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  宗遠日乗

 
     平成十二年(西紀2000年)九月一日より大晦日まで。

 
 

  宗遠日乗「六」

     私 語の刻―闇に言い置く

 
 
 
* 平成十二年 (2000)九月一日 金

* 午後、「湖(うみ)の本」通算大六十四巻『早春』の発送を、九分九厘 終えた。予定通りにほぼ八月中に終え得て、よかった。

* 夕方から「スペインを歌う」谷めぐみソプラノ独唱会に、半蔵門のFM 東京へ。会場に入る前に、久しい読者の山本道子さんがやっている、粋なレストラン「DOKAN」で、スパイスのよく利いた、豆を煮込みのチリとパンを食べ ていった。妻は初めて入る店で、味の良さに驚いていた。濃厚なのに、後味が、さらっと深い。コーヒーも旨かった。山本さん夫妻でやっているこのお店は、こ ぢんまりと洒落ていて清潔。徹して西洋の家庭料理を探究している彼女らの、完成された実験実践場でもある。本家本元はケーキで名高い老舗。
 山本さんとは、十数年も昔に「フードピア金澤」で初めて逢った。数十人の講師 をそれぞれ、いろんな料亭やレストランで囲んで全国からの「食」の客が、味と談話とを楽しむ大きなイベントだった。山本さんもわたしも、講師役で出かけて いた。ちょっと類のないすかっとした魅力の人で、「悲しみよこんにちは」のジーン・セバーグを健全に健康にしたような、爽やかさ。
 湖の本を始めると、すぐ、応援してくれた。有り難かった。以来、十冊分ずつぐ らい先払いして、ずうっと継続講読して貰ってきた。
 ほんとに、いろんな人に助けられている、わたしの「湖の本」は。

* 谷めぐみの独唱会は、十六年も続いていて、今夜で、最期。わたしたち は、数年前から誘われ聴きにいっていた。誘ってくれた事務方の芯の人が、また「湖の本」最初からの多部数読者で、多いときは一ダースの継続講読者をとりま とめて貰っていた。その人を以前から知っていたのではない、刊行を始めた最初からの講読申し込みの人であった。鰻の宮川本廛と縁のあるらしい人で、宮川で つかっているという「龍刀」という独特の旨い酒と肴とを、毎年もらい続けてきた。旨いのだ、酒も。諏訪湖の飴煮の肴も。

* 谷めぐみは、ハートの温かい、ソフトな佳い歌手である。マドリッドで 音楽を学んで、スペインの歌を、「花」のように愛して歌い続けてきた。二時間たらずを、静かに華やいだ興奮の内に過ごした。
 半蔵門、麹町の晩景は、比較的落ち着いていて、なによりも有楽町線の便宜があ り、さほど疲れることなく、今宵が楽しめた。

* 月も見なくて。
 湖の本の発送作業を夜中までなさっていたのですね。毎号、毎号のことですけれ ど、先生がそうした作業までなさっていらっしやることをおもいますと、何か、胸のつまるおもいがいたします。
 気がつきましたら、幾日もお月さまを見ていません。寝る前にベランダに出て空 をながめますと、天心に冴えていたり、西のほうに黄の勝ったほそい月がかかっていたりしますのに。昼の月も夕月も見ていない──。
 おもしろがって買いました陰暦のカレンダーを見ますと、今日、いえ、昨日は葉 月三日、三日月の夜でした。折り悪しく降りみ降らずみの夜でございました。
 けれど、幾日も幾日も空を眺めなかったのかと、心の荒れようをおもったりいた しました。
 二十六日の、東工大「教室での肉声の正確な記録」、ちょっと長く、ディスプレ イで読むのがつらかったので、縦書きにプリントさせていただいて、読みました。先生のこれらのご質問に、わたくしだったら、どう、ご返事申しあげるかなど と考えながら。
 この「マルちゃん」という青年のみずみずしくすこやかに考え方、ものの見方 に、快い刺戟を受けました。いつでしたか、やはり、教え子でいらした方のメールを「ビタミン」と、おっしゃってでしたけれど、このお教室の記録、わたくし には、「ビタミン」にしては、ちょっと、きつうございました。まばゆうございました。
 『落窪物語』を読みましたとき、ちょっと猥雑な気がいたしました。露骨でいや だとも、おもいました。読み手が若かったせいでございましょうか。
 いま、おもいますと「あこぎ」は、しっかり者のよい家刀自になったろうという 気がいたします。読み返してみようとおもいます。
 『落窪物語』に限らず、一応、読むには読んでも、読めていない作品の多いこ と。『源氏物語』もそうですし、『夜の寝覚』もそうでした。ドストエフスキイもそうでございましょう。でも、「カラマゾフ」など、ちょっと、手が出ませ ん。怖くて。
 先生のご著書も、以前、読んだとき、どこを何を読んでいたのかと、愕然とした ことがございます。読み手としての自分が問われている、そうおもうことが、よくあります。
 あとさきなく、おもいつくままにキイを打っていて、おもわぬ長手紙になってし まいました。
 肩に寄りくる亡きひとたちのためにも、読み始めました『金島書』を読むことに いたしましょう。今夜は佐渡上陸のところでございます。

* ここでは、行アキの風情を殺して書き写しているので、申し訳ないが、 こういうふうに「あとさきなく」みえても、自然な流露感で伝えうるメールが、十分可能なのである。わたしは、「メール」の文章が、表現が、どのようにあり 得るかに関心があり、電メ研のアンケートにもそういう設問を試みたが、簡略と粗略の可能性だけでなく、器械の無機質に屈しないしなやかな表現も十分出来る と感じている。
 
* 「マルちゃん」たち、新婚旅行の最中かな。幸せにと祈っている。

   
* 九月二日 土

* 溶けてしまいそうな暑さだった。暑い盛りに出て、池袋さくらやで、 OCRの、性能のよくなっているらしいe-typist のヴァージョンアップ・ソフトと、インクジェットの性能のいい、早い、米国製のヒューレットプリンタを買い、提げて帰った。保谷駅からタクシーに乗ろうか と思ったが、運動代わりにと、重いブリンタを右手に提げ左手に持ち替えしながら、炎天下を、千四百歩歩いて帰った。しかし、目指した二つとも手に入りよ かった。

* プリンタは玄関に投げ出したまま箱も開けていない。晩、OCRソフト を器械に入れ、試行錯誤の連続で数時間、疲労困憊。およその見当が付いたし、たしかに前のより日本語認識の精度がいい。いちばん頭に来るのは、本を見開き でスキャンし、認識させ、名前を付けて保存するまではいいが、同じことを次の頁でやって、前頁つづきに「追加保存」しようとしても、繋がってくれない。 「追加保存」という項目があるのだから、やってみるのだが、追加されずに前頁分が消え失せてあとの頁しか残らない。
 前のヴァージョンでもさんざん同じことで無駄骨を折り続けたのだが、今度の は、もっとやりにくい。たぶんわたしの操作ミスだろうが、マニュアルにも、その辺の痒いところに手の届く手引きが無い。一回一回ファイル名を付け替えて、 「ワード」の画面で追加貼り込みをやるものだから、なんとも能率が悪い。そのうち眼から鱗が落ちることだろうと望みをかけている。

* エプソンのプリンタは、用紙を多くさし込みすぎたのが悪かった。器械 の奥の方で、用紙を送るバーの一本がはずれ、空回りか何かしているようだ。
 買い置きのロアカセットを器械の下にセットしてみたが、今度は、それがセット 不十分らしく、作動してくれない。カセットは本体と別に独自に用紙を取り込む設備になっているのだから、セツトさえうまく行けばそっちで印刷できると皮算 用したが、目下は成功しない。大学にいたもう六年ほど昔のレーザープリンタで、設定が難しく手に負えない。
 買ってきた新しいプリンタがうまく繋がって呉れるといいが。

* 『早春』は、もう本が届いての郵便やメールが読者から届いている。 OCRを具体的に教えてもらった千葉の、同年の勝田さんは、湖の本エッセイを全冊揃えて買って下さった。ご厚意に恐縮し、深く感謝。いただいたメールが愉 快に面白く、お許し願ってご披露したい。

* 「湖の本」44 『早春・京のちえ』 いただきました。月曜日郵便局 が始まったら送金いたします。
 ハードもソフトも、壊れると、パソコンオジサンはほんとに困ります。やたらに 多い線をはずし、机をずらし(わたしは炬燵ですが)、挙句モニタなどは持ち上がりません。つなぐのはもっと面倒で・・お察しします。ご健闘をお祈りしてい ます。
  > いつか、どこかで・・
 お心にかけて戴き恐縮です。お会いできるなんて夢のようです。
 実は、書き言葉とちがって、話し言葉になると、江戸弁と相州駿州あたりの 「・・づらぁ」と千葉の「・・そうだっぺよ」とそれから秋田の「んだ、んだ」と(学生、インターン時代に国立秋田療養所に行ってたことがあります)まぜこ ぜになったままで、われながら「ほんとに、きったねぇ、(品)しんのねぇ物言いだなぁ」と恥じています。
 「ほんまのことは言わんでもええの。言わんでも分かる人にはわかるのん。分か らん人には、なんぼ言うても分からへんのえ。」なんて聞くと、「やっぱし、都のしとはちがうなぁ」と思います。ここのところ、秦さんの本を読んで、「どう だべか、ちったぁじょうしんになれたべか」なんて思ってます。本日の自己紹介は「このぐれぇ」で失礼します。
 ご多忙拝察、お大事にしてください。くれぐれもお大事にしてください。

* 嬉しくなってしまう。京都の秦恒夫さんとも、まだ一度も逢わないま ま、親類のような気分で、わたしはいる。親類のような人が、いっぱいいる安らかさは、得難いものである。ほんものの親類よりも遙かに佳いのである。

* 今日のうちに、二度メールをもらった、新しくて古ぅい読者もいる。そ の人のメールも興趣に富んで、不思議の深みもある。

* 新刊の『早春』に、いっぱい「彼女」がいて呆れている、羨ましい、と いうメールも女友だちからきた。わたしには「彼女」なんていう人はいない。男女を問わず一人一人が一人の人である。

 作品の主人公と同名の人から、こんな嬉しいメールももらっている。「彼 氏」で はない、一人の有り難い友である。申し訳ないが、涼しやかな雅懐に触れてもらいたい。

* 『湖の本・早春・京のちえ』ご恵贈たまわり有難うございます。連作、 強記博覧。。。畏れ入ります。
 ところで、小生の兄は直樹、私の名(秀樹)のいわれは、中支より父が「森の木 よいよよ秀でよすくすくと。。。。」と和歌に遺したもので(無事復員しましたが)、いねではなく、杉の伸びるさまをイメージしたようです。ちなみに亡父の 名は佐平。官名・兵衛の名残がわずかに残るような時代でもありました。。。。
 暑さにはまいりました。心頭滅却するより、つい生ビールか冷酒のほうへ。。。 秦さんも少しはやれるようにご本復されましたでしょうか?
 今夏は、「伝西行筆、新古今集切、一巻」(未詳歌切れに酷似の手になる)ひょ んなことで、入手、所蔵できしました。しばらくお休みしていた、K博士主宰の「古筆友の会」にも再入会しましたので、自分でも少し勉強して、それから、鑑 てもらおうかと思っております。
 西行、俊成、定家のことについて本を少しめくっております。秦さんの『秋萩 帖』も興味深く拝読いたしました。書道芸術の「一流の現代人」」(S51.4)の文も、いろいろ啓示を受けました。趣味の域を超えた学恩を感謝申し上げま す。ようやく秦さんの、文学、美学(美術)入門といったところです。
 8月下旬に、台湾へでかけ、珍しい絵画(個人蔵)、故宮の明清の書画名品鑑賞 してまいりました。
 『湖の本44』巻末のメッセージ、つつしんで拝読いたしました。多謝。
 残暑厳しきおり、ご自愛ください。

* 生きている甲斐はあるものである。兄の死が惜しまれてならない。自然 に老いたいものである。

 
* 九月三日 日

* 今朝は、初秋のけはいです。
 南側の向こうに見える元地主の敷地の、建物なら十階もありそうな二、三本の楠 がザワザワと騒がしく音をたて、我が家の酔芙蓉も今朝、たった一つ、初花のお目見え。大きくなった二本の木には数知れない蕾がついていて、当分楽しませて くれます。そろそろ花も夏から秋のものへと変わる頃と実感させます。
  秋は一番好きな季節だけれど、我が身と重なり寂しさも一入。
  元気にしてます。

* 朝一番にこういうメールが入っていると、空をわたり窓をうつ風の音と ともに、秋を覚えそめる。数日前に九十を過ぎた老父を見送った人のメールである。「い」の落ちた「元気にしてます」に、失せない京の物言いが感じられて、 懐かしい。

* 「器械の無機質に屈しないしなやかな表現」は可能だと「私語」してい たのへも、これは吾妻の向こうから、こんな声が届いていた。

* まだ、ワープロで作品を書くひとがめずらしかったころ(ことに短歌を 書くひとには少なくて)、友人に、ワープロでなんか書いているとうたや文章がチャチになると言われたことがありました。よいものが書けるか否かは、書く道 具に関係ないと反発しました、何年くらい前になりましょうか。
 一人前に大きかったペン胼胝が、器械でものを書くようになって、いつの間にか 消えていました。もう、この器械なしの生活はかんがえられなくなっています。
 けれど、その器械にふりまわされることも多くて、魔女マックに、悪態をつくこ とがあります。あまり、ひとを手こずらせるものですから。
 ほんとうに、魔女。いなくては困ると思わせ、従順にいうことを聞いてくれるか と思えば、狂風一陣、どう手を尽くしても知らん顔。あげく、ふいに、ころっと機嫌が直るやら。「ほんにお前は性悪な」、こんな謡の一節が思い出されたりし て。
 ご本が届きました。ありがとうございます。
 おかしなことでございます。お月さまをしばらく見ていないと申しましたそのつ ぎの夜、昨夜のことですが、地球照を抱いたほそい月に逢いました。何か、語りかけられているような、何かのはからいのような、ふしぎな心地で、宵の月を見 ていました。

* 不思議なことであるが、人さまの、こういうメールが、あくまで人さま のもので終わらず、このように「私語の刻」に書き込んでみると、そのまま「わたし」自身の「日々」を反映し表現していることになっている。遠くからの声を ただ聴いているのではないのだ、「わたし」が此処に在ればこそ発信して貰っている。わたし自身とは異なりはするけれど、どこか通い合う魂の色がうち重ねら れて、それも「わたしの日々」になる。この「私語の刻」には、顧みれば大勢の人の多くのメールが取り込まれていて恐縮しているけれど、もしそれらが全部こ のページから消え失せていれば、わたしの「生活と意見」も、「私語」の潤いも、どんなにか寂しく乾いたものになっていることか。「メール」を大切に感じて いる一つの理由である。実務本位の事務万能には終わらせていない
 

* 九月三日 つづき

* OCRを活用した。半端で未熟な「使い方」をしているらしいと気づい ているが、ゆっくりマニュアルを見ていられない。おいおいにもっと効率よく使い勝手を改善して行けるだろう、これまでもそうしてきたように。しかし、とに かく「使って行く」ことで活かすのが一番だ。第六十五巻、記念の巻の入稿には、OCRを活かした編集が役立つだろう。

* 午後の囲碁番組で、石田芳夫九段の勝ち方には唸った。序盤から中盤へ かけては、石田の白番がひどく形勢不利に見えていた。それを、死にそうに見えなかった黒のややこしい大石を攻め落とし、中押し勝ち。唸った。凄かった。

* 碁の途中を、妻に付き合いいつもの「新婚さんいらっしゃい」を見てい た。あとのゲームで、後攻の奥さんが景品を全部一人でさらっていった、そのさらいかたも喜び方も無邪気で可笑しかった。二組の夫婦が何一つ持たずに帰るこ ともあるボードゲームだ、全部を一人でというのは珍しかった。金持ち夫婦と貧乏夫婦の貧乏奥さんが一人勝ちしたのも面白かった。貯金夫婦の、「どうすると 金が貯まるのか」という司会桂三枝の質問に、夫が、言下に「金をもたないことです」と答えていたのが印象的だった。その含蓄をもう少し聴きたかった。

* 昼の映画、ビリー・ワイルダー監督の「サンセット大通り」は、見たの は二度目だが、胸に深く落ちて良かった。この間は山折哲雄氏と「自然に老いる」ことで話し合ったが、グロリア・スワンソン演じる往年の名女優の執着は、す さまじかった。以前には厭な気分で見た記憶があり、若い燕のウイリアム・ホールデンの役にも共感しなかったが、今日は、よく映画的に筋道が通っていて、リ アリティは堅固であった。ホールデンの表現にも納得した。

* 夜の映画は「ポセイドン・アドベンチャー」の焼き直しの気味もあった けれど、川の底を走るトンネルの破壊という極限状況を巧みに設定し、シルベスタ・スタローンのハートを、うまく活かしていた。二時間がとても長く、また短 く感じられたほど映画表現に密度があり、娯楽映画に「徹した」良さが感じとれた。
 終日、ゆったりと過ごせた。いまから、もう一仕事する。
 

* 九月三日 つづきの続き

* 一日の終わりに、励まされるいいメールが届いた。老いにも若きにも関 わってくる。

* エッセイシリーズ、どさっと戴きました。お手数をお掛けしました。ま たまた楽しみです。
 実は、4月から、これでもう医者をやらなくていいんだと、ほくそ笑んでいたの ですが、同級生や後輩たちが「あいつを遊ばせておいていいのか」などと心配してくれます。「いいのだ」と逃げていたのですが、そうもいかなくなり、(正直 年金だけではきびしい事情もありまして)隣町の特別養護老人ホームへ、月、木、金と行っています。畑の違う場で、基本的に治せない医は、考えさせられます (何を今更とも思いますが)。(精神科医の友人に「医は、できれば予防、できれば治療、さもなくば見守るだけだ」と言われました。)
 口はばったいのですが、谷崎(潤一郎)さんや佐藤(春夫)さんたちが、それぞ れの自分を、人間を、見極めるように書いて、生きた、同じこの世を、名もなく言葉もないけれど、それぞれに、たとえ他に仕様がなく生きなければならなかっ たとしても、生き終わるまさに「この時」を、このおじいさんやおばあさん達は身を横たえているのだと思います。
 表情もなく、目はどこの何を見ているのか、名前を呼んでも返事はなく、それで も、これでも、人間なんだぞと、身をもって教えてくれていると思います。こういうお年寄りたちと付き合えなくて、どうしてこれからの自分と付き合えるもの か、と思いはじめています。
 どうも、秦さんに引き出されて喋っているような気がします。(没にしようかと 思いましたが、送ります。)「せんせぇ、白衣は着てください。間違われますから。」なんて看護婦さんに言われながら、何とか続けています。
 まだまだ残暑。どうかご自愛ください。

* 有り難いと、頭をさげている。感謝して今夜もねむろう。
 

* 九月四日 月

* 寝る前と決めているのに、読みたくて、夕方ごろりと寝そべりながら 『落窪物語』をほぼ終わる辺りまで読み進んだ。こんなにやすやすと読める王朝古典は珍しく、被虐、報復、孝養、庇護が、古今に稀な一夫一婦の純愛に支えら れて極めて割り切れた話体で進行する。こういう話を喝采して受け容れたのは、上流ではなく、下層の女房族ではないかと解説されているのも頷ける。
 落窪の君は、とても「いい人」である。夫もじつに「いい人」である。こういう 一組の夫婦に、終始気を揃えて活躍させる作意が、特殊である。まだ全巻を通していないので言いにくいが『宇津保物語』より明快なテンポをもち、『狭 衣物語』より気分がいい。今後も繰り返し読むだろう。

* OCR、精度が段違いに良い。むろん能率もすこぶる良い。利器である ナと、つくづく思う。おかげで、これを使えば古い新聞原稿の文字の薄れてきたのたなど、救い出せるのではないか。初出は、ほぼ欠かさずに保存してあり、コ ピーもとってある。未刊の原稿だけでも、単行本に換算すれば廿冊分ぐらい右から左にすぐ纏められるほど量もある。OCRに取り込んでおけば、ホームページ を随時に充実させることも容易い。
 大容量ハードディスクの器械が欲しくなってきた。池袋さくらやで、ああ、これ がいいなあ、欲しいなあと思える器械があった。
 ワープロのフロッピーからパソコンへ移す方法を、田中孝介君に教えられた、あ れは莫大な恩恵だった。おかげで、大事な長編原稿をほとんどパソコンに吸収できた。『客愁』第一部の三部作もすべてワープロから転写したものに入念に何度 も手を入れて湖の本にして行った。パソコンと湖の本とが、緊密に車輪を揃えて仕事を膨らませてくれている。

* 明日は、久しぶりに言論表現委員会。シンポジウムの前に、私たちの電 メ研が実施したアンケート資料を参考に供することが出来る。27.5パーセントの回収、内容がとても佳い。すでに日本ペンクラブのホームページに大方を公 表している。引き続いて電メ研で討議した纏めも掲載したい。シンポジウムのためのパンフレットにも電メ研座長として一文を寄せておいた。

* 引き続いて文藝家協会の方の「知的所有権委員会」も、もう何期めだ か、また就任するようにと、会議案内と共に要請があった。難しい問題が山積している。新委員に若い顔ぶれが多く増えた中に、いち早く『サラダ記念日』を 贈ってきた俵万智や、早稲田の文芸科の教室で小説を書かせた角田光代の名もある。役には立たないわたしだが、楽しんで来れるだろう、か。

* 九月歌舞伎座、昼夜の座席が、中村扇雀丈の厚意で手に入った。芝翫の 小さい孫が三人、襲名や初舞台口上で人気沸騰している公演、なんともかとも、楽しみ。九月前半は、目白押しに会議・会合とこういう楽しみとが数珠繋ぎに なっている。例の「顧問」出勤をうまくさしはさむ隙間もないほどで、原稿もある。夏バテしないで、踏み込んで楽しんでしまおう。そのうちに、後半のオリン ピックが、どでかい楽しみ。月末には第二回「対談」が。うまく用意できるのだろうか。九月中、わたしの残暑は猛烈なようだ。
 

* 九月五日 火

* 八月が休会だった言論表現委員会、今回四時始まりを、いつものように 三時のつもりで出かけた。おかげで、会議前に電メ研で実施したアンケートを読み返すことが出来、会議のためにも役立った。今日は十四日のシンポジウム「一 億総表現者の時代 ネット社会でわたしは<わたし>をどう表現できるか」の、委員役割分担などを打ち合わせた。わたしは、もっぱらアンケート 内容に関連して猪瀬司会者の要請があれば会場から応答の役。一般公開である。バネラーは、東大教授西垣通氏、作家三田誠広氏の他に、弁護士牧野二郎氏ら、 四人。進行役は委員の一人の長田渚左さん。

* この会議は、委員長が猪瀬直樹氏、副委員長が雑誌「創」編集長の篠田 博之氏。このコンビから察しられるように、あまり文学の話題は出てこないかわり、言論界のさまざまな情報が生々しく伝えられ、週刊誌の吊り広告を立ち入っ て読んでいるような面白さがある。雑誌「噂の真相」編集室へなぐり込みがかけられ、暴力沙汰が起き、それ自体にはペンクラブも抗議声明を出しているが、同 じ編集室に対するきつい批判や非難の声も、われわれの委員会には届いてくる。誰と誰とが喧嘩したとか、仲が悪いとか、金回りがいいとか悪いとか、人の渦の あちこちに巻いているのなども、ふんだんに聴ける。また国会や政府与党などでの法律起案や真偽の状況もまた、テレビ報道でより機微に触れて知ることが出来 る。誰とは言わないが抜き身の剣で脅されたときに、そう言うがお前らは歴代天皇の「おくりな」を全て覚えているのか、俺は覚えているぞと、立て板に水、神 武、綏靖、安寧、懿徳とやって、相手方をひるませたなんて話も今日猪瀬君から聴いた。同じわたしの隠し芸が、役に立つわけだ、おかしかった。

* 明日と明後日は家におれるが、それから先の週日は、二十二日まで、 ぶっ続けに何かが、外で、ある。今日は雨で涼しかったが、このまま涼しくとはとても行くまい。夏バテしないようにしないと。

* 『早春』の余録で、中学の頃の先生や職員全員の記念写真を大きく引き 伸ばしたのが手に入った。大方はお名前も覚えている。そして大方は亡くなられている。よくまあ手に入った、嬉しい。
 

* 九月五日 つづき

* 日の果てに、心待ちのメールが、季節の香りとともに色うつくしく舞い 込んできた。

* 吾亦紅あなたはお好き?
  吾亦紅あなたはお好き話しつつ行く
 いつ、どこで読んだ、誰の作とも少しも覚えてはおりませんのに、ふとこの句が 口をついてでましたのは、時々行く喫茶店で、窓辺に生けられた吾亦紅をみたときでした。
 竜胆や松虫草と一緒に、臙脂の花が、秋の訪れを、まだまだ残暑は厳しいけれど 今年もようやく秋がきましたよ、と告げてくれているのを嬉しくみつめながら、知らず知らず呟いていたのでした。
 御無沙汰しております。
 秋の気配に少し元気がでてまいりましたので、久しぶりにお便りをさしあげま す。
 「湖の本」第44巻、嬉しく拝受いたしました。そして今日、一気に読了させて いただきました。
 ありがとうございました。
 魅力的な少女が一杯登場して、胸ときめかせている秀樹少年と一緒に、私も、ど きどきしながら拝読いたしました。
 人生の意義は子供時代の混沌にある、と、これもまた、いつかどこかで読んだ言 葉をふと思い出したりしながら。   
   
* 「風伝白秋」と、今度の配本の挨拶に、みな、手書きした。白い秋に「吾亦 紅」の花ことば・花だよりである。むろん、この花、大好きである。東福寺内の「十万地蔵」境内に、楚々として吾亦紅の紅かったのを、あれは『底冷え』で あったか『誘惑』であったかに、書きとめたことがある。「吾亦紅あなたはお好き」とヒロインに語らせていたかも知れないと思う。懐かしい。
 このメールの人とは、ただ一度逢ったことがある。銀座で小一時間の食事の後、 遠くへ帰って行く人を東京駅まで送った。もう何年になるか。

* 文筆家達にアンケートの中で「電子メールと文章」について訊ねてみる と、殆どの人がブッキラボーになりやすい、冷たい感じになりやすいと警戒していたが、わたしは、それは人によるので器械のセイだとは全く考えていない。た だの便利な道具と思う人は事務的にしか器械に期待していないのだろうが、わたしは、「表現」して行くことで器械と付き合おうとしている。そういう人が創作 者の中には、また創作しなくても心に余裕と優しさのある人には、いる。この頁でしきりに人さまのメールを紹介させてもらうのは、アンケートに出てくる大方 の回答とはちがった、また優れた表現者・利用者が幾らもあることを示しておきたいからだ。
 電子メールは「恋文」であると、以前雑誌「ミマン」に書いたが、あながちに面 白ずくを言うたのではない。そういう気持ですら、いろいろに表現可能であり、事務的な交信にだけ便利な器械ではないのである。文学・文藝に到達して行ける 可能性は薄くないと思っている。
 

* 九月六日 水

* 妻の電子メールがやっと受発信できそうなところへ来た。わたしの方へ テスト送信してみると受け取れている。ただ、何となしわたしのNIFTYとは手順がちがう。正確にやれているのかハッキリしない。

* OCRの精度は高い。気を入れてスキャンすれば、活字本の99パーセ ントは認識している。校正し補筆もできるので、原稿が出来た段階からあとは、入稿後がすこぶるラクになる。入稿に相当の時間をかけても追いつける。六十五 歳の通巻第六十五巻を、面白いものにしたい。

* 日本ペンクラブ 電子メール使用会員の皆様   (2000.9.6 記)
 電子メディア対応研究会より、去る8月、約170名の、現在メールを活用され ている会員の皆様に、アンケートのお願いをしましたところ、8月末までに44名の方からご回答をいただきました。ご多用中有り難く、御礼申し上げます。ま こと示唆に富む実情がありありと窺え、新世紀にのぞんで貴重な「証言集」になったと喜んでおります。九月十四日開催のシンポジウムでも、有効な材料になる であろうと期待しています。
 44名のご回答につきましては、日本ペンクラブホームページ「電子メディア対 応研究会」の欄に、すでに、全て掲載させていただきました。ご報告にかえたく、是非ご覧下さい。
  日本ペンクラブHP/URL: http: //www.mmjp.or.jp/japan-penclub
 なお、研究会での討議を経て、何らかの総括を得たいと予定しています。追って ペン・ホームページでご報告申し上げます。
 本来、ご回答の内容は、むしろ、電子メディアにつよい関心を持たれながら、ま だ使用に踏み切れない、または使用の気持は無いが実情には関心がある、一般会員の皆様にこそ参考ないし活用されて欲しいもので、電メ研委員一同の希望もそ こにありました。理事会の同意を得て、ぜひ、然るべく「会員への周知」を考慮したいと考えています。
 また、メールを活用し、会員の皆さんのいろんなご意向・ご意見がペンクラブ全 体に反映することを「電メ研」は期待しています。ご遠慮なくご通信下さい。
                電子メディア対応研究会 座長・理事 秦 恒 平                       FZJ03256@nifty.ne.jp

  (以下、日本ペンクラブ事務局よりお願い)
 来る9月14日に、アルカディア市ヶ谷で主催・日本ペンクラブ・言論表現委員 会シンポジウム「一億総表現者の時代 - ネット社会でわたしは"わたし"をどう表現するか」を、開催致します。ネット関係の専門家を交えたパネルディスカッションが中心になりますが、電子メディ ア対応研究会秦恒平座長より随時みなさまからいただいたご回答を盛り込んだ感想などを報告致します。お近くにお住まいの方、お時間のある方は是非、会場に 足をお運び下さい。 ペン会報・ハガキ等ですでにお知らせしておりますが、あらためてシンポジウムのご案内をさせていただきます。ご来場の程、お待ち申し 上げます。 (以下・略)

* アンケートの回答そのものが興味深いが、量も多く、会員の署名回答で もあり、少なくもシンポジウム以前にここに転載公表するのは問題があろう。ペンのホームページを覗いて欲しい。
 

* 九月七日 木

* 虹 そして白露   昨日、電車を下りた処で、あなたの家の方向に、日本では珍しく二重のはっきりとした虹を観ました。ご覧になりましたか。このような虹は雌雄だそうで、忘 れましたが、優雅な名がありましたね。箱根あたりのお茶室の名前に付いていた気がします。今日は白露、それにしても、よく降ります。
 これも昨日、録画して置きましたが、自転車でのシェイプ アップ、あなたの方法は正解でしたね。観ましたか。少し違うところは、坂道を、自転車に立った状態、お尻を浮かしてこぐのが、効果的との事です。実験をし ていました。やってみてください。
 風も光も雨も自然のままに、その様に私も、人生の秋を満喫できれば、と、切に願っています。

* 中央線にちかい辺りから北の空に二重の虹が見えたものか。久しく虹を見ない。北海道へ講演に行ったとき、湖の 上にかかった虹が最後か。まさか、そんなに久しく、虹を見ないなんて。
 自転車運動が「正解」とは嬉しいこと。どんな実験をしていたのか、サドルから尻を浮かしてペダルを踏んだ方がいいのな ら、ラク。いま十一往復、少なくも六千メートルほどを上り下り交互に休まず疾走しているが、尻を浮かしていいのならもっと走れる。

* 田中康夫氏の長野県知事立候補は、驚かなかった。やりそうなことで、わるい話でもない。長野はいい意味でもわ るい意味でも、かなりガンコな県で県民だろうと思う。優れた人も輩出したが、県が育てたか県から出て育ったかは微妙。島崎藤村ふうの粘りがあるのだろう、 「なんとなくクリスタル」なんてものでは印象的には、ない。
 しかし田中氏もかなり粘る人でガンコそう。いい勝負をしてほしい。神戸でのねばり強い一戦が印象深く、わたしも声援し た。政治家評定会議も、彼の名があったから寄付もした。彼の文学は全く知らない。文学外の本をもらっているが読みやすいものではなかった。若年生糖尿病タ イプの体型と童顔。支持者も多かろう、が、毛嫌いする人も少なくあるまい。うまいまずいは分からないが、食べづらい食べ物という喩えが当たるかも知れな い。善戦して欲しい。
 

* 九月八日 金

*二ヶ月ぶりの電子メディア対応研究会、顔ぶれも揃い、和やかに話し合われて、気分のいい会合だった。アンケート 結果という具体的な話材が出揃っていて、話しやすかった。だが、さて、そこから、どう動くかとなると道筋は混濁、嶮しいと感じるばかり。
 高畠二郎委員がインターネットを始めていて、これで、全委員がパソコン・ユーザーになった。高畠さんが今日は雄弁で、 おもしろかった。元気になられてよかった。新聞三社に『冬祭り』を連載していた頃の事務局長で、ずいぶん助けてもらった。湖の本を始めるときもいちはやく 北海道新聞で報道してもらい、その時からの読者がいまもたくさん継続してもらっている。
 
* 『早春』で、思い出しても赤くなるようなことを書いている。小学校六年生の頃、四六時中或る女生徒に気をとられてい て、それをからかわれ、ぼんやりしているところへ、「**さん」とわざとその名で呼ばれ、「ハイ」と返事してしまった。
 その昔の女の子が、手紙をくれた。中学一年生での同級以来、袖擦りあう縁も絶えてなかったが、同窓会名簿が手に入っ たので、『早春』を送っておいた。猛烈になつかしがって呉れた。「例の件」は笑い話のタネになっていたと みえ、当人の耳にも届いていたという。 むかしから、そういうバカであった、わたしは。
 手紙は大いに嬉しく、懐かしかった。おまけに、本代を二千 円頂戴した。有り難う。

* さて、十四日のシンポジウムまで、ひっきりなしに外へ出る。浜木綿子の帝劇、中村芝翫一世一代の娘道成寺や可 愛い子方の口上など歌舞伎座昼夜、そして、若い友人との美術館のはしごなど、楽しみが主である、が、十三日の晩には、イーブック(電子書籍)の会社へ初出 勤して、スタッフとの企画会議に参加することになっている。こういうのは初体験、なにを期待されているのか大いに心許ないが、一年契約、お役に立ちそうに なければサッサとクビにして欲しい。

* もやもやと煙のように、いろんな用事を身にかぶっている。出来ることはすればいい、出来ないことはやめるべき だ。

* 先日、委員会で猪瀬直樹氏にもらった『天皇の影法師』という本を読み始めたが、これは、面白くなりそうだ。意 表に出た話材を、足まめな調査でかためながら、面白い切り口をつくって惹き込んで行く。達者な運びで、安心して身を任せておれそうなのが嬉しい。よく勉強 している人だと思う。
 

* 九月九日 土

* 人名のローマ字表記  またまた「国語審議会」の愚行が、、、。8日の報道によると、国語審議会は「日本語の 人名をローマ字で表記する場合、姓・名の順で書くのが望ましく、学校でもそう指導するように求める方針を決めた。」とか。
 朝日新聞によると、「日本語の人名をローマ字で書く際、明治時代から西欧にならって名・姓の順で記すことが多く、学校 の英語教育でもこう教えられてきた。だが、国語審は、名前の形はその国の文化や歴史を背景にしたもので、多様性を認めるという立場から、日本人名も姓・名 の順で表記するのが望ましいとした。官公庁やマスコミ、学校などに、こうした考え方が生かされるよう求める。」
 少なくとも、人名のローマ字表記では、名・姓で馴染んできたし、グローバル化に対応しているというのに。私の口は開い たままです。
 秦さんなら、どう思われるかな。

* 日本の伝統に従うというのなら、ガンとして漢字やかなで書けばよろしく、わざわざ横文字にするということは、 横文字世界の習いにすべりこむのですから、伝統問題は場違いな埒の外です。西暦年数を、神武以来の紀元年数に置き換えるようなアホラシサです。

* 帝劇、浜木綿子主演「売らいでか」を観てきた。頼りにならない亭主を独り者の女富豪に五十万円で、鬼姑もおま けに売り払った女が、いろいろあってタダで買い戻すという、たわいない、へんなお話である。左とん平とのコンビは、以前の舞台と同じで、笑いの取り方も低 俗そのもの、ほとんど取り柄のない、しかし笑うだけは大笑いした舞台だったが、姑役の菅井きんが、さすがぴたりとはまって不自然のない余裕の「鬼」ぶりな のに、感心した。左も、手慣れたもの。昔から何となく贔屓の光本幸子がやはり美しく、意外に宮崎美子が軽快にからだを使っているのにも、目がとまった。
 浜木綿子は例の浜節で終始し、それなりの藝風は発揮していた。だが芝居全体の印象はまさしく軽薄。軽薄なりにそれでも 楽しんできたのは、帝劇の通俗芝居に馴染んで慣れてきたからである。客は大いに楽しんで大笑いし、拍手を惜しんでいない。そういう芝居なのだから、堅いこ とをいう気はなく、その中にまじって笑っていていいのだ、これは娯楽劇である。

* 帝国ホテルのザ・クラブルームで、チーズ、サンドイツチ、そして赤ワインで遅めの食事をしながら、のんびり、 妻と芝居の評判など。人少ななクラブは落ち着いて、自分の部屋のように過ごせるのが有り難い。

* 本日、御著書拝受。有り難くいただきます。時間を忘れて読みふけりました。
 日記の中で、俵さんのところや、なぜカルチャーセンターの講師にならないか、名古屋の一日(私は名古屋郊外に住んでい ます)、兵馬俑の「すさまじさ」…、直接お会いしたこともないのに目の前に現れたようで、頷きながら、楽しく読ませていただきました。
 こうでなくてはいけません。自分の思いつきの日記が本当に恥ずかしく思いました。HP、続けて読ませていただきます。
 
* ペンの会員の『死から死へ』へのメールで、数人から、こういう便りをもらっている。「湖の本」の実践を、本そのもの から識ってもらいたかった。

* OCR ご進展のご様子、嬉しく存じます。
 それで、ご本を読んでいて気が付き、OCR の実際を体験してみようとやってみました。エッセイ 『神と玩具との間』一冊で、 420K バイトでした。取り込みはしましたが、校正はまだです。メールの添付ファイルでお送りすれば出来る筈です。
 しかし、私が、勝手にこういうことをしていいものかどうか、とまた気が付きました。お伺い申し上げます。
 お許しがあれば、単純作業で少しはお役に立てるかな、と、これまた勝手に考えました。(「親類」の停年おじさんはひま ですから) 迷いましたが送信します。

* 何という有り難いメールだろう。「校正」など、とんでもない、それはわたしがして当然で、スキャンした本文が そのまま届くだけでも、どんなに有り難いか、自分の手で、本を見開きごとにスキャンし保存して行く時間の長さを、身にしみて覚えているだけに、言葉にもな らない。それにしても、どうして、湖の本一冊分がそんなにも一度にスキャン出来るものか、不思議な気がするし、有り難いよりも申し訳なく感じている。
 じつは今朝小説『華厳』を湖の本からスキャンしはじめたが、見開きで三頁しかとれなかった。中国みやげの中国歴史小説 で、自負・自愛の中編である。一両日後から小刻みに連載して行くつもり、だ、が。

* 芝居の留守中に、澤口靖子の颯爽としたテレビドラマがあるというので、ビデオを用意して出かけた。出だしの少 しをみたが、きびきびと美しい。たいへん楽しみ、明日にのこしておく。
 澤口靖子の夢は見ないが、ゆうべ、中山美穂といっしょの親密な夢を見たのがおもしろい。飲めない・飲みたい、ビールの いい広告写真が頭に焼き付いていたのかも知れないが、もともと彼女の佳い写真だけが理由で、NECのパソコンLaVieを買ったのだから、相当な贔屓にち がいない。若い健康な、遠くの方の美女というのは、危なくもなく、しかも老生を鼓舞してくれる。その点、若くても年寄りでも、男はたいした役には立たな い。
 

* 九月九日 つづき

* 夜更けてから霧になりました。
 七階の住まいから、霧の籠めている外をながめていますと、ふしぎな浮遊感にふはふはして来ます。この浮遊感が快いとき と、不安になるときとがあります。今夜は快く感じられます。少しも仕事ははかどりませんのに。
 わたくしが立って外をながめる場所が、いつからか、鶯張りの床になりました。と、申しましても、誤解なさらないでくだ さい。背丈も体重も標準以下でございます。
 『金島書』を読んでいて、遠流に処せられた恨みのようなものがないのに、おどろいております。ほんとうになかったの か、語らなかったのか。都恋しの思いは、はばかりなく謡っていますのに。
 小侍従の、

  しきみ摘む山路の露に濡れにけりあかつき起きの墨染めの袖

を、うたいこんだ一節がありますのも、うれしい心地がしております。
 先日、湖のお部屋にご紹介くださいましたわたくしのメール、「俗謡」の「俗」が、はずしてありました。ピシッと打たれ ました。うれしいご指導でございます。
 少し、霧が深くなったようでございます。明日は、いえ今日は、東京へ出る予定があります。そろそろ寝ることにいたしま しょう。今夜から「蕪村書簡集」でございます。肩に寄り来るたましひといっしょに読みますのは。
                              
* 『金島書』は世阿弥の佐渡流謫の感懐を、主に七篇の謡いものにし語り置いた極めて貴重な世阿弥資料であり切迫の述懐 であり証言である。こういう作物に、まして小侍従の傑出した一首などを配して、この廿世紀末の霧の一夜がインターネットのメールで伝えられてくる。この世 間は広いだけでなく奥行きもしっかり有る。 
 

* 九月十日 日

* 燃えるような陽ざしに負けず、日本橋高島屋の、五代目・六代目清水六兵衛展に先ず出向いた。ちょうど午どき だったので、向かいの丸善に勤めている友人の娘さんに、あまっている入場券を上げて行こうと寄ってみたが、休暇をとっていた。
 七代目六兵衛さん=彫刻家清水九兵衛さんとは、一緒に京都美術文化賞の選者を勤めているが、先代、先々代のお道具に も、叔母の持ち物や茶会の記憶を通して親しんできた。育てられた家の数軒東、梅本町には、清水さんの別邸もあった。この展覧会も九兵衛さんからの御案内で あった。
 五代目も、六代目も、その陶芸は選の太い重厚な造形である。「重」兵衛さんと謂いたいほどだ。わたしは、七代目の現代 味ゆたかな斬新な造形美を敬愛している。七代目は、最近六兵衛の名跡を子息に譲って本来の造形・彫刻家清水九兵衛に戻られた。ご健康を祈る。

* 銀座へ移動して、読者の娘さんの個展を見た。全然感心しなかった。広い画廊に、小品が小窓のように上下二列に 並んでいたが、画額が、ぴしっと物差しを当てたように、水平垂直、清潔に整列せず、ゆらゆらと傾いたり揺れたりしていて、画家の、個展に賭ける誠実な気迫 が伝わってこない。繪も、把握のよわさが感じられ、同じイタリアの川を、執着して繰り返し時刻を変え描いているのだが、追求が甘く、途中で妥協したという 繪が多かった。落胆した。

* これはもう気分直しをと、一丁目の「シェ・モア」で、うまいフランス料理午コースを、赤ハウスワイン一杯だけ で、ゆっくり堪能してきた。猪瀬直樹の文庫本『天皇の影法師』を読みながら、食べたり飲んだり。
 得難い安楽・充実の午餐。
 この店は、小さいが綺麗な佳い食堂で、フランス料理を静かに気軽に食べるには恰好の場所なのである。料理も、なかなか 宜しく定評がある。山手なら麹町の「トライアングル三番館」が落ちつき、銀座は「シェ・モア」が好き。張り合いのある旨い洋食なら「三河屋」が佳い。

*  源九郎狐  おはようございます。
 「四の切」を"聴かせて"くれた豊竹呂大夫さんが、亡くなりました。目の前で(肉体表現も含めて)、もう一度聴くた め、来月の東京行きを決めた雀なのに。苛められ、蔑まれ、長いこと孤独だった子狐。初音の鼓が義経の手に渡って、漸く両親に会え、静が鼓を打つことで親の 声を聞けた。「嬉しやな」は、鼓を貰えたことと、義経・白拍子・獣が身分を超えて[身内]になれたことの、歓喜。雀はそう聴いて泣いた「四の切」でした。
 さらりと語る一言の向こうに、大きな宇宙。異世界に連れて行くことのできる太夫を、また一人失い、昨日から泣雀です。

* 風の奏でのように藝風は時代をわたって流れて行くが、またその時々に優れた藝人を喪って行かざるをえない。そ ういう哀しみを、「身内」を喪うように感じているフアンがいるのだ。親子夫婦兄弟親族が「身内」ではない、魂の色の深い似通いを実感できない仲らいは、親 子夫婦兄弟親族であれ、「他人」に過ぎない。この厳しさによってしか、人は本当には「孤独や孤立」から救われることはない。
  

* 九月十一日 月

* 中村扇雀丈のお世話で、歌舞伎座、五世中村歌右衛門六十年祭の歌舞伎公演、昼の部に出かけた。願ってもない花 道にもまぢかい佳い席が用意されていて、妻ともども、半日を堪能した。一世一代中村芝翫の「京鹿子娘道成寺」には、孫三人、福助の子の児太郎襲名、橋之助 の子の国生と宗生との初舞台お披露目のおまけがつき、勘九郎、扇雀らが所化をつきあう華やかな舞台だった。あの歳でああもよく踊れるものと舌を巻く、芝翫 の、白拍子変じて清姫の幽霊を存分に楽しんだ。いったい、この道成寺を、これまで何度観てきたことか、それでも、新鮮に心から惹きつけられる。早くから踊 りは芝翫と富十郎と思ってきた。鴈治郎もいい。とにかく歌舞伎踊りの楽しさというものは、独特のファシネーションであり、踊りのない番組では楽しみが半減 してしまう。

* 一番目に「鬼一法眼三略巻」菊畑の場で、橋之助の智慧内、梅玉の虎藏、福助の皆鶴姫、そして羽左衛門の鬼一法 眼というコンビが、不都合なく、けっこう楽しい舞台になった。橋が、儲けものの智慧内じつは鬼三太を大らかに演じて柄の大きな素質を見せていた。二枚目の 梅玉が、いつもよりギスつかず、優しい見やすい顔をしていた。『義経記』で読んでまのない話である。羽の、沈着な腹藝がさすが。福助も、まずまずの性根を 見せた。チョボに乗っての芝居がはずみよろしく、歌舞伎歌舞伎していて、序幕から大きめの舞台が出来、儲けものだった。

* 二番目は吉右衛門の光秀、富十郎の春永が張り合う「時今也桔梗旗揚」が、珍しく饗応からはじまって愛宕山ま で。幸四郎、吉右衛門系で練り上げられてきた芝居であり、吉二代目にもぴたりとはまっている。骨格の太い大柄な時代劇で、熊谷陣屋などよりもさすがに取材 の時代が若く、心理的に彫り込みが利く。吉右衛門が標準的な光秀を好演したのは当然として、感心したのは、光秀の呂律の音声に対して、甲高く主君春永を語 りきった中村富十郎の風格に頭を下げた。また、隅っこにいながら、松江が、馬盥の恥辱のあたり光秀の妹桔梗役を、とても丁寧にフォローしていたのがよかっ た。宗十郎が立ち居にかなり足腰の痛みを堪えているらしいのが辛かった。

* 上の三番、配役もゆつたりと贅沢で、堪能できた。堪能しながら、カップ酒大関を二盃も呑んだ。とろり、いい気 分だった。ものあわれに泣く芝居もなく、初舞台のチビくんたちにだいぶ笑わせて貰ったり、帰りに、和服の丈高くよく似合った橋之助夫人三田寛子とも逢って きて、ふしぎとめでたい、申し分のない芝居見物だった。扇雀丈との出会いに感謝し、迪子に疲れの出ない内にと、銀座でパンとサラダとチーズを買い、どこへ も寄らず、有楽町線で六時には帰宅、家で夕食した。前夜、ザ・クラブルームで残してきた赤ワインが少しあり、純焼酎も少し。扇雀の番頭さんの、お土産に呉 れた扇雀飴も一粒なめた。

* 明日は、夜の部を観る。

* 大阪サンケイに送った原稿が、少し長いかと心配したが、気に入ってもらい、そのままで掲載したいと連絡が来 た。 
『早春』や『死から死へ』がホームページの所産から冊子本に成って発売されていることに、同業の人からも驚かれている。 わたしのホームページが、何かの示唆や刺激になるなら゛、嬉しいことだ。 
 

* 九月十二日 火

* 雷がして、ときどき雨音がつよい。雨潤新秋。

* しとしと雨の 静かな朝に。  夜半の雷鳴に目覚め、ホームページの『廬山』を。確かに目覚めていないと、紙 の活字にはきびしいものがありますから。視力の低下は致し方ないものと思いますけれど、液晶の方が、それぞれに応じた読み方が出来ることはうれしいもので す。
 ふつふつと、画面に、字面に、重なって情景が浮かんで見えます。少し萎えていた想像力も、秋の訪れとともに豊かさを取 り戻してくれているみたい。疲れて紙本は読めなくても、画面のご本は大丈夫。ウトウトしていると液晶が真っ黒になり、あわててNXパッドに指を滑らして呼 び戻すこともありますけれどね。マウスはどうも苦手です。
 風も止み、静かな朝を迎えたのはホンに久しぶりのこと。白檀の香をくゆらせて、墨をする。ともに好きな、落ち着く薫り です。格段に暑かった夏にはサボってしまったお習字。気を引き締めて筆を運べば、「しょうのない、やっちゃなあ」と、苦笑されながらも、穏やかな笑顔でご 指導くだされた恩師のことが昨日のことのように思い出されます。上達は遅々としたものでありましょうが、続けることが、逝ってしまわれた師と対話出来る唯 一の道と。
 月影の見えぬ雨模様の今宵は『早春』を再度楽しむことに致しましょうか。ちょっとおどけた秀樹さんと「フデキ」さん、 夜までいましばらくのお待ちを。
「お月はんのみえへん 雨降りの晩は『早春』を、もいっかいたのしむことにするけんな。ちいとあばさかった秀樹はんと 「フデキ」はん、晩までもうちいと待っといてナ」(怪しげな阿波弁?でした)  

* 中村光夫のもう古典的な『志賀直哉論』を書庫からもちだしてきた。大昔に読んだ。真っ向批判の手厳しい批評 だったが、直哉の全集を良く読んだいま現在、どう読み直せるかと。中村先生の風貌も声音も、よく覚えている。中村紘子のピアノリサイタルの会場で立ち話 に、「きみのような人が、(文学の世界に)もっといてくれるといいのだがね」と温顔で、まじめに言われたのが忘れられない。縁もゆかりもなかったわたしの 手を掴んで、太宰治賞を握らせてもらったのが中村先生であった。
 

* 九月十二日 つづき

* 歌舞伎座の夜の部。昨日以上に楽しめた。「妹背山婦人庭訓」で、福助がお三輪の大役を懸命に演じて好感をもっ た。吉右衛門の鱶七は、大きさ厚さをさほど感じさせてくれなかった。松江の赤姫と梅玉の白塗りとは尋常に似合っていた。今夜のは、だが徹してお三輪の芝居 で、福助の試金石であったが、熱演、満足させてくれた。
 その福助の子の児太郎襲名、弟橋之助の子、国生、宗生の初舞台披露を、祖父芝翫、福助・橋之助、義兄の勘九郎とその子 七之助が、花を添えての創作舞踊の舞台さなかに、楽しく行い、うまい見せ場を作ってくれた。満場割れんばかりの喝采で、めでたかつた。役者の子は役者であ るというと語弊が有ろうか、蛙の子は蛙で、二歳と十ヶ月の稚い子が花を咲かせる。五世歌右衛門六十年祭の花でもあった。
 断然の花は、だが、富十郎と雀右衛門とで水も漏らさず踊りきった「二人椀久」で、富十郎は微塵のキズもない完璧の歌舞 伎踊りをみせ、感嘆の余りなんども唸った。雀右衛門の松山の、位の高い深切な踊りにも感心した。芝翫一世一代の道成寺のわるかろう道理もなかったが、今夜 の椀久は完成された藝と藝術の美しさであり、当代至福の舞台の一つであった。
 勘九郎と福助の夫婦に、扇雀、鶴藏、獅童、また富十郎、東藏の付き合った「魚屋宗五郎」は、さすがに勘九郎が大いに楽 しませたし、皆鶴姫ともお三輪ともさまがわりの魚屋女房お浜を、福助が好演した。しっかりもので実のある世話物女房が、芝居でも落語でも味わい面白くわた しは好きだ。
 ただ、この芝居は、後半の玄関先、奥庭の場は割愛して、魚屋の場をさらに充実させ、宗五郎が花道へ出、お浜が追うて、 そこで盛り上げて終えても一芝居ではないかという気がする。後半は、やや呆気なくなるのが、惜しいのである。ま、富十郎の殿様が実をみせる場面、贔屓には 嬉しいのだが。
 扇雀丈は、尋常に、情味のある御殿女中を演じていた。

* 歌舞伎は、およそは無条件に楽しめるのだが、今回は昼夜とも、演目がとても良くて、なによりであった。妻も、 おお満足。大の贔屓の父芝翫、福助・橋之助兄弟、義兄の勘九郎とその子七之助らのおめでたというのが、花あり=はんなりと、気持ものびのびしたのである。 ひょんなことからご縁をえた扇雀丈の親切をいただいたのも、有り難かった。昼夜ともすてきに嬉しい座席であった。

* 「やえーこ」のこと。  『早春』拝読いたしました。いつもながらの記憶力には驚かされます。特に数々の女性 遍歴?を昨日の事のような新鮮さでお書きになる事が出来るのは、やはり作家のすぐれた特性なのでしょうか。私も「好きやん」を思いだしてみましたが、相手 の顔もボンヤリしていて、当時の感情など、よみがえるべくもありませんでした。
 弥栄中学校が弥栄小学校だったのは知りませんでしたが、うちの大人達もやはり「やえーこ」と言っていました。校長は恒 平先生の時と同じ、チョビ髭の垣田五百次さんでした。教頭は高木先生で、本に出てくる「社会科の高木先生」ではないかと思います。大変な熱血漢でした。
 私は西村敏郎先生が顧問の美術部に入りました。美術部の部屋がどこにあったか、ご存じですか?
 西村先生は水泳もやっておられたので、色浅黒くハンサムで人気がありました。
 一年生の時、文化祭の準備のため夕方まで残された事があって、二、三年生は向かいのパン屋でパンを買ってきたのです が、一年生の私は小遣い銭など持っていなくて、みんなが食べるのを見ていました。その時、西村先生がご自分のパンを半分に割って黙って差し出されたので す。私は嬉しかったのか、悲しかったのか、恥ずかしかったのかよくわか
りませんが、おそらくそんな感情がごちゃまぜになって、思わずポロポロと泣いてしまいました。
 今でもこれを書くと、涙腺があやしくなるのですが、これは忘れる事が出来ません。私にとっては西村先生は今でもヒー ローなのです。
 橋田二郎先生は当時悪ガキを相手に奮闘されておられたので、「怖い先生やなあ」というイメージでしたが、私が美大を卒 業後、受験塾のようなものをやっていたとき、お嬢さんをつれてお見えになり、やさしい先生だとわかりました。私はデザインのほうをやっていたのでお付き合 いはありませんが、以後のご活躍はご存じのとうりです。30年も前の事なのでわたしのことを覚えておられるかどうか・・・
 恒平先生の家庭のことでありながら、これは私の家のことではないか?と思う所もあり、あの時代の、あの地域はどこでも 似たような生活をしていたのですね。カガミにうつるおのれの姿を見ているガマのように、タラリ、タラリと脂汗が流れるおもいです。

* 図画の西村先生のこういうエピソードに触れ得たことがとても嬉しい。わたしもこの先生が好きであった。

* 千葉の勝田貞夫さんが、わたしの『猿の遠景』が好きですとメールを下さった。作品のOCR複写をどんどん手 伝って下さり、湖の本で三巻もある『神と玩具との間』をもう全部複写してメールで送ってもらっている。どうすればそんなに早く出来るのか、魔法でも使われ るのかと驚くばかりである。嬉しい。有り難い。奥さんと一緒に玉三郎を観てこられたともメールにある。いいなと思う。歌舞伎でも帝劇でも俳優座でも、妻と いっしょなので、安心し、落ち着いて楽しめる。一人ではつまらない。もっとも能だけは付き合ってくれない。目の玉がデンクリ返るほど眠くなるというのだ、 わたしでもそうだが。
 

* 九月十三日 水 

* まんまろき月   逢えないとあきらめていた十五夜さまに逢えました。銀箔のお月さま、照りわたっていますの に、ちょっと翳りを帯びているようにながめられます。
 そちらは、どのようなお月さまでございましょう。
 母がお花を飾り、おだんごを供えて、お月見をしていましたのは、いつごろまででしたでしょう。
 不出来なむすめは、何もお供えしないで、ただ、ながめているだけ。ベランダのすすきは、まだ穂を出していませんし、秋 海棠に紫苑、風露草くらいしか、お月さまに見ていただくお花はなくて。

  まんまろき月みるごとに愛(は)しけやし去年(こぞ)の秋よりきみに逢はなくに

 『早春』の、あの少女、とおもったり、少年のこころの世界とおもってみたり。
 今夜のお月さまのおかげでございます。
 雲が出てきました。「月はくまなきをのみ」でございましょうか。よいお月見になりました。                  

* 引かれてある短歌はわたしの高校一年生の時の作、「姉」に逢いたくてたまらなかった。
 こういう風情をすっかり忘れて暮らしている人も、人が、多い昨今だが、大事なものを置き忘れているのではないか。

* 雨の上がった昨夜、雲間から出た十五夜の月を眺めました。天は泣き過ぎ、被害の大きな雨でした。名張は大丈 夫。そちらは。泣雀

* 名古屋の若い友人が高台の寮にいるが、「四囲水におかされています」と。高松城の水攻めのようで、「泳げるか い」と聞いてしまった。

*  (院展)で誰かの作「冬の通天橋」で、暫し立ち止まりました。秋でないのが気に入りました。娘に教え、今この中で、そこと分かる人はいないよ、と。案の 定、後ろで「清水寺」と言っている人がいて、教えてあげたいのをグット我慢。画題は「洛南」でした。永らく観ていませんが、京都の薄雪を置いた景色が大好 きで、今も、通学途上の白川筋や祇園さんの社、円山公園、知恩院、平安神宮、銀閣寺、きりなく思い出せます。それだけを観に行きたいぐらいです。いい絵を 観せて戴き二人で喜びました。ありがとう。一緒ならもっといいのに。
  西村敏郎先生、繪の好きなお友達の話ですと、良い絵を描いてたそうです。

* 朝起きると、こういうメールが届いている。殺風景に過ぎがちな東京暮らしの日々を、ほっと、しばし忘れられ る。
 今日は元の学生君と、その、院展や博物館へ行ってくる。あとはお茶の水で「企画会議」とやらに初参加。どんなことにな るのやら。
 

* 九月十三日 つづき

* 上野駅で待ち合わせて上尾敬彦君と国立西洋美術館で、またレンブラントとフェルメールらの展覧会を観、ついで 都美術館で院展を観た。院展では数点佳作があった程度で、数点もあったのだからヨシとしなければならない。瞬間風速の吹き付けてくるような魅力のある繪に は、ほとんどお目にかかれない。田淵俊夫がよかった。小倉遊亀の遺作が異様
に光って美しく感じた。
 西洋美術館の方は、だれか若いアヴェックの女性の方が「どれも気の晴れる繪ではないのね」と言っているのが耳に入っ た。つまり、大方の作品に、ファシネーションが無い、力がないと言っているのだ、その通りだ。

* 精養軒のグリルでゆっくり、すこし贅沢におそい昼食をし、のんびりと話し合った。それから、上野の山をまちへ 下りて、秋葉原電気街まで散歩した。電気街に上尾君をのこして、総武線でお茶の水へ。

* 「イーブック イニシァティヴ ジャパン」の企画会議に、初参加。スタッフを紹介されて、ビールで歓談三時 間。注射はしたが、食べずにビールばかりを呑んでいた。よろしくないことであった。
 一年契約にサインしてきた。わたしの何が役に立つというのか分からないけれど、社長もスタッフもわたしよりだいぶ若 い。仲良く歓談が続けられれば、むしろ私の側にメリットが生まれよう。企業にこんふうに参加するとは夢想だにしないことだった。好奇心がどう満たされるの か、具体的な負担や義務は何も負うていない。

* 雨のお茶の水など、会社にいた頃以来のこと。ああこの辺は、などと「思い出」を甦らせたりして。

* あすの言論表現委員会シンポジウムを、側面から支持しようと、電メ研で実施したアンケートを取りまとめた「座 長報告」を書いて、委員の皆さんにメーリングリストで意見を求めた。賛成の回答が多く届いている。アンケート回答をそのままここに掲載するのは、署名原稿 ゆえ躊躇っているが、わたしの「纏め」はいいだろう。それなりの資料性もある。以下に書き込んでおく。

*  電メ研実施アンケート回収の概要報告        座長 秦 恒平

 日本ペンクラブの「現在電子メール使用の会員」約百七十名を対象に、回答は四十四人。
 質問・回答の内容上、数値等に置き替えては纏めにくく、通覧した感想を概略述べる。
 質問は、大きく A  電子メール(通信) B インターネット(検索・取材) C  ホームページ(表現・表出・広報) D  その他の問題 に分けた。
 パソコンの利用と「自己表現」とは、今は概ね、こう分かれている。

<A> 「電子メール」

1) どう、役立てているか。
 原稿送付、校正往来等の事務交換・打合せ、取材・質問・意見交換等、「実務通信」的な利用が大半を占める。他方、海外 家族友人や知人友人たちとの親密な「交際交信」に大いに便利を感じ楽しんでいる人も多い。この後者から、新しい文藝・文学の「芽」のふく可能性が感じられ る。
2) 思い立った動機。技術的なこと。
 簡便、迅速、安価、個と個の密度等が挙げられ、パソコンへ入って行く最も大きな動機となっている。回答の殆どが、期待 を裏切られることなく、満足し活用している。
3)電子メールの「文章」に、特徴があるか。
 手紙よりラクで便利とする「実務」的な使用者は、「文章」意識は低く、即座・当座の達意を重んじ、時に簡潔ゆえの冷た さやぶっきらぼうに走って、失礼や感情的誤解を招く怖れも実感している。他方、人と人の「交際」を大切にしている人は、相手によりさまざまな「表現」を享 受しあっており、従来の手紙以上に、親密で、新たな「表現」意思が働こうとしている。器械の故に文章文体が、変わる変わらぬといった心配や意識は、総じて 稀薄。
4)電子メールの最大の利点と欠点。
 迅速・簡便・安価・原稿保全・同文同送・親密・実務的・即答を免れる、等を利点とし、わずかな不注意で意志疎通に粗略 な齟齬・不十分・失礼を生じること、過度になると応接に追われること等の欠点も意識されている。
5)推奨するか。
  極めて便利と感じている人が多く、推奨する人は「実務」「交際」の両方に多い。奨める相手方だけでなく、自分にとってもメリットが増すからでもある。

<B> 「インターネット」
  表現・表出への関わりで言えば、これは概ね、目的有っての「検索」「取材」に大いに活用されている。漫然としたサーフィンを楽しんで、風任せに「世界」を 探訪している人は、少ない。むろん、それも大いに可能ではあるのだが。
 極めて有効に使用できる人と、その域に至っていない人との「有効度」判定に、際立った「差」が出ている。利用・活用に 慣れれば慣れるほど、インターネツト利用の「検索・取材」は著しい効果を挙げている。学者・研究者・ノンフィクション系筆者には、不可欠のものになってい る。
1) 資料・情報の蒐集に、インターネットを、どう、役立てているか。
 人それぞれの目的や関心により探索の「方向」こそ違え、習熟に従い、また検索情報や検索方法の効率化・的確化にしたが い、少なくも基礎調査段階の能率は、「一年かかるところを数分で」と強調できるほどの、効果を挙げている。情報の精粗を判断し、勘が働いたり要領を得たり するのにも、習熟度・使用頻度がものを言っている。使用を重ねて工夫と勘とが働けば働くほど有用になると言えようか。
2) 有効度の実感。
 1)に同じく、慣れた人ほど、効果を極めて大きく見ている。
3) 推奨するか。
  「こんないいもの」を商売敵の他人に推薦などするものかという回答者が二人いた、ほど。1)2)に同じことが言える。

<C> 「ホームページ」
  設置している絶対人数はまだ少ないが、前回調査時に比し、格別増加している。だが、その利用は、いわゆる「自己宣伝」「広報」に大きく傾いている。「表 現」本位に、自分の作品・文章をホームページ上に専ら掲載公表している例は、まだ少ない。
「チャット」「掲示板」を利用し、不特定多数との接触・交信・グループ化を試みている例は増えている。また、作品よりも 「日記・日録」の更新・公表により、自己の声・言葉を発信し続け、ホームページの目玉にしている例が増加している。
 その一方、ホームページを、原稿用紙・発表誌・著書・作品全集・作品保存庫・作品展示場として、徹底的に「表現」の場 として用い、膨大な「コンテンツ」を擁した「アーカイヴ」の役をさせている者も現れている。
 学者・研究者・調査者がどちらかといえば、インターネツトの検索能力を活用するのに対して、今後、作家・詩人たちは多 く「ホームページ」を自己表現の有効な場として考慮して行くのではないか。電子時代の文学の新人も、ここから生まれてくる可能性は大きいと見たい。
 ホームページの生命は頻繁な更新にあるが、更新を欠いて忽ちに立ち枯れのホームページも一般には実に多い。腰が据わっ ていない限り維持も成功もかなり難しい。
1) "わたし"の表現に、ホームページを、どう、役立てているか。
 「作品の公表、文業の保存」派は、少ない。「意見の陳述、事業や著述等の広報宣伝」が多く、「他者との交信」の場にし ている人もいる。さまざまな変化・変容を先々に期待させる。まだ極めて可塑的・試験段階的であり、大方が実験を試みている段階か。更新し維持して行くため の、「内・外」の能力が大きな問題になる。
2)設定。
 ホームページ設営もいろいろで、簡単なものは、今では簡単に一人で出来るが、複雑な作りのものには、設計者を委嘱して いる例が多い。更新まで他人に委嘱している例もある。
3)「課金」「広告掲載」
  関心を示した人は少なく、課金を実施している人はなかった。電子メディアでは金銭的なインカムは期待されていない。いや、期待できないという判断が一般の ようである。それでもいいのかという別問題もある。
 段階を踏んだ解決には、文筆団体の大きな結束と推進が何より必要であり、これの放置は、未来に大きな禍根をのこすだろ う。
5)"わたし"の「表現」における、有効度。
 おおかたがなお「単なる自己宣伝」の段階にあり、ホームページを「表現」の「場」として「方法」として認める理解は、 極く未熟なままである。
6)推奨するか。
 人の勝手という意見が多い。ホームページをどう使って行けばいいのかの、定見が成熟していないからでもあるが。

<D> 「その他」
1)パソコンでは、音楽・絵画等の表現、豊富な編集機能等。"わたし"の表現に活用しているか。
 そこまで、行っていない。
2)インタネットでの盛んな商取引や投資等。「表現」との関係で利用しているか。
 利用者は殆どいない。関心外。
3) パソコンの利用は、高齢者に難し過ぎるか・不向きか。
 高齢者にこそ有用で、適切な指導・助言者があり、器械が更に進歩すれば、少しも難しくはない、とする意見が六七割以上 を占めている。
 肉体的な衰えをカバーして、広大な世界へ「旅」を可能にしてくれる「有効な電子の杖」になるものと、わたしも考えてい る。「e-young」よりも「e-old」に希望がもてる。
4)いわゆる「電子本」も公表・発売したいと希望するか。
  希望者は多いが、まだ、「電子本」のビジョンすらよく定まっていない。「電子本」も著書と認めると画期的な判断を下した日本ペンクラブは、さらに「電子 本」の質的・形状的「定義」を試みて行くべきだと思われる。 

* 大纏めはできないが、PENの社会に、「表現・伝達」のための電子メディアの浸潤は、急ピッチに進みつつある と言える。
 更に、他に、ペンクラブとしてこの畑で見のがしてならない「電子メディア」問題は、公権力による盗聴・傍受等の「セ キュリティ侵害」問題であり、また「サイバーテロリズム」への警戒と監視と素早い反対運動であろう。事は、自分がパソコンを使うか使わないかといった私的 なレベルの話ではない。電子メディアの或る意味では危険極まりない網に伏せられた人類社会である。傍観は許されない時代に入っている、「核」に劣らず。
 また、電子メディア上の「著作権」確立、文筆家の「利益保全」対策も、今、ゆるがせにしていると、将来、臍をかむこと になる。文芸家協会との提携協議を兼任理事は率先発議して欲しいと思う。          二○○○年九月十二日

* 「e-BOOK」 で話してきたことだが、わたしは自分を「e-OLD」と呼ぼうと思っている。そういう意識で、高齢社会の電子メディアを考えて行きたい。同時に「e- YOUNG」「e-MIDDLE」の電子メディアの在りようも考えねばならないだろう。この言葉が、普通名詞として有用に使い分けられながら、問題を豊か に解決して行けるようでありたいが。

* その弥栄中学の頃の水谷(佐々木)葉子先生から、宇治上林の最上の抹茶を頂戴した。嬉しい。また中学生だった わたしのために、藏から、与謝野晶子の源氏物語帙入りの豪華二冊本を、何度も何度も叔母の茶室まではこんでくれた今井(林)佐穂さんからも、懐かしい長文 の便りがあった。二つ三つ上級のみごとな才媛であった。叔母が主宰の初釜のお遊びのために、カルタを、堅い紙に白い紙をきちんと貼って手製し、『利休百 首』を取札と読札に二百枚、みごとに毛筆で書いたのが、今もわたしの手元に秘蔵してある。鑑賞に堪える美しい筆跡で、それぐらいなことの出来る人が、本の 手近なところに何人もいた。京都であった。佐穂さんの長文の手紙は、楽しみに、まだ初めの所しか読んでいない。「思い出を書きました」と有り、ペンの字が 若々しく美しかった。

* 東大法学部長だった福田歓一さんからも、いつものように鄭重な『早春』へのお手紙が来ていた。
 

* 九月十四日 木

* この両三日熱中しているのは、中村光夫著『志賀直哉論』で、論は明晰、文体も明瞭、「批評」の文として魅力に 溢れ、組立てもかっちりと冗漫な揺らぎが全くない。名刀の切れ味とはこうかと、久しぶりに文藝批評の藝にも文藝にも触れ得て、嬉しい。全集や日記書簡に至 るまで耽読してきたところなので、論旨があざやかに読みとれる。
 かつては、あまりに厳しく、よく此処まで書くなあとある種のおそれをなしたものだが、中村さんの言われるとおりに、こ れは、これで、たいした志賀直哉への高評価であり、偏見は語られていないと感じ入った。言うべきは全て適切に的確に言い切って、無用の容赦は全くない。そ れだけに、根本の敬意、評価もまた気持ちよく深くくみ取れる。おそるべき批判の数々も、ほとんど例外なくわたし自身の感想を代弁してもらっていて、「それ はないな」と思う筆誅は殆ど無い。
 中村さんにも『志賀直哉論』は谷崎論よりも自信作であったようだが、中村さんの同時代には、綺羅星のように優れた批評 家がいたと今にしておどろくのである。伊藤整、平野謙、山本健吉、瀬沼茂樹のものを初め、もっともっと大勢の批評家の「藝」に感嘆したものだ。節度と文藝 によって批評が魅力的だった。
 昨今の、多くを知らないので言うまいが、知る限りにおいては、節度も落ち、なによりも「文藝」がない。文藝批評家と称 して いるが、本人はほとんど文藝家ではないのだ、ざらざらした手触りが気持ち悪く「おいおい」と言いたくなる。
 「中村」論だけで話を決めてしまいたくはない。志賀直哉には無数のオマージュが捧げられているが、最後の弟子であった ろう阿川弘之氏の大作『志賀直哉』を何処かで手に入れ、早めにぜひ熟読してみたい。

* 林佐穂さんの手紙を就寝前に読んだ。懐かしそうに国民学校の昔から戦後のことなどが、わたしのことも織り交ぜ て書かれていて、しんみりした。昭和二十年、敗戦前の三月に卒業生答辞を読んで卒業していった、仰ぎ見る憧れの先輩であった。卒業生答辞を読むすずしい声 音を耳の底にだいじに秘めたまま、間を置くひまもなく、わたしは、祖父と母とで「丹波」へ疎開していった。ホームシックのなかで京を懐かしく焦がれるとき には、しばしば講堂での卒業式の静粛を思い出していた。戦争もへたくれもなかった。ただ佐穂さんの声音に耳を澄ませていた。
 戦後、いつしかに叔母の稽古場に、お茶お花ともにお稽古に通ってくる佐穂さんがいた。それはそれは美しい点前でいいお 茶をたててくれる人だった。その後の生き方も結婚も、大家のお嬢さんとしては決然として個性的な進路であり、聡明な選択であったと遠くから感心して眺めて いた。断続して文通は続いていた。安心だった。子供の頃以来一度も顔を合わしたことがないが、すぐ身の側に、いつも感じている。

* 五十年も昔のことをそんなに「意識」しても仕方がないと、世間には言う人もいる。そうかも知れない。そうでは 無かろうと思い、わたしは、ここ数年は、意識して少年の昔を顧み、その頃への「旅」を続けてきた。記憶の旅は一面的なところがある。後輩にも当たる京都の 読者のおかげで、例えば図画の西村敏郎先生のまた一つ心嬉しいエピソードが伝えられたりすると嬉しくてならなかった。だが、すぐさま、べつの心よからぬ評 判を伝えてくる声も届いてきたりする。人間の「世間」ゆえ、一人の人物も視角しだいで、いい・わるいの両側をもたざるを得ないだろうが、今さらに人のいや な側面を聞き知ってみたいとは、全く、思わない。いやなヤツと思ってきた人の、思わぬいい面を教わるのは嬉しいことだが、逆は、愉快でない。そういうとこ ろに丁寧に「意識」を置くことも、また年の功というものではなかろうか。
 くさいものに蓋をする気ではない。一面からだけ見過ぎては、その一面がわるい一面の場合は殊に、いけなかろうと思うの だ。わたしの生母など、近江山城では非道の悪女のように観られていたが、大和路へまわって人に会い聴いてみると、まるで、ナイチンゲールやマザー・テレサ なみに褒める人が多く、人の人生の不思議を痛感した。そういう探訪の旅を重ねた日々も有ったのである。
 西村先生の場合、画業への不運不遇がどんなにか生活の焦れを招いていただろう、経済難もさぞあったろう。先生のあの頃 のあまりな年若さを思えば、青春の悩みも深かったに違いないと想像される。
 わたしは小学校五年から新制中学二年までを『早春』と呼んだのだが、一年入学で理科を教わった佐々木葉子先生は、女専 を出てすぐの新任だった、あの頃こそが自分の「青春」でしたと昨日のお手紙に書かれていた。佐々木先生と西村先生では、みたところもむしろ男先生の方がや や若かったかとすら思われる。二十歳代に入って間もなかったろう。青雲の思いがなかなか満たされにくい時代でもあった。そんな西村先生が、一つのパンを二 つに分けて、食べるもののない一年生に与えられていた。思い出すだけで涙腺がゆるむとその一年生は、いましも高齢にさしかかりながら告白し、なにと人が言 おうと先生はわたしの「ヒーロー」でしたと書いている。「わるい」だけの記憶からものは得られない。それを否定も出来ないが、わるい記憶は出来れば処分す るか、少なくも胸にしまっておき、わるい噂話にして人に伝えたりしない方がいい。それとも、きつちりした形で表へ出して「書き表す」か、だ。

* 中村光夫先生「志賀直哉論」とは性質が違うけれど、猪瀬直樹君の『天皇の影法師』は、彼の著作の中で最もわた したち夫婦をよろこばせ、楽しませた。敬服したと言いきっていい。わたしが、一つ批評をするとすれば、元号を論じながら、国民に「暦」を授けるという皇室 の不可侵根源の意義について一言の言及もないのは、元号そのものの根底に考察や洞察が及んでいないという一事。その余は、たいへん興味深く教えられること が多々あった。「八瀬童子」のことも、貴重な言及になっていて、「おぬし、やるな」と嘆賞の声を起こし敬服した。ただ、この議論は、独立してもっともっと 深く掘り下げて行く必要がある。『猿の遠景』ではないが、遠景がぱっと開けてくるところがあるのだ、その先をぜひ期待したい。とにかくも大きくウンと頷か せてくれた佳い猪瀬直樹の仕事である。今夜の司会も楽しみにしている。 
 

* 九月十四日 つづき

* シンポジウムは盛会で、はなしも良く噛み合い、大成功といつていい盛り上がりを見せた。電メ研アンケートも、 いい形で報告でき、「e-OLD」の時代かもしれぬ事、高齢者や身障者にパソコンは「電子の杖」になるであろうといったわたしの言葉も、新鮮に受け取られ ていた。

* 言論表現委員会と電メ研と合同の二次会も和やかに盛り上がり、わたしは、盛大に呑んで久しぶりに午前様のご機 嫌で帰宅した。あれこれ片づけている内に、もう二時半。パネラーの弁護士牧野氏をペンクラブに迎え、電メ研委員に入ってもらうことに取り決め、書類を深夜 のポストに入れにも行ってきた。森秀樹委員から、もう今夜の会合をよろこぶメールが届いていた。こんな優しいメールも届いていた。

* おひさしぶりです。
 秦さんのホームページのおかげで、木崎さと子さんの作品を読むようになりました。裏日本の気分、風土を懐かしく感じま す。私は松江で育ちました。
 中でも、『青桐』が美しい絵を残してくれました。あれは、ほとんど謡曲の「海人」との重ね合わせではないでしょうか。 書評などよんでいませんので、もういわれているのを知らないだけかもしれませんが。玉を受け取り、再生する若い女性がいて、救いがあってこちらの方がほっ とします。
 そして、ついでに。謡曲の「海人」は、きっと末期の乳がんを見た当時の作者が、そこに着想を得たのだと思いますが、い かがでしょう。
 謡に繰り返される美しい詞章は、どうやって生まれ、洗練されていったのでしょうか、いつも不思議です。生の激しいもの を、どうしたら昇華できるのでしょうか。
 激しい感情といえば、近頃は受け止めにくいようで。この夏、伊勢物語を高校一年生の女の子達、38人とよみましたとこ ろ、梓弓、花橘の葛藤は幾人かにはあまりお気に召さず、行く蛍のこの世で逢わない愛や、紫草の妹によせるさりげない愛が、「私、向イテルカモ」との感想で した。変わってきたなと思います。比較的古き良き気質を残す学校なのですけど、意外でした。
 梓弓など、ご子息さまが、現代のドラマの脚本にして下さればいいのに、と勝手なことを思っています。

* シンポジウム二次会で、わたしが今も京都くらしで、東京の会議会合には、保谷に仮の家をもっていて、そこから 出席していると思っていたという人がいた。まだ、こんな風に思っている人がいるんだと愕いた。それなら佳いのだけどという気もあった。
 早乙女貢氏は、わたしが、事実上の京は祇園育ち、女の中で育ったのだということが、信じられないと喫驚していた。わた しのことを氏はまったくの堅物だと思いこんでいた。そうかも知れない、が、まるで違うかも知れないではないか。ひとのことなど、簡単に分かりはしないの だ。
 森さんの、こんな「批評的感想」は、なかなか聞きたくても聴けないものである。すこしくすぐったいが、ま、鞭撻とも受 け取り、申し訳ないが、書き取らせていただく。

* 秦さま  今日はお疲れさまでした。
 牧野さんのメンバー入りは、うれしい限りです。秦さん、西垣さん、牧野さん、それぞれの開明のお考えに我が意を得た り、の気持ちです。
 秦さんの魅力は「スノッブのようでスノッブではなく、それが何かと尋ぬれば。。。」
「はんなり、はんなり」でありましょうか。
 辛口の『創』の篠田氏に、電メ研はなかなかご活躍を、と、ちょぴり持ち上げられ?、まんざらでもありませんでした。ジ レッタントとお答えしておきましたが、さほど気張らぬ「半可通」もなかなかいいものです。秦さんの「はんなり」に通じるもの大なり。
 電メ研のみなさまもいい方々ですし、いろいろ勉強になります。
「e-OLD」も「電子の杖」も、いいえて、妙です。さすが、りゅうせき、ながれいし。。。今後ともよろしく。
 名児耶明氏の「よろこびあふるる老人の仮名・俊成」を読み返しながら、永い一日をしまうところです。
 御身大切に。

* 有り難う存じます。
 

* 九月十五日 金

* 朝、ジャック・レモンの映画を観た。魂の色の似た師弟、夫婦の、感動へ導いてくれる佳い作品だった。なかで、 海と波のはなしが出ていた。ちいさな一つの波が大きな深い海をおそれる。べつの小さな波がその波に言うのだ、きみは海の一部、海そのものなんだよと。人の 命の一つ一つがいかなるものであるかを、これほど豊かに言い得た話はなく、まさに、バグワン・シュリ・ラジニーシに聴いたはなしなのである、これは。ちい さな波が海にかえる。このはなしをバグワンに聴いたとき、どんなに心を打たれ安心しただろう。こういう感銘に比べれば、世間のことはおおかた灰色の塵のよ うに引き沈んでいる。

* 午後ジェームズ・スチュアートとジューン・アリスンの「グレンミラー物語」を暫くの間みた。よく覚えている映 画で感動作であるが、最期が哀しく二度最期まで観る気になれなかった。佳い夫婦であった。安きにつきかけた夫に「落胆したわ」とまで言って励ましてみせる 妻、励まされ思い直して、よりいい創作へ勉強して伸び上がって行く夫。やすっぽい金銭的な成功に我とわが身を追い込んで行く夫、それを望む妻。そういう夫 婦も世の中にはあろう、多かろう、不幸なことだ。ジューン・アリスンのような妻は、創作者には宝である。

* オリンピックの開会式。きっちり観た。とても、よかった。楽しくもあり、感慨もあった。子供の頃、六十五歳ま で生きるだろうか、今世紀の最期に立ち会うだろうかと、よく想っていた。無理のような気もしたし、祖父は七十八まで長生きしていたから、六十五は不可能で ない気もしていた。そんな感慨が、二十世紀最後の、紀元二○○○年のオリンピックを迎えて心中を去来した。シドニーに何の思いもあるわけではなかったが、 先日の俳優座の芝居が流刑地シドニーを舞台に陰鬱であったことは思い出し、開会式とのコントラストに感慨があった。
 趣向の大きな、よく出来た構想と展開で、時間は一時間以上ものびたけれど、すばらしい開会式で満足した。

* ジュリア・ロバーツの映画は、妻にビデオ取りを頼んで置いた。数日出ずっぱりの疲れも取りたく、今日は短い原 稿を二本書いて郵送し、ペンクラブ事務局に理事会報告をメールで入れ、OCR原稿を校正しただけで、比較的のんびりした。
 

* 九月十六日 土 

* 「やわらちゃん」こと田村亮子選手が念願の金メダルをはやばやと勝ち取り、心の底からほっとした。よかった。 あれほどの小さい名選手に、国民が挙って莫大なプレッシャーをかけ続けてきた。応援だといえばそれまでだが、気の毒な、申し訳ない気もわたしはしていた。 他のなによりも田村選手の金メダルをわたしも念願していた。よかった。一本勝ちした瞬間の田村も、表彰台の上で国旗掲揚を見上げていた田村も、メダルに口 づけしていた田村も、インタビューを受けている田村も、素晴らしかった。美しい佳い顔をしていた。こころから拍手、涙が出た。よかった。男子60キロ優勝 の野村も金メダルを噛んでみせ、いい顔をしていた。男の顔だった。

* 朝早々に、女子トライアスロンで、伏兵のスイスが金と銅をかちとり、メダル独占の前評判のオーストラリアを圧 倒した。最後まで一二位のデッドヒートがみものであった。そのオーストラリアは、水泳男子四百メドレーリレーで、不敗の歴史を誇る圧倒的な評判のアメリカ を最後の最後に抜きさり、世界新記録で優勝を遂げた。興奮高潮のすばらしいデッドヒートだった。女子はアメリカがぶっちぎりの世界新記録で圧勝した。これ も素晴らしかった。
 女子四百メドレーで日本の田島選手が、予想もしなかった凄い日本新記録で銀メダルに輝いた。金が欲しかつた、「めっ ちゃくやしい」と破顔一笑のインタビューもよかった。

* 大相撲は十四日目にして全勝の武蔵丸が八度目の賜杯を獲得してしまった。明日も勝って、二度目の全勝優勝をし て欲しい。我が家では昔から、苦労して勝ち上がってきた異国からの力士達を応援している。

* 夜、デンゼル・ワシントンとメグ・ライアンの「戦火の勇気」が優れた作品だった。「ペリカン文書」のワシント ンとジュリア・ロバーツが好きだったが、この映画のワシントンもきりっと感銘を彫り上げていた。ジュリア・ロバーツの昨日か一昨日かの映画で、昔の恋人の 結婚式をぶちこわしに乗り込む映画はつまらなかった。「プリティー・ウーマン」のジュリアは「ペリカン文書」とはまたひと味違う美しさと魅力に溢れてい た。メグ・ライアンでは「恋の予感」が楽しかったが、今夜のヘリコプターに乗った女指揮官の大尉もわるくなかった。俳優以上に映画としてよく出来ていた。

* ついでにビデオにとってもらっていた、とびきり美貌の澤口靖子鉄道捜査官のシリーズもの第一回なのかどうか、 を、みた。例によってキビキビと、やや語り口はかたいが、ことばは明晰で、品のよさが、むしろ他と釣り合わないほどだ、が、終盤のクライマックスに来て、 演技の進境も、ますますの美しさも見られて、その部分だけ二度観ておいて、テープごと「戦火の勇気」に切り換えた。

* 遊んでばかりいるようだが、かなり勤勉に仕事もしている。九月後半はオリンピックと二度目の「対談」まで、予 定通りに大方進んでいる。

* 十月にペンの京都大会がある。理事を退くことになるかもしれず、一度ぐらいは故郷での会に顔を出さないと義理 が悪いかも知れない。妻を連れての旅が、黒い少年のために、なかなか出来ない。一泊ならまだしも二泊家の中に閉じこめておくのは、妻には堪えられない。こ れには困惑している。もし一緒に行けるなら南座での翫雀、扇雀、橋之助、染五郎の「男岩藤」を観てきていいのだが、芝居見物は独りではつまらない。
 

* 九月十七日 日

* マーゴさんのこと
 月様  掛かりつけの動物病院などにご相談されてはどうでしょう? ペットホテルなどもあるようですし、利用されると 二人旅は可能になるのでは。
 澤口靖子さんの活発な現代ドラマも好きです(おきゃんな役どころ)が、「御宿かわせみ」で見せた演技も、少し翳りのあ る落ち着いた「大人の事情」が表現されていて、よかったですね。「表現」というのは少し似つかわしくないかもしれないけれど。あのシリーズは好きで、欠か さず見ていましたの。
 鉄道捜査官、クライマックスでの犯人に銃口を向けて言い放った気迫はすごかった。美しかったね。瞳に魅力のある彼女。 防虫剤のコマーシャルもおもしろいです。
 今年のオリンピックには、県人がたくさん出られているので、観る楽しみも、思い入れが深くなりそうです。再放送でしか 観ることはできないでしょうが…。たくさんの笑顔をみたいですね。 花籠

* 花籠さん  うん、あのラストだけは美しく緊迫感を出しましたね。よかった。「御宿かわせみ」の靖子は、仰せ の通り微妙な大人の役どころを、いとおしいほど、しんみりと人柄よく演じ、大いに見直したものでした。総じて少しずつだけれど静かに巧くなりつつあるのか なと悦んでいます。みていて不快感の無いのが、わたしには嬉しいのです。
「オリンピックの顔と顔」と、三波春夫が歌っていた昔がありました。六十五歳に到達する壮大な「誕生祝い」をもらってい る気分で、オリンピックをテレビで楽しんでいます。自分の日々を、自分の思いで盛り立て盛り上げ、ゆったりと暮らせるのがいいと思うのです。社会の色々に きちんと対応できることと、そういう日々とが、両立してこその人生なのかなあ。はんなり、ゆっくり、歩んで行きたいものです。月

* 人には、「もののあはれ」に柔らかに反応し、しおれたり、はずんだりする何か不思議な能力がある。このせわし ない現代生活では、大方の人が、そんなものは押し殺して、むやみやたら忙しい忙しいと得意がっていたり、悩んでいたり、追いまくられて、痩せている。時代 の病である。そういう病を通過しなければ済まない世代もあり、一概にわたしは否定しない、が、胸の内に「花びらのように」ある、ふしぎに柔らかい美しいも のを全て見失ってしまうのは、ひからびてしまうようで、恐ろしいことだ。

* わたしが言うと少し可笑しがる人もあろうが、「わたしは、わたし」と言い募ってガンと曲げないことを誇りにし ている人があると、そんな「わたし」が何だろうと、滑稽な気がする。そういう「わたし」に限って、つまりは卑小な日常的ガンコさ以外の何ものでもなかった りする。他者への柔らかい思い入れが乏しいのである。外からのはたらきかけで自分が変わるのを小心に怖れているのである。我執。
 ある程度まで己を頑固に護らねばならぬことは、実際に多々あり、むしろ護らずに妥協しすぎるのが日本人の大きな欠点の 一つと思っている。しかし個性的で人間的な自己主張には、芯のところに、「花びらのように」柔らかい、美しい静かさが置かれてあるものだ、「かなしみのよ うな」ものと言い替えても佳い。
 度し難い頑固な人の我執には、「はなびらのような」柔らかみが、美しさが、静かさが、硬く乾いてしまっている。干上 がっている。喩えが妙だけれど、武士の情けのようなものが欠ける。それに気が付いていない。
 兼好法師が、「友」として選びたくない一つに挙げたのが、「むやみと身体健康な人」だった。そういう人は他者への配慮 がとかく欠けると。同感である。
「わたしは、わたし。変えられないし、変える気もない」などと言い放ち、「わたし」は「わたし」がいちばんよく分かって いる、放って置いてと胸を張ってしまう人は、兼好さんの言葉に従えば、共に歩むにとかく物騒である。怪我をする。
「わたし」という「我」の、いったいどれほどを「わたし」は分かっているだろうか。途方もないことだ。自分で自分がなか なか掴めず見えずに、日々、うろうろしているではないか。少なくもそのことを、幸いわたしは自覚している。

* 「御宿かわせみ」の澤口靖子の演じた、たしか類とかいった女は、花籠さんのメールにあるように、少し翳りのあ る落ち着いた「大人の事情」を、しっとりとあはれに、まさに「花びらのように」優しくみせていた。男の目で望んだ都合のいい女と批判しうる視点を否認はし ない、が、それも含めてと言って置くが、いい女であった。わたしが、現実に伴侶に選んだり作品などの夢の世界で共に生きてきた女たちは、おおかたがそうい う魅力=ファシネーションをもっている。
 頑固であることなど、なにの自慢になるわけもなく、「わたしは、わたし」と底浅く言い張る図はみにくい。バグワンに日 々に叱られ叱られ叱られているのも、そんな「わたしの、わたし」である。「わたし」に執していては安心して死ねない。安心して死にたい。

* 九月十七日 つづき

* 松坂大輔の好投むなしく、後続投手が延長十二回裏にアメリカのホームランを浴びて、日本は緒戦に敗れた。柔道 も今日はいまいちの残念な結果であった。女子新種目の重量挙げも。夜の水泳決勝がどうであったかをこれから観に階下に下りる。今日はずいぶん、いろんな仕 事を器械でこなした。
 

* 九月十八日 月

* 日本ペンクラブの九月理事会には、大きな問題が、少なくも二つ出た。
 一つは、世界ペン大会を予定していたマニラが、開催国責任を投げ出した。それに関連してかどうか、日本ペンクラブの森 山事務局長が、「自律神経失調」とかいう診断を理由に退任(事実上の辞職で離職)した。マニラの投げ出しと森山氏辞職とを関連づけた説明はなかったもの の、関連のあることは、前々の経緯からして明白であり、印象として、自ら詰め腹を切ったかに感じられる。そうではないなら、その辺は、「マニラ紛糾」に就 いて、公式に、もっと明快な総括ないし反省が、執行部から出てしかるべきであった。森山氏とやや連繋して動いていたらしき加賀乙彦副会長から、この辺に関 する、責任ある見解が率先表明されてもいいのではないか。関係も責任も無いなら無いでけっこうなことなのだ。
 わたしが、そのような趣旨の発言をしないで済ませたのは、時間的にあとの議事輻輳を察していたからと、梅原会長からの 重大な提起がすぐ続いていたからである。

* マニラの退却にいたる経緯に、日本ペンの「介入」がいささかならず影響していたことは、以前の理事会でも説明 があり、森山・加賀氏に「勇み足か」と取れるほどの批判・批評の発言すら、小中専務理事らから出ていたことでも分かる。小中氏は、今日の理事会でもまた繰 り返し、マニラはああ言うものの、世界ペン事務局の判断に手順手続きの遺憾は結局無かったのだと、締めくくりに、明言していた。それだとすると、少なく も、どこかでマニラ会議流産には、いささかであろうとも、また善意であったろうとも、日本ペンに「介入」の責任があったのかも知れない。
 その辺の総括や反省なしに、うやむやに森山氏一人の辞職が「病気」を理由にされたまま一件落着というのは、いかにも臭 いものに蓋の頬被りに思われる。一理事として、もし世間の人に訊ねられても、うやむやに返事するしかないのでは、(わたしは、いずれにせよ返事しないつも りでいるが、)すっきりしない。日本に責任は全く無かったのか、無かったのなら無かったと納得していたいが、今のままでは、次に続く梅原会長「提案」とも 関わって、己が判断に「よりどころ」が持てないのである。 

* 梅原会長は、いっそ「日本」がこの際肩代わりして「大会を開催」してはどうか、出来るだけの努力をしてみては どうかと、実のところ殆ど執拗なほど提起された。その真意を勝手気儘に忖度してはなるまいが、氏が、会長在職の間に日本での世界ペン大会を主宰し開催した いといった、そんな私的な名誉心に出た発言ではないと、わたしは直感した。そうと言葉にしては言われなかったが、マニラ大会流産、それは世界ペン大会がそ の年度に行われないという、大きなアジアにおける不祥事であり、アジアの責任であり、その裏には、日本ペンによる善意の資金集めへ介入介在したのが「裏 目」に出た、その「責任」を感じた上での梅原会長の無理を承知の提案であると、わたしは直感したのである。介入自体は梅原氏の指示や支持によるものではな かったと説明されているし、わたしもそう思っている。だが、氏には日本ペン会長としての、アジアを背負った責任も「痛み」もあろう、当然のことと思う。

* 梅原提案は、だが、「大会資金の調達全く不可能」という理由から、多くの声により事実上否決されたような流れ であった。資金だけでなく、事務的にも、来年秋までにというのは途方もない負担が予想される。資金も、一億といわれていたが、数年前のアジア太平洋国際ペ ン大会でさえ相当な資金を用意せねばならなかった。世界ペンとなれば、一億でなど不可能で、その倍もかかるかも知れない。この不況の時節にそれだけの資金 集めは確かに不可能と断定せざるを得ない。それを承知で、押してなお、梅原会長が会員達との懇親例会でも、「なんとか、やり遂げたいもの」と切言されてい たのは、よくよくの「責任」意識があるのだと、わたしは、気の毒にすら感じたほどだ。「世界ペン」開催はそれほどの、我々には大きな催しなのである。
 前の理事会で、わたしは、マニラとモスクワとの競合とか、あるいは世界ペンの会長と事務局長との綱引きがどうとかで日 本のペンが「憤慨」したりしていても始まらない。いかに「世界ペン開催」が大事かという「第一義」から、日本はマニラを説得すべきだと発言していた。梅原 会長も言下に「その通りだ、それが第一義だ」と、たしか返事されていた。

* しかるに、今日、加賀副会長からの報告では、随分前に手紙を一通送った、それに対する返事が最近になってやっ 届いたという。それも、フィリッピン・ペンの主要なメンバーが「旅行」中であったので返事が遅れた、マニラは、大会開催をすべてギヴアップするという返事 だ。わたしの聞き違いなら申し訳ないが、そういう加賀副会長の報告だった。なんという、ことか。これでは日本ペンが、マニラ開会へ精一杯のことをしたと は、とても言えまい気が、わたしは、する。これほどこじれた問題に、手紙一本で説得が利くとは思えないのだが、執行部の誰かが出かけたという話は出なかっ た。電話したとも出なかった。
 ワキからの無責任な感想で申し訳ないとも思うが、一理事の口をはさんで身を乗り出せる余地はなかったのだから、そこは 勘弁願う。手紙の返事を受け取ったのは加賀氏のようだし、その辺も、他にどんな手を尽くしたのか、尽くしたくても尽くせなかったのか、加賀氏は責任者とし てもっと説明してくれるべきでなかったか。

* なににしても、梅原提案の真意に応じるためにも、森山氏辞職をふくめて、執行部は、もっと明快で実のある「情 報公開」を、理事会でして欲しかった。奥歯にものの挟まったウヤムヤで、責任が有った無かったすらハツキリさせないやり方は、情報公開を求める日頃の立派 な「声明」などとの自己矛盾も甚だしいと言われ兼ねまい。

* 世界ペン大会を来年内に日本で開くかどうかの道は、梅原氏の真意に沿う方向で、会長率先、模索が重ねられてい いようにわたしは思っている。その程度の責任は、日本にも「ある」ように感じているが、いかがか。問いたい。

* 次に二つ目に梅原会長の持ち出された問題は、本来なら他の理事がすばやく問題提起すべきものであった。
 教育基本法をしきりに森総理はいじくろうとしている。「天皇中心の神の國」発言にも、それは絡んでいただろう。十八歳 の青年に一律ポランティアの労働奉仕をという声も出ている、が、これは「徴兵制度への地ならし」とも取れて、危険極まりなく、憤りと怖れを覚えること寒気 のするほどだと、「戦時体験」からも、会長は面を冒して切言された。同感である。
 教育の問題は「今のまま」放置は出来ない。けれど、梅原氏の憤るそのような方向へ誘われて行っては、絶対にいけないと 思う点で、梅原さんに全面的に同意する。「日本ペンクラブとして早めにきちんとした議論を重ねたい、この風潮に文化人として抵抗したい」というのが、会長 提案であった。心から同意する。

* 電メ研としてアンケート結果を総括報告した。ペーパーを用意し、さらに、徹底させたくて比較的詳細に述べた。 総括を、会報に掲載することも諒解された。むろん、全容はペンクラブのホームページにすでに公開している。

* 例会では巖谷大四、伊藤桂一、長谷川泉氏ら懐かしいお年寄り達に逢えたし、新入会の野口敏雄氏や湖の本読者で 歌人の高橋淳子さんらにも逢ったので、途中で独り抜けだし、帝国ホテルの「ザ・クラブ」に腰を据え、ウイスキーとチーズで、猪瀬直樹著『天皇の影法師』の 「八瀬童子」の章を読みふけってきた。この本ばかりは我が猪瀬直樹に親愛と敬服の念を惜しまない。じつに面白く、じつによく調べてあり、安心感が持てる。 それもオリジナルの追及であり、大いに教えられた。
 これで京都の風土的社会的な秘められた素質にもっと彼が通じていたら、さらに深い歴史的な遡及も可能であったろう。八 瀬童子には、死と死者と葬儀の問題が基盤にある。わたしの新聞小説『冬祭り』が現代の愛を書きながら、二千年の日本の歴史にも相渉っていたのは、ヒロイン とその家とが伝えた「葬」の文化が絡んでいたからだ、そして「蛇」の問題も。猪瀬君の視点からは、当然のように、そういう「歴史」的背後の闇は切り捨てら れているのである。
 しかし、たいした仕事だ。聴けば処女作に近いとか。道理で叙述に真摯な熱がある。
 
* もう一軒、鮨の「きよ田」へ寄ってみたが、もう仕舞っていて、主人と路上で顔が合った。確かめると、たしかに「今年 いっぱい」で店を畳むというのだ、そんなことを例会の席で小学館の相賀会長と話していて、耳うちされてきた。わたしの作家人生で、「きよ田」との縁は言い 尽くせない。それは沢山な思い出がある。やむを得ない事情とはいえ、とてもとても惜しまれる。家に帰って妻に話したら、「それなら、毎月行きましょうね」 と心から言う。「ああ行こう」と返事した。辻邦生、井上靖、山本健吉、小林秀雄、永井龍男。じつに懐かしいいろいろの大先輩の面影がこの店には漂ってい る。 
 

* 九月十九日 火

* 青山こどもの城にある円形劇場で、俳優座公演の「ロッテ」を観てきた。通俗の理解を絶した、いわば「ごった 煮」の小刻みなオムニバス台詞劇で、分からないと言えばなにも訳の分からない不条理な「非劇」が進行する。どうしようもない、人と人との「無関連な関係の 哀しいやるせなさとじれったさ」で、ただ、「時間」と「身もだえに似た身動き」との連動を見続ける。
 それでも、一人一人の言葉より「身動き」が、なにかしら言葉を超えた「堪らなさ」を伝えてくる。それを面白いと受け取 ることは、けっして不可能でなかった。こういう芝居が、もっと「あっていい」ようにすら感じた。通俗でなかった。大成功しているとも謂えなかったが、印象 は鮮明、記憶には確かに残る舞台となった。
 ロッテ役の早野ゆかりは、力演。しかし、台詞劇の台詞は、声の大小と強弱とだけでなく、いわく言い難い声音の「肥痩の 妙味」でも、詩に、音楽に、して行かねばならない。それを欠くと、例えば絵画でいえば、鉄線描、琴弦描、つまり終始同じ太さの線で描くことで静かな超越性 を表現する仏画のようになり、人間のドラマとしては単調になり、いっそ「催眠効果」を逆効果として舞台にもたらしてしまう。盛んに役者は喋り続けているの に聴いているうちに眠くなり、うとうとしてしまうのである。まことに、そうなのである。
 早野ゆかりだけではない、大体にさようであったから、わたしも、隣の妻も、再々ではないが、ときどき、うとっとして目 をとじているときがあった。

* 結論的には、短くない上演時間を楽しんでいた。めずらしいタチの思想劇とも言えたが、「思想などなにも無いと いう思想」の劇であったのかも知れない。しかし、どの俳優達にも、若い人たちにも、好感が持てた。一人一人の「演じ方」に身を寄せながら楽しめ、演技者達 の表情に終始生彩があった。どんな芝居でしたと聞かれては返事に困るが、面白かったかと聞かれたら、なかなかのものだったと答えるのに躊躇しない。妻も同 意見であった。

* 器械の前で目に優しい眼鏡を作ってもらってきた。遠いところは、今の遠用でよく間に合っているので、器械の画 面と手元の資料とが同時に読みやすいようなのを、作ってもらうことにした。十日ほどで出来る。

* 「きよ田」に行きたいというので、外苑前から銀座に戻り、うまい鮨を食べてきた。今年中に店を畳むと、朝、出 がけの配達郵便の中に、挨拶状が届いていた。何とも言いようがない。せめて、冬到来までに何度か主人の顔を見に行きたい。やすい店ではない。いや、「銀座 の鮨」とひところ「値の高いもの」の代名詞になった、その中でも途方もなく高価につく「きよ田」の鮨だけれど、いつも、それだけのことはある鮨なのだ。酒 の酔いにも満たされ、いつものように路上で見送られて、銀座大通りの方へ店を出てきた。
 一丁目辺で、ソフトクリームも食べたいというので、ひさしぶりにアイスクリームの専門店の店頭に腰をかけた。

* 千葉の勝田さんが、次々に湖の本エッセイの巻々を、OCNでスキャン原稿にして送ってきて下さる。時間の余裕 を得て校正し、ホームページに取り込んで行く。こころからお礼を申し上げる。
 ここ久しくメールの不調で連絡の無かった姫路からも、かろうじて、また声が届き始めた。
 

* 九月二十日 水

* 『早春』をすべて校正完了し、「創作欄 7」に収めた。

* 片づけてしまわねば片づかない仕事を、終日、片づけつづけ、少し肩の荷を軽くした。まだ山ほど用事がある。日 本サッカーが、ともあれオリンピック決勝リーグに進めることになったと妻が二階へ報せに来てくれた。朗報。

* 午過ぎのテレビで、童謡の作詞で聞こえた齋藤俊夫と謂ったか、その人の生涯をあらまし見聞きして、「里の秋」 に思わず嗚咽してしまった。佳い歌である。もとは戦時鼓吹きみの作であったのを、戦後に、初の引き揚げ船を迎えるに際し、三番の歌詞を改作したのが、じつ に良かったのである。
 「尋ね人の時間」というラヂオ番組に、息をころして聴き入ったような時節であった。わたしなど、身寄りにそんな誰一人 いない子どもでも、よそごととは思えずに聴いていたのだ。妻の父はインドネシアに出征していた。どんなに復員帰国の日を待ったことか、「里の秋」の歌詞 は、そのまま母と自分との思いでしたと妻も涙をこぼしていた。
 なにを今さら感傷的なと笑われるかも知れないが、あの引き揚げ船を国を挙げて迎えていた日本の日々を、わたしは最も印 象に色濃く残している。忘れてしまいたくないのである。それは「南国土佐をあとにして」という兵隊たち望郷の歌の話を聴いたときにもわたしを捉えた感情で あった。笑われようとも、忘れはしないのである。思い出せば自然に涙が湧くのである。仕様がない。
 学校の先生であった齋藤が、敗戦とともに責任を感じて教師を辞職し、貧に堪えたという話も胸をうった。「里の秋」は美 しい詩であった。「岸壁の母」という歌も、身につまされてじっと聴いた。
 

* 九月二十一日 木

* 手紙などの返事の必要な、まだ出来ていないのが二十通残っていたのには、参った。メール返信はラクだけれど、 封書はもとより、ハガキでも、宛名から書かねばならない。封書で届いてくる手紙はじつに嬉しいのだけれど。

* むかし、学校で「が」の発音をくどいほど指導された。むきだしの砂混じり、赤土のような「が」を耳にすると、 気分もギスギスする。この「が」を、文章で多用しすぎないようにといつも思いつつ、気の荒れたり走ったりしているときほど、「が」「が」と、連発してしま う。恥じ入る。一つでもいい、よけいな「が」は少なくしたい。あんまり騒々しいから。

* 空腹を、楽しみはしないが、ま、いいですと、やり過ごせるようになっている。胃が小さくなってきたか。なによ り難儀に見苦しいと思っていた腹の膨らみがいちじるしく減退した。いちじるしくと思っているのはわたしだけだろうが、妻も、さよう認知しているようであ る。服がゆったり着られるようになった。
 

* 九月二十一日 つづき

* サッカーのワールドカップと同じように、韓国と共催で世界ペンが開けませんかと会員の一人から声をかけても らった。国際事情に疎いわたしで、韓国ペンの実情などをよく知らないけれど、一つの可能性として考慮に値するであろう。事務的には難問が犇めくであろう が、実現すればすばらしい。

* 昨夜おそく、むかしの学生君から親切に、なにか器械のことで困っていませんかと問いかけてきてくれた。いろん なことが、ある。最大の関心事は、ホームページの index.htm を、どういう組成であるのか理解して、なんとか自力で、ファイル=頁を大増補してみたい。小説もエッセイも講演も湖の本も私語の頁も、膨らめば今の何十倍 にもなる。千葉の勝田さんの親切な応援で、湖の本のもう十冊ちかくがスキャンされ、今日は『死なれて・死なせて」が届いて、みな校正待ちの状態。新作にも 豊富に場所が欲しい。新しい腹案、試みも、脳裡に膨らんでいる。体裁は今のままで良く、ドカーンとファイル数を倍にも三倍にも用意しておきたい。
 ホームページの書き込みを始めた頃、田中孝介君に、一ファイルの分量がこんなに多いホームページというのは例が無いで すねえと呆れられた。どうやら、其処に一番の特色が生まれてきているようだ。「アーカイヴ=所蔵庫」「ディスプレー=展示場」「e-BOOK」「e- DIARY」そして「e-MAGAZINE」を考える時機ではないかと。

* ソフトボールが、カナダと初めて苦戦し、延長戦で勝った。柔道の百キロ男子が悠然とすべて一本勝ちで金メダル を手に収めた。水泳は苦戦しているが、野球は善戦している。サッカーも苦境を先ずは脱して決勝リーグ入りした。
 その一方で怪我に泣いている選手もいる。コンディションを保つのも難しく、コンディションを最良の時点へ盛り上げて行 くのも難しい。選手選考の段階でハイレベルに仕上げ、オリンピックの場で下り坂という例もあるようだ。千葉すず選手が、的はオリンピックの時機に絞って調 整しているのにと言っていた意味が、あの時にも分かっていたけれど、いま、まざまざと分かる。難しいものだなと、どの競技のうまくいった選手にもいかな かった選手にも、ご苦労さんと言いたい。

* 梅原猛さん、あれだけの発言をされて、どう進まれるのか、気になる。台湾では、中国が乗らない。日本から韓国 へ提案してはどうか。その線をともあれ検討してみてはどうか。韓国に花をもたせて日本が支えるのでもいいではないか。だが、資金が集められるか、そんなに すばやく、そんなに多く。簡素にこぢんまりと出来ないものか、日本流のあのばかばかしい過剰な接待はやめて。
 

* 九月二十二日 金

* こんばんは、秦さん。
 シドニー五輪の競技は、ご覧になっていますか?
 私は、柔道をしていたので、夕方から始まる決勝の時間帯は、テレビの前に釘付けです。今日の井上選手の優勝も、とって も嬉かったです!
 日本人にとっての五輪。祭典→まつり→神事というベクトル。そこには絶対に勝利がなくてはならないし、美談を用意する 辛苦克服の道のり、みたいのがなくてはならないようにも思えます。
 でも今回は、あまり泥臭さは感じられないと思われませんか? 日本人選手の技術全般が向上して、その為、スポーツとしての五輪を、余裕を持って見られるようになった、という事なのでしょうか。と、素人が勝手に推測し てみていますが、それでも柔道はお家芸、「やっぱり日本が勝たなきゃ…」などと内心思っている私、そんな私にとってのオリンピックは、楽しいもの、という よりも何だかんだと言って、やはり厳かな式典、であるのかもしれません。
 黒帯は持っているのですが、ドイツへ行く前に、二段ぐらいはとっておきたいと思っております。でも、体力が落ちている 事を、その前に気付かされて、きっとすぐに挫折するような…そんな気も致しております…!
 それでは、失礼致します。 井上選手の優勝に、興奮冷めやらぬ   * * * *でした。

* 京都においでの、恩師の孫娘。大学を出て、留学前の語学特訓中とか。
 

* 九月二十二日 つづき

* 聖路加での、まる半年めの糖尿病検診は、全ての数値が、前月を少しずつ良く上回っていて、褒められてきた。血 糖値が低くなり過ぎないようにとだけ注意された。「正常」といえる範囲内にキープしていて、場合により、起床後のインシュリン注射の単位を「6」から 「4」に減らしてもいいと。

* 気分を良くして、のほほんと、今日は街を遊び歩いた。おしまいには高いビルの25階へ上がり、赤いワインで廉 価な洋食のコースを食べてきた。灯ともし頃まで腰をすえて、街が美しく見え始めてから帰ってきた。

* ブラック・ピットとハリソン・フォードの「デビル」を観た。この若い方の人気俳優を初めて見たが、ペーソスを にじませて、なかなかの味わいであった。

* 女子水泳で銅メダルをとった選手の泣き顔も笑顔もよかった。柔道女子の重量級の銅メダルも立派だった。男子重 量級で期待していた篠原が、決勝で明らかに一本勝ちしていたのを誤審され銀メダルにされてしまったのは、今回オリンピックの大きな汚点の一つになった。可 哀想であった。伝えるNHKの有働アナが泣いてしまったのは珍しいが、折に適いそれも自然であった。日本中の悔し涙を代表してくれていた。
 

* 九月二十三日 土

* ミマンに、次の連載原稿を送った。次の出題短歌も俳句も、佳い作品が選べたと思う。漢字一字、難しいかも知れ ない。

 ほのあかる林の奥のかの( )とも思いみつめて深草をゆく

 明日への( )いくらかありて種子を蒔く

* オリンピック女子水泳、四百メドレーリレーで銅メダルを獲得したのは偉かった。とても良い締めくくりになり、 嬉しかった。野球は同点で松坂投手を交替させたときに負けを確信し、あとを観なかった。サッカーも同点に追い付かれた追い付かれ方がまずく、負けを予感で きたので仕事に戻った。やはり負けた。ソフトボールもビーチバレーもしっかり勝ち進んだ。頼もしい。 
 陸上男女百は、準決勝決勝を楽しんだ。順当勝ちマリオン・ジョーンズの笑顔が美しかった。ジャマイカのオッティが惜し かった。銅メダルをせめてと応援したが四着。しかし今日のオッティも、丈高く、女神のように美しかった。前のオリンピックで、人のフライングに気づかず、 無念無想、独り半ばまで疾走したオッティのあの美しい走りを、わたしは忘れない。崇高なほどに見えた。今日の準決勝を、一位で駆け抜けたオッティのあの美 しい姿を記憶に刻みたい。もうオリンピックを走るオッティには逢えないのだろうか。

* 野球は残念でした。 陸上競技に夢中だったでしょう。夕方からはサッカーもあるし、忙しいこと。
 朝すばやく、おはぎを二十個ばかり作り、仏壇にも供え、それから、渋滞のなかを時間をかけて下谷まで車を走らせ、お墓 参りをしてきました。エライ
 ブラック・ピットの以前の映画、題名はココマデ出てきて思い出せませんが、山での遭難から、偶然、チベットで若き頃の ダライ ラマに出会い、家庭教師を乞われ、ヨーロッパの知識を教えたという、実話を元にしたとても良い映画がありました。機会があれば、観てください。映画の題 名、思い出しました。「セブン イヤーズ イン チベット」
 昨日の彼の映画は、アイルランドの「IRA」のテロ問題の映画でしたね。イングランドとアイルランドとの確執は根深い ものと、映画なり、読み物で多少は分かっています。他国の人間には、ましてや日本人にはとても理解し難く、何年も前にそのテーマの映画を観て知り、以後、 時々ニュースで、目に入ると、少しは関心を持つようになりました。宗教上の問題がテロに繋がるなんて。その味では日本は太平ですね。
 只、常はそんなもの念頭にありません。何事も、いざこざは人間のエゴイズムから発しているので、多かれ、少なかれ、当 然、永久に解消されない問題でしょう。 ナーンテ。
 ワルイ事は言いません。肩を揉むちいさな電動の道具を使ってみてください。ナショナルで良いのがあります。マッサージ やへ行くのも良いと思います。いずれも一時的です。でも、とても、軽くなりますよ。
 明け方佳い夢をみました。お元気ですか。

* ふつうの家庭の主婦の論評である。おもしろいことを、さらりと言う。
 とくにいま、左肩が、痛烈という以上に猛烈に痛い。去年にもこんな事があった。一昨年にもあった。

* ホームページ、大増頁計画を思い立ち、希望プランを昨日おそくに布谷智君に伝えた。実現すれば嬉しいが。 
 

* 九月二十四日 日

* シドニーオリンピック女子マラソンで、高橋尚子が、すばらしい走りの、大きな大きな金メダル。終始安定した堂 々の優勝で、35キロまで競り合っていた強豪シモンに、ついに一歩も前へ出させず、あざやかに振り切って大差をつけた。感嘆のほか無く、すかっとした。 ほっそりとかすかな少女選手が咲かせた、今回オリンピックの大輪の華であった。胸のつかえがおりた。金と言われていて、金メダルを確実に取った。他の山口 (七位)市橋(十五位)二選手も健闘した。市橋は途中まで三位に入るかと思わせたし、山口ははやくに不運な転倒事故がありながら入賞にもちこんでいる。立 派だった。

* さて、一回目の「対談」速記録に大幅に手入れをしなくてはならない。最初からそのつもりで話していた。だが、 大仕事だ。二回目がこの三十日。それに間に合うかどうか分からないが。

* 布谷君からホームページ改造のプランが届いた。が、さて、その先がどうなるのか、どうしていいのか、見当が付 かず、問い合わせている。全く新しいファイルを多く増設しようとしている。既設のも大幅に増頁している。アーカイヴとしての充実だけでなく、新しい「e- magazine 湖=umi」を、わたしの名で編輯しようと考えている。「e-mails 湖=umi」も記録に遺そうと思う。許可が得られれば、他の人の佳い書簡も保存したい。さ、どうなるか。ホームページ容量も倍増を考えている。

* 十月の歌舞伎は、歌舞伎座昼夜も京都の南座も良い席が取れた。十月には梅若万紀夫の能に二日も招かれ「卒塔婆 小町」と「清経」とが観られるとは、楽しみ。三百人劇場の「怒りの葡萄」にも招待されている。スタインベックの名作をどんな舞台にしてくれるか、劇団 「昴」には凡作がないので、期待が大きい。大寄せの秋の美術展は、「院展」もそうであったが、どうしても量ばかり大きく多く、静かに打ち込んだ鑑賞ができ ない。それよりも五島美術館や根津美術館や博物館へ脚を運ぶのが賢明だ。しかし観てみたい友だちの作品もある。こころよく日々を過ごしたい。

* 「イーブック」の方、会社へなかなか顔が出せないので、スタッフたちと、メールで意見交換をすることにした。 その方が思案した意見が言えるし、何を言ったかの記録も残せる。会話では不十分な思案も、書くとなると、お互いに煮詰め合わねばならない。いい方法ではな いかと思う。
 すでに昨日、二人と、それぞれにメールを送り合い、質問などにわたしなりの返事を送った。試行錯誤をかさねることにな るだろう。
 

* 九月二十五日 月

* 新宿で一つ用事を済ませてから、市ヶ谷経由で麹町の文芸春秋西館に。
 三時から、文芸家協会の知的所有権委員会。四時過ぎまで三田誠広委員長司会者の大長広舌で、「会議」始まらず、さなが らの独演講説会。「会議とは何ぞや、」もう少し参加者に話し合わせる作法と配慮を心得て欲しい。へたくそな長編小説のように、喋りに喋って隙間もなく、と どまるところを知らない。思わず「会議をしようよ」と言ってしまった。
 で、結局、報告し解説され意見もたっぷり添えられた用意の話題のなかで、いちばん、いまのところ処置の手だての乏しい 「新聞社のデータベースに対する課金」問題だけを一つ話し合い、あえなく他は時間切れ。
 電子メディアの我々の側からの「出版契約書」対策、文化庁の著作権管理に関する「立法」内容に踏み込んだ、我々側から の検討、盗作という問題、表現の自由と人権被害の問題、三島由紀夫書簡の利用問題など、いずれも、新聞五社データベスでの「原稿再利用」に対する金銭見返 り案よりは、みな、差し迫って対策や意見交換の必要な急務であり大事であるが、結局、なーんにも話し合われないまま、司会者の言いっぱなし。
 委員会をせっかく設置した以上は、理事会主導でことをはこんで事後報告するだけでなく、委員達の意見交換や議論の上に 立っての大きな対策が、本来の在りようだろう。上命下達、お話をただお伺いの会合では、たんなる時間つぶしになってしまう。何故かなら、委員一人一人がた だ報告を聴いておしまいでは、ことが稔りも変わりも動きもしないのだから。報告会でなく、討議の会にしてもらいたい。事務局にもその辺の舵取りをしっかり 願いたい。
 五時過ぎ、何処へも寄らずに帰った。こんなメールが届いていた。

* メールのヴァアジョンアップ、さて、届くかな?  今日も汗ばむ午後の時間が過ぎていきます。夏の暑さが今年 はあとあとまで残っています。
 19日のあなたのメール、その文章のほぼ全て、日ごろ私が自分に向かって述べている言葉そのものでした。改めて人から 言われるのはとても辛いですが、そのようにあなたから見ても感じられるから、そう書かれるのでしょう。当然のことですね。乙女らしくとは思いませんが、一 体いつになったら私の甘さは克服できるのか・・・。
 試しに、ここまで書いて送ってみます。やれやれ、やっと届くようになったかと言う、あなたの呟きが聞こえそう・・。

: 第二信  やってみれば何でもないことが、やっとクリア! やれやれ、言っても解らないかと言われては、私の女も廃ってしまいますものね?! そうで しょ?
 nifty,yahoo共に、これまでのままにしておいて下さい。yahooは、外国からメールを送る時に使います。 117の方からは送信しないことにします。
 外国に行くのはある意味で「逃亡」ですが、積年の夢でもあります。春の旅の続き、というより「振り出し」に戻ってフラ ンスの田舎のロマネスク建築を見たいと思っています。これからの人生の時間を何に向かっていくのか・・・? 簡単に答えが出てくるはずもありませんが、い ま少し見守って下さいな。能力ではなく、エネルギーを私は頼りにしていますが、いつも空回りしているんでしょう!?
 今日はユーゴの選挙の情報が懸念されます。
 オリンピックのマラソンなど、楽しんでいます。野球は巨人、巨人と騒ぐのが嫌で・・これは判官びいきでしょう・・ただ しどのチームを応援しているのでもありません。
これまでメールしなかった分、「初心」に戻って書くようにしましょう。

* 日々の問題を、シンドクなるほど、こねくりまわしている女性が、あっちにもこつちにも、多そう。平和に生活が 成り立ち、貧乏ではないらしいが、あまり健康でもない。心配である。
 次の此のメールなどは、健康で、屈託にも負けていない。

* よかった!  金メダルに、こぼれる笑みの心意気。楽しみながら走れたとコメントする高橋尚子さん。支えてく ださった人たちへの感謝が素直に語られていたことに感動しました。清々しさが胸を打つ。15位の市橋さんは中学生のころから、毎年恒例の徳島駅伝で活躍さ れていましたし、水泳の源さんも学童記録を塗り替えて新聞紙面を賑わしていましたのよ。今度の男子マラソンの犬伏選手と、10000メートルに出場の弘山 さんも、ともに駅伝出身と言ってもいいぐらいで、身近に思いながら声援を送っています。
 一方、エアライフルの竹葉さんへの、日本協会の冷遇には、怒りがこみ上げています。個人で資格を得た彼女に対しての、 団体である協会の配慮のなさ。所属していないことへのいやがらせともとれる今回の出来事。
 オリンピックへの、日本の代表としての出場ともなれば、競技に集中できる環境作りに専念してこそ成績につながるという もの。二週間も前に現地入りしたものの、協会が用意した宿舎にはお湯もでなくて、風邪をひかれたとか。コーチの入場IDカードも、決定した二月に協会に申 請をしていたにもかかわらず、交付してもらえなかったというのだから。個人コーチゆえなのか。
 現地で申請に奔走し、銃は携帯することが規則であり、一人の彼女はトイレにいくにも預けられずに携帯したという。重い 銃をかたときも離せずに、筋肉痛で腕が思うように上がらなくなっていたと。
 持っていた力を十分に発揮出来ずに不本意な成績で終わってしまったけれど、「子供を一人産んでから、また競技を続けた い」とコメントした彼女に、アテネ大会への飛躍を期待し、応援したいと思います。一つの島に立たれ、同じ色を見て感じられるご夫婦の活躍を。
 まだまだ気の抜けないテレビ観戦になりそうです。

* このホームページでの、「e-magazine湖=umi」の刊行に希望をもっている。わたしの読者にはすぐ れた力をもった人がいっぱいいるのを、幸い、よく識っている。残念ながらまだインタネットの使えない人の方が多いけれど、使える人も増えている。原稿料は 払えないけれど、幸いこのホームページには「いい読者」がかなり集まっていて批評の水準は高い。そういう人たちからの思い思いのエッセイや論考や詩歌や書 簡やまた創作を、むろん署名入りを原則に、各欄ファイルを分けて編集・積み上げて行ければ、電子時代にさきがけて、意義を生じるかも知れない。「湖= umiの本」のわたしだから可能かも知れず、どうか、原稿を依頼したら表現を試みてくれますように。むろん、率先寄稿して貰うのも歓迎ですが、「編輯者」 である「秦恒平」の「取捨」にはしたがっていただく。それが、わたしの「責任」になる。さ、どうなるか、まずは、そういう頁を新たにホームページに設定し なければ始まらない。
 

* 九月二十六日 火

* 終日、対談の速記を読んで、手を入れていた。これまで、この対談の内容にここでは触れてこなかったが、かなり の論戦になっている。老いと死と時間と成熟、そして不安と救済。宗教学者の山折哲雄氏と一文士のわたしとでは、やはり基本
考えに於いて異なるところが在る。わたしが拝聴する姿勢をもてば対談はインタビューふうに穏当にすすむだろうが、そうは 行かぬところが、どうしても出てくる。根底に、いわば「死」を修業したり「死」を学問したりする人の言説や実践を、すんなりとは受け容れにくいものを、わ たしが持っているという事。話し合っていてそれにはっきり気づいた。それで、かなりハラハラと火花が散りかけている。そのために、対談は、山折さんの手の 入れられようにもよるが、真剣勝負に切り結んでいることが分かってきた。前回の別れ際に山折さんが笑って、「次の一戦では」と言われていた意味が、少し見 えてきたのである。
 とにかく、きちんとした仕事に仕上がるのを望んでいる。大仕事である。

* ソフトボールは可哀想だが、予想通りの結果になり、銀メダルの二位。しかし優勝したのと少しも変わりない大活 躍だった。なにしろ優勝戦を争ったアメリカをも含め、予選では全勝しての決勝戦であった。当然勝ったとも奇跡的であったとも謂えるのである。とにかく強 かった。立派というもおろかな大奮戦、大勝利をおさめてくれた。拍手を惜しまない。シンクロナイズド・スゥィミングは、あまり好みではないが、銀メダルは たいしたもの。オレンピックももう終盤に入った。はや、こころもち寂しい心地もする。

* 織田一磨展の招待が未亡人から届いた。むかし、長い論考を発表したことがあり吉祥寺のお宅にも何度か取材に いった。石版画の詩人、魅力的な画家であった。町田での内覧会が、次の対談の前日だというのが、少し辛い。 

* 六日に梅若万紀夫の「卒塔婆小町」がある。十九日には同じく「清経」がある。折角のお招き、そうでなくてもこ れは、二つとも見落としたくない。
 

* 九月二十七日 水

* 京都からすばらしい出来の松茸が届いた。繪の描けないのがくやしいほど、大きな締まった笠のひらきが美しい。 土の香までが旨そうで。松茸飯にすると例年はすごい量を悦んで食べたが、今年はそうは行かぬ。佳い豆腐を買い、贅沢なほどの汁にもた。家の中を秋の香がた だよう。
 虎屋の「夜の梅」と「おもかげ」とが二棹届いた。最高の好物なのに、これも少しずつ。少しが、旨いという味わい方をい やでも覚えてきた。宇治の上林からも一保堂のお茶も、いただいて間がない。ありがたいことだ。

* 男子陸上二百の準決勝に日本の二人がともに勝ち上がったのは、快挙といわねばならぬ。ファイナルはとても無 理、よく二人ともここへ伸び上がったと嬉しくなる。女子一万の弘山選手にも期待をかけている。棒高跳びのブブカにも、めでたい花道をと、彼の久しい経歴に 感謝したいほどの気持ちでいる。勝てば、奇跡だが、前回にも彼は奇跡を現じたのだ。

* ペンクラブの高橋茅香子さんに『英語となかよくなれる本』(晶文社)を戴いた。お話を聴くようにやすやすと読 める、むろん日本語で書かれた本である。ああもっと英語で読む習慣を自分に強いておけばよかったと、ちょっと今さらに悔しい。そんなことを言ってないで、 なかよくしたいなと思わせてくれる親切な本である。友だちが贈ってくれたジョージ・マキリップの『竪琴』三部作がいつも手近にある。高橋さんのひそみにな らい、アガサ・クリスティーも買って来ようかなと。アガサの訳本は、ほとんど、家にあるのだし。
 やはりペンクラブの相原精次さんには、『鎌倉史の謎』を戴いた。これは歴史の本でもあり、踏み込んで興味津々読める。 歴史の大石垣の大事な隙間をしっかり埋めて行くような探索であり、大事な仕事だ。
 佐高信・福島瑞穂共著の『「憲法大好き」宣言』をいただいた。ずんずん読める。「平和思想」の根本にかかわる所、民主 主義・主権在民の基本に関わる所、現憲法の基本のところは、改変に反対である。時勢に遅れてどうにもならない手続き法的なワキのところは直せばよいが。明 治憲法の文体に劣るの何のといった、キザで二義的な議論はムダであり、経緯はいかにもあれ、誇るに足り護るに足るいいところは、敬愛して維持し続けたい。 残したい。佐高・福島二氏の議論が上滑りせず説得力に富んでいることを願いながら、読み始めている。
 むかし、東工大におられたドイツ語の野田教授訳の『アッティカの大気汚染-古代ギリシア・ローマの環境破壊』(ヴェー バー著)も面白い。人のやることは変わらないものだと苦笑いも出る。
 ペンクラブの斎藤俊彦さんに戴いた中公新書『くるまたちの社会史』がまたたいへん面白い。乗り物は道とともに発展す る。人力車から自動車まで、この歴史、身近であり示唆にも富んでいる。
 やはりペンクラブ会員で湖の本の読者でもある中野完二さんにいただいた『太極悠悠』には、ぐぐぐっと目を引き寄せられ るエッセイがところどころまじっている。「毒蛇」とか「へびと大嘗祭」とか、気になっている機微に触れてある。まさに日常から見つめる非日常の不思議に筆 が届いている。
 作家でドクターである庄司肇さんの「きゃらばん」五十号も頂戴した。小説風に、評論風に、雑文風に分けてすべて氏の原 稿で満たされてある。私版の文集で五十号、縦横無尽の論客である。敬服する。
 ペンクラブの齋藤雅子さんから戴いた新潮社の大冊『絶えて櫻の』は、業平の昔の業平が語る私小説。応天門炎上の時代で あり、それだけで大胆に意欲的な取材だと分かる。もっとしなやかな、時代と主人公にふさわしい文体と文章・表現ならいいのにとは思うが、難しいことであ る。取り組んだだけでも力業で、書き上げてあるのだから、えらい。
 そして津野海太郎・二木麻里編徹底活用『「オンライン読書」の挑戦』と、芝田道さんに頂戴した、こんな時どうする? 『Eメールの素朴な疑問』の二冊は、座右を離さず今まさに「活用」中であり、感謝している。
 目下読書の芯は、『志賀直哉全集』および中村光夫『志賀直哉論』、それと西鶴。さらに心から信頼し、欠かさず音読して いるのがバグワン・シュリ・ラジニーシの、今は、『道(タオ) 老子』の下巻。こんなに魂に触れて嬉しい本はないのである。
 その他「ミマン」連載のために過去現在の歌集句集歌誌句誌をひっきりなしに探査し鑑賞している。倉橋羊村さんに戴いた 『俳句実作辞典』も手の届くところにある。

* ブブカが跳べなかった。奇跡はならなかったが、偉大な選手だった。「だれにでも終わりがあるのね」と妻は言 い、「鳥人が大地に帰ってきました」というアナウンスにわたしは感謝の泪を流した。すばらしい選手だった。前回の最後の最後の跳躍前に咆哮したブブカ の凄まじい気迫と顔とに、わたしは励まされた。あのブブカ、同じあの時の孤独のランナー、オッティの二人を、わたしたちは愛して忘れない。

* 今日も終日、山折さんとの「対談」に根気を集中していた。そのためか、左肩の痛みたるや激痛といってもおかし くないのだが、こう始終だと、激痛に付き合っているという気分で堪えている。鉄丸のように堅く張っている。勝手にせよという気分。

* 十月十日火曜夜から秦建日子脚本の連続ドラマ「編集王」が始まると、テレビは再々予告しているらしい。素材に 劇画でもあるか、おやじは見てられないからと息子は予防線を張っている。
 それよりもわたしは、ホームページで編集する気の、「e-magazine湖=umi」を発足させるのが楽しみだ。甥 や息子の原稿も欲しいが。
 

* 九月二十七日 つづき

* 器械がひどいことになっていて、対談速記の手入れをしていた一太郎liteが、どうにもならず怪我をしたらし く、折角丹念に手を入れていた原稿が、すべて消滅したに等しい状態にある。こうして、ホームページもメールも何とか復旧したに係わらず、一太郎は回復して いない。今は、他の何よりもこれが困る。現在、こういうエラーメッセージが出ている。どういう意味か、どうすればいいか、おわかりの人は教えて下さい。
警告は、「プログラム開始エラー  TAROLITE.EXEファイルは欠落エクスポートJSMISC32.DLL: 580にリンクされています。」そしてまた「C:\JUST\TAROLITE\TARORITE.EXEシステムに装着されたデバイスは動作していませ ん」と。「必要なDLLファイルMFC42.DLLが見つかりませんでした」とプログラム開始エラーも出ている。

* 何としてもTAROLITEの中の「対談」原稿を救出しなくてはならない、対談の直しだけで、相当の原稿量に なっている。やり直すのはとも無理な気がする。

* 器械は怖い。こういう事態になると、ほんと、どうしていいか分からない。困った。こうなった理由も分からな い。
 

* 九月二十八日 木

* ほとんど徹夜してあれこれやってみたが、一番大事だった「対談」速記の手入れ原稿を喪失してしまった。発言 56回の45回分を、ほぼ完璧に手入れし充実させていた。気合が入っていた。それをすべて喪っただけでなく、器械の全体が不安定で、今しがたはメール送信 も出来なかった。絶不調の危険きわまりない状態にある。MOと外付けに、ホームページをはじめ、原稿類を避難した。
 このNEC  LaVie、どうも端から、不調つづきであった。わたしの扱いが悪いのだとは分かっているが、困惑甚だしい。妻に譲ってあるウインドウズ95へ緊急避難し て、さ、どうするか、えらいことになった。
 それでも、だましだまし、今もこうして使っているが、これが無事転送できるかどうかは、やってみないと分からない。

* 帝劇の「鏡花幻想」の招待が来た。前回の浅岡るり子主演作は、会議でみそこねた。意欲的な女優と聞いており、 前回の舞台も評判が良かった。惜しいことをしたと思っていた。今度は、かりにも「鏡花」である、楽しみなことだ。

* だが、その前に二度目の対談が、この土曜夕方。何の心づもりも今回は出来ていない。無手勝流を余儀なくされて いる。それもまた体験か。こんどは、山折さんの流れに虚心に乗って行こうと思う。

* 器械の故障で「対談手入れ」の仕事はサッパリの憂き目にあったものの、考えようでは、大方の他の仕事が片づい ていたのは幸いだった。たとえ器械は使いにくくとも、やりなおしは利くのである。その時間もある。十月、京都へ発つまでにはきちんと片づけられるだろう。

* 男子走り幅跳び、どたんばのみごとな逆転優勝が凄かった。男子二百決勝に伏兵のギリシァが金メダルをさらった のも面白いみものだった。

* 福島瑞穂が、国会や政治のあまりのひどさを悔しがって書いている。佐高信との共著の冒頭で。書かれてある殆ど の件に、わたしも言論表現委員会の抗議声明や要望書などでかかわってきた。反対の声明づくりにも参加してきた。ことごとく、役に立たなかったような虚しさ と悔しさがある。福島のような非力な党の非力な議員では、悔しさは倍も何倍もあろう。菅直人が予算委員会で森や宮沢を追いつめていたが、答弁は、要するに 何も何も具体的な手はつけずに「国会のご議論」をとごまかしているだけ。そんなふうに、何もしないなら、じつはまだしも。そんな顔をしていながら、かげへ まわって政府与党が考えたりしたりしているのは、国の運命、国民の運命を、被管理奴隷の低きに押し込んで行こうという強権政治への布石ばかり。おそろしい ことだ。
 

* 九月二十九日 金

* 神戸の芝田道さん、千葉の勝田貞夫さん、そしてほらがいの加藤弘一さん、消息のこのところ途絶えていた林丈雄 君にも、器械の混乱を案じた親切ないろんな手立てを教わった。有り難い。教えてはもらえないが心配してくれたメーラーも少なくなかった。有り難いことであ る。幸い、器械は動いている。林君にいろいろ電話で告白したが、それはいけませんと言われることを、幾つかやっていた。「DLL」という大事な何かが働か ないと警告が連発されてお話にならなかったが、問題の起きた一太郎liteを「再インストール」してみたと言うと、それもへたにやると危ないと脅かされ、 縮んだ。事実はそれでなんだかかなり回復し、しかし、肝心の原稿だけは全滅して見つからない。
 じつはもう一つ、一太郎でパスワード付きで書き込んでいたファイルも行方知れないのだが、ヒヤヒヤする。
 もう一つ、やった。デフラグという機能で、長時間かけてハードディスクの最適化を試みた。さらにスキャンデスクという のも、やはり長時間かけて動かした。そういうことを、昨日の深夜に思いついてやったのが、よかったのか、わるかったのかも、分からない。作業の進行をじ いっと待ちながら、福田恆存作の戯曲『明智光秀』をぜんぶ読み上げてしまった。これが面白かったので、トクをした気がした。
 林君など、器械をひらかせ、電話から電話で、ファイルとフォルダの「検索」の細かい実地指導をしてくれた。見たことも ない画面がまたしても現れ出て、わたしは舌を巻いた。扱った日時までみな現れ出たのには仰天した。それを全部メールで送れと林君は指示してくれたが、 ちょっ待って頂戴と辟易もした。九月二十七日から八日までを検索して、269件も内容があり、彼は、全部点検して消えた原稿が残存していないか調べてあげ ると親切そのものだが、さ、そうなると、わたしはマルハダカを覚悟しなければならない。いやもう、凄いことになるものだと、面白くもあった。
 対談原稿は、やっと、半分近く書き直した。明日の間には合わないが、見通しは立った。ひょっとして対談は二回でも量的 に足りるかも知れない。

* 今日、実に久しぶりに、十年どころでなくご無沙汰であった人と電話で話した。電話をし終えて気がつくと、はじ めからしまいまで、パソコンの話をしていた。向こうでも大いに気が動いていたからではあるが、林君にも笑われたが、わたしもエライことをやっているもの だ、まさに「e-OLD」だと苦笑してしまう。しかし、電話では本気で奨めていた。なんだか、うすぐらく逼塞したような日々であるらしいので、よけい奨め たのだが、遠からず嬉しいメールが舞い込むかもしれない。  

* 四百リレーが準決勝三位で決勝へとは、短距離日本勢、やってくれる。一六○○リレーでバトンミスがあったのは 気の毒だが、それも勝負のうちである。
 マリオン・ジョーンズが走り幅跳びには勝てなかった。一人で金メダル五つなんてのは、多すぎると思っていた。十七歳の 少女の、ハンマーなげに優勝したのがすばらしかった。新体操、体操の床、シンクロナイズド・スウィミングなど、人の趣味と主観とで採点される競技はあまり 好まない。百メートルの疾走ではらはらするのと、演技の失敗にはらはらするのとは、味わいがちがう。綱引き、縄跳び、腕相撲を種目に入れて欲しい。
 今世紀最後のオリンピックともそろそろお別れかと、そぞろ寂しい。ジャマイカのオッティが女子四百リレーか八百リレー のアンカーに出るかも知れないと聞いた。そうだと嬉しいが。どんなメダルでもいい、上げたいのだ。

* 二度目の対談を無事終えて、明日の今頃はのんきに出来ているだろうか。そんなことを言うている間にも、校正の ファックスが二本流れ込んできた。肩がジンジンギリギリ痛み、首がまわらない。
 

* 九月三十日 土

* デフラグを敢行したのは不味かったと、加藤弘一さんに注意された。ハードディスクの「いわば大掃除」をやる作 業なので、例の残したかった対談手入れのファイルなどが率先して消去されたであろう、もう見つかるまいと。
「多分、ファイルを修復するスキャンディスクと勘違いされたのだろうと思いますが、デフラグはハードディスクの大掃除で して、削除データの残骸を完全に抹消してから、ファイルの並べかえをはじめるので、今回のような場合には絶対に使わない方がよいと思います。
 ソフトウェアの再インストールは基本的には有効な手段ですが、自分で作成したデータを、そのソフトウェアのはいってい るフォルダーの下のデータ保存フォルダーに置いている場合、データ保存フォルダーまで新しく作り直すという困った措置をとるソフトウェアがすくなくなく、 そうしたソフトウェアでは作成したデータがすべて消えてしまいます。(一太郎がこういう乱暴なことをやっているかどうかはわかりませんが……)。
 これを防ぐために、昔からパソコンを使っている人間は、データ専用フォルダーを別に作り、カスタマイズ機能によって、 そのフォルダーをデータ保存フォルダーに指定していることが多いです」と。
 いや、参った。貴重な助言で私しておくのは勿体なく、参考にされる方もあろうと、加藤さんに申し訳ないけれど、ここに 引用させて貰う。感謝に堪えない。言われるとおりの「再インストール」の影響らしきものも出ている。おお、器械よ。
 なんとか、だが、そのままではあるが器械は使えている。

* 山折哲雄氏との第二回の対談は、四時から六時前まで、まず無事にいろいろと盛りだくさんに話し合えた。十月末 に、もう一度。今日山折さんはこのためにだけ上京され、済むと折り返し京都へ帰られた。恐縮する。

* 春秋社は神田明神のわきにある。社を出て、さてどこかで食事をと横断歩道からすこしガーデン・パレス・ホテル の方へ移動した目の前に、なにやら小粋にハイカラに店を開けていたのが、お茶の水「小川軒」ではないか、地下の食堂に入って、スープ、サラダ、そして豚尾 のシチューを赤のハウスワインで注文した。ワインの量が少なく、隠元のスープもサラダも、パンも、もひとつであったが、シチューだけは濃厚に純熟の柔らか さで、すこぶる美味であった。満足した。佳い店をみつけたものだ、それ以上の道草は食わずに帰った。ともあれ一つ肩の荷が下りてらくになり、オリンピック のいろんな種目をリプレイで楽しんだ。

* 布谷君が次の三連休のどこかで家に来て、ホームページの改造増頁の面倒をみてあげようと言ってくれている。あ りがたいことだ。ぜひ、それまでに、C:\ディスクの容量を増やしておきたいが、またやみくもに削ってはえらいことだ。

* 枕元の本で抜かしていた一冊がある、河野仁昭さんに頂戴していた『中村栄助と明治の京都』で、枕元であきたら ず、このところ外出時の鞄に入れていたのである。東遷後の明治の京都は、未曾有の試練を味わったものだが、それだけにまた仰ぎ見て讃えたいほどの偉人も輩 出した。中村栄助は生粋の商家の人であったが、新島襄と出逢い、その清潔な人柄と精力的な意欲とで、事業家としてもむろんだが、府政に市政に国政にもみご とな足跡をのこした。ああこんなに立派な人がいたのだと嬉しくなる。これこそが近代の京の町衆であり、人格者であり、懐の深い基督者であった。
 河野さんの「京都」の仕事にはつねづね敬服しているが、この本はひときわ優れた著述になっていて、地味な評伝であるの に面白く感動させられる。こういう人物を、黒川創のような批評の力のある京都出で同志社出の作家に、豊かな小説にしてもらいたいものだ。明治の京都に興趣 と郷愁はもっていたが、これほど優れた啓蒙書に出会えたのは幸せであった。中村が新島の薫陶をかくも深く受けていた同志社の主要な社人であったことなど も、わたしは全く知らないで来た。疏水開設にも市電開設にも、平安神宮建立にも、めぼしいあの時代の京都の大事業には悉く主要な役割を担い、市民の信頼を 得ていた。その三男が、わたしの少年時代にながく京都市長をしていた高山義三である。

* 今朝早くの血糖値が、85。理想的な正常値であった。シチューを堪能してきての明日の朝はどうか。

* 「近・近用」という眼鏡ができた。器械の画面と手元の小活字とに焦点が合う。そういう売り言葉だ。いま使って いる。スクリーンにはいいようだ。手元に近い字もよく見える。パソコン専用のようなもの。もう永いつき合いで、眼鏡は外苑前まで作りに行く。池袋から赤坂 見附経由で行った。いつもは原宿から表参道まで行き、歩く。
 今日は帰りを表参道まで歩き、半蔵門線を利用して国立小劇場の光響会へ。
 望月太左衛さんの鳴り物・打ち物・お囃子の大 きな会で、朝から晩までひっきりなしに番組が続く。全四部で、番組は五十ほどもある。そのうちの九つ半を楽しんできた。楽しいのである日本の打楽器・弦楽 器と笛との合奏は。飽きない。ほんとは、もっともっとゆっくりして行きたいのが本音で、うしろ髪を引かれる思いで二時半過ぎに失礼したのは、はげしい空腹 もあったが、オリンピック最終の男子マラソンと、閉会式が頭にあった。

 何のことはない、家に帰り着くと、もうあと二キロ地点をエチオピアが走り、ケニアが追い、さらにエチオピアが走ってい るではないか、日本の三人は影も形もなくはるかに後塵を拝していた。これなら、せめて「勧進帳」、できれば太左衛と長左久の姉弟で競演する「黒塚」まで聴 いて行きたかった。
 それでも、聴いた九つの全部がすこぶる楽しめたのだから、よかった。素人と玄人との混成で、玄人が素人のワキを固めて いる。そういうお稽古の発表会的な側面もあり、じつは、それが楽しいのでもある。鳴って欲しい小鼓がなかなか鳴らなかったりする。それをワキの先生や先輩 がささえる。稽古事と稽古場の面白さは、わたしも多少は叔母の茶室や生け花の稽古場で観ているし、温習会にも何度も出かけている。へたでも真剣だし、着る 物にも気が入っているから見栄えがする。少女が一心に鼓を打ったり、自信満々のオバサンの、見事なかけ声は出るけれど鳴り物の音はくすんだり、べつに皮肉 ではなく楽しいものである。太左衛がはらはらしたりしているのも面白い。西洋音楽をシーンとして聴いているより、はるかに退屈しないし窮屈でないし、ひと りひとりの出で立ちに官能的な魅力すら感じられる。
 おまけに、とてつもない名人が藝を披露してくれる。太左衛、長左久はもとより、助っ人で出演している中には、笛の尾股 真次、望月太八がいたし、太鼓に伊和家小米がいた。大鼓の望月太左尚も頑張っていたし、初々しい横川真衣が一心に小鼓を鳴らしていた。堅田喜代や鈴木庸 子はベテラン、素人さんの不足をしっかり補っていたし、長尾彰子もいつものように奮闘。男では大塩徹がいろんな分担で健闘し、「春興鏡獅子」の太鼓を、栗 原洋介がとても頑張っていた。若手の玄人では遠藤昌宏がいい気合いで気持ちよかった。 一年のうちでも「光響会」公演は最もくつろげる佳い音楽会である。 望月宗家のお姉ちゃんとはいえ、太左衛さん、家元太左衛門と長左久を率いるかたちで、すばらしい活躍だ。岩田喜代子さんの会で、初めて、舞台に小柄な太左 衛のはちきれんばかりの太鼓を聴き、いっぺんに惚れ込んだのが、もう大昔だ。

* さ、オリンピック閉会式が始まると、階下から妻が呼んでいる。

* 美しいギリシァの神女たちの手に厳かにオリンピック旗が渡って、今世紀最後のシドニー・オリンピックは果て、歌う清い少女の頭上で聖火は天上へ飛び去っ た。盛んな直会の宴が続いている。サマランチ会長の挨拶にも実があった。
 少年少女たちが歌い上げたギリシァとオーストラリア国歌もさわやかであった。世紀末の健康な祭典を、選手諸君、有り難 う。ブブカ選手がIOC委員に選手団から選ばれ、第一番に登場したのも良かった。さ、終わったのだ。もう三ヶ月で二十一世紀。わたしは十二月二十一日に満 六十五歳になる。
 子供の頃に何度も指折り数えて、半信半疑だった。そこまで生きているだろうかと。それが昨日のことのように思われる、 ほんとうに。兄恒彦にも生きていて欲しかった。

* 河野仁昭著『中村栄助と明治の京都』を読み終えた、電車の中で。何度か嗚咽しそうに感動した。優れた人間が存 在している、それだけで、感動するのだ。いい本を読んだなあと思う。
 梅原猛さんから大冊の『法然の哀しみ』が贈られてきた。法然こそ最良の宗教者という思い入れは、わたしにも同じものが ある。むろん親鸞も明恵も日蓮もすばらしいが。大冊だけれど気を入れて読みたい。
 

* 十月二日 月

* 木挽町歌舞伎座で、昼の部・夜の部を通して一日で観てきた。幸い、妻も疲れなくて。夜の、猿之助骨寄せの岩藤 と玉三郎の二代目尾上に、すっかりよろこんでしまい、どこへも寄らず、帰り道も元気だった。
「後日の」岩藤は、けれん芝居らしく趣向沢山で、宙乗りも観て楽しく、骨寄せも早変わりも大化けも笑ってしまうほど面白 い。なにがさてと言うことなど何も残らないのに、とにかく満場をかっさらって沸かせに沸かせる。わたしも妻も沸いていたのだから、勝負は猿之助たちの勝 ち、負かされて機嫌よく疲れも忘れていた。負かされて楽しかった。
 玉三郎はやはり佳い。位と品があり、自信のせいか、することが、すべて悠揚せまらず、安心させる。尾上もよかつたが、 昼の部の仁左衛門との「お祭り」がしごく上等で、禁断の酒がひとしお旨かった。仁左衛門と玉三郎のコンビは、まだ仁が孝夫の昔の「天守物語」以来だもの、 久しい。ゆったりと仲良いこと、「チキショウメ」と笑って声をかけたくなる。仁は、いっこう踊らない。踊っているマネのような大まかな踊りだ、これが八十 助だったらピンピンうまく踊って楽しませるだろう、が、だから佳いかというと、そうではないのである。うまそうになんか踊らないから、玉三郎がしんから惚 れるのである。
 仁左衛門は他に御浜御殿の綱豊を、段四郎、我当らと、また切られ与三を玉三郎と演じた。姿の美しい芯からの美男子をと いうと、この役者に当今は落ちつくらしい。演し物としては今日の三役とも、水も滴るばかりに綺麗であった。仕分けも出来ていた。わたしも妻も、それでも玉 三郎との「お祭り」にいかれた。
 我当の出番が少なく、寂しい。新井勘解由はニンに合っているものの「新井白石」の理解は不十分で、納得できなかった。 段四郎のやった富森助右衛門役を我当にやらせたかった。段四郎は科白が入っていなくて不出来だったし、孝太郎のおきよの方はへたくそで興をそいだ。アンサ ンブルを大きく欠いて、ぎくしゃくした御浜御殿だったが、真山青果の戯曲は、かすかに武士道本位で好戦的なものの、さすが充実している。序幕としては大き く、どこか満足させる。劇に位がある。
 玉のお富と仁の与三は、わるかろうワケはない程度によかっただけで、普通の出来。木更津見初めの場がおマケでつき、つ いで源治店。分かり良くはなるが、それでもまだ尻切れトンボ。あまり好きな演目ではない。玉三郎が気を入れて芝居をしていた。仁は、すこし景気がよくな かったと思う。
 もうひとつの「英執着獅子」を、姫で、福助が踊ったが、先月のお三輪の好演を帳消しにするような、チマチマした小さな 手踊りで、歌舞伎舞踊の大好きなわたしにも、この福助には落胆した。

* 昼の部が終えて四時十分、四時半にはもう夜の部が始まった。劇場で二度食事し二度インシュリンの注射をした。 カップ酒を二盃飲んだ。「と」の28と29、最良の席であった。

* 朝一番に、心嬉しい、高揚のメールが来ていた。

* こうようの気分  hatakさん
 この週末は、書き物をして過ごしました。といっても、英語の論文です。
 七年前に実験をしていて、「あれ、不思議だな?」と思ったことがありました。その後、二三年考え続けて仮説を立てまし た。それを証明する実験を計画し、薬品を探して手に入れるのに、さらに数年。実験は思った通りの結果になりましたが、さて論文が書けません。私の英語論文 作成術は、まず似たような内容の論文を沢山集めて端から読みます。使えそうな表現や引用文献をチェックして、それからおもむろに、いきなり英語で作文にか かります。ところが今回は、内容がわりと独創的だったので、参照すべき論文が皆無でした。
 書いては挫折、また挑戦、やっぱり頓挫、またまた書く。これを何年したでしょうか。ようやく先週から機が熟したのか筆 が進み、つい今し方完成した原稿をプリントアウトしたところです。苦労しただけに、喜びも大きい。今は気分が高揚しています。
 明日の朝、共著者にこれを送って、校閲が順調に進めば今年中に投稿できるかもしれません。せっかくのオリンピックを見 逃してしまいましたが、閉会式の日に原稿を書き上げたことは、きっと記憶に残るのではないかと思います。
 十月になると、札幌では木々が色づきはじめます。中旬には大寄せの観楓茶会を催す予定があり、たまには山の温泉で紅葉 を満喫しようと思っています。
 あさってからはまた大学。
 あと一時間ほどで夜が明け始めます。

* こういう気分は、わたしにも似た経験が何度もある。高揚感、よくわかる。北海道はもう紅葉らしい。
 

* 十月三日 火

* 聖路加病院の眼科検診、異常なく、一年後に視野検査をと。来年十月二日の予約。二時間待って、医師との時間は 三分間。しかし眼に安心感のもてることは喜ばしく、帰りに帝劇下の「きく川」で鰻を久しぶりに食べてきた。許容量の八倍ほどを。うまかった。また節制す る。

* OCRで原稿を用意した湖の本の第65巻が、もう初校出そろい、初校に入る。誕生日までに出れば良く、ゆっく り仕上げる。

* なにとなくホッコリしていて、ものに手が着かない。肩こりもあることゆえ、少し休むのも、薬か。京都での「美 術京都」対談もスケジュールに入れねばならなくなってきた。兄の追悼会も近づいてくる。さしあたりペンの京都大会は、ただおっとりと顔を差し出してこよ う。南座の若手歌舞伎は「鏡山縁勇繪」はいわば後日物の「男岩藤」であり、どんな趣向で翫雀・扇雀・橋之助・染五郎が演じるのか、そちらが楽しみだ。墓参 りもしてこれるだろう。
 

* 十月四日 水

* 帝劇で、浅丘ルリ子主演「鏡花幻想」を観てきた。しんみりした。佳い舞台であった。どこにもケチをつける隙間 のない舞台であり、進行であり、浅丘は実のある健気に美しい桃太郎こと鏡花愛妻の「すず」を、気持ちよく演じてくれた。たいへん好感をもった。近藤正臣の 鏡花はちと人が良すぎる気もするが、そのかわり終始嫌みというものがなかった。すずと鏡花とは、同棲相愛の仲を強引に師尾崎紅葉の手で分かたれるが、その 死により復縁し、生涯の伴侶となる。鏡花の師に対する尊崇と感謝との誠実に深かったことは誰一人疑わないが、しかも、すずとの問題では、鏡花に複雑に屈折 した恨みがましさが無かったわけではない。その辺へ突きいるとまるで別のドラマが噴き上がるのだろうが、その辺はかわしていた。鏡花の母すずと鏡花の妻す ずとの一体感を、鏡花夫妻の幻想で盛り上げて終わった。賢い収まり方とも言える。鏡花にとってはなくてはならない愛妻であった。もらい泣きがされた。
「自然派」の圧迫をつらく重く感じながら、妻の存在に助けられ励まされて、鏡花は藝術的に妥協しなかった。紅葉もこの弟 子の天才を高く評価していたに相違なく、彼はよく応えた。
 むろん鏡花は変幻自在に多彩な方面をきらきらさせた結晶体であり、とても一つや二つの芝居ではくくれないのであり、今 日の芝居などは、いちばん安易に把握可能な題材であったし、それでも鏡花の「幻想」のマカ不思議な奥深さなどは、ほんのおシルシ程度の捕まえ方に過ぎな かったけれど、すずという奥さんだけはよく見せて、成功していたと思う。それだけでよい芝居であった。音楽はやや感傷的に思わせぶりであったけれど、舞台 装置もいやでなかった。江守徹の紅葉役を演じながらの演出に破綻がなく、江波杏子が不思議な女を鋭く演じていたのも印象にのこった。

* 妻が明日は朝から聖路加での診察日なので、はねたあと、少しの寄り道もせず、帝劇の下からまっすぐ有楽町線で 保谷まで。往復の地下鉄車中で、湖の本のうち、ちょうど連載原稿一つ分の初校ができた。明日はわたしは家で仕事をする。

* いまごろ、かすかに雨の通ってゆく音がする。寄り道しなくてよかった。すこしまた鏡花をよみたくなった。この 間は『由縁の女』を読み返した、こんどは『婦系図』でも読み直すかな。
 

* 十月五日 木

* 妻が定例の病院に行き、わたしは終日家でゆっくりした。仕事もしたし、黒い少年とも遊んだし、手紙も読んだ。 「戦火の勇気」という、題はうまくないが一級の戦争映画を、また観た。映画そのものが、いい。良く描けている。

* 肩こりは相変わらず痛く、頻々と指圧して「気」を送り込む。指先がじんじんし、びりびりし、筋肉の奥のほうを 電気の走る感覚がある。指先は首筋にふれているのに、手首にまで痛覚が弾んでいったりする。三本の指先を蛇口のようにイメージし、水道水を流すように 「気」を送り込む。かなり利く。一時的に凝った痛点が柔らかくほぐれる。残念なことに、ながもちはしない。

* あすは、電メ研。できれば、そのあと「卒塔婆小町」の万紀夫へ早く移動したい。乃木坂から国立能楽堂の千駄ヶ 谷へ、三十分では無理だろうが。

* いまのこのフォントが好きなのに、思い通りにこれが出てくれないときがある。対談の手入れが、喪った元原稿の 近く迄戻ってきた。
 

* 十月六日 金

* 電メ研委員に新しく弁護士の牧野二郎氏を迎えた。おかげで今日の会議には柱というか骨格が立ち、急に話し合い にリアリティーが生まれた。有り難い。パソコンを使わなかった唯一人の高畠二郎さんも器械を揃え、やがての着手が目に見えてきた。

* ペンクラブに入会のための資格審査に「電子本」も対象にとは決まっているが、具体的にはどういうものを提出で きるのか。私案として、 ?インターネットに既に公表していること。 ?長編短編、また小説、エッセイ、批評、研究等の量的規準として、四百字原稿用紙換 算で三百枚以上相当を以て「著書一冊」と数えること。 ?審査のために、CD-ROMの形で三枚、同内容のプリントアウトしたものを三セット提出。 ? 「詩歌」の規準は慎重考慮をまって、当面は保留とする。 ?会員推薦の前に、最低三名の予備審査で二名以上の賛同を得て、初めて理事会に提出される。予備 審査は公正にかつ不可欠の手順とし、審査の三名は内容により理事会でそのつど適切に指名委嘱する。  以上を諮った。委員会で合意を得た。

* 予備審査に、「審査料」をという意見も出ていた。それはともかくとして、紙の本の場合でも、本当は「予備審 査」が厳正になされるのが筋だと思う。入会の承認までに、少なくも三ヶ月以上がかかるという位でいいのではないか。作品の審査に当たる者も「固定」しない で、理事が回り持ちに分担するぐらいでないと、特定個人が「権能」を持つようになるのは好ましくない。現に多少そのようなイージーな仕方が出来ていなくも ない。

* ペンクラブの理事任期が際限なく再任を認めているのは、おかしい。最高五期ていどを限度に一旦は退任すること で、 新しい気風を受け入れないと、苔のようにこびりついた理事ばかりになりかねない。わたしもそうなりそう。理事権限かのような安易きわまる新会員推薦が、理 事の顔ぶれ固定の勢力源のよう にすらなっている。おかしいなと思っている、わたしは。

* 国立能楽堂の梅若万紀夫の会へ、急行。「卒塔婆小町」を観てきた。今日はめずらしく「器」のほうがシテよりも かっちりと上出来だった。笛・一噌仙幸、小鼓・大倉源次郎、大鼓・亀井忠雄は、当代では最高級の実力で、じつによく音が出ていた。今日の源次郎の鼓の音色 はことに美しく深く、ほれぼれした。浅見真州、野村四郎という謡の名手が地頭を占めての地謡も、この難曲をじっくりと謡いあげて騒がしくしなかった。ワキ の宝生閑、殿田謙吉もしっかりしていたし後見を泉泰孝が固めていたのも安心だった。へたな間狂言の入らない演出なのもよろしかった。こういうことは、しか し、最近の能では珍しいのである。
 その中で万紀夫のシテの、老いし小野小町は、珍しく、可もなく不可もない演能であった。前シテの装束がやや若い感じが した、そして、ときどきそびやかに背丈高い小町になっていた。後シテの装束も、万紀夫の能では稀なことだがしっくりこなかった。むろん万紀夫にソツはな い。乱れてものを乞い、人恋しさに狂うあたりしっかり舞っていたけれど、さして哀れも感じさせなかった。「卒塔婆小町」の老いがまだ出し切れないように感 じた。見所に空席が目立ち寂しくもあった。

* 続いて萬斎の狂言「千鳥」と、万紀夫の長男紀長の能「葵上」とが予定されていたが、魅力を覚えず、独り失礼し て、懐石を食べに行った。美しい人が二度三度出てきて酌をしてくれたり、すこし話して行ったりし、帰りは玄関の外まで一人出てていねいに見送ってくれた。 たった三度目の客であるが、とても心もちの佳い出逢いと別れとがある。大きいしっかりした店で、こうしっとりとした情のあるとりなしは、かつて覚えがな い。この店、料理も佳いのである。

* あすは、ホームページの改造が成る日である。

* 鳥取県西部に大地震らしく、くわしくはまだ知らないが神戸の規模を越えているとも。心配なことだ。
 

* 十月七日 土

* 朝一番に読んだ。

* 数日前、石清水八幡宮に行ってまいりました。小侍従の父方は代々、石清水の別当を勤めていますし、小侍従自身 も、出家後、あのお山に庵をむすんでいたと申しますので、あの、最晩年の名歌の生まれたところを見たくて、思い立ちました。
 とても親切な神官の方にお逢いできて、いろいろ教えていただきました。小侍従の庵跡は、本殿にわりと近いところ、いま は、みどりがさやさやとうつくしい竹林になっていました。宿坊の一つとして江戸時代まであったとのことですが、礎らしいものは見られませんでした。
 急な傾斜の篁に入り、しばらく、竹のさやぎと香につつまれていました。精神の静謐が得られた晩年であったろうという気 がしました。
 その夜は京都に泊り、翌日、稚児ヶ池にゆくつもりでございました。清水寺の地主神社のわきの道に「稚児ヶ池七丁」と 彫った碑がありましたので、念のため、お寺の職員さんに尋ねましたところ、独りでゆくのかと問われ、うなづきましたら、とんでもないという顔をされて、止 められました。清閑寺からの道もおもったのですが、清水寺のご本尊の三十三年ごとの御開帳ということのせいでしょうか、かなり、人の行き来があるようなの で、気分を損なわれたくないと、このたびは、諦めました。
 あちこちのお庭や道の植え込みの萩が、まだ、ふっさり花をつけてうねっていました。足は自然に、『冬祭り』のヒロイン のねむる山へ向かっていました。途中のお店でお香をもとめ、入口にざっくり活けてあった龍胆と吾亦紅をわけていただいて。
 萩は白がさかり、紅も土にこまかな花をこぼしていましたが、大きめの色も深い花がなよやかにうねっていて。そして、曼 珠沙華の緋。
 鏡のお水は澄み透っていて、射し入った陽のひかりがゆらゆらちらちらもつれていました。あの方のささやき。そうでござ いましょう。
 たっぷりたっぷりお水をかけてさしあげました。
 あ、蜘蛛の巣が。たいているお香のけむりがすじをなしてただよい、秋のひかりを受けているのでした。
 わたくしのたいせつな亡きひとたちも、いま、ここに来ている。わが肩のあたりにそよめいている。鏡塚の女人はゆるして くださいましょうね、わが死者たちの振る舞いを。
 こよない時間でございました。

* ありがとう  よろこんでいます。あのひとたちも、さぞ、うれしかったでしょう。でも、あのやまに、うかとひ とりでまぎれこまぬように。まもってくれるとはおもいますが。

* 目をそっととじれば、そのままわたしはあそこへ帰って行く。うそのように、ちいさな二つのお墓。鏡の水。逢は ばなほ逢はねばつらき秋の夜の萩の花ちる道きはまれり。また季節はめぐってきた。

* 若い友人が来て、ホームページ拡充の手だてをして行ってくれた。妻のメールも設定していってくれた。近くの寿 司「和可菜」で歓談し、七時半頃に保谷駅から見送った。
 さて、帰宅して、自分でやってみると、出来ない。手順まで書いたのだが、途中からの手順であったものか、とっかかりが 掴めなくて、どうしようもない。やってもらわずに、やり方を教わったのだが、自分でやってみると、分かっていたようで手に入っていなかった。もう少し粘り たいが、そのうちに全部をムチャクチャにしてしまいそうな怖れもある。表紙が、幾種類も出来てしまい、なんだかひどいことになっている。

* 妻のメールがどんなぐあいか、やはり悪戦苦闘しているらしい、階下で。むずかしいものだ。よく分かっている人 との落差があまりに大きい。
 さあ、と、喜んで張り切って「和可菜」から戻ったが、今は唸っている。もう少し粘ってみよう。
 

* 十月八日 日

* 昨夜は、結局願いのままにはホームページ改造が実現しなかった。ただ布谷智君に教わって、何故かが分かったよ うに思われる。残念ながら、まだ、その手だてがわたしに掴めず、その「何故」を解消できないでいる。以前にも同じところで苦労した朧ろな記憶があり、田中 孝介君に手引きして貰った古いメール記録を探し出し、学習し直す必要がある。もう一歩のところで足踏み。じれったいが我慢して、何かを覚えねば。慌てず に、ねばり強く付き合わねば、この器械と仲良くは成れない。

* 妻のメールの方は、受信には成功するのに、発信は「不可」と警告されつづける。メール設定は「難しい」「難し くない」とペンのアンケートでも回答が大割れしていた。わたしの経験からも、ニフティーマネージャーでのニフテイ設定はラクなものだった。しかし、 BIGLOBEは何度も何度も試みてきて、アドレスの取得は出来るのに、取得したものを用いての受発信に「成功」しているとは言えない。受信したことも発 信できたこともあるのだが、コンスタントに安定して使えない。ニフティのように明確な手順が掴みにくい。布谷君もメール設定は必ずしも易しい手続きではあ りませんと話していた。

* 「和可菜」では、布谷君を中にはさんで三人で歓談、これは大いに楽しかった。大学をもう数ヶ月で退官という頃 に、今のうちに話しておきたくてと教授室を初めて訪れてくれ、環境問題で熱い気持ちを、気持ちだけでなく日々の彼なりの実践を、話してくれた。建築の柳君 たちともとても熱っぽく議論していた。わたしは興味深く共感しながら聴いていたし、めずらしく大学まで訪れた妻も、学生たちのそういう議論の場に加わっ て、その時が布谷智君との初対面であった。
 彼は無用のゴミも出さない作らないという生活を工夫していた。故郷福井での原発にもつよい関心をもち視線を送り続けて いた。パソコンやワープロにメリットを覚えているわたしに、その器械がふるくなり廃棄の時期がきたときに、どう処分すればいいのか、有害物質のおそるべき 大量発生にどう対応できるのかの研究は、少しも進んでいませんと警告していた。
 そして同じ問題は、現在なお、さらに増大したまま、生産との比較でいえば、閑却も甚だしい。パソコンという器械そのも のが多彩なツールに分解され拡散をつづけて行く過程で、現在のパソコン本体が廃棄されて行くとき、例えば液晶周辺に含まれている猛害物質をどう処理するの か、もう数年後にはその問題に悩まされる「怖れはあります」と彼は心配する。わたしたちも、なんとなくそれに気づいている。
 こういう学生と、やがてわたしは大学をやめていったん別れたのだが、メールのおかげで、ご縁は途切れなかった。
 布谷君はちょっと面白いモノのを書いて、見せてくれたりした。東工大の若い研究生でなければ出てこないような材料をつ かった短い小説が、長めに展開しそうな様子も見せていた。しかし大学院にすすもうという前後からは、学業に追われ、そういう余裕はなくなったらしいが、息 子の芝居を田中孝介君を連れて見に来てくれ、わたしの「e-OLD」生活の開幕に多大な恩恵をもたらしてくれた、わたしの「先生」田中君を紹介してくれた のだ。この田中君が、布谷君に輪をかけて親切な人であった。
 布谷君は、そういう若い我が友人である。東工大の生活がわたしにとり「幸福」であったのを、誰でもない、じつに大勢の 学生、元の学生諸君が如実にその存在と親切と親愛感で証言してくれている。わたしの喜びと誇りである。大学に在籍したのは四年半だった。退官して、もう四 年半が過ぎている。

* 消えた「対談」手入れ原稿を、とうどう元のところまで回復した。回復と謂うより気を入れて新たに書き直した。 八割五分がた出来たところで消し去ってしまったことになる。もう一息がんばって、旅の前に仕上げておきたい。この三連休はそのためにもくつろいで仕事が出 来、ありがたい。

* 三時前から妻を誘って近くの練馬美術館まで「麻田鷹司展」を観に行った。麻田浩の奥さんから券が送られて来 た。浩は、すばらしい画家であった、若く病魔に魅入られて惜しくも亡くなった。鷹司は兄、麻田弁自が父上ではなかったか。三人とも優れた画家であったが、 ひときわ、わたしは、浩が好きだった。第二回の京都美術文化賞にわたしは推した。受賞してもらった。芸術家であった、真に。
 鷹司の作品を纏めてみるのは初めてだが、やはり佳い境地をもっていた人だ、展覧会は心静かに豊かな一刻を恵んでくれ た。好きな作品が数点以上も有ったのは嬉しい。
 帰路、中村橋から富士見台駅まで見知らぬ町中を妻とゆっくり歩いて戻って、また西武池袋線で保谷へ帰った。夕刻前の静 かな散策で、落ち着いた。

* もう深夜。布谷君の指示を得てやってみたが、index2.htmを送り込めない。なにか、また、わたしが間違えているのだろう。今夜もまた断念して、明 日を期する。「開いて」「選択して」といった簡単な言葉に躓いてしまう。それがどんな手順や操作を意味するのかが、具体的に分からない。
 

* 十月九日 月 体育の日

* じりじりと前へ進むが、一気には行かない。布谷君から希望どおりの表紙と目次の整然としたプランが届いたけれ ど、布谷君の次に指定している指示が、手順として理解できなくて、前へ出られない。モノのたとえが、指示されている意味は大略理解できても、それを実行し 実現して行く手順が分からない。茶の湯の作法として、では「お茶を点てて」と指示されても、それには、何段階もの手順を踏まねばならないが、分かっている 者にはそれでハイと返事できる。分かっていない者は、指一本動かしようがない。マニュアルを読んでも読んでも、何も出来ないと初心者の泣くのは、それであ る。いままた布谷君の方へ泣きついている。ほんとに恐縮とは、これである。

* 妻のメールは、どうやら、ついに道が開けたように思われる。一台の機械でわたしもそれなりに別に使っていた BIGLOBEを明け渡して、私の分を削除したので、大きく前進した。布谷君の設定していたところを、一つ、わたしが勝手に変更して、手順がさらに明快に 改善された。また、アドレスが半角記入されていないところが見つかり、改めた。
これで、ほぼ実感をもって行けると感じた。

* 対談も、もう少しで、一応手入れを終わる。湖の本の校正も進んでいる。この三日間はなにとなく緊張も収穫も試 行錯誤も重なって、それらに集中できてよかった。明日からはまた過密にいろんな用事が輻輳する。

* わたしのホームページは超大冊に拡大される。いずれ表紙が、目次が、うまく新転送できれば、びっくりされるだ ろう。コンテンツを期待して厖大量のファイル数を用意した。しばらくは大方明いているが、どんどん入って行く。

* その中で、どんなものになるか、わたしの編輯雑誌が出来るよう、用意した。ホームページのなかにもう一つホー ムページを「入れ子」にした感じになるが、中身は、人に入れて貰おうと思っている。長短篇の創作でも研究でも随筆でも詩歌でも。欄を分けて、単純に積み重 ねて行く。署名してもらうが、ペンネームでも差し支えない。原稿料は出せない。いずれきちっと「要領」を作り、編集者になって、寄稿を頼むことになる。投 稿も歓迎するが、編集権も行使する。長い時間かけて創り上げたい。

* 布谷君の電話での指導で、転送への道が、いま、ついた。もう少しの手直しを経て、完成に至るだろう。布谷君の せっかくの連休をすっかりわたしのために使わせてしまった、恐縮の極み、しかし嬉しい。妻からのテストメールも届いて、布谷君から返事をもらっていた。 ウーン、刺激的な日々である。

* 忘れぬうちに。布谷君といっしょに夕食に「和可菜」寿司へ行ったとき、わたしはインシュリン注射をすっかり忘 れていた。妻も気がつかなかった。そのまま食事をした。一人前以外に、肴も切ってもらったし、車海老の塩焼きを二本、あんきもも味噌椀も、冷酒も、食べ て、飲んだ。そのことに、気づいたのは翌朝の血糖値検査をした時で、あれだけ食べたのだから今朝は高いぞと思っていたのに、いつもとほぼ同じに低い数値で あった。その時に、あ、昨晩は注射を忘れていたと気づいて、もう一度おどろいた。血糖値が全然跳ね上がっていなかった。注射を抜かして食事したのは初めて のこと、かなり調整力がからだについているらしいと、有り難かった。これは備忘のためにも書いておく。

* なぜか、この頁のあたまの似顔絵とうしろの写真が消えてしまっている。さ、どうすれば戻るのか。いやもう、い ろいろ、あるものだなあ。
 

* 十月十日 火

* 今夜から、連続テレビドラマ「編集王」とかが、秦建日子の担当脚本で始まるという。下敷きには劇画か何かがあ るらしいが、ストーリーは創るのだろう。前から、「おやじ向きではないよ」と予防線が張られている。局側からの最初の注文が「パンツを脱げ」であったと息 子のホームページを見ると告白している。この注文はいろいろに取れて意味深長と謂うておこう。裏番組は有力、視聴率は厳しいだろうが、健闘を心から祈る。

* この十日間ほどは、過密の日程がつづく。今日も明日も、午後から夜へつづけざま二つずつの、会議・会合。そろ そろ散髪したいが、ヒマがない。

*  日中文化交流協会による、中国演劇代表団を歓迎・歓送のパーティが、市ヶ谷の中国飯店であった。「ご招待」ということは、来てほしいというお誘いなので、 顔を出した。言葉を尽くしていろんなことを双方から挨拶するけれど、そういう話しぶりに馴染めば馴染むほど、儀礼的な薄さや緩さに風邪を引きそうな気分に なる。栗原小巻の長々しいアイサツも、いかにも空疎で聞き苦しかった。日本と中国との友情は永遠ですなどと叫ばれると、すばらしいと思う前に寒い ほど演技過剰だと思ってしまう。中国が、世界でも数少ない当たり前のような顔をした「核保有国」であり、核実験をする国であることをわたしは赦していな い。演劇であれ文学であれ、国家権力に奉仕を強いられ、その政治をうごかす力の無いことを頭から断念している藝術や藝術家を、わたしは尊敬していない。そ ういう藝術や文化の仲間に対し、率直になにも言おうとしないで、ただ歓迎の歓送のというアイサツの中で「永遠」の仲を喜び合う。それは尊いことでもある が、苦々しい偽善でもある。

* ま、そんな次第で長居はしなかった。では何故そのような会に入っているのか。日本中国文化交流協会は、中国 へ、二度もわたしを導き連れていってくれた団体であり組織である。感謝は感謝である。井上靖亡く辻邦生亡く、巖谷大四さんも伊藤桂一さんも清岡卓行さんも 大岡信さんも、めったに、いやもう全然顔を見せなくなっている。だからと言うとおかしいが、わたしは縁を切らないでいるのである。しかし、有り様は、もう 昔の血のにじむような文化交流という思想団体ではなくなっている。自己満足の国際社交とのみ化して、すべて軽薄である。宮川寅雄や中島健藏の時代は遠く飛 び去っている。

* 世界ペン大会を中国が主催し、日本も協力して実現できるようなら、すばらしいのだが、そして、そういう問題で 側面から日中文化交流協会も橋渡しなどで支援してくれるようなら頼もしいのだが、そういう見識も文化感覚もありそうにない。中島健藏や井上靖が健在なら、 少なくも知恵と力を貸してくれただろう。黒井千次はペンクラブの理事でもあり日中文化交流協会でも主要な地位にあるはずだが、何を考えているのだろう。

* 言論表現委員会は委員長と副委員長と理事のわたしと、三人しか、初めのうちいない有様で、遅れて委員が一人、 オブザーバーで呼んであった講師が一人、加わっただけ。しかし、「人権擁護」の名の下に、「日弁連の権力機構化」とでも謂えるたいへん難儀な厄介な動きに 対 し、対応を迫られて、少しくみなで汗をかいた。今、関連資料を全理事にFAX配布したものが、わたしの傍の機械からも出てきた。日本は、かなりかなり急角 度に急激に、変になりつつある。弁護士団体が行政的な権力へと真剣に身をすりよせ、みずからを権力機構へ投げ込もうとしているそもそもは、例え ば野放図に放埒な出版や雑誌や報道の自浄努力も能力もない悪しき自由の悪行使が呼びこんだと謂えるのである。情けない話である。自殺行為とも利敵行為とも いえる乱脈な言論表現の自由のはきちがえが、根で、おおきな害毒を培っている。なさけない、憤ろしいはなしだ。安土・桃山時代をわたしは「黄金色の暗転 期」とかつて呼んだ。現代もそのようだ。
 弁護士までが自身を与党化しようとしている。

* 長野県知事選で、田中康夫がいまや圧倒的な有利な闘いをしていることを、地元の有力新聞が報じているという。 こういう報道は、よほどの確度で優勢でないと、新聞は決して書きたがらないものなんだそうだ。だが、書かれたことで形勢が逆転した例もありはしなかった か。ともあれ田中君は善戦しているらしく、面白いことになっている。

* 連続ドラマ「編集王」第一回を見た。むちゃくちゃヒドイといったものでなく、なんとなく最後まで見ていた。 ヒーローの出来がどうのこうのと言いたい気も、特には、ない。大竹しのぶが出ているのにびっくりした。芯にいる小味な若い女優が、ちと珍しいタイプで、悪 い感じでなかった。東大建築出の新人女優の方にはとくに印象がなく、男たちには、蟹江敬三ほどのベテランが加わっているのが安心だった。ま、無事に船出し たものと見ておく。

* 千葉の勝田貞夫さんの「伝毛松猿図」の繪の入った葉書が、ことに内容面白かった。わたしの『猿の遠景』が面白 かったと前にお便りをもらっていたが、観に行かれてのハガキであった。引用させていただく。

* 国立東京博物館へ伝毛松「猿図」を見に行ってきました。
 秦さん あれは、後白河院ですね。
「清盛は、その頃、後白河院に対して優位な気分であった。一計を案じ、院の似顔絵を猿と共に、毛松に届けた。毛松は、清 盛の意を汲み、はるばる送られてきた日本猿とその似顔絵を併せて、描いた。」ってぇのはどうでしょうか。
 改めて感謝しております。  お大切に。

* すてきな意見である。後白河院の佳い肖像画が在る、それは見ようによると「猿図」に似ていなくもないのであ る。おもしろい。有り難い。

* 佐倉の高田欣一さんの「エッセイ通信」もたいへん気力に満ちた批評で面白いだけでなく、刺激を受けた。
 

* 十月十一日 水

* 老いた親たちをことごとく見送り、人のわざをし終えて一息つく寂しさは、体験してみないと分からない。あんな に衰えていた親でも、やはり親として頼みにしていたのだったと分かる寂しさと心細さ、うす寒さ。ひとりでこれからは立っていなければと思うのである。
 こういうメールが続いて届いていた。ことを終えて、もう老境の三姉妹で東寺のあの鳴り響いておわす巨大な偉大な仏たち と向き合ってきた図は、なにがなし、わたしを感動させた。

* 父を、あんなに帰りたかった京都へ、そして、自分が隠居所として建てたのに、不便だと言って一度も住まなかっ た今は妹の家に、一晩安置し、そして翌日は、何十年も前に泉山の景色がとても気に入り、此処なら皆が楽しみながら参りに来てくれるだろう、と言って用意し ていた、既に弟と母の待っている墓所に葬り、子どもとしての最後の務めが果たせて、安堵いたしました。
 帰宅の日に、東寺のあのすばらしい仏像群をゆっくりと、目を潤しながら拝観して、姉妹三人で、心より父の冥福を祈りま した。あのような悲しみの後の穏やかな気持ちは、何物にも代え難いものがあります。秋の空にすっきりと立つ国宝五重塔を晴れ晴れと見上げてきました。

  歳を重ねる毎に初めて出会うものが少なくなり、感動する機会も数多くはありません。京都には、一年に二度ばかり行く機会があります。離れてみて、住んでい た若い頃には、出逢わなかった、感じなかったものに、必ず出会って感動して帰ります。特に、当時は考えてもみなかった古い歴史の上で暮らしていたんだと、 実感します。まず、「春はあけぼの」は、「裏の山」だったなんて永らく気付きもしない程、只、暮らしの場所でした。無論、今の子ども達も大半そうだと思い ます。モッタイナイ
 ちなみに、東寺へは、私の提案で行きました。よかった。

* 故郷の胸の内に、こうして入って行けるのにも年齢が必要なのか。「故山入夢」と本を送るときに書き添えたと き、この人は強く反応し、自分の思いそのままだと言っていたのを思い出す。地に足のついた生活者ならではの感慨と境涯かと、このメールもしんみりと読ん だ。浮き草のようにふわふわと生きているだけでは深いものに出会えないし、感動も湧いてこない。

* なぜか分からないが、昨日、このホームページを訪れた人がいつもの倍ほどあった。

* 秦建日子作のどらま「編集王」には、見ようによれば「マンガ」を介しての批評的な問題や問題意識が角を出して いて、今後の育ち方しだいで、或る意味も意義も持てるかも知れない。愚劣で弊害のあるマンガ雑誌というのが確かに在るのだろう、手にしたことが皆無絶無で わたしにはしかとしたことは言えないが、玉石混淆しているのだろう。そして、自然な反応として愚劣な者への反感と反対運動も生じるのは分かる。分かるけれ ど、そういう動きの根の部分に、往々にしてまた愚劣な偽善や反動や臭みのからんでいることも否めない。遠回しに言えば官憲や行政の権威にすり寄りながら、 自分たちの基本的な権利を貢ぐようにお上に返上している動きにも成って行く。だがまた、出版や編集の野放図に自己肥大した言論表現の自由の名にかりた愚劣 な儲け主義がはびこっていて、それこそが諸悪の根元なのであることも、もっと自覚し、自浄化してもらわねば困る。それをやらないから、日弁連ほどの巨大な 弁護士団体が、強制的に官憲と協力して愚劣出版や報道に向かい、刑事罰を背景に吶喊しようとするのだ。それが出版や報道の規制に止まらずに、拡大されて市 民的な「個」の権益の強制的な取り締まりへまでも拡大して行く道がつくられ、結果として官憲がほくそ笑んで便乗拡張の引き金を用意しているのと異ならない ことになる。堪らない。

* 「編集王」が、そういう風潮や潮流に警告できるほどのおもしろい鋭い視点を見失わないで呉れるといいが。
 

* 十月十一日 つづき

* 久しぶりのパレスホテルだった。四時に「イーブック」の磯江さんと逢い、ほぼ二時間一階の喫茶室で、双方の情 報交換。思いつくままにいろいろ話し、これはと思う資料もコピーするようにと渡した。とにかく文学世間のことをあまりにも「イーブック」スタッフは知らな い。それでいて文学的な世間に出版の足がかりを得ようと言うのだから、大変な話だ。幸い、感じのいい人たちの集団なので、わたしでも役に立つ範囲で、役立 ちたいとは思っている。

* ロビーで瀬戸内寂聴さんとアイサツした。むかしはもっと細かったでしょうと。谷崎賞の宴会場では中公の平林孝 氏に、ずいぶんほっそりしましたねと逆のことを言われた。文芸春秋の寺田英視さん、岡みどりさん、集英社の片柳氏ら、他社の編集者とも何人も顔が合い、立 ち話をした。ほどよく食べて、さっと会場を出た。
 女流文学賞一人と谷崎潤一郎賞が二人。瀬戸内さん丸谷才一氏の挨拶など、今夜は作家たちの話がそれぞれに面白く、満足 した。さすがに昨日の栗原小巻みたいなウソくさい調子では受賞者三人も、選者二人も、話さなかった。気持ちよかった。受賞者の一人の村上龍が、自由であり たいこと、フェアでない社会はよくないこと、その二つを念頭にものを書いていて、それはそれなりに世の中に働きかけ得ていると信じたい、と、話していたの が気持ちよかった。そうありたい。

* わたしは、今日のような文学オンリーの会合にも、美術家たちの会合にも、昨日のような演劇関係者らの会合に も、学者たちの会にも、縁があってそれぞれに顔をだす機会がある。その、それぞれの会に、それぞれの絶対感覚らしき価値観があって、演劇の場では千田是也 や滝沢修や杉村春子の名前が神様のように飛びかうし、美術の世界にも文学の世界にも、まるでちがう神々の名前が出てくる。みな大本気であるが、相対化した 視線や聴覚でうけとっていると、ときどき頬笑まれることもある。学界とも成れば、もう専門別に様々に八百万の神々の登場となる。
 ウソ八百万とはいわないが、 軽薄な絶対じゃなあと思えることもしばしばある。息子建日子のテレビ業界にもいろんな神様が住んでいるだろうなと、苦笑される。視聴率が神様かな。大きな 自由も小さ な自由もある。神様も、ほんと、いろいろあるようだ。

* タクシーで帝国ホテルに移動し、「ザ・クラブ」で、バレンタインの17年と12年ものとをダブル・ストレート で飲み較べながら、ゆっくり校正ゲラを読み上げてきた。落ち着いた。丸の内線と西武池袋線とを乗り継いで十時頃帰宅。あすは家で、一日、落ち着ける。
 

* 十月十一日 再度つづき

* もうやすもうかと思う夜更け、メールが入ってきた。

* こんばんわ。
 先週末に御本を受取りました。有難うございました。大変お忙しい中を早速に送って戴きましたこと、本当に嬉しかったで す。なんだか 催促をしたようで申し訳なくもありますが。静岡に行っておりましたので、土曜日に。あちらは夕方になると天気がくずれましたが関東地方もそ のようなお天気だそうですね。この連休のお出かけにはやはり傘をお持ちでしたでしょうか。
 今夜は満月には少しだけ若い月がみえております。月光でも虹が架かるそうですが、未だ見た事はありません。懐かしく 『清経入水』を読ませて戴いて、秋の夜長の想いも冴え、今しみじみと月を眺めておりました。
 『初恋』も『清経入水』も深い傷を洗うような痛みと、なんとも言い表せない清々しさを与えてくださいました。
 私の記憶にある少女時代、故郷の風景にも差別はありました。あれは夢だったかと思うほど遠くて、意識しなければ思い至 ることも無い、『恐れから』の地域社会の小さい事件は、始終起こっていました。大人達の蔭口などでそれと知れます。私が差別を受ける側の環境で育ったわけ ではありませんが、『恐れ忌む』感情を持つに至るちいさな世界の中にいたように思います。
 始めてこの小説に触れた18年前は、紙切れ1枚の身分証明書を持ってこの世界の外に在るかのように、小説の美しさだけ を感じておりました。とても新鮮だったのです。馬場あき子著の『鬼の研究』や法政出版の吉野裕子著『蛇』を読んだのも、この頃でした。子供の頃から(祖母 に育てられた赤子時代の昔語りに聞く「おろち」に呑まれそうになったというエピソードも)なんとも蛇とは縁が深いようなのですが、そんな事とは無関係に興 味も憶えました。惹かれるように三室山を訪ねたのが秋の信楽へのドライブで、その折に、『秘色』のお礼に盃を求めたのです。
 私の中には確かに鬼やら蛇やらを『恐れる』と同時に『焦れる』想いがあるのですが、信仰に見られるように、日本人の何 割?かの人々にとっても同じこころもちがあるのではないでしょうか。何年か前に、謡が趣味の叔父に『鬼の研究』を薦め、お節介にも本まで渡した事がありま すしたが、血の繋がリのないこの人の表情に、『恐れ焦れる』感情をよむ事はありませんでした。
 『お父さん、蛇って本当はおとなしいのよ』
 小さな女の子の言葉を、今回も、繰返し読返していました。
 休日明けに郵便局より振込いたしました。遅くなり申し訳ございませんでした。
 11月には奈良・大和路に旅行を計画いたしております。元興寺の天平の甍から始めて、山辺の道、三山、神社巡りとプラ ンを組んでいますが、帰りに、比叡山を廻って来ようと考えています。紅葉も綺麗なことと楽しみにしています。この時期、琵琶湖がはっきりと見えるとよいの ですが。
 それではこのへんで失礼いたします。舞台見物の事、とても素晴らしいですね。楽しみも長時間の座席に耐えられる体で あってこそですもの。おかしな言い回しですけれど そこそこ健やかでお過ごしください。肩凝りとは私も縁が切れません。
 おやすみなさい。

* 少女とあるのは『清経入水』のなかの、幼かった娘、朝日子のこと。どうしているだろう、幸せでいて欲しいが。 せめて個と個との電子メールがつかえれば嬉しいのだが。孫のやす香やみゆ希も、もう器械になじめる年齢になっているだろう。突然、やす香から、ジイヤンや マミーにメールが届いたら、どんなに嬉しいだろう。 
 

* 十月十二日 木 晴れ

* ついにホームページ拡充プランが、布谷智君の莫大な厚意と親切とで、完成した。すでにINDEXの転送も終え ているが、3という数字を1に換え、従来の1に別の名前をつけて、脇の座へ移転しなければならない。

*  [ページの窓] 2ページ [湖の本の事] 3ページ [電子版・湖(うみ)の本] 20ページ [電子 版・湖の本エッセイ] 20ページ [掌説の世界] 2ページ [生活と意見 ー私語の刻ー] 20ページ [中長編小説] 20ページ [エッセイ選]   15ページ [短編小説選] 10ページ [講演原稿選] 8ページ [東工大余話] 8ページ [秦恒平の電子書簡・輯] 3ページ [秦恒平年 譜] 5ページ [秦恒平作品書誌および年表] 8ページ [e-magazine 湖(umi) = 秦恒平編輯] 8ページ [雑輯] 2ページ の内容をもつ。
 それぞれのページの意図なども、もう目次に書き込んだ。さらにコンテンツのすでに入れられるもの、移転の必要なものな どの調整作業が欠かせないので、今しばらく現在のままで、ものかげで調整してから、適当な時点で公開する。
 幾つも目玉をつくったので、化け物じみるが、原稿用紙にして公表誌にして著書にして作品書庫にして作品展示場である 「ホームページ=作家・秦恒平の文学と生活」の意向や意図は、かなり表現可能な準備は整った。

* 成功するかどうかは分からない、「e-時代」にさきがけた「e-magazine湖=umi」の成り行きが気 になる。こういうことを基本的に考えている。
「このページを、広く提供します。但し、文学・文藝としてここに公表して良しと編集者・秦恒平がほぼ信頼と責任の持てる レベルの、創作・エッセイ・研究・批評等を、ページを分けて、積み重ねるように収録し続けて行きます。連載ものも、可。編集権は行使し、原稿料・掲載料 は、一切、無。掲載原稿に何の装飾も付けません。そのかわりこのホームページでは、プロの作家・批評家・編集者また学者・藝術家を含めて、「優れた佳い読 者」が期待できます。寄稿は、電子メールまたはCD-ROM でお送り下さい。編集者からの注文等は電子メールで致します。」と。 
 性急な結果は期待していない。永い目で見守り、いつ知れず、豊かな内容の文藝・文章が集まっている、というふうであり たいと。さ、どうなるか。

* 第一回対談の手入れを終えた。やがて第二回分の速記録が届くだろう。新しい湖の本の初校も一応終えた。日本ペ ンクラブ京都大会の日程が迫ってきた。墓参の他に、南座の歌舞伎と、ホテルサービスのドライヴとを、楽しもうと思う。アメリカから懐かしい人もたまたま 帰ってきていると連絡があり、夫婦して再会の歓迎もできるだろう。留守をさせる黒い少年がさぞ淋しがるだろうと胸も痛むが、息子が来て少しく面倒を見てく れるというのを頼みにしている。

* 勝田貞夫さんから今度は『手さぐり日本 「手」の思索』全冊のスキャンしたのを電送していただだいた。感謝。

* 夜。新ホームページへの興奮がさめやらぬ。今日はもうからだをやすめたい。

* 楽しい京都であるようにと。帰ってきて、また一ヶ月以内に「美術京都」の対談に出かけることになる。今度は方 角をかえて日本料理の板前さんと話してみたい。
     

* 十月十三日 金

* 今から京都へ。明日は器械の前に坐れない。黒い少年マゴを置いて二泊も外へ出るのは初めてのこと。夜中の四時 頃にテレビ局からまわってきた建日子が、いま、となりの家で寝ている。マゴの面倒を頼んである。

* 天気だと佳いが。ホームページの新表紙を転送して置いた。東工大の昔の昔の卒業生である芝田さんから「感想」 と「助言」が来ていたので布谷君に転送した。では。京の秋を楽しんできたい。
 

* 十月十五日 日

* 十三日の金曜日午後  新幹線ののぞみで、うたたねしているうちに京都についた。出がけは小雨の気さえあった のに、京都は快晴でまばゆいほど。
 河原町の京都ホテルに入り、すぐ、車で、萩を刈ったばかりの出町の菩提寺へ。墓地も日盛りのまばゆさで、墓に水をたっ ぷりかけて、香華を供え、念仏。住職としばらく玄関で話し、辞去。
 地下鉄で四条まで走り、花見小路の「小西」で、紙と木と金との作品展に、中学時代の恩師で歌人でもある信ヶ原綾先生の ご子息が、興味深い金属造形を出品されているのを観た。蓮を造形した自在な金属の扱いなど、興趣に富み、感心した。「小西」はもともと祇園甲部の御茶屋で あり、その家を開放して各室に展示がしてあり、そのまま京の数寄屋造りの間取りや壺庭などが観られて、それもまた展示効果を粋に挙げていた。懐かしいもの があった。祇園町の小路をぬけて縄手へ出るまでも、建仁寺の風情と色町のそれとがにじみあうように面白く、縄手へ出ればまた広くもない通りに商家がにぎに ぎしく軒を並べている。子どもの頃父に言いつかって牛肉を五十匁の百匁のと買いに行った店も、昔のままの間口としつらえで残っている。京都へ帰っている、 ここは祇園ゃ、縄手ゃと、思うまでもなく呼吸しているだけで、心もち良く落ち着いてしまう。妻も楽しんでいる。

* 南座があいて、前から四列の真中央の席にならんだ。扇雀丈の女番頭さんに、来月の平成中村座「法界坊」二人分 も含めて支払いをし、礼を言い、花形歌舞伎「鏡山縁勇繪=かがみやまゆかりのおとこえ」通し狂言を観る。
  中村翫雀、扇雀の兄弟、中村橋之助、市川染五郎、それに吉弥や高麗蔵らがワキを固めた、本当に若手花形だけの舞台だが、それが活気をうみ、また台本がばか に面白くて幕間はごく短いというテンポのよさ。もう頭っからの歌舞伎・歌舞伎なのだが、歌舞伎の根の趣向だけでなく、岩藤の骨寄せや尊像の宙浮きには現代 の超魔術テクニックを借用するなど、盛りだくさんにけれんと手管を嫌みにならぬ鮮やかさで連発したから、ただもう、引き込まれて面白がっていられた。お おッと手に汗もしたし、蝶の乱舞する演出など、なかなかやるなと感心もした。
 常の舞台でなら、年季の入った大幹部の俳優たちに立ち交じって、若い生きのいい芝居をみせる若手四人が、此処では互い に競い合って一芝居を支え合う活気と協調。気持ちよく、若い芝居が若く元気に盛り上がり、終始いやみなく成功していたのは、大いにめでたかった。見栄えも した。「男岩藤」という趣向を掘り起こして存分に新脚色した意欲も利いた。「こんなのも、いいな」と思わせてくれた。
 橋之助の由縁之丞が、女役、若衆役、本悪まで多彩に元気いっぱいに、なんだかとても楽しそうに演じ分ける。扇雀も、ま ずは滅多に見られない、老職の武士役と、絢爛の花魁や世話の女房を演じ分けながら、自害までしてみせるから、ご苦労であったし、しどころも有った。フアン は喜ぶ。
 なにしろ四列目のまん中にこっちはいるので、橋とも扇ともしっかり目があい、ひょんな初対面の按配なのも、とても面白 かった。すくなくも扇雀はわれわれが東京からわざわざ来ていることは知っているのだろう。こっちも一心に見るし、舞台の上でもうんうんと確認しているよう な按配。それほど近いところにいたので、よけい面白かった。
 座頭格の翫雀も、大名と二枚目とを彼らしく颯爽と演じて父親の鴈治郎に生き写しなら、扇雀は母親の建設大臣に瓜二つと いうところ。立ち役にもはまるいい顔立ちをしていて、妻など、そっちの方もすてきねと、痺れていた。染五郎にはまだヒレがないが、これまた随所に高麗屋の 芝居ぶりが出て、父松本幸四郎にそれはよく似ているからおかしかった。そんなことを言えば「歌舞伎さん」(寛子夫人の婚約の頃の表現)こと橋之助が、また 若き日のお父さん芝翫丈にそっくりだ。「若手花形」とは、名実ともに偽り無き看板であった。たいして期待しないで来た分、大トクをしたほど面白い芝居見物 が懐かしい南座で出来て、夫婦して、いたく満足。

* 芝居がはねて八時過ぎ、きわどいなと思いつつ、すぐ東の「千花」の暖簾を分けた、と言いたいが、もう灯を落と しかけている間際だった。顔を見て、とくべつに中へ入れてくれた。
 つい先頃にも、淡交社の本で、「京で呑んで食べるなら此の店」と一文を書いていた。もう古い馴染みで、同じような機会 にはためらわずにいつも「千花」と書いてきた。それほど好きな店であるから、ぎりぎり間にあって有り難かった。二人で京都へ、の一つのお目当てであったか ら。間に合わせてもらえて、もう誰も客の来ないまま、しみじみと佳い京料理の粋を、堪能した。
「一品として、どこかよそでもこれは出るわねというお料理が無く、ぜんぶが新鮮で珍しいお料理なのねぇ」と、妻は舌をま く。この店は、食べ物に趣向があり、じつに佳い器での、ものの出し入れがやすらかに美しくて、店の行儀もいいのである。酒をうまく呑みたければ、超一級の 食べ物で、酒を、いっそう美味くしてくれる。
 老主人が枯れた西行さんのように、また、佳い。この人に逢えると逢えないのとでは、味がちがうだろうなと思う。美味 かった。幸せな気分だった。老主人や店の若い人に四条通で永く見送ってもらい、佳い気持ちで四条大橋を西へ越えた。
 ホテルはもうそこだったが、河原町三条の六曜社でコーヒーをのみながら、のんびり妻とおしゃべりした。
 
* 十月十四日 土曜   十七階の窓際で朝食。眼下に、京言葉で書いた小説『余霞楼』につかった屋敷と庭が見えてい る。南は清水寺まで、北は比叡山まで、晴れ晴れと東山が青い。もう一月すれば紅葉しているだろう。視線が深くて、鴨川が、かわいらしいほど川幅せまく見下 ろせる。視野に収まる限りはわたしの知らぬ所が無いとすら言え、あれは、それはと、建物の一つ一つを指さしながら、その中には母校の屋上の鐘楼もあれば、 知恩院も八坂の塔も、黒谷も真如堂もある。

* 時間予約したハイヤーで、妻の希望に任せ、まず五条の山越えに、山科に入り小野随心院で車をとめた。静かに気 品豊かなこと、この門跡の庭には俗気が微塵もない。その気なら数時間でもじっと座っていたい。なまじハイヤーを待たせているのは罪なことであったが、六時 間は使わせるというホテルとの約束なので、午後の日程のためにも、ま、車は有り難かった。
 小野小町ゆかりの寺であり、境内に広い梅林があるなかに、小町化粧の井もあって、石段を貝殻を踏むようにまわって少し おりると、木の葉が積んでいるけれど澄んで静かな、湧き水。降りていって、指先を泉に着けて妻は頬をすこしぬらしていた。白いじつに可愛いちいさな仔猫 が、小町の井をまもるように石段のわきにいて、にげるどころか、よぶと懐かしそうに二人の足にからむように啼く。それは綺麗な、よごれのない仔猫で、いと おしくて堪らない。去ろうとすると声をあげて妻にもわたしにもかわるがわる走り寄り、あとを追い続けてくる。これは、もう、つらいほど胸がしめつけられ た。心を鬼に、置いて行くしかなかった。家のマゴのお嫁さんに連れて帰りたかった、本当に。
 
* 醍醐寺の三宝院へ入った。あまりに晴れやかな天気で、かえってこの庭のみごとさが明るく浮かんでしまっていたが、夥 しく置かれた石組が少しの騒がしさもなく豪華な音楽のように美しいのはさすがで、どこに立ってもすわっても天下一の庭園、繪になる。
 しかし今日ばかりは、もっと立派だったのが金堂前の醍醐寺五重塔。その鳴り響く大きさ、美しさに、息をのんだ。金堂の 仏様も、東寺のとはまた異なる大きさで立派に見えた。

* 次いで車を日野へむけ、法界寺の阿弥陀堂で、定朝作の最も美しい阿弥陀仏名作の一つを、心から拝んだ。堂も御 仏もありしままの場を占めて、ありしままに時代を経て、豊かに美しい。今度の旅でもっとも感動したのはこの如来像であり阿弥陀堂のたたずまいであったと言 える。背中の丸く縮んだ老婦人の解説が要領を得ていたし、人はわれわれ二人だけであったし、車を待たせてなかったら、わたしたちはやはり立ち去りがたくこ こに時をうつしていたに違いない。ちいさな静かな池の風情も残りの萩の花もよかった。ススキも涼しく立っていた。

* 宇治へ走り、黄檗山萬福寺は惜しいが割愛して、やはり宇治川の景色が見たいのと、頼政の墓と切腹の扇の芝を訪 れたく、平等院に入った。ここでは観光客をさけることは出来ない。すこし順番を待って鳳凰堂に入れてもらい、法界寺の阿弥陀とまさに兄弟のようによく似た 同じく定朝随一の名作阿弥陀如来を拝んだ。堂内の雲中供養仏など多くは、いま巡回の「平等院展」に出払っていて、それは上野でわたしは観ていた。
 頼政の墓は清潔に優しい。観音堂の裏手の扇の芝は、なにかしら文武の将の最期を偲ばせてもの哀れだった。わたしの著の 『能の平家物語』では、「頼政」「鵺」と、一人を語って二曲をとりあげた。そういう人物は頼政だけ。それほど魅力の人であり、また時勢を動かした人であ る。辞世の和歌もさながら、末期は哀れとも見えるが、だが、みごとに老いの花を咲かせて死んだものとも、わたしは観ている。

* 宇治の下流の悠々と穏和な景色に感じ入りながら、桃山御陵を遠望し、観月橋から伏見街道を通って、一路、ホテ ルへ戻った。時間が有れば稲荷へも東福寺へも立ち寄りたいところだが、二時すこし前には帰り着いてハイヤーを離れた。
 部屋で着替えて、またタクシーで南禅寺下の「洛翠」へ。日本ペンクラブの京都大会。もう二十年ほども前に一度妻と参加 したことがあり、久方ぶりの二度目。前にも逢った井土昌子さんにいきなり再会、この人は久しい湖の本の読者であり、雑誌「美術京都」に原稿ももらってい る。昔大阪の阪急で講演したときの司会役もしてもらったことがある。
 広くない会場で同僚理事の三枝和子さんが何やら講演していた。妻は聴いていたが、わたしは受付の外で人と立ち話などし ていた。京都のことで、知人は少なくない。京都新聞の杉田博明氏、淡交社の服部友彦氏、同志社の河野仁昭氏、作家の田中有里子さんらにやつぎばやに逢う。 他にも覚えきれないほど大勢と言葉をかわした。
 眩しく晴れ上がったかんかん照りの庭で園遊会になり、会長の梅原猛氏はご機嫌さんの長い挨拶であった。
 そのあと、梅原さんはわたしに、例の世界ペンがらみのいきさつなど、十六日の理事会でぜんぶ話しますと、いろいろのこ とを耳打ちしてくれた。それについては、理事会を経てから書くかも知れないが、ニュージーランドが世界大会の開催に名乗りを上げてくれたらしく、ま、欠会 にだけはならずに済みそうなのが、有り難い。梅原さんも責任上よほど苦慮されたことと思う。日本で、京都で、梅原さんはさぞやりたかったろうが、ちょっと 準備が難しく断念したと残念そうだった。わたしから出して置いた長い手紙も梅原さんはちゃんと読んでの、二人だけでのウラ話・立ち話となった。
 つねは控えめな妻が、梅原さんのところへ一人で行って、なにやら盛んに話していたのが可笑しかった。東京からの理事は 小中陽太郎、早乙女貢、高橋千剣破氏ぐらいだった。広くはない会場だが食べ物の味はなかなかで、しかも盛会で、のんびり楽しめた。五時ぐらいまでゆっくり していたが、会長も意外なほど長居で、ご夫妻には挨拶をしておいて先に失礼した。日の有るうちに南禅寺を散歩したかった。

* 白川沿いの道から、清冽に流れ落ちる走り水に沿い、東の山辺への小道を溯っていった。こういう佳い小道は、土 地のものでないと気づかないし知らないが、この界隈は超弩級の宏壮な邸宅がやたら集まっていて、人通りもすくなく木立や塀づたいや季節の深まりようも、清 寂そのもの。水の走る音だけが心にしみ、そして、いつ知れず南禅寺に入って行く。妻を「絶景」の三門にあげてやりたかったが、わずかに五分のおくれで上が れなかった。まだ夕暮れ前の穏やかな空には、ほのかに茜色もまじっていた。

* 金地院の前を通り抜けて蹴上まで、広い別荘の立ち並ぶ、溝川の潺々と鳴って走る道を、蹴上へ抜けて出た。先刻 南禅寺境内からかけた妻の携帯電話では、まだ都ホテルに戻っていなかったアメリカの古い古い女友達が、蹴上のホテルに入ってフロントで聞くと、折良くもう 部屋にいてくれた。ロビーにはたまたま総支配人の八軒氏がいて、おおおおと双方で声が出た。創刊以来の「湖の本」の読者で、妻も以前に会っている。いまか ら泊まり客の友人とここで食事すると言うと、八軒支配人はご機嫌だった。
 ロサンゼルスに四十年来夫君と二人で暮らしている池宮千代子さんを、三階の「浜作」で歓迎した。われわれが結婚の時か らのごく親しい年上の友達で、年に一度平均は京都懐かしさに遊びに帰国してくるつど、三人で、どこかで、一度は顔を合わせている。話は尽きない。喫茶室に 移ってからも歓談に時を忘れた。旅の疲れもあろうけれど、都ホテルの客だと思うとわたしたちも気がらくであった。元気に逢える間には何度でも逢いたいので ある。もともとは池宮さんの姉さんの方と親しかったのが、アメリカで若くて亡くなってしまった。死なれてしまってはどうにもならないではないか。

* 名残惜しく別れ、タクシーで知恩院三門の前へ走り、夜の円山公園を八坂神社までそぞろ歩いた。拝殿は修理中 で、もう一年半ほどかかる。綺麗になったのをぜひ拝みたいと思った。つうっと、感傷的なほどその想いが胸を射た。
 何必館=京都現代美術館のわきから入って、横井千恵子の「樅」へ行ったが何故かしまっていた。花見小路を西へ渡って内 田豊子の「とよ」へ入った。中学の女友達がひとりで店をあけている。相客がなく、三人で昔話を懐かしく話しているうち、妻が、カラオケというのを体験しよ うと言いだし、ひばりの「愛燦々」越路吹雪の「愛の賛歌」それから布施明の「積み木の家」とかいうのを、つづけて三曲歌った。妻の声は澄んできれいだが、 歌いかたは淡泊で、うまいとは思わない。「とよ」ママに頼んで、ひばりの酒の演歌を一つ歌ってもらったが、さすが、すてきに上手であった。
 妻の兄が作詞して、森進一が自分のコンサートでは必ず歌うという「うさぎ」という長い長い曲のあるのを、カラオケの画 面で、はじめて読みかつ曲だけ聴いた。これは妻も歌えない。すこし感傷的な母恋歌だが、森進一がコンサート用の愛唱歌だというのはよく分かる。彼なら持ち 味で、きっと聴かせるだろうなと思いつつ、義兄もあまりに若く死んだのが惜しまれた。その辺で「とよ」を辞してホテルに帰った。
 昨日の「千花」もあり、今日の園遊会から「浜作」から「とよ」までと、だいぶ多く呑んでいたので、念のため血糖値をは かると、289にもなっていた。しっかり水をのんでさっさと寝入った。
 
* 十五日 日曜  はやくに目覚めて一人湯をあび、そして血糖値を計った。116のほぼ正常値に戻っていた。朝食後に すぐチェックアウト、荷物はクロークに預けておき、タクシーで岡崎の美術館に向かったが、気が変わり、先に三条神宮道の星野画廊に寄った。ところが、十時 半に開店としてあるのにまだシャッターが降りていた。そのシャッターのワキに、近くの粟田神社のお祭りのことを告げる張り紙をみたので、美術館をやめ、そ ちらへと、粟田小学校のわきを東に向いて歩いた。旧東海道の古道である。狭くて落ち着いて静かな家並みの中の佳い道である。妻は大いに気に入ったようだ。 美術館なら東京にいっぱいあるが、こういう小道は無い。京の七口の一つであり、青蓮院門跡、総本山知恩院、尊勝院、粟田山、将軍塚を肌身に近く感じなが ら、こんな旧街道を通ってあの弥次喜多も、東海道をやがて終点の三条大橋へ通っていったと思うと、志ん生の落語などまで思い出せるわと妻は興がった。
 すぐに、粟田神社への石段が、右手に。急ではなく、ゆっくり昇って行くと、今しも氏子の主立った人たちも集まり、拝殿 には雅楽の用意もでき、神官や巫女たちがいかにも大事のお祭りらしく立ち働いていた。まさに祭儀の今にも始まるところだった。
 はじめは写真など撮っていたわたしたちも、そのまま氏子の席に定まって、祭儀の始終一切に参加し、玉串もささげて参拝 し、古式ゆかしき舞楽の奉納もつぶさに鑑賞した。じつに簡素に、神々しい儀式であった。宮司以下神主は五人、八坂神社からも知恩院からも神官や僧が一人ず つ参列していた。儀式の始まるときと終えるときとに、宮司が神前の奥深くで、厳かに、オオオの声を三度ずつ三度あげるのが、山懐の境内に響き渡って、得も 言われず尊い気がした。祝詞も聴いた。多くの供物が捧げられ、またおろされて、一つ一つの作法が、神式の簡明と古朴の清々しく備わって無駄の無いのにも感 じ入った。星野画廊が開いていなかったおかげで、願ってもない神々しい場に、神事・祭式の当事者として参列できたのは、心嬉しい、じつに豊かな体験であっ た。
 舞楽の面白さには、ぞくぞくするほどの喜びを噛みしめた。妻は席を立って、拝殿の近くで、それはそれは珍しい伎楽面と 装束とをつけた太古の舞い遊びのさまを、くいいるように見入っていた。
 尋常な美術展の百倍もここちよいお祭りに出くわした、立ち会えた。祭礼ではなく、紛れもない神事そのものであった。粟 田神社の氏子になってしまった気がしている。それにしても、二三十人ほどで定めの席に着いていたほんものの氏子たちは、わたしたち夫婦を何者だろうと思わ れていただろう。 

* 星野画廊に戻ったら店が開いていた。この画廊は、全国の画廊でも際だって志の丈高い優れた画廊で、得難い作品 を、誠意を込めて掘り出し蒐めてくれている。まず何時きても期待を裏切らないし、美術史的に貴重な貢献をしてくれている。「対談」したこともあり、また 「湖の本」の久しい読者でもある。気骨というなら、星野画廊主にはそれがあり、骨は太く直い。
 以前に、亡くなった麻田浩に助言してもらってここで一点風景画を買ったが、今日もわたしの気に入った「柿の実」の繪 を、妻の耳打ちで買って来た。牧渓の柿にもやや似た、画境の深い静謐な柿四つの繪で、わたしは一目で佳いと観た。妻ははじめ、くらいわと言ったが、観てい るうちに良さをつよく感じ取ったらしく、星野さんもこの選択に賛成だった。こういうときに無茶売りはしない人だと分かっているので、今日は麻田浩のような 卓越した画家の目利きに助けて貰えなかったけれど、安心して買うと決めた。粟田の秋大祭を、また今度の満ち足りた佳い旅を、のちのちまで記念したい気も あった。たしかに、こんなに充実した京の二泊三日は、過去にもそうザラにはなかった。

* 満足して、二時過ぎののぞみで東京へ。往きと同じく帰りも保谷駅についたときは小雨になっていた。駅からタク シーで。留守居の息子たちはもう退散していたが、初の永い留守番を体験した黒い少年のマゴは、ジイとバアを家の中で出迎えて、むちゃくちゃに興奮した。元 気に美しいマゴの真っ黒な毛艶に、わたしたちも安堵した。

* メールも郵便も沢山届いていた。

* 佳い京都であった。 息子たちに留守が頼めて、ほんとによかった。感謝。
 

* 十月十六日 月

* 新ホームページ増設分のページ転送を、現在必要と思う分だけ実行した。少しずつ書き込んで行くが、まだ初稿段 階で手入れ中ないしさらに検討の必要なものも在る。いずれにしても、思い切って「文庫」機能を高めてみた。器の段階であるが、中味を盛って行きたい、その 用意も有る。

* 十月ペンクラブ理事会では、マニラ問題および前森山事務局長休職の件について、梅原会長以下、執行部が、一応 の情報公開と意見陳述をした。三好徹副会長と加賀乙彦副会長の間に、相当以上の意見対立と激論のあったことは、京都で、梅原会長から直接わたしは聴いてい たし、今日の両氏の論戦でもよく分かった。二人とも互いに譲らなかったが、経緯からしてもわたしには加賀氏の森山氏弁護は当を得ていないだけでなく、何か しら自己弁護めいて聞こえた。もとより森山氏は善意から発して動いていたとも思うけれど、してはならない範囲にまで恣意的に、しかも間違いを犯してなお強 引に波紋を広げていたらしいことは明らかなようであり、それは、立場と責任と権限とをむちゃくちやに逸脱していた小児的な暴発といわれても仕方がないので ある。善意かどうかの問題ではなく、結果はヒドイものになっていて、しかも、それを会長らも強く繰り返し制止していたというのだから、その段階で論外なの ではないか。
 もっぱら森山氏の不当な越権行為により国際的に不当に日本ペンクラブが誤解を得かねまじき経緯が、かなり詳しく説明さ れた。それはそれでよく分かった、が、そこで議論が手痛いし膠着して、さながら森山氏の欠席裁判のようにのみ話題の終始するのでは、わたしは、おかしいと 思った。わたしの理解では、一森山氏の罪状追究に今回の問題の本質があるわけではない。森山氏は明らかに変であった、それは明白に不当であり、加賀氏らが いかように弁護されようと異様なばかりで、会長、三好副会長らの強い批判は適切であると思う。だがそれ自体は、我々内部での、いわば大きな問題の水面下事 情なのであって、水面上で判断すべきは、あるいは判断されてしまうことは、もっと別にある。日本ペンがマニラ大会を何らかディスターブして瓦解に導いたと もし他国から視られたときに、「それは違う」と明白に言い切れるのかどうか、なのである。
 森山氏は日本ペンを代表する立場で動いていた。加えて彼は国際ペンの執行委員の一人にも当選していた。むろん、彼のそ の地位や立場は日本ペンを基盤にしており、それだけに彼の言動は、どうわれわれの内部で糊塗し弁明しようととも、国際的には、「梅原猛会長の率いる日本ペ ンクラブの意向」を代弁していると取られても致し方がない。
 その事を正しく踏まえて、今回の森山氏の行為や言説は、マニラペンの異常に強引な、瓦解ともいうべき世界ペン大会開催 放擲行為に、全く関係のないものであったと言えるのか。何等か放擲への引き金になってはいなかったのか。そんな引き金には決してなっていなかったのなら、 問題は我々の内部で小さく処置して少しも差し支えない。しかし、万一それが引き金でマニラ大会流産に至っていたのなら、それはもう森山氏一人の責任でなく 「梅原日本ペン」は、うわっつらを滑って問題をやり過ごして良いことでは決してない筈なのである。日本ペンクラブは責任を少なくも自覚し反省しなければな らないだろう……、と、わたしは発言した。どうなのかと質問したのである。

* 言下に加賀乙彦氏は、「絶対に、全く、何の責任も日本は負うていない」と明言した。梅原会長も、語勢は弱かっ たが「そこまでは考えなくてもいい」と責任を否定された。それならば、なぜ、森山事務局長が事実上のクビにされたのかが説明が付かない。
 あんなにも、梅原会長は、執拗なほど日本の責任で世界大会を担当できないものか、私費を提供する覚悟すら有ると言われ たのは、何故か。アジア太平洋地域での世界ペンがフイになってしまったことへの痛惜の責任感が露出していたのであったことは、はためにも明らかだった。同 情を禁じ得ないほどであった。三好徹氏は、わたしの発言に関連させて加賀氏の「日本に責任はない」説に、「そうは言えないと思う」とはっきりチェックして いた。その三好発言が一切を言い表していたのだろう、加賀氏は黙り込み、会長も否認されなかった。「えらいことになった、何とかしなければ」と会長が苦慮 し奔走されて、資金集めにまでメドを立てられていたのは事実なのであり、今日の会議でも、繰り返しそれを口に出されていた。「日本ペンに何一つ責任はな い」などというのは、釈然としない、いかにも姑息な自己弁護の姿勢だなとわたしは感じた。
 幸いにニュージーランドが来年の遅い時期にでも大会を開催する姿勢でいてくれると分かり、梅原さんは愁眉を開いていた のだ、それも京都で彼は園遊会の挨拶で、また個人的にわたしにほっとした表情で話されていたのである。
 たしかにマニラペンの内部にも問題があったろう、が、瓦解への強引で都合のいい口実を与えてしまったのは、ユネスコ援 助資金をめぐる日本ペン(森山氏ら)の「善意」の迷走ないし暴走であったらしいのは、局外にいたわたしにでも今は察しがつく。森山氏だけを裁いて、或いは 弁護していて、それで済まそうとするのが、わたしは欺瞞的だと思う。

* このームページでわたしは発言し、事務局へだけでなく、梅原氏にも直接発送して置いた。そういうことが、今日 の比較的あけすけな情報公開に繋がったのをせめても良かったと思っている。
 

* 十月十七日 火

* e-magazine湖(umi) の、第八頁を「旅」の頁とした。また「電子書簡往来」の頁にも、中村扇雀丈への礼信を入れた。いろいろに満たして行きたく、いまは「見本」輯の時期であ る。

* 田中康夫が長野知事選挙に大勝した。絶対優勢とこの間の言論表現委員会で情報通の委員から聞いていたので驚か なかった、よかったと思う。苦戦はこれから始まるだろうが、頑張って欲しい。石原都知事とは思想も立場もちがう。むろん、わたしは田中康夫を神戸市での奮 闘このかた支援してきた。その軟派ぶりにしても、必ずしもタイプとして好きな方ではないが、対社会的なものの見方や考え方では共感できるものの多い人、好 意的に見守りたい。作家だが、わるいが、小説は一つも知らない。向こうもそうだろう。

* 秦建日子脚本の「編集王」第二回を見た。編集といっても文藝ものでも専門書でもない、マンガ雑誌の編集であ る。 とは謂え、編集の難儀さは編集者を十五年経験し、編集長らしき立場にもいて識っている。作家としても編集者たちとは三十年以上も付き合ってきているから、 苦労も楽しみも嘆きも十二分に察しがつく。受賞して文壇に出た頃のわたしの新聞紹介記事には、「A級の編集者」としてあることもあった。上司が記者の取材 にそう持ち上げてくれたのだが、わたしは編集の仕事が好きで、誇らしかった。今でも好きだし、それだから「湖の本」が出せるのである。編集者がどんな気持 ちでいるかも、編集者と付き合う作家からみた編集者の言動や内心も、よく知っている。
 むろんわたしの場合医学研究書の編集者であったし、作家になってからは、いろんなタイプの出版社のいろんなタイプの 編集者に無数に出逢ってきた、だが、マンガ編集者との付き合いはない。それでも、分かる、いいもわるいも。
 建日子のテレビ仕事の、敵は、目的は、「視聴率」であるようだが、マンガ雑誌では、一にも二にも「売れ部数」であるだ ろう。いいや医学書の場合ですら、「いい本」と「売れる本」とは常には重ならなかったし、「売れない本」は「いい本」とは無条件には言われ難かった。だい いち、わたしは「いい本」を企画出版したり、自分でも書いてきたつもりだが、そして「わるい本」と言われたりしたことは一度もないが、残念ながら会社時代 も作家時代も、たくさん「売れる本」では先ずなかったから、著者としても編集者に対しても、微妙な立場にいつもいた。わたしは、だが、その微妙さの中で自 分を曲げなかったし妥協もめったにしなかった。出来なかったという方が当たっている。
 建日子は、およそそういうオヤジの仕事ぶりを見知り聞き知っているから、歯がゆくも思ってきただろうし、少しは敬意も 払ってくれていると思われる。
 今度の「編集王」では、そういう彼なりの体験や見聞もいくらか作に反映させやすいだろう、また、ガムシャラに売らねば ならない「編集長の立場」ではなくて、その反措定役の熱血青年を主人公にしているのだから、或る意味ではわたし寄りのものの考え方や受け取り方に近いとこ ろでドラマを書くことが出来ている。そしてまた、秦建日子の、すこし甘いめの優しさや素直さも、わりとまっすぐに持ち出しやすい場をしめて脚本を書いて いるらしい。つまり、これは、いい仕事に出来る、出来やすい仕事をしている、と言えるのである。そのメリットが、今夜の二回目にわりと素直に出ていたと思 う。
 無意味なわるふざけに走り過ぎなければ、脚本家の「地」にふれて書ける題材であり、うまく書けば質的には出世作 に成るかも知れない。そう、今夜は思った。好調に行っている、そう思った。主役の原田泰造が悪くない、またライバル役の女優京野ことみが感じよく演じてい る。大竹しのぶもとてもサービスしてくれている。ほかにも好感の持てる役作りの脇役もいて、このドラマ、案じたほど脱線はしていないようだ。とはいえ、女性の大勢乗ってくるタチのドラマではなく、「視聴率」にはきっと恵まれまい。わるくすると、放映打ち切り のピンチも覚悟しなければなるまい、そんな厳しいことも予測される。そんなことには、しかし、腐らないでもらいたい。
   

* 十月十八日 水

* お尋ねに答えます。
 出版社から本が出るための「社内」手続きは、一般に、編集・営業・広告等の幹部と、その上との企画会議が「正式企画」 として担当者提出の企画書を承認し、著者に「正式依頼」ないし「契約」している場合が、本道です。この場合は、著者がきちんと作品を書けば、まず、本には なる。
 しかし、たいていの場合は、まず個々の編集者が、日常活動の範囲内で、目をつけた作者予備軍に非公式に「小当たり=接 触打診」している段階です。ツバをつけて歩くわけで、そこからモノに成るものは成るし、成らなくても構わないのです。「社の企画」にならない限りは、出版 は約束されたわけではないのです。現実にはこの後者のケースで、一心に頑張っている書き手が多いはずです。きみの場合がどちらであるかは、メールでは分か りませんでしたが。
 どちらにしても、編集者と接点があり、プランもあるのは、いわばチャンスであることに間違いなく、そのかわり、そこで いい加減なことをやると、見放されて、回復不能のミスチャンスになるだけです。編集者はそういう例をいやほど体験していますから、逆に言うと、その話が潰 れても流れても勘定に入っています。ま、平気です。むしろ、なんとか作品が出来たのに、会社や上が「社の企画」として承認してくれないときが、板挟みで、 編集者には一番辛いことになる。それを避けたくて、編集者は書き手に対し、あまり堅い約束をしたがらないこともあります。「とにかくお書きなさい」と、だ け。
 しかし、書いた方がいいのです。書けば少なくも作品が残るから。しかし、イージーなのはだめ。処女作には作者の根性と 個性と誠意と熱意とが結晶している。それが普通です。そうあらねばウソです。だからこそ後々まで処女作を越えるのはなかなか難しいと言われる。そういう処 女作なら成功への展望が開けるし、逆にやっつけ仕事であれば単に才能無しと見限られて、二度の機会には容易に出逢い難い。そういうものです。それで泣いた 新人は無数です。
 結論として、編集者に誠意と好意とが感じられるのなら、せいいっぱい酬いた方が身のためでもある。
 作品に、日限を切られているか、それが、一つのメドです。日限無しでの「書いてみないか」は、まず単なる「ツバつけ」 に過ぎないから、作者が作品を見せるまでは、向こうは全く責任など感じていません。それを感じさせるには、一にも二にも、まともな作品を見せて突き動かす しかないのです。それさえも、しかし、与えられた「チャンス」なのであり、ふつうの作家予備軍には、そんな簡単な接触(コネ)すら無いのです、編集者との 間で。
 以上です。向うも日を切らず、きみも、ま、いつか書くよと放っておくのであれば、この「はなし」は、ふつう一年間で事 実上消滅です。何らかの具体的な接触が継続していないと、自然に時効が発効して、白紙に戻っているのと同じです。
 だから、きみが長編小説を、やむにやまれぬ強い動機で、書きたくて書きたくて溜まらないなら、自分に鞭打って、自分で きっちり日限も決めて、ただもう「書く」しかないのです。それは、事情によりなにかの片手間でもいいのです、が、ただし、道楽気分の、小手先の才気や安易 さからは、きちっと我が身を引き離してかからないと、とてもまともに長編小説など書けるわけはありません。
 処女作こそは、真剣勝負です。若い同世代のすでに名を成している作家たちの、真剣な姿勢と精進とを、少し見聞しておく のもいいかも知れない。しかし、書く内容は、けっして真似ても、追随しても、いけない。自分自身を追究してやまないこと。

* 芦屋から谷崎潤一郎記念館の「館報」がいつも届くが、今回は、松子夫人の若い日の美しい写真がふんだんに大き く載っていて、胸を騒がせた。懐かしい。金沢の文学館の前館長だった新保千代子さんが、耳をこするように小声で「ほんとうにお美しいですか」と聞かれたの を、今もくすりと笑いたいほどあざやかに思い出す。松子夫人の美しさは原節子や澤口靖子の美しさとは、別の、ちょっと類例のないいわば上方の「歴史と文 化」そのものの美しさであった。
 こんなことを言うているわたしの目の前で、夫君潤一郎氏の写真が、河内山宗俊のような坊主頭で、炯々と光る眼で、わた しを見つめている。松子奥さんの写真を大きくして、ならべて上げたい。

* 任期切れまぢかいクリントン米大統領の中東和平斡旋は、成功したとはとても言いにくい。彼の顔を非公式に立て ただけの一時しのぎのように見受けられる。ほんとうは、仲に立ってみたものの引っ込みもつかないような険しい事態ではないのか。ここは、クリントンでなく ゴアが飛んでいって、次期大統領はわたしだという覚悟の程もみせて斡旋すべきであった、現に副大統領なのだから出来る立場なのだ、もし成功を収めれば、 ブッシュとの喧嘩腰の論戦などより鮮烈な選挙向け効果を挙げただろうに。
 

* 十月十九日 木

* 今日は研能会。梅若万紀夫の「清経」を観に行く。

* 明治頃の名人たちは、当時は貧しく、家に帰ると、小さなお店をあけてささやかな商売などしていたものだと。そ して能を舞いながら、見所の知った客などを面の内から見つけては、「あの野郎、あくびをしてやがる」とか、そんなことを平気で想いながら、幽玄の美を悠々 と演じていたと謂う。能の演技にはこういうところがある。その方がいいところがある。
 友枝昭世はこれが出来るタチのシテだが、梅若万紀夫はかなり解釈しながら演技して行くタチのシテかもしれない。そのプ ラスマイナスが、曲の選び方次第で、両人をみているわたしには面白い。
 こんなメールが入っていた。
「 先日法事の時に、高野山 、醍醐寺で修行をしたベテランの僧侶に、大晦日の百八つの鐘をどんな気持ちでつくのかを聴いてみました。返事は意表をついて、『早く付き終わって風呂には いりたい』で、大笑いをしてしまいました。それでもその人に対して何の不快感もありませんでした。むしろ、好感が持てました。ひょっとしたら生臭坊主かも わからないけれど、ただ、よい事ばかり並べるよりも、もっと信頼できそうな気がしました。ひれ伏してその肩に足をのせて戴き感激する程の、尊敬出来る先輩 僧侶に出会ったという話を聴いたからでしょうか。それとも、私は変っているかな」と。
 おもしろい。
 こんなメールももらっていた。

* おはようございます。
 アパートの同じ階に、皇学館大学の教授がいらっしゃいますの。
 単身赴任してらしたのが、私たちが入居して半年後。見事な手跡の熨斗で、新潟の名産を、ご挨拶にお持ちになり、「あ ら、わたしも新潟なんです。」とお話ししましたのが、ご縁の始まり。
 偶然にも、伯父の陸軍少年兵の仲間というご縁。文学博士だそうですわ。
 先日、フォーマルウェアでお帰りになったので、(結婚式かしら)と思いましたら、「今日は神嘗祭でしてね。学生達と、 伊勢神宮へおまいりに行ってきたんですよ。」そうでした、気付かなかったの。ばかね。

* なんとも味なメールで。むだがなく、爽やか。

* メールを、こうして、ときどき転載させてもらっている。私的に迷惑にならぬよう、むろん、重々配慮している、 が、「これは、だめ」なものには、頭か末尾かどこかに、「だめマーク」の、 @ を、付けて貰うことにしている。
 

* 十月十九日 つづき

* 万紀夫の「清経」を良い席で観た。最後に涙を流した。装束の美しいのは、万紀夫の能ならではのサービスであっ た。よく働いて、先日の「卒塔婆小町」よりよほどシテの出来がよかった。ただツレの妻とのアンサンブルはさほど緊密でなかった。ツレの声質による物かも知 れない。それと、息子の紀長あたりが地頭格の地謡がとろくて、いつもレコードで聴いている野村四郎らの「清経」と較べ物にならない。これで万紀夫はだいぶ 引き立たない損を負うていたと思う。
 ただ、若手で固めた笛、小鼓、大鼓は、当代の若手では元気者の顔が揃い、宮増の小鼓もよく鳴ったし、いつものように亀 井の大鼓は熱演だった。笛の一噌隆之には「音取」の演出で笛をせいいっぱい吹かせてみたかった。
 妻は、戦死でも病死でもない夫の入水死が納得できない。約束がちがうと承伏せず形見の髪も使いの手に突き返して受け取 りたくないとまで言う。夫清経は、幽霊となってあらわれ弁明する。死んだ者と死なれた者との葛藤と取れば、これは夫婦の心理劇のような前半が面白くて、ま た、辛い。死んだ者よりもつらい死なれて生きて行く者の気持ちを、わたしは、今晩の能では感じていたらしく、そういう夫婦の能として涙を流していたよう だ。凡庸な間狂言のない能なのも有り難く、劇的性格のきわだつ名作と合点した。思いがけずこの能は、いや、この公達中将は、我が文壇処女作『清経入水』を 生ましめた。深い部分で「身内」も同然の人物なのだ。万紀夫の造形と表現に、幸い、満たされて帰れた。

* 堀上謙氏、小林保治氏につかまった。一緒に帰ったが、二人共に都合があって、結局一緒だったのは電車だけ。 もっとも堀上サンとは同じ保谷駅まで。

* 湖の本版『神と玩具との間 - 昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち』から、ホームページに収めて行く事にした。校正は未了のまま、勝田貞夫さんに助けていただいたスキャン原稿を頁に貼 り付けた。

* 選挙制度を党利党略のためにだけイジクリまわして勝手放題の自民党を、参議院選挙で目にモノ見せてやりたい。 選挙で意志を示す以外に国民には批判をかたちにする手立てがない。財政はすこしも良くなっていないのに、それを放擲したまま、政府与党のこのなにもかもの 「ごり押し」は何なのだ、これは。腹に据えかねている。
 

* 十月二十日 金

* 雨が寒々と降りついでいる。隣の家に建日子が来て仕事をしている。案じたように「視聴率」という、わたしなど からすれば、ただもう理不尽な敵にむかい悪戦苦闘らしい。言葉もない。じっと見ているだけ。

* 兄を「偲ぶ会」が、鶴見俊輔氏らの肝いりで実現するようだ、十一月に。わたしにも「三分間」での兄を語れと。 だが、兄と私には語れる事があまりに少なく、「思い」ばかりが溢れている。「思い」はとても語れない。出席するとは言ってあるが、ひとりで偲べるのだ、そ の方が自然だと内心の声はしきりに言う。

* 今日の一の体験は、九州大学の今西祐一郎教授から貰った九大図書館所蔵の「貴重資料(絵入り本)画像データ ベース」を、器械で、つぶさに鑑賞したこと。「九州大学情報基盤センター開所記念」の逸品(CD-ROM)で、「源氏物語歌繪絵巻」「曾我物語」「しゅて んとうし」「ふんせう」「竹とり物語」「いせ物かたり」「文正物語」「たまも」「中将姫」「たなばた」を挿し絵ももろともに「原色」「原型」で収めてあ り、中世から近世初頭へかけての所産。「奈良繪」と総称される画風に装飾された物語やお伽草紙の優品揃い。曾我物語がことに佳い。パソコンという器械の中 から、遠き古の文化的な懐かしさが香り出てくるのだ、しばし、どころか、長時間、時を忘れていた。
 今西さんにも、前の今井源衛名誉教授にも、ふとしたご縁から、よくしていただき、貴重な研究書や資料本をたくさんこれ までにも頂戴している。研究書が、読書ではいちばん面白く興奮できる。
 こういうデータベース化の成果が、各大学や研究期間で着々挙がってきていて、有り難いことに九州大学ではこれらをホー ムページに公開し、無料で大勢のまえに提供してくれている。だが、研究施設や研究機関によっては、ちらりと見せて、それ以上は有料という扱いのところもあ る。これはどんなものか。せっかくの電子的な成果をまたも秘蔵秘匿してしまうのでは、ネット文化が縮かんでしまわないか。

* なんだか、雨を聴くのが今夜は陰気でいけない。もう階下へ行き、休息しよう。
 

* 十月二十一日 土

* アーサー・ビナードという青年と、以前、池袋の「美濃吉」で会食したことがある。筑摩書房の日比夫妻の紹介 で、我が家の三人が迎えた。あのころはアーサーが日本へ来てまだ何年とも経っていなかったが、彼は日本語を天才的に把握していた。ほとんど会話に不都合が ないどころか、日本語で佳い詩を書き達者に文章を書き、それでなにがしかは稼いでさえいた。それが少しも変に感じられないほどしなやかに日本語をもう駆使 といいたいほど使い得た。感心した。
 人柄も美しい、惚れ惚れする青年だった。
 そのアーサーが日本語での詩集『釣り上げては』を、初めて、思潮社から出版した。前は独身だったが、いまは夫人もい る。表題のやや長い詩を引き締めているのは、次の詩句である。

  記憶は ひんやりした流れの中に立って
  糸を静かに投げ入れ 釣り上げては
  流れの中へまた 放すがいい

 これほどの詩句には日本人の書いた日本語の詩でも、そうは出逢えるものでない。

* 妻の書いた『姑』をフロッピーディスクから復元し、湖の本の『丹波』に参考作品として入れていた最終稿と丁寧 に校訂した。母を、ほんとうに、よく書いて置いてくれたと思う。わたしでは、こうは書けないと思うところを具体的に、過不足なく適切に表現して置いてくれ たために、さながらに母に会う心地がする。無心に無欲に書いたのが、成功しているので、文芸春秋の寺田出版部長がすぐ褒めてきてくれたのが、ご挨拶ではな かったとわたしも納得している。
「e-magazine湖(umi)」の根雪の一つに置いてみたいと、一日、校訂していた。わたしのは、手近にあった中 から「新潮」が文句無くとってくれて、担当の小島喜久江さんがもう少し長ければねえと惜しんでくれた『青井戸』を出しておこうと思う。気持ちの佳い作だと 思っている。スキャンに、もう少しかかる。

* 電子版「湖の本エッセイ」の筆頭に、『神と玩具との間=昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち』を入れ、スキャ ン原稿の校訂を開始した。読み物ではないが、面白い本である。よく出版させて貰ったものだと思う。松子夫人が、辛い気持ちを怺えて下さったお気持ちが今は ひとしおよく分かり、頭を垂れて心から感謝申し上げている。「谷崎愛」の仕事だからこそ、関係者はみな堪えて下さった。さもなければ、訴えられていたかも 知れぬほど深く谷崎の私生活に踏み込んでいる。百数十通もの私信を駆使しているのだ。

* 森喜朗の、北朝鮮拉致問題での軽率発言にはもう驚かないが、幹事長の野中広務が、政治は個人ではなく政党がす るものだと、長野県知事選の敗北を逆恨みし、衆議院補選に立候補している無所属の女性議員の優勢に顔を紅潮させて抵抗している図は、情けないどころでな い、党議拘束政治を画に描いたような無見識な党利党略体質の露呈としか言いようがない。所詮は政治家ではなく、昔風の内務官僚に同じい。いまの自民党は、 優れた政治の良識・見識からは大きく外れた連中ばかりで、執行部を形成している。途方もない亡国の兆である。だれも理想の声を発して歯向かう元気もない。 森、野中、中川、青木、亀井。この五人を叩きつぶす以外に自民党は、いかに選挙制度に手を加えても、もう断末魔に近い気がする。YKKはなにを日和見して いるのか。田中真紀子は、石原伸晃は、いつ起つのか。
 

* 十月二十二日 日

* 異相尾上辰之助の三代将軍家光役がはまって、この俳優の強いバネのような魅力が光り初めてきた。以前、「大石 最後の一日」で細川の殿さん役を凛々と若さで演じ、冴えた役者だなと思った。もう何年も前だ。祖父松緑ばかりか若い父の辰之助にも早く死なれて、新之助や 菊之助にくらべて可哀相な気がしていたが、凛々しくつよい役者になってきたのが嬉しい。テレビではアップが利く。彼の異様に光るまるい眼が、ピンと張った まるい頬とつろくして、この異相が瑞相になればいいと思う。西田敏行ほどの俳優が、並んで普通に見えてしまうほど歌舞伎俳優の底光がすごい。

* サンドラ・ブロックの「インターネット」が面白く、惹きつけられ、手に汗した。この女優は「スピード」で好き になった。いつもは元気いっぱいなだけとも言えたが、今日のプログラマー役は厳しかった。敢闘していた。器械にさわっているので、何となく題材にのりやす いのであるが、それだけの魅力ではなく、ネット社会が曝されているサイバーテロの恐ろしさに肌に粟立つのでもあった。「エシュロン」「サイバーテロ」この 魔の手の巨大さは、明らかに「核」に匹敵している。そういう点にも目を向けずに「IT革命」の何のと浮かれている森内閣の薄さ軽さバカさ加減には、だんだ ん、言う言葉もなくなってきた。

* 長野では田中君が知事に勝ったし、東京21区衆議院補選は自民・民主・社民という「政党」を蹴飛ばして、無所 属の川田女性候補が勝ったようだ。希望を捨てまいと思う。長野県役人の質的なひどさがどんどん報道され、これにも呆れてしまう。県庁を大掃除することから 始めるべきか、ま、黙ってみていたい。石原都政への痛烈な「反措定」となる長野県政を、せっかちにならずに期待しよう。

* 橋田二朗作「秋色草花譜」は、この秋の創画展の最優秀・最誠実な美しい日本画であった。加山又造はうまいけれ ど写真画にすぎず、石本正もうまいけれど淫して下品である。ヌードの尻に割れ目など描いて、それが何だと云うのか。
 橋田画とともに最も美しく深い把握は、秋野不矩のインドに取材の繪であった。酔うほどにすばらしい色彩。新会員に推さ れた津田一江の「連鎖と残影の自画像」は線の清潔な鋭さと優しさに異色の美を帯びさせ、納得した。坂口麻沙子の「三人の踊り妓たち」が印象的で好感がもて た。秋野さんは別格とすれば、今度は橋田作と坂口作を双璧と観よう。
 西洋美術館の展覧会「死の舞踏」展は、苦手で、ただ通り過ぎた。常設展の方は「西美をうたう」とか、現代歌人たちが西 洋絵画に「歌賛」しているのだが、どれもこれも絵画の説明的なオマージュで、胸に響くポエムの「うたごえ」はどれ一つとして聴けなかった。なさけなく、辟 易した。絵画作品からひきはなしてしまえば、もう、たちまちに何のことやら分からないうわこと歌ばかり、歌人たちよ、恥ずかしくはないかと思う。繪は、い つものように佳いものが並んでいて、美術の秋をという客の希望に応えてくれていた。
 そして西洋美術館のレストランは、いい雰囲気。三千円の最上のコース料理が、スープも肉も、なかなか、いや、とても旨 かった。妻と、ふっと思い立ちわざわざ出かけて行って、よかった。

* 先週の日曜日、浅見真州先生の独演五番能を観る機会を得ました。
 翁・邯鄲・清経・半蔀・卒塔婆小町・石橋。
 体力、集中力に、自信が無くて、途中の、清経からしか観ることができませんでした。
 清経は秦様の受賞作品で始めて、能の世界を垣間見て、常に気持ちがある作品です。謡いも習った事があるので、詞章、少 しは聞き取れました。その上、笛の、恋の音取りが素晴らしく、聞きほれていました。
 今まで、卒塔婆小町は難しいだろう、しかも老醜は見たくないと敬遠して、観たことがありませんでした。
 浅見先生の小町は、すさまじさも感じましたが、美しく演じておられたように思いました。怨霊に取り付かれた小町が美し く見えました。
 五番能は、人間の一年、一生、宇宙を演じられたとか。
 私は、能を見て感動するところは僅かしかなく、小町もこれから何度も観れば、少しは分かるようになれるかと。それにし ても至福の時間でした。
 狂乱した小町を観て、秦様の『聖家族』のテルコちゃんを思い起こしました。
 あの作品を読みましたとき、テルコちゃんの段は辛く、「愛は可能か」と問われていましたが、私自身の人との関わり合い 方の薄さを思いました。主人とでさえ、そこそこに過ごして来た事を辛く読んだのでした。

* 話されていることが、朧ろに分かる。能というのは、どこか、深くこわいものである。いろんなことを連想的にも の思わせるところがある。能をみながら、まるでべつごとを頻りに思い直していることがよくある。こういうことは、メールだから話せることなのかも知れな い。
 『聖家族』はきついはなしであり、まだ仕上げたという思いをもてない途中の作である。
 
 
* 十月二十三日 月

*  e-文藝館・湖(umi)=秦恒平責任編輯   これは、在来の雑誌の常識を超えた、作家秦恒平の責任編輯 による、広範囲な「文学・文藝サロン」です。小説・詩 歌・エッセイ・批評・研究・紀行・論争、長短を問わず、ジャンルごとに自立の頁に、原稿を配列して行きます。ファイルが満杯になれば拡充しますが、また MOディスクにバックナンバーとして保管し、希望が有れば、頁に戻したり希望の読者に電送します。

 しばらくは、寄稿をまちながら実質を築いて行き、やがて、この雑誌独自の表紙と目次・索引を設けて行きます。
 寄稿は、原則として何方も自由です。秦恒平のホームページ内に「入れ子」に設定された文学・文藝の「場」として、利用 し活用して下さい。掲載料もとりません、読者に接続課金もしません、原稿料も一切支払いません。我がホームページの一郭を進んで「文学表現」の場として提 供します、活用して下されば幸いです。但し、質・量・表現にかかわる取捨の自由は編集権者の秦恒平にあり、不可とみたものは、掲載しません。
 寄稿には、秦恒平宛て電子メール「FZJ03256@nifty.ne.jp」をご利用下さい。

「湖」と名づけた原像は、少々古いのですが、幼年の昔に、供え物のための蓮の葉に散った露の玉が、たちまち一つの 湖をなしたあの清さと美しさの記憶です。この「e-湖」は、広くはならなくてもいい、深くありたい。

 こういう「e-文藝」の「場」が、世間でも、これから次々に生まれてくると思います。この「e- magazine湖(umi)」は、理念としても実践としても、魁の意義をもつでしょう。電子メディアを場にして生まれくべき新世紀の若々しい文学・文藝 のためには、こういう、きちっとした「場」が必要です。落書きに過ぎない野放しの垂れ流しの文章が、いくら無数の「掲示板」に満載されても、「文学・文 藝」の表現にいい土壌を培っているとは言えません。

 幸いこのホームページのビジターには、作家・芸術家・編集者・研究者・学者・教師・大学生そして「湖の本」の読 者たちが、つまり優れた読み手も書き手もが、相当数含まれています。「e-湖」は、そういう「いい読者」にはじめから恵まれているとも言えなくはなく、こ れは大きなメリットです。編輯者自身も、かなりウルサイ読み手です。逆にいえば、寄稿者に恥はかかせないつもりでいます。

 原則として秦恒平は、ここには書かないつもりですが、各頁の形と実質を整えるまでは、適宜に原稿を入れて行きま す。また心親しい書き手の方たちにも、当分の間、原稿を頂戴したいとお願いに上がるつもりでいます。ご支援下さいますよう。

* ご吹聴・ご紹介、それよりも寄稿参加願えれば幸いです。
 
  
* 十月二十四日 火

* 先日、石清水八幡宮にゆきましたとき、見晴台の「蘆刈」の碑のあたりに、漆黒の仔ねこ2ひき、雪のような仔が 2ひき、いました。何かのお使いかも知れません。写真を撮ったのですが、よく撮れませんでした。
 数日前、友人から、かわいがっていたねこの命日をパートナーと二人だけで過ごすのはつらい、遊びにきて、と言われ、び んにねこのシールをいくつも貼った「ねこワイン」と称するワインを持ってゆきました。
 そのねこが今まさにいのち終ろうとするとき、いっしょに飼われているもう一ひきのねこが、一所懸命、死にゆくねこを舐 めてやったと聞いて、なぐさめるつもりのわたくしのほうが、泣いてしまいました。
 冷たい雨が、…霧に。

* 先日の、小町化粧の井で出逢った、白に、淡く匂うように顔に茶色を刷いた、小さな小さな仔猫。また名古屋の熱 田神宮の末社の祭壇で寝ていた漆黒の仔猫。不思議な出逢いかたをすると、胸のとどろきがしばしやまないが。あまりとらわれても精神の衰弱のようで、用心す る。昨夜はよく降った。昨日は降りかけてから外出した。さくらやでアクロバットというソフトを買ってきた。布谷君のつよいお薦めが前からあった。インス トールしたものの、マニュアルは全編細字の英語で何十頁も。こりゃかなわん。何にどう使うと、わたしは便利するのか、聴いたが頭にうまく残っていない。少 しでも、ホームページのためのスグレモノであってくれるといいが。具体的にどう使うのか、だ。
      
* 起って、前へ。  最近は体調も良くなって、病院も月2回になりましたし、睡眠の時、よく見ていた悪夢もなくなって きています。頂いている薬と自分の相性が良かったのかもしれません。まだ無理は出来ませんが。お体の具合はどうですか?
 ところで、僕は大学の通信教育部の本科生に合格しました。僕は、98年10月からこの大学の通信教育部の「特修生」と いう立場でした。中卒の僕が特定の単位を取得するまで「本科生」にはなれなかったのですが、今年必要な単位試験にすべて合格し、晴れて本科生の入学資格を 手に入れることが出来ました。認定証を見たら通算46人目。実際、大変で結局まる2年かかりましたが、なんとか自分で成し遂げられたことがうれしいです。 もう中卒という肩書きを背負わなくていいというのが正直な感想です。ではまた。

* 嬉しいメールだった。期待している。新潟からも、大学受験に奮励中の若い友人が便りをくれている。

* お久し振りです、びっくりしました。元気にしています。書きたい気持ちをじっくりと溜め込んでいます。
 『早春』面白く読みました。いろいろな作品に出てきたヒロイン達の姿が浮かんできて、思わず昔の短編などを読み返して しまったぐらいです。さすがに余裕がなくてサイトを窺うことはできずにいますが、次の「湖の本」ではどんなものが届くか、愉しみにしています。
 目指す道はますます険しさを増した感がありますが、突き抜けられる手応えはつかめています。頑張ります。秦さんも、迪 子さんともどもお身体には気をつけてください。短く返事のみにて失礼します。 
 

* 十月二十四日 つづき

* 第一番の寄稿が「e-agazine湖(umi)」に届いた。常陸筑波にお住まいの歌人和泉鮎子さんの文学 エッセイ「『源氏物語』の常陸」で、惹き込まれて読んだ。丁寧に懇切に書かれていて、洩れのない把握である。わたしなども、以前からもやもやとしてこの 「常陸」を思ってきた。源氏を読んできた大勢がそうだろう、和泉さんはそれを美しく語られ、もやもやを整理して下さった。記念の第一寄稿が気持ちの佳い文 章であって、嬉しい。
 引き続いて、寄稿のあるのを心待ちしたい。

* 馬場あき子歌集『飛天』を頂戴した。巻をひらいて、第一頁から、

  読み更かし涙眼濁る冬の夜の精神を抱く肉体あはれ 

とは、何じゃこれは。次の頁には、

  乾坤といふ大きさを忘れたる都市の濁れる巷を帰る
  父の薔薇ゆめの浮世の秋闌(ふ)けの陽にかがやきて吾を宥すべし
  どどつと乗り込みぎしぎしとせる急行の荒きちからに冬が来てゐる
  枇杷の花咲いても咲いても醜くて小春びよりのさびしさが湧く

 はっきり言ってひどい歌である。拙劣であることだけが分かり、胸にとどく作者の真摯な生の感動はちっとも感じら れない。どういう編集かにしても、歌集巻頭の五首がこれでは、先へ進めない。一冊の歌集を、これだけで云々しては問題があろう。だが、かりにも馬場あき子 ではないか。
 初心の熱がかくもぬけ失せ、謙遜の姿勢も失せてしまうのは、これも結社というお山の大将に安住して、歌の推敲や自己批 評すら手抜きしているのではないかと、久しい友人のために惜しむ。与謝野晶子にも斎藤史にも、巻頭にかかる「駄歌」を置いた歌集は無い。わたしは、面白く ない。いい気分ではない。つづきは、間をあけてから、読む。
 

* 十月二十五日 水

*  昨夜は「 編集王」しっかりと観ました。ストーリーも役者の演技も佳いのに、劇画的なシーンがとても下品で、目を背けたくなります。狙いはたとえそれでも、損をして いますね。あれでは、若い女の子は敬遠します。あの時間帯は、その人達の心を掴むものでなきゃ視聴率は上がらない。娘も勤めから帰ってましたが、「それは ちょっと敬遠」と、別のテレビで他のドラマを観てました。「(建日子さんの)芝居を観た時、面白く、とても佳いなあと思えた、あんなレベルの物を書いて欲 しい」とも言っていましたよ。

* このメールの通りである。もっとも、「視聴率」が上がればそれでいいとは、わたしは、少なくも考えていない。 なにが何でも「視聴率」に媚びた、すり寄った、そんな仕事がいいわけがない。若いのに藝達者なんかであれば、いくらかは気味がわるい。若者が「藝」のなさ をふっとばして補いうるのは、烈々の意欲と志しかありえない。まだ職人づらするのは厚かましいのである。職人藝の人の徹し方を知らないのだ。なめてはいけ ない。
 視聴率でピンチなら、それも経験。あてがいぶちに「パンツをぬげ」と言われて脱ぐのはいい、工夫のある脱ぎ方を見せて 欲しい。落語の中村仲藏「定九郎」の意地と工夫。苦労したから幸運も来たと円生の藝が語っていた。仲藏も名人になった。円生も名人だった。だが、彼らの藝 がなにも最上とは限らない。いくらたとえ「視聴率」が上がろうと、そういうやりかたはしないと、例えば志賀直哉なら突っぱねる。そういう藝もあるのだ。
 いろんな「藝談」がある。わたしも読んできた。いいものほど、応用は利かない。だいじな藝は、自分で創って磨くしかな いのだ。

* 山折さんとの対談が、来月の月半ばに延びた。すぐ追いかけて京都で、仕出し弁当の「菱岩」主人との対談の話が きまった。紅葉の京都へ出かける。兄を偲ぶ会は、気が重くなっている。よその世界に過ぎないからだ、わたしには。私の兄の上に他人の兄を乗っけられてしま うのは鬱陶しい。ウイーンの猛がもし帰国すれば、話は聴かせてくれるだろうし、彼は出ないかも知れない。

* いま活躍中の純文学の「至宝」といえる作家十人を選んでくれないかという途方もない注文を受けた。これは、無 理な仰せというものである。
 作家は、よほど余儀ない必要がなければ、他の同時代作家の作品を読む気を、あまり持たない人種である。自分がいちばん いい仕事をしているぐらいの気で居るのだから、当たり前である。
 デビューの頃、どこの社のベテラン担当編集者も、他人の作品など「読むな」「読まない方がいいです」とわたしに教えて くれた。よくても、よくなくても、他人の作品は、毒にこそなれ、あまり薬にはならない。わたしが常日頃愛読するのは、学術的な論文、古典、翻訳物、ノン フィクション、歌集・句集、歴史学や美術史などの本。そして尊敬する近代文学の優れた作品を繰り返し繰り返し読む。むろん、バグワンはわたしの聖書に等し い。それらで、ま、手いっぱいである。文芸雑誌にはまず手も出さない。妻や息子にはどうぞと薦めるが、わたしには、よそごと。
 そんなだから、正直なところ他の作家のことはよく知らない。
 それに「世評」などというのも、要するに仲間褒めの回り持ちであるから、編集者や文芸批評家らのする「評価」というの も、要は仲間褒めか社利社略であることがあまりに多いのだから、全然と言えるほどアテにならない。蝸牛角上のなれ合いにほぼ等しいものでしかない。そうい うバカげた雑居のカヤの外へ、わたしは、まさに出奔したのだから、十人が三十人でも五十人でも、文壇的な選別や選抜の作業はできないのである。そういうこ とを好んでやりたがる人も、だが、必ずいるものである。お門違いであった。
 

* 十月二十六日 木

* 少し早めに出て、池袋で、来月の京都への往復切符を用意した。餡たっぷりの最中を一つだけ仙太郎で買い、行儀 わるく歩きながら食べた。とても旨かったが妻は辟易していた。
 まだ時間があったので、巣鴨で、はじめて「とげぬき地蔵」を尋ねてみた。すぐ間近ににぎわいの参道があり、なるほど老 人がすこぶる大勢、わが街のようにかなり楽しんで店という店にたむろしている。寄ってたかっていると謂うてもいい。そんなことを云うわれわれが、れきとし た老人夫婦に、もうなっていなくもない。老人であること、老人になること、を、わたしも妻も少しも気にしていないから、ごく気軽にやすやすとした気分で見 性院のまえを通り抜けて、高岩寺までの繁華をぶらついて行った。もの珍しい気分もあった。参拝したが、べつに何を商店街で買いもしなかった。便利に地下鉄 三田線に乗って一つ先の千石で下車。

* 三百人劇場での劇団昴の「怒りの葡萄」に、俳優座と同じに、今回はわたしが招待されていた。妻の席もいっしょ に予約してあった。スタインベックの一九三五年頃の、つまりわたしの生まれた頃の作品で、地響きのしそうに重い小説だ。どう脚色しどんな舞台にするのだろ うと、心配なほどだった。三十年代のアメリカだ、東部の農民が開発の手に故郷を追いたてられて、うまい話を頼みに誰もが西へ西へカリフォルニアへ、山を越 え砂漠をわたって、苦心惨憺の長い長い旅を続けるが、めざす目的地は楽園でも何でもない血まで吸い尽くすほど搾取の地でしかなかった。

* 期待するのが無理なのではと案じていた。だが、劇団昴はやってくれる。滑り出しからみごとなアンサンブルで、 脚色も演技も演出も音楽も舞台も、申し分のない興趣豊かなドラマを好調に展開し、ほぼ間然するところ無い演劇を構築してくれた。陰惨なほどつらい推移であ るのに、視線をあてられている三代の一大家族のアメリカ横断大移動の旅路は、温かに、人間的で、納得のゆく心理や行為や表現をぎすぎすしないで見せてくれ た。どの誰の役がうまいのうまくないのというのでなく、ちいさな身動きのすみずみにまで演出の、演技の、いい神経が働いていて、だれも抜け駆けの芝居をし なかった。その調和=ハーモニィが、ファシネーティヴで、舞台の空気を味わいを深くリアルにした。一家の運命の厳しさや重苦しさがありながら、演劇はわた したちを楽しませた。嬉しかった。

* 昴では、チェーホフの「三人姉妹」が見事だったし「ワーニャ伯父さん」もよかった。「ハムレット」も「リア 王」もわれわれをかなり満足させた。今回の「怒りの葡萄」はヒケを取らず「三人姉妹」の感動にせまっていた。時代差からの制約や制限を感じさせなかった。 農民に対する新資本の徹底した搾取といった、巧妙に現在では手口をかえて消え失せてすら見える問題点でも、舞台「怒りの葡萄」は余計なすきま風をすこしも 吹かせず、視線をとらえて放さなかった。感動がそこにあった。ラストシーンの、若い子供を死産したばかりの母親が、飢えて死にそうな男に乳を吸わせてやる 名高い場面に、もうすこし大胆さと余韻とが欲しかった。淡泊にあっけなく幕になったのが惜しかった。

* 日比谷へ出て、帝国ホテルの「チチェローニ」でワインを。ほろほろ鳥がうまく、デザートを三種楽しんだ。 「ザ・クラブ」ですこしやすんでから、銀座へそぞろ歩き、パンを買って帰った。いい休日を楽しんだ。明日からは、いろいろ仕事が待っている、二回目の対談 の手入れもあり、連載原稿があり、こまごまとした頼まれ仕事に加えて、もう湖の本の次の発送へきびきびとした用意を重ねなければならぬ。「e-mag湖 (umi)」の作業もたっぷり必要なので、痛い肩こりは、さらに当分なおりそうにない。
 

* 十月二十七日 金

* 組閣の段階でこの官房長官はハナシにならないと思い、そう書いた。覿面であった。高潔な政治家などをと高望み はしない。わたしなどちっとも高潔な人間ではないのだから、そんなことはえらそうに言わないが、誰のための何のための政治家であるかだけは心得て、センス のある動き方をして欲しい。中川はもとより、それ以上に森総理に無いのが、誠意のある政治センス。輪を掛けてワルイのは野中。タチのワルイのは参議院の青 木と村上。ワルモノ揃いである。なんだか騒がしい亀井静香がお静かだが、彼はすばしこいから、もう別の旗を水面下でかつぎかけているのかも知れない。
 それにしても分からないのは大蔵大臣の宮沢喜一。まともに国政を憂える知性の代議士なら、今は辞表を叩きつけて閣外に 去る時機ではないか。それなら森内閣は潰せるだろう。代わりがいない。それなら自分がもう一度というぐらい、大丈夫の意欲をもてばいい。情けないではない か、もと総理殿。

* 長野県庁の反田中役人どもの低俗なことには、呆れてしまう。ペログリどころのものではない。田中君は、こうい う時にこそうまくマスコミをつかい、県民の中から声を拾い上げ、そして優れた政策マンを一日も早く身の回りに私費ででも組織した方がいい。一人で闘っては いけない。県民の応援も長続きするなどと思っていたら、錯覚である。大事なことは戦略なのだ、彼の場合は。だが、わたし自身はそんな世界での戦略などは、 御免を蒙りたい。逢いたい人に逢い、話したい人と話し、悠々といたい。

* 都賀庭鐘の「英草紙」を一編ずつ、玄関の全集から本を抜いて、机まで行くのも面倒で、立ったままその場で音読 を楽しみ始めた。二編目がとても面白かった。少年時代から本を声に出して読むならいが身についている。
 
* 八上芳枝『続笹の葉』という、もうずいぶん昔に貰った歌集を、しみじみと読み通した。六十年前に夫を見送った人が、 いまなお切々と夫恋うる歌をよみ、師友を偲んでいる。こういう人をこそ「短歌」が育てたのだと思うほど、澄んで清い境涯を冴え冴え表現して清水の湧くごと く楽しんでいる。能村登四郎氏の句集『芒種』とともに、心洗われるとは、これかと思う。こういう真実・真率そして丁寧な歌集もあるのだ、ほとんど無名に近 い歌人にしてである。いや無名に近ければこそか、有名が着物を着て歩いているような馬場あき子の『飛天の道』は、まだ、とても続きを読む気がしない。

   彼岸すみし日の照る庭を歩みゆく背(せな)を伸ばせと自らに言ひて
   六十年の夫の忌日もすぎゆくと思へる庭の遠き雷鳴
   倉の前梅花うつぎの白き花この窓に見し人の恋(こほ)しき
   音のなく若葉の揺れて風ゆく庭夫を偲べど思へど寂し

 新しくも何ともないが、しずかな感銘の質は新しくて清い。それでいいのである、短歌藝術は。鬼面人をおどろかし て実情を欠いていては、ただの曲芸を出ない。蕪雑なものでも人を感動させることはあるが、感動のない曲藝は、藝術の世界ではただ卑しい。いいものが、読み たい。
 

* 十月二十八日 土

* E-MAGAZINEをメールで諸方に報せた。矢は弦を放れた。どこまで飛べるか、だ。言うまでもない、これ は、わたしの、いろんな意味で、一部分。

* 目疲れしているので、ほんとは、少し出歩いてくるといいのだが、冷え込みのせいか、かるい頭痛がある。眼精疲 労だろうと想像するが、冷えて寒いのは苦手で、着替えまでしながら、動かないでいる。

* 原善の「初恋」論をスキャン原稿から校正しているが、べらぼうに長く、独特の「悪文」なもので、はかどらな い。入念な行き届いた論考なのは分かっているが、いい文章の面白いものを、嬉しく読んでいるという気にならない。論文はより正しくて面白いのが良く、評論 はより面白くて正しいのが良い。どっちも同じなのだが、学者も文章の推敲はていねいにした方が結句トクだと思うのだが。

* 新潟の少年から以前にもらったながい文章を読み直して、本人に送った。受験勉強中なので急ぎはしない。なにか 気づいてくれればと思う。また返送されてくるのを楽しみに待ちたい。

* 秦先生 その後お体の具合はいかがですか?
 私の方は、幸いかねてから取り組んできた研究も学術雑誌に投稿するのに充分なデータが一通り揃い、最終的な詰めをして から近日中に投稿するつもりです。これが受理され次第(投稿してから受理されるまでにはスムーズに運んだ場合で約2カ月くらいかかります)、博士論文の審 査が再開されるので、あまりのんびりはしていられず、かなり急ピッチで仕上げなくてはなりません。
 しかも、今年度の始めあたりに、ふと思いつきでやった実験が当たって、なかなか良い内容の研究になりつつあるのです が、こちらは最近アメリカのグループが同じようなデータを得ていることがわかり、急遽、途中まででも速報という形で纏めようとしています。こちらの方が一 日を争う状況となっているため、こちらを先に纏めることになります。いずれにせよどちらも近日中に仕上げなくてはならないのですが、改めて英語力の貧弱さ や基礎知識の欠如に頭を痛めております。
 しかし、今回研究を纏める上で痛感していることですが、研究は一つ分かればその先が知りたくなるのが人情ですので、ど こで区切りを入れるかというのが非常に難しいです。本当はもっとここまでやればよりよい研究になるのになあと思いながらも、どこかで線を引かなければいけ ないわけで、引き際を見誤るとライバルに先を越されかねません。もう少し手を入れたらより良くなるのではないかという点で頭を悩ませるという点では、絵を 描いたり或いは小説を書いたりするのと非常に近いのかもしれません。
 またいずれ仕事が纏まりました際に、またご連絡差し上げます。どうぞお体に気をつけて。

* 理系の学術論文は、臨床医学や基礎医学のものは、勤務の昔にべらぼうに大量読んでいたが、東工大の諸君の論文 は、建築の卒論や修士論文の梗概を読ませてもらった程度で、とても読むだけの力もない。実験という言葉は耳にタコほど聞いたけれど実地には想像もつかずに いる。この博士課程の院生の研究など、まさに「生体の科学」のように想われるが、見当がつかないほど精微なもののようだ。うまく行ってほしいものだ。

* なんだか、とても空腹。
 

* 十月二十八日 つづき

* 娘の朝日子は、昭和六十年より以前に、手作りの、奥付をさえ持たない、そんなことへ気も行かないような質素な 私家版を二冊創っていた。わが娘である。その創刊の一冊を「e-magazine湖(umi)」の最初のファイルに積み重ねた。今夜一晩かけてワープロ版 からスキャンし、丁寧に読み返し読み返し、校正した。贔屓目でなく、娘には文章のセンスがあった。さりげなく自然に清明に書ける力があった。いつも、わた しはそれを褒めてやりながら、自発的に「書く」よう期待していた。書けば、書けたのに、続けなかった。またいつか書き出すのだろうか。わたしがそれを読ん でやる機会があるのだろうか。
 湖に載せた作品は、尋常な題材であるが、よく書いていると思った。よく書いて置いてくれたと、少し、泣いた。こういう かたちで公表されることを今の朝日子は好まないかもしれないが、幸せに穏やかな親子四人のいた日々を思い出し、心しおれながら、いいものを読んだ嬉しさを いま反芻している。読んでやっていただきたい。二十三か四歳ごろの作である。

* 「湖=umi」に反響が届き始めた。一つ、手早く此処でもぜひ紹介したい。千葉の勝田貞夫さんが、わたしの本 のスキャン原稿をどっさり添えて、送って下さった。脱帽ものの秀逸で、こういう真似はちょっとやそっとでは出来ない。

* 玄奘三蔵訳「摩訶般若波羅密多心経」 そのまた勝田貞夫訳? 

 この世を見渡す観音さまは どしたらいいかと修行をされた この世はすべて空だと見抜き 一切の苦厄をのり越え られた
 これおまえ ものみな空にほかならず 空がものに他ならない 形あるもの即ち空 空が即ち色なのだ ひとの心のはたら きも これまた同じく空である よいかおまえ あらゆるものが空なのだから 生もなければ滅もない 空のこころにものなどなく 喜び悲しみ欲分別も 目鼻 手足も心もなく 姿形も想いも無い 見るもの聞くもの十八界も 心の奥まで無に等しい 三世の因縁や迷いもないが 迷いがなくなるわけではない ほれあの 猫は老死を悩まぬが 老死がなくなるわけではない 苦もその元もそれから逃れる道などもない 人の知恵など悟りが何だ 取るには足らぬものなのだ 
 菩薩さまは そこんところがよくおわかりだから 心にわだかまりがない わだかまりがないから 恐れもないし 考えち がいも邪念もなく こころが安らぎ涅槃におられるのだ 三世の仏さまも ここんところを身につけなさり 正しい悟りを得られたのだ だから般若波羅密多は  計り知れない言葉だし あまねく照らす言葉だし この上もない言葉だし 比ぶべきない言葉だし 必ずかならず苦しみをとる 真実うそではないのだぞ そ こで言葉を教えよう
 即ちその言葉とは ガテー ガテー パーラガテー パラサンガテー ボーディー スヴァー ハー

* こんなのが、対象になるのかどうかわかりません。「文藝」にはほど遠い私にまで、「e-magazine湖 (umi)」のお誘いを戴き、ほんとに恐縮の極みです。以下言い訳け:実は、煎餅屋の母が仕事を止め、90才で亡くなるまでに、7万巻(枚)余の「般若心 経」をせっせと書いていました。実家へ行った時、私も一枚書いてやると、とても喜んでいました。帰り道、小学生だった娘に「おばあちゃんは、わかって書い ているのかしら?」と聞かれました。「ありがたいと思って書いているのだから、いいのさ。」と答えて、その場は逃げたのですが、何か、うしろめたさが残っ ていました。小学卆の両親に、上の学校まで出して貰ったのだから、何とかしなければと思い、訳してみました。母に見せたら、「ふーん」と言っただけでし た。その、お袋のお経は、2万巻たまると、好きなお寺に納めていました。芝の増上寺、那智山青岸渡寺などに今でも小さな碑が建っています。(筈です。)
「エ4茶ノ道スタルベシ.txt 」「エ5京言葉と女文化・京のわる口.txt」「猿の遠景.txt」「なよたけのかぐやひめ.txt」お送りします。うまく着きますように。
 どんどん寒くなって来ます。お大事にしてください。勝田貞夫

* 嬉しくなって眠さもとんでしまう。囀雀さんからも、いいメールが来ていた。雀さんで嬉しいと言えば、雀躍(こ おどり)したい喜びは、布谷智君からまた改善改良のプランが届いた。これは明日の楽しみにしよう、今夜はもう休もう。二時になる。
 

* 十月二十九日 日

* 「e-湖(umi)」へ、もう二十通もメールが入っている。講談社の「Web現代」編集長の元木さんからも。 感謝。まだ、メールでしか挨拶はしていない。郵便でも、と、思うし、やがて冊子版「湖の本」でも。
 栃木の友人からも。

* 志のあるメールをいただき有り難うございました。執筆締め切りに追われて疲れている頭に、清々しさが戻ったよ うです。

> この「e-湖」は、広くはならなくてもいい、深くありたい。
> こういう「e-文藝」の「場」が、世間でも、これから次々に生まれてくると思います。この「e- magazine湖(umi)」は、理念としても実践としても、魁の意義をもつでしょう。電子メディアを場にして生まれくべき新世紀の若々しい文学・文藝 のためには、こういう、きちっとした「場」が必要です。落書きに過ぎない野放しの垂れ流しの文章が、いくら無数の「掲示板」に満載されても、「文学・文 藝」の表現にいい土壌を培っているとは言えません。わたしが名伯楽であれるとは思っていませんが。
 幸いこのホームページのビジターには、作家・芸術家・編集者・研究者・学者・教師・大学生そして「湖の本」の読者たち が、つまり優れた読み手も書き手もが、相当数含まれています。「e-湖」は、そういう「いい読者」にはじめから恵まれているとも言えなくはなく、これは大 きなメリットです。編輯者自身も、かなりウルサイ読み手です。逆にいえば、寄稿者に少なくも恥はかかせないつもりでいます。

 本当にそうですね。現在はほとんど発信だけで、鍛え合う「場」が無きに等しいと思います。その意味でまさに魁で しょう。是非とも表現をめざして「寄稿して修行させていただこう」と考えます。
 確かに優れた読み手と書き手の方々が含まれているでしょうから、できれば、「恥をかいてもいいから鍛えてもらえる」と いうレベルのディレクトリがあって欲しいとも思いますが・・・欲張りですね。
 とりあえずは読むことの楽しみがひとつ増えたことを喜んでいます。

* 千葉の高田欣一氏からは、直哉についても。嬉しい。

* 電子雑誌への案内、有難うございました。(略)
 阿川弘之「志賀直哉」は読まれましたか? まだでしたら、差し上げるわけには行きませんが、お貸しすることはできます。おついでのときにお返し願えれば結構です。
 最近、戦後の志賀直哉についてもう一遍読み直す必要が起き、下巻だけまた卆読しました。阿川さんのお仕事はすべてそう なのですが、トリビアルなことを積み重ねてゆく書き方にいいものがあります。海軍提督ものでさえそうなのですが、「志賀直哉」は特にその傾向が強い。近代 文学研究家には貴重な資料でしょう。ただし、志賀直哉という独特の大きなスケールの人間の全体像を捉えるにはどうでしょうか。
 私見では、(直哉は)作品より人間のスケールの方がはるかに大きかった人という印象を受けます。外国人でいえば、ポー ル・ヴァレリーのような人。資質は大分違うが。
 秦さんと違って、私は志賀直哉で文学に目覚めました。高校1年生の三省堂の国語教科書で「城の崎にて」を読み、友人の 古屋健三の書棚から借りてきた新潮文庫で、随筆「リズム」と、「大山」という題で載っていた「暗夜行路」の最後の部分を読み、小説のおもしろさを知りまし た。
 高校を卒業してしばらく勤めているときに、「懸崖」という詩集を持っている菱山修三という詩人に、あるフランス語の講 座で、ジッドの小説を習い、そのとき菱山さんが日本の小説の話をして、日本の小説は、夏目漱石からまったく進歩していない、ということを志賀さんを例に話 すのをきいて、あるショックを受けたことがあります。
 阿川さんの本に、誰かの言として、志賀直哉の小説は、絵でなく、書として読めばよい、というのがあり、なるほどと思い ました。
 私は、これまでの諸家の評価では、「もうあがってしまった」作家のものとして評価される「暗夜行路」以降のものが好き です。「馬と木賊」という文章など、あの短い枚数でよくあれだけのものが書けるなと感心してしまいます。戦後のものでは「鈴木貫太郎」という文章が好きで す。最近、阿川さんの講演を聴いて大変おもしろかったので、お礼の手紙かたがた、なぜあなたは「米内光政」のあと、「鈴木貫太郎」に行かないで、「井上成 美」へ行ってしまったのか、という無礼な質問をしておきました。
 志賀直哉という人物を、そのあとの世代に及ぼした絶大な影響と共に、これからの文藝の人は極めるべきだ、そうしないと 日本の文藝の衰亡は救えない、編集者はそういう企画を建てるべきだ。そのために「私小説特集」をやれと、私は或る編集者に書きました。やるつもりだ、とい う言質を得ています。
 「文藝批評家」が「文藝批評家」になっていない、というご説、同感です。「文藝」がわかるとかわからないではなく、批 評家として一番大事なプリンシプルがないような気がします。そのことに尽きると思っています。
 長々と書きました。
 御闘病大変だと思いますが、がんばってください。食事と運動、これだけだと思います。私は43歳から50歳まで苦し み、なんとか拡大をくいとめました。いまは血糖値110以下です。
 あわせてご健筆を。阿川さんの本は、御必要ならばメールでご連絡下さい。高田欣一  
 

* 高田欣一様
 先日の「通信」が、ことにいい文章で、いい内容で、それについてと思っているうちに、どうっと新しい仕事の方へ駆けだ していて、逸機。ごめんなさい。
 いま、「昭和初年の谷崎」の旧稿をホームページに書き込んでいますが、その冒頭にありますように、大学入学の面接で、 感化を受けた作品はと問われて、わたしは谷崎でなく、志賀直哉の「暗夜行路」とトルストイの「復活」を挙げています。気持ちにウソはありませんでした。
 このところ、直哉の全集を克明に読んで読んで、「私語の刻」にはずいぶん直哉について書いてきました。中村光夫の直哉 論は、出た当時に読んでいて、最近読み直し、できれば、少なくも阿川さんの直哉像には触れたいなと切望しつつ入手していませんでした。御厚意ありがとう存 じます。ただ、わたしは鉛筆片手の読書家ですので、ご本を汚しては申し訳なく、どこかで見つけます。本屋さんに行かないもので。
 申し訳有りませんが、いただいたメールを、ぜひ転載させて下さいませんか、ホームページに。私が私蔵するだけでは惜し いものです。また、過去の「通信」から幾つか頂戴できればいいなと思っています。高田さんの文章を、また少しちがう方面へ送り出せるかと。
 冷えてきました。お大切に。わたしの血糖値は、三度三度のインシュリンに助けられてのことですが、100前後に安定 し、体重も落とし、以前よりずっと健康です。医者がほめてくれます。インシュリンの量を減らそうかと云われています。 
                
* 長野県庁の局長級が田中新知事に示した狂態は、天下の嗤いものになった。井の中の蛙の典型例であり、その後の平謝り の醜さにも言葉がない。ああいう醜態を周知せしめただけでも田中当選の意義があった。

* 国会討論会で、中川官房長官を私人の意味の個人とし、個人の私生活の問題視は国会の仕事では無いという与党三 党の弁護論はこっけいでしかない。政治や行政に関わる内閣官房長官には私人の意味の個人度は、やむをえず、低い。「代議士」は国民を代理している公人であ り、まして愛人らしき女性との電話の内容は、たんなる情事をはるかに越えた麻薬犯罪と捜査に踏み込んでいる。個人で済むはなしではない。
 森総理の拉致問題での軽率な発言も、秘密管理の杜撰も、政府与党の弁明はことごとく意味をなさない。交渉途上の未解決 難問ではないか、手の内をかるがると見せてしまう「外交の音痴」とは、自民党政府の首領その人が世界にさらけ出した「無能」そのものの意味なのであり、も はや森のことは云わぬ、立場上かどうか、マジな顔つきで弁護の強弁に汗をかいている自民・公明・保守三党の面々をこそ、情けない政治屋だと嘆きたい。
 石原慎太郎も田原総一朗との対談で云っていたが、森首相は党が選んだ国民が選んだ首相ではなく、密室の中で野中や青木 や亀井らが自前の操り人形としてかついだ暗闇のミスキャストなのである。

* 機械の操作では各種の「待ち」時間が、いやでもある。それにあせってキーを叩いたりすると器械が怒る。当たり 前である。その時間に、わたしは、歌集・歌誌、句集・句誌、古川柳や狂歌、和歌集を引きつけて置いて、読みあさる。待ち時間が苦にならないだけでなく、楽 しめる。佳いのがあると、本や雑誌にはワルイが爪ジルシをつけて、頁の角を折り込んでおく。「ミマン」連載のためになど役立てる。折り込みの多いのはけっ こうな読書。全く無いのは困りもの。困りものが多くて困るのである。
 有名人には批評的に細心に、無名に近い人には大胆に親切に、接している。有名人というのは、まず、絶対的にアテになら ない。要するにタメにしタメにされてきた虚名人があまりに多いのである。下士官や将校を私兵のように雇っている部隊長や連隊長級に、マガイモノが多い。子 分が多くてエライのなら、森総理は日本で一番エライはずだが、誰がそう思っている ?
 

* 十月二十九日 つづき

* 布谷君の新たな目次箇所の改造INDEXを、転送した。また一歩進んだ。

* 雑誌「e-m湖」とは別に、「雁信」と題した電子メールの往来の頁が、日々に膨らんで行く。ここもバラエ ティーに富んだ興趣ある頁に育って行くだろう。電子メールというと、とかく冷たい事務的なものと思われているが、その方面の実益も大きいが、また一方で、 手書きとはすこしずつ味わいを異にしながら、内容も表現もある書簡文藝が可能なのではないか、そういう思いで特にホームページに新設してみた。「文学と生 活」との、今では少なからぬ重みも持った世界になっている。ときどき、訪れて欲しい。 
 

* 十月三十日 月

* 朝、たくさんのメールが届いていた中に、高校の昔の畏友、福井で研究中の世界的な遺伝学者天野悦夫君からの、 嬉しい便りがまじっていた。秦テルオ描く仏像のような温顔で、丈高い、わたしなどの到底及ばぬ人物であった。嵯峨野を、弁当をもって二人でひねもす歩いた 昔が懐かしい。

* 朝日子の「ねこ」を褒めてくれるペンの友人のメールも来ていた。ゆうべ、娘の置いていった「回転体の詩」の二 輯を読んでみた。初読であった。拙い詩集であったが、数あつめてあったので、全体から来る情感は汲み取りやすかった。ま、最初の出産を体験したうら若い母 親なら、だれしも内心に抱いた思いかも知れない。だが、それを言葉に置くのはやはり力業である。ある限られた時機にこういうものをこう書き置いたことは、 やはり尊いことだと思い、大袈裟な親ばかに照れながら、すこし涙をこぼした。
 これも、記録して置いてやりたいと思った。

* このごろは、おや、すこし細くなりましたかねと挨拶される。そのわたしの「私語の刻」の似顔絵が、豆粒のよう に消えかけていた。復活したら、昔の、最高潮のころのわたしのようにふっくらと横へ頬が張っている。冷やかされている。
 田中幸介君からのメールが、原因を教えてくれた。布谷智君に報せた。自分で直してみようかと思うが、自信がない。こう いう、やりとりも、日々の活気でありおもしろい。「雁信」の頁の口上に、「不徳ナレドモ孤デハナシ」と書き入れた。

* 忘れていることはないかと、人にも問われているだろうこと、自分でも自分に問うていることが、ある。むろん、 ある。わたしが今していることは、すべてが、道草に過ぎぬと思われている人は少なくあるまい。わたし自身にも、その思いが無くはない。言い訳は利かない。 その哀しみがいつまでもわたしを少しずつ腐蝕して行くことだろう。だが、歩みというものの勢いは、凄みをさえ帯びて導いて行く、どこかしらへ。川が 誘えば、一マイル誘えば、二マイルもついて流れよと、昨夜も遅く、畏ろしい人の教えを聴いた。

* 十月三十日 つづき

* マスコミがもう「e-m湖」をとらえはじめた。新聞記事が知らされてきた。アクセスが増えている。

* 朝日子の「詩集 小さい子よ=回転体の詩 2」を、すべて「e-m湖」の一頁に書き込んだ。スキャンでは、かえって手間がかかるので、一つ一つ自分の手で書き込んだ。娘と孫娘とのそばにいて、体温 も息づかいも感じられた。

* 東工大OG YNです。

 メールいただきありがとうございました。
 お元気でいらっしゃいますか?
  
 ホームページも日に日に充実している様子ですね。
 会社からなので滅多には見に行くことは出来ないのですが、
 時々行くと様子が変わっていて驚きます。
 そろそろ寮の部屋にもインターネットを導入しようかとも思っておりますが
 なかなか思い切れないところです。
 大分パソコンも安くなっているのですが、
 9月に待望のチェロのハードケースを購入したので、
 高額品はしばし我慢のときです。

 最近は気が付くと一ヶ月終わっているというような生活を送っております。
 人生そんなに長くはないのに、
 もう少し味わいながら過ごしたいと思いつつ
 終わらない仕事に追われ、休日は目が覚めると昼過ぎであったり(・・・)
 もう少し生活の質を上げたいと、もがいています。
 その結果、この間から下諏訪のオルゴール博物館に行って諏訪湖を見たり
 メソポタミア展でハムラビ法典を見たりしました。
 砧公園はとてもよいところですね。

 「いつまで(今の会社で)仕事できるのかわからないんだから
  頑張ってやっておかなければね」と彼には言われ、
 今の(社会人)生活がずっと続いていくのではないことを感じます。
 結婚、出産、子育てと、新しい出来事に
 今後ぶつかっていくのかなあと思っているところです。
 自分が「母」になる姿は、やはりまだ想像できませんが。
 みなさんに読んでいただけるようなものはとても書けませんが、
 時々時間を作ってホームページを見に行こうと思います。
 楽しみにしております。良い読者を目指します。

 それでは、長くなりました。
 ようやくカレンダーどおりの寒さになってまいりましたので、
 風邪等ひかれませんように。

* あまり、きれいに書けているので、改行の儘でしばらく置く。赤ちゃんのできた人は、まだ、一人しか(もう一人 男性では、あるが。)ニュースが届かない。この心優しい人にも、娘の書いていた詩集を読んで欲しい。
 

* 十月三十一日 火

* 高校三年生の藤田理史君が送ってくれた一文を「創作」として読んでみた。こういう話材は、世間には山ほどあ る。その意味では本人の思うほど珍しいことではないのだが、それを、どのように「書ける」か、とりあえずは、内なる言葉がどう流れ出るか、が、読みどころ になる。

* どうやら、いま、階下へ沖縄土産の泡盛が届いたような。
 
* もう何度目になるか、聖路加病院に定時の診察を受けてきた。ここのところ血糖値は90台で、昨夜は明け方まで起きて いたためか、今朝は100。 吃驚するほど正常値である。体重も増えていない。減ってもいないだろうが。医師やナースは、むしろ低血糖に陥るときの危険を注意している。残念ながら悪玉 コレステロールが若干増加していた。卵の黄身を禁じられた。サンドイッチといえば卵、なにかといえば卵、はいはい卵と、巨人にも大鵬にも関心は薄いのに、 卵は子供の頃から大好き。最近も卵は食っていた。禁じられた。しかたがない。

* 泡盛がすこぶる旨い。やきとりと合わせて、痛飲といいたいが、やはり遠慮して、そのかわりしみじみ味わった。

* 「編集王」には参った。気が散った。二人の若い女優は好きだが。主役のマンガそのもののような男優もわるくは ないのだが。息子の書いているものだから見ているけれど、他人のものなら、振り向きもしない。

* なんだか恐慌を来たしそうに、すべき用向きがやたら輻輳している。そわそわしながら、手が着いていない。十月 も果てる。カレンダーも残り一枚になった。うかうかしていると、えらいことになる。
 

* 十一月一日 水

* 月が新たまった最初に、こういうメールをプレゼントされ、気持ちが佳い。

* hatakさん 竹久源造という盲目のチェンバロ奏者をご存じですか?
 彼が参加している古楽器奏者のコンサートに行って来ました。
 今夜はJ.S.バッハの室内楽やオルガン曲を、ヴィオラ・ダ・ガンバ、バロックヴィオラ、チェンバロ、小オルガンのた めに編曲して合奏するという趣向でした。
 スペインのギターに起源を持ち、膝で抱え込んで弾くヴィオラ・ダ・ガンバという楽器と、日本のオルガンメーカーが製作 した小さなオルガンが、鼻濁音のような、ふるえるいい音を出していました。
 圧巻は竹久源造編のシャコンヌ。同じ高い音でも、ヴァイオリンのように鋭くなく、チェンバロの華麗な音が心地よく耳に 響きました。
 彼のCDは沢山出ているようで、休憩時間にロビーの販売コーナーを探してみましたが、残念ながらシャコンヌはまだCD 化されていないようです。秦サンにお贈りしたかったのに残念です。
 今年はバッハイヤーということもあって、古楽器演奏は何度か聴きましたが、今日ほど満足できたことはありませんでし た。トン・コープマン率いるオランダバロックアンサンブルでさえ、こんなもんか、と内心がっかりしていました。
 今日の演奏を聴いてその理由に思い当たりました。原因は奏者にあるのではなく、おそらくホールにあるのです。お客が入 るからといって、大ホールでやっては、あの繊細な音は客席まで届かないのです。トン・コープマンさんがいくらがんばっても、大ホールのチェンバロの音は、 茶筅すすぎのサラサラ音にしか聞こえませんでした。
 バッハの古楽は小ホールに限る、です。
 28日の院生さんのメール、気持ちがよくわかります。思いつきでやった実験がうまく行ったときの喜び、競争者との駆け 引き、論文を書く苦しみ。研究が「絵を描いたり或いは小説を書いたり」するのに近いというのも実感できます。付け加えていうならば、実験が一回でうまく 行ったときの気持ちは、墨痕鮮やかに書を書き上げたような気分がします。
「常陸」を読みました。谷崎源氏を何度も読んでいるはずですが、常陸の、ネガティブなイメージには全く気がつきませんで した。面白いなぁと思います。
「ねこ」は昨日読んで、昨日一日悲しい気持ちでした。
 つぎは何だろう?楽しみにしています。
 その常陸の国筑波で国際シンポジウムがあり、あと三時間ほどで出張に出かけなければなりません。
 書き出すと止まらなくなってしまいます。ここで筆を措きます。
 残念ながら、東京は素通りです。  maokat

* 懐が深いという言葉を最近つかったと思う。どういうことだろう。この、「まおかっと」さんのメールを眺めてい ると、なにか、そういう気分が伝わってくる。

* 芦屋市谷崎潤一郎記念館からの「ニュース」の一面に昭和二十四年四月撮影の松子夫人の写真が大きく出ている。 とてもよくとれていて、わきを見ての笑顔が、ふっとこっちを向いて声を掛けて下さりそうな優しさに溢れている。髪のところに郵送時の折り皺が入ったのが残 念。目をむけていると、目が離せない。松子夫人の写真では最良のものだと思う。われながらあぶないと思うほど、あまやかな無常感にとらわれ、ふうっと彼方 へ惹かれかける。

* その松子夫人の格別のお世話でサントリー美術館に就職したこともある娘の、「パリ」の日々を、若い母の視角で 少し風変わりに切り取ってみせた一文「ジャン・ムーラン公園に革命二百年の風が吹く」(雑誌「思想の科学」1989.11所収)を「e-m湖」の第一欄に 書き込んだ。この調子でいろいろと書いていたらと親ばかは思う。
 

* 十一月一日 つづき

* 各務原市の詩人山中以都子さんの「詩」五編が戴けた。「詩歌」の頁(7 頁)を、真っ先に、この心したしい人の詩で飾れたのが嬉しい。ありがとう。
 詩の書き込みは難しい。わたしの不手際でへんな組み方になっていないかと、読者方の器械との折り合いも心配している。 不慣れなことをなにもかも自前でやっているので、変なところは厳しくご注意を願いたい。

* 食べ物の量をすこしずつ減らし気味にしている。空腹がつらい時期もあったし、今も多少はつらいが、空腹気味が なんとなく気持ちの佳いときもないではない。胃が小さくなって行くのだろうか。
 

* 十一月二日 木

* 昼過ぎに、電話口から、隣に来ていると息子に言われてびっくりした。朝の六時頃に来て、西の家に入っていたら しい。
 かなり厳しい状況らしく、それも経験だなと思い、そっと傍観の姿勢でいる。

* 原善君の「初恋」論を読むまでもなく、この小説、ストーカーの恋物語だといわれても余儀ない場面を重ねてい る。フィクションではある、が、つらい恋は、いくらかストーカーをつくりだすものだと改めて思う。病的に陥らない程度、その程度のストーカーになれないよ うでは、恋人に満足される恋人にもなれるものではない。わたしにもストーカーの熱はあったろうな、今だって無くなってゃしないはずだ、と思う。
 恋だけではない。いろんな人生の場面で、ストーカーになれる才能はむしろ欲しいと思う。そうでなかった真の才能など あったためしがないだろう。追いつめられるのでなく、追いつめて行く気迫。一つ間違えばただの醜聞になる。滋賀県の学校教師が、成績の付け方などで弱い立 場の女生徒を追い込んで行こうとしたのなど、最も卑劣なストーカー行為で、ただのセクハラを越えた明かな犯罪だが、好きな相手をある程度まで追いかけて行 くのは、一般には、いっそ自然である。この自然がどこから不自然になるかの判断、その判断の付くか付かぬかが、人間の力の境界だろう。

* 建日子と今宵はすこしゆっくり話せた。車検を終えた自動車で、また、テレビ局との打ち合わせに今出かけた。 
 

* 十一月三日 金 文化の日

* 朝日子様の作品に時のたつのを忘れて、読みふけりました。
 仮に、今はお休みされていても、これほどの力の持ち主ならば、 必ず、またいつかペンをおとりになられましょう。その日の訪れを、そして、新しい作品を読ませていただける日を、心静かに待たせていただこうと思います。 ありがとうございました。

* 朝日子さんの作品、一気に読みました。一気に読み進めたい気持ちを抑えられぬほどの情感にあふれた作品でし た。
 朝日子さんの目から見た「ねこ」「ご家族」は同じ被写体を別の角度から写した映像であり、けれどもそれらがぴったりと 重なり合ってさらに立体的に見えたような、そんな想いがいたしました。ぴったりと息の合った幸せなご家族だったのでしょうと・・・。
 朝日子さん どんな想いを持って日々をおすごしなのでしょうか。でも、お幸せならば、お元気ならば、生きていらっしゃ るのであれば、それでよいのではと、決して還ることのない娘を想い、慰め事ではなくて心から想うのです。

* 優れた創作者やいい読者からのありがたいメールが届いていた。三編をとりまとめて掲載したのも効果的であった ろうと親ばかの編輯人は思っているが、身贔屓で採用したわけではない。載せるよと断わる道がないので、娘の本意ではないかも知れないが、ゆるして欲しい。 あとにもさきにも、これだけしか「秦朝日子」のものはわたしたちの手元にない。親と娘でありえた昔の思い出にという感傷がないわけではないが、根本は、作 品を、わたしが認めているということだ。繰り返して言うが、娘の本意ではないかもしれない。
 むかしこの娘は父親に代わって、実は、二人の中国歴史上の人の、小説風の評伝を書いている。或る社の文庫本の中におさ まっている。小遣いに惹かれて大学の頃に代作したもの、むろんわたしが読んで推敲した。いまもこつこつ書いているといいがと、いつか晴れやかな日のあれ と、わたしも、内心願っている。

* おそろしいほど、また日々が沸騰してきた。頭の中の交通整理がつきそうでつかないほど。一つ一つはこまごまと した用事が多いだけなのだが、その一つ一つがバカにならない。放っておくと収拾がつかなくなる。編集者時代の昔、新入社員が入ってきて、ひととおり仕事に なれてくると、ほとんど例外なくわたしのところへ注文が出る。「秦さん、こう雑用が多いと仕事になりませんよ、助手をつけてください」と。バカモン。編集 制作という仕事は「雑用の塊」なのだ。「雑用がなくなって君には何が残ると言うんだね」。雑用を難なくこなせないアタマでは編集・制作はムリなのである。 それを会得していったヤツは、急に仕事そのものを楽しみ始めて、能率も質もよくなる。人生もいやおうなしに雑用の山だが、そうでなくなればと思うのは、早 く死にたいというのと変わらない。

* これまでもあったし、「e-m湖」ではもっと苦情が出るだろう一つは、一頁への収録量・収録編数が多くて、め ざす作品へスクロールするのが大変だと。それは、分かる。かといって、作品ごとにクリックすれば飛び出すような工夫はわたしには出来っこないし、それに考 えようでは、今のままにも大きなメリットがあるのではないか。スクロールも大変だろうが、そのかわり、オフラインにしてしまっても、その厖大量のファィル (頁)分は読めるのだし、必要ならまとめてプリントも、ダウンロードも出来る。わたしのホームページやマガジンの場合は、このメリットの方が遙に大きいの ではと思うことにしている。寛恕ねがいたい。

* 関西の或る大学生から、文学賞に当選して世に出たいが、自分は世事に疎く、どうか助言をとメールが来ていた。 不真面目に書かれているとは読めなかったので、二三日置いて思ったまま、書生流に返事を書いた。 

* メールを読みました。
 書きたくて書きたくて、どうにもならないほど書きたい動機につきたてられて書いた、それも抜群の表現力で書いたもの。 世に受け入れられる可能性は、それからしか生まれません。そう思っていたい。文学賞に応募というのは、二の次三の次のはなしで、賞が念頭にあって書くとい うのは無理で不自然な話です。
 こういう材料が良い悪いということの無いのが、小説というジャンルの妙味ですから、それは思い煩わなくていいけれど、 書かずにおれない動機より、世に出たい欲や賞をほしい欲が先行していては、その段階で、もう成功は難しい。「世事に疎い」から世に出られないのでなく、噴 出するマグマのような動機が小説表現の技術と緊密に繋がらないから認められないのだと。
 強烈な動機から構想が始まり、構想が人を動かす程の巧みな技術、つまり文体・文章・必然の運び・リアリテイーの表現等 へ抜群に向かうことが必要です。他に負けていては賞はとれないし、賞に拘ればもうそこでダメ。
 それくらいの積もりで、よけいな俗念からはなれて、何がほんとに書きたいのか、それに真っ向から立ち向かうことです。 しかし、それだけでよく書けるものではない。その先はほんとうの才能の問題です。
 思ったままを書きました。あとは自分で考えて下さい。助言は、ここまで。返無用。

* 姪の北澤街子が十八でメルボルンに留学し、三十三回、三年近くも「思想の科学」にオーストラリア物語を連載し ていた。朝日子の「ジャン・ムーラン」が載った号にはその第七回が掲載されていたが、後に新宿書房で単行本『メルボルンの黒い髪』になったときは、300 頁にちかい堂々たるものが出来た。清明な文章のセンスは兄の黒川創を凌がんばかりで、贔屓目なく、いい呼吸であった。街子から、アタマの辺を採ってくれて かまわないと、兄黒川を経て連絡があった。
 旅の出だしのところというのは、或る型につきやすく、そのぶん尋常に成りやすい。街子の本も抜群なのは向こうでの暮ら しの日々なのだが、ま、単行本のおいしいところを抜いては気の毒なので、アタマ二章とオワリと、あとがきとを貰うことにして、スキャンした。
 

* 十一月三日 つづき 

* 予定していたというのも言い過ぎだが、ごく自然の勢いで、「e-m湖umi」の第一頁は、「亡き父母たちと兄 姉たちに捧げ」たいと思った。少なくも実父と生母は、縁薄くはなればなれに生い立った兄とわたしとの佳い再会を、それぞれの場所からいつも熱望してきた。 わたしは冷淡だったが。
 だが兄と出逢い、兄の子供たちとも出逢った。短歌をつくり文章を書き、あわや共産党に推されて戦後最初の統一選挙候補 に押し上げられようとまでした母が生きていたら、孫たちの仕事にさぞ目を細めたことであろう。可能なら甥二人の文章をもらい、また亡兄の文章も著作権継承 者からもらい、そして息子の戯曲を一つ二つおさめて、泉下の霊に感謝して酬いたい。ま、感傷に類するが、いいではないか。
 ま、わたしの気ままな願いでしかなく、黒川にはそういう場所には出したくないと言われ、弟の猛は日本にいない。わたし の息子もこの忙しさでは、なかなか手が回りかねる様子である。それでよいのだ。

* 京都の河原町商店街のために書いた原稿に、お礼の大きな木碗二つが木匙を添えて送られてきた。お昼に、芋粥を それで食べた。木のものは温かい。
 夜は久しぶりに寿司を食べたのが、いいネタで旨かったが妻の分も少しまわってきて、満腹してしまった。

* 平成中村座の勘九郎「法界坊」の前景気がいい。楽しみが、むくむくと膨れてきた。浅草の、その中村座屋のある 辺までは行ったことがない、それも珍しくて。切符は扇雀丈のところでお世話になった。
 

* 十一月四日 土

* あわや明日の、楽しみにしていた友枝会を失念するところだった。昭世の「景清」ももとより、明日は狂言「靭 猿」がある。これは、はずしたくない。もう一番「紅葉狩り」が用意されているが、そこまでわたしの気力がもつかどうか。この間の「卒塔婆小町」よりも昭世 は「景清」で満足させてくれそうな期待がある。

* いささか、このところ、息が上がりそうであった。すこし、くつろぎたい。

* 週末には電メ研が予定されている。電子メディアは、まずハードの技術的な面や構築面で関心が深まり、文字コー ドをめぐるアーキテクチュアで、その方面の国際的な苦心があった。文筆家も一定の発言で、遅れていた場へ、ま、割り込んでいった。文字セットやフォントの 開発も進んだ。いろんな経緯が精粗さまざまに綯い込まれて、問題は複雑怪奇になっているけれど、「電子出版」があちこち具体的にかなり動き出してきた中 で、「表現」問題が、これから、もっとややこしく意識されて行くはずだ。
 原稿用紙やワープロの画面ではない、インターネットという途方もない多方向性の 「暗闇」のなかで、文章活動がかなり刺激的に拡大されて行く。悪意の中傷などは論外としても、そういうものでなく、例えば、 わたしのホームページ活動のような、根に悪意もなく、金銭の利害も全く度外視したような、衛生無害に一応見えているものであっても、インターネット本来の 性質から、存外な波紋が広がって行かぬでもない。いや、広がるだけの凶器的な素質を電子メディアそのものが優に内蔵している。


 だが、薬品に治効と毒性とがあるのに似て、厄介なことに、毒性は避けたいが薬物の否定は叶わないように、コンピュータ を初めとする電子機器も、もう無くしてしまうワケには行かぬほど、インフラ化している。そうなると、毒性にどう対応できるかの議論をなげだしておいて、機 器やメディアを冷たく評論していても、今言った一面に限って言えば、ただの口舌に終わってしまうだろう。しかも、もっと他に厄介な問題を機器もインター ネットも抱えていて、文筆表現とは別の次元でのおそるべき劫火を放ちかねない、いや、すでに煙も火も立っている。

 それでいて、また、すばらしい機器と性能との成果も挙げているのがコンピュータであり、インターネットである事実も否 認しがたい。問題を生みだしているのは「人間」であり、どう機械をワルモノにしてみても逃れがたい厄介な根性というものを、人は、銘々に持っている。議論 の根は、 そこに据えるしかない。

* 例えばである。わたしが「私語の刻」で人を名指しで批評したり批判したりは、たいてい政治家であり、あるいは 作者であり、またタレントやアクターであり、大学教授などの公人に限られる。これは普通の「批評」ないし「論争行為」であり、問題はない。しかし日録の中 で、例えば、今日どこそこで誰それと親しく同席し、歓談した、議論した、飲食した楽しかったと書くとして、インターネットでは、紙のノートに日記を書くの とちがい、闇の中へひろく記事が投げ出される。いつ、どこで、だれと同席していたとだけでも世間に知られたくない人も、場合も、あるだろう。それはもっと もである。自分の名前など出されたくない書かれたくないという感情にムリは無い。
 だが、いま親のわたしが、嫁いだ娘の名前をここに書いて、元気でいてくれますようにと母親と噂したのを此の日記に書いたとして、娘が、心外だ人権侵害だ 訴えるなどと言い出したなら、どんなに滑稽だろうか。普通の友人知人であっても、そこまで過敏にはならないだろう、罵詈讒謗を浴びせるわけで無し。
 この電子メールと携帯電話の時代では、人の噂など無際限になっていて、それは機械の問題であるより、「人間」の問題なのである。噂している現場に突き当 たって、いやなら、やめてと言うしかない。そして、やめさせることが出来るものだろうか。法律のことは知らない。電子メディアの時代は、日増しにそういう 「戸」のたてようは難しくなる。インターネットとはそういうモノになって行くし、もうなっている。かかったか、かからなかったかも分からない火の粉を、大 わらわに権利の沙汰として払いのけることは、なかなか出来ることではない。「人間」が人間らしく頷き合うしかあるまい。
 だから「避けている」のです、通信を、交渉を、交際をという人が、事実、しかし世間にはいる。窮屈だなと、すこしばかり気の毒な気がする。もうすこし、 やわらかい人間関係がいいなと思う、言うことはちゃんと言うにしても、である。
 

* 十一月五日 日

* 寝起きはよくなかったが、いやなモノはきれいに始末しておき、西銀座へ。
 すどう美術館での和泉奏平作品展のぎりぎり最終日であった。亡くなって七年、面識はなかったが、千葉県下の成東にアト リエを持った画家で、それは熱心な「湖の本」の読者でもあった。亡くなってからも奥さんは遺志をつぐように、ずうっといい有り難い読者であったし、子息は 演劇青年で、佳い舞台に参加していたのを銀座小劇場で妻と観たこともある。もう以前、新宿での小さい遺作展に妻と出かけて、手厚い、ちからある「駝鳥」の 繪を買ったこともある。鳥や動物は綺麗事になりがちな難しい題材だが、この画家はじつに深々と大きな生物画を「世界」さながらに実存的に描ける力があっ た。経歴を詳しく知っていたわけではないが、下館市の第一回紫峰展大賞を獲ていた。
 今日の展覧会には、しんから感心した。「野生の陣」は狼の群像であるが傑作といって憚らない。こんな凄いほど力のある 繪にはめったなことでお目にかかれない。全部で大小二十点ほどのうち、大きな繪の全部が力作であり完成された把握と表現で気圧されるほどだった。鳥を描い ても、まるい豊かな胸の内で「世界」が呼吸しているような深みのある画面で、犀も牛も豪快にして緻密な画面の創りであった。明るい色彩など殆ど使っていな いのに、美しくて深々と落ち着いていた。こういう個展には、百度行っても一度二度も出逢えればいい方だ、感動した。下らない寝起きの不快も拭ったように失 せていた。会期は今日でおしまいだった、間にあって良かった。有り難かった。

* 秋葉原を経由で、千駄ヶ谷の国立能楽堂へ。友枝昭世の「景清」に、憔悴感はあまりなかった。あばら家から姿を みせたとき、上の装束の黒い色がつよく鮮やかなので、憔悴した盲目の老い武者というより、毅然とした本質の元気が感じられたのだろう。ツレの娘も従者もへ んにうわずって謡がへたであったが、昭世の謡はこれはまた抜群に良かった。一度は偽り答えて娘たちをやりすごしながら、かすかに顔を傾けて見送る風情な ど、元気を喪失していない人間の純真な愛が生き生きしていて、感動した。昭世は丁寧に気を入れ、工夫を凝らしていた。そう見受けた。演技がとても清潔で乱 れなく剛力であった。八島の戦を話してやるから、それを聴いたあとは故郷に帰れよと言い渡してする仕方話にもやりすぎない緊迫があり、見事。
 昭世の今日のよさの証拠は、長い橋がかりを静かに静かに幕に消えて、客の心ない拍手という騒音を、ぴたりと抑えきった ところに出ていた。ひそとも手をうつ者がいなかったのは、稀有であり、すばらしかった。客も気を入れて観てきたのだ。よかった。娘のからだに手をかけて見 送ったのは「感傷的」のようで、優れた場面になっていた。感傷をただはねつけてしまわない人物こそが上等である。感傷に心をぬらすことを拒んで、どう胸を 張ってみても、それが何だろう。人間の下等を証するだけのはなしだ。毅然とした景清の優しさに昭世の能は成功していた。自然に泣かされた。
 
* 馬場あき子さん夫婦もいた。夫君の岩田正氏と立ち話した。小山弘志さんとも穏やかに日頃の話を交わした。堀上謙さん もむろんいたし、わたしのすぐ前に、久しぶりに見る大河内俊輝さんがいた。例の如く大阪からはもと創元社の中村裕子さんも来ているのが見えていた。昭世の 集客力はすばらしい。能評の連中も大方ちかくに並んでいた。いま、こんなに活気のある見所を現出させる能役者は、そうはいないのである。友枝昭世が喜多流 などということも忘れてしまっている。「友枝昭世」の人気なのであるから、おどろく。「鞘走らぬ名刀」とわたしの評した、その通りの今日の「景清」は、気 持ちよかった。頭の中で和泉奏平の繪とみごとに均衡していた。幸せであった。

* 野村萬と野村与十郎らの狂言「靱猿」は、べたつかずに、さらりと演じてくれて気持よかった。猿の野村虎之介も 可愛らしくうまく演じていた。ことに与十郎の大名が気のいいヘタウマで、味わいよくしてくれた。猿牽きの藝などもともと好きになれないが、そのいやみやく さみがなかった。萬は、父名人の万藏のようにまるくふっくらとは行かないが、当代の名手らしく大名と猿とをうまく引き立てていたのがさすがであった。

* おまけのように、ちいさいちいさい友枝雄太郎の仕舞「七騎落」が、役者の子は役者の無心に敢闘の藝で、珍し かった。せいぜい三つではないか。もう一つおまけの能「紅葉狩」は失礼した。

* お気に入りの店で、銚子二本、上出来「三趣」の日本料理と、飯の代わりの稲庭うどんを、ゆっくりと。照明の明 るい個室で校正のゲラがたくさんよく読めた。五時前に出勤してきた美しい人ともしばらく話し、見送られて辞した。池袋のさくらやで、プリンタのインクを三 つ補充し、これで安心してコピーがとれる。パンを買って六時半までには帰宅した。

* 小説だかエッセイだか分からない、未知の人の投稿があったのに、ファイルを開くと全文化け文字いや英数字。な にかを操作すれば文字に変わるのかも知れないが、分からない。残念。

* 女子の卒業生が、出張先の神戸から牛肉のご馳走を二種類、送ってきてくれた。ありがたく、家でもうすこし白い 飯とその旨い昆布巻をご馳走になった。この人も、書いてみたいと。書ける人だと分かっている。楽しみに待とう。
 

* 十一月六日 月

* 平成中村座『法界坊 隅田川続俤=すみだがわごにちのおもかげ』 なんだか、このところ「ごにち」ものばかり 続けて観ましたが。理屈抜きに、むちゃくちゃ楽しんできました。待乳山聖天の目の下に仮設された劇場でした。浅草のあの辺まで行ったのは初めてで、「待乳 山聖天」といい「今戸橋」の橋標といい「花川戸」の地名といい、なんだか江戸のはずれに踏み込む嬉しさでした。
 顔と顔とがくっつくぐらいまで宙乗りの化け物勘九郎がきて、妻にじゃれて行ったり、膝の触れるところまで福助、扇雀、 勘太 郎らが来て芝居をしたり、平戸間「松」の席のおもしろい経験をしました。
 芝居は趣向、趣向に加えて、勘九郎法界坊のしたい放題で、それが隅田川べりの小屋 にピタリはまって、爆笑また爆笑の渦という、繪のようなカブキ、カブキでした。割れんばかりの拍手喝采と俗に申しますが、それがそのままでした。そういう 俗のよろしさにむろんわたしも大浮かれで渦に巻かれておりました。

 聖天の法界坊のような、途方もないキャラクターを生んだ江戸のはずれ、所も待乳山聖天下でという興業じたいが 趣向で、昔の中村座にも近くてごく自然な企画と言え、これは当たったなと納得しました。
 芝居も、同じ吉田家ものでも『桜姫東文章』のように陰 惨でなく、勘九郎は、藝ともみせぬ地の藝まじりに大はしゃぎの達者なものでした。父勘三郎とはちがった当代のイキを通わせた法界坊で、根が中村屋大フアン のわたしたちには、少々早い時間に保谷から遠くはせ参じても、是非にも楽しみたい狂言でした。理屈ぬき、それに徹していられる歌舞伎は、肩に何の荷もな く、しんからくつろげます。ばかばかしさが、そのまま面白い「文化」なんですね。

 扇雀丈も関西から参加して、例の律義な芝居でヒロインを熱演。贔屓の美吉屋吉弥もうまく加わり、いうまでもなく成駒屋 の福助、橋之助兄弟も義兄をもりたてて大活躍。とりわけ息子の中村勘太郎が、いいところで大化け物で奮闘これつとめ、客の大勢が父勘九郎に相違無しと思っ て手に汗していたところ、さにあらず、綺麗にだまされましての、終幕の口上には、袖から、はれやかに綺麗な勘九郎があらわれて、やられました。
 座布団でもゆっくり座れて、多かった花道芝居へ自在に姿勢が変えられます。思ったより身動きのラクな席で、儲けものの 平戸間でした。役者と客とが入り混じりに、芝居小屋全体が芝居に取り込まれ、活気と風情に溢れました。歌舞伎座や国立劇場の大歌舞伎が、ある種の冷え た変質を余儀なくされていることがよく分かります。幕間が短くて、とんとことんとこと芝居が運び、時間の経つのがもったいないと妻は申しました。小屋の上 を飛行機がブンブン飛ぶ音のするのも面白いものでした。
 大満足でハネてのち、道の向かいの聖天さんにお参りしました。お芝居の書き割りのなかへ紛れ込んだような懐かしいとこ ろです。円生の人情噺などて、何度も聞いた待乳山。今戸、花川戸。向島、言問橋。なんと嬉しい佳い地名でしょうか。ここらから吉原界隈への不思議に人臭く も人懐かしくもある歴史の遠景が脳裡にさまざまに再現されてきます。
 以前から浅草に小さい家が欲しいなと空想していたのが、色濃くなりそうな気分でした。

 浅草の境内をぬけて、喫茶店で一休みした真向かいが、「地元」で人気の鰻の店。たまりかねて、早めの夕食に銚子一本、 それも、けっこうでした。小屋での弁当もおいしかったのですが。
 よく遊んでいるなと笑わないで下さい。できるときに、したいことをし、観たいものも観ていたい。

* 仲見世にちかいところで、ショウウインドウに、めったにない佳い(何というのかわからないが、とにかくすてき なセンスの)服をみつけた。よく似合い、そのまま妻は暖かにそれを着て、銀座を経て、有楽町線でゆっくり帰宅。昨日に次いで、肩のちからの心地よく抜けた 一日だった。

* 考古出土品をひそかに自分で埋めては「神の手」で発掘発見の名声を博し続けたという話。なんとも、堪らないこ とだ。そういう気持ちになってしまうということの、堪らなさに、めげてしまう。論文を捏造していたエライ医学の先生も、医学書院時代に知っている。出会っ てもいる。今度のこれは、影響が余りに大き過ぎて、どう研究や歴史評価を原状にまで先ず回復確認するのか、想像するだに厄介極まる。どれほどの論文が、彼 の「ニセ発見」の上に立って書かれたか、それを総洗いして、関係箇所の破棄を「学会」の公のもとで明確にしなければ、何を信じて良いのか分からなくなる。 日本の考古学が信頼を失っただけでなく、考古学自体が大きく傷ついたし、教科書レベルにまで及んだ歴史認識の過誤の訂正がどれだけ正確に速やかにできるの か。たいへんなことをやったモノだと、驚き呆れる。
 わたしは、いわゆる世上の正義なるものに、必ずしも同情も共感もしていない。ウサンくさい正義があまりに多いし、打破 したい似非の正義が、官辺や権辺からたくさん放出強要されてくるとき、意図的にそんな正義に土足をかけることを、じつは肯定もしている。少なくもその気味 を、かなり所有していることは告白してもいい。
 だが、この考古学者のやったことは、問題が大きすぎる。官や権への私の抗議とか反発の姿勢とはとても見えないのであ る。

* 兄を偲びに京都へ行くのはやめにした。『死から死へ』で、モゥンニングワーク(悲哀の仕事)は尽きて いる。人前で話せるほどのことは持たないし、人が兄を偲ぶ話を、わたしは、理解しきれまい。それほど兄を知らない。はじめは、それも聴いてみたいと思って いたが、かえって混乱 が起きて、わたし一人の やっと得た兄の像が、収拾がつかず混乱するのを懼れる。人が何と思おうとも、個と個とでこそ無二の兄と弟であったけれど、社会圏ははっきり異にしていた し、じつは親 族であったことも一度もない。(戸籍の面でも、接点は完全に消却されている。)
 話せることを何も持たない わたし が、血縁の弟というだけの義務感や付き合いの気持ちで大勢の「偲ぶ会」に加わるのは、むしろ兄を愛していた人たちに礼を失するし、兄も、わたしにそんな無 理は させたがるまい。
 

* 十一月七日 火

* 「e-m湖umi」の第一頁に、『歌集・少年』のすべてを置いて、兄の一周忌を期し、偲ぶ思いを表すことにし た。われわれの母は歌よむ人であった。不識書院刊の歌集には、上田三四二氏と竹西寛子さんの懇篤な文が添っていたのを「湖の本版」にも戴いていた。有り難 い知己の言である。母がさぞ喜んでくれただろう、「母と『少年』と」という、講談社版「昭和万葉集」の月報に書いた一文も、添えた。
 またその一方、短歌に関して、かなり言いたいことを世間へ向けて言うている。発言の根になるものとしても、此処に公開 しておこうと思う。私家版の昔から、二度三度、美しく装幀を替えて出版されてきた。恵まれてきた。

* 北澤恒に、二十三日の偲ぶ会には欠席すると知らせた。とてつもない生まれてこの方の重い荷を、そっと地に置い た気持ちである。折よく、恒こと、黒川創の新作『もどろぎ』が発表されたようだ。兄が著書『家の別れ』に書いていた、京都の、還来神社にかかわる作であろ うと思われる。まだ読んでいないが、創なりのモゥンニング・ワークであろうか。文運を祈る。

 
* 十一月八日 水

* 都賀庭鐘の『英草紙』は、馬琴の波瀾万丈と云うより講釈まがいに陥って行く『近世説美少年録』よりも遙かに知 的に面白い。一編読んでは、ウーン、やるもんだ、やるもんだと、まさしく意表をつかれて感心したり吃驚したり。紀任重という我慢のつよい男が、閻魔大王に 代わって、閻魔庁でも積み越しの三難題を快刀乱麻で裁きをつける付け方など、あっという面白さ。白話小説の翻案がこの学者風小説家の持ち味なのだが、なか なかの構想力で独自の道を闊歩できる文士、秋成の師匠格でもあった。もっと読まれ評価されていい。これまでのところ、どの一編にも欺かれることはな かった。若い人よ、いろんなところから刺激を仕入れたまえ。

* ある夕刊が、またしてもお定まりの「心の言葉」をいろんな人で連載している。自分の言葉でなく人から受けた言 葉を挙げる趣向だが、昨夜は、ある人が、わざわざ、「銭のとれる文章を書けよ」と、勤め始めた社の編集長の言葉を披露していた。人が人で、びっくりした。 宗教学の山折哲雄氏で。びっくり。

* 文章で銭をとりたいなどという次元は、とうに越えてきた。銭をとらない文章をこう書いていて、これが文章とい うものだと、わたしは今切に感じている。だが、若い人がそうではなるまい。

* 米大統領選挙がデッドヒートの開票速報を伝えているようだ。ブッシュは感心しないし好きになれない。それにし ても、日本にも首相公選のすぐれた基盤づくりが何故出来ないかと思う。たしかに一時的には混乱が有ろうけれど、今の政局の情けなさは、よほどの誠意と工夫 とで改めなければと根の改革が願わしい。

* e-Bookの人と池袋で長時間話してきた。事業の伸展していることは判ってきたが、契約面で、問題を抱えて いる事情もよく見えてきた。一つ間違えば著作権者との間に難儀な問題を生じるだろう。一つ間違えばどころか、そもそも最初から方角がまちがっている。手順 がちがう。今のままでは、電子本の出版社が、冊子本の出版社の下請け化、ないし従属・隷属にちかい関係の儘で仕事をして行くことになり、一つには、それで は電子本の独自性はだせず、一つには、著作者の権利を無視しすぎている。
 従来の冊子本出版物を機械的に「画像どり」して電子本化を急ぐから、版面権という、法的には未決の主張をたてにされ て、既成の出版社とコンテンツに関する一切の契約をしてしまうことになる。それでは、原著者抜きの話になる。原著者との折衝はすべて原出版社に一任という ようなやり方では、原著者が何も知らないうちに、電子本へ作品を二次利用、三次利用されている例も生まれてくる。あくまでも、原著者との契約が先ではない か。途方もない話だとわたしは警告した。
 こういう、ドサクサのうちの悪慣行がすすむことは、理系出自の電子本関係者たちの、初歩的な文系出版環境や慣行に対す る無知にも起因している。

* ブッシュが当選した、いや当確だ、いや、当確が取り消されて、票の数え直しだ、不在者投票の結果待ちだと、大 統領選挙は歴史的に未曾有の接戦らしいから、候補者は胃が痛いだろう。ブツシュが勝てば、いささか森喜朗なみの心配はあり、すると四年後に、上院にらくに 当選したヒラリーとの、面白い対決場面が現出しないかと、気の早い予測を楽しみ始めている。秀才のマッカーサーに鈍才のアイゼンハワーが勝って大統領に なったこともある。今度もゴアにたいしてブッシュがそのくちか、となると、二期はもつまい。 

* 未知の人の「e-m湖」への寄稿が次ぎ次ぎある。お返しするぶんは、読んで、感想を添え返事している。すぐさ ま良いモノが来るわけはない。妥協はしていない。一部参考までに、どんな返事をしているか「雑輯」の頁に、要点だけ、積み上げてみた。
 

* 十一月九日 木

* 母を九十六歳で見送った。なんと、もう三十一年余も生きないと母の生き=域に達しない。それにしては、なんと 心病んでわたしは力弱くなっていることか。自分をだましだまし励まして、日々を呻くように明日へ明日へ運んでいるけれど、だましきれずに身内がぞっとする ほど寒い時がある。していることの一切が、あたかも恐怖から逃れ走るのと変わりないほど、そういう意味で夢中に手足をふりまわしているのに同じいのを、誰 でもなく、わたしが知っているのだから始末がワルイ。

* 「後醍醐帝三たび藤房の諫を折く話」「馬場求馬妻を沈めて樋口が婿と成る話」「豊原兼秋音を聴きて国の盛衰を 知る話」「黒川源太主山に入って道を得たる話」「紀任重陰司に到つて滞獄を断くる話」「三人の妓女趣を異にして各名を成す話」まで『古今奇談英草紙』を読 んだ。どの一編にも欺かれることなく楽しんだ。どれをと選びきれないほど甲乙ない面白さである。若い作家よ、見るがいい、おのずから別趣のストーリイを手 に入れ得るだろう。

* 山折哲雄さんから『「林住期」を生きる』日本での実践者たちを紹介する本を、いただいた。仕事や家を離れて第 三のライフステージへ、と副題してある。わたしの現在などは、どうなのだろう。
 猪瀬直樹氏からも、かねて予告されていた太宰治の評伝が贈られてきた。

* 初めて、バグワンに触れて未知の方からメールをもらった。心嬉しく。

* バグワンについて初めて少し触れました原稿は、ある新聞社でボツにされました。理由も聴きましたが、信じませ んでした。すでにバグワンの講話に深い信頼をおいていましたので。表だってバクワンを他に書いたことは、ありません。ただホームページの「私語の刻」に、 この三年来、折に触れてバグワンを読み感化を深く受けていることを告白しています。
 訳本でしか読んでいません。
 昔、大学生だった娘が仲間たちと読んでいた頃、わたしは見向きもしませんでした。娘は、嫁いで行く頃にはすっかりバグ ワンから離れていました。本も三冊、物置にしまって行きましたのを、数年前に、あの頃の娘は何を読んでいたのだろうかと好奇心にも駆られて読み出したの が、そのまま深く捉えられてしまいました。「存在の詩」「究極の旅」「般若心経」でした。あとの二冊は、つまり十牛図と般若心経とは、バグワンを知らない 昔から関心の深いものでしたので、それにも惹かれてとりついたのでした。
 ま、そんなところです。本屋さんや訳者がかなり自在に引用を許してくれたなら、わたしのバグワン体験を語りたい思いが 有りましたが、手続きが面倒に想えて、唯一人で毎晩必ず音読しています。このごろは、妻も心惹かれるように聴いています。知解しよう意味を知ろうなどとは 努めず、ただもうバグワンの声を聴こうとしているだけですが。「道(タオ)老子」「達磨」なども含め、何度も何度も同じ本を音読しています、クリスチャン のバイブルのように。
 むしろ私の方があなたから教わりたいと思っています。とりあえずご返事まで。感謝。

* 十一月十日 金

* 雪のち晴れ
 札幌は三日間小雪がちらつき、職場から見える丘の畑もうっすらと雪に覆われました。
 このところ、朝起きてカーテンを開ける時、少しどきどきします。まだ雪になれていない私は、吹雪や積雪を見ると胸が重 くなり、恐怖を感じるのです。まだまだ冬の風情を楽しめる心境ではありません。
 寝るときにはけっこう大降りだった雪もやんだとみえ、幸い今朝は快晴で、道路に張っていた氷もすぐに解けてしまいまし た。まぶしい朝日をあびて、いい気分で出勤できました。
 来週中に業界紙の依頼原稿を仕上げ、海の彼方の学会で発表する資料を準備しなければなりません。難儀な書類書き等も 残っており、忙しくなります。
 海外出張から帰るともう年末です。雪の中でどう年を越したらいいのか想像もつきませんが、その様子をお知らせすること で気を紛らわせていきたいと思います。
 次は根雪の便りになりますか・・・
 武蔵野はまだ秋ですよね。食の誘惑も多いはず。体にも気をつかって下さい。

* キイに触れる指先が冷たくなってきている。遠くを、ヘリコプターが旋回している。湖の本を責了してしまうと、 ものすごく作業が混んでくる。また肩凝り歯痛がはじまりそうだが乗り越えたい。六十五歳の六十五巻。語呂合わせになったが、そうわるくない一冊が仕上がる ように思っている。

* 元気かと言われると、そうでもない。大事なときに京都行きが入る。行けば行っただけのことはある、それがわた しの京都だけれど、発送前の旅はやや億劫ではある。今度の対談は、「美術京都」としては少し異色の話し相手である。うまく話題が引き出せるか、その緊張も 少し有る。
 

* 十一月十日 つづき

* 電メ研。研究会所有のパソコンを、持参。会議室に置いて各委員会に活用してもらうようにした。

* 今日の研究会は、じつに内容があった。専門家に入ってもらうと、こんなに内容が充実するかと、前回に続いて牧 野二郎委員の分かりいいレジュメをもとにした、縦横の解説に聴き入った。

* ペンの事務局に大量に届いていた柿を、帰り際、たくさん貰ってきた。重くて、どこへも立ち寄らず、日比谷経由 有楽町線で帰った。
 車内で、猪瀬直樹君の『ピカレスク 太宰治』を読み始めた。例の丹念な調査で畳み込んで行く。筆力がぐうっと高まるか と思うと、資料を貼り付けて行くところもある。小説風の筆致で始まっているが、読み進むに従い、やはり小説の文章ではない。ルポルタージュの解説的な文章 に平均化して行く。劇的に生きた太宰であり、面白くないわけがない。ただ、何としても太宰治である、それも猪瀬流に遠慮なく毟って行くから、かなり論調は 厳しくなって行くだろう。べたつかない気持ちの良さがある。太宰神話の担ぎ手のような人の太宰治を何度か読んでいるが、途中ですこし気色がわるくなるもの だが、猪瀬君の太宰は、筆の厳しさに少しずつ太宰が可哀相になって行くかも知れない。まだ、そこまで進んでいないが、ぐいぐい読まされている。いい仕事だ と思う。
 

* 十一月十一日 土

* 意識してはいけないのだが、鬱感が静かに身内に沈んできているのが、わかる。夢をみながら夢に身内が冷え切っ ていることが、ほとんど毎日のことで。あけがた、ほのかに夢に見えたまふ仏の姿などみたことなく、死のかげがいつでも落ちている、身のまわりに。そ ういう年齢なのか。前より来たらず、かねて後より迫れりと兼好は謂うているが、まことにうしろからそっとそっと、しかし執拗に死に追われているる。ひとり でいるのが、すごく、イヤなときがある。本でも読んでいれば、器械に触れていれば、紛れている。しかし、ひとりで、ただ湯に浸かっているだけで も、すうっと寒くなってくる、身の深いところから。
 バグワンから何を得てきたというのだろう。考えない。分別しない。嫌々考えているし分別ばかりしている。ただそういう 自分と向き合って。できれば自分を 他人のように傍観していたい。

* なにを大事に考えているだろう。懼れているのは何だろう。どうまちがっても太宰のようには死にたくない。太宰 には親しめない。いっそ荷風のようにありたい。「寂しくても」と題をつけて書き出したある画家の物語が、必然自殺に到りそうな予感がしたときから、 先を急ぐのをためらいはじめた。ためらった。さて、ためらって、自分はどうするというのか。たたずんでいる、それだけの日々が、なにやかやと忙しさにまみ れながら、芯のところで冷えて続いている。どうでもいいことばかりを、しているのである。
 町子はどうしたろう、慈子はどこにいるのだろう、冬子はどこへ 甦っているのだろう、キム・ヤンジァは元気だろうか。肩に来て話しかけよ。

* 「余霞楼」を読むのが、少し楽になりましたの。京ことばに、気を取られる割合が減り、その分、怖さが増しまし た。妻が、娘が、あのまま「幸せに暮らしました、とさ」では、終わらないでしょう。フランスの古城に置き換えた、ミステリーができそう。既に、腕のある、 女流作家の手で、書かれている気もしますわ。
 怖いのは、全く駄目。ホラー、サスペンス、怪談。いいえ、もっと、ちっぽけな事が、何度でもフラッシュ・バックする の。記憶力がいいのは、こういうときだけです。

* 車中です。隣では、二人の少女が、面接試験のリハーサル中。18歳。暗記してきた棒読みの標準語と、生き生き とした、私語の関西弁。
「今、一番関心があるのは、ゴミ問題です。母も『これはどこに捨てるのか』と言っています。」
「何で、お母ちゃんが、標準語やねん!」
「どない言うたらええのンか、分からん。」
「最近の事件で、あなたが思うことは。」
「えっ! 事件? 事件テどんなン。」
「よゥけあるやン、(発掘の)捏造とか、大統領選とか、森内閣の支持率のこととか。」
「あ。それやったら捏造にしよ。」
「突っ込まれたらどないするン? 名前知っとンのかァ? 」
「う…。」
  可愛い首、傾げて悩んでいます。

* 晴天。静岡の空気、贈ります。富士山が見えています。
 先日、文雀さんが、「あぁンな『小栗判官』がおもろかったンかぁ。」とおっしゃるの。「あれじゃ、説教節にならん。浪 速節の元やで。あんた、のぞきからくりテ見たことないかぁ?」と、実演して下さいました。「あぁいう泥臭ァいもンは、国立では無理なンや。」
「金丸座は? 」
「あかン。中座みたいな、こやが、ええンや。」
 工場の、水耕栽培で作られたトマトを「清潔で、キレイ」だと、喜んで食べていたの。同じトマトの、昔の"ほんまもん" を、「キタナイ」と見るようには、なったらいけない。
 秦さんのお書きになる"芸能"の事、これからも考え続けますわ。囀雀

* この雀さんの囀りは、毎日途切れない。はじめはウルサかったが、一つ一つが短くて、その気で観ればじつに具体 的な中身があり、わるいけれど、なにかのおりに活用できる、ないしは一人の個性が刻印されている。逢えばどんな雀っ子か婆さん雀か分からないが、旅中らし い車内からたてつづけのこんなメールに、ほうっと身内が温まる。雀さんのメールが圧倒的に多く保存されている。
 

* 十一月十一日 つづき

* 西域への旅で生まれた一連の詩稿が「e-m湖」に寄せられた。全体の意識が川のようにゆったり流れている。一 つ一つはそれぞれ別の場で成っているのだろうが、そういう区別をむしろ超えたかたちで、切れているようで繋がって行くような、連歌のような匂付けがトータ ルに生きている。一つ一つを特定の題などでくぎると、一つ一つの詩としての完成度がさらに厳しく問われるだろう、すると、かえって面白みが落ちてしまう。 旅の記録という捉え方でなく、旅の中で詩人がどう声を放ち続けていたか分かる方が、感銘度は高く澄んで来る。全体の題は、「西域」でいいのだが、「一期一 会」の感懐としても、精神の内なる「海市蜃楼」なる構築物ととらえてもいい。まだ、半分ほどしか頁に書き込めていない。
 長い西域紀行の文章もワープロプリントで届いているが、どうデジタル化がうまく行くか、作業はたいへん。落ち着いた文 体で、しかもこみあげるように熱く語られて、いいものだと感じている。さ、どうするか。

* 原稿をあげますと、何人ものいい筆者から申し出られている。高い水準を維持することで、広い範囲の寄稿者に気 を入れてもらえるのではないか、今は、呼び水を、誘い水を流して行く段階である。此処へ掲載されることが嬉しいと思ってもらえるような、きちっとした「e -m湖umi」でありたい。そうでなければ、こんな営為じたいが無意味なのだから。

* ミア・ファローの「フォロー・ミー」を同窓会で妻が留守のうちにビデオでみた。監督はセシル・B・デミルだっ たか。画面の佳い、まずまずの仕上がりであったが、やや図式的に人物を作って構図も作ってという、パンチにやや乏しい、小洒落た映画であった。ミア・ファ ローは「ペイトン・プレース」の昔からの懐かしい女優だが、この映画では可もなく不可もないヒロインだった。批評の角度のちょっと面白い、それがプラスで もマイナスでもあるような映画だ。
 夜には「釣りばか日誌」をみた。平社員ハマチャンと大社長スーさんの、現実には在りうべくもない「身内」の情。これに 尽きる。小林ネンジと吹雪じゅんとの物語は平凡なモノであった。裏番組をコマーシャルの時にだけみていたが、自民党のごたごたを評して外国人のコメンテー ターが、明解な日本語で明確に「根本は首相を密室で選んだ選び方がわるい」と言い切って、それだけ聴いて、大きく頷いた。一切がそこから始まっていて、絶 対にそれは容認しえない。
 日本赤軍の重信房子逮捕と彼女の昂然とした元気さは印象的でありながら、また「ある種の時代錯誤」をそれに見ていた若 い女性のコメンテーターの言にも、うなづいた。大きな感慨はわたしにはない。公正な裁判がなされるように、また、なぜ重信のような人たちが何十年もにわ たって「志」のようなものを捨てずにいたか、その背景を、より正しく評価したい、いや、して欲しいと願う気持ちがある。
 

* 十一月十二日 日

* 通算六十五巻目を校了。今月中に本は確実に出来るだろうが、発送の用意は、十の一も出来ていない。一つには、 パソコン原稿に切り替えてから、校正往来がはやく、しかも直しが少なく、その余の仕事が取り残されて追いつくのに追われてしまうのだ。有り難い悲鳴であ る。いずれにしても、歳末も早めに発送は終わるだろう。世紀最後の誕生日はわりとらくな気分で迎えられる見通しになった。もっとも、「いい気になるな、ど んな怪我が有るか知れないぞ」と囁く内心の声が、ひょいひょいと浮かんでくる。何なのだ、これは。体調が下り坂なのだろうか。ただの疲労か。

* 身辺を整理していると、これまでに送ってもらった文章や詩などが幾つも見つかる。残念ながらどうにもならない ものも混じるが、感銘深いのも幾らもある。世にときめいている人の作品が文句なく佳いとは残念ながら言えない。悪くすれてしまった傲慢な仕事も、雑なモノ も、ある。その道で立っていないからと謂って、世間に隠れた知性や才能をバカにしてかかるのは大きな間違いである。

* アクロバットという高価なソフトを勧められて買ったものの、インストールはしたものの、何にどう使えばスグレ モノなのか少しも分からず放ってある。マニュアルが、べらぼうに小さな字ですべて英文では、読もうという根気が出ない。ずいぶん不親切な売り物だなと思 う。マニュアル問題もわが電メ研でいちど、暮らしの手帳のようにやってみなくちゃなるまいか。

* この、今の重っくるしい気分の元凶は、猪瀬君の『太宰治』かもしれない。とてものことに気の晴れる仁ではな い、太宰センセイは。猪瀬氏の責任ではない。
 直哉と太宰とは突き当たっている。太宰は川端康成とも激しく突き当たっている。三島は太宰に会いに行っている。谷崎と 太宰に接点が、潤一郎から太宰への言及があったかどうか。あったという記憶は全くない。わたしは。わたしは、太宰治に会いたいなどとは思わなかったろう。
 生前の谷崎になら、ひとめでも会いたかったが、逝去のニュースでいちばんに法然院に用意されていたお墓へ参っただけ、 だ。だが、そのご縁でか、松子夫人にながく、亡くなるまで家族中がよくしていただいた。こんなことを思っていると、すこし気が明るむ。大河ドラマでもみ て、田村正和の「おやじィ」でも見て、また太宰治の続きを読もう。明日は、六時まで猪瀬委員長召集の言論表現委員会だ。帰りは冷えそうだ。

* 岐阜の読者から、画に描きたいような富有柿がたくさん贈られてきた。ほんとに繪を描いてみたいものだ。幼稚園 の昔から、これこそ大のへたくそだ。
 

* 十一月十三日 月

* 京都も寒くなりました。
 北山や比叡山も急に紅くなり始めました。もう一週間もすれば、街もすっかり色づくことでしょう。糺の森の河合神社の境 内にある銀杏の大木からは毎年とてもきれいな落ち葉が降りそそいで、あたり一面が黄色に染まります。
 昨日、ホームページの更新を行いましたのでご案内します。この春に開設して以来二回目の更新ですが、要領を忘れてし まって、またマニュアル繰っている次第で、これではなかなかグレードアップは望めそうもありません。
 お風邪など引かれませぬように。お元気で。

* 京都の秦恒夫さんから東京の秦恒平に届いた季節の懐かしいお便り。

* 「雑輯 2」に、編輯者からの返信をとりまとめている。おのずから、わたしの意向など表れていると思う。寄稿の方は参照されたい。

* 作文は、だめ。作文はどうしても「お上手に」と浅く気取るから。「書く」というのは、泥を吐くのと同じ呻きな のですが、呻き(単純に解釈しないように)のないものは人の胸に届きにくい。それが、モチーフ=動機というものです。

* 建部綾足の『西山物語』を読んでいる。再読。面白くはあるのだが、この筆者、作中の語彙にいちいち説明や出典 を付記するのが、それはそれなりに有り難くもあるが、筋を読もうとするとうるさくて叶わない。論説論文の中に、むやみに引用や説明や記号や数字や註番号が 入り、引用原典まで克明に書き込んだのと、ときたま出くわすが、じつに読みにくく、何を読んでいるのか忘れてしまうことさえ有る。過ぎるとぶちこわしにな る。ま、綾足のなど、頬笑ましい程度だが、珍しい。学のあることが尊重された時代の所産であること、よく納得できる。学 とは関係ないが、少し以前の芥川賞作品にもやたら註のあるものがあると、聞いた。読まなかった。それも浅い気取りか。

* 太宰治にはへこたれる。猪瀬氏が毟り始めていて、毟られてゆく太宰の像の鬱陶しさ。猪瀬君は面白く書いていて 大いに読ませるのだが、太宰にはイヤんなっちゃう。作品を、作品だけを読んでいた方が遙かに印象優れ、気持ちもつらくない。
 すかァっとするような人物の、興味深い伝記が読みたくなった。すかっとはしないが震えるようなファシネーションを湛え ていたのは、ツヴァイクの作品か。『メリー・スチュアート』など、また読みたくなった。『フーシェ』でもいい。
 さ、今日は猪瀬直樹に会いに行くのだ、乃木坂の言論表現委員会まで。
 

* 十一月十三日 つづき

* 言論表現委員会は、今日も難しい「情報規制」問題で、講師を迎えた。問題点をわたしが整理することは手に余 る。話題について行くのが精一杯だった。だが、暗澹とする一つの袋小路のような按配でもあるのだ。
 かつては、国家の強い権力が横暴に走るとき、ペンは抗議し闘った。だが、このところの幾つかの問題では、ことはそう単 純でない。時には権力と世論とが帯同している場合がある、例えば、メディアの目に余る「暴走報道」には世論も顰蹙し、やめさせたいと思う。その意向へ向け て、権力が添い寄るようにして法律の網をかぶせ、やみくもに「拡大的な規制を強いてくるという事が起きる。現に起きている。
 世論だけではない、日弁連のような大きな団体が、行政権を手にして、メディア等をじかに押さえ込もうという立法化が 「美しげな」名目で進んで来ている。日本ペンはそのような日弁連に不快感を表明すべく、加賀乙彦副会長と猪瀬直樹言論表現委員長とが抗議に出向いた。それ を朝日新聞が報道した以外に、もう一社だけが取材して、猪瀬君の行儀の悪い大きな写真入りで雑誌に載せた。写真雑誌で、しばしば問題の報道を以て知られた 「フライデー」である。日弁連の今回の動きや常識世論とは、対蹠の位置にあり、暗に抗議の的になっているメディアの一つともみられる。

* 象徴的なことがあった、その加賀・猪瀬氏による日弁連への抗議記事には、「人権擁護」の名を借りた"検閲の復 活"か "危険な法案"に日本ペンクラブが猛抗議 と大きな見出しが付き、記事の結びが、こうである。「報道の自由なき民主主義など、絶対にありえな い。」と。
 おお、なんたる、欺瞞的な宣言ぞ。お笑いである。
 今この、全く当たり前に見えてあまりに空疎な念仏のような宣言を、日本中の誰が、どれだけが、実感を持って受け入れら れるだろう。口では「自主規制」の「内部浄化」のと言いながら、何一つ実効をあげるどころか、相変わらず居直ったような無茶をやっている。人権蹂躙も極度 の猥雑も無恥も厚顔も。
 言うことが、根底で違っているのだ、正しくは、「報道の誠意なき」「報道の節度なき」「報道の規律なき」民主主義な ど、絶対にありえないとほとんどの人が思い、今や顰蹙に顰蹙しているのが事実なのであり、そこを利して、政権与党ばかりか野党もふくめた政治の「メディア 規制」が、法律で制度化されようとしているのである。ゆゆしい話であり、この法の運用が、必ず、もっと範囲広く「政治に不都合な言論表現の規制」にまで拡 大適用され、基本的人権を侵害する難儀な「支配法」になるのは、すでに今からして明白なのである。そこが恐いのは分かっていて、猶、それでも今のメディア には目に余るものがあると、世論も弁護士たちまでも「法による規制」を求めてやまない。
 なんとしたことか。
 考えねばいけないのは、姿勢を正さねばいけないのは、むしろ出版や編集であるかのような時勢になっていることを、ペン クラブに所属して理事や委員なども出している大出版や新聞が率先問題提起すべきではないのか。
 
* ぐったりした。六時半に会議室を出て、乃木坂でみつけた、ちいさな、ワインと欧風家庭料理の旨い、静かで佳い店に入 り、お任せの四品と、ドイツのグラス赤ワインとで陶然とし、やっと機嫌を持ち直した。理想的に佳い店だった、夫婦二人でこの三月には店をあけたという。わ たしが一人だった。こういう洋風料理の店が欲しかったのが、思わぬペン事務局からまぢかにあり、乃木坂へ行くのが楽しみになってきた。現金なもので、出か けるときはからだが重く、地下鉄の駅から妻に電話で、なんだかシンドイみたいだと訴えていたのに、この店を出て坂道を登って帰る足取りがうきうきと軽く、 鼻歌が自然と出ているのには、我ながら驚いた。妻は節食が過ぎていたせいでしょう、それでいいのよと宣う。さもあらんか。
 帰ったら、電メ研の高畠二郎さんから、初のメール到着。これで、委員全員がインターネット可能となった。さっそくメー リングリストに加わってもらうべく座長手続きをした。
* このごろ、映画俳優や女優の名前数えにも限度ができ、歴代天皇を数え上げるのも苦労が無くなってあっけなくなり、そ れで、駅まで往来の歩きながらのくちずさみには、般若心経を唱えることにしている。ただし、全部となるとうろ覚えであった。だが、子供の頃からなじんで、 高校生の頃は高神覚昇の講義を愛読し、近年はバグワンの「般若心経」に親しんできた。だから、意義は追える用意がある。うろ覚えのところを、意義を追って ゆくと、字句が繋がって行くのである。つっかえては戻り、繰り返し繰り返し唱えていると、つ、つ、つと綱がって続いて行く。もう九分方繋がっている。お経 でありかつは根本大事の経文であるから、唱えていて気持ちが佳い。数回もゆるゆると唱えているうち自然と駅に着き、家に着く。
 

* 十一月十四日 火

* 明け方の夢の中で、いやなヤツに出会った。いやな夢だった。わたしは夢の中でそいつを殴った。うまく殴れな かった。いやな夢だった。わたしの著書『日本史との出会い』の題を別な題にせよとそいつは言い、その題をみつけてやるのにかかった調査費用を出せと言っ た。
 そのあと夢の中で、とても不安で寂しくて、昔の人が五色の糸で仏像の御手とわが手指を結ぼうとしたのは、こういう気持 ちなのかと夢中に思案していた。幼い子供の頃も寝ていると不安になり、父か、母かの、たとえ寝巻の一部にでも指をからめると安心した。
 夢を見ないで寝たい。

* 秦さん、こんばんは。
 寒くなってきましたが、お元気でしょうか?
 ホームページ、新たな趣向で驚きました。
 自分には、なかなかちょっと書けそうもありませんが、とても面白いこころみだと思います。
 外へ外へと動くほどに、みずからの肌理が粗くなってゆく感覚が拭えません。
 といって、内へ内へとみつめる視線を追い続けると、実生活を生きることに、非常なエネルギーを要するようになります。
 そのちょうど良い、心地よい均衡点を見つけるのは、難しいことですね。
 それとも、不動の点などは無いのかもしれません。いつもあっちへフラフラ、こっちへフラフラとしています。
 これからますます寒くなります。お体を大切になさって下さい。

* 若い卒業生社会人の何人もにこういう声をかけられている、このごろ。

* 「論考」の頁に矢部登さんの「結城信一の本」をいただいた。結城信一研究で知られた篤志の文学者である。有り 難い。

* あすは山折さんと三回目の対談。一応の打ち上げになるが、辛うじて、今、二回目の対談速記原稿ディスクに、発 言の訂正修正を終えた。明日のための、何の用意もない。どのように結着するのか、無手勝流で臨む。
 一週後には京都でべつの対談。二十三日は、「冬祭り」の日である。冬子たちの墓参りをしてこようか。

* やがて「編集王」の放映時間なので階下へ。
 昨日の会議の席で、はじまる前であったけれど、建日子が「編集王」の脚本を主に担当している(十一回の八回分とか。) 話をしたら、猪瀬氏が、三十一や二で連続ドラマの脚本書きの芯の役が担当できる、それだけでも幸運なこと、どんなに辛いいやなことがあっても、いつかはと 歯を食いしばって粘り抜き頑張り抜き、したたかに現場の泥を呑んだ方がいいと、真面目な話であった。いま辛抱して、その結果としていつか思いのままのいい 仕事をすればいい、今は泥水に首までつかってガンバレと。
 そのまま、建日子に伝えて置いた。 
 

* 十一月十四日 つづき

* 今夜の「編集王」には脚本家のモチーフが生かされていたようで、それなりに、平凡だがそつなくやっていた。ど ういうメッセージを伝えたいのか、もひとつハッキリ読めなかったけれど。東大を出たというお嬢さん役にはあまり魅力がなかったが、編集部の二人の女性は佳 いではないか。主役の原田泰造も、評判のわるい夜中の番組を知らないので、このままなら、なかなかのもので、好感が持てる。

* メールの送り方に「RE」送りがある。その題名に、例えばわたしから「**様 秦」と送ったのを、そのままリ ターンしてくる人が、けっこういるのに驚いている。わたしは、そういうことはしない。
 

* 十一月十五日 水

* 朝晴れ。六時頃になるとキッチンで、マゴがもう起きて頂戴と、鳴く。少し早い。もう五キロもある。真っ黒なの で見どころは眼だけだが、この眼が艶やかにモノを言う。完全に家族になり身内になり生活している。「ゴッツン」と頭と頭を付き合わせての挨拶はよほど好き なのか、これには気の立っていそうなときでもおとなしく応じる。戸外へ出て一緒にいてやると大喜びで駆け回る。ときどき出てきてと、戸外へ誘ってくる。

* 「e-magazinne湖(umi)」が面白いですね。
 いちどきに、多種分野の読み物にふれることができる幸運にどっぷり浸っています。夜の更けるのを忘れてしまうほど。
 地方の暮らしで、自分だけではとても選びとることもできない内容の寄稿文ばかりですもの。視野がひろがっていく思いで す。
 まず始めに、「生活と意見」にご挨拶をして、新しい案内を見つけると、もうワクワク、胸をときめかしてしまいます。
 連載のように書き次いでおられる新作へは、週末に会いに行く楽しみとして、とってありますの。すっかり夜更かし族に なってしまいましたわ。職場の体制も以前にもどり、朝に余裕が出来てきたからかもしれません。
 独り占めが勿体ない気分で「アクセスしてみて!」と、ちょっぴり自慢気に、友人たちにふれまわっています。うふふ。
  
* 或る水準が目に見えてきたと思う。もっと高く高くと内心は思っているけれど、初心の若い書き手が入って来にくくても いけない。おれも、あたしも、と思っている人には気持ちよく投稿願いたい。よければ採る。さほどでなければお返しするか、話し合って良くして行きたい。

* 昼前から出かける。大地真央のミュージカルを観て、聴いて、それから「老い」を語り収めるべく山折哲雄氏と の、対談。どう収まりがつくか。

* 寒いですね。ぼくはもうすぐイランに旅行するのですが、慌だしい毎日の中では、未だに、本当にペルシャに行く という実感が沸きません。具体的な計画も全く立てていません。
 とは言え、むこうに行ったら、庭園と寺と書画と青磁器は見ようと思っています。こんな風に書いてみると、まるで京都に 行くようです。

* いい旅日記が出来るといいが。
 

* 十一月十五日 つづき

* 青山劇場での大地真央主演ミュージカルは、せっかくのお招きではあったが、あまりのたわいなさ、どうにもこう にもならず、はじまるとすぐ寝てしまい、中幕でサジをなげ、それは妻もご同様で、初めて途中で劇場から退散した。やんぬるかな。
 妻を銀座から有楽町線で帰し、わたしは、外神田の春秋社へ。

* 対談は、おかげでとにかく無事に終えて、あと、湯島の寿司屋で打ち上げた。「自然に老い、自然に死ぬ」という ことを、前後六・七時間も話し合えたのだから、それはそれでいい体験をした。 

* この土曜日に国立辺へ出てこないかと、東工大出の丸山宏司君から誘いのメールが入っていた。はいはい。行きま すよと返事した。

* 雨しとど。
 

* 十一月十六日 木

* 七代目清水六兵衛さんから、なまめかしい深い乳白地に、淡く部分的に紅をはいたお茶碗を頂戴した。以前に戴い たのとは地色と柔らかみとがぐっと様変わりし、また独特に美しい現代の茶碗で、対照的。嬉しい。貰ってもいいのだろうか。

* 「人生適意」と発送の挨拶に書いている。そうありたい、お互いにという気持ちがある。

* なぜか、ときどき堪らなく睡魔に襲われ、その場でこんこんと寝入ってしまう、椅子にかけたままでも。血糖値の せいだろうか。高いのか低いのか。昨日は外神田の寿司でご馳走になった、酒ものんだ。けさはココアを呑んでいる。血糖値は低くはないはずだが、低く成りす ぎる用心はせよと医者に言われている。

* 湖の本創作シリーズ、「創2戯曲こころ.txt」、「創3秘色・三輪山.txt」お送りします。この頃は(ス キャン)減速して、誤認識をできるだけチェックしながらやってみています。パソコンの辞書には「ない漢字」が困ります。日本の「トロン」は正しいと思いま す。
 繰返しこの作業をしていると、だんだん面白くなってきます。
 理解の程度は問題ですが、『戯曲こゝろ』を読んでから、加藤剛の「お奉行さま」が「先生」とまぜこぜになったりしま す。ばかなこと云ってすいませんが、ついでに、『秘色』では、「十市皇女」を上村松園に描いて貰ったら、いいだろうなぁと思いました。「湖の本名場面図」 なんてぇのを夢みます。気持ちのいい、うまい絵でなければなりませんが。
 生物学的年齢は如何ともし難いと思います。ご無理が重なりませんよう、くれぐれもお大事にしてください。

* 知己の弁である。「生物学的年齢は如何ともし難い」とつくづく思う。しかもなお、「自然に老いる」とは老い衰 えてゆくことの容認以上に、「元気に老いる」意味でありたいなと、つくづく願わしくなっている。

* 今朝一つ届いた若い人の小説が、いい感じに推敲できるといいなと思っている。

* ライコスジャパンがわたしのURLをリンクしたいと言ってきた。頼んできたと言うより、通知してきた感じ。

* 昼間に「ニキータ」というテレビ映画(?)を見た。ニキータは何種類か映画化されていて、気が付けばみな見て きた。ぐれていた少女が逮捕された後、秘密裏に訓練をうけて殺し屋に仕立てられる。訓練に落第するとそのまま「消去」されてしまう。そのドンづまりの中 で、人間性と女性とにめざめながら殺戮の使命に応じ続けねばならない。そういう極限状況を生きている美女ニキータは、なみのドラマのヒロインよりも胸に堪 えるものをもっている。昏い魅力だが執拗に胸に残っている。
 

* 十一月十七日 金

* 投稿された小説を、じいっと読みつづけていた。

* 寒い一日。送本のための挨拶を一人一人に書き続け、そのあいだ、ビデオの「デイライト」シルベスタ・スタロー ンを耳に聴いていた。ときどき手に汗して見ていた。「ポセイドンアドベンチャー」とどっちかと言えば、あのジーン・ハックマンもよかったけれど、スタロー ンのハートのある映画をとる。「クリフハンガー」でも、シャロン・ストーンと撮った殺し屋の映画でも、むろん「ランボー」でも、スタローンはなかなかいい ところへ観客を運んで行く。ほろっとさせる。
 香港映画の「グリーン・ディスティニー 臥虎藏龍」が面白いですよとメールで勧められている。映画館には行きたいがな かなか機会がない。

* おとといだったか電車で、「小汗をかいた」と言うている人がいて、耳が突っ立った。そういえば「小腹がすい た」とうちの息子も言う。昔から「小癪にさわる」「小綺麗にする」「小股が切れ上がる」「小耳にはさむ」「小馬鹿にする」などというのだから、語感の点で は問題なく分かるし、ちと便利な気もする。この調子で「小義理をはたす」「小仕舞いする」「小世話になった」とか言えるのではないか。表現力はある。「小 汗をかく」はわたしの仕事がらみにいえば、りっぱに「からだ言葉」になるか、ただ少し汗ばむだけの普通のもの言いで終わるかの境界線上にある。本当の骨折 をいう「骨を折る」は、また本当の頭痛をいう「頭が痛い」は、「からだ言葉」ではない。しかし苦労した、難儀している意味の「骨を折る」「頭が痛い」は、 「からだ言葉」として働いている。『からだ言葉の本』を筑摩書房から辞書つきで出版して、もう何年になることか。年をとったものだ。

* 建日子が、こそっともこのところ言ってこない。風邪をひくなよ。 
 

* 十一月十七日 つづき

* 内閣不信任案をめぐる自民党内部での加藤・山崎両派の主流派批判と決起は、ごく自然のことで、これに同調でき ない理屈は、みな脆弱な私利私欲にちかい。加藤・山崎をわたしはとくに支持するものではないが、国民世論をかなり広く背負っているし、森喜朗首相をおそら く本気で守ろうとしている自民党員は少ないに違いないと見られる。加藤・山崎の反旗には大義名分は立っている。このままでは自民党が参議院選挙を戦えない だろうと言うことより、こんな内閣と首相で日本の国際的な信用はとても購えないこと一つとっても、総理失格は就任の最初からハッキリしていた。わたしは、 昔から、森という人はアカンとみていた。言ってきた。たしかに予想を上回るアカンタレであった。加藤なら山崎ならいいというのではない。森がアカンならア カンと、何故自民党の中からも言えないか、そこに問題有りとした加藤らの反旗には、名分がある。
 その意味では、閣僚である限りの何のとなまくらなことを言うている宮沢喜一に、政治家としてのダメさをつくづく感じ た。国家を思い国民を思い世界を思うのが政治家であるなら、たんに森内閣の一閣僚であることに拘泥して、かかる無能にして暗闇からドサクサに担ぎ上げられ た内閣総理大臣のそもそも選び方からして、批判を先立てて見識をみせるのが元首相の役儀ではないか。しかも加藤派のもとの首領ではないか。加藤に名分を感 じれば大蔵大臣を辞任し閣外に去ることで森退陣を迫るのは、今日もっとも緊急の「政治」そのものであったはずだ。情けない人である。金融の財政の、一日も ゆるがせにはのと言うが、もう十年このかた何の実績も上げていなくて、この分でこのままではとうてい何も良くならないと見えている今、大蔵大臣が辞表を叩 きつけて出てしまうことがどんな実害になるか、汚らしい政治の恫喝に肩入れして大臣の位にしがみついている方が、よほど潔くもなく、見苦しいのである。い まどき、野中の亀井の青木のなどといった連中のことは論外でしかない。いちばん男を下げているのは、大臣の中でも一に宮沢喜一である。情けない人だと思っ ている。

* 不信任案が通ることをわたしは願っている。
 

* 十一月十八日 土

* 夕方から国立市まで出かけた。もと建築科の丸山君と柳君とで呼んでくれた。ボジョレーヌーボーの旨い赤を二本 も明け、おいしい西洋料理をご馳走になった。三時間ほども三人でゆっくり話せた。八月に丸山君の結婚式で逢った、それ以来だが、お互いの忙しさで小一年も 昔のように思われるが、また、教授室でしょっちゅう話していたのがつい昨日のようにも思われる。二人とも学生時代の持ち味をすこしも損なうことなく、それ ぞれの場で自分の足場を固めながら日々暮らしている。ご馳走になったから言うのではない、気のあった親友二人に迎えられて、しんみりとものの言い合える時 間は、まさに至福。神に感謝を捧げたくなる。

* 行き帰りに猪瀬直樹の『太宰治』をぐいぐいとむさぼり読んでいた。志賀直哉との精神的な葛藤のところをもう少 しわたしは読みたかったが。
 太宰と井伏鱒二との葛藤は刺激的によく剔られてある。太田静子との出会いなど、じつは、わたしは太田静子さんとも娘の 治子さんとも、二度ほど自宅に呼ばれて逢っているので、ひとしお実感に迫られて読んだ。

* スペンサー・トレーシーとエリザベス・テーラーの映画「花嫁の父」をみると、太宰世界のどすぐろさをふと忘れ られる。そうはいうものの、太宰の晩年の奔流のような作品の展開と質のよさにも、驚かされる。材料さえ得られれば、料理法には凄みと巧みを遺憾なく発揮す る作者だった。だが、何とも言えない堪らなさが太宰にはつきまとう。女難の人と言うては間違いで女の方が太宰難に遭遇している。そんなことにお構いなく、 ややこしい女性関係のなかで培った材料ゆえに、いいものの書けた作家にちがいない。ほんとなら伝記など読みたくも知りたくもなくて、ただ作品にだけ出逢っ ていたら、もっとピュアーに引きつけられたろう、か。わからない。
 

 十一月十九日 日

* 少し陰気に寒い一日だった。依頼原稿を書いて送って、時間をとるこまごまとした仕事を少しずつ前へ前へ送りだ して。ヴィンセント・ミネリ監督の「花嫁の父」をまた見終えて、大笑いし、しんみりし、最後にまたちょっと涙を流した。ビデオを永久保存版にした。

* 昨夜就寝前に『ピカレスク 太宰治』を読み終えた。太宰はしっかり猪瀬直樹に毟られた。井伏鱒二がかつてなく 明快に毟り尽くされ、これには驚いた。日の当たらなかった作家の頑張りに紛れ込んだいろんな無理が、こんなふうに曝露の光をさしこまれてしまったことを、 気の毒にも思うし、猪瀬君の頑張りにも敬意を覚えた。彼が純然とした文壇人でなく、ある意味ではもっと力強い足場に足をかけて書いていることが、よく分か る。遠慮がないのだ、文壇にも文壇での名声にも名作と持ち上げられた作品に対しても。それは大事なことだ、批評本来のためにも。
 やはり太宰治の志賀直哉に対する死に際の口撃に、いま一段深く射し込む視線と視野とがあれば、太宰論としてもっと面白 くなったろう。その余は、過去に読んだ野原一夫らの太宰治論よりも刺激的に面白かった。野原氏は明かな太宰信者であり、吾が仏尊しの立場でみていた。それ が或る意味でもの足りなかった。太宰のような男(才能の意味ではない)は嫌いだし、太宰のような材料の集め方も利用の仕方も嫌いだし、太宰のような何度も の偽装の自殺行為も含めて死に方一切が嫌いだし、太宰のような女の扱い方も嫌いだから、わたしにすれば、太宰作品を読むことにしか共感の余地がない。作品 も、どれもこれもが佳いとは思わない。不思議にやりきれないような魅力に溢れた作品のあることを明確に認めているということである。それは否定しない。
 しかし、太宰治は過大評価されてきたという実感は、野原の論、猪瀬の論をまつまでもなく、私の中ではハッキリしてい て、少しも動揺しない。人間は誰しもそうであり、わたしもそうであるが、誠実に不誠実であり不誠実に誠実なところを持ち合わせているものだが、太宰治の場 合はそれが才能に転じるほど過剰であった。それだけだ。
 井伏鱒二は、わたしを太宰治の名のついた文学賞で文壇に送り出してもらった大恩ある選者の一人である。それはそれとし て、『山椒魚』の昔から、『遙拝隊長』や『珍品堂主人』その他を読者として経てきて、本格の大作家だとは思いにくかった、ただ、ふしぎにユニークな 天才を愛好した。『黒い雨』が異様にもてはやされたときわたしは手を出さなかった。なにかしら、井伏と原爆体験とに厳しく結びあう必然が感じられな かったから。そしてそれが、入手した原資料のアレンジメントに過ぎないと知れてきて、作者当人も全集から外したがっていたと知れてきて、ああ、やっぱりな と思った。井伏の弟子の太宰は、そういう作法を見知っていて、かれもまた他人からの日記提供に大いに頼っては佳作をものしていた。リライトに近いものも あったと猪瀬直樹氏は克明に証明している。
 原資料をリライトして仕上げて行く文学作品を、わたしは可能性としては否定しない。リライトの仕方に作者の批評も創作 も有りうると知っている。わたしでも、ほんとうに優れた資料なら、その味わいを壊さない利用の仕方を試みるであろうし、ただの資料より遙によく高め得られ ると信じている。井伏鱒二の仕事でもそれが言える限り、猪瀬氏の筆誅とはまた少し違った評価をするだろう、が、問題はそれらの資料性が作家の根底の動機に 結びついているのかどうかだ。緊密に結びついていれば尊いが、そうでないなら、利用したと言うだけなら、安易な姿勢だと思う。井伏鱒二の『黒い雨』に手を 出す気がしなかったのは、その辺で、違うなと感じたからである。太田静子さんの日記をもぎ取るようにして太宰が書いた『斜陽』は、一読して堪らなく好きに なれないものだったが、だが、あれには太宰治のいやな体臭が染みついている。太宰がにじみ出ていて彼自身を裏切っていない。

* ほら貝の加藤弘一さんから、ソフト「アクロバット」の利用の仕方を親切に教わった。感謝。なにしろわたしのパ ソコンの第一画面にはずいぶん多くのアイコンが並んでいるのに、うまく使えていない、少しも使えていない、使い方を全然知らないものがいくつもある。WZ という字の付いたアイコンが五つもあるが、ろくに使っていない。写真のものも、そうだ。アウトルックもエクスプレスもエクセルも、アドレス帳に名前はたく さん登録しても、どうしてもそれを用いたメール発信が成功しないし、エクセルの表やグラフ作成など、考えも及ばない。そうかといって削除してしまうのも癪 で、だいじそうに置いてある。山ほど在るプログラムの中の大方が役に立っているのかいないのかも分かっていない。
 こんなことを言うのは、それでも曲がりなりにパソコンと付き合っていられるのだから、そうも初心者が技術的に恐れなく てもいいのではと言っておこうというだけだ。親切な方がこの暗闇の奥をたくさん歩いて居られる。それも信じていいだろうと言いたいのだ、感謝して。 
 

* 十一月二十日 月

* 冷たそうな雨がぼたぼた降り次いでいる。国会では、内閣不信任案がきわどく否決されそうな成り行きで、事実そ うなった際の大きな責任は、宮沢喜一以下の加藤派内の保守保身感覚だと断言したい。なぜなら彼らが四の五のと理屈をどうつけようとも、密室でやみくもに創 り出された森首班という非道を認めていることを公然と明かし、また国民の支持をかくも失っている森内閣を政治家として容認することで保身をはかったことに なり、政治信条を同じくしていたはずの仲間を信じなかったことにもなるからだ。ことを自民党内部だけの問題に矮小化して、彼らは都合の良い理屈を付けてい る。
 森内閣は国際的に重んじられず、へたをすると卑屈に卑屈に小さくなっている。また政策的にも存在感でもとうに死に体で はないか。健全な政治家なら憂慮し決起してしかるべき機会を、足を引っ張る形で身内から潰したことになれば、もう宮沢喜一は失格である。みっともない。総 理に苦言を呈し、執行部を窘めうるキャリアをもちながら、今やどうでもいいほどしか実績の上げられない大蔵大臣に心中して、政治刷新の機会を手づから潰す というのでは、とんだ小早川秀秋で、お手柄を森・野中から丁重に賞されるであろうが、軽蔑をもまんまと買うのである。これは、宮沢と加藤・池田の確執とい う派閥禅譲時のしこりだけで左右される、じつにバカバカしい不信任案劇となりそうだ。そうならないことを最後まで祈りたい。

* お寒くなりましたね。ようやく風邪が治りましたのに、引き添えに要注意のイエローカードです。
 日曜日の楽しみは、新日曜美術館・N響アワーなどですが、美術館のほうは、夕食の時間と重なってしまい、チャンネル権 は息子が。国宝紫式部日記絵巻の宮中の様子をチラッ。紫式部がいたたまれずに、逃げ出したという、男女入り混じりての情景が描かれていました。いまでいう 乱交パーティかも、かな?
 あとは、ロートレック展の案内で、生き生きと描かれていた馬が印象的でした。
 そして今宵の、芸術劇場では「アーティスト インタビュー」に「法界坊」を演出された、演出家・串田和美さん。演劇評 論家の松岡和子さんがインタビュー。平成中村座「法界坊」の面白さにいたる稽古風景の一端も見ることができましたのよ。勘太郎さんが若いころの勘九郎さん にそっくりになってきているのに驚きました。宙づりで客席に取りついていくなんてお茶目だねえ、見物客が大喜びしたのもわかりますよ。あぁあ、金毘羅歌舞 伎に来て興行してくださらないかしらねえ。
 いま、舞踊「公卿悪道成寺」を見ています。このあと、歌舞伎「本朝二十四孝」から、鴈治郎さんの、「謙信館十種香の 場、奥庭狐火の場」も見ようと思っています。時間ですので、これで失礼しますね。

* こんにちわ。
 四日市の「近衛家と陽明文庫の至宝展」に行きましたの。友人の情報で、美味しい蕎麦屋へも寄って。
 墨の色、濃淡。線の強弱、流れの自在さ。料紙、表具…。伝わってくる、広々と爽やかな気。涙ぐむほどの素晴らしさ、セ クシィさでした。 
 しかも、量が多く、目眩がしそうでした。でも、倒れても、支えてくれる人もない空き具合で、しっかり踏ん張っていまし たわ。
 最後に、銀細工のミニチュアが展示されていて、ヒート・アップ。本当に、行って良かった。
 京都博の「良寛展」には、是非行きたい。来週、名古屋へ「紫色部日記」を見に行くつもりです。

* 昨日の二つのメール。政界との落差。

* 文芸家協会から電話連絡で、また一つ会議の通知。
 電子メディアによる出版契約では、デジタル会社との中に割り込んでの、出版社による著作者権益の蹂躙傾向が著しく出て きていると、電話で聞いた。さもあろうと憂慮される。電子的な二次利用契約を安易に交わしてはならない。著作者たちも現代の烈しい流れに眼を開かなけれ ば、新しい世紀にまた新しい奴隷の貸し衣裳を、お仕着せ=押し着せを、着るハメになろう。新興のデジタル会社が、旧出版社の下請けプロダクションの地位に 甘んじようとしているとしたら、情けない話である。それもこれも「版面権」というありもしない幽霊におびやかされているのである。「自前の版面」を創り出 す努力の姿勢がないからの話である。
 

* 十一月二十日 つづき

* 予算委員会での自由党、共産党、社民党の質問はよかった。社民党の辻本朱美議員はことによかった。
 今、漏れ聞くかぎりでは加藤派山崎派は、内閣不信任案に賛成せず単に欠席することにしたらしい。バカモノたちのやるこ とは、こういう始末だ。ながいものに巻かれて、また国民は自民政治の迷走に踏み散らされ、くさい手前味噌をナメさせられるわけだ。すべては加藤派の年寄り たちが脱盟して、崩れた。親玉が宮沢である。宏池会を若手に奪われたという思いをこういう形でリベンジしたかと思うと、二重三重に情けない。腰砕けした加 藤や山崎の顔も見たくない。吐き出す思いだ。

* 「e-m湖umi」の二頁に若い人の創作を一本入れてみた。正直のところ、わたしのポケットにはかつてなかっ た類の表現であるが、箸にも棒にもかからないという稚拙さともちがっている。ほとんど、手を添える気もなくそのまま掲載したので、見て欲しい。なにかを感 じたのである、わたしは。

* ひどい土砂降りだ。晴れた京の秋に出逢いたいものだが。
 

* 十一月二十一日 火

* 高橋由美子さんの『神楽岡』が創作欄に入った。何度かの話し合いに応じて推敲がつづいた。落ち着いた筆致で一 つの作品に仕上げられたと思う。長い、あるいは自伝的な作品の一挿話を成すものかもしれない。作者をまったくといっていいほど知らないが、素質ある人のよ うに感じている。さらに推敲可能だが、掲載してみた。

* 朝一番のこんなメールに気分を代弁してもらう。

*  「なんじゃ、こりゃ」
 不信任案否決のニュースを聞いた、第一声。 「国会を、おもちゃにしてあそぶんじゃねえ!」 
 情けないねえ、三流芝居より下手な今回の騒動。
 あれだけ大口を叩いていた加藤さん。「天に向かって吐いた唾は呑み込めない」はずなのに、まあ、なんとみごとに呑みこ んだことか。これが日本を動かしていく人たちかと思うと、ほんまに情けなやなあ。こんなアホなことばかりを、国民の税金を、それも高額の給料をもらいなが らやっているんだから。
 この不況時に、こんな不祥事を引き起こしたら、一般の会社なら、リストラか減給もんだぞ。国民が審査して、リストラ名 簿に載せ ちゃうぞ! 
 岡に上がってしまった日本丸。 ため息はついても、あきらめてはいない。怒りも忘れない。    

* 最悪の判断を最善の判断かのように錯覚させられた加藤。口車に乗せたやつの高笑いが聞こえる。ダメ加藤と、昔 からほとんど期待していなかったが、みごとに予断を裏書きしてくれたものだ。宏池会のお家騒動で終わってしまった。しかしこれで宮沢喜一や池田なにがしが 何を得たか。愚かや。
 コップの水をまきちらした愚か者は、だが、現国会をみごとに象徴した演技派であった。ああいう跳ね上がりものを選んで いたのも我々国民なのである。小泉、山崎、の応対に何かが感じられた。鉄板の上で猫に踊らせてやれと言い放ったという橋本龍太郎のもの言いには、酷薄な彼 の正体がよく表れた。返り咲かせてはならない。河野外務大臣の言動もかつての離党時の清新な理想主義とはほど遠い俗悪さであった。この男にももう期待は少 しも持てない。わたしも言いたい、「なんじゃ、こりゃ」と。

* だが、こんな聴くべき声の届いていることもぜひ付け加えねばならない。「私の正直な気持ちです。正直な気持ち を書くというのは、なかなか怖いものですね。もう少し、時が経てば、また違う考え・議論が出来るかもしれませんが、とにかく何か書いておきたいと思ったも のですから・・・」と、次のように。

* 結局、元の状態に戻ったのでしょうか? 先週末に突然始まった大きな政界再編の波かと思われた動きは、結局の ところ何事も無かったように元の状態に戻ってしまったのでしょうか。
 昨日の夜から、今日の朝にかけての一連の動きを注意深く見ていました。
 加藤(紘一・元自民党幹事長)さんの発言を、心底信じて、時が来るのを待つべきだと、そう思います。
 自民党の主流派と言われる人々の、えげつない、なりふり構わない行動は、目に余るものだったのでしょう。私は、確か に、加藤・山崎両名をはじめとする賛成票によって(野党提出の不信任案が)“可決”されることを望んでいました。しかしながら、彼らの賛成票にも関わらず 否決され、自民党が賛成票を投じた人間を切り捨て、何も変わらない旧態依然とした悪行を続けるのは、最悪のシナリオであるとも思います。自らの職を懸け て、自民党を離れるだけの気概のある人間は多くなかったとのことでしょうが、我々国民の真意を知り、何らかの行動を起こすべきであると考えている人間の多 いことは、今回の政変(もどき?)による自民党内の慌てぶりを見てもよく分かります。彼らを見捨ててはいけないと思いました。
 省みて、今回の不信任案騒動の際、我々国民は、地に足を付けた議論で、全面的に不信任案可決を望んでいると声を大にし て言ったでしょうか? 加藤さんがどんな政策をもって、森内閣を不信任としようとしているか、知っていたでしょうか。補正予算、来年度予算、省庁再編等を 控えて、経済界をはじめとした各界は、不信任案の可決に及び腰ではなかったでしょうか。各界のそういう見方も、また正しいのでしょうね。
 予算委員会での扇(建設)大臣の発言は、確かにその通りであり、世論の軽はずみな“不信任”風潮に一石を投じているよ うに思えてなりませんでした。有珠山、東海豪雨、鳥取西部地震、伊豆諸島地震・火山等の災害対策を考えたとき、確かに補正予算は不可欠であり、補正予算の 成立の可否に、地域の方々の生活がかかっている、という認識を彼女は持っていたのでしょう。
 更に、不信任案の本会議審議の際の与党答弁は、内閣への“信任”主旨説明では無かったように思います。今国会での、補 正予算成立や重要法案等の緊急性から、“今”、不信任案を信任するわけにはいかない、との論調では無かったでしょうか。これは、森内閣への信任説明にはな り得ません。
 もしかしたら、加藤さんは動くべき時期を誤ったのかもしれませんね。
 時を待つべきだと思います。加藤さんのあの苦渋の表情を、今は信じて待つべきでは無いでしょうか。
 自民党が、今回の改革の芽を摘まない事を、心底願います。そのためにも、私たちは今回の一件により、更なる政治離れを 起こしてしまう事を食い止めなければいけません。自民党の中にいる、加藤さんや山崎さんをはじめとする“彼ら”をじっくり待とうではありませんか? 私た ちの声がきちんと彼らに届くように、地に足を付けた議論をしていくべきでは無いかと思います。

* 何よりも、これが「政治不信=選挙権放棄」という悪連動にならぬように、ぜひとも悪しき波及をくい止めたいと 思う。先ずその一点でこの賢明な発言に賛同する。補正予算については、もし不信任案が可決されていたとして、本当に与野党で意見の一致を見るのならば、 「十日間」の法的猶予期間を利用して、早急に本会議に上程することは不可能ではなかった。その上で総辞職ないし解散してよかった。予算委員会はもう三回も 重ねて緊急の結論は出せたのではないか。その意味では、わたしは、予算も予算、法案成立も成立ながら、政府の足場が立ち直ることの急務であるとの加藤・山 崎派の提言に賛成していた。現政府は成立の時点から民主主義を蹂躙していたと思うから。
 自民党主流各派のあくどさは言うまでもなかった。政権党争では、それこそが自民党の久しい伝統なのだ、少しも変わって いないことを曝露していた。
 だが、一つの芽が出かけたのは確かだったが、芽を摘んだのも同じ加藤自身であったのは、いただけない。わたしは、本会 議でたとえ不信任案に同調した上で否決され、すべてが除名されても、大きな足跡になったであろうし、絶対に多数の除名は愚か加藤山崎に限った除名も不可能 であったと思う。むしろそうなって、全員が離党し政界再編に繋がるのならその方がよかったと考えていた。そしてその際に、法案に対しては是々非々、生活関 連の補正予算には賛成という態度を離脱派がきちんと付けられるなら、それでよかったと思うのである。
 国民の支持は森にはないという認識は誤ってなどなかったのに、その足場からワケも分からぬ理由で下りたことに政治家と しての、やはり途方もないミスジャッジがあった。わたしは、そう考える。彼の決起を評価するから、よけい惜しいと思う。そして、ここが肝心だが、だから森 は信任されたなどとは露ほども思わず、加藤の意向はぜひ実現されねばならないと思う。決起したもののあっけなく宇治で敗死した源頼政だが、やがて木曾で義 仲も伊豆で頼朝も起った。種は蒔いたという意味は認められるに違いない。
 扇大臣と社民党委員とのはげしい応酬を聴きながら、あれには、双方に理があると聴いていた。その場合、理屈を言えば予 算委員会の性質上、大臣が正論でありながら、ある政局必然の流れの中では、国民というレフリーは、反則かも知れない質問者側のアドバンテージをみて、笛は 吹くまいと感じていた。うみを出すべきときだという質問者の判断には、なにより勢いにおいて国民は同調し、うみとは「森内閣」のことと承知していた。あれ ほどの「失望」を一致して表明した国民の声は、そうそういつもは聴かれなかったと思う。だからこそ、それが政治不信になっても良いが、選挙権放棄には流れ て欲しくないのだ。政治不信と言うが、政治家不信の意味であろう。その不信を払拭しうる可能性は選挙にしかないのだから。わたしは、解散総選挙をいちばん 望んでいた、するだけの始末をつけたあとでだが。

* 辛うじて発送の用意も八割方出来た。風邪のオソレで、文芸家協会の知的所有権委員会を今夜は失礼した。大事な 会議で出たかったけれど。そのかわり、「編集王」が見られた。テレビの画面から、よくもあしくも、いかにも建日子らしい声と言葉とが聞こえていた。

* 明日は、兄北澤恒彦の一周忌。京都で、仕出し料理の「菱岩」主人と美を主題の対談をしてくる。兄を偲ぶ会には 出てこない、兄についての半端な耳学問をしてくるのは避けたい。わたしの感じてきた兄をうまく人に話して分かってもらえるとも思わない。その必要もない。
 

* 十一月二十三日 木

* 昨日は、二時、菱岩主人川村岩松氏を迎えて対談、いわば「たくみの美味」といった感じで話し合えた。川村氏は たいへんよく話してくれ、聞き役としてはらくであった。菱岩は同じ新門前通りの切通し角に昔から店があり、典型的な仕出しの店で、叔母の稽古場は、初釜と いい茶事といいよく菱岩の世話になっていた。岩松氏の姉の良子さんは国民学校で私より一つ上の優等生であったし、叔母の弟子で、私とも一緒に長くお茶の稽 古をした人だった。
 菱岩は鱧の骨きりで聞こえた店であり、また出汁巻きの旨いことでも知られている。もう仕出しのいい店は京都にも何軒と あるわけでなく、とびきりの老舗になっている。なかなか面白い話を時間いっぱい沢山聴かせてもらえて良かった。
* 紅葉はまださほど綺麗に発色していなかった。対談の後、日のある間にとタクシーを頼んで、松尾前から嵐山渡月橋、さ らに清涼寺、大覚寺、広澤の池と千代原山をみて、宇多野越えに市内に戻り、出町を歩いて兄をひとり偲び、とっぷり暮れた菩提寺の墓地に入って親の墓の前で ぼそぼそと喋ってきた。念仏も多く唱え、また般若心経も唱えてきた。
 ライトアップしているという永観堂へと思ってタクシーにまた乗ったが、半端な気分であったので、百万遍から右折して神 宮広道に入り、星野画廊をのぞいたあと、ライトアップの青蓮院もまたやめて、古川町から新門前に入って、我が家の跡が、文字通り火の消えたテナント廃ビル になっているのを鬱陶しく眺めてのち、新橋の「常盤」でしっぽくうどんを食い、もう呑む気などなく烏丸のホテルに戻って、ゆっくり晩御飯を食べた。

* 今朝はすっかり寝坊したので、もう出たとこ勝負に朝飯のあとチェックアウトしたものの、昨日来読んでいた今井 源衛さんの『源氏物語への招待』再読がおもしろくてならず、程良く何もかも切り上げて新幹線に乗った。今井さんの本を夢中で赤ペン片手に読んでいるうちに 東京に帰っていた。

* さ、もう年内に汽車に乗る面倒は有るまい。湖の本の新刊を送り出してしまい、そんな日が本当に来るだろうかと 子供の頃から危ぶんでいた満六十五歳の誕生日を無事に迎えて、のんびりと新世紀の正月を祝いたいものだ。新世紀の日々は、ま、おまけのようなものであるか らこそ、生まれ変わった気で旺盛に過ごしたい。

* 留守のうちに、斎藤茂吉文学賞を受けられている山形の高橋信義さんから、「e-m湖umi」にご寄稿いただい た。いま、スキャンして掲載した。清々しい文章である。感謝。
 

* 十一月二十四日 金

* 嬉しいことに原稿が次々届く。けさも、京で一夜の旅寝の記を、北海道の真岡さんが南の石垣島から送ってこられ た。飛び込んだお店の親子丼の、なんとも美味しそうな、若々しい筆つきで、余裕がある。

* 大府市の門玲子さんは、江馬細香など江戸女流文学者たちの研究でつとに聞こえた人、その門さんからも寄稿が あった。忝ない。だが問題は、器械で再現できそうにない漢字の続出することである。いまかなりの文字は文字セットに入ってはいるが、漢字によって画面に移 してみると「?」と出てしまう。わたしの『廬山』も、だいぶそれで泣かされているが、門さんのお仕事には漢詩が、また文人たちの漢文が続出する。興味津々 の原稿なのに、これで突っかかりそうなのが悔しい。文字コード委員会で孤軍奮闘したのはこれなのである、あそこで議論していた人たちの頭には、大方、頼山 陽も江馬細香もなかったのだ、そんなもののためにまでと本気で無用視していた。あげく、文字セットに用意しておけば良かろうと言っていたが、インターネッ トでは文字コードが標準化されてなければ、結局伝達出来ないのだ、平等で均質の条件では。トロンの坂村さんの考え方がやはり正しいのだと今でも思う。能力 において不可能なら仕方ないが、パソコンの懐は狭くはなくて、漢字の大方は吸収できる。なんとか、もっと文筆家や学者がものを言うべきであった。どんなに 完備した文字セットでも、異なるOSやソフト間では双方向に使えない。限界が目に見えている。姑息にその場しのぎをしていてはいけないのだ。

* 面倒なことを面倒がらずになさると、驚き感心していますと、冷やかされてしまった。むろん「e-m湖umi」 のことである。そのとおりであるが、パソコンやホームページという機能を、なんとか自分なりに見きわめてみたい気がある。そのうちに秦は作家でなく編集者 に戻ったと言われるだろう。もう言われているだろうが、それが何だと思っている。そんな呼び名など何でも宜しい。面白いと思うことをやって行くだけであ る、わたしの人生であるから、わたしが面白いと思えないのでは仕方がない。創作もするし器械も楽しむ。芝居も見るし許される限りうまいものも食う。逢いた い人もいつでもいる。そういう暮らしは、だが、いわば分数式の分子群。分母は、一つの景色である。少年の昔に覚えた高浜虚子の句「遠山に日のあたりたる枯 野かな」である。いまでいえば、深い広い「海」である。海が分母。わたしは、わたしの命は、わたしの暮らしは、わたしのすることなすことは、すべて小さい 三角の波立ちのひとつにすぎない。一瞬の後にすべては海そのものに帰して行く。

* しかし面倒なことは、やはり面倒であり、わたしは、知る人ぞ知る極度の面倒くさがりやである。どうでもいいこ とは、物・事・人ともに放っておける。それを負担には思わない。ハタで見て面倒そうなことも、わたしがそれをやっているのならけっこう楽しんでいるのだと 思って欲しい。何でも比較的長続きする方だが、やめたくなればさっさとやめる。それは湖の本でもホームページでも同じであり、だが「書く」ことだけはとて もやめられまいと思っている。
 

* 十一月二十五日 土

* 過食の血糖値は、一過性の値で、気をつければ直ぐ正常値へ戻るのです。けさは106、問題なし。
 体重の方は、やはり運動しないとね。けさ、79キロぐらい。京都で2キロほど増えてきたみたい。意識して食を薄くして います。なにしろ86キロからの下降線です、当面の目標は75かな。つい先日まで、77でしたから。
 湖の本、発送が済むまでは、発送の肉体労働が運動です。発送前の用意もぎりぎり間に合い、月曜朝の搬入を待って、この 土日は休息できます。月曜、火曜そして木曜と外出の用事があり、実質の発送は師走仕事です。七日八日までに済めば、気分はぐっと落ちつきます。無事に世紀 末の誕生日を迎え、新世紀元旦に滑り込みたいもの。
 いつまでも青春しているわけにいかない、老いの坂です。坂を下るのか上るのか、どっちにしても怪我は禁物。
 いくつかの新世紀への思いがあります。
 なにをして生き、なには切り捨てて生きていくか、難しい関所です。一つ間違うと鬱に落ち込むし、躁はいやです。あれこ れ今から手を広げても、充実は期待できません。かしこい選択が、よほど必要です。それが出来れば、昨今の六十五歳には、よほどの先が残されて在る。簡単に は死なせてもらえないでしょう、母の享年にわたしはまだ三十一年も剰していますもの。三十一年前に、わたしは、初めて作家として世間に押し出されたので す。
 思えばたいへんなこと、過酷に重い老いの歳月です。わるいことに、幕を引きたい気持ちはいつでも出番を待っています。 あの「先生」ではありませんが、妻をのこしては可哀相と思っているだけです。とは言え「明日への信いくらかありて種子を蒔く 能村登四郎」と気を励まして います。時勢を見届けたい好奇心も根強く疼いています。
 ペンクラブなどの公職をどうするか。はやくサッパリしたい、が、責任も残っているのです。成り行きに任せましょう。我 からどうこうと気にすることではないのです。人の決めることですからね。退蔵の願いに変わりありません。
 電子メディアとの付き合いをどうするか。もう手をひろげず、深く狭く、無用の窓は閉じて行こうと思います。「私語の 刻」と、ワープロ機能が残れば、独りで書いて行けます。「e-m湖umi」は新しい景色の期待できる窓かと、当分は開けて置く気です。
 湖の本は、いつまで続けるか。これは、かならず自然に終熄します。わたしの寿命のようなものですから。
 残された時間を何に最も多く使うか。言うまでもない。書くこと。いいえそれ以上に、穏やかに自然に死ぬためにです。そ のために、平然と、ありのままに生きていきたい。
 変わりなく、今日も元気にしています。

* 高史明さんがいい原稿と、亡兄にも触れた親切なお手紙を下さった。感謝。「子どもを救え」と、深々とした提唱 である。若かりし昔、兄北澤恒彦といっしょに激しく活動もされたと、ちらとうかがったこともある。奥さんもときおり有り難いお便りを下さる。奥さんにはお 目にかかった事がない。
 兄から届いたたくさんな雑誌や単行本を、息子のベッドの足元にある古い書棚の前に座り込んで見ていた。「思想の科学」 が多い。この雑誌には、恒が少年時代からずいぶん書いていたのも分かる。うちの建日子まで、小学生時代から高校の頃までに何度も寄稿している。鶴見俊輔氏 のインタビューを受けてわたしも一度顔を出している。
 兄からは電話も手紙ももらっている。古い時代の手紙を見つけだすのは至難の作業になるだろう。上京以来の受信は、兄と 限らず、ほとんどが家のどこかに保管されてある。志賀直哉のも中勘助のも中河与一のも窪田空穂のも三木露風のも谷崎精二のもある。中村光夫のも唐木順三の も森銑三のも下村寅太郎のも宮川寅雄のも福田恆存のも立原正秋のも辻邦生のも、そして谷崎松子のも、その他数え上げられないほど、いっぱい在る。整理した いが、無理。
 読者からの大切な手紙も無数にある。せめて、処分していい事務的なものは処分したいのだが、無理である。
 せめて北澤恒彦のものと、母の同じ姉に当たる川村千代のものとは整理したいが、到底今は難しい。
 

* 十一月二十六日 日

* 飲酒運転が増える時期ですから、どうか、自転車も、外歩きも、お気をつけて。
 枯れ葉が、地面を覆い尽くすように降ります。
 春、桜が咲いて、風が吹いて、そして、地面いっぱいに散った花びらに、雨。
 風に散り敷く、落葉の最後にも、やはり雨。
 花のあとには実り、落葉のあとには、新芽。
 「枯淡」…純粋に、誉め言葉でしょうか。秦さんは枯淡ですか? お若いから、違いますわね…。
 「老いてきれいに枯れる。」なんて、いや。 

* 枯淡という言葉に憧れたことは、ない、と思う。今度の「老い」対談でもこの言葉は山折さんからも出なかったか も知れない。
   老いらしくせぬ老い 嫌ひ といふ女(男)
   老いらしくせぬ 老い嫌ひ といふ女(男)
 岩田正氏の短歌の上句を区切り替えて書いてみた。男でも謂えることで、上と下では反対の意味になる。遠くからメールを よこしたこの読者は、どっちの女性だろうか。わたしは自分を老いて行く・老いてきた者と自覚してそれ自体をとくべつ苦にしないし、席を譲られれば、譲って くれた人次第ではあるが有り難く腰掛けているし、わたしが譲っていることもよくある。昨日、秦さんは何歳になられましたと、ワケ分からずメールで神奈川の 女性に聞かれて、キョトンとした。その人はたぶん四十半ばか五十近いとして、わたしは時にはそれより若い気分でいることもある。上のメールで「お若いか ら」の意味は不明だが、気分でなら了承してもよく、もしかして性的能力ということなら使用しないのだから定かでないが、糖尿病の亢進していた時期をふりか えると、ひどい状態からは脱しているように想われる。
 自然に老いることを、「老いてきれいに枯れる」と理解している人は多いように思う。わたしもそんなことかなと察してい たけれど、「老い」を語り続けていた間に修正した。自然に老いるとは「元気に老いる」ことでありたいナ、と。上のメールの人は、筆致からしてまだ三四十代 の若いご婦人にちがいない。逢ってみたいものだ。

* 昨日、手紙の整理のことを絶望的に考えていたあと、ふと、これなら出来るかもと思ったのは、これまでに読んだ 書物を死ぬまでにもう一度ぜんぶ読んでみるということ。全部は無理だろうし、読みかえすというのに馴染まない本も多いが、小説を中心にとすれば、不可能な ことではない。到達しないまでも、人生をまた違う感じで食べ直す・噛み直す・味わい直すことにはなり、記憶も帯同して、いささか後ろ向きの嫌いはあるが、 私的には悪くない試みになるかも知れない気がする。懐かしい本が無数にある。あれはと、痛切に思い出しながら題の出てこない作品まである、ゲーテだ。『モ ンテクリスト伯』も『谷間の百合』も『狭き門』も『パルムの僧院』も、『竹澤先生といふ人』も『銀の匙』も『天の夕顔』も『土』も『無限抱擁』も『多情仏 心』も、また『南国太平記』も『宮本武蔵』も『愚弟賢兄』も、講釈の『祐天吉松』も、漫画の『長靴三銃士』や『のらくろ』も。『キンダーブック』も。何千 冊あるだろう、講談社版の日本文学全集や小学館版の日本古典全集だけでもすさまじい量だ。
 新しいものが読みたくないわけではないが、それから得たものをどう今日から明日への糧にしうるかとなると、なるものと ならぬものとの選別に時間が足りない。知らない土地への旅も少しはしたいが、曽遊の地を静かに訪れたい気持ちの方が遙に強いことに思い当たる。
 ゆうべ息子の部屋から枕元へ借りてきた本のうち、村上龍の『限りなく透明にちかいブルー』は、一頁で気が萎えた。むし しろ翻訳もののミステリー『空白との契約』は、調子よく刻んでテンポの早い訳文にも引き込まれ、これは眠れなくなると押しやるように遠慮した。井上靖の 『額田姫王』は、さすがに読ませるものの、淡い浅々しい印象からも逃れられなかった。

* この数日、わたしをとらえて、片手にペンも放せなかったのは今井源衛さんの『源氏物語への招待』であった、再 読なのに、惹き込まれ、今井さんの言説も優れている上に原作への溢れるような愛と懐かしさとが湧き出て、形容の仕方もない嬉しさに包まれた。この種の源氏 物語案内本には何種も出会っていて、しかも飽きずに読むというのは、一に、原作の魅力がそうさせるのである。こういう思いにはまって行くのを、あながち、 後ろ向きとは思わない。新作を読むのと変わらない、いやそれに何倍する新鮮さがあるのだ。
 あるいは、昔に読んだものを今読み直せば、かなりのものにもう魅力を覚えられないかも知れないと思う。だが、はじめて 触れたあの日になぜあんなに心を打たれたかとは懐かしく思い合わせざるをえないだろう。限られた長さの人生を反芻するのは退嬰的でつまらないという見方 も、より幸せに豊かな生き方だという見方も、両方在るに違いない。うまく使い分けてみるのも佳いのではないか、と、そんなことを考えたのである。

* その一方では、この器械の能力のまた新しい一つでも二つでもを覚えて新しい楽しみを得たいなあと、マニュアル を辛抱よく読んでいる。マイクロソフト・エキスプレスでも、マイクロソフト・アウトルックでも、まだ、どうしてもアドレスブックに入れた大勢のアドレスに 宛ててメールが送信出来ないでいる。随分試みているし、受信したことはあるのに発信しない。こういうときに、癇癪もちの昔の父なら「この器械はおかしぃゃ ないか、器械がおかしい」と当たったろう。このごろのわたしは謙虚になり、絶対に自分の扱いが、手順・手続きがワルイのだと思うようになっている。そし て、投げ出さないでしつこくストークする、泣き言も並べて。
 

* 十一月二十七日 月

* 家中に寒椿が生けられて、うつとりする色で可愛らしくいろいろに咲いている。我が家のここちよく色づく季節で ある。花とは、なんと美しいものだろう、八重の花びらの堪らず崩れて行くのまでが優しい。

* 藤野千江さんの苦心惨憺の推敲で、一つの作品が成っていった。最初の原稿から読み比べれば、べつものである。 推敲ほどたいせつな修行はないだろう、書くうえで。推敲を怠ったために、その大切さを知らないか怠慢に見捨てたために、モノにならなかった書き手がどれほ どいるだろう。推敲にどれだけ付き合えるか、昨今の編集者のレベル沈下も、この「読む」根気にかかっている。

* 読むたのしみ
 友人の本の校正を手伝いに荻窪までゆき、遅い夕食をのんびりとって、はるばるもどってきましたら、十二時過ぎていまし た。女にあるまじいことと、母がおりましたら叱りましたでしょう。叱ってくれるひとが、年々、あちら側に行ってしまって、さびしいかぎり……。
 今宵も寝る前に、湖のお部屋を訪ねました。
 「これまでに読んだ書物を死ぬまでにもう一度ぜんぶ読んでみるということ」というおことばに近いことを、わたくしもか んがえたことがございます。
 若いころぺーじを繰り、読めたつもりでいた本、本当は読めていなかったにちがいない本を、読み返したい、と。
 挙げていらっしゃるご本に、そうそうとうなづき、それを読んだ少女時代を思い出しましたが、書名だけしか知らないご 本、そういう書物があるとも知らないご本も、ありました。どんなにたくさんのご本を読まれたことでございましょう。
 「懐かしい本」というおことばは、胸にひびきます。なみだぐむほど。
 旅もそうでございます。まだ見ぬ土地へのあこがれも強うございますけれど、心惹かれて幾たびかというところも多くて。

  こまごまと散りゐる萩の花踏みて生きてある身のはかなきすさび
  墓石にまゐらす水もたちまちに吸はれて久しく逢ひに来ざりし
  鎮まりてゐるやさまよふ夜のなきや手をおけば古き塚のふくらか
  黄泉還りの水にかつがつよみがへり逢ひにゆきにき愛しみあひにき
  黄泉還りの泉の底にもつれあふ陽と水のかげ もうかへり来ぬ
  からつぽのわれを誘(おび)きて少しづつ遠のく鳥が音 いま山ふところ
  忘れ来し扇手草にしてゐむか塚より出でてあそびてゐむか
  水引草(みずひき)をもてあそぶ風のありしことにほふ言の葉聴きたりしこと
  人間(ひと)として在るは束の間拾ひたる櫻紅葉を散らしなどして
  黄泉還りの水を浴びたる躯(み)の冷えてゆめとおもへばゆめにてありけむ

 放恣な想像、お気に障りましたら、おゆるしくださいませ。お能がうたに詠めないのと同じ、お作をうたにはできな くて。
それでも、『冬祭り』の女人の跡訪うたときのこと、試みたくて、四苦八苦しております。
 お読みの『源氏物語への招待』の出版社、お教えいただきとうございます。新刊で手に入れるのが無理ならば、古書
店にたのみたいと存じますので。
 肩に来るひとたちに読む『源氏物語』、やっと、「紅葉賀」になりました。藤壺宮との源氏は、とても好きですけれど、こ れから読む源典侍との源氏は、いたずらが過ぎるようにおもっていますが、読み返してみたら、違うでしょうか。読み返すたのしみは、こういうところにもあり ますのでしょうね。
 「e-m湖umi」も、縦書きにプリントして、読むたのしみにひたっています。お骨折りを思いつつ。
 どうぞ、お身、お大切に。

* おはようございます
 昨日は思いのほか暖かな日でした。
 久しぶりに庭に出るとすっかり荒れ果てていて愕然! 積もったはなみずきやさるすべりやイチジクの葉をかき集め、伸びたノウゼンカズラの枝を切り雑草をとり、庭のかたすみを耕して、娘と二人でチューリップの 球根を植えました。
 木の葉や土にふれると、わたしの中の自然もよみがえる気がします。 
 

* 十一月二十七日 つづき

* ペン理事会でいちばんの話題は、政府諮問の「教育基本法改革会議」提言の中に、十八歳一年のボランティア労働 奉仕といった提案が含まれていて、それにペンは反対したいという梅原会長の意向をうけた討論だった。ボランティアと奉仕義務とはくいちがうものがあるし、 徴兵に繋がりかねない試みであるし、基本的にそんなものに賛成できるわけがない。提案趣旨には理解できる一面もある、が、それはもっと別の工夫で生かされ ていいことであり、もっと年若い時点でカリキュラムのなかで訓育ないし薫育されれば済むと思う。
 議論があって、そして会長がその趣旨を文書化し、次回理事会までに声明なり要望なりを準備することになった。その中 へ、もっと「心の教育」をという梅原会長の発言もあり、わたしは、それに対しては異論を述べた。
 この時代と社会とに沈澱している、いわば広義かつ深刻な「偽善性」の原因は、あたかも免罪符かのように余りに安易・安 直に「心」ということが謂われ過ぎていることに起因しているのではないか。「心」こそは諸悪の根源であるかも知れぬという反省がなさ過ぎ、「心」の一字で 示そうとするモノが、或いはmindなのかsoulなのかheartなのかも突き詰めないまま、ただもう「心」とさえ口にしておけば用が足りるような軽薄 な「心」の持ち出し方こそ、厳に自戒しなければならぬ、と。梅原会長は「心こそ諸善の根源かも」と謂われたが、それは謂われなき理解で、「心」がそんなに も頼れる確かなものであるのなら、日本語の中にこんなに無数の「こころ言葉」が錯綜し相矛盾して存在するわけがないのである。だいいち、「心とは何か」と 問われて、万人に通用する定義の述べられる誰が有ろうか。謂えることは、吾が心でさえ把握できない、頼りたくも頼れないのが心だということだ。そういうこ とを踏まえないで、あまりに安易に「心」を便宜に持ち出すから、それに隠されて偽善的なものがはびこってしまう。むしろ「体」を通してものに触れものに通 じる中で心の健康をこそ計らねばならないと、わたしは思う。
 心こそが諸悪の根源であるかも知れないと発言したとき、隣席の瀬戸内寂聴さんが、即座にその通り、あなたの言う通りで すよと相槌を打たれたのが印象的であった。

* 時間がなかったので敢えて口をはさまなかったが、副会長の加賀乙彦氏が、「宗教教育が必要」だと言われていた のにも、わたしは異論がある。
 誰がそれをするのか、誰にそれが出来るのか、宗教の知識などを子どもに出来合いで与えて何がどうなるのか、そもそも信 仰に結びつく宗教が「教育」という言葉と現場とに馴染むことなど、言うはやすくして容易でない。また宗教には客観的な知識などありうべくもない。信ずるモ ノには信ずるコトだけが真実になってしまうのは、歴史と現実とが雄弁に教えている。あげく宗教と信仰ゆえに凄惨な戦争まで繰り返しているではないか。安易 に宗教教育など子どもの世界に持ち込まないでもらいたい。
 かつて加賀さんと対談したときに、信仰の機微に触れた話題になって、「われわれカソリックの立場では」と言い出されて 驚いた。だが「立場」で信仰している人たちの多いのは事実現実であろうと思う、それはオウム真理教でもそうなのだ。わたしは、そんな立場による信仰などを 少しも尊敬しない。立場立場を背後に持たずにおれない宗教が、「教育」に馴染むモノでないのは明かであり、少なくも公立の小・中学にそんなモノは持ち込み たくない。高校まで成れば大きなお世話でしかない。百害有って一利もないとまでは言わないが、せいぜいそういう考え方は敬して遠ざけておきたいと思う。
 もう一度言うが、誰がそんな教育をするというのか、誰に出来るというのか、せめてその初歩を用意した上で発言してもら いたい、軽薄な思いつきはやめて欲しいと思ったので、ここに厳に言い置く。

* 晩の「ペンの日」の宴会は盛会であった。福引きでアマリリスの花を引き当ててきた。会場で、電メ研新委員の高 橋茅香子さんと初対面した。
 

* 十一月二十八日 火

* 早起きして、病院へ。朝の血糖値も、病院で計った血糖値も、十分に低く「完全に正常」ですねえとのことだっ た。悪玉コレステロールが十分に駆除できているわけではないが、アルブミンだか何だか大事な値もぐっといいようだった。体重は減っていない。今度は一月末 の診察で、二月分もの注射薬や何やかやたくさん買ってから、今日こそはと銀座の「シェモア」に寄り、とびきりのフランス料理を赤ワインで、ゆっくり。昨日 届いた新しい本を食べ食べ読んだ。「これは特別に」ともってこられた一皿が旨かった。フォアグラの料理も、最上の河豚の肝のように旨かった。最後のフィレ 肉がおまけに感じられるほど満腹した。コーヒーだけで、デザートは遠慮した。
「シェモア」を出るとすぐ足元が有楽町線なので、実に気軽。保谷までの間をすこし寝入ってきた。

* すぐ発送の作業に入り、夕過ぎには第一便を送り出した。明日は終日荷づくりにかかり、一日でも早く終えてしま いたい。

* 昨日の「心」の話に、こんなメールが入っていた。

* こんにちわ。 11月27日「つづき」を、「そうそう・・」なんて、同じ気持ちで拝見いたしました。
 「心」がそんなにも頼れる確かなものであるのなら・・の言葉にふと、日々の心遊びの事を考えました。「心遊び」などと 書くと、何やらお叱りを受けそうな気のひける思いが無いでもありません。
 私にも当然のことながら、自由になるものとならぬものがあり、また自由になるのだけれど敢えて自由にしない事もありま すし、逆にそうされる事もあります。自分がされると「いけず」と思ったりしますけれどね。
 先日「俗に謂う赤い糸の人」と交わした会話で、『あんまり凛としててもなぁ』という人に、『凛ってどんなん?』と尋ね たところ、『着物を着た女の人が座ってはる』という応えがありました。
 『私はね、障子があってはんなりした光が透過している中で、向側を観ている事、開けばあかる、倒せば壊れる間仕切りな のに、敢えて開けぬ事』と申しました。『そうか、そうか』と、うなづかれました。
 心というのは、この「間仕切り」を自由に行ったり来たり出来るもののようで、遊びほうけて頼りにもならず、捕らえ所が ないから、決して確かなものではありませんね。
 以前、二人で「魂の色」についても話したことがあります。魂がどんなものなのかも解らないままに、ただこれは感じるも のなんだよ・・という事で終りましたが、近頃、それだけでは無い、触れも出来、見も出来るものなのだと話し合うようになりました。
 古人がいう魂の緒を繋げて枕元に立つような不思議を、互いに経験しているからです。
 ですので、秦先生の主旨からは随分と逸脱している、ごく私的な見解ではありますが、「体」を通してものに触れものに通 じる中で、心の健康・・は、私なりに受け止めさせて頂いたつもりなのです。自由になれるすべを知らない心は、遊びもならず、病気になってしまうでしょう。 「体」を通してものを感じる事を子供に限らず知ってもらいたいと思いました。

* 「身と心」とのかかわりに、どれほど古人の多くが悩み苦しみ嘆いてきたか、和歌や物語に、無数の証拠がある。 心だけを引き抜いてきて、体を疎外した形で善玉かのように祭り上げてみても何にもならない。昨今の「心」のハナシは大方が要するに心理とか心理学とかの心 なのだ。

* 今晩は階下で発送のために働いてくる。そういえば「編集王」だ。がんばっているかしらん、息子殿は。
 

* 十一月二十八日 つづき

* 昨晩の「ペンの日」て不快に感じたのは、国会演説の最中に野党席へコップの水を撒いた松浪某代議士が、のこの こと現れて、カメラやマイクに追い回されているうちに、いつのまにか壇上にまであがって何かを喋っているという、唖然とする光景であった。司会していた理 事の不見識にも呆れた。見たくもない顔が、なんでああいうことになったのか、ワケが分からない。彼は会員なのだろうか。それであっても、へんだと思う。へ ん過ぎる。
 以前、例会に珍しく森繁久弥が入ってきたら、もう浮き足だって壇上へ招き上げ、一条の猥談まがいの漫談を拝聴に及ばせ られた。いまのペンクラブには、どうもこういうチャチで軽薄ななところが目立ちすぎる。
 そんなことを思っていたら、国会ではまたまた森が、松浪のああいうことをやった気持ちは分からぬでもないとお優しい放 言。「体を張っても森首相をお守り申し上げる」などという愚劣な演説をしてもらったことへの返礼か。

* 少年法も「問題点」を多く積み残しのまま、かなり拙速の改訂をしてしまった。少年法が成るまでに、その趣旨も ともども、どんなに多年にわたる苦心が払われたか、その立法の根本には少年への愛と配慮があったのだが、それがただの罰法へ変質して立法の趣旨が殺されて しまったことには、失望してしまう。少年犯罪は凶悪なモノが目立つのは事実で、しかも犯罪総数は実は激減している。十四歳という改訂が本当に必要だった か、また残虐犯罪には少年法の本来を殺さぬママに別途の工夫があり得なかったのかと、短絡を嘆きたい。
 

* 十一月二十九日 水

* 湖の本の荷造りをしながら、映画「グッド ウィル ハンティング=旅立ち」を、何度目か、見ている。不幸に育った孤児に埋蔵された数学の天才が見いだされるが、かれは誇りを見失うほどのトラウマを抱いて、 恋もうまく出来ない。フィールズ賞の受賞教授が学生用に呈示して置く廊下の黒板の数学の難問を、掃除アルバイトの彼はひそかに簡単に何度も解いておき、そ れに気づいた教授が何とかして彼を学問と学界とのなかへ引き込もうとするが、ことは簡単でなかった。
 優れた映画で、主役を演じる青年がすばらしいが、名前はおぼえにくい。ヒロインにもう一段の魅力が有ればと惜しまれる が、何度見ても、青年と、深い絶望を抱いて生きてきたサイコロジストの教授との「身内」化してゆくプロセスは美しく、感動に溢れる。
 どんなに話題になろうとも、例にしてわるいが大島渚の「御法度」や北野武の受賞映画などに、こういう深い感銘は得られ なかった。
 同じことは村上龍の、初めて読みかけた『限りなく透明にちかいブルー』にも謂える。文藝として高名を得たとは思いにく く、この思い切った材料が時勢を刺激したのだろうか。だが、そんな効果なら古びて行く一方だ。刺激は幾らでも変わって行く。いまどき『太陽の季節』の障子 破りにおどろく者はいない。あれに驚かなくなれば、それ以上にあの作品に文藝の命があったろうかと疑わしくなる。村上龍の作品で致命的に響いているのは文 章に「読ませる」勢いが失せていて、ボソボソのつなぎのわるい蕎麦を噛んでいるみたいなところか。文章が死んだ状態で刺激的な場面が連続すると、無声のバ イオレンス効果が出てくる。それが意図的に狙われていたのかどうか、だ。文庫本の解説が苦労して無理無理に褒めよう褒めようとしているのが可笑しかった。 あの作品だけでは、やはり村上龍の今日はなかったろうなと、余計なことを思ってしまった。それは石原慎太郎も同じだ。芥川賞作品は二人の場合ともに、ジャ ンピングボードだった。継続して仕事の出来るヒトの場合はそれで良いのだろう。
 いずれにしても先の映画の感動の深さとは、モノが違うように感じられる。映画なら「見る」文学なら「読む」というその こと自体が嬉しくて堪らないような感銘、そこに藝があらわれる。ファシネーションの発光。

* さ、また階下で作業を続けてこよう。一昨年の五月頃からホームページにアクセス数のカウントを始めた。一昨年 の十一月末日に、きっちり 1000 だった。あすで以来まる二年。今年中に、らくに 20000 を越して行くだろう。この二年のわたしのパソコン修業が反映したのか、わたしの「ことば」が伝わっているのか、ただ気負いなくゆっくり歩いて行くだけだ。

* 遅くまでこつこつと荷造り作業をつづけ、その間に映画「H少年」を「聴い」ていた。かなり「観て」もいた。十 分に事前の用意がしてあるので、半々に目を配りながらでも仕事が出来る。で、映画の後味は清潔で懐かしく、いいものであった、何度観ても佳いものは佳い。
 国会で、また世間でも、深作監督ビートタケシ主演の映画「バトルロワイヤル」とかが問題にされている。一クラスの中学 生が最後の一人まで島の中で殺し合いをするという。それだけでは、分からない。作品は、仕上がりが問題だから。その一方で、仕上がりもわるくてただ残虐と いうのなら、迷惑なことであり、そういう迷惑を「表現の自由」という権利意識だけで顧みない創作者を信用することは出来ない。創作者にはそれなりの責任が ある。作るなら佳いモノを、ないしは大目に見て社会的に無害なモノをと、当たり前のことが望まれている。どう悪かろうが迷惑だろうが「表現の自由だ」など ということは、創作者の勝手な甘えでありワガママであり、罪悪に等しい。その罪悪に等しいモノが多い事実に目を背けていては、正しい権利は守りきれない。 問題にする方も、しかしされる方も、問題をはらんでいることに気が付いて欲しい。
 とかく、ちいさなことに言いがかりを付け、居丈高に法律で取り締まろうと官憲は、行政は、攻め込んでくる。一つの取り 締まりは必ず拡大解釈で広い網掛けを伴いがちである。そういう引き金の役を、ばかばかしい功名心ゆえにしたりしないで欲しい。
 佳いものならわたしは、どんな題材でありどんな扱い方であろうとも支持する。佳いと謂うことですでに一つの昇華がされ ている。だが、よくなくて悪くて迷惑至極なモノが、「表現」を口にするなど、厚かましくもおこがましいと思う。世界ペン憲章は言論表現の自由を守ろうと説 いているが、その言論も表現も人間の尊厳と誠実とに背くモノであっても佳いとは決して謂うていない。そこが忘れられすぎている。
 あまりにくだらない下劣なテレビ番組が名指しで批判されていることを、わたしは当然と思っている、名指しされている限 りの番組は、である。一般論はしない。だが、引っ込めれば仕舞という結末には満足しない。衣裳を替えてすぐ似たようなのが出来、当分の間は世にはびこるの だから。
 一般論をするとすれば、あくまで言論表現の自由は守られるべきものである。ペンの言論表現委員会に籍を置く一理事一委 員として、これは譲らない。個人としても譲らない。だが、無条件ではない。ペン憲章の趣旨を体してのことである。悪辣で下劣な暴力的な言論は恥ずべきだ し、表現とは佳いもので在りたいと思う。
 

* 十一月三十日 木

* 新宿紀伊国屋ホールで、山田太一脚本・安井武演出の俳優座公演「離れて遠く二万キロ」を観てきた。楽しめた。 袋正と高山真樹ら以外は、みな若手。その連中が水を得た魚のように、いいアンサンブルで、いささかテレビドラマの味ともいえたが、ピチピチと芝居をしてく れた。あんまり地にちかい芝居なので、ピチピチの空気が舞台の上でだけ旋回して、突風が客席に吹き付けないという、或る意味では空回りの気味も無いではな かったけれど、三度くらいはくっと突き上げてくる感銘も覚えたし、科白の旨いこの作者の脚本を、演出家が、今度はとてもあっさりと洒落て生かしていた。洒 落すぎて臭みが来る場面も有ったけれど、概して上出来の舞台で、以前の紀伊国屋サザンシアターでの山田太一作品とは、較べようもなく今回が優れていた。若 い俳優たちが、さりげなく、うまく、育っているのが頼もしい。老優袋正がとても楽しそうなのも可笑しいほどだった。ま、テレビの上出来の「二時間ドラマ」 という所であった。テレビでもやれる作品であった。
 ただ、海外青年協力隊を扱い、出先の国でクーデターも起きたさなかのドラマ、というほどは胸を掴まれる凄みなど、怖さ など、何も無いのである。そんなのは、およそ、味付けほどの背景でしかなく、つまりは、とてもよく「体」の動いている上手な体操を観た快感に近いのであっ た。むろん、肉体を躍動さしてくれる「魅力のみもの」で芝居はあるのだから、それはそれで佳いとも言える。つまり思想的にどうこうと謂える演劇ではなかっ た。三百人劇場で観てきた「怒りの葡萄」とは、同日に語ることはできない。この長い「離れて遠く二万キロ」などという無意味なほどの題が、作の動機の底浅 さを示している。うまいが、深くはない山田太一の限界なのかも知れない。妻は、だが、大満足であった。わたしも惜しみなく拍手してきた。

* 幕間に、「心ーわが愛」で「静=先生の奥さん」を演じてくれた香野百合子さんと、久しぶりに、懐かしく立ち話 が出来た。相変わりなく美人だ。亡き中村真一郎さんが贔屓にしておられたのも懐かしく思い出され、しんみりした。持っていた新刊の『日本語にっぽん事情』 を謹呈してきた。
 制作は、いつものように山崎菊雄氏で、その彼が、はねての別れ際に田宮虎彦の『足摺岬』の話などをし始めて、これも懐 かしい限りであったが、「足摺岬」というすばらしい映画のあったことを山崎君が知らないでいたことにも、往事茫々、驚いた。田宮虎彦といえば国民文学論の 旗手的な作家で、人気沸騰の大きな作家であったが、もう完全に忘れ去られているかと思うと、寂しい。

* はねて三時半。どうしようかと思ったが、すこしだけ日本酒が飲みたかったので、新宿駅のわきの京料理「柿傳」 にあがって、縁高を注文した。これだと余分な米の飯は少なく、最良の酒の肴が盛り合わされて出る。上等の弁当に近いというか、その同類と謂える。案の定、 うまい料理が出てきた。京の佳い弁当は、揚げ物と生ものとを使わない。揚げ物の付いた弁当というのは安物なのである。むろん、この店の縁高は、約束ど おりのきちっとした食材をしっかり料理している。品数も豊富である。酒は「新政」を頼んだ。食器はどれもよく吟味されていて気持ちよかった。お給仕に出て きた和服の少女が、オリンピック水泳で金メダルの、あの岩崎恭子ちゃんによく似ていて可愛らしかった。
 ついでに謂うと「柿傳」は、与謝蕪村が娘を嫁がせてすぐ喧嘩腰で取り返した、因縁のある老舗である。若女将のような人 に「そうでしょう」と水を向けたら、苦笑して、「そんなようなことを聞いています」と。二百年は経っているのだから、そう気にすることはあるまいに。
 料理にも店内の風情にも、妻はここでも大満足で、「また来たいわ」と強調していたが、縁高ていどならいいが、懐石はか なり高価に付く。再々は遠慮したい。

* 保谷駅の近くにコーヒー豆を売る店「ぺると」が出来ていて、手作り木工の小卓で呑ませもする。若い主人は木工 が趣味、それと音楽。ガラリンとして寒々しいが、気分のいい店である。ブレンドの三百五十円のコーヒーが旨かった。東京會舘だと倍の値段だが、保谷のこの 店のほども旨くない。やすくて旨いのが佳い。保谷では、駅からの帰り道に、図書館前に新しいイタリア料理店もできていた。楽しみが出来た。

* 高史明さんから有り難いメールが届いていた。

* あすもまた発送の作業を続ける。
 

* 十二月一日 金

* ほぼ発送できた。今回の『日本語にっぽん事情』は、同題の単行本とべつの単行本『名作の戯れ』とから編成し た。日本語「で」読む・書く・話す微妙な特質を具体的な体験も読みも交えて、多彩に語っている。話す調子で書いている。単行本で出したときにもそれぞれに 面白く読めると反響の多かった作品である。

* 野中広務自民党幹事長が辞任した。おそらくは加藤紘一に詰め腹を斬らせたときに、説得役に当たった加藤腹心の 小里総務会長が、差し違えるぐらいの気で野中から言質を得ていたのではないか、言質を与えていたのではないか。野中が不信任案の否決をもって森首相が信任 されたわけではないとキツイ託宣を垂れていたときに、この辞任あるのが察しられた。森内閣総理大臣は決定的に見捨てられている。亀井静香のような騒がしい 品のない政治家とつるんで延命を策すべきではない、辞職すべきだ。

* 田中康夫長野県知事の上げ潮が県議会の運営で低下しないことを、来年へ勢いを持続してくれることを願いたい。 憲法破壊論の石原都知事の剣呑な国策への影響力が、相対的に小さくなることも切に望みたい。
 石原は、もし憲法の「日本語」がどうのこうのと言うならば、文学の徒らしく、自分で書き直したものを見せよと言いた い。彼が口を極めて罵倒する憲法の前文など、たいした長さではない、一晩で書き直せるだろう、ぜひとも石原慎太郎の名文を読ませなさい。良いものなら賛成 するのにやぶさかではない。
 石原の言説のあやしいところは、「文章が」といいつつ、じつは「内容を」すり替えたがっている点にある。それなら、姑 息に遠回しなことを言わず、それも含めて書き直してみせれば良かろう、それぐらいの義務の生じているほど、彼はあまりに憲法侮蔑をグダクダと喋りすぎてい る。
 かりにも東京都知事ではないか、憲法を破棄せよという首都の首長というのは、公務員としても、誠実な存在とは言えな い。個人の意見は封じられていないと言うだろうが、それならば、個人の立場に帰ってから言えと言いたい。もし時の総理大臣が、これは個人的見解だと断って 現憲法は破棄すべきだと公言して済むものだろうか、それはそれ自体が大きな矛盾の顕在化となる。では東京都知事は、国の憲法に対する誠実と忠実とは求めら れていない地位であるのか。憲法を足蹴にせよと公言できる、どういう許された立場が彼に有りうるのか。法的な見解も聴いてみたい。

* 門玲子さんの江馬細香『湘夢遺稿』私家版に関する貴重な資料と原稿とを、やっとスキャンし校正できた。コピー 原稿が二段組で見開きに、しかも歪んでコピーされていたので、「読みとり」がわるく、ほとんど打ち直しになった。一般読者にはまことに地味な資料としか見 えないだろうが、滋味掬すべきものが淡泊な記載の奥に見え、わたしには面白い有り難いものであった。
 世間は、じつに広く、懐深く、いろいろな分野での貴重な探索がなされている。そういう面も、わたしは「e-m湖 umi」に反映させたい。「湖の本」読者には、わたしなどの遠く及ばない仕事を現にされている人が大勢おられる。そういう方々にもお願いして原稿をいただ いて行きたい。
 同時に、たじろぐことなく若い、若くない人でもいい、表現してみたいものをお持ちの方は、遠慮なく原稿を送ってきて欲 しい。むろん簡単には掲載しない、何度も書き直してもらうつもりである、良くなると思える原稿ならば、なおさら。

* 詩人の仁科理さんの、浦上切支丹に取材された優れた作品も頂戴でき、掲載した。こういう佳い例が誘い水にな り、未知の新人たちの文学魂が光を放って飛び込んできてくれるのを心待ちにしたい、慌てずに。
 

* 十二月二日 土

* hatakさん オーストラリアは異常気象らしく、ケアンズは例年より一月ほど早くモンスーンの時期に入って しまったようです。毎日曇天、小雨が繰り返し、たまに晴れ間がのぞいたかと思えば、強い季節風が吹いています。
 ケアンズでの国際シンポジウムも6日目、ようやく全日程が終わりました。国際学会に出席していつも思うのは、出席者の ずば抜けた気力体力です。朝8時過ぎからずっと講演を聞き、会場内に用意された昼食を食べながらディスカッションをし、また午後いっぱい講演を聞いて、講 演が終わるとその足で街へ繰り出し、5時間6時間、夜が更けるまで食べ飲み話します。これを6日間続けて、彼らはびくともしない。また、6日間しゃべり続 けて話題が尽きない。びっくりします。
 今回のシンポジウムでは、私の仕事についてコメントをしてくれる発表者がいて、座長から発言を求められたり、私のポス ター発表にも関心を持ってくれる人が結構いたので、満足感がありました。
 ようやく今日は少し暇が出来ましたので、ここに来る前に寄った石垣島のことを書いてみました。
 沖縄に関しては、長く住んでいたこともあり、まだまだ書かねばならないことが沢山あるように思います。自分の中にある 沖縄という名のポケットをまさぐってみて、何が取り出せるか予想もつかないような状態です。また暇をみて少しずつ書き加えていけたらと考えています。
 ケアンズのことについては、また日を改めてふれてみます。今日はこれにて。
 東京は寒いそうですが、お風邪をひかれませんよう。
 あたたかいものを召し上がってください。  maokat

* 嬉しくなってしまう、こういうメールに触れると。「石垣島の週末」は、e-m湖umiの五頁「エッセイ」欄に もう掲載した。真岡さんの文章は安心して読めて、軽快だ。
 

* 十二月二日 つづき

* 若き詩人のアーサー・ビナード氏からエッセイが寄せられた、題して「忘れる先生」彼が二十七歳頃、まだ日本へ 来て、日本語を使い初めてほんとうに間もない時期の文章だが、だれがそんなことを信じられるだろう、美しいほどみごとに達意の日本語である、どうか、読ん で欲しい。e-m湖の「エッセイ」の頁に、たった今、メールとともに掲載した。アーサーの詩集のことは、前にもこの「私語の刻」で褒めて触れている。
 

* 十二月三日 日

* こんにちわ。御無沙汰してます。先生の日記を拝見していて、まさに同感と思ったことがあったので、メールしま す。29日の分にあった、映画「バトルロワイヤル」のことです。
 僕もニュース見ていて、これほんと? こんな映画が公開されちゃうの? と思いました。キャスターの筑紫さんは、良い ものであれば残るし、出来が悪ければ淘汰されるというようなコメントで、暗に、淘汰されることを期待する口調だったように僕は思いました。詳しく内容はし らないけど、まったく呆れました。
 最近立て続けにハリウッドの出来のいい映画をみていたせいか、なんか日本映画はどうかしちゃってる気すらします。ちな みにそれらは、黒人ボクサーの冤罪を扱った「ザ ハリケーン」、ユートピア幻想とそれが崩壊する様をブラックに描いた「ビーチ」、それにアカデミー作品賞 を取った「アメリカンビューティー」です。中でも「ハリケーン」はよかった。機会があったら御覧になって下さい。
 最近本も読み出しました。(発作的に読み出すことがあるのです。)遅ればせながら『ワイルドスワン』を読んで、中国に 興味をもって、今、『大地』を読んでます。
 昨日は代休を使って天竜市の秋野不矩さんの美術館にいってきました。絵はもちろんですが、建物もまた絵の雰囲気にあっ ていて、とてもよかったです。
 明日は友人の誘いで、絵画館で行われる茶会に顔を出してきます。茶会なんて行ったことないので、愉しみです。
 では。またお会いできること、愉しみにしています。

* 大きな会社で大きな建築設計を手がけている東工大卒業生のしばらくぶりの便り。なんだか、ぐうっと、わたしの 領分に接近してきたようで、嬉しくなる。さぞ忙しいことだろう、そんな中で秋野不矩の繪を見に行ったなんて。茶会になんて。
『大地』とは。中国が、うかとすると、歴史を繰り返してまたワン家の昔に戻らねばいいがと思う。
 同じ建築の若い友人の近況も伝えておこう、先日食事をご馳走してくれた一人で、銀座で会おうとしていたが、流れて、夜 勤に勤しみながらの佳いメールだった。

* お疲れ様です。メールのやりとりを何の返答も出来ず、ただ数時間遅れで確認するのみであったことをお許し下さ い。
 現在、私は(建築)確認申請提出中で、月曜に区役所に行き、その訂正を持って木曜にもう一度行くといった図面の訂正を 週二回の締め切りペースで行っておる毎日です。建築は思想だけでは建たず、技術もしくは法律で建つのかと、ほとほと感じている毎日です。
 さらに、今日は、私の課は忘年会で、強羅にあるうちの会社の厚生施設へ泊りで行っており、会社に残っているのは私がひ とりぼっちです。オオ、哀しいです。私も行く予定でしたが、役所対応のために、今日も泊りを覚悟で仕事しているところなのです。
 しかし、私の担当している物件なので、自分が納得できていないうちは忘年会も楽しくはなく、これで良いかとも思ってい ます。自分で自分の生活をコントロールできるように、様々な意味での「技術」を身につけていきたいと思います。言葉は悪く自分では気に入っておりません が、上の人は「技術がなければ負ける」とよく言います。私も、勝ち負けではないですが、ゆとり(対応力と謂った方がいいかもしれません)を持って、物事に 対応できるよう努力していきたいです。
 ○は、お寿司を食べたのですか。。。。
 わたしは社食で。。。オオ哀しいので、この先は言いません。
 では、次回御会いできるのは新年のご挨拶に伺う時になるかもしれません。21世紀への準備はゼンゼンできている様には 思いませんが、大きな夢を持って新しい世界を作りたいなぁ、などと思っています。
 少々疲れていることによる、支離滅裂な文章をお許し下さい。では

*  こうして、孜々として働き、かつ、心豊かに心身を養っている青年たちのためにも、いい新世紀であって欲しいと願わずにおれない。このところ、近未来の、荒 廃し尽くした不毛でバイオレントな世界を映像にしたアメリカ映画をたてつづけにテレビで見て気が滅入っていた。しかし「マッドマックス2」などは、何度観 ても不思議に身にしむものがあるのだ。バイオレントに過ぎているかも知れないが、それが映画表現の痛烈な効果になっていて、訴えてくる神話的なひらめきが ある。今度の深作映画「バトルロワイヤル」については、わたしは「観ていない」のだから批評しない。筑紫哲也の言うように、良く出来ていれば必ず人に訴え うる。わるければ、存在理由をそれ故に喪う。盗撮が顰蹙の話題になっている。写真撮影も表現の自由であると居直れるか、バカな。しかし、「公然の盗撮」と しか、それだけとしか言いようのない映像に対して、言論表現の自由などと言わせていいとはわたしは思わない。
 往々にして「言論表現の無条件・利益追求の自由」が、真に価値ある「言論表現」を冒涜している事例が多い。「児童ポル ノ」の規制が言われたときに、雑誌や出版が「言論表現の自由」を守るという口実のもとにそれらの「販売や制作の自由」を抱き込みたがっていたのなど、適例 ではあるまいか。そういう利に飢えた態度が野放図になり、官憲の法的規制策にまんまと口実を与えてしまう。世論までを敵にまわしてしまう。
 早急に日本ペンクラブは、ペン憲章の確認のためにも「真に守らるべき言論表現の自由とは何か=ペンの反省」を主題に大 きなキャンペーンを企画すべきだが、理事にも会員にも、大小の出版人・編集者が大勢いる。さ、彼らがそういう企画に乗ってくれるか、むしろ阻止にかかる か、判定は難しいな。
 

* 十二月四日 月

* e-m湖umiに掲載した『神楽岡』の作者からが、こんなメールが届いた。

* 御創刊第65巻目の、記念すべき新しい湖の本をお送りいただきましてありがとうございました。おめでとうござ います。図書館より借出して読ませていただきましたものを、手元に置いて再び勉強できますことは、大変ありがたいです。 
 たくさんの友人達が、先生のホームページの奥深さにまず驚き、「神楽岡」をプリントして読んでくれています。そしてさ まざまな感想をくれます。そのほとんどが暖かい励ましです。
 一時は疲れ果て、もう手伝うのを止めようとしたお店のお客様からさえ、激励を受けました。(他の職業を探し、面接に行 きましたが、見事に落っこちてしまいました。)
 次作品、次々作品完成に向けて努力中です。よろしくお願い致します。
「平静に」というお言葉が今常に思い出され、強く胸に滲みます。
 ありがとうございました。       高橋由美子  

* 関口深志です。
 先日、腸にポリープが2つ発見されて、11日に手術を行うことになりました。一日で簡単に終わるそうなので、特に自分 としては心配していません。逆に入院で何か自分の感性に役立つ経験を得られたらいいな、などと思っています。
 最近、対人関係も上手になりました。
 所属事務所の社長とも、前はただ一方的に言われてうなずくだけの関係だったのに、今では自分の過去も含めて、色々話せ るようになりました。仕事が入るかどうかは別の問題であって、「仲間意識」が芽生えてきたなという感じです。
 色々な気持ちを抱えて『渚』を書いています。僕自身の経験が元になっているので、つたない文章力で読者の方にちゃんと 内容がご理解されているかどうかわかりませんが、書きたい事は書いて行きたいと思っています。がんばります。

* 手術の無事と、図太く世間と渡り合ってそれ自体を楽しんでくれるのを祈る。どっちみち、どうしようもなげな世 間様のこと、そんなヤツのために苦しんり悩んだりはつまらない、楽しんだ方が精神衛生的にもいい。『渚』の「2」を送ってきた。まだ読んでいない。慌てる ことはない。

* 初めて「新潮」編集長の酒井健次郎氏に会った頃、彼は気のはやる新人にはこう言うんだよと話してくれた。「原 稿をね、見ないんだ。ぽんと、引き出しに放り込むの。二三ヶ月経ってから引き出しを開けるとね、プーンと匂うんだな、佳い原稿はね」と。(おかげで、わた しは、原稿を私家版にしてしまい、それが、そのまま太宰治賞を受けた。)この寓意の言をわたしは、なにがしかの驚きと共感とで聴いたものだ、新人にはキツ イ言葉であったけれど。酒井さんはもうとうになくなってしまった。
 このとき受賞した作品も、受賞直後に実は劇的な変貌の好機を与えられたのであった。「展望」の中島岑夫編集長は、活字 になる前にもう一度目を通してみますかと一両日の余裕をくれた。わたしは、必死の力をふりしぼって、そのチャンスに私家版作品『清経入水』に徹底的な推敲 を加えた。作品は面目を一新したと、今でも思う、確信している。事実上、べつの作品に成長したのではないか、「展望」にはそれが掲載されたのである。むろ ん、審査を受けて受賞した作品より「よくなっている」と選者の先生方も認めて下さった。よくまあ、あそこまで手直しが利いたと、直したわたし自身が信じら れないほどだった。湖の本の創刊第一巻には、現在上武大学教授の原善君が、その間のきちっとした「校異」を付けてくれた。それを見れば、一夜にして作品が 劇的に変貌を遂げた形跡がありありと見える。推敲の一つの事例として、相当の意義を見せている。関心の深い人は、残部少ない冊子本「湖の本」第一巻で見て 欲しい。

* 「湖の本」エッセイ21「日本語にっぽん事情」拝掌致しました。配送作業、お二人でさぞかし大変だろうなあと 改めて敬意を表します。しかも65回も。十数年も。繰返し、続けて。これは、恐らく誰にも真似のできない、本当に、誇るべきこと、幸せなことだと思いま す。どうかお体に気を付けて、今後とも読者を楽しませてください。
 佳箋「人生適意」、感謝。どうぞ良き65歳の誕生日と新世紀をお迎えください。
「創4・糸瓜と木魚.txt」「創5・隠沼.txt」「創6・華厳・マウドガリヤーヤナの旅.txt」(スキャン原稿) お送りします。
『糸瓜と木魚』では、根岸の人たちが、ぐっと身近になりました。千葉県立美術館に建っている、浅井忠の銅像に会いに行っ てきました。
 どれもいいのですが、『華厳』が大好きになりました。辞書を引き引き読みました。師の傳山や、程毅やアクタカはその後 どうしたろうか? 高仲雍に抱かれて南へ行った揚子昭はどう成長し何をしているのだろうか…?
 人も世代を繰返し、華厳。
 おまえの命天から授かる 天はおまえに何させる。 

* 嬉しい嬉しいメールである。さんざんの苦労に耐えて「湖の本」を続けてきた疲労が溶けて行く。だが、実情はじ つに厳しい、当たり前の話だが。

* 日本晴れである。暖かくはないが気持ちいい。午後は、晩へかけて外出。

* 用事の後、帝国ホテルの「ザ・クラブルーム」で、ゆっくり飲み、「ベレ」へまわって飲み、ご機嫌で帰った。
 

* 十二月五日 火

* 昨夜は飲み過ぎてしまった。心配していたが、朝の血糖値は103とすこぶる良好。

* 清和女子短大の紀要に発表されていた石内徹氏の「『海やまのあひだ』考」が戴けた。折口信夫=釈迢空にかかわ るすこぶる興味深い考察で、ありがたい。スキャンしてみて、校正に、かなり手間取っている。「迢」一字もいちいち文字ボックスから拾い出し拾い出ししない と、いけない。「ちょう」でも「ちょうくう」でもこの文字は出てくれない。「しゃくちょうくう」でも出ない。文字コードを作ったような人たちには、折口信 夫=釈迢空の如きは無縁無用の存在であったし今もあるのだろうと、憎まれ口が叩きたくなる。

* 手先が、指先が、冷えに冷える。キイも冷たくマウスも冷たい。

* 森喜朗の手腕か知恵者がいたか、或る意味で徹した内閣改造をやりとげ、野党の党首たちの批評に力がない。橋本 龍太郎が存在感を売り込んだ。森にすればうまい買い物だった。失政しかしなかったような橋本でも、もと総理である。宮沢喜一も失政だけの短命内閣首班だっ た。宮沢も橋本も日本の財政や金融を混乱させただけの総理大臣で大蔵大臣でもあったが、そんな元総理をでも閣内に取り込んで頭を抑えられれば森の勝ちであ る。高村も河野も尻尾を振って閣内に滑り込んだ。田中真紀子は振り損ねた尻尾を撫でながら悔しそうな顔つきなのが情けない。これで支持率のポイントが一時 的に少し跳ね上がるだろうか。バカげたはなしだ。

* 今日は娘が休暇で家にいましたので、前から観たかった「恋に落ちたシエクスピア」をビデオやから借りてきまし た。シエクスピア自身の恋が、「ロミオとジュリエット」の脚本が出来て上演されてゆくプロセスに重なるお話で、一昨年のアカデミー賞のころ話題になっただ けあって、飽きずに入り込め、コスチューム物の好きな私にはこたえられない作品でした。これで助演演技賞を取った、出演時間が短く何分かというエリザベス 女王(名前が分からない)役の存在感は、出色。テレビ放映は二、三年先でしょうね。
 「グッドウイルハンテイング」は、私も、佳くて二回観ました。主演はマット デイモン。友達で出演していた、ベン アフレックと若い二人が大学時代に書いた脚本で、何かに一位入選した脚本という記憶があります。そのベン アフレックが「恋に落ちた」にも出演していましたので、ついでに。
 最近の洋画は、似たような登場人物が多いと顔が覚えられず、したがって話が理解しきれず、もう一度繰り返して観て分か るなど、負うた子に蔑みの目で教えられています。ほとんどが、映画好きの娘の受け売りです。マアこんなものでしょう。元気にしています。とても。

* 十二月はヒマに過ごしたいと想っていたのに、あれよという間にカレンダーが真っ赤に染まるほど、予定が入って きた。映画館へ行って映画を観るなんてことは容易に実現しそうにないが、試写会のお誘いが一つとびこんだ。星三つ級のいい映画らしいと妻は言う。芸術座に も招かれている。モーパッサンの翻案らしき「女の一生」を佐久間良子がやる。三百人劇場の「クリスマス キャロル」の招待には、一人で行く。万紀夫の能に 二度呼ばれているが、二度とも他とさしあっているのが痛い。

* 内閣改造劇のおかげか、なにとなく面白くない。意気が上がらない。

* 一つ嬉しいことがあった。オーストラリアの学會から帰国したmaokatさんが、おみやげの洒落てスマートな ワインを「はやいめの誕生日のお祝いに」と贈って下さった。このごろは、すっかりワイン党になって、赤いワインをよく飲んでいる。こんなメールが添ってき た。

* 豪州葡萄酒
 hatakさん  豪州から札幌に戻った私を迎えたのは豪雪。しゃれにもなりません。
 シドニーの空港売店で、淡い緑の豪州ワインをみつけました。味のほどはわかりませんが、細いシャンパングラスに注ぐ と、きっと見栄えがするはずです。スマートな一本をお送りしましたので、ご賞味(ご鑑賞かな?)下さい。ちょっと早いバースデープレゼントです。
 今日から当分は机の上の書類の山と格闘の予定。簾ならぬブラインドを巻き上げて、藻岩山を望みながら「雪見仕事」と しゃれてみます。  maokat
 

* 十二月六日 水

* 明け方五時まで起きていた。石内徹氏の「『海やまのあひだ』雑考」「神西清のこと」を校正して、掲載した。前 者は折口信夫=釈迢空と、彼の生徒であり恋人であった伊勢清志にかかわる機微を、名歌集として知られた『海やまのあひだ』を介して考察したものであり、後 者は作家としても翻訳者としても知られた、そのわりに文学史的には不遇と想われている神西清への、私的な感慨をこめたオマージュである。石内さんが、現在 どの大学におられるのか、清和女子短大で教授をされているのか、しかとは確かめていないが、折口研究に加えて、荷風や、神西に関する優れた著書もあり、頂 戴し拝読している。もう久しい「湖の本」の読者である。
 もう一人同じく読者であり、歌人で、横浜市の中学の先生でもある高崎淳子さんの「自撰短歌五十首」を、だいぶ思案した 上で、作者の自負と意欲を斟酌し、そのまま掲載した。おもしろいもののある作風で、それを認めてわたしがペンクラブ会員にも推薦した歌人である。ではある が、その歌風、自撰された限りでは、高崎さんの歌句を拝借するなら装飾的な「チャイナモザイク」のようで、そこが口疾に気が利いた風に面白いのだろうが、 伝わってくる感銘はかなりアバウトで、手うすい。と言うか、わたしの感性からははみ出たものが多い。高崎さんの責任ではない。
 何としても短歌の流れには、正岡子規の「瓶にいけし藤の花ふさみぢかければ畳のうへにとどかざりけり」式と、与謝野晶 子の「みだれ髪」式とがあり、鏡花や谷崎の徒であるにかかわらず、短歌ではわたしは後者の歌風が苦手なのである。白秋や吉井勇ぐらいは面白いと思っている けれど、やはり茂吉、空穂らの表現と思いの真実感=リアリティにつよく惹かれる。編輯者が「好み」だけで作風を選別してはいけないのは当然で、高崎短歌を 評価する人もあるに違いないから敢えて掲載したのである。

* 政界に大きい変化なし。どんなに憂えても・・・同じ井の中、どんどん国民が、特に若い有権者が政治離れをして いく状態。国を考えている政治家が何人いるか。
 だから映画でも観ています。

* 内閣改造の行方に憂鬱だったのを、励ましてくれたつもりか、この朝一番の、上の、見当違いなメールはアタマに 来た。政治が良く変わらない一番の責任は、国民にある。理屈にもならない「政治離れ」を得意げに口にしてすべてを大臣や代議士のせいにしてしまうが、そう いう者どもを取り替えるのは、われわれ国民の責任ではないか。国民が安易な「政治離れ」でよろしからぬ政治屋どもを野放しに甘やかしてしまうから、つまり は落選させないから、より佳いのを選ばないから、好き放題なことが彼らには出来る、のだ。「若い有権者」どころが、いい年をした大人が「だから映画でも観 ています」とは、何という愚かな賢こぶりであることか。
 このオバアチャン主婦と全く同じことを、青山学院の政治学部に地位を得ている我が娘婿が、平然と口にし、選挙になんか 行くのは愚、棄権で当然といつも言っていた。こういう相手では、到底付き合えない。
 

* 十二月六日 つづき

* NHKから、出たばかりの『日本語にっぽん事情』をブックレビューで取り上げたいので本を送れと電話が来た。 ペンクラブの同僚委員が推薦してくれたようで、有り難い。プロダクション扱いらしく、電話口で担当者が勝手の違う本に面食らっているらしいのが可笑しかっ た。私家版であるのか、本屋では買えないのか。私家版は普通は売るのが目的でなく、また売れもしない。湖の本は買って戴くのだからそういう意味では私家版 ではない。湖の本版元の出版物であり、そうでなければ六十五巻も、十五年も、出し続けられるものではない。しかし出血出版であることは間違いないのだか ら、ま、私家版といわれていいのである。本屋には一冊も出していない。そんなものを本当に取り上げるのだろうか、半信半疑である。
 この仕事は「出版文化」の一変種として意義づけられていると思う。脱線した変種か、正統性を帯びた芽生えなのか、評価 はまだ先のことになるだろう。倉が建たなくても、意義は必ず建つ仕事である。

* 雑誌「ミセス」に『蘇我殿幻想』を連載した頃の担当編集者であった、今は作家の田名部昭氏に、フランキー堺を 偲ぶ小気味のいい一文を、注文を付けて、寄稿してもらった。映画「写楽」製作にまつわる中味のあるインタビューだけでも佳い内容なのだが、やはり前後に少 し補足的な「今」の感懐を添えてもらう方が、読者は読みいいだろうからと無理をお願いした。
 

* 十二月七日 木

* 新内閣の顔ぶれが揃いましたわね。
 TVや雑誌で、久し振りに見た有名人に、「えっ、こんなんなっちゃったの!」と思う時がありますの。太った痩せたでな く、老いた変わらないでもなく、[顔]ですの。良くなった・悪くなった、ただそれだけの感想ですが。
 上坂冬子さんは「抗老期」とか。同い年の小田島雄志さんは、「ぼくだと[交老期]だ。」と笑ってらした。

* たしかに、新内閣で久しぶりに見た大臣の顔が、あんまりひどいので可哀相な気がしたりした。本人は、「まさ に」フンゾリカエッテいたけれど。上坂冬子の言いそうなことだが、老に抵抗しようという気はわたしにはない、小田島氏の方に、老と交わる方に、賛成だが、 わたしが言えば順老期、慣老期、観老期、待老期かな。平老期を迎えたいものだ、自然に。
 

* 十二月七日 つづき

* 高校の頃の恩師上島史朗先生から、嬉しい自撰歌五十首をいただいた。すぐ拝見して、滋味掬すべき、じつに佳い ご境地で撰のなされているのに驚嘆した。平淡簡明しかも飄逸にして温和、一字一字原稿の師の手跡を書き写して行きながら、何度も何度も、うち頷いて感銘を 受け、嬉しく胸を鳴らした。くすくすとも笑った。多年、「ポトナム」同人として短歌に思いをかけてこられた眼で、気負いもなく楽しんで選歌されている。そ れが、一つ一つの歌に、安心感と安定感と、しかも型に陥らず泥まず、自在な興趣を生んでいる。巧まずして巧みに歌われてある。文藝のうれしさである。
 上島先生にわたしは歌集『少年』の主部を成している高校時代作品をことごとく見ていただいた。先生方でなさっていた歌 會に、生徒の私もひとり加えて下さった。だが、また、歌誌結社の法へ誘われるようなこともなかった。それが有り難かった。わたしは、ついにどんな結社にも 近づかずに来たのである。
 思えば先生が歌集『鈍雲(にびぐも)』を出されたときに、頂戴して感想を書き送った、その手紙が「ポトナム」であった と思う、そのまま掲載されたのが、わたしの文筆が活字で扱われた初めであったのではないか。まだ、私家版にも手を染めていたかいなかった昔のことである。 作家として仕事をしはじめてこのかた、湖の本の時代に入ってからも、上島先生はすべてを手に入れて読んで下さり、励ましを戴き続けているのである。恩師で ある。
 高齢の先生はこの数年繰り返し入院生活をされていたが、いま、そんな病後のなかからいちはやく歌稿をつくられてわたし の新たな試みにこよない華を添えて下さった。幸せな生徒である。ご平安とご長寿をせつに祈る。
 
* 三時から文芸春秋で、新聞七社と文芸家協会による新聞データベースの原稿利用に関する例年の協議會。大人らしい温厚 な意見交換があって、ほぼ前年の約束を一年延長することになった。新聞社がデータベースにより全記事を「歴史的」に保存したいのは理解できるが、在来の縮 刷冊子版とはちがい電子化されることになると、著作権者の著作の無際限な二次三次多次にわたる再利用に歯止めが利かず、かつ無料使用になる。公共性という ことを楯に取るだけでそのようなことを野放しにはしておけないという原則が、一方に有る。しかしまた、原則を言い募るほどの状況が把握できていないし、新 聞社もそれで利益配分するほどの利益は上げていないと言うのも現実だろう。そこで、原則は明記し、現実に応じて短期間の約束事を繰り返し協議しつつ、現実 の変化に対応して行くより仕方がない。そういうことを、私は言い、そのように話はまとまって散会した。
 協会側委員の一人に早稲田の文藝科ゼミでわたしの教室にいて単位を取った角田光代が加わっていた。今は女流作家であ る。教室で提出作品を読んで批評したことがある。十三年ほど前のことだが、まだ少女のような委員であった。挨拶された感じが学生の頃と余り変わっていない カワイラシイ作家であった。

* 早く終えたので、一度はそのまま帰宅する気で麹町から有楽町線に乗ったが、池袋で下車し、西池袋のイタリア料 理の店「文流」の、まだ客のひとりもいない食堂で、ゆっくり食事した。池袋では珍しくセンスのいい店で、小洒落ていて、旨い。アタリはずれたことがない。 ただ、今日は一人だったが、女性客ばかりのような店で、気恥ずかしい。銀座のフランス料理「シェモア」もそうだ。

* 今夜のテレビ映画はつまらなかった。あれなら、その前の、澤口靖子の「科捜研の女」で京都の景色などを見てい た方が良かった。
 

* 十二月八日 金

* 五十九年前、真珠湾の奇襲が奉じられて太平洋戦争は始まった。「九軍神」などと盛んに聞いたのがこの時か。朧 ろに朧ろな記憶でしかないが、米英という大国との戦争が始まったんだという幼稚園児なりに胸の尖端をふるわせた実感は今も生きている。よく生きてきたもの だと思う、それも感慨に満ちた実感だ。今日はすばらしい冬晴れ。飛行機のゆく爆音がのどかに大屋根のうえで響いて流されて行く。平和はありがたい。

* 朝いちばんに、H氏賞詩人岩佐なを氏から受賞詩集『霊岸』の表題作が、「e-文藝館=湖(umi)」に贈られ てきた。いま、掲載を終えた。氏も、湖の本を最初からずっと応援して下さっている。詩人としては言うまでもなく、加えて実に美しい藏書票の作者としてもつ とに知られた藝術家である。

* いわゆる散文詩ふうの譚詩を一行字数をきれいに揃えて改行して行く技術がわたしの手に入っていないため、詩人 の寄稿には、気をつかいつつ申し訳なく思っている。
 また短歌の場合、なるべくどの画面でも一首一行に読めるのが佳いと思い、一段小さい文字を用いて書き込んでいる。読ま れる方は、フォントを調節しながらご覧下さるように。

* 午後には今年最後の電メ研で、乃木坂のペン事務局に出向く。そのあと、お茶の水で電子出版協会の講演会があり 誘われているが、そこまで時間的に間に合うかどうか分からない。できれば電メ研の委員がたと歳末の談笑が楽しめるというのもいいのだが、これまでも、意識 してそういう方へはお誘いしないことにしてきた。めいめいに忙しい事情のある人たちである。

* 予想を大きく超えて、「e-文藝館=湖(umi)」 が早くも充実してきて、寄稿の申し出もなお幾つも貰っている。急務は大幅な増頁で、布谷君にその手法は教わっているのだが、なんだか怖くてまだ触れないで いる。
 まず、今の index.htmlを別のファイルにコピーする とある、htmlの「l」一字が、「index.htm」とどう違って、それが何処にあるのか分かって いない始末。index.htmというのは、ホームページの目次で始終開いたり転送したりしているのだが。そんな按配で、この歳末は、自力での増頁作業が 宿題になる。
 

* 十二月八日 つづき

* 上野重光氏から贈られてきた雑誌の『白川』という小説を読みながら、乃木坂の会議室へ。今日も牧野二郎氏の講 話をたっぷり聴いて、おどろくことばかり。ジャスラックのことなど、これまでもいろいろに聞いてはいたが、約款の内容にわたって説明されると途方もないこ とで、すぐさま言葉も出ないほど。二時間の会議時間があれれというまになくなった。出席の顔ぶれもほぼ定まって、これはこれで良いのだが、折角仕入れた知 識や見解をどう会員のみなさんに分かつか、その方策が立たなくて困ってしまう。一委員として参加するのなら実に楽しい電メ研なのだが、あまりに話題がひろ くて収拾が付かないのには座長としてへこたれてしまう。

* 副座長をお願いしてきた村山精二さんと帰りが一緒になり、二人の忘年会の体で、日比谷のクラブへ誘って、十七 年もののバレンタインとクラブサンドイッチなどで、ゆっくり談笑、有楽町まで歩いてから別れた。

* 上野氏の小説は、能の「西行桜」をたまたま脇正面の席で一緒に観た男女の話で、かなり能の中味にふみこんで物 語が設定されていた。題の「白川」は、京都の、わたしの家の近くを流れている川のことで、祇園の方へ話の結末が流れて行く。わたしには、なんだか昔懐かし いような話材であり、また、この材料を今の自分ならどう書くかなあなどと思いながら読了した。初対面の男と女とが、道を歩きながら謡を謡い合ったりすると ころが、その道筋などもよく知っているだけに照れくさいほど気恥ずかしかったりした。男はかなりの能体験を持っているようでいいのだが、女の方は謡を稽古 し始めて「鶴亀」もまだあげていないと言っている、それで、謡曲の詩句がすらすら出てきたり謡えたりするのでは、ちょっとすなおに感心しにくい。「鶴亀」 というのは、ほんとに入門して最初に習う初手の謡曲なのであるから。そういう辺のリアリティがきちっと抑えられていたらいいのになと思った。『畜生塚』や 『雲隠れ考』や『慈子』を夢中で書いていた三十前の日々がふと懐かしかった。この『白川』とやや似た話材で、もう五六年前にたしか『桜子』という数枚の掌 説を書いていたのを思い出した。「無明」という総題で、このホームページにその掌説集も収めてある。

* 映画監督の篠田正浩氏から、湖の本への熱いメッセージが届いていた。嬉しかった。言うまでもない、夫人が女優 岩下志麻さん。お二人と話したこともある。書家の篠田桃紅さんも一緒だった。女優岩下は「バス通り裏」のデビューの頃から好きで、その頃すでにこの女優は 大きくなるよと予言していた。みごと実現した。夫君も夫人も、フランキー堺らの「写楽」にたいへんな肝いりであったことは、映画を観て知っている。田名部 昭氏の「e-文藝館=湖(umi)」のエッセイにもそれが書かれていた。
 その篠田氏が、新世紀は「孤高」の仕事に光の添う時代になるでしょう、と。どうも「孤高」でも困るのだけれど、とにか くも 意欲的に、静かに、打ち込んだ仕事がしたいと、心励まされている。
 
 
* 十二月九日 土

* ゼルマ ラーゲルレーブは、今世紀のはじめ、1909年にノーベル文学賞を受けている、スェーデンの女流作 家。そのラーゲルレーブの作品『軽気球』を、1938年に、鈴木栄先生が訳しておられた。先生は名古屋大学名誉教授で小児科学専攻、わたしが医学書院の編 集者の頃数え切れぬほどお世話になった方であるが、これを訳された頃は旧制高校の二年生であったという。一昨年に、懐旧の思いから記念の私家版につくら れ、わたしも頂戴していたのを、名古屋のお宅へ電話でお願いして「e-文藝館=湖(umi)」に頂戴した。快諾して下さった。初々しい筆致で典雅な感じに 品よく訳され てあるのが尊く、原作また、意表に出た特異な好短編なのである。本邦ではこれまでに市販の訳文は出ていないとのこと、貴重なものと謂える。いま、スキャン した原稿を校正しおえて、すべてを掲載できた。また一つ興味深い作の加わったことを喜んでいる。訳者鈴木先生のますますのご健勝を祈りつつ御礼申し上げ る。

*  ジョン・トラボルタ、ニコラス・ケージ主演、ジョン・ウー監督作品の「フェイス・オフ」がとても面白く、ダイハード級に楽しめた。もうけものであった。テ ンポのよさ、思い切りのよさ。中味など何もないバイオレントな娯楽作品だが、ハートに響かせる物も持っていた。正味二時間が映画的によく詰まっていた。

* すばらしい牛肉、すてきな洋梨、金賞大吟醸の日本酒、洒落た瓶のオーストラリアワイン、そして実に品のいい味 わいの吉備だんご。京都の冬の漬け物も沢山、豊かな量の葱、もう三十年来書かさず工場から贈られてくるユーハイムのケーキ。甘味。誕生日を前に、贅沢なほ どの頂戴物があり、かなりイヤシンボウになってしまう。

* 相原精次氏に戴いた『鎌倉史の謎』を楽しんでいる。鎌倉時代でも鎌倉幕府でもない、それよりももっともっと古 い時代の「鎌倉」という土地の歴史に入って行く。そういう追究はとても大切だ。京都でもそうで、「京都以前」を忘れてはいけない。大伴家持のような人物に よってこの京都以前と古き鎌倉の地は微妙な縁に結ばれている。夢が疼く。

* そうだ、明日は、鎌倉でもいいし、気の向くままに遠くへ出かけてみよう。天気良く、暖かいことを願っている。
   

* 十二月十日 日

* 四十三年前、黒谷金戒光明寺で残りの紅葉を狩り、大きな緑釉の水盤に投げ入れ、叔母の留守の茶室で茶をたて た。客は、妻がひとりであった。そして婚約した。

* いま、日射しは明るくて通り雨のような音を聴いた。正午である。

* 電メ研の野村委員から、メーリングリストで、サジェストがあった。これは紹介したい。

* しばらく前に読んだ本に、『出版社と書店はいかにして消えていくか』(小田光雄)というのがあります。出版業 界では結構話題になった本で、読まれた方もあるかと思いますが、これはお勧めです。
 再販制度の問題、委託制度の問題、新古書店の問題など、出版社と書店と読者と著者と、流通を取り巻く問題が、出版の歴 史を幕末から振り返りながら執筆されています。
 再販制度に賛成の方も反対の方も、真に読者と出版者と著者が向き合うためにはどうしたらよいか、示唆に富むものがあり ます。
 大量消費社会の中で、委託制度に守られて甘えてきた、出版社と編集者と著者が、本当に読者と真剣勝負で向き合う時が来 ていることを、あらためて認識させられます。

* 野村さん。この二回の電メ研は、あなたに一番お役に立ちそうな話題だったので、惜しかった。お忙しいことと 想っています。ご健闘を。次は一月二十六日の三時です。やはり牧野さんのお話を聴くのを芯にして会合したいと。牧野さん、
アテにしてご免なさい。よろしく。
 野村さん、この本はどこから出ていますか、普通の書店で買えるのですか、高価な本ですか。
 著作を中に置いて、読者と著者とが仲介なく直接向き合えれば、余分な手間と費用と時間がかからずに、より親密に「創 作・執筆」と「読書」とを肝心要の本題にできると思い、わたしは「湖の本」を始めました、十五年前に。ただし家内での手作業なのとわたしの力不足もあり、 経済効果を度外視せざるを得ない仕事というのが現状です、が、決定的な挫折もせずに超低空飛行してきました。
 経済的にはそんなようで参考にもならないのですが、他方、作者・著作・読書・読者という、「本」をめぐる本来純粋形の 「連携」から現状の「出版」を見直す・批評するという一つの「実例」は、途切れなく提供し続けたと思っています。編集・出版・取次・書店などは、上の連携 からみれば後発の工夫であったでしょう、それにはそれなりの近世・近代の要請が有ったし、有用でした、が、そのシステムが永遠不変かのように固定化し権力 化さえしてきたのが、わたしには鬱陶しかった。
 これが新世紀には変容して行くのか、出版支配はやはり何の反省もなく経済原理一本槍で継続して行くのか、いま、大きな 分岐点・過渡期に来ていると感じています。
 野村さんお薦めの本が、その辺でどういう本質的な批評を「出版」に対して、著作者の立場からも読者の立場からも頷ける 内容を成し得ているかに、関心があります。在来「出版」の掌の上でだけ便宜に、現状補綴的に論じられている物なら、これまでもありました、が、電子メディ アのこともしっかり眼中手中に把握しての、根底からの討論や示唆が出来ている本なら、待望の本で、すばらしいのですが。手に入れてみたいものです。
 委員のみなさんの、新世紀の「本」の流通に関する夢のようなご意見をでも、うかがいたいものです。秦恒平

* 出かける気でいたが、実業女子駅伝をみていたり、そのうちに、ワインで牛肉が食べたくなって食事にしながら、 映画「ベニー・グッドマン物語」を見始めて、映画の出来はともかく、演奏されるジャズの名曲の数々に感激してしまって涙さえ浮かべながら時を過ごしてし まった。ドナ・リードという、名前ばかり懐かしい女優の映画は初めてみたような気さえする。
 満腹して、それから、あれやこれや身辺のかたづけを始めてしまったので、すっかりでそびれた。通り雨に足を止められた というと、雨に気の毒か。

* 階下でいま大河ドラマの「秀忠終焉」をやっているが、どうも人の死ぬと分かっている場面をわざわざ見たくなく て、器械に触れている。徳川秀忠は家康と家光にはさまれ、あまり過去には触れられなかった将軍だが、わたしは、はっきり『秀忠の時代』と謂うべき時代が あって軽視できない難儀な時代であったことを、京都の側から見て、書いたことがある。
 秀忠を俳優西田敏行みたいな男とはイメージしていなかったが、、西田はさすがに面白く演じてくれて、家康の津川雅彦に 見劣りしないキャラクターを表現したと思う。家康には既製のイメージが出来ていた。レディメードでやれる役柄である。家光にもそれはある。だが秀忠や妻の お江には一般にレディメードの下絵がなかった。岩下志麻のお江はことにやりにくそうであったが、やり遂げた。西田も秀忠の造形に成功して、楽しかったろう と想像している。秀忠の死でもうこのドラマは終わったに等しい。家光の、鎖国と切支丹、柳生の剣や、寛永文化や慶安太平記などは、また別のドラマになる。
 春日の局は、わたしはミスキャストだったと思っている。この女優のよさというのが私には掴めない。 

* 一月の大和屋三津五郎の襲名は、券が取れそうにない。二月の分を頼んだ。

* ホームページへのアクセスが、20000 を優に突破。二年前三月末に創設、その年十一月末日にきっちりやっと1000 だったのを記憶している。ほぼ二年間で19000余 のアクセス数であったことになる。ぐんぐんと右肩上がりに増え、去年より今年が、今年の前半より後半が、ずっと急角度に勢いづいている。100000はも う遠からず目に見えている。
 おそる べき文字の量とバラエティーとで、初めての来客はタマゲてしまうらしい。思うままガンコにやってきた。それでいいとし、これからも工夫を加えて行く。「e -文藝館=湖(umi)」の増頁が、さしづめ急務。新企画の頁も創ってみたい。カウントはやめようと思っている、数を追うのはつまらない。

* 兆している鬱に、どうにかして抵抗したい。正直のところ、通算65巻の湖の本は出せたけれど、満65歳の日が ほんとうに迎えられるのだろうか、新世紀の元旦はほんとうに迎えられるのだろうか、とんでもない事故が起きはせぬかと、バカげた不安に襲われ始めている。 ヘンな話なので、斯うして書いて抵抗している。凄くイヤな気分でいる。そんな自分がとっても可笑しくもある。今日一日をグズグズと成り行きで過ごしたの が、わたしのせいであるが、不愉快に気分を暗くしている。待老期の真ん中で、これじゃ自然に老いるどころの話ではない。
 

* 十二月十一日 月

* 夜中にふと目覚めて「湖」をのぞき込みました。
 若い日の鈴木栄先生訳 ラーゲルレーブ作「軽気球」を一息に読みました。
 結末に涙があふれています。
 どんな境遇でも諦めなかった少年達
 努力して努力して夢をもち続けた少年達
 しかしついに挫折と絶望に襲われます。
 そのときに現れた彼らの夢のすべてである大きな美しい気球・・・
 この時代、この少年達を救うのは、こんな方法しかなかったのでしょうか。
 若い日の鈴木先生はこの作品をどんな気持ちで翻訳されたのでしょうか。
 今も少年達は、世界中のたくさんの家庭にいるのかもしれません。

* 軽気球を読んで。 今でいえば幼児虐待の類にはいりましょうか。自分たちでは親を選べない年齢ゆえの、裁判に よる悲哀は、いまもある。扶養義務の放棄は、作品のこの時代よりもひどくなっている。虐待死というかたちで。想いを馳せれば、哀切に、思わず涙し、怒りも 込み上げてくる。
 やりきれないのは、このアクシデントが親子双方にとって悪気のない出来事であったということ。空に浮かんだ気球は、彼 らにはこの現実から連れ出してくれる天使に見えたかもしれない。追いかけることで、叶えられるかもしれない夢と。キラキラ輝いている顔を思い描くと、涙が 溢れました。
 内容的には少し違いますが、「フランダースの犬」の、主人公ネロのことを思い出していました。あれも切なかったです ね。もう少しもう少し、幸せの足音がもうそこに来ていたと言うのに。涙、涙で見ていました。
 離婚は子供にとっては、とても割り切れるものではありません。

* 作品に反応があるということ。

* およそ百年前の作品であり、高等学校の二年生だった鈴木先生が翻訳されたのが、六十数年前である。作にも訳に も「時代」が刻印されてあり、しかもここに書かれた境遇は上のメールが指摘しているように、今の例えば多くの「十七歳」事件にも複雑なかたちで反映してい るとみていいだろう。まるで童話のようでありながら、現実の生活にありふれた普遍の状況を指さしている。あの「マッチ売りの少女」や「繪のない繪本」に膚 接している。読むに値する作品だと、いまもあらためて感じている。

* 土曜に後炭の点前を稽古し、充分に休養して体力気力を漲らせ、今日は依頼原稿の仕上げをしています。徹夜も辞 せずでこの時間まで続いていますが、「兆している鬱に、どうにかして抵抗したい」の言葉に思わず立ち止まりました。
 朝起きて、パソコンを開き、「私語の刻」を読んでから一日を始める、という生活がすっかり定着しました。もう2年以上 も続いているんだなぁと、今改めて思っています。もし「生活と意見」がなくなったら、「秦 恒平の文学と生活」が更新されなくなったら、なんと味気ない毎日になることでしょう。そう思っている読者はきっと沢山いるはずです。
 アメリカの大学で、ふらふらになって一緒に仕事をした共同研究者は、メールの最後に、必ず「働きすぎるな、よく食べ、 よく眠れ」と書いてきます。時差の関係で夜中にそんなメールが来ると、ほんとうにうれしく、励まされます。オフィスの机で交互に仮眠をとりながら実験を続 けた仲間だけに、言葉に重みがあって身にしみます。
 さ、私は朝までがんばります。秦さんも抵抗を続けてください。よく食べ、よく眠ってください。秦さんには「よく飲め」 も、おまけにつけときましょう。

* ありがとう。よく晴れた月曜日。今日は言論表現委員会に、会議室のある乃木坂に行く。帰りに、「ル・サンキ エーム」か新宿の店に寄ってこよう。

* ゆうべ、久しぶりに『寂しくても』の出だしを読んでみた。「一」だけは、もういいだろう。「二」以下には無駄 がある。初稿は無駄も承知で書き進まねば勢いが掴めない、が、書きすぎると無用の粘りがついて、後始末に難渋する。難渋の理由はそれだけではないが、そろ そろ大鉈を片手に、もう一方の手には柔らかい刷毛をもち、いろいろとやってみなければならないが、実のところ物語は半ばにあり、この先は暗闇の中に沈んで いる。あまり嬉しくない運命が潜んでいるやも知れず、パンドラの箱に臨むような思いもある。十字架をかつぐような思いで取り組んだ仕事は過去にもあったけ れど、今度のこれは、気が重い。

* 今、合併で「西東京市」と新たに呼ばれることに決まった保谷市に暮らしている。東京暮らしが京都の頃のもう二 倍の永さになったが、いまだに、京都からわざわざ「いつお見えでしたか」と聞かれたりする。京都の住人と信じてくれている人が今もいるのである。
 武蔵野の匂いのまだ少し残っている市にいると、街並みはあっても、京の祇園の辺とは、なにもかも違う。あたりまえの話 だが、何故あたりまえかと理屈を言い出すと難儀なので、適当に思考は停止している。
 保谷のご近所についぞ見たことがなくて、祇園にも、生い立った新門前通りにも幾らもあったのが、「ロージ」だ。大勢が そんなことには気が付いているといえば、その通りだろう、が、そうでないかも知れない。「ロージ」というものをつぶさに知って暮らして、また「ロージ」な ど捜しても見つからない街にも暮らしてみて、やっと、気が付くのかも知れないではないか。
 四条の表通り、祇園町南側にも、路地(と書く)はあるが、北側ほど数多くない。割烹の「千花」のように路地の奥に店は 明けているが、裏ん丁まで通り抜けの抜け路地となると、南側ではほとんど記憶にない。だが北側は、ことに花見小路より東には、いったい何本の抜け路地が 通っていることか。花見小路より西になると、中華料理の「盛京亭」や割烹「味
舌」などのような、こっちはドン突きの路地が多い。そのかわり富永町へも辰巳橋・新橋までも通り抜けのきく便利な辻があ る。新橋通りの先には「菱岩」の切通しへ出られる抜け路地もある。あれが無かったらどんなに不便やろ。芸妓も舞子も八千代はんの家へすいすい通えなくな る。
 祇園の南も、奥へ踏ん込むと、これは数え切れないほど、蜘蛛手十文字なすほどの路地がある。抜け路地がある。パッチ路 地もある。路地の奥の粋に出来てあるのは祇園甲部のご自慢のうちであるかも知れない。
 だが少年というよりも、もっと子どもの頃から駆けずりまわって遊んだ者には、祇園町の路地は、なかなかの秘密境なので あった。「探偵ごっこ」などというものが流行った時は、有済学区の新門前の子ども達が、探偵と泥棒の二手に別れて、躊躇もなく弥栄学区の祇園の路地という 路地を、追いつ隠れつの戦場に「利用」したのであった。言うまでもないが、行き止まりの路地は逃げ隠れの側には物騒で感心しなかった。抜け路地が便利でス リルがあった。パッチ路地は、ことに在り場所を心得てその長所を生かし、奥の暗がりや物陰を伝い隠れては胸を轟かせて、捜しかつ逃れ走って、興奮のるつぼ であった。
 あのワルサがと、祇園の人には迷惑千万であったろうし、お茶屋遊びの文化などを説きまわすお人たちには無粋の極みだろ うが、わたしの祇園体験には、こんな路地遊びの秘密の見聞が、申し訳なく微妙に刷り込まれている。だから堪らなく懐かしいのである。

* 「軽気球」を追って走った走ったレンナルトやフーゴーが、わたしの中にも住んでいたようである。 
 

* 十二月十一日 つづき

* 『日本文藝の詩学』の小西甚一さんから、九大名誉教授の今井源衛さんから、東大教授の上野千鶴子さんから、俳 人で理事仲間の倉橋羊村さんから、『日本語にっぽん事情』に佳いお手紙をもらった。
 八十五歳の、当代の碩学小西先生は、著述千秋楽のつもりで鋭意執筆中の研究書主題に関連して、「御著に導かれる点も多 く、ありがたい事」と書いて下さっている。ありがたいことである。
 上野さんは「女文化と日本語の項を読んで一驚いたしました」と。「ウーム、とうなりました」と。「男の方がよくここま で言って下さったと感嘆しております」と。「今回は感激の余り、感想を一筆したためました」とも。そして新著『上野千鶴子が文学を社会学する』を頂戴し た。「女文化」に真っ向から反応をえたのは、上野さんが最初ではなかろうか。いちばん触れて欲しいところへ、いちばん触れて欲しい人から触れてもらえて、 とても嬉しい。
 京都からは、人にぜひ読ませたいので十冊追加で送るよう注文が来たりしているし、ブックレビューで紹介すると、びっく りするほど注文が行きますよと、推薦してくれた人から予告されている。ちょっと戦く気分である。

* 清沢冽太さんから凛々と「e-文藝館=湖(umi)」へ自撰の五十句を寄せていただいた。感謝。すぐ掲載し た。清沢さんとは湖の本の読者と作 者として久しいが、面識はなく、それなのに不思議に通い合うものを感じてきた。句を拝見して、禅機を感じ続けたが、どういう閲歴で現在どういうところに 立っておいでか、何も知らない。友人の大原雄氏からも、歌舞伎にかかわる氏独自の切り口の、長いエッセイが届いている。読者にこの特別な面白みがうまく 通ってくれると佳いが。
 言論委員会から帰ると、メールも沢山届いていた。

*  帰宅して「湖」の部屋を訪ねると、これは奇跡ですよ。カウントが「20000」の数を示しているではありま せんか!以前の「10000」のときも偶然にキイを叩き、今回もです。4月15日が一万回で、12月11日の今日が二万回。八ヶ月間で達成ですよ。そうで す!俯いている暇?なんてありませんよ。まおかっとさん(と思っている)のおっしゃるように、よく食べ、よく眠り、よく飲んで? 元気印でいらしてくださいね。。               
* 秦さん。ご無沙汰しています。
 65歳で、湖の本、65冊刊行。おめでとうございます。また、ホームページのアクセス数、先ほど、私のヒットで 20002になりました。これも、おめでとうございます。後発の私の方も、まもなく10000になりそうです。
 さて、甲府は、天気の良い日が続いています。朝の冷え込みが厳しくなりました。一日の最高気温は、東京より1,2度低 めですが、最低気温が大分違います。このところ、連日氷点下です。しかし、日中は陽射しもあり、暖かです。室内にいると、暖房に加えて、窓からの陽射しで 暑いほどです。そういう気温の変化の激しい気候のせいか、上空は青空が拡がり、雲一つない日でも、盆地を囲む南アルプスや富士山の手前の御坂山地などは、 地表からの靄で、山塊が影絵のように、儚げに見えることが多いようです。
「ペンの日」のエピソードや理事会、電メ研その他、大兄のホームページで拝見しています。

* 言論表現委員会は、報道規制や青少年環境保護や人権擁護や、入り混じって似た問題が絡み合うように国会で法制 化の動き激しく、それらに対応して、遺憾の無いように日本ペンクラブとしての姿勢と声明とを用意しなくてはならず、歳末に関わらず出席六人で討議を重ね て、じりじりと収束していった。こういうとき、猪瀬直樹委員長はせっかちのようでいて、とにかくよく粘って問題点を投げ出さない。ずいぶん話し合いがしや すくなっている。今年一年も、まったくよく頑張って会合し続けた。声明したり動いたりした幅は極めて広かったと思う。個人的なことを言えば、わたしはずい ぶん勉強させてもらった。

* 注射器と液はもちながら、注射針を持ち忘れたので困った。しかし、一度は試験してみたいと思っていたので、注 射抜きで帰りに日本料理とご飯、酒は銚子で二本を新宿で食べてきた。夕刊を出されたのをゆっくり読み、相原さんの『鎌倉史の謎』を読み、美しい人とも逢っ てお酌してもらい、見送ってもらって、電車の中では『空白との契約』というミステリーに読みふけりながら帰った。池袋東武の「仙太郎」で例の餡最中を一つ 売ってもらって、歩きながらしみじみと賞味、これもご機嫌であった。念押しに保谷駅のパン屋で食パンを買ったついでにネジドーナツを一つ買い、吹きッさら しの寒風の道をほくほく囓り食いながら家についた。すぐに血糖値を計ってみた。164。食後一時間の値としては、インスリンを打っていなくてなおこれな ら、まず尋常で、おそらく、このまま明日の朝になれば、110前後には下がっているだろう。よほど落ち着いているなと感じている。

* 建日子も悪戦苦闘しながら、幸いと言うべきなのか、テレビドラマの仕事は次から次へ来て、とても芝居の公演に 稽古等の日が取れない有様だとか。
 

* 十二月十二日 火

* ゆうべ遅くに、懐かしい若い二人から、真率なメールが来ていた。

* ちょうど2週間前に帰国しました。帰国後は仕事漬けです。寝る暇もありません。旅日記は書けそうにありませ ん。
 12/10の朝日新聞の、折々のうたに、面白い短歌が載っていました。ちゃんとは覚えていませんが、、、人が死ぬと、 その人の中にいた何人もの死者が、永遠に死んでしまう、、、そんな歌です。(平成12年の歌だということに驚きました。)
 旅行に行く度に、色々な人と出会います。そしていつも「この人とはもう一生会わないんだなあ」と思いつつ、わずかな時 間をともにします。別れは、永遠の別れです。
 今回の旅行で、すばらしい出逢いがありました。望んでも叶う出逢いではありません。本当に幸運でした。
 そして、もう逢わない、逢えないと知っていても、ただその嬉しさは残っています。ぼくが生き続ける間ずっと残っていま す。
 何かに感謝したくて仕方がありません。

*  くじけてはいませんが、もっと、自分のやむにやまれぬ感情を見つめてみたいと思います。生い立ちからくる今の私の弱さ、汚さ、ごまかしを検証しなくては、 と。
 とても(勤務に)疲れるので、おっくうでなかなか手がつけられないのですが、泥沼のような(ある意味でそうなんです) 今の状態から抜け出るには必要なこと、と感じています。
 私には「家の呪縛」のようなものがあります。感性を育まれ、価値観を養われた家、家庭をとても誇りに思い、大好きなの ですが、実家にいると見えないなにかで心身をからめられて、何もできなくなってしまうのです。ぬくもりにホッとしながらも、強迫的な観念がおそってくるの です。家を出た今もなお、それから逃れることができずにいます。
 その正体を見極めたいと。
 両親へのコンプレックス、兄の存在、ストイックな人道主義を自分で理論立てて課してきたこと・・・、いろいろありま す。
 人の目にふれる何かを書くにはまだ早い気がいたします。
 やむにやまれぬ内面のものを見つめるなかで、絞り出さずにはいられないものを表す努力をしてみます。私にとってよい訓 練であり、「呪縛」から解かれるすべになるかもしれません。そのなかで、こそっと秦さんに送らせてください。打ち明け話、いいえ懺悔に近いものかもしれま せん。「耳のついた壁」とのお言葉に甘えて。

* 幸せなことに、二十歳代のこういう思いが、胸に届いてくる。偶然だがこの二人の男女には、わたしの見たところ 似通った、純なところがあり、美点にも或る壁にもなっている。見えているものがあり、だが手は届いていない、いや、まだ何かをおそれてか、手をそれへ着け ていない。
 あとの女性の声をこう聴きながら、自分の娘も、朝日子も、このように感じていたのかも知れないなと思ったりする。

* 「雁信」の数々が、そのまま、真率・情愛のことばを偽りなく届けてくる。そしてそこにも「文藝」は生きてい る。

* 北海道の高島信一氏から「自撰五十句」の寄稿を得て、掲載を終えた。

* ジョーン・フォンテインという女優は、多くも五本の指に入れるほど好きな、美しい、品のいい女優だ。彼女の映 画「哀愁」を全編は見られなかったが、それでも満足した。相手役のジョセフ・コットンにはあまり惹かれないが、彼の妻の役を演じていたジェシカ・ダン ディーは忘れがたい味わいの佳い脇役で、いつ見ても心惹かれる。だがフォンテインの魅力は図抜けている。美しいということは、かくも決定的であるかと思う ものの、必ずしも美しいだけではない、人品に惹かれるのである。原節子に通じるのは若き日のエリザベス・テーラーと、成熟したジョーン・フォンテインのよ うに感じている。こういうラチもない評判をしていても、美しい人の話は楽しいものだが、これぞ闇に言い置くだけのことである。
 

* 十二月十三日 水

* お茶の水で用を済まし、上野へ回った後、九ヶ月ぶりに、本郷で天麩羅を食べた。天麩羅が好きなのか、油という ものが好きなのか分からないほどの男だが、糖尿病は「ア・ウンの呼吸」といわれるほど、油と運動が左右するんだそうだ。正直に大好きな天麩羅は堅く避け続 けてきた。しかし考えてみれば他のもので油ッ気はいやでも摂っている。天麩羅の油などむしろ安全なのではないかと、暗に、憾みがましく推察していた。そし て今日、特大のかき揚げを主にして、天麩羅と烏賊の塩からで、酒を少し飲んだ。白い飯も食った。あまり上等の天麩羅ではなかったが、文句無し。

* 夕闇の落ちた東大構内をそぞろ歩き、三四郎の池のはたへ下りてみたり、図書館前の広場や文学部の研究室 の灯りなど見上げ、五時きっちりに法文一号館の階段教室に入った。お招きを受けていたので、坂村健教授のトロンの講義をたっぷり聴いた。なにしろ主題が 「漢 字」である、面白くないワケがない。ここへ来たのは、もうGT書体の最初の発表会このかた三年、三、四回になるか。
 坂村さんの話はただ面白いだけでなく、いつも一つの思想が貫通していて明快。電脳の大家であり、 私は素人である。文字コード委員会などで私がまくし立てていた素人見解など、さぞ頬笑ましかったろうと思う、が、厚かましくもわたしは坂村さんと同じこ とを最初から言うてきた思ってきたんだと、また今夜も感じていた。
 その一つは、坂村さんはそんなもの言いではないが、「引き算」型の発想のように私には見えていた。つまり16ビットを 何枚も重ねて、文字という文字は全部取り込むのが原則。しかし全部というのは把握不可能な観念的な全部なのであり、手の届く全部ではないし、また諸般の事 情から余儀なく手の届かないものは引き算し、割愛も仕方がない、しかし事情さえ許せば全部を取り込むのだというのが、坂村さんのトロンの根本のようであ り、私も、原則とはそうあるべきであり、従来のように、不足を生じたらそのつど足し算型に文字数を増やして行こうなどという考えの方がまちがいだと、ガン として喚いてきたのだった。
 一つには文字セツトと文字コードとはまるで違うのだから、文字セットがいかに完備したとて、文字コード的な標準化には ほど遠い。グローバルな公共使用にたえてこそ文字文明は守られるので、文字化けや欠字が生じるようなことでは、文字セットで満足しているのでは、いかにも 姑息と言うよりない、と、そう頑張ってきた。
 坂村さんの言われるように、機械には、能力的にそれが出来る。今のJISなど、六千字足らずから僅かに足し 算をなどといっているが、百五十万字でも器械は受け入れうるし、漢字の総数はそれ以上もあろうと専門家は言うのである。理想や原則を最初から卑小な現実論 でまぶしてしまって見失うから、かえって遠回りになってしまう。
 わたしは坂村さんらの言われる原則どおりに、最初から同じように考えて来た。

* 東大を辞し、もとの勤め先の建物をのぞきこんでから、本郷三丁目駅から、昨日開通したばかりの大江戸線をつ かって、練馬で、西武線に乗り換え保谷に帰った。

* 次期通常国会に上程が予定されている「青少年社会環境対策基本法案」の撤回を求める日本ペンクラブの声明案 が、言論表現委員会の手で仕上がった。討議の甲斐あって、条理を尽くした佳い文案が出来た。ファックスで回付されてきたが、異存無い。理事会提出に賛成す る。「報道評議会/プレオンブズマンへの取り組みに対する調査」のお願いというのも広く関係諸方面にすでに郵送したし、法務省の「人権擁護推進審議会協議 会 中間取りまとめ」への委員会見解も用意している。
 私個人の希望では、この辺で、ぜひ日本ペンクラブとして、あらためて会員にも一般社会に対しても、「言論表現の自由と は何ぞや」を問い直す機会を、本気で繰り返し持ちたいと思う。
 

* 十二月十四日 木

* 討ち入りのこと聴かざりき十四日  遠

* 本で家が潰れそうなので、戴くばかりで、よくよくでないと新しい本は買わない。このところ買っていたのは新し い岩波の志賀直哉全集だが、これがもう一冊で完結する。それでというのではないが、吉川弘文館の「シリーズ近世の身分的周縁」六巻を揃えて買った。また勉 強しようという興味がもくもくと湧いた。ついでに高価本だが『明治の日本 宮内庁書陵部所蔵写真』輯も買った。中に、京都東山の「円山温泉」の景観一枚に 眼がひりつくほど驚いた。安養寺、左阿弥、円山公園の見当を遠望しているのだが、山のかたちからそれとは察しうるものの、眼に入るなにもかもが、たたずま いも含めて信じられない眺めなのである。そもそもまるで金閣のような三層の建物が山腹に建っていたりする。
 歴史的な景観の変遷とは斯くの如きであり、小説を書くものには心すべきことである。まるで京都の字引ぐらいにうぬぼれ かねないわたしにして、明治の円山界隈にこんなに仰天するほど、現在の景観とはちがうのだ。昔の写真を大事に思うのは当然なのである。とくに都市景観の変 化は大きいのである。

* 『上野千鶴子が文学を社会学する』という本も、これはすごい。手強い。変なもの言いで上野さんが苦笑されるだ ろうが、どうも、むしゃぶりつく、かじりつく気構えでとりつかないとはじき飛ばされる。佳い本だが、舐めてかかってはいけない、真面目に読んで行かねば。

* バグワンはまた『ボーディーダルマ』を読んでいる。これには、バグワンを実習するような感じがある。そして意 味も何も考えることなく、反復般若心経をいつも誦している。

* 明日の理事会は実質的に幾つもの論題が用意されている。言論委員会からの「意見書」案が今日届いていた中で、 私は、下記のような意見を添えて猪瀬委員長に戻しておいた。

* 法務省への意見書に関して、第三段落からの後半を、わたしの気持ちでは、こう改めたいと思います。

   そんな極めてきわどいせめぎ合いのなかで取材等は決定されるのであるが、さらに二重三重の、自主的で誠意あ る権利の認識と反省において、不断に実践すべき性質のものと認識している。
 日本ペンクラブは、メディアによる人権侵害はメディア自身で反省し解決しなければならないとの考えから、

 わたしの感想では、法務省の「中間取りまとめ」が「人権侵害をすべて自主規制に委ねるのは相当ではない」として いるのが、要するにこれまでの「自主規制」は空念仏にちかく、適切な有効性をあげ得ていないという非難を籠めているのだと感じますし、民間世論にも、この 限りではこれに同調する感じ方が拡がりつつあるのが、残念ながら事実にちかいと思うのです。
 だからこそ、「言論表現の自由」の「権利としての行使」にも、「誠実な認識と反省」が必要であると、日本ペンクラブ自 身が公的に態度を示すことは、ペン憲章における「言論表現の自由」にふれた精神や文言に基づいても、この際、とても大切なのではないかと思うのです。以 上、斟酌願います。  秦恒平理事・委員
 

* 十二月十五日 金

* 昨日の明け方ちかくに建日子が隣りに来ていて、なんだか、ぐっすりよく眠って、昼に牛肉を食べ、夜遅くに豚肉 を食べ、母親に背中を踏ませたりしてから入浴して、真夜中にまた車で帰っていった。来てくれていると、顔は見ていなくても家の中が暖かい。

* 素晴らしい冬晴れ。午後は理事会に出て行く。晩に、一つパーティーの案内が来ている。今日からは昨日届いた叢 書を最初から読んで行く。逢ひたい人がいつでもいるように、読みたい本がいつでもあるのは頼もしい。そういう本を書きたい。湖の本にはカバーなどつけませ ん、汚れてもかまわない、いつでもどこへでもお連れに持ち歩くのですというメールを昨日もらった。それでもあまり本が傷んだのでと、補充の注文とともに。 嬉しいこと、有り難いこと、だ。
 

* 十二月十五日 つづき

* 日本ペンクラブ理事会では、梅原猛会長の発議と執筆になる「声明文」をめぐって、議論があった。
 理事会は秘密会ではない。各社の新聞記者が同席して傍聴取材していて、その報道を制約していない。またペンクラブの公 開する声明は、たとえ会長名ではあれ、理事会の共同の意思で公表するモノであり、以上の二点よりしてここに声明文を転載しても問題はない筈だし、理事會後 には記者会見してすでに公表済みの内容である。以下に原文のままを掲げる。

* 「教育改革国民会議」に対する憂慮
 われわれ文筆に携わるものは、国の教育のあり方について関心をもたざるを得ない。
 政治家及び高級官僚の汚職、かつて聖職といわれた教師、警官、医師の不祥事、何らの道徳的反省なき少年による殺人など のおぞましい事件が相次いで起こるにつれ、誰しもその原因の一端は教育にあり、教育の改革が必要であるという思いをもとう。かくてわれわれもまた、首相の 諮問機関である「教育改革国民会議」に多大の期待を寄せたのである。ところがさる九月二十二日に発表された中間報告を見て、われわれの期待は裏切られたば かりか、このような「教育改革国民会議」によって方針が決められる日本の教育の前途について、深い憂慮を抱かざるを得なくなった。
 教育を改革するには、明治以後の、特に戦後の教育がどのような長所と短所を有し、いかにしてその長所を伸ばし、短所を 改めるか、そして二十一世紀の世界がどのような課題をはらみ、そこで日本という国家がいかなる役目を果たすべきかを活発に討議し、そのうえで首尾一貫した 哲学にもとづいて国家百年の教育の計を立てねばならないであろう。
 しかるに中間報告はそのような討議が行われた痕跡すらとどめず、たまたま思いつきとして出された提案を羅列したにすぎ ないという感を与えられるにとどまった。
 わが日本ペンクラブはまったく自由な意思によって参加した文筆に携わる人によって成り立っているので、この十七の提案 に対する意見もさまざまでもあるが、二つの点においてわれわれの意見はほぼ一致したのである。
 一つは、中間報告の結論の部分で示される教育基本法の改定に関する意見である。教育基本法は、「日本国憲法を確認し、 民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする」理想によって作られたものである。しかるに中間報告は軽率にも、当時とは著 しく異なる現在の社会状況の中では教育基本法は改定さるべきであると断定している。しかしこのような理想は決して五十年や六十年で古くなるというものでは ない。教育基本法には伝統を尊重するということが盛り込まれていないという意見もあるが、教育基本法の精神は、日本の伝統のゆかしさを教えることと矛盾す るものではない。
 それゆえ教育基本法の改定は、少なくとも結果的には、教育基本法と密接不可分な関係にある日本国憲法の改定という政治 戦略の先棒を担ぐ危険をはらんでいる。憲法改定の是非はともかく、このような必ずしも民意によって選ばれているとはいえない「教育改革国民会議」のメン バーによって日本国憲法の外堀が埋められることは、民主主義の否定以外の何ものでもなかろう。
 もう一点、われわれが深い憂慮を感じるのは、小中学校で二週間、高等学校で一か月間の奉仕活動を行い、やがて満十八歳 の国民すべてに一年程度の奉仕活動を義務づけるという提案である。
 現在の日本の教育は知の教育に偏し、何らかの意味で身体を使う教育が必要であることについてはわれわれの多くが賛同す るところであるが、奉仕活動の義務化、特に十八歳の国民すべてに一年間の奉仕活動を義務づけることについては強い危倶を感じる。もともと奉仕活動はボラン ティア、すなわち自発的意思にもとづいて行われるべきことであり、法により義務づけられるべきものではない。そして十八歳の国民の一年間の奉仕活動の義務 化は、教育基本法の改定と並んで、将来の徴兵制への地ならしを行うものであるという疑惑を否定することはできない。
 なお文筆に携わる者として、われわれはこの中間報告の文章の拙劣さを指摘せざるを得ない。皮肉にもその文章は、改定を 要求されている教育基本法の簡潔にして論理的、しかも理想にあふれる文章に比して、それが各委員から出された提案をとりまとめたものであるとはいえ、あま りにも知性と品格を欠いている。それゆえ最終報告は、座長自らが筆をとり、現代日本における各界を代表する識者による会議の結論にふさわしいものたらしめ ることを望みたい。
  二〇〇〇年十二月十五日   社団法人 日本ペンクラブ
                     会長 梅原 猛

* まず真っ先に明らかにしたいのは、この梅原氏起草文の主部の「趣意」に、わたしは、(少し気になるところもあ るが、)ほとんど反対意見をもたない。異存無いのである。梅原氏が、何ヶ月か以前の理事会でこの趣旨を初めて発言されたときも、わたしは率先賛意を示して いる。従って以下に言うことは、上の「憂慮」の内実に対する異論ではない。「将来の徴兵制への地ならしを行うものであるという疑惑」に関連して熱心な討論 のあったときも、憂慮と疑惑とを共有する一人であることをわたしは明言し、この文言を割愛ないし変更することには反対だと発言している。「憂慮」そのもの に関してこれ以上を、ここで言う必要は無い。

* ここでは、問題を「文章」に限定して、再びもの申したい。梅原会長がこの文案の趣旨説明されるに当たって先ず 切言されたのも、じつは「文章」のことであった。
 梅原氏は、文筆家団体の公表する各種「声明」の文章に、かねがね不満があったと先ず言われた。文筆に携わる者たちの団 体が広く世間に向けて公表する文章は、もっと格調と品格のある名文でなければ恥ずかしいではないかと、真っ先に言われたのである。
 わたしはこの会長発言にもろ手をあげて賛同する。同じ趣旨のことは、この「闇に言い置く=私語の刻」にも何度か語って おり、そういう発言も委員会や理事会でわたしは繰り返してきた。粗雑で不透明な読みづらい「声明」が、わがペンクラブから出ていないとは、とても言えな い。それは、ペンのホームページに山と積まれた過去の「声明文」を調べてみればすぐ分かる。だが「声明」は文藝作品ではないのだという弁解も、無くはな かった。それにも必ずしもわたしは、すぐさま同意しないが、それもやむをえぬほど難儀にややこしい法制問題等に取り組んできたのは事実である。ただ、われ われは文筆家の団体であるという意識はいつもわたしには有ったということだ、だが、それは今は措こう。
 今日の、梅原会長による「品格と格調ある名文」をという「批評」そのものに戻ろう。繰り返すが、この批評にわたしは強 く賛同する。賛同し同意した上で、あらためて梅原氏起草の「文章」に目を向けてみる。こんな文章で、「憂慮」の一文は結ばれている。
 「なお文筆に携わる者として、われわれはこの中間報告の文章の拙劣さを指摘せざるを得ない。皮肉にもその文章は、改定 を要求されている教育基本法の簡潔にして論理的、しかも理想にあふれる文章に比して、それが各委員から出された提案をとりまとめたものであるとはいえ、あ まりにも知性と品格を欠いている。それゆえ最終報告は、座長自らが筆をとり、現代日本における各界を代表する識者による会議の結論にふさわしいものたらし めることを望みたい。」
 梅原氏は、この一文により、最後に「皮肉」を言ったつもりだと説明された。だがこれは、「文筆に携わる者」から「現代 日本における各界を代表する識者」たちへ、決定的な文「藝」上の喧嘩状を突きつけたのと同じである。むろん、それがイケナイとはわたしは言わない。ただ裏 返しに言えば、上記梅原氏の起草になる「日本ペンクラブ」の声明文は、「文筆に携わるプロを代表する識者」たちが差し出す文章であるぞと、さも自信に満ち て突きつける意味合いを免れ得ないだろう。「拙劣」でなく、「知性と品格」を兼ね備え、「文筆に携わる者」ならではの名文であるぞ、見習って書いて見給え と宣言したも同然に、もはや、なってしまっているのである。
 
* だが、果たしてその通りの名文であるのだろうか。違うのと違うやろかと思う人はいないだろうか。わたしは、それを「憂慮」したのである、誰より先ず梅原猛 会長の名誉のために、そして文筆家団体でペンに生きる「日本ペンクラブ」の名誉のために。
 
* わたしは、当然、その通りに率直に発言し懸念した。気分的には、梅原さんに諫言もしたいし、じつはわたし自身恥ずか しくもあった。今しも梅原さんの口から「格調と品格」が無くてはと聴いたばかりではないか。

* 結果から言えば、私の危惧に対し、理事会はただ一人の賛同者も無かったのである。それどころか梅原氏起草文へ の全肯定と賛美の発言が続出した。いちいち名前を挙げていてはキリがないほどで、中でものけぞるほど驚いたのは、作家である加賀乙彦副会長が、「まことに 優れた文体で、まったく問題がない」と断定されたことであった。
 わたしは終始「文章」のことを言っていたのだが、「優れた文体」どころか、わたしに言わせれば此の梅原文には、措辞と いい呼吸といい用語といい、「文体」なんてものは無いに等しく、凛々とも何ともない、まるで推敲不足の雑駁な文章に過ぎないのである。ま、まともに読めそ うなのは出だしの一段落ぐらいか、あとはもう、筆勢も語勢も整わないしどろもどろなのだ。そのことは「賛美」の声を振り払うようにして梅原氏自身が「弁 明」されていたように、氏の、此の日頃の文章文体とは違い、生硬で、わるくいえば声高に言い募るだけの演説に近いのであり、誰かがいかにも「梅原さんらし い」と褒めていたが、逆に、いつもの「梅原さんらしくない」ぎくしゃくした雑文なのだ。(梅原さんの書くものを、わたしほど多年継続して多く読んできた人 は、そういるものではない。)
 試みに書き出しの「われわれ文筆に携わるものは、国の教育のあり方について関心をもたざるを得ない。」という一行を じっと眺めてみても、まことに当然そうな提示・正論ふうでありながら、何故に「文筆にたずさわるもの」「は」なのか、と我が身に問い返してみると、論理が 立っていないことに気づくであろう。「 国の教育のあり方について関心をもたざるを得ない」のは、なにも「文筆に携わるもの」「は」と特定・限定できるわけがなく、この調子を「格調」が高いなど というのは間違いで、単に筆者の気持ちが高ぶっていただけの話なのである。微妙に助詞の用い方が気ままで、こういう我が身にだけ引きつけた文章では読み手 を説得できないし、説得できない文章をいい文章とは呼べないのである。そういえば、誰だったか一人の理事が、帰り際にわたしの処へ寄ってきて、「一種の悪 文ですよ、あれは」と苦笑を呈して行った。

* もしかして、この理事と同じことを思っていた人がいたのなら、率直にそう発言して欲しかった。何故なら、梅原 会長が「自ら起草」した「初」の声明文であるからと言って、これは「梅原氏一人」の私的発言でも私的文章でもないのだから。「日本ペンクラブ会長」の名で 世に出るかぎり、それは会員の総意としてなのだから。万一恥を掻くとしたら梅原氏個人でなく日本ペンクラブが恥を掻くのだから。
 今日の理事会の議論には、どこか、「会長」がやることだものという気分すら漂っていた。そう感じた。だがそれでは、わ るくすれば梅原さん一人を二階に上げておいて梯子を外すようなことになりかねない。梅原氏は再三「責任はわたしがとる」と繰り返したが、責任の取りような ど有る筈が無く、事はやはりペンクラブの全体責任になることであって、軽率に口走れば、「駟も舌に及ばず」の類となるのである。

* 上の声明文を、本気で「品格と格調」のある「優れた文体」だと思っているような人には、わたしの、この話は通 らない。無理に押そうとも出来ないから、会議の大勢に要するに押し切られるに任せたが、もし、わたしのところへこの程度の文章を持ち込んでくる「文筆家」 があれば、人と事情によっては妥協するかもしれないが、まともな相手なら相手ほど、その人のためにも、もっとよく推敲して下さいとお返しするだろう。それ ほど、これは雑なものである。書きなぐってある。少なくも推敲できていない、決定的に。
 梅原さんはもともと丁寧な名文家ではないのだから、また悪文で面白い文章というのも有りうるのが文藝の妙味であると承 知しているから、必ずしも名文であれなどとわたしは求めない。しかし上の梅原氏の文章は、明晰でもなく、軽快・簡潔でもなく、重厚・達意でもなくて、梅原 さん自身の述懐によれば「かあっとして」書いたもの、冷静な自己批評の、つまり推敲のさっぱり出来ていない、まずは走り書きのようなものに、わたしには読 める。そこが尊いと言いたげな弁護も聞かされたが、贔屓の引き倒しというものであり、そんなオマージュは、梅原さんの私的な文章に対して勝手に捧げてもら いたい。

* そこで、わたしは、せめて、「拙劣」の何の「知性と品格」がどうのといった子供じみた最後の方の文言を削った らどうかと、念を押してみた。だが驚いたことに、上に引用した喧嘩腰の最後の一文こそが「必要」なのだ、ぜひ「残すべきだ」と声が出揃ってくる。そうかな あ、どうみても、公開の公式文書にしては、知性と品格に欠けた「最後っ屁」のようにわたしには思えるがなあ。何より恐れるのは、へたをすれば、この箇所だ けで「売り言葉に買い言葉」の口喧嘩へ脱線しないともかぎらないこと。それでは肝心要の「憂慮」から関心や議論が逸れてしまいかねない。そう心配してわた しは頑張ってみたが、誰一人耳を貸しては呉れなかった。
 「憂慮」を突きつけられた側が、グの音も出ない格調高くて品格豊かな我が方の文章なら、わたしはこんなことは言わな かった。だが、突きつけた相手から、逆に揚げ足取りの失笑を買うような、揶揄と軽侮の言いがかりの付きかねないようなことを、梅原さんにもして欲しくな い。「文筆に携わる」団体としてもぜひ避けたい。それが、わたしの真意だった。
 梅原さんが、かつて『水底の歌』などで論敵をやっつけていた調子は、ただただ勇ましいものであったが、この「憂慮」の 中で、拙劣だ、知性と品格がないとやっつけている相手方の表現については、わたしは、今ここでは触れない。そうであろうと無かろうと「われわれ」の此処で の問題ではない。上わ手から説法を垂れるなら、それらしい足場か見せ場が要るだろう、それが呈示できていないではないかと窘めたまでの話である。余 計な「文章」の挑発さえなければ、上手も下手も、ま、論外に置く気ならおけるのだから。「憂慮」は伝わるのだから。
 
* ともあれ、終始わたしは苦笑と失望とで、うんざりしていたが、それなら「黙っていた」方がよかったというワケにも、 実は行かなかったのである。あれはいけませんよ、あんな品のない、大学の立て看板のような文章を「ペンクラブ」が出してはいけない、どうか、あなたがそう 言うてぜひやめさせて欲しいという「声」を、わたしは前もって聴いていたのである。 「声」の主の名は、約束だからわたしは喋らなかった。
 おそらく、その同じ「声」がじかに理事会で発されていたなら、空気は、よほど異なっていただろうなと、これにはわたし の力足らずが悔やまれるけれど、だが、だから無理に発言したのでは決してない。自分でそう実感したことを丁寧にその通り話したつもりなのである。
 くだんの「声」の主は、事前に加賀乙彦さんにでも伝えられたらと思っていたのだが、連絡がつかなくてということであっ た。文章文体や品格や格調に関して、その「声」は加賀乙彦氏を信頼していたということだが、だから、わたしはのけぞるほど驚いたのである、「これは優れた 文体だ」と加賀乙彦氏は言いきったのだから。「文体…」だって。何だこの人はと感じた。文章と文体の違いを踏まえてなお「優れた文体」だと言われているの なら、 オドロキだと思った。そこまで言った人は、流石に一人もなかった。

* 梅原さんは、最後に、「これで書けていると思う」と、自らの文章を肯定され、そのまま記者会見に配布と決まっ た。
 「文章」の議論にはキリがないと、諧謔気味に、「秦さんとわたしとで『文学』を競えばいいことだから」と切り返され た。 これは一面で正論であろうが、正面の指摘に答えられたわけではない。「憂慮」の文が相手に手渡されて、まともに憂慮に応じ考えてくれるならいいが、「文 章」での果たし合いにだけ冷笑混じりで応じられるのはイヤだなと思う。愉快ではない。

* ところで文章文体の表現で梅原さんと競うとなると「小説」だろうか。だが、こと小説に関して梅原猛をライバル などと目したことは一度もなかったし、今後もない。その日本学の幾つかを「猛然文学」「非小説」と過去に「批評」しただけである。梅原さんと小説を競って 何に なろう、そんな気があるわけなく、わたしはわたしの表現と境涯を、落ち着いて、願うだけである。競うなどおこがましいが、考えるならば当然ながら潤一郎や 漱石や藤村や直哉を念頭に置きたい。 いや、それも考えない。

* 文章・文体は文筆人の生命である。どうも、そうも思っていないらしい人が、大勢、大勢、いるけれど。
 その文章文体に関して、かりにも報道陣に公開の理事会で、現会長の文章を指さし、「よくない」と公然批判し撤回しな かった以上、また「私語」とはいえここにこう書いている以上、任期切れ間近ながら、事実上これが、気持ち「理事辞表」に相当するものと、わたしは考える。 梅原会長に対し、失礼は失礼に相違なかったからである。その点はお詫びを申し上げる。「憂慮」の趣旨を支えている会長の戦争観や護憲の考えには、深い信頼 を寄せてきたし、今も少しも変わらない。
 よくない、やめた方がいいと本気で思っていたことを本気で言ったのだ。他の理事にも分かって欲しかったが、まさか「優 れた文体だ」とまで作家の口から飛び出すとは、かりにも代表的な文壇人の理事会で、思いも寄らなかった。多数の一般会員がどう考えられるかまでは分からな いが、こと文章文体に触れて、これほど截然と意見が分かれ、孤立するというのは、わたしの文藝観に至らぬものがあるのだろう。もう一度も二度も「憂慮」の 一文を読み直して「優れた文体」を勉強し直すとしよう。
 理事会には、あと二度出れば今期の役目は果たせる。出席するし、言うべきは言う。来期のことはわたしの知ったことでな く、成り行きにまかせる。
 
* 会議のあとは講談社のパーティーにちょっとだけ顔を出して、マロングラッセをお土産にもらって、そして「クラブ」で 暫くくつろぎ、もうどこへも寄らずに、結局、ホテルから近い丸の内線をつかって、帰った。
 

* 十二月十六日 土

* 早くもペンクラブの一会員の反響があった。お断りして此処に書き込む。いろんな考え方の人がいるのである。わ たしには異論もある。「憂慮」の実質に関する議論は、それこそ必要とよく承知の上で、だが、この際は別にしたい。梅原会長の起草になる声明文への感想とし てまずは受け取った。

* 梅原会長の声明文を拝見しました。
 教育基本法にそって教育を受けてきた私は、教育基本法・・・私の受けてきた教育・・をすべて肯定して良いものなのだろ うか? 改訂が即「憂慮と疑惑」につながるのだろうか? という疑問を持っています。
(あえて率直に述べさせていただきます・・・)
 そんな疑問を持つものにとって、この声明文は何も心を打つものがなく、論理的に説得してくれる「知性と品格」を感じら れませんでした。
 具体的に言えば、
 「教育基本法の精神は、日本の伝統のゆかしさを教えることと矛盾するものではない」とありますが、私の受けてきた教育 の中で、日本の伝統のゆかしさはまったくと言ってよいほど伝えられませんでした。むしろ欧米の文化を尊重し、日本伝統文化を軽んずる教育を受けてきた気が します。
 21世紀 日本の伝統のゆかしさを教えることがすぐに国粋主義に結びつかない時代に入ったのではないでしょうか? (秦さんは、こう考えること自体、憂慮すべきことだとおっしゃるかも知れませんね。)今こそ、日本の伝統文化を次の世代に伝えていく必要があるのではない でしょうか?
 そんな思いを抱いている私に、「矛盾するものではない」は、心に響きませんでした。
 「十八歳・・・・地ならしを行うものであるという疑惑を否定することはできない」
  確かに、十八歳で全国民が一年間奉仕活動を行うという発想は、徴兵制度に結びつく疑惑につながりかねないものですが、「疑惑を否定することはできない」と いう表現は心に訴えてくるものがありません。
 この二つの部分がポイントだったのではないでしょうか?
 私のように、「本当に即憂慮と疑惑につながるものだろうか?」という疑問を持つ者をもよく説得できる「論理性、心を打 つ格調の高さ」に欠けている気がしました。
 さらに、「中間報告」を「拙劣な文」「知性と品性に欠ける」と言い切ったことは、肝心の論点をこの論争へそらす結果に なり、文体論で相手に上げ足をとられかねないと思います。最後の文をわれわれのペンにあてはめてみれば、「この声明文は会長自ら筆をとり、文筆家を代表す る識者による会議の結論」です、と、なります。それにふさわしい声明文であると胸を張って言い切っているのと同じ姿勢です。そうだと言い切れるのでしょう か。
 以上まとまらない悪文ですが。「憂慮と疑惑」については、深く考えてみたいと思います。しらずしらず流されないよう に・・・。

* 政権政党の真意を窺い取るには危機感に不足し、また伝統文化を論じるには足場の構築がよく見えてこないが、 「メール」なるものの限界であろうか。それでも、趣旨はハッキリしている。十分年輩の、東大卒の方である。ご意見のある方はお聞かせ願いたい。

* 三百人劇場での劇団昴公演「クリスマスキャロル」は、歳末の定番上演であるが、しかも公演ごとに工夫も凝らさ れて、新鮮さを失わない。清らかに思いの澄む古典劇であり、明快に場面が展開し、大人も子どももぐいぐいと引き込まれる。もう分かり切っている筋書きなの に、いつか固唾をのんでいて、そして涙したり笑ったり。子役達もよくやり、何と言っても主役が良かった。どの配役の身動きにも、演出効果か、不自然さが無 く、単にリアルなのでもなく、行き届いた演劇センスであった。終幕の拍手の盛んで長かったこと、いかに観客が感銘を受けていたかがよく分かった。わたし も、惜しまず拍手した。正月に能の翁で新年の清まはりを慶んでくるように、文字どおりのクリスマス劇で心身の洗われる嬉しさを覚えてきた。

* 千石から春日まで地下鉄で動いて、弓町のフランス料理「楠亭」を楽しんできた。画家甲斐荘楠音の故縁の地であ り家屋敷であったのが、大楠のみ残してビルに建て替わり、その一階が清潔な食堂に変わっている。前から一度このレストランに行ってみたかったのが実現でき た。料理には風格があり、器にも風格が感じられて、全体にすっきりとした味わい。前菜からスープから、量はさしたることはないが、それも糖尿のわたしには 有り難く、今宵はことに赤のワインの口当たりが抜群に良くて、飲めてしまってかえって弱った。
 妻は、今日は女学校以来の友人と音楽会に。
 本郷三丁目からまた大江戸線で練馬へもどり、西武線に乗り換えて帰宅。

* だめかと諦めていた正月の大和屋襲名披露初春興行に、佳い席が取れた。妻もわたしも八十助の踊りが好きで、三 津五郎に化けての「喜撰」が先ず楽しめる。高麗屋の「熊谷陣屋」もある。団十郎の「式三番叟」が殊に初春祝言として有り難い。新世紀新春早々に佳い夢が見 られる。嬉しい。
 

* 十二月十七日 日

* 教育基本法にかかわるテレビ討論を朝からやっていた。町村新文部大臣も出ていた。基本法は素晴らしい理想を佳 い文章で表明した、世界にも誇れる法であり、その理想が十分に達成できていないのは惜しくもあり残念でもあるけれど、さらに法の精神に基づいて達成して行 こうと思いを新たにするのこそ当然の姿勢ではないか。何を、どこを、変更するというのか。それが田島力氏らの法改定反対の論拠であった。
 それに対し変革会議の議長だか会長だかは、世界的に普遍の理想法であるにしても、それゆえに「日本」の顔が見えないか ら「日本の伝統」などを加味する必要があると反論していた。
 そのような運営上の工夫は、法自体を変更しなくても、技術的に十分可能なように道も付いてある、それなのに強いても法 をいじろうというのは、「伝統」の名において復古反動への足場を得たいだけではないか、というのがさらに反論であり、これには、わたし自身の意見も加わっ ている。
 昨日もらったペン会員のメールにも、「日本文化の伝統」ということが言われていた。それ自体その言葉のかぎりでは、特 に問題はない。もしこのわたしの経歴に多少のメリットがあったとするなら、大方が日本文化の伝統から得たものだと断言してもいい。ただ、わたしの念頭にあ る「文化」とか「伝統」というものと、法に不備を唱えて同じ言葉を用いている人たちとが、果たして同じモノを見ているかどうか、見方が同じかどうか、とな ると甚だ危うい落差が無いではなく想像される。なにしろ、ついこの間に「天皇中心の神の国」らしい教育が大事だと放言した森首相の内閣であり、その森派の 知恵袋の一人である町村文部大臣なのである。
 ちょっと一例をもってするが、よく日本の伝統文化というと「能」を挙げる人が多いのだが、以下にわたしの書いた一文を また再録する。翁も伝統、天皇制も伝統、として、よりどちらが圧倒的大多数の日本人が心身に保有する伝統文化に膚接しているか。

* 翁と天皇(原題は、能の天皇)   秦 恒平    
 天皇を中心にした神の国という国体観で、われわれの総理大臣は、厳かに、勇み足を踏んだ。踏んだと、わたしは思うが、 思わない人もいるだろう。
 能には、神能という殊に嬉しい遺産がある。「清まはる」という深いよろこびを、なにより神能は恵んでくれる。それでわ たしは行くのである、能楽堂へ。神さまに触れに行くのである。
 神能に限ったことでなく、数ある能の大方が、いわば「神」の影向・変化としての「シテ」を演じている。そういう見方が あっていいと思う。シテの大方は幽霊なのだし、たしかに世俗の人よりも、もう神異の側に身を寄せている。そしてふしぎにも、あれだけ諸国一見の僧が出て幽 霊たちに仏果を得させているにかかわらず、幽霊が「ホトケ」になった印象は薄くて、みな「カミ」に立ち返って行く感じがある。みなあの「翁」の袖のかげへ 帰って行く。その辺が、能の「根」の問題の大きな一つかと思うが、どんなものか。
 能には、神さまがご自身で大勢登場される。住吉も三輪も白髭も高良も杵築も木守も、武内の神も。また天津太玉神も。そ れどころか天照大神も、その御祖の二柱神までも登場される。能は「神」で保っているといって不都合のないほどだが、但し、いずれも「天皇」制の神ではな い。それどころか、能では、いま名をあげた神々ですら、天皇にゆかりの神さまですら、それまた能の世界を統べている「翁」神の具体的に変化し顕われたもの のように扱っている。イザナギ、イザナミやアマテラスが根源の神だとは、どうも考えていない。或いは考えないフリをしている。「翁」が在り、それで足ると している。そうでなければ、歴代天皇がもっと神々しく「神」の顔をして登場しそうなものだが、だれが眺めても能舞台にそういう畏れ多い天皇さんは出て見え ないのである。
 隠し藝のように、わたしは、歴代天幸を、第百代の後小松天皇までオチなく数え上げることが出来る。お風呂の湯の中で数 を数えるかわりにとか、最寄り駅までの徒歩が退屈な時とか、今でもわたしは神武・緩靖から後亀山・後小松までを繰り返し唱えるのだが、後小松天皇より先 は、全然頭にない。出てもこない。少年時代の皇室好きも、南北朝統一の第百代まででぴたり興が尽きて、あとは群雄割拠の戦国大名に関心が移った。(現在は 百二十五代平成今上まできちんと暗誦できる。)
 観阿弥や世阿弥の能は、この後小松天皇の前後で書かれていたはずだ、が、舞台の上に「シテ」で姿をみせる在位の天子 は、たぶん「絃上」の村上天皇ぐらいで、ま、「鷺」にもという程度ではないか。崇徳も流されの上皇だし、後白河も法皇である。崇徳も安徳も「中心」を逐わ れた敗者であり、村上天皇ひとりがさすが龍神を従えた文化的な聖帝ではあるが、森首相のいうような統治の至尊でなく、いわば優れた芸術家の幽霊なのであ る。
 歴代天皇の総じて謂える大きな特徴は、この文化的で芸術家的な視野の優しさにあった。またそういうところへ実は権臣勢 家の膂力により強引に位置づけられていた。その意味で、森総理の国体観は、意図してか無知でか、あまりに「戦前ないし明治以降」に偏していて、天皇の歴史 的な象徴性をやはり見落としていると謂わねばならないだろう。
 総理の執務室に「翁」の佳い面を、だれか、贈ってはどうか。 (新・能楽ジャーナル創刊号 2000.9.1 所収)

* 理屈をこねる必要はない。こういう世界観が、山や海や田畑や河川から、つまり日本の自然の中から生まれてい て、国土安穏・五穀豊穣・皆楽成就の祈りを「翁」を頼んで得てきた「暮らし」があった。日本の文化はそれを基盤に生まれていたのであり、じつは天皇も天皇 制もその所産の一つにすぎなかったのであると、「能」三百番は示唆している。「天皇を中心にした神の国」を下心に庶幾するばかりの伝統の理解が、極めて反 日本的に偏したものであることを、先ず真っ先に政治や教育を弄くりまわそうという人たちに覚えていてもらいたい。純然と伝統文化を尊敬するなら、純然と子 弟の未来を案じて教育の理想を充実させたいと願うのなら、なおさら天皇中心の「教育勅語」的日本の復古と復活を根から清算して取り組んで欲しいのである。 教育勅語の文言を部分に切り出して是非をいうのは言辞のトリックであり、勅語という語彙も明示している如く、あれは徹頭徹尾「汝臣民」は「天皇」によく仕 えよ、そのために斯く教育せよとの上意下達以外の何ものでもない。それで民主主義は守れない。民主主義はやめ、強権支配の国民教育を都合良く進展したいと 思う下心があるから、教育勅語の部分部分を切り出して見せて、こんな良いものなのだからとインチキを平気で言いだし兼ねない教育改革など、物騒千万なので ある。 
 心からの善意で日本の文化のすばらしさを子ども達に教育して欲しいと願う人は多いだろうし、わたしもそれに反対などす るわけがない。沢山なことは出来ないだろうが、たとえば日本美術のいいものを見る機会があればとは思う。民話やお伽噺に親しませ、また各地方言と祭りの存 在意義を良い意味で理解させたいと思う。
 だが、実は、政権の中枢にある人たちは、そんなことは余り本気で考えていない。改革会議の人たちの総意とも、本音の処 は深刻にずれているだろうと思う。諮問しておいて実は都合良く「政権による国民支配」の道を地固めしたいのであろうと、ほぼ、わたしは断定的に推測してい る。ペンが公表した「憂慮」の声明もそこを案じているのである。

* しかし、あの「憂慮」声明は読めば読むほど、あれで人を説得する力はない。ま、文藝の冴えがない。あんな短文 では説得しきれないと言えば、その通りであろう。梅原会長は、改革会議の座長を挑発するなら、文章のような自分の側の土俵へでなく、例えば「公開質問状」 または「公開討論會」を挑まれるべきであった。教育問題はなにも「文筆にたずさわる」我々だけの関心事でなく、広く国民一般の課題なのだから、後楽園の ドームを満員にしてそこで、梅原さんと向こうの座長とが直接討論し、我々も参加して意見を戦わすぐらいな大きな戦略を持たなければ、この戦には勝てないの ではないか。何かというと「声明」と記者会見とでお茶を濁してきたが、それはもう自家中毒であり、やらないよりはマシ程度のものになっている。その証拠 に、あの「憂慮」声明を全文掲載した新聞などの報道媒体は無きにちかいのではないか。

* 中国に旅行して、中国国家の、美術品レプリカ製作にかける意欲の深さに感心したことがある。名作はそのもの は、その一点、それ以外にない。国土の広さからしてその一点に直接出逢える機会は当然稀である。だから精巧なレプリカを各地の施設に送り込むのだと。わた しは、日本の誇る国宝のうち、せめて三十点を選びに選び抜いて見事にレプリカを創作し、各府県の公立美術館に、必ずそのための一室を用意させるようにして 欲しいと前から願ってきた。言ってきた。また、主要な国公立美術館ならびに寺社の拝観を、高校生三年間に限り無料にすべきだとも言ってきた。「伝統文化 を」とそうまで言うのなら、それだけをするのでも、素晴らしいではないか。法律を弄くる必要はない。それに、狂言はまだしも、能などを少年少女に強いてみ ても始まらない。歌舞伎や人形浄瑠璃ならばまだしも面白いだろうが、能楽堂では、手だれの批評家でも寝入っている。なみの客の八割がうとうと寝ている。そ ういうものなのだ。 
 

* 十二月十七日 つづき

* 京都精華大学名誉教授笠原芳光氏から、原稿を「贈」られた。新聞原稿と講演録である。なんと喜ばしい。エッセ イはすでに「e-m湖umi」第五頁に掲載した。笠原氏は亡兄北澤恒彦の若くからの知友であり、最晩年に講座をもっていた大学での同僚でもあった。ご縁に 感謝したい。

* 石久保豊さんの短編小説を第二頁に掲載した。作者は卆寿をすでに越えた独居老女であり、わたしへの自称「押し 掛け弟子」である。作品は、若い昔のものを再録したのでなく、まちがいなく現在の作であることを保証する、が、その筆、じつに若い。簡潔に女と男を書き きって、若いわれわれの顔色をうしなわせる。一の傑作と賞してはばからない。名は体をあらわし見識も知識もゆたかな、なによりも精神健全なみごとな女性で ある。「女徒然草」をお書きなさいと勧めているほど、はや百通に余る書簡は、面白く、またいつも心を励まされる。

* 鳥越ニュースキャスターの「ザ・スクープ」が、小渕前総理の最期の病状・病室のことを、病院内からの内部告発 とともに詳細に伝えて、当時の青木官房長官の言明が真っ赤な嘘・偽りであり、当時の小渕氏が青木氏を首相代理に委嘱するなど到底ありえなかったことを明確 にした。森擁立等の画策は、すべて青木氏のその虚偽の地位と権限を頼んで進められ、この後継首班は不当・不法ないわれなき五人の密室内決定によりウヤムヤ に決められたのであったことも、ハッキリした。「憲法違反」「党則違反」の、民主主義を蹴散らす暴挙であると、信頼できる政治評論家の森田実氏は断言。朝 にも、田原総一朗氏は口を極めて、自民党新四天王とかいわれている四人の代議士を追いつめていたが、一人として憂慮や反省を語った者はいなかった。これは 忘れまい。
 鳥越スクープの後追いが大いに盛り上がって欲しい。
 例によってまた野党の中がひび割れ気味に揺れているようだが、眦を決して敵は政権与党と睨み据えたまえ。
 

* 十二月十八日 月

* 突如として京都の菩提寺から、新年の「寺報」に原稿を書けと、待ったなしの電話。お寺さんには勝てない。

* わたしの信、念仏、法然   秦 恒平 (常林寺檀家)
 「ご平安に」と書き添えて手紙を終えることが多い。「お平らに」「お静かに」という挨拶にどこかで似ている。過ぐる 「前世紀」にもそう声をかけて見送った。「新世紀」を迎えての気持ちも同じである。斯くありたいと願っている。
 兄は彦根で生まれて父の名をもらい、恒彦といった。わたしは昭和十年の末も末に平安京で生まれて、恒平と名付けても らった。そう朧ろに聞いている。さきの師走に、だから満六十五歳になった。兄には前年秋に死なれた。生みの親、育ての親、妻の親たちもとうに此の世にいな い。妻の兄ももういない。それが不思議とも、それが自然とも、時々の気分で受け入れながら、いつか死ぬ日のことを、気ぜわしくもなく思い入れていたりす る。
 無常は迅速だという。だからどうすればいい、わるい、と惑ってばかりなのも苦しい。死が、一瞬の好機かのように訪れて くれれば有り難いと思うが、そううまく行くまい。「ご平安に」と人さまを言祝ぐのは、我が内心の「不安」が照り返しているからかも知れぬと苦笑しつつ、い わば「待老期」に突入した実感を、静かに胸に抱いている。六十五なら立派に年金年齢ではないかと言われても、母の一人は、九十六歳まで長命している。あま す三十一年かと指折れば、そう老人がっていられない。で、好きな句を小声で口にする。 

  明日への信いくらかありて種子を蒔く  能村登四郎

 沙石集であったか、本の題は朧ろになっているが忘れられぬ話がある。高徳の僧が庵居して行い澄ましていたが、あ る日、裏山から崖崩れし、庵ごと埋もれてしまった。人々が急いでかけつけ、かろうじて師僧は救い出された。幸い五体は無事であった、のに、ご本人は浮かぬ 顔をしている。命助かっての浮かぬ顔はと問われて、僧はこう答えている。山が覆いかぶさって来た咄嗟に、わしは「南無観世音菩薩」と唱えてお助けいただい た。あの時に、なんで「南無阿弥陀仏」と唱えて西方浄土に迎え摂っていただかなかったかと、それが、残念でならない……。
 この説話、深読みも利きそうにわたしを永く惹きつけていたが、今は、さほどでもない。一瞬の好機をのがした話と謂える が、素直に、良かったではないかとも思う。あまり高徳の人の言とも思われないし、現世利益の観音と摂取不捨の阿弥陀とをあざとく対比して見せた説話の手ぎ わも、やや鬱陶しいのである。右の掲句に謂う、いくらかの「信」の方が、まだしも仏様に嘉みせられるのではなかろうか。
 わたしは現代を生き、明日へ歩んでいる。頭の中には、一例が三部浄土経や般若心経の意義も、また古事記や源氏物語もい つも生きているが、インターネットの電子の網に対するグローバルな好奇心や信頼も旺盛に巣くっている。地獄を信じないように、極楽のことも、それ自体とし ては信じていない。ただ、往生極楽にふれて法然上人が最後の最期に『一枚起請文』を遺して下さった恩徳の広大は、こころから信じ、ただもう感謝に堪えない のである。この気持ちを、道筋立てて説明する気にはなれない。説明できないとも出来るとも考えないのである、考えていては信じていないのと同じである。
 平安に生き終えて平安に死んで行くのに必要なのは、わたしには、法然上人の教えて下さった「南無阿弥陀仏」で足りてい る、他は無用で、頼りに成るとは思わない。

* とうに第一期の討議を終えていた情報処理学会の「文字コード委員会」再開の召集がかかった。師走二十二日だという。東京タワーの足元の機械振興会館会議室 まで出向くことになる。先日も坂村教授の講演を聴いたあと、文字コードと文字セットのことなど、少し此処に書いたばかりだ。大事な問題であり関心はある。 ペンクラブから出向という建前も有ることなので、小中専務理事には報告して置いた。
 ナンボナンデモ、これで、今年の会議会合は終わって欲しい。今週は、今夜の猪瀬直樹事務所忘年会に始まって、金曜日の この委員会まで、一日の休みなく都心へ出て行く。カレンダーを見たら、ラクになるはずだった師走の約束事が、半分以上の十七日分もあったのだから驚いてし まう。むろん楽しみ事も含まれていたのだが。寒い。よく冷える。
 

* 十二月十八日 つづき

* 原宿駅から宵の口をほぼ四十分歩いた。宵の原宿から表参道へ、さすがにハイファッションのメーンストリート は、目を、たっぷり楽しませる。
 わたしは、女性のファッションに無関心な方ではない。身近にいて永年交際のある人たちはそれを知っている。原宿辺で、 目の楽しむファッションがそのまま「好み」なのではないけれど、かなり分かる。美学を学んで衣裳の美には終始関心があったが、自分自身でお洒落をしたい・ できる、というワケではてんでなかったのだから、わたしの場合は批評ないし鑑賞眼にだけ「意識」があった。自分の格好にはてんで無関心であった。今もそう だ。だが今宵の原宿散歩は、いろんなウインドウをのぞきながら、なんだか久々に楽しめた。店の中の店員達はヘンなオッサンと思っていたに違いない。
 ちょっと家を出る時間が早すぎたのである。表参道から根津美術館前を経て十分の忘年会場へ行くのに、原宿駅に降りて一 時間も余裕があった。それで乗り換えの地下鉄をやめて、ゆっくり歩き通したのである。

* 猪瀬直樹事務所の忘年会は「WIKI WIKI」とかいったバアで、あった。大勢の来客で広くない会場はごったがえす盛況。テレビと出版と報道のマスコミ客が主で、文壇系の客は数えるほどもい なかった。ペンの委員会、理事会の者が数名いたか。そして、だれもが、「知った人がいない、いない」と知り合いを捜し求め、「ああいたいた」と喜び合って いた。繪に描いたように、マスコミの多彩さと存外な寂しさとが混在同座していて、しかも大いに賑わっていたのは、それぞ「マスコミという世間」の風儀で流 儀で、たぶんに作法でもあるのだろう。けっこうそれが面白くて、わたしは案じていたより大いに楽しんだ。十数人は知った人がいて話し合えたし、知らぬ人に 声もかけられ、声をかけもした。徹頭徹尾赤ワインをのみつづけ、終始一貫、生の牡蠣を食べていた。主人公の猪瀬君には、そんな中で、しきりに気をつかって もらい、居心地はなはだ結構であった。だが、しつこくは尻を据えず、適当にそっと失礼してきた。
 主人公と同期の友人だという竹内整一さんも見えていて、なんと原善も、竹内さんにくっついて来ていた。善は、竹内さん のむかしの教え子なのである。その原君ももう外に出ていて、二人で、またも原宿駅まで、てくてく夜道を歩いて戻った。男二人で歩く道でも時間でもなかっ た。

* なお、あと四連日の外出が待っている。どうしても食べて飲んでが過ぎるだろう。そして正月が来れば「餅」と 「酒」がついてまわる。よほど心して臨まないと、もとの木阿弥に戻りかねない、用心用心。

* 失恋したらしい青年の「うーん、参りました。傷心です。けっこうきついです」と呻く、長いメールを受け取っ た。「なんでもかまいません。叱られても結構です。すこしお話をください」と言ってきた。よくよくであろう、が、どれほども適切なことが言えるわけではな い。ただ、いろいろと独り言のように話してみるのを、聴いていてもらうしかない。彼の気持ちは痛いほどわかる。恋の相手とはわたしは一面識もないが、奇遇 にもそのご両親とは浅からぬご縁のあることも、メールで知れた。初めて知った。だからと言って、どうしてあげようもあるわけでない。世間は狭いなと、また 呆れて思うばかりである。

* こうして吐き出してくれたので、すこし安心です。いま、いつもより遅めにメールを開きました。きみが、あの親 愛な* *さん夫妻のお嬢さんと出逢っていたとは。それにもビックリしています。お嬢さんとは会ったことはないのですが、亡くなったお父さんとは、どことなく魂の 色が似ていました。死なれて寂しかった。奥さんとはいちどだけパーティーで挨拶しました。品のいい美しい奥さんだったと覚えています。奥さんが湖の本を読 みつづけて下さっているのだと、払い込み用紙の住所で思い当たりました。お名前などは知らなかったので、しばらく気が付かなかった。
 真剣に恋をすると、百冊ぐらいのいい本を熟読したより多くを得、だが、また、かなり多くを失ったりもするよと、よく大 岡山(東工大)で話していました。失ったものは、だが必ず深いなにかを添えて帰ってくるよ、とも。それから、失恋しそうなとき、失恋してしまったとき、あ きらめるのを急がなくてもいい、そういうときは自分の心に問を発し続けて、恋のリアリティー(本性)をよく納得してみること、エネルギーが自分の中で存外 にもう切れていたか、まだフツフツと煮えたぎっているかは、まず自分で自分に聴いてみることだ、とも。
 人間はなまもので、恋を感じているときは、そのなまものが、よかれあしかれ発光しています。自分にも相手にもその光が まだ感じ取れるかどうかの視覚は、微妙だけれど、直観の利くものです。なまものであることは、うとましいことではなく、生きている喜びに通じている。だが 悩ましくて堪らないことでもあります。そして耐えるのは、きつい。
 きみの恋が、質的にもどの過程にあったのか分からないので、わたしは見当違いを言うかもしれないが、恋を恋い重ねて、 豊かに成れる人がいます。一度の恋に命と人生を賭ける「若きヴェルテル」のような男性はむしろ極めて稀で、またわたしは特に称揚しません。きみのもう三十 近い年齢からみて、この恋が、なお実りの可能性を感じさせるのなら、捨てるのは惜しいではないかという気も、わたしには、あるなあ。
 君は、風貌の魅力ほどには、自身の内面のちからを人に伝えるのは上手でないと思われます。内から外へ開かるべきパイプ が、個性的に迂回しているか、屈折しているか、全開していないか、その辺は微妙だけれど、とにかく出てくるタマが、とかく、カーブしたりドロップしたりし がちなため、素直なバッターほど、タマが見定められずに空振りさせられるのかも知れない。悔しいしイライラもするだろうなあ。短期の勝負には凄い武器であ めけれど、長い付き合いとなると、もうバッターがバッターボックスから出てしまい、なかなか打ちに来てくれないかも知れませんね。
 へんな言い方だが、きみ、苦手意識を他人にもたせるのがウマイとも言える。男社会ではそれもごく有効なのでしょうが、 恋する女の人は、そういう変化球はもともと女が用いるハズなのにぃと、案に相違して自分が翻弄されていると拗ねるかも知れない。今度の場合がそうだなどと は言いません、知らないのだから。一般には、そんなところが男女の間にまま有ると言うのです。
 君の言葉が、打ち出すタマごとに発射速度の異なるピストルかのように女性に対し作用することは、あり得る話です、その 揺さぶりに女の気持ちが、快感からいつか苦手感に沈んで行くのも、全くあり得ぬ事ではないでしょう、多少きみに自覚も有りましょう、か。
 しかし人はそうそう変身できない。要するに「魂の色の似た」同士なら、よほどのことがあっても、お互いに相手を「受け 取れ合える」と言うに尽きるのかな。
 人生は底知れぬ穴です。必ずしも穴が深いとも浅いとも分からない。底知れないのだから判断できない。そこを判断し勇気 をもって底知れないところへ踏み込まねばならぬのが、我々の業であり、ひょっとして人間にだけ楽しめる特権かも知れない。
 いくらでも話し相手をしてあげるよ。遠慮なくメールください。時間さえ折り合えば顔も見に行く。世紀末のぎりぎりにす る体験にしてはきつくて重いが、新世紀へ、りっぱに活かしましょう。

* ああ、とてもとても、旨く話せているとは言えないが。
 

* 十二月十九日 火

* 辻下淑子さんにお願いした自撰五十首「ベツレヘムの星」を掲載した。さすがに、よく選ばれた充実の魅力で、感 じ入った。原稿から書き写して行きながら嬉しかった。力量有る人の「自撰」という美意識が魅力に富んでいることは、古来多く実例があり、それは詩歌人の優 れた自己批評であると同時に、存在理由を自ら明示する自負の行為でもある。責任が作者自身にくっついてまわるから手抜き出来ないのである。雑誌「e-文藝 館=湖(umi)」の中でも、この詩歌欄は、このようにして益々重きを加えて行き、いつか関心と鑑賞の的となるぐらいに培って行きたい。すでに、 それだけのものを積み重ねつつある。電子時代に主張して行くアンソロジー=詞華集として、充ち足らせて行きたい。
 辻下さんからは、初めに、近作で各誌に発表された五十首が届いたが、願わくは過去の作歌のすべてから自撰していただけ ないかと押してお願いした。それが、良かった。そうして良かったと喜んでいる。

* なんだか、来年は講演の年になりそうなけはいがある。幾つかのテーマや狙いを定めての依頼が来ている。もう引 き受けてしまったのもあり、お断りしたいと渋っているのもある。川端康成論、日本の美の思想について、などと主題も大きい。講演ではないが、久しぶりに谷 崎の、それも演劇論をと、長い枚数の執筆依頼も舞い込んできた。新世紀の第一年、なんだか知れないがわたしに関しては静穏とは行かない、刺激的に波風の起 こりそうな一年のような予感がする。なぜそう感じるのかは分からない。よかれあしかれ確信犯めく一人道を辿っている以上、何が起きても一人で耐え抜いて行 くよりあるまい。無用に身構えるのでなく、来るものを、それは罪かも罰かも病気かも知れないけれど、つとめて無心に迎え入れようと思うだけだ。

* 詩人村山精二さんから『日本語にっぽん事情』にメールを戴いた。村山さんホームページにも書き込まれている。 お許しを願い有り難く転載させてもらう。  

* 昨日、拝読いたしました。京言葉に代表される日本語の曖昧さ、その良さ、小説の読み方の基本など、お教えいた だくことばかりで有意義な休日を過ごすことができました。
 例によって勝手なことを書かせていただきました。お忙しい中、拙HPまでおいでいただくのも申し訳ないので下記に本文 をお送りします。お目通しいただければうれしく存じます。
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 「日本語にっぽん事情」という総タイトルが付けられていて、「日本語で『書く』こと『話す』こと」「いろは日本誌」 「日本語で『読む』ということ−春琴と佐助−」「再び日本語で『読む』ということ−名作の戯れ−」「電子時代の作家の出版」などのエッセイが収められてい ます。
 秦さんの日本語への造詣の深さにはいつも感心していますが、今号もその思いを新たにしました。それに何と言っても今号 は小説の読み方について考えさせられました。
「日本語で『読む』ということ−春琴と佐助−」では谷崎潤一郎の『春琴抄』を取り上げて、小説の読み方を間違ってはいけ ない、行間にある作者の本当の意図を読まないとダメだと教えられました。でも、それはそんなに難しいことではなくて、次のように述べています。

  本文の流れに自然に乗って読む。普通の読書の、それが普通の姿勢であっていいでしょう(123頁)

 書く側と読む側の双方の目を持った人の言葉だと思います。もちろんこれ以外にも重要な指摘はいっぱいあります。 それを書き出すとキリがないのでやめますが、実はこの言葉は普遍的なものだと思っています。小説もそうですが、自然現象を扱う分野や私のような工場の技術 屋にもあてはまる言葉なんです。普通の感覚がないと現象は理解できないし、間違った結論に陥ってしまいます。過言すれば人生も同じなんではないでしょう か。そこまで考えさせる言葉だと思います。

* 建日子が昨夜から帰って来ている。今晩、わたしと妻とは出かけなくてはならない。その留守番をしながら「編集 王」の最終回を録画して置いてくれるだろう。

* 紀尾井小ホールで望月太左衛の鳴り物の会があった。岩田喜美子さんも出演、神戸一三氏も見えていた。太左衛さ んの打楽器いろいろと、大きな和太鼓と笛との、三つめのだしものが実にすかっとした熱演で、感激した。世紀の締め括りという実感が持てた。
 
* サントリー美術館の下のイタリアンバーのカウンターで、サラダやパスタやピッザなどを数種類注文し、旨い赤のワイン を一本。のんびりして楽しめた。永田町駅まで地下を歩いて、池袋経由西武線で帰った。あと三日間、いろいろ、ある。
 

* 十二月二十日 水

* 気勢が上がらない。しなくてはならず、手の回らない仕事があまりに多いからか。備忘に書き出すと、ざあっと流 れ出すように大ごとが十数箇条も飛びだしてくる。それだけ記憶しているからまだしもで、忘れていることも無いとは言えぬ。一つずつすばやく吟味しても、省 いていい仕事など一つもないと分かると、有り難いけれども、グッタリする。
 人と逢ったり集まったりということでも、たいがいの場合、場所や段取りを任されてしまう。それがわたしへの親切や挨拶 になると思われるらしいが、そのための思案が、ひどく負担になるときがある。頭の中がいろんなことで錯綜しているときは、単に負担というより、しんどく重 く辛くなる。なぜかお膳立てを任される。わたしの好みがつかみにくいからかも知れないが。

* すうっ、すうっと、引きずり込まれるように眠い。血糖値が高いからというより、低すぎるのではないかと感じる 時もある。好きなだけ食べて飲んでいたときは、疲れたなと感じたら、疲れを追い払うように好きなものを口にしていた。それがいいわけないが、気分は直った ものだ。

* 笠原芳光氏の講演「ブッダとしてのイエス」をスキャン校閲しているが、こういう「ことば」を聴いているのが、 いちばん嬉しい。大勢の人にも聴いて欲しいと願っている。
 京都の神原廣子さんから自撰五十句が届いた。躊躇なく掲載した。上品の俳味で、あっさりとした京菓子を口に含むようで ある。高校の後輩かもしれないこの人を、ながく、普通の家庭人読者と想像していたが、ある年、句集を贈られて、読んでびっくりした。優れたもので、胸をと んと押されたように感動した。似た思いを紅書房主人の菊池洋子さんの句集にも感じたことがある。菊池さんは推してペンクラブの会員になってもらった。神原 さんも、ご当人が望まれればいつでも推薦したいと思う。
 日本ペンクラブに入るのには「十数万円」かかると聞いていて、とてもそんな余裕はありませんが、入会したい気持ちはあ るのですと、新潟在住の男性歌人から手紙が来た。これには仰天した。入会金は三万円である。年会費はその半分も要ったかどうか。過剰なデマが飛びかってい るものだ。推薦してもらうと推薦者に金額の謝礼が必要と思いこんでいる人がいるのかも知れないし、金銭を受け取る推薦者もいるのかどうか、まさかと思う が、そういう行為に出る新入会者のいるのは知っている。現金や商品券を送って寄越されすぐお返ししたことが何回かある。わるい思い慣わしだと思う。

* 今夜は、むかしに中公新書『古典愛読』を出してくれた編集者、いまはプレジデント社にいる青田吉正氏と、歳末 恒例の歓談。大きな体で小声でつぶやくように話す人なので、静かな席がいい。それで冷たい雨の中を傘さして日比谷へ出て、ホテルの「クラブ」で二時間半ほ ど、話しては飲み食いしてきた。青田さんの方がわたしよりも四キロも体重が多くなっていた。出版の景気は厳しいようであった。

* そして明けて六十五歳の誕生日に到達する予定。かるい頭痛が朝から続いている。

* 秦建日子がもっぱら書いていた連続テレビドラマ「編集王」は昨夜で終えた。最後までマンガっぽいものであった が、主演の原田泰造はじめ主なる「編集室」の演技人は尋常によくやっていた。原田泰造のキャラクターは好感の持てるものであったし、女優二人も気持ちよ かった。視聴率=売れ行き、はサッパリ良くなかったようだ、当然だろう。そういうものを厳しく批評している「編集王」を、そういうものだけが神様だと考え 愚劣さとも平気で妥協して行く「テレビ」が作っているドラマなんだもの、自家撞着も甚だしいのである。脚本家の苦渋推して知られるが、そのわりには、そん な「テレビ」の強烈な制約をうけながらも、曲がりなりに「編集」を書いていた、演じさせていた。
 考えてみると、この程度にも「編集」の苦渋や日常を書いた小説もドラマも映画も、少ない・無い、のが現状なのであり、 一つの足跡を息子達は印したのだと思ってやりたい。

* 十二月二十一日 木

* 満六十五歳の誕生日になって、一時間。一つ門をくぐった。のこす十日一年を送れば、まさしく一陽来復の新年に なる。新世紀になる。湖の本最新刊に書いた跋文のあたまのところを、感慨をもって少し書き写しておく。こういう風に思ってきて、こういう風に今思ってい る。

* 京都では、十二月二十一日を「終い弘法」とも謂い、東寺に、ひときわの市がたつ。駄洒落をいうようだが、冬至 でもある。わたしは、昭和十年(一九三五)のこの日に生まれたので、今年は、新世紀到来を十日後にひかえて、満の六十五歳になる。その日とその歳とにうち 重ね、「秦恒平・湖(うみ)の本」も、創作とエッセイを通算して、第六十五巻めを無事刊行できた。心より御礼申し上げる。
 遙かな昔に「西暦」というものを覚え、二十一世紀を迎える元旦は、満六十五歳と十日めに当たるンやなと指折り数えて、 そんな日を自分はほんとに迎えられるのかと、なんだかぼうとした気持ちになったのを、ありありと思い出す。その頃、世界の人口が十一億人だと、啓蒙的な家 庭事典には書いてあった。そのうちの一億を日本が占めたか占めそうな按配であったのも、ある種の驚異であった。
 思えばわたしは幸せに今日まで過ごしてきた。いい教育も受けたし、いい家庭ももてた。お宝の藏はもたないが、小さいな がら狭い庭に書庫は建てた。成りたかった小説家になり、三十余年の間に百冊におよぶ単行本等が出版できたし、いい読者に恵まれて「湖の本」という稀有な文 学環境を、十五年に及んでなお維持し持続している。世にときめく人からすれば憫笑される程のことのようであるが、わたしは、この境涯を深く誇りに思ってい る。何故か。わたしは、本をこそ売ってきたが、自立心と自由は誰にも渡さなかった、これまでは、少なくも。幸せなのは何よりそれである。
  誰も、わたしを有徳人とは思うまい。「多数」の世間に背を向けて有徳でいられるわけはなく、だが「不徳ナレドモ孤デハナシ」と偽りなく思うことの出来る、 それが幸せでなくて何であろうか。「逢ひたい人がいつでもいる」と、或る催しに請われ、テディベアのお腹に妻の描いた花の繪に添え、そう書いた。それが我 が宝である。
 このところ、宗教学の山折哲雄氏とつづけて対談し、「自然に老いる」ことについて考え合ってきた。無事に本になるかど うかまだ微妙に思われるほど、話題の行方は厳しく交錯して、わたしはそういう議論こそ必要なこと、面白い対談とはそういうものと思うけれど、要するに「老 い」を語る難しさに、まだ戸惑いがあるのだ、少なくもわたしには。
 ひょんなご縁で「八十路過ぎ」られた俳人の句集『芒種』を頂戴したのも今年だったが、ちょっと類のない優れた句集で、 対談にも、何句も取り込ませていただいた。引きたい句は多いが、なかでも、
 
  明日への信いくらかありて種子を蒔く    能村登四郎

が、胸に響いた。「橋なかばにて逝く年と思ひけり」も「春愁に似て非なるもの老愁は」も「花疲れ生きの疲れもある らしき」も胸に来た。だが、とりわけ先の掲句に、ふと立ち直るものの身内にある気がした。我と我が身への信より、もっと大きい何かに「信」そのものも預け ておき、明日へなお、ほんの少しでも「種子を蒔く」気があるのだった、わたしには。

* 言い尽くせているので、これだけを書き写して置いて、満六十五歳になった第一夜の寝に就く。兄の享年に追いつ いて追い越してしまったことになるのだろうか。

* 朝、少しの赤飯と、永年、三十年以上も戴き続けているユーハイム従業員一同さんからのケーキとコーヒーで、さ さやかに無事に馬齢を一つ加ええた気分を自祝した。心もちは静かでありなにも変化はない。朝からたくさんなお祝いのメールなどを頂戴している。
 午後には、たまたま二人分のお誘いのあった新年映画試写会に出かけ、あと、息子達と落ち合う算段。

* かすかに頭痛がしている。外は雀の声もして、うらうらと晴れてあかるい。うらうらとと言うと、西行法師の和歌 が耳に静かに聞こえてくる。「さぞ」「さぞ」「さぞ」と呟きつつ、人生二学期を終えて、今日から正月休みに入り、またやがて人生三学期を迎えるのである。 そして「卒業」して終わりと何となく思い続けてきたが、現実の人生には、学校を「卒業後」というものがある。それこそが「人生」なのである。卒業後の生活 というのも在る道理なのだ、これは予期し考えておくべきかと、今、ふと思い当たった。そうかそうかと思っている。
 

* 十二月二十一日 つづき

* 誕生日のお祝いに、三原橋ヘラルドの試写室で、「リトル・ダンサー」の試写を妻と観てきた。どういう縁なのか 「お二人でどうぞ」と招待状に書き添えてあった。試写室は、すばらしく見やすい佳い場所だが廣くはなく、すぐ満席で追い返されてしまうので、電話で前もっ て二席分確保を念押しして置いた。おかげで定刻三十分前に行って無事入れてもらえたか、列を成していた大勢の人が断られていた。かなりの前評判と見えた。
 最高に見やすい席で、ゆったり観られた。そのせいでというワケでないが、映画はすばらしい感動作で、最高級の芸術品と 言い切れる。全英でも全米でも歴代の高位を占める評判であったというが、さもあろう。地味な作品といえば地味なものであるが、深く訴えてくる。沸き返って くる感動がある。少年が主役だが、大人達のワキのかためも完璧であった。バレエという芸術の世界と激しい炭坑の労働争議とが、違和感なくみごとに綯い交ぜ られながら物語が盛り上がって行く。サウンドの魅力も充実し、そして当然にも少年のバレエ、少年が立派に芸術家になってのダンスが、電気に撃たれるように みごとだった。劇的なうまい映画の手法に、さんざ泣かされてしまった。満たされて幸せな、六十五歳誕生日の映画鑑賞であった。

* 息子達と出逢い、日比谷のホテルで、時間もたっぷりと飲みかつ食べてたくさん話し合った。すてきなオペラグラ スをプレゼントしてくれた。十七年ものと十二年もののバレンタインを飲み尽くしたので、今度はバーボンのワイルドターキーを買った。誕生日ということで、 四人で乾杯のシャンパンをクラブでサービスしてくれた。

* たくさん、誕生祝いのメールが届いていた。名張の人から、名張産の御菓子をいろいろみつくろって詰め合わせた のが贈られていた。餡のいっぱいの最中がすてきに旨かった。

* インターネットに深入りしないで、やはり従来のように出版社から本を出して行く作家活動がだいじなのではない か、今のままではアングラ作家になってしまわないかと、或る知人から手紙が来ていた。同じ思いの人が少なくないであろうと、重々承知している。
 だが、そういう普通の作家でいたければ、わたしは「湖の本」もやらなかったでしょう。「売らんかな」出版社の「非常勤 雇い」の作家風情ではいたくない、そんな情けない真似はもうしたくないと思って、或る意味で(この資本主義型の文壇に棲息するには)不利になる面はみな承 知の上で、十五年、ここまで歩いてきた。地上だか地下だか知らないが、各出版社からの単行本などは軒並みに百冊近くももう好きなだけ出してきたのだし、今 も好きなだけ「湖の本」で出せているのだし、なにより、既製の出版社に出してもらう単行本だから無上の値打ちがあるなどとは、ちっとも考えていないのであ る。向こうで望んでくればいくらでも原稿は上げるけれど、わたしから売りこむ気は、すこしも、もう無いのである。
 そういう珍しい作家で、行けるところまで行って、果てはどういう成り行きになろうとも、「わたしは、わたし」の存在理 由を喪うわけではない。世にときめこうが、ときめくまいが、一つ一つの小説にせよ批評にせよエッセイにせよ、誰のものと較べられても、わたしはわたしの独 自の仕事をしてきたし、すこしもヒケはとらぬことをよく知っている。知っている人はちゃんと知っていてくれるとも知っている。それでいいのである。俗も非 俗もないのだが、世間を如才なく人の顔色をうかがいうかがい小心に生きるなんて事は、もう六十五になって、ますます、したくない。ご心配は忝ないが知己の 言ではない。
 

* 十二月二十二日 金

* 昨日もらった、たくさんなメールから、やはり、この人のこの一通を読み直しておく。「e-湖」の「雁書」一頁 に、記録に値する佳い「電子メール」わたしの心に残った「電子メール」のうち、差し障りのない、お許しの得られるものに限り、配慮して集めてある。

* お誕生日おめでとうございます。
 札幌は大粒の雪が、静かに、厚く降り積もっています。
 今月になって身辺がにわかに慌ただしくなり、しんどい毎日です。親しくお世話になった方と突然お別れし、海外から励ま し続けてくれた友人が急遽入院手術、心身共に参ってしまいましたが、仕事は休む暇を与えてはくれません。今もとっくに締め切りが過ぎた書類を疲れた頭で考 え考え、作っています。
 また一年、秦さんの言葉に接し、瀑布のように音たてて流れ落ちる膨大な文章に打たれて、清らかになっていきたい、と 思っています。また何かを紡ぎだしたいとも。
 あと十日、無事に芽出度く千秋楽を迎えたいものです。
 早く新世紀に突入して、春を、花を、見たいですね。 

* 電メ研のメーリングも賑わっている。東大の西垣通委員が「小説」を出版されたというのも話題を明るくしてい る。まだわたしは手に入れていない。
 

* 十二月二十二日 つづき

* ぼんやりしていて、巣鴨駅で御成門への地下鉄をまんまと逆方向へ乗り、気が付かずに奥のほうまで。おかげで、 芝の坂道を足を棒にしてなお、文字コード委員会の会議に、十五分ほど遅れてしまった。ところが、準備会の段階で、文筆家団体は「委員」に組み込まれておら ず、議事の流れで「日本ペンクラブ」からわたしが「委員参加」と決まるという分かりにくい段取りであった。第一期ではいろんな委員が大勢だったのが、ぐん と人数が減っていた。ペンのような「団体」を代表する者に限定しようという意図で、坂村健氏や西垣通氏も委員名簿に名前がなかった。気息の通じやすい技 術・経済・官庁・組織のものだけで組み立てられる委員構成は、どう理由がついているにしても事実上は「後戻り」の印象が拭えなかった。「日本ペンクラブ」 からはわたしが発言したので受け入れられたものの、事務員が臨時に来ていただけの文芸家協会は、あわや蚊帳の外へ放り出されそうな按配だった。むしろ文芸 家協会こそ第一義に委員参加の望ましい文筆家団体なのだと追加発言しなければならなかった。文筆家からは一団体で足りているではないかという顔つきをさ れ、招かれざる客かと疑いたくなった。個人的には面倒なお役目であるとは言え、この委員会にやっと文筆家たちの声を送り込めるようになっていたわけで、そ れを排除され簡単に撤退するのでは、表現者、読者の声がまったく「文字コード」問題に反映しないことになる。どんなにいやがられ、煙たがられ、邪魔にされ ても、今ここで協会やペンが蚊帳の外に出てしまうのは宜しくない。とりあえずは、小中専務理事の内諾を得て「日本ペンクラブ」代表委員として出席したのだ が、了解を取っておいて良かった。これで、たとえ人が替わっても、ペン代表は送り込めるのだから。

* 三時間にわたって、ぎっしり用意された資料類の説明があり、今日はまだ具体的な討議・審議には入れなかった。 わたしは、機会あれば尋ねたい発言したい話題を用意していたが、そのための討議に進む時間的余地は全く無かった。だが関心の話題については、今後の委員会 討議にとっても無縁でない大事な課題の一つであるという言質だけは、委員長・幹事諸氏から得た。

* 会議内容にわたってここで繰り返せる根気と理解が不足しているので、この程度にしておく。

* 銀座へもどって「やす幸」でおでんを食べ、ひさびさ日本酒を少々飲んでから、有楽町線で帰宅。京都の橋田二朗 先生からお電話をいただき、しばし歓談。

* おめでとう御座いました。21日、よい一日をお過ごしになられたと思います。心より、御元気でいらしゃること をお喜びしております。
 おしゃべりしたいことは沢山あったのですが、そのうちお目にかかってとか、こんなこと別にとか、思っているうちに一年 が終わってしまいました。一年、本当に速かったと思っています。
 でも、今年は、いい年でした。仕事も一生懸命しました。褒めては戴けないと思いますが、違った方面の仕事をしました。 ご興味はないと思いますが、例えば、2日前は、乳児院の赤ちゃんを、抱いてみました。
 2歳になるのに、まだ9ヶ月の発達しか、していない子どもでした。人の目を見ない子どもです。子守歌を歌って、ゆっく り抱いていると、じっと目を見て、そのうち胸に顔を埋めて、また時々じっと目を見て、ということをするようになり、観察者をびっくりさせていました。
 何故、そういうことをするかと言いますと、保育者への教育からです。接し方の、具体的な方法の実践です。こんな小さな 未発達な子どもでも、自傷行為をしなければならないほど愛情に飢えているということを、乳児院の担当者に理解してもらわなければ、ならないわけです。知的 障害児ではなく、情緒障害による発達の遅れを理解してもらったわけです。
 でも仕事は仕事として、ゆったり抱っこしていると私自身も幸せな気分で、仕事だということを、一瞬忘れます。見ていた 一人が、うらやましい、自分もそんな風に抱っこしてもらいたいと言っていました。みんなお母さんが恋しくて、どんな年になっても、郷愁があるのです。私か らはみんな寂しいのだろう、という理解になりますが。
 愛情と淋しさはいつも一緒なのでしょう。
 これはほんのひとつ。頼まれた仕事でした。いつもこんな風に、日常を書いては、くだらないことと消去してしまいます。 今日は、このまま送ります。お風邪をひかないように。

* とても、ふさわしい仕事をしているなと思える人の、優しいメールであった。クリスマスということを、ふっと思 い出した。
 さ、これで、もう今年の外仕事はみな済んだと思いたい。仕事ではないが、もう一度芝居を観る機会がある。短い原稿はも う三つ四つ書かねばならないが、それは休息しながら家でできる。
 
* 笠原芳光さんに贈られた講演録「ブッダとしてのイエス」を、感謝して第六頁に掲載した。解説を添えるまでもなく、平 易に、しかも極めて重要で大胆な笠原さんの見解が、端的によく提示されていて、むろんいい意味で、驚かされる。バグワンの『ボーディダルマ』を終始念頭に おきながら、楽しむほどに丁寧に読んでいった。駒沢大学会館という、いわば禅に有縁の会場で講演されていたので、そのためか禅への言及も多く、それが興味 深かった。
 わたしは浄土宗の家庭に育ち、念仏に深い関心という以上の帰依の念を抱きながら成人したが、禅にも惹かれている。わた しは教派・教団というものになんら拘泥していないし、具体的に何かの信者ではない。だから宗教的でないという理由もない。むしろその方がはるかに宗教的に 深く在れると思わぬでもない。教派や教団を「立場」にした信仰などを深くは尊敬しない自由な場で、どちらかというと、笠原さんの説かれているような「思 い」で、死ぬまでを元気に生きたい。宗教学、哲学、教学といったものに、とみに意義も意味も、たいした感謝も覚えなくなっているのは、バグワンへの信頼が 日夜に深まっているからであろうと思う。
 

* 十二月二十三日 土

* 天皇さんが六十七に成られた。皇后さんもお年をとられたが、お揃いでお元気でと心よりお祈りする。このご夫婦 は、好きである。同じ頃に結婚し、同じ世代を生きてこれた、好かったと、内心に悦ぶ思いが深い。

* 未知の女性から初めてのメール、作家であるわたしへの熱い厚意に溢れたメール、そして湖の本既刊の中から五冊 の注文、を戴いた。三十余年作家をしてきたから、未知の読者からも無数の嬉しいお手紙をもらっている。親しい心友も身内のような人もそんな中から大勢出来 ている。今日のメールは、それでも、特筆ものの一通であった。差し支えない限りを引かせて貰うと、「湖の本の存在は以前から存じあげておりましたが、どの ように申し込んだらよいのかわからず、欲しくて絶版になってしまっている本は古本屋で捜すようなことを続けていました。しかしインターネットという便利な ものができて、先月から機械オンチの私も秦先生のホームページを見ることができるようになりました。そこで、早速湖の本の購入を申し込ませていただきたい と思います」とある。有り難い。ところがその湖の本を「継続」予約はしないと、わざわざ断ってある理由が面白いのであった。ほとんどの本はもう備えている ので、「だから」というのではないのだった、だから、面白いと思った。わたしにも、少年時代にそういうことがあったが、この人は母親になって主婦している 現在でもそうだというのだが、読みたい本がたくさん身の傍にあると、いちど読み始めると、夫婦の生活も母子の生活も破綻しそうなほどどうしても読みやめら れないタチだというのである。

* 昔から適度にとかほどほどということができなくて、私は激しい本の読み方しかしてきませんでした。小学生のこ ろ、友達の家に遊びに行って新しい本を見つけたら最後、友達をほったらかしにしてその本を読み終えるまで、てこでも動かない子供でした。友達は私が来ると きには、新しい本を必ず隠したものです。結婚して子供が生まれても相変わらずで、乳母車に乗せられた娘は本屋を見ると瞬間的に泣くようになりました。母親 が本を手にとると、長時間ほっておかれることが赤ん坊でもわかったのでしょう。私が本を読みだすと、外界の音がいっさい遮断されてしまい、夫や子供が何を 言っても全然聞こえなくなってしまいます。今まで家庭が壊れなかったのが不思議なくらいですね。ですから、次々に湖の本に埋もれてしまうと、文字通り寝食 を忘れてしまいそうで、家族がお腹をすかせることになりかねません。

* 第二の理由もあり、気恥ずかしいが、こう書いてある、「第二の現実的な理由は、秦先生の作品は繰り返し熟読し なければならないということです。秦文学は巨大な山のようなもので、私の力では一度では読みきれません。丁寧にゆっくり味わいながら、一冊一冊心に刻んで 読んでいきたいと思っています。継続というかたちではなく、自分のペースにあわせて、お送りいただいた作品を読み尽くしてから、次の本を注文する方法にし たいと考えています。身勝手を申しますが、私の命の続くかぎり、先生の作品の熱烈な支持者であることは間違いございません。なにとぞよろしくお願い申し上 げます」とあり、身を縮めつつ有り難い。メールはまだまだ尽きなくて、ま、激励と思い嬉しく読んだけれど、惜しむ思いで、この場には書き写さない。こうい う嬉しいことが物書きの仕事にはあり、期待に応えたい気持ちになり、またそれに溺れまいという自戒も深い。感謝は心から、姿勢は平静でといつも思う。

* EDIの松本八郎氏から帙に入った「EDI叢書」を頂戴した。地味な、忘れられてしまいそうな、だが忘れては ならない作家たちの代表的短編を拾い上げ、懇切な解説もつけて、リーズナブルな価格でそれぞれ小冊子にしてある。こういう仕事が、どうか経営的にも成り 立って続いて欲しい。
 文芸家協会や日本ペンクラブが本来心がけねば恥ずかしい、貴重な事業だと思う。気の低い、口にするのも恥じ入る題のへ んな本を、ただ金儲けのために我がペンクラブが出し続けたがるなど、根底から何かおかしくないのか。立派な本は売れないと暗に認識し諦観しているみたい で、失笑ものである。だれの責任か知らないが、立派な人材が、そんなあたかも安物出版のやすもの企画会議の真似ごとに従事されているのが、心からお気の毒 に思われる。しかしまたこういう仕事には、一種の人事権のようなものがついてまわる。それが、つねである。そういう地位の好きな人も世の中にはいる。ペン に入会するには「十数万円」も用意しなければならないと、まことしやかなデマがあるらしいのも、いやなことだが、人事権乱用の匂いがするようでは大変だ。

* イタリア、フランスを旅していた人から、ヴェネチアの、またアルプスの、特にモノクロームでの美しい写真が贈 られてきた。カラーにもいいのがあるが、モノクロのがすばらしく美しい。またホームヘページに使わせて貰いたいが、しばらく間があいて、写真の活かし方な ど忘れてしまっているから、よろしくない。

* 島尾伸三君が贈ってきてくれた『雲を呑む龍を食す』がとても美しい文章でみごとに書けている。「おなかがすい たら どこでも食卓」「中国、香港、マカオ……忘れられぬ故郷の味を求めて」心優しい著者のフィロソフィーが感じられる。これはグルメの本ではない。愛の 本である。

* 笠原さんの「イエス」についで、心友にして尊敬する神学者野呂芳男さんの信仰と哲学を聴こうと思う。野呂さん が
力を入れて立ち上げられたキリスト教神学と宗教の研究雑誌「黎明」創刊号に書かれた長編で、題も「『慈子(あつこ)』の 思い出」である。野呂山ならびに版元松鶴亭の林昌子さんの御厚意による。これからスキャンをはじめる。文芸批評家ではないが野呂さんには集英社文庫『慈 子』の解説もある。

* 雑誌「ミマン」連載原稿も今日もう書いて送った。読者に悦ばれているのが、出題に解答をよせてくる多くの手紙 をとおして、ひしひしと感じ取れる。詩歌の、短歌や俳句の表現の美しさに、わたし自身がさらに心惹かれつつある。こういう仕事は甲斐がある。
  

* 十二月二十四日 日

* クリスマスイブ。新たに野呂芳男氏の「『慈子(あつこ)』の思い出」を、「e-文藝館=湖(umi)」に書き 込むことが出来 た。
 単に小説『慈子』へ氏の私的な思い出だけを語られたものではない。牧師として、神学博士として、キリスト教への重大 な、革新的といえる提言を含めて、氏の宗教観や世界観への動機をゆったり提示されている。それを介して、文藝批評家では及びもつかないまた新たな『慈子』 論 となり、秦恒平論ともなっている。発表されていたのが神学研究の雑誌で、熱心なわたしの読者でも目に触れた人は極く稀だと思われる。 イエスをおもうにふさわしい今日このクリスマスイヴに、「e-文藝館=湖(umi)」に掲載でき、ひとしおわたしは悦んでいる。

* 野呂さんには「死後」を極めて深く神学的に論じられた著作がある。育たれたのが東京下町の、真言宗を奉じてい た家庭であったという。優れてユニークな野呂神学に、そうした根の体験や思いの反照して、誠実しかも追究の精緻で大胆なところが魅力である。

* 散髪をして気持ちが佳い。

* 近世の身分的周縁を考えるシリーズの第一巻では、信仰にかかわる周縁の存在を論考している。朧ろには感じ取れ ていたものの、しかと目に見えてなかった風貌や働き を、いましも興味深く、時を忘れて読みふけってしまうこの間の平成中村座で、中村勘九郎が演じていた 「法界坊」も、この巻の解説を読んでいたなら、もっともっと興味深 かったろう。
 いま「神職」といえば、決まった神社神宮の神々しい神主さんたちを思うけれど、近世の「神道者=神職」というと、一般 には、よくても祈祷業者であり、大方が公家ふう神官のなりをしながら、首に箱をさげ鈴を振って門付け物乞いしていた人たちであった。神主や神道学者もいた にはいたが、世間の常識として「神道者=神職」とは、門付け物乞いを専らにした、中世以来の例の「職人」概念のうち宗教系に属していた。同様の宗教系職人 は、仏教からも修験道からも陰陽道からも、それらのごったな坩堝の中から混合系のものたちも、あふれ出すようにして巷に生きたのである。それが庶民の世間 の一角とも地平ともいえる場を自然に占めたのであり、そういう一種深玄で広範囲な庶民社会の根底を理解しないままでは、生きた歴史社会は正しく語れは しない。
 古い時代からのこういう方面への関心を、ほんとうに長い間もちつづけてきたわたしだが、やっと近世社会に歩み入るよう になった。興味尽きない。

* 静かなクリスマスイヴであった。
 

* 十二月二十五日 月

* マゴが大きくなった。五キロもあるようだ。右眼にかすかに翠いろが、左眼にかすかに黄金(きん)いろが。冬 で、黒一色の体毛が密生してふくれている。表情は双の瞳だけであるが、それが豊かに意味をおびて、その時々に全身がそのまま愛らしい。ときおり障子紙に爪 をかけて注意をひくのがニクい手だが、夫婦の日々に、もう無くてはならない生けるモノ、愛しい生きものであり、ほどよく対話もできる。ちいさなクシャミを して鼻水が出るようだと、妻は朝から医者へ抱いて行った。冴え冴えと晴天のクリスマスである。さっきから、世界中、物音一つしない。

* 自分の中で爆発を待つマグマのあるのを、じっと感じている。だが急がない。急がない。
 

* 十二月二十六日 火

* 『女の一生』がモーパッサンの名作で傑作であることは疑いないが、歳末に芝居で観るには、ふさわしくない。落 語の「芝濱」のような芝居で締めくくりたいところ、藝術座はその点でたいへんなミステークをしている。そこそこの舞台にしていたとしても、最後の拍手がぱ らぱらであったのは致し方ない。翻案モノなのはいいとして、主演が物足りない。奇妙に綺麗事になってしまうのは佐久間良子の藝質からして当然で、しかもこ の女優は、こういったハンディキャップをきちんと意識し、演技力で盛り上げて行くような、行けるような器用に巧い女優ではない上に、「女の一 生」の前半を演じるには、あまりに年齢が行っていて、美しくも華奢でもない。総じてもっさりしてしまう。
 それでも妻が頻りにハンカチで涙を拭うほどに見せるのは、一に原作の凄み。つぶさに原作は記憶している が、これぐらい悲惨な小説を他に知らないほどであり、また、これぐらいぐいぐい読ませる小説もそう有るものでない。不快極まる小説でありながら、リアリズ ムの極地かのように、モーパッサンは容赦なく女主人公の不幸の極みを造形し、鮮烈を極めて文藝の威力を発揮する。
 いやもうイヤな婿殿であり、ありありとわたしは不快な記憶を呼び覚まされた。
 だが、芝居というのは不思議なモノで、それほどの不快ドラマであるのに、なんとなしに芝居を観ている嬉しさは別途に味 わっている。建日子のブレゼントのオペラグラスもちゃんと役に立ったし、劇場には劇場ならではの空気が流れている。低調な芝居であったのに、世紀の此処ま で押し詰まったところで、なお芸術座の座席を占め、落ち着いていられるのは有り難いことであった。平和であった。妻も同じ思いだつたろう。

* 目のまえのホテルの「クラブ」で、もう一本新調のシーバスリーガルと、先日のワイルドターキーとを呑みくらべ ながら、すこし寿司をつまんでしばらく休息してから、帰ってきた。

* 「老い」の対談の、最後の速記録が届いていた。手入れが歳末年始の仕事になる。

* 昨晩のことだが、浴室で湯にあたったか、血糖値に高い低いの異変でもあったか、火照って冷えて、気分わるくそ のまま寝入ってしまった。目が覚めたのは夜中の三時で、電気をつけてバグワンを読み、また、荷風を読んだ。『寺じま』とか『墨東綺譚』のサワリとか、じ つに佳い。うっとりしてしまった。描写の具体的にリアルで、落ち着いた筆致、なんとも謂えずみごと、賛嘆のほかない。
 芝居に行くにも、その、編者川本三郎氏に貰った文庫本をもっていったが、どこで読んでも、しみじみとする。いわば東京 散策の記にすぎないのに、文章はあくまで味わい深く、文学とは、名文とは、斯く書かれるものだと思わずにいられない。これこそが「実に優れた文体」なので あり、文体という言葉は、こういう名品にこそ正しく用いられるべきなのである。文体とは、優れた文学にのみ表れる品位とアイデンティ、独自の音楽なのであ るから。 
 

* 十二月二十七日 水

* 夜中、いわゆる胴震いという悪寒がして、辟易した。すぐおさまったが。勝田貞夫さんに注意されていた矢先だっ た。いけない。

* 『墨牡丹上下.txt』お送りします。これも又、好きになりました。「…真の美は名匠の作る芸術の中に宿る」 というのが、わかったような気がしています。入江波光、榊原紫峰、土田麦遷、小野竹喬、石川利治、みんなの絵もいつか見られるといいな、と思います。あり がとうございました。
 私語の刻の「自分の中で爆発を待つマグマのあるのを、じっと感じている。だが急がない。急がない。 」にあやかって、来る新世紀は、うそでもいいから元気出して暮そうと思っています。
 いいお年をお迎えください。どうぞお大事にしてください。

* 拝復 仰有る通り「いろいろ気をつけて暮らさねばならん」のであります。残念ながら、日常のいろいろ不愉快な 症状も、ひっくるめて、年齢的な現象、現実なのであります。ヒトは、その認識が遅れがちだと思います。
 数週間前、突然友人の奥さんが脳出血で倒れ、あたふたしておりました。元気印そのもののような人でした。老人ホームに も同じ様な人がたくさんいます。つまり、お互い、そうゆうとしなのであり、そう差がないのであります。
 診療所に通って来ていたお年寄りに、「きんのは、なんだか具合え悪くて、出掛けて来なかっただよ」と云われたことがあ ります。ちょっとへんな話ですが、その方が、むしろ賢いと思います。大学教授よりも、偉いです。(実際に、それを無理して会議に出掛け、亡くなった医学部 の教授の方がいます。)
 それで、「今日は何だか気が向かねぇ」というサインを、もっと大事にしなければならないのであります。
 とかなんとか。今日はいい天気なのに、家でごろごろしています。秦さんは、どうかくれぐれもお大事にしてください。

* 勝田貞夫さんの有り難い激励と警告とで、心して聴いたハズなのに、悪寒とは。朝起きてからも前頭部にかるい痛 みが囁き続けている。

* ゆうべ芝居から帰ったらびっくりするほど多くメールを貰っていた。

*  クリスマスを、おだやかにお過ごしになられたようで、日記を読みながら嬉しく思っておりました。
 e-umi も拝見しております。他のところも読まなければと思いつつ、どうしても詩歌のページばかり開いてしまいますが……。
 清沢冽太さんの『浄土やさしきか』が一番好きです。いきものの持つ二律背反性を見通す目、そのことを17音で教えて頂 いたような気がしました。秦先生の、「句の気合いに、禅機を感じている」には、大納得です。
 山中以都子さんの『歌』は、何度読んでも涙がこぼれます。「ちいさくて丸い、なにがなし幼さの残る筆跡」のところで、 盛岡の駅舎に掲げられた「もりおか」というはかなげな字が思い出されるのです。(私は啄木に憧れて、節子の出た盛岡第二高等学校へ入学した女です。)
 辻下淑子さんの「娶りしと風の便りに聞きしよりわが還るべき原野は失せぬ」。自分が生き続けてゆくためにこれだけはど うしても認識したくない、って現実がありますよね。それを言っちゃあおしまいよ、というべき現実が……。私の場合のそれ、まさにこの歌に詠まれているので す。哀しいというより、もうチカラが抜けた。先生が以前「通すべき私など、どれほどのものか」というようなことを日記に書いていらっしゃいましたが、本当 ですね。あーあ。
 先生にお声を掛けて頂いたのが嬉しくて、歌か句を書かせて頂きたいと思っていますが、どうしたものか、なかなか出てき ません。気負い過ぎてるのかなあ……。
 最近の大きなトピックスは、(あまりいい話ではないですが……)女子職員に言葉でセクハラをする上司がおり、私も何年 も前から被害に遭っていたのですが、思い切って先月の中旬、取締役へそのことを直訴しました。具体的には「セクハラによる神経障害」という診断書を会社へ 提出したのです。それから何度か取締役と面談を重ねた結果、セクハラ上司は退職と決まりました。少しスッキリしています。
 最後に、物を知らなくて本当に恥ずかしいのですが……バグワンという方の本で、まず最初に読むべきは何という本でしょ うか。お話が出てくるたびに、強く興味をかき立てられて、ぜひ読んでみたいのです。どうか、お教えください。
 マゴちゃんはお風邪だったのかな……。おちゅうしゃだったら、いたいいたいね。
 空気が乾いています。先生も、奥様も、くれぐれもご自愛くださいませ。またお便りさせて頂きます。どうもありがとうご ざいました。

* ご無沙汰しております。e-magazine湖(umi) に投稿するべく、書いてみました。「日々多忙の中から、発言できることが有れば、利用して下さい」という言葉に励まされ、書いてはみたものの、こんなに大 変だとは思いもしませんでした。私は「文学」を学んだわけでもないので、紀行くらいなら書けるかなと思ったのですが、書き始めてすぐ、簡単ではないことに 気付きました。
 e-magazine湖(umi)は、「文学・文藝サロン」であって、「文学表現」の場とのこと。旅行記ということ で、今年の三月に大学同期の友人と卒業旅行にカンボジアに行った様子を記そうと思ったのですが、ついつい、写真を掲載した方がよっぽどわかりやすいのでは と思ってしまいます。実際、そういうホームページも多いと思います。でも、先生はそれを文字だけで「文学表現」しろとおっしゃる。私の拙い文章で、私の言 いたいことが本当に相手に伝わるのだろうか、と何度も書き直して読んでみても、納得がいかないのです。私の感じた気持ちが、どういう方法であれ伝えられな いのはもどかしい限りです。今頃になってようやく「国語」をきちんと学ぶべきだったと思いました。
 もしよろしければ、先生の御批評が頂ければと思い、勝手ながらメールで全文を送信させていただきました。お忙しいとこ ろ、お手数をおかけしますがよろしくお取りはからいのほどお願いします。
 P. S. ホームページを拝見させていただきました。全部目を通したわけではありませんが、真岡哲夫さんの文章がわかりやすくて良いです。あのような文章が書けたら と、うらやましいです。勉強になります。

* 博士課程で研究生活に励んできた真面目な学究である。学部の頃から、本当に人に役に立ついい薬品をつくりたい と目を輝かせていた。たしかお祖父さんが一代で立派な国文学・歴史学の出版社を興されたのではなかったか。旅行記をこれから読む。楽しみ。

* ここ数日の舞い上がった日々を日記風に。
 12月24日   夫が出張のおみやげで買ってきた赤福もちを食べながらのんびりと、秦先生のホームページ「私語の 刻」を見ていた私は、驚きのあまり赤福もちを喉につまらせそうになる。23日の記述のなかに自分のメールが紹介されているではないか。今までいろいろな読 者のメールが紹介されていたのは知っていたが、まさか自分の書いたものがそういうことになるとは想像もしていなかった。自分のつたない文章が電波にのって いることが恥ずかしくて、穴があったら入りたいと思う。しかし、私のメールを一瞬でも喜んでくださったと思うと、光栄で。うれしい。
 12月25日   朝、夫を会社に送り出し、洗濯をすませると娘を連れて映画に行く。有楽町で「ダンサー・イン・ザ・ ダーク」を観る。十時半はじまりではあるが、ほぼ満席状態。泣ける映画ではあったが、あまりに救いがなく人にはすすめられない。盲目の主人公が空想のなか で歌い、踊る場面はすばらしい。あちらの歌手は歌うときにこれが人生最後の歌だと感じて全身全霊で歌うから、日本の歌手とは気迫がちがう。娘は「疲れた」 と感想をもらす。映画がすんだので銀座で食事でもと思っていると、母から携帯に電話が入る。父が動けなくなって、母ひとりの力では動かせないので手伝いに 来てほしいとのこと。急遽実家へ向かう。父は長く患っているが、この一年はとくに進行して時々動けなくなる。実家につくと母と私と娘の三人で床に倒れてい る父親を起こしておしめを替える。ずしりと重く、絶対に動こうとする意志のない身体を支えていると、ほんとうにこれぞ重荷であることを痛感する。母を助け た帰り道に郵便局により、湖の本の振込をすませる。帰宅して秦先生のメールを見る。
 12月26日   午後四時頃、湖の本が届く。なんとやさしい本だろう。読む人間のことを一番に考えてくださった本 だ。いつも身近に置けてどこにでも連れていける大きさで、読みやすく、眼に気持のよい活字です。すっかり有頂天になる。誘惑に負けて、ほんの少しの時間の つもりで一冊を手にとって読みはじめ、はっと気づくと外はもう真っ暗。夕飯の支度を忘れました。あわてまくって料理をつくり、いつもより一時間おくれの夕 食となる。この調子でいくと、年末の大掃除が予定どおり実行されるかどうか、はなはだ微妙な情勢である。

* いわば、わたしは、こういうふうにして、「大勢の人といっしょに暮らしている」のだなと思う。そんなふうに 思っているわたしは、やはりヘンな作家なのかも知れない。作家というより、わたしは生活者として、自分がどう「今、在るか」を大事にしていると謂えるのだ ろう。バグワンの感化もある。

* 一両日前になるが、このままエツセイとして、貰えないかなと思ったほどのメールも届いていた。

* クリスマスは何が何でもクリスマスするのだ・・・と、朝からりきんで、さぼっています。
 19歳になる娘は、勿論もうサンタクロースを信じてはいません。けれどこの時期になると決まって二人の話題になるの が、娘がまだ幼稚園児だった時にやって来たサンタさんのことです。
『あの事だけは、いまだに不思議やなぁ』と娘は言います。
 当時、実家には樅の木がありました。私が小学校の一年か二年のクリスマスに 亡くなった父が買って来てくれたもので す。何年かは12月になると庭から掘り出して、家の中に鉢植えのように置かれて飾られておりましたが、やがて家に入りきらなくなり、庭の片隅で成長しつづ けました。
 その年は、12月に入って父の命日も近くなり、急に樅の木が恋しくて、幼い娘にプレゼントしたくて、屋根にも届く樅の 木に梯子をかけて飾り付けをしたのです。
 田舎の事ですし、まだ洒落てイルミネーションで飾るお宅も無かったので目立ったのでしょう。25日の朝、新聞をとろう と庭に出てびっくり致しました。ツリーにプレゼントがぶら下がっているではありませんか。
『手袋を買いに』という絵本でした。メッセージカードには、「長い間このツリーでみんなを楽しませてくれて有難う!おか げで、おじさんの仕事も大変楽でした」と書かれていました。
 幼い娘にとって、その不思議がよほど嬉しかったのでしょう。無垢な心に受けた感動が、大人になった今も(あれは、どこ のおじさんがした事なのかしらん)という思考へは向かないようですから・・・。あの時、私の母は、『この町にも粋な事をする人がいる・捨てたもんじゃない わねぇ』などと言い、私はというと、明け方に塀や門を越えて、見咎められれば家宅侵入の危険を犯してまで『夢』をプレゼントしてくれた「おじさん」が気に なり、随分と心当たりを訊ねてみたのですが、結局解らず終いでした。
 ですので、『時に魔法は成功するものなのだ』という夢を、未だに持っていられるわけです。
 名古屋は午前中は雨が降っておりました。夜にはもしや雪?の期待もありましたが、さっぱりとお昼からはとびきりの晴天 となりました。東京も素晴らしく晴れたクリスマスだったようですね。マゴの風邪、悪く無いと良いですね。小さい生き物は愛おしいです。

* 柔らかい平易に佳い文章である。わたしに向けて、独りで楽しむようにと送ってもらうメールなのだが、占有する には惜しい。どの人も、昔の学生君はべつとして、顔を見たこともない友人達である。
 

* 十二月二十七日 つづき

* 歌誌「炸」主宰の松坂弘さんが、自撰五十首を下さった。岡野弘彦氏の結社「人」をながく支えてきた方であり、 わたしとは同年の、気息の通い合う学究である。愛妻歌の名手でもある。冴え冴えとした都会人の孤心を、硬質の輝きで歌い出される。すでに掲載した。

* 新年早々に「e-文藝館=湖(umi)」をインタビューしたいと、今、ある大手新聞の申し入れが入った。 実際を見た上でのことと。二ヶ月でここまでの充実は、わたしも予想しなかった。

* 懐かしい昔の女子学生さんから、パソコンを新しく買い足すについて、二月頃まで待ってみたらと助言があった。 理由も書いてあった。歳末にと思っていたが、それが無理なら、二月でいい。べつの学生君からは、「NTT Docomo が出しているSigmarion(シグマリオン)なんて、良いかもしれませんね。Windowsの小型版を内蔵し、PHSのカードをつければ外出先でも ホームページが見られます。ただ、後は使い勝手と通信費ですね。小さいということは,それだけキーボードも小さいということになりますから。意外と外出先 でまでネットに繋げたくなることも少ないですし、携帯電話(i-mode)やPHS(エッジ)の方が意味があるかもしれません」と教えてくれている。 「IBMのThinkPadをと言いたいところですが、何分,高価です。その点を除き、持ち歩くことを考えていらっしゃるのでしたら、X20という機種が 今,非常に人気があり、薄くて軽い上にハードディスクは20GBです。ただ、ノートパソコンは使い勝手が命ですから、量販店に行ってみて何度も触ってから 購入されるのが良いと思われます」とも。心を惹かれる。IBMのThinkPadはとてもカッコいいので前から気になって仕方なかったが、これまで永く NECばかりで繋いで来たので、なにかと不便があるのではないかなどと躊躇してきた。
 だれかがパソコンで映画が観られるという話をしていた、電車の中だったか。CD-ROMようのものをつかうのだろう か、今使っているこの器械で、簡単に、独り映画が観られたりしたものなら、わたしは、ずいぶん出不精に成ってしまうかも知れない。

* メールをくれた昔の女子学生さんは、今はパソコン情報の一線のジャーナリストだ、が、そろそろ彼女なりに、内 面の、別の鉱脈を掘り当てていっていい時機かもしれない、そういう気も当人に動いているようにメールから汲み取れた。賛成だ。正月早々に逢って話せる機会 がありそう、楽しみが一つ出来た。

* 前にも増して「寒がる」ようになった。もっともこの部屋は真実寒いのだ、冷蔵庫のように冷える。マウスもキイ もとても冷たい。こう器械に接しているなら、暖房をやはり入れるしか無いか。電器は、もうコンセントが無いも同然。スチームは器械に好くないだろうし、ま さか火鉢に炭火という時代でもない。置き場所もない。寒さのあまり、ときどき胸がつまる。これは、気味がわるい。よろしくない。去年までは、もう一台の機 械を階下の炬燵へ持って降り、それで同じ作業をしていた。だがその機械ではもう今の作業量がこなしにくくなっている。
 

* 十二月二十八日 木

* いただいたメールの最後に置かれている「みづうみ」という字を見ていますと、いろいろな湖が浮かんできます。 そのときそのときの心でながめた水の色、物語り、お作にあった湖、それから、遠い記憶のものとも、夢ともまぼろしとも分かず、たちあらわれ、ひたひたと足 首を濡らす冷たい水。このまま冷たい水に抱かれて湖底にやすらぎたい。そうおもったこともありました。思いつづけていますと、涙ぐまれてきます。

   銅鏡のごとき水面を見あげゐつ水に棲むともなほさびしくて

 ずっと以前にこんなうたを詠んだことなど思い出されて。
 ちょっと、つらいことがありまして、閉じ籠っていました。器械もいっしょに働かなくなってしまい、ひとりで寒がってい ました。お送りいただいた『日本語にっぽん事情』のお礼も申しあげませず。
 器械の不調は、わたくしの扱いの不手際からだったようで、理由もわからず、ふと、もとにもどり、何やら化かされたよう な気分でございます。
 けれど、久しぶりに訪うた湖のお部屋のあるじの、ご健康が気づかわれます。お医者さまのお目のとどていることは存じて いますけれど、案じられてなりません。どうぞどうぞ、おたいせつに。
 夕方は茜の空に黒紫の富士がうつくしうございました。そして、今は、こぼれるような星空。わたくしの鬱も少しづつ、薄 らいでゆくようで。
 
* 真岡哲夫さんが文章を送ってこられた。『死なれて・死なせて』を読もうと思い、表紙を開いたものの、始めの竹取物語 のところで、泣けて泣けてと、動機も告げられて。一度推敲してもらい、いま、エッセイ欄に掲載した。
 その真岡さんにも心配させてしまった。勝田貞夫さんにも叱られた。叱られて、有り難いことである。

* 穏やかに晴れました。雪も僅かに解けたようです。
 書き終われば落ち着くと思いましたが、全然落ち着いてはおりません。もう少しこの机に座って、花を見ていようと思いま す。チューリップは、ヨーロッパ世界にはじめて植物ウイルスの存在を知らしめた、植物ウイルス学を専攻するものにとっては特別な植物です。赤い花が室長の 机にとても似合っています。
 秦さん、大型の暖房器具をぜひともお備えください。FF式と言って、屋外の空気を給排気し、火の見えない安全な物があ ります。費用はそこそこかさみますが、お体にはかえられないのではないでしょうか。「耐えて忍べば済す有りと」は、別のところで。お体には楽をさせてあげ てください。お願いします。心配です。
 私の書いたものを読んでくれる方がいる、好きだと言ってくれる。嬉しいことです。論文を評価されるのとはまた違った感 慨があります。また書こうと思います。
 今年は風邪を引いて第九には行けなかったので、フルトヴェングラーのCDを聞いています。
 解けた雪がまた氷り、星が輝きはじめました。明日も寒くなりそうです。

* あまり寒いので台所の妻の器械を借りて、雑誌「美術京都」の対談の手入れを進めた。昼に、キャサリーン・ヘッ プバーンとヘンリー・フォンダ、ジェーン・フォンダの佳い映画があった。以前に二度ほど観ていて、映画の出来のいいのはよく知っているが、つらくて、今日 はやめた。晩には、仕事しながら「ナバロンの要塞」を楽しんだ。これは最高の部類の戦争もの娯楽大作で、何度見てきたか知れない。グレゴリー・ペックもア ンソニー・クインもデヴィッド・ニーブンも好きな俳優だ、原作も面白かったが、映画の効果は大きく、骨の太い作品になっている。
 今この器械でこの「私語」を書くのに、妻の、マリ・クレールの細い手袋を借りている。細い毛糸なのでぴちっとわたしの 手にも添い、多少気になるが、とても温かくキイにもマウスにも触れられて有り難い。手先や足の冷え込む年齢になった。 

* 能のジャーナリスト堀上謙さんの電話で、しばらく元気に雑談した。電話でゆっくり話すことはわたしの習慣には ないのだが、堀上さんは電話上手。

* もうここまで歳末・世紀末も煮詰まってくれば、厄介なことは考えない。部屋を掃除しようとか、書庫に溢れて投 げ出されたままの本を片づけようとか、もう考えない。静かにしていたい。だが明日明後日は、わたしの役目の買い物に行かなくては。京の白味噌、蛤。正月早 々の息子の誕生日に、なにか、探してやろうかなとも。そんなことを言いながら、暮れの街では、つい例年独りで食べたり呑んだりしてきた。今年は自粛か。
 今日、貰い物の中村屋月餅を一つ半食べた。鶴来の小堀醸造元に貰った「古酒大吟醸」の封も切った。これが旨かった。も のの旨いのは、なんていいんだろう。読みたい本も、読みかけて面白くて堪らない本も、ある。妻に叱られながらそんな本が寝床の枕元に、いま二十冊ちかく も押しくら饅頭している。
 

* 十二月二十九日 金

* よく晴れ、気持ちが佳い。

* ドクター卒業生卒業旅行記を読んでいて、紀行の難しさをしみじみ自覚した。日記ふうに時間経過がある程度書か れるのはいいが、もっぱらそれへ流されて、目的地や目的のモノ・ヒトに行き着くと、とたんに甚だ概念的・抽象評論的になる。「すばらしい。一見の価値があ る」と書くために日記がつづくようなことに陥りやすいのが、旅行記の落とし穴だ。だが、それも、書いて自覚して行くしかない。書いてみようとするのは、と てもいいことだ。

* 恋する青年が、素直に率直に相談してくる。そして素直に率直に動いて、事態を好くして行くのを、遠くでわたし は意気をつめ、感じている。どうなるかは、神ぞ知る。若い、気持ちのいい人たちに、すてきな新世紀が来て欲しい。

* 大晦日は雨の予報。不思議と、うべなう気持ちがある。世紀から世紀へうごきゆく時に、雨降って地堅まるという 尋常なもの言いが、こころからの期待になる。

* 「e-magazine 湖umi」と呼んできたが、そのままでいいとしても、呼び名を簡明に「e-文庫・湖」としよう。この方法こそは「文庫」そのものだから。

* いま、わたしは{弁慶}の気分である。刀の千本狩りではないが、いまの「文庫・湖」の方法だと、たとえ千本も の「佳い文章・文藝」を編輯するのも夢でない。十分可能である。読者は厖大なサイトから佳い好きな作品を選んでいつでも読める。
 弁慶の気分を自覚するのには、もっと深い意味がある。
 わたしは、昔から編輯者はつよい「弁慶」であり、作者・筆者という名の「牛若丸」を追いつめ追いかけ、さんざ攻め立て ながら、おしまいには牛若丸の前にうまく「負けて上げる」役回りなのだ人にも言い、そう何度もものに書いてきた。優れた編集者と大勢出逢ってきたが、優れ た人ほどまことに「強い弁慶」であった。さんざ攻められて、そして作者であるわたしを最後に引き立ててくれた。
 そういう編集者・そういう気質が払底してきているというのが、文学・文藝のピンチである一つの大原因なのだが、かれら を弁慶ならぬあたかも勝ち手の牛若丸気分に驕らせてきたのが、現代の「出版」の病根そのものなのだと、彼らは気づいていない。

* こんなこと言うていると、秦は、いよいよ書き手はやめたぞと喝采され、憫笑されそうだが、潮がそちらへ流れて いるときはその潮と楽しみ、その潮のなかにまた新たな潮のうごくにちがいないのも、悦んで、柔らかい心に受け入れて行く、そういう自在な、いや勝手のでき る年齢にわたしはもう向かっているという、それだけ、のことだ。予感もあるのだが、わたし自身は健在なのに、ある日、ホームページ「秦恒平の文学と生活」 が地を払って消え失せている日だって、まったく来ないわけではない。その時はまるでべつの楽しみに浸っていることだろうが、それとて「文学・文藝」から逸 れた楽しみでは必ずありえない、それだけは確実だ。弁慶であろうが牛若丸であろうが、わたし自身である。どこでどう一人二役を楽しんでいるかは、他者の識 るところではないと嘯いておこう。
 

* 十二月二十九日 つづき

* 森秀樹氏から「百姓名を読む 中世のイメージを求めて」という好研究を戴いた。官途名などの類を検地帳から名 寄せしながらの論考で、端的に纏められ、考察も附してあり、資料性高いしかも読んでいかほどにも想像の働いて行く、面白い、興味深い作品である。衛門とか 兵衛とかが名前にくっついている例は、子どもの頃にまっさきに覚えて、侍ごっこをすれば、(平)清盛、(織田)信長などと名乗るよりも、(荒木)又右衛門 とか(大石)内藏助とか名乗っていたが、農民の社会にこういう名乗りがじつに多彩に浸透していたことを、現実に森論文は面白く示してくれる。ただそれだけ でも面白いが、それだけのことではないのである。有り難く、いまから転送する。

* 夕方、自転車で駅の方へ二、三の用で走った。走っているときから「おかしいな」と思っていたが、家に帰ってか らも、当分の間胸がつまって苦しく、ひさしぶりに残っていた舌下錠を二粒口に含んだ。次第におさまったが、妻に、亢進のけはいがあれば救急車を呼ぶよう言 いつけたほどであった。横になるほどのこともせず、静かに、仕事を続けていた。その方が安心な気がしたからである。このあいだから、「急に心臓のちからが 落ちているかなあ」という自覚があった。寒い日の自転車は、まして疾走は禁物だ。
 気がついているというのは、それなりに、安心でもある、対応できるから。このところの夜更かしが過ぎたと思う。今夜は 慎んで、はやく寝よう。

* キムタクこと木村拓也と常盤貴子のドラマ「ビューティフルライフ」を、夕方ごろ、歳末の特別番組か、つづけざ まにやっていた。この二人が、とくに役者として意識したこともなかったキムタクが、じつにうまい、とくに科白がうまいのに、感嘆した。常盤の独特の魅力は よく知っているつもりだが、このドラマで車椅子に乗っての役柄は、これまでの中でも一二の魅力を光らせていると思うが、キムタクがいささかも負けていな い。これに感心した。いい場面では泣かされてしまった。しかし、幸せな結末ではなさそうなので、二階へ避けた。昼間の「愛と追憶の日々」であったか、シャ リー・マクレーンがおばあちゃん役の映画でもそれは同じで、よう見終えなかった。映像の中でといえども、あまり「死なれ」たくはない。
 

* 十二月三十日 土

* 勝田様  舌下錠のお世話になりましたこと、お叱り恥ずかしくて、お礼すら言いにくいぐらいです。済みませ ん。心します。
 家中のいたるところ片づきません。片づかなかったのが「二十世紀」と総括して、「二十一世紀」に手渡します。
 今日明日と無事に過ごしたい、かすかな強迫観念と付き合っています。
 人様に教えられまして、バグワン・シュリ・ラジニーシの古本ですが、『一休道歌』上下巻が、いま、手に入りました。
 お天気のいいうちに、お役目の白味噌と蛤を買いに池袋へ出かけてきます。 秦生

*  勝田様。重ねて有り難く。
 路上、中年の婦人がだれかに、今日は寒い寒いとこぼしていました。自分だけじゃないらしいと安心しました。
 買い物はさっさと済ませました。池袋の西武も東武も、食品売場の例年はもっともっと人が多く活気に溢れ返るのに、今年 は歩きやすい感じで面食らいました。いつもの年ですと、何を見ても、旨そうで食べたくて買いたくなるのでしたが、今年は、何を見てもふっと顔を背けるよう な気分で、用事だけ済ませて、売場を抜け出しました。
 いつも家内や息子に正月用の贈り物を探してやるのですが、それだけでなく、自分で自分に何かをとデパートを歩きまわる のですが、そういう気の張りがなく、おしるしだけのセットものを買い、さくらやへ寄り道しても、とても品選びなど出来ずに、保谷へ戻りました。保谷の最近 気に入りのコーヒー豆を売る簡素なお店で、苦いコーヒーをたててもらい、本を少し読んで帰ってきました。元気のない時は、それ相応にやり過ごすのがよかろ うと思い、しばらくテレビをみていました。
 あすには息子が帰ってきて、正月は親子三人で静かに過ごせそうで、何よりです。
 いま、江戸時代の、社会の周縁部に身を置いていた人たちの実証的な論文集を、面白く興味深く勉強しています。第一巻は 民衆社会の宗教者たちを論考しています。神職・神道者、神子、祭礼奉仕者と読み進みまして、これから三昧聖について読んで行きます。ひっくるめて周縁宗教 者たちのことですが、これらの他にもいろいろ在り、本当に庶民生活の底知れぬ深みにふれながら歴史を識るには、欠かせない世間です、が、なかなか研究が公 開されてきませんでした。
 面白半分にではなく、貴賎都鄙といわれる貴と都とだけで日本を考えてしまうのは、危険な偏向だと思ってきました。それ にしても、今手にしている吉川弘文館からの叢書は、わたしの関心にとても深くよく応えてくれるので、大満足しています。ほとほと仕事をして夜更かしのア ト、さらに寝床の中で明け方までこういう本を読み耽るのですから、毒を呑んでいるようなものでもありました。二時までに消灯するようにします。
 バグワンは、マインド(頭脳・思考・知識等)を批判します。禅の人といっていい覚者=ブッダです。このわたしはまた、 マインドの塊のように生きてきましたので、毎日毎晩、バグワンに叱られ叱られて暮らしています。「般若心経」「十牛図」「老子」「達磨」など名薬を服する ように何年も日々に欠かさず音読し続けてきました、なるべく知解を排して。苦しみを、とても救われています。
 またインシュリンの注射に階下におります。ありがとうございました。秦 恒平
 chiba e-oldってのが、いいですね。わたしも、west-tokyo e-old と名乗りましょう。お元気で。

* いきなり約束を破って、また日付かわって三時になっているのは、勧められていた映画『グランブルー』を観てい たから。美し いが、畏れと哀しみに充ちていた。
 水に惹かれ、憑り添われる心地の、昔から身内に常にあるわたしには、この映画は懐かしくも怖ろしくもあった。主役の他に ジャン・ルネがとてもとても佳いが、もう一人、ヒロインのスザンナ・アークエットが、もう一度逢いたい逢いたいと願ってきた女優だった。以前、ジャン・ク ロード・バンダムと『脱獄者』を共演し、セクシーな魅力満点の好演技をみせていた。ビデオで何度も観てきた。思いがけず、『グランブルー』で再会したのは 拾い物、いい場面をたくさん見せてくれた。彼女がいなかったら、この映画、やはり哀しみに追われて、途中から避けていたかも知れない。但し避け方は、ヘン リーとジェーン父子が演じた『黄昏』などの場合とはちがったろう。
 この映画の主役は水であり、海であり、そういう名の「故郷」である。その故郷へ抵抗どころか、すすんで帰って行きたい、海に 潜ればもう上へ上がりたくないと真実深く深く願っている二人の幼なじみの男達。主人公は同じ潜水者の父をその海で失い、また身内の友を、末期の願いに頷い て同じ海の深く深くまで送り返してやる。それが、美しくて悲しくてわたしは辛くて憧れて泣いてしまった。いまも泣いている。
 そして、さらに主人公の男もみ ずから体不調を覚悟していながら、友を追い求めるようにして深海に潜って行くのだった、自分の子をみごもった最愛の地上の女を海上に遺したまま。そのラス トシーンのせつなさは、堪らなかった。
 妻はもう寝入っていた。深夜に、独りで観ていた、泣きながら。遅くからの、長い長い美しい映画であった。

* 映画の前には、「美空ひばり」の歌と映像とトークにも、三時間付き合って、やっぱり涙を流した。
 今世紀のとじ目に「ひばり」とは嬉しい企画であった。少女時代の歌のうまさ、ある時期のひばりの美しさ。愛燦々、みだ れ髪、悲しい酒、川の流れのように、など、挙げればキリのない魅力の歌唱。この人ほど棺を覆うてまさに声価定まった、安定し持続した天才はすくない。へん なことを言うが、もうあの世には「ひばり」がいる、それだけでも、ふと向こうの世界が懐かしい気さえしてしまう。

* さ、遅くなった、また勝田貞夫さんにあやまらなくてはならない。
 

* 平成十二年(二○○○)十二月三十一日 日  大晦日 二十世紀尽 

* 或る安堵感に似た、ほっとした気分のほかには、何もない。ふしぎなほど、なにも無い。もう少し待って、なにかしら、ポンと「捨てて」しまえるのだなと 思う。
 価値有るものを捨ててしまうのでもなく、まるで価値の無かったものを捨ててしまうと謂うのでも、ない。
 片づかなかった「二十世紀」を、そうして「片づけて」しまえそうというのが、ほっとした気分にさせるのか。

 美空ひばりの歌を昨夜聴いて、あれで「回顧」の気分はすっかり満たされてしまった。
 ものごころついて、色気もついてきた頃に美空ひばりは歌い始めた。わたしより、一つか二つか年若い。以後、いつ、どこで、何をしていたときにも美空ひば りの歌は聞こえていた。ひばりが亡くなったあとも、何か、折り目・節目には、彼女の若かりし映像と歌声とがテレビで見聴きできた。すると、わたしは、なぜ ともなく京の祇園町の、戦後復興もいまだしの疎開跡盆踊りなどを決まって思い出すのだ、そして「わたしは街の子」の天才の歌声も。
 わたしの人生を美空ひばりの歌が伴奏していてくれたのではない。わたしの人生が、なにとはなしに、ひばりの人生に伴奏し、あるいは伴走していたに過ぎな いように思うのだが、ま、これまでのところは「それでいいや」と、いま、思っている。これからのことは、これからが決める。

* さ、カウントダウンまで、静かに立ち働いて、少しだけでも身の回りを整えておこう。血糖値はこの二三日グレーゾーンの110台を上下している。甘いも のがときどき口にはいると響く。甘いものや酒が口にはいると、だが、気分は明るくなる。口淋しかった戦中戦後の「街の子」時代を明らかにまだ引きずってい る。
 だが、ひとこと、やはり闇に言い置きたい、一九三五年このかた二○○○年まで、わたしは、幸せであったと。そして、誰も誰もが…幸せにと、祈る。
 朝日子や、孫のやす香、みゆ希たちも、どうか幸せに、元気に、と。