宗遠日乗
この頁には、平成十二年(2000)元旦以降、四月三十日までを日付順に収める。
それ以降分は、「宗遠日乗 5.6」に。
宗遠日乗
「四」
闇に言い置く
私語の刻
* 西暦二千年 平成十二年 元旦 土 晴れ 温和
* 建日子 新年おめでとう。
元気に、志をつよく、高く、頑張って下さい。怪我と病気に陥らないようにと、親たちは心より祈っています。
歳末に片づけ仕事の中で、古い、幼稚な、やすい、鉄の写真立てのようなものを見つけました。雑誌から切り抜いたらしい、「言葉」が二つはいっていまし
た。小説を書き始めた若き日々に机に立てていたものです。だれの「言葉」だったか、それは忘れていますが、「言葉」には信服していました。その通りだと信
じていました。
二千年の年頭に、此処に置きます。
此の仕事をする者には
富貴も、安逸も、名声も
恋も無い。
絶えざる貧窮と
飽く無き創造欲とが、唯
あるばかりだ。
知っているか ?
水を流そうと思うなら
流そうと思う方を
水の在る場所より深く
掘らねばならぬ。
「流れよ!」
と云った丈では
水は流れはしない。
五センチ四方にちぎった、色変わりのした粗末な紙に、9ポイントの字で印刷してあります。
あとの「言葉」の三行目は、わたしの言葉に変えました。
原文では「水の在る場所より低く」とある。「低く」掘るのは間違いだと思います。心して「深く」掘りたい。
きみの悔いなき健闘を祈っています。 父
* 器械にどうやら異常なし、安堵。
* 元旦十時に、建日子年賀に帰る。ともに雑煮を祝い近所の天神さんに初詣。夜、五反田に戻る。
* 年賀状沢山来たが、返礼は差し控える。
* 石川近代文学館の井口哲郎館長の賀詞にわたしは刺激を受けた。
「龍ニシテ 求メツヅケル 玉ノアリ」と。龍でありたい。
* 一月三日 月
* 年賀状がまたたくさん来た。作家三好徹さんのが、胸に届いて気持ちよかった。
懐かしい東工大の学生・卒業生諸君からも、変わりなく挨拶が届く。よく効く、すばらしいビタミンのような元学生たち。
* 新年から長編の書き次ぎを再開した、ただし「一太郎」をつかって。
朝日新聞社の「週刊20世紀」原稿は、もう書いて送った。「ミマン」連載の締切り前にNHKの「能の魅力」についても書いてしまえると、段取りがいいの
だが。月内にもう五六の原稿があるが、多い頃はいつも十二三本以下に減ることはなかった。そんなことをしていると、何も、ほんとにしたいことが出来なくな
るので、自分のよく書けそうにないもの、関心の薄いもの、向いていない原稿依頼は、原稿料の多寡にかかわらず今は断っている。座談会・対談は好きでなく、
インタビューを受けるのも有難くない。書評原稿など、久しく受けたことがない。
収入は半減しているが、不安は無い。ホームページ作品に「課金」の導入をと進めてくれる人もいるけれど、その方法はペンクラブの会員たちに伝えるために
は是非覚えたいけれど、わたし自身は、まだその気になっていない。
* 義経が腰越から追い返され、土佐房に夜襲をかけられ、ついには都を落ちて吉野の山にさすらうて以後の『義経
記』には、哀れも添い、引き込まれ
る。ことに佐藤四郎兵衛忠信の奮闘や最期など、大きな英雄に仕上げられていて、叙事に生彩がある。勧修坊の鎌倉へ下っての頼朝相手の堂々とした陳述も気持
ちが佳い。義経がめそめそと出家じみたりせずに敢闘精神をまだ失っていないのも嬉しい。
『うつぼ物語』『夜の寝覚』『和泉式部日記』『更級日記』そして『狭衣物語』「堤中納言物語』と読み継いできて、今度の『義経記』は大いに様子が違う、け
れど、馬琴の『近世説美少年録』ほど通俗でなく、古朴な語り物・読み物の味わいを楽しませる優れていいところも持っている。大方の義経や弁慶らの物語は
少年時代から知っているので、血の通った郷愁も味わっている。
* 昨日の深夜にメグ・ライアンの「フレンチ・キス」を半分ほど観てやめて寝た。「恋の予感」など一連のメグのシ
リーズ物と思われ観ていて楽しかっ
たが、眠さに負けた。けさは、久しぶりにジュリー・アンドリュースの傑作「サウンド・オブ・ミュージック」を、たぶんノーカット版だろう、ビデオに取りな
がら懐かしく楽しんだ。ジュリーの映画は他にもあるが、これがニンにはまっている。深夜でなければ「シェルブールの雨傘」をぜひビデオに欲しかった。
今夜はかならず「風とともに去りぬ」の、ノーカット修復版を保存する気でいる。懐かしい映画と俳優たちとの蒐集を楽しんでいる。映画が大好きである、
「シンドラーのリスト」も「戦争と平和」も「ダイハード」や「リーサル・ウェポン」も、「老人と海」も「ウェストサイド物語」も「アパートの鍵貸します」
も「ゴアの恋歌」も「いちご白書」も「道」も「眼下の敵」も「アラモ」も「奇跡」も「北北西に進路を取れ」も「髪結いの亭主」も「ローマの休日」も「十
戒」も「カサブランカ」も「ケセラセラ」も「黄昏」も「市民ケーン」も「橋」も「ロミオとジュリエット」も「静かなる男」も「南太平洋」も「アンデルセン
物語」も「オペラ座の怪人」も「天井桟敷の人々」も「スミス氏都に行く」も、まだまだ、キリもなく映画が好きである。日本映画も、一頃は、目を瞠るほど続
々と、いい作品で魅惑してくれた。
* 今月は梅若の「翁」「巴」、音楽座のミュージカル「アイ・ラブ坊ちゃん」、俳優座の栗原小巻、帝劇の「細雪」
で、初めて実物の澤口靖子の「きあ
んちゃん」を観る。そしてその足でひとり大阪松竹座に初春芝居「野崎村」「勧進帳」「椀久末松山」を観に行く。京都美術文化賞を呈した三人の、恒例の展覧
会がある
ので京都へも寄ってくる。帰りにうまくすれば名古屋のボストン美術館で、岡倉天心がボストンのために選んだ日本美術の粋を観てきたい気もある。一年の幕明
きには、心賑わう恵みの数々である。
老人の気持ちで楽しもうとは思わない、颯爽とした気分で十分批評的にもエンジョイしたい。
* 「風とともに去りぬ」六時間の大作を、コマーシャルぬきをこまめに、ビデオに収めた。大作の時代劇だが、登場 人物の設定が二組で四人、対照的に 図式化してあるので分かりいい。震えるような感動作ではない。ビビアン・リーのスカーレットもクラーク・ゲーブルのレット・バトラーも、むろん第一級の魅 力でよく描かれているし、オリビア・デ・ハビランドのメラニー役は扇の要のように利いている。しかし原作自体がよく出来た読み物であり、性格劇としては 「嵐が丘」の強烈な把握と表現にくらべればずっと弱い。歴史的な大作として忘れがたいものだと思うし、ビデオコレクションに加え得たのはなによりだと思う けれど、繰り返しては観ない気がする。
* かくて三ヶ日は、ノンビリできた。年賀状の返礼を欠いた見返りかと、すこし申し訳ないが、有り難かった。器械
が無事に動いてくれて、それも嬉し
い。しかし相当あちこちで誤動作が生じていて、それが原子力関係に多いとは、何たることかと思う。安全神話が消滅したこと自体は怪我の功名かのように評価
しているが、安全性を誠心誠意高めてもらわねば困る。しっかりしろと言いたい。
* 一月四日 火
* 昔の学生の某君へ、メールの年賀状のお返しに、「痩せないように」の一句を入れて置いた。折り返し返信がき て、痩せるどころか太りぎみで困って いますとあり、書き添えて、自分の現状への不満や反省がこまごまとしたためてあった。それをわたしは言ったのである、「痩せないように」と。肉体の肥満や 痩せを注意したのではない、肥満漢の私にそんなことは言えない。
* こんなメールも届いていた。興味深いものなので、これは人によると誰のメールと分かるだろうが、分かるほどの 人にはまた共通の関心事であろうか ら、昔の教室での「挨拶」なみにぜひ披露しておこうと思う、反応があるかも知れない。わたしの咄嗟の返答も添えておく。
* 秦先生
仕事始めという事で、仕事もないので、久しぶりにホームページをゆっくり見させていただき、「秦節」に浸っております。
先生の話を聞いたり、文章を読ませていただくと最近思うのです。私は何をしたいのだろうと。
先生のお話は本質的、かつ日常的な物事で、「このように考えたい」と思えるものばかりです。しかし、同時に「どうでもいいコトなんじゃないか」という気
持が湧いてきてしまうのです。
学生時代、特に(専攻の)研究室に入るまでは、先生のお話が私の興味に重なるものでしたし、それがあたかも空間化出来るモノのように考えていました。し
かしその後、空間のあり方を考えることは、より物質的なものであり、文学的なものとは違うように思われるようになってきました。このように考えるようにな
り、文学的(=精神的と言ってもいいかもしれません)なことを考えるコトを失ってしまったのではないかと、感じられるのです。そして、そのような感受性を
失ってしまいつつあるように感じられるのです。建築というモノを考えることで精一杯と思ってしまうのです。(その「建築」という枠組み自体の怪しいのは分
かっているのですが。)
しかし、先生が題材にするような日常を「発見」し、それを空間化することにとても興味はあるのです。例えば食事をしながら楽しく話すとはどういうことな
のか、そしてその空間とはどういうモノなのか、といったことを考えると、とてもワクワクしてくるのです。
しかし、そういうように考えているにもかかわらず、空間の問題でないと思い始めた途端に、興味が失せてしまうのです。自分のやりたいことに素直でいると
いう事が、自分のやりたいこと以外のことに無関心になるという事ではないはず、と考えて来ましたし、今でもそのように考えたいと思っているのですが、周囲
に、自分のやりたいことに素直でいる人が少なく感じられるせいか、やりたいことを声高に叫ぶことの副作用のように他分野のことに興味がなくなっていくので
す。
しかし、空間を作ることそのものが目的になるのでしょうか? その空間は誰のためにあるのでしょうか? という問いが、常に後をついてきます。
建築は「モノ」として存在すると同時に、「意味(コト)」としても存在するわけですし、もっと平たく言えば施主や利用者(の思い)が居るわけです。しか
し、僕の方も「施主は分かってくれるのだろうか」と思っている部分もありますし、施主の方も「余計なことをせず、経済的に作れば良い」と考えている部分が
多くあるのではと考えてしまいます。
以上のようなことから、空間を語る時に文化的な背景(コト)は必ず必要だと片方で思いながらも、もう一方で理解すべき文化、現在を肯定的に受け止め深く
考えてみようとできないのです。
文章と空間という表現形式の違いなのでしょうか?
空間を作ることが人に訴えかけられる「意味・内容」が、文学ほどの訴求力をもたないということなのでしょうか。私が考える楽しい空間は人を楽しくしてい
ると思うのですが、、、どうも、先生の言葉のような「強さ」に欠けるように思えます。
私がやりたいことは、どこに向かっているのでしょう?
建築に関する「コト」と「モノ」の天秤が、ユラユラゆれているようです。
自分で分かっているつもりなのですが、割り切れない気持が残ります。
ひどい文章になってしまいました。
これは人(先生)にお見せするような文章ではなかったかもしれませんが、表現者である、先生のご意見を聞きたいと思い努力して書きました。
しかし、散漫な文章になってしまいました。意味不明なところも多々あります。どうもすみません。
最近このような話をする機会もめっきり減ってしまい、自分が何を考えているかもまとめられなくなっているような状態です。寂しいことです。
では。
> 家を建て直そうかなあと思案もしているのですが、ヴィジョンが生まれ
>ないので 躊躇しています。
そうですか。空間はおもいですからね。
* 意味不明とも思わない、彼をよく知っているつもりなので、わたしの勝手読みはあるだろうが、興味深かった。わ たしの返事の方がトンチンカンかと 心配だ。
* きみのメールに、「空間」という言葉が十二回書かれています、が、「時間」はゼロ。これは顕著な事実ですが、
感想は。理由は。
文学は絵画よりも、より本質的に音楽にちかい。これは分かるでしょう。しかし絵画性がゼロのものでもない。日本文学は象形文字を中心に幾つもの文字を併
用しますし、文字面でだけでなく、「想像力」に意味を持って働きかけるのですから、「像」とは無縁であるわけがない。むろんその「像」は絵画的であり、し
かし言葉による以上、音楽的経過と効果とが必然問われます。
ところで、ギターの演奏家でもあったきみは、音楽が時間的な表現だと分かりながら、音楽の空間性を知らないわけはないでしょう。
建築は空間の構築に相違ないけれど、時間の要素を無視できる建築空間など、存在すら出来ない。君の言うようにその空間は、意味や意義をもちながら機能し
て行くけれど、その意味や意義は、これは玄関でこれはキッチンでといっただけの意味や意義でなく、人間が、そこで、動き回り、見て回り、触れて回り、使っ
て回ることと、不可分に結びついた空間的意味や意義でしょう。それを、時間的な意味や意義であると言い替えても成り立つのは、当然のことです。
優れた建築物を、わたしでも、幾つも見知っていて、その空間に身を置いて感じられる魅力とは時間的な魅力であったと強弁することも、決して不可能ではな
い。佳い建築空間には、音楽のはらんだ空間性の魅力と甚だ近い快適感があるものです、釈迦に説法なれども。
こんな分かり切ったことを蒸し返しながら、君の「時間」欠如を指摘しなければならんとは、「天才」君に対し、いっそ失礼な気がするなあ。
ひどいことを言ってのければ、要するに弛んでおるか、現状に「かないタガッテ安住しておる」のかもしれんぞウ。「かなふは佳し、かなひたがるは悪し
し。」
建築や部屋を表現している「間」は、まさか六畳間とか茶の間とかいう空間的な間であるだけでなく、間がいい、間をつなぐ、間がのびる、間がわるい等の時
間的な間でもある筈。この間が、建築のダイナミズムも生み、エレガンシイも生み、同時に、書の美も、仏像の美も、また物語言語や和歌言語の美も生んできま
した。一方的な偏りに身を任せすぎると、一切を傾けて失いかねなくなると、心配もし考慮もされたい。
はい。これが咄嗟の秦サンの反応です。取捨されよ。
* このページを介して昔の学友間に反応や共感のかわされる例は、まま、ある。年の瀬の三十日に届いた海外からの メッセージに、今日、やがて自身も 海外での研究生活に渡航しようという昔の学友が、強い共感のメールを送ってきた。それも佳いメールだった。許してもらって紹介したい。若い健康な精神の動 きを少しずつでも記録して老境の励みにしたいのである。
* ホームページに載っていた**さんの文章は素晴らしいですね。とても感銘を受けながら読みました。彼女とは研
究室で色々と語り合った仲ですが、
正直言って、あまり深い話をしなかったせいか、あのようなことを考えているとは知りませんでした。あるいは色々な経験が、ああしたしっかりした価値観を、
ゆっくりと時間をかけて構築していったのかもしれませんね。
ああいう文章を読めるというのはとても幸せなことです。
僕も今年からはレールのない、自分自身でレールを敷いていく日々を迎えます。それは、暗闇で繋いでいた手をふいに離されるようなとても恐いことだけれ
ど、反面喜びでもあります。彼女のように色々な経験を積んで、じっくりと自分の価値観を構築していけたらと思います。素晴らしいメールを読ませて下さって
ありがとうございました。
* しかし、現実社会は厳しく、「痩せて行く」自覚にもがいて苦しんでいるとうったえる年賀状もある。なにをして
あげることも出来ないが、ここにい
て、述懐やグチや計画を聴いてあげることだけは出来る。
* 一月五日 水
* 「能の魅力」について、納得ゆく原稿が書けた。ひとつずつ仕事を片づけて行くのは気持ちがいい。
* 明日あたり正月の街に出てみたいと思っていたが、雨らしい。冷えてきた。
* 一月六日 木
* 「空間」に関心のつよさを見せた「建築」青年に、東大の院で「数学」を勉強してきた「文学」に志を秘めている
青年からの反応があった。
「挨拶」と謂っているのは、教室で、わたしから毎時間に押し込まれた「質問」に、いやでも書いて答えねばならなかった事を指している。この学生君とも退官
後に二三度は喰って飲んで長時間話し合ってきた。理系の院を断念して文学の他校に移りたいがと相談され、わたしは賛成しなかった。数学と文学とは別物では
ないよなどと、この人の場合にかぎってわたしは少し極論した。その学生くんが、やがて修士論文を提出してマスターになる。ウーンと唸ってしまう。むろん、
嬉しいのである。
* 秦さん、あけましておめでとうございます。
時のたつのは早いもので、僕はもう修士2年になっています。あと半月で修士論文を提出しなければならない僕には、正月は1ヶ月ほど遅れてやってくるよう
です。秦さんはこの正月を、のんびり過ごせたのでしょうか?
今日も実は徹夜明けで、眠気覚ましに缶コーヒーを飲みながら、何の気なしに秦さんのホームページ(日記)を見ていたら、「挨拶」が載せられていたので
「返事」を書こうかと思ってメールしました。
建築学科の人なのでしょうかねえ。今は働いているみたいですけど。
僕は数学を勉強しているのですが、建築にはとてもあこがれています。なぜかと言うとそれは、建築は自由であるというイメージを僕は持っているからです。
でもこれはきっとシロウトの意見であって、僕のイメージと実際とはだいぶ違うんでしょう。きっと彼(彼女)も、自分の心の風景を、建築という道具でどこま
で表現できるのかに挑戦しているに違いありません。僕だってそうです、使っている道具は数学ですけど。
この何年かの間、僕も僕なりに数学と向き合ってきました。彼と同じように、心の風景(=彼の言う文学的なもの)が、数学を使ってどこまで描けるのかを模
索してきました。
しかし、どうしても数学では描けないものがありました。それは「物質」です。「物質」には「モノ」であるがゆえの迫力、エネルギーがあります。モノを媒
体にして人間の「こころ」は通じ合います。触媒の役目を果たして、ひとつにしてくれる時さえあります。それがうらやましいのです。
「空間」を考えることは物質的なことであり文学的なことではない、と彼は言います。僕はむしろ「物質的」なものこそ「文学的」だと思っています。物質的な
体験を通してこそ、人の心は触れ合う気がします。抽象概念の間をさまよっている僕のやっかみでしょうか?
でもなんだか、建築の「地についた」感じに僕は強く惹かれるのです。いってみれば、建築は、哲学と芸術の交差点、のような。。。
文章を書くとき(特に秦さんに書くとき)、言葉で表現することの難しさをつくづく感じます。
* 懐かしいね。佳い挨拶を有り難う。「建築」君も、きみのすばやい反応をよろこんでくれると思う。
ぼくが返事の出来ることではないが、メールに、『しかしどうしても数学では描けないものがありました。それは「物質」です。「物質」には「モノ」である
がゆえの迫力エネルギーがあります。モノを媒体にして人間のこころは通じ合います。触媒の役目を果たしてひとつにしてくれる時さえあります。それがうらや
ましいのです』とありました。少し後には、「むしろ物質的なものこそ文学的だと思っています。物質的な体験を通してこそ人の心は触れ合う気がします。抽象
概念の間をさまよっている僕のやっかみでしょうか?」とも。
ここに出てくる「物質」「モノ」「心」の関連を、どのようにきみが把握しているかも、聴いてみたく思いました。
「モノ」と表現するとき、私など、物質的な存在や力も念頭に、しかも、どっちかというと心霊・精神の方へ添い寄って、例えば「もの語り」や、「ものもの
しい」「もの凄い」「もの悲しい」など、いわば「もののけ」に近い、暗闇=陰=オン=オニ=鬼の働きのような、ある種の根源の原動力を、まさぐり求めるこ
とが多いのです。
意識してか偶然にか、きみは「モノ」と表記し表現して、「物」と「心」との中間項のような媒介者のような認識をほのめかしている。そこの所の追及は、お
そらく文学的でも精神的でもあり、おそらくは数学的でもあろうなと感じています。「數」なるものの彼方の、易や算などの不思議すらも覗き込めるのだろうか
と。
なぜ日本の上古に「物部」氏が強大な力をもって、なぜ急激に衰えて行ったのかも、「モノ」観とのかかわりで、興味深いことと思っています。
此処へ来ると「建築」君の「空間」や「物質的」とは乖離してしまいそうですが、それも、彼が意識してか無意識にか言い落としていた「時間」の認識ともう
一度衝突することで、どんな融合や変化・変容をもたらすかも知れないと、さらなる「展開」を楽しみにしています。
但し、我が「数学」君、「建築」君、お二人とも、論文に障らず勤務に障らない範囲で、頭を使って下さい。元気に、そして、痩せないように。また逢いま
しょう。
* 「ミマン」の連載原稿も書いて送った。
声美人に見舞われている( )子かな の解答が多彩に面白かった。
* 詩歌に虫食いを入れて漢字一字を補って表現を完成させるという「詩歌体験」は、これこそ特許モノのわたしの工
夫で、このおかげで東工大での四年
間は大いに賑わいもし助かりもしたが、同じ試みを学校の先生方がどんどんされているのは嬉しい限りである。
今日届いた読者の年賀状にも、十三句、たぶんみな「龍」にちなんだ句が虫食いで刷り込んであった。なかなか難しい。だが面白い。
大学にいて一等恐怖していたのは、「はい秦サン答えなさい」と学生に虫食いの短歌や俳句を、いつ突きつけられるか、であった。幸い、それは免れたが、文
学部であれをやったらやり返されてただろうと、首がすくむ。
今日届いた句の第一句だけを引いておく。わたしは十三句のうち二つだけまだ答えを得られない。
元日の( )の龍之介なつかしき 久保田万太郎
* 一月七日 金
* 七草の粥を祝った。六度祝う正月の雑煮の中で、いちばん好きなのが七草の粥。菜も、餅も、白い粥も美しい、う まい。
* こんなに落ち着いたお正月は初めてだ。寂しいかと思ったが、それよりもとても楽であった。年賀状の返礼に例年 へとへとになった。そうかと言って 年内に書く余裕はいつもなかった。今年は、これに気を用いないと決めたので。おかげで原稿も、三つ書いて送り、四つ目の長いのもほぼ書けている。長い小説 も再開したし、「私語の刻」もたっぷり持てている。
* 二千年問題では、やはり色んな障害の事故が発見されている。おおかた問題なしとは言え、安全宣言も早すぎて軽 率だった。原子力関連の重事故も起 きていて、しかも反省があまりに薄いのが怖ろしい。懲りない面々である。
* 『義経記』を読み上げた。印象強烈な幾場面もがあり、これは声に出して読めればもっと面白くなるに違いない。 義経の「そらおそろしき少年」時代 から衣川の自害までは謂うに及ばず、弁慶、忠信をはじめ多くの武者たちの、すこし大津繪ふうであるが軽妙で颯爽とした個性の魅力は、忘じ難い。これもまた 平家物語の大雪崩の裾野をなし、物語を補完している。平家物語での義経らの活躍がみごとに割愛され、その前後をたっぷり語っているのがその証拠である。と ても、楽しんだ。
* 明日で息子が三十二歳になる。わたしは六十四歳になったばかりだから、いま子は父の「半歳」に達したと思う と、まだそんなものかと我が子 がいとおしくなる。自筆年譜を見返してみると、彼の出産はなかなかおおごとであった。そんな記事の中に、忘れていたが、手帳に書いていたモノか、三つの述 懐があった。
母ひとり産むにはあらで父も姉も一つに祈るお前の誕生 昭和四三年 元旦
赤ちゃんが来た・名前は建日子・男だぞ・ヤマトタケルだ・太陽の子だ
一月八日 建日子誕生
これやこの建日子の瞳(め)に梅の花 一月二十三日 建日子退院
* 一月八日 土
* 半年ぶりに高校生の友達(高校時代のではない、現在高校二年生である私の友達)の、新潟からのメールをもらっ
た。大学受験を目指しながら、とて
も元気に、「痩せていない」日々を過ごしているようだ、歳末にお祖母さんに死なれたことから、その祖母をめぐるいろいろを、落ち着いた筆致で十分に書き込
んできたのが、もう「文学」の芽をふいている。もう一度も二度も心を新しくし視線を深く入れて同じことを書き直せば、信じられないほど豊かに的確にモノが
掴めてくるだろう、楽しみだ。
自分の身の回りをみて書くのは独り合点に成りやすく、非常に冷たくなるか感情的になるかして、率直でありながら偏らない筆がつかいにくい。ウソを書いて
しまえば身も蓋もなく、しかし、事実ならいいのか、それは違うようである。事実でも虚構でもいいが、根の態度が揺れて偏していては雑にしかならず、独善的
になって行く。それはうまくない。彼が「祖母と母とぼくと」を文学として造形するであろう日を、彼が大学に落ちついたころの楽しみにしたい。
以下はその高校二年生の、嬉しいわたしへのお年玉である。
* 今日は、このメールを書き始めるほんのちょっと前まで、『みごもりの湖』を久々に読み返していました。初めて
読んだのは…、確か中学校1年の冬
休み、ほぼ4年前ということになります。その春にはもう秦さんに手紙を送って、返事が届いたことに家族中で喜び、それ以上に驚きました。今でも良く憶えて
います。
でも、今になって振り返ってみれば、あの頃の自分が秦さんの小説をどれほど理解していたか、それから今までの間に何回読み返し、その度に新しい発見をし
て、読み落としをしていた自分を恥じたことか。勿論、そうやって何度も読むことで、秦さんの独特の語り口や展開にも馴れてきて、結果的に本当に沢山のこと
を学んだわけですから、読み返すこと自体はとてもいいことだったと思っていますけど。
『みごもりの湖』は、僕にとっては文句なしに秦さんの最高傑作です。『慈子』も『罪はわが前に』も棄てがたいですし、短編や中篇を挙げたらキリがないで
すが、それでも、やはり『みごもりの湖』だけは譲れません。
良く考えてみると、例えば『此の世』というれっきとした作中小説を導入したり、いつもなら主人公の立場として書かれる筈の幸田康之や迪子を敢えて突き放
した位置に置いたり、その逆に絵屋槇子という1人のヒロインを主人公として据えたりなど、細かい設定や構成はかなり珍しい形、或る意味では実験的とも言え
る作品です。
でも、いや、だからこそなのかもしれません、秦さんの小説の<死なれて・死なせて>という永遠のテーマが凝縮され、壮大なドラマという形に
見事に昇華されている、僕はそんなことを読む度に思うのです。
今回読み返して、勿論何回も読んできましたから、もう複雑な構成や難解な文章に惑わされることもなく、寧ろそういう部分を楽しんで読めるようになってい
ますが、もう第一章の終り、<精衛海を填む>という言葉が出てくるあたりから、どうにも胸のうちが熱くなってきて、一つ一つの文章をじっくり
と読み進めながらも、どんどん物語の中に惹き込まれていきました。物語の展開は既に頭に入っていて、菊子が残した二首の歌や、幸田と槇子が口唇を重ねる
シーンや、そして最後の「姉の隠り居の戸をそっとあけた」という表現までが、読んでる途中からふつふつと思い出されてきました。こうやっている今も、槇子
のひたむきな表情が浮かんでくるような気がします。本当に、素晴らしい作品でした。
* 秦サンの小説は難しくてと、よほど親しい知人でも辟易して寄りついてくれない。その中でも『みごもりの湖』
は、組立てにも層があり、時代にも差
があり、作中小説が縄を綯うように主筋を巻き込み、同じ人物が「菊子」「直子」と二つの名を持ち見ようによればさらに「東子」の名さえ持っている始末で、
その後にこそ世間でも似た仕組みの作品も書かれるようになったが、これを発表した頃には実に珍しい作風で、「絢爛と戸惑わせる」と謂われた。高校生くんが
「実験」という言葉を用いているのは、よくみてくれている。この作品はびっくりするほど多くの佳い書評と評判に恵まれた。文庫にと、すぐにも二社三社が申
し出てくれたが、版元の新潮社が、いずれウチでと全て拒絶して結局それきりに品切れから絶版になった。その口惜しさが「湖の本」へ流れ込んでいったように
今にして思われる。
それにしても、高校二年生がこれほど読み返してくれる『みごもりの湖』は、幸せであり、恵まれている。嬉しい。お父さんもお母さんも、わたしの読者。お
目にかかったことはないが。ただ、これだけだと「おたく」のような引き籠った文学少年かと想わせてしまう。とんでもない、彼はいろんなことを楽しんでいる
し、遊んでいる。学校の先生とも大いにやりあっているらしい。そして、競馬だ。こんなふうだ。
* 秋の競馬は、凄いという言葉を充てたいほどの興奮、いやはや大変な日曜日が続きました。秦さんがブラウン管の 中のターフを駆け抜けて行く馬達を 見る機会もあったかもしれませんが、思いも寄らぬ大波乱あり、見棄てられかけたヒーローの復活劇あり、そして歴史に残る名勝負もあり、買う方はとても心臓 が持たなかったのです。今思い返しても、最後の有馬記念はあまりに感動的で、時々ふっと思い出しては感動の余韻にひたることもあるぐらいです。でも、或る 予想屋が言っていました、昨日に死して今日に戦うのがギャンブラー、そう、決して過去を顧みてはならない、次なる戦いはもう始まっているのです。今年もま た、家族中で大騒ぎしたいですね。そしてもっと当たるように、頑張ります。
* こういう少年が立派に成人する日まで、ひとかどの仕事をしてくれる日まで、生きていたいなと、生きる欲が湧い
てくる。
* 一月九日 日
* 帝劇の「細雪」公演、文句無く楽しめた。
原作の力は言うまでもなく、脚色・演出にもソツなく、澤口靖子の美しい「雪子」の演技に、目も心も奪われた。こんなに美しい女性を目の当たりに見たのは
生まれ
て初めてで、その美しさが「細雪の雪子」になりきっていて、女優澤口靖子とも思わせない自然さと気品に感動した。涙が溢れて困った。映画では山根寿子
や吉永小百合の「雪子」を見てきた。山根が小百合が演じている「雪子」で、それなりに納得し好きだったが、今日の「雪子」は雪子その人が、生身のまま舞台
の上で光り輝いて自然であった。「澤口靖子」が美しいとも素晴らしいとも思わせず、「なんと美しい雪子だろう」と、ただ心を奪われていた。
双眼鏡で「雪子」だけを見ていた。「細雪」の世界は知悉している。古手川祐子の「幸子」はよかった。この人の映画の「妙子」もとてもよかつた。佐久間良
子の「鶴子」は、映画の時の「幸子」役と同様、感心しなかった。「こいさん」役は美しいが未熟だった。役が掴めてなかった、自然な説得力では。
そんなわけで、他に気を取られることなく、わたしは終始「雪子」を見ていた。芝居そのものの良さにも素直に感心した。脚色が佳いということの大切さがし
みじみ納得できた。菊田一夫の元の脚色がいいのか、潤色した今の書き手がいいのか、台本を見ないから分からない、が、普通に「細雪」を舞台化するの
なら、これで良いと思わせる程度に的確な脚色で潤色だった。帝劇で、これで五つも六つも芝居を見せてもらったが、抜群の舞台で。
わたしは松子
夫人が懐かしくてたまらなかった。はじめて「細雪」を通読した子どもの頃を思い出した。死んだ母にも読ませた。小説の感想など言う人でなかったが「ええも
んやな」と母は一言で評した。とても嬉しかった。
華麗で、幸せの絶頂にあるような美しい四姉妹が、それぞれに深い悲しみを抱いて、時代の運命にも翻弄されて行くもののあわれが、無理なく美しく描けてい
て、付け刃はない感動へ誘い込んでくれた。こういう舞台が創れて、帝劇の超満員の客を感動させうる。それならば月々の興行も、もう少し客の能力
を高くみて、質のいい舞台を謙虚に創って欲しいもの。
* 『細雪』は円熟の名作であり、時代と人間を読み得た批評の名作でもある。単なる絵巻物ではないのである。
そして、今夜の舞台とはまた全く違った「細雪」のドラマを、私なら、別に思い描くことが出来る。思いのままに私にも「細雪」が脚色し得たならば、それは
谷崎自身がこの長編をそもそも構想した、最初の動機や展開に大胆にちかづくだろう。「貞之助をめぐる三人の姉妹」の美しくて烈しい葛藤となるだろう。映画
の市川崑監督は、ややそれへ近づいていたが、「こいさん」の、より深い内面には近づけないでいた。
* 帝劇地下の香味屋で、ディナーを十分楽しんでから、舞台を堪能した。このレストランがわたしも妻も気に入って しまった。ワインもなかなかで、満 ち足りた新年会だった。
* 器械からちょっと目をあげると、河内山宗俊みたいな谷崎潤一郎の精悍な写真を、美しい澤口靖子の写真が幾つも
取り囲んでいる。妙な取り合わせだ
なとは従来思っていたのが、今夜からは、妙どころか、名作「細雪」がこの二人を取り結んでくれる。「雪子」のモデルだった「妻の妹」重子さんを、谷崎はさ
ながら「崇拝」していた、「妻」松子さんへの「崇拝」とは味わいを異にして。その辺の秘密をなんだか、今にも語りだしてみたくなってくるが、谷崎先生や松
子夫人は許して下さるだろうか。
* 一月十日 月
* 祭日が簡単に置き替えられて、要するに休日になって行く。休日の続くのはサラリーマンには嬉しい。しかし連休
が経済の活性に繋がるものかどう
か、皮算用に終わらねばいいがと心配する。雑誌発行の責任など持っていたころ、定日発行は至上命令だった。休みの日が固まってしまうと、嬉しいは嬉しい一
方、予定を詰めたり追いかけたりするのに苦労し、そこで頑張れば休日出勤になり、そこで投げ出せば仕事の精度は滑落して行く。どうしても後者に成りやす
く、これが社会一般の現象になって行くと、ものを生産し製造する仕事ほどダメージが溜まって行く。金融機関も休むし株式市場も休むから、経済はノンビリす
るかどうか、間の悪いことに成って行くおそれが有る。
法律で決めたことは率先して政府が守るものという印象も変わってきて、政府の都合一つで朝令暮改式にイージーになりつつある。「しゃっとしたこそ人は好
けれ」と昔の人は歌ったが、なんだか小渕総理を筆頭に、昨今はゆるい褌の政治がゆるゆると続いて実効はあがってこない。
総選挙で、ビリリッと電気をかけてやりたい。
* 湾岸戦争の際の米劣化ウラン弾の後遺症が、イラン国内に無残に露わになってきているらしい。イランや、イスラ
ムの人たちが鬼畜のようにアメリカ
を憎むのには、一理も二理もある。イスラム文化そして政治手法には、わたしの理解をはみ出た部分があまりに多くはあるけれど、アメリカの国際正義などとい
うものを、わたしは殆ど信じてこなかった。ベトナムで、そして湾岸でアメリカのやってきたことは、非道があまりに大きく多すぎる。
そうはいえ、石原都知事のように、アメリカの監視下に創られた事実は事実としても、日本国憲法を直ちに破棄せよなどという、身振りの大きいだけの小児的
暴言にもわたしは与し得ない。そろそろ案じていたような「イチビリ」が都知事に露骨に見え始めたか。彼は、自分一人ではとてもいい知事にはなれない個性で
あり、都民が、国民がよく操縦してぜひともいい知事にしてやらねばならない。聴く耳をもっているかどうか、それが根の問題だが。何といっても文学者である
という一点で、わたしにすら身贔屓の気がある。
* ペギー葉山の歌った「南国土佐をあとにして」の裏ばなしをテレビが再放映していた。戦陣に送り出された鯨部隊
の望郷の歌であったと、前にも聴い
ていた。再度、歌を聴いて、涙が出た。お国自慢といって、つい軽く言ったり見たりするけれど、平和をねがう根底にも愛国心の根底にも先ずこれがあるのは事
実であり、この歌ほどのお国自慢にどれほど兵士たちが啼いて慰められ励まされたか。そのことに感情移入してわたしはまた泣いてしまった。
つづいて田辺朔郎ら明治の若き工学士たちの、例えば京都疏水やインクライン設計にかけた時代の大志と情熱を、いろいろみせてもらい、気持ちよく胸を打た
れた。近代日本の若い元気といえばそれまでだが、あまりに今の日本の老け込んで活気に欠けているのも事実である。いややなあと思う。政治家の六十五歳定年
制を願いたい。
* 出雲国風土記を読んでいる。なぜか溌剌として生彩豊かに昂然とした筆致であるのが、頼もしい。出雲は出雲だぞ
と胸を張っているのが気持ちいい。
部分的にはあちこち読んで知っていたが、今度は、隅々まで読み通してみようと思っている。常陸国風土記は以前にかなり気を入れて読み、一作、珍しくも茨城
県が舞台の小説を書いたことがある。「ぎょうせい」が出した府県別の文学全集の、京都府・滋賀県・奈良県にわたしの作品が採用されているのは、ま、当然と
して、茨城県の巻にもその小説「四度の瀧」が載っている。べつに出雲の島根県でも小説をと思っているのではないが、現世にくさくさし飽き飽きしてくると、
つい風土記が読みたい、日本書紀を通読しようかな、などと考えてしまう。
* 一月十一日 火
* 鏡餅を開いて、すこしだけ恒例の善哉をつくり、夫婦で食べた。快晴だが風がことことと物音をさせている。飛行 機の飛ぶ音がゆっくりゆっくり近づ いて遠くへ流されて行く。
* 今夜はまた息子の火曜サスペンスだそうだ、番組案内に初めて「脚色」と名が出たとか、母親がよろこんでいる。
人を殺さずに済む芝居を書かせても
らえないものかなと思う。カミュの『異邦人』は純然と人を殺す小説であったけれど。あれは良かったけれど。谷崎も、そして誰もいなくなったほど殺しに殺す
戯曲を書いていたけれど。殺人が新たに劇的なものに昇華されるには、現代は、良い意味の緊張をあまりに欠いている。無反省に何かの手段としてのみ殺しを書
き、書かせている。すこしでも無理のないサスペンスでありますように。
黒川創の「硫黄島」取材が本になると報せてきた。期待している。兄の「偲ぶ会」は実現するのかどうか分からないようだ。
* 三月十一日土曜日に、もう随分昔から断続して続いている「秦文学研究会」を新たな構想で再開すると報せがあっ
た。また新たに『清経入水』から読
んで行くらしい。十数年前だろう、研究会の始まった頃は主宰の竹内整一現東大教授はまだ専修大学におられ、世話役の原善現上武大教授は、まだ作新短大かそ
の前の夜間高校の先生だった。新たに東大の学生たちも加わってもらいながら続けたいということだろうか、有り難い。必ずしもいつも一般に開放していなかっ
たかも知れないが、かなり突っ込んだ討議がされているらしく、わたしは、本番の研究会には出ないで、終わる頃に参加し、少しだけ話す。そして二次会がフ
リートークの懇親会になる。
* 一月十一日 つづき
* 前回の「男コンパニオン物語」ほどふざけた作品ではなかったが、よくまあ、こんな凡常の科白ばかりを書いて済 ませるものだ。テレビドラマ作りの 現場が愚劣なことは話にも噂にもよく聞いているが、作者がそれを駄作の逃げ口上に使っていては、卑怯に部類される。悪環境の中で、才能の片鱗なりとも光ら せようと努めるのが創作者の誠意であろうに。頑張りどころだろうに。
* 女優で親友の原知佐子が、このドラマの始まる前に電話をくれた。ちかぢか建日子の書いたものに出演してくれる
そうで、その仕事で北海道に行って
来るという。「黒い画集」の主演女優で、木下恵介の「野菊のごとき君なりき」でも、嫂役のいい演技を見せた人だ、往年の日活ニューフェースだった。大学に
入る間際からの友人である。そんな原知佐子が、息子の脚本で、老け役をしてくれるとは、感慨深い。
新宿の六畳一間のアパートに、重森ゲーテ君らと一緒に遊びに来てくれたとき、彼女は立派にスターだった。姉の朝日子すらまだ生まれていなかった。太宰賞
の受賞式に来てくれて、花束贈呈役を引き受けてくれた晩、弟の建日子はまだ一歳半で、姉に守られ家で留守番をしていた。うんちをして朝日子にいたく面倒を
かけていたのだ。建日子よ、驕るなかれ。まだ人様をつかまえて「格上の」「格下の」などと言うのは厚かましい、まだまだ「格」なんて「無い」のだし、ケチ
な「格」など持ち急ぐな、と言って置く。
* 一月十二日 水
* 「建築」のことで「空間」の重みを語ってきた元東工大の学生君に、今度は彼の親友が反応して来た。超多忙の日 常と聞いている、疲れてもいるだろ うに、有り難い。大事なポイントを含んでいると思えるので、この「建設」君の許しを得て、書き込んでおきたい。「君=建築」君は大手の建築会社に就職し、 「建設」君は本省勤務、大の親友同士で、わたしとも極く早い時期から親しみあってきた。
* こんばんは。秦先生のHPに何らか「反応」したいと思い、メールします。まぁ、独り言とでも読んでください
な。一応「君」と、秦先生とに返信し
ておきます。
君と私との接点はもちろん「建築」ではあるけれども、その建築とは「空間」なのでしょうかね。間違いかもしれないけれど、物質化されたモノとモノの間に
ある空と、物質化されたモノとを、併せて「建築」と呼んでいるのだと私は思っていました。だからこそ、「空間」と「建築」とが切り離された君の言葉に、違
和感を覚えずにはいられないのです。建築の一部が空間であり、建築のことを考えることはすなわち空間を考える事(但し、空間を考えることはすなわち建築を
考えること、では、ないと思いますが・・・)ではないのでしょうか。
という前置きの上で。
君の考えに触発されて、私の気持ちを書きます。
わたしは、文学はもちろん、建築というモノや空間などとも、無縁の仕事をしているように見えるかもしれません。自分の意識・気持ちを、(適切な言葉の使
い方かどうか分かりませんが)無自覚にすると、確かに、その通りです。そして自分が何者であるかを自覚したとき、私の拠り所とすべきは、文学的なものや建
築や空間ではなく、それは「生活」なのかなぁと考えます。
正直に言えば、建築的、空間、文学的なモノ、を考えられる時間が、日々、皆無です。そして時々、無性に建築や文学をむさぼりたくもなります。
ところが、冷静になって考えると、私の中での第一は「生活」であり、生活に付随するものとして、建築的なものや文学的なものが常に在るのです。
「生活」を常に常に考えているとまでは言えないけれど、建築や文学を考える機会よりは、圧倒的に「生活」について考えることの方が多いですね。これはこれ
で、とても私らしいと自己満足に浸っていますが、どうでしょうか。仕事柄私がこの様に言っているとは思わないでください。
もし、そう思うのであれば、私がこの様に思っているからこそ、今のこの仕事を選んだと考えてください。
「生活」というキーワードが私の頭に浮かびはしたけれど、じゃぁ、君の言葉に、どう繋げたいのかが、的確には、
分かりません。
ただ、イタリア・フィレンツェの礼拝堂(だったっけ?大聖堂の隣のやつ)で、君が動けなくなったのは、「空間」が持つ礼拝者に対する「意思」の様なもの
を感じ取ったからでは無いでしょうか。少なくとも、単なる建築物の美しさや、設計者の意図に感激したというレベルでは無いでしょう。あの瞬間、君は、一人
の礼拝者としてあの「空間」に立っていたと思います。モンテリジョーニやルッキオでの感覚は、私にとって何物にも替え難いものであり、君も同じでは無いで
すか? あの街の「何」が、私たちを感激させたんでしょうか。言葉にするのは難しいけれど、あの「空間」を一緒に体験した君と、「思い」は通じていると思
います。君のそんな「感覚」が私との接点なのでは無いかと思います。
蛇足ではあるかもしれませんが付け加えさせてください。
阪神淡路大震災で家々を失った人たちが、(私たちの考える)不自由な仮設住宅生活を余儀なくされました。現在その人たちは、新しく整備されたマンション
などに移り住んで、新たな生活をスタートさせています。
しかしながら、彼らの少なかなぬ数の人たちが、「仮設住宅生活の方が良かった」と振り返っています。もちろん、もっと色々と付け加えなければならない事
実や前提のあるのは承知しています。しかし、これもまた「事実」ではないでしょうか。私は、この事実について考えるとき、物質的なモノの無意味さを痛感せ
ざるを得ません。それは、便利さや不便さといった言葉とはまた別次元の話だと考えます。モノの有る無しとも、また別です。私などには計り知れない「仮設住
宅生活の心地よさ」を「空間」として表現しようなどとは、とてもじゃありませんが、出来ません。「生活」とは、そんなものじゃないのかなぁ、なんて考えて
います。
* こういう文章をこの頃は書き慣れていないと「建設」君は最後に漏らしているが、「思い」はたしかに明晰には表
現されず、しきりに「てさぐり」さ
れていて、部分的に混濁している。最後の、「生活」とは、そんなものじゃないのかなぁ、なんて考えているという箇所も、ひょっとして「そんなものじゃない
んじゃないのかなあ」の脱字かしらんという気もする。
はっきりしているのは、彼が、「生活」への視線や姿勢や把握や評価のなかで、自分の日々だけでなく市民の日々をも意図し共有しようとしている点ではなか
ろうか。その分母の前には、建築も文学も、空間も時間も、或る、分子として位置しているのだろう。この点、わたしなどの日々が「生活」から遊離しがちだっ
たり逃避しそうであったり、とかく頼りないところへ、一棒くらったようなものか。
親友の「思い」に、自分の「思い」を通じ合えるものとして手探りしているような温度の高い模索を、「建設」君は、「建築」君に呈している。闇に言い置
く、これもわたしには大事に重い時空間である。
* 寒い雨の音が夜を流れている。膝上は冷えに冷えているが、ふかふかのサンタクロースの靴のようなものを履き、
おかげで足先が温かに守れている。
助かる。
* 一月十二日 つづき
* 山陰の図書館に勤務されている読者から、滋賀県秦荘町の資料を頂戴した。メールで、そちらの方へ出張されたと 知り、かねて興味も関心もある町の ことなので、お願いしたのである。お手紙が添っていて、なかに嬉しいことが書かれていた。これは書き留めておきたい。こういう声が聞こえてくるような時機 になっているのだと改めて思う。
* メールに書きもらしましたが『出版ニュース』にお書きになった原稿、秦さんのおっしゃる通りで、「湖の本」は
オンデマンド出版のさきがけであっ
たと私も思っています。おそらく今後はパッケージ系からデジタルへと出版の形態も変わってゆくことでしょうが、本という形態や紙のメディアは決してなくな
るはずがない、と信じています。そういう意味でも、私はオンデマンド出版の理論的原点である「湖の本」を、心から愛し、敬服しております。そして「本」と
いう形態での出版を継続されながら、一方でホームページで作品を公開していらっしゃる姿にも。これこそ現代作家、時代と斬り結ぶ作家の姿
ではないでしょうか。私も「本のみと心中するつもり」はありません。(以下、略)
* もっともっと他にだいじなことが書かれてある。図書館の電子化は当分のあいだ目も耳も放せない重要課題になる が、それが従来図書館の機能や長所 を圧殺する形で進むのか、活かしながら協和して行くのかは、よく注意していなければならない。たしかにコンピュータで探していた本がみごとに早く探せると いう利便と同時に、しかし書架に並んでいた探していた本の「その隣りの本」のもつメリットは失せてしまいがちになる。この、ノンフィクション作家佐野真一 氏の指摘は、Nさんの手紙にあるように、鋭い示唆である。探していた本を見付けた「その隣の本」にこそ助けられたという体験は、私にも有る。現実の書架の 強みである。これからこそ、もっと柔軟に、古くして良きものと新しい利便との折り合いを許容する人間社会である必要がある。
* そうはいえ、湖の本を構想した頃には、まだデジタルのことなど、ほとんどかけらも予測していなかったが、じり じりと歩をすすめ巻をかさねている うちに、ワープロ時代を乗り越えるようにパソコン時代のまん中へ、わたし自身が歩みだしていた。まだまだ鳥取のNさんの仰ることを「分かる」人自体が数少 ないが、時代はぐんぐん進んでいて、人ののろい実践を置き去りにして行く勢いである。もう十年すれば、今使っているこの器械そのものが、形や機能の点でい い時代物になり、「書く」意味も方法も、「本」なるものと社会との関係も、びっくりするほど変化していよう。
* ペン会員の意識アンケートを実施したときに「パソコン差別」を憂慮する声がちらほら聞こえていた。使える人と
使えない人との差が出版界に露骨に
なるのではないかという不安を持たれていた。この一年半で、憂慮の度は現実に深まっていると観るのが自然ではないか。もうワープロがそもそも時節遅れに成
りつつある。
妙なことだが、ついEメールの使える同士の交流・交感が早く濃くなり、そうでない人たちのことを置き去りにしがちになっている。年賀状はこの春は書かな
かったが、それでもメールのある人からのご挨拶には、何かしら返礼していた。すこしばかりこれは危険な、心しなくてはいけないことだと思うものの、流れは
大きく速くそのようになって行く。
* 一月十四日 金
* 明け方の五時に電話が鳴って、びっくりした。受話器をとると、ぴー、ぴー、と鳴る。いたずらかと思ったが、 ファックスを送るつもりの番号違いだ と妻は言う。その通りだった。ウイーンの甥がファックスを送ろうとしていたのだった。正しい番号を教えて置いて「また寝」してしまい、目覚めたら午に近 かった。
* 経済学者で兄が最晩年に傾倒していた森嶋通夫氏夫妻に宛てた「父」追悼の手記をわたしにも送ってきたのだっ た。佳い文章だった。わたしは兄の一 面を教えられるとともに、この次男坊の甥の一面も識った。
* 「偲ぶ会」がどのように持たれるにしても、ウイーンの甥は、北澤猛は帰国しないで文書で参加する気になったら しい、それで一文を先ず森嶋さんに 宛てた手紙の体で草したわけだ。手紙の内容には俄に触れることは避けたいが「偲ぶ会」のことでは、こう返事を送った。
* 偲ぶ会は、可能なら発起人をならべ、思想の科学または家の会が母胎となり、鶴見さんか中尾さんに「顔」になっ
てもらうのが、尋常で佳いかたちで
す。喪主の遺児が主催なんてのは、むしろ成り立ちにくい異例に属するでしょう。
父親のことだから感情面で無理ないとは思いますが、一人の思想家であった「北澤恒彦」に即して言えば、その死に方が自殺であろうとも、それも一つの表現
ないし意思であり、それが話題にされることを過度に気に掛けなくていいのではないか。遠慮なく恒彦の像が、多くの人の信頼と敬愛によって証言され彫琢され
ることは、きみら遺児の、生涯の優れた「相続分」になると思うのです。そして、そういう機会は、逸してしまうともう難しくなる。書かれたもので「編集」し
「本」の形にするのは、実はなかなか容易に纏まらない。流れた例が多い。
「偲ぶ会」を遺族が直に主催しては、ちょっと参会する側が率直に成りきれず、じめつくものです。そんな「偲ぶ」なら、銘々が胸に持っていればいい。恒彦
兄が、向こうから「オイオイオイ」と異存を唱えたり、哄笑したり怒ったりできる「場」で、腹にあるものを参会者に吐き出してもらえる、そういう「偲ぶ会」
なら、ぜひ出たいなと願っていました。
* 私一人の勝手な思いで強いる気は少しもないが。長男の恒がなにもかも気分的に背負い込むのは辛かろう。また押
し隠して仕舞おうとしても無理であ
り、また父のためにも最善のことではなく思われる。
* 一月十五日 土
* 松濤の梅若研能会初会、「翁」は、三番三が緩くて、さっぱりだった。紀長の翁は頑張って謡っていたけれど、全
体にめでたい気分が盛り上がらず、
低調な「翁」になったのは残念至極。めでたく狂言の「宝の槌」をと席にいたが、第一声を聴いただけで、まるで素人さん、これは堪らぬとロビーに出て、さて
帰ってしまうのはいかにも無念だし、休憩時間もはさんで、万紀夫の「巴」を待った。女人のシテの唯一の修羅能である、これが楽しみで来たのだった。
贔屓の、亀井広忠大鼓である、新年の賜。小鼓の幸正昭も笛の松田弘之も「翁」と掛け持ちで、なかなかの「囃子」であつた。
ただ、最近時々ひどく気になるのだが、ワキの森常好らの謡が、まるで唱歌のようにうわつらで唄っていて、軽い軽い。これは聴きようでは見所をなめた尊大
なワキになり、気持ちが悪い。謡は能の基本であり、真剣勝負で謡ってもらいたい。鏡花の『歌行燈』ではないが、素謡ひとつで人の命も飛ぶような藝の怖さが
役者に生きていなくて、鼻歌のように気楽にワキに唄われてしまうと、舞台の位も張りも緩みきってしまう。
* そうはいえ万紀夫の「巴」には、ずうっと深く引きずり込まれて、後シテのいまは義仲自害の遺骸に別れて、物具 を脱ぎ捨てて行く悲しみの深さに は、めったになく思わず声の漏れそうに泣いてしまった。涙が幾筋も頬を伝い、くっと口を掌で押さえていた。理屈も何もない、そのような気持ちにさせ涙を流 させてくれる、それで舞台と観客わたしとの帳尻はきっちり合ったのである。足りたのである。幸せなことであったし、涙と感動により「清まはる」ことが、 ちゃんと出来たのである。癇癪をおこして帰ってしまわず、懐かしい「巴」が観られて本当に良かった。
* 能楽堂では二松学舎の松田存教授と会えた。珍しく、梅若関係の人をのぞいては松田さんのほか、顔見知りの一人 もいない、少し寂しい会であった。
* 能は理解しにくい、難しい、と思いこんでいたが、という趣旨の、以下のようなメールをもらっている。
* 「能」を今までにまったく観たことがないわけではありません。
なぜ、難しいのか? 言葉がわからないからでしょうか。
言葉のわからないロシアやイタリアのオペラは、すぐ理解できます。
わずかな動きの中で仮面をつけて舞い演ずる芸術。
世界にたぐいなき、奥の深い芸術の最高峰、手の届かぬ世界のものと思ってきました。
でも、花伝書を一読したとき、年齢別の項で、「時分の花」「誠の花」「失せざらん花」「誠に得たりし花」などの言葉が、内容が、深く心に沁みました。こ
れなら理解できるかもしれない、と思いました。
オペラはリアリズムの芸術だからわかりやすいのだと思います。
能は抽象化された芸術です。深い心がないと理解しにくい。
でも、7歳の子どもも演じる芸術です。難しいという先入観を取り去る必要があるかもしれません。
* 申し訳ないが、このメールに表された考え方、感じ方には、いかにも性急な理知主義を感じる。「理解」を先ず立
てて求めて、それが「知識」を求め
るのと同義語のようになっている。『花伝書』が、まんまと得難い或る「知識」の庫と受け取られ、「これなら(能も)理解できるかも」と期待される。あまり
にアバウトである。
まず最初は、「わかる」必要など無いのである。無心に「みる」そしてどこかからとりついて「好きになる」ことだ。
山種美術館で、繪を「みる」と「わかる」とについて講演したことがある。繪はわかるために在るのではない、観て好きになるのである。観る。基本は観ると
いう体験に素直であること、すると「涙」もこぼれるし感動もする。わかったから感動するのでは、ない、ように、わたしは感じている。
* 茶の湯の稽古でも、メールの人と同じような、「理解」のための「知識」を求めて入門してくる「知識人」がけっ こう数多いが、まず、長続きしな い。危ふやな浅い前提、つまりは思い込みのような役に立たない「見当」を、はなから付けてとっかかれば、案に相違したときに、簡単に躓いてしまう。それな ら先入見など無しに素直に謙虚に体験し、知識がそのあとから追っかけて来てくれるようにするのが、いい。わたしは、そのようにして能にも茶の湯にも近づ き、楽しんで来れた。
* 猫の恋の季節になってきた。我が家の黒い少年が、大きく「成人」してきて、匂いツケを始めた。ウーン、どうし
よう。それにしても、何故「成人の
日」は今日ではなくなったのか。
* 一月十六日 日
* サンデープロジェクトで、石原知事が話していて、かなり共感する部分もあった。この人はいまだに殊更「シナ」
という言い方で「中国」を呼び、
「ヤツ」らとまで呼びつけてはっきり「嫌い」と言っている。「中国」といい「中華」という尊大を嫌っているのもあるだろうが、それなら「日本」「日の本」
も聞きようではそれ以上なのだから、ことさらに刺激しなくてもいいだろう。「チャイナ」より「シナ」の方が歴史的な気もしているけれど、いずれにしても向
こうはそう呼ばれたくないようだし、われわれだって「ジャパン」などと日常語としていわれたくないのだから、大人げなく拘ることはあるまいと思う。「中
国」
「日本」でいいではないか。
ついでながら、石原氏の口にした「北鮮」は「差別語」だと司会者は慌てていたけれど、「北朝鮮」にしても正式の国名ではない。地域を指す意味でなら、北
朝鮮が北鮮、南朝鮮を南鮮と呼ぼうと、それは東京大学を東大、大阪大学を阪大などと呼ぶのと同じ、略してものの言いたい普通の日本語感覚というものであ
り、侮蔑の意味など何もない。関東・関西と同じ便利語でしかなく、まして日本国内で日本語で話し合うときに、そのように略称してなにが差別なのかと、いぶ
かしい。米英独仏などと言いもし書きもしているのが、差別語だとはだれも言わない。
* 石原慎太郎が「中国」を嫌い警戒し信用していない、その「嫌い」とまでは同調しないけれど「警戒」「不信」の
点は、わたしなど、昔からはっきり
公言し、書いて、今でも度が増してこそおれ、いささかも油断の成らない、少なくも中国の政権は芯から覇権主義の利己主義姿勢だと思っている。いや、一般
に、覇権的で利己的でない「大国」の存在などは信じないという意味であり、同様に、政権レベルのアメリカもフランスもイギリスも、信用などしたことがな
い。信用しては成らないと考えている。
日本は、その点では途方もない「お人好し」政権であり、在るに任せて無意味な金を大国である覇権型の他国へまでばらまき、アメリカの「醜の御楯」に進ん
で成ろうとしてきたし、中国にはワケの分からない遠慮と献金とを貢いできた。その覇権主義や人権弾圧や核実験や死の商人ぶりに対して抗議した政府も民間団
体も、寡聞にして殆ど知らないのである。その意味に限定して言えば、「NOと言える日本」を発言し続けてきた石原氏の姿勢には共感する。表面の事なかれ主
義が内面での対策なり緻密な対応なりをカバーしているのならまだしも、まさかそうはなるまい程度の安心をもって事を先送りしている無責任政治や無策な外交
は、ほんとうに困る。迷惑する。
* アメリカが、ドルに円を抱き込んで新ドル政策を進め、日本をさらに思うままに取り込もうとしているという警告にも、事の実否を超えてでも警戒は必要だ
と石原知事の話を聴いた。小沢一郎の「実害」を明言していたのも、その限りでは田原総一朗の高い小沢評価より、石原氏の断罪の方にはっきりくみしたい。小
沢一郎の政見政策にはいつも「身売り」「国売り」の途方もない実害と危険が感じられ、信用する気がわたしには無かった。
そうはいえ、石原「大東亜共円圏」構想にも、アメリカの「新ドル構想」と同じ「円支配」を欲しての日本のエゴが丸出しなのは読みとれ、苦笑いしてしま
う。二者択一の現状でないことにほっとするが、それならば別の構想は無くてもいいのか、二十一世紀にむけて、難しいところだ。
* 憲法について、何処まで話すかと待っていたが、今日の限りでは時間切れで論評できない。「いいところは残す」
「平和主義は貫く」という言葉が
あったのを大切な言質として記憶したい。わたしも、この二点が確保された憲法改正に反対なのではない、ただ、何が「いいところ」なのかの議論がされていな
いときに、アバウトに態度は決めてはならない。また貫かるべき「平和主義」のなかみについても慎重にコンセンサスを得なければいけない。党利党略型改憲だ
けは絶対に避けなければ、と思う。
改憲試案が具体的にいくつも出されて論議の段階に入って行く新世紀になるなら、フェアプレイでそうなることは、歓迎したい。結論的には現憲法の、国是に
は響かない一部便宜改定に止まって欲しいと願っている。むしろ「主権在民」の「私・民」強化に明確に繋がる「公・官」暴走と強権とを抑止する改定・改正が
望ましい。
* 「配慮」という言葉を、わたしは、いささか神秘的なぐあいに感じ用いてきた。わかりよくいえば、「心配り」の
利いている「広がり」「範囲」「エ
リア」「領分」でもいいだろう。その広がりの広い人は配慮の広く行き届く人と言うことになる。精神生活が所有できる有限世界で、人によりおそろしく広さ狭
さに差が出来る。
知識の意味でもいえるし、愛の意味でもいえる。知識一方の配慮空間も在れば、いわゆる「思いやり」で「気が利く」配慮空間もある。配慮の性格で人の性格
や生活感覚も見えてくる。理知的に賢い人なら配慮できるのだとも、優しい人なら配慮は十分だとも、偏して言うワケには行かない。そして、配慮の良さ悪さと
いうのは、自分の配慮空間と他人のそれとが接触し、いわば重なり合ってきたり侵しあってきたりした時に、個性的に露見してくる。
さらには、どこかで、こんな「配慮」なんて領分争いになりかねない精神と言うよりも心理的な日常からは、きれいさっぱり脱却しなければならないのだろう
と思う、むずかしいことだが。
だが、せめては「配慮」とは何かを、知情意のどの角度からも調え持っていなければならないように感じている。わたしに、それが、出来ているとはとても思
われない。あっちへ揺れこっちへ揺れる。揺れから目を背けていないのだけが取り柄なのだろうか。そんな取り柄が毒なのだろうか。これも、闇に言い置くこと
である。
* 一月十七日 月
* 今朝、ペン事務局から電話があり、十三日中にはわたしに届くべきであった緊急内容のファックスが、届いていな
いことが分かった。届いたものを見
ると、かねて報告のあった、理事会でも簡単ながら話し合いのあった、公安当局が、平成八年の資料の中で、日本ペンクラブを名指しで要調査対象としている件
で、抗議声明を緊急に、つまり言論表現委員会の討議を抜かして、猪瀬委員長案を委員に諮問するだけで、明日の臨時理事会に諮ろうという話だった。
それ自体は、それでもいい。しかし重大な事案であればあるほど、委員会討議が大切なのではないか。委員長案について、いつも個々にファックスで諮問され
るだけでは、他の委員らとの意見交換が全く欠けてしまい、委員会の意味が無くなってしまう。困ったことである。
発見されている資料は平成八年の資料で、すでに十二年であり、むろんこの間にも同様の公安姿勢であったろうと推測せざるを得ないが、抗議をしても、すで
に修正していると逃げられては、新資料を持たない限り、どうもガッツが出ない。抗議はすべきだと思う。思うけれども、それならば、二月四日に予定の言論表
現委員会で十分討議した結果を、二月十五日理事会に出して論議してもらう方が、よほど手続きとしても内容としても良いように思われる。拙速に値するほどホ
カホカの新資料でないところも気になり、そこまで委員長独走で急ぐことは無いのではないか。
* 公安の、我々に向けている視線には、厳重な注意と対抗が必要であることは、言を待たない。臨時理事会には欠席通知が出してあり、私見の趣旨を小中専務
理事に正式に伝えた。
* その後に篠田博之副委員長から電話があった。わたしは自分の考えたことをそのままもう一度伝えて、特に急ぐこ
とがあるのか、また他の委員の意見
は何も知らないがと聞いた。特に急ぐ必要があるという確答はなかったが、他団体と共同の記者会見が十九日頃に考えられているということを聴いた。なるほど
記者会見には「日本ペンクラブ」が加わっていた方がいい。しかし、それが委員会討議をすっ飛ばす「正当な理由」にはならず、会見は会見で代表者が参加して
おき、討議は討議で、次の二月初めの委員会にかけて差し支えないはずだと思う。他委員の意見を箇条書きしたものを見たが、これはこんな風にでも答えるしか
ない、いわば居催促のファックスが来ているのだから仕方あるまいと思う。そんなことで委員の「意見は聴いてある」と言っては、ごまかしに近いはなしにな
る。
五十嵐二葉委員の意見は既に出来ていた抗議書に即した、具体的な訂正意見だった。また「早い方がよい」とあった。その理由なども口頭で聴けばもっと分か
りいいだろう。情報を私などより豊富に持った人の意見であり、わたしも「遅くてもいい」などとは言わない。が、それほど大事な事案ならば、師走理事会以降
の今日までにも、委員会を開こうと思うがと進んで委員長から提議が一応あってよかったろう。
* こういうふうに、妙に事情がねじれてくると、つい、いいや、どっちだってと思いかけてくる。
* もう一度篠田博之氏の電話があった。要するに明日は理事会で予定どおりにやりますのでという事だった。「どう ぞ」と返事した。明日は臨時理事会 で、議題は事務的なことばかりだったので、欠席通知がしてあった。この議案があるので出ませんかと篠田さんは勧めたが、やはり休ませてもらおうと思う。
* 東大院・数学の若い友人から、「時間」や「言葉」に関わって、興味あるメールが届いた。許してもらって、簡単 なわたしの返事もともに書き込んで おきたい。
* 秦さん
僕の(修士卒業)論文もようやくひと段落ついて、今は最後の確認作業をしているところです。論文を書いているときに、数学的なことのほかに気づいたこと
がいくつかあったので、書いてみました。またそれに関連して秦さんにお聞きしたいこともあります。
でもその前に、先日頂いた返事に関連して少し述べておきたいことがあります。
前のメールで、僕や「建築」さんは「空間」のことに触れたわけですが、「時間」については何も書きませんでしたので、その事について僕が思っていること
を少し書きます。前のメールの主題と少しずれてしまいますが、「時間」について僕は非常に興味を持っています。その半分は数学的興味です。
「時間」を特徴づける第一の点は何だと思われますか?
それは「向きがあること」すなわち、時間は過去から未来へと流れていくことだと僕は考えます。当たり前のことのように思われますが、考えてみると不思議
なことです。
我々は生まれてから死ぬまで未来に向かって進んでいきます。「あの時こうすればよかった」などと後悔するのも、過去には戻れない、時間は逆走しないとい
うことを我々が知っているからです。
しかし一方で、自然界はニュートン力学によって支配されていて、(この言い方は少し語弊があります、というのもニュートン力学ももとは人間が考えたこと
だからです。しかし今はニュートン力学は自然の「原理」だと仮定します。)天体の運動は、ある時刻における物体の位置と速さがわかれば、その後の運動はす
べて決定されるのです。
しかしニュートン力学は更に次のことも主張します。それは、ある時刻における物体の位置と速さがわかれば、実は「その前の」運動も、すべてわかるという
ことです。つまり自然界には時間の「向き」はない、ということなのです(もちろん例外もあります)。
「時空」という言葉はこのことをよく表わしていると思います。時空とは文字通り「時間」と「空間」の意味ですが、「時空」といったときは時間に向きがつ
いているイメージは、僕にはありません。過去も未来も何もなく、ただそこにそれが存在するのです。少し仏教的な感じを受けます。
そこで最初の問題に戻って考えると、時間に「向き」があると考えるのは、むしろわれわれ「人間」のほうであって、逆にこれが「人間」の一つの定義ではな
いかとさえ思えてくるのです。小さい頃物事の「始まり」はどうなっているのかと思い、よく母親に質問して困らせたことがありましたが、我々が宇宙の「始ま
り」を考えたくなるのも「人間」の持っている性質なのでしょう。
僕が今研究しているのは「時間に向きがついている数学」で、最初に言った「「半分は」数学的興味です」とは、まさにこのことです。時間に「向き」を入れ
た途端、半分は「人間」の研究でもあると僕は思ってます。例えば僕と同じ研究分野の人で、企業の倒産リスクを計算して、実際に社会に応用しようとしている
人がいますが、これは時間に「向き」がついていると我々が考えている、あるいは我々の社会はそう作られている、いい例でしょう。なにせ企業はいったん倒産
してしまえば、そこでその会社の「時」は止まってしまうのですから。
まとまりのない話になってしまいましたが、「数学」の中に「人間」を探る、あるいは「人間」の中に「数学」を探ろうと思っている僕にとって、「時間」と
いうのは大切なキーワードの一つになっています。
次に、これからが本当に言いたかったことなのですが、論文を書いていて思ったことがあります。
僕は論文を日本語で書きました(雑誌に投稿する論文は英語「でなければなりません」が、僕の論文は投稿しないので日本語「でも」良いのです)。理由は二
つあって、一つは僕に適切な英語を使う能力がないことで、もう一つは日本語のほうがほかの人(同僚)に読んでもらえる可能性が高いということです。
ひととおり書き終えてから、間違えがないかどうか先輩に確認してもらったところ、あることに気づきました。日本語で論文を書いているにもかかわらず多く
の英語を(外来語も含めて)使っていたことです、しかも無意識的に。これには唖然としました。僕としては自分の表現したいことを最もよく表わす単語が、た
またま英語だったということなんだろうと思いますが、適切な日本語がない(ただ単に僕が知らないだけなのかもしれないのですが、)ことにびっくりしたわけ
です。
しかし、これは考えてみれば当たり前なことで、僕の読んだ(というか世界中のほとんどすべての)論文は英語で書かれているので、必然的に僕は英語で「数
学」しているわけです。ですから日本語で論文を書く場合、僕はいちいち日本語に翻訳しながら論文を書いていることになります。
世の中には外来語を「悪」、あるいはそこまで行かなくても「好ましくない」ものと考えている人が大勢いて、(評論家の)本多勝一氏は、彼の著書の中で、
英語を植民地主義の象徴であるとし「鬼畜語」と呼び、外来語を平気で使う日本人を厳しく批判しています。彼自身は喫茶店などで店員に「スプーン」という単
語を使われたとき、「スプーンって何のことですか?」とシラを切ることにしていると書いていましたが、これには思わず笑ってしまいました。
僕自身は外来語について多少思うところがありますが、それほど突き詰めてはいないのでここで述べるのは止めておきます。
ここで僕が思ったことは、ひとまず外来語のことは置いておいて、次のようなことです。
自分の言いたいことが何かあって、それにピッタリくる表現(単語)を自分は持っているとします。それが世間に認知されていない場合どうすれば良いので
しょう。もちろんその表現をわかってくれる人のみを対象にすることも可能ですが、ここで問題にしているのは、もっと不特定多数の人を相手にする場合です。
言葉は、良い悪いでなく、多数派が常に正しいという側面を持っていると思いますが、他方でそれを認めたくない少数派も存在します。そんな時、少数派側から
主張することのジレンマみたいなことを感じることはないでしょうか?
架空の例ですが、あるところで僕はどうしてもフランス語の単語を使いたかったとします。その表現が一番ぴったりするからです。もちろんこの単語の意味は
普通の人は知りません。その時に、この語を、日本語に訳すことの可能性というか、もちろん完全な対訳をつけることは不可能ですが、その時多少の犠牲を払っ
てでも日本語に翻訳するか、それともそのままフランス語にしておいて相手が辞書などを使って意味を推し量ってくれるのを待つか、どうでもいいことかも知れ
ませんが、それが少し気になったので聞いてみたく思いました。そんな経験ありますか?
長くなってしまいました。最後まで読んでいただきありがとうございました。落ち着いたら、またお便りします。
* 論文ができたそうで、ああ、よかった。ご苦労さん。 秦 恒平
時間を、簡単に「線的延長」では捉えたくない、空間と別物としても捉えたくない、そうではなく、内と外の境目の見えない「透明な風船のようなもの」のな
かで、「時空」は「間」抜きに、融和的に遍在し、膨らんだり縮んだりして存在するのだと、わたしは、かなり早くから、大学を出たか出て暫くのうち、よく考
えていました。「時」を、つとめて前向き後向きと関係なく、「空」の中で「空とトータルに」感じたかった。そのように考えることで、たとえば歴史上の人と
も「同時空」「同時代」を分かてるという、歴史物を書くときの足場というか、立場を得て行きました。「絶対二元論」などと内々に称して、盛んにそういうこ
とを書いたり喋ったりしていた時期が有りました。
したがって「時空とは文字通り「時間」と「空間」の意味ですが」と君が書いているのとは、少し違い、「時空」は、「時・空」一如と考えていました。
「間」を置くのは人間の「便宜」に過ぎないと。佛教的であるかどうかは少し考慮の必要がありますけれど。文学的な「想像」の所産に過ぎないですが。
「数学」から「人間」から「文学」へ、またその逆も、可能と。
直接に文学へ移動して行くよりも、勉強してきた数学好きの線で進むのがいいのではと、二年か二年半ほど前に、君を、院の数学へとけしかけて、よかったと
わたしは思っています。君のメールに顕れている、「人間」への関心と批評とを、面白くも、心強くも、思います。
外国語と、その日本語への翻訳の問題は、たとえば仏典を中国語に翻訳しようとした中国人の苦心惨憺からも、また西洋語の「概念」に日本の訳語を付けて
いった、幕末から明治への日本の知識人たちーー西周のようなーーの大きな苦労からも、複雑に察しられます。仏典でも、漢語に訳しきれないものは、そのまま
の梵音で遺していますね、「般若波羅密多」のように。
日本でも、幸いにカナモジがあったので、「ラヂオ」のように、訳さなかったのが多いでしょう。本多勝一がそんなことを言っていたとは知らなかったが、
「ラヂオ」「スウィッチ」「ボールペン」などは何と謂う気でしょう。外来語の定着し切っている例えば「スプーン」のような言葉を、「鬼畜語」とは、了見の
狭いはなしですね。
わたしには、「言葉」への愛情が有ればこそ、「適切な」外来語の使用には何の抵抗もありません。そんな、意訳も難しいような外来語は知らないから使いよ
うがないが、「デ・ジャ・ヴ」なんてのは、「ニュアンス」なども、強いて訳したくない時があります。言葉は、会話・文章ともに、だれも百パーセント知解し
正解してその場に臨んでいるわけでなく、それでも、おおよそは間違いなく伝わっている場合の方が、圧倒的に多い。単語の一つ二つを知らない、分かりにく
い、あやふやだから言語生活が成り立たないなんてことはない。言葉は万能ではないのです。そんなことは言葉で飯を喰っているほどの人間なら、誰でも知って
います。アイマイを基本性格にしている日本語の場合は、ましてです。(目で補い身振りで補い状況が伝達を助けても呉れます。)だからこそ日本人は「外来
語」や「外来文字」を、たっぷりと身内に喰い溜めてきたので、もし、昔の人が漢字や漢語を「鬼畜語」などと愚かなことを言って拒絶していたら、日本文化は
どうなりましたことか。
そんなわけで、これは読者は辟易するなと思っても、表現上作者のわたしが必要と思えば、よほど「不適切」でない限り、遠慮しないで外来語であれ難漢字で
あれ使用しますよ。
簡単な返事ですが、夜更けてきて足腰が冷えるので、この辺にします。また何でも言うて下さい。
* 来週は大阪、そして京都。いつも慌ただしい小旅行だが、妻はもう一二泊してきたらと勧めてくれている。兄はま
だ墓に入っていないし。美しいもの
を観てきたい。
* 一月十八日 火
* 臨時会とはいえ、ペンクラブ理事会を始めて欠席した。ファックスで、「公安調査庁の日本ペンクラブ等に対する 調査・監視への抗議と要求」の、梅 原猛会長名による送達文が送られてきた。明確な時宜を得た内容になっており、何等かの責任有る回答のなされるのを望む。フアックス原稿なので此処には転載 しないが、日本ペンクラブのホームページによって広く読まれたい。
* 「秦さんは大丈夫だよ、(盗聴なんか)やられないよ」と数年前に猪瀬君は言論表現委員会で保証してくれたもの
だが、何のことはない、その頃に既
に公安調査庁文書では「日本ペンクラブ」そのものを要調査対象として内部指定していたことが明らかになったのである、やんぬるかな。「公」の犯罪行為つま
り「国の犯罪」行為は拡大されこそすれ、おさまって行きそうにはない。このわたしのホームページも安閑として安心の範囲内にはないものと思わねばならな
い。
* 一月十九日 水
* 昨夜は二時前まで机の前にいて、それからテレビの前にすわり、ショーン・コネリーの「ライジング・サン」を一 人で観た。暫くして、そばで寝てい た黒い少年がツツッときて膝に乗ってきた。初めて来たときから、もう十倍近い体重の大きな少年を抱いたまま四時頃までかけて見終えたが、一度もコマーシャ ルで中断されなかったのにはビックリした。広告中断があれば途中で寝ていたかも知れないが、おかげで程々に面白く観られた。原作は読んでいた。
* 文芸家協会でわたしも委員を務める知的所有権委員会の責任者三田誠広氏に、ペン電メ研責任者としてこんなメー ルを送った。
* 三田さん こんにちわ。 秦恒平です。 唐突ですが。
この一両日にわれわれのメーリングリストに入ってきた情報です。ご存じのことでしょうが、「声」として届けておきます。
電子メディア上の文芸著作権が、固めようもない現状のまま半端に、一方的な既成事実が積み重ねられて行くのは、試行錯誤時代の在りようでもありましょう
が、座視もなりかねる問題です。
事の性格上、ペンクラブでは、対応して行ける基盤も、また意欲も、やや希薄です。協会の「知的所有権委員会」「電子メディア対応委員会」に期待せざるを
得ません。
ペン会員らの具体的な声など、こういう形で折りごとに、三田さんまで届けたく、汲み上げて下さらば幸いです。
それよりも、例えばメーリングリストに、協会委員会の方にも加わっていただき、協会とペンとが包括的に意見交換の出来る「場」を用意しておくなども、差
し支えない範囲では有効ではないでしょうか。ペン電メ研のリストには今は委員十三人が加わっているだけですが、最大三百人までの余裕があります。協会会員
とペン会員とを兼ねている人の場合、なんら問題ないと思います。紀田順一郎氏、坂村健氏、西垣通氏らもリストに入っています。この件も合わせお考えいただ
ければと、まだ私一存のことですが希望しています。
以下、参考まで。
通信衛星を使う電子書籍コンソーシアムのグループとは、別にインターネットを使って、電子書籍を販売しようと言
うグループ(角川、講談社、光文社
など8社)の「電子書店」が、今春からスタートとします。
読者は、グループのHPを見て、読みたい本を探し、パソコンや携帯用の端末に取り込んだ上で、書籍を読みます。
本のメニューや価格などは未定と言うことですが、近く加盟出版社が著作権者の許諾を得て、発表するそうです。
若い人の本離れの防止、視力障害者の読書の機会をふやすなどを、メリットとして、強調しています。
< 本のメニューや価格などは未定と言うことですが、
< 近く加盟出版社が著作権者の許諾を得て、発表するそうです。
という部分ですが、
電子書籍関係の著作権の権利意識が希薄な上、法整備が進んでいないなかで、いっぽうでは、インターネットやデジタル・データ放送などの形でドンドン外堀
が埋められて、個々の著作権者との許諾交渉で、既成事実が積み重ねられて行きそうです。早急になんとかしなければ、と思います。
以上追加します。 (倉持委員)
岡村久道氏のHPに行って、一部を読んでみました。
電子メディアと著作権の関係は、法整備がまだまだ進んでいない、というのがよく判りました。
文芸よりもむしろ音楽での著作権が主で、その関連から文芸はこのように考えられる、というスタンスですね。
厖として、雲をつかむような話ばかりですので、電メ研での討論は、なにか具体的な事例でやってみたいものだと思い始めました。 (村山委員)
* 日本ペンクラブは言論表現の自由を守るとともに、世界平和に貢献しようという、詩人、出版人、編集者、随筆
家、作家らの世界組織であり、日本文
芸家協会は文筆家の職能を維持する互助組織である。著作権等の問題は、広く観れば言論表現の自由と権利の問題ではあるものの、どちらかといえば協会がしっ
かり守るべき専念領分なのははっきりしている。しかし出来る限りは、会員も相当に重複しているのだから、協調協力できるかぎりはその力を綜合してゆくよう
にすべきではないかと、わたしなどは考えている。そっちはそっちで、こっちはこっちで、それでもいい問題と、そうでなくそっちもこっちも一緒にやれるこ
と、やった方がいいことも有る筈だ。
ペンクラブには国際的な折衝が欠かせず、現森山事務長は日本人という以上に世界人であり、まさにうってつけ、かけがえない人材だが、国内向けにはご本人
が「作家の名前もよく分かりません」と漏らされるほどで、これは仕方がない。で、もし、そこを補完して、行動力も判断力もある有能な男性事務次長ができ、
協会の勝田氏らと友好緊密にいろんな基盤的交流がはかられれば、協会のためにもペンのためにも、どんなに良いことだろうと、双方の会員であるわたしは、
願っている。残念だが、現在のペン事務局はそういう建設的な広い活動には、協調・協和の点からも、堪え得ないのではないか、給与や時間の問題もあろうけれ
ど。
* 長編『寂しくても』の初稿を、いかにも草稿ではあるが、久しぶりに書き加えた。むろん、これからも書きついで
行く。
* 一月二十日 木
* 新国立劇場中ホールで、音楽座、浜畑賢吉主演のミュージカル「アイ・ラブ 坊ちゃん」を観てきた。浜畑さんの
招待だろう、他には知った只一人も
いない顔ぶれであり、浜畑さんの年賀状(を欠礼す旨の葉書)には、この芝居の稽古に励んでいると書かれていた。一度二度会っており著書の交換もあった。舞
台は以前に帝劇で「マイフェアレディー」を観ている。これは、主役草刈正雄がよくなくて、ワキをしっかり固めていた浜畑さんには気の毒な舞台だったが、今
日は彼が「坊ちゃん」を書く夏目漱石を演じて、すてきな主役だった。漱石を演じた俳優では加藤剛がいるが、これは感じがよくなかった、漱石が気の毒に思わ
れる失敗作だった。今日の浜畑漱石は、やりすぎず、べたつかず、しかも漱石の病的な苦悩も人間的な苦悩もしっかり描けていて感銘を与えた。
軽演劇といえば軽演劇かも知れない。音楽劇として出色の音楽があったのでもない。舞台装置は、巧みにまわしていたが、野暮といえば野暮なものだった。だ
が、そういう冴えなさを押し切って行く、率直で巧緻な脚本が、緻密にじつに間のいいうま味で演出され、どの俳優の一人一人もそれに全力でこたえて、いやみ
のない、すかつとした楽しい舞台に盛り上げていた。最後にはしたたか熱い涙をさえ溢れさせてくれた。
こんなに夏目漱石に愛情を注いで優しい芝居が見られるとは思わなかった。勝手な解釈で漱石をなぶりものにしたような漱石劇をかつて見せられたが、今日
は、理屈など一つもこねずに漱石の微妙な嘆きや苦しみに芝居全体が良く反応し、理解を示していた。思わずおお有り難うと漱石に代わって感謝したいほどだっ
た。ひとことでいえば、楽しませてもらった。嫌みな何一つもない、それはきつと上手であったのだと納得させる舞台だった。
こういう風に脚色しこういう風に演出しこういう風に演じてもらいたいと思うとおりの舞台になっていたのが、えらい。浜畑さんに感謝する。すてきに良い席
を妻と並びで用意してもらっていた。
* 新宿へ戻り、アメックスのお返しサービスで高島屋十二回のイタリア料理の店に入った。ワインをフルボトルで取 り、合わせて十四品をきれいに平ら げた。予想したよりも軽く食べられて、ワインの味を引き立ててくれた。漱石を、それなりに語り合い、舞台がとにかくも楽しかったし上手に仕上げていたのは 「えらい」という結論で一致した。満足して、練馬経由帰宅したが、八時になっていなかった。芝居は昼の部がいい、アトの食事がゆっくり楽しめる。
* 留守に関西から花が届いていた。画に描いた花・フリージァであった。兄のことを悼んでもらっての「献花」だっ た。
* 出雲国風土記を克明に読んでいる。風土記にはそれなりの記載統一のマニュアルがあったらしいが、現存のもので 見る限り、国によって相当の違いが ある。出雲の国のものは、筆記責任者が固有名詞で並んであるのが珍しく、想像以上に整然と記事が整備されまた具体的で、その気で一つ一つの「もの」の名を 読んでいると、確かに手づかみに「出雲國」に触れている錯覚を覚える。観念を語らず、事実ないし事実と思って伝えてきた事や物が律義なほどこまかに記録し てある。その印象は「山」や「川」や「木」や「花」の名を、ものは尽くしに挙げていた「枕草子」の名辞の列挙の不思議な魅力に通い合っている。
* 昨日また高田欣一氏の「文芸通信」が届いた。前田青邨の名作「知盛幻生」と能の「船弁慶」を語って、秀逸の
エッセイだった。わたしの『能の平家
物語』にとりあげた「船弁慶」の説にも有り難い丁寧な挨拶があって恐縮したが、そういうことを抜きに、高田さんのエッセイは文もよく、想がまたすばらし
い。いつかこういうものこそ、佳い本になって欲しいと思う。江藤淳の死を氏なりに語られた朝日新聞への感想文というのも読んだが、よく胸に届いて適切なも
のであった。
* 一月二十一日 金
* デジタルメディアによる出版をして行きたい或る企業から、「デジタル出版権」について、ペンクラブ電子メディ
ア対応研究会「座長様」と名指しで
案内があった。メールリストを通じて委員には報せた。
好意的に情報を寄せてもらったのだと推測できる。要するに、「19日付けのTV報道」で、角川書店その他出版各社コンソーシアムが電子出版に取り組むと
報じられたが、作品については「各作家に断った上で」とあり、「権利ビジネス」という視点が出版社側に「欠けている(故意なのか、無知なのか)と感じ、
メール」をもらったものと察しられる。つまり、「擁護されるべき「権利」は作家の方々に属するにもかかわらず、「一切合切の権利は出版社にありという形
で、なし崩し的に既定事実化されることを危惧」したからと言うわけである。この危惧は、むろん重要なポイントである。
これらに関連して、今日、電メ研委員のお一人からメーリングリストに「意見」が出ていた。いわば時代と社会に組み込まれた最現代の、我々文筆家にすれば
最重要の話題であり、そのご意見と、少しく意気消沈ぎみのわたしの発言とを、あえて併記しておこうと思う。
* 電子書籍著作権の基準作り
インターネット、デジタルデータ放送、光ファイバーなど、電子書籍の展開は、電子メディアの可能性が広がるに連れて、これからも数が増えてきそうです。
それに伴って、法整備の後ればかりでなく、著作者の権利意識の希薄さなどという現況の中で、座長前便にあるように、「業者」主導で、さまざまな働きかけ
が、個々の著作者に、出てくることが予想されます。
文芸家協会、あるいは文芸著作権連盟、あるいは、ペンクラブなど、どこかで、電子著作物の著作権交渉の基準を、早急に作る必要があると思います。
出版社を含め「業者」は、それぞれの思惑で動いてくるでしょうし、著作権者の方は、電子書籍についての「コモンセンス」のない状況で、個別に、不充分な
対応を強いられ、何時の間にか既成事実を積み重ねられてしまう恐れがあります。
* 仰るとおりなのです。が、誰がそのために動こうとしているか。問題は、そこにあります。
日本ペクラブは、それはペンの主な仕事ではないと判断しています。「世界平和や人権・環境」に貢献したいと言う。
ペン憲章が掲げている「言論表現の自由」の基盤には適切な著作権のあるべきことが、また電子メディア著作権などまるで「無い」に等しい現状のままで、行
き当たりバッタリ業者の蚕食に曝されて行くだろう「時勢」の大事など、あまりペンクラブ理事会では認識されていません、もっぱら「政治権力」への監視など
に力が入ります。
電子メディア時代へ身を寄せた洞察が希薄である以上、これはもう手の施しようがない。職能団体である文芸家協会に任せて置いていいという意識が、暗黙
に、みなに働いているのかも知れません。本当に任せられるのならいいのです、が、少なくも主管すべき、わたしも委員である「知的所有権委員会 三田誠広委
員長」が、その目的で検討を重ねているわけではありません。
問題の大きさは分かっているとしても、誰も、何処でも、動き出していないようなものなのです。
われわれの電メ研も、座長私の非力もあり、このままなら存在理由が薄れて解消するものと、残念ながら予想せざるをえません。有志小人数の勉強会をつづけ
る程度では、会員の役に立てません。役に立たねば無意味になりますが、巨大な暗闇を覗いている感じで、白馬の騎士も現れません。
ただ、一度、電子メディア対応の場が失せてしまいますと、この、大きな、最現代の課題を、わが「日本ペンクラブ」内で組織的にまた立ち上げるのは、容易
でなくなると怖れています。しかも、ぽこっと抜け落ちたままで「済む」分野ではない。
御提言の「電子書籍著作権の基準作り」に、われわれは、何をどう寄与すればいいのか、ご発言下さい。
* 一月二十一日 つづき
* すぐにお二人から発言があった。わたしのこのページは、電子メディア関連の広い範囲の人にも読まれているらし いので、「声」としても、敢えて転 載させていただこうと思う。
* (意見) 私など、現在は組織に所属したジャーナリストで、自分の著作物も、去年の春に、1冊出しただけで、
著作権はあるものの、多額の印税な
どが入ってくるような立場にない人間ですが、新しい電子書籍に関わる権利関係で、ペンも文芸家協会も、当事者が、すくみあって、結局なにもせずに、「行き
当たりバッタリ、業者」にいいように蚕食されて良い訳はありません。
文芸家協会の「三田委員会」、ペンの「秦委員会」で、それぞれ基準(試案)を、つくるしかないのではないでしょうか。
私に具体的な考えがある訳ではありませんが、ペンでも必要があって、「秦委員会」をつくったのでしょうから、我々としては、我々なりにこの問題につい
て、勉強の成果を、いずれ発表すべきでは、と思います。
> 一度、電子メディア対応の場が失せてしまいますと、この、大きな、最現代の
> 課題が、わがペンクラブ内で組織的にまた立ち上がるのは、容易でなくなると
> 怖れています。しかも、ぽこっと抜け落ちたままで済む分野ではない。
秦さんのおっしゃる通りです、
私も非力ながらも、提言だけはまとめなければならないのではないのか、と思っています。
アメリカあたりでも、活字の著作権を基に、著作者側の弁護士が、著作者に有利なように、電子書籍の著作権を打ち立てようとしていると、聞きました。現
在、「秦委員会」のなかでは、権利としての著作権の恩恵に一番遠いところにいる私ですが、この問題の本質を考えた場合、やはり、やらなければならないので
はと思います。
* (意見) 私も印税とは遠いところに身を置いていますので、発言しづらい面はありますが、一読者、一市民とし
ても電子メディアにおける著作権は
考えなければならない、と思っています。
ひとつ提案なんですが、わが電メ研と文藝家協会の三田委員会とで、合同の会合を持ってみてはどうでしょう?
両委員会とも問題の認識はあるわけですから、いずれ同じ席を持つことが必要になってくるだろう、とにらんでいます。
昨年末から今年にかけての電子メディアの動きを見ていると、そろそろその時期かな、と思うのですが…。
* 呼応するかのように、私からのメールに三田委員長からも返事が今日届いた。要旨を摘録すれば、「電子出版は今
後、急速に普及すると思われます」
との基本的な認識。次いで日本の作家は、契約書がなくても「印税一割」と不文律の慣習で守られる状況の中で仕事をしてきたので、「権利意識が希薄」という
認識。そして、電子出版の印税については、いまのところ実験段階と考えて「様子を見たいと思っていますが、著者自身がワープロで打った原稿をインターネッ
トで配信するだけなら、印税9割でもいいのではないか」とも言われている。共感する。最後に、実験に参加している「各社の印税の実状を把握した上で」問題
提起をしたいと。今後とも「情報があれば教えて欲しい」とも。
希望をもちながら、歩一歩を進めて行くしかない折りに、一つの展望をもった三田氏のメールで、有り難い。
* 一月二十二日 土
* 長編『寂しくても』を、元日以来「創作欄 3
」に欠かさず書き次いでいる。一太郎の印字幅の大きなフォントで書き、ある程度の量になるとホームページに貼り付ける方法を取ろうとしている。視力への負
担を少しでも和らげるために。(そうか。この方法をどのページでも使えば、このネスケ・コンポーザの小さな字、狭い行間の長い一行に、付き合わなくても済
むのだ、気付かなかった。)
恋愛小説でも家庭小説でもない、甚だ地味な、純然として「芸術家小説」である。この無名の芸術家=画家の、傾斜して行く内景を、愛情と批判とをもって現
代に提供するのはわたしの務めの一つと思っている。書きなさいと命じてくる衝動がある。小説らしい小説にはなるまい、が、真率でありたい。
* 甥の黒川創が、新刊書き下ろしの『硫黄島』を贈ってくれた。弟の北澤猛がヨーロッパでの旅先、スペインのディ エペから絵はがきを送ってきた。
* 新しい湖の本『死から死へ』の初校を戻した。今度は、三百ページに迫るかつてない大冊になる。途方もない赤字
になるが、この一冊は作っておきた
いと思った。一つの節目の巻であり、値上げはしないで、読者への感謝を示したい。
* 一月二十三日 日
* 雑誌「ミマン」が隔月刊から月刊になり、連載が忙しくなった。ついこの間に原稿を送ったと思ったら、もう次の
依頼が今朝届いた。明日から関西に
行くので、すばやく書いてメールで送った。郵便封筒に切手を貼って宛名を書いてポストまで走る手間が、メールでは、無い。原稿紛失も起きない。
短歌と俳句とを毎回一字の虫食いで出題しているが、今度は現代川柳を一つ選んだ。現代の川柳は、なかなか洗練されて、ときには俳句以上に洗練されてい
て、かえって驚くことがある。昔ながらなのもある。
『有夫恋』などという集で紅蓮の焔のように熱い作を沸騰させた名手もいる。「力の限り男を屠る鐘を打つ」「蓑虫を叩き落したほどのこと」「手のひらで豆
腐を切って思慕を断つ」「好意厚意すっかり私は疲れました」などと、時実新子の川柳は光っている。こんな句もあるのだ、
ふりかえるときにふりむく( )あり 新子
* 明日の今頃は、大阪の松竹座で、そろそろ高麗屋の「勧進帳」が始まろうとしているだろう。昨日、今は亡き河原
崎長十郎の弁慶をテレビで見て、長
科白の息のつよさに驚嘆したばかり。他の人の勧進帳よりも、彼が演じると二十分ほども長く時間がかかったといわれるが、堂々と不動の弁慶ぶりがすばらし
かった。今の松本幸四郎は、「演技」寄りに「歌舞伎」をつくって、やや理詰めな舞台になる。そうはいえ、弁慶こそ高麗屋の家の藝であり、大きく強く楽しま
せて欲しい、そのために行くのであるから。四天王が弱そうな顔ぶれなので過大な期待は持たないけれども、中村鴈治郎の富樫には、情でも毅さでも期待がもて
る。
今ひとつは「野崎村」の老父我當、これはニンに合っていて、これあればこそ独りででも大阪へ出かけようと思い立った。前の方のどまんなかの席が取れてい
る。心おきなく観たいものだ。「椀久物語」は初見。これも楽しみにしている。はねてから大急ぎで京都の宿へ入る。
* しばらく、器械の前を離れる。それもいい。
* 創の『硫黄島』ざっと一読した。きちっとした感想は、もう一度ゆっくり読まないと出ない。読みやすくて、わる
くないと感じているが、いいかどう
かの見極めが一読ではつけられない。ルポルタージュ小説とも、内向の世代の跡継ぎみたいだとも、色んな要素の、時には妙な具も混ざっている「混ぜ飯」のよ
うだとも。だが誠実に、落ち着いた佳い仕事のように感じている。批評でかなり受けるかも知れず、全然受けないのかも知れない。その辺、文運を祈ろう。
* 一月二十三日 つづき
* なんとまあ、女優澤口靖子が、細雪「雪子」のメーキャップでわたしに逢いたいと言っているので、「開演前の楽
屋にいらっしゃいませんか」と、帝
劇から俄かの電話、こりゃ驚いた。
芝居がはねていま化粧を落とそうという楽屋でより、「雪子」に成ったまっさらな気持ちの「顔」を見て欲しいということらしい。京都からは、大急ぎで帰っ
てこよう。
* 一月二十四日 月
* 「のぞみ」に慣れて、新幹線も関西ぐらいならほんとに楽になった。一時間寝て、残りいっぱいを書きかけの長い
小説のプリントしたのを丁寧に読み
直していると、もう京都を過ぎて、大山崎の辺を大阪へ疾走していた。新大阪から地下鉄御堂筋線にのり、難波で下車、松竹座はすぐだ。
秀太郎「お光」の、文字通り青尼道心にはビックリした。芝居に狂っている名張の読者囀雀さんの注進で知ってはいたが、目の前に観て、ウォッと驚いた。大
咽喉風邪のような悪声の秀太郎だが、喋らないととっても可愛い。頭を剃り覚悟の袈裟衣になり頭に被衣をかけると、切ないほど可愛くなる。そんなにあっさり
久松を諦めるのかいと、尻を叩いてやりたいほどいじらしいのだが、扇雀のお染はいっこう冷ややかで、大店のご寮人さん=お嬢さんとはこんなものかも知れな
いけれど、わたしなら久松にはお光との祝言を勧めたいがなあと思いつつ、ぽっちり涙をうかべて観ていた。翫雀の久松がもひとつハツキリしない二枚目なの
も、役柄とはいえじれったい。このところ男よりとかく女の方がしっかりめで、男はひ弱くジリジリするのだが、お染久松は数百年前のはなし。
昔に、勘九郎のお光でさんざ泣かされた両花道の舞台が懐かしく、あのときは勘三郎の久作がさすがだった。
我當は、見るからにニンに合っている割りに淡泊な久作だった。意図してああしているのだなと思って観ていた。やはり花道は、「野崎村」に限っては両方に
ほしい。哀れも舞台の大きさも断然ちがってくる。
わたしの左席に愛知県の豊田市から独りで、高麗屋の「勧進帳」が目当てで来ましたという女子大生かOLのような人がいた。ふうん、そういう人もいるんだ
と嬉しくなった。
幸四郎の弁慶、予想以上の大出来で、緩怠なところなく、足元がすこし寒いカナという程度で、堂々と大きい佳い弁慶だった。鴈治郎の富樫は、息込んで迫っ
て行く口跡のかすれ気味に甲高いのが、弁慶の重いバスと釣り合い面白かった。何でもやれる役者だが、富樫は佳い役ではないかと予想していた。外れなかっ
た。四天王も存外にソツなく一群を成して、気合いが入った。進之介もああいう中で揉まれるといいが、目をきょろつかせて行儀はいちばん悪い。秀太郎の養子
に入った愛之助が一心に演じていた。松嶋屋の跡継ぎ二人、切磋琢磨して行かねば次代がお寒くなる。「勧進帳」翫雀の義経が、これは位も哀れもひとしおで、
弁慶をよくひきたてた。幸四郎の、大杯を煽っての延年も、飛び六方もゆったりと大きく厳しかった。大杯を傾け尽くすのにならって、わたしもカップ酒の大関
をぐいっと一呑みに楽しんだ。そのためにと、幕間に買って置いた。「勧進帳」が楽しめれば大阪まで来た甲斐はあった。
「椀久末松山」は、椀久の酔態と狂態の妙味に尽きる芝居で、「大成駒屋ァ」と声の掛かった鴈治郎のお手の物、当代で右に出る役者は居まい。上方のものゆ
え、うま味だけなら勘九郎でも八十助でもやりはするが、椀久になるかどうか。この舞台では、扇雀の松山太夫が期待以上に大きくて立派だった。権にかかっ
て、不埒な武士を退け、封印を切って節分の趣向に小判をまき散らしてしまう椀久の急場を巧みに救う。丈高い太夫の見識が出て、舞台を引き締めた。段四郎
が、いやな侍の一役とは気の毒だった。面白い楽しめる芝居で、うん、来て良かったと納
得した。
急いで淀屋橋から京阪特急に乗り、空いた車両でのんびり一人で弁当をつかい、大きな上弦の月を車窓に眺めながら京都へひた走った。枚方公園から、やがて
淀を過ぎると、中書島になる。兄恒彦の久しかった間借り住まいがこの辺であったはず、この駅から京阪電車に乗って京都へ通ったのかと、ほろりとした。伏見
桃山、墨染、藤の森、深草、伏見稲荷、鳥羽街道、東福寺と駅の名前の物哀れなこと。だから、梅田から阪急ではなく、京阪電車に乗った。
四条で降りて、からすま京都ホテルまで夜の町をそぞろ歩いて、チェックインした。四条通のそこここに、ホームレスの人たちのダンボールで囲ったね住まい
というにはもの哀しい住まいがびっくりするほど増えている。自分は幸せに遊んで暮らしているが、胸は鈍痛に疼いた。汗が引いて急に肌寒くなった。
* 中山建設大臣の、吉野川可動堰住民投票結果に対する「たわこと」「うわこと」をさんざ聴いてから、ホテルの部屋に備え付けのバイブルの、開けた頁を音
読し、少し仕事をしてから、寝た。よその国の、とほうもない戦火の中のコワイ夢を見た。はっと目覚めたら、朝の八時前だった。
* 一月二十五日 火
* ホテルを出て、三條高倉の文化博物館へゆっくり歩いた。イノダ本店でコーヒーをと思っていたが、改築中だっ
た。中京の町中を歩くのもわたしには
懐かしい。
第十二回京都美術文化賞の受賞者作品展で、選者の一人としてこれを会期中に観るのは仕事のうちである。このために、わざわざ来たのであるが、展覧会は、
いまいち落ち着かないものだった。選者としてこれは恥じ入ることであるが、心配していたとおり日本画が良くなかった。「きたない」という批評は、昔、土田
麦僊が甲斐荘楠音の繪に投げつけた問題の批評語であるが、そして甲斐荘絵画はそう言われてもなお跳ね返す力強い画境を守っていたが、今日の会場の日本画受
賞者の作品は、わたしには力無くただ「きたない」だけで、何の感銘も受けなかった。選考会で強く推された石本画伯にわたしも最後には従ったけれど、だから
こんなことは言っては成らないことかも知れないが、不安が的中した。異様にいやな繪であった。
林康夫氏のダマシ繪風の彫塑も、感動的なものではなかった。図録の写真でみている方が面白い。
服部峻昇氏の蒔絵も、派手に豪奢な金銀や螺鈿象嵌がほとんどで、元気いっぱいだが、会場は澄んで静かとはいかず、ぎらぎらしていた。ま、大変な力業では
あるが、どの一点も「欲しい」ほどのものではなかった。ま、しかし来会の市民には服部氏の作品が、一番の見ものであろう、か。
審査員の石本正さんの日本画「馬」のね本絵と下絵とが対比して並べられたのは面白かった。つよい繪ではなかった。清水九兵衛さんの彫刻、三浦景生さんの
染色作品も、普通作だった。
十二年も続けてくると、すこしはゆるみも出るのかな、心しなければなと思った。
* 高島屋で、財団理事の三尾公三氏が二人の女弟子に囲まれた恰好で「三人展」を開いていて、最終日に間に合っ
た。
こっちの方がずっと佳い展覧会で、三尾さんの定評ある幻影画の面白さと確かさとはもとより、二人の女性もそれぞれに力作を出していた。感動させるとまで
は行かなかったが。
一人の人のも、どうやら人に死なれた陰を引きずっての作画らしい、蓮や水の大作は、なかなか力に満ちていた。けれども、一方で、構図は写真に得ているこ
との明白に見て取れる作品なのが、気になった。仕上がりが良ければいいではないかとも言える。しかし写真機に構図する役を引き受けさせてでは、画家の「何
か」が放棄されては居ないか、大いに気になる。気になるなあと思いつつ、折悪しくその画家だけが不在だった。三尾さんともう一人の画家には挨拶して会場を
離れ、予定より一時間早い「のぞみ」で十二時十分には京都を離れた。
車中で、十分に原稿が読めた。液晶画面では少し掴みづらい細部まで読みとれて、概ね思い通りに進みつつあるらしいと感じた。もっとも全体の三分の一も読
んでいないのだから前途は遼遠。
* 帰宅して、ともあれ散髪した。
* 大阪へ発つ前夜に黒川創の『硫黄島』をもう一度読み返していって、恥ずかしからぬ良質の文学・文章であると、
感じを深めた。評価されていい良心
の作品であり、瑕瑾は免れてはいないが、「あらたま」の磨き甲斐ある作品と思われた。さらに読み進めたい。
* 一月二十六日 水
* 女優澤口靖子との帝劇楽屋での初対面は、開演二十分前のきわどいものであったが、「完璧」であった。その美し さは、闇にも、言い置くことではな い。
* 支配人の用意してくれたいちばん見やすい席で、今一度「細雪」を堪能して、まっすぐ帰宅。
* 一月三十一日 月
* 数日を、夢うつつの「旅」にいた。メールをたくさんもらいながら返事できなかったのを、みなさんに、お詫び申 し上げる。
* 黒川創の『硫黄島』を再読した。
これは、ほんとうに佳い作品、久しぶりに、心に触れて永く響きつづける文学の生気を浴びた。
佳い構成で、巧みに纏まり破綻なく、文章は、ルポルタージュふうでありながら独白と対話・会話の配合に説話も混じり、その自在さは、わるく反転すると緩
みになるのかも知れないけれど、その不安はさほど露出しない。語り手の息づかいに混じる孤心が、かすかな泣き言のように輾転反側するにかかわらず、「硫黄
島」を語る芯の真は、揺るがない。じつに誠実である。「硫黄島」という独特の歴史的な生体を、視点でなく視野として掴み出す手法、殺して解剖するのでな
く、生かして立ち上げる手法、これが魅力的であった。
文学の、斯くありたい実験性も、人間の把握も表現も、身贔屓だとは言わせないある種の完成度・完結度を十分持っている。
なにより、芸術を根底で光らせるファッシーネーションの優しさも毅さも、誠実さも、この作品は静かに湛えていて、それが嬉しかった。それが、「硫黄島」
をただの戦争の落とし物としてでなく、人間と自然の歴史から、丸彫りに、「生き物」として生かすことに繋がっている。ただ「戦場」としての過去の「硫黄島
文学」のもちえなかったモノを、さらりと、しかしかすかに悩ましげに表現=提出してくれた。有り難うと読者の一人として伝えたい。読者の大勢が同じように
言ってくれるかどうかは分からない、が、読んで欲しいなと期待している。
* 黒川創の「勉強」もよく活きた。創の才能がほんとうに出口を得たのではないかと思う。死んだ兄に、この小説を
こそ読ませてやりたかったと、残念
で残念でならない。
創の父には、息子の大作『若冲』は、素材的にもよほど気遠く気疎かったかも知れないが、この『硫黄島』には少年の昔からのこまやかな父の薫陶に自然にむ
くいてさりげない宜しさが、ある。あると、わたしは思いたい。兄に心安んじて欲しいのである。
* 親鸞と唯円との「対決」とでもいう内容の、山折哲雄氏の中公新書『往生と悪』を戴いて、いま、集中しているさ
なかにある。『歎異抄』は親鸞の信
仰を語って最も信頼され愛読されてきた「近代発見」の古典である。この親鸞直弟子の著は、浄土真宗を真に樹立した蓮如により中世のさなかに発掘発見され、
蓮如は驚嘆しつつ、これを、門外不出どころか、生半可な誰にも見せられないと厳しく封印して遺した。近代の門徒がこれを解禁したのであり、その感化は広く
及んで、余恵にはこの私もあずかっている。
だが蓮如は何かしら『歎異抄』に深く畏れた。杞憂であったか、問題があったか、山折氏は、明確に問題があった、極端に言えば「師は弟子に裏切られてい
る」とまで論じ進めている。すこぶる刺激的である。
山折氏の論点の意味しているところは、問題提起としては容易に理解できる。途方もないことが言われているようで、そうではない。問題の提起から先へどう
論旨が有効に展開するかが問題であり、革新的な、偉大な一石が投じられて、大きな課題にわれわれは当面するであろう、その予感と期待の大きい論述が、まだ
続いている。途中である。ある畏怖の思いとともにわたしは著者の導きにしたがい、途中の難所を一つ一つまた先へと上り下りしているところだ。
* バグワンの、「十牛図」を語りながらの説法は、平明にみえて深切、声に出して読みながら、ひとまとまり読み終
えて、思わず知らず息を出し入れす
る自然さで、「そうなんだよなあ」と声が漏れてしまう。難解な論議ではない、平易な談話である、すべてが。だが全身にしみ通る。奇矯な偏狭な危険な野心的
な俗なものは微塵もない。かといって高踏でも浮世離れもしていない。
もっと広い場所で、つまりは独立のページを用意して、なぜわたしがバグワンを喜んで読んで=聴いているかを具体的に語りたい気もなくはないが、それが心
のとらわれになるのでは、つまらない。
* 人は、色んな「抱き柱」を銘々に持たずには、生きていにくい。金、権力、肩書、勲章、名誉。くだらない。わた しは、バグワンの言葉で平和な気持 ちを調え、そしてまた「南無阿弥陀仏」と、念じていたい。美しいいろんなモノに出逢っても楽しみたい。美食にも美人にも、まだ少し、いや少なからず、心を 惹かれるけれど。
* 京都での梅原猛氏の文化勲章のお祝い会には、お祝い会費だけを早くに送って、失礼した。たいへんな人出であっ
たろう、ご同慶に堪えない。
その梅原さんは、ここのところ「法然上人」について、東京の新聞に、書き続けておられる。法然は日本史上もっとも懐かしいお上人であり、理屈抜きに有り
難い数少ないお一人である。
じつに大勢が法然を語ってきたし、わたしも、法然と親鸞の「出会い」を日本史の大きな出会いの一つに数えて早くから語ってきた。梅原さんの法然論はもう
暫く続いて行くだろう、また新聞紙上という性質から、いくらか評論・解説的にもなって行くのは仕方がない。
* 今夕、梅原氏は、法然の出自に関連して、その両親がともに「秦氏」であったことを指摘されている。また父の漆
間時国は押領使の職にあり、これ
は、いわゆる地方の土豪の「悪党」化して行く最短距離の職位であったとも指摘し、したがって抗争のあげく「夜討ち」に遭い一族の死に絶えるような可能性の
高い環境・状況に彼は生きていたと言われている。新説でも何でもない、よく知られたことである。「悪党」必ずしも今日の悪党ではなかった、楠正成もそのよ
うな「悪党」の最たる一人であった。命を張って力づく生きていた、「時代の子」であり、品性の質は自ずから別のことであった。
法然の父時国はよく己を知り、わが子を、遠く仏の国へ向かわせる思慮を持っていたと謂わねばならない。
* 梅原さんは、筆を進めて、法然の母秦氏の「家」は手工芸の家で、もとより渡来系の氏族であり手工芸の家でもあ
る「秦氏」は、歴史的に、二重に被
差別の立場にいたであろう、それが法然の「信の芯」に強いエネルギーを送り込んだのではあるまいかと推量されている。
微妙に嶮しい一つの難所であり、にわかに反対も賛成もしにくいが、親鸞にしても日蓮にしても、自身を、最もいやしき者の最たるものに見きわめて、そこか
ら信を深いものにしていた。事実というよりも覚悟の表明である。法然はとくにそういう述懐をしてはいない。渡来系というならば、最澄も渡来系の家の人で
あった。そのことが最澄の佛教に特に大きく響いていたか、飛び抜けた条件であったようには思われない。
身分低いと謂えば、行基にしても空海にしても空也にしても一遍にしても、恵まれた地位や社会から出てきた人ではない。法然の「信」を簡単に「秦氏」「渡
来系」という出自からだけで左右するのは、やはりやや軽きに失するのではないか。
親鸞は、仮にも藤原氏であった。だが明らかに同じ藤原氏の師慈円とはまったく異質の人として、後には法然をいわば嗣いでいる。名僧知識の「信」の基盤を
問うのは難しい。思いつきでは片づかない。
* 一つには梅原氏の「秦氏」理解も、どんなものか。
太田氏編の『氏姓大事典』のなかで明言されているように、「秦氏」は、世に謂う源平藤橘の四大氏姓をもしのいで、最も多くの苗字に別れてきた。日本列島
に広くひろがり、ある著書によれば「境界を持たない國」のようだとまでいわれている。大和にも山城にも近江にも秦氏の大根拠地があった、が、それしきでは
ない。分布だけでなく、また担っていた職能の多彩も、大変なものであった。製糸・織布・鉱業・造船・土木・建造・造酒・木工・金工、製糸、牧畜、芸能。秦
氏には、京都の宮廷社会で五位前後に地位を得ていた官吏の家系も多く、ことに騎馬を得意とした秦氏の群像で、一巻の国宝絵巻「随身庭騎絵巻」も出来てい
る。平安末期にいたって、なお、「秦氏」は渡来系だからなどという意識や評価は、色んな角度で「説話」群を読んでいても、例話にはぶつからない。当たり前
の話だと思う。「秦氏」は、ちょこちょこっと指先で摘むにはあまりに巨大な多面体であり、包括的な研究には、専門家すらもてあますほどの、ピンからキリに
富んでいる。富みすぎているのである。
今の人の意識には上らないが、世の神主さんに、秦さんは小野さんと並んで多い事実も面白い。京都で謂えば、稲荷も松尾も鴨もそうだった。そして「秦氏」
がいわば長岡京、平安京を提供し得た「地主」のような存在であったことも忘れてはならないだろう。「太秦」の名はかりそめのものではなかった。嵯峨嵐山の
歴史的景観の基本構図は「秦氏」が描いていたのである。
* 法然の母の秦氏がどんな「工芸」に携わっていて蔑視されていたと梅原氏が謂われるのか分からない、が、「醍醐 天皇の頃から差別を受け始めた」と 氏は書いている。秦氏に限ったことでなく、律令世界構造が露骨に綻びはじめ、いわば「小さい政府」になろうとしてリストラしていったのが、非農業=工芸技 芸部門からであったろうことは確かである。だが、布も糸も椀も鍬も箸も舟も傘も、世に無くてはならぬ品々は世の中が日々に求めたから、必ずしも生産者の誰 も彼もが差別されたりはしなかった。それではこの國が成り行かない。むろん農民=公民感覚からすれば、非農民=職人は、ほとんど「國=公」の保護をアテに 出来なくなっていった。だから差別されていたというのも、その限りでならそう言うことは出来る。多くの貴族や寺社に隷属していた例が多いからである。京都 の、今は名高い色んな老舗など、ほとんどみなその末裔だと言ってもいい。いまだに京都で大寺社勢力が市政を壟断できるのも、その伝統に便乗しているような モノだ。
* ともあれ、醍醐朝以降被差別の海にいったん深く沈んだのは、むしろ「祝言芸」の人と、底辺の祭事に専従する
「死と信仰」を担った人たちであっ
た。そのシンボルが、例えば盲目の琵琶奏者蝉丸のような存在であった。以降観阿弥世阿弥の時代まで、彼らは時代の表面に人がましくは出てこられなかった、
なかなか。
法然の父は、「悪党」かどうかは知らず「押領使」という、ともあれ公職の人であった。法然の母の家のことは、わたしは、よく知らない。ただ梅原説は簡単
過ぎる。先ず、十二世紀半ばの渡来系氏姓の名に、どれほど「渡来実感」が遺存していたかの検証がない。また「それ故に差別されていた」という検証が、法然
の故郷近在で確認されているのかどうか、その時代に。それも分からない。
私の知る限り、無数の苗字に変化して散開したおびただしい「秦氏」が、例えば「島津」と名乗る人が、おまえはもともと秦氏で渡来系だからと差別を受けた
など、あまり信じられない。
もっとも今日でも、こういうことはある。かなり当てつけがましく、とくとくと「秦サンは向こうのお人の筋でんな」と、このわたしを焚き付けてきた人の苗
字が、紛れもない代表的とも言える「秦氏」のものなので、「あなたもそうですよ」と丁寧に説明して上げると、実に困った顔をされ、気の毒になったこともあ
る。これなどは、むしろ梅原さんの被差別説を補強し得ているようなものだが、そういう意識傾向の遺存していることは、やはり有るといえば有る。しかし作家
井出孫六氏も、芝居をさせればたいへんな演技派だった桜田淳子ちゃんも「秦氏」で、薩摩の島津という苗字も、戦国大名の長曾我部もやはり「秦氏」だと聴い
て、その人はかなり安心したから可笑しかった。世阿弥も「秦元清」と名乗っていたとは、あえて言わなかったが。
* 梅原説でもっと大事な検討事項は、手工芸=職人差別が、法然の「信の芯」に真実かかわり得たことかどうか、
だ。差別被差別を謂うのは簡単かも知
れないが、簡単に言ってはならないだろう。「秦氏」についても、差別問題についても、梅原さんの、より慎重な議論をこの先に大いに期待したい。
わたしも、考えてみたい。
* 二月一日 火
* 昨日の「私語」は大事だと思い、手をかけ、意をさらに調えて置いた。
* ひどく疲労しているためでもあるが、こういうときに考えたいのが、わが「外向き」の生活をどう処置するか、で ある。退蔵への助走のタイミングで ある。
* 頭は働いているが、目が疲れている。
* 山折哲雄さんに頂戴した親鸞と唯円の論は、大きな構図も、山折さんの読みも論点も論旨も、みな、わりと真っ直
ぐに読みとれた。これは、大きい。
たいしたお仕事であるなと感じ入った。小説を読むより読書の面白さが味わえたほど、劇的な表現になっている。面白づくではなく面白く、面白い以上に厳しい
議論で、『歎異抄』に簡単に降参してきたわれわれのやや安易な共感や立場を再検討しなければならない。わたしは、潔く山折さんの軍門に降ろうと思う。
唯円が「否定」されているのではない、『歎異抄』が否認されているのでもない、それ以上に、また「親鸞」の大いさが増したのである。言われてみれば、あ
あそうかと目から鱗の落ちる一つの例がまた加えられた。「歎異抄と名づくべし」と唯円が胸を張ったその瞬時に、彼は、親鸞を踏み外した。親鸞には「歎異」
は無かった、師も弟子もなくただ阿弥陀の本願しか無いものに、何の歎異のあろう筈がない。
唯円には、親鸞は師で自分は弟子で、師説に最も近い私説、他は異説だった。親鸞はだが「弟子一人ももたずさふらふ」と言い切っている。師弟相承の信仰な
のではない、ただ阿弥陀如来に戴いた信仰なのである。誰もがその「信」に徹底していれば何処に「歎異」の我執が生じ得よう。唯円の信仰は深く純で清しい
が、親鸞の域に遠い。
『歎異抄』への過度の依存は静かに修正されねばならない、その上で愛読し畏敬したい。山折さんのお気持ちはそんなところか。
* オーム真理教も、麻原某も、教団の凶悪犯罪幹部や手先も、徹底して追いつめてもらいたいが、「信者の子どもた
ち」にまで皺を寄せて虐めるのは、
あまりに「愛なき」国であると思う。就学年齢に達した子どもを、町も学校も、文部大臣や法務大臣までもが「拒絶」しているさまは、地獄の容赦ない鬼を見る
気がする。社会にも國にも人間を自称する者にも「自信喪失」はそこまで深まり、日本は荒涼とした地獄のさまを呈している。愛なき現世の地獄相は、ひとり
オームの連中だけでなく、我々の側でも輪をかけて自ら実現している。はやく正気を取り戻し、平静な法治国であり平穏な民主主義国らしい落ち着きを取り戻し
たい。公安という名の警察権力の地歩を固めさせる手伝いを、今しも國挙ってしているようなものだ、過酷な警察国家にまたむざむざ舞い戻りたいのか、日本国
の主権者たるべき国民は。
文部大臣は、何故言えないのか。安心して下さい、子供たちには立派に学んでもらいますよと。法務大臣は何故言えないのか。安心して法を守りましょう、法
の下に平等な日々をぜひ享受して下さい、無法者はきちっと取り締まりますから、と。教育の場が教育の手をさしのべず、法の番人が自ら違法違憲を屁理屈こね
て是認している。市町村役場や学校長が、こればかりは民衆もお上も支持してくれるとばかり、愛なき表情で天に唾している。ただの弱い者いじめ以外の何もの
でもない。自信のない情けない國になったものだ。
* 二月二日 水
* 山折さんの中公新書『悪と往生』を読み進めて、基本、昨日のわたしの感想に変更はない。が、唯円論が進んでの
親鸞の理解で、おやおやという見解
の衝突点があらわれてきた気がする。山折さんは『歎異抄』に表れる親鸞の言葉の中の、「一人」の重みを慎重に計って行かれる。もつとも、「親鸞は弟子一人
もたずさふらふ」の「一人」は、素直に、一人も持たない、誰一人も弟子には持たない意味と取っていいだろう。これは師弟の問題と言うよりも、阿弥陀仏の前
には、みなが一列平等の信心を授かっているのだからという強い気持ちである。そこまで読んで自然当然であり、単純な師弟論ではない。山折氏もそこまで読ん
だ上で、唯円「歎異」の心根に不足を見られたのである。
それなのに、もう一つの「一人」に、なぜ、まわりくどい解釈を巻き付けて、自縄自縛の見当はずれ(と思わせる方)へ顔を向けて仕舞われるのだろう、いや
いや、まだ、そんな失礼を言うのは早い。本はまだ中途なのだから。
* 「上人の常の仰(おほせ)には、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」
* これがそんなに難儀に解釈しなければならない「親鸞一人がため」だろうか。親鸞の信のありようを深く素直に聴
く限り、彼がこういうのは当然であ
るとともに、例えば唯円の身にすれば、同じく「唯円一人がため」の阿弥陀の本願なのである、さもなければ、信の徹底は無くなってしまう。阿弥陀の慈悲に差
別は無い。いわば師弟になぞらえて謂うなら、誰もが全く同じ阿弥陀の弟子、師は阿弥陀なのである。師弟相承の慈悲や信仰でなく、ひたすらに直接、みなが阿
弥陀に縋っている。その意味を「よくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」は当然で、「ひとへに唯円一人がためなりけり」も当然なのである。こ
こは、そういうことを、そういう途方もなく深い大きい真実を親鸞は語っているのであり、これは独り言であるとか無いとかの議論など、あまり意味が無く感じ
られる。端的に、阿弥陀と衆生の一人一人との絶対不二の縁が確信されているのではないか。
山折さんの読みはもう少し先まで辿って判断しないといけないだろうが、なんだか、むりやり議論が回旋している気がして、おいおいおいと真夜中に声が出て
しまった。
* 熱風の地底を朦朧と風邪に巻かれつづけて、馬場あき子を推した朝日賞のパーティーにも出なかったし、俳優座の
「肝っ玉かあさん」も観なかった。
まだ余燼は燃えていて、あさっての久しぶりの言論表現委員会も、出てよいものかどうか、迷っている。約束の原稿もまた溜まってきた。帝劇からは浜木綿子の
新作、藝術座から十朱幸代の「雪国」に、また招かれている。浜の前回「八木節の女」には落胆したが、今度はどうか。
十朱の舞台は初めてみるのだが、テレビでは本当に久しい久しい「バス通り裏」の昔からの贔屓である。あの頃は本番一本のナマ放映であった。珍なことも起
き、可愛らしかった十朱幸代のとちって舌をぺろっと出したのまで、はっきり覚えている。親友役でピカピカの新人の岩下志麻が初めて顔を出した日のことも覚
えている。うわあ綺麗と思ったものだ、この子はきっと大きい役者になるなと直感した。
十朱幸代を、最もセクシイーに感じていた時期が永かった。何ともいえず健康に柔らかいのである、印象が。性的な思い入れがぴったりとはまる点では、年齢
的にも容貌でも姿態の懐かしさでも、普通の安心感でも、最高だなと眺めていた。あのエロキューションは他の人でなら嫌いになるが、彼女の演技力を通してあ
れが出てくると、不思議な音楽に変じる。『雪国』の駒子は手に入っている筈だ、わたしは向いていると思っている。そうでないようでいて、そう成りきれる巧
さを十朱幸代はもっている。凛として深いところで燃えている女の演技を、楽しみにしよう。ご招待に感謝する。
* 二月三日 木
* 京都へ行っていた甥黒川創の手紙をもらった。『硫黄島』のわたしの感想への謝辞にそえて、彼が、近江能登川
の、わたしには生母の、彼には父方祖
母の歌碑などを久しぶりに見に行ってきたということも書かれていた。よほど幼かった日に父親と一緒に探訪したことがあるのだろう。わたしも幼かった建日子
をつれて歌碑を観に行き、また母の里に寄りまた父の違う姉とも初めて、そしてそれが最後の、出会いを果たしたことがある。
兄恒彦が戦中戦後の疎開生活を過ごしたのは、北澤の母方の里である南山城笠置の方だったということも初めて知った。こんな事なども、ぽつぽつとお互いに
記憶を補いあって死なれた者はこれからを生きて行くのだろう。
* 『悪と往生』の「親鸞一人」の山折さんの読みは、やはり、妙にぼそぼそと調子が上がらない。が、ゆうべも言う ようにここは「決然」とした甚信の 極地でなければならないようにわたしは感じている。阿弥陀と親鸞とが直に向き合っている、阿弥陀はひたむきに親鸞一人のために顔をまっすぐ振り向けて下 さっている。親鸞は阿弥陀に、阿弥陀は親鸞にぬきさしならず、他の介入もならず、占有されてある。ただ親鸞にはわかっているのだ、それが法然でも唯円で も、この私であっても、全く同じ意味で阿弥陀と「一人だけ」とが真向きなのであるとも。阿弥陀如来が無量光であるとは、いかなる衆生の一人一人のために も、やはり「ひとへに我一人がためなりけり」と信じて良い慈悲を与えている意味だろう。そのことを親鸞は我が身に引きつけて絶対として語っているのだか ら、これは強い強い「信」「帰依」の表白表明なのである。
* 「上人の常の仰には、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」とは、「ひと
へに我一人がためなりけり」の決定
的な表現なのである。だから阿弥陀の恩は有り難い。そう親鸞は心から帰依し感謝している。それほどの思いと信仰のまえにあって、唯円の「歎異」の嘆きなど
何事であり得るのか、問題にもならないではないかと、そう親鸞の大いさによって山折さんは唯円の信の不徹底を咎められているはずなのである。そういう「親
鸞一人がため」のはずだ。山折さんの与えられた『歎異抄』批判は核心を射抜いていると思う。
去年の初めには小西甚二さんの『日本文藝の詩学』に多くを学んだが、今年は山折哲雄氏の新書に教えられている。有り難い。
* ありがたいと言えば京都の秦家菩提寺から、湖の本エッセイの『日本史との出会い』を少なくも六冊送ってくれ
と、ご住職自らの電話があって、恐縮
した。この巻を追加し追加し追加して、ずいぶん一人で買い上げて下さった読者が他にもあった。有り難し。
* 二月四日 金
* 久しぶりの言論表現委員会に出てきた。体力が少し心配だったが、寒気も頭痛も咳込みもなくて、その点は心配な
かった。会議そのものは、も一つピ
ンと来なかった。公安調査庁を退職した元職員が来て、神奈川新聞が報道したニュース文書の「楽屋裏」などを話してくれたが、特別の印象は無かった。猪瀬君
らが大騒ぎして突っ走った、公安調査庁への抗議と要求文なども、一定の意味はあったにせよ相手方は「黙殺」の構えと見え見えであるし、ま、彼らの常識から
すれば、文書や報道が無かろうとも察しのつく範囲のことを庁内で列挙していたのであり、あんな大慌ての必要は無かったと改めて感じた。鬼の首などかすりも
しなかった。それよりは五十嵐二葉さんらのより周到な「意見」を賢く汲み上げながら、もっとのっぴきならない、解答せざるを得ない質問書を丹念に作って突
きつけた方がよかったに決まっている。わるかったとは言わないが、委員会討議をすっ飛ばしてまで急いで「よかったよかった」と言えるほどの波風は何も戦が
なかった。
「個人情報保護法」の改定問題がどんな展開を見せるか、まだ分かりにくいが、日本ペンクラブの言論表現委員会で、皇太子妃の妊娠報道をめぐって議論した
り、いわゆる長者番付報道の是非を語り合ったり、していけないとは言わぬが、幾ら具体論が大事であろうとも、文学者団体の話題であろうかと、首も傾げた。
そういうことまでやるのか、我々は。理屈を付ければ何事も「人権」や「言論」の問題になるのは確かである。しかしペンクラブという「基盤」はもう少し大切
に守って、あんまりな逸脱に走らないようでありたい。
つまりは、なんだか通俗で、ばからしい会合であった。
* 二月五日 土
* 誂えた木の額縁に入れて、澤口靖子の真新しい写真が、手紙も添え、送られてきた。「雪子」の出の直前、楽屋で ならんで撮ったスナップ写真も二枚 届いている。楽屋みやげに貰った「越乃寒梅」はもう飲み切った。
* 昨日家に帰ってみると、仲良しの、すこぶる真面目な以前の女子学生から「お久しぶりです、秦さん」と、メール
が来ていた。
* (前略) 追われている感覚しかないときは、自分を責めたり、人を責めたり、社会を責めたり、ちっとも命の躍動感を感じていませんでした。そんなと
き、あるとき道の先を猫がトトトトトッッと横切りました。秦さんに負けず劣らず猫好きの私は、つい目と足とつられて追いかけて行ったのですが、その猫は道
端の金いろの日溜まりで仰向けにごろんとなり、背中を地面にすりつけながら、目をぱちくりさせて戯れていました。
あああーおまえは、生きていることが、日溜まりと遊ぶことが、地面をめいっぱい背中で感じることが、楽しくて楽しくて仕方がないのね。それでいいの
ね。・・・久々に大きく息をして、私も酸素を吸っていることの気持ちよさを思い出したのです。
自分を責める必要は何もないことにも気づきました。責めるのは実はラクなことだとも。とにかく最近、日記を書くことが本当に少なかったのですが、その時
間をもつ大切さを痛感!
秦さんのホームページを先ほど久々に覗きました。新しく「東工大余話」なんてページができているので、嬉しくなりました。あらためて、東工大のみんな
は、よく感じ、よく考え、すごいものをもっていたんだなー、と思います。秦さんのおかげで、ずいぶんいろいろと考えさせられました。自分を振り返って、ず
いぶん若かったな、と思う意見も多々あります。やはり人は、変わっていくものですね。「もう変われないのではないか」と、行き詰まって思うこともあります
が、何か、一所懸命打ち込んで、いろいろな困難を通過して、心からの嬉しさや悔しさや楽しさ等々感じるうちに、自分では気づかずに変わっていくものです
ね。
余談に、話のたねに、1週間前電車で痴漢に遭い、途中下車して通報したら警察署まで行くことになり、調書を作ったら帰宅が朝の4時になった、という珍し
い体験をお話したかったのですが、今は時間がなくなってしまったので、また今度にします。
* 編集者暮らしのなかで、「夜間と土日を使ってヘルパー2級という資格を得る研修に通っているため、まったく休
みがなくなっている」という。どう
か疲労を溜め込まないよう、からだを大切にして欲しい。事情はよく分からないが、ちかぢか引っ越すらしいが、この引っ越しに「川崎市から出る補償金がいっ
たいいくらだと思います? 聞いてびっくり、80万円出るんです。私のボーナスより、いくらか高いくらいです。人は『引っ越し成金』と言います」ともあ
る。世の中には妙な話の種がいくつもある。痴漢の話が、その程度で済んで、よかった。
二月七日 月
* 新しい「湖の本」通算六十二冊めを、本文責了にもちこみ、発送の用意に読者の一人一人に挨拶を書いている。年 に四、五度は繰り返す季節の行事だ が、しんどい。
* 長編小説も、元日以来欠かさずに書き次いでいるが、根気のしごとでありじっと食らいつくようにして、焦らず慌 てず気の乗りを失わぬように押して 押して行っている。
* 体力をいたわる気持ちもあり、寒い器械部屋にあまり上がってこないで、階下の炬燵かダイニングのテーブルで仕 事をしている。メールも、つい見遅 れている。
* 今年はカレンダーの当たりがわるく、山種美術館のくれた奥村土牛「富士山」の繪がたるくて、気分がわるい。階 下へ行くと凸版の呉れた加山又造 で、これがまた宜しくない。昭和二十四年に笹沼宗一郎氏の撮った谷崎潤一郎の顔写真の迫力たるや、びりびりと空気が鳴るほどのものだ、へなちょこの繪など とてもかなわない。
* ニュースはイヤなものばっかり。
* 二月八日 火
* 昨日「文学界」からアンケート依頼があった。「原稿を手書きしているか、機器を使っているか」といったアン
ケートで、大まかな質問だった。簡単
に回答できた。
わたし自身は、1983年に東芝トスワード一号機を購入の当日から、執筆と創作には、ワープロを専ら使用し始めた。1996年以降パソコンに移行し、現
在は、NECの二台のノート型機器を用途により使い分けている。わたしには、ワープロの時代はもう過ぎた。
* こんな質問がある。「機器を使うことで、手書きとの変化はありますでしょうか。たとえば推敲、構成などのプロ
セスに何らかの変化は生じましたで
しょうか。手書きと比較して、長所短所など、お感じになることはございますか」と。
機器による文章・文体の変化は無い。機器の使用前後で、だれ一人変化を指摘できた人もいない。手書きでなければという絶対的な利点は、無い。機器を用い
て得られる利便は多々あるが、不便もある。文章・文体・表現は、手書きだから、機器だから、良い・悪い、良くなる・悪くなる、というものではない。機器に
は確かに多くの利便は有るが、それで文学・文章・表現が良くなるわけでも悪くなるわけでもなく、手書きなら良い文学・文章・表現が保証されるわけでも全く
無い。文はむしろ人に属している。書く手段は、好みと慣れにすぎない。また個人的な事情での選択にすぎない。
* 次にこんな質問がある。
「雑誌、本という紙に印刷される形だけでなく、電子本、インターネット上の雑誌など、メディアの世界では様々な変革が見られます。これからの十年二十年を
単位として、執筆、出版などの形はどのように変化するとお考えですか。」
こういう問題の把握に多面的に取り組むのは、例えば日本ペンクラブの電子メディア対応研究会などの仕事であり、いま座長として公式に安易に答えるのは控
えたい。
だが、私個人の対応では、一つには、紙の本による表現と公表の場を、私的にも確保すべく、「秦恒平・湖(うみ)の本」を十四年来、六十数巻に及んで継続
刊行をなお維持し、一作者として固定の一定数の読者との間に「文学環境」を確保している。
今ひとつには、新世紀の潮流を見越して、インターネットのホームページによる、創作・執筆と作品館設営に既に取り組み、相当に拡充して行ける用意があ
る。現在数千枚の各種原稿が、実験的に多彩Iにページを埋めている。
紙の本とインターネットの本を両輪にした、わたしのこの方式は、かなりの確度で、未来の文筆家活動の姿を占えるものと予感している。
紙の単行本は、高級品的に大切に求められて、価格は相対的にさらに高くなり、占める割合は漸減して行くだろう。
電子本が、形式内容の両面で落ち着いて定着するには、試行錯誤のかなり長期間を経なければならないだろうし、その間に、なによりも電子メディアの特質に
即した新たな著作権益保護と確保の新体系が工夫され法制化されねばならない。
三十年すれば、書き手はいろんな技術を手にして、従来紙の本型の出版・編集の桎梏を脱し、自立的に電子メディア上で作品や文章を読者へ直接提供する例が
増えてくるだろうが、紙の本時代のような印税・原稿料収入に匹敵する収入手法の保証は容易には得られないだろう。また、電子本の自由化が放縦に進んだ場
合、「批評」や「編集」の機能で、文学・芸術の質がどう維持できるかは、最大の難問となって残り、わるくすると、混濁と低迷の永い季節を経なくてはならな
いかも知れない。
紙の本が、堅実に生き残って欲しく、その為には現在の出版・編集・流通の在りように、よほどの理想の回復や反省と改革がなければならないが、期待は全く
もちにくい。
* さてアンケートの最後に、「文学界」二月号に載っていたという石川九楊という書家の文章に対し、感想ないし反
論は有るかと質問が来ていた。どう
やらこれが眼目の質問であるのかも知れない。二月号を改めて取り出してみたら、載っていた。「書家によるワープロ徹底批判」と銘打った『文学は書字の運動
である』という題の文章で、目次には、「ワープロを使って日本語の文章を書くことは、必ずや思考の混濁と頽廃を生む」とも付記してある。じつは他のマスコ
ミ記事で、文学界とも二月号とも気付かず、なにやらこの石川氏の文章に仰々しく触れたものを、ちらと見ていた。「ほい、また始まった」と思っただけで、忘
れていた。わざわざアンケートされるようなこととは夢にも思わなかった。
下らない話ではないか、手書きしようと機器を使おうと、大きにお世話で、まして「文学は」などと押しつけのそれも書家のご託宣など、聴きたくもなかっ
た。時々あぶくのように現れる、不勉強な高慢天狗の譫言に過ぎないのは、読む前から分かっていた。
* しかしまあ、せっかく雑誌を貰っているのだから、読み始めてみた。だが、気が乗らない。読ませるような文章で はない、読み通す根気を惜しいと思 うぐらい、案の定、ばかばかしい。すこし、関わってみようか。
* 「ワープロを早くから使い始めた詩人や作家がこれに対し違和感を感じ、捨て始めた」と、いきなり書いてある。
おおまかなものの言いようで、機器を早くから使い始めた人が、いきなり全面使用していたのか、(そういう人もいる。
)手書きと併用していたのか、(そういう人もいる。)全面使用から、手書きとの用途別の共用・併用に割り振って落ち着いたのか、(そういう人もいる。)す
ら押さえていない。これでは単に我が田に水を引くための立言であって、事実は、もう機器が手放せないと告白している作家も著述業の仲間も、少なくない。い
やはっきり言って「捨て始めた」人に出会うよりもずっと「使い慣れてきた」人の方が身辺には多い。そして、むろん、こんな数の多い少ないなど、何ら「文
学」にとって本質的なことではなく、要するに好みと便宜とが選択されているのである。「書く」手だてに何をどう選ぼうと、その限りでは大きなお世話なので
ある。
大事なことは、手書きか機器を用いる(この場合ある程度習熟していることの必要なのは当然で、同じことは例えば毛筆についても言える。)か、それが、
「文学」の質を左右する問題なんかでは、全くない、ということである。そういうアホなことを言う人は、「文学・創作」をよく知らないことを暴露しているだ
けだ。
* すぐ続いて、「文章作成機にせよ、個人用電子計算機にせよ携帯電話にせよ、現代商品は、どこかにいかがわしい
暗部をもっている」とある。
この程度の認識で、何かたいしたことを指摘したつもりなのだろうか。近代の産業社会と資本主義社会に割り込んできたさまざまな機械器具の類が人間に対し
て、多大の利便とともに、ある種の深刻な敵性・毒性をもはらんで、人間の自然と精神に影響を及ぼしてきたのは、ほぼ常識に類している。すでに百年前に、
「ロボット」といった批評的な佳い戯曲が海外で上演され、日本へも輸入されていた。俳優座が最近再演したし、作の意図と批評はむしろ百年前以上に尖鋭に現
代を刺していた。ここで石川氏の語彙に乗じてものをいえば、その「いかがわしさ」を、どう意識的に捌きながら用い使って行くか・行けるかの上に、「近代・
現代」という歴史的な現実は築かれてきた。
大なり小なり、われわれは、我々の手で創り出したものの敵性・毒性との、巧みな、ないし聡明な「共生」を、意図して目論んできた。それを必要悪であった
と謂ってもかまわないが、そういう自意識をあまり肥大させたいともわたしは思わない。このいわばパラドックスを否認否定する道があれば、よろしい、行くが
いい。それは石川氏が得手の隷書や篆書や甲骨文字で、現代から未来へ思想的・実践的に自己表明して行けると言上げしているのに似ている。だが、わたしは活
字体でけっこう、電子文字でも差し支えない。それでも、わたしは、きちんと「文学」できる。
それでいて断って置くが、隷書や篆書の美に冷淡なのではない。わたしが芸術表現の分野で最も深く敬愛しているのは、いわゆる書、好みでは古文古筆の書で
ある。昔の漢字やかなの書なのである。だが、自分の文章は機器でも書き、ペンやボールペンも使うし、必要なら毛筆でも使っている。
「文学は書字の運動である」などと、お節介であやふやな書家の観念論を押しつけられたくない、大きなお世話だ。
* 「現代商品は、生まれた時から、自由と共同を求める人間の潜在意識(自覚されない意識、意識以前の意識)に違
和感を感じさせるほどに不吉なので
ある」と石川氏の論旨は続く。
この「現代商品」という曖昧模糊としたもの謂いは、これは何だろう。新しい思想はもとより、新しい物や手段の誕生が、どんな時代のどんな人々にも双手を
あげて歓迎されたとでも石川氏は思っているのだろうか。それなら誤解である。よほど便利な道具ですら、慣れるまでは、まがまがしく無気味で不吉なしろもの
でありえたことは、日本での電信電話の開設当時を思っても分かるし、未開族のシャーマンらが、いちはなだって文明の道具に警戒を示すのもそれだ。我々の社
会にあっては、むしろ石川氏のようなものものしい根拠のないもの言いこそが、「不吉」な、カルト言説に属するだろう。ここへ、「阿頼耶識」のようなものを
持ち出して曖昧な認識を修飾しようなどというのは、ただ大袈裟で、そんなことを謂うなら、古来、人間は、いわば「不吉」と「不安」の海をはるばる泳いで、
現代まで来たのだと言ってしまった方が、当たっている。
言って置く、「現代商品」によって人間は「不吉」に悩むのでなく、人間存在それ自体の行動や思弁が根に「不吉・不安」をはらんでいたのである。不
吉の原因を人間の「外」に、「外の条件」に押しつけてとかく言うなどは、ものの分かっていない証拠のようなものである。
* すぐ続いて、石川氏は今度は、「本来、人間の生と生活を豊かにし、率直に喜んで歓迎すべきーーいわば垂涎の的 であるべきーー商品が」と、まるで 前言を裏切るような楽天的・断定的なもの言いで、さも本音らしい「商品」観を露出させている、が、なんという寸の短いものの見方だろう。しかもその上で、 そういう「商品が、気のりのしないまま購入と使用にかり立てられるということ自体が、現代商品の反人間性、反社会性、反文化性を証している」と言い出す。 安直な言葉遣いで、とうてい「文学」がどうのと言い立てられる人の文章でも議論でもない。ここではワープロやパソコンが目の敵にされているようだが、もし 「購入と使用に」ほんとうに「かり立てられ」ているというなら、もう一度言うが、それは機器商品のせいではなくて、人間自体が持っている「衝動」にこそ問 題がある。「商品」は、人間でなく、社会でなく、文化でもない。それを擬似人間(ロボット)化するのも、社会性を与えるのも、文化にしてしまうのも、「人 間」自身であり、「機器・商品」ではない。そしてワープロ・パソコンにかぎらず、人類が最初に道具を持ち始め、器械を作りはじめた時から、同じ問題はつき まとって、文明の陰陽を生み出してきたのである。何万年の道具や機械の文明史の中で、うまれてわずか五十年のコンピュータにだけ食ってかかる図など、配慮 の視野の狭い人だなと思わざるを得ない。「不吉で不安な現代の機器商品」としてなら、もっと露骨にテレビなどの長短を言うこともできる。石川氏の「商品」 論はすでにして視野狭窄の愚をはやばや露呈している。
* もののまだ一ペイジも読み進まないのに、こんなに安直なことが語られているのだから、あとを読むのは、まず百 パーセント時間の無駄だと確信して いる。しかし、せめては三ページぐらいは読んであげないといけないだろうか。廿四、五ページあるらしいが、最後の最後をふっと見ると、「だから、だから墨 を磨れ」と結ばれてあるではないか、推して知るべし、やはり付き合わない方がマシのようだ。
* ひとつだけ追加しておこう。
石川氏は三ページ目へ来て、こんなことを書いている。それまでのところでも、機器の「漢字かな変換」などについて、もっともそうな非難を並べているが、
初期ワープロの頃は、漢字の数の少なさにこそ参ったが、実は「漢字かな変換」の珍妙さや煩わしさには、笑ってしまうわりに、特段の妨害は受けていなかった
し、器械を替えて行くにつれ、ソフトの方も改良も著しく、今では、変換の自在さや誤差範囲そのものまでが、けっこう利用価値になっている。機器での執筆に
習熟している人にとっては、石川氏の、鬼の首をとったようなことごとしい議論、「日本語にとっては、決定的に歪んだ操作と仕組を強いられる機械」だの、
「日本語と日本文化に奇怪な現象をもたらす」だののまさにモノモノしいもの言いは、ご大層にという他はない。これは「日本語と日本文化」と「日本語で書
く」ことに、ながく心を砕いてきた一人として言うのであり、わたしの全著作の質と量とを賭して言うのである。
* で、石川氏は、更に、こういうことを言う。「作品をつくると言うことは、集中し、持続し、その極点で白熱する ことだ。この白熱を通して、過去を 突き破る現在がほんの一瞬姿を現わす。電話がひっきりなしにかかってきて、思考の流れを絶えず乱される中で、まっとうな詩や小説が書けるとは思えない」 と。
* これだけ読んでも、石川九楊氏が、少なくも独り合点の、美文家だとわたしには分かる。よほど酒に酔っぱらって
も、この前段のような青臭いこと
は、この年になると書けない。創作について固定観念はもったが、体験は積んでいないらしい若者が、早口で大急ぎにものを言ってのけたという按配で、気恥ず
かしい、が、ま、若い人なのであろうと、聴くは聴いておこう。こういう感じ方も、あり得ていいだろう。
だが、石川さん。「電話がひっきりなしにかかって」来る状況と、「思考の流れを絶えず乱される」こととは、必ずしもいつも同次元にはないのです。ほんと
に「書く」気になっているときは、脱却もまたそう難儀ではない。体験を話したい。
* わたしは、小説を書き始めてから約十二年、医学研究書と医学月刊誌の編集者だった。後半は末端の管理職も兼ね
ていた。多忙も極限にいた。一人で
百数十点の単行本企画と取材を担当し、月刊数誌の発行責任ももっていた。その中で小説を書き始めて、作品「清経入水」により太宰治賞を受けた。「蝶の皿」
「畜生塚」「慈子」「廬山」「閨秀」そして「みごもりの湖」「墨牡丹」などと、書いていった。批評やエッセイも、「花と風」「女文化の
終焉」「趣向と自然」「谷崎潤一郎論」などと次々に本にしていった。
これらの全ては、だが、勤め先のあった本郷の、昼休みなどの喫茶店で、昼飯屋で、よその人と相席も厭わず、喧噪のさなかで書かれたのである。家ではもの
を調べ、勤務中の寸暇を惜しんで、あらゆる場で、取材先の教授室や院長室のドアに持たれて立ったままのこともあり、バスの中のこともあり、四人席の三人は
知らぬよその人と相席の喫茶店ででも、ラブシーンの演じられるラブ喫茶の位席でも、平気で書いた。それでも石川氏のいう「極点の白熱」は暫くの集中でいつ
も得られたのである。「思考の流れを絶えず乱される」ことからのがれ得ていたのである。
会社を辞めるまでの私の全著作は、斯くおおかたが喧噪のさなかで書かれていたが、多くの人が、私のそれら作品が微塵もそういう喧噪の混濁に毒されていな
いことを、「静かな」特色に数えてくれた。うそだと思うなら、そんな「中で、まっとうな詩や小説が書けるとは思えない」と言い張りたいなら、どうぞ、上に
挙げたどの作品でも、読んでみて下さればいい。
* わたしと同じような環境をものともせずに書かれた、作家や作品が、必ずしも少なくないことは、調べれば分かる
かも知れない。それほど特別のこと
だとは思っていない。
創作にはいろんな「手」があり、芥川のように考え抜いてから書く人もあれば、石川淳のように暗闇に飛び込んで行くように書く人もいる。尾崎紅葉のように
徹底推敲で仕上げる人も在れば、初稿のままで人に渡す人もいる。そもそも「推敲」という手段そのものが示すように、文学の場合、「作品をつくると言うこと
は、集中し、持続し、その極点で白熱することだ。この白熱を通して、過去を突き破る現在がほんの一瞬姿を現わす」などといった過程ばかりでは、必ずしも、
ないのである。「書」のことは言わないが、「文学」の場合は、「電話がひっきりなしにかかってきて、思考の流れを絶えず乱され
る中で、まっとうな詩や小説が書けるとは思えない」などとは、必ずしも限らない幾種類もの「白熱」の仕方も可能なのであり、明らかに石川氏はよく知らない
ことに関して、勝手なことを言い過ぎている。
そして、その上に、まだ、こう付け加えているのだ、そんな「思考の流れを絶えず乱される中で、まっとうな詩や小説が書けるとは思えない。文章作成機
(ワープロ)を打つことは、これと同じことに帰す」と。
ほんとうに創作に打ち込んでいるときには、たかが機器を使っているかいないかなどで本質的に拘束されるような隙間もない。万年筆のペン先が割れて字がか
すれたり、インクがもれたりする程度の迷惑も、ほとんど意識しないで済んでいる。なぜなら、所詮はペンにせよ機器にせよ、書字の道具以上のものとは評価し
ていないから、そういう手段として機器をこのわたしに付き合わせている、つまりわたしが「使用」しているから、である。
* 文学の創作には、「口述」という、筆記とはべつの方法も使われる。谷崎の「夢の浮橋」は口述作品であり、作者
自身の書字によっては書かれていな
いが、いい作品になっている。他にも例がある。公表前に親しい人に「読んで聴かせる」方法を、志賀直哉はじめ白樺の人たちは、ことによく用いていた。これ
も書字とはひと味ちがう書き方である。わたしは、いきなり作品を録音機に吹き込んで、更に推敲して行く方法も、時々取ったことがある。いろんな「手」がつ
かえるのである。
だが、「手」をつかうのは、人たる作家であり詩人なのであって、そこに内奥のもし秘儀が在るとせよ、それは決してペンや筆や機器の左右できるところでは
ないのである。是非に「墨を磨り、」「書字」して「文学」を、などということを決定論風に突き出して言い募るのは、書家のとは言わない、石川九楊氏一人
の、論理を欠いた好き勝手に過ぎない。どうぞご勝手に、但し好き勝手に押しつけないで貰いたい、ハタ迷惑になる。
石川氏の願いどおりすれば、作家が「手書きした原稿の文字」のまま読者も読めなければ、意味が無くなるのではないか。それを「活字」に置き換えたものを
読むのでは筋道が逸れているのではないか。
だが、文学は、「書く」だけで完結するのではなく、「読む」という行為も創造的に加わっている。「書くのは書字」だが「読むのは活字」でもいいのか。
「書字」という書く行為にこだわるなら、読む行為も「書字」でとならねば一貫しない。書字と活字では、字の素質が随分異なる。だいいち、そんなことは不可
能であり、ま、無意味な話になろう。
* 以上は、三ページだけのおつき合いでウンザリしてしまった弁である。それだけのものだと、お断りしておく。
* 二月九日 水
*
いつ知れず器械をあけたまま、ぐっすり椅子のまま寝入っていた。夢らしいものも見なかったが、なにかしら「ことば」が闇の中を往来していた、声ではなかっ
た。睡眠が足りないのではない、やはり根に疲れが溜まっているらしい。
* 山折哲雄氏の『悪と往生』は気持ちよく読了した。山折さんの本では最近になく立派に力が入っていて、説得された。親鸞理解の「表現」など、たいへん
「文学的」で微笑ましくさえ感じられたが。
一つ確認できたのは、親鸞や唯円や「歎異抄」の理解に大いに役立つけれども、死生の境を歩み行く真の安心を得られるような著述ではなかった。研究といい
哲学といい論考といい、或る点から眺めれば生き死にの大事には何の役にも立ってくれない。まだしも優れた文学作品から得るものの方が深いことがある。魂を
揺さぶられまた深められ導いてもらえる。
ヴィトゲンシュタインは今世紀どころか哲学の歴史始まって以来の真の巨人だが、彼は自身の偉大な著作のすべてをゆびさして、要するにそれらが「ノンセン
ス」の一語に尽きていることを識り、その向こうへなお歩んでもらうために書いたに過ぎないと言っている。聴くに値する凄みのある述懐であり認識である。哲
学の役はそんなところにある。
* 随分以前から枕元にあってわたしを呼び続けてやまない一冊の本がある。深沢三千男氏の『源氏物語の深層世界』 である。「王権の光と闇を見つめる 眼」と副題してあるが、これにはとらわれない。深沢氏の文章は稀にみる悪文である。しかし、縺れ返ったことばの網の目をくぐり抜けて行くと、途方もない 「世界」が透視され幻視され、戦慄させられる。その魅惑の力をうまく言い表せないが、一度の読書に、本文を十行ないし一頁もよめば満腹してしまうほどの奥 行きがあり、本を置いてゆっくりと想像の闇の底へ降りて行く。そういう本だから、実に何十冊分もの読み応えがする。一部でも引いて書き写したい衝動にから れるが、そういう真似はしない方がいい。しても役に立たない。
* 藤村学会からまた講演の依頼が来た。今度は藤村忌に、馬籠の藤村菩提寺にまで来て欲しいとある。それは嬉しい
が、さて島崎藤村をどれだけ話せる
か、泉鏡花の何倍もの用意が要る。しかもこの前には、明治学院大学で『破戒』の話をしている。その上に何が話せるのか、心許ない。
* 二月十日 木
* 井上靖の次女黒田佳子さんから、父君追想の一冊を頂戴し、終日少しずつ少しずつ音読して、ほぼ読了してしまっ
た。懐かしい井上先生の面影が、暖
かく柔らかく達意の文章で編み上げられて行く。かなりの範囲でわたしにも想像ができ推察が利き、興味津々の好文体を成している。ふみ夫人から伺うよりも、
お嬢さんから聴かせてもらう方がなぜか聴きやすい。
医者のこと、三島由紀夫のこと、旅と取材のこと、文壇の先輩とのこと、中間小説のこと、墓地を買うこと、美術館やお寺での作法、母親への姿勢のこと。
そうではあるまいかと思っていた一つ一つが、確かめられて行く面白さ、興味深さ。仕事をしていながら、一息つくごとに本を手にとって読んだ。黙読などし
ていられずに音読した。
井上靖という作家から受けたかずかずの好意や配慮の大きさに、今さらに身内が熱くなった。去年、短編小説全集の最終巻のうしろに、長い感想を書かせて貰
えたことが、また今さらに嬉しくなった。谷崎や川端のような芸術家とはちがった、漱石や藤村ともちがった、戦後社会の欲した新しいタイプの物語作家であっ
た。話術に長けた紳士であり、文壇の大きなボスの一人であった。死を直前にして深い不安、大きな畏れを沈着に娘に語りおくことの出来た人であったことに、
感銘を新たにした。
* 清水書院から出ている『親鸞』を持ち出して『歎異抄』の例の「親鸞一人のため」という箇所の著者の説を読ん だ。親鸞の「きちがいじみた」感想の ように読めるが、それは阿弥陀如来に向かう「心構え」なのだとしてある。わたしなら「帰依」いや、やはり「深信」と読むのだが。
* しばらく島崎藤村文献と平安物語に関する論文集数冊を身の側に置いて読んで行く。新しく配本された直哉『日 記』の三巻めも楽しむ。
* ほぼ、もう男性ではないのではないかと思われる。女性を必要としないようになっている。他者の優れた知性や感
性や、また感覚的・芸術的な美をし
か、望んでいない。バグワンに接し続けてきたのは、あだおろそかな気持ちからではない。マインドやエロスの執着からつとめて離れ、すこしでも無心に近づい
て、温和で静かな最期を迎えたいという気持ちになろうなろうとしている。死に急ぐのではない、逆だけれど、らくな姿勢でさきへ向かいたい。
* 二月十一日 金
* 昔は紀元節といった。町内で路上に集まり、「雲に聳ゆる高千穂の 高嶺おろしに草も木も」と祝祭の歌を斉唱 し、熱い粕汁をみなで啜った。いろん な祭日の中で、あの日が比較的好きだった。二月の寒気も心地よく、どんどなど焚いたのも気が明るんだ。
* 生活に暦の生きていた日々は、おりめけじめもハッキリしていて、季節感にも満たされたものだ。あのような「文 化」は地を払ったように東京のよう な大都会では失せた。
* 石原都知事の、銀行に課税しようと謂う提案には心を惹かれる。むろん、政治にも税制にも疎いのだから、いろん
な議論や問題点の有りそうなことな
ど分かるようで分からない、が、銀行なるものには、そうとう頭に来ている。不公平な税負担と銀行は言い、それは分かるが、もっと莫大な不公平の恩恵には銀
行こそがあずかってきた。損失はわれわれ預金者が、国民が、今も負担しているという実感は断然失せない。石原提案は、少なくとも積極的に討議されて欲し
い。
* 二月十一日 つづき
* こんなメールを受け取った。二月八日に書いた石川九楊氏の「文学」論の見当違いに関連してのものであり、お許 し戴き、ここへ書き込ませていただ く。
* 「私語の刻」を何日かごとに、とぎれることなく必ず拝見しています。
文学界のアンケートに絡んで、書家の石川九楊氏のことが、2・8に取り上げられていました。(石川氏の)「書家によるワープロ徹底批判」という文章に、
秦さんは「石川氏徹底批判」をされています。私も、秦さんの論調に基本的に同感しました。
鉛筆もワープロも、同じような、文章を書く「道具」として使えれば良い、使えなければ困る、と私は思っています。
その後、職場で「週刊朝日」(2・18号)を読んでいたら、この「書家によるワープロ徹底批判」の、まさに「尻馬に乗った」記事が目に付きました。
「ワープロを捨てた作家たち」です。
私もワープロを使いますが、ワープロ(パソコンのワープロソフトも含む)の不便さ、器械としての馬鹿さ加減も承知していて、決して「絶賛派」ではありま
せんし、「習熟派」でもありません。
ところが、この記事に出てきた作家が、なんと「電メ研」顧問の井上ひさし氏、文芸家協会の中沢けい氏らなのには、びっくりしました。電子書籍の問題につ
いて、ペンクラブやら文芸家協会やらを代表する研究会、委員会の一員として、おふたりは、この問題を検討しているのではないでしょうか。個人の立場は、個
人の立場ですから、どのように発言されても結構ですが、そういう議論を、それぞれの「検討の場」に反映させておられるのでしょうか、と思いました。
ワープロの是非を含めて、何が問題点かをプロの文筆家の人たちは、もっと率直に議論すべきではないでしょうか。
「週刊朝日」の記事には、最後に、この記事をまとめた記者の、ワープロ、パソコンに対する違和感という「思いをスカーッと晴らしてくれた」(ここに、こ
の記者の発想の原点があります)という石川九楊氏も、当然出てきます。
ついでに、この記事の、お粗末の極みは、中沢氏の写真を、歌人の道浦母都子氏と、取り違えていることです。ご本人にも会わずに、電話、FAX、あるいは
「メール」だけで取材をして、記事を書いたのではないでしょうか。
* 最後の写真取り違えの一段については、雑誌を見ないわたしは何とも言えないが、このメールを貰った人はこうい うことには詳しい職掌の人である。
* わたしは、ワープロのパソコンの、それが便利の不便のといったことには、全く興味がない。便利な人には便利な
のであり、不便な人には不便なので
ある。気に入った人には気に入っているのであり、嫌いな人は嫌いなのである。そんなことが何の問題であろうわけもない。
わたしにとっての問題は、それが「文学」「創作」「表現」と絡めて言われていることで、それならばマトモな議論を展開してくれと言いたい。石川氏の言い
分は、「したり顔の見当違い」でなんの価値も無い。尻馬に乗る人たちも、要するにワープロ、パソコンの好き嫌い論を出ていないのではないか、文学の創作の
実体験はない人たちではないか。
井上氏や中沢氏がワープロを「捨てた」というのが細かな点は分からないが、何が不思議だろうか。捨てようが、また使い出そうが、手書きと併用しようが、
そんなことは勝手であり自由である。わたしだって、先のことまで拘束されていないし、心境の変化もあって構わない。好みと選択にすぎない。どちらが「文
学」のために良いという決定論は出来ない、書き心地が良ければ何を選んでもいいのだ。そんなことで文学の質が左右されるなどと言う議論の方が荒唐無稽に近
い。小説はぜひ機器でお書きなさいなんて他人に勧めたことはない。勧められたこともない。出来が絶対ですよなどという人がいても、その絶対という言葉の使
い方に頬笑むだけのことだ。アレルギーのようなものだ。わたしにはそんなアレルギーはない。文学・文芸を考えるときに、そんなことに煩わされはしない。
もっと大切な勉強が他に有るだろう。「文学」は機器にも手書きにも質を保証されたりしない。
* あはれ花や 蕾 女になりにける 遠
椿の、いろいろに美しい季節になり、洗面所にも手洗いの中にも挿してある。数日もの時間経過で、ほんとうに美しく蕾から花咲いて行く。
* 二月十二日 土
* 終日、本の発送の用意をしていた。器械の前に座るヒマが無かった。明日もう一日で、おおかた発送準備の作業は
済むが、もう少し、不特定のアテド
ない作業でしかも欠かせない仕事が残っている。依頼送本とか趣旨送本と呼んでいる「新しい送り先」の検討で、正直のところこの頭の痛い作業を断念したりす
れば、急速にこの刊行自体が細って行く。
しかし、ものの十四年も出版し続けてくると、アテズッポーの送り先など、殆どもう無くなっている。楠正成は、赤坂城で頑張って落城し、千早城に移ってま
た頑張ったけれど結局城を捨てている。湖の本はあの千早の籠城期に今あり、いつ城を捨てねばならないかの判断を、わたし自身が、待っている。
だが、いつまででも長く、一冊でも多く、値段をどんなに上げてもいいから頑張ってくれと言われる読者だけに絞っても、それはそれで、わたしに気力が有り
さえすれば、あと何年でも、何十冊でも続けようとすれば続く「基盤」は出来ている。規模と限度の問題が残るだけである。
潮時は、やはり、有るだろう。新世紀に入って、この仕事がどんな意味を添えて行くか、喪ってゆくかも、じっと見ていたい。
* 今日の仕事はかなり機械的な手順仕事であったから、そばでテレビをつけていてもよかった。それで昼には、ジー
ン・ケリーとデビー・レイノルズの
懐かしい「雨に唄えば」を、見るともなく聴いていた。フレッド・アステアの「雨に歩けば」も面白い音楽とダンスが楽しめたが、これはデビー・レイノルズが
可愛らしく、ダンスも歌もよくて、おっとりと品のいい映画だ。サイレントからトーキーに移る頃の映画作りで、なかなかトーキーに人がなじめず、サイレント
こそいい映画の条件のように不服を唱えているのが、今まさにワープロやパソコンに不服の泡を吹いている人たちのことを思い出させ、笑ってしまった。そうい
う人は汽車が走っても飛行機が飛んでもラヂオが鳴っても騒いだのである。騒いで悪いわけがないが、時代と環境は動いている。明治の人と平成の人とでは、お
のづとそこに感性差も洞察推察の基盤差も有るはずだ。人間を悪くした点では、テレビなど功より罪の方が深い気がしているが、テレビを破戒したいとは思わな
い。コンピュータとて功も多きいなりに、罪も莫大とはいえる。わたしも、そう感じている。だが感嘆もしている。「文学」「創作」と直かづけして、短絡的に
議論をカルトなまでに脱線させるのとは、べつごとである。
絵画の世界では、従来感覚と手法でもはや語れないほど、電子メディアに関わった新絵画世界が生まれていて、それを是非するのは、よほど大きな美学・芸術
学的な課題である。しかし、広い意味のコンピューター・グラフィックから世界的な賞に値する業績が出てきている事実も無視できない。わたしなど、やや保守
的に感心しないでいる、写真利用の絵画も飛躍的に増えている。
そういうものと比較すれば、手書きの文学と機器で書く文学とには、それほどの差異は現実に生まれていない。かりに意図して差異を「創造」しようという人
がいたとして、それはそれで、なんら咎められるべきではない。
要するに作品がいいかわるいかであり、手書きか機器かは、その評価とはべつなのである。当たり前のことである。
* 晩には、「タワーリング・インフェルノ」を見た。スチーヴ・マックイーンの代表作だと思う。ポール・ニューマ ン、ウィリヤム・ホールデン、フェ イ・ダナウェイ、それにあのフレッド・アステアとジェニファ・ジョーンズ。俳優たちもいいが映画が映画ならではの絶対条件を生かして、劇的に面白い。
* だが、面白いの質はちがうけれど、わくわくするほど面白かったのはゆうべ床に入ってから克明に読んだ、『夜の
寝覚』を論じた国文学研究者たちの
諸論文だった。
とくに後半が無残に散逸した物語だが、それにも関わらず現存している部分で十分な完結性を確保していて、それで鑑賞に堪えると言うよりも、それだけで読
んでしかるべき、遺憾ない完結した物語だとわたしは思ってきたが、まったく同じ根拠から同じように論じている論文のあることに、驚きもし、嬉しくて堪らな
かった。また、「夢」の扱い方、運命の予示に対する感性の類似などから、ほとんど、この物語の作者としては『更級日記』の著者以外に適切な作者はいない
と、殆ど決めてかかって読んできたが、これにも論調においてまったく同じに主張し立証している研究者がいて、これにも、思わず床の中ではねてしまいそうに
喜んだ。『夜の寝覚』に『源氏物語』の偉大な感化を否定することなど決して出来ないが、その大きな手のひらから一歩も出られなかった亜流物語とは、わたし
は思っていない。優れてこの物語ならではの個性的な深みへ、人間創出の筆を運んでいて、敬服できるのである。この点にも同様に論じ評価して呉れている論文
がちゃんとあり、久しぶりに「論文」読みの醍醐味を味わい続けて、夜更かしも夜更かしをしてしまった。だが、幸福とはこういうことかなあと思う、心から。
* 黒田佳子さんの父井上靖を語る一冊も、二日かけて、おおかたを音読、読了した。とても気持ちのいい懐かしい読
書であった。少し前に芸術座で「月
の光」という井上さんの代表作の一つを芝居にしたのを、観ていた。あの舞台で水野真紀の演じていたお嬢さんが、たぶんこの本の著者である。何度かパー
ティーなどでお目に掛かっている。
* 二月十三日 日
* 梅原猛氏文化勲章お祝いのお返しに、日向神話の地を探訪した紀行風考察の一本を頂戴した。読み始めたが、すこ
ぶる気合いがいい。珍しい現地写真
の豊富な中に、梅原さん自身が撮られているどれを見ても、ペンの理事会で草臥れきっている顔とは大違いで、溌剌として元気いっぱいの笑顔なのが、心嬉し
い。いつであったか、死んだ兄との手紙やメールのやりとりのなかで、わたしが梅原猛がずいぶんいい顔になってきたと言い、兄もその点満点異存がないと返事
してきたことがある。正直のところ大声上げて斎藤茂吉なんかをやっつけていた頃の梅原さんは、やたら闘争的で静かなところが無かった。書評や解説で、わた
しは、ずいぶんその辺を非難気味に書いた覚えがある。しかし近年、ときどき、うん、いい顔をしてると眺めるときもある。が、今度の本のなかに写っている梅
原さんの顔は、さらに飛び抜けて、見ていて心地佳い。それが行文にも乗り移っていて、歯切れよく、少なくもえらく楽しんで書かれてある。楽しめる。
日向が「天皇家の故郷」かどうかは、さしあたり関心がないが、神話は少年の昔から大のお気に入りの世界である。出雲と日向が神話的に大切なのはその通り
だが、梅原日本学に中国筋の、ことに吉備をめぐる神話探訪が加わって欲しい。吉備は背後に出雲を背負い、同時に神武東征神話の道筋であり、それだけでな
く、皇統のなかでも微妙に問題の多い垂仁景行天皇頃の事跡が、縁深そうに察しられる。
なににしても、意欲的な「旅」にどんどん踏み出して行ける梅原さんの気迫に、改めて敬意を払う。ご健勝を祈る。
* あした、また浜木綿子の芝居を観に行く。あさっては、理事会。そのあと「本とコンピュータ」のインタビューを 受ける。このところ根をつめて作業 を続けていたため、首から肩が張っている。今日は痛いほど。すこし休息しないといけないようだ。四五日、酒っ気がない。このまま月末まで休酒しているとい いのだが。二十六日に工大の建築卒の二人から誘われているので、その日に、暫くぶりに呑むということにしたいものだ。
* ロサンゼルスの親しい人から、前冊『丹波・蛇』に、参考に入れた妻執筆の「姑」が、面白くて笑った笑ったと手 紙をくれた。我々の結婚の前からい ろいろと力になってくれた年配の友人で、わたしの母のことも見知っている。
* もうチョコレートが届いている。チョコレートは好物なのでつい食べてしまうが、糖尿のおそれの十分ある身に
は、あまり宜しくない。酒ですら自粛
に努めている。そうはいえ、よほど甘みをからだが要求するのか、デパートで酒を買って帰ったことはマオタイを一度二度あった程度なのに、仙太郎や鶴屋の和
菓子はちょくちょく自前で買って帰る。戦時中、子どもだった頃には、砂糖が容易に目にも手にも入らず、砂糖壺の砂糖をこっそり舐められたら上等だった。甘
いものに飢えていた。九十過ぎの、自称押し掛け弟子は、酒のほかにも、甘納豆や和菓子をよく送ってこられる。ご老人のおこづかいの上前をはねているようで
恐れ入るのだが、この甘納豆や豆板や栗などがじつに美味い。なにしろコンデンスミルクを舐めようという甘党の酒飲みで、よくまあ倒れないで立っていると思
う。酒を控えているのはチョコレートとの見合いを考えていたらしい、無意識に。今は、無性にビールが呑みたい。
* 二月十三日 つづき
* また、院卒生がひとり、郵便での文通から、Email交換に参加してきた。そしてすぐ、以前の関西在住「建 築」君の「空間」論に反応してきた。 おそらく、以下のメールは、その関西にいる Y君と、わたしと、に同時に宛てられたもののように思われる。現在千葉県下に暮らしているこの N君は、また新しい議論の要素を持ち込んでくれた。「建設」君や「数学」君のメールも読んでいるのかどうかは、これだけでは分かりにくい。しかし面白い。
* 「空間」の問題に対しての意見
ホームページ拝見しました。
「空間」の問題での討論、興味深く読ましてもらいました。
私は個人的に彼の性格や今現在の環境などを知ってるだけに、問題の根っこがどこにあるのか、なんとなくわかるような気がします。
最近、解剖学者の養老孟さんの著作を4冊ぐらい(ななめ)読みしました。
彼は一貫して現在の社会は「脳化」著しく、そこでは「自然」である「身体」が排除されていることを唱えています。このことはまさに「脳」の産物である
「建築」とも大いに関係があります。
設計者はまず建築の「空間」を思考します。どうあったら楽しいか、ドラマチックか、荘厳さを演出できるか、といったことです。そのいわば「脳」のなかの
建築を現実の建築に落としこむ際に必要となるのが、広い意味での「ディテール」(少々専門用語ですが)だと考えます。しかしここで空間表現はすべてディ
テールに依存する、と、考えてしまうと、建築の「物質性」のみが全面に押し出されることになり、結果として立ち上がった建築を通しての人間の行動−「身
体」性−が軽視されることになるのではないでしょうか?(そもそもディテールだって「脳」の産物なのだから。)
「空間」は人間の「身体」によって表現されるという見方も、バランスよく持っていないといけないと思います。「身体」を通して体験された建築が「脳」の
中にフィードバックされ、その人なりの「建築」を新たにつくる。私も建築の設計にたずさわっていますが、むしろそこに賭けたい。
日々の仕事の中では時間に追われ、とりあえずつくることが優先されるため、とかく「ディテール」偏重主義に陥りがちだと思います。それはともすると「空
間」に対する思考もおざなりにします。
しかし「建築」は、結果として人の「身体」を通して表現されるものと考えれば、いろんな事情で辛くても、すくなくともやりがいのあることには思えるので
はないでしょうか。
( Y君に) ちょっと話はずれるけど、建築は昔から基本的に重力から解放されることを指向していたよね。
それが「身体」性と結びつく宗教建築なら話はわかりやすいけど、今の時代に、なんで重力から解放されるような「軽さ」が指向されるのだろう。メディアに
でる建築はそんなのが多いよね。
建築の持つジレンマなのだろうか? 「情報化社会」とはつまり「脳化」した社会のこと。一方、「脳化」した建築の行き着くところは、重力から解放された
建築。「建築とは時代精神を表現したもの」というミースの言葉を考えると、モダニズムは、「回帰」というより、終わってない、と考えた方がよいのだろう
か。この辺、とても興味がある。
(秦先生へ) 私も映画がとても好きです。
中学、高校時代にハリウッドの古い映画もよく視たと思います。
スティーブ・マックイーンはもっとも好きな俳優です。大脱走のバイクのシーンは何度も視ました。
最近はハリウッド製のお楽しみ映画ばかりみているような気がします。
それでもなかにはおっ、と思わせるような映画もあります。ジュリアロバーツの「ノッティングヒルの恋人」はおきらくな映画かとおもいきや、なかなか真面
目でよかったです。ごらんになりましたか? メグライアンの映画がみれるのであれば、問題なく見れると思います。では。
* 「身体」と「建築」の強い結びつきは自然に理解できることです。たとえば茶室「待庵」や「今日庵」などの建築
にも、意図して「身体」との良い意
味での精神的な対置の妙が見て取れます。そんな難しいことを言わなくても、人の体が動き回り歩きまわり使い回り見て回りすればこそ、内部機能は意義を持つ
のですから。わたしが、「空間」一辺倒ともみえた議論に「時間」の考慮を促したのも、人の「身体」は時空を産出することで「生きる」のだから、でした。
養老さんとはときどきペンクラブの理事会で会います。わたしがペンクラブに推薦して入ってもらいました。すぐ理事に選ばれて、今、同席しています。わた
しの「からだ言葉」論に注目して貰ったのがご縁でした。きみと、「からだ」「こころ」について話し合える日が近そうで嬉しい。
つい二三日前にジュリア・ロバーツの「プリティウーマン」を、もう何度目かビデオで観ました。リチャード・ギアとの共演。あれの続編ですか「ノッティン
グヒルの恋人」は。ジュリアでは「ペリカン文書」でデンゼル・ワシントンとの共演もなかなかのものでした。美人ではないがチャーミングな女優です。メグ・
ライアンは軽い、時に軽すぎます。映画も映画館にはなかなか出かけられないが、よさそうなのはテープにとって、繰り返し観ますよ。では。
* カカオ70%の、強烈に「ビター」な、健康のためには良いらしいチョコレートが来た。苦いこと、美味いこと。
* 二月十四日 月
* 帝劇「人生はガタゴト列車に乗って」二幕、浜木綿子主演の芝居を観てきた。X席で、オペラグラスを必要とせ
ず、役者の化粧ののりまでよく見え
た。一幕中途で、本気で帰りたくなった。幕間に妻と地下で食事して、そのあと終演まで、わたし一人銀座辺で時間をつぶそうかと本気で考えた、が、行ってみ
たい店ではすべて酒を飲まねば間が持たない。節酒したいばかりに、もう一度、座席へ戻った。
二幕めは、同じ低調は低調なりに、平とん平と浜の掛け合い漫才で笑わせられた。あれはテレビで、川越辺を舞台に監察医を演じる浜と刑事役の平との掛け合
いを、アテ込みで舞台へ移しただけの話で、テレビと舞台の野合のようなもの、演劇的な効果でも何でもない。それでも思わず笑ってしまう。笑わせる浜も平も
へたではない。だがまあ、なんという臭い芝居だろう。軽妙感が自然に出るのではない、見たかとばかり計算ずくでの経妙の押しつけで、極めて芝居そのものが
やすい。
もっとも客は大喜びしているのだから、狙い目を当てているのだと胸を張られれば、ああそえうですかと引き下がるしかない。
見終わって、収支決算、妻は楽しんだと言う。わたしも楽しまなかったとは言わない。やれやれ。
井上ひさし氏の母なる人の原作を脚色し、再演ものである。大衆演劇とはこういうものなのだろう、狭苦しい小劇場で熱気を噴き上げている演劇青年たちが最
も軽蔑している芝居の起こし方であるが、この世界で成功するとは、結局小劇場からこういう大劇場に登場して広い客席を連日満員にしてみせることを謂うのだ
ろうか。なんだか、切なくなってくる、よそながら。
今度は十朱幸代「雪国」の芸術座で、もう少し深く楽しみたいものだ。
* 有楽町レバンテで、結局ビールをのんでから有楽町線ですうっと帰った。わたしは小竹向原まで坐れなかった。一
連の作業の九割方を終えていて、気
の楽な一日の休息だった。
* 二月十五日 火
* ペンの理事会は、退屈だった。原則にしたがった抗議声明がまた一つ。小波一つ立たない。
* 人生を変えた一言とかに百数十の原稿が集まり、三十編しか使えないという。どうする。
文学の充実をと二言目には会長は言う。賛成である。それならば、人生を変えた一言や癌体験談などで資金稼ぎはいいとして、もう一方では、手に入り難く
なっている真の名著や研究への出版補助や復刊・新刊も考えたらどんなものか。井上靖の第一詩集『北国』など、また茂吉の第一歌集『赤光』などのコンコーダ
ンス(用字用語辞典)とか。とにかくもっと「真に文学的なこと」にも意を用いたらどんなものか。加賀乙彦副会長など、文学作家として、もう少し「文学的に
意義も価値もあるペンクラブ」の方へ力を尽くされてはいかがか。理事会に出ていても、言論表現委員会に出ていても、これは文学者の団体なんだろうか、法規
検討委員会なのではないかと、ときどきキョトンとしてしまう。平和も人権も環境も獄中作家も政治の監視も、みな大切なのはよくよく分かっているが、ペンク
ラブの場合、分母はやはり「文学・表現」であろうと思う。その分母がどっかへ消え失せたのではないか、見失われていないかと、時々ならず、憂わしくなる。
* 梅原さんは『法然』を、もう千枚も書いているのだという。これには感心した。山折さんの『悪と往生』が、氏
の、最近の仕事の中でも出色のものと
いうことでも、梅原さんと意見が合った。理事会の始まる前の、二人での対話である。
そんなのと較べると、理事会本体の話は熱もなく活気も切迫感もなく、退屈至極。
* 「本とコンピュータ」のインタビュー、東京會舘喫茶室で七時まで。あらましは原稿で渡してあったので、補足的 に。なにもなにも過渡期の話で、確 信を持って話せることではない。何を話しても、まともに受け取れ自分のこととして考えられる人の少ないのが、「電子メディア」の話題である。いくらか空し いが、さりとて放っておけることでもない。
* ペンの懇親会に少し戻り、それから、帝劇下の香味屋でひとりディナーを取り、足元の有楽町線で帰宅。香味屋で
も電車でも、ずっと「浜松中納言物
語」に関する研究論文に読みふけっていた。菅原孝標女、「更級日記」の著者の手になる物語という説が有力なもの。早く配本されて原作を読みたい。楽しみ
が、先に先に、まだまだ、いろいろ有る。
晩景、東京にも保谷にも風が吹きすさんでいた。
* 二月十六日 水
* このところ「島崎藤村論集」をほぼ一冊読み終えたが、さて藤村を語る糸口を掴むのに、いい助けは得られなかっ
た。
作品『家』は、藤村文学の最高峰と思っているので読み出したが、たしかにみごとなもので、尊敬の念をますます新たにも深くもした。だが、藤村について話
す、八月に話す、話せるだろうという自信は持てなかった。わざわざ馬籠の藤村記念館まで出かけてやっつけの話はしたくない。それで、今日お断りの手紙を鈴
木昭一館長宛に出した。
鈴木さんは久しい湖の本の読者であり、勤務校である奈良あやめ池の女子大学まで講演に行ったこともあり、また藤村学会に招かれて『破戒』について講演し
たこともある、重々お世話になっている方なのだが、それだからこそいい加減なことは出来ない、自信がもてませんとお断りした。
『家』も『新生』も『夜明け前』もこの機会に楽しんで読み直そうと思う。どうも『春』の辺が、わたしは苦手なのである。藤村には、多大の尊敬と、いくばく
かの苦手感覚をわたしは持っている。それでも平野謙のいうのと全く同じで、藤村の背負った「家」の重さたるや、志賀直哉の『大津順吉』や『和解』のあれし
きが全くバカらしくなるほど、莫大に悲惨で、またそれに堪えた苦渋が作品世界にべっとりと染み込んでいる。すばらしい文学であるが、心を楽しませるわけで
はない。いや楽しませないのは作品の内容であり、癖に満ち満ちていながらも文章表現の読ませることといえば、また凄い魔力・魅力に溢れている。『家』の出
だし一二章の完璧な叙事など、恐れ入って平伏してしまう。重量感と臨在感、リアリズムの完璧。しんから驚嘆する。直哉のそれとは直には比較しにくいが、藤
村の方がズッシーンと読み重りのすることは確かである。
いい機会をもらったので、買い置きの全集をおおかた読んでみたい。
* 冷える。椅子に腰かけた膝から下が痛んできた。
* 石原都政が、青島都政からはっきり離れて個性的に動的になっていることを、わたしは虚心に歓迎する。青島にも
文学的に分かりいい人肌の温みを期
待していたのに、冷え込む一方で落胆甚だしいものがあった。やはり個人として存立する文学的な自信度の差か、石原慎太郎がバカバカしいムチャクチャを言っ
たりしたりしない限りは、今の調子が都民にも市民感覚にも分かりよく肌触りがいい。福祉問題など不服もあるが、銀行課税問題なども納得しやすいし、都立四
大学の統合構想などもやむを得ないだけでなく時宜に適っているかも知れない。根本ではチガウ政治思想の持ち主であるけれど、人間的に体温が冷え込まず、都
政に活性をむしろ生んでいることには支持の念を隠さない。
* 二月十六日 つづき
* コンピュータないし電子メディアに関する「悪声」は当分いろいろに続くだろう、続いて当然なのであり、異とす
るに足りない。但し歴史的な先方視
野をなるべく正確に見て取り、見当違いな反応は少しでも避けて行く知性や理性が必要だろう。
コンビュータないし電子メディアで恐ろしいのは、ハッカーの悪質ないたずらが、厳しい取り締まりや処罰の対象にされる・されない程度のことではない。
いわゆるサイバーテロリズムが現実的に恐怖の的に今やなってきており、さらに加えてそのサイバーテロそのものを、武力行使の一環に「当然取り込む」と宣
言し動き出したアメリカの戦略姿勢ーーまさに制圧を計りつつ、行使をも計って行く姿勢ーーが、本当に恐ろしいのである。国防省のスポークスマンは、敵方の
コンピュータシステムの破壊攻撃は、核攻撃よりも「優雅」だと話していたが、それは、サイバーテロに核攻撃なみの「効果」が期待できることの「確認」宣言
でもあった。具体的なそのシミュレーションは破壊と惨劇をありありと実感させ、多少でもコンピュータに慣れた者なら、ウソだとは思われずに戦慄にとらわれ
る。
「核」「核」と、原則にしたがい鸚鵡のように単純な抗議声明を出しているだけでなく、サイバーテロリズムという核なみに恐るべき「電子メディア」問題に
も目覚めなければいけないのではないか、本気で「世界平和」を望むのならば。
* 木更津市木更津から庄司肇氏の出される「きゃらばん」49号は、「私」小説論のための第四集で、特に、巻頭の 『「私小説」私論』はたいした面白 さであり、重要な提言である。出たばかりのもの故、ここに要旨を紹介してはいけなかろう。逢ったことは一度もないが明らかに私より年配の文学魂矍鑠たる方 で、お医者さんである。著書も沢山ある。なんとなく心親しい。湖の本にもずいぶん送金していただいている。恐縮し感謝している。
* 二月十七日 木
* 梅原猛氏の『日向神話の旅』では、神話が、神話的だけれども何らか拠り所のある事跡として探訪されており、だ
が、他方に歴史的に現存した「委奴
國」や「邪馬台国」などの歴史的・文献的な事実とは、触れ合おうとしていない。難しい機微ではあるが、まともに九州での神話時代を問い続けるには、「委奴
國」や「邪馬台国」時代との、また「肥前國風土記」などとの接点を失うことは、大きな不備に繋がる。
紀行として読めば梅原式でもよく、だがもう一段踏み込んだ研究となるには、さらなる用意の深さが望まれる。わたしの「蛇=水神」視点などからみても、梅
原さんの神話理解には、想像力のやや尋常な薄さが感じられる。一点注視でやや近視眼的にその場でことを片づけてしまおうとしている。現地に即する姿勢は大
切であるとともに、それにのみ足をすくわれない、もっと堅固な視点と広い視野との確保が大切だろう。その辺が梅原日本学がご本人の大きなかけ声ほどは学問
世界で正面から問題にされない理由になっているのではないか。参考文献や先学のオリジナリテイーへの配慮考慮も少なく、面白い評論に終わることが多いのは
惜しまれる。
わたしの定義ではいい「評論」は面白くて正しいもの、良い「研究」は正しくて面白いもの。梅原さんの著述が、正しさへの深い手続きや配慮以上に、面白さ
への熱中度が高いと人に感じさせやすいのは、学問的には明らかに損であり欠陥になっている。
* 源氏物語を「匂兵部卿宮」の巻から読み始めた。「紅梅」「竹河」とならんで、光源氏死後の過渡期の模索がつづ
き、そして宇治十帖へ連続する。な
にもなにも大きな或るものの通り過ぎていったあとの物語であり、物語の歴史でいえば、最も具体的に、のちのちに感化し影響したのも宇治の物語であった。少
なくもそこでは、男と並んで、女の主体的な運命が、男の蔭ででなく表へ現れて、問われ始める。大君、中君、浮舟の三姉妹が、匂宮や薫大将とほぼ対等に人生
を悩み、それぞれに自身を自身の意思で処して行こうとしている。わたしは殊に宇治中君をむかしから愛してきたが、その生き方が、『夜の寝覚』の中君に引き
継がれて徹底して行く面白さを、大事に感じている。寝覚や浜松の面白さを満喫したいが為にも、宇治十帖を気を入れて読み直したい。
思えば未熟は未熟ながら、胸膨らませて大学に入った年に、専攻に「紀要」らしきものがはじめて出来、一年生ながら投稿して活字になった文章が「宇治十
帖」論だった。お話にもならないものだが、あの頃のわたしの源氏読みは、まだ島津久基校訂の、たいへん読みにくい岩波文庫版だった。それでも魅力にひか
れ、繰り返し読んだ。「匂宮」の巻のような、ま、半端な巻でさえ、読み始めるとたちまちに別次元に引き込まれる。こっちの方が、もともとの自分の世界のよ
うに思われてくるか
ら、妙だ。
* 『能の平家物語』原稿をぜんぶ、「エッセイ選 2 」に書き込んだ。ついでにもう十編ほど書き足しておきたいものだ。
* 映画「荒野の七人」を久しぶりに見た。ユル・ブリナーはこの映画がいちばん恰好良い。
* 二月十八日 金
* 志賀直哉の『日記』三巻めを見ている。若い頃とちがい記事が簡単で、一瞥でおよそ見える。おそるべく日々の来
客の多い人であり、同様に他を訪問
することの多い人である。瀧井孝作先生は一時期直哉の家の近くに住まわれ、志賀・瀧井の交互の訪問は日のうちにも繰り返され、話し、遊び、将棋を挑み合
い、用事を頼みと、思わず唸ってしまう親密ぶり。もともと、わたしに、そういう性癖がない。瀧井先生は数度八王子のお宅からお電話を下さり、言下に「い
らっしゃい」であった。わたしも、即座に家を出たものの、自分から思い立ってお邪魔するといったことはしなかった。
志賀直哉の日々を覗いていると、そういう交際ぬきの日常はあり得ないかのようである。
家族も多く、直哉は癇癪玉を始終破裂させており、子どもたちも奥さんも直哉本人も、しょっちゅう順繰りに頭痛や風邪や発熱で困っている。そんな中で、不
規則に創作している。『暗夜行路』前編の初版が三千五百部だとある。
* 直哉の日常から、藤村の『家』に転じると、これはまあ何という深い昏い嘆きの世界だろう。小泉三吉は新妻お雪
を迎えて教師暮らしの合間に、妻や
書生と慣れない畑仕事をしている。そんな辺りがわずかに日の光の作中に照っているときである。藤村の妻は秦氏であった。いまその縁者に当たる方が、札幌か
ら「湖の本」を買っていて下さる。
「お雪」の人生は悲しく若くして果てた。子どもたちも多く生まれて多く死んだ。そして『破戒』などの作品が世に送られた。
藤村の初期の作品は「緑陰叢書」の名で出版されている。改造社とか博文館とかいった既成の出版社からでなく、いわば藤村自前の出
版方式を採ったものである。そういうことにもわたしは関心があるが、よくよく思えば、わたしは藤村の伝記的な理解を十分持っていない。適当な参考書
も手元にない。ただ主要作品と年譜だけを大切に読んできた。『破戒』『家』『新生』『夜明け前』それに『春』や随筆や短編の主なものを。やはり「年譜」で
いいか
ら詳細なものを『全集』から読み取っておきたい。全集に語彙索引の無いのは残念だ。索引のない全集は落第だ。
* 源氏物語に戻ると、家に帰ったような安堵感がある。
* 十朱幸代の「雪国」をいよいよ観る。佳い舞台であって欲しい。
三月には日生劇場で『海神別荘』がある。これに、ワクワクしている。上村吉弥も出るので、今度は我當の山岡鉄太郎よりも鏡花作品の方に注文をだした。あ
の幻怪な好戯曲を誰がどう演出しどう演ずるのか、そんな情報も持たないまま、付け人の大久保さんに切符を注文した。
* 二月十九日 土
* 日比谷芸術座、川端康成原作「雪国」を十朱幸代の駒子、田中健の島村、小林綾子の葉子で見てきた。文章の美し
さ、表現の深さでは屈指の文豪の、
第一と推しても過言でない名作だが、それは文学としてであり、舞台に載せると妙味の大半は溶けて流れてしまう。堅固な劇的世界というよりは情趣の世界であ
るから、よほど人物関係に惚れ込んで共感しない限り、これは何という(けしからん、あやしげな)お話なのでしょうか、ということになる。そこは谷崎の『細
雪』と大分ちがう。谷崎のドラマには肉体も骨格もあり、『細雪』にしても単なる絵巻物ではないから、澤口靖子の「雪子」に魅入られた帝劇のあの舞台とまる
でちがう別の『細雪』劇化も十分可能だけれど、川端の『雪国』だと、どうしても今日の芝居を、筋書きとしては大きくは出られない。情緒的に共鳴できなけれ
ば、なにですかこれは、となる。
三幕が幾場面にもなっていて、スクリーンをおろして「雪国」湯沢の四季が、みごとな映像として映し出され、十朱のナレーションが入る。原作『雪国』の文
章を読むのであるから、映像との相乗効果で、みごとな「文学」になる。すばらしい文藝だと今さらに感心し感嘆しているうちに、舞台になる。
十朱幸代はいい女優だが独特のエロキューションで、早い話がべたついた甘えた声を出す。それがいいときもあり、まずいときもある。駒子ではいい効果には
なっていなかった気がする。原作『雪国』は駒子の稟とした哀情と魅力で保っている。わたしの読んで描いていた脳裡の駒子と、十朱の駒子とでは、径庭甚だし
いものがあった。だが、だから十朱のは全然良くないとも言えない。可愛らしい悲しい寂しい駒子になっていたが、きりっとした凛とした駒子ではなかった。江
戸前の芸者ではない、客とも寝るいわば田舎芸者なのだものといえば、それに違いない。駒子の運命は、きくよという場所替えして落ちぶれて行く姉芸者、不治
の病で死んで行く師匠芸者がいわば未来図を描いてくれていて、駒子も葉子もそれを見知っているが、どうにもならない。島村には何も期待できない。
途中で出て行きたいような芝居ではなかったが、とくにほろりともしなかった。強いインパクトはなく、それは男島村のもはや時代おくれな男の勝手が、どう
してもピンとこないためで、妻など、大いに頭に来たようであった。
* わたしはまた『雪国』が読みたいと思ったし、妻は読みたいとは思わないと言う。『細雪』の方がずっとよかった
と言う。しかし浜木綿子の「ガタゴ
ト列車に乗って」の、ただ漫才なみの掛け合いで笑わせただけよりは、舞台「雪国」に対し不満は無いとも言う。同感だ。十朱が期待したほど美しい芸者に見え
なかったのも残念。
幕間に持参の弁当をとり、帰りに日比谷でシナ蕎麦を食べ、有楽町から帰った。
三月には帝劇、大地真央のミュージカル「ローマの休日」を招待して貰っている。日生劇場の「海神別荘」とどんな勝負になるか。大地真央の歌は「マイ・
フェアレディー」で聴いている。まずまずの歌唱であった。「ローマの休日」は初演で好評の作、楽しみだ。
* ホームページの長編が難所にかかり、作中の主人公に対し、かなり険悪に立ち向かわねば済まなくなっている。 ホームページの外で書く小説は、むし ろ昔のようなタッチのもので、これは人知れず仕上げて行く。ホームページだけがわたしの「文学」の場であるわけはない。その辺、わたし自身は錯覚していな い。
* 東工大の学生諸君らの住所録を、マイクロソフト・アウトルックのツールに整理してみた。七十人以上と現に連絡
が取れ合えている。総合Bという三
年生主体の特殊講義の教室が、ちょうどそれぐらいの人数だった。この上にもう七十人ももし連絡がついたにしても、おおかたわたしは一人一人を記憶している
だろう。彼はどうしたかな彼女はと、顔も名もいまもよく大勢思い出す。
* 二月二十日 日
* 「白磁」という、佐賀県伊万里辺の同人誌がときどき届く。今度のは主宰の片岡繁男氏の長編一本で一冊になって
いる。片岡氏だけが東京の中野在住
と同人名簿にある。半分ほど読み進んだが、雑駁な構成で、物語でいう「語り地」があらわに頻出し、話題のとびはねかたに放埒感が凄い。しかし題材とすると
ころの生月の隠れ切支丹がらみは、なかなか興味深い。安易な語り地を全部殺ぎ捨て、もっと小説の文章で語り手の主観をおさえながら切実に書けば、とても深
いものが現れ出そうな気がする。亡くなった三原誠氏のキリシタンものは、もっと求心的に迫力のよく絞り込めた作であった。懐かしい。
片岡氏の作品からは、ちょっと書き留めておきたいような佳い知識や情報が受け取れる。そういう功徳はしかし小説の為になるとは限らない。それでも、面白
い。
* 直哉の『日記』に、癇癪玉の爆裂音が連続している。そのなかでときどき若々しい藝術論が書き留められていて、 興味深い。今のわたしの長編の主人 公に聴かせてやりたいような言葉があった。
* 東工大院卒の社会人から、いいメールが届いた。真っ直ぐものを見て、よく考え抜く人だった。
* あと一月あまりで、また後輩を迎える時期となり、社会人生活も、はや三年目となります。(東工大で、秦さんの
教室にいた後輩が、一人入ってくる
ようです。)
社会は、なんとも分からない存在です。
それを動かしているのは、学生時代に秦さんの教室などで考えていたような本質的なことでは、ほとんどの場合なく、もっと詰まらないことのように感じま
す。いかにモノが売れるかとか、いかに人を集めるかとか。もっとひどい場合、気まぐれのような好き嫌いで動いてゆく場合も。そして、本質なんてものがある
ことさえ、ほとんど忘れ去られているようです。
そして、そうしたことに驚くほどのエネルギーをつぎ込んでいる人々が、どれだけの充実感と幸せを感じているのかというと、かなり疑わしいように思いま
す。だれもが、そんなに望んでいない方向に、転がるように進んでいってしまっている。そんな風にも感じてしまいます。
無自覚に取り込まれてしまいたくない、と自戒しています。
日々お忙しいでしょうが、またぜひお目にかかりたいです。
それでは、お元気で。
* この人の言うとおりである。みんな遮二無二、なにかしら世に出てやっているつもりであり、作家や詩人や批評家
や哲学者でもみんなそうである。よ
ほど得意なつもりであんなにやってるんだなあと思って眺めていると、ときどき、笑えてしまうことがあるが、なにがなんでも遮二無二やっている。なかなか本
人は「転がるように進んで」いるとも気付いていない。それどころか何かしら理屈がついてまわる。なに、自分だって似たもの同士のような按配で、やりきれな
くなるし、恥ずかしくなる。
* 二月二十一日 月
* 難しい問題で、以前の学生君のメールが届いた。大学での大教室で、わたしへの「挨拶」の中で、ある女子学生が 妊娠中絶した苦痛と悲哀とを、死の 誘惑とともに訴えたことがあった。この男子学生君はそれも覚えていたのだろう。
* 先週の寒波により雪が積もりました(10cm位)。やっぱり、東京よりは寒いようです。ただ、空っ風は吹きま
せん。毎晩雨戸がカタカタ揺れる音
を聞いて、何だか心細くなった頃が懐かしく思われます。
ところで、今日まで、実家に帰っていました。私の友人で、留年していた人と1浪した人の、卒業記念の飲み会に参加したためです。
結構久しぶりの友人も多かったので、盛り上がったのですが、そんな中、いかにも「秦講義」ネタっぽいことが話題になりました。別に、議題に対して「挨
拶」をするというわけではなく、私が秦講義で聞いて印象に残っていたある挨拶に関するキーワード、「中絶」が、現実のものとして耳にはいってきたので、連
想したのです。それは以下のような話でした・・・
私のある友人(彼)に、恋人(彼女)が出来ました。彼は、彼女と付き合っていくうちに、結婚まで考え始めました。
しかし、付き合って数ヶ月後、彼女が妊娠しました。彼はその数ヶ月前まで、床をともにしたことは無かったのです。色々と問いただしてみたところ、彼女は
彼と付き合う前、遊びで一夜をともにした男友達がいたそうです。そのことを聞いてショックを受けた彼は、中絶することを切望し、ケリをつけようとしまし
た。しかし、彼女は、それを認めず、彼の元を離れ、男友達と結婚すると言い始め・・・恋は破局してしまったのでした。
随分と重たい話の展開に私は驚くばかりでした。
残念ながら、女と寝たことも無い私には、推測するしかないことです。
仮に中絶して、恋愛を継続させた場合を仮定すると、以下の問題があるのかなと思います。
自分の問題: 中絶させたとして、その恋人とそれから先も一生わだかまりをもたずに、付き合っていけるかどうか。
恋人の問題: 折角宿った命を強制的に排除することに対する罪の意識。それを勧めた恋人に対する不信。中絶手術による後遺症というリスク。
無論、産むと仮定しても問題はあると思います。また二人だけの問題ではなく、新しい生命に対する問題もあると思います。
私は避けて通れるのであれば避けて通りたいですが、もし、この問題に直面したら、どうするか。余り考えたくないですね。
今年の3月は、研究室の先輩後輩が卒業したり、部活の仲間との飲みもあるので、帰る機会も増えるかと思います。上記の事なども酒の肴にして、またお会い
したいです。
* もう、珍しいほどの事ではなくなっているが。最終的には、この元学生君の判断に同感する。
* 「唯仏与仏」「仏仏相念」という語を識った。尊いと思う。
* 鈴木大拙といえば、佛教思想と哲学との言葉をうしなうほどの尊い碩学であった。この人が、ゴキブリにだけはス リッパを握りしめ血相を変えて追い かけたという。晩年に侍した秘書岡村美穂子さんの『思い出』に語られているという。すばらしい一文で、片岡繁男氏の小説からの孫引きだが、書き写さずにお れない。
* 大拙先生は、家の中でゲジゲジやその他の虫を見ると、「君たちはこんなところにいるよりは、外にいる方がいい
んだ」と、いい聞かせながら、窓を
あけ、火ばしなどを使って外へつまみ出したものです。
ところが、ゴキブリとなると、ことは別、先生は目の色を変え、素早くスリッパの片方をぬぎ、それを振り上げながら右に左にバタバタと追いかけまわす。た
いていの場合ゴキブリの方が大分上手と見えて、先生はハーハーと息を切らして戻ってこられるのですが、くやしそう。これで大拙先生にも大敵がいたのだと思
うと、私はおかしくて、つい釈迦に説法をしてみたくなって、「先生、すべてのものに仏性があるのでは…」と口出しをしてみますと、先生は断乎として、「い
や、あいつだけは困るんだ。本の糊をなめる悪い癖があっていかん。しかし、バカに足が早くて、どうにもかなわんわい」まるで対等の接戦に敗れた泣き言をき
かされているような気分なのです。
人間大拙も、ゴキブリも、所詮、おなじ衆生の仲間、困るときにはお互いに一生懸命困る。そこには優越感などの出てくる余裕もないようなのです。
* 評価はめいめいにすればよかろう、これもまた、わたしには尊い。
* 直哉の『日記』から、書き写しておきたい。
* 作家は書くという事で段々人生を深く知るより道がない、書いて見て初めて自分がその事をどの程度に深く知つて
いたかが判然して来る。書いて見て
如何にその事が本統の行ひでなかつたかといふ事も分かつて来る 深く書いて見なければその事は分からない。
人は段々孤独になるのが本統のやうだ その人の生活が孤独にならないのは生活が深まらない証拠である しかも孤独になつて行くと同時にそれが多くの人に
親しまれて行く、偉い人間の仕事は総て、左うして弘通するやうに思ふ 少なくも藝術家の生活は左うあらねばならぬやう思へる 孤独といふ意味未だ尽せぬが
孤独にして実は孤独でない生活。交際家が非常に賑やかに暮らしながら実は全く孤独であるといふその反対の意味なり。
* 後段には直哉の大正十五年当時の日常に対する反省が加えられていよう。この頃彼は四十三歳、充実を加え続けて いた。若い感想といえばそれまでだ が、この年の直哉はしきりにこれに類した感想を日記に書き込んでいて、さすがに、ふっと立ち止まらせてくれる。
* 二月二十一日 つづき
* ホームページのことで「赤旗」に依頼原稿を書いていた。忘れかけていたが、掲載された反響だろうか、一日でア クセスが百ほどあった。昔の勤務先 で部下だった人も懐かしいメールをくれた。労組のトップクラスの闘士だった。「見ましたよ」と言われて、何を見られたのかとキョトンとした。わたしのホー ムページなど、一日に三十人も覗いてもらえば十分だ。
* 社会人三年生になろうという元の学生君の「述懐」に、一年後輩から「挨拶」懐かしい!!!と、反響があった。
* 私などより、よほどに生臭い世界にいらっしゃるようです。それとも私が不感症なのか。
こういうのを聞くと、まだ工場で生産現場の元不良(ちょっと古いけど、”元”じゃない人もかなり多いです。)たちと働いているほうがわかりやすくてよい
のかもと思います。
> そして、そうしたことに驚くほどのエネルギーをつぎ込んでいる人々が、どれだけ
> の充実感と幸せを感じているのかというと、かなり疑わしいように思います。だれ
> もが、そんなに望んでいない方向に、転がるように進んでいってしまっている。そ
> んな風にも感じてしまいます。
私の場合は、現場の若い子達や同年輩の高卒の人たちの日々の充実した、汗を流して、仕事に誇りを持って生きている姿に、ついつい埋もれてしまいそうにな
ります。私にはそういう生き方が、とても羨ましく、感じます。
しかし彼らと私たちの間には、すごく深い、広い距離が開いていて、一緒に遊んでいても、時々ひやりとすることがあります。
会社は私に、一般的に見ると安いのですが、社内では最高の給料を与えています。私に望まれる役割期待も、もっともっと高いところにあるのだと、ことある
ごとに周囲の人々から感じさせられます。がんばらないと、と思います。
うまく説明できなくてすみません。
学校にいるときには、こんな世界があることは知っていても、「こうまですごいとは・・・」と思っています。でも、これでも、工場勤務の現場に近いところ
で働いている人たちの中では、相当うまくやっているほうです。大丈夫です。
>「痩せてはいけませんよ。」
> はやく世を投げて仕舞わないで。屈折の多かった君の青春は、
> その意味で表情豊かな個性的な青春であったと、わたしは思う。だいじにそこから芽 > 吹くべきものを育てて下さい。
私も愚痴ってしまったようです。
でもそれなりに面白い階級世界です。ヘルメットに線が入っていて、その太さと本数で偉さがすぐにわかるんですから。工場の敷地内は皆、ずっと作業着で安
全靴でヘルメットなので。
私もすごく太ってきました。運動しないので。
でも、「痩せてきている」と思います。自覚症状あります。日々の労働に疲れていて、いろんなことを考えることができなくなっています。
いつまでこの状態でやっていけるのか、いつか慣れるのか、あまり深く考えるまでは、いつも起きていられません。疲れて眠ってしまいます。だから助かって
いるのかもしれません。
この生活もいい経験だと思っています。
ただこのままでは、後悔しそうです。
明日の朝、新幹線で**に行って、特許の研修を4日間受けます。久々に同期の友達と会えるので、仕事よりよほど気が楽です。
愚痴を言うと少し楽になった気がします。すみません。
「本質」・・・・重要ですね。しっかりしないといけないです。
助かりました。また暫くがんばれそうです。ありがとうございます。
* おそらくこうであろうという位置・地位を占めて、それなりに葛藤し思案している「東工大卒業生」の姿が見えて
くる。
* 二月二十二日 火
* 青山のテピアホールで、日本文藝家協会のシンポジウム「活字のたそがれか?ネットワーク時代の言論と公共性」
があり、参加した。
司会は電子メディア委員会の島田雅彦氏。パネラーは国会図書館から、書店から、新聞社から、そして弁護士、電子メディアのプロ、さらに作家二人と詩人弁
護士。
パネラーによるバラツキは致し方なく、全体には大事な問題に多く触れていて、良かったとも言え、また、要するに、どうにもならないほど先行きは難儀と分
かっただけでもあった。出口のないトンルネに入ってしまい、ただもうワンワンと怯えているが、何に怯えているのかも判然としない。
* 「電子図書館」という言葉が、人により状況により、まちまちに使われている。図書館の電子化と電子図書館と
は、ちがうだろう。電子出版と電子本
もちがうだろう。概念が、その人・人の理解なりに使われているので、理解が、収束されにくい。
図書館機能と電子メディアの連携では、わたしなどは、むしろ、劣化破滅寸前の、刊本になっていない「貴重な文書文化財」の保存を、ぜひ視野に入れて欲し
い。言うまでもないが、漱石や鴎外などの作品を今さら図書館が優先して電子化に奔走してくれる必要はない。広い公共化もたいせつだが、一般の力では及びも
つかない、しかし時機を失しては破滅存亡の危機にある文化財保存にぜひ力を入れて欲しい。それらがネットワークの恩恵と無縁であって良いとは思わない。
* ネットワークなど、せいぜいここ五年のはなしである。わたしが「湖の本」を考え始め、始動し、軌道に乗せてか
ら十五年。作家によるいわば「産地
直送」方式の出版を、わたしは、着実に維持し続けてきた。六十二巻の実績は、たんなる道楽の域を超えて、これを不成功と退け得る人はいまい。
そういう実践者の思いで聞いていると、なんだ、今頃そんなことを言うているのか、やっと、そんなことに気がついてきたのかと思うことも多く、珍しげない
発言がいっぱいあったが、あたかもそれが時代の最先端のなお先取りかのように発言されていて、おやおやまあと、妙に可笑しかった。
「紙の本」についてもそうだが、電子メディア利用の出版活動についても、先日来、この「私語の刻」で書いて思い、また予測してきたことと変わったこと
は、殆ど話されていなかった。電子メディア著作権の殆ど実質無効に近い現況や未来性のことも、課金システムの難しさも、紙の本の高級化保存傾向も、著作者
の経済権確保の容易でないことも、みんな、わたし程度の者の思い至っている範囲を出ていない。そして、大事なことは、具体案が全く出てこないことだ。
* 電子メディア出版契約書づくりなどは、まさに、今を失しては、またしても、これまで以上にひどいめに著作権者 があうのは明白なのに、その為の組 織的対応に踏み出そうとも、協会とペンとが協同してとも、ちっとも具体的な提案がない。展望もない。動きが、ない。それでは、題目をならべているだけで、 つまりは単に評論しているだけに過ぎない。評論など百万だら並べても、屁の突っ張りにもなりはしない。戦略なき闘いは負けるに決まっている。
* 「活字のたそがれか?ネットワーク時代の言論と公共性」という、この、ぼやんとした把握の弱さが、下手な小説 のように、弱みの全てを明かしてい る。いっそ「ネットワーク時代に、著述者(著作権者)はどう立ち向かうか」その具体的な対策や対応を語り合うべきであった。図書館と新聞社と書店などは、 話題を散漫にしただけ、思い切って省いてよかった。その方が、問題の火の粉を真っ向にかぶって、会員たちの会場も、もっと白熱しただろう。こんなシンポジ ウムを企画するのなら、そもそも「知的所有権委員会」が一度も招集されないのがおかしい。もっと衆知を寄せあつめて、より良い企画で、狙いを定めて開催す べきなのだ。
* 個々のパネラーの発言に、学んだことや、聞きたいことが沢山あるが、それは、ここでは省く。せめて文藝家協会 で、シンポジウムの遣りっぱなしで なく、何がこれから必要かをさらに話し合って、たんなるガス抜きシンポにしてしまわないで欲しい。
* 「平成太郎の館」の代表片倉啓文氏から、ホームページ作品を縦書きにしないかとお勧めを受けている。メールを
立て続けに頂戴しており、なかな
か、わたしにはそのメールを「読みとる」のも難しいのだが、勉強しなくてはなるまい。
今日パネラーとして出ていた中村正三郎氏のホームページも、ぜひ観てみたい。一日に十何万とアクセスがあるそうな。そういう話はときどき聴くし、「マス
コミュニケーション」の意味を承知しているから、それ自体に驚きはしないが、なぜそうなるのか、観て分かれば面白いなと思う。わたしのこのホームページな
ど、ま、まる二年して一万アクセスに大接近の程度であるが、ま、「倉庫」などというのは、覗き込んでもともと面白いものではない。保存館ホームページと、
もっと読みやすい美しく創ったもう一つのホームページをもつのも面白いだろうか。
* シンポジウムに出る前に、珍しく久方ぶりに玄関まで、原善君が来てくれた。三月十一日三時から五時半の「秦文 学研究会公開読書会」用に、テキス トになる小説『清経入水』を受け取りに来てくれた。駅まで自動車に乗せてもらった。ちょっと久しぶりの研究会だが、基盤が、専修大学から東京大学に移動 し、新しいメンバーが大勢参加することになったらしい。発表者も、初めて、東大院の倫理学研究者と案内状にはある。そんなわけで、また新たな気分でと『清 経入水』が選ばれたようだ。わたしは研究会には出ないが、終わる頃に顔を出して少し話し、学士会館分館での二次会には参加する。すべて面目一新の会になる らしく、感謝し、楽しみにしている。
* 明後日は聖路加病院で定期的な診察を受ける。ずっと酒気を抜いている。あすはほぼ絶食しようと思う。糖検査 も、どうも、今度こそは引っ掛かりそ うだ。今日も帰りに銀座へ戻って「こつるぎ」で寿司を食ってきたが、親方に笑われながら、酒は飲まなかった。
* 二月二十三日 水
* 研究会のこと、もう少し詳しくと希望があり、原善上武大教授の方で用意した案内を、書き写しておく。
* 秦文学研究会公開読書会のご案内
しばらく休会しておりました秦文学研究会の活動を再開することになりましたので、その第一回を公開の読書会の形で行いたいと思います。記念すべき再ス
タートに相応しく、秦文学の出発となった『清経入水』を取り上げたいと思います。お誘い合わせの上、多くの皆様にご参加戴けるよう、ご案内申し上げます。
記
日時 三月十一日 土 三時ー五時半
場所 東京大学(本郷) 法文1号館 215ゼミ室
発表者 先崎彰容氏 (東京大学院・倫理学)
テキスト 「秦恒平湖の本1 清経入水」 (テキストがご入用の方は
下記事務局宛て、できればFAXにて、お申し込み下さい。)
なお読書会そのものには参加されませんが、とう゛つは秦恒平氏も参加されます。
また、六時から、秦氏も含めての懇親会が、学士会館分館(赤門横)で、予定されています。こちらにもお時間の許される限りご参加戴きたいと思います。
秦文学研究会事務局 原善 Tel/Fax
*
この案内文には書かれていないので、これでいいのかも知れないが、たしか二次会の方は参加費を分担されていたように思う。念のために書き添えておく。
* あさってから新しい湖の本の発送になる。いつもの倍量以上の本で、ひとしお肉体的には疲労があるだろう。美し
く出来てきてくれるといいが。今日
は息子達が物置代わりに隣の階下に置き去りにしていった大きなソファベッドを、妻と二人で、二人ともフウフウ息を切らしながら、やっとこさ二階へ上げた。
そうしないと、本も置けないのである。あすは病院に。帰りには丸善の売り出しを覗いてきたい。
ミマンの連載原稿がもう期日へ。たてつづけの原稿依頼や会議・会合の日程がきまるなど、三月は様変わりに忙しそうである。
* 二月二十四日 木
* 幸いわたしの循環系はさしたる問題なく、ノーマルの範囲内にあった。体重も増えていなかった。それでも、おと
とい「こつるぎ」の親方はわたしを
九十キロほどかと見積もり、とんでもない、八十二キロほどだと実はヒヤヒヤの当てずっぽうを答えたものだ、ところが、ピタリ。つまり常平生体重計に乗った
ことが無く、ま、そんなものだろうと想って過ごしている始末。
糖尿その他の検査結果は三月はじめに分かるが、この方は、糖尿と限らずなにやらいろいろ引っ掛かりそうな気配がある。
それでも、とにかく検査は済んだと、病院の帰りに銀座「シェ・モア」でフランス料理をフルコースで食べ、ハウスワインとビール。すかっとした。ついでに
丸善へまわり、わたしは、わたしにでも着られるサイズのシャツを四枚買い、妻は靴を買った。ここには売場にわたしの昔の女友達の娘さんが勤めていて、会計
をしてくれた。暫く見ぬ間に美しい人になっていたので驚いた。電メ研の中川五郎さんともぱったり会った。
丸善に入る前に、妻が薬局で処方の薬を受け取りたがり、手近の薬局にとびこんだところ、処方箋の名前をみた若い女性の薬剤師が、作家の秦さんかとびっく
りして尋ねてきた。昔から大の愛読者で単行本もおおかた揃えていますと。びっくりした。そういう嬉しい目にはめったに逢わないものだ。
むかし、地下鉄に乗ったら、目の前の若い女性が新刊の『慈子』に読みふけっているので嬉しかったのを覚えている。たまたま歌集の『少年』を持っていたの
で、その場で差し上げ、下車した。何方とも知らなかったが、「湖の本」を始めた時からの継続読者に成ってもらっている。珍しい体験だった、今日の出逢い
も。
* 先日のシンポジウムで、初版三千部ぐらいの作家は「天然記念物」と、パネラーの三田誠広君が発言していた。
「なんと売れない」という諷喩のつも
りなのだが、あまり人柄を美しくは感じさせない聞き苦しい発言で、彼のために惜しい気がした。若いなと思った。詩人の中村稔さんからすぐ横やりが入ってい
た。司会の島田雅彦君も、ただし此の世界はオモシロイ世界で、たくさん売れない人でもけっこう威張っていられるんです、どうしても作品の質が微妙に問題に
なるから、と発言していた。
たしかに、それは、ある。
三田君の以前に呉れた朝日の連載小説だったか、雑駁な、浅い印象のもので、読めなかった。とても天然記念物には指定もされまい読み物だった。しかし最近
もらった、シリーズものらしい比較的真面目なエッセイは、面白かった。家内がせっせと読んでいた。
よく言うことだが、泉鏡花の若き現役の頃、固定読者が五百人も有ると聞いて、田山花袋ら自然主義の作家達が羨ましがり、また鏡花をいじめたなどと、半分
以上事実であろう、言い伝えられている。そういうものだ。志賀直哉の『暗夜行路』前編の初版が三千五百部だったと、『日記』で読んだばかりだ。本当のとこ
ろ、初版が三千でも、文学作品の場合はむしろ妥当なので、大衆的な声価の定まった作家の場合は知らず、いまどきの若い作家で、はなから沢山などと威張れる
のは、どこか低俗な妥協の産物であることの多いのは、事実が、しばしば示しているのではないか。むしろ文学作家が軽薄になって、みごと天然記念物に成りよ
うもなくなっては困りものなのである。使い捨てのゴミのようなものを生産していてはみっともない。
* 明日から数日、あまり器械の前にはいられない。発送という肉体労働に入る。だが、明後日の晩は元の学生君と池
袋で会うことになっている。
* 二月二十五日 金
* 三月の日生劇場、鏡花の『海神別荘』の切符が届いた。やはり期待通り坂東玉三郎の主演・演出で、海の公子役は
市川新之介、これはピタリはまって
いる。「本朝二十四孝」で凛々しい若武者ぶりを観てから、妻も贔屓だ。好きな片岡秀太郎、上村吉弥、さらに市川左團次も「朱の盤坊」なみの面白い役で出
る。身震いするぐらい楽しみだ。
ついでに木挽町歌舞伎座の方の我當「山岡鉄太郎」も観てやろうかなと思いつつ、まだ決心していない。三月はさすがに忙しい。ミュージカル「ローマの休
日」に招かれていることだし、我當は割愛かなと。
* そろそろ本の搬入の刻限。いつもの倍のかさになる。玄関に入りきるだろうかと心配。天気はいいが、しんしんと
胃の腑まで冷えてきた。暫くは器械
の前へ来られまい。
* 二月二十六日 土
* 夕方、発送を中断して、池袋で、元東工大の降旗淳君、中野智行君と「いらか」で食事し、スパイスの「グラン・
メール」でうまい一番絞りを堪能し
た。二人とも建築の出で、建築論から始まり、降旗君の酔って居眠りし始めた後は、中野君と映画の話など。話題は多岐にわたりはずんで、愉快だった。気持ち
が生き生きした。中野君とさしむかいでしっかり話したのは初めてだが、メールでは何度か話題を交換してきた。降旗君とは久しい。息子よりも若い人と生彩に
富んだ対話を楽しめるなんて、得難いことだ。
帰りの電車を、ふっと居眠りして東久留米まで乗り越した。
* 丸善の近くで飛び込んだ薬局で初めて識った人から、メールが来た。高校生の頃に『みごもりの湖』と出逢い、 『慈子』も愛読してもらっていた人 が、いまは二人の子の母と。女の子なら「朝日子」と名付けようとまで思ってもらっていたと聴くと、胸が熱くなる。
* 展覧会への出品画が思うようにはかどらない、「助けて」という昔からの友達のメールも飛び込んできた。どうし て助けて上げられるか、そんな力は ないが、聖路加病院の帰り、丸善からの帰りにブリジストン美術館で観てきた安井曾太郎の「ばら」の繪には、妻も私もとても励まされた。佳い絵をやはり見た いものだと思う。友達にも、なにかしら無心に佳いモノに触れる機会があればいいと思う。上野の博物館へでもいっしょに付き合ってということかも知れない、 今は平成館はなにを見せているのだろう。
* バグワンを音読して深く落ち着き、心憧れるほどの気分で源氏物語を十数頁ほど読み、藤村の『家』を読み継ぐ。
別の部屋では直哉の『日記』を読み
返している。
充分だ、これで。そして寝に就く。金融なんとか庁の越智なんとやらいう大臣のバカさかげんや、あれやこれやのウンザリの事件続きには、ガッと背を向けて
いたくなる。
鳩山民主党も妙にひ弱げで、自自公の図太さには負けている。自自公を元気に批判する土井委員長の社民党には一人のスターも他にいないのだから、先行きは
心細い限りだ。なんだか政治家で目立っているのは、このところ石原都事ひとり、これはまた何としたことか。
* 謝って置かねばならない、自民党内で自自公連立は憲法違反だと語っていた白川代議士らは、三十五人ほどの同士をかためて、とにかくも党本部に抵抗し反
対運動をやめていない。いずれ腰砕けのなしのつぶてになるだろうと憎まれ口を利いていたが、ご免なさい、頑張ってほしい。
* 二月二十七日 日
* 直哉は『日記』に書いている。「民衆を対象として(即座に)藝術上の仕事は出来ない、一つの時代の少数な人を
対手に、幾時代を経て漸く多数の対
手を得るといふつもりでなければ藝術上の仕事は出来ない、小説は此意味で条件のいい藝術だ」と。「他に対し己を高く持する前に己れの卑俗に対し己を高く持
すべシ 自分が卑俗な人間だといふ気がしてゐては仕事は出来ない 高士になり済ます事嫌だが高士らしくしてゐる文人の気持ちはわかる ああしてゐなければ
彼等は仕事が出来なかつた 然し自分は高士ぶりたいとは思はぬ 普通人らしくの方が『らしく』なら選ぶ 然し心持は高士の心持でなければ駄目 気持落ちて
ゐては駄目」とも。
大正十四五年頃の日記で、直哉はやっと四十代に入った頃。若々しいといえば、そうだが、基本的にわたしも、このように感じている。
* 新刊、荷造りに頑張った。かなり妻を手伝わせてしまった。済まぬ。ひさしぶりに息子が電話をしてきた。器械の
二台目を買うという。ハードディス
クのクラッシュを心配しているらしい。三月八日と十日とに、つづけて彼の書いたドラマの放映があるという。生活はしているようだ。運もいいようだ。
* 二月二十八日 月
* 発送の仕事は終えた。
江藤淳処決から兄北澤恒彦自決までの四ヶ月間を、わたしが、日々どのように生きていたかを、ホームページから切り出してみた。原稿用紙にして六百五十枚
強になる。通常巻の二倍強になった。こういうことは、この機会以外に出来ることではなかった。いろんな意味で、我が平均値・日常性の読める分量であり、自
然にわたし自身の「索引」のようなものが出来上がっているだろう。赴くままに、ずいぶんあちこちへ突き当たって、ご無礼も敢えてしているが、邪意はない、
他意もない。いいと感じることはいいのだし、いやなものはイヤなのだ。
* 肉体労働が続いて、ほっこりしている。今夜はもうやすみたい。小説などの日課も済ませてある。昨日から今日へ、ビデオにとった「The
Longest
Day」を、二度続けて聴きながら観ながら、本を荷造りし続けていた。大味な戦闘場面だけの映画のように感じていたが、三時間余をきっちり追って行くと、
構図のしっかりした、なかなかのさすが記念作であると分かる。ジョン・ウェインはじめ、好きな男優がどっさり顔を見せてくれ、懐かしい。同じ記念作として
なら、「風とともに去りぬ」より、わるくない。
* はやく休もうとわたしを誘うのは、藤村の『家』だ。こんなにつらい重い生活もそうあるまいと思うが、それはそれとしても文学を読んで行く堪らない嬉し
さをも味あわせてくれる。読むのが「嬉しい」ような魅力。勝れた作品にはそれがある。なにも潤一郎や鏡花や川端だけが、漱石や鴎外や露伴だけが、楽しく読
めるのではない。わたしは花袋の『田舎教師』『時はすぎ逝く』『百夜』なども、題材は辛いけれども喜々として読んだ。読むことが嬉しかったものだ。ファシ
ネーション=FASCINATION。その魅惑は、題材では決まらない。そしてこの魅惑こそが芸術の魔術だとつくづく思う。
* 二月二十九日 日
* 昭和二十一年の今日、父は、祖父に死なれた哀しみのなかで、明日から旧円が新円に変わるというので、葬式代を なんとか旧円で支払いたいと苦慮し 奔走した。財産が封鎖され、規定額の新円だけが支給されて旧円は使えなかった。閏年の閏の日で、やかましく言うと祖父の命日は四年に一度しか来ないことに なる。お寺さんはそれを認めなかったのではないか、二月二十八日が命日になっている。
* 藤村の『家』を、ゆうべ、ゆっくり読んで、読み上げた。
京都にまだいた頃に古本屋でこの作品の入った作品集の片割れのような巻を買った。ちいさな版だった。読んで、しびれた。その以前に、破戒、新生、嵐、若
菜集などの入った、筑摩の文学全集第一回配本分を買って読んでいた。クロースとインクとの匂いのぶんぶんする真新しい配本で、これが「文学の匂い」かとば
かり、耽読した。『新生』を読みかけた日は腹痛が起きていた。のたうちながら堪えて、徹夜で読み上げた、全巻。
『家』は、そんな感激の継続で手に入れた。読んで、わたしは、この作品は新生にも破戒にも優っていると思ったほど、感心した。久しぶりに、といっても、
その後にも二度は読み返しているが、すこしも古びないで新たな感銘を受けた。家と人と暮らしと、そして喜怒哀楽が、クリアに、これほどのことが文章は、小
説は、出来るのだなと感じ入るほどクリアに、すこしのブレもなく写し取られている。しかも内容に重量があり真実感が深い。最近の文芸誌の小説など、軽い埃
のように『家』の前でしらじらしく舞い散ってしまう。藤村なんて古いという文学の愛好家がいるなら、文学の新しさというモノを知らないのだと思う。
* 日本ペンクラブの電メ研へ、人を招いてお話を聴かせて貰おうと、座長の役でお願いし、承知してもらえた。委員 は喜んで大歓迎。だが、事務局から 正式に依頼してもらう段になり、なんと足代の「一万円」だけが支払われると。これでは無料奉仕でお話し願うというのと変わりがない。今どき非常識に類する 頭の高さではないかと事務局に、一理事として苦情を申し入れた。断られても仕方がない。この時代、時間の単価はけっして安くない。
* 現代歌人協会理事長という人の、いや名前を出しておこう、篠弘氏の「文化交流の贈物」という歌八首が、「日中 文化交流」の三月一日号に載ってい た。連作というほど連携度は高くない、が、一首ずつ読むと自立の短歌作品としてはとても受け取りにくい。篠氏には、短歌に読者などいない、いらないという 態度でもあるなら知らず、また短歌とは散文と変わりなど在るものかという認識ならば知らず、さらに短歌なんて芸術ではないと思って歌人協会を率いているな ら知らず、あまりに独善の表白だと思うが、いかが。
善麿に随ひゆきて郭沫若にまみえしことをわが誇りとす
これは詩歌の「表現」だろうか。
日本がむしろ仏像まもりしと目を細めたるかの王冶秋
なんという独り合点のものだろう。
交流の贈物(たまもの)なると李瑞環祝(ほ)ぎくれたりし辞典を編みつ
何ですか、これは。
会ふたびに名刺を交はす習慣をわが詠みたれば頷く伊玖磨
これは判じ物にもならない。
オソマツの極みとはこれで、ここから短歌の魅力をくみ取れると強弁する人がいたら、お目に掛かりたい。ほんとう
は短歌界の中から、これほどのイー
ジーさ批判が出るべきだ。しかし、あまりこれは例外例ではないのをわたしは知っている。篠氏とは久しく親しくさせてもらっているので敢えて言えるのだが、
裸の王様ではなかろうかと心配する。
もう四首挙げるのもめんどうになった。
直截に評せば中国の詩人たち肉声を欲るしびるるまでに
しびるるまでの「短歌表現」を読ませて欲しい。
* 二月二十九日 つづき
* 東工大を卒業したわたしの愛する元学生達のなかで、最も内実の柔軟に豊かな、思索的な一人のメールを、書き込 ませてもらう。某県警の機動隊員の 一人である。こういう彼が好きである、これからさきの彼独自の「設計」にも期待して。
* 秦さんこんにちは。湖の本今届きました。ありがとうございます。
今日はまた風が冷たくなりました。私の今日の仕事は、夜、外でじーっと見張りをしている仕事なので、堪えそうです。
さて、建築、時空間、身体性、モノ、ココロ....この辺のところは僕もいずれ改めて考えてみたいと思いますが、この仕事に就くときなどに、こんなこと
を思いました。
もう二度と建築の設計をすることはないだろうけれども、設計は建築のみにあらず、設計したものの表現方法も、図面、空間のみにあらず。私が誰とどんなこ
とをするか、それそのものが設計であり、表現方法ではないか、と。
今もそうだと思っています。
そう思ったら大変楽になりました。今も、とても楽です。
(秦建日子脚本の)『マニュアル警察』をビデオにとってあるのですが、まだ見ていません。いずれ見て感想を記してみたいと思っています。
呼び方を秦先生から秦さんに変えてみました。私には秦先生、の方が言いやすいのですが、さん、もいいですね。
先生と言っていればいつまでも先生であって、大学の時に講義に出ていたという事実にいつまでも甘えていそうです。さん、ならそんなことはなく、今もこれ
からも、日々新たに関係を築いていきそうで。
さん、と呼びかけてみたら、そんな風に想いが巡りました。
夜に備えて、一眠りします。
そうそう、警察の不祥事が多々報道されておりますが、それら不祥事について一番無関心で居られるところはどこか、といったら、それは警察組織の中かもし
れません。
いや、事実として、私のいる職場では、また以前いた警察学校もそうですが、不祥事についての話が白熱することは、まず、ありません。
今は、そんなもんかもしれないナァ、と、そう思うに留めておくしかないのですが。
* 警察組織の中がそんなであるか、そんなでないところも多かろうと期待は残しているが、神奈川のも新潟のも、ただのオソマツと言って済ませないドサであ
る。安住しないで内部からもきちっと対応し改めて欲しい。
* 三月一日 水
* オームの、諸官庁コンピュータに働きかけていた隠然とした接近工作は、サイバーテロへの足がかりとして見れ ば、容易ならぬ破壊活動がすでに始動 しかけていたのだと、驚き、また呆れる。サイバーテロの恐ろしさについて、この頁で、「二月十六日つづき」の項にはっきり言い置いているが、あの通りの心 配の種が、アメリカならぬ我が國内でももう蠢いていたのだ、それにしても、なんという迂闊な認識だろう。官庁のお偉方も、ペンの理事諸公と同じに、コン ピュータなど「別世界の無縁な話」ぐらいに思ってきたのだろう、年齢と経歴から見てある程度無理のない話だが、もう、そんな甘ったれた事の言っていられる 時節ではない。好き嫌いはべつのことである。いやでもインフラに浸透しきって、我々の日々の暮らしにコンピュータは殆ど隙間なく機能している、分からぬ人 には見えていないだけのこと。
* 山形裕子さんの『子どもなんか』という歌集は、すさまじきものの一つで、すさまじさを面白いと言い替えるには
躊躇いがある。
生来あまりしっくりしないで過ごしてきた、すでに卒寿過ぎた実母を、歌人の娘が、娘のことばで、また母に化り変わって、短歌にしている。どこかで、湖の
本の前巻に収録したわたしの妻の「姑」と同じ趣向のようでもあるが、妻の聞き書きには、ゆとりこそあれ、山形さんの烈しさに遠く及ばない。
まず「こごと」である。
古漬けをまた捨てている 塩を抜きしゃきっと千に刻んでごらん
なんきんの種は洗って干しなさいあとでわたしが炒っておくから
この程度なら、老婆心であるが、「お舅(とう)さん」になると笑いが消える。
父サンはそこそこだったがお舅さんは男前でね胆がすわって
ひと目にて十九の娘を見抜かれたこの甲斐性をこの真心を
一雄には過ぎた嫁よとおっしゃって家の宝と呼んでおられた
お舅さんのお姑(かあ)さんへの口癖は嫁に習えよただそればかり
毎日の大福帳も取り上げて嫁の仕事と渡されました
わたくしにカレーやシチューを習うようお姑さんに指示もなさった
お舅さんに逆らうもののあるものか篠原郷の大将だもの
「母さんが来た」ら、大変だ。
唐辛子やめてちょうだい この家ももう母さんの味ではないわ
末っ子の文子の家は薄味で母さん風がまだ生きている
煮魚は嫌いと言っておいたはず年寄り扱いしないでおくれ
フィレならば薔薇の花ほどお刺身は鯛を四、五切れ 贅沢は敵
ひとよりもいたわられきたこの母は魚の腸(わた)などよう除(と)りません
母さんが裕子の家に慣れるまであかりはとれも消さずにおいて
今夜からしばらくそばで寝ておくれ猫の便所もこちらへ入れて
・
母さんは裕子のほかにこの家に人が居るのを忘れているわ
ま、こんなふうに母のことばが歌い、娘が母を歌い続けて、全一冊。嫁と姑ではない、実の母と娘の記録歌である。母のかわりに娘が母の言葉も態度も心根も
歌っている。そこが、凄まじい。
正直のところ、読んでいて愉快ではない。しかし、稀有の母が描かれてはいる、具体的に過ぎるほど率直に。敬服に、うーん、値すると言っておく。
* 藤村の『桜の実の熟する時』を読んでこなかった。今夜からこれを読書に加える。
* なつかしい元の女子学生二人から、メールが届いた。二人は仲良しで、教室ではいつも一緒だった。博士課程を卒
業まぎわの一人が結婚式をあげて、
それを、はんなりと嬉しそうに告げてきた。花嫁姿を秦さんにも見てもらいたかったと。親友の、もう一人は院を出て東芝に勤めている。花嫁姿が可愛らしかっ
たと伝えてきてくれた。この人は中村吉右衛門の芝居好き。こんど、一緒に歌舞伎が観たいと、わたしも、そう思う。そういえば、べつの女子学生三人にねだら
れ、歌舞伎座の前のまん中で「白波五人男」を通しで観たことが在学中にあった。パソコンの「先生」とも国立劇場で観た。妻も一緒に、若い人と歌舞伎という
の、いいなと思う。
ある女子院生は、今度の「湖の本」を故郷の母にぜひ読ませたいから送って上げてと、佳いメールを遙かスリランカから送ってきてくれた。久しい友人で読者
である花屋さんが、電話で「トウ小平」の「トウ」が誤字ですよと教えてきてくれた。この中国の指導者の姓は、かつてワープロでは打ち出せなかった。いつも
原稿の欄外に手書きしていた。今度も脱字のまま入稿し、校正でうかと間違えた。気がついたときは遅かった。自民党の山崎拓氏を巌氏にしてしまったのも校正
の時で、もとは「山崎某」としてあった。記憶違いも日記らしいが、身は縮む。
* ホームページの四ヶ月分が、こんな大冊になるのかと実感し、驚くばかりです。
私は、自分のPCのハードディスクに保存し、電話を切ってからディスプレイ上でじっくりと読んでいます。が、縦書きで製本されたものも、又、いい。寝そ
べって読むこともできる、外出先でもしかり。電子化と印刷、きっと共存していくことでしょう。
* 神戸から、末尾の一文などことに、嬉しいお便りであった。
* 三月二日 木
* 加療を必要とする申し分ない糖尿病で脂肪肝であり、少なくも月に一度の通院をと、聖路加内科の宣告を受けた。
昭和三十四年に上京以来、初めて「病人」というものになってしまったようだ、自覚は希薄とはいえ。このままでは十年の寿命が約束できないよと、数年前か
ら言われていた。何もしなければもう数年の寿命なのかなあと思って、本当かも知れない、ウソかも知れないしなあと、目の前の澤口靖子の優しい写真に話しか
けている。
ともあれ、月一度の通院を余儀なくされたわけで、その日は一日の休日と肚をきめ、保谷から築地まで、くさらず通うとしよう。
* 新刊の『死から死へ』に、すばやい反響がまずメールで次々に届いてきている。この題は単純には、江藤淳の死か ら我が兄の死までのつもりだった が、頭のどこかには、和泉式部の名歌「暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月」や、そのもとになった経典の字句が、有った。それになぞら え、たまたま二つの自殺にはさまれた我が四ヶ月を、一人生の「生くべき」縮図のようにながめながら、何かしらの加護を求めていたのかも知れない。
* 毎晩、「湖のお部屋」をおたずねしていますので、いつもお目にかかっているような気分がいたします。おたずね
し、先生のおっしゃることをうかが
いますと、申しあげたいこと、聞いていただきたいことがいっぱいあって、困ってしまいます。
ご本をありがとうございます。とても重たくて発送がたいへんと、おっしゃってでしたけれど、いつもの倍くらい。さぞ、お骨折りでございましたでしょう。
厚みといい、『死から死へ』という題名といい、怖じ気づいてしまいました。
書いてくださった「故山入夢」を、しばらく見ていました。わたくしの故山はどこかと。
放浪癖と申しましょうか、ほかに事情もあったのかも知れません、父はよく家移りをしましたので、わたくしには、ここがふるさとと思えるところもなく、幼
馴染みもありません。いつも、よそ者でした。
父が二十歳そこそこで捨て、ついに一度も帰らなかった生家跡――と申しましても、草に埋もれた礎ばかりのところですが――にゆきましたとき、あ、ここが
わがふるさととおもいました。「血につながるふるさと」でしたでしょうか、藤村のことばが思い出されたりして。
怖いもの見たさ、ご本をひらきました。まあ、四ヶ月の、日々のしたたり。
いつも、まずディスプレイで拝見し、幾日分かづつ、プリントさせていただいています。縦書きに編集して、プリントしたこともありましたけれど、わが器
械、縦書きは苦手のようで、なかなか、手間暇と時間がかかりますので、横書きのままということになってしまいました。
こうして、ご本になったのを拝見しますと、また、思いあらたという気がいたします。夜毎夜毎、読んだ、そのときの自分の心持ちがふっとよみがえったりい
たしまして。
差しあげた拙いメールが、ご本のなかで晴れがましすぎて、はずかしそうに身をすくめています。
あまり出歩かずいたのですが、二月、吉右衛門の「熊谷陣屋」と「帯屋」を観ました。熊谷は何度が観ていますが、長右衛門は初めてでした。うじうじと悩
み、自己嫌悪に陥る物堅くて人のよい商家の主役、あんな役も似合うというか、こなす役者なのですね。雀右衛門の女房(相模も)、とても情があって、泣かさ
れました。吉右衛門の芝居大好きの元学生さん、ご覧になったでしょうか。
筑波颪も止んで、しんと静かな夜です。昼間見た近くの公園の枝垂れ梅、闇に匂っていましょう。
* 湖の本が着きました。
これまでにない厚さで、手にずっしりと持ちごたえがしました。
常の金額では不十分と思いまして、自分で値段を付けるのも変ですが、実費相当の金額を推定してお送りします。
無理をされ、このシリーズがなくなることを、何よりもおそれます。きっと他の読者もそう思っているのではないでしょうか?
石垣島は、毎日雨が続いています。
あまり知られていませんが、亜熱帯の冬は雨期なのです。その雨もこのごろは、すこし暖かみを帯びてきました。同時に風景の輪郭が潤んできたように感じま
す。
今月から(奥村)土牛のカレンダー(山種美術館のものか。)が桜(「醍醐」か。)に変わりましたが、ややこの絵のような印象です。
沖縄の人は、この「潤み」の印象を巧みにとらえ、春先の季節を、「うるずん」と呼んでいます。いいセンスだなぁ、と感心しています。
実は、石垣で湖の本を受け取るのも、これが最後になりました。来月から北海道に転勤します。
* 以下に、この友人が、転勤の事情が書かれてある。我が国の「科学行政」の露骨に痩せた貧困を見せられる思い
で、進んで此処に書き込みたい気持ち
だが、この心優しい若き研究者に不利を招いてはならないので、ご本人のお許しのある迄は遠慮しよう。こんなことでいいはずがないと言えることが、うち明け
られ、こう結ばれていた。
「昨年暮れから今年にかけて、精神的に参ってしまい、メールを差し上げる気力が起きませんでした。しかし、ホームページはいつも覗いていて、励まされまし
た。気持ちの整理がついたわけではありませんが、ようやく文章を書く気力は出てきました。また、メールを差し上げます」と。たしかな筆力で、それがこの親
しい友人のために頼もしい。
* 今日、本が届きました。
インターネットを初めて4年以上たつのに、先生のHPの存在も知らず、この様に身近に本を得る手段があるとは気付きもしなかった事、本当に赤面です。
ふと、年初から探していたココペリという詩集も、本屋のHPからではなく直接サーチすれば良いのではと思い、アクセスすると、簡単に見つかりました。本
は本屋に、という思い込みがこんなにも欲しい本を手に入れ難くしていた事にびっくりしました。ほんとに恥ずかしいです。甥が病床で最後まで読んでいた本
だったので、直ぐ手に入るものだとばかり思っていたのですが。(甥は23歳と5日で2000年を迎えることなく他界しました。) 我が家にはネコが、家の
中に2匹(1匹は、居候)、家の猫と認定している外猫が1匹います。この所寒くて家の中に入れてやりたいのですが、外猫フクはまったくなつかない上に狂暴
なので(ハトを食べてしまった)、ごはんだけあげています。
また機会があれば、薬局に御寄り下さい。薬のことで御質問等ありましたら、メールしてくださればうれしいです。風邪がはやっています。お体に御気を付け
下さい。
* 偶然に町なかの薬局で出逢えた読者からの、メール。「本は本屋に、という思い込みがこんなにも欲しい本を手に 入れ難くしていた事にびっくりしま した」とあるのが、重い。
* 三月三日 金
* 『死から死へ』への反響の早いことと強いこととに吃驚している。四ヶ月分を切り出したいわば日記であり、大冊 であり、こんなものをと叱られるか と心配していたが、読み始めるとどんどん一気に読まされると、もはや読了の感想を次々に戴いている。
* またも噎せ返るように咳き込んでいて、一月末と似た按配で、これからまた関西に向かうのが少し心配だ。熱はな い。喘息のように咳く。べつに何の ストレスも無いはずであるが。
* 電子メディア関連のエッセイを、「エッセイ選 2 」に何本か書き込んだ。親切な林丈雄君が、ホームページの目次立て、大増頁INDEXを送ってきて呉れているのだが、転送のまえに、何かしらを「理解」し ようなどと余計なことを思ってINDEXを眺めているうちに、だんだん臆病になって、手が凍り付いてしまっている。関西から帰って、少し平静さを取り戻し てから取り組もう。
* 木島始さんにまた新しい詩集やご本を頂戴した。中に、二字四行詩=八字詩が、ある。
仰ぐ
神よ
呻き
照せ
面白い試みで、自分も書いてみたくなる。
是か
違う
非か
違う
* 京言葉の詩もある。
たんと
きばって
ええかっこしいな
えろみえまっせ
叱られてるみたいな気分で、苦笑する。「しいな」は、「せよ」でも「するな」でもありうるが。私なら、
ちがうのと
ちがうやろか
ほなまた
よろしうに
* 三月四日 土
* ペンの三好徹さん、小中陽太郎さんから、『死から死へ』の嬉しいお便りを郵便で、またメールで頂戴した。?小
平の「?」だけでなく、再校で付け
加えた「唐外相」を「陶外相」に書いていた。いずれも校了前のわたしのミスだった。
「闇に言い置く」という物言いに三好さんが反応されていたのも、また志賀直哉への感想などでも、通い合ったものがあったようで。率直に、しかし隔意なく書
くより「ものを書く」道は無かろうと思う。ペンの理事会の重い立場の二人から感想をもらえて、ほっとしている。日本ペン関連ではことさら遠慮なく書いてい
るだけに。
払い込み通知書が郵便局から届くと、そこにも、沢山な読者からの有り難い声が添えられてくる。一冊一冊を送るたびに、こうしていろんな人たちの「声」に
励まされ鞭撻される。こういう冥加に頻々とあずかっている作家は、やはり、少ないであろうと思う。
藤村は『破戒』も『春』も自ら「緑蔭叢書」となづけて自費出版していた。出版社へ、なにかしら信頼し難き隔意を藤村は持っていたと自身で書いている。私
の場合、隔意は持たないが、逆に持たれているらしい。もともと、出した本の直ぐ品切れになるのに閉口した、それが動機だった。簡単に増し刷りできるもので
ないのを出版社にいたわたしはよく知っていた。版元に無理なことを、作者が肩代わりしてあげたのだが、「反逆」呼ばわりまでされた。ちと心外な気持ちだ。
* 京都の角田文衛博士から電話で、『能の平家物語』をもらっていたのに、無くなった、もう一冊欲しいがと。嬉し いこと、すぐに送った。
* 電メ研の友人で久しい読者でもあるNHKの倉持光雄さんから、今朝急に電話で誘われ、国立劇場で、新派「瀧の 白糸」を二階の佳い席から見せても らった。むろん水谷八重子の瀧の白糸に、村越欣弥役は歌舞伎から板東八十助。花粉症の上に、風邪のなごりがぶり返しか咳き込んでいたが、二重の眼鏡とマス クとで、幸い発熱などせず気分良く楽しませてもらった。
* 歌舞伎の世話物の情調を、世話の演技と情緒纏綿の間のよさに置き換えて、女形も使うが女優も活躍させて、分か
りいい舞台に練り上げてきた、新
派。さすがに若い頃は辟易し敬遠していたが、昔の花柳章太郎が「日々の幸福」とかいった芝居を見せた頃から、何となく認める気になった。
もっとも先代水谷八重子のよさは、わたしには分かりにくかった。ぼってり重い芸風に感じられた。
今の八重子が、良重の名で親の七光りを売り物に東郷たまみや朝丘雪路らと歌など歌っていた頃は、どうしようもない感じだったが、守田勘弥の娘らしい侠な
よさに、波野久里子のような好敵手を迎えて、新派の芯に位置し始めてからは、わたしは、この声のわるい美人でもない、賢そうにも思われない女優を贔屓し始
めていた。
この八重子の鏡花劇を、これまでに「日本橋」「天守物語」と観ている。久里子の「歌行燈」も観ている。
これらの中で「瀧の白糸」は、台本も鏡花自身がていねいに作り上げていて再々の上演であるから、そつはない。しかし、時代がかぶせてきた古びという点で
は、いちばんそれをかぶっている。「天守物語」などは古びようがない。九日に観る予定の「海神別荘」でもそうだ、これらはいわば神話であるが、「瀧の白
糸」は明治の裁判劇で締めくくられるほど近代の舞台であり、その辺が、水芸の限界と同様に、主人公達の「愛」の在りようにも、相当なハンデを押しつける。
筋が「理」にまだ絡まない、月光の冴えのまま男と女とが触れあって行く第一幕が、だから、一等初々しくて気分がいいのは無理もない。殺しの場面などは、
観ていてもしんどいし、かったるい。
裁判所のつくりなどよく考証してあるのだろうが、検事代理が検事側証人に犯罪を自白させて行くのだから、異例も過ぎたものになっている。そういうことを
乗り越え押し越えての「愛」の確認であり、時間差の心中劇にさえ仕立てられているのだから、とこうの理屈を持ち込むのは野暮という話にして置いた方がい
い。
その限りで八重子はしっとりと、しんみりと、愛らしく情の深い女を演じていた。それに較べれば男の役は分かりにくい。瀧の白糸の献身の仕送りで学問し、
任官し、初の裁判で彼の為に人をあやめて金を作っていた瀧の白糸を追及し、自白に追い込む。死刑になる。刑の執行前に男はピストルで先に死んで行く。坂東
八十助の達者を以てしても、この役は深くリアルに演じられなかった。それなのに泣かせるのは、これは鏡花の「徳」という以外にない。
鏡花は、いわば瀧の白糸のような女からの庇護を、得たいタチの人だったから、「照葉狂言」をはじめこの手の男はたくさん書いている。この手の女もたくさ
ん書いている。
舞台装置も新派は情趣を大切にしっとり創ってくるのが、見栄えがする。今日の舞台の演出が誰であったか知らないが、みな、小気味よくそつなく身を働かせ
ていて気持ちよかった。思わぬ贈り物をいただいた倉持さんに、感謝。
* 二人で並んで観て、二人で幕間の弁当を食べた。お土産に森八の最中を戴いた。これには目がない。劇場の食堂で
は倉持さんにお銚子を一本つけなが
ら、わたしは節酒していたのに、家に帰ってこの最中は放っておけず、即座に三つも食べてしまった。先が思いやられる。
* 倉持さんも、『死から死へ』がただの日記でなく、なにかしら江藤さんの死から兄の死までを繋いで、或る意味で重い必然の「生」がいろいろに展開され、
一つの主題を追うかのように感じ取れたのがよかったといった感想を漏らしてくれた。知己の弁に、頭をさげた。
* 本当は今日はべつの約束の出来かけていた日で、メールの連携がうまくなくて、流れてしまっていた。メールは双
方向で便利だが、相互の「確認」を
欠くと、とんでもないハメになりやすい。
* 三月五日 日
* 昨日国立劇場で石川近代文学館の会員一行を伴ってこられた井口哲郎館長と奥さんとに、ばたりと出会った。なる
ほど泉鏡花劇だ。
ひとつには倉持光雄さんと一緒の観劇で、井口さんの方にもそういうお連れがあり、わたし自身がなによりも微熱と咳込みと花粉の悩みとで、観劇後のお付き
合いが出来なかった。絶好の出逢いで、金澤でのお礼の何分の一かでも果たせたろうに、まことに生憎で井口さんも残り惜しそうにされていたのが、申し訳ない
ことであった。どうしても、この後の予定に差し支える体調へ落ち込むのは、避けねばならなかった。残念だった。
* 夜、細川弘司氏の電話で、画家橋本博英氏の逝去を知った。惜しみて余りある悲しい訃報であった。
博英さんとの出逢いは偶然のことであった、銘酒「万歳楽」利き酒会の流れで、ご近所の星野さんに誘われ銀座の菊鮨へ行ったら、カウンターに画伯がおられ
て話が弾み、それ以来、わたしの著作の得難い有難い読み手として何度も何度もお手紙をもらい、個展にもグループ展にもよく誘ってもらった。折りごとに新潟
の「秘酒」を送って来て下さった。細川君の先輩に当たる、見るから話すから、仙骨のある人だった。格別の知己の一人に、また死なれた。爽やかによく晴れた
心地の、いい風景画家だった。心を洗われた。俗臭をすとんと落としきったような、風貌は品のいいポパイのような、心美しい人であった。出逢いを我が糧とし
て来た。残念だ。残念だ。
* 銀座「きよ田」主人から、すばらしい鮭一尾分のみごとな切り身を頂戴した。『死から死へ』を送ったからか。親
切な人で、女優澤口靖子が好きだと
新聞に書いたのを見ると、すぐさま、彼女が広告に顔を出しているフィルム会社のえらい人に電話して、サイン入りの額に入った佳い写真を二つも取り寄せてお
いてくれるような人である。恐れ入ります。
* 麹町の「味館トライアングル」のマスターからも、自分の「豪」という名に創らせた特製の大吟醸酒が贈られてきた。文芸春秋出版部の寺田英視さんから
も、豪サンの店に一度一緒に食べに行きましょうと電話で言ってもらっている。酒をすこし減らして、下旬にでもまた妻と出かけたい。
* 妻が承知していてわたしはよくワケも分かっていないが、テディベアの白い腹に繪と字とをかいて、抱いて写真に 撮られ送り返すという、なんだか チャリティー移動展覧会用のサービスのようなことを、させられた。赤い椿白い椿を、緑の葉といっしょに描き、「逢いたい人が、いつでもいる」と書いた。妻 に写真を五、六枚撮られた。
赤い椿白い椿 五郎十郎のごとく立つ 遠
* 直哉の大正十五年一月下旬の日記に、こう、ある。
* アンドレ・ジッドの「田園交響楽」を少し見て大いに感服、静かで深く入つてゐる 純粋にして上品なり これを 見て自分の作品を見る、子供のやう にものだ シュミット・ボンなど見て高慢な気持を持つ事よろしからず ジッドなど見て謙遜になる時却つて製作慾たかまる 興奮した、 (略) ジッドは 実にいい、然し今のガサガサした生活の読者には直ぐには味はへないものかもしれない 本格小説とか大衆文学とか通俗小説とかかういふものが好まれて来た傾 向は読者の生活気分に落ちつきを失って来た事を意味する 深く潜入して書かれたものはそれを読む者の態度も深く潜入して行かなければ理解出来ない、今の読 者にはそれが出来なくなつた、なんでもパッパとした余り頭を使はず分かるものが歓迎される、これが此時代として自然な所もあるが作家としてその立場で仕事 をするのはいやだ。気軽な左ういふものも時にはいいが、本統に沈潜したジッドの態度のやうなものを書くに非ざれば心満足出来ない。沈潜して書いたものを沈 潜して味はふ時心の奥までそれが響いて来る、この喜びこそ本統に藝術の難有味だ 瀧井(孝作)のものなど今の世で不遇なのは当然だ この事自覚して益々沈 潜して行くべきだ、然しもう少し自由に元気よくなつてもいい、自由に元気よくしかも沈潜して行くべきだ
* 直哉には、自分の理想とし実践している深く沈潜した「私小説ふうの心境小説」とは別のものとして、「本格小
説」や「大衆文学」「通俗小説」が存
在するらしい。本格の二字に格別の価値の付与されていないと読みとれるのが興味深い。あとの二つは説明の必要もない。「本格小説」として志賀直哉はどうい
うものを意識していたのか興味深いが、すぐには分からない。ちょうど谷崎が『痴人の愛』で一つの峠を大きく越えて行く時期だが、谷崎文学を志賀直哉がほん
とうはどう思っていたものか知りたい。たしか『細雪』の限定版は、もらってあるが読んでいないと書いていたのを見た気がする。二人は、昭和に入って交際丁
寧となり、いわゆる「細君譲渡」の主人公である佐藤春夫も、谷崎前妻との結婚式に、志賀直哉の媒酌を依頼している。谷崎と同道で志賀を訪問し依頼してきた
と直哉側の日記に出ている。
なににしても直哉は『城の崎にて』のように沈潜した深い文章を、小説と呼ばれようが随筆と呼ばれようが「本格小説」とはべつものの本統の藝術と確信して
いた。それが瀧井先生の文学を評価するところにも繋がる。
瀧井先生が生前わたしに示された温かい激励やご好意にも、それが流れていたに違いないし、同じことは瀧井先生と共にわたしの『廬山』を芥川賞に推賞して
下さった永井龍男先生の、終始変わりなかったご好意にも流れこんでいたのだと思う。お目に掛かるつど、あんなに心づかいのこまやかに優しかった方はいな
い。
この方たちは、いわば清少納言の文学伝統に在る。谷崎先生は源氏物語の伝統を押し進めた本当に優れた本格小説の人であったと思う。どちらも、と、あえて
私は大切に尊敬し続けている。
* 三月六日 月
* 六時過ぎに起きた。昨日、初めて、高校時代の英語の女先生のお電話を受けた。孫娘さんとも話した。
某関西テレビの京都支局に転勤したという元の院生君から、心嬉しいメールをもらった。支局は、よく泊まる烏丸の京都ホテルからすぐに在る。
* 秦先生 こんばんは、大阪の**です。
湖の本「死から死へ」たしかに頂きました。郵便受けに届いている本を見て、とても感激しました。しかし次の瞬間に、この本が持つ深い意味を感じ、背筋を
伸ばして開封させて頂きました。この本の持つ意味、私なりにしっかりと受け止めさせて頂いております。一字一句の重さを、ずっしりと感じております。
(以下は雑記です。私事ですが…)
私はいま、なんと!京都に勤めております。二月の第二週に部内異動が発表され、一年半勤めた神戸支局から本社の遊軍に担当が替わりました。本来なら大阪本
社に勤めるはずでしたが、京都支局の記者がドキュメンタリー取材に入っていて、日常業務の人手が足りなくなり、私が応援に行くことになったのです。
正直申し上げて、京都にはこれまで、小学校の修学旅行で一回(平等院鳳凰堂)、同志社の受験で一回(今出川)、かつての彼女と一回(嵐山)、弟の結婚式
で一回(宝ヶ池)…と、あまり行ったことがありませんでした。長くて五月末までですが、この度縁あって京都に勤めさせて頂くことになりましたので、どんど
んいろんな場所に行ってたくさん取材したいと思っております。
意気揚々と京都に勤め始めたのですが、ここ最近京都では幾つか大きな犯罪が起こっていて、警察幹部宅の夜回りまで行くと、大阪の自宅に帰るのが午前2時
過ぎだったりします。少し仕事に忙殺されているようで、「いかんなあ」と思っております。私が学生の頃、オリックスのイチローがインタビューで、「(忙し
くても)時間は作るものだよ」と言っていました。本当のところはどうなのか判りませんが、やっぱりイチローはすごいな、と思います。私はなかなか彼のよう
にはなれませんが、誠実に頑張ろうと思っています。
本当はもう少し悩みについて書こうと思っていたのですが、きょうは先程、友達に少し聞いてもらって、楽になりました。
「いつか先生にお会いしたいなあ」と、「闇」のこちらから思っております。学生時代は、授業で一生懸命、自分のありのままを打ち明けていたので恥ずかしく
て、研究室に伺う勇気がなかったのです。またメール書かせて頂きます。
外は少し春めいてきましたが、朝晩の寒さは続いています。くれぐれもお体ご自愛のほど、お願い申し上げます。
* 小鳥が鳴き、風もかすかに窓を打っている。晴れていて欲しいが。今週から来週いっぱい、休む日無く用事が折り
重なってつづく。神経をすり減らし
て花粉を防いでいる。風邪気味とは丁寧につきあって、かわして行くしかない。あちこち、体調の違和を覚えているが、慌てふためいても仕方がないし。
* 三月六日 つづき
* 「からすま京都ホテル」の喫茶室で、約束どおり、高校時代の英語の女先生と孫娘さんに会った。先生は米寿にな
られるというが、喜寿ほどにお見受
けした。目も耳もお話もすっきりと、お若い。何十年のご無沙汰など、何事もなく溶けて流れた。
若いお嬢さんに、なにかしらの助言をということで、そんなことの出来るわたしではなかったが、お茶をのみながら歓談した。気持ちの佳い時間であった。お
土産まで頂戴した。
* 同じ場所で、そのあと関西テレビの記者をしている東工大院卒の井筒慎治君と学部三年の教室いらい、久しぶりに、そして初めて二人で、対面・歓談した。
文学のセンスのある人で、二年生三年生と各学期成績良く、「挨拶」にも真率な言葉を記し続けて印象豊かな人だった。逢えて話せて、すっきりと心行く嬉しさ
に感動した。ホテルの真ん前のビルに勤務していてびっくりした。もっともっと長く話していたかったが、勤務中の人を小一時間も引き留めただけで恐縮した。
佳い話題で十分楽しめた。何年も以前の出逢いがお互いに佳いものであったのだと、つくづく実感でき幸せだった。
* 出町の常林寺に墓参。三條に戻って縄手の「今昔」西村家に立ち寄り、老母、子息夫妻、孫息子の三代に逢い、新
装の古代裂展示室でお茶を戴き、懐
かしく談笑、還暦になったという昔の少女(他家に嫁いだ姉娘)の元気そうな消息も聞いて安心した。お互いに元気なうちに一度逢いたい。
辞して、縄手の「梅の井」で特上の鰻をゆっくり、お酒も。店内に橋田二朗先生の小品画が掛かっていた。主人の三好閏三君も出てきてくれ、しばらく歓談し
た。
河原町の「ひさご寿司」に立ち寄り、生前北澤の兄がこの店と昵懇にしていた礼を言おうと思ったが、主人夫妻とも不在だった。ホテルへ帰ったら追いかけて
「ひさご」の夫妻から電話があった。
おそくまで部屋で仕事をして、やすんだ。
* 三月七日 火
* 十何回目かの京都美術文化賞選考会。ほぼ、思いどおりに選考できた。梅原猛、小倉忠夫、石本正、清水九兵衛、 三浦景生氏ら選者で、いつも一人も 欠けることなく、選び続けてきた。第一回に推した秋野不矩さんはその後に文化功労者になられた。あの頃までは、そういう面では不遇の人だった。今回の選考 は、結果としてちょっとフレッシュな新しい分野から二人も選べてよかった。
* 一目散に帰ってきた。家に、建日子と同居人とが来ていた。今日、妻は聖路加病院でやはり「帯状疱疹」と診断さ れ、治療を受けてきた。もっとも頭 痛の烈しかったときからすれば、十分の一ほどにわれわれの自力で治していたが、完治させた方が良く、今後も通院する。「数病息災」の夫婦で在ろうとしてい る。
* ぞくぞくと『死から死へ』反響が届いている。鶴見俊輔さんから、はがき一枚だが、じつに簡潔に要点・要所をお
さえた賞讃の言葉が届いていて、感
激した。松永伍一さんや元日大病院長の馬場一雄先生からも佳いお手紙を留守中にもらっていた。
井筒君その他の何人もからメールが来ていて、夜遅くまで返事をし、また今日の日課仕事も片づけた。
明日は駒込の吉祥寺で故橋本博英画伯の告別式の筈、謹んでご冥福をいのる。
九日は日生劇場『海神別荘』、十日は言論表現委員会、十一日は秦文研再開の第一回「清経入水」で、来週も連日会議・会合の予定に、気が抜けない。
* 歌人の河野裕子から電話をもらったのは初めてかも知れない。『みごもりの湖』を出した頃に知りあった。彼女が
滋賀県に暮らしていた頃か。その頃
二、三度電話で話したことが在ったような気もするが。いい歌人だと思い、ずいぶんいろいろに、あちこちで推賞してきた。この十年ぐらいはさほど感心した歌
がなく、それよりも歌壇の枠の中で一方の女将校めく風情が鬱陶しいなと思うこともあった。過去の成果からすれば、俵万智など足元に及ばない力のある歌人
で、斎藤史の次は河野裕子が立つというほどであって欲しかったが、ちょっと最近は歌壇の力関係や位置関係を意識してか、俗っぽくなった。彼女の担当のテレ
ビ「NHK歌壇」を聞いていても、ビカッとする面白みのいっこう無いのを残念に思っていた。
ただし、あれは河野さんの罪であるよりも、あの番組の組立て自体が、低調で低体温でつまらないのであり、馬場あき子に頼まれゲストで出て、身にしみて面
白くも何ともない番組だと見捨てていた。その同じ番組の、河野裕子の時間にまたゲストで出て欲しいというのが電話の趣旨だったから、申し訳ないが、即座に
断った。映えない中味の番組に顔を出してみても始まらない。
短歌番組にせよ俳句番組にせよ、工夫すれば、短歌や俳句の製作に関心の無かった一般視聴者をさえ取り込める、面白くて意義のある持って行き方はいろいろ
可能な筈だ。あんな、ちまちました小歌会、小句会の、蚊帳の中でのとりすました内輪だけの番組には、ほとんど意義を感じることは出来ない。まん中に座って
いる者に虚名を加えているだけだ。
* 三月八日 水
* 九大名誉教授の今井源衛さんから大部の『大和物語』評釈を贈っていただいた。勅撰集でいうと後撰和歌集的な宮 廷社会「歌語り」に感じられる。伊 勢物語のように、清明で、ある主題的な一貫性を感じさせるというものではないが、より世俗的な噂話の集成のようでもあり、この時代を「作家の目」で覗き込 み探り取ろうとするときには、たいへん便利ないい視野を与えてくれるし、しかも面白いので、格好の愛読書にしてきたる。その大和物語に多年の努力と執愛と を傾けられた今井さんの研究が大成した本であり、嬉しくてならない。上巻はとうに頂戴しており、下巻で完成。心よりお祝い申し上げる。読める楽しみがまた 増えた。好きに拾い読んで行くだけでも十分面白い。
* 直哉の新しい『日記』が配本されてきた。
* 九時から、建日子脚本の一時間番組が一つあって、見てきた。柴田恭兵と風吹じゅん、風間とおるらの刑事物。連
続ものの枠がすでに出来て在るから
か、比較的らくらくと創れていて、題材もインターネット犯罪、まずは時宜に適っている。もっときりきりと深く剔ることも可能だろうが、ともあれ、いちばん
現実に悪影響を及ぼしてもいるパソコン掲示板での面白ずくが、殺人に繋がって行くことはあり得るので、インターネットやメールを触っていない人たちへも話
しはよく通っただろう。また痴漢・セクハラに「されてしまった人」の悲劇も、は現に頻発しているという側面があり、また軽率なおやじ狩り的な暴行にも触れ
ていて、盛りだくさんにやっていた。一時間なのでテンポがよく、こういうドラマは、かちっと決めた一時間が適していると思う。火曜サスペンスなどの二時間
殺しは、水増しも多く、だらけ放題なことが多い。まあまあで、よかったとしよう。
役者は、みな嫌いではなかった。風吹じゅんの中年になってからの落ち着いた独特の柔らかい芸風は、愛するに値する。コマーシャルもわるくない。今夜のヒ
ロイン役の女優も、むかし田村正和の現代物に絡んで子役でデビューしていたなかでも、印象的な個性で、ずっと記憶していた。風吹もその子も美人ではない、
が、味わいをもっている。それが大事なのだ。美人だけで女優は長続きしない、とびきりの看板スター以外は。
* 花粉が家の中でも舞っていて、つらい。目が痒くなると、いてもたってもおれない。
* 湖の本の『中世と中世人2 日本史との出会い』に追加注文が続いている。中学生のために書いた歴史の本だが、
大人の人、それもインテリの人たち
に愛読されている。思想家として名を成して亡くなった安田武が、「こういう教科書で小さいときに日本史を習っていたら、どんなによかったか」と推賛してく
れた児童書が、「湖の本」で大人のモノとして復活しているのが面白い。今日もまた二冊送った。
* 三月九日 木
* 日生劇場での板東玉三郎、市川新之介の「海神別荘」は、二時間、稀有の幸福感で堪能し満足し、痛いほど拍手してきた。一月も前から期待し楽しみに していた。金無垢の延べ棒のような緊迫とカタルシスの二時間だった。オーバーなようだけれど、こういうことは、そう有るものでな い。鏡花の天才と批評の力とが生き生きと形象化され、新之介の海の公子は颯爽と美しく、威厳・気迫に溢れ、気稟の清質、まことに尊いものがあった。玉三郎 の演出に賭けた読み込みの確かさを、「蛇と鏡花」を論じてきたわたしは、自信を持って保証できる。「天守物語」と「海神別荘」は、わたしにも妻にも、 間然するところ無き「演劇」の代名詞となった。左團次、秀太郎、上村吉弥、板東弥十郎らのワキもおみごと、海中・海底の景気を演戯的に効果あるものに盛り 上げてくれた大勢の熱演も立派で、胸が熱くなった。
* 何と言っても偉いのは鏡花の想像力の確かさと豊かさと厳しさ、この劇のキイワードは、まさに「蛇」なのであ る。そこに海と人間世間とのせめぎ合 う接点があり、逆転する誇りと優越との、蔑みと差別との、きわどい機構が隠されてある。鏡花理解の芯の鍵がここに在る。しかし悲しく情けないことに、多く の鏡花学者たちは、鏡花論者たちは、盲目同然にそこが端的に見えていない。
* A列中央という絶好の席を吉弥の付人はとって置いてくれた。その吉弥も美しく張り切って演じていたし、悪声の
秀太郎も落ち着いた口跡で、丁寧に
演じていた。カーテンコールのときに「松嶋屋」「吉弥」と短く低く声をかけたら、はつと気付いた顔を向けてきた。楽しい佳い舞台だった。妻は感嘆の余り涙
をこぼしていた。わたしも、終幕、目尻に涙が浮いていた。
* これは飲まずにおれず、人気のない夕刻前の好きな「銀座ピルゼン」で、わたしはビールをしっかり飲み、妻はクワスを飲んだ。燻製の鰊、鴨、そしてこの
店ならではのソーセージなど。話題は尽きなかった。
妻といっしょにどれほど芝居を観てきただろう、大学時代に、専攻のみんなで南座の歌右衛門「道成寺」などを観て以来、東京へ出て、俳優座を芯に、百や百
五十できかない数の観劇を楽しんできたが、中でも今日の「海神別荘」は出色の舞台だと感想一致。さらに「銀座きむらや」の二階で、小海老カツレツのサン
ドイッチでコーヒーを味わって、有楽町線で帰った。わたしは車中、保谷ちかくまで熟睡。二重の眼鏡と、マスクと、往きに池袋で買った目薬が効いて、花
粉にもひどく悩まずに済んだ。
* 黒川創が『死から死へ』をもう一部欲しいとメールを寄越していた。子供たちが三人とも母親に優しい。兄は安心 して任せていったと思う。
* 今日だか明日だかは、末の孫の誕生日だそうだ。一歳の誕生日もまだ迎えていなかったろう頃に、一度だけ、父が 技官勤めをしていた筑波大の宿 舎へ、建日子の車で妻と三人で、娘と孫にこっそり逢いに行った。その日の、わたしに抱かれわたしの鼻をつまんでいる「みゆ希」の写真一枚が、目の前の本棚 に飾ってある。姉の「やす香」はもう中学生とか、道であってもお互いに分かるまい。元気に育てよと祈るだけである。
* こんな懐かしいメールが届いた。京都の桂に今は住む、まだ逢わぬ男性読者である。京の町なかの小屋根や大屋根 に見られる「鍾馗さんの瓦人形」 を、通勤の途中や回り道しては、無数に撮影してきた人である。その写真がすばらしい。
* 狸橋、なつかしいなあ
今朝は京都も冬に戻ったようで、陽が照っているのに雪が舞っています。
先日送っていただいた「死から死へ」、拝読致しました。三条から古門前、白川狸橋、新門前、それからあの抜け路地(ヌケロージ)を抜けて白川沿いに縄手
から四条へ・・・・・私の頭の中にもその道筋の光景がはっきりとよみがえりました。
(秦さんのよりはかなり古い光景ですが)そのとき、新門前のお宅の横の、抜け路地と、電信柱も、ぼんやりと思い出しました。五十年近く前の記憶ですので
はっきりしませんが、お店の前は、右側にガラスのはまった所があって、何かに書かれた「マツダランプ」という文字が見えていたように思います。それから、
何か、水色のような色も思い出したのですが、これはよく分かりません。抜け路地は非常に狭くて、抜けると東新橋の漬け物屋のあたりに出ました。
ご紹介下さいました方、当方はいつでも結構ですのでご連絡下さるようおつたえください。ただし写真を撮りに回っただけなので、難しいことは分からず、ご
期待に添えるかどうか心配です。
* びっくりしてしまう。白川に架かった「狸橋」を、わたしの元の家から古門前通りの方へ渡ってすぐに、この方と同じ苗字の家が在ったのを覚えている、ご
無関係はと今問い合わせたところだ。この方の記憶は正確である。「狸橋、なつかしいなあ」とわたしも声をあげている。
* 三月十日 金
* 言論表現委員会があった。立教大学の服部孝章さんに、中間報告の既に出ている「個人情報保護法」の問題点をレ クチュアしてもらった。例によっ て、あたかも保護するという名目のもとに、いつ知れず個人情報が公に管理され個人支配に利用・乱用されて行くおそれのあることなど、が、察しられた。途方 もなく厄介な大きな問題に発展して行きそうで、問題点を正確に個々に呑み込むのは容易でない。根気よく目を離さず、しかも早め早めに事の定まってしまうよ り先に、斯くありたく斯くあるべきだと、当局に意向を突きつけて行かねばならない。
* あすは、『清経入水』を取り上げての研究会。東大へ出かける。本郷は久しぶり。
* 今夜は、建日子の二時間ドラマ。花粉で目が痒い。目を、つい閉じてしまうと、そのまま眠くなってしまう。器械
の、すぐ目の前、外付けハードディ
スクの上に、舞台衣裳の澤口靖子と楽屋でならんで撮ってもらったスナップ写真が、ページスタンドに立てて置いてある。靖子ちゃんはあでやかに微笑を湛え、
かすかにわたしに身を寄せている。わたしは、半分眠ったような仏頂面である。親娘のようである。ウフフ。その真上から、谷崎先生が睨んでいる。
* 三月十一日 土
* 多忙の中で林丈雄君が、ホームページの各欄を拡大してくれた。「私語の刻」「創作欄」「講演選」「短編選」な どの頁をぐんと増やした。いよいよ 新聞小説や受賞作などの書き込みを、ゆっくりでいいから、継続して進めたい。
* 「本とコンピュータ」のインタビュー原稿が届いている。目を通さねばならない。
* 夕方から東大へ。『清経入水』をテキストに、再開の研究読書会がやがてスタートする刻限だ。終わる頃に顔を出 して少し挨拶をする。
* 妻の症状が格段に回復してきた。よかった。ミレニアムの今年は、早々に風邪をひいたり、なにかと二人とも躓い てきたが、慎重に新世紀へ跨ぎ越え たい。わたしの糖尿の初診療は二十二日と予約されている。こわいですよ、慎重にと忠告もされている。糖尿病の怖いことは知識だけは、もとの勤め柄わりによ く知っているが、我が事となると、タカを括ると謂うではないけれども、ま、チャランポランで過ごしてきた。これからは、そうは行くまい。数病息災を願わね ばなるまい。
* テレビドラマづくりの息子は、はやくも職人に甘んじるらしい。それでいいという人もある。よくないと思う人も ある。職人に徹するなら技巧技術を 磨いてほしい。雑学を、広く拾い深く掘り下げてほしい。
* わたし自身の今の生き方は、独善に陥らぬ事が、なによりも大切なこと。
* 三月十一日 つづき
* 東大法文二号館215ゼミ教室で、『清経入水』の「読み」の一通り終る三十分前ぐらいに教室に入った。口の字
型に机と椅子が並んで、びっしり。
六十人近くは出席していたか。わたしは、一通り済んでから、少しだけ原作への気持ちを話した。
引き続いて学士会館二階へ移り、懇親会。東大と専修大との倫理額研究の院生や院卒業生、東京芸大学生、原善君関係の国文学研究者、そして湖の本の読者で
もある高田欣一氏や阿見拓男氏、また精神女子大の名誉教授和田町子さんらが見えていた。高田さんは佐倉から、阿見さんは栃木から。ありがたい。他にもわた
しの気付かなかった研究会参加者が何人もあったろう。
さらに三次会が地下鉄本郷三丁目の近くであり、まだ大勢が残っていた。酒の呑めないわたしは、ほどほどに失礼してきた。
* 自分の書いた小説が大勢の研究者や学者・学生たちによって、より思想的に、倫理思想的に深く読みとられようとしている会合に参加するのは、有り難いは
むろんであるが、かなりな圧力も受ける。困惑すらある。読書会では、ある程度余儀なく一作品に集中して読まれ、それ以前、ことにそれ以後の、わたしの歩み
や創作は、加齢や体験は、変化や成熟は、とりあえず問題外にされやすい。作者であるわたしが、読書の現場には参加しないで二次会から加わるのはそのためで
ある。『清経入水』のように、わたしの文壇的処女作ともなると、発表からでも三十年余が経過していて、わたしの頭には三十余年がどっと甦る。あれはああ成
り、これはこう成り、どこへどう移動し変形し成長していったかが分かっている。しかし、そういうことは、むしろ避けた方がいいのである。高田さんが指摘さ
れていたように、作品の「言葉」「文章」「文体」に即してその表裏行間から読みとって欲しいと思える仕掛けを、こつこつと発見しながら思想を汲んでもらえ
るなら、それで有り難いのである。
* 国文学の人は文章を、倫理学の人は思想を、と、「読み」の姿勢がすこしちがう。その辺で、わたしの行くまでに
は相当な議論があったのだろう。有
り難いことである。
なによりも、わたし自身がよく読み直しながら、力をもっと得なければいけない。顔ぶれの大きく新たになった中に、もう年久しい知己の懐かしい顔も幾つも
幾つも見てきた。のべにして十数年になろう、こんな研究会を続けてもらっている作家は極めて少ないのであり、わたしは幸せである。
原善教授が書いてくれた事典のわたしの項目のコピーをもらったが、さすがに、的確に簡潔に要領を得ていたのも嬉しいことであった。原君は、よく、わたし
を不遇だと慰めてくれるけれど、わたしはかなり恵まれていると思っている。
* 帰宅して、映画「フォレストガンプ」の最期の二十分あまりを観て、妻と二人して泣いた。心を洗い清められる涙
であった。全体は以前にビデオにも
とりよく観ているが、何度観てもこの映画には深く感動できるのが嬉しい。この「嬉しさ」それこそが、芸術に不可欠の fascination
なのではなかろうか。この魅惑と訳されることの多い、堪らない嬉しさ =
FASCINATION。二次会でわたしは、この頃の強い思いとして此の語に就いて話してきた。
* 三月十二日 日
* 下鴨の秦恒夫さんからメールが届いた。逢ったことのない恒夫さんだが、兄恒彦に死なれてみると、ふしぎな縁に
恵まれている気がしてならない。今
日の北山の雪は例年よりも深げにみえるとか。つい先日も出町の菩提寺を出て、しばらく糺の森を眺めながら恒夫さんの家はあの辺かと想っていた。北山も晴れ
ていた。
ホームページを創ったといわれる。木工の趣味があるのだろうか、写真も多いのかなと楽しみにしている。
* いままでメールを随分交換していながら、初めて、碁のハナシをしてきた人がいて、思いがけないことで吃驚し た。碁は、へただけれど、ほんの子供 の頃に習って以来、テレビの番組も比較的見ているほど、好きである。将棋よりも好きである。その人との話題が増えた気がして心楽しい。
* ウイーンから甥の北澤猛が、元気になった口調のファックスを寄越した。相変わらずこっちからのメールは読める のに、ウイーンからのは化け文字に なる。ドイツ語で「書ける」ようになったと言う。話すと聴くは、京都産業大学に入って、三年生までにマスターし、簡単に外務省の選抜でウイーン大使館に勤 務した。舌を巻く。中学浪人もしかねなかったガクランでのし歩いていた少年が、である。大使館勤めでの貯金をつかい、いまは向こうの大学院に在籍して、ド イツ語に「文化的な」磨きをかけているらしい。元気にやって欲しい。母親をヨーロッパに呼んで、亡き父と旅したコースを、同じように連れて旅行したとい う。
* 京都で、美術賞選考の席で、染色の三浦景生さんから、『死から死へ』のなかで触れていた「心」の問題につい
て、自分は同感だという趣旨の話をさ
れかけて、そのままになって戻ったのを気にしている。
「心」の文字は、ますますちまたに氾濫している。へんだなあと思っている。わたしは、ずいぶんいろんな異説を立てている方かも知れないが、中でも「心は頼
れない」とする説は今日容易に世間さまに通じない。すこし余裕のあるときに思いを語ってみたい。
* 去年の赤穂浪士に替わって、今年の大河ドラマは「葵」徳川三代話であるが、ドラマの出来は去年よりもだいぶん
悪い。やたら武将や大名の名前ばか
りが乱立するばかりで、劇的なようで平板、それを水戸光圀を演ずる梅雀の語りで運んでいるのだが、ちゃちな印象。それよりも今日はアン・バクスターやベ
ティー・デイビスの「イブの総て」をビデオにとって置いてもらったのを、夜中に観ようと楽しみにしている。
息子の「お気楽主婦のツアー殺人事件」だかは、ビデオで見直した。尋常に出来ていることは分かった。が、所詮はそこまでで、二度三度と繰り返しみること
はない。親友の原知佐子が出演してくれていて、彼女らしくよく考えての演技に感心し、感謝した。建日子は撮影の現場に一度立ち会ってきたらしく、原さんが
一番広い控え室を使っていた、あの人はえらいんだねと今さらに感心していた。原知佐子は吉永小百合よりも先輩の日活のスターだった。
* 三月十三日 月
* 「闘士」北澤恒彦は「京都の良心」でしたという便りをもらい、兄のことはほんとうによく知らないままだった
と、つくづく思う。
また、懐かしい元学生の佳いメールがわたしを喜ばせた。生き生きと文体が弾んでいる。
* 秦さん
翌朝の起床が少しでも楽になるように、日曜の夜は少し早めに眠るようにしているのですが、12時を過ぎてから封を切り、まず最初と最後だけを読み、そし
て中も読んでしまいました。「死から死へ」です。ただ、読み方が浅いので、読み直す必要があると感じています。
ご無沙汰しておりますが、お変わりありませんか。
出張でドイツへ行っていたこともあり、いただいた封書がしばらくそのままになっていました。私は元気です。
大変でしたね、とか、がんばってください、という声のかけ方が苦手です。自分自身があまりそういったことを言われることに不慣れで、そういった文言を聞
くと、生じた現象が、自身の身から遠く離れていってしまうような気がするのです。
ただ、人間の半年間というのはそれぞれに、いろいろなことがあるものですね。そういう個々の経験の持ち主がそれぞれの「島」に生きているのですから、人
のことなど分からなくてあたりまえなのだろうと思います。
それがいいとも、だからわかろうとしなくていいのだとも言いませんが。
ホームページのほうも拝見しました。奥深い階層に、すっかり忘れていた、自分の書いたものがあるのを見つけました。今書けと言われても書けないなと感じ
ました。
ただ、私は学生時代に自分を暗かったとは思っていません。苦しい時期ではあったけれど、必要な時間だったと思います。
今、事実を書くことに離れてきましたが、思考が、書くスピードに追いつかなくなってきました。普段パソコンで文書を書いていますが、以前に比べるとキー
ボードを見る回数が激減し、ゆっくり考えながらモノを書く、ということをしなくなっています。
メールも同じで、かつてはメインだった仕事以外のメールが、数も質も、だいぶ落ち込んでいるように思います。
話は変わりますが、「味館トライアングル」には驚きました。つい先日、その2階で部署のパーティを持ったばかりです。会社は国立劇場の真裏、そばの「こ
いけ」やカレーの「シディーク」、鳥の「どど」の近くです。と言えばおわかりになるでしょうか・・・
今年の4月で(社会人)3年生です。そろそろいやでも遊んでやろうと思いはじめ、芝居(いまのところ原田宗典と野田秀樹)や旅行(予定ではトルコと台
湾)など思いはふくらむばかりです。今のところ珍しいことに(社内に)廃刊がなく、新規媒体ばかりでき、新入社員をほとんど採らないので、状況は厳しくな
るばかりです。
だからこそ、これだけで日々過ごしてしまうことに、あせりがあります。
* バネの利いた力有る文体を、この女性は学生時代からもっていた。明らかに「対話」が継続し、われわれの流儀の 「挨拶」をかわしつづけた日々の力 が残っているなと感じる。よかったと思う。離れていても、もっとも安心して見守っていられる個性が此処にも在る、確かに。
* 頭重感があり、入浴していても温かにならない、汗が吹き出てこなくて、むしろゾワゾワと、うすら寒いぐらい。
風邪が残っているのか、我が家の暖
房が徹底的に不足しているのか。寒いと酒気が欲しくなる。岩波の高本邦彦さんが石川の「手取川」という、えり抜きの旨い酒を送ってきて下さった。誘惑に負
けて封をきり、すこし戴いた。いや、なんとも言えない。「実は私も、恥ずかしいのですが境界線型糖尿病といわれて数年になります。軽いので、1日1600
カロリー、運動をして、ストレスを少なくしなさいとのことです。カロリーに気持ちが行くと、余計食べたくなってしまいますね」と、聴いたこともなかったこ
とを告白してきた読者もいて、これから先が、妙に心細くなった。
* 三月十四日 火 快晴
* 結婚して四十一年になった。妻は聖路加病院で、いまごろ、帯状疱疹の治療を受けている。幸いに、もう症状は完
全に和らぎ頭痛も鎮静している。妻
のやった頭痛と同じ頭痛はわたしも過去に数度は体験し、痛み止めやら冷やすやら、夜も寝苦しいのを夢中でやり過ごしてはいつか治って知らん顔をしていた。
それも帯状疱疹だったか、疱疹ようの症状は意識しなかったが、出ていたのかも知れない。まるで違うかも知れない。医者は、秦さんの頭痛はストレスだと一顧
もしないで、痛み止めだけ呉れてきた。痛み止めは効いた。
妻のも、わたしがしてきたいろんな対症療法で、医者が、「よく自力でなおしましたねえ」と感心したほど、とにかく軽快した。もっとも医者の処方した薬が
とても効いたのは確かだ。その薬を、あまり辛さに帰宅途中に薬局に飛び込んだ時に、読者である薬剤師の女性と出会ったのだ、小説みたいだ。ただ、わちし
は、そういうことをそのまま小説には造らない。
* 妻の留守に散髪ができて気持ちいい。通院の妻を駅に送って行く途中でパンクした。画鋲を踏んでいた。仕方なく
妻には歩いてもらい、わたしは自転
車やへ行ったが、まだ店が開いていなかった。向かいの懇意な散髪屋が客待ちで表にいたので、自転車を預け、店が開いたらパンク直しを頼んでおいてと引き受
けてもらったものの、自分の頭のひどいのに気づき、そのまま散髪してもらった。散髪の途中で自転車やの店が開き、散髪の済んだときにはパンク直しも済んで
いた。自転車に乗って家に帰れた。
若い散髪やは、自分もじつは糖尿で、毎晩一時間歩いていますよ、もう自転車をやめて旦那さんもお歩きなさいとキツイことを言う。まことに、親切な助言だ
が、季候も良くなって行くし、励行するかな。しないかな。
タイムリーに散髪できた一件も、人によればうまい短編に仕立てるだろうが、わたしは、気がない。
* ある芥川賞作家から時代小説が送られてきた。「巨大な槻の木がある。/
緑に包まれた大木にぎっしりと白い花が咲いている。」と書きだしてあり、それだけで先を読む親切心が失せた。「巨大な」「ぎっしりと」がイヤだ、ことに花
の「ぎっしり」という語感に躓いた。「緑に包まれ」ているのが事実なのか「ぎっしりと白い花」が事実なのか、粗雑・雑駁な把握というしか、ない。優れた文
学にはこういう表現の齟齬や雑駁は無いものだ。長編の書き出しがこれでは、あとは推して知りうる。事実そんなような、手ぬるい時代読み物であるらしく、ど
こにも芸術の香気は無い。
時代小説は昔から嫌い。歴史は、できればわたしは『みごもりの湖』や『秘色』や『北の時代』のように書きたいし、書いてきた。気の低い仕事はいやだ。
* 今晩は、帝劇のミュージカル「ローマの休日」に招かれている。大地真央主演。佳い舞台であって欲しい、ミュー
ジカルは映画でも舞台でも、好きで
ある。妻が疲れないで今日一日を過ごせればいいが。
* 三月十四日 つづき
* 「ローマの休日」は、まっとうに楽しめた。そつのない、よく仕上がった舞台で、原作映画の精神の宜しさを、巧
みにまた誠実に受け継いで、けれん
味も嫌みも少しもない、気持ちの佳いドラマを、オードリー・ヘプバーンの面影を懐かしませる大地真央と、グゴリー・ペックには似ていないが嫌みのない山口
祐一郎とが、のびやかな演技で実現・再現してくれた。ダンスの重いのは残念だし、ミュージカルなのに音声効果のわるいのは帝劇の責任で、役者の責任ではな
い。そういった傷のあるのは残念だが、妙に観客に媚びた低俗なつくりは少しも感じられず、オートバイで舞い上がるのも、主役達の気持ちの表現としてむしろ
サービスに富んだ効果をあげていた。
大地は、尋常な、ゆとりのある歌い手で、盛り上げるところはしっかり盛り上げ、演技的に深い好感を客席から引き出していた。気品と姿勢の美しさはこの女
優の財産で、「マイフェアレデイー」のイライザよりも、今夜のアン王女のピュアーな演技の方がはるかに打ってつけであった。山口は大きく、声量も豊富で適
役だった。気持ちよかった。
* 楽しめて、ほんとによかった。妻とは聖路加の診療後に池袋で待ち合わせ、東天紅の中華料理でおそい昼食後に有 楽町へ出、香味屋で、アイスクリー ムなど取り一休みしてから、劇場に入った。
* 明治屋から「嗜好」という小冊子がいつも送られてくる。ポケットに入りやすく、読んだら処分していいぐらいの
気持ちで持って出るのだが、読む
と、捨てがたい記事が入っている。今日のも巻頭に、立命館大の安斉教授のインタビュー記事があんまり面白くて、持って帰ってきた。美空ひばりの晩年の名曲
の一つの中に、春には二重に巻いた帯が秋には三重に巻いてもあまるといった「泣かせる」歌詞がある。それが、いかに変な歌詞であるかを絶妙に安斎さんは説
明してくれる、その、おかしさ。
わたしは、よく息子に言う、忙しくて本が読めないと言うのなら、各企業の宣伝雑誌の類を読むが佳い、じつに工夫した編集で要領のいい面白い記事が満載、
話のタネにぴたりぴたりのものが多いよと。エンターテイメントに徹したいのなら、雑学の深さと広さとが大切であり、雑学を拾うのには例えばこの「嗜好」の
ような小冊子が面白いんだよと。
* さて結婚記念日も無事に過ごした。用心しいしい二十世紀最期の年をそろそろと前へ歩いて行きたい。
* 『死から死へ』はかなりな大冊だが、一気に読んだという人が多いのに驚く。論旨に九分九厘同感したとベテラン の編集者から手紙が来ていた。年配 の人にやはり訴求力があったようだ。
* たまたまこの日に、ホームページのビジターカウントが「9005」の大台に乗せていた。不思議な気がする。
* 三月十五日 水
* ペンクラブ理事会。要して言えば、自分の居場所ではないことだけが、わかる。「儲かる」などという言葉が躊躇
いなく行き交い、文学や文化の価値
を真摯に押し上げて行かねばという雰囲気は、感じ取れない。獄中作家を守り、言論表現の自由を守り、ペンをもって平和を主張するのは心から大賛成だ。その
ための議論なら熱心にしたい。文学と文学者の生き方を棚に上げ、興行による儲けや通俗本の出版で組織を養う対策ばかりが声高に続くのでは、それも必要は承
知しながら、堪らない。一方でそれをやるのは確かに良い、もう一方で、もっと価値あることに誇らしく取り組むのならば。
それが無い。いったい何のための組織なのか。梅原会長の「文学の充実を」というかけ声は、空語のまま宙に浮いて、「文学」が真剣な話題になったことな
ど、柳美里のプライバシー裁判敗訴の時でさえ無かった。「グリム」の盗作問題でも、議論は煮詰められず、かえって醜態をさらした。情報公開法、個人情報保
護法、盗聴法、国歌国旗法、みな大事だ。だが、ペンとの「接点」は、放埒なまでに分かりにくくなっている。毎度毎度の抗議や要望や声明をみていると、大事
なことは分かっているが、ぜんぶがぜんぶ日本ペンクラブの検討事項なのかどうか、ふと訝しまれることも無くはない。
広く広く意味を取れば、人権や言論表現の問題に触れてこない事件はは無いだろう。極限へ追えば、日本ペンクラブは法制度検討クラブになり、「会員は弁護
士が最適」ということにもなる。日本ペンクラブはある種の政治批評性を大切にした思想活動団体である。が、なにもかもに手を出すべき団体なのだろうか。そ
こには厳然と「詩歌・演劇・エッセイ・編集・学問教養・小説」という、「PEN=ペン」の本来が在るべきで、それらの実質に結び合わされていてこその、人
権・平和・環境・核そして言論表現問題であろうと思う。「よろづ承ります」は、かえって、しどけない。
* 日本ペンクラブが光文社等の協力を得て、光文社支店ふうの通俗文庫をだしまくって金を稼ぐのも、必要なら仕方
がない。
が、それならば、もう一方で、当然世に出さるべくして、この時節、出版の機会のとても得られない作品や著述や研究がずいぶん有るのだから、そういうもの
の、たとえ一つでも二つでもを、日本ペンクラブの後押しで世に送り出し、人にも喜ばれ敬愛される組織でありたいと、わたしは、思う。根気よくそういう本を
二十年三十年、たとえ一冊ずつでも積み上げペンクラブの金看板に出来るほどなら、と、夢みたい。今のままでは、なにかしらズレていないか。
いや、ズレているのは、わたし自身なのか。
* 例会は失礼し、帝劇地下の鰻の「きくかわ」で、堪能するほどの大丼を、ビール一本を相手に、本を読みながら満 喫してから帰った。昨日もらったば かりの『電脳社会の日本語』という「ほら貝」の加藤弘一氏の本を、赤いペンを片手に、どんどん読んでいる。
* 九大名誉教授の今井源衛さんから『死から死へ』へ、熱い共感と激励とのお手紙を頂戴していた。医学書院時代の
上司で鴎外研究の長谷川泉さんの同
級生だった今井さんで、心根のいつも新鮮に燃えて熱い方である。『源氏物語への招待』という文庫本を戴いた。単行本も戴いて読み切っている。平安物語で男
が女と初めて寝る場合は、みな「レイプ」だと喝破明言された研究者で、わたしは、その一言だけでも多くの研究成果に匹敵する風穴をこの世界に明けられたと
敬服している。『大和物語評釈』の大著は、明確に歯切れの良いもので、連夜、就寝前に数編ずつ楽しませてもらっている。
古典が、義務的にでなく心から楽しんで読めるようになってきたのは、いつごろからだろう。外国語の本はなかなかはかばかしく行かないけれど、せめて昔の
日本語で日本の古典がおおかた楽しめるようになったのは、どんなにわたしを楽にしてくれているか知れない。
文壇は別にしても、あるいは文壇以上に、わたしは国文学・歴史学研究の碩学とかなりの人数お近づきを得てきた。たいへんな魂の糧になっている。
* 三月十六日 木
* 雨の音が寒い。妻が怒り出すほど厚着して、器械の部屋にいる。
しかし家の中はいま椿の花盛り。蓼科で買ってきた、ふくろうの繪の小さい扁壺に、赤い椿白い椿が二輪頬を寄せ合って、きりっと咲いている、手洗いに。な
んとなく五郎十郎のように見え、緑の葉色が冴えて美しい。手洗いに入るつど句にしたいと気張るのだが、うまく行かない。
黒い少年のマゴは、我が世の春を楽しんでいる。「わがものと思へば黒が美しい」ほんとに、なんという黒の照りだろう。しなやかに長くのびる姿態。金色
の、湖のような瞳。わたしの声に反応して静かにうごく、耳。
だが、そんな家の中へも花粉は入って舞っている。
* さて、なにとなく外暮らしへの関心が沈静してきて、落ち着いて新しい仕事に着手したくなっているのは、いいこ とだ。一昨年か、まだ初咲きの醍醐 の桜をそぼ降る雨にすこし濡れながら見てきた。桜の種類はちがうが土牛画伯の「醍醐」の花が、カレンダーに今日はひとしお美しい。じっと見入っていると寒 そうな外の窓の外の雨音が優しくなって行く。
* 俳優加藤剛の鄭重な手紙をもらった。湖の本への謝辞であり、妻とわたしへの見舞いであった。東大教授の上野千
鶴子さんからも。同志社の河野仁
昭さんからも。そして佐高信氏からは『死から死へ』のお返しに新著『葬送記』が、加島祥造氏からは『寄友』と題した思い入れの深い詩集が贈られてきた。
「われ何ものにも属さず」という気持ちで暮らしている、それゆえにこそ良き知己や友に恵まれるのである。
* 三月十七日 金
* 昨日頂戴した加島祥造さんの本は、加島さんと、「三つちがいの兄さん」にあたる詩人で画人の故三好豊一郎との 幽明境を隔てた交感録といえる。加 島さんの「媒介者とは」と題した巻頭詩を引いておきたい。
* かつて君という実在があったが、いま
君はぼくのなかにいる。
やがて君は
どこかの誰かのなかに移りすむのであり
ぼくはその媒介者にすぎない。
寡黙だった君が
全く黙りこんでしまったいま、ぼくは
はじめて君の声に耳を澄ます。
そして君の声から、ぼくは自分が
君と比べて
いかに愛の薄い者だったかに気づくーー
そうなんだ、
媒介者とはいつも
このように気づく者のことなのだ。
* 加島さんは、わたしの『死から死へ』を手にしたうえで、この詩画集を贈って下さった。「ぼくは自分が/君と比
べて/いかに愛の薄い者だったかに
気づくーー/そうなんだ、/媒介者とはいつも/このように気づく者のことなのだ。」と。
そして三好豊一郎の「消息」という巻頭詩はこう結ばれている、「凛乎たるものは確かに、ある」と。
芭蕉は言った、「気稟の清質最も尊ぶべし」と。これに尽きる、斯く在りたい。ペンクラブの理事会なども斯く在りたいのだが。
佐高信さんの『葬送譜』も、加島さんの謂う「媒介者」としての謙譲と愛とで、多くの優れた故人を語って倦まない。魂の色の似た人。これはわが喪失せる娘
の、わたしたちにかつて語った言葉であった。多く人は、名言と言う。
* 立命館の安斎育郎教授の「春は二重に巻いた帯 三重に巻いても余る秋」の話を、分かるように紹介してと言われてしまった。安斎さんの発言を、申し訳な
いがそのまま「嗜好」巻頭の「人はなぜ騙されるか」と題したインタビューから引かせていただく。
「歌詞をきいて、アレッ、何か変だなと思ったんです。そうすると調べなくては気がすまない。(笑)春のウエストを60センチとすると二重に巻いた帯は
120センチでしょ。それを三重に巻いても余るとなれば、秋のウエストは40センチ以下ですよ。ところが円周が40センチとなると半径は6センチです。す
るとやつれた体の直径わずか12センチになってしまう。(笑)」
* わたしでも、歌詞はオーバーなとすぐ感じたが、こうは調べないで通り過ぎて行く。「春のウエストを60センチとすると」という前提が不適切だと太めな
妻は反論したがったが、これは却下。だが、「そんなことをいちいち考えてたら歌えなくなってしまうじゃないですか。(笑)やっかいなご性分ですね」という
聞き手の安田容子さんの慨嘆はもっともではある。
ちなみに、誰も謂わないが、この表現の原拠は万葉集である。
* 午後、久しぶりに今年最初の電子メディア対応研究会。プログラムの専門家である中村正三郎氏のお話をたっぷり 聴かせてもらう。出席のみなさんが たいへん楽しみにされている、わたしも、むろん。
* 気がつかずにいたが、「文学界」四月号に例のワープロ・パソコンに関するアンケートが出ていた。昨日あるコラ
ムで噂になっていたので、おやおや
と思った。わたしは、あえて返事は出さなかった、前半分を山梨近代文学館館報にエッセイとして寄せ、後半はホームページに書きおいた。結局は、「文学界」
の出る大分以前に、この「私語の刻」で語り、またあるコラムにそれを寄せたわたしの「短い纏め」で、この問題はみな尽くされていたようなものだ。石川九楊
氏の気張った「文学」への発言が、「文学」「創作」の何ものも知らないままの空語であり「うわこと」に過ぎなかったことを、大勢の文筆家達はちゃんと心得
ていたようだ。
人間の歴史をある程度謙虚に学んできたものなら、器械に対しておそれと違和感とをしかと抱きつつ、可能な範囲で平静に付き合って使って行く。そうせざる
をえない時の流れを批評的にみつめて生きているからだ。器械は万能でも善でもない。その限りで器械を文化とも社会の基盤とも道具とも使いこなして行くのは
「人間」であり、器械に言う文句はまず人間に、まずは自身に向けて言うべきなのである。それをいちばんに器械に、そして他者に吐き掛けた。「見当違い」と
わたしが石川氏に言うのはそこである。
* 三月十七日 つづき
* 電メ研に、電子メディア技術者の中村正三郎氏を招き、話を聴いた。なるほどなと思う点と、文藝・文筆の徒、創
作者としては堪らないなと思う点と
が、当然かも知れないが、混在した。技術的には、また電子メディア時流の趨勢を読む点では多く聴くに足りたけれど、創作のオリジナリティーや著作者人格権
等の、文筆関係者としては大切に守りたい方面への、「そんなものは」という気味の軽視には、気に掛かるところが幾つもあった。
こういう考え方が時流化して行く中で、何かしら根底的なものを守って行かねばならないのは、たいへんだなあと感じる。
しかし、それを最も先端をゆく技術者の口から聴いたということは体験的に、大事なことであった。電メ研に小説家が、わたし一人しかいないのを、心細く感
じた半日でもあった。
* 自信もってお勧めしたいのは、自分の作品は出来るだけ多く、器械に入れておくこと。それが、胸にこたえた。励行したい。
* 花粉が目に来ると、いても立ってもいられないほどつらい。鼻はまだやりすごす手段があるが、目の痒さは堪らな い。昔、春闘。今、花粉。家の中で も夜中でも、免れ得ない。
* テレビの映画「釣りバカ日誌」をみた。名取裕子が美しい歯医者を演じる。シリーズの中では好きな、よく出来て
いて笑わせてくれる一篇で、三国連
太郎と西田敏行との、浅田美代子も含めての、このうえもない「身内」もの。
わたしは「寅サン」シリーズのややしんどい無理の臭みよりも、こっちの、自然さに優った嫌みなさに心を惹かれる。スーさんとハマちゃんには「かなふ」宜
しさがあり、寅サンとマドンナたちには「かなひたがる」つらさを感じていた。
* 例の数かぞえに、外国の主演級男女優のフル・ネームを各三十、四十人と挙げて行くならいは、男の四十、女の三
十人ぐらいまで、らくに挙げられる
ようになってきた。歴代天皇の桓武五十代までは完璧に挙げられ、後小松百代までにはどうしても数人足りなかったのが、もう確実に、百代まで正確に順に言え
るようになった。これは俳優のとちがい、歴史上の前後の見境をつけるため有効な手段で、実益がある。天皇の一人一人の諡号の周囲に、いろんな史実や人名が
浮き立ってくる。歴史が直ちに楽しめる。現実の憂さなどすぐに追い払えてしまう。
後小松の次は。これが全然出てこない。そのことにも、それなりの意味がある。そんな気がする。室町時代の天皇。そんなのは本当に実在したのだろうかと思
うほど、疎遠だ。柏原天皇。そんな人がいたような気がする程度で、ぽんと安土桃山時代の後陽成、後水尾天皇などへ飛んでしまう。こんどは後小松以降を数え
ることにしよう。
* 三月十八日 土
* 院を卒業して行く建築の学生君と池袋のビヤホールで、二時間半、心ゆくまで飲んで食べて話してきた。時間は瞬
く間に愉快に過ぎた。修士論文が書
け、自力で就職を決め、卒業式は目前。前途を祝したい、この人と限らず、親しい何人も何人もが同じように院を卒業して行く。
臆面なく酒類を人と飲める、これは最期の機会になったのかも知れない。
じつは昨日も会議のあと、ペン事務局の下にある「音鮨」で八海山をすこしもらって鮨をつまんで帰った。思えば意地きたない話だが、食欲はしっかりある。
戦時中の飢餓後遺症を引きずっているのだろう。
* この二週間、京都行きを含め、観劇三度、会議会合もあったし、いろいろと事多かった。からだがもつかなあと心 配したが、花粉症は季節の災難で致 し方なく、ま、大過なく過ごせた。次の水曜に診察をうける用事だけが残った。そろそろ次の湖の本に、なにを入稿するかを思案の時期になっている。
* バグワン・シュリ・ラジニーシの『十牛図』を二度目読み終え、『老子』二巻の上巻を、昨夜からまた新たに読み
始めた。二巻とも読み終える頃には
夏が過ぎて行くだろう。
なんとなく今日はほっこりとしている。腰のうしろが異様に痛んでいる。椅子がよくないのかもしれない、多少不安定に揺れるようになっている。ぐっすり安
眠したい。それとも面白いビデオの映画をゆっくり観てみたい。「オペラ座の怪人」がふと思い浮かんだが、ジョン・ウエインの「リオブラボー」でもいい。日
本製のテレビ映画では最高傑作の「阿部一族」もいいが、少し哀しすぎるかも。
* 三月十九日 日
* 剣道四段の学生君がメールをくれた。プライベートな動機など省いたが、青年像は浮かんでくる。
* お忙しいところ、僕のために逢っていただき、ご馳走までしていただいて、本当にありがとうございました。
僕は、本当に恵まれている学生だな、と、つくづく感じました。今日のあの“ひととき”は、僕だけのための秦先生の講義のような気がしました。久しぶりに
秦先生の講義を聞かせてもらった気がして非常に懐かしくもありました。秦先生と一緒にお酒も飲めて。一緒に楽しそうに飲んでくれていている秦先生を拝見し
ながら、お話が聴け、僕は幸せものです。
明後日Aに発ちます。が、今後どのような展開になるかは全く見当がつきません。Aに行く本当の理由を知っている双子の兄、研究室の、また数少ない友人達
は、僕の行動を決して馬鹿にせず、頑張ってこいよ、と激励してくれました。
先のことは全くわかりませんが、世の中に『絶対』ということはありえないと僕は考えており、学生最後の大勝負でもあるわけですね。自分の中では。
若さゆえに可能であるこの行動で何か学べることがあればと思っております。結果がどうなるかは考えずに、自分が社会に出る前にできる限りのことはやりた
いと思います。それでは、行ってきます。
秦先生は僕の剣道について結構質問されていましたが、そう言えば、今日お話していました剣道の師範の先生も『一期一会を常に心掛けよ』、とおっしゃって
おりました。稽古の時、いつも同じ相手と剣を交えますが、常に、初めて剣を交える相手と心得よ、と、いつもおっしゃっていました。
これは、秦先生がおっしゃっていた一期一会の意味と同じだと思われます。僕は学部時代に秦先生の講義を聞きながら、師範の言う一期一会について考えてい
たのを思い出します。
今日の“ひととき”は二度と帰らぬものであり、改めて一つ一つの出会いの大切さを学んだ気がします。全ての出会いを意味あるものにと、今後を生きていき
たいと思います。
* 一生に一度きりのことなら、無理が利く。何度も繰り返されることの一度一度を、生涯に初めての一度かのように
立ち向かうこと、それが「一期一
会」という思想である。同じ人に何度会うのも、一期一会のように毎度会う。それが人との間を大切にするわたしの思いではある、が、相手あってのことで、た
がいに「かなふ」のがなかなか難しい。そこを「かなひたがる」と醜い無理が出る。剣道の先生のご指導は聴くべきである。
スリランカは政情必ずしも波静かではない。大事なく、無事に帰国して欲しい。
* 真後ろの腰骨が昨日朝からひどく痛む。痛みが加わってきている。背を反って、俯いての読書が響いてきた気が、 ここ数ヶ月していた。一気に痛みが 出てきた。筋肉でなく骨という気がする。クラッシュしかけているのかな、わたしは。それなら、余計なことはしていないで、なによりも、静かな心を得たいと 思うが。
* 建日子から、週に二、三日ずつ保谷で静かに仕事をする生活に変えようかなと言われている。いろんな問題があ
り、簡単に実行できるかどうか。この
相談にも乗らねば成るまい。
* 三月二十日 月
* 少し変わった本が読みたくて、版元の広告につられ、山口宗之九大名誉教授の著になる『陸軍と海軍』と題した新
刊の研究書を取り寄せた。戦闘や作
戦の本ではない、いわば國軍創設以来の「人事」研究なのである。
子供の頃、軍人・兵隊の位には、誰もが一応の関心を払わねばならなかったが、大将になった人数がどれほどのものかなど知るわけがなかったし、どういう人
物が大将や元帥になるものかも知るわけがなかった。その一方、陸軍と海軍との漠然とした差異については、子供でも関心をもっていて、贔屓が分かれやすく、
なにとなく「開明的な」海軍に人気があり「硬直した」陸軍に陰気なものを感じていた。戦時中に感じてもいたし戦後に増幅された感もある。阿川弘之や司馬遼
太郎らの海軍礼讃の感化は大きかったろう。東条英機よりも米内光政に心を寄せていた所はわたしにもあった。そして海軍の方が陸軍よりもと評価していた。
この本は、軍の「人事」に的を絞りながら、いかにそういう思い込みが事実と違い、陸軍がむしろおおらかに緩く、海軍部内がいかに差別的に硬直したいっそ
冷酷な空気をもっていたかを、克明に反証して行くのである。
一つの例として、いわゆる挺身的な「特攻」で、陸軍ではエリート将校が率先垂範して死地に赴くことが多かったのに対し、海軍ではいわば学徒兵をもっぱら
追い立てて、エリートは殆ど特攻に参加しなかったと謂う。また大将や高等な将官への昇任でも、陸軍では事実が示すところ経歴や学歴に関して拘泥を大きくは
示していなくて、意外に柔軟公平な人事をしているのに対し、海軍での内部差別は強烈なものがあり、学歴や経歴がほぼ不動の重みをもっていたと立証して行く
のである。実名付きで事細かに追及されていて、記憶に残っている将官も多く、なかなか面白い。
断って置くが、著者の山口氏は軍の人でも自衛隊の人でもなく、もともと「橋本左内」を中軸に幕末思想の克明な研究者で、在任中にかつて『陸軍と海軍』的
な論文や著述が有ったのではない。ただ、余技か趣味かのようにいろいろと資料を蓄えていたのを大学社会を退いてのちに、ぽつぽつと検討を加えた成果が一本
に纏まったのだという。遠い動機は、親族に三人もの将官や高級将校があり、幼時から見なれていたということも有るらしく、納得がゆく。
意外なようで、これは思いがけない基本の分野を立証されたものとして、かなり高価な本であったが、読書欲を大いに満たされた。わたし自身は軍人にも兵隊
にも全く成りたくなかった子供だったが、戦争の推移にも戦後の敗戦処理にも時代環境として触れていたから、記憶は実名とともにたくさん残っている。漠然と
し雑然としていたそういう記憶に幾分の整理がついて、ふうんと感じ入ることも多かった。
幼年学校と士官学校とが、中学と高校にあたり、幼年学校生は無試験でうえに進むが、試験をパスして士官学校へ入ってくる者もいる。この幼年組と受験組と
の確執が凄かったらしい。わたしの娘はお茶の水女子高校へ受験して入学したが、幼稚園以降無試験で上がってきている「内部」から「外部」扱いされ、かなり
弱っていた。同じことは息子の早稲田高校にもあり、中学でパスしていた息子らは、高校から入ってきた「外部」連中に肩で風切っていた気味があった。陸軍に
も海軍にも根強くそんなことがあり、しかしそれが大将や中将に進むに当たって、陸軍はあまり影響せず、海軍では頑なに迄影響していたと著者は、事実と数字
とで証明し、むやみな海軍賛美は当たっていないと言いたいらしいのである。なるほど、なるほどと読んでいった。
* 佐高信『葬送譜』は、例の佐高さんらしい視線と主観と哀情とで、多くの故人を悼みつつ顕彰してゆく、心持ちの 佳い本になっている。この著者には 曖昧ものは無く、刎頸の友のようであった、例えば中坊公平に対しても、気に入らない進退を見届けると「見損なったぞ」と噛みついてくれる。これは、稀有の 徳というものであり、中坊氏についてわたしはすぐ様の判断は加え得ないが、佐高氏は佐高流できびきび発言してもらうのがいい。ばっさばっさと斬っていて軽 率なようで、しかし氏の斬りつけてきた相手も理由もわたしは九割り方賛成だし、残る一割はわたしのあまりに知らない人物なのである。
* 尻のうえに「痛み」という尻尾が生えたみたいに、寝返りも打ちづらく呻きながら寝苦しい一夜を過ごして、今朝 は立つのも辛かったが、痛み止めを 倍量飲みサロメチールのような塗り薬をたっぷり擦り込んでもらって、今は軽快感がある。
* 春めくメールが届いてくる。マスター(修士課程)をどんどん卒業して行く。わたしまで、浮き浮きする。
* 秦さん、お久しぶりです。
修士論文を書き終えたという開放感も手伝って、この3月はつかの間の休みを十分楽しんでおります。2月の下旬にフランスを十日間ほど旅行してきました。
去年の4月から半年間、僕と同じ研究室に留学していたフランス人の友達が、ぜひいらっしゃいと誘ってくれたので、彼のパリの家(下宿)にしばらく泊めても
らっていました。そのおかげもあって、今回の旅は今までと違ってフランス人の生活をじかに覗く事ができ、僕にはとても有意義な十日間になりました。旅の間
の出来事を、僕は毎日メモしていたので、日記ふうにまとめてみようかと考えています。
ところで先週の土曜日に、僕は久しぶりにオールナイトの映画を見に行ってきました。
日本映画の3本立てで、人も少ないだろうと思っていたのですが、予想に反して映画館の前には若者の行列ができていたので、座れないかもしれないと不安で
したが何とか整理券を手に入れて、無事座って見ることができました。
その3本は「燃えつきた地図」「痴人の愛」「黒蜥蜴」でした。前の二つは小説で読んだことがあり(もっとも「痴人の愛」は感情移入しすぎたのか、途中で
読むのがつらくなってやめてしまいましたが、)たいていは映画を後から見るとがっかりすることも多いのですが、今回は3本とも楽しめました。今までこの
ジャンルの映画を僕は見たことがなかったので配役の豪華さにまず驚きました。60年代の映画には今では大御所と呼ばれている人達がたくさん出ているので、
それを見ているだけでも退屈しませんね。日本映画には何かぱっとしないイメージを僕は持ち続けていたのですが、今回の3本は目からウロコというか、純粋に
もっといっぱいほかの作品も見たくなってしまいました。ただこの時代の作品も今では見られないものが多いと聞いて少し残念に思っています。
映画といえば、僕の祖父はその昔映画会社に勤めていて、父はお金を払って映画を見たことがないということを、この正月に帰省したときにはじめて知り、な
んともうらやましい話だと思いました。秦さんは映画はお好きですか? 上の3本は見たことがありますか?
東京もそろそろ桜が咲きますね、花見にかこつけて酒が飲めるという点でも、ぼくはこの季節が大好きです。ではまたお便りします。
* 三月二十一日 火
* 陸軍と海軍
伯父は終戦のときに陸軍大尉でした。この伯父から、軍隊の話はいやと言うほど聞かされました。
海軍に合格して制服まで買ったところ、中耳炎で耳が少し聞こえなかったので、取り消されて陸軍航空隊に入ったということ、飛行機が墜落したけれど命を取
り留めたことなど、さまざまな話を聞きましたが、特に陸軍士官学校の教官をしていた頃のことをよく話してくれました。
入ってきた生徒は優秀な士官候補性で、絶対に鉄拳制裁をせずに、率先垂範をむねとした伯父との間に、戦時中には珍しい温かな心の交流があったようです。
文芸春秋社はじめさまざまな出版社や大学、芸大に行った人など、後の文化人が多かったようです。
昨年の葬儀にも、「教え子」が50人近く参列してくださいました。実は今日も、お彼岸と言うことで、お参りに来てくださった方がいたのです。
戦争・軍隊というと何か抵抗を感じる私ですが、戦時中にもこんな心の交流があったことを参列してくださった方達の話を聞いて、さらに深い思いで心に刻み
ました。
また、耳がよくて海軍に入っていたら、このような思い出深い経験をすることなく前線にいかされて、終戦の日を迎えることもなかっただろうとも、よく話し
ていたものでした。
身近な陸軍と海軍の思いで話です。
* 早速、こんなメールが舞い込んできた。こういう記憶や体験のどんどんと消え失せて行く瀬戸際のような時期に今
は在るのだと思う。山口宗之氏の著
書『陸軍と海軍 ー陸海軍将校史の研究ー』に手を出したわたしに、そういう判断のあったことは否めない。忘れ果てていいことか、記憶を繋いでおくべきか、
その辺は微妙だけれど。幼年学校の最期の生徒として終戦を迎えた加賀乙彦氏のような作家もある。終戦の日、わたしは国民学校の四年生で、疎開した丹波の山
なかで暮らしていた。国民学校の講堂の高いところに「至誠」と、荒木大将の二大字が額に掲げてあった。感想は『丹波』という自伝的な手記に書いた。
びっくりするほど当時陸海軍の元帥大将らの氏名を記憶していたことに驚いている。崇拝の念らしきものをもった人としては、やはり山本五十六元帥ひとりが
あった。心したしい気持ちでいた米内光政大将は、その「名」の響きに惹かれていたので、実像への知識は短期間の首相という程度。また同じ「ハタ」の音を姓
で共有していた畑俊六元帥のことも特別に記憶しているが、実像への知識はゼロのままだった。A級戦犯の一人だった。
本はまだ半分ほど読んだだけだが、興味深い。
* 九大今西祐一郎教授の新しい論文の抜き刷りと、お手紙とをもらった。手紙の中味はわたしの或る「読み」にふれ
た和歌の話で面白いが、それは今は
措く。論文の方は『蜻蛉日記』のなかに出てくる、諸本に一致して同箇所に出てくる「のたちからし」とある難句を、「のきちかく」とあざやかに読み解いた話
で、これはもう、これしかない。なにしろ、むかしの本は連綿のひらがなで綴られているから、誰の目にも「のたちからし」と読まれてきた字体が、丁寧に他書
の事例も検討比較して行くと、これが「のきちかく」の紛れであったと確証できる。そしてそれならば原文の意義の通りが全く無理なく自然に決まる。鶯が軒近
くへ来て、さも「人く=来、人来」と鳴くので、すばやく対応しているのである。
では「のたちからし」はどう読んできたのか。「木」が抜けていると補い読み、「木の立ち枯らし」に鶯が来て鳴くと。しかし「立ち枯らし」という物言いは
他に例がないので、さらに「木の立ち枯れ」にと解釈を加えて本文を変更させてきた。今西さんが、それはあまりに不自然で勝手な変改ではないかと、むしろ書
字の上での読み違いではなかったかと、多くの例から無理なく「のきちかく」という読みを発見し措定されたのである。
今西説の鮮やかさに感心するのは当然だが、それ以上に、年久しく「木の立ち枯れ」のような無理読みを敢えてしていた学者達にびっくりしてしまう。
ではわたしはどう読んでいただろうか。そんな難儀な字句はとばして読んでいたし、それがなくても、要するに鶯が飛んできて「ひとくひとく」と鳴いたこと
は分かる。一字一句の翻訳を要しない読みの場合は、こういうトバシをけっこうしているものである。人と会話していても、こんなことだろうと聞き取れなくて
も察している事はある。たいがいそれで大過なく済むが、誤解していることもある。要するに言葉は百パーセント信じるわけには行かぬタチの、便宜、なのであ
る。目にもハートにも物言わせるしかない。
* わたしの『猿の遠景』でとりあげた話だが、宋の毛松筆として重要文化財に指定されている「猿図」を、いまの天
皇さんが一目見て「日本猿だね」と
言われ、美術関係者がひっくりかえるほど驚かされたという事実をわたしは、思い出す。ニホンザルは日本列島にしか棲息していない。その猿を、十二世紀、ど
うやって宋の毛松が描いたのか。描けたのか。
これにはあとへ長い長い推理と展開があり、それがわたしの著になった。よけいなことだが、亡くなる数日前に中村真一郎さんがパーティーの席でわざわざ
寄って見え、『猿の遠景』はことのほか面白かった、あれはいい本だねえと褒めてもらった。中村さんには、三十年前に太宰賞受賞の日の二次会のホストをして
もらった。直に話したのは、その次がその亡くなる寸前だった。ただ、途中、一度は時評で、一度は口づてで褒めてもらったことがある。谷崎潤一郎家集を編ん
だときと、源氏物語のわたしの理解についてであった。ま、それはそうとして。
学問といえども、不確かな面は一杯持っている。そんなことは当たり前なのだが、この当たり前に謙虚になれない学者と、いつも「ちがふのとちがふやろか」
精神を失わない学者とがいるということである。雲泥の差である。
* 加藤弘一氏の『電脳社会の日本語』が、なんとか、すらすらとは言わないけれど読めるのは、パソコンににそれだ
け親しんでいる日々のおかげだろ
う。どちらかといえば、文字コード委員会の延長のようで、言葉の、器械の上での表記・表現問題が主であり、いまのわたしの関心からはやや背後に置いてきた
感があるけれど、たいへんいい復習になっている。
* 三月二十一日 つづき
* 嬉しい便りが二つ、院を卒業の田中孝介君、布谷智君が、卒業式を前に家に来てくれるという。また竹中工務店の
神戸にいた柳博通君が、本社勤務で
四月から東京へ帰ってくるという。
フルネームをこうスクリーンに書いて、眺めているだけで、なんだか子供たちが帰ってくるような温かい気分になれる。
柳君はわたしの教授室に誰よりもはやく顔を見せに来た一年生だった。へんてこりんな部屋だったのを、きれいに設定し直してくれた設計マンであり、柳に
「風」を会得してきたか、まだか、文句なしに魅力的な個性である。
田中君とは、布谷君が退官後に引き合わせてくれた。布谷君は、もう秦さんとは話せなくなるからと、任期最期の半年ほどを、教授室によく訪れてくれ、環境
と科学について、様々に問題提起し、警告し、議論していった、冷静でしかも気持ちよく、熱い、真面目な論客だった。ただ論を成すだけでなく生活の中で環境
問題を実践していた。柳君とも議論していたのを思い出す。妻の訪れた日に教授室でいっしょになり、盛んに環境について話し合っていた布谷君も思い出す。
田中君を息子の芝居に連れてきたのが、布谷君だった。銀座小劇場だったろうか、むかいの「こつるぎ」で大勢で鮨を食ったのではなかったか。それからは田
中君がわたしのコンピュータの、こよない「先生」になってくれた。田中君を知らなかったら、少なくもホームページの出来るのは、もっともっと遙かに遅れて
いただろう。出来ないで済んだかも知れぬ。何度も家まで来て指導してくれたし、ハードディスクがクラッシュしたときには外付けのディスクや何やかやから、
救い出せる限りを救出してくれた。あの危機が乗り切れなかったら、わたしは器械とおさらばしていたかも知れないのだ。
* あすは、いよいよ専門医の診察を受けるために聖路加病院に通う。今日は妻が通った。これまでも出かけていた
が、それは妻の心臓とお付き合いの序
での健康診断なみだったし、それはもう不要とされた。明日からは、わたしの病状のために通う。
東京へ出てきて、初体験である。幸い、塗薬と痛み止めとで腰は軽快している。立ち歩いていると、まだ腰が鈍い痛みで固まっている感じはあるが、通院は出
来ると思う。諸検査で一日がかりになるだろう、たっぷり仕事を持って出かけよう。
* 四月の日生劇場ミュージカル、松本幸四郎の「ラマンチャの男」に、また招いてもらった。三十年記念の舞台だと
幸四郎の話していたのをテレビで聴
いていた幸四郎には身贔屓のような感情があり、一月には大阪まで「勧進帳」を見に行った。弁慶と一緒に客席で盃を挙げてきた。それでいて歌舞伎以外の幸四
郎の舞台はじつは初めて。楽しみでならない。先代幸四郎が染五郎の頃から南座で高麗屋の芝居に馴染んできた。初代吉右衛門のお供の体で「もしほ」後の中村
勘三郎や市川染五郎がつき、今の大歌右衛門がまだ芝翫だった。ああいう芝居を、あれはナショナルとか東芝とかの電器店へのサービスだったのだろうが、父は
わたしに見せてくれたのだ。能も観た。文楽も観た。中学三年から高校時代にそういうチャンスが何度となくあり、わたしは恵まれていたのである。また大喜び
で観にいったものだ、顔見世頃は期末試験時であったけれど。
* 三月二十二日 水
* 聖路加病院、初の診察。即座に、「インシュリン注射を朝昼夜に励行」し、「血糖値自己検査」を起床一番と就寝
前とに励行せよと宣告された。あす
は、妻を同道して栄養指
導を受ける。一日1800カロリー。致し方ない。
今日ある日を承知の上で、ここへ自分を追い込んできた。こうでもないと、わたしは、本格的に摂生することのない怠け者である。しかし、決められてしまえ
ば、わりに淡泊に受け容れて励行し、ときどき、ほんのときどき、平然とルール違反も楽しむだろう。
さしあたり、問題はない、上のきまりに随うまでのことで、自覚的にはなにもない。
いや、そうでもなく、けさ通院の地下鉄の中で、強烈な口渇と何かの低下で、冷や汗にまみれて気が遠くなりかけ、床に崩れかけていた。必死で三、四駅を堪
えて、新富町で下車。路上の強い寒風に吹かれて持ち直した。「高血糖」のせいであったろう、かなり高い値が出ていた。新しい専門医は、ためらいなく直ちに
「注射」と決めた。
問題は明日だ、どんなキツイ指導を受けることになるか。だが、受け容れてこの事態はあまり意識しないことにする。三度の注射と食事との関係は、こんどは
「低血糖」による昏睡の危険もはらんで厄介だけれど、煩瑣だけれど、受け容れて励行し日常的に油断なく慣れてしまえば済む。怖れていない。
* ただ元の学生諸君を初めとして大勢の人にも、このわたしの状態に慣れてもらわねばならない。遠慮してもらうこ とは少しもない。せいぜいお酒も食 べ物も是まで以上にご馳走しますから、気にしないで食べて飲んでほしい。それだけをお願いしておきたい。
* いま、電メ研のメーリングリストでは、先日中村正三郎氏を招いてお話を聴いた、その内容に関連して、感想や意
見が活発に交叉している。できれ
ば、中村氏のお話を整理した上で、委員各位の発言を、そのまま、ホームページに転記してもいいのではないか。役に立つ論点や視点の呈示が可能なのではなか
ろうかと思っている。
「文学界」へのアンケートを、わたしは敢えて提出しなかった。四月号には多数の識者の回答例が挙げられている。参考になる議論も含まれているが、なにの参
考に、どう生かすかとなるとあまり意味はない。
しかし引き続いての、先日文芸家協会のシンポジウムを纏めたような、あの日座長の島田雅彦氏のインタビュー記事は、一読に値いすると思う。
* 三月二十三日 木
* 二日続けて、しかもわたし自身のために築地の聖路加病院に通うとは思わなかった。栄養指導は厳重だった。少な くも血糖値の一ヶ月推移を見定める までは酒類も甘い菓子もダメと断定された。よほど昨日の256という血糖値が高すぎたのか。110とか120とかが正常値だと謂われれば数値の開きは厳然 としている。指導に否やを申し立てる気はなく、努めて励行しよう。その気になれば何でもないこと。
* 行くときは肌寒かったが、午後遅くには築地から銀座四丁目までそぞろ歩いて、暖かく、また街の風情が珍しかっ た。食事の前三十分にはインシュリ ンを注射しなければならず、注射してから三十分は食べられない。しかし三十分以上食べないでいるとショックの来るおそれもあり、ひどい時は昏睡する。すべ てに慣れて用心深くなければならない。外出時に気をつけねばならない。厄介だといえば厄介、難儀だといえば難儀。知識では承知していたことだし、負担に感 じ過ぎてはいけないだろう。つかず離れず慎重に付き合うしかない。
* 家での食べ物は、妻に任せ、不足は一切言わないことにする。
* 今度の「ミマン」出題には予想通りの回答が沢山届いた。易しそうである、が、難しいのかも知れない。漢字一字 を虫食いに補い、表現を完成する。 作者名は、ここでは控えさせてもらう。
日のさせばそこはかとなき青空も巻きたる雲も( )とぞ思ふ
( )と寝る約束やはり( )と寝る ーー現代川柳
* 幼い子供を何年もにわたり、若い両親ともう一人大人が加わって暴行を加え続け死なせた罪に対し、懲役六年の量
刑は解せない。この頃、日本の「裁
判」には、不審も不信も続出している。法律が技術的性格だけで運用されているのは、怪しげな主観の介在を忌避しているとは分かるけれど、裁判制度自体を根
から見直していい時期に在るのも確かだと素人目にも見える。警察が信じられず裁判が信じられず、政治の恩恵も、深められるより殺がれ薄められて行く方に方
に闇に零れ続けているのでは、もう、ものをいうのも億劫になる。
例えば金利ゼロ政策が、ほんとうに我々のために必要なのであれば、もうこの辺で、徹底して分かりやすい「理由の説明」が大々的になされる義務が有ろう、
政府にも日銀にも。世界に、かつて金利ゼロ政策をこれほど長く実施した例があったのか、成果はどう上がったのか、きちっと納得させてもらいたい。巷の声
は、たとえ俗論で素人考えであろうとも、金利がこんなままでは金などつかうものか、それで景気が良くなるわけがないと、挙って一つのことを求めている。民
の声を聴くというなら、これに答えて政策趣旨をさらに知らしめるのが政治の義務だろう。宮沢蔵相の在任期に、日本の経済が正しい道を歩んだことは、過去に
も実はなかった。その上に日銀総裁の弁にも聴くに足る「言葉」が働いていない。この問題に限った議論が、もっとなされていい時機だと思う。
* 中村正三郎氏の「文筆家」への助言に、出来る限り作品を「電子化」しておくといいという一項があった。同感
だ。そうしたくてホームページを渇望
したのだった。いよいよ小説を中心に実行して行こうと思う。いきなりホームページに書き込むか、一太郎やワードに書き溜めて行くか、併用しようと思う。長
編を、小刻みな新聞連載の感覚で書き込みに精励するのもいい、『みごもりの湖』や『慈子(あつこ)』を考えている。手がけているいくつかの新作は、当分は
わたしひとりの楽しみで密かに書き進めておきたい。
* 三月二十四日 金
* なんだか久しぶりの休日気分だった。器械の前で、いろいろ仕事を進めた。ひやりとすることもあった。朝一番の 血糖値が277もあり、これにも驚 いたが、昼食前にはたったの37に下がっていた。へたをすると低血糖のショックを起こしかねない。自覚的にはなんでもないのだが、病院に問い合わせた。す ぐ少し食べ物を口に入れ、所定のインシュリン注射はして、そのかわり三十分の間隔をとらず即座に食事するよう指示された。その通りにし、何事もなかった。 夕食時には163ぐらい。なかなか面倒なものだ。
* 気になっていた歌舞伎座の我當を、千秋楽に観てやることにし、切符を手配した。幸い席は取れた。
* 従来外へ出ての楽しみはもっぱら飲み食いで、佳い店で佳いものをと心がけてきた。それが出来なくなった。少々 お金が使いたくても使い道の大半が 無くなった。自分の着るものには全く頓着しない不精者でわたしはあるけれど、空腹に堪えるかわりに、すこし、その方に目を向けてみようか。
* 自伝という構えた気分でなく、幼少の頃の自分を生かしていた「環境」「心象風景」を、なるべくそのまま記述し
ておきたいとは、大学をもう退官す
る少し前からの希望だった。一つには「親たちと私」のことをよかれあしかれ納得し感謝し記念したかった。「こんな私でした」と素直に人にも語って置きた
かった。妻は「なんで、そんなことが、したいのかなあ」と半ばは呆れているが、うまく言えないが「安心」して「通過」してしまいたい気分なのである。よか
れあしかれ、そこを通ってきたから「作家」になった。そこを通ってきたから今の「私」になった。「作家」も一面、「私」も一面。その両面をわたし自身がほ
んとにきちっと見て来たろうかと、不満足というより不安を感じ始めていた。どうせ捨てて落としてしまう「わたし」にしても、落とすべき己が全体が分からな
いでは不安が残る、といえば説明になるのだろうか。心許ない。余計なことだとも思うが、内心の欲求は浅くなかった。果たしてしまいたかった。
伝記でもなく、小説につくろうともしていない。
小さい頃にわたしが口にしたことばを、直接話法的にはほとんど記憶していない。親やよその大人や子供たちの直接話法も、ありありとは記憶していない。小
説なら、そこで「斯く在るべかりし」会話も創作するだろう、話も場面も創るだろう、容易いことだ。だが、それはすまいと思った。客観性をいくらか純主観の
直流から守保すべく、わたし自身の氏名や差し障り在る場合の氏名を仮称に替えているけれど、それ自体は邪魔に感じなかった。ウソはつくまいとだけを考え
て、ことさらにハナシにしよう、面白く書こうなどとしなかった。
自分を証言することで時代を証言しようといった気負いも持たないようにした、結果から何かが浮かび上がるにせよ沈み込むにせよ。作家秦恒平としては、
「読める文章」で書きたい、それだけが望みだ、それが出来れば「文学」になる。
* 『死から死へ』を横書きの、ホームページのイージーな版面で読んで下さっていた人たちが、「湖の本」になった
同じ文章を、べつもののように新鮮
にほとんど一気に読み通して下さっている事実にこそ、わたしは励まされる。それが願いだった。ホームページは、いまのところ、コンテンツ自体の「展示」で
あり「所蔵」であり、それらが装いを変えて「湖の本」になるとき、わたしの「文芸・文学」を示現してくれればよい。
筋書きや面白い表現で小説に創る文学・文芸ももとより大切にして行くが、純粋に文章の力で読んでもらいたい非小説も大事にしたい。
* 三月二十五日 土
* お案じ申しあげてと申しますのも、何か通り一遍、申しあげたとてという気がしまして、それでも、日々、闇にほ
とりほとりと置いてゆかれるおこと
ばが気にかかってなりません。月並みながら、どうぞどうぞおたいせつにと、口ごもりつつ。
『客愁』の扉におかれた、エピグラフでしょうか、「荻の上葉に風わたるなり」のうたと、「汝は死すべき」、それとチェーホフのことば。この三つを、ここ
におかれたお心をかんがえています。怖いことをおっしゃっていると。わたくしはまだ、自分の幼いころをふりかえれません。まして、少女のころは。
十九日、「海神別荘」に行ってきました。あの芝居はあの(日生)劇場でなくては、という気がいたしました。灯を落とした天井に、かげろうのように照明が
ゆらめいて、それが鏡花の世界へのいざないでした。
秀太郎を頭に侍女たちがとてもよかった。それと黒潮騎士たち。侍女たちの衣装、後のちょうど帯のあるあたり、くしゃくしゃとした感じなのが、あまり見よ
くないようにおもいました。黒潮騎士たちの衣装、着てみたいほど。
あの海底の世界の人たちが、(陸上の)わたくしには蛇に見えるのかと、せつなく、悲しくなりました。そして、彼らにわたくしはどう見えるのかと。
* 鏡花と蛇に関しては、このホームページの「講演録・選」から『蛇・泉鏡花の誘いと畏れ』を読んで欲しい。
* 身のほどを思ひつづくる夕暮の荻の上葉に風わたるなり 新古今集 秋上
Memento mori (汝は死すべき身なることを忘るる勿れ)
貴族作家がただで自然から取ったものを、雑階級の作家は、青春という代価を
払って買っています。
この青年がどんなふうに一滴一滴自分の体から奴隷の血をしぼり出し、どんな
ふうにある朝ふっと眼ざめて、自分の血管を流れる血がもはや奴隷の血ではなく、 本当の人間の血だと感じるかを、一つ書いてごらんなさい。
チェーホフ
* まったく同年輩の、社会に出て一応も二応も仕事をし遂げてきた人の、少年期を書いた、原稿用紙に手書きの「小説」を人づてに頼まれて読みだしてみた。
だが、筋書きはともあれ、行文は雑駁に、把握も粗雑で、とても「小説」と遇することもならず、手記としても読めるものでなかった。
また、二十も若いかも知れない会ったことのない、母校高校の後輩女性が、やはり「小説」を送ってきた。これは、パソコンの横書き原稿だが、一枚分、原稿
用紙で四枚分ほどをすらすらと読んで、一箇所も眉をひそめて躓いてしまうところが無いのに感心した。そこで休んで、読みは先へ行っていないが、一字一句を
「直したい」という気にさせずに読ませてくれる原稿になど、めったに出会わない。ふーん、と、むしろビックリしている。
* 三月二十六日 日
* 早起きして検査も注射も三十分後の食事もして、十一時開演、三月千秋楽の歌舞伎座へ。
お国山三の舞踊は、都の春をいっぱいの背景に、時藏と染五郎。可もなく不可もない綺麗な舞台。染五郎の顔に佳い意味のアクが欲しい、大きな役者になるに
は。父幸四郎にも歌舞伎顔の印象のややうすいのが、彼ほどの才にして難になっている。特色有る歌舞伎顔を創り出すことが若い染五郎の目標になるだろう。
青果劇の「江戸城総攻」は、団十郎の西郷どんが一人舞台、幸四郎の勝麟太郎はじっと辛抱の聞き役。一場を一人で語り通すほどの長い長い弁舌を、滞りなく
無難に、それだけ感銘深く語り抜いた成田屋は、充実し続けている感じで頼もしい。真山青果賞が待っているだろう。一場にちょっと出だけの山岡鉄太郎を、我
當は、ややパセチックであるが眼光きらめく至誠の人を演じて、好感を深めた。こういう「いい」人柄が彼の持ち役であることは、友人として嬉しい、が、せめ
てもう一役欲しかった。
序でにいえば、我當には父君の薫陶と鞭撻があった。息子の進之介を激励し訓練するのは我當の責任であり、責任の一つの取り方としては、進之介を誰かに預
けて厳しく仕込んでもらうということも考えねばいけない時機かと思われる。遅きに失してさえいる。もうあの歳であのままでは、進之介は歌舞伎役者としての
場を確保しきれないのではないかと憂慮する。
* 雀右衛門と富十郎の「隅田川」は期待に違わぬ美しい緊迫の舞台で、滂沱と涙をながした。声を忍んで感動した。
なんという船頭富十郎の清潔な心優
しい舞踊であったろう、最高に美しいほそい線で、微塵の揺れもなく虚空に動画を描いて見せてくれた。そして母雀右衛門が濃密に構築して行く極限の悲哀美。
かどわかされた愛しい子を追い求めて都から隅田河畔にたどりついたとき、一年前の今日にこときれていた子の墓を目前にしたのである。こんなに単純で簡明な
ストーリーはなく、能舞台では何度も見てきた。しかも当代の歌舞伎界を代表する重鎮二人の心こもった芝居は、新鮮に立派であった。雀にはやや厳しく当たっ
てきたわたしにして、今日の京屋には頭をさげた。いまこの役はこの人でなければならない。
富十郎の踊りの巧さ正しさには、いつもながら舌を巻く。妻は、今日一番の舞台だったと息をのんでいた。舞踊が好きで、惹きつけられるというのは、歌舞伎
見物では最大の徳いや得である。しみじみ、そう思う。
* 「雪暮夜入谷畦道」の直次郎に絶世の美男子菊五郎、三千歳には福助。江戸情緒纏綿の名舞台である。もうせめて 一寸の背のほしい音羽屋だが、さす が今業平の直次郎のやさぐれた侠の味わいは、そばやの場から、しびれるほどの魅惑で、幕切れの花道にまでそれが維持された。感じ入ったのは意外なほどの福 助の哀愁と愛嬌との殉情で、底知れぬ江戸の女の情愛を表現してくれ、わたしは堪能した。この役はいかに大阪の成駒屋贔屓でも、東京の成駒屋にゆだねたい。 江戸のよさを出せるのは江戸の役者だという当たり前な理屈を再確認できた。児太郎時代から美しい女形であったが、一時期やや貧相な気がしていた。今日の三 千歳は、見直した。「いい女」「かわいい女」に純なものをよく加味して、菊五郎に劣らなかった。しかし菊五郎の、捕り方に踏み込まれてからの一挙手一投足 の活躍は、そのまま錦絵の一枚一枚のように烈しく定まって、痛快に美しかった。歌舞伎を満喫させた。
* 築地も銀座も、つらい街になった、どっちを見ても食べたい呑みたい佳い店が、馴染んだ店がいっぱいだ。だが、 せいぜいコーヒーしか飲めない。 まっすぐ有楽町線で帰った。今日は歌舞伎見物の途中で注射した。1800カロリーに制限されているが、緩やかな方であり、量的にはぎりぎり足りるといえば 足りる。一つ一つゆっくり食べるようになっているし、口淋しくなれば熱い湯茶に梅干しを浮かべて呑む。これが子供の頃から大好きだ。
* 貴闘力が幕尻で十三勝の幕内優勝をきめた。からくも雅山に勝った。よくやった。
* スチーブン・セガールのつくった不出来な娯楽映画を観た。彼は、だが、我が国の政治家よりもずっと熱心に「環
境破壊」と闘う姿勢を映画作りに露
出している。主張がストレート過ぎるが、セガール映画にはふしぎにハートが感じられる、たいていの場合。
* 今日は一日冷え込んだ。春への足取りははやくない。あすは東工大の卒業式と聞いている。院の卒業式を済ませて、「わがパソコンの恩人たち」田中孝介君
と布谷智君とが家に来てくれる。
* 三月二十七日 月
* 梅原猛氏の講演「日本人の宗教観」が電子出版されるについて、解説をと、木杳舎から依頼されたが、テープを聴
いて、お断りした。
「安心」をもたらすかも知れない体験や説法は聴きたいが、信仰心すらなく「宗教」について「知識提供的」に論じたり感想を述べたものは、不安解消の役には
立ってくれない。バグワンのような人ににこそ聴きたく、もう数年、一日も欠かしたことがない。
昨日も妻に聞かれたが、わたしの求めているのは「安心して死ねる」ことだけで、必ずしも宗教ではないし、まして宗教にかかわる知識ではない。梅原氏の講
演は、講演自体がとりとめないだけでなく、論旨が想像以上に平板で、胸を轟かせるようなものではなかった。話者のネームバリューだけのこのような企画が世
間に氾濫して、ポイントをのがしているかと思うと、気が萎える。
* 甥の北澤猛が留守中に電話をくれていた。ウイーンから戻って、兄弟で相続の話し合いをしていたという。これか
ら京都へ移動すると。「ミマン」の
出題にどうかと思っていた中に、「なるようになりて相続の済みしかばふつふつと鮟鱇の肝を煮ており 斎藤文子」という歌があった。穏やかに済むといいが。
わたしは一人子で、両親にも叔母にも縁者がなかったため何のトラブルもなしに済んだが、どこで聞いても、だれに聞いても、大なり小なり揉めているよう
だ。「鮟鱇の肝を」ふつふつと煮る心境が、分かると言えば分かり、分からぬといえば分からない。
* ああ嬉しいと思う人から、メールが使えるようになりましたと電話が来た。久しく逢わなかったが、声はしごく元気で、嫂さんと二人で行った京都から帰っ
て来たところ、泉涌寺へも清涼寺へも勝持寺へも行って来ました、と。わたしが湖の本の「あとがき」で、「子供が嬉しがるように嬉しそうに」器械のことを話
しているので、娘夫婦の手を借り、やっと自分用を設定したのと言う話。お酒もご馳走もダメになりましたよと告げた、呑んで食べての仲間だったから。「そん
なこと、ちっとも気にしない。おいしいお茶をのむだけで十分」と言われてしまうと、かえって寂しい。
* カナダから帰っていた中学以来の田中勉君からも電話で、しばらく話した。むかしと少しも変わっていない、物言
いのきびきびとハイカラなこと、思
わず微笑んだ。友人達はみな定年になっている。定年のない仕事はいいねと喜んでくれた。おかげさまで。
* 三月二十七日 つづき
* 三省堂が出している企業PR誌に「ぶっくれっと」がある。新書版の小冊子だが、月により、読み始めるとやめら
れない興味深い署名記事が多い。い
ま湯に漬かりながら読んだ、作家の逢坂剛ともう一人鹿島某氏との映画館対談など、こういうマニアも世の中にはいるのだなと自分の視野を相対化できてよかっ
たし、巻頭の、いちど一緒に同じ壇の上で喋ったことのあるエッセイストの、「うただ荒涼」と題した話題も、いま人気の歌手「うただひかる」にひっかけた、
キザっぽくも面白い批評であった。映画評論家の品田雄吉が、わたしの好きな映画の「カサブランカ」を語って、あれは上出来のメロドラマだと批評しているの
も良く納得できた。良くできた脚本だと思っていたが、なかなか書き上がらずにちぎれちぎれ撮影していったと聞くと、かえってまた感心してしまう。
とびきり面白かったのは、筆者は忘れたが、「海のネルソンと陸のスミス」という、ナポレオンをさんざん悩ませた、しかも明暗を分けて評価されまた忘れ果
てられた二人の軍人の話だった。この三人に共通していたのは、だが「womanizer」だというエピソードの紹介なども、歴史知識という大石垣のすきま
に小石を挟むようなくすぐったくも嬉しい気分になる。
* わずか小一時間のうちに楽しんで読めるのだから、なまじなテレビ番組よりよほど効率も良く、味わいも佳い。批 評類や随筆類はなにもかも単行本で 読もうとし過ぎると、概して「概論」を読まされるものだ。とりとめないものの中から金無垢の小粒を拾えと、大学で授業を始める一番最初に話したのを覚えて いる。ただし、わたしのが「文学雑論」だったからである。専門学科でならそうは言わないが、それでも、概説や体系的な教科書から啓発されるものは存外少な いのが常のように、わたしは、感じてきた。
* 貧しく育ったことを恥じたことはない。育ての親たちは、せい一杯のことをしてくれた。
ものに埋もれ、突き当たり当たり家の中をうごめいていると、ああ、もうすこし広い家だといいなあと思うことは、ある。
一度だけ、八畳間のある家屋に暮らした一時期がある。戦時疎開先で借りていた裕福な農家の隠居に、八畳間が一つあった。母とそこで一年ほど過ごした。京
都の家は奥の間で四畳半だった。東京で妻と借りたアパートは六畳一間で、しかし京間の四畳半より狭苦しく感じた。社宅が六畳と四畳半だった。そして三十三
歳頃に建てたこの現在の我が家は、六畳間ばかりの二階建てだが、もう物に溢れ身動きがとれない。幸い隣家を買って親たちが移転してきたのが、そのままわた
しの手にあるが、家屋は古びたまま本の倉庫になっている。二軒が地続きなのだから、どうにか仕様もありそうだが、考えるだけでも面倒くさい。この分では生
涯六畳の部屋以上には暮らさないだろう。辛抱が成るのなら、そんなことは二の次でわたしはいいのである。妻は三百坪もの家屋敷で育った人だから、さぞ侘び
しいだろうが、そういう苦情は聴いたことがない。有り難い。
* 三月二十八日 火
* カトリーヌ・ドヌーブという女優の名前がまったく想い出せなかった。「シェルブールの雨傘」という優秀な
ミュージカルのヒロインであることは
しっかり覚えているのに、である。もっともあの映画では、もう一人の、ガソリンスタンドを夫と二人でやっている女性の方にわたしの同情・愛情は寄ってい
て、なぜかカトリーヌ・ドヌーブの役の女性にやや冷ややかに向かっていた。今日の昼下がりに、病院へ行った妻の留守に「トリスターナ」で久々に美しいセク
シイなドヌーブをみて、身内が痛くなったほど見とれはしたが、どこかで心情的には距離を置いていた。養父で事実上の夫でもある老貴族の方にむしろ身を寄せ
ていた。
カトリーヌ・ドヌーブとグレース・ケリーとが、ちょっと似通っている。むろん嫌いでもなく美しいと思っているが、可愛い女ではない。「カサブランカ」の
イングリッド・バーグマンのようには胸をときめかせてはくれない。「わらの女」のジーナ・ロロブリジータの美しさは痩せていたが、「トリスターナ」のド
ヌーブよりは死んで行く夫に情があった。
ともあれ、なんとしても思い出せなかった大きな主演女優の名を、また一人記憶にとどめた。今年のアカデミー賞の演技賞俳優達の名前も顔も、わたしは一人
も知らなかった。映画館へ行かないのだから当然だ。テレビにはパソコンよりも遙かに違和感・不快感をもっているものの、映画を簡略に見せてくれるありがた
さには感謝あるのみ。西洋の映画は、下らない二三流の通俗娯楽ものでも、ま、許せる。とにかく客を呼ぼうと頑張ってつくっいる。視聴率稼ぎとは異質の努力
だと思う。
* 若乃花の引退にはとくべつの感慨はなく、よくも大関横綱になったものだと賞讃の気持ちが、有る。もっとも幕内 上位に二子山部屋の強かった力士達 が犇めいていた時期の横綱昇進で、同部屋力士とは相撲をとらなくていい幸運もあった。貴闘力の幕尻年長超スローな初優勝にこそ拍手を惜しまない。千秋楽の 雅山との一番も、あれは八百長で取れる相撲ではなかった。舅の大鵬親方の喜びはさこそと、それを大鵬のために嬉しいと思う。御曹司をちやほやするこの國の 嫌な習いにはくみしないが、張り手であれ何であれ、非力で苦闘してきた力士には声援をいつも送っている。琴錦、寺尾。頑張って欲しい。
* またしても「政権離脱」をびらびらさせての小沢一郎の末路のあがき、見苦しい。
* 今一つ、交通事故の秘書もみ消し事件で矢面の、白川勝彦議員というのは、自公連立違憲と訴え、かなり熱い反対
運動をしているいまどきマトモな自
民党議員だが、おそらくそれへ当てての自党や公明党筋のバッシングがあるのではないか。もみ消してこなかった議員や秘書が他にいなかったらお目に掛かりた
い。
* 三月二十九日 水
* ちょうど二年ほど前に田中孝介くんと布谷智くんとが、保谷を訪れてくれた。あの日もいろいろと器械を設定して いってくれた。もう一度田中君が来 てくれ、ホームページ設定という、わが私史に画期的なことが実現した。あれから二年、学部を卒業前だった二人が大学院の卒業式を無事終え、また二人で我が 家に来てくれた。数日前から、なんだかそわそわするほど心嬉しいことだった。二人とも立派に就職先も決まっていて、二重におめでたい。歓迎せざるべけん や。
* すこし遅めのお昼を妻に用意してもらい、ワインで乾杯、歓談一刻。ただ、わたしは口をつけただけ。二人は、い
ろんな面で対照的な仲良しである
が、わたしの相の手に乗ってくれて、それぞれに楽しく話してくれる。専攻の学問のことなどは、聞き届けるにはとても力及ばないが、とにかく気が合うので、
間もいいのである。
お定まりのように二階へ上がり、澤口靖子がいっぱいの部屋で、今日はカラースキャナの使い方を習った。手順のメモも器械の「メモ帳」に書いた。メモは別
の紙にペンで書くものとわたしは思いこんでいた。「メモ帳」はメモのためにあると言われ、やっと気がついた。こういう迂闊さで、ほかにも、ナーンダという
ような簡単なことを、面倒くさくも遠回りしてやっていたのを、簡便で速やかにできるよう、幾つも手直ししてもらえた。この始末であるから、どうか、「秦サ
ンはパソコンを駆使している」などと冷やかさないでもらいたい。
* カラースキャナで何をしてみたか。一月末に帝劇の楽屋で澤口靖子と並んで後藤和己氏に撮ってもらつたスナップ
写真を、大きく器械に取り込んでみ
た。いやもう、綺麗に入った。
写真をみると、わたしが、ボーッとしていたことがすぐ分かる。膝においた両手先が赤ちゃんか子供の手のように、ホワンとまるく、握るでなく伸ばすでな
く、お茶の先生だった死んだ叔母がみれば怒りだしそうな、無造作というより無意識で無自覚な膝に置き方をしている。これでも茶名をもらって資格も裏千家教
授なのに、このザマ。嬉しそうな顔もできず、きりっともせず、隣の靖子ちゃんのはんなりとにこやかなのに並んで、眠い河馬のようにぼんやりしている。なさ
けない。
しかし、器械の画面いっぱいにカラー写真が、ぱっと咲いた。いい気持ち。これは田中君が教えてくれた。ついでに、大学院を中退して就職試験に東京へ出た
頃のわたしのスマートな黒白写真も取り込んでみた。さらには、娘の朝日子がまだ小さかったころ、弟の建日子がまだ一つぐらいのころに、二人ともをわたしが
抱き上げて三人で笑っている写真もスキャンしてみた。いちばん朝日子の笑顔の可愛い写真で、大好きだ。ホームページに入れるつもりではないが、自伝的な作
品の一部に、京都や丹波の写真が入れば佳いかもしれないなと、今ごろ思っている。
* 布谷君は、麻雀をどこの誰とも知れない連中といきなり勝負できるような設定が可能だと、やり始めてくれたが、 そんなことをもし始めたら、わたし は仕事が出来なくなるので願い下げにした。ただ、碁のでき親しい人と、二人で碁が打てるなら佳いなと、これも今頃思っている。
* 池袋まで見送り、中華料理を奢ってお祝いにかえた。もっとも、わたしは食べられないので、注射のあと、チャー
ハンを一人前とって、わたし分の料
理は二人に分けて食べてもらった。それぐらいで、若い二人はやっと満腹してくれるだろうと思った。
食べられず飲めないのは淋しいものだ。ふかひれのスープには、つい手がでた。二人ともそうそう飲む方でないので助かったが、うまそうに好きな老酒などや
られたら傍観しているのはつらい。
楽しかった。うれしい一日だった。
* 堀上謙さんから電話で励まされた。その一方、インシュリン依存に陥らない方がいいのでは、もう一人ぐらい別の
病院の医師に診せてはどうかと忠告
された。いきなりのインシュリンという方針には、わたしも少しビックリしたのは確かなのである。ま、次の診察まではまじめに言われたままにしたい。
九十すぎの「自称弟子」さんから、ホテルオークラのスープだのお粥だのがドンとたくさん贈られてきた。恐縮している。銀座のバー「ベレ」のママから届い
た洋菓子「ヨックモック」も、こんなにうまかったんだと呆れるほどうまい。NHKの倉持光雄さんにいただいた「かき餅」もすこぶる旨い。沢山食べられない
となると、こんなに愛おしげにものが旨いかと、驚いてしまう。いい体験をしている。
ただ、エネルギッシュに燃えて行くような体内の気迫が、沈んで行っては困るなと思う。つまらながらずに、出て、動いて、人とも逢い話し夢みた方がいい。
済んだことは振り返らなくていい。
* また佐高信氏の新刊を貰っていた。対談集である。風呂の中で猪瀬直樹氏との遺恨試合のようなのを読んだ。
それなりに二人のちがいは見えている。従来やられっぱなしだった猪瀬が、心構えして佐高に反撃している対談で、佐高さんは猪瀬さんに言うだけ言わせてい
る感じである。かなり言われている。おまえのはプロパガンダで軽薄な流行、おれのは作品で重厚な不易の仕事と猪瀬氏は言っている。そういう対比へ持ち込も
うとしている。作戦としては巧妙で、これだけ読めば効果を挙げている。
ただ、話の発端におかれた猪瀬直樹著『ミカドの肖像』をめぐっていえば、猪瀬氏の天皇制理解や研究がそう深いものでないことは、発言から直ぐ分かってし
まう。もう昔に、亡くなった淡谷のり子さんと亡くなった山本健吉氏と三人で、「歌」を話し合った際のとまどいを思い起こす。編集者は「歌の歴史」をと望ん
でいたが、淡谷さんにとって「歌の歴史」はせいぜい近代以降に限定されていたし、それでは山本氏の記紀歌謡や万葉の時代からの「歌の発生」論は持ち出しよ
うがなかった。
猪瀬直樹の「天皇制」ないし「天皇」観にも淡谷さん的な薄みが感じられるのである。おおげさにいえば、神武から後小松百代までを諳んじ言いながら、崇神
垂仁ぐらいからあとになれば、一人一人の天皇の前後左右に、わたしは、いろいろの文化・政治・私生活の陰陽を察しうるし、室町時代の、安土桃山時代の、江
戸時代のいろんな天皇や皇室事情を介して感じ取っている天皇制は、どうしてどうして、猪瀬概念論なみにそんなに単純ではない。政治の象徴であり得たときは
少なく、多くの天皇方は、余儀なく文化的な存在であることで辛うじて認知されていた。近代以降の天皇制のほうが歴史的には特殊なのである。そういう検討が
こまやかに十分にされていれば、とてもそうは言えまいと思われる発言があり、そんなこったろうなとわたしに首を横に振らせるような発言を、猪瀬氏は以前に
テレビ対談の「廃仏毀釈」解釈でかなり軽薄に喋っていた。そのことには、このページでも触れている。
佐高氏の仕事にはなるほどプロパガンダに見える。が、同時代を生きるものとしては血潮の匂いのする、厳しい、避けて通りたくないところをズケズケやって
いる。猪瀬氏はたしかに勉強家で彼なりにゆるがせにしない仕事をしている。わたしはきついことも言うが猪瀬氏のそういうところが好きである。だが「仕事」
はまだまだ薄く、とても不易の発見になんか満ちていないし、深みには甚だ欠けている。そして、わたしなどからみれば、猪瀬氏のテレビや会議の仕事には、プ
ロパガンダ以外の何ものでもない流行の所産が、かなりアイマイで不確かな表情とともに読みとれる。
猪瀬氏はいつ口ごもって話すことで、言い訳も用意している。なにかの顔色をいつも見ている。佐高氏はその場その場で言い切って行く。志がなくてはとても
出来まいことを、あまり重厚にではなく、時として安直そうにやっつけている。だが、言って欲しいなと切望しているような所を代弁してくれている。
そういうことが分かって面白かった。湯あたりもしなかった。
* 三月三十日 木
* 俳人能村登四郎さんから、りっぱな句集と鄭重なお手紙をいただいた。米寿になられるのではないか。能村さん の、「幼な泣きして春暁の夢醒むる」 の句を「ミマン」に使わせていただき、鑑賞した。御覧になり、喜んで下さったようだ。
* 今日は気力が萎えている。そういう日には、必要なのに手の着いてなかった整理などを進める。頼まれ原稿を一本 送った。私語の刻も整理した。恥ず かしいほど打ち放しの誤字が入っている。直しておく。
* 酒呑めぬ花見の客やさむさうに 遠
* インスリンに依存してしまうのはイヤだなと思っている。薬が習慣性になるのは困る。
* 先日来対局を再開した器械との囲碁は、後手番からはじめ、三番ずつ勝っていま二子置かせて一番勝っている。ま だ負けたことがないので、負けたら さぞ悔しがるだろう、そういう無意味な興奮は避けた方がいいなと思いつつ、なんとなく打ち込んで勝っている。
* 有珠山噴火の予兆で北海道の大地は揺れに揺れ続けている。いまにも噴火しそうである。やっと九州普賢岳の方の 復興が成ってきたところなのに。春 とはいえ避難生活に入っている人たちはお気の毒だ。
* オームの青山弁護士が黙秘を完遂して宣告刑に服したという。こういう事実を「人間」の「不思議」としてよく考
えてみなければならない。
* 三月三十一日 金
* 花ながらわれは不屈の物書きぞ 遠
* さくらがはらり、咲いているのを見つけました。少し風はありますが、空気がやわらかく和んでいて、こちらの気持ちも和められてゆくようです。
それにしましても、活動し始めた火山のほとりに住む方々のお心をおもわずにはいられません。人的災害などというささくれだったことばは使いたくありませ
ん。とにかく、人のいのちが失われることのありませんようにと、ねがうばかり。
「気力が萎えている」というおことば、やはり、お身体の調子のゆえか、おくすりのゆえかと、と胸をつかれたおもいでございます。ただ、お案じ申しあげる
ばかり。
『冬祭り』を読み直し、『清経入水』を読み直し、今は『誘惑』、「誘惑」といっしょにおさめられている『華厳』を読み直したところです。
姫舟の死には流れなかった涙が、「舅が大事に蓄えた墨も紙も筆も、書けるものは板一枚も尽きた。惜しくもない、これは置土産にただ道の辺に落して行くだ
けだ。」以降、読みすすめないほど、流れてなりませんでした。
主人公の清んだ独白に、わたくしも清められたような気がいたしました。
初めて読みましたときには、見えなかったことの、多さ。
いま、ぼんやり、花の写真集などを見ています。『華厳』のあと、すぐに『繪巻』に移れなくて。
* 『華厳』は、井上靖夫妻や辻邦生さんらと中国に旅したとき、大同の上・下華厳寺や雲崗石窟や深い炭坑を一日訪
れた感銘から出来た。帰国後に書い
たが、旅行中、ずっと着想を胸に育んでいた。戦後一般の日本人が大同に足を踏み入れたわれわれが最初の客であった。雲のような群衆に取り巻かれ見られた稀
有の体験をした。華厳寺の壮麗な壁画への批評から着想が動き始めた。画家を主人公にし、時代を明のほろびて清に動いた時期に設けた。
発表後に、伊藤桂一さんに「ぼくらだと、もっとおもしろく読みやすくと話をつくってゆくところですが」と感想を述べられた。井上さんには、炭坑をつかい
ましたねと云われた。硬質、緊密のつくりになっていて、一字一句ゆるがせにしない態度で書いた、一つの我が代表作のつもりだ、こういう作をひっそりと読み
返し涙を流して下さる知己を有り難いと思う。革命の激動と波瀾を背後に、美への執念と、執念の落ちて行く末までを眺めていた気がする。
中国に招かれての小説を幾つか見てきたが、大方は見聞に即した今日に取材のものだった。『華厳』のような本格のものはじつは少なく、その意味では井上靖
の創作意欲には感心する
* さて、問題は「運動」という事態に当面している。とうの昔からそうだったが、「痩せる目的で水泳などしない」と云ってきた。スポーツクラブにもう十年
ほど会費だけ払って、ただの一度も行かなかった。妻がときどきプールを「歩き」に通っていた。いよいよ、会費の元を取り返しに行くときが来た。一度行け
ば、二度行きたくなるかも知れぬ、水泳は嫌いではないのだから。
* 三月尽 つづき
* いろんな事があった。有珠山の噴火、小康状態にあるようだが、どうして、こんなもので収まるまい、心配は続 く。噴火し始めた頃、チャールス・ブ ロンソンの映画「夜の訪問客」が始まったばかりだつたが、面白そうであったが、やはり、あの噴煙の沸き上がるライヴ写真の迫力には映画も勝てなかった。勝 手なことをいうわけで申し訳なくもあるが、こういう大自然現象には、警察不祥事や小沢自由党の泣き節やネットワーク強姦魔たちのような卑しさも嫌らしさも なく、畏敬とか畏怖とかいう気のよろしさを味わわせてくれる。災害に相違なく、災害の少ないことを、だれ一人の犠牲者も出ないことを切に願うけれど、避難 生活も犠牲なら、家屋や田畑や飼育動物たちの損傷も大きな犠牲に相違なく、なんとか小さく早く沈静して欲しい。
* 私的な大事件かも知れない、わたしは、テレビがあの様子なら空いているかも知れぬと、初めてスポーツジムに 行って、三十年ぶりぐらいのプールに 漬かってきた。水心はあるつもりでもだいぶ心配だったが、平泳ぎで五十メートルレーンをほぼ一気に四往復、四百メートル泳いで、ついで水中を三往復、三百 メートル歩いてきた。体力として、それで、いっぱいいっぱいだった。もっと時間間隔をあけていれば、もう二百メートルずつぐらい泳いだり歩いたりできただ ろう。ジムで時間をとるのはあまり本意でないので、ざっと他の運動具などの見学をし、係りの青年に相談し勧められて、「ナイキのシューズ」を一足買って 帰った。一万二千五百円。自転車で走れば十分とかからない駅の近くにあるジムで、かなり大きい。清潔で、だいたい満足した。
* 我が家の黒い少年が恋にやつれて、近隣近在を泣いて歩く。夜も歩く、昼も歩く。ときどきよその猫と衝突してい るが、そのなかに「マゴ」の同胞に 違いないと想われるよく似た漆黒の猫がいる。ときどき帰ってきて、入れてくれと鳴き、入れてやると一声二声挨拶するのはいいが、強烈に匂いツケをする。 ウーン、こたえる。わたしの足にもひっかける。ウーン、キビシイ!! 少年は少し食事して、もうたちまち外へ出せと顔を見る。戸を開けてやると、そそくさと出て行く。これぞ「憂き身をやつし」おるのだと思い、ご近所に申し 訳なくあやまりながら、出してやる。この家の子ですよと、確認させるためにだけ寸時帰って一飯にあずかり、昨夜も一昨夜も一宿もせず咆哮と彷徨の「のらも の」を演じきっている。
* 愛したネコの子のノコが、赤い柄の座布団に脚を折って顔をあげている佳い写真。これをパソコンにとりこんだ。
寸法がかなり自在に替えられる。ス
クリーン一杯に大きくしてみると、「頼むから喋ってよ、何か言ってよ」と声を掛けてしまうほど、懐かしい。愛おしい。
田中君達のおかげで、パソコン利用にまた幅が出た。そういえば、昨夜は、妻と「糖尿病」をヤフーで検索して、いろんなものを見た。あんなに有っては、迷
うだけだ。だがデータを追って多くを調べることの出来る実感は持てた。わたしはホームページに書き込む以外に手を広げたくないので、データ検索は余りして
こなかった。
* 花の誘い、しきりである。来週は、眼底検査をはさんで、上野や大岡山の花を愛でたい。四月は、早々に上野の芸 大所蔵名品展のレセプションを、ま た日生劇場幸四郎の「ラ・マンチャの男」を、観世栄夫の能「邯鄲」を楽しみにしている。下旬には、世阿弥あたりの日本の美と芸能とをめぐる対談を頼まれて いる。難題だが。湖の本の新しいゲラも出てくるだろう。ペンクラブの年次総会もある。あと一年、努めたい。
* プロ野球開幕の広島巨人戦の攻防を、うしろの二回分だけテレビで観た。広島がリードしていたので観た。巨人で
は長島茂雄と松井選手に個人として
親愛感をもっているだけで、広島にはほとんど縁はない、が、それでも広島に肩入れしてしまう。力任せに強大で尊大な巨人軍にはいちども親愛感を持ったこと
がない、個人的に好きな選手がいないではなかったが。
広島がきわどく一点差で勝ち、松井がみごとなホームランで一点差に追い上げたのだから、十分に面白いみものであった。
* 三月が逝く。花の春が来た。酒が呑めなくても楽しもう。四月から、太宰治賞受賞作『清経入水』を、少しずつ
「短編選」のページに書き込んで行
く。雑誌「サライ」に連載した『花物語』も「エッセイ選」に書き込みたいと思う。小説の書下ろしと併行して、書下ろしの批評を、テーマを新たに少しずつ書
いて行きたくなっている。新しい仕事をして行きたい。ひょっとすると、この四月中にも、ホームページへのアクセスが「10000」に達するかも知れない。
* 四月一日 土
* 保谷駅前の桜並木が花を咲かせ始めた。大学の友人の花便りに、この週末では少し早く、来週ではもう遅いかも知
れませんと。
快晴、風はつよいが、シューズを履いて、家から1730歩、850メートルあまりのプールまで歩いて往復した。今日はレーンを五往復泳ぎ、三往復半水中
歩行してきた。
* : 読むたのしみ
今日、午後、『繪巻』を読んでいました。『華厳』は、読みはじめるや、息をするのも苦しいくらいでした。こんなに緊張を強いられた読書も稀、久しぶりで
した。辛うございましたけれど、浄められました。
『繪巻』は読んでいて、たのしうございました。最初に読みましたときには、つまらぬ常識や定説と称するものを通して、人を、物事を見ていた拙さを思い知
らされたものでございました。そのときは、推理小説でも読んでいるようでした。作者にみちびかれて、つぎつぎ謎の解かれてゆく現場に立ち会っているよう
で、それから、それでと、先が急がれて、落ち着きのない読み方をしていたと、いま、あらためておもっています。こんなことにも気づかず、早足で通り過ぎて
しまっていたなどとも。
見過ごしていた一首、一行が謎めいてゆらめき、まったくちがった意味あいをもってたちあがってくるのに、おどろき、ぞくぞくしたことをおもいだしなが
ら、こたびは、少しは落ち着いて、それでも、やはりわくわくしながら、ご本にかじりついていました。
いま、小侍従のうたを読んだり彼女についての説話などをたずねたりしているものですから、源有仁家に彼女の母小大進が女房勤めをしていたことにも、気を
惹かれます。小大進が有仁王の恋に、心をくだいたことがあったかも知れないと、放恣な想像をしたりして。
評論かと読んでいますと、いつのまにか小説になっていたり、気がつくと評論に戻っていたりして、変幻自在、でも、それが自然で、読んでいて、ほんとうに
たのしい。酔うた気分でございます。
待賢門院璋子に、わたくしは『畜生塚』の町子を重ねていますが、ちがいましょうか。
『清経入水』と『冬祭り』を読みなおして、気になったことがあると申しましたことの一つは、「風土記」などにある「一夕懐妊」でございます。先生の作品
にもそれがある、おそらく、ほかの作家より高い頻度で。昔噺のは生まれた子が蛇だったり、異能者だったように覚えていますが、先生のお作ではどうなのか
と。
璋子の身ごもりも、「一夕懐妊」と、読めなくもない……。わたくしは、そう読みたいのですけれど。
読むたのしみを満喫し、ちょっと興奮いたしましたので、つい、あとさきないメールを差しあげることにいたしました。
* :書くたのしみ
叱られるかも知れないが、魂の色の似通いを想って、有り難いことと頭を垂れています。
一夕(一度)懐妊は、風土記にも古事記にもはやくから現れ、不思議という以上の感銘を、神話を読み始めた子供の頃から受けていました。イージィとは感じ
ずに、おどろいて受け容れていました。
「華厳」でも「絵巻」でも、壁画の描き方や、女繪の線と色のことや、墨流しの技法なども、少々心得て書いていました。カンドコロでそういう安心がある
と、フィクションも思い切って奔放にやれるので、読んで下さる方より書いている私の方が苦労なしであったかなと思うこともあります。 遠
* 四月二日 日
* 昨日から、このホームページの、「短編選1」に第五回太宰治賞受賞作『清経入水』の、「創作欄10」には書下
ろし処女長編『慈(あつこ)子』
の、書き込みを開始した。一気には出来ないが、なるべく連日少しずつ進行更新して「定本」を創って行くので、いわば小刻みの「連載」感覚で、読者に受け容
れてもらえればうれしい。前者は選者満票の当選作であった。後者は最も多く深く愛された作で、集英社文庫にも一時期入っていた。吉永小百合や桂三枝が、同
じ時期に、ラジオのディスクジョッキーで親切に取り上げていたという「伝説」がある。「私語の刻」だけでなく、いつも読んで行ける欄が二つ増えたと思って
下されば。残念だが、難漢字や難読の熟語に、ルビが振れない。
早く通して読みたいと思われる方は、残部在庫あり、「秦恒平・湖(うみ)の本」をご注文ご送金下さい。前者は二千百円、後者は上下で二千八百円。著者の
署名識語を添えて送ります。
* 昔の自作を書き写していると、身内の膨れ上がりそうに懐かしい。こんなにもと思うほど記憶がマグマ水蒸気噴火
のように噴出してくる。ああ、こう
いう文章を書いていたのかと、今の語感でなら直したくなる所もあり、むろん、そのままに書き写すのだが、それも新鮮な感慨で、校正するよりも直接
に、二度三度も生き直す心地がする。一期一会を繰り返し塗り重ね、永くもあるまい一生を満喫して往きたい。
* 問題は視力のようだ、急速に、眼鏡が合わないのか、視野が霞んできた。
* NHKテレビ、晩の七時のニュースを読んでいた森田美由紀アナウンサーが、惜しいことに、とうとう交替してし
まった。惜しみても余りある。
歴代のNHK女性アナウンサーのなかで最優秀、ナンバーワンのアナウンスであった、彼女の、明晰的確で心優しさのあらわれた声音と笑顔とのアナウンス技
術は、見て聴いて胸の洗われる清潔なものだった。だれもがあの技術と態度と気品とを、お手本にして欲しかった。まして他局の民放では、森田美由紀と肩を並
べうるアナウンサーは極めて稀、一人か二人いるか、だ。NHKがそう贔屓ではないけれど、森田美由紀の絶妙にして誠実な美しいアナウンスだけは、宝物だと
思ってきた。はじめて森田アナが見え隠れした頃から、我が家では、妻もわたしも、籤とらずの熱烈なフアンで、皇太子の奥さんにしたいと思っていたほどだ。
日本語をじつに暖かく発声してくれたし、視聴者への心遣いも優しく、笑顔にも言葉にも気品が溢れていた。
ベテランの櫻井幸子アナウンサーの早口トチリと較べて直ぐ分かるが、森田美由紀はなによりも早口でなく、きっかりと、悠揚まらぬ間の豊かさで話してくれ
るので、落ち着いて、安心してニュースが聞き取れたのである。これは実は稀有に貴重なことである。たとえばフジテレビだか、八木亜希子という人気アナウン
サーの、しどけなくアイマイで早口で、何を言うたのかも分からない、不親切極まりない拙劣無比な物言いと較べれば、天地の差があった。
それと、森田美由紀アナウンサーは、ちゃらちゃらとしたタレントに成ろうとしなかった。あくどい人なら、タレントに直ぐ成りたがったろうし、その気なら
成れもしたろうが、ニュースを読んでいた間の彼女は地味に着てへんに飾らず、「アナウンサー」としての抜群の責任感と技術とで私たちを誠実に魅了してくれ
た。実像については何も知らないし知る必要もなく、ただスクリーンで向き合った森田美由紀のアナウンサーとして「美しかったこと」を忘れることは無い。ご
苦労様。
* プールは、50メートルでなく25メートルだった。倍に感じたほど疲れた。この衰えた図体でよく泳げたと思 う。今日は、七往復つまり350メー トル泳ぎ、五往復つまり250メートル水中歩行してきた。あすから三日間施設が休みで、わたしも休める。
* 大河ドラマ『葵』での、捕えられた石田三成と勝者徳川家康との会見場面が、よく出来ていた。また死の直前に柿 の実を食するよう勧められ、からだ に悪いと断る有名な場面も、三成役の江守徹はあわれに旨く演じた。津川雅彦の家康、西田敏行の秀忠。日本の男優にも、平均して柄の大きさが出てきたよう だ。むしろ有力な女優が、みなトウが立ってきて魅力薄れかけ、あとが続かない。澤口靖子の、力量を蓄えての意欲的な出番をわたしは期待している。台本をよ く選んで欲しい。
* 政治や政治家のはなしなど、したくもない。
* 四月三日 月
* 小説の書き込みを続けている。流行作家のように人を雇って書き込みを精力的に代わってもらうわけに行かない、 また、その気もない。わたしは頼朝 型の政治家ではなく、戦下手ながらだいたい義経型におおかた自分でやってきた、これからも、そうだ。「湖の本」既刊だけで六十三冊になろうとしているが、 一冊二冊を新たに器械に書き込むのにも大層時間が掛かることだろう。のろい亀さんである。生まれて初めて学芸会に出たときが、「好きやん」の兎さんとか けっこする亀さん役だった。象徴的ではないか。
* はるかに見知らぬ、名も知らぬ人のこんなメールが入ってきた。
* 正月は静かだった。心に触れてくるものがみな寂びしい色にみえた。今年こそはとも去年はとも思わず、年越えに 降りやまぬ雪の景色を二階の窓から 飽かず眺めた。・・・・
初めて読んだときと同じように、震える思いでホームページでも作品を拝見しています。
私の小さな人生の中で最も近く、最も遠いところにある作品です。
私の柩にはあの美しい「集英社文庫」の本を入れてもらおうと思っています。
* わたしの「湖」はひろくはないが、深い。これで、よい。静かなのが、何より、よい。
* 午後から夕方へ、東京芸術大学所蔵名品展のオープニングレセプションがある。上野の花はどうであろう、雨かと
聞いたが幸い外は晴れて明るい。し
ばらくぶりの外出である、花見酒はゆるされないが。
* 四月三日 つづき
* 幸い雨にならずに、三四分咲きの上野の夜櫻をまぢかに見上げてきた。すこし冷え込んでいたが、もう大勢のグ ループが思い思いに花の下に席を占 め、賑やかなのも静かなのも、とりどりに浮かれていた。
* 東京藝大の美術館で、所蔵の名品を中心に「日本画の100年」レセプションがあった。妻と出かけた。
会場の入り口で、主催者側の竹内順一教授に声を掛けられた。以前は五島美術館におられ、豪快で緻密な企画展をつぎつぎに成功させながら、図録など纏めの
仕事で成果をあげられ藝大教授に転じた人、「湖の本」の有り難い読者の一人でもある。もっと以前に、NHKテレビで、千利休と山崎の待庵などの茶室、また
朝鮮半島とのかかわりで、少しセンセーショナルな討論会の司会をしたことがあるが、竹内さんはその際のパネラーの一人であった。学芸員という仕事を、当然
であるのだが、最も学問にちかづけて行った人である。
* 三室に展示された絵画は、全体として観疲れるほどの多数ではないが、さすがに精選されていた。たいては一度な らず観ているけれど、それで印象の 古びてしまうことはない。櫻谷「しぐれ」観山「大原御幸」春草「四季山水」紫紅「熱國之朝」芳文「小雨ふる吉野」玉堂「行く春」大観「作右衛門の家」麦僊 「湯女」華岳「日高河清姫図」百穂「荒磯」五雲「日照雨」蓬春「市場」松園「序の舞」遊亀「浴女」清方「一葉」靫彦「黄瀬川陣」魁夷「残照」竹喬「雨の 海」平八郎「雨」神泉「富士山」又造「春秋波濤」関出「窓」千住博「回帰の街」などが印象深く、松園、清方、華岳、麦僊、蓬春、遊亀、神泉らの作がとりわ け優れて面白く見えた。レセプションには気がなく、ゆっくり、何度も繪の前に戻って堪能した。新しい時代の日本画が概して薄く淋しく、そして美しさに欠け ていた。現代の大家達はひとしなみに繪に力を感じなかった。
* ロビーの外で注射し、その足で池之端の「伊豆榮」まで往き、幕の内を食べた。迪子の方には鰻をつけ、それを分
けて貰った。旨かった。幕の内だと
食品に種類がありバランスがいいというので、そうした。酒のないのはこよなく寂しいが、美味しく食べた。野菜もことごとく食った。苦手な人参は呑み込ん
だ。とっぷりと不忍池はくれていた。
食後、もういちど山の夜桜の下を通り抜け、上野駅から帰った。食後二時間の血糖値は「良」であった。
* あすは、聖路加病院の眼科に行く。とりわけて眼は、無事を祈りたい。
* 四月四日 火
* 早起きして、聖路加国際病院眼科外来に十時に予約票を出した。検査と診察の終わったのは午後一時十分ごろで、 幸い、眼底等に問題無く、眼鏡の度 は確かに狂ってきているので作り替えねばならないが、今度は十月にいらっしゃいと、長く待たされたことも忘れてしまいそうな嬉しい結果であった。慢性的に 眼精疲労に悩んでいるところなので、眼底にも異常が見つかるのではないかと本気で案じていた。なによりであった。院内で昼の注射をして院内食堂で「聖路加 弁当」を、三十分間はお預けのあと、美味しく食した。食べ物がみな美味いというのは幸せなことだ。
* 妻に連絡し、打ち合わせどおり池袋で逢い、目蒲線目黒駅の、また大岡山駅のすてきな変わり様に感心しながら、
東工大の櫻を例年どおりに観た。検
査薬で瞳が開いていて、十分視力が働いていなかったし、眩しいのでサングラスをつけていたせいもあるが、花は例年よりまだ早く淋しかった。もっと淋しいの
は、スロープに大きく咲くはずの「青櫻」の大樹などがすべてがらんと撤去され、芝生が植えられていたこと、特色あった植え込みなどもみな影を消していたこ
と、これには落胆した。留学生会館前の並木だけが満開に近く、例年のように何枚も写真を撮った。妻は前髪の生え際に帯状疱疹の傷が残っていて治療中のガー
ゼをくっつけ帽子で隠していた。
ことしは、二人とも何かしら正月以来ものに突き当たり当たりしてきたが、この辺で、いい方へ様変わりしたいなと思いながら、百年記念館でコーヒーをのん
だ。残念ながら駅へ戻りかけた校門外で妻のエネルギーがストンと落ちた。薬をのみ、水分を補給し、わたしの血糖値急降下用に用意していた角砂糖を二つ口に
入れて、漸くゆっくり歩いて電車に乗れた。ちょくちょくこういうことがある。山手線で妻は熟睡していた。
こういう時は食べねば力が出ない。池袋スパイスの上の「甍」で、いつものように懐石を注文した。妻は、明日、わたしと同い歳になる。前日を祝って、銚子
を一本あつらえ、わたしも猪口に一杯だけもらって、嘗めるように楽しんだ。妻は日頃は呑まないが、わたしに呑ませまいために、また体調がこういう時にはむ
しろいい刺激になるので、珍しく、銚子一本を呑みきった。本人も初体験なら、わたしも見たのは初めてのことだ。
料理の「光琳」は今日は当たりで、とても美味かった。和食はバランスよく、ぜひ避けた方がいい食べ物もなく、量もちょうど。食べる前に注射し、わたしは
二十五分ほど箸を持たなかった。
* 保谷駅の花屋で佳い紅薔薇を二本買い、妻を祝った。タクシーで帰った。
*<高校生くん>から、春の便り
お久し振りです、秦さん。
新潟の春は遅く、きゅるきゅると冷たい風が白昼を横行しています。父が、雪山近くの遠い遠い街へ単身赴任することになって、昨日引っ越しの手伝いをして
きました。<雪山>と書いた通り、その地方ではまだ雪が平然と街中に残っていて、高速道路から見渡す景色は雪に埋もれた田んぼと遠くに望むス
キーのゲレンデ、とても春とは思えない銀世界なのです。家々の庭には屋根から下ろしたと思われる雪がうずたかく積まれ、父が住むアパートの窓から見える光
景は恰も雪の墓場のよう。
僕は父に何もしてやれませんが、せめて厳しい季節を独りで迎えることになる父の健康と安全を願っていようと思います。
いきなりちょっと暗い話になってしまいました。最近は僕も忙しい、といってももう受験生なのですから忙しいのは当たり前で、恐らく秦さんに語りかけるこ
ともホームページへ遊びにいくことも当分できなくなります。でも、受験勉強の忙しさにかまけて意味もなく愚痴ったり基本的な生活態度を怠ることだけはした
くないですね。僕自身はあと数ヶ月で放送部の副部長を引退することになりますが、6月の体育祭で裏方を仕切るという大きな仕事がまだ残っていて、それだけ
はしっかり全うしたいのです。1,200人の全校生徒のお祭り騒ぎめいた活気、共に仕事を続けてきた部長という良き相棒、短い付き合いながらも大切な繋が
りのある部員達、そして責任を誰にも譲れない自負心。正義を気取って偽善者よろしく教師の前でいい子ぶるのは大嫌いですが、みんなが愉しみ、僕自身が愉し
む為に、残り多くない学校生活を有意義に過ごそうと思います。
近頃はさすがに本も息抜き程度にしか読めません。こうしているうちに読みたい本があれもこれもと出てきますが、たまには飴を舐めても、常に自分自身に鞭
を振るって厳しくならなければ、それだけ眼の前の壁は険しく高いものですから。前借りするように本をいっぱい読んでいた去年は、とても沢山のいい作家いい
作品に出逢えました。佐多稲子、河野多恵子、古井由吉、日野啓三。この4人の本は何冊も買ってじっくり読みました。辻邦生「廻廊にて」、大岡昇平「花
影」、立原正秋「舞いの家」、岡本かの子「生々流転」、武田泰淳「富士」、他にもまだまだ、思い出せばキリがないくらいです。特に先述の4人の作家に関し
てはじっくり作品を論じてみたいものですが、その時間が得られるまでは、今暫く忍の一字です。
この間メールを送った時に秦さんのホームページに僕の文章が掲載されて、みんなで驚き喜び、僕自身とても嬉しくて、秦さんが応援して下さるのをいつも励
みにしています。『死から死へ』、記憶を辿るように少しずつ読み返していると真剣に考え込まされたり思わず笑わされてしまったり、ふっと暇ができた時の骨
休めにちょうどいいぐらいの面白さです。秦さんとは相容れない部分も結構あって、まず僕は徹底的なアンチ巨人で長嶋茂雄などはTVに映る人間の中で真っ先
に排除すべきと思っているぐらいですし、忠臣蔵にも興味はなく、寧ろ新撰組は昔からずっと好きで、印象に残る歴史といえば古代より幕末を挙げます。
秦さんも迪子さんも、お身体の方がちょっと思わしくないようですが、気をつけて下さいね。僕などは殆ど無病息災のやんちゃな高校生ですから心配すると
いっても実感としては全然わからない、おふたりが無事に健康であることをただただ願うよりほかありません。湖の本もホームページも創作も勿論愉しみにして
いますが、毎回手紙に書く通り、ご自身の活動の為にも何より元気な秦さんでいて下さい。僕も頑張っています、きっと秦さんを慕って応援している人達もそれ
ぞれのところで頑張っていることでしょう、お互いに生き生きと日々を積み重ねることで、また逢う時に励まし合える筈です。
受験というのは常に五分五分だと思います、たとえ問題が解けても、受かるか落ちるか最後の最期は時の運ということもあります。入試をナメても受験をナメ
てかかったら公立高校でも容赦ない結果に見舞われるのを、身近なところで僕自身見てきました。だからといって勿論何もかも運まかせにするというのではあり
ません、僕は最後まで自分の実力と運を信じ続けていたいと、そう思うのです。誰しも五分五分のところで頑張っているのだから状況は同じ、誰が有利なわけで
も不利なわけでもない、とにかく自分は自分のやり方でやれるだけのことをやるしかないと。
やがて生き物や花が匂わす暖かい春の気配も身に染みて感じられることでしょう。競馬も大きな祭典を後に控えて本格的に春のシーズンがやってきます。もう
僕の大学受験レースは最期の直線、これまで終始いい手応えでしっかり狙いを定めてきました。本当の正念場にさしかかっている今、将来の夢、父と母の期待、
知人達の僕を評価する眼、そういったものを全部ひっくるめて僕を後押しする大きな力をいい結果に導く為に、これからの1年は大勝負です。
次の通信では、いい報告を手にして、逢いにいきたいものですね。それまでどうかお元気で。 4月2日
* 高校三年生になったばかりの少年の、さかんな意気が気持ちいい。生きていることが、わたしまで、嬉しくなる。
* それにしても小渕首相はお気の毒であった。ほんとうにお気の毒であった。自分の言葉が無い無いと言われてきた
が、ふだんの番記者たちへの応答や
市民との応答には、これまでのどんな首相にもない自分の言葉のある人だったとわたしは見ていた。演説の出来ない人である代わりに、日常会話で自分を露出し
ていたところが案外多かった。そういう点には好感を持っていた。人間味と翻訳してもいい。
代わりが森喜朗。これは、よくない。自分の言葉などひとかけらも持たない、経綸の無い政治屋の典型的な鈍物だ。
* 四月五日 水
* 同じ六十四歳の夫婦になった。
* 妻に敬意を表して、いや誕生日をダシにして、今日だけは好きに食事をすることに勝手に決め、朝と昼とはぐっと
量を減らしておき、晩餐に備えた。
息子と同居人とが参加してくれるというので、雨であったが、麹町の「味館トライアングル」を予約し、市ヶ谷駅前で息子たちの車に拾われ麹町へ。
なんとも美味い食事だった。シェフ佐藤豪さんの念入りの料理。品数豊富にバラエティーに富み、一つ一つの食べ物に、そして佳いワインで、文句なしの久し
ぶりのグルメ気分。ワインは量をおさえたけれど、食べ物は遠慮なくぜんぶ一人前をデザートまで賞味した。何としても、ここへ来て妻の誕生日を祝ってやりた
かった。みなが、しみじみと満足した、満腹した。
* 保谷まで車で帰り、今夜は息子たちも泊まって行く。佐藤さんの店でも紅い薔薇白い薔薇をもらい、妻は元気が出 たようだ、昨日から今朝へ、今朝か らも午後まで、もう一つ元気がなかったのも、いい料理といい酒と、そして息子たちの顔も見て、嬉しそう。
* わたしは図に乗って、帰ってから、念願のビール中瓶を呑んだ。最高。
だが、食後二時間の血糖値は233。息子は108。築山さんは120。さすがに若い人たちは良好な値。わたしは覚悟していたし、そのわりには、という値
で回復は十分可能だと思う。明朝の数値が判断材料になる。
それよりも今朝から昼まで節食したままインシュリンは規定量を注射していたためか、麹町へ向かう西武電車の中で、唇も白くなり手の甲も掌も白くなり、口
渇や違和感を生じ、慌てて池袋駅でキャラメルを買って四粒食べ立ち直った。あの方が危なかった。
* 三・四・五日とスポーツクラブもなぜか休日。わたしも、三日間、なにやかやと忙しかったが、今晩は、昨日に次 いで佳い誕生日祝いになった。去年 は、やはり息子たちと一緒に花見をし、六本木「升よし」で鮨を食べた。一年一年、ていねいに日を過ごして来たと思うが、ことしは春からからだの方で躓きが ちだったのを、この辺でうまく方向転換したい。
* 書いておきたいことがあるが、今夜は階下へおり、もう少し息子らと話したい。
* 四月六日 木
* 桜のつぼみもほころび始めた今日このごろですが,いかがお過ごしでしょうか?
実は自宅のパソコンをインターネットにつなげました.これからは部屋でゆっくりとメールを書くことができます.先生のホームページも初めてじっくり眺め
させて頂きました.量の多さに圧倒されていますが,徐々に読んでいくつもりです.
先生から頂きましたエッセイ『死から死へ』を読みました.先生の身の回りのお話,政治の話,文学の話,いずれもすぎてゆく毎日の中に埋もれてしまいそう
になりますが,それぞれ、じっくりと考えなくてはならないものだと思います.
特に政治の話など,これからの我々の将来に深く関わってくることですが,これほど「どうにもならない」と思うことも少ないと思います.私も以前は新聞に
雑誌にテレビにと大いに関心があったのですが,報道の真実性が怪しいと感じてから,膨大な記事を読むのに疲れてしまいました.自分の主張,自分の立場でば
かりものを書く人が多く,何が本当か良く分かりません.今は斜め読みばかりです.(後略)
* T
君。東工大の花を見に、四日火曜日、家内と出かけました。花はまだ寂しかった。スロープの辺がうんと変わっていて、懐かしい大きな櫻の樹や、翠のモコモコ
した植え込みがみな無くなっていました。ガッカリしました。
T
君。「政治の話など、これからの我々の将来に深く関わってくることですが、これほど「どうにもならない」と思うことも少ないと思」うという気持ちは誰しも
の嘆きですが、そのまま終われば、自身にも、また子供や孫の世代にも極めて不誠実になってしまう。「どうにもならない」というのが、実は「なんにも自分で
はしようとしない」ことの只の言い訳、セルフ・ジャステファイに過ぎないのは明らかだからです。インテリほど似たようなことを言い募り、政治からの撤退を
記章のように得意げに胸につけたがるけれど、そういうこと自体が「政治」をますます一握りの者たちの好き勝手にさせてしまい、自分の生活や人への愛をも総
崩れにさせて行く。
われわれに何が出来るかと目に見えて言えることは確かに少ないが、せめては「選挙権」での意思表示を怠らないことだけは「市民の誠意」というもの。事
実、みなが投票すれば、民意が幾らか、また大きく反映するということは、必ずあるし、事実それに近いことはあった。怠けた自己放棄の言い訳に、「政治」を
見放したような科白を軽々しく身につけてはいけない、それは自分の顔に唾をかける卑怯で怠惰なな言い訳、自分では何もしないでいる事への自己弁護以外のな
にものでもなくなってしまう。
選挙にだけは行ってくださるように。わたしたちは、母の死んだ当日にも、総選挙は棄権しなかった。未来を案じるからです。
君は、此処のところだけを軽率に誤らなければ、その余は、まったく不安のない、健康で立派な市民、家庭人、勤務の人として信頼しています、わたしは。
お酒もだめ、ご馳走もだめになってしまいましたが、元気でいます。機会あるときはまた顔を見せて下さい。自分を見失わないために、ピアノも山も、また新
しい何かの趣味も大切に。
* メールを、嬉しく。お返事の遅れましたこと、おゆるしくださいませ。
風邪で三日ほどふせっておりました。この冬は珍しく一度も風邪をひかずにすみそう、と、喜んでおりましたのに、最後の最後でやっぱりひいてしまいまし
た。
花粉症もまだおさまりきらず、赤い眼をして、コホン、コホンと背中を丸めております。
熱であちこち痛む身体をそっと横たえていましたら、こどもの頃、風邪をひいて学校を休み、やはりこうしてじっと天井をみつめていたときのことが、懐かし
く思い出されてまいりました。しんと静まりかえった家の中で、ひとり明るい窓の光を恨めしく仰ぎながら、いまごろ皆は学校でたのしい時間をすごしているだ
ろうなと、寂しさと羨ましさが胸一杯にこみあげてきたものでした。
思えば、学校を休みがちな子供でした、私は。気管支が弱いせいかよく風邪をひきましたし、偏食がたたってヒョロヒョロと貧弱な身体の持ち主でもありまし
たから、当然といえばいえる結果ではあったのですが。
ごく幼い頃から、健康に恵まれた人には、憧憬以上に畏敬の念いを強く抱いてまいりましたので、このたび先生が、出京以来「はじめて病人とよばれる存在」
になられたことでなんだか一歩身近に感じられて、と申せば、お叱りをうけてしまうでしようか?
一病息災とか。
病気を恐れず、侮らず、ほどよく折り合いをつけて--------なんて、これもまた言わでものことでございますね。
どうぞ、どうぞ、お大切に。
こちらの桜は、今、三・四分咲きらしいのですが、早く風邪をなおして観にゆきたいものと思っております。コブシ、カタクリ、シュンラン、狭い私の庭に
も、佐保姫は忘れず訪れてくれました。
しばらくは、花とおしゃべりいたしましょう。
* 落ちついて素直に書かれた清明な文章には、詩情があり、「読む」だけでも心嬉しい。懐かしい。
* 息子の書いた初めての小説らしきものを読んだ、七八十枚に書いてはどうかと思う題材の、シノプシスのように、
二十枚余に書かれていた。落ちつい
て素直に、清明な文章で初恋を書く。いいことである。照れてしまって文章を跳ね返らせるのは見苦しく緩くする。また書かでものムダを書いてしまうことにな
る。
ほぼ終日息子は今日も一人居残って、隣の棟のわたしの書斎を占領すべく、段取りをつけていた。同居人は、お茶の稽古だと、先に五反田の家に帰っていっ
た。
そのあと息子と母親とわたしと三人で、いろいろと大いに語り合えた。よかった。子供と話す嬉しさはなにものにも代えがたい。まして初めての小説作品が隣
家からメールで送られてきて、それを読んで批評しながら話し合えるなんて、想像したこともなかったものだ、昔は。腰をしっかり据えて、落ちついて素直に。
ほめられたら警戒し、批判には謙虚に。
* 湖の本の最初からの読者である、お目に掛かったことのない年配の男性読者から、鄭重な初めてのお手紙をいただ
いた。去年の『能の平家物語』そし
て今度の『死から死へ』に感銘をうけたので初めて便りがしたくなりましたと長文であった。忝ないことである。
* 耳にした話だと、わたしも妻も高く評価し、感激して繰り返し観てきたテレビ映画「阿部一族」は、数年間も局で
お蔵入りしていて、有名監督への遠
慮で渋々
のように放映された作品だったという。視聴率もふつうは11か12パーセント取らねばならぬところが3パーセントだったという。わたしなどの感覚では、そ
の3パーセントの観客は優れた鑑賞眼の持ち主たちであったに違いなく、それでいいではないかという話になる。この作品以上と思われるテレビドラマになど、
何十年のうちに何回逢い得ただろう。優れた作品は数値だけでははかれない。すこし負け惜しみもあるけれど、ま、本音である。どたばたの主婦もの
殺人劇よりは、息子にも「阿部一族」を超えた感銘作を望みたい。小説でもいい、舞台でもいい。孫もほしいが、優れた作者になってくれる方がいい。
* 四月七日 金
* 迪子の聖路加通院といっしょわたしも家を出、ひとり、もう一度東工大の櫻を観に行った。今日は付属高校の入学
式の最中であったため、キャンパス
は閑静で、櫻は、先日と打って変わって満を持した爛漫の満開だった。午前中で、さすがに樹下に宴をひらくグループも無く、望むまま独り占めに花を愛で眺
め、写真に撮ってて、言うこと無しの花見だった。スロープ下、留学生会館前の並木も全開で、丘の上と下で相呼応、すばらしいアンサンブルに目もとろけそう
だった。
以前教授室のあった建物の一階事務室をサングラスで覗き込むと、なつかしや、事務官の中村さん高木さんとも在席で、歓声をあげて迎えてくれた。四年経つ
のに、変わっていない、若々しい。近況など伝え、お茶をご馳走になったあと、三人でお花見を、もういちど。佳いところで写真を撮って、さて、別れてきた。
心理学の往住さんと出会い久々に言葉を交わした。
五島美術館へ行こうと思っていたが、病院会計前の迪子と連絡がついて、有楽町の帝劇地下で出逢うことにきめた。昔ながら馴染みの古書店でつまらない読み
物を三冊百五十円で買い、『邪教・立川流』なる研究書を二千二百円で買ってから大岡山駅に入った。
* 妻とうまく出逢い「香味屋」で昼食、わたしは栄養制限点数内の好物オムライスとサラダ。食事前に注射した。鶏
肉とケチャップ味の、子供の頃の大
のご馳走で、卵味には目がなかった。美味しかった。妻は当店自慢のハンバーグがお気に入りで。
店にはいる直前に、美しい澤口靖子との出逢いを設定してくれた若い帝劇支配人と出会った。
* 車で北の丸公園ちかくまで行き、公園内の土手をぐるりと通り抜けて、遠見に、千鳥が淵満開の暖雪紅雲を楽しん
だ。その千鳥が淵からまた咲き満ち
た花の下へ入り込み、雑踏する花見客といっしょに濠の向こうの皇居の櫻に嘆声をあげ、頭上漫々脚下にも漫々の花に酔う心地でしばらくそぞろ歩いてから、途
中鍋割坂へのがれ出て、山種美術館で、花と春の繪の佳いのに何点かみとれてきた。加山又造はさすがに花の繪が佳く、速水御舟の小品にも身のひきしまる感銘
をうけた。混雑で館内が蒸し暑くさえあった。
すこしだけ、そのあたりを歩いてからタクシーで市ヶ谷に戻り、どこへも寄らず帰ってきた。すこし疲れた。幸い今日は連れの元気が家まで保った。ここしば
らくぶりに自転車の二人乗りで駅から走った。眼鏡の作り替えも急ぐと分かっていたが、花見時をのがすのは惜しく、幸い楽しい一日を過ごせた。
楽しいといえば、『清経入水』と『慈子』を欠かさず器械に書き込むのも楽しい。自作を、このような辛抱のいい作業を通してじっくり読み直すとは思わな
かった。花見以上に胸が静かに弾む。
* 四月八日 土
* 天明二年寅の歳に「卯月八日」を詠じ、かつ「釈尊産湯」にちなんだ墨画を鴨祐為の描いた軸を掛けてみた。「さ きそめし卯月のけふをかぞふればち かひ久しき法の花ふさ」とある。眼下にひくく産屋の屋根を描き、軒端から高く虚空にあげた棹先に卯木の花がふっさりと束ねてある。季節的にやや早いが、さ わやかな佳い掛け物で、叔母の持ち物だった昔から気に入っていた。残念だが今日も花粉がはげしく舞っていて、眼は痒く、鼻もぐづつく。はやく、さわやかに なりたいもの。
* 春風亭小朝がテレビで話していた、落語の「聞き方」などを。また人生訓話を。落語が面白くなくなるわけであ
る。落語の上手な聞き方を客に求める
のは筋違いだろう。どんな客であれ巧みに楽しく笑わせてくれるのが話藝であろう。語るに落ちた話だが小朝はとくとくと書いたものまで用意して、「出来る者
は、やる。出来ない者は、教える」と。
教えてくれる芸人が多くなった。小朝もしかり、桂文珍しかり、各局各紙の人生相談に顔を出す「芸能人」の多いことはどうだろう。しかも、さしたることは
言えていないのだから、つまらない。
「芸能」の本義は、忘れ果てられている。忘れ果ててももはやいいとも言える、が、そうでない一面も有る。人生相談に乗ってくれても教えてくれても、需要が
あるならそれもいいだろう。ただ芸能という「能」からいえば、はからずも小朝が紹介していた言葉の通り、「出来る者は、やる。出来ない者は、教える」ので
ある。芸人は藝が出来たほうがいいのであり、藝の見方や楽しみ方から説き起こしてくれなくてもいいのである。藝そのものの魅力迫力で自然と教えてくれれば
いい。
NHKの伝統芸能テキストの「能」の項に書いた一文を転載しておく。能に限らない、芸能の淵源に触れた。わたしの読者には耳にたこなのであるが。
* 能の魅力 死生の藝
広くも狭くも「能」という。静御前が白拍子の舞を鎌倉の八幡宝前で舞ったのも、「能」と書かれてある。また「藝能」ともいう。藝「能」人は、今日ではい
わば一種の貴族であるが、その「能」の字が「タレント」を意味するとして、本来はどんなタレント=技能・職能を謂ったものか、綺麗に忘れ去られている。
能や藝能を、たかだか室町時代や鎌倉・平安末に溯らせて済むわけがなく、人間の在るところ、藝能は歴史よりも遠く溯った。日本の能や藝能に現に携わった
人や集団は、遙かな神代にまで深い根ざしを求めていた。能の神様のような観阿弥や世阿弥は、傷ついて天の岩戸に隠れた日の神を、此の世に呼び戻そうと、女
神ウヅメに面白おかしく舞い遊ばせた八百萬の神集いを即ち「神楽」と名づけ、「能」の肇めと明言しているが、それは、アマテラスという死者の怒りを鎮め慰
め、甦り(黄泉帰り)を願って懸命に歓喜咲楽=えらぎあそんだ「藝能の起源」を謂うているのであった。幸いに、天照大神は甦った。
国譲りの説得を命じられた天使アメワカヒコが、復命を怠って出雲の地にあえなく死んだときも、遺族は互いに色んな「役」を負うて「日八日夜八夜を遊びた
りき」と古事記は伝えている。だが甦りは得られなかった。ここでも死者を呼ばわり鎮め慰める藝能が、そのまま「葬儀」として演じられていた。藝能=遊びの
本来に、神=死霊の甦りや鎮め慰めが「大役」として期待されていたことを、これらは象徴的に示している。そしていつしか、鎮魂慰霊の「遊び役」を能とした
「遊部」も出来ていった。藝能人とは、もともとこういう遊藝の「役人」「役者」であった。各地の鳥居本に遊君・遊女が「お大神」「末社輩」を待ち迎えるよ
うになったいわば遊郭の風儀すら無縁ではなかったのである。
「能」とは、わが国では、死者を鎮め慰める「タレント」なのであった。能楽三百番、その大半は死者をシテとし、その「鎮魂慰霊」を深々と表現している。
だが「能」の藝は、それだけに止まらない。死者を鎮め慰める一方で、生者の現実と将来を、鼓舞し、祝い励ますという「タレント」も、また同じ役人たちの
大役であった。能の根源の「翁」は、生きとし生ける者の寿福増長をもって「今日の御祈祷」としている。「言祝ぎ=寿ぐ」祝言の藝こそが藝能であったのだ、
死の世界と表裏したままで。
観世、宝生、金春、金剛、また喜多。こういう「めでたい」名乗りには、じつに意義深いものが託されていた。死霊を慰める一方で、また生者を懸命に言祝ぎ
寿ぐ。能楽に限らず日本の藝能と藝能人は、役者は、そのタレントを途絶えることなく社会的に期待されて、一つの歴史を、永らく生きてきた。世の人々はその
能を見聞きし、笑い楽しみ、また死の世界をも覗き込んで、畏怖の念とともに心身の「清まはる」のを実感してきたのである。
今日では、能は、ひたすら「美」の鑑賞面から愛好され尊敬されている。謡曲が美しい、装束が美しい、能面が美しい、舞が美しい、囃子が美しい。舞台が美
しい。美の解説には少しも事欠かない、だが能と藝と役との占めてきた遙かな淵源の覗き込まれることは無くなってしまい、能の表現の負うてきた人間の祈りや
怖れや畏みが、おおかた見所の意識から欠け落ちてばかり行くようになっている。死を悼み、生を励ます真意を、能ほど久しく太い根幹とした藝能は、遊藝は、
他に無い。それと識って観るのと観ないのとでは、「能の魅力」は、まるで違ってくることに気づきたい。
死生一如のフィロソフィー。死なれ・死なせて生きる者らの、深い愛と哀情。同じ「美」も、そこから「思ひ清まはり」汲み取る嬉しさに、「能の魅力」を求
めたい。
* しばらく見なかった成駒屋橋之助夫人の三田寛子をテレビでみた。さりげない普段着のようないでたちで、話も表
情も目づかいも、相変わらず聡明で
あった。出て来た頃からおかしい声の話し方ではあるが見所のある子だなと贔屓にしていたが、なによりも不自然に「かなひたがる」のでなく、聡明にむりなく
「かなふ」魅力が、自然にすべてに適応し得ている。子供をつくらされるのは「雌牛」扱いだなどとバカな、何の値打ちもない軽薄な突っ張りは言わないで、成
駒屋には金の卵の男の子二人にも恵まれ、みるから「幸せそう」に生き生きしている。おなじ梨園のおかみさんたちも見知っているが、まったくワキの素人筋か
ら嫁いで、三田寛子はみごと模範的に自然に「生き」ている。若・貴のおかみさんなど、生きる自然さと聡明さを少し見習うと宜しいのかも知れない。
テレビで楽しそうに話していても、無理にしているのと自然なのとは分かってしまう。三田寛子のそれは天成の美質で、橋之助は慧眼であった。
* 四月八日 つづき
* 漢字のボックスには有るのに選択しても「?」
マークしか出ない漢字がある。いま「さん板」という雑誌の名前を書きたかったが、舟ヘンにツクリが山の一字「?」がなかなか書き出せなかった。幸い有った
が、文字セットにいくら有ったところで、文字コードで標準化されていないと、プリント出来なかったり、余所へ送っても化け文字になってしまう。これは困
る。
ともあれ「さんぱん」と読む「?板」という雑誌が出ている。松本八郎という人がエディトリアルデザイン研究所で編集し発行している。
この略称「EDI」で、新たに「EDI叢書」を出し始めていて、感心したので趣旨を紹介しておく。
* 対象作家とその作品 過去に優れた文学作品(小説・随筆・詩)を遺しながらも、時流、世相の波に足をすくわ
れ、また今日の商業出版のなかでは
その採算に達しないというだけの理由で、ほとんど顧みられる機会もない作家と、その作品。 収録作品は、その代表作とされるもののほか、発表当時に評価
の高かった作品も視野に収めるが、今日においても再読するに堪え、また将来へも語り継いで意義あると思われる作品(ただし、編集子の独断と偏見がかなり混
じる)を、第一基準とする。 なお、戦後に刊行された文学全集などに収録のものは、今も図書館などで読めるので、原則として除外する。
編集について 本叢書は一作家、一巻とし、本文ページ数は九十六ページを限度とする。
本文について 本文は、原文を尊重し、出来うる限り当時のまま収録する。
* そして「加能作次郎」「十一谷義三郎」「中戸川吉二」「中山省三郎」「富ノ澤麟太郎」「水野仙子」らを挙げ、加能、十一谷の巻が出ている。
こういう事業をこそ、本来なら日本ペンクラブや日本文藝家協会は後援し、出来れば自主企画して「文学」のために貢献すべきなのだ、売れる儲かるとの口車
を操っては通俗などこの本屋でもやっている企画で、どこかの低俗読み物出版社の出店みたいな真似をしているよりは。
* 器械のそばに志賀直哉の日記をおき、プリントアウトなど器械の作動にまかせ待時間に読んでいる。
明治四十三年頃、直哉はときどき「島崎藤村」と接触している。訪問してもいる。「藤村氏は初めて会つた人といふ気は少しもしなかつた 藤村氏も何所かで
自分と会つた事があるといつてゐたがそれは誤りである」などと四月七日に書いている。その後にときどき『犠牲』など藤村作品に触れているらしき記事がで
る。直哉には、父との不和や「和解」へいずれ転じて行く微妙な時期のことだ。
正宗白鳥の『白日』も読んで、「うまい」と認めつつ「あんなものなら作れると思つた」と批評している。「白鳥の主人公は総てに興味を失つてゐるやうな妙
な人間だがある社会の秩序は重じ又或る所はセンチメンタルな所のある人間であると思つた、一寸面白かつたので参考になると思つて夜伊吾(里見?)の所へ持
つて行つて貸して来た」などと書いている。
* 明治四十四年一月十日に気になることを直哉は書いている。
「自分は総て物のDetailを解するけれどWholeを解する力は至つて弱い、小説家としてはLifeのDetailを書いてゐればいいと自分は思つて
ゐるがホールが解からないと考へると一寸不快でもある。ケレドモ、自分にはホールは解かるものではないといふ考へもある。Detailは真理であるがホー
ルは誤ビヨオを多く含むと思ふ。
又かうも思ふ、今からホールが解かる、或はホールに或る概念を易く作り得るやうになる事は結局自己の進歩を止まらせはしまいかと。
兎も角今はLifeのDetailを正確に見得る事を望む。」
よく考えてみたいところだが、甚だ直哉の芯に触れた感想のように読める。
二週間ほどして、直哉は、「健康が欲しい。健康なからだ(傍点)は強い性慾を持つ事が出来るから。ミダラでない強い性慾を持ちたい。(略)自分は年寄る
まで左うでなくていいが、四五十才まては左うでありたい。/いい子孫はそれでなければ出来はしない」と。
これも志賀文学の琴線につよく触れている言葉だろう。
* 二月二十五日には藤村の『犠牲』を「少し読むで」直哉のこう書いているのが、たいそう興味深い。
「書かれた事が作者の頭にハツキリうつつてゐるといふ事はよく感じられる。けれども直接読者の頭へハツキリとは来ない。書かれた物と読者との間に作者がハ
サマツテゐる感じがある。/藤村の物を見る時には上手ないい芝居を遠い所から立ち見をしてゐるやうな感じがする。兎も角読者に面接して来ない。いい句でも
いい科でも遠くでやつてゐるので何所かオボロ気な感じがある、時々ボンヤリしてゐるといい句やいい科を、聞き落したり見落したりしさうである。夏目(漱
石)さんとはマルデ反対である。」
漱石も出てきて、じつに面白い。藤村について言われてある「感じ」が、よく解る。
それにつけて想い出すのは瀧井孝作先生がわたしの『糸瓜と木魚』を褒めて下さり単行本に帯の推薦文を下さったとき、表題作になっていた『月皓く』は、美
しい物が遠くで動いているようだと評されていたことだ。瀧井先生のこの批評は、直哉のここにいう「上手ないい芝居を遠い所から立ち見をしてゐるやうな感じ
がする」に当たっていた。これを見ても、わたしは間違いなく直哉の孫弟子でもあったのだと言える。瀧井先生は、作品がそう落ち込まないように文学・文体・
文章をいつも力強く彫り込んでおられた。
* 四月九日 日
* なんとなく無為に過ごした。ものの溶けるような疲労感がある。あまり努めずに、ゆっくり流れて行くように、心 身を休ませたい。
* いま、危うくこのページをそっくり器械から消去しかけた。逆にダウンロードして救い出した。器械とのつき合い は慎重でないと。パソコンの有り難 いのは、そうそう壊れるものでないと分かるに連れて、いろんな抜け道や近道や遠回りの道のあるのを覚えることだ。落ちついて付き合うこと。
* 三子白番で器械を負かしたが、勝ち続けに緊張して、楽しめない。一度も負けないことが負担になっている。一度 大負けして器械の顔を立ててやり、 仲良く勝ったり負けたりのほうが気楽なようだ。
* 『邪教・立川流』研究は面白いが、記述・文章の下手さに読み疲れる。これは編集者の問題だ、著者と読者との仲 介役を誠実に果たしていない。編集 者が著者にもっともっとものを訊ねて確かめようとしていれば、何割も読みやすくなるものだ。
* 闇に言い置くこともこのペイジで、ま、存分に書いているが、こう、多方面にでなく、ある主題の追及へ、収斂可
能なことも言い置きたい気がしてい
る。小説ではない、思索であるが、何が、いちばん言いたいか。
『一文字日本史』を雑誌「学鐙」に三年間連載して本にした。あのデンで言えば、わたしが最もいま念頭に置いている一字は、「静」だと思う。『静の思索』
が書いてみたい。休息したいのか、そうではないのか。あまり静かな心地でわたしはいないらしい。困ったものだ。
* 四月十日 月
* 藤原書店が創刊 0
号を出している雑誌「環」の、第二号で対談を依頼してきたが、日時も決まっていたが思案のあげく断ることにした。一つには、どんな対談を希望しているの
か、もう少し具体的に知らせてほしいと頼んでいたのが十日余も返事がなかったこともある、が、何よりも「対談」という形が好きでない上に相手が全く初対面
の未知の人だということ。そういう状態でぶっつけに「世阿弥」ほどの大物を語るなど、不用意に冒険が過ぎると思った。断りの速達に対し、いま電話でだいぶ
粘られたが、断った。雑誌は、かねてこういうものが必要で欲しいと願っていた、堅い真面目なもので、今後を期待したい。
これで、島崎藤村に就いて信州馬籠での藤村忌にと頼まれた講演と、河野裕子に頼まれたテレビ出演と、三つ、仕事を自分から振った。講演はまだしも一人で
用意できるが、対談やテレビは相手との阿吽の呼吸がある。対談や座談会で、ああ佳かったとすっきりした気分だったことなど、めったにない。今の、やや心身
鬱陶しいときには、ことに気の負担が大きく、引き受けたくなかった。
こうして出不精になって行くのだろう。昔からよく自覚しているのだ、根はすこぶる怠け者で、これまでも、本音は、ただもう休みたい遊びたいが為に、がむ
しゃらに仕事を山と積んでは右から左に獅子奮迅、さばいてきた。そんな気がしている。仕事を断るのが、かすかに心地佳いものであることに気がついてきた。
そう言えるようになった。
* じつは明日の言論表現委員会がたまらなく面倒になっている。こんな気分になったことは初めてではないか。やはり注射と食事とに拘束された日々がイヤな
のであろうと思う。
* 息子たちが、本気で隣の棟を半ば住処とし五反田のマンションと共用する気らしい、片づけたり掃除を始めたりし
ている。どうなることか。よく解ら
ない。
* 四月十一日 火
* 時事通信社の出している学校学校教師対象の雑誌から、「書評」欄ではあるが、好きな本のエッセイふう「紹介」 でいいからと原稿依頼があったの で、もう一年ほどになるけれど、好きだった本を紹介した。
* 袁枚悠々
この十年ほど「書評」を書かなかった。読書の楽しみを「仕事」に置き換えたくない、などというキザっぽい話ではない、ただ面倒で。だが、何か言いたい書
きたい「本」に出会わないということではない、それでは困る。
就寝前に数冊の読書を楽しむ。興が乗れば明け方に及ぶ夜もある。小説を一に対し、古典や研究論文、批評などを三、四の割合で読んできた。
小西甚一『日本文藝の詩学』高田衛『蛇と女』山折哲雄『悪と往生』今井源衛『大和物語評釈』それに古典では『夜の寝覚』『十訓抄』や『今物語』など、記憶
に新しく、多くを教わった。新しい志賀直哉全集を楽しんで全巻読み上げたし、久しぶりに島崎藤村の『家』に感銘を受け『櫻の実の熟するとき』にも深い気分
に誘われた。雑駁に痩せた昨今の小説を読むぐらいなら、テレビで二三流の西洋娯楽映画を観ているほうが肩の凝りもほぐれる。
そんななか、加島祥造・古田島洋介訳、アーサー・ウェイリーによる『袁枚』一冊を、毎夜どんなに楽しんだろう。平凡社東洋文庫のまだ新しい方の一冊であ
る。「えんばい」と訓む。「十八世紀中国の詩人」だと副題してある。科挙に及第して重きを成した人だけれど政治家ではない。行政官として過ごした時期は短
く、あっさりと引退して、詩人としての名声に包まれ、じつに自在な詩を多作し、大勢と交際し、愛され尊敬され、そのエロスと自由ゆえに非難や批判もけっこ
う浴びた。
徹して享楽的で、お堅い道徳家ではなかった。女を、美青年を、人生の「花」として愛し、仏教が嫌いで生活を愛した。読書を愛した。悠々とした自由人で著
者で書斎人で官能の赴く所に対してせせこましい窮屈さのまるで感じられない大人であった。
そういう人間が、そのまま、懐の広い暖かい「詩」に表わされ、それは加島さんの二次訳の手柄、その前に原著者ウェイリーの原翻訳の手柄ではあるが、書き
写して座右に置きたい魅力的な詩句が一冊の中にいっぱいある。こういう風に、及ばずながら生きられればなあと嘆息し、羨望し、ちょうど今読んでいる『老
子』との連絡も深く感じとれる。魂の色の似たい人、袁枚。それが読後の喜ばしき実感であり、感興は余韻となり、いまも潺緩として流れ琳琅と身内に鳴ってい
る。
「人老莫作詩」と題し袁枚は歌う。
老いた鶯はむりに囀らぬほうがいい。人も老いたら詩を書かんほうがいい。たいていは想像力が衰え、まず力強かったころの自分の詩をなぞるだけだ。いつま
でも書きつづける愚かさをよっぽど用心せねばならん!とはいえ、心の動くことは今も起こるし、口も思わず動いてしまって、年ごとに新しい詩ができるーーま
るで花が春ごとに咲くのと同じなのだ。だから私はこう考えるーーもはや老いてきた以上、老いた詩を書けばいい、と。
袁枚がこれを描いた年齢は、いまの私よりも実はずっと若かった。私はまだ「光景」も描きたいし「感情」も迸らせたい。花も愛したく命もいとおしい。しか
もなお袁枚が羨ましい。袁枚のように生きられればと願うし、私よりも年老いて書斎を捨て、東京都の知事をやってみようなどと考えた同じ作家が分かりにく
い。
* その東京都の石原都知事が、またしても「第三国人」という言葉遣いで、露骨に韓国・北朝鮮、台湾や中国もと取 れる「非難・批判」をした。「三国 人」という言葉を本当に久しぶりに聞いた。どういう意味でわるく使われてきたのだろうと手近な国語辞典を引いても出てこない。ずいぶん昔の浩瀚な平凡社 『大辞典』にも出ていない。インドと中国と日本とを「三国」と数えたことはあった。魏呉蜀の「三国志」もあった。高麗・新羅・百済は三韓とはいえ三国とは 呼んでいないだろう。この敗戦前後によっぽど悪く響かせる意味で言われていたのだろう、全く口にしなかったか、自分でも自信がない。そんな「三国人」をよ りによって今、意図的に使ってみるどんな必要や政治的効果があったのだろうと、石原慎太郎という人は、やっぱり分かりにくい。誰かの映画の題をもじってい うなら「この男乱暴につき」用心大事、はっきり言って、困りものである。
* その一方、だが都知事の指摘した不法入国者による犯罪・凶悪犯罪の多発もじつに困りもので、この明白な事実か
ら目を背けていいとは思わない。犯
罪自由国でなんか在りたくない。徹底的に不法入國拒絶の厳重な対処がほしい。合法的なお客様は親しく歓迎するが、不法な密入国には厳正に対処する。そう在
りたい。
難しい問題は、「難民」の認定である。日本は「難民」認定の必要以上にキビシイ國のようだが、その必要はあるまい、「認定」に人間的な視線と判断の加味
されることは当然望ましく、犯罪がらみの不法密入国と区別が全然つかないものでは無かろうと思う。
朝鮮半島や台湾中国からの「難民」というのはまずは無いものとしたい。人権抑圧の中国の場合は多いに問題有りとしても、母国に重大な生命の危険をともな
う政治的社会的問題が起きていれば、この時代にほぼ正確な情報の取れないわけがない。日本ペンクラブでも外国の獄中作家問題では尽力しているし効果も挙げ
ている。
石原知事の指摘している問題は、かなりの確度でわれわれの不安や不満を代弁し得ている。それは事実である。ただ首都の知事らしい配慮はその言葉にも及ん
で欲しい。言葉を頼んで文学文藝に携わってきた人が、確信犯的に「第三国人」でなにがわるいと思っているとすれば、そっちの不安も実に大きい。
* しばらくぶりの言論表現委員会だった。個人情報保護法の問題の把握しにくさ、それにもかかわらず途方もない大 事さ、参ったという感じで、正直今 のところは我が手に余っている。さらに「特殊法人の情報公開」問題だという。これまた、難しい。できるだけ、その問題が例えば我が身の上にはどう降りか かってくるかという具体的な納得が得られるといいのだが、なかなか、それも出来ない。参った。
* 時間を計ってよぎなく喫茶店で注射し、蕎麦屋に入って鴨や青菜の胡麻よごしなどで食事した。不得手な野菜を二
品も注文、蕎麦を食って酒は頼ま
ず、この酒飲みのわたしが食事をするとは。おかげで、実に何年もにわたり執拗だった八十数キロの体重の壁を、八十キロ割れにもってこれた。息子から最初
に、顔がしまったねと言われた。だが油断は大敵。こうなれば、ふだん呼吸するのと同じに、ふつうに、きちんと対処するしかない。
* 四月十二日 水
* 梅原猛氏の『天皇家の"ふるさと"日向をゆく』は、結局のところ、面白くもあり失望もした。
九州ほど神話遺跡と考古学的・古文献的遺跡とが共在している時空は少ないのに、後者への言及も考察も推論すらも、拭ったように欠けている。本造りの一つ
の「行き方」であることは認め得ないではない、が、物足りないのも確か。「神話レベル」での梅原好みの推察や想像がたくさん語られているが、読み手の側に
も、関連して考古学や文献の雑知識もあり、それらとも照応し呼応する推察や想像でないと、神話につきものの放恣な空疎感の去来するのも無理はない。「梅原
日本学」と称されるものが、実地の研究者や学界から概ねまともに遇されること無く、ただ壮大そうな面白いばかりの評論めいて受け取られ放置されてきたの
は、梅原著述に学問的な手続きが薄く、先行文献への精査と尊重にもしばしば欠け、優れた直感や想像力が分厚く底堅めされていないからではないか。そのため
に、いたずらに頭の固い学者たちも、くみしやすしと知らぬ顔して、京ことば風にいえば「勝手に言うとい」「せいだい言うとい」「言わしとき」といった扱い
をして「文化功労者」になんぞ祭り上げていると言えなくもない。
梅原氏は、要するに「評論家」なのである、超弩級に面白く読ませてくれる。むろん、それでいいと思う。より正しければ、それでも足りている。だが「研
究」のように自称するのならば、面白さよりも先に正しさをしっかり立て、正しさそのものが面白くありたい、そうなって始めて一流である。評論ならば、面白
く、より正しい方角を指示し示唆し、直観し、暗示していれば、まずは一級である。日本学を語る際の梅原猛氏の肩書きは「評論家」でいいと思う。
* 主客とも余情残心を催し、退出の挨拶終れバ、客も露地を出るに、高声に咄さず、
静ニあと見かへり出行ば、亭主ハ猶更のこと、客の見へざるまでも見送る也。扨、
中潜り、猿戸、その外戸障子など、早々〆立などいたすハ、不興千万、一日の饗応
も無になる事なれバ、決而客の帰路見えずとも、取かた付急ぐべからず、いかにも
心静ニ茶席ニ立もどり、此時にじり上りより這入、炉前ニ獨座して、今暫く御咄も有
べきニ、もはや何方まで可被参哉、今日一期一会済て、ふたたびかへらざる事を
観念シ、或ハ獨服をもいたす事、是一会極意の習なり、此時寂莫として、打語ふも
のとてハ、釜一口のみニシて、外ニ物なし、
井伊直弼「茶湯一会集」の眼目といわれる"獨座観念"の章が、もともと余情残心という狙いで書かれたことは、今 の私は知っている。余情とか残心と か、それはまた武道的な発想でありながら、むしろ雅びな貴族的な魂の風韻を語るが如くに洩らされている。獨座大雄峯の境涯を超えたあるやさしみも感じられ る。初めてこれを読んだ瞬間のしびれる感動を忘れることが出来ない。そして電光のはしるように「徒然草」第三十二段をわたしは想い出した。同時に「兼好は なぜ徒然草を書く気になったんだろう」と独り言ちていた――。
九月廿日のころ、ある人に誘はれたてまつりて、明くるまで月見歩くこと侍りしに、
思しいづる所ありて、案内せさせて入り給ひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとな
らぬにほひ、しめやかにうちかをりて、しのびたるけはひいとものあはれなり。
よきほどにて出で給ひぬれど、なほことざまの優におぼえて、物のかくれよりしば
し見ゐたるに、妻戸を今すこしおしあけて、月見るけしきなり。やがてかけ籠もらまし
かばくちをしからまし。跡まで見る人ありとは、いかでしらむ。かやうのことは、ただ
朝夕の 心づかひによるべし。その人ほどなく失せにけりと聞き侍りし。 (第三十二段)
"獨座観念"の先蹤を尋ねて徒然草のこの一段に想い及んだつもりでいたが、この段に類似の表現はいくつかの説話にじつは重複している。そのかぎりでは兼
好のいわば古典趣味に発した潤色ととっても差し支えない一段なのだが、わたしは、そうは考えなかった。兼好法師つれづれの心をあやかすあの物狂おしさに想
像が奔っていった。
雪のおもしろう降りたりし朝、人のがり(許へ)いふべき事ありて文をやるとて、雪
のことなにともいはざりし返事に、「此の雪いかが見ると、一筆のたまはせぬほどの
ひがひがしからん人のおほせらるる事、ききいるべきかは。返す返す口をしき御心な
り」といひたりしこそをかしかりしか。
いまは亡き人なれば、斯ばかりの事もわすれがたし。 (第三十一段)
この段だけをみると、文の相手が男とも女とも確認できない。先の第三十二段とも一応切れている。ところで、すこ し飛んで第三十六段はこうだ。
久しくおとづれぬ比、いかばかりうらむらんと、我が怠たり思ひしられて、言葉な
きここちするに、女のかたより、「仕丁やある、ひとり」など言ひおこせたるこそ、
有りがたくうれしけれ。「さる心ざましたる人ぞよき」と、人の申し侍りし、さもあ
るべき事なり。 (第三十六段)
誰かの噂ばなしに合点したような書きぶりで、これははっきり女のはなしである。心ならずも閾居を高くしてしまっ た先の女の方からさりげなく男の窮 屈を救ってくれた。さらっとした無邪気な女の機根がうかがわれ、そのみえない表情は、雪に寄せ、かすかな媚びを秘めたほどの咎め方で男の野暮を諷してきた 第三十一段の女(に違いない)の表情に、似通っている。
朝夕へだてなく馴れたる人の、ともある時、我に心おき、ひきつくろへるさま見ゆ
るこそ、今更にかくやはなどいふ人も有りぬべけれど、なほげにげにしくよき人かな
とぞおぼゆる。 (第三十七段)
男か女かなどというまでもなく、雪の朝の女、仕丁をもとめてきた女と深い部分で統一されている。"手のわろき人 の、はばからず文書きちらすはよ し、みぐるしとて人に書かするはうるさし"(第三十五段)は、前後の文に関係ある話柄といい、これにもあるさだかな人の投影がある。第三十一、三十五、三 十六、三十七の各段は明らかに兼好在俗時の一女性の断片像が強い個性的統一を得ているとしか思えない。三十二段の月見る女だけはすこし趣が違うようだけれ ど、それは情景に兼好独特の潤色があるからで、振舞の優しさは三十七段のふと淑やかな気品をひらめかせる女と同じだと思う。朝夕の心づかいは何もこの段の 女だけへの讃辞でなく、三十一、二、五から七段までを一人と意識した上での懐旧の情、嘆賞の声ではないか――。
* 「創作欄 10
」に連日小刻みに書き込み連載中の『慈子』という小説は、このようにして古典と近代と現代とをあやなす「恋」物語に成っていった。作家以前の書下ろし長編
で、舞台は京都の泉涌寺内、来迎院。高校時代に教室を抜けてはこの含翠庭前の書院の縁に時を忘れていた。こんな家に「好きな人を置いて通いたい」と想って
いた、それが『慈子』に成っていった。
「短編選 1 」に小刻みに毎日書き込み連載中の幻想の太宰賞作品『清経入水』とともに、それぞれの趣を楽しんで下さる方があるといいが。
* 『邪教・立川流』はなかなか奥深い。ことは「密教」の芯に触れてくる。邪教とされたのも無理からず、しかし、 どうしてそれが生まれざるを得な かったか、どうして衰えたか、興味深い。
* まだ長袖のパジャマのまま今朝起き抜けに計った体重が、79.5キロだった。たいへんなことだ、どんなに願っ
ても80キロ台割れは達成できな
かったのに。願わくは筋肉の衰えでなく、脂肪の減退であって欲しい。水泳に行っていない。散歩もしていない。
* 四月十二日 つづき
* 雑誌「本とコンピュータ」五月号でインタビューを受けた。雑誌の宣伝に寄与するとは思わないが、ここにそのま ま書き込んでおきたい。
* 電子空間の「闇」に書く ーーインタビュー 秦恒平さんに聞くーー
――秦さんは、一九八六(昭和六十一)年から、それまでに出版された自著のうち、主に品切れ・絶版本を私家版とし て復刻・再刊の、「秦恒平・湖(う み)の本」というシリーズを続けられています。プロの作家である秦さんが、このような試みを構想されたのは、何がきっかけでしたか?
わたしは、六九年に太宰治文学賞を受賞以来、小説も批評もエッセイも、書くものは次から次へ残らず単行本になる
という、新人としては最も恵まれた
文学作者の一人でした。年に四、五冊が出版され、著書は各社より百冊近く出ています。そのこと自体が、善し悪しは別にして、一つの「時代」を証言し得てい
るでしょう。現在なら、わたしのようなタイプの純文学の新人が、そんなふうに迎えられるのは容易でないはずです。それほど、恵まれていました。
ところが本はたくさん出せたんですが、すぐ品切れして、簡単には増刷されない。出版の楽屋裏もわたしは永く体験しています、これはムリもない。しかし、
そのうち、「本が売れない」という言葉が、「出版・編集」の愚痴ないし本音から、なにかしら、言い訳ないし「多く売れる本は売るが、売れない本は売らな
い」口実か戦略へと、すり替わり始めたんです。編集者たちは作者に、「売れる」ことを一に要求しはじめました。他方で読者は、「あの本が読みたいのに、手
に入らない」と作者にまで愬えてきました。八〇年代に入るにつれ、水かさの増すように、その感じは強まりました。このままでは読者が気の毒だし、作品も可
哀相……。
では、作者である自分に「何ができる」だろうと考えたとき、版元に在庫を置く余裕がないのなら、作者が読者に、希望の本を自ら「手渡し」しよう、「直
送」しようと思ったんです。そんなふうに、書き手が身を起こす、動かすということが、のちのち、何か目に見えない可能性になって、一つの「前蹤」を創るか
もしれぬという予感がありました。
――どんな本をつくろうと考えられましたか?
「在庫」をある程度確保し、「読みたいのに本が無い」という読者の嘆きを少しでも解消するのが、根の発想でした。
宣伝なんて出来ません。取次や書店
とも無縁。作者から読者へ直接「手渡す」のですから、手元の読者名簿だけが頼りでした、アドレスは、さあ、三百とは無かったでしょうし、そういう人はわた
しの本を既に買って持っています。思えばアテハカもない見切り発車でした。ずいぶん苦労しましたが、支持や応援もびっくりするほど有りました。本造りとい
う面では、幸い、作家以前に出版社勤めで医学書の編集をしていましたから、企画も編集も校正も、本をつくる技術は持っていたわけです。
まず考えたのは、簡素に美しい、重くない本にすることです。あまり分厚くしない。旅行カバンなどのすき間へすっと入ってくれるサイズで、厚い堅い紙は使
わず、手触りの良い軽い本にしたかった。色も使わない。白い表紙が汚れやすいと心配する読者もいましたが、せいぜい汚して何冊も買い替えてもらいたい。
(笑) 泣き所は、サイズからも雑誌に見えちゃうことでね。実質は、はっきり単行本なんですが。
作品。これは、たっぷりありました。それを自在に編成し直し、本文もよく整え、同じ装幀、同じ組みで、A5判の百三十頁前後に一冊を仕立てています。長
編は二冊ないし三冊に分冊しています。年に四、五冊、編集から校了まで、そして発送も自分でします。手伝ってくれるのは妻だけ。制作費と送料その他にかか
る経費が、全部は容易に回収できません。僅かですが不足分は持ち出しています。それでいいものと最初から覚悟していました。その意味では、きちっと成り
立っています。
――それからの十四年間で、通算六十二巻(創作四十二巻、エッセイ二十巻)もの本を、ご自分の手で出版されたわけ ですね。「こんな仕事が、今年の桜 桃忌には満十四年になる。その息の長さ。たとえ代金が全部は回収できなくても、『本』そのものに旅をさせることで十分購えていた。」と書かれていますが、 いい言葉だなと思いました。
この本を手にとった人が、右から左へ紙屑籠には捨てないでくれるだろうという自信を持ち、一巻一巻をていねいに
配本してきました。作家が自身でこ
ういう出版をしていることを、各界に、ただ識ってもらうだけでも、一つの「批評」になるのを意識していました。この本が、現に、売れている・買われている
という事実、それで刊行が維持継続できている事実も大事なことですが、こんな「作家の出版」が何故に必要になったかという「出版」事情を広く識ってもらう
ことも、批評的にたいへん重要なんです。
宣伝・広告は事実上できなくて、すべて読者の支持・応援が頼りです。それがなければ維持も継続も不可能でした。こんなに永く続いてきたのは、いい読者の
おかげです。
配本のつど、読者には一人残らず手書きで、宛名と挨拶を入れています。大変な作業ですが、魂の色の似通う作者と読者とを直かに結ぶ、これはもっとも象徴
的な交感作業なんでして、「湖の本」の一等の魅力だとも読者は言ってくれます。
――執筆にはかなり早い時期からワープロをお使いですね。
八三年、東芝「トスワード」の高価な一号機でした。二行しか画面に表示できないものでした。(笑) 買ったその
日から実地に使いました。長い連載
小説の中途でしたが、作品のどの箇所から器械書きに替えたか、分かる人は一人もありませんでした。文体とはそういうものです。以来二十年、自分の作品は、
何万枚もの原稿のすべてを、器械の画面で創りだしています。抵抗感もむろんあります、が、克服できないものでは全く無かったですね。
九六年頃から、パソコンを使うようになりました。パソコンは原稿用紙でもあるし、作品のための文字通り「文庫=文業保管庫」として使ってきました。
――その原稿用紙や倉庫の延長として、九八年四月から「作家秦恒平の文学と生活」というホームページを始められ た。ここに、長編・短篇の新作の書き 下ろしを載せたり、エッセイや講演録を転載されたり、「湖の本」の告知などされていますね。
新しい機能の「原稿用紙」が、また自身専用の「文庫=作品所蔵館」が欲しかったんです。さらにコンテンツの公開
の利く「作品展示館」も。いろんな
アーキテクチュアで多彩にホームページを装飾する洒落っけは最初から無く、ただもう「文章」の、書ける、保管できる、展示できるホームページ、「作家秦恒
平の、文学と生活」が率直に表現できるホームページを欲していました。
もう一つ、これは大事な点ですが、多年勤勉に働いたおかげで、なんとか余生は暮らして行けると思います。だから金を稼ぐ気はかなり薄れています。ホーム
ページの文章がお金に化けることなど、ほとんど期待していません。その点、若い「これから」の作家たちとは、生活して行く立場がだいぶ違っていると言えま
しょうか。趣味的だなどとは決して思っていませんが。
国立の東工大で、四年半、「作家」教授を勤めまして、理工系の優秀な学生諸君と大勢親密につき合ってきた。それがなければ、コンピュータとのご縁はあり
得なかったでしょう。大学に誘われたとき、何が何でもコンピュータに近づきたいと内心切望していましたが、それでも、ホームページ開設に辿りつけたのは、
定年退官してなお二年後ですものね、そこまでが実に難しかった。現在わたしのホームページには、文章ばかりが約四千枚か、優にそれ以上入っています。院生
で、我が器械の先生が、「秦さん、1メガバイトとは半角百万字です、かな漢字なら五十万字ですよ」と教えてくれ、5メガバイトのホームページをつくってく
れた時の嬉しさ、忘れることはないですね。今は17メガにしていますが、限度の50メガまで、自分の作品で埋め尽くしたいと、本気で思っていますよ。
――ホームページでは、「生活と意見」という欄で、日々の生活を綴ってらっしゃいます。インターネットで公開の日 記を載せることで、読者との距離感 が変わってきたという感覚はありますか?
「生活と意見」には、「私語の刻・闇に言い置く」という副題をつけました。まさにあの通りで、器械の奥は独特の
「闇」でしょう。実際にすぐ目の前に
読者の姿、顔かたちが見えていたら、あのような日録はなかなか書けないですよ。ところが、ありがたいことにパソコンを覗いている限りにおいては、人の顔は
全然見えない。濛々たる闇ですから。そこへ向かって書く。話しかける。
一方で、ワープロは文房具だけれども、パソコンは明らかに自己表現の手段であると同時に、他者の参加を受け入れるものでもある。だから、私語のときのつ
もりが、いつの間にか、他者との対話のときになり変わっています。それが、佳い。嬉しい。
インターネットは、事実はそうでなくても、可能性において転送した瞬間に世界中で読むことが可能なものです。自分で日記帳に日記を書いていたときには、
ついいい加減に書かれ過ぎていても、パソコンでは厳しく己れを律しざるをえない。何か言われても責任はきちんと持たなきゃいけないわけですよ。おかげで読
者が、漠然とだけれども、莫大に広がったという、錯覚ではあるが、実感はありますね。
――ホームページをつくるときに、どういう点に気をつけてらっしゃるのですか?
作家は、精神が、活発で生き生きしていなければならない。ホームページも、日々に新たに生きて、緊張し更新して
いなければ無意味です。「自分は生
きているぞ」という日々の刻印なんですね。一切は「闇に言い置く」遺書同然であり、本質的に「私語の刻」を器械の前で持つのですから、他人の存在を気にす
ることは微塵もありません。しかも他人にも見られ得ることを識っています。そこに鋭い緊張が生まれます、しかし意識しない、拘束もされない。まして筆を枉
げるなんてことはしないのです。創作も日録も、文学・文藝です。よそからの妨げは受けないと、ぐっと気を入れていなければ、「言葉」がウソになってしま
う。表現は虚構でいいが、書き手の態度にウソは困るのです。
インターネットでは「闇に言い置く」行為が、そのまま世界に呈示するのと同義語なんですね。こんな緊張感は、そうあるものじゃない。じつに嬉しい、全く
新しい「原稿用紙」であり「発表場所」じゃありませんか。文体がダメになるの、紙とペンとでなければどうの、などというヘンな理屈は、文体や思想を持ちえ
ていない人や、文学言語の魅惑=FASCINATIONのよく分かってない人の、ウワゴトだと思いますね。
――ホームページで作品を発表することと、紙の本の出版との違いは何でしょうか?
ホームページが即「出版」だとは思いませんが、一つ一つの作品にきちんと体裁を整え、プリントアウトすればその
まま本として読める形で提供したい
と思っています。そのためには、一行字数の設定とか、そういうことも丁寧にしないといけない。よほど丁寧にやらないとと、いろんな工夫をしてきました。最
近いただいた、T-Timeというソフトなどを使ってみますと、画面上で縦書きに綺麗に内容が読み出せて、横書きのものが俄然生き返ったように読みやすく
なりました。あれは嬉しかったな。
いつかはホームページの内容を、自分で自在にCD-ROM化して行くこともできればいいなと願っています。そういう作品提供の仕方へも移れるよう、用意
しておこうとっています、まだ今は、そういう技術も手段も持っていませんが。
紙の本の、きちんと装幀された従来の本=ブックという固定したイメージは、変わって行くと思っています。
前にも書いたことがあるんですが、「本」とは、いま手にしている「ブック」の形自体を謂うのでなく、中身の質の意味なんですね。物事のまん中に、中心
に、デンとして在り、誰もが頼り得て、寄りかかり得て、それを信頼することのできる、本質的で本格的な「何か」が「本」だったと思います。そういうふう
に、いっぺん「本」という理念をブック以前に戻して考えていく。すると、電子メディアによる表現も、明らかに新たな「本」と理解され、受け取られ得ると思
う。
電子本も、現在のCD―ROMやフロッピー・ディスクのかたちは過渡期的なもの、かなり短い期間でいろいろに変わっていかざるを得まいと予想していま
す。環境は、すこぶる流動的に推移していると眺めています。
――作家がホームページで作品を発表するだけでなく、インターネットを使って自分の作品を積極的に販売していこう という動きが、エンターテインメン ト系の作家を中心に起こりつつありますね。
インターネット上で売る売らないは、今は技術的にも法制的にも過渡期なので、確かな基盤が築かれるまでは、試行
錯誤を繰り返していくしかないで
しょうね。インターネット上で作品が売れ、作家の生計が成り立つには、なによりも、正確な課金方法の確立と著作権確立との、両面から、懸命の環境づくりを
して行かねばならない。現状では、山ほど克服の必要な難所・関所が予想されます。一人一人の書き手がバラバラで解決して行ける問題とは思われません。
電子メディアの著作権がどのようになるか、明確なビジョンをもっている人がなかなかいない。Aという作品をCD―ROMにして千枚売った、その印税は、
という程度ならまだ紙の本の著作権に準じて処理できます。もっとややこしいのは、映画と同じように、電子メディアの大きなプログラムのなかに文筆家が巻き
込まれていく場合です。たとえば、電子百科事典や電子新聞などにおける文筆家の著作権ということになると、作家だけでは手に負えない。これは法律家や専門
の研究者たちの協力も得ながら、ほんとうは文筆家団体がその辺にしっかりした展望や希望を持って具体的に動きはじめなきゃいけないんだけれども。
――二月に、日本文藝家協会が「活字のたそがれか?ネットワーク時代の言論と公共性」というシンポジウムを開きま したね。
出口のないトンルネに入ってしまい、ただワンワンと怯えているが、何に怯えているのかも判然としないことが判然
とした、そういうシンポジウムでし
たね。電子メディア著作権の殆ど実質無効に近い現況や未来のことも、課金システムの難しさも、紙の本の高級品化保存傾向も、著作者の経済権確保の容易でな
いことも、みんな、わたし程度の者のとうに思い至っていた範囲を出なかった。そして、大事なことは、具体案が全く出てこなかったいことです。
電子メディア出版契約書づくりなどは、まさに、今を失しては、またしても、これまで以上にひどいめに著作権者があうのは明白なのに、その組織的対応に踏
み出そうと、協会とペンとが協同してとも、ちっとも具体的な提案がない。展望もない。動きが、ない。それでは、題目をならべているだけで、つまりは単に評
論しているだけに過ぎない。評論など百万だら並べても、屁の突っ張りにもなりはしません。戦略なき闘いは負けるに決まっている。
「活字のたそがれか?ネットワーク時代の言論と公共性」という、この、ぼやんとした把握の弱さが、下手な小説のように、弱みの全てを明かしていたと思う。
いっそ「ネットワーク時代に、著述者(著作権者)はどう立ち向かうか」その具体的な対策や対応を語り合うべきでした。せめて文藝家協会で、シンポジウムの
遣りっぱなしでなく、何がこれから必要かをさらに話し合って、たんなるガス抜きシンポにしてしまわないで欲しいです。
日本の文筆家団体は、今もってコンピュータなんて別世界のことみたいとか、文学が器械で書けるかなどと、寝ぼけたことを言っているエライ人が中枢に居
座っているところですからね。わたしは日本ペンクラブの電子メディア対応研究会で座長をやっていますが、理事達の反応は、いたって鈍い。電子メディアでの
文学や文筆の著作権問題に、深い危惧と理解とを示して対応に本腰を入れるには、手遅れ必至と怖れるぐらい、時間がかかりそうです。その間に、またしても
「出版主導」「作家服属」型の電子メディア・システムが着々とつくり上げられ、書き手はまたも先々まで苦労することでしょう。作家が「奴隷で裸の王様」で
あるのは、運命なのかな。
どっちにしても、「電子メディアには著作権は成り立たない」なんてことになってしまいます。それならば何としても「紙の本」方式を死守したいと、たださ
え頭の固い文学者は思いこみ、機械では文学はできないのだということになる。こういう議論は、物事の過渡期に、新しい物の出てくるときには、どんな時代に
もどのジャンルにも足をっぱるかたちで現れたものです。
このあいだ、ジーン・ケリーの『雨に歌えば』(一九五二)という映画をたまま見ていたら、映画がサイレントからトーキーに変わる時期の珍妙なエピソード
が笑わせてくれました。活動写真に声が入るなんてとんでもない「邪道」だなんてね。いまのわれわれからすれば、それの克服されて来たのを知っている安心感
があるから、笑って見ていられますが、電子メディアのこれからの問題を、さてほんとうに克服できるかどうかという点では、とてもすらすらと楽観的な言葉を
吐くことはできません。私なんかも、秦さんはパソコンを駆使して」なんて言われるけれど、一指か二指ぐらいしか動かしてない。九指まではなかなかいかない
です。(笑)そんな有様ですから、いまは断定的なことが言えないですね。
――さきほど、秦さん自身は、経済のことはもうあまり考えなくてすむとおっしゃいましたが、これから出てくる若い 作家は、電子メディアによって生活 しなければならなくなるかもしれませんね。
そこが問題なんです。紙の本が百パーセントいままで通り続くのならば、ある程度その人の努力と運次第で作家生活
へ入って、本もたくさん出してもら
うことができるかもしれない。ところが、電子本になってくると、出版社は、まず、たとえばマンガなども含めて映像的なものや、知名度の高い著者の声価の定
まった作品など、損をしないで済むものから手がけるのじゃないでしょうか。インターネットにのせても、注文の来そうにないものはハナから除しようとするで
しょう。内容のダメなのが排除されるならいいけれども、質的に良いものを持っているけれどお客さんのつきそうにないものが、まるで蚊帳の外に置かれたま
ま、その傾向のまま電子本がシェアを増やしていくと、相対的に文学・文章の質は低落していくことになる。
もう一つは、若くて生活力を持たない人たちに、どれだけのペイバックが可能であるかという問題です。紙の本時代のような、いわゆる「保障印税」(印刷し
た部数の印税を保証する)は、容易に確保されないでしょう。そうなったときに、新進未然の作家たちは、どういう文筆生活ができるのか。否応なく兼業作家を
強いられてしまうでしょう。本業が別にあって、ホームページに作品を載せ、細々でも自分に収入が入る仕組みをつくっていくしかないのか、そんなことでいい
のか。これから出てくる若い書き手には、かなり苦しい時代になるんじゃないかな。
――ただそこで、その困難を乗り越えていくエネルギーや情熱、新しい才能が生まれてくるかもしれないですね。
「紙の本」時代にいろんな作品があったように、電子本の時代になって、それと匹敵し、あるいは陵駕していく作品
が、そこを「場」に生まれてくればい
いと思います。ただ、いい作品が生まれてくるかどうかは、書き手だけの問題ではないんです。その誕生を手助けする筈の出版や編集への質的な信用が、ここ十
数年のあいだにどんどん失われつつある。その信用を回復しようとする気魄や理想が、編集者たちの中に、まだまだ戻って来てない気がしますね。編集と編集者
との意識と能力との革新が、いまこそ大事な時点なんだけど、そこがねえ、希望がもちにくい。
それから、本には読者がつねに必要なんですが、たいへん良質の読者と、それほどではない読者とのあいだの乖離現象が、さらにひどくなって来ています。
――昨年秋に、前スウェーデン作家協会会長のペーテル・クルマンさんが来日し、それにあわせてオン・デマンド出版についての講演・パネルディスカッション
を行ないました。秦さんはこの催しにいらっしゃいましたが、どういう感想をお持ちですか。
時宜に適った佳い講演会でしたね。書き手が「自ら動いた」という点を先ず画期的に感じました。ただクルマン氏ら
の場合、既成の「出版」と、つかず
離れずどころでなくひどく遠慮して、いわば革新の気迫や自負にほど遠い。隙間産業並みの位置に身の程を自ら限定しているな、と感じました。それと、一番大
切な著作者の法的権益保全への対策や主張を、まだ後回しにしていることも、少なからず危うい見切り発車のようにも思いました。逆に言えば、ヨーロッパで
は、基盤を広く深く固めないままに建物を建て急がねばならないほど、現実に書き手も読者も、さらには小出版社も追い込まれているということですね。その点
では、日本のオンデマンド出版には、より良いシステムをと、期待をかけざるをえませんね。
話を聞いて、わたしの「湖の本」型の「作家(個人ないし少複数)の出版」を腕のいい編集者が助けたほうが、少なくも純文学のいい作品と読者とを確実に掘
り起こせるんじゃないかと思いました。大部数は期待しないが、力量と文学の純度をもった作家なら、必ず熱心な固定した愛読者を持っています。「売れない」
といわれた作家が自ら「売って行く」道のあることは、「湖の本」の維持と持続という多年にわたる事実が示しています。純文学作者たちが、廃物扱いにされて
いる自作を自力でデジタルに置き換え、オンデマンド出版に託しても、作品は甦りの機会を得ることでしょうね。動かなければ出逢えない、そう思いますよ。
――これからの作家活動について、お考えになっていることは何でしょうか?
わたしは、現在のままで躊躇なく、創作もエッセイも批評も続けて行きます。ホームページでは、必要が生じれば
ファイルを幾つでも増やして、内容の
多彩と充実をはかりますが、「文学と生活」に徹して脱線しないだろうと思います。ビジターは増え続けています、だからと言って路線を変える気はありませ
ん。わたしの精神が堅固で活発ならそれが反映するだけ、それ以外のことは望みません。
その一方で、私家版「秦恒平・湖の本」は、ま、赤坂城が落ち辛うじて千早城を守っている段階ですが、もう暫くわたしに気力と余力の在るかぎり、稀有の
「文学環境」として続けたい、続けて欲しいとも言われています。ものが「本」として提出でき、新作発表の「場」にもなり、しかも継続購読の固定した有り難
い読者にしっかり支えられ、在庫も用意していますからね。しかしデジタル化についてももっとアクティヴに考えたいし、オン・デマンド出版にも電子書籍にも
力を貸して欲しいという気はありますよ。
ともあれ、こういう「文学と生活」であるかぎり、嬉しいことに、何の拘束も受けることなく、確実に創作と出版の自由自在を堪能することができ、感謝して
います。独善に陥らないことだけを、心して自分に課しています。紙の本と電子の本とを自分の両手に持っていて、誰にも奪われないことを、愛読者に感謝して
います。コンピュータと出会えたことにも、心から感謝していますよ、わたしは。 (聞き手 萩野正昭)
* 四月十三日 木
* 紀伊国屋ホールで、青年座公演、西島大作「マンチュリア 川島芳子伝」を観てきた。西島さんのお招きで、私た ちのために佳い席をご用意いただい た、感謝。
* 川島芳子を、もう知らない人の方が多かろう。東洋のマタハリともいわれた男装の麗人で、清朝皇族に生まれ日本
人の家庭で育ち、満州建国と関東軍
の暗躍に呼応しながら、盛んに活動し声名と艶名を馳せた。敗戦後、中国により中国人である国賊として処刑された。
「満州」建国の時代から敗戦に至る、関東軍と周辺右翼や商人たちの満州中国に対する覇権的侵略的行動には底暗い烈しいものが漲っていて、しかもその渦中で
川島芳子は女とも男ともつかぬややこしい生き方をしていたのだから、この劇化は、容易ならぬ難しさをはらんでくる。五族協和、王道楽土の旗印も、理想なの
かごまかしなのか、双方が混在していて、川島芳子は徹底的に利用されて終わったとも言える。
こういうドラマを演じるには、今回公演の主役に抜擢された女優の力不足は覆い難く、演劇言語で「男装の男子語」を独特の魅力で生み出す工夫どころか、男
でも女でも、平板で余裕のないなみの科白、メリハリの利かない科白に終始してしまった。その余裕のなさ故に、演技も無骨で冴えない動きとなり、颯爽とした
女の魅力と男装の魅力とをめざましくスウィッチして行く面白さなど、全く出せなかった。これでは少しも「美しい」「魔」の魅力は生まれない。ごく平凡な、
ただボイシュな口を利いているだけの普通の女になってしまった。王族貴族の品も、ヨーロッパ仕込みのウイットもなく、多くの高位高官を手玉に取った人間的
なアクも出せなかった。
これでは、脚本がどう確かでも、舞台は盛り上がらない。演出も鈍かった。清國最期の皇帝の皇后が、芳子のレズビアン的技巧に翻弄されて登場するのも、ま
るで場末をうろつく酒場の女のようで、かりにも皇后であった位取りがまったく出来ていない、演技的に。
演技的に観るべきもののあったのは、怪物「甘粕元大尉」を無気味に不敵に演じた俳優だけといってもいい。
どんなにいい台本をもらっても俳優の力量が追いつかなければ、やはり佳い舞台にはなりえない見本のような結果で、誰のためにも「気の毒」であった。
* 午は伊勢丹の「美食倶楽部」で、注射後に「抄春」と銘打った和食を食べ、中村屋でサンドイッチを買って帰って 晩の食事にした。
* 神戸の方の、存じ上げない方から、わたしの使用してきた「ーー」という二倍ダッシュは、このように途切れず、 繋がった「――」を使った方がいい と忠告してもらった。じつは、わたしもいやだなあと思いつつつい面倒で「ーー」で済ませてきた。面倒でも、だが、通常記号の一倍ダッシュを二つ使ってきち んとしようと思う。感謝。
* スキャナで懐かしい写真を器械につぎつぎに取り込み、ズームインして大いに楽しんでいる。家族の写真の他に、
秘蔵の美智子皇后の珍しい写真があ
る。医学書院時代に「助産婦雑誌」を担当していた頃だから、昭和三十六年頃、日赤産院を当時まだ新婚の皇太子妃美智子さんが訪問された。日赤関係のお役が
あったものか。取材のためカメラマンと一緒に出向いた。その日のキャビネ判の写真三枚をカメラマンから貰った。
一枚は乳児室のなかを笑顔で歩む皇太子妃。もう一枚は東大名誉教授で当時産院の院長だった老森山豊先生の背後から自身の雨傘をさしかけるようにして、雨
中を歩まれる妃殿下像。森山院長は気づいてか気づいていないのか、大柄な胸を張って美智子さんの前を闊歩している。親族の人がみれば家宝にしたいだろうよ
うな珍しい写真である。
この二枚とも妃殿下は格別に気品高く美しい。みるからに聡明な方だと気持ちの清まはるのを感じる。
三枚目はもっと珍しいかもしれない、雨中、ひとり傘をさし、うつむき加減に歩まれる横顔が、ひっそりと孤独そうに憂いをおびていて、まちがいなくこの瞬
間妃殿下は我一人の物思いに沈んでおられる。こういう内省的なひとりぽっちの表情というのも、なかなか珍しいのではないか。あの雨の日のことをおおかた忘
れているが、残った写真は不動の記録になり、記憶を幾重にも刺激する。
* 気品とは、美智子妃殿下の代名詞のようなもの、それからしても、今日の舞台の宣統帝の皇后さんの位のなさには
失笑を禁じ得なかった。しかし役者
は真似なければならない。物まねは、勉強と工夫なしには出来ない。
* 四月十四日 金
* 十日余りのおぼろ月
「物羨みなどという卑しいことをするでない」と、父に言われたことがありますが、メールの「歌と勘」、お羨しく存じました。芝翫時代の歌右衛門を知りま
せんので。
もう、十年くらい前でしょうか、歌右衛門の「阿古屋」を観ました。もうこれが最後の阿古屋とのことでしたので、かぶりつきで観たのですが、衰えが見えて
ちょっとつらくなりました。
以降、歌右衛門の舞台は後のほうや二階席にしていました。そのあたりからですと、衰えは見えず、酔わせてもらえました。ぞっとするようなうつくしさも見
せてもらえました。
家から車で二時間ほどのところに、下野国分尼寺跡があります。そこに、岐阜の薄墨櫻の実生の木を育てたのが、みごとに花を咲かせたと聞いて、行ってまい
りました。散り初めていました。
ちいさめの色淡いはなびらが、うっすら翳りを帯びていました。
ところが、あちこちにある赤い旗や提灯、マイクから流される演歌には、気分をこわされました。薄墨櫻もかわいそう。
湖の部屋におかれていた「茶湯一会集」の一節、心にひびきました。お恥ずかしいことに、わたくし、『茶湯一会集』の存在すら知らないでおりました。『徒
然草』についてのお考え、とても興味深く、常のわたくしでしたら、『徒然草』をひらいてみるところなのですが、今、集中力皆無の状態でございます。右手の
中指を傷め、少しづつ爪が死んでゆくらしく、痛みはひどくはないのですが、意気地のないことで、何もできないでおります。
「小侍従」は、まだまだ、知りたいことは多いのですけれど。
迂闊なことで、最近、知ったのですが、小侍従の父紀光清が、西行の母方の祖父、あの、源清経を案内して、江口・神崎に遊んだと『長秋記』にあるとのこ
と。かの、M教授のご著書『西行』に教えていただきました。光清とその子や孫は音曲に堪能だったようですので、小侍従が和琴をよくしたというのもうなづけ
ますし。
母方の曾祖母には、実方のむすめがおり、小侍従というひとを、そうした「血」の面からもかんがえてみるべきであったと、悔やんでおります。
いずれ、手を入れて、わたくしもホーム・ページに書こうかとおもっています。
十日余りの月が中天におぼろ。蕪村の句にいくつかがおもわれます。琵琶、きつね、さしぬき、恨みある……
* 一般にEメールでは、このホームページに書き込ませて貰っているこういうメールは珍しいらしい。しっとりと書
き込まれてくるこういう交信より
も、もっと気ぜわしくはしたなく投げ交わせるのがメールのメリットと思っている人の多いことは、某誌のアンケートでも知れていた。多少、それもある。全部
がそんなでは、ない。人次第、相手次第、興味と関心のありどころ次第で、一概に言えない。わたしも両用に使っている。心喜ばしいのは、やはり丁寧に書きこ
まれて内容のある実意のあるものが嬉しい。
* 書き込み中の旧作の、文字校閲をきちんきちんと送ってきて下さる読者もある。これは有り難い。キイに馴れない不器用な手先がしばしばミスタッチしてい
るのを救って下さる。わたしのためにも、作品のためにも、読者のためにも、有り難いことで、感謝している。
* 単語登録ということをワープロ時代はしていたが、このパソコンでは手段を知らないため、一度ででない「清経」 なども、一度一度「せい」「けい」 と打って出している。こういうところを、マニュアルを調べてでもキチンとしないのが、わたしの本質的に怠け者である証拠。「めんどくさがり」なのである。 そのくせ「せっかち」なのである。
* 「秦 恒平様 貴サイトの存在を知ったのは、ごく最近のことです。『私語の刻』をすべてダウンロードして、
ゆっくり読み進めているところです。
なかに散見する社会的・政治的なご発言には共感、というよりも指針を見出す思いがすることもしばしばです。
それだけでなく、この日記には、何というか、日本の文化の今が、さまざまなレベルで写し取られているようで、私にとっては大変おもしろい読み物ともなっ
ています。
小説の方は、率直に言って、私が好んで読んできた現代文学とは色合いの違う作品世界で、少し時間がかかりそうに思います。もっと、御作の美学・設えに理
解が進んでから、活字本を求めさせて頂こうかと考えております。」という嬉しいメールも飛び込んできた。「私語」から芽生えて何らかの「対話」世界の拡
がって行く嬉しさを日々に感じている。
* 四月十五日 土
* 日生劇場で松本幸四郎の人気ミュージカル「ラ・マンチャの男」を観てきた。オペラ座の怪人用指定席のようなと ころで観た。時間の経つにつれ惹き 入れられ、終幕で十分納得して拍手を惜しみなく送ってきた。
* 身近にドン・キホーテのような人が現れて何かをはじめたら、失笑したり嘲笑したり迷惑がったりするのが普通だ ろう、この劇『ラ・マンチャの男』 もそういう感 情から見始めることになりやすい。それが、観ているうちにそうではないと気づいてくる。ドン・キホーテの常識的には常軌を逸した振舞いや物言いの底 に、猛烈な「現実」批評の高貴に純粋な太い強い針の隠されているのが見抜けてくる。セルバンテスからすれば、当時の教会や司祭たちへの批評が強かったろ う、が、昨今今日の私たちからみれば、よくしたり顔に謂う「現実的な現実路線」に対する、侮蔑に満ちた否認がものを言ってくる。現実第一人間のしたり顔に 生きて幅を利かしている「現実」ほど、真実を逸れた醜いものはないと言い切るラ・マンチャの男の態度に、底深くから共感出来る。
* しかしいわゆるドン・キホーテは、現代でも全くの少数派であり、戸惑う人の方が多いだろう。バグワンに接し、 『老子・道・タオ』を毎日読ん でいるわたしからみれば、ドン・キホーテは老子型の、マインドに毒されていないビューティフルなタイプであり、マインドの塊のようなハムレットとは正反対 である。どちらに魂の色の似通いを感じるか。問題なくわたしはドン・キホーテ。そのようであろうと「闘って」きた。老子のようでありたいと 願っている、マインドの塊のような孔子のようであるよりは。
* 幸四郎の演技に大満足したとか、鳳蘭や浜畑賢吉や上条恒彦の演技がどうだとかいう感想は、今日の舞台ではもた なかった。ただもうセルバンテスと ドン・キホーテという「ラ・マンチャの男」の「意味するもの」にずうっと心を惹かれていた。並んで舞台を観ていて、妻は、つねづねはむしろこだわりの少な い非マインド型個性と見られているのだが、実はハムレット型のかなりマインド型であることが分かった。逆にわたしは相当にドン・キホーテ型、ないし彼に共 感のきくタイプだということに、改めて気がついた。お互いにいたく思い当たるハメになった。それがおもしろかった。そして、なんだか、訳分からずに二人と もしんみりした。
* 芝居がはねて直ぐ、日生劇場内で注射し、銀座の三笠会館にとびこんで、春らしい懐石を食べた。特別にビールの 小瓶のお許しが出たのが幸せだっ た。雨の冷え込む一日だったが、日生劇場という気分のいい劇場で、佳い舞台が楽しめ、よかった。
* 四国の友人から、わたしのホームページへのアクセスカウントが「10000」に達していますよ、とメールが来
ていた。きっちり二年かかったが、
この一年半加速度的に数字が走っていた。最初の七ヶ月で「1000」に届き、次の十七ヶ月で「9000」が加わった。さて特別に意味ある数字とは思ってい
ない。一つの区切り程度に思うだけだが、ま、いいだろうという気分である。何かが変わるわけでない。
* 四月十六日 日
* 直哉の日記、明治四十三年一月二十四日には、のちの秀作『和解』に深く関わる、父親と直哉との泣きながらの会
談の模様が書かれていて、あと、
「母の墓に詣でる、途々涙があふれた。然し墓についた時は、殆ど常の心になつた、室咲の菜の花をさして帰る」とある。二月一日にも父子の会談があり「父か
ら相談を受けた事が嬉しかつた、自分はあれ程の(不和)の関係になつてゐた父とダンダン親しみ得る事が不思議な位に思ふ」と書いている。はっきり言って
ファザーコンプレックスの直哉であったのだ。藤村と父親、漱石と父親は、とてもこんな段階ではなかった。もしもあれほどの神の眼のような文体と文章が持て
なかったなら、直哉の作品は大方が作文に終わっていただろう。だが、文体・文章こそは文学の保証なのであり、ストーリィといえどもその根と幹の上に咲かせ
る花であり茂らせる言葉なのだ。
四月十日過ぎた頃には島崎藤村との往来に触れている。四月二十三日には荻原守衛とマーク・トゥエーンの死を朝刊で知り、「トゥエーンは兎も角彫刻家は惜
しい事をした」と悼んでいる。夏八月になり正宗白鳥の『落日』に接して「ウマイ」と批評しながら「あんなものなら作れると思つた」とも書いている。十一月
九日には、「来年は思つた事 考へた事、感じた事 知つた事の日記をつけやう、など思ふ、仕た事ばかり書いても仕方がない」と。
* 人の日記を覗き見たことはない。潤一郎の『鍵』のような趣味はなく、妻はいつもすぐそばで日記を平気で書いて
いるし、わたしは片端も覗かない。
志賀直哉の『日記』は日記を読む初体験に近いが、メモ程度のものながら、ときどき、気になる、興味あることが書かれている。付箋をつけておいて
読み直す。
明治四十四年になると直哉は「白樺」だけでなく、視野を広げている。一月四日には、「酔はない男と酔つた男と一緒にゐると、酔つた連中の方がどうしても
景気がいい、然し左う長く人は酔つてゐられないし、酔つぱらいの言葉も左う長くは聴いてゐられない。スバル連は酔つぱらいである。酔つて警句をハイてゐれ
ば満足の出来る連中である。酔つた勢で自然派をつぶせなどクダを巻いてゐる連中である」と、いわゆる藝術派をやっつけている。藤村を読み白鳥や花袋を読
み、敬愛していた漱石や少年時から愛読したという泉鏡花をべつにすれば、直哉は高く評価しないまでも自然主義の作物によく接している、反自然派のものより
も。直哉の私小説も、いうまでもなく自然主義の流れに棹さしていたことが分かり、しかし自然主義をはみ出た物が「何」であったかの見極めが是非必要にな
る。「自然」の捉え方がだいぶ異なっている。
この年の五月二十七日、直哉はこういうことを日記に書いている。
* ○雀のクチバシを拭ふのにリズムがある。小鳥の声に実にsweetなシメリ気のあるのがある。鳶の舞は舞の舞 と同じである。 ○自然の美の方面 を段々と深く理解して行くのが芸術の使命である。 ○かうもいへる、芸術心(人間)を以つて、段々自然を美しく見て行くのも使命である。 ○だから、普通 の人の見るに止まる自然を再現した所でそれは芸術にはならない。 ○自然を深く深く理解しなければいけない。 ○然し人間は段々に自然を忘れて、芸術だけ の芸術を作らうとする。 ○その時に自然に帰れと叫ぶ人が出て来る。 ○自然といふ事を忘れてゐる芸術は、芸術の堕落である。 ○自分は華族様の表情のな い美人のお姫様の顔が此の堕落した芸術と同じだと思ふ。 夜(どこへも出ずに)自家にゐる。
* この述懐を読み解くのはたいへん興味深い。この年の一月六日には、「他人と会ふといふ事は今年の自分にはいけ
ない事であるやうだ、孤独を平気で
仕事をするやうに何者かが自分を向けてゐるのかも知れないといふ気がする。/今年は『仕事』といふ事をモットーとして過ごさう。『仕事』。仕事!!!」
と。
「白樺」からひとりはみ出たものも持っていた直哉は、この頃から、意識して仲間と深い距離を保とうとしていたようであり、直哉にとって心から許し合えたの
は武者小路実篤ひとりであったように察しられる。
* 今日は朝食が遅かったので、夕食をこころもち早め、昼食を抜いてみた。インシュリン注射も一度抜いた。さっき
計った血糖値は、昨日一昨日と変わ
りなく「良」の範囲内にあった。
* 四月十七日 月
* 直哉の『日記』をもう少し見ておく。
明治四十四年一月前半に、直哉はアナトール・フランスやモーパッサンを読んでいる。一月十八日には「夜精養軒でスバル、三田文学、新思潮の連中と集ま
る。気分合はず不愉快な一夕であつた。/(略)合同号を出すとかいふ事は立消えになつた。吉井(勇)と小山内(薫)とは、余程此方で感情を害してゐると信
じてゐるやうだ。ああいふ男ともいつか会つて話だけは出来るやうにして置く要がある。/(永井)荷風とは話をしなかつたが話しよささうな男である。白秋
の好人物らしい事は思つた通りだが、話は合うかどうか疑問である」としている。
この会には森鴎外が上に立っていたが、直哉らは鴎外は「眼中にない」と他の作品に書いていた。谷崎潤一郎も出ていたはずだが、そして最も華やかに当時遇
されていたのだから印象が書かれていそうに思うが、出ていない。翌日にはもう北原白秋と長時間をともにし「常識的な気持のいい男である」としている。同じ
日記の続きで、「自分の欠点に、面倒臭がるといふ事がある。総てわづらはしさに堪えられなくなつて事を単純にしやうとして失敗する事が少なくない、白秋と
会つてゐて、白秋の友達の事でも評する場合、気兼をする事がわづらはしく、為めにイクラカ不快を与へたかも知れぬ。然し失敗とは自分は思はぬ 或る程度に
自分の本統を見せるのだから長く親しむべくはいい事なのであると信ずる」と書き加えている。
精養軒の会の日は、大逆事件で「無政府主義者廿四人」に「死刑の宣告」の下りた日でもあった。「日本に起つた出来事として歴史的に非常に珍しい出来事で
ある、自分は或る意味で無政府主義者である、(今の社会主義をいいとは思はぬが)その自分が今度のやうな事件に対して、その記事をすつかり読む気力さえな
い、その好奇心もない。『其時』といふものが歴史では想像できない」と直哉はすこしうわずって、処置なしの声を発している。
直哉の感想は、やむをえずその社会階層の「上位者」たるゆとりからも出ていることを忘れてはいけない。直哉は必要とあれば政権の中枢とも私人としていつ
でも会える環境にいた。そういう中での文学の「仕事」だった。鴎外など眼中にないと言うとき、文学的な意味でだけ読み込むことは正しくない。位取りの途方
もなく高い人であり、それが「白樺」だった。他の世間の文学者は、対等の文学仲間でなく明らかに下目に眺められている、いつでも。
直哉という人は、ただ自身に対してのみ誠実を尽くし責任を感じていた。一月二十四日には、「仕事は自覚を持つて仕なければならぬといふのはどれだけの意
味を持つてゐるのかしら ? 而して自覚とはどういふものかしら ?」と自問している。
* 作品『慈子』について、ちょっと気になる以下の真新しいメールが届いていた。同時にこれは『清経入水』や『冬 祭り』や『四度の瀧』など、また 『みごもりの湖』や『風の奏で』や『初恋』にも及ぶ、この人なりの批評としても届けられていると読める。鋭くも迫っているし、或る意味では作者の思い通り に幻惑され術中にはまってくれているとも謂える。そこが面白いし、有り難い。
* 今、なぜ『慈子(あつこ)』をお書きになられたのかということを考えております。(母に)死なれて生まれた
「慈子」は、作者の思いの底を深く流
れる心情的なものとしてはどこかで「蛇」と通うものがありましょうけれど、やはり「蛇」ではない者として「慈子」を書かれたということに、意味がある気が
いたします。
蛇との出合い 蛇の誘惑 ・・・ 執拗に蛇への思いを数々の作品に様々な形で表されていますね。
この世で唯一の現身の方と出あわれ、東京へ出ていらっしゃいました。朝日子様もお生まれになり、出版社での生活は、決して心楽しいものではなくても幸せ
な日々が続いていらっしゃったものと思われます。
ある時、「磬子」(さまざまな別の名で別の作品にも登場しますが)と出会われ、「良子」(これも、さまざまな名で繰り返し登場します)には死なれていた
ことを突然、知らされることとなります。これこそが、もの狂おしく「作品をかく」という「動機」になられたのではないでしょうか。
いくつかの作品では、この二人がヒロインになっていると思えます。一連の「蛇」の作品のことでございます。
けれども小説『慈子」の中では、「良子」はほんの淡い影にすぎなく、「磬子」も、「慈子」より心劣りする存在として描かれております。
『慈子』を通して、蛇と無縁な、蛇を超えた世界を描かれたかったのではないか、あらゆる理想と幻想によって創られた女性それが「慈子」だったのではない
か・・・。
「慈子」は、現身の「現実」の方とは作中で対峙する存在でございますが、実はその姿の中に現身の方も描き込まれているのではないか・・・、作品が真に対峙
していたのは、「蛇」の世界とでもあったのではないか、そんな気持ちで読ませていただいております。
まだ、十分読み切っておらず、私の勘違いの部分もあるかとは存じます。作者の先生に、このようなことを真っ向から申し上げる大胆さにも身の縮む思いがい
たします。あくまでも、未熟な私のささやかな感想としてお読みいただければと思っております。
* 「蛇」と書かれてあるが、むろんただ生身の蛇の意味に限定されていない、もっと歴史的で社会的・政治的で、ま
た民俗学的・神話的な内容を指さし
ている。作者に於いてはそうなのである。それだけを付記しておく。たしかに『慈子』は我が作品歴の中で『畜生塚』とならんで、特殊でむしろ孤独な位置を
占めている。概ね貴賎の賤を、蛇の世界を書いていながら、『慈子』は貴賎の貴、高貴の容態に描かれて、またそれゆえに読者の愛を集めたとも謂えるだろう。
さ、その先は、そうは簡単ではあるまいと思う。
* 四月十八日 火
* 一ヶ月めの糖尿病指導日での結果は、よかった。血糖値はことに朝食前の値が安定していて、体重の下がっている
ことも、よしとされた。むろん、も
う一ヶ月全く同様につづけるのだが、気持ちの上でいくらか緩和された面もある。アルコールも、時にはビール350CCまたは日本酒一合程度はいいし、抑圧
的にやめてしまうことが必ずしも良いわけでないと指導された。今日の指導は看護婦で、来月は医師。
例より早く正午ごろ解放されたので、薬局の用事を済ませて、新富町から一路一度帰宅し、一仕事してから改めて「みらくる会」に出た。
* 気は進んでいなかったが、250回という決まりの日だったこと、事実上の退会になるであろうこと、今日の世話 を担当していた高津さん、宮本さん とは「湖の本」でおなじみなので、挨拶かたがた出席した。東京會舘というだけでも気乗りはしないのだが、要するに呑めない食えないのだから「うまいものを 食う会」に、出かけて行く方がわるい。案の定、なんとも致し方もなくて途中で失礼した。二千円見当のプレゼント交換があり、わたしは中国製一対の玉杯を 持っていった。代わりに強力なペンシルライトを引き当ててきた。ワインを二盃、シャンペンを二盃。ローストビーフを少し。蕎麦を少しだけ。それで会費 15000円は支払い超過だと思うが、それもわたし自身のせいであり、文句は言わない。あまり上手でないピアノとフルートを聴いて失礼してきた。行くべき ではなかった。
* 鮨の「きよ田」で肴を食べたかったが時間が遅く、バー「ベレー」に行き、当分の来納めに、ツーフィンガーウイ
スキーをストレートで三杯飲んでき
た。多いのは承知で、秘かな勝手な理屈をつけて、例外日にした。
* 四月十九日
* 明日は電メ研、来週にはペンの総会がある。委員会報告をしなければならないが、正直のところ報告すべき内容を 持てなかった。明日の研究会に諮る 「案」を以下のように用意しメーリナグリストに載せた。「基本的に支持します」と東大西垣通教授の返信があった。
* 日本ペンクラブ電子メディア対応研究会 2000年総会座長報告・案
1999年度の当研究会は、率直に言って会員のために何かが出来たというより、力及ばず何も出来なかったと報告
せざるをえないのを残念に思いま
す。研究会は、ほぼ毎月行ってきました。加えて委員が随時に器械の上で意見交換できるメーリングリストも設置し活用しています。専用の器械も一台購入でき
ました。確かに委員間ではいろいろ勉強できました、が、成果を取りまとめ報告する事自体が不可能なほど、ここ一年の「電子メディア」問題は多岐に複雑にし
かも猛烈な速度で展開し、初歩的な理解や情報収集にすらなかなか追いつけませんでした。具体的に会員のお役に立てないでいることを遺憾に思います。
情報処理学会の「文字コード標準化委員会」に参加していましたが、第一期の検討を終え報告書作成後は、現在休会中、第二期開催も未定で、日本ペンクラブ
に再度参加要請があるかどうかも分かっていません。
多彩な各種「文字セット開発」に加え、「文字コードの世界的な標準化」も格段に改善されようとしています。「漢字」表記の拡大可能性はかなり現実化し、
器械の受容能力に問題はない。国際社会における「漢字や日本文字・記号」等の表記に、ねばり強く具体的な「提言」をし続けて行くことが肝腎で、その点、文
筆団体の一層の関心と活発な意見陳述が更に必要になっています。「表現者」として発言しない限り、「技術系」の適切な理解は容易に得られないことを、文字
コード委員会に参加し痛感しました。また参加し発言し続けてきたことの無駄でなかったことも実感しています。
電子書籍の端末受信、電子化文書・作品等のオンデマンド出版、インターネット上での自在な乱交叉など、各種情況 が実現しています。しかしそれに伴 う電子メディア上での著作者権利保護システム等は、緒にすら着いていないと言えます。経済面だけでなく、殊に重要な問題点は、電子的に公表される「文章・ 作品」が例外なく「恣意の改竄可能」に曝され、防備も不可能という実状にあることです。例えば著作権期限の切れた過去の優れた文学作品が、恣に継ぎ接ぎ改 編されたり、改題されて極端なパロディ化する怖れもあり、極論ながら電子メディアでの著作権、ことに人格権は有名無実に帰するだろうとの危惧すら言われて います。電子メディア著作権が新世紀社会で形を得て行くには、少なくとも、文芸家協会とペンクラブとの対策的な協議・協力が急務であろうと提言します。
インターネットの意図的な破壊工作が、戦略的なサイバーテロリズムの手段ないし目標として、核兵器よりも優雅で 効果的との評価がすでに米国防省で なされている現状です。ペン憲章の願う、平和や人権、環境保護問題と「電子メディア」とは密接不可分です。単にこれを書字表現の手段とのみ関連づけて認識 を誤ることは避けねばならず、グローバルに拡がった「電子メディア問題への適切な関心と対応」は、今や、日本ペンクラブの大きな新たな一課題になってきて いると思います。この際、現に二百人を越す当会員のEmail を活用し、研究会のメーリング・リスト(三百人まで参加可能)になるべく参加してもらって「拡大研究会」が実現出来ればとも考えています。
日本ペンクラブが独自の「ホームページ」を開いていることご承知の通りですが、これは会員向け会報でなく、公衆 に、広くは世界に開かれた「メッ セージ」であり、しかしアクセスを期待するには、相応の「魅力」をもつ必要があります。梅原会長以下、文筆・創作者団体である以上、アクセスする公衆の期 待は、著名な文筆家の「文章」でありましょう、それに惹かれて「ペンの声明・活動」等もより多数に伝えられるのが本来の願いですが、国際組織でありながら 英文のアピール一つなく、活動の記事空白の委員会すらあり、魅力を発揮しているとは言いかねます。この際「掲示板」という窓を外へ開いて、ビジターの忌憚 ないペンクラブへの「声」を取り込んで行きたいと考えています。
以上、概略を申し上げ、いささか所感も添えました。
* 新聞もテレビも、伝えるところは「殺し」「殺し」「殺し」である。堪らない。
* 森首相との各党首討論を聴いた。各党首がそこそこの問題提起をしていた。森首相の返答は、ディベートのための ディベート技術を駆使していただけ で、それが、民主党の鳩山氏、共産党の不破氏への答え方に露出していた。明らかに平然としてウソを言っていることが分かる。不破委員長の突きつけていた米 国側文書は、日本側の立場も反映した動かし難い外交上の公式合意文書でありながら、平然と首相は否認し無視していた。ああいうウソを言い抜くことに議論技 術を用いているのであり、一片の誠意もうかがえなかった。昔は共産党を、とらえどころなき軟体動物のように謂ったものだ。森さんにも軟体不逞動物の風があ ると感じてきたが、遺憾なことに証明されてしまった。
* この「私語の刻」の一つの働き、最初から考えていたわけでない働き、に気づいている。亡くなった兄恒彦の適切
な名言に「個対個」で付き合おうと
いうのがあり、わたしは服膺してきた。兄とは兄と、甥たちとは一人一人の甥や姪と、と。それはまた他の多くの知人や友人とも同じことであった。まさしく
「個対個」で付き合ってきた。
だがホームページに「私語の刻」を持ち始めてからは、わたしは自身のかなり多くの「個」の面を、同時に多数の、特定・不特定の多数に同時に明白にし続け
て
きたことになる。「個対個」でなくなったのではない、より細やかな「個」を自分で自分に表出せよと命じることになっている。そう思う。「私語の
刻」に実現された「わたし」と、例えばよりこまやかに「メール」などに表現されている「わたし」とが自然に表れて両立している。建前と本音といった乖離が
あるとは思わない。それでいて「メール」はやはり「個対個」である。そこでしか洩らせないものが有る。問題は、メールを有り難く思うぶん、つい、メール交
信の出来ない知人や友人と相対的に疎遠になつてはならないと自戒している。メールの可能な人は、そうでない人よりもまだ遙かに少ない。
* 四月二十日 木
* 雨の電メ研に出かけた。
メーリングリストの一効果であろうか、具体的な問題がらみに、意見交換が今日はことに活発で、議事進行に渋滞を覚えずに済んだ。
希望に満ちた話は、この畑では、いまや、あまり出せない。山積する難問の影に脅えてしまう一方であるが、その中でも、やはり、委員により、鋭く異なる意
見が出てくる。出版から、編集から、器械・技術面から、また経済性や権利面から、いろいろ有る意見の中で、容易に上がって来ないのは、「文学表現」の基本
的な尊厳を守る立場からの声であり、今日、高畠二郎委員がその点に触れて烈しく語られたことに、わたしは感銘を受けた。
電メ研には現在、小説作家はわたし一人しか居ない。小説家の立場を独りでカバーするには、わたし自身が特殊に過ぎる。同じ小説家だからといって、他の作
家たちがわたしの基本的な考えにみな同調されるとはとても思われない。そこに苦労があり、無力感ももってしまうのだが、新聞記者で編集者だった高畠さん
に、「文学の表現」が恣意的な改訂や改竄の危険にさらされて本当にそれでいいのかと切言されると、やはり、わたしは感銘し共感するのである。
しかし、高畠さんの声は、かき消されて行く声のようであり、わたしも、誰かの言をかりれば、今や「天然記念物」らしい。実は、だからこそ、あえてこの
「電子メディア対応研究会」をわたしは理事会に提言し、発足させた。文学の根を時流にただ軽率に洗い流させるためにではない、根を守りたいと思ったから
だ。だが、正直なところ、プツンと心根が切れてしまいそうになっている。
* そんなことをして、道草が過ぎるという声も事実聞くけれど、それには患わされない。わたしが判断することであ る。それにもかかわらず、わたしを 深く誘ってやまない別世界の現にあることは確実で、電子メディアの議論を斡旋しながらも、わたしを胸の底の方でぎゅっと掴まえていたのは、例えば送られて きた大阪の三島祐一氏の『蘆刈』論だった。論文を読みかけていて読み切れていなかった。読んでしまいたいと、高畠さんの発言に感動しているときにも、一方 にそれが有った。それはわたしの、何と謂えばよいのか、生きることそのものに直接関わるほどの関心事だった。そういう種類の関心事が他にも有る。幾つもあ る。そしてその方面では心根の断たれることはないだろうと分かっているが、電子メディアについては、強いて頑張らねば容易に心根が守りきれない。そのこと が今、私の意識をピリつかせている。
* 遅れて会議の場を外へ出た頃は、雨があがっていた。いつもと逆に地下鉄赤坂方面へ歩き、注射が打てて適当な食
事のできる店を探した。「京料理」
とある看板にひかれ「三井」という店に飛び込んだが、気軽な店ではなかった。結局、お任せで一通りを喰うことにし、お銚子を一本つけた。気の利いた料理が
出てわるくなかったし、久しぶりの日本酒が、嘗めるほどに口にしていても、美味くて身にしみた。筍、さよりと鯛と小海老との刺身その他、数えてみると一つ
一つの品に満足していた。高くついたが、よかった。
食べながら三島さんの論考もとっくり読み終えた。おもしろい筋へ誘い込んで行く論だが、論証のきめは粗く、やや性急に結論部分の突出にだけ労力が使われ
ている気がした。かなりキビシイ批評が必要だなと思いつつ、それでも三島さんの着想に、また知見の幾らかには、面白く心惹かれた。
原宿へもどって、ゆっくりした気分で帰った。
* 家では、直哉の新しい配本の『日記』が待ってくれていた。いまごろ志賀直哉なんてと云う人があるのかも知れな いが、ちがうと、そう確信できるも のが有る。高畠さんの声がもう一度胸によみがえってきた。
* いましも、すぐそばのファックスに、「個人情報保護法」制定についての要望と意見、また、「特殊法人等に関す
る情報公開法」への要望と意見、の
「案文」が入ってきた。言論表現委員会としての理事会提出のためのもの、服部委員と五十嵐委員とがお互いの専門家としての意見を汲み合いながら作成された
ものかと思う。いやもう、この問題は、じつに難しい。
日本ペンクラブがこの数年、最も精力的に外へ向けて発言してきたのは、殆どこの手の声明や要望と意見であり、文学の内容や表現に触れてのものは、記憶す
る限り、めったに無い、無かったのではないか。時勢が、それほど嶮しいということであろう、元気の湧く毎日ではないなあと、つい嘆息してしまう。
* 四月二十一日 金
* 血糖値を自分で測るために、朝起きて直ぐ、夜寝る前、の二度採血しなければならず針で指先を突いて血を出す。 指先しかしかるべき場所が無く、他 では測りにくい。おかげで殊に左手指は御難である。なんだか指先がジンジンしている。三度三度のインシュリンは注射器で膝の外側や脇腹に入れる。二の腕は 外出の際に。この方が針細く、血管や神経に当てたりしなければ痛みはちいさい。注射してしまえば必ず三十分で食事を摂らねばならないという厳しい制約がつ らい。何を食べてもいいわけでないから、外出時、適切な食事の店を見つけるのが容易でなく、注射後にただ時間を長引かせるのは危険と云われている。バラエ テイのある食事というと、揚げ物ぬきの幕の内や和食弁当がいい。安上がりのものには揚げ物のついてまわることが多い。店の格をまちがえると、昨夜のように 一食に一万五千円も支払うことになる。美味ければそれもいいが、栄養過多になりやすい。旅行の際や、余儀ない料亭での会議・会合となると頭が痛い。
* 黒猫のマーゴは精悍な青年になり、申し分ない男性になった。怪我もして帰る。医師は積極的にキョセイを勧めて
くれる。以前のネコやノコは女性で
あった。殖えては困ると、深く考えずに手術してしまったが、母親に一度二度なった母のネコはとにかく、一度も出産の体験をさせてやらなかったノコのことは
不憫だった。十九年もともに暮らして死なれてみると、ノコの子猫のマゴ猫が一匹でも遺っていたらと泣いた。女性だから謂えたことか。現在のマーゴは男性
で、簡単に父親になれる。が、父子としては暮らさない。その点ネコとノコとは幸せそうな母娘で、離れることなくむつみ合っていた。
手術しないとマーゴの寿命は短いよと獣医に云われてはと、「自然」を不自然に抑制してでも健康保全を考えてやるしかないかと、困惑中。真っ黒な塊のまん
中に、金碧に澄んで光る眼。ときどき、ぞっとするほど美しいし可愛い。
* 「個人情報保護法」制定についての要望と意見、また、「特殊法人等に関する情報公開法」への要望と意見、読ん
だが、的確に具体的には把握できな
い。しかし実に大事な、また危険を帯びた問題だとはよく分かる。察しは十分つく。猪瀬直樹氏率いる委員会ならでは、こういう問題へこういうふうには対応出
来なかったろう。その意味で、彼はじつによく言論表現委員会を働かせている。衷心、敬服する。
* 鳩が鳴いている。旅をしたいと、渇くように思う。
* 『邪教・立川流』は、もとより密教と膚接している。この本は軽薄な面白づくのものでなく、行業深重の密教僧の
書いた専門書なみで、筑摩書房が出
している。が、一般の私のような読者の歯の立たない記述も平然としてあって、かなり根気よく立ち向かい、辛抱して読んでいる。面白いかと云われれば面白
い。立川流は邪教であろうけれど、そういうものの現れでてくる基盤は、「セックス」を識った者にはむしろ容易に察しがつく。セックスが極度の生ともいえる
死に近い沸点を体験させることは、幸せな性を覚知してきた人には分かるはずで、そこから、密教的な即身成仏などの教義へ切迫し近接して行くことは筋道とし
ては難儀でない。多くの宗教がその極致に性的な絶頂感に似た意義を認め、それが混乱し歪曲された体で教団内の性的乱脈報道になったりしていることは、今日
でも珍しくないどころか、あやしげな宗団の話題にはやたら絡みついている。教祖的人物によるレイプ騒動があとを断たない政治的な大宗団もある。
立川流に興味を感じた文学者は何人もしられている。谷崎潤一郎もそうだった。司馬遼太郎も取材していた。立川流の理解なしには計り知れないものが特に中
世の宮廷社会にある。古典の読みに影響してくる。『とはずがたり』のような女房文学にも濃厚に影が落ちている。大岡山の古書店でみつけ、躊躇なく大枚を支
払った理由もそこにあった。
* 性にからんで衝撃をうけたことがある。『死なれて・死なせて』を出したときだ、北陸の人で、最愛の夫に死なれ
た妻女からの手紙をもらった。悲嘆
の余りその人は、毎夜巷をさすらい、行きずりの性行為にまみれるしか哀しみに堪えることが出来ませんでしたと、凄絶なモゥンニングワーク=悲哀の仕事を
語ってきた。批評はいろいろに出来るだろうが、理解を絶しているとは思わなかった。かろうじて死なれた辛さを克服していったその人に、だが、返す適切な言
葉をわたしは知らなかった。
* 四月二十一日 つづき
* 京都今出川の「ほんやら洞」を維持し経営している、優れた写真家でもある甲斐扶佐義氏の「ほんやら洞通信」
が、ゼロ号から一、二、三月号まで送
られてきた。亡き兄北澤恒彦追悼号も含まれていた。「ほんやら洞」というかなり有名な場所を、浅はかに此処にわたしが解説し紹介するのは避けた方がいい、
知らないも同然だから。一度二度立ち寄ったことがある。風変わりな喫茶店で、コーヒーを飲んだだけで立ち去ったほぼ行きずりの場所だった、が、甲斐さんや
兄たち多くの人たちにはもっともっと別の意義ある価値ある「活動拠点」であったらしい。鶴見俊輔、中尾ハジメといった人たちの感化のもと、大勢の活動的市
民の大切なオアシスふうの拠点であったのだろう、これ以上は言うまい。
その「ほんやら洞」の再建と維持に甲斐さんは自ら任じ、新雑誌を創った。その創刊以来の四冊が届いたのであり、寂しいことに兄の原稿は読めないが、兄を
取り囲んでくれていた大勢の息づかいは伝わってくるし、兄にふれた文章も幾つも載っている。甲斐さんは手紙一つ添えないでそっと送ってきてくれた。ありが
たい。
わたしは、兄を、兄の活動や交友や精神の向きについても、事実、ほとんど知らないままに死に別れた。だから、こういうかたちでしか兄にふれることができ
ない。
むろん、それら一切をたとえ知らなくても、わたしの兄はわたしの兄である。しかし知らなかった兄の多彩な容貌も見てみたい、今は知りたい。それが幾らか
かなえられている「ほんやら洞通信」と甲斐さんの好意とに、頭を垂れている。
* 昨日、川本三郎氏から文庫本の『荷風と歩く』を戴いた。いつも著書を貰っていて荷風研究のほかに「東京」を歩
く川本さんのエッセイ本が多い。そ
ういう一冊かと想ったが、そうでもあるが、中味は荷風小説が何編もとられてある編著で、各章に川本さんの解説が付いている。ひときわ趣向の贈り物で読むの
が楽しみでならない。
荷風、直哉、潤一郎、鏡花、藤村、武者小路、川端、漱石。このところを振り返ってみて、いつ知れず親しく想い入れて接してきた文学者たちである。受け継
いできたこれら大先達の「文学」の質を、精神を、どうあっても守り続けたいと思う。先日、銀座の「ベレー」に来ていた某出版社出版部の某、某たちが、盛ん
に「天才」呼ばわりしていた赤川次郎ほか今、今のベストセラー読み物作家たちの名と作とを思い比べて、なにの他意も邪心もなく、それはもう比較を絶してい
るとしか言いようがない。同じ「文学」の名の下に置く方がおかしい。
* 昨日の三島佑一氏の「蘆刈」論で、谷崎が二人目の夫人となる古川丁未子への「求婚」の手紙をはじめて知った。
文面は、三人目の夫人となる根津松
子への有名な恋文と、趣旨も行文すらも酷似していて笑ってしまった。三島さんもいうように、丁未子へは上から物を言っているし松子へはオーバーなほどへり
くだっている違いこそ有れ、谷崎と女と谷崎文学との三角構図は、みごと同じなのである。そこに谷崎の不自然がでなくて、まさに自然がある。それが分かるの
で笑ってしまった。この手紙が一つ初見出来ただけでも三島論文は有り難かった。
* 四月二十二日 土
* 観世榮夫の「邯鄲」は、邯鄲の舞は、まことに充実していた。この能、年齢が行っての方が、演者自身の「栄華一
炊夢」の思いも加わった分、深い理
解と詠嘆と諦念とがコンデンスされるのかも知れぬ。今日の榮夫の邯鄲には痛嘆の風情があり、身もだえすら見せたと思う。さばさばとして邯鄲の地を立ち去っ
て行く廬生なら、むしろ若い人に出来る、実感が無く解釈してしまうから。榮夫のキャリアは、年齢は、この「解釈の人」にしてそれによりかかるには人生を覗
き込む視線に実感での嘆きや悶えがある。そちらが主軸で舞っている。さればこそ充実の舞台が実現するのだが、原作の、伝説の主人公のようには悟れているわ
けがないから、まざまざとそこには榮夫が立って舞うしかない。榮夫の邯鄲なのである。わたしはそれに感嘆するのである。
* 万作らの「素袍落」はわるくはなかつたが、よくもなかった。四十五分もかける狂言ではない。万作の「邯鄲」のアイが面白い圧力をみせて、そっちの方に
狂言味を覚えた。
それにしても万作の狂言は安心して観ていられる。兄万蔵もいい。和泉姉弟らの、なにかをはきちがえ、怖い顔で深刻がったエセ狂言には、たとえコマーシャ
ルにしてもさても苦々しいことじゃと言いたい。狂言役者はいい顔を創れなければ話にならない。
* 池袋の「美濃吉」で、注文したことのない安価な弁当を、酒もビールもなく、注射だけして、三十分時間待ちして 食べてきたが、これが当たりで、う まかつた。揚げ物も嫌いな野菜もなくバランスのいい品数で。赤坂「三井」のなんと六分の一で満足できた。子どもの頃からご近所づきあいもあった京の「美濃 吉」である。儲け物を拾った夢心地で気持ちよく帰れた。
* 腰の痛みが十分消え失せてくれない。膵臓にわるい病気があると腰が痛むと聞いている。イヤな感じ。
* 四月二十三日 日
* 映画「戦場にかける橋」は三度四度も観てきたが、観るたびによさが加わり深まる。日、英、米の際だった対比を 生かして作られた思想性の濃い作品 で、ただの戦争映画ではない。活劇でもない。日本の早川雪洲、イギリスのアレック・ギネス、アメリカのウィリアム・ホールデンがガシッと組み合い、譲らな い。人間劇であり立場論であり誇りの在り方である。その争点になるのが、クワイ河に架かる橋、立派な橋。威信にかけ作らせる日本、誇りを持してみごとに創 るイギリス、平和と勝利のために生くべき命を賭してその橋を爆破するアメリカ。図式的に割り切って言えばそのようなものだが、割り切れない人間の不思議が 渦巻き、劇的な内容をはらむ。何度も観ていて、ひときわ今日は打たれた。佳い作品とはそういうものだ、だんだん受け手の中で大きく豊かに育って行く。ア レック・ギネス、ウィリアム・ホールデン、早川雪洲。一代の名演を誘い出したデビッド・リーン監督の名画であった。
* 母校日吉ヶ丘高校の美術コースを出て、いま、小説を書いている若い後輩とのメール交信が続いている。京都と母
校と美術と小説とを共有の話題にも
てるので、全く見知らない人だが、懐かしい気がしてならない。友人島尾伸三氏らで出している雑誌を送って貰った中に小説を書いていた。一見とりとめないな
りに文章の書けている作品に感じ、題材が京都で、母校にも縁ありげに感じられたので連絡してみた。作の質や作者の背景からすれば、伏見から出た甥の黒川創
の小説にちかいのかも知れない。
黒川の方は父親と共に、今出川の「ほんやら洞」を思想や活動の拠点にしていたと謂えるだろうが、この人は「ほんやら洞」のまむかいの「ゲンセンカク」に
関係していたらしい。ともに、つげ義春のまんがにゆかりの名であるとか、わたしはといえば、そういう世界とは殆ど接点すらもたない人生を歩んできた。
きのう、おそくまで、甲斐扶佐義の送ってきた「ほんやら洞通信」を四冊、読んだ。甲斐さんとは二度ほど出会っていて、ユニークなスナップ写真集も何冊か
貰っている。三條大橋で出逢い忽ちに写真を撮られたこともある。それとても兄との縁で、鶴見俊輔氏と一度対談したのもやはり兄からの縁を経ている。「ほん
やら洞」世界はわたしには、ふうん、ふうんと感嘆するだけで、難しく遠い地点に在る。
兄にしても甲斐さんらにしても、個々には「個と個」であろうとも、組織的に集団で動ける意志を持っていた。わたしには、それが無い。孤独に孤立してで
も、わたしは、だいたい一人で歩んで行こうとしてきた。わざと世間を狭く狭く暮らそうと意図したのではないけれど、結果はそうなっている。われ、なにもの
にも属さず在りありたいと、心根で思い続けてきた。なぜ、こうなったのだろう。兄の北澤家、わたしの秦家のちがいが感化したろうか、そんな簡単なことでな
いように思われる。
* 家中にマーゴが匂いツケしてくれるので、くさいことくさいこと。生憎後ろ足の一本に化膿性の怪我があり、完治 するまで外へは出すなと獣医は言 う。去勢手術をすますまでに自由に外出をさせていると、致命的な病気や怪我を貰ってくる怖れありと警告されている。可哀想に外へ出してもらえず、精力あ まって、もはや黒い青年は耐え難いと見える。マゴ育てもらくではない。
* 今夜は、もう一本、ヒッチコックの「北北西に進路を取れ」を観るつもりだ。エバ・マリー・セィントという金髪
美しい個性横溢の女優が、好き。は
ずかしいほど色男のケーリー・グラントも、粋で憎めない。わたしの時代のいろんな名優たちの姿を、ビデオに蒐集している。昼の映画のアレック・ギネスを、
代表作なのに、撮りのがしたのは残念だった。
* 四月二十四日 月
* 気にかかっていた締め切り原稿を書き、送り、明日のペン総会の電メ研報告もペーバーで用意を終え一息ついてい
たところへ、珍しく一日のうちに四
つも仕事の依頼が舞い込んだ。三つは受け、一つはお断りした。
受けようと思っている仕事の一つは、出版企画としての「対話」であるらしく、主題は「老い」とか。自信はないが、お相手はデビューの頃以来の久しく久し
いお付き合で、胸を借りてでも逃げ出すわけに行かないだろう。水曜に本郷三丁目の喫茶店「麦」で編集者と打ち合わせる。「麦」は、会社勤めの頃に何度も小
説を書くべく潜り込んだ地下の名曲喫茶室で、昔のままだとか。
もう一つは、わたしのホームページを実際に見た上での取材で、この器械部屋まで写真を撮りに来たいというから、写真は困ると断った。インタビューだけを
承知した。
* なにやかや日程がつまっていて、水泳にもご無沙汰だがイヤになったのではない。翌日に外出の仕事があったりす ると、体力を考え尻込みしてしまう のだ。
* 昨夜の「北北西に進路を取れ」はヒッチコックの軽やかな演出が楽しく、臆面もないケーリー・グラントの男前が
小憎らしいほど粋であった。エ
ヴァ・マリー・セイントと久しぶりに再会し、やっぱり惹かれた。殺されたはずの男が殺されずに目の前に表れたときの驚きと、愛を自覚た安堵の表情など、洒
落ていた。洒落てさわやかなヒッチコック映画の代表作で、「鳥」や「めまい」とは味わいがちがう。娯楽映画の上等であった。
今日は、デボラ・カー、ジーン・セバーグ、それに色男のデビット・ニーブンの「悲しみよこんにちわ」を観た。愚かな父と娘の物語で、ほとんど同情しな
い。映画としては美しく撮れていたが、ほんとにアホウな父娘で、見終えてぐったりする。むちゃくちゃに乱暴なジャン・ポール・ヴァンダムの「マキシマム・
リスク」の方がまだしもハートがある。デボラ・カーという女優はまことに美しいけれど、この映画ではあまり同情できなかった。ときどき表情が爬虫類じみ
た。若々しいジーン・セバーグ、手の着けられないデビット・ニーブンは、それなりに代表作を創っていた。魅力的だった。だが彼らの悲しみは、ヴェルト・
シュメルツとは無縁な、だだら遊びの退屈にすぎない。悲しいからと言って何の言いわけにもならない。
* 宇治十帖の悲しみは、心理的にも情景からも時代からもしっかり支えられて、女の、男の、世界そのものの吐息
に、静かに曇って冷えている。宇治の
川霧たえだえに、あらわれ渡る人間の悲しみ。幾度読み返しても深い。
* 四月二十四日 つづき
* すかっとした気持ちのいいメールを、どうしても書き写したい。院を出て社会人三年生の春。思えば、わたしが初 めて小説を書こうとペンを握ったの が就職三年目の夏だった。
* 暖かかった土曜日に、築地本願寺へ行って来ました。
目的は本願寺そのものではなく、敷地内にある、200人も入ればいっぱいの講堂です。そこで、私の好きな作家の舞台がありました。その作家の話を元に、
一人芝居とコント、朗読など、2時間ほどの舞台でした。
例えば講演会がありますが、小劇場の舞台に上がった作家の話を聴く機会は、これまでありませんでした。フリートークで語っていた内容も、一ファンとして
は楽しめる内容で、ファンばかりの会場は、ゆるやかな一体感で保たれていたと思います。
しかし、彼が彼の体験を語るのよりもはるかに、彼の脚本による一人芝居や、これの著作の朗読(朗読したのは俳優ですが)のほうがしっかりと体に突き刺さ
さりました。
例えば朗読は、既に読んだことのある著作で、読み始めの瞬間から結末が分かっているのに、俳優の力量もあってか、その声に息が詰まるような感覚を覚えま
した。じつはそこで朗読された短編は、私はあまり好きになれなかったものでした。というのも、すくいようのないかなしい話であることと、最後の4行がとて
も余計な気がしたからです。それはあまりに不幸な主人公の人生を、著者自身が顔を覗かせて語る、という部分で、いまだに余計だと私は思っていますが、それ
でも、著者がなぜその4行を加えたのか、その理由が聞けただけでも、良かったのだと思います。
それから、気になったのは、音でした。著作が、朗読用には書かれておらず、おそらく目では読みやすいのだろうけれど、耳では聞きにくい文章で構成されて
いることに気づきました。
もうひとつ。
芝居が暗転で終わった後、その日の舞台の最後に、一人芝居とコントを担当した俳優が立ち、その場でウクレレの演奏をしました。あまりうまい演奏では、あ
りませんでした。また、私は一度聴いたくらいでは曲を覚えられないので再現もできないし、タイトルも分かりません。
それでも、それまでの2時間近くが吹き飛ぶような、それはそれはせつない演奏でした。音楽の持つ力の強さ、深さを感じました。
言葉がもろく、表層をなでるだけのものでしかないとは思いませんが、少なくとも土曜日は、音楽のほうが、無理なく心に押し寄せてきたと、感じました。そ
のせいで今、久しく忘れていた、感情がよみがえってきたと思っています。
今年はもっともっと、たくさんの舞台を観に行きます。
それから、ついさっき、湖の本の振込用紙が出てきました。なくしたと思っていたものです。もう少し時間がかかるかもしれませんが、必ず振り込みますので
お待ちください。
郵便局のことを今思い、ひとつ思い出したので書き添えます。
今日、二人合わせてかなりの額になる奨学金を、すべて返済し終えました。晴れ晴れとしています。
* この「晴れ晴れ」は、わたしたちにも同じ体験があり、よく分かる。わたしたちも結婚して三年目には全額返済し
てしまった。この人は、今のわたし
のように時間の自由になる職場には居ないが、どんなに忙しかろうと、心の内にはくつろげ得る場の在ることを、この人は識っている。生活の芯のところに毅然
とした個性を樹立していて、それがこの人の文字通りの「本」になっている。「本」を芯に抱いた人は多くはない。
文学は「音楽」の一種であると大学の教室でもよく話した。「文学」と表記せず「文楽」にしておいてくれたらよかったのにと、わたしは今でもときどき考え
る。
しっかりと彫り込んだ言葉で書けることと、それに思いを載せられることとが、ふたつとも出来るのも、難しい。このメールが、自分で自分に向けられた手紙
とも読めるのは、数年前の教室での「挨拶」習慣がまだ生きているのだろうか。矢のように「人」の飛んでくる懐かしいメールであった。
* 「立川流」にふれて理趣経に及んだ読者のメールも受け取った。空海は、「自然界にある全ては欲情を持ってお
り、全ての動物も植物も、ありとしあ
らゆるものの、妙適の感覚は同じであり、その意味で菩薩に通じるとしたのである」こと、「そこに空海の偉大さがあり、自由人としての面目躍如たるものがあ
る」こと、「然し、空海に於いては、こうした欲情を超越して、或いは止揚する事が即身成仏の条件と考えたのではないだろうか。歳とともに、この事が理解で
きる気がする」こと、を述べた或る善知識のことばを、伝え報せてもらった。立川流一派については「平安後期に、男女の性的な結合が即身成仏の秘術であると
唱え広まったこともあった。勿論、のち邪教として取り締まりを受けたことは言うまでもない」とのみ、添えられていた。
その通りであるが、それが俗情的には分かりやすくもあったか、爆発的に立川流は広まり、また長く「邪教」のそしりを受けながらくすぶった。公家社会に意
外なほど浸透していたと受け取れるところが意味ありげで、古典愛読の際に無視しがたい。
* 四月二十五日 火
* 何と言うこともなくペンクラブの総会等を終えた。石原都知事の「三国人」発言に対し理事会に会場質問が出てい
た。歯切れの悪い答弁であった、当
面問題にはしない、会員個々において意志表示されていいこと、と。もし彼が都知事として「核」に対し戦略的是認論をぶち挙げたとしても、同じ理由から問題
にしないか。問題にせざるをえないだろう。「核」にくらべて「三国人」差別はたいしたことではないのか。石原氏が釈明し、もう言わないと言ったから大目に
見るということか。会員の問題提起に対して不徹底のそしりは免れまいと思う。「この男乱暴につき」と題し寄稿したわたしの意見を新聞は、題をことわりなく
替えて掲載していた。予想通りだったから、こっちも黙殺した。
問題は、だが、知事の「三国人」呼ばわりと別に、もう一つあるとわたしは書いている。都知事の発言の本音は、不法な密入国者たちの悪質犯罪をどうするか
であり、不法な密入国を斡旋し実行するマフィア的な中国犯罪組織をどうするのか、である。同じ憂慮をもっている人は、わたしだけではない。大多数の日本国
民が「蛇頭」などの暗躍を怒り憂えている。あの都知事は乱暴さに訴えてモノを言う癖があり、それには用心が必要だけれど、発言の趣旨をただの打ち上げ花火
だけで終わらせていいモノか、問題をすり替える気はない、二つともそれぞれにしっかりフォローすべきではないか。小中専務理事の弁明にちかい会場答弁も、
同じく梅原会長のそれも、欺瞞とは言わないが、もう一つの問題に全く触れもせず思いも及ばないでいるらしいのが、甚だいいかげんで見識を疑う。
* では、わたしは一理事ないし一会員として、会場で、また理事会で、そう発言したか。しなかった。臆したのでは ない、バカらしかったのである。い たって不真面目なはなしであるが、ばからしい、よせよせという内心の声にわたしは随った。そのかわりに禁じられた酒を懇親会で少なからず飲み過ぎてしまっ たようだ、何も他に食べないで。
* もののはずみで、三好徹氏と向き合い、井上靖の思い出話を一つ聴いた。怒らない井上さんの一度だけ怒られた話
である。いい話だった。前にも井上
さんと大岡昇平さんとの一度きりの電話の秘話を、その場にたまたま居合わせた三好さんの口から聴けて、嬉しかったことがある。わたしが、バカらしいという
のは、こういう話とくらべればの意味になるだろう。
井上さんの思い出など、都知事発言のはらんだ問題やそれに応じてのペン会長や専務役員の発言にくらべれば、問題にならず思い出話の方が小さく軽い。しか
も、それにはハートが感じられ、前者には泥のような情けなさしか感じられない。なにかしら、そこにウソくさいもの、要するにただ如才ない軽い言葉があるだ
けだ。いやだ。
* しばらくぶりに息子の関係したテレビドラマを、帰宅して見た。「ショカツ」とかいう刑事警察モノ。そつなく 創ってあったが、警察の、アタマから 腐って行く現実への、これまた「如才ない」妥協で話がやや尻切れトンボになり、後味がぬるかった。脚本は二人名でタイトルが出ていた。聴けば息子はあらす じを提供しただけで、科白は一行も書かず、仕事はもう一人に譲ったという。議論の結果そういうことになったらしく、そういうケースはまま有るだろう、あの 世間では。どっちにしろ、職人的には腕を上げている気もする、が、仕上がった今度の作にも、やはり「ハート」は感じられない。如才ないだけのそういう仕事 は、一生懸命やっているのだと思うし励ましたいけれど、つまりは「バカバカしい」気分にさせる。次作に期待したい。
* 吉川弘文館という歴史専門書の版元が「本郷」というPR誌をだしていて、最新号に佐々惇行とかいう人が「沖縄
の二人の護民官」を書いている。電
車の中で思わずくくっとむせびそうなほど感動した。あの戦時最後の県知事が県民を守ろうとしての奮励努力の結果の戦死、また最後の海軍陸戦隊長だった人の
自決。佐々氏のおしまいの辺の手前味噌がすこし臭かったけれど、こういう、本土では忘れられた人物について書いて貰えたことは嬉しい。こういう小雑誌に
は、読みやすい佳い記事が惜しげなく載っている。
* 四月二十六日 水
* 「ミマン」の「センスdeポエム」の以下の出題に、解答がたくさん届いた。原作どおりの漢字一字を読み当てた
人は、歌も句も、解答例の中ではい
ちばん多かった。のに、両方とも原作通りという人が、僅か三人、という結果にも驚いた。
A 作りては洗ふ厨の繰り返しそれに足りゐき( )の在りし日は
B 豆( )の豆より( ) の美しき
次回の題は下記の通り。漢字一字を虫食いの箇所に入れて表現を完成させて欲しい。作者の名は雑誌で鑑賞の際に明かす。
A 目を見つつ話せといふか、いまはむかし( )を見つつ話あひけり
B 洗ひ( )すとんと夜の奈落あり
* 「ミマン」の原稿を急がれたので、日中文化交流協会の中国文学使節団歓迎パーティーに招かれていたのを失礼し
た。原稿を送っておいて、小雨の中
を本郷三丁目駅のそばの名曲喫茶「麦」まで出向いた。春秋社の小関直さんと、三十年ぶりぐらいに逢った。いつも湖の本を送っているから、さほどは離れてい
た感じが双方になく、それにしても懐かしかった。喫茶店も、勤務の合間にもぐりこんでは必死に小説を書いていた頃のまま、あまり変わりなく、それも懐かし
かったが、辺りを見回してみると、ずいぶんと似たタイプの客が多く、思わず微笑んだ。
クラシックの曲がいつも流れている。聴いている人もあり、静かに静かに話して久闊を叙した。そして、新しい企画について話し合い、またお互いの近況も話
し合い、どっちみちわたしは飲み食いのならない身なので、コーヒー一杯と宿題だけを貰って、あっさり別れてきた。
小関さんが山折哲雄氏のあと雑誌「春秋」を編集していた頃に、まだ四畳半の茶室のあった我が家にみえ、炉のそばで話し合ったことがある。古い昔の懐かし
い編集者たちと、また、いろんな仕事ができればいいのだが。ともあれ、宿題を思案して新しい企画を稔らせたい。
* 医学書院に立ち寄り、西川統君に会って、湖の本への送金を謝してきた。かつて一年先輩の彼が、現在会社の何役 かは知らない、専務か副社長ぐらい をやっているのだろうか、在籍していた頃も殆ど無縁の総務系の人物だった。べつに他に会って行きたい人もなく、一言だけ礼をいい辞してきた。受付辺で懐か しそうに声を掛けてくれた女性の名が思い出せなかったが、顔はよく覚えていた。わたしのいた時分はまだ少女だった人のような気がする。我が人生の歩みには 大事な寄与をしてくれた会社だが、所詮はやめるためにいた会社だった。やめて、ほんとによかった会社だった。だから深く感謝している、あまり懐かしみはし ないが。
* 糖尿病についてのNHKテレビ解説番組をみた。いい時機に治療の態勢に入ってよかったと思った。幸い眼に異常
は出ていない、そんなときにインス
リン注射は面倒であっても、将来への余分な不安を防御できるのだから、理性的に判断して幸運であったとすべきだろう。昨日のペンの懇親会で飲んだワインの
影響はその夜の血糖値に顕著に跳ね返ったが、さいわい今朝になって、いつものレベルにきちんと下がっていてくれ、ほっとした。飲まねばならない場所、飲ま
せられる機会は、つとめて避けた方がいい。そう思い今日のパーティーも失礼した。明日は世田谷文学館での「井上靖展」のオープニングレセプションだが、
迷っている。飲まない食べないための説明などが、邪魔くさいのである。わるく付き合ってしまうと折角の苦労がフイになる。
今の楽しみは、今日貰ってきた宿題にとりかかることと、今日配本された『今昔物語』を読み継ぐこと、である。
* テレビで、『七歳の捕虜』という本を何十年か前に書いていた、わたしと同年の光俊明氏のことを、手ぎわよく紹
介していて感銘をうけた。肉親を見
失って中国の兵隊たちに育てられ兵とともに転戦していた七歳の少年が、日本軍の猛攻にあい「捕虜」となり、今度は日本の兵隊たちに可愛がられて育つうち、
さらに「親」ともなってくれた軍医さんの愛育に委ねられて、兵たちともろとも八千キロの大陸を右往左往のあげく、またしても米英軍の「捕虜」となり、しか
し敗戦後に、米英軍司令官のあたたかいはからいで、軍医さんと共に日本にわたり、熊本で就学し進学し職に就き結婚して、佳い家庭を作ってきた。波瀾の、し
かも心温まるその光さんの人生が、養父一家の健康な家庭のさまと共に巧みに再現されていた。
こういう話に、胸がとどろく。国会で飛び交うような空疎で誠実さの欠けた、「正論」がって嘘の多い日本語になど、まともに向き合うのも恥ずかしい。
* 四月二十七日 木
* スペンサー・トレーシーの「花嫁の父」を観た。世界一の美女エリザベス・テーラーが初々しい花嫁役で、母親役 のジューン・ベネットがまた適役、 ところどころで、はっとするほど美しい。わたしの女友達にちょっとこの母親に似た人がいた。何といっても父親役の、ごっついスペンサー・トレーシーが佳 い、堪らない。日本の小津安二郎監督の戦後の映画作品の味に、この昭和二十五年のアメリカ映画のオリジナリティーが、必ずや寄与していただろうと感じた。 いわゆる花嫁の父としてわたしは苦い失敗を演じてきたので、この映画、観ていて幾らか辛くもあったが、文句なく素晴らしい作品で、心を洗われた。
* きのう妻が、わたしのために「黄色いロールスロイス」を録画して置いてくれたのが、オムニバスで、イングリッ
ト・バーグマン、シャリー・マク
レーンそしてジャンヌ・モロー。繪が美しく、なによりも好きな映画女優の五本の指に必ず数えるバーグマンとシャリー・マクレーンである、妻はそれと知って
いて気を利かせてくれた。感謝。
バーグマンは「ジャンヌ・ダルク」「ガス燈」そして極め付きの「カサブランカ」よりは老けていたが、面白く、魅せ、た。抜群に愛らしく美しく女の表情の
みごとな千変万化を楽しませてくれたのは、シャリー・マクレーンで、こんなに巧い可愛い美しい大人の女と組んでは、それこそバーグマンのような、シャン
ヌ・モローのような大女優でなければ太刀打ちがならない。「黄色いロールスロイス」の黄色が実に利いていた、スクリーンの中で。ロールスロイスを見ている
だけでどきどきした。
* 雑誌連載のために無数に歌誌・句誌を、歌集・句集を読みあさっているが、岩田正の『郷心』を読み直して、短歌 作品より、あとがきの文章に感心し た。あとがきまで読み直したのではなく、初読時にあちこちに線が引いてあるのを見直して、再び同じ所に頷いたのである。で、書きだしてみようと思ったとこ ろへ、ファックスがきた。見ると階下からで、「お風呂の用意が出来ています」と。中断。
* 岩田さんの短歌は闊達に見えてかなり屈折した陰翳をためていて、極めて職業的に練達した凄みある幇間の藝にち
かい。面白く刺激的に読めて、自然
発生の雑な口三味線とみえながら巧みに巧んだ趣向の過ぎたものでもある。感動は薄く刺激は濃い。短歌新聞社の石黒清介老の短歌をわたしはあの慈円なみに自
然に巧いと思うのと、岩田さんの巧さとは、素質が別である。したり顔の身についたあの兼好法師の練達に、岩田さんの短歌処世は似ている。むろんこれは大い
に褒めているのである。
その上で歌集の「あとがきにかえて」を見ると、これは極めてまともな、直球である。感じ入る。ちょっと引かせてもらう。ちなみに歌集『郷心』は1992
年秋の刊で、今頃古証文を引っぱり出されては、岩田さん、苦い顔をされるかも知れないが。
* 歌人論と状況論に力を入れていた氏は、後者がいやになったという。「歌壇状況たる、実は得体の知れないある雰
囲気や風潮にのっかって、合言葉の
ような口調で、ボールを投げあうように書き交わしたり、書いたりしても、なんの意味もない。つまりみのりがない。」同感だった。そういうことばかり達者
に、歌壇のオピニオンリーダーのようにときめく評論家がいるなあとわたしも、あの頃から眺めていた。
「私を含めて、多くの状況論は、古典への、いやほんのすこしの前の作品への無知に由来する。周囲の状況、自分のいる状況がまず絶対の優先権を主張してい
る。極端に言えば、自分が知らないことは、まずもってこの世にないかのような独断を、独断とせず、あたかも普遍の真理のごとく装って主張する。」「ひとの
作品を楯とし煙幕として自分の存在を証ししている。」
そして肝腎の作品はひどいのだ。
「なんだこんな程度で歌壇で、賑かに動きまわっているのかと少々癪にもさわる。そして多くは実際、歌の実力で歌壇的というか、歌の世界での名声を博してい
る場合はすくない。」 その通りだ。
「多くの論や批評は、歌を見ないで風潮をみている。だから明日にでも消えるような歌を、その風潮を論ずるゆえにひきあいに出す。自分がそういう風潮に足を
とられているから、歌の巧拙・真贋がわからない。」「歌の世界では、状況なぞをうまく創ってゆくような歌人を、常にたのみとする空気があり、私はそれを歓
迎しない。」
全く同感で、今でも実状は変わっていない。「むりの目立つのは駄目である。表現と作者の思い(考え・感情・指向など)とのずれのある時である。なにかを
狙っているが、心の底から作者が感動したものでないのに、それを表現だけでやってゆこうとする。」
歌壇の人間でないわたしから見れば、おおかたの現代短歌がそうでありげに見えていて、じつは岩田さんの作品でも、夫人である馬場あき子の歌でも、かなり
そうであるのを免れてなどいない。
「自分が本気で感動してなくて、なんで読者が感動することがあろう。」
感動とは芸術の場合は把握の強さで表れる。把握の弱い、想像力の隅々にまでビシッと透っていない表現など、表現の名には値しない。「絶対に守らねばなら
ない」のは「とてもくやしいときでも、いい歌はいいとして是認することだろう。」
全くその通りである。岩田正のこんなまともな声が短歌界にきちんと届いていたのなら、もう少しいい歌が多くて、わたしの「ミマン」の撰歌と出題ももっと
しやすいのだが。
* 四月二十八日 金
* 血糖値が、昨夜十時に226と予想以上に高く、そんなはずのない食事をしていたつもりなので驚いた。定例の就 寝前に測ると99と、べらぼうに低 くなっていた。理想の値より低かった。今朝は103。普通は例外なく前夜より低いものだが。ま、誤差の範囲内かやや高くなっていたが、これは理想値でも低 い方だ。むずかしいものである。
* 小雨にも遮られ、結局、レセプションにも行かず水泳にも行かず、先月末に新就職の元院生君二人が手土産に呉れたお酒を、一合弱、おそい昼食時に楽しんだ。 ウーン、美味かった。京都から筍の佳いのが贈られてくる。卒寿過ぎた自称弟子の刀自から、春若布を沢山戴いていたので、筍にじつに相性のいい煮物が出来 る。大好きで、飯は遠慮して酒と筍の一食、よきかな。
* 朝日新聞社から従来の朝日賞受賞者たちや各界人との記念の集いに招いてきた。豪華な会になるのだろう。筑摩書 房と三鷹市とが復活第二回太宰賞の 授賞式とパーティーに招いてきた。ま、元の古巣の会であり、お目出度い。
* 意外であり心ゆかぬ思いをしたのは、京都から、「ほんやら洞」の甲斐扶佐義氏ともう一人の連名出版記念会の案 内のあったことで、こんなふうに言 うのは悪いかも知れないが、「ちがふのとちがふやろか」という感想をもった。よっぽど出版記念会というのはいいものなのか、しかし甲斐さんには似合わない ものと思っていた。「ロイヤル」ホテルで町の活動家が会費一万円もの会とは、なにか奇態にツロクしない。「ほんやら洞」で内輪で遣ればいいのではないかと 思う。ペンの懇親会場で、甲斐氏のことを「ちょっとチャランポランだけどね」と小中陽太郎氏の言うのを聴いていた。小中氏も相当なチャランポランだが、出 版記念会の麗々しい案内を受け取って、小中説にふっと傾いた。兄がいたらどう言っただろう。「ほんやら洞通信」が、ふと、ウトマシクなった。
* 秦建日子が、殺人ものでも刑事物でもない、まともな家庭ものの二時間ドラマを引き受けて、もうそろそろ撮影に
入り、七月には放映と報せてきた。
噂に少し出ていたもので、話の元ネタはあるのだが、それに拘泥しないで書いたという。殺しでないドラマと聴けば、それだけでも、ウンよかつたじゃないかと
思う。
* 四月二十九日 土 緑の日
* みどりのシャワ-です。
「松林図屏風」を観られただけで、切符売り場での三十分の行列の辛さが吹き飛びました。
混雑した人の波が、不思議にこの屏風の前ではまばらになって、遠く近く、思いのままの距離から心ゆくまで眺めることができたのでした。
平家納経の華麗さにも息を呑みましたが,静かに深く、しみじみと心に染み入るこの絵に、やはり私は強く惹かれるのです。
絵ではもうひとつ、雪舟の「破墨山水図」に足をとめられました。
以前から、なんとなく雪舟の強靭さには一歩退いてしまうようなところがあったのですが、去りゆく弟子に与えたと説明にあるこの絵の、なんとまあ美しい墨
色だこと・・・・。吸い込まれそうな色でした。
仏像は、こういう場所では、少しも美しくみえないのですね。仏さまたちもなんだか居心地悪そうで,眼を伏せて通りすぎてまいりました。
焼き物も書も、もう少し人の波がひいたらと待つうちに,時間ばかりが駆け足で過ぎてゆき、後ろ髪を引かれる思いで会場をあとにしたのでしたが、あの松林
図一点だけで、充分満たされたひとときでございました。金地院の猿公図とともに、等伯一等と私に思わせたあの屏風絵をようやくこの眼にすることができたの
ですから。
広い公園のあちこちに立つ高い木々の梢が、風に大きく揺れ、八重桜の花びらがしきりに散っておりました。そうして一面まぶしいみどりでした。
短い、けれど忘れられない半日になりました。久しぶりの上京の御報告でございます。
* 日帰りで東京に出てくる読者の、今日のメールである。「みどりのシャワー」という題が爽やかに心地よい。この 人の繪の好み、正確にわたしのそれ と重なっている。だからこの心親しい人の嬉しさや満たされが、自分のことのように響いてくる。心裕かに日々を生きている詩心に、わたしも嬉しくなる。
* わたしと妻とは、今日は日本橋高島屋に、青木敏郎を中心にした六人の「想の会」を観にでかけた。最も今注目し
ている個性であり、超絶技巧のした
たかな描写力を確かめ、また楽しみに行った。期待は叶えられ、青木はわずか数点ながら静物も風景も力作を並べ、最新作の静物は、私も妻もあわや買おうかと
決心しかけたほど魅力的な仕上がりだった。辛うじて踏みとどまったのは、三百六十万円だったからではない。わたしは、ひょっとして倍近い価格をすら考えて
いたぐらいだから。
ただ、妻も言い、わたしも拘ったのは、繪の中心になる花の描かれように今ひとつの固さが感じられたことと、もっと本質的には、この絵には案外飽きが来る
かも知れないと怖れたからだ。完璧に近い描写だが、繪に置ける完璧とは何ほどのもので在りうるか。展覧会の鑑賞者としては十二分に満足しながら、所有する
には深い部分で躊躇われる何か、そう、ハートに響くものと言おうか、ファシネーションと言おうか、真実したたり落ちる嬉しいうまみ、心を洗いつづけて尽き
ないうまみ、が無かった。青木敏郎という天才的な画家のそこが問題になっている、私の中で。私の小説の中でも。
* 画廊の主任が、同じ店内での足立美術館名品展の入場券を二枚呉れたので、八階に上がった。山陰の名高い美術館 で、横山大観をたくさんもっている が、大観だけでなく凄いばかりに近代の優れた画家の名作傑作を取りそろえている。妻もわたしも思いがけない余録に大喜びした。橋本関雪の「唐犬図屏風」一 双の芸術的に丈高い品位に敬礼した。竹内栖鳳「宿鴨宿烏図」の、吸い込まれそうな破墨と省筆の美しい水辺心象。榊原紫峰が國画創作協会発足の年に描いた、 「青梅図」一双の、高雅で新鮮な把握と表現。村上華岳の「樹下禅那」如来の深々と温かい精神性。土田麦僊「黄蜀葵」の清冽な色彩。上村松園の悠々の気品と 優美さ溢れる「待月」、そして山元春挙の思い切った大作もあった。ことに栖鳳と関雪との上の二作には、夫婦して息をのまれ感嘆した。ちょっと繪の前から動 けなかった。関東の画会・画系の作品に、いまひとつ「ほんもの」の深みが乏しかったと言ったら叱られるかな。
* デパートの中で、和食で、おそい午食を済ませた。品と数とをよくみて、これなら範囲内で大丈夫と見極めると、
たいていその店のいちばん安価なメ
ニューになる。銚子を一本つけて、美味いと思いつつ嘗めるようにみな食べ尽くして、二人で三千円あまりで済んだ。これまでなら、考えられないほどしまつな
食べ方だが、それで足りていて美味いのだから有り難い。これまでの食べ方が間違っていた。
食事しながら、いま観てきた油絵と日本画とを話題に二人でたくさん話しあい、やはり青木の繪に最期まで誘惑されずに済ませたのは正解だったと結論した。
真に佳い繪には、技術の完璧の上に、言うに言われぬ瞬間風速のすばらしい突出が感じられる。それは、優しくもあり温かくもあり深くもあり豊かでもあるが、
一言で言えば、行き止まりのない佳い匂いのようなファシネーションだ。ハートだ。青木敏郎の繪にそれが出てくるか、楽しみにしたい。
* 有楽町の交通会館での、毎度の丸善売り出しに立ち寄り、靴を二足、セーターやシャツなどを買ってきた。わたし
のものばかりで、今日は妻のはうま
く見付からなかった。ちょっと珍しいチーズを買った。有楽町から保谷まで地下鉄で寝て帰り、保谷駅で、ちょっと行儀わるく帰りの歩き道でパクつくパンを買
い、途中でやきとりの串を十本ほど買って帰った。
昨日また新たに京都から届いた筍を、若布で煮て、やきとりで、夕食。夕焼けに薄澄んで、さらりと気持ちの佳い保谷の空模様だった。
* 四月三十日 日
* 久しぶりに、自転車で春の保谷から関町の方まで、ぐるぐると走り回ってきた。新青梅街道の、たしか石神井八丁 目から少しの所に「サン・マルク」 というパんとフランス料理の店がある。隣りに比較的大きい書店もある。コンピュータの参考書を三冊も買い、ついでに少しパンも買って、また走り回ってから 帰った。自転車はたいした運動と病院は認めてくれないが、ほどよく足腰もほぐれ、佳い気分だった。
* 夜、クリント・イーストウッド製作・監督・主演の「目撃」を観た。かっちりとした脚本で、なかなか見せた方で
はないか。「花嫁の父」のような完
成された芸術品ではないが、しっかりした娯楽作品の一つに挙げていい。
これにくらべるとジェームス三木が作者の大河ドラマ「葵」は、年譜の上を滑り台のように滑っているだけの、人間ならぬ、人事ドラマで、此の調子で暮れま
で遣るのかと愛想が尽きてきた。