この頁には、平成十二年(2000)五月一日以降、八月末日迄を日付順に収める。
* 平成十二年(2000)五月一日 月
* 昨日買ってきたパソコン参考書の一冊『インターネットのダウンロード&圧縮・解凍』という早坂美代子 著が、手順懇切、痒いところに手の届く本で、無理だろうと思いながら、試みにいじっているうち、昭和三十四年二月下旬、もう上京結婚就職の直前に撮った諏 訪から塩尻へ山道をバスで行った途中の写真が、このホームページのこのペイジに貼り付けられた。但し馴れないまま、「高画質」を選ぶと画面が大きくなると 注意が出ていたのにそのまま選択したので、べらぼうに大きく入ってしまった。冒頭に入れた山藤章二さん描く似顔絵より、少なくも三十年分は若い。もう短歌 は作らず、まだ小説は書き始めていない。東京へ出て行くことにのみ真剣に集中していた「顔」である。しばらくこのままにしておく。
* 夕方にまた自転車で走り回ってきた。「サン・マルク」でパンを買い、コーヒーを飲んできた。武蔵野らしい緑地 帯がけっこう残っている。会合などの外出予定がないと、ゆっくりできる。
* メーデーが今年限りで無くなるとか、何ということだろう。メーデーを意図して労働大臣がボイコットしている。
自民党が政府をそのように締め付けている。何ということだろう。
労働する人たちのための政治が、こんなに減退し後退してしまって、これで國が健康と言えるのだろうか。労働する人たち
の、意欲をそぎ待遇をそぎ、家畜化の方向へ方向へと國政は権力行使の道を歩いている。そんな有様で、どうして力強い幸せな国民生活が可能といえるのか。
愚民化政策がこんなにも功を奏して、誰が結局トクをしているか。言うまでもない、労働している人を力づく管理している
人たちと、そのしたり顔のスポークスマンたちだけが、我が世の春を謳歌している。
まずいことに、労働している人の多くが、自分もなんとかその管理者仲間にまじりたいが為に、みすみす労働者仲間を目先
の欲得づくで攪乱し、組織能力を破壊しつくし、ストライキの一つももう打つ力を枯らしてしまった。こんなことでは、国民生活に活気は生まれない。
安土桃山時代と同じ、いまや黄金色の暗転期にある。出雲の阿国の末裔がウケにいってもおり、市民もワイワイと海外旅行
ぐらいなら出来る。しかし、ほとんど国民は保守政治屋たちの「労働家畜」同然に飼い慣らされ、気がつかないか、自分だけは別と気がつかないフリをしてい
る。
労働する人たちのための政党が共産党以外に一つも活動していない國なんて、何ということだろう、あまりに、ひずみ、歪
んでいる。社会民主党に天才的な人が出てこないと、またそういう党を育てる気力が国民にないと、おそるべき反動のまま、明治・大正・昭和敗戦までの「内務
省」政治がさらに露骨に復活するだう、すでに森内閣と野中幹事長の自民党は、そっちへそっちへ疾走しようと、露わに政権と状況と情報を操作しているではな
いか。国際国家どころか利己的な粟散の辺土とまたもや化してゆき、それが理想無き政治と政治家たちの利権の巣となる。
党幹部の横暴を嘆く小泉純一郎の反駁の声をかき消して無にしてはならないだろう。石原慎太郎の総理公選説にも耳をかす
しかない時節が来てしまった。学校で近代史教育と世界史教育を省いてきたタチのわるいツケがまわって来ている。歴史に正しく深く学ばない政治屋どもの政治
風土に日本国は立ち枯れようとしている。
* 5月1日、メーデーでしたね。
わすれるほど、無関心な時代になりました。昔は人の気持ちが政治や世の中の不条理や矛盾に向かって、健康的に主張をし
たものですね。
未来に希望のない世代、おおかた科学も進歩し尽くした飽食の時代で、自分たちがやりとげなければならないものは、何な
のか? 絶望している気がします。少しハングリーで、未来に夢のあった時代の方が、人として生きる希望があったのかも知れません。
21世紀・・・ 子ども世代、孫世代が「生きる」実感を味わえる時代になるとよいのですが。
* こんな、五十代の母親のメールを読むと気が重くなる。科学が進歩しつくしたなどと思わないし、未来にも希望を 持ちたいと思うが、自公政権の支配に管理され窒息して行く新世紀かと想うと、うんざりする。わたしなどは、あらまし放擲してやがて死んで行く身だが、これ からの人たちに少しでもワケの分かった日本を手渡したいではないか。政治もそうなら文学もそうだ。若い優れた才能が不当に頭を押さえられることなく、努力 次第で正当に世に出て来やすいようにと、わたしは、それを物事を考える際の第一原則のように考える。そんなこと知ったことかと言い放つ人は文壇人に多いけ れど、情けなしとは、そういう連中のことか。
* 甲斐扶佐義写真・中村勝文の本が贈られてきた。これがかの出版記念会の本だ、ロイヤルホテル、会費一万円の。 読んでみると京都人の私には面白い。が、やはり豪勢な会には似合わない。出町の青空ででも何故やらないのだろう。商店会の人たちもその方が祝いやすかろ う。京都人に一万円の会費はかなりのものだ、それも分かるから、よけいに甲斐さんたち、どうしたことかと訝しいのである。
* まだまだ(新任地に)落ち着かないうちに、五月になってしまいました。
秦さんが石神井のサンマルクに自転車を走らせた日に、私も、札幌の同じ店を発見してお茶を飲んできました。川べりの、
白いコンサートホールにも近く、木々にかこまれた良い店でした。建物中に焼き上がったパンの香りが満ちていて、その香りの中で、白樺の植え込みを眺めなが
らコーヒーを一服。久しぶりにゆっくりできました。
明日は、そのコンサートホールでパイプオルガンを聴いてきます。こちらは空気が乾燥しているので、いい音が聴けるので
はと、期待しています。
諏訪、塩尻、いずれも幼少を過ごした故郷に近い、なつかしい地名です。
* 題に「そったく」とある。同じパン屋さんで、同じくコーヒーを。静かに胸に鳴り始める音楽がある。
今日から「静かの文化を論ず」るエッセイを書き下ろし始めた。
* ヒッチコックの「断崖」はさほどの映画でなく、尻窄みで興ざめだが、ジョン・フォンテインという、デボラ・
カーよりも品のいい美女が登場するのでは観ないでおれなかった。若い日のケーリー・グラントはあまりよくなく、モーパッサン『女の一生』の酷薄で強欲な夫
ジュリアンを想わせて不快千万だったが、それでもフォンテインはすばらしかった。女優なのだから何とでも演技するわけだが、フォンテインの品のよさはグ
レース・ケリーに数倍し、申し分ない。
イングリット・バーグマンかエリザベス・テーラーかで先ず指を折り、なにかの連想でソフィア・ローレン、キム・ノヴァ
ク、ジーナ・ロロブリジータ・ブリジット・バルドーそしてヒビアン・リーと数えているが、好きということでいえば、ジョン・フォンテイン、オードリー・ヘ
プバーン、シャリー・マクレーンを、ソフィア・ローレンの後か先へもってくるだろう。うま味や凄みでなら、キャサリン・ヘプバーン、ベティ・デイビス、メ
リル・ストリープらを挙げるし、昔懐かしさで言えばスーザン・ヘイワード、ジェニファ・ジョーンズ、モーリン・オハラなどを想い出す。ドリス・デイも「女
は一階勝負する」のミレーヌ・ドモンジョも好きだった。
「花嫁の父」の母親を演じたジョーン・ベネットも、ダンスのうまいデビー・レイノルズも気持ちの佳い女優だった。魔の魅
力ではシャロン・ストーンの冷たいハートとセックスに惹かれる。
* 自転車でまた走りつづけて、今日は新宿線関町駅前の銀行脇に自転車を置き、こましな喫茶店でコーヒーを飲ん だ。「サン・マルク」でパンを買って帰った。関町方面から保谷駅の方へ戻るのは若干の登り道とながいあいだ思いこんでいたが、新青梅街道辺から北へは幾分 の下り道が長いことに気がついた。往きより帰りの方がらくなのだ。さわやかな夕暮れに向かってのびのび走れた。自転車で走るのが少年時代からほんとに好き だった。危険な目にも二度三度遭ったけれど。
* スキャナを使って、書き込み中の『慈子』(創作欄10)と『清経入水』(短編選1)の冒頭部に、マチスのすば らしいデッサンを入れてみた。大きく出してみて、みごとである。マチスほど線を生かして神業のような画家は少ない。色彩画は量を食うので避けたいが、佳い デッサンがあれば入れてみようと思う。日本ペンクラブのホームページ表紙とペン憲章との背景は、わたしが選んでレイアウトしたものだが、あの関戸本古今和 歌集のひらがなも大好きだ。
* HOW TO UNDERSTAND MODERN ART というGEORGE
A.FLANAGANの本が手元にある。大学の頃に愛読した英語の概説書だ、久しぶりに取り出してきた。英語の本も久しく読んでいない、復習のつもりで
と、枕元に置いた。十冊あまりが積んであり、毎夜、数冊は少しずつ読む。少しずつでも、いつの間にか読み終えて積まれる本の顔が変わって行く。
* 五月二日 つづき
* いま神戸の親切な友人からメールが入り、このペイジの末尾に入れた筈の塩尻峠での往年の写真が、実は見て取れ ない、ホームページに転送できていないことが分かった。その理由も修正方法も教えてもらったが、教えられていること自体が理解できなくて歯がゆい限り。ス キャナをいじって手探りの手当たり次第、何かを理解してやっていないから、暗闇で鼻を摘まれたのも同然、すぐには手の施しようがない。この分では、ご機嫌 でマチスのデッサンを二枚も入れたつもりなのもいていないのだろう、残念。暫く、ご猶予を。
* 五月三日 水
* 繪と写真とのために悩ましい二十四時間だった。「通りすがり」の人まで親切なメールを下さり、解決方法を指示 してもらったものの、それが何のことか、どこにそれがあるのか分からないのだから、手の打ちようが無い。それでも終日ごちゃごちゃ触っていて、出ない写真 の「?」の箇所をクリックしたら、何か見たことのないウインドウが表れたので、そこでいろいろ当てずっぽうにやってみた。何の自信も手応えもないが、今は マチスの繪が出ている。転送してみてどうなるか。これだから、わたしは決してパソコンを駆使してなどいない。ただ「分からない」ことも楽しめるようになっ ていて、粘ることを覚えている。やはり初心者では無くなっているらしい。
* 帝劇の五月公演、森光子の「ビリーバンバン」に、また招待して貰った。
森光子は、藤田まこととの「てなもんや三度笠」の頃から識っている。何十年前のことか。その後だろう、「スチャラカ社
員」というテレビの生番組もあった。チョイ役で松坂慶子が出ていた。もっと前だろう「バス通り裏」という人気の連続ドラマもあり、途中から、主役十朱幸代
の親友のていで岩下志麻が出てきた。低調な番組だったけれど森、松坂、岩下の三人を初めてみて、必ず大売れに売れて出るぞと断言していた。三人とも、予言
どおり大女優になった。藤純子もくだらないテレビ番組から出てきたが、もったいないほど綺麗だった。
高齢の森光子とはパーティーで二度ほど出会っているが、実は舞台も映画も観たことがない。帝劇を楽しみにしている。
* 猪瀬直樹氏から、新著を、わたしの体調を案じ見舞う毛筆の手紙を添え、贈ってもらった。有り難う。
* 井上靖全集の浩瀚な別巻が贈られてきた。完璧に近い博捜の成果で価値高い。世田谷文学館での記念展レセプショ ンを失礼したのに、鄭重に贈っていただき恐縮である。井上さんについて書いたり考えたりするときに、まさに必携の大著である。
* 今日はオーソン・ウエルズの「市民ケーン」のビデオ撮りで自転車乗りはできなかったが、出ていたら、びっくり
仰天の烈しい雹に叩かれていただろう、凄い勢いで屋根を打ち、雨も、渦巻く白い簾のような吹き降りだった。珍しい雹で、あんなに長い時間大量に降りたのを
見るのは初めてだ。
* 五月四日 木
* すばらしいマチスの繪 !!
とメールが来ている、さすれば、わたしの手探りが奏功したらしい。ありがたい。「ほら貝」の加藤弘一さんも心配してメールで助言をいただいた、感謝。「私
語の刻」がただの私語でなく、いろいろに反響するのが嬉しい。
それにしても、マチスのデッサンは、天下一品。学生時代から心酔していた。
これは病みつきになりそうで、繪は入れない文字だけでいいと言っていたのが、変節しそう。2Gでは容量が小さいと感じ
始めたのだから我ながら驚いてしまう。ホームページの17MBも、また増やすか。
* 自分でも幾らか気づいているが、この「私語」に「楽しむ、楽しい」という感想や意向がかなり頻発している。わ たしの、これでも近来ラクに生きている「表れ」であろうか。けっして昔からこうではなかった。昔は「苦しむ、苦しい」方へ方へ顔も気持ちも向けていた。パ ソコンでも苦しみながらよく粘ったし、今もねばり強く向き合っていて、それを楽しみにしている。こういう姿勢はわたしを随分ラクにしてくれた。パソコンに 関しては一人では絶対にダメだった。田中孝介君や林丈雄君はじめ東工大があったればこそで、就任した最大の報酬のひとつが「パソコンのある日々」と化し た。大岡山へ足を向けて寝られない。
* 四十余年前の我が写真が、だが、まだ送信できてないらしい。気恥ずかしいから削除してもいいのだが、すこし悔 しい、諦めないで最初からやり直してみる。小声で言うが、自分でも忘れていたのを久しぶりに見て、懐かしさも添い、ちょっと佳い写真なのだ。第一に細い。 減量を強いられている今のわたしにはクスリなのである。似顔繪の山藤章二さん描く「秦教授像」のふくらみようとはえらい差だ。
* バスジャックの少年は殺人を犯してしまった。精神病院から一時帰宅の間の犯行だという。被害者のみなさんはお
気の毒極まるし、この少年も傷ましい。
もっとわたしを驚かせたのは、「殺すという体験がしてみたかった」と無縁な見知らぬ人を惨殺した少年だ。体験ならもう
すこし他にもあったろう、ボランティアもあった、創作もあった。「殺される体験」をしてみようと彼は思わなかったのだ、それを思っていたら「殺す体験を」
とは思わなかっただろうに。この少年のこと、じつに分かりにくい。
* 同志社の河野仁昭さんが『京の川』を京都の文学作品に語らせた佳い本を出された。京都の川はもっと大切にされ
ねばいけない、川を殺して何が山紫水明かとわたしは言い続けてきた。わたしの小説『初恋』などが「鴨川」の章に、深切に引用されていて恐縮した。猪瀬氏、
久間十義氏、河野氏、井上靖ご遺族、川本三郎氏、甲斐扶佐義氏ら、立て続けに著書の恵贈がある。歌集や句集もまじってくる。今日も加藤克巳氏の歌集を戴い
た。読んでの返礼をなるべく欠かさないようにしているが、輻輳してくるときは、容易なことでない。湖の本の再校も出揃い、京都行きもあり、今月は舞台も五
つ六つは観にゆくから、ゴールデンウィーク明けにはたいへんなスケジュールになりそうだ。
バルセロナから、向こうで結婚した元の学生さんも、五月には帰ってくる。ぜひ逢いたいと言われているし、わたしも逢い
たい。
* 五月四日 つづき
* 写真が転送できない。三度ほど試みた。困った。
「ほら貝」の加藤さんが「ページのソース」の見方を教えて下さった。フーンと感心した。こんな所、かつて一度も観たこと
がなかった。そこで直せるのかといじくつたが文字変換などは出来ないらしい。さ、そうなるとどこで直すのかな。加藤さんの新書『電脳社会の日本語』はいた
だいていて、赤いペンを片手に読んだのだが、その気になっていなかった事柄で、記憶していなかった。今夜読んでみる。「ファイル、編集、表示。表示の中の
ソースまたはペイジのソースを」と手順で伝えられると、たどり着ける。もしこれが「ソースを開けて」とだけなら、まずわたしにはいつまでも理解できないだ
ろう。マニュアルを書く難しさ、読む難しさ、身にしみる。
* 今夜遅くに息子が帰って来るという。いっしょに飲むことは出来ないが、嬉しい。ところが今電話が来て、仕事のうち合
わせが長引いていて、ひどく遅れるか、行けないか、微妙と。テレビの実務はいわばかげの仕事で、表向きは一般相手になみの時間帯で披露するのだから、とか
く深夜に仕事がずれこむのは、ある程度やむをえないのだろう。健康なことではないが。
* 今日は妻にオーソン・ウエルズの「第三の男」をビデオに撮って貰った。晩の映画も観なかった。自転車にも乗ら ず、水泳もせず、街へ出て京都行きのキップも買わなかった。それでも写真転送に成功しなかった、やれやれ。
* このごろ、いたずらか間違いか、ときどき短い無言電話が入って迷惑している。商売柄、特定多数が相手なので、
見当の付けようもない。
* 五月五日 金 こどもの日 晴れ
* 昨夜、さらに粘って、ついに四十一年昔の写真を「私語の刻
1」末尾にやっとねじ込んだ。写真自体は、たいしたものでも、ことでも、ない。親切な幾つもの声に励まされながら器械の前でたくさん「対話」できた、それ
が嬉しい。写真は気恥ずかしい。もっと小さく入れるつもりだったが、どうしても小さくするすべが分からなかった。トリミングは出来たのかも知れないが、原
板の構図が、いかにもバスの窓から写された感じで、それを残したかった。
また一つ、前に進んだ。この年齢になって毎日のように嬉しいことがあるというのが嬉しいではないか。感謝。
* 今朝もらった親切なメールを、わたしと同じように苦労しながら器械をつかっている人のためにも、ここへ書き込 ませて貰いたい。
* 今、「私語の刻」を拝見したところ、末尾に20年前のお写真がきちんと表示されました。峠を一つ越えられまし
たね。
「ソース」というのはニュース・ソースという時の「ソース」(源泉)でありまして、コンピュータの世界では設計図とい
うような意味で使っています。
出版の世界にたとえますと、ソースは印刷所に渡す赤字指定のはいった原稿、ホームページの状態が刷り上がって、製本の
すんだ本にあたります。印刷所にあたるのは、ネットスケープやインターネット・エクスプローラのようなWWWブラウザです。
今回、なかなか写真が表示されなかったのは、最初に原稿にいれた写真指定の
file:///C|/windows/TEMP/image3G3.JPG
が、プロバイダ(biglobe)に転送した写真のコピーの方ではなく、パソコン内部にあるオリジナルの方を指定
していたからです。
秦さんのパソコンのブラウザは、同じパソコンの中の写真をとってこれますが、読者のブラウザは秦さんのパソコンの内部
から写真をもってくるわけにはいかないので、写真が表示できなかったのです。
ネットスケープのブラウザにおまけでついてくるホームページ作成ソフトをお使いのようですが、この辺りの不親切さはお
まけの限界かもしれません。もうちょっと親切なホームページ作成ソフトがあるかと思います。ぼく自身はソースを直接自分で書いているので、どういうソフト
が使いやすいかはわかりませんが、パソコン指南役の学生さんにお聞きになられるとよいでしょう。
中村正三郎さんが作品の電子化を進めるようアドバイスされたのはその通りだと思います。
一つ、注意しなければならないのは、ハードディスクが故障すると、せっかく電子化したデータが消えてしまうことです。
最近はデータが巨大になっているので、フロッピーではバックアップしにくくなっています。
CD-Rとか、PDとか、MOとか、経済的なバックアップ手段はあるのですが、もし火事や地震にあったとしたら、やは
り消えてしまいます。電子データは本当にもろいです。
いろいろ考えたのですが、一番確実なバックアップ方法は、作品をホームページとして公開することだという結論に達しま
した。自宅が丸焼けになっても、プロバイダに転送したデータは残りますし、もし第二次関東大震災が起きて、プロバイダが燃えたとしても、どこかの読者が
ホームページの内容を保存している可能性があります。
杞憂と思われるかもしれませんが、機械はいつか必ず壊れます。バックアップはこまめにされておいた方がよいですよ。
* 紙の本でも、書架に自著を何冊保存していてもダメになる不幸は考えられる。親切な愛読者で、あの人なら二揃えずつ揃
えていて下さるなどと秘かにアテにしていることもある。ホームページを作品の「保存庫=アーカイヴ」にというわたしの根の発想には、それがあった。うっか
り操作ミスで割愛してしまった作品ファイルを、ホームページから逆にダウンロードして復旧した覚えが二度もある。ワープロでは絶対に出来なくて、パソコン
だからこそ出来たことである。双方向に情報の生きている凄みを実感した。電子版の「湖の本」シリーズはけっして夢ではないし、現に作品の書き込みを読ん
で、紙の本版の「湖の本」を注文してこられる方がぽつぽつ増えてきた。わたし流儀の「ブック・オン・デマンド」がささやかにでも稼働し始めている。
それにしても、土に水のしみ通るように、前記のメールは、深切に書かれてある。こういう日本語でマニュアルが書かれた
らいいなあと切望する。
* 阿波発「花籠」さんの風流なメールも見逃せなかった。文中の桃山晴衣さんは、こういう仕事を始めようとした最 初に、わたしを保谷の家まで訪ねてみえ、助言を求められた。NHKブックス『梁塵秘抄』を出版したときか、それ以前にラジオの市民講座で連続放送した頃 だったか忘れたが。たいしてお役にも立ってあげられなかったが、活躍されているようで嬉しい。
* 6日・京都、大原三千院。20日・和歌山、青岸渡寺で開催される、音楽家・桃山晴衣さんのコンサート「梁塵秘
抄の世界」。
このコンサートは、桃山さんが中世の歌謡集「梁塵秘抄」にメロディーを付けた曲を、編纂者・後白河法皇ゆかりの地で歌
う趣向。これに(徳島)県人舞踊家の桧千尋さんが出演、独舞を披露すると、新聞紙面で紹介されていました。桧さんは、桃山さんの歌に合わせ、舞踊家の父・
瑛司さんのために人形師・大江巳之助さんが作った京女郎の面を付け、平安末期の歌舞「白拍子」をモチーフにした幽玄の舞を披露する、と。
行きたしと思えど行けぬ遠き地の幽玄の世界夢に見ようか
青岸渡寺から眺めた那智の滝、もう三年も前のことになりますけれど。
いいだろうなあ、行けないのが残念!近くなったといってもやはり遠いです。
休日が月曜日になってからは、美にふれる機会が皆無に近い状態です。月曜日が休館日になっているところの多いことや、
連休となる土、日曜日に催しもののあるためですが。今は、自然の美を満喫しようと、こころして出かけているところです。 花籠
* 花籠に月をいれて もらさじこれを くもらさじと もつがだいじな 閑吟集の掉尾をかざるエロスの名句で
あり、NHKブックスに『閑吟集』を書下ろしたとき、この小歌に渾身のオマージュを捧げたのを懐かしく思い出す。
『梁塵秘抄』も『閑吟集』もよく売れよく版を重ねた。学者には言えまいエッセイを、ぞんぶんに書かせてもらった。むかし
は、わたしのような作家をどんどん起用して、ユニークな市民講座が、テレビでもラジオでもわりに多かった。今は、学校のねむたい教室をそのままテレビ画面
に持ち込んできた、解説的なだけの先生番組が多く、見聞きしていても、おいおい、も一つ先まで、奥まで、話してよとブラウン管をこづきたいような古典解説
ばっかり。欲しいのは古典愛読の熱気なのだが。
阿波のこの久しい読者は、「月さま」とわたしを呼んで「花籠」と自ら名乗ってこられる。どんな人だろう、ドキドキす
る。海の向こうの四国でよかったが、想像は楽しめる。
* 五月五日 つづき
* 建日子が来るというので待っているが、午前一時半、まだ来ない。
* 札幌から、気持ちのいいメールが来た。自分一人で読み置くのがもったいなくて。
* ハタノ反リタル
先日のパスカル・ルベールオルガンリサイタル(5/2,札幌コンサートホールKitara大ホール)は、半ば期待を裏
切られ、半ば面白く、総じて楽しめました。
札幌の中島公園というところに、Kitaraという名の、コンサートホールがあります。大ホールのパイプオルガンは、
フランスのストラスブールでつくられたものだそうです。その縁で、ストラスブール大聖堂のオルガニストを招聘し、今回のリサイタルが開かれました。
私は大のバッハ贔屓なので、パイプオルガンといえば、「パッサカリアとフーガ」のように、天上から音のシャワーが荘厳
に降りかかってくるのをよしとしていました。ところが、ストラスブール製のオルガンの音の、なんと優雅で愛らしいことか・・・厳めしいバッハもここでは、
優しいお父さんになってしまいました。
バッハではがっかりしましたが、その後のフランスオルガン学派といわれる人々の曲は、これまで聴いたことのない新鮮な
ものでした。
印象派風にさざ波のごとくはじまり、後には全くの無節操な旋律をこれでもかと言わんばかりに重層的に響かせる、延々と
音の大波に襲われて、疲れ切った頃に曲が終わります。
権威ある大聖堂の正オルガニストが、まるでジャズピアノを弾くようにパイプオルガンを弾きこんでいる姿にも好感が持て
ました。
コンサートの後に、小川沿いに少し歩いて、サンマルクでゆっくり夕食をとり、満ち足りて帰りました。
前任地の石垣島を引き払う際、最小限の荷物しか持ってこなかったため、この連休は、身の回りの細々したものをそろえて
います。
今日は、盛岡厨川産の、溜塗の汁碗が目にとまりました。口縁がいい形に開いていて、気分が良く、手に取ってみました。
その途端、頭の中に、「ハタノ反リタルお椀」という言葉が浮かんできました。
咄嗟に浮かんだ文句に顔がほころび、利休さんに少し敬意も表して、結局これを買い求めました。
石垣では、与那国産の良質な鰹節がふんだんに手に入りましたので、美味しい味噌汁が安く作れましたが、明日は、利尻産
の昆布を奢って、汁物を仕立ててみることにします。
* 口縁の外むきに開花したように反った碗型を、「ハタの反りたる」と古いものに形容してある。会記などで見かける。そ
ういう塗碗が手に入った、と。姿がよくてわたしも好きである。いまも湯飲みと酒の用とに、掌におさまるほどの白磁を用いているが、「ハタの反りたる」もの
で、気に入っている。『秘色(ひそく)』という小説で、青磁の盃をめぐって天智・天武の争うことを書いたが、あれも「ハタの反りたる」優美な盞であった。
* 五月六日 土
* いいことをメールで教えてもらった。書き写させてもらおう。
* 日本は電話料金が高いので、読みたいホームページを一括して保存しておき、電話を切ってからゆっくり読めるよ
うにするソフトウェアがたくさん
あります。メーカー製品もありますが、
http://www.vector.co.jp/soft/win95/net/se044749.html
http://www.vector.co.jp/soft/win95/net/se077067.html
http:
//www.vector.co.jp/vpack/browse/pickup/pw3/pw003265.html
http:
//www.vector.co.jp/vpack/browse/pickup/pw2/pw002064.html
などはボランティアが無償で公開している一括保存プログラムです(他にもたくさんあります)。
* 「市民ケーン」「第三の男」と、つづけざまオーソン・ウエルズの映画を観た。前のはオーソン・ウエルズが製作
し監督し主演している。あとのはキャロル・リードの監督で、オーソン・ウエルズが主演し、「市民ケーン」と同じくジョセフ・コットンが脇を演じている。
「第三の男」では女優アリダ・バリが印象的。ともに映画史上の名作の誉れ高い。妻は、「市民ケーン」は、も一つピンと来ないと言う。わたしも、評判ほど面
白くて堪らないとは想わない。ダイナミックに深く大きく割り切った脚本で、写真もみごとだし、主題もよく分かる。
しかし主題なんてものは、「分かる」べきものだろうか。
同じ歴史的という意味ではもっと未完成だが、「戦艦ポチョムキン」の無声映画には感動と興奮とがあった。
「第三の男」の黒白の写真=繪の美しさには舌をまく。ある時代の怖さが、ウイーンに限定せずとも、グローバルに無気味に
迫ってくる。
* そのウイーンの甥からファックスが届いた。例によってこっちからのメールは向こうで読め、向こうからのは、わ たしの器械へ化けて出る。仕方なく彼はファックスを使ってくる。彼の器械のせいだとおもってきたが、わたしの器械操作のせいかもしれない。元気な甥が、す こし気分的にヘバっているのではないかと心配だ。
* 十七歳の少年の犯罪が続発し、心肝をひしがれた気分で日本中が暗い。
それにつけて想い出す。大学より以前の「先生」から、かつて、どんな言葉でだいじなものを教わったかと東工大の学生諸
君に聞いた中で、一人が、「十七にして親をゆるせ」という強烈な一例を報告してくれた。少年犯罪の根には、まちがいなく「親」との関係が無関係でなく存在
している。そこから社会や政治や他の方向へ津波のように鬱憤がひろがってゆく。「親をゆるせ」ないのが普通の十七歳にむかい、「十七にもなったら(不出来
な)親でもゆるすものだ」と教えられたのだから、これは烈しく至当な激励である。親に拘泥るな、大人へ向けて一人立ちせよという「十七歳」への激励であ
る。「親をゆるせない」など、甘えであり、自己弁護であり、逃げ口上なのだ。そう、その先生の言葉を今更のように聴いて、頭を深くさげた。
* 五月六日 つづき
* 国立能楽堂の橘香会・梅若万紀夫の会に行った。万紀夫の能のほかは興味なく、遅れて行った。独吟も仕舞も低
調、狂言はやたらに長いばかりで、その間、廊下のソファに坐っていた。ただ梅若万佐晴の仕舞「弱法師」が彼にしてはめったになく、やや感じがつかめてい
た。
万紀夫の「高野物狂」は佳い能であり、直面の万紀夫が例の如く後シテで力量を発揮し、物狂の舞を、それはそれは美しく
舞った。シテの高師四郎は武士で、主大切の執事格であり、主の子息の幼い春満に仕えて遺憾なき人物。失踪した春満を尋ねてはるばる高野にいたり再会を遂
げ、めでたく主従して故国へ帰る。ちょっと変わった筋書で、うしなった子を母が追って物狂いするのとは、様子がちがう。男同士の主従の献身と信頼とにかす
かなエロスも感じられなくは、ない、が「松虫」のように匂い立つのではない。そもそも春満は子役が演じるのであり、今日の子役は凛々と謡いあげて好感が持
てた。万紀夫は毅然として知的に懐深いかなりの「人物」を、よく表現し得ていた。ゆったり舞い、無骨にならず、柔弱でもなかった。直面で演じられる能役者
に立派に成ってきたわけだ、亡き父万三郎に面差しも似てきた。この能一番に大きく満たされて帰った。
* 昨深夜から建日子が帰っている。能から帰って食事をともにし、食後に、映画「花嫁の父」のビデオをみせた。何
度見ても佳い作品だった。笑って、しまいには泣かされた。スペンサー・トレイシー、ジョーン・ベネットの両親が完璧で、花嫁のエリザベス・テーラーが奇跡
のように美しい。原節子が懐かしくなった。
今時分、テレビは「ローマの休日」を映している。あれも完璧な映画だ、楽しめるという点で。
「花嫁の父」はあらゆるあのての映画やテレビドラマのオリジナルなのだから、えらい。五十年前の映画だ。結婚式に教会へ
むかう母親の美しさに涙が出た。結局はジョーン・ベネットの助演ぶりに票を投じていたのかな。
* 川本三郎氏にもらった『荷風語録』巻頭の「深川小唄」「狐」と読んで、荷風の文藝にしびれる。あまりに懐古的
であるけれど、徹している。好き嫌いは別にして、ここに信頼できる「作家」がいると、嬉しくなる。
今日、日本ペンクラブ編の『人生を変えた一言』とかいう一冊が届いたが、正直のところ日本ペンクラブの仕事だとは思わ
ない。むしろ川本さんの『荷風語録』のような編著を考えた方がよほど価値がある。本を出して「儲ける」「儲かる」ことを考えるよりも、出費してでも日本文
学の底入れや底上げに寄与する仕事をすべきだとわたしは考えている。市井の版元にまかせて済むやすい企画に奔走するなど可笑しい話で、それならば三好徹氏
のいわれるような、例えば「このまえの戦争」に絡んだ、時代の証言とも表現ともなる、本質的な意図を生かした仕事を工夫すべきだと思う。
* 五月七日 日
* 連休最後の一日になった。田中孝介君のメールの指導で、写真が小さくできた。それでも、最初戸惑いがあり、し
かし、自力で思案したことがあった。ものの分かった人には滑稽なほど初歩的なことだろうが、開眼の一手だった。「\」の使い方を初めて自前で覚えた、悟っ
た、のだ。これまで、意味を考えたことがなかった。おかげで、「iken.htm」が「メモ帳」を経て「ワードパッド」で出せた。これが出来なかった。
「D:\homepage\index.htm」は呼び出せていたのに、同じことで「\iken.htm」が頭に湧いて
こなかった。頭が固いのだ。
それでもまだまだ、山のように、したくても出来ないことがある。それもよしと思うようになった。一つ一つ覚えてゆけば
よい。
* 世の中に「小父さん」「小母さん」がいたものだ。そういう存在が機能しなくなり消え失せた。「おじさん」「お
ばさん」はワルクチになり、「おじん」「おばん」なみになった。そして「おやじ狩り」が暴れ「年寄りは死ね、要らない」と襲いかかる。少年犯罪のかげには
親との軋轢が陰に陽にあるにちがいないが、むかしは学校の先生だけでなく、地域社会に「小父さん」「小母さん」という準父親なみ、準母親なみの年寄りが悦
んで機能していたものだ。淋しく乾ききって縮こまった世の中になった。
* 五月八日 月
* 「テディ・ベア展」のオープニング・レセプションに、日本橋三越本店へ。
送られてきたテディ・ベアの腹部に装飾して、そこに「言葉」を書けという注文だった、そんなのを出品するのはイヤだと
抵抗したが、趣旨がいいとか何とか妻にのせられ引き受けた。
繪も描けない、字もへたでイヤだつた。平和だの愛だの夢だの光だの祈りだの心だの、そういうウソくさいことを平気で
書くのもイヤだった。会場にはそういう文字が溢れていた。
わたしは仕方なく、思った通りに、「逢いたい人がいつでもいる」と書いた。これは本心で、それがわたしの人生だ。
紅白の椿に青葉をあしらった。稚拙なものだ。会場の隅っこでわたしの熊君はちいさくなっていたので、おい、元気出せと
言ってきた。石原慎太郎や吉永小百合など、各界から四百二十人ほどが出品していたらしい。わたしは雑踏の会場で気分が悪くなり、妻と遁れて、下の階で、
ビールの小瓶とからみ餅を食べた。餅もビールも美味かった。血糖値が急に下がっていたらしい。
レセプションでは、だれだか宮家のお妃が挨拶していたようだが、椅子にかけて休んでいた。注射のチャンスがなく、仕方
なく、そのままご馳走を適当に戴いてしまった。ビールも飲みワインも一杯飲んだ。和食の、好きな種類を限定して幾つも食べた。妻も大目に見てくれた。しま
いにケーキも食べてしまったが、これが堪らなく美味かった。テデイ・ベアはだしにして、今晩は、妻も食べようという気でいたようだ。三越のご馳走、なかな
かであった。それでも、量は、さほどは食べなかったと思う。
* 銀座へ戻って、足の痛んだ妻のためにらくなサンダルを買い、店をしまっていた鮨の「きよ田」を覗いて、おいし
い鮭の切り身一尾分を姿のまま貰っていたお礼を言った。酒が呑めなくなったというと、いいことだと手を拍たれた。もう十二分に飲んできたではないかと言う
ことらしい。
「ベレ」へ寄った。妻は「ベレ」へも久しぶりで、水割りを一杯飲んで「飲めたわ」と自分で感心していた。わたしもボトル
から、ウイスキーを少しずつオン・ザ・ロックで三度ほどお代わりし、早めに引き揚げた。銀座一丁目の好きな店でパンなど買い、有楽町線で。今日は私の方が
いちど気分が悪くなったものの、立ち直って、口腹の欲を少しく満たした。妻は元気に家まで帰ってきた。「黒い青年」がおお喜びで玄関へ出迎えてくれた。
* 五月九日 火
* 『清経入水』のホームページへの書き込みが順調に進み、ヒロインと語り手が東京池袋のレストランで、今、再会
している。太宰賞選者の唐木順三先生が大真面目に作者に肉薄されたのが、ここの会話で、たとえ他の全てはフィクションであろうとも、ただ一箇所ここの会話
場面だけは「事実」を書いただろう、いや、きみが何と言っても、ここは事実を書いたに相違ないとわたしを問いただされた、ご機嫌のお酒の最中に。なつかし
い。
今の私が見ても、この会話は微妙に烈しく書けている気がする。
『慈子』の方も保津川嵐峡館に憩う二人を描いて、浴室の場面になる。世にも美しい小説を書いてみせると覚悟して書いた長
編だ。書き写していて、静かに満たされる嬉しさがある。ある読者から、女の方から誘っているのは何故でしょう、初めて読んだとき、思わず胸が騒いだと告白
されている。よく深く考えて書いていたとは思うが、説明できない。
この二作、ずいぶん肌合いの違う作品と、作者も思っていたが、根の深いところで通うもの、毒のようなもの、を持ち合っ
ていることに今しも気がつく。ほんとうに書きたいものを、ちからいっぱい書いていたと思う。
* 岩波書店を退かれる野口敏雄氏によばれて、池袋・メトロポリタンホテルの「花むさし」で食事し歓談してきた。 一日食事をコントロールして、少しお酒も付き合った。野口さんは無類の酒好きで、何度も何度も酒に付き合ってきた。私の方が強かった、が、酒が好きという ことでは野口さんに負ける。ほんと、お酒の好きな人である。飲まない相手では気の毒なので、お銚子で三本ほどつき合い、楽しくいろいろ話した。定年で退い て行く友人がふえて行く。
* もと筑摩書房の原田奈翁雄さんから、『死から死へ』に懇切なお手紙をいただいた。原田さんは今「ひとりから」
という雑誌を共同編集されている。言うまでもなく径書房を起こして軌道に載せた名編集者だ。この人とも昔はよく飲んだ。ご馳走になった。往時渺茫ではある
が、いまもきちっと仕事をされており、いつも励まされている。
* 五月十日 水
* 珍しく閑散として話題も急迫したもののない、それだけに活発な座談放談の面白い言論表現委員会だった。
メインの話題は、秋のシンポジウムに何を取り上げるか、で。「一億総表現者の時代 ネット社会で自分をどう表現でき
るか」と纏められた狙い筋は、いいのではないかと思う。たしかに「少年法」問題もホットでいいが、詩人、編集者、作家の団体であることを思えば、会員の仕
事と日常に深く鋭く触れた文学表現に関わってくる内容のほうが、ふさわしいと私は考える。或いは例の柳美里さんの引き起こした「モデル」表現をめぐるもの
でもいいが。
なにといっても、電子メディア環境での、新たな表現の場と方法とが問われ考えられるべき時節のようにわたしは思う。そ
う意見も述べてきた。わたしは、その実践者だ。ネットを使ってどう儲けるかなど、そんなトピックはまだまだ問題外の気がする。何が出来るのか、それが文学
表現にどう関わってくるのかが大切な気がする。拘る気もないが。
* 週刊新潮の広告だけを見たのだが、「少年法」をいまだに支持している議員は「落選させよ」と。
一つの意見で、否定はしない。が、傾聴に値する姿勢で言われているとは思わない。ただに「売り言葉」に過ぎない。暴力
的な、と冠をかけてもいい。柄が悪い、品の無い、と決めつけてもいい。こういう言論、こういう言葉の暴走は、たとえ聴くべき意見であろうとも、わたしはこ
れをウサンクサイ、ばからしいものに感じてしまう。尊敬できない。尊敬できない言論表現でしか、ものを言わないマスコミなら、わたしは、それらに対して失
礼して背を向ける。どうあれば尊敬でき傾聴できるか。一概には言えない。私の胸が震えるかどうかだと自分の基準を立てて置くしかない。気稟の清質最も尊ぶ
べし。いい言葉を聴くことのあまりに稀な昨今を、寂しいと思う。
* ホフマンの「黄金宝壺」だったか、場面しか覚えないが、書記がせっせと言葉・文章を書き写した紙を容器の水に
ひたすと、ほとんどすべてがあとかたなく流れ失せてしまう。真実の言葉でなく、悪しき言葉、軽薄な言葉、偽れる言葉、魂の籠もらぬ言葉、ハートに響かない
言葉はすべて消え失せて水に流れてしまう。流れて失せない言葉で少なくも文学は書かれなければならないのに、言葉に対し文章に対しての敬意を、まず絞め殺
してしまうところから文筆業が成り立っている、この頃では。
恥ずかしいことで、書かない方がマシだと言いたくなる。事実、書かれなくてもちっとも構わないことが書かれている。そ
れが表現の自由だと、馬鹿馬鹿しく誤解している。
* 五月十一日 木
* きっぱりしない気分の、天候よろしからぬ一日で、冴えなかった。仕上げのようにジョディ・フォスターの「羊た ちの沈黙」で一層気が滅入った。これは優秀なおもしろい映画で、もう三度は見ていていつも感心はするけれど気はしんどく、楽しさいっぱいとはいかない。昼 間の、ポール・ニューマンの「評決」のほうが、まだしもカタルシスに富んでいる。あんなにひどい裁判では、いくら何でも陪審員も正義につかず居れないだろ う。「羊たちの沈黙」の緊迫感はもっとほんもので、手に汗を握りたければお勧めだ、しかも感銘が残る。だが、今夜の気分には重すぎた。
* 加島祥造氏から、バグワンそのまま『タオ』という、「老子」を詩の文体で翻訳したような本が届いた。伊那谷の
老子の異名で名高い人だが、老子を語るとは珍しい日本人だなと思っていて、逢ったときに、バグワン・シュリ・ラジニーシをお読みですかと訊ねてみたら、ま
さしく、ラジニーシに学ばれたことが分かった。今日のお手紙にも、ラジニーシに学んで「二十年」此処まで来ましたとある。
ラジニーシについては、まともに話しにくいほど誤解されていて、朝日新聞は、わたしのバグワンに触れた原稿を、明らか
に親切心からボツにした。アメリカから追放されたりしていたからだ。甥の黒川創にも、バグワンを読んでいると言ったら、やめた方がいいと本気で忠告してく
れた。理由を聴いてみると、とるに足りない、むしろ彼が一行も読んでいないことだけが分かった。バグワンの「タオ=道」も「存在の詩」「般若心経」「究極
の旅=十牛図」「ボーディー・ダルマ」も、すばらしい真のエッセイで、ほんとうに安心がえたく、静かに真実に生きて死にたいと願う人ならば、それこそ安心
して読まれて佳いと推奨できる、自信を持って。
* 加島祥造氏も、二十年傾倒されてきた。大きい証言だと思う。宗教でなくすぐれて宗教的であり、哲学でなく哲学 をはるかに超えてアクティブであり、禅に最もちかいが禅よりも日常生活を離れていない。あやしげなカルトとは天地ほども隔たった、覚者の生きたことばがマ インドを透過してハートに吸い込まれて行く。ソクラテス、イエス、ブッダ、そして老子。全部を体し全部に通じながら、より現代的に柔軟で積極的である。ヒ マラヤに籠もることを教えず、この我々の街に立ち返って易々と生きることを語っている。十牛図の第十。
* 芦屋に住み、神戸辺で、ハイテクな感じの製品生産に参加しているらしい院の女子卒業生が、湖の本のお礼にと、 その製品を送ってきてくれる由、メールが来た。三年生から院へ飛び級ですすんだ、いと面白き子だったが、相変わらず研究生活で健闘している。嬉しいこと だ。東工大の院にいたころは、美術展の券を送ってあげると、悦んでくれた。『死から死へ』を読んでいる内に、大学の教室を想い出し、秦さんに逢いたくなり ましたと言ってきた。
* この人と同じ学年のわたしと仲良しからも、メールに、可愛い返事がきた。この人には、詩を「書かせたい」のだ が。
* メールいただきました。嬉しいです。最近仕事でよく清瀬へ行くのですが、電車から保谷という地名を見るたびに
秦さんを思い出しながら、雑木林の緑が流れるのを眺めています。恋はこの上なくピュアでビューチフルです。また書きます。秦さんがびっくりするようなこと
を書くかもしれません(秦さんはびっくりなんてしないかしら)。
* 五月十二日 金
* 電子メディア対応研究会に、三十分早く行き、ペンクラブホームページの表紙組み替えを村山副座長、倉持委員と 相談。引き続いて定例の会議に。
* 従来、著作者の著作財産権はもとより、著作人格権がだいじに言われるとき、ひとつは出典明記、今ひとつは作品
の同一性維持が、大きい柱であった。二次利用される際に作品のいわば原戸籍を正確に明かしておくのが前者で、句読点に至るまで、原作を変改しないことが後
者であった。
但し後者の場合、新仮名遣いに、また新漢字に変更する例は増えていた。古典の場合は現代語訳されることもある。
それだけでなく、著作権保護期間を過ぎたものの、ある種の変改、例えば長大な作品は刈り込んでいいのではないかという
意見が、或る委員からまた出た。例えば中里介山の『大菩薩峠』のようなあまりに長すぎる物は短くし売っても構わないのではないかと。賛成の声もあった。だ
が、わたしは、容易には承伏しかねる。横光利一の『旅愁』は長いからと前半だけで全集に採られたりするが、生まれて初めて自力で買い始めた角川版昭和文学
全集の第一回配本は『旅愁』全編で一巻、満足した。前半だけだったらどんなにガッカリしたことか、後続巻の購買をやめてしまったか知れない。
源氏物語を、紫のゆかりだけで筋を通し、玉鬘の並びの巻は割愛した源氏物語が流通しても「いいではないか」という意見
に、「いいでしょう」とはよう言わない。まだしも宇治十帖だけをひとまとまりに読むことは可能だが、しかし、それに源氏物語と題するのは不当だと思う。そ
して、やはり宇治の十帖だけでは本質的に物足りなく欠陥物語に終わることも歴然としている。
トルストイの『戦争と平和』の巻末の戦争論は、たしかに読みづらい付録のように思われるにせよ、割愛したテキストを
『戦争と平和』として売られるのは、原作者の本意を大きく傷つける。買うわたしも承伏できない。買った読者がそこを読まないのは自分の勝手だが、削る権利
が後生に有るとは思わない。
私の作品には、別筋を幾つも撚り合わせながら大筋を運ぶものが幾つか有る。例えば『慈子』の徒然草関連の叙述、また
『風の奏で』の原平家誕生に関わる叙述を、読みやすいように省かれたのでは堪らない。後生に、気儘にこの筋は削りますなどと言われるのは叶わない、化けて
出て祟るぞと言いたくなる。同一性維持の願いには原作者の深い気持が籠もっている。
* もっとも、電子メディアの上では、それが勝手次第に、したい放題に踏みにじられたとして、どう防ぎどう権利が 守れるかとなると、実はお手上げなのである。自由自在に勝手に出来て、誰の所業と知られまいと想えばそう出来る。裁判すればいいではないかと暢気なことを 言う人があるが、外国からの操作も簡単なので、訴えるべき相手が捕捉できず、出来たとしても争いようが途方もなく難しく、それだけの費用や神経の負担に耐 えられないことになる。つまり電子メディア上では著作人格権などという厳かなことばが、単なる道化に陥る。
* 電メ研の構成員は漸くこういう視野も持ち始めているけれど、さて、その視野の中に有効な提案や方法を構築でき ない。奔走してくる土石流にスコップで立ち向かうような情けなさである。続けて行かねばならない、投げ出すことに意味はない。だが、正直投げ出したくな る。
* 誰の作品か覚えないが『目撃』というミステリーを読んでいる。建日子の書架に置いてあったのを借り出してき た。主人公のFBI捜査官の人柄のせいで、読みやすい。読み物だけれど、刺激の濃い液体のようにわたしの日常に流れ込んでいて、存外こんなハードボイルド に、ある種現在只今の空しい気分が救われている。妙なものだ。
* 明日はきついスケジュールで、六本木の俳優座公演と、有楽町の帝劇公演を、ハシゴする。どこで注射をし、どこ
でなにを食べて、芝居を観るのか、タイムスタディが必要だ。月曜のペン理事会に報告もしなければならない。その用意が出来るかな。注文の原稿なども、追わ
れ追われのなかでズルズル放置されている、気が乗らぬせいもあるが。
* 五月十三日 土
*
三十年、百度に優に及ぶ俳優座観劇のなかで、ナンバーワンに挙げたいほどの、みごとな舞台を、今日、観せてくれた。『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』
は、実話に基づく邊見じゅんの原作、藤田傳の脚色、西木一夫の演出で、演技陣は岩崎加根子、可知靖之、河原崎次郎、美苗ら大勢。一人残らず、この舞台に参
加していることが嬉しくて堪らないような、生き生きした舞台を成就していた。全てが分厚く噛み合い、間然するところ無い演劇時空、稀有の成果といわざるを
えない。
脚本がしっかりと手厚い構築度を示し、劇的な感銘を波のように揺り起こし揺り起こしてダイナミックだった。演出も行き
届いて、舞台装置も陰鬱に巧妙だった。
岩崎の、今日はと限定するが、舞台から切り抜いてお手本にして配りたいほど、科白術がみごとに発揮され、聴いているだ
けでも嬉しい妙味=ファシネーションの底光りがしていた。
だが、勝るとも劣らない可知靖之入神の演技に驚嘆した。なんという巧さだろうなどと思わせる隙間もなく、役そのもので
わたしを魅了した。その役を演じていたのが可知だと、終演後に連れに言われるまで、可知の可の字もわたしは気づいていなかった。しかも俳優座では、村上博
ら期待の指折り三人にいつも数えて、あの彼らのために存分の出番が欲しいなあと、連れと何度話し合ってきたか知れないのだ、その舞台が現に眼の前で実現し
ていたのに、可知靖之と認知しないまま舞台を見終えたというのは、いかに彼がみごとに演じ、いかにわたしが気を入れて「舞台」だけを観ていたかの証拠とな
ろう。すばらしいことだ、嬉しい体験をさせてくれた。
シベリアに抑留されていた兵隊の一人が死ぬ直前に長い遺書を書いた。七人の仲間たちは必ず故国の遺族に遺書を届けてや
るぞと約束したものの、文書を書き、また所持することすらソ連軍は厳禁していて、極めて危険であった。七人は分担して長い遺書を暗記してしまう事に決め、
そして帰国後に、銘々の運命に翻弄されながらも、断続して、死んだ兵の妻の手元に届けて行く。その最後の一部が届けられた時には、妻はすでに病重く余命
は望み難かった。
ことは単純ではない、シベリア帰りのもと兵士たちには信じられないつらい重い故国での苦労が重なった。軽薄な舞台も時
に平気でみせる俳優座が、渾身の誠意で彫みあげたどっしりと確かな名舞台を成就したことを喜びたい。
そうそう、この舞台では、美苗のたしかな充実についても賞讃を惜しんではいけない。この女優は、最初に抜擢されて「野
鴨」の少女役で痛切に眼をひき、成長して「とりあえずの死」の従軍慰安婦の名演で感心させ、そして今日も、達意の表現力を悠々と披露していた。女優で五本
の指には数えたい、俳優座期待のいい財産になってきた。
佳い舞台というのは、ほんとに佳いものだ、幸福感を覚える。
* 今日はその幸福がもう一つ重なった。俳優座を観おえるとすぐ地下鉄で日比谷へ移動し、帝劇で森光子の『ビギ
ン・ザ・ビギン』を観たのだが、ま、俳優座のおまけぐらいに思っていた。俳優座があんなによかったんだもの、少々帝劇がチャランポランでも楽しめればいい
や、と。
ところが、このショウは、なかなかどうして、力作のエンターテイメントで、十分に楽しませ、したたかに涙を誘う佳い舞
台であった。
森光子というのは、さすが森繁久弥にならぶ当代のエンターテナーであり、それも、力演を力づく持ち込むのでなく、悠々
とした懐の深さと優しさとで、心憎く感動へ客をひきずりこんでしまう。きちっと歌い、きちっと話し、きちっと動く。科白の美しい陰翳と明快なこと一つを
とっても、いい役者はちがうなあと心底納得させてくれる。佐久間良子でも浜木綿子でも十朱幸代でもちょっと太刀打ちならない、図抜けた把握と表現で魅せて
くれる。たたき上げ練り上げて、十二分に洗練した絹の肌合いを見せている。小柄な大女優であった。「てなもんや三度笠」の昔々を頭の隅に懐かしみながら、
目前の森光子の舞台に、登場のつどどきどきし、わくわくしていた。フィナーレの森が、若々しい他の大勢の女優やダンサーの誰よりも若く、若々しく、とびき
り美しいのにも驚嘆した。
わたしなども建物にだけは記憶のある、有楽町日劇の沿革を太い線にして、ショウを愛し抜いたひとりの死者と多くの生者
たちとの熱い交感・交響の愛の物語であったが、劇の進行を盛り上げて、存分に見せてくれたショウと歌との場面も活気に溢れ、風間杜夫も熊谷真美も井上順も
山本学も、手厚く舞台に加わっていた。
前列の、下手花道にも近くにわたしたちはいて、ラインダンスの脚も表情も、健康に、輝いているのを大いに楽しんだ。
おそらく、この森光子と風間杜夫とで演じてくれたいわば「歴史」物の現代ストーリーは、ながく懐かしく記憶に残って、
どこかで、わたし自身の生きてきた時代の匂いや物音に溶け合うに違いない。森光子も愛していた美空ひばりの面影も、そこへ加わってくる、「川の流れのよう
に。」この題で森光子は新しい映画を創ったらしい。健闘されよ。
* 昼のインシュリン注射は俳優座へ早めに入ってし、池袋で買っていったこぶりのサンドイッチを開演前に座席で食
べた。真中央の前寄り、見やすい最良の席へ招いで貰っていた。それも舞台に引き入れられる幸せな前提であった。
二度目の注射と食事は帝劇へ入る前に「香味屋」で。カニピラフとサラダが美味しかった。妻もわたしも、いたってこの店
が気に入っている。
* 満ち足りて有楽町からまっすぐ保谷へ戻った。車内では、このところ熱心に読み進んでいる新谷尚紀著『神々の原
像』を、ペンを片手に、さらに読んだ。厳島の御鳥喰神事、出雲の神在月神事。烏といい龍蛇といいぐうっと心に触れてくる。バスジャック少年の事件や人を殺
す経験がしたかった少年や、病院や警察や教師たちの対応の悪さや。その他もろもろのウンザリに優にバランスするだけでなく、魂をゆするほどの刺激が神事や
神話にはある。こういう世界にわたしはどんなに救われてきたか知れない。
『邪教・立川流』も『陸軍と海軍』も、どれもみな赤いペンを片手に読みふけっているのだが、面白い本は、いくらでもあ
るものだ。
帰宅したら山折哲雄氏の対談集が贈られて来ていた。留守で持ち帰られた宅急便も二つあった。あすは休めるが、来週も一
日おきに会議、インタビュー、パーティーや、二ヶ月目の通院診察があり、気になる眼鏡の新調や、締め切り原稿や、打ち合わせの必要な春秋社の宿題がある。
* 五月十四日 日
* 「湖の本」の通算第六十三巻めを校了にした。発送の用意がまだ全く出来ていない内の責了で、天を仰いでいる。順調な発送は望めそうになく、いまから漸く用 意に取りかかる。いつもならもう、ア・カ・サ行までは読者一人一人への挨拶を書きおえているのに、一人にもまだ書けていない。
* 書籍取次の最大手の一つが経営不振で大きくぐらついているという。
「湖の本」をはじめたときには楠正成が赤坂城に籠もるの気概であったが、取次は、鎌倉幕府でこそなくても六波羅探題ぐら
いに感じていたし、あの辺が、ぐらついてくる時代が来るというより、来ないといけないと思っていた。だが、とうてい鎌倉・六波羅の勢いの前には「湖の本」
程度の小城は陥落必至と覚悟の上で、それでも、じりじりと刊行し維持し続けてきた。そしてたとえ退いたかも知れぬにせよ、千早城はまだ落城はしていない。
それなのに大手取次という東か西か六波羅探題の今しも崩れ落ちそうな日が、遂に遂に来ているとは。
* 「湖の本」に関しては、外から見る目が、いろいろに変わってきたのが面白い。
初めの内は、どうせ続くまいと嘲笑う人と、だから応援してやろうという親切な人とが、何となく拮抗した。応援して下さ
る人は永く実質的に応援して下さった。冷笑していた人たちは、その後あまりに着々と刊行の進むのが不思議でもあり、その頃から、事業の規模について、つま
り「発行部数」について尋ねてくる外の人が、ぐんと増えた。誰に対しても答えてこなかった。
それでだろう、今では、どうせ問題にするに値しない極零細な同好会かのようにわざと見て、ことさら無視しようとするム
キが強くなっている、が、それでも相変わらず確実に出続けるのが不思議で仕様がないらしい、秦はよほど金持ちなのかとまで言う人が出てきた。赤川次郎じゃ
あるまいし、わたしに金などあったら、その方がよほど不思議ではないか。
なににしても「湖の本」は次々に新刊が出続けて、最大手の取次の方が危なそうな今は時代なのである。電子書籍コンソー
シアムも、前触れの意図を変じて、わたしたちの予想通り、全く「マンガ出版」的馬脚をすでに露わし、成績も延びていそうにない。オンデマンド出版もよほど
厳しそうな按配に、遠目にも見える。
思えば、いまやいちばん効率のいい「オン・デマンド・タイプ」の出版は、わが「湖の本」であろうと言える。「一億総表
現者の時代に、ネット社会でどう自分を表現できるか」という問いかけに、現在、いちばん真面目に、実績そのものによって答えられるのは、わたしかも知れな
いのだ。スティイーヴン・キングの異様な例は、日本の地道な文学者には何の参考にもならないのである。
* アヌーク・エーメらの「男と女」を観たかったが、妻にビデオ撮りを頼まねばならなかった。佳い作品だった、あれは。
男のルイ・トランティニャンもよく、フランス映画の味わいが捨てがたい。ときどきはどうしてもフランス映画が観たくなる、この映画もそういう気分の時に映
画館で観た。「秋の恋」もそうだった。「髪結いの亭主」などもそうだった。久しく、だが、映画館に行かない。
* こんなメールを、心したしい読者から貰った。微妙な問題に触れられていて、これは、独り占めに出来ない。
* 私は秦様の「闇に言い置く」に想を得て、いつの頃からか自分のサイトで日記を公開するようになりました。日記
は一日三行、毎日と決めました。
八ヶ月ほど続けたところで、私の書く内容に憤慨した読者のお一人から厳重抗議を受けて、一度閉鎖のやむなきに至りまし
た。「不特定多数が読む場」にものを書くことの責任について考える契機となった出来事でした。
加害・被害の関係というものが、常に痛みを受けたと感じる側からの申し立てによって初めて成立するということを再認識
し、ことばを書く者がそのことを強く自覚しなくてはただの主観の放縦な垂れ流しに堕落しかねないことも、痛感いたしました。
そのコーナーを閉鎖するときの痛みによって、私は抗議してきた人の痛みを知ったと思います。暫く茫然としておりました
が毎日何かを書いて公開するという習慣がそう簡単に捨てられるものではありません。書きたい気持ちは募るばかり。そこで、長く書くから夾雑物が混じるのだ
と思い至り、いっそ歌にしようと思い定めました。秦様の『歌って何』を持ち歩いて拾い読みしながら、それでもまともに歌を勉強したことのない私は、「これ
は短歌と呼べるようなものではない」事を、重々承知の上です。
そして春が来た頃、同じ過ちを繰り返さぬ覚悟で、また「日記」を開始いたしました。平凡な人間が、一人の女性であるこ
とも自覚しつつ、私の目から見た世界、私が肌で感じること、私の目に映る美しいもの・哀しいものを一日ひとつずつ拾い集めているような次第です。
時折エッセイも書きます。
それ以外はお伝えするのも憚られるような他愛のない趣味です。いつぞや秦様のページで「美空ひばりは下らない歌をこの
上なく見事に歌う」といった趣旨の記載を拝読いたしました。私の贔屓は、今国語審議会の委員も務めているシンガー・ソングライター中島みゆきという歌手で
す。彼女の書く詞は谷川俊太郎氏などにも「詩」として評価されています。私は私の耳と読み方で、この同年生まれの歌い手に強く惹かれるところがあり、時々
コメントを書くのが楽しみです。
こんなところが私の日常です。嘗て秦様にいただいた
さまよはないで
かがみにおなり
うつしはしても
みだれはしない
ゆくはゆかせて
くるはこさせて
しずかにひかれ
くもらぬやうに
さびしいひとよ
さまよはないで
という詩句が時折耳の奥で鳴ります。その度に、感謝を新たにしている日々でございます。 ことばというものは、有
り難いものですね。どんな宝珠にも敵わぬ力を持って輝き続けます。さまようことが多いものですから、余計に。
本日は自分のことだけ書きました。こんな一方的で身勝手なメールがあるでしょうか。ふとどきものめとお叱りを受けるこ
とを覚悟して、送信ボタンを押します。
御身お大切にお過ごし下さいませ。またサイトへお伺いいたします。
* ネットに日記を公開する風は、よほど流行しかけているのかも知れない。作品は書けないが「日記」ならと。
それは、だが、考えが薄い。
ネットに向けて書くものは、すべてが公開であり、言葉であれ画像であれ厳しい自覚で裏打ちされていないとまずい。自覚
の最たるものは誠意であり、かつ純正な主観に貫かれている強さであり、また優しさである。なまじいに客観的にというのであれば、それは解説に過ぎず、そん
なものは存在し得ない、不可能なことだ。自分の言葉で自分の思いを率直に語る勇気がなければ、どこか飾った、どこか歪めた「日記」など公開すべきではな
い。
読む側でも、そんなものは永くは読み続けえない。
わたしは、あくまで「闇に言い置く」自覚と態度を崩さず、率直に書く。むろん人それぞれにいろんな考えもあるだろう、
だから自分の考えているとおりに書く。抗議を受けたこともないが、受ければ誠実に応じるつもりだ、議論をしてでも。
* 中島みゆきには、思い出も感想もある。まるて知らない歌手だったのを、友人の原善が名曲を選んでみましたと言い、
テープを呉れた。それで聴き始めたが、耳に付くしつこさに惹かれ、また悩まされた。一頃、彼女の作詞を「詩」と持ち上げる世田谷辺の文士諸氏があり、わた
しは、ただ首を傾げて傍観していたが、コマーシャルや郵便局の宣伝に顔をさらしはじめた中島みゆきの平凡さに、やっぱりなともう関心が失せてしまった。詩
の評価が、日本では安いようである。
* 五月十五日 月
* 間違えていつもの東京會舘に入ったら、今月のペン理事会は日比谷のプレスセンターで。すぐタクシーで移動。
モスクワでの世界ペン大会を控えて、チェチェン問題が、大会をボイコットするかどうかと言うほどの重い問題になってい
る由、報告があった。チェチェンへのロシアの武力攻撃や殺戮行為にはむろん反対し抗議しなければならない。中国のチベット問題にも同じことが言える。遠く
の核実験には型どおりの抗議をして、近くの反人道的・反平和的非道には声も挙げないなんて理屈は無いだろう。大声でなくても、きちんと言うべきは言う隣国
への信義も有り得ていい、有るべきだ。
* 電子メディアの少しく基本的な諸問題で議論をして欲しかったが、時間の関係で一部の意見交換で終わってしまっ た。仕方がない。ホームページ運営については概ね一任されたのが、今後の働きを、少しラクにするかも知れない。
* 先生に教わった新しいソフトを池袋で買って帰った。夕方、食事の適当な店が見付からず、デパートの地下で和食 の弁当を買って帰り、家でインスリン注射した。雨しとどの道を、ちいさな傘でしっかり濡れた。このごろは、外出にも自転車は全く使っていない、いつも駅ま でを歩いて往復している。
* 多田道雄氏と山折哲雄氏の対談を、電車のなかで半分ほど読んだ。多田さんは医学の碩学、山折さんは宗教学。面 白いし、啓発もされる。
* 『清経入水』の書き込みが、やがて終わる。長編『慈子』もかなり書き込みが進んだ。ミスタッチも多いだろう
が、いずれきちんと校正する。どれほどの人が読んで下さっているか。四十年ちかくも前の作品になると、ほとんど、他人の仕事ほど離れて読めるもので、若い
日のエネルギーにかるく舌など巻いてしまう。すこしドキドキする。おもしろい経験だ。
* 五月十六日 火
* こんな、なつかしい手紙が届いた。なつかしいとは、気持が自然に寄り添って行くといった意味で、わたしは、い つも用いている。なつかしい人は心親しい。
* いかがお過ごして゜しょうか。
連休も過ぎ、落着いた頃でしょうか。
御無沙汰していますが、しばらく日本を離れて旅をしているのです。今はスペインの田舎のサン・ドミンゴ・シロス修道院
という処に来ています。昨夕、一日一本のバスでこの村に着き、グレゴリオ聖歌を聴いた時は、知らず知らずツーッと涙が流れました。一神教の神を信じない風
土に育った私が、神とは何かを知らず、分らず…唯々何かを感じます。 スペインが、フランスやイタリアより物価の安いことに助けられて、長旅が可能になっ
ています。
サンチャゴ デ コンポステラへの巡礼の道を、大部分バスに乗ってですが 辿っています。まだ中途です。辿り着いたら
少し南に向かい、イタリアに寄って六月半ばまで…無理せず、注意深く、そして楽しむ、のが一人旅のコツかもしれません。
日本のニュースが全く私の耳には入ってきません 大きなホテルのBSやケーブルTVが見られればいいのですが…。ま
あ、それも知らなければ、それはそれ。インターネットカフェも見つかりません。
いくつかの単語を並べたスペイン語と、英語… なかなかここでは英語も通じません。その分、私の頭の中は日本語が充満
しています。日本人にも会いませんが、それは逆に気楽です。淋しいとは思いません。
私事ばかり書き連ねましたが、お身体の方如何ですか。三月のホームページで糖尿病の数値のことを書かれていましたのが
気になっています。どうぞくれぐれも大切になさって下さい。
同封した写真はエステーリャ、星という名前をもった町の、修道院の回廊です。
五月はまだ巡礼のシーズンに少し早いようですが、徐々に姿を見かけることが多くなりました。フランス国境の峠のあたり
ではほとんどわかりませんでしたが。
重ねて、くれぐれも大切に、大切に。 五月九日
* 文体というのは不思議なもので、ほんとに、指紋もおなじに、人によりちがう。親しめる文体、肌に荒く触ってく
る文体、静かな文体。この手紙なら、このままわたしの小説にさしこんで、ヒロインからのものとして使える。たとえば、あの慈子の。一葉の、修道院の回廊の
写真も静かだ。
日頃気楽な人でないことを、およそは察している。ときどきこうして外国へ心をおさめに行く人のようである。
* カナダの友が、中学の頃の友人観を何人ものぶん書き送ってくれた。大手の石油会社の社長か副社長をしているは
ずの團彦太郎とこの友人とわたしとの三人で「細雪」最初の映画化作品を映画館に見に行ったなど、忘れ果てていた。「細雪」の映画を観たことはそれはもう
しっかり配役まで覚えていて、何度も、それに触れて書いてきたのに。記憶というのは、ややこしいものだ。
十二人について、れぞれに適切な批評とエピソードを添えてくれているその番外に、「Untouchableと言われる
かもしれないのですが、それを敢えて」と、わたしには肉親以上に身に刻んで大切な三姉妹に筆を運んでくれているのが嬉しかった。姉も、妹たちも、元気でい
てほしい。
* 話が変わりすぎて余りに腹立たしいが、森総理の、「日本國は神である天皇陛下を中心に」云々という「確信」の
演説を聴かされ、そのばからしさ、開いた口が塞がらぬとはこれだとしか言いようがない。いささかならずオツムに隙間の多い、図う図うしい三流の政治屋だと
は、前々から呆れて眺めていたが。
万物は神から生まれたという意味だと弁解しているが、天皇を神と崇めた上の言い訳なのだから、つまりは、日本人は「陛
下の赤子」だと囃したてつつ軍閥が暴威をふるった時代のプロパガンダと、何一つ変わりはしない。
こういう愚劣な首相を密室の中の四五人が隠密裡に擁したのである、しかもそこへ至る青木官房長官の言動が、真っ赤なウ
ソであることを信じていない日本人など一人もいないと言いたいほど、詭弁による瞞着は詐欺行為に等しい。こういう政府に国運を委ねていていいと思わない。
いまの自・公連立違憲内閣には早急に退いてもらうしかないが、ともあれ、選挙日にはぜひ投票に出かけたい。小渕さんの気の毒はまことに気の毒、それはそれ
で、今度の選挙に絡めて愚かな同情に奔ることは避けたい。弔い合戦などという次元で国政選挙をしてはいけない。
* 共産党中央委員会から共産党の大躍進を応援するむね、名前を使わせてと頼んできたが、断った。機関誌だか何か
知らないが雑誌に原稿を頼まれ、きちんと書いたものが、党として気に入らないとボツにしそのままという事があった。ここにも書いたことがある。党名を変え
よ、その方が絶対によい、政権に参加の意向を表に立てて闘えと、書いたのだった。党がかりにそう考えなくても、原稿を書いたのは党でなくわたしであり、原
稿をわたしに依頼したのは党(としておく。)ではないか。原稿を掲載し、原稿料を支払うのはプロの書き手に対し当然ではないか。そういう度量も作法もな
かった共産党を、わたしは、全面的には支持できない。
それでも、いまの自民中心政権を討ち滅ぼすためになら、まだしも共産党に伸びて欲しい。野党に伸びてほしい。土井たか
子には、もっと頭をつかって新機軸をだしてもらいたいが、あの人も頭は極めて固い。柔らかい頭を、もっと広い範囲から借りてくればいいのに、それだけの融
通が利かない。あの誠実だが頑張った物言い。あれは、あの人の限界を示して余りある。しかし保守党の扇千景などというヒョンな見当違いとは、ものが違うの
だ、土井さん頑張って欲しい。小沢一郎には、深い信頼はとても置けない。
* 五月十七日 水
* 院を卒業して三年めに入った元女子学生が、湖の本の三冊分を一度に送金してきてくれた。お金が入ったからとい
う以上に、そのように好意を寄せてきてくれるのがなつかしく有り難い。
神戸の元女子院生からは、今盛んにコマーシャルで宣伝もしている「アリエール」の「ジェルウォッシュ」という洗剤が一
ダースも贈られてきた。彼女はその研究成果を、中の洗剤でなく、洒落て機能的な「容れもの」に注ぎ込んだらしい。フウーンと感心して手に持った。ご近所
へも分けてあげた、そうして下さいとメールに書いていたから。お向かいの奥さんにわたしまでお礼を言われた。けっこう歓迎されたようだ。
* 岩波の野口敏雄氏から贈るようにと言われて、作家の木崎さと子さんへ『静経入水』『親指のマリア』『死から死 へ』を送って置いた。丁寧な礼状が来た。
* 午後、小川町まで出向いて、雑誌「サライ」のインタビューを受けた。電子メディア関連のおはなしである。一時 間半ほど写真を沢山撮られながら思うままを話してきた。何ということなしに、いつのまにか、パソコンにかかわる取材を、もうこれで何度受け、何度書いたり 話したりしてきたことか。聞き役をしてくれた宇野正樹氏は、このホームページを実際に見渡してみて、類のなさに驚いたらしい。
* 池袋に帰り、ふらふらと東武地下の、以前はよく甘いものを買って帰った「仙太郎」のまえへ来てしまった。どの
菓子もどの菓子も食べたくて食べたくて辛抱がならない。店員が見咎めるほど見ていた。「仙太郎」は京都に本店があり、叔母の茶室では稽古日に此処の最中が
よく使われた。わたしも叔母のお使いで買いに行ったりした。なつかしいこともあるが、事実此処の最中もおはぎも美味いのだ。
それでも、ぐっと堪えて店の前を離れた。が、我慢ならず、舞い戻って「最中を一つだけ」売ってもらった。池袋の地下駅
構内を、その一つの最中にかぶりつきながら西武線の方へ歩いた。いや、もう、うまかった。此処の最中は餡があふれるほど詰めてあるのが有名なのである。そ
れが食べたくて。買って帰るわけに行かないので、まさに買い食いの盗み食いをしたが、それでも食べたかった。おかげでか、血糖値はいつもより高めに出てし
まった。だが美味かった。また食べたい。
* 昨日と今日とで、読者への発送のための挨拶書きを、ア行カ行分、終えた。その間にビデオで「男と女」「オペラ 座の怪人」を、「聴い」ていた。フランス語。そしてオペラ。テリー・ポロとバート・ランカスターらの「オペラ座の怪人」を見ると、聴くと、きまって泣いて しまう。愛藏のビデオで、永久版にしてある。
* 電車では多田富雄と山折哲雄の優れた対談『人間の行方』を読みふけっていた。静かで深く、そして明快に大切な
ことが語り「合われ」ていて感嘆。
* 五月十八日 木
* やっと、第五回太宰治賞受賞作で「湖の本創刊第一巻」の『清経入水』を、この「文庫=アーカイヴ」に書き込ん
だ。まだミスタッチの訂正が必要だが、わたしのためには画期的な作業が緒に着いた、「電子版・湖の本」の新発足である。課金はしない。このまま読まれても
よく、もし縦書き・紙の本の完備した「湖の本」で読もうと思われる方には、そっちをお買いあげいただく。横書きのテキストより、ずっと読みやすく美しい
「本」になっている。旅の友に佳いと評判されている。
この反リアリズムの奇しき幻想作品は、1969年当時、他に殆ど例がなかった、同類作品がなかった。此の世の「事実」
「現実」に束縛された当時の先輩作家たちによりも、もっと自由にクレバーな一般読者たちの方に、この異色の創作は喜び迎えられた、多数にとは言い難いが。
版も重ね、新版も出た。今では、ことに映画映像作品などには、此の世ならぬ存在と現世の存在との共生するハナシなど、ザラにあって人気を得ていたりする。
小説に書かれてもさほど異色とはもう誰も感じないだろう。だが、この作品の出た当時は、まだリアリズム全盛であった。
言うまでもない、幻想的な怪奇な小説であるが、わたし自身の根の哀しみや寂しさに着床したもので、空想の作り物語りで
はない。この一作では見えなかったモノが、他の作品を発表して行くにつれ見えてきたと、よく言われた。秦文学研究会が東京大学倫理学研究室を中心に再編再
開された最近にも、躊躇なく再び三度びこの『清経入水』が取り上げられたのも、そういう意味合いだろう。
* 八十六キロほどあった体重が、七十九キロに減っている。十年ほども苦闘したが八十キロの壁が分厚かった。カロ リー制限が利いているのだろう、我ながらよく辛抱している。昨日の「仙太郎」の最中のようなことは、ま、ときどき無いわけではないけれど。もし酒が渇くほ ど欲しければ、極少量だが他の食物を減らしてでも口にしている時もある。いまも、ワインをコップに半分ほど貰ってきた、ナニ、黙って失敬してきたのだが、 これがまた美味い。
* とんでもない「神仏習合」政権が平然と居座っている。創価学会・公明党のアイデンティティは放棄されたに等し い。かつて「神の国」の弾圧に手痛い死の血潮すら流した創価学会体験はどうなったのか。だから森総理のいわく「神の國」にすり寄って今度こそは保身を計っ ているというのか、卑屈に。そんなにやわな仏法・法華経信仰であったのか。情けなく折伏されてしまったのか。
* 自民党の内部にせめてもの気概を期待したい。総理の「神の国」弁解は支離滅裂、まともな日本語ではない。雄弁 とは空疎な詭弁の意味でしかないようだ。「言語明晰・意味不明」の元総理も雄弁に頼みながら詭弁を弄して潰れた。潰された。今度の森総理は「言語明晰・意 味危険」だ。各野党の党首はなぜもっと街へ出て訴えないか。
* かつてない殺伐としたどんづまりの世紀末現象が現出している。このままでは新世紀へ汚泥は流れ込み、腐臭はま
すます濃くなってしまいそうだが、せめても総選挙で、いい方向への大雪崩を起こしたい。
* 五月十九日 金
* 三度目の診察はまことに順調、この調子で更にと、予想通りの指示が出た。体重は減り、朝一番の血糖値が安定
し、ヘモグロビン値も下がっている。血糖値検査も夜はやめてもいい、朝だけでいいとも。ただしインシュリン使用は、いつかやめることも不可能ではないのだ
から、さらに続行し、自力でインシュリンが分泌され機能するところまで努めて欲しいと。納得して引き下がって来た。病院の食堂で例によって聖路加弁当を食
し、ゆっくり本を読む。思いの外早く診察が終わったのである。
『神々の原像』が巧みに分かりよく纏まった実証的な論考で、小説より面白い。研究書であり論文ですらあるのに、説得力に
富み、取り上げられた神事や祭事の深みが民俗学的に手に取れるように覗ける。学問的に手堅く、無用に逸脱しないから、安心し信頼できる。夢中で読める。
今一冊は多田さんと山折さんの『人間の行方』対談で、深く傾聴できる。こういう本を鞄に入れていると、電車の中でも食
堂でも、時を忘れ、心から落ち着ける。どんな本かと具体的に書けばいいのは分かっているが、今その時間がない。テレビで「ER」が始まるわよと階下から妻
が呼んでいる。中断。
* 今夜の「ER=緊急治療室」は、求心力に欠け散漫だった。先週は異色のドラマで、わるくなかったのに。
* 聖路加病院から帝国ホテルへ行き、日比谷クラブルームで暫くコーヒーを飲み本を読み次ぎ、さてインシュリン注
射してから、五時開宴の朝日新聞社「学術・芸術 交流の集い ー朝日賞七十年記念」パーティーに出席した。朝日賞には毎年推薦を頼まれ、芳賀徹氏や馬場あ
き子さんを推してきた。立ち食いと立ち飲みのパーティーは苦手で、馬場あき子の顔をみてお祝いを言っただけで、ほんの暫くいて退席、その足で西銀座の「き
よ田」へ行き、病人には飲ませないと言うのを口説いて徳利一つの酒をもらい、うまい肴と鮨とで、主人といろんな懐かしいハナシを楽しんだ。井伏鱒二、瀧井
孝作、永井龍男、小林秀雄、河上徹太郎、唐木順三、山本健吉、辻邦生、井上靖そして古田晁。こういう人たちの思いで話の出来るのはこの店ぐらいなもの。困
るのは、帰りがけ、からのお盆だけ出されていいだけ置いて行けと言われること。これには困っちまう。
ええいとばかりバー「ベレ」へ顔を出してウイスキーを生のまま少なからず。途方もなく機嫌が良くなる。
* 八時すぎ、ゆっくり銀座へ歩いてパンなど買って帰った。午後遅くと晩とに相次いで食べて飲みもしたので、血糖 値はいつもより高かったけれど、それでも「良」の範囲内でおさまっていた。
* 何が、だが、いま頭にあるかといえば、一に愚かな「総理大臣」のこと、二に卑怯な「官房長官」のこと、三に卑 屈な「公明党」のこと、四にどうしようもない「警察」のこと、五に連鎖的に暴発の「凶悪犯罪」のこと。気分が暗くて堪らない。なにもこっちは清廉潔白の君 子だなどというのではない、わたしとて、いいかげんな人間の一人であるけれど、それでも、いやだ。じつに、いやだ。
* 昭和四十四年八月号「展望」の太宰賞受賞作『清経入水』に次いで、昭和四十四年九月号「新潮」に発表の『蝶の
皿』をパソコンに書き込もうかと思う。この号は新人賞受賞者特集だった。わたしは湯気ほやほやの新人だった。阿部昭、坂上弘、渡辺淳一らと一緒に作品が並
んだ。
そして、どっちがどっちとは言わないが、水と油とのように、わたしの『蝶の皿』は、際だって孤立してい。他はみな身辺
に取材の私小説ばかりだった。「短編選 2」に書き込んで行くつもりだ。
* 五月二十日 土
* 今日は調子が上がらなかった。雨のせいにしておく。シルベスタ・スタローンの「クリフハンガー」を観ながら発
送用意などしていて能率がよくなかった。それほどこの山岳ものサスペンス映画はけっこううまく出来ていて、つい手に汗をにぎる。ボブ・ラングレーの『北壁
の死闘』という小説を三度も四度も愛読してきた。山の大きさや怖さをありありと書いていて面白かった。シルベスタ・スタローンの映画では「ランボー」が代
表作だろうが、この山で闘う「クリフハンガー」もハートがあって悪くない。
* ニュースを観ていると、森喜郎のバカさかげんが繰り返し報じられるばかりで、うんざりだ。どこの挨拶でも麗々しくメ
モを手に読み上げては、そうせよ人に強いられている、と、まるで心にもないことをわたしは滑稽に演じさせられていますよと言いたげな、ダラシない笑み。一
國の総理にまことに恥ずかしき、最低の人選をした官房長官や野中現幹事長や亀井静香らの、これは國家的な犯罪といわねばなるまい。
國中がこういう手合いにより深く気を殺がれている。日本の政治はとうから黴雨期に沈んでいる。
* 五月二十一日 日
* 宮沢藏相のサンデープロジェクトでの経済観測は、物言い穏やかに分かりよく、この人の根にあるステーツマン
シップを、聴き手に頼ませる力があった。ステーツマンシップをもった政治家が少なすぎるのである。
菅直人に、やっとバカなスキャンダルから立ち直りの気配がみえ、活躍を期待したい。
民主党は成熟した党ではないが、自民党ほどの爛熟ないし腐敗から、まだ遠くに身を持している。若手にもいい論客がい
る。首相補佐官の町村など見た目は穏当な紳士だが、立場上、基本の所で間違っている森首相の凡庸な過ちを、ひたすら弁解のためにのみ烏を鷺と言いくるめて
いる。テレビではその嘘が露骨にわかってしまう。
国民のために、正常で健康な基本の信念を、洗いざらい話せと言わぬまでも、腹にはしっかり持って容易に譲らないステー
ツマンシップが欲しい。森、亀井、野中、青木らには党利党略のほかなく、文字通り悪四天王「落選させたい一、二、三、四位」である。
* こんなメールが入ってきた。
* 「収容所から来た遺書」を観てきました。午前中の仕事が終わるや、当日券の有無を確かめて飛び出しました。な
んと4列目の10という願ってもないお席でした。開演5分前のベルと共にやっと入場できて、ですよ。ラッキー。周りの方々が、私より,ご高齢の方が多い事
が気になりましたが、充分に堪能させていただきました。重い内容なのに、作品の出来が良いせいで、とても充実した気分です。良い舞台をご紹介いただいてあ
りがとうございました。
遺書の中の、子どもたちに宛てられた文面を耳に聴き、戦争とバブ゛ルとの中間世代に属している私など、どれほどの事を
子どもに伝えているかと、責任を感じます。観客の中に若い人が少なかった事と共に、これは、難しい事なのですね。
あのときの「国」は確かに多くの「人」を棄てたでしょう、が、今でも質的に変わらない棄民の現実があることを、障害を
持った子どもたちの教育を思って強く強く感じます。あくまで「国=権力支配」のための人づくりなのです。いつの時代でもそうだったのでしょうか。
買い求めてきた原作を車中読みながら帰ってまいりました。辺見じゅんという作家を今まで読んだことが無かったのです
が、今も余韻に浸っています。
* こんな書き添えもあった、「謡を習っているカルチャーセンターの仲間が、国語の先生をしていると聞きましたの で、秦様のホームペイジの事をメイルで知らせましたら、秦様を大変尊敬していて、自分の進路にも影響力があったとか。もう、大変な喜びようでした。また鼻 をひとつ高くさせていただきました」と。身を縮めた。
* 書き込みをはじめた『蝶の皿』にも反応があった。まだほんの少ししか書き込んでいない段階であり、小説という のは「こういうふうに」読み始められて行くのかと、無理からぬ読み違いに、思わず微笑んだ。しばらくすれば、順当に正解されて行く。作者は、無論そういう ことも勘定に入れて書いている。文字通り「小刻み」連載だからこそ、「読み」の現在進行形がヴィヴィッドに伝えられてくる。
* バッハの「フーガの技法」のすてきな盤を友人が贈ってきてくれた。パソコンに入れて、聴きながらキイを打って いる。機械では音質はわるいし、時に操作音もまじるのはやむを得ないが、音楽のせいでかえって集中できる。けっこう「ながら族」なのである、わたしも。ヘ ルベルト・ブルーワの指揮。グレン・グールドの「ゴールドベルク変奏曲」とこのCD-ROM盤とを交互に機械に入れている。
* 苛められている少年の親の、再々必死の嘆願を袖にし続けた非道で無思慮な石橋警察署の対応が引き金で、悪党ど
もに拉致監禁されていた少年はついに殺されてしまった。殺した連中も未成年だったが、気概をもってなに不思議もない,昔なら立派に大人への年齢だ。何とい
う酷薄無残。ひどい。教育、教育学、教育哲学の浅ましいまでの無力化、空洞化を弾劾追及したい。いま何処の大学にもそういう学部学科があり学者がいる。そ
ういう「先生」たちと学問とが、情けないほど無用の長物と化している。この事件なども警察庁の問題であると同時に文部省の問題だが、どんなことを考えてい
るのか、責任ある対策も憂慮の声すらもその方角から聞こえてこない。
いずれ漫才のネタになるだろう、「そんなことをすると警察に言うぞ」「どうぞどうぞ。玄関払いさ」と。被害者の親は警
察にお三度どころでなく必死で通ったという。傍目には、なんでもっと別の、弁護士とか市会議員とか私立探偵とかを頼まないかと思うが、それほどに、まだ市
民の思いは警察を頼みにしていたのだ、それを土足で踏みにじり、少年を死なせ、親を泣かせ、国民を暗澹たる気分にさせた。主犯少年の警部補だという親は、
警察組織の内部に隠匿庇護されているのだ、今なお。國の犯罪である。糾弾の手をやすめてはならない。神の
国どころか、神も仏もない国になっている。
* 五月二十二日 月
* 田原総一朗氏を代表とし、佐高信、田中康夫、石川好氏ら十人を呼びかけ人とした「政治家評定会議」から、「賛 同人」になってもらえまいかと趣旨並びに依頼状が来た。何をするかではなく、さしあたり一人十万円(「この金額にこだわりません」としてある。)の支援が 欲しいという依頼であり、目的は新聞に広告紙面を買いたいのだという。何故買うかはハッキリしていて、立候補予定者と衆参両院議員へのアンケート回答を そっくり載せたいのだ。六箇条の質問が用意され、すでに回答率は七割を越しているという。アンケートに、もう一箇条「文化政策」についても聴いて欲しかっ たが、ま、仕方ない。ことは投票日前になされねばならない。賛同する。これは単なる寄付行為でなく、わたしも参加するのである。
* ゆうべ、三冊の本を一斉に読み上げた。
新谷尚紀『神々の原像』は、よく書けた深切な論考、適切な解説であった。歴史文化ライブラリーがこのように著者に書か
せているのでもあろうが、安芸厳島神社の「御島廻式と御鳥喰神事」出雲佐太神社の「神在祭と龍蛇祭祀」遠江見付神社の「裸祭と人身御供・成女譚」美作両山
寺の「護法祭と護法実」の四つを興味津々の具体例に、民俗学探究の実際と深層とを論策して行くのであり、面白いことも限りなく、つよい衝撃に驚きながら楽
しめる読書であった。書き込みで本が真っ赤になった。
多田富雄・山折哲雄対談の『人間の行方』は、題にもう少し工夫があったろうと思うけれど、対談という難しい方法で成功
している稀有例の一つ。免疫医学・生物学と宗教学の大家とが互いの見識を惜しみなく披露し、なれ合いに流れない討論がよく整理されている。あるいは編集者
のリライトの苦労がよく実った本なのかも知れず、かなり手の入った対談で、垂れ流していない。知識を求める人にもよく応え、思索を尋ねたい人にも確かに応
えている。山折さんの健闘が光っていて、多田さんのモダンな学問の基盤をよく引き出していた。多田さんの話し方もお手本のように要領を得ていた。DNAと
時間論、誕生と臨終の決定、免疫、美の問題、染色体等々、話題は深刻に多岐にわたり、新世紀への過渡期を見渡して反省も批評も深いところに及んでいる。
山口宗之『陸軍と海軍 陸海軍将校史の研究』も、興味深く手堅い統計的手法での追尋で、動機に、秘めた筆者の強い思い
が働いた。在来の陸軍悪玉・海軍善玉思潮への強烈で具体的な反論反証、そこに眼目があり、成果を上げていて疑問の余地を多くは残さない。軍人の社会とはこ
んなであったのかと、わずかに戦時未萌の少年期を生きたわたしにも、いまさらに納得ゆくいろんなことがこの本から学べた。面白かったなどという感想は不謹
慎であるかも知れないが、終始飽きなかった。
* 「三田文学」が九十年を記念して名作選増刊号を贈ってきてくれた。森鴎外の『普請中』のような問題作が巻頭を 飾っている。目次を見た限り、『普請中』も例外でなくすべて名作なのか玉石混淆か分からない、が、なつかしい作品も作家も大勢並んでいて、いい企画に思わ れる。
* 目の前に、スペインを旅している人の送ってきた、「星」という名の山村修道院の回廊の写真がある。陰翳ゆたか
に、心が静まる。
* 五月二十三日 火
* いきなりの真夏日で、二階にあがると蒸すようだ。
湖の本新刊「挨拶」をひととおり書き終えたが、もう少し。全国の大学への挨拶状もまだ出来ていない。堅い書籍用封筒
に、一つ一つ差出印を捺す必要もあり、その全てに宛名印刷シールを貼り込み、間違えぬように「挨拶」と払い込み用紙とを前もってさし込んで置かねばならな
い。それだけはして置かないとあとの作業が辛い。
だが雑誌「ミマン」次の連載分督促が待ったなしで今日飛び込んできたし、締め切り緊急の原稿がもう一つ残っている。週
末までに親友原知佐子らの舞台、また友枝昭世の能「松風」の招待があり、太宰賞の授賞式にもひさしぶりに顔を出す気でいると、息が詰まりそうなスケジュー
ル。そうそう、息子の書いたテレビドラマもあるという。
* 「エステーリャ、星という名前をもったの町の修道院の回廊」を、書き込み最中の『蝶の皿』冒頭部に飾ってみ た。
* メール本文を欠いた同じ携帯電話番号でのメールが二度も届いたが、誰からとも判らない。そんなとき、ふと、娘 かなとあてどないことを思う。明け方に、ドアをあけて朝日子が帰ってきた夢を見た。もう中学生になる孫娘にも、突然そういうことがあるかも知れないがと、 まこと、あてどない空想もする。元気で、いよ。
* 少女を長年月監禁暴行、いじめで五千万円を奪い取る、警官の子がいじめて金を奪い、警察が親の訴えを相手にせ ぬ間に殺してしまう、生きたまま焼き殺す、結婚を仕組み多額の保険をかけておいて、車で轢き殺す、毒を飲ませて殺す、人を殺す体験がしてみたいと行きずり に人を殺す、それに倣ってバスジャックし人質の乗客を切りさいなむ、少年が少年の首を斬り落とし小学校の校門に生首を曝す。こういう事にこそ、「凄い」と 言う言葉を使え。へらへらした口で、やすっぽく「スゴイ」「スゴイ」と言うな。
* 時代に哲学が失せ果てている証拠である。もっとも無力なのは今や哲学である。自称の「哲学者」はうようよいる
が、価値あり力ある「哲学」は地を払ってただの残骸、ただの埃と化してしまった。
* 五月二十四日 水
* ミマンの連載原稿を書いてしまわねばならず、必要な作業も山積していたので、間際になって太宰賞の授賞パー ティーに失礼することにした。おかげで、作業のハカがゆき、この分なら、かつがつ今週中に九分がた発送の準備ができる。
* 当分はこの「私語の刻」よりは小説の書き込みに力を入れ、間をあけないように努める。努めると言うよりも、書 き写すのが楽しいのである。『清経入水』の校正もしている。自作を丁寧に克明に二度読み返すことになるが、ざっと通読するよりよっぽど興味深く、わたし自 身のタメになる。いまは『慈子』『蝶の皿』と三つが同時進行しているが、これらは、間違いなくわたしの、わたしにしか書けない、わたしの世界であったと思 う。
* 森喜郎の首相たる命運は、暴力団の結婚式に主賓として出ていたことまで露顕しては、尽きたと思う。退陣は当然
至極、少しでも身綺麗に権力の座を諦めるがよい、所詮家賃が高すぎたのである。最初から分かり切ったことであった。竹下登元首相の退陣に野中幹事長は、
「さすが、もののふ」と、時代遅れの意味不明な讃辞を呈していて失笑したものだが、その科白を借りて言うなら、「さすが、もののけ」たちの自民党執行部
も、一掃の総退陣にぜひ追い込みたい。半文の値打ちもない。田原総一朗らの政治家評定会議に、高みの見物をしていないで、効果的に是非働いて欲しいと希望
する。
* 五月二十五日 木
* 目白に新しくできた小劇場で親友原知佐子が主演の「聖女グレース」を観てきた。知的・批評的によく書けた英国
の脚
本で、日本人にはさほどでなくても、キリスト教國では、相当の爆発力をもった芝居だろうと思う。事業と営利とに精力的な「信仰者」集団を、一人のもはや老
婦人が撃退する話とでも言おうか。原知佐子は演技力をみせて、この婦人の役を優雅にさらりと演じ、強いものを示した。友人として私の知る限り、この役は
かつて原知佐子の演じたどの舞台の役よりも向いていた。うまかった。
俳優座から児玉泰次が出ていた。『心ーわが愛』で「先生」の叔父を演じてくれた。美声でろうろうと語るが、やや一本調
子なのをいつも惜しいと思う。
若い女性役の一人が、日光浴の場面で上半身を真裸で演じたのには、むろん必然性もあったけれど、びっくりした。私は妻
と並んで最前列の真ん中にいた。小劇場ではそういう座席に妙味があるが、今日は若い健康な女の乳房をまぢかに見られて、醍醐味も味わえたと言っておこう
が。面白い、ふしぎにスカッとした芝居だった。原知佐子の自然に老いて年齢なりに美しかったのも嬉しく、いい役づくりだった。
* 芝居の前に、時間があったので、目白庭園、あの雑誌「赤い鳥」の編集室のあった鈴木三重吉旧邸をそぞろ歩いて
きた。以前、ここで、「月」に題して一時間半ほど、みな思い思いの和服の御婦人たちを前に、話をしたことがある。
芝居のあとも、目白の徳川林政史記念館などの閑静な住宅地を通りぬけ、西武線を渡って西池袋まで散歩した。そして東武
スパイスの「甍」で夕方の食事をした。デカンタで赤いワインを飲み分けた。わたしの抑える分、妻のアルコール許容量が少し上がっている。美味かった。話さ
ない夫婦が多いとよく聞くけれど、われわれは一緒に観たり考えたり食べたりする方がむしろ日常で、かなり多方面に話題は尽きることがない。有り難い。
* 新しく交信可能になった人のメールに、メールを「1こ」「2こ」と数えてあり、この語感には、辟易するのであ る。言葉は「心の苗」と教えられた。淡々斎宗匠の書かれた「語是心苗」の色紙を軸装したのを、叔母に譲られ今も愛蔵している。たとえ電子メールといえど も、るがさつには交わしたくない。気持ち一つで、飾り気無く、しっとりと話し合えるのだから。
* 森総理の話題には、もう、心からウンザリだ。筆頭の主賓として遇されてある結婚式に挨拶に出て、「どんな人た ちの場所か承知せず」とは、それでどういう祝福の挨拶が出来るのか。失礼も極まっている。連客のことなど知らなくて当たり前と言い訳しているけれど、まさ に「何様」その心なさというモノはよくよく人間的にも出来そこねの愚物だと判る。世界の笑いものだし、つるんで応援している財界のお偉方の顔つきも、み な、胡乱を極める。出来れば知らん顔をしていたいが、それではいけない。何としても潰さねばならない。
* 政治家評定会議に協力の資金を払い込んだが、このネーミングもちとズレている。「ヒョウテイ」するのだろう
が、普通「ヒョウジョウ」と読んでしまうから、「小田原評定」をすぐさま思い出す。ダラダラとまとまりの着かない長い会議の意味で、えてしてインテリ集団
に多い。「呼び掛け人」たちだけで小田原評定に明け暮れてしまうようでは困る、そんなことのために協力するのではないと、釘をさしておきたい。
* 五月二十六日 金
* 森首相の仰々しい釈明記者会見は、実のないものだった。国民に対し「深くお詫び」申し上げながら、問題発言を
頑として「撤回しない」のは、発言にはもともと何の問題もなく、ただ「誤解させた」のがまずかった謝りますという論法であって、裏返せば、国民の方で誤解
さえしなければ、何も釈明の必要もないんだと。真意のくみ取れない国民の方が愚かなので、余儀なく真意を説明し釈明してあげたけれど、余計な手間を掛けさ
せたのはそっちの方、何故に「撤回の必要が有ろうか」という居直りで、大袈裟な謙譲語をふんだんに練り込んだ三十分間、お粗末の詭弁だった。誰も誤解など
していない。ちゃんと正解して、資質を疑っているのだ、そこが分かっていない総理大臣は、鋭い記者の質問にも、蛙のツラに何とやら、情も味気もない無表
情。しかも神や仏やアマテラスと対にして「天皇」と、平気で、まだ並べていた。
図々しく鷺を烏と言いのがれるのを雄弁と心得たこの人の持ち前が露呈され、無気味ですらあった。だが、誰も騙されな
い。騙されたフリをしてエールを送るのは、彼を総理に担ぎ出し、民心や同僚議員を欺いた例の野中・亀井氏ら四人だか五人組だか、だけだ。
共産党の不破委員長、社民党の土井委員長の論難は的確だった。民主党の鳩山由紀夫氏には、もう少し、キビキビとした人
間的な表情も伴った熱い口調が望まれる。公明党の神崎代表の「あれは事実上の撤回」という発言が、「何で撤回の必要がありますか」という会見直後の森首相
のコメントの前に、じつに滑稽だった。能弁ダラリと折伏したのはどっちかな。
* バッハのフーガが耳を洗う。
* 五月二十七日 土
* 友枝昭世の「松風」は美しかったけれど、この演者のあまりに健康なためか、松風村雨の姉妹がなかなか幽霊とは
映ってこないのが難、大きな難であった。能は大方が幽霊をシテにしている。例外は少ない。その中でも、演者によって得手不得手の幽霊がある。松風村雨のよ
うな善意の美しい女人幽霊を昭世が演じると、そのまま現世の肉体美を感じさせてしまう。なるほど、この辺にこの名手の課題があるのだなと思い当たった。
宝生閑のワキが、例のねばっこい謡ながら、深い存在感をみせた。
鼓打ちの行儀がわるく、乾くのか鼓の皮にしきりに唾でシメリを呉れる。緒をいじる。笛も巨漢の初顔で、巨漢でいけない
わけはないが、へんに可笑しかった。いつもほっそりした小枝のような一噌仙幸の笛など聴いているものだから。
* 野村萬(万蔵)と与十郎の「富士松」という「連歌もの」狂言が珍しかったが、さして面白くも可笑しくもなかっ た。ただ、萬の狂言顔には感じ入る。好きな役者である。
* 喜多流の舞台を三十年見続けてきた。その間に、家元の喜多実はじめ後藤得三、佐藤章、友枝悠喜夫、粟谷新太郎
らが亡くなった。若かった友枝昭世や塩津哲生らが流儀をひっぱり、家元喜多長世は逼塞し弟節世は病んでいる。喜多流の見所へわたしを誘い入れてくれた馬場
あき子は健在で今日も姿を見たし、先日も朝日新聞社のパーティーで逢っている。だが、やはり馬場の縁で識った村上一郎、藤平春男には死なれている。段々寂
しくなってきているのだ、だが、新しい知人もまた能楽堂で出来ている。今日も逢った小山弘志氏も、堀上謙氏もそうだ。
喜多の三十年、それは私の作家生活三十年ときっかり重なっている。『清経入水』が取り持って、馬場あき子の方からわざ
わざ逢いに来てくれたのが全てのきっかけだった。彼女の著名な『鬼の研究』の発端に、わたしの受賞作のなかの「鬼とぞ」が関わっていたらしい、その作中関
連論文を読みたいと言ってきたのが出逢いだった。喜多節世師にわたしを逢わせたのも、「昭世の会」に原稿を書かせて佳い縁を作ってくれたのもみな馬場あき
子の親切であった。
* さて、明日は早立ちで京都へはいる。弥栄中学の同期会。今朝、西村肇君からわざわざ電話で出席の確認があっ
た。明後日は、京都美術文化賞の授賞式と、晩には財団理事会と宴会がある。ことしは西石垣の「ちもと」とか。嵐山「吉兆」まで出かけて行くより、鴨川が見
え東山が見えて地元の「ちもと」の方が何倍も有り難い。少し、この旅は酒が過ぎてしまうかも知れない。
そういえば、「きりがね」で今回受賞した江里佐代子さんから、珍しい、一つで四人分にも分けた方がいい、すばらしい菓
子と、宇治の極上茶が贈られてきている。この菓子が、いやもう、美味いのだ。しかし食べられないのである、沢山は。
京都から戻れば、即日、湖の本の通算六十三巻めを発送の作業に入る。創刊、満十四年の櫻桃忌がまぢかい。
この「私語の刻」など、しばらくのは途切れがちになる。
* 五月三十日 火
* 夕過ぎて京都から帰ってきた。すぐ湖の本通算六十三巻めの発送作業に入った。
* 五月二十八日には、市立弥栄中学創立五十年記念の同期会が二条城まえの京都国際ホテルであつた。思ったより盛
会だったが、きまったテーブルに着いての会だったので、昔のクラス単位に顔ぶれが固定されたのは、こういう会では巧い方法ではなかった。狭い地域社会なの
だから五十年も前のクラス分けになど意味は殆ど失せている。立食にして、適宜にテーブルを作っておけば、お互いにフロアを移動しての話題と交歓に、もっと
もっと融通が利いたろう。欠席した人たちの通信を、騒然としたなかで幹事役に読み上げさせるなど、各クラスの読み上げ役も気の毒なら、全体のムードも混乱
させていた。司会役がまったく独り合点の雑な強行で、いたく興ざめした。そんな中で強引にわたしも喋らせられたが、言いたかったことも言えなかった。自分
の声が聞こえなかった。
なつかしい顔にたくさん逢えたのだから、それだけで満足した。二次会も三次会もあったが、わたしは飲めず食えずで、ど
うしようもなかった。会場では殆ど全く飲み食いをしなかった。
* バー「とよ」での三次会をぬけだしてから、一人で縄手の「蛇の目」へ行き、鱧のおとしと、最上のネタお任せで「五
つ」を握ってもらった。お銚子を一本。これは美味かった。心底、堪能した。なつかしい好きな店である。『みごもりの湖』で祇園会のさなか、ヒロインの女子
大生と友人とにここで食事させる場面が、「贅沢な」と言う読者もいたけれど、わたしは、何のと思っていた。朝日ジャーナルに『洛東巷談』を連載中にも、こ
の店の「鱧のおとし」のことを書いたら、鶴見俊輔さんが、「秦さんがうまいという店なら」と食べに行かれたと聞いた。今では常連のお一人らしい。安い店で
はない。先日の「きよ田」なみに一万五千円支払ってきたが、大満足。宿へ戻って、テレビを「聞き」ながら、『客愁第一部』の「三」の原稿に手を入れ、眠く
なったところで寝た。
* 二十九日午前、タクシーで今熊野の観音寺へ参り、奥の墓地をそぞろ歩いてから泉涌寺来迎院に入った。ご住職も
奥さんも亡くなり、そのむかし、まだ赤ちゃんを抱いていた若い奥さんが出てこられた。縁側へお茶とお菓子を運んでくださり、小一時間も歓談。あの時の赤
ちゃんがもう大学生と聞いて驚いた。言うまでもない来迎院は『慈子』の舞台、含翠庭は読者の間では「慈子の庭」で、作中、慈子の住んでいたお寺なのである
が、初めて、初々しくも美しかったこの若奥さんに出逢ったときは、それこそ慈子を髣髴とさせるすてきな人だった。頼んで写真に撮らせて貰ったから、日記の
間には残っているだろうと思う。もし、わたしに文学碑が可能になる日があれば、この庭の隅にちいさな石をおいて、死んだら髪一つかみなりと石の下に埋めて
欲しいと思うほど、この庭がわたしにはなつかしい夢の世界だ。
京都へ来た甲斐があったと喜びながら辞去し、新善光寺の郵便受けに、熊谷龍尚師(湖の本の継続購読者)へ挨拶の名刺を
入れて置いて、順に戒光寺、即成院へと静かな中を通り抜けて行った。一度ホテルへ戻った。
* 午後は、都ホテルで第十三回京都美術文化賞の授賞式。受賞したのは日本画の堂本元次、写真の井上隆生、きりが
ねの江里佐代子。今回はなかなか佳い当選者で、選者を代表しての梅原猛の挨拶も、一人一人の芸術に深切にふれて、とても佳いものだった。ペンの理事会での
疲れた顔とちがい、とても健康そうな佳い顔をして、実も情もある話しぶりだった。何より受賞者たちへのご馳走だった。祝賀の会もなごやかで、江里
さんも夫君の仏師康慧さんも嬉しそうだったし、井上さんとの立ち話も、写真の「決定的瞬間」を論じ合ったり密教の話題にもふれ合えて、面白かっ
た。選者仲間の石本正さん、清水九兵衛さんとの立ち話も例年通り大いに楽しかった。シャンパンの乾杯には参加したが、殆ど何も食べなかった。
記念撮影のあと車でホテルに送って貰い、一息入れてから、夕刻、西石垣「ちもと」での財団理事会評議員会、そして懇親
会に出た。先斗町からの芸妓舞子が接待してくれ、率いて出たのが、石房の「おかあさん」で、このお茶屋へは、亡くなった叔母がお茶お花の出稽古をしていた
し、私のことも「おかあさん」は知っていた。わたしも知っていた。その奇遇が、この会での大きな儲けものであった。酒はほとんど飲まなかったが、料理はお
いしく食べた。「ちもと」の四階からは鴨川も東山も晴れやかに眺められ、気が落ち着いた。例年出席の橋田二朗先生が欠席されたが、前日の同期会でお目にか
かりそれは承知していた。橋田先生も西池季昭先生も、さすがにお年を召していた。
* 今日は、菩提寺に墓参。かんかん照りのまぶしい墓地で、たっぷり墓石に水をかけて、父や母や叔母に話しかけて
きた。念仏も、長く唱えてきた。京阪電車で三條に戻ると躊躇なく母校有済小学校に入った。本にしたばかりの自伝の舞台を、また目で確かめておきたかつた。
そして、仰天したのである。ここの校庭には木曾義仲に愛された山吹御前の塚がのこっている、それを観ているときに、若い女先生が一人寄って見えた。その先
生の話に我が耳を疑った、なんと現在の生徒数が一年から六年まで合計して、たったの「四十七人」だというのである。まさか。だが事実だと。
私の卒業した昭和二十三年当時は、ほぼ七百人ほどの生徒数だった。その後に千人近い時期も有ったというが、今や地域の
高齢化、若い家族がみな郊外へ出てしまったために、たった四十七人きりの、離島や僻地なみの学校になり、大きな校舎はがらんどうのまま森閑としていたので
ある。教頭まで追うように出てこられ、かなりの立ち話の挙げ句、職員室まで行って創立百三十年の歴史を刻んだ写真資料集を分けてもらったりした。
* この学校を父も叔母も卒業した。芸能の大「松竹」を起こした双子の兄弟も、この学校の大先輩だった。だが、や がて統廃合の対象になるであろうというから、真実吃驚した。
* 切り通しの「菱岩」に寄り、頼んでおいた東京へ持ち帰りの弁当を買い、主人といずれ「美術京都」で対談したい
と予告してきた。ここの有名な弁当は、とてもナミではない。詰め合わせが美術品なみで、質も量も豊かなとびきりの御馳走なのである。安くはない、が、絶対
に間違いないうま味と満足感が購える。前日に予約して置かねばならないし、もちのわるい季節には造ってくれない。
注射の時間なので、四條の大原女屋に入り、四季弁当を昼食にした。しみじみ酒が欲しいと思ったが自制。子供の頃から馴
染みの店で、静かにのんびりとした。
これも懐かしい河原町東の南海堂で、完訳の新潮文庫『チャタレイ夫人の恋人』を買い、ぶらぶら歩いてペットボトルの日
本茶を買い、荷を預けたホテルに戻って、喫茶室でコーヒー、思案してから紅茶のムース一つ、を注文した。無性にうまいケーキが食べたくなったのである。満
足した。
* 二時十分発の「のぞみ」に乗り、本を読んだり、まどろんだり、お茶を飲み切ったりしながら、まだ日の高い内に
帰ってきた。きちんと湖の本第四十三巻、エッセイと通算して第六十三巻『もらひ子・かなひたがる』が届いていた。「菱岩」の弁当が妻との夕食に十二分だっ
た、さすがのものであった。
帝劇「エリザべート」の招待券が二枚届いていた。残念なことに電子メディア研究会の時間にさしあっていた。後藤さんに
お戻しするしかない。
* 五月三十一日 水
* 終日発送の作業。一便を送り出した。昨晩から立て続けに相当頑張ったのと、本も綺麗に出来ていて、段取りよく 順調に作業できた。
* 民主党をこきおろすポスターを、与党三党が作ったのをテレビで見て、まこと、他人ごとながら顔の赤らむ恥ずか しさを感じた。本気であんなものをつくる気になったのなら、「自民党」は、もう、どうしようもなく頭から腐っているし、公明党の「無節操」にも驚いてしま う。愚劣と言うしかない。小渕時代からの案だったろうか、いやいや「保守党」が参加しているのだから森時代の所産であろう。
* 古典全集の『近世随筆』の巻が贈られてきた。心待ちにしていた。
* 六月一日 木
* 終日の作業で、ふとアクビが出るほど疲れた。明日、もう一押しで一応発送を終えられそうだ。今度は、『丹波』
についで「客愁第一部・幼少時代」の「二」に、『もらひ子』を纏めた。「もらひ子」はわたしの人生を決定づけた原点であり、これを措いて「作家」秦恒平は
在り得べくもなかった。いわば、我がモチーフの奥の院のようなもの、書い
ておかずにはおれない我が「索引」のようなもの、とも謂えるだろう。国民学校三年生を終了するところまで、丹波へ戦時疎
開するまで、を「純文章」として書き示した。時間的には『丹波』以前を書いた。肩の荷をひとつ下ろすことが出来た。
* 通常の日課へは明日から戻る。
* 六月二日 金
* 国会が解散した。野党の健闘を祈る。時代を少しでも望みに向かって前へ動かして行くには、自覚の一票を投じて 選挙する以外、なにも無い。
* 与党の野中官房長官と野党の鳩山代表とに、久米宏がインタビューしていた。野中氏の発言は焦点を持たない平板
な議論なりに、アクのつよい敵愾心をむきだしにしていた。鳩山の弟邦夫を民主党から剥ぎ取ってきて自党候補にかつぐなどということを、麗々しく攻撃材料に
出来る破廉恥度の高さに、久米のいう「プロ」政治屋のよからぬ資質の有ることは確かだ。
これに対し、今に及んで共産党との共闘に理屈をならべて逡巡している鳩山の弁には、青臭いものが残っていて、先が心配
だ。民主党は菅直人こそが表に立って、喧嘩腰にでも働かねば、陽気というものが立ってこない。共産党ごとき何者ぞ、役に立つなら立ててやるという気迫が欲
しい。
* 六月三日 土
* 女学校の、東京での同窓会に妻を保谷駅まで久しぶりに自転車で送ってからは、終日家で少しずつ片づけ仕事を、
あれこれ、した。
書庫に溢れた本の整理が何としても必要なのだが、本が腕力に比して過重に感じられるようになってから、それに片づけて
も片づけても追いつかないので、放り出してある。むりやりダンボールの函一つ分だけ、地元の図書館に寄付の本を選んだ。いざとなると、つい惜しんでしま
う。これはこういうことで、それはそういうことで、と、役に立つ場面が思いつくと、もうダメ。処分できない。小説本は読んでからと思い、研究書や論考は捨
て難い。こまぎれの雑誌原稿を寄せ集めた随筆集などを整理するしかない、先ずは。
* 一人になると、気が緩んで、食べたくなる。飲みたくもなる。実のところ眠くもなる。機械の前で何度かうたた寝 してしまった。スティーブン・セーガルの「ニコ」や、ブルース・ウィリスの「ダイハード3」をビデオで観た。晩には、つまらないバイオレンスものをまた一 本、テレビで見た。送った本が届いた頃とみえ、もう何人かから「受け取ったメール」が届いてきている。
* ひさしぶりに息子が、もうやがて、深夜に帰ってくるというので楽しみに待っている。来週の火曜には「ショカ
ツ」とかいう警察物の彼の脚本が放映になるとか。いろいろと忙しいなりに悪戦し苦闘しているそうだ。
* 六月四日 日
* 急に、日の経つのが早く感じられる。このところ、ルーチンワークに追われているからだ。没頭できる新しい仕事
に取り組まねばいけない。
* 六月五日 月
* 佐高信氏にもらった『黄沙の楽土 石原莞爾』が、読み始めて、意外と読みづらいのに気づいた。筆の運びの、息
があらいのである。小説とも評論とも批評ともつかないのは、まだいい。なによりも著述に、筆致に、深い落着きが欲しいのに、ザラサラと文章が肌荒れしてい
る。読み進めるうちに印象がよく変わればいいなと願っている。
文は人だという。確かにそれが言える。と同時に、体調や姿勢も影響してくる。状態の良くないときの文章も構想も、つい
荒れがちになりやすい。
* スペインから新婚旅行をかねて、今年金婚の夫の両親もともども日本へ帰ってきた人から、電話が来た、「秦サン ぜひ逢いたい」と。元気な声で安心した。いや心配などしていなかった。この人は大丈夫。「文学概論」の教室にいた頃の、邪気のない、心からの笑顔がよみが える。喜んで逢う約束をした。
* もう就職四年目かな、男性からもメールが来た。なかなか微妙な内容であった。「精神的な向上心のない者は莫迦 だ」という、例の「K」をいじめる「先生」の言葉を、肯定的な口調で引きながら、なんだか鬱陶しそうだ。「恋はビューチフル」などという言葉が大嫌いだと 言う。以下のように返事を書いた。
* だいたい、恋がビューチフルであるわけがなく、あばたもえくぼに他ならず、且つ苦しい嘆きと動揺に満ちた不安
のかたまりです。幸いにそれをすらビューチフルと錯覚させる「蜜毒」を恋ははらんでいる。そういうものです。それでもなお、嘗めるに値した毒ではある。
「精神的に向上心のない者は莫迦」などと考えることは、無駄です。そんな考えそのものが人を不必要に苦しめ苛めること
を、漱石は知っていた。いいえ、気づきかけていた。「K」も「先生」も、マインドに毒され切ったほんものの「莫迦」でした。精神的向上心などという頑張り
方には、成果が期待できない。自尊心しか生まない。無心でなく、価値無き有心のかたまりでした、漱石作『心』の男たちは。だからこそ漱石は、ただ独り、女
にだけ「静」という意味深長の実名を与えて、「何」が大切かを示唆したのです。静かな心=無心と。
親愛なるイチローよ。
大嫌いになるべきは、「精神的向上心のない者は莫迦」という言葉の方です。これは、害だけがあって、益も実質もない、
一見美しいが見当を失したミスリードの空疎なスローガンだとわたしは思っています。真っ先に落としてしまった方がいい頑迷なマインドで、この「道」の行き
詰まりであることは、『心』の男たちが、その末路が実証しています。
やすやすとした気分で、また顔を見せにおいで。
* 息子にも書いた。
* 本 届いたと思います。
「もらひ子」は、わたしの人生を決定したキーでしたが、それから「どう自由になるか」が、生きて行くに必要な指針でも
あった。
新門前の大人たちは、十二分にわたしを愛育してくれたと感謝しています。『丹波』『もらひ子』そしてもう一冊『早春』
の幼少時代三部作は、自分の根を、身のほどを、美化せず卑下せず闇に言い置くものです。こういうふうに育ってきた父が「ここにいる」と感じていて下さい。
他人には面白くも何ともないものですが。遠からず、いやでもわたしの著作を読まずに済まない時が来るだろう、が、そんなときに、これらは、ある程度まで適
切な「索引」の役をするでしょう。
わたしの血は、まだまだ若く、熱い。率直で、人なつかしい。それは、ホームページの「私語」が明かしている。わたしに
は「逢いたい人がいつでもいる」のです。
あすの「ショカツ」を、観ます。元気で。
* 六月六日 火
* 志賀直哉は、日記や全集の著作のなかで、ロレンスをひどく批判し、なにも分かっていない、なにも見えていな
い、だめだと断定的に切って捨てている。そんな記事に、少なくも二度三度出会っている。ロレンスの作品を継続してかなり読み込んで間も無かったので、さす
が直哉の批評も、見当違いに、うつろに聞こえていた。
たまたま京都からの帰り、読むものが欲しくて、完訳版の『チャタレー夫人の恋人』を買ってきたのを、そのまま継続して
今日も読み続けていた。やはり、佳い。嬉しくなるほど、惹かれる。
志賀直哉のロレンス批判は「お門違い」というか、どだい直哉には無理な気がしている。直観的な感覚の鋭さは無類で、そ
れを言語的に把握してくる力はすばらしい人だが、時代や思想や性の深みを、世界の運命として捉えてくるような知性的で原始的な精神の回路は、とても直哉に
はできっこないと思う。そういう知性ではない。哲学もない。感覚的な批評は厳しいし鋭いが、本質的に論理的な批評家には成れない作家である。『チャタレー
夫人の恋人』はロレンス作品の中でもひときわこなれて、鋭く豊かで輝いているが、志賀直哉には理解できなかったという、そのこと自体が、直哉の資質のプラ
スもマイナスもを証している。
* チャタレーのような真実の名作に触れていると、たいていの本は影が薄くなる。そんななかで、配本されてきた近
世随筆中の本居宣長の『排蘆小船』などは、また別趣の軽い興奮にわたしを引き込んでくれる。少なくも日本の和歌を「読む」ためには、したたかな、したたか
すぎるほどの手引きをしてくれる。
バグワン。これは比較を絶している。煩悩の静まって行く嬉しさ。たいがいのことが、よけいな、軽々しいことに思えてく
る。
* 嬉しいメールが届いた。ゆるしを得て書き込ませてもらいたい、それに値するものである。
* お久しぶりです。
選挙が近づいて来ましたね。最近、毎日日課の様に先生のホームページを覗く日が続いています。ある意味、先生の刺激的
(?)な書き込みが、私の腐りつつある頭をリフレッシュしてくれています。けれども、何をやるのか? といざ考えると、何も出来ないことに気が付くので
す。
新聞などマスコミは好き勝手に色々書いては、部数や視聴率を稼いでいます。
しかし、私たちはそんな事とは別次元の仕事をしています。「私たちはこうしたい!」そんな強い“思い”を感じる報道が
少なく、最近新聞を読みたいと思う事が少なくなっているように思います。
そこに住んでいる人達が何を考えているのか。声無き声が大多数を占めている事を、私は感じています。声を出して外に主
張できる人の声は刺激的ですが・・・。私たちが、直接、声無き声を聞ける機会などそんなに多くはありません。地方公共団体も何も感じていないのか、何も伝
えてくれません。私たちが、本当に、みんなと一緒に、みんなの為の仕事をしていると感じる日は、来るのでしょうかね。
政治もどうしようもありません。
日々、政治家とマスコミのために仕事をしているようなものです。
平成13年度の予算要求に向けた仕事が始まりつつあります。役人が、自分の想いを世に対して訴え出る事が出来る唯一の
機会だと思います。
政治主導で予算を決めると総理は言っています。当然といえば当然の事です。でも、「じゃぁ本当にあなたたちに出来るの
か?」と私は問い返したいです。あなたの選挙区の選挙民の為だけでない予算が組めるのですか?と。
でも、心のある政治家も山ほど居ます。すごい理想を持った役人も数え切れないほど居ます。今、何が、どの様に問題なの
か、私には分かりませんが、こんな人達も沢山居る事を知っている私は幸せかもしれません。
それから、別の幸せも掴む事ができそうです。結婚することが決まりました! 先生にはちょっとみんなよりフライングし
て・・。先生は是非御招待させていただきたいと思っています。また、詳細は御連絡させていただきます。
最後になりましたが、「湖の本」が届いています。毎回毎回、読み終わらないうちに次の本が来てしまうので、だんだん積
みあがりつつありますが、それでも、本が届くと、なにやら嬉しい気分になります。お金を払っているのはこちらなのに・・・。
先生も頑張っていますね。私も、公私ともども忙しいですが、体だけは気を付けつつ、頑張っていこうと思います。
それではまた。
* わたしの、ここでの「私語」なども、どう刺激的であろうと「声なき声」の一つに過ぎない。そして、こういう
「発声」は、電子メディアを用いれば万人に可能なのである。この人などから、自分の声に「力」を添えて貰えるフレッシュな「話」を、たくさん聴かせて欲し
い。何と云っても、行政の中枢部=-本省の奥から発せられている。外にいる我々の理解とのギャップは、お互いに、適切に謙虚に埋めて行くしかないのだ。
それはそれ、結婚して行く人が、すこしずつ若々しい朗報を伝えてくれるのも嬉しい。
* 今から、息子の脚本になる警察物のドラマを観る。途中で立たせず、最後まで見せてくれるといいが。
* 六月七日 水
* 太宰治賞の去年の受賞作が単行本になり、今年の受賞作ならびに最終候補作の五編が一冊のムックになり、筑摩書
房から届いた。去年にもムックは来ていたのだろうが記憶にない。紛れ込んでいるのかも知れない。
わたしが第五回に受賞した今から三十一年前は、井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、川上徹太郎、中村光夫の六先生
が選者だった。こういう人たちに見いだされて作家になった。再開された新太宰治賞の選者は、吉村昭、高井有一、柴田翔、加藤典洋の四氏だが、時代が変わっ
たなあと思う。吉村氏は先の先生方に見いだされて第二回に受賞した人である。
選評だけをざっと、今、読んだ。
* 新刊の『もらひ子』の稿を調えて、新たに「創作欄
6」に収めた。今日、払い込み通知第一日目に、百二十七人分の入金と、沢山の手紙が一度に届いた。一日で一気に読み通したという読者が何人もあったのに驚
いた。嬉しかった。一つには縦書きの「紙の本」がいかに読みやすいかの、厳然とした証拠がこうして上がっているのだ。そうであろう、わたしも、我がホーム
ページの莫大な量の創作やエッセイや私語を、横書きのまま液晶画面で読むのは、つらい。横書きの印象と、縦書きの「本」になったものとの間にある、「凄い
ほどの」差を、誰より先ず作者のわたしがいつも予想してきたのだ。予想は明確に的中している。現に、ホームページで見当だけをつけて、別に「湖の本」の
「刊本」を注文されてくる読者が次々に現れ始めている。
本は持ち歩けるが、機械のままでもプリントしてみても読みづらいのは明白だ、たとえ「縦書き」で読める手だてをしてみ
ても。
ホームページと湖の本とが、予期した以上に連動し機能し始めている。「湖の本型ブック・オン・デマンド」は、先行基盤
として、「本」そのものが相当部数先ず売れていて、その上の「オン・デマンド」追加需要になっているところが、著者として極めて有り難い。ここ三冊続けた
『丹波』『死から死へ』『もらひ子』など、現在の出版事情のなかでは、既成の出版社で本にするのは到底難しい地味な作品だが、「湖の本」はわたしのために
も読者のためにも、それを立派に可能にしてくれている。好評すら得ている。現に『死から死へ』は、ここ三年のうちで一二の好成績をあげた。しかも上の三冊
とも、完全に「新作の新刊」である。ヒマだからホームページで遊んでいるのだろうと若いヘボ作家やヘボ編集者に露骨にあてこすられることもあるけれど、私
の場合、要するに既成出版に距離を置いて、「自由に」やって「成績」を挙げているだけの話である。それで仕事がちゃんと出来ている。そういう「時代」にも
う成っているのだよ。
* 佐高信氏の『石原莞爾』の良いところは、厳格な批判に、いちいち「裏」がとれてある点で、安心して読める。批 判のいちいちにきちんと頷ける説得力があり、あらい文章のあらい叙述ではあるが、佐高さんらしい意気と誠意がしっかりくみ取れる。ぐんぐん面白くなり、申 し訳ないが湯船の中ででも読み進めている。礼状にも書いたが「石原莞爾」などという人物は、わたしは戦時中でも噂に聞いて好きにはなれなかった。なにか 「ちがう」という気がしていた。どうして、きちんとした批判がされないのかと、伝説化され信仰さえされたような賞賛本が噂になるつど、苦々しいとはっきり 思っていた。佐高さんが石原と「同郷」なるがゆえにかえって書かずにおれないのだと言われる気概に、敬意を覚える。
* 昨日、言論表現委員会で報告された、「青少年有害環境対策基本法案」の素案なるものは、容易ならぬ危険な抑圧
志向をすでに示している。「有害環境」という広汎にして漠然とした「網かけ」で、あれもこれもそれもどれも、一気に便乗的に取り締まり対象へ伏せ込んで行
ける陰険な仕掛けをはらんでいる。重大な注意が必要だ。
* 六月八日 木
* 昼前、スペインからの「新婚」旅行で日本へ里帰り帰国した昔の女子学生と、三年ぶりに池袋で逢い、「甍」で昼
食をし、メトロポリタン・ホテルの喫茶室で、ゆっくり時間をかけて話した。ちっとも変わっていない、スリムでキュートで元気溌剌。スペインでの生活が一年
半、その前に一年間のドイツ暮らし。自分の意志にきちっと身を添わせて、自分の前途を悔いなく設計してきた人だ。話も楽しく、向こうの國のことを、尋ねれ
ば、分かる限りはきはき教えてくれる。佳い批評も入る。
武蔵野らしいところをぜひ歩きたかったと、彼女の希望で白金の自然教育園をゆっくり一回りし、環状線で有楽町に戻っ
て、ビアホールの「レバンテ」で乾杯し、握手して別れてきた。
三年前、ドイツに発つまえにも池袋で食事をして、元気で行っておいでと励ました。一年間の勉学の間に、一度も欠かさず
約束の「ドイツ便り」を送ってきた。これには感動した。その間に、やはりドイツまで勉強に来ていたという夫君と出逢ったのだ。今度は、その夫と、夫の両親
もいっしょに日本に伴ってきた。
そんな中で、半日を「秦サン」と屈託無く楽しそうにくつろいでくれた。こういうことは、なにも、わたしには珍しいこと
でなく、学生がわたしに逢いたいと言ってくれば、分け隔てなく、男女の別なく付き合ってきた。これからも、誰とでもそうするだろう。それでも、今日のデー
トは、ひときわ懐かしかった。スペインは遠い、今度はいつと簡単には予期できない。
* 映画「ミザーリ」をやっているのだが、ホラーは好かない。根が恐がりのせいもあるが、カタルシスを全く得られ ないものを見て、わざわざ不快に陥り、時間も無駄にする必要がどこにあろうか。バッハを聴いている方が百倍優れている。
* あっというまに『もらひ子』は読んでしまいましたという手紙が、次から次へ届いている。いわば純然の私事を、
ごく淡泊に、小説らしくなど一切しないで記述したのだから、私以外の人に読ませようというのが厚顔なくらいの「純文章」だと分かっている。それを、「文
学・文芸」として読んでもらえるというのは、作家冥利に尽きる。石川近代文学館の井口館長も、こういう文章に接するとほんとうに「ほっとします」と手紙を
寄越された。「もらひ子」の境遇に身につまされ「泣いてしまった」という読者も有るのは、これは大勢の中だから自然そうあることかも知れない、が、こう書
きたい、書いておきたいという著者の気持ちは「とてもよく分かる」と言ってくれる同世代の人の多いことも、同じく自然の勢いだろう。そういう「年齢」だと
言ってしまって済むことかも知れない、たしかに、これは十年前でも書けないし、書く気にもまたなりっこなかったのである。そういう「純文章」なのである。
相当の仕事を積み上げ得てきたからこそ、自信を持ってこういう「幼少時代」が語れるのだと思う、羨ましいことですとも、便りが来ている。有り難い理解であ
り、じつは、その通りだと自分でも思っていた。故意に飾ることも卑下することも何の必要も無かった。「読める」文章で思いのままに、静かに、書き切ってお
きたかった。
* 目の前で鉄線花が咲いている、奥村土牛の繪だが。もひとつ迫力がない、美しさも。『清経入水』では、この花や仏桑華
を、すこし気味わるげに活かして書いた。蔓の花も木も、わたしは気味がわるい。松の木の肌も、にがて。
* 政治家評定会議(田原総一朗代表)が、国会議員と立候補予定者にアンケートしたものの結果が、一冊のムックに
なり送られてきた。無回答の自民党、公明党議員や候補者が多すぎる。どのようにこの資料が活用されるにせよ、恥知らずな回答、無回答の者には一票を投じて
はなるまい。質問自体はそんなに突飛な意地悪なものではないのだから。
* 六月九日 金
* ペンの電子メディア研究会では、専用機械で日本ペンクラブのホームページを点検し、そろそろ広報委員会に 「ホームページ広報」の仕事として預けた方がいいのではないかと話し合った。幸い、内容充実し、文芸家協会のホームページ以上に実質的に活躍している気が する。この段階にまでホームページ「創設」段階から進んできたことで、わたしの理事生活は役目をもう遂げたと思いたい。もう一仕事に、Eメール使用会員と 電メ研との交流を図りたいが、どうなることか。
* また、なつかしい、元院生のメールが届いた。おっとりとして、繊細。幸せに生きるために生まれてきたような、 根から善意の人であった。院を出て、就職し、結婚した。親友たちと、わが教授室においしい昼食を持参し、にぎやかに食べて飲んで話し合っていったりしたお 嬢さんであった。こういう人も此の世には元気に幸せに暮らしているのであり、わたしは嬉しくて、ほっとする。
* こんにちは。秦先生。お元気ですか?
ほんと、ご無沙汰しています。ごめんなさい。いつもいつも”湖の本”を送ってくださり、ありがとうございます。エッセ
イがすきです。今だから分かるものがあり、ありがたく読ませて頂いています。
このあいだ結婚したと思ったら、すぐに妊娠してしまい、実は5/20付けで会社を退職しました。いろいろと考えたので
すが、結局このような結論に達しました。しばらくはちょっぴり似合わない専業主婦をして、子育てに専念しようと思っています。だんなさんに頼るのはちょっ
と申し訳ないなあと思ってますが、まあ、いいですよね??
ちなみに予定日は7/29で、もう9ヶ月目なのです。もう誰が見ても妊婦と分かる体型になってしまい、でも、元気に過
ごしています。マタニティスイミングに通ったり、妊娠してから運転の練習をしたりと、あんまり妊婦らしくないですが、適当に楽しんでいます。
結婚・妊娠・退職と、現代はゆっくりと進む人の方が多そうなコースを一気に駆け抜けてしまったので、体力よりも精神的
に追いついていかない時もありますが、今は少しづつ落ち着いてきました。もともと、のんびりした性格のせいか、人よりも、ゆったりと毎日を過ごしているよ
うに感じています。
でも、これからの方が大変かもしれませんね? ママになる実感は実はあんまり感じていませんが、ただ、自然の不思議
さ、すばらしさは感じています。お腹の中の赤ちゃんがだんだんと成長していき、何も言わないけれど赤ちゃんが何を感じているのかを、なんとなく分かるママ
の感覚、不思議ですよね? だんなさんにも”何で分かるの?”ってよく聞かれるけど、”なんとなく”としか答えられず、でも、ほのかな幸せを感じていま
す。
結婚生活もぼちぼち、私にはいいものです。
居心地がよく、守られていた実家もいいものだと思ったけれど、だんなさんと暮らす生活も私には結構居心地よく、きっと
だんなさんと「波」が合うからだとは思うけれど、のんびりとしたこんな生活も、これはこれでいいと思って暮らしています。だんなさんの方のご両親にも結構
可愛がって頂いていると思っているし、恵まれていると思っています。(なんだか他の人の話を聞くといろいろと大変そうなのに。)
とりとめもなく、いろいろと書いてしまいました。
本当は秦先生にメールを書くときは、もう少し内容のあるものをと思っていて、なかなか書けなかったのですが、結局こん
な風になってしまいました。大学のときは時間的に余裕があったせいか、本当にいろんなことを感じ、考えていましたが、今はいろいろな物事が次々と起こるの
で、そこまでの余裕がなく、前ほど感性が鋭くなっていないように感じています。でも、それはそれで、いいことなのかもしれませんね。
また、赤ちゃんが産まれたら報告しますね。。
いつかお会いしたいと、いつも思っています。先生もお元気で。そろそろ梅雨に入り、暑い夏も待っていますが、あんまり
無理せず、お体に気をつけてお過ごしください。では、また。
* 『若草物語』四姉妹のひとりの名を、そのまま本名に名乗っている、それがよく似合う人だった。天然自然人と劇 場演戯人とがいるものだが、この人も、最近結婚すると報せてきた男性官僚君も、前者である。性、強靱であり、幸せというものに最も当たり前に間近く生きて いる。その存在に、そばにいる者は、しらずしらず励まされている。
* インシュリンの注射と、血糖値自己検査とでは、後者の方が回数は朝夜の二回で少ないのに、採血する指先が痛く てかなり辟易する。注射の方が負担がない、つい、就寝前の検査を間違えては注射をしそうになる、今夜もやってしまった。インシュリンを注射してしまうと、 三十分後にはぜひ幾らかでも食べねばいけない。食べたくてわざと間違えているみたいで、よろしくない。
* 機械でキイを叩くと「井伊直弼」と出る。これを手書きすると「井伊」か「伊井」か往々惑う。今度の湖の本では
うかと「伊井」になっていた。「井伊」の間違いではと指摘してもらい、それでも、エート、ドッチだったっけと、迷ってしまう。
「俺たちに明日はない」の女優フェイ・ダナウェイを、ダナ・フェアウェイにしてしまっているらしい。これは完全に誤記の
記憶違いだった。いろいろ間違えると、以前は恥じ入って気が腐ったが、この頃は御指摘に感謝し、けれど腐らなくなった。間違えるのも生きている内だと感じ
られるようになった。負け惜しみではない。ラクになっているのだ。
* 強い雨風で始まった一日だったが、雨も風もおさまって、いいメールも来たし、それどころか中学時代の恩師か
ら、「湖の本」にお手紙と上等のお茶を頂戴したり、元東大法学部長の福田歓一先生からもていねいな御感想を戴いたり、佳い一日になった。
* 六月十日 土
* 終日雨。家にいても少々冷え込んだ。
* どういう按配でなったのか分からない、機械の画面がすっかり暗くなってしまい、甚だ目によくない。この機械に は輝度調整のボタンがどこにもなく、機械任せらしいので、明るくしたくても、どうしていいのか途方にくれてしまう。バッテリーの充電がダウンしているよう なメッセージは、ランプの色にもどこにも出ない。参った。
* うっとおしくて、思考力も落ちている。休むに限る。
* そうそう、昨日今日はいい便りがつづいたのだが、その中に、昔、丹波から母が機敏に京都へ連れ帰って、家にも
戻らず清水坂下の樋口医院にかつぎこんでくれた、その樋口医院の女先生からも嬉しいお便りが届いた。本を送ったからだ。むろん昔に診ていただいた男先生は
とうの昔に亡くなっているが、あとを嗣がれたこの娘先生にも、高校時代に何度も診察してもらっていた。ご健勝だろうかという気持ちもあったが、お手紙が届
いた。わたしのことも記憶していただいていた。
ごく幼少の一時期、わたしは建仁寺の南門の近くの谷村という産
婆さんの家に預けられていた、それも覚えておられた。その辺のご縁で男先生に診て貰えるようになったのかも知れない。父
母の家からはかけ離れた松原通の樋口医院との縁が長い間よくつかめなかったのが、少し見えた。それも嬉しく、懐かしい。
中学で理科を学んだ女先生が、丁寧なお便りに添え、糖尿病のお見舞いにと「宇治上林」のお茶を送ってきて下さったのに
は、身をちぢめて感謝した。気っぷのいい、人気のあった当時は若い若い女先生だった、正月に友だちとお宅へ押し掛け遊ばせてもらったりした。この先生のお
かげで、中学時代、わたしは苦手なはずの理科がおもしろく、沢山な基本の知識を蓄え得たと思う。
* そして今日は、尼崎から、親しい読者の引っ越しを知らせる元気で優しい手紙が届いた。昔、近くの大泉学園に住
まいがあり、ご主人の転勤で北海道へ、そして兵庫県へと移って行って、また引っ越し。この、京都で大学時代を過ごした久しい読者は、豊かな学殖と趣味に恵
まれていて、逢う機会にはなかなか恵まれなかったけれど、そのまま往復書簡にしたいほど文通の楽しめる、すてきな友人だった。パソコンを使っていないので
電子メールが役に立たないが、知識やヒントをもらったり、調べ仕事でものの頼めたりする、そういう点ではじつに信頼できるインテリジェンスの持ち主なの
で、どれほど助けてもらったか知れない。作家冥利というものである。
勝るとも劣らないちからを持ったもう一人の、やはりこの尼崎の人と同年輩の友人が、いまはヨーロッパを旅して歩いてい
る。いま機械に書き込み最中の『蝶の皿』冒頭部を飾っている修道院の回廊の写真は、その人が旅の途中で送ってきた。シルクロードへ行ってきて、長い旅行記
を送ってきたこともあるが、上質の詩編をかなりの数美しく鏤めながらの、文学的に優れた「作品」だった。出版事情さえよければ、出して出せるモノだった。
この人も、いま兵庫県に家がある。京都大学を出ている。夫君の大学勤務につれてよく引っ越しをするのも、尼崎の友人と似ている。
* 自閉的に高校時代を過ごし家族を哀しませていた青年は、ついに立ち直り、自力で社会と接点を築いて行き、今
は、最も新しい音楽CDのための作詞家として、つぎつぎに作品が売られている。CDをもう三枚ももらって聴いている。"S.E.S"という若い女の歌手が
三人で歌っている、ホットで、新しい、英語混じりの新鮮なものである。この青年とも、ついにまだ一度も逢っていないけれど、この数年、じっと遠くから声
を、声なき声を、かけつづけてきた。
いろんな、出逢いがある。どれにもとらわれないで、どれも心から楽しんで、育んで行きたい、わたしはそういうふうに生
きてきたと思う。「あなた、もてますね」などと、およそ見当ちがいなことをワケ分からずに言われることもある、が、そんなモノではない。
* 新婚旅行から、やがて、夫と住むスペインに帰って行く、もとの東工大院生もいる。もうやがて赤ちゃんの出来る
人もいる。もうやがて妻を得る人もいる。みんな、幸せにと、心から祈りたい。「身内」のような大勢にこうして触れているとき、うっとおしい雨も忘れてい
る。
フェリス女学院大教授の三田村雅子さんにもらった『枕草子の論理と構造』を、今日、かなり読み進んで、面白かった。
人も好き、本も好き、だが、言葉の貧しく空疎な、森野中のような政治屋は嫌いだ。
* 六月十一日 日
* 叔母秦つる・宗陽・玉月の命日。念仏唱名三十遍。父と母とはおおかた書き尽くしたかも知れない、が、叔母の生 涯は一層内容に富んでいて、殆どまだ手が着いていない。よく人生を健闘し、多くは悔いなき卆寿の死であった。この師なくてその後のわたしがあり得たとは思 われない。円満具足といった茶人ではなかったが、想像以上に弟子筋に永く慕われ、命日前後には墓参の人が絶えていない。家庭をもてなかったことを除けば、 むしろ心ゆく人生を自力で築き上げ遺憾なかった。
* 器械の調子=輝度がわるく、回復しない。さしづめなにをすればよいのやら。仕方なく、階下の、ウインドウズ 95を使っている。メモリが小さく、遅い。もし機械に予備がなければ、にっちもさっちも行かなくなる。機械に付き物のネックだ、依存するなら不時に備えて 置かねばならぬ。
* 選挙。だいじな、だいじな選択をしなければならぬ。政治家評定会議の参考資料、役立って欲しい。賛同人の一人 として見守りたい。
* 心嬉しいメールが、二つ届いた。
* たしかに、有済校にはムクの木がありました。
『もらひ子』読ませていただきました。本の舞台になっている新門前の家と通りの有様、環境、雰囲気、白川の流れる速
さ、底にみえる石や砂の具合、はては大塚医院の先生の顔まで、すべて同じ記憶を共有しているという、実にありがたい特権を享受いたしました。それにしても
秦先生の記憶は驚くべきもので、私は先生より若いはずなのに(昭和18年生まれ)、有済校のことなど本を読んで初めて、ああそうだった、と思い出す始末で
す。
記憶力がよいから物を書くことができるのか、物を書かれるから記憶力が鍛えられるのか、とにかく昨夜のオカズも忘れて
いる私には驚異というほかありません。「秀樹」君がこれから小学校、中学校、高校と、私のそだった同じ環境の中でどのようにして成長されたのか楽しみでも
あり、また先生がどこまでお書きになられるのか、興味のつきないところです。
思いつくまま、2、3書いておきます。
大谷竹次郎さんは、私の低学年のころ有済校に映写機を寄付されて、全校生徒で早川雪州の「ああ、無情」を観ました。そ
の時竹次郎さんも挨拶されましたが、青白くひょろっとしたおじいさんだったのを覚えています。
「鉄久」さんは上田さんといって、私の町内(弁財天町)の北の端にありました。かなり年配の面白いおじいさんがおられ
て、毎年、地蔵盆の「数珠回し」の時に輪の中に入って、「ナンマイダ、ナンマイダ」と鉦をたたいて、人気者でした。
お父さんがお得意だったという、「よーいさっさ、よいさっさ・・・」の歌は、私にとっては謎のうたです。小学生のころ
近所の子供が集められ、ユカタを着て竹の竿に提燈をいくつもぶらさげたものの両端を持ち、この歌を歌いながら祇園の二軒茶屋まで歩いた思い出があります。
こどもだったので歌の意味もわからず、ただ教えられたとうりに歌っただけですが、あれは一体何だったのでしょうか? いまだに分かりません。その時歌った
もうひとつの歌です。
サーノヤーノ糸桜、盆にはどこもいそがしや、東の御茶屋の門口で、
赤まいだれに、しゅすの帯、チョットよりゃんせ、はいりゃんせ、
キンチャクに銭がない、のうてもだんない、はいりゃんせ、
オーシンキ、コーシンキ。
たしかこんなものでした。
* 他の人にはどうあれ、胸がつまるほど懐かしい。こういう空気を吸って育ててもらった。この読者がご近所育ちの
人らしいとは察していたが、縄手に、家があったらしい。共通の話題で、メールが楽しめそう。
もう一人は「名無しのゴン子さん」と返事するしかなかったメールの主で、またひと味の佳いメールを、今度は名乗って、
送ってこられた。
* ご縁にすがって、名無しのゴン子改めたく。
ごめんください、名無しのゴン子改め どうぞ****とお呼び捨てください。
先週水曜日、国立能楽堂の定例で、狂言「朝比奈」を見ました。白装束の三郎が、折からか青竹をついており、とても涼し
げな「死」の姿でした。場所が六道の辻、3月にそのあたりに泊まったこともあり、なんとなく先生の作品も思っておりました。
終盤、閻魔がシテ三郎の「軍語り」にすっかり同調し、一緒に体を揺らして、ついに力余ってこけてしまいます。ワキ正面
四番目の席でしたから、閻魔と真向かいに位置し、手放しでおかしかった舞台でしたが、後で思いました。死に際し、だれかが自分の生を、そのように共にた
どってくれたら、きっと、いかにも安堵していけるのだろうと、うらやましく。先生の作品の数々は、やはり同様の意味をもつものなのでしょうか、とも。橋掛
かりを引き上げるあの世への姿は、自信に満ちたものでした。
生は死と切り離されるものではないはずなのに、そんな大事なことを教育の現場ではなかなか伝える折がないようです。一段と慎重な物言いが必要でしょうし、
一講師として、煮えきらぬ気分で無邪気な高校生の顔に向き合っています。
名のるだけのつもりが長々と、失礼いたしました。
* お人柄が感じられ、狂言の感想にことよせながら、だいじなことを言われている。久しい我が家の友人の、お友達 と聞いている。
* スティーヴン・セガールの環境汚染を扱った比較的真面目なアクション映画をみた。いつもの観念過剰にならず、 まずまず出来ていた。ちょっと感じのいい女優にも惹かれた。おととい晩に見た「アサシン」は、もう何度めかだが、これも気の入った娯楽もので、ピーター・ フォンダの娘が主役、この若い女優が佳い。ハードで、もののあはれがあり、ビデオに取りたかった。
* 混線もしないで、このところ併読の本の数が、バグワンを別にしても七八冊。『石原莞爾』『チャタレー夫人の恋
人』近世の随筆集、宇治十帖などがメインだが。去年の太宰賞作品が単行本になっている。建日子より二つ三つ若い作者であるらしい、これもを読んでみよう
か、と。読者である矢部登氏の編まれた、中戸川吉二作の三短編、簡素な一冊の新刊もよかった。時代を超えて読ませたのは、巻頭の一作ぐらいだったが、ハー
トのある出版企画で、心嬉しい。
* 六月十二日 月
* 機械の画面、宵闇に近い。マウスポインタも容易に見て取れない。
* 元院生でもう立派に社会人になっている若き友から、おそらく、同じ東工大の卒業生と限らず刺激を受けるであろうメー
ルが、届いた。この人なりの、わたしへの「挨拶」だが、ぜひここに書き込んで置きたい。意見も欲しい。先日書き込んだ同期卒業生のメールへの反応でもあ
り、それに対し私が返事していた内容への「挨拶」でもある。
* こんばんは!秦さん、お久しぶりです! 今年は、かなり唐突な、嵐の梅雨入りでしたね。
「湖の本」ありがとうございます、ちゃんと届いています。
先日の秦さんのホームページの書き込みで、『大嫌いになるべきは、「精神的向上心のない者は莫迦」という言葉のほうで
す。これは害だけがあって益も実質もない・・』という一節に、考えさせられています。
実は自分も、「精神的に向上したい!」とずっと思い、その正しさを信じていたにも関わらず、いつからか、ちょっと、そ
の価値観に違和感を感じるようになり、この違和感は何なのだろうと、おぼろげながらに探っていたところでしたので。
ちょっとずれたところから書きますが、最近「努力するって、どういう事なのだろう?」と、今更ながらに考えていまし
た。「努力、頑張り=善」と、言い切ってしまって良いのかと。
世の中では、努力することは誉められこそすれ、否定されることは余りありませんよね。逆に、何もしないことが誉められ
ることも、ほとんどありません。その価値観はおそらく意外と根深く、自分の場合でも、頑張って仕事して、時に人から認められるとやっぱり嬉しいものです。
日常の中で忙しく走っていると、一体自分が何のために頑張っているのか、分からなくなる事があります。そんな時、認め
られ誉められる嬉しさが、努力した「結果」から「目的」に、いつの間にかすり替わっていることに気付く事があるのです。
でも自分たちは、本来、人から認められるために努力する訳ではないはずです。それがそんなに大した意味を持たないこと
は、ちょっと冷静になれば気付きます。
そうではなくて、人はみんな、それぞれが幸せになるためと思えばこそ、努力もでき頑張れるのだと思います。
それならば、努力などせず、特別に何にもしなくても幸せを感じられる人にとっては、「努力=害」以外の何物でもないの
ではないでしょうか。
さらに一歩進めて、幸せになるための努力とは、それでは何なのでしょう? 幸せとは、努力で得られるものなのでしょう
か? と、自分に問うと、やはりそれも違うのではと思うのです。
幸せを感じるために必要なのは、努力よりも、「受容」であり「気付き」なのではないかという感じがするのです。(これ
は、物的には豊かな日本にいるから、そう思うだけかも知れませんが。)
確かに、努力というプロセスの中で喜びを見いだす、ということはあるでしょうが、それすらも無いのであれば、そんな努
力は、ただナンセンスなのではないだろうかと、思ってしまうのです。にも関わらず、「努力=善」という漠然とした価値観に動かされ縛られて、深く考えずに
ただ頑張って疲れてしまっている人が、結構多い気がしてなりません。
それじゃあ、人間に一切努力は必要ないのか?と考えると、それも違う・・・と、いつものように、「これ」という答には
たどり着けません。
それで話が戻るのですが、精神的な部分でも、それは同じなのかも知れません。「精神的向上心」が直接の目的になり得な
いのは、「努力すること」それ自体が目的になり得ないのと、似ていると思うのです。
何のための「精神的向上心」なのか?いくら「精神的に向上」しても、幸せも感じられず、生きて在ることへの感謝も感じ
られないとしたら、その「向上」は余りにも無意味です。(そんな「向上」は、本当の向上ではないのでしょうが。)
いわんや、漱石『心』の「K」の場合のように、人間を不自然に窮屈にさせる「精神的向上心」であるのであれば、それ
は、無意味どころか有害でしかありませんね。
ですが、自分の場合「精神的向上心」の価値を信じることで、励まされ支えられた時期があったことも、まぎれもない事実
なのですが・・
まとまりのない内容になってしまいました。
お体がよろしければ、またぜひお会いしたいです! それでは、お元気で。
* 暗闇にちかい不良画面で読んでいるので、頭が十分反応して行きにくいが、問題点がよく出されている気がする。 「頑張る」という物言いについて疑問符を付けた原稿を、随分昔に書いた覚えがある。それでも「努力」「努める」と言っていることは、自分にもしばしばあっ た。今でもあるかも知れず、むしろお気に入りが信条に近かった。それなしにわたしは有り得なかったとすら思う。そう思いつつ、そこから、少しずつ意識 を落としてきた昨今だとも、自覚している。少なくも「精神的向上心のない者は莫迦だ」などという底意のあるあの「先生」の「K」への挑発には、昔からあま り賛成できなかった。そんな「向上心」は、いやらしくさえあり、言葉としても嫌いだ。
* 本当の問題は、だが、「心」にこそ在る。なにかといえば、無反省・無限定に「心」を持ち出し、二言目には 「心」とさえいえば問題が高尚で有効であるかのように考えている世の知識人やコメンテーターたちの錯覚を、わたしは苦々しく感じている。嗤ってすらいる。 「心(マインド=分別・思考)」ゆえに、人は惑い、苦しみ、悩み、混乱していることは明らかすぎるほど明かで、その、とらえどころ無く頼りなく、とても頼 れるようなシロモノでない 事実を、我々の日本語が抱えた無数の「こころ言葉」がよく証明している。「心ここにあらざる」「心」を厳しく無に帰したところでしか、人は本当の意味で静 かには生きがたい。それを、真実察知し、嗟嘆し、ほぼ絶望していたのが、小説『心』の「先生」であり、作者夏目漱石にほかならなかった。バカの一つ覚えの ように世の大人たちが無思慮に「心」を言うのをやめないと、ますます「心(ハート)の病んだ」社会の、よろめきも、暴走・暴発も、無くならない。「静かな 心」とは、 「心(マインド・分別)に囚われない状態」を謂うのである、わたしは、そう考えている。安易に「精神的向上心」など謂うべきでなく、そんなこ とからもっと自由自在になった方 がいい。それが、わたしの真意だ。反論があれば耳を傾けるにやぶさかではないが。
* バグワン和尚に叱られ叱られ、わたしは、すこしずつラクになってきた。この実感は、深いのである。
* 六月十二日 つづき
* 梅雨入り早々の梅雨冷え、一日中冷え込んだ。二台の機械の間を往来して、少しでも仕事に差し支えまいよう、按
配にあけくれの一日だった。草臥れた。彫刻家清水九兵衛氏、東大教授上野千鶴子さん、ジャーナリスト野村進氏から、有り難いお手紙をもらった。ま
たこのホームページを通して「秦恒平・湖(うみ)の本」ことを知った飛騨高山の読者が、創作とエッセイの各創刊第一冊を
注文一読後、全巻を揃え持ちたい、最新刊の『もらひ子』は三冊を、と注文してこられた。素人の下手な荷造りながら、今日六十四冊を揃えて、大きな二箱包み
で宅急便に託した。こういうことも、有り難いことに、時々ある。
* 電メ研と時間がしっかり重なり、招かれていた帝劇の「エリザベート」が観られなかった。残念。今週には、ペン
理事会後の懇親会で石川県から遠来の友に逢える。会員に推した初対面の歌人も初参加の筈だ。そして劇団昴の芝居もある。そして来週には桜桃忌。今年のさく
らんぼ、味はどうだろうか。
* 六月十三日 火
* 横須賀に住む年長の従兄から、『もらひ子』の「読中感」がメールで届いた。一度ぐらい顔を合わせているのかも
知れないが、覚えていない。湖の本は、だが、おおかた読んでもらっている。
実父に年かさの姉が三人いた、そのどれかの姉の子ということだ、かなり年長と想像されるが年齢も知らない。そんなぐあ
いの従兄が父方伯母の子で三人以上はいるらしい、そのうち二人と交際がある。一人がこの横須賀の従兄で、経歴は知らない。もう一人、日銀理事で大阪支店長
を経、顧問になり退職している昭和二年生まれの従兄が、練馬区に暮らしている。この人の弟らしいのが、綜合研究大学院大学の副学長か学長かを務め、平成四
年に難しい研究で学士院賞を受けている。ハーバード大学の理学博士らしく、わたしの勤めた東工大とも縁のある人と風の便りには聞いていた。接触はなかっ
た。
父方親族には、他にも理系で有力者がいるらしく、実父が戦後の一時期「理研」に勤めたというにも少し関係があるかも知
れないが、わたしの東工大「作家」教授就任にこういう遠景は一切無縁であった。
無音に打ち過ごし失礼いたしました。
御本を途中まで読み、恒平さんの昔の記憶の克明で正確なのに、驚嘆しています。
一つ昔の事を想い出しました。
昭和十三年の秋でした、私は当尾(現・京都府相楽郡加茂町)の祖父の家を訪ねました。驚いたことに祖母が男の子の世話
をしていました。年恰好四歳くらいで、目がパッチリしており、紺の絣の着物を着ていました。恵子ちゃん(叔母に当たりますが、私より五つほど年下)に弟が
できたのかと思いました。確認はできなかった。京都市内の親の家に帰って母に報告し、質問しましたが、何かはぐらかされたように記憶しています。
あの時、当尾の祖父の家には、チョコレート色の毛並みの老いた雌犬がいまして、ちょうど子犬が二、三3匹産まれたとこ
ろでした。その子犬たちの始末(捨て犬)を祖父に安請けあいして、子犬を捕まえにかかったら、玄関前の大きな松の根元にあった細い排水用土管の中に逃げ込
まれ、捕獲に大いに難渋した事を覚えています。
多分翌昭和十四年になって、当尾で見たあの子供が、誠叔父の子と私にもわかる事件が起きたのだったと思います。恒叔父
が精神病院に強制入院させられました。実の父親(私からいえば祖父)に乱暴狼藉を働く乱心者ということで、「平常心に戻らない限り病院に入れっぱなしにす
る」と親族会議で決めたらしい。「病院を出たければ父親の言うことに異を唱えるな、母子と縁を切れ」と言った成り行きであったと思われます。病院の病室ま
で入り込んで膝詰め談判をしたのは、恒叔父からいえば義兄にあたる私の父だったようです。「兄貴は、これを認めない限り絶対に病院を出してやらんと言い
よったが、フェアじゃないよね」と甥の私に同調を求める言葉を、何回か叔父の口から聞いたことがあります。私はいつも曖昧な返事しかしませんでした。
今にして思えば、道徳律が違っていたんですね、そう、気付きます。
先に兄上の恒彦さんがなくなられたとお聞きした時、当尾で昔会ったのは、恒彦さんか恒平さんかどっちだったんだろうと
思いました。今回の御本で恒平さんに違いないと確信しました。
私などは記憶力が悪い上に、他人のことに遠慮しすぎるというか、見ざる―聞かざる―言わざるの気分が強すぎると思うの
ですが、とにかく過去の記憶がぼんやりしすぎています。芳賀昭子君(=恒平異母妹、川崎市在住)いわく、”昔のことを幹兄ちゃんに聞こうとしても何も知ら
んのね!”と酷評されています。御本に出てくる、私の過去とも絡みあう部分、大変に面白く読ませていただいています。
今後ともますますのご清栄、ご発展を祈ります。
* 二人まで男の子を産んだ父と母との間柄は、なみたいていなモノでなかった。すでに寡婦であった母には四人の子
女があり、二人が出逢ったとき、兄恒彦とわたしの父になる人は、母になる人の娘、亡夫との間にできた長女と、同年の学生だった。
父の父吉岡誠一郎は京都府視学に任じていた人で、父の異母弟吉岡守も、のちに府立木津高校などの校長を歴任した。そう
いう家柄であるが、それだからこそか、一族が挙って「母子と縁を切れ」と強権を発動、生木を裂いた。教育監督の上長の家が精神病院までを強引に利用したわ
けだ。「老いた雌犬」なみの母親はもちろん、生まれた小さな子たちも、あだかも「捨て犬」のように吉岡の戸籍から閉め出した。凄いことだ、生まれ落ちて直
ちにわたしにはわたし一人の単立戸籍原簿がつくられ、区長は明晰に「父母の戸籍に入るを得ざるにより」と立証していたのである。
従兄の証言で、昭和十年末の生まれのわたしが、少なくも十三、四年頃には当尾の祖父の家で祖母の手に預けられていたこ
とは、だが、分かった。
断って置くが、と、今の今わたしはこれを「史実」のようにしか感じなくて、興味こそあれ、怨念のようなものはもう持た
ないでおれる。卒業してしまっている。だから『もらひ子』を書いて、落としたのである。わたしの知ったことでは、すべて、無いのだ。
* 六月十四日 水
* 東大の博士課程に進んでいる若い友人から、以下のメールが届いた。
* 秦さんお久しぶりです。ちょくちょくホームページに寄り道させてもらっています。相変わらずお忙しいようです
ね。
この「私語の刻」のページを通じて、おそらく一度も会ったことのない東工大の先輩・後輩の生の声を聞くことができ、よ
い刺激を受けています。彼らの声に対し、我々にその反応を求めてくる秦さんの声を聞くとき、東工大の大講義室で行われていたあの授業を僕は思い出さずにい
られません。自分の考えをまとめつつ、「挨拶」したいと思います。
「努力」という言葉を耳にすると、僕は「なんだか胡散臭いなあ」といつも思ってしまいます。正直言って好きな言葉では
ありません。聞こえはいい言葉ですが、その中にどうしても偽善的なもの・自己弁護的なものを感じてしまうのです。心の中で思っているだけならいいのです
が、一度口に出してしまうと途端にシラけてしまうのです。
努力については、僕自身考え続けてきて、時とともに僕の「努力観」も変化してきたわけですが、今のところは次のように
考えています。
努力というのは自分自身を信じるためにする行為である。
努力という言葉は一般に、何らかの目標に向かって行動するときに使われているような気がしますが、その目標が自分の想
像の範囲を超えていればいるほど、自分を信じる気持ちが大切になってきますよね。「自分は・・・に、なりたい」(・・・=画家、小説家、建築家、社長な
ど)と思っている人にとって、これを実現するのは並大抵のことではないでしょう。
これは、自分の今までの経験を踏まえて、あるいはこれからの自分にハッパをかける意味で言うのですが、「・・・に、な
りたい」と思っているうちはだめで、「・・・に、なるんだ」と言い切れてはじめて、なれるものだと思います。しかし人間は、他人は騙せても自分は騙せない
ものです。口では「・・・に、なるんだ」と言っていても、心の底からそう思っているかは怪しいものです。
努力するとは、自分のこの、「なるんだ」という気持ちを自分自身に問う、あるいは確認する行為だと思います。日々の行
為によって自分自身の気持ちを確かめることで、「なりたい」から「なるんだ」への確信が生まれるのだと思います。(これがなかなか難しいんだけど。)
ですから、努力とは他人に認められたくてやるような生易しいものでなくて、自分自身に自分が認められるかどうか、とい
う行為なのだと思います。自分自身との真剣勝負であれば、他人の目を気にしている余裕などありませんが、そこに他人による(ましてや客観的な)評価などの
入り込む余地はないと思うのです。ですから「努力」という言葉を聞くとき、僕は胡散臭さを感じてしまうのです。
他人の目を気にしているということは、自分自身と向き合っていない証拠なのではないでしょうか。
そうは言っても自分自身と一人で向き合うことは、恐ろしくも孤独なことだと思います。僕も小さな出来事ではあります
が、このような気持ちを味わったことがあります。そこではじめて友達、家族の大切さを知りました。彼らは僕のことを誉めもしなければ非難もしません。ただ
じっと見守っているだけです。彼らは一見何もしていないのだけれど、これほど勇気づけられることはありません。一時の寂しさを埋めるだけの、その程度の存
在なんかではありません。自分は今まで、他人と深く付き合うということができず、不本意ながら失った友達も何人かいます。今でも人と人との深いつながりみ
たいなことは、よく分かりません。しかし自分自身と正直に向かい合うことで、逆に他人に対して謙虚になれたり、優しい気持ちになれたりすることを経験しま
した。片方の手で自分の心をしっかり掴み、もう片方の手は世界の中に浸すような感じです。中には、両手とも他人と握り合っている人もいますが。
逆に、「精神的向上心のない者は莫迦だ」という人は、両方の手が自分と繋がっていて、孤独の中に埋もれた自分自身を救
い取るための、セーフティーネットさえ持たない人なのではないのでしょうか。数年前までは僕もこのタイプに近かった。その頃、ある先輩に言われました、
「君は自分自身を限定し過ぎている」と。この言葉、印象に残っています。今から思えば、両手ともふさがっていて、命綱を持っていないのだから、自分の想像
し措定した枠の中でしか、恐くて、生きていけないんですよね。今は、少しずつ手探りで自分の領域を広げたいなと考えていますけど。
こんなふうに思っています。コメントがあれば聞かせてください。
昨日「湖の本」が届きました。自分に届くとは予想していなかったのでびっくりしています。ありがとうございました。
僕も秦さんに負けずエネルギッシュに生きていきたいと思います。それではまた。
* 分析として論理として、筋はだいたい通っている。
それでいて、全体の結論とも言わないが大事な締めくくりの所が、この人にとっては大事であるべき所が、「今は、少しず
つ手探りで自分の領域を広げたい」と括ってある。小さく揚げ足を取れば、ここは「広げている」または「広げます」と出て欲しい所、か。
なかなか難しい。「秦さんに負けずエネルギッシュに生きていきたい」とあるのも、また同じ、か。ここへ落ち込むと、そ
れより前の論旨が「いわゆる評論」になってしまうのではなかろうかというのが、わたしの、やや意地悪な「コメント」になる。
* 論理はいわば容易いし、一種の無限運動である。だが論理ではなかなか把握しきれない領分を、人は「闇」のよう
に抱いている。闇に差し込む「光源」は、じつは論理でなく、悔恨と苦痛に似たある「渇き」のように思われる。
* 六月十五日 木
* ペンクラブ例会に、金沢から、心友で読者でもある、文学館の井口哲郎館長が参加された。二人で抜け出し、帝劇
地下の「香味屋」で食事し、ゆっくり話せた。お疲れの井口さんを、嬉しがって時間的にだいぶ引っ張ったかも知れない。それほど、この人との時間にわたしは
寛ぐ。話題も噛み合うし、井口さんはとても聴き上手なので、つられて、わたしがよく話す。いろんな事が話せた。話し合えた。
その上、「香味屋」の洋食をコースで食べた。井口さんと逢っての余録であった。うまかった。肴の苦手な井口さんにはお
好きなステーキのコースを差し上げた。ホテルへ帰るのを見送り、銀座四丁目まで見送った。
* 理事会は、重い議題が輻輳して時間が大押しになった。大事な議題の時に梅原会長、三好副会長が退席していたの
で議論が深められなかったが、ペンクラブの名を冠した、事実は光文社にオンブにダッコの「気の低い」「儲け」頼みの出版企画に対し、ハッキリ「不賛成」意
見を述べた。「戦争」を考える企画にしても、「体験記」程度しか考えられないでそれでは「売れまい」と逡巡している見識の、通俗で狭いことに、驚いた。二
十一世紀に入るのである。二十世紀に、または明治以後の近代に、「日本」がしてきた幾つもの「戦争」を、文学者のハートで大きく省みておく記念碑的な企画
をこそ考えねばいけないと私は想う。「気の低い」ものでなく「丈高い」ことをもっと考えて欲しい。ようまあ本気でそんな企画を持ち出すものだと思うほど、
「気の低い」ものばかり本の題が並べ立てられ、ウンザリした。
出版編集の中西進委員長は碩学であり、「丈高い」学風の学者で、そんな企画に満足されているお人ではない。むしろお気
の毒にわたしは感じた。
* 嬉しいことがあった。作家の木崎さと子さんから佳い手紙と、代表的な著書を何冊も頂戴した。すでにメールでも
話し合っている。「湖の本」までも、たくさん買って下さった。
木崎さんのことを、従来存じ上げてはいなかったが、私より少し若い芥川賞作家だとは知っていた。カソリックとも漏れ聞
いていた。ペンの会議に出向いた行き帰りに、その芥川賞作『青桐』を、もらった文庫本で読みふけってきた。まだ三分の二ほどだが、「丈高い」静かな力作
で、思い深い。甚だ地味な筋書きなのに、表現に惹かれ、深々と読み進んで行けるのが嬉しい。低俗なのはダメだと、つくづく思う。
有り難いご縁を作ってくれたのは、今日理事会で推薦し、新会員に承認された元岩波書店の野口敏雄氏。感謝する。
* 相変わらず機械の画面まっくらは直らないので、古い方の機械で仕事をしている。六月前半が過ぎ、後半はとても
気楽に暮らせそうだ。
* 六月十六日 金
* 佐高信氏の『黄沙の楽土 石原莞爾』に、文芸的満足は少ないけれど、「批評」としては意義ある力作で好著であ
る。石原は、満蒙を舞台に、関東軍ないし日本軍部を一時壟断して、じつに物騒な名声を博した「戦争屋」であった。東条英機と対立したことからか、古型の日
本人には人気根強く、信仰すらされていて、延長線上に森首相の「神の国」「国体」発言などが出てきている。佐高さんは、これに周到な思想的・実際的批判を
浴びせかけ、石橋湛山や穂積五一らの今にしてまこと明確に正しい議論や行動を配して、論旨を、丈高く構築している。
今時分に幽霊なみの石原莞爾を批判して何になるかというのは、トンチキな認識不足であり、戦後自民党政権の足取りは、
隠れた意図において、石原的な侵略や謀略への憧れを、今一度追えるものなら「夢」として追いたいというものであった。森の、確信犯的に語って倦まない語調
がそれを露わにしており、呆れていて済む話ではないのである。佐高さんの著述と批評の意義はよく汲み取られねばいけない。
* 木崎さと子さんの『青桐』に感心した。若書きがもたねばならない幾分の気負いが、またそのまま魅力になるとい うことも、いわゆる初期作品には一般に多いものだが、この小説は、若書きながら落ちついた筆致で、畏怖に満ちた主題をよく織り上げ、遺憾ない。だぼっと重 たい織りではない。手触りはしなやかで愁いを静かにとりこみ、感傷に少しも流れていない。読書で、「読ませる」文章に出逢うほど嬉しいものはない。ま だこの一作しか読んでいないが、少なくもこの作には「文品」が静かに感じ取れ、よかった。
* 皇太后が薨去された。一掬の感慨。
* 春に結婚した、博士課程終了の女性研究者から、ユーモアを交えた軽快な新居通知が届いた。またこの春IBMに
就職した男性からは、コンピュータを「自前で」「目的に合わせて」「便利に」作ってみませんか、手伝いますよと言ってきてくれた。ウーン。魅力あるなあ。
だがこの機械音痴の技術音痴には、無理ではないのかなあ。
それよりも画面の暗くなってしまった機械を、秋葉原まで、また修理に運ぶのかと憂鬱。一人で行くのが面倒なんでしょう
と、妻が図星をさす。前には一緒に行って、あと上野で食べ、寄席に入ったりした。だが行くより仕方がない、「画面」「電源の管理」も、さんざん触ってみた
がガンとして暗い。レジューム機構をわるくいじったか。本機操作の途中で、うっかり外付けディスクを、切るか、入れるかしたのだったかも知れない。
* 明日は「罪と罰」の舞台を観る。ドストエフスキーの中で、いちばんこなれた名作である。ソ連の作家同盟に招か
れ、その後不幸に亡くなった美しい通訳エレーナの親切な案内で、レニングラードの「罪と罰」遺跡を訪れた日のことが、ありありと眼に甦る。宮内寒弥氏、高
橋たか子さんらと一緒だった。帰って、新聞小説『冬祭り』を連載した。
『罪と罰』は藤村の『破戒』を初め、日本文学に大きな感化をのこした。観劇を機に、訪ソ以来ひさしぶりに『罪と罰』も読
み返そうかと心用意している。意図して、ロレンス作品と併読してみようと思っている。
* もう一つ楽しみにしているのは、九大今西祐一郎教授から教わっている、源氏物語の影印本と活字本文とをサイト で対照しながら、全編読み込めるようになったという話。これで通読の、また新たな源氏物語体験をしてみたい。何度も何度も何度も読んできた源氏物語が、影 印本とともに味わえるなら、古筆の勉強にもなるし、またひとしおの読書になる。対照して読めるというのが嬉しい。そうでないと素人には荷が重すぎる。
* 金大中がピョンヤンまで出向いて金正日と会い、共同声明にこぎ着け、みなで統一の歌を唱ってきた。首脳会談と
いうものに期待される大方を実現しての佳いお祭りで、これはこれで偉大なことである。昨日とは掌を返したような俄かな北朝鮮への甘い観測も可笑しいと思う
が、しかし、国境をはさんでの「非難」合戦をすぐ双方で自制しあったり、いい兆候が「努めて」出てきている。今後は事務レベルで、もっともっと難しい突っ
張り合いが必然生じるだろうけれど、そこをどう乗り越えて行くか、ノーベル平和賞ものの成果を世界に見せつけて欲しい。
わたしは、此処に現れた「意志」は、一種の「民族自決」表明であると受けとめている。それとともに、韓国を、中国寄り
に取り込む裏の連携によって、南北両国ともに、アメリカと日本と台湾を牽制しているのだと感じている。
森総理の、それにしてもお粗末な反応はどうだろう、繰り返し「二つの民族」の統一だと間違えている。愚かな落第答案
だ、総理の資質に、欠けているのでなく、全然無い!!のだ。情けない。
* 地方区選挙での、各党の宣伝ビデオでは、民主党のものが映像的に面白かったが、内容では共産党不破委員長の
「演説をアレンジ」したものが、最も優れて積極的だった。比例区で、公明・自民の党首のうったえの緩いことは、悲惨であった。
選挙が待たれる。雨にたたられないで、投票率が高くなることをこんなに願われる総選挙はなかった、過去に。
自民が三分の二に達せず、社会党がかろうじていつも三分の一強を守っていた時代が、この国には、あった。夢のような昔
語りである、今や。
労働者をまるで守れない不幸な国になっているのだ、今の日本は。日本社会党に代われる国民政党に、もはや共産党がなら
なくてどうするのかと思うが、党名「共産党」のままでは、この私でもイヤだ。看板は積極的に塗り替えて欲しい。看板なんかどうでもよいとは言わせないし、
断じて思わない。名は、不思議に体を動かすものだ、襲名して大化けするように。いっそネーミングを「当選賞金一億円」ぐらい弾んで、国民から募集すればい
いのだ、資金は「赤旗」で存分に溜め込んでいるはずだ。この選挙にそれを間に合わせていれば、民主党など、らくに追い抜いただろう。
「共産党」の名に誇りをもって過去に良いことをしてきたのだから、などと間抜けたことを言っているが、政党政治では、
政党は政党の私有物でなく、国民に支持された国民のための政党でなければ、ウソだ。「共産党」の名はもはや歴史的使命を果たし終え、形骸と化している。そ
うわたしは眺めているし、多くの日本国民が本気でそう考えているのなら、ラチもない過去の満足に拘っていては、政治的なチャンスを見送ってしまうだろう。
自民党の野中幹事長らが躍起になって共産党つぶしにかかりたがるのは、民主党はメでない、政権を争う大敵は共産党だと、真実現実に恐れているからではない
のか。
共産党が今のままなら、わたしは「反自公保」の「民主党を軸にした連合政権」を選ぶつもりだ。
* 六月十七日 土
* ホームページの『清経入水』校正を、一応終えた。電子版「秦恒平・湖(うみ)の本」の創刊第一作である。太宰
治賞受賞以来ちょうど三十一年目の桜桃忌が、目前に。印字本「湖の本」創刊満十四年を、かくて、記念したい。
わたしのホームページでは「ふりがな」などの出来ないだけが、我が作品の場合ややハンデキャップになる。広範囲な読者
のためにはルビを振って上げたいのがヤマヤマだが。むろん、きちんとして読みやすい紙の本版「湖の本」は常時在庫の用意がある。送料ともで『清経入水』
は、二千百円。併せ御読み戴きたい。
* 三百人劇場の「罪と罰」を観てきた。この長大で深い作品をどう脚色したのか福田恆存脚本に期待していた。期待 は裏切られず、巧みな演出と舞台装置にも助けられ、じつに面白い展開を佶屈感なく見せた。人物の出し入れ、選び抜いた台詞。文芸ものの舞台のうまみを模範 的に満喫させた。どう転んでも晴れ晴れとした「話」では、ない。しかし背後の、現代危機感に繋がる哲学もしっかり掘り起こされていて、ずしんと響く感銘が あった。
* 妻と、そのあと食べて行こうかなと思ったが、雨が心配だしと、池袋東武地下の「美濃吉」で晩飯を買って、まっ すぐ帰った。
* なんだか得体知れないメールが一つ届いていて、サイトを開いて読むようにとあったが、機械の不調で今は他サイ トが全く開けない。「愚文紹介」と題してあったが、忙しいのに「愚文」を強いて読む必要も無かろうと削除した。めったにないが、こういう逸れ弾も届く。
* 久間十義氏から『オニビシ』という、アイヌものらしい題の小説が贈られてきた。言論表現委員会での仲間であ
る。前に貰っていた『ダブルフェイス』を先に読みたくなった。
* 六月十八日 日
* 久間十義氏の『ダブルフェイス』を読み進んでいる。有能な女性総合職が夜には売春していて殺された事件に取材
しているらしい、あらあらしく、筋書きがハードに運ばれて行く。表現も語り口も内容にマッチしているといえ、よく読んだ翻訳物のサスペンスやミステリーの
類と同じと言える。序の口なのでまだ多くの判断はしにくい。
続いて読んでいる木崎さと子さんの『沈める寺』も、まだ何とも判断しにくい。『青桐』では「表現」が主導的であった
が、『沈める寺』では「筋」書きが説明的に先行して行く感じで、それにしてはやや足取りが重い。久間氏のと、どっちが、わたしを惹きつけ読み進めさせるだ
ろうか、二冊が手近に並べてある。
加島祥造さんの『タオ』が、腰を据えて読んで行くと、よくこなれて「老子」が詩訳されている。これは、さすが、なかな
かのもので感じ入る。バグワンの『タオ』が豊かに活かされてあるのがよく分かる。老子は「論理」ではない。論理に背いた「喩」としての直観で語られて行く
ので、理屈っぽく接するのが一番の毒である。「論語」ではないのだ。
* 建日子が来て、母親と二人でテレビ映画を見ている、らしい。ときどき笑い声がしている。気持ちが、優しく落ち ついている。
* 明日は桜桃忌。
* 六月十九日 月
* 桜桃忌の朝、九時半。こう書いたところへ、宅急便で、山形県村山市の「あらきそば」芦野又三さんから、今年も たっぷり桜桃が贈られてきた。ありがたい。嬉しい。芦野さんからの選りすぐりの桜桃は、美術品のように美しく、美味い。二キロもある!! 今年は一度に沢山は食べられないが、胸はずませ、心から味わいたい。感謝。
* 久々に晴れて、よい日曜日を過ごされたことでしょう。
私の方は伯父の軍隊の「教え子」による1周忌でした。
戦争中にこれほどの心のふれあいがあり、今なお続いていることにおどろいた、陸軍士官学校の士官候補生の会合です。芸
大の教授、文芸春秋の取締役、会計士業界では有名な京都の会計士・・・さまざまな分野で活躍してきて、今なお活躍している70代半ばの方々30名が集まり
ました。
外の人たちから見た伯父の人柄について、また新たに聴くこととなりました。
泰山木に寄せて俳句を読んでくださった方に、お礼を述べたのですが、思ってもいない涙声になってしまい、一同しーんと
なってしまいました。
雨にたたられず、お年寄りたちの足場がよかったのが幸いでした。
疲れています。
* この人は去年の今頃に「父」とも仕えた伯父さんを不幸な事故で死なせた。昔は士官学校の教官であったらしい。
宜しからぬ教官も当時はいたらしいが、このように長く慕われる人もいたと、あの『陸軍と海軍』にも書かれていた、その佳い実例の一つ、希有の佳例のよう
だ。
気になるのは、この人、メールで、「疲れています」が口癖になっている。大勢を動かして事業に励んでいる人のようだ
が、「疲れ」は溜めこまないで欲しい。
* やはり昨日、五十代半ばの夫を死なせて一年がようやく過ぎた読者から電話があり、まだ沈鬱だった電話の声が、
二、三十分話している内に晴れ間が見えてきた。よかった。
死なれ死なせて嘆く知人が、こっちの年齢がそうだから自然増えてくるのはやむを得ないが、ますます増えてくる。「湖の
本」創刊最初の十年ほどは、さほどでなかった。この数年、永い間の愛読者で亡くなられた人があまりに多い。『風の奏で』の「M」教授こと目崎徳衛先生も亡
くなってしまわれた。結局一度もお目にかかれる機会を得ずじまいだったが、「湖の本」は亡くなる間際の今度の『もらひ子』まで欠かさず継続しすべて買って
下さっていた。早稲田の梶原教授も同じように莫大に力を添えて下さり、そして亡くなられた。愛読者で、もう何人に死なれたことか数え切れない。有り難いこ
とに、その人が亡くなってのち、奥さんが、またご主人が、ひきついで「湖の本」は支えますと続けて読んでいて下さる例も、多い。ありがたい話である。こう
いう生き方をしている作家、出来る作家が、現代、他にいるとは思われない。聞いたこともない。
* ゆうべは、二時半まで息子と妻とで、「仕事」や「人生」について和やかにいろいろ話し合えた。このあいだか
ら、「精神的向上心のない者は莫迦」かどうかで、「努力」とか「ガンバル」とかに言い及んだ元学生君とのメールの往来があったが、たまたまある新聞が、息
子の「ショカツ」という番組中のある台詞に関連して、署名記事をのせていたことから、こんなメールを先日息子に送っていた。そういうことも、改めて親子の
話題になった。
三十過ぎてちゃんと自立した息子に、こういうことを言い送ったりするのは、いまだに言い続けているのは、よほど愚かし
い親ばかで、いっそ異常に思う人も多かろう。私自身自分を嗤う気持ちをもっている。だが、言いたいのなら言えばいいと、息子から拒んでこない限り、よそ人
の思惑は考えない。それが流儀というわけではないが、ありのまま、したいまま、である。どっちみち世間の物差しでは、かなり可笑しく生きているの文士なの
だから。
* おはよう 建日子。 元気ですか。
さて、私の三ヶ月目の診察日が二十一日に迫りました。新参患者なので、健康保険証は携行していたく、戻してくれるよう
に。血糖値は安定していて問題ないように感じますが、運動不足は相変わらずです。それでも最高86キロもあった体重が、78キロに落ちています。75位に
なれば自覚的には理想的で、それも夢ではない。
今日二十七日は、三百人劇場で「罪と罰」を観ます。三時開演。
帝劇の「エリザベート」を楽しみにしていましたが、わたしが座長の会議日と重なって残念ながらお返ししました。観てみ
たかったが。六月後半は、きみの父親は、気楽にしています。
新聞に、きみの「ショカツ」の或る台詞を引いて、コメントしている「先生」がいました。母さんが送るでしょう、コピー
を。「頑張らないで」というのが、題でした。
「頑張らないで」を、あっさり肯定的に見ての評論でしたが、わたしの考えは少し違います。「頑張った」というこの言葉
は好きでないので、「努力した」とやや方角を変じて言いますが、ほんとうに努力した人だけが、「努力しない」ことの真の価値を知っているのだと。ほんとう
に頑張った・頑張れる人だけが、「頑張らない」ことの大切さを心から分かっているのだと、思っています。バグワンにならっていえば、よく泳げればこそ、泳
がなくても水になじめるし、水に浮くことも出来る。泳げないのにいきなり水にやすやす浮こうとしても、沈み、流され、溺れるだけです。
世を挙げて、若い人たちに殊にラクに楽に怠惰に生きよう・生きられると思っているムキが、露骨に見えています。きみ
も、そうでなかったとは言いにくい。今もそうでないとは、まだ少し思いにくい。
「ラクにやりたい」とばかり思っていればこそ、「頑張らないで」という台詞が、お互いに安易に安直に口にも行動にも出
てきて、それを聞くのが耳に心地よく、後ろめたさも薄れるのでは。安心なのでは。努力しないことの都合のいい自己弁護、言い訳、口実になり、怠け者同士で
傷をなめあって、ますますイージーになって行く。そういう一面が近時ますます憂わしく瀰漫していることを、よく承知し見極めた上で、「頑張らないで」と、
例えばあのドラマの若い刑事さんは言うていただろうか。作者は書いていただろうか。
今朝、チャイコフスキーコンクールで優勝してきた若い諏訪内晶子が、大学でも今でも、佳い音楽を創るためにも政治思想
史を勉強している、どういう潮流や歴史からこの国のこの曲は必然生まれて来たろうかということが知りたい、必要な努力です、と話していました。拠って立つ
ほんとうの歴史的基盤を知っているかどうかは、自分をただの根無し草にしてしまうかどうかの、分かれ目になりましょう。
「頑張らないで」と言われると、直ぐ嬉しがって簡単にそのまま鵜呑みにしてしまう風潮ですが、「頑張らない」方が「良
い」のは「何故」なのかとまで、思索も直観も届いていない。それでは言葉や台詞が耳ざわりが佳いだけの、軽薄なものになると、そう、きみも思わないか。
なぜ「頑張ってはいけない」と言うのか、その根拠を実感し深く思って言うているのかどうか、新聞に書いていた「先生」
にも、きみにも、聴きたいね。
わたしは、「頑張らないで」と、誰よりも、自分で自分に言っています、この頃になって、やっと。ガンバルのに疲れたか
らではない。頑張らないことの本当の佳さが感じられるようになってきたからです。頑張ってこなかったら、これは分からなかったろうと思う。
* 国民学校二年生の担任だったのが上野寿美子せんせいだっことを、わたしは母の残して置いてくれた通知簿がなけ れば思い出せなかった。同級だった今村豊君が、上野先生は「確か伏見街道二ノ橋に近いお醤油やの娘さんだったと思います」と教えてきてくれた。「今心は新 門前ハタラジオ店の辺りを徘徊しています」と、のなか・ともぞうのラジオの繪のイラスト葉書に書いてある。「もらひ子」の幼少を、「お気持ちはよく理解で きます」が、「少々"いい子"になりすぎている気がします」という同世代の或る大学教授の感想も来ている。「われらは昭和の子ならずや」と謳ってある。冷 えた傍観者の場所に退がり過ぎていると見られたのだろうか。それなら実はあまり"いい子"でなく、冷たいいやな子であっただけかも知れない。
* (前略)先輩の「湖の本」はいつもむつかしく 最後迄読むのは私にとって大変でしたが、今回の『もらひ子』は
のめりこむ様に読ませてもらいました。日吉(が丘高校)時代 市電通学してましたが、茶道部の練習の後?に乗り、先輩は祇園(石段下)で下車され、窓から
くいいる様に姿を追うのですが、アッという間に 消えられました。一度 友と一緒に祇園でとびおり、後をおいかけましたが やはり雲のようにきえてしまわ
れ、二人でとても不思議がったものです。『もらひ子』では、くわしすぎる程そのご実家の様子が書かれていますが、その家は今はないとして やはり先輩は私
にとりましては まぼろしの人です。ご子息様の名前をTVで時々拝見しうれしく存じます。
「もらひ子」では私も同じ立場です。小さい時から囲りの大人たちがいつも目くばせしたり、口ごもったり、私も これは
聞いてはならない事と、何となく思い、生みの両親 育ての両親の 共に亡くなるまでずっと複雑な気持ちのままでした。
その分、無理に明るくふるまって生きて来た様にも思います。今、自由な立場になって、結婚してL.A(=ロサンジェル
ス、か。)にいる娘にもやっと話しました。私にとってはそんな重大なことではなかったのに、初めて聞いた娘や息子はとても重大事件に受けとめた様です。
やはり長い年月 いつも人の顔色や言葉に気をつかいながら生きてた私と、最初からかくし事なしの子供たちとの、考え方
の違いでしょうか。
いつも明るくやさしく、陽気でいられる私、人前で涙をみせない私。いつの間にか自分を生きやすくする為に、そういう性
格を作ったんだと、最近、思うようになりました。
先輩の『もらひ子』を 読みおえて 感じた事々です。
* 点前作法を教えていた後輩の一人で、特設の美術科だったので、市内の学区域外から通学していた。茶道部にも、
わたしの卒業後も長く熱心に在部し、稽古をしていた。わたしの後を追って電車から飛び降りたりしていたことなど、全く気づいていなかった。お互いに還暦を
幾つも過ぎてしまった。このひとが「もらひ子」の境遇だったとも知らなかった。境遇から作り上げた後天的な性格は異なっていると思うけれど、「自分を生き
やすくする為に」生きたことは変わりない。こんなふうにして気づかなかった「身内」が、ここにも一人潜んでいたのかと、胸を打たれた。もう孫のいる女性か
ら「先輩」「先輩」と呼びかけられる不思議な気分をほろにがく反芻している。
* 六月二十日 火
* 桜桃が、じつに美味かった。
* とうとう故障の機械を秋葉原のNECへもちこんだ。今日は疲れた。
* 四十バーセントに上る選挙態度未決定者が、家で寝ていてくれると「イインデスガネ」と、森総理がテレビ報道で ニヤついていた。なんという総理大臣か。選挙率が上がれば、国民の総意において「敗北」することを自認しているのだ、本音としても。「一人でも多く、投票 日にはぜひ投票所に出かけて投票して下さい」というのが「役」の、民主主義政府の芯の地位にあるのではないか。情けないヤツだ。こんな政党に、政府に、わ れわれの「時代」と「生活」を投げ捨ててしまっていいのか。
* 政権に参加する気のない党など、推さない。「共産党」の党名を清算して出直し、政権への参加を力強く謳えと書
いた頼まれ原稿を、何年か以前のことだ、共産党は頼んで置きながら原稿趣旨が気に入らぬと「ボツ」にした。だが、漸く政権に参加する姿勢は今回選挙運動と
して取り始めた。成長した。あとは党名を変え、新世紀にふさわしい国民の政党へ伸びて欲しい。共産ではなく、民主と自由の国民のための党に。労働者を大切
にする党に。
土井たか子は超党派的に「女性党」を立ち上げて行く以外に、もう国政にコミットするのは無理のようだ、逸機するなか
れ。土井党の惨めな今の境遇は、一つには、「社民党」などというワケの分からない党名に、ワケ分からずに安易に変更してしまった日から急速に始まった。や
せ細ったからだに下剤をくりかえし飲み続けたのに似ている。死ななくても立ち直るには五十年が必要だろうし、五十年という時間が日本国に無事に余されてい
るのか、不安である。
* 六月二十一日 水
* 模範的な推移らしく、体重・体脂肪が好調に減り、血糖値も安定している、と。来月は診察なく、但し注射等の在 来治療は継続。
* 木崎さと子さんの『沈める寺』が「蛇」を使う作品であったのに吃驚した。わたしの作品の「蛇」とは意味がち
がっているのか同じなのか、もう少し落ちつかないと判断できない。土地の伝説を踏まえてあるようだが、フィクションにしても、『清経入水』や『冬祭り』や
『四度の瀧』とは、扱いようが質的にちがう感じもある。仲立ちの野口敏雄氏は、この辺も見渡して『清経入水』など贈れと示唆されたか。『親指のマリア』よ
り先に『冬祭り』を見てもらうべきだったかも知れぬ。『沈める寺』は、だが、『青桐』に比して清冽感は失せ、やや、もたもた、ごたごたして、印象は混濁気
味であった。ストーリィに足を取られ、心持ち読み物へ流されかけるのを、木崎さん独特の佳い表現がくい止めている。北陸の真宗大寺を取り巻く環境や方言の
効果も適切に活かされていて面白かった。微妙な
芯になる場面で、かすかに大事なものが逸れてしまい印象を曖昧にしていた気もする。「蛇」が何かのシンボルのようには表
現されきってなく、生身の気味悪さになっていた。不快感ものこった。カタルシスを得にくかった。
聖路加病院の往来にも読み進んで、帰路、保谷駅から家までの路上で読み上げた。歩きながらも本を読んだなんて高校生以
来だ。あの頃は河原町や四条の繁華な往来ででも本を読みながら歩いていた。
* 今夜中には久間十義氏の『ダヴルフェイス』も読み上げてしまうだろう。これはもう、読み物でありエンターテイ
メントである。筋は追っているが、「読む」嬉しさのようなもの、ファシネーションは、無い。読み始めた以上は、このストーリィは読み終えておきたいと言う
にとどまる。ふしぎなものである。比較して谷崎の『春琴抄』などは時代といささかもこすれ合わない閑文字と読めるだろう、直哉の『暗夜行路』でも。漱石の
『心』ですらも。だが、それらを読んでいると「読んでいる」ことが嬉しくて堪らなくなる。文学の、魅惑する力に溢れてている。ストーリイからすれば『ダブ
ルフェイス』は段違いに現代のにおいを発散し、刺激的にひきつける。表現でもハードボイルドに、手荒さの魅力を作品に彫りつけている。だが、あの「嬉し
い」感銘は無い。題材がイヤなのだろうと言われれば、そんなことは無いと断言できる。要するに、すぐれた表現には有る「ファシネート」な「読む嬉しさ」は
喚起されてこない筋書き、しかしダイナミックな今日只今の筋書きなのだ。それがわるいとは言わない。だが、それだけでは優れた「文学」で有り得ず、あの直
哉の単に作文なみの「純文章」の魅惑にも結局勝てないのである。
それでも、読んでしまいたい。読者の人数からすれば、いまどき『暗夜行路』や『春琴抄』を読む人は少ないだろう。久間
氏のこの力作には何十百倍もの読者がついているに違いない。それが、だが、何だと言えるのだろうか。生涯の、魂の糧、魂の財産。古くさい物言いだけれど、
そういうことを考えている。そうなれるか、なれないか、だ。
* 六月二十二日 木
* 数歳の幼児を二、三十人募集して、準託児所ないし準幼稚園教室を意欲的に、一事業としても、開こうという人の メールが届いた。一読して善意の意欲であり成功して欲しいと思う一方、かなりに気になる点もあったので、率直な意見を望まれているまま、返信したものを、 そのまま「闇」へ放っておく。
* 「子どもの家」の意図
なかなか上手に説明できないのですが、子どもが育つときに必要な環境とは、「楽しく遊べる」「好きなことに熱中でき
る」ことではないでしょうか。
今の家庭に、そして今ある早期教育の塾には、そんな「環境」がないと思うのです。
それから、「小さいときに、いろいろなものにふれてみる」こと。
「いいものはいい」と秦さんが自信を持っておっしゃれるのは、なぜでしょうか?
ご家庭で目にしてこられた、お茶 絵 能 焼きもの・・・ そして、京都という、世界でも一流の文化のある街。一流の
ものにふれてきた中で生来の優れた感性が育まれて、「いいものはいい」と、言い切れるのではないでしょうか。
(同様に、)外国人と小さいときから接する中で同じように考え、意志を伝えあいたいと思うことで、国際感覚が養われて
いくのではないでしょうか。
たくさんの遊びの素材を用意した環境
子どものための日本文化の教室
楽しい語学の教室
を、3つの柱にしていきます。
心の底には、自分に、そんな環境があればよかったのに、子どもたちをそんな環境で育てたかったのに、という想いがある
かもしれません。
もっともっと心の奥底には、23歳で失った娘との幼児期の係わり方が、あれでよかったのだろうか、という悔いのような
気持ちがあるからです。
年子3人を若い母親一人で、だれも手を貸してくれない土地で、十分に育てられなかったという、ほろ苦い想いがあるので
す。
倉を建てるわけでもない、名声を売るわけでもない、子どもにかかわる仕事をしたいからするのではないかと、「なぜ、
今、新規事業をするか?」の意味を反芻しながら考えています。
高度な数学を操る学問も必要、医学や法学も必要。
でも、人を育むことに手を貸す自分の仕事、実は、今、とても必要なことなのではないかと思っています。
* あなたは、こう書かれています。
今の家庭に、そして今ある早期教育の塾には
そんな「環境」がないと思うのです。
「家庭」について言えば、「ない」は、明らかにアバウトに言い過ぎで、過信に近い。へんな家庭も増えているという報道や
情報の外側で、まともな家庭の方がやはりまだまだ普通です。早期教育の塾についていえば、有名幼稚園や小学校の「予備校」的であるのが、なにより問題なの
では。
小さいときにいろいろなものにふれてみること。
これも早とちりしておいでかも。触れ「させ」てもダメなんで、自然に自発的に触れるのでなければ。
わたしだって、「これ、いいよ、いいよ」と絶えず目の前に突き出されていれば、必ず拒絶していたでしょう。それでいて
うちの子供たちにはそれをやり、けっこう失敗していましたがね。身の回りに、いつも、やたら「いいもの」の在ることは、むしろ毒なのでは。すばらしい蔵書
のある家の子が、「本」や「読書」に目も向けなかったという例は、ずいぶん多いのでは。
仰っている、このわたしの場合のあれこれは、わたしが自発的に渇いて望んだから、意識がそつちへハングリーに向いたか
ら、それらから受け取ることも可能になった。もし父や叔母から謡曲や囲碁や茶の湯など「教育的に仕向けられ」ていたら、いやがって近づかなかったと思いま
す。ただ、そういういいものの存在することを昼寝しながらにもわたしは知れる環境にいたのも事実ですけれど。
その意味で、妙に人為的に作為的に、幼児に対し「モノのある環境」を与えればいいと思うのは、心理的にも、誤解ではな
いのでしょうか。
たくさんの遊びの素材を用意した環境
子どものための日本文化の教室
楽しい語学の教室
を3つの柱にしていきます。
「たくさんの遊びの素材を用意した環境」より、ろくすっぽ素材のないまま自発的に「遊び」「楽しみ」を、工夫し、発明す
る力や仲間の方が、遙かに大切なのでは。「素材贅沢」に陥れば、子供はそれが当たり前と思い、はやばや飽きてしまうか、偏ったオタクになりかねません。あ
まり、賛成しがたい。
「子どものための日本文化の教室」といいますが、数歳児に、そんなものが、ある程度にも普遍的効果をもてると想うのは、
やはり錯覚に近い。せめて小学校も四年生ないし高校一年生ぐらいまでが適正で、第一、「日本文化」なるモノの中身が、示せていませんね。とてもとても大変
難しいことで、うたい文句以上には、実体のまだ無い単なる希望というに近い。有益でも効果的でもあまりあり得ない気がします。
心の底には
自分がそんな環境があればよかったのに
子どもたちをそんな環境で育てたかったのに
という想いがあるかもしれません。
学校へ上がれなかった親が、子供に有名私立校や大学を心理的に強いているのと、少なからず似た動機で、子供たちの自発
的な力をあまり信頼せずに、ものや環境を「与えてやる」姿勢のように感じられ、すこし怖い気がします。
人を育むことに手を貸す自分の仕事
実は今とても必要なことなのではないかと
手の貸し方の問題ですね。根本は、子供が自発的に育って行く力に「力添え」をするのでないと。「人を育む」なんて言葉
は美しいけれど、大人の言い分で、子供たちがそんな大人の意識を負担に感じて逸れて行く例こそが、今の時代の難問なのでは。「せぬがよきなり」という積極
的な意義もよく考えないと、教育の独善、大人の好き勝手に流れて、管
理や指導の過剰になるのではと心配です。反発する力のもう芽生えている年齢ならまだしも、三、四歳までの幼児には、大人
からの「遣りすぎ」ほど、有害なことはない。必要なのは家庭での普通の愛情と、危険などから見守る目と手と、それに、何より同年代の「おともだち」との共
生。「先生」はむしろ未だ無用なのではないかと考えています。
率直に厳しいことも言うて欲しいと言われましたので、申しました。大事な問題です。
* 六月二十三日 金
* 関西の男性、理系の仕事をされているらしい年輩の人から、昨夜このページで紹介した「育児施設」開設案に関する意見
が来ている。実は、昨夜のわたしからの批評的な返信に応じて、また「追加」が届いていた。わたしは返事を留保した。今朝メールをもらったこの関西の男性
は、その「追加」分は読まれていない。今ひとつ断って置かねばならない、「子どもの家」のプランナーはこういう事業のずぶの素人さんではなく、別にベビー
シッターの会社をすでに経営して相当の成功をおさめている業界主力の一人であるらしいこと、これをわたしが言い漏らしていた。その点、すこし食い違いも出
てきている。
* 紹介されました「子どもの家」について、思うところ書かせていただきます。私も小規模ながら自分で稼いで生活
している身ですので、稼ぐことの難しさは身をもって体験中ですから、参考になればと。
私の思いも秦先生の心配とそう違ってはいません。結論からいいますと、この方は23歳で別れた娘さんとの思い出を、こ
の準託児所ないし準幼稚園教室に再現したいとえうことではないのだろうかと。
子どもの家の意図からは、この方がやりたいのが、福祉なのか、ボランティアなのか、それとも商売(事業)なのかが見え
てきません。これを明確にできなければ、お止めになった方がいいと思います。
子どもの家の意図
>なかなか上手に説明できないのですが、子どもが育つときに必要な環境と
>は、「楽しく遊べる」「好きなことに熱中できる」ことではないでしょうか。
いま世の中のお母さん方が求めているのは、そういうことでなく、有名幼稚園や有名小学校に合格することではないでしょ
うか。したがって、幼児教育に求めているのは合格のためのテクニックだと感じています。
>(同様に、)外国人と小さいときから接する中で同じように考え、意志を伝
>えあいたいと思うことで、国際感覚が養われていくのではないでしょうか。
外国人と接することで学ぶべきは、「同じように考える」ことではなく、「別の文化や別の考えがあり、それを尊重する」
ことだと思います。どうも国際化を履き違えている人が少なくありません。国際化すなわち外国語が話せるではないのです。異端を容認することです。
>たくさんの遊びの素材を用意した環境
>子どものための日本文化の教室
>楽しい語学の教室
自分の子供のころと、物が潤沢にある今とを比べて、いまが豊かであるとは思いません。むしろ、すべてが用意され、自ら
は何も考えない人間を、より多く生み出しているようです。
素材の意味するところが明確でありませんが、用意するのであれば、何ら加工していない自然をあちこちに置くのがいいよ
うに思います。おもいきり泥遊び出来たり、探偵ごっこができる場所などなど。いま私のまわりで、そのような場はありません。
>倉を建てるわけでもない、名声を売るわけでもない、子どもにかかわる仕
>事をしたいからするのではないかと、「なぜ、今、新規事業をするか?」の
>意味を反すうしながら考えています。
>高度な数学を操る学問も必要、医学や法学も必要。
なぜ高度な数学を操る学問等が必要なのか、見えてきません。
>でも、人を育むことに手を貸す自分の仕事、実は、今、とても必要なこと
>なのではないかと思っています。
繰り返しますが、やりたいのは福祉なのか、ボランティアなのか、それとも商売(事業)なのかを明確にするべきでしょ
う。商売なら、相手は人間です。より具体的なサービスの提供が求められます。自分の理想とお客のニーズにミスマッチがないか、いま一度熟考され、それでも
熱意が上回るのであれば進められたらいいでしょう。
* 手厳しいが、わたしの返信とも重なっている。幼児教育がいわれているが、仕事をもった親が要するに託児利用し
ている施設と、幼稚園予備校めく施設と、二つある筈だ。前者に教育効果を求めている親は少なく、安全と安価がより多く期待されているだろう。後者ではむし
ろ受験テクニックだろう。このプランナーの考えているような理想とは、やや遠い要望を親たちは突きつけてくるとして、そのギャップが心配されるのだが。
次ぎに、ではプランナーの「追加」メールを紹介する。これはこれで、今のメールにも、わたしからの批評にも、幾らか答
えが含まれている。
* ホームページにたくさんのスペースをとっていただいて有り難うございました。(ビジターの方から)どんな辛口
の意見が来るか、待たれます。
少し付け加えます。
日本の親が、世界で一番「子育てが楽しくない」と言っているデータがあります。アメリカ、フランス、中国、韓国等と比
較したデータです。
一方、日本の子どもが、世界で最も「親や先生を尊敬しない」と言っているデータもあります。
大多数は健全な家族だと思っていました。事件を起こす若者はほんの一部だと思っていました。
けれども、今の40代の親と10代の子どもが、何かを病んでいる実例を身の回りにも、見たり聴いたりするようになって
きたのです。不登校、学級崩壊、家庭内暴力・・・・
親の世代は子育てに自信がなく、子どもも何を信じて、何を乗り越えて「大人」になっていってよいのか分からないので
しょう。
昔は親の方が知恵があり、知識がありました。子どもは親から知恵を知識を学び、「分からないことはお父さんに聞いてご
覧なさい」という会話があったと思うのです。
今は子どもの知識の方が進んでいます。伝えるのはテレビやインターネットやさまざまな情報ツールです。親の知らないこ
とを、子どもが知っている。親の使えない機械を子どもが操る。
子どもは、親から、知識を学ばなくなりました。
知恵を学ぶ必要があるのですが、今の世の中、知恵よりも知識が尊重されます。
保守的なものに反発してきた私たち世代は、新しいもの、欧米文化に価値を置き、日本の文化をおざなりにしてきました。
ふれる機会も少なかったのです。
お能が美しい、おもしろそう。華道もきれい・・・ ちょっと早過ぎても、自然に、そんな環境があってもよいのではと。
伝統に何かの形で小さいときからふれる機会を、人為的に作ってもよいのではないかと。
日本文化について少々荒っぽいとらえ方であることはお許しください。
これもちょっと説明不足かも知れませんが、家庭での育児機能はさまざまな意味でサポートが必要になってきています。
幼児教育というと早期教育に走りがち。9カ月の子どもにまじめに九九や漢字を教えるお母さんがいるのです。フラッシュ
カードなどで、知能指数だけ上げる塾があるのです。
「遊びの素材」をおくのです。石ころでも板切れでも牛乳パックでもよいのです。子どもが工夫して遊べるような素材を用意
して「散らかしたらだめ」と言わずに、好きなように遊びの展開が出来るようにするのです。こちらは「環境」だけを用意するのです。
家庭に、母親に、任せておけば「子どもは自然に育つ」と言える時代ではないような気がします。
私の考えているのは、あくまでも「環境」をつくってあげること、その中で、子どもが何かをつかんでいければと言うこと
なのですが。
でも、むずかしいですね。うーん・・・。
* 今ひとつ、「関連」した感想なのかなあと想像されるものが、べつの女性のメールにさりげなく含まれていたのを 引用させてもらって置く。
* 狭い庭ですが、今まだアジサイがいい色を見せています。一年草の苗を買ってきて植えている時間がとれないの
で、宿根の花達を大切にしています。大好きな何種類かのハーブが、好きな紫系の小さな花を一杯付けてくれてます。毎年何もしないで放ってあるのに。
花壇は整然としているよりも、自然に乱れ咲きが好きです。今の子供(孫)たちも野生の花の様に、いい意味で、つよく
育ってほしいですね。このままでは、と、いつも案じられます。
* 「追加」を読んでいて、わたしが一番気にしたのは、「お能が美しい、おもしろそう。華道もきれい・・・
ちょっと早過ぎても、自然に、そんな環境があってもよいのではと。伝統に何かの形で小さいときからふれる機会を、人為的に作ってもよいのではないかと」と
いうフレーズにある、「自然に」と「人為的に」という真っ向の矛盾・撞着だった。わたしは「高校生」に対してのみ京都の神社仏閣・美術施設は、「慈悲」の
つもりで無料で迎え入れよと言いつづけて来た。が、幼稚園未満の幼児に能や生け花やというのは、滑稽なほど無理だと思っている。花が「美しい」という自覚
は、わたしのように生け花の稽古場で育った少年ですら、そんなに早くはなかった。ままごとの女の子は、花をすりつぶしていろんな汁にしてしまっていた。そ
れでいいのではないか。それが自然なのであり、人為的に「環境をつくってあげる」などと大人が努めるのは、不自然ではないのか。「ちがふのと、ちがふやろ
か」と、言いたい。
そうかと言って、この人の善意の意図を抑え込んではいけない。確かに、「家庭に、母親に、任せておけば「子どもは自然
に育つと言える時代ではない」のは分かる。それならば、その家庭や母親に代わってやろうと考える当事者には、もっともっと緻密で妥当なプランと思索とが必
要なのでは無かろうか。あまりにアバウトな印象が残る。
* 六月二十四日 土
* 森政権は、何としても、やめさせたい。
* ゆうべは、久米宏の番組、筑紫哲哉の番組で、各党代表の激論をじっくり聴いた。自民党は、久米の方へ亀井静
香、筑紫の方へ、野中幹事長を出していた。森党首は怯えたか出て来れなかった。
双方の番組とも、断然、野党側発言に聴くべきものがあり、与党三党は釈明と中傷と野次の域を越え得なかった。自民の亀
井、保守の野田の尊大で下品で恥知らずな不規則発言の連続には、ウンザリした。ステーツマンシップのかけらも見いだせず、ただもう党利党略という「利権の
亡者」顔をしている。野中広務は、「品格の国」を庶幾すると言ったが、彼自身の言説にも過去の言動にも、どこに品格が窺えようか。
菅直人、不破哲三、土井たか子ら野党の発言には、まだしも具体的な鋭い内容が聴き取れ、また自由党が、明確に政策を話
していたのも好感が持てた。これら野党が勝利し、連合して政策を摺り合わせながら、反自民・国民主体の政権へ移行して欲しいと、また新たに思った。
投票の結果自民与党が勝てば、たんに「現与党」政権になるのではない、「現森政権」が存続することになる、それを阻止
しなければ、ひどいところへ落ち込む。党首討論に顔も出せず、口を開けば一国の首相としてあるまじき、迂闊で危険な本音を連発し、それにも気づかない愚鈍
さ。亀井や野田や公明党の見苦しくも聞き苦しい、烏を鷺とむちゃくちゃに言いくるめる居直りのすさまじさにも、呆れ果てる。投票日に、森の希望をいれて
「家で寝ていて」棄権すれば、むざむざ、世界に恥ずかしい劣悪首相の政府と今後も付き合わねばならなくなる。堪らない。史上最悪政府は阻止したい。現状、
これは悪夢である。
* 『丹波』『もらひ子』に、わが愛読者から、こういうメールが届いている。文学の「問題」として、これは今抱え ている大事な通過点で、なおざりに出来ない。
* 以前、詳しい年表を作られたとき、「死ぬ気か」と騒ぎにもなった由、以前読みましたが。あれは50歳頃でした
かしら。今回は、たくさんの温かい反応が多いようですね。
これまで、<事実と見える創作>にいろいろ浸ってきたので、<何も足さない事実です>と言わ
れての続けざま3冊は、読み手のわたしの心には重く、<小説でしょう ? >といえる逃げ場がない。IRABU か NOMO
の豪速球を受けるようです。
美しく怖い刃を和紙で包み、見せてきた多くの創作。
今回は、剥き出しで見せられた刃。その魅力にひかれたのは確かで、つい触ってざっくり切れ、無理に押さえていた想い
が、いくつも噴き出してきました・・・。
* フルネームで、顔こそ見合うことは出来ないが住所も電話番号も存じ上げている読者を、全国各都道府県にもって
いる。「湖の本版元」十五年、六十五冊刊行が確実に可能なまでになった。いろんな感想を今度の『客愁』シリーズや『死から死へ』にお持ちのことと想う。
一つ言えるのは、やはり、わたしの年齢であろうと思う。今年の暮れに六十五歳になり「湖の本」も六十五巻に達するだろ
う。その誕生日師走二十一日を、わが学年暦での二学期終了としたい。その学期末レポートのようにわたしは自身をハダカで省みている。ただ省みるだけでな
く、「読める」文章として呈示したいと考えた。「事実に見える創作」にしていけなかったのではないが、小説ではない文学・文芸にも心惹かれていたのは確か
である。想像力が渇いてきたろうかと自問しなかったのではない、そして、想像力に対し、堪える・耐える気持ちが身内に涌いていた。谷崎のような大きな小説
家にも、「つくった小説」「あまりに小説らしい小説」に鼻じらんだ時期があった。それに近く、それとも違うもう少し積極的に「非小説」という「文学」を試
みたい実感があった。その年齢になっていたかと、ま、その辺まで「闇に言い置く」心地でいる。
* あるお母さんからの「述懐」と、再度寄せられた関西の男性の「意見・感想」と、加えて更に育児施設の具体案を 語ってこられた女性経営者の熱心な「考え」も、併記しておく。「考え」では、前の二つはまだ読まれていない。
* 子育ては… 難しい問題ですね。して良いこと、悪いこと。例えば人を傷つける、物を盗む、喧嘩をしても仲直り
することや我慢をすることなどを、基本として教えておくことが大切。
男ばかりの三兄弟。それぞれに性格は違います。当たり前ですが本人の人格や価値観が違うので、同じには対処できないで
すよね。
長男。転勤してきた小学三年生の時、いじめに、あう(いじめにあっていたクラスメートを、かばっていた)。学校に掛け
合いにいきました。親は自分の味方である、ことの確信を持つと、子供は強くなれますね。一年後に家を建てて引っ越すまで、小さいいじめはあったようです
が、大丈夫でした。
二男も、五年生の時に、クラブ活動でのいじめが発端で、仕返しのつもりで投げたボールが他の生徒に当たり、それをとが
められました。自分がいじめられていた時には何も言ってくれなくて、自分だけを責める先生に不信をつのらせ、登校を拒否。子供の自分勝手な理屈ですが、前
向きに受けとめました。向こうに謝ってほしければ、まずこっちから謝
ること。社会に出れば…うんぬん、と、大人なみの説得をしました。休んでもいいから、一応学校へ、と。本人二人を呼んで
もらい、(先生の目前で、介入なしに、)仲直りさせて、連れ帰りました。
三男はクラブ活動が終わった中学三年後半からが問題児。家中のゴタゴタ(親の離婚など)がたぶんに影響していたので
は。高校一年の一学期ごろの事でした。で、自分の「仕事」よりも「三男」を優先順位に。「中退する」を、どうにか「卒業する」までに。まだ当人は、何をし
たいかは、見つけていないようですけれど。
こう書くと暗い家庭に思われてしまいそうですが、友人たちが不思議がるほど、子供たちはよく話をしますし、素直に明る
く育っています。呑気な母は、たくましいですからね。
家庭教育の大切なことは、どれだけ子供の目線に下りていけるか、人格を認めてあげられるのかということ。施設としての
「環境」も大切だけど、それだけでは難しいのではないかと思います。小さい子供ならなおさら、「親・子」がともに触れ合うことを重視して欲しいと。
矛盾。 学校では、思いやりを、差別をなくそう、と。塾や家庭、社会では、偏差値や学歴のために他人を蹴落としても、
と、教えている。子は、戸惑うしかないのかもしれない。
子供は親の鏡、しっかり映していますよね。
* 一ヶ所に大きな「訂正」を、わたしなら試みたい。「どれだけ子供の目線に下りていけるか」ではなく、「どれだ け子供の目線に(も)下りていけるか」ではないかと。下りて行くのも親の意志的な賢さ・聡明な判断なので、親が子に「かなふ」のでなく「かなひたがる」の は不味い。親はある時は「厚いつよい壁」と化して、子のどのような暴球でも跳ね返せる、だから、さあ投げつけておいでと胸を張り出せる存在。そうで無くな りすぎた、ことに父親が。自在なかしこさ。一本調子に「かなひたがる」だけでは子供に深い畏れは生まれない。畏れを知らぬ人間は薄くなる。この「お母さ ん」はがんばっておられる。
* ホームページで「追加」のメールを見ました。依然、何をなさりたいのか具体性が見えてこないのが気になりま
す。
「知恵」を授けたいことはわかる。でも、それを能や華道と結びつけるのは、無理があるのではないかと。
一方、この方の投げかけたメールは、「日本の国」をどうするかという問いかけでもあり、ほかの方からのご意見も聞いて
みたいですね。
> 日本の親が、世界で一番「子育てが楽しくない」と言っているデータがあります。アメリカ、フランス、中
国、韓国等と比較したデータです。
> 一方、日本の子どもが、世界で最も「親や先生を尊敬しない」と言っているデータもあります。
> 大多数は健全な家族だと思っていました。事件を起こす若者はほんの一部だと思っていました。
> けれども、今の40代の親と10代の子どもが、何かを病んでいる実例を身の回りにも、見たり聴いたりするよう
になってきたのです。不登校、学級崩壊、家庭内暴力・・・
> 親の世代は子育てに自信がなく、子どもも何を信じて、何を乗り越えて「大人」になっていってよいのか分からな
いのでしょう。
いろいろなところで、いろいろな人たちが、すでに指摘していますね。国を挙げて取り組むべき問題ながら、国を預 かる人の目下の関心事でないところが辛い。
> 昔は親の方が知恵があり、知識がありました。子どもは親から知恵を知識を学び、「分からないことはお父 さんに聞いてご覧なさい」という会話があったと思うのです。
これに加えて、子供と近所のご隠居さんらとの交流がありましたね。いまは、個人の家がまるでビジネスホテル化し て、「食事も別、団欒も別で個室のテレビを見る」そういう状況だそうですね。
> 知恵を学ぶ必要があるのですが、今の世の中、知恵よりも知識が尊重されます。
現実には、受験戦争に勝つこと、それが一番求められているという事実が問題です。しかも大学や会社で何をやるの かという中身は問題でなく、ただ一流大学を出て一流会社に就職する。これがお母さん方の人生(子育て)の目標になってしまってるわけです、かなりの広がり で。終身雇用が崩れ、会社も未来永劫存続の保証がなくなった今日においても、この「信仰」は無くなることはありません。
> 保守的なものに反発してきた私たち世代は、新しいもの、欧米文化に価値を置き、日本の文化をおざなりに
してきました。ふれる機会も少なかったのです。
> お能が美しい、おもしろそう。華道もきれい・・・
> ちょっと早過ぎても、自然に、そんな環境があってもよいのではと。伝統に何かの形で小さいときから?
ふれる機会を 、人為的に作ってもよいのではないかと。
私も「知恵」を身につけて欲しいと願っている一人です。知恵=日本文化だから、「日本文化を幼いころから体験さ
せれば知恵がつく」と言っておれれる気がします。これは短絡的すぎるというより、無理な論法のように感じます。
そもそもどのような「知恵」をお考えでしょうか。困難や新しい事に遭遇したときに問題解決できる能力とでも言っておき
ましょうか。これは「知識」では生まれてこないでしょう。体験学習の場を数多く踏むことだと思います。
> 幼児教育と言うと早期教育に走りがち。9カ月の子どもにまじめに九九や漢字を教えるお母さんがいるので す。フラッシュカードなどで、知能指数だけ上げる塾があるのです。
このような塾は結果がすべてですし、効果の有無もはっきりしています。
お考えの教室では、どの程度の人数のお客様が見込めるのか、また「環境だけ用意する教室」の趣旨を理解してもらえる
か、データの裏付けが必要ではないでしょうか。
更に、結果としてどのような価値ある能力がつくのか、父兄を納得させ得るどのような情報が提供できるのか、きちんとし
た計画が必須だと思います。
> 「遊びの素材」をおくのです。石ころでも板切れでも牛乳パックでもよいのです。子どもが工夫して遊べる ような素材を用意して「散らかしたらだめ」と言わずに、好きなように遊びの展開が出来るようにするのです。こちらは「環境」だけを用意するのです。
いろいろ書きましたが、手持ちの資金で運用できるのであれば、やってみられてもいいかなと思います。それも体験 ですから。
* 「子どもの家」の具体的企画
ここに、一人の画家がいます。
「なぜその絵を描くのか?」と、尋ねられたとします。
「人に癒しを与えるため」と、答えます。
しかし根底に「なくした妻への想いを込めての、モゥンニング・ワーク(悲哀の仕事)かもしれない」と気づくかもしれま
せん。
「プロの画家やったら、売れる絵を描かなあかんのんとちゃうやろか?」と、言われたとします。
「売れる絵を描くのではなくて、心の底から描きたい絵を描くのです。」と、こたえるでしょう。
この画家はただ趣味で絵を描いているのでしょうか?
事業は芸術と同じではありません。
経営の方針・理念が必要であること。特に小児、小学生を対象とした事業ですから、教育の方針・理念が必要です。
7年前に起こした(同種の別の)事業は、すでに業界のトップクラスの業績を上げています。時代のニーズにあった経営方
針、誠実な日々の仕事の蓄積、よい人材の獲得と教育、タイムリーなPR(たとえば、双方向型のホームページの開設は他社に見られないものです。ホームペー
ジからの問い合わせが増えてきています。)などが利用者の信頼につながってきているのだと確信しています。
新規事業については、既存の幼児教室とはまったくちがうコンセプトと言うことで始めます。
文化と芸術の街(といわれている ある市のモデル地域の中に設立します。)にふさわしい「子どもの家」ということで。
モンテッソーリ、シュタイナーの教育を行うと言えば、教育関係者はある程度理解することでしょう。ただし日本のそれらは偏狭になり過ぎ、形骸化したものが
多くなっています。またある「主義」のもとに子どもを枠にはめることは私の考えとは異なります。
日本ではほとんど知られていませんが、今、世界的に注目を浴びているのが、イタリアのレッジョ エミリアの幼児教育で
す。端的に言えば「環境」を用意して、その中での子どもの自発的な活動のプロセスを「記録」し、さまざまな手法で「保護者にも開示」するといったもので
す。
日本語の本を読み、インターネットで検索した英文も読みました。7月には現地に行き、視察してきます。この「主義」に
はまるのではなく、考え方を取り入れるのです。
商品ですから、外観も必要です。外装、内装は、センチュリーハイヤットなどのレストランを手がけたデザイナーに依頼し
て、予算上価格は最低限に抑えましたが、色彩、素材、あかりなどに配慮します。いすなどはイタリアのイケアの家具。ここのものは日本の価格の5分の1くら
いで、色もデザインも美しい・・・ イタリアに行って求めます。個人輸入の方法について現地の人に尋ねていますが。ひとめで「ほかの幼児教室とちがう」と
いう美しいものにします。
近くに公園がいくつかあり、自然とふれることもできます。
能や華道は、ある年齢にならないと理解できまいとの秦さんのご意見ですが、
「羽衣もあんぱんまんのうたも同じ」
「泥んこ遊びも華道も同じ」
に感じられるのが幼児かと思います。
身の回りに日本文化の薫り少ない今の時世、日本文化の「環境を作る」ことがそれほど不自然なのでしょうか?関東の高校
生にとって京都の庭は、心安らぐと言うよりも異質なものとしてしか感じられないかもしれません。小さいときからそこにあったから心安らぐのではないでしょ
うか?
異文化を、ちがうものとして受け入れることも必要でしょうが、子どもは、顔の色や髪の色や目の色や言葉を超えて会話す
る力があります。犬や猫とも話せるのが子どもですから。そしてもう少し高い年齢になってから、文化の違いをも学ぶことになるでしょう。
幼児期学童期にさまざまな国の人と接して同じように喜び、悲しみ、怒る体験を持つことがマイナスになるとはとうてい思
えません。
* 空想でなく、現実に企画が実現して行く過程でのこのような「議論」や「思案」は、得難い実例であり、この人に とっても、強い刺激もや弾みが得られたのではないか。
* だが「端的に言えば「環境」を用意して、その中での子どもの自発的な活動のプロセスを「記録」し、さまざまな 手法で「保護者にも開示」するといった」最新の「幼児教育」について、わたしなどよく理解も及ばないなりに、どうも、子供本人より大人や「教育学」寄り関 心に重点がかかっていそうな印象をもってしまう。
* 「身の回りに日本文化の薫り少ない今の時世、日本文化の「環境を作る」ことがそれほど不自然なのでしょう
か?」と反問されているが、たとえば能や生け花などの伝統芸能を、「日本文化」の代表かのように考えてしまうのも、これは気になる。
私の育った京都でいえば、日常生活の場で、土地の人間がどんなに微妙に、土地言葉=京ことば=「日本語」を駆使して、
どんなに陰翳ある暮らしを生み育ててきたか、比喩的には「日本文化」とは本質そういうところから生まれたように考えている。けっして、人為的に作られ与え
られた「環境」で、観察されたり記録されたり開示されたりするのが最初でも最後でもでない。そんな「環境」から手に触れてきた文化ではなかったと感じてい
る。それに、乱暴に言えば、いまどきの能狂言も華道も茶道も、かなり抜け殻に過ぎないことも知っておられた方がいい。
幼児に大切なのは、もっと生身の人間同士で、もみ合い・こすれ合いながら「人間」理解を深め合うことではないだろう
か。外装・内装・什器の美しさは嬉しいことだが、そんな「環境づくり」が主でも困る。大人の与えたそんな環境を、はなからブッコワシ、ヨゴシ、ムシし、傷
つけては批評しながら、子供たちに、大人より大きく強くなって欲しいわけである。
中学高校生でようやく可能になる感性と、四歳五歳それ以下の子の感性とを、意図的・質的に混線させてしまうのも、害の
方がこわく、自然でない気がする。
* わたしの考えも頑なに過ぎるかも知れない。勤務や勉強で忙しいだろうが、もとの学生君たちや、また塾や学校の
先生方や、幼児を育ててきた親御さんにも、意見が聴きたくなった。
* 六月二十五日 日
* 小雨。九州の方は豪雨。総選挙への出足は前回よりも低いとか。前回は母の死んだ日であった。それでも妻と交代 で選挙に行った。午後二時半、雨足は途絶えて、すこし明るい。一人でも多くが投票して欲しい。投票率が高くての結果がどうあれ受け入れるしかないが、森首 相の要請に随い大勢が、あまりに大勢が「家で寝ていて棄権」の結果にしたがうのは、哀しすぎる。
* 桶谷秀昭氏の『昭和精神史』戦後編を頂戴した。省みてわたしの「戦後精神」を慮る指標は、何であったろう。目
次でうかがうと桶谷氏は、東京裁判、三島由紀夫事件、昭和天皇崩御などを大きく挙げていられるが。
新憲法、戦後処理、言論表現の自由、国民・婦人参政権、テレビの登場、美智子妃殿下入内、労働運動の盛衰、芸能人の氾
濫、核家族の自家中毒、管理社会化と教育崩壊、環境破壊進行、政治理想の壊滅、猥雑の自由、新世襲化社会、価値観の量的拡散、孤独感の浸蝕。
残念だけれど、文学や芸術が本質的に時代精神に衝撃を与える力は、ほとんどなかった。変わって行く人間を現象的に呈示
したものの、例えばわたしの「身内」観のような、新しい哲学が殆どうち立てられなかったし、浸透して行かなかった。
* 桶谷さんの本を新たに読み継いで行きながら、考え直して行きたい。
* 午後三時。投票率が気にかかる。天気は持ち直しているのだが。
* 六月二十五日 つづき
* 総選挙は痛み分けで落着した。誰にも驕って欲しくない。森首相と野中幹事長体制の存続に口実を与えたのは残念
だが、今後を監視したい。
それよりも、もっと嬉しい事があつた。選挙にも関連して、こんなメールを「もと学生」君からもらった。あたりまえのこ
とを言っているようで、なかなか得難いものがある。こういう青年と親交の持てる「秦先生」は幸せである。
* もと学生より。
こんばんは。
週末、実家に帰っていましたが、選挙には行かなければ!と、夕方東京へ戻ってきて、選挙に行ってきました。母の作って
くれたお弁当と、帰りがけに買ってきた缶ビールを片手に、TVの選挙速報を見始めました。昨日の夜、父と一緒に応援していた日本の女子バレーがオリンピッ
クに出られない事を知り、とてもとても残念に思いました。
追い討ちをかけるように、恐らくは渋谷のセンター街ででも撮影したであろう投票に行かなかった若者達の発言を見てし
まった。残念でならない。
誰に入れても変わらないと言うが、誰かに入れないと変わらないだろう。入れたいと思う人が居ないなら、白票を投じれば
良いのではないか。私も何度か白票を投じた事がある、が、棄権した事は一度も無い。日が変わるころには大勢が判明するだろう。明日の朝、目が覚めるとどう
なっているのやら。
先生のHPを見ました。幼児の教育のことで色々な意見が発せられていますね。私のような者にはとても興味深く、色々考
えさせられながら読ませて頂きました。
私は、教育の専門家でも人生経験のある人間でも何でも無いのですが、思ったことだけでも書かせてください。
私が常々思っているのは、今の自分があるのは、私自身の幼児時代からのさまざまな経験があるからこそ、と言う事です。
確かに、省みれば、あの時ああしておけば、とか、もっと小さいころからあんな事をさせて貰えていれば、という事は少な
からずあります。でも、もしそんな経験を積んでいたならば、今の自分は明らかに、無いと思います。秦先生とも出会えなかったかもしれません。素晴らしい友
人達との出会いも無かったでしょう。
もし、私の親に、「おまえの小さいころに、こういう経験をさせてあげていれば・・」などと言われれば、とても悲しいと
思います。今更そんなことを言われたところで、私の人生はもう取り戻せないのです。今がベストだと、否、自分にとってはベストだと、思わせてくれたほう
が、どれほど、次への活力を生み出してくれるでしょうか。
つまり、何がベストかなどという事は、こと、人の人生に関しては、他人が色々と述べるべきではないのではないでしょう
か。
だからこそ、先生のHPの中で、プランナーの方が、「・・・が必要」とか「・・・するのです」というような、”これし
か無い”趣旨の意見には、自分が経験してきた自分自身は良いと思っている経験を、否定されているように感じます。私は、小さいころから国際文化に触れるよ
うな経験はしなかったし、日本文化に触れる機会も皆無でしたし、さまざまな遊びが周りにある環境で育ってきては居ませんから。
自然体が一番だと思います。
ただ、将来、自分に子供が出来たときは、どうなるんでしょうかね。今だからこそ、言えるのかもしれませんね。
取り留めの無い文章を書いてしまいました。さて、そろそろ選挙の大勢が判明しているころでしょうか。 それではまた。
* なぜともうまく言えないが、とても嬉しい。総選挙のなんともふっきれないモヤモヤを、きもちよく洗い流しても らった気がする。次の時代へ希望をもっていいんだという気持ちになれる。午前に、「史上最低の低投票率か」と報道されたとき、最後の最後まで期待したい気 持とともに、政治的な発言などもうやめてしまいたい気弱さにわたしは落ち込みかけていた。そんなとききまって永井荷風を想い出すのだが、それではいけない と、ほんとに辛うじて自分を励ましていた。幸い、そこそこの投票率に達し、ほっとしたが、この「もと学生」君のメールには、涙の出そうなほど励まされた。 嬉しかった。
* もう一つ。息子が、多忙を極めているなかで、「仕事」を持参しながら、保谷へ帰ってきて、投票をしに行ってく
れたこと。これも心から喜ばしいことであった。「ありがとう」と礼を言ってしまった。かれはその後も、パソコンをしきりに働かせながら、一緒に食事し、一
緒に開票速報番組をみつづけ一喜一憂していた。もう午前三時半になるが、まだ台所で仕事をしているようだ。
* 六月二十六日 月
* 睡眠不足で、ぐたり。また「お母さん」からのメール。
* 商品としての「こどもの家」?
「商品」としての外観が必要。内装は有名なデザイナーに依頼。色とデザイン、美しさを重視したイス。自発的な活動のプ
ロセスも記録され、さまざまな手法で保護者に開示。他の施設との相違を誇示。
これは、おとなの目が見てのこと。
空間があり、書くものがあれば、落書きがしたい。ペタペタと物も張りつけたい。台(イス)があれば上りたいし、飛び降
りもしたい。イスは倒せばお馬さんになり、舟にもなる。子供は好奇心のかたまりです。思いもせぬことを簡単にすばやくやってのけます。
うちの二男は二歳の時、庭の小屋に立てかけたはしごを上り、小屋と母屋(平屋)の間に差掛けた波板を渡り、屋根へ。そ
れも裏隣の家の屋根。走り回っているのを近所の人が見つけて、知らせてくれたのでした。子育てをしたことのある人には大なり小なり、びっくりするような経
験はしたのではないかしら。
幼児の視野は狭いし、目線も低いこと、目の前のことしか見えていないかもしれないということを、十分把握していたいで
すね。
九年も前のことになりますが、町の海外派遣事業で、カリフォルニア州アナハイム地区の学校と教育委員会を視察する機会
に恵まれました。
幼稚園での学習は、例えば「4」がどう言う意味か。それは「3と1」とか、「0と4」であることを自分で発見し、3+
1=4、0+4=4などということを理解して、ペアで、ゲーム感覚のように、問題を作ったり答えたりしていくのです。先生は、困ったときに適切なアドバイ
スをしていきます。
知識能力は同年代の日本の子供には適わないけれど、自分の考えを発表することを、そのためには他の考えにも耳を傾ける
ことを学んでいく園児たちに、将来は日本の子供は適わないなと思いました。
小学校のプログラムの中に、「自分のことを気持ちよく考え、自分の価値を知り、自分を大切にすることを学ぶ」。「いろ
いろな国の文化を学び、いろいろな民族の価値を認める」というのがあり、自分の考えや学習内容を発表できることを重視。NOと言えること、なぜNOと言う
のか。自分を認め、同じ様に他人の価値を認め尊重する。お互いの「違い」を認め合い尊重し合うことによって、お互いがより向上できるのではないでしょう
か。
でも日本の教育界ではまだまだ無理かもしれませんね。生意気と言われ、いじめの対象になるかもしれませんもの。
* むずかしい。
* 六月二十七日 火
* 次の湖の本の入稿が遅れているので、その準備のため、保谷市内近くのファミリーレストランにゆき、原稿の手入 れに没頭した。手入れしたものをフロッピーの上で直し終えれば、送り込める。明日一日かかりそうだが、先が見えた。
* 『能の平家物語』共著の写真家でもある保谷在住の堀上謙氏が、息子さん夫妻のプレゼントのパソコンで、初の メールを返してきた。昨日、電話がきてそんなことも聞いていたので、わたしから先ずメールを送った。
* メールありがとう。
昨日から箱根に一泊の旅に出ていまして、ただ今帰ってまいりました。早速メールを開きまして拝見いたしました。ご配慮
多謝。
10年ぶりに彫刻の森の美術館にいってきました。展示品が大分増えていまして、見ごたえがありました。
ルーマニアの彫刻家C.ブランクーシーの、「単純さが芸術の目的ではないにしても、ものの本質に迫っていけば、われ知
らず単純さに行き着いてしまうのだ」という、創作メモが印象に残りました。
* 良珠不彫。好きなことばである。この頃は、殊に。
* 木崎さと子さんからも佳いメールをもらった。金沢講演録の「蛇」を送ったのへ返事がきたのだ、木崎さんは小説 にそれは大切に「蛇」を書かれているのを、初めて知った。こんなにもと驚くほど近い関心事を、お互いに書いていた。驚いている。今も、毎日木崎さんの作品 を、今は『鏡の谷』を、読んでいる。こんな返事をわたしから送ったのを書き込んで置く。
* 木崎さん、こんにちわ。メールを嬉しく読みました。ありがとう存じます。
この時代に、私たちの世界で「蛇」をまじめな話題にできるなど、希有のめぐりあわせでした。びっくりしています。い
ま、大矢谷の物語を読み継いでいます。
京都で生まれ育ちましたが、あそこは貴賤都鄙の集約された場で、神仏と、それにともなう奉仕や隷属の人と暮らしとが、
底知れず埋蔵されたまま、現代を呼吸しています。そんななかで「日本」を考え続けてきました。水、海、川、沼、池、そして天。そして神。日本だけでなく、
アジアだけでなく、世界史にうごめくモノとして「蛇や龍」の問題は、とほうもなく深く大きく、文化と社会の根底に構造化されていると思って、書き続けてき
ました。
アジア太平洋ペン国際会議では、めったにない思い立ちで、「差別」の根でもある「蛇」問題を、国際的にも認識しては
と、演説をしました。もっとも、突飛で珍な提議と受け取られたか話題にもなりませんでしたが。
今度も、ペンの女性委員会が「水」のシンポジウムをするそうですが、予定の内容から察して、とても「蛇」にまで掘り下
げる視野も視点もなさそうに思われ、やれやれと苦笑しています。
日本の神社は、殆どが水神すなわち蛇イメージの神様を祀っています。「祀」という漢字そのものが「巳」を体しています
もの。
私の「蛇」体験は、育てられた貧しい京の町屋のなかにすでにあり、戦時疎開した丹波にありましたが、敷衍すれば、京都
にも日本中にも見渡せ、中国でもロシアでも。
わたしは、今も蛇ほどイヤなものはなく、虫ヘンの漢字すら苦手です。しかし、何故と問い直し続けています。蛇を厭悪す
るのと同じように、或る人々を忌避し傷つけてやまない国、京都、日本、でした。その悔いと自責から何故と問いながら、小説を書き始め、秋成にも鏡花にも出
逢いました。「清経入水」や「冬祭り」や「四度の瀧」その他の蛇たちを書いてきました。あやまりつづけるように。
水上勉さんぐらいなものでした、新聞小説に「蛇」を書き続けているとき、「たいへんなことに手をそめているね」と認知
されたのは。学者では高田衛さんが昔から。そして彼もようやく『蛇と女』を書きました。
木崎さんに出逢うのが、こう遅れたのを悔しく思いますが、でも、よかった。
* 六月二十八日 水
* プロの書き手といってもいい古くからの読者が、小説のようなエッセイのような文章を送ってきた。印刷し、通信
式に、大勢へ公表のものである。大勢でなくても公表されたものである。
いつもは、きりっとしまった文章を書く人なのに、今度のはひどく荒れていて、推敲せずに印刷したとしか思えない。
「去年、『サライ』という小学館から出ている定年退職をして悠々自適の生活をしている人を読者に想定しているような雑誌
をはじめて買った。」書き出しであるが、この人のものでなければ、普通はここで捨ててしまう。この何十倍もの文章が、今回に限って、全面にこの雑なタッチ
で、なくてよい前置詞や副詞や代名詞があまりに無造作につかわれ、缶蹴り遊びの空き缶のように騒がしい。こういう事を無意識に粗雑に始めて馴れてしまう
と、つまり筆が荒れる。悪い坂を転げ落ちるように折角のものを全部見失ってしまう。元も子もなくしてしまう。人ごとながら、こわくなった。わたしも、「闇
に言い置く」文章が柿放しにひどい日々を重ねているのを、まだしも知っている。必ず、暫くして全面に手をかけ調えている。本などに直すときは、さらに綿密
に推敲している。公表するのなら当然の責任だと思っている。
* 観世流名誉師範という人の「能」にかかわる「珠玉のエッセー・評論集」を、版元から贈られた。あまり「珠玉」 とは思えない呼吸のあらいガサツなもので、読む気がしない。書かれている内容はまともにモノが踏まえてあるのだろうが、騒がしい、気息が。囀るぐらいは可 愛いが、吠えかつ吼えている。人によれば、それがいいと言うだろうから、しつこくは言わぬが、わたしは御免を蒙りたい。
* 吼えると言えば佐高信氏にもらった『日本は頭から腐る』の「一撃」も烈しい。だが、この人のはそれが「藝」で あり「手法」であって、気概は確かで汚くないし、荒波の下は深く、聴くに耐える。筆者への信頼がはたらき、乗って読める。文章は不思議な生き物だ。
* 待っていた馬琴の『近世説美少年録』二が届いて、昨深夜から読み始めた。これまた騒がしき美文、いや舞文の代
表作で、気品を大いに欠いている。しかし、ただものの文章藝ではない、たいへんな味わいである。学殖深甚の講釈で、べらぼうに面白いが、異臭に耐えている
ような堪らなさである。長い時間読んでいると毒気にあてられ気分がわるい。幸田露伴の『運命』が、いかに気凛超絶の芸術作品かを強いて想い出したりして、
喘ぐ息を休ませている始末。
* 『チャタレー夫人の恋人』に転じると、たちまちその世界に吸い取られて、うまい水を飲み下すように胸の内に文学の香
気が感じられる。三十頁も読めば、静かに本を下に置いて、また明日にと心落ちつく。そしてもう一冊、読み切ってしまおうと、木崎さんの『鏡の谷』のあとを
次いで行った、ウーンそうか、そうなのかと自分の問題へも興味を引き寄せ引き寄せながら。今回も、最後の収束、扇の要のしめくくりようが、やや物足りな
かったのが惜しい。寺を書き、宮を書き、日本の蛇をぐっと追ってきた。独自性のつよいすごみのある書き手だと感心している。またしても、鏡花が読みたく
なってきたので長編『由縁の女』を書架から出してきてある。
* そして、バグワン。無心に音読。やっと寝ようという気になる。毎夜、そうである。
* 明日は、修理の出来た器械を秋葉原まで受け取りに行く。液晶の取り替えで七万五千円ほど。ウッソーと言いたい
が。無くては困るのである。
* 六月二十九日 木
* 器械が無事に直って戻った。眩しいほど明るい。結局十日間ほど入院していた。別の器械で書いてはいたものの、 プリンターに繋げてなかったり、不便だった。この間に、ホームページへのアクセスが、また一段階増えてきた。この数日二日で百以上になって行きつつある。 微々たる数字とはいえ、なにしろこのホームページは、字バッカリで溢れているのだ、とても読める、読みやすい、ものではない。それが毎日五十人以上の訪問 を受けているのだ、恐縮する。今日は、この一両日休んでいた小刻み連載小説の「催促」まで受けてしまった。
* 秋葉原から保谷駅まで戻って、余りの空腹にパンを三種類買い、器械片手に人通りの少ない新道を歩きながら、む しゃむしゃと食ってしまった。帰って注射してまた晩飯を黙って食ったから、今晩就寝前の血糖値は高いだろう。ごめんなさい。
* 「孫」という、たいへんなひっとソングがあるという。片端ぐらい聞いたかも知れないが、そのヒットぶりに協賛
だか便乗だかで、フジテレビが二時間ドラマを製作するのを、「秦建日子」に脚本役が廻ってきた。撮影ももうよほど進んでいるらしく、主役は「いかりや長
助」だという、これは、楽しみ。この人は、ドリフターズが登場した最初から、たいへんな役者だと眺めていた。息子など、這い這いしていた頃からのスター
だ。そのいかりや長助の為に自分が脚本を書くなんてと、息子は感慨無量らしい。製作記者会見も今日か昨日に済ませたらしい。
ヒットソングそのものにはくっつかず、距離を置いた自前の新作ドラマだというし、殺しのないドラマだというのも、ほっ
とする。いい仕事になって欲しい。八月早々の放映だそうだ。
* 六月二十九日 つづき
* 二三日休んでいた『慈(あつこ)子』と『蝶の皿』とをホームページにまた小刻みに書き込んで、暫く前から気が
付いていたことに、改めて、また気づいた。
この両作は、たしかに相接近した時期に、とくべつ何のアテもなく、ただひたすらに書き下ろされている。作家以前の、同
じ私家版本におさめている。だが、作柄はずいぶんちがう。そう思っていた。
長編の方はのちに大幅に思い切った削除などして、筑摩書房から最初の書下ろし単行本になり、その後二度新版が出た。豪
華限定本もよく売れたし、集英社文庫が森田曠平の美しい装画で売り出された。桶谷秀昭氏が『畜生塚』に次いでとても佳い書評を、のちには小森陽一氏もみご
とな解説を、書いてくれた。短編『蝶の皿』は『清経入水』などとともに筑摩からの処女単行本に入り、後に角川文庫にも入った。
先も謂うように二作は、ずいぶん別々の作の印象がある。作者のわたしも、そう思いこんでいたし、人に言われたこともな
かったと思う。
ところが、一字一字書き写していると、おかしいほど、似たところがある。『慈子』の物語の山場の一つが長い「お利根さ
んの話」になっていて、『蝶の皿』は、全体が手紙の体のやはり長い「話」なのである。中身にも、不思議というも当たるまい、当たり前のように、どこか似て
いる。明らかに、一頃の私はこういう「話」を一つの内景に抱き込んで生きていたらしい。学者は、一作者ののがれがたい作の上で共通の特色を拾っては研究な
どするようだから、珍しいことではない。わたし自身が気づかず、全然の別世界と思い込んで書いていたのに、なかなか、どうして、そうではなかった。
* ついでに、もう一つ。最近の『慈子』の愛読者が、漱石の『心』の「先生」「私」を無意識に作者は、このわたし
は、「朱雀先生」と「宏」とに置き換えているのではないかと指摘してきた。これはもう、さもあろうことであり、しかも作者は自覚していなかった、露骨に
は。指摘され、ウーンと唸った。頷く以外にない、それほどの『心』であったことは、もっともっと時間的にあとのわたしの「仕事」「文章」が告白し尽くして
いる。その時も、だが『慈子』に思い及んではなかった。
だが、「慈子」という、わたしにとって理想的なこの少女を書かせた活力は、どこから、誰から、得ていたのだろう。一人
か。いや大切な複数の存在をそれはそれは大切に汲み取っていて、すぐには誰それとは言えない。この、言えないことが、今もわたしの深い底力になっている。
そんな力が幸いに残っているとしたならば。
* 六月三十日 金
* 人工的に育てて咲かせるのであろう、妻が月々に楽しみに買っている中に、桔梗の一鉢があった。その咲き残りの
一輪が、手洗いの初期伊万里の徳利に挿されてあるのが、色こそやや淡いけれど、姿かたちの佳いこと、青葉との釣り合いが美しく、堪らない。むかし『桔梗』
という愛らしい短編を書いたのを想い出しながら、しばし手洗いを出たくないほど落ち着く。桔梗とか都忘れとかいう花が好ましい。
雑誌「サライ」に、花のいろいろをエッセイで連載していたことがあった。担当のおばさんが毎月押しつけるように花を選
んで、これで書けと命じられるばかりで、途中で気折れしてやめてしまったが、好きに選ばせ好きに書かせていてくれたなら、ずいぶん筆者としては楽しんだろ
う。
もう二十年は前になろうか、安達瞳子さんの安達流挿花の機関誌「花藝」に、四年間も連続で、好きにエッセイを書き、月
々好きに美術写真をえらんで、文と、美術の花とで妍を競わせたことがあった。繪の花、陶磁器の花、衣裳の花、そして「秘したる花」を選んでいった。
写真と対にした文章の仕事は、いろんな難しい条件に阻まれ、容易にあとで「本」にならない。『修羅』『春蚓秋蛇』は美
しい単行本になったけれど、雑誌「清流」「サライ」そして「花藝」の連載は、そのままになっている。文章にも運不運がある。三十余年も仕事をしていると、
いろんな運を体験する。それでいいのだ。
* 七月一日 土
* 明け方まで、本を読んでいた。木崎さと子さんの『光る沼』は三部作の到達作のようであった。北陸の真宗王国と いわれる風土に密接して、創作の「場」が、「素地」が、丹念に用意されている。素地の自然の方が、図柄という物語よりも深く捉えられていて、この作品に借 りて比喩的に批評すれば、素地と図柄とが渾然とトータルに迫ってこず、やや「地すべり」が生じている。八割九割まで面白く読み進みながら、収束の緊迫にお いて、緩く流されている。その瑕瑾を無視すれば、三部作は独特の成果で、主題にも多面性がある。だが、芥川賞作品の『青桐』の、あの地味な物語を美味を吸 うように読ませて魂に震えを呼ぶ静かな魅力、文学の魅力は、つくり物語にやや不均衡に重きをおいた三部作では濁されている。そう思った、が、凡百の瑣事小 説ではない。
* 桶谷秀昭氏に頂戴した『昭和精神史 戦後篇』が、問題をはらんでいる。戦前編の大作はすでに読んでいる。戦前
は、概ね、わたしのものごころつく以前の「歴史」であり、体験的に参加できた時代ではなかった。だが戦後は、少年ながらわたしも体感するところのあった同
時代である。
さて、日本国は「無条件降伏」であったか。われわれ国民一同は微細に関係史料の読める立場にはなかった。研究的に「敗
戦」の条件を論策出来る立場になかったから、実感として「無条件降伏」という分かりのいい言葉の方を、「ポッダム宣言受諾」といった吟味のきかない言葉よ
りも、端的に、そのまま受け取らざるをえなかった。その意味では、後々の吟味や検証や議論でどうあろうとも、「無条件降伏」のつもりでいた心理的・情況的
事実は、今さら動かしようがない。
「無条件降伏」を全面に拡大的に「ポッダム宣言」を解釈し、したいように占領軍側の「謀略的作為」による占領政策が力づ
く行われていたと謂われれば、なるほどさもあろうと思うが、あの当時の「何をされても」の無条件の実感を打ち消すことは、今さら出来ない。戦後占領施策
の、敗戦処理の、GHQ指令といわれる全てを、眉をしかめてでも致し方なき「無条件降伏」のツケであると、少なくも政治交渉の衝には遠く遠く置かれた国民
が嘆息し受容していたのを、もはや「過ちであった」などと、悔悟の対象にばかりはなしがたい。あれが敗戦だったのだから。
極東軍事裁判の法制的な不備や矛盾についても「その後」の吟味検証議論で多くを承知しているけれども、あの当時の段階
では、余儀なく、議論の余地なく、ただ受け容れていたのが大方の反応だろう。わたしのように中学生になるならずの疎い少年には、どんな報道も、まずは「無
条件降伏なんやし」と聞き入れるしかなかった。広田弘毅のような、子供ごころにも何故にと愕かされた死刑判決はあったけれど、その余の大方の判決を呑み込
んで異議なかった国民が大半であったとして、それは「間違っている」などと言えるあの当時では有り得なかった。それもまた「無条件降伏」なるが故にと思っ
ていたとして、仮にその誤謬を、あの時点に戻って実感の根底から書き直すわけにはとても行かないのである。その意味では、幾分かは、あれは占領軍が裁いて
いただけでなく、日本国民も裁いていた裁判なのであり、A級戦犯としてあの市ヶ谷法廷に引き出されていた殆どの元軍人たちの過去の所業に、「賛成」できた
国民は極めて極めて数少なかった真実を、大事に見て取って良いのである。
たしかにインドのパル裁判官の、東京裁判を全否定した見解は尊いけれども、そういう議論とは別に、国民が胸の内で裁い
ていた裁判では、やはりあの判決の大方は、不動の鉄槌なのであった。桶谷さんの論証には、そこが落ちている。あの軍事裁判が不当な論理の上に立った占領軍
の偏見と誤謬のものであれ何であれ、それはそれ、その埒外で粛々と国民の胸中でも進行していた戦争犯罪人と思しき連中への怒りや恨みや批判は、それまた、
厳然と動かぬ指弾であった。その事実まで黙過しては、いかにも「為」にする議論のための議論に陥り兼ねないのを、桶谷さんのためにも惜しみたい。
* 天皇の人間宣言や新憲法問題でも、占領軍の政策的恫喝や策謀が働いていただろうことは、桶谷さんらの証明され
るとおりだと思う。だが、だから天皇は人間になってはいけなかったのか、明治憲法が克服されたのは良くなかったのか。主権在民、象徴天皇は日本国を悪くし
たか。
わたしは、そうは考えていない。天皇を神であるなどとわたしは少年時代から、あれほど神話に親しみ日本国史に親しみな
がら、だからこそ、考えたこともなかった。天皇制は一つの文化的・政治的な仕掛け・工夫の一つであり、存続させた方が、愚かな権力志向者の暴虐をまねくよ
りよほど賢いとこそ思え、「天皇に支配されている国民」という図式になど、反感とまで謂わなくても違和感は禁じがたかった。天皇陛下万歳などと本気で叫ん
だことなどなく、そういうことの出来る人たちは歴史病患者で病膏肓に入っているとしか思わなかった。楠正成の勤王を理解しても、後醍醐天皇の誤謬もまたわ
たしは理解した。天皇が人間であると宣言したとき、「あったりまえやん」とわたしはハッキリ感じていた。理屈をいろいろつけて、それを嘆いた人たちの大袈
裟な感覚には、ついて行けない。
明治憲法の多くが克服滅却されたことは、後々までも、今でも、よかったと思っている。教育勅語も、根底の趣旨において
全面否認。その上で、また取り入れるべき語句や趣旨もあるだろうと思うだけのことだ。明治憲法の文章文体の、どう荘重であろうが高雅であろうが、根本精神
に「天皇中心の神の國」を「国体」とし、国民はそれに滅私奉公せよとの強烈な支配意図は、ひらに御免を蒙り、葬り去りたい。どんなに新憲法の文章・文体
が、いまいまの、たとえ翻訳調であれ、それまた「素心平意」の理想を新たな国民の胸に届け得る程度であれば、言うまでもなく憲法のことは「中に盛り込まれ
てある」内容で以て評価したい。主権在民、象徴天皇・国際平和・国民参政権・基本的人権の確立・思想信条言論表現の自由などの多くが、歴史的に初めて得ら
れた大きな変化であり権利であることの大きさは、明治憲法が国体と共に存続していたのと比較すれば、数千万倍にあたる喜びであると、わたしは、新憲法を、
とにかく喜びとしている。その上で現下の不備をよりよく改めて行くことに少しも反対しない。
あの敗戦後の現況下にあって、わたしは、日本の古い体質や姿勢をもったままの一部政治家たちの手で、旧国体観や万世一
系の天皇神権政治が温存されてしまわなかったことを、心から、ああよかったと思っている。感謝している。
新憲法のああいう決定的な理想主義には、たしかに人為的で欺瞞めいたウソ情況が、方便としても必要だったと思う。それ
でもなお、明治憲法による天皇制支配の国体が打破されたことは、よろこばねばならない。桶谷さんの議論では、その辺があまりに曖昧で、詮索に行方が見えて
こない。大筋明治憲法のまま、天皇の神の國でよかったと言われるのなら、そうハッキリ言われるべきであり、主権在民は否定したいと言われるのなら、それも
そうハッキリ言われればよい。新憲法が、占領軍に強いられて成立したかどうか、強いられたろうとわたしもほぼ認めているが、だから、それが、明治憲法をあ
のまま容認する根拠になどならない。憲法まで強いられた、そういう戦争であり敗戦であったが、わるいものを強いられていないことに、いっそ、よかったとい
う気がある。日本の政治家に任せていたら、旧態依然に相違なかったのだ。ましてや文章文体で憲法の内容を是非するなど、本末転倒も至れりで、唖然とする。
新憲法は、少なくも現憲法のように、素心平意の口調で分かりよく起草された方がいい、たとえ一部を書き改めるにしても。
* 國は守らねばならず、極東の近未来は危険に満ちている。戦争放棄・国際平和は原理的に保存しつつ、しかし、安 保条約になにほどの期待も掛け得ないと知れば知るほど、自衛の姿勢は、まず思想からして確立すべきだと思う。が、軍備について明確に言う足場を持たない私 は留保せざるを得ないが、近隣近国との間に生じる軍事的緊張のさほど遠からぬ事態には、備えをせねば、やはり、どうにもなるまいとは怖れている。
* 桶谷さんの指摘にある「国語」にたいする悪しき戦後の干渉については、もっともっと諸方から声が挙がってい い。現にわたし自身も新かなづかいを用いているけれど、その意味で言行不一致の誹りは免れないけれど、新かなづかいなるもの、およそ不合理を極めているの は確かであり、日本語に浸透した自然で必然の文法に深く、蕪雑に、背いている。日本中が勇断と聡明にしたがい、若干の配慮を加えて旧に復すべき反省に立ち たい。二十世紀日本語に対する「国民の恥ずべきいじめ行為」であった。新聞が、決然と立ち向かわねばいけなかったのに、新聞が事態をわるくした。日本のマ スコミの恥ずかしさは、新聞も、テレビも、出版も、極め付きの質の低さである。日本語への愛と敬意を最も欠いている世間がマスコミなのだ。
* 桶谷さんの本は、なおなお慎重に丁寧に読んで行きたい。銘々に考えねばならない問題が、一貫して桶谷さんの判 断で、取捨されてある。これだけで「昭和戦後の精神史」を尽くしていると思っては誤る。自分の胸に、正しく問うことが必要だ。わたしも、もっともっと落ち 着いて考えて行く。今は思ったままを、即座に書き込んだのである。
* 夕食後に郵便を出しに行きがてら、自転車で、ひばりヶ丘の東久留米寄り住宅地をぐるぐる走りまわり、谷戸のバ
ス道を田無の北原五叉路まで行き、保谷新道から市役所前を駆け抜けて帰ってきた。体重を量ってみたら、意外や先日は77.5まで下がっていたものが、80
キロに戻っていた。食事の量が増えたのではない、わたしが勝手な理屈をつけて、この所、焼酎をがばがば飲んでいたので、糖はまずまずの数値ながら、熱量が
あがり、つまり体力が増してしまったものらしい。いたく恐縮し、反省し、幸い焼酎の大瓶がからになったところなので、以後、きっと慎む。やれやれ。
* 七月二日 日
* 日曜の昼過ぎは囲碁対局をテレビで楽しむ。もっとも前半を、妻が「新婚さんいらっしゃい」に奪い取るので、攻 防の本格に始まろうとするあたりが抜ける。後半と寄せの微妙なところはみているが、高段者にもあっという一瞬から一局をフイにしてしまう魔の刻のあるの が、興味深い。中押しの勝負がわたしにも見えてくると、つらい。
* ほんとは午後、外出を考えていたが、熱暑といいたい蒸し暑い外気と日盛りに屈し、自転車に乗るのも不自然で、
断念した。断念を慰めようと、つい先日贈られてきた純米大吟醸の逸品をついに口をあけ、小さい湯飲みに一杯だけ飲んだ。妻にすすめると、一口、そしてもう
一口、かるく飲んだ。酒のいけない妻にも美味い酒であった。美味かった。たちまち酔を、いや睡を発して、三時間半ほど昼寝してしまった。目が覚めたらもう
晩の注射の時間であった。
寝ていた間に、京都の人からこんなメールが来ていた。
* 酔芙蓉
驟雨のあと、凌ぎよくなりました。色褪せた紫陽花を思い切りよく刈ってしまいました。
一日で色が変わっていくと聞いていましたが、(水)芙蓉とばかり勘違いしていて。その生態、色の移り変わりを見てみた
いと、三、四年前に二本一組のものを買いもとめ、植えたところ、あんまり大きくなり、可哀相だけれど、一本は処分せねばと、今、思案中。
朝は真っ白で、日が当たるにつれピークは真紅に、夕方には薄茶色に枯れてしまいます。「酔芙蓉」というのも佳い銘名
で、人の一生になぞらえても眺めたいと思います。私にもあの真紅に輝く時期があったのかしら。花自体は大きすぎ、そう好みのものではないのですけれど。
* 体育系で、ふだんはザクザクしてみえる人だが、こういうふうに書けるしっとりした内面を、ときどき見せてくれ る。正直、ほっと和む。
* 昨日、パーソナルメディア社がOSとしての「超漢字2」を寄贈してくれた。前からとても関心を持っている「超
漢字」だが、ハードディスクをトロンのOSに分割するのには、この器械では容量にやや不安がある。わたしのパソコンは、何としても一つには仕事の保管庫=
アーカイヴであり、また新作の原稿用紙でもあるから、それらの「ホームページ」のために最大の安全と容量をつねに確保して置かねばならず、バックアップに
も細心の配慮が要る。
その一方で、パソコンの機能を、能力の及ぶ限り使って楽しみたい別の希望もある。ゲームなどは不必要だが、世界の文字
はなるべく多く見たいし、器械で繪が扱えればどんなに佳いかと思う。「写真」をデッサンやスケッチの代わりに、下絵の代わりに利用する画家をわたしは認め
ていないが、新世紀絵画の可能性は、ますますコンピュータ・ピクチュアにむかうだろうと、或る美術雑誌のアンケートに答えた。
まだ、マスタープランがもてないので、次の新しい器械をどう買うか決めかねているが、旅行に持ち出せる小型軽量のにも
魅力を感じている。「超漢字2」の入れられる大容量器械にも惹かれる。自分でパソコン自体を好きに創って行けばという若い友人の示唆にも惹かれる。
* 作家の沢田ふじ子さんから、例年の、夏の氷菓を贈られた。夫婦二人の暮らしになっていて、好みも似ている。有
り難く味わっている。
* 直哉の『戦中・戦後日記』を読んでいる。昭和二十年のは、記事自体は極限まで簡単だが、ものすごい連日の空襲と爆撃
のなかで、動じる気色なく、有志知識人たちの座談会が頻々と繰り返されている。そういう営為から戦後に岩波の雑誌「世界」が誕生していた。わたしもその
「世界」に、『最上徳内』を、あしかけ三年も連載させてもらった。
直哉も若くに愛読し親交もあった泉鏡花の、長編『由縁の女』を、また読み始めた。一つの特異な、差別問題を厳しくはら
んだ鏡花らしい代表作である。急がずに読んで行く。『チャタレー夫人の恋人』も堪能しながらすこしずつ読み進んで、森番との出逢いが始まろうとしている。
ロレンスが、もっと若い人に読まれて欲しい。
『宇治十帖』も夜々の思いを深くしてくれる。
息子が持っていっていて読めないのが『罪と罰』で、とても読みたい。これがいま枕元にあれば、現在「読書」の楽しみは
最高に充実するのだが。
筆頭は、だが、バグワンの『タオ=老子』で、籤とらず。澄んだ水を無心に呑むように何も考えずに、読んでいる。少しず
つ音読している。
そうそうもう一冊を挙げておく、荷風、だ。楽しんでいる。
知識や教養のためにこれらを読んでいるのでは、ない。「読む」のが嬉しくて堪らず、読んでいる。知識なんて。なんとつ
まらない毒物であることか。
* 七月三日 月
* 国立西洋美術館で、「レンブラント、フェルメールら十七世紀オランダ絵画展」の内覧レセプションに招かれたの
で、妻と出席し、繪を観てきた。予想通り、展覧内容は珍しいものであるが大方は二流品が出揃っていて、しかも看板の二人の作は数も極めて少なく、ま、もひ
とつの催しだった。外国から来る展覧会でも、抜群に充実したのもあれば、看板に偽りの羊頭狗肉の類にも、屡々出逢う。「只今本国ではレンブラント・フェル
メールらの作品を網羅して歴史的な大展覧会を開いています」と向こうから来賓が挨拶しているのだから、すこしヒドイ気がする。
聖パオロに扮したレンブラント自画像は、柔軟な画面に生彩があり、深みがあり、さすがレンブラントだった。オリエンタ
ルに装った男の肖像も力作で、妻が感嘆していた。
だが抜群に面白かったのが、展示作の中で最も画面の小さい、ヴォイスの「陽気なバイオリン弾き」で、粗野な表情に的確
に生命観が把握・発揮され、極く小品ながら他の凡百を圧する名作だった。妻と、「盗んで帰りたいほど」という評価も完全に一致した。わずか二十数センチ四
方の小品だが、三百万円ぐらいなら直ぐ買いたいと思った。十九世紀までは人気の高かった画家だそうだが、二十世紀になってほとんど無名に近く沈下している
ので、存外の安値がつくかも知れないが、それは冗談としても、そういう思いのする繪に出逢えると、興奮する。残念ながら、そんな繪は他になかった。学生た
ちにも言っていた、どれでもいい、一点と限定、一点だけはお帰りに好きな作品をお持ちになってようございますと言われると思い、観るといい、と。こういう
言い方がいちばん早い。理屈や知識はあとから勝手についてくる。はなから、理屈で観てもいけないし、関連の知識のないのを卑屈に嘆いて観ることもない、
と。
常設展示の方の、カルロ・ドルチ「悲しみのマリア」が、親指だけでない両手首を全部見せた新しい繪で、それも面白く興
深く観てきた。
* 接待の席で、ワインを数杯、小さいサンドイッチやクッキーを十ばかり、注射抜きで御馳走になった。文壇人の姿 は高橋 睦郎を見かけただけだったが、美術方面の知人とはあたりまえだが大勢顔があった。倉敷の館長で京都の美術賞選者仲間の小倉忠夫さんも見えていて、妻も挨拶 した。
* 烈しい雨が館内にいる間に通り過ぎていた。上野の山をおり、アメヨコを抜け、妻が執心のまた鈴本演芸場に入っ
て、夜席を、前座から大トリまで、噺家と目と目があうような前の席で笑ってきた。円菊、権太楼、トリは大抜擢の林家たい平。この「幾代餅」が、まるで秦建
日子の舞台さながら「芝居」っぽい人情語り口で、おかしいやら、ほろりとするやら、新真打ちの気持ちいい熱演だった。あれでもいいのだと思った。また一つ
の「幾代餅」であった。曲独楽もマリオネットも紙切りも、寄席ならではのお楽しみを、気軽に楽しんだ。
アメヨコで買って来た焼栗と、寄席の中で買った稲荷鮨と、持参のウーロン茶で、すっかり、のんびりした。座席で注射し
ようと思ったら、薬や針は持っていたのに、注射筒を家に忘れてきていた。注射なしで食べてばかりいたのは、恐縮であった。
* 電車では文庫本がいい。上野方面に出た時など岩波文庫の川本三郎編『荷風語録』は最適だ。正直のところ荷風の 懐かしく描き出す明治大正の東京、震災後の東京の地理地名には極く疎いどころか、皆目東西も南北も知らない、にもかかわらず毎々いうことだが「読んでい る」ことが、堪らなく嬉しい、それほど文章の喚発力が見事に緻密で、強烈なのである。むろん、わたしも還暦過ぎて数年の老境にあり、いまの若い読者とは同 日に語れまいとは思う。思うけれども、やはり、いい文章の魅力は時を越えて、段が違うのである。同じ荷風にでも、作品によりやや出来もあり不出来もある。 それが分かるなら、いつ誰の如何なる作品でも、出来と不出来とはおよそは分かる。わたしはそう思っている。文章が大切である。美文でなくてもいいが、根 に、詩という音楽=うたが、響いていて欲しい。
* サライ編集長の東直子さんが、パソコン特集を余分に一冊贈ってくれた。一冊は「初出保管」してしまうので、こ の号は、もう一冊手近に置いておきたかった。初心の人には、殊に、どう使いどう器械を選ぶかから、たいへん巧みに便利に編集してあり、きっと役に立つよう に思う。いやわたしも、そばに置いておくと少し心強いかなと期待し、東さんに著者としてねだったのである。三日間で完売し、増刷したらしい、さもあろうと 思う。
* 明け方、娘の朝日子ががらりと戸をあけて、しろっぽいレインコート姿で帰ってきたのを夢に見た。元気でいると
いいが。
* 七月四日 火
* 酒が届きビールが届き、有り難いが手が出せない。妙なことになったものだ。ご贔屓の仙太郎最中を京都の町中で 見つけて買いましたが、あれは大きい、餡が多すぎますと、よけいな里心をつけるメールも来た。どれがと餡菓子を選ぶなら最中がいい。大酒を平気で愛してき たが、やはり戦中戦後の飢えた子で、根は、「あまい」ものを「うまい」と悟って欲しがるのだろう。
* 志ん生の「幾代餅」を聴いた。軽妙なものだ。きのうの、たい平は、とてもこうは行かない。だから彼はよほど工 夫をしたのだろう、あたかも秦建日子作・演出の現代演劇で売っている現代青年の純朴さで、若き手代が熱誠の恋を、独り芝居のように「演じて」みせた。「落 語」で勝負にならないところを面を冒して「演技」してみせた。それが共感を呼び、拍手を惜しませなかった。あれはまるで建日子の芝居だなと鈴本演芸場を出 てすぐわたしは妻に言い、「あなたも、そう思って。あたしも」と、二人してまた笑った。あらためて志ん生を聴きながら、なるほど、こうはたい平には出来な いわけだと納得し同情した。一つの証拠に、昭和の大名人は短い出番のなかで、松の位の幾代太夫の側から手代清三の本気にほだされる場面を、しんみりと「聴 け場」にしていたが、たい平は、自分は調子の醤油問屋の若旦那なんかではない、搗米屋のただの若い者ですと太夫に詫びて告白する所に、莫大な力点を置いて いた。そうすることで若い青年のたい平は噺に乗り切れた。彼の地を活かしたのだ、それは賢く無難であった。
* 権太楼の藝は、一見ふてぶてしく反感を持たれかねないが、天性の落語顔をしている。あれを藝に活かし、だしも のがはまれば、けっこうモノになる、間のいい噺家だ。古典落語をたっぷりやらせたい。
* 雨を聴きながら、今日も二時間ほど昼寝した。好きなように、好きに暮らしている。
* 好きになれないのは、政治の行方。第二次森内閣発足とか。元建設大臣の虫ずが走るほど嫌いだったのが一人、現
に逮捕されているが、もう一人二人大物政治屋にも検察は手を届かせてもらいたい。名が体を表さない騒がしい一方の政治屋たちには、飽き飽きしている。
稼ぐ気もなく貯金もなく、その雀の涙の貯金に利息がない。金をつかえの政策が成功するワケがない。まさに無策と言お
う。
* 七月五日 水
* 久米宏の番組ニュースステーションに、新建設大臣の保守党首扇千景と、自民党代議士田中真紀子とが、時間をず
らして別々に出ていた。
なにしろ鴈治郎はんの奥さん、成駒屋のおかみさんだから、疎かには思っていないが、よくぞ永年政治家をやったはるわと
感心し、半ばは呆れていたのが、ついには犬も歩けば棒のような党首で、汚職がらみに辟易して自民党になり手のない建設大臣に就任したのだから、凄い。しか
し、今夜言うていたことを、もし、そのまま本当にやってくれるのなら、それは有りがたいと言えることを、まさか久米宏の「巧言」に乗せられてとは思いたく
ないが、かなりの勢いでいろいろ口走っていた。よく覚えておきたい。女党首の約束のアテにならない例は、公明党の浜四津とかいった前代表が、しらじらしく
も国会を舞台に、繪に描いたような百八十度真っ逆様の背信行為でみせてくれて、呆れ返り軽蔑した記憶が真新しい。どうか扇サン、左団扇で約束を反故に吹き
飛ばして下さるな。
田中真紀子は例によって明快だった。この人は、とにもかくにも政治の理想を自分なりに持っている。国民の大半が望んで
いるように、もしこの人が内閣を統べるのであれば、この人のために自民党に投じてみてもいい。だが、この人にも共産党の石頭とはいわないが、不毛の頑固さ
で「自民党」に拘る。自民党を内部で改革するのは、百年河清をまつにほぼ等しいことを、我々以上に知っているであろうに、自民党の中で発言も活動も封じら
れていながら、わかりの悪いこだわり念仏を唱える。それでは、ただのエエカッコしぃで終わりはしないか。
それでも、あれほど百鬼夜行の自民党の中で、彼女一人が、真に精神の自由を維持しているのは、えらい。そういう質の自
由をわたしも文壇のなかで欲して、おかげで一面逼塞も強いられているが、ラクに、悠々と、思い邪まなく生きていられる。いやいや思いは邪まだらけである
が、それも好きにしていられる。
* 六十三歳でホームページを開いた「ミマン」の読者が、はるばる長崎からメールを送って見えた。サーフィンしな
がらわたしのホームページに行き当たったらしい。ホームページを覗いてみると、ご子息に文字通り不幸に「死なれた」方の、痛切なモウンニングワーク=悲哀
の仕事であった。若い親切な人がかなしみを慰め励まそうと、サイトを開いて上げたらしく、まだメールの打ち方もややたどたどしいほどだが、ドメインで、こ
の人ではないかなという毎号解答してくる読者の名前をわたしは覚えていた。
ふしぎに名前はよく覚える。ずいぶんダメになったけれど、人よりは覚える方だと思う。
* 稼ぎなく、貯金もなく、その無い貯金に利息がなく、金を使えとは何ごとか、政治の無策も極まった、と書いた ら、ぎょっとするほど賛成の声が届くのに驚いた。
* 我が家の黒い美少年は、顔もちいさく姿態は細くしなやかで、悠々として自由なこと、ジイヤンにそのままであ
る。妻に洗わせて、おふろが楽しめるらしい。ボテボテに太ってこないのが、いい。
* 七月六日 木
* 京都の菩提寺から、上野平成館での「平等院展」の招待券が送られていた。会期も迫ってきたので、見に行った。 もっとも、平等院の宝物で何を見せるのだろう、古書籍や古文書で貴重なものの多いのは承知しているが、満員の客が首をつっこみ合って観るものではない。大 和絵の古作はあるが、実物を運んでくるのは容易でなく、また素人が鑑賞するには傷みがはげしい。ご本尊の、定朝作阿弥陀如来像が来るというなら、これは、 ミロのヴィーナスが来たのに匹敵するが、そんな冒険をあえてしなくても京都の宇治まで行けば簡単に観られるのだから、まずは鳳凰堂内の雲中供養仏が並んで いるのだろうと想った、その通りであった。客は押し掛けていた。つまり書籍や史料は観ておれなかったし、他にはさして足をとめる展示物はなかった。本尊の 如来座像は大きな大きな写真パネルで展示されていた。企画の無理の露呈した、美術展としてもご開帳としても失敗の企画ではないか。
* 「平等院展」の低調を帳消しにすべく、「平成の贈り物」として、百数十家の寄贈美術品展が協賛していた。これ は、雑多な展示品ではありながら、寄贈者の名前と作品とを見比べながら、妙に頷けたりするおまけもあり、面白かった。土田麦僊作「明粧」が出ていたのには 感動した。安井曽太郎作「深江氏像」もよかった。なにも近代の作品ばかりではない、中國の古書画も多かった。日本の古美術も、繪や書だけでなく、鎧や装束 や蒔絵や陶磁器も、アイヌの厚司も茶道具もあった。雑多なため図抜けて目を惹く印象的なものが目にとまりにくく、これはひどいというものも殆ど無かった。 ずいぶん思案の上の寄贈品だと想ってみていると、心理やドラマも透けて見え、それもまた一興の、渋い好企画だった。
* せっかくまた上野に来たのだからと、レンブラント、フェルメールらの「十七世紀オランダ絵画展」を、もう一度 ゆっくり観た。内覧会の日とはうってかわって空いていた。印象は、内覧の日と変わらない。これまた看板に偽りというにちかい低調な展覧会で、みな、その辺 がよく知れているのか、客足は少なかった。レンブラントといえば、「ダナエ」一点で博物館を客で満たしたことがある。あれには興奮した。一級の力作名作大 作を、一点だけでいいのだ、奮発して運んできてくれなくては物足りない。
* 車中で読みふける『チャタレー夫人の恋人』は、さすがに、すうっと惹き込む。
* 七月七日 金
* 体調を失して、途中まで出かけていた言論表現委員会を初めて休み、池袋から引っ返し、休息した。数日後につづ く電メ研は、座長で、休めない。電メ研のあと、新宿で「氣」の講演を妻と聴く。講演母胎の学園長は東工大での元学生君で、父上がこの世界では有名な藤平光 一氏。不振を極めていた王貞治選手らに指導して、あの輝かしい自信を与えた人として知られている。わたしは何を与えて欲しいとも思っていないが、好奇心は 旺盛にある。妻も、気が動くらしい。
* 能の原稿を二つ頼まれ、引き受けてしまっているが、能は放心してただ観ているので、いざ原稿といわれると、特 別の感想もわいてこず困惑している。
* ロレンス『チャタレー夫人の恋人』、鏡花『由縁の女』、馬琴『近世説美少年録』直哉『戦後の日記』に打ち込ん でいる。読書が楽しい。ときどき落語を聴いている。中元に酒やビールが届くのに、「残念」の悲鳴。悲鳴は上げるが、つい飲んでしまう。意志薄弱の見本 である。
* 奥村土牛の「鳴門」が七、八月のカレンダーを飾っている。階下は加山又造と中島千波で、これは両方とも好きで
ない。加山は巧みな絵描きだが芸術的な感動は与えて貰ったことが少ない。図案であり、模様であり、それでも生動する気凛の清質あれば胸に迫るのだろうが、
何も無い。画境がいやしい。同じことは千波にも言える。志低くほとんど先人の涎を嘗めている。平然と売り繪を描く。
さすがに土牛には、出来不出来あろうとも、境涯の純なるものがある。カレンダーながら、「鳴門」は佳い。ときどき仕事
の手をとめて無心に眺めている。海が深い。
* 大きな強い台風がまっすぐ突撃してくる。雨が強くなった。明日の午前中いっぱいは、かなり、やられそうだ。
* 七月八日 土
* 名月ならぬ、暴風雨の七夕の、轟然と吹き降る夜ふけに、静かに『蝶の皿』を書き込み終えた。得も謂われぬふし
ぎな思いを、一字一句を追体験しながら、味わった。ただ耽美でもただ唯美でもない、果て知れない寂しみに触れたまま小説を書き始めていたことに、今さら
に、また思い当たる。生涯に一度しか書けず、二度とは書いてはならぬ小説である。昭和四十一年七月二十一日から八月五日までかけて書き下ろし、溢れる「谷
崎愛」のまま『吉野葛』の作者に捧げている。三十歳と半年。『清経入水』で第五回太宰治賞を受け、作家生活に入ったのは、なお三年の後であった。
これから、校正する。さて、次の「短編選」には、何を書き込むか。
* 台風はわたしの予想と期待どおり、関東平野には上陸せず、太平洋沿いに北上して行った。わずかに風は残ってい るがよく晴れ、飛行機が飛んでいる。
* 能楽ジャーナルの創刊巻頭エッセイ「能と天皇」を、台風の豪雨を聴きながら書き終え、手入れして今朝送った。 これは、まず、適切に纏まったと思う。もう一本梅若橘香会のために書かねばならない。
* 目の前のほんの手近な書架には、春陽堂版の『鏡花全集』、中央公論社の『森銑三著作集』、岩波書店の井上靖
『短編集』『歴
史紀行集』、福田恆存の『全集』『翻訳全集』、ドナルド・キーンの『「日本文学の歴史』」全巻、平凡社の『日本史大事典』全巻、淡交社の『古寺巡礼・京
都』全巻、学研版の『現代語訳 日本の古典』全巻、小学館の『探訪神々のふる里』全巻、岩波版『日本古典文学大辞典』全巻、角田文衛博士の研究書数巻、そ
して『老子』をはじめ漢籍講義の二十冊ばかりが入っている。『蕪村集』や『秋成文献』や『平家物語覚一本』や田辺爵『徒然草諸注集成』も入れてある。森田
草平訳、ドストエフスキー『悪霊』も、庭の書庫から移してきてある。書架に入りきらない絵巻大成本が、『「信貴山縁起』『伴大納言繪詞』はじめ六七冊持ち
出してある。岩波の『広辞苑』、東京書籍の『佛教語大辞典』、集英社の『国語辞典』が手に届くところに在る。
そんな中に、谷崎潤一郎先生のおっかない顔を囲むようにして、澤口靖子のいろんなカラー写真が、いろいろに置いたりピ
ンで押したりしてある。カレンダーは山種美術館の呉れる今年は「奥村土牛」の繪である。
ぜんたいに、異様に似合わないと言う人と、おもしろいと言う人と、黙っている人とがある。あまり賛成されていないよう
だが、みんな好きなものに取り囲まれているのは、心やすらかで、有り難い。だが、器械の前で腰掛けた足元の畳の上は、これはもう騒然雑然と本の山で、わず
かな空地を踏んで部屋を出入りしている。物干しへ往来の妻が嘆くのも怒るのも道理である。本を片づけるのが、ほんとうにシンドクなった。
* 七月九日 日
* 短編小説選の「2」に、新たに『廬山』を書き込みはじめた。昭和四十六年「展望」十二月号に発表し、すぐ芥川
賞候補に挙げられ、瀧井孝作、永井龍男両先生に推された。永井先生は「美しい作品である。美しさに殉じた作品である」と選評の字句を単行本の帯にも下さっ
た。代表作の一つとして文学全集にも重ねて採られており、作家入門のムックや名作紹介のムックなどにも繰り返し採られている。
「湖の本」の跋には書いているが、この小説では、手ひどく「新潮」編集部に絞られた。つまり文句がついて止めどなかっ
た。たとえば「長男」を「太郎」と呼ぶのはおかしいといったことを繰り返しくどくど謂われた。中国ではそんなふうには謂わないだろう、などと首根っこを押
さえるように言う。
この作品は、西行の偽撰といわれる『撰集抄』の説話によりながら、説話的な生彩と素朴を殺さないように、しかも私自身
の述懐をだいじに思い思い書いたもの。我が国の浄土信仰や来迎美術の根を辿る、遠い目的も隠していた。中国の史実を書こうとはしていなかった、関心は日本
人の方にあった。そんな意図は、三百話しても通じそうにないので、黙って引き下がって「展望」にまわしたら、すぐ掲載され、すぐ候補作に挙げられた。
作品の評価には、絶対がないようで、じつは有るとわたしは思っているが、しかも或るレベルでは評価は交錯するのが普通
なのである。自信があるのなら、そんなレベルでビクついても卑屈・臆病になってもいけないのである。「新潮」の気持ちも分かるし「展望」の評価も妥当だっ
た。同じ新潮社のベテランの編集者は、『廬山』は「名作」ですと、後日にきっぱり断言してくれていたが、そういう言葉にすら多くを頼んではいけないのであ
り、作者は、最終的には自分で自作を判断しなければならず、自己評価は十分十二分に厳しくなければならない。それが出来ないうちは、軽薄な自信など、もつ
のが間違いなのである。
* いい映画もなく、テレビドラマは見る気にもならず、結局、本に戻る。
桶谷さんの『昭和精神史』を、だいぶ読み進んだ。熱心に保田與重郎への声援が続く。戦後の多くの保田批判に対し熱心な
反論や反駁がされている。言えているところも、分かるところもある、が、言い過ぎではないかと首を傾げてしまうところもある。かつて、どうしても、わたし
自身は保田與重郎の弁口に無心に賛成できなかった。妙にまやかしめいて胡散臭く曖昧にしか感じられないものがあった。小林秀雄の修辞にも保田の修辞にも、
晦渋という以上のややこしさを覚えた。そういう過去の読書歴を顧みつつ、桶谷さんの論調に、気は重い。貫く棒のごときものの性格が、わたしとは違ってい
る。
わたし自身は、どちらかというと浪漫的な性質をもっているのだろうが、あの昭和十年代の日本浪漫派の人たちからは、多
くを学んだ気がしない。へんにイヤだった。へんに危いものを感じた。どっちみち戦後に接したのだから、こっちにも偏見があったろうと思うけれど、基本的に
わたしは、戦後民主主義に育った少年だ。背後の闇にどれほど占領政策の影響、それに便乗して報復的な考え方で跳梁した戦後のマスコミや党派的偏見などが
あったにしても、少年のわたしにはまだ到底見えなかった。「見えない」ことが大事な点で、見えないまま身に帯びたものに、根本の「毒」がひそんでいたとい
う気はしていない、それが、もっとも大事な点なのである。
むしろ、「天皇中心の神の国」のような国体観へ、今になって懐古的に押し戻されかねない反動の潮流を、わたしは嫌う。
警戒している。特定のイデオロギーに毒されてきた体験も自覚も、わたしは、自分に対し認識していない。できない。呼吸のように身に帯びた敗戦後日本に、い
やなところもいっぱいあるけれども、かと言って、戦中戦前の日本へなど戻って行きたいとは思わない。へんな亡霊を今さらに甦らせ讃美されたくはないという
のが本音である。
* 高校の後輩から、一緒に繪を観に行きませんかと、メールで誘われた。別のやはり後輩が銀座四丁目で個展をひら
く、そ
のレセプションにというお誘いだが、あいにく、その個展画家の繪をわたしは平山郁夫亜流の綺麗ごととしか観られないので、断った。
ああ華岳のような、麦僊のような、紫峰のような、また曾太郎のような、国太郎のような画家は現れないのか。
* 七月十日 月
* 気がかりだった原稿を二つ三つと片づけた。ぞんざいにでなく、丁寧に書いた。メールやファックスで送稿できる ようになって助かるが、今日の仕事の一つは、ポストに、今から走る以外にない。
* 中学時代に英語を習った女先生から今日お手紙をもらったのが、毛筆で、見るから豊かに気高い、悠揚迫らぬ名筆
なので、びっくりした。わたしは悪筆どころか筆ももてない無筆者だが、造形美術の中では「書」が好きで、観るぶんにはかなり経験をつんでいるつもりだが、
本間伸子先生の消息の字は、かつて谷崎先生の松子奥様からいただいた、美しい巻紙に書かれた雅びな文字に匹敵する優れた手蹟で、失礼ながら、数十年前の教
壇の先生からは想像がつかなかった。
文壇にも書の自慢の人は少なくないが、失礼ながら臭い濃すぎていやみなのも、まま、ある。本間先生の字にはいさかの匠
気もなく、おおらかに、気稟の清質みなぎる静かさ、柄の大きさに心打たれる。こういうのは稀有のことで、半日、妙にほくほくと嬉しい。『丹波』と『もらひ
子』とを初めて謹呈したのへ、御挨拶いただいた。
先生方もご高齢になられたが、記憶ではみなお若い。当たり前であり、若くなかった先生方は亡くなられている。そのこと
に、厳粛な気持になる。いま中学時代の先生では、男先生が二人、女先生が四人と連絡が取れる。みなさんに鞭撻し声援していただいている。あの頃の「生徒」
のままのわたしが、いる。
* 昼のテレビで、井伏鱒二先生を回顧していた。太宰賞選者のお一人であり、少年時代に愛読した作家だった。
いちど、筑摩書房の社長もされた岡山猛さんに誘われ、荻窪か阿佐ヶ谷かの飲み屋まで、井伏鱒二の「酒」を「観に」行き
ましょうと連れて行かれた。作家に成り立ての新人には、じつにふしぎな光景であった。
井伏さんは、ひとりで、壁を背に、卓を前に、あぐらで、じつに寡黙に、そして静かに静かに酒を口に含まれていた。前を
半月のように大勢が息をつめ囲んでいて、わたしたちもその後に坐った。先生はすでにあのまるい顔を赤くされていた。その赤いまるい顔が、静かに静かにます
ますふっくらと赤く大きくふくらんでゆくのを、みなが、じいっと見つめていた。手を合わせこそしないが、拝んでいるような光景で、ぶしつけに口を利いたり
諧謔をとばしたりする誰一人もいなかった。「酒」という「至藝」を井伏鱒二が演じているように感じた。赤い酸漿がぷうっとふくれてゆく静かさに、皆が魅了
されていたのだ、それだけで、それ以上は記憶にない。
井伏先生を、太宰治が師と仰いで終生変わらなかったのを知っている。また井伏さんと瀧井孝作先生とは釣り仲間だっ
た。瀧井先生は志賀直哉の身内同然の人であり、谷崎松子さんの最晩年の仲良しであり、また永井龍男先生とは俳句でも何でも親しくされていて、このお二人に
わたしは芥川賞に推され、いろいろによく励ましよくしてい戴いた。もう、誰一人として此の世にはのこってはいて下さらない。そういうものなのだ、人生は。
* ピラミッドはファラオの墓だと思っていたら、また、数十万人の奴隷を駆使した建造物であったと思っていたら、
それはヘロドトスがエジプトへの旅行記以来、久しくも久しい受け売り、または思い込みであったという。NHKテレビが、七時のニュースから交替した森田美
由紀の美しい語りで教えてくれた。
エジプトといえばナイル河。そのナイルが氾濫して四ヶ月間は農作業はまったく出来ない、その間のファラオによる民生安
定の公共事業として、ピラミッドが造られていた。国民は男女共にその作業に従事することで、雨季の生活を衣食住にわたって保証されていたという、公的な労
働協約の内容や実物も発見され、労作の間に亡くなった大勢の整然とした共同墓地も見つかって、男女比は半ばしているという。かなりの医療なども受けていた
という。奴隷なら女子やまして妊婦などは使うまいし、病人は見捨てたであろう。また王の墓なら、一人の王が一代に幾つもピラミツドは造るまいが、公共事業
としてなら分かるというわけだ、定説は大きく変化した。
まだまだ、ピラミッドは、では何の用途でどう使ったかとなると謎は解かれていないが、「公共事業」として極めて有効に
平静に機能していたと分かってきただけでも、おもしろい。ナイルのあの氾濫の広大なさまを見知れば納得しやすく、かつまた現代技術が氾濫を食い止めたた
め、エジプトの農業立国が逆に危ういものになっているという指摘も考えさせるものがある。さて、極東日本の「バラマキ公共事業」やいかに、と、問い直すの
もウザッタイではないか。
* 七月十一日 火
* 散髪。メンドクサイのに、気持ちが佳い。近所で、四十前後かなと思う若い夫婦で店をあけていて、夫婦のどっち があたってくれても、気持ちよく仕上がる。奥さんは、わたしに「変身」カットを暗に唆している。わたしも、気が無いのではない。半白のまま髪型が変わって もよく、白髪ボカシで若くなってもいい。しかし今日はいつものまま。髪を分けるというのがメンドクサイ。
* 散髪している間に、こんな「Love」 Mail が届いていた。ウインブルドンで黒人姉妹が個人とペアを制し、時代を画した。男のサンプラスも勝った。名前はケチャップに似てて覚えられないが、ちいさい 可愛いファイターも健闘していた。日本の女子もダブルスで二位の笑顔がよかった。
*「Love All
Play」でゲームが始まります。Love=0の根拠はと、長い間の疑問でした。(ウインブルドンが丁度終わりましたが。)6日(木)の夕刊に英文学者の
書いていたコラムで、やっと解けました。この方も、10年、大学の英語教師をしながら、知らなかった。テニスでの「ラヴ」につまづいてから、オックス
フォード英語辞典で調べたそうです。
その歴史は、まず「For
Love(愛のために)」という言い回しが、たんに「好きだから」、つまり「賭けないで」「無料で」という意味に使われた。そして、「Love」だけが独
立し「ゼロ」の意味に使われるようになった、と。他に幾つか、イギリス発祥のゲームに使われているそうです。私はこれぞ正に英国人の「粋」と想うのです
が、いかが。イギリス映画が好きで、好んで観るからそう感じるだけかも知れませんけれどね。「言葉」に関連して、連鎖的に面白いと思いましたので、書いて
みました。あなたの大切なお時間を頂きました。
七夕の次は、祇園祭のハイライト。夏、いい季節ですね。
* 『由縁の女』は底知れない伝奇ものとも、情緒纏綿の恋愛ものとも読めるが、そんなことはさておいても、文章が
乗っていて、歌っていて、普通は乗って歌った文章は困りものであるのだが、鏡花にかぎってそれが生きる。黙読していてはつっかえるかも知れない美しい蜘蛛
の糸のような文章が、音読すると、読みやすくて生き生きする。句読点を信頼し、そのとおりに息を継いで読み進むと、堪らない味な世界が幻の像を結んで増殖
して行く。手にとるように世界が活躍してくる。そこでヘタな理屈をこねずに、うっとりと乗せられ音読を楽しみだすと、もう、やめられない。
じつにいろんな小説が可能なのだ。そういう可能を堪能していると、いまどきの評論家が、小説に「点」がつけられるかど
うかなどとイチビッテ時めいているバカらしさも、忘れられる。
文芸批評は採点ではない。面白い、優れた、この上ない作品をさまざまに見つけ出して、その面白さ良さを、さらに豊かに
開発できる能力を問われている。いつの時代にも時期にも、イチビッテ奇道を行くもののいるのは、或る意味で必要な現象だ。それを、どういち早く卒業してバ
バカードを次の誰ぞに渡すか、それまた才能の内なのである。限度は三年ぐらいなものだ。それ以上にイチビッテいるのはほんものの、バカもの。
* 新しい『直哉全集』の配本、日記の最終巻をとばして、『書簡集』最初の巻が届いた。直哉は盛んに手紙を書き、 初期の日記は簡潔そのものなのに、逆に手紙はたっぷり量を書いている。作品よりも長い手紙をたくさん友だちに宛てている。旅先からのものが多く、純直なと 表現したい、生一本にぶつけた、しかもユーモアに富んだ手紙が満載されている。わたしは、谷崎のは別にしても、あまり人の日記や手紙は読んで来なかった。 志賀直哉全集の読みやすさのおかげで、また直哉という作家の人となりに惹かれて、驚くほど、踏み込んでよく読んでいる。なにか今のわたしを、支えられてさ えいる。直哉の手紙は、そのまま直哉文学であり、文学全集の付録ではない。それをしかと認識し楽しんでいる。
* 世界ペンが、なんだか大揉めの様子らしく、緊急の理事会通達が届いている。詳しくは来週の理事会で報告され討
議されるが、はなはだ、非文学的な、最もわるい意味で用いる「政治的」「打算的」な、金がらみのブロック間の揉めごとに過ぎない。文学という大事な根から
離脱して、根無し草のように文学者の団体が、非文学的活動の方へ漂い流れている。「世界平和のために」の謳い文句は美しいが、醜い仲間内のゴタゴタの方が
組織を動かしているのなら、情けないことだ。どっちにしても視野の相対化が不十分なために、われわれの期待しているほどには、「ペン」が大きな働きをして
いるとは外では見られていない。外が不見識なのか、内が尊大なのか。いや、内の一部が、勘違いしているだけのことだ。
ロレンスのコニー(チャタレー男爵夫人)が、痛烈に通俗な小説の通俗の意味を暴いて、通俗な小説家を嫌っている箇所
を、今日も読んでいた。文学の通俗を、文学者の組織は助長している。せめてそのことだけは識っていなければならない。
* 七月十二日 水
* 電メ研に出かけたが、何となく気が抜けた。中川五郎委員にカルバドッスを一本頂戴した。飲みたい気分。
* 新宿朝日生命ホールで「氣」の研究会主催の講演会に招かれ、妻と待ち合わせて参加した。「実験」という名の体 験もしてきたものの、も一つ盛り上がるものは感じられなかった。「心身統一」というその不思議を、ただ体と心という組み合わせだけで語りきるのは難しい。 体は、分かる。心は、そう単純に「心」とだけ言って済むものではない。心が、どうあれば、どうなれば、どうすれば、どうと、容易に言えないのは、「心」な るモノだか意味だかに幾層も幾種もあり、しかもそれが「ある」とか「ない」とかとすら簡単には言えないからだ。
* 瀬戸内寂聴さんが、徹子の部屋でしていた、ガンジス河に入ってきたという話は、このマスコミ尼僧の物見高さを
暴露しこそすれ、とても善知識の教えとは受け取れなかった。混濁かつ薄い感じを受けた。いい感じがしなかった。マスコミで大きな活字で名前が書かれて、ウ
ケに入っているわりに、説得される静かな佳い言葉が無い。
* 七月十三日 木
* カルバドスの美味かったこと。血糖の数値がたいへん宜しく、安心して、就寝前にいただいた、粋な瓶をあけて。
しっかり頂戴したが、いや美味かった。病みつきになりそうな按配で、いといと満足。
読者から贈られた先日の純米大吟醸「大七皆伝」というのも、初物ながら間違いのない美味でちびりちびりと堪能してきた
が、中川さんに頂戴した名も懐かしいこの洋酒の美味いのにも驚喜している。少年時代に『モンテクリスト伯』で覚えた酒の名で、ジョニーウォーカーだのホワ
イトホースだのカティーサークだのよりも、遙かに早く識っていた。ブランデーの味である。珍しい酒はみな旨い。
* 村居正之展を和光で観てきた。村居君に「どうでしょう」と聞かれたが、とても佳い返事は出来なかった。「だめ ですね」と返事した。いま日本中でいちばん高価に売れているのは平山郁夫だろうが、いま日本中の売れている画家でいちばんツマラナイのも平山郁夫。その平 山の亜流のような絵葉書を描いていてどうなるのかと言った。指で押したら穴の空きそうなパルテノンの神殿の列柱や基盤など、いくらうわべ綺麗に描いてみて も、その軽さは、皮膚だけあって骨肉も血潮もないハリボテではないかと言った。
* 草々会の展覧会も観てきたが、一流の日本画家たちが、揃いも揃って義理か厄介の繪を出して親睦会を演じてい た。ほとんど、頭に来た。シェモアで食べて、すこし機嫌が直った。
* 夕べの新宿よりは銀座の方が落ち着いたが、それを目的に観に行ったそれが良くなくては、話にならない。
行き帰りの車中で『チャタレー夫人の恋人』に引き込まれ、森の小屋で、はじめて男爵夫人のコニーが森番のメラーズに抱
かれる場面の優しさに触れえたのが、何よりであった。ここのところ、美術展は軒並み「文学」に負けている。
* 黒い少年が全身に蚤をもって、家中に繁殖させてくれる。さすがに悲鳴をあげて昨日は、留守中に家を燻蒸した。 以来外に出しっぱなしにされていたマゴが、今、階下の浴室で洗われている様子、鳴き声が聞こえてくる。
* 久しぶりに「男はつらいよ」の寅さんに、また三船敏郎に、逢った。シリーズ中でも一二の秀作ではないか、寅さ ん一家はもとより、三船敏郎、淡路恵子、そして竹下景子、すまけい、もよかった。心和んだし、クライマックスの三船の告白に淡路が感極まって手で顔をお おったときは、くっと私の喉も鳴った。寅さんも三船も十分懐かしかった。柳智衆も懐かしかった。竹下の、どう出てきても知床娘らしくなく東京の令嬢風なの も、それはそれで懐かしかった。いまどきこの映画の竹下景子のようなお嬢さんスタイルは、いくら見たくても、東京でもまず見られない。だが、なんと心のや すまる清楚さ清潔さだろう。
* 七月十四日 金
* こういう読み手のメールが入ると、深酔いする。照れる。ま、声援されていると思おう。
* 『蝶の皿』に続いて、『廬山』。<藤むら>の羊羹を思い出しますの。「?」でしょう ?
晒して晒してアクを抜いて、氷砂糖(ざらめかも知れない)を入れて、さらりとしていながら、薄くない甘さ。美しい紫色
の漉し餡の羊羹ですわ。こんな喩えは"ボキャ貧"ですけれど。難しいのに、読めてしまう不思議。心地好い言葉の響きと字面の美しさ。易しいのに深い。綺麗
で繊細で力強く、しなやかで頑固。職人であり芸術家でもあり、苦くて甘い。
* 日の経つのがすこし早い。少し生活が単調になっているのかと思い警戒している。器械のほかに、手でする仕事の 率を復元して行こうという気になっている。
* 明日は、若い友人二人に秋葉原の電気街へ連れていって貰う。少しく「利器」を買い足したい。それから、出来れ
ば彼らの未体験世界、ま、寄席か美術館かへ連れて行こうと思う。この前に一緒に家に来てくれたときは、NTTとIBMとにそれぞれ入社の直前だったが、今
度は研修なども終えた社員であり、めずらかな話も聴けるだろう、楽しみ。
* 七月十五日 土
* 庭に桔梗が咲いています。その清々しいうす紫を見ながら、30余年の昔がよみがえってきました。
当時、恒平さんは「菅原万佐」の筆名で自費出版を続けていました。送られてきた私家版を何度も繰り返して読み、読後の
感想を書き送りました。批評などといえる代物ではなかったと思いますが、いい加減に読みすごすことなど、とてもできない気持ちで読後感を書く方も一生懸命
でした.
返信に恒平さんは次のように書いています。
「有難う。嬉しく拝見しました。よく、正しく読み取って下さろうとする御厚意がしみじみと伝わって参ります。この上ない
励ましとくりかえし拝見しました。
『少女』のこと、私らしいと言ってもらえたこと、『桔梗』は童話というのではないのですが、散文の詩を感じていただけ
たこと、特に嬉しく思いました。この二篇にはかなり私の鍵が秘められてあると自覚していたものですから、大概の方が、短歌集『少年』、小説『畜生塚』『此
の世』に即して御批判下さったのとは違った、何といっても古い友だちのふしぎな眼を感じました。」
続けて、こうも書いています。
「今日明日中に250枚くらいの長いもの、この一年中かかりきってきた重っ苦しい陰鬱な荷をおろせそうで、ただそのこと
が頭の中で渦巻いています。
むなしい行為といえばそれまでの、自由な感動にいつまで我が身をゆだねてやってゆけるか、それはまた苦しい闘いなのか
もしれません。私らしい、ひねくれた執拗いやり方で、何かに背き背きやっていきたいのです。 昭和39年師走23日」
私は秦作品のすべてに目を通したわけではありませんが、業余の一枚一枚に精魂を傾けたあの時代にはじまり、常に自らを
偽ることなく、妥協を排して粘り強く書き続けたひとりの作家の確かな軌跡が見えます。
数に限りはあろうとも、心をこめて作品に接してくれる読者をこれだけ持つ作家はしあわせです。一層のご健闘とご自愛を
祈って。 カナダ 勉
* シナリオ『懸想猿・続懸想猿』を謄写版で一冊にし、初めて自費出版したのが昭和三十七か八年。すぐ次いで『畜生塚・
此の世』を出した。それへの感想を中学時代の畏友から受け取った。その礼状が残っていたのだ、有り難い。書き下ろしたばかりらしい小説はきっと『或る「雲
隠れ」考』だろう。
「何かに背き背きやっていきたい」とある一句に、一瞬茫然とした。わたしの生き方がまざまざと刻印されている。あの当
時、何に背こうとしていただろう。呼び名の有る、ただ呼び名だけに空洞化し形骸化していたいわゆる人間関係に背いて、「身内」を考えていた時期だ。同時
に、当時の文壇作品への軽蔑があったのも忘れない。そして、まだあの頃、ものに応募して世に出ようなどと全く考えていなかった。だから私家版へ動いた。わ
たしは、結局一度も同人雑誌や人への師事もなく、また新人賞などへの応募もしなかった。太宰賞も、私家版が人の目に留まって、『清経入水』を応募したこと
にしてくれないか、賞の最終選考に候補としてさし込みたいのでと、筑摩書房の希望だった。寝耳に水の招待だった。
吉川霊華という画家がいた。いまではむろんのこと、存命当時も表へはめったに派手に出てこない画家だったが、近代日本
画で極めて特異な位置を確保した芸術性のじつに優れた表現者だった。わたしは、こういう人を敬愛してきた。世にときめくことは、わたしには無理だった。問
題外であった。そういうことに「背き背きやって」きた。「客愁」を抱いていつも「退蔵」を庶幾し、しかも「一期一会」努めてきた。それが出来れば上等だと
思ってきた。太宰賞も東工大教授もペン理事も美術賞の選者も、わたしから望んで手をだしたものは一つも無い。みな、向こうから舞い込んできた。望まれれ
ば、応じても良く、断っても良い。創作者には好奇心がある。好奇心を水先案内に生きてきたかも知れないのだ。だが、根は「何か(俗悪なもの。権力で支配す
るもの。)に背き背きやって」きたつもりだ。
それももう、落としていい時期だ、やがて人生の二学期を終える。どんな三学期が可能か不可能か知らない。彼の世へ進学
するために学年末試験や進学試験があるのかどうかも知らない。したいだけをして、しのこしたことに思いをのこさずに。静かに。そう、静かに終えて行きた
い。そればかりを祈っている。
* ゆうべ遅くまで直哉の『書簡』を読んでいた。畏友有島壬生馬に宛てた直哉のみごとな述懐の長い手紙をたてつづ けに読んだ。「ほんもの」の魂が活躍している手紙だった、それが大学に入る前後に真摯に率直に書かれている。書く人も書かれる人も立派だ。当時の直哉から すれば、今のわたしは三倍も年をとっているのに、幼き者の気持でわたしは読んでいる。この頃、特に気づくのだが、自分がやがて満六十五歳になる人間なんか でなく、まだ中学高校の頃と同じ気持ちで日々を過ごしているような。哀しむべきか悦ぶべきか分からないが、「老い」を思って然るべき境涯へほとんど実感が 持てずに、未熟に若く日々を送り迎えている。ウーン、不思議な気がする。一つには、若い頃の作品を一字一句ずつ正確に書き写しているのが、感化しているの だろう。いいことか、よくないことか。
* 午後、仲良しの元学生君二人の案内で、はじめて秋葉原電気街で、買い物。器械を修理に運ぶときは昭和通口へ出
ていた。電気街は、雰囲気がまるでちがっている。ここへ独りで来れば、半日ぐらい釘付けだなと思った。
MOのための買い物で、布谷君が予め目星をつけて、安い買い物を見つけて置いてくれた。MOでバックアップを確保し、
外付けハードディスクの負担を解除することで、全体の容量を倍増させようという、わたしの希望。もう一つ希望を持っていたが、一度に遣ってしまわずにと、
田中君にも布谷君にも言われ、MOだけの用意をしてきた。これを私一人の力でうまく接続できるかどうか分からない。やってみる。出来れば、パソコンに収容
している全部がバックアップ出来る。どんなに安心か知れない。
このあと、作品や「私語の刻」を全部、ディスクに保存して、希望の読者に譲って上げることを考えている。そのための用
意もしたい。
* 秋葉原から上野に移動し、三人で国立西洋美術館に入り、十七世紀オランダ絵画展を見、常設展もぜんぶ見た。田
中君が、丁寧に一点一点絵画に見入っていて、わたしが好きなヴォイスの「陽気なバイオリン弾き」に強い共感を示してくれたのは、嬉しかった。布谷君の、絵
画鑑賞に今ひとつしっくり入りきれない様子なのが、それも彼らしい感じがして微笑ましかった。
ご縁あって、レンブラント、フェルメールをこれで三度も見に来た。もう少し充実した展覧会だともっとよかったが。
* 精養軒で、三人で洋食を食べた。二人とも呑まないのでわたしも呑まなかった。料理はそれなりに珍しく美味かっ た。二人の会社の日常をいろいろと聞いた。二人とも、きっちりフレッシュマンで、気持ちよかった。
* 帰ったら、各務原の川崎重工勤務の飛行機青年が電話をくれていた。夏休みが取れるので、千葉の実家に帰った ら、秦サンに逢いたいがという用件だったらしい。松園女史の繪の話をして以来だ、早くおいでと、メールを。
* カリフォルニアの懐かしい人から、糖尿病を心配した遙かな電話の見舞いもあったらしい。気持の上では家族のよ
うに心親しい年上の人で、結婚するときに姉妹してずいぶん力になってもらった。今、電話をくれた妹がアメリカで裏千家茶道の大先生をしている。姉もアメリ
カで伴侶を得たが、もう随分前に亡くなった。顧みれば、不思議なとしか言いようのないご縁である。不徳なれどしかし孤では無いなと、つくづく思う。
* 七月十六日 日
* MOの取り付けとコピーとに、成功した。メールによる布谷智君と田中孝介君との一致した連携指導で、わたしの ポカミスが自分でも分かり、容易に修復できた。まだ、未解決の「フォーマッタ」未使用のことがあるが、「リムーバル」でホームページ分がMOディスクに全 部コピーできたことは確実。大前進した。外付けディスクと階下の器械とMOディスクとに、さらにエクスプローラーやビタミンEYEにも全ファイルが保全さ れている。安心度が大きくなった。
* 難儀で必要な仕事があったのに、日曜日、休んでしまった。くだらない映画まで見てしまった。トミー・リー・ ジョーンズは「逃亡者」で主役を喰う快演だった、あの記憶があるので、つい見てしまうが、あれ以上のモノには出会えない。
* 明日のペンの理事会は、ごたごたしそう。ま、出て聴くだけか。むしろ明後日、山折哲雄氏と三十年ぶりに逢うの
が楽しみであり、引き続き計画されている対談を思うと緊張する。今週は、なにやかや気の張ることが多い。しかし、MOディスクを作動させ得たのに気を良く
している。これで、妻に階下の一台を、使わせてやることが出来る。
* 七月十七日 月
* 焦げそうな陽ざし。祇園会らしく熱暑の乾燥しているのがいい。気の遠くなるような清々しい日照りの中で、鉾の
巡幸を観た少年の昔が想われる。
巡幸の経路など、昔と様変わっていると聞く。先と後とに祭日を分けて巡幸した鉾・山が、一度に、一日で、みんな動くと
も聞いている。祭にも時世時節で変更のあるのは致し方ない仕儀。だが鱧の味は変わるまい。あの魚だけは京都で食べたい。
祇園会の折り、『みごもりの湖』で、若い女子大学生に四條縄手「蛇の目」の鱧を食べさせているのは、贅沢だと小説を批
評されたことがある。バカらしい。食べられれば食べるし、無理なことはしない。それが食事というモノだ。
神輿をかつぐのは、定まった地域からの奉仕である。八坂神社の神輿は途方もなく大きく重く、かつぐ人数を揃えるのが年
々に難しいとも聞いている。満腹することのなかった戦後のむかし、神輿の重さに耐えかね何度か危うく休息しいしい渡御するのを、はらはら眺めたこともあっ
た、が、飽食の今はどうか。八角、六角、四角の三基と、私のまだ京都にいた時代に、子供用の美しい神輿も出来た。この小さいのでも、諸方の祭のまともな御
神輿ほどある。先の三基はべらぼうに立派で、殊に四角のはたいへんな重さらしくて、渡御を担当する若竹・若松組はいつもたいへんだった。
兼好は、祭礼は過ぎた後の「あはれ」を良しとした。わたしも、やや、その想いにちかい。京都中のはなやぐ季節である。
梅雨もあけた。国土安穏でありたい。
* 昨日の日曜午前の、石原慎太郎と田原総一朗の対談は聴きごたえがあり、いろいろと頷いたり、はらはらしたりし
て、二人の顔を注視していた。
「言葉」が、大きい意味をもつ。自分の言葉をつかっているかどうか、だ。
石原氏は文学者として、当然「言葉」を大切に、いや効果的・刺激的に、使っている、武器として使っている。はらはらも
させ、眉も顰めさせることも有るが、ともあれ「自分の言葉」をかなり役立て先立てて、発言効果をあげている。なみの政治屋には、それが望めない。
「首相になれるなら国政に復帰する」という石原発言は、重いものになって今後ごろごろと永田町界隈へ転がって行きそう
だ。
わたしは、心配もする。小さい心配ではない。
しかし、一度は石原型の政治で、どう日本が、日本人が、またアメリカや中国や朝鮮半島やロシアが、刺激を受けるか、観
てみたい。
日本の外交がダメだと石原氏は言う。それは、もう久しいわたしの意見でも感想でもある。日本のいちばんダメなのが外交
だと想う。ま、た米中大国などが、けっして損をしてまで、得にもならないのに動くものかという覚悟も、まったく石原氏とわたしは同感なのである。もともと
外交とは「悪意の算術」で、褒めた話ではないがそれが歴史的に普通のことだった。日本の甘い外交じたいが、狂ってしまっているか、麻痺して機能していない
のである。粟散の辺土の弱みが露呈しているのだ、外交なんて「やれた・やった」タメシが昔から無い。やれば失敗してきた。それにしても、冗談だとは思う
が、外務大臣に堺屋太一だの竹村健一だのと石原の口にするのには、「よしゃぁがれ。冗談じゃねえ」と叫んでしまった。
* 暑い中をプレスセンターまで理事会に。ご苦労なことであった。それでも、収穫はあつた。
一つは、入会審査の過程で、わたしの提案が受け容れられ、「ホームページ出版を含むいわゆる電子本も、出版物=著書と
して認める」と理事会決定された。「電子本」による作品や著作によっても入会審査が受けられることになり、まだ実例は無いにせよ、新時代の新作家への、新
しい道が開かれたことになる。紙の本=冊子本という「著書二冊」が一つの資格条件だったが、電子作品もそれに加えられた。
今一つは、言論表現委員会のシンポジウムに「協力帯同」して電メ研で「メール会員」にアンケートする問題が、言論表現
委員会の賛成と理事会の支持により承認された。言論表現委員会、とくに猪瀬委員長への気兼ねで、アンケートは秋以降に延期しようという電メ研の話合いで
あったが、猪瀬言論委員長が賛成し、自ら理事会で発言し提議してくれた。理事会としても何の問題もなかった。猪瀬氏が電メ研の事業に反対する、またはそれ
を邪魔に感じることなど、有るわけがないとわたしは信じていた。
* 国際ペン本部と、モスクワ大会とマニラ大会と、日本ペンクラブとが、錯綜して、紛糾している。応仁の乱のよう
なていたらくで、マニラは、ついに世界ペン大会の開催を拒否する・下りると言いだし、えらい騒ぎ。こうなるに当たっては、日本の、マニラ大会成功のために
積極的にかげで動いたこともまた火種となって、ペン会長と事務局長が喧嘩し、マニラとモスクワとが突っ張り合い、中に入ってユネスコが閉口し、同じく巻き
込まれて日本の森山事務局長は疲労困憊し、加賀副会長は頭から湯気をあげて怒っているし、マニラは主催国としての責任もどこへやら、ペンを脱会もしかねな
い有様。
ペン会長も、アメリカ支部も、日本支部の調停に期待し手紙を寄せて来ている。梅原さんは、自分がフィリッピンに出かけて
説得するのも辞さないと言うから、エライものだ。だが、「人間関係がらみの紛争や、それなら下りる式のゴネ方に振り回されず、大原則として、いかに環太平
洋圏でのペン大会を開くことに意義があるか、何としても成功させたいという『態度宣言』をしっかり先立てたうえで、調停や介入をするのでないと、次元の低
い話になる」と、私は発言してきた。それは、会長も、よく理解されていた。
* 妙な話だが、今日、ついに天皇歴代を、百二十五代平成天皇まで、確実に暗記に成功した。後小松百代までは頭に
入っていたが、室町江戸時代の天皇にほとんど気が行ってなかった。称光、後花園、後土御門、後柏原、後奈良、正親町、後陽成、後水尾、明正、後光明、後
西、霊元、東山、中御門、桜町、桃園、後桜町、後桃園、光格、仁孝、孝明、明治、大正、昭和、平成の二十五代。南北朝合一後、持明院統の天皇が行列してい
る。後陽成、後水尾、明正の辺が大河ドラマ「葵」で、家康、秀忠の幕府権勢にさんざん痛めつけられる。
天皇歴代に個人的にはほとんど思い入れはないが、歴史を顧みる目安には使いよいので覚えたのである。保谷駅から家ま
で、ゆっくり三度も百二十五代を呪文のように唱え続けていると、退屈しないで家につく。自転車に乗らずに歩くことにしているこの頃の、頭の体操である。
* ウインドウズ95のノートパソコンを、妻に譲った。わたしも、すこしただけ、「指導」「助言」できるように なっている。自分のつかっていた器械であるから、何とかなるだろう。ただ設置の定位置が、狭い家では定めにくい。
* 明日も熱暑に負けず、日比谷公園の松本楼まで出かける。よい、実りある会合になればいいが。山折さんが春秋社
で「春秋」の編集長だった頃、あれ以来の再会で、優に三十年。『清経入水』には、最初に山折さん、京都の杉本秀太郎さん、新潮社の宮脇修さんが、もう一人
歌人の馬場あき子さんが、ほとんど同時に、すばらしく反応してくれた。わたしの作家生活へのスタートに大きな推力になった。そして山折さんが、新人の私
に、エッセイの代表作の一つ『花と風』を「春秋」に連載させてくれたのだった。
* 七月十八日 火
* 日比谷公園の松本楼で、三十年ぶりに山折哲雄氏、それに編集者小関直氏と会合、昼食し、四方山の話題で歓談し
ながら、対談のプランを持ちだし合った。出かける直前に、かねがね考えていた沢山な問題点を、いろいろに整理しコピーしていったのが役立った。さ、八月下
旬ぐらいから、どんなことが可能になるか。
それにしても懐かしかった。燃える夏の一日であった。帝国ホテルのクラブルームで一息入れて帰った。
* 理解不能の営業メールらしいものが入った。なにかの「無料購読」を「確認」した、「購読」の意志がないなら記 すURLを開いて解約せよというのである。わけが分からない。放っておく。こういう変なのが益々増えてくるのだろう。
* 『天皇百二十五人と日本史』という本が書ける気がしてきた。天皇を書きたいのではない、神武天皇以降、天皇歴
代を十人ずつで区切ってみると、なかなか明快に別の顔した日本史が面白く見えてくる。こんなにうまく区切れるものかと喫驚している。誰かがもう試みていた
ら、それまでだが、むかし「学鐙」編集長が『一文字日本史』を三年間連載させてくれたように、或いは山折編集長が「春秋」に『花と風』を二年間書かせてく
れたように、どこかが気軽な誌面をくれないかなあ、概説的な日本史なんかでない面白いものを書いてみるが。
こんなところに、こんなことを書けば、鳶に油揚げで企画をさらわれるかも知れないが、いいものが書かれ、一本読ませて
貰えるなら、それでもいい。
* 参考までに、ちと、十代ずつに区切った実際を挙げて置こうか。
神武 から 崇神天皇 神代人皇から歴史天皇
垂仁 から 安康天皇 大和の大王時代
雄略 から 敏達天皇 混乱からの脱出
用明 から 天武天皇 仏法・王法の対峙
持統 から 桓武天皇 律令制の陣痛と王政
平城 から 醍醐天皇 藤原氏の台頭と律令の瓦解
朱雀 から 後冷泉天皇 藤原王朝と和風文化
後三条 から 高倉天皇 院政と武家の台頭
安徳 から 亀山天皇 鎌倉幕府と皇室の衰弱
後宇多 から 後小松天皇 両統迭立と南北朝
称光 から 後光明天皇 武家支配への荒れた道程
後西 から 仁孝天皇 尊皇攘夷と開国への急な坂
そして
孝明天皇 明治天皇 大正天皇 昭和天皇 平成天皇 維新・敗戦・民主主義
* 出先で、また、そっと、漉餡の最中のちいさいのを、一つだけ食べた。保谷駅から家へ、途中新開の道路が出来、
完成していないので車も通らず人通りもすくない、そこが、わたしの「買い食いロード」になっている。いつもではない、たまにだが、餡パンなどを一つだけむ
しゃむしゃ喰って帰る。楽しいものである。狂言にも、甘いものの盗み食いや、酒の盗み呑みがある。わたしは盗みはしない。
* 七月十九日 水
* 日々の暮らしに少し模様替えの刺激を与えたくなっている。仕事のスタイルや気組はときどきチェックし変更を加 えるのが、いい。さもないと、眠たくなってしまう。だが、易しい工夫ではない。
* 妻のために新たに電子メールを開いてやろうとしたが、いっこう埒があかない。つまりわたしには、まだまだ、器 械が分かっていない。サービス品のAOL一つも設定できないのだから。
* 暑中お見舞い申し上げます。ホームページで昨日までの文章を読み、元気に暮らしていらっしゃると、一安心しま
した。夏本番、暑くて当然ですが、暑いですね。一昨日、届くかどうかの確認のメールだけ書いたのですが、まだ確認してらっしゃらない・・?
昨日、やっとサンチャゴから送った本の小包が届いて・・。急がないからと船便にしたのが間違いで、やはり時間がかかり
すぎました。いささか拍子抜け。それでも小包の重さが、僅かな重さが、あの旅の途中から送るしかなかった…と、改めて実感しました。
目下、旅の後遺症?に苦しんでいます。90パーセントは精神的なものですが! 贅沢病だなと笑い飛ばしてください。本
を読むような具体的な作業、と同時に、自分の中で繰り返し繰り返し反芻している、呪文を唱えるような作業。ただしそこからまだ何も実を結ぶものは見えてき
ません。祇園祭りも今年は何故か出かけませんでした。
フェルメールの展覧会は大阪まで行ったのですが、入場制限をしているとかで「2時間待ち」という掲示を見て、見ないで
帰ってきました。彼の作品はオランダやロンドンでかなり見ましたから。入場制限することも理解できますが、雨の中で2時間も待たせる入場制限なんて、論
外。ホームページではこの美術展が期待に添わなかったと書かれていますが、見る機会に恵まれていることが、まず羨ましいなあと思ってしまいます・・。
今週末、娘たちが空を渡って帰ってきます。短い期間ですが。
帰国して、もう一ヶ月。久しぶりにこうしてメールを書いているのが、何だか少し奇妙な感覚です。
あなたは漉し餡のほうがお好きらしい・・私は粒餡の和菓子の方が好きですが、外国にいる時は全く食べたいと思うことが
ありません。日本に帰ってくると毎日でも食べたいなあと思いますが。元気にお過ごし下さい。
* 「電子メール」で手紙が「どう書かれているか」が、ペンクラブでの会合でも話題になる。いろいろな書かれ方の
あるのを、わたしは、日々に実見している、実に多彩。この読者である友人の久しぶりのメールも、電子メールという「場」にマッチしていて、心持ちがズカッ
と出ていて、知性の縁をこぼれ落ちてはいない。外側のことも内側のことも、あれもこれも取り混ぜながら渋滞せず、ハメを外さない。ひゅっと鳴るような瞬間
風速の涼味もある。
この人のメールアドレスにリターンしても新たに返信しても、例外なく届かずに戻ってくる。器械にはそういう稀々の気ま
ぐれもあるので困る。これを返事にしておく。断っておくが、餡は、断然「粒餡」の方が好きで、小豆が好き。「漉し餡」は、たまたまの話。
* 七月十九日 つづき
* 数日前に、こんな「落首」を書いた。
* 仕事がない。貯金もない。僅かな貯金に利息がない。これでは金は使えない。民需拡大って何のこと。延々つづ
く、ゼロ金利。そのうえ貯金を吐き出せと、國の施策に智慧がない。慈悲もない、ない、情けない。
じつはイジメと知りながら、他国の顔色うかがって、西の諸国へ貢ぎ金。イジメラレっ子「ニッポン」の、無策の策は国民
の、頭をおさえクビ切りを、リストラなどと言い替えて、文士崩れの作文で、景気の先をアヤフヤに、飾れば飾る言い逃れ。
もうこの上はお仲間の、市民・農民・労働者、腹をくくって居直って、死んでも金は使わぬと、言うてやろうじゃないかい
な。
森は隠れる、野中は荒れる、中川渡る人もなく、小泉濁る土砂降りの、暗い日本の先行きは、公明ならぬ超保守の、不自由
非民主、神の國。あまりといえばあんまりな、戦後日本のどんづまり。ほんにワルイは景気でなく、政治家不在の政治屋世界、吠える田中のかかしにも、哀れや
党議の猿ぐつわ、歯ぎしりしても役立たずと、いつか誰もがあきれ果て、言われなくとも選挙は朝寝、昼寝、宵寝で棄権して、日本列島沈没のXデーの来る前に
どうぞ死なせて死なせてと、祈る神様仏様。というような悪夢から、早く醒めたい、この次の、選挙の機会に一票の重みを誰に賭けまくも、賢き選択が是非した
い。
* ペンクラブで、入会資格審査に関連して、従来「紙の本」二冊という条件のほかに、「電子の本」も「著書と認め る」「審査の対象にする」と理事会で承認されたことは、繰り返し確認しておきたい、後々から観れば画期的な判断だと、改めてもう一度記録しておきたい。
* 今日はおもしろい日でもあった、妻がパソコンを相手に碁を打っていた。十九路盤で打っていた。初体験のはず
だ、わたしが手ほどきしたときも、もっと狭い盤で覚えた。それからでも何年にもなる。途中から、おやおやと覗き込んだら、なかなかの形勢で、白番の器械側
が六四で分が良かったが、黒盤の妻にも希望は残っていた。器械がどの程度の力かはよく知っている。けっこうポカを平気で打ってくれる。すこし助言しながら
見ていた。広すぎる白地の三三に打ち込ませてみた。幸いに生きた。それから、あちこち攻めたり引いたりしているうちに、やはり器械は失敗を重ねて、形勢逆
転、器械は「参りました。投了します」と、妻の黒番に、中押しで勝ちを与えた。ウフフと妻は二重の初体験に悦んだが、実力ではまだ当分は器械に負けるだろ
う。だが囲碁はいい。下らないテレビ番組に、騒がしく部屋を占領されるより、よほど有り難い。
* 七月二十日 木
* 昼前に出て、六本木俳優座劇場へ。いちばん見やすい席を用意していてくれ、ゆったりした気分で舞台に臨めた。
イギリスで大きな評判をとったティンバーレイク・ワーテンベイカー作の「Our Country's
Good=我らが祖国のために」を勝田安彦が訳し、演出した。
アメリカが独立し、罪人の流刑地をうしなったイギリスは、オーストラリアに代替地をつくりだし、罪囚と、将校たちを送
り込む。囚人には地獄、しかし将校たちにとっても、流刑と同じ思いの苦痛な地獄なのであった。彼らは過酷な上にも過酷に囚人をさいなみ、あのレ・ミゼラブ
ルのジャン・バルジャンまでもゆかぬ極く軽罪の者をも、平気で絞首刑にしてしまう荒みかた、囚人には悲惨を極めた。加えて将校も囚人も、故国を慕う望郷の
念余りにつよく、しかし通信にすら一年を要する遙か隔絶の地。だれもが、ひたすらに荒廃の極にあった。
幸いにも新任の総督は、そういう地獄を容易に容認しえなかった。囚人たちの人間性をすこしでも回復させたいと、その方
法にこのフィリップ総督は、なんと「演劇」を選んだのである。観劇ではない、戯曲を、囚人に現に演じさせようとしたのだ、一人の演劇好きの将校が共鳴し演
出に当たった。
これは、実話に基づいて書かれた戯曲で、海外では高い評価を得た。
だが、にわかには事実と信じられないほど、この総督の企画じたいが、高度に観念の領分に踏み込んでいる。そんな観念ま
でも現実の舞台の中で具体的に成就させて行くのだから、更に更に難儀な演技と演出の高い「壁」が、目に見えてくる。
正直のところ、舞台は「渾然一体感」にはほど遠い出来で、演技・演出とも、不熟のまま初日を迎えてしまったような按配
であった。前回の「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」は、日本人の苦痛に厳しく触れた内容であり、ひしひしと迫り来るものを、俳優たちは十分な理解の上で
「渾然一体感」をさも謳歌するかのように、生き生き表現していた、が、今度の芝居では、どんなに戯曲が巧く書けていても、演技者たちがまともに受けとめる
には、時代は古く、場所は遠く、現代的な意味のリアリティをどうにも確保しきれずにいるのが、観ていて分かる。
日本の観客にとって、また演技者にとっても、やはり「我らが祖国」は日本なのである。イギリスではないのである。その
差異を乗り越えて深い劇的感動を紡ぎ出すには、もっと大胆な工夫が舞台にも台詞にも演技にも加味されねば、とても、保たないのだ。事実に基づいた戯曲の強
みが、却ってこの場合は弱みに変じ、「ワーニャ伯父さん」や「オセロ」や「野鴨」のような、純然たる「創作」からは吹き付ける「普遍の圧力」が、どうして
も此処では汲み取れないのだ。実録ものを日本でやるなら、日本人の感性に引きつけた舞台にしないと、ピンとはじける強みが生まれてこない。
「我らが祖国のために」という題に訳した神経に、不足があったのかも知れない。
いっそ八丈島や佐渡島へ転じて、例えば世阿弥の佐渡流罪に重ねて能の上演などへでも、大胆に翻案してしまうほどの大意
欲が必要だったのではないか。
演技者には若手を多く配して力演が目立ったものの、所詮舞台は、渾然とした仕上がりの中に、味よいうま味を見せなけれ
ばならない。それが出るには未来の再演をまつよりあるまいか。
* 六本木「瀬里奈」で、妻が好物の松坂牛しゃぶしゃぶを、たっぷりのハウスワインで楽しんだ。別に二品の料理 も、ことに冬瓜を冷たく煮たのが、旨かった。色御飯も、デザートに選んだ小団子に粒餡の善哉も、よかった。お替わりが欲しいほどだった。妻は、タロイモの アイスクリームを美味そうに食べていた。
* 日比谷へ移動して、宵の銀座を散歩し、軽い鞄とバッグをそれぞれ買い、明治屋でブルーチーズを三種、その先の 店でパンを買い、有楽町線で一気に帰った。車中、わたしは校正し、妻は『チャタレー夫人の恋人』に引き込まれていた。小一時間も地下鉄に乗るので、却っ て、落ち着いて保谷まで帰れる。有楽町線がありがたい。
* 『廬山』 一気に読ませていただきました。人の業の深さにふれた恐ろしい話ですね。胸をえぐられ、鳥肌が立 つ想いで読み続けました。どんな展開になるのか心待たれます。
* 書き込み始めて間のないホームページの小説『廬山』に、メールがきていた。書き込みの作業は一度に多くは捗ら ないが、こういう声に励まされる。純然の創作だが、作者の「思い」が濃厚に漉き込まれてある。本人が、びっくりしている。
* 家のすぐ近くで自動車道路設置が、現状寸断のまま進行している。その寸断部分の一つに、三、四百メートルもの
かなりな勾配の坂道が、皓々と照明されて横たわっている。それを自転車で大滑降のていに疾走して降り、くるりと振り向いて今度は急な坂をサドルから腰を浮
かせることなく、ペダルを踏む足を一度も休ませることなく、一気に全速力で駆け登る。これを休みなく七往復するのである。昨日から思いついて夕食後に始
め、今日も家に帰るとすぐに走ってきた。これは相当烈しい運動になり、昨日の血糖値にもみごとに好結果を出していた。
一頃の体重なら絶対心臓が危なくて、体力もなくて、出来なかったが、それが今は出来る。全速力で立て続けに坂道を下っ
ては上り、下っては上っての七往復に、余裕で耐えられる。息はむろんかなり烈しくなるが、体力に残余感があり、へばっていない。とても嬉しい。
* 七月二十一日 金
* 沖縄の「平和の礎」を前に、クリントン米大統領がスピーチするのを聴いた。シラクもブレアもプーチンもそれぞ れに動いている。森首相の姿は誰もが求めていないかのように映っても来ない。情けないほど世界戦略も世界構想も持たずに、ただ地位にある首相。不幸な日 本。
* ビートタケシの選んだ十曲のひばりの名曲を、いろんな歌手が歌っていたが、どうしようもなく美空ひばりの天才
には届かない。
* 七月二十二日 土
* 影山雄一君が、妹で、東工大の新入一年生でもある奈津子さんを連れて、一年半ぶりに、暑い保谷の家にまで話し
に来てくれた。数時間、あっというまに時間が経った。
影山君が教授室にやってきたのは、学部一年生も早々のことだった。はっきりと話題を用意して訪れ、曖昧な話には納得せ
ず、なあなあで話を終えることのない、気骨ある哲学青年だった。哲学学と哲学との落差に不満をもっていた。下村寅太郎先生の著書など、また西洋哲学史など
という本を貸したりした。
今は、各務原の川崎重工で、少年以来憧れの飛行機を造っている。この前に来てくれたときは、酒をくみながら遅くまで閨
秀画家上村松園の話などした。それをもとに、大阪朝日の主催した「松園記念展」のために、ながい松園論を纏めた。その掲載された大きな図録をおみやげに
持って帰ってもらった。
影山君の妹は、若々しい気さくないい少女で、楽しく話せた。わたしの東工大の本なども読んでくれていて、話題に窮する
ことの全くない上客だった。専攻は「材料」だという。学生に、よく専攻を訊ねると「材料です」と返事されて、二の句が継げなかったものだ、兄貴の「機械」
はまだしも見当がつくけれど。そういうところが、あの大学の興味尽きない特色であった。「専攻は」「材料です」でけっこう見当のつく人は、かなり理系であ
る。
奈津子さんには、雄一君のぜひにの示唆もあり、『閑吟集』そして『親指のマリア』をお土産に上げた。
* こんばんは 東工大OB、* *
です。返事が遅くなったので、なんとなくご心配をおかけしてしまった気がします。
今週は火曜から金曜まで、出張で、愛知県にある、ブラウン管の製造事業所に行っていました。21:22名古屋発のひか
りで帰ってきて、今は地元駅前のデニーズでメールを書いています。バイオノート+携帯の組み合わせなので、向こうでメールは受信していたのですが、なかな
か時間が取れずに返事が書けませんでした。すみません。
今やっている仕事は、ブラウン管の開発の仕事で、毎週愛知まで行って、サンプルの試作をやっています。なかなか試作レ
ベルが上がらず、非常に苦労しています。
それともうひとつ、これはやりたい!
と言って自分で手を挙げた仕事があるのですが、こっちは、上に書いた仕事があるのに「やりたい」とか言うもんだから、上司にちょっと睨まれてしまって、
参ったなーという感じなのですが、自分で「やりたい」といった手前引き下がれないものがあって、上司とそれなりにうまくやりながら、なんとか仕事を進めて
いきたいと考えています。
長期的には、ブラウン管ではなくて、新しい表示デバイスの開発をやりたいと思って、若手数名のチームで勉強していま
す。1年くらいで、具体的な形でoutputを出す気でいます。死んでも結果を出したいです。5年後ぐらいに商品化が実現したら、いいなーと思っていま
す。出来ると思います。
会社に入ってからの自分を振り返ると、学生の頃ポリシーとして持っていた、「自分の意思を」という姿勢が、だんだん希
薄になってきたな、という気がします。会社に入った当初は、あまりやりたくない仕事も文句を言わずに引き受けてやる、ということ自体がちょっと楽しかった
りもした(それまでそんなことしたことなかったから(笑))のですが、やっぱり、そればかりが僕の望んでいる人生じゃないな、という風に感じ始めました。
仕事って、上司に言われたことを効率よくこなして良い評価をもらう、ということが目的なのではなく、あくまで「人生の一部」であって、もっと自分の意思や
信念を反映した、熱かったりどろどろしてたりするものであるべきだと、思うようになりました。
そうじゃないと、面白くないと思うんですよねー。秦さんは、どうお考えですか ?
* おとなしいが、自分の言葉と考えを、突出するように書いて表現出来る学生だった、このメールの人は。微妙に憚りあり
そうな仕事の細部は省いて、書き写した。
* おはよう**君。 出張帰りのデニーズでメールというのに微笑っています。こんにちわ。
元気な声が聞こえてきます。瞼に、君の鉛筆の字が甦ってきて、懐かしいな。
むろん、私には、理解に遠いことだけれど、君が、いろいろに思案し思索しながら奮闘、ないしは悪戦苦闘しているようす
が、汗の玉の散るように目に浮かび、それはそれで、溌剌としていると、悦んでいます。そういうものです、仕事とは。「職場」という時空間での仕事とは。踏
み込めば、面白い面も溢れているのが職場、その面白さが、なにかの拍子に瞬時に沸騰したり雲散霧消してしまったりする。だからこそ、バランスをはかりはか
り、まるで「いたずらっ子」をあやしたり宥めたり叱ったりしているようなのが、「仕事」というものです。
興味をそそる工夫を、研究を、製作を、していますね。
君は、何でも出来る人です。ゆったりと、多彩に、アタマを働かせて、ますます生き生きと日々を新たにして下さい。いつ
でも、声かけて下さい。
* 社会に出てからの適応が、大きな負荷になるのは、だれもが予測していただろうが、それでも、「職場」によって 体験していることが、かなり似てもいても、また、それ以上によほどそれぞれに異なっている。みな、じりじりと工夫を重ね辛抱も重ねて意欲をかきたてること に意識し腐心しているのが分かる。このホームページをの「場」を利用して、意見交換をしてくれればいい。
* 関西の読者から、なんとも複雑に照れくさい、しかし嬉しくないこともないメールが来た。いろんなホームページ を探訪中に、面識も交渉もない人が、そのホームページで、わたしの作物を取り上げ、「文章も素晴らしく、なぜこの著者がもっともてはやされないのか不思 議」とコメントしてあるのに、偶然出会いましたと。人シラズシテ、ウラミズ、と謂う。「分かる人には、言わんでも分かるのん」という懐かしい声がする。ま るで知らないところで識ってくれているこういう人もあるのだ、素直に感謝したい。
* ホームページに書き写していて、『慈子』という長編と『廬山』という短編とにも、痛切に似通った動機の疼いて
いることに、まざまざ思い当たり、当の作者がビックリしている。慈子の生まれと、後に恵遠法師となる少年劉の生まれとに、まぎれもない相似がある。それぞ
れの作品を書いていたときには自覚していなかったろう、しかも自然必然に似るべきは似ていたのだ。
* 七月二十三日 日
* 「ミマン」の新原稿を送った。解答を送ってくるお年寄りの読者たちが、若々しい気分で真剣に考え感じておら れ、嬉しくなる。
( )のごとく銃に凭れて眠る兵描かれてあり兄かも知れぬI
素朴な歌いくちだが、心に残る。いろんな漢字一字が入ってきて、実感があった。むかし、東工大の学生に、時実新 子さんの川柳を出題した。
墓の( )の男の( )にねむりたや
これが、さまざまに入って、抱腹絶倒のもあった。あまり面白くて、時実さんの原作を忘れてしまった。
* 八月下旬吉日の卒業生結婚式に、乾杯と祝辞をと「お願い」のメールが来て、むろん、慶んでお引き受けした。 「お酒の役で申し訳ないが、お酒となれば秦サンでないと」と嬉しいことを言ってくれる。
* 階下で妻に譲った機械が、いつも食卓に出ているので、つい無責任にいじくりまわしているうちに、メールの設定 も、わるいことにFFFTPの設定まで、痛めてしまい、階下では、メールも、ホームページからのダウンロードも出来なくなってしまった。なんとか回復した いが、手探りで遣っているから、よけいひどくなる。故障まで楽しんでいるのでは、どうしようもない。
* この春に新就職した新社会人君が、元気ハツラツのメールをいま送ってきた。一級建築士の試験を受けたところ
で、ほっとしてお酒をのんだらしい、ご機嫌サンである。剣道に一心に励んでいた人で、昨日訪ねてくれた景山君とも剣道部で知り合いだと分かった。
こうして、いまもって、少しも変わらず元学生たちと大勢いつも話せるのが、わたしの、特製のビタミンになっている。
* 秦先生、こんばんは。お久しぶりです。
今日は一週間ぶりにお酒が飲めて、秦先生には大変申し訳ないのですが、少々酔ってしまっておりますが、こうしてメール
を打っております。
実は、今日、一級建築士の学科試験がありまして、僕は、この一週間大好きな酒を絶っていたわけであります!
試験の結果は『神のみぞ知る』ということで、また結果の出る9月頃(もうその頃は、先生も忘れてますね!)に、お知ら
せ致します。
社会人になって、早や3ヶ月以上が経ちますが、やはり忙しいですね。学生時代とは訳が違います。第一に自分の時間がな
い!
とは言っても、貴重な昼休みには、先生のホームページは欠かさず見ております。いつも先生の意見を拝見するのを楽しみ
にしております。この間の衆議院総選挙(かなり前ですが…)の意見も、「なるほど」と読んでおりましたが、秦先生にメールを送るにはそれなりの意見を述べ
なくては、と思い、つい時間がないのを言い訳にして、今日まで来てし
まいました(もちろん選挙には行きましたよ)。
僕の会社では新人に対する研修制度が大変よろしく?、6月には簿記3級の試験を受けさせられ、今は「宅建」の研修を朝
8時半からやっているため、一級建築士を受ける我が身にとっては非常に厳しいものでありました。しかも僕の所属している部署は大変忙しく、次の日に帰宅と
いうのは日常茶飯事であり、挙句の果てには上司に、「早く仕事を覚えろ!おまえは覚えるのが遅い!」と言われる始末。
でも、自分のやりたかった仕事ができ、仕事自体も新人では最先端のことをさせてもらっており、しかもとても楽しいの
で、「はい、頑張ります!」と言って、努力している毎日です。
そんなこともあり、秦先生にはメールを出そう出そうと思ったのですが、今日になってしまいました。
久しぶりにメールを出そうと思ったのは、試験から解放されて先生に報告しようと思ったこともあるのですが、『闇に言い
置く』を見て、“景山君”という文字をみて思わず、「あれ?大学時代の剣道部先輩かな?」と思ったこともあり、送らせて頂きました。機械学科ということも
あり、そうだと思うのですが…もしそうだとしたら、景山先輩によろしくお伝え下さい。僕は、景山先輩を尊敬していました、冗談ではなく。実は景山先輩は大
学に入ってから剣道を始めた初心者だったわけです。僕は小学校1年から剣道をやっていましたので、1年の時から試合に出していただきました、が、景山先輩
の剣道に対する思い、というか真剣さには心打たれるものがありました。
先生の『闇に言い置く』を読んで思わず、あの時の映像が浮かび、私事ではありますが、書いてしまいました。
今、メトネルのCDを聞きながらこれを書いております。ロシアの作曲家です。ご存知ですが? メトネルが好きという訳
ではなく、このピアニストのファンなのですが…それも最近なのですけど…
話がかなり脱線してしまいました。
明日久しぶりに出勤します。試験のために金曜日お休みをいただいていたので…。やはり受けるからには合格したかったか
らです。明日からは100%仕事に打ち込みたいです。と言っても「宅建」がありますが…
社会人は入社して3年が勝負だと世間は言いますが、その通りかもしれません。今、正直きついです。というか会社に試さ
れている気がします。「こいつの限界はどこまでか」、と。この重圧に負けないよう、というより、むしろこちらの方が気持ちを大きくして、仕事に、そして、
プライベートに頑張りたいと思っております。あくまでも自分を見失わないように…
かなり長くなってしまいました。それでは、失礼致します。
* 気のいい若い性格が、「お酒」に乗って、乗せられて、たぷたぷと出ている。こういう人が、実は、積極的に粘り
抜く。小手よりも、いつも面を打って勝つ。
* 七月二十四日 月
* 祇園会の後祭。むかしは、この日に、船鉾を殿にしたたくさんな山の巡幸があった。後の祭りの賑わいと寂しみ に、十七日の、長刀鉾を先頭にした天地の揺るぎ出すような先祭の興奮とは、ひと味違ったよさがあった。『慈子』で、幼い朝日子を高く抱きあげながら見送っ たのも後祭の巡幸だった。あの小説のあの一日はながかった。そして思うのだ、まだまともに書いていない人が、少女が、もう一人いたなと。
* 鉢に三本植えた夕顔(ゆふがほと書きたうございます)が、ぽっちりした莟をつけてくれました。
ご無沙汰いたしております。少し、コンディションをくずしてしまい、ぐずついていました。例によって、脈がかってに早
くなったり、ときどき、お休みしたり。
それにふりまわされてと申しますより、脈が変調を来した原因になずみ、ふりまわされている始末、わたくしはどうも、人
との間合いを取るのがへた、そして、心と体の平衡を保つのが下手なようでございます。
先生がご病気をどんどん克服なさっていらっしゃるごようすに、ほっとし、あやかりたいと、おもっております。そして、
かってに、先生のビタミンのお裾分けにあずかったり。
先月の末には一人で銀座へ出、映画二本に歌舞伎座の夜の部を観るという、われながら呆れてしまう過密ダイヤをこなしま
したが、これは、突然変異みたいなものでした。人に逢うのもいや、電話にも出たくなくて、端布を継いで、紐を縫ったりしています。
こういう状態のとき、先生の小説を読むのは、ちょっとつらくて。『閑吟集』を拝見しています。先生が、読者の一人一人
に話しかけていらっしゃる、そんなおもむきの語り口もたのしく、一句一句から、芝居の一場面、一編の小説を思い浮かべたりしています。
そろそろ、白やクリーム色のおくすりが効き目を発揮してくれてもよいころでございましょう。我が生まれ月の七月もゆこ
うとしています。元気を出すことにいたしましょう。久しぶりのメールが、つまらぬ嘆き節になってしまいました。おゆるしくださいませ。
失礼ついでに、刊行物を送らせていただきました。一ヶ月も前にできていましたのに、ぐずついていまして、今ごろになっ
てしまいました。お恥ずかしいことでございます。
* からだがわるい以上に、こころがワルサをしてしまうということが、ある。感性というからだのはたらきが、知識
や思考という「こころ=マインド」に過度に占領されてしまうと、からだが怒り出す。
横着なほど、ホワーンとした気分で、からだにラクをさせてあげて欲しい。マインドで読書せず観劇せず思索せず、無心に
快楽することに、このごろのわたしは自分を慣らしている。ラクです。
* 名古屋に勤務の学生君が、湖の本にポンと大金を払い込んできてくれた。ありがとうよ。
* カナダの友人が、若い頃に送った手紙の実物を、今となっては「大事なもの」だから、作家本人の手に戻しておく
よと送ってきてくれた。すぐに、それはそれはと読む勇気なく、ためらっているが。なにしろ、ひどい字だから。有り難い心遣いにお礼を申し上げる。
* 七月二十五日 火
* 九十一、二歳になる老女の読者があり、文芸の篤志高齢者たちの同人雑誌に、創作や随筆を毎号寄稿されている。
その最初の頃から、この「押し掛け弟子」さんは、きちんきちんと批評を請うてこられる。ま、わたしからは母親の年に当たる人で、丁寧に見続けてきた。とう
に亡くなった夫は映画監督であったと聞いている。この人は歌人であったように思われるが、昔のことは知らない。巧みに実情の和歌を手紙に添えてこられる。
この老女、書かれるものが、陳腐で稚拙な素人の作文ではない。かといって円熟の老境を渋く表現した作品でもない。
女の家へ、女友達の訪ねて行くわという、もう近くからの電話があり、女は男を大急ぎで寝床から追い出し追い帰して、か
ろうじて鉢合わせを免れた。だが女友達は、女が茶菓の用意などしているうちに、「温もり」の残った女(たち)の寝床に横たわり、そして女に「今まで寝てい
たの」と聞くのである。
二人とも離婚してきた。女は、いつか、新しい男を家に迎え入れる暮らしになっているが、この女友達には話していない。
女友達の方は、べつの女と出ていった夫がその女に死なれて、また「元の鞘へ戻りたい」と言ってきている。男の親たち
も、それを望んできている、という。女友達は、女の寝床で、顔を隠してしばらく泣いていたらしいが、元の夫を受け容れようという気に「今、なった」ことを
女に告げるのだ、女(たち)の寝床の「温もり」に触れて、女友達は自分の体に「まだ」残っていた「女」を自覚したと言うのである。
女はそんな告白を聞きながら、今の今、寝床から追い帰した男のことを考えている。なにが「温もり」なもんかと思う。男
は、ただただ「女」を求めているだけで、温かい配慮も情愛も持っていないと思うのだ、女は、女友達が帰っていったあとで、彼女の前には男も寝ていた寝床か
ら、枕をつかんで壁に叩きつけるのだった。
* これだけの話が、そう、原稿用紙で十枚ほどにきちっと書き上げてある。文章も作為も技巧もじつに若い。わたし なんかの、とてもよくするところではない。今今の四十代女性の作と聞いても疑わない、根底から若い文章で、そつがない。かなりの作品を読んできたが、これ までで最高の出来に感じた。ビックリした。もう一度言うが、とうに九十歳を過ぎているおばあさんの小説である。
* 小説より長い随筆も面白かったが、この人、辛辣な批評家なのである。ピンからキリまで世相の批判で、なかなか 軽妙に書けていて、何度も吹きだした、朗読するのを聞いていた妻も吹きだしていた、が、もしこれが「顧みて他を言う」ばかりの「評論」調でなくて、なによ りも自分自身の「述懐」「自己批評」を通じて人生を顧みるていの文章に成りえていれば、この人の高齢と知識と見聞の広さ深さからして、平成の『女徒然草』 が可能になる。辛口が外へ外へばかり向いてしまうのは、賢い証拠でもあるが、深度が浅くなる。「そう思いますよ」と、小説はしっかり褒め、随筆には苦言を 呈して手紙を上げた。手紙はまだ届くはずもないのに、ホテルオークラ製の、いかにも糖尿病患者を心配したらしい野菜のスープがどっさり送られてきた。この おばあさん、今でも、「友だち」とお酒を飲みにお店に行く。男友達なのである、たぶん。わたしの「秦文学研究会」に、男友達を誘ってきちっとした和服で参 加されていた年もあった。わたしも妻も、心からこの人を敬愛している。いつまでも健筆を楽しんで欲しい。
* 聖路加病院へ、血糖値検査の不足してきた用具を保険で出してもらいに、出かけてきた。診察は今月は無い。
例の「聖路加弁当」とも思ったが、せっかく時間の余裕のある外出なので、有楽町へ戻り、帝劇下の「香味屋」で、ハウス
ワインで当店自慢の洋食をゆっくり。
銀座も毎度のことではと、千代田線で湯島まで行き、上野の街をゆっくり通り抜けて、ひっそり閑とした国立博物館を、今
日は一点一点舐めるように見て回った。大方は見知ったものだが、『女文化の終焉 十二世紀の美術論』や『中世の美術と美学』の著者として、迂闊と誹られて
仕方のない、初めての、びっくりする見学が出来た。高幡不動の所蔵らしい、巨大な、真黒い、「コンガラ・セイタカ」二童子の彫像で、遠くからはどう眺めて
も近代現代の、それも頗る斬新なフォルムの躍動したものと見えた。それがなんと十二世紀作品としてあるのだ、初めて見た。仰天したというよりも、動転し
た。よかった。
もう一つ、幕府所蔵の、ブラウの「大世界地図」に、あらためて感動した。もし「世界宝」というものが指定されるなら、
この地図は値する至宝である。リーフデ(慈愛)号の船尾を遙々飾ってきた「エラスムス像」の顔の立派なのにも、新ためて感動した。芸術のシェイクスピアに
匹敵する、思想の巨人エラスムス。真のヒューマニズムの淵源であったエラスムス。
感動の余りというのは、やや言い過ぎだが、上野駅の上の食堂へ上がって禁断の大ジョッキを、あまり宜しくないつまみも
ので、グウイッとやってから夕飯に帰った。和歌山のすさみ「大五」が送ってきてくれたカマスの干物で、夕飯も勿論食った。寝る前の血糖値がちょっと気にな
るが。また降り出した雨で、食後の自転車坂へは、今日はお休み。
* 八月四日金曜の夜、秦建日子作二時間ドラマ「孫」が放映になると、もう各紙で予告されているらしい。殺人のな
い初の書き下ろしドラマだという。爆発的に売れた演歌の「孫」にあてこんだテレビ局の企画だったらしく、しかし歌に即したものではない書き下ろしだと聞い
ている。わたしたちに孫を恵んでくれそうにない息子の、ドラマ「孫」がせめては佳作であって欲しいと願っている。朝日新聞には作者名も出て予告されていた
と漏れ聞いている。姉の朝日子や、孫やす香やみゆ希たちも「予告」を見つけているだろうか。
* 七月二十六日 水
* 鏡花『由縁の女』の、蜘蛛の巣のような舞文の妙だか隘路だかに惑わされて、唸っている。あまりといえばあまり
に言葉の嗜虐的な遊びようで、小説の構想や構成をただ追っていては、ガハッと、嘔吐しそうなほど珍妙至妙の日本語駆使である。
これは黙読していてとても筋など追っては行けない。句読点を水先案内に信頼し、その通りの息づかいで朗々と音読して行
くと、さながらに舞台に現じた幻想の繪に紛れ入った心地で、面白く先へ先へ運ばれて行く。
鏡花が戯曲にたけていたのはもっともで、鏡花の小説は、いつも、どことなくみごとな舞台の長い精緻な「ト書き」に読め
る。鏡花の小説などまるで読まない妻ですら、『天守物語』のあの不思議な台詞の美しさは堪らない魅力だと感嘆する。読んだのではない、何度もいろんな舞台
を観て聴いてそう言うのだ。鏡花の言葉は、根からの演劇言語なのだ。
* 若き日々に、志賀直哉が、フランスにいた心友有島壬生馬に宛てた手紙が佳い。その中で直哉は、幾度となく島崎
藤村への敬愛を、謙譲のことばづかいで書き込んでいるのに目がとまる。『破戒』が自費出版され『春』が書かれていた頃に当たる。この頃に直哉が親近してい
た作家は、先生の夏目漱石、幼くから愛読したという泉鏡花、そして間近に初
めて出逢った藤村文学であった。親友では、漸くに武者小路実篤の人間に理解と親愛とを深め始めている。この二人は気質的
にはだいぶ違っているが、武者は、はじめのうち直哉には堅くて窮屈であったらしい、が、それを押し越えて肝胆相照らす信頼が深められて行く。尊い真実であ
る。
直哉は面白いことを書いている。周知のように直哉は、若くから、女義太夫や歌舞伎にぞっこんの大通で、耽溺していた。
しきりにその話を武者小路にもして聞かせる。実篤は顔をしかめ、さもいやそうにしている。
実篤は、人間は不快なこと、同心得心出来ないことには反対の意思表示を「まずは言葉に出して言わねばならぬ」と言う。
言葉に出しにくい場合でも、「顔に不快不得心の表情を出して横を向いているべきだ」と言う。つねづね、それを言う。直哉はよくよく知っているから実篤の渋
い顔の意味が分かっている。だが直哉は直哉で、遠慮しない。話したいから話し、言いたいことは言う。そう直哉は愉快げにパリの壬生馬に伝えている。
* わたしも、なるべく、そうしている。気に入らない、得心できない状況や話には、おおかた、即座に顔をしかめ る。無表情に聞き流していたりしない。口に出さないまでも、首を振ったり眉を顰めたりして、自分がへんな妥協に走らないように自分で自分に警告している。 ただ直哉のようには、相手のいやがっている話題をしまいまで言い抜こうとは、あまりしない。其処まで出来ない。
* 「チャタレー裁判」なんてことが、なんであんなに仰々しく必要だったのだろうと、今さら不思議な気がするほ ど、ロレンスをもっともっと読みたくなる。『息子と恋人』『恋する女たち』『死んだ男』など。直哉がいかにロレンスはダメと指弾しても、こればかりは聴け ない。
* 桶谷秀昭『昭和精神史 戦後篇』を読み終えた感想は、人はそれぞれの戦後精神史を自身の体験を通して自身に問
うべきだ、ということ。桶谷さんの本は桶谷さんの自問自答であり、こういう本の書き方のお手本として、まことに周到、賞讃を惜しまない。だが、六十年安保
闘争の章など、わたしもまた一企業の組合員として国会を連夜取り囲んだ一人であり、桶谷さんの視点だけでは言い尽くせないものがあると痛感した。あのデモ
に参加した一人一人に「白い封筒」の現金入りが配られていたといった、或いはごく一部にそういう事例があったかも知れぬにせよ、わたしたちには思いも寄ら
ぬ事実無根であり、こういう視線から「一事が万事」式に書かれると、殆ど何かの中傷のように読めてしまい、桶谷さんのために惜しまれる。
* 七月二十七日 木
* 娘朝日子が、今日、満四十歳になった。赤御飯で、妻と、ひっそり祝う。孫のやす香、みゆ希の誕生日にも、同じ ようにジイヤンとマミーとで祝っている。娘も、中年の花盛り。「お受験」になどウツツを抜かしていないといいが。健康を心から祈る。
* 雨で一休みしたものの、暑い毎日が続く大阪で、松竹座に島田正吾さんがご出演ですの。今日で25日間の千秋
楽。94歳て本当かしら? 歌右衛門さんとの「大原御幸」を、最前列で、圧倒されて拝見したことは、一生忘れませんわ。
一方、文楽劇場では81歳の玉男さんが<本水の立ち回り>を、22日間なさいますの。ファンの女性に、笑
顔と同時に、必ず右手をお出しになる方で、「あの握手で若返ったはる」との専らの噂。相手がおばぁちゃんでも、お嬢ちゃんでも、同じ応対をなさいますの
よ。
秦さんが、たとえ90歳になられたとしても、<おじいちゃん>ではありませんわ。囀雀
* この雀サン、最近は囀り方がなんだかレトロに変わってきた。日記よろしく囀ってくる。それがなかなか情感あふ れ、物知りである。ときどきめそめそするので、「テンジャク」でなく「ナキジャク」ですかと「泣雀」という新しいあだ名を、いや芸名を進呈する。年頃も分 からない。思いもよらない「おばあちゃん」なのかも知れない。メールは面白い。
* 加藤克巳さんの歌集『游魂』に泣かされている。歌壇の長老、ときどきお目にかかると声を掛けて下さる。豪快に 大きな全集もみな頂戴し、このあいだは記念会に来ないかと「個性」の皆さんからお招き頂いたりした。それは辞退したが頂戴した歌集は拝見している。六十年 をともになされた奥さんの死を嘆きに嘆かれるモゥンニングワーク=悲哀の仕事。短歌の形にももう囚われない自在な歌いぶりは、早くから定型と定型崩しの自 在さに独特の境地を確保されてきた老歌人にふさわしく、ポンと境涯自体を高く突き抜いている。それでいて老い込んではいない、意志が生きて、けっしてよろ めいていない。
* ついでにまた山形裕子さんの『子どもなんか』も読んで、また笑ってしまう。歌集の全部を書き写したくなってし
まう。いっこう愉快ではないのだが、八十九の実母と、作者長女と、長男やその他の家族や嫁、孫や、犬猫らも入り乱れての、本音の露出のすさまじい、めった
にない歌集なのである。
カナリヤの唄を忘れた母さんをお背戸の藪へ捨てる相談
病院へ入れたらどうと言ったって八十九歳は病気でしょうか
長男と末の娘の二人だけ まだ泥棒と言われていない
百万円昨日やったと仰せです 返してくれとおっしゃるのです
盗った者に盗ったと言った 盗った者が盗ったと言い出す例は聞かぬ
遣ったゆえ遣ったと言った 受けた者が自分の方から言い出すものか
子どもらが食事の世話をしないならご近所さまへいただきにゆく
子どもらはみんなお先に死ねばよい わたしは百を越えてみせよう
いや、あっぱれ物凄いが、腹を断ち割ればこういう家族が世間に一杯で、例外の方が少ないのではないかとふっと想わせ
て、笑いの凍りつく歌集である。
* 麻川禮吉という金沢出身、東京で妻のお橘と暮らす詩人小説家が『由縁の女』の主人公で、彼をめぐる、お橘も含
めてもう三人の女が登場する。従姉弟で人妻で幼い昔から相愛の針屋のお光、禮吉が少年の昔から遙かに憧れた、今は不幸な人妻の麗人お楊、禮吉を慕う数奇の
美貌露野。露野のかつての乳母は、露野らの没落後に、世に人外と受け容れられない夫をもち、露野はその乳母夫婦に今は命からがら頼る身の上である。
話の大筋は、禮吉の亡き両親や祖父たちの墓が、市の「有力者たち」の開発で失われるのを嘆いて、その骨と土とを東京に
移そうと、金澤へ帰っていった間に展開される。鏡花の根底のモチーフには、いつも暴虐の有力者と、弱く差別を受けてきた者との対立抗争がある。むろん、禮
吉は露野が献身の愛に心底酬いる立場にあるし、侠気に富んだお光も、また応援してくれる。作者が渾身の魔術師ぶりで絢爛多彩な日本語の幻術を尽くすのは、
先に謂う微妙で執拗な対立を、文芸の秘技の中で「韜晦」しながら書き示そうとしているからででもあろう、か。ちょっと今日には、すらすらは書けない難しい
ところへ、露骨に鏡花は触れている。そこがまた彼の真骨頂で、『由縁の女』にはそれが際だっている。だから、秀作なのに、復刊されにくい。『蛇くひ』『貧
民倶楽部』『化鳥』『風流線』その他数々の名作がある。戯曲は殆ど全部がこれに関わる。根底に蟠るシンボルは「蛇」で、それなのに鏡花研究者の、まだ実に
例外的な人数しか、鏡花の「蛇」には触りたがらない。「蛇」が気味悪くて厭なら、鏡花の「水」「海」「川」「沼」などへ踏み込むべきなのだ。そこに、鏡花
が涙を流した「女」の被差別問題が横たわっているのも識るべきだ、環境や慣習の問題とともに。そういう視野をまるで持てないで、「水」を主題に「女」の問
題をうすっぺらくシンポジウムにしているようでは、仕方がないだろう。いまの日本の「女」問題をふかく取り押さえられないのは、むしろ賢そうな当節の「女
たち」の方だという気が、強くしている。日本の文化は素質的に「女文化」なのだが。このわたしの指摘が、まだ課題として関係者の意識に上ってきていない。
「世襲」問題なども、「いじめ」にも、少しの注意力で根底に「蛇」問題が巻きついていることは分かるはずなのに。木崎さと子さんが、それに気づいて小説を
書いていると知ったことが最近での我が収穫であった。
* 七月二十八日 金
* 午後、東大法文一号館の二階階段教室で、日本学術振興会の「多国語プロジェクト」による「GT書体フォント漢
字六万六千字セット」発表会があり、招かれて出かけた。去年も一昨年も会合があり、そのつど参加していた。今日は、長島弘明君の演説も聴いた。長島君など
と言っていられない、今は東大教授。初めての出逢いは、わたしに、東大五月祭に講演を頼んできた、まだ学生だった。ろくな講演も出来なかったが、カレーの
店の「ルオー」で長い時間お喋りしたのを覚えている。その長島君が、いつか上田秋成研究などでめざましく頭角をあらわし、文通や資料提供などで再会した。
やがて名古屋大学の助教授に、そして東大助教授に、そして教授にと、みごとなドライヴ。何度も資料提供して貰ったり助言を貰ったり、あまつさえ「湖の本」
を最初から購読して貰っている。顔を見たのは、五月祭以来だから三十年ほど経っているが、連絡はずうっと有った。今日彼が話すとは知らなかったので、会場
へ入り、懐かしく嬉しかった。暑い中を出て来た甲斐があった。電メ研委員の坂村健教授にも、プロジェクトリーダーの田村毅教授にも会った。おみやげに、出
来上がりのCD-ROMも文字表も貰ってきた。
* 漢字の数からいえば、坂村さんらのBTRON「超漢字十三万字」が多い。だが台湾で国を挙げてやっているらしい「二
十五史」など、データベースに入っている漢字数は二千万字に上るから、桁ちがいだ。台湾や韓国の事業は、とてつもなく大きいが、東大で仕上げた「GT書体
フォント漢字六万六千字セット」は、日本としてはまずまずの成果であろう。日本語は漢字だけで表現するわけでなく、その意味では「ひらがな」「カタカナ」
「変体仮名」さらには多くの各種「和記号」の便利な「コード標準化」ないし「セット化」が、まだ決定的に不足している。長島教授の専攻の近世文学には、多
くの近世芸能が付随していて、数知れない芸道上の符号や記号がある。どうか、便利なセット化をよろしくとぜひお願いしたい。
歌舞伎番付の「百画尽」の発表など面白かった。画像貼り付けだけでなく、活字版との対照が可能になると有り難い。また
謡曲の上演番付も、分かる限り歴史的に完備して欲しいが。九大の入江教授の手紙では、源氏物語はすでに影印版と活字版との対照のデータベース化が出来てい
る。まだ検索していないが、聴くだに胸が躍る。
そんなこんなで、大変刺激を受けたいい会合だった。東大の建物の歴史を知らないから何とも言えないが、今日の階段教室
などで漱石夏目先生の講義などもあったのだろうかと思いながら話を聴いていた。
ごく近くの医学書院に勤務しながら、この東大は、わが庭のように散歩を楽しみ、たくさんの医書出版の企画や取材をし、
そればかりか文学部国文科の資料室に潜り込ませて貰って「徒然草」を独学した。あのことが無ければ処女長編の『慈子』は、たとえ書いてもまるで別の作品に
しか成らなかったろう。
* 夕食は一人で、和食の店でした。お奨めの三品をセットでとり、腹をきめて、お銚子を頼んだ。びっくりするよう な美女が接待してくれた。日本テレビに鷹西というすこぶる品のいい美女アナウンサーがいて、うちではわたしも妻も大の贔屓だが、その鷹西アナよりまだ綺麗 だった。「GT書体フォント」の一覧表に眺め入って感嘆したり、『チャタレー夫人』をゆっくり読み継いだりしながら、お銚子を一つ追加してしまった。刺身 も包丁がよく冴えていたし、焼き物も、またエンドウ豆をぬたに和えたのも、旨かった。どうしようかと躊躇いながら、白い御飯と赤出汁も貰ったが、この白御 飯の旨いのにびっくりした。あながち接待の人が美しかったから旨かったというのでなく、ほんとうに旨かった。
* 東大に入る前、本郷三丁目地下鉄駅で、「三原堂」の大学最中の旨そうな大きな広告を観て、ちょいと立ち寄り 「一つ」と頼むと二百十円であっさり売ってくれた。これを会の始まる前の階段教室で、持参のウーロン茶で味わったのが楽しかった。「仙太郎」の最中には一 籌を輸したが。
* 「チャタレー夫人」の、ここはこれまでの版では削除の憂き目に遭っていた箇所だなとハッキリ分かるところを、 今日読んだ。よく書けていて、猥褻ではなかった。コンスタンスの深い歓喜、メラーズの優しさが、よく伝わってきた。
* この器械のそばに拡げて、器械での待ち時間などに少しずつ読み始めて惹き込まれているのが『福田恆存全集』第
五巻、今は「道徳は変わらない」という石川達三徹底批判の一文を読んでいる。石川達三は新聞小説『風にそよぐ葦』だったかで子供の頃に名前を覚え、最初の
芥川賞受賞者としても記憶にあったが、なにとなく俗っぽい、それも薄い物言いの人という印象から、ことに谷崎の『鍵』への見当ちがいな発言内容からも、や
や侮り遠ざけていた。その石川達三の「今日のモラル(道徳)への疑問」と題して昭和三十七年四月号「婦人公論」に書かれたものを、福田さんが断固として解
析し批判し非難し尽くしている。まことに、手厳しいが当然の批評なので、少しも読みにくくない。どんな時代にも軽薄に時流に便乗して「かなひたがる」人は
いたのである。やっぱりそうだったんだと、福田論文にすっきりする納得があった。
本当に読みたいのはこの巻の巻頭、『批評家の手帖』なのである。これを楽しみにしている。
* ホームページに満足していないで、外へも書いて欲しいとメールで読者から叱られた。わたしは、三十余年の作家
生活で、自分から仕事を売り込んだという例は一パーセントにも遙かに満たない、無かったに近い。頼まれて、題目が納得できれば引き受け、無理が有れば受け
なかった。こつちから、もっともっと持ち込むことは不可能ではなかったと思うし、今でも不可能ではないだろう。それをしないのは、言われなくてもハッキリ
している、わたしがモノグサで、すこし傲慢なのであろうと思う。もともとから投稿ということに背をむけ、私家版へ決意を籠めた。「世に背き背き」やって行
きたいとあんなに早く中学時代の親友に書き送っていたことなど忘れていたが、送り返してくれた過去の下手な字の私信をみると、まちがいなくそう書いてあ
る。ほとんど、これがわたしのビョウキなのだなと思うのだ。「二学期」のうちは癒るまい。「三学期」にはいったら新しい歩み方を工夫しよう。しかし先日、
六十五歳で二学期を修了しますよと言ったら、山折哲雄さんに「早い」と首を横に振られた。七十歳でいいでしょうと。ビックリし、少し恥じ入った。
* 七月二十九日 土
* お招きで、芸術座の、曾野綾子原作「戒老録」を観てきた。淡島千景、山田五十鈴、三橋達也、丹阿弥谷津子、そ
れに池上季実子といういい顔ぶれなので、楽しめるのではないか、笑わせてくれないかなと思っていた。期待は酬われ、くだらない通俗芝居ながら、淡島千景は
美しく悠然と芸達者ぶりを発揮して、往年一世を風靡していた演技力を想い出させてくれた。山田五十鈴は例の凄みのある把握で役をこなして、したたかに笑わ
せたし、丹阿弥は、たぷたぷとした芝居で場面をかっさらう妙味を見せた。そして我々が贔屓の池上季実子は、テレビドラマの芝居とは打って変わった、舞台の
カンドコロを掴んだ演技で、大いにからだの動く芝居をしなやかに溌剌と見せた。わたしも妻もこの女優のいかにも天性の女優根性を高く評価してきたが、期待
は裏切られなかった。いいワキを適切に好演した。だれよりも意外に良かったのが、三橋達也。そう旨い俳優ではないが、というのも台詞に難があるが、今夜の
役はかえってそれもプラスし、老年のやつれと当惑と色気とをうまく表現し、演技賞ものであった。
昔、「花・咲」とうたわれた大仲よしの芸妓の、その一人咲(淡島)の男(三橋)を、もう一人花(五十鈴)がさらって、
駆け落ちしてしまうということがあった。その花の息子(太川陽介)と、咲の娘(池上)とが、愛し合い結婚し、結婚の条件に若い二人は両方の母親とわけへだ
てなく仲良く、四人同居して生活しようと約束が出来ていた。若夫婦は、夫の母親が、妻の母親の久しく仇と怨み憎む花子とは、まるで知らなかった。母親同士
もそれを知らなかった。咲は、男と友とに裏切られて後に、他の男と結婚し娘を得ていた。花も男に捨てられ他の男との間に息子を得ていた。二人ともとうに連
れ合いを喪っていたのである。そして、あれやこれや、事件が起き場面が動いて行く。さほど見苦しくなく、しなやかに自然だったのがけっこうであった。
まあ、何とも致しようのない通俗ドラマではあった。原作が通俗なのか脚色がそうなのか、知らない。両方かも知れない。
そのわりに、こんなシロモノも、演技陣が充実するとこうなるかと思うほど、批評的ないい笑いに自然に巻き込まれ、大い
に楽しめたのだから、一夕、儲け物のご招待であった。芸術座は便利がよくて有り難い。感動はしなかったが、からっと乾いた笑いで気分を軽くした。「戒老
録」などという気色の悪い題名のことなど、すこっと忘れて観ていた。そうだと、脚色が成功していたことになる。
* 七時半にはハネたので、向かいの帝国ホテルの、静かな「ザ・クラブルーム」でゆったり休息し、久しぶりにシー
バスリーガルを、ストレートのダブルで三杯も、しみじみと堪能した。旨かった。食事もとりどりに注文し、帆立も、サラダも、サーモンも、クラブサンドイッ
チも、みな旨かった。「クラブ」は空いていた。佳いサロンを殆ど夫婦で占めて、観劇の肩の凝りなどすっかり取れるまで、時間かまわず腰を据えていろんなこ
とを話していた。
銀座を散策、パンを買ってから、有楽町線で帰った。こういう一日も有り難い。
* 七月三十日 日
* 電子メディアの差別事情
デジタル・ディバイド、要するに電子環境下での受益格差または差別の問題が、急角度に頭をもたげ始めている。受益とは
オーバーな言いようながら、大あり小あり、しかし無視できない。
電子メールの便利に慣れると、用事の交信だけでなく、私信の交歓でも、つい器械の使い合える同士が優先される。大事な
友だちも、その人がメールに馴染んでいない、パソコンや携帯電話とは縁遠い暮らしだと、比較の問題だが、つい間遠になり、疎遠になって行きかねない。真夏
のギラギラ照りの下をポストへ郵便を出しに行くのは、老齢、ラクでは
ない。手書き、宛名書き、切手の用意、みな、なかなかの手間だ。パソコンが、むしろ高齢化社会の利器かといわれる意味
は、使い始めれば納得できる。いながらに交際を温め、世界を覗いて駆けめぐれ、調べ仕事にも、広範囲に、素早く、貴重な史料も入手できる。
すでに手書き原稿を持ち込むとイヤな顔の出版社・編集者が増えている。日本ペンクラブ理事会は、入会資格審査に「電子
の本」も「著書」と認めると、画期的な新たな判断を示した。それはいい。が、従来は「紙の本」「手書き」でなければとしていたのが、いつか「電子の本」
「電子書き」でなければと、「デジタル・デバイド」が横行することも考えられる。器械を「使わなくてもいい」が、せめて「使えるように」して置いた方が
と、作家予備軍のみならず、高齢文筆業者にも、奨めたい。但し視力は大切に。
* エシュロン、知ってますか
米国軍は、グローバル(地球大)にあらゆる個人(正にあなたもわたしも)の電子交信までを傍聴・盗聴・記録し、世界戦
略に備えていると、精度の高いレポートをテレビ朝日のニュース番組が放映していた。日本の三沢基地にもとうに物凄い設備が出来ている。
このような諜報活動ないし組織=エシュロンは、第二次大戦以来米軍が渾身の力で行ってきた事業の、途方もない拡大継続
であって、現に、おそろしいほど大規模な盗聴設備のネット網は世界に張り巡らされている。
そんなことが可能かと考えるだろうが、金とその気と、それに必要な、例えば暗号解読の語学者や数学者ら優秀なスタッフ
をもてば、技術的に十分可能、とくべつ困難なことではない。普通の人間の神経ではそこまでやらないし、やれないだけの話で、軍や國の意志になれば、やれて
しまう。ま、盗み聴きは人類悠久の業の一つなのだ。
この前の日本やドイツの敗戦も、要するに軍事情報を筒抜けに傍受し暗号を解読していたアメリカに負けた。エシュロンの
やっていることは、そのそっくり延長であり、「超」拡大なのである。これは、はっきりと、アメリカという独善超大国による地球人への人権侵害であり、露骨
な戦略行為であり、平穏な生活環境の蹂躙なのである。人権問題でアメリカが中国へイチャモンをつけていたことなど、チャンチャラ可笑しい話なのである。
世界平和と人権・環境問題に殊に熱心なわが国際ペンや日本ペンクラブは、例えば三沢基地でのそのような徹底した盗聴行
為に対し、どんな判断をもつのか。
* 七月三十日 つづき
* 『廬山』をクライマックスに近くまで書き込んできた。『慈子』の朱雀先生には、今日は、今では少し知る人は 知ってくれている「畳目」や「湯に浮かんだ豆粒ほどの肌」を通しての、時空間論、歴史論を聴いた。「廬山」や「慈子」の頃に一心に考え手探りしていた死生 観から、まだ自分がそう遠くは来ていないとつくづく思うと、心細いような、気の遠くなるような気がする。それにしても、何という憧れ心を抱いてわたしは創 作していたかと、少年に返り青年に返って胸を轟かせることが、まだ、出来る。それが嬉しい。いつまでも「劉」少年の廬山にさまようように生きて行くしかな いではないか。
* それにくらべて大河ドラマの家康といい淀殿といい、あんなのが、なにが羨ましろう。バカなやつらだ。せいぜい 得たのは権力と栄華。そんなものは槿花一朝の夢にすぎない。劉に廬山があり、「私」に慈子があった、その方が万倍も幸せなのだ。
* 妻にも、メールやインターネットが使えるようにと、階下に置いた器械を台所へ譲り、さて、設定やら何やらして やろうと、気張って触れば触るほど、器械の調子がガタカダに崩れだし、インターネットはどうにかなったが、メールは仮パスワードまでついたのに、使い物に ならないだけでなく、バックアップに大切なわたしのホームページ転送用のソフトを、どうしようもなくこじれさせてしまった。ウンウン唸るばっかりで「先輩 の権威」はぶざまに失墜。やれやれ。愚か者の毎日である、なんとなく、ゆるしてもいる。夏ではないか。夏休みがあってもいい。
* 昨日の夜遅く、一人で、吸い込まれそうに観た、「小倉遊亀百二歳の梅」の、繪を描く遊亀の眼の毅さ、視線の深
い輝きに、惚れ惚れした。絵筆の先の、じいっと空にとまって顫動しつつ画面にひたと真向かっている、美しさ、烈しさ。もっとも、小説を書くのは、必ずしも
ああいう集中とは同じでない。あれとこれとを一緒くたにしたためのお粗末な議論が、石川九楊氏の「書と文学」との混線混同であった。
もっとも、繪を描く人もピンからキリで、中尾彬というタレントが、一枚の小さな画を十五分くらいで描いて、そんなのが
一点十万円で右から左へ売れて行くなどと吹くのは、たぶん事実なのだろうが、優れた画家の営為とそんなのとを一緒くたには絶対に出来ない。純然芸術的に仕
上げられた小説と、通俗で低俗な読み物との違いに等しい。中尾はとくとくと人の目の前で「彫ってあげる」と篆刻のまねごとをして見せてもいたが、大道芸よ
りも程度のひどい、がさつを極めた「刀」の使いようで、彫り汚さ、おはなしにならない。印は、ただ実用のハンコではない。線の冴えに命を籠める藝であり技
巧なのだ。こういう手合いが安直に芸術を語り人生相談に励む。ま、それもこれも「芝居」なのだと思えば、芝居の巧いヘタは兎も角、見過ごすことが出来る。
しかし、通俗低俗なものを尊ぶ気にはなれない。
昨日観た芝居も、一夕の「娯楽」として楽しんだけれど、それだけのもの、それ以上には何も感じない。娯楽もむろん必要
なのである。だが、娯楽は娯楽。通俗は通俗。
だがまた、演技者には、与えられた台本をどう演じるかというべつの課題があり、それが務めであるから、わたしは、山田
五十鈴や淡島千景や三橋達也らの老練を、それなりに「藝」として評価する。寺島信子のような端役でもじつにうまい役者がいると、拍手を惜しまない。そうい
う「演技はただの娯楽ではない」から、お安い芝居でもまた楽しんで観ていられるのだ。歌舞伎でもそうだ。
* 七月三十一日 月
* 金融再生担当大臣が、ただもう唖然とする企業利得の莫大さで、更迭された。前にも同じポストの「手心」大臣がクビに
なった。なにを考えて大臣に推薦し任命しているのか、バカにするもホドがある。
森は、記者会見でも、ろくすっぽまともに対応せず、八百長指名で、質問内容にすでに用意の出来ている記者ばかりを選ん
で質問させている、そう見られているという。記者の中に、「お答え指導」をしているのが現に実在したことも分かっているという。何という情けない総理大臣
を国民は「お荷物」にしているのだろう。
猪瀬直樹君はよく、記者クラブ記者たちの特権的動脈硬化をわたしなどにも痛嘆するが、分かる気がする。新聞やテレビ
が、概ね、いや殆ど、真に警世の木鐸たり得てこなかった明治以来の歴史は、われわれの國が、まだまだ未成熟で、自覚も勉強も誠意も足りないことを証しして
いる。
* 北海道から「雷電」という珍しい名前の、それはりっぱなメロン二顆が、暑気払いに贈られてきた。ピアニストで ある名古屋の元学生君は、清酒「久保田」の逸品をえらんで、やはり暑気払いにと贈ってきてくれた。
* 雷電という名の果実
hatakさんお元気でしょうか?
北海道には梅雨がないといわれていますが、ここ一週間ほど、ぐずぐずとした天気が続いています。
北海道は、日本では数少ない土地利用型(大規模ということですね)農業が実践されている農業先進地域といえますが、天
候には勝てず、この雨で夕張のメロンや、収穫間近の麦に大きな被害が出ました。
こういう折りに、ぜひ他の産地にがんばってもらいたいものだと思いまして、積丹半島の雷電というところでできたメロン
をお送りしました。美味しそうな形と、雷電という名が気に入りました。
今年は日蘭国交400年記念の年だそうですし・・・・
私は、早く新しいテーマを決めろと催促されながら、永く取り組んできた仕事の論文も書いています。
この仕事を止めても、おそらく誰にも咎められないと思います。オブリゲーションの課せられていない仕事も続けているの
は、一つには研究公務員としての矜持があります。ここでやめては税金をどぶへ捨てることになります。
さらに、「国研(国の研究機関)の研究テーマは組織に付属するものであって、属人的なものではない。したがって、人事
異動があって研究者が交代しても、研究の遂行には何ら支障は生じない」という空洞化した建前で人事を行っている人たちへの強い懸念もあります。前任地で私
の取り組んでいたテーマは、現在担当者なし、来年は中止になる運命です。組織が対応しないで研究が棒折れにされてしまうのは残念無念です。
うれしいこともありました。
先月カナダで開かれた学会に出席(私費で)したのですが、その席で、いろんな国の大学や農務省の研究者たちが、私の研
究のオリジナリティをとても高く評価してくれ、今年の秋にツアーを組んで日本を訪れ、現地調査とシンポジウムをしたいと申し出てくれたのです。
申し出自体はとてもうれしく、研究者冥利につきるものでしたが、その後が大変でした。
なにしろ彼らが訪問したいのは私の前任地で、私自身はいま遙かに離れた別の研究所に移籍しています。研究機関には縄張
り意識があって、たとえ前任者であっても、他の研究所の職員がよその研究所でシンポジウムを開催することなど、簡単にはできません。紆余曲折があって、よ
うやく会議室は貸してあげるというところまで前進しました。北海道の
研究所からは、出張旅費を引き出すこともでき、これからコーディネートに忙殺されますが、気分は悪くありません。
自分が老いて、たとえば老人用の施設に入ったとしますね。それを想像すると、大変寂しい気持ちがします。
でも、最近は、緑の見える窓際で、ネットサーフィンをしたり、メールの交換をしたりしている自分の姿を想像して、少し
気が楽になっています。私にとっては、電話より、手紙より、メールが重要なツールになっています。新聞も、辞書も、ネット上にあります。我が身になぞらえ
てみて、パソコンが高齢者社会にフィットしているという秦さんのご指摘は深く共感できます。
長くなりました。では、また。
* まだ「老後」を考える人ではない。ご苦労もいろいろ察するが、内懐は深く豊かで、素直な意欲に満たされた青年 なので、わたしは安心し声援している。國の政治や政策が、こういう真摯な才能と意欲とのために聡明に働いてくれるといいのだが。嘆息を禁じ得ない。
* 湖の本にポンと一万円送ってきてくれた、また別の男子学生君に、メールで礼を述べたら、さらりと返事が来た。
* 秦さん。お久しぶりです。
機械の調子がおかしいので、別のアドレスから送信します。わざわざメールして頂いてありがとうございます。
いつも本を送って頂いていて、ついつい送金が遅れ、すみません。私が読み終わった分は、実家の母に送って、読んでも
らっています。
名古屋の暑さにも、慣れてきた気がします。ただ、実際の職場は50℃近くもあるところで、一方事務所、寮の部屋などは
冷房がかかっていますので、施設内ではあまり気温の高さは感じないのかもしれません。東京のほうにも、そうそう帰れるほど、時間もお金も余裕がないので、
もう東京と比較できないです。
>
> 元気にしていますか。なにか書いていますか。器械にでもいいから、
>わたしの「私語」 程度に気儘でいいから、時折にでも、断続してでも、
> 自分で自分に「挨拶」してみるのもいいですよ。一日に五分で足りる。
>
最近、ホームページを作って、そこに日記のように書き込んでいこうかと思っています。何かにでも、書いていかないと、
日々が無為に過ぎていっているようで、心が落ち着きません。
同期で会社に入った友人たちも、それぞれ一年経過して、戦力として仕事も忙しくなってきて、話したり、遊んだりする時
間がなくなってきているので、さびしくなっているのかもしれません。
そうですね。一日5分でもいいのですが、継続してやっていけるといいと思います。自分はなかなか小さい頃から「継続し
て」が苦手で、ほとんど続かないので、心配ですが。
> 京都へも行っていますか。あそこの夏もじりじりとそれは暑いが、
> 山が近くて緑陰ににげこめます。逢いたいな。夏バテせず、元気でね。
>メールはいつでも遠慮なく、どうぞ。 秦 恒平
京都に、行きたいです。好きな土地です。4年生のころに、ハワイに行くのに、わざわざ伊丹発着で行って、真っ黒
になって日焼けもいいが痛いところで、京都に行ってきたのが最後です。不思議と落ち着きます。住んだことがあるわけではないのですが。
秦さんこそ、夏バテせずに、元気でいてください。
私はヘルニアになっていたらしく(高校生の頃から腰痛だったのでいつからかはわかりません。)職場で気を使ってもらっ
ています。恐縮です。でもうちの職場で腰を痛めていない人はいない状態なので、仕事が少しは引き金になっていたのかもしれません。今は大分よくなりました
が、特に治療法もないようで、痛くなったら安静にしているしかないようです。
お茶の本=『茶ノ道廃ルベシ』。大分最近身にしみて感じています。5月から私は茶道部の主務になって、いろいろ雑用を
こなしているのですが、先生と接していると、時々思い当たることが多くあります。30年近く前に、お茶とお花の先生になって、会社を辞めた方なのですが、
先生も食べていかないといけないし、先生という職業なんだから、仕方ないのかとおもいつつ、主務なんてやらなければ、こういう面も見えなくてすんだのに
と、少しいやな思いをしています。
肝心のお点前の方は、あと30年くらいやりつづければ、一人前になれそうです。
お茶を飲んだり、お手前をしたりしているときは、とても気持ちが落ち着きますし、楽しいので、頑張ります。
お大事に、してください。
秦さんに気にかけて頂いていて、うれしいです。ありがとうございます。
* 転送ソフトの不具合で愚痴をこぼしたら、早速田中君からリモートコントロールの助言が届いた。これから試みて みよう。ありがとう。
* ゆうべは明け方までとっかえひっかえ本を読んでいたが、『直哉書簡』がひとしお面白かった。有島壬生馬と武者
小路実篤と最も深い心交のあった時期で、「白樺」創刊も胎動している。直哉は雑誌にとくに熱心ではないのだが武者小路を世に送り出すために有効で必要だ
と、応援の一意から積極的に賛同へ動いているなど、実に気持ちがいい。山内英夫(里見?=壬生馬や有島武郎の弟)との親交も始まっている。率直で清潔。青
年の気迫も、また怠惰も意欲も、混在して自由。ま、自由の利く人たちではあるのだが。壬生馬を介してロダンと接触したり、セザンヌらに関心を強めたり、直
哉らの共通した美術や美への愛好心にも目がとまる。いま、わたしは直哉世界を「呼吸」しているみたいだ、森林浴のように。
* 平成十二年 八月一日 火
* 八朔。京の芸妓は白い衣裳で挨拶に回ったものだが、今ではどうか。
風がある。南の島々では烈しい、そうじつに烈しい地震に見舞われ続けている。気の毒でならない。
* 街にちょっとした所用あり出かけようとしたが、あまりのギラギラ照りに辟易し、器械の前にはりついている。
* ゆうべ夜遅くのテレビで、京舞井上八千代と孫の三千子との家元継承をめぐる特集番組があり、妻と、釘づけに
なって観た。「虫の音」という、ひょっとして謡曲の「松虫」に取材しているのだろう、秘奥の曲を三千子が八千代に習い続けていた。見るからにすばらしい地
唄舞であり、教える祖母が真の名人。習う孫娘は幼い頃からの逸材であり、もう四十二歳、五世井上八千代を継承の間際なのであるから、はりつめて豊かな稽古
のさまは、ブラウン管越しにも息を呑ませる、清浄で厳粛な境涯であった。祇園は、まさに我がふるさと。白川にせよ女紅場や歌舞練場にせよ、また観世=井上
家の内も外も、わたしには身近に懐かしい故郷の一場面なのである。
八千代はんの家は、育った我が家からほんの少し西にあり、文字通りの御近所だった。息子の慶次郎さんは同志社美学の先
輩で、今は観世流のシテ方。慶次郎さんの兄が片山九郎右衛門で京観世の元締めである。三千子さんはその娘。
井上家の前では、戦後、夏ごとに盛大に盆踊りが楽しめた。井上家からは大笊にカチワリの氷が出されて、踊りの輪がそこ
へくるとさらって頬ばり、またまた踊り続けた。わたしは盆踊りの大好き少年で、自分の町内だけでなく、いたるところへ踊りに遠征した。またそれほど戦後の
一時期には爆発的に町々に盆踊りが盛んだった。八月だ。地蔵盆、大日如来盆の八月下旬が、踊りの真盛りだった。
瑞穂踊り、京都音頭、東京音頭、三味線ブギ、炭坑節、真室川音頭など、順不同だが、いろいろあった。速いのも遅いの
も、変則の足踏みのもあった。何でもよかった。晩になると、ジッとしていられなかった。小学校時代はまだ闇市の時代だったから、みな、弥栄中学時代のこと
だったから、昭和二十三年から五・六年ころが盆踊りの盛りだった。少女美空ひばりがすばらしい勢いで出てきていた。天才だった。
* このところ、また美空ひばり番組が人気で、それも当然、選りすぐりの曲を最高の時期の映像で再現されると引き
込まれてしまう。どんな現役の他の歌手が突き当たっても紙屑のように吹っ飛んでしまう。「愛燦々」など、言葉のすみずみまで正確に微妙に美しくイメージを
引き出して発声し唱歌している。至芸であり、言葉を読み込む優しい深みは絶妙である。彼女の曲の大方は愚劣なほど歌詞低俗だが、歌唱の表現力は、優に天才
の芸術たりえている。
それをわたしは謂うのである、くだらない芝居でも、いい演技者のいい演技は生きるのだと。「戒老録」という芝居は、何
の感動ももたらさない通俗娯楽ものだったが、演技者の演技はそれと関係なくというか、それを超えて、ちゃんとしていたし、だから芝居見物を投げ出しもせず
楽しめたのだ。テレビ番組にも映画にもそれはある。下らない中身だがあの俳優はなんて巧いのだと感心していたりする。
* 八月二日 水
* 気の乗らない一日だった。なんとなくなんとなく過ごした。
国会の予算委員会のやりとりを、主として菅直人の質問を、かなり気を入れて午前も午後も聴いた。金融再生委員会のいい
かげんな姿勢にウンザリした。菅直人は、よく的を射ていた。
* 京都の宇治市在住の仏獨現代文学の元教授の幻想性のある伝記的な小説の分厚い本を贈られた。なんと贈られたの
は秦恒平でなく、「繪屋槇子」「安曇冬子」に、と巻頭に献辞が挿し入れてあった。槇子は『みごもりの湖』の、冬子は『冬祭り』の、ヒロインたちである。こ
ういうことは初めてであり、彼女たちのために悦んだ。
埼玉県大宮の、久しい熱心な読者である女性詩人も、県下の興味深い「伝説」にことよせた考証や感想や詩的な随筆をまと
め、一冊にして贈ってこられた。「釆女考」は中でも力作だった。
* この数日、佐高信氏とテリー伊藤氏が、対談で、徹底的に公明党と池田大作を筆誅批判し尽くした本を読んでい
る。文句があるなら法廷で争ってもいいくらいな堅固な確信で対談され、編成されていて、対談の合間に何人かのジャーナリストたちのレポートや論考が挟んで
あるのが、どの一編もじつに読ませる。
創価学会と公明党に対しては、終始、眉に唾をつけて眺めてきたし、直接にも、或る経験をわたしはもっている。昭和三十
六か七年頃であった、お世話になった母系家庭の孫娘が心臓を病み、手術の必要有りと当時の権威である榊原仟東京女子医大教授の執刀が決まっていた、のを、
創価学会に入信まもなかった患者は、学会のつよい示唆で、間際に手術を断り、そして呆気なく悪化し死んでしまった。榊原先生にお願いして欲しいと頼まれ、
その手はずを調えたのは医学書院に勤めていたわたしだった。その当時は、よくある話だった。「折伏」の叫ばれた時代だった。
佐高・伊藤氏の本を、ともあれ、大勢に読んでみてもらいたいと思う。判断は読者に委ねたい。
* きょう、おおざか、浪速男と京女のハーフの友人の話です。
父は大阪弁、母は京ことばで、「おおきに」と「さいなら」を聴かせてくれたのだそうです。「き」にアクセントと、
「お」「き」にアクセントの違い。
大阪生活の長いお母さんは、「(京都の)妹の、<そぉかぁ>が腹立つわぁ」とおっしゃるそうですの。大阪
の「そぉかぁ」と違い、"聞いてますよ"という振りをして、聞いていない、または、後で悪口を言うんじゃなかろうか、と思わせる、京ことばの「そぉ
かぁ」、だそうですわ。
こちらは昨日午後、見惚れるほど大粒の雨が降りました。
* 歌舞伎の中村扇雀が、どこかで、京言葉に触れて話すか書くかしていたという読者の情報に、もう少しくわしく知
りたいと問い合わせたら、いっそ扇雀さんにじかにお聞きやすと、扇雀丈のメールアドレスを教えてきた。そのついでにこんなことを書いてきて呉れたのであ
る。ボキャブラリイではない、「物言い」を聴かないと分からないのが地言葉の難しく面白いところと、口を酸くしてわたしの言ってきたのが、これだ。
* 八月三日 木
* 鏡花『由縁の女』を読み終えた。二度目だが、印象を大いに新たにした。作者の憧れ心が過大なまでに浪漫的に幻 想的に情緒的にもちこまれて、徹している。淫している。鏡花の強みであり、人によりそれが躓きの壁になる。何度も言うが、句読点に頼って無心に音読すると 鏡花文学は楽しめる。まさしく音楽であり、文楽である。「文学」などと表記したのが間違いだったのではと、毎度のように痛感する。「文楽=ブンガク」でよ かったのだ。いまもし音楽が「音学」と表記されていたら、こんなにも人の楽しみになり得ていたかどうか。
* 年のせいか、この気短かなわたしが言うのは滑稽じみるが、せっかちに神経質なのが、年毎に苦手になっている。
ちくちくした物言い、せかせかした物言いがイヤになっている。率直はいい。可愛らしく囀るのもいい。だが、裏に意味のある物言いをされ、分からなければ何
でもないが、分かってしまうと鬱陶しい。短波放送がいやなのだ、おっとりした長波の物言いが聴きやすいし、有り難い。いっそアバウトなほどおっとりしてい
るのが尊いと思うこともある。NHKの森田美由紀アナのアナウンスを、わたしも妻も永年愛してきたのは、おおどかに心優しい笑顔と物言いに、思わず和むか
らだ、気持が。根は優しい人なのに、物言いで、損をしている人っているものだ。
それにつけて、「地」と付き合うのはむずかしいものだと思う。アランだったか、人間は、素裸なのが本来か、衣裳をつけ
たときが本来かと論じていた。議論のあるところだ、が。地金は、地金だ。むき出しになっているのを、いいと思える人も時もあれば、逆もある。率直に書いて
いるが、わたしの「地」は、安易に見せてはいないつもりだ。矛盾しているとは考えていない。
* フジテレビ「孫」の放映が、明日の晩に近づいてきた。秦建日子が、どこまで書いたか、ぜひ観たい。
* 八月四日 金
* この「私語」にも批評はあろうけれど、我が「作品」のこれは大きな一つであり、量が莫大なので通読するのはた いへんだが、どこをどう拾われても、「作家秦恒平の生活と意見」で満ちている。この日録一つを、繰り返し愛読してくれる読者も現れることだろう。荷風の日 記でも直哉の日記でもない。私の表現である。
* 建日子 二時間ドラマ「孫」観ました。まずは大過なく終えたことを祝います。
ドラマの出来映えと、脚本の出来映えとを、分けて考えざるを得ませんが、私の評点では、題材と役者の力とで前者がずっ
と高く、後者の脚本には、注文がかなりつきます。
導入部に時間が掛かりすぎ、その分、テンポのゆるさが、写真の「説明的」傾向を招いていた。平凡な写真が、前半にかな
り多く、全般にも多く、そのために、「おおっ、これはナミのドラマではないな」と感じさせるより、ナミのホームドラマに「やっぱり近い」と思わせる通俗さ
が目立った。脚本技巧の残念な平凡さです。意外性も、きらめく表出も、殆ど無かった。「演歌的現実との妥協」がわりと容易く為されていて、惜しい気がし
た。むろんターゲットになる視聴者の年齢層などを考慮した妥協でしょう。だが、願わくは作者は、内心にそんな平凡な妥協を「悔しい」とくらい深く藏いこ
み、いつかは全力で、妥協もなく、分かりにくくもない、佳い作品を成してやるぞと奮起して欲しい。言い訳したい中身は、聴かなくても察しがつく。だが、胸
の内の「水位」を、「志」を、しっかりと高く維持していて欲しい。
東北の人たちの描き方が、とくに安易で良くなかった。もっと等身大に、平静に話しもし、振る舞っていいのでは。そうい
うところが、あの「北の国から」での人間描写とちがう。違いすぎる。きみの、あれでは、東北の人たちは不快だろうな、いかにも騒がしい田舎者にされて。と
ころが田舎にも、落ち着いて、静かな、クレバーな日本人は多いのです。むしろ東京人のほうが概して浮薄で騒がしいぐらいだ、我々も含めて。
もう一つ、看護婦の冷静なようで感情的なきつい演じ方、も一つも、も二つも、良くない。どう良くないかは、わかってい
ると思う。
いかりや、柳葉、七瀬は、役を巧みに、かつ真面目にこなしていた。それと、あとで出た担当医が、とてもよかった。あの
医者の等身大に堅いぐらいな芝居が、ドラマのリアリティーを、よほど大きく担保してくれた気がします。元職がら、医者や看護婦は、ずいぶん多く見てきたし
付き合ってきた。あの医者は現場から借りてきたかと思うほどリアルだった。幕開きの方の産科医の方が、温かい感じの分、むしろツクリモノになってシンド
かった。むずかしいものです。
「表現」しないことの言い訳に、視聴者には「説明」が必要だと謂い、「説明」過剰の言い訳に「表現」していては分からな
いと謂い、いつでも表裏同じの逃げ道を持ったテレビ脚本家という「立場」の安易さ。これが、創作者としては怖い。ややこしい「制約」の上で仕事をしている
のは分かっている。その上で、一人の創作仲間として、「仲間褒め」しないようにと、わたしが敢えて言うている真意を、汲みたまえ。
終わり無き、道程。謙遜に、もっともっと意欲的に大胆に歩んで下さい。
そんなところです。いい機会を得て、いろいろと考えたろうと思います。きみのホームページに、どんなことをきみが書く
か、楽しみだ。 父
* 復刊される「能楽ジャーナル」創刊号の巻頭に贈ったエッセイを校了したので書き込んでおく。
* 能の天皇
天皇を中心にした神の国という国体観で、われわれの総理大臣は、厳かに、勇み足を踏んだ。踏んだと、わたしは思うが、
思わない人もいるだろう。
能には、神能という殊に嬉しい遺産がある。「清まはる」という深いよろこびを、なにより神能は恵んでくれる。それでわ
たしは行くのである、能楽堂へ。神さまに触れに行くのである。
神能に限ったことでなく、数ある能の大方が、いわば「神」の影向・変化としての「シテ」を演じている。そういう見方が
あっていいと思う。シテの大方は幽霊なのだし、たしかに世俗の人よりも、もう神異の側に身を寄せている。そしてふしぎにも、あれだけ諸国一見の僧が出て幽
霊たちに仏果を得させているにかかわらず、幽霊が「ホトケ」になった印象は薄くて、みな「カミ」に立ち返って行く感じがある。みなあの「翁」の袖のかげへ
帰って行く。その辺が、能の「根」の問題の大きな一つかと思うが、どんなものか。
能には、神さまがご自身で大勢登場される。住吉も三輪も白髭も高良も杵築も木守も、武内の神も。また天津太玉神も。そ
れどころか天照大神も、その御祖の二柱神までも登場される。能は「神」で保っているといって不都合のないほどだが、但し、いずれも「天皇」制の神ではな
い。それどころか、能では、いま名をあげた神々ですら、天皇にゆかりの神さまですら、それまた能の世界を統べている「翁」神の具体的に変化し顕われたもの
のように扱っている。イザナギ、イザナミやアマテラスが根源の神だとは、どうも考えていない。或いは考えないフリをしている。「翁」が在り、それで足ると
している。そうでなければ、歴代天皇がもっと神々しく「神」の顔をして登場しそうなものだが、だれが眺めても能舞台にそういう畏れ多い天皇さんは出て見え
ないのである。
隠し芸のように、わたしは、歴代天皇を、第百代の後小松天皇までオチなく数え上げることが出来る。お風呂の湯の中で数
を数えるかわりにとか、最寄り駅までの徒歩が退屈な時とか、今でもわたしは神武・綏靖から後亀山・後小松までを繰り返し唱えるのだが、後小松天皇より先
は、全然頭にない。出てもこない。少年時代の皇室好きも、南北朝統一の第百代まででぴたり興が尽きて、あとは群雄割拠の戦国大名に関心が移った。観阿弥や
世阿弥の能は、この後小
松天皇の前後で書かれていたはずだ、が、舞台の上に「シテ」で姿をみせる在位の天子は、たぶん「絃上」の村上天皇ぐらい
で、ま、「鷺」にもという程度ではないか。崇徳も流されの上皇だし、後白河も法皇である。崇徳も安徳も「中心」を逐われた敗者であり、村上天皇ひとりがさ
すが龍神を従えた文化的な聖帝ではあるが、森首相のいうような統治の至尊でなく、いわば優れた芸術家の幽霊なのである。
歴代天皇の総じて謂える大きな特徴は、この文化的で芸術家的な視野の優しさにあった、またそういうところへ実は権臣勢
家の膂力により位置づけられていた。その意味で、森総理の国体観は、意図してか無知でか、あまりに「戦前ないし明治以降」に偏していて、天皇の歴史的な象
徴性をやはり見落としていると謂わねばならないだろう。
総理の執務室に「翁」の佳い面を、だれか、贈ってはどうか。
* 八月五日 土
* 一水会の堤ケ子さんから、スペインで描いてきた水彩画小品を、額に入れて、戴いた。高校以来の親友で後輩であ
る。もともと図案を勉強し、商品にもなったいろんなイラストを世に送ってきたが、三十年ほど前から油絵を始め、また水彩も始めて、個展も、グループ展も、
何度か開いている。わたしからは、まだ何度も褒められていないけれど、誠実に歩み続けている。好もしいことである。
大作は、貰っても掛ける場所がない。いつ知れずいろんな方から頂戴した繪は多くなり、繪手紙の元祖格で名を上げた小池
邦夫さんの繪も、メキシコで大いに名を高くした島田政治さんの繪も、『親指のマリア』の挿し絵を描いてもらった瑶邨画伯の孫の池田良規さんの裸婦図も、高
齢でなくなった徳力富吉郎さんの鮎図も、もう故人であるが俳優嵯峨善兵さんの遺作も、愛蔵している。日中文化交流協会理事長だった宮川「杜良」先生の洒脱
な繪も、巻いた繪のまま在る。天才少年と謳われた細川弘司君のみごとなデッサン数点も大事にしているし、なにより、叔母の遺してくれた古画、また、栖鳳、
五雲、竹喬、印象らの軸物も大事に愛している。
繪を掛ける、掛け替えるのは、とても楽しい。作品にふさわしいほどゆとりある壁面でも家屋でもないのが気の毒だが、そ
れだけは致し方ない。
* 北海道から到来のメロン「雷電」が、じつに旨く冷えて、腹の底から賞味し楽しんだ。感謝。
* 『廬山』をホームページの「短編選
2」に書き込み終えた。思えば偶然ながら、これは、わたしの書いた「孫」でもあった。初期の代表作と言われた短編を、これで三つ、『清経入水』『蝶の皿』
『廬山』と書き込んだ。これだけで、十分な一冊になる。それぞれに、趣は著しく異なりながら、底では作者のモチーフに深く繋がれている。まだ、あとの二作
の校正が出来ていない。『廬山』に文字コードを欠いて再現できない漢字がかなり有る。文字セットから貼り付けても、?マークの出てしまう字も随分ある。実
に残念だ。こんなことでは仕様がないと言うのだ。文字セットからの貼り付けだけではダメなのだ。同じセットソフトを持たない先へは送っても化けるか送れな
いか、どちらかだ。完全な漢字の文字コード化こそが必要なのだ。画像の貼り付けで足りているという人の場合は、目先の目的が限定されているのであり、誰に
も、何処にも、平等に、不足な九という融通性をはなから諦めている。そんな姿勢は、豊かではない。
* 八月六日 日
* ゆうべ、題名も忘れた、日中だか日台だか合作のような、角川書店が後押しの映画を観た。金城武とかいった若い
俳優がかなりしっかり演じていて、出だしなど、気迫のこもった写真でじりじり進めてゆく粘りっ気など、みどころがあった。新宿歌舞伎町の、まるで中国租界
のような環境を舞台に、中国マフィアの暗闘もからんだ話。話そのものは珍しくないが、腰の据え方、落とし方に個性は感じさせたし、映画らしい生な空気が画
面を支配していて、息子らのテレビドラマのような、あんな薄い空気と比べものにならない質感であった。
だが、観ていて、おやおやと思うほど、いつまでたっても同じ調子でじりじりと匍匐前進する。気がつくとすっかり退屈し
ているのであった。こういう退屈は、他の映画でもむろん何度も何度もいやになるほど覚えがある。出だしはいいのに、出だしの滑走のまま、いっこう離陸しな
い。あげく低空飛行のまま着陸してしまう。まことに下手な純文学みたいに、気だけあって、発展しない。一級の娯楽映画は「映画」的に面白く飛び立って行
く。ああ、やっぱり、これもダメだと途中でやめたいぐらいだった。男と女との関わり方に、或る「あはれ」を感じていたので最後まで観たけれど、観終えてし
まえば、たちまちに忘れて行った。あげく、息子らの創った「孫」の、言いようもなく薄くて軽いものなのに、それなりの後味をのこしたのは何故だろうと思っ
た。題材の身近さもある。俳優たちへの馴染みもある。急性骨髄性白血病の怖さもある。父と子との愛情もある。だが、それらをどう足し算しても、あのドラマ
が優秀な画像を、映像作品を成しえていたとは思われない。
どっちがと比較するのは無理な、製作する足場の違いが大きいのだけれど、一般の視聴者は、まだしも「孫」に泣いた人が
多かろう。だから即座に「孫」の方がよかったかとなると、そうは言い切れない。映画の方の、出だしから三十分ほどの新鮮で圧力のある映像展開から受けた感
銘は、さすが映画を観ているぞという嬉しさであった、が、「孫」には優れた映像の持つ魅力などまったく無かった。
だが、三十分が四十五分になっても、同じように続いて行く映画の方に、思わず「オイオイ」と声を出した。陥りやすい失
敗をまたやりかけている。力んだ助走滑走が長すぎて、離陸のエネルギーを映画が浪費していると分かってきた。その感じが、最後までつづいて、盛り上がらな
かったのである。力作にありがちな失敗である。
* 円生の「子別れ」上中下をじっくりと聴いた。やっぱり、うまい。
* 直哉の全集をしっかり読みながらの関心の一つに、彼が、谷崎潤一郎をどう観ていただろうということが、ある。
戦後になって以降の家族的な交流はかなり日記に見えている。谷崎側の文章にも手紙にも見え、また直接松子夫人にお聴きもして知っているが、若い頃にまた戦
前にどうであったか、これが直哉側の作品でも日記でも容易に見て取れなかった。やっと、書簡の中で、名指しはされていないが「悪魔派的」という語にふれな
がら「平凡な人」という指摘のある文面を、一箇所だけ発見した。大正五年四月十八日の山内英夫つまり作家里見ク宛て書簡で、である。
悪魔主義は、この頃の谷崎の「旗」であった。千代子夫人と結婚したのが前年、やがて長女鮎子さんが生まれると谷崎は
『父となりて』という、言いたい放題の「悪魔派」的発言で世間を驚かせた。既に谷崎は、日の出の勢いの人気作家であり、はや「大」谷崎と冠されそうなほど
だった。「白樺」の勢力は定着し、直哉らの声価も安定して高かったけれど、潤一郎のようなベストセラーではなかった。
不思議なことに、だが文壇的な「位取り」では終始直哉らは他を或る意味で他をドンと押さえていた。「小説の神様」とい
う称号は直哉のものになって行った。だが、直哉に「小説」という仕事がどれだけあったか、これは考え物である。『小僧の神様』などで谷崎の『刺青』『少
年』『幇間』『秘密』『麒麟』などに匹敵するわけがない。だがまた大正期に入っての谷崎の小説は、評判ほどではない駄作も多かった。むしろ直哉の私小説
が、純度や硬度を、文芸的に誇り得た。大勢の同業文壇がこれに追随し追従した。谷崎のような作品なら簡単に書けるとさえ言う連中もいたぐらいだ。
参考までに、直哉のこの書簡の一部を書き抜いておく。
* 僕は近頃手近なものから地道に実行したいといふ考を持ちだした。
悪魔派的な考を持つた平凡な人程下らない不愉快なものはない。偉い人間が平凡な道徳的行為に忠実なのは感じのいいもの
だ。
(略)
下から堅めていつた塔は確かだ。
観念でビホウした行為で生活してゐる位不安な生活はない。一つ一つの行為に観念が必要になる。そしてそれは非常に感じ
の悪い行為になる。
手近なものから堅められて行つた行為は総ての行為に対し自(おのづか)ら或る正確な感じを持つ。
* 谷崎の悪魔主義が観念客気の所産であったことは間違いない。自称「谷崎愛」のわたしも、そういう時期のそうい
う谷崎のパフォーマンスには、従来から冷淡だった。
そうはいえ、谷崎の「不安」と、直哉の「確か」「正確」とは、かなり大きな対照の意義を感じさせる。谷崎は意図的に生
活を「不安」に曝しつづけ、「安定」を拒絶しつづけることで、大正時代の自身の芸術を鍛錬した。すべてが成功したとは言えないけれど、その成果と体験なし
に昭和期への大きな飛躍はありえなかった。谷崎は内心の不安を表面の自信や自負に置き換えるむずかしい生活操縦を自らに強いて、たじろいだとははために見
せなかった。そこに谷崎の骨の太さがあり、作品にも反映した。だから、わたしは、駄作といえども活字に唇を添えてそのうま味を啜ることに、終始悦びを持ち
続けた。
三島由紀夫も言っていた、谷崎の大正期作品は、駄作であろうとも巨像の足音の響くようであったと。少年時代のわたし
は、三島と同じように感じていた。「不安」を演出し続けて正確や確かさではなくとも、豊かな成熟へと谷崎は歩み続けた。
志賀直哉の「確かさ」「正確」は、いかにも、よく分かる。はっきりものが目に見えてきてから、見えたように正確に書け
と直哉は繰り返し言っている。そして生活もそういう意味で、自在で、かつ経済的にも社会的にも心理的にも余裕があり、堅実そのものだった。 谷崎は三人の
妻と出会い、一人の妻は佐藤春夫に「譲渡」している。妻とは、神でもない玩具でもない、それほど詰まらない家庭用の道具同然のものと言い放ってはばからぬ
長い時期を谷崎は持っていた。
直哉の家庭生活は、子沢山で親類にみちみち、友人との往来は、さながら家の中も大道と異ならないぐらい頻繁だった。谷
崎はあれほど尊重し愛した松子夫人との間にすら子供を拒絶しとおした。
* 直哉にとって、大正五年当時のまさに華々しき存在であった谷崎潤一郎が、「悪魔派的な考を持つた平凡な人」で
「下らない不愉快な」存在であったらしい事実は、多くの考察の一つのポイントとして、記憶していたい、わたしは。これが直哉の谷崎(らしい人)に触れた最
初だということが、大きい。谷崎愛に生きてきて、志賀直哉の境涯にいま深く深く触れたいと願っているわたしには、この書簡の一節は堪らない刺激である。
* 八月七日 月
* 夏の夜空に 月様
昨夕で三夜連続の、打ち上げ花火を満喫。午後八時四十五分ごろから九時十五分ぐらいの短い時間帯でしたけれど。我が家
はホント、特等席といっていいくらいです。吉野川の河川敷から打ち上げられたものなのですが、手を伸ばせば届きそうな、そんな感じなのです。こんな身近
で、それもこの高さから眺められたことは嬉しいかぎりです。昔?と違って、カラフルな色彩と、思いがけない軌跡を見せる光の花に、驚いたり感嘆したりで
す。この四国三郎の両岸で、隣接する町が一斉に花火を打ち上げたら見事なのにねえ。見物は自由に堤防の草の上で寝転んで観ることができるようにすればいい
と思うのだけど。交通の便がネックになるのかしらね。うっかり者の私は、この花火が「2000吉野川フェスティバル」で開催されたものと、今朝の新聞で知
りましたの。七月の花火は、建物と雨に邪魔をされて、片鱗と音のみにがっかりしていましたゆえ、今回は堪能させてもらうことができて、夏だ!なんてね。
ビールが美味しい!花籠でした。
* ゆうべ深夜に富山八尾町の「風の盆」をテレビで観た。初々しい娘たちが鳥追い笠をまぶかに、そろいのゆかたで 町を踊り歩く。男たちも踊り、三味線や胡弓、哀調したたる小原節も、みな男の役だ。風情と謂うにはあまりにしみじみと切ない、底に侘びて哀しいものの、ふ つふつと音無くたぎつような風の盆である。花籠さんの阿波の踊りとは大いに違う。しかし、盆の踊りは、根に通い合うものをみな持っていて、そこに「民俗の 日本」が息づいている。「東京」が日本だと思っている人は大間違いなのである。政治が都市部重点に傾こうとするばかりでは、何かが狂ってくる。田舎が今の ままでいいわけはないが、東京型の都市部が「日本」をすべて代弁できるかのように傲るのは考えものである。そういう姿勢がじつは田舎をより田舎に置き去り にし、悪しき部分の田舎が良く変わって行こうとするその芽をつんでいることに、政治も気づかねばならない。
* 家に閉じこもりがちになっている。これでペンの仕事などを意識的に退いてゆけば、けっこうな家庭老人になるこ
とだろう。せいぜい出かけた方がいいと聞いている。用事を「創作」することも、これからは考えねば。
ペンなど、続ければいいではないかと人には言われる。だが肩書きの着いた用事は、もう、潮時だと思う。苔のようにこび
りついていい席だと思わない。好きな人にせいぜい逢いに出る、といったぐあいの日々でありたい。
* 八月八日 火
* 複雑な気分でいる。早起きして、黒い少年をお医者に運んだ。かねてより強く奨められていた手術を受けさせよう
と。そういうことを、出来れば避けたい気がある。しかし猫白血病も多く、少年だけに、格闘し戦闘してくる。怪我もしてくる。間隔をおいてだが、かなわぬ恋
に、夜通し、それも何日も、高啼きし徘徊し、憂き身をやつすことも、もう数度有った。
無事に長生きさせたいならと、医者は手術を奨める。妻を、母親とも祖母とも思うのだろう、孫のように赤ん坊のように甘
えて抱かれたがる。いとおしくて、やはり長生きをさせてやりたい、マゴのためにも、妻のためにも。
で、連れていった。預けてきた。夕方過ぎには引き取りに行く。同じなら効果が見えて欲しい。しかし我々の勝手を押しつ
けたかなという、かすかな悔いはある。まえの、母性で有り得たノコの時は、もっと悔いた。一度は母親のネコのように子供を産ませてやりたかったと今でも思
う。マゴは父性ではあれ、父親として子を育てない。それを思うのも、同じ男として奇妙な気分である。母ネコの子育ての賢さや懸命さは、わたしたちを感嘆さ
せたが、マゴは子を産ませても子を育てない。そこに、かすかに付け入って手術台に送ったという感じだ、それがまた落ち着かせない、わたしを。
* MOディスクは、威力を発揮している。640MBのディスク容量だから、わたしの理解が間違っていなかった ら、一枚のディスクで、漢字ひらがななら、320X100万字が書き込める。我がホームページは、物凄い量といわれながら、せいぜい400字原稿用紙で、 まだ六、七千枚、260万字、ぐらいだろう。全ページが簡単に納まっている。湖の本の既刊64冊分をすべて合計して書き込んでも、池に小石を投げ込んだ程 度だ。信じられない。むろん映像が入ればべつだが、それでも莫大な量の映像まで可能。驚いてしまう。クラッシュのおそれは無いではなく、二枚にバックアッ プしておけば、安心して器械のハードデスクを軽くしてやれる。外付けハードディスクの使いでも、増えてくる。
* 「作品をホームページにとりいれるのに、スキャナーを使えないでしょうか。スキャナーで粗入力してから、横に
直して、丁寧に校正をする方法もあるかと思うのです。全作品を入力されるのでは目を壊されてしまいます。」
こんなメールを読者から今朝貰った。
これは、何となくあり得るのではないか、あればいいのに、と願っていた思う壺にハマったナイスな助言である。スキャナ
は用意してあるから、例えば既刊の「湖の本」から、スキャナで移せたら、そしてほんとに校正ができるものなら、こんなに有り難いことはないが、出来るもの
だろうか。
ペンクラブ事務局に書類を送ると、メールでもファクスでも、それが、内容は同じで組み替えて会議で配布されてくる。
「スキャナをつかえば簡単ですもの」と聴いた気もするが、突き詰めてこなかった。手順が知りたい。
これが可能になれば、一字一句を書き写してゆく時間が大幅に節約でき、力を他へまわせるだろう。一字一句書き写すのも
楽しみは楽しみだが、あまりに時間が惜しまれる。
この親切なメールの、正に朗報と化してくれるよう切望している。
* 器械のことは、ヨッポド苦手とみえ、いや頭がわるいのだが、階下の妻に譲った器械は泥沼に使ったように、新し いメール一つがまだ作動しない。マイクロソフト・エキスプレスをつかい、biglobeへ登録済みになったのに、アドレスも貰ったのに、使えない。エラー になる。「サーバが見つかりません」と来る。いやになる。もう何日、同じことを繰り返していることか、やれやれ。
* 秦先生、こんにちは。本当にしばらくぶりです。先生もお元気でしょうか?
学部時代に先生の最後の講義を興味深く聞かせて頂き、以前個人的なことについても相談にのって頂きました。そして先生
の方からまたメールを頂き感激してしまいました。
僕は、今は大学院の博士過程に在籍しており、1年生です。修士のときと同じ研究室に所属し研究を進めています。
簡単ですが、その後の状況をお話します。僕と、今も交際している彼女は、別のアパートで、僕の近くに住んでいます。彼
女の妹も、東京の大学へ出てきており、彼女と一緒に2人暮らしをしています。2人は、奨学金とバイトで学費と生活費をやりくりしています。僕はまだ親のす
ねを少しかじっている身ですが、わずかながら「彼女」のサポートをしています。現段階では安定した生活を送ることができています。
本当は全て解決しているわけではなく、近いうちにまた問題に直面しそうです。自分の今進んでいる道は先行きが不透明な
ので、それも合わせてこれからも彼女と相談しながら、考えていかなければなりません。その問題が極端に大きくならなければ、この1年くらいは研究に没頭
し、成果次第で進路を決定するという形で、彼女は納得してくれています。
詳細を書くととても長くなってしまうので、このくらいにしようと思いますが、もしかしたら、直面した問題に冷静に対処
しなければならないのに、強く思い込んでしまうときが来るかもしれません。そのときには、また、相談にのって頂けたらと思います。
大学の坂をもの思いにふけりながら、あるいは緑に心を洗われるように歩く機会が少なくなりました。本館の廊下を食堂ま
で歩くのさえも、研究の問題を解決する糸口を、探しながら、考えながら、歩いてしまうことが今まで多かった気がします。
でも煮詰まった頭を冷やすことも大切ですよね。最近は部活の練習に出たり、大学のプールでときどき泳ぐようにしていま
す。泳ぐとき体の感じる水の抵抗も心地良くて、水中に発する泡もきれいなんですよ。
坂といえば、最近歌の題材にもなった「桜坂」という坂が、今住んでいる近くにあるんです。有名になる前のほうがきれい
でした。ときどき彼女と一緒に夜ジョギングをして通ることもあります。
どうか先生も変わらず、お元気で。
* 現在は、大学生活のどんな「坂」を歩んでいますかと尋ねたのである。大学だけでなく、青春の「坂」にも自ずと 触れた便りをくれた。どの教室での「最後の講義」だったろう。四年半も昔のことだ、文学概論であったろう。「心」の話をしたのだったか。「心」は頼むべき ものでないと話したのかも知れない。
* あれだけ、オーム真理教や統一協会やその他もろもろの宗教集団による「マインドコントロール」の厄介さについ て報道されながら、同じマスコミが、殆ど「マインド」と同義語的に無限定に「心」「心」と頻発して、根の問題として「心とは何ぞや」を棚上げしたままなの は、じつに奇妙な現象だ。筑紫哲也氏など、最たる「心」派であるが、ニュースキャスターとして彼の吹聴する「心」とは、という根の理解がはなはだ曖昧に放 置されている。それでは「開けゴマ」に等しい。教育や道徳の畑で「心」が語られる安易さは目を覆いたいほどだが、ことに寒心に耐えないのは、その「心」が いかにも「マインド」であり、その「コントロール」が教育や道徳の管理と同義語的意図されている例が多すぎる。これでは先に挙げた、また挙げなかった宗教 集団の悪しき「心」支配と何ら変わらない。とんでもない話だ。少なくも「ハート」が感じられない。
* 数日夏休みしてきたというある人のメールに、さぞ真っ黒になってこられたでしょうと、月並みなアイサツをした
ら、打って返して、「因幡の白兎のようです。見てみますか」と。ドキドキッとした。
* 八月八日 つづき
* 機嫌がいい。黒猫のマゴの手術は無事に済み、白血病その他の病気も陰性で、術後の衰弱もなく夕方に帰宅以降、
ごく順調におなかもすかせて、麻酔後の嘔吐もない。妻の膝にも身軽にとびのり、甘えている。少年ないし青年の体調としては、スマートで体力もあり、上乗と
医者は太鼓判。ま、孫が「猫」であろうとも、良かろうではないか。
わたしは、昔から、『狐草紙絵巻』であれ『信太狐』であれ、ほんとにその狐が好きであったなら狐が妻でもいいではない
かと想っていたような男である。孫は「人間」でなければ、などと思わねば良いのだ。まだ人間の孫は諦めたとは言わないが。
* 夜のテレビ、火曜サスペンスという例の、息子の仕事でおなじみになったシリーズで、珍しく澤口靖子が主演した
のを、妻に誘われ、観た。これが、そこそこの写真であった。なにより主演澤口靖子が、とびきり美しいだけでなく、美しさが映えて生き生きとこっちに伝わっ
てくる。演技の進境、著しいと感じた。嬉しかった。妻も盛んに、うん、今夜の靖子ちゃんは佳いわねえと褒めながら、どんな角度からでも、なんという美しい
人なのかしら、ヤケテシマウと、感嘆を久しうしていた。
事実今夜の澤口靖子は、ほんとに生き生きしていて、わるいが、こんなドラマにはもったいないと思えるほど突出してい
た。つまり、その分、軽井沢が舞台のドラマからは、はみ出ていたと言える。柄と人と品のよさが、ドラマの薄さからはみ出ていた。もったいなかった。澤口靖
子の現代物テレビドラマでは、出色の作であった。拍手。
* 骨髄性白血病で、骨髄液の適応ドナーを見つけるのは猛烈にむずかしい。さらに、適応するドナーが見つかった
ら、もう直ちにその輸液で「治る」などという簡単なものでは、全く、ない。パーセンテージは、よくても五分か六分。そんなことは白血病患者や家族なら痛い
ほど知っているし、医療関係者ならもっと正確に知っている。
息子が脚本の「孫」は、その辺が「実例」にもたれ過ぎ、甘くなった。むしろ、ドナー探しの深刻な大変さ、ドナーが見つ
かってからも安心できない不安と緊張に正確に目をそそいで、ドラマに、切実な社会性をひろげて欲しかった。無用で不必要な説明的画面を省いて、前半にもっ
とテンポを与えていれば、時間的にも、後半わ質実に盛り上げうる余地は十分有った。流行歌「孫」の歌手の「実体験」がたとえ有ったからと言って、それを超
えた、鋭い問題意識と現実認識とを脚本家がもっていたなら、もっとドラマは深い感動に繋がったのに。
* もう一つ、嬉しいことがあった。昭和の同年生まれ、千葉県の方らしい男性から、今朝の「私語」を聴いて、親切なメー
ルを寄越して下さった。感謝に堪えない。こういうメールであった。御親切を記録させていただく。同じような希望の人にも参考になるのでは。
* 文字読み取りについて
秦 恒平様 はじめまして。いつも拝見させて戴き、膨大なホームページに心より敬意を表し、厚く御礼申し上げます。
「清経入水」「廬山」などなど、本当に有り難うございます。
闇に言い置く 八月八日 火 の中に、「作品をホームページにとりいれるのに、スキャナーを使えないでしょうか。」の
お話を読み、やはりキーボード入力をされていたのだと思い、OCR (Optical Character Reader
光学式文字読み取り装置)についてメール致しました。
OCRソフト:キーボードからの入力の代わりに、コンピュータへ自動的に文字を取り込む入力システムとして、長文の入
力に利用される。パソコンでは紙に書かれている文字をイメージ・スキャナを使って画像データとして取り込み、OCRソフトとよばれるソフトウエアを使って
文字データに変換する。(パソコン基礎用語辞典より)
実は、私は全くの独学でマッキントッシュですが、一度やってみたことがあるだけで、具体的にお教えする力はありません
が、文字読み取りの認識率はかなり良く(95%くらい?)、実用に耐えると思います。東工大の若い方に、こうしたいとおっしゃれば、実現は早いと勝手に想
像しております。
益々のご健勝ご活躍をお祈り申し上げます。****(1935生)拝
* グーンとイメージが膨らんできた。若い友人たちに教えを乞い、ぜひ実現したい。またCD-ROMに、完成作品
を自力で入れて行く装置と作業も、ぜひ早く実現したい。新作への有効な推力にしたい。
* 八月九日 水
* 校正ゲラを持って池袋に出、メトロポリタンホテルでコーヒーのみながら、校正。プラザ地下の「楽」に移動し
て、少しだけ昼の日本酒とワインを飲んだ。鰹がうまく、四万十川の鰻の白焼きは小さくてあっさりしていた。
「さくらや」でOCRソフトを見てきた。なんだか、スキャナにくっついて、一度インストールしたものと同じように想わ
れ、買わずに帰った。家に、e-typistのマニュアルがあった。それならば、探せば関連のソフトが見つかるかも知れない。
保谷駅ビルで買って帰ったパンがうまかった。晩には、小雨の合間をみて、七千メートルほど、自転車で坂道を上り下り十
一往復、疾走した。血糖値は108。
直哉の新しい書簡の巻が配本になった。
* 花火かな いづれは死ぬる身なれども 月
* 千葉の同年の勝田貞夫さんと交信した。ホームページがご縁である。京都の秦恒夫さんには、手作りの木工藝で美
しい箸置を一対いただいた。またホームページで「通りがかり」に苦境に助言をもらった荒川美代子さんから、「まつも」という美味しい一種の海苔をいただい
て、教わったとおりに、いい京味噌のいい豆腐汁に添えて食べた。たいした風味であった。
布谷智君から、OCRのことで親切な声がかかったのも有り難い。
黒い少年は元気旺盛。手術後というのに、家中を韋駄天のように駆けている。可愛い瞳をしている。
* 今日、日本ペンの電子メディア対応研究会から、「メール使用の会員」諸氏を対象に、一斉に、以下のアンケート
を送った。すでに返信が届き始めた。アンケート案は、わたしが作成し、そのまま研究会で承認された。回答は、電メ研座長のわたしのもとで一括収集する。
このホームページでも、公開し、お気持ちのある人には参考までに回答をいただければ有り難い。
* 質問の趣旨 日本ペンクラブは、言論表現委員会が中心になって、「一億総表現者の時代 -
ネット社会でわたしは"わたし"をどう表現するか」というタイトルで、シンポジウムを開催致します。(日時:9月14日午後6時30分開演・場所:アルカ
ディア市ヶ谷。内容は、会報と日本ペンクラブホームページでお知らせしています)。言論表現委員会と連携して、電子メディア対応研究会でも、これに関連し
た皆様のご意見・ご所感を取りまとめ、「日本ペンクラブ・ホームページ」に編集・掲載し、文学・文筆に関わる「今の思い」を体験的に伝えたいと考えていま
す。電子メールならではの、端的で率直な声をお届け下さいますようお願いします。
<質問>
<A> 先ず、「電子メール」をご使用の皆さんにお尋ねします。
1)
"わたし"の表現に、電子メールを、どう、役立てておいでですか。一般会員の参考にもなりますよう、なるべく具体的にお聴かせ下さい。
2) 電子メール使用を思い立った動機をお聴かせ下さい。技術的に難渋されましたか。
3)電子メールで書く「文章」には、何か特徴があると感じられますか。
4)電子メールの最大の利点と欠点を一つずつに絞ってお聴かせ下さい。
5)他人にも推奨されますか。
<B>次に、「インターネット」をご利用の皆さんにお尋ねします。
1)
"わたし"の表現や、資料・情報の蒐集に、インターネットを、どう、役立てておいでですか。一般会員の参考にもなりますよう、技術や手順にも触れ、なるべ
く具体的にお聴かせ下さい。自身ですべてなさいますか。他人に任せていますか。
2)極めて有効ですか、まあ有効ですか、たいして役には立ちませんか。いろんな意味で何が難しい問題になり、どう克服さ
れてきましたか。
3)他人にも推奨されますか。
<C>次に、ホームページをご運営の皆さんにお尋ねします。
1)
"わたし"の表現に、ホームページを、どう、役立てておいでですか。作品の公表、文業の保存、意見の陳述、事業の広報、他者との交信等々、一般会員の参考
にもなりますよう、ぜひ具体的に、今後の期待も含めて、お聴かせ下さい。
2)ご自分で設定しましたか。委嘱されましたか。更新など、自身ですべてなさいますか。他人に任せていますか。
3)ホームページが、ネット時代の、「新たな文学・表現の場」に成りうるとお考えですか。何を「特色」として設営されて
いますか。
4)
ホームページでの「課金」「広告掲載」を希望されますか。実施されていますか。具体的にお教え願えればと希望します。
5)ホームページは、"わたし"の表現に、極めて有効ですか、まあ有効ですか、まだまだですか。
6)他人にも推奨されますか。
7)最近に設営の方は、URLを、お書き添え下さい。ペンクラブのホームページにリンクを希望されますか。
<D>最後に、他の機能の利用等についてお尋ねします。
1)パソコンでは、音楽・絵画等の表現も可能ですし、豊富な編集機能も含まれていますが、そういう面で、活溌に"わたし
"の表現を実践されていたら、一般会員の参考にもなりますよう、ぜひ具体的に、今後の期待も含めて、お聴かせ下さい。
2)インタネットでの盛んな商取引や投資が可能になっていますが、それも「表現」との関係で利用されていますか。
3) パソコンの利用は、高齢者に難し過ぎる・不向きだとお考えですか。
4)いわゆる「電子本」も公表・発売したいとご希望ですか。
* 恐れ入りますが、一応校正の上、メールでご送信下さい。誤伝を避けたく。
* 氏名・都道府県・年齢をお書き添え下さい。
* ホームページ等への公表を匿名にしたい方は、お書き添え下さい。
* 回答は、A-1 B-2というふうに仕分けて、簡潔にお書き下さい。
* なんとなく、ほっこりとした一日で、纏まった仕事もしないで過ごした。かえって、夜更かししてしまった。
* 八月十日 木
* アンケートの回答がどっと届き、その形式的な統一の作業に追いまくられた。いずれペンのホームページに掲載す るが、メールの会員には纏まった内容を返送して行ける。読んでいて、以前のアンケートよりも遙かに熱気が感じられる。興味深い。いい参考資料になりそう だ。
* わたしも、書いてみた。
* 八月十一日 金
* 「湖の本」44 の再校を終えた。夏休みはもう通り過ぎた。
* OCRだが、スキャナーを買った時に、e-typist LE2 が来ていた。一度インストールしたが、使い道も調べないで無用と思い削除していた。復活させた。さて、これからが問題だ。日々、気ぜわしく、落ち着いてマ ニュアルが読めるかどうか。しかし一歩前に進んだと思っておく。
* ペン会員のアンケート回答を整理しながら読んでいる。教えられる。わたしのホームページのように一途に文藝・
文章というのは、やはり少数のようだ、やはり。
インターネットの活用の所が、人それぞれである。わたしの場合、ホームページやパソコンライフが、単独にそれだけで意
味をもつというより、冊子本「湖の本」との連携に意味も特色も有効性もある。器械だけでは、わるく言うと遊びに終わりかねない。ホームページが冊子本を吸
収して行き、同時にホームページから新たな冊子本が誕生し、安定して売れて行く。それが有り難い。
* 八月には、かつて愛猫ノコがなくなり、月末には老父長治郎がなくなった。歳月の速やかさにおどろく。
* 八月十二日 土
* 日銀が金利をわずかに出す政策を決定し公表した。問題もあるにせよ、異様異常な状態への反省は、当然と思う。
政府与党の露骨な政治介入が見苦しかった。理由が気に入らない。景気の改善はまだ見られないのにと。景気改善をもう十年にもわたって今もって効果を挙げ得
ないのは、つまり失政ではないか、責任は政府与党国会にこそある。それを頬被りして、失政の結果を口実にしているとは、これ以上の恥知らずな滑稽茶番はな
い。
いろんな問題点を指摘することは可能だが、ゼロ金利政策で莫大な「利」を受けているのが誰かを考えてみればいい。一
に、米国。二に、米国の株を買い値上がりを期待している投機的な投資家。つまり米国向きの政治家、貪欲な銀行、大企業、抜け目無い経営者、等。むろん、利
上がりで当面困る人もある。要するに借金している人たち。それも銀行が必要な中小零細企業には貸し渋るから、よけいに苦しくなる。銀行への政策が基本で間
違っているからだ。どこの世界に銀行預金して、利息はゼロに近いなどという不健康なことをやっている國があるか。そんなことをしたら、革命が起きるだろ
う。日本人は怒ることを忘れてきたのだ。
もう一度、「近頃落首」を掲げておく。概ねは間違っていないと思っている。
* 数日前こんな落首を書いた。
* 仕事がない。貯金もない。僅かな貯金に利息がない。これでは金は使えない。民需拡大って何のこと。延々つづ
く、ゼロ金利。そのうえ貯金を吐き出せと、國の施策に智慧がない。慈悲もない、ない、情けない。
じつはイジメと知りながら、他国の顔色うかがって、西の諸国へ貢ぎ金。イジメラレっ子「ニッポン」の、無策の策は国民
の、頭をおさえクビ切りを、リストラなどと言い替えて、文士崩れの作文で、景気の先をアヤフヤに、飾れば飾る言い逃れ。
もうこの上はお仲間の、市民・農民・労働者、腹をくくって居直って、死んでも金は使わぬと、言うてやろうじゃないかい
な。
森は隠れる、野中は荒れる、中川渡る人もなく、小泉濁る土砂降りの、暗い日本の先行きは、公明ならぬ超保守の、不自由
非民主、神の國。あまりといえばあんまりな、戦後日本のどんづまり。ほんにワルイは景気でなく、政治家不在の政治屋世界、吠える田中のかかしにも、哀れや
党議の猿ぐつわ、歯ぎしりしても役立たずと、いつか誰もがあきれ果て、言われなくとも選挙は朝寝、昼寝、宵寝で棄権して、日本列島沈没のXデーの来る前に
どうぞ死なせて死なせてと、祈る神様仏様。というような悪夢から、早く醒めたい、この次の、選挙の機会に一票の重みを誰に賭けまくも、賢き選択が是非した
い。
* 矢は弓を離れた。これも「日本」の現実であり選択である。政府が、今後もし自分たちの能なし失政を棚に上げ て、すべて日銀にのみ責任をなすりつけるようであれば、そのような不甲斐ない無策の政府はもう要らない。政治力とは、国会の数合わせではない、國民に立派 に仕える能力のことだ。
* 朝日新聞社から発行の「論座」とかいう雑誌に、森嶋通男氏が心のこもった亡兄北澤恒彦の追悼の文を書かれてい るという電話の報せがあった。どのような雑誌か、知らない。ありがたいこと。
* 自分で自分を「素直」な人だとしきりに言う人があり、「砂男」さんという別名を謹呈した。自分のことは自分が いちばんよく知っているという慣用の台詞がある。そゃろか。ちがうのと、ちがうやろか。
* 「ため口」というらしい。贈りの「為書き」ではない。そんな言葉も知らなかったが、実例を教われば納得す
る。「ぞんざい」寄りの「ざっくばらん」かなッてな、もんさ。
で、「ため口」は、よいのか、よくないのか。好きではないが、その方が良い時と場合のあることは分かる。わたしも、
けっこう使っている。だが「ざっくばらん」はまだしも、概して「ぞんざい口」は、使うのも、使われるのも、好きではない。
学校の先生が生徒に、生徒が先生に。この「ため口」の応酬が、何もかも「根」の乱れではないか。言葉は心の苗だと謂
う。そういう生徒が教室を巣離れし、成人しても、親になっても、社会人になっても、「ため口」でしか話せない・書けないのでは、日本の乱調子、どうにも歯
止めが利かない。テレビのコメンテーターにも、司会者にも、「ため口」専らの者がいる。大いに得意そうに、横柄にやっている。井中蛙のツラの青さよ。
もっとも「ため口」を俄かに改めて、明治の女学生のような「ご丁寧」である必要はない。用い慣れての自然な丁寧はゆか
しいが、付け刃を無理にふりかざしては危ない。心もとない。自然な節度で、丁寧に話せて書ければ、いいではないか。時には心親しい「ため口」も佳いものだ
と思う。親しき仲にも「節度あり」は、回復させたい徳の一つだと、やはり思っている。
* NHKテレビ指折りの好番組に、少年少女たちの「しゃべりば」がある。「喋り場」の意味だろう、とにかく、元
気に、しかも突っ込んだ本音で、むずかしい学校の問題、青春の問題を、時間もかけて徹して議論している。「朝まで生テレビ」なんかに出てくる大人たちのよ
うに、物欲しげに売名的なスタンドプレーが無いだけでも、気持ちがいい。
大人が司会しないで、その日のターゲット役になる子からの、切実な問題提起と告白をめぐり議論が白熱する。じつに雑多
に、混ぜものめく顔ぶれを、取り替えないで続けているので、遠慮が取れ、集中度が増し、微塵もふざけない。
おっ、そこまで言うかと思うほど、辛い、聞いていて涙の出る告白場面もあり、それにもジメつかず、十数人の仲間から間
髪を入れない意見が交錯する。ビートタケシ司会の外国人番組に出てくる日本人ゲストより、この番組の少年少女たちはもっと身に痛い体験や問題をかかえなが
ら、おめず臆せず議論している。例えば「苛め」ることが、どんなに楽しくどんなに苦しいかもごまかし無く語るし、苛められる子の問題とともに、苛めつつ苦
しみ、苦しみつつ苛めを「楽しんでしまう」子らへの、的確な配慮も彼らはきちんと提言し、切望する。一応、一人の知名人ゲスト(今日はラグビーの大八木選
手)が真ん中に坐っているが、誰が出ても、いたって影が薄い。「しゃべり」にかけては、今どきの子らに大人は勝てない。それでいいのだ。
こういう「しゃべり場」をうまく多く創って、子供同士でも答えをみつけさせてやりたい、世の中が。
* 八月十三日 日
* 中曽根康弘という人を、まだ彼の青年将校とうたわれていた日々から、うさんくさく感じて、支持してこなかっ
た。ただ一つ、彼の「首相公選」論には賛成だった。国会議員三十人程度の推薦名簿を得れば立候補できるというのは妥当なのではないか。あまり多くては道を
いたずらに塞ぐし、少ないと安易な立候補になる。国会議員のほかにも「推薦」の可否を公正に審査する組織をもち、両方の推薦を得なければならぬとするのも
良いのではと考えるが。
田原総一朗のインタビューに長時間答えていた今朝の中曽根氏の応答には、あいかわらずうさんくささも抜けてはいない
が、概ね、分かりやすい彼なりの考え方を一筋とおしていて、初めて耳を傾けた。「待ち」と「観察」と「あいまい性」を語って一貫していたけれど、その理由
は明晰で、賛否はともかく、筋は観てとりやすかった。頷いたところも少なくなかった。
国際戦略というのはイヤな言葉だが、無くては済まない地球環境になっている。この人などは、わたしの謂う「悪意の算
術」という外交の基本を、終始とはいわないが、今はもとうとしているように見受ける。日本の位置は、世界で、アジアで、実に危うく或る意味では、いつ「苛
められっ子」として顕在化してもおかしくない包囲網の中にいる。
中曽根氏は、莫大な費用をかけて核兵器をもっても使用できないのだから、そんな金を使うよりも安保条約の堅持に金をか
けていた方がよいと言う。なるほど明快ではある、が、安保の核の傘が堅固で雨洩りのしない保証など、中曽根氏の物言いを借りるなら、実は「あいまい性」も
甚だしいこと、中・台に問題が生じたにしても、必ずしも台湾を護るなどと「一言もアメリカは言っていないでしょう」という中曽根氏の観察が、逆に、証言し
ている。かれはそういう「あいまい性」をそのまま保持しあって、平和の展開へ、繰り返し話し合いを続行しつづけて行くのが、結果として得策であり、だから
物事をハッキリしすぎて爆発の引き金に誤って指をかけるなと強調しているように、わたしは聴いた。それはそれで見識だと思う。
頼りになる大国など無いのだという原則を踏まえながら、頼るよ、頼っていいよとの、ダマシ合いともなれ合いともいえる
綱引きを安定させて置かねば、「平和」は維持できない、危険な発火はさせないことだと中曽根氏は言っているのである。まことに危うい環境である。中曽根氏
は盤石の平和は無いと観ているし、その通りであろう。
この程度の認識も方向支持も森喜郎はまるで頭にない。あの自信なげな、それを隠すために故意に威張った、そのくせおど
おどした目つきを毎日見ている国民は情けない。
中曽根氏は、明確に日銀の今度のゼロ金利解除を評価した。能動的な選択であることを評価した。こうなれば、政治が、こ
の選択をして効果あらしめるべく努めるのでなければ、政府の在る意味がない。わかっているのか。
* 在米日本企業が告訴されては惨敗し、弁償金をおそろしいほどの額支払い続けている多数の実例を、レポートして いた。言いたいことは有るが、どっちもどっちなのだ。
* ゆうべ、今こそ秦さんは京都へ帰ってきてはどうかと、深切で熱烈なメールを京都の男性読者にもらった。病気に 門を開いて白い旗をかかげてしまうな、という鼓舞であり激励であった。ありがたい。
* 矢後千恵子さんの歌集『駅長』を本の山の中から持ち出して読み始めたのが、えらく面白い。「後ろ指は承知の上
で、面白がりこそ目指す道」とあとがきにあるが、狂言歌に類している。しかし、言うはやすく、とても狂言歌を丁々発止とうちだすのは容易でない。それを矢
後さんは、あざやかにやってのけている。ふつう歌集で、印象的な、つまりわたしが読んでよしと思えるのは、一冊に数首だが、この歌集では面白いのが幾つも
幾つも拾える、感心している。結社「りとむ」の人で、今野寿美さんの配慮下にいるらしいが、今野さんがまたこういう歌風に微妙な収穫をあげてきた歌人であ
る。なるほど、なるほどと思いつつ、しかし矢後さんの歌い口には一家の風が出来ている。批評の志がなければ成り立たない。川柳の時実新子にならぶ平成狂歌
体を成熟させてほしい。初めの方から少し紹介しておく。江戸の狂歌の真似なんかしてはいけないのであり、これで宜しく思う。
右箱根左江ノ島ふりわけてさねさし相模大野駅長
京訛りのむかし男を泣かせしがひたすらに餌をあさる都鳥
チェリストが仁左衛門似であることで今宵の「第九」やや粋である
マンションという中空に子を育て鳥の家族のごとき明け暮れ
* 東京にいました頃は、吉祥寺のお稽古場へ、月三度通ってましたの。そのうちの三年間、毎朝、和菓子を十五ほど
ずつ作ってから、着替えて、お昼には稽古場へ持参していました。自己流に、全く"好き"で続けたことでした。
餅菓子、饅頭、芋羊羹、栗蒸し羊羹、茶巾、お団子、浮島、求肥、錦玉かん、葛焼、文旦ピール、すはま、胡桃ゆべし、ぼ
うろ、かすてら・・・。炉開きには、亥の子餅、暮れは蕎麦饅頭。
一度こころみたかったのは、その場で作る、葛切り。奄美大島の、おいしい蜜がありましたの。道具や材料を買いに、浅草
へ出かけたのも楽しい思い出です。
* どうということでもないのに気になったのは、やはり、甘いもののこと、食欲が疼いたようだ。
甲府放送局に栄転された久しい友人から、すばらしい葡萄の房をたくさん頂戴した。じつに美味。糖分もたっぷりなので、
五粒を限度に、一粒一粒いとおしんで味わっている。奈良のあやめが池にいる高校以来の二つ下の女友だちも、奈良の、それは気の利いた、軽やかに旨いかき
餅、煎餅の取り合わせを、お見舞いに贈ってきてくれた。卒業以来何十年、顔を合わせたこともないが、懐かしい。お兄さんがわたしの同級生であった。歌をつ
くりはじめたと何年かまえに便りで知ったが、続けているだろうか。俳句をしているという人もいたが続けているだろうか。
まだ、メールのやりとりできない親しい人が大勢いる。
* 八月十四日 月
* 秦さん、こんばんは。
ジメジメとした日が続きますね。今年は、秋が来るのも早いらしいと聞きました。もはや涼風の吹くのが待ち遠しいです。
「しゃべり場」、僕も毎回とても興味深く見ていました。普段の生活では、めったに接する機会のない年代の人たちが、活
発に、でも変な背伸びなく交わす議論には、けっこう刺激を受けます。
10年も年が離れていると、時に自分とは違う生物のように感じてしまうことがありますが、あの場で展開される議論は、
自分自身も直面した覚えのある内容であることも多く、なんというか、ちょっと安心感をおぼえました。ああ、やっぱり同じ人間なんだなと。
学生時代も多くはなかったですが、社会人になってますます、「しゃべり場」でテーマになっていることや、秦さんの教室
でみんな考えていたようなことを、人とまじめに話す機会というのは、ほとんど無いですね。
それは必ずしも、信頼関係が築けていないから、という理由だけではないように思うのです。自分も含めて多くの人は、目
先の仕事をこなして行くことに手一杯になっていて、学生時代に切実に考えていたようなことに、ゆっくりと静かに向き合う余力を持っていないのではないか
と。それは、とてもエネルギーのいることですからね。
一人一人が、普段からゆっくり考えていないから、話す機会も少なくなってゆくのでしょうか。
昨日久しぶりに日記を付けたのですが、その間隔がだんだんと大きくなり、ついには、半年振りになってしまっていたの
に、愕然としました。
仕事に取り組んでゆく中で、学んだこと成長したことは、確かに多くあると思います。でも学生時代からみて失ったものも
また、ごまかし難く多いです。
とはいっても、今の生活に失望している訳でもありません。考えることよりも、ひたすらに動くことが先行する時期があっ
ても、良いのではないかと納得もしています。それが、無自覚に無抵抗に流されているのでなければ。
また取り留めなくなってしまいました。
9月に入ったら、夏休みを取ろうと思っています。秦さん、9月はお忙しいですか?もしよろしければ、また一度お目にか
かりたいです。
それでは、お元気にお過ごし下さい。
* ここでは詰めて書き込んだが、もとは、改行と行アキの利いた、Eメールのお手本のような気持いいメールが、親
しい若い友から届いていた。呼びかけを、「おはよう」と読み替えて、朝早や、心嬉しくいる。そう、この社会に出てまだ三年に満たない人たちの日々は、何と
しても「動いて」送り迎えられている筈だ。「動かなければ、出逢えない」日々である筈だ。動きながら、考える。むかし聴き習った「歩きながら、考える」
が、わたしにも、ながいあいだ、貴重な箴言であった。
学生たちがわたしに秘かに洩らした多くの嘆きの中に、友人たちと、「もう少しでいい、もう少し堅い話がし合えたら」と
いうのが、あった。胸を打たれた。そう思っている人はとても多いのに、現実に、自分からそのように友人にぶつかって行くのをためらってしまう。嫌われ疎ま
れるのではないかと思ってしまうのだ。わたしの教授室は、いささかでもそういう話のできる場としても好まれていたかも知れない、わたしとではない、たまた
ま同室した他の学友たちとの間で、だ。
「考える」と謂っても、漠然と「思う」ことは「考えている」のと少しならず異なる。考えるには、「何を」とでも問い直し
たい或る主題に行き当たらねばならないが、それが簡単ではないのだ。何でもいい、考えていることを書いてと教室で学生に言うと、かえって大方が閉口した。
しかし例えば「人の命は地球よりも重いか」と聞けば、それについて「考え・書く」ことは出来たのだ。わたしのしたことは、手を添えて立ち上がらせるよう
に、そういう問いを発して「考える」機会を提供し続けたというだけだ。
この友人のように、時折にでもふっと立ち止まり、いや歩調のなかで静かに考え直しいる人がいる。よかったなと思うので
ある。九月を待って楽しみに逢おうと思う。
* 北朝鮮がアメリカに条件つきで修好を策し、日本とは厳しい不退転対決の姿勢をあらためて打ち出したとも見える
報道がある。これで北朝鮮は、中国、韓国、ロシアとの親近と、日本との不和対立の姿勢を明示してきた。いずれにしても弱腰日本の足元を見て金品支援をも画
策しているのであろうけれど、一方、この極東事情は、日本の孤立化包囲網を浮き上がらせて行く、ある種の意図的外交がよそで進展していることを窺わせる。
北朝鮮の孤立を囲んでゆるやかに曖昧なネットの張られていたのが、様変わりになっていることに、早く政府は対応しなければ、ひどい状態へ追いい込まれる、
いやもう追い込まれている。いま、日本ほどバカにしやすい、コケにしやすい國はないのではないか、見るからに愚かしい政府を立てて、平和ボケの不況ボケを
さまよっている。自民党内の若手の行動力に期待するしかない、彼らが真にかつぎたいのは誰か、石原慎太郎か田中真紀子か。だれでもいい、森野中内閣の立ち
往生をべんべんと傍観していてはならないだろう。加藤紘一からは何も見るべき政策がきわだって発信されていない。旧来の自民派閥内閣のたらい回しは國を滅
ぼすだろう。北条時宗の昔が、大河ドラマとして再現されそうな噂だが、いま、日本は国難を意識せざるをえない環境に、愚かしく、棒立ちになっている。
その一方で、言い分の是非の判断と対応のために、智慧をしぼって北朝鮮のいう「補償」問題への意志明確な、聡明な検討
国家的に必要であろう。
* こんな時に政権や警察が得意気に振り回そうとしているのが「盗聴の自由」という暴悪の権力だ。そんなところま
で、日本政府はアメリカの権力を模倣しようとしている。
* 八月十五日 火
* 兄の新盆である。江藤淳の自決からもはや一周忌もすぎてしまった。迅速の思い新たである。
* チェリストと今宵の「第九」
秦さん 残暑お見舞い申し上げます。
札幌の四季は、夏から秋にかけては暦に忠実です。立秋が過ぎたと思ったらもう涼しい風が吹きはじめ、夜温が20度を切
るようになりました。
矢後千恵子さんという方の歌
チェリストが仁左衛門似であることで今宵の「第九」やや粋である
面白いですね。
この歌を目にして遠い記憶がよみがえってきました。
高校の頃は、年に何回かコンサートを聴きに行きました。一番足繁く通ったのが、横浜の山下公園の向かいにあった県民
ホールで、音は良くないものの、5Fのロビーから横浜港が一望できる雰囲気のいいホールでした。
高校生の私は当然の事ながらお金がなくて、親の懐に頼ってコンサートに行くわけです。ついでに親を誘うと、帰りにどこ
かで飯を食わせてもらえます。そういう下心でけっこう母や、姉を含めて家族三人で一緒に出かける機会がありました。
コンサートが終わり、食事をした後は、山下町から桜木町まで、すっかり静かになった横浜の街を歩きました。左手に神奈
川県庁、右手に生糸検査所や横浜税関の古い建物をみて、自分の靴音だけを聴きながら歩くのです。音楽を聴いて高揚し、火照った体に海風が心地よかったこと
をよく覚えています。
ところが私の母ときたら、
「今日の指揮者はせわしなくて、ゼンマイ仕掛けだったわねぇ」とか、
「いつも一番後ろで弾いている顔色の悪いお兄さんは今日はいなかったけど、風邪でもひいたのかしらん」
「ティンパニのおじさんはこの一年で頭もティンパニみたいになっちゃったわねぇ」
などと、私の高揚した気分に水を差すようなことばかり言うのでした。
チケットを買ってもらい、飯まで食わせてもらったパトロンですから、口には出しては言いませんでしたが、いつも「いっ
たいこの人はコンサートに音楽を聴きに来てるのだろうか、それともオーケストラを見にきているのだろうか?音楽はもっとマジメに聴かなきゃけしからん!」
と憤慨していたように思います。
それから20年が過ぎました。あいかわらずコンサートにはちょくちょく行きますが、その聴き方は昔とだいぶ変わってき
たように思います。学生の時分は体力もあり、一音も逃すまいというようなぴりぴりした気分で音だけを聴いていたのですが、今は仕事を終え職場から会場に滑
込むので、そんな緊張感は維持できません。その代わりにずいぶんリラックスして音楽を聴けるようになりました。とても良い演奏だったらもうけもの、はずれ
たらしょうがないやと言った気分です。こんな風にリラックスして聴いていると、けっこう演奏者の表情や所作が音とは別の情報として多くを語っていることが
わかりました。見ながら聴く楽しさといったものでしょうか。
ようやく最近になって、母も母なりのやり方で音楽を楽しんでいたのだと思い当たりました。「音」を「楽」しむ方法はい
ろいろあっていいのです。仁左衛門似のチェリストで今宵の音楽がより楽しめる、そういう聴き方もまたいいものです。
私の大好きなチェリストについて、「第九」について書く時間がなくなりました。また次の機会にします。
お元気で。泳ぎの方も再開してください。 まおかっと
* いいエッセイである。母上が読まれたら、どんなに喜ばれるだろう、わたしだけが読むのでは惜しいと思った。 「まおかっと」さんとは、わたしのつけた愛称。朝一番にこういう落ち着いた好文章に触れると嬉しくなる。わたしもまた矢後さんや、「まおかっと」さんの母 上のように、音楽を「見」てきた。音楽が時間芸術の最たるものだと教わったとき、空間性の無視できないのも音楽だと直観していた。
* 矢後千恵子さんの歌集『駅長』は昨夜全編を読み通し、めったになく鉛筆の爪印がいっぱいついた。たまたま結社 を束ねている今野寿美んに宛てていた挨拶にそえて、矢後さんのことも褒めておいた。めったにない大人の女歌人に出逢った気がする。藝があり底が深い。面白 い歌の数々を紹介したいが、本が階下へ行っていて手元にない。
* 電子メディア・アンケートをみているうち、ホームページの実例に関連して、過剰な「自己肥大」を戒めているの
を読んだ。「過剰」には、量も質もあると思うが、さしづめ、わたしのホーページなどどうであろうか。この膨大な量と質との全体全容が、わたしには「わた
し」そのものである。拡充感はある、が、肥大とは感じていないのだが。すべては「闇に言い置く」創作と文藝と私語とである。幸か不幸か、わたしに残され
た、ここはまた戦場であり桃源である。他の人の数多のホームページの実状をわたしは殆ど知らないが、察しは付く。察してみても始まらないと思っている。道
のない前途をただ歩んで行くだけだ。
* 今日はまた病院に行き診察と指導を受ける。台風が逸れてよかった。長編の『慈子・あつこ』だけは、一字一字みずから
書き込みつづけて、仕上げたい。この作品が、読まれているとだんだんに分かってきているのが励みになっている。
* 八月十五日 つづき
* 大臣や都知事たちの、今日に限ってこれ見よがしの靖国神社参拝は、愚劣で不快だった。石原慎太郎の「信仰の自
由だ」という言い放つ顔つきは、とてもほんものの信仰者の敬虔とはほど遠く、障子をペニスで突き破って得意がっていた太陽族の、昔から少しも精神的に成熟
していない脂ぎったうつけものの顔だ。
陣笠大臣らの、金魚のウンコのようなバカづらは、ただもう靖国神社をタメにしたいだけのデモに過ぎない。いくら理屈を
こねても、カメラの放列の前でさながら歩調をとって行われる、大の大人の無思慮もあらわな行列は、滑稽そのもの。
わたしの思いでは、靖国神社は、信仰の場というよりも、集団の位牌所であり、いわば大きな「参り墓」である。だから
参ってどうこうとは実は思っていない。それを、さも政治的な主張かのように猿芝居のネタに軽薄につかうなとだけ、言いたい。そういうことを、さほどの確信
も敬虔さもなくやっていると、むしろ、植民地時代の補償を求めるという他国の主張のほうが、むしろストレートに真剣な印象のように映じて、そっちが国際世
論
になってしまいかねない。政治家たる者、そんな偽りの参拝に、さもひとかどのことでもしている顔をしているヒマがあれば、根本から國をかため護って遺憾な
い対策やシミュレーションづくりに、無い知恵をもっとしぼるべきだろう。ステーツマンシップのかけらも感じられない靖国集団参拝で「仕事」をしているつも
りなら、さっさと政治の場から去れと言いたい。自宅で雑巾がけに励むがよい。
* 南北朝鮮が角突き合わせて妥協の全く見えぬ頃にも、わたしは、必ず、やがて南北は一つの利害で意志を通わせる
はずだ、その時は朝鮮半島からのターゲットは「日本」に絞られるたろうと、書いてきた。いま、その事態へ移行しつつある。
中曽根康弘氏は、北朝鮮は日本の経済援助が欲しくて日本に接近してくると見通していたが、少し見当がちがう気がする。
もっとはっきりした敵意が感じられるし、北は南にその敵意の回復と浸透を願っている段階だと思う。少なくもそれぐらいのつもりで政治と外交とが機敏に対応
してゆかないと、途方もないリベンジを蒙るのではないか。
敵視せよとは決して言わない。が、いろいろな意味で「備え」ねばいけない筈だ。もう神風は吹かない。決して吹かない。
三十年と経ずに近畿以西の西日本を日本が失うことは、戦略的にありえない想像ではあるまい。いまの日本政府や政治家たちの腹の無さでは、と、未来を真剣に
危ぶみたい思いの、紀元二千年八月十五日であった。
* あらゆる数値が、わたしの体調のほとんど「正常」を示していた。インスリンの力を借りているので、むろん正常
そのものとは言えないが、体力は、糖尿病と診断された三月下旬と比較して、飛躍的に増強している。体重も血糖値もヘモグロビンの基準値も体脂肪率も量も格
別に減っている。起床空腹時の血糖値が110から126がいわば糖尿病前のグレーゾーン、境界型糖尿病といわれているが、わたしの場合、110をほとんど
平均して下回った数値をもう長く維持している。体重を減らして、きつかった服やズボンがらくに着れるようになっただけでもよかった。心臓負担が嘘のように
軽くなり、三十分ほど休みなしの烈しい運動からも数分で回復するようになっている。血圧もごく正常で、むしろやや低いほど。
で、今日も、仙太郎の最中を一つだけ買い、池袋の地下道を歩きながら心ゆくまで賞味した。悪影響は出なかった。
* 八月十六日 水
* 京都は「大文字」だ。五山に火が燃えて、京の夏の夜を不思議の時空にかえる。寂しくて美しい極致である。娘の 小さかった頃に、妻と三人で弥栄会館の屋上から送り火を見た感動が、わたしの『みごもりの湖』をつよく押し出した。懐かしい。ふるえるほど懐かしい。
* 黒い少年マゴに、白血病の予防ワクチンを注射してもらった。
* 直哉が『暗夜行路』をとうとう完成させた頃の書簡を読んでいる。昭和十一、二年頃だ。谷崎の昭和初年と直哉の
それとは、産出力において、天と地ほど谷崎が勝っている。瞠目の大噴火時代であった、谷崎潤一郎には。
志賀直哉は決定的に重い文壇的地位をしめていながら、創作の湧出力は激減し、長編の完成にも音をあげながら四苦八苦
している。だが生活は、悠然としている。敬意の受け方も深いし、瀧井孝作、網野菊その他の後輩友人達への全面的なといえるほどの精神的・実質的支援は、こ
れまた、目を瞠るほどこまやかに親切で。そして、ときどき、作品の批評をしている内容にも啓発される。
次から次への旅また旅、自身や家族の絶えざる病気、頻繁な引っ越しや家作、古美術への親炙、大家長としてのあらゆる面
での配慮は、ひろく友人知己の上にまで及んでいる。友人も知己もいわば直哉には「大家族」なのである。
昭和十一年の谷崎の秀作『猫と庄造と二人のをんな』への賞讃の弁が、瀧井孝作への書簡に初めて現れる。同じ頃の横光利
一の作品は比べて問題にもならないと貶してある。谷崎を文章にして評価した、これは最初かも知れない。
* 谷崎潤一郎と志賀直哉は、真正面から比較して品隲されたことが、不思議だが、まだ無い。私には、出来るかも知
れない。それはまた間違いなく、わたし自身を問い抜く課題になりそうだ。さ、どうか。
* 八月十七日 木
* 春秋社の小関直氏と、池袋のホテルで歓談。そのあと、「楽」で、ほんの少し飲んで帰る。保谷駅ビルで気に入り
のパンを買う。
* 零時前、ロンドンから甥の北澤猛が電話してきた。数理経済学の世界的な泰斗として知られた森嶋通夫氏の家にいて、森
嶋氏からわたしへの質問を、電話で中継してきたのである。どうやら生母の父のことにかかわって、阿部房次郎という往年財界の覇者のことなどを確認された
かったらしい。
猛は、穏やかな元気そうな声でゆっくり話していた。手持ちの『死から死へ』を森嶋氏のところへ置いて行くので、また
送ってくれとのこと、お安い御用である。
* さてはお前は狐じゃなぁ
お仕事、お進みでいらっしゃいますか。
大川橋蔵・嵯峨三智子の「恋や恋なすな恋」のビデオを見始めましたの。「芦屋道満大内鑑」の義太夫や清元も入るらしく
て、楽しみですわ。動画美術は蕗谷虹児ですって。以前、新発田市にある虹児記念館までまいりました。♪キンランドンスの帯締めながら・・・子供心には、呪
文のような歌詞でしたわ。
お嫁さん・・・馬や蛇はともかく、「おやゆび姫」の蛙、「美女と野獣」のBeastはちょっと考えますわね。殿方とし
て、狐・鶴・柳の精はいいお嫁さんではなくて? 落語にありましたわね。釣りに行って、夜、美人が訪ねてくる話。
* こんなメールが舞い込むと、異な気分になり浮世離れする。熱帯夜である。
* 八月十八日 金
* 省みて思うが、酔いは必ず醒める。醒めてしまわない酔いはなかった。酔うほどの酒はまずい。まして悪酔いは見 苦しい。酔わなくて旨い酒は、常に旨い。酒の問題ではない、飲み方の問題だ。惚れた、はれたも、同じだろう。
* 父は酒が呑めなかった。家には酒けがなかった。母は、里の父が酒飲みなのを見て育ち、アンビバレントな見方を
していたが、晩年には酒は好きと自覚し、猪口に二杯ぐらいを嬉しそうに笑い転げながら飲んだりした。いっしょに飲んで上げると喜んだ。父は奈良漬けの一切
れでも赤くなった。
わたしは小さい頃から母の作る粕汁が好きだった。酒粕も大好きだった。中学生の頃、近江舞子か唐崎か、ワカモトという
クスリの会社の持ち物だという広い庭園で、どこの主催だか「園遊会」なるものへ叔母が連れていってくれた。裏千家筋の遊びであったかも知れない。そこで初
めて「酒」を口にした。おつなものであった。恒平は酒飲みになるという予想がたてられた。もっとも、青年期を通じて酒は愚かコーヒーにもタバコにも全然手
が出ないほど、自由になる金がなかった。あれば書籍に変わった。
大学時代に一度だけ、あれは、伏見の酒と縁のありげな家から、「生ま酒」がある飲ませようかと声がかかった。父は名代
で行ってこいと命じ、わたしは自転車に乗って京都の西の方へ「生ま酒」なる酒をわざわざ御馳走になりに行った。口あたりうまくて、かなり飲み、かなり酔っ
て、それでも自転車で家に帰った。帰ってから、苦しい思いをした。酔うほどの酒は、結局まずいと体験した。
まずい飲み方を、この四十四、五年間に、十四、五度は体験しているだろう。おそらく、極めて少ない方だろう。深く酔う
酒は、底で苦い。不味い。しんから酒が好きだから、それほどの酒はぜひ旨く飲みたいから、旨いうちを飲み、酔いが兆せばその場は慎む。またの折りが必ずあ
るのだから。
* ひとり酒、おんな酒、と書いたことがある。「ひとり酒」が好き、男ふたりで酒というのは、じじむさくて、そう
好きになれない。ひとりで、ゆっくり飲むか、気のあった女性とふたりで、気の利いた女の話題を肴にもらい、酒もすこしは付き合ってもらい、旨いあいだだけ
好きなだけ飲む「おんな酒」が、いい、と。
前者はたやすい。後者は、得難い。いい女がなかなか得難いのと同じである。
* 京の河原町四條、鮨の「ひさご」の主人が、電話で、商店街のための原稿を頼んできた。前には「ひさご」のため
に書いたことがある。コマーシャル原稿というのは、せいぜい数度ほどしか記憶がない。京都へ、また行きたくなってきた。
「ひさご」との縁は、兄の北澤恒彦がつくってくれた。中小企業経営診断士という肩書きのある兄は、その方から大いに「ひ
さご」の主人を啓発したらしいのである。
* その兄のことを、森嶋通夫氏が、朝日新聞社から出ている雑誌「論座」での連載原稿第15回目に書かれているのを、今
日、読んだ。
去年の今頃、兄は病苦にむち打って、イギリスにまで息子の猛と旅をしていた。ロンドン在住の森嶋氏とも逢ったのかどう
かは分からないが、氏の原稿は、わたしにも、わたしの母にも触れられてある。お許しを願い、われわれに関連の箇所だけを、ここに抜粋させていただきたい。
ホームページでのわたしの友人たちにも読んでほしいと願うのである。
* 森嶋通夫 終わりよければすべてよし 「論座」 2000.9月号(朝日新聞社)より抜粋
私が北沢恒彦にはじめて会ったのは八九年の京大での連続講義の時だった。学生運動の成果として京大の経済学部の
学生は、彼らが選んだ先生の連続請義を開催する権利を獲得していた。講義はその年出版された私のRicardo's Economics
に則っていた。学生の出席率はよく、教室は満員だった。前から五列目くらいのところに年配の人が坐っていた。
「あなたはどなたですか」と私は聞いた。彼は「京都市役所の者ですが、傍聴禁止なら退場します」とはにかみながら言っ
た。こうして彼は講義に皆勤した。講義の回数が増えるとそのうちに親しくなり、親しくなると「一緒に肉でも食いに行きませんか。神戸にうまい所があるので
す」と誘われた。神戸まで行くのは大変だから私は断った。彼は「四条に安いところがあるから行きましょう」といって、私たち二人を京阪四条駅を降りてすぐ
の、安そうだが、おいしそうには見えないレストランに招いてくれた。
その時に彼は、何か日本で味わってみたいことはありませんかと私に聞いた。私は別段何もないが、強いて言えば畳の上で
日本の布団に寝てみたいと一言った。彼は「僕が言えば必ず引き受けてくれますから頼んでみましょう」といって、四条富小路の徳正寺を紹介してくれた。私た
ちはその年の正月をその寺の庫裏で過ごした。
私が神戸大学で話をした時にも、彼はわざわざ神戸まで来た。龍谷大学で講義した時のセミナーには徳正寺の住職と奥さん
を連れて来た。私は徳正寺の宗派を知らないし、龍谷大学が仏教系の大学であることは知っていたが、何宗の何派なのかもよく知らないので、食い合わせ症状の
ようなことが起こらないかと心配したが、セミナーは無事すんだ。しかしその日の私の出来は悪かった。
立命館大学で教えることになってからも、彼は私の講義に皆勤してくれた。ただしその後半の頃は彼は京郡市役所を退職し
て精華女子大学の先生をしていたので、時間の都合上隔週にしか出席できなかった。彼が異常といえる程の興味を私に持っていることは、その頃の私にはよくわ
かっていた。しかし彼は特別な質問を何もしなかった。精華女子大では文化論の先生をしていたので、彼は私が雑談としてするイギリス観やイギリスの目から見
た日本論に興味を持っているのだと思っていた。
ある日、彼は乗って来た自転車を押しながら、「先生の『経済成長論』を読んでいる。ありゃ大変な本ですな。だけど、も
う数回読み直せば克服出来る所までこぎつけた」と言ったので私は驚いた。その後彼は私のCapital and Credit
を読み始めたということを葉書に書いて来たから、彼が私の経済学に興味を持っていることがわかったが、私に会うまでは私の経済学の本は読んでいなかった管
だ。
私はその頃、彼が高校生の時代に、学生反戦活動に参加し火炎瓶を投げて逮捕されたりして、大学の卒業が遅れたことを
知っていた。その後も京都べ平連の中心人物の一人となった。彼は同志社大学法学部を出ており、マルクス経済学の知識はあっても、マルクスの解釈は私とは全
く違う上に、彼の年齢ゆえに、私のような考え方をもはや受け入れられないような頭になっていると私は思っていた。彼の弟の秦恒平(元東工大教援)は彼のこ
とを「心優しい兄」と書いている。それに全く同感だが「心優しさ」だけでは数理経済学の論理を克服出来ないとも私は考えていた。
驚いたことに、彼は私が九七年に天津の南開大学で講義をした時に、天津までやって来て私の講義を聞いた。日本では、折
角彼が来ているのだからと、彼用の話を講義のなかに挿入して彼にサービスしていたが、そういうことは中国ではしにくい。私が英語でサービスしても、それが
彼にうまく通じるかどうかは不明だし、講義の後は中国人に取り巻かれて彼に直接話をする機会はほとんどなかった。
そのあとは大阪市立大学である。彼はその大学の大学院の学生であったそうだから、アット・ホームであった。しかし一緒
にご飯でも食べようと声をかける余裕は私にはなかった。最後に私の送別会があった時、そそくさと帰る彼を追い掛けて「少し話をしていきませんか」と言った
が、次節に書くように「ターンパイク定埋の所を読み上げました」と言って、振り切るように彼は去っていった。
私は彼のもう一つの面を全く知らなかった。彼自身数冊の本を書いていたし、彼の実弟秦恒平は小説家でもあった。
以下に書くことは、彼の死(自殺)後、二人の書物から私が知ったことである。北沢はそのことを敢えて私に隠したとは思わない。断片は聞いていたが、それら
がまさか以下に書くような実態の断片だとは思わなかった。
以下は秦恒平の『死なれて、死なせて』(弘支堂)と北沢恒彦の『家の別れ』(思想の科学社)に基づく、彼らの母親と彼
ら自身についての悲しい物語である。母は阿部鏡子といい文才のある才気にあふれる人であった。彼女の父は彼女が一一歳の時、東洋紡績から退陣することにな
り、そのあとを「後年財界の覇者として識られた当時の青年層F・A氏」が継いだ。退陣した父は韓国に行き、彼女も住み慣れた家から追い出された(阿部鏡子
「わが旅・大和路のうた」による、未見)。
F・A氏が誰かはわからないが、阿部房次郎であるならば、当時の東洋紡社長の彼は「財界の覇者」とも一言えるし、同じ
阿部姓の彼女の父は阿部房次郎の前任者であるから、阿部一族の内紛の結果、鏡子の父は放り出されたのだとも見られる。古い話だが東洋紡の社史でも読めば、
この憶測の正否ははっきりするだろう。その後鏡子は結婚し、四人の子供を産んだが、夫が死んでから彼女は生計を立てるために彦板で下宿屋を始めた。
そこへ北沢・秦の父が彦板高商の生徒として下宿し、彼女との間に彼らをもうけた。まず生まれたのが恒彦(北沢)で一年
後に生まれたのが恒平(秦)である。彼らの父は、阿部家に下宿をはじめた当時は一八歳であり、鏡子にはすでに同じ年の娘がいた。彦根で生まれた北沢は恒
彦、平安京生まれの秦は恒平と名付けられた。父の家はかなりの名家(吉岡家)であったから、体面を重んじる吉岡家は子供をすぐに養子にやり、鏡子も結婚し
ていた先の家から放り出され、亡夫との間に出来た四人の子供も孤児になってしまった。成人しても恒彦と恒平は長い問兄弟付き合いはさせてもらえず、想像し
得るように父方(吉岡家)にも母方(阿部家)にも出入りできなかった。「子供たちが北沢ないし秦の子供と
して暮らしているのを乱したくない」という配慮で父と子供たちとの間の連絡もなかった。恒彦は自分の子供たちとの関係は
あっても他の家族から自分や子供を切り離していた。恒平も彼自身が「四○半ばをすぎる年まで、血縁にかかわるすべてを拒絶し統け」てきたそうだ。
しかし母は必死になって子供(特に恒平)に逢おうとした。「いとけなき私や私の兄の行方をさがし求めて、(母は)ほと
んど狂奔した。ただもう兄と私に執着し、その執着心にすがりつくようにして死ぬまで生き続けた」と恒平は書いている。鏡子は色紙に「恒平さんヘ」と書いて
話したき夜は目をつむり呼ぴたまえ
羽音ゆるく肩によらなん
という歌を残して、死んだ。彼女は「不治の傷と病とをうけてほとんど自ら死をえらんで逝った」と恒平は書いている。私は
秦を知らないが、北沢同様心の優しい人だと思う。
私は恒彦と恒平とでは恒平の方が文才があると思うが、彼らが書き残した鏡子の和歌を見れば、彼女は二人の息子よりも優
れた文芸の才能を持っていたように思われる。そういう彼女の激情と非常識が生んだ悲劇だが、またそれだけに彼女は驚くべき立ち直りを見せた。彼女は四○歳
代にさしかかった頃、大阪に新設された保健婦養成校に入学し、卒業後、奈長県で看護婦兼保健婦のような仕事を始めた。晩年には奈良県下の未解放地区の診療
所で働き、彼女に世話になった人たちは彼女の献身的な活動を絶賛した。世俗的な倫埋基準から見て、それまでの彼女が魔性の女であるとすれば、後期の彼女は
マリアのようだといえる。
シャイで、用心深く引っ込みがちの秦は長い間父をも母をも拒絶していたようだが、母の性質を受けて秦よりは前にでるタ
イプの北沢は、少年の頃から母とも「微妙に連絡を保っていた」ようである。私が彼と付き合うようになった頃には、母はずっと前に死んでいたが、彼は実父に
も養父にも非常に親切にしていたことを私は知っている。
親類付き合いというものを知らなかった子供達に伯父や叔父、従兄弟、従姉妹への親しみ方を教えるのに、北沢は家族単位
の付き合いでなく個人単位で付き合うことを秦に主張したそうだが、普通の家庭環境に生まれたものならば、自然に知っている親類付き合いの仕方を、白分達で
子供の為に見つけねばならない北沢、秦の人生はさぞかし大変であったろう。その結果得た北沢の「個人主義的解決」という知恵は、彼の友人の選ぴ方にも及ん
でいると見なければならない。そうすると、彼は私の中に何か惹かれるものを見たから、私を追っかけ、私の書物を繰り返し読んだのである。なぜ彼は自殺した
のか。なぜもう一度私に会おうとしなかったのか。イギリスと日本に別れていても、生きてさえおれば、会うことは不可能ではないのに。
* 森嶋教授の記事には、あたりまえだが、いくらか、事実と言い切れない点も含まれる。中にもあるように氏はわた
しのことをご存じないし、母や父のことも、書き遺したものも見ていられない。しかし九割九分以上も不自然なところは感じられなくて、しみじみとした。母の
ためにも兄のためにも、これ以上はない供養である。森嶋氏ほどもとても知り得なかった兄のことを、たくさん教えていただいた。感謝に堪えない。
いま一度言っておく、氏は、数理経済学の世界的な泰斗として知られた人である。
* もう一つ特筆しなければならない、森嶋氏の文は、千葉の勝田貞夫さんの親切な教示にしたがい、e-
typist
をはじめて用いて、スキャナから文字認識し、校正しえたものの貼り付けである。こういうことも、従来は知らなかった。なるほど認識率は八割ぐらいかも知れ
ないが、校正は利くのだし、一字一字書き込むよりは、能率はわるくないと思われる。書き込み途中の『慈子』の終盤を試みてみれば、能率の差は実感できるだ
ろう。誤認識だけを拾えばいいので、安心感ももてる。
* 八月十九日 土
* 息苦しいほど仕事の波が高くなってきて、時間的にきつい。だが避けては通れない。
* それでも、仕事の種類によっては、テレビドラマや映画を「耳で聴き」ながら出来ることもある。中国の姜族が住
む美しい風光とともに、日中の思いが接触し合うNHKドラマの前篇があった。今ひとつ盛り上がってこなかったが、ときどき、美しい珍しい風景や建造物に目
を楽しませて貰った。
それより、久しぶりに「007」のジェームス・ボンドを楽しんだ。日本の加藤かずこに似てさらに美しい女優につい目を
ひかれた。たいして尊重したことのないシリーズだが、今夜のは面白かった、聴いているだけでも。
* 疲労のせいか、今夜は自転車運動がきつく、いつもの半分あまりで打ち切った。気温よりも湿気がきつい。草臥れ
る。今夜は早めにやすもうと思う。そうはいえ、もう零時をまわる。この頃、二時半、三時ということが多い。リラックスしたい。
* 八月二十日 日
* 黒川創から、父と祖父との新盆に京都へ行き、ひさしぶりに大文字の送り火もみてきたと便りがあった。一周忌に は「偲ぶ会」がもてそうだとも。よかった。世間のことに疎くて、黒川がどんな仕事をしているかも知らないでいるが、この兄も、ヨーロッパで暮らす弟北澤猛 も、幸い元気な便りをくれて、何よりだ。
* 週末に挙式する人のために、時間をかけて祝いの贈り物を用意していたのが、やっと出来た。この間、じっくりそ の人との「対話」が楽しめた。
* 本を発送の挨拶に、「風伝白秋」と書いている。本の届くのは九月ごく初めかも知れない、たとえ早く出来てきて も、山折哲雄氏との「対談」第一回が済むまでは置いておくつもりだ。
* 美味しいものは、少量でも嬉しいもの。食べられない恨みも、ぼちぼち薄らいだ頃ではございませんか。
友人が来阪。芝居の話をしながら食事を共にしました。彼女曰く「最近は変なのよ。若い男の子が(池袋の)仙太郎で、一
個だけ最中を買って、その場で食べてるんだもの。」まさか、秦さんでは・・・!?
彼女と別れてから、難波高島屋で、仙太郎の[真最中]、虎屋の[夜の梅]、末富の[白酔墨客]、大阪のきんつばを買っ
て帰りました。街へ出た時に、まとめ買いしていますの。昨日はチョコレートケーキを焼きました、こうしておけば安心、安心。
* 変梃なメールだが、行状はまさしくわたしと同じで、わたしは都合三回「最中を一つ」買っている。しかし「若い
男の子」には見えまいから別人だろうが、どこで誰に見られているか分からない。この前も、ぼんやり横断歩道で信号を待っていたら、すぐとなりに、親しい女
性読者も立っていて、「おやおや」「お久しぶり」とびっくりし合った。
* 八月二十一日 月
* パソコンは、これだけ日々に接していて、なお、舌を巻くことに次々に遭遇する。表皮をこする程度にしか、まだ
まだ使えていない。
平成三年十月に東工大に私の部屋をもち、「工学部」教授の研究費をもらった。大学生協でワープロを買い、翌春には新入
生用にパックされた推奨品のパソコンも買った。が、なるほど、これは失敗だった。黒白のエプソン、ウインドウズ3.1だった。95がもう出ていたかどうか
も知らなかった。新入生に奨めるぐらいだから、親切ないいものだろうと勘違いしたが、「在庫一掃」のたぐいであったと学生君達に笑われた。
さて、この黒白エプソンが全く動かせなかった。長い間、二年以上も、机の上に放置されていた。内蔵されていた麻雀牌を
使ったゲームぐらいしかできず、モノクロでは、実に味気無かった。なにかをインストールしようにも、今と違い、MS-DOSを入れ一太郎5を入れるのに、
マニュアルの冊数も夥しく、インストールの必要なフロッピーディスクの枚数も、二十枚を下らなかった。歯が立たなかった。
ワープロは、とうの昔に、東芝トスワード一号機を、70万円近く支払って買い、即日用が足せた。パソコンはワープロの「三十万倍難しい」とわたしは音をあ
げ、見かねた林丈雄君が、すべてインストールしてくれた。林君とは、総合Bの授業で初めて逢った。最初の時間後に「ぼくは先生の授業は合いそうにありませ
ん」と言ってきた。「いいんだよ。余所の教室へも行ってごらん」と返事した。しかし翌週からも彼は欠かさずわたしの教室に来て、熱心だった。教授室へもし
げしげと尋ねてきた。あげく、林君は死骸然として動かないパソコンを見かねたのである。わたしを鼓舞しなくてはと思ってくれたのであろう。インストールが
完了するまでに、なんと七時間かかった。
しかし、この器械をわたしは「使え」なかった。文章なら、慣れたワープロで十分だった。パソコンで何がしたいのだか、
何が出来るのだか、これが定まらない限り、手のつけようがない。つまりパソコンとは、どんな器械なのかが分かっていないから、使い道が、私の中から湧いて
こなかった。見つからなかった。
林君の次に、吉田篤司君というちょっと風変わりな個性的な学生が、教授室に、じつに頻々と訪れ来るようになり、この学
生君のパソコン扱いたるや、わたしには神業に見えた。こんどは彼が、我がエプソンを「グレードアップ」すべく大いに手伝ってくれて、新しい一太郎もインス
トールしてくれた。ディスクの枚数が凄かった。それでも黒白は黒白のままである、吉田君はこの器械に癇癪玉を屡々破裂させ、こういう「ボロ器械」を買って
しまった秦サンは「あほや」と、大阪弁で繰り返し非難した。それほどの器械であった。
わたしは家の方にカラーのいいディスプレーを買い、この器械を家で接続して、はじめて「色」で識別できる麻雀牌の「青
海」ゲームを満喫し始めたが、金縛りにあったように、「文筆」の仕事ではまだ器械を活用出来なかった。かろうじてニフティーマネージャーでメールが使える
ようになったのが、いつごろからであったか、記憶が定かでない。
ご褒美めいた、臨時の研究費が二、三百万円もどかんと加算されたのが、講義二年目が済むか三年目の初め頃で、わたし
は、これで新しいNECのノートパソコンを買った。むろんカラーで、当時としては新しい佳いものだった。生協で45万円前後を支払った。
だが、まだ、わたしはパソコンをどうすれば自分の仕事に活用できるのか、とんと方途がつかめなかった。一太郎で文章を
つくろうという気になかなかなれなかった。ワープロが、自分の「手」のようにすっかり馴染んでいたからだ。
そのうちに、退官の時が来てしまった。情けないことに、いい先生たちに恵まれていながら、器械の「グレードアップ」に
は熱心に金をかけていながら、持ち腐れの「宝」を抱いたまま、わたしは国立東京工業大学を去って行くハメになった。
そのころは、まだ田中孝介君というすばらしい「先生」に出逢えていなかった。田中君を後に紹介してくれた布谷智君が、
もう東工大から去って行く私との「対話」を求めて、しげしげと教授室に訪れ始めたのが、平成七年の晩秋頃からではなかったか。あの頃の教授室は話し込みに
来る学生達で、じつに賑やかであった。
* 退官後も、幸いに多数学生君達との親交が継続された。メールというものが、じつに役だってくれた。メールを設
定してくれたのは、我が家へ遊びに来てくれた林丈雄君が最初だったと思う。おかげで、つぎつぎと教室での仲間達がわたしのアドレスに訪れはじめて、大学時
代と殆ど変わりなくよく付き合った。親交に大いに側面から役立ってくれたのが、息子秦建日子の芝居の公演だった。わたしは息子の応援も兼ねて学生達を招待
した。劇場で会い、前後に大いに飲み食いして歓談した。そんな機会に、布谷君が、親友の田中君を誘ってきてくれた。田中君が、まさにコンピュータの「専
攻」生であると紹介された。田中君もわたしの大教室での授業に出ていたが、数百人もの大教室では、とても学生の名前と顔とは結びつかない。
西銀座の銀座小劇場での芝居のあと、大勢で、鮨の「こつるぎ」に入って、盛り上がった、その中に布谷君と田中君もいっ
しょだった。わたしは田中君に、パソコンの指南を懇請し、こころよく田中君は承知してくれた。すばらしい出逢いであった。平成九年の内だったろうか。
* OCRで、『慈子』を、一気にだいぶ書き写した。スキャンの手際が巧く行けば、もっと多く出来るだろう。た
だ、今つかっているe-typistの性能はよくなく、識字率はかなり低い。頻繁に校正し直さなければならない。勝田さんの話では、もっと性能のよくなっ
た新バージョンが出来ているらしいので、ぜひ手に入れたい。池袋のさくらや四階で手にはいることはもう見て置いた。
今、湖の本版『慈子』の約五頁を書き込んだ。一字ずつ手で書き込んでいたときは、よほど気の乗った時でも二頁がやっと
だった。時間は計っていないが、能率的にOCRの方がいいのは明らかだ。よかった。新たな「湖の本」の入稿にも効率よく利用できるのだ、凸版印刷は早くか
らわたしの入稿コピー原稿をこの方法で組んでいたのだと、やっと、今、思い当たった。ウーン。
* 八月二十二日 火
* 話したき夜は目をつむり呼ぴたまえ
羽音ゆるく肩によらなん
家を空けていまして、数日ぶりに湖のお部屋をお訪ねしました。そして、お母さまのこのおうたに泣かされています。
あちら側へ行ってしまったわたくしのたいせつな、そして慕わしいひとびとが、ときどき、肩のあたりに来てくれる、そう
感じられることがあります。「あ、来てくれた」。この世に残しておいた拙いわたくしのために、ときどき、こちら側に来てくれる、来てくれてそっとわたくし
の肩に手をおいてくれる。「どうしたの」「悲しまなくていい」「辛抱なさい」──。
幻想とか錯覚とか、割り切ってしまうには、せつなく、かなり現実味を帯びて感じられて。
いい年をして甘ったれたことをと言われそうですが、こうした亡きひとたちに守られ、助けられてきたという感じがしてお
ります。
お母さまのように「呼ぴたまえ」と言ってくれたひとも、「羽音ゆるく肩によらなん」と言ってくれたひともいません。け
れど、わが亡きひとびとも、失礼ながらお母さまと同じおもいであったかと。お母さまのおうたは、世を同じくしながら、逢い得ぬわが子への呼びかけでありま
すけれど。
去年の秋、廣澤池近くで、採ってきたのを蒔いた数珠玉が五、六本、育って実をつけてくれました。白い糸くずともヒゲと
も見えるものを一粒に二本づつつけて。
涼しくなったら、また出かけたい、今度は萩の咲いているころ、それから稚児ヶ池にも。
* 森嶋通夫さんの原稿に引かれていたわたしの生母阿部ふくの歌である。森嶋さんはわたしの『死なれて・死なせ
て』でこの母の短歌に出逢われている。この「恒平さんに」と書いて遺された母の短歌を、わたしが初めて色紙の上で読んだのは、母の死を知ってからも何年も
何年も経ってのちのことであった。遺品をわたしは妻に命じて天井裏へ仕舞わせてしまい、頑固に見なかったのである。
母の遺歌文集にもこの短歌は載っていなかったかも知れない。
母が臨終の床にいて、やっと刊行に間に合ったらしいこの歌文集『大和路の歌』は、校正も人任せであったとみえ、明快を
欠く行文もまま見える。
わたしの眼にまずはと想われる歌を選んで、先の本にも、講談社版『昭和万葉集』月報にも、湖の本の『歌集・少年』の付
録にも載せて置いた。それが幸い森嶋さんの嘆賞を得たのである。
* なにかしらが、「肩に」よってくるという感覚は、母の短歌を知る以前から、わたしは、はっきり持っていた。今
でも、毎夜欠かさずに就寝前に本を音読するのは、そういう「肩に」よってくるモノたちのために、いっしょに読むという気なのである。
私の背中にはいつも「風」がそよいでいます、その正体が知りたければあなたにだけは教えて上げると、もう随分昔だが、
受賞して作品を発表し続けていた頃に、未知の人から手紙をもらったことがある。正体などというのは知らぬが花で、返事は省いた、が、「風」とは分かりいい
表現だと思い、今も想っている。
*
高校野球の優勝戦を、雑用をしながら観ていました。迫力と見ごたえのある試合でしたね。こんな高校生が、十七歳が、いるというのに何がどう間違ってあんな
事件が頻繁に起きるのでしょうか。
家の北側に、1メーター少しの空き地があります。
めったに裏は開けないのに、今開けてびっくり、何時の間にやら此処にも秋が忍び寄っていました。秋海棠の花が一面にお隣までも占領して、花をつけて、見事
なこと。半日蔭がよく似合います。茶花でしたね。
葉っぱと花との色のコントラストがよくて、私の好みでいうとどう扱っても生き残っていく強さもあり、難点は水揚げの悪い事ですが、三本の指に入る位に好き
な花です。観ていて落ちつきます。あなたは。
* 酷暑も一段落いたしました。お疲れが出ませんよう、ご自愛ください。
突然ですが、婦人服には、メンズにない、後ろあきというのがございます。ボタンあきは、柔軟度を計る物差しにもなりま
すの。時々、留め損ねている女性を見かけますでしょう? 「ちょっと、このファスナー上げてくださらない?」「ここ止めて頂ける?」「お太鼓曲がっていな
いかしら?」・・・左利きのわたしは、ネックレスの留め具が苦手ですの。ダブルで、総ボタンで、後ろあきのワンピースを着ていたお嬢さんに、「洒落ていて
素敵ね」と言うと、「満員電車で、痴漢にはずされちゃうんですよ。」そういうこともあるの・・・バックシャンには。
* いろんなメールの文体があり得る。新しい文学が器械から沸き上がってくることに、わたしは希望をもっている。
* 八月二十三日 水
* 幾つもの用事がどっと来た。面白いこともあった。
* 中村扇雀丈から、九月歌舞伎座の切符を周旋してくれるとメールが入った。九月は片岡我当は休みだし、しばらく
ぶりに歌舞伎の匂いがかぎたかった。それで、頼んだ。すぐ、「お受けしました」と連絡があり、これで先に楽しみが出来、力が湧いて出る。ずぼらなハナシだ
が、演し物も知らない。いっそ昼夜で見ようと、頼んだ。
十月も、歌舞伎座で今度は我当に出番がある。御浜御殿の新井勘解由つまり新井白石役だ。『親指のマリア』の、我が敬愛
する主人公だ、これが今から楽しみ。夜が市川猿之助の通しで、けれん芝居。妻が、それも観たいと言う。わたしも観たいが、二ヶ月つづきで歌舞伎座の昼夜通
しは初めてだ。ま、いいか。わくわくする。
* この前、すばらしい美人の接待してくれた、旨い日本料理店に偶然入ったことがある。その人から、またのおいで を待っていますと葉書が届いた。おどろいている。
* おどろいたと言えば、もっとおどろく提案が、今日、池袋での出会いであった。電子書籍の企画制作出版を手がけ る株式会社から、「顧問」として参加して欲しいというのである。月に数日顔を出して、スタッフと接してくれればという、それだけの義務でいいそうだ。芯に なっている人とは、個人的に過去にほとんど縁はないが、時間をかけて話し合ったことは今日が二度めで、しっかりした人とは感じていた、が、申し出は突然で あった。
* 「ミマン」の原稿催促が来た。ウウッと唸る。次の出題は、難しかったかな。
妻がドアひらけば( )が息を吐く寝たふりをして布団をかぶる
「妻がドアを」と、字余りを効果的につかえばなと思う。漢字一字を欠くと、存外にこの歌「読み」幅が広くなる。
* 八月二十四日 木
* 愛知県の未知の人からメールが入り、『畜生塚・初恋』を、人と一 緒に読み返したいので二冊送ってもらえないかと。
二十年近く前、青森に住んでいて、その地を去るときに、友人から筑摩版の『秘色=ひそく』を贈られたという。その中に
『畜生塚』が入っていた。自分としては同じ本のなかの『清経入水』に心を惹かれたけれど、その人が『畜生塚』を念頭に自分に何かを示唆していたらしいこと
は察していた、思い当たることが無いではなかった、という。そして歳月を経て、もういいかと、本を近隣の施設に寄付したが、そのあとで、さらに多く強く
「思い当たる」ようになり、どうかしてまた読みたいと願うようになりましたので、と、たぶんホームページで知ったのだろうが、注文のメールが届いたのであ
る。
だれかと倶に読み直したいとあるからは、何か心に触れる「出逢い」があってのことかも知れない、幸せな出逢いであれば
嬉しいがと思いながら、すぐ送りますよと返信した。折り返し『慈子』上下もと、もう一度メールを貰った。
何処とも知れない世間で、わたしの書いた小説が、人の人生に浅からぬ縁を得ているという、その悦びがものを書かせ発表
し続けさせる。
* 『畜生塚』も『慈子』も、いわば世の掟を超えた、道ならぬ恋を書いている。そういう中でわたしの思いは、いつ
も「身内」とは何かという根底を探っていた。
社会では、実に惨憺たる事件が陸続と山をなしている。少年達のいたましい惨劇もあとを断たない。
それらの多くが、渇くような孤独や孤立の地獄苦を負いながらの事件であることは目に見えている。東工大のような恵まれ
た一流校の学生達でも、「寂しいか」と問えば、愕くべく多数が、大方が、切実に「寂しい」と内心を書き綴っていた。
過剰なまでに人は孤立し、孤独は現世の業病と化していることを、わたしは三十年問言いつづけ、書きつづけてきた。
わたしを突き動かしてきた思想は、幼くからの「島に立ちて」の「身内」観であった。「自分」には、親兄弟もふくめて
「他人」たちと「世間」とに取り囲まれている。その両者から「自分」は真の「身内」を求め続けて生きるのである。
「身内」とは、何か。
その、わたしの答えを確かめたくて小説を書き、戯曲を書いてきた。その前に、大勢の人たちと出逢ってきた。どんなに一
つ一つの出逢いを大切にしてきたかと思う。古めかしいイメージだと笑われるだろうが、その根のところに、盆の供え物の蓮の葉に、一瞬玉と散る露が、みごと
にちいさな湖をなして清冽であったという幼時の視覚が働いている。あれに「身内」のありようが見えた。それからすれば、今、世間の人々はあまりにバラバラ
に孤立し、孤独に渇いている。
* 本は、山ほど世間に溢れているし、いわゆる先生たちも溢れている。宗教の本も山ほど在る。それなのに、人の孤
独や孤立という辛い状況に、哲学として寄与してくれるような示唆は、余りに乏しいではないか。
いつでも、思う。なにを観ても聴いても思う。ああ、この人は「身内」が欲しくて堪らなかったのだ、ああ、この人達のこ
の幸せこそ「身内」の悦びであったのだと、およそ、それで本質まで分かりきれる。
いくらか、数はまだ少ないが、それに共感してくれる人たちが、いつ知れず「湖」の本に、わたしの思想に、溶け合ってき
たのだと思っている。人の魂に触れて鳴り響く文学でありたかった。人の人生に深く関わりうる本が書きたかった。今もだ。
* 郵便の本を送りがてら、二日やすんだ自転車坂を繰り返し疾走してきた。朝一番に、明後日の結婚式のために、用
意のものを全て調えた。散髪もしてきた。
「対談」の用意はいっこうに進まないが、仕方がない。山折さんの胸にぶつかることにしよう。
ぶつかるといえば、「引っ越しのサカイ」のコマーシャルで、宿の女将と娘とが、空中で腹と腹でぶつかりあう写真が、理
屈抜きにおもしろい。おかしい。ぶつかるのは、威勢がいい。
* 八月二十五日 金
* とうどう『慈子=あつこ』全編をこのホームページに書き込み終えた。親切な人の協力で、校正もほぼ出来てい る。
* 太宰賞を受賞して最初の頃、断然女性の読者が多いと編集者から言われていた。手紙などもらっても、事実そうで
あった。但し一等反応の早かった杉本秀太郎、宮脇修、山折哲雄の三氏は男性、馬場あき子さんが女性だった。受賞作を含む処女単行本『秘色』は女の人に多く
読まれたらしいことは、昨日の愛知の読者の例からも察しられる。
筑摩からの二冊目が書き下ろしの『慈子』だった、がこれで、、ざあっと女の読者の波が退いて、どうっと男性の熱い読者
が増えた。このヒロインは男性には憧れをもたれ、女性には嫉妬されますよと、編集者は「解説」してくれたが、それはともかく、語り手の男である青年、既婚
の「私」に対する、世の掟からする猛烈な非難があった。事実、群馬県はじめ各地で著者を囲む会があると、女の会員から、『慈子』という作品にでなく、
「私」なる男へ、ひいては作者へ、続々と非難の声が発せられて応接に汗をかいた。
一方、ラジオのディスクジョッキーで、時を同じくして女優の吉永小百合と、落語の桂三枝が『慈子』を語っていましたよ
と、何人かから聞いた。これには喜んだ。
それが幸いしたというのではないだろう、想うに、次々に作品を出して行くうちに、わたしの「身内」の考え方や「死なれ
た者」の思いなどが、じわじわと知られていったためだろうが、またも、強い実感として女性読者がどうっとこの『慈子』に戻ってきて、結果的にも最も多く愛
された作品になっていった。
秦さんの世界へは『慈子』から入ったと告げてくれる読者が今も少なくない。しかし徒然草の「考察」が入っていて、時間
は幾つにも「層」をなし、だれもが読めるやさしさではない。この作品の読める人なら、他の作品も苦もなく読みこなせる読者であった。わたしには「いい読
者」であった。
その頃から今日まで、わたしの小説世界への多くの苦情は、一つだけ、「むずかしい」であった。言葉を顧みないで言えば
「よく選ばれた読者」に熱く愛されてきた。「魂の色の似た」読者の数は、当然にも増えにくい。そのかわりお付き合いは実に長い。「湖の本」にわたしの作家
生活の流れ込んでいったのは必然であった。
* 克明に作品を読み直して、理屈は何もない、慈子というヒロインをいとおしく思う。高校時代に泉涌寺の来迎院にしばし
ば授業を抜けては憩いに行った。すでに源氏物語の愛読者であったわたしは、こんなところに「好きな人を置いて通いたい」と夢見たが、夢を叶えたのである、
小説の中で。
来迎院の意味、慈子の意味。それは人生の意味を問うのとひとしい問いなのである、わたしには。
他のことなど、なにほどでもありえない。
* 八月二十六日 土
* 途中の三鷹まで、保谷に来ていた息子の車で送ってもらった。府中の大国魂神社で、東工大の院を卒業して社会人
三年生の結婚披露宴があった。とても気持ちの佳い宴席であったが、その理由は、以下に披露する、今日の新郎が1995年度の私の教室で「挨拶」に応じた文
章が、雄弁に語ってくれているのではないか。この年、彼は学部の三年生だった。「挨拶」という、挨も拶も、強く押す意味。禅の問答が然り。すべて当日咄嗟
の押しを咄嗟に押し返した、教室での肉声の「正確な記録」である。断っておくが、これが即ち授業内容ではない。学生達の私語と居眠り封じの、なかなか効果
的な日課であった。全部を、彼の鉛筆書きから、わたしが、お祝いにと、器械で書き起こした。
* "was born"という受身形に就いて語れ。
"was
born"は、単なる受動である。受動の使役ではない。強いられた受動ではない。親ないし神様から生命を「受けさせられる」のではないのだ。生まれる者
が、生を享ける準備をした後に、生をもらい受けるのである。生まれる者と生む者、このどちらか一方の準備が欠けたら「生まれる」ということは起きない。強
いられた受動ではない、意志の働いた受動なのだ。
これからの人生でも、しばしば、これと同じようなことに出逢うと考える。たとえ自分が自分の意志と意欲とでやったこと
でも、それは、どこかで「相手から・他者から」も与えられた物や事であり、同時に「自分の気持から」やり遂げたことであるのだと思う。
日常生活の言葉の殆どには、自動的・受動的・使役的な言い方がある。しかし「生まれる」には受動の言葉しかない。人
は、人生の最初に、此の世で、他者とどう関わって生きて行かねばならないかを、「そのように」教えられている。そして人生の最期には「死ぬ」という自動的
な言葉だけが置かれている。おそろしいほど意義深いことだと思う。
* 頭脳と心臓。どちらかに強いて「こころ」とフリガナし、「心」のイメージを語れ。
「頭脳」に「こころ」とふる。心臓は内蔵の一つで考えることは出来ない。頭脳は脳という臓器のもつ「考える作用」
を意味している。本心では「頭脳」が「こころ」だと思っている者が多いだろうが、東工大生はけっこうひねったことを言いたがって、「心臓」が「こころ」だ
と答える者が、たぶん半数はいるだろうと予想する。「心」のイメージは、思考より感情。感情はその人の本質を担うものであると思うし、だからこそ、心は、
簡単には入れ替えられない。丸出しにも出来ない。人と向き合うとき、自分の心が向こうに丸見えであれば、丸腰で戦場に立っているようなもの。
藏の中のもの(心の中のもの)はその家(その人)にとって一番大事なものであろう。ただの知人なら家には入れても、藏
にまで出入りさせにくい。信用された人だけが藏にも入れる。気前のよい人は藏からものを持ち出して見せるが、藏全体を把握していないと、そのものの本当の
値打ちは分かりにくい。家が貧しくなれば藏の中のものを売ることもするし、裕福な時はさまざまなものを仕入れて新たに藏に入れる。「心」のイメーは、今の
わたしにはこんな所です。
* 何を、今の、また未来の「たのしみ」に持つか。
今、私の最大の楽しみは「知識を得る」こと。日々の生活でのいろんな体験も楽しみだが、知識を得る楽しみはそれ
らに勝って持続する。専攻学の知識だけではない、むしろ専門外の知識に非常な興味を覚える。言葉を強めれば、私の学ぶ専門分野の存在そのものを否定してく
るほどの、他領域の知識にも興味を覚えている。最近一年ほどは、宗教や政治、経済など世界中の現在存在する諸問題に知識を求め、新聞をむさぼり読み、
ニュースを聴きながら、何の脈絡もなく頭の中に語彙や情報を蓄えている。今はこれだけでも十分楽しんでいる。
人間としての未来の楽しみは、その「得た知識」を活かして社会の一員として生活して行くこと、そして更に、愛する人
と、私人として家族としての建設的な日々を得ること、究極、この二つになると思う。前者の楽しみの、まだ半ばも知らないが、数年後にはより多くを、またさ
らに数年後には、後者の楽しみも…と、そんなことを考えるのも、今からの楽しみである。
* 「血」に就いて語れ。
私の中には、人間の血、日本人の血、父母の血が流れていて、私の人間性を決める血は、この順番に重要だと思って
きた。しかし最近、私は、自分が日本人である以前に「父と母との子である」ことを、はっきりと、大事に、認識するようになってきた。
私が日本人であることは、他人が私を認識するのには役立つだろうが、私の人間性を決定づけるものではない。私が自分自
身をより深く確認するのにも、「日本人の血」が第一義に役立つとは思われない。
大事なのは、肌の色や国籍ではない。どのような「家庭」に自分が育ったか、どんな教えを受けてきたかといった、誕生以
後の「経過や体験」だ、いわば、それら「親の」が、愛が、と言い直してもいいが、私を決定してきた。以前にも増してそれを私はく感じ感謝するようになって
いる。
人を生まれた場所や、肌の色、目の色などで差別するなど、全くバカバカしい。
* 「事実」を信じるか。
私は事実を信じます。しかし他人が、或る事実を信じていないという事実も認めます。自分には事実でも他人には事
実ではないという事が、起こりうるものだと思う。仮に自分がそういう場面に出くわしても、私は彼がその事実を認めていないことを受け容れられるし、そんな
時でも私は自分が認めている事実認識を、安易に棄てはしないという確信がある。今までもそうであった。
私は自分のスタンスを崩さないまま、他人のスタンスを受け容れられる。そういう中で事実がより確かに真実に変わること
もあるし、真実が脆くも崩れて想像の産物に変わる場合もあろう。それを評価するのも自分自身だと信じている。
歴史の中では、何度も、事実そのものが変化しました。他人の意見に惑わされず、自分の意見に頑固にならず、自分の考え
をしっかり持っていることが大事なのではないでしょうか。
* あなたは「惜身命」か「不惜身命」か。
「惜身命」です。「不惜身命」は確かにカッコよく、宣言としては聞こえがよいが、それだけでは浅薄な気がする。同
じ人生を歩むなら、「惜身命」と心がけて生きた方が、充実した人生を送れるように思う。
まだ身命を賭けるものが見つからないから「惜身命」なのでは、ないつもりです。私は今、「こういう事を一生やって行き
たい」と思う事が、漠然とではあるが、在ります。だが、それに直ちに「不惜身命」などといえば、軽率で甘いと思う。本当にその道を極めた人たちは、"その
道"に関しては、非常に臆病で慎重であるという。人生についても同じ事が言えるのではないでしょうか。生きることに、真剣に一心な人ほど「惜身命」である
に違いないと私は思うのです。貴の花関の「不惜身命」を聴いたときに、彼の考えはまだ甘いなと、考えました、少しですが。
「惜身命」で生きることは、つまり「不惜身命」に生きることへ繋がります。逆も言える。「惜身命」に繋がらない「不惜身
命」ではダメで、その逆もやはりダメなんですね。このことは、今日の授業から得た収穫であり、私の意識を非常に高めるものでした。
* 自身の集中力、想像力、包容力、魅力について語れ。
人に言わせると、私は集中力があるらしい。中学や高校の同級生や先生からも、よく言われた。しかしこの東工大で
は、私は平均以下の集中力しかもたない。それは確信している事実である。集中力は、或る事を成し遂げる際には非常に大切なものであり、集中力をもって行
動・行為している時は、時を忘れ、他の何も忘れてしまう。
しかし私の思うに、集中力のある人は、自分のカラの中に閉じこもる人でもある例が多いのではないだろうか。実際私も、
人との付き合いなどより、一人で動く方が性に合っている気がする。しかし、果たしてこれで「魅力ある人間」と言えるかどうか、私には疑問である。
想像力の豊かな人は人間性も豊かであろうし、包容力のある人は優しく穏やかな人間であろう。すばらしいと思う。しかし
それらも「度」が過ぎれば、その人の魅力を半減させてしまうこともある。バランスがとても大切だと思う。
私は集中力も想像力も包容力も魅力も、持っているかも知れないし、不足しているかも知れない。しかし現在、それが「ど
れほど」であるかは、私には、たいしたことではありません。それらをバランスよく、自分の中に蓄えて行きたいし、そう出来るのではいかと希望を持っていま
す。これは、今、強いて自問自答しても結果は出ないのです。小さく自分自身について判断してしまうと、それ以上の向上心が無くなって、満足し、安住してし
まいそうです。やる気さえ無くしてしまいかねません、それは恐ろしいことです。ただ前を向いて生活して行きたい、若いうちはそれが良いと思うのですが、い
かがでしょうか。
* 言いようのない不安について。
「言いようのない不安」の反対語は、「揺るぎない自信」だと思う。不安がどこから出てくるか分からないから「言い
よう」もないわけで、対策は、そんな不安を上回る、からだをいためつけるほどの自己鍛錬、が第一だと思う。高校時代の部活でも、そういう練習で不安を克服
していた。受験への不安も、死にものぐるいに問題を解いて打ち消していった。将来への不安にも、毎日を一心に生きることで打ち勝って行きたい。それしか無
い。
「言いようのない不安」は自分自身への不信感から生まれる。決して外的な原因による、外から見える形のもの、ではない。
内的な原因、自分の心の中で対決も解消も可能な不安だと思っている。
不安が現実になるかも知れないが、たとえ現実のものになろうとも、自分を鍛えることで打ち消すことが出来る。不安の上
を越す元気をもって、自分を生かせばよい。不安を抱いたままの毎日より、不安と闘ってうち負かしていった方がどれだけ良いか分からない。
昔、父とこんな話をしました。一度しかない人生、暗く、不安を持ちながら生きるより、明るく元気に生きた方がよっぽど
いいね、と。
不安なときこそ、元気に明るく。「言いようのない不安」に悩むよりその方がよっぽど健康です。不安は必ず取り除けるも
のだと思うのですが。
* 春が好きか。秋が好きか。
私は秋が好きである。派手でなく地味でなく、明る過ぎず暗過ぎず、暑くも寒くもない。一年中でいちばん目に優し
い、心に優しい季節だと思う。
先日京都へ行ってきました。台風の到来にも負けず、京都の町を歩きまわってきました。建築の勉強で行ったのですが、私
はむしろ京都の風景や時間の流れの奥行きに感動し、建築の事など忘れている有様でした。あの緑の美しさ、山の美しさは、東京の庭園などではとても味わえな
いものでした。
日本の秋のよさは、全体の何ともいえない調和に在る。春は櫻しか思い浮かばないのに、秋は、山が、木が、枝葉が、また
水も空気も、人間までもが、調和の中で息づいている。どの一つ一つを取り出しても大したことのないものが、全体に大きく調和して美しくなっている。日本人
であるゆえの、これは好みなのだろうか。
今日の講義は「竹取物語」のお話がとても楽しくて、こちらの文の方がおろそかになってしまいました。
* 劫初より作りいとなむ( )堂にわれも黄金の釘一つ打つ 与謝野晶子 虫食いに漢字一字を補い、所感を述べよ。
(聖)堂。聖なるものを招き入れる場所。そこで人々は自身を省み、将来へ向かう気持を確かめる。そんな場所が聖
堂である。人間が「劫初より作りいとなむ聖堂」とは、紛れもない「この地球のこと」であり、人間はもちろん、草木や動物などすべての生き物が太古よりこの
「聖堂」で、何かを信じ生活し未来への希望を抱き、そして亡くなってきた。ここで何かを信じ、人間としての生活を懸命に送ることで、この聖堂をより大きな
もの、より頼りがいのあるもの、より強固なものにすることが出来るのです。その点で、人も草木や動物も、同等の存在なのです。
この聖堂のために、たとえ一本でもよいから釘を打ちたい、できることなら黄金色に輝く釘を打ちたい。この一本の釘を打
つために全ての生物は、生きているのではないでしょうか。
此の世に生を受けた者として、この「聖堂」を、先人達と共に作り上げ建設して行くことは、人生の最終的な目標となりう
ると考えます。私もまた黄金のとは言いませんが、よく磨かれたふつうの釘を打ち込めたらと願います。与謝野晶子のゆるぎない、強い決意の感じられる歌では
ないでしょうか。 (原作は、「殿」堂)
* 「死後」を信じるか。
この世の中で分からないものの一つが「死後」のことだろう。「死」は誰にでも必ずやってくる出来事であり、考え
ない人はいないだろう。中学生の頃初めて死をまじめに考えた。死後をただ怖れ夜も眠れない日があった。幽霊を怖がったりもした。高校生も半ば過ぎた頃か
ら、こんなふうに考えるようになった。死によって全てが終わるのでは、ない、ようだと。
最近宗教の本をいくらか読む機会があった。私は信仰をもたないから、完全に信じること、頼りにすることはできないが、
"死後"に関しては信じたいと感じている。
死後のこと、天国、地獄、極楽などは、「ある」「ない」の二つに一つ。とすれば、私が不幸になるのは、「ある」のに
「信じない」時だけである。「ない」のに「信じる」場合も不幸のようだが、実際に死後が「無い」のなら、何も問題はない。
それなら「ある」「ない」いずれにしても、死後を信じて現在の死の不安や怖れがなくなり楽しく生活できるのなら、信じ
る方が、全体的に良いはず。「死後とは現世の私を反映させる世界。たとえ今不幸でもしっかりと今を生きていれば、死後の世界で報われる」と思っている。宗
教的な解に至っているわけではない、「至りたい」という程度である。
* 「祈る」か。
小学校以来野球をしてきました。スポーツ選手にとって、祈りとは何か特別のもののように感じられます。
九回表二死ランナー無し、点差は十点いや二十点でもいい、そんなときバッターは一体何を思って打席に入るか、考えたこ
とがありますか。高校野球ではよくある光景です。高校最期の試合、補欠の三年生が代打で打席に入る。彼は打席に入ってしまうと、実はもう試合の逆転などを
願ってはいないのです。ヒットを打とうという一種俗な欲望も消えています。ただ純真に、ただ無心に「バットを振る」のです。頭の中は真っ白です。その時の
彼は確実に「祈っている」のだと思います。
何に対して ? 何を ?
と問われても答えられません。その打席に入ったことのある、いや、過去三年間一生懸命に練習をし野球を愛した後に、そんな打席に入った時にのみ、人にの
み、感じることの出来る境地なのです。
彼は確かに祈っています。しかし九割九分九厘、その願いは受け容れられません。けれども真実の祈り、本当の祈りを知っ
た彼は、他の人に絶対に得られぬ「何か」を得たのです。
* 生きているだから逃げては卑怯とぞ ( )(
)を追わぬも卑怯のひとつ 大島史洋 短歌一首の虫食いに、漢字各一字を補い、所感を述べよ。
短歌の意味として見れば、一番良いのは、「明・日」であろう。しかし「義・理」という二字も捨て難く、これにつ
いて書かせて欲しい。
私の高校の数学の先生は、野球部の部長でもあった。この先生は「義理」あるいは「仁義」など、「義」という言葉をよく
使われ、これに反する事をした時には烈火のように怒られた。普段は私たちと酒を飲んだり、野球部で悪さをした時も、学校側や高野連に対してよく庇ってくだ
さる先生だったが、義に反すること、例えば礼儀知らずな行動、他人の人間性をけなす言動に対しては甘くなく、そんな時は、「仁義を欠かしちゃだめだよ」と
必ず言われたのが私の耳に残っている。
一人で生きているのではなく、他人と関わり合って此の世を生きているのは、誰もが認めるところ。たとえどんな悪い事を
しようとも、どこか「義」にかなった事であれば、あるいは義にかなっていなくても、その後に自身が「義」に適った行動をすれば、それは、つまり、他人に対
しても義理を尽くした事になるのではないだろうか。
法律に背けば法律に罰せられる。時には生きることもやめなくてはならない。しかし、その彼に対して必ずしも「卑怯」の
言葉が当てはまるとは限らない。しかし「義」を人間の「心の法律」だと考えれば、これに反したものは、法律では罰せられなくても、彼は間違いなく「卑怯
者」のレッテルを貼られるに違いない。 (原作は、「幸・福」)
* 「幸福」は人生の目的か。
私は今、意識して「幸福を人生の目的」とはしていませんが、究極は幸福を目的としているのでしょう。誰しも不幸
よりは幸福を望むもので、私も例外ではないのです。
しかし具体的な幸福、例えば結婚や金持ちになる事などは、そのままそれが人生の目的とはなりません。敢えて言えば、も
し人生の目的になる幸福があるとして、それは「死後の幸福」であると思います。別に宗教的な意味ではありません。死ぬ間際に、死んだ後に(意識が存すれば
の話ですが、)自分の人生の幸福を感じられること、これが、人生の目的と成りうるのです。
人生の真実を知らぬ若者の意見と思わないで下さい。私にとって人生とは、まだまだ先の見えぬ、不確かなものなのです。
そのような「旅」に、何らかの目的を与えるとするならば、その目的も不確かなもの、夢のようなものにならざるを得ないのです。今の日々の生活の中で、二年
後、三年後のささやかな目的を、そのまま「人生の目的」とするのでは、あまりにもスケールが小さく、そんな人生では、何か心寂しい気がしてならないので
す。幸福を「死後」に持ち越そうという私の真意はそこにあります。
* 今年に、言い残したこと。(綜合B 最終講義日に。1986.2.1)
私は、今、というよりこれから五年の間、人生の中でも最も重要な五年間を過ごす気がしています。いや、もしかし
たら、重要でなくなるかも知れません。私の言いたいことがお分かりでしょうか。
私は、恐らく、今自分の乗っているレールの上を平々凡々と進んで行くか、自ら新しいレールを選んで乗り移るか、言葉で
書けば簡単なことですが、そのどちらの道を選び取るかによって、私自身が、社会にどう存在するか、人間としてどう生きるか、が、決まってくる、決まってし
まう、と思うのです。
もっと気楽に考えればと、自分でも、思います。好きなように生きればいいと言われるかも知れません。私の父は、私に、
まわりを気にしすぎる、自分をアピールしなければ社会ではやって行けないぞと言います。
自分を主張するのと自分勝手にするのとは、紙一重です。他人から見れば、私は、いわゆるエリートコースに乗っているの
かも知れません。このまま大学を、大学院を卒業し、どこかの会社で一生を過ごすことは、確かに小さな苦悩や選択が数多く存在はするでしょうが、結局、今
乗っているレールを逸れているとはいえないでしょう。
まだ結論は出ていませんが、ここ二、三年のうちに出さなければ、まわりの状況にただ押し流されていってしまう気がしま
す。紙一重の差を確かに把握したいと思うのです。
先生の退職なさる来年三月三十一日まで、教授室へお話を聴きに行くことが何度もあるかと思いますが、温かく迎えて下さ
いますよう、よろしくお願いします。
* 四年半の歳月が流れ、親愛なる「マルちゃん」のその後も、わたしは、ずうっと見つめてきた。また、わたし自身のその
後も、ホームページや、「湖(うみ)の本」の各巻を通して、いつも伝えている。二人は、あれからも互いに「挨拶」を送り続け、交わし続けてきた気がする。
幸せなことだ。
今ここに、彼が最愛の伴侶(高校時代の同級生)を得られるまでの、まことに「みごとな素地」が、少なくも五年前にも
う、正確に、彼自身の言葉と表現とで書き記されていたことを、改めて知り得た。「会心の思い」で喜びたい。つたない言葉でわたしが彼を語るよりも、彼自身
に自分を語らせた方がいいと、わたしは思い、彼も同意した。二十一新世紀へ彼と彼女を送り出す、佳い一日になった。
新郎新婦に一問、呈しておきたい。
明日への( )いくらかありて種子を蒔く 能村登四郎
この良き日も、彼らのいい友人達、小学校以来のいい先生がたの「お力添え」で成った、そのことを彼は本当によく知って
いる。
おそらく、すでに考え方の変わったり動いたりした所もあるだろうが、また新たに考えてみればいいことだ。数年前のいわ
ば「自己証明」を、とらわれずに今後に活かしてほしい。
新婦に、これを心からの「お祝い」として呈した。この中に、すでにして、新婦への愛と信頼がもう書き込まれていたと読
みとれる、立派な表明だからである。
また、新郎のご両親ご家族に、ひょっとして肉声では話さなかったかも知れないすばらしい息子さんの、いわば「尊敬と感
謝」のこれらの言葉を、かけがえのない心からの「お祝い」として差し上げた。同じことを、新婦を久しくお育てになった
ご両親ご家族にも差し上げ、心からの「お祝い」にした、この上なく安心なさるであろうと信じて。
佳き日ふたり あしき日も二人 おめでとう
* 二次会は失礼して、また国分寺易までタクシーで戻り、車中で寝入って気が付いたらお茶の水駅。新宿までトンボ 返しに戻り、和服の美しい人に迎えられて懐石料理を、ゆっくり堪能した。食べながら『チャタレー夫人の恋人』をも、嘗め味わうように嬉しく読み進めた。帰 りにもまた美しい人に見送られてきた。とても心満たされた。
* ゆうべ、どう間違ったものか、バリバリバリと音響を発してレーザープリンタが破損した。用紙を機械の内部へ
送ってくれなくなった。プリンタがなくては、羽根をもがれた鳥のような気分だ。参った。機械は修理のときが一番困る。
* 八月二十七日 日
* 建日子が大忙しでやって来て、ふうふう言いながら仕事に追いまくられ、つむじ風のように帰った。秋からの連続 ドラマを一応単独で始めることになり、進行中なので息つく暇もないらしいい。「孫」は概して「絶賛もの」だったらしく、「ひどいことを言うのはオヤジだ け」とか。それはないと思う、あの程度での絶賛はお安いと思うが、この業界の価値判断は、すべて「視聴率とわかりやすさ」であるから、仕方がない。ま、せ めてわたしだけは、ガンとして、わたしの良い・良くないのバーを下げないことにしておこう。仕事はいっぱい来ているらしい。ま、ヘンな社会であり、それに してもよく早く食い込んだものだと思う。びっくりしているが、まだまだ、ホッともしていない。人間理解において、今のままでは偏跛の不足は余儀なく露出し てくるだろうから。
* 昨日は国分寺からお茶の水まで寝たくらい呑んだので、そのあとも呑んだので、どんなことになるかと、今朝の血 糖値を案じたが、落ち着いて良好の値であったから、一安心した。油断は大敵と自戒。
* 明日の対談が曲がりなりにも一回分すめば、いよいよ新刊の発送になる。
* 朝まで生テレビの司会でも日曜朝の番組司会でも、田原総一朗に、一つ目立ってきていることがある。「評論的」
意見に対して手厳しく「おまえの具体策」を言えと迫っている。それはいいことだ。
しかし、彼自身は徹底して評論・評価に終わっていて、彼の具体策を言ったタメシがない。そういう立場だとは言わせな
い、司会者として平静でなく、彼が圧倒的に沢山喋りまくっているのだから、自分を例外のような顔をしていてはズルイだろう。
教育の深夜討議では、長芋のような顔をした田原の隣の男が、ヒヒヒ、ヒヒヒとせせら笑いの声をあげているのが聞き苦し
かったのと、自民党の武見議員、高市議員の「国家」観の平板であること、「歴史を」と口にしながら、日本史における天皇と天皇制の理解などいかにも薄く、
幼稚な認識に終始しているいるのにも、シラケた。
司会の田原総一朗には定見というモノがあるのだろうか。番組により、その場その場で態度も発言内容も違って聞こえてく
るので、信頼しにくい。久米宏や筑紫哲也には、さすがに、その不安がない。鳥越キャスターにもそういう不安はない。
* 八月二十八日 月
* 早起きした。暑い。湯を浴びて、神田明神脇まで対談の第一回に出かける。三時間も話せるのだろうかと、少し、 気がかりだが、こういうのを「三度」はやるという。先のことは考えないで、今日は今日と思うことに。
* プリンターが使えないとどんなに不便かが分かる。しかたなく、必要なものを息子の機械に送り込み、ファックス
で送り返してもらい、それをコピー機でコピーしている。ワープロだとプリント出来るので久しぶりにワープロを使ったり。
プリンタ本体が紙詰まりというエラーメッセージだが、紙は詰まっていない。紙をきちんと先へ送れなくなっていて、途中
でガチンとストップする。
ロアカセットが買ってあったので、機械の下に入れてみた。セッティングが必要らしいが難しそう。それが出来て、こちら
から用紙を出せば、プリント出来るかどうか、はかない望みを持っているが、どうもこのエプソンプリンタとは相性が悪くて、新設定するのに自信が持てない。
汗が噴き出す。
* 明日で、秦の父が亡くなって十一年が来る。暑い日だった。
老父の最期のみとりに懸命の人が、つらいメールをよこされる。強靭な老人で、まだ子供や孫達の識別ができ反応できる。
不思議というしかないような容体であるらしい。痛ましいが、老人は最期まで頑張り抜くことに気力を残しておられるのであろう。
* 八月二十八日 つづき
体調が正常に戻られたご様子、用心をなさりながらではありましょうが、美味しいものが、美味しく召し上がること
ができますね。お祝いを、と。お肉を少しばかりお送りさせてもらいました。今日には着くと思いますが、バクバクはダメですよ(笑)。
土曜日の夜の教育テレビで、少年少女プロジェクト特集というのを見ました。仕事の関係で途中からでしたけれど。
父親の権威について活発に討論されていました。子供に対して少し臆病になってしまっているような父親たちが多くなって
きていることの本音。子供の、態度の表面ばかりを気にしすぎている。もっと話す機会をもって欲しいと思っている子供たちの思い。
「尊敬できる父親であって欲しい」と。
我が家の二男が中学生の時のこと。なにかといえば「出ていけ!」「どうせあいつはあかん(ダメ)わ…」が口ぐせの父親
に反発をしていた。
十五年しか生きてきていないものが、四十五年も生きているものと同じようにはできるわけがないじゃあないですか。出来
ないことを出来るように、手助けしてやるのが親の役目とちゃいますか。いいとこも、悪いとこも含めて、これがこの子の個性なんやから、人権を認めてやら
な。
こんな言葉を発してみても、聞いてやないですもん。
小学五年には、自我を主張し始めた二男。その目に映ったのは、言うことと、することが違っている父親の態度。鋭い子の
目に、意見の出るのは当然のこと。批判されて頭にくれば「子供のくせに、親をバカにして、誰に養ってもろとんじゃ!」と、うえから押さえつけていた。この
ことは妻に対してもだったけれど。
あまりの出て行けコールに、堪忍袋の緒を切らした息子が「家や出る!どうせ父ちゃんや僕のことすかんのやけん、あんな
アホとは一緒にやおれん」と息巻く。
出て、行くとこやないのにどうするん?
なんとかなだめて話をするうちに、アホ呼ばわりしている父親に対しての息子の本音は、「尊敬できる父親であって欲し
い」。本音を伝えて、息子の部屋で、正座で対面させて話し合う状況を強制設定。息子は自分の思いを伝えられたのか、以後は精神的に安定してきた。父親はそ
う変わりはしなかったけれど。成長の階段をひとつ上ったのは息子だったよう。
十時以降は生出演できない子供たちに、最後に一言とマイクを向けられて発した言葉には、父として尊敬できる人であって
欲しいとの思いが込められていた。残された親(父、母)への課題は大きい。
すっかり夜更かしをしてしまいました。明日、じゃあなくてもう今日ですね。ひさしぶりにゆっくりした休日になりそうで
す。おやすみなさいませ。
* メールも面白く頷いて読んだが、すばらしい牛肉の贈り物には、いやしんぼうのわたしは、歓声。目の保養もさせ てもらった。「対談」から夕過ぎて帰って、すぐ食べたかったけれど「明日」の楽しみに。今夜は、紀州から届いていた鰺の干物を片づけた。
* 「対談」はまず一回済んだ。ともあれ、ホツト一息、行き帰りに神田明神に参り、帰りには門前の甘酒とくず餅、 これが甘かった。旨くもあったけれど、これの煽りで牛肉が鰺に化けた。致し方なき仕儀である。
* いい小説が書けるのではないかなあと思っている、若い女性がいる。ときどきメールで話すが、逢ったことはな
い。今は田園調布に住んでいる人で、もとは京都のわたしの高校の後輩に当たる。美術の勉強をしていたというが、小説も書いている。黒川創寄りのセンスのよ
うに思われるが、もう少し待たねばならないだろう。続けて書くかどうかが問題なのである。過去にもかなり有望な小説の書ける人を二人知っていたが、書き続
けなかった。
この人が京都へ帰って、下鴨神社などへ参ってきたらしい。亀屋吉信の、品のいい、大好きな煎餅菓子と一保堂の佳いお茶
とをお土産に送ってきてくれた。
茨城からは、たくさん梨を戴いた。梨のジュースが好きで、これも明日から楽しめる。この人も京都の高校時代に一年先輩
であったらしく、お寺さんで、ちょっと珍しい小説やノンフィクションの書き手なのである。忝ない。
* 九月帝劇のお招きは、浜木綿子。気楽にあの「フシ」を聴きに行く。たくさんな厚意にとり包まれている。有り難
い。
* 八月二十九日 火
* 父長治郎の命日である。平成元年の今日、逝去。明治三十一年生まれであった。
* 滝沢馬琴作『近世説美少年録』全三巻のうち、配本された先の二巻を読み終えた。すかっとする作品ではない、ご
てごてと不自然に作り立ててあり、語彙の豊富さや言い回しの大層さには感心するが、澄んで深い感銘にはほど遠い、講釈本であった。
ロレンス作『チャタレー夫人の恋人』も、また読み上げた。これには満足した。性の表現にも感心したけれど、作品の構造
的な組立て以上に、やはり嶮しいまでの「反近代」の姿勢・思想に共感した。名作の名に背かない、わが愛読書の有力な一冊である。
直哉の、新たに配本された書簡集も、一気に読んだ。次の巻が待たれる。
* いま、多大の悦びで毎夜没頭できるのが小学館版日本古典文学全集第二期の『落窪物語』で、これは古語が易し
い。ちょっとした注があれば、ほぼ大過なく読めて、描写も運びも的確簡明、落窪も、侍女の後見あらためあこぎも、魅力あるアンサンブルなら、落窪に通う少
将も随身も、なかなか面白いキャラクターである。随身とあこぎとが夫婦なのだが、この組み合わせが軽妙で、あけすけで、センスも感じもよく、微笑を誘う。
この作品、わたしは、初見なのである。新鮮で面白い。とても親しめる。うれしくて仕方がない。
* 明日「湖の本」の新刊が届く。思春期とも呼べない『早春』である。これで幼少時代が根かぎり書けた。小説仕立
てをあえて避けて、克明に、坦々と、記憶のままに記憶を記録した。「作家」になって行く必然の「根」を、おおかた掘り当てたと思っている。
この仕事は避けて通れなかった。
* 八月三十日 水
* 「湖の本」創作シリーズの第四十四巻『早春』が出来、午前、午後、夜も、発送作業にかかりきった。順調に進ん だ。明後日の、日のある内にでも片づけばいいが。
* 夜は、山田太一の脚本になる「いちばん綺麗なとき」というドラマを「聴き」ながら作業した。以前に見ていたも
のの、ビデオでみた。八千草薫、加藤治子、夏八木勲のドラマ。演技者にも脚本にも申し分はなかった。最初に見たときも感心し、今夜も感心したが、最初の時
にも感じたように、今夜も、いちまつ、趣向が過ぎて薄くなっているとも感じていた、内心に。
山田太一のものには、ときどきそれを感じてしまう、感心しながら。台詞のうまさ、設定のにくさ、とても息子のドラマな
ど太刀打ちできないのだが。だが「手際」がみえて、そのぶん薄くなる。それでも、橋田寿賀子なんぞのホームドラマの、概念的でがさつな薄っぺらさとは、モ
ノがちがう。
* ペンクラブの「電メ研」アンケートは、回答者が四十人を超えた。二五パーセントの回答率は、予想を超えてい
る。内容も充実し、一つ一つ、わたしが自分で書式を調え整理しているが、読み応えがある。もうすでに半分程度は、日本ペンクラブのホームページに掲載して
いる。いずれ全部を掲載する。
* 八月三十一日 木
* 朝から、いま、深夜の零時半まで、ぶっ続けの作業や仕事で、目も心もギトギトしている。アンケートの整理を三 人分追加し、四十四人に達した。もう、目が半分閉じている。草臥れた。
* バグワンを読み、『落窪物語』を楽しんで、今夜は早寝しよう。『早春』の発送作業は山を越した。