ホームページ書き下ろし 一九九九年七月二十二日ー十二月二日
江藤淳の死と 実兄北澤恒彦の死との間を、
宗遠日乗
「三」
* 一九九九年(平成十一年)七月二十二日 木
* 江藤淳氏自殺の報で夜が明けた。まさかという思いを波洗うように、そうだったか、やはりそうだったかという思
いが覆っていった。ひとごとでは、
とても、ない気がした。否認したいよりも肯定している気持ちに、わたしはわたし自身に抵抗しなければならなかった。『死なれて・死なせて』が関わってし
まったろうかと案じながら悲しかった。
七月八日だった、江藤氏の新著『妻と私』が「著者謹呈」されて届いたのは。本が出るまでの経緯は、世の事情にうといわたしにも、あらまし分かっていた。
本は私の妻がまず熱心に、泣きながら読んでいた。わたしは読めないと、とてもよう読めないと、分かっていた。妻が話し話し読むのを聴くのもつらかった。
あらためて哀悼の意と、わたしなりの励ましの気持ちを表すには、もう、なみの言葉では役に立たず、ひょっとして「二度送り」かも知れないが、そうでもあ
るまいし、そうであってもいいと思い返して、自著の、『死なれて・死なせて』を贈り返した。それ以上のことを思いつけないと詫びながら、即日、謝意を添え
てお送りした。
いちまつ、案じ思うものが無かったのではない。読まれれば分かる、「死なれた」人をこころから慰め励ます本ではあるものの、題は、ストレート過ぎるきら
いはあった。ただ、こうは考えていた。頂戴した本は、まさに氏の「モゥンニング・ワーク 悲哀の仕事」だったし、その成ったということは、わたしにまで頂
戴するということは、江藤氏に悲しみをようやく乗り越えてゆける時機が来たのかという、やや明るい展望を持たせてくれたのである。文藝家協会の仕事をきれ
いに退かれたのにも敬意を感じていたし、健康を回復しながら氏は氏の「レイタースタイル」を創造されて行くであろうと期待した。本気で期待した。
よくは分からないが、氏自身の健康によせた先行きの自覚はかなり暗いものであったらしい。そして、もう、この辺からはいたずらな推測に流れることを厳に
慎みたいと思う。
* 江藤氏からは、この昨今に、つづけて西郷南洲関係の著書を贈られている。江藤氏からわたしへの、それは、珍しい心流れであり、じつはわたしたちは微妙
な縁に結ばれていながら、面と向かって言葉をかわしたことが無かったのである。かすかにかすかな、只一度だけ、東条会館だったかの廊下で会釈と挨拶があっ
たきり、文通もなかった。本をいただけばわたしはきちんと礼を言う。それはわれわれの世間では、文通とは呼んでいないだろう。西郷サンの本が届いたとき
も、果たして江藤さんが送って下さったのか、そういう体で文藝春秋の方から読めよと送ってきてくれたのか、最初はふと思いまどった。出版の要処にいて江藤
さんと接している人は、わたしも心ゆるした特に親しい友人であったから。しかし、そんなことは有りうべき話でなく、むろん江藤氏の意思により頂戴したに相
違なかった。心からの礼状を書いた。
* 江藤氏とわたしとは、ものの考え方などでかなりの隔たりがあり、表だって論争したことも衝突したこともなかっ
たが、例えば氏が主軸になり、文藝
家協会で「名著百選」して読書人にアピールの企画を実現しようとしていたとき、わたしは「中央公論」に、そういう企画のよけいなお世話であることを強く発
言したことがある。文藝家協会は一出版社や一新聞社とは性格が違う。「読書」「選書」の本質的な「自由」は読者の手にあり、文藝家協会が書物の価値や権威
を制定する形で「読者をリード」するのは、けっして良い姿勢ではない、と言った。当時の協会理事長だった野口冨士男氏は、わたしの抗議の直後に突如として
辞任された。
べつだん、わたしの発言からものごとが騒がしくなったとも聞いていないし、野口理事長の辞任に影響していたなどと聞いたこともない。江藤さんに秦が突き
当たったぐらいの記憶が、かすかに人中にのこっただろう程度で、すべては過ぎていった。
* それから何年もして、突如、わたしに、東京工業大学「文学」教授として就任せよという誘いが来た。国立であ
る。息子に聞くと「名門」だそうで
あった。わたしは余りお国に従順な方ではなくビックリしたけれど、結果として受けたのであり、もう定年退官して三年半に近いから、多くの人がこれは知って
いる。わたしに用意されたその席は、まさしく江藤淳氏の直接の「後任」という地位であった。わたしが知らなかっただけで、人は多くそれを知っていて、よほ
ど奇異に感じたらしく、「江藤さんの推薦ですか」とわたしに尋ねた人数は、数え切れないほどであった。
わたし自身は、そういうことには、興味がない。「知りません」としか答えられなかったし、現に、何故にわたしに白羽の矢が立ったのか、そんなことを詮索
する気は一度も起きずに、詳しいことは今もなにも知らない。在籍しての学内経験から察しても、退官した前任教授が「後任人事」に口を入れたりする余地は、
まず無いものだという程度の感触はあるが、すべて、さだかではない。よほど「善意のいたずら」が働いたのであろうと思って、来たものをただ受け取り、そし
てまた誰にともなく手渡して去ってきたのである。
そんなわけで、江藤氏はもう慶応義塾大学に移っておられたし、対面の機会はなかった。「後任」としてわざわざ挨拶をするなんてことは考えられもしなかっ
たまま、ついに一度もそのことで接触したことは無かった。
ま、それらしいことが一度有ったとしたら、何であったか江藤氏の叙勲かなにかの大きな祝賀会の案内状が東工大の各先生にも届いて、驥尾に付してわたしも
出席し、やや離れたところから「黙礼」したのが、わたしなりに祝意表明の「儀式」を終えた実感であった。奥さんもおいでで、並んでおられたと思う。わたし
の目礼に返された江藤氏の一礼は、じつに和やかに紳士的なもので、わたしは敬意を覚えた。言葉はかわさなかった。先方が、この男は誰と分かっておられたか
どうかも判然としない程度の通過礼であった。
* その後に、文藝家協会のなにかのシンポジウムの会場で、初めてかすかに挨拶した。江藤氏はわたしから提出して
置いた協会アンケートへの「意見」
陳述に対して謝辞を述べられ、わたしは恐縮しもぐもぐ言って早々に失礼した。温和な応接であった。
もう一度は文字コードに関わるシンポジウムにパネラーとして出席したとき、理事長として挨拶された。わたしは、実は余儀ないことで遅刻してしまったこと
もあり、黙礼程度で、言葉を交わす機会は無かった。
* 著書を謹呈する先は、私の場合、百人ていどあるが、江藤淳の名前は入れていないことが多かったろう。漱石の 『こころ』論や潤一郎作品の「読み」 などが例外であったろうか。それさえも分からない。歴史観や思想において、「ちがう人」という気持ちは失せていなかった。西郷サンの本などでも、文藝の著 作としては、きちっとした格の高いものという好感をいつも持ったが、皇室論などの思想にはついて行けなかった。そして私にそういうご本を下さる江藤さんの お気持ちのふと読みかねることも、無かったというとうそになる。
* 『妻と私』を書かれたのは、それを書く以外にどうしようもなかったのだと、衷心からお気の毒に思う。そして自
殺された、そのことを、とかく言う
気になれない。この長いワケ分からないわたしの文章は、これはこれなりに私の「モゥンニング・ワーク」であるとしか言いようがない。
『死なれて・死なせて』が、最期を決意した江藤さんの目に入っていたかどうか、知らない。私の妻の父は、母を喪った半年後に自殺した。そんなことも書かれ
てある本なので気にはなるが、いまは江藤ご夫妻のご冥福を心より祈るのみである。
午前。
* 同世代の人に「死なれる」のは、ほんとうに悲しい。江藤氏のことが、ずんずんと心に沈み、ひろがり、わたしは、朝からずうっと涙ぐんでいる。昔の唱歌
集をレコードで聴くとなく聴いていて、はっと気がつくと、「月の砂漠」を川田正子が唄っていた。江藤淳と「月の砂漠」に縁が有るとも思わないが、我々は三
人ともそうは実は年も違っていない。同じ曲を彼も少年の昔に聴いていたであろう。多くの物事を、体験を、共有してきた人が遠くへ去っていったのだと思う
と、とめどもなく涙が流れて困った。こういうことは思いも寄らぬことだった。
彼は漱石論で起った人だと聞いているが、読んだことは実はないのである。しかし、漱石の中で愛読したのは『心』だと語っているのを知り、うんうんと頷い
たのを覚えている。東工大の我々の「紀要」創刊の最初に江藤さんの書いていた、『心』に関する論文は、わたしの『心』論にも有難く参照させて貰った。わた
しを「静」の一字に執着させる一つの拠点がその論文には示唆されていた。
生前にどうとかしたかったというような思いは全くないけれど、どこかに、江藤さんの死を羨む気持ちだけは隠しようがない。 夜
* 建日子が、九月末から十月初めに、しばらくぶりに「作・演出」の芝居をやると言ってきた。八月末ごろに、テレ ビの二時間ドラマもきまったらし い。テレビは、所詮はテレビ。芝居には期待をかけている。今年はまだですかと、何人にも聞かれている。
* この二十七日は朝日子の誕生日だ、三十九になる。女の三十台はほんとうの花であるのに、どんな花に咲いている
のかを、ついに殆ど観てやれないで
いる。元気でいてくれるように。
* 今日で娘は、朝日子は、三十九歳になる。指折り数えれば、まことに、そのとおりである。朝食に赤飯が炊いて
あった。黙々と食べた。
昭和六十二年正月 一歳半の朝日子と妻
撮影父
* 「自筆年譜」で三十九年前を読み返してみた。妻に出血性素因があり、出産は困難と診断されていたのを、東邦医 大内科の森田久男教授万全のカバー で出産にこぎ着けた。あの一年、さながらドラマであった。娘も妻も、むろん息子も、健康にと祈っている。
* 『志賀直哉全集』の創作十巻中の第一・二巻を読んだだけの話であるが、おかしいことに気がついた。まともに「小説」 として読めるモノは、一巻にせいぜ い二、三作しかない。それらは、おおかた、これまでのいわゆる日本文学全集の志賀直哉巻に入っている。「小説の神様」といわれた人だが、これは作品『小僧 の神様』からの口移しに過ぎず、もっとも小説らしくない作品の多い志賀直哉にこの尊称は似合わないと思っていたが、はっきり言って、これぐらい「小説」の 下手だった作家は少ないのではないかと、目下は二巻めの『大津順吉』あたりを読んでいて、思う。『母の死と新しい母』『網走まで』『或る朝』などは、また 『クローディヤスの日記』などは優れているが、他は、正直のところ駄作ぞろいで、よくこれで通用したなと思ってしまう。同人雑誌の「白樺」だから通用した のであり、商業雑誌には殆ど出さなかった。『大津順吉』が初めて原稿料を取った作品であったと聞いている。 数ある中には駄作もあって普通だろう、が、作品として魅力に光っている「小説」が少なすぎる。谷崎潤一郎の大正
期も駄作は多いが、それでもわたし
は活字に唇をそえて味わうほど惹かれた。駄作なりに面白く引きつける魅力があった。志賀直哉初期にはそういうサービスはまったくない。ひとりよがりが余り
に多い。刻み込むような硬玉のような文章に魅力が在ればこそ読んでいるけれど、ドナルド・キーンが「作文」「綴り方」にすぎないとかつて酷評していた意味
が、『全集』で接して、よく分かる。この人は「選集」で読めば足り、その方がいかにも優れた文学者の真価をつかみやすい。
敬意をいささかも薄めたわけではない。全部読んで行く気だが、いまのところ、目下のところ、実感は、なんとへたな作家なのだろうという驚き。もっとも、
この後に秀作の増えてくることは知っている。
* 尾高修也氏から谷崎論が贈られてきた。少年期から大正期の谷崎を扱っているようだ。
十四年前に、谷崎生誕百年にさいして、雑誌「学鐙」に三回連載で「谷崎潤一郎論の論」を書いた。これからの谷崎論に何を期待するかを書いたのだが、それ
は、谷崎の大正時代の検討がなにより大切であるという趣旨に尽きていた。昭和初年の谷崎には私が集中して手をつけた。大正期は『痴人の愛』『アヴェ・マリ
ア』などの他、秀作傑作には乏しいのだが、そのかわり映画があり戯曲があり推理小説があって、谷崎の根の関心が露出しているし、私生活にも個性的な波乱が
ある。その周到な解析は、のちの大谷崎の理解へ繋ぐ意味でも不可欠なのだが、あまり集中しては扱われてこなかった。今一番それが必要だと十四年前に強調し
て置いた。尾高氏の仕事がどの程度期待に応えてくれているか。
* 七月二十八日 水
* ユイスマンスの『大伽藍』をとうどう読み通した。こんな本を他に思い浮かべることが出来ない。実在のシャルト ル大聖堂を、徹頭徹尾「解釈」して いる。カソリックの象徴主義を徹底して解説している。それがそのまま高らかなマリア讃歌になっている。小説ではない、まさしくエッセイである。エッセイふ うの論文でもある。マニアックでもある。有名な実在の聖堂であるから、わたしでも、機会があれば訪れることが出来る。訪れてみたい。それからまた読み返せ ば、たぶん貴重な思想書として、別の顔で迫ってきそうな一種の奇書である。よく読み通したなと我ながら思うが、退屈したわけではない。
* バグワンの『道 タオ』上下巻を読了し、『ボーディダルマ』に入った。あの達磨さんである。新しい世界に誘い 込まれて行く。
* 暑さに、出不精がひどくなる。千葉の甲斐荘楠音展にと思うが、はるばる観に行って心涼しくなる繪ではない。池
袋に「小野竹喬展」の来ているのを
観に行きたい。竹喬なら涼しい風が吹いている。
* 七月二十九日 木
* 辻邦生氏の逝去を、読書さなかに聞いた。妻が報せに来た。能楽堂で、やや離れて珍しく辻さんを見かけたとき、 あまりの衰えように愕然とした。こ わいほどであった。ご挨拶に近寄ることもためらわれた。そういうことは、寿司の「きよ田」で聞き知っていた。「きよ田」へ初めて連れてくれたのは辻さん だった。この店の主人は、一度来た客のことはぜったいに見忘れないのですよと辻さんが言っていたとおりの「きよ田」であった。行くつどわれわれは辻さんの 噂をして、お元気であるように祈ったものだ。お元気な間に、もう一度お目にかかっておきたい気持ちが、ずっとあった。だがお宅まで押し掛けるような作法を わたしは持ち合わせていなかった。こういう日の来るであろうことは、予期はしていた。それでも、早すぎるという嘆きは深い。また大事な人の一人に死なれて しまった。
* 辻邦生との縁は、言うまでもない、井上靖夫妻らといっしょに中国旅行をした機会に深くなった。それ以前にも辻
さんの本の書評などしてはいたし、
書評の機会にと辻さんはその当時までの『作品集成』をポンと贈ってきて下さったりした。辻さんの単行本はほとんど家に戴いている。署名もしてある。
『夏の砦』『回廊にて』などが好きだった。エッセイよりも小説の方が好きだった。フランスふうというのかも知れないが、エッセイにも小説にも、奇妙に気
取った、伊達なところがあったし、そうかと思えばやたら難しい堅いエッセイもあった。後年の新聞小説などに、これが辻さんのと疑うような雑な運びと文章の
ものも混じった気はしているが、もともとは緻密な書き手で、むしろ隙間のない作風だった。
優しい人であった。中国の旅の間もなにとなくとても心頼みにしていた。井上団長と巖谷大四さんをのぞけば、その頃までにわたしは、伊藤桂一さん、清岡卓
行さん、大岡信さんらと面識もなかったのであり、辻さんとも初対面であったけれど文通などあったおかげで、つい甘える気持ちになれた。
あの旅は、すばらしかった。すばらしい仲間だった。ほんとうの藝術家ぞろいだった。わが人生に授けられた最高のご褒美だと感じていた。三度の食事ごとに
私は耳を皿にして先輩作家たちの言葉を聴こうとした。それで、つい私自身は黙しがちになり、もっと気楽に話した方がいいよと大岡さんに注意されたほどだっ
た。そして帰国後に、新橋で井上先生にみなでご馳走になった後、辻さんは、井上夫妻をのぞくわれわれを、「きよ田」へ連れていって下さったのだ。
辻邦生。ほんとうに、その名の光り輝いていた時期があった。とても、寂しい。たまらなく寂しい。
* 宮川寅雄先生の通夜と告別式とが、とても辛かった。声を放って泣いた。唐木順三先生のときもよく覚えている。
福田恆存先生のときも辛かった。も
ともと葬儀といった儀式に昔から感じやすい。それで、ひとりでひっそりと追憶し、葬送するようになった。
大勢の寄り集う葬儀そのものがとても苦しい。失礼を咎める人も有るにちがいないが、私は私の「モゥンニング・ワーク」を真心から、孤独に営みたい。いか
にも最後の義理に務めるようなのもいやなら、いかにもそれらしい人と同席するのもいやなのである。わたしは、幸い、故人とじかに対話が出来る、幽明境を異
にしていても。遠くなって、手も届かないとは思わない。ただ、たまらなく寂しい。
* 文壇だけでも、寂しい目にどれほどあって来ただろう。中村光夫、臼井吉見、石川淳、河上徹太郎、井伏鱒二、永
井龍男、瀧井孝作、井上靖、谷崎松
子、野村尚吾、立原正秋、円地文子、和田芳恵、篠田一士、杉森久英、上村占魚そして江藤淳。数え上げれば際限がない。こうしてみれば、あの世もそう寂しい
世界ではないようだ。
* 七月三十日 金
* 江藤さんの死、辻邦生さんの死。そのつど、遠くからわたしを励まして下さるメールが幾つも届く。
* お案じ申しあげてをります。
老いし花に雨そそぐ七月おとうとの忌の月われの生れたりし月
あかときのひかりかそかにかへす鏡死にしおとうとは今も十六
七月は辛い月。
今年は、ことに心身にこたえて、梅若の「大原御幸」にも出てゆかれず、ぼんやりしていました。
少し、元気が出てきて、ホーム・ページを拝見していましたら、お咳がたいそうひどいとか。お案じ申しあげるばかり、どうぞどうぞ、おたいせつになされま
すよう。
江藤淳氏の自裁につづく辻邦生氏の急逝、『死なれて死なせて』のご著書をお持ちの方の、「私は私の『モゥンニング・ワーク』を真心から、孤独に営みた
い」というお心を沁みておもったことでございます。
辻邦生氏のエッセイ集『海辺の墓地から』を、書棚から抜いてきました。今夜はこのご本を読もうとおもいます。これがわたしの「モゥンニング・ワーク」で
ございます。『安土往還記』が最初でしたかしら、辻邦生という作家に触れたのは。以来、『西行花伝』まで、わたしの魂を刺戟してくださった作家を、こうし
てお偲びしようと思います。
『能と平家物語』をたのしみにしております。『修羅』の箱をかざっていた「十六」を思い出します。また、面がか ざられるとしたら、中将かしら、そ れとも女面……。
十六をかけて橋懸りをあゆみくるは敦盛経政そしておとうと
どうぞ、おたいせつに。
* (返信) あなたこそお大切に。
お気持ちのこもった美しいメールを、もったいない思いで繰り返し読みました、有り難うぞんじます。
本を読めば読むほど、吸い取られるように言葉をうしない、この十日ほど我ながら無口に過ごしています。機嫌がわるいのではないのですが、貝の蓋をとじた
ように黙している自分に自分で愕いています。『夜の寝覚』が、思いの外に身のまぢかに感じられて、ひょっとして、これは京恋しさなのかなと訝しんでいま
す。
バグワンの『道 タオ』老子上下巻に、ずいぶん多くを支えられました。あなたは、この人のことをご存じですか。 『存在の詩』『永遠の旅 十牛図』 『般若心経』そして今度の「道」上下と読み進んで、今は『ボーディダルマ』に入りました。これがわたしの精神安定の抱き柱で、積極的な読書です。
「大原御幸」はわたしも、ついに、サボリました。
隣家の仏壇に行くのが間遠になるので、暮らしている棟の、まん中に位置した小さな棚に、父母と叔母との位牌を花 で飾り、背後に、大きめの写真にし てもらった、あの「十六」を、簡素な額に入れ、かけています。可愛がっていたネコとノコとの写真も、「親指のマリア」の小さな写真も置いています。わたし にも「十六」は、喪ったものの象徴でしたが、これからは、父母たちに頭をさげたり声をかけたりするつど、「十六」にもまた新たな思いを寄せることでしょ う。
お歌は、いずれも、身にしみました。
筑波嶺のまぢかに、あなたが、元気に日々を新たにされていることが、わたしの励みでもあることを、忘れないでください。お大切に。
* かつて「恋文」という一文をかいたことがある。余儀ない事務的な手紙もあり、ときには憎しみに満ちて書く手紙
も無かったとはいわないが、七割、
八割がたのわたしの手紙は、宛先が男性であれ女性であれ、気持ちは「恋文」のように書いてきた。意図して「つくった」気持ちではない、手紙というものは本
来は「恋文」なのだと思っているのである。相手の人を大切に思えば思うほど、自然とそうなるのが「手紙」であると思う。日本中にわたしの恋文が散らばって
いて、そこから、どのような美しい誤解の花が咲くことか、おそれてはいない。醜い事実よりも、誤解という絵空事が不壊の真実を匂わせることを尊いと思って
いる。この筑波嶺近くの人とも、逢ったことは一度もない。短歌の「七月」は、当然「ふづき」と読んであげたい。
* 七月三十一日 土
* ゆうべも随分遅くまでいろんな本を読みふけり、最後は『志賀直哉全集』第三巻に。 すばやく断っておきたい
が、先日、こともあろうに「小説の神
様」をつかまえて「なんと小説のへたな人だろう」と書いたが、あれは今度の全集で言うと、第一巻、第二巻のはなしをしたのである。そこまでは前言を撤回す
る気はない。
第三巻にはいると、印象は大きく改まってくる、と、言いたいが、そう言って置いてもいいだろう。『城の崎にて』『好人物の夫婦』がそれぞれに面白い。面
白いと言うよりも、それぞれに優れている。『佐々木の場合』も『小僧の神様』も、読みやすい。直哉に読みにくい作品はない。どれもやはり独特の強烈な魅力
を持していると言っていい。それにしても小説とも随筆ともつかないとは、直哉本人も認めているのだから、小説らしい小説とはずいぶん違う。それを物足りな
いとする者にはすこぶる物足りない。しかし『城の崎にて』のような文章はとても誰にでも書けるものではない。説明的のようで隅々まで表現であり、把握は明
晰で、しかも昏く、詩的ですらある。小説らしい小説はイヤになったとして谷崎の書いたのが『吉野葛』であったり『春琴抄』であったりしたことと較べれば、
おそろしいほどの隔たりがある。どっちも素晴らしいというしかない。
そんなことの言えるのも、直哉の場合、全集第三巻に入ってから確信が持てるのであり、第一、二巻では、ああいいなと文句なく嘆声の漏れるのはせいぜい数
編、いやそれよりも少ない。そしてやたら「不愉快」「腹が立つ」といった偏狭に主観的なもので、相当にイヤ気すらさす。生活態度としても意識でも、好かな
い部分がずいぶんある。異様に感じるところもある。
例えば「虫」「小動物」を殺す態度の徹底しているところなどは、目を瞠る。『城の崎にて』に、鼠の首を串刺しにされもがきながら流されていく描写は知っ
ていたが、もっと早くの小品のなかで、蛇を殺したりヤモリを殺したりの、直哉の殺し方の、感情抜きのすさまじさには仰天してしまう。そういう資質はまた目
下の女などへの態度とも似通っている。直哉には当たり前であったのかも知れないが、好感の持てない、上からの侮蔑感を隠そうともしない。
志賀直哉の文体はきわみなく清潔で彫りが深く観念に毒されていないが、志賀直哉の底籠った人となりのことは、当分は相当の留保付きで読み進めようと思
う。それにしても第三巻まで、らくらくと、しかも楽しんで読んできたのである。まだ、先は長い。
* 七月三十一日 つづき
* 言問へば花とばかりぞ川開き 恒平
* 神楽坂の「紀の善」へ誘われ、元東工大院生の新社会人から、甘いものをご馳走になった。放熱・冷却研究の彼女 と、レーザー研究の彼と、二時間あ まりも話してきた。足任せに三人で歩いて見つけた「カムイ」という地下喫茶店が、なかなかの風情だった。甘いものは、はじめてボーナスを貰ったという彼女 の奢りだった。ありがとう。彼女は管弦楽団でたしか大きな管楽器を受け持っていたし、彼はクラシックギターを弾く。仲良きことは美しき哉 の見本のような カップルであった。
* 別れて銀座へ出て、直哉の『和解』を読みながら妻を待ち、目に入った鱧のメニューの割烹で夕食してから、浅草
へ移動した。
浅草は若い人たちで大雑踏、地下鉄から地上へ出るのにも、出てから浅草寺境内を言問通りへ抜け出すのにも、三社祭のときと変わりない人波をかき分けるよ
うに進まねばならなかった。それが面白かった。みな、めいめいの場所を取って、花火の揚がるのを待っているのも面白く見た。
* 太左衛さんの稽古場のあるビルの屋上へ着いて、らくな椅子席に腰掛けたとたんに最初の花火は打ち上げられた。 それからひっきりなしの一時間半、 多彩を極めて芸術的な花火のいろいろを、悲しいほどに美しい花火を、歓声と拍手とため息と、そして密かな祈りとで、堪能した。今日、江藤淳の葬儀のあった らしいことを知っていた。思いは上に掲句の、「花」一字に託した。辻邦生のためにも、また。
* お酒も食べ物も、たっぷり恵まれた。屋上は、近在の人たちの陽気な宴会場でもあった。どんなに陽気に楽しくと
も、花火は花火であった。送り火の
ようであった。わたしたち夫婦は、前面コーナーの手すり際に席を貰って、手に取るほどの間近さで、隅田上流の花火を満喫し、下流の花火へも視線を好きにい
つでも送れた。絶好の特等席だった。一昨年春に中国の紹興で花火を観てきて以来だった、あの時は寒かった。
今夜は涼風が心地よく、夜空はくっきり藍色に晴れて澄み渡り、花火にはもってこいの天候だった。妻は、花火など、いつからのことでしょうと、声をはずま
せて嬉しそうだった。
望月太左衛さんの招待は、この人のクセで今日言って明日のことが多く、いつも大慌てするが、行けば必ず楽しめる。お蔭で浅草がうんと近く感じられるよう
になっている。
三社祭の時は学生を五六人連れて出かけた。お囃子を聴き、御神輿を見送った後で、太左衛さんに紹介してもらった店で、若い衆にたっぷり酒と、お好み焼
き、もんじゃ焼きというのをご馳走したものだ。学生たちはご機嫌で楽しそうだったが、わたしは酒ばかり飲んだ。もんじゃ焼きというのが、とても口に合わず
苦手であった。だがあの晩も楽しかった。もう全員が就職して、いい社会人になった。
浅草では、「米久」のすき焼きが気に入っている。肉も佳いが古い店が佳い。家内とも来たし人とも来た。家内とは演藝場で、夜席のトリまで笑って帰ったこ
ともある。帰りは池袋までタクシーに乗った。
今夜はとてもタクシーもバスもすぐには乗れなかったから、思い切って言問通りを鶯谷まで三十分ほどそぞろ歩いた。途中喫茶店で休んだ。もうそこの石段を
のぼれば鶯谷駅というところでやはり妻はダウン。タクシーで池袋へ走って、電車で帰ってきた。自転車が駅に預けてあり、駅から家までは涼風の中を妻をうし
ろに乗せ、無燈の自転車でゆるゆる走った。真夏らしい気分のいい、気の晴れた一日だったが、花火が送り火であることも、今日はひとしお胸にあった。
* 明日から八月。さいわい今日は排痰もへり、咳込みもやや少なくなっている。
* 八月二日 月
* 手紙は「恋文」のように書くのが本来だという私説に「応えて」もらったメールで、志賀直哉について触れてあっ たので、幸便に、「小説の神様」の 題で、こんなメールを送り返した。
* 「こひぶみ」を、たしかに頂戴しました。
さて、志賀直哉のこと、少し、書き加えさせて下さい。
直哉の全集を読み進んでいまして、『和解』を読み終えたところです。おそらくは、これが直哉文学のピークの一つであろうと確信しました。志賀直哉のヘン
なところも魅力的なところも、凄みも面白みも、みごとさも、あきれるところも、みんなひとかたまりになって、結晶し、発色しています。技巧的な意味での
「神様」では全くないのですが、実感する、見きわめるという「文学・文芸」の必須の本質を、眼と筆と心とに宿している点で、「神様」なみに透徹していま
す。物語はうまく書けない、文体と文章との真率な藝術家ですね。小説を読む喜びからすれば限界のハッキリした人ですが、文章を読む喜びでは、じつにしっか
りと多くを恵まれます。深く恵まれます。大きく買いかぶるのも滑稽ですが、類のない文章を、彫琢の意識など特にもたずにくっきりと彫り上げて行ける力の毅
さは、「神様」に近い。
この作家の文学を、「ノベル」とは受け取らずに「エッセイ」と受け取って、最良のものとして『枕草子』以来の系譜上に確認したい気がします。今までのと
ころ『母の死と新しい母』『和解』『暗夜行路』の三つだけでも、すごみのある文学者で、『網走まで』『城の崎にて』『好人物の夫婦』なども、こう書き出し
てみると、志賀直哉の存在を、ますます確かな深い深いものにします。すべて甚だ良質のエッセイです。
エッセイという観点で見ますと、谷崎潤一郎のいわゆる随筆・エッセイが、対極にいてやはり魅力的に思われます。『幼少時代』『陰翳礼讃』『芸談』など。
日本語の素質が違うのですね。どちらが無理のない「日本語」かといえば谷崎の方が、一語の含蓄を尊重してふくみの味をもち、「あいまい」の積極的効果を
よく承知している分、より日本語本来の味わいがあり、やすらかに読んで行けます。絵画的です。直哉の散文は、「一語に一つの意味だけ」を鮮明に彫り込もう
としているぶん、いかにも外国語の散文を精神的に輸入していて、直哉なればこそ自然にきっぱり彫り込んでいるけれど、その追随者たちの散文が、かなり窮屈
な意識的産物になりがち・なってしまっているのを思いますと、もともとの日本語ではない方へ方へ近代日本の文藝を導いていった「神様」なのかなという気が
します。
ずっと以前からそう感じていましたが、今度またその思いを強くしました。全集を少なくも第十巻まで読み通してから、また考え直すところが有るかも知れま
せん。たぶん無い気もしますが。
志賀直哉は、日本の男たちにモテて憧れられる要素を、持ちすぎるほど持っています。女の人には不愉快な作家であって少しもおかしくないほど、わたしでもヘ
ンな男と思うぐらい、ごく当たり前に、女に対しても、庶民に対しても、他の生き物に対しても、威張り返っています。経済的には極めて恵まれ、生活のために
働いている意識はまったく無く、住所不定といっていいぐらい好きなだけ住処を替えられ、旅も自由自在で、遊び仲間は「白樺」を芯に、上層社会に確保されて
いるし、放蕩も、我と我が儘を貫くことも、自由自在。しかもこういうことにほぼ無意識に好き放題に生きている。あくせくして浮き世の負い目に疲れた男ほ
ど、これには憧れてしまい、たいしたもんだ、これぞ「男」だ「神様」だと思うのは、つまりはしみったれた男ごころなのでしょう。
家族と友人と。志賀直哉の世界は、他には藝術があるだけで、それより外縁・周辺の社会や世界は、彼と彼らにただ奉仕的で在ればよろしく、さもなければた
だ軽侮の対象か、不愉快や好悪の素材にするだけです。まことにおどろくべき「旦那様」であるなと、わたしでも少しは憧れながら、あきれ返るものがありま
す。
一言でいえば、この人は超弩級にすばらしい「眼人間」であったんだと感じ入っています。眼はよく見える。それが正確な言葉に力強く連動するから、偉いも
のです。
八月、葉月。寝覚の上が、姉大君の婚約者(夫)とわりなく結ばれて出産し、子は男にもち去られ、姉にもこと露見して、身も世もなく父の隠棲している北嵯
峨の池畔へと移って行きます。遍照寺が下敷きのように思われますが、あの界隈がなつかしくて堪りません。お寺は場所も動いて、いまは寂れていますが、金色
の観音像は幸い遺っています。拝まれたことが、ありますか。
「宇津保」の方は、いよいよ「涼」の登場です。 お大切に。 遠
* カナダに、中学、高校のころの親友田中勉君が早くから移住して、しかも日本の紹介に多くかつ大きな力を致して
いることは、わたしたち同窓の間で
はよく知られている。日本に帰ってきていることも、近年は比較的しばしばのようであり、噂にも聞くし、電話をくれたり東京で何度か逢っている。
今日も「恒平さん」と呼びかけて手紙をくれたが、このホームページも覗いてくれているらしい。メールも交換できるらしくアドレスを教わった。こちらから
は問題なく日本語で送れるようだが、向こうからの日本語が化けないかどうかと心配してくれている。メールの往来が始まると、なにしろ中学時代からの友達で
記憶力のいい人ゆえ、楽しく教えられることも多かろう。かつての我が家の二階のありさままで、びっくりするほど覚えている。
わたしが「尻漢」という遊びを好んだというのだが、漢字での尻取りか。「電車」「車掌」「掌握」「握手」とか。記憶にないが。
* スペインからも、「恒平さん」と呼びかけて「京子さん」のメールが届いた。いま、わたしのことを「恒平さん」
と呼びかけてくるのは、この外国ず
まいの旧友と元女子学生クンとの二人だけである。その二人が同じ日にカナダとスペインとから呼びかけて来るというのも面白いし、懐かしい。嬉しい。元気で
いて欲しい。
* 八月二日 つづき
* 夕刊で、日本ペンクラブ会長の梅原猛氏が、日本文藝家協会理事長であった故江藤淳の自殺について書いていた。
梅原さんから見た江藤さんが書か
れ、それは梅原さん自身をも語ることになっていて、二人のものの考え方の差が、よく浮き彫りになっている。
「憲法」について、江藤さんは熱烈な改憲論、梅原さんは頑固に護憲論と、そういうことが分かるだけでもよかった。憲法調査会が発足するとか。戦後五十余
年も持ちこたえてきた「調査会阻止」の動きもついに停止するのか。停止すれば、現政権下ではどこへ議論も調査もお手軽に吹っ飛ばされてしまうか、知れたも
のではない、わたしは心配している。それでも、日本ペンクラブの会長が「護憲論者」と自ら明確にされたことに、小さくとも希望がもてる。
* それにしても、江藤さんの自殺は、夫人の死を追われたのかも知れぬという、例えば石原慎太郎氏らの推測を梅原
さんは退けて、妻が夫に殉ずること
こそあれ、どこの世界に夫が妻のあとを追うような例があるものかとは、梅原さん、それは、おかしいです。
江藤さんの場合がどうかにわたしは触れる気はないが、夫が妻に殉じたような実例ならわたしは知っていて、稀有なことではないと見受けられる。たいへん胸
をうつ実例が、今の家の近所でも、この近年に、あった。立派な医師であったが、奥さんの病死にきっちりと歩調を揃え、万事の手配を滞りなく済ませておい
て、奥さんの亡くなったのを見届けると即座に覚悟の自殺をされた。お葬式はご夫婦ともに同時にされた。若い家族にも予告されていたとまで漏れ聞いた。患者
である私の場合にも、以後の治療についてきちんと指針を封書で遺されていた。
もとより、それにも、べつの理由はあって、医師自身にアルツハイマーの自覚が兆していたと、これもその後に漏れ聞いている。それにしても、賛美はしない
が、じつにみごとな、見事すぎるほどの死であった。それに近いことは、じつは、わたし自身の身近にもあったのである、梅原さんの断定的な推測は軽率と言う
しかない。
そもそも江藤さんの死は「解釈」すべきでも「論議」すべきでもないことではないか。誰の場合でもそうではないか。
* 梅原さんは、江藤さんの場合、夏目漱石や西郷南洲にむしろ「思い」があったのではないか、彼らの高潔な倫理観
の方に殉じたい気持ちが動いていた
のではないかとし、日本の現代小説に氾濫している醜い「不倫」の描写などに、江藤さんは堪えられなかったのだろうとまで言い切っている。
梅原さんは、さも、もっともそうにそう書いているけれど、対極に挙げている「漱石」なる作家は、或る意味では「世の掟」に背いても「人の誠」があれば不
倫をすら肯定的に積極的に書こうとした作家であることを、忘れているのではないか、気づいてもいないのではないか。『それから』『門』は、かなり積極的な
不倫小説とも読めるものである。
そもそもいわゆる「不倫」などという軽薄な「通称」を介して「文学」を批評しようというのも、とても「哲学」的とは謂えないだろう。世界史的に見て、い
わゆる「道ならぬ愛や恋や肉体関係」を通じて、どれほど多くの豊かな人間把握や表現が、人々の魂に深く触れあってきたか。『ボヴァリー夫人』『アンナ・カ
レーニナ』も、シェイクスピアでも近松でも。『暗夜行路』でも。そういう名作傑作は別だと梅原さんは言い遁れるかも知れないが、では、何故に、そういう名
作や秀作が書かれまた愛読されてきたのかの、「人間」的な深い理解がじつは必要、洞察も必要なのではないのか。「不倫」を言い立てるその前に、人間の
「倫」なるものへの強い批判と再認識こそが必要なはずではないか。そこに批評の芯があって、多くの作家藝術家もこれを批評精神で積極的に書かずにおれな
かったのではないのかと、言いたくなる。
あまりに型通りに「夫婦」でさえあれば人倫は確立され、夫婦でない男女の仲は人倫に逸れるというのでは、哲学者なる者、頭が硬い。
それやこれや、哲学者梅原猛の「哲学」が伝わってこない、いともお手軽な「評論」を読んだつまらなさが後味になり口を苦くした。あれでは江藤さんも、
いっそ黙っていて欲しいと思われかねない。
人の死についてなど、とかくのことは安直に言わぬがいい。痛ましいものを悼み悲しみ、静かに見送って上げればいいのだ。
* 後藤明生氏も亡くなったという。氏の文学には触れたことが殆ど無い、が、同時代作家として生きてきた。愕いて いる。冥福を祈る。
* 高田衛さんの『蛇と女』の書評を「学鐙」で読んだ。評者の名をど忘れしたが、評が、蛇の問題を「性」的な深層 意識でばかり捉えているようで、そ んなことでは「蛇」のかかえた問題は尽くされないと思ったことを書き込んでおく。
* 疑わしきは罰せず、という。厚生省の危険に対する施策はすべて「疑わしくても罰せず、人が死んでから動く」と
いうものらしい。ダイオキシンが外
国基準の何十倍量検出されても、ひとたび厚生省がお出ましになれば「安全宣言」がいともお安く出てくる。生を慮ること、かくも薄きか、厚生省よ。「薄生
省」と名を換えよ。
* 八月三日 火
* あんなに気に病んでいた淡交社「茶飯釜」についての原稿が、すらすらと三日で書けてしまった。すこし息がつけ る。仕事が溜まっている中でも、全 体の流れを重苦しく堰いていたのがこの仕事だったから、ざっと流れてくれそうだ。
* 夕方江古田まで歯医者に行った後、帰っての夕食というのが面倒なので、いっそ家内を呼びだして、池袋の東武美 術館で「小野竹喬展」を観てから、 東方会館脇の「文流」で、イタリア料理を食べてきた。デカンタで赤ワインを出して貰ったのが、とても美味かった。この店は料理の方も安心して食べられる。 むかし「婦人生活」だったかの記者の教えてくれた店で、女性や若いカップルが多いけれど、いい老人の男性がひとりで食事を楽しんでいたりもする。池袋東口 では気持ちのいい店の一つである。
* 竹喬さんの懐かしい繪をたっぷり観た。国画創作協会の創立メンバーのなかで、唯一人だけ長命されて、わたしの
小説『墨牡丹』を読み、佳いお手紙
を下さった方である。
竹喬芸術について論考したこともある。初期から晩年まで、じつに澄み切った境涯を至純に維持しながら、大胆に画風を展開して滞ることが無かった。俗気の
みじんも画境を汚すことのない、しかも温かい画風。清寂のなかにはんなりとした静かな諦念をにじませた繪を描き続けられた。夕映え、夕雲など夕暮れ時のは
なやかな残照を、寂しい木立や梢やさざ波の美しさとともに、みごとに構成された。
見終えて、いつものことであるが、「気持ちの佳い、ほんとに気持ちの佳い展覧会だね」と喜び合えた。胸の内が清められた。空いてもいた、閉館時間が近づ
いていたのだ。そういう時間帯がむしろ繪を観るにはいい。たまたま通りかかって、あ、竹喬さんだ、観て行こうと入ったのが正解だった。あとの食事がひとし
おうまかった。
* 画家を「論じて」みることが、無いではない。わたしの、此の夏の松園論もそうだし、けっこう大勢の画家を論じ
てきた方だと思うけれど、結局は作
品である「繪」を観なければ始まらない。繪を観るうえで繪がますます興味深く観られるような画家の論じ方でなければ、たいした役には立たない。
文学の場合も、わたしは作品論が好きで、作家についてどう議論をひねりまわしても、論者の意気込みや気張りようはうかがえても、そんなのは作品を面白く
読むのにあまり役に立たない。
作品は魅力的に迫ってくるが、作品ならぬ作家をとやかく言い続けた文章など、そうは多くは教わらない。味気もない。作家についての終始人間論だけでは退
屈してしまうだけでなく、つい、それがどうしたと言いたくなる。
* 八月四日 水
* 親友でもある新潟の高校生クンが手紙をくれた。いつもながら、言うこと無しの佳い文章文面で、元気と知性とで はちきれそうに言葉が生きている。 冗長でなく情は熱い。多彩な読書は、ま、高校二年生の頃の自分を思い出せば、なに不思議もないけれども、昨今の読書嫌いな学生も大人もいっぱいのなかで は、驚かされる。コンピュータ、放送部活動、それに彼は大の競馬好き。そして創作。生彩に富んだ旺盛な少年の送ってくる友情には励まされる。
* 六百グラムの黒い仔猫が舞い込んできた。とても可愛くて、もう手放せそうにない。軽くて、やわらかくて、ノラ
経験が皆無とみえ、全然怯えないで
視線を合わしては啼く。初めのうちは弱々しかったのに、慣れるに連れて元気に歩きまわり、後をついてきて、仕事をしている上に乗ってきたりする。すること
なすこと、かつての、母「ネコ」仔「ノコ」の思い出につながり、いとおしい。あの母子猫はしんからの我らが「身内」であった。ノコは十九年も生きてくれ
た。そのノコの写真に、この仔猫を置いてやっていいかいと尋ねている。
むかしのアパート時代から数えると、わたしたちが愛して付き合った猫は、今日の仔で七匹めになる。セブンと呼ぼうかと言うと、妻はそれなら「ナナ」が可
愛らしいと言う。それでは差し障りが有るといえば、有る。同じ呼び名で、わたしの好きなすてきな女子学生が以前東工大にいて、輝く星のような人だったか
ら、猫の名前にするのは少なからず抵抗がある。ま、可愛いのだから、可愛がるに決まっているのだからと多少言い訳も用意はしているが。
ノコに死なれたときは悲しかった。あんな辛い悲しい思いはもうしたくないと言い合ってきたが、明後日が、その愛しかったノコの満四年の命日なのである。
そういうところへ添い寄るようにして訪れてきた仔猫であることに、心を動かされている。ちいさいちいさい漆黒の猫である。久しぶりの感触に胸の内があたた
かい。
* 直哉の和解三部作『大津順吉』『或る男、其の姉の死』『和解』を読んだ。『流行感冒』もここに加えていいので
はないか、これと『和解』の二作
は、文藝の香気も高く、ともに繰り返し読むに堪える。
全集第三巻へ来て、目白押しに佳作秀作がならんでくる。小説という限定をつけないかぎり、どれもみな佳い文学・文藝であり、感じ入る。結晶度の高い硬玉
を掌中にした心地で、やはり「エッセイ」の最もよろしきものという実感である。小説だけが、物語だけが文学ではない。この作家にもっと戯曲があればよかっ
たのにと思う。
* 『或る男、其の姉の死』のなかに突如として鏡花作品のことが出てくる。わたしの方は、これから鏡花作品を心し て多く読んで、十月の講演に備えな ければならない。
* この時季に珍しく、今強い雨の音に家がすっぽり包まれている。涼しくなるだろうか。
* 八月五日 木
* 仔猫に一晩啼かれ、眠れずに朝の七時まで相手をしていた。それからやっと眠った。眠りたくて眠れない頭や胃が かなり苦しかった。黒い仔猫はすっ かり慣れ、ものも食べ、見違えるほどの元気さで、私や家内のうしろをついて廻って遊び戯れ、甘えて啼き、お腹を空かして啼き、我々の姿を見失ったと言って は啼いている。仔猫の習性を一日でほとんど思い出してしまった。ひさしぶりの仔猫の柔らかい軽い感触にしびれる。正直の所、もう手放せないだろうと思う が、せっかく夫婦で家をあけて外出や旅が出来るようになっていたのにと思うと、ウーンと唸ってしまう。留守の時は預かるかと、息子を、夫婦して口説きかけ ているが、向こうはわたしよりも出歩く商売のようだから。さあ困った。
* 「人間とは何だろう、生きるとは、老いるとは、死ぬとはなんだろう、といつもいつも胸に問うています。就職し てから2年半、ずっと問い続けてい ます」とメールの裾に書いてきた。親しい、東工大の元女子学生の若い友人が。思い切ってこう返事を送った。
* あなたは反芻するように繰り返しこう書いてきました、「人間とは何だろう、生きるとは、老いるとは、死ぬとは なんだろう、といつもいつも胸に問 うています」と。
「老いる」「死ぬ」のことはすこしワキに置きますが、前半の問いは、じつは「無意味な問い」であることに気づいて
います。
少なくも「生きる意味」なんてものは、無い。意味づけするまでもなく「生きている」ことが「生きている」意味なのだと。そんな無意味な問いに、どれほど
大勢が無駄に悩んできた・無駄に悩んでいることかと呆れています。
「生きる意味」なんて、問うべき問題では無い。「生きる」のに「意味」は無い。「何だろう」と、答えのあるはずもない問いを重ねているまに、「日々生き
る」実質を見失うなんて、なんて無意味なんだろうと。
「問う」ことは、ことにより極めて大事ですが、「問い癖」になって、本質を逸れたところで、つまり「問うている
ぞ」という自意識だけが残存し続け
て、かんじんの「日々の生き」が荒んで行くのは、はなはだ無残なことです。「意味を問う」のをしばらく落として、やめて、日々をきっちり「生きる」のに精
力と誠実を注ぐこと。わたしは、そう考えるようになって、すうっと明るい場所へ浮かび出た気がしています。もっとも、もともと、そういう「問い」はあまり
持たなかったけれども。
あなたを煩わせているのは、つまり「マインド=思考作用=頭脳=心」なのだと思う。こういう心が、「静か」になれない。そんな心は捨ててしまった方がい
い。
他の人になら、こんなに乱暴そうなことは敢えて言わない。あなたは「気づく」のではないかと思い、言いました。お元気で。
* 明らかにバグワン・シュリ・ラジニーシにわたしは教わっているが、しかし「生きる意味」とやらを問うている大
勢に出会うつど、変な気がいつもし
ていたのは確かだ。
「生きる」から意味が生じてくることはあっても、生きる意味を問う意味など、無いはずだと。
* 八月七日 土
* 小さい生き物がひとつ増え、家中に新しい生気が流れている。掌に載るほどちいさい黒い仔猫の命ではあるが、啼
き声から何から、すっかり安心し、
身も心もわれわれに任せきったように、歩き、遊び、食べて、寝ている姿には、信頼されていることには、気持ちが和む。排泄などのことはしつけなくては済ま
ないけれど、なるべく、家の内外で好きにさせてやりたい。
名前が「まだ」決まらない。とかく可愛がっていた「ノコ」の名が口をついて出てしまう。なにしろ、ちいさい。ほっそりしている、長めの尻尾のさきまで
も。まだ、ふっくらまろやかとは行かない、顔も三角にみえるし、グルグルと喉もならせない。育つのかしらんと思ったが、食べて飲んで元気になり、ぴょんと
はねて、タタタッと駆け出したり、背伸びして椅子に上ったり、こてんと丸くなって寝たりする。猫らしく坐るし毛づくろいもしている。
川の字のまんなかの棒が猫になり
とかいう、川柳だか短歌の上の句だかを、ごく最近、どこかでみた。気持ちは分かる。
* 日照り雨がときどき思い出したように強く降る。
* ここへ来て、いろんなことがしてみたくなっている。むろん書く話であるが。一々アイデアを書き留めておくと良 いのだが、怠ると、忘れてしまう。 書き留める生活がいいか、忘れるものは忘れさせるのがいいか。忘れるのも、それなりの養生法と思いかけている。
* 六十四歳に近づいていて、ときどき、二十年若ければあれを、これを「手がけてみるのだがな」と惜しむ想いに襲
われる。しかし年数だけでいうな
ら、母の死んだ歳にまで、まだ三十二年も余っている。こんなことを考えるだけ気力が細っているのだろうが、気をつけるのはその点である。仕事をするにも楽
しむにも、まだ年は余っている。フレッシュに日々を送り迎える気力を失うまい。
* 八月八日 日
* 朝の田原総一朗の番組に自民党の中堅どころの白川某、小林某といった議員が三人寄っていた。話題は自民と公明
との「連立」で、この三人ともが徹
底的にこの「特定の宗教団体政党」との連立を「不可」とし、あり得ないことを、「憲法違反」というところまで切言し、宣言していた。
おかしいということを気づいている自民党議員は大勢いるし、不賛成で立とうとしている。ただ問題なのは、大新聞等のマスコミだと彼らの言う、たぶん事実
にちがいない状況だった。つまり、どの新聞社も、大なり小なり創価学会の出版物を制作引き受けしており、また相当な広告を貰っているため、「自公連立」が
明らかに憲法違反であるにもかかわらずそれに言及しない、出来ない、と言うのだ。ありえそうな、いや、あるにちがいないことだ。いくら「宗教法人」制度を
廃止しようと説いても新聞社は取り上げないのも、それだ。この、初めてといってもいい自民議員による市民社会への告発が、どう活かされて行くか、ぜひ見守
りたい。恐らくはけろりと変節し瀬戸際で沈黙するのだろう。
* 鏡花を語ると言っても、一筋縄でゆかない多面体の作家である。関心をしぼるとすれば、かねての「鏡花と蛇」で
あるが、これを、もっと深く絞ると
どうなるか。初期作品から問題を探って行くことになるか。「鏡花の不平」と「漱石の不平」を関連づけてものを思っていたことがあった。漱石も直哉も鏡花に
は好意と敬意とを持っていた。面白い。
なにが掴み取れるのか、これからの話だが「鏡花全集」を今からまたも読み通すことは無理だろうから、話の的を定めるまでが、一仕事になる。楽しんで苦労
をしてみたい。
選集を書庫から身近にまず持ち出してきた。当分は直哉と鏡花と、そして古典とのお付き合いが続く。
* 八月九日 月
* 国旗国歌法案も、盗聴法も、みな、ひっくるめて法務委員会で成立した。井上ひさし氏は「戦後は終わり新しい戦
前が始まる」とコメントしたそう
だ。わたしは、この時節は最期の近衛内閣のころと同じ軌道を走っていると、小渕内閣の暴走が始まってすぐに嘆いた。杞憂だとは思わない。
反射的に永井荷風の生き方が偲ばれるけれど、荷風のように生きてはならないのだと思う。自身を鞭撻したい、と思う。それでも、濛々と霧がまくように、こ
んな時代からのがれ果ててしまいたい気持ちが湧いてくる。自分の年齢を思って、残り少ないことを良しと考えてしまいそうになる。そうであってはならない、
こんなわたしでも闘えるなら闘える手段を尽くして諦めずにいたい。
* 佐高信氏であった、つい、昨日今日の発言であったが、こう言っていた。盗聴法なども、「いい人には関係がない
んだという論法が使われがちだが、
松本サリンで不当な疑惑に苦しめられた、『あの一市民』も紛れもない『いい人』であったことを忘れたのか」と。
わたしもまた、それと同じ言葉を投げかけられた、間違いない記憶を、ここに記録しておきたい。
ペンクラブの言論表現委員会で、初めて「盗聴法」が話題になったのは、少なくも三、四年ほど前である。委員長が佐野洋氏の時期だった。
よく覚えているが、新任委員の弁護士五十嵐二葉さんや、「創」編集長の篠田博之氏や、テレビ・コメンテーターの猪瀬直樹氏らが、その日出席していた。他
にも数人出ていた。
「盗聴法」に対し、あの日、結果的に「反対」声明を起草して、後日の理事会で決議公表した。しかし、委員会では、必ずしもすんなりは行かなかったのであ
る。盗聴の「必要論」もちゃんと出たのだ。
私は、「必要とする」いろんな口実や理由はあろうけれど、日本の公安や警察のありよう、情報公開の悪質なほどの混濁度からして、たとえ西欧先進諸国に類
似の法律が現に施行されているにせよ、直ちにそれと類比的に「公正な運用」の約束されうる日本の現状でも環境でもないのだからと、市民への危険なリスクが
大き過ぎると、つよく反対した。
それに対し、揶揄するように「必要論」の猪瀬直樹氏の口をついて出たのが、「大丈夫だって。秦さんは、やられやしないんだから」という一声だった。
猪瀬氏はかなりの熱意で「盗聴必要」論に立っていたが、烈しい反論を受け入れたか、以後は原則的に盗聴法「反対」を口にしていた。二年前に氏自身がこの
委員会の委員長になってからも、「反対」の新声明を起草して我々は理事会に提出してきたのである。
「秦さんは大丈夫なんだから。やられやしないんだから」とは、ついでに「自分もやられやしないんだから」という立場で氏はものを言っていたのだろうか、
あの時。
わたしは不愉快であった。これがこの人の本音なのだなと、その後も忘れることが出来なかった。五十嵐さんや篠田氏の、「わからないよ、秦さんもやられる
よ」という、笑いながらの声も忘れはしなかった。その通りだと、あのときわたしは思った。「盗聴法」への態度は、絶対に、猪瀬氏の言うようなところから、
佐高信氏が批判しているような立場から、決めてはいけないのだった。警察や公安は、すでに「日本ペンクラブ」をも要注意団体として組み入れていることだろ
う。
* 国会が大政翼賛会にすでに変質しようとしている。今度の総選挙でこそ、この濁流の悪しき勢いを変えねばならな
い。
* 八月十日 火
* 高所恐怖症ではないでしょうねと編集者に聞かれていた。あまり利口には生まれついていないので高いところは嫌
いではない。ましてビルならば。
新宿サザンタワー十九階の「ほり川」で、「ミマン」の編集長・担当編集者と歓談昼食し、来年三月号からの毎月刊行に対応のための打ち合わせをしてきた。
「センスdeポエム」の連載が、幸い好評とのこと、まずは、ほっとした。
メールなどが便利で、原稿も器械で送り迎えされ、編集者と著者とが出会って話し合うということが本当に少なくなった。「お目にかかって」といわれても、
つい、こっちも簡単に済ませようとするし、一般には向こうは輪をかけて簡単に済ませたがる。長い連載などして、その間に担当編集者の顔を結局見なかったな
どということも起こる。
むかしは、用がなくても会っていた。雑談の中から、両方でいいとこどりが出来たものだ。編集者が、いや出版社が、なにかにつけて下請け会社に仕事をまわ
し始めてから、編集者が下請けの管理者になり、自分で動かなくなった。下請けには著者と談合している余裕も気もメリットも少ない。若い編集者の能力が落
ち、企画の意欲が落ち、口だけが達者になり、そのくせろくに原稿が読めないとベテランたちはこっそり嘆いているが、「出版」の在りようが変わってきたのだ
から、どうしようもない。
ある種のムダをいい栄養にしていた時代がたしかに在り、わたしのような者でも、多少ならず体験して知っている。懐かしむ気はないが、編集者の顔も見ず声
も聞かず、そういうことがもう何年も、わたしの場合など筑摩書房のような「母港」のような出版社においてすら、現に体験している。年賀状だけが来て、あ、
これで繋がっているのかと苦笑してしまう。
* 瀬戸内から紀伊水道の辺に、いささか物騒な潜水艦がしばしば忍び込んでいると聞くと、いやーな気がする。万
一、北朝鮮からミサイルが打ち込まれ
るということでなくても、なにかの刺激的な侵略行為や攻撃がほんとに為されたなら、どういうことになるのと妻に言われ、これに返事ができない。
アメリカが守ってくれるのは、アメリカの利益を損ずる場合だけで、安保条約が在ろうとも、大国はそういう利己的な枠からはみ出てはこないものだ。
韓国は、おそらくは北の矛先が自国でなく日本に向くように向くように、内心希望したとしてもおかしくない。それが外交というものであろう、日本に「北
風」役を振っておいて、韓国が盛んに「お日様」役を以て任じているフリをしているのは、存外な漁夫の利も意中に無いとは言えない。それが外交というもので
あろう。外交とは「悪意の算術」である。それが人間の国際社会史でもある。それくらいのことは念頭に、日本も対応しないといけないことになる。
* 実に悩ましいことである。アメリカに尻を叩かれ叩かれの超受け身な「有事」対応でなく、アメリカが「一抜け
た」韓国が「二抜けた」になっての上
での北朝鮮問題を本気で考えなければならない筈なのに、まだまだ、日本の顔つきが変わっていない。
では、どうしたいのかね、と当然に聞かれる。妻はそこを聞いた気であろう、オットットと、つま先立ちになり、言葉が、出てこない。うかとも言葉を吐き出
せない。
* ソウルだけでも数万の日本人がいるという。北のピョンヤンから南のソウルまでの距離は、このスピードの時代、
ほんのお隣同士。お隣同士に喧嘩の
火種が爆発して、怒濤の飢えたる「人海戦術」が北から行動を起こしたものなら、他のことは言わない、ソウルの日本人数万は、誰がどうやって救えるのか。ア
メリカは自国人の救出に一切の機動力を使うだろうが、日本人を優先する気はむろんあるまいし、後回しながらも「安全保障」に働いてくれる望みは薄いし、す
でに手遅れ、遅すぎる。
では韓国が。なんで、そんなことを韓国が日本のためにしてくれる余裕があろうか。
では日本の飛行機が急遽迎えに行くか。強行着陸には国際法上の抵抗があろう、飛行場使用許可の出る保証は、民間空港も軍用空港でも、まず望みはない。ど
うするのか、打つ手はあると、頼もしい話を聞いたこともない。「まさか」起きまいと、そういう甘い予測一つで、問題を先送り先送りしている。
この「まさか」は、今日明日にも潰えないとは限らない現実味をもはや帯びている。アメリカの前衛であろうとするのでなく、アメリカのための「醜の御楯」
になるガイドラインではなく、最悪の場合の一対一対決にどう応じられるのかの機略・戦略の必要に迫られている。国民的な議論が必要で、そのための選挙が必
要で、そのための覚悟が必要になってきている。
「安保条約」があるのだもの安心だとは、なかなか思いにくい。この条約を日本国が主体的に運営しようとしたなどという話は、それこそ、只の一度も過去の
四十年に無かったのだから。アメリカは、しばらく脇に置いて、日本だけでもできる「専守防衛」とは「何」なのかを、国民は考えざるをえない時機に、今、す
でに在る。国歌国旗法なんてことは、大事を先送りのごまかしに過ぎない。
* 仔猫の名前が「マゴ」ないし「マーゴ」に落ち着こうとしている。「ネコ」「ノコ」「マゴ」と、血統はともあれ
猫の子の孫、三代目。孫を祖父母に
見せてもくれない娘、孫をつくってくれそうにない息子への、いささか「アテつけ」じみるのも、敢えて然り、としたのである。からだつきが、ふっくらしてき
た。急速に、いろんなことをからだで覚え始めている。片方の目にうるみとやにとがあったのも、栄養がつき、排尿・排便の習慣が出来てきて、ぱっちりと綺麗
な黄金色の眼になった。
* 八月十二日 木
* バグワンの六冊目『ボーディーダルマ』つまり達磨さんの巻を読み始めているが、この巻は優れた叙述意図で始
まっている。
達磨には、併せて一巻ともみられる三種類の文書が遺っているらしいが、何れも弟子の記録したもので、達磨自身の著述ではない。釈迦にもイエスにもソクラ
テスにも自著がない。みな弟子の編纂による「語録」があるだけである。彼らに優に匹敵する祖師達磨にも自筆の著述はない。遺されたその三種の記録により達
磨の教えと受け取ってきたのだが、当然ながら達磨に遙かに及ばない弟子たちは、無意識にも達磨の教え、師の教えに、勝手なものを付け加えたり、聴き落した
り、押し曲げたりする。悪意によってする事でなくても、未熟によって、してしまわざるを得ないのである。
バグワンは、それを、やすやすと読み分けて行く。これは達磨の言葉、達磨の教え、だが、ここは弟子によるとんでもない間違い、脱線、無理解、歪曲である
と、明快に指摘して行く。実によく分かる
。一つにはもうバグワンとのつきあいが長いから、わたしにも理解が進んでいる。読み飛ばしではない、じっくりと日
々に音読し、目と耳と口とで読んでいる。少しずつ少しずつ、それもなるべく知解しないように、ハートで読んでいる。ああ、これはおかしいなとかなり気づく
し、それが、即座にバグワンによって読み分けられて行く。「光明enlightenmentを得ている」人になら、悟りを得た人になら掌をさすようなもの
であるに違いないと思うので、バグワンの読み解きに不審を覚えることは、いままでのところ一ヶ所もない。一度もない。なるほど、これはひどいやと思う記述
が混じっている、相当な量まじっている。
こういうクリティクの本を、あまり読んだことがない。聖書は、莫大な研究により真にイエスにもとづく箇所が読み解かれているに違いないが、バグワンのよ
うな一人の「覚者」が、ただもうすたすたと道を歩きながらあらゆる迂路に決して紛れ込まないといったものは知らない。有り難い。透徹した英知である。あや
しげな、不穏な、俗欲にまみれた言辞ものは、微塵も認められない。しかも山林や深山に隠れよなどともバグワンは言わない。
* 数日前、湯川秀樹博士と夫人との「ノーベル賞」物語のような映像をテレビで見た。結婚するときの夫から妻への
誓いに、ノーベル賞を取るという一
事があって、それが成就したのだ、めでたい。
あの頃わたしは中学生だったが、胸のふくらむ朗報だった。理論物理学がどんなものか知らないが、中間子理論に到達するまでのご苦労、さこそと想った。秦
の母と湯川さんの生家とはご近所で、母は、湯川さんのそれぞれ著名な兄弟についても、聞き知っていたことを、嬉しそうによく話してくれた。
博士の生家は湯川姓ではなかった、奥さんの方の苗字である。奥さんの家は聞こえた病院で、湯川さんが婿養子であったか、たんに奥さん側の姓を名乗ってい
ただけか、そういうことは知らない。
そこまでは、それだけの話であるが。
結婚して間もなく、奥さんは、夫の机に積まれた幾つも幾つもの封書に目をとめざるを得なかった。みれば、洋書など書籍類の請求書の山であった。奥さんは
黙ってそれを自分の父親に差し出し、父親は、つまり湯川さんの舅は、黙ってそれをいつも全部支払ってくれた、という。
* おお、これこれと、テレビを観ていたわたしは思わず声をあげた。いまは青山学院大学の教職にある我々の娘婿は、自身ルソー学者でもあるらしい娘の夫
は、『エミール』の教えに背いても、実はこうして欲しかったのだ。
学者の舅姑たるものは、こういう具合に「住む家」も婿に与え、黙っていても「生活費の半分」も拠出提供すべきだし、学者の嫁たるものは、実家から黙って
そういう金を引き出して来べきものだと、そう、我々の婿は考えていた。われわれ舅姑へ罵詈雑言の手紙とともに、そういう要求を突きつけてきた
(手紙は残っている)。つまりおまえたちは、「学者を婿にした親」として失格だ、湯川博士の舅のようであるべきで、それが「常識」であり、自分の知る限り
「みーんな」そのように嫁の実家が「学者婿」の学問を、黙って喜んで支えていると手紙に書いて寄越した
(手紙は残っている)。貧乏文士のわたしを「非常識な世間知らず」と罵って、経済の役に立たないそんな「嫁の実家」とは「親戚づきあいを絶つ」と手紙で離
縁を宣言してきた(手紙が残っている)。あげく舅の私にむかい、なんと、『エミール』を一度読むがいいと訓誡まで垂れて来た。
よほどけっこうな「仲人口」がつかわれていたのか、よほど稼ぎのいい売れる作家だとでも勘違いしていたのか知れないが、九十歳前後の恩のある育ての親た
ちや叔母を三人京都から引き取り、狭い家で喘いでいたわれわれ夫婦には、出来た相談では無かった。
結婚後、それでも孫が一人生まれてくるまで、この三十過ぎ、まだ学生身分の婿は、ムカムカしながら我慢していたらしい。腹立ちの緒が切れたように、「非
常識な作家」である舅姑の私たちに、非礼の限りの手紙を連発し、理不尽にも娘の親たちは、娘や孫とも「姻戚の縁」を「絶たれ」てしまった。わが娘は、「そ
れ(援助)」が出来ないのだから、形だけでも夫に、婿に、経済支援できないのを「詫びてくれ」と頼んできた。
妻はすぐにも離婚させたいと願ったが、わたしは、魂の色の似た同士「夫婦」で、また親子で、仲良く生きてもらいたいと、娘や孫を手放したのである。
やがて十年。
* 湯川さんの奥さんや父親の仕向けが「美談」視されたことはありえたし、そういう例は「みーんな」でないまでも、有ったろう事は察しがつく。ところが我
々の婿にとって「不運」なことに、私は、徹してそういう思想や生活態度の持ち主ではなかった。出来もしなかったが、じつは、出来たにしても、そういうこと
は、よほどよくよくの場合でない限り、むしろ「しなかった」と思う。健康なら若い力を尽くして生きよ、夫妻協力して生きよ、と。その点ではわたしは、湯川
秀樹よりも、はるかに新井白石の態度を尊敬してきた。
新井白石また、湯川さんにおさおさ劣るどころでない大学者であり、大詩人であり、優れた政治家であった。彼の青年時代の貧窮は、豆腐屋の捨てる豆腐絞り
粕で飢えをしのぐ有様だったが、学問には立派に励んでいた。優秀さを伝え聞き見込んだ当時著名の豪商は、「三千両の持参金」附きで娘を嫁に取って欲しいと
申し入れて来たが、白石は潔しとせず、すぐ断っている。自伝にそう書いてある。
同じく「美談」であるとして、われらが婿は、湯川家の例をもって「常識」とし、常識の守れない嫁の実家とは親戚ではいない、利用価値がないと、切って捨
てた。
私は、断然白石という人が好きであった。湯川さんのことは、はや遠い古であり今は論評しないけれど、ま、私は、娘の亭主を「情けない甘えたヤツ」だと思
い捨て、惜しいと思わなかったのである。仲人口に感謝して乗ってしまった点では、恥ずかしながらアイコだった。私自身が、娘を、いわば押しやったような結
婚であった。
「ヤメテクレ」
言いたい一言は、これに尽きる。
* 八月十三日 金
* 「変身」というコーナーのある、午後のテレビ番組に再々でくわす。再々家内が見ているということか。ちょうど
その時分が、仕事中で一息つく頃な
のでもある。奥さんやご主人が、あまりダサいというので、プロの手を借りて変身するのである。
十の十まで、変身すると、たしかに見栄えがする。髪型がものを言うが、身につけるもので、随分変わる。その点、いくらこわそうな先生に教わっても、にわ
か仕込みの「身動き」だけは、どうにもならない。馬子にも衣裳というけれど、猫に小判という批評もある。一朝にして、例えばお茶の手前がうまく、すっきり
とはできっこないのと、同じである、お茶の先生だった私に言わせれば。
* 変身の魔法を使うのはいろんなプロであるが、彼らの魔法が、商売を仕掛けるかたちで表れるとき、なにもかも
「佳い」などとは、やはり、言えな
い。
わるい例の顕著な一つは、若い人向けの「浴衣」ではないか。
先日川開きの花火を見に、銀座から地下鉄で浅草へ行った。ガングロとカレシたちで、電車も、浅草の街も溢れ返っていて、ギャルの殆どと言いたいほど大勢
が、浴衣姿のつもりらしかった。ところが、どれもかも、どぎつくて暑苦しい色、紫っぽい色や赤茶っぽい色、で、胸くそがわるかった。あっちを見てもこっち
を見ても同じ黄色の蝶結びした「ひっつけ帯」だか「簡単帯」だか、靴まで履いてそんなのばっかり。
白地に紺の、紺地に白の、すこしだけ赤も混じったような、あっさりしたいわば朝顔の花のように冴え冴えした清々しい浴衣姿の涼しさは、いくら捜しても見
あたらなかった。稀に人波のなかに一人でも見つけると、その少女の身の回りにだけ、澄んだ空気が取り巻いているような、救われた気がした。そういう子は
ちゃんと下駄を可愛らしく履いていた。
それにしても大勢の娘たちの、浴衣の着方。体の前で、着物が縄のようによれて、身前がまるでバラけてしまっても、平気で、大声で話しながら笑いながら食
べながら歩いている。履き物がまたひどい。どたりどたりとした、コルクっぽいサンダル。
* 断って置くが浅草をわるく言うのではない、この晩は東京都近郊のいたるところから花火をめあてに押し寄せてい
ること、われわれ夫婦も例外ではな
かった。
ああ、ひどいなと、わたしはひとりで胸の中で暑苦しい女たちの夏姿に落胆していた。東京が田舎だからか、ああいや、それでは田舎が気の毒である。田舎に
は田舎のきちっとした風があり文化があるが、東京の浴衣姿には、痴呆性の露出を感じる。
東京の、と言ってはならないかも知れぬ、これは「変身の魔法使いたち」が全国に仕掛けた「商売による流行」なのであろうから。だが、それならそれで、東
京のお嬢さんたちよ、きちっと着こなすことから習い始めてほしい。左前はやめて欲しい。
* 京都なら、あんな着物の着方で、街なかが歩けるだろうか。わたしの記憶には無い。祇園会の頃の、なつかしい京
の少女たちの顔、顔、顔が思い出せ
る、何人も何人も思い出せる。一人としてあんな不格好は思いも寄らないし、彼女らが母になり祖母になり、娘や孫娘に、よもや、あんなひどい、暑苦しい、見
苦しい浴衣姿はさせていまいと、わたしは望みを抱いている。
「変身」が必要なのではないだろう、身にあったものを適切に我がものにして行く、ふだんの意図が足りないだけではないか。衣裳を魔法の領分に安易に売り
渡すから、魔法が解けたら、馬子に衣裳どころか、ただ、だらしなくなってしまう。心清しい美しい花火に嗤われていたのである、無粋でぶざまな浴衣姿が。み
んなで着てれば、どうでもいい、のか。
* お笑いでいま超売れっ子といったら、誰だろうか。その売れっ子のスタイリストを、十年いや二十年近くも続けて
きた読者がいる。あまりに忙しい商
売で、そう逢うことはないが、ごくごく久しぶりに顔をみるたびに、あんまり服装がそっちとこっちとで違いすぎるので閉口する。普段着よと言うけれど、わた
しの方は、普段着どころでないどうしようもない簡略な、つまり行儀のよくない格好をしている。ラクなのである、その方が。それで落差が大きいということも
あるが、それだけではやはり無く、魔法使いもいろいろだろうけれど、とにかく和服でも洋服でも、なんだか、感覚が違いすぎる。
けったいなカッコしよるなあとこっちは見るし、向こうはヤバンジンと思っているのだろうが。そんな二人が妙な店へ妙な食事をしに入ると、だいたい、どっ
ちかの一人が異様なもののように店のものに見られてしまう。どっちも、気にしないのだけれど。
* 昔は藝人のスタイルが素人の趣味を刺激した。その点は今も同じだろうが、昔の流行る藝人が専属のスタイリスト
を抱えていたとは、思われない。
もっとも床屋や髪結がいたし、呉服屋とはつき合いがあったろうから、自然知恵も借りたろうが、実は藝人側から貸していた・出していた知恵の方が多かったろ
うとわたしは思う。なにしろ藝人は「変身」の名人上手が多かった。物まねややつしが、本来商売だった。
* 国会や自自公連立など胸くそがわるいので、変な方へ想いが逸れていった。
菅直人は、一つだけいい線を喋っている。民主党でも野党連合でもいいが、シャッポに、本気で中坊公平さんを三顧の礼で迎えた方がいい、と。
それなら、流れが変えられるかも知れぬ、とにかくも。
* 八月十四日 土
* 明日が、京都ではお盆にあたる。とくべつなことは、しない。日頃から、両親や叔母のことは妻としょっちゅう思
い出話をしている。感謝もしている
し、手厳しいことも言っている。すぐ身近に、三人の位牌が置いてある。聞こえるものなら親たちも話の仲間に入っているわけで、こつちもそのつもりで、べつ
になにも遠慮はしない。
なにの供養になるわけもないが、たまたま祖父の死から戦時中の「丹波」疎開先のことを書いたのがあったのを、今日は、妻を前にし、読んで聞かせた。父に
も母にも叔母にも、それぞれに感慨のあるに違いない戦中から戦後への記録だ。
丹波の山中に二十ヶ月疎開していた。この体験は、一つには「京都」という街暮らしを徹底して相対化してくれた。農家が十軒ほどしかないちいさなちいさな
山奥の部落に、とくべつの縁故もなく、町内の知り合いの、ほんの口利きを頼りに疎開した山村だった。
もう一つは「わが家庭」をも痛切に相対化してくれた。祖父と母とわたしとが三人でお世話になった農家は、とても和やかに愛情に溢れた豊かな家族、大家族
だった。「こんな家庭かて、あるのやな」と、子ども心にびっくりした。京都の我が家は狭く暗く、その上、平和ではなかったし、わたしは小さな孤心に秘密を
抱いて親に接し人に接していた。よその家庭を知ったのは大きい体験だった。そして、何といってもそこは農山村であった。生活に、暦の流れがあった。
* 幼少の体験を胸中の分母にして、短編小説をいくつも生んでみたい希望をもっている。すなおに志賀直哉流をやっ てみようかと思いもするし、また、 室生犀星の『杏っ子』が、短編の鎖になっているああいうツクリを、楽しもうかなという気持ちもある。
* それはそれ、今ひとつお盆らしいことをいえば、このごろ、妻が「念仏」という信仰について、法然の「選択」や
「一枚起請文」について、阿弥陀如
来と釈迦如来について、また密教や禅について、わたしに、ものを問いかけてくる。ゆうべも、そうだった。われわれは十年前に父を死なせ、ついで叔母と母と
を死なせ、そのつど京都の菩提寺で、納骨や百日や周忌の仏事を、比較的几帳面に重ねてきた。ただし、親類も呼ばない。いつも夫婦二人だけ、時には息子が加
わって、至って内々にしてきた。そういう機会に大勢で寄ってというような考えも風儀もわれわれは捨て去っていた。
で、坊さんの読経と指示とに随って、われわれはお経をいっしょに誦えたり高声念仏にいそしむ。初めは声のでなかった妻もこの頃はちゃんと「南無阿弥陀
仏」と称えている。阿弥陀経や観経などは家でもよく念誦しているので、妻もあらましどんなお経であるかを、いつ知れず覚えてきたらしい。
一方、わたしはこの数年、バグワン・シュリ・ラジニーシの本に接していて、説法を自身音読し耳にも聴いているが、妻も黙って耳を傾けているらしいこと
は、大分前から察していた。バグワンは、禅に、深く触れている。『十牛図』の教えも『ボーディーダルマ』の教えも、バグワンの悟りが禅に、また老子にじつ
に柔らかに接したものだと分からせてくれる。
妻には、禅と、念仏と、また釈迦の教えのどういうところに、より仏教の根底があるのか、疑うのではなくて知りたい気持ちが動いているらしい。
そういうことになると、およそなことは言えない、なまじなことは言わぬが優るであろう。が、そういうことを話し合うことは、いかにもわれわれも年齢だな
と感じるし、おりからお盆でもあるのだし、両親や叔母たちがニヤニヤしながら未熟な息子と嫁との対話に、「勝手なこと、言うとい」とシンラツに話し合って
いるかも知れぬと思うのである。ま、よかろう。
* 考えるまでもなく考えてみると、目下のわたしの毎日は、いわゆる宮仕えの職業はもたず、かと言って原稿や出版
であくせく稼ぐことも必要とせず、
好きなだけ好きなことを書き、読みたいだけ本を読み、寝たい時間に寝て起きたい時間に起きて、三食を食い酒もいろいろ飲み、テレビも見て猫とも遊んでいる
のだから、あ、なんという佳い暮らしをしていることだろうと思わずビックリしている。
こういうところまで、よろよろ、とぼとぼと歩んできた、来れたのも、親たちのお蔭だと言う以外にない、むろん妻のお蔭もある。とうてい悟れそうにはない
凡骨であり、ま、「南無阿弥陀仏が成仏するぞ」といわれた一遍聖の遙かな声をたよりに「安心」を得たいと思う。
* 八月十五日 日
* 「公」支配と「私」服従の政治パタンが、戦後五十五年にして復活した。公権力が私生活を圧倒した。不幸な時代
が始まる。日本の新世紀は公「安」
と私「服」の時代になる。このままでは、なる。国民の権利と幸福と自由を考えての公の政治など、末梢に於いては知らず、根幹において枯れ尽くした。今から
生まれくるものたちに、心からの祝福を与えかねるのは、残念を通り越し、おそろしい。
昭和二十年の今日、国民学校の四年生だったわたしは、丹波の山なか暮らしのなかで、大人たちと混じって裕仁天皇の終戦宣言を聴いた。頭の上をおさえてい
た蓋が外れたような不思議な心の明るさに、敗戦の悲しみなどとはまた別に、思わず赤トンボのようにわたしは夢中で走り回った。
あの瞬間にはじまった「戦後」が、「戦後民主主義」が、いま、ほぼ完全に潰えたのだと思う。小渕や小沢らの我が世の春をうたう表情は、国民のために良い
政治をしている満足の表情ではない。国民をようやく手足のように自由に支配し管理し追い使えるようになったぞ、してやったりという権力者の顔だ。なんと醜
いことだろう。
* 「私の私」が自由でない「公」の存在などを容認してはならない。八月十五日に、わたしは、そう覚悟を新たにす る。
* 昨日のことだったが、テレビの音楽番組がたまたま目に入り、場面は、往年のデュエット歌手ロザンナの登場だっ た。相手でありまた夫であったヒデ はとうに亡くなっている。昔の歌をひとりで歌うのかなと見ていると、デジタルの技術を尽くして、過去の映像からヒデを抜き出し、その歌声と映像とともに現 世現在のロザンナがデュエットした。なかなかの好演、イキはぴたりと合い、聴いていて見ていて涙がこぼれた。世の多くの「死なれた」人たちにははるかに訴 求力つよく、羨ましいと思った人も悲しみを新たにした人も多かったろう。
* いま、湖の本の「中世と中世人」二に、『ちくま少年図書館』の一冊として二十年前に書き下ろした『日本史との 出会い』を用意している。建前は中 学生向けだが、大人が、大学・高校生が読んでちょうどという、遠慮なく少年に背伸びを要求した本になっている。そのわりによく売れた本であった。そんな題 をつけていながら、なかみは、「後白河院と遊女乙前」「法然と親鸞」「足利義満と世阿弥」「豊臣秀吉と千利休」という四組の出会いを語っている。それに よって日本の歴史を語っている。この組み合わせにわたしの「思想」の結晶を意図した、それなりに渾身の仕事だった。中世との真の出逢いによって今日と未来 への希望や気力を得たかった。
* 学生たちよ、きみらは、何をしているのか。きっと来る、つぎは徴兵制だ。きっと来る、つぎは貴族(院)の復活
だ。もうその声は小沢一郎らの参議
院骨抜きの意図に露出している。国は守らねばならぬ。だが「だれの国」を守るのか。公の国を守るのか、私の国を守るのか。「私」に支えられずに「私」を好
き放題に利用するだけの「公」などに、何の存在理由が在ろう。
* 八月十六日 月
* 信頼している友人からのメールを大切に書き留めたい。
* きょうは大文字の送り火。55回目の夏は、随分きな臭くなってきました。
「学生たちよ、きみらは、何をしているのか。きっと来る、つぎは徴兵制だ」という言葉を重く受け止めています。我が息子や甥たちの世代に「徴兵制」にな
らないよう、国の動きを警戒していかなければと思います。
山口瞳流に言えば、「国とは、日本政府であり、政府とは、いまなら小渕政権であり、兵隊になって国のために死ぬというのは、小渕政権のために死ぬという
ことである。」
国旗・国歌法案が出来、さっそく君が代斉唱が、始まりました。3年前息子の中学の卒業式で、起立せず、斉唱せずで、夫婦で座って、黙っていましたが、今
後は「退場」といわれるのでしょうか。民主主義というのは、違いを尊重することです。多数決で決めることと、少数意見を併記することは両立すべきです。
オール・オア・ナッシングでは、全体主義です。
* 新制中学の昔の友が、太平洋を越えて遠い記憶を呼び起こしてきた。おもはゆいが、そうだったのかなあと、なつ かしい。一部を記録しておく。
* (新制中学一年生の時の)運動会の学年別リレーのシーンは強く印象に焼きついています。2、3年生を相手に先
頭走者をつとめるのは恒平さんで、
飛び出すなりスタートからトップです。そのまま1周して次にバトンを渡します。第2走者以降は実力どうり抜き去られてしまうのですが……。当時、上級生と
いうのは絶対的な存在でしたからね。スゴイなあと驚嘆したものです。「1年生でいちばん早いのはハタかサン公(奥谷クン)やろなあ」とは有済校出身者の
レース前の話でしたが、恒平さんのスタートの瞬発力は天性のものだったでしょうね。
全校生徒集会でも上級生に対抗して臆することなく論陣を張れるのは1年生ではたった一人でした。
この次(のメールで)は演劇大会{山すそ}の思い出などを。
* 学年別で優勝組を出し、三学年で対抗したのだろうか。記憶がない。ただ走るのも跳ぶのも好きだった。小学校の
高学年からぐんぐん強くなった。戦
前戦後の山村での疎開生活が、ひ弱かったからだを、いつ知れず鍛えていたのかも知れない。小学校時代にはどうしても勝てなかった奥谷友彦君(頭部が逆三角
に見えたので、三角から三公、さらにサンコとあだ名され親しまれていた。)を、中学に入っての対抗リレーで、遅れて追いかけ、ぐいと抜き去った瞬間のオヤ
オヤという嬉しい奇妙な気分は、ありありと思い出せる。
恐がりのくせに跳び箱も好きなら、高跳びも幅跳びも三段跳びも大好きだった。それでいてあの頃、叔母のもとで茶の湯の稽古にわたしは熱中しかけていた
し、学校鞄の中には、短歌や俳句を書き付ける帳面をいつも忍ばせていた。硬派ではなかった。
* 八月十八日 水
* 石垣島から美しく完熟した大きなマンゴーが、二顆、届いた。マンゴーの研究で国際的にも活躍中の、若い、お茶
人でもある研究者からの、嬉しい季
節の贈り物である。もう食べ頃で、冷やして置いて、まず一つを、すこぶる美味しくいただいた。ウフーンと、高いため息のでる、圧倒的な美味であった。甘み
と果肉の熟れた柔らかみとが相乗効果で、みずみずしい。香りもいい。ありがたい日本列島最南端からの夏だよりであった。
メールではいつでも楽しく話しているので、遠い人という気持ちは少しもないが、逢ったことはない。ユーモアのセンスも豊かな、独身男性だという。いつ
か、逢いたい。
*
把握が強ければ表現も強く深くなりうる。それが、わが思いの芯にある。志賀直哉は、場面が、しっかり目に見えるように想い描けてから、その通りに書けと繰
り返し言っている。想像力や自己批評力が不足していると、「にわか雨が急に降ってきた」などと平気で書く。気取って、自分の母を「お母様は」などと言いな
がら、そのお母様の好意やもの言いへの敬語が、ばらばらに、使われたり使わなかったりしている例を、今日も、人の小説で読んだ。推敲すれば容易になおるも
のを、読み直してもいない。インターネットの上で、いともあっさりと小説らしきものが氾濫しているが、しっかりした文章にはひとつもまだ出会えない。出会
いたいと捜しているわけではないが、ただの「創作ごっこ」にもパソコンが愛用されていて、そこに批評の力が全然働いていないとなると、光る星に出会うのは
奇跡に近い。
わたしは、日々に、かなりのメールを親しい友人たちと交換している。顔も知らない人が多いけれど、長い間例えばわたしの「湖の本」などを介してのお付き
合いがあるから、お互いに気心が通じている。魂の色も自然に似ているらしい。そういう間でのメールの文章は、気軽であれども、親しんで狎れないから、気持
ちが佳い。絹のような風合いで書く人も、麻のように涼しげに書く人もある。詩人は詩人の、歌人は歌人の、画家は画家の、しっとりと正しいものの把握があ
る。だから佳い表現もある。メールを楽しむのは、なにも、ヒマを弄んでお喋りしているのではない。
* パソコンの先生(東工大院生)から、「ヤフー」とかへホームページを登録してはどうか、文章を書いてくれたら 代理で申し込んであげますよと勧め られていながら、していない。この、わたしのホームページには、現在少なくも三千枚以上の原稿が書き込まれている。この「私語の刻=闇に言い置く」もふく めて、みな、我が文藝の表現だが、この莫大な量を器械から直に読める人はいないのだから、わたしのホームページは、文字どおりわたしの「原稿用紙」なの だ。日本ペンクラブと日本文藝家協会のホームページに、極く親しい二、三の友人のホームページにもリンクしていて、それで十分ではないか。
* 左膝の周囲に三十箇所も仔猫の「マーゴ」にやられた大小のひっかき傷が、赤く蚯蚓腫れになっている。ひりひり
痛む。右脚にも、腹にも胸にもあ
る。以前の母ネコ子ノコの場合は、ほぼ同時に我が家に母子で住み着いたので、エネルギーはお互いに母子で吸収し合ってくれていた。いつも晩になると、ひと
しきりノコがネコにとびかかり、噛みつき、くんずほぐれつ格闘していた。遊びでありスキンシップでもあったろう、喧嘩していたのではなかった。それでも母
親の方が辛抱しかね、逆襲したり、うるさがって唸っていた。子ノコは、だが、とても幸せそうだった。観ているわれわれも幸せだった。
だが、今度はもっぱらわたしたちが親代わりになっている。生傷だらけである。ひりひり痛む。この子がオスなら、思い切って外で飼おうかなとも思う。オス
は所詮はいつかずに、どこかへ行ってしまう、そういう残念な経験ももっている。
家の中に元気な小さい生き物がいると、ほんとに楽しい。
* 志賀直哉の小動物への姿勢は高圧的で殿様然としていて、気に入らなければ「いじめ」るし、ふみにじり、ぶち切
るようにも殺す。なにしろ電車に
乗ってわざわざ郊外にまで行き、殿様蛙の群生しているのを目当てに棒で叩き殺して楽しみ遊び、「千人切りだ」と死骸の山に凱歌をあげる人であった、もう青
年という年齢になっていて、なお。飼い主の膝や脚に猫や犬が三十も五十も噛み傷やひっかき傷をつくろうなら、即座に殴り殺されていただろう。
不思議な人だと思い思い全集を読んできているが、気がつけば直哉の場合、目下の女や、よその労働者層の男らに対しても、小動物へと質的に同じ態度で接し
ていた。うまくすれば「気持ちよく、」すこしでも気まずいと、「不愉快だ」と言い放ち平気で切り捨て蔑んでいる。小気味よいほどそれで徹しているが、ほん
とうは小気味よいことでも何でもない。上つ方は下々に下の世話や裸の世話をさせても、全裸でなんら恥ずかしいけはいもなく開け放しだと聞いたことが何度も
あるが、直哉の動物への態度には、少なくも人間的な配慮に通い合うものは、ほぼ必要とされていないし、駄犬や駄猫は飼うのもばからしいという。駄犬が案に
相違して利口だと、やっと可愛がる。すべては自分の気分で決めている。
このわたしが言うのはおかしいが、わたしでも、小動物やペットに対し過度に感傷的なのは一種精神の衰弱現象だと思っているけれど、直哉のように、必要と
なれば若い鴨の首を手でねじ切り、血の滴るのを自分の子どもに持たせて持ち帰り、家で食って「うまかった」などと言える無神経な強心臓は持ち合わせない。
白樺の人道主義に必ずしも乗り切れずに「身を退いていた」という直哉であるが、白樺派のそれとても、かなりは、やはり、上つ方の感覚から遠くはなかったろ
うと思われる。
* 八月十九日 木
* 映画「明日に向かって撃て」をテレビで。好きな顔触れで、わるくはなかったが、も一つでもあった。昔の「ポ ニーとクライド」また新しい「俺たち に明日はない」あるいは「夜中のカーボーイ」その他同類の映画でもっとしみじみと成功していた「身内」ものがあった。
* 文学や映画の主題に、「愛と死」はつきものだが、それらを乗り越えて、またはもっと深めて、われわれを真に感
動させているのは、「真の身内」が
描かれている場合であろう。
真の身内とは、なにか。
親子や夫婦や親族や兄弟姉妹。それがそのまま「身内」でなんかあり得ない実例は、山ほど世間に転がっている。
わたしは、早くから、子どもの時から、そういう「名乗り」の関係だけで結ばれ合っているのは、要するに「他人」同士だと思っている。親子も夫婦もきょう
だいも、「自分」ではないのだから、即ち「他人」である。「身内」とは、そういう「他人」や「世間」の中から選び取った、或る種の独特な同士をいう。これ
は譬えて謂う以外に説明しにくい。
* 人は「世間」という広い「海」に、投げ込まれるように生まれてくる。生まれると人は、自分の脚だけを載せられ
る小さな極限の「島」に一人で立
つ。一人だけで立つ。孤独な、孤立。それが「生まれる」ということの真の意味だ。島から島へけっして橋は架からない。人は淋しくて他の島へ呼ぶのだが、橋
は架からない。
それなのに、その筈なのに、気がつくと、一つの島、自分一人しか立てないはずの島に、二人で、三人、五人、十人で立っていると実感できる時がある。錯
覚、極めて価値ある高貴な錯覚であるが、そのような錯覚あるいは絵空事の真実を、真実分かち合える同士が「真の身内」であり、人は、心の奥底でつねに孤独
にさいなまれながら「真の身内」を求めている。あらゆる人間の劇、ドラマ、物語は、実はその欲求をこそ書いてきたし、書きつづけている。そこまで気がつか
ず、愛の、死の、損の、得のというレベルでし小説や演劇を、人の世を、浅く見て納得しているだけのはなしなのだ。
さもなければ「俺たちに明日はない」が、「明日に向かって撃て」が、感動をもたらす道理がない。主人公たちは、或る側から見ればどうしようもないならず
者の犯罪者ではないか、どこに感動の種があるか。しかし、感動する。かれらが「真の身内」であり、一人でしか立てない「島」に二人ではっきり立っているの
を認めて、うち震えるほど羨ましいからだ。
「真の身内」は極めて難しい。「身内崩れ」は容易に起こる。今夜の映画で、二人の男に真実愛された女も、死をわかつことで来世をも分かつ決断は出来ず
に、去った。「真の身内」とは、ともに死んで、ともにまたあの世でも生きうる仲である。「倶会一処」を信じ「倶生倶死」を果たせるかどうか。そういう身内
が欲しくありませんかと、わたしの脚色した戯曲、漱石原作『こころ』で、「K」は「お嬢さん」に問うていた。
わたしは小さい頃から「真の身内」が欲しかった。身内とは、一人でなく何人でも何人でも出逢いたい。本当に今もそう思っている。探し求めている。ただ一
人の「真の身内」もないままに死んで行くのが、即ち地獄だと想っている。
わたしはこの「身内」観を、「島に立つ」というイメージで育ててきた。意識して育ててきた。私のこの身内観で感動の質の説明されうる世界の名作・秀作が
どんなに数多いことか。「身内」を求める孤独と愛と歓喜、求めて求め得ぬ孤立と不幸と死。究極は、おおかたが、そこへ徹して行く。そこへ徹して行かないも
のは、どこかでチャチだ。作品に風がそよがない、命の叫ぶ声が聞こえない。
* 忠臣蔵があんなに人気を保ってきたのも、最期は四十七士の倶生倶死、一つの「島」を奇跡のように共有し得た
「身内」としての在りように感動して
いるのである。ただ、まだそれを「哲学」として意識し確認することの出来る人が少ないだけで、無意識には皆が憧れているのである。人間の意識市場でこれが
はっきり評価されるようにならない限り、わたしの小説はなかなか売れない、が、希望はある。
モンテクリストは最期にエバという身内を得て去って行く、現世から、希望を持って。『嵐が丘』のヒースクリフとキャサリンとが、あれこそが「身内」だと
思わない人はいないだろう。春琴と佐助も、わたしの「春琴自傷」の読みをとれば、まさに真の身内である。江藤淳夫妻も「身内」として逝かれたといえば、か
なりよく分かる。
* 志賀直哉夫妻、いや彼の家族にも、めずらしいほどの「身内」意識が濃い。稀有な例の一つである。直哉の全集を
全部読んでも、得られる知識は、彼
の家族家庭親族のいろいろについてだけといってもいい、それが八割も九割も、それ以上も、占めている。余所様の家庭のなかをこれだけ徹底的に、日常感覚
で、たいしたドラマも波瀾もなく覗かせられるなんて、普通なら何の役にも立たない。それなのに読んでしまう。読まされてしまう。独特のトーンで実現してい
る「身内」が、惹きつけるのだと想える。羨ましいまでの温かな赤裸々が、我が儘に、ありのままに露出している。直哉の文章や文体だけを我々は言い過ぎてき
たのではないか、その「身内」意識の質も問い直されて佳いのではとわたしは思う。
* 八月二十一日 土
* 京都文化博物館で開催中の朝日新聞社主催、没後五十年記念「上村松園特別展」図録に公表の、六、七十枚におよ ぶ長い『母の松園』をこのホーム ページの「エッセイ」欄に書き込んだ。わが松園観の、これは現時点での集成といえる。
* 面白い顔ぶれだなと、たまたま覗いた山折哲雄氏と猪瀬直樹氏とのテレビ対談に耳を貸した。お二人ともなじみの
深い人で、山折氏とのつき合いは三
十年余にもなる。猪瀬氏とはペンクラブの理事会や委員会で協力中である。
で、聞いていると、山折氏の口から、聖徳太子の仏教研究は外国とのいわば共同研究と言ってもいいとの発言があった。どういう意味かにもよるが、具体的に
立証できる発言なのか、「評論」的感想なのか、掴みにくかった。氏が仏教学研究者として発言されているのならばもっと先を教わりたいし、一種の評論家的な
感想か着想に過ぎないのなら…と、戸惑った。
また、しばらくして、明治の廃仏毀釈に関連して、当時の仏教受難を、猪瀬氏が、万延元年の遣欧使らが、近代文化に触れてきた驚きが、帰国してのち仏像や
仏寺を古くさく感じたのが原因だろうと解説しはじめた。
そんな理由でならば、神社信仰の方が、もっと古くさい外貌や基盤をもっている。だいたい、そんな単純な廃仏毀釈であったわけがなく、そもそも日本の歴史
は或る意味で「神」と「仏」との離反・競合・融和の久しく久しい反復であった。江戸時代後半からの国学神道の盛り返しと尊皇攘夷という政治運動との潮流の
中で、日本の「夜明け前」はかなりややこしく激動している。
猪瀬氏はもとよりコメンテーターであるから、テレビなりの思いつきを簡単に口にしていたのだろう、それにしても、お手軽なことを重々しく語っていて、白
けた。有名人必ずしも深くは語らない。
* 八月二十三日 月
* マンゴーをいただいた石垣島のMさんから、「マンゴーを黒四方盆にのせ、見菓子にすると、たいそう見栄えがし ます」と、以下こんなメールが届い た。面白いので、書き込んでおきたい。筆者は植物病理学者、そしてお茶人。
* 京都や東京近辺で育つ植物のほとんどを、C3植物といいます。C3植物は、太陽のエネルギーを使って糖をつく
るしくみ(光合成)が、温帯の弱い
光でうまく働くようにできています。熱帯の光はC3植物には強すぎてうまく育ちません。
一方、熱帯には、C4植物というものがあります。
C4植物は、どんなに強い光でも貪欲に吸収してどんどん糖を作り続ける、働き者です。
また暑い熱帯には、カム(CAM)植物という変わり者もいます。昼間は働かず、夜涼しくなったところで、糖を作る宵っ張りです。植物ながら、うまくでき
ているもんだなぁと感心します。
秦さんが感じられた熱帯果樹の生命力は、こんなところにもあるのかもしれません。
私は、漁港の真ん前に住んでいますが、朝から晩まで真っ黒になって働いている海人(うみんちゅ:漁師)のかみさんたちを見ていると、C4植物を思い出
し、昼間は酒を飲んでだらしないのに、夜になるとしゃきっとして漁に出かけていく、伊勢エビとりの海人をみると、CAM植物が頭に浮かびます。
* なんという生き生きとした精神の伺われるメールだろう。余分なことはなにも書いてない。徒然草の一段を読んでいるような気がする。Eメールや、パソコ
ンにおける「文学・文藝」の不可能をいう人もいるけれど、それはまた「精神の衰弱」をうしろむきの頭巾で隠そう隠そうとしているような図だ。
* 昨日は終日、湖の本の発送の用意をしていたが、晩からは、テレビを「聴き」ながら宛名貼り込みなどをした。ド
イツ映画『橋』をビデオにとり、耳
で聴きつづけた。黒白の戦争映画。この傑作をこれまでに少なくも三度は見ている。無邪気な少年たちが学校の教室からいきなり敗走するドイツ軍中隊に兵士と
して配属され、ちょっとした偶然でわが街の橋の一つを、指揮官もなく死守するものと思い込み、十人に足りないクラスメートだけで、潰走するドイツ軍には取
り残され、進攻してきた連合軍の戦車隊に果敢に挑んでむなしく果てて行く。「些細なことであったために記録も残らなかった」というこの始終を、リアルに、
声高にもならず、烈しく無残に描き尽くして、みごと。
藝術としても優れ、反戦意図もしっかり帯びた戦争映画の秀作がずいぶん数多くあり、わたしは、どう辛くてもその種の映画は求めて観るように観るように若
い頃から自分に課してきた。戦争物の文学作品でつよい感銘をえたものは、もちろん、ある。しかし優れた映画から受ける痛みや悲しみや憤りは、画像による訴
求力が大きいし、深く胸を剔られる。
黒白の映画の良さも『橋』は充分持っていた。近年では『シンドラーのリスト』も黒白映画で、いいものだった。
* 八月二十四日 火
* ラジオを聴かなくなっているので、ラジオのニュースが最近どう読まれているか知らない。テレビの方から言うの
であるが、もし現役女子アナウン
サーないしキャスターの「アナウンスないし話し方」で、ラジオでも、つまり耳だけでも、通用するのがいったい何人いるだろうか、と、苦々しいのを通り越
し、癇癪が起きる。明晰に、聴く側に心入れして、穏やかに、気品も人品もよろしく正確にアナウンス出来るのは、NHKの森田美由紀アナウンサーを筆頭に、
さすがにNHKにあと二三人、日本テレビの井田由美アナウンサー、高橋佳代子アナウンサー、またフリーの小宮悦子キャスターらぐらいしかいない。田丸美寿
々さんのアナウンスは相変わらず早口で言葉が散るが、そのかわり報道取材の内容がぐんと最近充実し共感を深くしている。賞讃しておく。
だが一般の情報番組やワイドショウものになると、どれもこれも身勝手な、しかもへたな早口で、言葉の粒がすりつぶしたように潰れて、いずらに語尾の強調
ばかりが耳に障る。いちいちアナウンサーないしキャスターの氏名を表覧にして、気になることを書き上げてみたくなるぐらいお粗末で、一言に言えば「聴く
側」の身、いや耳になっていない。本人はきちんと話している気かも知れないし、身のそばにいる相棒には聞こえているのだろうが、ブラウン管のこっちにまで
正確に届いていないことに、何故気がつかないのだろう。指導者もなぜ厳しくチェックし現任教育をしないのだろう。
愛嬌をふりまいてもらうのはイヤではないが、独り合点に、言葉を、キィになる言葉を、のどの奥に呑みこんでしまい、無意味に語尾ばかりを大声で話される
と、聴く側は呑みこめない。
* ある野菜を売るおじさんが、テレビで野菜の選び方を丁寧に話していて、要領がいいばかりか、じつによく聞こえる。おじさんのそばで相手をする女子アナ
ウンサーの話は早口で独り合点に上機嫌で、聞き取りにくい。一つには、おじさんの話し方には、キイになる言葉を引き立てるように、いわば句読点が親切に打
たれていたのであるが、一般にお利口そうな女子アナほど、一口に喋るセンテンスの長いこと長いこと、それが自慢と言わんばかりで、体言と用言とが単調に一
ツラに一気に喋られるから、つまり句読点のない長ぜりふにして喋るから、聴いていても堪ったものではない。
「あの違いは、簡単に言えるわね。聴く人の身になって話している人と、話している自分に浮かれている人との違いね」と、よこで妻は、わたしの思っている通
りのことを言う。
顔だけがいやに前に出て、かんじんの言葉は口さきで囀っているのがワンサといる。話し方のプロではないのか、少なくも「意味」を正確に伝えて聴く耳に届
くように「言葉への情」を深くしてほしい。
簡単なのは、「息にあった適切な自分なりの句読点」を、「聴く人の身になって」打てばいいのだ。わたしは句読点に気を遣って書き、また話そうとしてい
る。
* 男性アナは、大方が問題なくきれいに話しているのだから、女性アナの場合のプロとしての落第ぶりが、とにか
く、目に、耳に、つく。タレントなみ
に消費財のように使っている局の姿勢がよくないのだと、局は気づいていても直そうとしていないのではないか。久米宏のそばで小宮悦子はたしかに鍛えられ
た。移籍してきた現在の渡辺真理も、もともとアナウンスは実にへたくそだったが、だいぶ「読める」ようになってきている。心がけでできることなら、愛嬌以
前に実力と誠意を表現してほしい。
二年ほど前に「日経プロムナード」連載中にも苦情を言った。これからも言う。
* 世界陸上、まだ、今ひとつ気が乗らない。志賀直哉の方がうんと面白い。小説や文章は、面白いどころではない身
辺心境の単に短文ばかりなのだが、
それなのに、そこに表れる書き手である一人の男が、とてつもなく、面白くて深い。あっというまに、もう八巻を読み終わる。創作的文章はあと二巻だけ。あと
へ日記と書簡とがもう十二巻つづく。楽しみにしている。今まで以上に楽しみにしている。
岩波書店の全集の「方法」は、信頼できる。谷崎潤一郎にも厳格な、断簡零墨もおろそかにしない、そして本文クリティクの厳密な全集がぜひ欲しい。大読売
の力を借りている中央公論社の奮起を心より期待したい。大谷崎を支えるに足る大器量の谷崎学者が、まだ一人も出て来ないのは、情けない。
* 八月二十五日 水
* 大学時代の二年か三年先輩が、末期ガンで苦しみながら弱っているとべつの先輩から電話連絡があった。痛ましい
連絡であった。電話で応対しなが
ら、どう話していいのか、だんだん応答が軽率になって行くのではないか、なっているのではないかと、悩ましかった。入院先は東京の病院らしい、京都から親
しかった何人かが見舞いにくるが、果たして対面が尋常に叶うかどうかも危ぶまれる容体だという。
数年前に、いま電話をくれている先輩と三人で、吉祥寺近鉄のなかの「三友居」で楽しい食事をしたのが思い出される。電話の先輩が奥さんをなくされ、慰め
励ます意味もあのときはあった。Uさんが一頃よりも元気ではないなと、あの時、すこしだけ感じていた。
いまはの時にあるそのU先輩は、京都でも指折りの前衛陶藝家だった方のお嬢さんで、わたしが入学した頃から、研究会などで顔をよく合わせていた。ごく小
人数の専攻だったから、講義を受ける教室も、上下なしに一緒になることが多かった。このごろテレビドラマに役者で出ている作家筒井康隆も一つ上の先輩で、
なんどか教室をともにしたことがあった。
病に苦しむそのUさんは、わたしと先後して東京で結婚生活に入り、陶藝の制作はしなかった。電話で二三度、何人も一緒に会ったことも二三度。私の本もと
きおり読んでもらっていた。淡いといえばそれまでのお付き合いであったが、疎遠ではなかった。年齢も三つとは違わなかったろう、病重篤と聞くだけで胸が塞
がる。
お見舞いに行くことは敢えてしないとお断りした。温顔の物静かであった笑顔や声音を覚えていたい。少しずつ少しずつ身のそばが寂しくなり、自分のことは
もっと先の話のような気でいるのは、いい気なものであるなと、そう思う。
* 胸を静めることがなかなかできなくて、器械の中の「麻雀」を一局遊んだ。器械には他に「囲碁」が入っている。
碁だと勝とうとする。麻雀だと、で
たらめにするわけではないが、相手が三人もいて勝てると限らない。無心にと言うより、無思慮に対応しているだけで決着がついて行く。頭がわやわやと騒がし
く辛いときには、一種の反射運動に身をまかせるように、変わり映えのしないこのゲームに向かう。相手方には目もくれず、フルスピードでパイを捨てたり取っ
たりしている。タバコを吸わない代わりである。
以前の器械には麻雀牌をつかった「青海」とかいう純然たるゲームが組み込まれていて、そのゲーム以外には、文字の一字も書き込めないほど器械が「むだ」
に存在した時期が長かった。この「青海」ゲームは、出来るか出来ないかの結果勝負で、なかなか出来ない。こういうのに引っ掛かるとろくな事はなかった。逆
に気が滅入った。その点最速のスピードで打って行く麻雀は、短時間で結果が出てしまうので、タバコがわりにちょうどよい。繰り返さない。碁は「負けたくな
い」が、麻雀は勝ち負けがあまり気にならない程度に、時々勝たせてくれる。今夜も勝たせてくれた。Uさんの容体がすこしでも和らいだような気が、かすか
に、した。
* 夫婦哉 コーラわけあふ処暑の照り 遠
昨日だったか、積乱雲の青空の下を駅前まで、自転車の二人乗りで用事に出かけた。二人乗りは危ないなあと思いつつ、永年の習慣になっていて、つい自転車
で出かける。そして体力・脚力が落ちたなあとつくづく感じる。
* 八月二十六日 木
* 松濤の能楽堂で、梅若万紀夫の「江口」を観てきた。八月で見所は閑散としていたが、能はよかった。二時間の能
を退屈しなかった。前夜明け方まで
起きていたのに、眠りこけもしなかった。後シテの美しかったこと、優しく、品位の高かったこと、うっとりさせる幾つものしどころを、万紀夫は、やりすぎな
いで、丁寧に気を入れていた。大鼓の亀井忠雄、小鼓の鵜澤速雄のかねあいが立派で、笛は一噌仙幸、わるかろうわけがない。当たり前のようで、じつは三役の
息がぴたりということは、なかなか珍しいのである。
かわりに、ワキがややぬるく、間狂言の大蔵弥太郎も聞き苦しくなまった舌たるい語りで、耳を覆いたかった。どれもこれもとは、やはり、行かない。それで
もシテと囃子がよければ、とにかく、能が引き立つ。もともと心にしみて好きな能であり、話材である。和歌がよい。観ていて、小説が書きたいなという刺激が
あった。有り難かった。
* 渋谷という街はなんでああもがさつな雑踏になってしまったか。辟易というより、不快。街中が吠えている。かろ うじてタクシーで原宿にのがれ、 「南国酒家」で一息ついた。
* きのう、夜半の世界陸上は、四冠をねらうはずの女王マリオン・ジョーンズが二百の準決勝で故障をおこし、仰向
けに倒れる大事故があった。
今度のセビリアは、なんとなく最初から気が乗らなかった。季節が悪過ぎないか。事故と番狂わせが目立ち、判定にも問題があり、世界記録はまだ一つも出て
いない。マイケル・ジョンソンの四百決勝に望みをもちたい。
前の大会では、ジャマイカのオッティの、ファールと気づかないでの美しい疾走、棒高跳びのブブカの、最後の最期の雄叫びしてのみごとな逆転勝ち。あのよ
うな感動がほしいところだ、今夜は、テレビの前へ急ぎたい。
* 八月二十七日 金
* やった。じっと我慢して起きていてよかった。マイケル・ジョンソンが四百メートル決勝で、じつに美しく走っ
て、念願の世界新記録を高らかにうち
立てた。テレビ実況とはいえライヴでその瞬間に出会えたのが嬉しい。四百の世界新は久々も久々。世界陸上の世界新も前回はゼロだったのだから、今回も出そ
うで出るどころかという事故続きだったのだから、マイケルのきちっと演出されたような鉄の意志と練習の成果とには、ただもう感動した。
欲を言えば、準決勝を三百五十で流してしまったのを、全力で駆け抜け世界新にして欲しかった。決勝でそれを更に追い越して欲しかった。それほどの準決勝
のいい走りだった。決勝で失敗していたら彼は全世界から叩かれたろう。それを承知で決勝に頂点のドラマを構想していたのだから、たいへんな自信であった。
あまり好きな顔ではないけれど、世界新を出しての笑顔は晴れやかで若々しく、とても美しかった。起きていて、ちゃんと見届けられて、よかった。
女子四百を優勝した「アポリジニの星」フリーマンの走りもみごとだった。拍手を惜しまなかった。
* 仔猫のマーゴはわたしのそばでよく寝ていた。六百グラムで入来のマゴは、はや八百グラムを越し、からだつきが 丸くなって、可愛い。妻は「マァ ゴ」と呼んでいるが、わたしはどうしても前の愛猫の「ノコ」と呼んでしまう。
* 昨日の晩、能から帰ると映画「砂の器」の途中だった。加藤剛だし観ようかとも思ったが観なかった。前にも観て
いたし、松本清張のものはわるくな
いが、藝術のもつ、いいカタルシスをどの作も作も決定的に欠いているのが、特色でもあり大欠陥でもあって、能「江口」のあとで、わざわざ気分わるくはなり
たくなかった。しかし階下のテレビに映っていると思う、それだけで気分が重かった。
藤村にも漱石にも潤一郎や直哉にもけっして書けなかった世界を、松本清張はしっかり書いたけれど、そして悪や巨悪を告発はしたけれど、読者の胸に藝術の
火は点じなかった。読者を辛くはしたが励ませなかった。怒りや苦痛だけを遺した。
あのドイツ映画「橋」は悲惨なものだったが、映画独特の語り口の中に深く美しいものがあり感動が走った。悲惨の上を清冽に流れて行く藝術の効果が生きて
いた。だから繰り返し観たくなる。ビデオがとれてよかったと思う。「砂の器」は繰り返して観たいと思わない。ストーリーのなかにも、もうすでに風化しての
無理筋も露われていたと思う。
* 二十三日の、映画「橋」にふれて、逢ったことはないが心親しい懐かしい人の、こんなメールが届いていた。
* 『橋』は、わたくしも観ました。最後に字幕に書かれた「些細な」とは、何ということばかと震える思いでした。
近くに住んでいる友人たちと映画の自主上映なるものをしています。この夏は「映画三昧」と称して、一晩泊りこみというとんでもない映画会を催しました。
「戦争と子供」というテーマを据えて、ドイツ映画の『ブリキの太鼓』と、日本映画は篠田正浩監督の『少年時代』を上映しました。
『橋』も「戦争と子供」ですし、『禁じられた遊び』も『さよなら子供たち』も、そうでした。『禁じられた遊び』をはじめて観たときは、あのいたいけな幼
女ポーレットのその後が、気にかかって幾晩もねむれませんでした。『橋』でたった一人生き残った少年のその後を思うと、胸が苦しくなります。
「日の丸」「君が代」「盗聴法」、そらおそろしいことになりそうで。新しい『橋』や『禁じられた遊び』が作られる道になど、なってはならないと思います。
* そう思う。心から。
* 八月二十八日 土
* 言論表現委員会から、中国を訪問予定のペンの代表団の一人として猪瀬委員長も参加する。九月三日の会合で、
「文化交流」についての意見を聴いて
行きたいという希望が出されている。
二年半ほど以前に、団体は違うけれど、同じ目的で訪中した折りの文章が二つある。ここに転載しておく。
* 日中文化交流の微妙な憂欝
平成九年四月一日から十日まで、二十一年の間隔をおいて、訪中国二度めの旅を無事に終えてきた。中国文学芸術界連合会(文連)の招待による日中文化交流
協会代表団の旅で、松尾敏男氏(日本画家・院展)を団長に、バイオリン演奏の千住真理子さん、日中文化交流協会から小暮貴代さんら一行六人。作家は若い山
本昌代さんと還暦すぎたわたしと。もう一人が桐原書店社長の山崎賢二氏だった。和やかな、いい旅であった。旅の感想は、だが、言うまでもなくわたし一人
の、ごく率直に私的なものと断っておかねばならない。一行の顔ぶれからして、音楽の、美術の、文学の、さらに政治や行政の要人とも出会う折りが多く、十日
間に十何度も宴席や会合を重ねた。その中から特に印象深く感じ、また考えたことを報告したい。観光や見学の話題にはふれない。
わたしの訪中国は今度で二度めにすぎないが、一度めは二一年昔、昭和五一(一九七六)年だった。一行の中でいちばん古い中国を見覚えていただけでなく、
あの年には毛沢東、周恩来が亡くなり、華国鋒主席の指導下にいわゆる「四人組」を追放直後の北京入りであった。当時の一行は井上靖氏夫妻を始め、巌谷大
四、伊藤桂一、清岡卓行、辻邦生、大岡信氏らと、最も若かったわたし。日中文化交流協会から白土吾夫、佐藤純子両氏が同行していた。熱烈歓迎、じつに多彩
な旅であった。
何を以て「二一年前」の中国の印象を謂えばいいか。国中を覆いつくしていた激越な大字報、「四人組追放」をめぐる莫大な量の政治ステッカーと、鳴りやむ
ことのなかった革命賛歌を挙げておこう。北京も杭州も上海でも、武闘がまだ行われていた。人の名を逆さに書いて糾弾している大字報がいっぱい目につき、?
小平氏の名も姿もまだ地下にあって、再起の気配も感じとれなかった。
ところが二一年して、今年、その?氏は大きな足跡をのこして死去した。いわば中国のこの二一年間とは、?氏の存在感を国をあげて謳歌してきた二一年間か
のようであった。むろん、そうとばかりは謂えない抵抗もほの見え、その意味で中国はかつての「一言堂」ではもう在り得ない。「いろんなことも、或る程度言
えるようになっています」と、今度の旅の間に、それは何度も耳にした緩やかな「変化」の一つであった。そして人は動き、当然とはいえ、人の顔が大きく変
わっていた。
「一九七六年、われわれは三人の偉大な指導者をうしない、国こぞって嘆きは深く、加えて国と人民の未来への不安ははかり知れぬものがあった。そして今
年、また一人の偉大な指導者をわれわれはうしなった。悲嘆は二一年前のそれに劣らない。しかし、確実に言えることは、今の中国は、前途に何の不安ももって
いない。自信を持っている。そう言い切れる。それがこの二一年間のもつ大きな真のちがいだ。」
人民大会堂でわれわれと会見した王光英全人代副委員長は、明快にそう言い切った。これに尽きるナと、わたしは、文字どおり「一会一切会」といいたいほ
ど、目の前の中国を実感した。断っておく、現中国の「真実」を実感したとは言わない、「姿勢」を確認したという意味で、王氏の自負の弁ははなはだ分かり良
かったのである。王氏は故劉少奇夫人の実兄に当たる人であり、彼が「三人」と挙げたのは毛氏、周氏に加えて劉氏を意識していたのだろう。しかし二一年前の
訪中国当時、劉少奇は不名誉の死のまま険悪なまでに批判されていた。王氏の立場もまた推して知るべく、だが以来二一年、劉氏は偉大な指導者たる名誉を回復
しており、「反動的資本家」と批判され姿を消していた王光英氏も今は国会副議長に当たる要職に在る。人が動き、人の顔もつまりそのように大きく変わってい
た。なかでも絶頂の顔が?小平氏であった。印象だけで言うならば、北京で、西安で、杭州
で、紹興で、上海で、概ねこれと同類の人の顔をわたしはかなり多く見てきた。声も聴いてきた。そういう人達が、現に要職を占め要人として自信に満ち活躍し
ていた。そう感じた。わるくないことだと思った。だが、かすかとは言えない、深い驚きも禁じ得なかった。
一例を言おう、人民大会堂会見の上席を占めていた二人の人物から、闊達に、快活に、「資本家」という語彙が口を揃えてとびだし、非難でも批判でもなく、
また冗談とも思われない口調の愉快げな「自己肯定」の言とすら聞こえたことに、迂闊なわたしは、一瞬どきッとしたものだ。二一年間の変化が露頭していたの
であり、王氏のいわゆる「現在中国の自信」とそれとは、むしろ緊密に、明確に結びついていた。是非はともあれ、それが中国の「現状」かと驚いた。もう一度
言うが迂闊なわたしは、正直、驚いたのである。人が動いて顔が変わったとは、つまりは「資本家」を容認し自認すらしうるほどの要人が、各地に、要所に、復
活し復権していたということであった、わたしの「印象」では。
北京第一日めの晩餐には、清朝風極彩色の装飾や衣裳で溢れた、池辺の豪華な料亭に招かれた。主人公は人民大会堂会見で第二席を占めた、招待側主役級の人
物だった。歓迎の第一声、日中交流の場では決まり文句である「尊敬する**先生」という挨拶を、今夜はやめましょうと切り出され、異例のこの率直さには驚
き、気分がよかった。
さて、この人が書家でもあったのを好便に、宴半ばに「日本のひらがなの書」について感想を問うてみた。わたしは、中国の文化文物のなかで、書を第一等に
敬愛し、兼ねてその基盤にある漢字の恩恵に感謝している。今度の訪中国の、わたしなりに一つの主題のように、書と漢字のことがいつも念頭にあったのだ。
「いい質問」だと、それから、縷々主人公の「書」の講話がつづいた。興味深かったが、みな中国の書法についての解説で、わたしの質問に答はなかった。答
のないのも答であるから不服はなかったが、今度の旅行中、質問しても答えてもらえなかったことは、他にも幾つかあった。答えにくかろうことを尋ねている意
識が、いくらかわたしの側にもあった。例えば「心」の問題を現在の中国はどう考えているかといった質問に、まともに答えられる人は一人もなかった。二一年
まえの訪中国では、われわれの乗用車に入れ代わり乗り換わりして来るどの通訳(現在の陶外相も)からも、「心」というものは無い、無い「心」を問題にする
のはおかしいことだと、少々うんざりするぐらい、尋ねもしないのに聞かされた。説得を受けた。その印象は、旅中克明に大学ノートに日々綴ってあり、同じ
ノートを今度の旅にも携えて来たわたしは、昔の日記を読み読み、今回の旅の感想をその日その日にみな書き記していたのだから、うろ覚えに比較して言うので
は全くなかったのである。
それにもかかわらず、中国の人が「心」という言葉を肯定的に用いているらしいのを、今度の旅では何度も耳にした。当然の変化だと感じたし、だいじな変化
だとも感じた。
だいじな発言だと感じた大きな一つを、やはり人民大会堂の会見の場で聞いた。わが一行の一人が、日本の中国に対する「過去の不幸な行為」には、政府だけ
でなく、国民も挙って謝罪の意を示すべきだと思っているといった趣旨を述べたのに対し、即座に否定されたのだ、「日本の国民に罪はない、罪は国にあるので
す」と。そして、そのような日本国や不穏当な一部政治家に対する「先生がた」文化人の発言や感化の力は大きいと、いわば励まされまた期待もされた。
国民挙って謝意と反省をという日本人のアバウトな発言には、じつはわたしも全面の賛意がもてなかった。とは言え、なんだか有り難そうな中国政権側の託宣
は、これぞ中国の「政策」というものであるナと「聞く」にとどめた。日本の文化人に対し、このような荷を手ぎわに預けてくる「文化交流政策」に感心した。
感心する一方で、わが国の政策・外交も、同様のそんな期待や激励を、中国の来客文化人に対しよく授けうるだろうか、そもそも、そんな期待のもてる相手だろ
うかという失礼な疑問も兆していた。そしてその疑問に直接触れる一事件が、北京を離れ西安に移動して、すぐに起きたのである。
晩餐の席はおきまりの名刺交換から和んでいった。手元に何枚も名刺が集まって、いつもは胸ポケットにすぐ蔵いこむのだ、が、ふと中の一枚が気になった。
主人公である作家の肩書に、大きく「一級作家」とある。「No.1Writer」と英語にもしてある。
何なンだと思いつつ、食べ、かつ話し、だが、いつ知れず「ご挨拶」が一巡してしまうと、あっちはあっち、こっちはこっちの私語になりやすく、要するに退
屈してくる。「文化交流」のこの辺が微妙に難しくて、ときどき話題をかきまぜないと、会合の意味は薄れてくる。いや表立った意味など薄めなぐらいが無難な
「友好・交流」なんだという、高等な、大人の判断も無きにしもあらずかも知れないが、すこし「文化的」すぎる気もする。
で、上座の主人公作家に、あなたの名刺の「一級」「No1」というのは将棋や碁の段位のようなものか、だれが判定し認定するのかと尋ねた。すべて通訳を
介しての会話だから微妙なところは微妙におおまかなのは致し方ないが、認定し等級を授けるのは国であるとのことだった。作家だけでなく、音楽家も美術家
も、要するに中国では藝術家は国の組織に属し、国の給与をもらっている。その制度内で「一級」「二級」の認定はなされ、いわば大学の「教授」「助教授」と
いったものですと、通訳氏はその作家の弁を伝えてくれた。
わたしも、つい先頃まで国立大学の教授として国の給与を受けていた。教育研究機関に国家公務員が勤務し地位をもつのと、作家や画家が「一級」とか
「No2」とか位取りされるのとは、だが、同じことだろうか。東京藝大にはいろんな藝術分野があり教授も助教授もいるが、組織の建前における地位の高下
と、造形や音楽など藝術としての質の高下とは連動していると言えば、人は吹き出すだろう。教授助教授の任命にせよ、大学自治の前提を教授会はかなりていね
いに踏んでいて、国が大学の頭越しに任命したりはしない。
中国では日本のように原稿料が高くなく、生活ができない、だから仕方がないと、言い訳のような説明がすぐ追加された。日本の原稿料が高い低いの問題は、
すぐさま比較にはならないから脇におくしかない。率直の咎は、虚飾のそれより罪が小さかろうと、そう断った上で、率直に、わたしは、言わずにおれなかっ
た。
「ゆうべ、北京を離れる際も、送別の宴席で、一部の日本政治家たちへのご批判を聴きました。文化交流の場にふさわしい友好的な物言いながら、然るべき批判
と対応を、われわれに望んでおられたと思います。たとえ望まれずとも、わたしは、日本の政治家や政権の批判すべきは臆せず批判してきたし、今後もそうしま
す。われわれ日本の藝術家は国家から給与を受けていない。だが、思うままを表現し、ものの言える自由を得ています。それを誇らしく嬉しく思っています。失
礼だが中国の藝術家の皆さんは、お国から給与を得て創作されていると、今、お聴きした。お国柄という抜き差しならぬ問題がある。いわば主人持ちの創作とい
う古くて新しい問題にも、ここで深くは立ち入らないけれど、一つだけ言いたい。もし立場がかわって、われわれから、皆さんに、お国の政治や政治家に対しど
うかもの申してもらいたいとお願いし、お願いが、だれの目にも正当と思われる時でも、はたして、ちゃんと仰言って下されるのでしょうか。言論と表現の自由
のために、藝術家の精神の自由のために、その辺が大いに気になるが、皆さんは気になさっていないのか。」
そこまでは触れなかったが、香港や台湾の未来も気になる。難民とはみえない中国から日本へ不法入国者の激増も気になる。武器輸出や核実験にも不快感を
持っている。
はっきり申して、座はシラケたと思う。わたしは「文化交流」の作法に悖ったかも知れない。だが、招待側の話題をただ「聴く」ために行くのでなく、招待さ
れた感謝とともに、日本を「伝える」ためにも行きたい。そのように「交わり」たい。わたしはそう考える。かりにも「文学藝術」をかかげた組織の招きだっ
た。昨日今日の仲ではない、半世紀近くも「文化交流」してきた戦後両国の、文学藝術の関係者が現に会同しながら、実質にふれた話しあいがほとんど無い。出
来ない。著名な日本の「文化人」の名前はしばしば宴席に飛びかうが、ただ著名な名だけが情報の如くあるにすぎず、その人の業績や思想には、知識も、関心す
らも無げな実状は否めなかった。
こっちもこっちで、中国の優れた昔の藝術家なら、各時代の二十や三十人たちどころに挙げてものが言えるというのに、先方は、概ねそんな過去の自国人にも
藝術にも今や心から重きを置いていず、こっちは向こうの重きを置いているらしき現代中国の文学も音楽も絵画も、ろくに知らず、知るすべもたいしてもって来
なかった。だからそれを観せ・聴かせようと招いているというのだろう、けっこうだ。だが、それだけでは「交わり」方は浅いし薄い。批評がない、意見交換も
ない。お互い「居心地のよさ」ばかりを最上のもてなしとしている。無難だけれど虚栄的で、真実味は淡い。
本質的には「冷淡」なお互いこういう擦れ違いの上に、行儀のいい「ご挨拶」を交換しあい「尊敬」しあってきたと、それだけだ、無価値だ…などとは、決し
て思わない。
だが、例えば今回、双方で熱心に予定していた筈の上海音楽学院での、千住真理子さんのバイオリン演奏を、「授業時間中だから」と学生たちには聴かせよう
としない「交流」ぶりなど、先方の厚意と歓迎には感謝しつつも「知り合う」意味では甚だ寂しい。すばらしい演奏であった。心から惜しいの思いを禁じ得な
かった。
また例えば、中国の「書」は旧漢字でなければならず、新字体は書にはならない、画数が少なく体を成さないといった応答にも、もう少し議論を深めてみた
かった。画数といえば「ひらがなの書の美」を対比的に想わずにおれないし、漢字にも「一」や「大」のような文字はあるではないか。なぜ新時代・新字体の
「書」への意欲が現代中国の書家に生まれてこないのか。漢字感覚変質への中国事情も文化の問題になる、本気で語りあえる大きな話題は幾らも幾らもあるの
に…。国がまる抱えの藝術家たちに、どんな反動や反省が根を下ろして行くのだろう。変わった中国も、変わらない中国も、気になる旅であった。
(丸善「学鐙」平成九年七月号)
* 噫呼、坑兵坑馬
秦の始皇帝を、わがご先祖であるかのように、いつでも気軽に冗談を言ってきたけれど、この皇帝を親しく思ったこ
とは一度もない。
二十一年まえの初の訪中国で、北京から万里長城へ連れていってもらった時は、始皇帝の名に添えていつも雄大さの語られてきたこの建造物に、形容に絶する
威圧感もうけたが、一方で感嘆の思いもたしかに持った。長城にどれほどの「必要」を推し量るわたしには手立ても知識も乏しいけれど、あの歴史的な「表現」
には思わず首肯いて身を乗りだす自分を自覚したし、「凄い」が、それ以上の不快感は持たなかった。
言うまでもない「焚書坑儒」は始皇帝の思想弾圧の暴虐であった。たとえ二千何百年も昔のこととはいえ、こういう事歴を帳消しにして忘れてしまうほどわた
しは寛大ではない。医薬と卜筮と農事の書物だけで足るとして他を焚いた文化感覚も、儒者数百を反体制のゆえに坑埋めにし殺した事実も、とうてい是認できな
い。はやく滅びて当然だった。
今や世界中に有名な夥しい兵馬俑の大墓壙にも、ただ「唖然」としただけで、感嘆の思いなどすこしも起きなかった。偉大とか雄大とか滴ほども感じなかっ
た、ただ「すさまじ」かった。わたしの日本語では、これは最低の批評にあたる。
兵馬俑の造形が「すさまじい」のではない。兵の、また馬の、容貌や姿態表現の多彩かつ深刻にみごとなこと、舌を巻くとはあれであった。土壙の中に整列し
て今しも全身をあらわし、また半身をなお土に埋め、ないし首だけ覗かせ、その首すら刎ねたように喪った兵らもおり、将棋倒しに折り敷き崩れて無残な隊列も
ある。幾万の人・馬は倶にみな生けるがごとくに死に果てて、しかもなんと生々しいこと。よく見れば一体として誇らしげな顔をしていない。暗鬱に沈黙し、莫
大な量の叫びを一人一人、一匹一匹が無念に噛み殺し、虚空に視線をすえている。どのような理屈をつけてみても、これは「坑兵・坑馬」であり集団殺戮以外の
なにものでもなく、巨大な墓壙をおおって漂うのは、声を奪われた鬼哭啾々の悲風でしかなかった。気色のわるい、じつにただ気の毒な光景でしかなかった。
たかが作り物と唖う人もあろうか。いやいや現に第三壙にひろがり、この先新たな発掘も優にありうるこの超巨大墓壙の「発想」自体に、命なき者にかりて命
を弄んだ王者のかぎりない傲慢と殺意とがある。これら「造形」にたずさわり「埋葬」にたずさわったのは、むろん始皇帝や高官ではなく、無名の技術と生活を
もった民であったし、彼らはこの事にたずさわって、わが命の限りを空しく兵や馬の形に閉じこめるしかなかったろう。命を与えてしかも即座に死なしめるしか
なかったのだ、なんという陰惨無比の死が、夥しくも土に埋もれてきたことだろう。
あのとき、わたしは、思わず同行のバイオリニスト千住真理子に声をかけていた、「あなたの演奏で、これら無数の兵や馬の無念を解き放ってほしい」と。現
世の観客や聴衆はみな墓壙から立ち去らせ、ただ一人の天才が心こめて鳴り響かす音楽の魔法で、もしもこの兵馬たちの命蘇るならばと、わたしは渇くように幻
想していた。「弾いてあげたい」と、千住さんも、うち返し静かに、祈るように言い切った。
( 「日中文化交流協会会報」平成九年七月五日号)
* 日に日に変わって行くのが世界であり、変わりたがらないのが人間であるから、見ようによれば、上の、こんな感 想にはたいした意味は無いのかも知 れないが。比較して謂えば、もっともっと切実なべつの問題を自分は抱え持っているという自覚がある。そっちの方に重きを置きたい。
* そうはいえ、中国からは余りに多くを恵まれてきた日本文化である。ときどき、「遠」と署名することがあるの
は、「宗遠」という裏千家茶名を略し
ている。大学一年か二年の頃、自分で一字を撰して家元にゆるされた茶名だが、「遠」は、老子「有物混成章第二十五」から採った。「物有り混成す、天地に先
立ちて生ず。寂たり寥たり。独立して改めず、周行してあやうからず。以て天下の母たるべし。吾、その名を知らず。なづけて道という。強いてこれに名をなし
て大といい、大を逝といい、逝を遠といい、遠を反という。故に道は大、天は大、地も大、王もまた大なり。域中に四大有って王は一に処る。人は地にのっと
り、地は天にのっとり、天は道にのっとり、道は自然にのっとる」と。老子の原意は正しく調べ直した方がよいが、「遠」一字に自在に寄せたわたしの想いは、
少年なりにいろんな理想をこめていた。いまも気に入っている。中国古典がそれなりにわたしを導いた最も私的で早い一例である。
だが要するに文化交流という建前には、利休の謂う「かなひたがる」偽善がつきまといやすく、それを嫌う。「かなふはよし、かなひたがるは悪しし」とは尊
い覚悟である。
* 八月二十八日 つづき
* この三十一日に、九州日田の小鹿田焼に取材の、片平なぎさ主演火曜サスペンスが、秦建日子の脚本だという。小
京都シリーズで、前には吉備津の釜
と備前長船の刀鍛冶がらみで、いちど書いている。岡山で「殺し」ならその辺だろう。今度は日田だという。それなら小鹿田窯の厳しい「仲間」約束と佳い風景
風物がもってこいだろう。さて、どんなものが出来たやら、脚本どおりに演出され演じられることのまるで無いはなしとは聞いているけれど、それなりに、身を
縮め、観てみようと思う。
* 八月二十九日 日
* NHKが、相も変わらぬ「心の時間」みたいな宗教番組をつづけている。たまたま東大名誉教授が仏教のはなしを
していた。いろんな「文句」を引き
出して話していたが、語り手の話と聴き手アナウンサーの合いの手と、引用されている文句のあるもの例えば道元の言葉などとが、なんだか、ばらばらに齟齬し
ている印象をもった。
そもそも仏教の要諦を「心」で話そうというのが無理である、「無心」ならばともかく。「心=マインド」をアテには出来ないことを、わたしは「からだ言
葉」に次いで「こころ言葉」を調べ始めた昔から、痛いほど感じていた。乱れ、砕け、くじけ、呆け、喪われ、「心ここにあら」ぬような、心。根があり、構え
があり、底が見え、熱くもなり、冷えもし、苦しくなり、「心も空に」なるような、心。こういう「こころ言葉」を無数に持つことによって、どうしようもなく
「つかみ所のない」その本性を示している、心。そんな頼りない心など頼んではイケナイというのこそが「仏教の確信」であり、核心であろうに。「無心」の明
静を求めてゆくのが、禅の根底であろうに。
「心」とさえ口にしていれば、鬼の首でも取れると言いたげな誤解から、はやく脱却しないと、人間の心はますます千々に砕け乱れて、果てない混乱のなかで
不幸の種をまきひろげて行くに違いない。「心」はもともと数知れぬ「?礙=障り」に囲繞されている。それどころか「心」こそが即ち「障り」なのであるが、
その障りがなくなる、つまり心が心ではなくなる「心無?礙」「心に?礙無」き「無心」に成ろうとするのに、「心」に頼ってそう成ろうとは、それ自体が、は
なから矛盾し撞着している。仏も達磨も道元禅師もそんなことは言っていない。「心」が諸悪の原因なのだ。
しかし、そのように説いているかずかずの経典があるではないかと、手当たり次第に引用されるものだから、それらの中でまた混乱や齟齬が生じてしまう。経
典に対するクリティクはむろんされて来たのだけれど、根本の批判はどこかで都合よく匿し込まれてしまう。すなわち、大方の経典は、殆ど全部といってもいい
経典は、釈迦没後の、遅いものでは数百年も千年ものちに書かれている。無数の解釈と潤色と創作とにより、いろんな弟子筋門弟筋の都合と主張とに合わせてつ
くられたものである。仏教「的」な主張の言語「的」な多様の表出、意図的な表出なのであり、釈迦自身に帰属するものはいたって薄い。アテには出来ないし、
とくに「心」に関しては誤解や曲解が渦巻きながら、なにかしら「心=仏」かのような、とんでもない話に俗化して、それが今日でも、NHKだの大手新聞だの
感化力の強大なマスコミの安易安直極まる「売り物」になっている。
しかし、正しくは「無心=仏=覚者=ブッダ」なのである。名誉教授はしきりに「仏様」とわれわれとを別物に話しているかに聞き取れたが、深い仏の「教
え」は、われわれはみな「仏」になれる存在、「仏」を抱き込んだ存在なのだが、「心」に惑わされ、その貴い真実真相にたんに「気づいていない」のだという
指摘の「中」にある。
いっさいの言語的表出に過ぎない経典から厳しく離れ、「心」の拘束や干渉を排して、本来抱いている仏性を「無心」の寂静として気づかねば、自覚しなけれ
ば、とうてい安心もない。むしろわれわれは「心」などという文字から、おぞけをふるって身を反らせることを思わねばイケナイのである。
* 禅。ここに安心の基本があった、釈迦の悟りのなかにそれがあった。
わたしは、もともと法然や親鸞の念仏に深い敬愛を持ってきたし、今も変わりはない。彼らはなぜに「南無阿弥陀仏」だけで安心には足りていると徹していっ
たのか。その基本には、さきに言ったいわゆる経典成立の事情に対する批判や不審が据えられていたのではないか。凡夫衆生のだれが百万の経典を読破して理解
できるか、たとえ出来てもそれで得られる「安心」が有るわけでない。抜群の経典の知識を称賛されていた法然が、その「知識=マインドによる理解」を決定的
に批判し棄却してしまって、念仏の易行を「選択」したのだった。すべてを捨てたわけではないと言う建前のために浄土三部経をのこしつつ、それでも死に際に
「一枚起請文」を書いて、「南無阿弥陀仏」だけで足りていると念を押していった。法然は、おそらく、「禅定」は凡夫衆生には難行であることが分かってい
た。それに匹敵する安心の無心のために「南無阿弥陀仏」という、いわば「抱き柱」を建てて民衆の救いに道をつけたのに違いない。
* わたしも、数少ないながら、かなりの数の経典を教科書のように読んできた過去をもっているが、それは仏教とも
限らないが、とどのつまりそれらか
ら「安心の無心」は得られるものでなく、「心=知識」ではない「無心の信」を非言語的に自覚して行くしかないと思うようになっている。バグワン・シュリ・
ラジニーシの導きが大きかった。彼と出逢ってから、もろもろのいわゆる「宗教的まやかし」にまったくといえるほど動じなくなっている。
* 八月三十一日 火
* 湖の本の通算第六十巻がもうすぐ届く。午後から早速発送の作業になる、家の中が戦場になる。本は重い。左肩を
しつこく痛めたままなので、玄関に
積み込まれた本の包みを荷造りの場所に移すのが重労働になる。心臓の弱い妻には手伝わせられない。
なんでこんなことをと、情けなく思う気持ちも湧くことがあるが、途方もなく大事なことをしているという実感のほうが年々に強まっている。「湖の本」はわ
たしの創作であり批評の行為である。他の誰にもできない。少なくも、出来なかったことだ。
* 昨夜夜中に息子が作・演出する芝居のチラシを届けに来て、今は昔の自分の勉強部屋で寝ている。連日の舞台稽古
とテレビ仕事とで疲れ切っている
が、仕事のあるのはまだしもではないか、とりあえずは食えているよと言う。よくやっていると思う。悪戦苦闘の中から価値ある活路が見えてきますように願っ
ている、父は。今夜、彼の脚本による二時間テレビドラマが、また、放映される。
* 九月二日 木
* 一昨日、昨日、今日と、発送に集中していたが、それでも昨日は、熱暑も熱暑のさなか、三時前に乃木坂のペンク
ラブ会議室まで。
秋一番の電子メディア対応研究会、座長役ではサボレない。それどころか日照りの中を委員の方々に出てきていただくのだから恐縮であった。纏まる話題では
あり得ないなりに、興味深い大事な話題ーー電子メディアの「著作権」問題に、いよいよ入っていった。野村敏晴委員があらかじめ用意して下さった、関連資料
の抄録を、ともあれ逐一、それぞれの思いで読み込みながら感想を語り、知る限りの情報や推測を語り合いながら、難儀で多岐にわたる巨大な未確認・未確定問
題を、個々に「体感」して行く方法をとりはじめた。資料の十分の一も進まなかったが、その程度に個々に立ち止まりつつ話し合うことは出来たと言うことであ
る。
全員が専門的な意味でいえば門外漢、しかし、全員が文筆や出版を介しての深い関係者ではあり、手探りにでも問題は朧ろに感じ取れる。そういう頼りなげな
勉強を重ねて置いてから、専門家を招いて教えを請い、そういうことを更に重ねていった結果を、いい形で会員に役立つように伝えて行きたいと思っている。幸
いわれわれの研究会は、和やかで、会合そのものが気持ちいい。座長役などしなくていいなら、どんなに楽しんで出席できることかと思う。がんばって、ま、歩
み続けて行くしかない。
* 電子メディアの「著作権問題」は、まだ何にも定まった形が取れていなくて、難儀な問題はいっぱい予想され、現に紛争の種は播かれ放題なのだが、紛争が
起きていても裁判所は判例を積み重ねる力が無くて、半端な示談や仲裁による決着をついつい取ってしまっているのが現状らしい。
* イチローとあだなをつけた東工大の元の学生君がメールをくれた。百二三十あれば十分な単位を二百何単位も取って学部を卒業した、それなのにガリ勉など
とはまるで言えない面白い男なのである。お茶の水女子大にまで講義を聴きに行っていた。マンガも描き戯曲も書き、舞台に役者として立ち、演出もする。大学
院もきれいに卒業して有名なハイテクの大企業に就職したが、やることはあまり変わっていないらしい。イチローとは、彼の一シーズン安打数にひっかけてあ
る。二百安打を越したあの年に東工大のイチローは学部を二百何単位も取得して卒業したのだった。
その野球のイチローが、怪我が思わしくなくて休んでいるらしい。ああいう選手、天才としか言いようのない名選手に、半ば意図して安易に心ない死球を投げ
るなんて、やめて欲しい、心配だ。わが友人のイチローのことは、心配していない。 やがて三十歳に近づいて行くのだ、もう「数」を稼ぐことは要らない、必
要な「分」を充実させ、発展して欲しい。
* こんどの「湖の本」はわたしの学生君たちには「補習講義」のつもりであり、住所の分かる人たちにはみな送っ
た。買ってくれれば有難く助かるけれ
ど、その辺は気兼ねなくと書き添えた。「日本史との出会い」など、工学理学系の学生にはどうしても気遠いが、それでいいことだとは思わない。中学生対象の
『ちくま少年図書館』の一冊を、こともあろうに東工大の院生や卒業生の「補習講義」とは何事だと憤慨されるかも知れないが、ま、読んで御覧と言っておく。
* 九月三日 金
* 秋一番の言論表現委員会。猪瀬委員長、篠田博之副委員長、吉岡忍委員、三田誠広委員、五十嵐二葉委員、長田渚
左委員とわたしが出席。通信傍受法
の除外対象として刑事局長が「報道機関」を含むかの答弁をし、その評価ないし答弁の信用度が問題になっているとともに、「報道機関」とはいかなるジャーナ
リズムないしジャーナリストをさすのか曖昧なままであり、適切にこれに対する補充質問を持ちかけたいという五十嵐氏の発言をめぐって、さまざまに賑やか
な、かつは烈しい意見交換があった。
「われわれの特権」を守る意味からも、刑事局長が曲がりなりにそういう答弁をしたのは成果であったとする猪瀬氏の考えに対し、「ジャーナリズムないし報
道」にたずさわることを「特権」という言葉で意識したり規定したりするのは不快でもあり、そんな風には考えないとする吉岡氏やわたしの意見が突き当たっ
た。そんな「特権」意識でものを書いたりテレビで喋っているのかと思うと、本音に違いないと分かってなおさら、不快を覚える。
* 猪瀬氏の口からは、「市民ないし市民運動」を、抽象的な取るに足りない「幻想」かのように、否認ないし軽蔑の
言辞が続出する。それにも反発し
た。彼はいったいテレビや雑誌や著書で、「誰」に訴えているのかと疑問に思ってきたが、あきらかに「市民」ではない「誰か」を相手に喋ったり書いたりして
いるのだと告白したに等しい。そして自身は「市民」以上の「特権」ある「報道人ないしジャーナリスト」なのだと、まさに「語るに落ち」ている。
今の日本は、政権与党が率先して、政治的に「少しも怖くない市民」化、政治的「愚民」化に躍起なのであり、猪瀬氏の言動は意図するとしないとに関わら
ず、そういう政治の思惑に、したり顔に荷担しているに過ぎない。安土桃山の上層町衆が「特権」の代償に「市民」の政治的自由を支配者に売り渡したあの感覚
に似ている。猪瀬氏は「市民」へ向いて書いても喋ってもいなくて、己が「特権」を守ってくれる連中の方へ顔を向けて書いたり喋ったりしているのだ、やはり
そうなのかと、分かってきた。
* 具体論が大事なんだ、具体論を話せよと猪瀬委員長は、とかく他委員の話を強引に制する。強権発動的に制する。 そんな猪瀬発言に対して危険極まり ないという反論も出た。原則をやり過ごすフリをして、具体論の名で、なし崩しに体制のたくらむ改変意図を甘く受け入れ受け入れ、押し流されて行くのを、即 ち「数」の民主主義だと言って軽薄に居直るわけだ、じつに危険極まりない。反論はどんどん出た。猪瀬氏が大声で喚いても、威圧しても、だれもビクともしな い。
* 異なる意見が明白に出て、議論されることは大いに望ましい。「日本ペンクラブの言論表現委員会」であり、けっ
して「猪瀬委員会」ではない。各委
員の発言を強引に押し伏せる悪癖を、残念ながら猪瀬委員長はこの二年余もちつづけてきたが、熱心のあまりであることは掛値なく高く評価するけれども、その
悪癖は彼のためにも断じて取らない。
繰り返し繰り返し、わたしは独走的なそういう委員会運営に流れるつど、苦情を述べてきた。昨今は新委員の何人もの加入のおかげもあり、今日なども、各委
員は思うままに述べて必ずしも独裁独走を許さなかった。だいじなだいじな、守られねばならぬ瀬戸際だと考えている。
当然ながら理事会へも、委員会で「大勢」を占めた意見を公正に先ず「報告」し、そののちに、猪瀬直樹氏としての個人の見解を語って欲しい。これが逆にな
り、前回理事会でのように、あわや委員会での、君が代日の丸「法制化には反対する」との大勢意見や決議案が、一人猪瀬氏の手に握りつぶされかけるというよ
うなことは、フェアーではない。
* 柳美里作品をめぐっても、意見の相違が出ていた。猪瀬委員長の「あれは済んだこと」という見解と、裁判が済ん だとしても「文学ないし文学者・編 集者」の問題は残されたままではないかとの篠田博之氏や三田誠広氏らの見解と。これも、わたしは後者の考えに与したい。
* 断って置くが、実感のままに努めてありのままに書いている気ではあるが、あくまで、わたしの纏めである。或る 意味で時代の先頭に属する話題であ るだけに、あえて此処に書き込んでおく。
* 湖の本の発送を八割方終えた。明日明後日が郵便局の休みなので、一息ついて、すぐ新刊『能の平家物語』一冊
の、肩の凝る校正に取りかかりたい。
十月の講演のために鏡花を読み返すのも、とてもハカが行かなくて気が気でない。京都での美術雑誌での対談も日程を急かれている。ペンの京都大会にも今年
は行きたくもあり、予定が立たない。名古屋ボストン美術館にも行きたいのだが。
* 志賀直哉全集の、すでに配本されている九巻を、全部読み上げた。たくさんのことを考えさせられた。小説の神様 だとは思わないが、まぎれなく文学 の神様、しかもあまりに「異様に健康な」神様だと感じている。いやもう、よっぽど「へんな神様」である。だが、文学的には魂の色の似た作家だと感じた。共 感できたことの方が、その逆よりもはるかに多かった。選集で済む作家だと初めのうち考えていたが、「全集」に触れ得て実に良かった。
* 『夜の寝覚』もこの二三日で、巻三から四へ、夢中で読んだ。風呂の中でまで読んだ。今日も行き帰りの混んだ電 車の中で、まこと、うっとりする気 分で内大臣と寝覚の上の場面や、二人の間に生まれた姫君が、はじめて生みの母の寝覚の上を父内大臣とともに訪れた場面などを堪能した。幸せをすら感じた。 いきいきと、自分の言葉で物語に書きかえてみたい疼きを覚える。
* ゆうべだった、夜中のメールに、
「たのめつる人まつよひにあはれまた心さわがす荻のうはかぜ」
という小侍従の一首が気になっていますと、便りがあった。風に鳴る荻と、恋人の訪れ・来信(がないこと)との取り合せに読める。気になるのは、「単に荻の
葉の音が、訪れてきた恋人の衣ずれに聞きなされたとかいうものでなく、何か故事か俗信のようなものがあるような気がして。ヒントが得られないかと、八代集
の荻のうたを拾い読みしているところでございます」とあった。
詠み手が一筋縄ではゆかない小侍従のこと故、どんな魔法の種を掴んでいたかは知れない。深夜に一人起きていて、右の和歌に和し、
「あはれまたおもひやくみのやみにしもおぎ(招ぎ=荻)の葉わたる風のいろかな」
などと思うまま呟いて、はるかな夢路を越えて行ったくのも、わるくなかった。
* 九月四日 土
* バグワンの『ボーディダルマ』には、敬服する。すでにこの和尚の大部の本を五冊読んできて、そのお蔭とも言え
るだろうが、真意が呑み込みやすく
なっている。読んできたすべてから、ほんとうに旨く要所を抄録できたら、どんなにいいだろう、自分で自分のために欲しいとは思わないが、初めての人には佳
い出逢いになろうし、なって欲しいと思う。時間にゆとりができたなら、試みてみたいとさえ思う。
断っておくがバグワンの実像を知らない。どういう人たちをどう集めて説いていたのかも知らない。ただ彼の「言葉」に踏み込んで耳を傾けているだけだ。そ
れで十分だ。
荀子の「解蔽」とは、幾重にも身にまとってしまったボロを脱ぎ捨てる意味で、脱ぎ捨ててしまえたとき「心」は「静=虚心=禅寂=無心」になれるというの
だが、そしてこの「虚心・無心」にわたしはまだほど遠いけれども、それでも、バグワンに出逢い、どんなに心身が軽くらくになっていることか。それを自覚し
ていればこそ、苦しい人や、夜も眠れぬ人や、こだわっている人に、紹介したいまごころを持っている。
もっともわたしもまだまだとんでもない「こだわり」に生きていて、バグワンに叱られ、妻にもよく笑われているのだから、そんなことを考えるのはおこがま
しいのである。
* ある親しい人、画家、から、べつの尊敬する先輩画家に関して話され、その談話を活字にしたものを、戴いた。ぜんぶは読んでいないが、マチスの言葉とし
て「画家は、まず舌を切れ」と挙げてあるのだけ、目に留まった。
もう何十年も以前から、マチスほどの体験に裏打ちされていたわけではないにせよ、同じことを感じてきた。あまりに凡俗な例ではあるが、読むに堪えない観
念的な美辞麗句で「個展」の趣意をみずから作文した案内を、それはそれはたくさん受け取ってきた。また、とてつもなく凝って文学的な、いや観念的な、いや
また説明的な「題」の繪にも、いやほど出会ってきた。あれは恥ずかしい、読むだけでも気恥ずかしく、繪と突きあわせて、見れば、見るほど恥ずかしい。
そんなのでなくても、あたかも、繪を描くよりも理論や理屈や蘊蓄を傾けている方がよほど楽しいらしい、そのわりに繪の出来ない人もいるようだ。わたし
の、このホームページに書き込んでいる長編小説『寂しくても』の画家の不幸も、そこにある。描いていさえすれば無条件に画家でございといくわけではない
が、理屈のために描けないのでは本末は転倒してしまう。この描かない画家は、このさき、かなり厳しい批判を作中で受けねばならないだろう。
* 古典の研究者は写本や原本から読み取って行く。影印本が刊行されているのは当然の話である。しかし影印本をあ
りがたいと思える一般の読者はいな
い。わたしも、平家物語などごく限られたもので影印本にも手に触れてきたことはあるが、常平生は必要としない。活字化された刊本で十分楽しんでいる。古典
全集は各社のものを何種類か揃えている。源氏や平家はいろんな刊本が揃っている。それで足りている。そして思う、これらの活字刊本とせめて「同じ」ものは
電子化テキストとして世界中でだれでも、どこででも、自在に読みとれるような図書館化が進んで欲しい、文字コード標準化が進んで欲しい、と。
研究者は、しかし、存外そんなことは考えていない。研究は原本や写本からするものであり、活字化されたものにはその段階で関係者の主観が入っていて、研
究という意味からは、歪んだ素材なのだと。だから、どっちみち活字本でどうこうは言えず、ゆきつくところは影印本などと同じに、原本写本を図像で貼り付け
る事になるのだから、あまり「文字コード」にはこだわらなくてもいいのだと。
言い替えれば研究者個人の研究事情や便宜好都合を言おうとしている。それだけで「自分は済む」と言っている。
とんでもない話である。こと古典となれば、研究者の研究のためにのみ存在するのではなく、愛読者の国民的・世界的遺産であり、しかもそういう日本人も外
国人もそれらの貴重で面白くてすばらしい古典は、活字や写植文字やフォントによってしか享受できない。研究者から見ればいろんな理屈は有ろうけれど、「刊
本」は刊本なりに文化的に機能してきた。漢字の宛てようなど、かなの宛てようなどに、なるほどいささかの整理・統一・解釈による変化は有ろうけれども、そ
れにより古典の意義や形態が必ずしも著しく損害されてきたわけではないのであり、また研究にも多彩な角度や方面があるから、必ずしも原本写本の図像的占有
や映写だけが価値あるわけでもない。
研究者がかりに不要だと言おうとも、読者層では活字の場合と同じ程度に電子文字でも自在に入手し鑑賞し読書できる便宜は確保しなければならない。文字で
の再現、刊本状態のパソコンにおける全面的な確保は、こうなると国文学研究者のためにという以上に、はるかに大きく一般市民読者の文化財確保のために、声
を大にし揃えて行かねばならない。
古典は研究者の私物ではなく、よりよい本文と刊本で我々市民に提供して行ける義務をも研究者は負うているのである。勘違いしてもらっては困る。
* 九月五日 日
* たてつづけに何通も、元の東工大学生や今の学生からメールが届いて、それぞれが随分離れたべつの境涯で生活し ているため、メールの内容もいろい ろなのが、読んでいて面白い。タバコは吸わないので、一休みのつど一服のつもりで読み返して楽しむ。
* 泉鏡花の『草迷宮』と『沼夫人』を再読した。まさに鏡花調子で、調子にうまく乗せられるのが、鏡花読みの最初
の手続き。これが出来なくてはとう
てい読めるものでなく、これが出来れば、途方もなく特異な別乾坤の妙景に、痺れる興奮が味わえる。途中で嗤ってはいけない、何なんだと疑念にとりつかれて
もいけない。途方もなく素晴らしいものがあるぞという期待と喚起のある種の努力を、ある種の勉強を、ある種の自己放棄を必要とする。
『草迷宮』にはどこかで『天守物語』の舞台を彷彿させる幻惑の興奮があり、『沼夫人』にはどこか『龍潭譚』を想起させる通底の作意を感じた。志賀直
哉が若い頃に鏡花を『風流線』頃まで盛んに読みあさったこと、感化すら受けたことを書いている。谷崎や里見なら知らず志賀直哉が何故にと思うと面白い。
漱石と鏡花とにも親しみ合う何かが有った。直哉の仲間たちは森鴎外にはきわめて冷淡で眼中に入れなかったが、夏目漱石には親しんだ。泉鏡花にもそうだっ
た。鏡花には柳田民俗学の影響もある。折口学にも臍の緒がつながっている。もっとも狭い範囲の特殊な文学の顔をして、じつは、日本人の他のどの作家よりも
世界の問題に直に触れているものがある。当然であろう、かれは「水」の作家であり、水は「世界」に繋がり遍満している。
* 学研から『明治の古典』シリーズが出たときにわたしは「泉鏡花」集を担当して『龍潭譚』を現代語に訳し『高野
聖』『歌行燈』にかなり詳しく「読
み」の脚注をつけた。わたしの「読み」はあれによく顕れてある。幾分かでも追加できれば有り難いが。じつは昔に石川近代文学館で、「鏡花と龍」という題の
講演を一度試みている。名高い館長の新保千代子さんに能登島の火祭りを見せていただいた翌日だったろうか、前日だったろうか。八幡神社の祭りだった。
どんなことに十月講演が成るか、まだ水先が見えないので不安だけれど、ゆかりある金沢だ。呼んでくれるのは心友である。再会も楽しみたいし、鏡花ともま
た佳い出逢いをつくりたい。
* 『能の平家物語』の校正を始めた。限られた紙数で、一曲ごとに楽しんだエッセイにし、推敲も出来ていた。共著 の堀上謙氏がカラーの舞台写真を数 十点入れ、能の解説を書き、それで折半の仕事になる。題はわたしが付けた。「能と平家物語」ではなく、『能の平家物語』だ、その差が生きてくれるよう願っ ている。一曲について十枚と堅く限定されての書き下ろし執筆だった。その「藝」も生きていればよいが。
* あすは「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」の試写会。午前中に最後の荷を発送し終えて、ほっこり骨休めに
出かける。暑くないことを祈りた
い。
* 九月六日 月
* 「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」試写をまんまと見損ねた。三時半始まりの三原橋ヘラルドへ二分前に駆 け込んだが、「満席」で、玄関払い をくらってしまった。夜分へかけ息をぬいて帰る気だったが、がくっと来、プツンと切れ、疲れてしまい、松屋の「宮川本廛」で鰻丼の上等を堪能してから、我 が家にトンボ返し。がっかり。
* 妹から、梨が例年のように届いた。母のちがう妹で、川崎市にいる。何度とも会ったことはない、二人いて、姉の
方とはいちど銀座の「竹葉」で食事
したことがある、実父が亡くなって程無いころだった。小さかった姪が、もう、旅行会社だかに勤めているという。
子どもの頃から実の親を知らず、天涯孤独の気分で、養いの家に養われていた。兄弟はないものと思っていたら、両親の同じ実の兄がよその家に一人いた。
大人になって自分の脚で調べ廻って、父のちがうずっと年かさの姉一人と兄三人のいたことが分かった。また母のちがう妹二人のいたことも分かった。たまげ
た。
父のちがう姉や兄は、四人とも亡くなってしまった。兄の一人は早く戦時中に亡くなっていた。姉兄三人とはそれぞれの現住地で四十歳すぎてから初対面した
が、その後は文通していた。二度は逢わぬうちにみなに死なれた。
父母をともにした実兄北澤恒彦は、ちょうど今ごろ、弟息子の暮らしているオーストリアからアイルランドの方を旅しているのではないか。この兄とも何度と
逢ったことはない。兄はいま京都の精華大学に講座をもっていて、大学のパソコンで、ときどきメールをくれる。いいメールをくれる。兄の兄息子はペンネーム
黒川創、有望なほやほやの小説家になっているが、少年の頃から「思想の科学」などで評論活動を重ね、岩波や筑摩からも本をもう何冊も出してきた。そのこと
が、今、彼が小説を書くうえで功罪半ばしていて、「表現」に苦しんでいるかも知れない。娘も一人いて、若くしてこれはオーストラリアに渡り学生生活をして
きた。その間に「思想の科学」に連載したエッセイは兄に負けないいい文章で、いい本になった。いまは東京のどこかで一人で頑張って生活しているらしい。
学生時代に抜群のドイツ語で外務省の試験に受かり、いきなりオーストリア大使館に勤めた兄の弟息子は、中学浪人もしかねなかった暴れ者で、末は大丈夫な
のかと心配したほどヒョンな存在だった。高校頃か、ガクラン姿で髪を染めて我が家にあらわれ、とんでもなく凄い麻雀の腕前を披露してくれた。そんな子が、
ラグビーの強い大学に入ったのに念願のラグビーもやらずに、ドイツ語の先生と仲良くなって、ドイツ語が読めて喋れてという実力をつけてしまった。そして四
年生にも成らず卒業もしないで外務省に雇われていった。おもしろい子だ。たまたま京都に仕事で行っていたときそれを知り、祇園乙部に呼び出してわが女友達
のやっているクラブで祝い酒を奢ったら、気持ちよく飲んだ。カラオケを謡わせたら、上手で何曲でも熱唱した。ママが、この、変な場違いな大学生に惚れこ
み、自分の箱入り娘の婿にしたいと、のちのちまで半分本気だった。
兄息子の方もおさおさ劣らない。こっちは早くから秀才だったが、はじめて我が家に現れたのはやはり高校生頃で、ずぶぬれだった。成田闘争の支援に行き、
したたかに警官隊のホース攻めに遭ってきた。そうかと思うと獄中の金大中支援のためにソウルに飛んでいたりした。ちっと違う方角もおやりと唆したら、すぐ
歌舞伎にうちこんだ。わたしの画集を持ち帰ったまま、何年もかけていつのまにか伊藤若冲を調べ尽くし、長編小説に書き、群像の巻頭に、若冲の長編を二つも
書いて単行本にした。やる男だ。
早くに死んでいった実母が生きていたら、兄息子の子らが、孫たちが、わたしの家に出入りしたり、本を出したり、外国勤務していたりするのを、またわたし
の子が戯曲を書いて演出したり、テレビドラマを書いて放映したりしているのを、どんなに喜んだろうと思う。わたしたちの生みの母は短歌を詠み、歌文集を一
冊遺して死んだ。子孫の中で短歌を詠んだり書いたりしたのはわたしだけであった。
母がと言ったが、実父も、兄や私の世に出て著述しているのを心から喜んでいたのは知っている。その父にも母にも、わたしは冷たかった。罰はうけねばなる
まい。
* 黒猫のマーゴは、一キロを越して、毛艶も黒々と食欲有り、男の子だと分かってきた。家中を駆け回っていて、わ
たしにも妻にもまつわりついてい
る。すっかり馴れて、母親の代わりであろうしきりに柔らかく噛みつく。心から笑わせてくれる可愛らしい姿態や動作や表情に、大満足している。だが、猫のこ
とを書こうとは思わない。誰が書いている話でも、同じである。そんなことなら、うちにいた猫とちがわんなあと思ってしまう。親娘で十年、娘猫の方は十九年
もいっしょで、たっぷり共生していた。猫の生態はおおよそ同じであり、人間の喜ぶところもおかしがるところも悩まされるところも、そうは違わない。
犬のことは知らない。猫かわいがりものの文章は読んでも同じことばかり、だから書きたいと思わない。谷崎の『猫と庄造と二人のをんな』だけは、むろん漱
石の『吾輩は猫である』も傑作だが、必ずしも猫を書いたものとは思われない。人間がきちんと書かれていたと思う。
* 九月七日 火
* 「ぎをん」という、大学の先輩が編集している雑誌から、ときどき原稿依頼が来る。雑誌を見ると肩書もいかめし
い各界の名士たちが、提燈持ちもあ
り、たんに提燈持ちとも思われない祇園にアツアツの文章もあり、人気の程がうかがわれるが、わたしの祇園は母校新制中学のあった街で、友人もたくさん今も
住んでいるいわば生活圏であった。そこで大人の男の遊びを楽しむ場所ではなかったから、とうてい他のセンセイがたのような、けっこうそうな、時にはキザっ
たらしい遊び自慢の原稿は書けない。弱ってしまう。掲載された風景写真などはすこぶる懐かしいが、祇園はわたしの「お座敷」にはなりようがない。教室で、
界隈で、顔を見知り合ったような女性たちと「お座敷」で出会ったりするのはごめん蒙りたい。ともだちはともだちのままでいい。
祇園を書くならば、それこそわたしならではの秘め持った材料で小説を書く方がいい。「祇園の子」という短編を二つ合わせた小説を、『廬山』という本に入
れたとき、「廬山」を瀧井孝作先生とお二人で芥川賞に推して下さり、本にも、過分な帯の推薦文を下さった永井龍男先生が、この「祇園の子」のような短編を
二十ほども書けたら素晴らしいものになるよと人に言われたのを、漏れ聞いたことがある。それを宿題に与えて下さり、先生はとうに亡くなってしまわれたが、
わたしは忘れていない。
* 三年ほど前から、ある不登校、自閉症気味で家庭内暴力ぎみの高校生をかかえ、困惑しきっている父親と付き合ってきた。わたしに、なにらかの効果的な接
触を期待されていた。その少年にも苦しみがあり、苦しみの中で音楽・作曲に実践の形跡があり、わたしにもテープで聴いてもらいたいということだった。わた
しの息子と一緒に聴いてみた。わたしには、何とも言えないものだったが、息子は面白いと思う、捨てたものではないと思う、ただ自分の芝居にそのまま取り込
むには録音がわるすぎて無理だが、曲想はわるくないねという話だった。わたしは少年にその通り手紙を書き、その際に、テープを送って来るにしても、父上の
手を一々煩わさず自分で送ってくるように、わたしに逢いたいと思えば自分でそう言って来てくれるようにと、何度かそういう手紙を書いた。父親の介在したま
まの接触では意味が生じないと思っていた。
* 一年半ほど前に、突如として二冊の単行本が送られてきて、その少年が書いたという。送ってきたのはやはり父親
だった。教育論的な評論の本で、な
にしろきっちりきっちり書けていて、何となく父親の代作であるのかも知れないという邪推を放棄し切れなかった。学校にも通わずに何年もを過ごしてきた家庭
内暴力も振るう少年の文章にしては、些かのたどたどしさもなく、かなり調べた内容も、かなり説教じみた内容も、かなり世間を批判し非難する内容にも、行儀
の良すぎる生硬さがあった。
もっとも、わたしは、新潟に住む、中学生の頃からの現在高校生という若い若い友人を持っていて、かれの寄越す手紙は、中学生、高校生ばなれのしたものな
ので、こういう出来上がったほどの例のありうることも承知している、それにしても新潟の友人は健康な溌剌とした少年であり、もう一方は学校へ行きたくても
行けないで、家で父親や母親をほとんど恐怖させてきた少年なのだ。それにしては単行本の文章にそういう心乱れた点は拭ったように窺えなかった。わたしはそ
れには反応しないで、相変わらず、何でもいいが当人がじかにわたしにものを言ってきてくれと手紙だけ書いた。機会あるつど、どうしているかと問いかけるこ
とも欠かさなかった。
* この二三日前に、はじめて少年いやもう青年の、自分で書いたらしいワープロの手紙が届いた。封書の差出人も宛
名を書いているのもやはり父親だけ
れど、同封の手紙と、またしても二冊のパンフレット様の著述や雑誌寄稿のコピーは青年の作になっている。かなり症状は改善して、彼は音楽の方でも自力で作
品を商品化することにすでに成功していると言い、マスコミの一角にすらもう食い入っているというのである。著述は大上段の難しい『根源学』一・二の題を
もっている。父親の代作とこんどは思いかねる生活感も匂っている。
なににしても、やっとわたしに直接の手紙を書き寄越すところまで来た。封書の宛名も自分で何故書かないのだろうかと訝しいけれど、そういう性情も分から
ぬではない。ほっともしたし、まだ半信半疑でもある。とにかく、わたしはものぐさに自らは動いて出なかった。動かなくて、引きずり寄せようとしてきた。や
がて、父親ぬきで逢える日も近いのではないかと希望を持っている。この青年も、息子の火曜サスペンスを観ていた。それどころか、息子が原案もののマンガな
ども見ていて、息子の存在に関心や親愛を感じているらしいのである。「先生」などと呼んでいる。そういう関心の強さが、青年をじりじりと支えながら立ち上
がらせてきたのかも知れないと思うし、彼の父親である大学教授もそれを言われる。もうしばらく様子を見て行く。
* 九月九日 木
* 雑誌「ミマン」連載中の出題を挙げておく。虫食いに漢字一字を補って表現を完成する。作者名は、雑誌には載せ る。
年たけて世のあり憂さを知りしとき悲しかりにき( )と思はむ
何事も無かつたやうに( )を打つ
* やっと『能の平家物語』初校を終えた。フロッピーディスク原稿がそのまま利用されたゲラなので、もっぱらルビ
の追加にだけ頭をつかった。
先日も友人から、昔の本の総ルビだったのを懐かしむメールを貰った。今度の新しい湖の本が、もともと、『ちくま少年図書館』の一冊で、こうもとビックリ
するぐらい編集部でふりがなをたっぷりつけてあったのを、踏襲して置いた、それへの反応でもあった。愕きながら歓迎している読者もいまのところ多い。少年
らのために書いたとは言え、「日本史」であり、「中世論」でもあり、易しくはない。子どものものだと思って大人が読むと、大人とはいえなかなかの歯ごたえ
で、引き込まれて夢中で読んだという感想も届いている。故安田武のような手練れの読み手が、かつて感じ入ってくれた本である。ルビは大人の役にもしっかり
立っていたようである。
昔の本が総ルビであったことが、幼いわたしの読書にどんなに裨益したか、計り知れない。ひらがな、カタカナが読めれば、総ルビならば難しい漢字の本で
も、曲がりなりには読めた。『百人一首一夕話』などを愛読できたし、『通俗日本外史』が大声で音読できた。国民学校の低学年でも可能だった。
それに、ルビの振り方のおもしろさに驚いた体験もある。つまりアテ読みの妙味である。明治の作家のものには、その方面の興味を満足させる作品が多かっ
た。漱石でも鏡花でも紅葉や露伴でも。一葉でも。つまり「ルビ」はたんにその通りの読み方を指示するだけでなく、「表現力」としても使い道がある。それを
あっさり抛ってきたのは惜しいと思う。
* ひょんなことから、今、若い人の、「結ぶの神」ではないけれどご縁の仲立ちをする成り行きに、ある。仲立ち役
はもう済ませたとも言える。あとは
当人同士の出逢いが当人同士の誠意と責任とで進めば良し、壊れても良し、わたしの役はもう終えている。
特筆したいのは、メールが大変役立ったということ。
初対面のぎごちなさや、会話の不得手ゆえに起きてしまいかねないマイナスを、あらかじめ、メールでほぐして置こうと考えた。そのあとは、なるべく当人同
士で話し合いや出逢いをプランニングしてもらう。文字通り、「個と個」とのメール対話から始めてもらい、大人はでしゃばらない。そのように任せても間違い
のない真面目なもう大人同士であると判断できるので、そのように、仲立ち役だけをつとめた。両家の親も諒解し見守っている。最初のメールは、わざわざは書
かせなかった、以前から貰っていた保存分を転送してお互いに見せた、了解は得て置いて。これが、ともあれ、奏功した。人柄が「読めた」のだろう。思いがけ
ない役回りであった。
* お静かなこと。あまりの暑さに絶息してはいないかと、心配していますよ。お元気ですか。
九十二歳の自称弟子のおばあさんから、年寄りに「お元気ですか」という手紙は失礼なのであって、「お変わりございませんか」と聞くものですと、教わりま
した。ごもっとも。
でも、あなたには、「お元気ですか」。
* 九月十日 金
* 横浜美術館のセザンヌ展オープニング・レセプションに出向いた。西洋の画家では一といって二がないほど敬愛し
てきた画家であり、新聞などに出る
広告をみて妻もぜひ観たいというし、幸い招待も来ていたので、思いきって出向いた。これまでも何度か横浜での美術展にお誘いがあったが、北多摩の保谷市か
らはあんまり遠い気がして腰をあげたことは一度もなかった。車をもった、それも渋谷や世田谷辺の人は近い近いというけれど、西武池袋線の奥から電車を乗り
継いで行くのとは、わけがちがう。
渋谷から東横線で終点の桜木町まで乗った。始発から終点。急行だと、退屈どころか初めての窓外に気を取られているうちに、すぐ着いた。ラクに坐れもし
て、なにごとでも無かった。代官山、中目黒、自由が丘、田園調布、日吉などという馴染んだ名前の駅を通り抜けていった。大きな河を二つほど越えた。天気は
上乗というのではなく蒸し暑かったけれど、適度に曇っていて、日照りにひどく悩まされたりはしなかった。
* 桜木町で横浜の地図を買ったのは、いかにも他所もののようで可笑しかった。バスで中華街入口まで乗り、異色の
雑踏へ、食べ物のにおいの濃厚に流
れているような街並みへ、踏み込んでいった。事実はさほど匂っているわけではなかった、独特のけばけばしい中華風の建物の色や形が騒がしいまでにいろいろ
軒を並べていて、そういう感じがしたにすぎない。しかし、どの店に入っていいのか皆目分からない。選択できない。杭州の聘珍楼と同じなのかどうか、そうい
う名の店もあり、それなら杭州市西湖畔の店にも池袋サンシャインシティの店にも入っているので、それよりは知らない店にしようと、成り行きで一軒をえらん
だ。超満腹した。料理の味もとにかく、マオタイを東京都内の店で出す優に倍か三倍量もほぼ同じ値段で出してくれたのが、嬉しかった。それほど私はマオタイ
酒が好き、おそらく世界中の酒の中でいちばん酒を飲んだなあと謂う気にさせてくれ、満足させてくれる。高価だがさほど多くは飲めないから、いっそ経済でも
ある。支払いの時にも運んでくれたときにも、「強い酒を、よく飲みますね」と店の人がきっとアイサツする。それもおもしろい。
* 街のあちこちの出入り口に中華風の門が建っているのを、妻は一つ一つ面白がって写真まで撮っていたが、あんなモンは別になんでもなかった。それより誰
かよく解っている人に、どの店の何が旨いかをちゃんと教わってから、また食べに来たいと思った。中華料理は周期的にきっと食べたくなる。うまいものを食う
会の幹事に、中華料理の時でないと秦サンは出てこないとぼやかれるほどである。だが、料理よりもマオタイの方がうまいと思うこともある。
* タクシーで横浜美術館前まで戻った。時間が余っていたので、ごく近くの高いタワービルの下の方で、セルフサー
ビスのコーヒーとジュースを飲ん
だ。横浜には、てんと馴染みが無く、昔、フェリス女学院に講演に行ったあと、中華街で接待されたこと、横浜埠頭から船でナホトカ経由、ソ連作家同盟の招待
旅行に出かけたとき、大学生だった娘に埠頭で見送ってもらったこと、新横浜駅の近くのビルで二度講演したこと、ぐらいしか記憶がない。街を歩いたことは何
れの機会にもなかった。
だが、小学校六年生の夏休み前に、上海だか天津だかから敗戦帰国し転入していた同じ学年の少女が、好きだったその少女が、急遽京都から横浜へ引っ越して
いくという、初めての「別れ」体験をして以来、「ヨコハマ」はある種のトラウマになっていた。好んでは近寄ろうとしない都市になっていた、そんな気がす
る。今日は、あっさりとそのタブーを破った。セザンヌの魅力のなせるワザであったろう、これは仕方がない。
* さ、そのセザンヌ展。ウーン、よかった。一つ一つの繪の前で動きたくなかった。風景、人物、静物、そして名だ
たる水浴もの、さらに多くのデッサ
ン。ここで今すぐセザンヌ論は出来ないが、風景の「大きな樹」「松」「マンシー川」をはじめサン・ヴィクトワール山のある風景や家屋のある風景など、すば
らしいコンポジションと造形の美に息詰まる嬉しさを味わい続けた。人物では「カード遊びをする人たち」や「アルルカン」のような馴染みの名作・佳作もさり
ながら、妻も驚嘆したセザンヌの親友の某氏を描いた肖像の、豊かな把握と表現の面白さには舌を巻いて佇立し、何度も何度も繪の前に立ち戻って感嘆した。静
物になるとまた魅力は横溢し、持って帰りたいような「青い皿」の果物、「リンゴとオレンジ」の幸福感を沸き立たせてやまない、これぞ静物画の頂点としか思
われない傑作の数々に、ただもう胸を喜びに満たされ、敬服した。ウーン、ウーンと唸ってばかりいた。
それ以上の難しいことは言わない。昔、どこかの社の西洋美術全集に作家たちが思い思いのエッセイを分担したとき、わたしに預けられた画家はセザンヌだっ
た、嬉しかった。喜々として原稿を書いた。
その原稿で「白樺」の人たちのセザンヌ受容にもふれたが、今ちょうど『志賀直哉全集』の第十巻を読み進めているときに「セザンヌ展」のこれほど纏まった
佳い展覧会に横浜まで行くことが出来、会場で、「白樺」誌上に掲載されている何点も何点ものセザンヌ画の写真図版も観る事ができ、満足した。
* ロビーや玄関外にまで、ワインやコーヒー紅茶や、いろんなケーキが用意してあり、それにもちょっと惹かれて立
ち寄ってきた。お土産に図録の他に
記念のテレフォンカード・セットまで貰った。感謝。晴れ晴れとした夕方であった。会場では幸いと文学系の客とは一人も出会わなかったが、前の京都近代美術
館長で今はブリジストン美術館に移られた富山秀男氏と、ぱったり顔があった。京都美術文化賞の財団で理事同士であり、国立系施設の優待パスなどでたいへん
御厚意にあずかってきた。山種美術館にいた草薙奈津子さんや、現に横浜美術館に勤めている二階堂学藝員とも立ち話をした。二階堂君はむかし保谷の我が家に
まで、弟だか兄さんとだったか娘の朝日子をたずねて遊びに来てくれた。わたしは忘れていたが妻は覚えていた。これからは自分がいちいちご案内しご招待する
からまた来てくれと言われた。ついでに、中華街ではどの店が佳いか調べて置いてよと頼んだ。承知しましたと頼もしい返事であった。ほかにも、アイサツされ
たり黙礼されたりしながら誰だか思い出せない人が、何人もいた。桜木町駅のそばのビヤホールで、わたしはもう一度よく冷えたビールをしっかり飲み、妻は
ジュースを飲んでいた。
帰りの渋谷までの急行も、むろん坐れて、順調だった。どこにも足踏みしないでまっすぐ家に帰った。留守番の黒い仔猫がとても喜んで迎えてくれた。郵便物
も沢山来ていた。
* 九月十一日 土
* 昨日こそ早く寝ようと思ったのに、やはり遅くなって、階下におり台所で冷たいミルクをのみながらテレビをつけ
たら、将棋盤が映った。今頃になん
でと思い、やがて対局者の顔が現れたら、羽生四冠王と作家の阿部譲二だった。なんだこりゃと観ているうちに阿部が負けた、が、ひどく残念そうな、舌を巻い
たような顔をして廊下に出てきた。思いつめたヒドイ顔をしていた。羽生と対局するほどコイツ強いのかと思っていたら、引き続いて、みなで十人の天狗たち
が、十番勝負で次々に名人に立ち向かう。
素人が勝てるわけもなかろうにと観ていたら、趣向があった。専門高段棋士の過去の対局の中から、圧倒的な終盤で一方が負けて行く、もはや絶体絶命の場面
が盤面に再現してあり、羽生はその絶望的劣勢の側の駒をもち、直ちに防戦に廻って対局する。どんな場面であるか羽生は前もっては知らず、盤面を覆った袱紗
がおもむろに取り払われたところから、即座に一手三十秒で。対局者の持ち時間は七分で、尽きれば一手三十秒以内で着手する。
これは面白くて、眠る気にならずに観ていた。九分九厘羽生側が負けの駒組なのに、名人は意を決していきなり逃げる。スリル満点に逃げる。そして逃げ延び
てしまい、そうなるとどんな鉄壁の相手方の王も四冠王に逆に攻め立てられ、あえなく惨敗したり陥落したりして、結局誰一人として、圧倒的絶対的な勝ち将棋
を勝ち抜けなかった。十番ともみごと羽生が勝った。流石の四冠王ももうダメかと思ったのは、俳優の森本レオが惜敗した一番だけ。
実に面白かった。なかには王手に気づかず、上がってしまって自分も王手の駒を打って反則負けした女性のご愛敬もあった。上がっているのが、よく分かっ
た。待ったする者もいた。手数は数手から三十手ぐらいで勝負有り。専門棋士の強さというものがよく分かった、比較にならないのだ。
むかし、大相撲の、幕内でも小兵でむしろ地味な技能派、小結ぐらいに上がったことのある前頭が、素人の相撲自慢十人ほどに次から次に当たってこさせ、ラ
クラクと、一人残らず投げ飛ばすのをみて、力の凄さ、格差に仰天したことがある。観ていて小気味佳いものであったが、羽生の十番切りも爽やかで感嘆した。
あまり好きなタイプではなかったが、打ち手を運ぶ人柄にも魅力が感じられ、印象を大きく佳く改め得たのもよかった。
* 今日も、或るべつの画家から手紙をもらったが、「隅々まで意識してからでないと繪は描けるものでない」と、手
紙の最後の辺に書かれていた。芥川
龍之介はそういう作家で、一度始めから終わりまで構想し尽くしてからは、どんな途中からでも混乱なしに小説が書けたなどと伝説化されている。そういうとこ
ろが芥川作品の魅力でも有ろうが、短所ともなっているだろう。石川淳は創作は一歩一歩暗闇へ踏みこんで行く作業だと言っていた。わたしもそうだと思う。敷
かれた軌道を走るような創作には、弓なりに反って曲がって、それでも前に進んで行くねばりの強みは出てこない。
繪も同じでは無かろうか。昨日観てきたセザンヌは、風景といい人物といい静物といい、あの水浴のモチーフいい、必ずしも多彩にいろいろ題材を描いていた
のでなく、似たモチーフを繰り返し繰り返し描いていた。描きながら意識し、また描いて意識を新たなものにし、また描いていた。
「隅々まで意識してからでないと繪は描けるものでない」と言っていたら、この画家はいつになったら描けるのだろう。
* 九月十二日 日
* 田原総一朗の日曜朝のテレビ番組に、政治家が二人、早慶の教授が二人、元官僚が二人、それぞれに口を利いた。
聴いていて、官僚の言うことがいち
ばん分かりよかった。教授二人の競い合うような質問は、しゃべりのポーズばかり前に出て分かりにくかった。自民党総裁になりたい二人の政治家の言うこと
は、なにがなんだかさっぱり要領をえなかった。元官僚というのは現経企庁長官の堺屋太一と元大蔵省の榊原某で、体験と情報とに合わせて評論するのだから、
役に立っているのかどうかは分からないが、話の通りはいい。アメリカの株はもう危ないのだから、ドル安は食い止めたいはずだと言われると、わたしにでも言
えそうなほど分かりよい。だが、そうかなとも思う。軽い「評論」なのである。
政治家の加藤紘一や山崎巌の言うことは箸にも棒にも引っ掛かってこない。ことばの垂れ流しにしか聞こえない。よほど高邁なことを喋っていて俗人には聞こ
えないのか、ほとんど本人も何を言うているのか分からないのか、後の方だと思う。それでいて、こういうのが政治家として、さきざき国民や官僚の上へ立って
くるのかも知れない。これでは、どうせ官僚の言うがママなのだろうなと、来世紀に余り望みは持てない。
* 鏡花講演の用意にかかった。まだ一月余りあるが、油断をしていると、のっぴきならないことになる。日の経つの
が早い。同じなら、手を尽くして、
それでも結果が不味ければそれは仕方がない。
昔、『龍潭譚』を現代語訳したとき、一箇所で問題が起きた。或る箇所で「渠=かれ」という、いわば特別の代名詞が使われていて、誰を、何を、指している
か、わたしの理解に異存が提出された。そのような注目がじつは寄らないものかと、脚注で、ことさら鏡花の見せ消ち草稿まで持ち出して、その上で「深読み」
のおそれが無くもないが、あえてこう訳してみたいと、理由も書き添えて置いた。わたしに直接異存を申し立てて下さったのは、一人は寺田透氏で、もうお一人
は鏡花夫妻の養女の泉名月さんであった。わたしは、申しては失礼だが大物を確実に釣り上げた。三人の間で、しばらく私信を通じて意見交換が続き、やがて終
えた。だれもが、自説を曲げるほどは説得されなかったのである。
この一件をマクラに置いてみようかなと思い立って、学研版の『明治の古典』泉鏡花編の該当個所を読み直したり、原作を読み直したりしてみた。問題は、残
されたままになっていて、寡聞にして他の場所で論議されたことがあるかどうか、わたしは知らないでいる。ま、古証文を引っぱり出してでも、この辺から語り
起こして行こうかと、腹を八分方くくった。
「渠」は、水路や溝を意味している。暗渠、溝渠などと熟する。また、かしら、親分ふうに渠魁などとも熟する。「なんぞ」「いづくんぞ」と漢文では疑問や
反語の助字に用いている。「彼」「彼女」風の代名詞なみに使われる例は鏡花に限らないし、人間だけでなく他の生き物や、擬人化して物に宛てて使う例もあ
る。寺田、泉ご両人は、作中にまだ全く姿をみせていない女人に宛てられ、わたしは、その女人にもなぞらえられていて、しかも該当個所の直ぐ前のところで、
語り手の少年を迷子の窮地から救ったに等しい「瀧」ないし「瀧の音」を宛てて読んだ。「瀧」は、題名の「龍」ないし「龍潭」にかぶさり、やがて登場する神
秘の女人の「水神」性につながっていると読んだ。その読みの延長上に名作『高野聖』と『歌行燈』の読みをもまさぐって行ったのだった。これらの名作にはま
さに「水の幻影」としての「蛇」神「龍」神がたゆたい生きている。鏡花の世界に遍満している。かねての、わたしの鏡花論を語るしか有るまい、それがいちば
ん、わたしらしいのであろう。そういう鏡花論が、幾ら待望しても出てこないのだから、やはり、わたしが実行するしかないのであろう。さ、どこまで出来る
か、この秋の一仕事になる。
* 人のいぶかしむほど、手足はひっかき傷だらけで、一日中仔猫に噛まれたり掻かれたりしている。真っ黒い猫が、
以前、真向かいの家に飼われてい
て、これが気の荒い噛みつき猫だった。無理もないか、頸にしっかり首輪と長い縄が掛けられていて、道路向きの外庭に出されていた。その猫は可哀相なほど自
由を奪われていたから、うちへ来た仔猫の親とは思われず、また、仔猫の生まれる大分以前に死んでしまっていた。
何にしても黒猫はいやだと、ポーの小説以来毛嫌いしていたのに、妻が抱いて見せに来た仔猫に、一も二もなく在宅許可を与えてしまった。
黒い色が、こんなにも美しいかと、思う。まえの愛猫「ネコ」は七分の黒と三分の白で、その子の、愛しかった「ノコ」も六分四分で黒白猫だった。黒と白と
が最高だなあと和猫ぶりに傾倒していたが、そのときでも白いところよりも黒の美しさを感じてはいた。だが、まさか真っ黒にぞっこん参るとは思っていなかっ
た。もう階段も、わたしのそばをすり抜けて弾丸のように駆け上がって行く。外で収穫してきた枯れ葉を蹴立てて、余念なく走り、跳び、宙返りをしてから、私
の手足を噛みに来る。かるく銜えるだけだが、歯尖が細く、時には声をあげてしまう。ま、いいか。猫には、だが、猫引っ掻き病というれっきとした神経病を引
き起こしかねない危険がある。たしか「脳と神経」か「神経研究の進歩」という雑誌を担当し発行していた大昔の医書編集者時代に、そういう症例論文を読んだ
ことがある。
たしかに、だが「黒」はつよい。、映える色だ。衣裳合戦で、尾形光琳が、肝いりの女房にひとり黒い衣裳をうまく着せて圧勝した逸話も思い出される。
わたしが黒に魅せられた最初は、叔母の愛していた楽慶入作の黒茶碗、銘「若松」の漆黒の照りであったろう。松の翠を黒に見立てたセンスにも恐れ入った
が、それよりは黒茶碗で点てた茶の緑の色美しさを「若松」と見たのだろうとわたしは解釈して、ひとしおその黒が美しく眺められた。その「若松」の黒茶碗
も、叔母はわたしに遺していってくれた
。
* 九月十三日 月
* ホームページ「講演録」の筆頭に、東工大を定年退職直後に請われ、昭和女子大人見記念講堂で講演した、「漱石
『心』のことなど ーわが文学の心
根にー」を書き込んだ。「先生」「奥さん」「私」の年齢差を論証しつつ、「先生」の自殺後、「私」の手記と「先生」の遺書が一纏めに形を成す頃までに、
「先生の奥さん」と「私」とにはすでに愛の絆の「子ども」もすでに生まれているか予期されているほどの共同生活が成り立っているという、前代未聞の「論」
であり、この講演は久しいそのような私の「読み」を、大きく取りまとめ仕上げた物になっている。学界や漱石読者を騒然とさせたが、「これ以外に考えようが
無くなった」という専門家の声も定まってきている、と、聞いている。
また、幾つか講演録を掲載して行く。「作家の批評」である。
* 「私語の刻」は、ただの日録ではない。「つれづれ」に日は送っていない、送りたくてもそれは無理であるが、ま
た「徒然草」を庶幾する気もないの
だが、これも「文藝」と思い書いている。日々にエッセイをたっぷり書いているようなもの。
志賀直哉全集を見ていると、作品十巻中の最後の三巻ぐらいは、量的なことだけ言えばわたしの「私語の刻」の一日分、一段落分と変わりない程度の短文ばか
りで占められ、それらを、直哉は、ナニ憚ることなく「仕事」と称している。彼の「仕事」とは「文学」そのものをいつも意味している。
文章を書くということは、作家にとってはたしかに仕事であり表現であり、事実を事実らしく書いていても創作なのである。直哉はそれに徹し、わたしも、そ
れだけではないが、それも肯定している。
* 九月十四日 火
* すこし早起きし、妻と、名古屋へ行った。京都の美術文化賞で一緒に選者をしている小倉忠夫さんが新館長で、新
建設されオープンした名古屋ボスト
ン美術館の印象派展が観たかった。金山の総合駅で降りた直ぐ目の前にすばらしい美術館が出来ていた。小倉さんには逢わず、名刺だけを受付に預けて置いて、
すぐに展示場に入った。
入って直ぐの、コローの風景、ルソーの風景に、もう釘付けにされてしまった。呼吸するのを忘れてしまったような按配で、妻も私も、大勢の客のあるのも意
識から白濁後退させてしまって、ただもう、深呼吸を精一杯取り戻すようにしながら一作一作に魅せられ観入って、時を忘れていた。
こまごまと書いていられないので、言い切ってしまえば、この入って早々のコローらの風景と、もう出口に近い真っ赤な壁面に一点架けられたゴッホの風景と
が、頂点だった。だが他は尋常かといえばとんでもなくて、どの一点を持って出てもなみの展覧会なら優に「目玉」になるほどの作品が目白押しに並んでいて、
呼吸困難を感じ続けるほど、どの繪のまえででも時間を喪い、じいっと観入った。モネとルノワール、ピサロとシスレー、セザンヌとゴーギャン。その他にもミ
レーやボナールや忘れられない佳い画家の佳い作品が、特徴的に大作ぬきに、とても見やすい大きさの物ばかり、巧みに並べられていた。量ももう十分という程
良さで、極めて高品質、良好な展覧会であった。
一度最後まで観て、いつもの通り逆に戻りながら観て行き、さらに最初のコローから見直していったが、ゴッホまで来て見終わると、妻は、もう胸がキュウッ
とつまって息が出来ないからと言い、再入場出来ないのも承知で外へ出た。心臓の調子が狂ったかと心配したが、そうではなくて、あまりに繪がよくて、胸がつ
まってしまった、もう危ないと思ったと言う、分かる気がした。
ゴッホが、ほんとうに素晴らしい異能の画家で、天才的に不安な作品で感動させるということを、わたしたちは、初めてほんものの作品で、作品二点で、心か
ら確認できた。ああいう繪の魅力迫力は、写真版では絶対に掴み取れない。
こんな佳いものに出逢ってしまって、どうしよう、といった気分だった。日本にゴッホを本当にもたらしたのは武者小路実篤だが、あらためて眼識に敬意を捧
げた。
* 体力がまだあると言い、その妻の望みで、併設のエジプトとエーゲ海の美術展も観たが、これがこれで本展の印象
派展に勝るとも劣らない陳列だっ
た。大いに楽しんだ。紀元前の数千年もの昔の容器や用具などの精緻な造り、斬新な造形やデザインなど、今に初めての感銘ではないけれど、観れば観たで、深
く魂を揺すられる。ギリシャの赤像式、黒像式の土器の、朱といい黒といいまた繊細で毅い線の人物や神話の繪のみごとさなど、しかもそれらの装飾性をはるか
に上回る器体造形の完璧な美しい仕上がりなど、堪らんなあと、恥ずかしながら思わず本当に涎を垂れてしまった。
目元を彩り飾るという緑の染料をすりおろすための、ま、硯なみの玉か石か、それが魚や亀などの形をしていて、それが現代の似顔絵道場の秀作者たちもマッ
サオなほどの秀逸なデザインなのだ、見飽かなかった。
* 名古屋に入った頃から、予報どおりの雨になったが、二人とも濡れてへっちゃらという簡素な出で立ちであったか
ら、美術館のあと、すこし金山から
先の熱田神宮に参ることにした。われわれは大きい神社の杜が京都時代から大好きで、なにかあると神社の杜で気持ちのバランスをとろうとする。そういえば横
浜には神社が無いのかも知れなかったが、幸い名古屋には尾張一宮がある。
東門から入って、西門に出ようと、地図で確かめて置いて、降りみ降らずみのしっとりと雨に濡れた神域の砂利を踏んでいった。古事記の倭建命とミヤヅヒメ
のことなど思い出し思い出ししながら、タケルがここで天叢雲剣をうけて東征していった哀れなどにも思い当たっていた。雨をふくんだ杜と砂利とで湿気と暑さ
とはたいへんだったけれど、それでも清々しく神々しかったのはさすが熱田神宮で、本殿の前では静かに頭をさげ柏手を鳴らしてきた。七本楠の一番太い古い樹
の前などで写真を撮った。
* びっくりすることが、それから先にあった。西門をでて、地下鉄神宮西の駅の方へ神域の外に沿って歩いていた。
と、歩道沿いに小さな鳥居が見え
た。あ、あそこからも出入りできたんだ、と、思ったが違った。鳥居奥に摂社であろう、立て札に「下知我麻神社」とあって「旅の安全」を守って下さる神が
祭ってあるという。有り難いことよと奥の小さな拝殿にわたしは「アン」と拝礼し、柏手を打とうとした、そのとき、妻が「猫よ」と声をあげた。拝殿の、まさ
に神坐すべき厨子の真正面真ん前に、黒い仔猫がゆったりと伸びて我々の方を見ているではないか、「マーゴ」と、二人とも大声をあげた。出がけに台所に入れ
て留守番を頼むよと置いてきた黒い仔猫が、全くそのままに神坐す御前の座にいてわたしたちを見ているのだ、ウーンと唸りながら思わず哄笑した、「マーゴ、
おまえはたいしたもんだなあ」と。なんだか、嬉しかった。鳥肌だつほどの感動も有った。すぐ写真に撮り、もっとと近づいたら黒猫は静かに奥の杜に姿を消し
た。
「マーゴではない証拠は無い」という結論を二人は出し、満足した。ひどく満足した。
* 地下鉄で栄に入り、雨の街を暢気に歩いて、松坂屋南館十階の「美々卯」で、思い切って「うどんすき」二人前を
頼んで、ビールのあと、わたしは久
しぶりにウイスキーのオンザロックを楽しんだ。席は静かでゆったりし、眺望も広くていいし、料理は味よく豊富ななかみで、予想したよりずっと美味しかっ
た。これはアタリだわと、わたしは満足した。妻も大いに満足そうであった。雨がかえって幸いしたのか、いつものようにダウン寸前と言うこともなかった、こ
れが、なによりのことだった。体力を惜しみ惜しみ、横浜や名古屋へとこうして出かけられるのは、妻の健康のために最良の薬なのである。
食事を終え、一路新幹線で帰っていった。車中の二時間足らずは、考えようでは、疲れた足などを休めることになり、妻のためにも良く働いていた。保谷駅に
着くと雨も中休みで、濡れることなく自転車の二人乗りで「マーゴ」の待っている家に帰り着いた。名古屋駅で買ってきた好物の赤福餅で、ほっこりと息をやす
め茶を飲んだ。小田切秀雄氏から封書の手紙が届いていた。『親指のマリア』や『漱石「心」の問題』が面白かったと書いて貰っていた。
* ゆうべのうちに、『夜の寝覚』を原文できっちり通読した。少し間をあけたりしながら、それでも終始一貫、幾分
の恍惚感というか憧れほどの強い心
地で、この物語の作者が少女の頃に源氏物語に夢中だったようなあんなものかどうかはともかく、心のとろける嬉しさで読み切ったとは言える。このヒロ
インは、紫の上、宇治の中君の二人に優るとも劣らない魅力と能力の持ち主で。好きだ。男君も、一途に女を愛して少しも衰えない点、好感が持てる。
これほどの女人と出逢ったすばらしさだけで、男君を称賛したい気がするほど。
物語はもっと長大なものだったが、現存の五巻でも完成感は濃い。完成度は高い。むしろ現在の形の方が、伝えられるものにより推察しても、余分な傷がうま
く失せていて、わたしは、これで満足だ。この物語は、源氏や平家とならんで、おそらくこの後も何度も繰り返し読みたくなるだろう。
* 台風か。風がしきりに窓を打つ。あすはゆっくり休み、あさっては二ヶ月ぶりのペンクラブの理事会である。
そうそう、今朝出がけにメールを開くと、東レに就職し名古屋熱田の寮で暮らしているという、元院生クンの便りがあった。名古屋か、と、偶然におどろき、
今から名古屋に行くよと返事をしておいた。勤務の日だと思い、誘ったりはしなかったが、東工大を出て行った卒業生たちが、一人また一人と新しいドメインで
メール復帰して来る。嬉しいことだ。岐阜の各務原市から、夢の飛行機造りに取り組んでいる、松園の繪の好きな青年も新しいメールの便りをくれた。長い間、
手紙でしか交信できなかった三井化学勤務のピアニスト青年も、新しいメールで、「お元気ですか」と聞いてきてくれた。この人も名古屋に住んでいる。また逢
いたいな。
* 九月十六日 木
* ペンクラブ理事会。させる事なし、二時間をときどき退屈して過ごした。
* うまい酒が飲みたくなった。旨い酒というと、つい中国酒に走る。花彫紹興酒かマオタイか。気温も今夜はややし のぎよかった。九時過ぎには帰っ て、ポルノまがいの木曜洋画劇場をテレビで見た。
* 『更級日記』を、『夜の寝覚』の縁で読み始めた。高校で女友達と教室で一緒に読んだ青春の古典。著者は『夜の
寝覚』の作者に擬せられ、有力視さ
れている。わたしは、ほぼ信じている。最初の方の竹芝寺縁起に関心をもち、高校時代に小説に書いてみた。竹芝寺は現在の三田済海寺にたいていの参考書が宛
てているのを、間違いであろうと、現在の柴又の辺に考証し、今、私の読んでいる古典全集本の月報に書き、本文の頭注にもそれが援用されている。湖の本エッ
セイの第一巻『蘇我殿幻想』でも、その件に詳しく触れている。
また、『更級日記』筆者の菅原孝標女が、都への帰途、足柄の宿りで出逢った遊女たちのこともわたしの胸に焼きつき、何度も何度もそれについて書いてき
た。更級日記との縁は、濃く、深い。そういえば「更級日記の夢」について高校の新聞にやや長めの原稿を寄稿したこともあった。
* 『マルチメディアと著作権』という本も読んでいる。特許法と著作権法とを並列解説して行きながら、やがてマル
チメディア著作権に至る解説的なも
ので興味深く、なまじの他の読み物よりも目下はわたしの気を引いて余りある。
* 九月十七日 金
* 岩波書店の野口敏雄さんと、数ヶ月に一度ずつ会って歓談し痛飲する。今夜も久しぶりに池袋で会い、すこしにぎ
やかなビヤホールだったが、三時間
も飲んで語った。飲んでもあまり食べない人なので、あらかじめ家でおにぎりを三つほど食べて出かけた。さもないと飲み過ぎて気分が崩れかねない。
多岐にわたって話した。志賀直哉のことを話し、内向の世代のことを話し、私小説のことを話し、そして年譜のことを話した。わたしはビールに限って飲み、
野口さんはビール、日本酒、梅サワー、ウーロンハイを順々に飲んでいた。辻邦生さんのことも惜しみ合った。
* 狭い家に物が増えると、必要なときに必要な物が見つからなくて困る。極力気をつけているけれど、見つからない 物が出来てくる。手拍子でものを置 いてしまう。その上にまた物を置いてしまう。携帯に電話すると電話代がかかる。それでカードを呉れた人がいた。百回カードを十枚も呉れたのに、九枚か八枚 かをどこかへ紛れ込ませてしまった。もう見つからないのではないかと、無数の引き出しのガラクタに絶望している。
* 書庫が溢れている。本が重く体力は衰えて、整頓できない。至る所に投げ出してあるので、不便なことになってい
る。整頓して並べる棚ももう無い。
事典や辞典や論文集や専門雑誌や図録や研究書や古典は捨てられない。エッセイ集と小説は、処分可能な物もあるがせめて読んでからと思うと、いつになれば読
めるか分からないほど、ある。大方が署名本である。歌集詩集句集も凄い量になっていて、「ミマン」連載の続くあいだは処分できない。月々数十種のいろんな
寄贈雑誌は、惜しいけれど大方目をつむって処分している。若いときなら、こんなのをこそむさぼり読み、それが書く力になったのにと思うと胸が痛い。要する
に家が狭い。
* 九月十八日 日
* 京都の秦さん、秦恒夫さんから、メールが来た。下鴨神社辺へ高野河原から上がってそぞろ歩いているうちに、閑
静な住宅のなかに、わたしと一字違
いの表札を見付け、興に誘われて「通りがかりました」由を名刺に書き郵便受けに落として、その足で東京に帰ってみると、その恒夫さんのメールがもう届いて
いた。それ以来の心不思議なお付き合いだが、お目にかかる機会はまだなく、そもそも、もう一度お宅がみつけられるかどうかも分からない。
上村松園展の券を送っておいたのはお母上が楽しんできて下さったそうで、有り難い。
* 人の世には、まだ、こういう夢のようなことが起きうる。架橋などの大きな設計施工をされる、いくらかわたしよりもお若い人のようにうかがっているが、
お互いには、ずうっと何の触れあいもなく姓だけを共有してきたに過ぎない、いや名前の字も一字「恒」を共有していたのだが、それだけだった。顔かたちも背
丈も声音も知らない。
わたしのホームページを時には見て貰っているらしいので、似顔絵はご存じのわけだが、ま、わたしは、山藤章二さんに描いてもらったこの繪に、比較的ちか
いという評判である。東工大の教授時代の繪であったかして、本を持たされている。ゴマ白髪に描かれていたのを髪黒々と塗りつぶしてある。パロディのパロ
ディである。
* 人との出逢いを大切に大切に考えてきた。お互いに忙しい日常では、逢える機会にはそう恵まれまい。しかし、京 都の町にはいると「秦恒夫」という 名の知り人が「在る」「生きて在る」と感じていられるだけでも、嬉しくて、心強いことである。そういう人と大勢出逢えれば、どんなに人生、心和むことだろ う。
* 昔、中学生の頃、逢いたくて、いつも逢っていたくて、一緒にいたくて堪らない人がいた。ひとつ年上であった。
優しい人であった。あまりわたしが
いつも顔を見ていたがるので、しまいに笑い出して、「逢っているばかりが真実ではない、真実があれば無理に逢うことはないの。安心してて、ええのぇ」と窘
められた。それでも逢いたかったが、事情に阻まれて自然と逢えなくなっていった。
逢えなくなって何かが消え失せたということは、すこしも、無い。そうと思い当たったことは、ただそのことだけの意義ではない、もっと大きな意味に繋がっ
ているとも思えるようになり、いろんなことでラクになった。身内に自然に流れて行くものの音を、声を、聴いていることができるようになった。
強いて逢うことはない。年たけてくれば、なおさらである。逢わないとか知らないとか、その「ない」にも尊い値打ちのあることを、あの十五にもなるならず
の人は教えていって呉れた。
* 明日は、午後京都に入り、明後日の午前中に、現代の仏師と截金師の夫妻と鼎談する。二人とも日吉ヶ丘高校の後輩。
截金で、『畜生塚』という小説を「新潮」に出した、昭和四十五年二月号に。桶谷秀昭氏が「文藝」の一頁時評でこの一作を称賛され、立原正秋氏からも人づ
てに励まされ、お二人とのご縁のきっかけになった。励まされた。
美しい截金作品を創作する夫人の江里佐代子さんは『畜生塚』のモデルにはだいぶんお若いが、現代に、こういう創作で截金の伝統を生き生き嗣いでいる女性
が本当にいたんだ、それも自分のヒロインと同じ母校の後輩にいたんだと知ったときはびっくりし、感動した。ご主人康慧氏の仏像制作にもわたしは以前から関
心を持っていた。鼎談を楽しみにしている。
* 九月二十日 月
* 朝六時前に京都のホテルで目が覚めた。朝食に降りていったら時間に早すぎて、それならばと、そのまま出町柳の
常林寺へタクシーで走った。午後に
と予定していたが、朝早に墓参というのもいい心がけだった。烏丸四条からあっというまに加茂大橋についた。萩の寺の名に背かない紅白とも真っ盛りに境内に
波打っていて、住職が庭を掃いていた。「びっくりしたなあ、もう」と驚かれた。紫式部の実の清らかに白い、白式部とか、も見た。 墓を清めて、線香をあ
げ、ひとしきり父や母や叔母と話してきた。彼岸まえに幸便に墓参りできてよろしかった。妙に嬉しくトクをしたような心地だった。
叔母の社中たちが、命日の頃になると参ってくれている。有り難い。
それだけでなく、大学で妻と同期の友人が近所に住んでいて、折り目けじめの頃になると必ずうちのお墓を掃除して、塔婆を上げていってくれる。有り難く、
恐縮している。今日も、はびこっていた墓の裏の草などを、きれいに掃除して貰っていたようだ、住職にも奥さんにもそう聞いた。
* 三条縄手まで電車で戻り、朝早で閑散とした古門前通りを東へ。有済橋のたもとで「なすあり地蔵」の祭られてあ
るのを拝み、白川沿いに狸橋まで
行って、西向きに、橋から川を覗いてきた。北岸の草むらから、折しも、いま目覚めたとばかり六羽の水鳥が元気よく川面に泳ぎ出た。南の川縁の家はいずれも
痛く古びたり様子が変わっていた。ことに昔津田さんといった家が取り壊されてしまっていた。
両側にまだ家のあった子どもの頃、目が舞いそうになるまで、気がボウとなりそうなまで、狸橋から川瀬の音もさやかに水の流れに流れるのを、まぶかにまっ
すぐのぞき込んでいるのが好きだった。橋の東をみると、川中に、秋草のたけ高にいきおいよく生えた径一メートルあまりの中島が造られていて、これはわたし
の見知らぬ風情だった。わびていて佳かった。
狸橋から新門前通りまでの、豆腐屋さん八百屋さんはむかしのままだが、荒物屋も魚屋も無くなっていた。東角の奥村隆一君の家もまるきり変わってしまっ
て、妙に荒んだ感じのビルに化けていた。むかし我が家のあった跡は、どうしようもないテナントビル。電柱がめじるしで辛うじて、その東間際の此処と分かる
が、抜け路地も、もう跡形無くなって通れない。
いたたまれないのに、ときどき、忍び寄るように新門前へ帰ってくる。
隣組の第七組は、一軒残らずバブルの昔に根こぎ地上げされてしまい、面影といえば、路上の電柱だけ。その電柱に、そっと手を触れてきた。
新門前橋を渡り、西之町の「菱岩」のわきから辰巳稲荷へ抜け路地を南へぬけて、祇園白川沿いに縄手へ出た。南座の前から朝のバスに乗って四条烏丸のホテ
ルへ戻った。老舗の「田中長」で、妻の好きな小茄子の辛子漬けを買って帰り、ホテルで決まりの朝食。
* 十時、京都中央信用金庫本店の会議室に江里康慧・佐代子夫妻を招いて、現代の仏師・截金師の、信と美と、造像 と荘厳との「日々」を聴いた。よく 話してもらえて有り難かった。康慧さんが八つ、佐代子さんが十、わたしよりも若い同じ高校の後輩になる。この夫妻の仕事は、銀座の和光でも何度も展覧会が あり、知る人は多い。現代には珍しい伝統の技術で、じつに清らかな世界を夫婦相和して創造されている。
* わたしが、小説『畜生塚』の町子という美術コース日本画科の高校生ヒロインに、作中で、「截金」という稀有の
技術にうちこませ、新たな工藝とし
ての可能性を探らせていた、ちょうどその執筆の頃に、江里佐代子さんは、偶然の一致であったが日吉ヶ丘高校の日本画科にありながら、截金師の北村起祥氏の
門に入って、師から技能を譲り受けていた最中だった。わたしが作中の町子を入門させていたのもその起祥氏の父親だった。作の町子と現実の佐代子さんとは、
モデルかと言われても仕方のない、重ね合わせたような二人であったのだが、むろん小説の町子は、作者である「私」のような「宏」と同年なのだから、十年の
年齢差があり、先輩後輩とは言え、当時は知る由もないお互いに遠い存在であった。
佐代子さんのことを知ってビックリしたのは、今から十年ほど前だろうか、美術文化賞の親財団である京都中信の発行している雑誌に、「女性の截金師」とし
て紹介されていた時だ。「ヘッ、こんな人がほんとにいたんか」と感じ入った。財団理事であり賞の選者でもあるわたしの仕事をよく知った雑誌担当者は、そっ
とナイショで、佐代子さんに小説『畜生塚』のモデルですかと尋ねたそうだ。そして小説を読んでみたご当人は、ドキドキしてしまったそうだ。
今日が初対面ではなかった、が、時間をかけて話したのは初めて。夫妻とも、きびきびと自信にあふれた佳い藝術家であった。佳い鼎談になり、楽しい出逢い
であった。
* 仕事から開放されて、ひとりで四条を東に向いたが、荷物も重く、「たごと」名月庵で懐石をゆっくり食べ、東寺
に寄りたかったが疲れてもいたの
で、手近な「イノダ」のコーヒーでほっこり一息を入れてから、新幹線に向かった。
* 京都に入ったのは前日の午後だった。車中で、妻の長い時間をかけて書いていた原稿五十枚ほどを、初めて読んでみた。「姑」を書いていた。わたしの知ら
ない母の声が聞こえ顔がよく見えて、有り難いものであった。よく書けていた。感謝した。ホテルに入ると早速電話で礼を言った。
* 京都駅からの地下鉄のなかで、オランジュリ展があるというポスターをざっと見ていて、タクシーで走ったら、な
んと明後日からだと分かり落胆し
た。だが、常設展がわるくなかった。珍しい近代の繪が、たくさん観られた。やきものもよかった。
国立近代美術館のよく設計された窓からは、白川のいい裏道が眼下に見えて、一幅の繪のようであった。東山のやまなみの緑がとりどりの濃淡で映え、手の届
きそうな平安神宮の朱の大鳥居も美しく見えた。粟田坂青蓮院前で旨い京料理を食った。
鼎談を明朝にひかえて有り難い休日だった。京都を、足に任せてそぞろ歩いた。夢であった。
* 旅中、原田奈翁雄氏と金住典子さんの出している雑誌「ひとりから」の何号目かをだいぶ読んだ。原田さんららし いしっかりした思想の足場に築い た、健康な大切な論調の記事がたっぷりあり、篠田博之氏らの「創」とはまたちがった行き方の、読者の増えて欲しい雑誌だと思った。
* 京都へ発つ間際に、前の青山学院大学学長の内藤昭一さんから、立派な梨を頂戴した。前にも頂戴した。ついこの
間には、元日大病院長の馬場一雄先
生に豪華な葡萄のいろいろを頂戴した。
梨は、さっき家に帰ってきて、すぐ、いただいた。おいしかった。葡萄もすばらしい美味であった。わたしから差し上げられるのは「本」ばっかり。食いしん
坊の私にはご馳走が嬉しい。しかし、また、贔屓の浜木綿子が主演する帝劇の招待切符が帰りを待っていてくれたのも、嬉しい。誰かが「春琴」を演じ、かつて
ない我が「読み」の「自傷」「自害」場面を演じてくれないものか、適役がいないかと、内心燃えるほど願っているのだが。
* 九月二十一日 火
* 文字通り土砂降りのさなかに家を出て、ものの三十メートルも行かぬうちに、もうぐしょぬれ。冷え冷えとした膝
下、靴の中、背中。麹町の文春西館
での文藝家協会知的所有権委員会に出席。
吉村昭、高井有一氏も参加し、三田誠広新委員長での最初の会合。議題は沢山あったが、なにとなく、靴を隔てて痒いところを掻いているような、煮えたよう
な煮え切らないような、へんな会議だった。議論らしい議論をするには問題点の把握がゆるく、遠巻きに漠然とした話を、ただ、しているだけ。マルチメディ
ア、電子メディアがらみに全ての問題が、渦巻き流れて行こうというときに、紙と活字の本を従来どおりに出版社から、と、ばかりは考えていられない状況に
なっている。我々よりももっと早く、もっと厚顔に、生き馬の目も抜こうという商売の働きかけが襲いかかってこようというこれからは、もっと「攻撃的に身を
守る」徹して改革的な姿勢、時代を先取りは出来なくても洞察しながらの踏み出して行く姿勢、が必要なのであり、文藝家協会だけで、ペンクラブだけで、単独
に出来ることとは思われない。大きな発想の展開が緊要なのだが、根本からの対応具体案が出てこない。荷が重すぎるのだ。
* 五時で終えてもらい、すぐ地下鉄で有楽町駅に。五反田経由で戸越銀座のパーソナルメディア社へかけつけて、
「超漢字」ソフトの内覧説明会に。
なかなかのモノだと思った、知的な好奇心を大いに満足させてくれるみごとなプラットホームではある。だが、わたしのウインドウズ98では使えない。使い
やすそうではあるが、要するにBTRONというOSでなければ働かない。十三万字もの漢字や世界各国の珍しい文字が、急に少ししらけてくる。二万字でもい
いから、いかなるOSにも填り込んでくれるモノが欲しいなあと言う気がしてくる。
* どうも雨といい二つの会合といい、吹っ切れずにじめじめしたので、気分直しに池袋のメトロポリタンホテル地下
の「ほり川」で、特上の旨い寿司を
しっかり食って帰った。
* 九月二十二日 水
* 金沢の、趣向の「麩」を頂戴した。物静かに佳い吸い物になる。京都「和久傳」の涼菓を頂戴した。瑞々しい笹の 葉に巻いてあり、さすがの名菓で、 食べてしばらくしてそのうま味と品の良さとに驚嘆する。佳いものは、ほんとに佳い。はんなりと、清い。
* 新編の『和歌の解釈と鑑賞事典』が版元から贈られてきた。人麿から俵万智までとある。名歌秀歌撰に解説が付い
ているものと思えばよい。解説はた
いして用がないが、選ばれた和歌短歌は堪能できる。漏れたモノの多いのはあたりまえで、贅沢を言わねばこれだけでも和歌は大いに楽しめる。
和泉式部や西行は歌数も多く、それでももっと欲しいと思ってしまう。近代の短歌とむかしの和歌となると、積み上げの伝統と技巧の高さで和歌のほうが遙か
に面白いのは仕方がない。和歌にはふしぎに深い普遍の「遊び」があり、近代の短歌は、胸を打つ告白の個性力がつよい。面白いというモノではなく、いいもの
はいいが、いいものはめったにない。だからこういう選集がありがたく役に立つ。
はっきりしているのは江戸近世の和歌が、良寛さんなどを除けば殆ど読むに耐えないということだ。題材をひろげて苦心はしているのだが、平安室町和歌の残
骸ばかり。近代短歌の革新がどんなに必要なことであったかが、よく分かる。正岡子規や与謝野晶子はえらかった。
* 九月二十三日 木
* 『能の平家物語』の再校が出そろった。三十年前に『清経入水』で受賞し、三十年目に平家物語にゆかりの仕事が 本になる。十一月中には出来ると か。原稿を通読した写真の堀上氏が、「おもしろい」と電話をよこされた。おもしろおかしいモノは書けないが、借り物の原稿も書かなかった。結局は難しいと 言われるだろう、か。
* 或る読者が、新作を含む「秦恒平・掌説の世界」を自力で出版したいと一度は言い寄越されたものの、とてもナミ の造りでは本がもたないと、弱気に 尻込みして仕舞われた。無理もない。写真かイラストか繪との競作にしたいのが、夢だ。夢の夢かな。
* 明日は、辻邦生さんのお別れ会だが、失礼して、ひとりで辻さんの作のなかでも好きだった『回廊にて』のつづき を読みふけりたい。文庫本もいただ いているし単行本もいただいている。大勢で献花もよし、また思い出を話したり聴いたりもいいのだが、俗人が集えばどうしてもそこに人間くさい渦が巻いて、 それに耐えねばならない。悲しみを和らげるための会でもあるまい、故人を慰める会だろう。故人の気持ちは分かりかねるし、悲しいは悲しいなりに、自分一人 の悲しみと懐かしさとに沈んでいたい。出て行くのが面倒という気がまったく無いわけではないが、それよりも気の騒がしくなるばかりなのを、いやだと思う。 辻さんの面影も思い出も、わたしのなかで、くっきりと静かに、今も、在る。それを大事にしていたい。
* 尾崎秀樹さんの場合にも同じに思っている。尾崎さんの書かれた作品を、わたしは読んだことがない。ご冥福を祈 るばかりである。大学に入って直ぐ 中国の旅に連れて戴いた娘が、どんな思いで尾崎さんの死を聞いただろうか。
* これからの関心事は、電子メディアの文藝著作権。
マルチメディア著作権では、例えばゲームソフトの著作権のようなことに集中してしまうが、ペンや文藝家の個々の創作や執筆にこまごまと関係した著作権の
勉強にかからないと、われわれは、ただもう置いて行かれてしまうだろう。
手探りでしか進めない。どこをどう手探りしていいのやらも、見当がつかない。分からない。歩いて行くしかなく、転落転倒の憂き目も覚悟しなければ成るま
い。電子メディアに著作権は「無い」「成り立たない」のではないかという悲観的な思いすらある。
* なぜだか、にわかに「娼婦」というものに興味がわいている。現実に縁をもった・もっている、わけではない。永
井荷風の世界、吉行淳之介の世界。
そういうのとは、わたしのしてきた仕事は、いわば対照的な地点にあるように人には言われてきた。むかし、村上一郎が歳末のアンケートの中で吉行とわたしの
名を挙げて期待を寄せながら、理由のひとつに、「女」の捉え方が対照的と書いていた。どう対照的だか、村上さんに聴くひまもなく自決されてしまった。
わたしは京都で、祇園のすぐそばで育った。抜け路地一本で祇園の乙部と背中合わせだった。国民学校の区域はちがったが、新制中学では祇園町の中の校舎に
通ったし、じつは藝妓・舞子よりも、普段着の乙部の娼婦らを見知っていた。栄養の足りない貧弱な中学生ではあり、あまりにご近所でもあって、関係などあろ
うわけもないが、高校・大学になってからは、乙部の茶屋の前を通り抜けて行くと、学生服にもお構いなしに、「チョトチョト」などと椅子に腰掛けた呼び込み
のおばはんに声を掛けられるのは、常のことだった。金も無し、興味もなかった。娼婦に縁はなかった。だが、遠い疎い存在とけっして軽
蔑してきたのではなかった。生き方として、関心をもっていた。
「娼婦」を書きたいなと思っているのか、娼婦と寝てみたいと思っているのか、これも正直なところ、煮詰まっていない。東京のどこで逢えるのかも知らな
い。娼婦
と知りあってみたいなあと、そんな気がしている、それだけなのであるが、一つには文壇のどこにも、もう、永井荷風のような、吉行淳之介のような作家が地を
払ったようにみえなくなっているのが、寂しいのでもある。ほんものの愚劣売文業者が、したり顔に汚らしい原稿を書いていたり、かと思えばなんだか小役人然
とした肩書作家がえらそうにしている。そんな有様が、よほどイヤになってきた、ということかも知れない。
* 九月二十四日 金
* ある国文学者の現代文学史の試みの中で、辻邦生とわたしとの為に小さな一章をわざわざ立てて、何と括ってあっ
たのか「反リアリズム」であった
か、表現は忘れているが、様々な
文学的営為のなかでも際だって或る「逸れた」というか「特異な」というか、そんなふうにわざわざ括ってあったのに、ほのかに苦笑した、いや光栄に感じた思
い出がある。
辻さんは、ぴっちりと織りつめて風も通さないような稠密な初期世界を遺している。感嘆しながら、わたしはもう少し読者にも「藝術的な創作的な参加の余
地」を残して欲しいなと生意気に思ったりしていたものだ。ほんのもう少しだけ、ざっくりと世界を編んで欲しいなと。
* 鏡花講演の目星がついてきた。こういう形でしか用意のないギリギリのスタイルを、もう、心に決めた。あとは作 品を一つでも二つでも多く読んでお きたい。石川近代文学館の井口館長から手紙が来ていて、久しぶりに逢えるのが、お互いに嬉しい。それが心励みで金沢へ行くのだと思っている。私の本は欠か さず行っているし、文通もしっかりある。高校の校長先生から館長さんへ、井口さんのいい仕事の稔って行く場のあるのを心から喜んでいるし、仕事も着々と実 現して行っているようで、さすがだと思っている。もう一月すれば再会。東海道線をつかわずに、今は湯沢経由の、日本海側を電車でゆっくり往復したい。電車 の旅は退屈なような暢気なような、気養生の時間になる。食べ物も、駅ごとに変わっていて、いいものである。金沢では辰口温泉に宿をとろうと言われている。 鏡花ゆかりの温泉地であり旅館である。すべて任せてある。
* 同じ保谷にお住まいの春名好重先生が、旅先の京都から、わざわざ「西利」の漬け物と「若菜屋」のおいしい菓子
とを贈ってきて下さった。恐縮。ご
近所だが、お目にかかったことがない。お宅へお邪魔に上がるのを、つい遠慮してしまう。今度の「湖の本」をすこし気に入って下さったのかななどと自惚れて
いる。お手紙を早くにいただいていた。歴史上の人物らへの愛憎を、まこと率直に書かれたおもしろいお手紙だった。同感同調した。頼朝は好かないなどとあっ
て、にっこりした。
漬物も菓子も京都のモノが、むろんわたしは好き。そういうことも心得ていて下さったかと嬉しい。
* 九月二十五日 土
* 期待して出かけたが、浜木綿子主演の帝劇「八木節の女」は、低調な芝居だった。芝居づくりの低調はある程度覚
悟していたが、浜木綿子の爆発する
ような活気芝居を期待していた、そのアテがはずれた。以前、「無法松の一生」を西島大の演出で楽しんだとき、芝居はもうご案内お約束どおりの、ご存じ芝居
だったけれど、博多太鼓の乱れ打ちの凄いほどの爆発には、心身の鬱屈をすべて洗い流してもらえた。あれと似たスカッとした浜木綿子のまさに「活躍」を期待
していたのに、浜の芝居は、終始一貫、軽みに軽みに逸れた・外したもので、軽妙は、たしかに彼女の意図してよく出す特色の一つであるのは承知だが、広い帝
劇の舞台で淡彩の一筆書きの投げ科白ばかり聴かされ見せられると、どう浜木綿子贔屓でも、食い足りなくて、失望し、落胆した。物足りなかった。
主演の浜がそれでは、他の役者はもう、どうにもサマにならない。演出のミスとも台本の低調とも言えるが、八木節の魅力が生かし切れてなかった。招待して
貰って有り難いが、率直なところ、芝居づくりにもう少し、いや、もっともっと真剣味が欲しい。
* 有楽町駅前の「レバンテ」でビールをのみ、軽食して、有楽町線で帰った。車内で再校のため読んできた『能の平
家物語』の自分の原稿の方が、舞台
よりよっぽど面白かった。今日も辻さんの『回廊にて』を出かける前に音読していが、さすがその世界には魂を深く誘いこむ魅力がある。
「大衆」のためにという「名」の下に、「娯楽」の質が劣化してゆくのは残念な気がする。客を見下したものづくりが、いちばん、よくない。商業演劇なんだ
からこれでいいんだというような、安い理屈は通るまい。市村正親主演の「リチャード三世」には肌に粟立つ面白みと凄みがあった。
* 『和泉式部日記』を読んでいるが、緊迫した叙述と和歌とが相乗効果を成し、盛り上がって行く。和泉式部自筆の
日記とは思いにくい、わたしは後生
による創作物語だと以前から感じていたが、今度もそう感じた。源氏や枕や栄華物語の時期の文章とは思われない、『更級日記』よりも時代が下がるのではない
かと感じる瞬間すらある。しかも佳い作品だと思う。ざっくり進みながら感度が高い。
* 九月二十六日 日
* 昨日、歌手の淡谷のり子さんの訃報が伝えられた。歌謡曲最初期のトップ歌手だった。ごくの子どもの頃から名を
聴き歌も聴いていた。死んだ母など
と同世代ないし少し若いスターだったから、母の口からも名前はよく出ていた。あまり贔屓に感じたことはなかった。若い美しい歌手という印象をもたなかった
し、とくにうまいとも思わなかった。彼女のブルースの一つ二つには「感じる」よさがあったものの、声の質なのだろうか、「ホンガラ」の竹かパイプを吹いて
いるような歌声だと思い、パンチに欠け、さほど好きになれなかった。いつも同じ歌ばかり歌っている印象もあった。
美空ひばりの徹底した批判者でもあった淡谷のり子を、憐れむように遠ざけていたとも言える。歌唱の天才という点で、淡谷さんはひばりの敵ではなかったか
らだ。ひばり批判の理由を一つ一つ吟味してみても、説得されなかった。
一度、或る企業の雑誌で「歌」を主題に、故山本健吉と淡谷のり子と三人で鼎談したことがある。山本さんは我が国の『歌の発生』を論じて、文学修業時代の
わたしを感嘆させた大批評家だった。加えて、無類の美空ひばり贔屓だった。わたしは言うまでもない。それとは知らない淡谷さんは、話題のそこかしこで「ひ
ばり批判」を口にした。男二人は反駁もしなかったが、その話に乗っても行かなかった。
淡谷さんにとって「歌」とは、自分がデビューして以後の「歌謡曲」の代名詞だった。これまた「歌の発生」をはるかな上古に認識している男二人には、かな
り困惑する事態であったが、努めて淡谷さんに話題も調子も合わせるようにした。何と言っても一時代を代表してきた大歌手であった。鼎談はやや半端になって
しまったが、和やかに終えた。
のちのちも、山本さんと顔が合うと、淡谷のり子の「ひばり嫌い」はおかしかったな、そうですねと、思い出し笑いをしたものだ。山本さんが先に亡くなり、
淡谷さんも逝かれた。美空ひばりとはついに出逢えなかったけれど、ひばりを嫌いな淡谷のり子とは、親しく話しかわすことが有ったわけだ。わが人生の、印象
深い一こまであった。
* 山種美術館が贈ってくれているカレンダーの今月の繪は、小林古径の「菓子」で、林檎五つと青みの洋梨二つ、す
ばらしく清潔で、佳い香りのする静
かな画面である。背景も下地もまったくない、ただ果物が無造作に。それでいてコンポジションの確かなこと、無垢に熟れて初々しい林檎の肌といい洋梨の生彩
といい、そして背後の深い無の世界といい、目を吸い寄せてやまない。写真でこれだもの、実の繪をいますぐにも山種へ行って観せて見せて欲しいと思ってしま
う。むさくるしいいろんな思いに煩わされていても、この「菓子」に見入れば、すうっと「清まはる」から、嬉しい。
藝術というものは、どんなに荒々しい、どんなに烈しい、どんなに暗く重い苦痛を仮に描いていても、それが真に藝術であるならば、観た後に、読んだ後に、
この「菓子」の繪を観た後と同じ清くて深くて静かな感動をのこす。魅惑をのこす。のこさないものは、藝術としていまだしと謂うしかない。果物こそ「菓子」
の文字にふさわしい。草冠が生きていた時代の表記である。利休の頃の茶会記にも「菓子」として果物がよく出てくる。
* 仕事が輻輳して息苦しいほどだが、とにかくも、前に歩いてゆくしかない。一つ一つ。十把ひとからげなことは出
来ない。秋晴れだが、まだ暑い。
* 九月二十七日 月
* 新井奥邃という基督者がいた。仙台藩の人で、明治新政府に追われていた人だったが、森有礼のはからいで追究を
免れ、森とともに渡米して、ハリス
という特異な基督者のもとで多くを学んで帰朝後、謙遜で静謐な思索と瞑想の、教育的な伝道者として明治の若い知性を多く惹きつけた。日本女子大学、また中
村屋などの文化圏の一角を成していた。影響下には柳啓助のような、高村光太郎や相馬黒光らと親交の厚かった洋画家がいて、柳夫人も日本女子大の歴史や
ジャーナリズムに足跡の著い人であった。
その、柳らの孫か曾孫にあたる女の子が、東工大の数学科にいて、わたしの授業に出ていたし、教授室にもときどき訪れてきた。この人に柳啓助の展覧会が日
本女子大であるので見て欲しいと言われ、一緒に見に行ったときに、新井奥邃とも、会場での解説等で出逢った。その後、新井に関する著書をいくつか読んだ。
昨夜から、また新しいべつの本を読み始めた。臼井吉見『安曇野』にも登場していたかも知れないが、していなくても、あの大河小説の流れにほぼ沿って流れて
いた人だ。小説にしたいほどの心用意には欠けているが、ゆかしい日本人である。柳啓助夫妻の生涯も興趣に富んでいる。
彼らを知る縁になったその女子学生も、また、ま、おとなしい変わり者であった。ほとんど口を利かない人だった。たったの一言が出るまでに時間がかかる。
それでいて、幻想味を帯びた奇妙な味わいの「おとぎ話」を書いてきて見せる。しっかりと書けていて、たどたどしいところは無い。
学部を卒業後、一年間下宿で遊んでいたが、次の年に京大の大学院を受けてみたいと教授室に話しに来た。数学かと思ったら、文学部だと言うので、その方の
勉強はしたかと聞くと、何もしていないというのだった。そりゃ無理なのでは、何を勉強したいのかとまた聞くと、「第二次世界大戦」を研究したいというの
で、仰向けにひっくり返りそうに愕いた。どこを押しても戦争に関心のありそうな人ではなかったから、まこと、人は見かけに寄らないと驚いた。数学はどうな
のかと聞くと、文学部がだめだったら数学にしますと言う。「数学」の、まったくデキナイわたしは唸ってしまった。
結果は京大の院の数学にパスして、京都へ移り住んでいった。あんまりおとなしくて口を利きあうのも難儀な相手なので、京都へ帰っても声をかけたことがな
い。ちゃんと学問をしているのかどうかも、なんだか、遠い霞のように掴みきれない。べつにそれでというワケではないが、「奥邃」という明治の人の名前が、
わたしの頭に住み着いたような気がしている。
* 『和泉式部日記』を読みおえた。王朝の物語でも日記でも、根を支えているのは和歌であり、これだけ和する歌の 才能が、時代と人とに遍在し遍満し て揺るぎない確かさをもっていたことに、いつもながら感嘆してしまう。代作を頼まねばならない苦手の人もいたようだし、人数はそっちの方が多かったろうと 想像しているけれど、それにしても女房族の歌詠みの「口疾」なことに感心する。しかも巧い。伊勢でも和泉式部でも、また源氏でも枕でも寝覚でも、和歌が楽 しめなくては、話がお話にならない。
* 笠間書院の呉れた『和歌の解釈と鑑賞事典』をいちど手に取ってしまうと、暫くのあいだは虜にされてしまう。そ
れほど「和歌」は面白い。ゆったり
と浸かりごろの湯に浸かっているような、温かい、無類の安堵感が楽しめる。そのまま近代以降の短歌に移っていくと、浸かっていた適温の湯が、冷やあっと冷
めてゆく侘びしさを感じてしまう。優れた「詩」に触れる喜びが近代現代の短歌には認められるのに、人と人との「和する」暖かみ温みは、うすく冷え冷えとし
ている。
本の帯には「不朽の名歌を触る」とへんな言葉が書かれていて「人麿から俵万智まで」とか。人麿より前の記紀歌謡も入っている。
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも
難波津に咲くや木の花冬ごもり今は春べと咲くや木の花
秋の田の穂の上に霧らふ朝霞 いつへの方に我が恋やまむ
熟田津に舟乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
のような歌が、人麿以前に居並んでいる。人麿にはこんな歌がある。
笹の葉はみ山もさやにさやげども我は妹思ふ別れ来ぬれば
秋山の黄葉をしげみ惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも
天ざかる鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ
もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行くへ知らずも
近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ
まだまだある。
平安時代の和泉式部も挙げる。
黒髪のみだれも知らずうち臥せばまづ掻きやりし人ぞ恋しき
あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな
つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天降り来むものならなくに
暗きより暗き道にぞ入りぬべき遙かに照らせ山の端の月
ものおもへば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る
これが、全巻のトリを取る現代の俵万智になると、こうなる。
「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの
愛された記憶はどこか透明でいつでも一人いつだって一人
こんな「歴史」の記述は、あんまりではないか。少なくもこんな愚にもつかない戯れ歌と歌人は割愛して、もう一人
先に取り上げられた河野裕子の二首
で、せめて、締めくくってもらいたかった。この二首とも、わたしの推賞歌である。
たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか
たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり
言いたいことはさまざまあるが、俵万智の、短歌「のようなもの」を、もうこれ以上ワケ分からずにチヤホヤするの
は、やめたがよかろう。彼女の
ちょっと特異な特色を、わたしは、歌壇が騒ぎ出すよりはやくに推賞し、テレビでも紹介したものだ。キワモノであることに目をつむったのではなかった。
『サラダ記念日』をいち早く贈ってきた礼状に、わたしは書いた筈だ、たいへん面白い、が、これは雑誌創刊で謂う「創刊0号」であって、真価は本当の創刊号
がどう出るかで見きわめられるだろうと。その後の俵の歌集に進歩はない。相変わらずの安いキワモノ歌ばかりが並んできた。その俗な人気と本質的な保守感覚
を「是」とした文部省や教育委員会のオジサンたちがやたら客寄せに持ち上げ、文藝団体のへんなオジサンたちも、ロリータ趣味でちやほやした、それだけのこ
とだ。
現代のちからある佳い歌人たちの道を、こんなモノで塞いではなるまいに。
この『事典』は、佳い本だと人にも勧めたい、が、二人の編者井上宗雄と武川忠一に俵を切って捨てる、もう少しは様子を見る英断と慧眼の働かなかったこと
は惜しまれる。俵万智の歌は、少なくもここまでは、時代のバブル風俗の一つに過ぎないのに。やっぱり客寄せにしたかったのだろうが。
* 九月二十八日 火
* 朝一番にメールボックスを開けたら、地震で揺れた台湾に近い石垣島から、懐かしい便りがあった。便りというよ
りも、歌でいえば和する歌が届いて
いた。一昨日のわたしの古径さんの「菓子」に応じた、この植物研究者ならではのもので、書き込んでおきたい。古径の繪もここに貼り付けられればもっといい
のだが、カラースキャナの的確な使い方が頭に入っていないのだから、話にならない。
同じカレンダーを眺めている人も多いだろうと思うが、以下の石垣からの便りの最後の三行が、すばらしい。まちがいなく指摘の「眼目のが生き生きした「菓
子」の繪なのだ。メールのぜんぶが、「詩」のように光っている。
* 秦様
私の仕事机の脇にも、小林古径の「菓子」があって、
今それをながめています。
林檎五つのうち、三つは青みがかって大きく、
残る二つはやや小ぶりで、肌は淡い黄色ですね。
形と色づきの感じからして、大きい方は「ふじ」にみえますが、
この絵が書かれた昭和11年に、まだ「ふじ」という品種は存在していません。
「ふじ」は、昭和37年に盛岡で誕生します。
小ぶりの方は、「紅玉」か「国光」でしょうか。
こちらは、明治4年に米国から導入されています。
洋梨は、「ラ・フランス」か、ややスマートな「バートレット」か、迷うところです。
前者は、明治9年に米国から、後者は明治36年に導入されていますので、
どちらも古径の時代に、日本に存在していました。
小さい林檎一つだけ、果梗、柄の部分が細く描かれていますね。
この繊細さが、この絵の眼目だと、私は思います。
今日も遅くなりました。
* 一日を長く働いてきた人の、「遅くな」ってのこういうメールには、言いしれず敬虔なものをすら感じ、また心の ゆとりを感じ、詩を感じ、人柄を感 じる。
* 『十訓抄』を読み始めた。「じっくんしょう」である。「じゅっきんしょう」という説もあり、わたしもそう読ん でいたが。目次だけを見たら、すぐ 伏せてしまう人もあろう、が、それは逸まっている。『徒然草』の一つのネタ本とすら言えるほど、平易に生活的なにおいのする逸話集で、十に分類し大別して ある目次づらが、教訓を丸出しなので二の足を踏みやすいけれど、中に入ると、とても一つ一つの短い話が興味深い。面白い。『徒然草』には無常の感覚も色濃 いが、『十訓抄』はもっと現世的にけろりとした編纂態度で、気を遣わなくても済む。「ちょっといい話」のハシリのようなもので、しかも関東人の目や耳が働 いていそうに読めるのも珍しい、編者筆者は現在未詳であるが。これは、楽しめる。
* ゆうべ、息子のテレビ番組があった。「世にも奇妙な物語」を、五人が競作していて息子は二番目の台本を書いて
いた。玉置浩二とか、たしか薬師丸
ひろ子の以前夫だった俳優だか歌手だかが、とても面白い芝居にしていた。初っぱなから笑えた。
「世にも奇妙な物語」が、世にもまっとうな「主張」をしても、これは企画に合っていない。数あわせのような「図式的」な思いつきで押し切っても、リアル
でない。まして、精神医学的な「病気」を描いたのでは、奇妙でもナンでもなくて、初めから異常なだけだ。オカルトめく「怪談話」も、知恵がない。
その点では建日子の脚色していた『マニュアル警察』は批評であり風刺であり、荒唐無稽のようでいて、現実にどこにでも転がっている奇妙さである。例えば
有名なファストフード・チェーン店の「過剰なマニュアル商法」でかちっとドラマを締めくくられてみると、文句なく納得させられる。現実現代ないし近未来の
奇妙さへ、属目の日常から遊離しないで奇妙に絡みついていった作意が、しっかり笑わせてくれた。とても面白かった。
この勢いで三十日からの舞台も、客の入りのことはともかく、熱気のある成功作にして欲しい。下北沢の小劇場「劇」とは、よりによって、わたしたちには不
便で不案内なところだが。
* 九月二十九日 水
* 傍へ来て、妻が、オームの監禁室「蓮華」からの脱走信者らの話を聴かせてくれる。テレビで報道しているのだろ
う。 ちっともオームは変わってい
ない。
わたしは、オーム信者の住民登録を、公的な役所が機械的に拒絶している風潮には、一抹の不審不安も感じている。が、監禁、それも一年余に及ぶ非道な監禁
の如き刑事犯を犯している場合は、厳重な処置を速やかに執ってほしいと思う。罪を何ら犯していない者の公民権や基本的人権がやみくもに否定され否認される
のには、イヤな気がするし、犯罪の判定を気ままに市民が加重してかかる没義道も、法治国家の市民としてはぜひ避けたい気がする。国民としての選挙権も奪っ
ていいのでは、悪しき結果になる。「法の下での平等」という原則を、市民が、自らうち捨てることにも繋がる。
が、いったん犯罪、それも人命を奪う、或いはそれを目的にした犯罪が判明した以上は、正当な手続きで、関係した全員を、容赦なくきっちり法的に追究して
欲しい。
ただし、フレームアップ、つまり官権の「でっちあげ」がなされないことを、どのような場合にも、切に一私人として、希望している。そんなことでは、どっ
ちもどっちになり、正義が語られる基盤が喪われてしまう。
日本の官憲の一番怖い体質は、かの大逆事件このかた、平然として事件そのものを拵え上げて無辜の市民をすら犯罪者に仕立ててしまうような所にある。大逆
事件が古いというなら、今次大戦中に無辜の編集者たちをも巻き込んだ、特高による暴虐な横浜事件もある。それでも古いというなら、松本サリン事件のあの無
実の被疑者河野義行さんの事例もある、のだ。
オームを、わたしは容認しない。危険極まりないものだと、その正当な処断を、何度も求めて書いてきた。サリン以前から書いてきた。但しその追究が、正々
堂々と違法性のないかたちで、厳粛に、厳格になされることを望みたいとも言い続けてきた。
国が、犯罪を犯しては、ならない。
「まさか国が犯罪」なんてと思う人もあろう。しかし厚生省も大蔵省も建設省も、犯罪を犯さなかったとは言わせない。総理大臣でも犯罪を犯し、しかも罪を償
うこともついになかったではないか。
この事繁き世の中で、軽犯罪一つ犯さず生きていくことは、或る意味で絶望的に難しいのだし、罪を犯さずに生きている唯一人も存在しない可能性がつよい。
わたしでも、意識して、分かっていて軽犯罪なら何度でも犯してきた。交通規則など守らなくても良い場面なら、何度でも守らずに来た。拾いもので届けなかっ
たことも、二度三度はあった。そういうのと、国の犯罪とはちがう。重さを比較は出来ないが、敢えてと言われれば、総理大臣や大臣や高級官僚や警察官の犯す
犯罪以上の犯罪は少ない、無い、のだと言っておきたい。しかも彼らの罪状の追究は、あまりに緩く、秘密のうちに闇に流されやすいのも承伏しがたいではない
か。
ハイウェイのような建造物の不正建築不正工事が発覚しても、数ヶ月の何とかの停止程度で押し流してしまうのも、立派な国の犯罪である。どんな事故で何千
何万人がそのために死ぬかも知れない。防ぐのが国であり、見過ごすのは国民への犯罪だ。そういうことを第一義に考えて欲しい。
* 池袋で、京都から出て見えた京都新聞の宮本実氏と、久しぶりに「京都」の話が山ほどでき、楽しかった。京の智慧について、短い原稿を頼まれていて渡し
たのだが、あまりな原稿の短さなので、話したいことが腹にたまっていた。「京都」論を始めると、すぐ本の一冊分ぐらいのことが頭から溢れ出てくる。わたし
の「京都」論は、ちょっと余人の容喙を許さないものだと自惚れているから、堪ったものでなく、あわや宮本さんを新幹線に乗り遅れさせたのではないかと、別
れてから心配した。
池袋ではいつもメトロポリタンホテルの喫茶室で、人と逢う、仕事の話をする、写真も撮られる。
むかし、やはり京都新聞での朝刊連載小説の打ち合わせに社の杉田博明氏が上京してこられ、このホテルで久闊を叙しながら相談していた、その真っ最中に、
相当な地震が揺った。地震ゃと、思ったもうその瞬間にわたしは脱兎の如くホテルを飛びだしていたものだ、「すばやいなあ秦サンは」と大いに笑われた。地震
はいやである。火事も親父も苦手であった。雷は、むしろ好んで大きな音を聴こうとする方だが。そんなことまで、懐かしく思い出した。
* 帰ったらメールが幾つも届いていた。短大の先生で美しいホームページを開いている、久しい読者でもある人のメールが、淑やかに佳いものだった。俵万智
の短歌に少々ものを申していたこの「私語の刻」の批評に触れ、感想が書かれていた。恐縮した。こんなことも書き込まれていた。
* お忘れかもしれませんが、以前秦様のサイトへのリンクのご許可をいただきました。長くサイト作りに停滞の時期 がありましたが、ようやくこの夏あ たりから再び心を入れてサイトの構築と内容の更新に手を着けることが出来るようになり、準備が整いました。遅まきながら、リンクさせていただきましたこ と、ご報告申し上げます。私のページの表紙末尾にあるリンク集ではなく、学生や同僚のために用意した、「学習と研究のためのしおり」(Bookmarks for Learning and Research)というコーナーのうち、Japanese Literature, Culture, Societyというページに、簡単な紹介の文と共に収めました。こうしておけば、関心を絞ってページを開けた人たちに、より有用なリンクになるのではな いかと思ってのことです。もし紹介文が不遜で、不適切なものであればすぐに書きあらためます。いつかご訪問下さいませ。
* 告白すると、この「サイトへのリンク」「サイト作り」「サイトの構築と内容の更新」などと言うことが、わたし
には、よく理解できていない。パソ
コンの主体的な技量がわたしには実は絶無にちかく、ただもう「学生先生」に教わったままをやって、メールも受発信しホームページにも書き込んで転送してい
るだけなのである。ときどき、秦サンはすごいなあ、「パソコンを駆使しているんだから」などと分からないことをいう人がいる。実は、何らの応用も融通も利
かない器械音痴のままの使用にすぎない。尊敬されたくない。
ホームページの「欄」を、希望するだけちゃんと増やして上げますから、ホームぺージの表紙部分をメールで送って下さいと、富士通勤務の元東工大院生が親
切に言ってきてくれたけれど、それが、出来ない。それなら、「ファイル」を、今度下北沢で逢うときに持ってきて下さいと、またメールが来た。悲しいかな、
何をどうせよと言われているのか理解が届かない。「はいはい、焦らなくてもいいです、詳しく教えますから」と、メールで、また慰められている。「学生さん
に甘えているんでしょう」と嗤われても、返す言葉がない。
そんなことよりも、さっきの大学の先生のメールには、こんな大事な感想もあったので、ぜひ書き込んでおきたい。
* 「闇に言い置く」を拝読するたび、様々な感慨が湧きます。先だっての江藤淳自死に際しての文章を拝読し、すぐ
本屋で新たに『妻と私』の掲載され
た「文藝春秋」を買い求めました。死なれた人の痛みを思うと同時に、死を越えて行かねばならない人のつとめの方により心が傾きました。夫を見送った妻たち
が皆このようにして果てたら、この世はどうなるであろうかとも。これまでにどれほどの女たちが残されて、辛くも生きながらえ新たな命の連鎖を支えてきたこ
とかと。そう思うと、「美学」として文学者の自害を語る昨今の風潮に解せぬものの方を多く感じます。
(略)
印刷された文字だけが文学者の思索を伝えるものでなくなって久しく、こうしてオンラインで直接お目にかかれる時代に生きることを感謝いたします。
* 最後の一行は、わたしへの言及としてでなく、一般論として一つの時代の証言になり、いつか記憶に呼び起こされ
るものとなるだろう。こういうセン
スと実践が、真摯にしかも興趣豊かに拡がって環に成って行けば、インターネットの意義が、ただ劣化へ逆落としに衰弱することなく、知性の集積と鍛錬とへ自
然に膨らんで行ける希望がもてる。そのことも、ここに記録しておきたい。
そのためにも、わたしは性急なマスコミュニケーションを望んでいない。小さな環でも堅固に拡がることの方を大切に感じている。
* 九月三十日 木
* 今月十二日頃であったか、官僚と学者と政治家とがそれぞれに話すのを聴いていると、官僚の話がいちばん分かり
やすいと書き込んだ。分かりやすい
話の一つに、榊原元財務官の、円高とアメリカなどの協調介入の話題があり、アメリカは自国の株が危ないのだからドル安は困る、かならず協調介入して円高傾
向を抑制してかかるのははっきりしていますと榊原氏は明言し、反復発言していた。
なるほど、異様に高いアメリカの株式を見ていると、どんなことから崩れだすか知れず、崩れては只では済まないだろうなと、縁のないわたしでも、それは分
かりよかった。ふうん、こんなにきっぱり言えるもんなのかなあと感心した。一抹、あまりに断定するなあとも不安に感じたが、学者たちの能弁にも、政治家た
ちのアイマイ語にもない迫力はあった。
さて、アメリカなどの円高協調介入は、だが、ついに「無かった」のである。つまりあの官僚の断定は、かっこよいけれど、信頼度は低いという見本のような
ものであった。
ダイオキシンは大丈夫、原子炉の危険は絶対にありません、不法な盗聴はしません、国旗国歌の強制はしません等々の、官僚のメモを口移しのようないろいろ
な政治家の宣言やご託宣は、容易に信じられるものでないと思って立ち向かう方が賢明である。
* 眠りが浅くて五時頃から電気をつけ、寝床で『十訓抄』に読みふけっていた。大判の古典全集の一冊が、どこから
読み出しても、面白く読みやすい。
『徒然草』では時に襟を正したり身につまされたり叱られているような気がしたりするが、十訓抄は気楽に、はなしそのものを是非する事が出来る。覚えてお
けばちょっとした話の種にもなるし、クイズのように考え込まされる話題も多い。徒然草が、かなりここから話題を拝借しているのも分かる。
皇嘉門院別当という歌人が百人一首のなかにいる。「皇嘉門院」という女院に仕えた女房であるが、この女房の話ではない。
皇嘉門院という院号が定まって程なく、この女院御所を訪れたある公卿が、女房の一人に「どういう院号でしたっけ」と尋ねた。その女房は即座に「皇嘉門院
です」と答えた。またべつの女房にも同じことを尋ねた。「なんでしたか、なにかむずかしそうなお名前でしたわ」という返事だった。前者の応答がつよく非難
され、後者のもの言いがたいへん称揚されている。
或る権勢ある主人が家来筋の男にむかい、わざと、「あそこにいる烏は頭の所が白いようだな」と尋ねた。問われた男は、じっと烏の方をみやってから、一つ
頷くような按配に、「そのようでございますな」と生真面目に返事をした。なんという有能な男であろうと主人はますます引き立てた、というのもある。
また或る男が歌を詠んだら、別の男がとても褒めた。すると褒められた男は憤然とし憮然として、言った。自分は漢詩を作ることにかけてはあの男に万に一つ
もヒケは取らないが、和歌の道ではあの男の足元にも自分は及ばない。そんなあの男から自分の和歌が褒められるとは心外でならない、もう二度と歌は詠むまい
と言って、以後ふっつり和歌から遠ざかってしまった。「褒めれば」何でもいいんだとは限らないらしい、じつに微妙なことであるが、事実、「あんたに褒めら
れても、しょがおへんわ」とむくれている大人を、子どもの頃から何度も見てきた。十訓抄のこの例は、しかし、ただ片腹痛いということだけでも、ないよう
だ。
何にしても人の世の中、「褒める」でさえうかとは出来ない、ましてや「誹る」のはもっと難しい、これぞ「神妙」のところだと訓戒してあった。面白い本で
ある。
あの平清盛という人が、滅多なことでは部下を叱って人前で恥を掻かせたりしない大度寛容の人であったとも、この本はきちんと証言していて、これは信頼で
きるらしい。おもしろい本ではないか。
* 今日は、昼間に俳優座の「かもめ」を観る。去年の、三百人劇場の「三人姉妹」はすばらしかった。俳優座の新し
い「かもめ」がどうなるか。岩崎加
根子が、例の訛って臭いもの言いを連発し、へんな流し目を垂れ流さないで呉れるといいが。
巧い役者ほど得てしてクセがついているというのは矛盾も甚だしい。しかし事実である。まったく舞台も作も違うのに演技の体臭やクセが、刻印したように出
てくるというのは、仕方ないとは言って欲しくない、役者の心得違いであろう。
もっとも私を含めて観客は、その俳優のクセや臭みをも楽しまないわけではないのだから、話がちと複雑になる。とどのつまりは贔屓目で観るか、やや毛嫌い
するかのちがいか。いやいや新劇の場合は、歌舞伎とは違うぞと言っておく。
* 引き続き、下北沢に廻って秦建日子作・演出「タクラマカン」の初日を観る。疲れの吹き飛ぶような舞台でありま
すように。息子の作・演出の芝居
の、いつのまにか十何回めかを観るわけだ。仕事が軌道に乗ったのかまだか分からないが、比較的いい文章を書いた娘の方でなく、「おれはサラリーマン」と息
巻いていた息子の方が、「創作者」になって、世間に顔をさらしているという成り行きは、感慨深い。姉は、弟の舞台を観るのだろうか。
なにはともあれ、今日は、妻の体力が二つの舞台のために保つだろうか、それも一つの関心事である。慎重に移動しないと。
* 九月三十日 つづき
* 俳優座のチェーホフ「かもめ」は、落ち着いてそつのない、佳い舞台だった。演技陣のアンサンブルが気持ちよく 調っていて、だれが大きく算を乱す ということもなく、百年前のチェーホフ世界からの、新鮮でうら悲しいメッセージが耳にも胸にもしみじみと深く届いた。俳優座の舞台としては、二年ほど前の 「冬のライオン」以来の上出来の感銘作となった。岩崎加根子にくさみが薄く実力がしっかり出て、チェーホフ戯曲にはきまりの役どころを、美しく、決めてい た。若い女優も若い男優も起用に良く応えていたと思う。演出も舞台も清潔で寂しく、霧の降るようにたれこめた時代の嘆きの中で、もっとも活躍して行かねば ならない新世代青年作家の必然死の悲劇が起きていた。チェーホフという作家の、遠方を凝視し洞察する資性が、戯曲には顕著に現れてくる。悲しくて寂しいの に、感動させられるのは、人間の一人一人が、典型的に把握し表現されて、何というか、作がパッチリしているからだ。
* 秦建日子の作・演出「タクラマカン」も、歴史的な「差別」問題と真っ向から対決する、なかなかの意欲作だっ た。涙している人が多かった。ちくま 少年図書館の『日本史との出会い』を最近復刊して、この作が娘や息子にどう読まれてきたかは「知らない」とあとがきに書いていた、が、建日子は真正面から の「答え」を、舞台の上に提出してくれていた。その意味でも、感動した。涙が溢れた。二三年前の作「サハラ」の、より意識的で意欲的な佳い再構築であった といえる、そういう粘り腰の仕事が、それはそれで良いことと思う。下北沢のほんとに小さな劇場だったが、初日、超満員だった。
* そんなことより何より、大問題は茨城「臨界」の仰天の大事故。
つい昨夜にも「国の犯罪」に勝る犯罪などめったには無いと極論したばかりだが、原発の絶対安全を安売りし続けて反省のなかったのは、企業レベルを越え
た、政府の基本根本の不用意の罪である。対策を怠っておいては、空念仏に等しい「絶対に安全」を口称してきた誠意のなさ対策のなさに、どれほどの不安を我
々が抱いてきたことか。
人間のするワザに絶対のあろうワケが無く、だからこそ、「どんな万一の事故が起きるか知れないが、精魂と誠実をこめてその未然の防止に全力を尽くす気だ
から、理解して欲しい」という風に言ってもらいたかった。他国の原発事故を露骨にあざ笑って、日本では「絶対に事故は起きない」と国も専門家も関係者もコ
ケの一念で言い続けてきたが、今回の大事故は、とほうもない人為ミスで大きくも危険にもなっているではないか。
これも、わたしは、大きく見て「国の犯罪」に類すると観ている。徹底的に厳処して欲しいし、まかり間違っても爆発、大爆発を防いでもらいたい。爆発すれ
ば広島原爆よりも大きいはずだ。その辺の危険がいまなお消えうせていないどころか、判定不能であるらしい。困ったことだ。怖いことだ。
* 十月一日 金
* 「国の犯罪」ということを、我々は、もっと日々に意識して監視し糾弾して、「公」による「私」の侵害を少しで
も少なく食い止めねばならない。茨
城の臨界事件は、ただ末端の作業員のミステークといった視野で片づけては成らず、会社首脳のすばやい逮捕、関係省庁の責任者の公表から、大臣の国民への謝
罪が速やかになさるべきであった。ハイウェイなどの手抜き工事と同じく、これは企業の犯罪であるとともに、「国の犯罪」でもある。放射線物質の扱いや危険
管理は、どう考えても企業レベルの管理の域をはるかに超えていて、国が何をしてきたか、何をして来なかったかの問題だ。幸い爆発にいたらなかったものの、
今回程の破天荒な事件では、大臣引責辞任があっても昔なら不思議ではなかった。
子供心に、「内閣総辞職」という処置の重さに、或る潔い処断を感銘したことが、昔は、あった。歴史的にそういうことは、何度もあった。今の政局では「内
閣総辞職」などという不祥事への引責は「死語」に等しいが、そもそもそこに、この時代の病気が見て取れるのではないか。国民も、こういう方面には甘く無気
力で、それどころか一方で内閣支持率をあげてやり、他方ではもっと冷静でいいようなことに、むだに、ガラ悪く熱中している。
* 十月二日 土
* 眠れなくて、浅い夢を見ているのだろうが、しきりに夢の中で歌を詠み、文章をつくる。起き出して書いてみる と、思い出せる。このごろは短歌をつ くるなど縁遠くなっているのに、五つも六つも出来ている。妙な気分で、また寝床に戻っても眠れない。
蟲ひとつ夜長を啼きてなきやまず吾もひとりの秋を眠れず
眠れずに少年の秋を恋ひゐたり少女幾人(いくたり)も夢をよぎれり
夢をよぎる幻の中のまぼろしと一人の名をば呼びてなげくも
あはれ君は死んでしまつたのかと少年は叫んで黒き猫と化(な)る夢
夢ですものバカねと少女はわらふなり少女とはかくも丈高きなり
* 昼に妻が、晩にわたしが、息子らが公演中の下北沢の劇場へ行くつもりでいたが、昨日も、そして今日の昼夜と
も、すでに超満員のところまで切符が
出ていて、親は遠慮した方がいいほどらしいので、喜んでお客様の方へ席をゆずり、のんびりした。テレビで好きな「釣りばか日誌」を観た。
わたしの所謂「身内」ものである、浜ちゃんもスーさんも、みち子さんも好きである。寅さんシリーズもわるくなかったが、彼には「生きる」こだわりがあっ
た。浜ちゃんは、バグワン流にいえば「マインド」をきれいに落とした見本のよう。無心であり、騒がしいけれど、よけいな心をストンと落としている。主役の
この社員と密かに親密な仲の社長とを、「身内」と呼べば分かりがいい。この映画の好まれる理由の大部分が、ああいう「仲」の「身内」を欲しがっている映画
フアンの、日頃の寂びしみに根ざしているのは間違いあるまい。釣りはむろん楽しいが、或る意味のおまけである。
* 宗教的な題材で幾つか小説を書いてきたけれど、かつて或るカソリック作家との対話のなかで、「われわれカソ
リックの立場では」といった発言に出
会い、思わず「あなたは『立場』で信仰するのですか」と言い放ってしまって以来、いちだんと、特定宗教宗派宗団に傾いた信仰をうとましく感じるようになっ
てきた。問題が難儀なので深入りしにくいが、少なくも「立場」に立っての信仰など、ホンモノではなかろうと思いしみつつある。法然親鸞の教えにも傾聴して
いるし、イエスにも愛を感じるが、とらわれたくない。バグワンを通じて老子に聴き、達磨に聴き、ブッダに聴き、イエスに聴いていてわたしは、もう大きくは
逸れて行かないだろう。宗団宗派ゆえの信仰をわたしは醜くさえ感じている。
* 十月四日 月
* 秦建日子作「タクラマカン」が、地域差別に準拠しながら、かなり突っ込んだ差別問題を真向から表現しようとし
て見せた舞台であったのを、それも
徹した差別「批判」の舞台であったのを、わたしは、嬉しく観た。同時に、この問題の表現には、だれがどう当たっても未熟なところが露出せざるを得ず、そこ
からまた新たな問題が生み出されてしまうことも、考えに入れぬわけには行かなかった。
息子がこういう芝居を公演していると関西に住む親しい人に伝えたところ、「建日子さんは差別のことを真っ向から書いているのでしょうか? 彼が関西に育
たなかったからこそ書けるのかもしれません、そう思いませんか? 関西の地縁に何処かで呪縛されてしまいます、関西の闇、かな?」とメールが帰ってきた。
この人同様にわたしも関西での体験と見聞とを共有していて、これは、よく分かる。ちなみにこの人は京大在学の頃から差別問題に相当に踏み込んで活動してい
たという関心者である。
関西の闇。そうはいうものの、東京は、かつて差別の首府でもあった。大都市展開の間に拡散したとは言え、全国からの転入者の、背後に背負って東京へ持ち
込んでいる体験と見聞とは、表面に出ないだけで実は莫大であることは、ゆっくり話していると漏れ出てくる。そういう性質のモノであるし、加えて市民一般の
頭を押さえている政治的・社会的・経済的な閉塞状況そのものにも「被差別」感は醸成されているので、だからこそ、「それは自分のことではない」などと思い
つつ、「それは自分のことでもある」と肌身に感じて、何とかして「人でなし」のいない「あっちの国」へ脱出しようという、つらい、はかない夢に命をなげ
うって行くものたちのドラマに、熱く涙し、劇場を離れる前から目を赤くして興奮と称賛とを隠さない人たちがいっぱいと言うことになる。
* そこにも問題はある。「人でなし」の絶対にいない「あっちの国」も無ければ「人でなしのなし」のいない国も無 いことは、誰もが知っていて、そし て幻を望むように彼岸の存在を信じたがっている。そういうドラマ、そういう問題提起じたいに「偽善」性を読みとることは容易く、いかなる善意によるにせ よ、触れればからだが腐るとまで忌み嫌われる者たちのために「就職」という将来性の確保を図ってやりたいという劇中の「治安少尉」らの存在は、余りにはか なく、現に彼は「善意」ゆえに国権により逮捕され罪せられることを免れない。この少尉の絶叫は、俳優の声を完全に潰してしまうほど劇場に響き渡ったけれ ど、現実は無残であり「人でなしの浜辺育ち」は「町育ち」の砲火に沈んで、尽く闇に失せて仕舞わねばならない。「レミゼラブル」である。それでも書かねば ならぬと思って書いたのであろうし、俳優諸君の演技も熱意に応えてなかなか好演であった。わたしは嬉しかった、親ばかと言われようとも。
* それでも、やはり、関西で公演するとしてどうだろうかということを、わたしは、考えていた。「関西の闇」はた
しかにあるが、「関東の闇」も「日
本の闇」も深い。
そう思っているところへ、新しい、長いメールが届いた。東工大の院生である。阪大を卒業して東工大の院に今居る。親しい友人と二人で芝居を観てくれたの
であり、関西、寝屋川市に育った人だという。大事な大事な点にしっかり触れてあるので、名は伏せたまま感謝して此処に書きこませて貰う。
* お礼が遅くなって申し訳ございません。
先日彼が、御子息のお芝居の感想を、わたくしの分も併せて先生に送らせていただいたと、後日知らされました。わたくしは、自分が思ったことは自分のこと
ばで伝えるよう普段心がけていますので、今回不躾にもメールにてお便りをさせていただくことにいたしました。
10/2、昨年の「地図'98」に引き続きご送付いただいた券を手に、下北沢に参りました。後から後から押し寄せるお客さんには、そのうちの1人である
にもかかわらず驚きました。人気が高いのですね。
わたくしは、お芝居にせよ映画にせよ、現実の人間関係においても、感情移入が激しく、この年齢になってもその都度その都度一喜一憂する人間です。そんな
自分を自分で持て余すため、特に現実の人間関係では当たり障りのないよう、できるだけ他人と深い部分で交わらないように努めています。もちろん人によりま
す。
ただ、非現実のものについては、時間制限(上映時間等)があるのでそういう注意をしていません。ですので、先日のお芝居も、人目をはばからず涙しまし
た。迫ってくる、訴えかけるものを感じたからだと思います。
ただ、昨年のほどは、感激しませんでした。理由はおそらく2つだと考えています。
1つには、演出の問題です。話の展開が昨年のものと同様であり、「慣れて」しまったからだと思います。これはアンケートにも書きました。冒頭にクライ
マックスシーンを持ってくるのは確かにインパクトがあるのですが、そのために話の内容が途中まで、なかなかわからないのです。今回も、誰と誰がどういう関
係で、どういう立場で、といった情報が把握できたのは、半ばくらいからでした。前半部分は、従って若干退屈してしまいました。
2つには、彼が送った内容に該当するのですが、差別の問題を現実のものと重ねてお芝居の中に投影して見たため、「お芝居」として「作り上げられた」ハリ
ボテのエンターテイメントを評価するというわけにはいかず、「現実」について観劇しながらも考え込んでしまったからだと思います。
上記2について、以下に続けます。
関西出身(大阪府寝屋川市)のため、差別問題では、小学生のころから徹底した道徳教育を受けてきました。同和地区は市内にもありましたし、小学校にも中
学校にも在日朝鮮・韓国人が1人や2人は必ずいました。「差別はいけない」というスローガンの下で「現実」を知らされてきました(これはアメリカ合衆国等
でも同様だと思いますが)。ですので、東京の人に知り合いが増えるにつけ驚かされたのは、みんな「知らない」ことでした。
わたしは、これまで海外に行く機会が多く、学生のうちに貧乏旅行をしていたこともあったので、貧しい人々を眼前にしてきました。いわゆるアンタッチャブ
ルと呼ばれる階層の人々とも、ゆきずりでしたが接したこともあります。若いうちにそういう体験ができたからか、外国人だろうが誰だろうが特に傲りも引け目
も感じることがなくなり、研究室では留学生と最も親しくしていますが、自分の心に差別の気持ちがないかというと、正直なところをありのまま言うと、否定で
きない、と思います。
しかしわたしが将来携わろうと思っているのは、社会福祉です。社会格差がある現実に憤りを感じ、憤懣やるかたない思いをすること度々です。社会的弱者が
区別や差別なく制度や施設を利用しうる、それが当たり前とされる社会を築くために自分が何かできればと思っています。
大阪大学を卒業してから東工大大学院に進学する間の5年ほど、わたしは日本政府の政府開発援助に携わっていました。いわゆる開発途上国と呼ばれる国々へ
の援助を行っていました。先進国の人間として、彼らに対して援助を行ってきたのです。彼らの国には、この自分よりもっともっとよい暮らしをして裕福で資産
も持ち、贅沢の限りを尽くして悠々自適に生きている人々が多いことにディレンマを感じつつも、相手国政府の人間を相手に仕事をしてきました。
これが偽善慈善事業でなくてなんでしょうか。日本国民納税者のお金を使って大きい顔をしていたのですから。
ですが、世の中はそういうものだとも思います。お金持ちがチャリティーバザーをして寄付して、さも社会派を自負していたり、恵まれないこどもたちのため
にとユニセフ親善大使が募金を呼びかけたり、当の本人達はまったく生活に困らず収入も支出も桁違いなのです。だけど、生活に全く不自由なく、むしろ余裕の
ある生活を送る立場あるいは階層にある人が、そういう活動をすると、何と社会的インパクトが強いことでしょうか。
テレビというマルチメディアを駆使して訴えることのできるだけの知名度や、同じ階級どうしの人脈を使って「それがわたしたちの義務」と思わせ行動させる
ことのできる人々。彼らは人寄せパンダ的役割を担っていますし、また担うことができる人々なのだと考えます。彼らが影響を及ぼす人の数は、メディアの発達
によって留まるところを知らないのです。
人寄せパンダにも何の触媒にもなりえず、だけど「差別はいけない」「もっと資金が必要だ」と叫んでいても、無力であり非力であると思います。
『タクラマカン』においても、町の人であるツキノ少尉がツキノ少尉の立場で「浜辺の人にも就職を」と訴えたからこそ、彼女に人々が巻き込まれ、裁判にまで
持ち込まれ、多少は世論が動くきっかけになったのであって、浜辺の人だけが「自分たちを差別するな」といくら叫んだところで、町の人は果たして聞き入れた
でしょうか。
ツキノ少尉に何が足りなかったのか、「より大きな権力」だとわたしは思います。大尉や少佐で、より大きな権限を持っていれば、浜辺の人は国民銀行を襲撃
することも、亡くなることもなかったはずです。
彼は事前に秦先生の著書『日本史との出会い』を拝読していたのでストーリーが最初からわかったらしく、お芝居が
終わって食事をしながら、上記のよ
うな議論になった次第です。彼がわたしの意見を聞いてわたしの思うところを理解してくれたのかどうか、そしてこれを書いていて自分の考えをまっすぐ秦先生
にご理解いただけるだけ自分が正確に表現できているかと甚だ疑問が残ります。
彼が、先生の著書を近々貸してくれると言ってくれていて、楽しみです。
学部は社会学だったのですが、東工大では居住環境改善を研究しており、いずれはその分野の専門性を高めること
で、何らかの社会貢献ができればと考
え日夜頭を悩ませる毎日です。
その一環、というわけではありませんが、今わたしは、いわゆるドヤ街の共同診療所に併設されたデイケアセンターでソーシャルワーカー見習いの仕事をさせ
てもらっています。
センターに登録されている患者さんたちは、華々しい経歴の人達ばかりで、自分と同い年の人もいることに衝撃を受けたりもしています。先日もお芝居を見る
直前までそちらでした、それからお芝居を観たので、この週末は重苦しく不安定な気持ちで過ごしました。毎回アルバイトに行くたびに気持ちが不安定になった
り不眠症気味になったりして、自分自身が、おそらく精神が強くないのでしょうね、よくとらわれて引きずられて気持ちがふさぐことがあります。
彼は「君自身のためによくないからもうやめたほうがいい」と言ってくれていますが、自分ではふんぎりが付きません。少しでも力になれればと通っていて、
自分が病気になってしまっては元も子もないとは重々承知しているのですが。
彼は、先生が彼に送って下さったメールの「どこかで息を抜きたくなったら声を掛けて下さい。元気でね、二人とも。」という箇所をもじって、わたしに転送
してくれた際には、表題を「生き抜き」としてきました。直接お会いすることがなかなかかなわずとも、本を通してお考えや人となりを身近に感じることや、こ
うしてメール等でご連絡が可能となっていることを有り難く幸せに思っています。
* 差別を受けている人たちが「自分たちを差別するな」と叫んだところで、人は果たして聞き入れたでしょうか。ツ キノ少尉に何が足りなかったのか、 『より大きな権力』だとわたしは思います。大尉や少佐で、より大きな権限を持っていれば、浜辺の人は国民銀行を襲撃することも、亡くなることもなかったは ずです。」という意見には、「歴史」からの異論が出よう。それにしても若い真摯な意見がこう現れることには希望をもちたい。
* たった今、「週刊朝日」から、舅と嫁とのグラビア頁に出て欲しいと申し込まれたが、「残念」なことに、「嫁」 はいないと辞退するしかなかった。 ウーンと唸った。
このマゴを斯うも愛しては良くないと深くおそれて頬寄せてゆく
黒い仔猫のマゴは、初めて抱いた体重のちょうど三倍になった。
* 十月五日 火
* 電子メディア研究会は、四日、「著作権」問題で和やかな意見交換・情報交換の勉強を続けた。野村委員の用意し
てくれたいくつかの先行図書や文書
からの、たいへん要領を得た抜粋抄録を素直に順に読み継ぎながら、納得し合い話し合い、具体例など体験や見聞をつきあわせ、そして先へ読み進んで行く。ま
ことに地味なことだが、抄録がよく出来ていて、それはそれで、よく分かる気がして来るし、この「問題」がいかに大きいか、難儀なモノかが、分かってくる。
極論すれば「電子メディア」時代には、守り得る著作権などは何も残らないのではないかという、「著作権無政府時代」が来そうな、いや現状が既にそれに近い
という「実感」をさえ持つようになってくる。
ペンの会員に、いずれ役に立つことを考えているが、現行の「マルチメディアの著作権」を扱った諸本では、どうしても、巨大な「プログラム」を対象にして
いて、すぐさまペン会員レベルの体験にそぐわない。いずれは、
一、文筆家による「ホームページ」型出版と、
二、「ディスク」型出版
のための、簡単で緊要なマニュアルを用意して行くのが本筋になるだろう。文藝家協会の電子メディア委員会や知的所有権委員会でも、この線で検討してもらい
たいと思うし、双方の見聞や体験に基づく集積をさらに合体して、より高次元によい指針を、会員にも社会にも呈示しうる努力が望まれる。
* それにつけても、現在、日本著作権協議会という組織があるのだが、出来得れば「電子メディア関連著作権」に関 して、現在把握している、概要をな りとご講話願えないものかと問い合わせても、事務長レベルの回答として、「そんな人もいない、暇もない」とケンもほろろの応対であった。組織の実体を詳し くは知らないのだから何とも言いようがないが、組織の名称は、こういった問題にいち早く対応して、新世紀の著作と著作権の為にわれわれに先駆けて研究が進 んでいなければならないのではないか。著作権台帳を作っていれば事足りるというのなら、他に、別に、しかるべき組織を起こさねばならないのではないか。
* これだけ臨界事故が大騒ぎされているのに、ペンクラブ執行部から対応の話は出てこない。アメリカなどの臨界前
核実験には対応してきたが、臨界事
故は「核実験」ではないからと、昨日も、ペン事務局のA事務員は涼しい顔をしていた。
核実験のような軍事目的とは関係ない単なる事故と言えばいえるが、爆発の可能性は低くなかったと聴いている。日本は島国であるから直接すぐさま隣国に影
響することはなかろうけれど、チェルノブイリの例をみても、軍事であれ無かれ、被害は広範囲に及び戦争被害と変わるものではない。国民の平和はたちどころ
に広範囲にわたり、甚大な長期にわたる被害と損傷を受ける。しかもかの施設の目的としていた仕事は、いかようにも軍事目的に簡単に転じうる性格のものであ
り、日本の核政策は非軍事目的に限定され何ら危惧する必要のないものだという保証など、どこにもない。一国の核政策は、またその不備と杜撰さは、その意味
で、国際平和に深く直ちに繋がっている。
少なくもこの点について執行部では話し合いをしていたのかどうか。とても気になる。
* 十月五日 つづき
* 下北沢「劇」小劇場での秦建日子作・演出「タクラマカン」公演が終えた。壁際におしつけられるように立ち見が
並び、わたしも自分の券は他の客に
譲って、最後の最後に立ち見の場所に立って、ほぼ二時間の芝居の三度目を観た。今日も昨日もお断りした当日の客が何十人にもなったそうだ。
初めのうち客の入りが心配だと聞いていたのに、爆発したように超満員の日々になった。ま、小さい劇場だから、六日で八ステージ全部が補助席に加えて立ち
見となっても、総人数に限りはあるが、それでも景気が良くてよかった。すでに、あちらこちらで良い批評がでているとも聴いた。
* 遠慮して休もうかとも思ったが、千秋楽ではあり妻も是非今夜の舞台は観たいというし、わたしも観られるときに
息子の仕事は目におさめておきたく
て出かけた。立ってでもいいやと思った。建日子も出来れば見せたい、観てもらいたいという気があるようだと妻は見ていた。
早めに出て吉祥寺近鉄の「三友居」で先に夕食をした。京都で仕出しの老舗として「菱岩」に並ぶ佳い店になった京都本店の女将は、「湖の本」の永い読者の
一人でもある。東京で、安心して京料理の味わいの楽しめる少ない支店であり、まずはお勧めものだが、今夕の懐石もたいへんけっこうで美味しかった。料理も
器も出し入れの行儀もいい。値段も手頃で、たいへん満足して、下北澤へ出向いた。
* 七時半開演の七時開場前にもう長い行列だった。券を持った家内は並んでから劇場入りし、はじめから立ち見のつ
もりのわたしは、開演ギリギリまで
外で待っていた。
建日子の師匠である、つかこうへい氏が、知る限り初めて劇場に姿をみせ、俄なことであったが息子が耳打ちしたらしく、寄って見えて、初対面の挨拶をかわ
した。氏が建日子の公演を見に来られたのはまず初めてのことではなかったか、息子もさぞ嬉しいことであったろう。
* 今回最期の舞台はよく盛り上がり、二時間の窮屈な立ちっ放しも苦にならなかった。泣かされた。済んでからの路 上に出ての俳優と客との交歓も、千 秋楽らしく興奮と安堵と歓喜とでわき返っていた。いいものだ。主だった出演者たちとも言葉をかわして、そんな人の渦から離れ、駅前で夫婦でほっこりとお茶 を飲んだ。吉祥寺からはタクシーでまっすぐ家に帰った。これで「公演」という名の我が家の秋祭りは、無事終えた。無事でもなかったか、主演級の女優が途中 声を潰してしまい、ひどかった。どうなるかと案じたが、荒療治でもしたようで、今夜はまずまず声になっていた。過去十数度の公演によっては、不満足な出来 のもあって、そんなときは気が重かったが、今度の公演は、文句なく佳いものに仕上げていた、演出も演技者も。嬉しいことだ。
* そうはいえ、やはり主題の扱われ方に、せりふに、耳を澄ましているとまだまだ問題が無いわけではないなと感じ
るところが、何点もあった。まだま
だ「ひとでなし」と言われている側の心情に、全幅の理解は届いていないなと。無理もないが、書かれる側はそんなハンデぬきに痛いのであり、作者は、まだま
だ、歩を、真摯に運んで行かねばならないだろう。
* 十月六日 水
* 夜前、明け方近くかも知れないが、夢を見た。このところ、と言うよりいつもいつも夢見の実にいやな、どうかし
て夢など見たくないなと思って寝入
る方なのだが、昨夜に限っては、とても懐かしい昔の人の夢をみた。数瞬の、素早くさめていった夢にしては深く接した夢、濃い残像の悦ばしいものだった。掌
中の珠のように、この人のことはまだ、ほとんど書いていない。手ひとつも触れあったことのない、少年の昔の思い出であるが、逢うおりがあれば、逢えずに来
た数十年はなにごとでもないであろう。
あの人と逢いたいなと胸に秘めている人は、この数十年を顧みて十数人はいる。そのなかでも、ことに逢いたい人は三四人だが、そのうちの一人は死んだので
はないかと噂に聞いている。逢いたい人が何人も何人もいるのは、幸せなことである。だが、その上の執着は無い。逢いたいと想っているのと逢うのとはべつご
とであり、逢わねばならぬ事はない。
雪深い或る夜、風雅の友を慕って、楽しみに胸を躍らせ舟を友の家にやっていた、王羲之だったか王献之であったかは、友の家の目前で、すうっと舟をもとへ
返した。逢う楽しみはもう舟の上で想い尽くしてしまった、そのうえ何も逢うことはないというのだ。
昔、この風雅な話を枕において、結婚すると言ってきた女の元へ趨る男を書いた。男は女に逢った。
今なら、どう書くだろう。今朝がたの夢の人が、「来て」と夢にでも言っていれば、行くだろうか。
* 十月六日 つづき
* 五日の、臨界事故にふれたこの頁の書き込みを、ペン専務理事の小中陽太郎氏にメールで送っておいた。あの会社 の杜撰さにはだれもが呆れている が、どういう「声明」が出せるかと、口ごもった小中氏の返事がきた。これは、だが、「声明」なんどの問題ではない。正しくは日本ペンクラブとしての「感 度」の問題である。もう一度、以下のメールを送っておいた。
* 「JCOとかいう組織の杜撰さもむろん大問題だけれど、根源は、科学技術庁に代表される『国家・政府の核・原 子力政策の杜撰さと、極まりない不 備』にあるわけで、とかく、問題点を、あの一組織の管理レベルに縮小して糊塗しようとしているのが、極めて危険だという認識です。誰もが『あの組織の杜撰 さにだけ』呆れさせようとしていないか、そこが問題なんではなかろうかと、わたしは、感じています。ペンの為すべきは『声明』だけにあるわけではない。論 議すべきをきちんとする、ということです。ちがうでしょうか。広島の三倍規模の爆発の危険があった。それが、問題です。」
* わたしは、かりにもペンを手にし創作している者の団体が、たとえ問題が他国の憂慮すべき「核実験」であろうと
も、はじめに「(声明で抗議すると
の)原則」を立てて、その原則に自動的に随って抗議声明を出すなどという「ゼンマイ組織」になることに、嫌悪感さえ感じている。一期一会の対応の感度にこ
そ創作者の本分がある。
今回の臨界はおそろしい惨事であり、もっと大変な壊滅的な事態を招いてもおかしくない状況だった。例えばアメリカなどの「臨界前核実験」も決して許容は
出来ないから、以前には「原則」的にペンは抗議した。つい先日報道された同じ國の同じ実験には「原則」がどう適用されたのか、なにも通知がない、が、茨城
の臨界問題は、アメリカのそれよりも見過ごしていい程度のことと、果たして、言えるのだろうか。ことは一会社組織の杜撰さの問題ではない、「国の犯罪」に
等しい問題なのであるとわたしの「感度」は訴えている。十五日の「執行部会」で話題にしてみるが、と小中氏は伝えてくれている、が。
* 十月七日 木
* 「藤村作『破戒』の背後」を、更にホームページの「講演録」欄に書き加えた。数年前に島崎藤村学会に招かれて のものである。『破戒』は文学史的 にも藤村の人生にも、更にその他の問題ででも、よく知られた秀作・話題作である。「差別」の表現には、著しい作者自身の無知や誤解も混じっている。わたし の理解が正当と言い募る気は無いけれど、誠意をもって思案した一私論を呈示したもので、学会誌にすでに発表済みのものの転載になる。
* 赤染衛門の『栄華物語』と西鶴の『永代藏』とを毎日の読書に加えた。西鶴を心して読むのは初めて。志賀直哉が
西鶴贔屓だったことを全集で知っ
た。それでということはないが、比較的江戸文学に疎いのを気にしてきたので。栄華の方は『大鏡』の物語版のような気軽さで、ずんずん読めてしまう。西鶴の
ほうが難しい。
* 十月八日 金
* 今日の言論表現委員会は、ホットな話題で議論の声が活発に飛び交った。すでに新聞報道などで話題にもなってい
る、作家松本侑子の作品が、大量に
他書に盗用されていて、松本の再三再四いかなる抗議にも相手方著者・出版社とも改善謝罪しないどころか、なおさらに反復盗用が続いているという憤懣。それ
に対し、いかなる盗用の事実も無いとつっぱねている先方著者・出版社の頑強な抵抗。さらに松本著書の版元である角川書店が、いまや松本の抗議にほとんど身
を寄せていないばかりか、当該図書と同類・類似の新刊企画を、こともあろうに当の相手方(盗用を詰られている)著者との間で、新たに着々進めているという
事実。
これらについて、松本侑子自身(日本ペンクラブ理事でもある)が、われわれの委員会にオブザーバー参加して、縷々説明があった。
もとより説明は松本侑子一人の出席によるもので、他の関係者は一人も出ていないのだから、直ちに、上の事情を全面的に認めて判断しているわけではない。
それにしても、すさまじいモノだといわざるを得ない。生き馬の目を抜くということばがある。それに近い、いやそれ以上の印象がある。法的な立証は微妙に難
儀では有ろうが、先行した松本の著書が無ければ生じにくいような類似表現は、明らかに「感じ」取れる。じつに巧妙にと言いたいが、むしろ実に厚かましくギ
リギリに書き換えてある。やり慣れて手練れであり、すさまじい。法廷に出されても、いわゆる「尻がまくれる」ように出来ている。いや、あまり巧くなかった
から抗議されたのかも知れないが、逃げ道はついている。やられた側の無念は、さぞかしと思う。
ただ、対立する著者間の問題それ自体は、引用や利用や援用を日々に必要としつつ仕事をしている著述者なら、大なり小なり実感で分かって、内心で判断はす
でについている。わたしに言わせれば、これは、「やられたな」である。裁判に持ち込んで、判決をぜひとって欲しいなと思うが、判決の行方はわたしには見え
ない。「やられた」方がさらに泣くのかも知れない。情けない。だが分からない。相手方の著者・版元そして松本を支援していないらしい角川書店の話もよく聴
いてみなければならない。
この問題は、いろいろに批評的に分別して論じられそうであるが、当事者間の折衝がまだ続くであろう現在、これ以上はここでは触れない。
* それにしても今日の「出版」道義の低さ、「著作権」保護の厳正な使命感を出版社自体がハナから放棄し踏みに
じってでも儲けたいという、途方もな
い破廉恥や没義道が、いちばん情けない現下の問題であるだろうなと、推測する。追い剥ぎのような著者の居直りの凄さも有れば、儲かるのならばそういう著者
と組んで、被害作者を踏みつけにしてでも、著作権問題などは、「そんなのは、無かった」ことにしてしまう出版資本の「ド」厚かましさも、あるかもしれな
い。
政権政党がトクをするなら、「憲法違反」は承知でも特定宗教に属すると観られる政党との連合内閣もヘッチャラ、という時代である。上がかくあれば、安心
して下の方も、いろんなことを、平然とやる、いや、やっているのでは無かろうかと、想像する。
* 松本侑子はこの問題を日本ペンクラブ事務局に持ち込み、事務員は、著作権保護同盟にもちこめと示唆したとい
う。残念ながら見当違いであり、いま
の保護同盟にはこういう問題に対応する意向すら無いぐらいは、「事務局」として認識していなくてはならない。こういう文藝家の「職能」に触れる問題には、
文藝家協会が処理に当たって当然なのである。他にそういう職能団体は一つも無いのだから。
ところが、文藝家協会は松本侑子の訴えを門前払いしたという。理由は、相対する著者がともに「会員」であり、一方につくことは出来ないと、か。一方につ
くつかぬでは、ない。話合いの場を、しかるべき理事立会いのもとに設定して上げることは、つくもつかぬもない、協会本来の機能ではないか。事実ならば驚い
た話だ、双方が会員であるなら、なおさら一つのテーブルに招きやすいではないか。
破廉恥罪とか何とかでいうのではなく、ことは「著作権侵害」の是非であり有無である。一会員の顔を潰す潰さぬ程度の問題でなく、もっと「文藝家」の根幹
の立脚地に関わる大きな大きな問題ではないか。今回の協会事務局の対応が事実とすれば、これは「信じられない」というしかない。「知的所有権委員会」は何
のために在るのかと聞きたい。
なぜ分かりいい「著作権委員会」を潰したかとは言わない。「知的所有権委員会」に発展解消したのなら、当然一度は検討すべき事案ではなかったか。
もっとも、松本侑子の事件は、もはや文藝家協会では処理しきれないほど、二人の著者と二つの出版社とが、応仁の乱の西陣東陣よりもややこしく「あなたこ
なた」しているようである。それにしても、「弁護士を紹介します」だけしか出来ない協会に、よそながら、わたしは落胆する。「出版」の領分に手を触れるの
は「面倒」だと、事務局が、或いはその上の方の理事諸公の腰が引けていたりするのなら、これも、大きな、また別の大問題である。
松本が尋ねて行ったその弁護士は、剣もホロロの玄関払いをくわせたと言うし、他の弁護士を紹介してくれることもなかったという。所属会員にとって、いっ
たい何のメリットを保証されての「職能保護団体」で、文藝家協会というのは、在るのか、江藤理事長なきあとの新執行部に伺ってみたいものだ。
* 永く、どうしても自分でじかにわたし宛に手紙も書けなかった、自閉症気味に閉じこもりがちだった青年が、初め
て、じかにメールを寄越してくれ
た。文面はきっちりと落ち着いていた。よかった。健康な社会復帰へ声援を送りたい。
* 十月九日 土
* 文学界十一月号の桶谷秀昭「昭和天皇」を読んだ。佳い歌人であったんだなと思う。和歌に表現されたものがどれ
ほどの実感なのか、おそらく偽り無
い実感なのであろうと思うし、そのまま素直に読んで、それがいちばんこの苦難の天皇へのよい供養なのであろうと思う。
桶谷さんの『昭和』史は戦前編を戴いて読み通している。戦後編連載の大尾に据えられた「昭和天皇」七十枚というわけであり、だから先ず読んだ。「天皇」
のことは、分からない。よくいう喩えでいえば、いろんな登り口があり登り道がある。がらりと景色は変わってしまう。
世にはいささかならず、モノモノしい天皇賛美もあれば、軽薄で荒暴な批判もある。子供心にも「テンちゃん」とか「朕はタラフク食っている 汝臣民飢えて
死ね」などというもの言いには軽侮の念しか湧かなかった。どう批判するときでも「天皇」とか「裕仁天皇は」とか口にしてきた。桶谷さんたちのように昭和天
皇が心親しい存在であったことは無かった。敗戦後の日本中を、沖縄をのぞいて隈無く歩かれた、誠意ともコケの一念とも言える営為を、かなり重く受け取って
いた。昭和二十六年だったと思うが、京都へみえたとき、中学三年か高校一年か、とにかくその姿の遠く小さく見えるところで、京都御所の中だったと思うがタ
ダ一度だけ、肉眼で天皇陛下を観た。まさに観た。
歴代の天皇で、ともあれ、かほど多くに死なれ・死なせた人はいない。それだけが、不動の事実であり、その余の評価はわたしの任ではない。寒暖計ふうにい
えば、昭和天皇にむかっての針は、寒暖の目盛りは、依然やや寒い寄りに振っているといわねばならない。
しかし、桶谷さんだから読んだのであるが、桶谷さんの文章により、教わったものは忘れないであろう。「天皇」なる歴史的存在、「天皇制」なる歴史的制度
については、わたしの認識がある。過剰にして神秘的なほどの天皇賛美も天皇制賛美もわたしはしない。それは、気味がわるいだけでなく、害にしかならないで
あろう。今上天皇の一家に対する深い親愛感のようなものと、その認識とは、あまり私の中で齟齬していない。
* 眠れぬままに鏡花の『妖剣異聞』『続妖剣異聞』そして『紫障子』を続けて読んだ。読んでおきたいと思った作 を、みな読めてしまって、よかった。 佳作秀作といったものではない。妖剣は、目白台下の関口辺にある瀧本寺の大瀧小瀧にまつわる幻怪談。紫障子は祇園物語とならんで、京都ものの作であるとと もに、明らかに『南地心中』系の「巳ィさん」信仰もの。先の剣や杜若の花も、鏡花独特の「蛇」シンボルの効果に期待した作なのである。ただの物好きで蛇を 書いている作家ではなく、彼の世界観や社会観が、人間関係への苦い認識が蠢いている。それ以上は、ここでは言わない。『妖剣異聞』は一読に値するもの、と だけを。
* 新聞のコラムで、誰だかが声高に「世襲」問題に目をむいていた。妻と、笑い合った、「やっと、いまごろ、こん
なことを言っているぜ」と。
昔々、岩波の「世界」に『最上徳内・北の時代』を連載していた頃だから、かれこれ二十年ちかくも昔の話だが、当時の担当編集者はS君だった。いつも原稿
を取りに来てくれると、酒になった。妻もその頃は元気であった。
そんなある日、わたしはS君に、これからの日本でいちばん顕著になってくる難題は何だろうかと聞いた。わたしは「世襲」現象の拡大だろうと答を腹に用意
していた。S君は「教育でしょうね」と答えてくれた。
あれから今日まで、ずいぶんの時が流れて、「教育」の荒廃と質の低下は無残なばかりであり、S君の見た目はそのとおりであったし、これは、いつもいつも
繰り返し人々に意識され論議もされてきた。しかし「世襲」のもつ問題が意識され論議されることは、あまりなかった。ほとんど目にも耳にも入らなかった。世
襲現象の問題化が見えていなかったのではない、急速に拡大していたのだが、ただ、やり過ごしてきたのだ。そして、気がついてみると安易な「世襲」は氾濫し
害悪も氾濫している。ことに政治家の世界。そして大学研究所等の地位占拠にもそれが著しい。藝能社会では、もともと強いられていた世襲が、今や特権的世襲
に変わってきただけで、ご存じのように大氾濫している。
鏡花の『妖剣異聞』は刀鍛冶の青年と鳥追いの女との触穢世界の悲恋の、根に「蛇」シンボルが絡まっている。この被差別の根底が律令制崩壊の昔から天皇制
と不可分に絡み合っていることは言うまでもない。この両方に「世襲」問題が幾星霜、絡み続けてきた。だれもまだ、こういう視野から「日本」を論じてきた人
はいないのである。
こういう視線と視野とを持った者の目から見ると、桶谷さんにしても江藤さんにしても、また三島由紀夫その他の天皇と天皇制論議は、よほどもよほども上澄
みの論議にしか見えてこない憾みが遺っている。
* 江藤淳の遺著『幼年時代』が「著者代送」として贈られてきた。すぐに絶筆となった幼年時代中絶のところまでを
読んだ。痛ましいものであったと
言っておく。文章文体はみごとであった。
わたしは自分の自伝を、じつに率直に「こんな私でした」と露表することに心に決め、それはわたし個人には効果があった。江藤さんにもそういう思いがあっ
たか、それよりも「母恋い」を思うさま書きたかったのではないかと思われ、それが痛ましかった。
誰か身近な人の証言では、江藤淳がこの先にほんとうに書きたくて堪らなかったのは「谷崎潤一郎」だったという。これには、ビックリした。ほんとうに面白
いのは谷崎だと江藤さんは言っていた、むしろ夏目漱石にたいしては少々疎くなっていたようだともその人は伝えている。
江藤淳が文学との出会いのような「この一冊」として挙げていたのが『こころ』だと知ったときも、ふうんと感じ入った。そうかと思った。今度、谷崎の名が
飛びだして、わたしは、何となくすてきに満足した。そのことを書いておく。わたしの『こころ』論が江藤さんに読まれたかどうかは知らない。幾つもの「谷
崎」論が読まれていたかどうかも全く知らない。ただ、このことを『幼年時代』読後の記念に書いて置く。
* 十月十日 日
* こんなチェーホフの言葉を、いつ知れず書き留めて借用していたことに気がついた。よほど胸に届いたのだろう、
何方の訳されたものかを記録してい
なくてまことに申し訳ないが、共感したのである。ここに敢えて転記しておく。
貴族作家がただで自然から取ったものを、雑階級の作家は、青春という代価を払って買っています。
この青年がどんなふうに一滴一滴自分の体から奴隷の血をしぼり出し、どんなふうにある朝ふっと眼ざめて、自分の血管を流れる血がもはや奴隷の血ではな
く、本当の人間の血だと感じるかを、一つ書いてごらんなさい。 チェーホフ
* 奴隷の血などと自身をなぞらえて感じるのはむしろ僭越であるが、ひろく比喩的・歴史的にいえば「奴隷的」な立場を多くの「私」たちは「公」の強権によ
り強いられてきた。そんな時代は永かったし、もう抜け出た、などとはまだ誰にも確言できまいと思う。チェーホフのものと伝えるこの言葉を聴き、わたしは、
自身の根を、青春を迎えるまでの早春期をホームページの上で点検してみたくなった。そして「こんな私でした」と、「闇に言い置く」ように自身に向かい告白
して来たのだ。
* 青春のさなかにいるような「16歳の娘」ですと、実名は「景都」と名乗る未知の少女から、ホームページ表紙の
城景都氏の繪によせて、メールが届
いた。「びっくりしました」と。
城さんの繪は、もう大昔になるが「藝術新潮」で褒めて以来のお付き合いであり、湖の本を創刊のおりは躊躇いなく繪を頂戴し、表紙に使わせて貰った。ホー
ムページの右一枚が「創作」編のそれであり、左のが「エッセイ」編のそれである。美しい線のみごとに生きたもので、自分の選択を自身誇らしく思い、いつも
城さんに感謝している。湖の本とこの繪とは、もはや切っても切り離せないものになった。
* 「十六」歳といえば、なにかしら象徴的に青春期少年少女を感じる。あの熊谷に討たれた「敦盛」が十六歳だっ
た。父知盛の身代わりに果てた「知
章」が十六歳だった。逃げ延びた知盛の恥じて泣いてそれを告白するのを、涙ながらに聴いた平家の総帥宗盛のそばにも、やはり十六歳だった清宗がいた。
『能の平家物語』をいよいよ校了にする。こういう十六歳たちの哀れに美しい物語を幾度も反芻してきたが、今日、メールをはじめてくれた「16歳の娘」さ
んはどんな人であるだろうか。
* 昨日の夕暮れ過ぎて、名古屋に就職している、懐かしいもとの学生君が、休暇を利しての東工大祭参加のあと、保
谷まで久しぶりに話しに来てくれ
た。登山家でピアニストという気のいい青年で、爽やかな顔をしていた。二十六歳。大学で渡辺利夫教授に託されたわたしへの贈本と、名古屋のういろうとを土
産に、「お久しぶりです。お元気でなによりです」と、挨拶も、きびきび。家が散らかり放題に足の置き場も無かったので、近くの馴染みの「和可菜寿司」の小
座敷へ妻とも一緒に迎えて、あれで三時間も、賑やかに久闊を叙した。三人でよく食べ、二人できもちよく飲んだ。
実家が比較的近く、昔は何度も家から自転車で来てくれた。大学の頃は、階段教室のピアノで、わたし一人を聴き手に、何度もピアノ演奏会に誘ってくれた。
どれほど巧いのかわたしには分からないが、シューマンやショパンやベートーベンやシューベルトなどの曲を聴かせてもらった。教室の外へ出ると晩秋の宵で
あったり師走の晩であったりしたものだ、時には研究室へ見学に行ったこともある。
* そう言えば今度の秦建日子の公演に下北沢まで出かけてくれた卒業生の何人もが、当日に「満席」でどうにもなら
ず帰ってもらうことが重なったと
か。申し訳なかった。
* 十月十一日 月
* 昼間のテレビで、先日亡くなった淡谷のり子を回想の記念番組、ドラマ、を放映していた。歌をたくさん歌うのか
と思っていたら生涯をドラマにし
て、秋吉久美子が演じていた。この女優の独特のキャラクターがわたしは好きで、まして珍しくも一夕の鼎談をともにした大歌手の生涯劇ではあり、腰を据えて
観た。比較的淡々と、さほど誇張なく好意を以て描いた人物像で、感じ入った。歌は相変わらずのブルースやシャンソンであるけれど、しかるべき場面で謡われ
ると訴求力強く、涙も零れた。ガンとして軍歌や国策の歌はうたわず、戦前戦中の難しい限りの時節にも、外地や戦地ででも兵隊たちのために、自分の持ち歌だ
けをしっとりと唄い聞かせて感涙を誘っているところは、魅力いっぱいだった。
晩年にいたり、広い劇場のステージを見切り、渋谷の「ジャンジャン」に自ら頭をさげて舞台を求め、何年も十何年もそこで歌い続けてフアンの前に現役歌手
たる歳月を維持し続けていたことにも感動した。徹して「野」にあって己の個性を貫き通した歌手だった事に深く感動した。美空ひばりと同じなのだ。番組が終
わって、妻と二人で、暫くのあいだ静かに拍手しつづけた。
* 『蛇くひ』という凄まじい鏡花作品、ひょっとして処女作にも等しいかと観られている短編を読み直して、肌に粟 を生じた。
* 臨界事故といい、新幹線トンネル内の落石事故といい、関係者の「安全宣言」「安全認識」なるもののいい加減な
ことには、もう、ものを言う元気も
ない。
それよりも、声を大に、お互いに気をつけたい緊急事は、「絶対多数の政権政治」の危険極まりない現実であり、過去の不幸な実例である。長くは続くまいと
観ているけれど、それでも何をされるか分からない物騒な自民政権である。その恐怖に鈍感な人たちが、体のいい仮想敵を投げ与えられた風に、群集心理で、憲
法違反も敢えてしているサマを見るのは恥ずかしく胸も痛む。権力は、下の勢いをかわしたいときは、いつも下と下との分裂抗争を画策してきた、それが「歴
史」でそれが「政略」であった。
小渕「絶対多数」政権より危ない現象は、今日の日本列島には「無い」とすら言える現実に、だれもが目覚めたい。
* 十月十二日 火
* 浜木綿子の「八木節の女」では、失望させたかも知れないと、帝劇十月公演の、佐久間良子主演「花朧」の招待が
来た。山田五十鈴、丹阿彌谷津子、
涼風真世、西岡徳馬、北村和夫らが競演している「京都もの」らしい。佳い舞台であるのを期待し、当日を楽しみにしよう。
佐久間良子とは口を利いたことがある。『細雪』が何度めかの映画になったとき、主演の岸恵子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子競演の豪華な写真集
が、新潮社から出た。その文章をわたしが書き、撮影は篠山紀信だった。撮影現場に何度も足を運んだ。吉永さんとだけは以前から多少の縁があり初対面ではな
かったが、他の三人にはそのおりに初めて口を利いた。佐久間良子は、デビューの頃はつまらない映画に出ていたが、綺麗な人であった。「細雪」の頃はもう貫
禄の女優だった。谷崎松子さんが佐久間の「幸子」役が気に入っておられたかどうか、残念ながら聞かなかったが、松子夫人とは少し柄が違う感じをわたしは
持っていた。あの時は、吉永、古手川の二人の、美しいだけでなく、被写体としての柔らかさと輝いた陰翳とにとても感心した。岸恵子の真面目も、あの映画で
はよくうかがえた。
* 昔に『慈子』を出版したとき、吉永小百合がラヂオのディスクジョッキーで触れてくれていた、という。人聞きで
あり、それがご縁であった。桂三枝
もやはりディスクジョッキーで『慈子』を取り上げていたと聞かされ、びっくりした。
小説のヒロインには、むろんイメージがある。昔に、賀来敦子という女優がいてこれはすばらしい才能だったが、結婚引退して、そして亡くなってしまった。
亡くなる何年か前に一度逢ったことがある。文通はよくした。偶然とも言えるが、「湖の本」より以前からのわたしの読者であった。この人などがわたしの書く
ヒロインに印象が近かった。吉永小百合は好きなだけでなく、人柄に敬意のもてる女優さんであり、いつも頭にあった、何となくヒロインのイメージとして。
若い人では現在の澤口靖子が好きだが、それは女優としてと言うよりも造形美としての高評価であり、佳い舞台などを観ないと、まだ彼女とわがヒロインたち
のイメージとは結びつかない。
女優の話をはじめたら、キリがない。なかでも、銀幕を飾ってゆるぎなかった若い日々の原節子の映画なら、何度でも、繰り返し観たいと思う。
* 十月十三日 水
* 女優原節子のことでこんなメールを、元の学生君がくれた。簡明な佳い感想である。
* 今日10月12日まで、銀座シネパトス3にて夜8時40分から原節子と佐野周二(だと思います)主演、成瀬巳
喜男監督による、岸田国士原作の
「驟雨」が上映中です。(以上誤字あればご容赦下さい。)原節子はおそらく30前後だと思います。
内容は、岸田原作の夫婦ものを再構成した、終戦後の夫婦生活を淡々と描いた作品です。
どの場面のどのセリフを聞いていても、作者の機知だけでなく、終戦後まもなくの時代には、まだ、モラルが、ルールではなくてモラルとしてあるんだなあと
感じました。
* この映画は知らない。原節子と佐野周二との映画では、他にも佳いのがあった。言葉の美しくて品のあった懐かし さを忘れていない。言葉は時代によ り動いて行くものではあるが、それは語彙だけでなく発声にも関係している。むかしの人の発声発語のぜんぶが好きだとは言わない。しかし近時の発声発語のし どけない、しだらなさ、には時々泣きたくなる。
* 京都から秋一番の松茸が贈られてきた。今晩は、うまい飯になる、食事の旨いのにはやはり目がない。そして栃木 のすばらしい林檎もたくさん戴い た。わたしには、なにも上げられる物がない。
* 昨日の夕方、とうどう『能の平家物語』を校了にした。堀上氏の写真はまだ色校正が済んでいないようだが、試刷 りは見せて貰った。写真が思ったよ り小さいことにやや落胆した。保谷の駅近くで、版元の朝日ソノラマ有賀成良氏にゲラをみな預けて別れてから、行きつけの「かつ金」へでもと歩いて行くと、 「いはし」という店が出ていた。もう小一年にもなるという店なのに気がついてなかった。鯛のうす造り、青柳の刺身、蟹しんじょう、うざく、鰯のつみれ汁 で、伏見の冷酒黄桜をゆっくり楽しんだ。あと、漬け物で白い飯を一膳。こざっぱりとして狭苦しさのない店であった。保谷の手近にこういう店を見付けると、 クセになりそう、締めて五千円でお釣りがあった。やすいのは歓迎だ。
* 名古屋で画商をしている人と電話で話した。娘さんと二人で頑張っている。いちど訪ねたことがある。村上華岳の
観音図のまえで静かに話したのが懐
かしい。
東京の国立劇場に芝居を観に行きますと神戸の人から電話がきた。一泊するけれど友達といっしょで、顔は見られないだろうという。一時は違和感のあった体
調もすっかり元気になりましたと聞くと、うれしいものだ。秋初めの、遅く来た夏ばてに異様に悩まされましたが、どうやら抜け出せました、もう大丈夫という
京都の人の声も聴いた。そういえばわたしも妻も、このところ元気である。
わたしの『冬祭り』や『夕顔』の舞台をしっとりと歩いてきましたというメールも、それはもう懐かしく感じられた。独りで読むのが惜しいように佳いことば
がよく選ばれていたが、やはり秘しておくことにした。冬祭りの日がだんだん近づいてくる。
まさに只今『冬祭り』持参でモスクワに、またサントペテルスブルクに旅している人もいる。ラスコリニコフの家も観てくる予定と聞いているが、元のレニン
グラードの十月は、もうずいぶんと寒いだろう。そういえば、あの「冬ちゃん」のご主人が亡くなっていると、最近届いた高校の卒業生名簿で知った。ふうっと
寂しくなった。
* ペンの事務局経由で、先に送付して置いた「盗聴法」に関する法務省刑事局長の国会答弁への質問状に、返事が届
いた。一読、何ともいやになるよう
な煮え切らないものだった。いやだいやだ。
返事をとったことだけで良しとしよう、自己満足に過ぎないが。鬼の首でも取ったような自画自賛をしてみても虚しい。
* 十月十四日 木
* 妻が聖路加病院に定期検診に行った留守中を、昼寝してすごした。「京の昼寝」ではない。
黒い猫との日々は、笑いが絶えない。理想的な共存である。雄猫なので、やがて外へ外へと生活範囲を広げて行くだろう。ご近所へも多少となくご迷惑をかけ
るだろうが、頭をさげてでも、無理なく拘束もしないで過ごさせてやりたい。
* 湖の本の通算61巻の初校を終えた。今度は少し変わった構成で、未公表の「新刊」本に仕立てる。
* 十月十五日 金
* ペンクラブの理事会だった。いろんな議題があったが、各理事報告事項の幾つかは、「文書」配布されていたら、
簡単な口頭補足か質問を受けるかだ
けで、十分済むことだった。企業内では「稟議書」を効果的に使っている。時間をほんとうに惜しむときほど有効であり、読んで分かる程度のことを、ぐだぐだ
と繰り返し喋るのは愚かしい。質問が有れば別だが、説明の必要のない限り、わたしはペーパーで提出配布しておき、状況をにらんで、時間の無駄遣いはしない
ようにしている。会議の定刻を過ぎていると分かっていても、ばからしいほど平凡な報告を、とくとくと四角四面に述べ立てているなど、ほとんど発言者の自慰
行為に等しい。配慮がない。大事な問題のある時ほどそれは大迷惑であり、今日の会議で、本当に大事な議題は、中国訪問の代表団報告と意見交換、言論表現委
員会から出した、盗聴法国会答弁に関する質問状への法務省刑事局長による公式回答問題と、松本侑子会員の著作権侵害問題だけ、といってもよかつた。
強いて言えば、あとは、ペーパーで提出されていても、会報で後日報告されるだけでも済む程度であった、もっともっと大きな、「討議されざりし大問題」か
らみれば。
* 大問題とは、何か。
アメリカが核問題で極めて重要な国際条約批准を公式に否決したこと。その一方で臨界前核実験は強行したこと。それらへの抗議であろう。
それと関連して、日本政府の「核」保有と軍縮等への外交姿勢への抗議、茨城その他での臨界等危険管理の杜撰な無政策姿勢に対する抗議、であろう。
なににも増してそういう状況への「討議」こそが、当面の状況と「ペン憲章」からみて、第一要件ではなかったのか。梅原会長かねての基本認識の一つにも、
「核」問題が真っ先に大きく取り上げられていたではないか。
ただの一言も、その問題に、執行部は理事会で触れようとしなかった。こっちから触れる時間も、だらだらと空費されて、無かった。会員の入退会議題など次
回に延ばしたことは、過去に何度も有った。あれだけの時間を流用してでも、なぜ、「核」を討議しないのか。「原則として核実験には抗議声明」を「必ず出
す」とまで「議決」しておきながら、それよりももっと根本に触れている「条約批准否決問題」をなぜ一顧だにしないのか、不思議でならない。
わたしとしては、事前に小中専務理事にたいし理事提議したつもりである。かりに「臨界事故」こそ議題にならなくても、関連して「批准否決も臨界前核実験
も」あったではないか。
「原則」処理なんてものは、所詮は斯くの如きハンチャラケに終わればこそ、わたしは「原則的に」などと本来非文士的な非藝術的なことは言わず、一つ一つ
の問題を、あだかも創作の如く一期一会の気持ちで取り上げ、討議し考えるべきだと言うのである。
* 中国に関して、ペンクラブに参加の問題では、会合の流れがドラマチックで興味深いものがあった。
ただ中国文学界の現状把握については、旅行者にありがちな、やや甘い評価ではないかと危ぶんだ。党の支配下に作家同盟があり、作家同盟の干渉ないし黙許
のもとに活動を公的に、いや党的に許容されている作家たちの存在していることは、二年半前に、わたしも北京、西安、紹興、杭州、そして上海の作家たちと
会って議論してきたときに認められた。二十数年前に比して、それはまことに大きな「見かけの変化」であったけれど、また、目には見えてこない蔭となって、
党と作家同盟との傘下から逸れた、はじき出された、ないし傘下に入ろうとはしない、公の黙許すら受けてはいない、抵抗的な、体制批判的な、アングラ作家た
ちの、かなり広範囲に多数存在している事実についても、関係者の言の内外から感触は十分可能であった。
その辺の把握が、ひょっとして、今回報告からはすっぽり抜け落ちてしまっていないだろうかという、不審ないし危惧を、わたしは感じた。それを、発言して
いる遑もない押せ押せの今日の会議であったが、一応ここに書き込んでおく。
* こういう問題も、少なくも、わたしの二年半前の訪中国では有った。その問題は、いまも解決されたとは聞いてい
ない、寡聞にして。
どういうことか。
世界的な、チェロであったか、名演奏家に、ヨー・ヨー・マがいる。中国国外に出て、世界の演奏家になった。久しく彼は国にも帰れなかった、が、今では、
たまさかの帰国だけは許可されているらしい。しかし国内で演奏出来なかった、少なくもわたしの訪中した二年半前までは。彼はあだかも存在せざる存在、非在
の者のように、徹して無視し黙殺されていた。我々日本人の方から話題にしても、徹して、はぐらかされた。つまり国の「批評」を受けていたのである。
中国では、「批評」とは、国の権力者が「下のものを叩く」意味だと、その旅行中に要路の中国人から聴かされた。日本でのような「批評家」稼業などとんで
もない僭越な名乗りなのである、かの国では。
その意味で、ヨー・ヨー・マは完膚無く「批評」されていた。そして現在、中国国内にあって「批評」を受け、逼塞しつつ地下で創作している芸術家が、もは
やゼロになったなどということは、あり得る話であろうか。世界中で「獄中作家」のいちばん多いのは中国であると、今日の理事会ででも、たれかが発言してい
た。
中国に対しては、賢く冷静でありたいと思う。
中国へ行くと日本人はすぐに何かしら喜んで帰ってくる、甘い観察を土産に。どうも、そういうヘキがある。中国の「核保有」に「核実験」に対して、一言で
も抗議声明をだしたであろうか、われわれの団体は。それとも中国のことは核問題でも人権問題でも「原則外」に扱うのか。
* 小雨だった。またしても記者会見だというのを失礼して、銀座を練り歩く大東京祭とやらの大騒音に呆れながら、
「シェ・モア」という静かな店でフ
ランス料理を食べてから帰った。ハウスワインで満足した。
* 十月十六日 土
* 木島始さんから『越境』という詩の本をいただいた。静かに意欲に富んだ佳い文学批評である。
* 城西大学の黄色瑞華教授には一茶研究の二冊を頂戴した。去年だったか友人片岡我當主演で高浜虚子作の「おらが
春」を観たのを、つい思い出した。
露の世ハ露の世ながらさりながら
あの月をとつてくれろと泣子哉
きりきりしやんとしてさく桔梗哉
秋深くなりゆくか、肌寒さもひとしおの今日だった。黄色さんは僧籍にある人のように思われる。
* 前夜に読んだ鏡花の戯曲『海神別荘』が、再読三読なのに新鮮におもしろかった。「わだつみのいろこのみや」物
語の逆を行く趣向である。海底の公
子が陸の美女を娶ろうという。美女の父は海の幸をしこたま請求し、海は、無尽蔵の富の雫程度、と、望むままに呉れてやり、父親は娘の美女を舟に乗せて海に
沈める。海底の警衛のものらは八重の潮路をやすやすと海底の公子のもとに美女を生きながらはこぶ。それからの展開が、面白い。『天守物語』とも『夜叉が
池』とも趣が違う。しかしいかにも鏡花らしく、まぎれもない「蛇」物語である。
ことのついでに、これも再読の『恋女房』を途中まで読んで、これも興奮を禁じ得ない幕開きで、寝入りそびれた。むかし、いまの水谷八重子が「お柳」を演
じているテレビ舞台中継を観てしびれたことがある。鏡花の真骨頂であり、『蛇くひ』『貧民倶楽部』等の同類で、実に厳しい。鏡花といえば縹渺としたお化け
作家と思っている人も多かろうが、彼の根は痛烈な「不平」であり、敗者と弱者とに頭から味方して咆哮している作家でもある。そういうときに鏡花は総身
に海や水を負いつつ蛇や龍を幻視してやまない作家でもあるのだ。
* まだ漱石が世に出ないでいた頃、当時の文壇を席巻し風靡していたのは、漱石と同年の高山林次郎樗牛だったが、
漱石は「ナンノ高山の林公が」と歯
牙にかけなかったという。漱石は少ない。「高山の林公」ならうじゃうじゃいる。今の世に漱石は一人も現存しない。若き後生は新世紀を席巻し風靡して、漱石
をすら超え潤一郎を超え藤村を超え鏡花を超え康成を超えて行き給え。まちがっても「高山の林公」はやめておきたまえ。
昨日のペンの理事会で、誰であったのか大きな声で、我々はもっと「興行ということを考えなくっちゃ」と叫んでいた。そういう興行に客寄せパンダなみの
「高山の林公」なら、手持ちはいっぱいと言わんばかりに聞こえ、失笑した。「平和」とは「興行」なり、それは、だが、謂えているようだ、情けない平和であ
るが。
* 十月十七日 日
* 梅若の橘香会に。二番目梅若万紀夫の「百万」から。
少し面痩せた百万に見えた。万紀夫の集中力がやや低いと感じていたが、一つには地謡がひどかったみたいだ。それでも半ば近くから持ち直し、ことに我が子
との再会を果たして烏帽子を脱ぎ、とりものを捨てて以後の母百万は美しく、みごとであった。大鼓の亀井青年が颯爽として、しびれるほど良かった。この青年
はわたしの眼には、いま能楽界の輝くスターである。
万紀夫夫人の「お願い」に屈して夫妻子息の紀長君演ずる「安達原」を付き合ってはきたが、これは途中であくびがでるほど低調な鬼女で、げっそり。
* 万紀夫を万三郎にしたい。さらに大化けの望める能役者だと思う。この襲名を阻んでいる流儀内のいくつかの障害 を、漏れ聞いて承知しているが、愚 にもつかないものばかりである。「梅若万三郎」の名跡を起こすことを「観世流」は流儀の為にも勇断すべきだと思う。
* 堀上謙氏と保谷まで一緒に帰る。奥さんが旅に出ていて、一人の家に帰るのは淋しいとひげ面の小父さんが可愛ら
しい泣き言を言うので、付き合っ
て、保谷の「いはし」と「数美」とで食い且つ飲み、また食い且つ飲んだ。八時以降は飲み食いしないと決めて励行してきたのを、破った。ま、堀上氏のためな
ら、いいであろう。
* 十月十八日 月
* 夕刊に、梅原猛氏が茨城臨界事故等に触れた文章を連載手記の一回分として書いている。執筆の日がいつであった かは知らない、が、新聞の日程から みて、理事会のあった十五日以前であろうと思う。それならば、なぜ、理事会でこの問題を討議しようとされなかったのか、不審に思う。
* 金澤から、講演に出向く乗車券等が送られてきた。用意した講演原稿は九十分ではとても話せないかも知れない。 それだけが気がかりだが、成り行き に任せよう。昨夜は鏡花の戯曲「恋女房」を夜更け、音読してみた。音読の方が鏡花戯曲の修辞に巧く乗れる。凄みのあるはなしであった。わたしはこの「お 柳」のような鏡花の女が好きである。舞台でぜひ観たい、『恋女房』も『海神別荘』も。『天守物語』は映画も舞台も何度も観ている。
* 「なんとか賞」の推薦依頼が年に何通も来る。よほどのものを、有ればそのつど推薦している。それでいて賞の功
よりも罪の方をつい感じてしまう。
しょうがないなあと自嘲している。
* 十月十九日 火
* 息子が昨夜遅く帰ってきて、明け近くまで、いろんなお喋りをした。また禁をやぶって夜中にビールを二本飲んで しまった。
* 現代の俳句と、例えば蕪村。その差は体温の差のように、感じられます。近代現代の短歌も俳句も、佳い詩になっ た作があるのも事実として、和歌や 蕪村の句のもつ、いわば体温の優しい暖かみが抜けて落ちているのですね。冷えたからだを抱いているようで。佳い時代の和歌のあの温かい「和」の魅力。楽し さ。ワザ有りの面白さ。そういう日本語表現の妙味を切り捨ててしまわないと、発見し創作仕切れなかったような「近代・現代」の、或る「痩せ」「冷え」を思 うことがよくあります。
* 或るメールに応えて、そんなことを言ってみた。昨晩、湯に浸かりながら蕪村を読んでいた。不思議で仕方がない
のである、蕪村の句を読んでいる
と、蕪村だから思うというワケではないのに、どの句もどの句も、余りに佳く余りに面白く、あまりにはんなりと暖かで感じ入ってしまうのに、近代の句はそう
はいかない。秀句でもそうはいかない。結社を主宰する程度の俳人の句集をみていても、一冊に幾つとも感じ入る句は少なく、佳いなと思っても、それがいかに
も冷えていて、暖かみに乏しい。あたたかみは、どこかでおかしみ、かるみに繋がるものだが、「俳」本来のそれが現代句に乏しい。
ところが蕪村句集だと、次から次からみな暖かくて俳味横溢している。
何でなのか。うまく説明できない。才能の差と言ってしまえば身も蓋もないし、それだけではないと思われる。しかし、巧く説明できない。とにかく近代現代
の句集や歌集をもって湯に浸かるなどというおそれ多いことは、湯冷めしそうで、出来ない。蕪村や大昔の和歌は、それを許してくれる。胸の内側からやわらか
に温めてくれるのである。
* 十月十九日 つづき
* 東工大の卒業生で、いちばんと言っていい古い親しい昔の女子学生から、初めてメールが届いた。だいたい、手紙
をくれる人であった。それに「湖の
本」も続けて読んでくれているし、息子の芝居にも友達を誘っていつも来てくれている人だから、とっても心親しい人なのだけれど、メール嫌いなのかなあと思
うほど、メールは貰わなかった。大手のその方の会社に勤めていて、マシンはお手の物のはずなのにと、もう永いあいだ待ちわびていた。
話せば、話題も好みも合う方だ。
文章が書けるし、読める。創作もできる。
何度か、何人かで、授業のあと、五島美術館や山種美術館へ繪や古美術を見に行った。閉館時間が来ても、いちばん熱心にものの前から動かない人だった。ど
れが欲しいと聞く。あれが欲しいですと、指さすものが的確だった。
そうかと思えば、わたしの教授室で昼食会をしましょうと、友達と、たくさんの手料理をもちこんでくれたこともあった。就職しての初給料で、センスの佳
い、いまも稽古で演出中の息子の写真を入れてある、落ち着いた「木の額縁」を贈ってくれた。額縁だけでも鑑賞に堪える美しいもので、びっくりし、嬉しかっ
た。わざわざ大学まで届けてくれたのだ。ニュージーランドだったかへ旅行のおみやげに、ふかふかと暖かい長い襟巻きももらった。もらってばかりいる。
おもしろい子で、思い出話は際限がなくなるが、数学専攻、思索的でもあり、快活なようで、よく泣く可愛らしい泣き虫でもあった。考えることも書くこと
も、すぐれて個性的で、楽しませてくれた。数少なくてもとびきり仲良しの友達がいて、永く続いている。今日のメールはその一人の友達、同じくさきの昼食会
の発起人で、わたしとも仲良しであったが、その人が今度結婚したと報せてくれるメールでもあった。
メールで話して、いつでも話のなかみの弾むであろう元学生と、とうどうメールの道がひらけ、寒い雨もなんのその、元教授、ご機嫌である。
* 十月二十日 水
* やっと静かな秋らしい日を迎えるようになりました、が、季節を勘違いした桜が庭に咲いています。
金沢へはいつ行かれるのでしょう? 準備はできましたか? 話すことが多すぎ、時間がオーバーして口惜しがるのではないかと、勝手な心配をしています。
鏡花は詳しくないのですが、あなたが彼の作に見出す「理想」の女は、ますます現実には見出せない、存在し得ないのではないか・・。
「蛇」が、日本文学の中で意味してきたものが何であったかを研究している人って、けっこう何人もいたんだなあと、先日古本屋さんの本棚を見ながら思いま
した。西洋の論考にも意外に多い。蛇キライのあなたが蛇に拘るのも、因果というか、変なものだと思いませんか?
私は、「執念深さ」というのは理解できても、蛇性の女は、やはり、いやだなあ。古典など突き抜けて、わあっと現代的になってみたい、なれるものなら
ば!! いささか遅すぎた感がありますね?
今週は、木曜日、大阪の「花展」そして「日本のガラス」の展覧会にいきます。週末は来客あり。十人くらい・・何の料理を作ろうかと今から頭が痛い。
のほほんは、私の場合ほとんど怠惰に繋がってしまうけれど、のほほんに、メリハリも必要ですね? 意味ありげに意味なく忙しく過ごしながら、日々が過ぎ
ていき・・現身のあなたは遠い・・。大切に。大切に。
* このまま小説の書き出しに引用できる。
* (題) 逢ってきました
もう少し、早い時季に来たかった。そうおもいました。(八坂の奥)正法寺の境内の萩が、散り初めていましたので。紅のなかに白萩もまじっていて、花ざか
りのうつくしさがしのばれたことでした。
途中でお花を買いたかったのですが、花屋さんが見あたらず、お墓の背後の山に咲いていた小さなお花を摘んでお供えしました。
鏡の水をお墓にたっぷり、かけてさしあげました。
だぁれもいない。耳がキーンと鳴りつづけていました。
(歌の中山)清閑寺についたころは夕方でした。二十年くらい前に、なぜか時をあまりおかず二度行ったことがある
のですが、あまり変っていないよう
におもいました。もう、ご門がしまっていて、「しまった」とおもったのですが、お庭を掃除していらっしゃる気配がしましたので、声をかけてみましたら、く
ぐりをあけてくださいました。
先生はご存じでございましょうが、郭公亭がなくなっていましたのには、びっくりしました。「腐蝕はげしく、惜しくも平成3年7月解体」と、「清閑寺伝
記」にありました。
保存のすべはなかったのかとおもう反面、へんな修復をされて、無惨な残り方をするよりはよかったかも知れないともおもいました。
郭公亭のあったあたりは、それとわからぬほどの小薮になっていましたが、死に直さねばならなかった冬子と法子、死に直されてしまう宏を感じることができ
た――。そんな気がしましたが、あるいは、わたくしの思いあがり、思いこみかも知れません。
高倉陵の前から清閑寺へかかる石段、手前側三段の石がふっくら、まるみを帯びているのに、はじめて気がつきました。
もう、お店のしまりかかっている清水坂をくだりながら振り返りましたら、山の空に鴉がいっぱい。ゴッホの絵さながらでした。
翌日、(北嵯峨)広沢池の端から折れて、遍照寺への道を辿っていて、どきっとしました。ある家の表札に「秦」と
あったのです。二つ表札がかかって
いて、一つは男名(こちらは「秦さん」ではありません)、そして、「秦さん」のほうは女名、たしか、「**子さん」だったとおもいます。
遍照寺は、郭公亭と反対に、三年前に新築されていました。観音さまは、新しい本堂の奥の収納庫のようなところにおおさめしてありました。
よく、拝めるようにと、案内の少女が電気スタンドを置いていってくれましたが、むくつけに照らすのがはばかられて、灯けませんでした。けれど、よく拝め
ました。(作品)『夕顔』にたすけられて。
竹薮は先生がご覧になったそのままではないかとおもいます。すがすがとうつくしかった――。
池のほとりでは、桜の花。思いがけぬことでした。小さく色も淡い花が、ぽつりぽつり、はかなげにひらいていまし
た。
遍照寺山は、姿の佳い山でございますね。少ぅし、色づき初めているようで、かすかに黄や朱を帯びかけているのが、ごくごく淡い村濃染めのようでした。
『夜の寝覚』のこと、児神社のこと、それから六道さんの(小野)篁の井戸、大覚寺となりの薬師寺の冥界からの
出口の井戸のことなど、お話申しあ
げたい
ことがあり過ぎて。
そちこちで気持ちがゆらゆらしたり、金縛りになりかかったりしましたが、「きをつけて、こころを和やかにして 行っていらっしゃい」。このおことば に守っていただきました。
鏡花のご講演、金沢でお聴きできたらとおもいますけれど、ちょっと無理かも知れません。ホーム・ページにお書き
込みくださることをねがっておりま
す。
* 秘蔵したいメールだが、それもこれも「闇に言い置く」ことと、書き込んでおく。遠い北国の、やはり逢ったことのない人である。或いは、これもそれも、
もうわたしの小説世界の新たなはじまりに身を寄せてきた霊のような人なのかも知れず、なんだこれは、秦の幻想なんだ、物語りはじめているのだ、作り話だと
想う人も有ろう。例によって、ウソでしょうと言われればそうですよ、メールはほんとに来ているのでしょうと問われればむろんですと、応えるだけである。
* 十月二十一日 木
* 必要あって柳田国男の『遠野物語』『山の人生』を丁寧に読み直したのが、面白くてやめられない。どんなに多く を柳田の著作から学んできたかと思 う。民俗学草創期ゆえの学問的方法上の不備などはあろうけれど、採集されている実事の解釈こそ後生にも出来ても、もはや誰にも採集不可能な実事の秘めてい る示唆はあまりにも大きい。今度読んだものなどは、泉鏡花もいちおうのワルクチは言いながら、実に多くを得て、創作に利用している足跡は露わに、数多い。 柳田を読み返すことが出来て、それが鏡花講演の気持ちの下支えにもなってくれた。
* 二三日前であったか、昼に映画「おれたちに明日はない」の、ウォーレン・ビィーティとダナ・フェアウェイ版を また何度目か観た。途中からであっ たが、ジーンと、その日一日中、なにとなく重い痛みのように余韻がのこった。あんな極悪ものに、何故に感動が残るのか。ボーニーとクライドのもはや切り離 せない「身内」の結びつき以外に考えられない。無残に撃ち殺されながら、彼らの、余人を超えた幸せが信じられるところ、そんな幸せをだれも容易には持ち得 ていないところ、それに羨望し、感動するのである。
* こういう感動にくらべて、西村代議士の「強姦」発言での政務次官落第の顛末など、なんという情けない下劣なも
のか。盗聴法のためにも国歌国旗問
題でもガイドラインでもテレビへ出ていちびっているのを見ていたときから、程度の低いヤツだなあと人柄の方に呆れていたが、ひどい馬脚を露わした。やっぱ
りなという印象までが情けない。
その一方で、われわれがいつか突き当たってしまうであろう問題に、このバカものが触れたという現実も、否定はできない。朝鮮半島で北から南から、また中
国から、またロシアから、まかり間違えば台湾からも、日本列島へ向けた核兵器配備の成る時期は、必ずしも遠くなく、現に緒に着いているとも言える。アメリ
カ。アメリカは自国の役に立つ限りにおいてしか日本のために抑止行為には出ない。そういう緊急事態が、否定しようもなく現実に成ってくるときに、それらへ
の真の対処と抑止は、どうなるか。どう在らねばならないか。これはもう机上の空論でないだろう。非核三原則の存在が日本を救うか困惑させるか、そういうこ
とも考えて対処せざるを得ない時期に現にあるかどうかは判断が微妙だけれど、そして西村某の如きには断じて任せられないけれど、国政の真の知性には、どう
か対応を願いたいという気が、わたしに、まるまる無いわけではない。
* 賽銭泥棒を寺の住職が殴り殺したというのは、これぐらい現代を感じさせる事件があろうかと、印象的だった。
* 中学生が女先生の顔面を殴って鼻の骨を折るというのも、すごい。校長が顔をテレビ画面から隠してもらって、処
置無しだとベソをかいてしまうのに
も言葉を喪う。
新聞にわたしは何度か寄稿している。中学の教育義務を、撤収していいのではないか。または、児童が希望する限りは親は中学に上げる義務をもつが、児童は
希望しなければ中学に行く義務を免れることにしてはどうか。希望して就学した生徒は、学校内環境を故意に乱暴に乱したり、学習する気の無い場合は、退学通
告に従わねばならない。
およそ今日の情報過多時代では、中学での半端な教育は不要なほど、常識と情報とを児童は吸い上げられる。小学校で、国語、英会話、数学、理科、そしてコ
ンピュータその他を学ばせ、中学は「準義務教育」に切り替えて、基礎学と感性学とを学ばせてはどうか。行きたくない学びたくない児童に中学を義務化してい
るムダの悪影響は、生徒にも教師にも家庭にも社会にも莫大だと思われる時代になっている。わたしのもう七八年も前からの持論であるが、専門家にも一般の人
にも考えてみて欲しい。
* 十月二十四日 日
* 二十二日の夕刻早めに金沢に入り、石川近代文学館の館長で、湖の本よりも遙かに早くからごく親しい友人読者と
してお付き合い願ってきた井口哲郎
氏のお迎えで、鏡花ゆかりの辰口温泉「まつざき」へ送っていただき、いっしょに温泉につかり、ゆっくりご馳走を戴いて、歓談数刻、久闊を叙しての申し分な
い秋夜であった。氏は比較的近い寺井にお住まいで、以前は小松高校の校長先生をされていた。講演に呼んでもらい、「あなむざんやな兜の下のきりぎりす」の
芭蕉句で知られた実盛の兜を見せてもらったり、山中温泉の「よしのや」に泊めていただいたりした。「よしのや」もすばらしい宿であった。
「まつざき」は鏡花の伯母さんとの縁の深い宿で、鏡花はここに専用で愛用の二室をもち、それも翌朝二十三日に見せてもらった。一室は冴えた紺青の、もう
一室は映えた緋色の壁で、びっくりした。私にはどちらの色も、仕事をする部屋の壁色にしては強烈すぎた。しかし鏡花がこういう色彩的に強い濃い内面を秘し
持っていたことは、納得できる。
金澤に戻り、午前中、文学館の「鏡花特別展」を、ゆっくり井口さんと一緒に見て、いかに鏡花世界に戯曲 演劇 新派の占める比重の重いことかを再認識し
た。関連の書簡や書画、装束などにも目をひかれた。ゆかりの女性たちの写真もなつかしかった。今回講演者ということで、一角にわたしのコーナーまで出来て
いたのには恐縮した。かつて現代語訳した『龍潭譚』の原稿を、館に納めて置いたのも展示されていて、冷や汗が出た。
他の展示室もたっぷり時間をかけて見た。かなり拡張していろんな人の資料がならべてあった。徳田秋聲の筆跡と言葉、室生犀星の書斎の復元などに印象を得
た。井口さんが多年ご苦労の北村喜八の展示にも感慨深いものがあった。この件でだけでも井口さんとは数重ねて文通があった、ながい歳月。
この館の前館長は新保千代子さんで、この方にもいろいろお世話になった。井口さんは校長さんを定年後に副館長として入られ、近年に新保さんのあとを嗣が
れた。疾風怒濤のような前館長と、温厚無比な人徳の新館長とのコントラストを得ながら、文学館がますます落ち着いた充実味を増して行くのは目に見えてい
て、親友のためにも心嬉しい職場だなと祝福した。
昼は、鏡花が名付けたという「おか重」のおちついた小座敷で、二人でまた歓談のうちに食事した。
金沢方面には井口さんのおかげでご縁の出来ている読者がことに多い。また数えてみれば鏡花の仕事に加えて、かつてはフードピア金澤の仕事もあって、かな
りの回数訪れている。京都はべつにすれば、いちばん実質的によく訪れている。妻も一緒に行ったことが二度ほどある。わたしの『秋萩帖』など金澤で胚胎した
小説だともいえる。いろんな思い出のあることに、いまさら気がつく。
* 講演は文教会館の広い会議室が用意されていて、鏡花研究会の主立ったかたがたが大方見えていると耳打ちされ
た。話しいい人数であった。ただ案の
定時間が足りず、強行しようかなと思ったが、のこり三十分ほどあまして、九十分で締め括った。心残りはあったけれど、まず、必要なところは話せた。
金澤では鏡花は文学の神様であり、微細に地元の議論や検討も進んでいる。そういうところで、大胆不敵に「鏡花の蛇」を論証して行くのは、他の土地で話す
のとはちがった「挑発」になり、その辺がどう受け止められるかを、一つの不安、一つの勝負所と考えていた。それでよかったと思う。内容はやがてまとめて文
字で報告出来るよう用意している。
* また井口さんに送ってもらい、駅の近くのANAホテルで喉をしめし、暫く歓談後に館の方へお引き取り願って、小一時間を駅ビルを見て回り五時半ちかく
に、往きと同じ越後湯沢経由で、のんびりと帰った。往きにも帰りにも用意していた自分の別原稿に眼を通せたし、帰りには、酒も、笹寿司も楽しんだ。
だが何より車中でわたしの胸を打ったのは、グレアム・グリーンの『愛の終わり』だった。もう五回と十回との間ほど繰り返し読んできた愛読の作だが、ひと
しお胸にしみて面白く、また刺激されて読み進められた。夜行の長距離電車、それも空いている電車の、なによりの宜しさは、こういう時間のもてること。飛行
機ではこういう読書ができない。
* さ、気がかりだったことは済んだ。富士通の若い友人が、ホームページの表紙をこんなふうに改造してはどうか
と、丁寧にプランを送ってきてくれ
た。自分の文業の収蔵庫としても使いたい気があるので、ホームページを「文庫」と題してきた友人の提案は受け入れようと思う。さ、このプランを、転送し実
現するのは難しいが、うんと項目数を増やしたので、ゆとりを残して現在の仕事を前に進められそうなのが有り難い。書き込んでいっても収容保存できない不安
定さが、長い作品の休止に繋がっていた。心理的に抑止されていた。それが解決できればと願ってきたが、これで希望がもてる。
* 十月二十五日 月
* 秋晴れだが追い追いに冷えてくる気配。今夜は「和の会」のレセプションが「和光」である。ベテランの集まった
洋画展で、安定感があり冒険した繪
は少ない、いつもは。場所が「和光」では仕方ないか。橋本博英さんの繪が見られ、京都の神下雄吉氏の名も見える。レセプションというのは必ずしも繪を観る
気分とぴったりするものでないが、途中で気が進まなければ、今日なら町でゆっくり遊んでこれる。こういう気分の落ち着いた日々も迎えられるようになった。
スケジュールを眺めていると、いろんなお誘いでこの一週間は溢れている。今日も大島渚監督の久しぶりの新作映画「御法度」試写会、十一月八日の招待が
あった。
明日は帝劇「花朧」、木曜は「松園展」の内覧会とレセプション、京都展には失礼したので楽しみ。この日引き続いて、四年制に移行した京都造形芸術大学の
東京祝宴がある。京都からも、学長の芳賀徹さん以下、知った親しい顔が集まることだろう。
週末は劇団昴の「ワーニャ伯父さん」が、一昨年の感動作「三人姉妹」以上の舞台をみせてくれるか、楽しみだ。
月が替われば、なんとか都合をつけ、鴈治郎、団十郎、宗十郎、秀太郎に、我當が上杉謙信役の、「本朝廿四孝」を観たい。
美術の秋で、創画展、日展をはじめ各美術館からのお誘いも多い。関西からは松伯美術館なども。秋の京都や奈良が恋しくなる。
* ゆうべビデオにとって置いたインド映画「ガンジー」を観ている。本を読むように程良く休みながら、続け続けて
観て行く。
* 十月二十五日 つづき
* 新潮文庫『愛の終わり』は、相当手ずれて、汚れている。表紙が反ってすらいる。何度も何度も間隔をおいて読ん できた。地味な本と謂えば言える が、心惹かれる。何度読んでもそうであり、ときには練達の読み物ではないかなどと反発しようとするのだが、文学的に魅されてしまう。『凱旋門』『西部戦線 異状なし』『陽はまた昇る』『武器よさらば』『誰がために鐘は鳴る』などとまた違って、もっと私的に魅力を感じる。要するにサラアが好きで、サラアが愛す るように愛されたいロマンチックな喜びが若い昔にはあった。ベンドリックスという男がなんでこんなにまでサラアに愛されるのか、じつは分かりにくかった。 そういう分かりにくさは、なんのことは無いわたしの作品に対してもときどき遠慮がちに、ときどきは露骨に指摘されてきた。いいじゃないですか、と、言いわ け してきたのは、グレアム・グリーンの、このカソリックの毒を秘めた小説の魅力に依存していたのであろうか。
* 金澤へ発つ前夜にすこし読み始めて興奮し、帰りの電車で読み継いで時を喪い、じつは今晩の外出でも、この本が
読みたくて電車に乗り、もっと読み
継ぎたくて喫茶店に入り、さらに魅惑されて、禁制を破り八時以降に保谷の駅近くでビールを飲んだ。
多くの小説で愛すべきヒロインにいったいどれほど逢ってきただろう。一般にはサラアのような女は、女の人にも男の人にも人気はないのかも知れないが、い
やいや、今でもわたしは胸を剔られる。それほど魅力を感じる。それって、けっこう幸せなことの内に数えあげたい気がする。もうあと一両日は、作品に酔って
いられる。
* 十月二十六日 火
* 帝劇公演佐久間良子主演「花朧」は、リアリティの乏しい、なまぬるいメロドラマであった。高橋治の原作もそう
なのかは分からないが、脚色されて
の科白が薄っぺらくて、女学生の演説のようであった。佐久間は、昔から美人であったが、芝居はうまくない。科白の硬く痩せていて一本調子に力んでいるの
が、聴いていてひどく身に堪えた。個性の妙味がまったく無い。何というか女優としての「指紋」が感じられない。向き合う他の俳優の誰に対しても、均等の芝
居を、ただ単調に続けている。力んでいるから本人は単調と感じていないだろうが。山田五十鈴、北村和夫、丹阿彌谷津子のような「超」の字のつくベテランた
ちのうまみと比較するのは、もともと無理なんだけれど、あれでは座長役がかえって可哀相に思われる。
宝塚出の涼風真世は好きな方の女優だが、可哀相にリアリティのない役を強いられて魅力半減。西岡徳馬も、広い舞台で演技の出来る俳優ではなかった、テレ
ビでならなかなか味のある男優だけれど。
ま、「旅館もの」の芝居は、大女将と若女将との葛藤劇もふくめて、テレビでも大安売り、二番三番煎じがつづいているが、嵯峨嵐山辺の嵐峡館とか大河内山
荘とか、わたしには馴染んで懐かしい辺りをホーフツさせる舞台に、うそくさい話がダボダボと展開されるのだ、これは芝居なんだから、芝居なんだからと納得
しいしい、せいぜい楽しんで拝見してきた。
* べつに退屈するのでもないし、全然面白くないのでもない。たぶんこう展開するだろうと、先へ先へ筋が読めていて、その通りに展開していって、それで
も、いいところで涙粒が目尻に湧くことは湧くのである。芝居はそれで佳いのだとも、謂えば、それだけのことだが、「つまりましたか」と聞かれれば「つまら
ないモノだった」と言うしかない。どんなに練達な通俗読み物が、いくら筋で面白がらせようとも、感動とはよほど無縁の暇つぶし時間つぶしであることとよく
似ている。
所詮は観客を、お暇つぶしにいらして下さるのだから、そのようにお座持ちをすればいいのですという安い「哲学」があるのだろう。
* しかしいつも思うが、本当に「感動作」を見せれば、どんなお客も喜んで帰ると言いかねるのも、じつは確かなの
だ。
あれで、けっこう永年スターといわれていた或る映画女優が、テレビの料理番組に出演して、なんとまあ「守口漬」のあの長あい大根を見せられ、この長い長
いのも地中に根を張っているのですよと料理人に聞かされての科白に、なんとまあ、「大根って土の下にいるんですか。土の上に生っていると思っていたわ」と
宣うたのには、さすがに、仰天した。だがこういう赤恥青恥人は、大勢も大勢もいることは不思議なほど間違いなく、それでも芝居を観て楽しむ権利は誰でも
持っているのだから、作者も、俳優も、相応に舞台を分かりやすく、まさに通俗に作らねばならない。
どんなに志賀直哉が小説の神様で『赤西蠣太』は佳い作品であろうが、同題材を話していた講釈師圓玉の寄席人気のようには面白く行かないことを、直哉自身
が知っていた。ただ、だからといって圓玉のようには創らない、決して、とも断言していたのである。
あれもあり、これもある、ということだが、どっちも藝術だとは、やはり言えないし、言ってもならないだろう。帝劇に藝術を期待して行く方が間違っている
のだ、と、結論しても、だが、それで本当にいいのだろうか。
* 帝劇下の「香味屋」で洋定食を先に食べてから芝居を観た。晩の八時以降は飲み食いしないと、ともあれ決めてい るので、先に早めの夕食にしたのだ が、これが旨かった。名は知っていたが初めての店。だが、店内の雰囲気も調度もよく、味も調理もすこぶるよかった。赤のハウスワインで十分楽しめた。この ごろ家の外で食事して、まずいのに突き当たると、ひどく機嫌が悪くなる。昔のように量が食べられないので、口直しに店を替えにくいからだ。もうあと何度の 食事が楽しめるか分からないのだから、食べる機会には旨いものを楽しく落ち着いて食べたい。今日は正解だったと、妻と喜んだ。
* 金澤へ行く前日に、紀尾井町小ホールで、第四回の望月太左衛「鼓」の会があって、例年のように夫婦で招待され
ていった。太左衛さん創作の一番目
には、外国人のお弟子さんも生真面目に出演していた。二番目は名人平井澄子の富本「山姥」が絶品であった。三番目は「猩々」で、太夫も立三味線も、大鼓、
小鼓、笛、それに太左衛の太鼓も、アンサンブルよろしく、気分もすかっとした。
鳴り物は佳い、気持ちも体ものせて楽しめる。
昔、笛が習いたかった。肺病になると、父はにべもなかった。今は、小鼓を気ままにポンポンと、鳴るものならば鳴らしてみたい。あれは鳴りにくい楽器だろ
うなと、触ったこともないのに察している。専門家でもその日の湿度などによっては、うまく鳴らない日がある。そこが魅力でもある。ひとりで「かけ声」だけ
をかけて楽しんでいる、でたらめに。雑踏で、一人の手洗場で、浴室で。それでも気分がよくなる。能楽堂に多年通ってきたから、耳にしっかり残っている。で
たらめでも、真似らしくは声が出る。健康法である。
* 日本ペンクラブの電メ研に、メーリングリスト設置の手続きが出来そうだ、村山精二副座長に骨を折ってもらっ た。会議前の情報交換に、会議後の意 見交換に、有効に使って行きたい。
* 自民党が企業献金を受けないと法律で決めていたのを、やみくもに受けてもいいことにしようとしている。介護保 険にも、無考えな変更を提言してい る。数を頼んでの悪政や人気取りらしきことを強行に強行しようというのだ、総選挙で、今度の機会にこそ、この政権を叩きつぶしたい。
* 十月二十七日 水
* 雑誌「ミマン」連載のために、絶えず歌誌句誌歌集句集を、そばに山積みにしている。月々に送られてくる、また
贈られてくるそれらを積めば、わた
しの背丈が一つで足りない。必要のためもあるが、もともと好きな道ゆえ、まずまず、門外漢としては短歌も俳句もよく読む方で、連載が始まってからは、どれ
もこれも処分せず積んであり、増える一方になっている。
しかし、ゴマンとある歌や句から、これはと思う面白い作品、佳い作品に出逢うことは少ない。無いと断言したくなるくらい、少ない。無いでは済まないし、
無いとは決して言えないのだが、ごく僅かのいいモノに出逢うまでの辛抱がナミではない。
和歌の時代、それも最も和歌の発達していた平安時代の和歌には、「和」する歌というぐらいで、自詠歌は比較的少なく和歌・相聞や贈答の歌が多かった。ま
たそれらに佳いもの面白いものが多かった。物語や日記の魅力の多くはそういう和歌に培われている。温かい人付き合いのぬくみが感じられ、読んでいて楽しく
なった。
* ところで、今日贈られてきた「短歌21世紀」最新刊の編集後記をみてみると、たまたま大河原惇行氏ーー氏は本 誌の選者の一人ーーが、こう書いて いる。
* 「歌などというものは、人に誇れるものでない。自らに問い、自らが歌うものだ。それだけのものだと考えてい る。獨詠歌でよいと思うのである。歌 は結局誰のものでもない、自分一人のために作るのである。そして、己れの生きている影が、一首にあらわれていれば、それだけでよいのではないか。こういう と、何か悟ったようなものいいになるが、決してそうではない。」
* 悟ったどころか、なにかしら「歌」への誤解がある。こういう考えに煮詰まって行く過程が近代短歌史的に分から ないのではないし、とうに、みな励 行していて、実はそのために短歌の体温が冷えに冷えてしまい、魅力の表情を喪ってしまっているだけ。獨詠歌しか、自詠歌しか作れなくなっているに過 ぎず、それを幾らこんな風に確認しても、自己弁護にしかならない。参考に、同誌同号の大河原氏自身の「自らに問い、自らが歌」っている作品を、ぜんぶ挙げ させてもらおう。
* 語気鋭く放ちて深き沈黙の後の言葉を待つといふべし
はがゆしと思ひ給へる心をもわが少し知る三日の会に
この夜の深き眠りもほのぼのとかたへに安き心と言はむ
しらみ来る窓に安らなひとときをかたへに何を願ふともなく
今にして大切にせむ思ひなどわけてこの事われは弱し弱し
会の三日に寄せし心をかへりみて寂しむ君の病みて居らねば
今日ここに君のいまさず幾度かその心語る人らの中に
人の心はそれぞれに善みどり深く杉はかがやきを谷にひきつつ
流れ豊かに千曲の川を見下せり迫る山々日はすでに高し
一年を人ら継承を言ひ来れど継承の意味するものは何
* たまたま大河原氏の後記を読んだだけの引き合いで、氏には甚だご迷惑だが、私的な悪意は何もない。「アララギ」の分裂騒ぎにも何の関係も無い。「アラ
ラギ」の衰弱は斯く極まれりと言おうとしたのでもなく、どの歌誌にも、大なり小なりこういう傾向があると指摘したかった。何なのか、これは。
むろん、むしろ孤独にしみじみと日々に歌って、表現にも心境にも遺憾のない佳い歌人の何人も居られるのを、幸いわたしは知っている。よく知っていると言
あげしてもよい。ほとんど広くは知られまいが、前登志夫氏に師事していたらしい『欝金』という歌集をもつ一主婦信ヶ原綾さんの歌など、手に取った一冊のな
かに、心惹く表現が幾つも幾つもあった。感嘆した。ほんの一例だが。
最近贈られてきた、こっちは著名な石黒清介氏の歌集『立冬』にも、平易だが藝の利いたまさに「己れの生きている影が、一首にあらわれてい」て胸に届く心
にくい歌が、多く含まれていた。今集はむしろ少ない方だ。
だが大河原氏の、少なくも上に挙げた作品は、作者の「影」もさだかに見えない半端なものである。無理もない、後記の述懐そのものが、短歌への勘違いのよ
うなものに発しているからであり、結果的には何かしら本質的な不足や不熟・未熟の自己弁護風に過ぎないからだ。
* 瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
くれなゐの二尺のびたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る
夕顔の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我いのちかも 正岡 子規
おりたちて今朝の寒さを驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く 伊藤 左千夫
垂乳根の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねぬたるみたれども 長塚 節
椿の蔭をんな音なく来りけり白き布団を乾しにけるかも
我が家の犬はいづこにゆきぬらむ今宵も思ひいでて眠れる 島木 赤彦
めん鶏ら砂あび居たれひつそりと剃刀研人は過ぎ行きにけり
草づたふ朝の蛍よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ
朝あけて船より鳴れる太笛のこだまはながし並みよろふ山
壁に来て草かげろふはすがり居り透きとほりたる羽のかなしさ
沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ 斎藤 茂吉
吾がもてる貧しきものの卑しさを是の人に見て堪へがたかりき
小工場に酸素熔接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす 土屋 文明
* 手近な詞華集から「アララギ」の先達の歌を、ただ、ぱらぱら抜いたものである。
「継承」とは何であるか。それ以上に「歌」とは何であるか。現代歌人たちよ、愛読者に風邪をひかせて下さるな。
* 十月二十八日 木
* 打って変わって冴え冴えとした、晴天。刻露清秀。風は鳴っている。
* メーリングリストを設置の手続きが煮詰まってきて、ゆうべはその連絡の作業をこの器械でしつづけた。なにほど
の時間も要さずに各委員へも連絡で
きた(らしい)が、もし器械抜きでならどれほど手間も時間もかかったかと思うと、パソコンは、いやコンピュータは便利だなと、つくづく思う。便利な器械は
たくさん過去にも現れた。そして姿も消していった。わたしの身の傍では、ワープロがもうほとんど使われない。かつてワープロで書いておいたものをパソコン
に移動させる必要上まぢかに置いているが、それがなくなれば、片づけてしまうか誰かに上げて仕舞うかも知れない。
メーリングリストの効用は、ややその煩ささもであるが、文字コード委員会のそれで覚えた。あれだけの議論が可能であったからこそ、あの程度の会合の回数
でもかなり充実した「最終報告書」にまとまり得たのだと思う。
うまくすれば、ペンの電メ研は、わざわざの会議を毎月毎月もたなくても、意見交換や情報交換が利くことになるかもしれない。
ほんとうにこれの必要なのは理事会なのだ、会議時間が足りないぶん、全理事が理事会の前後にメーリングリストを活用すれば、かなりの問題はそれで、それ
だけで、処理できる。現在程度のシャンシャンで安直に済ませている入退会審議など、理事会当日の大事な時間を取るまでもなく、メールで十分処理できるかも
知れない。ま、しかし、器械に敵意すら持っていそうな理事の方が圧倒的に数多い現理事会では、無理な相談である。十年たてば、どうか。まだ無理かも知れな
い。日本ペンクラブの事務局には早くからパソコンは在ったが、Eメールを利用し始めたのも、わたしが理事就任後にヤイヤイとせっついて、やっとこの一二年
前からのことである。海外との連絡でも、そんなことEメールを使えばすぐに済むのにと思ったことが、何度もあった。やっと、それぐらいも出来るようになっ
てきた、らしい。
器械に「使われている」のも滑稽な図だが、新しい日用の器械に「頑なな姿勢」でいると、精神的にも老化し硬化して行くのは確実だ。好奇心の塊であるはず
の創作・文筆の士が、頑なに器械を敵視してむしろ得意げなのは、よほど滑稽に見える。それと創作の質とが帯同すると思っていたりするのは、もっと滑稽な図
である。どっちでもいいことなのである、所詮。固まってしまうのが可笑しいのである。
* 十月二十八日 つづき
* 松園展のレセプションに、松篁さんの姿がなく寂しかった。少し遅れて、ちょうど京都近代美術館の内山氏が乾杯
の挨拶をするところへ行った。レセ
プション自体には興味が無く、十分間もメトロポリタンホテルでの会場にいないで、上村淳之氏にお祝いを言うただけで、すぐ目の前の東武美術館に戻った。五
時頃までゆっくり展示を見た。「娘深雪」が来ていないのに落胆したが、「天保歌妓」は展示されていて満たされた。「母子」「青眉」などが欲しかったが、
ま、よしとする。「人生の花」「はなざかり」など初期作品が比較的集められていた。
ま、松園の昭和十年までの繪にはことにパタンができていて、停滞期は永かったが、そんななかにも、ぽつんぽつんとめざましい仕事がある。全期をつうじて
「草紙洗小町」「砧」のような能に取材の佳い繪も出ていた。売り繪かなという、ちんまり固まった仕事もあるけれど、とにかく品位が高いので観ていて気持ち
が佳い。
* 展示室で西山松之助さんに逢った。来年は八十八のお祝いに三越で八十八本の茶杓展をなさるという。佳い茶杓を 自削なさる。一本頂戴している。西 山さんと鼎談したもうお一人の下村寅太郎先生はとうに亡くなられた。なつかしい。元の山種美術館の草薙奈津子さんや日中文化交流協会の木村美智子さんとも 顔があった。「秦恒平・(うみ)湖の本」をひところ十二冊ずつ毎度買って下さっていた読者の梅田万沙子さんとも、ぱったり出会った。
* 引き続きの会合は、水天宮のパークロイヤルホテルであった。地下鉄を大手町で半藏線に乗り換えれば、すぐに着
いた。一時間のあきを利用し、水天
宮の真下の掛け小屋のような「寿司芳」で、鯛、いくら、うに、鳥貝、こもち昆布、中とろと玉とを、清酒大関の燗と冷酒とで、ゆっくりした。この辺で育った
谷崎潤一郎の少年時代など想像していた。
おかげで次の宴会ではなにも食べなかった。
京都造形短大が四年制に移行し、京都造形芸術大学になるというわけだ、学長は、湖の本の多年購読者でもある芳賀徹さん。これは分かる。副学長の一人が歌
舞伎役者の市川猿之助だというから、わたしの東工大教授がきわものの人事だったのと同じで、まずは、きわものである。わるいとはいわないが、澤潟屋挨拶の
熱弁は、終始歌舞伎のことであった。「造形歌舞伎大学」みたいだと、おかしかった。
大学院の責任者に山折哲雄氏が就任するらしい。山折氏には会わなかったが、これは良い。芳賀さんも山折さんもいい人事だと思うが、絵画工藝などの芯にな
るところの押さえは、やや弱そうに感じた。「京都の文藝復興」をやるそうだが、パフォーマンスが過ぎて、中身の伴わない商売大学にならないで、藝術大学ら
しく美しく発展して貰いたい。
芳賀さんとシャンペンのグラスをちんと合わせてきた。
観世榮夫氏にも久しぶりで逢った。暮れに今度は「経正」を、と聞いた。招いて下さると言う、例年のことだが楽しみだ。一昨年の「檜垣」が良かった。「経
正」はちょっと変わった、幕切れのひときわ哀れな修羅能。
昔、サントリー美術館にいて、わたしの娘もお世話になった、現在文化庁の金子賢治氏とも、久しぶりですこしゆっくり話せた。娘のことを聞かれて返事に
困った。
* 電車の往き帰りには『愛の終わり』を読み続けていた。すうっと世界に入れる。田中西二郎の訳がわたしの語感に
合っているのだろう。なんともなま
暖かい秋の夜だった。雨が綺麗に上がっていて、たすかった。王監督の福岡ダイエーが、中日ドラゴンズを相手方本拠地で四対一で破り日本シリーズを制したと
いう。王監督に一度花をもたせたかったわたしは、中日の星野監督も好きだけれど、ま、王のためによかったと思っている。そうなるといいなと、思っていたよ
うになった。
王が早稲田実業から甲子園に出て勝ち進んだとき、叔母の稽古場に、王の大フアンだった少女が稽古に来ていた。龍ちゃんはいまでも王さんが贔屓かなと、と
ても懐かしい。
* 十月二十九日 金
* 言論表現委員会は、松本侑子会員の著作権が、他社の出版物と著者とにより侵害されたのではないかという問題に
関連して、松本本の版元である角川
書店の営業部長、文庫編集長、松本担当編集者に、ペンクラブ会長および言論表現委員会の名で、ペンの会議室まで出て来てもらい、事情を聴いた。いつもの会
議より大幅に時間も延長し、かなりの話し合いが出来たと思う。
角川書店としては、当初、相手方著者の著作に、「限りなく黒に近い」という判断と憤慨の念はもっていたものの、その相手方著者とも出版社として濃い縁が
従来から在り、そのためでとは言わないものの、「盗作」があったと確証しにくいという姿勢に転じ、さらには松本との共同歩調はとらないというところへ節を
曲げて行ったらしい。
盗作の「確証」とは何か。微妙な問題なので、この先の展開も見越して、此処では深くは立ち入らないが、イヤな話であることに間違いはない。
* 十月三十日 土
* 三百人劇場で劇団昴の「ワーニャ伯父さん」を観てきた。チェーホフの四大戯曲のなかで、一番好きというか印象
の濃かった作品で、期待して行っ
た。期待に十二分に応えたみごとな舞台になった。
なによりもこの劇は分かりやすい。「かもめ」「三人姉妹」「桜の園」とくらべれば筋の上では地味な方だが、身につまされて、舞台の上の人物たちに思いを
寄せうる点では「ワーニャ伯父さん」は一番だろう。底知れない怠惰と退屈との中で深い絶望と怒りと哀しみとが渦巻き、激発し、静まり、ワーニャ伯父の呻き
と、姪のソーニャとの希望のない生の不条理に堪えようとする表情と声音との中で、そっと幕が下りる。北村総一朗のワーニャが、柔軟に演じられて感動を盛り
上げた。エレーナ役も教授役もよくはまっていた。
なによりも原作者チェーホフの智慧と洞察のちからに打たれる芝居だった。以前の「三人姉妹」に優るとも劣らぬ舞台だった。俳優座の「かもめ」もよかった
が、原作に感情移入しやすい分「ワーニャ伯父さん」がより優れていた。
いいものは、いい。演劇とはこういう舞台として稔るものであって欲しい。福田逸の訳もよかったのだと思う。じーんと感動が今ものこっている、身内深く
に。
* 劇中のワーニャ伯父や教授やソーニャたちに、もし、インターネットの世界を機械的に投じ得たなら、彼や彼女ら の、あの死にそうな退屈は、どう変 わるだろうと想った。
* 千石から日比谷に出て、散歩がてら松屋の屋上まで行き、黒猫マーゴのために寝場所その他を買って、「宮川」で 鰻を食べてから、有楽町線で一気に 帰った。佳い芝居に、妻も快く興奮していた。
* 妻が生協を通じて、新刊の翻訳サスペンスを三冊も買っておいたので、内の一冊を読み始め、数百頁の大冊だった
がどんどん読み進んだ。むろん面白
いから読み進んだのであり、スピードではグレアム・グリーンの『愛の終わり』を追い越していった。だが、その面白さは筋書き、ストーリィの面白さだけであ
り、『愛の終わり』に転じると、直ちに文学の腕に深く抱き取られる。共感や、表現への嘆賞が湧き起こってくる。サスペンスの方は著名な賞をもらっている作
品らしいが、感銘などは何ものこらない。事件や犯罪や事柄への興味と惑乱とがあるだけで、そこを離れれば忽ち、読み終わって頁を伏せてしまえば忽ち、に、
薄れ去る夢ほどに影薄れて、なにもかも消えて行く。文学の感動や感銘は、筋書きだけで保証されるのでなく、遙かに大きく、多く、文章表現と文体の迫力とで
訴える。
サスペンスは娯楽と時間つぶしにはもってこいで、わたしも、ずいぶん読んできた。だが、無数と言っていいそれらの中で、文藝的に印象の濃い作品は、百に
一つあればいい程度である。ペリーメースンもポアロも、読み終わればうたかた、もっともっと迫力の筋書きものがいっぱいあるものの、それらは、チェーホフ
やグリーンや志賀直哉や泉鏡花のかわりには、全くならないのである。
* 偏見だと言う人も在ろう。断じて偏見だと思わないのである。偏見だと言い立てる人は、それならこれを読んで見
よと、サスペンスの文藝文学として
の秀作を教えて欲しい。よろこんで読みたい。
* 十一月一日 月
* 昨日、富士通勤務のイチロー君が、家まで、ホームページ表紙の新たな改造プラン持参で来てくれ、長い時間かけ
て器械に入れていってくれた。濃い
髪を短かめにし、さっぱりとした顔つきで、とても落ち着いていた。
改造案は、すっきりと、親切に出来ていた。我が「文業庫=文庫」ふうに発展させ、また我が「仕事場の一部」ともしたい。ホームページに盛られただけがわ
たしの仕事の全部というわけではない、が、活気ある「文庫=ふみくら」に仕立てて行きたい。
* 十月末の二週間は、かつてなく忙しく出歩いていた。今度の楽しみは歌舞伎。「本朝廿四孝」のいいとこどりの舞
台で、国立劇場。いい席を用意した
と我當付の大久保さんから昨日連絡があった。
* 十一月二日 火
* 十数年、湖の本を創刊以来の読者から、朝早に電話があった。昨日、ご主人が亡くなった。東芝の管理職でわずか
五十一歳。電話口で泣かれた。無理
もない。しばらく、言葉足らずに思いを尽くして慰めた。いま慰めても励ましてもなにの役にも立つまいが。初めて俳優座で加藤剛が漱石原作の『心ーわが愛』
をわたしの脚色で演じてくれたとき、わたしに、お祝いの花を贈って下さった。妻も一緒にならんで舞台をみて、近くの喫茶店でしばらく話したことがある。
会ったのはその時切りであった。口語体の歌を作る人で、歌誌での経歴はながい。ときどき妻と文通があり電話でも話しているらしい。
死なれた人をどう励ますかなど、きまった手順は無い。ただただ真情で応ずるしかない。つらい訃報であった。ご主人が病気療養中とは、知っていた。ご冥福
を祈る。
* バグワンの『ボーディーダルマ』も三分の二以上読み進んで、音読しない日は、旅中を除いて、無い。この巻を読 み終えたらもういちど『十牛図』な どへ戻って、今度もまた音読して感じ取りたい。日一日と人生をおえる日が近づいている。死にむかって、何の安心も得ていない。深い怖れを感じている。特定 宗派・宗団の教えには希望がもてない。また経典や聖書を信仰することも出来なくなっている。『親指のマリア』で新井白石に言わせていた、せめてああいう 「安心」を、いや「無心」を得たいが、妻に言わせれば「マインドのかたまり」のようなわたしであるのも間違いなく、これを「落とす」ことは、残り少ない生 涯で可能とはなかなか思われない。バグワンに聴きつづけるしかない、そうしようと思っている。大分前から妻もほぼ欠かさず耳を傾けている。そして信服して いるようだ。
* グレアム・グリーンの『愛の終わり』を、読み終えた。この作品はカソリックの護教小説とも背信小説とも言われ
ているらしい。さもあろうと思う。
愛ゆえに神にゆだねたサラア、愛ゆえに神に毒づく作家ベンドリックス。終わりが始まりであり、初めに終わりが予感されていた、愛憎劇。文庫本の表紙が手ず
れで切れてきた。三度び断つかどうか、繰り返してまた読むに違いない作である。これまでよりも、今度がいちばん重い読みごたえになった。信仰の小説は何作
か書いてきた。しかし仏教徒にもクリスチャンにもならないで人生を終えるだろう。しかも信仰心は捨てえない。偉大な人の教えを疑おうとは思わない。
* 十一月三日 水 文化の日
* むかしは明治節といった。晴れ上がる秋空の日という印象があった。今朝もよく晴れていた。生涯を四月一日に始 まる一学齢年とみて、東工大を定年 退官した翌日(平成八年四月一日)を、即ちわたしの「文化の日」に当たると自認した。三年半が過ぎたから、わたしの今日は、学年度中の十一月の二十日頃に 当たっているだろうか。
* 昨日は終日、イチロー君の好意に尻押しされて、ホームページ改造にあけくれた。そして今朝一番にさらに詳細な 指示が来て、その通りにINDEX を転送し、とても、すっきりした。充実した。ますます、いろんなことが出来る。親愛なる院生田中君にホームページの基盤をがっちり創り固めてもらった、そ の上にいわば索引欄まで付け加わった。ホームページが私自身の意図と用途に沿って充実するのもとても嬉しいが、学生君たちの寄り寄りの援助を得ながら、目 的の満たされて行くのが、ひとしお嬉しい。感謝に堪えない。
* 横浜のセザンヌ展を観て、名古屋の印象派の風景展も観て、こういう画家たちの業績を熱心に日本に紹介してくれ
た白樺の作家たちに、なにがなし感
謝の思いをもっていた。なかでも、まださほど人気もなかったゴッホに目をそそいで熱心に受け容れた、武者小路実篤が、とみに忘れられがちなことに思い至り
気の毒に感じていた。
わたしなどは、どっちかというと戦後の作品『真理先生』などから武者小路文学に親しんだので、白樺期の武者小路作品にはもっと後れて触れた。そうこうし
ているうちに作家は晩年に入られ、書かれるものが独特のくどさを帯び始めた。それで、ついつい離れていった。久しぶりに筑摩現代文学大系の一巻を書架から
抜き出してきて枕元に置いた。
* 十一月三日 文化の日 つづき
* こんなメールをもらった。東工大のずっとずっと以前の卒業生と聞いている。ご縁あって、湖の本など読んでいた だいている。
* 今晩は。文化の日の今日、ホームページを拝見しました。
ずいぶんと整理が行き届き、読み(見)やすくなりました。まさに秦恒平文庫という名に相応しい仕上がりです。
富士通のイチロウさんのアイデアとの事、若い人の柔軟な発想はすばらしいものです。私も今日、自分のページに少し手を入れました。
いいページを見せていただきました。ありがとうございます。
日中は暖かいようでも、夜は冷えて来ますが、家族一同元気にしております。
先生、奥様もお風邪を引きませぬよう。
* 十一月四日 木
* 国立劇場「本朝廿四孝」を観てきた。鴈治郎が八重垣姫と慈悲蔵実は直江山城介を、団十郎が武田勝頼と横藏即ち
山本勘助を、我當は長尾謙信を演じ
た。宗十郎の女房お種、他に秀太郎、翫雀、扇雀、右之助、家橘、吉弥、新之助らがそつなく固めて堅実な舞台に。桔梗ヶ原から勘助住居を経
て、十種香から奥庭狐火まで、鴈治郎はお疲れさま。
座頭格の役とはいえ、我當にももう少し仕どころの多い役が欲しい。息子の進之介演ずる槍弾正は素人芝居のようで観ても聴いてもいられなかった。御曹司、
本気で稽古に励まないと、もういい年齢、ここで放って行かれたらついて行けなくなってしまう。声、形、格。サマに成ってない。心配でならない。
翫雀はいい役者になると思う。市川新之助の颯爽とした荒事、負けじと上村吉弥の頑張り、それに嵐徳三郎の勘助老母役が品格みごと。
前から七列目、花道にもちかいとても佳い席がとれていた。横藏と慈悲藏とのからみ、そして姫御前のあられもない十種香、八重垣姫の人形ぶりなど、見所多
くて、のんびりと、実に楽しめた。いやぁ、歌舞伎だわいと、理屈抜きに堪能。たっぷりとあった。
劇場で竹西寛子さんに会った。もう大昔、マリオンでの源氏物語公開対談して以来であろうか。
* 池袋に帰り松園展に寄ったが、今日に限って臨時の休みだった。メトロポリタンホテルの地下「ほり川」で旨い寿司を食い、一階で妻に佳いニツトの上下を
みつけて買った。気に入った服を着て、すこしでも元気に日々を楽しんで欲しい。
* 帰ったら九大の今西祐一郎さんから、伊勢物語の研究書を戴いていた。うれしい。著書『能の平家物語』が一部、
見本として届いていた。
* 十一月五日 金
* 今西祐一郎さんの伊勢物語第二段の歌一首「おきもせずねもせで夜をあかしては春のものとてながめくらしつ」に
ついての、論文「用心の歌」を読ん
だ。
むかし、男ありけり。奈良の京ははなれ、この京は人のまださだまらざりける時に、
西の京に女ありけり。その女、世人にはまされりけり。その人、かた
ちよりは心なむま
さりたりける。ひとりのみもあらざりけらし。それを、かのまめ男、うちものがたらひ
て、帰り来て、いかが思ひけむ、時はやよひのつひたち、雨そほふるにやりける、
おきもせずねもせで夜をあかしては春のものとてながめくらしつ
「ながめくらす」とは、今西さんの解説の如く「昼間をむなしく物思いに費し暮れに至ること」である。この歌一首
だけを地の文から離して読めば、難
解
な歌では、たしかに、ない。本文とひとくるみに読むと、きぬぎぬ(後朝)の歌の如く、それにしては翌日の夕刻以降もしくは二日三日も後の歌とも取れて、古
来現代まで解釈の混乱してきた実状を、今西さんは実例をあげて、いつもの例で、実に親切に克明である。
相手の女は、ひとかどの人で敬意が払われている。それほ
どの相手に、もし歌が他人の目にふれても迷惑のかからないよう、用心して贈っていると今西さんは言われる。実事はなかったという「逢はぬ恋」説も、古今集
に載った前後配列の歌柄から行われてきているが、『伊勢物語』を読むかぎり古来九分九厘実事はあった、そしてこの歌は後朝の歌だ、いや翌日の夕過ぎての歌
だ、後日の歌だと、説が分かれていた。
今西さんはこれらに加えて、光源氏が、柏木と女三宮の不倫を知った柏木の恋文の、あらわに用意用心の無いことを強く
咎めている態度を踏まえて、伊勢のこの場合も実事はあった、但し、何かの折りに「逢はぬ恋」とも言い逃れうる「用心」の仕組んである歌であろう、とされて
いるのである。
* 今朝、わたしは今西さんに礼状を書いて、今西説に説得されたこと、妥当と思うことを伝えるついでに、私自身の
ほぼ初読以来の「読み」をも書き添
えた。
わたしは、これは「ふられ歌」だと読んでいた。逢いたかったが逢えなかった、つまり夜通しごちゃごちゃと有ったけれども実事にはついに至ら
ずして「まめ男」は帰されてしまっていると。
それは、「うち物語らひて」というあまり例のない表記の、その「うち」というところに男女の心理的な体力的な
STRUGGLE または COMBAT
の気味が出ているというわたしの語感に出た解釈で。男は、いいところまで善戦したかも知れないが「逢ふ恋」の成就には至らず、翌日は悶々として、「い
かが思ひけむ」この歌を贈ったが、その「思ひ」は、むしろ今西説の「用心」とは逆で、「ほんとうは無かったコトを、人は有ったコトと想像もできるように」
一首の歌を詠み起こして、いわば向こうの女への「揺さぶり」をかけ、恋の第二、第三ラウンドへのまめな「手」を打ったものだと読んだ。それで、意義は通る
と考えも
感じもしてきたというわけである。
これが、わたしの第一感で、今も捨て去れないでいる。
光源氏は、確かに恋の消息をあらわに書き散らさないことを、よく努めている。しかしまた、きわどく露骨にちらつかせ、無かったことを有ったかのように女
にプレッシャーをかけて口説の妙を歌に託している例が、無かっただろうか。実は無かったことだとしても、この歌をもしよその人が知れば、有ったと思うかも
知れないし思われてもわたしはいいのですよ、それが嬉しいのですよ、というぐあいに「揺さぶる」のである。「いかが思ひけむ」の一句にそういう男の厚かま
しさも恋の手管もみごと書き表されているとわたしは観ている。
* 学齢で言えば一学年上の、ある親しい男性歌人が、「昭和十六年の国民学校一年生の二学期」に国語の教科書で 習った「山ノ上」という詩を、懐かし そうに引いているのを歌誌のなかで見た。パールハーバーの直前のことで、わたしは幼稚園に通っていた。だがその詩は翌春に進学した国民学校の教室でわたし も習った。
ムカフ ノ 山 ニ
ノボッタラ
山 ノ ムカフ ハ、
村 ダッタ。
タンボ ノ ツヅク
村 ダッタ。
ツヅク タンボ ノ
ソノ サキハ、
ヒロイ、 ヒロイ
ウミ ダッタ。
青イ、青イ
ウミ ダッタ。
小サイ シラホ ガ
二ツ 三ツ、
青イ ウミ ニ
ウイテ ヰタ、
トホク ノ ハウ ニ
ウイテ ヰタ。
一年生で習う漢字の例が読みとれる。いろんなことが、他にも読みとれるだろう。その歌人は北信濃の人で、この詩
が「出郷の動機」として根付いてい
たことを言われる。京都の町中で生まれ育っていて、現実には「出郷」して東京にいるのだけれど、その人のような感慨はこの詩に対してもつことは無かった。
むしろ「批評の対象」としてこの詩はわたしの視線に曝され、批判され、高い評価を得なかった、それを何よりも思い出す。そんな言葉こそ知らなかったが、陳
腐な「絵解き歌」としか思われなかった。実感がなかった。
小学校の五年か六年で、町内の地蔵盆の舞台で「山すそ」という児童劇をみんなと演じたが、その劇中にだれかの読む名高い詩にすら、承伏しきれなかった。
それでいて、「帰り来ぬ」というところに共感し、すこしだけ憧れた。小説『廬山』に書き入れた掌説「繪」などに遠く反映しているのだろう。
山のあなたの空遠く
幸ひすむと人のいふ
ああ われひとと とめ行きて
涙さしぐみ帰り来ぬ
山のあなたの空遠く
幸ひすむと人のいふ
だが先の詩の「山ノ上」には、なにかしら漫画の「冒険ダン吉」式の海外進出に繋げて行きたげな感触があり、そう
いう匂いには魅されなかった。その
歌人が、そういう風に魅されたのだろうとも思わない。詩句の幼稚さに妙に上から鼻面を撫でられる不快感が、わたしには、あったのである。「海ハ ヒロイナ
大キイナ 月ガ ノボルシ 日ガ シヅム」なら、その単純さが許容できても、「ウミニ オフネヲ ウカバシテ イッテミタイナ ヨソノクニ」とは、あま
り思わなかった。大本営発表が大戦果を言い続けていた頃のことだ、「ほんまやろか、ちがうのとちがうやろか」と思い、学校の廊下で、世界地図を友達と見な
がら、「こんな大きい国に、こんな小さい国で、勝てるんやろか、ほんまに」と口にした途端、男先生に廊下の壁へ張り飛ばされていたのが、あの頃だ。カワイ
クナイ子であった。
* 十一月五日 つづき
* 妹尾河童原作のテレビ映画「H少年」を見た。原作は読まないが、噂に聞いたときから佳い題だなと、ちょっと先
を越された羨ましさを感じていた。
わたしもまた少年時代を、小説というよりも記録として書き続けていたからだが、また、妹尾氏の作品がおそらく「あの時代」を書いているのだろうから、もし
氏がわたしと同世代ならば、どういうふうに書いているだろうと関心も寄せていたのである。妹尾氏の年齢は知らなかった。
今夜の映画で、氏は昭和五年生まれと知った。わたしは十年末の生まれ、結論的に感想を言えば、この五、六年の差はじつに大きい。真珠湾奇襲の為された
日、わたしは幼稚園にいた。妹尾氏はもう五年生だった。「時代」や「戦争」への姿勢や視線の向け方にとって、満で六歳の子と十一歳とでは、ぜんぜん違う。
敗戦の夏にわたしはやっと四年生の満九歳半だった、まして戦災を知らない京育ち、わたしには「戦争」や「時代」への視野も関心もあまり無かった。体験が無
かった。育ち行く心理や体力に応じてあまりにも自分自身としか向き合っていなかった。
妹尾氏の家庭にはインテリジェンスと時代への切迫した姿勢が見える。優れた良識と信仰の空気がある。幸せな、良い意味で、あの不幸な時代では最も価値あ
る幸せな発想と生き方との可能な家庭だった。我が家に、そういうものはなかった。親子で時局や信条や未来を語らいうる何もなかった。もっと乾いたリアル
な、或る意味で安全で貧しい生活をしていた。お国からの圧迫も受けていなかったし、お国に殉じようなどという気持ちも、父も母も祖父も叔母も持ち合わせて
いなかった。わたしは読書にのみ熱心であったが、仲良しのグループももたなかった。
ああ違うなあと感じた。わたしの周囲にはアカだの兵役忌避だの切った張っただのは何も無かった。有っても私の目にも心にも全く届いていなかった。その上
に京都は空襲を九分九厘免れて焼けなかった。妹尾氏の兵庫県は無差別に爆撃された県の一つである。わたしは丹波の山ふかくに疎開生活が長かった。都会者と
して誰も見知らぬ山村に暮らす不自由と不如意こそあれ、戦争の影は少年のわたしに色濃くは落ちかかって来なかった。京都に住めないでいることだけが「戦
争」のせいであったが、それも実質は半年間のことで、わたしと母とは敗戦後もなお十四ヶ月ほど京都へ帰らなかったのである。その意味で都会の敗戦後をも、
きわどく知らずに過ごしていたわたしなのである。
映画は佳い出来だった。涙をこぼし続けた。少年たちがみなよくやった。両親役もよかった、兵役を忌避して死んだ青年が、好演だった。こういう作品がもっ
と常日頃に出来ないのかと歯がゆい。
* 秦先生 こんばんは。最近は気持ちの良い秋晴れが続きますね。「秋がない」と言われる名古屋も、ここ一週間
は気持ちの良い日が続いています。
11/3には紅葉の鈴鹿に行って来ました。今年は気候がいまいちだったせいか、あまりきれいではありませんでしたが、休日をゆっくり過ごすことができて良
かったです。
先日は先生にごちそうして頂いてすみませんでした。是非今度は私にごちそうさせてください。
さて,先週末に東京へ帰り、大学時代の友人の結婚式にでてきました。
新郎,新婦共に山のサークルで一緒だったので、僕も一肌脱いで、入場行進,キャンドルサービスと、ピアノを何曲か弾きました。来賓挨拶の最後に,新婦の
妹をボーカルに迎えて,一緒にドリームズ カムズ トゥルーの「未来予想図??」という、結婚式に定番の曲を演奏してきました。新郎、新婦,両家のご両
親、皆、涙という感動的な演奏になりました。途中でボーカルがむせびながら歌うので、ピアノを弾きながら一緒に歌うというハプニングもありましたが、苦労
して練習した甲斐があったと思いました。やはり演奏家である限り、人に聞いてもらえるのはうれしいことですし、褒めてもらえれば本当に幸福です。
意外に社会人になっても下手になっていません。いつまで今のように好調を維持できるのか分かりませんが、ピアノの演奏は大事にしていきたいと思います。
先生も、もう一度、是非演奏を聴いてください。ヴァイオリインの友人が今ドクターの卒論で忙しいので、それがすぎたら一緒にお聴かせできると思います。
ショパンの舟歌という名曲がありまして、私はその曲を演奏したいと思っています。
東京へはたびたび帰っていますので、また、お会いしたいと思います。
* 気持ちの佳いメールではないか、大学院を出て社会人二年生であるが、無垢の性質が清々しく率直にあらわれてい
て、微笑ましくあり、気持ちがきれ
いに洗われもする。大学の頃、そうそう、こういう晩秋の夕暮れどきにも何度か、この青年の弾いてくれるピアノ曲を、聴衆はわたし一人の階段教室で聴いたも
のだ。うまいのかどうかは問題ではない、弾いてくれるのを静かに聴いていた。それから、とっぷり暮れた並木の道を歩いて家路についた。一緒に帰ることもあ
れば、彼はまた研究室に戻ってゆくこともあった。こういう純真な便りに触れると、心和む。
* 十一月六日 土
* 朝早にこんなメールを開いた。素直に嬉しいと感じている。わたしより一世代ちかく若い、東京大学出の人であ る。
* 東工大の学生・卒業生がホームページを作ってくれているとのこと、なにより、これが素晴らしいことだと思いま
す。
学生時代、大学教授との心の交流はあまりありませんでした。特に専門科目以外の先生とは。卒業してからも話しかけたいほどの魅力のある先生とは出会いま
せんでした。
むしろ小学校の、詩や文学の好きだった先生は、今も、時おりですが交流があります。
給食の時間、「僕恥ずかしいから後ろで読むね」といい、泣きながら、教室の後ろで『ビルマの竪琴』を読んでくださったことや、自作の詩をきれいな字で書
いてくださったこと、柿の木のある農家の自宅に生徒をよんで、好きなだけ柿をつませてくださったことなど思い出します。
退官後も交流を続けている元教授と東工大の学生さんたち、心和む思いです。
* 約めていえば、わたしが慾ふかいのであろう。某々カルチュアーセンターなどから、かつてはよく講師にと話が来
たが、ほとんど受けなかった。いい
年の男女に話す方が若い人たちに話すより静かで話しいい。しかし、話を聴きに来ている動機やその持続性となると心もとない。「知識」が好きで、しかし受け
る一方の「知識」など何だというのだろう。わたしは「知識」をさほどのものとは考えない。へたをすれば海綿にたっぷり知識という水を含ませても、きゅっと
掴めば、掴まれれば、じゃっとこぼれ去ってしまうだけのような、そういう相手に話しているのがイヤになるのである。
若い人は聴いていないようで、とりとめない話の中からも、聴くべきは聴いている、ことが、まま見受けられる。彼らには「これから」がある。同じなら彼ら
の「これから」に声援したいし、関心も持ちたい。そんな風に慾が深いから、わたしは若い友人たちを家族のように大事にしてしまうのだ。仲人はしないよ、貸
す金は残念だが無いよ、それ以外はと教室でも言っていた。退職前にも告げて置いた。
* 十一月七日 日
* 元禄繚乱、討ち入りが近づいてきた。勘九郎の内藏之助に気合いが入ってきた。宮沢りえの瑶泉院との、南部坂雪
の別れをあっさりとやってくれて感
動が深まった、どだばたやると講談になってしまう。講談にある場面もなつかしくて少しは観たいが、さらっと願いたい、するとリアルになる。
自分でも分かっているが、わたしは子どもの頃から忠臣蔵が好きで、通俗な映画の類も、映画館までは行かなかったけれど、テレビだと大方古くから新しいの
まで見逃していない。江戸時代の武家社会に起きた事件では、赤穂浪士の吉良邸討ち入りほど含蓄の深い面白い史実はない。人気の寄る理由は色々あろうが、
寄ってあたりまえだ、関西の関東への討ち入りであるというほどの身びいきさえ、子どもの頃からしていた。勘九郎の内藏之助の関西弁が、関東の人には無縁で
あろう或る親しみ深さをわたしたち関西人に与えている。いろんな理屈をつけて四十七士を贔屓にしてきたのだが、「公」に対する「私」のリベンジという立場
を、ことに大事に観てきた。判官贔屓とはすこしちがう。敵討ちだけではないのだ。ろくでもない「お上」に対して「私」の弓弾く気概だ、その意味だ。
* あすの大島渚監督の映画「御法度」は、新撰組らしい。新撰組は好きでない。それをどう面白く魅せてくれるか、
楽しみにしている。侍ものでは「七
人の侍」はじめ「切腹」「上意討ち」などみごとなものだった。ああいう切れ味だと佳いが。予備知識は何も持たない。配役も知らない。大島監督の映画では
ビート・タケシの出た「戦場のメリー・クリスマス」をテレビで観ただけだ。
大島さんとは面識はないが、テレビ発言の大半には賛成できるので親しみを感じてきた。時に怒る人だ。希少価値である。むかしはよかった、今はよくない
と、したり顔の論者に、いったい過去のどの時代に戻ればいいと言うんだ、今よりも良かったどんな時代が有ったと言うんだ、言ってみろと、かつてバカを怒鳴
りつけた大島渚に、わたしはいたく共感した。懐かしい昔は有る。だが、政治・社会・経済・技術・自由等のインフラ部分では、二度と戻ってはならないほど、
昔はひどすぎた。今より良かった時代など絶対に無い。そのひどい昔へ昔へ戻りたがろうとしている今日の政治的「公」の策謀に、わたしたち「私」は最も心し
て抵抗しなければならない。
忠臣蔵も新撰組も、無くて済む方が佳いのである。
* 今日も「東工大余話1」を書き込んだ。「今、真実、何を愛しているか」と突然授業の始めに聞いて、授業の終わ
りに提出して行かせた、その分を纏
めてみた。あの日頃のことが、昨日のようにありあり思い出せる。若い人は若い人なりによく考えていた。学生たちの「挨拶」という名のメッセージを、あの
頃、一週間のうちに単行本の二三冊分も、毎週読んで、評価して、教室へ戻していた。興味深いものを選んでは読んで聴かせていたのだ。それが好まれた。もう
すでに、「恋」「結婚」「さびしいか」「愛」と連載してある、あの頃の学生諸君が、もう一度同じわたしの問いを、自らに問い直してくれているかも知れな
い。或いは読んで懐かしく想ってくれているかも知れない。
だが、そういう回顧懐旧の目的で再録しているのではないつもりだ。今現在の学生たちも学生の親たち教師たちにも読んでもらえれば、かなり役に立つかも知
れない、立つであろうと思っている。
* 十一月八日 月
* 有楽町の新マリオン五階で、大島渚監督「御法度」試写を観てきた。満足と不満とが半々というのではなく、截然
と分かれた。映像としてはみごとな
美しさで、最良の黒白映画と感じたほどの追究で、これには大いに感服した。場面の設定も写真もすばらしかった。演技陣の芝居にも満足できた。殺陣の凄まじ
い迫力など驚くべきもので、すかっとした。ビートタケシをはじめ、一人一人遺憾なく演じていた。映画は映像であり写真であるからは、それが魅力的なら半ば
は目的を達している。
しかしまた黒沢明の晩年の映画が、映像的には様式美に溢れ整然として大きく豊かであった、目を瞠るものであったけれど、初期の「生きる」中期の「七人の
侍」の人間味あふれる感動はついに得られなかったのに観る如く、映像美だけで映画が完結するものでないことは明かである。推敲の完璧な文章がそのまま感動
の小説にならないことは、例えば尾崎紅葉の小説が示していた。大島渚の新作は禁欲的なまでに映像世界の推敲の利いた、彫琢の利いたものであったが、映画の
もう一つの大きな要素である物語ないしドラマの魅力という点からすると、小味なねらいではあっても大藝術の豊かさは備えていたとは言いにくい。
男色・衆道ものだからどうこう言うのではない。それにはそれなりの魅力はあったし美しく演出されていたけれど、胸の奥には空洞が空洞のまま残って、美学
的な感銘はあったが人間的な感動は甚だ希薄で、初手からそういうことは監督によって意図されてもいないらしかった。よく出来た美学的な娯楽映画であり、そ
れ以上のものではないから、テレビで放映されたら喜んでまた観るだろうが、映画館まで行ってもう一度観たいとは思わないで帰ってきた。
大島氏らがステージで挨拶した。帰りには映画の完成を祝して握手してきたが、大病のあとにこれだけ緊密な映像を構築されたことには敬服もし喜びも深かっ
た。その上で、感想は、といえばそんなところに落ち着く。今ひとつ気になったのは、一時間四十分がなめらかには流れていなくて、ぶつぶつと場面が切れて繋
がって、存外に武骨な時間経過であった。いかにも試写の試作品の感じだった。もっともっと手を掛ける余地が有ろう、そんなことは百も承知の第一回試写なの
だろうと思いたい。
* 映画の始まる前には「レバンテ」で、妻と牡蠣などを食べ、ビールを飲んだ。映画は五列目の中央という佳い席 で、いい感じの椅子に深く腰かけ、迫 力の画面に圧倒されながら観た。妻もとても楽しんでいた。有楽町線でさっと帰宅した。雨は上がっていた。帰ると留守番の黒い猫君が大喜びしてくれる。
* 神戸の竹中工務店に就職した以前の学生君が、日々の勤務と研修が楽しい楽しいと久しぶりのメールをくれてい
た。
* 十一月九日 火
* ゆうべの「御法度」をゆっくり反芻している。基本の感想は変わらない、素材の「新撰組」は、男だけの封鎖され た集団・社会として映画の「場」に 利用されているので、幕末の政治的歴史的な内実とは殆ど関わっていない。野間宏の『真空地帯』は優れて劇的な小説だったが、あの閉ざされた兵営を新撰組に 置き換えながら、衆道にことよせた一種人間の化け物を美学的に躍らせて見せた。無気味におそろしい人性の歪みを禁欲的に美しく清潔に写真に撮って見せた。 黒沢明のようには映画を創らなかったもう一人の巨匠、木下恵介的な普通に「生きる」感動とは、今度の大島の映画は触れ合おうとしない。そこに特色があり限 界もあった。佳い写真だっだが、写真のことなど忘れさせてしまう感動とは無縁の秀作だったと言っておく。
* 春名好重氏の『平安時代の書の研究』を頂戴した。研究のエッセンスとしての、まさに煮つめた「事典」になって
いる。計り知れず便利に参照でき
る。ありがたい。碩学の研究とは斯くの如き簡素な叙述へ煮つまることで完成して行くのだなと感動する。座右に置いて手放せない。
小学館から待ちわびた『狭衣物語1』が贈られてきた。最も楽しみにしていた一冊である。源氏物語と一対に古来高く評価されてきた。『夜の寝覚』とどう
か、今度のは未読の古典なので、震えそうに楽しみだ。書き出しの一行の新鮮さ!!
この一冊が届いただけで身の回りの空気の色まで澄んできた気がしてしまう。
岩波書店からは志賀直哉全集第十一巻『日記1』が配本になった。創作の全部を読んだらぜひとも日記もと思っていた。日記と書簡の、続く十二巻がこんなに
楽しみになるなんて、実は初体験である。
* インターネットが縦読み出来るというソフトを「ボイジャー」という会社から贈ってくれた。どんなものだろう、 試してみるのが楽しみだ。パーソナ ルメディア社からも荷物が届いた。「超漢字」のソフトを呉れるという話だったが、それだろうか。まだ荷をほどいていないが、これまた楽しみ。器械がまだ BTRONにOSを変えていないから、すぐには使えないかも知れないが。
* 夕方、買物に出て、柊の花に出逢いました。遊歩道のわきに一本植えられている木が乏しい花をつけていました。
葉がたいそう汚れているとおもいま
したら、傷んでいるのでした。
地を擦っている一枝があわれだったのと、お花も欲しかったので手折ってきました。二つ三つ、それも小さな小さな花ですのに、よく匂っています。よくかが
やいています。けなげに思われて。
おきもせずねもせで夜をあかしては春のものとてながめくらしつ
このうたについてのお話、とても、おもしろうございました。今までは、悶々として何やらごちゃごちゃ言っている
ようだから、思いを遂げられなかっ
たらしいとしか読めていませんでした。先生の読みにみちびかれて、短編小説を読むようにこの一首を味わったことでございました。
それにしましても、「昔男」の恋のかけひきのすごいこと。そして「今の読み手」の眼のすごいこと(いまさらですけれど)。
夕霧が、なびかぬ落葉宮に、何事かあったと人は思うでしょうと、追いつめるようなことを言う場面がありましたけれど、恋の手だれである源氏は、敵ながら
あっぱれと言いたいこの手を、誰にもちいたのでしょう。もっとも、夕霧の場合、あっぱれとは、わたくしには思えないのですけれど。
湖のお部屋を訪ねて、すこし無気力感が薄らいだようでございます。この気分、つづきますように。
夕霧ならぬ夜霧が地上の闇をほうと白くしています。
* エッセイ欄にいずれ移転するが、こんな原稿を16頁ほどの京都新聞の号外特集「京の智(ちえ)」の第一頁巻頭 言として載せた。派手に大きな文字 で頁の全面をつかって載せていた。ちなみに結びの言葉は、同じく頁全面をつかって梅原猛氏が書いていた。十一月五日日曜の掲載であった。
* 京の智(ちえ) ー巻頭言ー
子どもの頃、「あんたに褒めてもろても嬉しゅうはございまへん」と、腹立たしげに憮然としている大人を初めて見て、人を褒めるのにも、相手により事柄に
より「斟酌」が必要らしいと、深く愕いた覚えがある。「人の善をも(ウカとは)いふべからず。いはむや、その悪をや。このこころ、もつとも神妙」と昔の本
に書かれている。智慧である。
「口の利きよも知らんやっちゃ」とやられるようなことこそ、京都で穏便に暮らすには、最も危険な、言われてはならない、常平生の心がけであった。京の智
慧は、王朝の昔から今日もなお、慎重な、慎重すぎるほどの「口の利きよ」を以て、「よう出来たお人」の美徳の方に数えている。
「ほんまのことは言わんでもええの。言わんでも、分かる人には分かるのん。分からん人には、なんぼ言うても分からへんのえ」と、新制中学の頃、一年上の人
から諄々と叱られた。十五になるならずの、この女子生徒の言葉を「是」と分かる人でないと、なかなか京都では暮らして行けない。いちはなだって、声高に
「正論」を吐きたがる「斟酌」に欠けた人間は、京都のものでも京都から出て行かねばならない、例えば私のように。
京都の人は「ちがう」と言わない。智慧のある人ほど「ちがうのと、ちがうやろか」と、それさえ言葉よりも、かすかな顔色や態度で見せる。「おうち、どう
思わはる」と、先に先に向こうサンの考えや思いを誘い出して、それでも「そやなあ」「そやろか」と自分の言葉はせいぜい呑み込んでしまう。危うくなると
「ほな、また」とか「よろしゅうに」と帰って行く。じつは意見もあり考えも決まっていて、外へは極力出さずじまいにしたいのだ、深い智慧だ。
この「口の利きよ」の基本の智慧は、いわゆる永田町の論理に濃厚に引き継がれている。裏返せば、京都とは、好むと好まざるに関わらず久しく久しい「政治
的な」都市であった。うかと口を利いてはならず、優れて役立つアイマイ語を磨きに磨き上げ、日本を引っ張ってきた。京都は、衣食住その他、歴史的には原料
原産の都市ではない。優れて加工と洗練の都市として、内外文化の中継点であり、「京風」という高度の趣味趣向の発信地だっ
た。オリジナルの智慧はいつの時代にも「京ことば」だったし、正しくは「口の利きよ」「ものは言いよう」であった。この基本の智慧を、卑下するどころか、
もっともっと新世紀の利器として磨いた方がいい。
* 十一月十日 水
* 最高裁の、国会議員地方区比例区重複立候補を合憲と是認する判決には、うんざりした。五人の違憲という少数意 見の有ったことを、せめてものこと と思おう。
* 器械部屋に暖房がないので、これからは長時間はこの器械の前に居座れない。一台を階下の炬燵の上に移して、原
稿書きはそちらでし、ディスク複写
して二階の器械でプリントなどすることになる。今月はいつも前半に重なる会議がすべて月の後半になっていて、そのために落ち着いている。
湖の本の通算六十一巻めを校了したから、下旬頃は発送に追われるだろうが、済めば落ち着くだろう。落ち着けば腰を据えて長い仕事に着手できる。
* 十一月十一日 木
* 一の数字が幾つも連なるからと、今日はあちこちで賑やかであったらしいが、そういうことに興味はない。
* 狭衣物語の文章意識のつよさに驚いている。推敲がかなり出来ている感じがする。
推敲というのは微妙に難しく、過ぎると文を窒息させてしまう。尾崎紅葉は文句の付けようない文章の大家であるが、だからといって文学としてすこぶる効果
的に作品が生きているとは感じにくい。漱石、谷崎、直哉、康成らの文章が好きだ。個性があって癖がない。鴎外の『渋江抽斎』と『即興詩人』露伴の『運命』
なども佳い。露伴の『連環記』も好きである。
* 森銑三さんのことを、ときどき懐かしく思い出す。なにがご縁で知りあったろう、よくご本を戴いた。滅多に例の
ないことで、辻堂の病院まで小林保
治さんといっしょにお見舞いにも行った。ベッドの上も下も廻りも資料の山で、そこで仕事をされ、奥さんがともに住み込んで居られるような風情だった。元気
に話され、声が大きいと隣室から苦情が出るほどだった。著作集を愛読し繙読し、どれほど教えられたことか、それなくて「最上徳内」についても「新井白石」
についても満足に書けないほど、森先生の著書に寄りかかりの心棒をもらった。なにしろ人物に打ち込まれていたから、読んで面白くないわけが無く、しかも
チャチな人物論でなく、精到の研究成果であった。『おらんだ正月』なども名著だった。
また西鶴論が独特であった。西鶴の真作といえるものは『好色一代男』だけだと、目を瞠る論証があった。門外漢で何ともいえないが、真正面から森さんの西
鶴小説論にぶつかったものを知らない。論じるに値しないからか、どうもそうとばかりは言えない気がする。
* 下村寅太郎先生、宮川寅雄先生にも、人生半ばから可愛がっていただいた。どうもご老人によく認めていただい
た。みな、とびきりの碩学であられ
た。書の研究書を頂戴した春名好重さんもそういうお一人で、お元気のようだが、京みやげなど贈っていただきながら、同じ保谷に住みながら、お目にかかった
ことがない。目崎徳衛さんも角田文衛さんも。この三十年に出逢った大勢の大勢の大先達とのご縁も、書いておきたくなってきた。
* 十一月十二日 金
* 「秋黴雨ことりことりと( )の居て」
奥田杏牛氏の一句を雑誌「ミマン」に出題した。冒頭の「秋黴雨」を作者は「あきついり」と、季語として伝統的な訓みをされている。主宰される俳誌「安良
多麻」ではふりがなは無かった。わたしも出題のおりにふりがなしなかった。「あき・ばいう」と読んだ人が多かったろう、成り立たないわけではない、それで
いいではないかと読むこともできる。それよりも「ことりことりと」何が居るのか。
* もう一つ、短歌を出題した。「射的場にビリケン人形うち落しわれに呉れしが( )に死にき」
稲葉育子さんの、さりげなく簡潔で、抑制の利いた、佳い歌である。解答をみていると、読者にお年寄りの多い雑誌なので「ビリケン人形」を見知っている人
が多い。なかには「キューピーさん」だと思っている人もいる。「ビリケン人形うち落し」がこの歌の眼目である。広辞苑にも出ている。「辞典を良く引く習
慣」、それが「いい読者」であるための一つの資格だと、作家ナボコフは挙げていた。いい記憶力、ほんの少しの芸術へのセンスも挙げていた。もう一つは、何
でしょう。
* 「東工大余話」の『青春有情 ー東工大生とのキツーい問答集ー』が、たちまちに、もう単行本の一冊分にも成っ
た。まだ当分は書き込みつづけねば
ならない。古い東工大生、今の東工大生、そして大学当局にも世の親たちにも読んでもらいたい。
* 十一月十三日 土
* 武者小路実篤戦後の『真理先生』と処女作に近い『お目出度き人』とを、交互同時に読み進めている。この作家の
性根がたくましく太いことがよく分
かる。優れた文学に立ち会っていると言うより、稀有の人間に出会えて幸せな気分になれる。わたしは昔から武者小路には好意的であった。批評家としても画人
としても詩人としても。釈迦また達磨を書いた戯曲も読んだ。
おりしもバグワンの『ボーディーダルマ』を読み進んで最終章に近づいている。この人の言うことは、いちいち身にしみてくる。これほど真率に真相に迫って
ものの説ける人には出会えない。出会ったことがないと言っておく。バグワンを武者小路は知らなかったろう、バグワンの方が若いから。だが、この二人ならお
互いに分かり合うのではないか、いや感じ合うのではないかと思う。
* 高田欣一さんという「湖の本」の久しい読者がおられる。同世代である。文学者である。演劇にも関心の深い人の
ようだ。この高田さんが月々に「文
藝エッセイ通信」を送って下さるのが、いつも、言説が肯綮にあたって、読み応えがする。今日も届いて、待ちかねたように封を切った。期待は裏切られなかっ
た。
庄司肇さんの個人雑誌「きゃらばん」はもう47号になった。小説も批評もエッセイも、多年練達の成果で、これまた、とても読み応えがする。
倉持正夫さんの「くらむ」も、じつに腰の据わったいい個人誌で、小説だけが、ねばり強く久しく掲載発行されている。この人も「湖の本」を支えていて下さ
る。
なにも文壇の表舞台で虚名を馳せている人たちだけが、文学に篤志の人と限っていない。実力のある人とも限っていない。わたしは「湖の本」のおかげで、ず
いぶんいろんな力豊かな在野の文学者とつき合いが出来ている。全国的に出来ている。矢部登さんもそのような一人で、結城信一を、じつに深く細かく真面目に
追っては、モノにしておられる。尊いことである。作家として心嬉しい篤志の人である。
* 十一月十四日 日
* 老人介護保険問題で、田原総一朗司会、自民党の亀井静香と民主党の菅直人の討論を聴いた。菅の説得力の前で亀
井のいうことは、いかにも俄か拵え
の屁理屈ばかりであったが、そういう優劣は脇に置いて考えると、それは、家族主義家庭観と、それではやって行けない高齢化社会観との抗争と見えた。自分の
家で家族に看取られて死にたい、病院で、ないし他人手にかかっては死にたくないという考え方と、もうそんなことは言っていられないという考え方との抗論に
聞こえた。
私の家庭では、十何年前から九十前後の老人を一時に三人抱えて、介護は、心臓が不安で治療の必要だった妻と、日々の身すぎ世すぎに奔走の必要なわたしと
でするしかなかった。共倒れの怖れがあり、わたしは、排尿困難の父、足を骨折した母を病院にゆだね、叔母も施設にゆだねた。むろん一時に一斉にそうした・
出来たのではなく、長い期間に随時にそうして行くしかなかった。胸に痛み無くて出来たことではなく、父も母も叔母も、わたしたちのそばで老後を安心し
たかったに相違ないとは、痛烈に感じていた。わたしは心に詫び心を鬼にし、妻の共倒れを避けた。その痛みと申し訳なさは今も強く感じている。だがど
うしようもなかったと理性的には肯定せざるを得ない。亀井らのいう十万円を百万円貰っても、腕に力がつくわけでなく、病んだ心臓がよくなるわけでも
なく、締め切りの原稿が書けたり創作できたりもしないのだ。
だが、その一方で、いつか老いて倒れたときに、一分一秒でも長く我が家にいて、できれば家族の声を聴きながら死んで行きたい未練を振り払えるかどうか、
心弱くなるであろうと分かり切っている。亀井の言う一方の理屈にも、感情的には同意している内心の利己心をわたしは否定しきれない。
だが高齢化がますますヘビーなモノになるのは歴然とした眼前の事実。いい保険制度の充実が是非に必要になるのも明白な事実。それを目指して欲しいと、政
治に対してはぜひ願わねばなるまい。自民党の小手先の選挙目当ての場当たり政策にだまされてはならない。
* 続いて報道・報告された厚生省主導による超巨額「年金」の組織的構造的蚕食のむちゃくちゃ。怒りも何も口をあ
んぐりと呆れるしかない実状が、日
本列島に拡がっている。厚生省役人の天下りのための「年金ばらまき」が、さらにまた天下り組織を派生させ、ねずみ講のようにはびこりつつ、造られた施設に
はただ閑古鳥が鳴いているという。老人ホームに命金をつぎ込んで入所してきた老人たちが、ろくな介護も受けられない不安と怒りとの中で暮らしているのに、
職員は大量に退職し続け、理事たちだけがべらぼうな退職金を奪い取っては、さらに別組織へ天下りを続けている実態。
天下り理事が、老人たちをつかまえて話し合いの席で「面倒を見る」「面倒を見る」と、僅かな間に何度も何度も繰り返す。たまりかねて職員の主だった人
が、「面倒を見る」などという気持ちで老人たちに接してはこなかった、現場の職員はそんな言葉を一度として使ったことはなかった、と、老人たちに謝ってい
た。そんな物言いはやめて欲しいと理事に訴えていた。まことに自然な、その通りの気持ちであったろうとわたしは聴いていたが、その職員は、陰険な人事によ
り、その後「降等」また「降等」の左遷を強いられているといだ、何たる没義道か。
こういうのを、わたしは「国の犯罪」だと言う、「公」の「私」を陵辱して恥じない犯罪だと言う。このような「国」このような「公」に唯々諾々と
従わねばならない「私」ではない。そんな義務はない。日本中の「私」は、はっきりとこんな「公」の暴虐を処罰せねばならぬ。
* 亀井と菅との討論で、企業献金禁止について、田原がこれを「悪法」だと亀井をけしかけ続けていたのは、政党助
成金を「下らない」と言い企業献金
は「無くてはやって行けまい」とけしかけ続けていたのは、とんでもないことだ。菅は、政党助成金はいい仕組みだと反論し田原は黙ったけれど、何故に、田原
が企業献金存続が当然であるかのように言い続けるのか、わからない。抜け道を作って自民党らは結局企業からの賄賂性の滲んだ金を貰い続けるであろうが、わ
たしは、「やって行けない」と言うのでなく、それでも「やれる」ような政治屋どもの自粛と自縮とが、先ず為されるべきだと思う。秘書を十人だか十五人だか
使って考えだす政策が、せいぜい亀井静香ていどならば、そういう手合いは落選してくれることをわたしは希望する。ぜひ落選させたいと思う。
* 十一月十五日 月
* 寒い雨が降り出して、雨足が強くなっている。明日は晴れるというが、今夜は冷え込むだろう。
昨日、中国へ研究旅行に出た人から、元気そうなメールが来た。わたし一人で読むには惜しく、書き込んでおく、Mさん聴してください。
* 中国より 秦恒平様
おはようございます。日曜の朝をシーサンパンナの景洪という町で迎えています。
8時近くなってようやく明るくなってきました。
木曜日は、成田空港の公衆電話から秦さんにメールを出した後、
三時間半ほどで上海に着きました。そこからさらに国内線を乗り継ぎ、
日が沈む頃、広東省の省都、広州に到着しました。
広州では二泊し、今回の調査の拠点になる華南農業大学植物保護研究室の、
肖火根教授(36歳!)と打ち合わせをしたり、研究室の学生さんを相手に、
セミナーをしたりして過ごしました。
広州を訪れるのは二回目ですが、高層ビルが増え、道路がきれいに舗装されていて、ずいぶんきれいになったような気がします。
ホテルからは、簡単にインターネット接続ができ、日本にいるときと全く変わらなく
メールの送受信ができます。ただ、いままで海外出張の間はしなくて良かった
事務的な仕事の依頼も受信してしまい、中国のホテルで「夜なべ仕事」をするはめになりました。
これには参りました。
金曜日からは、南の亜熱帯地方でパパイアのウイルス病調査を始めました。
一昨日の早朝、広州を発ち、雲南省昆明まで移動しました。空路二時間弱です。
昆明では、十月末まで「花博」が開催されていたのですが、会期終了後も公開が続いていて、(跡見の茶会のようなものでしょうか?)、広い会場を縦断した
だけで、一日を費やしてしまいました。
その後、空港へ戻り、さらに一時間ほど飛行機に乗って、ビルマ国境近くのシーサンパンナまで来ました。
この町のホテルでもメールの読み書きができます。
昨日は、シーサンパンナ自治区農業部の案内で、車をメコン川沿いに百キロほど走らせ、山や畑に散在しているパパイアを、一本一本調査しました。
この地方では、パパイアはあまりポピュラーな果実ではないようで、
観光客相手の市場などでは、バナナやマンゴーなどといっしょに、
パパイアも目にすることがありますが、地元の人はあまり口にしないということでした。 農家の方に、「じゃあ何に使うの?」と、聞いてみたら、
「豚の餌」との返答。がっかりしました。
今日は、景洪で夕方まで調査を続け、その後海南島に向かいます。
* 散文詩のようである。この自在なメールの改行のしかたにも、感服する。
* イヤーなニュースばかりをテレビは繰り返し伝えてくる。神奈川県警のむちゃくちゃ、「ご遺体ミイラ」事件のむ ちゃくちゃ、やらせテレビのむちゃ くちゃ。刺した切った放火したのむちゃくちゃ。そしてトルコは大地震。
* 聖帝とうたわれた村上天皇までは、崩御後にみな「天皇」とおくり名していたが、次の帝からはすべて「冷泉院」
というふうに院号であった。後白河
天皇とか後醍醐天皇と呼ぶようになったのは、大正時代に入ってからの話で、「天皇」のおくり名の復活したのは幕末に近い「光格天皇」以降仁孝、孝明、明治
天皇と続いたのであり、光格天皇以前平安時代の村上天皇までは、ことごとく正式のおくり名は「院」であった。
こういう史実をふっと記憶に呼び起こされることで、意外に新鮮な気分になり、身のまわりの「むちゃくちゃ」から微かにであるが逃避できる。息がつける。
わたしは、「知識」に対しては、熱い共感を持っていない、知識は重荷になるとすら思っているが、時に、塩胡椒のようなぴりっとした「知識」がつらい気持
ちに刺激を生んでくれるのも確かである。
* 九十歳の自称女弟子さんが、お酒を二升と、カンビールを二ダースも贈ってきてくれた。『能の平家物語』の出版
を祝って貰ったらしい、有り難い
が、縮んで恐れ入る。忝ないことです。昨日妻の友人にお買いあげの三冊に署名を頼まれた。駅前で署名ついでに妻とも三人で「いはし」で食べて飲んだ。その
折りにも甲州の名酒一升をお土産に貰ったので、酒が無く何日か酒の気が絶えていたのが、たちまちアルコール豊饒と成った。岐阜の読者からもたっぷり富有柿
を戴いた。熱血冷腸の美果。感謝。
* 十一月十六日 火
* 四十二年前の今日であったか、学生同士だったが、妻と鞍馬へ登った。全山紅葉して酔う心地がした。貴船に下 り、奥の院まで三社参拝し、渓流に沿 うて最寄り駅まで歩いた。京都の秋が懐かしい。
* 先日、突然のご好意で、ボイジャー社から「T-Time
」というソフトを頂戴した。朝日新聞の記事を観てとメールにあった。送られてきたソフトをインストールするのは簡単だったが、例によってわたしの鈍い頭は
素早くは回転せず、今朝、ふとした試みからぱっと視野が開けて、自分のホームページに書き込んだ横書き・一行字数の長い長い小説が、きれいなフォントで縦
書き表示されて読めると確認できた。目ざましかった。
下さった萩野さんに、手順を教えてと泣きつきかけていた矢先で、天の恵みと言える。横書きの作品や文章が、とても綺麗な単行本の頁のように変身し、ス
ムースに頁を送って読んで行ける。すばらしい!!! VOYAGER CD-ROM「T-Time
」に乾だ。まだ、いろいろに使い方がありそうで、覚えて行くのが楽しみ。
* 午後はペンクラブの電メ研。和やかな会合で、司会しなくても良ければ、もっと楽しく、委員諸兄の顔を見にもっ と浮き浮き出かけられるのだが。早 いところ司会役から抜け出したいもの。
* むかし学生たちに「大人の判断」とは何かと書いてもらった。「家の墓」とどう付き合うかとも尋ねた。若い二十
歳の考え方の色々が、多彩に面白
く、考えさせられ教えられた。それらも、その他にももっと多く、「東工大余話」の「1」に書き込んだ。二十歳の青春の、ちょっと気張った横顔が印象的に見
て取れる。
* 十一月十七日 水
* 「ここがヘンだよ、日本人」という番組は、ときどき胸に残る議論もあるが、低俗極まることも多くて、優良番組
と言いかねるが、ビート・タケシの
企画はなかなかのものである。
今夜は「東大生」が出てきて外国人の叩き台にされていた。出てきた東大生は「出てきた」というその選択と姿勢とで、すでにある種の偏りを代表しているの
で、東大生ぜんぶのイメージを決めてしまうのは誤りだろうが、それでもなお、ああこれが「東大生」かと憮然とさせてしまう傲慢で脆弱なもの言いはしている
ようであり、聴いていて恥ずかしかった。器が小さくて知性は希薄、気迫に乏しく平然と屁理屈に安住しているのに驚かされた。こういうのが「政治」や「実
業」にやがて確実に反映してくるかと想像するだに、そんな時代は見たくないなとイヤになった。
繰り返して言うが、一種の「やらせ」に成りかねない、なにもかも「敢えて」放言して行く後味の悪さに、きっとあとで彼ら東大生出演者は苦い唾を天に向
かって吐かねばなるまい、ゆめゆめ、あれが「東大生」のすべてとは思わない、いや思いたくない。しかし文系学生の怠惰で柔弱な愚かさは、したたかに見せて
いた。
* 今も今、このホームページの「東工大余話」に『青春有情』のいろいろを報告しているが、かの東大生たちも、本 当に己が心に触れ、我から深く我が 胸の内をのぞき込んで自問自答したい気になる機会があれば、おそらく、面目を遙かに異にした内景を、自分の言葉で紡ぎ出すであろうにと思う。あのような番 組の中で、力づく面白づくに大声を張り上げて喋るのは、彼ら自身も、野蛮で実りの少ないことを自覚しているだろうにと思う。
* 幼児虐待がニュースになり、力づくの虐待だけでなく、「ネグレクト」という深刻な虐待もあると解説されてい
る。
今からもう三十年も前になるだろう、学校の荒れようと少年少女たちの急激な変貌を目の当たりにしながら、何度も何度も家の中で妻と語り合ったのは、あの
まま彼ら幼い者たちが大人になって、子育てをせざるを得なくなった時節の「ひどさ」が予想される、ということだった。掌をさすように予言は的中している。
慧眼を誇る気になどなれっこなく、むしろ、相乗的に、社会のあらゆる場面で低劣化と軽薄な混乱とは重なり行くだろうことに絶望感を覚えている。
しかし、たとえ僅かの年数にせよ、わたしは一つの大学の中で、一つ一つの学年の大半ともいえるほど大勢と親密に接してきた体験を持ち、未来日本に希望を
喪うまいと努めている。いまごろ、まだ「東工大余話」を語るのかと思う人も有ろうが、何故かのその根拠を、ホームページに書き込んでいるいわば「青春の証
言」が
代弁してくれるだろうと信じている。
* 志賀直哉の『日記』は、二十一歳頃から収録されていて、明治三十年代の後半から始まっているが、一読、ビック
リしたのは直哉の青春を、「見え
る」形で覆っているのが「歌舞伎芝居」と「女義太夫」であることで、「見えない」「見せない」かたちで生活に底流しているのが内村鑑三への帰依と内省であ
るらしいことだ。
芝居好きということなら谷崎潤一郎をはじめ同世代の学生たちも例外ではなかったらしいが、志賀直哉のように、三百六十五日をそこに漬け込んでいたよう
な、あんな真似は経済的にも谷崎や芥川らには不可能であったろう。
* 直哉の芝居に対する、役者に対する、義太夫に対する「批評」は端的だが細部に及んで詳細であり、玄人じみた目
と理解と好みとをその若さで発揮し
ている。選集だけで直哉の文学に接していた頃、こういうところは、読めなかった。知る人は知るで、ウカツといわれればそれまでだが、おどろいている。
加えて外国の美術への先行的な愛好があり、のちには「座右宝」の自力出版に至るような仏像への熱い好み、骨董への率直な審美眼が直哉にはある。こういう
美術に愛着の深い人だとは、白樺の傾向からも、作品からも、むろん知っていたけれど、芝居や女義太夫にこれほど通とは思わなかった。
* 武者小路の『真理先生』『お目出たき人』の併読もゆっくり進んでいる。慌てて読むまいとしながらも、ついつい
読み込んでいる。不思議な文学であ
る。長与善郎の『竹沢先生といふ人』が、高校ごろのかなりの愛読書だった。ほとんど印象も記憶も摩滅しているが、『真理先生』『馬鹿一』などはそれともよ
ほど趣が違う。天衣無縫というより、もっと、大破れのした魅力である。時代を超えて行けそうで、しかし限界も見えたかと思われる基盤の崩れは否めない。
武者小路の散文がどんな運命を辿るか、わたしのように書架からまた持ち出してくる人は少ないだろうな、すでに、という気がする。
そこへ行くと志賀直哉はやはり屹立し聳立するものがある。厳然とあり、「直哉文学」を凌ぐ作品がそうそう出てこれるものではないと思えてならない。なぜ
か分からないが『暗夜行路』と匹敵しうるのはドストエフスキーの『罪と罰』だという直感が私の内側を奔っている。
* 十一月十七日 つづき
* 清少納言は、人の噂話ぐらい面白くて楽しいことはない、禁じられては堪らないと率直に言っている。さもあろ
う。わたしは、人の噂話で楽しもうと
いう気はあまり無い。噂をするためには少なくとも二人の人間が「世間」を共有していなければならない。ところが広い世間を共有するようなつき合いをわたし
はあまりもたないし、好んでもいない。親しい人となら、他人の噂をするよりも、二人だけの関心事に没頭する方が楽しかろうと思う。
滅多にないが、よほど退屈すれば、わたしは、これまでに観た映画や映画俳優の数を数え上げるようにして、思いだしている。どれほど覚えているだろうか
と、たとえば湯にゆっくり浸かっていた方がよろしいときなど、ただ数を数えるかわりに、知った俳優や女優の名前と顔を、何十人分か思い出す。さもなければ
百人一首の和歌を、せめて五十首は諳んじるなどしている。昔、母に銭湯につれて行かれると、もう上がりかけなど、たっぷり湯に「肩まで」浸かれと強いられ
往生したものだが、今でも、風邪気のときなど我から強いてのぼせるほど浸かってから、浴室を出る。それが風邪気に利くと思いこんでいる。そんなとき、子ど
もの頃のように「数を数える」なんて、いやではないか。
* それにしても人の名前を忘れるようになった。出てこない。好きだったジョン・ウエインでも、映画での役の顔は いろいろに思い出せるのに、名がす ぐ出てこなくて、危機感を覚えることがある。腹が立ってくる。フルネームが出てこなくて寂しくなる。百人一首の和歌なら、上の句が出てこずに下の句しか思 い出せず、湯の中で癇癪が起きる。永遠に湯から出られないような気がしてくる。
* ジョン・ウエイン、ゲリー・クーパー、ジェームズ・スチュアート、ケーリー・グラント、ビクター・マチュア、
クルト・ユルゲンス、ローレンス・
オリビエ、ジェラール・フィリップ、アンソニー・クイン、ジェームズ・コバーン、アラン・ラッド、スティーヴ・マックイーン、クリント・イーストウッド、
トム・クルーズ、トム・ハンクス、チャーリー・シーン、ジャン・ギャバン、ジャン・マレー、ユル・ブリナー、スチュアート・グレンジャー、オーソン・ウエ
ルズ、スペンサー・トレーシー、ジャック・レモン、チャールズ・チャプリン、シャルル・ボワイエ、ウィリヤム・ホールデン、トニー・カーチス、カーク・ダ
グラス、マイケル・ダグラス、アレック・ギネス、ピーター・フォンダ、マーロン・ブランド、ヘンリー・フォンダ、ポール・ニューマン、メル・ギブソン、
ピーター・セラーズ。
もうこの辺になると自分の脳味噌がぐちゃぐちゃに固まってしまって、動かない。それでいてあの「風と共に去りぬ」や「美女と野獣」のあの男、あの「眼下
の敵」の駆逐艦の艦長、「カサブランカ」でバーグマンとともに痺れさせてくれた男優、「クレオパトラ」に出ていたエリザベス・テーラーの夫だった俳優、
「ペリカン文書」の、また、題名は忘れたがいい映画に主演していた二人の黒人俳優、薄い髪を見せるようになって渋みの出た「007」や「レッド・オクトー
バーを追え」の主演男優、「レッド」などで悩める反体制を演じた若い男優、その他、あれ、あの、あの、あれもと映画の画面はありあり思い出せて懐かしいの
にいっこうに名前の出てこない俳優がいっぱいいる。「ローマの休日」「小鹿物語」のあの二枚目の名前がどうしてもでてこない。「ボニーとクライド」や「俺
たちに明日はない」ほど好きな映画の俳優、ああ、そうだ一人はウォーレン・ビーティだった、もう一人はなんとかギャグニィではなかったか。
* ま、こういうことをしていると、数を数えて三百ではきかないほど時間がかかる。それにしても歳が分かるという
名前ばかりだと、若い映画フアンに
は嗤われるだろう。私自身はいったいいつのまにこんなに映画を観ていたのだろうと思う。六七割はテレビだろう。
女優の名前となると、じつは、もっと楽しいが、ところが名前を覚えている人数は少ない。男優の方が多く覚えている。女優は、魅力的であればあるほど、名
前なんかどうでもいいのかも知れない。
* 今夜は、すこし、のんびりしたさに、変な時間つぶしをしてしまった。
* 女優はイングリット・バーグマンが好きだった、日本の原節子のように。オードリー・ヘプバーン、エリザベス・ テーラー、デボラ・カー、ジョン・ フォンテイン、「ウエストサイドストーリー」のナタリー・ウッドなどが好きだが、個性的な演技派にも好きな女優は大勢いる。「北北西に進路をとれ」の金髪 女優、「アパートの鍵貸します」のすてきに巧い女優、またバーバラ・ストライサンドやメリル・ストリープ。サンドラ・ブロックもいい。「オペラ座の怪人」 の可憐な美女が、映画の出来と共に、とてもよかった。肉体派では、むかしミレーヌ・ドモンジョに痺れたのを思い出す。名前がよかった。ソフィア・ローレン も好きだ。
* これも一種の人の噂話なのかも知れない、そうだとすれば、こういうなのが罪が無くて楽しい。歌舞伎役者を贔屓
しているようなものだし、差し障り
がない。いつもこっそり内々にやっていたことを、いま、こう「闇に言い置い」て、気分良く今夜は早く寝てしまおう。
* 十一月十八日 木
* ゆうべの「東大生」たちに関連して、東大卒業の実業人からこんなメールが入った。
* 東大も、小さいときから線路をひかれた、進学校を出た世間知らずの集団になってしまいました。昔は都立高校が
よく、誰にも受験のチャンスがあっ
たのですが、学校群制度ができてすっかりだめになりました。受験科目数も昔は多く、理科2科目、社会2科目とらねばならず、現役でチャレンジするのは大変
でした。今はずっと減っているはずです。
この間も私のテレビ出演の協力を頼まれ、数人の学生がきましたが、東大生が一番非常識で的はずれで「ばか」だった。いばっていて、最後に、私の後輩だと
知ると急に態度を変えたところなど、「おおばか!!」です。恥ずかしかった。そういう「ばか」な東大生にかぎってテレビに出たがり、嗤われているとも気づ
かないのです。怒りさえ感じます。
* 士農工商などという階級はもう無い。資本家と労働者などという尖鋭な階級意識も地を払って散り失せたかのよう
である。学歴差も殆ど意味を持たな
くなっているのは上の例でも分かる。
いまは、わたしの持説だが、少数の「テレビに出ている人たち」と、大多数の「テレビを見ているだけの人」とで、階級差が形成されている。前者が現代の貴
族のつもりでおり、後者はやむをえず平民にされているし、意識していないだけで、要するに殆どが前者に振り回されている。
その大多数の後者からすれば、名前を例にして申し訳ないが、分かりよいから使うけれど、哲学者の梅原猛よりもテレビコメンテーターの猪瀬直樹の方が影響
力も知名度も高い。梅原氏は新聞雑誌にはよく顔を出すけれど、猪瀬君のテレビの敵ではない。信じられないほどだが、わたしが教授をしていた頃の東工大の教
室で、俵万智を知らない学生は殆ど無かったけれど、斎藤史を知っている只一人も無かった梅原猛とか『隠された十字架』などと言って知っていた学生もまた皆
無に近かった。わたしを太宰治賞に選んでくれた選者のなかで、東工大生に通じたのはたった一人の、井伏鱒二だけで、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太
郎、中村光夫の各先生は全く通じなかった。
つまり、テレビに出ない人の中にもこういう最高級の人もいるのだ、が、その影響力は、遺憾ながらテレビでテキトーに喋っている人たちより、おそろしく低
いのである。一つの「文化的事実」である。だから、俗受けしたい野心家は、やたらテレビに出たがる事になる。無理もない、わたしでもNHK日曜美術館など
をはじめ再々顔をさらしていた頃、京都へでも帰れば実家の近所の人たちは、「テレビにでたはるなあ、エロゥならはったんどすなあ」と苦笑させてくれた。出
なくなれば、つまり落ちぶれたと「テレビを見ている人たち」の多くは価値判断をするわけだ、その意味でもテレビ番組を創っては出ているビートタケシこそ
が、現在日本でいちばん「エライ」人だということになろうか。やれやれ。
* いちびった藝能人たちもふくめて、政治家も学者も大方の「テレビに出ている者たち」をも、すべて、四角い檻の
中で鳴いている動物と思うくらいの
強い立場と見識を持ちたい。よく聴いていれば分かるが、コメンテーターたちにせよ、自称藝能人たちにせよ、自称政治家たちにせよ、ろくな事は喋っていない
し、して見せてもくれな
い。有害無益ではないが、厚害薄益な存在だと思っているぐらいで付き合った方が賢る。テレビ画面から消えて惜しいと思うのはニュース
ステーションの久米宏だけだ。
* 十一月十八日 つづき
* 梅若能のある日だったが、夕景の寒げにくらいのに辟易し、家を出なかった。曲はいいものだが、演者に満足でき
なかった、それも不参の理由だっ
た。今年の能は、師走、観世栄夫の「経正」と三川泉の「砧」で、上がりにしたい。いやいや万紀夫も「砧」を舞う。世阿弥一代の名曲が二様に楽しめる。
今日は俳優座と加藤剛との「伊能忠敬」と、帝劇と浅丘ルリ子との「西鶴一代女」の、招待があった。加藤は漱石をやり鴎外もやり、今度は伊能忠敬をやる。
いわば、わたしの小説『最上徳内』の小ぶりで実直な後輩筋に伊能はあたる。舞台を通して時代と人とがどれほど読めるか。浅丘の舞台では、原作に対し新機軸
というか、けっこう趣向が凝らされているという。それも楽しみだ。
また秦建日子のテレビドラマもあると聞いている。風邪などに負けないで努めてくれているといいが。
* 風邪といえば、「男は風邪をひくな」と一言言い渡した高校の先生がおられたらしい、かつてわたしの学生が教室
でそう書いてきた。含蓄に富んでい
るなとわたしは感じ入った。
もっと驚かされたのが「十七にして親をゆるせ」の一言だった。教室でみなに伝えたら、声にならずに階段教室が揺れたような気がした。「十七にもなった
ら、もう親をほんとうにラクにしてあげなさい」と言うことか。「十七にもなって親に歯を剥くなんて、いつまでガキでいる気か」という意味だろう。それをそ
の日提出の「挨拶」で読んだとき、わたしは息が詰まった、感じ入って。
日本ペンクラブが、年がいもなく『自分の一生をかえた一言』とかいう単行本を出そうと、会員たちに原稿募集している。
一生を変えるなどと、大人げなく大袈裟である。それに近い一言も二言も、だれにでも有るだろう、けれど、実は、そんなのを集めても、本人にだけ身にしみ
ていて、字で書けば、じつに何気ない「頑張りなさい」程度のものであることが多いと、それも学生たちの書いたものからわたしは学んだ。「がんばれ」と言わ
れた、それで人生が変わった、立ち直ったというのも、当人にはその「場」の情景や状況がかけがえなく実在したから、忘れがたく深く感銘したのであり、それ
を共有していない他者には、「がんばれ」という一言だけでは面白く読めないし、聴けない。「十七にして親をゆるせ」だの「男は風邪を引くな」だの、そんな
個性的な稀にみる「言葉」はそうそう出てこない。
だが、当人には「がんばれ」で十二分だった。そういう「一言」を集めて「本」にするのは、微妙に難しい。
文筆の先生たちはチガウというのだろう、そうかも知れない。だが、ひどくすると衒学的な作為的なものばかり集まってしまうかも知れない。身構えた一言、
でっち上げた一言ではつまらない。
* 十一月十九日 金
* 穏やかな秋日和に誘われて、池袋の東武美術館でまた松園展を、妻と観た。「天保歌妓」はめったに出ないし、妻
は観たことがないので、観せたかっ
た。何度観ても清爽の感にうたれる。屏風絵の「娘」の左隻の座像も優しくて。「砧」「草紙洗小町」また「晴日」「鴛鴦髷」それから、鼓を打っている座像な
ど、とにかくも気持ちの佳い画境であり、ひさしいご縁にもひかれて堪能した。
「甍」で、ワインをデカンタでとり、日本料理を昼食に。とびきり旨いということもないが、馴染んでいる店で、行儀もいいので落ち着く。
妻は疲れ気味であったけれど、食事が入って元気が出たか、上野まで付き合うというので、大寄せの日展はとりやめ、西洋美術館の「オルセー美術館展」へ
入った。幸い国立系の主な美術館へはパスを頂戴しており、有り難く利用させて貰う。ただこの展覧会は、やや雑然としていて、身にしみて訴えてくる作品が少
なかった。画題によって分類してあるのだが、やや時代を異にして同じ画題の異なる画風のものを観て行くと、どうもちぐはぐでうちこめない。時代の「画風」
というか「繪ごころ」の差異を飛び越え、ただ「画題」で纏めては、混雑感が否めない。幾ら仏画だと言っても平安仏画と鎌倉時代の仏画ですら、いっときに接
するとぎくしゃくするものだ。「時代の流れ」というのは意外に強烈な枠組み支配の力を持っている。同じ群像でも、時代が違えば描き方が違い、一緒くたに観
せられると落ち着かない。佳いなと思ったのはゴッホの「星降る夜、アルル」など、ま、十数点か。セザンヌもルノワールもモンドリアンもロートレックも、珍
しい作品が目に付いて、それは良かった。
* もう限界かなと妻を心配したが、国立博物館の敷地内に、平成の即位記念の新館が出来たそうで、それを覗いて行
きましょうと妻が言い、そんなこと
は頭になかったので半信半疑で、公園の噴水などを眺めながらゆっくり博物館まで歩いてみた。本館の左奥に、なるほど新築の建物が見え、名も「平成館」だと
いうので、ここもパスを利用して入ってみた。「金と銀」展だという中身はさすがに豪華な特級の日本古美術展で、一点一点のすばらしさに目をみはった。佳い
選択で、おおかた観たことのある名品逸品ばかりだが、何度観ても堪らない魅力に、妻も疲労に堪え、よく観て歩いた。三十三間堂から千手観音像が数体来てい
て、いきなり音楽のように鳴り響いて目に入った、気分は高く舞いあがった。興奮した。どれがこれがと一々挙げていられない。そんな中でも浄瑠璃寺の「広目
天像」、光琳の「風神雷神図」と表裏の、抱一画「夏秋草図屏風」、禅林寺の「山越阿弥陀図」、「金剛界曼陀羅」、光悦の「八橋蒔絵硯箱」、「平家納経」等
々、すべてすべて、うっとりとさせられた。もっともっともっと挙げなければならないが、足もはやめねばならなかった。
池袋のデパートで晩の食べものを買って帰り、カンビールを二本あけた。西武池袋線ではふたりとも少し寝た。佳い半日であった。
* 十一月二十日 土
* 東工大の学生に倣って、かつてのわたしの「挨拶」にメールで応えてきた人がいた。「孤・病・兵・貧」を、真実 怖いと思う順に並べ替えて「所感」 を書いて貰ったのだ、そして東工大での実際は、文例ともどもホームページの「東工大余話1」に書き込んである。今朝メールを下さった方の「挨拶」を転記さ せていただく。五十年配の方である。
* 孤・病・兵・貧
孤独を最も畏れます。病いでも、戦いでも、貧しさでも孤独でなければ耐えられるでしょう。しかし、この世にひとりも理解してくれる人がなく、存在を認め
てくれる人もいなければ、私にとってそれは死と同じ事です。理解してくれる人、存在を認めてくれる人は、多くは必要ではありません。どんなに間違ったり迷
い道に入ったりしても、味方になってくれる人。私についているさまざまな肩書やら粉飾されたものを取り去って、心の部分をわかってくれる人。こんな人が数
人いれば、どんなことがあっても生きて行けるのです。
次が、病。 子どものときはとても弱かった。冬になるとほとんど熱を出していて、学校を休み、本を読んでいました。行事になると緊張するせいか熱が出
て、学藝会にも修学旅行にも行かれませんでした。がんや結核の畏れは抱いたことはありません。「歩けない」事が怖い。足を骨折したときは、片足でも「一人
で歩ける」ことが、どんなにうらやましかったかわかりません。死ぬ直前まで「歩ける」事が夢です。「心を病む」事も怖い。心の病は孤独からくると思いま
す。
兵。 戦後の貧しい時代に**県にあった開拓団で、7歳まで育ちました。特異な体験でした。過去はすべて暗くつらく陰惨なものと思いました。戦前に良い
時代があったなど信じられませんでした。
今後戦争が起きたら、安全な国に逃げてしまうかもしれません。闘うことは嫌いです。さらに意味なく死ぬことも。
貧。 ごく貧しい中で育ちました。誰もが貧しい時代だったかもしれません。その中で親たちは私を大切に育ててくれたように思っています。
新婚生活は月3万円の給料(彼の独身時代の借金が天引きされていました)で、家賃が7500円、その後も月末になれば10円だま、100円だまを数えて
暮らしました。文庫本1冊も買えませんでした。
もっと貧しい生活のあることでしょう。貧しくて健康をそこなうことも。
でも、私の場合は、土地と家さえあれば、大根でもホウレンソウでも植えられるし、鶏も飼えるので卵を産ませて、なんとか食べて行けると思っています。ご
く貧しい生活を体験していますから。
* 「土地と家さえあれば」は、誰にでも叶う現実ではないから、この人は今は大いに安定し恵まれて、「貧」が切実 な問題になっていない。こうありた いと願うが、誰もがこうは在りにくい現実は残っている。この筆者はごく普通の女性であるらしい。
* 今日も素晴らしい秋日和で。ひとしきり黒猫のマゴと遊んだ。食欲旺盛で、精悍で、美しい少年だ。妻は「目に入 れても痛くない」という決まり文句 を地で行っている。わたしもそうだ。
* 老いて行く親たちに、ほんものの孫をもたらしうる「力」も「気」もない「子」世代の親不孝は、責められてよ
い。息子に対しわたしははっきりそう
感じている。日本の不幸と悲劇が、そのようにして拡大して行くのは明白だから。
今の「子」世代が老いて行くときに、日本は老い衰えて、介護を受けるどころか、確実に貧に喘ぎながら、ひょっとして「老人収容所」に禁固されて生涯を終
えることだろう。「姥捨て山」は、これからにこそ現実化してくる。まして「孫」世代ともなれば、生殖力も落ちて、たぶん他国の支配を受け、日本人は
ほんものの「家畜人ヤプー」になって行くだろう。結婚制度をついには撤廃し、夫婦以外の男女間にでも子どもが自由に生めるようになり、そういう子には国家
が大きな配慮と援助を加えて行くほどにしなければ国力は萎えて行く一方だろう。
むかし公衆衛生院の林路彰先生から、まだ娘一人しかいない頃だが、「お子さんは何人」と聞かれ、一人と答えて厳しく叱責された。あの温厚無比
な先生が、声を励ましてわたしを叱られた。あの声音をわたしは忘れない。
「日本の人口は確実に減って行き、おそろしい事態に追い込まれて行くでしょう、秦サンなどが子どもを多く生んで育てなくて、日本はどうなるんだ」と言わ
れた。人口増加のピークの頃の話で、正直のところ実感は希薄、ただもう驚かされたが、忘れはしなかった。いい加減なことを言う先生では
決してなかった。
* やがて我が家には息子建日子が生まれたが、その息子が、三十半ばに近づき、わたしたちが彼を産んだ年齢になっ て、なお、日々、火曜サスペンスな んかの「殺人」の工夫に明け暮れながら、家族というものをもたず目の前の火の粉だけを払っている。人間社会に対する「男」としての思慮深いものが感じられ ないと、忠告したい。とりかえしのつかぬことになるだろう。男は、ひょっとして今 の私でも子はなせるかも知れない。しかし成長を余裕を持って見守るには年齢がそれを阻むだろう。もし今、わたしたちに我が子が目前に生まれ来ようとも、ど うして今の建日子の年齢まで見届けて喜怒哀楽できようか。異論もあろうが、そう考えて心配している。
* 娘の方には孫が二人いて、辛うじて「世代の役目」は果たしてくれた。そのことに感謝している。
わたしの現在が、仮に、もし、ある程度「ラク」になっているとすれば、早くに子どもをもって伴走して成長を見守り、それを励みにし、仕事を続けてこれ
たお蔭である。
* 十一月二十一日 日
* 夕方、武蔵丸が貴乃花を大きくすくい投げて優勝した直後に、「新しい専業主婦」の特集を、美里美寿々の報道特
集でやっていた。年収千二百万円と
大企業課長の椅子をなげうち、敢然と第二児出産を機に家庭に帰って行った女性その他を旨く紹介して、あえて「新しい」という角書きつきのアクティヴな専業
主婦の生まれつつある潮流を取り上げていた。わたしは好感をもった。
今朝、わたしは、「子育て」の喜びや楽しみ、また難しさに触れた或るメールに応えて、こんな返事を書いていた。文学を思う思いで書いた。
* 「子育て」を、親は過剰に意識するのです。子育てが楽しいのではなく、「子育つ」が楽しいのです。子が育つの
を手助けし見守るのです。昔、輪回
しという遊びをしました。自転車のタイヤもチューブも外した車輪を、細い棒で操縦して駆けに駆けるのです。楽しかった。夢中で、走り続けました。針金のよ
うな売り物の細い軽い輪を追うよりも、廃物の車輪は重量があって、操縦桿のように棒をあしらうのが楽しかったものです。自然と勝手に輪は前へ前へ元気に走
り出します、と、あとは併走しながら、棒で、チョッチョッと方向や傾きを直してやるだけで済みました。自在なものでした。車輪は、あだかも思うままに走っ
て行くのです。
あれが、自動詞「子育つ」の楽しみに似ています。それを、つい他動詞の「子育て」に大人はねじ曲げたがるのです。子は、親が「育てる」意識で育ててはダ
メなんで、子が育つのを「見守って」楽しみ、大事なところで「手をかして」励ますのが本筋です。わたしも良くは出来なかったが、それが本当だと思って
います。
* 少子高齢化は、簡単に言い古されているけれど、よくよく思えば、いまの子や孫の世代に重くのしかかってくる地
獄苦だと予想される。政府はばらま
き財政の資金繰りに赤字国債をヒマラヤのように積み上げている。子よ、孫たちよ。きみたちこそが、それを怖れ、きみたちこそが、それを怒らねば。
* 十一月二十一日 つづき
* 真似をして、闇に言い置けば…「兵 病 貧 孤」と。
(兵) 平然と人を殺す。戦さとは、狂気。これが一番怖い。自分が死ぬことは運命とあきらめもつくが、死なせたことは償いようがない。良心の呵責・負い目
は一生消えることはない。
(病) 弱くなった心には鬼が巣食う。言わでもよいことが口に出る。人を傷つけてしまう。慈母と慕われた母にしてそうだった。心の深層に積もった兄嫁への
不満が、理性が失われたとき(痴呆症)に噴出した。わが心にも鬼はいた。
(貧) 元気でいられれば働くことができる。貧しくても助けあって暮らせる。他人をうらやまず、迷惑さえかけなければ。山野育ちはたくましいですよ。もち
ろん、わ・た・し。貧しくて高校にもいきたいとはいえず、40歳の高校生が誕生。大学も射程距離に、いつか…きっと。
(孤) 他人評価ではなく、自己評価。孤独は寂しくても、辛いものではないと思っているから。強がりではなく、趣くままに。
辛いのは、怖いのは、ひとを傷つけること。まどいよう(償いよう)のないことはすまい。これは吾が子に言い置いていること。
* 遙か遠くから月光のなかをこんなメールが今届いていた。分かち合うことの可能なメールだと思い、敢えて書き込 ませて貰う。
* 元禄綾乱のあと、「グース」という愛らしい映画を観た。だいたいどんな映画かは知っていたが、観てよかった。
気持ちよかった。
映画の間に甥の黒川創(北澤恒)から電話が入った。京都の父、わたしには兄の北澤恒彦によほど元気が無いようだと言う。
昨晩、兄からうちへも電話が来ていて、妻が兄の話を聴いた。両親を共にした一人きりの兄である。元気でいて欲しいし、じつは心配もしていた。すぐ黒川に
電話して様子を聴いた。八十というより九十に近い老父が入院しているのを、とても兄は気にしながら、自分も相当の疲労で気分優れず、大学の講義も負担に
なっているようで、しかし息子の黒川には、さほどせっぱ詰まった心配はないらしかった。だが今晩の電話はちがった。兄は息子に何度も電話してくるようだ。
「あすには京都へ(行こう)と思てます」と黒川は、もちまえの、へへへ、へへへと、電話口で笑いながら言っていた。
「鬱は危ないんだよ。ホテルに泊まるなどと言わず、必ずお父さんと枕をならべて、一緒に寝て上げるんだよ、必ず明日は行けよ」と何度も何度も念を押した。
* 甥の話を綜合して察するところ、昨夜の兄の電話は、かなり心配だ。あれほど支持し応援してくれていた「湖の 本」が、送ってくれてももう読めそう にない、そう兄は妻に告げていた。よほど疲れているようだ、が、お父上が病状の危機を脱してまだ病院におられるのだから、まさかのことはと思い、心配を押 し殺してわたしからは電話しなかった。今夜の甥の話で、心配はまた募るのだが。あの兄だもの。そう思い、そこで今は判断中止している。
* 建日子も電話をよこし、中途で母親に替わった。十二月十三日に「くだらないドタバタ」を放映する予定だと言 う。「お父さんのいちばん趣味に合わ ないモンだよ」とも言う。「観ないよ」と笑った。
* スーザン・サランドンとトミー・リー・ジョーンズの「依頼人」をまた来週放映するという。面白い映画で二人と
も渋い佳い俳優だ。トミー・リー・
ジョーンズでは、ハリソン・フォードを追っかけまわした「逃亡者」での演技が、すかっとしていて、忘れられない。思い出したが「ローマの休日」の男優はグ
レゴリー・ペック。日本の佐田啓二が似ていた、感じが。「眼下の敵」の駆逐艦長はロバート・ミッチャム、あの映画に限っては抜群の魅力だった。リチャー
ド・ウィドマークという「アラモの砦」などで渋い男っぽい役の俳優も好きだった、吹き替えの声も。男っぽいと言えば「空中ブランコ」や「プロフェショナ
ル」のバート・ランカスターも痺れる役者だ、印象的な映画が何本も何本もあった。「風とともに去りぬ」のあれはクラーク・ゲーブル。マリリン・モンローと
共演した映画「美女と野獣」がとくによかった。「ここより永遠に」のモンゴメリー・クリフトは神経質な魅力だったが、アンソニー・パーキンスの神経質は刺
激的すぎた。フランク・シナトラが好きだったことはない、フレッド・アステアのダンスはとびきり好きだつた。ダニー・ケイは「アンデルセン物語」で。ま
た、喜劇もできるが「チャイナ・シンドローム」その他のジャック・レモンの巧さと面白さは抜群。ああ、締め切り原稿が有るというのに、こんなことをやつて
いたら、きりがない。
しかし不安な気は、すこし安まる。
タバコは吸わない、晩八時以降は極力飲み食いを禁じている。その代わりに夜更けまでじっと、こんな気晴らしをしている。
* 十一月二十二日 月
* 紀伊国屋ホールで「オン・デマンド出版」シンポジウムがあり、聴きに行った。通訳つき講演の体で、スエーデン
詩人作家の「オン・デマンド出版」
実践報告があった。
動機は、よく分かった。わたしの「湖の本」刊行の動機とすこしも変わらない。動機の点では、私ほど体験的に良く理解した者はいないだろう。
さて、その内容や手順・手続きとなると、手法となると、スエーデンでのことはともかく、日本では、越えなければならないバーが幾つもあり、しかもかなり
高い気がした。スエーデンでは読者からの注文が、書店経由で、出来本の到来も場合により書店経由であるとなると、いかにも従来の流通に随順したもので、革
新性は乏しい。よほど従来出版の圧力が強いのだろうなと察した。
また、一冊ないし数冊の製本から「可」という注文手法は斬新でも、注文のもとになる、注文の対象になる「作品」が、元会社でデジタル化されるまでの段階
での、著作者の著作権益保全などがどうなるのか、ペイ・システムなどはまるで分からないままだった。コンテンツはどう用意されて、その出版契約書はどんな
ものになるのか。
* 聴きながら、わたしの「湖の本」が、十五年も前に構想され実践されて、刊行を曲がりなりに着実に維持してきた
ことの革新性を、あらためて自覚し
た。「作家たちは何をしているのか」とパネラーから痛烈な言葉があったが、そんなことは、遙か以前に私の言ってきたこと、してきたことである。
わたしは、出版も取次も書店もぬきに、直接わたしの作品を美しい簡素な本の形で読者たちに直接に迅速に丁寧に手渡し続けてきた、十四年も、途切れること
なく。利益こそ全く上げられないが、かつがつ薄い出血水準のまま短期間に資金回収し、年に四回から五回の刊行を滞りなく実行してきた。読者に支えられた著
作者としては、「オン・デマンド出版」では及びもつかない、いろんな意味でハイレベルの実績になっている。
* もう一つ。わたしは、いち早く「インターネット=パソコン」を、作品発表の、文藝公表の「場」として、実地に 利用し始めた。そのことで、紙と印 刷・製本による出版とは、またちがった文藝家活動の拠点を得て、従来の出版社会からの、甚だ孤立感の濃い自由ではあるのだが「自由」を得ている。その点で も、また新しい実践の形態を今後に示唆し得ていると、今日は、実感して帰ってきた。
* わたしの、この二方向の出版と実践について、従来は、概して文壇からも出版からも黙殺されてきたけれど、それ どころか妨害やバッシングすら受け てきたけれど、出版の「現実」は、十数年以前にわたしが感じ考えていた「批評」と「実践」の線に沿って、さながら後からついてきているのだ、そういう実感 をすら、今日は持てた。
* 津野海太郎氏、室謙二氏、萩野正昭氏らとも初対面を果たせてよかった。新宿ライオンでのレセプションで、ビー
ルを何杯か飲んだ。
パネラーの一人だった筑摩書房取締役の松田哲夫氏とも久しぶりに出会ったが、彼の口振りから察するところ、筑摩書房はもう昔のあの懐かしい古田晁さんや
竹之内静雄さんやまた原田奈翁雄さんらの筑摩書房、臼井吉見先生や中村光夫先生や唐木順三先生らの筑摩書房とは雲泥の相違を来して、出版の理想も見失いが
ちに喘いでいるらしい。悲しいことである。しかも商売が隆盛になっているわけでもないと言う。どうしたというのだろう。
* 大きな飛行機墜落事故とかで西武線も混乱し遅れていた。池袋のビヤホールでビールをまた飲んだ。酔って夢心地 がした。帰ってまたカンビールを二 本飲んだ。駅から自転車で帰る途中にやきとりを売る屋台が出ていたので、少し買って帰ったのである。今夜も八時以降に飲み食いしてしまったわけだ。やれや れ。
* 恒(黒川創)は父親と、わたしの兄と、今時分は一緒にいるだろうか。
* 十一月二十三日 火 早朝 兄のこと
* 兄北澤恒彦が死んだという。
六時半頃か、電話があった。「北沢です」という声がむしろ若く感じられたが甥の黒川創ではなかった。兄かと思い、こう朝早なのもこころもち不審に思った
が、このところの事情は創、いや北澤恒から聴いていたので、弾んで電話に応じた。だが、それはウイーンから掛けて寄越した恒の弟の北澤猛の電話だった。
父が「死んだらしいのです」と言う。兄の恒から連絡があり彼はいまごろ京都へ急ぐ新幹線の中なのではないか、僕も帰ろうと思うと。絶句というより、しど
ろもどろに近い応対になった。
次男猛を訪ねてつい最近兄はウイーンへも行ってきた。その旅で疲れが増したのかも知れないと兄は先夜二十日の電話で私の妻に語っていた。
わたしはその時、兄の電話に出なかった。兄が電話などしてきたことは過去に三度とは無かったし、電話で話すというのはわたしの最も苦手とする一つなの
で、妻も心得て、兄を、朗らかな口調で慰めたり励ましたりしていた。兄のその電話での用事らしい用事と言えば、自分の体調もよろしくないが、父上が入院さ
れ、その世話などに追われて余裕がないので、「湖の本」はしばらく送ってこなくていいよという話だった。他にも具体的な用事があるなら兄も妻もわたしを呼
ぶはずであったが、そんな調子で電話は切れた。おかしいナと感じた。北澤の父上の家は左京区吉田で、兄の独り住まいの家は伏見区の南寄りにあり、往来が億
劫で、本の届く伏見の家へはずっと帰っていないらしかった。独り老いられた父上の側で暮らしていたのだ、このところ。兄はわたしなどよりはるかに親孝行で
心優しいのだ。
出てあげればいいのにと妻にも言われたが、電話口でとほうにくれて過度にもものを言い続け声を励ますのは辛かった。ことに、わたしたちのように、サマの
変わった捻れた運命を分かち合ってきた縁薄い兄弟としては、よけいだった。甥たちとなら幾らでも喋れても兄とはそうは行かず、その点近年のメール交信は大
いに自然の情愛をかわしえて、ありがたいまさに利器であった、わたしには。兄もつとめて利用してくれた、ただ兄が洛北の精華大学にある器械の前に座れるの
は、月曜の出講日しかなかったが。その大学の講義の用意も、兄をかなり圧迫しているようであった。どんな講義をしているのかと聞いたこともあるが、返事は
なかった。彼の「人生」をありのまま語ってやればいいのだが、きちっとしたアカデミックな講義を務めていたのだろうか。
兄は、昭和九年四月生まれ、わたしより一年半はやく生まれていた。生まれたのは彦根であったと聞いている。そしてわたしよりも早くに、実の両親をはなれ
て、京都左京区吉田の北澤家に貰われていったらしい。らしいとしか言いようがないほど何もお互いに知らないのである。初めて意識して出会ったのは、顔を見
合ったのは、四十半ばではなかったか。わたしから兄の職場へ出かけて行き、廊下で数分の立ち話をした。それまでは、いろんな人からも、兄からも、何度とな
く、会うがいい、逢いたいと電話や手紙が来ていたが、すべて断り続けていた。その気持ちをいま述べ立てる余裕はないが、事実であった。それをわたしから逢
いに行ったのは、機が熟したからと謂ったものではなく、いっそ気の迷いのようなものであったろう。
以来、京都でせいぜい一度二度、東京ではわたしの息子の作・演出の舞台に三度四度と来てくれていた内の一度二度、簡単に口を利き合った程度であった。文
通の方が繁くあったとはいえ、たいていは兄から声を掛けてくれた。ときどき気になって兄の健康を見舞ったことはあるが、二三年以前から兄にはやや「気」に
なるところが増えていた。ま、無理をせざるを得ないのはお互いの仕事からも年齢からも致し方ないけれど、兄の「無理」にはやや過度なものが感じられ、アw
揩ヘそのつど何等かの結果に結びついていたようである。
外国へ行って自転車で旅をするというようなことも、わたしの体調から推しても、「ようやるな。やりすぎやないか」と思っていた。東京へ出てきても自転車
で駆け回っていたと聞くと、「おいおい」と言いたい懸念を持たずにいられなかった。そして帯状疱疹のような難儀な病気を引き起こした。神経に響く厄介な病
気で、過度の疲労が引き金になることが多い。そういうことも、症状を報せてきたときにすぐ伝えて、万全の治療をと勧めた。それ以上のことは出来なかった。
ウイーンへ、そして理由は知らないが是非ダブリンまで行ってきたいとメールで知ったときの調子にも、ああ引き留めたいと思わせるものが感じられた。引き
留めこそしなかったが、くれぐれも用心し、無理のない旅にして下さいよと頼んだ。兄ほど自立して自由な生き方をしてきたいわば「人生の闘士」に対し、内面
にまで踏み込んでとかく言うことはいつもしなかった。遠慮し、避けていた。
帰国してから、特別の連絡はなにもなかった。
電話の後、妻からいろいろに伝え聞いた。そういえば実父が生前よく電話してきたときも、大方は妻に一任して、わたしは父とは自然になれない対話をいつも
避けたものだった、父も妻との方が気楽に好きに話せて、気も休まるようであった。私はそう想像していたが、父がどう思っていたかは分からない。
なににしても兄の電話の様子を、へんだなと直感した。老鬱だと思い、兄ほど時代や社会のなかで闘いぬいてきた人にもそういうモノが襲いかかるのだなと、
無残な気がした。すぐ甥の恒に電話で様子を聞いた。あらまし、わたしの直感は裏書きされた。重病も持っていそうな容体らしく、診断を拒んでいるとも聞い
た。だが危篤に近かったのは恒らの祖父の方で、その応接に父親は困憊しているようだとのことに、老人が老人を看取らねばならない困難のまざまざとした実例
を見なければならなかった。
兄は死ぬかも知れない、それも自身で。そういう怖れをわたしはもった。まさかとも思った。わたしから電話をかけ直すことはせず、兄の身を案じながら夜遅
くまでなんとなく身じろぎもしない感じで、机の前にいた。今にも辛い知らせの電話が鳴るかも知れない、鳴るなよと祈っていた。
翌日恒の方から電話をくれた。父親からかなり頻繁に電話が来ているらしかった。明日にでも京都に行きますと恒は言い、ぜひそうするがいい、ホテルになど
泊まらないでお父さんと一緒に寝てあげなさいと言った。息子はそこまでの切迫感は持てないらしかった。死にかけていた祖父もどうやらしっかり持ち直してい
るしと言っていた。二十一日、一昨夜のことだった。
電話が切れてから、わたしは、だが、危ないな、今夜にだって危ないなという怖れをもった。鬱といえるほどのものでなくても、私にも憂鬱の辛さは身に覚え
がある。はね返せる気力も環境もわたしには在ったから、抜け出し、抜け出し、してきた、が、兄にはその環境がなかった。老父が入院してしまえば、吉田の家
には兄が一人だった。嫂は同じ伏見にいてすでに何年来別居し、夫婦間の齟齬は気の毒なことにもう久しいようであった。
金縛りにあっているようにと言うとウソに近い。わたしは、兄に声をかけなかった。まともに用をなす手紙が書けるとも想われず、書こうとも努めなかった。
じっとしていた。メールを送っても届くまい、大学は休ませた、休講届は長男の恒が自分でしておきましたと電話口で話していたのだ。
昨日のうちに長男や、場合により娘街子も東京から見舞いに行くというのだから、兄も一安堵するだろうしと、兄のことは暫く忘れていようと昨日も思ってい
た。「オン・デマンド出版」のシンポジウムで会った津野海太郎さんや室謙二さんらも、むしろ黒川創や北澤恒彦らの側の「仲間」なのだった、黒川は父親の見
舞いに京都へ行っているようですよと、初対面のあの時もわたしは告げていた。
ウイーンからのこれは猛の電話なんだと分かってからも、一瞬は父親や祖父の容体を「叔父さん」に問い合わせてきたのかなと思ったが、兄の恒から電話連絡
が来ましたとか、今頃兄は新幹線でしょう、叔父さんには電話しなかったんですかなどと言われてみると、はッ…と息が詰まり、どうか不確かなままの誤報で
あって欲しいと灼熱するほどの痛みで願いつつも、だが、もう、「他」に想いようが無かった。それでも自分の口で「死」という言葉がどうしても使えなかっ
た。「死んだらしいんです」と猛は堪らない声を届けてきた。なんだ、昨日に行っていたのではなかったのか、と咄嗟に思った。
妻は、電話をかけてあげたらよかったのに、あの電話に出て上げてたらよかったのに、と、先ずわたしを責めた。さっき猛の電話で、昨日のうちに京都にいな
かった恒を内心責めていた自分を、わたしは強く恥じた。そうなるべく、なってしまったので、若くて忙しく此処を先途と今まさに頑張っている黒川にしても、
希望的観測によりかかり、現に動きづらい仕事の状況であることは聞いていたのである。彼は彼の生きを努めているのであり、それでよいのだ。余儀ない成り行
きだったのだ。むしろわたしが見殺しに死なせたのだ。
私のしたことは、余儀ない成り行きなんかではなく、わたしが意識してしたことである。結果として見殺しにしたのである。
言い訳ではなく、わたしは、兄のつらそうな声が聞きたくなかった。臆病で卑怯だった。兄は大きな、重い、かけがえない「存在」そのものだった。兄と弟と
いう「関係」は希薄であった。戸籍謄本には、人為的な操作により兄弟であるという記載も証拠も皆無なまま、幼いうちに大人たちの都合で引き裂かれていた。
だが、初めて逢って、むすぼれた「気」をほどいてからこのかた、わたしは「兄の存在」にいつも深く支えられていたと、ウソ偽り無く言える。兄はいついかな
る時でも、「秦恒平」として私を評価し励まし続けてくれた。いつも私の味方をしてくれた。譬えようもなくわたしは兄により、安堵していた。だから、と言っ
ては人は咎めるかも知れない、理屈にもなっていないが、わたしは電話の後も、じっとしていた。敢えてなにもしなかった。
兄を喪いそうだという予感に怯えたのは、じつは、今回が初めてではなく、遅くも帯状疱疹と分かったときから、つまり、兄の日常に体力的に過度な「無理」
の出始めていて抑制できないらしいと感じたときからだった。まして、遠くダブリンへまで是非にも行っておきたいとか、これが最後のチャンスだからとか、す
こし興奮気味に沈鬱なメールを寄越された時には、明瞭に、「危ない」と思っていたのだ。だが、兄は兄の方法と意思とで自分の人生を仕上げて行く権利を持っ
ている。だから動かなかった。わたしは兄を尊敬してきたのである。
大事にしてよ。それ以外のなにも言う言葉はもたなかった、その一言に万感を籠めていた、いつも。
誄 ああ、初めて、いまわたしは泣く。涙で、嗚咽で、キィが見えない。
兄は、まだ少年だった黒川創が我が家へ訪れ始めた頃に、今後の付き合いは、「すべて、個対個、ということにしましょうや」と言っていた。「個対個」は、
以後の我々を律した立派な原則だった。兄らしい言葉だと信服して従ってきた。
兄は死んだ。最大の「死なれた」体験はあまりに急速に来た。涙は、振り払わねばならない。もうしばらくは、わたしは生きていたい。だが、実の両親に早く
死なれ、育ての親たちにも死なれ、父の違う姉や兄たちにも全て死なれてしまっていて、たった一人父母を共にし血を分けた兄に今死なれた。不思議なことに死
への怖れが薄れ、むしろ死への懐かしさが、すうっと夜霧のように忍び寄ってきたのを自覚している。
* 午前十時半に近いが、連絡は来ない。わたしを煩わせまいと恒は配慮してくれているのかも知れない。兄の死に顔
を見たいなどと思うものか。骨を拾
いたいなどと思うものか。それはあの、実父の通夜や葬式で来賓として「弔辞」を読まされたあの一昼夜の辛さで、ほとほと懲りた。血縁でありながら他人とし
て我々は生きてきたのである。兄ともそうだった。だが兄の「存在」はわたしから失せはしない。うつつの「関係」は「存在」の重みに遠く及ばない。
わたしが北澤恒彦の弟であることは、今では広く知る人は知っている。だから京都へ行って来た方がいいと妻は勧めている。だが行って何になるだろう。兄の
電話に出なかったあの時に、兄とは、別れることなく此の世の別れをしたのだと思っている。兄は、私が電話に出ていたら、何気ない話をして済ませただろう
し、弱音を吐いたかも知れないが、本心はわたしに「別れ」を告げる気で掛けていたのだ。それを言わせなかった、言わせなくてよかった、聴かなくてよかった
というのが、わたしの、兄への真の「思い」であり、この二日三日で、わたしたちは遠く思い合いながら、たがいにまた昔のようにもっと遠ざかって行ったの
だ、ただの「関係」としては。
「ああ秦サンが来ている。弟なんだって。そうらしいね」などと確認してもらうために兄のもとに走ろうとは、今は思わない。このまま私の中で、いつものよう
に、いままでと全く変わりなく「存在」し続ける兄でいてもらいたい。兄さん。そうさせてもらうよ。恒、猛、街子。許してくれ。
* いま書いておかないと、と、心を励まし、この誄(しのびごと)を書いた。落ち着いて書いたつもりだ、これこそ
は闇に言い置く気持ちで書いた。現
状のわたしとしては、この愛しているホームページ以外に書ける場所は無い。
兄に、もっともっと多く実の父や母と、まだ幼かった兄とがどう接していたのかを聴いておきたかった。もっと何度も逢っていれば良かったとは思わないけれ
ど、兄がどう思っていたのかは知っているべきだった気がしている。
* 上段まで、たてつづけ一気に早朝から書いた。じっと堪えながら。
恒が電話を寄越して、兄の死を事実と告げた。どんな死とは聞かなかった、聞くまでもなく、甥も言わなかった。毎度のように「書かンといて下さい」と黒川
は電話口で言い、東京では兄の医師でもあり友人でもあるU氏にしか報せていない、明日、ごく内々の者だけで弔いをするが「どうされます」と聞かれた。
爆発するようにわたしは泣いた、自分でもびっくりするほど声をあげておうおうと泣いてしまった。もう死に顔だけを見るようなそんな辛いことはしたくない
と言った。実父とは三面もせず死に顔を見せられた。兄とも数度しか顔を合わしたことが無く、死に顔で僅かな記憶を混乱させるようなことはしたくなかった。
死なれ・死なせ、死に顔を見て葬式に出て、それが何になるか。烈しく泣いてわたしはそう思っていた。
恒は不承であったかも知れないが、ま、落ち着いて下さい、取り乱さないでくれとわたしを遠くから宥めた。わたしは電話を自分から切った。
* わたしには「書く」ことが出来た。朝から「書いて」いた。そうすることで気持ちはよほど統御出来ていた。電話
でだけ一度泣いた。あとは静かに泣
き続けている。
* 十一月二十三日 つづき
* 京都の秦(恒夫)さんから佳いメールが来た。
* 先日は、茶道の展示会の入場券をお送りくださいまして有り難うございました。
家内がよろこんで使わせて頂きました。家内は、裏千家の免状を持っており自宅で若い生徒さんを集めて教えております。今日も、毎年恒例の紅葉祭りと称す
るお茶会の裏方で早朝から出かけております。修学院の曼殊院の近くのお茶室ですが、今年は京都市内の紅葉も半分枯れたような具合であまり期待出来ません。
寒くなりますので、どうぞお体を大切に。
* 植物学者の味わい深いメールもきた。
* 広東省広州で、中国最後の夜を迎えています。
あれから海南島へ足を延ばし、パパイアの調査をして週末に広州に戻りました。
その後は休日返上で、集めてきたサンプルの解析を、華南農業大学植物保護研究室の若い教授や学生さんたちと続け、昨日の午後からは、ホテルにカンヅメに
なって、レポートをつくりました。
今日の夕方、最後のお別れ会が始まる寸前にレポートができあがり、ホテルのビジネスセンターでプリントアウトしてもらった湯気の立っているレポートをお
別れ会の冒頭に中国の方々へ手渡すことができました。
今回の出張は、一日も休むことがありませんでした。
気は張っていても体は正直で、少しずつ体調が崩れてきましたが、なんとか滑り込みセーフで、日本に帰ることができそうです。
それにしても、このハードスケジュールに、中国側スタッフがよくつきあってくれたと思います。
私の専門のウイルスは、生物とも無生物ともいえない、核酸と蛋白質の複合体で、今回の調査では、その蛋白と遺伝子を解析しました。
こう書いてしまえば無味乾燥な仕事ですが、こうして外に出てみると、科学技術も人と人との関係ではじめて成り立つということを、あらためて強く感じま
す。
明日夕方上海経由で、日本に戻ります。
秦先生のために、おいしい老酒をさがしてみます。
ではおやすみなさい。
* 例の茨城臨界事故のあそこから極めて間近なと聞いている家からも、穏やかなメールがきた。
* いい秋でしたね。上野(公園)は長く工事中だった藝大の辺りがすっきりとして、そのうち、そのうちと思ってい
るうちに秋がおわりかけてきまし
た。
新酒のワインも傾けて、どんなお話をして秋の日を楽しまれたのでしょう。
22日は、夕刻から当番のおしごとでした。満月がとてもきれいでした。
今日もそれはそれはきれいな秋日和ですが、こんな穏やかな日には何をしていらっしゃいますの? 私は小鳥のためにパン屑を庭に撒きました。
日溜まりには何時までも夏の花が咲いています。
「しゅういざくら」という木を御存じですか。秋の今頃の紅葉が何とも美しい木です。櫻といいながら櫻ではないそうですが、けやきのような姿のいい木で
す。雑木には違いないのですが、この木が好きで、この木が紅葉すると、何だか暖かくておいしい食べ物を連想してしまいます。
11月が過ぎて行きますね。お元気で。
* 今夜はこういうメールに有り難く励まされている。
* 十一月二十三日 更につづき
* 心知る人の優しいメールが、力づけるように慰めるように届いてくる。ひとしお身にしみる。
* 秋が、逝きますね、おひさしぶりでございます。先生にご相談して、お見舞いにゆくのをとりやめたことがありま したね。もう、ずいぶん前のことで すが。その方が、11月19日に亡くなりました。75歳でした。病状からして,楽観はしていませんでしたが、まさか、こんなにはやくお別れすることになろ うとは思ってもいませんでした。お葬式の翌日、昨日の月は、まことしみじみ心にしみました。遠い昔から、月に、風に,、空行く雲に,,人は、思いを通わ せ、癒されもしてきたことを、あらためてはっきりと,さし示されでもしたように。言いふるされた言葉ですが、私が生きている限り、思い出す限り、亡くなっ た人は死なないのだと、その時はっきり思いました。先ほどから、外は静かな,静かな雨です。秋が、逝こうとしています。こんなお便りでごめんなさい。
* いたるところ青山あり、死なれる人がいる。死なせた人も、いる。わたしも、今日、かけがえのない兄の死を知っ
た。たった私よりも一つ半上。あま
りに早いではないか。
死に顔など見たくない。骨を拾いたくもない。
このまま、今日も明日も何年先までも、わたしが死ぬる日まで、兄はこれまでどおりに京都に暮らしているものと思い続け、心頼みに甘えながら生きて行きた
い。そして遺された子たちの上に、どうか平安あれと祈ろう。
* 十一月二十四日 水
* 雨を聴いている。ついさっき郵便局に走ったときより、雨粒が大きくなっているようだ。寒い、心の底まで。いま ごろは甥や姪が寂しく父を見送って いるだろう、彼らの上に平安あらんことを。
* 人さまの下さったメールを、おもむくままに此処に書き込むのはゆゆしき無礼であることを承知している。なぜ、
するか。一つには、これが、わたし
の「生活」であり、こういう出逢いやふれ合いを通じてわたしの「意見」も生まれ、「文学」も生まれ出るからである。そのなかに「わたし」が反映しているの
を見知っているからである。人の世の好もしい在りようが肌身に感じられるのである。娘朝日子の言葉を借用すれば、「魂の色が似ている」と思えばこそであ
る。
* 夕過ぎて、息子が顔を見せに来た。黙っておやじを慰めに来たのである。えらく忙しいらしい。想像以上に仕事の依頼がひっきりなしにあるというから、
けっこうなことだし、疲れもするだろう。怪我と病気のないことを願う。いろんな話をし、わたしのパソコンをのぞき、彼に買っておいた平凡社大百科事典の
CD-ROM新版を喜んでもって帰った。なんといっても建日子の顔を見るのが両親には嬉しい。車で帰って行くので疲れないうちにと、十時前には五反田へ帰
した。
* 母のちがう川崎の妹二人には、兄の死を電話で伝えた。妹たちの生母も一月余り前に亡くなっていた。死んだ兄と
この異母妹たちとは会ったことがな
い。彼女たちの母とは私たちも会ったことはない。
* 十一月二十五日 木
* 帝劇の好意で、浅丘ルリ子主演の「西鶴一代女」を妻ともども招いて貰っていたが、また意欲的な作品とも聞いて 期待し楽しみにしていたが、兄を悼 み、このたびは静かに過ごすことにし、券はご近所に譲った。この主演女優は何かしら意欲的なツクリでないと芝居に出ない人とも聞いている。それだけに西鶴 の傑作を「花組」との共演でどう創り上げるか期待していた。
* 明日はペンクラブの理事会で、また「ペンの日」である。「角川書店ヒアリング」に関連して少し面倒な問題が議 題になる筈で、本当ならば、言論表 現委員会を事前に開くべきだった。十一日に抗議文と猪瀬氏回答文案とがファックスで届いたとき、即座に事務局にそう伝えて臨時会を希望していたが、何故か 開かれないまま理事会を迎え、委員会検討抜きの委員長私案が、明日は報告されることになる。五十嵐二葉委員の、ぜひにも委員会で先ず話し合うべきだったと いうフアックスが事務局経由で届いていたのだが。
* バグワンの『ボーディダルマ』を読み上げて、昨夜からまた『究極の旅 十牛図』を読み返し始めた。無心を得た い。が、得たい得たいはそれもエゴ でありマインドの所為である。なにも考えずにバグワンの言葉と声に聴き入る夜々を重ねて行く。
* あすから新しい湖の本の発送に入る。例年の「月刊ずいひつ」のエッセイはもう送った。十二月のスケジュール
は、二十一日の六十四歳誕生日頃まで
真っ赤に予定が入ってきた。忙しそうではあるが、収入とは何の縁もない。一頃から見ればわたしは半分も稼いでいない。もうそんな稼ぐなんて事が、つくづく
面倒になった。貰うべきはきちんと貰うけれど、幸い夫婦二人であり、いまほど私自身ラクに生きていられた時期は過去にはなかった。いつも、もっともっとと
前に出ていた。その「もっと」が人を腐らせる。今は忙しさは忙しさのまま、じっと、それをも眺めている。そういう自分がいて、良いことと思っている。
* 十一月二十六日 金 ペンの日
* 理事会では、松本侑子会員提議の「盗作問題」に端を発した言論表現委員会への「角川書店召喚」と、その実施直
後の新聞報道、それに触発されての
角川書店のペンクラブに対する正式の強い抗議文来送、その事後処理等に関連して、烈しい議論がかわされた。
角川書店を言論委員会に呼んだのは、理事会決議に基づき「梅原会長の名」においてしたことであり、だからこそ角川書店も応じたのだと言わねばならない。
そういう会合の成行に角川書店がともあれ事後抗議して来たとあれば、それは当然「梅原会長主宰の日本ペンクラブ」に対してなのであり、抗議に回答するのな
ら、それもまた理事会の話合いを経て、やはり「梅原会長の名で」するのが先方への「礼」であろう。
その「礼」を満たすと共にきちんとした回答をするには、当然、真っ先に、あの会合の当事者たる言論表現委員会が会議し、抗議文をよく検討して、きちんと
論点を整理すべく意見交換するのが、当然必要な先ずの手順というものであった。まして今月は定例の十五日理事会ではなく二十六日と、二週間近くも遅いのは
一年前から分かっていて、討議の時間的余裕はしっかりと有ったのだ。五十嵐二葉委員もそれを提議し、わたしも事務局を通じて委員会開催が必要と思うと伝え
ていた。
* じつは、それより以前に、そもそも何で角川書店が、あの会合後に「厳重抗議」をしてきたか、そこが問題なので あり、それは、会議内容に関連し て、委員長猪瀬直樹氏が朝日新聞記者の取材に軽率に応えたのが、結果大きな新聞記事となって出たためであった。その記事を読めば、明らかに角川の非がかな り断定的に鳴らされている。非公開と思って出てきたのに会合の内容がいちはやく猪瀬氏個人により、内容もやや粗雑に公表されてしまった、それに対しての角 川の抗議文であったと見るしかない。
* そもそも委員会と角川三人の出席者との会合については、理事会に先ず報告し、ペンクラブなりの判断が付くまで
は、軽率に取材に応じるべき性質の
ものではなかった。我々委員は、会合内容の個人的な対外放出を慎もう、慎むべきだという話合いと申し合わせもしていたのだ。だからわたしも、その日の会合
の内容をホームページで論じることは避けて遠慮していたのである。
それにもかかわらず猪瀬氏は、単独で、理事会に報告もなく、すぐさま取材に応じてしまい、自然その報道された内容はある種の誤解を生じやすい偏りももっ
てしまった。猪瀬氏は、記者が取材に来たら応じて話すのは自分の自由で、当然の行為だと今日の理事会でも強弁を重ねた。だが、どういうことなら報道機関に
話せたかの委員会合意も無かったし、会談の内容は余りに微妙で多岐にわたっていた。とても難儀な問題であった。
そもそも、ことは、言論表現委員会の専決事項でなく、梅原会長ないし理事会決議に委任されて角川書店を呼んだのだから、少なくも「報告」が先であり、軽
率粗忽に委員長一存の話し方はすべきでなかつた。新聞社が取材自由なように、われわれもどう応じるか応じないかの自由と節度はもつのが大人の判断だろう、
まして裁判沙汰になって行く事例だけに、慎重でなければとは、そういうことに詳しい服部孝章教授も五十嵐二葉弁護士も警告していたのだから。
* 角川の抗議文が来た段階で、回答など少しも焦らずに、真っ先に言論委員会を緊急に開いてよく話し合うのが、各 委員に対しても当然な手順であった のに、いち早く猪瀬直樹名義の回答書案を書きファックスでまわす程度で、ことを急ごうとし過ぎた。そういうところに、つねづね「猪瀬委員会ではないよ、日 本ペンクラブの言論表現委員会なんだよ」と再々念を押さなければならなかった委員長独走の弊が露出してしまったのである。委員会の討議を吸い上げての委員 会意見が理事会に出されず、独り猪瀬意見があたかも委員会意見かの如く用意され理事会に提出された。会長ら執行部は当然言論表現委員会の討議を経てきた回 答案と思いこんでいたのである。「委員会検討を経てきて欲しかった」と梅原氏ははっきりと意外なことを聞くという顔をして、言った。当然だ。
* 以前「盗聴法」や「国歌国旗法」のときにも、こういうことがあり、委員会の結論とは逆さまの方へ猪瀬氏の個人 意見が理事会に出され、揉めたこと がある。たまたま私もまた言論委員であると共に理事として理事会に出ているために、委員長独走にかろうじてブレーキは掛け得たけれど、さもなければ、委員 会の意向と逸れた猪瀬氏一人の考えが理事会を動かしかねなかった。言論表現の自由を守ろうという積極的で且つなかなか難しい隘路にも迷い込みかねない委員 会だけに、委員会意向や結論が、委員長ひとりの意見によりねじ曲げられたり無視されたりしてはならないのである。極端なことを言えば、それでは、日本ペン クラブを誤らせかねないのである。
* もっと大事な困ったことは、角川書店の抗議文に付随して回答書を書いたために、本来の本質的な問題、「盗用盗 作は無かったのか」「盗用盗作とは どういうことを謂うのか」「作者と担当編集者ないし出版社の在るべき関係とはどういうものか」といった「著作権・人格権」の基本に関わる究明がお留守にな り、攻守の関係が逆転して、角川の抗議にペンが弁明するような按配になってしまったことだ。
* 繰り返して言うが、新聞記者が取材活動するのを止めることは出来ない。しかしいつの段階でどう応じるか、また は断るかは、こっちの自由な判断で あり、その判断を猪瀬氏は間違った。会合の内容を委員長レベルで公表するのなら、角川出席者との間で合意が必要だった。猪瀬委員長は立場上も慎重で紳士的 であるべきだった。もう一度言うが言論表現委員会は「猪瀬委員会」ではないのだ。係争事件がらみであるから慎 重にしましょうといった五十嵐二葉弁護士委員の助言も、うっかりは外へ話せない、話さぬ方がいいといった服部氏のようなその方面の専門家委員の声も、謙虚 に聴くべきであった。
* ペンの日の祝宴では、福引きで便利そうな時計を引き当てた。ものは食べられなかったがワインをよく飲み、一人
引き揚げて、銀座の「寿司幸」で酒
杯を重ねた。「ベレ」に寄ってもうすこし飲んでから、帰った。心もちは、ただ寒く、しんと冴えていた。こうして書いて堪えている自分が見えている。
* 十一月二十七日 土
* 兄は、いわゆるベ平連活動で、最もユニークに実質的な活動をしたと言われる「京都」勢の「要」の地位にいたと
聞いている。市民運動家としても思
索者、著述家としても良い仕事をしてきた人と聞いている。「お兄さんはじつに立派な男ですよ」と、私はかつて何人もから聞いている。例えば作家の小田実氏
からも、あのゴツンとしたもの言いで大きな声で言われている。鶴見俊輔氏にもそんな風に言われたことがあった。一つの物差しに過ぎないが、朝日新聞社の
『現代人物事典』にも「北澤恒彦」の名は挙げられている。
なにを言いたいか。兄のことを多方面の人々がきっと悼んで惜しんで下さるだろうと思うのだ。兄の死は痛ましいが、知らないままいてもらうには、仕事は社
会的に拡がり評価も受けてきたのであり、いわば「公人」である。どのような死であったにせよ、きちんと知らせて惜しんで下さる人に惜しんでもらいたい、悲
しん
でもらいたい。兄は、わたしも含めてとは言わないが、遺族だけのもはや「所有」ではないのではないか。葬儀は葬儀、それは密葬でよい。だがーー、死を、秘
して置かなくて良いように思う。
* 湖の本61巻めの『丹波・姑・蛇』を発送し始めた。
* 十一月二十八日 日
* 本の発送作業に没頭していることで、気持ちが救われている。それでも、とても気持ちが寒い。
テレビで赤穂浪士念願の討ち入りにも立ち会ったし、ひきつづきスーザン・サランドンらの巧みにそつのない映画「依頼人」も、発送作業をしいしい楽しん
だ、が、ふっと兄のことを考えている。もう二日ほどは作業が続いて霜月も尽きる。
* 今度の本は、「丹波」つまり我が生涯にあって特異な体験となった二十ヶ月の戦争疎開生活を、小説でも物語でも
ない、いわば自伝風の記録かのよう
に
書き出してみた。戦時ではあったが、年齢的にまた環境的に「戦争」と色濃くは触れ合わなかった。むしろ農山村の「自然」と「農暦」とのつき合いが私に刻ん
だものを、丹念に掘り起こして置いた。この時期は私の戦時国民学校三年終了から戦後小学校五年生の二学期までにあたる。
書いていて気がついたことだが、この年頃にわたしは初めて「親」や「大人」を批評的に眺める視線を持ちだしたようである。いろんな意味でいまの自分の文
学生活の根になったものと出会っている。その一つが「蛇」だと思うので、先日の金澤での泉鏡花についての講演録を『蛇ー水の幻影・泉鏡花の誘いと畏れ』と
題し一冊の中に取り入れた。大きな提言だと思っている。
* なにかしら、どこかしらへ、垂直に深く吸い込まれていきそうな寒さに身をさらしている。大丈夫。堪えられる。
* 十一月二十九日 月
* きのう、楓のみごとな紅葉と公孫樹の黄落に逢いました。少し離れた街の山裾の小さな公園で。
公孫樹はわずかの風にもさとく、「金色のちひさき〈扇〉」を零らしていました。時折鈍い音を立てて落ちてくるのは、銀杏の実でしょうか。
風もないのに、ある瞬間、申し合わせたようにいっせいに枝から離れて濃い紅が宙に舞う楓。樹の下に立って仰ぐと、冴えた青空のなかに濃い紅、黄がかった
紅が重なり、ふるえていました。
振りあおいでいるくちびるに紅のひとひらが零ってきて、やさしく触れてくれました。
あとで鏡を見ましたら、髪にもひとひら。
いのち終ろうとしている木の葉の、わたくしへの賜物。
お悲しみの先生に、風からひかりから賜物がありますように。
「湖の本」でお忙しかったごようす、どうぞ、おたいせつに。
* 闇の底を走り抜けて稲妻のように「声」が届いてくる。感傷はないが、無性に寒い。
* 十一月三十日 火
* ようやく発送の肉体労働を終えた。肉体労働ではあるが送り先の一人一人に思い入れて丁寧にするので、気草臥れ
もしたたかある。初めの頃は手順も
手探りで無駄な労力が多かった。さすがに手順は体で覚えてしまったが、十四年にもなるうち、体力も気力もどうしても衰え気味になっている。かきたてかきた
て自分を励まさないでは出来ない作業であり、途中で気が萎えたりすると、とても厄介なのである。ま、今回も無事に済んだ。送り届けた先々でどんな風に自分
の作った本が迎えられているかを想像するのは、おそろしいような楽しいような。
晩くにやっと荷を送り出して、夕食後に器械に来ていた沢山なメールを読んだ。
関西テレビで報道部の記者をしている、むかしの学生君から、元気で誠実な、気の弾んだいい便りが来ていた。大震災の被災地で特集番組に取り組んでいるら
しく、何れ全国ネットにのって放映されるだろうと期待したい。
富士通勤務の学生君も「お悔やみ」かたがた、実のある優しいメールをくれていた。
その中で、わたしの『日本史との出会い』を読んだ直後に秦建日子の芝居を観たら、ある登場人物が、「歴史を学びなさい」とセリフを言う、「あれはいかに
も唐突な感じがしました」と言う。実は、わたしもそう感じてくすぐったかった。富士通君もそう感じたのだなと思うと、くすくす笑えた。それにしても「歴史
に学びなさい」という同じ言葉を、この富士通君、最近に自分の弟に向かって、ついつい「口にしてしまっていました」と言う。これもまた面白かった。
日本列島の最南端からも佳い便りが来ていた。
* 美しい本が届きました。サインもあざやかに。
お礼申し上げます。清経を読み、枕辺に本を置いて休みましたら、夢を見ました。夢の中で、私は、大きな石の印鑑に篆刻をしようとしています。方形を縦横三
つに区切って、「* * * * (氏名)精衛填海」と入れるのですが、さて、一文字足りない。うーん、と唸ったところで目が覚めました。
沖縄の人は亡くなると、海の彼方のニライカナイというところへ行くのだそうです。死なれた人は、亀甲墓という、ギリシャ文字のオーム(Ω)型をした、大
きなお墓の前にことあるごとに集い、お重をひろげ、唄い、舞い、ときにはカラオケをして、故人をしのびます。親戚一同が実に楽しそうに一日遊びます。逝っ
た人が一番喜ぶ姿なのだと思います。
沖縄は暖かです。寒い秦さんに、南の薫風をお届けしたい気持ちです。お元気に。御礼まで。
* 優しく慰められ、すこし窘められたかなという気持ちで謹んで読んだ。
この人の読んでくれたのは今度の『丹波』ではなく、『能の平家物語』である。で、「夢」の話だが、山海経に、むかし「炎帝」であったか、その娘が、東海
に遊んで溺れて死んだ。娘は化して一羽の「精衛」という小鳥となり、口に小枝をくわえ運んで「東海を填めよう」とした。転じて徒労を意味する言葉となった
のが「精衛填海」で、かつてわたしは新潮社の書き下ろし作品を、一度は『精衛海を填む』と題していたが、発行間際に『みごもりの湖』と替えた。横綱に無敵
の北の湖のいた頃で、「湖」を「うみ」と訓んだ。永く代表作の一つとみられた。それが現在私版の全集名『秦恒平・湖の本』の由来にもなっている。
* さて四字の氏名に加えて「精衛填海」では八字で、三行九字には一字足りないと、メールにある。わたしなら、躊 躇無く「精衛不填海」とする。何故 かは即答したくないが、そういう気持ちである。
* いよいよ師走かーー。沸騰する思いがあり、冴え返る哀しみがある。
* この一年余に交歓し得た兄恒彦とのEメールを、原文のまま忘れ得ぬ記念に掲げておく。?記号のないものが、わ たしからの日付の記録できない返 信・発信分である。
? 差出人 :kitazawa@kyoto-seika.ac.jp
送信日時:1998/09/03 15:25
題名 :電子メール関係調査 平成十年九月三日
膨大な資料閲覧させてもらって、参考になりました。夫々に関心を持っておられ、何より回答者の多さに感心しました。
こちら図書館のノートパソコンという超小型の機械で練習がてら打たせてもらっていますが、これだけの量になるとちょっとびっくりというところです。それ
にいつものことですが、常用しているメカとタイピングの要領がちがって、なかなかスピードがあがりません。
やはり、これは年齢と関係するんじゃないでしょうか。80歳近くになると、(電子メディアに)関心はあっても、もういいやとなるのが自然ですし、必要な
ら若い人に代筆してもらう手もあります。目下、ぼくはそのてを使っております。立派な字を書ける人が電子メール以外受付けませんなどとなれば切ないことで
す。
それに、やっぱりコイツはアメリカに有利にできていますね。今のところ恨みはないけど、事と次第によって危ない気もする。
とにかく今日はだいぶ打てた。お達者で。シュアー別便で送ります。
(注 ペンクラブ会員の電子メディア意識アンケート結果のうち、文言による意見陳述を見てのメール。「シュ
アー」は恒彦刊行のオピニオン誌)
宛先:kitazawa@kyoto-seika.ac.jp
題名:御元気のご様子
恒平です.いろいろ、ありがたく、拝見.
京都から帰ったところです。対談して、南座で上方歌舞伎をみて。迪子も一緒でした。
猛君は元気なようで、なによりです。
御元気で御過ごしを。
? 送信日時:1998/10/21 14:50
題名 :ごぶさた
ハードディスクが壊れるとは怖いはなしですね。
こちら、九月下旬にヘルペスが胸から背中にかけて出て、この一月
身動きできなかった。普通に歩けることが、どんなにたいへんなことか、痛感しました。キャンパスなどを若い人がスイスイ歩いていると、わああ歩いとるとい
う感じ。シュアーの無理がでたようだ。
ホームページで近況を拝察し、変わらぬ気迫に感じいってます。まちがっても、ヘルペスみたいなアホなことにならないように。こんなこといえるのも、
ちょっと元気になってきた証拠かな。夫人によろしく。
題名:大事にして下さい
恒平です。
帯状疱疹ではなかったですか。それは神経系の難儀な病気で、痛みもあり、発疹もありきついのです。大事に丁寧に直して下さい。シュアのあの文字の小ささ
は、いろいろに響くと思います。眼精疲労からの神経系の損傷が帯状疱疹を招いたのなら、専門医の意見も聞いた方が良いです。大事にして下さい。
実は、今朝、水曜の午前に、精華大学の棟方志功展を家内と見に行きました。中尾(ハジメ)さんに挨拶して行こうと学長室まで行きましたが、授業中でし
た。あなたが風土論の講義をされているとは秘書らしい方に聞きました。雨でした。佳い展覧会で、ゆっくり楽しんでから午後三時過ぎの新幹線で帰りました。
東京も雨でした。
月曜に母の三回忌法要を遂げ、翌日は湖東の佐川美術館で佐藤忠良の彫刻展を見、石山寺に寄りました。美術館自体が優れて美術的で、出色の館です。石山の
多宝塔もすばらしかった。朝日会館の裏、高瀬川沿いの「なかむら」という画廊での吉原英雄展もいいものでした。京都で二泊というのはもう最近では珍しいこ
とで、のんびりしました。もっとのんびりしたいと思います。ペンクラブの仕事をはやくやめてしまいたいと思うのですが。
シュアは、ホームページ向きの気もしますね。あるいは同じ内容を二本立てということも考えられますが。著作権や親書の公開でやっかいな目に遭われません
ようにと祈っています。気を付けていても、ますます著作権問題は危なくなっています。
建日子はいよいよあやしげなテレビドラマなど公開するようで、なんともはや、辟易しています。黒川君の単行本出版も此のご時世ですから難航していないか
と心配しています。電子書籍コンソーシアムが動いていて、あす、わたしの研究会はその組織と、談話会をもちます。出版事情は動いて行きます、「本」のかた
ちが変わって行くのも目前のことのようです。 恒平 十月二十一日
このあいだ珍しく街子ちゃんが家内に手紙をくれていました。
? 送信日時:1998/10/28 15:27
題名 :お見舞いありがとう
わざわざ、お見舞いの言葉とアドバイスありがとう。
ヘルペスは一部こわばりと疼痛を残して、だいぶ楽になりました。ぶりかえす気配が感じられたら、おおせのとおり専門医の診断を受けるつもりです。病気は
いろいろなことを教えたり、考えさせてくれました。
前の通信を打っている頃、精華に足をのばしておられたことになりますね。秦さんが来てくれたようだ、と中尾ハジメからききました。お二人で、京都でくつろ
がれたとのこと、なによりです。
シュアはたしかにネット用の形式になっていますね。君のホーム・ページの形そっくりです。しかし、危惧されるとおり、中身が問題です。これはちょっと、
どうにもならないね。
それに、ぼくは親父が生きている間は部屋住みの身だしね。空間の組み替えが自由にならんのです。気楽なところもあるが。現在のシュアーが限界だなあ。あ
の字の細かさと眼精疲労とは関係ないと思います。あれは縮小コピーのカラクリですから。それより、やっぱりソウルを自転車で走るなんて狂気の沙汰の因果だ
ろう。それに井上(流の)舞のような柄にもない難問をとりあげたのがこたえた。これは正味参った。次回からは、初志にかえってシンプルにやります。
建日子君はガンバルね。黒川君のは、正直いってオレにはわからん。迷路じゃないのかね、あれは。
ともかく、タイピングはだいぶなれてきた。近くにいる親切なインストラクターのおかげです。夫人にくれぐれもよろしく。街子の手紙とはほんとにめずらし
いね。お達者で。
? 送信日時:1998/11/16 15:59
題名 :失敗お許しを
この前は、頂いた分まで返送しちゃってゴメンなさい。体の方はあらかた回復した感じですが、根をつめたことは、まだ無理のようです。
コンピュータは壊れるとたいへん怖い存在になるなあ。今日は授業で「祇園の子」に少し触れました。作者はわが弟であると威張ってもおきました。お達者
で。
題名 風邪でダウン 恒平 十一月十六日
ゆうべ遅くに急に猛烈な悪寒に襲われ、一晩苦悶。しんぼうよく熱を出し汗もかき、じっと寝ていて、今日午後遅くにはあらかた回復しました。なんとも調子
が悪いなあと思っていたらこのテイタラクです。お大事になさいますように。
少年時代を小学校の卒業まで、記録して置きました。ホームページに『客愁』の題で入れています。小説ではありません。あなたの少年時代はどんなだったか
な。いつか書いておいて下さい。
創君が引っ越して、またうちの比較的近くへ来ているようです。大いに「窮して」暮らしているとメールにありました。「窮すれば通ず」だといいですね。
建日子の火曜サスペンスは、失笑ものの駄品でしたが、事前にさすがに不安だったのかシナリオをもってきたので、あまりの無知蒙昧ゆえのまちがいなどは訂
正でき、赤っ恥は掻かずに済んだようでした。それにしても日本刀を、包丁や鎌ナミのかまどで独りで打とうというんですから、逃げ出したくなりました。そん
なしろものでも、これから多チャンネル化の時代で、消耗品作りに追い掛けられることでしょう、志が低いと言うよりも、無いも同然で。
お大事に、力をためて、元気にお過ごし下さい。 恒平
? 送信日時:1998/12/02 13:51
題名 :客愁、発見できず
お手紙ありがとう。風邪は治すときは、ああいう風に一挙にやらんといかんのだなと感心しました。こちらは、胸と背中に一部軽い痛みが残りますが,町医者
は心配するなと励ましてくれます。しかし、痛みは疲れと相関していることがわかるので無理はさけようと思います。完治せよ、という君の助言がそのつど頭を
よぎります。
建日子君、火曜サスペンスとは驚いたね。たくましいもんだ。とにかく餓死されては困るからね。創はその点あぶない。
「客愁」さがしてみたけど、みつけられなかった。エッセ?の欄じゃないんですか。少年時代のことはポツリ、ポツリと思いだすていどだ。高校時代以降を故意
に意識化しすぎた弱点だと思う。幼年期というのも大切だね。君の『少年』所収の歌を新聞でみかけたのを覚えている。あれはいつのことかな。
まだダメだ。タイピングに相当時間をくってしまう。メカは使い慣れたらべんりだが、初期段階でべらぼうに時間をくうね。これで落ちるひとが多いだろう。
でも楽しんで半日過ごしました。風邪は完治しましたか。
題名 客愁は、創作欄 5-8に。 恒平
寒くなりました。冷えると痛みなどこたえましょう、お大事に。
創くんのこと、ちょっと案じています。出版事情がよくないので、なかなか新人の大冊は本になりにくいかもと。長編を二編あわせるとけっこうな分厚さにな
り高価になり、たくさん売れるとは思えないところが、厳しい。あれで材料がちがっていれば、と、思います。
とにかく本のことでは焦らずに、同じ飢えるなら次の仕事へ取り組んで飢えた方がいいのではと。
建日子の方はただもう節操のない身すぎ世すぎのようです。一月末か二月初めのために、また別のドラマを書いたようです。誰一人ほめませんのも、当然で
す。しかし食わねばと言われると黙ってみているよりありません。
あさってに講演を一つ控えて、まだ、風邪はぬけません。咳き込むとひどいので用心していますが、寒いのは苦手です。十日頃からまた湖の本の発送です。
なにはともあれ、お大事に。師走は、なんといっても、いろいろあるものです。ご平安に。お互いに。
創クンに要注意と忠告されたバグワン・シュリ・ラジニーシ、もう二年余も、毎日欠かさず読んでいます。今は『道=タオ』老子を。バグワンに叱られ続けて
います。
? 送信日時:1998/12/16 15:22
題名 :客愁一部拝読
客愁、かなり膨大なものですね(収録されたものだけでも)。はじめの方一部と、ざっとどんなものかスクロールしてみました。初期小説の『祇園の子』、町
の切り取りが見事だったので、それと類比するスケッチに出会える楽しみもある。父親のダークな側面に筆が及んでいくあたりになると、やはり胸がふたがるな
あ。それでいて、なんとなく気持ちが落ち着いてくるのはなぜだろう。存在の奥の方で、鳴っている鐘のせいかな。
それにしても、上田秋成、でしたか、あれが中断してしまったのはどういうことかと改めて考えさせられる。
湖(の本)についても、今の成熟した筆で見限らないで書いておいてほしいとも願う。黒川創に目があるなら、ほんとうはそうした作業をひきつぐべきなん
だ。やんぬるかな、これだけは・・・。
こちらの年寄りは,長銀がどうとか、日債銀がどうとかいうごとに、思いだしたように大騒ぎをする。そんな心配なら、いっそ孫に渡して保全しておいたらと
いうのは理屈で、これだけはどうにもならんらしい。昨日も散髪代がおしいといって、何か手刈器のような広告をもってくるので、おおらかになりなさいと、無
益な説教を試みたら,意外と簡単にひっこんだ。東山(区)と違って、左京(区)の細民はかくのごとく軽い。
お陰さまで、胸の痛みは薄らいできました。お達者で。
題名:北澤恒彦さま こんにちわ。
押し詰まりました。もう学校に出られないかも知れませんが。新年も、どうぞ健康に、お幸せにお過ごし下さい。 湖
『客愁』で、ホームページには書き込まなかった、門外不出の一部分、念のためにあなたにだけ送ります。コピーされたら、器械からは消去しておいて下さい。
(以下・略)
題名:寒い日々。お元気ですか 恒平 平成十一年三月頃か
今は大学はヒマな時とも忙しい時とも言えそうですが、どう過ごされていますか。健康は宜しいですか。お大切にと、一言ですが、祈ります。
黒川君、苦闘していると思いますが、新しい仕事へ前向きに邁進してほしいと願っています。
? 送信日時:1999/03/18 14:59
題名 :漢字など
漢字の水準を巡る(文字コード委員会での)論争、面白かった。素人はこの程度の漢字で我慢せよとか十分とかいう
のはヒドイねえ。
(平野啓一郎の)「日蝕」は明らかにワープロ漢字による作品だ。あの工夫で、ラテン語など使わずに、それらしい感じを出せたんでしょう。今の人らしくて
笑えてくる。「くろい」という色など、君と同じ漢字をあてていた。
黒川創はいちど地におちるべきなんだ。死なれては困るが、底からはいあがる力がなくちゃね。
久しぶりに機械をなぶってみて、すっかりタイピングのカンがさび付いているのには参った。この道もなかなか厳しい。わざわざお便りありがとう。できるだ
け、睡眠をとるようにしています。
題名 :RE:創君の新刊 祝します。 恒平
恒彦様
やっと(黒川創著『若冲の目』)出ましたね。よかった。あの値段だから売れるとは行くまいが、忘れて、前へ踏み込んで欲しいです。
うちは結婚して四十年になりました。(大学)院をやめて東京に出てきた前後、やっぱりいろいろと大変なことでした。
私の養子縁組は中学に入る直前で、それまでは貰い子というより事実上預かり子だったのですが、最近、(父方実家の)吉岡は秦に養育費のようなものを支
払っていたのかしらんと想像しました。秦の家なら取っていたかもしれんなと思いつつ、ついぞ、そんな気配は感じていなかった。
都知事選です。どれもみな宜しくないのですが、石原、明石は好きになれないですね。
のんびりと過ごしています。読書と器械と酒。あまり健康ではないんですが。お大事に
恒平
我々の年かさの従兄の一人が、例の日銀の大阪支店長社宅を独り占めしていた時があったなんて、知ってましたか。ややこしい身の上です。しかしそういうこ
とからもすっかり解放され、そんな噂そのものも楽しんでいる始末です。もと「展望」「人間として」の原田奈翁雄さんが奮発しました、新雑誌「ひとりから」
創刊。
? 送信日時:1999/03/24 14:32
題名 :養育費のことなど
養育費というのはおもしろいね。仲介料というのはあったかもしれない。
(都知事候補の)明石さんには一つだけききたいことがあった。セルビアの指導者はみたところ、どういう感じだったかということ。彼はセルビア寄りを理由
にアメリカからほされたんだからね。聞くチャンスはあった。君と似た感じで、彼は立命の特任教授か何かしていて、例の(経済学者の)森嶋さん等とシンポ
ジウムをやったことがあるんだ。ところが、こうした席で異例にも明石さんの話は、よく言えば公平、悪く言えば毒にも薬にもならないと森嶋さんが言ったも
のだから、なんだか質問する空気が抜けてしまってね。とにかく、進退というのはむずかしいもんらしい。石原さんも今となっては滑稽だね。
建日子君は「食え」てますか。彼のラジカリズムはどこか「三島」を思わすと(劇場で観劇後に)走り書きさせられたことがある。あれはどういう意味だった
のかな、と、ときどきわれを振りかえる。
創のものが本になるのも、今どきの不思議です。
ご結婚四十年、この遙かなる持続に敬礼!
? 送信日時:1999/04/15 13:35
題名 :練習がわりに
「私(語の)刻」の読み方がわかってきて、面白く拝見しています。これでいちいち返事をもらわなくても、たいていすんでしまいます。今日のこれは、タイピ
ングを(忘れないための)手すさびです。
下鴨の「秦(恒夫)」さんからのメールの話、まるで小説そこのけですね。やるもんだなあ。
石原(慎太郎)さんは、かくなる以上、息子さんの政治的センスがノーマルなことを期待するのみ。取り巻きが少しましなら、本人はお人好しなところもある
ので、ある程度もつんじゃないか。
セルビアは深刻ですね。なにかが一つ狂えば、バルカンなどひとっ飛びで、大国間の争いに転化してしまったのが、第一次世界大戦ですから。もはや難民はも
うもとに戻せないですね。以上、練習がわりに。お達者で
題名:RE:雨しとど 恒平
恒彦 様
私は器械の文章は基本的に指一本でポツンポツンと書き込んでいます。片手にメモや本をもってする仕事も多くて、両手指を駆使してカッコよくやることは出
来ませんし、練習したこともない。指先の腹に目でもついているように、頭では記憶していないキーを指は的確に捉えますので、指一本でもあまり不足無く早く
書き込めます。
じつは我々の父のも母のも墓の在処を正確に知りません。墓参りをとは考えていませんが知らないのも妙に小さな穴がどこかに開いているような気がしていま
す。それにしても此の二人は遠い存在に退きました。私には秦の両親と叔母の三人がこのごろ真近身近にいつも存在します。それでよしと思っています。
東京にはときどき見えているのですか。銀座松屋裏に、ラフな、けれどうまい寿司屋があります。最近は酒も出します。気が向けば声をかけてください。
大学には何曜日に出ていますか。メールを開かれるタイミングを知っていたいので、教えて下さい。吉田が多いのですか、伏見ですか。急の電話はどこへ。
建日子、テレビにはまっている様子。ときどき、つまらない質問をしてきます、七十七は何寿かなどと。朝日子も孫も、行方も知れません。この年になると行
方知れない旧知が多くなるのは自然現象のようです。 お大事に。 恒平
? 送信日時:1999/04/19 16:40
題名 :登校日は
登校日は月曜です。他に水曜にもできるだけ出るようにしています。ただ、ときどきノートパソコンが出払っていることがあり、そういうときはお手上げで
す。練習といったのは、ローマ字打ちしかできないので、その変換がうまくいかなかったり、機械の気まぐれのようなものに振り回されたりといった初歩以前の
ことで時間がとられてしまうのです。やはり、機械にも個性があって、最小限慣れがいるようです。
緊急連絡先をきかせよ、ということですが、この点ホームレス同然で、どうしても留守番電話ということになってしまいます。近頃は年寄りのこともあって、
吉田(に在る親の家)に泊まることが多いです。ぼくのようなものこそ携帯電話ドコモがいるんでしょうが、どうもね。勢い,つき合いつき合いの輪はどんどん
せばまっていきます。
「「私(語の)刻」はいいですね。
建日子君はやってますね。幼稚な質問というけれど、こちらはそれ以下だ。時間切れ、今日はしつれいします。君こそ、体に気をつけてください。
? 送信日時:1999/04/26 15:33
題名 :コソボとは
ホームページ拝読しています。ちょっと芯の疲れる状況に見舞われているので、その都度なにか書くのは無理かもしれませんが、励まされたり、ときには慰め
られる気持ちで開いていると思っていてください。(恒平のホームページに書いた)「京都案内」にそってぼくももう一度歩いてみたいですね。ようやく片足に
痺れがきてしまった。
猛によると、ルーマニアの貧困とジプシーへの蔑視はすさまじいものらしい。子供をはねても、わいろさえ払えばなんとかなるといった類の構造らしい。コソ
ボも似たようなことがあったとみていいんじゃないか。ベルグラードには品位がある。コソボにはその裏返しがある。深刻さとはそういうことではないか。
題名 恒彦様 コソボとは。
たいへん含蓄の深い把握で、つよく共感します。人間の誇る品位なるトリックを怖れかつ認識せざるを得ないとは。
私の掌はいつでもかすかに痺れています。指先がほんとに利かなくなりましたよ。
お大切に。
猛君は電子メールしてくるのですか。
創君の『猫の目』の方を読み返しました。猫の目のようにくるくると好き勝手げに場面を貼絵のように置き換えて行く手法、感覚的に面白いのですが、ミスリ
ンクの妙味を打ち出すほどの把握の強さにまだ欠けていて、渾然といかず、混雑感を読者に残すだろうなと惜しく思いました。文藝の才とセンスはありますね。
頑なに固い蕾ですが。
小説の文章へ熟して行くには、書き慣れた批評や雑文体とのかなり苦しい闘いが続きそうで、がんばれよと言いたい。 恒平
コソボとは。お返事
実はあなたからのメールのあなたのアドレスに誤記があり、そのまま返信したら戻されました。改めてアドレスブックから引いて送り直します。 恒平(上記
の文)
? 送信日時:1999/04/28 16:32
題名 :ちょっと体調がよいので
今日は少し体調がよいので、かけるときにかいておきます。猛は電話してきたのです。めずらしくぼくが取れた。
ルーマニアの学生に気にいられて、どうしても彼の故国をみせたいと猛を連れていったんだそうだ。たぶん車をつかったんだと思う。そのルーマニア人が、
「もう、このあたりで引っ返そう」とビビリ出した(猛の表現)というんだから、ともかくそれほど危なかったんじゃないかな。
くわしくきけなかったが、たぶンハイジャクの危険といったものでなく、治安警察のあらっぽさ、なにをされるかわからんという不安、恐怖じゃないかと思
う。チャウシェスキ大統領夫妻をああいう形で銃殺したあとの、権力の空白は、微視的領域でこういうヒビワレを日常茶飯事にしていると容易に想像できる。
しかも、このルーマニアの現政権は
natoに追随しておこぼれを狙っているんだが、こういうことは何の違いもうまない。ここもまたコソボなんだ。「すさまじい貧困や」と猛はいっていたが、
これを視覚化するのは、衛生状態を思い浮かべるのが一番近道だろう。クソの山さ。
猛は誰かがコンピュータをくれるようなことをいっていたが、eメールのことも念頭にあるのかもしれない。しかし、彼を通信員に仕立てるより、彼独自の思
索を重ねさす方が先決のように思う。彼には小田実にはないサムシングがある。先のルーマニア人が果たして男だったのか、と、ふと思った。家族に彼をみせた
かったという動機は十分女であった可能性もあるね。
nato介入の誤算、というのはむしろたやすい。しかし、アメリカはともかく、英国の世論がことここにいたっても、変わりなく強硬でブレアに微塵のユラ
ギも感じとれないのは、判断材料として過小評価できない。ボスニア・ヘルツゴビナ当時にかえって、bbc記者の記録をみても、ミロシェビッチに対する評価
は実にカライ。なにかひどいことがあるにちがいない。同時にテレビ画面でみるかぎり、じつによい表情している司令官がいて、それがセルビアの古い貴族の名
称と同じだったりすると、ひっくるめて国際法廷にくくりだすような荒っぽい世論は、たいへんな反動を引き起こすのではないかと、正直いって、こわい。その
あたり、例の明石さんにききたかったのだが、バカなことになってしまった。せっかくアメリカに抵抗してセルビアに慎重に接しようとした意味を、本人はなん
にもわかっていなかったということだ。これでは、アメリカのみならず、ヨーロッパにもみくびられてしまう。
ヨーロッパの中心的政権は軒並み左派政権だ。イタリーなどグラムシの流れをくむ旧共産党だ。フランスはシャッポはドゴール派のシラクだが、下部構造をに
ぎっているのは社会党。これは日本のそれとはちがう。党首ノジョスパンは、ぼくのみるところ深い人文的素養をもつ、もっとも魅力的かつ清廉な政治家だ。党
内の異論派を含めて、彼が説得に立ち上がる姿は、まさにフランス革命の言論とはかくやと、おもわせる。言論に命がかかっているのだ。一つ狂えば断頭台いき
というあの伝統がね。こういう連中が寄って狂気の方向をつっぱしるとは、まず、ぼくには思えない。ミロシェビッチは見事なまでに孤立させられている。
ねがわくば、政治的決着がつくあかつきに、ミロシェビッチらの縛り首ということにならぬよう、その面でも賢明な妥協がはかられることを期待するのみだ。
ともかくセルビアを中核とするユーゴスラビア共和国は、スターリンの干渉を排して、西側ともっとも親密な社会主義国であったことが忘れられてはならな
い。ということは、意外なほど双方間に人脈の交流があって、核心的情報を共有しているのではないか。ベルグラーッドはスラブ的といっても、泥臭い方のそれ
ではない。君が(ホームページで)遺憾としていた放送施設攻撃も、その番組作成能力の高さからみて、まったくその通りで、惜しかったなという気持ちが残っ
た。ユーゴはある意味で、非常に洗練された最後の社会主義国といえるかもしれない。そうだ、まさに、今世紀最後の社会主義国の挽歌であるのかもしれない。
隣りの家が鉄筋三がいに建て替えるといってきて、長屋が切り離されたら倒れるとオヤジがさわいでいる。いつつぶ
れるかわからん家でグチをききなが
ら、ぽつんと暮らすのも面白いかもしれない。こういうことは、まったく芯はつかれない。しかし、わが家こそ、ご町内のコソボかもしれんな。
創の作品でいってもらったこと、たいへん示唆的でした。創作面のことはわからないけれども、どうも薄っぺらく相手を作っておいて、それをたたいて得意に
なってるなと感じたことがいくつかこれまでにありましたね。
今日はだいぶ練習になりました。ではまた、いつか。
題名 恒彦様 体調よいのは喜ばしく。
たくさん教わりました。ペン総会の小田発言などホームページで御覧の上のことと思い、それは繰り返しません。感謝だけを。 恒平
? 送信日時:1999/05/06 11:36
題名:前信届いていてビックリ
連休前の(こっちからの)通信が届いていたとは、ビックリ。
こちらの記録では、消えてしまったか、どこかあらぬ方に飛散してしまったようだ、というので諦めていたのです。sureもあわせて目をとおしていただけ
たようでなによりです。
建日子君のシナリオいつかみたいもんです。創のものに懇篤な批評をいただいたのに、ぼくはまだ(息子の小説を)再読できない。どうも本を読む気がしな
い。律儀に読んできたジャンルは、もう前ほどの集中力で再読できそうにないし、新しい、異質な分野になれば、なおさら無理という感じだ。こうなれば、「う
しなわれた時をもとめて」ではないが、記憶の中で熟成しているヤツを使って、自由なコラージュでやるより手はないというという気がする。少なくとも、当分
はね。体調は一定せず、とにかく境目だね。「しご(=私語)の刻」と「みずうみ(湖の本)」が、ますますありがたくなってくるようだ。大切にしてくださ
い。
? 送信日時:1999/06/07 15:59
題名 :ホームページ熟読しています
恒平さま
ホームページ熟読していますと、ひとこと。
中世論、いただいたもので、だいたい今までに目をとおしているんですね。だからといって、飽きさせない、これが古典の特質とは、丸山真男の言。丸山さん
をもちだすまでもないか。
お達者で。恒彦
? 送信日時:1999/07/14 11:39
題名 :志賀直哉のことなど
恒平さんに
志賀をおもしろく読んでおられるとのこと、楽しみですね。
テレビ司会の田原さんのこと、人相がわるくなったと、ご立腹の様子だったが、ぼくはもう少し点数があまい。あんな番組をこれほどもたせる人がまともな人
相でいられるはずがない。それはそれで一つの才能だと思います。
彼がテレヴィに登場する以前に、商社マン批判が世を風靡していたとき、彼の書いたものをいい感じでおぼえている。ニューヨーク派遣の商社マンが、自分ら
が販路の敷石をあくどいまでに敷き詰めていくことで、安定的生産を可能にしてるんだ、と語るインタビュ記事だが、商社虚業論の風潮のなかで異彩をはなって
いた。ぼくの保守主義で、こういう記憶が甘い点数のもとにある。
梅原猛さんがいい顔になってきたことに満点異議はないし、だいいち田原のテレビなどほとんどみないが、土井たか子よりはマシじゃないか。
共産党が君に寄稿を求めるまではいいが、やんぬるかだね。森嶋通男さんが、同じようなことを解放同盟の関係で経験し、がっくりきていた。この国の最も深
刻な主体的危機だと思う。ともかく命を大切に。
(「アカハタ」が原稿を依頼して置いて、党に都合が悪いと掲載を渋りボツにすること。)
? 送信日時:1999/08/11 13:48
題名 :江藤さんのことなど
江藤さんのこと。苦心して翻訳しておいてよかったと、いまになって思います。オールソンの原文があとになるほど
江藤に批判的になっていくので、訳
文までそれにつれて非礼な調子におちいらないように注意したつもりです。江藤作品の引用を全部、日本語であたりなおさねばならなかったのは往生した。あれ
は、ぼく一人では無理だったね。おかげで、だいぶよめました。こういうことは、もっと早く記しておくべきだろうが、気が重かった。
それにしても、刻々とかきためられていく、この(ホームページの)コラムにはまったくおそれいってしまう。
これが書くことのプロフェッショナルな姿なんだろう。真似はできません。
年寄りの長屋にも世代交代の波が訪れて、となりもビル改築するらしい。こちらが倒れたり、雨漏りさえしなければ、別に文句はないが、せわしいことになっ
た。
猛のことも少し気になるので、秋口にでもいってこようかと思っています。ヨーロッパは同料金なので、できたらダブリンにもと虫のいいことも考えていま
す。
この便りはなんの意味もない。日ごろのアクセスのお礼のみ。ご自愛のほどを。
? 送信日時:1999/08/23 12:21
題名 :電話のことなど
絵の切符とおたよりありがとう。まち子のでんわ、携帯で*********です。どうしているかと電話をいれてみたら、まだ通じました。
ときどき図書館にでてきて、「私(語の)刻」をひらきます。その他のコラムも開くべきなんだろうが、とうてい手がまわらない。一欄で十分堪能です。
君が代の代わりに、さくらさくら、とは感心した。(瀧)廉太郎の花もいいが、これは鴨川あたりが怒るかもしれないなあ。
ときどき、血圧が100をきって、さすがそのときはしんどい。真っ黒な顔をして、こういうことをいうのは、ちょっとしたブラックユーモアーですね。君は
どうですか。くれぐれも気をつけてください。
猛はだいぶいきずまっているらしい。年寄りもいいが、やはり若い人が心配ですね。
夫人によろしく。
? 送信日時:1999/08/23 14:02
題名 :追伸
通信をおわり、ホームページをあけると、(学生の)「K」くんを相手にした松園論を発見。たいへんな力作としかいまはいえない。ときをあらためてよみな
おします。恒彦
題名 恒彦 様
猛くんのこと、SUREで、彼の手紙読みました。鴎外とは違った「新・舞姫」を書いて、地下の太田豊太郎を震撼させてみたいものです、彼は根性が太いか
ら突貫すると思いたいですね。
それよりも黒川創が、ややへばっているようで、電話では、率直に「しんどい」と笑っていました。ただ、新しい長いものも書き上げたようで、その行方しだ
いで頑張れるのではないかと、文運を祈っています。父上に暫く会っていないとも言っていました。励ましてあげて下さい。
わたしは、見た目相変わらずの毎日ですが、ホームページとメールのおかげで、日々にリフレッシュを心がけることが出来ています。八月は、いろいろありな
がらも、休息に近い日々ももてました。九月は早々からまた会合などが続きます。下旬には京都で「きりがね」の作家と対談します。
血圧の「上」が低すぎるのはつらいですね。わたしも低血圧の方ですが、そうは低くないと思います。「下」が100だと、これは高すぎますが、そうじゃな
いのですね。熱帯夜がつづくので、夜は三時ごろまで起きて本を乱読し、二三時間寝てから早起きの猫のめんどうを少し見て、そのまま起きるか、また寝入りま
す。じつに気ままにしています。
この頃の読書の中軸は志賀直哉全集です。まことに興味深い人です、作品以上に人に興味が持てるのですが、そうさせるのは「作品」なのです。
発送の用意に戻ります。 お大切に 恒平
題名 ありがとう存じます。
なにかのおり街子ちゃんに、家内から電話をさせてみます。 恒平
? 送信日時 1999/8/25 11:41
題名: 留守すること:
わざわざありがとう。
少し留守がちになります。みずうみ、おくっていただいて応答がおくれたら、そういうことだと了察ねがいます。
九月にはいったら、猛のところと、交通運賃がそのままなので、ダブリンに足をのばしてきたいと思っています。ゾンビみたいな老人をかかえ、かえってきた
ら隣りの家をぶっこわす事態が待っているのに、まったく無謀なハナシです。しかし、どう考えても、今しかチャンスがないきがする。猛にあえるかどうかも確
信がないが、会えれば、君の励ましを伝えます。喜ぶでしょう。事情のご通知まで。
題名 恒彦様
なんだか「敢行」の気配ゆえ、よけいに心配します。命や健康にかえてまで敢行するほどのことは、この年になる
と、さすがにあまり見つかりません、
まだ若くて元気なんだとおもうことにして、ただ、充分気をつけて欲しいとだけ申します。無理と不自然とを極力避けて、途中で怪我なく、病みつかないように
願います。
九月末から十月あたまへかけて建日子が下北沢で公演します。八月三十一日には、どうしようもない火曜サスペンスを。わたしは観たくもない。ぽつぽつとテ
レビのしごとが続くようです。
湖の本は、もう一週間以内に発送になります。送っておきます。
街子ちゃん、いちど電話して通じることだけ、確かめました。
くれぐれもお大事に。 恒平
? 送信日時 1999 /9/21 17:54
題名: みずうみ拝受
予定どおりダブリン、ウイーンからもどり、みずうみの本拝受しました。ご心配をかけました。年寄りが生きていてくれ、(もちろん医者の助力によって)、
今のところ自分もこうやって生きているわけですが、いずれが欠けても破滅的なものでした。それほどの値打ちがあるか、といわれれば、答えにくい。
猛はアトピー体質で、オーストリアの乾燥した気候があっていると元気でした。この点では、嬉しい見込みちがいでしたが、もはやぼくの手のおよばぬ所に彼
が出てしまったという感はぬぐえなかった。
旅に彼はぴったり付き添っててくれたが、これほど至福で、悲しい旅はなかった。ダブリンとは、そういう街のようです。
ここで倒れればお笑いぐさですから、気を引き締め、長屋の破壊に立ち会うつもり。久しぶりでキャンパスで若いひとたちにあいました。やはり、いいもので
す。
猛はおじさんをたいへん誇りにしていました。
? 送信日時 1999/10/12/ 14:34
題名: ひとこと
みずうみの中世論、家の老人が入院中で、なにか歴史もんないかというので、貸してやりました。どうだ、というと「むずかしいけど、おもしろい」そう。不
思議なものです。
題名:RE:ひとこと
恒彦様
先日、恒くんが電話してきました。べつに何と謂うことは無かったから、会いたかったのかなとも思いましたが。そのままになりました。新しい書き下ろしを
朝日新聞社から出せそうだとか言っていましたが、そのわりに元気というか覇気がなくて、なんだか、へらへら笑ったりして、調子が低かったのが気になりまし
た。家に引きこもりで人離れして人嫌いになっては、彼の良いところが薄れてしまう。
一人暮らしのようですが、彼が、なんであの**さん(前妻)と別れたのか、いまもって何も聞いていないので、心残りです。
恒くん、あれは独りボケしてるのと違うやろか、などと思っています。元気にならな、いけません。電話のことだし分かりませんが。
そちらお変わり無いですか。お大切に。十月二十三日に、金澤で鏡花の話をしてきます。
恒平
(以上で交信は尽きている。通常の郵便物は他に相当数在る。)
* 十二月二日 木
* ウイーンから、父北澤恒彦との永訣と葬儀にかけつけた甥の北澤猛が、遺書や写真を京都から持参、我が兄の最期
などを告げに訪ねてきてくれた。一
夜を語り明かし、わずかな睡眠の後、今日も午後二時半まで父を、兄を偲んで時を喪うほどに語り合った。おそらくは恒彦も、場に加わっていたことであろう、
甥は父の最期の旅となったウイーンからプラハやまたダブリンまでの十日余を、ひしと付き添ってともに過ごしてきた。
帰国して、彼の父は、わたしの兄恒彦は、やがて自身を処決した。数通の遺書はしっかりした書体で、常平生よりもよほど読みやすい正確な文字で、どれも簡
潔に、兄の真情と身体の衰弱をかなり的確に語っていた。そしてそれについてわたしは何も付け加えるものも付け加えたい気も無い。わたしを名指しの遺書はな
かったが、一通、宛名のない簡潔なものがあり、わたしは、それが兄のわたしへの述懐と、しかと受け取った。
* 帰国以降、大学へ出るのも、講義の用意をするのもよほど大儀であったらしい。兄はEメールのため大学の図書館
かどこかにある器械を、慣れない手
つきでやっとここまで使えるようになっていたので、出講の月曜日に限ってメールを呉れていた。わたしのホームページもよく見て、反応してくれることが多
かった。
八月末の「留守すること」というメールは、最初の部分が三行ほどあいていた。何か書いた文章を送信前に削除したのではないかとも感じた。このメールに心
配し、内心はどうか無理な長旅は思いとどまって欲しいと思ったが、兄が行きたいものを引き留めることはしたくもなく、出来ることでもなかった。
行って、そして息子との至福の時をもったことを、今となれば、良かったと思う。肝硬変が末期化していたかもしれないと漏れ聞いている。事実は知らない。
老父をあえて遺して逝ってしまった、そこに兄の秘めた「覚悟」や「配慮」をすら感じている。感じているだけである。
* 猛によれば、明けての一月に、鶴見俊輔氏や中尾ハジメ氏らのお世話で「偲ぶ会」が計画されるらしい。兄のため に喜びたい。願わくは遺児三人が誠 実に和やかに父恒彦の遺書の遺志を尊重し、霊を慰めて欲しいと、よそながら見守っている。ちょっと世人の理解しにくいかも知れない奇妙な運命のもとに、生 まれてすぐ生き別れ、以来僅かに数面、また死に別れてしまった兄と弟であった。それすら互いに戸籍の上では証明できないのである。それで良かったとも思わ ないが、それが悪かったなどとも執着はない。親類とか親戚とかいった実感も拘束もお互いにきれいに棚上げして、兄は私をただ愛してくれたし私も兄を深く敬 愛してきたのである。幸せな兄弟だった。そうあって欲しいと死ぬる日まで切望していた生母や実父も喜んでいたと思う。そして今は静かに恒彦を迎え取ってい ることだろう。
* もう再々は兄にふれて書くことは無いかも知れないので、「闇に言い置く」ことが、一つ在る。
* 私の最も早い時期の小説に『畜生塚』がある。のちに新潮に出し桶谷秀昭氏に賞賛されたなつかしいものだが、こ
れを最初の私家版に収めたときに、
わたしは、一度も逢ったことのない兄に宛てて送っていた。兄はすばやく、強く反応した佳い手紙をくれたが、中でも心籠めて強く共感してくれていたのが、作
中に書いていた「本来の家に帰る」という作中の語り手の考え、いや祈願、についてであった。
人は死んで本来の家に帰る。此の世は旅である。旅から帰って行く本来の自分の家には、自分が愛した、自分が愛された、全部の人がともに帰って行き、とも
にその家に住む。そういう本来の家を、一人一人がみんな持っていて帰って行く。「私」はそんな自分の家に帰って作中の「妻迪子」とももちろん、妻のたえて
知らないヒロイン「町子」ともきっと同じ家で仲良く住む。しかし「迪子」の本来の家では「私」もまた必ずともに住むだろうが「町子」はいなくてもっと他の
迪子の愛した人たちが一緒に暮らすだろう。同じように「町子」の本来の家にも「私」は必ず一緒にいるが、「迪子」の姿はそこにはなく、もっと他の町子の愛
した母やだれそれが一緒に暮らすことだろう。そのようにして、多くを愛し愛されたものほど、死後には多くの人の家で多くを満たされて生きることになる。孤
独地獄とは、本来の自分の家でだけ、ただ孤り・独りで永劫生きるしかない者の絶対苦を謂うのではないか。
ま、そう謂ったことを「私」は「妻」にも「町子」にも作中で語っている。
兄恒彦のこの件りに関する共感はちょっと作者の私をも驚かせるものがあった。そして後に兄は『家の別れ』という独特の詩的文体の思想的自叙伝により、実
の親たちや養いの親たちや家庭にふれた覚悟の著作を公にした。兄がどれほどの著作をしどれだけの原稿をどこに書いたかを詳しくは知らないが、『家の別れ』
は兄を最も多く代表したものであったように感じている。それを話題に「思想の科学」で瀬戸内寂聴さんと兄とが対談していたのを読んだ覚えもある。
そして兄の生涯の様々な市民活動のなかで、一つの拠点として成果をあげていたのが「家の会」だったようだ。兄はロマンチストであるとともに、第一次火炎
瓶闘争の高校生の昔から、一貫して優れて実践的また合理性的な不屈の闘士であったらしい。その一方で兄はわたしが遠くの方にいて谷崎や茶の湯や短歌などの
世界で己れと向き合っているらしいことを「良かった」と見守ってくれていた。そういうことも人づてに漏れ聞いていた。
『家の別れ』といい「家の会」活動といい、あの「本来の家に帰る」という、未だ逢わざる弟の夢想のような想いにあんなに感じ入ってくれた若き日の兄と、
無関係だとは私は思わない、思えないのである。それを、舌足らずながら言い置くことは、二人にとってなにかしらかけがえなく大切なことに感じられる。わ
が、只今のmourning work=悲哀の仕事、である。
『死
から死へ』以上 ーー