
* さて今日も、理事会の始まる前に、ある人から、わたしのホームページで、「奥さん」との「お楽しみ」 がびっくりするほど多いねと、冷やかすよりも本気で驚かれたのには驚いた。ま、だが、驚くまでもなく、いっつも誰にも言われつけていて、ことに子ども達が 家にいなくなってからは、わたしの外出や遊びは妻といっしょがもう常時のことになっている。狭苦しい「家」では出来ない、出来にくいお楽しみを「外」でと いう秘めた気持ちが、かなり老いてきた二人共に、ある。回春の意識と無意識とがあるのやも知れず、そして、なかなか愉快なことも、ある。お疲れのことも、 ある。老愁よりは、時節遅れにでも春愁を味わっている気で、恥じ入ってもいないし、食べてばかりいるわけでもない。
 近年の東京で、妻とわたしの比較的好きなのは、まず上野。博物館やいろいろ有るし。また浅草、そして銀 座。この三点、地下鉄で移動しやすい。千代田線も三田線もいろいろに便利である。休息して、食事して、上野にも浅草にも、妻も大好きな寄席・演芸場があ る。上野浅草とは銀座の有楽町線へもたいへん便利で、上野広小路で寄席「夜」席のたとえ中入り後を楽しんできても、帰りは、以前よりずいぶん気軽にラクに 保谷まで帰れる。
 今日は保谷まで帰り着いてから、また寄り道して、もう少し赤ワインを楽しんだ。世の若い人たちも、われ われ老夫妻のように、せいぜいおおらかに安心して楽しめばいいのである、楽しめる機会には。

* 田中真紀子外相が、予算委員会で集中砲火を浴びている。浴びれば浴びるほど、浴 びせている方のウサン臭さが浮かび上がる。田原総一朗の番組で、前総理森喜朗が、よせばいいのに、愚かしく、まっ赤な顔で外相を罵倒していたが、その言い ぐさには古き悪しき自民体臭が乗り移っていて、こっちの方が恥ずかしくて見ていられなかった。バカさ加減、少しも直っていない。あれだけの低支持率にまる で意味が無かったとでも思っているのだろうか。
 自由党の予算委員会質問者の、なにを錯覚してのことか、空疎に居丈高な田中真紀子「虚言癖」「心異常 者」呼ばわりなど、小沢一郎の自由党も、つまらぬヤツを抱えているものだ。大人の藤井代議士などに質問させればいいのに。
 社民党の辻元清美代議士には期待をかけている。土井たか子を継げる逸材である。

* 両国のちゃんこ「巴潟」で、なまじ座敷にまではせ参じて妻は、夏場所直前の、腰 に故障の大関魁皇に握手などしてきたものだから、大事な初日にだけは負けさせたくないわと張り切っていた。幸い初日二日目と強い相撲だった。今日は残念な がら上り坂の琴光喜に負けた。残念残念。
 

* 五月十六日 水

* 「みごもりの湖」上中下が山口大学の教室で教科書につかわれることになった。本 も届け、入金もあった。ありがたい。作者からいえば遙か昔の創作が、現在の感興と批評とで若い文学専攻の人たちに読まれるというのは冥利である。

* 六時に池袋で、もと編集者のN氏と誘い合い、夕食をともにした。もっとも夕食は 私がして、彼はかるい食べ物だけで、酒、酒また酒。わたしは、あまり飲まなかった。定年退職した人のそこはかとない寂しさを感じさせた。
 あと三十年生きなければならぬとしたら、定年の何のと言っていられない、これまでとは異質別種の元気さ で日々を新たにする気概をもたないと、三十年の重みに堪えられなくなる。三十歳から六十歳の三十年分と同じ重さ・中身の老後三十年を生きることは、体力・ 気力の点でいかにもつらく不自然だろうが、またその一方で、三十歳から六十歳まで三十年分の重さも中身も全く無くなったカラッポでその先三十年を生き続け るのも、恐ろしいほどの「空虚」に苦しむことだろう。本気で考えなければならない長い「人生三学期構想」に、個々の老人も、社会も、政治も、まともに取り 組むときではないか。N氏は、わたしよりも若いのだ。

* 昨日の理事会で、一人の退会届が審議されていた。知らぬ人であったが、日本ペン クラブに「体質的な違和感」を感じたので辞めたいという理由であった。そういうことは有ろうなと思い聴いていた。その当人のニューヨーク、ブルックリンか らの手紙が、わたしのところへも今日届いた。サラエボでの世界ペン大会に参加して演説した日本ペンの一理事の、サラエボ認識に対する、また大会での態度や 姿勢に対するきつい批判がいろいろ書かれていた。書かれている限りでは理解出来る、共感できる一つの考え方であり不満である。他国や他民族への respectをあまりに欠いているということであろうか、ありそうな話である。むろん批判されている人にも一理屈は有ろう。
 けれど、いまどき、こういう質的な議論や感情で自分を表明する人のあまりに少なくなっているこの世間に も、わたしは不安を覚えている。喧嘩をせよとは言わないが、文学者を自認している人たちの世間に、知名度や肩書きに惑わされ浮かされて世辞追従にちかいこ とを喋り散らす人がいると、虫ずが走るのである。

* 今年からお茶の会の地方ブロック青年部長をやることになり、週末に総会と呈茶席 を持ちました。この時季の札幌は花が次々と咲いて、何を使うか迷うほどでした。藤原雄さんの小さな蹲(うずくまる)に、風車、カタクリ、山荷葉を入れてみ ました。
 「遠山無限碧層々」の色紙は、高い境地を表していましたが、実際は幽玄の境地ではないですね。初対面の 私に、ご熱心にいろいろ吹き込んでくれる、子分を連れて肩で風を切って歩く、いろんな人がいるものです。全国どこでもそうなんですねぇ。やれやれ。
 翌日は、職場の花見で公園へ。桜ではなく梅の花です。北海道は梅前線が桜前線に抜かれてしまうようで す。満開の白梅と七分咲きの紅梅の下で、仕出しのお弁当を広げ、朱杯で大吟醸をつぎ回り、柳桜園のお茶をササッと点てました。茶碗の中に花びらも舞い込 み、お茶に全く縁のない研究者たちが「おいしいー」といってお代わりをしてくれました。
 「お茶の世界」以外の人が純粋にお茶を楽しんでくれる。茶ノ道廃ルベシです。

* 人によってどうか分からないが、わたしには目に見えてくる情景であり、情景を把 握している書き手の余裕が文章を生かしている。メールとはいうが、「つれづれぐさ」になりうる風韻を帯びている。

* メールで別の人から一本のエッセイが送られてきた。読んだ小説、観た映画を通し て語られているのだが、一つには多様で不特定なインターネット「読者」が、まるで勘定に入っていないエッセイで、例えばいきなり「アンナ」と出てきたのが アンナ・カレーニナのことと分かるのに、けっこう読み進まねばならない。原作を読んだことのない読者、映画を観たことのない読者には、はなはだ分かりにく く、書き手の「思い」だけが露骨に取り纏めて書き込んである。このわたしの「私語の刻」なみの主観的な日記ででもあるなら、たんに「私語」であるのならそ れでいい、が、随筆という自立した文藝作品の場合は、「私語」だけでは成り立たない。たとえば短歌の同人誌に短歌の話を、映画雑誌のなかで映画のことをと いうふうに予測できる読者の世間が狭ければ、「私語」でも通じる可能性は高い。しかしインターネットの文藝は、その点、かえって厳しい条件に適わねばなら ない。書き手だけが分かっているのでは感心できないのであり、限度は有るにしても、あくまで読み手に伝えて読んで欲しいという書き手の親切心も厳しく要求 される。
 随筆には、ハートの柔らかみが表現にも生きていて欲しい。漢字の熟語を叩きつけてくるような表現では硬 直した演説を聴くようであるし、また、漢字の熟語は一語に多くを包含できるかわりに、つい、その含蓄に意の有る多くを安易に託してしまう手抜きになりやす く、文章の生気が記号化されて、いっそ空疎に陥ってしまうのである。そんなに気張らなくてもと宥めたくなる硬い文章は、観念的空疎に落ち込みやすい。自分 の感動や印象を、くだいて具体的に伝えようとすればこそ随筆になるのであり、そこが聴きたいと読者のおもうところを、軽便に既成熟語で済まされては、随筆 にならない。考え直して欲しいと思う。
 そうかと思うとまた、あまりにオトメチックにほんわかほんわかと気分だけを書き込んだ小説めかしもした 自称随筆作品も送られてきて、お返ししたりする。随筆を書くのは難しい、苦手だと本気で思うことがある。
 

* 五月十七日 木

* 俳優座で、南方熊楠「阿修羅の妻」を演じた大塚道子の芝居を、今日も妻と観てき た。天気ももどり、空気もさらっとして快適だった。六本木へは練馬から大江戸線で。劇場の真ん前に出られるが少し早く着いたので、近くを散歩し、スタンド 式の、六本木らしい洒落たパンカフェに入り、出がけに届いていた新しい湖の本のツキモノの校正などした。満十五年らしいあとがきや一頁記事を入れて置い た。本文はほぼ読み上げてあるので、もういつでも校了出来る。発送の用意の方が大幅に遅れている。

* 「阿修羅の妻」の仕上がりは、さよう、上々と謂ってよかった。主演大塚道子の 「妻松枝」の演技は完璧であった。身動きも話術も情意の乗せようも余裕も、寸分の狂い無い、風格も情けもある名演で、確実に演技賞ものだった。「熊楠」役 の松野健一もその他の配役にも特段のソツはなかったし、すすり泣く声もいちじるしい珍しい舞台であった。
 だから満点かというと、物足りない点もあった。
 なにより新劇という新味がなく、昔ながらのいわゆるお芝居で、その意味では旧劇であった。裏返せば、分 かりいいという意味だけでも、説明的で通俗味の濃い芝居だった。斬新な意欲の作ではなかった。よく出来たテレビの二時間ドラマなみであった。この脚本のま ま、この演出のまま、歌舞伎役者が歌舞伎座で上演することも不可能でないどころか、やすやすと演れる。富十郎か左団次の熊楠、藤十郎か松江あたりの松枝な ど、と配役までつい想像していた。それほど芝居の作りが世話に手慣れていて、「松枝」役だけがじつにしっかりしているのに比べると、「熊楠」ですら、部分 部分では底荷の不足したテレビドラマふうの科白と身動きになり、神官も女中も芸妓も漁師や樵も新聞記者も、みなテレビドラマふうの軽みへ軽みへ流れかねな い危うさが終始つきまとっていた。リアルに演るしかないように作られた台本なのに、ほんとうは、リアルには演れていなかった。袋正ほどのベテランが演じる 神官役にも、由緒と格式を背負った重みも実質も足りなかったし、その妻女つまり松枝の老母役も、白髪のまま舞台でひょこひょこ駆け出しかねない軽率な神職 の妻で、文字通り軽薄に演じていた。由緒有る神職の家の深沈とした重みが見いだせなかった。女中の演技にしても、役の理解じたいにテレビドラマっぽい薄さ が出て、戯画化されていた。もっときまじめにきまじめに演じれば、かえって質実感の中に、えもいわれぬおかしみや面白さが出るだろうにと、惜しかった。
 なにより世界的な大学者「南方熊楠」の、半身は地の闇に沈めたような底知れぬ巨大さが、これでは出な い。前半は期待させたのに、舞台が進むに連れ、だんだんだんだん、ただ優しい人情夫婦劇の男役に過ぎない軽さへ、浮かんでしまいそうな危うさ。
 たしかに泣かせる場面も科白もちりばめてある、それすらも、この芝居の根底の大目的から重点を逸らせる 逆の役割をしてしまいかねなかった。こんな人情劇でいいのと、ふと疑問を感じながら、熱い拍手は惜しまない幕切れとなった。わるくはない、が、疑問が残 る、そういう舞台であったから、観ていた間の興趣も感銘も、劇場を離れると急速に薄れた。よくあることだが、今日も事実がその通りであった。かつての「冬 のライオン」はそうではなかった。「収容所からの遺書」もそうではなかった。今でも胸に鳴り続ける感銘がある。「阿修羅の妻」には、なんとなく通俗な中間 小説を面白く読んですぐ忘れるのと似た表現の弱さがあった。主人公熊楠の把握のよわさでもある。ただ一つ、大塚道子の卓越した力量への嬉しさや敬意だけは 忘れられないものになる。確実に忘れまいと思う。もう一度言うが、わるくない楽しめる舞台ではあった。高望みをすれば不足はあったというまでである。

* 小田島雄志氏、杉本苑子さん、また女優の香野百合子さんらと挨拶したり立ち話を かわしたりしてきた。

* 日比谷へ出て、東宝芸能の入っているビルの三階、「東天紅」で久しぶりに中華料 理をゆっくり食べた。わたしはマオタイ酒を小さいグラスで二杯やり、妻は料理がおいしいと満足していた。むろん観てきた芝居の感想を詳細にかわしあったの も毎度のこと。静かな静かな広い店内を、時間も早くて、われわれだけで占めていた。
 銀座一丁目まで歩くうちに宵は深まり、必要な買い物のほかにとうとうDVDの映画を二作、また好物のブ ルーチーズを三種買って、有楽町線で帰ってきた。帰ってからつい観てしまったスチーブン・セガールの映画が三流娯楽作で時間の無駄をした。

* 熊楠の妻が阿修羅の夫に、私の家は私であり、あなたも私の家に住んでいると語っ ていた。わたしの「島」の思想と同じことを言っていると感じた。この夫婦は「身内」を成していたという舞台であったのだ。それはいい。かりにも南方熊楠の 芝居がそこで目的を達してしまうのでは、だが、足りないだろう。「だれそれの妻」ものの弱さである。いちばんの不足を、わたしは今回は演出家の把握に対し て言いたい。脚本はあのままでも気品高い硬質の芸術作にできるものはもっていた。中間小説風のテレビドラマ臭を添えてしまったのは今回は演出家の不出来だ と、わたしはあえて言う。  
 

* 五月十八日 金

* いろんなことに手をつけたが、しかし、今日がどんな日かと謂えば、新機「やす か」で、昨日銀座で選び求めてきたDVD映画を二本観た日だ。画質のいいことに驚嘆する、ビデオテープをテレビの画面に映してきたのが、かなり粗悪な画面 であったことがよく分かる。よく描かれた色絵の磁器の膚のようだ。
 選んできたのは、我が家にすでに山ほど写し取ってきたビデオに無い、少し楽しいもの、と、観たいもの。

* 楽しいのはトム・ハンクスとメグ・ライアンの「ユー・ガット・メール」今はやり のメル友・ロマンチックストーリーで、この二人には似た映画がべつに有り、メグ・ライアンには別の俳優との間で、やはり似たタッチの「恋の予感」がある。 彼女には「戦火の勇気」のような健気ものもあるが、軽快なラヴ・コメディで知り合った仲だ。感じのいい可愛い女優だ。トム・ハンクスは名優の一人だろう、 感銘作が幾つもある。この映画でトム・ハンクスはちょっとメグ・ライアンに意地悪な立場に立ちすぎるが、わるくはない。メグは十分楽しませてくれるし、素 材がEメールというのにも親近感を覚えたのである。しかしわたしはこの二人のように二人だけのチャットに迷い込みたい気持ちは全然無い。メル友犯罪が横行 し始めているその方が疎ましい。

* もう一本は、リュック・ベッソン監督、ミラ・ジョヴォヴィッチ主演の「ジャン ヌ・ダルク」で、フェイ・ダナウエイやダスティン・ホフマンがつき合っている。ミラは「ニキータ」を演っていたのではないか、この映画を選んだのは、だが ミラへの興味でなく確実に「ジャンヌ・ダルク」への関心からだ。
 歴史映画や信仰に触れた映画が好きなだけでなく、「ジャンヌ・ダルク」はわたしが映画らしい本格の映 画、そして「総天然色」といわれたテクニカラー映画を観た最初の題材であったのだ、主演はイングリット・バーグマンだった。震えるほど感動した。新制中学 三年生で、学校から連れられていった。講堂で先生から感想を求められ、手を挙げて何かを答えた記憶があるが、なにを聞かれてどう答えたかは忘れている。た だもうバーグマンとジャンヌ・ダルクが一体になってわたしを強く強くとらえた。以来、外国の映画女優で一番に名を挙げるのは、エリザベス・テーラーかイン グリッド・バーグマンとわたしの場合は決まっている。エリザベス・テーラーとは、この映画より早く、「大平原」だったか「名犬ラッシー」だったかで少女エ リザベスに出逢っていた。
 中学時代の「ジャンヌ・ダルク」は、作の大がかりなことでも、印象として、長谷川一夫の「源氏物語」の ようなスペクタルであった。だが、今日のミラの「ジャンヌ・ダルク」は映画的につっこみが深く、この年で観てもなお動かされる表現であった。満足した。わ たしのイギリスやフランスの王室嫌いの、またキリスト教の教会を疎ましく思う思いの、原点が「ジャンヌ・ダルク」の映画であったことを、鮮明に再確認し た。ジャンヌは、十四五の昔から六十半ばを過ぎた今でも、わたしの中ではほぼいつでも息づいている聖なる存在だ。火あぶりなどという刑罰を為す側より為さ れる側の方にわたしは理屈抜きに心情的に立ちたいのである、いつでも。
 ミラの映画はかなりの大作だが、満足した。繰り返し観ることだろう。
 

* 五月十九日 土

* いろんな日程に追われて落ち着きがない。隘路である。溜まったものの大きいのが 流れてしまえばどっとラクになるが、この時期は流れるよりものの詰まるときで、腹のはった気分ににている。いま、また思いついて、パソコン二機を連結し、 MOをデスクトップへ移してそこから改めてホームページとFFFTPを、win-cに貼り付けてみた。そしてこれを書いている。無事に転送できればOKで あるが。

* 転送に成功した。MOでの貼り付けが効を奏しただけでなく、FFFTPでの ちょっとした手直しがものを言った。悪戦の経験も生きた。四月二十九日に、布谷君が機械を組み立てに家に来てくれて以来、二十日めに、高いバーを越えた。 半年ほど苦闘していた気がする。

* 布谷君と電話で、細部の疑問を調整した。周辺機器が、余儀なくデスクトップに MO、ノートにスキャナと外付けとプリンタ、と分かれているので、当分は或程度の不便は免れないが、もっぱらデスクトップで基本的な作業はできることに なった。感謝にたえない、また充実感に恵まれている。ホームページの容量を、とりいそぎ、30MBにまで増量しておきたい。

* 「個人情報保護法」は国会を通るだろう。先日総務省官僚のヒアリングに参加した ときから、わたしは、問題はもう別の方面へ展開しつつあるのだと予感している。これは「個人情報の大きな有用性」の故に「保護」の名における「管理」意図 を背後に隠した法律だとわたしは考えている。報道関係をはずすとかはずせとかいう攻防は、あまり法の執行者側からは問題ではないように思われる。問題点 は、今度のこの法の、すぐ先の延長上に、「個人情報」の「収容」と「保管整備」の法的・支配的意図がすでに進行しているだろう一事である。進行しているに 違いない、少なくももう議論され視野に納められているだろうというわたしの勘が、もし当たっていたら、早晩、国民総背番号制の現実化が表立つ話題として政 府筋か自民党筋から意図して流され始めるだろう。
 いろんな事情から人的情報に多くを頼れず、犯罪検挙率をものすごく落ち込ませている警察ないし背後の国 は、それに代わるサイバーポリスの能力に、たとえば盗聴能力に頼ったサイバーポリスの効果的な始動と展開に、拍車をかけつつあるだろう。「個人情報保護 法」はもうメでないように思う。「個人情報支配法」を憂慮して、未然に防ぐことを考えておくべき時機だとわたしは考えている。  
 

* 五月二十日 日

* たしかに政治と国会の議論に注目度は増している。小泉内閣の人気はあきらかに異 様というしかなく、そういう支持率中の一人でありたいとは思わない。ただ、これまでとはお題目だけでも異にしている彼らに、ともあれ半年はやらせてみた い、何が出来てゆくのか見極めるために。いますぐ橋本派や亀井派がまたぞろ代わりにでてこられるのは我慢ならないし、鳩山由紀夫の率いる民主党に大きな期 待はかけられない、菅直人なら少し違うが。「共産」党も望みはないし「社民」党も土井たか子と辻元清美のほかに誰がいるのかも分からない。
 田中真紀子にはいわゆるウロがきている。小泉首相や塩川財務相らのくそ落ち着きにくらべると政治の実務 家としては素人だったことが露呈している。しかし素人のよさもある。落ち着いて、生来の馬力を再始動させてやりたい気はある。ずるずる退るのは危ない、カ ウンターパンチを狙うのなら別だが。竹中経済産業相の明快な議論が政策実現の中でも明快に出てきてほしい。いい人事のように見えている。石原慎太郎の息子 (名を失念ノブテル)がかなり意識的なソフトトークに徹している。何がどれほどやれるのかを見ていたい。これまでの行動では土壇場へくると水遁の術のよう に姿がかき消えていたりした。口舌の徒なのかそうではないのか、今は好意をもったまま注視している。

* 買ってきた「ジャンヌ・ダルク」は、ジャンヌその人への痛烈な「批評」を神自ら にさせる描き方をしていて信頼できる。ジャンヌが誠実に、混乱しながらも批評に堪えて理解してゆく最後のプロセスに救いがある。間違えて四千円もする(ト ムとメグとの盤の二倍)のを買ってしまったが、それだけの値打ちがある。わたしはもともと歴史映画も好きなので。メル・ギブソンの「ブレイヴハート」もわ るくなかったが、それよりも更に質実な刺激をくれる、この「ジャンヌ・ダルク」は。
 

* 五月二十日 つづき

* 詩人画家、大泉住まいの春陽会の出岡実さんが、この十六日に逝去されていた。知 らなかった。氏の画文集『家持の雲雀』を取り出して見ていて、この表題の文章がほしくなり電話をかけた。奥さんが出られたのでご在宅かと聞き、亡くなられ ていたと知った。叫んで、絶句した。言葉がない。
 出岡さんとは、本当に久しい。亡くなった中日新聞・東京新聞の林伸太郎氏の紹介であった。最初は新聞 エッセイの挿絵を描いて貰ったのだったと思う。五十歳になった記念に和歌山の三宅氏が豪華本の『四度の瀧』を作ってくれたとき、出岡さんには装幀装画を引 き受けて貰ったし、中公新書『古典愛読』の装画ももらった。三点ほど絵を買った。例年暮れのうちには翌年の干支の色紙を、かならず自身で自転車に乗って届 けてくださった。それがこの新年には無かった。世紀もあらたまったことだしと軽く考えていたが、ご病気が進んでいたのだろう。上野広小路松阪屋での定例の 個展にもたいがい出かけていた。穏和な趣味の深い人であった。林伸太郎氏とははるかな昔から名古屋でのお知り合いであったらしい、その林氏とわたしの因縁 にもおもしろいエピソードがあった。それは今は書かない。東京新聞の「筆洗」欄にながく名文を書き続けられ、そこでもわたしに触れた文章をしばしば書か れ、人に訝しまれたほどだった。新聞小説『冬祭り』を書かせてくれたのも、「コラム」執筆を勧めに来てくれたのも、林氏であった。
 林伸太郎に、そして出岡実に、もう死なれてしまった。悲しい。「家持の雲雀」を「e-文庫・湖」第五頁 に掲載し、哀悼する。氏の文章をと思い立って、めったにしない電話をかけたことに、深くおどろいている。

* また「ジャンヌ・ダルク」を、今夜は妻と一緒に観た。胸にこたえた。ジャンヌの 魂にわたしは生き、二十一世紀の現実よりも遙かに強烈にそのリアリティーに触れ、その世界に呼吸していた。火に燃えてゆくジャンヌにくらべて、われわれの この平成十三年など、なにごとであろうと思う。
 

* 五月二十一日 月

* 24日木曜日11時、関空からイタリアに向けて旅立ちます。今回はオーストリア 経由。イタリアはそろそろかなり夏らしくなってきていますので、その暑さ、乾燥の程度にどれだけ順応できるか分かりませんが、多分最初にシチリアに行きま す。これまで南イタリアは行ったことがありませんので、小さな町や村を丹念に廻ってみたい。ひょっとしてギリシアに・・?とも思っています。その後、フィ レンツエで暫く小休止してフランスのロマネスクの教会、巡礼の道に・・。
 私の健康と意欲次第で、無理せず旅を過ごすつもりです。
 この一年を振り返って・・何と慌ただしい・・文字どおり、心、荒れている一年だったのかもしれないと感 じています。荒れているのは旅から得たものを整理しきれていないので、それらが雑然と積み重なりつつあるということです。その時その時、せめてもう少しで も整理しなければ、そして立ちどまらなければと反省しきりです。
 もう少し旅を集中的にしたら、いちど「閉じこもりたい」心境になるでしょう。
 昨日、初めて石本正さんの『絵をかくよろこび』新潮社刊を読んでいましたら、イタリア、ロマネスクと、 あまりに好みが一致!?しているのに、驚きました。
 7月11日、日本に戻ります。帰ってきたら祇園祭りに行きたい。元気に行ってきます。
 大切に、大切に。

* 気をつけて。南イタリアを舐めないように、かなりの荒さと聞いていますから。無 事の帰国を祈ります。
 旅に目的を持ちすぎたり、旅の整理が過度に必要に、また負担に感じられたりするのは、一種の衰弱です。 自分一人の中で黙然と消化すればよろしい、他人は、私的な纏めにも整理にも特別の期待はしていないし、期待するのもおかしい。一枚の澄んだ「鏡」になりき り、写ったものは写し、去るものは去らせて忘れ、それで、よろしい。「旅」を過度に意味づけるのはおかしいし、楽しんで帰ってくれば、それでよいのではな いか。ドンマイです、マインドの塊りサン。
 帰国すると、わたしの、読んだことのない小説が「十五年記念」で届いていますよ。凄まじい掌説集もね。

* メール嬉しく読みました。今から本を楽しみにしています。とても楽しみにしてい ます。旅には「花と風」を携えて行こうと思っています。外国ばかり行きながら、さて日本回帰?みたいでしょうが、一緒に持っていくことじたいが、自分に とって意味あり、そして離れたところにいると、いっそう日本を考えるものですから、心強いヒントをあらためて本から、あなたから受けられるでしょう。ま た、マインドの塊だなんて言わないで下さいね。
 これまでの旅の整理がついていないと嘆くのは、衰弱か・・一瞬、そして今もなかば以上は理解できていな いのですが、そうか、そういう指摘も有り得るんだ、と考えることにします。ただしそれ以上に私が怠け者で、というのが単純な原因・・これは心の衰弱ではな く、なんだろう。ただの怠けで流れるままなら、私は達人?なんだけれど。

*  あなたが、カソリックの国の方角へ向かうのだということを、意識しています。 シチリアなどと聞くと、どうしてもシドッチ神父が懐かしい。それにこの二三日、コンピュータで、DVD映画「ジャンヌ・ダーク」を観てしびれています。
 わたしが、フランスやイギリスやカソリック教会に、そして信仰の問題にふれた、生まれて初めての体験 は、大戦争以上に、戦後の中学時代に見せられた天然色映画「ジャンヌ・ダーク」でした。イングリット・バーグマンでした。今度観たのはバーグマンとはまる でべつのミラ・ジョボヴィッチ主演ですが、ダスティン・ホフマンが共演していて、優れた作品になっています。国会の討論にも目も耳も向けていますが、そう いう関心が白濁してしまい、映画のさしむけてくる問題の方にクリアな、リアルな実在感を覚えています。王位や教会による肉体や精神の支配をきつく嫌い厭う 気持ちは、この映画で芽生えました。
 わたしは、多くの儀式や装飾を身にまとって拝跪と服従を強いる、宗教というよりも権威宗団を信用しな い。仏教は釈迦をはなれ、カソリックはイエスを裏切っています。日本には法然や親鸞やのようにありがたい導師がいて優れた抱き柱を与えてくれました、が、 バグワン・シュリ・ラジニーシを介して、今、わたしは禅ないしは「静かな心」に惹かれています。

* この人のような生活も旅の体験もないので、つい、夢を託するような気分になる。 旅をすれば「奥の細道」を書かねばならぬといったことは、ない。ぜひ書きたくなれば、そのときはいいものを書けばいい。

* 「メル友」犯罪の多発が表面化している。情けない。軽率に逢いたがるのが、いち ばん問題だ。人間同士、逢えばいいというものではない。逢わなくていいと想っている人間関係もあり得ることを覚えたほうが、いい。わたしは、だれとでも気 持ちよくメールで話しているが、ほとんどの人と逢ったことがない。読者と作者とはそういう間柄の「身内」と思っている。だからこそ、個と個との直面が、架 空の個室で、可能になる。わたしは、それをさえ電子の「闇」に解き放とうとしている。
 上のような特に飾りも気負いもない日常的なメールの自然な往来が、わたしをいわゆる作家生活とはべつの 次元べつの日常に運んでくれるのを喜んでいる。

* 今日、ホームページ容量を30MBに増量申請した。日本語で1500万字が可能 になる。文学・文藝で満たしてゆきたい。
 

* 五月二十二日 火

* 気がかり原稿を三つ、書き送った。一つにはこんなことを書いた。

* ちかごろ、わたしの気にしているのは、何だろう。
 手短かにいえば「心」の安売りである。
 テレビでも新聞でも雑誌でも「心」を看板にした企画が多い、いわく「心の時代」いわく「心の教育」いわ く「心のページ」などと。『心の問題』という本もあった。「心」とさえ謂うておれば、世の中、問題なしかの風潮になっている。
 「心」とは、それほどのモノだろうか。「心」が諸悪の根源ではないのか。
 いいや「心」は諸善の根源であり、教育の場では少年少女にもっと「心」を教えねばと、つい最近にも或る 文学者の会議で、座長格の哲学者から聞いた。これが世間でも常識かのようである。
 そうなのだろうか。「心」は、そんなに頼れるものであるか。さきの会議では、座長の「心」善玉説に即座 に否認の声も上がった。声を上げたのはさすがに仏徒であった。尼僧であった。だがNHKのテレビ番組で、禅門や浄土門の高徳らしき僧の口から、どれほど空 疎な「心」尊重の説法を聴かされてきたことか。もう一度問うが、「心」は、そんなにも頼れるものであるか。
 「心」の原初の意味は分かっている。心臓の象形文字である。だが「こころ」の語源は指摘しにくい。普通 の辞書はたくさんな「意義」が挙げているが、語源の詮索は避けてある。出来ないらしいのである。仏教語辞典なら「意・識」を中心に無数の熟語を挙げてい る。英語で謂えばまさに「マインド」である。言い換えれば分別である。頭脳の働きに同調または伴走している。
 人の常識では「こころ」は目に見えない。形もない。在るとしてどこにどう在るかが分からない。つかみど ころがない。
 だからつかまえようとは「試み」なかったか。そうではない。「心見」の試みは、いろいろ為された。工夫 された。あんまり日常的な努力・工夫であったために、気づかずに見逃しているけれども、人の「こころ」との取っ組み合いは久しく久しいのであり、証拠は山 ほど積もっている。その一つが、私の謂う「こころ言葉」である。
 例えば文学の表現は、心の微妙なところへさしかかればかかるほど、「こころ言葉」のお世話になり続けて きた。あまりなり続けて決まり文句めき、文章に新鮮な冴えが無くなりかねぬところまで、ずいぶん、ご厄介になってきたのである。
 「こころ」に、温度というものがあろうか。立証はできない、が、「心が寒い」「冷たい心」「心暖かい」 「熱き心」「心温まる」「心も凍る」などと謂うてみることで、心の在りようを分かりよくしたには相違なかろう。「こころ」には、堅さ・大きさ・形など
無い筈と分かっていながら、「心やわらぐ」「堅い心で」「心を大きく」「小心な」「歪んだ心」「心を真っ 直ぐに」などと謂う。なんとも分かりが早い。「赤き心」「心を暗くする」「明るい心で」「心の闇」「心が晴れる」などとも謂う。
 本来は無いのであろうことを、自在に比喩し付託し示唆して、「こころ」を、可能な限り、つかみどころ有 りげに仕立てて来たのである。
 「こころ」を、「閉ざし」たり「開い」たり、われわれは、しているようだ。「心の隅」「心の奥」「心の 底」「心の内」「心の襞」などと、さも容れものめいて想ってもいるし、「心構え」だの「心の扉」などと建造物のように眺めたり、どこかしら底知れぬ世界へ 「心根」を下ろしているのだとも推量している。
 それどころではない。
 「一心に」打ち込んでいるかと思うと、たちまち「こころ」は「騒ぎ」「乱れ」また「舞い」「浮かれ」た り「病み」「やつれ」たりして「心ここになく」荒れ「狂う」こともあり、また一転、「心静かに」「心澄み」「心清く」冴え渡ることもある。
 「心づかい」しても「こころ」は減らない。遥か天涯に「心を馳せ」てもたちまちに戻って来れる。「心行 く」ことも「心残り」なこともあるのが「こころ」であり、「無心」にも「有心」にも「一億一心」にもなり、「こころごころ」に「心砕け」ることもある。
 「心を配る」ことも「心掛ける」ことも「心を用いる」ことも「こころ」には可能であり、「心弱く」も 「心細く」も、また「心丈夫」にも「太ぇ心」にもなれる。「心得て」いるのかと思っていると「心を失っ」ている。「きれいな心」も「きたない心」もある。 「心化粧」がちゃんと利くのである。「良き心」にも、「悪しき心」はもとより、「直き心」にも「ねじけ心」にもなり、「深い心」にも「浅い心」にもなる。
 「心あて」「心任せ」「心次第」「心のままに」何でも出来ると思っている。成行きによっては平然と「心 にもない」「心得違い」もしてしまう。
 挙げれば大事な有効な「こころ言葉」は、もっともっともっと沢山有る。
 問題は、何故そんなに有るのかだ。何故なんだろう。「心知った」人と共に生きたい。「心安く」「心親し く」交わり、生きて行きたい。「安心」が何よりだと、たいていの人は願っている。だが他人の「こころ」はもとより、自身の「こころ」ですら容易に把握でき ないのが正直な感想ではなかろうか。「心知る」ことが大事な希望でありながら、その「こころ」というヤツの正体は厄介きわまって、屁にはあるにおいすら、 無い。形象も色彩も大小も硬軟も温度も働きも、見れども見えず、掴みたくても掴みとれない。どこに存在しているのか、心臓か頭脳か全身にか、どこか空中に 浮遊しているのか、みな分からない。今でも本当のところは分かっていなくて、諸説紛々がいいところのようである。
  人の心は知られずや 真実こころは知られずや
と、室町時代の人々が小歌にして、嘆いている。洋の東西古今の別なく同じ嘆きを、今も続けている。自然科 学がなにもかも明らかにしたなどとは、自然科学者自身がいちばん言いづらい筈なのである。
 なににせよ、「心知る」ことは容易でない。その分からない「こころ」を分かりたい・知りたいと思って 「心見」た最たるものが、「こころ言葉」の発明と運用であり、日本人の知恵のひとつとして、たいした遺産なのである。観念的などんな「こころ」論よりも、 存外に具体的に「こころ言葉」の収拾と解析とが、多くをもたらすのではないかと思いつつ、日本人と日本文学の「心」をわたしは考え続けてきたが、道は遠 い。言えるのは安易に「心」は頼れないという真実だ。
 ブッダは、「心」が肝腎だなどと説かれただろうか。般若心経の「心」はいわゆる我々の多用する「ここ ろ」の意味でなく、中心にある大事な、根本のと謂った評価・形容語であり、大事に説かれているのは「無」「空」であろうと誰もが読んできた。いわゆる 「心」も、無に空に、つまり「無心にあれ」とこそ説かれていて、「心=マインド」という「分別」を根源の「ケイ礙=障り」としている。障りが失せ無心が得 られれば、何の恐怖有ることもなく、一切の顛倒夢想を遠離しついに涅槃に至ると。「心」とは「顛倒夢想」の巣であることをみごとに証明してみせるのが、無 数に生まれた、生まれざるを得なかった日本の「からだ言葉」である。無に帰する以外に所詮は把握もできず意義も確かめ得ない「心」なのであり、「心」を説 いてやまない人の多くは、いわば「顛倒夢想」の範囲内でより好都合に心理的な「心」操縦術を賢しげに説いているに過ぎぬ。いわば銘々が勝手な「こころ言 葉」を用いて自説を補強しているのであり、だから言うことは勝手次第にさまざまで、ちょうど何を食べると健康によいという類の「情報」と、少しも違わな い。あっちではああ言い、こっちではこう言っている。そしていよいよ現代人の「心」は乱れ・騒ぎ・砕け・散って「心ここになく」貪瞋癡(とん・じん・ち) に狂奔する。するしか道がないかのように「心=マインド」が祭り上げられ、あたかも強要されているのである。
 「心に、ふりまわされてはなりません」と、なぜ説かないのか、現代の僧や宗教家たちは。根本をまちがえ た哲学学や宗教学や心理学のエセ説法がはびこり過ぎ、世を過っている。安心とは無心であるとまっすぐ説く仏徒、「心」よりもいっそ「体」を大事にしなさい と説く思想家・教育者に出会いたい。
 
* 折しもあれ、老いを考える対談が、やっと速記録に山折さんの手も入って、もう一度届いてくると通知が 来た。京都行きの汽車の中での仕事が出来た。だが、その前に、国語・国文学会での話を用意しておかねばならない。司会者から七項目ほど問いを受けている。 なんだか、やたら知った人に逢いそうで気恥ずかしい。「楽しみにしています」などとメールをもらうと身が縮む。

* 次には近代文学館の川端康成に関する講演が控えている。館に所蔵の川端さんの手 稿を見た上での講演で、まだ観に出かけていない。仮の題を出せといわれ、何の成算もなく「川端康成の深い音」という題を出任せに提出しておいたが、我から 難題を背負い込んだ。仕方なく、好きな「雪国」から読み出している。「山の音」に期待をかけよう。
 竹内整一東大教授から依頼の連続講座の結びの講演も、心用意を怠っているととんでもないハメに陥る。た だ、およそどの仕事をも貫いて、わたしの気持ちはもう或る方角を求めだしている。それは大きな仕事であり、いま、口で人に説明しても通じないだろう。大き く取り纏めて一つの主題に結晶させ得れば、わたしは或る老境へまっすぐ歩み入って行けそうだ。『静』の探求である。

* せっせと仕事に励んでいたら、声援が翔んできた。

*  お祝いをしましょう。桜桃忌には一ヶ月弱早いけれど。
 昨日は息子の十九才の誕生日でしたの。相変わらず元気なわたしの「オーラ」は、バランスがよく、とても 強いらしいのですって。ホントかな? でも、嬉しいな、ということで。月様もご一緒に祝ってほしいな、と。お肉を少しばかりお送りしました。今回は、脂が少なめでシャブシャブ用に薄切りにした ものと、霜降りのスキヤキ用とを、セットしてみました。食べくらべてみてくださいね。体力増強?で、暑さと、控えているお仕事を乗りきってください。病い にはご油断なさいませぬように。くれぐれもご自愛を。ご本、楽しみにお待ち申しあげております。 花籠

* 今夜半にはうちの息子がこっちへ来るという。明日、いっしょにご馳走になれれば 二倍も三倍もおいしいだろう。桜桃忌までには送れるだろう新しい作品が、花籠さんを喜ばせ得るかどうか。発送の用意もまだ峠を向こうに眺めている。

* hatakさん。
 昨年末急逝した上司の、残された家族が故郷の宮崎に帰られることになり、今日は官舎の引越でした。雪の 中で通夜をした家も、今は花盛り。天気良く、暖かく、荷物はあっという間にトラックに積まれて行ってしまいました。がらんとした家で、車座になってお茶を 飲み、六花亭の菓子などつまんでいると、窓の外にエゾリスが。向こうの芝生にはタンポポが群生して、風が吹くたびダンスのようにゆらぎます。花も「たくさ ん」が好きだった故人を思いました。
 フォントサイズが大きくなりましたね。読みやすくなりました。HPをひらくと、文字がダダダッと、溢れ 出てくるようです。間欠泉のようです。はじめて見る人は、すこし恐いかも。
 ご講演、稔りありますようお祈りしてます。
 

* 五月二十三日 水

* いま何よりも気にし願っているのは、内閣が、ハンセン氏病患者への判決に、控訴 といった姑息で誤った行為に出ず、法の判断に正しくそった決意を示してくれることだ。控訴期限へ二日。小泉内閣の精神があらわになる正念場の一つだ。この 事態に立ち至って、日本ペンの「控訴するな」の声明は適切な意義を得ていた。先の理事会当日の「私語」を修正する。

* 確かなものに触れていたいと胸の深くで痛いように渇望している。川端康成のいま 『雪国』を読んでいる。川端の文章表現、いや文学は、この昨今では嬉しいほど確かなものに感じられる。読んでいる間はまぎれなく安心の境に身を置いていら れる。そしてバグワン。どんなにキツく気持ちのささくれたときも、バグワンに戻れば拭うように本質の時間に帰って行ける。少なくもそういう気持ちになれ る。
 禅の語音はディヤーナ。禅寂、寂静、静慮。老荘も荀子も、ブッダも、バグワンも、ここぞという核心には 「静」一字を置いて示す。『心』に苦悩した漱石は知っていた。「お嬢さん=奥さん」にだけ「静」という固有名詞を配し、「先生」「K」「私」たちの揺れる 心を痛切に刺激した意義は深い。「静かな心=無心」こそが漱石の願いであった、が、得られたかどうか。「則天去私」の四字を、わたしは少年時代から漱石の 見果てぬ渇望であったと直観してきた。絶筆となった『明暗』はあまりに「騒がしい」ではないか。明と暗といった二元対峙をまだ念頭にしていては、「静= ディアーナ」は覚束ない。ヒロインの名に「清」を持ってきた意識は深いけれど、それも得られたとは読めぬ。

* 「月光」「悲愴」「熱情」に限っては、いま聴いていたグレン・グールドよりも、 アシュケナージやホロヴィッツの演奏の方に癒される、いまどきのはやり言葉を借用するなら。グールドは天才だと想うが匠気かと感じさせるさわがしさも蔵し ている。それがベートーベンのように「何か」在る人の曲の場合にはわるく乗って匠気を前に出してしまう。バッハのように音楽に徹して他に「何も」感じさせ ずにすむ曲の方が、グールドの音楽を無垢に透明に響かせる。

* 昨日のお宝鑑定団で狩野常信のぼろぼろの屏風が出ていたが、一見して間違いなく 見えた。こんなものが土佐の国に今も隠れていたかと驚嘆した。絵も落款も、一目見て凛々と紛いようのない秀作だった。鑑定を聴く前から確信できて、よそな がら嬉しかった。むろん鑑定も真作と認めた。あの番組にはこういう喜びがついてまわる。
 もう一点、梅逸のとても佳い作品が出て、これも一目で優れていると分かった。下村観山の真作とみられた ものが、わたしには、そう読みとれなかった。

* 日本美術の現代作で、これはと舌をまく経験を、しばらくしていない。よろしくな い。
 

* 五月二十三日 つづき

* 確信に近い期待はあったが、小泉首相の政治判断により、ハンセン氏病患者訴訟へ 国の控訴が回避された。思わず泣けた。このような判断へ政府の踏み切った例が、かつて一度でもあっただろうか。福田官房長官の会見も、要を得て情理を通し た佳い内容で。
 こういうことの、ついに行われる内閣をもてたこと、やはり奇跡かと思うほどだ。控訴に踏み切れば小泉内 閣の支持に暗いかげを落とすのは必至であるから、そういう政治判断に過ぎないと軽く言う人も出てこようが、それでも歴代内閣なら絶対にこの決断には背を向 けたに違いない、明白である。よかった。感謝したい。

* 四国からうまい牛肉がたっぷり届いた。花籠さんの一月早い桜桃忌の、そして湖の 本十五年のお祝いである。忝ない。昨深夜に来ていた建日子といっしょにご馳走になった。サッポロの発泡酒というのを半ダース買ってきた。おいしい肉であっ た。ことに肉の好きな息子が喜んでくれた。満腹した。

* 「雑纂 2」に入れていた「e-文庫・湖umi」寄稿者へ編輯者からの手紙は、「文庫」の第20頁に入れることにし、移転した。「雁信」も書き加えた。わたしの姿 勢がはっきり見える。

* ジャンヌ・ダルクは私も感動した映画でした。暗い暗い映画なのに、画面に引き込 まれました。「グランブルー」と同じ監督リュック・ベッソンの作品と知っていましたか。全くタイプの違うあの「タクシー1」「タクシー2」もそうです。
 つい先日、日本を舞台に、広末涼子、ジャン・レノ主演で映画を撮ると、三人揃っての記者会見を観まし た。
 もし、次回、何を選ぶか迷われた時は、
「オールアバウト マイマザー」
「エリザベス」
「恋に落ちたシエクスピアー」
を、是非にとお勧めです。
 昔、「紳士協定」というユダヤ人差別問題を扱った佳い映画がありました。紳士協定、最近この言葉が気に なります。

* 政治判断が適切なよい判断である稀有な一例に立ち会えたことは、新世紀の喜びの 一つとなった。わるく言う者の一人もいないことに感動している。

* カウントが出せなくなった。理由が分からない。アクセスの数に意識を持ちすぎる のはよろしくなく、直しようも分からないので、当分放っておく。
 

* 五月二十四日 木

* 「私語の刻」を拝見しますと、お忙しいようすが伝わってきます。近くにおりまし たならば、湖の本の発送作業のお手伝いをしたいところです。真夏のようかと思えば急に涼しくなったり、おかしなこの頃です、ご無理をなさらずに。
 ところで、藤田理史さんの「牡丹」(作業頁に仮掲載)を読みました。どのように推敲がすすむのか楽しみ です(などと言っていられる立場ではありませんが)。
 e-magの創作欄のはじめの方に、藤田さんの書いたものがありますね。あれを読んでいるとき、わたし の祖母の話であるような錯覚を何度も起こしました。
 わたしの母方の祖母の場合は藤田さんの(作中少年の)おばあさまほどのブルジョワではないのですけれ ど、むかし、韓国併合当時のソウルに住んでいて、医者であった祖母の父は李の王様の診察をしたとかしないとかで、ま、そこそこのお嬢様だったようです。子 供のときより敗戦で引き揚げて来るまで朝鮮にいましたから、選民意識もあったろうし、それがひいては個人としての優越感をより強くしたのかもしれません。 おまけに生来の負けず嫌い、女学校では顔にできたおできが膿んで長く休んだとき以外、常に一番であったと、本人の口から聞いたことがあります。結婚も「軍 人さんとしたかった」とのたまっておりました。祖父は職業軍人でした。
 これは実は大変な計算ちがいで、終戦ですっかり没落しました。それはそれは貧乏、貧乏の日々(こちらは 今日まで順調に継続しております、はい)。祖父がどこだったか、外国で拘留されているあいだ、祖母は見知らぬ土地でひとり生きる術を身につけなければなら なかったのでしょう、でもどこか学び間違えた。ごみを捨てない、溜める、とっておく。これまた藤田さんのおばあさまと酷似しています。もののない時代を 知っているから、という理由は祖母の場合少し違うように見えます。整理整頓が極度にできない、要は面倒くさがりなのだと思います。
 こういった話はどこの家庭にもありそうですね。
 「牡丹」の今後を楽しみに思っています。
 この間、何冊かまとめて注文いたしました湖の本、まず、「四度の瀧・鷺」を読みました。
 「四度の瀧」は伊勢崎から水戸まで、知っている土地が舞台で、身近に読みました。
 水戸にも二、三度行ったことがあります。茨城県に住んでいたこともあるのです。偕楽園には梅の季節に行 きました。もう、六年くらい前のことです。花粉症の薬を飲んでいて、普段の生活は支障なく、呑気に見ごろの梅を愉しんで帰った翌日、ひどい目に遭いまし た。そういえば杉だらけだったような気がしました。「ああ、もう、二度とは行かない、四度などとんでもない」という苦い思い出があります。
 「鷺」は、もうわくわく、わたしの知る中では「蝶の皿」にちかい作品だと思いました。
 ところで、川端康成についての講演はいつなさるのですか?

* 書きたいことのある手紙は、こういうふうに極く具体的に、魅力的に、自然に書か れる。むりをして書くと、ご挨拶が羅列される。手紙が文藝になるとならぬとの勘所といえようか。川端さんの話をするのは、忘れているが年末か年始かの辺で あった。その辺で二つ講演の予定があり、両方とも難題。つまり、するだけのことをすれば、いい仕事になりうる。お金にはならない。

* 何年ぶりかで屋根やその他を触っている。職人がいきなりこの部屋にも入ってきて 照れた。機械部屋だからではない。谷崎の写真を囲んで、沢口靖子の大小の写真が七枚も額に入っていたりピンでとめてあったりする。ちょっと感想を聞いて困 らせてみたかったが、両方で素知らぬ顔をしていた。フフフ。

* 新しい太宰賞が復活してから何年になるか、授賞式に一度も出ていない。今年は行 こうかなと思いつつ、大儀なまま家にいた。
 

* 五月二十五日 金

* 本の整理など、肉体労働をして汗をかいた。ぐったり疲労した。
 疲労などしておれない、明日は友枝昭世の能「鸚鵡小町」と狂言一番。「雲の上はありし昔に変らねど見し 玉だれの内やゆかしき」という帝よりの御製に対し、ただ「ぞ」の一字で百の老婆となっている小野小町は返歌する。「内やゆかしき」の問いかけに「内ぞゆか しき」と鸚鵡返しにこたえた小町。「関寺小町」にならぶ老女の能である。
 週明けには関西へ。帰ってきて数日なく、シンポジウム。

* 隣の家では、珍しく建日子が「三日目」の仕事を、粘ってやっている。昼夜逆転の 仕事ぶりは感心しないが、苦闘を強いられているらしい。これで三夜とも徹夜しているようだが。幸い仕事は幾つも来ているらしい、が、モノにするまでが大変 なのは、なんとなく察しがつく。

* 重い鉄骨のような大きな本棚を六つも組み上げ、六畳の和室を板敷きに改造して書 庫を拡充した。本を棚に積むだけでノビてしまった。

* 機械の操作では三年間に山ほど田中君はじめ林君にも布谷君にも、また通りがかり の人たちからも読者からも、教えてもらってきた。その一つ一つが「教科書」なのだが、量が多くてプリントしたものが参照しにくくなっていたのを、整備整頓 し始めた。 適当に見出しをつけて分類しておくと参照しやすい。マニュアルよりも役立つだろう。「アクセス・カウント」が消えてしまっている。以前にもこ ういうことが有ったし、教わったはずだが、それを見つけたかった。

* つまらない映画を一つみたあと、「救急治療室=ER」を見た。これは立派なモノ だ。いくつもの、解決つかないほど難儀なドラマを、かきまぜたように時間内に投げ込み攪拌しながら、一つの大きなドラマが「起承転転」と続いてゆく。その イデアルなリアリズムの激しいエネルギーが魅力だ。

* 著名な俳人の立派に装幀された句集をいただき、よろこんで読んだ。だが、全巻か ら六句しか、共感できなかったのには驚きかつ失望した。以前に能村登四郎氏の句集を戴いたときは、感銘句が多すぎて慌てたほどであった。作風の合う合わぬ ということなのか、作句の考え方にわたしが承伏しないのか。句集にも歌集にもこういう体験はしばしば繰り返してきた。一読者として、わたしは、軽々に妥協 しない。
 

* 五月二十六日 土

* 友枝昭世の能「鸚鵡小町」は初演。しかし初演とは思われない印象のつよい佳い舞 台になった。真中央の、視線をいささかも遮られない、見渡しのいい好席を用意して貰っていた。最良の環境であった。
 はじめのうちはやや渋滞する。シテの出がこの能は遅いので。亀井忠雄の大鼓、北村治の小鼓はいいコンビ なのだが、妙にはじめのうち湿っていた。出てきたワキが、わるいワキではないのだが、まだ、新大納言の勅使とは見えず、仕丁のように貫禄がない。あんなの が、後段に業平の法楽の舞を持ち出したりするのはそぐわない。が、まあ瑕瑾であった。
 昭世の百歳の小町は生きていた。位も品もあはれもあった。ことに鸚鵡返しの「ぞ」一字で返歌する前後の 能面に表情深く豊かで、オペラグラスで凝視していたけれど、能の面とは見えずまさしく老女の気位と嘆息とが見え聞こえて感動した。業平の法楽の舞をまねび 舞うのもあわれに華やいで、しかも寂しい老境。小町老女モノの中で「卒塔婆小町」よりも劇的によくできていて退屈させないし、美しい。つらいことはつら い、かなしいことはかなしい、が、美しい。ああ、小町の「人」の、これほど自然に懐かしく美しく出ている能は、草紙洗いの才覚にも深草少将をいたぶる驕慢 にも、卒塔婆小町にも無かったなと納得する。昭世は、もって生まれた健康なまっすぐなところをねこの悲しい九十九髪の小町の知性に、情感に、うまく乗せ て、見せた。出はしんどかったが、橋がかりを帰ってゆく小町は懐かしかった。声をかけて呼び戻したかった。幕の向こうに消え去るまで拍手がなくてよかっ た。しかし今日は拍手を送りたい気分であった。

* 狂言の「柑子」は野村万作があっさり演じ、萬斎は物言いが粘って野暮であった。 狂言のせりふは、うまく焼けた魚の白身がさくりさくりと曲線豊かにほぐれて箸にとれる、あの小気味よさが必要で、父の万作はその方では代表選手。息子の萬 斎は声はいいが、狂言の味でない喋りようで、いろんな芝居を「外」でしてきたことがプラスになっていない。俊寛の物語に泣き出すのなども、とってつけたよ うで、下手であった。「柑子」のいいのは、やたら長くない狂言なことで。

* いま喜多流が面白いというか。昭世を盛り立てて、塩津哲生、香川靖嗣、それに粟 谷一族がある。他にも十分一本立ちの職分がかたまっている。家元追放という不思議な共和制の流儀であるが、責任感というか活力というか、職分の力量がしっ かりしていることで、観世流のように大きな流儀ではないぶん、理想的にまとまっている。家元六平太の能を久しく見ないが不都合をとくに感じないほど、友枝 昭世は、能界一二の集客力である。

* いきなり馬場あき子に逢い、「うわぁ元気そう、よかった、よかった」と喜んでく れた。たぶん、今のわたしは一頃よりよっぽど元気そうに見えるのだろう。細くなっている、少しだけれど。
 小山弘志、大河内俊輝、堀上謙氏らに逢う。小林保治氏の姿は無かった。
 昭世夫人に、いい能でしたと礼をいい、だれにもつかまらないうちに能楽堂を出た。千駄ヶ谷の駅でだれか に出逢うかなと思ったが、それはなく、新宿でひとり夕食、車をかえ練馬経由で保谷へ。「ペルト」で深入りのコーヒーを一杯、マスターと暫時歓談してから、 帰宅。建日子の仕事が上がっていた。まずは、よかった。

* 珍しく北沢の姪の街子が手紙をくれていた。京都の吉田の家、祖父母が住み父の 育った家で生活すると決めたらしい。これで東京にはまた兄の恒=黒川創が独りで残ることになったか。そういえば、やがてウイーンの弟猛が帰国してくるので はなかったか。ここしばらく彼らのことも忘れがちであった。いつか京都で街子に兄恒彦の墓参りに案内して貰おう。

* 映画小説の『髪結いの亭主』を読み始めたが、映画の記憶ももどってきて、これは いい作品だと思う。少年が散髪をしてくれる理髪店の女主人に憧れるあんな気持ち、至純の殉情、掬すべきものである。絶対という強調語を添えて肯定したい。 少女にはなく少年にあるもののように感じられる。

* 初めての人から『風の奏で』上下と『能の平家物語』の注文が来ていた。ぽつぽつ と、このようにして新しい読者が湖を訪れてくれる。

* 夜更けて建日子が五反田へ車で戻っていった。また寂しくなる。いま、グールドの ピアノで熱情の第一楽章ほぼ十五分間をじっと聴いていた。このまえ、グールドよりアシュケナージの方が落ち着くといったが、心を傾けて耳を澄まし聴くと、 さすがにグールドの天才が心臓の奥底にまでしみじみと響く。すばらしい。わたしにグールドを説いてやまなかったのは画家の細川君であった。
 

* 五月二十七日 日

* 少し疲れて機械のまえでうとうとした。雨、上がってほしい。明日の今頃は、京 都。授賞式とパーティーを終えて、夜分の理事会と懇親会のまえの一時をホテルで休息しているだろう。街を歩いているかも知れない。
 六月二日が済むまではじっとガマンしてやり過ごす毎日になる。用意はほぼ出来ている。遅れているのは、 続く発送の用意。ぎりぎり間に合うだろうと期待している。
 京都へは吉田優子さんの「さぎむすめ」第三稿と、藤田理史君の「牡丹」そして山折さんとの対談原稿を 持ってゆく。それと『髪結いの亭主』が読める。

* アクセスのカウントが出来ていないので、文字どおり「闇に言い置く」だけでい る。へんな励みをつけられることが無く、この気分のまま、ある日、一瞬に、「やーめた」と、機械をぜんぶ解消してしまうこともありうる。そういう願望が胸 の底でいつも疼いている。リセットである。ちっとやそっとではやめられないという気持ちもある。
 いちばん読まれているであろう「私語の刻」を、非公開にしてしまいたい内心の誘惑は、いつもある。独り になり、わたし自身の内奥を孤独に見つめる日々を持った方がいい、外へ外へ扉を開きすぎている、という気がある。自然な流れの中で、いつか、きっぱり決断 することになろうか。だが、曝して生きよと励ます声も心の奥にある。

* 膝に大きな故障を起こし、十四日め全勝に土をつけてしまった貴乃花横綱の千秋楽 相撲は、絶望としか、だれにも思えなかった。本割でばったりと武蔵丸の前に手をついた。それでも決勝戦に彼は臨んだのだ、そして武蔵丸を上手投げに土俵に 落としたのだから、偉い。
 勝った瞬間の貴乃花の形相の、こわいほど激しく美しかったことは、どうだ。
 長い間、双子山部屋の兄弟横綱にわたしはそっぽを向いていた。弱い若乃花が当然ながら早く引退した後 に、だが、弟横綱はたんたんと、ちょっと面白い表情で、強い相撲へ盛り返してきていた。もともと若乃花は薄い感じが嫌いで、気概のみえる貴乃花を声援して いたが、宮沢りえ事件でうとましくなった。しかし兄横綱と父親方へ猛然と牙を向いたあたりから見どころを感じ、貴乃花へ贔屓の気持ちを持ち直していた。今 場所はぜひ全勝優勝させたいと、力こぶを入れて応援していたが、昨日の怪我には落胆した。そんな落胆を貴乃花は鬼のように踏みつぶしてくれ、仁王のよう に、仁王よりも生き生きと美しく、眼に光を輝かせて咆吼した。みものであった。かつて棒高跳びのブブカが大舞台の土壇場で、クワッと雄叫びして跳び、逆転 優勝して以来の、みごとな「男」の顔であった。いいものを見せてもらった。二十二回目の優勝である、これもすばらしい。
 

* 五月二十八日 月

* 十時ののぞみで京都へ。途中、吉田優子さんの「さぎむすめ」三稿を読んだ。文 章、ずいぶんきれいに澄んできているが、まだ推敲していい箇所がかなりあった。一つは、要所での漢語による強調や修飾がきつく響きすぎて身振りが大きく固 くなった箇所がある。今ひとつは「は」「も」「て」のうるさく間延びに感じられる箇所がずいぶんある。
 名の通ったある作家に、こんな文章があった。長いもののごく最初の一段である。

 前の年の建仁三年九月に征夷大将軍の宣旨を受けて、鎌倉幕府の三代目の将軍となっ た源実朝が、この日、将軍として始めて鶴岡八幡宮に参詣した。新将軍はこの年、数えで十三歳である。

 冒頭のこの短い一段落中に、「将軍」の文字が四回も用いられてる。こういうのが気 になる。

 先秋建仁三年の九月、鎌倉幕府三代の征夷大将軍と宣旨を受けた源実朝は、明けて新 年のこの日、新将軍として初めて鶴岡八幡宮に参詣した。数えて、十三歳。

 こういう行き方もあるのではないかと思った。文藝も音楽である。フォルテばかりで もピアニッシモばかりでもいけないし、間延びや不自然な違和感は困る。ここで盛り上げようというようなところで往々にして言いすぎが出る。吉田さんにもや やそれがあると観た。さらに踏み込んだ感想も湧いたが、それは直接伝えたい。

* ついで藤田理史くんの「牡丹」を読んだが、題は「牡丹雪」がいいと思った。高校 を出たばかりの少年、書き出しの牡丹がぼたんと落ちて路上にころがっているのだけは、椿の間違いだろうが、他は、なかなかしっかり書いていた。かなり客観 視ができているなと、前作のたどたどしかったのと比べると別人のように、というより、もう長くつきあってきていつも感じていた確かな理史君に戻っていた。 「おユキさん」という自分の母よりいくつか若い「芸者」をほどほどに距離を置き情もよせてそれらしく書いているのに感心した。文章ではやはり「は」「も」 「て」が無駄になった箇所が目に付いたが、大きな破綻のない文章を書いている。若さゆえの新しいセンスも見えた。批評はあるが、ここには控えておく。

* ただこういうことは言える。吉田さんのも藤田君のも、パリパリするような新しい 小説ではない。このまま巧くはなるだろうが、時代と切り結ぶ強い批評が表現に結びついては造形されていない。そして二作とも、途中から結末がもう見えてし まう。意外性はほとんど無い。課題は残る、と言える。その点、高橋由美子さんの第二作「森へ」など、そこそこに現代を呼吸していたと思う。

* ホテルで着替え、まず四条河原町の高島屋で、堀泰明君から知らせてきていた 「NEXT」展を観た。中堅以上の日本画家たちの「横の会」を継承したようなグループ展で、六階の小品展を先に見た。安田育代の一点だけがすっきりしてい て、箱崎睦昌の一点がまずまず、他は陳腐だった。竹内浩一君が加わっていなかった。堀君の絵は左上の青葉楓と女の持った白い団扇が無用だった。そんな調子 づけなしに力を見せてほしい。七階の、本展は、大作ぞろいだったが、おおむね空疎、感銘作はなく、ここでもやはり安田育代の線の清潔さだけが印象的であっ た。堀君のもただの風俗画であった。感動を欠いた技術の見本市のような展覧会では真の「NEXT」は狙えまいと落胆した。

* 蹴上の都ホテルで第14回京都美術文化賞の授賞式。洋画の渡辺恂三、彫刻の木代 喜司、染色の福本繁樹氏ら三名に授賞、梅原猛氏が選者を代表して選考理由を、小倉忠夫氏が同じく乾杯の発声を。三人の受賞の挨拶もそれぞれに聴かせたが、 スポンサーの京都中央信用金庫の理事長が、日本中で一銭の不良債権も持たない金融機関は当行のみ、日本一の信用金庫であるとともに日本一の優良金融機関だ と胸が張れると挨拶したのには、感服した。こういうことの言える銀行の他に無いのは確実で、ここは、今年初めに他の不良信用金庫を二つも救済吸収して、な お、こう言い切っているのである。しっかりしたはる。
 しっかりしたはるのは、それだけではなかった。寺町御池の角の支店に隣接して、新たに美術ギャラリーを 開設したのは前回に京都へ帰ってもう見知っていたが、いま、事実上のオープニング展をやっていたので、受賞者たちとの記念撮影の後、石本正さんと車で見に 行った。三浦景生さんも渡辺恂三夫妻も追いかけるように見えた。
 で、何の展覧会かというと、歴代受賞者に「ご寄贈願った」作品展なのである。賞金の二百万円では追いつ かない力作もかなり並んでいて、前期展についで後期展ももう予定されていた。
 これは見応えがあった。懐かしい麻田浩の絵にいきなり出会えた。なまじな展覧会よりも自負自薦の作品展 であり、しかも見学無料である。企業の文化事業の、これは普通の道になりつつある。しっかりしたはるのである。

* 授賞式後のパーティーでは、清水九兵衛さん、藤平伸さん、江里佐代子さんら大勢 の人と歓談できた。会場の大きな硝子窓の外は、南禅寺から比叡山まで、また黒谷吉田山も、真緑に照り映えていた。粟田山の側は山が迫ってしたたる新緑だ。 石本正さんに、献呈署名入りの新著、姫路の人の褒めてきていた評判の新刊『絵をかく楽しみ』を、こっそりと頂戴した。美しい佳い本だ。

* 夕方から西石垣(さいせき)の「ちもと」で財団理事会と宴会。先斗町の芸妓舞子 たちが接待し、あまりうまくない踊りを二つ見せた。清水さん、また橋田二朗先生も欠席でへんに寂しい席になった、が、梅原猛さんが元気で、笑顔も豊かに、 見るからくつろいで声高に笑っていたのはよかった。ペンの理事会ではあんな顔はめつたに見られない。

* 宴後、ひとり失礼してすぐ近くの木屋町「すぎ」に寄った。お酒はもうしたたか 入っていたが、ここでも若狭のうまい「ぐじ」を焼いてもらったりして、土佐鶴や鬼ころしを飲んだ。よそでは聴けない、聴きたいことを、幾つか老境のママに 教えてもらった。よくもあり、寂しいことも聴いた。妹の梶川貞子には、やはり死なれてしまっていた。姉の梶川芳江はやはり独り神戸の方へ家を出ていると聴 かされた。
 そのままホテルへ帰る気になれず、鴨川を東へ越えて、ひさしぶりに新地の「樅」へいった。ママは弥栄中 学の同級生である。わたしのボトルをきちんととって置いてある(らしい)のにも驚いた。二年ほどは来ていなかったろうに。華奢な人だが肝っ玉かあさんであ る。品と位を備えて、ただクラブのママさんではない、度胸を据えて自立した経営者である。達観していてこだわりもなく、人は優しい。相客にも恵まれて、カ ラオケも聴きながら十二時まで、ウイスキーをストレートでだいぶ飲んだ。路上まで見送られ、車でホテルにつくと妻と少し電話で喋って、バタンキューと朝の 七時まで熟睡した。
 

* 五月二十九日 火

* 酒がしっかり体に残っていた。もう京都に長時間うじうじしている必要はなかっ た。のぞみに乗り、帰りには、山折哲雄氏との第一回対談の編集者纏めの原稿を読んだ。これが、われながら面白く読めたので安心した。山折さんは山折さんら しく、わたしはわたしらしく話している。この手の対談のとかくフラットなお座なりに流れやすいのより、これでよいように思えた。第一回分が他の二回より量 的に多いのだが、それもいいではないかと思う。
 車中隣席に名古屋から乗り込んだ若い女性が、いきなりツナサンドを食べ始め、その苦手なにおいに辟易し た。窓側にいたので避けられなかった。対談を読むのに集中できて助かったが。

* 酒疲れのまま、まだ日の高い、夕方よりだいぶ前に家に着いた。イチローこと林丈 雄君が結婚式の日以来の初メールをくれた。アカウント不調の修繕方法。
 橋本博英画伯の奥さんからも、夫君の遺稿をどうぞと手紙を戴いていた。
 詩人木島始さんからもお手紙と原稿を頂戴していた。

* 藤田理史君の「牡丹雪」を、「e-文庫・湖」第二頁の創作欄に掲載した。作者は 高校を今年卒業したばかりの少年。だからと言って瑕瑾を大目に見るということはできない。藝術は年齢で創るものとは言い難い。
 

* 五月三十日 水

* さぎ三稿、ていねいに読み直しました。鉛筆を手にもって。ぜんたいに、文章がと てもすっきりしてきました。全部の七八割まで読み進めながら、あれこれの編集者たちならどう反応するだろうかと想像していました。なにかに応募して、果た して最初の関所が通れるだろうかと。まだまだ、わたしの鉛筆がだいぶ動きました。
 助詞への過剰な期待感が、一つ。「は・も・に・が」をきれいに整理できれば細部のゆるみはきちんと整い ます。緩急も的確に。とくに感情や運びの急なところで無用の「は・も」を削るとすっと流れが自然になる。それと「ような」「ように」はたいていの場合ない ほうがピシッとします、不思議なものです。「すぐに顔を前に戻した」の「に」のダブリなど。「危険を感じる暇もなく」の「も」など。「女の子に譲ってもら うことができたが」の「が」の重複も清潔感を損ねています。「譲ってもらえたが」で過不足ないのでは。「仕打ちを考えないわけにはいかず」の「は」も無く てよく、たぶん無意識に調子づけています。より丁寧な気がしたのでしょうが、取った方がすっきりしてイキがよくなります。「一週間ほど入院して、祖母は息 を引き取った。役目を終えたかのように静かに去った。」も、「息を引き取った。」という耳慣れた慣用句は、削ったほうが遙かに静かです。
 このレベルで言い出すと、推敲はまだまだ足りません、しかし普通の読者はこんな点には気づきません。だ が、もし推敲前と推敲後とを読み比べたら分かるものです。
 もう一つ、盛り上げたいときの漢語の使用が、逆効果になった箇所もあります、幾つも。言いたいところは むしろ柔らかに押し鎮め、静かなところに間延びを避けてきちっとした語彙を象嵌するのも方法です。
 七八割のところで期待を持ちつつ、しかも、こうなるだろうなと予測していた通りに話が運ばれてゆく。空 気が抜けてゆく気になります。
 ラストシーンへの入り方ですが、路子が舞って鷺になる。鷺が死ぬ。ここが眼目なので、予定のシナリオど おりに落ち着いてしまうのが惜しまれます。このままだと僕の愛が感動に繋がらない。それがあるから路子も鷺も生きてくる。鷺も路子も実際には、此処にいな くてもいると感じさせるリアリティー。それを僕が僕の幻想の中で確保するのが本筋かも知れませんね。ちょっとラストが現実の条件にひきずられて飛翔仕切れ ていないかも。死なせなくても清まはることは可能かも。そのためには、まずは鷺がいて鷺が舞い、舞いくずおれて一瞬路子になり、また鷺にかえって、と、 いった幻想もありえますね。音楽は僕の胸の中で鳴り続けていればいいのかも。
 そんなことを思いながら新幹線にいることを忘れていましたよ。
 ただ私語の刻にも書いたけれど、なぜいまこれを作者は書くのだろうという点で、編集者たちや読者たちを 強く引っ張る動機の必然が、どう伝わるのか。作者は一編のただ美しいお話をつくりだしたのか、この物語にどれほどの己がモチーフを注ぎ込めていたのか、そ れは他者にも感じられるだろうか。そういったところが一つの問題、小さくない問題ですね。

* 屋根の葺き替えがはじまり、頭の上でガンガン、ゴトゴト。

* 田中真紀子がやはり面白い。むろん外交自体をきっちりしてほしいけれど、そのた めにも外務省に風穴をあけ膿を出しきってもらいたい、これは彼女にこそ期待できることで、このまま終わらせたくない。外務官僚のケッタイな思い上がりが白 日にさらされて、伏魔殿にのぞき見えるようになっただけでも、いい。したり顔に田中外相の即時更迭などを口にしている気障男や気障女たちを気にすることは 何もない。まともな人が言うのならだが、言うている連中は、わたしが日頃からこりゃ変だわと思ってきた連中ばかりだから。少なくも外務大臣は評論をしてい るのではない。かなり命がけでやっている。どうぞ、やってくださいと言いたい。
 道路財源に関連して扇国交相は陳述しているのだろうか、聞こえてこない。
 

* 五月三十日 つづき

* こんにちは。イチローです。
 失礼だなんて、とんでもありません。あの日は、先生の声を聞いたとき、初めて自分の結婚式なんだという 実感が沸きました。
 新生活は、以前の生活に比べて、会社に近くなった分時間が増え、家事をする分時間が減り、合計で時間が マイナスになりました。どうしても連絡がおろそかになってしまいます。
 時間はマイナスですが、中身はモノクロからカラーになりました。

* 最後の一行が気に入った。

* 雨の一日。あれこれと仕事を片づけながら、ときどき階下でテレビを見聞きしてい ると、途方もないイヤなニュースの多いのに滅入ってしまう。幼児や小動物を平気で虐待している。黙秘権で、殺人容疑の濃い女が、立証できぬまま無罪を獲得 している。通学の電車の中で高校生が放埒無残に荒れ放題。わたしもよく電車の中で席をつめてもらって妻を座らせたり自分が腰掛けたりするが、それだけで殺 す殺されるという世の中になったかと、暗澹。そして、ふっと気づいたが、現世にふつふつと嫌気がさすと、相対的にであろうが「死ぬ」のが怖くもイヤでもな くなる、それどころか、死んだ方がいいなと甘い誘いを受けたような気になるから、これも、怖いことだ。みんなに先立たれて独り残ったお年寄りにはこういう 気持ちが日々に襲いかかっているのかも知れない。
 いまのこの世で、だれが、ほんとうに確かな言葉で語ったろう。そう思うと、わたしは、今はバグワンに心 底力づけられていると気づく。幸い優れた藝術の力にも、わたしは信頼を置いている。川端さんの「雪国」は、神経質だが、神経のとぎすまされたみごとさは驚 嘆に値する。いまは「千羽鶴」を読んでいる。戦後に、まだ高校生でこの作と「山の音」に出会い、両方に感心したが、「山の音」により感嘆し、「千羽鶴」に は、そうあの栗本ちか子の胸の痣ににたいやみも覚えた。いま「千羽鶴」は読んでいて、「雪国」に比すると通俗の気というものが隠せない。「雪国」に響いて いる川端康成の「深く澄んだ音」が「千羽鶴」からは聞えない。「山の音」へうつるのを、楽しみにしている。

* 博英画伯の講演録を「e-文庫・湖」に戴けると奥さんからお手紙をもらった。ス キャンを終えた。秀逸・出色の絵画論・画家論になっていて、読んでいて懐かしいだけでなく深く頷ける。嬉しいことだ。もう一両日で、校正して掲載出来るだ ろう。

* 木島始さんからお送り戴いた詩一編、或る跋文一章が、優れて感銘深い。詩は、あ る女性の出版人に贈られた哀悼・感謝の作、文章はハンセン氏病患者たちの創作集によせたもので、往時と呼応しつつ時宜にもかない、はなはだ胸を打つ。とも にゲラがインク薄くスキャンは効きにくそうなので、じかに書き込んでみる。まず詩を「e-文庫・湖」第七頁に書き込んだ。文章も数日の内に必ず掲載した い。ご入院中も気力の衰えなくお仕事を続けられていると聞く。ご平安を切に祈る。

* 昼間、あまりイヤな気分なので、玄関に並べた古典全集の謡曲集をぬきだし、 「翁」の「とうとうたらりたらりら」を声に出して読んでみた。いいものを見たい、聴きたい、読みたい。いいひとに逢いたい。 
 

* 五月三十一日 木

* 朝いちばんに届いていたいくつものメールの中から。おのずから、異なるべつの 「人と暮らしと表現」が見えてくる。

* 雨  湿った日が続いて、気持ちも少し鬱状態。これほど気持ちが沈んで自信がな くて後ろ向きになるのは、鬱状態なのだなあ、と客観的に思えるようになったときから、少しずつ浮かび始めています。
 この月曜日には、新宿スペースゼロで、野村万作・萬斎らの狂言をオフィスのスタッフ3人とみました。徒 歩2分。仕事が終わってからでも十分行かれる距離。出し物は「キツネ塚」と「月見座頭」でした。
 キツネ塚は、少し睡魔に襲われつつの鑑賞でしたが、月見座頭は狂言にしては異色のテーマかと思われまし た。
 満月が正面のスクリーンに映し出されたり、舞台の始まる前に虫の音が座席後方から聞こえたり、いろんな 手法を取り入れた演出がされていました。
 客席は一瞬漆黒の闇に包まれます。座頭の世界です。万作の演じる座頭が、近くの野辺に月見にいきます。 座頭ですから、虫の音に耳を傾ける月見です。
 そこへ都からきた若い男が声をかけ、酒宴が始まります。歌を歌うなど座頭に取っては思いもかけない至福 の時もおわり、二人は別れを告げます。
 ところが、幸せな気持ちに酔って虫の音に余韻を味わっている座頭を、先ほどの若い男が打ちのめします。 座頭は別人と思い、観客には同じ男の仕業であることが分かっています。投げ出された杖を探し出し、とぼとぼと帰っていく座頭・・・。
 4人そろって新宿の雑踏に戻ると、気のせいか、秋風のような涼しい風が吹いていました。少しの時間、秋 の夜を楽しんできました。

* もう一段「座頭」への感想が欲しいが、それを書けない・書かないところに、「楽 しんで」と書いておくところに、この人の「鬱」への抵抗が出ているのだろうか。「月見座頭」は深い人間の闇にふれて、不気味に不条理ともいえる狂言。ふっ と、小説が書きたくなる。

* 梅雨のはしり。もう、好天の日は運のもの。しとしと雨は可愛いけれど、じゃあ じゃあ雨は、いややわ。今日はそんな日。気が重い。想い。
 気候の温暖化で、ふるさとでは、ホタルが早くも蒼い線を描いていると、便り。柳にせせらぎ、懐かしい風 景。私もホタルに。
 映画「ホタル」は、特攻隊で散った魂がホタルとなって戻ってきます。ありきたりの平凡な表現法だけれど も、これ以外にはないでしょうね。在日韓国人の特攻隊員をテーマにしたのが、深みを増しましたか。戦争経験者だけの回顧に終わりそうで、日本映画は若者の 観客動員が少なくて、気の毒です。いっしょに観た娘は結構感動していましたが。
 この二日ほどスポーツによく活躍して、筋肉痛、片腰痛に。運動過剰? もう、これ以上歳を重ねたくない ヨ。年寄りなんてわびしい。せめて気持ちは二十年は若く持ちたいもの。ナンの事はない、長男の歳じゃないの。アツカマシイ。
 多忙な日々が続くようですね。運動も怠りなく。
 少し余裕の時間が出来るので、『マガジン』をじっくり読んでいきます。

* 日々帰山情。そういう思いを抱いた人らしい。雨、ホタル、ふるさと、映画、戦争 の思い出、筋肉痛、老境、主婦の余裕。自然な連想が自然に流れて、自問自答するように、書かれた事柄以上のものも行間ににじませている。ほとんど随筆作品 になろうとしている。

* 髪を結う  伸びた髪をくくりながら覗いた鏡に、過去に迷い込んだ雨の朝。十七 の頃、放ったらかしの雀の髪を、母が、登校の朝、カーラーで巻いて、カールを崩さないように、ポニー・テールに結わえてくれた事が、何日かありました。母 は、独身の頃、職場であらぬ噂を立てられ、悩んだ末に、高田馬場に住む伯母を頼り、数年間、東京で一人暮らしをしたそうですの。雀の髪にリボンを結びなが ら、上京を決めた母に、祖母が何日も、こうして髪を結ってくれたと話してくれました。雀の髪は、あの頃の長さ。囀雀

* こういう「私語」を素直にすうっと豊かなものに培ってゆくと「小説」世界にが浮 かび上がることも、ある。こういう短章を五十、百と書き置いて、ある統一感でならべてみると、いわば「自分史」が構築できるだろう。感想にせず、この人の ように具体を書くことだ。わたしは、ずうっとこのところ、感想をだけ書いている。

* 川端さんの『千羽鶴』を読み終えた。なによりも往時が懐かしまれた。
 あの当時、高校生の頃、わたしは叔母の茶室や学校の茶室で、茶の湯に熱中していた。その方角からの視線 もこの作品に射し込んで、共感したり反感を持ったり批評したりした。映画では栗本ちか子を杉村春子が演じて疎ましくも適役だった。太田夫人を、人気絶頂の 頃の、春日野でもない八千草でもない名前をど忘れしたが、忘れようもない巧い、あの映画ではもう巧すぎると疎ましかったほどの女優が、ゆるい生水のように なよなよと演じて、少年の五官を疼かせた。娘文子は乙羽信子だった。この役の頃から、この怪力の女優はある毒を清楚な中ににじませ始めていた。
 千羽鶴の令嬢は新人の起用だった、が、作品でのそれと同様、魅力はあまり感じられなかった。作品の芯を 象徴的に支ええた造形とは、読みも、眺めもしなかった。いささか空疎で、そこにこの作品の弱みがあった。
 もっと大きな弱みは、菊治に実感がちっとももてなかったことだ、はなはだご都合のいいつくりもので、し かも確かに働いているとはいえぬ希薄さが不満だった。今度もそう思った。『雪国』の島村は、もっと露骨につよく作中に生きていたではないか。あの当時、鎌 倉に菅原通済という実業家の物持ち通人がいて、わたしは雑誌「淡交」でよく見知っていた。菊治の父親は菅原のような男かなと想像したが、若い菊治は顔立ち さえもうかばなかった。映画ではだれが演じていたか忘れている、例によってあの頃なら森雅之あたりだったか。山村聡か。何にしてもくさい男にしか思えな かった。
 川端康成の茶といい茶道具といい、茶室といい、かなりに観念の所産であると、読んだ最初から不満に感じ ていた。茶室を情事の場にしたりするのは、一種冒涜の快感なのではあろうと、その限りでは文学の効果として肯定するけれども、そして立原正秋のそれよりは さすがに美しく書いているものの、やはり誤算だと、いいたい、いえる、と感じるものをわたしは実地の茶の湯体験から持っていた。茶の道具も、ほとんど骨董 美の感覚でしかいわれていない。もっと道具であることによって道具を超えてゆく魅力をもつものだが、抽象的に、ただ一個体としての道具に淫して、もてあそ ばれている。玩物喪志、趣味の域に淫して、茶の湯小説的にはあまり成功しているといえない、ゆがみと臭みとがのこる。
 しかし、そのゆがみ臭みに「性」がからんで、喩えようのない濃厚な、まさに女体のなまぐささが昇華され てゆく小説としてみると、稀有の表現と魅力は確かに得ている作品なのである。高校生の肉体をもてあましていた頃に、この官能と美とのせめぎあう誘惑的な通 俗味の小説が、あんまり刺激的に過ぎて、いくらか憎んだことも、今に思い出されてくる。それが懐かしかった。

* 山折さんとの「老い」の対談は、我ながら面白い。こういう吐き出し口を貸しても らえてよかった。
 

* 五月三十一日 つづき

* 橋本博英画伯の優れた絵画への讃歌を、「e-文庫・湖」の第六頁「人と思想」に 掲載した。橋本さんとの出逢いはそう遠くないが、それでも十余年になる。人に連れて行かれた銀座「菊鮨」の止まり木に隣り合い、言葉を交わし始めた。同じ 店に結婚を報じられていた歌舞伎の中村福助、当時の児太郎が来ていたのも思い出す。橋本さんとは、その後にゆっくり時間をかけて話し合ったことが一度もな い。だが、湖の本や新刊の著書を介して、じつに心温かなすばらしい手紙を何度も何度も戴いた。展覧会にも何度も呼んでもらった。深く深く心をゆるしあえた 文字どおりの心友であったのに、橋本画伯は新世紀を待つことなく逝去された。くやしい、寂しい別れであった。死なれたと思い、落ち込んだ。今でも寂しいの である。画伯はよく新潟の秘酒というべき旨い酒を、折りごとに送ってきて下さった。足柄の画廊から、発病されて本郷に移転して来られた頃に、逢いに行くべ きだったかと悔やまれるが、因果なわたしの性格では、やはり遠慮が先立った。
 この原題「笠井誠一讃歌」の講演録は、じつに優れた内容と生きた言葉を蔵しており、むしろ橋本画伯の人 と芸術を語ってこれに優るものはそう有るまいと信じている。奥さんにお願いして、掲載のお聴しを得た。嬉しいことである。一字一句を校正しながら、襟を正 した。原題から「絵画への讃歌」と変えた。橋本さんの遺言のようにわたしは聴くのである。絵を、ことに油絵を描く人にはどうか読んでもらいたい。

* 木島始氏がもう半世紀近く前にハンセン氏病の患者たちの文藝創作集『跫音』に寄 せられた跋文も、同じく第四頁に掲載した。小泉首相のよき政治判断にいたる久しく久しい時間の意義にも思い至るね歴史的な証言の一つと言えよう。

* その小泉首相の「八月十五日靖国神社参拝」敢行の宣言には、断じて承伏しない。 「八月十五日」である必要が、ともあれ、理解できない。ことさらに「靖国神社」にこだわる意義が、のみこめない。
 前者については、たとえば常の日に、物静かに謙遜に行けばすむことである。言揚げして、へたな役者が花 道をミエよく踏みたがるような真似は、児戯に類する。
 靖国神社は、明らかに「軍国日本」の一つの抱き柱、抱かせ柱、であったし、今も脱色・脱臭は全くといえ るほど出来ていない。しかも戦死者のすべてが祀られているわけでなく、かえって日本とアジアとに危害をもたらしたと言うしかない最高責任者を合祀して参拝 を国民に強いている。小泉氏の「感謝の気持ち」を言う言葉は空疎で、危うい底意が露出しているようにとれてしまう。
 わたしは思う、靖国神社を避けて「千鳥が淵の霊園」にだけ参拝してくれれば、彼の言説も意図もそれで適 うのではないのかと。命日の墓参りぐらいの気分でなら、明らかに「千鳥が淵戦没者霊園」の方がふさわしい。わたしは願う、靖国神社の英霊たちも、いっそ、 こちらへ大規模に祀り移して、靖国神社という難儀な場所は、何らかの名目と形で「祭り上げ・棚上げ」してしまうのを考慮せよ、と。その方が国益ではないの か。
 わたしは、これを、中国やその他の干渉的言辞に影響されて言うのではない。高度に新世紀的な政治判断か らすれば、軍国臭の靖国思想は後ろ向きに詭弁の危険に満ちていて、むしろ兵士たちと戦争被害者たちとの象徴的な霊園=精神的墓地として、「千鳥が淵霊園」 を「国民の墓」として尊重して行く方が遙かに良いと思うのである。「墓参」をとがめる理由はあるまい。「神社の神」にして祀るというのは、キナくさく政治 的に過ぎるのである。もう「神」の名をもてあそぶ悪習は絶つべきで、小泉首相は、そこへこそ英断すべきなのに。
 
 

* 六月一日 金

* 何をさしてでも「一個」「一個」と謂う人の多いのには、気づいていた。どこかの 新聞で指摘していた、自分もそうで、叱られた気持ちですのと、メールが来ていた。
 わたしの気にしている他の一例に、「すいません」というのがある。「すみません」の音便といえば言えよ うが、方言で「すいません」が普通の地方があるのだろうか。藤田理史君の「牡丹雪」にも二箇所ほど出ていたので、わたしは「すみません」と言い換えておい たが。わたしの語感では、そう直すことで、そう口にしている女性の姿がすうっと美しく静かになると感じた。「すいません」を耳にし目にした最初は東工大 で、学生にアイサツを書かせていた時だ、ずいぶん多かった。きちんとした大人にも「すいません」と書く人はいる。耳で聞けば音便と聞き流せるものが、文字 で書かれているとふと躓く。たぶん思い違いでなく思い込みであろう、それで通用する世間があり、わたしが知らなかっただけなのかも知れない、が、気にな る。
 むかし、会議の席で、よく、「たまたま」の意味で「しばしば」と言う上司がいて、とくべつ事故の起きる 事ではなかったから黙って聞いていたけれど、あれは誤用・誤解。「すいません」はそれではない、が、頻繁に当然のように用いすぎては物言いを軽く、ときに 軽々しくする。

* 掲載、ありがとうございます。「作者がいい距離をあけている」と言ってもらえた のが、何より嬉しいことでした。二稿を送ります。秦さんが直してくださったところはそのままうつしています。最後の一文、…。「だんだん赤く変わっていっ た」。これだけで、がらっと変わるものですね。
 祖母と母とのことについては、僕自身、冷静に見ることができないでいます。祖母の死んだあとにもいろい ろなことがあって、そういうことが余計に思い出されてくるというのもあります。事実をありのままの事実として書き表してしまうと、かえって自分の思い込み が行間を敷き詰めてしまうような感じがして、重苦しくなりました。祖母のこと、母のこと、僕には当分書けないと思います。
 昨日(5/31)で19才になりました。あっという間にもうすぐ大人という感じですが、振り返ってみる と、いろいろことを吸収してきたんだなあと思います。それこそ、季節の変わるたびに違う自分になっているかのよう。二ヶ月ほど前は、これから一年間どうな るんだろうとばかり考えていましたが、過ごしてみると、ほんの二ヶ月でこんなに自分の価値観って変わるものかと、驚くぐらいです。きっと去年もそうだっ た、一昨年もそうだったはずです。来年も驚いている自分が見えるようです。もっともっと、吸収していきたい。
 先日、インターネットを使って、「絵巻」「罪はわが前に」そして「慈子」の豪華限定本を、大阪の古本屋 さんから買いました。インターネットで買い物をしたのはこれが初めてではないですが、届いてから手にしたものへの驚きは、今までの比ではありませんでし た。来年終の棲家を建てる父と母の、素敵な宝物になります。

* 「もうすぐ大人」どころか、「十七にして親をゆる」す意味でも、また精神的に自 立し自律しているのがそうだとしても、この少年は、とうの昔から「大人」へ歩み出していた。

* 戴いたメールを何度も読んでいます。
 わたしは物語を作っているのだな、と思いました。筋の運びにばかり気をとられ、かんじんの動機を埋没さ せてしまったのかもしれません。
 例にあげて下さったラストの展開は、あんまり見事なのでそのまま頂きたいところですが、自分なりによく 考えてみます。
 敢えて読まずにおいた秦さんの「鷺」を、やはり読んでよかった。物語の奇想なだけが幻想ではなく、幻想 のようで現実、現実のようで幻想、そのどちらとつかないのが幻想……。すぐに真似できる芸当ではないけれど、懐の引き出しにしっかりしまっておきます。
 表現の推敲と、筋の運びの練り直しと、動機をほりかえす作業。大きな山が三つあります。ひとつひとつ向 かってゆくしかありません。この繰り返しこそが大切と思いながら。
 川端康成の「片腕」という短編を最近読みました。深く印象に残りました。

* 吉田優子さんの「さぎむすめ」は、「鷺」と端的に題して佳いのではないかと思う が。

* ゆうべ、中西進さんから、わさわざ電話でご挨拶をいただいた。明日からの国語・ 国文学会の責任者であり、恐縮し、またぐっと肩の荷が重くなった。散髪に行ったぐらいしか、とくに用意も出来ていないので、パネラー役、心配ばかりしてい る。トンチンカンの名人である、たくさん恥をかくだろう。
 昨日、新刊湖の本『ディアコノス=寒いテラス」の一部抜きが届いていた。責了ゲラと照合していたら、わ かり良いようにと最終段階でわざわざ差し込んだ元号に対する西暦の年紀が、まんまと大間違い、わたしのトンチンカンである。湖の本をはじめたのが一九七四 年になっていたが、八六年の間違い。七四年は会社勤めをやめた「迷走」の年。この年のことは、やはり印象濃くすりこまれているらしい、頭に。
 本は、五日には搬入されるが、発送の用意が間に合わず、かなりてこずるだろう。桜桃忌までには、だが、 十分間に合う。創刊して十五年、通算して第六十七巻めである。汗が噴き出る。

* 川端文学は「山の音」に移っている。これは、高校の頃から胸にも身にもしみた。 菊子に惹かれた。映画で原節子が演じてからは、もうあの美しい映像から逃れられない。「菊子」という名によほど惹かれて、わたしは後に「祇園の子」にも 「みごもりの湖」にも大切にヒロインの名につかっている。「千羽鶴」の菊治には爪弾きしたのに、「山の音」の菊子にはゾッコンであった。理想のお嫁さん像 が出来てしまい、この悪影響に悩まされたのはわたしだけではあるまい。とにかく面白い。佳い。
 東工大にいたとき、助手というのではないが、お茶の水女子大の院生が正式に一時期手伝いに来てくれてい た。谷口幸代さんで、ドクターに進み、いまは名古屋で、立派な大学のいい先生になっている。寡黙というより、声音のあまりに清しくちいさく話す佳人であっ たが、教壇での講義を一声でも聴いてみたい。
 この谷口さん、川端康成の優れた研究をその後幾つも積み重ね、幾つも読ませてくれた。もっともこの際に 大事なことは、教授室に映画「山の音」のビデオを持ってきて見せてくれた、思い出だ。映画、懐かしかった。原節子、山村聡、上原謙、杉葉子、長岡輝子。濃 密に組み立てられたカメラワークと脚本とで、優れた映画作品に成っていた。あまり優れていたために、原作を文章で追う際、イメージが決定してしまって、こ れには嘆息してしまう。どう頑張っても原節子のあの理想的な美貌と好演から「菊子」の印象を他にうつすことが出来ない。まいった、である。山村も良すぎる ほど良かったが、極めつけは上原謙で、あれを観て原作の息子修一が見えてきた、いや見えすぎて、まいった。
 「山の音」の話題はつきない、が、名古屋の谷口さんの活躍も嬉しく、また大いに懐かしい。彼女は「山の 音」で修士論文を書くと言っていた、二人で大いに議論の盛り上がったこともあった、と、言いたいが、うまく谷口さんに誘導されてわたし一人が迷論悪説を 吹っかけていた。もう何を言うていたか、忘れた。
 

* 六月二日 土

* 妻は銀座三笠会館で高校の同窓会、わたしは三軒茶屋の昭和女子大グリーンホール で、シンポジウムに参加。
 阪大の伊井春樹教授の司会で、青山学院大学と国文学研究資料館の、若い教授と。
 その前に京大学長長尾真氏の基調講演があり、啓蒙的によく電子図書館の要点を紹介して、たいへん分かり よかった。そこまでやれるかと、いろいろ教わった。
 シンポジウムでも、どういう研究が可能かの実例が多々話され、それなりに面白く、また難しくもあった。
 聴いている内に、だんだん、わたしは予定していた話とはべつのことが言いたくなってしまい、殆ど予習し たのと別方面の意見を述べた。
 一言で言えば、コンピュータで「出来ない」であろう研究の具体例を、幾つも幾つも述べながら、文学の 「研究」とはいったい何であるのか、文学作品とは何なのかという、根底の理解と研究姿勢への疑問や危惧を語ってしまった。
 これは、予定とは違うのであるが、コンピュータではこうも出来るああも出来る何でも出来るような、たし かに私自身も信頼したり期待したりしている情況と別に並んで、どうしてもコンピュータでは出来ない領分の有ること、また「出来る信仰」が無反省に進行して ゆくと、文学作品はますます「テキスト」という名の記号的な資料的な存在と化しながら、肝心の「読む」「読み」行為までも機械に託して、研究者は機械の出 した答えをただ記録する傾向へ文字通り「機械」的と化してしまう心配があること、真に機械の威力を生かすためには、機械を、操作する「読み手」のアシスト の位置に正しく謙虚に据えて過信しないことが大切なのではないか、安易に機械の向こうに「ことば」を投げ込んでしまわず、自分の「読み」に有効に機械を協 力させるという、「ことば」「表現」への基本の態度を研究者が忘れていると、文学研究も文学作品もまさに「機械」的と化して死んでしまいかねない、と警告 したのである。(この項は、もう少し後で補足し訂正する。さしあたって今夜のところは、概略を。)

* 青木生子さん、今西祐一郎氏らに逢えた。何人もの人に声をかけられた。感想はた くさんあるが、今夜はこの辺に。

* 帰途、小説「髪結いの亭主」を心ゆくまで読みながら、新宿で旨い晩飯を食べてき た。映画で感心したこの小説は、幸いにというべきか映画をほぼ忘れているために、文学作品としてとても気を入れて気持ちよく読める。胸が熱くなる。読み切 るのが惜しまれ、少しのこして、もう一冊持っていた石本正さんのエッセイを二三節楽しんだ。
 石本さんとは、甘えていえば仲良しである。ふたりだけで、小声で、すこし好色じみた話題をたのしむこと もある。創画展で、美しい着衣半裸の女性などをながく描いてこられた、日本画壇での大きな実力者である。実力とは美術家・画家としていうので、まつたく もって世俗的ではない、梅原猛さんにいわせれば「好色奇人」であるが、わたしに言わせれば、ほんものの「芸術家」である。エッセイがとても佳い。私には肉 声で届く。語る表情も見える気がする。姫路の友達はわたしより早くに読んで、すばらしいとメールをくれていた。掛け値なく佳い。文章が佳い。姿勢も佳い。

* ことのついでに書いて置くが、文学を学問している若い研究者の論文を読んでいる と、これで文学が好きなのだろうか、分かるのだろうかと思うほど悪文の論文も多いのである。文学に関わりない人の文章で、文学者より達意の品も実も花もあ る文章の書ける人の多いのを、わたしはインターネットのおかげで知っている。美しい日本語で話し美しい日本語で書けてこそ、文学の愛好に根ざした国文学研 究者ではないのか。
 

* 六月三日 日

* 本メールは、BCCにて多数の方に同時発信しています。
 向暑のみぎり、ますますご健勝のこととお喜び申し上げます。・・・という、堅苦しい挨拶は抜きとして、 皆様、お変わりありませんでしょうか。本年は、年賀状も出さずに申し訳ありませんでした。
 一部の方には、すでにお知らせしていますが、私、本日(6/3)より、ブラジルへ旅立ちます。
 というのも、ブラジル・***社が新しく開発するリージョナルジェット旅客機、「ERJ-190」の開 発に参画するためです。滞在予定は半年。さらに伸びる可能性は大きいです。
 ブラジルはこれから冬になるので、「冬→春→冬→春」という風に、夏を経験しない一年になりそうです。
 しかし、開発としては、計画の一番最初から携わることができ、滅多にないチャンスであり、期待でいっぱ いです。
 「この機体のこの部分は、俺が作ったんだ!」といえますしね。
 少し、補足します。
 今回開発するERJ-190は、現在流行しているリージョナルジェット機(ハブ空港を経由しなくても、 ダイレクトに地方空港に行くことのできる、地域間旅客機)で、約100人乗りです。当社(******)は、数年前からブラジルの***社とリスクシェア パートナーとしてこのタイプの飛行機の開発に携わっています。
  さらに補足します。
  ***社は、リージョナルジェット機の市場では、カナダのボンバルディア社に次いで第2位のシェアを誇っています。
 入社当初より、現在まで先人が築いてきた作品(T-4)の耐用命数(寿命)設定・IRAN点 検間隔設定 見直しといった、人間でいうところの「主治医(人間ドック等)」の仕事を担当してきましたが、今回は文字通り、飛行機の「父・母」として、産みの苦しみを 味わいにいってまいります。
 まだ3年目で、経験不足、力不足は否めませんが、皆様が安心して乗ることのできる飛行機を目 指して、がんばって設計・解析をしてきます。
  主担当の仕事は、主翼の損傷許容性解析、疲労強度解析といった、「飛行機が、ちゃんと規定の運用寿命間、安全に飛べることを保証する」解析作業となりま す。
  今回設計する飛行機が日本の空を飛ぶようになるには長くかかること(十数年後?)になると思います。アメリカではもっと早くに飛ぶと思いますので、気長に 待っていてください。
 それでは、皆様の益々のご発展とご活躍をお祈りしつつ、私の出発の挨拶とさせていただきます。

* 「夢」ですと目を光らせていた青年の夢が、いよいよ叶うらしいと、以前に聴いて いたが、いよいよの鹿島立ちである。粗忽なところも浮薄なところも微塵もなく、自分のことばと思いで深く考えてゆく学生だった。松園女史の絵が美しいと 言っていた。妹をつれて家まで話しに来てくれた。わたしは安心している、信頼して。元気に行っていらっしゃい。健康をとだけ祈ろう。

* 外務大臣の周辺が騒がしい。漏れるはずの有ってはならない筋から、色つきでもの ごとがリークされている、気持ちが悪い。国益から考えれば、アメリカのミサイル戦略に対して、かりに批判的な考え方を田中真紀子が持った、あるいは話した としても、その内容自体はしごく健康な正当な意見のように思われる。田中外交をつぶしにかかる従来外務官僚を敢然と更迭して、安心して外交に取り組める環 境をまず用意したいところであり、小泉首相も大臣に苦言もいいが、外務省に対し大臣を擁護しうる人事確保を指示するのが先決ではないか。この外務大臣が更 迭されたり辞職したときは、砂の城の踏みつぶされるように内閣は瓦解するだろう。一つには国民の力で。一つには任命責任により自党の内部から。事務次官、 官房長、報道官、更迭すべきである。彼らは国益とは関係なく外務省官僚の権益に奉仕してきた。国民の願いは、そういう外務省に風穴をあけてくれることも、 大きな大きな一つなのである。その一つだけでも出来れば大きい。相打ちになってはいけない、断固として田中大臣は敵中を突貫されたい。

* 自民党の党利体質が、小泉主導に猛烈な抵抗をしている。見え見えである。田原総 一朗のサンデープロジェクトに割り込んでいた江藤派の一人のボスの言うことなど、要するに「話し合う」という建前と美名にのった数の力で、小泉改革をさせ まい、潰したいという、派利派略だけ。テレビはみごとにそれを映し出す。わたしは小泉純一郎への警戒感を、たとえば田中真紀子に対するよりも何倍も持って いるが、それでも、彼の資質と姿勢とには、これまで表に出て政権を壟断していたどんな政治家によりも期待を持っている。少なくもあまり醜悪でない。
 

* 六月三日 つづき

* 阪大伊井教授から、シンポジウムへのまずは無難な評価をメールで受けた。肩の荷 がおりた。

* 終日、遅れていた発送用意の作業にかかっていたが、耳では「時宗」も聴いてい た。関白基平が亀山天皇の面前で割腹し、六波羅探題南方の北条時輔がその場で介錯する場面には驚いた。つづいて映画も聴いていた。優秀な頭脳の凶悪死刑囚 ひとりが息子の命を救えるドナーであると分かっての一父親刑事のドラマは、仕立てに魅力があり、ドナーの俳優がなかなかの好演だったように思う。以前に一 度観ていたようだが、飽きないで見聞きしていた。封筒に宛名を貼り込むような作業の時は、そういう余興の有る方がいい。

* 「髪結いの亭主」はよく吹っ切れた秀作であった。通俗ではない、純文学の風格が ある。息子のもちもののダンボール箱から拾い上げた薄い文庫本の一冊であったが、愛読書の列にくわえて他の名作や秀作とならべても、味わいを保ちうる。
 

* 六月四日 月

* 「ノーといえる日本」を書いたのは石原慎太郎ではなかったか。田中真紀子がアメ リカのミサイル戦略に仮に「ノー」との意思を漏らしたのが本当であるなら、少なくもその姿勢に石原は賛意をまず表明して見せたがよかろう。
 あんなアメリカ本位の、無理で、成算もない戦略に「理解をする」「理解を示す」というそれ自体が、従来 政府のアメリカ追随臣従外交のみっともない表現であった。クリントン政府は懐疑的であったという、好戦的なブッシュ親子の戦略政策に対し、リーズナブルに 疑念を表明する、今はむしろチャンスであろう。田中真紀子のセンスは誤っていない。
 もとより閣内不統一は避けたい、が、閣内で、あやしげな過去の政府姿勢を適切に正してゆくことは、遙か に大事なことではないか。少なくも過去の胡乱な「理解」が、現在未来の「疑念」や「再検討」に正しく場を譲ることは、国益にも添う姿勢を示す。「聖域」な き断行が内閣の看板なら、「アメリカ」こそが悪しき「聖域」の最たるものであったこと、言うまでもない。小泉内閣の姿勢を田中外相は代表しているとすら言 えるのであり、首相の指導力が、この点でも明快に発揮されることを望みたい。
 幽霊のように橋本元首相が足下もよわよわしくあらわれ出て、政争の具に持ち込もうと、福田官房長官にあ ることないことを耳打ちに推参したようだが、いやらしいという以外にない。問題の発言に対して、当の外国の外務大臣本人から、きちんと否定のファックスも 入ったというのを聞くと橋本は一転にやついてノーコメントとニゲを打つなど、品性に欠けた赤恥というものを、テレビカメラは容赦なく見せてくれる。
 難しい情況にありながら田中真紀子は佳い顔をしている。久米宏が適切にコメントしていたように、この田 中いじめは不自然に過ぎている。この田中真紀子に集中したバッシングは、明らかに自民党内部のセクハラと嫉妬にゆがんだ政争のあらわれであり、不自然その ものである。
 一刻も早く外務省の一掃人事を断行して膿を出しきるよう、首相が自ら声を発すべきだ。田中外相の言動に 騒いでいるのは、日本の自民党と、息のかかったジャーナリストだけではないのか。ジャーナリストは、そんなことより、参議院自民候補の所属派閥を明確に報 道してもらいたい。陰険な旧体質に汚染した派閥の候補は落選させること、それこそが自民党だけでなく政界浄化、国民の安寧への早道になる。

* 高田衛氏の『江戸文学の虚構と形象』を戴いて、早速、本居宣長と上田秋成の「日 の神」論争を論じてある章を読んだ。この二人を理解するのに最良の話題とは言えないが、二人が不倶戴天の論敵同士であった当の話題として、これほど面白い 大事な話題はないのである。従来もこれを語った論説は大小となく読んできた。その中には高田さんの論考もむろん含まれていたが、この本では、問題点がより シャープに整理されていて有りがたい。
 今日の知識と感性からして、宣長の「日の神」論のばかばかしく強引で幼稚なことは、とうてい知識と常識 とに富んだだ秋成の論の敵ではないのだが、何故、ああも宣長が大上段から確固として神の国を甚だ論理的な言い回しで説かずにおれなかったか、その基盤への 視線を見失ってしまうことも、慎重に避けねばならぬ。宣長は神と国の歴史を考え、秋成は人と世界の生活を足場にしている。そんな秋成の立場からは、世界地 図における極東粟散の辺土日本国の神話にもとづき、尊大に世界中の日本帰服を求めるような議論のばからしさは明白である。宣長からする日本の神話は、日本 の中でこそアイデンティティーを保って周辺に知情意の世界を構築できるにしても、世界と普遍の人間的論理の前には限界がはっきりしている。秋成は鋭くそこ を衝く。しかし宣長は、そういう秋成の立場を「漢意=からごころ」に毒された狂気だと激しく排する。
 この論争だけを取り上げれば、所詮は宣長に二十一世紀の歩はない。だが、宣長の存在の大いさをここから だけ眺めては間違うのであり、高田さんも言われるように、例の「もののあはれ」の論なども大きく汲み尽くしながら、かなり落ち着いて接しなくてはならな い、また、そのようにして宣長に付き合ってゆくと、いつしかに偏狭で頑迷な論法に見えていた「日の神」論に、それなりの特異な場と構造と思想とが備わって 見えてくる。一概には済ませにくいものがある。
 またこのご本で、その辺をたっぷり楽しめるのが、有り難い。忝ない。『江戸文学の』とあり、枠外ではあ るが、江戸時代に起こった博物学・本草学・地理学への関心を実地に裏打ちした、「探検」という時代の思想と営為についても読みたい。最上徳内ほどの先駆者 に大方の視線の容易に及んでゆかないことが、じつは残念でならない。間宮林蔵にしても伊能忠敬にしても、最上徳内からすれば、東郷平八郎に対する広瀬中佐 か杉野兵曹長ぐらいに位置しているのであるから。

* ようやく第一段階の発送用意は出来た。頭を使い気も使う「依頼送本」「趣旨送 本」先の選定をのこしているが、これには頭のハゲル思いがする。難しい。明日の午前には本が届くと通知されている。午後にはしばらくぶりに電メ研がある。 電メ研のあとは、青山で、亡き橋本博英画伯の追悼展を見て帰る。
 

* 六月四日 つづき

* 出版と電子メディアにかかわるオンラインの国際討議に参加するよう、要請されて いる。乗りかかった船である、参加してみようと思う。日本語で発言すればきちんと英語に翻訳してくれるそうだ。
 「湖の本」満十五年の第六十七巻めが、明日できあがって来るという今日に、こういう話の舞い込んでくる とは、十五年前には予想できなかったことだ。だが、この事業が時代を批評するに違いないとは信じていた。「湖の本」が明らかに時代と交差し、結果的に、わ が文学と表現の実践活動として認められてきた。当然だ。 
 

* 六月五日 火

* 「栗花落」で、「つゆり」と読ませる苗字があるそうですが、私はその名の方にま だお会いした事はありません。字面はとても綺麗で、よく出来た当て字です。
 近隣に広がる畑には栗の木が多く、この時期あまり心地良くないにおいが家の中にまで漂い、鼻をついて梅 雨入り間近いわと、毎年覚悟させられます。梅雨さなかは、もっと濃厚になります。今朝もその匂いで、眼が醒めました。花も匂いも姿も実も何もかもイイワネ とは言い難く、ままならないものです。人間様も然り。マロングラッセも栗ご飯も大好きなのに。

* あの花の匂いは、季節感は濃いがいい匂いとは確かに言いにくい。だがあの葉も造 形的に鋭いし、栗の材は堅くて質感に富んでいるし、青い毬の木についた見栄えもわたしは好きだ。なにより栗の実の木質の甘みは、トマトのような水けの味わ いよりずっと好きで、わたしはよく、人を、トマト型と栗の実型とに分けて話す。栗が好きだ。栗の活躍するサルカニ合戦のおはなしを引きずっているのかも知 れないが。だが、あのおはなしが好きであったかと言うと、そうでもない。おとぎ話にはどれも相応の毒がこもっていて、子供心にうちこんで歓迎した感心した 面白かったというものは思い出せない。

* 新刊『ディアコノス=寒いテラス ・ 無明』が無事に出来て家に届いた。発送は明日から。今日は午後、乃木坂で電メ研。
 

* 六月五日 つづき

* 電メ研は、和やかではあったが、疲れた。
 ペンクラブのホームページをどうするかという議論で、大勢としては、現状のホームページは本来が広報の そのものであり、広報委員会の管轄に正式に移すべきであろう、広報性は現在のママでも何とかなっているので、その余の工夫はしてもよくしなくてもいい、広 報委員会に委ねて済むこと、と。

* その上で、全く発想を異にして、今ひとつ別途のホームページを構想しようと。い ま、ここには、まだ書かないが、わたしのその提案はかなりに共感賛成を得たようであった。今少し想を練りたい。

* 青山エモリ画廊のヴェルヴ展を観にいった。橋本博英さんの大きな風景を盛り立て るように二十点ほどのスケッチが陳列されていた。署名がないだけで、いずれも完成された小品で、清冽の詩情にみたされ心地よい風が画面をわたっていた。他 に独りの客も無かったのは寂しかったが、追悼のための他作家の出品作が、あらかたすでにいつか観たことのある作品のようなのは物足りなかった。そしてそれ らには作品として胸を打つものがほとんどゼロであった。橋本さんの絵は、別格の品位を得ていたのだと今にして思う。

* 千代田線で日比谷へ、久しぶりにクラブに入って、マーテルを少しずつ飲みなが ら、山折さんとの「対談」原稿をゆっくり読んだ。いい気分で帰宅。
 

* 六月六日 水

* 朝飯の前に、昨日頂戴した恩田英明氏の自撰五十首とエッセイとを、それぞれ「e -文庫・湖」第七・五頁に掲載した。早くにお願いしておいたものが実現し感謝している。
 これから朝食して、湖の本の発送にかかる。

* 国会の党首討論なども聴きながら、終日荷造りをして、夕方過ぎには第一便を送り 出した。
 夜は、久しぶりにわたしの脚色した俳優座公演の「心=わが愛」のNHK藝術劇場版のビデオも観ながら聴 きながら作業をつづけた。妻も一緒に観ていた。初めのうち加藤剛の芝居がすこし気恥ずかしかったりしたが、うまい編集がしてあり後半へ進むにつれて引きつ けられ、もらい泣きした。加藤の先生、香野百合子の静、阿部百合子の母親、寺杣の私、そしてK役がじつに適役で俳優の名さえ忘れさせた。わたしの長い長い 脚本を演出家島田安行が適切に台本に纏め、演出がよく行き届いていた。夏目漱石の「こころ」に間違いない筋書きでありながら、その理解は全くわたし自身の 固有のもので、わたしの思いを漱石原作をかりて表現したような舞台になっていた。しかし原作のよさと、加藤剛のニンに合った熱意とが舞台にあふれて、緊迫 感を高めていた。久々に心地よい時間がもてた、テレビドラマのようにならず、終始演劇の時空間を成していた。ああ書いてよかった、書かせてもらえてよかっ たと、発起人の加藤剛の好意に今更ながら感謝を深くした。

* 昨日、駒場東邦高校の坂本共展氏から笠間書院刊の堂々の大冊『源氏物語構成論』 を贈って戴いた。六百頁近い研究成果で、源氏研究ならわたしは何でも読みたい方なので、この高価なご好意にはいたく感激した。書店が代送してきたので、著 者へのお礼が直に言えない。とりあえず、この場に深甚の謝意を書き込んでおく。高田衛さんの江戸文学の大冊にもお礼がまだ言えていない。くるくると太った まま立ち働いている内に、すべきご挨拶やらお礼やらを失念したり失礼したりが多いかと心底恐れる。
 忘れてはならない、松本八郎氏のEDI叢書からも、買うつもりで注文した保昌正夫著『瀧井孝作抄』を、 保昌さんの名で贈って戴いた。瀧井先生はわが恩師のお一人であり、ぜひ読んで見たかった。保昌さんにもお礼を申さねばならない、松本氏にも。

* 外務省高官と背後自民党の陰険族の手口は、頭隠して尻隠さず、日ごとにハッキリ あぶり出されていて、もう一掃人事を断行すべき時機である。柳井駐米大使の首もすげかえたほうがよく、その子分筋の事務次官、官房長、報道官らの更迭は、 国会会期中といえども、すみやかに断行した方がよい。また橋本元総理の卑劣な食言ないしは中傷、それに対応してコメントしていた福田官房長官の失態など も、きちんと追及したい。いやになるような伏魔殿である、こうなれば田中真紀子は粘りに粘って魔女も顔負けの箒をつかい、外務省の清掃に精出して欲しい。 それが一番の外交基盤づくりになるだろう。
 

* 六月七日 木

* 午後、妻の定期受診で留守中、昼飯前にと試みに血糖値をはかったら 95 だった。すこぶる良好。今日も、昨日とほぼ同量の荷造りをして夕過ぎに発送した。ひどい雨で難渋した。やはり独りの作業は手間が二倍で疲れる。妻が帰宅し て手伝ってくれてから荷造りの能率、ぐいと上がった。

* もう外務大臣と外務上級官僚たち、正確には事務次官たち、との戦は勝負が見え た。少なくも反則技は一から十まで次官派が犯している。大臣は明快に隠し立てなく言うべきを言い、その言葉には不当と思われる内容は含まれていない。大臣 ははっきり喋っていて次官たちはコソコソと逃げてしまい、裏へ回って陰険に働いているようだ、駐米大使までがお粗末な発言をしていたが、大臣を補佐する立 場をまったく理解していない。
 党首討論の小泉首相に、わたしはかつがつ六十五点程度しか出す気はないが、なぜなら時間も含めて立場の 優位によりかかり四つ相撲は避けていたからだが、田中真紀子は外務省と四つ相撲になることで、外交ともまともに組み合っている。彼女をあしざまに言うもの の論拠は、無いかあまりに手薄い。

* 『誄』しのびごと、という本をいただいた。主として慶應義塾の関係者への追悼文 を編みながら巻頭に著者の代表作とされる小説や、後半にはいろいろのエッセイの纏められた、面白い造りの一冊である。冬文舎刊で「著者代送」とある。本は 階下にあり、著者はよく存じ上げている、のに、名前が急に出てこない。このごろ、こういうことが多い。慌てると、生き物が穴にすっこむように出てこない。 じっと辛抱して待っているとひょいと顔を出す。今は、まだ出てこない。しかしこんなことは覚えている。「嵩」という漢字があり、この著者は「こう」と読ま れ、わたしは「すう」と読んで、その時どちらも譲らなかった。今この機械で書くと、「すう=嵩」は文字皿の三字目に出ていて、簡単に書き出せる。しかし 「こう=嵩」も、文字セットを開くと二百番目ぐらいに出てくる。どっちの読みも在るのだ、だが京都の姉小路寺町東にある嵩山堂は「すうざんどう」であった と覚えている。ああ、これでもまだ著者の氏名が蘇ってこない、ア、出た !! 桂芳久氏だ。江藤淳の名も出ている『誄』とは、寂しい題である。心して拝読する。
 京都外語大からは「無差」という面白い表題の紀要が贈られてきた。「二条の院」に触れた論文が一つ載っ ているのは見逃せない。源氏の生母桐壺の実家であり源氏の最初の私邸になり、こういう家に義母藤壺のような理想の女人を「据えて住まばや」と思いながら、 むろん父帝の后であっては叶うわけもなく、やがて藤壺の幼い姪を源氏は奪い来て隠し据えるのが、後の愛妻紫上である。二条の院は紫上の心やすい私邸とな り、此処に帰って死ぬ。死ぬ間際に遺言のようにして、みごとな紅梅と樺桜の木ともにこの邸は孫の匂宮に譲り置かれ、宮は、いつしかに此の私邸に宇治の中君 を迎え取って男御子の父になる。桐壺の父方以来の皇位への悲願が、この私邸で男子誕生として実現しかけているのであり、まさに桐、藤、紫のゆかりの家と言 わねばならない。中君の存在意義はじつに大きいのである。これが基本のわたしの「源氏読み」大筋を成している。上の論文は、こういうこととは関係ないよう に見受けたが、とにかく読んでみたい。

* しっかり疲れているようである。明日は、言論表現委員会に出る。文芸家協会の知 的著作権委員会も、情報処理学会の文字コード委員会も、会議日を、打診したり告げたりしてきた。

* アクセスカウントの修繕が出来ないまま、放置している。数に気をとられないでい るのも良いことだが、すかすかと空を踏む気分でもある。故障の間はカウントされないで居るのか、知らぬところでされ続けているのか、知らない。

* 今送り出している湖の本の、長いめの新発表小説には「ディアコノス=寒いテラ ス」と題をつけた。「=」で繋いだが意味が同じなのではない。「ディアコノス」は「奉仕する」意味のギリシア語であり、「ディアコニッセ」は神に仕え病苦 業苦の人を献身的に世話する女たちのことである。むろん、そういう女たちを書いた歴史的な物語ではない、「愛ははたして可能なのかを」を問いかけた、現代 の家庭の物語である。多くの、とは言わぬが、たいへん難儀な問題を提起している。ご批判を得たい。
 

* 六月八日 金

* 早起きして、溜まっていたいろんな礼状を書いた。メールでできるものはすぐ済む が、はがきや手紙だと書き机の前に座ってペンをもち、はがきから便箋から用意して、切手もはり、郵便局に運ばねばならない。つい遅れて失礼しがちになる。 困ったことだ。

*  梅雨入り  雨戸をあけると日曜日に植えたコスモスの花が、思いがけず明るくおおらかに咲いていました。小さな鉢に根っこをちぢめて咲いていたのが、小さ な花壇でも、土にのびのびと根を張ったからかもしれません。根っこが縮まっていては大輪の花を咲かせることは無理・・・ と、自分にも言い聞かせました。
 クリとトマト おもしろい比較ですね。私はどちらも好き。あおい栗の実をいただいて、余りの美しさにス ケッチをして日本画にしあげ、たしか四条烏丸の銀行に飾られたことがあります。たった一度人様に見ていただいた絵でした。
 クリは歯ごたえがあって、噛みしめるほどにまろやかに甘い。トマトは冷やしてまるかじりするのが好き。 ぷちっと表皮の歯ごたえがあって、甘酸っぱい味と香りがじわっと口に広がります。でも今スーパーで売っているトマトは、味もかおりもありません。
 クリのような人は、あこがれ。針もあるし、殻もある。せめることも守ることもできます。
 トマトは針もないし、殻もない。つっつかれるとつぶれてしまう。
 あなたはなすもトマトもお嫌いでしたね。トマトにはなりたくないと思いながら、さあ、今日も。

* 作事が進んでいるようだが、見ていない。外壁を塗り直し、屋根を葺き替えている らしい。頭の上でずいぶんごとごと音がしていたし、塗料の匂いも強烈だったが。東と西と二棟だから、時間がかかっているようだ。黒いマゴが人の出入りと物 音と臭気に辟易してマゴマゴしている。
 

* 六月八日 つづき

* 「湖の本」の創刊15年を,心からお祝い申し上げます。おめでとうございます。 どんなにか深い想いをかみしめておいでのことでございましょう。私の書架にも67巻の「湖の本」が静かにいま並びました。
 明日は久しぶりに新幹線に乗ります。車中で届いたばかりの67巻目を拝読させていただくのを楽しみに。
 ここ半月ほどパソコンの具合が悪く、このメールも届くかどうか心配なのですが、急いでお祝いを申しあげ たくて・・・。

* おかげでと、頭を垂れる。のべにすれば凄いほどの人数が「湖」に遊んでいった が、しかも今も購読してくださっている大方が、この人のように「全巻継続購読」の人たちである。それが嬉しい。最初から継続の人も、途中から出逢って全巻 を揃えてくださった人も。

* 先日と言ってもいつになりますでしょうか? メールをいただいておきながら、返事を出せずにおりました。どうもすみません。
 先生のほうは、HPを見せていただいている限りではお元気そうで何よりです。私のほうはと言いますと、 「元気」です。(笑)
 今日メールを送れるのは、この火曜で、一ヵ月半ほど続けてやっていた二つのコンペが一段落したからで す。この一ヵ月半、ほとんどの日を終電で帰るというサイクルで過ごしていました。まぁ、その前も他の物件で、それにこれからもそうなんですがね。(笑)  たまには「仕事」がイヤにもなりますが、概して楽しんで仕事をしています。
 このような状況は新聞等にも載っていますのでご存知かと思われますが、マンションブームと言いますか、 住宅ブームと言いますか、住建物建設ラッシュによるものです。つまり私の部署の仕事は山のようにあるのです。
 こんな中で自分で納得するものはなかなかできないのですが、今は勉強と思ってやっています。この勉強に おぼれ、目的を失わないようにするのが大変ですが、何とか今までは切り抜けてきています。そろそろ次のステップとも考えていますが、一歩体を動かすまでの 余裕に、まだまだの状況です。
 最近感じることです、が、語りたいことは山ほどあるのに、言葉を失いつつある気がします。語る言葉を自 分の中で探しているようで、実は自分と外部との関係の中に探しているのではないかなぁ、とふっと思いました。最近そういう脳みそ搾り出すような議論と言い ますか、触媒作用のある関係をもてていないと言いますか、、、まぁ、あまり欲張らず、自分自身を楽しんで行こう!と、思っている今日この頃です。では。

* 一安心のいいメールがとどき、今日は良い日です。いまどき、きみがヒマでは困る わけで、忙しさとうまく付き合ってくれていることと想像していました。元気、なによりです。こういうときはむしろ好機、言葉を外向きにむなしく模索するよ りも、自身の内側へ思いを沈透(しず)かせ、自身を深く問う方を勧めます。わたしも元気。湖の本の第六十七冊、創刊満十五年記念の巻を発送作業中です。
 静かに酒が飲みたくなったら声をかけてください。日比谷辺で逢いましょう。

* 言論表現委員会に、俵万智さんが参加。人数は少なかったが、個人情報保護法が審 議未了になりそうで、ほっとした気分もあり、全体に和やかに話題が展開した。そうはいえ、時間をかけて議論したのが「新古書店」問題、いわゆるブックオフ の商法から受ける、コミック本などへの相当な著作権上の侵害と脅威。
 それに添えて、図書館の問題も。たとえば図書館に同一書籍を三十冊も購入されると、その本の近隣での売 り上げはガタ落ちになるというのだ、なるほど。ただ、法的には指弾の余地がない。著作権保護の法改正を考えてゆくのと、キャンペーン。しかし、ブックオフ の安価な本の入手に便宜している利用者は多く、また図書管理用は久しい歴史的経緯のある文化的営為とされてきている。
 「声明」を出したいと猪瀬委員長以下およそ意見は揃ったとはいえ、世論と法とを敵に回すことなく現状に 憂慮して希望を述べるというのはラクな技ではない。

* 六時で果て、帰りに独り「サンキエーム」に寄り、ワインと料理を。豚の腸と野菜 スープ、珍しかったがピーマンなどの野菜に辟易した。帰宅して、テレビで松坂慶子の映画「卓球温泉」を見た。松坂の、人の佳いかわいい女ぶりが好きなので ある。沢口靖子の時代劇は、以前の「御宿かわせみ」に比べると、原作がつまらない。松坂の映画も彼女だから楽しんでみていたが、映画自体の体温は高いもの ではなかった。だが松坂慶子は楽しめる。
 

* 六月九日 土

* 奈良の東淳子さんの、すばらしい自撰五十首「晩夏抄」が届いた。待ちわびてい た。わたしの見るとところ現代歌人の中で最も力有る真摯な歌人のお一人で、齋藤史さんを追うかのようにさえ想われる。表現は彫り深く確かで、一読胸を熱く する。「うた」が、もし「うったへる」のを原義とするなら、東さんの短歌はまさに「うた」そのもので、気概に冨み、すばらしい。世の多くの歌誌の、親分や 姉御でときめいている大将格の人たちが、情況に甘え、その場しのぎの錯雑として索漠とした品のない歌を平然と自分の雑誌に月々垂れ流している時代に、世の 隅にいて丈高い短歌を珠のように彫んでいるこういう歌人の存在に接すると、胸のすく心地がする。「e-文庫・湖」第七頁に掲載した。
 東さんの作品で、この頁への寄稿は三十人。単純に五十作品と勘定すると、優れた詩人たちが選り抜きの、 千五百作品の詞華集を早や成している。単行本でなら五冊に相当する詩歌集である。詩歌の好きな読者は安心してここに出された各作者の境涯を鑑賞されたい。

* 引き続き、森秀樹氏に戴いた「台湾万葉集のこと」二編を合わせて「e-文庫・ 湖」第三頁に掲載した。題名を読んだだけでも察しられる、あまり知られていない台湾詩歌の珍しくも貴重な証言である。できれば三四の実作例が欲しく、森さ んに頼んである。

* 九割がた発送の作業を終えた。今回は十五年の記念でもあり、送り先をいろいろ考 えている。手伝いで妻も疲れたので、今夜はワインと取り寄せのピザで夕食にかえた。
 

* 六月十日 日

* 「ディアコノス=寒いテラス」に早くも反響があった、北陸のある都市から。真摯 に重い重いお考えであり、頭を垂れて拝見した。微塵の修飾もない意見であり感想である。さらなる討議の率直に真面目にかわされることを期待したい。メール に有るように、関連性の想われる事件が実際に多発している。「世論」なるものへも、「正義」なるものへも、また「愛はどう可能か」といった深みへも思い及 んで考えたいと想いつつ、容易に到達できなかった。それが、十数年も結局発表をためらった作品になった。

* 寒いテラス 昨日届き、昨夜から今朝にかけて一気に読み、もう一度読み直してい ます。
 「妙子」の様子が手に取るように 目に浮かぶように伝わってきました。「節子」とその家族の当惑も。教 育的配慮というより、ただ楽だからと、安直に「妙子ちゃん係り」にさせられ、「ディアコノス」にさせられた節子を、どうして責められましょう。今は、この ようなお子様を普通学級に入れる場合、公的に担当する人員を補充したり<、家族の負担で私的サービスによる人を同行させています。1年生の節子ひと りで背負うには、はるかに重い「係り」だったのです。
 私の通った小学校には、場面緘黙症の「* * 子ちゃん」がいました。「* * 子ちゃん係り」を自発的に行う女子生徒がいて、なんとなく私たちは彼女が「* * 子ちゃん係り」のように思っていました。彼女は押さないと歩かないし、ひとこともしゃべらず、教室で不可解な笑いを浮かべてただすわっていました。時に押 してあげると、ざっくり切ったおかっぱの後ろ髪がゆらゆらゆれていたのを思い出します。彼女の場合家庭では話すことができ、結婚して子どもを産み、そのあ と亡くなったということです。担任の先生とは2年おきのクラス会であいますが、「ぼくとして、もっと何かできなかったかという思いがつねにあるなあ」と おっしゃいます。しかし60人のクラス、みんなであたたかく「* * 子ちゃん」を6年の卒業の日まで見守れたと言うことでよかったのではと思っています。 
 困ったのは、その後、「結婚したい」「一緒に死にたい」という対象に「節子」がなっていったことです ね。
 結論から言えば、今回の大阪の付属小学校の地獄のような事件、パンダのぼうしの男の事件・・・などもふ くめて、重大事件を起こしたような精神障害者を、治療施設に入所させるべきではないかと思うのです。「人権侵害」にあたる、精神障害者の差別にあたるとし て、この問題は、浮上しては消えてきたようです。
「心身喪失と判断されれば不起訴 無罪」という現在の法律によれば、上記の男たちが再び社会に出てきて、 しかし適応できるわけではなく、悲惨な犯罪を繰り返す可能性があります。むしろ、必要な収容をしないばかりに、未来ある命が奪われ・・・。節子の場合も、 家族の配慮がなければ、いずれは力づくで死への旅への同行者にされていたにちがいありません・・・それが、収容の必要のない精神障害者への差別にも、か えって、つながると思うのです。真の平等は精神障害者であっても罪を犯したものは罰し、罪を犯さなくても社会に適応できず、他の人に迷惑を及ぼす場合 は・・・対象が1人であっても・・・ ケアの施設に入所できる体制を作るべきだと思うのです。
 妙子ちゃんの家族も、どんなにか困り果て、最後には疲れ果てていたことかと思います。ケアの施設があ り、入所させ得られていれば、どんなに安心できたでしょう。
 ケアの施設はばら色のものであって欲しい。精神障害のある人の心が和むものであって欲しい。鉄格子の着 いた薬臭い病院ではなくて、光や音楽やそのほか美しいもののあふれた施設であって欲しい。その中で生き甲斐となる作業の行えるような・・・。
 私は、精神障害者を差別していません。精神障害者や精神障害者を持つ家族の真の幸せについて真剣に考え ている者です。
 私の娘は精神障害者でした。人に危害を及ぼす精神障害者ではなく常に外界を恐れる障害者でした。クラ シックや文学を好み、自然破壊を憂慮するほんとうに優しい娘でした。そして誰をまきこむこともなく「たくさんの楽しいおもいでをありがとう」のことばを家 族全員に言い残して、「これでらくになれます」と23歳で自死しました。
 家族だけでは、支えきれなかった。ばら色のケアの施設があれば、もっと生きながらえたかもしれないと無 念の思いでいっぱいです。
 追加します。   ケアの施設は現在もないわけではありませんし、一口でばら色の施設と言っても、従事者の立場から考えればなかなか難しいものでしょう。むしろ通所施設で あっても良いと思うのです。「寒いテラス」の「妙子」や、私の娘の場合は、通所施設で十分だったと思います。
 「がんで死にました」は人の同情をうけます。ハンセン氏病がやっと偏見の呪縛から抜け出したことに大き な拍手を送っています。エイズについては偏見をなくす方向で運動が進められていますし、遺伝もありません。しかし心の病については、よく知られていないの が実情です。

* おかしな夢を見た。大学の頃の女子学生が(同姓同名のお方にはあらかじめ無関係 だと謝って置くが、)「平野文太郎」という男と結婚して、幸福ではないと言うのである。その男は、夢の中ではわたしのかつて勤めた会社の後輩で部下と同人 なのだが、事実は「平野文太郎」などという姓でも名でもない気のいいヤツなのだ。それだけのことだが、その女子学生の顔が、まちがいなくその顔でありなが ら、コマーシャルや司会に出てくる或る(沢口靖子ではない、念のため。)女優の顔でもあるのだった、そして口紅が紅く濃かった。それだけだ、が、結婚した 人にはどうか幸せでいてもらいたい。

* 立待月  夏の訪れの近いことを感じさせる晴天でしたが、お変わりなくお過ごし ですか。
 先日、新聞の家庭欄で、76歳の男性が、「老いても妻は家庭の花だ。夫婦は二世というけれど、来世より も今、この時をいたわり合い、大切にしなければと思う。」と書いてらした。こう言ってもらえる奥様に、愚かものは言葉もありません。
 暑さと貧血にノビています。満月がすこぅし欠けてきました。夜風と月明かりに誘われて、眠れない夜など は、散歩したくなりますが、夜2時では、lunatic。
 ご本に、たくさんの反響がおありのことでしょう。お幸せな日が続きますように。

* けだるい人、ねむれない人、しずむ人。少なくない。若い元気な学生たちでも、端 的に「寂しいか」と聞くと、七割から八割が「寂しい」とこたえていた教室を思い出す。春秋社の方では、対談に「自然に老い、自然に死ぬ」と表題を考えてい る。それはわたしの提案であったけれど、いま、わたしの希望はちがう。「元気に老い、自然に死ぬ」でありたい。難しいが。
 

* 六月十日 つづく

* ディアゴノス=寒いテラス   過去に、知的障害者が地域で普通に生活する、そ の援助者「世話人」という仕事をした経験をふまえて。
 …もし今後も今日のような現れかたをしたら、「絶対に」お家には入れないで下さい、上へはあげないでド アを閉めて下さい。…大きい声で叱って下さるのが一番利きますので、どうぞ。…
 聞きようによっては、そんなにしなくてもと思われますが、けっしてそうではありません。障害の度合いに もよりますが、会話も言葉も一見、普通に感じとられるのが、彼女や彼らの「不幸」といえましょう。一度めはよくて、なぜ二度目はだめなのか?それがわから ないのです。ダメなことは、ダメなことと、それを通すことで、体験的に覚えてもらう。言い聞かせて、その場は納得しても、その納得は叱られないでいるため の納得であり、生きていくため、身を守るための術なのです。「笑って」ゆるせば、その甘さを敏感に感じとってしまいます。行動を起こして相手の反応を見て いるようなところもあります。声高に威嚇して相手が怯めば、その力関係は継続され、脅してきます。力に屈しない態度でいれば、こちらの言うことをきいてく れます。
 本心からか、うわべだけのものか、相手を見ぬく力量は本当にすごいと思いました。個対個の付き合いが重 要であり、人格を認めたうえでの叱咤が必要なのです。
 今日は出来ても、明日はわかりません。積み重ねは大切ですが、それを過信すれば落とし穴に落ちます。日 々が新たなのであり、一日(朝、昼、夜)が新たなのです。そのことに気付くのに半年かかりました。悩み悩んでの半年でもありました。書き文字では言い表す ことができないもどかしさを、はがゆく思います。
 「淡路」一家の、「妙子ちゃん」に対する哀れみと甘さが生んだ悲劇。
 ホームページで読ませてもらっていたので、題名を見たときに、「きっとそうかもしれないわ」と思ってい ましたの。でも「奥様」の言葉で語られている、この御本のほうがより考えさせられます。
 何を基準にして「普通」と言うのか。「かわいそう」と言わせる自分のなかに差別はないか?
 「してあげている」ことの優越感から生じるものは?自分に問いかけ、問いかけての答えは…。
 あるがままに、気負わず自然体で。ようやく肩の力が抜けました。

* 少し息をのんでメールに触れた。また、べつの角度からも意見や感想が届けば有り 難い。

* 日曜の夜分は休息ぎみ。八時から「時宗」を見ている。いわば「有事」を主題にし ているようで、今日的という意味では徳川三代の去年の「葵」よりも現実感がもてる。この時期の北条得宗家のありようは複雑で、そしてあまり他人事でない、 その後の歴史に多くのいろんな種を落とした時期でもあるのだ。蒙古襲来といった事件がなければ、時宗がいまほど名声と人気を得た執権たりえた保証はない。 無足御家人はすでに続々増えようとしていたし、外患がなければ鎌倉の内憂も内紛ももっと陰湿になり、時宗の闘いは必ずしも有利なものとはならなかったろ う、途中での非業の死もなかったとは言い切れない。その意味では蒙古襲来は時宗を立たせたし、しかし、恩賞の出せない神風の後の始末はたいへんなもので あった。御恩はくずれ奉公の基盤は揺れた。ドラマ「時宗」はおおまかなものだが、その意味では「葵」ほどの役者は出そろわないが、なにかしら惻々として迫 る歴史の跫音は生きている。

* そのあと、妻は見向きもせずどこかへ行ってしまったが、わたしはジーナ・デイビ スのはでなアクション映画を、ビデオにとりながら二時間、しっかり楽しんだ。
 本を発送の作業には倦んだ、今回はもう打ち上げにする。時間に迫られた必要な仕事が目の前に三つも四つ も押しくらまんじゅうで早く片づけてくれと言っている。

* 森秀樹氏の軽妙な「ネパールのビートルズ」を紀行と読み、「e-文庫・湖」の第 八頁に掲載させてもらった。

* 不愉快なモノを見聞きしてしまった。いわゆる「専業主婦」を罵倒し尽くした著作 で売り出している中年女性が、テレビで喋りまくっていた。論旨の問題ではない、つまり下品で愚劣な女の顔をしていた。専業主婦を庇うのでも職業をもった女 性たちを持ち上げたり庇ったりするのでもない。そんなことは一概に言えることではないだろうし、大きなお世話であるだろう。そういうことよりも、その著作 者の砂を噛むような索漠とした価値観の貧しさにウンザリした。ああいう利口者がいつの時代にも一人二人といるものだ。たとえば花びらのように美しく柔らか に生きることを願っている人は、専業主婦であれ無かれ、関係ない。イヤなものを見た気分がイヤだ。
 

* 六月十一日 月

* 混同されがちな、精神障害と知的障害。前者は投薬・治療で病状はよくなることも ありますが、後者は、教育・訓練で、知能の発達や運動機能が身についたとしても、生まれながらの染色体の数を増やすことは出来ないのです。ただ、この言葉 は好きではないのですが、「普通」といわれるひとにも出来ないことってありますよね。金銭感覚がないとか、通常の道理が通らない、常識がないこと、仕事を 怠けるなど。傍目でみるかぎり、そう差はないようなことをしていても「障害者」のレッテル(このいいかたも嫌いですが)を貼られたばかりに差別を受けてい ます。好きなこと、興味のあることには一途で、スポーツや文芸・絵画・職能に才能を花開かせる人もいます。「妙子ちゃん」が一途に思いさだめたのが「節 子」だったのでしょう。時間の経過は、十分後、1時間後、一日後、1週間、…と比較して理解しますよね。積み重ねることができなければ、比較もできない。 十日後も、一年後も昨日となんら、変わることはないのです。痴呆症であった(亡)母の世界がそうであったように。そのことを納得したうえで、付き合わなけ れば振り回されてしまいます。常識では計り知れない行動をすることを念頭に置かねばなりませんでした。
 職場から、(世話をしていた当人が)遅刻をするとの連絡がはいり、職員のかたと相談して、自転車の彼に 付き添うてバイクを走らせ、数週間通ったことも。慣れたと思って安心して気をぬくと、もとに戻ってしまいます。腕時計をして時間をみているからわかってい る・いるかといえば、そうじゃない。わかる人もいます。遅れないようにきちんと行ける人もいます。個々の人格がそうであるように、障害も十人十色なので す。世間では一様にとらまえて批判をしますが、それは大きな誤りだということを知って欲しいと。
 「ゆうても、ゆうても、きかんのよ。出来んのよ」と、愚痴る世話人さんもいましたが、履き違えていませ んか?
 「それが出来るんだったら世話人や、いらんでぇ、出来んからいるんとちがうん?」。
 そうですよね。

* 実地に苦労し体験してきた人の声はつよい。書いているときには、こういうことす ら、なかなか聞えてこなかった。

* 先日の電子メディア小委員会で提案し討議した「構想」を私案として書き纏めてみ た。理事会の理解は容易には得られまいと思う。研究班のみなさんにもメーリングリストで伝えたが、もともとこの案は一般のユーザーにも向けているので、思 い切って、以下に公表しておく。
 

*  電メ研提案   日本ペンクラブ「電子文藝館」構想 2001.6.15理事会に。

* 六月五日の研究会で討議の結果、以下のように提言する。    座長 秦 恒平

* 日本ペンクラブ・ホームページ活用は、型通りではあるが現在支障なく行われ、委 員会活動等の広報内容は充実している。強いてリニューアルの必要はないと考える。
 ホームページによる「広報活動」は、現状のまま「広報委員会」に委ねるのが適当で、従来通り事務局によ る交通整理ないしATCによる入力・転送で、技術的・運営的に何の問題もないと思われる。ホームページ利用による「広報」は「広報委員会」に返したい。

*   「電メ研」は、日本ペンクラブによる「電子メディア活動」の一環として、PENの名に背かない文藝的・実質的な「ホームページ活用」に当たりたいと、具体 案の検討に入っている。会員による「日本ペンクラブ・電子文藝館」のホームページ上での創設である。

   以下、「電子文藝館」構想の大要を示したい。

* 発想の原点には、日本ペンクラブが、思想は思想としても、本来文藝・文筆の団体 であるというところへ足場を固めたい希望がある。さらにはまた、日本ペンクラブ会員となっているいわゆる地方・遠隔地会員にも、会費負担に相応・平等の 「何か」特典が有って然り、今のままではあまりに気の毒という思いがある。「会員である」事実を、本来の「文藝・文筆」の面で実感できる、極めて経済的な 「場」として、「ホームページ」を活用しない手はないのではないか。

*  日本文藝家協会には、会員共同の「墓」地が用意され、希望者は、生前ないし没後に、夫妻の姓名と会員生涯の代表作名を一点刻み込んで、永く記念できるよう にしてある。だが莫大な費用もかかる。
 しかし、もし我々のホームページに適切に「電子文藝館」のファイルを設定し、そこに、会員自薦の各「一 作・一編・一文」をジャンル別に掲載してゆく分には、ほとんど何の費用もかからないで、直ちにみごとな「紙碑・紙墓」を実質的に実現できる。作品の差し替 えも、随時、簡単に出来る。

* それのみか、アクセスする国民その他の、自由に常に閲覧できる優れて文化的な 「場=電子文藝館」にも成る。人は、具体的な作品と数行の略歴により、筆者がどのような文藝・文筆家であるかを即座に知ることが出来る。もし会員になれば 「電子文藝館」に自作が掲載できるのだと分かってもらうのも、一つのメリットと成ろう。

* 即ちこの「電子文藝館」に作品の掲載されることは、そのまま自身が日本ペンクラ ブ会員たる事実を、世界にむけて発信することになる。会員の一人一人が「その気」になれば、すぐにも我々のホームページ上に「電子文藝館」は実現し、収容 能力に不安は全く無く、維持経費は極めて軽微で済む。

* 掲載は現存会員に限らない、遺族の許可や希望が有れば、過去の著名な会員の作品 も適切なファイルを設けて、積極的に収容した方がよい。さしあたりは、島崎藤村以下歴代会長の各一編を順に掲載できれば、極めて大きなアピールとなろう。 不可能なことではない。電子メディア時代ならではの雄大構想になる。

* 会員の自薦作であるから審査は不要とする。すでに慎重審査を受けて入会を許可し たプロフェショナルな会員である以上、掲載作には筆者が自身で質的に名誉と責任とを負えばよろしく、ただ作品の長さや量にだけ、一定の約束(例えば、一作 限定、二百枚まで。短歌俳句は自撰五十、詩は適宜、とか)を設ければ済む。申し込みの順に適切に積み上
げて行くのが公平な扱いになる。目次と検索索引は工夫できる。

* 会長以下、役員・理事諸氏が率先作品を提供されれば、直ちに「呼び水」とも「評 判」ともなり、寄稿希望者は漸次増えてくるに違いない。一年で三百人が集まれば、それだけで偉観をていするだろう。さらに「電子文藝館」が充実すれば、こ こから「日本ペンクラブ」の質の高い選書・叢書すら出版して行ける可能性も生まれる。
 なによりも、会員各自が「自信・自負の作品」を集積するのが趣旨であるから、文字通り「日本ペンクラ ブ」の価値ある「大主張」と成ろう。
 こういう本格・本来の事業が、文筆家団体の雄である「日本ペンクラブ」に是非必要ではないか。ホーム ページを活用すれば、簡単に、金もかからずに出来るのである。

* 但し、原稿料も出さず掲載料も取らない。アクセス課金もしない。収益は一文もあ げる気はない。
 また重大な点ではあるが、電子メディアについてまわる著作権侵害の危険はある。この点は「覚悟の上で掲 載作品を各会員が自薦」することになる。作品の差し替えはいつでも簡単に出来る。退会者の作品はその時点で削除する。

* 寄稿は、原則としてデータファイルの形で担当者に送信して欲しい。少なくも手書 き原稿は、事務的な手不足と煩雑からも扱いかねる。最低限度、スキャナーにかけられるプリント状態で寄稿してもらう。手間のかかるものほど、掲載に時間の かかるのはやむをえない。

* 「日本ペンクラブ・電子文藝館」は、設営に、アトラクティヴな相当な技術的工夫 を要するので、またファイル構成や編成にも機械操作の技術をともなう編集実務を必要とするので、「電子メディア小委員会」が委員会内に「編成室」を組んで 担当したい。日本ペンクラブの大きな財産に成るようにと期待している。英断による即決をお願いしたい。
 内閣にも電子マガジンの出来る時代である。     以上    文責・秦

* 会員はもとより、一般のユーザーからも、より良い助言や批評が得たい。早くも賛 同と期待のメールが次々に入っている。

* そんな矢先に電話が入った。法政大学「名誉教授」だという力石定一氏が、詩人の 木島始氏を介して、次のような趣旨で協力を求めてこられたのである。首相の靖国参拝宣言で国際的に騒然としているのは周知のことだが、かねてこの「私語の 刻」でもわたしがハッキリ書いているように、「千鳥が淵霊園」を拡充して国内外の戦没者記念霊園として、八月十五日にはこちらへ参拝し戦没者の霊を慰める とともに感謝の気持ちを捧げるようにした方がよい、靖国参拝は避けた方がいいという趣旨の議員立法を呼びかけたく、ついては、日本ペンクラブでも後押しを 願いたいという要請であった。蝋山道雄氏ら数人が動かれるらしく、それは賛成であるから、すぐ日本ペンの来る十五日理事会に理事提案して討議してもらえる よう事務局に申し入れた。

* 昨日、ニュースを聞くともなく聞き流していましたら、ポリウレタン工場でホスゲ ンが漏れて何人かが中毒症状、という言葉が耳に入り、「うわ、恐いね」と言いかけ、相手を探して口の中で言葉が空転しました。主人は同じ東工大ですが、情 報系専攻のため、化学物質の名前を出してもさほどはわからないのです。職場に行っても、説明抜きでこの話を「やれやれ」と話せる相手は同じ専門の上司、一 人だけです。普段は、異分野ばかりの中で働くことを楽しんでいても、突然惻々と寂しさがわき上がるのはこういうときです。山歩きの景色を楽しんでいて、ふ と足元を見たら、あまりの高度にひるんでしまった感じと言いましょうか。
 ホスゲンは、化学兵器にも使われる毒ガスですが、シンプルな化学構造とその反応性の高さのため、プラン トの中ではしばしば使われるものです。解毒剤もあるので、早めに処置すればほぼ問題はないので、今回の工場でもそのような処置が行われたと思いますが、以 前に、某大学で卒研の学生が死んだことがある程度には、毒性のあるものです。
 そこまで説明すると、一応は理系の主人は「ああ、第一次大戦でドイツが使ったやつね」と理解してくれま したが。
 もちろん、今はメールという文明の利器がありますから、この件について話したければ、学生時代の仲間に メールを出せばいいのですけれど、同じ空気の中で、さらっと流す程度の話を同じ土台で話せる相手がいないのは、やはりちょっぴりさみしいものですね。いつ もは気にならない、むしろ、わかりあえない程の発想の違いが楽しいものなのですが。心が弱っている時には、少しばかり心もとなくなるようです。
 先生には叱られてしまいそうな気の弱いメールですが、異分野との交流を楽しんで下さっていた先生だから こそ、こういう小さな心のささくれにもご興味をお持ちいただけるかも、と思い書いております。
 相変わらず、ご多忙とのこと。どうぞご自愛下さいますよう。

* こういうことって、近い同士にもやや遠い同士にもね自然に起きてしまう気うとさ なのだろうなと、思い当たり、おもしろく思う。わたしの興味は、こういう気分を、こういうふうに表現できる「言語」生活にも向かう。精神が窮屈だとこのよ うには書き表せないものである。ああ彼女は元気であるなと安心する。

* お土産は要らないと言っても、差し上げます。さてナンでしょう。
 利尻富士とレブンアツモリソウを含めた高山植物群を観るのが、今回旅行の目的でしたし、ツアーのタイト ルもそうでした。いつもの事ながら、詳細にお勉強もしないで無造作に出かける私、大半はものぐさから、少しは初対面の感動を大切に、との思いがあります。
 利尻富士はどっしりとと言うより、可愛く、さながら富士山のお孫さん。残雪が幾筋かの山襞にあり、蒼空 に終日全容を見せてくれました。前日までは雨風の強い寒い悪天候だったとか。
 里はボタン桜が満開の最北の晩春でした。
 夜には、点描画の様な満月が水平線上に。こんな月を観るのは初めてです。
 さて、お土産ですよ。
 旅行前には、そんなワケで、「レブンアツモリソウ」の写真も観ていませんでした。レブンの付かない「ア ツモリソウ」は正式には分かりませんが、多分包皮と呼ばれる部分は赤紫で、「レブン・・・」よりは小振りの親戚同士の感じ。これは他の土地でも観られるの でしょう。
 「レブンアツモリソウ」 もうお気付きでしょう。あの平敦盛が兜を付けた姿(顔)になぞらえた命名なの です。記憶にある「清経入水」を持ち出し、「能の平家物語」のその部分を読み返しました。熊谷次郎直実に組み敷かれて、見上げた、あなたのペンになる少年 敦盛の顔のイメージそのままの花です。よくぞ名付けたと言いたい。微かにクリームがかった色白の平家の公達、「レブンアツモリソウ」兜に隠し持った「小 枝」と言われる笛らしき物は、残念ながらそう都合よく見あたりません。世界で、この礼文のこの一角にしか群生しない花らしく、大事に大事に保護され、盗掘 にも気配っています。
 このまま学名だそうです。風や雨に弱く、すぐに赤茶けてしまい、花を付けるのに四年はかかり、花の時期 は短く、五月半ばから、六月半ば位と聴きました。相当神経過敏な花です。遠路はるばる、最高の天候に恵まれ、素敵なお花に出会えてよかった、よかった、の 旅でした。
 今、何してるの。相変わらず活字に蹲っていますか。元気にしていますか。永い間アッテいない感じ。帰っ てからスーと気が抜けたみたいです。又、メールをください。

* 家族旅行が楽しそうで、羨ましい。北海道の礼文・利尻寄りへは行かなかった、わ たしの最上徳内は東蝦夷地へまず探索の足を運び、わたしは東へ東へと海岸線に沿って取材の旅をした。納沙布岬まで行き、国後の見えるところまでは行った が、そこで釧路へ引き返して船で東京に帰った。ずいぶん昔のことだ。礼文で、敦盛ですか。なかなか。
 

* 六月十二日 火

* 満15年、おめでとうございます!
 「ディアコノス」読みました。…正直、キツかったです。「淡路」家がマスコミに叩かれるラストが、あま りにも生々しくて。小説としての面白さに惹き込まれたものの、「面白かった」ではすまされない重さが、まず残りました。「生活と意見」に載っていた読者の 方々の意見を読み、ますます重さが募りました。どうすればいいのか…考えることはできても、言葉にすると安直な物言いに成り下がってしまいそうで…。今 は、ただ読み、深く息をついています。
 個人的に印象に残ったのが、「節子」でした。ちょっとごてごてした理屈っぽさと、まるで相反するような 不安定さ。自身に跳ね返ってくるところが多くあり、身近に感じました。身近といってもあまりいい意味でなく、むしろ「痛いところを突かれたな」という感覚 です。それこそ自分をかこつのはやけに達者なのに、いざとなると周りがまるで見えなくなり、自分独りの不幸不安と思い込んでしまう。ここからして顧るとこ ろがありました。
 作中にあった通り、第三者からの批判とは、あくまで第三者のものに過ぎず、当事者にしてみれば時に腹立 たしくさえあるものだと思います。「誰かを批判するのであれば、自分も血を流さなければならない」と言っていた人がいました。
「絶対に無害で安全な場所からの発言」…一番したくない行為の一つです。しかし、今までやってこなかった と言えるかどうか。僕自身、血を流さずには許されないことを、重ねてきたような気がします。
 「精神障害者を差別しない」と言い切ることは、僕にはできません。実際に触れ合ったことがないというの もありますが、例えば罪を犯し報道された人物を見て、単純に「ああいう人でなくてよかった」と思うからです。(ただ、精神障害者も同じように罰するべきだ という意味では、けっして差別しない考えです)。五体満足で精神も健康である自分の幸せを改めて実感することはあっても、そうではない人たちの幸せについ て考えることは、確かにあまりしてきませんでした。
 もし実際に関わることになった時、「あるがままに、自然体で」接することなどできるのだろうか…。まず 自分自身、あるがままに自然体に生きているとは言いがたく、甘えも媚びも下心も絶えてなくなるということがありません。いやだなあと思う一方、我が身可愛 さも背中合わせに潜んでいます。だから、僕は表立ってボランティアだとか平等だとか、怖くて言えないです。そんなことを言う前に自分はどうなんだと。そし て、例えば今日「ディアコノス」を読み、読者の意見を読み、ますます自分の恥ずかしさを感じるばかりです。
 …少し長くなってしまいました。今回の「ディアコノス」では、いろいろと考えました。実は、秦さんの短 編作品について、ちょっと書こうと思っていたのです。だけど今日は「ディアコノス」に完全に寄り切られてしまったようです。秦さんのおっしゃっていた「時 代と切り結ぶ批評」、ひしひしと伝わりました。小説を書きたいという願望はあっても、何を書こうという動機はそもそも根づいているのか。時間をかけて自分 に問いかけたいと思います。
 予想していたよりもずっと気分よく、じっくりと毎日を過ごしています。余計に増える知人関係との付き合 いが減ったかわり、秦さんの言葉や文章に前よりもわりと近く接しているような気がします。また大好きな「慈子」「罪はわが前に」「みごもりの湖」にも逢い たくなってきました。ゆっくりのんびり読み返してみようかな。迪子さんともどもお元気なようで、僕もなんとなく嬉しいです。それではまた。

* 二十歳にまだまだ間のある青年の、こういう感想に触れると、書いて置いて、公表 して、やはり良かったかなと胸をなで下ろす思い。この作品をわたしの作風からは、世界からは、異色すぎると感じる人、もうわたしの読者には少なかろうと思 う。「清経入水」このかた、わたしの動機には不当な差別への批評が続いている。「風の奏で」「初恋」などは芸能の、「冬祭り」では葬祭への、「北の時代」 ではアイヌや朝鮮半島人への、「親指のマリア」では信仰上の、と、他にもいろんな差別感情に触れた小説を意図して書き続けてきた。叙情的に美しいだけの小 説を書いてきたとは思わないのである。根底には、人は、人と、どう生きてゆくのだろうという漱石の「心」や藤村の「家」や谷崎の「細雪」や直哉の「暗夜行 路」などに学んだ体験が息づき生き続けていた。さらに前には、親も知らず「もらひ子」の歳月を独り噛みしめて暮らした体験が根づいていたのだろう。

* 小泉首相もいちはやく反応した池田小学校無差別児童殺傷事件などに、どんな政治 の対策が可能であるか、こんなに難しい人間的な対応は無い。心過剰時代に心を病んで沈んでゆくモラルと自覚。そういえば、こんなメールも届いていた。

* 少し、鬱状態かなと。
 気候も相まって、一つ二つ胸の内を占める不安なものがあり。私はこんなに神経質だったかなと思ったり。
 まあ、明日は明日の風が吹くでしょう。
 昨日、友人とおしゃべりをして聴いた話、以前から少しは耳にしてはいましたが、私もよく知っている彼女 の仲良しが、ここ五、六年の間にじょじょに神経を病み、今は脅迫観念に捕らわれて、異常な行動だというのです。
 日中から耳栓をし、セロテープで押さえ、シンクの排水溝から誰かに侵入されるとその都度塞ぎ、ある時は 水栓を閉め忘れて、団地の階下に大量に漏水して、私の友人も含めて大迷惑をかけたり、痩せているからと無理に食事をするので、食べたものは通過するだけか 骸骨の様にやせ細り、それでも家族は神経内科には診せたくなく、友人もそこまで立ち入るのは憚れて、やきもきしていると言います。
 勿論買い物にも殆ど出ないようで、良かれと思い無理にも毎週のお稽古に声を掛けると、やっと出てきて、 作法通りにお手前は出来るのですが、それでも窓際には襲われるからと怖がって座れない。気の毒と思いながらも、手を差し伸べるすべもないのよと。
 身近かにあるこの話は、ご本人にはお気の毒ですが、立派な反面教師です。
 その後べつの友人の家にも立ち寄り、そこでは孫の話で盛り上がり、明るくなって帰りました。

* みな、足下に地雷を感じながら日々にすり抜けすり抜け暮らしている。バグワンに 出逢ったことを、わたしは、たぶん妻も、今はかなり確かな支えにし得ていて、幸せである。
 ある仏門の雑誌に請われて書いた「心の問題」をここに書き込んでおく。

* 心の問題
 ちかごろ、わたしの気にしているのは、何だろう。
 手短かにいえば「心」の安売りである。
 テレビでも新聞でも雑誌でも「心」を看板にした企画が多い、いわく「心の時代」いわく「心の教育」いわ く「心のページ」などと。『心の問題』という本もあった。「心」とさえ謂うておれば、世の中、問題なしかの風潮になっている。
 「心」とは、それほどのモノだろうか。「心」が諸悪の根源ではないのか。
 いいや「心」は諸善の根源であり、教育の場では少年少女にもっと「心」を教えねばと、つい最近にも或る 文学者の会議で、座長格の哲学者から聞いた。これが世間でも常識かのようである。
 そうなのだろうか。「心」は、そんなに頼れるものであるか。さきの会議では、座長の「心」善玉説に即座 に否認の声も上がった。声を上げたのはさすがに仏徒であった。尼僧であった。だがNHKのテレビ番組で、禅門や浄土門の高徳らしき僧の口から、どれほど空 疎な「心」尊重の説法を聴かされてきたことか。著名なキャスターの中にもことある都度「心」を言い続けている人もいる、が、もう一度問うが、「心」とは、 そんなにも頼れるものであるか。
 「心」の原初の意味は分かっている。心臓の象形文字である。だが「こころ」の語源は指摘しにくい。普通 の辞書はたくさんな「意義」を挙げているが、語源の詮索は避けてある。出来ないらしいのである。仏教語辞典なら「意・識」を中心に無数の熟語を挙げてい る。英語で謂えばまさに「マインド」である。言い換えれば分別である。頭脳の働きに同調または伴走している。
 人の常識では「こころ」は目に見えない。形もない。在るとしてどこにどう在るかが分からない。つかみど ころがない。
 だからつかまえようとは「試み」なかったか。そうではない。「心見」の試みは、いろいろ為された。工夫 された。あんまり日常的な努力・工夫であったために、気づかずに見逃しているけれども、人の「こころ」との取っ組み合いは久しく久しいのであり、証拠は山 ほど積もっている。その一つが、私の謂う「こころ言葉」である。
 例えば文学の表現は、心の微妙なところへさしかかればかかるほど、「こころ言葉」のお世話になり続けて きた。あまりなり続けて決まり文句めき、文章に新鮮な冴えが無くなりかねぬところまで、ずいぶん、ご厄介になってきたのである。
 「こころ」に、温度というものがあろうか。立証はできない、が、「心が寒い」「冷たい心」「心暖かい」 「熱き心」「心温まる」「心も凍る」などと謂うてみることで、心の在りようを分かりよくしたには相違なかろう。「こころ」には、堅さ・大きさ・形など無い 筈と分かっていながら、「心やわらぐ」「堅い心で」「心を大きく」「小心な」「歪んだ心」「心を真っ直ぐに」などと謂う。なんとも分かりが早い。「赤き 心」「心を暗くする」「明るい心で」「心の闇」「心が晴れる」などとも謂う。
 本来は無いのであろうことを、自在に比喩し付託し示唆して、「こころ」を、可能な限り、つかみどころ有 りげに仕立てて来たのである。
 「こころ」を、「閉ざし」たり「開い」たり、われわれは、しているようだ。「心の隅」「心の奥」「心の 底」「心の内」「心の襞」などと、さも容れものめいて想ってもいるし、「心構え」だの「心の扉」などと建造物のように眺めたり、どこかしら底知れぬ世界へ 「心根」を下ろしているのだとも推量している。
 それどころではない。
 「一心に」打ち込んでいるかと思うと、たちまち「こころ」は「騒ぎ」「乱れ」また「舞い」「浮かれ」た り「病み」「やつれ」たりして「心ここになく」荒れ「狂う」こともあり、また一転、「心静かに」「心澄み」「心清く」冴え渡ることもある。
 「心づかい」しても「こころ」は減らない。遥か天涯に「心を馳せ」てもたちまちに戻って来れる。「心行 く」ことも「心残り」なこともあるのが「こころ」であり、「無心」にも「有心」にも「一億一心」にもなり、「こころごころ」に「心砕け」ることもある。
 「心を配る」ことも「心掛ける」ことも「心を用いる」ことも「こころ」には可能であり、「心弱く」も 「心細く」も、また「心丈夫」にも「太ぇ心」にもなれる。「心得て」いるのかと思っていると「心を失っ」ている。「きれいな心」も「きたない心」もある。 「心化粧」がちゃんと利くのである。「良き心」にも、「悪しき心」はもとより、「直き心」にも「ねじけ心」にもなり、「深い心」にも「浅い心」にもなる。
 「心あて」「心任せ」「心次第」「心のままに」何でも出来ると思っている。成行きによっては平然と「心 にもない」「心得違い」もしてしまう。
 挙げれば大事な有効な「こころ言葉」は、もっともっともっと沢山有る。
 問題は、何故そんなに有るのかだ。何故なんだろう。「心知った」人と共に生きたい。「心安く」「心親し く」交わり、生きて行きたい。「安心」が何よりだと、たいていの人は願っている。だが他人の「こころ」はもとより、自身の「こころ」ですら容易に把握でき ないのが正直な感想ではなかろうか。「心知る」ことが大事な希望でありながら、その「こころ」というヤツの正体は厄介きわまって、屁にはあるにおいすら、 無い。形象も色彩も大小も硬軟も温度も働きも、見れども見えず、掴みたくても掴みとれない。どこに存在しているのか、心臓か頭脳か全身にか、どこか空中に 浮遊しているのか、みな分からない。今でも本当のところは分かっていなくて、諸説紛々がいいところのようである。
  人の心は知られずや 真実こころは知られずや
と、室町時代の人々が小歌にして、嘆いている。洋の東西古今の別なく同じ嘆きを、今も続けている。自然科 学がなにもかも明らかにしたなどとは、自然科学者自身がいちばん言いづらい筈なのである。
 なににせよ、「心知る」ことは容易でない。その分からない「こころ」を分かりたい・知りたいと思って 「心見」た最たるものが、「こころ言葉」の発明と運用であり、日本人の知恵のひとつとして、たいした遺産なのである。観念的などんな「こころ」論よりも、 存外に具体的に「こころ言葉」の収拾と解析とが、多くをもたらすのではないかと思いつつ、日本人と日本文学の「心」をわたしは考え続けてきたが、道は遠 い。言えるのは安易に「心」は頼れないという真実だ。
 ブッダは、「心」が肝腎だなどと説かれただろうか。般若心経の「心」はいわゆる我々の多用する「ここ ろ」の意味でなく、中心にある大事な、根本のと謂った評価・形容語であり、大事に説かれているのは「無」「空」であろうと誰もが読んできた。いわゆる 「心」も、無に空に、つまり「無心にあれ」とこそ説かれていて、「心=マインド」という「分別」を根源の「ケイ礙=障り」としている。障りが失せ無心が得 られれば、何の恐怖有ることもなく、一切の顛倒夢想を遠離しついに涅槃に至ると。「心」とは「顛倒夢想」の巣であることをみごとに証明してみせるのが、無 数に生まれた、生まれざるを得なかった日本の「からだ言葉」である。無に帰する以外に所詮は把握もできず意義も確かめ得ない「心」なのであり、「心」を説 いてやまない人の多くは、いわば「顛倒夢想」の範囲内でより好都合に心理的な「心」操縦術を賢しげに説いているに過ぎぬ。いわば銘々が勝手な「こころ言 葉」を用いて自説を補強しているのであり、だから言うことは勝手次第にさまざまで、ちょうど何を食べると健康によいという類の「情報」と、少しも違わな い。あっちではああ言い、こっちではこう言っている。そしていよいよ現代人の「心」は乱れ・騒ぎ・砕け・散って「心ここになく」貪瞋癡に狂奔する。するし か道がないかのように「心=マインド」が祭り上げられ、あたかも強要されているのである。
 「心に、ふりまわされてはなりません」と、なぜ説かないのか、現代の僧や宗教家たちは。根本をまちがえ た哲学学や宗教学や心理学のエセ説法がはびこり過ぎ、世を過っている。安心とは無心であるとまっすぐ説く仏徒、「心」よりもいっそ「体」を大事にしなさい と説く思想家・教育者に出会いたい。
 
* 心を軽視するから心を病む人が増えているのだとは、わたしは考えていない。逆である。心に過大な荷物 を負わせすぎて心が潰されているのだ。安心、気楽、こういう言葉が大事にされ求められてきた背後には、とかく心を酷使しようとする人間のご都合主義がうご めいている。無心になって安心したいものだとつくづく思う。哲学も心理学も宗教学も精神分析も、一切役に立たない時代である。むしろそれらが人間をわる く、こすからく、ちいさいモノにしてきた元凶=ケイ礙そのものであったろう。

* 昨日の晩であったか、テレビで猪瀬直樹の声がすると思い、その通りであったの で、立ち止まって話を最後まで聴いた。「三四郎」「煤煙」から平塚明子の話になり、川端康成に到る、耳に親しい話題であったからだが、話しぶりが温厚に分 かりやすく、ゆったり落ち着いていることにも改めて感心したのである。よほど自信のあることを話しているのだ、彼は、ひどいときは機関銃のように言葉の粒 を連射し、その騒がしくうるさいことは大変なモノだが、こういうふうにじっくり静かにも話せるし、そういう話し方が数年前に比べれば格別多くなってきてい る。むちゃな意見をゴリゴリと押しつけたがると耐え難く喧しい男だが、自信のあるときは、説得の調子が穏やかになる。その穏やかな方の例の増えていること は、ここ一両年の猪瀬直樹の、他に優れた勉強と活躍と成熟との成果だと、わたしは歓迎し感心している。存在そのものが分厚くなってきた。けっして田中康夫 のような割り切れた思想家ではないが、バランス感覚は豊かで、豊かすぎるかも知れぬところにその度しがたい保守性=無理想性も有るのかも知れないが、健康 で普通の視線が、世のため人のためにこの調子で働いてくれれば、この人の活躍は実際問題としてなかなか頼もしい。面白くもある。
 

* 六月十二日 つづき

* 蝋山道雄・力石定一・木島始三氏連名の日本ペンクラブに伝達して欲しいという要 望書が私の手元に届いた。千鳥が淵霊苑を、国としても正式に参拝する戦没者慰霊の霊苑にしようという趣旨で、これは、五月九日、帝劇の帰りに妻と参って話 し合い、その月末に「私語の刻」にも詳しく書いていた通りの内容である。異存の有ろうわけもなく、申し入れはペンクラブ事務局へもう届いている。議題とし て私から提案もしてある。理事会がどう反応するか。たたき台として下記のような公開提言をともあれ用意しておく。

* 小泉純一郎内閣総理大臣 殿
 今年もまた八月十五日が近づいています。小泉首相の靖国神社参拝に近隣国の批判の声も聞えています。い つまで繰り返すのか、このような年中行事化の好ましいわけがなく、日本ペンクラブは憂慮しています。
  憂慮のままに、日本ペンクラブは提案します。
 この際、「国立千鳥ケ淵戦没者墓苑」を拡充し、これを国内外の戦没者慰霊記念霊苑とし、八月十五日を 「戦没者慰霊の日」と定める立法化が願わしいと。
 この日に、天皇と内閣が霊苑に参拝すると定めますことは、いわば墓参であり、戦没者の霊を慰めまた感謝 の意を捧げて何の不自然も生じないと考えます。

* ブックオフならびに図書館にもかかわる、言論表現委員会としての憂慮声明案も届 いた。
  この判断は難しい。わたしにはまだ割り切れた理解がもてない、ハッキリとは。
 どちらかといえば、ブックオフと図書館とを同じ対象としてこの問題で意識するのは無理だと思う。図書館 には久しい文化史的背後がある。ブックオフと現象的な或る一致点を並べてターゲットにするのは、どうも気持ちが悪い。図書館運営に行き過ぎがあれば、別途 にアンケートで問うぐらいがいいのでは。
 ブックオフにしても、法的な問題点がない。出版社がいきなり廉価で投げ売り気味に横流ししているのなら ともかく、一度は売れた本が流れてゆくのなら、いわゆる古書売買とくらべ、量的な程度の差以上に何が有るのかと、読者は思うだろうし、読者にはともあれ有 り難いことかも知れない。
 それと、もう一つ、そのようにしてでも著作が読者の手にわたっている事実は、それだけ現に「読まれてい る」のであり、読んで読者が良い気持ちになれば、その作品生命も著者の評価も未来へのびて、有り難い結果が、さきざきに期待できるのではないのかという、 そういう付加価値が、これを問題とする著作関係者にあまり考慮されずに、被害意識がかなり大きく先行してしまっている。
 視野狭窄はないのだろうか。
 あまり、せっかちな自己過剰防衛になるのも考え物ではないだろうか。
 この私の感想は「著作者の立場」でだけ考えられている。出版社のことは考慮していない。どうも著作権の 侵害といったことでは、無いのではないかという声も身近に聴く。難しいことである。
 文芸家協会でもこれを討議する委員会の招集が、今日、あった。
 わたしには、京都議定書をアメリカが批准しないために立ち往生している地球温暖化問題の方が大きいと思 えているが、どんなものか。

* 図書館勤務の友人も読者もいる。声を聴きたい。

* あじさいが美しい色を楽しませてくれます。玄関にいけた花も、元気。
 ディアコノス いろいろな意見が寄せられて興味深く拝見しています。
 ある方の「精神障害」「知的障害」の定義は、ちょっとちがうかと・・・。この方の「知的障害」はダウン 症のことをおっしゃっているようですが、染色体異常もほんとうにいろいろあってダウン症ばかりでなく、知的に遅滞のないものもあるのです。ここで、「妙子 ちゃん」をどんな障害かと断定する必要はないでしょうし、私は、知的障害と思春期に始まった精神障害の混じったものでは、と、思っていました。「結婚した い」という情動が異常に高ぶったことや「死」への願望のあったことが、「節子」とその家族を特に困惑させたので、そのことが問題だったのですから。
 それから、セロテープ 排水溝の方は、「心の病」と思われます。(全く同じことを見聞きしたことがあり ます、「お茶」のけいこにだけは、最後までかよっていたところまで・・・。)難しいですね。早期治療でよくなる可能性もあるものを、家族がすべて背負って いるのですね。

* 「身も心も健康でありたいと思っています。健康診断で少しひっかかったの で・・・そして実はこの「少し」の人こそ、急に心筋こうそくなどになる可能性も高いと聞いたので、・・・ストレスのより少ない生き方にそろそろ方向転換し たいと思い始めています」というメールも届いている。
 「元気に老い、自然に死ぬ」ことは容易でないが。
 

* 六月十三日 水

* 日本でのいわば公的な「ディアゴノス=奉仕・世話」の実情に関して、こんなメッ セージも戴いている。なかなか言葉だけでは伝えにくいものも有ろうけれど、こういうことは知っていたく、感謝してここに書き込ませてもらう。

* 元勤務先は、先生がたのいらっしゃる大きな「施設」ではなく、(世話を受ける) 人たちが外部で仕事を得て、その収入と年金で暮らす「通勤寮」と、そこから地域に居を構え、数人が一緒に暮らす「グループホーム」でした。障害は重複して いる人もいましたが、軽度のうちにはいると思います。ただここに入寮できる人の人数は限られていて、養護学校や施設からの希望で、体験学習を経てからにな ります。スポーツや旅行などの行事を通じて交流するときには、仕事に支障をきたさない限り、全員が集います。百人近くにもなるでしょうか。障害(の種類や 程度も)もそれだけ異なっていたということです。ダウン症も、自閉症も、言語障害、身体に障害ある人も、障害者同士で結婚した人もいますし、子供を持った 人もいます。親も障害者で庇護を受けられなかったり、捨てられた人もいます。
  熱心に子供たちの将来を心配している親たちの団体もあります。本当に、本人を取り巻く環境も千差万別なのです。
 ノーマライゼーションがいいだされてから、全国的な「世話人会議」も開催されました。そこで、「世話 人」の待遇の悪さも問題にされました。交替要員がいなくて休みが取れないとか、世話人が同居で、家族全員で丸抱えの状態にあるとか。社会保険の完備されて いないところもあり、行政からの援助、補助も、その県により、大差がありました。障害者の高齢化と、世話人の高齢化も大きな問題でした。本人の高齢化にと もなって、働けなくなったときの収入も心配されます。不景気は、一番に弱者を切り捨てていきます。そのために小規模作業所や、パン製造販売や、それに類す る仕事場を作り、将来にそなえているようです。

* ブックオフについてペンクラブとして憂慮声明を出すという言論表現委員会提案へ の危惧と躊躇を、同僚委員にメールで伝えたところ、宮崎哲弥氏から返事が来た。肯綮にあたった意見でかなり納得したし、もやっと思っていたところを代弁も してもらえた。紹介したいが、許可を得ていないので控える。

* 木島始さんに戴いた詩集『回風歌・脱出』は気迫に富んだ優れて批評的な一冊で、 「脱出」は詩劇である。二十年前に刊行されているが、今に読み返して強い刺激を受ける。今年の夏、また上演されると聞いている。「e-文庫・湖」に一編二 編頂戴したい。

* 筑摩書房から今年の太宰賞受賞作と最終候補作二編が、選評付きムックの体で届い た。受賞作はかなりの長編であるが、舞台は外国で登場の人物も外人のようで、国際時代であるからそんなことは問題ではないけれど、すうっと入って行きにく くはある。面白そうであるが。

* 大学へ「湖の本」を寄贈しているので、いろんな大学がお返しに紀要を送ってくれ る。これがなかなの読み物になる。そうはいえ、感じ入るほどの研究の少ない、極めて少ない、のも確かである。ま、仕方がない、が、閉口するのは、文学をあ つかう論文の日本語の概して粗悪なことで、これには辟易し、また驚く。索漠とした文章で名作の魅力や秘密に迫ろうというわけだ、どうにか成らないものか。 もっとも私の専攻した美学藝術学の論文のなお遙かに日本人離れした日本語には、学生時代に仰天し、あわやわたしも悪弊に染まりそうで逃げ出したのだが、最 近の紀要を見ても相変わらずで、頭痛がする。どうにか成らないものかと思う。

* 歌人でも学者でもある山田吉郎氏が『前田夕暮研究』という大冊を下さった。秦野 市で、前田夕暮記念の公開講演をしたことがある。その時からのご縁で、湖の本も読んでもらっている。この研究書も一万八千円するが、最近に戴いた幾冊かの 研究書はどれもほぼ同じほど高価であった。研究書は売れない、自然、部数は少なく高価になる。しかし、そういう書物の中から「文化」の積み上げというにふ さわしい貴重な作物が残ってゆく。いま、マンガ本のブックオフ商法に話題が集まっているが、ある人によれば、読書の通過価値は定価に比してあまりに低いと か。繰り返して読ませるモノもが少なければ、仮に一時間で読めて千円、一度読めばそれきりの本なら、新しいまま古書店に投げ売りもするだろうと。そういう ことから比較すると、例えば山田さんの夕暮研究の浩瀚かつ周到なことは、千円のマンガに比して一万八千円がむしろ安いとすら感じさせる。そういう本を戴く のは心苦しくもあり嬉しさはもっと深い。
 

* 六月十四日 木

* 田代誠さんの「父のぬくもり」という佳いエッセイを「e-文庫・湖」の第五頁に 戴いた。夏目漱石の早稲田の宅の近くで育った人で、父上は優れた医師であり人格豊かな「良寛」のようなと人に評された方であった。田代さんは京都在住の陶 藝家で、わたしの日頃愛用し常用している湯呑みの作者である。文章そのまま、心温かなふっくらと掌に大きくて優しい湯呑みである。明治の大人の、父親の、 また母親のプロフィールが、愛と思慕の情をこめてよく書かれている。

* 橋本博英氏の回顧展が青山で開かれてますね。秦さんのホームページも拝見し、講 演録も読みました。
 個人的なことを話せば、私の祖父も画家で、中学の美術教師をしながら絵を描いていました。
 橋本氏の絵は以前に画集で見て、知っていましたが、初めて観たとき、本当にびっくりしました。祖父の絵 にそっくりでした。題材も橋本氏は丹沢、祖父は八ヶ岳にアトリエをかまえ、画布を外に持ち出して制作する姿勢も、タッチも本当によく似ているのです。
 祖父は私が高校の頃になくなりました。私が美術部に入って、油絵を描きはじめたのを知ってとても喜んで くれました。もっといろいろ話したいと思っていた矢先に死んでしまったような気がします。
 橋本氏の絵は正直、それほど上手いとは思いません。(生意気ながら)上手いだけの人ならもっとたくさん いると思います。まず、素人が風景画を描こうとすると、あのような画風に近いものができると思います。
 しかし、私はそこが肝要なところで、橋本氏は絵を描きはじめた人の素朴で、純粋に対象を視る目をずっと 変わることなく持ち続けた人なんだと思います。印象派とよばれた画家達から時代が下るにつれ、自然のなかで光のうつろいや空気の質感を表現しようという本 来の目的が、点描のような分析的手法にすりかわっていったという絵画の歴史もありますが、絵を生業とすればその世界での評価を得るため、意識しないうちに 絵のための絵を描いてしまうことが多々あるのではないかと思います。
 私がいちばん感動したのは、橋本氏のスタイルがぶれない、筋の通ったところです。失礼ながら不器用にも おもえるほど...。
 後半、丹沢にアトリエをかまえてからの、山の小道を描いた作品などは対象物との間にしっとりした空気、 水蒸気のようなもの、空気の質感ともいえるものが感じられてきます。風景を描く人であれば誰でもみな、この境地を一つの目標にしているような気がします。 見えない空気が描けたら...。
 画集にみるところ春や新緑といった、新しいはじまりが感じられるような季節を好んで描いたようですが、 個人的には秋や落ち葉の積もった林道も見てみたかった....。
 講演録も読みました。カンテラの例え話が好きです。
 絵そのままの、静かで、誠実な人柄が伝わってきます。

* 嬉しいメールであった。

* 元「新潮」編集長の坂本忠雄氏から、「掌説・無明」を途中まで読んで、「星空」 など、「深みを湛えた名掌編と存じました」とハガキをもらった。気に入った一編で、嬉しく読んだ。

* すみませんご心配おかけして。暗い話ばかりでもありません。だいじょうぶです。
 仕事が辛いのには明らかな理由が幾つかあるんです。去年異動して以来、上司に恵まれないこともその一 つ。いつもどこか重苦しい雰囲気が漂っていて。理不尽なことを言われたり、感情的に高圧的に。
 プライベートでは、中学以来の友人が複数の病気を抱え、その医療費支援のために貯金が底をついてしまい ました。どうしようもなく制度のはざまで。他に頼る先がなくて。毎日大変な状況へ耳を傾けることが心労となっています。辛い思いをして働いても、蓄えが残 らないことも悔しくて。(もちろん彼女の孤独と辛さとは比較にならないのですが)。
 仕事のつてで、医療ソーシャルワーカーに相談したり、公的な窓口に相談したりしてもらちが明かず、つい 先頃、トップクラスのソーシャルワーカーさんにつなぐことができ、今少しホッとしているところです。
 一番気にかかっていることを、ちょっと吐き出しました。
 すごくお目にかかりたいです。でもお忙しいことでしょう??ご都合のよい場所、日にちに合わせます。

* 「医療費支援のために貯金が底をついてしまいました」には驚いた。それでは「辛 い思いをして働いても、蓄えが残らない」だろう。過剰であるか、そうではないのか。この人もまた「ディアコニッセ」の一人というに、ちかい。分かりきれな い一面もある。

* 懐かしい御本を有難う御座いました。
   お懐かしい秦先生の字をポストに見つけまして、えっ!湖の本だわ!と大変驚きました。
  15周年記念本当におめでとう御座います。「湖の本」の出版についてお話をお聞きしましたのも、15年前の事でしたのね。
  途中長い事中断しておりました。これからはまた購読申込みさせていただきます。
  この間は本当にいろんなことが御座いました。私自身入院や苦しい抗癌剤との闘い、死をも覚悟した時期も御座いました。
  明るく前向きに考える事によって、其の時は其の時に考えようビクビクしない事に決めました。
  何気ない日常の景色がこれほどもありがたく、いとおしく新鮮な思いで見られたことはございませんでした。
  桜の花に迎えられる様な時に退院致しましたので直ぐに、「細雪」の桜の場面を思い出しまして、初めてその大切さ、くりかえしの素晴らしい事を教えて下さい ました秦先生の言葉を思い出しておりました。それからは”一期一会”の言葉が実感できる様になりました。
  又24年間も尊敬し、我が師と崇め慕って教えを受けておりました**先生との永遠の別れが2年前にありました。お子様のいらしゃらなかった先生を最後まで 看取らせて頂いて、この時ほど”死なれて”しまったと哀しい、かなしい心持でむなしく空をながめたことはございませんでした。秦先生の素晴らしさを心をこ めて教えてくださったのも**先生でした。隠れた秦先生のファンでした。古事記、日本書紀、万葉集、源氏物語、和泉式部日記、紫式部日記、平家物語、伊勢 物語、徒然草、奥の細道、と随分教えていただき導いてくださいました。
  その先生を失いまして、路頭に迷っております。
  唯一つ読書会だけは今も自分たちだけで続けております.
  こんな私事を永く書いてしまいまして先生にメールいたしますことお許しくださいませ。
  長雨の”ながむこころのロマン”を思いつつこの季節を過ごしていきます。どうぞお大切にお過ごし下さいませ。

 話が出来まして感激でございます。早速のご返信ありがとうございました。
  お便りをしておりました時も、即お返事くださいましたので、いつもお仕事のお邪魔をしているのではと、心にかかっておりました。とても筆まめでいらしゃい ましたのに・・・
  本当にメールですとお手紙よりも気楽にお便りできてしまいますので、度々気軽に先生にお便りさせていただきそうで、よりご迷惑をお掛けするかもしれませ ん。
  「ディアコノス=寒いテラス」を頂いて直ぐに読みました。どう言う意味かしら?と思いまして、引きずり込まれる様に一気に読みました。ずうっと心に引っか かってしまって、どの様に対したら良いのでしょう、と、重い宿題のように感じております。又感想はゆっくりと書いてみたいと思います。多くの人と話し合っ ても見るつもりで御座います。私の中でも抱えてまいります。

* 長かった時間を取り戻すようにこういう親しい旧知との再会のあるのも、読者と作 者との冥利である。こういう人たちに支えられてきたのだ。

*  降りますね。「十五年」も昔、近くの小学校の生け垣から、「ごめんね」と無断で頂戴して挿し木した二種類の紫陽花が、今では狭い庭を占領して、この雨に満 足そうです。梅雨時は、この花が咲いてこそ鬱陶しさも緩和されます。毎年梅雨が明けると一度は…と思い、でもやっぱり根こそぎにするのは踏み留まっていま す。
 物識りの友人から、水揚げの悪い切り花は、すっぽりと水に一日浸けるといいのよ、と聴き、今は部屋の中 でも、活き活きと咲いています。紫陽花の花言葉は戴けませんが、好きな花の一つです。明日も雨です。
 そう、「湖の本」を発行するおはなしを聴いたのは、「こころ」上演の頃でしたでしょうか。「十五年」と 一口に言っても、赤ちゃんが十五歳の少年にまで成長するのと置き換えますと、それはそれは永い年月です。立派な事業です。ご苦労様でした。今後も元気で、 持ち前の意欲、満々と、次の節目を目出度く迎えられますように。
 昨日の井戸端ならぬ、喫茶会議でのお仲間の話。
 友人は小泉総理のホームページマガジンに登録すると言い、今日のニュースでは、八十七万人が登録したと か。登録しましたか。明るい話題だけれども、私はそれ程入り込めません。
 鬱なんて本当は大嫌い。昔から、鬱状態の人は嫌いだった。陽気で明るいのが好き。

* 鬱はいけない、鬱々はもっといけない、すばやく元気にかわさないと。この人のよ うに友人があり話したり遊べたりする老境が望ましいのだが。

* わたしは小泉マガジンに申し込む気はない。あの程度のものなら報道の伝える程度 で事足りる。だがインターネットを有効に使おうという発想はいいと思う。ペンクラブ理事会の老人たちに、あなたもどうぞとは言わないが、電子メディアを使 える若い人たちの未来を思えば、このメディアから起きる問題にだけは敏感であって欲しいと願いたい。小泉さんはいい線を行っている。しかし、昨日の党首討 論会では、鳩山氏にも、志位氏にも、土井さんにも明らかに負けていた。小泉内閣を当面は支持しているが、それも田中外務大臣の健闘・敢闘を評価しているか らで、小泉首相がどの程度まで道路財源、京都議定書、沖縄基地、外務省機密費問題や人事で適切な政治判断をするか、さらには不良債権と構造改革を具体的に どう進める気か、なかなか甘いことは言えない。議定書問題でいいかげんな発言をした平沼大臣や、鳩山氏にゾンビ呼ばわりされた麻生政調会長らを、のさばら せては成らない。政治判断に従わなければ彼らをこそ更迭すべきだ。
 

* 六月十四日 つづき

* どうしても、お許しを願ってこのメールをここに書き込ませて戴きたい。「批判し て欲しい」とお願いしてあった。少しくご事情を伺っていたからである。

* 寒いテラス・読後に
 秦恒平様、湖の本お送りいただき有難うございます。
 早速に「寒いテラス」を読みました。批判するどころではなく、身につまされ、考えさせられてしまいまし た。
 ご承知頂いて居ますように私にとっては決して珍しくないテーマであるが故に、主人公「淡路」家の方達の やるせなさも、「妙子ちゃん」の両親の立場も良くわかり、そう言う意味でとても冷静な読者ではあり得ません。
 異常な体験をした家族の物語として読めば、とても良く描かれていて人の心の不気味さが迫って参ります。 また障害者の受容という”正義”の前に、人々が言いにくくなってしまっているものを、よくぞ書いてくださった、という感想もあります。また”統合教育こそ 理想の姿”と言われる中にひそむ問題点、これも言いにくい事を言って下さったと。
 ある人が統合教育における学級の障害児は「教室の金魚」状態になりやすいと言ったのを思い出しました。 「節子」さんの役目は「金魚係」。一見スムーズに運営されているクラス。薫先生。美しいノーマライゼーションの眺め。
 その他、自閉症と思われる「妙子ちゃん」への対応は適切だったのか、とか、小説というよりも、障害児へ の受容や対応を学ぶ症例、としての読み方もあると思いました。
 しかし、私にとってショックだったのは、私自身が、自分の知らぬところで”淡路さん一家”を作っている のではないか?という恐怖感に襲われたことです。
 私の物語---を聞いて下さいませ。
 私方の息子はあるファミリーレストランの洗い場で、もう8年以上働かせて頂いております。法定雇用率・ 納付金制度に後押しされ、レストラン本社の障害者雇用への熱心な取り組みのお陰です。店長は本社人事から教育を受けて積極的に知的障害者の理解に努め、そ れは店長自身の人事評価にも繋がっています。
 けれども実際に洗い場で毎日息子と顔を合わし仕事を教えてくれたのは、パートのおばさんなのです。この おばさん達にしてみれば、どうして自分がその役を振られたか納得出来ているとは言い難く、不満があり、それももっともな事と、私だって思います。
 息子に仕事を教えてくれたAさんは、とても仕事の出来る”職人肌”のパートさんで、このおばさんの”し ごき”のお陰で、息子は何とか使い物になるレベルまで仕事をおぼえられたのだと、私達は感謝しています。
 けれども、Aさんにとっては、いつまでたっても息子を好きにはなれない、いくら言っても覚えが悪いくせ にいっぱしの口答えをする、ボロクソにしかっても、さしてこたえた様子でもなく、「僕はこの仕事が大好きです」と言って、しかられても、しかられても翌日 は元気に仕事場に現れる。
 仕事場へ行けばいやな相手と働かねばならず、かといっておばさんには生活がかかっているから、そんな理 由でやめるわけには勿論行かない。店長は(障害者雇用の推進側だから)言っても取り合ってくれない。
 そこでおばさんは、1年に一度位(何故か冬の寒い時期に)”大爆発!” 苦情電話を我が家へかけてくる。そこで延々と電話で私がしかられる。「お母さんはわかって居るんですか!」って。
   Aさんの苦情にもいちいちもっともなところもあるのですが、理不尽な部分もあります。いずれにしても、そこが知的障害の障害たるところでもあり「申し訳あ りません。お世話かけます。」と謝るしか言いようがありません。そこで親が遠慮して店を辞めさせでもしてしまったら、本人の働きたい気持ちはどうなる。こ れまでの努力はどうなる。あやまったり、主張したり、本社に、店長に、言ってくれと逃げたり。
 ぐったりくたびれ、がっくり落ち込んで-----でも、毎日もっとボロクソにいわれても、私達に訴える こともしないでいる息子の事を思うと、「なんのこれしき」って元気が出てくる。はたの人から見れば、開き直りに見えるかもしれません。
 障害者と一般社会の接点では、いろいろな難しさがあります。
 私達障害者の親サイドには、このくらいは大目に見て貰って当然、の甘えが生じやすく、また健常者といわ れる人達は、傍観者でいられる間は、正義の味方、弱者にやさしくといえても、実際毎日のように接するとなれば、生理的にいや、嫌いという感情を持つことも あり、それを無理に抑えることも難しいでしょう。障害者とでなくとも、そういうのってありますもの。
 障害者の親同士だって、他家の障害児を好きになれないことはあります。
 障害児はみんな”かわいい”なんてことはありません。”かわいげのない奴”もいます。いろんな性格が あって当然だのに、障害者なら、かわいいはず、正直なはず、素直なはず、それは健常者といわれる人達のまちがった思い込みです。
 息子と「妙子ちゃん」が違うところは、息子もAさんが苦手で、今日はAさんが休みだという日は、いつに もまして機嫌良く出勤して行くので、苦笑してしまいます。職場に自分と合う人合わぬ人がいるのは普通のことだし、店長や他の人とはうまくいっているような ので、こうして長く続いているのだとは思います。
 でも、Aさんにとってはどうなんだろう? それは私達一家の責任かなのか? 「寒いテラス」を読んで、 急に気になってしまった、という次第です。
 息子が一方的に、お店で働いている女性に好意を持った事もありました。既婚で子供さんもあることを知っ ても「デートしたい」と言うところは、やっぱり---という感じ。「行く場所も知らない貴男には、無理でしょう」くらいの忠告で諦められる淡さで、ほっと しました。テレビの長嶋美奈さんとか、ゴルフの不動有理さんを「可愛い----」って言っている分にはご愛敬で。
 でも知的障害の人が一方的に誰かを好きになり妄想の世界に入る事はそう珍しくなく、火事と一緒で、初期 消火を誤ると面倒になるようです。
 次に、秦さんがこの作品の発表を20年もためらわれたことについて考えました。その結果がどうのこうの でなく、その間の、知的障害者を取り囲む環境の変化を思い起こしました。丁度日本の障害者施策や障害者観の転換ポイントと言われている「国際障害者年から の20年」と重なっています。20年前に発表されるよりも、今の方が、作品のテーマを正しく理解できる人が増えていると思います。統合教育も、あの当時よ りかなり定着し成熟しています。
 むしろそれ故、各地に”薫先生”や”節子さん”は沢山出現していますし、”淡路家”も存在していると思 います。当時よりは、そのような困った事態への対処の知恵も蓄積されているやもしれません、が、おそらく今もって新しい問題点でしょう。入所施設近辺で は、開所当初は入所者も落ち着かず、施設を出て近隣の家に上がり込む例が多いそうです、よりにもよって施設建設に最後まで反対だった家に上がり込む、と話 して下さった施設長は、笑っていました。地域の人も不慣れで、この珍客に困惑しながらもねお菓子をだしたり----そのうちに地域の人も対処方法に慣れ て、良い形で地域との共存が出来てくるようになってくるのですが。
 栃木県に在るある有名な施設の初期の頃、近隣の農家に上がり込み勝手に飲食するのはざら、あげく納屋に 火をつけ燃やしてしまったこともあったそうです。この挿話を、創設者(この世界ではビッグな人です)が、”にこやかに”話されると、私などでも、やはり釈 然としません。近くに住んでいる人にとってはすごい恐怖だったろうと思います。
 障害者をありのまま受容するために、周囲はどこまでのリスクを受容しなければならないのか----。折 しも池田の附属小での殺傷事件が起こり、今、社会全体で同じような問題が関心を集めています。
 本質的ではないことなのですが、用語についてね秦さんの意図をお訊ねします。
 現在「精神薄弱・精薄」は法律用語を除いては使わない風潮にあり、「白痴」も余程のことがないと使わな くなっています。20年前お書きになった時には、まだ、それ程用語は批判の対象になっていなかったと思いますが。意図して(薫先生や節子さんの母親の障害 者観を現すものとして)お使いなのか、単に当時の用語そのままになっているのか-----、僭越ですが、ふと気になりました。
 思いがこみ上げるままに書き連ね、一体何が言いたいのか、感想にも批判にもまとまりが着いていません が、お許し下さい。もっと、もっと、いろいろあるのですが----今日はこのくらいに致します。 2001/6/14   雨の日に

* 答えようにも答えの出る道が見えず、割り切ろうにもとても割り切れはせず、こん なことは書かない方がいいのではないかと思いつつ書いて、しかし、二十年前にこれを公表するのはためらわれた。このメールのお母さんのような方をさらに嘆 かせたくないという斟酌がやはりいちばん強かった。その一方で、問題はそこにだけ有るわけはないと分かっていた。問題の解きようが見えてこず、自分で解け ない問題を世間へ向けて投げかけるのは、あまりに乱暴だというような尻込みすらわたしはしたのだ。だが、だからこそ発表すべきだという考えにようやく昨今 落ち着いてきた。だが、その落ち着いた筋道をうまく説明することは出来ない。
 そんなことがあって、概念的な理屈を言うよりは、情況がありありと伝わるように書こう、しかし視点を きっちり絞るためには「母親」一人の思い、限界も歪みも含んで、率直なような婉曲なような「女」の言葉で、じわじわと(平和な家庭の普通の主婦らしい、母 親らしい)本音を吐かせてみようと考えた。特別の主張を述べ立てずに、控えめな憤懣、ぶつけどころのない憤懣というものを「書かせ」てみようと考えた。そ のおかげで、作品の表現が、父親ならばもっと概念的になったかも知れぬものが、比較的具体的な描写の連続を得て、小説の出来としては救われた。だが、なに もかもが割り切れないまま残った。少し、急過ぎるかなと思いつつ「薫」先生をターゲットにした。
 上のメールのお母さんも、とても、こんなものでは治まらない苦渋を噛みしめておられると思う。少しで も、こうした知情意の交流から「何か」が見えて、掴み取れるようにありたいと、わたしは願っている。
 用語については、ぜんたいが、「淡路」家主婦で母親の日常性を背負った直接話法であり、この母親のと限 らず、当時の通念と鈍感と不作法のまま口にさせて置く方が、表現として自然であろうかと考慮していた、と思う。今度校正しながらもそう考えていた。

* 木島始氏の詩集から「回風歌」「きみらの指図をうけないところ」二編を頂戴し、 「e-文庫・湖」第七頁に掲載した。惜しい作家であった三原誠の奥さんから夫君の作品をどうぞと貴重な遺著を送ってきて戴いた。昔に感銘を受けていた作品 で「創作欄」に立派に重きをなすことを喜びたい。スキャンし、慎重に校正してから掲載したい。また、大事な読者である方の母上の昔に書かれていた児童向け の小説をプリントで受け取っている。ディスクがうまく働かないので、メールで送れるものならお願いしたいと頼んである。幾昔かの時代のきちっと刻印された ちょっと面白い楷書の異色作になるだろう。「詩歌」の欄は、どこへ出しても恥ずかしくない立派な詞華集を成して、層一層と充実しているが、「創作」欄も追 い追いに充実を加えてゆく。「e-literary magazine文庫・湖umi」は、創刊半年、確実に飛翔しつつある。若い新しい才能、新しい作品のさらなる登場を切に待ちたい。
 

* 六月十五日 金

* 私のような母親を悲しませたくなくて----とのお気持ちが発表をためらわせた とありますが、そんなご心配は要りません。親と言っても我が子が迷惑至極に思われるときもあり、そんなに立派に生きているわけではありません。障害者に とって親はすでに社会の一端、差別も偏見も、生まれてすぐに親から始まっています。
 親は確かに心の奥に悲しみの固まりを沈めているようなところはありますけれど、普段はあっけらかんと普 通にくらしていることが多いので、周囲から腫れ物にさわられるようにいたわられるのも、ひねくれているようですが、気持ち悪いものです。
 それに”障害児の親”といっても、千差万別。大概は、その子を持つまでは”普通の人”だったのですか ら。社会の中である日突然別のグループに席替えさせられたようなもの、当事者にしてみれば「殆どの部分で昨日までの私と何も変わっていないのに、どうして 障害児の親らしく変わることを求められるの?」という居心地の悪さがあります。
 同じく障害児を持って、もともと障害者に偏見のあった人ほど「自分は差別される」と心配し、逆に障害者 に違和感がなかった人は「どうにかなるさ」と楽観的なのは、興味深いところです。
 だから、社会全体の障害者観の底上げが大切ですし、そのためにはきれいごと、美談の世界から、当事者も 一般の人も共に、真実自分の心の底まで見つめる必要があるのです。それ故このような辛口の物語は必要なのだ、と私は思います。
 もっと面白い話をいたしましょう。
 秦さんが女性の慇懃な語り口を用いられたのは大成功だと思います。
 知的障害のあるひとにとって、持って回った丁寧な物言いほど、わかりにくく、混乱するものはありませ ん。この女性の対応は、きっと「妙子ちゃん」を混乱させ、事態がちっとも解決しなかった原因になったと言えます。何故かというと---
 夕べ、はたと! 思い出しました。
 私の母は京都で「ええおひと」「ええとこのおくさん」と言われ、またそうあることこそ正しい自分のあり 方と思っていた人なので、京都式の、まず自分を安全な場所に置いて婉曲に意見・希望を述べるという会話の達人でした。もう、そのような物言いしか出来ない 人。
 私も夫も京都育ちだから、そんなもんやと思ってええかげんに聞いて、エッセンスをくみ取る術を持ってい るのですが、孫達はそうはいきません。なかでも、知恵遅れの息子には”理解しがたい言いよう”なのです。
 例えば、何々をしては困る、というのに、母は「私はかまへんけど、したらあかん」と言うわけです。子ど もにしてみれば、かまうのか、かまわないのか、してよいのか、悪いのか----結局この注意は何の効果も発揮しません。そこで母は私に「いうてもきかへん から、あんたからおこって」と、こう来る。
 でも”お巡りさんにおこられるから駄目”式のしかり方は私はやりたくないし、第一、知恵遅れの子どもは 現行犯でその場で言われた事・人でないと理解が出来ません。よく母子で言い争いました。それこそ、私は切なかったです。
 京都式の持って回ったいい方は、さすがは千年の都のいいまわし、高度な文化、かなり知的水準が高くない と理解するのは無理です。
 そんな京都のややこしさがきらいで、きらいで東京に住み着いた私ですが、やっぱり京都が好き。もう一度 住もうとは思わないけれど恋しい。死んだらお墓は絶対京都や!と夫と言っています。幸い私の引き継いだ墓が円山公園の横、絶妙の地にあるのでそこにしよう と。でも、正面に”* *家代々の墓”と書いてあるのを何としよう!! お寺さん(例の弥栄中の* *先生です)は南無阿弥陀仏にすればよい、と教えてくださいましたけれど。
  お陰様で夫は元気に相変わらず* * *の仕事をしています。
 「私語の刻」に何か反響がでるか、これからも楽しみにしながらのぞかせていただきます。いつ も脱線を重ねるメールですみません。

* この久しい友人のメールの何と歯切れのいいことだろう、こういう表現がメールの 上で難なくらくらくと実現していることに、わたしは将来の電子文藝への希望をもつ。嬉しくなる。母上の京ことばに思わず笑ってしまう。われわれの家庭でも こういうことが繰り返し積み重ねられて、わたしの「京ことば・日本語」論や「京都・日本」論に展開していった。
 こういうメールをもらえただけでも、書いてよかったなとほっとしている。感謝。

* もう時間がない。午後はペンの理事会で、心ゆくものになるか、うんざりして帰っ てくるか、出かけねばならない。もう郵便も来ていて、いい便りも幾つもあった。
 

* 六月十五日 つづき

* 福田恆存先生の奥様からお手紙をいただいた。有り難い「湖の本」の第一巻からの 継続読者で、先生の亡くなられた後も引き続きご親切にいろいろ応援して戴いている。「故人が創刊のお気持に共感、感銘致し、続けて頂戴しようと申しました のもつい此の間のやうに存ぜられますのに 十五年とは、夢のやう」と仰有っている。ああ、そのような会話がお二人の間に有ったのかと、身にしみじみと嬉し く懐かしい。世間をせまくせまく生きてゆこうとする偏屈な若い作家を、いたわって下さったのであろう、同じような先生方が、だが寂しいことに次々に亡く なって行かれた。

* 東大の法学部長であられた福田歓一氏からも、「この非道い出版界の中での見事な 志のお仕事に改めて感嘆」とお手紙を戴いた。お送りするたびに必ずお手紙を下さる方である。そして、わたしの小さな誤植や誤解をみつけて訂正してくださる のもこの方である。今回は「ああ昨日(きぞ)のその場しのぎの優しさが深夜電話に化けてまた響(な)る」の作者を島田修三としてあるのは島田修二ではと。 紛らわしいし、「コスモス」の修二氏がやや著名なのだが、これは別人で「まひる野」の修三氏が正しい作者、ほっとしたが、こういうご親切はまた身にしみて 嬉しいものである。

* 八十九歳の西山松之助氏も丁寧なお手紙を下さっている。有り難いことに「掌説・ 無明」に触れて、「この無明の短編はすごい筆力です 私は(最初の)「電話」から(読み)はじめましたが どれも皆 秦さんはだんだんすごくなると思いま した 「墓参」りの最後なんか、すごいです。見えるようです」と、「杖を頼りにやっと歩ける」ご病身でありながら、力強い大きなペンの文字で書いてくだ さっている。「それにつけても『湖の本』は人生の御手本」とまでいわれると肩から縮むけれど。今度の本で「掌説20編・無明」のことは、投げ出すほどの居 直りで収録したものの、その一方、こういう掌編はわたしにしか書けないという自負ももっている。ペンの理事会へ行く途中の有楽町線で、また、時間があった ので帝劇モールの「きく川」で鰻を食べていた間にも、二十編ぜんぶ読み直してみた。西山先生のつかわれる「すごい」という言葉は、わたしは、普通「すさま じい」の負の意味で用いているのだが、ま、負の意味もふくめて、徹して書いているという感じは改めて持てた。初期の掌説よりぐっとキツク、キビシク吐き出 している。文章も表現も、これならいいとすら思われたのは自分に点が甘いか。それにしても、「きく川」の鰻が幸せなほど旨かった。あの店は期待はずれした ことが無い。

*  メールに。  レストランの洗い場で働かれている息子さん。指導されるパートのAさん。状況が目にみえます。まだこの息子さんは途中で帰宅することはない ようですね。
 受け持っていた(夫婦二組、二軒のグループホーム)、Kさんは突然帰宅することがありました。聞けば、 「もう、帰り(なさい)」と言われた、とか。会社に連絡を入れると、奥さんが、「いわれたように仕事をせずに、納品の時間に間が会わないと、段取りをして いるBさんが怒ったようで、怒られたことに腹立てて帰ったようです。」
 Kさんは「わしが仕事しよんのに、邪魔ばっかりするんじゃ」と。
 話を聞き、文句を言う彼に、「仕事を教えてくれているのだからBさんは先生なんよ。先生のゆうことは ちゃんと聞かないかんよ。」と言い聞かせ、翌日は付き添ってあやまりに。
 体格もあり、力の強い彼は、仏壇製作所で梱包の荷解きと、簡単な初期の組み立てをしていました。そのと きは、荷を解き、本体と台座を組み合わせていく仕事だったようです。ところが彼は、荷解きばかりしていたようで、Bさんが何度言っても聞かないので、叱っ たらしいのです。それを彼は、自分が仕事をしているのに邪魔をした、というのです。
 ここも、息子さんの勤務先と同じで、社長や奥さんは理解してくれていましたが、従業員の方々には不満が あったようです。差別を言うわけではないのですが、「あの子は普通と違うのだから」と、奥さんはよく従業員のかたに言っていたようです。そうしないと錯覚 してしまうほど、彼は、わたしたちとかわらないのでした、理解と判断ができない以外は。
 彼女や彼らが起こす出来事や不始末には、事件がらみもあります。夜中まで走り回り、警察に引き取りに 行った世話
人さんもいました。ただ、他人に殺傷などの危害を加えての事件ではないのが救いでしたけれど。
 母体である援助支援センターとの連携も重要なことでした。全国大会などへの参加や、グループホームへ ホームステイに来られる方々との交流は、色んな苦労や事情を分かち合えて、「自分たちだけ」の枠を取り払ってくれました。
 退職後(私)は一切の連絡は絶っています。支援センターとか、元同僚たちとは交流はありますが。
 或る前任者が、「(自分は仕事を)辞めて(から)も、なんでも相談にのるから」と、お別れ会のときに 言っていたようで、それを眞に受けた本人たちは、頻繁に電話したり、(退職者の)家に(訪ねて)行ったようです。迷惑を感じた前任者から突然私の宅へ電話 が入り、「もう電話せんように言ってください。迷惑していますので」と。その方とは面識もありませんでした。迷惑ならば、自分が本人たちに直接言えばいい ものをと思いました。そんな経過がありましたので、冷たいようですが、(私の退職するときはいろんな経緯も)ズバッと切り離しました。それでもときおり訪 ねてきたときがありましたが、玄関外での応対で家に入れることはありませんでした。冷たいようでも、厳しく線を引くことがお互いにベストなのではと思って います。

* そぞろ恥ずかしく、なにも知らずよく調べずに書いていたものだ。二十年前にも同 じようなディアコノスの環境は出来ていたのだろうか。当時は分からなかった。分からなかったから、一つの「家」の中だけに絞って書けたとも言えるが。
 

* 六月十五日 つづきの続き

* さてペンの理事会だが、わたしに関係のあることは三つあった。
 最初の一つは、言論表現委員会声明のブックオフと図書館への著作権絡みの「憂慮」声明で、わたしの感じ 方は、前にも書いて置いたし同僚委員にもメールで送れる人には送って置いた。それに対し私的・非公式に宮崎哲弥氏の、「憂慮」声明には賛成しないという返 事が届いていた。わたしには理解の行くものであったから、理事会の検討に際して、こういう意見も有ると、名はあげずに紹介した。しかし、ほぼ一顧もされ ず、声明案のまま議決された。
 ことが決まってみると、なんだか、おかしいなという気分がいよいよ残る。
 ブックオフへ流れる本は、そもそもそんなに新品同様のものが、どこから持ち込まれるというのか、そんな に大量に。読んでしまった読者が売りに来るのを安く買いたたいているというが、読者だけが売りに来ているのだろうか。在庫管理の不備を不正について出版社 や印刷所から大量に横流しされていないかどうかの実態調査もしていないのではないか。万一もしそんなことでもあるなら、とんでもない話である。だが、読者 が読んだ後の本を売りに来ただけを扱うにしては、出回っている売り物が、あまりに広範囲に多すぎないか。読者が読み終えた本を古本屋に売りに行くぐらい は、わたしでも少年の昔にしているし、それの延長上にブックオフがあまりに過大に存在しているというのなら、なぜそんな過大さが可能になるのか、品物の出 処にイヤな犯罪まがいはないのか、それへも目を向けないと片手落ちではないのか。
 著作者の自己過剰防衛はないのか。当然の権利は正当に守らねばいけないが、声明を出して何を期待してい るのかが、案文でも、具体的にはっきりは読めなかった。
 六月八日つづき、六月十二日つづき、の項にわたしの不審や躊躇の思いは書いてある。しかし、理事会は一 顧もせずに「著作者の権利への理解を求める声明」を採択した。今も読み直してみて、一人の著作者としても、満腔の賛同を寄せるにはかなりの「ジコチュウ」 気味ありと、気恥ずかしい。

* 次は、蝋山・力石・木島三氏の要望があり、靖国神社ではなくて千鳥が淵霊苑を国 内外の戦没者記念の施設として、公式参拝の形では天皇にも内閣にもこちらへという意向を、影響力ある日本ペンクラブで打ち出してもらえまいかと。木島さん を介してかと思われるが、力石氏から文面などもペンへ直接届いて、わたしからも理事会に提案した。口頭ではどんなものかとたたき台に案文も用意して置い た、が、これもまた理事会はかなり冷淡に拒否する姿勢を打ち出した。
 その中でも、有力な決め手になったのは、一つは、要望してきた三氏の背景が「社民党系」に色が付いてい て、そういう政党がらみの意図と考えに日本ペンは乗らない方がいいという趣旨の、梅原猛会長の発言であった。
 こういう意見の出し方は、品がない。一般論として「政党がらみは避ける」というのでなく、「社民党」と いう具体的な政党名を出しての表明は、それ自体がすでに「政党がらみ」の判断であることを、梅原氏は気づいていない。つまり社民党はいやだという否定的な 表明に取られても仕方なく、それならあなたはね金まみれの自民党がいいのだろう、と、勘ぐられても仕方有るまい。氏が自民党政権と深く根をかわしながら来 られた経歴は、世間にも知られている。それはそれである、が、上の三氏が本当に社民党の息を吹きかけられてこのような提案をされたかどうか、知らない。そ んなことをわたしは問題ともしない。きちんとした考え方から一つの「案」を出して、日本ペンクラブの意向も出来れば表明してもらえませんかという要望書へ の返事の仕方としては、まことに大人げない非礼な仕打ちだとわたしは考える。上智大学名誉教授、法政大学名誉教授、詩人として知名の三氏が、膝を折るよう にペンに対し「要望」の文章を寄せられた事へ、いったいペンの誰がまともにお返事をするのだろうか。むろん、わたしは簡明に、受け入れられなかったと木島 氏にお知らせしたが、それはあくまで私的なやりとりである。要望は梅原猛氏に宛てられていたのである。ナシの礫で放置されるとすれば、これは社会人として も団体としても傲慢な非礼であろうと憂慮している。

* 今ひとつの決め手になったのは、公式に参拝する際、天皇や内閣は靖国神社へでな く千鳥が淵へいって欲しいという要望の趣意に対し、井上ひさし氏から、少なくも「天皇には、永遠に、戦没者たちの前へ出てゆく資格はない」という強い発言 に、ざわざわと同調者の多かったことで、これにはびっくりした。昭和天皇ならわたしも同じ事を言うだろうが、それにしても「永遠に」というほどの断定を、 誰がこの世で許されているだろう。過剰な物言いではないかと井上さんの顔をただ見守ってしまったが、見守りながらびっくりした。賛同する人の多いのにも びっくりした。
 たとえば平成の天皇にも「資格がない」と言うには、根拠に「天皇制への批判」などを置くしか有るまい が、そうなればべつの議論であろう。
 わたし自身は、力石氏らのように、八月十五日に天皇や首相に必ず千鳥が淵へ行けとは言わない、公式に行 くのならね靖国神社で無くと言いたいのだ。もう一度、「三氏要望書」の趣旨を声明風に書きなおした文章をここに置く。

* 小泉純一郎内閣総理大臣 殿
 今年もまた八月十五日が近づいています。小泉首相の靖国神社参拝に近隣国の批判の声も聞えています。い つまで繰り返すのか、このような年中行事化の好ましいわけがなく、日本ペンクラブは憂慮しています。
  憂慮のままに、日本ペンクラブは提案します。
 この際、「国立千鳥ケ淵戦没者墓苑」を拡充し、これを国内外の戦没者慰霊記念霊苑とし、八月十五日を 「戦没者慰霊の日」と定める立法化が願わしいと。
 この日に、天皇と内閣が霊苑に参拝すると定めますことは、いわば墓参であり、戦没者の霊を慰めまた感謝 の意を捧げて何の不自然も生じないと考えます。

* 趣旨には賛成できるが、三氏の要望にそって声を興すことはやめておこう。要する にそういう決定であった。きわめて旧自民党的な問題の先送りである。この調子で、京都議定書批准問題でも、こそりともペンは動こうとしない。

* 理事会後にね三好副会長から、しかし、靖国問題は放っておけない、賛否はいろい ろとしても我々が集まって意見を戦わす場は必要だし作りたいと思っていると声をかけられた。大事な、またありがたいことである。

* 三つめの電メ研提案「日本ペンクラブ・電子文藝館」構想は、時間切れですべて審 議未了。しかし構想に「これはおもしろいですよ」と阿刀田高氏ら非公式の賛成の声の耳に届いてきたことは力強かった。だが、もう、あまり期待は持たぬ事に している。

* もう一つ笑止な一場面があった。ペンクラブ新館建設中だが、地所の地下に頑強な 抵抗体が発見されて、撤去に予算外の費用が二百万以上かかることになった報告にともない、またしても会員の寄付を募る話題となった。で、寄付してくれた人 の氏名を、メタルプレートにもれなく刻み示して、建物に貼り付け顕彰しようというのである。それにも百万円ほどかかるが、寄付が一人一万円ではワリに合わ なくなるから三万円にしては、などと。名前を彫りつけるなら喜んで寄付してもらえるだろう、とも。
 何のハナシかと、情けなかった。寄付をしたら名前をプレートに刻んで建物に貼り付けてくれる、それが嬉 しいのか、ペンクラブの会員が。わたしは、たちどころに谷崎の、永井荷風の、志賀直哉の、といった名前を想い出していた、彼らがそんなバカを言うわけがな い。わたしの「湖の本」に応援してやろうじゃないかと奥さんに言われた福田恆存先生が、また太宰賞の席へ引き出してくださった中村光夫先生をはじめ同じく 選者だった井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎先生たちが、そういう顕彰の方法を「よろこび歓迎して」寄付をされただろうか、考えられない ことである。瀧井孝作、永井龍男先生にしても、考えられないことである。要するにこういう人たちに匹敵するほどの文学者が今の理事会に一人も居ないと言う だけのハナシなのであろう。伊藤整はペンの会長でもあった人だが、会員が会費をひょこひょこと競って払うようなことじゃ、文学はおしまいだねとまで辛辣な 逆説的放言されていた。そんなところろへそんな仕方で名を残されるぐらいなら、金輪際金など出すものかというのが、文学者の本来のように私には思われる。 わたしはイヤである。
 ところが加賀乙彦氏は、わざわざ手を挙げて、「わたしは名前を刻んでもらいたい、よろこんで」と大真面 目であった。敬服した。
 ついでにいえば、ペンのホームページ上に、委員会委員の顔写真や略歴がデカデカとお見合い写真のように 並んでいたりするのにも、わたしだけでなく、ハッキリ嫌いだと言う人もいるのだ。名を売りたければ「作品」で「文章」で売りなさいと言うのが、わたしたち 電メ研の「電子文藝館」構想である。

* いやいや刺激的な理事会であった。「美女・妖女」などという題の本を、本気でペ ンの出版物にしようと、金もうけを考えている。それからすれば松本八郎氏のところで出した『ちょっと自慢の一冊』など、読ませてくれた。まさに文学文藝の 本であった。

* 例会にも出たがワインを三杯のみ、すこしチーズを囓っただけで失礼し、クラブま で歩くのはやめ、近くの中華料理で久しぶりに、簡明そのもののラーメンを一杯、うまかった。マオタイがあればと聞いたが無かった。幸いと、飲まずに帰宅し た。
 

* 六月十六日 土

* 木島始さんからメールがあった。「狭い考えの人が、まだまだいる、という思いで す。天皇も参れるように、外国首脳も参れるように、アジアの人々からもその映像を見て、変わったなと感じてもらえるように、という気持ちで、名をつらねた のでした」と。
 素直に考えて、靖国神社をいまだに「国」の正面にもちだすなど、もうタクサンだと一私人の思いがわたし には、ある。そのわたしでもときどき靖国神社に行くし、行けば小泉さんと同じ気持ちで手は合わせてくる。それはそれでいいだろうが、靖国神社に「公式に」 と鉦太鼓ではやし立てながら天皇や首相に参拝してもらうのは、近隣国の人に同調するのではなく一日本人として、じつに落ち着きが悪い。せっかくく千鳥が淵 が国立であるのではないかと、わたしは、神社参拝なんかではなく、普通の墓参感覚に改められてバカらしい騒動が穏当におさまるのなら、そうした方がいいと いう考えで居る。「狭い考えの」と言われればそうだなと同感してしまう程度に、度量のちいさな議論で、うやむやに否定された感は、一夜明けた今も失せな い。わたしは木島さんとも面識がない。力石氏、蝋山氏など存在すら知らなかった。ただ言われ望まれたことには素直に共感できたので理事会で後押しの役を引 き受けた。この後に力石氏らがどう動かれても、わたしは、無縁である。しかし世論に同様の動きがおこれば、むろん、わたしは上に述べた範囲での理由で賛同 する。

* (投稿のまま。)「姦通小説」という耳慣れない言葉を耳にしたのは、大学時代の 国文学の近代文学概論だったように思います。「姦通」という古めかしい言葉にある種のエネルギーを感じたのかもしれません、その言葉に導かれるようにフラ ンス写実主義の代表作『ボヴァリー夫人』を読んだように記憶しています。人間性を解放することなく、問題を解決することなく、追い込まれて自滅的に死んで いく主人公エンマを魅力的とも愚かとも思わなかったのは、文学史的興味からの読書だったからだと思われます。

(推敲の試み)「姦通小説」という耳慣れない言葉を耳にしたのは、大学時代、近代文 学概論の教室でだったと思います。「姦通」という古めかしい言葉にある種のエネルギーを感じたのかもしれません、その言葉に導かれ、フランス写実主義の代 表作『ボヴァリー夫人』を読んだと記憶しています。人間性を解放することなく、問題を解決することもなく、追い込まれて自滅的に死んでいく主人公エンマを 魅力的とも愚かとも感じなかったのは、文学史的興味の読書をしていたからでしょう。

「ように」「という」「から」「思う」等の不注意で安易な重複が文章をぬるいゆるん だものにしています。推敲したのですか。 厳しいことをしつこく繰り返し言うのは、あなたが文章を「書く」素人さんではないだろうからです。

* 渡辺通枝さんの随筆「好日四編」を「e-文庫・湖」第五頁に掲載した。日本随筆 家協会賞をうけたことのある真岡市在住の元気に老いつつある心優しいはたらくお母さんである。四編の前二つには手をいれてみた。後ろふたつは意図してその まま掲載した。推敲できるなら推敲して差し替えてもらおう。

* 異色の小説、児童文学ともいえるだろうが一編の作品として誘い込まれる「朱鷺 草」源田朝子さん作を「e-文庫・湖」第二頁の創作欄に掲載した。わたしと同年輩ほどの人らしく、わたしの読者の母上で、読者がまだ幼かった日々に読み聞 かされていた好きな物語だという。作者は健在で、娘にすすめられての寄稿であったのか、一読して、きっちり書けているのに感心した。本格に児童文学を若い 頃志しておられたのだろう。戦時下の少国民文芸にわたしも感化されたことがあったやも知れない、この作品にもかすかにその匂いが残っているようで、しかし 物語はなかなか面白く運ばれていて、戦争とも軍国主義とも全く関係はない。一読をすすめたい。

* 「無明・ディアコノス=寒いテラス」拝読しました。これは、つらい、です。仰有 るように、答えは、出ない、と思います。たとえ、上手に論考しても、取り返しはつきません。もしも、「淡路一家」の人たちが目の前に現れて、相談された ら、これからの事を考えることにする、と思います。この国のどこかで、世界中でおきていると思います。つらい、です。
 梅雨冷えで、炬燵をつけたりしています。益々ご多忙のご様子、くれぐれもご自愛ください。

* 知人の家庭にも障害のある子がいて、その母親が自殺したということもメールの一 通で聞いた。つらい。 

* 昨日の理事会のことを、こもごも考えているが、梅原氏の「社民系ウンヌン」も井 上氏の「天皇は永遠に無資格」というのも、加賀乙彦氏の「よろこんで寄付者として名前をきざんでもらう」というのも、得心がいかない。
 妻とも話し合ったが、他の二人はそういう人なのだろうが、井上ひさしさんのそれは、あの人がそんな硬直 したことをと、訝しさを隠さない。今の天皇夫妻が、真摯に人間的に千鳥が淵の戦没者霊前に頭を垂れられたとして、なぜ「資格がない」のだろう。「天皇」で あるからというのなら、もっと根本から別の天皇制議論を起こすべきであろう。天皇夫妻が沖縄の戦場跡へ訪れるのも「資格が無い」というのだろうか。では、 現皇太子が天皇になったときも、やはり戦没者の霊前に立つ「資格はない」のか。それは何故かと問い返せば、あの人たちを離れた「天皇制の議論」をする以外 にない。
 井上さんのあの「永遠に」とは、どういうところから断言できる言葉なのか、真面目にわけが聴きたい。わ たし自身、天皇制を廃止した方がいいと考えた時期をもったことがある。今では判断停止している。だから井上ひさし氏のきちんとした意見をぜひ聴きたい。昨 日の氏の発言で、本質的な議論までが、うやむやにされたとわたしは感じた。議題の本意は「靖国神社」でもうこれ以上ごたごたしたくない、すべきでない、と いう思いであったのに、その点から発想して、何とかペンも考えてはどうかと立ち上げてくる意見が、結局出ないままだった。そうなった、決定的な発言が、梅 原氏の「社民ウンヌン」といった馬鹿げた発言からだった。情けないことだ、「考えが狭い」といわれて当然と思う。社民であれ自民であれ、そんなことは問題 ない、靖国神社を国の前面に今なお持ち出して置いて、梅原さん、あなたはいいのですかという問いに、もっと誠実に正面から答えるべきであった。あなたが特 攻隊に志願して落第したなどというハナシは、場所をわきまえてしてもらいたい。力石氏らの要望の趣旨に反対でも賛成でも、それは構わないが、「政治がらみ 政党がらみにモノをいうのはやめよう」と言ったおのが舌の根の乾かぬ間に、「社民だからダメ」などと、自民贔屓丸出しの性根をぺろりと露わしている。なん だ、この人はと、聞いていて恥ずかしかった。

* 谷崎潤一郎の「小野篁妹に恋すること」を久しぶりに読み直して、心底驚嘆した。 なんとみごとな間然するところ無き文章の妙。悠揚迫らず、随筆かのように書き起こしながら、ぐいぐいと豊かに豊かに美しい文学・文章・文体の世界に引き込 む。その前に読んだ正宗白鳥の「本能寺の信長」や、谷崎に続く室生犀星の「舌を噛みきつた女」とも、比較を絶したすばらしい「文品」である。位が、断然高 いのである。堂々と文体の懐が深く大きく、また世界が落ち着いて美しい。藝術の魅惑そのものである、ファシネーションに溢れている。わたしは、昨日の情け ない吐き捨てたい気分を、きれいに洗われた気がした。こういう文学の書ける人だから、初めて藝術家なのだ、文学者なのだ。ほんものの文学者が、わずかな寄 付行為を顕彰してもらおうと、建物の壁に名前を刻んで貼り付けてもらいたい、「よろこんで」などと思うだろうか。作品にこそ名前を刻めばいいではないか。
 

* 六月十七日 日

* 昨日の深夜に鶴見和子さんの話を、妻といっしょにテレビで聴いた。聴き入った。 例の「心の時間」とか何とかであるが、鶴見さんの話は、そんなところを飛び越えていた。話は明晰で具体的で、そのシンボルとして大患後「回生」の短歌群が 続々と口をついて出、それらが話の芯にも進行役にもなり、温厚で物静かな聞き役のNHK編集委員の女性のうながしに、やや燥ぎみに高揚し、また落ち着き、 じつに分かりよく鶴見さん自身の老境と死生観、人生そのものを語り尽くして飽かせなかった。この手の話で、これほど意志と意欲と誠実な反省に裏打ちされた 哲学的な、詩的な話の出来たひとが、こういう番組で何人いただろうか。人を舐めたようなその場の思いつきでえらそうに喋りまくるのはいても、またはもっと もそうに陳腐な口舌を、したり顔で操るのはいても、鶴見さんのように、皮をむきたての新鮮な果物のように真実のしたたり落ちるような話の出来たエライ人な ど、ほとんどいなかったのである。
 片麻痺を残して、片手を失ったような絶対安静の床の中で、噴出してきた短歌を大声で叫んでは妹さんに書 き取らせていたというが、一つ一つが半端なものでなく、ふにゃふにゃのでたらめに自己満足した当節の女流大歌人などの及びもつかぬ境涯が、ガシッとにらみ 据えるように表現されていたのに、わたしは感心した。歌なんかと軽蔑して多年抑えつけ抑えつけて外に出さなかった歌ごころと言葉とが、死生の境から奇跡の ように噴き上げてきて、もうやむところ無いのである。この体験だけでも莫大に教えられるではないか。われわれの用いている日頃の言葉の、うつろに安い論理 を追い理屈にしているだけであることよ。それこそが心の障りになっている。言うてもいい、考えてもいい、してもいい。だが、それが、無心の境から自然に言 い考えしていることでなくては、「障り」になるだけだ。真心という無心から噴出するような言葉や行為や思索が必要なのだ、と鶴見和子は語って聴かせてくれ た。有り難いことであった。ビンビンとハートに響いてくる言葉が欲しい、聴きたい、語りたい。

* 「出版 * 衰退か黄金時代か!?」と題したインターネット上の国際討議に、今、十枚ほどの日本語原稿を送った。

* 昨日掲載した「朱鷺草」に早速心地よく読んだという読者のメールが入っていた。 うっかり削除キイをたたいて消してしまった。

* 室生犀星「舌を噛み切つた女」は通俗な駄作であった。その上に悪文の魅力といわ れる悪文・悪表現が、少しも魅力を発揮せず、只の悪文、つまらない表現になっていて落胆した。金沢の三文豪とは言うが、犀星の文章は、鏡花、秋聲に比べれ ば、二段ほども低い気がする。
 続いて子母沢寛「明月記」を読んだが。すすらすら読めてしまう手際のいい時代読み物に過ぎず、文章の運 びも語り口も卑しからずみごとなものだが、何としても文学の位はひくく、巷談の流れをたくみに汲んでしっとりと面白いお話というに尽きる。藤沢周平の時代 読み物がそう、伊藤桂一さんの時代読み物もそうだ。卑しからぬ文品は備えているが、文学そのものが凛々と放つ香気はもたない。もっても甚だ淡く地を這う。 谷崎の「小野篁妹に恋する事」は、たわいないといえばたわいない平安の古物語に依拠した、ただ世離れた話題に過ぎないのに、その筆致の自在にはたらいて丈 高いことは無類、白鳥も犀星も子母沢も遠く及ばない。ふしぎなものだ、文学の魅力とは。
 ただ余計な話かも知れぬが、「小野篁妹に恋する事」は、誰にでも気安く読めるものではない。和歌が入っ てくる。物語の地の文も出てくる。それはある種の障害をなすであろうが、障害に感じないほどの読者には、たまらなく、こたえられない魅惑の世界がそこにあ るのだ、何より表現そのものとして。

* 肩に掛かっていた荷のかなりが降りてくれた。今日は、海外へまで原稿を送ってし まってからは、自転車で走ろうかなと思いつつ、父の日に妻のくれたプレゼントなど見ながらワインをあけて、あらかた飲んでしまったり、風呂の中で小説を読 んだり、そのうち眠くなったりして、のんびり過ごしてしまった。今頃は田中外務大臣がアメリカで頑張っていることだろう。
 

* 六月十七日 つづき

* いま、加藤弘一さん、林丈雄君に教わっていたやり方に布谷智君の助言を加味し て、やっとカウントを復活させた。途絶えたのが五月二十三日からで、五月二十二日「28679」だった。その当時まで、一日に「50ないし80」くらいの 増加だった。今開いた数字は、だが「28725」で、故障以来およそ一日分に不足する程度の新しい数字がカウントされている。故障した段階でやはり器械の カウントはストップしてしまうらしい。「30000」に達しているか、ごく近づいていると想っていたが、こういう数字はアテにはならぬことが分かった。同 じこういう故障で放置した期間が、かなり長期間、過去に、二回あった。現在カウント表示の数字は全然アテにならない。
 

* 六月十八日 月

* 秦恒平様  小説「デイアコノス=寒いテラス」を読みました。簡単に感想を書き ます。私には、どうしても秦さんの小説に、迪っちゃんの家族が重なってしまって、普通には読めないのです。これは以前からそうなんですが、今回も勝手に感 情移入があって、かなり辛い小説でした。
 でもこの小説は、(語り手に迪っちゃん的な立場の主婦が出てくる、そういう家族の状況をのぞけば、)非 常に引き込まれる力のある小説でした。
 どこにも悪意というものがないのに、身障者というほんの少しの非日常がごく普通の少女を、その家庭を巻 き込んでいく様子が、見事に描かれていると思いました。語り手を通して、インテリ家庭らしい用心深さや、正義感や、本来の優しさが、その率直なリアリティ を通して伝わってきます。
 世の中には様々な恐怖というものがあると思うのですが、この場合も理不尽と思える底のない恐怖が、読者 にも伝わってきました。(何故か夢にも恐怖感が出てきました。) 「愛」というオールマイティのはずの言葉が、観念の上をすべっていく感覚、「愛とは何 か」をひとりひとりの心に問いかけてくる小説でもあると思いました。「妙子ちゃん」は、とにかく無垢に「愛」しているわけですよね。
 また一体「普通とは何か」という問題も提供しています。語り手と同一線上に立つ私は自分を健常者ととら えていることそのものが、ひとつの差別なのかも知れないと思ったりしました。
 一方、もし私が身障者側の家族だったら、この小説を読んでどのように感じるのだろうかとも考えさせられ ました。私にも身障者の友人がいるのですが、私はいつも彼女に何故か「申し訳ない」という気持ちを持っていて、その気持ちが重くのしかかるのです。つまり は、相手が私に何もしていないのに、その存在だけで、私は勝手に「被害者」になってしまうのです。つまり大袈裟に言えば、「お前は、ディアコニツセになら ねばならぬ」という圧迫を無言のうちに感じてしまうのですね。
 身障者とは、それほどまでに力を持つ存在なのだと、いつも思います。(それがこちらの勝手な思い込みだ としても……)
 私にとっては、そういう様々な諸々を感じさせてくれる小説でした。
 余り上手に感想を述べられなかったように思いますが、非常にインパクトの強い小説であることは確かだと 思います。簡単ですが、お許し下さい。どうぞお身体を大切に、これからもいい作品を書いていかれますように。 * * 子

* これは力有るいい批評で、作品の問題点を、簡潔に、全部といえるほど押さえてく れている。むずかしいことだなあという慨嘆をまたも深いところで感じる。二十年前に、出したいと言えば、どこかの出版社は出してくれていたと思うが、こん な湖の本とはちがう場所で公にしていたとして、どんな反響を引き起こし得ただろう。上の友人の言葉にもあるが、そして間違っているとも感じるのだが、「何 故か『申し訳ない』という気持ちを持っていて、その気持ちが重くのしかかるのです。つまりは、相手が私に何もしていないのに、その存在だけで、私は勝手に 『被害者』になってしまうのです。つまり大袈裟に言えば、『お前は、ディアコニツセにならねばならぬ』という圧迫を無言のうちに感じてしまうのですね」と いう辺が、わたしに公刊を躊躇させたのだった。こういう姿勢にこそいちばん根深い差別感が出ていたのではないかと痛いほど感じているが。

* 湖の本十五年の如何ともしがたい重い体験は「死」だ。数え切れない大勢のいい読 者に死なれ続けてきた。藤田理史君のような若くて稀有の例外はあるが、わたしの作品は読み巧者な経験をつんだインテリジェントな読者に好まれてきたと思 う。そう言われてもいる。自然高齢の方が多く、創刊から十五年となれば亡くなる人も比較的多い道理なのかも知れぬ。しかし、高齢という年齢でなく人生半ば に痛ましく病気で亡くなった人も多いのである、泣くに泣けない思いのしたことが何度も何度もあった。有り難いことに、そのように夫を失った夫人が、さも遺 志を継ぐようにして大事に湖の本を継続してくださっている例も多い。多ければ多いほど、また心寂しい。滋賀県の小田敬美さんの熱い愛読者であった夫君が亡 くなられて十三年、敬美さんはずうっと便りを欠かすことなく湖の本を支えてくださった。亡き人の好きであった食べ物やお酒を折りごとには私にも送ってきて 下さった。十三回忌に、ことに愛飲した清酒「桃川」をと一本が届いている。忝ないことである。
 創刊十五年目の桜桃忌が明日に。山形から、みごとな桜桃が今年ももう贈られてきた。栃木から、茨城か ら、これもすばらしいメロンが合わせて二十顆も贈られてきた。狭いながらも我が家は死者にも生者にも見守られて暖かい。有り難い。
 

* 六月十八日 つづき

* 有り難いことだ、作品への力の入った批評が次ぎ次ぎにメールで届く。私有してい いものでなく、どなたにも、自分がもし渦中にいたらと考えて戴きたい。

* 『ディアコノス=寒いテラス』を読んで
 「私語の刻」へむけて、多くの方々が、『ディアコノス』へのずしりと重たい感想が寄せられております。 大変共感する部分もあり、新しい発見もございました。今さら僣越ではございますが、こんな読み方をした読者もいるということで、感想を書かせていただきた いと存じます。
 『ディアコノス』はこれまでの秦先生の世界とは少し異なる題材を扱っていますが、素晴らしい完成度を もった作品で、取り憑かれたように一気に読んでしまいました。
 実を申しますと、私はこの作品に登場する「妙子ちゃん」の知的障害にさほど重きをおかずに読んでおりま した。知的障害を世の中に存在する多くの「異常性」の一例と捉えたのです。知的障害を精神障害や痴呆や他の身体的障害におき変えても、この作品の根幹は充 分に成り立つと考えました。『ディアコノス』は、何かが大きく欠落した人間との関わりを余儀なくされて、破綻に向かう一家の物語と読めるのです。
 『ディアコノス』は侵入者への、しだいに増殖していく恐怖を描いた物語として、類稀な名品だと思いまし た。母親の一人称で、書簡体形式という限定された視点で描かれることによって、崖っぷちに追いつめられていく淡路一家の状況が息もつけないように迫ってき ました。読み進むにつれて、正直私は震えあがってしまいました。
 この作品を読んで、私が感じたと同じような恐怖や嫌悪を追体験する読者は多いと確信します。簡単に言う と「妙子ちゃん」は知的障害の衣をまとったストーカーでしょうか。人は誰でも程度の差こそあれストーカーに出会います。作家にはストーカーがつきやすいと いう話を聞いたことがございますが、先生がこの作品を書かれたきっかけも、先生なり身近なかたの経験が反映しているようにも感じられます。それほど『ディ アコノス』の恐怖は生々しいものでした。
 小説を自分の個人的体験と引き比べて読むのは邪道だとは思うのですが、『ディアコノス』に限ってはそう いう読み方をせずにはいられませんでした。ある意味で私はこの作品に対する偏った読者と言えます。どうしても「妙子ちゃん」やその家族の立場には立てませ んでした。私には『ディアコノス』は他人ごとの物語ではないのです。個人的なことを申し上げるのは恐縮ですが、私自身もこの設定にどこか似通う異常性との 関わり、二回のストーカー体験がございました。
 最初は小学校の四年生のときで、相手は五年生の男の子でした。当時はもちろんストーカーという言葉すら 存在していませんでしたが、彼がしていたことは今振り返っても立派なストーカーでした。仲良しの女の子の近所に住んでいた男の子から、突然好きだと言われ たその日から悪夢が始まりました。
 学校の休み時間のたびに、五年生の教室から四年生の私のクラスに現れる。トイレの前で待ち伏せる。帰り 道についてくるなどさんざんつきまとわれました。いじめられたというのならば、教師や親に訴えるという方法もあったのでしょうが、好きだと迫るだけで指一 本触れてこない相手を排除する方法が、十歳の少女にはわかりませんでした。拒絶しても無視してもつきまとう男の子を前にして、ただ途方にくれていました。
 リカちゃん人形でおままごとをしていた平凡な少女は、一学年しかちがわないとはいえずっと大柄な男の子 に「好きだ」と言われるたびに、得体のしれない恐怖感に胸がしめつけられるようでした。「好きだ」という言葉の見返りに彼が求めているものが何かはわかり ませんでしたが、それが忌まわしいものであることは子供であっても本能的に知っていました。節子が妙子ちゃんに「一緒に寝たい」と言われて感じたであろう 鳥肌の立つような怯えに近いものに苛まれたのだと思います。
 幸いなことに、次の学期に私の一家は引っ越しをして転校することができ、私はようやく彼から解放されま した。その後私は私立の女子校に進学しましたが、男の子につきまとわれる心配のない環境がどんなに嬉しいものだったかは言うまでもありません。
 今ではその男の子の顔すら思い出すことはできません。ただ『ディアコノス』を読んでいるうちに、ふと彼 の口元、もっと正確に言うと好きだと言ったときの唇だけが映像として甦ってきて、背筋が寒くなりました。
 二度めのストーカーは、まだ記憶に新しい最近のことです。相手は女性なのですが、これは処置なしのス トーカーでした。異性のストーカーより同性のストーカーの方がずっと不気味だということを骨身にしみて悟りました。男のストーカーが女に求めるものは相手 の肉体とか命といったもので、これはこれで当然怖いのですが、行動を予測できないこともありません。しかし、女のストーカーが対象の女に望むものは、ひと 言で言えば相手の「不幸」とか「不幸への苦しみの過程」でしょうか。
 彼女はある難病を患っていまして、いつ死ぬかわからないと訴えながら迫ってきました。自分は病気なのだ から、自分の言うことをすべてきいて欲しい。愛してほしい。私の幸福を投げ出して、自分と同じように不幸になってほしい。誠に身勝手な要求なのですが、彼 女は執拗でした。毎日のように投函される支離滅裂の長い手紙。そのうちの何通かは消印がなく、明らかに自分の手でわが家のポストに入れたものでした。彼女 がすぐ近くまで来ているというのは、耐えがたい恐怖を呼び起こしました。
 それでも、彼女の異常さにたいしてなかなかとどめのひと言が言えなかったのは、難病を楯にされたからだ と思います。妙子ちゃんの知的障害ゆえに、厳しい対応がとれなかった淡路家と同様に、私は気の毒な病人に反撃することが困難でした。男のストーカーであれ ば警察沙汰にもできるのでしょうが、女で病人のストーカーを取り締まるすべはありません。彼女が私に与えているのは心理的圧迫だけなのです。ですから私が 彼女を拒絶すれば、世間は私が弱いものいじめをしたとしか思わないでしょう。
 なまじ変な想像力があるために、手紙に毒が塗られていないかとか、盗聴器の心配をしたり、小包を警戒し たり、一歩玄関を出るたびに周囲を見回したりする日々が半年ほど続きました。疲れはてたときに、見かねて間に入ってくれた方がいまして相当烈しい怒り方を してくださいました。そのおかげで、今のところ私はストーカーから解放されて安らかな日常生活にもどることができています。多分このまま落ち着くだろうと は思います。それでも頭の片隅に彼女の影がちらついて眠れぬ夜を過ごすこともあるのです。
 長々とつまらぬことを書いてしまいましたが、『ディアコノス』は私にとりまして現在進行形の恐怖の物語 であることを、先生に知っていただきたく思いました。先生の意図とはかけ離れた読み方なのかもしれませんが、『ディアコノス』は私のような経験のある読者 には、非常に恐ろしい作品なのです。
 『ディアコノス』は長い間公表を差し控えられた作品とのことですが、とても今日的な社会の病理をえぐり 出しているとも言えるのではないでしょうか。私はこの作品から、理不尽な存在に向き合わされた淡路一家の悲鳴を聞くのです。
 『ディアコノス』には知的障害者が登場する作品につきものの偽善がありません。障害などの異常性の問題 を突きつめていけば、必ず立ちはだかる容赦のない真実が、大変衝撃的なかたちで描かれています。解決のつかない問題が読者の喉元に突きつけられます。
 しかしその冷徹な展開に耐えられず、なまぬるい解決を求めるのが現在の日本の公式見解のように思いま す。未だに出版社が『五体不満足』のようなかたちでしか障害を扱うことができないとしたら、障害と差別の問題は改善される見込みはなく、空虚な正論だけが 一人歩きすることになります。 私の読み方は特殊としても、先生が『ディアコノス』に込められた覚悟と誠意ある問題提起は重く受けとめなくてはなりませ ん。
 大きく欠落した人間の受容が可能なのは、先生が作品のなかで語られる奉仕女ディアコニッセの愛だけで しょうが、そのような愛はほとんどの人間には不可能なものです。
   薫先生、今こそあなたにこう申します。節子に愛がなく私どもに
   愛が無かった。あなたにはそれが有る、と仰有いますかと。
 この小説の最後の一文は痛烈な一撃です。私を含めた「愛のない」人間、「愛のない」ことさえ気づかな かった鈍感な人間は反論の余地もなく、深い溜め息とともにこの本を閉じるしかないでしょう。
 掌説『無明』は先生の独壇場で、詩を読むように魅惑の時間を味わうものでした。前の手紙に、先生のご本 のなかに
は、この世の美しいものすべてがあると書きましたが、外国のある詩人の言葉を少し変えてこう言ったほうが 正しいかも
しれません。
 秦恒平のような真の作家が選んだもの、書きしるしたものだけが、美しいものとしていつまでも生き続け る。
 片隅の読者ではございますが、湖の本の世界がさらに清らかに澄んでいかれますことを心よりお祈り申し上 げます。
 先生が桜桃忌の定期検診を無事終えられ、お好きなものを充分召し上がることができますことも、切にお祈 りいたしております。

* 作者にふれていわれていることは面はゆいけれど、作品にふれて率直に差し込まれ た視線の強さにはビリビリ響く力がある。一つにはくっきりと輪郭の濃い文章の力だろうが実感の深さでもある。実感は人によりさまざまだから、むろん、まる で別の実感から相互に批判し合うといった余地も多くの読者には残される。そういう感想が、かりに書かなくても話し合われたりしてどこかへ具体的に深まって いけばいいがと、作者は切望している。メールで書いてきてくださる方々に心よりありがとうと申し上げる。毎日の払込票でもまた手紙でもたくさんな感想が降 るように届いているが、残念ながら手書きのものを書き込ませてもらうのは、とても追いつかない。

* 林晃平氏の『浦島伝説の研究』という大著から、序章の「浦島伝説略史」が「e- 文庫・湖」に戴けることになり、スキャンした。『あやつり春風馬堤曲』を読まれた方はわたしが浦島太郎の伝説になぜ関心があるか察してくださるだろう。あ の小説は二部で山椒大夫に、三部で浦島太郎に転じて、全体としてわたしの蕪村が書かれる予定になっている。おいおい、はやくそっちをやってよという声も聞 えている。『無明』一話の「電話」の女が加悦という地名を口にするのにも関連している。この世にはとてもとてもつきあえないという人間が多すぎる。お互い にそう思い合っていることも多かろう。そんなとき、わたしは死者ともつきあえることを、よほど有り難く思う。わたしの小説世界には死者として生きている魅 力有る人が何人も何人もいる。そんな死者たちがいつもわたしの日々生きてあるのを励ましてくれる。

* 国際討議の原稿は幸い一度でオーケーになった。新しい時代の「出版」のなかで読 者と作者の問題を率直に語った。従来の「出版」の議論の特徴はねそこで書き手や読み手の存在にほとんど一顧もしないことであった。わたしの「湖の本」は、 そういう「出版」への力の限りの「批評」こういであったことが、ようやくかなり広く認知されてきたと思う。だが、ことはわたしの問題ではない。これからの 問題、新たな時代の問題なのだ。わたしは実践してきた。

* ひさしぶりに、武蔵野をたっぷり二時間以上も自転車で走ってきた。途中で感じの いい蕎麦屋に寄り、蕎麦と天麩羅で、お銚子一本。走った効果は、きれいに帳消しにされたか知れないが、蕎麦も酒も天麩羅もうまかった。ま、いいか。
 

* 六月十九日 火 桜桃忌

* 晴れ。二度目の誕生日、秦恒平・湖(うみ)の本が創刊満十五年の誕生日。宝玉の ような桜桃が、清水のような清酒が、盛り上がるような勢いのメロンが、大勢の身内が、読者が、祝ってくれる。体重減り、血糖値低く、よろしい。

* 林晃平氏の『浦島伝説の研究』からその「序章・浦島伝説略史」を「e-文庫・ 湖」第四頁に掲載し始めた。長いので、校正の出来たところからキリよく連載する。電子メディア時代にすでに突入している今日での、異色で大胆な文学史の新 構想、文化史の新構想といえる。序章は提唱部であるが、よく纏められていて示唆に富む。

* 十一時に妻と家を出て、定時の診察を受けに聖路加病院へ。案外はやばやと終え、 可もなく不可もなく、心配は何もなくて会計をすますと、築地をぶらぶら、更科蕎麦の蕎麦懐石で、おそめの昼食。料理はすべてヘルシー。蕎麦掻きの味噌田楽 がうまかった。
 銀座へ出て、和光で服部峻昇の蒔絵展。京都美術文化賞に推して授賞した日吉ヶ丘の後輩作家で、絢爛豪華 な螺鈿の飾り箱や、端正な棗や棚をつくる。六年前に和光で初見、何度も激励し注文し、一昨年だったか受賞した。綺麗の極みの絢爛が作風だが、技術の精巧が なくてはとても難しい制作。お高くてとても手のでない贅沢品であるが、あたりを払う存在感が作品にある。見ていて少し疲れてくる。流線の意匠が多く、さら に微妙な凹凸もあり、ダイナミックの魅力に溢れた工芸の冴えだが、静かではない。たまに直線をきかせた静的な意匠の作があると、ほっとする。力みなぎって いると言っておく。夫婦で見に行ったのを、わたしより七つ若い作者夫妻も、とても喜んでくれた。おみやげに服部氏作のお盆をもらってきた。
 銀ぶらの一日になった。画廊を幾つも覗いた。日動画廊では、福井良之助のいい絵を三点みた。小林和作、 里見勝三のもわるくなかった。地主悌一の個展も見た。「石」を描いた作にいいのがあった。武者小路実篤の「馬鹿一」を思い出していた。
 画廊「為永」でヴラマンクの佳い作品が数点見られたのは嬉しかった。半分ノビかけていた妻が、道の向こ う側のウインドウに見つけて、わざわざ後戻りして横断歩道を渡って見に行った。ピカソやキスリングなど面白いものがあったが、二人ともヴラマンクに魅され ていた。晩年の花が二点、どう見てもフォーヴのヴラマンクであり、しかも底光りして美しかった。それはもう美しかった。ちなみに七千万円。
 「オルゴール」という店の、高い二階の窓辺で休息した。ガーリックパンをあてに、妻は、不思議な味のカ クテルを飲み、わたしはマーティニーのロック。出がけに届いていた岡本衣代という人の歌集を読んだ。妻はあれこれ話しかけていた。足の疲れのとれるまでの んびりした。
 もうクラブまで足をのばすのも面倒で、銀座をぶらついた足任せに、これまで入ったことのない「すし嘉」 の店明きに飛び込んで、そこそこの鮨と桜桃忌おめで鯛の刺身を食った。お銚子は二本。これで、もう満腹してできあがり、どこへも寄らずに、有楽町線で少し うたたねして保谷に着いたのが、八時前か。雨の降りかけを用心し、駅前からタクシーで帰った。
 家には、黒い少年のマゴが待ちかねていたし、光り輝く佐藤錦の桜桃がまだ山のように。メロンはもう一日 二日熟れさせようと、お心入れの清酒「桃川」を大杯になみなみと一杯だけ、心ゆくまで味わいながら、甲賀の小田さんの、また大勢の読者の、日々平安を祈っ た。
 太宰治賞から満三十二年、湖の本創刊から満十五年。とても高い評価は出来ないが、自分の道を逸れずに歩 いてきた。

* 桜桃忌の今日が湖の本記念日でした。おめでとうございます。
   メールを送らせていただいて、又、HPをいろいろに読ませていただきました。15年前とは格段の違いで読者とのつながりがありまして、 これはお手紙を書くのとは又違う、身近なものを感じます。
  先生とのご縁が復活できましてより、私はずうっと興奮状態で御座います。丁度1年前からパソコンをやり始めましたが、今回ほどやっておいて良かったと思っ たことはございません。世界が大きく開けた気分で御座います。
   湖の本45の50ページに創刊の時の事が書かれて居りました。途中お休み致しましたのが、とても心苦しく、辛い思いを致しました。以後私がどうにかなりま すまでは、どうぞ末永くお付き合いくださいます様にとお願い申し上げます。
  開かれております文学サロン、平安の頃のサロンを思い浮かべましてロマンチックな気分で居りました。こうしたサロンがありますことは、素人でも書いてみよ うかなと嬉しく夢が持てます。初めてのことですが、私も投稿してみようと思っております。
   又、創作シリーズ44「早春」を頂きたく、よろしくお願い致します。
    明日からは又しとしと雨のようで御座います、どうぞ御身お大切になさってくださいませ。

* 田中真紀子外相は、アメリカで、ともあれ無事に舞台を踏んできた。くだらないケ チをどうつけてみても、無難に終えて存在を印象づけ、それも悪くはなく力有る個性豊かな外相として印象づけてきたことは間違いないようだ。ヨーロッパ。 EU諸国、第三世界が残っているが、ロシアとの顔合わせも残っているが、かつてない意欲と意志とガッツのある女性外相として、いかに過去の外相たちが没個 性的な無能そろいであったかをアメリカに見せつけてきたであろうことを想うと、ま、よかった、その調子で早く外務省の人事刷新をむしろ強行してしまって欲 しいと思う。

* 田中はいいが、小泉の一人勝ち現象がどこまで行くのか、行き過ぎはいいわけがな く、さて、だれが程良いブレーキを踏むか、だ。まず都民が都議選で、次いで国民が参議院選挙で野党を見捨てないで欲しいと思う。わたしは小泉と田中の現内 閣を、他の自民党連中との比較において圧倒的に支持するけれど、投票は野党にする。片方の降りてしまったシーソーは危険であり機能しない。

* またカウントが故障している。「index.htm」を開いて必要なことを書き 込み、保存して転送しようとすると、保存の前に警告が出る。「この頁に関連づけられているファイル、vpack\Count.cgiは保存することが出来 ません。ファイルが正しい位置にあるか確認してください。保存を続けると、この頁はの内容は、vpack\Count.cgiにはほぞんされません」と。 保存しないわけに行かず保存し転送したら、またもカウントは赤い×マークが入っている。本文の末尾の「戻る」などはもう全部が働いていない。無くて済むも のは無くていいかと無精者の本音が出ている。
 

* 六月二十日 水

* 風つよく雨も降っている。それでもあちこちで作事の物音。我が家の方は九分九厘 終えたようだ。

* 高崎淳子さんの随筆を「e-文庫・湖」第五頁に掲載した。最初の投稿からすると 格別にいいものになった。何度もの書き直しでご苦労をかけた。最終稿にも編輯権を少しく行使した。

* 党首討論、今日は小泉首相の完敗であった。小沢一郎の自由党は論外で、あんな議 論ならないほうがマシ。民主党の鳩山、共産党の志位、社民党の土井三党首は堂々と問いつめて、小泉首相を絶句させ、声を小さくさせ、あるい
は、激昂と小声の中へ逃げ込ませた。鳩山は時間もかけてよく追いつめたし、志位の追及は的確だった。土井 たか子の舌鋒ははげしく的確に、小泉を苦渋の答弁へ追い込んだ。小泉の答えはほとんど意味を成さなかった。鳩山もつよく最後に触れていたが、土井は靖国神 社参拝にノー、千鳥が淵を国立の、外国からの賓客にも参拝してもらえる施設にと、論旨明快懇切であった。わたしの思いと毫も変わらない。木島さんたちのペ ンに申し入れたところと本質的に変わらない。わたしの理事提案を、力石氏たちの申し入れ要望を、いわれなくすげなく玄関払いにした日本ペンクラブの現理事 会の判断のわるさを今更に痛感した。誠のある人なら、主義や思想と関わりなく誠の声には誠に対応できる。理屈にもならない理屈で、首相たちの靖国神社公式 参拝を容認したと結果に置いて等しい理事会決定は、嗤われていいだろう。小泉首相の危険なボロが出始めているのではないか、田中外相のアーリントン墓地へ の敬礼を是としながら、外国要人には靖国参拝など繰り返し断られている事実は大きい。メンツに拘った自民党の靖国固執は、いかに口さきだけ美しく、戦争は しないの感謝の気持ちのといってみても説得の力はない。
 そもそも、「神」社とは何なのか、信仰の名にかりた宗教施設であろう。総理大臣がそれを表だってするの は明白に憲法違反である。

* 梅原猛氏から新刊の『京都発見三』が贈られてきた。洛北を探索してあるが、これ は、わたしの久しい関心や興味に触れてくる目次である。索引の入っているのが有り難い。

* 京都でなく、奈良から誘われている。上村松篁画伯が亡くなり、遺作展が松伯美術 館であり、オープニングが七月九日、夕刻から淳之氏の講演と小宴が大阪の都ホテルである。招待されていて、行きたい思いも強く、さてどうかと。

* 言論表現委員会同僚の五十嵐二葉弁護士から、「ディアコノス」について、「ハー ドな結末にもなる題材をやわらかく仕上げられ、この辺りが『秦文学』のフアンの多いところなのでしょうと感服しました」と、手紙をもらった。俳優の田村高 広廣氏からも忙しい中、封書の礼状が来ていた。

* ご尊父のプロフィールを温かい筆致で「e-文庫・湖」に寄稿された田代誠氏か ら、お人柄、文章の感触にひたっと添った、じつに手触りの温かい、楽長次郎の名品「無一物」によく似た茶碗一枚と青柳の茶が届けられ、ありがたく頂戴し た。

* 布谷智君の奮闘と親切で親機が稼働し、とてもとても仕事がすすむ。二台をネット ワークで繋いである効果がまだ生かせない、生かしようがよく分からないけれど、多少の不便を越えてフロッピーディスクを頻繁に入れ替え差し替え二台を有効 に使い分けるようにしている。スキャンもプリンタも外付けも、まだ以前から使っているノートパソコンに繋がっていて、親機からは使えない。ノートパソコン でも、それらを使おうとするとネットワークをはずしておかないと働かない。何かが問題なのであろうと思う。
 

* 六月二十日 つづき

*  『湖(うみ)の本』45を拝見して、満ち足りた気分でいます。正確には、文学 的には満ち足りているが生活者としては考え込んでいる、というところでしょうか。6/10にいただきましたが、今日まで読めないでいました。ある予感が あって、じっくり読める日を待っていました。大変なことが書かれているに違いないという予感は、当っていました。
 「無明」の、書けないときでもご自分に義務付けてお書きなったとの件りは、プロの作家としては当然かも しれませんが、原稿用紙4枚にきっちり収めて書くことなど、なかなかできないことだと思います。それはそれで魅力ある作品が多いのですが、やはり私は 「ディアコノス=寒いテラス」に胸を打たれました。
 おだやかな、敬語をきちんと使える女性という設定も、書簡という形式も、この作品では成功していると思 います。そして、教育とは何か、奉仕とは何か、正義とは何か、心障者をどう受けとめて行動するのがよいのか、非常に問題の多い小説だとも思います。秦さん は20年前にこの作品を書き上げ、上梓を勧められてもいたようですが、結局、今になって湖(うみ)の本で発表したとのことですね。20年前に発表してもよ かったのではないかと今だにお迷いのようですけど、私はこの時代でよかったと思っています。ようやく総合的なモノの見方が出来つつある今でなければ、この 作品の価値は埋もれてしまったかもしれません。
 私にもこの作品に近い経験があります。小・中学校を同じにした軽度の知恵遅れの同級生がいて、いじめに 遭った時に庇ったのを機に近づいてきました。私がバスケット部の主将をやった時に、一緒に試合に出たいと入部してきました。運動神経はよかった方です。中 卒で大工になって、私の家を建てたいと言っていました。私が家を離れて就職したあとも、私の実家には出入りしていたようでした。20年ぶりぐらいで同窓会 で会った時、もう一度昔の仲間とバスケットをやりたい、と言っていました。おお、やるか!と応えましたが、その1年後に屋根から落ちて死んだと知らされま した。もちろん御作とは似て非なることですが、彼に接した私の態度は、今だに信用できないものがあると思っています。御作を拝見して、その思いをさらに強 くしているところです。
 心障者とは何か、と私には明確に答えられる知識も感性もありません。この作品を人文学的・医学的にも応 えられる術も持ちません。それでもなおかつ、人間とはなんだろうと考え込んでしまいます。文学的には誰も書いていない分野を書いているという羨望はありま す。しかし、そんな羨望は自分の小ささを曝け出しているだけだと思います。作家の本来の力を感じるだけで、人間の理不尽・不可解さを考えて小さくなってい ます。

* 「本とコンピュータ」は、日本語の雑誌を出し、英語版も編集している。英語版が インターネット上で次々に国際討議の問題提起を続けていて、ダウンロードして読んでみると刺激的になかなか面白い発言や意見に満ちている。わたしも割り込 んでみることにした。と言うのも、例えば出版を俎上にあげながら、ほとんど徹頭徹尾「編集者・出版社」という一括の視点から語ろうとしているのが解せない のだ。もうそれは時代遅れであろう。本来の「作家・編集者」というチームに立ち戻って、コッテージ・インダストリーの出版が可能なネット時代がもう来てい るからだ。編集者は出版社のバブル増殖と壊滅の過程で自己破産し、編集者は存在しなくなり出版資本に使役された出版社員だけに変質変容したのだ。下請けを 追い使いながら、前年同期プラス何十パーセントかの生産高アップに追い立てられて、ベストセラーという名のガラクタ生産に誇りもたちからも失っていった。 原稿の読めない・読まない編集者なんてものは無意味な存在になった。
 だが、今や、「作家と編集者」という小さいが優れたチームが出来れば紙の本も電子の本も、出版社抜きの 出版で仕事が出来る、効率高く出来る時代が来ている。編集者も作家も、出版社の外へ抜け出て誇り高い仕事をすべきときだ、不可能ではない端緒をわたしの 「湖の本」は神でも電子でもつけている。十五年、六十七巻、まだ千早城に退くことなく頑張っている。そろそろ六波羅探題を陥れ、鎌倉幕府をうち倒し、名和 がたち菊池がたち、がんばれる時勢ではないか。そんなことを、今だからわたしは言いたい。

* 下関市在住の俳人出口弧城氏の自撰五十句「月の襟足」を「e-文庫・湖」第七頁 に掲載した。飄逸の境涯を抱いて宇佐や国東の風土記的探訪にも余念ないと聞く。亡き上村占魚の門におられ、占魚さんの没後は独行の悠々自適のようである。 やはり湖の本の読者でもある。
 

* 六月二十一日 木

* 無事好日、さて何事もない珍しい日である。昨夕過ぎ、近所の薬局へ処方の薬をも らいに行き、近くに開店していた新しいレストランに妻と入ってみた。「ケケ・デプレ」とか妙な名の店であったが、2700円のコースが品数豊富で適量、意 外に儲けものの味わいで、たっぷりのデザートまで、満足した。二階の窓の前に天神の森が青々と奥深げに見えたのがよろしく、わが保谷にも少しずつこういう 気の利いた店が出来てきたかとこれからが楽しみになる。スリッパの普段着で数分。初めのうちすいていて、ゆっくり夫婦でいろいろ話せた。

* 外務委員会での鈴木宗男とかいうスカタン議員のトチ狂った一時間の質問には、答 える田中真紀子ならずともゲンナリ。質問の殆どは無責任報道のマスコミに問いただせばいいことで、自分で自分を自民党の有力議員に仕立てているに過ぎない 無駄口ばかり。

* 小泉首相のこの日頃にも、質問への答え方も、政治判断も、なんだか怪しげなごま かしやすり替えが増えてきた。用心をつよめねばならない。

* 梅原さんの『京都発見』洛北編は八瀬童子の話題から入ってゆく。例によって論証 は欠いた、直観ないし梅原流の思いつきが面白づくでポンポン出るから、とても読みやすい、が、これでは新書版ていどの信頼もおきにくい。知識量の豊富な読 み物随筆として迎えれば、旅の友にはいい本だ。

* 川端康成の『山の音』を少しも急がずに読んでいる。川端文学は精緻な心理主義文 学で、芯になる信吾とか島村とかの内心の声とひっきりなしに付き合うことになる。川端文学の深い音とは、この登場する主人公の内心の声音なのである。谷崎 文学では、こんなに精緻に精細に人物の心理など書かれはしない。春琴や佐助の心理が書けていないという批評のあったときに、あれで十分ではないかと谷崎は 動じなかった。彼は、叙事そのものに人物の心理を託するが、川端は人物がしきりに内省し反省し考察し感情してやまない。絶えず大銭や小銭や札びらを勘定し て報告している。谷崎は財布のママずしっと投げ出して、なかが見たければ読者がみればいいという行き方をする。川端文学には心理の罅が縦横に走った廃器の 感があると述べたのは、もう三十年前のことだが、読み返していて、感想は基本的に変わらない。魅力がないのではなく、魅力は横溢して読むうれしさに満たさ れるが、谷崎のようにおおらかではなく、優れて神経質な美しい文学だと言わねばなるまい。

* いろんな「自分史」のスケッチが試みられるのは自然なことだろう。「e-文庫・ 湖」第十二頁をあて、祖谷八寿子さんの未完のスケッチがどう仕上がってゆくか、期待したい。

* 自民党の福島県連が、昨日の同じ自民党鈴木宗男のあんまりバカげた外務委員会喧 嘩腰質問に、痛烈な抗議文を送りつけていた。あたりまえだと言いたい。
 石原慎太郎東京都知事の言動が、案の定の思い上がりからか、いちびって危険兆候を露わに仕掛けている。 警戒が必要だ。

* 苫小牧駒大の林氏から、九月初めの丹後浦島遺跡めぐりに参加しませんかと誘われ ている。大いに気が動いているが。
 

* 六月二十二日 金

* 雨かと思っていたが梅雨の晴れ間の感じ。新潮社のパーティーがホテルオークラで ある、が、あそこはいかにも我が家から遠い感じがする家にいれば仕事がある。出で行けば食べて飲むしかない宴会だ。

* 佐藤春夫の「戦国佐久」もまた張り扇の音の響いた時代読み物で、行文甚だ仰々し く、古めかしい。佐藤の時代の語法や趣味に少しは通じているから、難なくわたしは読むし楽しむけれど、そして噺が拙なのでは少しもないけれど、作家の懐に 谷崎のような天空を闊歩するような姿勢の大きさが無い。門弟三千人、地上の権威人の尊大と傲岸とが書かせている。見たか見たかと肩をそびやかし、作品が意 外なほどこせこせと縮まっていて、とうてい優れた文学の味わいではない。
 つづいて井伏鱒二の「普門院の和尚さん」とかいうのを読んだが、井伏先生とは思われない拙劣な駄作で、 まいった。要するに間に合わせに責めをふさいで、そそくさ、せかせか書かれた最悪の意味での難のある売文もの。いい材料をむざむざごみにしてしまってい る。

* わたしのM教授こと亡き目崎徳衛氏、また懐かしき故藤平春男氏に師事したという ペンのメンバー秦澄美枝さんから著書と手紙が届いた。「E-文庫・湖」に使って欲しいということで、先日の例会で、長谷川泉さんと三人でしばらく話してい た。姓は同じだが関係はないかった。なんとかアカデミーの院長だと以前に聴いていたが、それだけ記憶していて人は忘れていた。七十すぎた事業家肌の女傑だ ろうと勝手に思っていたら、先日会って若い人だった。しかも清泉大で長谷川氏と同じ先生をしていた国文学研究家、長谷川さんにも大後輩であった。送られて きた論文集は「研究」論文というにふさわしいかなり綿密なもの、もう一冊は「清泉女子大学セクハラ事件」と銘打った『魂の殺人』かなりな硬骨本のようであ る。出会いのいい一冊二冊になればよいが。

* イタリアからフランスへ、ひとりこつこつと旅している友人の、いつもながら知性 と実存感のいい手紙が、絵はがき一葉も添えて届いた。

* 「初手から妖しの美世界へ引きずり込まれるようで、日暮れに気付きませなんだ。
     梅雨の日の暮れ、 ぶどうの房と 伏目の美女と。 」と、川柳の時実新子さんのハガキも。

* さて、また「ミマン」の時が来た。今度の解答も、意外や意外、あわせて原作どお りの人はわずか四人、驚いている。

  産みしより一時間ののち対面せるわが子はもすでに一人の(    )人

  手(   )を落し自分の記憶までも

* なんだかカンカン照り、天気予報とは大違い。出かけて行く気力は落ちてしまっ た。行けば美食と酒、そしてお土産は佳いチョコレートだった、従来は。どれも甚だよろしくないものばかり。受賞者たちのことは何も知らない。二十によろし くない。理屈をつけて行かない方へ自分を誘導している。

* ホテルオークラへは行かず、林晃平氏の「浦島伝説略史」をすべて「e-文庫・ 湖」第四頁に掲載しおえた。「浦島太郎は亀に乗り」と、今の大人も子供も覚えているが、どうしてどうして。そして「浦島効果」は栗本薫らのSFにまで展開 し、宇宙時間と地球時間の時間差のなかで問題を拡大している。啓発されかつ面白かった。いま原本一冊を注文してある。楽しみにしている。掲載の順序待ち寄 稿分があとに幾つも続いている。フロッピーディスク、それよりもメールで届くと、内容さえよければ掲載は技術的に簡単である。
 

* 六月二十二日 つづき

* 今、日本文・英文とも国際討議の場に、わたしの原稿をアップロードしたと担当編 集者の通知があった。日本語の題は、「ネット時代に 作家として編集者として」と。 「作家から編集者へ」という気持ちであった。
  http://www.honco.net/100day/03/2001-0622-hata- j.html で見て欲しい。
 英語のタイトルは、ストレートに、「Publishing without Publishers」となっている。
 わたしの発言までに、アップトゥデートなもろもろの発言が並んでいる。

* お元気ですか。湖の本十五周年おめでとうございます。
 「ディアコノス」について、私語の刻にたくさんの感想が紹介されていますので、今さら申し上げることな どないのですが、普段、障害者と接することのほとんど無い者の考えとして、ひとつお聞きいただければと存じます。
 まず、よくお書きになったなあ、ということです。発表を躊躇われたのも頷けます。それほどデリケートな 問題です。日本人のほとんどが、差別はいけないと言いながら、いざ自分が関わらざるをえなくなると差別をしてしまうそうです。偽善の姿、と思います。
 わたしは偽善に陥りたくありません。かといって偽善から解き放たれているという自信はありません、情け なくも。うわべだけの”ディアコニッセ”になりたくなく、福祉などとは距離を置いてしまっています。
 差別は、未解放部落、女性、在日外国人、など悔しいほど多々存在します。それぞれの歴史があり、事情も 異なるので一口にどうと言えない複雑な、やりきれない問題です。
 「ディアコノス」に描かれているのは、やはり特有の問題をはらむ障害者差別についてですが、作品は、障 害者差別に限らず、差別の根っこのところにある闇を、真正面から捉えているなと思いました。偽善、同情、憐れみは、もっとも排すべきと思っています。
 学生のとき、差別問題を考える演習の授業を履修したことがありました。そこで、自分の無知と、「自分な らどうする」などという次元で差別問題を考えているだけでは、先へ進まないことを知りました。授業中、ある女生徒の言った、「自分が何者であるのかわから ないと、生きて行くのが難しい」という言葉を、今でも忘れられません。彼女は、日本人でも、韓国人でもない、在日韓国人でした。
 差別問題と向かい合うとき、偽善の仮面をかぶっていないか、いつも自分自身に問いかけています。答えは なかなか出せません。やりきれない、まとまらないわたしの思いに似たものを、よくぞ書いてくださった、という思いでいっぱいです。
 また、「無明」は、むむ、なるほど、と唸りながらたのしく読みました。

* 一つの姿勢であろう。

* 吉田優子さんが小説「さぎむすめ」をさらに推敲して送ってこられた。明日にも差 し替える。自発的に、本格の推敲に繰り返し粘りをみせた作者に敬意を表したい。
 フランスのリモージュから届いた旅の便りを「e-文庫・湖」第八頁に掲載した。無事の旅を祈る。
 

* 六月二十三日 土

* 「英語を外国語として理解している多くの読者にもよく分かるように、(本とコン ピュータ)の英文は平明を旨とします。すると分かりやすくなるのですが、原文の持っていた迫力がそがれるようなことがあります。できるだけそうならないよ うに、秦さんの英文の翻訳・編集は、最後までこちらで議論して手直しをしました。英文に直したときは、変化球より直球の方が、外国の読者には理解されま す。秦さんの今回の文章は、剛速球なので多くの人に理解され歓迎されると思います。ありがとうございました」と編集長からアイサツが入っていた。どんなこ とを書いたか、少し露わにものを言っているが、「エッセイ」欄にも、(本とコ)で許してくれるなら「e-文庫・湖」第九頁の「英文」欄にも掲載しておきた い。
 関連討議は、http://www.honco.net/100day/03/2001-0622- hata-j.html から展開して読んで欲しい。

* ネットの時代へ、作家として編集者として  秦 恒平

 わたしは「書き手=小説家」だ。批評もエッセイも書いてきた。どのように作家とし て出発し、現にどのようにこの議論との接点をもっているか、それを知ってもらうのが、議論の趣旨にいちばん適う気がする。なぜか。

  エプスタイン氏に始まり加藤敬事氏らの対話に到る議論が、ほとんど「書き手=作家・著作者」を、「出版」の問題にしていない。「読者」への評価もまるで無 い。こと「出版」を語って、作者と読者への視野や評価を欠いた議論というのは、何なのか。久しく作者を出版の「非常勤雇い」として?使し、読者から「いい 本」を取り上げて多くの泡をくわせ、待ちぼうけを食わせてきた、出版社主導ないし独善の「出版」なるものが、いま自己破産に瀕しているのは、けだし当然の ように見受けられる。新世紀は、そういう作者や読者から、旧出版へ反撃の時代とも位置づけられる。反撃を可能にするのが、デジタルテクノロジーであること は、言うまでもない。「出版」抜きの出版、作者と読者とで直接交しあう出版が、今日、可能になっている。わたしはそれを、十五年、成功させてきた。出版よ 変われと願い孤軍奮闘してきた。その実践を人は楠木正成の赤坂城に喩えてくれる。愚かしい真似であったか、意義があったかはみなさんの判断に委ね、他人の ことでなく、あえて自分のことをこの場で語ろう。

  1960年代、創作を職業にする以前に、出版社に頼らず、私家版を少部数ずつ作って、ごく少数の読者に作品を手渡していた。その四冊目の表題作が、作者の 知らぬうちに太宰治文学賞の最終候補に推されていて、受賞した。1969年である。文学賞は、この業界からの「雇い入れ」招待状になった。
  以後、年に四冊から六冊ほど、毎年本を出版し続けた。折り合える限りを出版社・編集者と折り合い、勤勉に書いて書いて著書を積み上げていった。一年に書く 二千枚の原稿のほぼ全部が右から左へ単行本になって行くほど、この新人作家は出版に恵まれた。十数年といわぬうちに各種六十冊を越えていた。ただし、どの 一冊もベストセラーにならなかった。わたしには出版が大事なのでなく、心ゆく創作や執筆、その自由と発表の場が大事であった。「いい読者」が大事だった。 少数だが熱い読者に常に支持されていると、編集者も出版社も本を出しつづけてくれ、蔵は建たなかったが、職業としての作家業は、受賞以来五年の二足わらじ を脱いでからも、十数年、二十年、なお十分成り立った。原稿料・印税その他で、一流企業の友人たちよりもわたしは当時稼いでいた。

 ところが、お付き合いの濃かった人文書出版社が、つぎつぎ具合悪くなった。筑摩書 房、平凡社、最近では中央公論社。意外とは思わなかった。優秀なバックリストに満たされての破局は、エプスタイン氏の批判に言い尽くされているのかも知れ ない。龍澤氏の反省がまるで当時機能していなかったのは明白である。
 痛みとともに想い出すが、すでに1970年代前半にして、わたしが勤めてきた出版社の企画会議・管理職 会議での合い言葉は、強圧は、「前年同期プラス何十パーセント」という機械的な生産高設定であった。医学専門書の出版社でそうであったし、読者確保の利く 専門書であるがゆえに高価格設定でそれもなんとかなったけれど、龍沢氏のいわれる「幅」のある、それだけ見通しの利かない人文書出版社で、生産高本位の 「前年同期プラス」に歯止めなく走り始めれば、そんなバブルが、うたかたと潰えるのは目前であった。作家として独り立ちしてからの7-8-90年代を通 じ、わたしは「出版」の自己崩壊または異様な変質は、あまりに当たり前のことと眺めていた。良識ある編集者の発言力が社内で通用せず、むしろ進んで変質 し、「売れる本を書いて欲しい」としか著作者に言わなくなっていたのだ。龍沢氏は言われる、「書籍編集者は年間出版点数を倍に増やさなければ売上げを確保 できず、企画は次第に画一化されてゆく。その過程で編集者・出版社は、かつて強力な流通網の向こう側に確実に実在していたはずの、ある『幅』をもった多様 な人文書の読み手であった『読者階層』の姿を急速に見失ってしまったのである。企画の画一化は、結局のところ画一的な読者を生む以外にないのである」と。 この通りであった。「編集者」はいなくなった。原稿もろくに読まない・読めない「出版社員」だけが下請けを追い使って生産高を競った。
 そんな中で、作家・著作者とは、バブル化する出版資本のかなりみっともない「非常勤雇い」に過ぎないと わたしは自覚し、イヤ気もさして、このままでは、百冊の本を出しても、売り物としては半年から二年未満の寿命に過ぎないし、読みたい本が手に入らないとい う「いい読者」たちの悲鳴に出版が見向きもしない以上、作者である自分に「できる」ことは何だろうと、考えに考えた。

 そして、1986年に創刊に踏み切ったのが、絶版品切れの自分の全著作を、自身の 編集・制作により復刊・販売・発送し、作品を、作者から読者へ直接手渡すという、稀有の私家版シリーズ「秦恒平・湖(うみ)の本」であった。辛うじて自分 の「いい読者」を見失うまいと手を伸ばしたのだ、詳しく話していられないが、今年の桜桃忌(太宰治の忌日)までに、満十五年、六十七巻の著作を簡素に美し い単行書として、自力で出版し続け、百巻も可能な見通しで、なお継続できる「文学環境」が確保できているのである。読者の質は高く、支持は堅く、代金は 一ヶ月でほぼ回収している。復刊だけではない、新刊も躊躇なく刊行し、ただし実作業はわたしと老妻との二人で全て支えてきた。苦労そのものであったが、読 者という「身内」に恵まれ幸せであった。「本が売れないって。泣き言を言うな。自分で売るさ」と、実に自由であった。むろん市販の本も、各社から二十冊ほ ど増やした。忙しかった。

 大事なのは、ここからだ。かつて菊池寛が文藝春秋を創立したとき、作家が出版社経 営に手を出すのかと中央公論社長らに大いに憎まれ、喧嘩沙汰もあった。菊池寛のような政治家ではないたった独りの純文学作家・秦恒平の自力出版が、五年し ても十年しても着々続いていては、陰に陽に凄い圧力がかかる。文壇人としては野たれ死ぬかな、ま、赤坂城のあとには千早城があるさと粘っているうちに、 1993年、東京工業大学の「文学」教授に、太宰賞の時と同じく突如指名された。大学教授の方はとにかく、理系の優秀校、コンピュータが使えるようになる ぞと、わたしは、牢獄を脱走するエドモン・ダンテスのような気分になった。紙の本で得てきた創作者の自由を、電子の本でさらに拡充し、紙と電子の両輪を用 いて、「いい読者」たちとの「文学環境」をもっと豊かにもっと効果的にインターネットで楽しもうと、奮いたったのである。

 定年で退任したいま「作家秦恒平の文学と生活  http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/」は、その途上にある。途上とはいえ、文学・文藝のアーカイブに徹して、コンテン ツはすでに600万字に達し、電子版「湖の本」の他に、新たな創作もエッセイや批評や講演録も多彩に取り込んでいる。課金しないから、読者は自由にすべて が読めるし、気が向けば印刷版
の「湖の本」へ自然に注文が入る。紙の本の魅力はまだまだ当分失せはしないのである。
 わが「湖」は必ずしも広くはなっていない、が、深まっている。その証拠ともあえて言おう、わたしのホー ムページは、さらにその中に「e-literary magazine文庫・湖umi」を抱き込み、わたしが責任編輯して、弁慶の刀狩りではないが千人・千編の各種の文学文藝を掲載発信すべく、すでに創刊半 年で、百数十人の作品に満たされているが、書き手の大方が「湖の本」の読者であり、大半は立派に知名の書き手なのである。その水準の高さに惹かれ励まされ て若い無名の書き手も次々に参加してきている。原稿料は出さず、掲載料もとらず、ただわたしの「編集と取捨」とに委ねられている。実はわたしは、作家以前 に、弁慶のような「編集者」として牛若丸の「書き手」を追いかけ回し、そして最後には勝たせてあげていた。その「体験」が、わたしの「作家」三十数年を支 えてきたのだ、ここが、もっとも肝要な「これからの編集者」論ということになる。龍沢氏の文中にもある「編集者・出版社」という一括はもう崩れていい。 「作家・編集者」という根源のチームに立ち帰らねば「編集という本質」は瓦解するのだ。

  もし、力ある作家と編集者とが、小さく緊密に、コッテージ・インダストリーふうに紙とデジタルで信頼の手を組めば、そういう「新出版」が各処に渦巻き働き 始めれば、老朽した「旧出版」という北条政権は、遂には傾くだろう。インターネットに、読者と作者を引き裂く「中間」存在など無用なのだから。
 この場合に必要なのは、作家自身の誠実な自己批評の能力、編集力、だ。作家自身も、それをサポートでき る編集者にも、何よりもつまりは良きものを求めて「読んで」見つけだす力が必要なだけだ。インターネットで文学環境を築こうとすれば、作家自らが誠実な意 欲的な編集者になれるかどうか、その結果時代が真に新しくなるかどうか、が、鍵になる。弁慶と牛若丸のように、今こそ編集者は作家と、作家は編集者と組ん で「旧出版社」から脱出せよと言いたい。その際、力ある「いい読者」たちの存在をけっして無視してはならないのである。 2001.6.17

* 優れた編集者は、まだ、大勢が苦闘している。ひやかしでなく、真正面からの反響 の届くことを期待している。

* 「ディアコノス」などと難しい題が付いて、どんな内容だろうと思っていました。 すぐ読んでしまったのですが、感想なんてとても言えないと思いました。
 多動で精神発達遅滞というのでしょうか、そんな人に関わって、何かを得たのか失ったのか、主人公はいっ たい誰なのか等、精神障害児に対する考え方や扱いのまずさがよく描かれているなと感じました。語り手の、話の宛先が少女たちの「担任教師」であるところ に、問題を隠してあるのでしょうか?

* ふつうの読者のふつうの反応だと思われる。一応の批評をこえてその先までとなる と手に負えない問題だということか。
 

* 六月二十三日 つづき

* いま生のままもたらされる情報のなかで、おそろしさも麻痺し、白けてゆく日常で す。
 『ディアコノス=寒いテラス』は、怕い小説ですけれど、力みとか断じたりする嫌みがなくて、読者に性急 な答を促さず、迷路の彼方をあけてあり、考えさせてくれます。たとえば、湖の底から人知れず湧き上がる清冽な湧水のような、読者のこころの泥を洗ってくれ るような──。十五年、六十七冊、ほんとうにありがとうございます。

* さいたま市の、久しい有り難い読者からの声が届いた。

* 角田文衛博士の米寿を記念するムックと著書『薄暮の京』が贈られてきた。わたし の『風の奏で』ほかに T 博士として登場される碩学である。ほんものの碩学である。この方の著述は、じつに安心して読んで参考に出来る。教わることが山ほど、惜しみなく書かれてあ るのだから、戴く本はそのまま座右につい出しっぱなしに、ことあるつど読んでいる。今度の本でも、ぱらぱとめくるだけで、グググっと目を吸い寄せられてし まう。いくら面白ずくにすらすら読める本でも、安心して受け取れない論証抜きの思いつきを書いた本では仕方がない。やはり学問の手続きを正当に丹念に踏ん で、あまりな間違いなく書かれてあればこそ学者、研究者の本といえる。評論というのはその辺が弱い。あまり役に立てにくい。

* 世界思想社というところが富士谷あつ子氏らの編集だか企画だかで『京都学』の本 を出すので、エッセイを書くようにと依頼してきた。「京都学」の必要な時期であるとわたしは何度も「私語の刻」に書いてきたし、以前からもそのつもりで京 都を見てきた。そういう眼で世界思想社の構想を読んで目次を眺めてみると、「京ことば」というか京都における言語の項目がまるきり脱落しているのに気付い た。まずくはないですか、と、応答したところ、言葉にまで触れるゆとりが無いと言う。「京ことば」は京都学の分母ともなる大事なもので、物語、和歌、政 治、社会、女文化の血潮である。そういう基本の理解を欠いた「京都学」では疑問なきを得ない。折角、御勉強願いたいと不審の気持ちをまた伝えて置いた。

* 京都でほんとうに育って暮らしたという実感の乏しい学者たちの「京都」になりが ちなのは無理もなく、昔から京都にはよそから入って半端に京都贔屓の人が多く住んでいる。もともとの京都人はあまり京都京都とは言わず、よそびとは珍しさ からも京都を売って人気を取ろうとしがちだ。構わないことだが、どんな土地にも、不思議に独自なことばの命が宿っている、それを軽く見ては何もよく深くは 掴めないのである。わたしがあまり江戸や鎌倉を書こうとしないのは、言葉にどこか通じないところがあるだろうとつい慎重になるからである。
 

* 六月二十四日 日

* 三原誠作『たたかい』を「e-文庫・湖」第二頁に掲載した。うしろに、編輯者の 弁をこう入れた。「作者は、小説家。優れた力量をもって同人誌「季節風」でも卓越した作品を次々に発表されていたが、平成二年十月二十一日、惜しくも亡く なった。「たたかい」は芥川賞候補作の傑作である。名作である。これも今は亡き久保田正文氏が「文学界」の同人雑誌評に、この一作のみを取り上げて称揚し た異例の批評があるのを、ここにも異例をあえてして転載しようと試みたが、作品内容を説明もされているのでやめた。惜しんであまりある作家への供養として は、やはり読者一人一人に読んでもらうのが本筋だろう。三原さんと面識はなかったが、いつも熱い視線をわたしの仕事に向けて戴いていた。わたしから氏の代 表作長編の刊行に序の一文を贈ったこともある。夫人節子さんは「湖の本」に大きな支持を今も寄せ続けて下さっている。「たたかい」は、校正していて、じつ に「嬉しい」充実作であった。文学であった。「e-文庫・湖」は面目を得た。感謝ひとしおである。他の秀作もぜひ此処に紹介したい」と。早い時期の芥川賞 候補作であった。
 次ぎに掲載してみたい三原作品に単行本の表題作になった『ぎしねらみ』がある。三原さんはこう書いてい た、昔に、昭和五十五年夏に、これを読んで眼の輝く思いのしたのを今に忘れない。

* 「ぎしねらみ」は、作品の中でも書いたように、清流にだけ住まう魚である。そし て、私(三原)が子どもの頃は、故郷のどんな流れにも見かけられたものである。それが、この頃では全く姿を消しているという。二三尾捕えておいてくれとい う私の気楽な依頼に、電話の向こうの甥は、
 「それは、言うなれば雲をつかむような事(こつ)でござります。」
 と応えた。幸い、この度は、村の魚獲りの名人の網でようやく捕えられた二尾が空路運ばれ、野村良郎(装 幀者)氏の筆でその姿をとどめることができた。が、私は、甥の言葉が忘れられない。
 それは、言うなれば雲をぞつかむような事でござりますョ──
 しかり。清流にしか住めぬ傲りの性(さが)ゆえに、いまは虚空のかなたの青さの中に、じっと泳ぎすまし ている一尾の「ぎしねらみ」が、私には、たしかに見えるのである。

* 「ぎしねらみ」として生きて死んでゆくことをわたしは悔やまない。濯鱗清流。好 んでわたしの書く識語である。

* 「ダンシング・ヒーロー」という昼下がりの映画に感動して何度も泣いた。古くさ くなく、まっすぐに感じて藝術を創造してゆく青春。そういう若い人の登場をわたしは心より期待している。まがいものでなく、ほんとうに志の澄んで丈高くあ る才能を。名誉心にのみ溢れて如才なく世渡りしながら、無垢の才能と魂とに目もくれず、むしろ高飛車に蹴落とそうとしている似非の栄誉人たち。いやだなと 思う。

* 「時宗」が順調にすすんでいる。和泉元弥は可もなく不可もないが、誠実にやって いる。くねくねした時輔役は、くねくねが気になるが存在感は巧みに増している。日蓮役はさすがにカチッと引き締めてやっている。若手の女優が、どれもかッ たるい。ともさかりえが、中では佳い方か。

* 都議選、むろん投票してきた。自民党には入れていない。しかし圧勝の気配。小泉 内閣にはまだ期待をのこしているが、自民党体質にはとことん嫌気がさしていて、このギャップが悩ましい。ハッキリしているのは、参議院選挙で、自民党橋本 派に大敗させたいこと。マスコミは自民候補の何派に属しているかを明記し明瞭に報道して欲しい。
 田中真紀子は三権分立のタブーを反則し無用に躓いたけれど、支持する気持ちは揺らぎ無い。鈴木宗男のよ うな木っ端代議士をいい気にさせてはならない。衆議院で比例代表でやっと当選し来た男だ。民意を自身に反映して選ばれた代議士ではないのだ。
 

* 六月二十五日 月

* 朝一番に、力石定一氏よりファックスと電話とが入った。「千鳥が淵」の件で議員 立法を要望する動きが与野党向けに進められている由。いいことだと思う。「要望」の文面中、八月十五日を戦没者慰霊の日とするまでは問題なく、ことに鎮魂 の対象を国内外のいわばあらゆる戦没者におしひろげ、戦争で死んだ人々すべての霊を慰めたいという趣旨には大賛成であること、ただ八月十五日に天皇と内閣 が参拝するという文面は無用ではないでしょうかと、私見そして理事会での意向を伝えて置いた。力石氏もそれには理解があり、またひろく趣旨を通すための配 慮もありげであった。
 案の定「蝋山・力石・木島」三氏の梅原会長宛て要望を理事会でも検討して結論を出していながら、返事一 つしていないことが分かった。こういう折り目を正しく振る舞えずに、何の「文」化「文」学かと恥じ入る。誰もが責任を取らず問題を人任せに先送るというこ とか。秋尾事務局長にメールを送った。

* 秋尾事務局長殿  暑くなってきました、お大事に。
 さて先日理事会で討議されました「蝋山・力石・木島」三氏から要望の件ですが、討議の結末に関して、案 の定、三氏宛てに何の挨拶ないし返事もなさっていないと、漏れ聞きました。
 かりにも社会的な立場と肩書きを明記して、きちんと会長宛に要望され理事会でも検討したことに、採否は ともあれ、団体として、社会人として、返事一つしないままというのは、非常識な、恥ずかしいことではないでしょうか。こういう押えを秋尾さんには折り目正 しくして戴きたい。意見の相違とは別の次元の、礼儀の問題ですから。専務理事ともご相談の上、よしなに。秦理事

* 「ディアコノス=寒いテラス」に寄せられた意見は、次のメールで、ほぼ各方面か らでつくしたのだろうか。「いやな小説とは思いつつ読まされて、考え込んでしまいました、少し間をあけて再読しさらに考えたい」という払込票への添え書き も今日届いていた。

* 創刊15年記念の輝かしい作品が、「ディアコノス」。感動でもあり、辛くも読ま せていただきました。一気に。と言うより途中では恐ろしくて、読み止めることができませんでした。
 作者のお気持ちしっかりと受け止めなければと思いますが、「ディアコノス」が、「妙子ちゃん」の昔の担 任の「薫先生」宛てになっていて戸惑っています。テーマーが大きくなっていったこと、一「淡路家」の問題でない事、問いかけが世間へとなっていったこと、 知的障害児の大勢の方と現に関わっている私自身の不遜さ、気付かない傲慢さが、どれだけの人を傷つけていったのかと、考えさせられます。自分自身の気持ち も、こと確かなものとはならない日を過ごしています。
 息苦しいまま、作中語り手の「淡路家の奥様=節子さんのお母様」宛て、私が日々仕事から感じていること などお話しし、聞いていただこうと、お手紙させていただきます。
 「妙子ちゃん」の不意の出没からの数年間、どれほど心を痛められながら、日々をお過ごしでいらっしゃっ たたかとお察し致します。遅ればせながらお見舞いいたします。
 一番に、貴女のご家庭の愛が、薫先生の愛より薄かったとは、決して思いません。
 皆様が妙子ちゃんに良かれとどれだけのことを尽くされたか、それでも世間は承知できないのでしょうか。 いえ、知らなさ過ぎるのではないでしょうか。
 私は、(申せば塾経営の中で)知的障害を持っている子どもたちに、他の子どもたちと同じように学習して 欲しい、する権利があると思い、個人別の学習をしています。世間では、彼らには知的学習は必要が無いとされる事も多々あります。その人なりのできるものを 見つけ、根気よく続けることで、できるものが増えていきます。できる喜びを見出して、自分に自信をつけていき、生涯をより、豊かなものにできればと思って います。フランチャイズ式学習塾での1教室の限度はありますが。
 その子どもたちに関わりだして20年余り。子どもたちの個性は強く、なまじの好意や指導者同士の体験か らの事例交換だけで理解できないことが多くありました。確かな知識も欲しいと、放送大学で発達心理学など周辺事項を学び、卒論には、『母子分離不安が及ぼ す言語障害』をテーマーにしました。話がそれますが、乳児の発達に母子相互作用が及ぼ
す影響の大きさを知っていく事は、私自身の出生、育ちを見つめ直す自己探求にも深く関わって、避けて通れ ないものでした。
 子どもたちの生来の1次的障害に加えて、2次的障害が、障害を重くしていく事があります。それを多少な りとも防止したり、軽減できる事の一つに、母子関係を援助する事があると思います。子どもが何かできていく体験を、母親も遠慮することなく喜び合える事 は、子どもの意欲を育て、心を安らかなものにしてくれると思いました。母親が安心して子どもと学習できる専門教室を希望しました。
 商業ベースの塾のことですから、会社の良心にあたる部分をくすぐり『障害児指導は教育の原点である』な どと実しやかなことを言い、又、私自身も信じて許可してもらいました。10年を経て、地域の父兄にも、公的な福祉関係者からも預かって欲しいと委託される ようになり、今、50人近い生徒と学習をしています。
 誰でもが知りたい、勉強をしたい、大きくなりたい欲求は持っていると思います。それを叶えるためには、 一人だけの大きな力が必要なのでなく、周りからの少しの支えと理解があれば、子供たちは伸びていく事ができます。そのために、少しづつ力を出し合って欲し いと願ってしまいます。少しでも子どもたちのことを知る人が周りに増えていけば、学習しやすくなり、認めてくれる人が増えれば、子どもたちの意欲を増す事 ができると思っています。つい多くの人たちに協力を得る事で、知って欲しいと願ってしまいます。「薫先生」も同じだったと思うのです。
 子どもたちの思春期のエネルギーは、爆発的です。「妙子ちゃん」とて例外でなく、真っ直ぐなだけ、エネ ルギーは大きかったことでしょう。観念的な言葉を操れるだけに、周りは翻弄された事でしょう。
 我田引水的に持っていけば、それまでに、エネルギーの配分ができるように、ストレスが発散できる術を持 てるように、社会の人たちと共有できる趣味を持たせてやりたかった。絵本であり、スポーツであってよいのです。学習を継続させる事は辛抱を養い、コント ロールする力をつけます。
 「淡路家」がマスコミに叩かれますが、1部でも多く売らんがための商業誌の『世論の正義』は、容易に暴 力に変わるのですね。「節子」さんのように理不尽な事で、世間から石礫を投げつけられることが起こらないためにも、多くの人が少しずつでよいのです、「妙 子ちゃん」のことを知り、社会が、ご家庭を支えるすべを持つことができれば、と。障害を持った人たちが、成人して、自分の事を発表されるようになり、「妙 子ちゃん」のような高次機能障害者の事も、ずいぶん分かってきました。
 傷ついた「節子」さんを癒してくれるのは、支えてくれるのは、誰であり何であるのでしょう。世間が、障 害を持った子どもたちを少しでも知っていること、が、「節子」さんの気持ちをも理解してくれる事になる、のではないでしょうか。まだ甘い淡い希望をもち続 けていることは、私自身が被害者になっていないから言えることだとは思いますが。
 そう。もう一つ。子どもたちが成長していくために、社会とは、「人々の幸せのための社会であるべき」で は、ということが言いたいのです。反対に、社会のための人づくり、社会の枠の中に当てはめるための教育、はまずいと。特に弱者にとっては。自分の子育てだ けでは気付けなかった、社会の、行政の、あり方や仕組み。教育の組織作りや、方向性。大人はなんと身勝手な状況を子供たちに押し付けているかと思います。
 大変な状況に置かれたご家庭の苦しさを、何分の一も分からないで申し上げるのは辛いのですが。子どもた ちが何か成し遂げたときの眼の輝きに、体全体で喜んでいる姿に、私は勇気付けられ励まされる事が多くあって、その喜びを多くの皆さんに知ってもらいたいと 望んでしまうのです。
 「節子」さんも、ご家族の皆様も、今までの事を決して後悔なさらないように。きっと「妙子ちゃん」の気 持ちを満足させる事は多く有ったのでしょうから。
 くどくどと、自分の事ばかり話してしまいゴメンなさい。「淡路家」ご家族の皆様のご健康を心よりお祈り 致します。  2001年6月25日

* 問題がもう一度フリダシに戻った気もする。ずいぶんと、いろんな角度から声が届 いたし、また仲介できた。気の重い、読んでいて答えの出せない、その意味でたいへん「いやな小説」を提出したが、外へ持ち出してみてわるくなかったと思え るのが有り難い。秦さんの小説はムズカシイと言われ続けてきたのは、文章や構想や手法のことが常であったが、その意味では今度の『ディアコノス=寒いテラ ス』ほど読みやすい作品はわたしには珍しい。どなたも読むこと自体に苦労はされていない、だが易しい作品ではなかった。

* 「京都学」企画の富士谷あつ子さんは生粋の京都の人だと、彼女と大学時代から縁 のあった読者が教えてくれた。その上で、こんな面白いことも。
 「あつ子さんはれっきとした京都の方。府一の最後の卒業生だったかと思います。秦さんがおっしゃるよう に”言葉”を抜きにして京都は語れません。秦さんの忠告に、きっと”痛いところをつかれた”と思ってられるでしょう。
 ちょっとしたきっかけで、最近チェスタートンの推理小説にこっています。その中に、主人公の”もってま わった言い回し”を3人の女性が自分に関心のあるところだけ記憶していて、3様の証言をして(いずれも正しいが)混乱を招く---というところがあり、そ こに”正しい英国紳士は単純な物言いはしないものだ”との意が、誇らしげに書いてあって、面白かったです。イギリス人と京都人には似たところがあるように 思います。どちらも長く都だからでしょうね。」
 そうなのである。そういう言葉をつかって築き上げてゆく文化や社会なのであるから、いわば血液に相当す る「言葉」「京言葉」への配慮や注視を欠いた「京都学」では、魂が入るまいとわたしは慨嘆するのである。れっきとした京都で暮らしてきた京都人ほど、か えって、ここへ気がついてくれない。他国からの異人サンはもってまわった言い回しに悩まされているから気付いてはいるのだろうが、古典文学への素養がない とどうしても見逃してしまうのである。

* 「雁信」第一頁に、今日までのメールの印象深いものを整理して掲載した。「ディ アコノス=寒いテラス」へ纏まった感想のずいぶん多く来ていたことに、改めて感謝する。「e-文庫・湖」第二十頁には、「編輯者の弁」を最近分まで掲載し てある。

* 自転車で走ろうかと楽しみにしていたが、不快な暑苦しさに負け、冷房の部屋で器 械に向かっていた。気がかりな作業など少し片づいた。明日の晩は一週間ぶりに外へ出る。邦楽と囃子の会。
 

* 六月二十六日 火

* 昨日のうちにペン事務局長秋尾氏から、力石定一氏に宛て返事をしますと電話連絡 があった。晩に力石氏から電話が来て、ファックスでペンから返事が来ましたと。それによれば、来月理事会で再度検討することに致しますと言ったか、なって いますと言ったか、「門前払い」とはさすがに言えなかったようだ。理事会とは別に有志会員でもう一度話し合う機会を持たねばいけませんねと三好副会長に立 ち話で聞いていた趣旨か。小泉首相も「国立墓苑」に腰をあげるような報道が朝刊にみえていた。超党派での議員立法に動いている力石氏らの活動が実りつつあ るのならいいことだ。社民も自民もない、本質から考えねばならぬ事は考えねばならない、それだけのことだ。本質志向、それが哲学ではないのか。

* 『ディアコノス=寒いテラス』、感想が出尽くしたとは、決して思わないでくださ い。百人百様の想いがありましょう。ご返事申し上げずにはおれないたかぶりとあわせ、言葉を綴れないもどかしさがございます。言葉にしたとて詮無い、とい う気持ちもございます。
 一気に読んだあと、読後感をお寄せするとしたら、作者の万倍の言葉をもって批評・評論をモノすか、太田 道灌の故事を真似。。。。腰折れ一首を添えて、懸崖に咲く野の白百合一輪を手折り、「妙子」に差し出すしかないと思いました。されど、かの凛とした野の白 百合を誰が手折ることができましょう。それは、妙子こそが「野の白百合」にほかならないからです。あとは、妙子自身か、うちに「妙子」を寄生される人か、 あるいはディアコニッセとしての妙子を実感・体験しうる人が、ご返事申し上げるのが、一番いいと思いました。私には、この三条件をほぼ共有・所有している 非公開のプライヴァシーがあることだけを、こっそりお伝えしておきます。「マタイ伝6:5」にある、「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくど述 べてはならない」という一句が心境に近いともいえましょうか。
 「私語の刻」に紹介されたうちでは、文学としてとらえた感想にやや共感を覚えましたが、『親指のマリ ア』登場の不確定な前触れ・予言であろうとも、それは、いわゆる「事後予言」であるやも知れず、20年の刻を待って顕らかにした作者の秘密メッセージを、 作者の「文学思潮」として批評し、「作者の漂泊の旅路」を追跡しないのでは、片手落ちのような印象を持ちました。作者の万倍の言葉をもってしても、叶うか どうかは定かではありませんが。
 揚言すれば、誰もが、程度の差、自覚の差こそあれ、ひとしく、うちなるディアコノスとディアコニッセで 在るということではありましょうが、健常者対知的障害者、あるいは「差別問題」といった、ステロタイプ観念にはまりやすい、一方向の「奉仕」「被奉仕」で はなく、さわりがあっても、奉仕し奉仕される「あるがまま」にこそ、「人間」の業がある。いな、(とどのつまり)、妙子こそが「ディアコニッセ」、つまり 「親指のマリア」であろうか、という大疑問符付きの、私自身の、これまた、ステロタイプの自問自答ではあります。
 二十歳過ぎまで、自閉だの、足りないだの、変わり者だの、小学生の学力・国語力しかないと言われ続けて きた「うちの妙子」。どうしてか、過去、ただの一冊読破した?ヘッセの「車輪の下」がいいとだけ繰り返し、映画「べティブルー」「ポンヌフの恋人」やラン ボーの映画のことしか興味なかった「うちの妙子」。二十歳を過ぎて、ここ最近、小三国語ドリルから復習はじめ、英語を習いはじめ、猛烈に、太宰や、安吾、 ドストエフスキー、漱石、トリイ・へイデン、聖書や、なにやらかにやら、濫読しはじめ、あげく毎日、毎夜、私に、レゾンデテール、アイデンテティ、死と生 の対峙について、また、藝術とは何ぞや、という論戦をしかけてきてひるむことがない。「私の妙子」を受け止められれば、楽しき哉(セラヴィ)、また、教え られることが多い毎日でもあります。
 「文学」に何かを気づかされた、というのでしょうか。「文学」「創作」のもとより秘めたる力に、われ知 らず目覚めたのでしょうか。読むだけでなく、詩やらエッセイ、コラージュの絵日記やら、あかずモノしております。枕もとに詰まれた『湖の本』のことが気に なるようで、秦恒平に触れるいい機会と思い『ディアコノス=寒いテラス』をすすめると、機嫌よく一晩で読んだようで、感想を尋ねると「流れるような文体 で、すらすら読めた。面白かった」と言っておりました。
 「うちの妙子」は自称・隠れ切支丹でもあるようで、夜な夜な、前述の「マタイ伝6:5」の次の言葉を、 祈りの日課としております。なかば強制的に合掌につきあわされ、イエスの真実の言葉に最も近いとされるマタイ伝のロゴスが、何となく分るような気がしてま いりました。。。
「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天に行われると おり、地にも行われますように。私たちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をも お許しください。わたしたちを試みにあわせないで、悪しき者からお救いください。」(日本聖書協会・口語訳聖書)。
 「うちの妙子」が作中の「その後の妙子」であるような気もいたしております。H.13.6.26 一読 者より。

* 人生はまことに豊かである。

* 「三原誠」論ともいえる追悼の一文を「季節風」追悼号から戴こうと、発行責任者 の花村守隆氏に許可をもらったが、スキャンか効かない。雑誌用紙の裏頁が透け、それも読み込んでしまうのか、乱脈そのものに出てしまう。残念。

* 梅雨の晴れ間が真夏の熱暑なみで、ふうふう言っている。
 

* 六月二十六日 つづき

* 九段下、日刊工業ホールで、邦楽「自然会」の旗揚げ公演。望月太左衛を芯に、望 月太左彰、望月太左寛の三人同人で、太左衛さんの弟で家元の望月太左衛門ら大勢が参加していた。太左衛門とも挨拶、開演前の軽食まで食堂でご馳走になった のは恐縮であった。太左衛公演にはもう何度も何度も顔を出していて、高弟太左彰さんなど建日子の芝居にも来てもらっている。太左寛も笛の望月鏡子ももう藝 にはなじみで、今日の演奏は、太左衛のいつものように活気に溢れた藝をはじめ、すべて気合いに満ちてけっこうであった。
 家元出演の幕開き「寿式三番叟」は、後へ行くにつれて音曲じつに面白く、からだが自然に動いてしまうほ ど。
 次の「東都のひびき」は太左彰がばちを使い分けての太鼓が、とくに細いばちに変わっての祭囃子が小気味 よく、その次の「森林木」は太左衛が作曲、笛手附望月鏡子の笛が、いつもながら、じつに美しく、惚れ惚れとした。大鼓三つと大太鼓と笛の簡素ながら工夫の ある気のあった演奏で楽しんだ。
 最後の「四季の花里」は杵屋勘五郎作曲の名曲で、はなやかに自然味溢れた唄、三味線、囃子のおおらかな 合奏。からだが反応して困るほど曲想のおもしろさに惹かれた。楽しんだ。「楽しんだよ」と太左衛さんに挨拶して会場を出たものの、九段下はあまり慣れてい ないので、やみくもにタクシーに乗り、日比谷へ。クラブでブラントンと角のステーキをやりながら、国語国文学会シンポジウムのゲラに目を通した。帰りの電 車でも仕事を続けて、みな仕上げてしまった。元気に、思い切ってわたしは話していたようだ、これなら、いいだろう。仕事も出来、能率のいい楽しい外出で あった。

* 帰ったら、外務委員会で田中真紀子が、やられているような、やり返しているよう な。敵も多くて味方もたくさんな、まさに国会のスターである。小泉首相も田中真紀子も群れて歩かないのが、限界でもあるが、最大の魅力でも。群れて歩かな いとどこかで損ばかりするのは、わたしの痛いほどよく知っているところだが、それでも群れたくはない、わたしは。群れて如才ないゴマスリ男社会ほど不快な 場所はない。
 

* 六月二十七日 水

* 国立墓苑がかなり国会周辺でも広い範囲の話題になってきた。力石氏らの「動き」 が具体的に成果を兆しはじめている。超党派的に議員たちに働きかけて行くと聞いていた。ものの成って行くツボのようなところを押さえているのだろう。前回 理事会で猪瀬直樹氏は、ペンクラブはあまり「政治的なことに手を出すのは控えよう」と発言し、わたしは「それはおかしい。諫早問題でも、われわれ言論表現 委員会のやってきた盗聴法反対でも、個人情報保護法に抵抗するのも、ペンが核問題に原則反対するのも、みな政治的に平和や人権や環境を犯すものへの抗議で はないか。内閣や首相の靖国参拝にも明らかな平和違乱に絡んだ問題性はある」と抗議した。行動と発言とにマットウな一貫性があるなら、すんなり理解できそ うなものだが。
 わたしはペン総会で、諫早諫早と声高に、もう過ぎた功を自慢してばかりいないで、今緊急には「京都議定 書」問題に憂慮し声をあげるべきではないかとフロアから発言した。理事会でも言っている、が、執行部も環境委員会も腰が重く、先送りを続けている。その場 その場の思いつきで動けばいいのでなく、問題の軽重や大小をはかりながら適切に計らわないと、もぐらの頭叩きのようにやりきれなくなってしまうのである。 力石氏たちの、ことさらに日本ペンクラブの影響力に頼まれた要望に対し、少しの手直しで済んだのだから、あの日に話を決めて欲しかったと、わたしは今でも 思う。なしくずしにまた先細り消え失せてしまう話題の一つにしてしまいたくない。

* 毎日、ポレミックなご発言を読ませていただいております。先端情報としても、と ても有難いものです。(国際討議の)英訳文も拝見しました。タイトル(Publishing without Publisher)はうまい訳だと思いました。秦さんのように、本丸がしっかりしていて、なお、攻めにも転じられるような若い力があれば、と思います。
 昨日の私語で、「群れを好まず」というご発言は、同感です。私もそういう生き方をしてきたつもりです。
 ふと、群雀のこと、ひばりのこと、カラスのことが頭をよぎりました。
 いま、朝6時ころ。ハシブト鴉の胴間声に、今朝の異変は感じておりません。チュンチュン雀の百羽、千 羽。高く高くひとり天まで上る「ひばり」。東京の鴉(ハシブト、ハシボソ合わせ)は、15年前は数千、いまは、二万羽弱ほどとか。衆寡を敵せず、一千万の ニンゲンどもに臆せず、堂々と戦う鴉は「アッパレ」ではないでしょうか。何らかの数のサポートは欠かせないものの、徒党を組まない「独立自尊」の強い生き 方でこそ真のリーダーシップが発揮されるでしょう。都会の鴉がそうであるかどうかはともかく、私は、数種の声音の使い分けで、ときおり、きらわれ鴉と交信 しておりますが、あの胴間声だけで、東都ネットワークを仕切れるのですから、インターネット網どころの話ではないと思います。「一声、数里」やがて万里と なりましょう。鴉は海を渡りませんが、渡り専門の鳥仲間は多くおります。”Free as a bird".

* 秦さま。先日の「私語の刻」にあった、某出版社からの依頼の「京都学企画」に 「京言葉」への視点が欠けていた、うんぬんは、同感です。少なくとも、秦さまのこしかたの大半と大方の創作(推察)が、「京ことば」へのこだわりの延長線 上にあるからだと思います。こだわりは、うらやましくもあります。
 私は、幼児時の疎開体験、トータル2年間ほどの外国旅行・移動時間をのぞけば、ほぼ東京的な言葉のみ。 あげく、ものたらず、ポリリングイスティックな、ごちゃまぜのコトタマとなりました。元は、関西風と名古屋弁あたりがルーツらしいのですが。
 あらえびす、にも、「みやび」とは違う鄙びの趣があります。そういったことを含めて、ごちゃまぜの言語 生活(=ニンゲン生活)に、つい三十年前には、日本のいたるところで生き生きとしていた伝統的な「方言」文化(書きことばにも通じる)が、いつのまにか、 迷子になったことが、大問題かも知れませんね。みんなが、横並びの「標準語=普通語(プートンホア)」「TVことば」「ネットことば」「グローバル・アメ リカ英語化ことば」になっていくのは、空恐ろしくもあります。いかに、いまの「ことば」こそが、いまの「言語文化」であると受容しても。
 「ことば」はまず、「話しことば」が元。文藝の世界でも、しかり。好みの問題もありますが、言文一致に こそ、楽しみを見出せるというものです。昨夜は、久しぶりに、対訳「ロミオとジュリエット」をめくりました。何と、話ことばが、時代の方言が息づいている ことか。
 こだわりを持ちつづけてください。秦さんしか書けない「はなしことば」のような「はんなりe-文藝」を 期待しております。一ファンより。

* こういう中身の濃いメールを、こう紹介させてもらうのは、この「場」を介して、 わたし独りの「私語」でない私語の輪もひろげて良いと思うから。こういう声との交信の中に、わたしの「文学と生活」はあり、また「場」の厚みも生まれてく る。賛成だけでなく、反対の声も届いてくれば、それなりに反応したい。議論もしたい。根底の処では、表層の「暮らし」わざである。それだけを大事にしてい るわけではない。根底をいつも感じているから、表層でも活溌でありたい、そういうことである、ネットの日々とは。

* 『山の音』読み終えた。ゆっくり、聴き込むように読んだ。信吾との年齢の近づい てきたこともあり、肌にふれてくる言語的感触は、高校大学の頃とは比べものにならない理解の波動がある。濃厚である、この世界は。『千羽鶴』のように巧ん だ濃厚とは見せない文藝に、魅力がある。恐れ入った。
 それにしても神経質な文学である。折りを同じに「反橋」という短編、著名な短編も読んだ。これには特別 感心しなかった。おなじく話題をいろいろに古典に迎えて背後を成していても、谷崎の「小野篁妹に恋する事」のおおらかに腹のふとい文学作品に比べると、神 経質で繊弱な感傷の毒を川端はみずからあまりに多く嚥下している。二つを、音読してみたが、これは比べものにならない。谷崎作品は、声にして一点一画にい たるまで滞りなく嬉しく嬉しく朗読できて、生理的な快通感覚は底知れぬものがある。名文とはこれだなあと驚く。川端康成のそれは音読していても息が切れそ うにひ弱い。

* 石川淳先生の「前身」は、戯作のタッチとはいえ、毒気は意外と浅く薄くて、文学 的な感銘には手の届かないものであった。中山義秀の「月魄」も佐藤春夫の「戦国佐久」なみに仰々しいけれど、いかにもこなれない料理を食った感じであっ た。古典「浜松中納言物語」の一章一節をウマイものを咀嚼するようにゆっくり読み進めるよろしさには、はるかに及ばない。佐藤や中山の上の作のような口調 がいやなのではない、が、さすがに鴎外の史伝や露伴の名文のようには自然に言葉が流露していないのだから仕方がない。作者が感動して書いていない、資料を 操作しているという感じなのだ、中山のなど、小マシな方かも知れないが物足りない。

* 森秀樹氏の「至宝『阿蜜哩多軍荼利法』の行方」を一読以来興味深いものと記憶し てきた。「e-文庫・湖」第四頁に掲載させて戴いた。仏教史からも、森鴎外研究の一面からも、しかるべきフォローの欲しい、ぜひ欲しい提言がここに在る。
 また秦澄美枝さんの「和歌にみる定家と式子内親王」を第三頁に同じく掲載した。秦さんはペンクラブ会員 であり、同姓だが特別の縁はない。いわば在野の国文学研究者であるが和歌への検討は深く、優れた論考論文を幾つも発表されている。清泉女子大学で教鞭を とっていたころの、大学内での学生に対するセクハラ問題を痛烈に告発した著書『魂の殺人』もある。
 

* 六月二十七日 つづき

* ペンの同僚理事森詠氏から電話、推理作家協会が実施した電子出版に関するアン ケート資料をファックスで送ってもらった。見ると、大手の出版社あてに質問を発してあり、予想できたような解答がほぼ並んでいて、新味はとくに無かった。 会員の関心は高いに違いない。しかし、この問題は出版社、それも在来の紙の本の出版社に尋ねてみても、ほんとうは仕方が無いというか、少なくも書き手のた めにはならない。印税一つをとっても各社「15%」とか「企業秘密」とか答えている。
 今はそういう話をお伺いしている時機でなく、積極的に書き手の方から、著作者の方から、斯く在るべしと 言う姿勢や要望を作り上げてゆくのが必要なチャンスなのだ。われわれの電メ研が制作した「電子出版契約」パンフレットに則りながら、より優れた内容のもの に著作者が自ら作り上げてゆかなければ、時勢に処するを大きく過ってしまう。出版社に聞くのも一つの前提だが、前提のまま、そんなものですかと納得してし まってはいけないだろう。紙の本と電子の本とは「性質を異にしたまったくの別物」という認識から意識的に一歩二歩を前へ踏み出し、強い姿勢で、著作者の権 益をもうこれ以上は見失わないための対策を、つよい意志を持たねばならない時代だ。電子本は、その気になれば自分でつくり自分で優に売り出すことも不可能 ではないのだから。発想の転換期なのである、今は。

* ogenkidesuka?
France no tabikara modottekimashita. France deha ju-suukasho no kyoukai wo otozure subarashii tokiwo sugoshimashita.
Europe ha vacance season ga hajimatte umiya yamano resort chi ha dokomo ippaidesu. atsuinode ie de yukkurishite karadawo yasumerunoga ichiban no zeitakudesu. taisetsuni

* ウイーンから甥の猛も帰ってきているらしく、昨日留守に、京都から電話があった とか。
 
 

* 六月二十八日 木

* 日のあるうち仕事をして、夕方から麹町の文春南館へ。文藝家協会の知的所有権委 員会と流通問題委員会との合同で、ブックオフ問題と図書館問題を二時間話し合ってきた。出久根達郎氏と初対面であったことだけが収穫、議論は、半端で浅い ものに終始した。

* ブックオフ問題では、文藝家協会が、ブックオフに対し正面切って言える何かが、 無条件に有ろうとは、いま、私には思われない。あれだけの新品同様の商品=本が、いったい、どこから提供されているのか、本当に読者が売りに来た本だけな のか。そういう根本の物流にも十分な調査が出来ていないのではないか、我々は。もし万が一、読者ならぬ「根」の企業から商品が横流れしていたりしたものな ら、別の大きな事件なのである。憶測に過ぎないのでこの疑いに拘泥はしたくない。もし、そうではなく、読者からの売り物だけを安く買いたたいて安く売って いるのだとすれば、信じられない売り買いの部数だ。
 そして、問題点は、こういうことになる、著作者は、少なくとも第一次印税なり稿料はすでに版元から受け ている、と。従ってまるまるの著作権侵害ではなく、二次三次多次の読書に対してその分の著作権料を支払えという要請を起こすことになる。これは、趣旨とし ては一応成り立つので、希望するのは自由だし、不可能でもない、が、日本の感覚ではかなり今のところ無理でもある。買い手からすれば、金は払ってあるぞ、 従来の古書店でもやっているではないか、と。新古書店と従来の古書店とはどう違うのか、と。
 古書店で、自著が数冊纏めて数十万円で売られていた体験をわたしはしている、が、だからその古書店に対 し、幾らかよこせとは言ってこなかった。まして、はるかに廉価で売られているブックオフに対し、どう二次三次の読書代金を請求するのか、技術的な難問もあ る。ブックオフのあのシステムだと、もし本に目印をつけておけば分かるかも知れない、ぐるぐるぐるぐると何十回も回転する本もあるだろう、が、その行方や 回数を誰がどうフォローするのか。
 出版ないし印刷から不幸にして大量に横流しされていたりすれば、それは法にも照らして弁償や請求先が ハッキリしてくるが、その場合は相手がブックオフではあるまい。そういう不愉快な事実はたぶん有るまいと信じたい、とすれば、一度は買われ売れた本が、そ の後に何度も「読まれる」ことに対し、その一度ずつに著作権料を支払えとは、言うだけは言えるけれど、どう代金を徴収するのか、その辺も主張者に聴きたい ものだ。しかも、この世間では、本が何度も読まれるのはけっこうではないか、印税はもう受け取っているではないか、厚かましいのではないか、という議論 も、常識的な世論として出てくるのは必至であり、プロの書き手の中にも、そういう声のあるのをすでにわたしは聴いている。
 ブックオフに対して言う手はどうも無さそうだ、だから、もとの「出版社」に対して言おうではないかと、 吉目木晴彦は言うていたが、なんだか、これもピンとこない筋違いなおかしな話だ。出版社は被害者の席にもう座っているようなものだから。
 で、甚だ漠とはしているが、「著作権」というものを、もっと世間の人々よ考えて欲しいと「キャンペー ン」する程度の動き方しか、具体的には出来にくいという結論に近づくのだった。それでいいように思う。法的にブックオフを決めつけるのは無理だ、現行法で は。日本ペンクラブの憂慮声明など、先走って足元の調査不足だったというわたしの考えは変わらない。
 要するに著作権について、著作者がいちばん無知でのんきであった、これまでは。そのツケがまわってきて アタフタしているのだ、これでは損する損する、と。
 法改正なり法整備なりへ専門家も共に、文筆家団体が手を携えて動くべきなのだが、たとえば幾度言っても 文藝家協会にはペンクラブと手を組んで動こうという姿勢が感じられない。ペンの方でもまだまだ希薄だ。新世紀のこの時節に、愚かしいことではないかと嘆か れる。その上に、議論がまだ「紙の本」サマサマで、ただ延長線上に電子の本を見ているとも、未だいっこう見えていないとも。本の性質として、これは全く別 物だということがよく分かっていない。著作権といっても、「本」というからは同じだろう、同じ著作権だぐらいに誤解していかねないのだ、危うい話である。

* ついで図書館への不満が縷々語られた、が、これまた、議論の腰が据わっていな い。もっと図書館の現実について具体的な調査や、図書館側との意見交換が必要なのに、図書館事情は聴くにも及ばず、ともあれ、文藝家協会の中で会員相互に ゆっくり議論して行こうと。つまり何もしないという意味だ、これは。
 そもそも、一度売れた本を、何人の利用者が読もうとも、本とは、図書館というのは、そういうものだとの 「世論」に本気で立ち向かう気なら、よほどの理論武装が無くては済むまいし、なにより当の図書館との意見交換を誠実に交してかかるのが、筋であろう。ス エーデンのように、図書館が本を貸しだすつど、些少でも公が著作者に補償費を支払うような制度化をするのこそ大事な問題だが、今の日本で、図書館で、同じ 本が何度も何度も無料で読まれるのが著作権侵害であるなどと言い募ってみて、どれだけの人が耳を貸すか、言うてみても始まらないだろう。読んでくださって 有り難うと思う著作者も有るだろう、図書館で本を置いてくれるだけでも嬉しい著作者もいるだろう。軽薄本がやたら多く図書館で買われている、こんなことで いいのかと中沢けいは憤懣やるかたないようであったが、では、どうしたいのか、何を世論の前にどう言いたいのか、憤懣だけの無策では話にならない、そうい うのを観念論というのである。何かを事として起こすのなら、筋道と手法と案とが必要なのに、それは今からじっくり二三年かけてなどという議論では、議論が はなから存在していないのと同じ事である。戦略とは具体的なものでなければ、愚痴に過ぎない。
 図書館は変わって行くだろう、変わらずにおれない瀬戸際に来ている。どの図書館にも佳い本を揃えるべき だというのは、希望としてはいいが、「佳い本」とは何かの議論も難儀を極める。その上にどの図書館でも本の物理的な量に喘いでいる。いやでも「電子図書館 化」は進められるだろう、そうなる時節には、何冊問題は立ち消えに近くなる。これは夢物語ではない。
 わたしは、図書館問題に深く関わるためには、図書館の実情や意識を、また未来像を、図書館関係者にもよ く問いかけ、こっちの意見も希望も言い相手の話も聴くということから、始めるべきだと考える。我田引水ではいけないのだが、著作権問題がやっと頭に入って きたとたん、物書きたちが権利権利、損損とばかりでは、なんだか品がなくて顔が見たくなる。全国図書館協議会へ、オンラインで意見投稿してゆくようなとこ ろからならでも、柔らかに始められるだろうに、すぐにでも出来る事だろうに。それなのに、そんなのは効果がない、むしろ協会の中だけで、会員同士ゆっくり ここ当分は時間をかけて話し合い、意見も出してもらい、と。つまり、またまた問題ののんきな先送りでしかない。
 本当に緊急の大事なら、会議ももっと重ねるしかないのだが、夏八月はともあれお休みして、と。そんなこ とで、何か物事がぱっちりはじけてくるということは、ま、無いものだ。今日の会議も、また、時間つぶしに近かった。

* 文春のまえの「トライアングル」に寄り、おそい夕食をしながら、角田文衛さんの 本を夢中で読んだ。会議のつまらなさを忘れ果てるには、角田史学は刺激に富み夢中になれる。本を持って出ていてよかった。助かった。ただ、「トライアング ル」という店の、一階であったが、店内がひどく騒がしく、暑かったのには、閉口。店主は善人だが、若い女客たちへの愛想の振り巻き方がやたら騒々しく軽薄 で、これには辟易し閉口した。落ち着いた食事にならないのでは、うまい食べ物も台無しになる。
 そして帰宅して知った、今日、ジャック・レモンが死んだと。質的な喪失感の深さ寂しさは、あんな「会 議」の軽さ薄さを、突き飛ばしてしまう。やがて「順番」がまわってくるのだ、ブックオフが何だというのだ、老人は、根のところではそう思っている。

* 七時のニュースで、ジャック レモンの訃報を。
 昨日の「私語」メールによると、お腹をユサユサと揺らして大笑いしたとか。観ていない映画で、ビデオに 撮り忘れて、残念に想っていたところでした。
 面白くて、ペーソスのある映画で、楽しませてくれた、好きな俳優さん、寂しいですね。「お暑いのが、お 好き」「アパートの鍵貸します」なんて、名作でしたね。

* 残念無念。ほんとにいい俳優で、喜劇と限らなかった。ジェーン・フォンダと演じ た「チャイナ・シンドローム」もいい映画だった。「アパートの鍵貸します」はシャーリー・マクレーンとの競演で、思わず最後は拍手したものです。
 わたしの知る限り喜劇映画俳優として最高だった。いつも安心して見られた。
 だんだん寂しくなり、やがて自分の番が来る。来るまでは元気でいたいね。いやなじいちゃんであっても ね。

* 以前の学生が、湖の本十五年にと、二万円も送金してきてくれ、胸をつかれて、感 謝も感謝だが、それよりも驚いた。感謝した。
 同じ今日、もう一人のもとの学生も、続けて読みたいとわざわざ言ってきた。読んでくれるだけで嬉しいと わたしは思う。大学にいる間には、わたしは一冊といえども学生に自著を売らなかった、自分では。上げてばっかり、いた。著作権者として風上には置けないよ うだ。
 

* 六月二十九日 金

* 梅雨の晴れ間がながい。有り難いのか、どうか。黄金色した朝日を窓の外に感じて いると、祇園会のもう近いことを懐かしく思い起こす。神輿の渡御、鉾の巡幸。コンコンチキチン。
 京都へ帰って住もうとは考えないが、帰山の情はあつい。現実に身を動かさなくてもほぼ自在に帰って行け る時空があり、自在に逢える多くの人々がいる。多くは故人であり、さらに多くは架空の人々でもあるが、リアリティーはいささかも異ならない。

* 身をせめるという物言いがある。芭蕉などが用いている。わたしの場合、このよう にして私生活を、内心の思いを、かなり素裸に曝すことで身をせめている。とても疲れる行為で、ここまでやると、ごまかしが利かない。「闇」という公開の世 界にこう自身を曝し続けることを、甘いラクなことだと思える人は、やってみるがいい。
  なぜ、こんなことをしているのだろうと、我から問うていることもある。よく、ある。
 意識して今を生きたい、バグワンの教えてくれるように。しかも為している行為の一つ一つに意義を求めた り置いたりはすまいと思う。どんな大事なことも、大事ではないのだ、それが根底にある。べつに何もわたしはしていないのだ。して、しないでいるのだ。しな いで、しているが、それは、していないのだ。意識して生きているが、価値判断もしているが、しかし意識も価値判断もどうでもいいことと、根で見捨ててい る。死ぬまで、平然と、生きたい。

* 気がかりだった原稿を、明日締め切りに滑り込むように送稿した。フィレンツェか ら、雨ですとメール。
 

 * 六月三十日 土

* 新世紀の半年が駆け足で過ぎた。さしたる何事もなく、通算六十七巻を整備し、電 子版「湖の本」として掲載した。蒸し暑い。通算六十八巻の用意に取りかかる。

* 昨日力石定一氏から電話があった。真珠湾奇襲でのアメリカ側死者の数も千鳥が淵 戦没者墓苑では数えられてあると。議員立法でなく、内閣が動き出す見込みであり、保守派議員に斟酌の必要がなくなれば、例の「天皇と内閣」参拝といった文 言ははずしていいことになりそうです、と。小泉首相は今日アーリントン墓地に特に参拝している。お返しに靖国に参ったら良かろうなどとは言えまいから、外 国首脳にも足を運んでもらえる国立戦没者慰霊苑が必要とは彼も現実に納得したことだろう。公明党も動き始めていると新聞は報じている。
 わたしがこの問題にこの「私語」で以下のように書いたのは、きっちり一ヶ月前の五月末日であった。

* (五月三十一日) 木島始氏がもう半世紀近く前にハンセン氏病の患者たちの文藝 創作集『跫音』に寄せられた跋文も、同じく第四頁に掲載した。小泉首相のよき政治判断にいたる久しく久しい時間の意義にも思い至る、歴史的な証言の一つと 言えよう。
 その小泉首相の「八月十五日靖国神社参拝」敢行の宣言には、だが、断じて承伏しない。「八月十五日」で ある必要が、ともあれ、理解できない。ことさらに「靖国神社」にこだわる意義が、のみこめない。
 前者については、たとえば常の日に、物静かに謙遜に行けばすむことである。言揚げして、へたな役者が花 道をミエよく踏みたがるような真似は、児戯に類する。
 靖国神社は、明らかに「軍国日本」の一つの抱き柱、抱かせ柱、であったし、今も脱色・脱臭は全くといえ るほど出来ていない。しかも戦死者のすべてが祀られているわけでなく、かえって日本とアジアとに危害をもたらしたと言うしかない最高責任者を合祀して参拝 を国民に強いている。小泉氏の「感謝の気持ち」を言う言葉は空疎で、危うい底意が露出しているようにとれてしまう。
 わたしは思う、靖国神社を避けて「千鳥が淵の霊園」にだけ参拝してくれれば、彼の言説も意図もそれで適 うのではないのかと。命日の墓参りぐらいの気分でなら、明らかに「千鳥が淵戦没者霊園」の方がふさわしい。わたしは願う、靖国神社の英霊たちも、いっそ、 こちらへ大規模に祀り移して、靖国神社という難儀な場所は、何らかの名目と形で「祭り上げ・棚上げ」してしまうのを考慮せよ、と。その方が国益ではないの か。
 わたしは、これを、中国やその他の干渉的言辞に影響されて言うのではない。高度に新世紀的な政治判断か らすれば、軍国臭の靖国思想は後ろ向きに詭弁の危険に満ちていて、むしろ兵士たちと戦争被害者たちとの象徴的な霊園=精神的墓地として、「千鳥が淵霊園」 を「国民の墓」として尊重して行く方が遙かに良いと思うのである。「墓参」をとがめる理由はあるまい。「神社の神」にして祀るというのは、キナくさく政治 的に過ぎるのである。もう「神」の名をもてあそぶ悪習は絶つべきで、小泉首相は、そこへこそ英断すべきなのに。

* 木島さんとお仲間の蝋山道雄、力石定一氏ら三人が「千鳥が淵」提案で日本ペンク ラブに協力を要望したいがと、わたしの処へ電話やファックスで相談してこられたのが、六月十日前後だったろうか、わたしは直ぐ事務局と執行部にこれを仲介 し、理事会議題として提案したが、十五日理事会は、「この三人は社民系でだめだよ、そんなのに乗れるものではない」などと、梅原会長らのまことに理屈にも 成らぬ理屈で「協力要請」を玄関払いし、返事すらつい近日わたしから催促するまで放置という非常識をしていた。返事には、しかも「次回に審議します」など と間抜けたウソ同然を答えたという。その間に、ことはかなり急ピッチに内閣各党の間で動いてきた。力石氏らの働きかけが奏功してきたのであり、それは木島 さんからも伺っていた。物事の動くときは、こういう少数の知性と誠意と尽力でも動くのだ。「この三人は社民系だ、社民系はダメだ、そんなのに乗せられちゃ いかん」などとは、恥ずかしい、みっともない限りであった。

* なんと城景都氏から「お中元」に蟹缶詰が送られてきたのには、驚いた。恐縮もす るが、ビックリというのが本音。この「湖の本」表紙繪の画家とは、なかなか連絡が取れず、送った本も宛先不明で返送されてきたことが何度もある。わたしの 方の手違いばかりでもないのではないか、十五年間に再々そういう郵便の停滞は繰り返され、諦めかけていたほどだ。そこへ、城さんの方から贈り物で、妻と、 感謝は感謝、仰天もした。城さんのあの繪をえらんで希望したのはわたしだが、あの繪だから『湖の本』は永く人に愛されたと想う。黒一色の鮮鋭で優美な線の 魅力、ロマン。わたしは、いつでも、最良の選択であったと自負し感謝している。