平成十一(1999)元旦から歳末までが入っています。
但しこの頁に含まれるはずの、江藤淳処決を報じた平成十一年七月二十二日の記事以降、同年十一月末日に至る内容
は、
「秦恒平・湖(うみ)の本エッセイ」第二十巻に『死から死へ』と題し、長編の一作品として平成十二年二月二十日に刊行後、本文のみ、「創作欄10」及
び「宗遠日乗 3」に一括して収録してあります。「
平成十年分は 「宗遠日乗 1」に入っています。
平成十二年分は、「宗遠日乗5.6.7」に入っています。
宗遠日乗
「二」
闇に言い置く
私語の刻
* 謹賀新年
日々新たに、お幸せにと祈ります。
満月にもう少しなる大晦日
こぞことし架け渡す橋はまぼろしに灰のごとく浮 けり渡らざらめや
今年もどうぞよろしく。
秦 恒平
* 一月三日 日
* 元旦を迎えて早々に、息子たちが保谷に帰ってき
た。三日の夜までいてくれたので、近年にない賑やかな正月になった。
二日には東工大の頃から演劇を始め、院を出て富士通に勤務してからも演劇を続けている卒
業生が、女友達で、一緒に演劇をやってきた人と訪ねてきてくれた。息子は作・演出の仕事に加え、最近はテレビシナリオなどで仕事の幅を広げているし、パー
トナーは映画やテレビに出演してきた女優であるから、若い人たちの会話をそばで楽しんだり冷やかしたりしているだけで面白かった。
こういう正月は、何年かぶり。三ヶ日、ほかには、何もせず、年賀状に返礼を五十人ほど書
いた。来たのはその七八倍あったが、湖の本の読者には、歳末配本のなかでご挨拶しておいたので失礼させてもらった。
メールの可能な先にはメールでご挨拶。返礼も大勢あった。
* ペンの専務理事の小中陽太郎氏が、恒例になってい る関西四国の方の放送で、四国大橋にからめて私の年頭の短歌を披露したと言ってきて下さり、恐縮した。私としては、老境の寂びしみに触れた述懐であった が、元旦の四国大橋が、昧爽の瀬戸内海にうかぶすがたにうち重ねられたと知り、そういう光景にも言い得ていたのかと、短歌のおもしろさをまた味わうことが 出来た。小中氏に感謝。
* いつもだと新年は新年なりに、今年はどうだろうと
不安ももち、頑張りをみせて仕事をいきなり始めたりしてきたものだが、今年はそんな気はあっさり振り捨て、せっかくの正月を息子たちと楽しもうとばかり考
えていた。「日課」も、すべて、やめかけている。とらわれて日々生きるのはもうやめていいと思っている。
その気になれば、私には何の義理もしがらみもない。親をすべて無事に見送ったし、子供の
ことで苦しむのはもうやめにした。夫婦の健康を第一にしながら、愛している人たちとのこれからを豊かにはぐくみ続けたいと思う。不徳ではあるが、孤独では
ない。
* 一月五日 火
* 仕事を、ゆっくりと再開した。実に長い間、仕事は
大小とりまぜると、月に十四、五は併行して欠かさずあった。我流のスケジュール一覧を日割りにつくって、克明に書き込んできたものが優に三十年分ほど溜
まっている。これがなければ混乱して迷惑をいっぱいかけただろう。おおよそは、間違いなくこなしてきた。原稿をついに書かないという例は三、四あるが、数
千を越す仕事を、締め切りすぎて迷惑をかけたということは、あまり、ない。今でも平均して十二書き込めるスケジュールはいつもほぼ満杯になっている。ただ
しこのごろは中に日本ペンクラブの会議や、また十三年来「湖の本」の刊行という項目もくわわっていた。これらは稼ぎ仕事にはならずに、しかも、けっこう忙
しい。
今年からは、情報処理学会の「文字コード標準体系検討委員会」の会議が加わる。これは、
よほどのおおごとで、理事会に指名され参加はしたものの、気は重い。文字について勉強が必要になる。好奇心だけが気の支えである。なにしろメンバーの殆ど
全員が文学文芸とはほど遠い技術や行政や器械関連の人たちで、ペンの電子メディア研究会のメンバーでもある東大の西垣通、坂村健両教授以外は一人も知らな
い。文芸家協会から出てくる中沢けい、川西蘭などという娘息子世代の作家も知らないと同然で、どうにもならない。だが、それも面白いではないかと思うこと
にし、しばらく参加してみようと思う。歯が立たねばさっさとやめたい。
* 年頭の一のバカモノは、「憲法に反対」を公言した
法務大臣だ。何に誓って閣僚になるか。いまだに天皇陛下に承認してもらえば最高だと、法務大臣すらが考えていた。天皇を象徴であると規定している日本国憲
法に対しての忠誠など、全く持たずに法務大臣に任命されて受けている。「憲法」に誓って大臣になる「当然の手続き」が任命認証に備わっていないからだ。
もともと「大臣」という二字がおかしい。「国民に仕え憲法に誠実な」という一句を前にく
つつけたがよかろう。
腹の中で憲法をあざ笑いながら日本国憲法の規定する内閣の閣僚に、のほほんとなってしま
う知性の低さ。愚劣さ。憲法に反対なら閣僚にならずに所信を主張せよ。それは自由である。二度とこういう男を国会に送り込みたくない。
私は法至上の思想はもたない。法三章で足るならいいと思っているが、そうはいかない。法
は絶対に守らねばならないと、ソクラテスのようなこともこの現代の日本で唱える気はない。法や規則はどこかで背かれる性格、背かれても大事ない性格も内包
しているものだと思っている。人の方が法よりもつよくて大切な社会が、いい。憲法はもっとも基本の大枠であり、今言ったようなことを日本人にじつは許して
いる面も内包している。だからこそ私は憲法には一応の強い敬意を払っている。絶対視しているのではないが、軽々にいじくりまわされては堪らない、そんなこ
とはしては成らないのである。
* 『橄欖の枝』という林進武作の小説のことは前にも
触れた。なかに戦時下の、学徒動員で戦地へ学生を送り出さねばならなかった時代の一高の学寮自治のありさまが、軍や文部省や軍閥政府の圧力とともにかなり
体験的に痛ましく書き込まれている。安部能成校長以下学生たちの必死の抵抗、自治の伝統、学問への情熱を守り抜こうとするまさに命がけの抵抗が書き込まれ
てある。
東工大は私にはいい大学で、いい学生であったが、学生が大学自治への情熱も組織もほとん
ど放棄しているような有様にだけは、終始承伏しかねた。企業に労組が機能せず、大学生が大学の自治を忘れていたのでは、これはバブルもその崩壊も必至の結
果であった。
* 一月八日 金
* 六日、京都を素通りで近鉄にのりかえ、はじめて奈
良の松伯美術館で、開館五年記念の松園展を楽しんだ。学園前駅からバスですこし、大淵橋を渡った池の端に清楚な美術館が出来ている。松園も晩年はここに住
んだ。館長は孫の淳之画伯。思えばはじめて松園について書き、また小説『閨秀』を書いて物書きとしての位置を定めて以来、やがて三十年の久しいつきあいで
あり、その間には子息松篁画伯についても淳之氏についても何度も書いてきた。松篁さんとは衛星放送のために長時間のインタビューもした。大学のころ、松篁
さんの子息の宏さんが先輩で同じ専攻に在学だった。
松園の「深雪」が観られるだけで満悦なのである、私は。妻も。はなれがたい思いで、美し
い、清い数々の絵の前で、この世ならぬ感銘を味わってきた。
隣接した邸内で抹茶をいただいた。柿の菓子が珍しくも、おいしかった。
近鉄で大阪の上本町、都ホテル大阪まで。そこで館長の開館五年記念の講演と宴会とが予定
されていて、私たちはそれへ参加すべく出向いたのである。上本町で下車したら、どうやら同じ電車であったか淳之夫妻らの一行と出会って挨拶した。これでも
う主催者には挨拶を済ませたからあとは気楽なものだと講演を聴いた。宴会が始まる直前に乾杯の発声をと頼まれびっくりした。祝辞の類はなく、乾杯だけでと
いわれ、よけい恐縮したが、ぐずつくのもいやで、引き受けて簡潔に挨拶して杯を高く上げてきた。
* 七日は道頓堀松竹座で初春歌舞伎。「操り三番叟」 を扇雀がきもちよく演じてくれた。後見の上村吉弥、千歳の愛之助、翁は我当の息子の進之介。いずれもきりりと若々しくてけっこうであった。新年の三番叟は いかにも清まはってよろしい。我当が段四郎と福助とに気持ちよく応援されて「天野屋利兵衛」を演じた。ちょっと利兵衛が小さかった。段四郎が大きかった。 福助が熱心につき合いいい舞台になっていた。三幕目は、しかし蛇足かもしれない。新歌舞伎には何故かしら説教じみた臭みがつきまとう。おおらかに行かな い。「三人連獅子」の鴈治郎・秀太郎・翫雀の父母子獅子に、大きな期待を膨らませていた。期待は裏切られず、すこぶる興奮した。嬉しくて堪らなかった。成 駒屋父子の力量はたいしたものであり、子獅子の満月のような美少年ぶりには驚嘆した。加えて好きな秀太郎、これはしびれて当然であったが、心身ともに躍っ た。最前列にいたからよけいである。さらに続く上方風の「廓文章」吉田屋がまた大変な楽しみで、鴈治郎の伊左衛門に玉三郎の夕霧、それに段四郎と秀太郎と がつき合うとあっては、大阪が博多でも行ってみたくなる。玉三郎の美しさに場内がいきなりどうと揺れる楽しさ。生ける甲斐あり。今までに勘三郎と玉三郎、 孝夫と玉三郎の吉田屋が印象にあるが、いまの鴈治郎型がいちばんめでたくて面白くて華やぐ。正月にはうってつけの行き方で、どうしても大阪へと思ったのは 演目のよさであった。ばしっと期待に応えてもらい、はねてあと松竹座となりのはり重のすき焼きまでがうまかった。鴈治郎、玉三郎。いい役者だなと嬉しくな る。こういううれしさは、他の演劇ジャンルではなかなか得られない。
* そうはいえ楽しんでばかりもおれず、大阪の宿では 朝の四時半から起きて、「文字コード」委員会の分厚い議事録に克明に目を通して問題の所在を少しでも頭に入れようと勉強した。これはまあ大変なことに首を 突っ込むことになるなと、いささか怖じ気づく。なにしろ毎日のように関連のメールが器械に流れ込んでくる、あちこちから。ダウンロードしコピーをとり、読 む。えらいこっちゃ。
* そして連載「ミマン」第一回の読者回答の束が編集 室から届いた。待ったなしに原稿へ仕上げ、さらに次の出題。こころみに、ここに、第一回の出題を掲げておく。あえて作者名を隠させていただく。虫食いに、 漢字一字を補って短歌と句の表現を完成して欲しい。必ずしも原作どおりでなければならぬとは考えていない。そこが「センスdeポエム 詩歌の体験」なので ある。「ミマン」読者からも、実に興味津々の回答が寄せられた。
眺め良き場所に席とり待つと言ひき遊びのごと く「 」をば語りき
淋しき日一人の「 」を仮想する
* 息子の建日子が今日、三十一歳になった。ふぐが食
べたい、と言う。
* 一月十二日 火
* 九日、久留米椿の苗木をもらった。だいじに鉢に移した。
* 十日、新宿サザンシアターの俳優座公演『千鳥』を
観た。田中千禾夫の名作と謳われてきて、たしかに初演はすごいほどの人気であったというのは察しがつく。今回は三演めで、俳優陣がよくなかったということ
は、ない。大塚道子など文句の付けようがなく、児玉泰次も抜擢にこたえたしっかりした芝居だった。立花一男や檜よしえらも大過なく、千鳥の新人も一生懸命
やっていた。致命的なのは戯曲そのもので、今日の我々に訴えるものをすでに完全に内容的に欠いていた。昨年の三百人劇場がチェーホフの「三人姉妹」で、ど
うなることかと何の期待も持てずにみて、その、現代をなお揺るがす劇的な人間把握に震えるほど感動したのと、ちょうど逆だった。名作の名高く、しかも、平
成十一年の劈頭をそよがせるほどの意義を舞台は表現できいなかった。役者のせいでも演出のせいでもない。時代の推移の中で「名作」は解体され、混雑した一
つの「筋」に変質していた。裏山のウランといい、キリスト教ふうの匂いづけといい、同じ作者の「マリアの首」よりももう乾ききって死んでいた。千鳥は鳴き
も飛びもしなかった。
冷酷なのは時間だ。
創作物のこわさ、演劇の怖さ。歌舞伎の「吉田屋」のようなラチもない遊興芝居のほうに遙
かに力がある。怖いと思う。
* 今、客間には会津八一の「学規」が掛けてある。亡くなった宮川寅雄先生に頂戴したもの
を額装した。会津先生が学生数人と共同生活された昔に、学生たちの部屋に掛けるように書かれたものだが、その折りの学生たちはほとんど興味も共感も示さな
かったと苦笑の弁を書き置かれている。
息子の誕生日の祝いにもと表具してみたのだが、元日に帰ってきた建日子も女友達もまた何
の感想すらもらさなかったので、彼らには希望通りふぐを振る舞うことにして、額はそのまま掛けてある。簡素に造らせたが、佳いものである。大正三年八月下
旬に書かれた「秋艸堂学規」を、ちょっと以下に披露しておく。
学 規
一 深くこの生を愛すべし
一 省て己を知るべし
一 学藝を以て性を養ふべし
一 日々新面目あるべし
* パソコンのフォントではさすがに物足りない。八一 の書は近代文人のなかでも抜群のものであった。書によく歌によく、一流の美術史学者であり、そして早稲田の誇る教育者であった。わたしは早稲田大学で二 年、文芸科を指導した経験はあるが、早稲田では学んでいない。建日子は早稲田中学高校から、法科へ進んでいる。その息子が会津八一を知らない。近来早稲田 の衰調著しいと報道しきりであるが、むべなるかな。
* その早稲田文芸科にいた松島政一君が、新鋭の映画 作者井土紀州を熱心にインタビューした記録をシナリオとともに冊子にして送ってきてくれた。たいへん力作でこころを惹かれた。松島君の頑張りはずっと注目 するに値していたが、他にも角田光代さんが小説で頑張っている。平沢信一君も宮沢賢治研究などで頑張っている。鈴木弥左士君が音沙汰絶えたのが淋しいが、 濱谷和江さんは健在だ。みな、息子と同世代、東工大の若い友人たちよりは年齢では先輩になる。それよりももっと昔に知り合った東横短期大学の学生も何人か が湖の本の読者としてとぎれていない。若い人たちとは丁寧につき合い続けてきた。
* 碩学小西甚二先生が『日本文藝の詩学』を出され、 買って読み始めた。有り難い。石川近代文学館館長で心友の井口哲郎氏が、監修し解題された『中西悟堂・中谷宇吉郎・谷口吉郎集』を贈ってくれた。これがま た嬉しい、楽しい。ほくほくしていたら古代学会理事長の角田文衛先生から『平安の春』が贈られてきた。かつて愛読した本の文庫判、しびれるように面白い本 だ。狭い家が自分の本や戴いた莫大な数の本や買った本で傾いているが、「読む」意欲は少しも失せていない。数冊ずつは併読しつづけてきたが、まだまだ。有 り難いことである。
* 今朝メールをあけたら、未読メールが十本。すべて 「文字コード委員会」の議事録や資料とわかり、二度びっくり。本一冊分ほどもダウンロードしコピーをとった。読むのが大変、二月二日から、会議が三日続 く。どうなることやら。
* 正直の所、正月にまぎれ、湖の本発送用意にまぎ
れ、『寂しくても』が難所にあるせいもあって、難渋しているが、あわてない。原稿の締切が重なってきている上に、発送は一月中には済ませたく、そういうと
きは慌てないで一つ一つを確実に済ませて行く方がいい。この「私語の刻」は一種の舵であり気持ちのバランスをとるのにいい。私生活の公開などという気持ち
はすこしも湧かない。ホームページの向こうは濛々と「闇」なのだと感じている。「闇に言い置く」だけである。
* 一月十六日 土
* 十五日、小豆雑煮もきちんと祝った。去年のように 雪も降らず。梅若研能会の「翁」は、まずまず、めでたかった。奥さんの話では万紀夫は八度ほど熱があったらしい。そのためか、力みがぬけ、しかも謡は豊か にめでたく出来た。不足は何もなかった。萬斎の三番叟は柄がちいさくて、元気は元気だが、めでたいところまでは行かなかった。千歳も面箱も小さかった。つ づく「鶴亀」「船弁慶」は失敬。
* 池袋のビールで清まはってから、帰った。
* 小西氏の『日本文芸の詩学』は案の定の面白さで、 小太刀の冴えをみるような、きびきびとした論調で、教えられる。比較文学者であり、論じかたが広く深く、くどくない。すぱっと切り口が美しい。
* このホームページを通じて「ミマン」への出題歌に 回答がぽつぽつと届くのが面白い。短歌の方は正解がしやすい。俳句も易しいと言えば易しいのだが、これは原作と違った幾つもの面白い文字が、漢字が入りう る。
* 芥川賞が決まったらしい。平野啓一郎作品は二つ出
た。受賞作のストーリーはともあれ、擬古文風の文章、わたしには巧いと思われない。なんだかおかしかった。漢文の勉強が出来ていないのではないか。
* 一月十七日 日
* スペインの若い友達からメールがとうどう届いた。
私のニフティは設定が面倒でインターネットになっていないために、どうも連絡が利かなかったらしい。pcvanのメールボックスはめったに使わなかった、
開けなかった。今日気まぐれに開けてみたら、何通もの、スペインからのメールが貯まっていた。これは有り難いお年玉だ、喜んで、久しぶりに我が愛弟子の便
りを読んだ。元気に、臆せず縮まらず、毅い自覚をもって日々を楽しく設計しようとしている姿も声音も聞こえてくるようで、なによりだ。病気せず、また以前
のような怪我もせずに、これぞ人生というのをしっかりと彫琢して下さい。
なにしろメールで繋がるのが嬉しい。もっとも、まだ返事をせずにこれを書いている。この
ホームページがスペインで読めているという。インターネットが本当に実感できる。「INET:」指定をしてもらえばニフティに繋がるかも知れない。
* 卒業などでいったんは遠くなった学生が、一人また 一人また一人と戻ってきてくれるのは、メールのおかげである。私は、顔も知らない縁もゆかりもない人へ、掲示板など使ってメール交換したいとは一度も考え たことがない。そういうバーチャルな人間関係、年も性別も分からないかも知れない相手を求めるのも、小説家として一つの可能性だということは否定しない が、突飛な意外性や曖昧さは私の好みではない。器械は深切に実直に活用したい。また活用できる。
* 高田衛教授にいただいた『女と蛇』の一書、久しい
待望を満たしてもらっている。生身の蛇はかなわない。高田さんも苦手のようだ。鴎外の『雁』の映画化で学生がお玉の前で蛇を殺す場面があった。必ずしもあ
れは生身の蛇だけではない、お玉の境遇に絡めたシンボライズされた蛇だと思うが、とにかくも神話世界からはじめて、蛇ほど多層の意義を強いられた生き物は
いないのだからと、実に三十年言い続け、書き続けてきた。アジア太平洋国際ペン会議に、ちと場違いのように思われかねない「蛇」の問題で演説の請求をした
のも、ああいう場へは初めての体験だったが、言わずにおれない問題意識があった。「日本の美学」に『蛇ー水の幻影』を書いたのも、鏡花文学を語るのに蛇の
問題を落としたままで良いのかと言い続けてきたのも、文化史社会史思想史のこれほど大きな未解決課題はあるまいにという、じれったい思いがあったからだ。
自分でやればいいのだが、自分は小説で足りていると思っていた。なにしろ「蛇」という文字だけでもわたしは苦手なのだから。
高田さんが、私の『冬祭り』を、こんなにも優しく蛇を書いた作品はないと紹介して下さっ
ているのはなによりの感謝だ。新聞に連載中、水上勉さんに「すごいことを始めたね」と驚きながら励ましてもらったのも、この、蛇の出てくる超時代的な現代
の恋愛小説であった。蛇だけを書いたことはない、いつも日本の歴史、人の歴史を見入れてきた。そこには過酷なものがあった。怖いはずの蛇に私が終始優しく
文学的に触れようと努めた背景には、やはり「京都」という都市の凄みが下に横たわっているのだろう。高田さんの労作に感謝している。
* 一月十八日 月
* 今暁、林進武作『橄欖の枝』を読み上げた。昭和十
五年から二十年まで。太平洋戦争さなかの日本の家庭と青春と社会とを、あたう限りに大きく深く彫りおこしながら、誠実に大作に仕上げてさしたる破綻なく、
感動豊かに終局までを「読ませ」た。作者としては無名のもはや故人のいわば唯一の遺作を、奥さんが、朝日新聞社からたぶん自費出版したものと思われる。い
わゆる「悲哀の仕事 モゥンニングワーク」の一例であるが、大きな収穫であると思う。文学的に整った表現の美しさがあるとか、目を見張る趣向があるとかい
う類のものではない。題材で押しに押していってけれんのない物語であるが、誠実で品格を損なわない大人の文学である。うまいのへたのということを抜きにし
て、読後の感銘や感動からすれば、百人の九十数人が、いわゆる最近の芥川賞作品からよりも感動した、面白かったと言うだろう、それほど「読ませ」る。沢山
の同種の本が届くが、たいていは時間つぶしにもならないのに、この『細雪』ほどもある長編、無名の人の長編を私は投げ出せなかった。
一つには扱われた「時代」を自分も生きてきた、懐かしさや感慨がある。書かれている大人
や青年や若い女性に共感の出来る素地を私は持っている。その意味では先の評価は大きく割り引かれるだろう、古くさい書き方だと嗤うのは簡単である。だがそ
れだけだったら私でも投げ出していたはずだが、頁を追うにつれ離せなくなっていた。ついに徹夜で読み上げた。会心の大作と言っておく。作者は東北大学名誉
教授、歯科病院長を務めて勲章までもらい、三年前に亡くなっている。私よりも十歳ほど年上の人だが、いつ頃の作品か筆は平易で若々しく素直である。へんな
文飾はほとんどない。
こういうのに出会うから無名の人からの本も、私は、見ないで投げ出すことが出来ない。今
度はラフに言えば大儲けをした気分。あの時代の生き苦しさ、日々に命がけに生きるしかなかった国民や学生や夫婦や恋人の、飾り気のない真摯な実状がよく証
言されていて貴重なものだ。「題」は、もうすこし工夫してもよかった、いい題ではあるが。
* 作家田中康夫氏から手紙が来て、神戸での活躍を報告しているホームページを開いてみ
た。 http://www.kobe-airport.gr.jp 紹介しておく。
* 続々と二月の会議予定が入ってきた。思わず唸る。 バグワンは、昼は一生懸命に生きよと言う。夜はぐっすり眠れと言う。その通りだ。
* 作者の意図を読めと、原稿の端々までいろいろ引き
ずり出してきて、論じてとくとくとしている学者が多い、日本では。文学は、作者の意図など超えて作品の表現に則し本文に則しその本質的な言葉を読み込まね
ばならないのに。作者の意図はそうではなかったなどと言い訳できると考えたことは、私はない。人の作品も、作者の意図を説明された通りに読まねばならぬと
は考えない。小西甚一氏の本に同じ事が書かれて、いまどきの国文学者たちを諷しておられるのを知り、おもわず手を拍った。作者は作者、しかし読者も読者。
作品は作者の意図をはなれてそこに在る。在るものを、より深く正しく味わい、良い意味で批評的に読まれるのが作品の幸福であり、運命。今、私のそばには何
冊も良い本が並んでいる。
* 一月二十一日 木
* 兵庫の人がメールで、京都へ行って来た、元の芸大
わきの道を上がっていった先にある陶器屋サンで佳い品物を買って帰ったと言ってきた。その道はかつて私が通った高校一年時代の教室のすぐ外を通っている。
新設の高校が、芸大、当時は京都市立美術大学の構内に同居していた。高校に、当時では日本で一つの美術コースが設けられていた縁であり、この美術コース
は、かつての美校の後身、美大は絵画専門学校、絵専の後身であったから、何の不思議もない。私は、普通科の生徒だったが、同じ高校に美術コースのあったこ
とで、たいへんな感化を受けた。日曜美術館という番組にずいぶん早くから少なくも十数回は出演してきたし、京都美術文化賞の選者を十数年務めているのも、
元をただせば美術関係の小説や批評やエッセイを書いてきたからであるが、それも元をただせば日吉ヶ丘高校に美術コースがあり友達が何人もいたからだ。さら
に元をただせば育った新門前通りが、よく知られた美術商店街であり、ショウウインドウを私専用の美術館のように子供の頃から飽かず見歩いていたのだ。
いま一つは叔母の茶室で門前小僧をつとめ、茶の湯の道具や茶会や茶席に十分に親しむ機会
が小学校時代からずっと続いたことも大きい。
さらに元をただせば「京」が在った、京都の自然が朝夕にまぢかにあった。一木一草一葉の
そよぎからも、山城のやまなみの晴れても曇ってもの色合いから、莫大なものを歴史とともに享受してきた。「京の昼寝」を誇るのはどうかと思うけれど、京都
に育った莫大な恩恵を身に負うてきたと思う。
話が逸れたが、その元の芸大はいわば智積院境内に出来た学校だった。長谷川等伯らの楓や
桜のあれ以上はないほどの襖絵や、すばらしい庭園がある。智積院の北ならびには妙法院門跡があり、この境内にも専売病院が同居している。兵庫の人のメール
をみて、何故ともなく反射的にこの専売病院が、平安古代の面影を宿して今に生きている園池「積翠園」を抱き込んでいるのを思い出した。公的病院のいわばお
庭に取り込まれているので、誰でも無料で自由に出入りできるが、あまり知られていない。びっくりするほど奥深い大きな趣致ゆたかな池が、まぎれもない「古
代」の表情を遺している。変な岩を池に置いたり改悪の感じもあるに関わらず、佳い池であることは間違いがない。こんどあの辺へ行ったらぜひ立ち寄られるよ
うに返事をしたけれど、とうに知っているかもしれない。兵庫県ぐらいの人だと、京都が好きでしきりに訪れている人は多く、こっちが教わるほどものを知って
いる。
それにしても、こういう穴場をあまりひろげてしまうのは心配もある。だが自慢したくもあ
るのはたしかで、ときどき、ここで「私の京都」を披露してみたくもある。大人になってから京都に移住してきた人たちの京都とは、視線や体感のちがう京都
を、私は知っている。少年の思いを抱いて、歩いて、見て、驚いて、知っている。
* ある親しい画家の牡丹花の絵を観ていたら、花のひ
とつが「女」そのものに描いてある。当人にそっと確かめたら、にこっとわらった。にこっとわらってそれ以上は聞かなかった。みごとなものだった。
* 一月二十三日 土
* 以下に、二月二日第三回の会議に初めて参加する情報処理学会・文字コード標準化検討委員会の委員として、自己紹介を求められる
のが分かっているので、序でながら、送られてきた議事録等を読んだ「所感」もとりまとめ、「委員会各位」宛て、事前に送信したものを転載しておく。パソコ
ン・インターネット上で使用する「日本語・漢字」が絶対数にしても少ない・足りている・偏っていて根拠がない、増やして行けばよい、漏らしてはならない等
々のややこしい議論が無統制になされてきたが、「文字コード」問題を少しでも国際的に妥当なものにすべく発足した委員会である、らしい。
所感
遅れて委員参加の、秦恒平(日本ペンクラブ理事・電
子メディア対応研究会)です。
会議当日に余分の時間をとらずに済むよう、「縦書きの文章表現」で多年生活してきた立場
から、簡単な自己紹介と、議事録等を読んだ当座の感想を伝えておこうと思います。
ペンクラブから出ておりますが、申すまでもなくペン全体の見解を代弁する立場になく、概
ね私一人の思案を、今後とも発言させていただきます。最初に、私自身にもことわって置きたい、この委員会に参加するに当たって、いったん頭をリセットして
臨みますことを。
(自己紹介は略)
以下、順不同、いかにも門外漢の「感想」を述べま す。誤っていればすぐ改めます。ご批正ください。
* 完璧な標準一本化は、あまりに現実離れ。公的と特 殊との棲み分けや相互運用も、ここへ重点が来過ぎれば、結局「しまりのない」現状容認に陥る。「文字が足りて」いて、妥当な「異体字も共通して使える」よ うな「一本化」を、なるべく断念しないで済む方角へ意図し努力して歩まねば、議論のための議論になり意義が薄い。有効性が無い。最初から「分散開発」「分 散保守」を言うのでは早すぎないか。現実無視の理想論は困るが、最善を忘れ拙速を急ぐ現実論は、もっと困る。
* どうあるのが「最善」かを想定し、引き算して行く センスが欲しい。「残念ながら、今は無理」なものは無理として割愛し、しかし将来無理でなくなる可能性への「道」も推測して後へ伝えて行くのが、現代の 「責務」というものであろう。とかく「今」の便宜本位に議論が終始しやすいが、ことが「ことば」「文字」に関係する限り、数千年の過去と未来へ、現代人と して「責任」を感じながら考えたい。「困ったことをしてくれる」と「歴史」に顔をしかめられない「大度」と「視野」で臨みたい。
* 日本人が「日本語・日本文字で、考えたり書いたり 表現したりする」ことを、基本に据えて考えたい。ことが国際性のある問題なので、いかにも狭い国民的エゴに感じられるかも知れないが、日本人としての「最 善」をヴイジョンとして確認もしないまま、議論が半端に国際的に拡散するのは、かえって迂路に過ぎる。「日本人の日本語表現は、器械上こう在りたいのだ、 これが日本の望みだ」と世界にしっかり持ち出せるものを、我々はまだ持っていない。それを欠いたままで、妥協的な「棲み分け」方向へ我から重点を傾けて行 き過ぎては、順序を誤らないか。
* 漢字の問題が突出しているが、上の問題に絡めてい
えば、「表現」には言語だけでなく、どの民族も多彩な「記号・符号類」をもち、日本人も例外でない。漢文表記、芸能台本、音譜、訓詁、建築、工芸等々。そ
の採集とコード化が「有る」と「無い」との実際的・学問的な意義と便利の差は計り知れない。
漢字に意識が集まるのみで、それだけで文字コード問題の主題は「上がり」のようになる
と、「ひらがな」「カタカナ」「変体がな」問題も含めて、日本語表現や、関連の業務・研究に従事する者は実に不利を強いられてしまう。
記号・符号の機能が文字に劣るものでないことは、皆が意識しないで済むほど実は承知の筈
である。ところが「文字コード」的に完備していないどころか、無いに等しい。
* 多彩な日本的「表記」に腰を引いて、頭から、いろ んなジャンルの文字や記号を特殊なボランティア規格にし、公的に排除してしまうのは、どんなものか。一切合切の記号・符号・かな文字の変化を採集しても、 数量的には知れたもので、漢字の何万、十何万とは比較にもなるまい。しかも日本人にとって、日本の研究や表現にとって、それを「ヒエログリフ」なみとは、 断然、言われたくない。日本の文化を謂うのなら、それらは、世界へ向けて主張したい、希望したい、「コード化」が自然当然の機能言語である。領域領分ごと に、ばらばらのボランティア規格として分散簇生していなければならぬ理由があろうか。こういうところをこそ、「公的に」大きく掬い採る姿勢が必要だと思 う。「漢字」以前に、ないし並行して、記号・符号・かな文字も、漢字なみに「セット」化を視野に入れたい。
* 漢字については、目下、こう考えている。
先ず、漢字に限らず「この字は存在して良い、この字は要らない」と言える権能者はいない
し、いてもならない、と。数千年前にその字を使っていた「人と実績」を否定することは出来ず、数千年後にその字を使いたい「人と意図」を封殺することも、
「現代」人は決して許されていない。「文字」に対面する、これが一つの原則でありたい。それを忘れ、文字を勝手気ままに「いじる」のは軽薄かつ傲慢に過ぎ
る。
* 私一人のことなら、現在の文字セットで、今も、今
後も、書いて行くことは大方出来るだろう、が、二十年三十年前にすでに書いたものを、きちんと「再現」するとなると、困る面が現に幾つも生じている。現在
の、現代の「問題」としてのみ片付けられないのが「言語」「文字」の問題であり、過去の筆記者の業績や未来の筆記者の可能性を殺してしまう権利を、我々の
だれ一人も持っていない。「今」を考えるだけでいい問題ではない。
* それにもかかわらず、歴史は保存されるだけでなく、変動する。上の原則をよく承知の上
で、謙遜に現実に「対応」する必要が生じる。「手直し」可能な「手順・手続き」として歴史に「手を加えてきた歴史」をも我々は持っている。現代にもそれは
許される。
* 文字コードに関連させて言うなら、今日までの議論
は、「足りない」から「足し増す」という、つまり「足し算」式の是非論だった。それは正しい原則ではないと思う。
過去に在った、未来にも在り得る一切の文字を含め、完璧に残り無く採集・保存・利用でき
るのが、最善の原則であると承知していたい。
ただ、それは言うべくして不可能である。だから、これは、ないしこれらは割愛する・割愛
して差支えない・割愛したほうがいい、というふうに理想的完満から余儀なく「引き算」して行くのが原則なのである。同じ事のようで、実は「文字」に対する
敬愛の基本姿勢がちがう。思想も違う。
何をどれほど、全体から「引き算」して行くかが、即ち議論の対象になる。そして「引い
た」もののことも、責任をもって確認し、記録ないし別途の方法で保存することも、「歴史」への責任として忘れてはならない。
「青天井」議論も、この「足し算」「引き算」の差によっては、現代人の浅知恵が露出しかね
ない。従来の文字制限や文字認定には、残念ながら「当座の間に合わせ」的な「足し算」姿勢が見えていた。足し増すのではない。余儀なく、全体から割愛し、
文字数を引いて行くのである。
* もとより技術的・経済的な問題が伴う。出来ないこ とは出来ないとし、しかし出来る工夫は尽くさねばならない。小幅の手直しなど利かない以上、担いうる負担は担うしかない。金の問題だけではない。技術的な 進展にも期待がかかる。
* 標準語に著しい長短があったように、「標準字」指 向にもプラスマイナスが大いに有ると心得ていたい。さもないと、いたずらに「文字」を私し、凌辱することになる。そんな権利はだれも持たない。しかも、
* 中国・台湾・朝鮮半島等との漢字の差異に関して は、ひとまず「日本の漢字」本位に、意識して整備しないかぎり、あるべき国際間の調整も計れない。しかもなお彼の「地名」は、省・県・郡・市区水準までの 漢字を網羅したい。日本の地名は、町村の大字小字レベルまで、必ず採集したい。「氏姓名」は、代表的な史書、文献、古典、武鑑等のものを優先網羅し、極端 な特殊例については「採集・記録」に重点を置いて、「コード」上は割愛の対象にするかどうかを検討考慮してよい。
* 漢字を採集するのに、いきなり内外の著名辞典や字
書に拠るのは安易である。むしろ、大蔵経、四書五経、史記、唐詩選、資治通鑑、三国志、あるいは古事記、日本書紀以下の正史や吾妻鏡等、また道真、白石、
山陽らの漢詩集、頼長、兼実、定家らの日記、空海、最澄ら以下高僧・祖師、また禅僧らの著書、江戸の儒学者らの著書、平安遺文や大寺保存の文書類、絵巻類
の詞書や代表的な古典物語・小説・詩歌集等々、また近代以降の露伴・・鴎外・鏡花また柳田・折口ら古典に近い全集等々、具体的に重用度の高いものから、使
用漢字の異同を地道に認めて行く地に脚のついた方式が望ましい。
これらは、工業や経済や行政や一般日常の書記用からはたとえ逸れようとも、「日本」「東
洋」の文化的享受の根を成しているものであり、欠いてよいとは言えないのである。先に謂う記号・符号・各種かな文字も含めてである。
* 今日の表記以上に、貴重希少な過去の文字遺産の可 能な限りの「保存・継承」を、私個人は大切に考えている。活字化出版の不可能な稀覯本や文書の、「映像的保存」に加えて、現代人にも通読判読の可能な「電 子文字」による確保を、本の破損・劣化・消滅以前に急ぎたい。そのための国の支援体制も欲しい、が、世界にそのまま通用する「文字コード」がなくては「世 界の財産」にならない。「日本のものとして完璧に、世界中が無条件に利用できる日本の電子的な文字資源・文字資産」を、持ちたい。それを世界中の誰が利用 するかというのは、別問題である。
* 異体字、私造字、勝手字などあり、毛筆の筆癖によ
るものまである。原則的には、日本の市場や学界や専業者の世間で、従来「活字表記」され問題の生じなかったものは、歴史が許容していたと緩やかに認めて、
およそ器械の上では準拠してよいのだと考えたい。過度にここに拘泥していると、前に出られない。
ただ原作・原典ではこういう表記であったという事実を、文字コードとは別の次元で記録し
記憶されて行く方策も忘れてはならないだろう。
いわゆる活字体に準ずるという、やや乱暴ではあるが、いささか伝統ともなりえてきた方式
を活用するなら、かなりの問題が同時にかたづく道もあろうか。
* 何時代の字は「もう要らない」などと言ってはなら ない。今後電子メディアを最も効果的に生かして欲しい人のかなりの率は、学者・研究者であり、彼等によって底上げされて行く文化的な成果をまた電子メディ アが有形無形に享けて行くと考えれば、実は「ヒエログリフ」ふうの「青天井」系の議論も、はなから軽視してはいけないと思う。有意文字は、原則として「代 用が利かない」のであり、過度に「包摂」や「標準」を間違えてやり過ぎると、結果、天に唾する事になりかねない、それは、どの時点でも心得ていたい。
* 文字については、私は、デザインの美しさよりも、 漢字本来の形を漢字学的に優先したい気持ちでいる。美しいに越したことはないが、デザインのためには字形を少々変えても差支えないという考えが、もし在る ならば、言語道断である。いわゆる三跡時代、文字の優美を書記の正確以上に重んずる余り、誤字も誤字のままという例があった。藤原定家は、書としての美よ り言語・思想の実を重んじ、「手をばなにとも思は」なかった。そこから中世の学芸の実は伸びて行ったといわれる。統一的に公共化されるであろう「文字コー ド」のフォントには、この点を大切に考え、学者の協力を得てほしい。
* 思想・歴史・文学等の日本語による「学問・研究・
創作・表現」に耐える「文字コード」かどうかに関心せざるをえない。今までのままでは痛く不十分なのである。また近代以降かなり強権的に行われがちであっ
た、安易な文字制限の行政的・便宜的処置には違和感があった。その延長上で、電子メディア上の「文字コード」まで左右されてはならない。技術的に可能な事
であれば、文字を「殺す・省く・減らす」ためにでなく、より「生かせる道」へ導く「規格」や「標準化」でありたい。
その意味では、この委員会に、日本語や日本の文字の専門家といえる文系学者・研究者、司
書、編集者・記者また作家や詩人たちの参加があまりにも数少ないのは疑問が大きい。
* これは国際的な議題であり、また日本語で書いたり考えたりしている者は、簡単に身を引
いていられない。しかも「実装」ということになると、英語圏企業の実力や意向は壁であり、そこまで行ってなお頑張るためには、通産でも文部でも、工業でも
文学でもなく、それを越えた外交課題にまで位置づけねばならない。そっちへの方途も見通しをつけて行かねばならない。その方面の委員も欠けているのではな
いか。
* 文字を、営利的・政治的思惑や個人的な立場上の材
料にすることを、極力避けて、なるべく「平たい」「明るい」「広い」場所へ持ちだしたい。また議論が中傷や怪文書の乱舞に変質せぬように是非心がけねばな
らない。
日本ペンクラブでは、会員の意識調査を始め、最初の結果はホームページの「電子メディア
対応研究会」の頁に掲載している。初歩的な感想をまだ出ないが。
思いがけず長いものを書いてしまいました、お許し願
います。漏らしたところは、会議で随時に申し述べます。 新委員 秦 恒平(作家)
* 一月二十五日 月
* 去年の春就職した東工大院卒生が、「ミマン」に新
連載の「虫食い」詩歌に久しぶりに答えてきてくれ、さらに、あの頃の教室では毎回のことであったが、いわゆる「挨拶」を送ってきてくれた。挨拶とは、二字
とも、つよく押す・押し返す意義をもっている。教室では毎日冒頭に私から押し出すように「問い」を発し、学生諸君は必ず時間内に書いて「答え」を提出して
帰る。正規の講義内容とはまったく別途の付録のようなものだったが、四年間の教室で、一学年がせいぜい千三百人もいるかどうかの総学生数のなかで、私の授
業に申告した人数だけで、四百字原稿用紙に換算して三万五千枚もの「挨拶」が帰ってきた。すべてを次の週までに読み切るのも大変だったが、その一部を教室
で読み上げて参考に供したことが一番の関心をよんで、学生たちが、極端な言い方をすれば殺到したのであった。それほど、同窓の仲間がなにを今考えているか
を知りたがった。知ってみれば、同じようなことをとも安心し、へぇそんなことをそんな風に考えているのかと啓発もされる。ほんとうに彼らはよく書いて、自
分の言葉を底知れない体内から紡ぎだしてくれた。感動した。
「寂しいか」「いま、真実、何を愛しているか」「何に嫉妬するか」「踏み絵は踏むか」「人
の命は地球よりも重いか」「未清算の過去とどうつき合っているか」等々、平生考えてもいないようなことを、その時間に突如押し出すように問われて、学生諸
君は力一杯押し返してきたのである、書くというかなり苦手な仕方で、うんうんと唸りながら。
昨日のメールの人は、何も具体的に聞いたのではなかったが、昔のように、問われたことに
答えるかのように挨拶を送ってきた。とても佳い文面であったので、昔を思い出し、大勢の卒業生やまだ博士課程にいたり学部や院にいる諸君に、同報メールで
披露した。むろん誰とは分からない筈であり、当人には断って置いた。「恥ずかしい」けれど「昔のままですね」と許してくれた。社会に出て、学校時代とのい
ろんな複雑な落差を卒業生は感じている。その辺が柔軟な思考でやわらかにこまやかに書かれていたと思った。
* あさってから湖の本の、通算第五十八巻の発送が始 まる。用意は出来ていて、この両三日はエアポケットのように休息できている、有り難い。ほんとは創作欄を進展させたいのだが、じっと今は辛抱して気力を溜 めている。岩波の『井上靖短編小説集』最終巻の解説のためにゲラを読んでいる。担当の所は本当に懐かしい時期のもので、おちついて息をつめて読み、楽しん でいる。「道」「風」「桃李記」「鬼の話」などもよく、「ローマの宿」「テペのある町にて」なども好きだ。
* バグワンの『道 老子』小堀甚一氏の『日本文芸の 詩学』角田文衛氏の『平安の春』高田衛氏の『女と蛇』川本三郎氏の『今日はお墓参り』そしてゲルハルト・リヒターの『写真論・絵画論』今橋映子さんの『パ リ・貧困と街路の詩学』さらには『栄華物語』が今座右にあって、併行して読まれている。寄贈されてくる雑誌や結社誌もたくさん目を通す。暖かくなったらま た旅がしたい、短くていいから。
* 人に招かれてホームページを訪れてみると、洒落て
美しく工夫の行き届いていることに圧倒されて、何とも私のホームページの野暮で文章だけがあふれ、美しくも楽しそうでもなく色気もないのに、落胆してしま
う。恥ずかしくなってしまう。
それでも、私は、器用に趣向できないし、絵を入れて容量を減らしたくない。目次をやまほ
ど増やして、もっともっといろんな自分の文章を書き込んで行きたいと、目下、表紙と目次との在りように無い知恵を絞っていると言いたいが、「先生」の指導
を頼みにしている。
* 湖の本の包みを、狭い家の中をやりくりして収納す る力作業が辛くなってきた。いま、左肩がどうかすると激痛を起こす。重いものを連続して運んだり持ち上げたりすると、痛烈に腰が砕けそうに痛む。このごろ では、どこの場へ出ても「若い」と言われることが逆に増えているが、無用の頑張りを頑張っているのだとしたら愚かしいなと思う。無理はしていないと思いつ つ無理を重ねてきた。「エッセイ」の頁に収録した「浄土」に連載の「無明抄」八章を読み返していると、どうも調子がよろしくなく、不安に怯えているみたい だ。
* 一月二十七日 水
* 湖の本の通算五十八冊め、『迷走』下巻が出来てき て、早速発送に入った。月内はかかるだろう。こんなことが本当に企業内の労使間になされたのかと疑う人もあろうかと危ぶむほど、ものすごい日々が四半世紀 前の日本に、東京に、本郷台に現にあった。ウソ偽りのない証言の小説である。私の作品群の中では例外中の例外といわれたほど珍しい作品になっている。
* 「編集」とは何かとよく考えた。いまもペンの言論 表現委員会に籍をおいていて、言論表現の自由の侵されやすいことに胸痛める事も多いが、また「編集」の暴走や傲慢や不作法にもよくぶちあたり、眉をひそめ ることが多い。
* 私の体験で謂えば、去年の夏に苦労に苦労して書き 下ろした『能の平家物語』原稿を渡した直後、三一書房はロックアウトし、泥沼に入っている。それはそれで現実であり私の手に負えるところでないが、原稿を 預かった担当編集者はけっして昨日や今日のかけだしではないに関わらず、たったの一度の連絡もなく挨拶もなく原稿の現状に対して説明もない。もともと写真 家堀上謙氏の写真に私が文章を書きおろすというということで、最初の話も堀上氏から来たし、原稿も堀上氏を経て渡してある経緯もあるが、事ここに至れば編 集者は著者にきちんとした接触を一度はとり、現状を説明して遺憾の意を示すのは当然の作法である。私が「編集者」の時代なら常識であり礼儀であり、放置な ど絶対にしなかった。
* 私に判断の決しかねることは、この世間にはいろい
ろある。
例えば選者として理事として関係している京都の美術賞の受賞者記念展覧会が、毎年恒例で
開催される。今年は洋画、陶芸、染色の三作家展が開催されている。例年のことである。が、今年はどんな知恵者の発案だか、受賞者のほかに、選者六人のうち
の四人が、日本画、彫刻、染色そして素人の書を展示した。小倉忠夫氏と私とは何も出していない。二人とも美術作家ではないし、私は隠し芸は売らないから、
請われても出しはしない。
美術賞展に「選者」が作品を展示する例は、よそにも有るのかも知れない。私は寡聞にして
知らないし、出くわしたこともない。感覚的には、受賞者に花を添えると謂うより、かえって気の毒な失礼なことのような気もする。その方が結果的に客が大勢
寄るということも、無いではない。だが選者の展示室にとかく人が溜まり、受賞者の部屋は素通りに近くなると謂うことも、現に、あるのではないかと心配され
る。「お手本」と「受賞作」というような見方をする客も無いと言い切れず、「格差」を展示しているとも見える。喜んでいる受賞者も有ろうけれど、受賞者の
純然たる領分が力ずく侵されたと感じている人もあるかも知れない。
もし事前に相談されていれば、私は、余計なことだと反対したであろう。選者だけの展覧会
を、べつに、「賞と財団の宣伝」のために開催するのは大いにけっこうだと思うが、受賞者の慶事によぶんな首を突っ込んで、介添え役が必要なような印象を与
えるのは、重厚な大度の姿勢とは言えない気がしている。しかしながら客は単純に喜んでいるだろう。そこが難しいし微妙なのである。
少なくも私の好みではなかった。だが石本正や清水九兵衛や三浦景生の作品が、わるかろう
わけはない。私も、見たいことは見たい。だがすでに、私の耳にも、「妙なこと」「見たことも聞いたこともない」という批判めく声が届いてきた。これは見識
の問題であろうか。書を出していた選者座長格の梅原猛氏に意のあるところを尋ねたいものだ、機をみて。
* 二月一日 月
* 「迷走」上下巻の発送を終えた。この作品は筑摩書
房で出したときも驚かれたが、むしろ今回の方がもっと驚かれるだろうと思う。
一つは私の作風のなかでの特殊感だろうが、これには、すでに「やはり秦さんのものだと
思った」という感想ももらっていて、作者としてもそのように自覚して書いていたのだから問題ではない。問題ではないというが、「こういうナマナマしいもの
は書くな」「こういう私ごとめくものは書くな」「真剣に私小説を書け」などと、いろんな注文を聞くのも作者の立場であり、時には「これを書け」と指示され
ることすら有る。私は、聞き流すわけではないが、囚われないようにしてきた。
何と言っても、今度の作品では、まる四半世紀を経て「状況」がいかに変わらないか、ま
た、いかに変わって見えるか、「問題」はもっと深刻にそのまま残され、またの大爆発を優に予感させるという点で読者を驚かせるだろうと私は思っている。
「労使」「組合」は今では死語かのように気が萎えてしまっている。その一つの象徴があの旧社会党のあと影すら失せたような衰亡の姿に認められる。
この四半世紀の「テレビ人種」が寄ってたかっての「社会党」壊しはすごいほど執拗だっ
た。それなりの責任が社会党にあったのだが、また労働者の意識の変容変質とそれは同義語的進行だった。それもこれも、この「迷走」期の「やりすぎ」の反動
のように評価できなくはない。評価はしかるべき人がすればよろしく、私はただ出来るかぎりの証言を残して置いただけで、すこしも古びていないことを作者と
して驚いている。読者も驚かれるであろうと思う。
* 二月になり、もう明日から会議がつづく。この私が
忙しい合間をさいて勉強するより無いのが「文字コード」問題だとは、驚かざるを得ない。筋違いとは言わないけれど、いわばあまりに時代の先端に触れた、
やっかい至極、きわめて難儀な問題であることに我ながら意外な思いをもつ。
正直に言って莫大な資料が読み切れないし、理解に余るところも多い。ただ、何と言っても
「ことば」「文字」「日本語」の問題なので、難しいコンピューターの技術的な面から離れれば、それなりに自分の意見も持てる。合点したり疑問を感じたり、
反発したり賛成したりできることが、ある。先日公開した「所感」などその一部であるが、感想も意見も固い動かないものではあり得ず、むしろ、よく「聴い
て」考えを練らねばならぬと思う。 当分「文字コード委員会」では、「耳」をよく澄ますようにして出ていたい。とても役に立てそうに無ければきれいに辞任
する。
* 資料の中で、ああ分かってもらってないんだと、一 作家として慨嘆するところはいくらも有る。「表現」ということが殆ど考慮されずに「国語」が「情報」の手段としてもっぱら扱われている。ひどい人になると 文学の解釈や研究を、音楽家が楽譜を解釈して演奏するのと同じ事だといったようなことを、得々と言あげしている。楽譜は音符で表現されている。解釈は強弱 や長短をもって表現されるけれど、けっして楽譜を変改してよいのではない。しかも音符には概念的精神的具象的意味はない。漢字にはそれがある。文字の組み 合わせには複雑にそれがある。その正しい解釈には及ぶ限りの正しい原典把握が必要であり、それは必ずしも原著者の意図にすら束縛されない。「ここにもひと り月の客」の句の、作者の解釈を、芭蕉は、踏み超えて解釈し、その解釈が多くの尊敬を受けている。音楽の解釈をそういう文学の解釈と同じにみるのはおかし い。文学の解釈を音楽演奏の解釈と同じように見るのはもっと滑稽な間違いで、そんな間違いにのせて、原典の用字にこだわる研究をあたかも蔑視した公言は、 かなり筋を逸れている。こだわるのではなく、そこから始まるのであり、それにも重い軽いは付き添う。重いも軽いもひとからげに葬り去るのでなく、そういう 微妙さのある学問的な事実に配慮した意見陳述が必要だと思う。
* 現在JIS第一第二水準で拾われている漢字は、か
なり感心するほど周到である。しかもそれから漏れ落ちている字を探すのも、そんなに難しいことでなく、現在の読書からでも一時間のうちに幾つも拾い上げら
れた。その文字は、この私には「無くてもいい、使わなくても済む」と強いて言ってしまうことも可能だが、例えば芭蕉の研究に、例えば『詩経』や『般若心
経』の受容には無くてはならないし、そんなことにコンピューターは必要あるまいというのは、大きなお世話なのである。井上靖の解説を書かねばならない中に
『鬼の話』という佳作が入っている。「鬼」の文字を含んだいろんな鬼や星の名が漢字で頻出するが、殆どが文字コードをもっていない。
活字印刷ではできたことがコンピューターでは出来ないのでは、それが新世紀の社会基盤を
成すといえるのか。工業的・技術的・経済的な「情報処理「「規格」「標準」のためだけの「言葉」でも「文字」でもない。「表現」を忘れて「文」が、「文
化」が、成り立って来たか、人間の久しい歴史にあって。東京工業大学に「文学」の授業が要るのかという声を、在職中にちらほら耳にした。それがいかに浅い
誤りかを私は教室で、それとは言わずに語り続けていた。教室は学生で溢れ返っていたのである。
* 創作のために地図を参考にする。当然の手続きだ
が、歴史的な作品の場合、それが近代のものであろうと、注意しないと、道路は、消えたり増えたり変わったりしている。京都の体験で言えば、誰でも祇園の花
見小路は知っているが、新橋と三条間の現在の花見小路は戦時中の疎開により出来た。それ以前は四条と新橋の間に現在の半分以下の細道としてあり、新橋通で
つきあたりだった。廓の境であった。吉井勇の歌碑のある白川沿いの
並木道など無かった。疎開で出来た。
東山通りも大正はじめ頃に開通したので、昔は無かった。都大路なんかではなかった。三条
通りも、現在の南よりに旧街道があった。
こんな例は時代が遡れば例は幾つもある。だからといって、それらを調べずに現代の地図を
頼って歴史物を書く人がいたら、どうかしている。
辞書辞典も、いわば各時代の「文字」の地図帳に該当する。昔の地図に今日的には不備が多
いように、昔の辞典にも今日の目からは過不足等の問題は有ろうが、その時代の文字事情や言語事情は概ね証ししてくれる。
ハイテクの進歩を誇るコンピューターが、それらの基本辞書を器械として収録したくても出
来ない、出来てもしないというのでは、言ってみれば、現代の地図で古代も中世も書きなさいというに等しい。こういう事実の前にも謙虚に対策しようという配
慮を欠いた「標準化」は、いわば思想の欠陥と言うよりも欠落に近い。
* 二月三日 水
* 二時から五時過ぎまで、「文字コード委員会」の会 議。五時半から七時頃まで懇談会。懇談会ではだいぶ平服で話し合えたが、会議のほうは苦労した。今はまだ纏まらないが印象で言えば、もう七年あまり前に、 初めて東工大の工学部教授会に出て紹介されアイサツをした日の感じに似ていた。あの日、学部長に感想を求められたとき、別世界に、言葉のちがう国に来たよ うですと返事したのを忘れない。あの感じにとても似ていた。言葉が違い、向きが違っていた。
* だが、今度のこの仕事は、大学の機構改革でも人事
でも学内勢力地図の塗り替えでもない。私は定年退官まで一度もその後教授会に出ず、決まりの欠席届を正確に提出し続けて合法的に参加しなかった。その時間
はきまって学生たちとの談笑や議論にあて、相談も受けたしものを見に出かけたりしていた。
しかし、今度の仕事は「文字」「言葉」に関わっていて、いかにお互いの言葉や向きが違っ
ていようとも、ペンクラブや文芸家協会の一員としても、文字表現によって生活し、文字表現を介して読書も楽しみ思想のめぐみもたっぷり受けてきた者として
は、言うべきは言うために参加したのであるから、たとえ孤立無援に近いことになろうとも恐れていては済まない。それに、結論としてけっして私が飛び離れた
へんなことを考えているわけでもないことは、わりに理解できたのである。
* 決定的に困ったのは、日本語や漢字の問題が、やは
り、優先的に「情報処理」の「規格」として「マーケット」論理優先で処置されようとしていることで、「表現」の面での創作や享受や研究や学問のことは、優
先順位としては下位に置かれ、「特殊」ニーズとしてみられていることであった。情報処理上あまりメリットのない特殊な文字表現などは、あたかも被差別対象
になりかねないほど、関心の外縁におかれてかろうじて引っ掛かりうるかどうかの程度だった。
いやいや、もう少し整頓してから極力冷静に公正に伝えねばいけないから、今は、この辺に
しておこう。一月二十三日の「所感」や二月一日の所見に、現在ただ今のわたしは拠っている。
* 二月四日 木
* 三月四日の会合を一月間違えて、厳寒の夕暮れを八 重洲の富士屋ホテルまで行き、会場を尋ねるまで気づかなかった。しかたなくレストランで、うまい食事をし、ブラントンを飲みワインをのんで、また帰ってき た。立食のパーティーは苦手なので、ひとりで井上靖の詩集を読みながら、落ち着いた食堂で食事が出来たのも、ま、よかったとしよう。
* けさからは、メーリングリストでの昨日の会議に関
わるやりとりが頻繁に送られてきて、行きがかりで、私の発言にも触れあうところが多くて、またそれなりの発言を送り返すことになった。ま、やがてこっちの
タネも尽きること故、しばらくはマメに、敢えてする発言もやむを得まい。どんなことをやりとりしたか、私の返事だけでもここに貼り付けたいと思ったが、な
んだか器械が言うことを聴いてくれないので、今夜は器械の前から退散する。
* 二月五日 金
* 言論表現委員会に立教大の服部氏を迎えて、Vチッ プをめぐる、国内外の最新事情などを教わった。日本地上波テレビの質的放埒と米国地上波テレビのある程度の節度ある放映とを比較して説明されると、情けな くなる。私は統制されたり規制されたりは好まないが、自主的な規律感覚をテレビが欠いていては、いらぬことに統制の審査のという介入を招くことになるとは 憂える。現に郵政省も文部大臣もチップに積極的な姿勢を見せるとともに、許認可権限を背景にした規制の姿勢も露骨にして来つつある。テレビ局自体が自律的 に動くよりは、上から「縛られたい」かのような有様で在ると聴くと、なにをかいわんやと謂うしかない。
* 情報公開法がいよいよ国会通過間近になってきた が、手つかずの問題点は多い。やはり今一度強い要望を出したいと決めた。
* 夜になって帰宅したら、文字コード委員会関連の
メールが幾つも届いていて、朝にもあったが、夜のはすべてわたしの陳述やメールによる意見への、非難に近い議論ばかりでヘキエキした。ま、どんな受け答え
をしているか、前後の事情が分かりにくいとは思うが、それなりに読みとってもらえると有り難い。
ーーーーーーーーーーーー
* 三通のメールを拝見しました。理解できたかと決め つけられると怖じ気づくかも知れませんが、かなり理解できるお話で、そんなに私の思っていたことと違うようには思いません。ただ、今は、もう二本の文債を すぐ処理しませんと尻に火がつくので、とりあえず拝見したということでご勘弁下さい。
一つだけ、「この文字にコードを与えたコンピュータ が欲しい」という様な話は皆無であったと思いますとあります部分、これは意識に無いどころか、文筆家の間での議論や希望は、文字どおりここに終始している ぐらいで、その一つの極端なものが「一切の文字を文字コード化したコンピューターが欲しい」といった希望になって現れます。しかも、今すぐにそれが可能と も欲しいとも言ってはいない。現在の水準を、よりリーズナブルに改善し得た有能ないい環境が欲しいし、「表現」や「研究」のために是非必要、ぜひ欲しいと 考えています。自明なこと故、わたしの発言に無かったのだと思って下さい。
要するに事実上の漢字「完満」は、ビジョンはもてて も実際の確認などできません。だからそれは机上の空論かといえば、そこへ走るのは短絡です。文字に大切に敬意を払ってきた少なくもわたしから言えば、あた かも神話から歴史へ出てゆくように、完満からの余儀ない賢い「引き算」こそ、現実的実際的だと思っています。手順手続きを言うにはあまりに弱い足場からの 「足し算」こそ本当は頼りないものであった、そこに従来の大混乱の一原因であった、のは確かで、その理由の一つには、検討や審議に、純然たる文字「表現」 者が加わって来なかったことも考えられるでしょう。
わたしや、狭い範囲ながら仲間の希望は、「引き算」 という基本軸に沿って、当面余儀なく(痛みを感じながら)引き算した文字群を(莫大な異体字なども含め考慮して。)も、遠からずまた足し算し復元の利く可 能な「箱」だか「棚」だか「入れ物」だかを作っておいて貰えまいか、それは技術的には可能だろう、というふうに言い表せるのです。具体的な不足文字を挙げ ることは個々人に優に可能でしょうが、それよりも、活字で出来た程度は器械でも保証されたい、そういう器械環境が欲しいものだというのは当然の希望なので す。検索の煩わしさを言う人が多いですが、その辺にこそ技術の参与や寄与があり得ようと、まじめに期待を掛けていますし、期待は酬われるのではないかと も。
ともあれ今すぐ在りまた在りうる全部の文字にコード をつけるなど、現実性をあまりに超えている。器械を使っている者ならば、少なくもそれは知っています。ただ、本来はやはりそうあるのが原則だという強い認 識です。文字を割愛しまた削除しうる権限は今日誰一人にも付与されてはいないのですから。しかし余儀なく「大胆に引き算」をしよう。しなければ済まない。 そして「世界的公共」の、日本の文筆家としても現時点で許容可能な「コード化の限定」は、しなくては済まないと考えています。
その際に、くどいようですが、もうそれ以上引き算を せずに済むように、それどころか後々に条件が整えば、またさらに足し加え足し増し、より完満へと近づいて文字コード化へ繰り込める、いわば「辞書編集」と 「コード繰り入れ」技術の用意は是非しておきたいということです。
で、少なくもコードを振れる用意なら、もう十二分出 来ていると言われるのでしたら、その点を、「知りもせずに言うな」ではなく、「ギャップ」を埋める努力や責任の多くは、久しく「文字いじり」をかなり一方 的に先行し対策し推進されてきた、仕切って来られた方たちに親切に取って貰いたいと思うのです。少なくも技術面のギャップ、組織の展開面に関する知識の ギャップは相当有る。当たり前の話です。理解したかと問われる筋ではない。理解して欲しいという説明の段階自体が、何と言っても著しく欠損していたのは事 実です。わたしたち文筆家もむろん努めて問題点に近づこうとしているし、それどころか、従来関係者に大きく欠損していた半面についても、ものを申したいか ら、聴く耳は持って欲しいと願っています。そのギャップも、昨日の会議ではかなり痛感しました。
わたしは、日本や東洋の文字が、「情報伝達、情報処 理」の「規格化や標準化」の中で、「マーケット」感覚主導に偏向して論議されているのにも、基本的には賛成ではなく、まして、あたかも「日本」を「代弁・ 代表」しているかのように、一直線に情報処理関連の誰かだけがポンと「承認」のハンコを一つ捺して、「世界」に対し「漢字」「記号」「かな」などの運命を 決しうるかのような、現段階の事の進めようにも莫大な憂慮を覚えていることは申し上げておきたい。誤解であればご説明を会議で聴きます。
憂慮は、「文字」が情報処理のマーケット的利便にの み流れて、あまりに一面的に考慮され処理されようとしていると見受けられる点にも根拠しています。文字による「表現」の可能が、優先順位として当然のよう に被差別対象にされていないか。その心配をもって会議に初参加しましたが、憂慮は拭われなかったと申し上げておきます。
文字や言葉は、器械上の情報処理にだけ関わるものでは ない。より根元的文化的に、「表現」された芸術や思想や学藝を支え、またそれら文化が歴史の少なくも大きな一面半面を、いや全面に近くを支えてきた。理学 工学また技術すらも、深く「文」に根底を支えられ体系を得てきた筈です。数学の「數」一字の原義を読みとるだけでも分かる人には分かるはずですし、その背 後思想には、単なる情報処理程度にとどまらない深いものが伝統化されています。そのことをわきまえた上で、「日本語表現」の可能性を、殺がずに「より豊か に守る」方向へ、もっと広範囲な組織で「文字と言葉」とは検討するのが本来でしょう。文部省や文化庁などは何を考えているのか知りたいものです。
わたしは、二十一世紀を記念する「現代漢字大辞典」 の国民的な新編集を、こうした議論と併行して立ち上げたいものだと理想として大いに願望しています。辞典はいわば時代乗れ通行を保証する大地図帳ではない でしょうか。一方にそういう基盤づくりがあればこそ、大胆な適切な「引き算」が成り立つのではないでしょうか。
その他具体的な着想も用意していますが、今しばら く、基本を問うて行きたいと思います。思わず長くなり失礼しました。言うまでもありませんが、見解や感想は納得すればこだわらずに改めます。また率直に過 ぎたところがあれば、ご寛容下さい。
* 「足し算、引き算」が分からないと言われることに ついて。
一度原則として分かってしまえば、そう足をとられな
くても済む、簡単な話ですが。
閉じられた「全体」が確認できなければ、「引き算」など成り立たないと言われるのは、単
純な数学によるだけの話で、完満が想定できる限りは、引き算の想定も可能なのです。これも一つの論理であり、妄想ではないのです。現実に完満が把握できな
ければ、そこからものの引きようがないではないかという議論のように思われますが、想像力があれば、我々は把握できない全体の完満像を、あたかも閉じられ
た全体かのように何でもなく想定可能なわけで、漢字に限って言っても、決して青天井どころか限度は在る。有限なる「全体」を在ると想定するのに何の問題も
ないのです。人間が作ったかぎり字数は無限ではないのです。ただその把握は、現実に難儀、いいえ不可能でしょう。
しかし在るものは在り、人知の踏査の及ばない「閉じられた全体」はやはりあるのです。そ
の「全体」への、いわば畏怖と敬意とから、ことは出発すべきでした。出来ることならそれらの一切を容認したい、しかしながら、やむを得ず、またもろもろの
状況を考慮に入れて、リーズナブルな引き算をあえてしようというのが、文字を「私」しない、凌辱しない、勝手に割愛したり抹消したりしない、自然で当然の
謙虚な原則だというのです。
たとえ結果として同じか、似たところへ落ち着くにしても、足らなかったら無原則に足して
行くという足し算とは、根本の発想がちがうということです。文字に多くを恵まれてきた現代文化の、とるべき基本の文字への礼儀だと思う。その上で「対策」
は在るべきであったのです。
過去の豊かな具体的な文字表現遺産を、丁寧に、傷つけること極力少なく継承も再現もし得
るように、そして未来へ引き継いで行けるように、「文字コード」への、器械への接近を、何段階もの含みももちながら、現実に段取りを探って行くことが、国
家的にも実に大切な現代の責務です。そのためにも、もはや「文字コード」を、「情報処理」の規格化標準化に資するだけではなく、過去の文字の文化を極力傷
つけずに再現し得る、また未来の文字表現の可能性を極力狭めないで済む、そういう「文字コード」へと、実装された器械の可能へと、誠実に国際社会において
主張もし実現すべく頑張る、前進して行く、ということです。
引き算によって当面文字コードから漏れたものが、そ のまま、歴史的に抹消されるということになっては、断じてならない。大胆な引き算の一方で、周到な文字の採集とその成果としての平成大辞典のような事業 が、国家の面目として腰を据えて起こされることを私は希望しています。それでこそ、引き算に現実の意義が生まれるのであり、ただの文字数の足し算また足し 算で頼りなく事を進めてきた向きとは、似て非なる原則だと思っています。
けっして従来の批判を事として発言しているのではあ りません。現実的な落としどころへ、思案も協力も惜しんではいないということですから、率直に過ぎた点があってもご容赦願います。
* 失笑を買うかも知れませんが、事実の問題として、
10646 といった数字の意義はもとより、そのような存在を知っている文芸文筆家は限りなくゼロに近いと言えます。私とて同じでした。
そのような者ではあっても、広義の文芸文筆家は「文字表現」によって文字の世界で広範囲
に活動してきたし、している。これからは器械を用いて活動する人数はますます増えて行きます。そんな中で、大丈夫かなと、器械の上の「文字」に心配してい
る現状です。
今は、少なくも当面 10646 なるものへの平静な接近と理解から始めるべきなんだな
と知りつつある。そんな地点に立っているのです。遅れてきた者への懇切な手引きをお願いしたい。
小池さんの「鬼の仲間」についてのメールなど、なんとなく、ホッとして拝見しました。
とりあえずの報告に、ペンの専務理事から、「問題点が分かります。日常の通信の規格化と
文化としての漢字をどう両立させるか、それは無理なのですか?」というメールが来ています。
「文化としての漢字には『ご辛抱願おう』というところでしょうか。優先順位ないし経緯にお
いて『工業規格マーケット利用度』がはるかに『表現と文化』より先行して事が運ばれてきた、我々はあまりに乗り遅れているらしい、ということです。まだ不
十分にしか私にも理解できませんけれど。」と、返事しましたが、この返事自体も、みなさんのメールのやりとりを経たり見たりしている間にも、是正され変転
もして行くように感じられます。
当分は、トンチンカンにもおつき合い願いたい。じつのところ配られた資料も、かなりの部
分、ムズカシイ。申したいのは、日本語でものを考え、日本語で「ちゃんと書ける」器械、さらに「ちゃんと、昔のものも読める」器械が、我々には必要という
ハナシです。通信すれば事足るだけの器械でなく、例えば「鬼の仲間」も呼吸の出来る器械です。
* 棟上様 (委員会の主宰) 二月五日夜 外出
から戻りまして。
メール上のお話は、伺っておきますが、なにか、しっくりはしません。
一つには、この畑への参加があまりに遅れたので、或
いは初めからほぼシャットアウトされていたので、手順手続き抜きの苦情沢山にとかく我々がなりやすかったとしても、文筆家の側からは、ある程度は自然の勢
いなのです。
事の経緯のそもそもから、蚊帳の外におかれていたことに起因しており、今までの大勢のご
努力があったはあったとして、ほとんどそれが外からは、遠くからは、よく見えなかった。見てくれとさえ言われなかった。情報も取りにくかった。情報を伝え
る働きかけも特に親切とは思われなかった。また、せっせと聴きに行こうともしていなかったわけで、双方に、問題があったということです。
しかし良い変化は見えてきているではありませんか。
今回、文筆家団体の意見参加を求められたのも、進んでその辺のギャップを埋めたい、双方
から埋めたいということではなかったのですか。
おまえたちは何をしてきたか、我々はこれだけしてきたという事だけを、ここで言われては
困惑する。同じ土俵へやっと上がった側からは、それ相応の知りたいことも訝しいことも不案内なこともあり、先行した人たちの思いからはトンチンカンもある
だろうなと、自意識すらもつているわけです。数字と英語と符号とが立ち並んだ文書が、配布されてたちどころに読みとれる用意も、まだとても持てない。なん
じゃ、これは。
そこを聴き取って、問題点を辛抱よくナラして行くのでなければ、何のための参加であるの
か意義が薄れてしまいませんか。そんなのんきな時間の余裕がないと言われても、それまた困惑あるのみです。
棟上さんにすればクリアに見えている「事の次第」なのでしょうが、たとえば私に限って言
えば、近視の眼鏡を外してものを見ているぐらい、まだまだ曖昧模糊とした視野なのです。べつに恥じ入らねばならぬとも思わないし、それでも苦労して配布資
料を読み読み、ふんふん、なるほど、そうかそうかと、やっと少しずつ学習可能になりつつある。考えも変えたり進めたりしようとしている。そして、努めても
のも言うことで、手引きを得たいと思っている。それは、その程度でも、まだ仕方がないではありませんか。
我々は確かに「文字コード」については素人そのもの
の知識しかまだ持てません。一方我々も、「文字」「言葉」については、それで生業を立てている者たちです。その方面からの意見参加をして欲しいと言われた
と思っています。文句を付けに出ているのではない。協力出来るるだろう、協力したいとおそるおそる出て行くのですから、あまり居丈高に腹など立てないで下
さいませんか。
学会の経済基盤のことなどは、ハナから何の説明も受けたわけでなく、経済の範囲でものを
言うようにとも聞いてはいませんでした。それはまたおのずと別の問題で、わたしの立ち入れる問題ではなさそうです。
参加だけして黙っておれということなら、ハナシは別ですが。
通信の文字と文化の文字との「両立」問題について
は、棟上さんの言われる意味が分かって来ています。メールの後の方に書いているように、後から来た者は刻々と学習が効く。苦労して配布資料を読み読み、ふ
んふん、なるほど、そうかそうかと、やっと少しずつ学習可能になりつつある。考えも変えたり進めたりしようとしている。そして、努めてものも言うことで、
手引きを得たいと思っている、と、さっき書いたのもそれなのです。それでもまだまだ鵜呑みにしていいとは思っていない、もっとよく聴きたい、と思っていま
す。
誤解を罪悪のように言う人がいますが、過不足のある人間の仕業では、存外に誤解からの理
解の方が一般でまた結果がいい場合が多い。誤解は、した方もさせた方も解いて行く必要があるのです。 秦 恒平
もう一通、足し算引き算のメールが入っていました。
これは、明らかに噛み合わないと思うので、分からないなら分からないままで仕方なしとし
ます。
「數」は、明確なるものの最たる単位だと考える人がいます。ところが「數」は、不明確の最
たる状態に生まれたと、この漢字の成り立ちは教えています。
論理だけで想像が働かなければ、論理そのものも浅く果てかねません。だからこそ、「數」
は「運命」に意味が等しいと、昔の人は考えた。算數とも言った。算も數も、ただの論理では無かったのです。乱れに乱れて数えようもない混乱を「數」とまず
は謂った。その混乱から、本質に触れた引き算を、つまりは整理をしながら、科学の大系は整えてこられたということでしょう。混乱し散乱していても、しか
し、全体は想像により意義を整え得るのです。木で打って乱された女人の髪は、數々(サクサク)と乱れていても、或る閉じられた全体と見なしうるように、文
字も、人工のもので在れば、まずは全体を想定してもなにの不思議もなく、そんなことに拘泥して論理を謂ってみても始まらないのです。どうしても論理と謂い
たければ、論理の向きということにしては。
山を低く、つまり漢字の数を少なく、限定したいのならば、山は上から下へ取り崩して行
く、引き算をして行く、のが自然の趨でしょうと思うばかり。これは基本の原則をいうのです。
文字のつかみどりのように、まず千でどうだ、足りなければ二千にしようという積み上げの
「足し増す」式は、人知の所産である漢字の全体に対する、いかにも軽い向きかたではなかったかというのが、わたしの基本の批判なのです。そこには文字の存
在を左右することへの痛みの思いが乏しかった。選択の根拠も機械的に流れなかったわけでなく、当然の混乱を招いたのではなかったでしょうか。 秦生
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 以上
黙っていては役にも立たないだけでなく、すべてに賛 成票を投じたと見なされても迷惑する。えらいことを引き受けたものだ。うまい鰻を食って帰ったのが、味気ない晩になった。クリント・イーストウッドとメリ ル・ストリープを観ればよかったのに、メールを開いてしまったのがウンの尽きであった。
* 明日からは、しばらく落ち着ける。
* 二月六日 土
* 個人宛のメールで、委員会のメーリングリストを通
さずに、親切に次のように教えて下さった方があった。印刷史研究家の小池和夫さんである。
(名前は遠慮すべきかと思っていたが、差し支えないとお許しがあったので記載する。)会議
でたまたま私に現在用のある、井上靖作「鬼の話」に鬼の仲間、星の名前が沢山出てくるが、少なくも今のワープロでは殆ど全て再現できないが、コンピュータ
の上で井上文学中の佳作が再現できないのでは困る、どうなっているでしょうと質した。それはたぶん皆、文字コードの対象になっているでしょうといった話で
あった。それに関連した貴重な興味深いメールなので、紹介したい。
秦さんのおっしゃった『ローマの宿・道』は、絶版な のか、書店では手に入らず、図書館で『井上靖全集・第七巻』所収の「鬼の話」を読みました。この短篇で使われている鬼部の字は「鬼」「魂魄」を除いて31 字ありました。小説中にも、「諸橋さんの漢和辞典の鬼の部」とありますね。実際、この小説は漢和辞典に載せられた字を見ることで、思惟を巡らして書かれた もののようです。
この31字は,従ってすべて諸橋大漢和にあります。
つまり『今昔文字鏡』にもすべてあるわけです。
ところが、JISには「魁」だけです。補助漢字にもない。つまり30字は、日本語レパー
トリには入っていません。
さらにこの30字は,新JIS(第3・4水準)の選定のためのデータベース(約
12000字)にもひとつも入っていません。
「鬼の話」は1970年の初出以来、少なくとも3回は,組版・印刷されているのですが、印
刷所は常に作字して間に合わせてきたのでしょうね。
とりあえず、30字を解字して示します。(「魄」を 「白鬼」のようにして表します。上下の場合は「上/下」とします。鬼が左にある場合は「魁」「魑」のように「きにょう」になりますが、「鬼斗」「鬼離- 隹」で表します。)
解字、諸橋番号、読み、UCS、備考
鬼勺,45770,シャク,,
方鬼,45777,ホウ,,
鬼勸-力,45950,カン,,
鬼畢,45905,ヒツ,9B53,
鬼夕45763,セキ,,
鬼少,45781,ユウ,,
此/鬼,45807,シ,,
殺鬼-殳,45838,サイ,,木の上の点は諸橋にはある
甲鬼,45800,コウ,,
鬼登,45913,トウ,,
或/鬼,45859,コク,4C25,
者鬼,45884,シャ,4C29,
鬼虎,45865,コ,4C27,
儡-イ/鬼,45945,ライ,,
幾/鬼,45924,キ,,
鬼殺,45893,サイ,,
鬼員,45895,ウン,,
鬼率,45900,リツ,,
鬼深,45911,ユウ,,
歴-止/鬼,45921,レキ,,歴は旧字(禾禾)
鬼察,45940,サツ,,
漸/鬼,45942,サン,9B59,
強/鬼,45903,キョウ,,
女/鬼+口/鬼,45946,キ,,
鬼或,45860,ヨク,9B4A,
夢鬼,45934,ボウ,,
鬼行,45824,コウ,4C22,
鬼孚,45842,フウ,,
鬼甫,45844,フ,,
鬼票,45904,ヒョウ,9B52,
10646でも、統合漢字に4字、Extension A に4字の計8字で、後は第2面に入るわけです。
* 正直のところ、靖の「鬼の話」はとても近未来のパ
ソコンでは作品通りに再現は出来ないらしいということが分かる、が、その余の説明はすぐさまは手に負えない。「10646でも,統合漢字に4字,
Extension A
に4字の計8字で,後は第2面に入るわけです。」という文意の読みとれる文士は、ひょっとして一人もいないかも知れず、しかしわたしの初めて参加した文字
コード委員会では、それらが、当然ながら周知の事実として飛び交うのである。「理解しましたか」とやられても、お話にならないほど用意がない。知識がな
い。分かるのは、井上さんの小説も、いまのところお呼びでないことだけが分かる。
これは、辛いではないか。
さっきも『日本続紀』を調べながら、つい、この漢字はどうだろうと危ぶまれる文字が次か
ら次へ出てくる。
* 辞書のような文字ソースから漢字をつかみ取ってき て、その結果またつかみ足すやり方は愚であった。初めから、せめて中国と日本との具体的な文字文化財を徹底して精選し、こんな漢字がこれだけ拾ってあると 苦労を誇るよりも、この本、この作品、この文献の用字はみな拾えています、大丈夫ですと、利用者に安心を与えるべきなのであった。悲しいかな、そのような 発想ではなく、工業技術上の規格化された標準字さえ揃っていれば足ると謂ったやり方に、結果、なっていた。文学、思想、歴史、宗教、文化。そんなことは二 の次になっていた。役人仕事にもなっていて、私の謂うように「文字」「言葉」の世界の狭い一面の用に足ればという目的だけで事が運ばれ、豊沃な裏面だか表 面だかの世界に配慮が遅れた。また我々もウカツに、器械で字が書けるか、ものが読めるかなどとヘンテコにうそぶいていたし、文壇のエラソウナ人ほど関心を もとうとしなかった。自分にはもう残り少なく、いまさら関係ないよという発言が、ペンの理事会で、平然と優勢をしめてしまう。これでは、あまり我々も大き な口は叩けないのであり、痛いほどそれは分かっている。ウーン。
* いま問題殺到の文字コード委員会は、情報処理学会 の情報規格委員会に属していて、その棟上会長が、文字コード委員会を主宰しているらしい。議論の結果が出てその会長がハンコをポンと捺せば、それが世界の しかるべき場へ日本の「提案」のようにして持ち出される仕組みのように、会長自身のメールに書かれていた。よく理解できないから誤解しているのかも知れな いが、そう読めた。ちょっと信じがたいほど安直に感じられるがどんなものか。規格委員会の上に情報処理学会がある。学会長は誰なのだろう、どういう組織な のだろう。経済的にはいろんな企業の寄り合い負担でなされていて貧しい所帯であり、大がかりなことは出来ないと会長は私に告げている。そもそもこれは私的 な組織なのか。どこかもっと大きい組織の下部組織なのか。私的な機関なら、どういう資格で日本語や漢字の問題で過去現在未来を壟断する権能が持てるのだろ う。うかつにも、ペンクラブ事務局は、そういう点の確認をしなかったようだ。知りたい。
* 俳句雑誌の「鷹」に子規の写生と芭蕉の句に関連し てエッセイを書き、次いで川端康成について近代文学館のためにエッセイを書いた。次は井上靖の解説を書き、さらに志賀直哉について一文を全集に寄せる。こ ういう仕事はしまりよく自分の頭を刺激し整備し拡張させる役に立つ。
* 久しぶりに、かつて東工大時代に助手なみに手伝い
に通ってくれていたお茶の水女子大の若い友達に電話をした。川端研究に新鮮で犀利な論考を発表している博士課程の、自身もう教壇にも立っている才媛だが、
この人にちょっと教わりたかった。川端の短歌や俳句や詩を私は思い出せないが、たくさん書いていたのですかと。殆ど無いに等しいというのが電話の向こうで
の返事だった。そこで割り込み電話がありやむなく切ったが、それ
にしても「川端のような作家」に、詩歌の作が皆無に近いというのが意外で、じつにおどろく
に足ることではないか。これはどう理解していいのか、露伴、鴎外、漱石、芥川も谷崎も鏡花も短歌や和歌や俳句や詩をのこしている。三島も辞世に和歌をのこ
している。伊藤整も高見順も井上靖も中野重治も詩人だった。横光利一にも俳句がある。
川端は小説を書き批評した。散文だけをひたすら書き、ノーベル賞のときに戯れ言にちかい
述懐の句をものしただけだ、殆どそれだけと謂うて言い過ぎではないらしい。既に誰かが論じているだろうが知らない。今日原稿を書きかけて、ふと、これはお
かしいぞ、ほんとかなと思いながら友達に確かめの電話を入れたのだった。電話の向こうの声は、昔のまま優しかった。
*
二月七日 日
* こんなメールを親しいペンの仲間から貰った。「余談」として、考えさせられる甚だ意味
深い記事が添えてあり、ぜひ紹介したい。
* 漢字に文字コードを与えるということと、文字コー ドは与えられていなくてもコンピュータで使える、ということの重点の置き方に認識のずれが感じられ、若干(文字コード委員会での議論が)錯綜しているよう に思うのですが。この若干の認識のずれは、結果大きな差となって現れる危惧が大いにあります。
秦さんが仰るように、コンピュータが紙に代わるツー ルとなるなら、紙と同等以上のレベルを保持することが責務だといえます。紙以上のツールとしての役割を果たすものなら、紙以上のレベルを保持すべきである ことは当然です。でなければ、文芸面に限って言えば、紙以上のツールとして何の意味があるのでしょう。
デジタルというものが民族を超えた普遍的な符号であ るなら、異文化交流を促進するためにも、デジタルによる最大限の文化の保存は必要です。でなければ、自動的に過去の文化的財産が博物館入りすることになり ます。
漢字の「完満」はビジョンはもてても実際の確認など できないということですが、「現代漢字大事典」の編集作業にあわせて行うというのは全く同感です。このあたりをどうしていくのか、どう働きかけていくのか を抜きにして、漢字コード問題はなかなか解決しにくいように思います。
●以下余談ですが。
お読みになったかとは思いますが、金曜日の朝日新聞 の夕刊に、イギリスの街角で、すでに推計30万台の防犯カメラが据え付けられており、映像を前歴者と照合するシステムも登場したとあります。一方でパス ポートや免許証のデジタル化が進められ、防犯カメラとネットワークされれば、国家による個人の監視も不可能ではない、と指摘されています。ジョージ・オー ウェルが小説「1984年」で描いた監視社会が現実のものになるのではという懸念が指摘されている、と記事中にありますが、今上映されている「トルーマン ショウ」という映画はまさにそれで、ある男性が生まれてから結婚後までずーっと監視され、本人だけはそれに気づかないのですが、それを町の人々はドラマと して楽しんでいるというものがあります。
上記の記事によると、ある機関が自治体の防犯カメラ を検証したところ、黒人は白人の2倍以上の監視対象になり、若い女性を興味本位で写した映像も多い、ということです。
すでに日本でも銀行やスーパー、その他のビル等で防
犯カメラが設置されており、防犯のためとはいえ、自分の姿が無断で撮影されているということに常々不愉快に思っていたわけですが、イギリスの照合システム
が日本に入ってこないとも言い切れません。私は漠然とですが、デジタルの恐ろしさはそれ自体が生き物のように一人歩きすることにあるのではないかと思うの
です。多くの未来小説ほどではないとしても、まさにメディア、media、medium、霊媒です。その兆候を、インターネットによる毒物事件に見るのは
早とちりでしょうか。すでにインターネットは電話のようなツールではない様相を帯び始めています。
余談ですが、私の家から会社の編集部のパソコンにアクセスして、家のパソコンの操作で会
社のパソコンの電源を入れ、会社の仕事を家でできるようになっています。家から会社のプリンターでプリントもできます。この逆、つまり会社から家のパソコ
ンを操作することもできます。普通のNTTの電話回線を使用し、電話番号も自宅の電話番号です。勿論暗証番号が必要ですが。これは私が自分の利便のために
自分でできるようにしたのです。ビデオカメラを設置すれば室内の監視もできます。私のようなパソコンに素人の者でさえ、これくらいのことはできるのですか
ら。新手のストーカーもそのうち登場しそうです。
メディアが人間の心と精神にに与える影響は看過でき
ないものがあるように思います。メディアによって人の心と精神はどのように変質するのでしょうか。
* 二月八日 月
* 昨日受けたメールの冒頭の、「漢字に文字コードを 与えるということと、文字コードは与えられていなくてもコンピュータで使える、ということの重点の置き方に認識のずれが感じられ、若干錯綜しているように 思うのですが。この若干の認識のずれは、結果大きな差となって現れる危惧が大いにあります。 」のところに問題が、私の錯覚と言うより理解不足があったようだ。今朝一番にそこを指摘したメールをコード委員の一人からもらい、参った。「文字コード」 のことはムズカシイ、実に。手探りなもので、すぐ躓く。私は、私見にこだわらない、むしろよく聴いて覚えたい。誤ればすぐ改めたい。
(後日注・ この辺がいちばん当初段階でのわが混乱
点で、「参った」などと言いつつ何が「参った」なのかも自分では説明できなくて、ウロウロしていたのが現実だった。「文字コードは与えられていなくてもコ
ンピュータで使える」文字を現に使っていながら、それは「文字コード」が与えられているものと混乱していた。混乱でなく、知らなかった、分かっていなかっ
たという方が正確だ。文字コードによる使用と、文字セットからの図像貼り付け使用とのことが認識分け出来ていなかった。そこで何かを言われて、分かりもし
ないで「参った」のは、知的怠慢だった。
だが、ここが大事なのであるが、文字コード無しでも文字は使えるのだからいいではない
か、という議論がわたしの目の前に在ったわけだが、そして「今昔文字鏡」のようによく出来た文字セツトを現に見せられると、それで間に合うではないかと、
われわれの仲間でも一時は、なんだか安心してしまったような空気もあった。私は、そろそろモノが見えて来るに連れ、「そうかな」という気持ちが拭えないま
まだった。現に使ってみたら、やはり「物書き」としては実に使いにくいことが分かり、やはり「文字コード」での公共的に均等に標準実装されねばというとこ
ろへ仲間の気持ちもまた元へ固まっていった。私の当初来の、頑迷とすらみられた「基本の希望」がやはり大事な「本丸」になることが確認できていった。文字
セットによる図像貼り付け操作は、文字コードによる操作への階梯でこそあれ、それが解決策ではないと、やはり分かってきたのである。)
* やや、気分がザラついているので、思い切って「掌 説の世界」に、昔の『春蚓秋蛇』二十数篇を書き込んで行くことにした。題は、力のない下手な字を意味している。当時何となく字面にひかれて、付けた。下手 な字も気に病んでいた。あのころはまだワープロも無かった。
* よぶんなことをゴタゴタとやっているが、なりゆき
のことであって、性分であるからその任に在れば一心に務めるけれど、本音は、悠々として、我ながら世離れてしびれるような女の小説が書きたい、その方へと
帰りたい。なにがいいといって、やっぱり女にいちばん心を惹かれる。いい女を創りあげてみたい。もうすぐ。もうすぐ通り過ぎるだろう。
* 『迷走』の評判がびっくりするほど、いい。時代がまた震え始めている。
* 二月十一日 木
* つかこうへいの『ストリッパー物語』を息子の書架
から借りてきて読み始めたが、面白い。猥雑で被虐味に富んだ語り口ながらジメついていないし、こういう材料への偏見どころか、むしろ親しみすらわたしは
もっている。祇園の乙部と背中合わせの通りに育ってきたし、甲に対して乙の存在のあることにも少年時代から自覚があった。乙の方へとかく目を向けてゆく自
意識もあった。そなことがなくても私は、つかの、舞台台本を読み物化したといわれるこの作品内容に、共感できる。女も男も状況の中で粒立って活躍している
からだし、ワケが分かるからだ。
秦建日子がつかこうへいに師事して、会社勤めも辞めて演劇の世界に飛び込んで行ったの
は、親の私たちからは真に一大事であったけれど、反対はしなかった、支持し支援してきたつもりだ。だが、ことさらつか氏へ、わたしからは触れては行かな
かった。会ったことも挨拶を交わしたこともない。そんなことはお互いに同業ではしにくいし、されても気持ちがわるかろう。しかし、感謝している。
また一度書かれたものも読みたいと思っていた。正直の所読んでみて気が乗らなかったら申
し訳ないと思いためらってはいた。芝居は一度だけ観た。忠臣蔵もどきのものだった、扱われた材料への接近の仕方に、自分のものの感じ方見方とひどく近いも
のを感じ、ああそうかとうなずいたりしたが、本は読まなかった。初めて読んでみて、よかったと思う。何となく、とても気がらくになった。
* 息子は最近はテレビに急接近している。「別れたら 好きな人」とかいう漫画からの翻案のような連続ものの分担で台本を担当したり、火曜サスペンスなどを書いているらしい。もっともっと、つかこうへいから学 んで欲しい気がしている。
* 我が家は、珍しく家屋の中間部分に便所が囲ってあ
る。清潔に設計されていて換気も巧くできているので、ま、気に入って落ち着ける。贅沢にも、そこに初期伊万里のちいさい徳利型の瓶をおき、季節の花を挿し
ている。今は寒椿が挿してあって、枝振り葉ぶりも愛らしく一輪の赤い花がなんとも楽しい。
どう楽しいか。
テレビコマーシャルの「仕事キッチリ」の踊り姿に似ているのだ。最近のコマーシャルで
は、「サカイ、ヤスイ、仕事キッチリ」の踊りがいちばん気に入っている。それと、もと小錦関の音楽の指揮。くだらないドラマよりも、金を掛け智慧を絞った
コマーシャルの方がおもしろくなっては、秦建日子も厳しい道へ踏み込んでいるわけだ。頑張って欲しい。それにしても、花は、どの季節の花も美しいな。
* 仕事も混んでいて、それをシオに「文字コード」の討論から身を引いている。降るように
届くメールも、読めばものも申さねばならず、それでは静かに批評も創作もエッセイも書いていられない。協力はするが、程々にもしたい。
* 二月十三日 土
* 昔に書いた掌説をホームページに書き込んでいる が、自覚していた以上に私自身を暴いているような、微妙な鍵が隠されている。原善君のように私の仕事に深い理解を示して研究書も出版している人でも、掌説 に触れたことは無かったように思う。ここでは初、中、近の三様の作品を公開中だが、作者の私には読みとれる、今更に気づいて読みとれるいろんなことが含ま れているのでビックリもしている。懐かしくもあり、おどろしくもあり、肌寒くもなる。
* 昨日文字コード委員会の幹部の一人である東京学芸
大学松岡榮志氏から、雑誌に発表した文章を二つ、コピーして送ってきた。委員会の日に、読んだか、読んでいないのかと言われ、送るからぜひ読めと言われて
いた。
読んでみた。いわば自分たちのしてきた事へ「悪意に満ちた」と言える悪質の誤解で「マス
コミ煽り」をしている人たちへ、激しい抗議を軸にした文章だった。悪質の誤解なる四箇条がこう掲げてある。
ユニコードは、現代の「黒船」であり、アメリカの日
本への経済侵略の先兵である。
欧米人は、漢字について無知であり、日本の伝統文化や漢字文化の破壊者である。
日本の委員会は、ユニコードに追従している怯懦の徒である。
中国やアジアの国々では、コンピュータや情報処理の理解については日本よりかなり遅れて
いて、話にならない。
少なくもこんな事に関連してマスコミで発言してきた
ことは、私には一度も無かった、そんな機会もなく気もなかったと信じているから、「ユニコード」なるものへの知識すら今なお必ずしも十分でないくらいだか
ら、この四箇条の誤解も抗議も、何ら私には触れあいようも無い。その意味では拍子抜けのした話であった。
むしろ、それとは別に、どうにも釈然としない筆者の「姿勢」が見えたので、一文を草して
送ろうと思った。「普通の日本人には一万字以上は必要でないことは自明」と繰り返し強調されているのだ。
「普通の日本人」とはどんな日本人か。中国古典や中国語学の専門家である松岡氏は普通の日
本人なのか、特別の日本人なのか。松岡氏の目からこの私は普通の日本人なのか、そうではないのか。
私にはこういう発言にこそ「悪意に満ちた」「マスコミ煽り」の危惧を覚える。こういうこ
とを公然と言い放てる人を、わたしは、エライものだと唖然とする。私の所感は、以下の一文(二月十九日に移す。)で明らかにする。
* 会議後の懇談会で言っていたことだが、私は、ずい
ぶん以前に国語問題協議会が出していた『実用漢字辞典』の、一基本漢字に一略字というのは簡明ないいものだったと思うし、ユニコードにも同様な行き方があ
ると教わっている。一略字、または一異体字でなく例外的に複数を採用したい字もあろうけれど、当面の原則でその辺に落としどころがあろうかと。ただ、繰り
返し言うように、そういう便法が横行したまま過去の文字を暗闇に埋没させてしまうことのないような、別方角からの網羅的文字採集と保存も、ことに関わって
きたこの「時代」の当然在るべき大事業ではなかろうか。
* 二月十四日 日
* チョコレートを二つ貰った。一つは老妻。みな食べ
てしまった。
バレンタインデーのチョコレートというと、去年までの五年間、きまって「名無し」の人か
ら、必ずゴティバのチョコが「一粒」、それは凝った体裁で、趣向を凝らして送り届けられた。名乗りは全くなく、暗示もなく、いつも渋谷のゴディバの店から
手書きの宛名で、ユーパックで届いた。年々の大趣向には恐れ入ったが、好きなチョコレートといえども名無しの食べ物はいただけない。口にしたことは一度も
なく、そのまま戸棚にしまわれてある。贈り主はさんざ推測したけれど不明であった。よもや悪意は在るまいが、名無しでは困る。いや名のない方が気持ちだけ
貰って置いて差し障りもなくていいとも言える。
とにかく読者かも知れず、学生にしては趣向のほどが東工大生らしくなく、とにかく凝りに
凝っているのである。
ところが今年はそれが今日現在届いていない。ほっともし、いささか拍子抜けもしている。
私だけではない、家内も拍子抜けしたようである。もう飽きたのか、渋谷に足場が無くなったのか、それとも。その先が分からない。これもまた一興で、代わり
に、今度は奈良県の室生の近くから「アンブレラチョコ」が来た。末は、相合い傘で、とある。逢ったことは一度もない人である。
* このところ、昔に『四度の瀧』付録につけた詳細な
「自筆年譜」を改訂し、かつあれ以後を記載すべく、少しずつ手を掛けている。今日、第一期の太宰治賞受賞の年まで、昭和十年から四十四年までを、およそ確
認した。ワープロの頃は、長い記録はファイルの繋ぎに苦労ばかり多かったが、ワープロでの保存フロッピーをパソコンへ転換の操作を習ってからは、長大な文
章も一ファイルで処理ができ、じつに有り難い。エッセイのページ
も、長編の自伝的な『客愁』でも、おかげでホームページに持ち込める。
* 昨夜、また新しい東工大四年生の女子からメールが 届いた。
* つかこうへいの『ストリッパー物語』を読み終え
た。明美さんと重さんの物語にあやうく嗚咽しそうであった。瑕瑾が無いわけではない、重さんのお嬢さんが留学したり成功したりする話は嬉しいけれど、
ちょっと照れくさくもある。重さんと明美さんのことは忘れられないだろう。こんなオリジナリティの鮮明で強烈な小説、むろん過去に無かったわけではない
が、確実にまた感銘作を付け加え得て、嬉しい。これを読んで、読み終えて、私は初めてつか氏に、息子のために感謝した。ありがとうございました。
かつて野坂明如の『えろごと師たち』などを読んだときにもやや近い感じはもったが、どこ
かでいささかのハッタリをかまされているような、少し身を引くものがあった。むしろ瀧井孝作先生の『無限抱擁』を読んでの澄んだ感動にちかい実質を、つか
こうへいは持っていると感じた。瀧井先生とはちがうが、つか氏ははっきりとした「憎しみ」をみごとに抱いている。そのことに私は感動した。秦建日子に学ん
で欲しいのは人気ではない、虚名でもない。身内の熱塊だ。燃えるモチーフだ。
* 小西甚一さんの『日本文藝の詩学』も読了し、もう 一度引いた朱線や書き入れにしたがい、復習している。すばらしい読書だった。
* 日々の音読でバグワン和尚の『老子』にも傾倒して いる。オーム真理教の残党が暗躍を続けていると報道されている。実にはっきりしている、バグワンはオームとは全く根底から異なったことを説いている。いか に闘わず争わず生きるかをそれはみごと魅力豊かに説いている。こんなに健康に生き生きと無為自然の老子を語った、禅を語った、イエスを語った、仏陀を語っ た聖者が、覚者が、かつていただろうか。和尚は宗教家ですらない。死生一如を静かに生きた人だ。危険なことは説かない。深い。明るい。静かだが元気だ。
* 二月十七日 水
* 手洗いに入ると、「仕事キッチリィ」の椿ちゃん
が、じつに艶やかに伊万里の瓶上に咲いている。可愛らしくて声をかけずにはいられない。小動物だけが可愛いのではなく、可憐に咲いている季節の花はほとん
ど人間並みに可愛らしく、声をかけて話し合ってしまう。嬉しくて堪らない。
「仕事きっちり」の広告が好きだと書いたが、あの男の踊りの先生役の「目遣い」に感心す
る。なによりも、だが「仕事きっちり」が懐かしい。
子どもの頃、ほんとに、よく言われた。反感を覚えたことはなく、他はずぼらでも「仕事
きっちり」はいいことだと、心がけてきた。私は少年時代「注意散漫」「落ち着きがない」と通知簿に書かれ続けた。同時に「努力」「集中力」を認められてい
た。どうなっとんにゃ。「ちゃらんぽらん」と「仕事きっちり」との同居状態であったようだ。じつはどっちも好きである。仕事以外はちゃらんぽらんが楽しい
と思っているようである。
もう一つ面白いコマーシャルは、英語塾であるか「考える人」の銅像まがいが、考え込みな
がら「考え中」と呟いている。「考え中」は、東京ではまず聞いたことがないが、京都での子どもの頃は、よく聞きもしたし、よく言いもした。
「いま、考え中や」
半ば以上は断りの口上だが、文字通りに「考えている最中」の意味でも用いた。懐かしい響
きである。
* ペンの理事会例会のあと、早めに抜けてまた近くの
地下の中華料理店で、マオタイと老酒を、焼きそばとシュウマイのあしらいで飲みながら、『平安の春』を耽読してきた。角田文衛氏は私の仕事の中では「T博
士」で、目崎徳衛氏が「M教授」でお馴染みであるが、お二人には山ほど教わってきた。そのくせ目崎さんには只の一度もお目にかかったことがない。湖の本を
お二人ともずっと応援して下さっている。
ところで心したしい歌詠みの友人が私のことを「H先生」だと言ってきた。マイッタ。英知
も叡智もないが「エッチ」には相違ない。エッチは嫌いではない。その友人とも逢ったことは一度もない。逢わない方がいいかも知れない。
* 目の前に友人の画家にもらった画家の奥さんのデッ
サンが架けてある。A3大のプロフィールで、私の娘の朝日子が生まれた翌年ごろ、画家が奥さんと出逢って描いた若い日の横顔であるが、じつに朝日子に生き
写しのように見えて成らない。息子が見ても一目で「姉貴か」と叫んだぐらいだから私一人のひがめではない。もっとも母親はさほどに感じていない。絵はみご
とに描けていて申し分ない。娘のほんものの顔はもう何年見ないことか忘れてしまったほどだが、一枚のデッサンにいつも目を向けて娘に話しかけている。
* 『迷走』の下巻に、一頁白が出たので、ずっと以前某誌の依頼で「男の美学」について書
けといわれた原稿を挿入したのが、面白かったらしい。
題して「男の美学なんか要らない。」次の機会に掲げておこうか、ここにも。
* 二月十九日 金
* 不思議なことが起きるものである。今朝メールをあ
けてみると、文字コード委員会の委員長と幹事のメールが来ていた。海浜幕張で昨日から開幕のMacworld Expo
へ東工大の学生君と出かける間際であったため、とにかくこの二通を早読みしてみた。
委員長のメールは尋常なもので、よく分かり、感謝して手短に返信した。
もう一通は、読めば読むほど奇妙な内容だった。自分の書いた文章をぜひ「読め、」「まだ
読んでないとは」と、先の会議の席でつよく勧められ、もし読んでいたなら、それをめぐって質疑なり対論のありそうなムードだった。さもなければ、半年以上
も昔の旧稿を、だれがそんなに熱心すぎるほど勧めるであろうかと、私には思えたのである。現に追っかけて送ってこられたのである、その文章を、二本も、コ
ピーして。これはもう会議の延長と思うより仕方がなかった。
じつは、あの時、会議室の暑さに耐えかね、口舌の渇きをなんとか癒したくて室外に飲み物
を求めに出ていた。部屋に戻っていきなり、名指しで、自分の今言っていたことを「理解したか」「理解したか」と壇上から一幹事に聞かれ、中座していたのだ
から、聞いていないものは理解もなにもなかろうにと苦笑して答えなかった。その時だった、この幹事は、中央公論に書いた自分の原稿は「読んだか」とまた問
いかけ、私は読まないと正直に答えたのである。なんだ読んでないのか、ぜひに「読め」と迫られた。
このときの幹事の出方に、いささか気にくわない失礼なものは感じたが、承知したと答え
た。会議のために必要ならば必要なのだろうから。
そして封書で文章のコピーが家に送られてきた。私は読み、感想をメーリングリストで発信
した。明らかに「会議の席での発言や勧奨」に応じたのであり、私がそれを「読め」と勧められているさまは、他の出席者全員が聞いて知っていたのだから、こ
れは単に筆者だけに私的に答えるものでなく、会議での「議論」の一環として「どう読んだか」を委員諸子にも伝えるのは当然だと私は考えていた。メーリング
リストを用いて、委員やオブザーバーの意見交換は公然となされ、往来は活発だった。メーリングリストの効用はそこにあり、また利用について何の説明も規制
も受けていなかったから、当然「意見開陳の場」として機能していると思っている。意見には、きわめて具体的な手続き上のものから、解説風のものも感想もあ
り、むろん有り得て当然自然なメーリングリストの役目だと私は考えている。
ところがそんな場で答えるのは「失礼」だと言ってきた、その幹事は。あげく、「幹事」も
「委員」も、二月十四日で「辞任」したと言う。二月十四日とは、私が、「所感 松岡榮志さんに」という感想をメールに入れた翌日に当たる。そして今日、五
日間を経て、辞任したという松岡幹事の上のようなメールが届いたのだから、不思議なことがおこるものだとしか言いようがない。
どんなに変なメールか、挙げてもいいならここに挙げるけれど、かえって気の毒である。と
にかく私は、走り書きのようにして、こう返信して置いた。
* 松岡榮志様 秦です。 二月十九日
失礼があれば云々ときちんと断りながら、遅れてきた者の不審や疑念や意見を、丁寧に落ち
着いて、話したつもり。あなたの人格に触れた話など一行もしていない。ことを分けて話しているのはお分かりの筈。失礼なのは、どちらですか。
メールで答えたのは、会議の際に強調して「読んでいないのか」「読め」と何度も発言され
ていたからです。この件に関しては「私信」でなく、明らかに会議関連の、しかも一委員たる私に対しての意見陳述を求めての勧奨と解釈しましたから、それほ
どのものならと、一委員としてメールに入れました。同席された他の委員の方へも、秦が「読んで」の私見を伝えてしかるべき、会議上の経緯であったはずで
す。私人たる松岡さんについては何ひとつも言っていない。議論を避けて、こんな抗議を受けるとは心外です。
もっと「普通の」の大人の話し合いが必要なのでは。失礼なのはあなたです。公私も、議論
の仕方も心得ています。話にならない。せっかくのお招きゆえ、努めて話題に参加し、協力したいと思っていましたのに。
* 私が「松岡榮志さんの文章を読んで」どう考えどう
書いていたか、念のためにもう一度挙げておく。これに対して一言半句の議論もない。それでいて「辞任」とはどういうことか解せない。つぶさにかみ砕いて、
私のような或る一面の事情には甚だ暗い人間の不審にこたえながら、長短を補い合うべく委員会に「参加をお願い」されたのだと理解していたが。その幹事役が
悲鳴のような「辞任」を口にされるのは解せない。議論のための委員会では無かったようだ。何しに私は忙しい中でこんな時間を割いてきたのかバカらしい。
* 所感 松岡榮志さんに。 秦恒平 二月十三日
二月四日の文字コード委員会でとても熱心にお話のあった、中央公論「漢字の危機は杞憂に
すぎない」文藝春秋「電脳時代でも漢字は滅びない」のコピーをわざわざお送り下さり恐れ入ります。読みましての少々の感想を述べます。
もっとも、これら「表明」の強い「抗議」気味の行文 は、少なくも私にはあまり触れ合って来ません。特記されている四箇条の「悪意に満ちた批判」につき懸命に抗議されているわけですが、先日の会議に初参加以 前に、私にはかつて「ユニコード」で此の手の発言をする知識も不十分なら、機会も、気も、なかったのですから。挙げられたこの四箇条など、実にラチもない 興味もないことで、それに関する松岡さんの発言にも一定の関心以上は持てません。去年一月の文芸家協会のシンポジウムも、「文字コード」の何かも分かって いない人の立場で出よという人選に応じたわけで、それ以降ペンクラブに電子メディアの会を作ったのも、これから勉強、それも著作権関連の勉強を急がねばと 私などは思っていたぐらいです。
コピーを読み、知識をいくつも持てたのは幸いでし た。感謝します。その余の松岡さんの「反省」や「提案」の中には、とてもいいことも書かれているなと教わりました。そういう点はもっと発言して欲しいもの です。
その上で松岡さんの論調から、これは見逃してはなら
ないなと思ったことがあり、それを言います。
あなたは「普通の日本人には一万字以上は必要でないことは自明」と書き、もう一つの文章
にも、大きな字で、「ふつうの日本人には漢字が一万字あれば十分」と強調しています。
伺いますが、松岡さんは「普通」「ふつう」の「日本人」なのですか、それとも「特別の日
本人」なのですか。揚げ足を取るのではありません、根底の態度を問うのです。
前者なら、あなたは漢字一万字で「中国古典文学と中国語学」の研究を全う出来る研究者だ
というわけだし、しかもそういう専門家であるあなた以外に、漢字一万字以上を必要とする「特別な日本人」を想定していることになる。それはどういう人のこ
とで、どこがあなたとは違うのでしょうか。
後者であるなら、あなたの「普通の日本人」とはどんな人で、どれほどの人数になるのです
か。委員会に出ている人はみな「特別の日本人」なのか「普通の日本人」も混じっているのですか。「普通の日本人」とは何なのですか。かくいう私はあなたに
は「普通の日本人」なのか「特別の日本人」なのか、それを正確に言えますか。あなたは莫大な人数の日本人を「自明」なほど代弁できる足場を持っているので
すか。
私から言えば、この私は、普通も特別もない「ふつうの日本人」です。松岡さん、あなたも
「ふつうの日本人」です。しかも、あなたも私も「一万字では足りない」方の日本人でありましょう。だが「一万字で足りる」人を即ち「普通の日本人」だとい
う言い抜けは利かない。それは、この際、論理の循環、理屈のすり替えでしかない。
松岡さん、日本人を分けて「普通」だの「普通でない」だのという足場に立つのは、それは
少なくも不正確です。不正確の上に立って主張を妥当そうに見せかけようとするのは困ります。「一万字で十分足る日本人」も「一万字では不自由な日本人」も
いて、両方とも、普通の、普通でないの、と他人に言われる必要のない、同じ日本人同士です。屁理屈でないことを、今少し付け加えます。
私はいつも言っている。私は、今使っている器械の第二水準までで、自分の文章を書こう、表現しようとすれば、その自由をかなり持っています。不可能ではな
い。私が現に生きて用字の判断も取捨も出来るからです。その意味では「一万字」もあればけっこうな「日本人」であり得る。
しかし分かりやすく喩えましょう、あなたの専門の方の中国古典の筆者、孔子や鳩摩羅什や
司馬遷らや、また敦煌変文等の貴重な文献類の、名も知れぬ筆者たちは、今更自分の書いたものを変え得る魔法を持っていません。そういう中に「一万字」を漏
れた漢字や符号文字がいっぱい出てきたら、一字一字はたとえ希少例とはいえ、まさか無かったことにしてあなたの研究が満足にできるわけではないでしょう。
彼らはもう書き直せないし、書き直せないまま伝わってきたことが大切な学藝研究の対象になる、享受鑑賞の対象になる。学者だけではない、私のようなただの
日本人読者もそれらから学びたければ学べるべきです、そしてその際の私は、「一万字で足りているのは、自明」などと決して言えません。
言うまでもなく、この際は、器械がいわゆるインフラとしての基盤性を確立して行くであろ
うと仮想の上でものを言っています。そしてユニコード感覚で言っています。どこの地球上で、誰もが、いつでも、問題なく、と。
井上靖の「鬼の話」を私はたまたま話題にしました。つい近年の現代作家の全集にも選ばれる佳作が、もののみごとに再現不能と分かりました。現状、作品解説
のために私は作品の芯になっている鬼の名や星の名も、目下のプランでは器械に書き表せない、再現できないのです、ユニコードでも、その他でも。一万字以上
でも「足りていないのが自明」を、現に露呈しています。井上さんの小説は、まさに「普通に」廣く日本人に読まれてきたのですが。こんな例は他にも続出する
でしょう。
文字コードに私の知識も理解もまだ不十分ですが、漢
字や仮名や記号符号を「情報交換用」にでなく、「日本工業規格情報交換用」にでなく、それも十分必要ですが、また聖徳太子の経疏このかた「日本語」として
用いている人はいっぱいいて、しかも「書く」だけでなく「読む」「引く」「調べる」「味わう」も含めていっぱいいて、そんな大勢の日本人を、松岡さんのよ
うに単純に「普通の日本人には」などと分別してもらっては迷惑なのです。どの程度の常識として言われているのか察しはつくけれど、「ふつうの日本人」の感
覚で、「大きなお世話」なのです。私は、他人を目して「普通の人には」この程度だといった立論には、生来我慢がならないタチです。
さて、そうなれば、議論の場は、われわれの元の場へ自然に戻ります。あなたのおっしゃる
「文字が足りないとマスコミを煽ってきた一部の作家のみなさん」に私が含まれていないことを信じますが、現実に「足りない」のは確かなようですね。松岡さ
んの文章を読んでいると、煽っているのは実は松岡さんのように読めましたが。
「アジア各国で使われている漢字を、コンピュータの上
で共通に利用するための統一コード化を行って」きたと言われるのはその通りでしょう、が、正確には「使われている漢字の極く限られた少数を」というところ
から「文字コード化」が始まったわけですね。そして無理と不都合で、だんだん「足し算」せざるを得ないのが現状だと見られます。そこまで辿り着いたご苦労
を多として感謝することにやぶさかではありません。本当にご苦労でした。
最後に申し添えますが、「一部の好事家による趣味的な日本語ではなく、簡潔でしっかりし
た日本語を書き表わすための漢字がどうあるべきか、今こそ私たちはまじめに考えるべきです。コンピュータは、私たちの社会生活を豊かにするための道具にす
ぎません」といった、浅々しい発言は、どんなものでしょうか。
「一部の好事家による趣味的な日本語」というのが「表現者」の根底を愚弄する発言でないこ
とを希望します。察しが付かぬではないものの、誤解も招きかねないこういう物言いは、さっきの「普通の日本人には」と通底した嫌みもつい感じられ、愉快に
なれません。
また「表現者」がみな「簡潔でしっかりした」日本語だけで創作したり思索したりしている
わけでなく、饒舌も、冗漫をすらも文体にしている人もいるのですから、私個人は「簡潔でしっかりした日本語」大好きですが、この辺も「大きなお世話」に部
類されるでしょう。いろんな「表現」もあることを、李白も杜甫もあることを、尊重して下さるように。
さらに、「書き表わす」だけが漢字の問題でなく、大切な文字遺産の大切なところが「正し
く再現できる」ことも、思案に是非入れられるよう希望します。
大事の点ゆえ敢えて繰り返します。今日只今のわれわれだけが「書き表わ」して事が済むな
ら、話は、簡単かもしれない。しかし未来の人も書きたい筈です、自由に。そして過去の人は、書いてしまって書き換えが利かない。その人たちのいわば本意や
著作の尊厳を、現代のわれわれが気ままに扼殺はできないでしょう、古典の研究家ならよくよくお分かりの筈です。
現在から過去が、なるべく原典に近く再現して「読める、書ける、理解できる」という重大
さを、「ふつうの日本人」として、ぜひ忘れないでいただきたい。「一万字で足りているのは自明、では、ない」ことが、この辺で言い切れないものでしょう
か。未来から来たような若い作家最新の芥川賞作品の漢字も、よく調べてみたいものです。
「コンピュータは、私たちの社会生活を豊かにするための道具にすぎません」というのも何が
言いたいのか。 私や私の仲間たちは、コンピュータが近未来に、かなり圧倒的なインフラとなり、活字や紙での「表現」の場は、激減ないし解消してしまう場
合をも一応仮想の上で、「日本語表現の未来」を憂慮しているのですよ。「社会生活を豊かにするための道具にすぎません」とは軽く言うものですが、むろん道
具に違いないのですが、私など、自分の文学生活を表現するのに、おおかた不可欠に近い大切なものとして現に既に日夜器械に親しんでいます。社会生活だけで
なく、精神生活においても大事だから、真剣に「文字」「漢字」のことも考えたいのですよ。
こういう議論があまり出来なかったまま、文筆家が、
やっとおそまきにここへ登場し初めてきているのです、どうぞ、よろしく。但し、ここ当分、この手のこのメールでの議論は、休ませてもらいます、日々の仕事
に相当響いてきましたので。
失礼な言い過ぎがあろうかと、お許し願います。以上
* なお委員会参加に先立ち「所感」をまとめたものは、「一月二十三日」のところに記載し
てある。
* 幕張は寒かったが会場は大勢の人で暑苦しいほどの活気だった。ただしマッキントッシュ
の博覧会では、ウインドウズ使用の私には手の出しようもなく、またデモンストレーションもまるで理解できず、ヘキエキした。ダフ屋が出ているとは驚いた。
同行の「先生」は沈着に見たり聴いたりしていて、私はうしろからついて歩くだけだった。パソコンの先生である院生君と会うのが楽しみで、紀田順一郎さんに
貰ってあった二枚の招待券を利用したのである。彼は面白かったらしく、それで良かったのだ。二人で二百五十グラムのステーキを食べて早めに別れた。ホーム
ページに、文章の量を入れすぎだと言われた。恐縮。本当なら、既刊の単行本をすべてここへ復刻したいぐらいなのである。11MBあれば、不可能ではない。
ペンの例会で同業の人から「お金をとればいいのに」と言われたが、少なくも今はそんな気にならない。
* つかこうへいの『銀ちゃんが、ゆく』を殆ど読み切
るところだ。感想は『ストリッパー物語』と同じ、とても佳い、揺さぶられる強さと熱さとが魅力で、心根は深くおりて、地熱のように優しい。
* 二月二十日 土
* 姉と慕う人がいた。戦後の新制中学をもうすぐ卒業 して行くその人と出逢って、今日の日付は、以来、四十八年目になる。中学を卒業と同時にもう行方知れなくなった人だが、形見のように貰った文庫本の『心』 とともに、忘れたことはない。
* 男の美学なんか要らない。
道に唾をはかない。子供を抱いた女の人には座席を譲る。金品をせびらない。貧乏も金持ち
も好きではない。痩せるために運動などしない。嫌いな人とは会わない。食いたいものを食う。酒はうまい間だけ飲む。美食を趣味にしない。いい女がいい。好
きと尊敬とは区別できる。裏の白い紙は捨てない。着るものに奢らない。仕事は大事にする。正当な報酬は請求する。安物買いをしない。わけもなく先生と呼ば
ない。先生と呼ばれようが秦さんと呼ばれようが、何でもない。猫が好き。蛇がにがて。妻を愛している。隠し芸は売らない。時間は守る。必要な無駄、無用な
無駄がある。いい政治というものは、無い。学者にも研究者にもならない。心から祈る。知らない事のほうが遙かに多い。不可能なことが有る。選挙権はかなら
ず行使する。多くは望まない。言葉を信じすぎない。盗んでいいものも有る。物を蒐めない。逢いたい人がいつもいる。貰えば嬉しい。適当に嫉妬する。花が好
き。死に急がない。可能性を疑わない。花も実も、無い。まさかという事がある。好奇心は捨てない。新しい器械にいつも興味がある。相対的だから絶対があ
る。不器用である。据え膳は食う。嘘は適度につく。大儲けも大損もしない。貰った手紙には返事を書く。ゴミ出しもする、おつかいにも行く。自動車より自転
車。ま、いいじゃないか。孫は文句泣く可愛いが。毎夜死者たちのために本を音読する。きれい好きとは言えない。やたら褒めない。怒る。家族とはよく話す。
読まない本は買わない。自分で考える。寝相はわるい。親切に。美空ひばり。魂の色の似た人をいつも捜している。原節子。澤口靖子。簡単にあきらめる。容易
にあきらめない。一割ほど高いめに買う。宝石はいらない。経済は大事。こだわらずに筋を通す。よく気が付く。カラオケは嫌い。ストレートをダブルで。結婚
式も葬式も無用と思う。していい妥協はする。わが子はわが子。繰り返しを厭わない。出版記念会なんてやらない。字はへた、絵は描けない。分かる人には言わ
なくても分かる。分からん人にはいくら言っても分からん。強いてほんとのことを言う必要はない。期待しすぎない。愚痴るだけの人は嫌い。正義は疑わしいも
のの一つである。念々死去。歌舞伎。日の丸はわるくない。君が代は好かない。碁は三番。歴史に学びたい。ボールペンとパソコン。気稟の清質最も尊ぶべし。
だましてあげるのも、愛。暖簾より創意。つるんで歩かない。あれば使い無くても構わない。若い人を大切に思う。へんなメモは残さない。あやまるべきは、す
ぐ、あやまる。強硬に頑張る。時は金よりも貴い。長湯。電話が嫌い。気はくばる。手土産も旅の土産も無し。死ぬまで生きている。能を見ながら寝る。無用な
寄付はしない。保守より革新。確信は幻想だと思う。幻想も現実である。現実は夢である。夢はさめる。男と女しか無い。私は男である。美学は要らない。男の
美学なんか要らない。
* 「分かる人には言わなくても分かる。分からん人に
はいくら言っても分からん。強いてほんとのことを言う必要はない。」と、十三四の「姉さん」は、愚かに幼い私を、ものかげに呼んで叱ったことがあった。六
十三にしてこの訓戒に、どうしても背いてしまう。バグワン和尚にも毎晩のように叱られる。首をすくめ、音読の声が低くなる。
* 書庫の上が細長い土庭になっていて、随分以前に鉢植えの梅をそのまま土におろして置い
たのが、徒長枝が伸び、いい枝振りに育って、いま白梅が満開である。木瓜もあかく満開である。この器械部屋は白い障子と穏やかに無地の襖に壁の、和室。お
数寄屋坊主のように頭をまるめた眼光炯々の谷崎潤一郎の写真が、作りつけの書棚の端の方から、いつもわたしを睨み付けている。「秦恒平雅兄一粲 井泉水」
と署名した荻原井泉水の「花」と「風」二文字の額も、すぐ頭上にある。目を憩わせるのは澤口靖子の写真で、すぐ外の春の花とあでやかに妍を競っている。
「秦恒平様」とサインがしてある。
九十二になる老女の自称弟子が大田区にいて、女兼好のように鋭い文章で随筆も掌説も書け
る。この人が、この部屋に澤口靖子の写真があると知って、いかにもくやしそうに焼き餅を焼いてくれたことがある。妙な暮らしである。柱にかけた備前の細い
花筒にいま花はないが、火襷やなまこの景色が美しい。
そんな場所でいま「井上靖 話情の詩人」を初めてパソコンで縦組みの原稿としてプリント
した。
* 二月二十三日 火
* 与野本町まで埼京線でゆき、妻と、『リチャード三
世』を観てきた。市村正親主演、蜷川幸雄演出。いわばシェイクスピアを歌舞伎仕立てにした商業演劇で、飽かせない。大きな劇場にふさわしいみごとな舞台装
置で、またそれにふさわしい演出効果。骨組みの大きないい歌舞伎であった。俳優座の『冬のライオン』のような冴えた緊迫ではなく、鬼面人を驚かすふうでは
あるが、それなりに徹したところが優れていて、なにしろシェイクスピアの中でも抜群の劇であるからは、面白くないわけがない。ハムレットは当たりはずれが
出るし、マクベスでもそうだが、リチャード三世はある意味で一番「娯楽性」をも備えた残酷個性物語であり、三時間の芝居はほぼゆるみ無く引きつけてはなさ
なかった。券は建日子の方で用意してくれていた。出がけに池袋の「甍」でした食事がなかなかよかった。
* 三月には歌舞伎も能もある。ヒマになったら、少し気を養いたい。
* 修士論文の発表も終わりましたという便りが今年も 入りはじめた。卒業し就職先へ散って行く。今日の便りは、私が講義を持ち始めたとしに入学してきて、退職の年に学部を卒業し、院の間に一年留学してきて、 この春に卒業就職、まる七年間のつき合いだ。神戸へ行くという。さびしいが、関西で会える。若い友人たちがあちこちでいい仕事をしてくれるといい。まだま だそれを楽しませて貰いたい。
* 今日一日、角田氏の『平安の春』を読んで楽しん
だ。私の最も好きな読書は、碩学の書かれた考察や論文や随筆。知識と同時に、なんというか「眼」を与えられる。久保田淳氏が『六百番歌合』岩波古典体系を
下さった。ぼろぼろの昔の岩波文庫古本で読んできたものが、周到な注と一緒に読めるとは嬉しい。
井上靖短編集の解説を書き終えたので、次の志賀直哉に目を向ける。久々に『暗夜行路』を
読んで楽しみたい。
* 二月二十四日 水
* 震え上がる寒さ。冷たい雨。昨夜は金星と木星の、
間近に引き合うように冴え冴えと光るのもみた。雨が今日で、わたしたちは良かった。
* ダイオキシン報道で久米宏を週刊文春や週刊新潮が大上段に大げさな「謝罪」勧告や要求
をしていたのは、滑稽だった。国や行政にも問題があり、なによりも他国の何百倍もの許容基準に照らして安全を宣言したり、総理以下がテレビカメラの前で
食ってみせたり、なんという茶番を平然とやるものか。ダイオキシンは、サリンとも青酸カリともちがう。今食って、明日には死ぬという性格のものでないから
厄介なのであり、問題は子や孫のからだに現れて来るかも知れぬ蓋然性の著しく高い毒性なのだ。
さすがに国も県も基準の見直しや調査に尻を上げたようだが、その遅さこそが問題であり罪
にも当たる失政なのであり、そこへ動かしていった久米の報道には、私は大きな間違いは見あたらないと言いたいし、何百分の一という海外の厳正な懼れ方を基
準に言えば、「安全」など無に等しいことになる。その場しのぎの言い逃れも見苦しければ、週刊誌の跳ね上がりも、まことにお粗末な見識といわねばならな
い。
かつて厚生省と一部の学者が結託して、カドミウム汚染に関連して、いかに悪しき政治的な
捏造工作をしたか、それが世界の学会の真っ直中で世界環視のうちに木っ端微塵に粉砕されたことが思い出される。それを克明に追ったテレビのレポートはド
キュメンタリーの大きな栄誉賞をもって酬われた。
健康に関わる大きな重要事が、いかに国と行政と悪徳学者の手でねじ曲げられ「安全」「無
害」を振りまいてきたかは、「エイズ」問題でも「カドミウム問題」でも明白であり、厚生省が「安全」といえば「安全」だと思うのはむしろはっきり間違って
いるとぐらいに思えばいいのだ。小渕総理がいっきに汚染の野菜を十キロ食べたとて直ちに何かが起こるわけではなく、起こらないから「安全」とは言えないむ
しろ「心配」すべきものをダイオキシン問題は抱えている。
一国の総理などがバカ面さげて野菜を食ってにやけている図を見ていると、何という愚かし
いものを飼育しているものかなと有権者として情けない。「蓄積」されて行く毒性をおそれて日本の何百分の一にも安全基準を引き下げている国々を嗤う気な
ら、根拠を示せと言いたい。
とにかくダイオキシン問題が、少なからずぐっと関心をもたれ対策へ当局も動かずに済まな
くなったことを考えると、久米宏の提言には謝意を表したい。そのことに一番感謝することになるかも知れないのは、問題の地元住民であり、その生まれくる子
孫であろう。放っておけば大変なことになるのは、今よりも、日一日の未来なのであり、農民も、怒りの対象を間違えないで、根から危険を防ぎきることを考え
て欲しい。
大きな意味に沿って言えば、消費者も危険かも知れぬ食品からは可能な限り身を避けるとい
う姿勢を守ることで、国や行政を動かして行くべきだろう。今度の場合生産者である農民の気持ちはまだ分かるけれど、「安全」の意味を度外視した住民の安易
な反応が見られたのには寒くなった。こういう反応を利して政治は都合良く悪政にあぐらをかきたがる。
* 原子力艦船の寄港に関連して、高知県知事の、地方自治と県民安全への配慮に出た当然な
合法的要請に対し、国がいきりたって不快を公言しているのも、どうかと思っている。様子を見守りたい。
* 二月二十五日 木
* 久しい読者で親友の倉持光雄氏が、大原雄の筆名で
『ゆるりと江戸へ 遠眼鏡戯場観察(かぶきうおっちんぐ)』という趣向横溢の面白い処女出版を遂げた。NHKの報道部で大事な仕事をしているが、以前は社
会部の記者をしたり雑誌「ステラ」を発行したり、たいへんなキャリアだが、歌舞伎は正味で言うと四年生。それで一冊のユニークな歌舞伎の本が書けるのは、
社会部記者の目で、役者や台本だけでなく「戯場」つまりは芝居と芝居小屋との隅々までを探偵の眼光で照射できたからだ。なみの歌舞伎の本ではないのであ
る。
倉持さんがそれでも初めて歌舞伎に見参したのは、二十年ほど以前だという。それから十四
五年してまた見始めたという同じ白鸚追善の舞台を私も観ていた。ふうんと唸って、なんだか嬉しくなった。梅幸がまだ元気だった。
* メールを開くのが日々の楽しみであったが、今は文
字コード委員会のメーリングリストによる意見交換や情報交換が洪水のように押し流れ、占領されている。百本ちかくて、もう驚きはしないが、読んでもいられ
ない。ダウンロードは自動的に器械がしてくれるが。熱心で、いいことである。専門バカの自己満足が先行しないで、素人の不審や希望にものやわらかにこたえ
てもらえる結果を出したいものだ。
いずれにしても、メール管理に高等技術があるのであろうから、それも覚えて、専用の函を
作りたいが、そんなこともわたしはまだ出来ない。
* 久保田淳さんから『六百番歌合』を戴き、次の日に は今西祐一郎氏から『源氏物語総索引』を戴いた。ともに岩波の大系本である。前者は昔の背高本の岩波文庫のボロボロの古本を三十年ちかい前に古本屋で買っ て、さらにボロボロにしていた。すばらしい贈り物で、こういう本の手にはいるのが実に嬉しい。高価なのである。索引は、年譜とともに、研究を仕上げる最高 の難関で、それだけに周到な索引は無限の魅力で発想を誘い出す。たちどころに、あれも調べてこうしたい、これも調べてこうしたいとアイテアが湧出する。会 議や会合でなく、私は、それをこそした方がいいのだと、つくづく思う。だが投げ出せないではないか。
* バグワンは努力を捨てよと私を叱る。しかも徹底し
て努力した者だけがそれを本当に捨てられるのだと教える。どこで捨てられるのか、その機を捉えたときでなければ分からないのなら、私は努力し続けるしかな
い。しかしそれも、かつてのように手を八方に広げられる体力が無い以上、丁寧に己を知って処さねばならない。会津八一の「学規」はこう教えていた。
一 深くこの生を愛すべし
一 省て己を知るべし
一 学藝を以て性を養ふべし
一 日々新面目あるべし
毎日に眼を向け暮らしているが、一と三とは、心がけている。二と四、ことに二が難しい。
* 鎌倉の、これもご夫婦で久しい読者だとメールで告げられていたお二人に、心懐かしくて
メールを送ったら、嬉しい返事が入っていた。清泉に唇を添えたような気持ちで読んだ。夫婦ともに音楽家でかつ趣味は大違い、その中で一点の一致点が私の文
学や文章なのだと言われると、この冥加のゆえにこそ「省て己を知」らねばならないと、日々の悔いに身が痛む。湖の本をはじめた十三年前、「帰去来」と私は
創刊の辞に書いていた。表紙の裏にその文字を刻んだ。「静」ということをずっと追求しながら、騒がしい日々に身を投じていた。それはそれでいいのだが、自
分の芯の静かさを見失うことは出来ない。
一つの転機がきている。
わがレイタースタイルを確かにするには今のままではならぬ。
* そんな中で、なお私を推してぜひとも市長選挙に
打って出て欲しいと熱心に勧めてくれる市民もいる。いったい、どうなっているのだろう。もちろん、決してそんな話には乗らない。
* 二月二十六日 金
* 脳死判定の問題は、ほんとうに難しい機微をあまり にくらく蔵していて、口を出すのがつらい。四十四歳のお母さんが、くも膜下出血というのも気の毒であり、日本中が「死」を見つめて騒いでいるのだから、家 族の辛さは倍加していることだろう。
* せっかくだから、福田恆存訳『リチャード三世』を 読んだ。名訳。二度目か三度目だが、新鮮に面白かったので、引き続いて『リチャード二世』と『ヘンリー四世』も読んでしまおうと思う。木下順二さんに戴い た『薔薇戦争』へつないで、イギリスの殺伐とした歴史を見物してみる。つい最近テレビで『ブレーブハート』も観た。すさまじい国だ。
* つかこうへいの『熱海殺人事件』は舞台は爆発的に 面白いそうだが、戯曲の体で、また小説の体で読んでも、これは頂けなかった。つまり乗れなかった。家内も、『ストリッパー物語』『銀ちゃんが、ゆく』二作 ともに、感動したようだ。
* 志賀直哉『暗夜行路』も読み出したが、これは引き 込む。さすがに引き込む。それにしても「私は」「私に」「私の」と「私」の乱発に驚く。小説では極力一人称を書かない私は、今更に、驚いてしまう。知らな いまに感化されていて、自分で考えたことと思いこんでいた類似の考え方がちゃんと『暗夜行路』に出ていたりして、それにも驚きながら懐かしい。
* 以前に詳細に書いた自筆年譜を書き加えて行かねば
ならないが、太宰治賞の受賞までに、つまり「わが作家以前」に、何といっても思いが加わる。少年時代があってよかった
と、つくづく思う。育ててくれた親たちに、感謝を、日々深めている。
* 学生君の一人が相談を持ちかけてきた。そういう季
節がまた来つつある。上尾君にも柳君にも市原君にもうまく時間をつくって逢おうと思う。倉持さんとも飲もうと思う。つい数日前は保谷の堀上謙さんのお宅
で、うまい焼酎をご馳走になった。しかし、さしあたっては三月早々会議や会合がつづく。
* 三月一日 月
* 新しい掌説集、八篇めを書き込み進行中。本郷台の 喫茶店で書いていた、一日一篇ずつ。ぽいと喫茶店にとびこむ、と、何が何でも一篇書き上げるまでは出なかった。毎日、つづけた。三十年余も昔の話だ、編集 部勤務の猛烈に忙しかったころだ、わたしは当時猛烈社員の名に恥じない仕事人間だったが、また自分の時間づくりに、みごとに仕事をサボレるサボリマンでも あった。掌説、読み返しながら懐かしい。川端の「掌の小説」とも稲垣足穂の掌編ともちがう。むしろ漱石の『夢十夜』が意識下にひそんでいるようだ。
* 文字コード関連の山のような資料をひっくり返して
いるうちに、東大の「六万四千漢字」への批評、あるいは問いかけという小冊子に行き当たった。そのなかに「文字はどこから、どのような規準で集められたの
か」というパートがあり、冒頭に、豊島正之という人の書いていることが、かねがね私の願っている通りの話をしているのだと分かり、ああこれなんんだ、これ
を言うんだと思った。
過去の辞典を「一次資料」と考え、そこから「つかみ取り」のように無原則に漢字をやたら
掴みだすやり方には「落ち」が出るのは知れたことである。辞典にはその時点・時代の案内・見取り図ふうの価値のあるのは事実で、軽視はしてならないが、ま
た多くの決定的な誤差や誤謬や事大主義にも禍いされている。大事なのは貴重な「文字文化遺産」である「二次資料」つまりは古典その他の具体的な文献文書か
ら文字を拾う地味な具体的な努力をして行く方がムダがない、それも基本的文献を拾えば裾野資料は必ず覆える。おそらく二万字もあれば、中国日本半島台湾の
漢字文献の大方は、その「本」その「本」に即して「これは大丈夫再現可能です」とハンコをおせるだろう、というのが私が言ってきた基本の考え方だった。そ
れと同じと思われる事を、豊島氏は明快に発言されていて、感心した。「収集資料某の文字は、全部で何文字であり、これを全て含む」というリストづくりが必
要なのだ、私がそのリストをと、ペンクラブでの会合でも何度も口にしていたのは、「これが遂行されれば、これは空前の業績であって、長く後世に残る偉大な
学問的達成である事は論を俟たない」と豊島氏の言われる通りに感じていたからだ。前回の委員会でもそう発言しているし、メールの交換でもそれを繰り返して
いたつもりだ。
私のような希望は、世迷い言かしらんと孤独感も感じていたが、豊島氏のまとめには驚い
た。また当然こういう考え方の人がいていいはずだと安堵した。
* 辞典は大切なもので、どれも、その限りにおいて大
切にしなければならないが、途方もない今日的には「ムダなもの」ものも抱え込んでいる。それも文字の歴史に相違ないから割愛も排除も出来ることではない
が、無差別に器械に取り込む必要はない。整理はすべきであり、だが整理とは、廃棄削除の謂ではない。それも何かの形で保存しなければ歴史への顔向けが出来
ない。そのためには二十一世紀の網羅的辞典を大成しておけばよく、活字文化の最後の花道には、それが、何よりふさわしいと。器械には豊島式のまさに私の言
う「引き算」を確実にした方がいい。無原則な、過去の辞典類からの「つかみ取り」方式
は漏れ落ちが出て無駄なことも多く、際限ない不足からの「足し算」を繰り返すだろう。本質
的な向かい方ではない。
* 今日は午後、電子メディア対応研究会に文化庁の国
語調査官を招いて意見交換する。
* 三月になった。早い。
* 三月二日 火
* 歌舞伎座初日。「逆櫓」幸四郎、左団次、芝雀、宗
十郎、団十郎。幸四郎の樋口、やや神経質なほど丁寧に、ゆっくりと大きく深く演じて行く。櫓をつかった殺陣が面白い。家橘、右之助、十藏が手伝って、歌舞
伎らしい大柄なあじわいになった。長いものの途中の一段なので初めの内は科白の通りがやや分かりづらくても、だんだんにものが見えてくると良くなる。
「吉原雀」は、菊五郎と菊之助親子がしっとりと艶やかに踊ってくれた。菊之助はかなり踊れ
る。今まで見たよりもずっと手に入り心嬉しく踊っていた。父はつき合いの体。
「藤娘」の玉三郎はお目当て。なんともいえず可愛らしい藤の精で、色気も美しさも品の良さ
も。踊りは、やや内懐をつめて小さいが、そのぶん、なんとも女らしく優しい。幸四郎の樋口と玉三郎の藤娘が観たくて昼に決めたが、正解。カップ酒がうま
かった。「ぢいさんばあさん」は成田屋親子と音羽屋親子。それに左団次。一幕は菊五郎のるんが太っていてしんどかったが、二幕の京都の場は視野が開け、つ
き合っていた友右衛門他のさらりといい顔ぶれが気持ちよく、三幕めはしたたか泣かされた。よこで家内が盛んに泣くのでこまった。さわやかないい芝居で、
昔、猿翁と時藏、段四郎らのをテレビか何かで観たのが頭にあったが、団十郎もニンに合って、いやみがなかった。さすがに音羽屋も、老けての奥方、人品みご
とであった。
* 和光で時計を修理し、待っている間にちょっと買い 物もして、国際フォーラムの建物をゆっくり観てから、小洞天で食事。すこし珍しい中華料理にマオタイがよく合った。
* 前夜は暁ちかくまでシェイクスピアに読みふけって いた。リチャード二世、ヘンリー四世、そしてリチャード三世、それに編成された薔薇戦争。面白くてやめられない。むかしモロワであったか誰であったか「イ ギリス史」を読み、血が騒ぐほどの凄さに驚いて以来、シェイクスピアのその手の戯曲は時折読み返したくなる。映画でも西欧の歴史物は努めて観る。反戦映画 も自分にむち打つ気持ちで努めて観るが、歴史物は楽しんで観る。
* 昨日は八度目の電子メディア対応研究会に文化庁の
氏原国語調査官のご足労を願い、国語問題について話を聞き、すこし意見交換があった。
もっとも、話は、概ね活字印刷本時代の大詰めを整理したようなことで、新たな電子メディ
ア時代の国語表記の問題には及ばなかった、そこへ踏み込んで行こうという気が文化庁や文部省にはいかにも希薄であるらしく思われ、物足りなかった。坂村健
氏が発言されていたように、情報処理伝達の方は通産省で、文化的日本語の方は文部省文化庁でというほどの気概が欲しいと思った。
所詮は噛み合わない議論をしてしまうだけでなく、いわば文芸家協会、ペンクラブがなまじ
いに工業規格マーケット型の文字コード討議に参加することで、文筆家たちもそれに賛同したような体裁が出来てしまうだろうことが心配だという、坂村氏の感
想が胸に重く残った。
* 三月五日 金
* 今期最後の言論表現委員会は、いささか混乱した。 最近のテレビコマーシャルの中で、電話の呼び出し音が露骨に使われ、はっとさせられるのは事実その通りである。猪瀬直樹委員長はこれは「重大なルール違 反」であり公共広告機構に対しペンクラブとして抗議と要望文とを突きつけたいとし、久間十義と長田渚左が賛成し、篠田博之と五十嵐二葉と私は反対した。猪 瀬氏の不快は反対した三人にもよく分かるが、いわばコマーシャルの「表現」手法にも関わるし、制約を加えるほど問題が一般化しているとも思えない。いかな る「ルール」に違反しているかの判定も決定的になし得ない。ペンクラブの発言がそこにまで及ぶことが穏当妥当かどうか自信が持てないと言うのが反対の理由 であった。賛成の理由はうまくここで代弁できない。
* 私はそれよりも国歌国旗の法制化問題の方が問題視
するに値すると言ったが、うやむやになった。法制化すれば次は強制になるのは目に見えていて、国歌や国旗がそういうかたちで国民の反感や反発や無関心の対
象となって行くだけというのは不幸なことである。在る校長が板挟みになり自殺してしまうのも不幸なら、奇貨おくべしとすぐさま法制化をもちだす行政の志向
もいかにも鬱陶しい。
私は個人的には、国旗無き独立国はないのだし、「日の丸」でよいとしている。船舶の安全
航行や国際慣習上も国旗は必要で、過去に問題はあったにしても「日の丸」に罪はなく、用した人間に咎がある。歴史の経過に揺すられてきた旗ではあるが、も
うそれも「ニュートラル」の度を増して定着している、法の力を借りなくても。それを卒業式や入学式にごり押しに押しつける必要などは少しもなく、自然に受
け入れる者は受け入れて愛すればよく、その気がなければ強いて旗のもとに立たなくてもいい。
「君が代」は私は好まない。なにより音楽として好まない。必ずしも「君」を天皇制に結び
つけもしない。もともとは相手の長寿を寿ぐ歌なのであるから平和なもので、いけないのは、曲がまずい。「君が代」という表現が悪用されてきた歴史も被いが
たい。日の丸のような無言のシンボルでないだけ、言葉の伝える意義が悪用されやすい。私なら「さくらさくら」の方が好きだ。元気で美しい新国歌が健康な形
で選定され愛されるなら、それに越したことはない。それでもなお、法制化し強制しようとしかねない意図には反対したいし、この方にペンクラブとして一言あ
りたいと思うのだが、これには猪瀬委員長は賛成しなかった。
* つかこうへいの『広島に原爆を落とす日』を読んで みた。奇想の作であり、非凡なものがある。渾然とした作品とは言えない、熟した感じでは『銀ちゃんが、ゆく』などの方が優れていたが、奇想を織りなしつつ 主想をきちっと持ち出して読者にねじこむ腕力は、すごい。
* 志賀直哉を読んでいたら、尾道のほうで子どもの遊 びに、「出てくる敵は、みなみな殺せぇ」と唄っていて、おもわず唸った。たしかにこういう風に唄っていたものだ、これは起床ラッパの節で唄ったように思い 出せる。日の丸や君が代は、何としてもかつてはこういう歌とともに国民生活に君臨していた。忘れていいことではないだろう。
* 昨日の晩、「学鐙」編集長の北川和男氏退任の宴会
があり、出席した。北川氏が「独断と偏見」とで選んだ少数の筆者たちの集まりで、発起人は紅野敏郎、岡部昭彦、近藤信行の三氏。加島祥造、工藤幸雄、片桐
一男氏らと顔があった。文章では親しみ馴染んだ筆者が何人も見えていて、全員がもれなく「言葉」を贈った。
すばらしい編集者だった。私は『一文字日本史』を三年連載させて貰ったし、谷崎のことも
中国のことも東工大のことも、その他いろいろ書かせてもらった。北川さんの依頼だと、きりりと気がひきしまった。お礼を申し上げた。「清泉泓泓 ますます
豊かに」北川氏の清福を祈りたい。
* 言論委員会の前に表参道蕎麦の「古道」で数学の院
生とひさびさに会い、二時間歓談。院に進まず文系の方へ転じようかという相談を受けたのは一年半前だった。二年生の頃の学生でその一年間だけのつき合いで
私は退職した。それから一年半経て突然会いたいと言ってきた。授業の最後の日に、何かあれば言ってきなさいと住所を黒板に書いたのを失わずに持っていたと
言う。文学の勉強は数学をやっていても出来る、より独自な深さで出来るかも知れないと、励ました。
院に進んで数学をつづけてよかったと言う。博士課程に進みたいという。昼間であったが酒
の久保田を奢って乾杯して別れた。
* 昨日の文字コード委員会には電子メディア研究会の
野村氏に代理で出てもらった。夜の会合までに間が空きすぎ、どうにも間が持てないのが分かっていたし、いろんな人が顔を出して、何がどんな風に議論されて
いるのかを知る大切さも考えたから。
* 三月六日 土
* グレン・グールドの大きな書簡集を手に入れた。嬉 しい。とても心豊かな、瀟洒なといいたいようなエスプリに富んだ書簡を満載している。私には音楽論は、技術はむろんのこと、歯が立たない。しかし書簡には グールドの「人」が読める。あの演奏の中で聴かせるハミングの主体が、生き生きと親しい人たちに話しかけている。すばらしい。これで彼のピアノがますます 楽しめる。今はずっとバッハのトッカータを繰り返し繰り返し聴いている。聴いてなくても、大きめに身のそばで鳴らしていることも多い。家中をグールドと バッハに占めさせる。就寝時も灯を消した暗闇に静かに鳴らしている。音楽がじつにピュアーに世界を満たしてくれる。
* 竹内浩一君が松屋で大きな個展をひらく。第二回の
京都美術文化賞に授賞した日吉ヶ丘高校の後輩である。日展の人気画家の一人であり深みのある画境を独自に歩んでいる。大勢の人に見て欲しいと思う。四月に
はもう何回になるか、十四回目ぐらいの賞の選考に京都へ行く。ついでに淡交社の服部編集局長とも久しぶりに会うことになるだろう。謂ってみれば乞食茶とい
うか極侘びの系譜を思案した原稿を頼まれている。茶の湯のしごとだ、懐かしい。そうこうするうちに、雑誌「ミマン」の三度目の原稿を書かねばならない月
だ。解答は多くなくてよい、読んで楽しまれる見開きを工夫して行きたい。
* 先日、あちこちにばらばらにしまい込んでいた軸物を、桐のタンスを用意して一カ所に収
めてみたら、入りきらなかった。入っただけで数十本あった。契月、竹喬、印象、土雲などがあった。どうだか素性は知れないけれど宗旦の消息や江月宗玩の絵
賛、松花堂の大字横物などもあった。義政の名のある歌短冊などとても信じがたいが、豪華な佳い表具で楽しめる。今、三月の雛にちなんで絵所預従五位下土佐
光貞の優美な趣向の絵雛の軸を玄関にかけている。やがて鴨祐為の卯月八日の絵懐紙を懸ける時節だ。掛け物がたっぷりあると四季がにぎわう。狭苦しいまさに
茅屋だが、夫婦二人だ、それでいい。やがて、四十年になる。
* 三月七日 日
* 器械に熱中していて勘九郎の大石を見損ねた。らち
もない大河ドラマで、去年の元木君の慶喜のほうがまだしも緊張したが、元木君とはちょっと味わいのちがう勘九郎ちゃんが我々は好きなのである。昔藤間のお
師匠さんと仲良くしていてよく芝居になど連れてもらったが、この藤間の母娘が「勘九郎ちゃん」でたいへんだった。縁があったのだろう、一度お師匠さんとな
らんで玉三郎の夕霧に勘三郎の伊左衛門の吉田屋を、文字通りに一番
前のかぶりつき真ん真ん中で観たとき、勘三郎が所作をしながら……、いやいや故人の藝に傷
をつけるようなハナシはやめておくが、ま、そんなことがなくても私は勘三郎という源氏役者の花に、彼が「もしほ」の大昔から惚れていたのであり、息子で藝
のいい勘九郎を「ちゃん」と親しむ気分は彼の小さかった頃から我が家にもあった。その勘九郎がへんてこな面白い大石内藏助を演じているのだから、他には
ショーケンの綱吉ぐらいしか特別見たい役者はいないのに、最初から見続けていた。それを、おりもおりうまい大竹しのぶとの婚礼新婚のところを見損ねた。
もっとも最後のちょこっとだけ大竹しのぶを見たが、やめてくれと言いたいひどい芝居をしているので白けた。
宮沢りえは昔から大の贔屓で、澤口かりえかというほどだったが、最近のりえは見ているの
が可哀相なほど変わってしまった。『北の国から』で恋をしていた頃がりえの魅力の限界だったが、あの時はまだまだ十分に魅力的だった。
* 何をしていて見損ねたか。昭和三十二、三、四年頃 の年譜を書いていた。
* あと二年で六十五歳になる。その辺でぜひ自分を開
放したい。その自分に自分でいま最期の報告書を書こうとしている。ういう歳であり、記憶が失せればできっこない。誰の役にも立たない、これこそ自分にしか
意味がない。だから、する気になっている。年譜は湖の本の幕引きに全巻購読してくださった読者へ、感謝の贈り物にしたいなと思っている。
* 小西甚一さんの『日本文藝の詩学』きっちり二度熟読した。
* 三月十日 水
* なんと寒い冷たい日がつづいたことか、この数日縮
こまって家で仕事をしていた。出たくても出る用事があっても、縮こまっていた。もともと出不精なところがある。出なくて済むと朝から機嫌がいいというよう
なところがある。家にいれば確かに用が足せ、積んだ仕事の山が低くなる。机や器械の前でしたい事はたくさんある。読みたい本も山ほどある。退屈はしない。
単調になるのを避けねばならないから、そのために外へ出て人の顔を見る必要は確かにあるが、無理にすることではない。「部屋」に入れば無尽蔵に知人はいる
し、出れば、妻とも際限なく話し合える話題がある。
今日は石原慎太郎が都知事候補に出ると言い出した。この作家を作家としては殆ど知らな
い。石原裕次郎という映画俳優だった弟を、わたしは、美空ひばりの百分の一にも感じていなかったから、「石原裕次郎の兄です」という出馬声明の第一声は、
ユーモアとしても下らないと思った。彼の意志はかなり装飾的に鎧われたもので、思想にはさしたる構造はない。宣言的印象批評で横柄に「位取り」をしている
だけだ。南京虐殺問題などでの過去の発言は、一歩譲ってそこに一つの態度表明があるにしても、表明の仕方が侮蔑的に断定的に過ぎ、それにより暴力的に大事
な別の判断や品位までも押し殺されてしまう。それをわたしは深く懼れる。
もともと、ああいう尊大な物言いしかできない、一種の松田九郎なみな「無礼演技」を、か
つての今東光の物言いなどとともに、わたしは嫌っている。大声で批評とパフォーマンスは出来ても、この人には緻密な汗を流した行政は出来ず、失政を重ね問
題を起こし、絶えず高慢に言い訳を繰り返すのではないかと危惧する。危惧が危惧で済めばありがたいが、安心できない、危険の多い、都民をとても助けてくれ
る要素のない候補だと言いたい。
明石康にも私は何一つ期待しない。できない。視線が高みから急角度に下目におりている。
下の方は殆ど見えていない眼をしている。柿沢弘治といったか、あの小さい人間を外務大臣にしたのもバカなことであったが、ああいう浮遊したような存在は政
治家としてはいちばん信頼できない。
しかしまた残る三人もなんとなく弱い。鳩山邦夫が案の定さしたることも言いださない。桝
添要一は喋るのは得手だからいろいろ言うけれど、根が保守に寄食のタレントであり、大島渚に怒鳴られればひるんでしまう程度に肝は小さい。肝の小ささが、
わるいことはできない方に働き、また褒められたい一心で頑張るかも知れない未知数を抱えている。人品は著しく落ちる。三上満には大きく膨らむ豊かなものが
感じにくく、発展的でない。
もし田中真紀子でも出れば票をさらうだろう。土井たか子の時代は去った。
個人的には好かないし従来もワルクチを叩きつけてきた相手だが、この顔ぶれだと桝添の肝
の小ささと飢えたプライドに「小化け」を期待する程度か。とにかく石原と明石と柿沢はごめんだ。これは中傷ではない、公然の目下の感想だ。
* グレン・グールドの書簡集と『暗夜行路』とが就寝 まえのとてもいいバランス剤になっている。グールドの音楽が何倍も身近に寄ってきた。書簡集は一流の人のものは決して裏切らない。よくセレクトもされてい るが翻訳も佳い。大冊だけれどずんずんと読めてしまい、もったいなくなる。こんなに愛すべき人とは思っていなかった。音楽や芸術への考えかたも本質的でじ つに豊かだ。ゲルハルト・リヒターの『写真論・絵画論』も面白くはあるが、深い説得力と普遍的な魅力ということになると、かなり舌足らずに早口にものを 言っている。時任謙作のわがままはすさまじいが、それを律して普遍の魅力を与えている志賀直哉の卓越した文体には舌を巻く。ストーリーでいえば退屈な感想 と描写の連続で、劇的な主題が平板に語られているどうしようもないものなのに、まぎれもない硬質な文学芸術のはるかな高みに作品を押し上げて安定し、幾ら でも読み進めてやめられないのが直哉のえらさである。直哉の人間の偉さでなく、人間に結びついた文体の偉さである。
* それにもまして、バグワンの言葉が、毎日毎夜わた
しを刺し貫く。バグワンに叱られてばかりいる。
* 三月十三日 土
* 神戸へ赴任する新社会人と、一年で建設省本庁へ配 置換えになった一年先輩(ただし一年の海外留学がはさまっており、元々は同期の親友院生)たちと、寿司を食いうまい酒をのみ、昼の数時間を十分に歓談し た。神戸へゆく彼とはもう七年のつき合いになる。わが教授室を学生たちと私との談話室に設営してくれたのも彼だ。建設省君と彼は、わたしの東工大時代のお おきな収穫であり楽しみであった。まだまだ多くを悩み苦しみ惑うであろうことは、これは人生、よぎない必然であり、不安は小さいものではありえまいが、不 安とは、安定という抽象的な「線」の前後左右にひろがる現実の「面」であろう。そんな「安定」というような「線」はただけじめの線にしか過ぎなく、われわ れは不安をこそ日々の場面として受け入れながら生きる。どんな安定をでなく、「どんな不安をどう生きるか」で人生は設営されてゆく。不安になど負けない で、ありもしない安定をなど願わないで、不安を乗りこなして行ってほしい。
* 松屋で竹内浩一君の大きな展覧会をいっしょに観 た。床の間に飾られてちんちらしたきれい事の絵ではない。自信をもって若手では真っ先に京都美術文化賞を呈したほんものの芸術家の、清楚静謐でしかも強靱 な描写力の魅力が、ひしひしと迫り来る、逸材渾身の打ち込みが観られた。ああよかったと思った。気稟の清質最も尊ぶべし。竹内君の画境に私は励まされた。
* 雑誌「ミマン」に出題した二度目に、解答が前回よ りもぐっと増えて戻ってきた。「字あまりと定型」を意図して出題したが、意図通りの興味深い解答が届いている。ちょっと試みてほしい、虫食いに、漢字一字 をそれぞれ選んで「表現を完成」して欲しい。ここでは、あえて作者名を省かせていただく、お許しを。雑誌には名を出す。誰の作と分かってしまうと「知って いる」人、「調べる」人が出てしまう。
* 手をとりていし子のわれをまどろませおきてしづか に( )ひきゆきしか
良夜かな赤子の寝息( )のごとく
* 三月十四日 日
* 快晴。結婚届けを新宿区役所に提出して、四十年に
なる。街に出て昼の食事をゆっくりとり、新しい山種美術館で創画会主要会員の展覧会を観た。兜町時代の館とくらべれば、一階だけで、広さは三分の二程度だ
が、まずまず観られたのはさすがに手だれの画家の集いだったからで、やはり石本正の三点がわたしたちには佳いと思えた。
もう一度銀座にもどって、昨日に引き続いてまた「竹内浩一展」を松屋でゆっくり時間をか
けて観た。感嘆を久しうした。銀座を歩いて、結婚前にいっしょに来たビヤホールの「ピルゼン」で息を入れ、疲れぬうちにと帰った。四十年はルビー婚という
らしい、帝国ホテルの「レ・セゾン」が、デザートの皿にチョコレートでそう書いて出してきた。照れた。照れついでに、よく摂生して、せめてもう十年を一年
一年大事にともに生きて行かねばならぬ。
こういうことを正気で言う作家などめったにいるものではない。私は作家たるべく生まれて
きたのではなく、ただ「私」でありたい。「私」が、作家である私の作品である。とんでもなく誤解されそうだが、あえて「闇」に、さよう「言い置く」。
* 三月十七日 水
* 加藤克己氏と岡井隆氏とから同時に歌集が贈られて きた。歌集はたくさん来るが、これほど同時に、自在かつ異質かつ上等なのが届くということは、そう有るものではない。お二方とも私よりは、かなりに年輩の 芸術家で先鋭また前衛の歌人である。歌人もいろいろで世渡り上手な御山の大将さんも大勢あるが、それは俳句でも同じだが、加藤岡井氏はほんものである証拠 を作品に語らせている。
* また原田奈翁雄氏の創刊雑誌「ひとりから」と篠田 博之氏の雑誌「創」が同時に届いた。こういう良心的に編集された雑誌ばかりだとほんとに佳いのだが。君が代・日の丸問題でも、十年前に佐野洋委員長の言論 表現委員会で亡くなった夏堀正元氏らと議論していた頃は正確に過去の体験や記憶が生きていて、意見の相違は幾らかあろうとも真剣そのものであった。今、猪 瀬直樹委員長のもとでは、どうも軽い。テレビコマーシャルに電話のベルをリアルに使用するのは「反則」「ルール違反」だから、ペンクラブとして抗議したい という猪瀬氏自身の熱心な提議の前に、「君が代・日の丸法制化」問題など霞んでしまう始末。風化を嘆きたくなる。これは単にイデオロギーの問題ではない筈 だ。原田奈翁雄氏の、叫びに似た論調は、厳しいけれど、身にしみて痛みを伴う時代への批評である。猪瀬氏はまぎれもない「現在人」だが、真に「現代人」の 名は、はるかに年かさな原田氏に譲らざるを得ない。幸いにこの問題は、理事会ではまともに議論された。それでも今もって、政府が法制化を正式に持ち出して から抗議しても遅くないなどと、反応の鈍い声もでるのは困ったことだ。三好徹氏の言うように法案が国会に提案されてしまえば、政権与党は無理にも通すと言 うことである。声明のタイミングは「今」だと思う。
* バグワンの『道 老子』直哉の『暗夜行路』に、吸
い込まれるように惹かれている。
* 三月十八日 木
* 都知事候補たちの討論会を聴くと、「乱暴」で中身 のない石原慎太郎と、二階へ上げられ梯子を外されたとありあり自覚している、中身何もない明石康とはお話にならない。国に喧嘩を売るの乱暴にやらねばの石 原氏の姿勢はむやみと高圧的な傲慢さだけを売り物にしている。静かにものの言えない知性は捻れて腐食している。三上満は残念だけれど膨らんでこない。柿沢 弘治はモノがあまりに小さく課長か部長でよい。鳩山と桝添の言うことをもう少しよく聴きたい。
* 大原雄の「ゆるりと江戸へ」の歌舞伎解説は読み出 すとやめられない。作りは、読める辞典のようでもあり、親切な「索引」が付いていればずいぶん売れるだろう。
* 三月二十日 土
* 本降り。木々の芽をうるほしゐしが本降りに とい う佳い句を思い出すが、それどころか、とてつもなく寒い。気が腐る。
* 四月の末まで会議がない。ペンの総会や理事会が月
末なのである。文字コード委員会も、前回と様変わりして、メールの討論もさっぱり聞こえてこない。おかげでこの一週間、原稿なども書き終えて、滅多になく
のんびり過ごせた。その間に、一太郎の住所録に二百人近く書き込んでみた。帳面の住所録は混雑の一方で、しかも足りなくなる。五冊や六冊できかなくなる。
コンピュータに入れると、「ソート」が利く。これがいい。まだトバ口にいるが、この作業が済めばさぞ気分がすっきりすると思う。時間はかかる。
またペンの会員でメールのアドレスの分かる人のを全部アドレス帳に入れた。伝えたい情報
を伝え、また、意見交換もしたい。
* 小学館版の古典全集第二期の最初、『今昔物語一』 が届いた。原善君の川端康成研究の本も届いた。甥の黒川創の若冲小説二篇も立派な単行本『若冲の眼』になり届いた。加島祥造氏訳、ウェイリーの『袁枚』も 戴いた。おかげで本を買うことはめったにない。例外に『グールド書簡集』を買った、これも良かった。シャルトルの大聖堂に没入した、小説ともバロック論と もカソリック中世論ともマリア論ともいえそうな、ユイスマンスの深遠な『大伽藍』も、毎日少しずつ読んでいる。昨日からは届いたばかりの「黎明」第四号 で、尊敬する神学者野呂芳男氏の対談を読み始めた。私は併読はすこしも苦にしない。個性的ないろんな色彩や音調がそれぞれに際だってくるので、胸の奥の闇 に、万華鏡を覗くような絵が浮かび続ける。そんな中で『暗夜行路』をもうやがて読み上げるが、じつにいい読書だった。この作品を、大学の入試面接で愛読書 として挙げたのは不思議な気もするが、志賀直哉の短編はともかくとして、この長い小説はみごとだとの印象は、ずうっと持ちつづけてきた。久しぶりに読み直 し、感嘆を深めた。嬉しいことだ。
* 『寂しくても』は、私の日々に膚接している。た
だ、もう作中の画家と同行している。長さなども考えず、とにかくも推敲より先にどういうところへ抜けて行くかを作者自身が楽しみにして歩いて行く、これは
目下私の「道 タオ」であるのかも知れぬ。
* 三月二十一日 日
* 朝日テレビのサンデープロジェクトで、六人の都知
事候補の対論を聴いた、見た。
予想通り、石原慎太郎はムチャクチャであった。ほとんど真面目に為すべきプランも姿勢も
持っていない。或いはわざと隠していて言わない。その大物ブリが空疎に見えた。もし彼が都知事になれば、はなばなしいパフォーマンス(見せかけ)のかげで
失政を重ねつつ、そのつど無意味に乱暴な言い訳を重ね続けて、はなつまみになるのではないか。よほど知恵者が脇で支え固めて、軌道補正をしてやらないと不
幸にも予想は当たってしまいかねない。「危険」を絵に描いたように抱いた反動候補だ。
明石康はほとんど何も持たない、頼まれて断りきれずに出ただけの無力な候補で、発言もお
ろおろと口先で観念的なことをひねり出していた。具体性は何もない。
人物としても意見や見聞の蓄積という点でも、もし共産党からでなく市民団体からの広範な
担ぎ出し無所属候補なら、三上満の見渡しが一番安定していた。惜しむらくは共産党色に対し、全幅の信頼がまだわたしにももちにくい。「共産党」にこだわっ
ているあいだの共産党は、頭打ちやむをえないと私は考えている。
残る三候補ではどれも寸が短い。柿沢のやる気はほんものだろうと見たが、彼の美辞麗句は
彼のこれまでにもつきまとい、しかも、印象はいつも悪かった。結局は写真の真ん中で映りたい気の政治家で、そのためには前言をひるがえしても平気であろう
と信用しきれない。桝添要一には徳の薄さが弁舌と顔に露出してしまう。とても東京都知事という顔でも弁舌でもないが、具体的にものは考えていて、こういう
肝の小さい人の方が無難なのかも知れないという気もある。政治学者に政治がどれだけ本当に分かっているのかを知ってみたい興味も関心もある。だがいかにも
モノが細い。薄い。鳩山邦夫は、三上、桝添、柿沢にくらべると、まだ必要な全部を喋っていないか、そんなモノはてんで持っていないか、なんとも頼りないの
である。
何にしても石原、明石以外なら誰がなってもいいとしよう、石原と明石とは「危険」過ぎる
と、私個人の身にも迫る問題として感じる。他の四人の中から選びたいし選んで欲しいと思う。
* 甥の黒川創の「人と本」が評判を得て行くか、見
守っている。「アエラ」で、同志社が広告頁でとりあげた。同志社から若い作家が二人三人と出てきているらしい。大衆小説の黒岩重吾、風変わりな筒井康隆、
そして純文学の私が続き、久しぶりにまた文学的な文学の作家・作品として黒川が登場した。
作品は必ずしも一般受けしないし、作風的にもちょっと私に近すぎるのが気がかりだが、頑
張って独自の体験を生かして欲しい。若冲はもう卒業していいだろう。私の書架から借りていった画集なども、もう返してしまった方がいい。新しいモノへ取り
組んで欲しい。
* 今日は院を卒業して特許庁に勤めた温厚な青年が訪ねてくる。またハイテクの一流企業に
勤務しながら演劇づくりに情熱をもやし、ちかく岸田国士の短編を二本立てで演出する院の卒業生から、招待状が届いた。二人とも教授室への熱心な訪問者だっ
た。若い人たちが着々とのびて行く。老人は引っ込もうとは思わないが、いいことである。
* 三月二十四日 水
* 昨日突然のこと、建日子、息子、から帝劇の『マイ
フェアレディー』を観ないかとお誘いがかかった。建日子がお世話になっている劇場の人があり、その人は昔から私の読者でもあった。会ったことはなかった。
お礼も申したく、妻が譲ってくれたので息子と二人で、今日、みせて貰ってきた。その人とも挨拶が出来、久しいお礼も言えて、よかった。
イライザは大地真央。歌に幅も余裕もあり、容姿にも申し分はない。あらっぽさからお上品
への推移にもさして無理はなく、なによりもオードリー・ヘプバーンを偲ばせる姿勢でとくをしていた。拍手するのにさほど躊躇はなかった。個人的につき合い
のある浜畑賢吉が軽みの好演でよくつき合っていた。拍手できた。
問題は草刈正雄のヒギンズ教授で、その「日本語」のでたらめで曖昧できざな聞き取れない
科白には参った。この人は言語音声学の大家なのではないか。それが出演者中でいちばん科白が聞き取りにくい、しかも捻ったバタくさい日本語でしか話さない
のには失望落胆し呆れた。
彼が美しく正確に話せばこそ、イライザへの感化も教育も納得できる。そしてそこがミソの
ドラマなのではないか。
歌は全体に可もなく不可もなしとしよう、もう一つの問題は、ダンスのヌルサだ。美しさも
興奮も殆ど無い。あれは慣れてしまったダンスで、一期一会の鮮烈な興奮喚起力は乾いてしまっている。群集劇の緊迫や興奮としては、与野で観てきた『リ
チャード三世』に相当な水をあけられていた。くらべにくい劇だけれども、あの殺伐とした英国皇室劇の方に演劇としてのウブなワクワク度があり、心温まる愉
快な今日の劇にむしろ退屈感が働いたのは、観衆を安く値踏みしむその安い拍手にただ満足して、下目にみた芝居をしてしまうからではないか。草刈の芝居にそ
れが顕著であったのは残念だった。本場のブロードウェイに逆輸出したいなどという批評家の批評を読まされると、何が演劇を腐らせるかが察しられて恐ろし
い。再演三演のものほど、一期一会の初心でやってほしい。
招いて貰ったお礼にも、正直に感じたままを言っておく。
* 日本の旗をあげ日本船の名前をもって日本海で日本 の警察や自衛隊に追われ北朝鮮領海に逃げ込んだ一件は、日本側の対応に対する評価判断に苦しむ。過剰か、不満足か、適切か。アメリカとも韓国とも一線を画 した独自の外交と国防感覚とを一方に適切に用意しながら協調するのでなければ、かなり危ない。韓国の対北朝鮮利害とも米国のそれとも、日本の場合、違う面 がある。協調が追随で終わるととんでもない事態を我から呼び込むおそれがある。外交の基本は信頼だろうか、古来その根にはいかなる国の場合も不信感があり 備えがあった。韓国と北とは、対立も有れば最も親しい間柄でもあり、日本とは異なっている。余儀ない事実である。大事を呼び込まず平和を維持するために は、ことがこう具体的に逼迫してくればくるほど賢明でなければならず、どうすれば賢明なのかの選択が実に難しい。
* ガイドラインに関して、毎日のように別々の方角か ら意見と賛同とを求められるが、政府がこういう事件に悪く便乗して国民の敵愾心を煽ったり恐怖心を煽ったりしないよう、これにも賢明に対応したい。
* 対朝鮮半島問題が、日本のいちばん厄介な避けよう
のない難題になるであろうと、もう二十年以上も前から書いたり発言したりしていた。確実にそういう時代へ進入してきた。「難民」は暖かく迎えたいが、少な
くも犯罪を構成する不法入国に対する厳格な対応と、日本海側の適切な監視体制とはもっと増強したい。咄嗟の際のアメリカからの良き協力などという夢をみて
はならない。日本が、善意で守られるような国でもなければ、アメリカが、利益抜きに善意で他国を守るような国でもないのは、知れた話である。こういうとき
で有ればこそ、石原慎太郎型の「乱れ口」型乱暴な政治家が危ない。
* 三月二十七日 土
* 川崎重工で飛行機を造ることになった院の卒業生
が、三日後に新任地へ発つという今日、家に話に来た。彼が三年から四年生になるときに私は定年退官した。一年生の時から教授室によく顔を出し、哲学的な青
年だった。下村寅太郎先生の著書などを借りて帰り、よく読んできた。三年ぶりに顔を見たのだが、いい知れず健康で意欲的ないい顔をしていた。中国とイギリ
スとを旅して帰ってきたのだが、旅の話がみな具体的で、感想の出てきかたにも個性があり、話が面白い。飛行機の話も、妻も身を乗り出すようにして聴き入る
ほど、説明も分かりよく端的で、話をこねない。こっちの話に疑問があると率直に口を挟んでくれるし、むろん食欲もあって、よく食べよく飲んでくれた。美術
も日本画の花鳥や美人画、それも近代のものより水墨などの鳥の絵が好きだと言うから、さすがに、こういう東工大生は珍しくて、私は機嫌上乗であった。会津
八一の「学規」への反応も素早く鋭かった。それもよかった。
客間には「学規」が表装して懸けてある。「日々新面目あるべし」という条目がいちばん難
しいとも彼は言った。同感した。
また面白い話題をたくさん蓄えて来ますと言って雨の保谷駅から帰っていった。井上靖の
『青き狼』を読んでおり、ドストエフスキーの『罪と罰』も読んでおり、マンガでではあるが『源氏物語』も知っていて、私の本では『死なれて・死なせて』
と、とりわけてNHKブックスの『閑吟集』が無性に面白かったと言う。数学の話題も出たが哲学史を昔に勧めたこともあったが、特に自然科学史がよく頭に
入っている様子で、会話していても話のデッサンがなかなか確かで安定していた。とても話しやすかった。
再会が楽しみだ。任地は岐阜だという。
* それにしてもよく降ることは。花見がこころもとな い。明日は富士通に入って一年になる院卒君が、自ら演出する岸田国士作短編二本の公演がある。意欲的で好奇心旺盛で芸術家肌の努力家だ。彼は劇作もする。 俳優もやる。それでいて大学時代、たいていの学生は百二、三十単位で卒業するところを、二百何単位もとって卒業し、大学から時計を授与されている。気が乗 ればお茶の水女子大まで行って単位を取ってきていた。ガリベンではない。贔屓のタレントがいて、本気で「追っかけ」もしていた。どんな舞台が新しく創られ るか、明日も楽しみである。
* 元気なく自室に引っ込んで出なくなるような学生
も、惜しいが、一人二人は知っている。気になるので、たまに電話して声を聞いたり聞かせたりする。大学の中で「秦さんの教授室以外に居場所がない」「秦さ
んに辞められたら、もうぼくの場所はない」などと言っていた。私の電話には出てくる。前にもむりやり息子の芝居を見せに新宿へ呼び出した。先日も電話で話
した。しばらくして北海道でオホーツクの流氷が見たくなって来ていますという絵はがきが来た。流氷。いいではないか。動いて、何かに出逢って欲しい。ちか
ぢか、この退学してしまいそうな昔なじみを、家に呼ぼうと思う。
* 三月二十九日 日
* ユイスマンスの『大伽藍』は、ちょうど百年前の、
まことに特殊な雰囲気をもった小説で、小説の体裁をほのかに備えた、シャルトルの大聖堂論であり聖母マリア賛歌であり強烈なバロック建築論である。そうい
う一切を通してのカソリック論でもある。私はこの聖堂を知らないが、親しい友人が、ちょうど今ごろその聖堂を訪れている頃かもしれない。絵を描いているか
も知れないし、瞑想しているかも知れないし、私のことを思いだしているかも知れない。この小説も、旅の好きなこの友人が呉れた。毎日この小説をすこしずつ
滋味を慕うように、慌てず急がず少しずつ読んでいる。そういう読み方でなければ読めない。
アーサー・ウェイリーの『袁枚』もそういう本の一冊だが、この中国近世の一詩人の、伝記
と言うよりも「伝記的な逸話人生譚」も、滋味に溢れた好読み物で、詩が優れ、加島祥造さんの訳がいいが、もとになったウェイリーの訳がまたいい。袁枚など
という当時の大詩人も今では知る人が少ない。文豪の運命もたいていはこんなもので、名を残すなんて事は虚しい希望に過ぎない。マルクス・アウレリウスの本
を昔に読んで、一番先に身にしみたのが、その教えであった。名を残したくて書いてきたのだとは思っていない。せっかく生まれてきたのだから、自分の生涯を
自分で楽しもうと思っている。死後に誰かが私について書いてくれようとそんなものは私にはもはや意味がない。自分のことは自分で書き自分で始末をつけ、人
がどう思おうとも、自分で自分に納得して楽しんで死んで行こうと思うので、反芻するような真似も平然としている。人のために書いているのではない。せいぜ
い子どもや孫や愛した人にだけ残しておけばいい。
* グレン・グールドの『書簡集』も、我ながらびっく
りするほど楽しんでいる。大冊だけれど、もうすぐ、読んでしまいそうだ。『古事記』は読み上げた。中巻下巻もなかなか面白く読めた。歌謡がいい。久しぶり
に軽兄妹の悲恋や引田の赤猪子の哀しい愛にもふれて泣いた。だまし討ちの上手な倭建命は、今度も、あまり好きにはならなかった。「権」の字に「タバカル」
という訓みがしてあるのに教えられた。古典はいつでもどれかを読んでいたい。
* 三月三十一日 水
* 桜はまだ五分咲きと東工大の学生が花だよりをくれ
た。それでも、そろそろ出かけたい。重たいほどの満開のかすかに前に、花の清潔な笑顔が見たい。今年は息子は忙しいようだ。息子の友達もこの四月からの昼
ドラマ「はるちゃん」に出演し、稼いでいる。
それにしても何故こうも花には、桜には、心そぞろになるのだろう。広い東京には桜の名所
もいろいろあるが、東工大本館前の桜は豪華に豊かで、馴染み深い。地方赴任の卒業生に、君の分まで楽しんでおくよと約束もしてある。夜桜にライトアップし
たのも見てみたい。
京都でもやや盛りすぎた花見が出来るだろう、圓山は過ぎていても平安神宮なら早いめであ
ろう。四月十六日頃に、後苑の満開の枝垂れを妻と楽しんだことがある。前日に真葛ヶ原高林院で、仲良しだった年若い子の婚約披露の茶会を手伝った。あの子
ももう五十半ばのおばあちゃんになっているのだと思うと懐かしい。あれ以来三度とも顔を見ない。
去年は醍醐の初花を雨に濡れて見た。平安神宮の後苑では菖蒲が美しかった。京都が懐かし
い。逢いたいと思う人も何人もいる。京都は女の、女文化の街である。京都で男に逢おうなどとは会議会合以外に考えられない。
* 去年の十一月末まで八ヶ月間にこのホームページを
開けて下さった方がきっちり千人だった。以来四ヶ月で二千二百人を超えた。一日十人あたりになる。私独りで何百回よと年賀状に冗談を言うてきた懐かしい大
学時代の友達もいる。年賀状でこの器械に住所録を書き込みはじめたところだが、信じられないほど大勢でいつ片づくだろうと思う。そんな中でもやはり心親し
い人たちの住所や電話番号を記録していると、つい話したくなる。
だが本当に話したいと願っても、そうは容易くない事情というものもある。住所も連絡方法
も絶えた人の中に、どうかしてと思う人も願う人も、ある。二人の孫や娘もそうである。
* 四月は忙しくなる。カレンダーは予定の書き入れ で、真っ赤に近い。もとより楽しみの予定も含まれている、いや大方がそうかも知れない。歌舞伎座の通しと能『道成寺』そして京都行きがある。福田恆存作 『龍を撫でた男』の誘いも来ていて、惹かれる。大寄せの会合に義理づきあいは、おおかた、やめようと思う。娘朝日子の昔の科白だが、「魂の色の似た人」 に、もっと出逢いたい。希望はある。
* バグワンの『老子 タオ』上巻を読了。黙読ではな
い、音読である。少なくも妻が聴いており、無量無数の霊魂が聴いている。伊那の老子の加島祥造老が『袁枚』に惹かれて詩を訳し共訳の出版に熱意をもたれた
のが、分かる気がする。私もこの自由人の色けある人生にとても親しみを覚える。どうやらこの辺にも魂の色の似た人たちがいる。「学鐙」の三年連載でフアン
レターを戴いたのは西田哲学門下の故下村寅太郎先生だった。次いで声を掛けて貰ったのが伊那の老子先生だった。加島さんからもう何冊も詩集や画文集を戴い
ている。バグワンに影響を受けてきましたと、先日、直に聴けたのは嬉しかった。バグワンには心打たれる。
* 四月一日 木
* 東工大の桜は六分咲き、きれいな開花であった。も
う二三日して行くとほんとうに満開に出会えるだろう。目黒から大岡山まで、一年知らぬうちに目蒲線の駅が地下に入って真新しくなり、大学は入学式を控えて
か工事中の所が多かったけれど、年々歳々花は変わっていない。去年はもう少し遅くに息子たちも一緒に出かけ、今年は妻と二人だった。旧人文社会群の事務室
にも寄り、生協でマウスなどの買い物もした。妻はアイマックでジクソーパズルを熱心に試みていた。
贔屓の洋食店が休みだったので、思い切って駅前の「いろは」へ寄った。妻は初めての居酒
屋を珍しがった。八海山と越乃寒梅で魚や焼き鳥を食べてきた。
例によって「タヒラ堂」で、身を縮めながら一冊五十円の古文庫本を二冊買ってきた。
* 今日は各地で入社式だ。今年は大学の花が見られな いと、卒業していった何人かの声を聞いていた。君の代わりに花見に行っておくと言ってあった。世の中へ出た今日の感慨はどうであったろうと思いつつ、生き 生きと咲いている花を眺めた。
* 十二日に文字コード委員会がある。文筆側では文芸 家協会とペンクラブとで出ているのだが、私は両方の会員で、理事を務め委員でもある。連絡を取り合いながらより熟した討議への参加が望ましいように思う が。目下意見交換もなしにバラバラに出ている。強いて統一見解を求められる段階でないとは言え、意見交換は無いより有った方が自然なのでは無かろうか。こ の問題に関する限り、文芸家協会とペンクラブとに立場の違いなんて有る訳もないのだから。
* 佐藤オリエらの『龍を撫でた男』を予約した。戯曲
で読んで痺れた昔を思い出す。福田恆存という偉才をこの戯曲で識つた記憶がある。楽しみだ。
『堅塁奪取』で楽しんだのは去年か一昨年か。佐川美術館で佐藤オリエがモデルの、父君のい
い彫刻を何点も見てきたのは去年だ。昔から好きな女優の一人である。
友枝昭世の『道成寺』も堪らなく心待ちされる。何の思惑もなく佳いものに胸をひらいて接
しられる日々が、有り難い。春になった。
* 四月六日 火
* 国立能楽堂で友枝昭世の『道成寺』を最良の席、舞
台真正面のうしろ補助席で観てきた。ここは最後列より一段高く前列の客の頭に舞台を塞がれることが全くないので、遠くほどよく見える私の最近の眼鏡では、
これほどいい席はない。全舞台が一瞥で視野に入り、しかも真中央の正面だった、堪能できた。昭世のことは、以前昭世の会のパンフに「鞘走らぬ名刀」と評し
たことがある。その昭世の会のもう今度は五回目だった。当節最も脂ののった名手であり、安心して観ていられる。率直に言って今日の『道成寺』のシテは、図
太いほど食欲旺盛な、平然とした蛇体であった。それはそれで道成寺の蛇の一つの表現だと思う。昭世はでぶりとしたシテだが、今夜は出から妙にスマートでセ
クシイだった。烏帽子をつけてから急に太り、蛇になって鐘から出てきたらまた細身で凄かった。柱巻きなど凄かった。宝生閑の間の語りが芝居がかって、毎度
狂言方の一本調子のアイを聴かされるのより説明的で歌舞伎的だった。小鼓とのあの緊迫した演技は、さすがに安定し、それが平然と鐘に迫って獲物は逃さぬと
いう凄みになった。哀れな蛇ではなかった。それでよいと思う。
馬場あき子に逢った。きもちよく話してきた。ふとってはだめよと叱られた。このところ
ちょっとうまいものの食べ過ぎである。朝日子の仲人をしてくれた早大の小林保治氏と並んでみた。直ぐ前に小山弘志、大河内俊輝氏が陣取っていた。少し離れ
て
堀上謙氏がいた。また松永五一氏、大岡信氏も来ていた。満員だった。
山本東次郎の狂言『鱸包丁』もいい狂言だった。閑のワキも山本の狂言も口跡が粘って好き
ではないのだが、今夜は実力がよく出た。
* 昨日は妻の六十三歳を祝い、歌舞伎座に、昼夜通し で籠もった。中村会公演で二代目鴈治郎追善。それに我當が昼夜に三つ役をする。もっとも追善のためか出し物に陰気なものが多く、ぱあっと花のようには盛り 上がらなかった。かさねと寺子屋の吉右衛門、雀右衛門、曾根崎心中、封印切の鴈治郎、我當、それに五斗兵衛と武部源藏の富十郎。女形にみばえがしなかっ た。梅玉、時蔵の「蝶の道行」はカップ酒とビールで寝てしまった。鴈治郎らの上方ものも、上方で観る方が科白も楽しめる。午前十一時から午後九時まで、 のーんびりと浮世離れがした。
* 遊んでばかりのようだが、そうでもない。都知事選
は、都民が賢明であるなら石原優勢の前評判を覆すだろう。覆らないようなら日本の政治的な風土は灰色から黒へのかなり陰気なたそがれ時に悩み続けることに
なる。政権与党は図に乗って世論をはじき飛ばすように肩で風切る無茶をやるだろう。
一人の知事の力でものごとがどんどん良くなることは期待のしすぎだが、一人の知事の性格
からどんどんことが悪く変わるおそれは有る。的が絞れた気はしていないが、投票には必ず行く。
* それよりも心配なのは東欧の戦争状態である。民族
浄化などという考え方から虐殺がすすんでいるという報道もある。米英の武力介入の是非もにわかに判断しづらく、ジレンマに悩ましい。悩ましいことばかりが
多い。
* 四月七日 水
* しばらくぶりに息子たちが来て、小半日話していっ た。なんとなく、ほっとする。
* 明日から仕事で東京を離れる。折り返し帰ってす
ぐ、文字コード委員会。今月からは定例の会議が月々にまた重なり合って行く。息子も私も稼ぎには繋がりにくい仕事で追われて行くが、まずまずの日々という
もので、私はのんびりしている。息子には耐えて粘って欲しい。怪我のないことを切に祈る。
* 四月九日 金
* 京都へ行って、帰ってきた。二つ、いや三つ目的が
あった。うちの一つは京の花にひさびさに逢いたいという憧れごころであった。これは仕事ではない。仕事の一つは淡交社の服部友彦氏とひさびさに会い、依頼
原稿の件でお互いにすこし煮詰めたい用事があった。ま、用事よりは会ってご馳走になってきただけとも言えるが。縄手四条下ルの割烹で、スツポンや若筍やあ
なご寿司やいろいろとご馳走が出たが、酒もよく飲んだ。話も弾んだ。
服部氏が雑誌「淡交」を統べていた昔、私は後に『茶ノ道廃ルベシ』に纏まって行く連載を
して、しばしば物議を醸し、何度か京都に呼ばれてご馳走になっては原稿内容の、表現の緩和を要請されては、応じたり応じなかったりした。臼井史朗御大がい
つも一緒だった。懐かしい。あれはあれで、裏千家としては納得しましたとは言うわけがないが、いい仕事ができた。単行本は他社で出したが、よく売れたし、
今でも「湖の本」で愛読し眼から鱗を落としてくれる読者は多い。
なにしろ、ほんの子どもの頃から叔母の門前小僧で茶の湯はからだに入っている。無茶者で
はあるが、理屈だけを吹いてきたわけではない。雑誌「淡交」との縁も深いし永い。沢山の仕事をさせてもらったので、今度も、気を入れて書いてみる。優しい
テーマではないが。
縄手でもう一軒寄り、そこで別れて、富永町の「とよ」に寄った。新制中学の同級生で、我
が演出で全校優勝した演劇大会のヒロインである。往年の美少女である。最近健康が優れないし父上にも死なれ母上も気が萎えていると聞いていた。見舞い半分
激励半分で顔を見に寄った。幸い私が独りの客であったので、頼んで、美空ひばりの歌を二曲歌ってもらった。私は歌えない、が、ひばりの歌は大好きだし、
バーのママさんたちは例外なくと言いたいほど、じつに歌はうまい。「川の流れのように」と「恋見酒」であったかをしんみり聴いたところで新しいお客が入っ
たので、ホテルに帰った。
* この頃は、必ず「のぞみ」に乗る。昼過ぎには着い
たので、素晴らしい天気ではあり、すぐ外へ出てなにとなくイノダのコーヒーが欲しくて行き、ついで京都ホテルまでが面倒で河原町三条のロイヤルに上がり、
「うらうら」の東山の遠見の桜を眺めながら、春爛漫の献立で酒をすこし飲んだ。比叡も鞍馬もくっきりと美しかったが、どうにも高台寺露坐の観音様の上に華
やかに匂いたつ桜の一群が懐かしくてならず、昼飯の後タクシーで八坂の塔まで行き、急な坂をあせばみながらのぼって、結局、正法寺までのぼりつめて京都の
町を眺めた。人の来ない高見の古刹で、狭まった境内に墓が二基ひっそり並んでいるのが私の『冬祭り』の冬子と法子との墓だ。二人が最期の最後にみそぎをし
た「鏡の水」という井戸もある。墓に手を添えて「おやすみ」と声をかけてきた。
圓山のしだれ桜も雑踏に心浮かれて眺めてきた。八坂神社の境内を北の斜めにすり抜けて絵
馬殿わきから西の楼門に立った。絵馬殿のワキにも見せ物小屋が出来ていて気味悪かったが、あれも春花どきの景物とおもい堪忍した。「農園」でのみものを補
給してから一度ホテルに戻り淡交社の迎えを待った。暖かで晴れて、じつに久しぶりにうらうらとした京都をやや特異な角度で楽しめた。冬子や法子に逢いた
かった。
* 一夜明けて、二時の会議が京都美術文化賞の第十二
回の授賞者選考。少し間があるので出町の菩提寺へ車を走らせ、墓参りをした。今朝方にも父の出てくる夢を見ていた。このごろ、しきりに秦の父や母や叔母を
夢に見る。機嫌のいい夢もそうでないこともあるが、夢見ることはすこしもいやではない。
作務衣の住職と立ち話してから墓地に入り、たっぷり水をつかって洗い、落ち葉を拾い、樒
を立てて、話しかけてきた。祈ると言うより話しかける方が落ち着く。南無阿弥陀仏もたくさん唱えてきた。いつかここへ私も妻も入るんだなと思った。
* 花曇りながら空は明るく暖かく、高野川西堤へ葵橋
を渡り、東堤に上流へかけて花盛りの桜並木を眺めながら、ゆっくりゆっくり溯って行った。川の水は陽ざしにまぶしいほど澄み切って、稚魚は稚魚で水底に淡
い影になり光になりして泳いでいたし、三四寸の魚たちもまた群れて水輪をうみながら光っていた。
犬づれの人が幾組もゆっくり犬を遊ばせている。絵を描いている人も、鳩や小鳥にしきりに
餌を撒いている少女もいた。御蔭橋までに西堤には一株だけ、とても大きい桜樹がはんなりと枝たわわに花を咲かせていて、その蔭に佇んで比叡を、鞍馬を、北
山を、それから東堤にえんえんと続く紅の雲を眺めていると、そぞろまた京都の小説が書きたかった。ふっとその辺から、とっておきのヒロインがあらわれて私
に声を掛けてくれそうな気がしてならなかった。
下鴨の屋敷町へ堤からあがり、そぞろ歩むうちに、表札に「秦恒夫」とあげた家があって胸
がときめいた。
下鴨社に入り、本宮まではあきらめて河合社に詣でた。境内に鴨長明の「方丈」の家が復元
してあり、これには魅入られた。小一時間も動けなくて見ていた。たった三メートル四方の家である。その小ささ簡素さに具体的に目をふれてみると、感動して
しまう。方丈と額をかかげた仏殿はどこにもあって見なれているから、「方丈記」とは読んでいても、三メートル四方の建物はなかなかイメージ出来ていなかっ
た。感動したというしかない深い深い感動で、私は、人の居ない境内で、「方丈」の家と、背後の桜樹やさらに背後の新緑を思わせる木々の緑に、溶け行くよう
な気がした。嬉しくてならなかった。
小川沿いのちいさな店で、ビールとおにぎりとで昼食しながら、ゆっくり文庫本を読んだ。
この店には以前、妻と入ってホットケーキを注文したことがある。
京都御所の公開で烏丸通りが混雑した。時間前に、汗をかいて会議の場所へかけつけた。
* 選者は梅原猛、石本正、小倉忠夫、清水九兵衛、三
浦景生氏と私。東京からは私一人が参加。京都美術文化賞は、書と建築を除くあらゆる造形分野から三人を選ぶ。賞金は各二百万円、もう十二回目になる。
選考は終えたが、ここで発表は出来ない。授賞式がまたある。展覧会は来春の一月と決まっ
ている。
散会後に高島屋で大きな個展を開いていた漆藝作家の新作など見てから、予定ののぞみを、
時間早めて乗った。いつもは寝てしまうのに、今回は行きも帰りも湖の本の校正にフルに働いた。家に帰ったら京都の道具屋から送ってくれた筍で、ご飯と煮物
がうまかった。昨夜の料理屋の筍に負けない味付けで、満ち足りた。
いい京都だった。高校の頃の友達と、チェックアウト前に電話で十分ほど話しあえたのも、
はんなりとよかった。
* 四月十一日 日
* 都知事選の開票が始まった。出口調査では石原慎太 郎が三割近くを占めているので、逆転は難しいだろう。タカをくくっていた鳩山邦夫の、顔色の変わるのが遅すぎたと思う。桝添要一は善戦すると思う。今回は 石原でない方がいいと確信していたので、誰が二位になれるだろうと思いつつ投票した。当選したならば石原新知事には、堅実に、謙虚に、大胆にと希望してお こう。
* 下鴨で表札に驚き、親しみを覚えて名刺を郵便箱に 入れてきた「秦恒夫」さんから、メールが入った。人を驚かせておきながら、自分が驚いた。あの辺を歩んでいたときの心地よい和みがみうちにまだ残ってい て、それに恒夫さんのメールが心温かいものであったので、嬉しくなった。これがご縁になれば嬉しいことが重なるというものだ。四十九歳のエンジニアで、橋 梁建築をされるそうだ、私自身とはかけ離れているものの、東工大では「橋を架ける」勉強をしていた学生君もいたのである。
* ご縁と言えば京都に行く前に、或る会社社長から手 紙をもらった。兄上が永く病床にあり、その方がたまたま美術雑誌で『親指のマリア』についての私の寄稿を読まれ、絵も観られ、ぜひ本を読みたいが便宜があ ろうかとの丁重な問い合わせであった。手元にあったのを一冊差し上げたところ、寝たきりのまま病床で絵を描かれているという方と弟社長から、また丁寧な礼 状を受け取った。知らない人であるが、なまじの欲もトクも無くなっているので、こういうときは気の向くままに対処している。人との出逢いは、じつに興味津 々で心嬉しい。
* 昭和三十六年の年譜が進行中だが、おどろくほど多
くの人と出逢い、その幾つもが今に生きてのこっている。「秦さんは人と丁寧に付き合われる」と言ってくれた知己があるが、逆さまに思っている人もあろう。
そういう判断は人に任せていていいこと、こだわりはない。出逢いは、この年になっても有るということが真実であり、尊いし嬉しい。そうでもなければ私の
「湖(うみ)の本」など、十三年六十巻もどうして刊行し続けられたものか。
* 四月十二日 月
* 都知事選は予期した結果に終わった。
北朝鮮のミサイルが、誤ってでも「京都」なんかに落ちれば、日本もすこし「ぴりっと」す
るだろうと公言してきた人物を、当分は首都のトップとして見守らねばならない。景気のどん底に対してほとんど効果的な手が打てないで来た自民党政府への苛
立ちが、石原新知事支持に流れたのだろうが、氏が無意味な超タカ派を振る舞い続けてきたには相違ないのであり、そういう振る舞いも責任のない遠吠えとして
は面白かったにしても、責任有る行政の長がただ吠えてられては困るのである。またその吠え方の汚さにもこれまで迷惑してきたが、何もしなかった青島前知事
の無難さを都民がなつかしがるほど悪悪く振る舞うのだけは、どうかやめて欲しいと願っておく。横田基地がどうなるか、近隣国とのおつき合いがどうなるか、
見ていたい。
他の候補が届かなかったのは当然で、誰に投票する気にも、なかなかなれなかった。新知事
に期待したい。
* 今日は第五回の文字コード委員会。ペンクラブ電子
メディア研究会から四、五人が参加する。よく見知る聴き知ることから始めるしかないと思い仲間を誘った。幸い二日間の本降りもからりと晴れている。
* 四月十三日 火
* 昨日は五回目の「文字コード委員会」に、ペンクラ
ブの電子メディア対応研究会の三人の仲間にも参加して貰った。二時から五時半まで。相変わらず、なかなか難しく、必ずしも話し合われる全部には理解が届か
ない。何のために、誰のために、どうするために、いつまでに、話し合っているのかが微妙に掴みきれない。いつまでも皆で納得できるまでとことん話し合おう
と言うのでは、どうも、無いらしい。そこが不安定で、会議に身をおきながら、役に立っているのだろうかと安心できない。膨大な組織の末端で話し合っている
のだと察しもつくし説明も受けているのだろうが、膨大な組織らしいその全体が、そのまま人間の言葉、文字、表現を左右したり決定したりしていい公的な権威
を持っているとは思われず、存外に脆い権力機構や営利意志に簡単に操作されてしまうだけで終わるのかも知れない。そうではなく、やはり立派な歴史的な検討
と研究を続けているのかも知れない。
それにしても、「線引き」という言葉がかなり強く出てくる。もともと人間の言葉やその文
字表現に「線引き」はそぐわない行為だと思う。「段階的に」完成された理想へ近づくのであり、理想的に取りこぼしの無い方向へ進みます、しかし一時には無
理、段階的にということなら、いかようにも段階は踏んでよい。しかし、なにかしら、ややこしい別方式の混成で姑息にかわしてゆこう、すり抜けて行こうとい
う隠れた意図もありげに思われてならないのが、つらい。
なにしろ「十年も前から」或る立場建前でやってきた人と、昨日今日に首をつっこんだ我々
とでは、呼吸がちがう。加えて機械的な標準や現代にさえ間に合えば良さそうな人たちと、私のように遠い過去の遺産と遠い未来までの表現の可能性を守りたい
と願う立場の者とでは、価値観そのものが差をみせてしまう。せめて私たち表現者の気持ちを伝えるだけのことはどう反発されようとも伝えたいと、冷や汗もか
きながら出て行くのである。
* 会議のあと、四人にもう一人が銀座で合流して、わ
たしの好きな「ピルゼン」で話し「ベレー」で飲んだ。五人が五人ともまるでちがう畑にいるが、たまたま出逢って、お互いに気が通ったというわけだが、メー
ルやホームページが大いに役に立ってきたとはいえる。意志疎通がじつにすばやく、くどくどと言う必要がない。みなが物書きであり文字や言葉で生活している
から、気楽であるならば疎通の表現にはこと欠かない。そしてこの段階での疎通になら、実はもう「文字コード委員会」は必要ない程度の漢字は実装されもし、
準備もされている。
しかしながら、新世紀になり、器械はますます重きをなすであろうし、紙の本と活字とで用
の足りていた段階に自足しておられないような時期が予測される。その予測にも対応して、これからの研究者・学者・表現者、さらには高度の意欲をもった読書
子たちが、世界のあらゆる場所と場所とで、双方向で、東洋の、日本の文字文化財を、何らの例外もなく自在に共有し享受できるような「段階的」対策を、ぜひ
とらねばならない。
中国では四庫全書七億の文字にコードをと、既にやっているとか出来ているとかいう向きも
あるが、中国人には百年河清をまつという皮肉な自己批評もあり、対岸の噂の域をでていない。日本は日本で、こうあるのが理想という理想を曲げない根気が要
る。奇態な妥協の産物へすり寄りすり寄りしてきたからの混乱が無かったとは言えないのである。
* 私の便宜のために日付をつけ日録の体にしている が、これは「闇に言い置く・私語」の分を守ったものである。それだけに、本音である。幸い器械の奥は闇深く、インターネットといわれながら双方向感覚を忘 れていられる。露出感などすこしも無くて、表現し発信している。原稿用紙であり、ノートであり、個人の雑誌であり、本である。営業していないだけで、原稿 料や印税が有ろうが無かろうが、ここに表現するものは私の作品であり文芸だと思っている。人生の記録でもある。
* 今夜は『龍を撫でた男たち』を妻と観に行く。昨夜
は実にひさしぶりにタクシーで家に帰った。青梅街道を関町三丁目で折れて。なぜとなく、それが、しみじみと懐かしかった。
* 四月十四日 水
* もう昨日になる、三軒茶屋の佳い劇場で、いちばん
佳い席を用意してもらえて、『龍を撫でた男』を見てきた。講談社の昔の全集で、演劇の一冊が出たのはかなりお終いに近い配本だったと思う。田中千禾夫らと
いっしょに、四人巻のひとりに福田恆存のこの戯曲をみつけ、凄いほど面白いと思った。
後に文庫本の古本でやはり人のと混じって『堅塁奪取』などを読んでも面白かったが、もう
その時は、恆存戯曲は面白いという先入観すら出来ていた。それほど『龍を撫でた男』のわけのわからない人間の把握が、興味津々、わたしを犯してくるほどに
緊張させた。その頃は舞台を観にに出かける余力も縁も無かった。
恆存の芝居はもういくつか舞台で見知っているが、存命中はハムレットを見に行って挨拶を
したていどであった。文芸春秋から出た全集の立派な戯曲の巻は、特別に頂戴したもので、それも懐かしい。
* 人間が正気の奥にはらんだ狂の種が、どのように発 芽し、はびこったり枯れたり消長しつつ滑稽なほどの猛威をふるうものかを、舞台はよく表現してほぼ間然するところ無かった。緊迫もあり弛緩もあり、揺さぶ られながら怯えもし笑いもした。伊東孝雄も佐藤オリエも他の役者たちも劇的なものをよくお互いに創り上げていた。わけのわからないものを、わけがよくわ かったように演じては、この芝居はうそになる。まったく訳が分からないままでも困惑する。人間存在といわなくてもいい、自分で自分とはそんなものだと思え ばいい。そこから目を背ければ、ただに偽善に陥る。欺瞞に陥る。目を逸らしていてもそうならない保証はなく、逆に狂いやすくなるとすら言える。その隙間に 「龍」が見えてしまう。見ても見なくても狂うのである。狂い方のちがいだけが残るのだ。
* アーサー・ウェイリーの『袁枚』を読み上げた。こ んなに感興の乗る本とは予期していなかったが、予期は、完全に嬉しく裏切られた。政治家ではない。行政官として過ごした時期は短く、あっさりと引退して、 詩人としての名声に包まれ、じつに自在な詩を多作し、大勢と交際し、愛され尊敬され、しかも非難や批判もけっこう浴びた。徹して享楽的で、お堅い道徳家で はなかった。女を、美青年を、人生の「花」として愛し、仏教が嫌いで生活を愛した。読書を愛した。悠々とした自由人で著者で書斎人で官能の赴く所に対して せせこましい窮屈さがまるで感じられない大人であった。そういう人間が、そのまま詩に表わされ、それは加島さんの訳の手柄、その前に原著者ウェイリーの翻 訳の手柄ではあるが、書き写して座右に置きたい魅力的な詩句が一冊の中にいっぱいある。こういう風に、及ばずながら生きられればなあと嘆息し、羨望し、や はり今も読んでいる「老子」との連絡を当然感じてしまう。魂の色の似たい人、袁枚。それが読後の喜ばしき実感である。
* もう少し書きたいが眠くなった。
* 四月十五日 木
* 若い友達の原善君が、夕刊に、川端康成生誕百年を
記念の一文を寄せていた。君が新聞に書いたのを見るのは初めてのことで、例のひげづらの顔写真とともに珍しく見た。だいぶ気負って書いていて、「だ」「の
だ」という語尾が目立ちすぎ、論旨を、ピンピン跳ねたものにしていたのは惜しかった。
私もむろん「のだ」をつかうけれど、多用は避けようと思っている。論文を読んでいて「の
だ」と出られると、「そうですかね」と言いたくなる。
善君のとなりで、天野祐吉氏が石原新知事を当選させたのは「青島前知事」「鳩山邦夫候
補」「小渕総理」だと軽妙に語っている文章と、善君のとは性質の違う記事だとは言え「達意」の目的では、天野氏のゆとりのある行文がはるかにたち勝ってい
る。善君は優れた学者だが文章は昔からうまくないのが惜しい。この地上で唯一の「秦恒平研究書」を公刊してくれている気鋭の人であるが、いい文章で思索を
表現してもらえるようにと注文し続けてきた。たゆまずに注文しよう。
原善君とその若々しい仲間とで、私も混じって「ぜんラの会」を持っていた時期があった。
善君も上武大学教授になり忙しくなった。原君が世話役をし、今は東大教授の竹内整一氏が主宰する十数年来断続してきた秦文学研究会も、みんなが忙しく分散
してすこし間遠になっている。
* 文字コード委員会の討論メールの往来がまた繁盛し
ている。大方の議論は細かくて仲間内の言葉と記号と了解の元に進んでいるから、何年も遅れてきた者には意味も取れないことが多い。
だが、だから様子が分からないかというと、そんなことはない。細かな詮索は詮索で、やっ
ていてよい。要するに、どうなって欲しいか、どうあっては困るのか。素人も素人の私にでも、それだけは言える。はっきり言える。一作家・一読者として、私
が、私のためを思い、考えれば、答えは自然に出てくる。多くの同業者とて、大きくは逸れまい気がする。
書いて読んでの立場で器械をつかう者の希望は、かなり明快。アーキテクチュアを根から理
解したい、自分で構築したいなどと高望みはしない。
希望とは即ち、従来ひどく足りなかった漢字や記号が、煩瑣にでなく、どんなパソコンから
も、どの場所からも、誰でも、多方向に自在に、グローバルに交換できれば有り難い。それが必要だ。
それが可能なら、「大丈夫ですよ」と約束されるのなら、「有り難う」と信頼しその後の器
械のことなどはお任せする。
現に四万の、六万の、中には中国の四庫全書の七億字ぜんぶが「可能」になるだのと言って
くれている。七億など現在論外で、忘れていよう。
それにしても、私の拾い上げる難しそうな珍しそうな漢字も、「それなら**に入っていま
すよ」と、現にいろんな説明で大方保証されている。そこまでは、有り難い。
しかし、それが「どんなパソコンからも、どの場所からも、誰でも、多方向に自在に、グ
ローバルに交換」可能なように一本化して「入って来る」のか、我がパソコンのどこに、どう「入って来る」のか、が、今一つも二つも分かりにくい。なんだ
か、闇の腸のようなものがいろいろに隠されている感じである。
無数に別のソフトを交換しながら、必要に応じてあれこれ使い分けよと言われているようで
ある。これも勘違いの理解不足かも知れない。が、万一そんな話なら「理想的な百年の計」とはとても言えず、合意も同意も出来にくい。是非、何でも出来る器
械の特性を発揮し、明快に、無条件に、「国際的な一つの標準」で、数万字とも言われている、本当に必要な漢字・正字・基本的な略字に、必要な文字コードを
振って貰いたい。ここがよく分かって、納得ゆき安心もでき使いよいモノになるのなら、あとは餅は餅屋にしっかり預けたい、そんな気が私はしている。
お恥ずかしいが、だがチンプンカン。まだ、預けにくい。
* 四月十六日 金
* 変わっているという批評を、学校時代に、つまり京
都時代によく聴かされ、そのつど不当にも心外にもまた阿諛され追従されているようにも感じた。それにもかかわらず、友人も家の者も、先生がたですらも、そ
う私に言った。そうやろかと疑い、ほんのときどきそうかもしれんと思わないでもなかったが、変人であるよりも、普通に、まともに、ものを感じたり考えたり
している方だと思っていた。そういうところが変であったか。
東京へ出てから、耳には、そうは聞こえてこなかった。
作家と呼ばれるようになれば、私など、変わっている方とは思われなかった。もっとも作風
は変わっていた。小説のほかに批評やエッセイもどんどん本にして行く若手という意味では変わっていた。それらは仕事の特徴であって、私という人間が変わっ
ているのかどうか、そんな風には思われなかった。湖の本を出し続けて来たのは確かに作家として変わっているが、私にそうさせた理由は私の外にある筈だっ
た。
東工大の「作家」教授として「幸福」そうであったなど、変わっていても変わり方として
は、変人と言うより、凡人・普通人寄りだと思っていた。
だいたい、今まで、そう思ってきた。
* ところが、このごろ「年譜」を作るために日記や手
帳やノートを山のようにひっくり返しながら、克明に自分の軌跡を眺めていると、やっぱり、どこか「変だわ」と呆れる所が見えるのに、閉口している。
ちょうど医学書院時代の前半を調べているところだが、例えば会社の内と外とが截然と分か
たれている。外ではじつに多彩に人と付き合っているが、同僚や上司との接触は寥々としている。会社での仕事は好きで熱心で、成績をかなり上げている。太宰
治賞を取ったときに上司の編集長は「編集者としてA級」と新聞の取材で証言してくれているから、ま、本当のところだった。自負も自信もあった。
だが会社そのものが好きになれなかった。出来ることなら早く辞めたい、そのためには別の
世界で頑張れるように勉強しておかないとと、いつも本気で考えていた。人間的に折り合えずとも、好かれずとも、仕事で後ろ指は指させぬように務めながら、
断固として、自分本位で不徳な社員生活を貫いた。
そのために「主任」への昇進を延期されたこともあった。いわゆる「協調性」がないと。こ
れが私の病気なのかも知れない。しかし、また、方角が違うと私は人とそれは丁寧につきあえる。魂の色の似た人をいつも捜している。こういう辺も変わってい
るのかも知れないが、私はそれが当然で自然だと思い、上辺だけで如才ない人間関係を、そつなく、ガマンしつつ、かげで誹りつつ続けている人たちを見ると、
どうぞ、御勝手にと身を引いてしまう。
かなふはよし。かなひたがるは悪しし。利休のこの言葉はわたしの芯に生きている。生かし
たいと思っている。
* だが、もう一つ、変わっているかどうか別にして、
私に問題がある。言いたくないが、奮発して言ってしまえば、異様に「惚れっぽい」のである。飽きやすいか。それが、そうではない。惚れてしまうと、つき合
いが長い。遠く離れながらでも何十年も懐かしく気は通う。喧嘩別れと言うことが、ほとんど無い。不思議なことに、六十年余の人生によくもこれだけという惚
れた相手が大勢いて、男も女もと言いたいが大方は女性だが、それで心を悩ましたと言うより、心を豊かに養ってきた。出逢わねばよかったなどという人は殆ど
一人もいない。自然に親しみ、自然に別れたようでそのまま親しみが通っている。
妻は、おおかた素知らぬ顔をしてくれながら、さすがに愉快でないことも多かったろうと、
今更に感謝し、また頭を下げている。これは、変わっているという自覚であるより、よほど「おかしい」「変なヤツ」という自覚なのであるが、有り難かったと
も感じている。 むろん、妻を絶対的に心から愛している。だが、月並みにいえば、やはり「小説家」になってしまったのは道理だわとつくづく思う。まだ、バ
グワン先生に服してそれら全部を「落としてしまう」には、タメライがある。そんな辺りに、『袁枚』先生に共感した理由が有る。「死にいそぐ道には多し春の
花」と、大学時代に日々使っていた英和辞典の見返しに自句を書き付けていたのが残っている。袁枚には、「花」とは大方「女」を意味する詩語であったが、私
にも近い語感が生来あり、後年に『花と風』を書いた事に繋がるのかも知れない。
* おかげで「年譜」作りにかまけ、締め切りの近づい
た仕事も棚上げに、日々好日を楽しんでいた。こういうとき、衣食の贅沢を少しも思わないで来たのが、我が身をたいへん助けてくれる。「男の美学なんか要ら
ない」という『迷走』下巻に載せて置いた一頁原稿がいまもって佳い反響を得ているが、金をかけず、ずいぶんラクにわたしは暮らしている。
* 四月十七日 土
* テレビで映画を観ていた。都会の少年四人がふとし
た度の過ぎたいたずらから少年院に送られ、四人の看守たちから徹底した性的虐待を受け続けて、出所する。少年の一人は「モンテクリスト伯」を愛読し、虐待
に耐え抜いていた。彼らが出所し、それから復讐が始まる。最も凶悪だった無気味な看守は真っ先に撃ち殺された。そこで映画の先は見えたので、ここへ、器械
の前へ戻ってきた。凄まじいものにも堪えられはするけれど、つまらないものには時間を惜しむ。
いま『カラーパープル』という黒人女性の小説をよんでいるが、これは、ユニークに優れた
表現で胸を打つ。悲惨に育ちながら魂の無垢を守り抜いている黒人の若い女の、女は母であり妻であり、母ともされず妻ともされない境遇に生きていて、彼女が
神に語りかけるモノローグの体で小説は進んで行く。凄まじいけれど、不思議に清い。女は父に産まされた子を二人も喪っていて、何人もの子持ちの妻になって
いるが、男は他の女に夢中であり、当のその女に小説の語り手である女は、純に憧れている。まだ読みかけて半ばだからどうなるか知らないが、佳い作品に触れ
ているという満足感がある。大岡山の本屋で買ってきた二冊の一冊だった。いい買い物をした。
いま観ていた映画にはそういう満足が得られない。ただもう人間の無残に捻れた悪行の汚さ
を、看守たちにしたたかに見せつけられた。うんざりした。
* バグワンのどうやら新刊の説法集らしいものへ、推
薦文を依頼されたが、断った。今まで読んできたものは,掛け値なく私を説得し、素晴らしい叡智に溢れていた。今も夜毎『老子』を読み次ぎ、感謝している。
だが、頼まれた今度の本は、私にも心得のある十牛図でも般若心経でも老子でもない、道家の古文献に拠ったものらしい。私はそれを知らない。読んだことのな
い本を推薦する気にはなれない。不用意なことはしたくない。それで、はっきりお断りした。だが『老子』はいい。まだ下巻のとばぐちだけれど、申し分がな
い。
* 淡交社が、家元嗣子である千宗之氏の日記風のエッセイを二冊送ってきた。読んで見たい
と思っていた。これから読み始めるが、ちらと頭をみると推敲がしてないかと思えそうな、書き放しの文章なので、ちょっと気を殺がれた。本にするまでに、十
分に手を掛けたのだろうか。若い人が気軽に手荒くものを書いて自足していると、気になる。千氏は大きな組織の上に権威高くいる人であり、要するに「ゆるさ
れ」やすい。そこにこそ用心が要る。純然と茶道の本でない限り、できれば淡交社ではなく、裏千家と関係のない他の出版社から出された方が、本のためにも、
人のためにも、良いと思う。手前味噌に思われてはよろしくない。傍の人も気をつけてあげて欲しい。独坐大雄峯といえる家元に、できれば自由人の茶人に、
成って欲しい。昔から楽しみに見守ってきた。
* 四月十九日 月
* 夕刊で、日本ペンクラブの梅原会長が、一個人とし て石原新都知事に贈っていた言葉は、気持ちよく胸によくおさまった。長いつき合いで、梅原さんの思想が石原氏のそれと違う点も、似通うところも察しがつ く、違いは違い、共感は共感として梅原さんは要点を正確に押さえて書いていた。ペンにはいろんな会員がいて、必ずしも石原氏と同じようには考えない人が多 いから、日本ペンクラブとして「おめでとう」とは言わないが、頑張って欲しいという気持ちは、同業の者としてもよく分かる。都知事に出るよりも本当に大文 学が書けると自負しているならそれを実現して欲しかったというのも、近年の梅原さんの言説から見て頷けるし、知事をやるからは東京が率先ゴミ処理問題に成 果をあげて全国の手本を示して欲しいというのも、とみに環境問題に熱心な梅原さんらしい。最後に、政治首都東京の移転などと言う無駄な問題に終止符を打て と提言し切言しているのももっともだと思った。
* 東京の政治的首都たる機能の移転など、無駄だと思
う。すべきでないと思う。
その一方で、皇室は東京でない土地に移転されてはどうかと、久しい以前から私は発言して
きた。警護とかに問題点は多少生じるにせよ、政治と皇室との空間的な別居はむしろ日本の逆戻りを避けるためにも望ましい。費用も、政府や官庁の機能移転に
較べれば、格別に安上がりに実現できる。そして東京には、旧宮城というすばらしい緑地帯が残される。京都の岡崎一帯に新宮都を実現するのは難儀なことでは
ない。「天皇陛下、京都へお帰りを」ともう一度も二度も私は言ってみたい。
* すでに中国では石原知事への強烈な拒否反応が起き
ている。これは予期されたことであり、致し方もないし、過度に神経質になることもない。軽率な放言で刺激をつよくし喧嘩を売ることはやめ、しかし言うべき
はいわねばならない。私はいわゆる「大国」の正義だの善意だのというものを、米英露中、何れも心から信じたことは無い。「外国」は原則として信じつつ行動
してもいいが、限界のあることも承知し、必要な範囲では疑ってかかり、「ノー」ともはっきり言うべきは言わねばならぬ。その点だけで言えば石原慎太郎の発
言に異存はない。ただいかにも優れた外交手腕とともに、「対策のあるノー」でなければならない。「放言のノー」ではいけない。
恐ろしいほど規模の大きい首都であればこそ、地方都市とはちがう発言力や行動力が国際的
にものを言う。全国区的であるばかりか、世界的に、グローバルにも見識が必要となり、石原氏にいちばん不安なのは実はその見識の点であったことを、謙遜に
承知していてもらいたい。作家らしい率直に生き生きした言葉が使われる点では、むしろ喜ばしく、前青島知事に失望したのは彼が文学者としての言葉を無残に
放棄してしまったことにあった。
* 袁枚の詩を読んでみたいという人がある。ちょっと
心嬉しい気がするので、英語に訳したウエィリー先生、日本語に訳した加島祥造さんにお許し戴き、二、三、ここに引かせてもらう。数多い中からであり、ペー
ジを開いたところから気軽に引く。
春の夜にふと夢からさめると 春日雑吟
月の光が涼しく差しこんでいる。
窓の外には、花が満ち咲いて 春宵夢醒月華涼
窓の内には、その香りが満ちている。 窓外花開窓内香
花のなかには、散る前に、 花似有情来作別
私に別れを言いたいものもあるらしく、 半随風去半升堂
半ばは風とともに去ってゆくが
残りの半ばは、この部屋に舞いこんでくる。
ベッドに寝たまま、転々として眠れぬ身だ、
病中贈内
人は年を加えて病になると、
いかにして元のように健康になるか
そればかりに心をくだくものだ。
丈夫な時には、
ひとつの微笑を買うのに千金を払って遊んだが、
いまや病んで、はじめて
妻こそが人生の最上の友だと知るに至った、
なにしろ、私がよく眠れたかどうかと
心配して、鶏が二度も鳴くまで
起きていてくれる者なんて、ほかにいまい!
老いた鶯はむりに囀らぬほうがいい。
人老莫作詩
人も老いたら詩を書かんほうがいい。
たいていは想像力が衰え、まず
力強かったころの自分の詩をなぞるだけだ。
白楽天や陸放翁でさえ同じで
あの年まで書かんほうがよかったのだ。
ましてやこの私は、なおさらそうなんだ!
いつまでも書きつづける愚かさを
よっぽど用心せねばならん!
とはいえ、心の動くことは今も起こるし、
口も思わず動いてしまって、
年ごとに新しい詩ができるーー
まるで花が春ごとに咲くのと同じなのだ。
だから私はこう考えるーーもはや
老いてきた以上、老いた詩を書けばいい、
それには光景を描かないで、
己れの感情を語ることだ。光景は
誰の眼にも映じるものだが、感情は
自分ひとりの財産なのだ。
人にはそれぞれの因と想があるーーだから夢は
わかりにくい 題黄粱夢枕図
人にはその人なりの感情や情熱があり
だから誰の夢も同じではないのだ。
一度、私は旅で邯鄲の町に宿ったが、
そこで見た夢は大違いだった
私は花の乱れ咲く野で書巻をひらいておった!
* 袁枚がこれらを描いた年齢は、現在の私よりも実は
ずっとずっと若かった。私はまだ「光景」も描きたいし「感情」も迸らせたい。どのような花も大切に思うし、どのような命もいとおしいと思う。しかもなお袁
枚が羨ましい。袁枚のように生きられればと願うし、私よりも年老いて書斎を捨て、東京都の知事をやってみようなどと考えた同じ作家が分かりにくい。『太陽
の季節』に感心など出来なかったけれど、梅原猛の言うように文学の力を見せて貰う方がよかった。同じ日本ペンクラブの理事としても、そう思っている。
* 四月二十二日 木
* 思い立って銀座に出、写真家原光氏の山岳と海洋と
の強烈な写真を観てきた。長いつき合いだが、初対面。氏は、ダンテの神曲や小説『白鯨』やボードレールの詩集『「悪の華』などを実に厳格に翻訳し自費出版
されてきた。御厚意で久しくそういう出版訳書を何冊も頂戴してきた。写真家だとは知らなかったし、私よりも十ほど若い人であろうと想像していたのに、わた
しの方が若そうであった。
聖ルカ病院から戻ってきた妻と銀座で待ち合わせ、ちょうど午で、馴染みの寿司の「こつる
ぎ」へ行き、親方に任せて出たものを食べた。程良くて美味くて堪能した。わたしは昼間から冷酒をやった。
青山の根津美術館へ行き光琳の『燕子花図屏風』を観るのを楽しみにしていた。ところがわ
たしの早とちりで、開館は明日から。今日は不審庵かその門下かの釜が三席四席掛かっていて、まぶしく匂う新緑の池泉回遊庭園に和服の人が群れていた。大寄
せで、どの茶席も満員満席、外にも次の順番待ちの客がひしめいていた。なにしろ陽ざしが美しく、青葉楓も、咲き初めた躑躅の紅も冴え冴えとして、池も橋も
木々も珍しく手入れ良好、散策には至極の感興だった。陽気で晴れやかで木陰が涼しかった。常設展示は観なかった。いつも来る招待券はやはり国宝の屏風のた
めに惜しんで置いた。
かつて歩いたことのない、出入り口から左方向へ、青山の味な店から店をのぞいて歩いた。
骨董の店があり、洋服の店もある。洋服の店で例の如くわたしが見つけ、妻のヴラウスを一枚買った。わたしは名人なのである、妻の服を見つける。
例によって妻が疲れてダウンしたので、銀座へ戻り、明治屋で珍しいチーズを山ほどいろい
ろ買って、地下鉄一本の有楽町線で保谷に帰った。九十歳の読者女史がいつも贈って下さる大缶ビールをうまいチーズで二本飲み、京都から来た佳い筍をご飯と
煮物にして晩飯にした。
文字コードの仲間から有り難いメールが来ていたので、それを丁寧に読んで返事をして、あ
とは仕事をいろいろ。もう0時半になっている。まだまだ寝られない。
* 去年も今日は上野へ行き、鶯泉楼で中華料理を食 べ、近くの寺の藤の花をたずね歩いてから、その辺の眼鏡屋で妻はサングラスのいいのを選んで買った。博物館から寛永寺の牡丹園をゆっくり観て、伊豆榮で洒 落た懐石を食べ、妻の大好きな上野広小路の寄席にはまりこんで、夜席をぜんぶ聴いてから帰った。よく覚えている。妻に健康でいてもらいたいと思う。
* 差し迫った仕事がいくつか溜まっているのに、我な
がら暢気千万で驚くが、ま、いいや。志賀直哉は、いいしおに代表作を沢山読んだから損はない。気になるのは湖の本発送の用意や、担当のコラム原稿。淡交社
依頼の仕事は小説仕立てに極侘びの茶人を書ければいいがと、資料を、今日も電車のなかや妻と待ち合わせの喫茶店で読み始めた。もう週明けには日本ペンクラ
ブの総会と理事会がある。晩には懇親会もある。電子メディア研究会について簡単ながら報告もするらしいから、ぼうぼう頭の散髪も明日にはぜひして置かね
ば。
* 四月二十三日 金
* 先日の委員会の後、文字コード委員会メンバーは、連日連夜メーリングリストによって意
見交換している。この頃のわたしは読む一方。
ところで委員会の実質的なリーダーの一人から、論点の交通整理のようにちょくちょく提案
がなされるのだが、この人のメールに限って、わたしの器械で文字化けが頻出する。他にはそんな例がめったに無いのに。それで、下記のように発言した。こう
いう発言の時機が来ていると思ってもいた。
議論の方向が細部に深まり、ややこしくはなるわりに、コンセンサスからはむしろ遠のいて
いる。必要とは認めているけれど、そんなことは任せたいよと思ったりする。
そんななかで簡明に希望だけは伝え、確認もしておきたくて、あえて「要点」と題し発信し
たのが、下記のメールである。
* Sさん。また文字化けです。大事なところの発言と おぼしき内容なので、文字化けでは本旨が伝わらず不安心です。
要するに、「文字化け」に類するともいえる「障害」 が、漢字やかなや日本の記号を用いての発信や受信に起きないようにしたい、世界中のどの場所でも、どの人と人とでも、どの器械同士でも。「文字化け」に類 する「障害」などが、姑息な妥協ゆえに起きずに済み、豊かな日本語で自在に書ける、基本的にも学術的にも大事な漢字文献が大丈夫電子的に「これは読めま す、これも書けます」ということになれば、文筆家・研究者・読者は有り難いわけです。願いたいのはそれです。技術のことは任せます。
どうすればそうなるのか、要するに、それを、今この 委員会は考えているのだと思っていたのですが。どんどん問題提起をして下さるSさんの、そのメールの文字化け続出は、まさに問題点、関心事を、「比喩とし てですが、」現実問題としても、露呈しているように思われます。これまた器械音痴のたわことかも知れません。が、私は、これぞ「要点」と感じます。
日本語や漢字を「文字化け」で世界に発信したり受信
させたりはしたくない。技術のことは任せるしか有りませんが、誤字に等しい余計な同類字・異形字群に「文字コード」はおおかた不要でしょう。しかし、どれ
ほど難しい字でも、稀にしか使わない字でも、かけがえのない「自立して基本的な」漢字や記号には、極力漏れなく世界共通に使える「文字コード」をと、少な
くも私は、今も希望しています。 ペンクラブ 秦 恒平
* なにしろ手さぐりでとぼとぼ歩いている頼りない旅行者の発言で、見当はずれもいいとこ
ろかも知れず、不安ながら、これを言わずに私が委員会に参加している意味が無いと感じた。折り返し、東大の坂村健教授から、端的に、「まさに御指摘のこと
が本質的な問題です」とメールが入った。私はコンピューターのとてつもないアマチュアであり、坂村さんは極め付きのコンピューター工学的なプロ。胸をなで
下ろしている。
* またもや雨しとど。雨を聴きながら家で仕事の出来
る幸せを、会社を辞めた昭和四十九年夏以降、しみじみと味わったのを思い出す。
* 四月二十四日 土
* 東工大のころ、学生から、京都へ行きたいがどこを
どう歩けば宜しいかと繰り返し聞かれた。留学生から頼まれることもあった。それで、ある機会に、『京都案内』の私版を試みた。もう特定の宿の決まっていた
連中に与えたので、一般論では無いとも言えるが、利用は十分利く。それで希望があればコピーして誰にでも上げた。この間、あれの続きを書いて欲しいと、学
生ならぬ、妻の友人から頼まれたりした。その人にも妻が上げていたらしい。
精密なことは書けない。ややこしい場所で迷子にしてもいけない。つまり限界はある、が、
「私の京都」だ。そんなのがフロッピーに残っていたので、参考にする人もあろうと、ここに載せておこうと思う。何年も前のものゆえ、事情が少々変わってい
るかも知れないが。
* 京 都 案 内 (案)
秦 恒平 作成
* 京都市内に宿泊する(未定)ものと考える。
* この通りこの順番ですべて訪ね歩く必要はない。おおよその目途をつけておくだけ。
* 京都はおおむね四角い街で、「市内」から「東」「西」「北」に山が見え、南はひらけ、
東山のなお東側に、北から南へ細長い「郊外」がある。無駄足をなるべく避けるために、この(括弧でくくった)五つの方面別に、案内する。たくさん見るよ
り、ゆっくり見て楽しく歩くことを考えたほうが京都にはふさわしい。
* およそ市内のどこからでも東北西の三方に低い壁のように山が見える。山の感じを先ず見
覚えてしまうと方角をあやまることは無い。東北の角のところにひときわ高い山がある(比叡山。ひえいざん)のを念頭におくと、90度に折れてその向かって
右側が東山、左側は北山と記憶すればいい。
* 京都人は外国人には一般に親切。中年以上の女性に遠慮せず質問して、無駄を省く。
*「東山ぞい」はもっとも見どころ多く、ここだけでも二日三日かけてもいいほど。
*先ず「郊外」の「滋賀」「宇治」「山科」「醍醐」方
面を案内する。
1 天気がよければ、思いきって先ず「出町柳・でまちやなぎ」(市内やや北寄り東西に今
出川(いまでがわ)通りがある。その鴨川を東へ越えたすぐ北に始発駅あり)から郊外電車で「八瀬・やせ」へ行き、ケーブル・カーでいきなり比叡山へ登って
みるのも良い。終点からは山上を歩くが、京都市内や琵琶湖が一望できる。また日本史にもっとも重要な古代寺院である「延暦寺・えんりゃくじ」があり、茶店
などで案内の略地図を手に入れて、「根本中堂・こんぽんちゅうどう」など見歩いてから、滋賀県の「坂本・さかもと」へ降りると、そちらには琵琶湖や三井
寺・近江神宮など湖西の名所おおく、「浜大津駅・はまおおつえき」まで気のむくままに途中下車しながら戻る。そこで京都三条行きの電車で「三条・さんじょ
う」まで帰ってもいい。
時間があれば浜大津からさらに南へ「石山寺・いしやまでら」まで行って来てもよい。
紫式部が源氏物語を書いたともいわれる古代寺院で、途中「粟津・あわづ」には芭蕉の墓と
木曽義仲の墓とのある「義仲寺・ぎちゅうじ」もある。浜大津経由で、簡単に京都へ戻れる。
このコースは、いちばんの大遠足。比較的、景色が大きくて気が開ける。あまり目的意識を
持ち過ぎず、おおまかに遠足だと思って行けば景色の変化がよく楽しめる。
2 宇治の「平等院・びょうどういん」へは行き方が
二つある。
1で挙げた「浜大津」または「石山」から「宇治川ライン」を船で下り「宇治」まで行く
のが楽しい。宇治川は、かつて「川」コンクールで日本一の人気投票を得たこともある。ただ季節により船の休むこともあり、宿で確かめてもらうか、「京阪電
車・けいはんでんしゃ」の駅で聞くといい。運行しているならこのコースは、最高。川の上はまだ寒いかも知れないが。下船してからは川下へ川ぞいに、暫く歩
く。
宇治へつけば「平等院・鳳凰堂」「中の島」「宇治橋」川向こうの「興聖寺・こうしょう
じ」「宇治上神社・うじかみじんじゃ」を地図をみて歩く。平家物語の頼政戦死や名馬先駆けの争いの場面。鳳凰堂ではゆっくりする。中尊の阿弥陀像は「定
朝・じょうちょう)による平安時代最良の彫刻。興聖寺参道や境内も清々しい。源氏物語の美女浮舟の住んだ辺りとも言われる。
宇治は最もうまい茶の名産地。パックの宇治茶なら宿ででも家ででも熱湯でかんたんに味わ
える。
京阪宇治駅からすぐ「黄檗・おうばく」まで乗り、そこで「万福寺・まんぷくじ」へは是非
立ち寄りたい。中国風の禅寺で趣がある。門前の白雲庵の精進料理も余裕あれば楽しみたい。簡素で旨く、庭も風情あふれている。
黄檗駅から京阪電車で七条なり四条・三条なりへ簡単に戻れる。JRを利用して京都駅へも
戻れる。道順などは土地の人に聞くのがいい。いずれも距離はたいしたものでは、ない。
これも一日行程として、十分。まだ時間があるならば、黄檗からの帰りの京阪電車を「伏見
稲荷大社・ふしみいなりたいしゃ」で下車、日本最高の数を誇る稲荷神社の総本山に参ってくると良い。とくに本殿裏から山上へえんえんと延びてつづく赤い鳥
居の大トンネルを、すこしの間でも潜って歩いてきた体験は、忘れがたいものになる。ここは「必見の京都」の一つでもある。参道の風情もひなびて面白い。
宇治へ行き方が二つと言ったのは、つまり右の逆コースの意味。しかし船さえあれば先の
コースの方が断然良い。
3「山科・やましな」へは「三条京阪前・さんじょう
けいはんまえ」のバス・ターミナルからのバスと、徒歩とを、うまく組み合わせるのがいい。
山科では「小野随心院・おののずいしんいん」そして醍醐では「醍醐寺・だいごじ」のなか
でも特に門を入ってすぐ左の「三宝院・さんぽういん」の庭園および五重塔が必見。随心院は小野小町ゆかり。奥の、静かに清い庭先で放心してみるのもいい。
べつに「勧修寺・かじゅうじ」という古代寺院もあるがハイウェイで騒がしく、今は特別勧められる場所ではない。醍醐寺への移動はバスがいい。歩けぬことは
ないが。
三宝院の庭はおそらく日本一巧緻に美しいもので、秀吉の名とともに桃山時代の豪華さを、
加えて静寂と趣向の美とを堪能させてくれる。絵画も茶室も自然もみごとに織り成されている。嵯峨の天龍寺の庭とならんで、さらに絢爛と美しい。
醍醐から「日野・ひの」へ移動する。バスがいいがタクシーを拾っても。「法界寺・ほうか
いじ」「一言寺・いちごんじ」がいい。『方丈記』の世界。ことに方界寺の仏像は宇治鳳凰堂の頃のもので、すばらしい。京阪電車の最寄り駅から(宇治からの
帰途と同じに)京都へ戻れる。時間次第でこの時に「稲荷大社」に立ち寄ってもいい。
また「東福寺・とうふくじ」駅で下車して、現存最古の大きな山門を擁した有名なこの禅寺
の鳴り響くシンフォニーのような伽藍を、夕まぐれに、しみじみ歩いてから帰るのもすばらしい。一度寄っておき、日を改め、泉涌寺・東福寺を起点に東山ぞい
をゆっくり楽しみ直すことを勧めるが。
* [東山ぞい」は、南から北むきに進むのが良い「南 コース」と、北から南むきに歩くのがいい「北コース」と、その接点部を町歩きもふくめて楽しむ「中央コース」がある。「中央」は時間と体力しだいでどっち かへ組み入れることが可能。なににしても京都は、そう広い広い町ではない。その気なら端から端まで徒歩でも押し渡れる程度だから、東京とはちがい、乗り物 にあまり頼らずに済む。もっとも、時は金なり、時間の経済を考えれば適度にタクシーを利用しても、これまた東京のように費用はかからない。基本的には、し かし、歩くことを楽しめる・楽しんだ方がよい町である、京都は。
1 「南コース」 いきなり「伏見稲荷大社」へ京
阪電車で直行してもいい。何万の鳥居の胎内を気力の許す範囲で山高くまで潜ってくるのは凄い体験である。眺望もよく太古の遺跡も雰囲気も凄味がある。伏見
街道を北へ、人にも尋ねながら暫く歩くと「東福寺」へ南から入る。
いきなり東福寺から日程に入っても良い。その際は京阪電車の「東福寺」駅まで行く。 道
順は駅員なり、土地の人にすぐ尋ねたほうが早い。距離はほとんど無い。東福寺という寺は、大建築の配置(伽藍)が自慢。「通天橋・つうてんきょう」を渡っ
てぜひ奥の庭園まで入ってほしい。また「本堂」も見学したほうがいい。数多く末寺(塔頭・たっちゅう)が周囲にならんでいる。ひとつひとつ覗きこむ程度で
いい遠慮なく門内に入ってみると、思わぬ風情の清い小庭が隠れている。優しい花も咲いている。
東福寺境内を北から東寄りへ抜けて行くと、「泉涌寺・せんにゅうじ」参道へ出る。徒歩で
数分。土地の人に道筋を聞くといい。泉涌寺は日本で唯一「御寺・みてら」と尊称される皇室の位牌寺で、背後に御陵山を抱きこみ、清寂の明浄処。御所と寺院
との不思議に習合した感じに気品がある。町家のなかの参道をのぼって、小さな門前へ来たら、すぐ左の「即成院・そくじょういん」の中に入る。境内右の小道
を奥へ奥へ進むと、平家物語に名高い那須与一の塚が隠れている。さらに東へ突き当たるちいさな「戒光寺・かいこうじ」の本堂に上がってみるとよい。すばら
しい釈迦如来の立像がある。深く覗きこんで礼拝を。大仏様で、京都の人も知らない、とって置きの秘仏「丈六釈迦像」。堂に上がりこんでも咎められない。
参道へ出て東へ進めば泉涌寺に自然にすぐ辿りつく。境内へ入ったほうがよく、庫裏 (本
堂)へ入れれば、中は、信じられないほど静かに心地いい。金堂や楊貴妃観音もいいが奥の参道へのぼって、中途で御陵(天皇の墓)に一つ参ってくるのもい
い。
金堂のわきを左へ外に出、ふっと小道坂を降りた右手に「来迎院・らいごういん」の在るの
はぜひ覗いてほしい。「含翠庭・がんすいてい」には池も茶室も書院もあり、忠臣蔵の家老大石が一時身をひそめていたところ。門前を渓ぞいに右へ行くとすぐ
奥に「観音寺・かんのんじ」があり、愛すべき日だまりを作っている。庶民の今も生きた信仰がそのまま温もりになっている。赤い橋を渡って元の参道へもどっ
たら、むしろ躊躇なくタクシーを拾うなりして、「パークホテル」または「三十三間堂・さんじゅうさんげんどう」を指示する。数分の距離。バスでも、東山通
りを北へ歩いてもいいが。パークホテルの北側、通りの向こうが「国立京都博物館・はくぶつかん」西側向こうが「三十三間堂」、南隣が「後白河天皇御陵・ご
しらかわてんのうごりょう」「養源院・ようげんいん」「法住寺・ほうじゅうじ」で、特に三十三間堂は必見。建築も仏像もすばらしい。平清盛の建てたもの。
中尊の如来像は大きくて鎌倉初期の最高傑作の一つ。千体像のある本堂裏の廊下にも見過ごせない彫刻群がならんでいる。
南隣の養源院には最高の画家俵屋宗達のすばらしい「松」の襖絵や「象」などの板扉絵が見
もの。後白河御陵も感慨深い。静かなホテルで昼食が気軽にとれる。
京都博物館は最高水準の芸術品をもっていて、東京・奈良博物館に劣らない。疲れてしまう
程広くもない。南隣に秀吉を祭った「豊国神社・ほうこくじんじゃ」や「方広寺・ほうこうじ」がある。
見過ごせないのはパークホテルの東側、通りの向こうにある「智積院・ちしゃくいん」で、
ここの庭園や堂もみごとだが、宝物館に保存した長谷川等伯らの『楓・桜図』の大襖絵は日本美術の最高峰の一つ、桃山時代の豪華な作品。北隣の妙法院境内に
市営の病院があり、その庭園が「積翠苑・しゃくすいえん」これが平安時代の匂いをほのかに伝えたいい池泉回遊式のすばらしい風情で、しかも無料。観光客の
姿の先ず無い静寂さ。
東山通り西側に立ち北へ行くタクシーを拾い、「清水寺・きよみずでら」のなるべく近くま
で行かせる。ここは「舞台・ぶたい」と奥の「子安塔・こやすのとう」を拠点に眺望を楽しむ。「音羽滝・おとわのたき」で手と口とを清めてくるのもいい。ま
た本堂の裏のちょっと高みに「地主神社・じしゅじんじゃ」があり、縁結びを願う人で雑踏しているのも面白い。本堂には古い「絵馬・えま」が掲げられてあ
る。清水寺には、「成就院・じょうじゅいん」があり、庭園がすばらしい。拝観させているなら寄って見るといい。参道を人の流れにまかせて坂を降りてゆく
と、やがて右へ石段を人は降りて行く。「三年坂・さ
んねんざか」で、それを降り道なりに進むといい。
もし雑踏が嫌なら、清水寺を出てすぐ右へ山ぞいの小道を、北むきにどんどん行くと、民家
のならびに「正法寺・しょうほうじ」前へ出る。小さい古寺だが、釣鐘堂からみる町も西山も、眼下の「八坂五重塔・やさかのごじゅうのとう」も結構な眺め。
めったに人の行く寺ではないが、境内に清水涌く清い井もある。この寺から下ると「京都(護国)神社・きょうと(ごこく)じんじゃ」も、閑静に清潔ないい
所。間近に、大きな石造観音菩薩座像が、青空の真下に見下ろせる。この一帯は古代以来の遊楽の名所。「高台寺・こうだいじ」は秀吉夫人の寺。めったに開放
していないから、開いていたら必見。庭もいいが「御霊屋・おたまや」「時雨亭・しぐれてい」「傘亭・からかさてい」などの蒔絵や茶室、また本堂外にかかげ
た「方丈」の二字額など、見ものが多い。
高台寺のすぐ下に「円徳院・えんとくいん」の枯れ山水の庭もよろしく表の庭では有名な甘
酒を売っている。門前をさらに北へ東寄りに進むと、「西行庵・さいぎょうあん」「長楽寺・ちょうらくじ」「圓山公園・こうえん」など無数の見どころがひし
めくが、もうこの辺で西向きに、公園から「八坂神社・やさかじんじゃ」へて入って行けばよい。この日本三大祭筆頭「祇園祭祇園会・ぎおんまつり・ぎおん
え」の総本宮をそぞろ歩きに、西の総門から、四条通りの繁華へ降りて行く感じはなかなかの気分。
門の向かって左手前方、「弥栄中学・やさか中学」の背後一帯がいわゆる「祇園町・ぎおん
まち」つまり遊郭・花街である。中を散歩してもすこしも剣呑ではない。風情はあり舞子にも出会う。いい店もある。祇園のすぐ南隣に「建仁寺・けんにんじ」
も大きいが、ここは殆ど開放していない。建仁寺から遠くない南には、「六波羅密寺・ろくはらみつじ」があり「平清盛像」「空也像」「鬘観音像」などすばら
しいものが在る。界隈は平家一門にゆかりの地である。
以上莫大なプランのようだが、体力と地の利を心得たものには、優に回れる範囲内にある。
適度に省いてもよし加えて寄り道してもいい。二日に分けてもまた構わない。
2 「北コース」 「修学院離宮・しゅがくいんりきゅう」に入れるなら、なにより行き
たい場所だが、普通は無理。したがって「三条京阪・さんじょうけいはん」駅からバスで、または「出町柳・でまちやなぎ」駅から電車で、「一乗寺・いちじょ
うじ」の辺まで行き、尋ねて歩いてすぐ東の「曼殊院・まんしゅいん」へ先ず直行を勧める。格式高い中世寺院で、庭園と建築との調和は優美そのもの。縁側に
座りこんで時のたつのを忘れる。そこから坂を歩いて降り左・南へ田中道をしばらく行くと「詩仙堂・しせんどう」がある。近世の文人趣味の邸宅で建物も庭も
鑑賞に耐え、みごとである。標識にしたがいそこから暫く南の山寄りに、「金福寺・こんぷくじ」がある。与謝蕪村にゆかりの小さな寺だが、芭蕉庵のわきの山
腹には蕪村の墓をはじめ文人俳人の墓がなごやかに静まっている。季節はつつじ・新緑の頃がいい。
そのまま歩いてもタクシーでも大通りからバスでもいいが、「銀閣寺・ぎんかくじ」へ。言
うまでもない足利義政将軍の遺跡、東山文化の拠点であり、「東求堂・とうぐどう」は書院の典型。銀閣寺のすぐ西に画家橋本関雪のアトリエ跡「白沙村荘・は
くさそんそう」が、一見の価値ある庭園住宅。銀閣寺へ入るより前に寄っておくといい。
銀閣寺を出れば、そのまますぐ山ぞいの小道を南へ行き、「法然院・ほうねんいん」にぜひ
立ち寄って欲しい。許可さえあればぜひ仏殿に参り、また庭や茶室や襖絵(狩野光信の槙図)も観たほうがいい。この寺の墓地に文豪谷崎潤一郎の墓がある。隣
にすぐれた画家福田平八郎の墓も並んでいる。場所は人に聞いたほうがいいが、一番山ぞいの高みにある。
法然院からはいろいろ道があるが、西の方角近くに低い山なみが見えている。吉田山であ
り、ここに「真如堂・しんにょどう」「黒谷金戒光明寺・くろだにこんかいこうみょうじ」がある。広大な墓地もある。なかなの散歩道で、わざわざ山を降りま
た山へ登って探し尋ねても、それだけの価値は十分ある。山といっても丘程度のもので、たいした時間も体力も要しない。「大文字山・だいもんじやま」の
「大」字が見える。
黒谷を南へ降りたら近くに「平安神宮・へいあんじんぐう」がある。尋ねて行き平安時代の
「応天門・おうてんもん」「大極殿・だいごくでん」を模した壮大な輪奐を見ておいて、白砂の前庭の左奥の入り口から、ぜひ奥の大庭園へ入るように。『細
雪』の花見で知られた桜を経て、まことに優雅に美しい辺かに飛んだ名園がひろがっている。屈指の名庭で堪能できる。神宮の外、大鳥居の両側に美術館があ
る。
ここから「疏水・そすい」に沿って、歩いてでも車ででも、ちょっと戻るがぜひにも 「永
観堂・えいかんどう」を訪れ、中を拝観してくると良い。奥の奥に「見返り阿弥陀」像が安置されているが、忘れがたい出会いとなろう。この寺の建物はまこと
平安時代の貴族の山荘を思わせ、京都でももっとも感銘深い寺の一つである。
ここからは南へ「南禅寺・なんぜんじ」に近い。北側から境内へ入るとすぐ「奥丹・おくた
ん」の湯豆腐が名物。味わってみるといい。庭も面白い。歴史に名高い「五山」に超越した位高い禅寺で、境内をそぞろ歩くだけでも楽しめる景勝の地。三門も
美しい。上れる機会にはぜひ上ってみたい。門の脇に「天授庵・てんじゅあん」また「金地院・こんちいん」があり、庭園はともに抜群。この一帯は大昔から景
勝の地として皇族・貴族の別荘が多かった。いまも細川家の別邸はじめ、大別邸が数多くある。多くは開放していない。「無鄰庵・むりんあん」は旧山県公爵の
別邸であったが、庭園とともに一部開放されている。尋ねれば分かる。その近所に、日本一といわれる料亭 「瓢亭・ひょうてい」もある。
しかし南禅寺の境内では、明治に建造された「水道・すいどう」を見落としてはつまらな
い。不思議に美しい大構造物であり、三門の奥の右寄り粗林に隠れている。
南禅寺を出て、「蹴上・けあげ」の都ホテルで休息してはどうか。眺望のいいレストランを
選んでもいい。超級のリゾート・ホテルである。
三条通りを避け、一筋南、民家の奥の山近い細い道へ入る。昔の三条通りというより旧東海
道である。今はごく狭いが風情はいい。西へゆるやかに坂をおりて行き、途中「粟田神社・あわたじんじゃ」に寄ってもいい。一帯が昔の「粟田口・あわたぐ
ち」で、やがて粟田小学校が道の角にある。そこで右をむけば平安神宮の朱の大鳥居が見え、左の急な坂へ上って行くと、すぐ左に「青蓮院・しょうれんいん」
がある。これまた格式を誇る古代寺院で、庭園がすばらしい。建物も古式を帯びている。高僧慈円がいて親鸞聖人を得度させた寺でもある。この寺の前の「花鳥
庵・かちょうあん」はいい割烹の店で、そう高くない。この辺にも御陵がある。皇室の墓だが、御陵はどこにあっても清らかに日本の美意識に結びついている。
すぐ隣の「十楽寺陵」も覗いてみるといい。南へ、やがて広い坂道とのT字路へ出る。すぐ左手・東の石段をあがって門の中へ入るのが便利。ずうっと道なりに
進むと「知恩院・ちおいん」の大境内へ入って行く。この道筋も捨てがたく、しかし、また先のT字路をそのまま進むと、やがて日本一大きな「知恩院三門・ち
おいんさんもん」前へ出る。この門をくぐり、さらに石段を上っても結局同じ知恩院本堂まえの広場に出る。本堂へはぜひ上がってみる。浄土宗総本山、世界で
も最大級の木造建築である。また徳川幕府が事あらば京の城として構えた寺でもある。
本堂の東、北寄りの山のうえへ石段をのぼって行くと開山堂や墓地へ通じ、かなり高い。ま
た本堂の東側、やや南・右手の山へ石段をのぼると、日本一のおそるべき「大釣鐘堂・おおつりがねどう」がある。釣鐘、一見の価値はある。そこを右・南へ抜
けて行くとちょうど圓山公園の真上になる。舗装した道をちょっと降り、そしていきなり公園いちばん奥の落ち水までちょっとした隠れ道を降りると、公園をほ
ぼ全部見ながら、噴水の池へ、有名な枝垂れ桜へ、また八坂神社境内へと降りて行ける。「南コース」と「北コース」のつまり合流点に、この公園や八坂神社は
在る。
* むろん見残している場所は無数にあるが、これでも 十分に盛り沢山である。「比叡山 コース」「宇治川ラインコース」「山科醍醐日野コース」「東山南コース」「東山北コ ース」と、これだけでも五日間は楽 しめる。「西山」と「北山」とは後日に温存して。
* ご希望の「大徳寺・だいとくじ」を中心にした「市 内コース」を考えてみよう。
「大徳寺」へ は、いっそタクシーでいきなり門前
へ行ったほうが経済な気がする。いろんな末寺(塔頭)はあるが、どこも皆見せてくれるとは限らない。境内自体はそう風情のある寺でなく、末寺の一つ一つを
尋ね歩き見て歩く寺である。山門の「金毛閣・きんもうかく」は、二階に千利休が自分の木像をあげたのを咎められ切腹に及んだ門。中を見せている時期もあ
る。「大仙院・だいせんいん」の小さな庭が途方もなく有名。見せているところはすぐ分かるので、興味しだいでどんどん入ってみるといい。鉄鉢の精進料理の
寺もある。入れば、さすがにどこも内部は禅境らしい深みがあるが、あまり多くを大徳寺に期待し過ぎないほうがいい。
この北方やや西よりに「今宮神社・いまみやじんじゃ」という古代から祭で知られたいいお
宮がある。この辺からは北東の「上賀茂神社・かみがもじんじゃ」へタクシーを拾って走るのもいいし、北西の山寄りへバスで鷹峰(たかがみね)の「光悦寺・
こうえつじ」に行くのもいい。甲も乙もない。すてきな神社だし、すてきな自然である。気の動いた方へ。
上賀茂神社からは、いっそ加茂川ぞいに河原を歩いて下って、「下鴨神社。しもがもじん
じゃ」まで散歩してみては。両神社とも、平安京以前からの山城国の一の宮である。そして下鴨神社からは町なかをすこし西へ歩き、「京都御所・きょうとご
しょ」つまりかつての皇居や、そばの「相国寺・そうこくじ」「同志社大学・どうししゃだいがく」など覗いてから帰るのも一興か。
また光悦寺からは、裏山道をぬけてもよし、バスかタクシーかで走った方がらくだが、「金
閣寺・きんかくじ」に行くのが順であろう。三島由紀夫や水上勉の作品とも関わり、日本の中世が誇る建築でもあるし、庭園もしみじみと良い。そして土地の人
に尋ねながら「等持院・とうじいん」「妙心寺・みょうしんじ」「龍安寺・りょうあんじ」から「御室仁和寺・おむろにんなじ」まで、京都でも屈指の寺々を歩
いて尋ねるのが面白いだろう。自然はよし、町もさびさびと古都の風情はある。等持院は庭園、妙心寺は小さな末寺の一つ一つに秘めた壷庭や絵画。龍安寺は何
といっても名高い「石庭」とともに、本堂の手前から脇に隠れた広大な池をめぐる散歩、これは是非とも。そして御室は、優美な境内と五重塔。見せて貰えれば
平安朝さながらの優美な建物の内部も是非に。宮廷気分がかなりか実感できる。山ぞいに歩くと魅惑の古寺も点々と。
この程度もまわれば十二分で、時間と体力は、それぞれの場所での時間配分にゆっくり宛て
たほうがいい。気ぜわしくしないのが京都での秘訣。
そして街なかへ戻り、京都シティーにも少しは馴染んで欲しい。
以上「六日分」で、北・西と、北西の郊外と、南と は、今回は割愛する。あぁ疲れたぁ。 (おしまい)
* 今日は梅若万紀夫の『朝長』を観る。
* 四月二十四日 土 つづき
* 書きこみ続けていた「秦恒平・掌説の世界」の『春 蚓秋蛇』二十七編を書き込み終えた。これで書き込み済みの『七曜』『無明』と併せて、現在までに書いた全掌説五十数篇が集成された。これは手っ取り早くい えば、私の内蔵した「どろどろ」の、索引であろうか。ま、難しいもので無し、しかし特異な世界であると言えよう。川端とも稲垣足穂ともまた漱石ともちが う。このホームページには、現在、少し意図してこれまでの作風とは異なった扱いの文章や創作を入れているが、今度は思い切って太宰治賞作品『清経入水』を 新たに書き込んでみようかかとも思う。
* 今日は文字通りの土砂降りだった。千駄ヶ谷から国
立能楽堂まで傘が役に立たなかった。気の毒に橘香会は客席が随分空いていた。だが万紀夫の『朝長』は、前半は眠かったが、後シテは美しくあわれに凛々しく
て、おみごとであった。からだが、しなやかによく使われ、活躍した。平治の乱で敗走し、父義朝の脚手まといになるまいと自害して果てた少年武士の能であ
る。近江の青墓が舞台。近江富士や竜王の山が目に見える。
それにしても前半は眠かった。前夜寝ていなかった、殆ど。メールでの質問にも答えたし、
読みかけの本も読み上げた。もっとも、そうでなくても能では寝る。だが寝てはいけなくなった。立川談志のおかげで、客はうかうか寝たりするとつまみ出され
て、裁判をしても負けるのである。なんということだろう。
* もともと予定通り一番でだけで能楽堂を出た。すさ まじく雨に濡れた。池袋に戻りひさしぶりに天麩羅の船橋屋に入った。若鮎よろしく、笹一の酒また馴染みで、いい気持ちになった。
* 帰ってすぐ志賀直哉の原稿を書き上げた。この原稿 をしおに、おおかた主なる作品を読み返せて、よかった。小説家とは呼ぶまい、偉大に優れた「文学者」として尊敬を新たにした。アリス・ウォーカーの『カ ラーパープル』を一昨夜のうちに読み上げた。黒人の生活と人間関係とを、アメリカとアフリカとにわたって、姉と妹との呼び交わす手紙や内心の独白を、巧み に、スピーデイーにも、配しながら、感動深く盛り上げて行き収束した手腕はたいへんなものだ。初めて読んだ。この五十円の古文庫本は、花見に東工大へ行 き、「いろは」で飲んで食べて休息したあとかさきに、昔馴染みの本屋で二冊百円で買った一冊である。
* 四月二十五日 日
* 文字コード委員会のメール討議の中で、こういう発 言があり、こう答えた。ここは私だけでなく、研究者・読者にとってかなり大切なところだと思われる。発言者は私の信頼しているメンバーの一人で、実名をこ こに出していいのかどうかは分からないので、今は避ける。委員会大勢の一人何方かとしておいて差し支えなげな一般論とも思われるので。
*『鬼の話』の不思議な文字たちは、そう簡単には使え るようにはなりません。今生きている我々にとって、「字書にしかない文字」だからです。井上靖さんにしても、字書にあったから、初めてそういう文字がある ことを知り、それを文章にしたわけです。決して初めから知っている文字を書いたわけではありません。
こう仰る。けれど、これは困ります。そして、こうい
うことが不安で不満で切言しているのだということです。その理由を重ねて申します。
井上さんが「字書にしかない字」を「字書」で見つけて書いたにせよ、彼が一作家として作
品に書き、大勢の人が優れた現代小説として現に読んでいると言うことは、これらの文字はすでに、「現代から未来へ生きていく」日本文学の読者、批評家、研
究者には現に「眼前に生きている文字」なのです。この作品を軸にして井上靖論を書き、これらの「鬼や星の名」を引きながら作者の思想や死生観にせまらねば
ならない研究者、批評家も後を絶つとは言えず、ましてその漢字が使えないので論じにくい・論じられない・論じないとなっては、絶対に困るのです。
これは他に広く類推してよくお考え下さい、一のこの作品に限ったことではない、たとえば
の事ですが山海経であれ日本書紀であれ、ピカピカの新人の平野啓一郎の作品であれ、同じなのです。「字書」でも、私などはその時代の地図なみの「作品」と
して、検索だけでなく「読書」の対象にもするのです。井上さんもきっとそうしたのであり、それらの漢字が、たんに好奇心から偶発的に使われたのでは決して
無いはずです。それは「創作」「表現」「文学」なのであり、こういう創造行為や思想表現の手段が、「そう簡単には使えるようにはなりません」と簡単に突き
放すように言われて、そのまま放置されかねないのを怖れるのです。だからこそ私が文字コード委員会に参加した最初の、「所感」から、最近の、「要点」「本
丸」まで、敢えて壊れたレコードのように繰り返して、私ないし私も含めた大勢の文学者、研究者・学者、読者たちの不安と希望とを伝え続けているのです。
はからずもあなたの今度の「メール」に尖鋭にその不安を裏書きする字句が出たために、こ
こで、さらに申し上げておきたい。
念のために言います、これはパソコンが圧倒的に紙と万年筆等での筆記を減殺し駆逐したよ
うな「近未来」を半ば憂慮しつつの「不安と希望」であります。我々はそれを仮定せざるをえぬものとして、将来に備えようとしているのですから。ペンクラブ
秦恒平
* どんな漢字が問題にされているのかを、ここに「引 用」して示すことが頭から不可能なのである、現在の文字コード事情では。要点はそこにあり、紙とペンの時代は仮に去ってしまったとし、キーボードの文化が 世の中を覆うようになってしまったとして、なおこんな事では、通産型情報世界や商取引世界は維持できても、「思想や表現や研究や愛読や引用の文化」は、こ れでは、成り立たなくなる。
* コソボ難民を憂慮する緊急の声が、難民問題に熱心
とみえたペンの理事たちから、少しも聞こえてこない。難民問題は口舌の問題としては声を上げやすいが、現実問題になると方途に窮し、外務省の発言だけで対
応できず、ボランティアだけでもとても対応できない。
また是非を問う意味では、言論・情報機関としても機能しているユーゴの放送局攻撃のこと
も、緊急の話題として取り上げられていない。
来週火曜の日本ペンクラブ総会で、または理事会で、これが話題になるのかどうか、興味深
い。元気な発言者があればいいが。
* ペンの委員会構成についても、お祭り型「行事」委
員会的ならいいだろうが、「言論表現委員会」のような、時代のホットな問題に対する「二本ペンクラブとしての対応や意見表明」を迫られる大事なところで
は、「メンバー選定」が「委員長一任」では、まずいのではないかと私は思っている。他の理事からも、ぜひこういう人がと提案され、ペンの意向反映にある種
の「偏向」が生じないように配慮していいのではないか。
現在の猪瀬直樹委員長は、歴代委員長の中でも抜群に熱心で、その点は申し分ない人選だと
支持しているが、議論が猪瀬氏主導に過度に傾きやすく、日本ペンクラブの言論表現委員会というより「猪瀬委員会」になりがちで、それをそうでなくブレーキ
をかけたりハンドルを切ったりするのに相当なエネルギーが必要になっている。
猪瀬氏を委員長のままに強く支持するが、他方、氏に負けてしまわないメンバーも推薦でき
る道が必要ではないか。委員長の好みと一存でメンバーが決まって行く現在の規定は、「言論表現委員会」に関するかぎり、かなり一面化の「危険」をはらんで
いる。いつも完膚無きまで猪瀬氏に厳しい佐高信氏にぜひ加わって欲しいと思う。
* 四月二十六日 月
* 京都の人からメールが来た。
現地からの便りに拠れば、例えば「ルーマニアの貧困とジプシーへの蔑視はすさまじいもの
らしい。子供をはねても、わいろさえ払えばなんとかなるといった類の構造らしい。コソボも似たようなことがあったとみていいんじゃないか。ベルグラードに
は品位がある。コソボにはその裏返しがある。深刻さとはそういうことではないか。」
これは人性を剔る批評だ。アリス・ウォーカーの『カラーパープル』だけではない、人種差
別は凄まじく、今に始まったことでもない。
関東大震災では不幸な騒動を日本人は起こした。神戸の大震災では起こさなかった。日本で
はコソボを繰り返したくない。空爆に賛成しにくい。空爆反対の声をあげている在日のユーゴの人には、同時にコソボをはじめとした、他にも例の多い目に余る
自国同胞の非道をも咎める声が欲しいと思ってしまう。
* 四月二十七日 火
* 午後一時から任期最後のペンクラブ理事会があり、
総会で、新理事が承認され、議事を終えてのち新理事会に移行して、新会長以下の役員が選任されることになる。私も出席する。そのあと懇親会になる。
理事は退きたいと思い、もし新会長からまた推薦を受けたときは辞退しようと、三月の早め
から辞表を用意していた。理事の、全会員投票で決まる枠は三十人。他に会長推薦理事枠が十人分規定されていて、私は「梅原会長の推薦」で理事になった。私
が会員から投票されるわけはない、それほど分かり切ったことはない、ので、また仮に梅原さんに推薦されても理事は勘弁して貰い、委員でお役に立てればと
思っていた。
ところが、会員投票で当選したから引き受けよと突如として事務局から言い渡された。これ
には吃驚した。桶狭間で襲われて頸を挙げられたような感じで、もうごたごたとそこで辞退騒ぎは見苦しい。二千一年三月、六十五歳まで文壇の端にのっかって
行こうと腹をきめて、午後の東京會舘総会に出かけるのである。
そうなった以上はこれまでどおり、「退蔵」の日までよく努めたい。
この今書いた所感は、今夜帰宅してから更新する。形の上では、総会で承認されて決まるも
のだから。 午前十時半 記。
* 旧理事会、総会、新理事会、懇親会を終えてきた。
旧理事会でコソボ問題が取り上げられたが、最初、この問題に口をはさんで「声明」など出すのは「滑稽」だという加賀乙彦氏らの執行部意見など出て、とうて
い承伏できなかった。事情が客観的に把握できないからと言うが、セビリア問題には歴史的な経緯があり、人種浄化などというナチ的発想も、否定できない過酷
な人種差別弾圧になっている。一方NATOの空爆も地上戦へ拡大のおそれの十分ある、やはりペンとしては憂慮すべき問題である。この両方に対して、痛切に
遺憾の意を伝えることの何が「滑稽」なのか、理解に苦しむ。ミノシェヴィッチ大統領にも、NATOの司令官にも、きっぱり、今、ものを言わなくてどうなる
ものかと思い私は旧理事会ですでに発言した。
* 総会の会場で、小田実氏がまったく同趣旨の強い発言をし、総会決議として、また新理事
会の意向として、双方へ同時に強い抗議の意思表明をすることに決した。当然だと思う。「客観的」「科学的」に実状を把握していないからなどという議論は、
この際は、「洞察」をこととしておかしくないペンの文学者が、問題意識を抛つに足る根拠とはならない。コソボの事情はかなり明確に伝わってきているし、無
辜の市民が爆撃に死んでいるのを、「戦争をしているのだから当然」などと言う賢しらは、唾棄すべきものである。
* 電子メディア研究会としても報告と所信を述べた。 そして、もう二年間、座長を務める。
* 懇親会で、ひとつ出逢いがあった。
* 懇親会を抜け、ひさしぶりに「きよ田」へ行った。
窪山邦雄さんというホテル関連の大きな仕事をされている客と二人になり、この人が「京都」がお好きで話題が盛り上がった。楽しい酒になり寿司になった。嬉
しい出逢いであった。帰ったら、ちゃんとメールが届いていて、返事した。メールは、こういう場合に実にすばやい。
つぎに「ベレー」に寄った。ここでも往年の画家佐野繁次郎の甥に当たる私よりも年輩の客
があり、めずらかな思い出話を聴かせて貰った。
*
あいかわらずペンの懇親会というと、撮影会のように、あちこちでフラッシュがたかれ、うんざりする。きちんと選ばれていないので、と言いたくなるほど奇妙
に安っぽい人もいっぱい混じっている。信じられないタイコモチみたいな、タレントのような人もいる。芸術家の集団では、ない、と言うしかない。
* 四月二十八日 水
* 私のペン総会にふれたこのページのレポートを読ん でのことと思われるが、「京都の人」からまたメールが入った。内容豊かで、また理解を超えた事情もあるけれど、紹介するに足ると思われる。名前はわざと控 えて置くし、不要な固有名詞などは伏せたり削ったりしておく。
* 彼は電話してきたのです。めずらしくぼくが取れ
た。ルーマニアの学生に気にいられて、どうしても故国をみせたいと、彼を連れていったんだそうだ。たぶん車をつかったんだと思う。
そのルーマニア人が、「もう、このあたりで引っ返そう」とビビリ出した(彼の表現)とい
うんだから、ともかくそれほど危なかったんじゃないかな。くわしくきけなかったが、たぶんハイジャックの危険といったものでなく、治安警察のあらっぽさ、
なにをされるかわからんという不安、恐怖じゃないかと思う。チャウシェスキ大統領夫妻をああいう形で銃殺したあとの、権力の空白は、微視的領域で、こうい
うヒビワレを日常茶飯事にしていると容易に想像できる。しかも、このルーマニアの現政権は、
natoに追随しておこぼれを狙っているんだが、こういうことは何の違いもうまない。ここもまたコソボなんだ。
「すさまじい貧困や」と彼はいって来たが、これを視覚化するのは、衛生状態を思い浮かべ
るのが一番近道だろう。クソの山さ。
nato介入の誤算、というのはむしろたやすい。しかし、アメリカはともかく、英国の世
論が、ことここにいたっても変わりなく強硬で、ブレアに微塵のユラギも感じとれないのは、判断材料として過小評価できない。
ボスニア・ヘルツゴビナ当時にかえって、bbc記者の記録をみても、ミロシェビッチに対
する評価は実にカライ。なにか、ひどいことがあるにちがいない。同時にテレビ画面でみるかぎり、じつによい表情している司令官がいて、それがセルビアの古
い貴族の名称と同じだったりすると、ひっくるめて国際法廷にくくりだすような荒っぽい世論は、たいへんな反動を引き起こすのではないかと、正直いって、こ
わい。そのあたり、例の明石さんに聞きたかったのだが、バカなことになってしまった。せっかくアメリカに抵抗して、セルビアに慎重に接しようとした意味
を、本人はなんにもわかっていなかったということだ。これでは、アメリカのみならず、ヨーロッパにもみくびられてしまう。
ヨーロッパの中心的政権は軒並み左派政権だ。イタリーなどグラムシの流れをくむ旧共産党
だ。フランスはシャッポはドゴール派のシラクだが、下部構造をにぎっているのは社会党。これは日本のそれとはちがう。党首ノジョスパンは、ぼくのみるとこ
ろ深い人文的素養をもつ、もっとも魅力的かつ清廉な政治家だ。党内の異論派を含めて、彼が説得に立ち上がった姿は、まさにフランス革命の言論とはかくや、
と想わせる。言論に命がかかっているのだ。一つ狂えば断頭台行きという、あの伝統がね。
こういう連中が寄って、狂気の方向をつっぱしるとは、まず、ぼくには思えない。ミロシェ
ビッチは見事なまでに孤立させられている。ねがわくば、政治的決着がつくあかつきに、ミロシェビッチらの縛り首ということにならぬよう、その面でも、賢明
な妥協がはかられることを期待するのみだ。
ともかくセルビアを中核とするユーゴスラビア共和国は、スターリンの干渉を排して、西側
ともっとも親密な社会主義国であったことが忘れられてはならない。ということは、意外なほど双方間に人脈の交流があって、核心的情報を共有しているのでは
ないか。ベルグラーッドはスラブ的といっても、泥臭い方のそれではない。君が遺憾としていた放送施設攻撃も、その番組作成能力の高さからみて、まったくそ
の通りで、惜しかったな、という気持ちが残った。ユーゴはある意味で、非常に洗練された最後の社会主義国といえるかもしれない。そうだ、まさに、今世紀最
後の社会主義国の挽歌であるのかもしれない。
* これだけの言説のうしろに置くには、あまりに薄い ものだけれど、昨日総会で、口頭で報告した電子メディア研究会の所見を、いわば「途上の認識」として掲載しておく。
* 一 研究会としての年度報告は、概略、会場に配布 済み。
二 いろんな電子メディアが、現に私たちの日常に否
応なく浸潤していますが、とりわけいわゆる「キーボード・メディア」つまりワープロやパソコンの存在や問題は、好む・好まない、受け入れる・受け入れな
い、に関わらず、創作や執筆に、整理や編集出版に、圧倒的な勢いで組み込まれつつあることは、否定するわけに行きません。
それどころか、従来の、紙とペンと印刷製本で出来てきた本が、電子本にとって代わられて
行きかねない、具体的な動きも、現に進行中です。
大きな流れとして、「キーボード」執筆や出版が大きく割合を上げて行くことは、否定しき
れない。
しかし、そうなって行くは行くとして、では、我々の国語と、用い慣れ、読み慣れてきた文
字や記号で、豊かな表現が、制約無く、自在に、保証されているかとなると、少なくも現在のワープロやパソコンでは、まことに大きい不備を、背負わされてい
ると言い切れます。
改善の努力が地道に続けられていることも、事実です。が、それは現状「情報」処理的な、
あくまでマーケット・レリヴァンスつまり市場対応に優先に、概ね通産レベルでなされていまして、文芸・思想・学芸研究の「表現」「伝達」「再現」「保存」
に関しては、残念ながら、まだまだ理解も対応も、後回しにされかねない。文部省・文化庁ですらそうなのですが、文筆家は、あまりにも、この問題へ、出遅れ
て来ました。適切な 場での適切な主張が、少なかった遅かったと、言わざるを得ない。
しかもこの問題は、ひとり日本の中でだけ解決できるものではなく、世界中の言語や文字環
境の中で、器械に「実装備」可能なように、主張し、希望し、提案して行かねば済まない、いわば大きな「国際間交渉」事項でもあるわけです。
研究会は、否応なく現在、この問題に関わって勉強をつづけ、通産省や工業技術院と関連の
濃い、情報処理学会傘下の、「文字コード」専門委員会で討議を重ねています。
私たちの「書き表す」ものが、あたう限り豊かに、自在に、多方向にインターネット上で、
「文字化け」「欠字」「読みとり・書き込み不能」に類した、不当で不快な制限を受けずに済むように、そればかりでなく、地球上のどの地点からでも、国と人
種を問わず、必要とされた「日本語」「中国語」等の文献や記録や文学を、廣く活用しまた愛読して貰える「器械環境」が、技術的に可能になるようにと、根気
よく、発言して行こうとしています。
時代の前方を見通しつつ、器械におもねらず、また負かされてしまわずに、器械で書いて行
こうとする人の為には、より使いやすい地盤づくりを考えて行くのが、大事な、種まき行為であろうと思います。ご理解とご支援を願いたいと思います。
以上はあくまで「途上の認識」であると断らねばなり ません、確信をもつにはまだあまりに多くを弁えていないと思います。「いらいら」しないで、議論や意見交換の輪に取り込んで欲しいのです。
* 文字コード委員会でまた主催者側から暴言が出たよ うで、怒って、文芸家協会からの作家委員の一人が、委員の席を蹴ってやめた。もっともだとそのメールを読んだ。人と人が寄り合って議論し討議し意見を交換 しようという場で、人の意見を聴くことができず、少し方角のちがう意見が出ると「いらいらする」と嫌厭の情をあらわに出し、論議でなく感情的になる、そん な人が「長」という位置にいて、自分が最後にポンと「はんこ」をおせば、それが「日本の意見」として国際的な場に持ち出されるのだと言われると、びっくり してしまう。最初のころにメールの中にそういう発言を読んで以来、そのことが頭を離れなかった。「いらいら」などと言う感情は胸にしまい、誠心誠意の論議 が尽くせなくて、何の討論だろう。私に反論されて、幹事役も委員も辞めていった人も、一つの土俵の中で反論には反論をもってすればよかった。どうも、よく 分からない。
* 息子がまた引っ越した。夜も更け、荷物を置きに来
て荷物を運んでいった。テレビの仕事にどうやら追いまくられ息を喘がせている。疲労困憊している。事故と怪我の無いことを祈る。
アリス・ウォーカーの『朝の少女』が、清明の魅力だけでなく、おそるべき文明批評の凄み
をもった名作であることを、偶然、息子と私とで確かめ合えたのは嬉しかった。おそまきながら、私に本を贈ってくれた卒業生の堂免涼子さんに重ねて新たにお
礼を言う。
誰にでもこの作品をお勧めしたい。『星の王子様』はやや苦手にした私も、この小説には心
を惹かれ、また胸打たれた。
*「年譜」作業は昭和四十年代に入った。
昭和三十九年秋に、私は二冊の私家版を、百部、百五十部、作った。ここに至るまでに文字
通り血と汗と涙とを絞った。苦しくもあり満たされてもいて、しかも心身を引き裂かれるような事件も続いた。ほぼ一日一日を追って行くにつれて、偶然のよう
にも見えるけれど必然に背を押され押され、前へ出て行った日々だったとよく分かる。
* 四月二十九日 木
* 子どものころは天長節と言った。地久節と対であっ
たが、地久節は休日ではなかった。日本史の勉強は好きで得手であったから、古事記や日本書紀このかた皇室の歴史にも天皇制にも個々の天皇にも興味や関心や
知識はけっこう豊富であった。だが好きな天皇はなかった。後白河院に人間的興味をもった。後鳥羽・後醍醐には、「あかんやっちゃな」と思っていた。大きい
存在としては桓武天皇を感じていた。天智・弘文・天武・持統の四代にも興味を寄せて『秘色(ひそく)』という小説を書いた。孝謙・称徳という女帝にことよ
せて『みごもりの湖』を書き下ろした。明治大正昭和三代には親愛感を全く持たなかったが、現在の天皇陛下ご一家には親しみを持っているし、敬意すら感じて
いる。天皇が神で無くなられ人に成りきられたと嘆く人もあるが、私などは全く逆を感じて当然のことと思っている。
こんな私をでも「右翼」と感じている人と、ごくタマには出会うから、世間はおかしくも面
白い。右でも左でもなく真ん中とも意識したことはなく、私は私である。やがて『中世と中世人(一)』を復刊出版する。私が私であることが、その中世人論に
よく現れていると思う。
* あんまり「私」過ぎるのかも知れず、文字コード委 員会の棟上昭男会長に「仏の顔も三度」とやられてしまった。私の、ないし文筆家の立場での発言が、よほど気にくわないらしい。私だけでは無いらしく、作家 委員が憤然として一人辞めた。私も辞めたいが、好奇心があり辞めない。
* 記憶は頼りない。こうだと思いこんでいたことも、
日記や手帳の記録で丁寧に追って行くと、へぇ、そやったんかと思い直さねばならぬことが次から次へ出てくる。私は記録魔ではないが、医学書院の金原一郎社
長の流儀で、手帳を記録としてよく使っている。何十年も経ってくると手帳の積み重ねが大きな記憶の支えになる。人間関係もそこから浮かび帰ってきて、懐か
しくなったり寒くなったりする。「私」が面白い客体のように見えてくると、ずいぶん生き方に気の軽さが出てくる。
私はけっこうな汗かきで、体臭も濃い方だったが、この一年ほど前からなんだか薄れてき
た。その自覚があった。妻に「この頃ラクに生きているの」と聞かれ、ああそうかも知れない、なぜと反問したときに、汗があまり匂わなくなっている、気楽に
なれると体臭も薄れるそうよと言われた。ラクかどうかはとにかくとして、考えにもすることにも自分では軽みがと思える時がある、が、それでも「仏の顔」も
見せて貰えないほど人を追い込むことがあるらしい。ありそうだと自戒している。
* 昔だと連休は大喜びだったが、今は郵便がこないの
でつまらない。
* 平成十一年四月三十日 金
* 爽快な、まさに青陽の春であった。快晴の春四月
尽、明日からは五月。午過ぎて、思い立って、深大寺門前の「曼珠苑」で、詩と花の写真の個展を開いている中川肇さんを夫婦で尋ねていった。中川さんは、美
しい珍しい花花の写真を撮られる。それにみごとな詩を書き添えられる。胸にきゅっと迫るような佳い詩を書かれる。花もとびきり珍しく美しく、詩も的を射て
懐かしく美しいので、昔からのフアンであり、ペンクラブ会員にも推薦して入って貰った。この頃は俳句も始めたとか、俳句の方はまだ問題を感じたが、「なん
じゃもんじゃの花」も「ハンカチの木」もその他いっぱいの花の写真にも詩にも満たされてきた。
深大寺というお寺にも初めて参った。新緑がうるんでありとある視野を染めていた中に、想
像したより清楚に閑寂な綺麗な境内であった。「なんじゃもんじゃ」の大木が白い花をいっぱいつけ、「むくろじ」の実も梢に点々と残っていた。植物園までは
体力的に脚を伸ばせなかったのは惜しいが、深大寺の森と陽ざしとの交響に十分楽しみ且つ堪能した。残念だったのは「門前そば」のあらびき蕎麦が売り切れで
店じまいしているところへ行ったこと。仕方がないので蕎麦饅頭の蒸かしたのを買って帰った。
バスで三鷹駅に戻り、乗り換えて武蔵境駅前のフランス料理の「ヴァンクール」にゆき、申
し分のない料理でロゼの辛口のワインを飲んだ。春宵一刻値千金。その通りの、夕方から、夕暮れて、宵やみが落ちて行く、佳い刻限だった。バスでひばりヶ丘
へ戻り、保谷から自転車の二人乗りで帰った。以前は二人乗りなど平気の平左だったのに、この頃はすこしよろよろする。情けないことだが、それどころか交通
事故が本気で怖くなっている。
* 五月には俳優座と再度の能『道成寺』が予定されて いる。京都へも行く。仙台や松島へ、何十年ぶりかで行ってみたいなと思う。仙山線を山形から下ったことがある。逆に山形へ抜けて、また最上徳内の故郷も尋 ねてみたい、が。佳い五月でありたい。
* 京都の兄の北沢恒彦から、個人通信の「SURE」
の何号目かが届いた。甥や姪の父親に宛てたいい手紙が転載されていた。繰り返し読んだ。そうそう、木曜の明けの午前一時ごろに朝日テレビで『フリップ・フ
ラップ』とかいう、二人の女の子を主演させた奇妙な連続ドラマふうの番組が続いている。台本づくりに息子が参加している。各テレビ局にぶっ倒れそうなほど
追いまくられているようだ。テレビの現場で、「to be or not to
be?」それが難儀な問題らしい。息子の舞台公演で何度か主演した築山万有美が「はるちゃん」とかいう午の連続ドラマに顔を並べている。みんな懸命に生き
ている。
* 五月二日 日
* 加藤弘一という人から、「ほら貝」という自分のホームページに私のホームページを「リ
ンク」したいとかさせたいとか、事後承諾をメールで求めてきた。こういう話をこれまで二三度受けたが、恥ずかしながら「リンク」の、器械の上で意味すると
ころを私はよく認識していないので、返事ができない。どうすれば、が分からない。どうなる、は、結果として文芸家協会やペンクラブのホームページで見知っ
ている。自分では何も出来ない。「ほら貝」というのは耳にしたことがあるような、無いような。どっちにしても、私のホームページは、私自身の意識としても
「闇に言い置く」「私語」「独語」以上のなにものでもないので、闇の奥でどう反響しているかは知りようもなく、知ろうとも思わない。この頃は転送はして
も、カウントを確かめたりはしていない。
* 文字コード委員会のメンバーから、名指しで質問が
来たり啓蒙的な解説が届いたりするつど、できるだけ丁寧に反応するように努めている。いかに自分はなにも知らないかを確認するために、困惑したり迷惑した
りしながら、「途上の認識」や「途上の立場」を伝えるように努めている。それが、討議の場に出遅れてきた文学者の代表として、精一杯の誠実というものだろ
うと、壊れた器械のように、恥ずかしながらガアガアと同じ事ばかり言っている。
前へ前へ走っている人には困った飛び入りだろうが、分からないのに分かった振りをして迎
合していては何の役にも立たない。こんな私を、よってたかってどこか確かな岸へ運び上げることが出来ないようでは、癇癪を起こして「仏の顔も三度まで」な
んて変な威嚇をしているだけでは、「market
relevance」の要望にさえ応え得れば済むような「日本語感覚」では、所詮は文筆家・研究者の要望は活かせないだろう。
* 歌舞伎の世界にむちゃくちゃ詳しくて、大阪、名古
屋、東京と飛び回っては舞台や役者の評判を書き送ってくる女の読者がいる。逢ったことはないが、文通は久しい。あだなを付けて「囀雀てんじゃく」さん。
ぴったりの手紙が来る。情緒も纏綿としている。読者こそが私の身内である。
* 五月四日 火
* 雨。終日、校了前のゲラ読みに明け暮れた。明日に は送り返したい。責了にしてしまいたい。数え上げてみると、用事がどうしても十ほどある。その一つ一つが一人前の仕事で、ちょこちょことは片づかない。こ んなふうにして何十年も倦まずたゆまず捌いては片づけ片づけ新しい仕事をまた迎え入れてきた。勝手な理屈をつけては、闘いを挑むように生きていた。いま だって、多少そういう風にしているかもしれないが、ずいぶん身軽に気軽になっている。出来るだけ義務を負わないで生きている。約束に縛られないようにして いる。約束しても楽しむようにしている。
* 『卒業』という映画のミュージックが好きで、映画
はろくに観ないでビデオをセットしていた。校正しながらの音楽も、外国語だと邪魔にならない。音声の方も、日本語に吹き替えていないので邪魔にならなかっ
た。
浜木綿子の、川越が舞台の監察医ものサスペンスは、手をとめて観た。浜は舞台の演技と発
声とをお構いなくテレビに持ち込み、けっこう成功させる。勘定のいい芝居をみせる。観ていて聴いていて気分はわるくない。
昨日の夜であったか、市川準が最優秀監督賞の『東京夜情』とかいう映画を、はじめの三分
の一ほど観た。全部観たかったが、どうにもならなかった。桃井かおりの巧いのに舌を巻いた。映画は、日常感に徹して演出されていたが、あとで聞いたストー
リーからすれば、若い人にしては意外に若々しくもない筋を、さすがに若々しいセンスでボソボソと写真にしていたなという感想をもった。
* 五月五日 水 端午の節句
* 本の発送の用意に終日を費やした。阪神・巨人戦の
テレビ実況も聴いていた。
阪神が、点差こそ少ないが快勝し、巨人は連敗を重ねた。去年などからすれば真っ逆様だ。
野村監督の株が上がる一方だ。昔から野村に関心があった。長島や王とはちがう。球団テストで南海にやっと入団した、丹後峰山の少年だった。長島が立教で大
活躍したのも、王が甲子園で大活躍したのも知っている。モテモテの金の卵として巨人に入った。じつは巨人というチームを贔屓にしたことは一度もないが、長
島と王とには終始好意をもっていた。今でももっている。
長島と野村とどっちといった気持ちは、ない。強いて聞かれれば、はんなりした長島茂雄
の、とぼけて妙に可愛らしい愚かしさのようなところが、より親しめるかな。長島には天才美空ひばりと似た味わいがあり、彼にもしも何かあれば私の喪失感は
深いだろう、そういうことの無いように願う。
野村に向かうのは、そういう関心からではない。刻苦し大成した人への敬意がある。友達に
なりたいとは思わない。しかし、彼のような人生にそっと頭を下げ続けているだろうと、自覚している。長島は時代のシンボルだと思っている。ベンチで苦渋を
なめている顔もいい、笑顔もいい。金田正一という投手にも落合というバッターにも敬意を払うに十分な大力量があった。今でも敬意を感じる。しかし友達にな
りたい人ではなかった。今はイチローに驚嘆し、野茂に声援している。すばらしい。大きな選手が巨人軍に転じて入団すると、急に興味が失せてしまう。青田、
金田、別所、落合、張本。
ともあれ今夜は野村の阪神が勝ち、長島の巨人が負けた。脳裡に蘇るかずかずの名場面があ
る。藤村富美男がホームへ驀進して巨人のキャッチャーをぶっとばした日の、テレビの前の興奮は凄かった。電器屋だったので、テレビをつけると狭い間口の店
の前に幾重にも人だかりがした。
阪神というチームの名前を、戦後すぐに先ず覚えた。私は京都にいた。新制中学に上がるこ
ろだ。若林忠志というチェンジ・オブ・ペースの名ピッチャー監督が率いていた。藤村、土井垣、呉、金田、のちに別当、吉田。だが、私はそれほどの野球少年
ではなかった。贔屓というチームはなかった。いい選手で弱いチームにいるのが贔屓だった。
巨人の川上、青田よりも、どこにいたのだったか大下弘という天才的なホームラン打者が大
好きだった。監督では南海の山本のちに鶴岡一人や、巨人を追い出されて、西鉄を勝たせ大洋を勝たせた三原修が好きだった。
* 根のつまる仕事に追われているので、バグワン以外 にはこの数日、アガサ・クリステイーを読み返しているが、とても二度読めるものではない。ガードナーのペリーメースンものなど、とても二度読めない。映画 でも、ビデオで何度でも何度でも観られるものもあり、一度目は面白くても二度とは観られぬものもある。一度読んで二度読めないのが通俗読み物、一度目は難 渋しながら二度目を読まずにいられず、三度も四度も読まされてきた名作をいくつもいくつも持っている。そういう作品にもっともっと出逢いたいし、そういう 作品を書きたい。
* 我にも人にも頑張ろうと言いつづけてきたが、この
頃、先ず真っ先に「頑張る」のはよそうと思うようになっている。もう疾走はできない。杖の必要はないが、ゆっくり歩きながらの日々を送り迎えたい。子ども
のころに『歩きながら考える』と教えた先覚がいた。中学生はそれをまどろっこしく感じた。
このところ私の胸に場を占めているのは、このあいだ京の下鴨、糺の森の河合神社境内で観
てきた、鴨長明のまさしく三メートル四方の「方丈」の家だ。どんなイメージよりも強烈に静寂に胸の深くで私を呼んでいる。ぴゅーっと、あの中へ舞い込みた
い。軒端のひともと桜がほんとうに美しかった。
* 五月七日 金
* 父はラジオ屋としては草分けの一人だった。
JOBKの技術検定試験第一回の免状をひっさげて開業した。それまでは装身具の職人だった。珊瑚や翡翠や金銀を細工していた。いろんな材料がはだかで遺っ
ている。そんな父がラジオの技術で喰って行ける時代だと観たのは、たいしたものであった。少なくもテレビが出てくるまでは成功した。
父は売るよりも直すのが仕事だと思っていた。ラジオなら唸りながらでも直したが、テレビ
になるとお手上げになり、さりとて売りまくる商売は断然へたであった。自然衰微した。
父は私にハイテクの技術を覚えて欲しかったに違いない。ところが私は美学芸術学を学び、
裏千家茶の湯の教授になり、はては京都を出て東京で作家になった。玉木正之の『祇園遁走曲』の主人公はこの私に違いないと思ってテレビを観ていた京都の知
人が、山ほどいたぐらいで、私はまさに遁走したのだった、京都から。祇園から。
六十余年の生涯で私が一番なさけなく辛くみじめであったのは、大学三年か四年の夏休み
に、父の厳命で、大阪門真のナショナル工場にテレビ技術の講習を受けにやられた二月足らずであった。なにひとつ私は覚えられなかった。気もなかった。午弁
当の出る午前と午後との七時間が地獄の退屈であった。とうとうサボッて、京橋や大阪市内まで入り込み夕方まで時間を過ごしたりしたが、遊ぶはおろか飲み食
いの小遣いもなかった。あれには参った。好きな本を読むか歩きまわるかであるが、真夏の暑さにも辟易した。成績の付けようもなかったのだろう、父は私の跡
継ぎをあれで根から断念したのに違いない。
父は考え違いをしていたとも言える。テレビを技術的にいじくるよりも、電化製品をどう多
く売るかの講習を受けさせた方が時代に向いていた。近隣で成功した電器屋はみな売りに売りまくって、直しは会社にさせた。賢明な対処であった。器械は自力
で直せるのがホンマモノと思っていたのだ、父は最後まで。それはそれで、えらいものだと思っている。
* そんな私が、文字コード委員会で、技術的にコン
ピュータに詳しいらしい大勢の理系情報系委員に混じって、まるで彼らには世迷い言のようなものを並べる運命にいま在るのは、これは往事に父を嘆かせた天罰
に類している。
万やむをえず、文芸家協会の電子メディア対応委員会との意見交換や意思疏通をはかりたい
と願ったところ、その前に、専門家の講話を一度しかるべき機材も揃った場所で聴きましょうとなった。東大坂村教授のお弟子筋だとか、どういう話が聴けるの
か「楽しみ」と言うには、流石に気も張り肩も凝るであろうが、幸い我々ペンの仲間も何人も参加したいとのことで、これはもうサボレない。
* 二十代後半から三十代前半の年譜を書いているが、
日記をみると盛んな読書の跡が見えるのは当然として、ずいぶん中国古典を意識してたくさん読んでいることが分かる。仏教の経典にも触れている。日々の生活
は無頼で、多忙で、創作への意欲に燃えていたが、なにを思ってああいうものを読もうと努めていたのだろう。そばに在ったからと言えばそれまでだが。
あの頃の読書は欲望に溢れていた。読めば読んだだけが役に立つようにと願っていた。役に
立ったし、役に立てた。だが、もう、ああいう風には本を読むまいし読んでも仕方がない。読んでいることが楽しくて嬉しくて堪らないように読んでいる、今で
は。これで何かが書けるぞなどとは考えない。そんな風にして書きたいとは思わない。書きたいから書き、読みたいから読む。努めるというのは私の大好きな十
八番だったが、努めたり頑張ったりは、しないようにしようと、し始めた。
* 新潟から高校生の友人がメールを初めて送ってきて
くれた。楽しみがまた増えた。富士通の若い友人から、私のいわゆる「一人でしか立てない島に二人で立つ」という意味が分かったとメールがきた。カラダは疲
労でボロボロだけれど気力は在りますとも。「文質彬々」と、頭上の額の字を長谷川泉は私に贈ってくれた。ボロボロのからだでは気力は保ちにくいよと返事し
た。ガンバレとは言わなかった。
名古屋の三井化学に勤めた若い友人が電話をくれて、懐かしそうに、なかなか切ろうとしな
かった。今日鹿児島の開聞岳から便りをくれた。
千葉県警に就職した若い友人は、集中した講習を制服で受けているが、土日は外出も外泊も
出来るので秦さんに逢いたいと達筆の手紙をくれた。
その気になれば、心嬉しいこともたくさんあるのだ。
* 五月九日 日
* 忙しさも忙しさだが、原稿の締切もあれば、例えば
美術展の期限も来る。今日はそういう催しの多い日だったが、根津美術館の尾形光琳「燕子花図屏風」は、例年観ていてもなお一年一度の機会をのがしたくな
かった。今日が展示の期限だった。えいと腹を決めて妻と飛びだした。
行った甲斐はあった。今年はひとしお力強く、美しく、揺るぎなく生き生きと燕子花の紫と
緑とが、金地のうえで光り輝いていた。立ち去りがたく、二人とも熱心に見入った。伊勢物語に取材した物語絵が、光琳だけでなく酒井抱一のもみな温和にまた
大胆に、構図の妙と優美な境地をみせていたが、やはりそれらとは次元を異にした光琳孤心に燃え立つ芸術的陽気が、かきつばたの屏風には決然と表現されてい
た。
箱根にある「紅白梅図屏風」とこの「燕子花図屏風」の二点だけしか光琳に作品が無くて
も、彼は超弩級の天才を誇るに足りる。京都養源院の「松図襖絵」も加えたい。この三点を胸に納めてイメージするつど、私はこの日本の国を祝福し、心から愛
したくなる。
常設展の方で珠光所持と伝える南宋の磁器茶碗銘「遅桜」にも感銘を覚えた。つくろいもあ
り罅も入り茶渋にもおそらく汚れているのであろう、一見こぎたない夏茶碗ふうの浅いこぶりの茶碗であるが、まぎれもない唐物であり秘蔵自愛の当時逸品で
あったろう。こういうひねた唐物から和ものの侘びた茶碗へ趣味が動いていった、それが実感できて嬉しかった。
* 館の近くの「フィガロ」で一休みし、軽食して、疲
労した妻をいたわりながら帰宅した。仕事が待っていた。それで、文字コード委員会からの名指しのメールに返事するのも失敬した。
新潟から若々しいメールで高校生クンが鴎外を論じてきたのも、さもあろう、同感などと思
いつつ、読むだけで場所を替えた。潤一郎についても言及厳しく、うかうかしていられない。文字コード委員会の手に負えない話題に、したり顔をして応えても
ならないが、高校生の関心にはできるだけ率直に応えたいものだ。
* 岐阜からも新しいメールが舞い込んでいた。これは
待っていた人のメールで喜ばしい。心に重く沈み込むいい詩を書く人である。
能を舞う人からもメールが来ている。松風を舞い、やがて仕舞いで藤戸を舞うという。「藤
戸」は平家物語でも好きでなく、能も歌舞伎でももひとつ好まないと返事したが、舞
う人とは逢いたいと思っている。
平安末の、後白河院のそばにいた女流歌人に深い関心を寄せいいエッセイをいつも読ませて
くれる歌人も、いいメールをくれる。
近代文学に関心深く、大学の中で編集感覚の冴えを発揮しいるような人もメールをくれる。
そして、ひとり遙かにヨーロッパを旅し、絵を描いてきたり静かに燃え立つ思いを持ち帰っ
てくる関西の人も、いつもしみじみと佳いメールをくれる。
私のアドレスブックはもうとうの昔に二百五十人を越えている。不徳ナレドモ孤デハナシ。
有り難いことである。
* 今、願わしいのは、娘の朝日子が、いまこそ
「個と個」との対話のために電子メールをよこさぬかという願い。娘とも孫二人とも、どこにいるのやら、もう何年も何年も顔も見ない。声も聞こえない。上の
やす香は中学生になったろう。下のみゆ希は小学校の何年生だか、まだ赤ちゃんの時、父親が筑波の技官だった未だ青山の国際政経に就職するより以前に、
ただ一度筑波の宿舎まで忍んで行き、かろうじて抱いてやって以来、触れあわない。娘のいわば遺産の「バグワン・シュリ・ラジニーシ」をもう二年、毎夜読み
つづけ、元気でいて欲しいと、キーボードに触れるつど祈っている。ときどき、もう此の世にはいないのだと想うこともある。
* 五月十一日 火
* 九大名誉教授の今井源衛さんから『大和物語評釈』
の上巻を頂戴した。こういう、研究成果そのものの本を貰うと真実嬉しい。東大名誉教授の久保田淳さんから少し前に『六百番歌合』を頂戴した。これまた貴重
な研究成果。ともに二昔も三昔も以前に古本屋で昔の背丈の高かった岩波文庫の綴じも綻びかけた破れ本を一冊三十円二十円で買って読み、いろいろお世話に
なった古典である。これを完備した最新の注や語釈や解説を添えて読めるのは、何とも贅沢に喜ばしい。書斎があまりに窮屈になっているので、こういう本は枕
元に置いて、少しずつ読む。いい滋養であり、つい夜更かしがひときわ過ぎる。それでも、べつに明日はどこへ出る必要も約束も無いなら寝てしまう必要もない
ので、このごろは読みたいだけ何冊でも順に読む。大和物語でも歌合わせでも、どこから読んでも十二分に楽しめる。
前に早稲田の小林保治さんに『唐物語』を、お茶の水の三木紀人さんから『今物語』を貰っ
たが、これらは説話で、やはりどの頁を読んでも面白い。古典には古典のとほうもない懐かしさがあり、なまじに作り立てた昨今の小説に時間をとられるより
も、心豊かに読書が楽しめる。
* 東工大の卒業生で、最大手の建設企業に悠々と就職
していった、気の優しい人が、湖の本に気前よく送金して、これから続けて配本して欲しいと言ってきてくれた。笑顔が目に見えるようで懐かしい。嬉しい。教
室ではただ一年間のおつきあいであったが教授室には友達といっしょに、稀に一人でも訪れて、いつも本当に気持ちのいい人だった。息子の芝居にも来てくれて
いたし、音楽仲間の結婚式には私も一緒に招かれていた。
私の本はけっして読みやすくなく、東工大の人にはやや向きがわるいと私は在籍中にもあま
り勧めなかったが、卒業し社会人になって、いつのまにか何人も何人もが湖の本を読んでいてくれている。冥利に尽きて感謝している。
* 雑誌「ミマン」の三度目の出題に解答が出そろい、 次の原稿も送った。
厠なるスリッパうるわしく整えり明治の( )いでたる後に
公園で撃たれし蛇の無( )味さよ
* 編集担当者が、一読して「易し過ぎませんか」と心 配した出題だが、おそらくはと予期したとおり、両方とも原作どおり虫食いに漢字一字を入れたのは、なんと、たったの一人であった。詩歌の表現はそんなに甘 くない。
* 最近の文字コード委員会のメール討論で、この私と
も関係して出てきた話題がある。同じく文字とはいえども、「論述対象になる文字」と「論述手段となる文字」があり、その間になんらかの線引きが必要なので
はないかと役員の一角から問題提起されたのだ。
前者を稀にしか使わない難しい字、後者を日常の意志疎通に普通に使う字というぐらいに意
識されての問いかけと読めた。私は、「途上の思案」として、以下のように答えた。
* メール拝見し、ご返事します。倉卒の思案ゆえ、ま
た教えて下さい。知らないこと、分かっていないことは、そう書きました。笑わないで下さい。
両者の違いは、文章表現をする上での使い方の問題です。必ずしも両者の境界は明確
に定めることはできないと思いますし、「論述手段としての文字」であっても、その 文字自身について論述することは可能だと思いますから、「論述手段と
しての文字」 はすべて潜在的には「論述対象としての文字」にもなりえます。
同感です。
「論述対象にしかなり得ない文字」に対し、「論述手 段として使われる文字」と同じ重 み付けを行うことが適当でしょうかと問いかけているのです。
やや逸れた方角から申しますと、おっしゃる「論述対
象にしかなり得ない文字」「論述手段として使われる文字」には、厳密ではありませんが、体言と用言とぐらいの差がありましょうか。文章家にも概して体言型
の人と、用言型の人がいます。広げて言い直せば、堅苦しく文体を作る人と平易に語ろうとする人です。「薄暮」「黄昏」型と「夕方」「夕暮」型と言ってもい
いでしょうか。後の方が好きだと公言しつつ、必要に応じて前の方をどんどん使う作家もいます。それも「表現」の必然に応じて咄嗟に、または熟考して、選択
するのであり、あらかじめ文字群に重み付けの仕分けをして置いてから、そうするのでは有りません。
例が文字との関連で適切かどうか、文字は意義・概念に付いてまわるものなので類推して戴
きたいのですが、「観念」「無心」と「観念する」「無心する」では、相当な用意の差がありますね。むろん使い分けて行きます。この場合ともによく使われて
いる文字ですから、例としては苦しいのですが、押し広げて言えばこういう場面もあり、論述対象「にしかなり得ない」文字がはなから限定されて有るというの
は、自在な「表現」を大切に考える立場からは、大事な表現手段が、やや機械的に最初から排除されてしまう不満感が残ります。言い換えれば、千田さんの二分
法を書き直せば、「概して論述対象になりやすい文字」 より体言風 「論述手段に多用される文字」 より用言風 ぐらいが適切かと。比喩として言えば、
名詞ばかりで文章は書きづらく、動詞や形容詞や副詞ばかりでもものごとは伝えにくい。
つまり誰が何の意図や必要で「重み付け」をするのか、いわば主体の立場差についての前提
が指摘されねばならず、例えば「market
relevance」だけを考慮する立場でなら「論述対象にしかなり得ない文字」も優にありえましょう。それは、しかし、実に狭い範囲内で文字を限定利用
するわけで、それで十分だ足りるのだというインダストリアルな世間も存在しているのは分かりますが、言語や文字は、もっと広やかないわば「民主主義」の前
に在り得ていいものと、一文筆家としては希望せざるを得ないのです。少なくも私から希望すれば、文字には、「概して論述対象になりやすい文字」より体言風
と「論述手段に多用される文字」より用言風とが在るけれど、「どちらも、使いたい時に、使いたいように、使いたい」のです。読みたいのです。誰との間でも
再現したいのです。(誤字なみの異形字・同類字をこれに含めていないのは従来の発言でご承知下さい。)
こういうふうに言うと、原則論、観念論と言われやすい様子がメール往来に見えますが、そ
れにも立場差があるでしょう。私は、「market
relevance」主導優先に無条件に賛意を表すべく委員会に参加したのではなく、文筆家としての意見、私的意見でもありまた仲間の意見、を聴いていた
だこうと願っているのですから。ご理解下さい。
私は「論述手段としての文字」は、コミュニケーションのため、多くの方が共通の
前提として事前に持つことが期待されている文字であり、「論述対象としての文字」 は、コミュニケーションよる知識移転の結果、共有されるべき情報
だと思います。
明快によく分かります。上に話しました私の論述と矛 盾するところは無いように思います。
「論述対象としての文字」については、どのような文
脈で出てくるかに応じて、移転
すべき情報の内容が異なるので、前以てコードを付与しておくことが有効かどうか
わからないということです。
誰のために何の意図で「有効」かどうかが問題であ り、例えば「market relevance」だけを考慮する立場でなら「分からない」度合いがつよく、表現の自由と自在をいつも得ていたい立場からも「わかる」などとは言いませ んが、「分からない」からという程度の理由で差別区別分別ないし排除する理由も無かろうと思います。つまり全く同じ理由で、「どのような文脈で出てくるか に応じて、移転すべき情報の内容が異なるので、前以てコードを付与し、」表現上の自在を損なわぬように、「前以てコードを付与しておくことが有効」という 論理も可能なのではありませんか。
特に、今まで、お聞きした事例に出てくる「論述対
象としての文字」では、文字の
字形を伝えることは必須のようですが、これらにコードが付与されて共通の知識に
なっていることまでは要望されていないと思います。この私の認識に誤りがないか
どうかを知りたいのです。
ここでは、恥ずかしいことですが、「文字の字形を伝
えることは必須」と「これらにコードが付与」というのの器械の上での違いを、私はたぶん正確に承知していないように思います。これは教わりたい。その上で
申すことなのでその点お含み下さい。
井上靖の作品『鬼の話』はたまたま仕事で触れていた例で、太古上古の稀有のものでなく、
まさしく「現代」の平易に「論述」された文学の好例なので取り上げただけです。その他には例はまだあげていなかったと思います、個人的に小池さんにうか
がった程度で。『鬼の話』は極く象徴的に分かりいい例として口にしてきました。私が関心を持っているのは、例えば古事記や六国史や中国文献で、また仏典
で、その当時には「論述手段」に部類される文字で書かれ語られているものにも、その中の文字がたとえ三字でも五字でももし現在器械の上で(平等の条件では
誰も)使えなく読めなく書けなくなったら、辛いなということです。井上さんの鬼の名や星の名はおっしゃるとおりあまりにも珍しい文字に相違ないが、使われ
てしまった以上は、それをも「論述手段」にし、例えば井上靖論をものする人の登場する可能性が出たことを意味しますし、そんなことは無用だと遮ることはゆ
るされるでしょうか。もうそこから思索を始めたり夢想したり何かを表現している別の詩人が現れているかも知れない。きっと、いる。
まして例えば古事記のような日本書紀のような万葉集のような、日本を理解する基本の本の
中の或る文字を、「これらにコードが付与されて共通の知識になっていることまでは要望されていない」と、果たして誰が判定できるでしょう。この場合もま
た、たぶん「market relevance」だけを考慮する立場でなら、たぶんそれが出来ると思います。
しかしコンピュータは、近未来、いや現在もはやインフラとして社会の基盤に広範囲に位置
を占め威力を発揮している。そんな時節に、「market
relevance」だけを考慮する立場で、人間の共有財である文字のなかのある種の文字を、「分からないまま」限定したり排除したりするのは、歴史に対
して聡明で謙虚な姿勢ではないような気がしてなりません。
「market
relevance」だけを考慮する立場が世に在るのでなく、例えば私の友人知人仲間には、歴史・宗教・思想・文学・詩歌等々の研究者がいますし、彼らの
日々の仕事には、現在ただ今の一般市民の関心や文字生活からかなり離れた特別のものが多いでしょう。さりとて彼らは、すでに、ないし、やがては器械を最も
「有効な」手段としながら研究し、論文を書いたり読んだりしなければなりませんが、そういう立場の器械活用者が、「market
relevance」だけを考慮する立場の前に、この時点で、置き去りにされていいものかどうかと深く危惧するのです。
「これらにコードが付与されて共通の知識になっていることまでは要望されていない」と無
制限に、無限定に断定なさるのは、立場差を見過ごしていて、危険ではないかと思います。どちらが多数か少数かは別にして、文字についてはより広い基盤から
の有効性を考慮するのが本来であり、「制限」思想からは脱却の好機ではないかと思います。器械の能力は優にそれに応えうるとの証言もあるのですから、機械
技術にうとい私たちは「それはお任せします、希望はこうです」と繰り返し申し上げるのが一つの立場であろうと思っています。それを我が儘のように捉えるの
は、「market
relevance」だけを考慮する立場を我が儘ときめつけるのと同じほど間違っているでしょう。立場の上のすりあわせの最中なんだと思っていますから。
「稀少用例漢字」や「稀少用例和記号」について、前
もってどこまでの知識を仮定し
ておくべきとお考えでしょうか?
広い世の中には、自分のまだ知らなかったことが山ほ
ど在るものだと思える人には、「知識を仮定」的に前提しなければならないとは思えませんが。ある人にはあまりにも自明な知識も、ある人にはチンプンカンプ
ンのあることは、この委員会でも分かります。かつて存在した基本的な文字は、いつまたどう使われて目の前に現れるかは予測の付かない、周期的な彗星のよう
なものです。井上さんが珍奇な星や鬼の名を蘇らせて呉れたのは、一
つの文化的恩恵かも知れませんから、その前では「よかった」と思うだけです、それでいいこ
とではないでしょうか。謡曲や和音曲の符号記号など不要と言える人が在れば、それは只知らないからと言うしかない。自分には無用だがある人には絶対に必要
という文字や記号の実在の前に謙虚でいたいと願うばかりです。
これらについては、文字コードが付与されていなく
ても字形の情報が伝達できれば
十分ではないのでしょうか?
これはご免なさい、先に触れましたように、どういう
テクニックか理解できていません。
ただ、私のこれまで繰り返した希望をまた繰り返しますと、
要するに、「文字化け」に類するともいえる「障害」 が、漢字やかなや日本の記号を用いての発信や受信に起きないようにしたい、世界中のどの場所でも、どの人と人とでも、どの器械同士でも。「文字化け」に類 する「障害」などが姑息な妥協ゆえに起きずに済み、豊かな日本語で自在に書ける、基本的にも学術的にも大事な漢字文献が大丈夫電子的にこれは読めますこれ も書けます、ということになれば、文筆家・研究者・読者は有り難いわけです。願いたいのはそれです。技術のことは任せます。
という次第です。実を言うと、こんな「分かり切った筈
のこと」しか言えないほど、器械の中の構造や技術のことには触れられないのです。しかしこの「分かり切った筈のこと」が危なそうなので、つい繰り返す。三
回目と五回目の委員会に二度出ただけで、以前は何も特別に勉強していなかった私の限界と承知していますが、「要点」は要点なんですね。
私は、個人的にも、豊かな日本語が自由自在に扱えるコンピュータ環境を手にいれ
たいと思っていますが、一寸見ただけでは違いのわからないような文字を正確に使
い分けるよう強制されるのは願い下げです。
全く同感です。私の戸籍の誤字同然の姓字など要りま せん、「秦」なら「秦」で十分です。千寿も万寿も無用です。「壽」と「寿」があれば結構です。「恒」と「恆」は併存していいと思っています。一正一略を軸 に、略字というか重要で深く馴染んだ同類・異形字に慎重な考慮を払っておおよそは済むかと期待しているぐらいです。幸いなことに、辞典はやみくもに入って しまっていますが、研究者の訓詁の点検をえて活字化された文献は一つの理解を示しています。辞典で文字をいじらずに、文献により具体的にコード化文字を当 たった方が急がばまわれであったろうと思っています。はるかに安心感も大きいと。根拠はありませんが、その式でやれれば、思いの外に文字数は多くなくて済 むのではないかと勘が働きます。
情報の受信側としては、できる限り発信者の意図を
読み取りたいとは思いますが、
「稀少用例漢字」のコードを送り付けられて、これを理解できないのは、お前(の器
械)が悪いのだと居直られてはかないません。
これは千田さん個人の感懐だろうと思いますから、分
からなくはありません。「お前(の器械)が悪いのだと居直られて」は「かないません」のは同じですが、そういう「障害」の出ない器械条件・器械環境があれ
ば有り難く、その辺のことは分かりませんので教わりたいことの一つです。
コンピュータで文字を自由に扱うということと、これら「稀少用例漢字」にコード付
与を行うこととは違います。
これは理解していません。文字にコードを付与しなく ても、どんな文字でも私のパソコン上で「自由に扱」えるとおっしゃっているのでしょうか。それは、思っていませんでした。知らなかった。そんなことが自在 に可能なら、べつに何を言うこともないのです、が、本当ですか。先ほどから断っているように、この辺のことは教わらないと私には分かりません。
文章を生業としている方にこそ、発信側の過度な要 求が、受信側での過重な負担強要 につながることもあるということをご理解頂いた上で、
漱石の小説でも難しいという人は、また外国語では 「過重な負担」に思う人は、つまり読まなくて済むわけです。テレビのチャンネルを切るのと同じです。「過重な負担」か「至福の受信」かは、人により異なる ので、「文章を生業としている」者が「受信」者に「過重な負担」を強いているなどと言われると困惑します。そういうことになると、弘法大師にもお釈迦様に も孔子老子にもそれを言わねばならなくなります。そういう問題では無いんじゃないでしょうか。人間の能力や関心を一様平板に理解してはならないし、器械は いろんな人々が使っているし使おうとしている以上、発信者も受信者も、一般市民も専門家も、たちどころに立場を替えねばならぬ存在であると把握すべきで しょう。無理難題を文筆家は強いているなどと思わないで下さい。
自由に日本語を扱うということはどのようなことが できることかという課題を一緒に 検討して行きたいのです。
全く同感です。とくに「自由に」という点に望みを持 ちたいものです。出来れば、例えば「market relevance」だけを考慮する立場を強いられないで、一緒に「言葉と文字とコード」のことを検討して行きたいのです。
ざっとお答えしました。他に急用があり仔細に読み直 さずに送り出します。変な表記や失礼があればお許し下さい。べつに反論のための反論などをしたつもりは少しも有りません。間違っていたら、教えて下さい。
* 私のこのメールに関連して、また棟上会長から指摘 があり、それにも下記のように答えておいた。
* ちょっと気になった二点でのみ、棟上さんにお答え しておきます。
1.「Market Relevance」に関して
「market
relevance」だけを考慮する立場" という表現が、
繰り返し何回も登場しますが,それがどういう「立場」を
指しておられるのか今一つ判然としません.
議論の際は,皆さんできるだけその意味について
合意の取
れた用語を使うようにしていただきたいと思います.
英語からの翻訳ないし意訳の意味範囲をはみ出たよう な、別段の「合意の取れた用語」とは思っていませんが。棟上さんが認められる通り、まさに「きちんとした定義が与えられているわけではありません」まま、 それでも盛んに皆さんが口にされてきたので、あまり通常こんな言葉を意識もせず口にもしない「立場」の者としては、「判然としない」まま不安感も不審感も もってこの言葉に対応してきたのです。「だけ」は論旨の強調と受け取って下さい。いずれにせよ、これは「合意の取れた用語」ともそうで無いとも言える、し かし「market relevance」だけを考慮する立場」でもし優先的優位にないし圧倒的優位に議論が進むだけになっては、「困る」という現在の認識を述べたもので、趣 旨は明白です。
2.「論述対象」と「論述手段」に関して
千田さんの意識は,もっと普段利用されるのか,
されない
のかのレベルの話をしておられるのだと解釈しています.
ですから比喩としては,
論述手段: 英文アルファベット,JIS第1/
第2/第3水準,...
論述対象: 甲骨文字,ヒエログリフ,西夏文字,サンスクリット文字,...
灰色領域: 上記2領域の中間領域のすべて.
千田さんの分類上のお立場は「学問的」で、棟上さん
の言われるレベルの世間話ではなかったと理解し反応したものです。「灰色領域」のことは今は脇に置きますが、棟上さんの「手段」「対象」のご理解なら、千
田さんはわざわざこんな難しい言葉を改めてもちだされなかったでしょう、最初から棟上さんと同じように言われたのではないか。
「論述対象になる漢字」「論述手段になる漢字」と、ことを「漢字」の場合に限定して議論
すれば、それはそんなふうには容易に分別できないのではと答えたのです。
「無む」「空くう」「徳」「美」「善」「気」「天」 ないし「家」「道」「花」「風」など、すべて「論述対象」となる極めて意味深長の漢字であると同時に、そのままでごく普段に「論述手段」に用いている漢字 です。文字がつかわれる現場では、こういう転移はないし転位はしばしば起き、概念として学術的には分けられるけれど、実地に於いて「空」は「無」は「道」 はどっちとは決められない。どっちにも成りうる。「論述対象の漢字」だから省くとか「論述手段の漢字」だから採るとかいう議論は、適切でもなく有効でも無 いのではというふうに答えたのです。
論述対象: 甲骨文字,ヒエログリフ,西夏文字, サンスクリット
などというのは千田さんの分類の前提を逸れている気が します。「漢字」の線引きが話題になっていた際の問題提起であったことを想起していただきたい。
日本人には、漢字は、たいてい「論述対象」たりうる 存在として、興味と関心を寄せつつ国民的な所有化を進めていったものです。漢字からひらがなやカタカナを獲得していった過程にすらそれが言えます。かつて 「学鐙」に三年間連載し本にした私の『一文字日本史』も、文字通り「漢字三十六字」を個々に「論述対象」にした実例ですが、それらの漢字を、記述の中では 自由に普通に「論述手段」に使っていたことも、当然です。「海水は切り分けられない」ように、難しい漢字易しい漢字はありえても、「漢字」としての質に、 組成に、甲乙はつけられないのです。どんなに難しくても、どんなに易しくても、必要だった漢字は漢字なのです。古代のトウテツ文を帯した青銅器には恐ろし く難儀な漢字で名が付いていて、根津美術館でも出光美術館でも東博の東洋館でも、いちいち漢字で観客に示しています。中国人や日本人には、大きな文化遺産 であり、それらの名を示す漢字を、「論述対象」だから、「難しい」からと、排除して済むものかどうか。それを「済む」と言い切れるのかも知れぬ立場とし て、私が強烈にその偏狭と独善を危惧しているのが、即ち、「market relevance」「だけ」を考慮した前提や立場なのだと、こう、ご理解下さい。
* 委員会に派遣されている立場でいえば、如才なくし たり顔して首肯してばかりいられない。よく納得のゆくことに頷くのはやぶさかでないが、まだよく分かりかねているのに「分かりました」は言えない。言って はならない。それに、どう逆立ちしても力及ばぬ範囲が厳然としてある。相手はハイテクノロジイであり、私が、知ったかぶりをして首を縦にばかり振ってなど いたら愚かしいことになる。しかし、私にでも言える話題も有るし、どっちにしても、およその原則的な希望や注文は、たとえ壊れた器械のようであっても呆れ るほど根気よく繰り返して伝えて置かねばならない。
* 五月十二日 水
* 今日もまた心嬉しい初めてのメールが届いた。我が 胸の思わず高鳴るのを聴いた。小説家の場合には、いや私の場合にはと限定して置くが、さながら小説のような日々というのが、確かに何度か在ったし、また有 り得た。
* ひときわ懐かしく思い出されるのは、会社勤めに毎
朝電車に乗っていた私は、ある女性とよく同車するのに気がつき、向こうでも気がついていたものか、ふと口をきくようになった。ここまではありふれている
が、私は「その人」の名も勤め先も経歴も一切尋ねなかった。もともと私は「尋ねる」のは好きでない。その一方でたまたま私は作家以前の私家版の二冊めを出
して間がなかったので、それを見てもらった。読まれれば私のことはかなりよく分かる。妻子があり、本の表紙絵は妻が描いていた。やがて「その人」から会社
に電話が入るようになり、電車でも何度となく逢い、約束して池袋の喫茶店で話したりするようになった。しかし私は些かもプライベートな人定質問に類するこ
とは避けていた。すべて知らせ、なにも知らない、二人。そのアンバンスはどちらに重い負荷になるか。「その人」が電車の時間と車両を変え、電話をくれなけ
れば、私からは全く連絡できない。姓も名も知らない。私は便宜に「その人」に勝手に命名し、心の内ではそう読んでいた。そう告げたとき、その人は笑ってい
た。その頃私はもうその名前をヒロインの名に、殆ど同時進行のように「身内とは何か」「人が人を識るとはどういうことか」「知る知らぬの力関係はどう展開
するのか」を主題に、小説を書き出していた。それは黙っていた。そのまま淡々と懐かしく交際は展開し、そして、終わったのである。なぜ終わったか。それは
その面白い小説が明かしているので、ここには書かない。と、そう書いて、そんなのはみな私の作り話だと思うか、いいや本当だと思うかと、昔、ある短大の教
室で、学生たちにまことしやかに尋ねたら、みながわあっと騒いだ。
本当とは何か。何がうつつで何が夢か。
あれは本当ですかと聞く人には本当ですともと答え、まさか本当じゃないでしょうと聞く人
には当たり前ですよと答える。どうでもいいのである、虚実の決定などは。
「その人」は、小説家のいいだももさんの奥さんの妹とか姪とかであると日記は記録してい
るが、さ、どんなものか。夢であれ現であれ、私は「その人」が懐かしい。
* ひょっとして今日のメールの「その人」が「その
人」であるとも言える。私の世界ではそんな按配にことが運ばれて、それが自然なように成っている。
そんな「その人」のメールが届くかも知れないと、本気で待っていたのだといえば、普通の
大人たちはわらうだろう。そういう意味では私は普通の人ではない。しかし例えば漢字を書いたり読んだり用いたりする立場としては、私は特殊な専門家ではな
く普通の人であり、そんな特殊な専門家がたくさん居るとは思わないのである。程度の差があるだろうが、安易に勝手に線を引くわけにはいかない。
* 五月十四日 金
* 深い夢のうちへおりている。絵空事の真実こそが真 実であり、現実とは異なる大きな価値をもつのだと、三十年も四十年も昔から私は考え感じてきた。そして「身内」を求めてきた。名前の付いた人間関係を厭悪 し、呼び名のない仲というか、一人でしか立てぬ筈の島に二人で三人で五人十人で立つ自覚と実感のあることを、語り続けてきた。高貴な錯覚かも知れないが、 所詮は人はその錯覚に生きたいと願う。願わなければ孤独の地獄を永劫歩まねば、そこに沈まねば成らないのは自明だから。
* 私には「部屋」がある。『清経入水』の序詞で、人 声がして、光に溢れて、しかし襖を開けても開けても、声はもう一つ向こうの部屋で、和やかに楽しげに聞こえるばかりだった。ずっと後の『北の時代』ではも う「部屋」がちゃんと機能している。私がこっちの襖から入り、私の待ち望む人はそっちの襖から、いつでも誰でもどのような姿ででも「部屋」に来て、ゆっく り話せる。香の匂いがただよう「部屋」である。
* いま頭の中に、痛烈な像をともないあの長明の「方 丈」が、三メートル四方の家が蘇り住む。一人でしか暮らせない家だが、主は、無数の友を唯摩詰のように招けると思っていたかも知れない。あれが私のいう 「島」なのだ。遠く遠くから一人が帰ってきた。そういう夢の夢をいとおしみたい。それがあればこそ、現世をも確実に受け取れる。
* 九大の今西祐一郎さんから、とても面白い、興深
い、「論考」のお手本のように切れ味さわやかにムダのない論文が贈られてきた。一気に読まされたが、残念なことにパソコン上には書き出せない。主題が、古
文でいう「踊り」記号に関係していて、「く」の字の二倍大のこの「踊り」は器械では出せない。いよいよ、やすやす、ことことなどという時に弓なりの二倍記
号をつかうのだが、文字パレットでいくら記号を拾っても見つからない。無い、らしい。
無関心な人は踊りなど使わず「やすやす」と書けばいいと言うだろうが、今西助教授の論考
は、それでは意義を発揮出来ないのである。書けないのである。お腹が痛いと、源氏物語で「あなはらはら」と従来読まれてきた箇所は、二つ目の「はら」が踊
りになっている。だがそれは「ちがう」と今西論考はじつに適切的確に論証して行く、すなわちここの踊りを直ぐ上の二字分を繰り返す二倍踊りと読むのでな
く、「あなはら、あなはら」と大きく繰り返す記号であると、文脈に従い理解すべき事を、多くの事例により解き明かして眼の鱗を落としてくれる。
さ、そうなれば、時と場合で「二倍踊り」の指し示す範囲は二字分を含め、場合によると数
字からもっと長い字数も指し示しうる記号なのだということになる。
私は文字コード問題に口を出した最初から、こういう「日本の記号」が「market
relevance」の議論の前に閑却されては困ると言い続けてきた。
記号などというのはいわば「論述手段」そのものである。「論述対象でしかない漢字」が掃
き捨てられかねない不安と共に、これも言い続けねばならない。
* 長編『寂しくても』を、途中ではあるが、最初部分
から第二稿づくりに入った。「創作欄 一」を一太郎に書き写して、そこで、今回は叙述の文章を整えて行く。初度軽度の添削である。構造的な直しは第三稿で
というのが私の常で、もっと先のことになる。
第二稿ではぐんと読みやすく、文章として整って行くはずで、仕上がったら現在のものと差
し替える。根気仕事だが、当然の作業と思っている。
* 外交辞令は幅を利かせている。国際間では仕方のない儀礼的な挨拶というものが確かにあ
る。それでも、聞き慣れれば聞き慣れるほどなじまないのが「日中」間の「尊敬するナニナニ先生」というアレ。あれはやめましょうと省いた中国要人との会合
があったが、それは宴会の席でであった。公式の場ではやるより仕様がないと申し合わせが出来ている。
しかし外交辞令の合間に、ベオグラード空爆や大使館誤爆問題が混じったり、日中戦争への
謝罪が入ってきたり、あれは一握りの日本軍国主義者の犯罪行為で、日本国民も中国人民と共に被害者だなどと中国側の主賓が言われたりすると、急になまぐさ
くなる。
今朝の新聞で、中国へ留学している学生が、掲示板の愛国的な大字報をサッカーシュートの
目標にしたというので中国人学生たちにかつての紅衛兵のつるし上げよろしく取り巻かれ、日本人学生三十人が屋上へ追い上げられ責められ、あげく「飛び降り
て死んで謝罪しろ」と威嚇されたことが書かれていた。これにはぞっとした。
こういう過激な反応は中国人だけではない、日本人でもやる。あれはワルイヤツだと世論が
傾くと、雪崩打つように無法な弾劾でも圧迫でもバッシングでも平気でやる。人間の業だといえばそれまでだが、ほめた話でないのは確かで、怖いと思う。野村
サッチーとかがやられているのを、さして同情もしないが、ばかなことをやっていると思う。中国学生たちの「飛び降りて死んで責任とれ」には、それどころで
ない、ぞっとして尊敬など出来ない。
* 五月十五日 土
* 慈雨の季がまた近づいている。久能寺経の見返し に、大傘をかざし沈思して雨に聴いている絵があった。慈雨というと思い起こす。
* 俳優座の「ロボット」を観てきた。チャペックの百
年も昔の作品ではなかったか、初演の千田是也がまだ二十代、八十年ほど昔に、日本でも公演されたそうだ。その頃で有れば、この作品は「ロボット」に託した
万国労働者の決起や組織化に、より濃く結びつけられ、共産党宣言やロシア革命などとも直接間接に触れあう思想性と革命感覚をもっていただろう。そういう昔
の事情はよく知らないが、ゲーテのフアウストや、ナチ的な人間観なども想起させるものがある。時代の先後を無視して言えば。そして「ロボット」の今日現実
化しているセンスとは、むしろやや遠かったのかも知れない。
しかし、今日の舞台では、労働力としてのロボットといった観点よりも、ストレートにマシ
ンとしてのロボットと人間との敵性関係が迫ってくると読んでふさわしい時節時勢であろう。コンピューターというロボットと人間的なものとの対立が際だって
きているとも言えるし、人間の「不毛」が器械により促進されつつあることも十分に怖れねばならないと、私個人はこんなにパソコンを愛用しながらも、それは
しっかり意識している。
そうなればこそ、ロボットにより、唯一人をのぞいて全人類が絶滅させられた怖さをクライ
マックスにしながら、そのあとへ、ロボットが人間化し互いに愛をもち涙を流すところへまで蛇足を付け加えたのは、実に、シラケルはなしであった。俳優座は
勇気を持ってそんな下らない感傷を排し、断固として一人だけ生存せしめられロボット新生産の研究にあたるフアウスト博士のような人間に、全ロボットたち
へ、二十年後には確実に耐用年限が切れてことごとくお前たちも死ぬのだ、ガハハとでも大笑いさせ、凍り付かせて幕にして貰いたかった。俳優座が、原作戯曲
のキリスト教的な議論に拘泥しない真のブラックユーモアに徹して、観客の横面をなぜ張り飛ばさないのかと、惜しまれる。
それはそれとして、稀にみる演技の充実・演出の適切で、とてもとても楽しめた。主要な
「人間」たちの舞いのような動きが適切で、村上博など、最高に美しいと感じる芝居であった。村上を俳優座はもっともっと重用してほしい。他のロボットたち
に至る全員が、まことにアンサンブルよく舞台を活かしていた。
終幕前の大蛇足がおおかたをオジャンにしたけれど、それでも、実に見応えがした。原作が
よほど佳いのだと思うが、時代を超えてきた現代の読みがもっと必要であった。おしまいが大甘になったのは、かえずがえす惜しい。
* 楽しめたので、小雨の銀座へ出、三河屋でそれはう まいビーフシチューでワインを半分飲んできた。パンとチーズがうまく、ブルーベリーのジャムもとびきりうまく、スープはたっぷり、アスパラガスの青いのま でも、私には珍しく、おいしく食べてきた。
* 「ミマン」に送った原稿が十八行も多かった。すぐ 推敲して送り直した。推敲はすればよくなることが多いので、昔から嫌いな仕事ではない。論旨や流れに傷をつけないで多く減らすには、きっぱりした思い切り と眼が大切。推敲しすぎて文章を皆殺しにしてしまうことも、無いではない。
* 原善君から電話で、川端康成研究新刊の出版記念会
で、祝辞をと頼んできた。発起人と祝辞と両方といわれたが、どっちか一つをと。記念会や祝賀会が流行る。おめでたいのか、おめでたいのか。
* 五月十七日 月
* 中国のペンクラブは歴史はあるのだが、現実には有
名無実になっている。世界ペンクラブに参加して欲しいし、それはヴエトナムにも同じ事が言えるが、どっちも、それが政府機関のようなかたちでしか実現しに
くいのも現実ではなかろうか。そこから離れた、日本ペンのような団体が望ましいのではあるが、もしそういう団体を日本のわれわれが支援するかたちでもし近
未来に出来ようとした場合、それ即ち国家からの被弾圧団体になりかねない危険はある。
文芸芸術の団体が政府機関として国家機構に組み込まれてきた実例は過去にも現在もいくら
もある。それは「文化」の差異であるよりも「政治」体制の差異による。そして、差異は差異であるから「仕方がない」とは、私個人は考えない。中国の文化人
の現状はよほどよくなっているにしても、まだ、私には飲み込めない苦み嫌みが感じられる。作家交流の意義は認める。しかし、よほどそれはつまらないものに
終わることも、残念ながら現実だ。中華料理と演説と観光との交流は気楽で親睦には役立つけれど、文学の役にはまず立たない。菅原道真なら、よしておこうと
言うのではないか。
* 五月十九日 水
* よく晴れてきた。夕方から上野へ出て、みらくる
会。楽しめるかどうかあやふやな会合で、おおかた話題が噛み合わない。大勢の中で興味の持てない話題に仕方なく相づちを打ちながら食べるご馳走はあじけな
い。「今半」の肉だというからちょっとイヤシンボウに出かけて行く。安い会費ではないが、上野広小路の辺がきらいではない。寄席へも行くし食べ物も飲める
店もある。三遊亭円歌と止まり木に並んだこともある。黒門町である。湯島の境内もある。色っぽい辺りに宮川寅雄先生の色紙をだいじに飾っている寿司屋もあ
る。天庄とかいった味な天麩羅の店もある。とんかつの「ぽん太」には本家も分家もあるが、これは、も一つだった。
この会は小児科の大国真彦先生が主宰で、医系理系のお商売の人が多い。今晩はうまく心優
しい和風の好みの人と隣り合えるといいが。食べるのは好きだが、がつがつ食べるだけというのはどうも行儀がよくない。
* おとといの遅く、ひさしぶりに工大の卒業生にメールをゆっくり書いて、発信してから少
し片づけて、ここは仕舞い、階下にと思いつつまたメールを開いたら、返事には早すぎるまさにその人の長いメールが届いていて、暗合におどろいた。私のメー
ルと闇の奥で一瞬光り合いながら交叉して届いたのだと思うと面白くも心嬉しくもあった。すてきなメールだった。次の日に、ゆっくり読み返し返し返事した。
* この昼にも同じ事があった。「以心電信」と書き直 してもいい。十数年の信愛をかみしめるように遙か遠くからメールをくれた人も、またいた。感謝。
* 書庫に本が溢れてしまい整頓できない。通路も通れ なくなり書庫の役をなさない。いい本しか残していないので、惜しくて処分など出来ないのだから、困った困った。「方丈」の住まいならば、どうする。すこし 恥ずかしい。
* 今半は、いまいち考え違いをしていると思った。い つ自慢の肉が出るのかと待ちわびるほどふつうの懐石料理がずらずらと続いて、結局肉は少々の一皿。にくにくしいほど肉かと期待し覚悟していたのに、なみの 懐石料理に小皿で肉が出て終わり。懐石ならそれなりの店へ行く。考え違いしているのではないか、おもわず呻くほどの肉を質も量も出してこその「今半」だろ う。あれなら半値で銀座「らん月」のすき焼きの方がましだ。
* 会員だかゲストだかに落語の若手が一人混じってい て、和室に設えた高座で、まだ客の揃わぬ前座で一席座興に伺ったのはいいが、とんでもないへたくその上に古典を一席ととくとくと「酢豆腐」をやった。今か らものを食べようという席で、えんえんと酢豆腐というのは、最低の趣向で、何をかんがえているのやらと呆れる。酢豆腐とは、くさやどころかホンモノの腐り きった豆腐を人に食わせてばかにするといういやみな話。それを、うまいものを食べる会の食べる前にうかがうなんて、わざと連中をバカにしてというならホメ てやりたいくらいだが、要するに考えていない。とうに亡くなった柳亭痴楽の弟子だというから、しつける師匠もいないわけで、根本から藝が分かっていない。
* 風姿花伝をまたまた読んでいるが、頭がさがる。
* 五月二十日 木
* 一日中大忙しで働いてからメールを開くと、下記の ような怪文書が届いていた。名乗りが無いのだから、これは私信ではない。怪文書である。ここに転記し、何処の誰とも分からない者に、あげた返事も添えて置 く。ペンクラブの電子メディア研究会宛になっていて私の所に届いているのは私が研究会の座長役を命じられているからだろう。
* 差出人 :INET
GATE kana@nihongo.com.jp
送信日時:1999/05/20 17:37
題名 :ペダンチックなゴギロンをみておもうこと
Date: Thu, 20 May 1999
17:36:04 +0900
From: kana <kana@nihongo.com.jp>
Reply-To: kana@nihongo.com.jp
To: fzj03256@nifty.ne.jp
ハイケイ デンメケンさま
ごギロンをよんでみたのですが,ペダンチックなディレッタントたちのおはなしばかりがつよ
くかんじられました.おおごえをだしていられるのだけはよくリョウカイできました.10マンものモジをよみかきするにはそれだけのためにひとはイッショウ
をささげねばならないでしょう.まったくバカげたおはなしですね.でも,ひとつだけたのしいことがあります.そのようなひとたちがくだらないことにかか
わっていることはかれらのちからをそぐのにはよいことだとかんがえられますから.ニンゲンのイッショウはみじかいのです.モジのことはこどものうちにシュ
ウトクしたいものだとかんがえます.セイジンしてか
らいちいちジショでモジをしらべねばならぬようなゲンゴはそれだけでいきのこれないでしょ
うね.まことにアクマのモジとはよくいったものです.むつかしいモジなどはいくらでもムスウにつくれますから.さかさまのギロンをこれからもせいぜいおつ
づけください.
どうもほんとうにシツレイいたしました
返信先
:kana@nihongo.com.jp
題名 :RE:ペダンチックなゴギロンを聞いて思う事
当人も「シツレイ」と思ってものを言ってくるのに、 答える必要はそもそも無いのですが、名無しの、名乗るによう名乗れない気弱なあなたの、ベダンティックで口からでまかせの浅いギロンに呆れ、せめて一つだ けでも、とんでもない箇所を指摘してあげようと思います。怪文書と議論する気はありません。
10マンものモジをよみかきするにはそれだけのた めにひとはイッショウをささげね ばならないでしょう.まったくバカげたおはなしですね.
どこの世界に、一人で十万の文字を読み書きする人間
が何人といるものですか。
「一人」なら、多くても一万字もあればたいてい足り、私ならそれで十二分です。
しかし、人間の数は、どの時代の人も、現代の人も、未来の人も含めて、「一人」では無い
ことぐらいは分かるでしょう。
「一人」「一人」が無数に集まって十億できかない、その十億もの「一人」「一人」が、各々
の一生に触れ、かつ用いる漢字は、むろんかなりの量で重なり合いながら、また、時代により、国により、個々の関心により、必要によっても異なることを、あ
なた、気づいていませんね。
医師には医師の用語があり、哲学には哲学の用語があり、孔子には孔子の、毛沢東には毛沢
東の、万葉集には万葉集の用字用語がある。だれも、おのれ一人で「十万字」を駆使するのではなく、その一人一人の必要は知れた数であっても、漢字を使って
きた・使っている・使って行く歴史の全容からみれば、自然と想像以上に多数の漢字が必要とされ用いられてきたのです。その総人数は凄いものでしょうが、一
人一人が十万字を必要としたなどと、いったい誰がどこで言っているのですか。あなたの妄想による思いこみでしょう。そんな間抜けたことを盾にして、ものを
言ってくるあなたの「ゴギロン」こそ、軽率を絵に描いた、「ベダンチック」で、底の抜けた笊同然の「まったくバカげたおはなしですね。」まっとうな議論な
ら議論しますが、なにしろ名無しの怪文書なのですから、投げられたことばを、迷惑千万、返しておきます。
あなたも「一人」わたしも「一人」ですが、だからと いって、あなたの必要とし読み書きできる漢字と、わたしの必要とし読み書きできる漢字が、みな同じであるわけも、数が同じであるわけも、ないではありませ んか。しかし、あなたのつかう漢字のどれこれは私には必要がなく、私のつかう漢字のあれこれはあなたに必要がないということは十分ありえます。だからと 言って私に必要なく、あなたにはぜひ必要な漢字を、わたしが一方的に断固排除せよと言ったら、あなたは迷惑でしょう。
かりに「一人」五千字で済むと仮定しても、十億人の
「一人」「一人」の一生に使う五千字が、ぜーんぶ集まれば、どれほどが重なり合いまた重なり合わないか、あなた、想像もしたことがないのでしょう。あなた
は、上の発言だけで、軽率な二重ねの思い過ごしを平気でしていて、それは、事実に全然合っていないのです。
戯れ文で高みから物言う風情でも、実は、名乗りもできないほど軽薄な自信なさから、間
違ったことを得々と言っている、あなた。ハタ迷惑ですね。
顔を洗って出直しなさい。 秦 恒平
ついでに言えば、あなたなら「一生」を費やす必要が
あるでしょうが、ある時代ならば、十万字を読み書きするのに、必要な人は、意図してから五年で足りたでしょう。そういう人にはそういう人の、幼来の基盤が
あったからです。
現代のわれわれ、少なくもわたしにはそんな必要はまったく無い。あなたも含め今日のわれ
われ「一人」「一人」に、そんな必要が、あるわけ、ないではないですか。辞書を引く引かぬなどは、人の勝手で、どっちにしても大きなお世話なのです。これ
もまた人それぞれで一概には言えるわけがない。
漢字の文明が生き残れるか生き残れないか、一度は死にかけた孔子もまた復活している昨今
の中国事情をみているだけでも、誰が軽々に文明や言語の脳死診断がくだせるものか、ましてや、あなたには無理。
今後は,名無しの「シツレイ」自称者は、軽蔑して黙 殺します。せっせと、よそで喋りなさい。
* こんなのと、なぜ付き合わねばならんのか、ここへ 首をつっこんでいるのだから仕方ないが、百鬼夜行の世界らしい。それも面白いではないかと小説家は平気で思う。
* そんなことだろうと思っていたとおり、
kana@nihongo.com.jp
で返信したメールは、「宛先無し」で舞い戻ってきた。素性も知られたくないのだ。私は記紀歌謡の昔から今日まで、いわゆる童謡などの匿名性を支持している
から、匿名じたいは驚かないが、「シツレイ」の何のと気取るばかりで、ラチもない軽薄なことを言わんでくれと希望しておく。
* 五月二十二日 土
* 戸越銀座まで出かけて、文芸家協会、ペンクラブの
電子メディア委員会・研究会のメンバーが住谷満氏の講話を聴いた。よく用意されていて聴きやすく見やすく、また自由に質問もでき議論もできて、極めて有り
難く有益に面白かった。私は、自分がいかほどトンチンカンな恥ばかりを文字コード委員会でかいていたか、それが露わになる会合だろうと恐れをなしていた。
ところが、よくよく聴いていて、また質問して確かめて、いやいや、そうではなかったよう
だ、私は私流に、見るべきは見ていたぞと自信を与えて貰った。何よりも、アーキテクチュアつまりコンピュータの中での「文字コード」関連の構造・構築に関
しては、これは、私のような文士が口の挟める問題ではない、任せるしかないしその方がいいということを確認できた。しかしながら、文字コードをめぐる本質
論に繋がる問題は今後にも深く読み込めて、そこでは我々も発言して行かねばならぬことが多々あることも、巧く整理してもらえ、再確認できた。
そして大事なことであるが、漢字はもう足りずるほど足りている、それもある、これもあ
る、みんな入っているというような話は、いくつか有る「文字セット」での問題であり、特殊な個々の営為であり、「文字コードむが与えられて多方向的に誰に
も等条件で用いうるものでは無いという、かねての推量ないし認識がすこしも間違っていないことをまた確認できた。
「文字コード」の付与されていない「文字セツト」は、例えば私個人では利用できるが、条件
の整っていない他者の器械とは情報を正確に伝え合えないのではないかと思っていた。その通りだと専門家に確認してもらえたのは、よかったわるかつたの問題
でなく、大事であった。要するに、文字はある、山ほど在る、もう不足はないないと言われる話は、大方は「文字セット」での話であって、「文字コード」がど
の文字にもついているわけではない。字は、まだまだ、私の謂う意味では「もう足りている」などとは言えないのだった。そう思っていた通りの話であった。
「トロン」の話も聴いた。私は、もっともっといろんな立場の人の話も聴きたい。「あの人は
およしなさい」と言われているような人でも、利害だけでものを言う人でなければ話を聴く機会を電メ研でつくって行きたい。また怪文書が入るかな。
帰ったら、議事録修正で石崎委員長からメールが入っていたので、こう、返信した。
* 石崎委員長からのご連絡により、議事録の次の箇所 に補正をお願いします。
石崎:秦さんに質問だが、異形字に関する資料5−4で
は、符号化をする漢字と
符号化はしないがサポートする漢字に分類している。このようにコンピュ
ーターで使えれば良くて符号化するかしないかは関係ない、とにかく仕事
上使えればよいと思って宜しいか。
秦:「ある特定の漢字について符号化をするという話
と、符号化はしないがサポートすると書いてあるが」の受け取り方に誤解が有れば恐縮だが、というのは「符号化」を「文字コード」を付する意味に一応取って
いるので。「符号化」とはそんなことではないとなると、やはり何のことか理解できていない。
「文字コード」をつけるのか、つけなくて「サポートする」のか。(「サポートする」意味も
まだ私にはアイマイだが、)およそを、こうお答えしたい。
「今昔文字鏡」のような「文字セット」があり、それで例えば私は欲しい文字が拾える、つま
り「サポート」されている。けれど「文字コード」はついていない。アーキテクチュアとして組み込まれていない。自分一人は利用できても、ソフトをもたない
他者に自在に文字が転送できない。そういうのも「いいか」というお尋ねなら、そうでは「ない」とお答えする。
何度も申してきたが、個人的には、漢字の文献あるいは文化、そういったものが双方向的に
世界中で同じ条件で使えるようになってほしい、という気持ちが基本にある。それが可能であるのであれば、(私自身言うことが曖昧なのだが、つまり)程度の
「違うやり方」を、あまり簡単に安易に妥協的に、器械の中へか外へか分からないが、ややこしく導入して欲しくない。せずにすむのならば、なるべく簡明な操
作で器械が使え、漢字や記号が使えるようにと希望している。技術や金との折り合いのことは、正直、私には分かりかねるが。
* 土地勘はいい方なのでそう迷わないのに、今日は戸越銀座駅からまんまと逆方向へ延々と
炎天下を歩いてしまった。参った。参った感じのまま会議後に一つ電話をかけ人の声を聴いた。それで落ち着いた。池袋まで戻ったら駅構内に八十代かも知れな
い恰幅のいい紳士が、大きな柱の前で細いステッキの先を床につるつる滑らしながら、起つに立てず、坐るに坐れず、膝からくずれそうに、ゆらゆら、ぶるぶる
と揺れていた。
眉をひそめ一度は通り過ぎたものの、気になって、改札から後戻りして、辛うじて支えた
が、支えていなかったら後ろ向きに柱の脇に転倒して後頭部を強打していただろう。やっとのことで、リウマチだという老人を座らせ、柱にもたれさせてみた
が、それも危なかった。人も手伝ってくれて、やっとのことで駅員にきてもらったが、わたしも駅員に預けたところで切り上げてきたが、十年か十五年せぬま
に、自分もこうなりかねないと、つくづく実感した。その怖さがわたしを後戻りさせたのだろう。
* メールをひらくとメールがある。いいメールがあ
る。そういう日々が好きだ。わたしは、郵便屋さんがバイクや自転車で来るのを、耳さとく聴いて玄関の外へ出て待って受け取るというので、笑われている。い
い郵便があると機嫌がいいし、郵便の届かない日曜日は好きでない。郵便では印刷物が山のようになり、これはあまり喜べない。しかしメールは、楽しい。言い
たい告げたい核心が届いてきてゴアイサツがない。私のような人恋しいタチのものには、有り難い。怪文書ですらにぎわいである。
* 五月二十三日 日
* 「湖の本」の通算五十九巻の発送作業を終えた。明 日宅配業者に渡せば完了。今回は『中世と中世人(一)』、折しも梁塵秘抄の後白河院宸筆とおぼしき断簡が発見されて感動を呼んでいるが、まさしくその十二 世紀と、後白河院、清盛、西行、俊成、定家、長明、後鳥羽院らを個々に論じながら、芯に、NHKラジオ放送四回の「中世文化の源流」を巻頭に置いた。平凡 社で出した同題単行本の半量を収録した。
* 今日は日曜、大河ドラマの内匠頭切腹をみた。オー ソン・ウエルズ監督の映画『審判』をビデオにとった。
* 通信傍受法成立を徹底的に阻むべき日々が、すこし 急ぎ足にばたばたと来てしまった。小渕内閣は油断ならない。
* 明日は第六回文字コード委員会。たぶん、なにがな にやら分かりかねる議論内容へ、つまりアーキテクチュアへ話題が動いて行くのであろう。辛抱よく聞いて、会のあと、いい時間を楽しみたいと胸を鳴らしてい る。新刊『中世と中世人』へも、どっとお手紙が届いていた。
* 新作『寂しくても』を第二稿に創っているが、「創
作欄 一」の半ばまで出来てきた。作業は「一太郎」で続けているのでホームページでは初稿のままになっている。やがて第二稿に切り替えられると思う。中途
でものを言う気はないが、仕上がれば落ち着いた新しい作品に成るであろう、成らせようと気を入れている。第一稿では、素材を並べ置いている。
* 五月二十四日 月
* 宵の六本木は優しい雨であった。傘に隠れて俳優座 のうら道へ忍び、「舛よし」の寿司で酒をのんで帰った。御成門の機械振興会館で文字コード委員会があり、むずかしい話で汗をかいたのも、六本木へ車でのが れて、きれいに忘れた。いい日になった。
* 久しぶりに甥の黒川創が留守に電話をくれていた。 送った湖の本の最新刊が「めっちゃ、おもしろかった」と叔母さんに言うたそうで、稀有の珍事と言わねばならない。感謝した。
* どさくさにガイドライン関連法案が通ってしまっ
た。たいへんな時代に突入した。日本は、今度こそ「醜の御楯」となり「盟主アメリカ」に国と国民とをささげることになりかねぬ。ものごころついた昭和十
四、五、六年ごろの暗転へ戻ってゆくような不安がある。戦後の六十年で、この法案がばたばたと安易に安直に立ち上げられた不幸の代金は、おそろしく高くつ
くだろう。バブルがはじけたどころの騒ぎでないのだが、平和ボケを政局はすかさずに逆用した。「いい人宰相」小渕の口車にまんまと乗せられているのだ、残
念だ。ペンクラブの中でも、なにも手の施しようがなかった。悔いがのこる。
* 五月二十六日 水
* かなり疲れて、京都から帰ってきた。不快な疲労ではない。京都美術文化賞第十二回の授
賞式と理事会懇親会とが、二十五日の午後と晩とに予定されていて、一日で一度にお役の果たせるのは私には有り難いことだった。東京からは私一人の参加なの
である。
二十五日は四時過ぎて目覚め、仕事をしてから、八時過ぎに家を出た。十時ののぞみには早
く東京駅に着きすぎるのは分かっていたが、遅れて走りつくのは堪らないので、悠々と時間をあまして動くように、この頃は意識して気をつかっている。三十分
ぐらいぼうと目をとじていれば済むし、そういう三十が十分でおわっても、その時間が、有り難い放心の、または思念の時になる。退屈はしない。
車中は珍しく飲み食いしないで、文字コード委員会の資料やメール討議のプリントをたっぷ
り抱え込んで、赤いペンを片手に読みに読んだ。これでまず、目から疲れた。
都ホテルの式場の広い窓は北向きに大きく開いていて、比叡山、東山、吉田山、北山西山、
眼下には岡崎一帯、湧くような新緑で、その眺望の懐かしさだけでも京都へ帰ってきた甲斐がある。都ホテルはまして地元であり、総支配人の八軒さんは湖の本
の最初からの読者、「浜作」女将は中学で机をならべた親しい友達。茶室を借りて叔母が釜をかけた昔には、大学生だった私は水屋で活躍したものだ。幼かった
娘にはここのプールで初めて泳ぎを教えた。少年の日には、夕方になると、家から自転車でここ蹴上まで三条通をこぎ上り、一気に粟田まで疾走するのが、かな
りの期間、わたしの楽しみだった。
授賞した三人は、日本画、陶芸、漆芸。小倉忠夫さんが選者を代表して、とても適切に選考
経過を話された。受賞者のアイサツは尋常だった。どの世界でもこのてのアイサツの尋常すぎる昨今であるが。もうすこし破れた面白さが欲しい。
梅原猛さんの乾杯の声で宴会に。この昼会は、ゆったりした会場で気持ちのいい参会者で、
なかなかの味わい。石本正、梅原猛、小倉忠夫、清水九兵衛、三浦景生という選者仲間の質の高さが、信頼されている。この中に小説家で東京の私が加わってい
るのが申し訳ないようなものだが、これもいろんなご縁の結果だと、とにかく誠実に努めてきた。大きな佳い賞に育ってきたのは、なによりも情実に流されない
からである。
食べ物は口に入れているヒマも気もなく、気持ちよく懐かしくいろんな芸術家や学者や研究
者と逢えて話せるのがいい。芳賀徹さんのような、東京の人と思いこんで付き合ってきた人も、今は京都の美大の学長をしていて、やあやあと言い合える。石本
さん、清水さん、三浦さん、榊原さん、それに梅原さん。ここで逢うと話が清々しい。
* せっかくなので、会の果てたあと、南禅寺にひとり
歩いて、三門に上がってきた。都ホテルから三門が新緑に埋まって見えていて、ああ、石川五右衛門になりに行きたいなと思っていた。たぶん上がれはしないと
思っていた。行ってみると上げてくれていた。これだけで、南禅寺も京都も今回は十分だと思い、すぐ受付にお金をはらい靴をぬいだ。気分がせいせいしてい
た。
山廊はおそるべき急な階段で、まさに命綱に掴みついて一段ずつ上る。と、やがて軽装で旅
するらしい白人の若い女性が上っていたのに追いついて行った、が、見上げればこれはまた、幽暗微茫の絶景に白はぎが匂うではないか、私は思わず敬虔な思い
がして奥の奥まで闇の深みをふり仰ぎ、そのまま楼上に達した。くだんの仏様は、そこでふりむいて私ににこっと笑って下された。手をあわせそうになった。
「ああ絶景かな」
なにひとつ裏切られることのない美しい眺望が、四方に開けていた。ああいい、ああいい。
もう他に望みはなかった。
* ホテルで一息入れてすぐバスと嵐山電車とを乗り継
いで、ゆっくりと嵐山へむかった。「吉兆」での財団理事会と宴会である。いわば私のために受賞式と理事会とを一日にすましてくれるわけで、親団体である京
都中央信用金庫には感謝している。
渡月橋は、日本一、鑑賞に堪える優美な橋、あれほど景色にしっとりしっくりと填った橋は
珍しい。しかも、ごてごてと飾らない。京風の粋を一つと問われれば渡月橋と挙げたい。市内の鴨川には、あれほどの橋が一つも見あたらない。
嵐山は夕景がよく、早朝が佳い。祇園から、茶立ての用意をして自転車で一路渡月橋まで走
り、茶を点てて飲んで帰って、そして朝飯を食ったものだ。
上流に嵐峡館がある。「慈子」との世界だ、嵐山は。
わたしが「畜生塚」「慈子」「誘惑」「みごもりの湖」「雲隠れ考」「清経入水」「冬祭
り」「初恋」などの熱い読者をあつめた恋愛小説を書いてきたことも、そろそろ忘れられつつある。やれやれ。
* 吉兆の接待は、今回は申し分なかった。祇園でなく
上七軒から髪の美しい芸妓舞子たちが揃ってくれたのがよく、舞子の舞いがとてもよかつたし、飛鳥の国宝仏頭の底知れぬ大きな魅力を思わせる、すばらしい顔
立ちの芸妓にも感嘆した。祇園の子らに飽き足りない行儀の乱れを感じていた私には、これは、とても清潔で新鮮な佳いごちそうであった。祇園は私には近すぎ
るのかもしれないが。
宴会に石本さんがよぎなく欠席だったのは残念だったが、橋田二朗さんとは例年のように隣
りあわせで話せた。清水さん、三浦さん、梅原さん。話題がなにのてらいなくすっと深くなる。それがいい。
二次会は避けてホテルに帰れたのはよかった。十時半までには寝入っていた。
* 二十六日は、今日は、待ちかねて東寺へ行った。九 時になるのを待って、すぐ講堂の大森林のような仏像群に背をかがめて掌を合わせた。修理で大日中尊が不在であったが、こんなに充実した力ある時空間に身を 置く幸せは、そうそうはどこででも出会えるものでない。金堂の薬師如来にはいつもいつもお叱りを受けにおそるおそる御前に出る。今日はいつもほど厳しい視 線ではなくほっとした。東の日光菩薩の慈顔慈眼には泣けそうだった、むろん西の月光菩薩にも。いつもだと薬師中尊の前で萎縮していて両脇侍に縋るゆとりも なく退散するのだが、今朝は、日光月光の素晴らしい慈悲心にも触れることが出来て嬉しい極みだった。立ち去りがたくて、薬師のまえで、腰をおろし、ゆっく りと安堵していた。南禅寺三門と東寺の御仏たち。都ホテルと吉兆。十二分だった。夢のようだった。
* 東京へ着くとその足で国立能楽堂へ入り、友枝昭世
の『道成寺』を佳い席で、四月公演にひきつづき二度目を観ることができた。昭世師の厚意に感謝する。演能みごとであった。言うことなしで、堪能した。旅の
汗でそばの客に迷惑をかけたかも知れない。堀上謙さんと歓談しながら保谷駅までいっしょに帰った。預けた自転車に乗ったところでぱらぱらと雨が来た。疾走
して無事だった。
文字コード委員会の討論メールを中心に、留守中に優に二十本を越すメールラツシュで、読
み切れなかった。一時半ごろには疲労困憊しつぶれて寝た。この記録は、明けての昼前に起きて、書いている。
* もう一つ留守中に嬉しいことがあったのは、ずうっ
と頂戴している小学館古典の新刊が『うつほ物語』一だったこと。この物語をいい注釈に助けられて読み通したいと何年も願っていた。中野幸一氏の編著であ
り、どんなに楽しいだろうとわくわくわくわくする。
* 五月二十九日 土
* 新橋の清葉が、新橋演舞場の「東をどり」に招んで
くれた。清元で出演していた。藤間由子の娘がいつのまに新橋の粋な芸妓になっていたやら、久しぶりの、おつな対面におどろいたが、意外ではなかった。清葉
こと抄子ちゃんは、舞踊家の由子の娘のまま、いつも溌剌と楽しそうにいろんなことを体験していた。宝石のデザインもしていたし、洒落たシャツの店も開いて
いた。芸はむろん出来る。歌舞伎の世界ともまぢかくて、由子には何度も何度も歌舞伎を見せて貰った。勘三郎と玉三郎の夕霧伊左右衛門を、一番前の真ん中で
手も触れそうに観たこともある。そんな頃、抄子ちゃんはちゃきちゃきの東京娘だった。着物姿さえみたことがなかった。
由子と荻江の家元寿友氏に頼まれて『細雪 花の段』を作詞し、この寿友の曲で、由子が国
立小劇場で初演の後、今井栄子が一人で舞い、また京都の鴨川おどりでも誰かが舞っている。そんなころも由子の娘は元気で小粋な現代ッ娘であったのが、
ちょっとご無沙汰の間に芸妓に変身していたのである。不思議ではなかった、抄子ちゃんらしいなと思った。そんなことも、つい一月ほど前に久しぶりに藤間由
子に電話してみて知った。私より幾つも年輩の由子の娘なら、もう四十にはなるのかなと思った、そうのようであった。しかし今日の舞台でみると、またはね出
しの際にロビーであいさつされた時も、せいぜい三十過ぎの、昔ながらの冴えた美女であった。由子も元気で、演舞場のなかでお茶をご馳走してくれ、お土産ま
で貰ってしまった。
もともと藤間由子がわたしの読者であった。久しいご縁である。演舞場ははればれと艶やか
な客席であった。わたしのような汗くさい男がオープンシャツで顔を出すのは場違いであるが、ま、そんなことは気にしないで、劇場の風情も楽しんだ。佳い絵
のある劇場で、歌舞伎座とはひと味ちがう。そういえば由子はこの劇場で、先代の鴈治郎と「藤十郎の恋」を舞ったことがあり、その日は二階真正面真ん前で、
カップ酒を次々としたみながら、情緒纏綿の数時間を堪能した。懐かしい昔話である。
* さて「東をどり」は初めて観る。口上で、中央にい
て大きな挨拶をした人の舞いは素晴らしいものだった。小千代という名であったか。みごとだった。
昔、広田多津の「舞子」のモデルをしていた、当時の豆禄が、名をかえて美しく主役を演じ
ていた。多津とは大阪の放送局で美術特集「舞子」のために対談したことがあった。豆禄はそのころの欠かせぬ佳いモデルだった。たしかそうであった。これも
なつかしいことであった。あの放映では、多津を皮切りに三週連続、福井良之助、下村良之介とも対談したが、三人とも亡くなられた。
「東をどり」そのものは、劇構成はゆるく作詞もかなりお粗末であった。舞踊や音曲地方は
しっかりしていたのに、惜しいことであった。清水冠者義高と大姫の心中仕立てなど、もう少ししっかり書いて欲しい。都をどりや鴨川おどりよりも、全体に景
気が主になり、劇性は希薄なままであった。繰り返して言うが、だが、小千代の舞い踊りは鑑賞に堪えて心いっぱい楽しめた。
* 気分がよかつたので、四丁目「竹葉亭」で蒲焼きと 白焼きとで冷酒を一本、漱石の『草枕』を読みふけりながら、喰って飲んできた。「木村屋」で小粒のアンパンを買って帰った。
* 演舞場へ行く前に、「爽」というグループ展を観
た。高校以来の友人画家が参加していて、室内画と人物とを出していたが、人物はいけなかった。もう一点は平均点ものでとくに感心はしなかった。ながいキャ
リアなのだが、性根が座っていないので半端になる。デッサンの不足が把握を弱くし表現を甘くしている。
この会は、だが水準はけっして低くはなく、楽しませるチャーミングな作品が去年も今年
も、二三点はあった。グループ展はとかく自足した甘い絵の陳列に終わりがちだが、そのきらいは「爽」展にもあるけれど、マシな会の一つには相違ない。
これからみると私の『寂しくても』の主人公は、ほんものの芸術家だと思う。そう思うから
書いているのだが。
* 『草枕』が面白い。実に、久々に読む。グレン・ グールドが生涯の愛読書の一つに漱石の『草枕』を挙げていたのを書簡集で知って、大いにおどろき、また分かる気がした。彼はそれを「トライアングルの世 界」と言っている。四角四面の世界から「常識」という一角を削った三角世界に住むのが芸術家だと『草枕』に述懐されている。グールドはこれに共鳴したのだ ろう、私も躊躇いなく共感する。
* 心の均衡を保てなくて、気が騒いで、辛い悲しみを 身に負うている人が、老若ともに、多い。深い悩みをメールで告げてくる人があり、わたしは、力及ばなくて嘆いている。
* 朝まで生テレビ、で、オーム真理教を取り挙げてい
た。一時間あまり聴いていた。田原総一郎の醜くすさんだ表情を見続けるのが不快で、消して寝た。最近の田原は、どうかしている。論がどうのではない。醜く
なったのである。それは自信があるからだろう。自信というのは、ある人の場合は人間を豊かに和やかにさせ、表情に静かさをもたらす。ある人の場合は、言葉
も顔つきも下品にする。どっちかに、なる。私の知っている人でいえば、梅原猛の顔つきは昔より格別に豊かに静かに成っている。むかしは、わたしに言わせれ
ば乱暴であった、言葉も声も表情も。今は、ずいぶん、ちがう。石原慎太郎知事にもそのようにあって欲しいと願っている。田原総一郎は、大反省すべき時機に
ある。サッチーとかいわれる人のことは私には興味がない。しかし田原のあくどく強引で独善に走ったミスリードは、世を誤りかねず、人心を荒ませかねない。
言葉は心の苗であると、私は先代裏千家の家元に教えられた。言葉は心の苗である。言葉を慎むことを知らぬ文化人には眉に唾をつけたほうがいい。巧言令色が
良くないのも全く同じである。どこの世界にもたいこもちのように気色悪い笑みをうかべて、人にすり寄っている手合いはいる。それも醜いが、田原の物言いも
わるい。
* 五月三十一日 月
* ユングはこう考えている。
太陽が上昇から下降に向かうように、人生の前半で一般的な尺度によって自分を位置づけた
後に、自分の本来的なものは何か、自分は「どこから来て、どこに行くのか」という根源的な問いに答えを見出だそうと努めることで、死の受容に取り組むべき
だ。それは、下降することで上昇するという逆説を経験することで、大きい転回の為には相当な危機を経なければならない、と。
* エレンベルガーはこう考えている。
偉大な創造的な仕事は、中年における重い病的体験を克服しようとして、自分の内界の探索
を行った後に展開される、と。
* 深沢晴美さんの川端康成「少年」論からの孫引きで あるが、これくらい切望と自覚とを代弁してもらえると、かえって動転する。動転から回復して静かに思えば、この数年、東工大教授から定年退官後の自分の仕 事は、自分の本来的なものは何か、自分は「どこから来て、どこに行くのか」という根源的な問いに答えを見出だそうと努めるべく、自分の内界の探索を行いつ づけてきたのだとハッキリする。「客愁」「聖家族」「年譜・青春」の一切が必要であった。私小説作家になる気かと言われたりしてきたが、乗り越えねばなら ない作業だと確信していた。『寂しくても』は、それと併行しての一つの自己追究であり、創作である。「湖の本」の継続と維持の苦しい闘いもまたその一環と 考えている。
* その上で思うことは、ペンの理事などやはり今回は
引き受けるべきでなかった、文字コード委員などもしかるべき人に早く譲って身を退くことだと、いうこと。
幸いに、わたしは、小さな企業にも永く身を置いたし、国立大学にも、財団にも、籍を置い
てきた。ペンクラブの中でも文芸家協会でも役目に努めてきたし、文壇でも、学問研究の世界にも、じつに大勢の方を親しく存じ上げ交際している。そして大事
な大勢の読者たちとは、「湖の本」のおかげで、なみの作家とまったくちがった親密なつながりを津々浦々に得ている。美術畑にも演劇畑にも、文学以上のおつ
き合いがある。
何が言いたいか。人のしていることにもいろいろあり、その相対化がわたしには出来るので
あり、その上で、画家には画家ならではの暮らしがあり、技術者には技術者ならではの暮らしがあり、学生には学生ならではの暮らしのあることを、敬意をもっ
て受け入れることができる。同じようにわたしもまたもし敬意をもって迎えられ得るのならば、それは「作家」としてでありたい。ペンクラブ理事とか美術賞選
者とか大学教授とかは、わたしの望んできた「本来的なもの」とは言えない。創作で栄誉や財が得たいなどと、ゆめ、思わないが、書くことに集中できる日常を
もたないと、残日あまりに乏しくなりつつある。
今の実感は、しまった、である。もっとも、何が有ろうとその気なら出来る。それにしても
省くべきは省きたい。
* 六月一日 火
* 井上靖の晩年の短編について書いた一文「話情の詩 人」を「エッセイ」欄の冒頭に書き込んだ。
* 『うつほ物語』が面白くて、夜更けても読みやめら れない。『竹取物語』とどっちが先か後かというほど古い時期の物語だが読みやすい。『夜の寝覚』ほどの統一感は狙われていない、もっと大らかに構想され統 合され、主人公もヒロインも分散する。源氏物語以上とはいわないが、まったく別趣の貴重な作と言い切れる。通読の機を逸し続けてきた眷恋の古典と毎夜おそ くまでデートを楽しんでいる。
* バグワンの『道タオ 老子』下巻も半ばを過ぎた。
毎晩欠かさず少しずつ音読しているが、読み進めるのが嬉しい。こんなに優れた人の優れた言葉をどうして聴き損じることができるのか、不思議でならない。こ
の頃は妻も興味と共感を覚えるらしく、私が読み始めると必ず耳を傾けているようである。この二年三年、どんなに豊かにバグワンに教えられ手を引かれてきた
ことか。
* 六月二日 水
* 腹の中でまとまりがつかないほどムカムカしてい
て、書き出せなかった憤りがある。最新刊の『中世と中世人』一の跋の末にこう書いた。五月三日だった。
「さて今日は憲法記念日である。何を『記念』なのかが分かりにくいほど、憲法が淋しい顔を
している。主権在民、基本的人権、戦争放棄の三原則は維持し堅守し、若干の改正と必要な肉付けで、運用に、時代との適応をはかるのは、いい。どさくさに目
の敵の三原則をいじりまわし、時代を逆行させたがる向きの多くなってきたのを、私は危惧する。
かつて声高に、日本列島を不沈空母にと跳ね上がった宰相がいた。今の総理はその腋の下か
ら生まれてきたような人であり、「いい人」「いい人」と言われながら、人を口車に乗せ、この国と国民の運命を、またも「醜の御楯」と、今度は「天皇」なら
ぬ「盟主」アメリカに捧げてしまい兼ねない。願い下げにしたい。」
* こう書いた直ぐ後から、バタバタと足音乱してガイ
ドライン関連法案が衆議院を通過したと思う間に、次は「盗聴法」こと「通信傍受法案」が可決されてしまった。審議の名に値するほどの審議内容も聴かれず、
さながら国民はつんぼ桟敷に棚上げにされていた。この二つとも、真に国の行方を誤らせ兼ねない爆発物をかかえこみ、恐ろしいことに「悪用許可法」に等しい
ハンドルを与党や役人に与えている。総理は「日本のお父さん」の顔をにこにこと晒して「いい人」がりを至る所で演じて見せ、悪辣なほどの立法や法改正措置
を次々に隠し持って、隙あらばドサクサに議論抜き世論抜きで通して行こうと狙っている。
しかしまあ、何という怒らない国民であることか。こういう事態で政府内閣の支持率が上
がって行く恐ろしさに、顔の歪む心地がする。
* 社会党潰しに躍起になっていた「テレビに出る連中」の底意が、今、酬われている。社会
党が社民党に変わり、今や、いささかも機能していない情けなさ。佐高信がいかに機会ごとに「日刊佐高」で吠えつづけても、社民党は影も見せてくれない。失
業五パーセントは政府の失政であるが、それ以上に労働者サラリーマンの支持を失い、「闘う戦線」を雲散霧消させて為すすべない社民党の責任でもある。土井
たか子は憤死してしかるべき責任を帯びている。
世の中がどのように傾いて危うくなろうが、「テレビに出る」連中は痛くも痒くもなく、
「テレビを見るだけ」の大衆は、サッチーとかには牙をむいて容赦ないが、「いい人」宰相の猛毒には怒らない。失業が増え「リストラ」なる「首切り」が横行
すればするほど、労働者サラリーマンらは経営者の鼻息をうかがって萎縮し、労働組合の決然たる再興によう向かわない。学生も労働者サラリーマンも完全無欠
に牙を抜かれ、広漠とした「醜の御楯」予備軍に飼育されている。なんという哀しい日本であるか。
見よ、ほどなく権力と金力の持ち主たちは「華族」復活に向かうだろう。「徴兵制」も議題
になるだろう。銀行は「預金手数料」を預金者から徴収したいと政府に働きかけるだろう。
* オーム真理教が無差別テロをやったことは事実であ る。断罪に値する。許さない。しかし「いい人」党のやっていること、やりたがっていることは、それどころの悪ではない。大悪を飾り立てて国民を家畜にしよ うとしている。昭和十年代の前半の国策と今の政治と、どこが違うというのか。政権の意図はほとんど違っていない。
* 永井荷風がしんから恋しいと思う。あのようには 「世なげ」られなくて恥じ入る。「淘げ」よと村上華岳に教えられ、以来三十年。出来ない。
* 盗聴法を、初めてペンの言論表現委員会で問題にし
たとき、委員長は佐野洋だったと思う。猪瀬直樹が新任で入ってきた年であったと思う。或いは猪瀬が委員長になり佐野が副委員長で補佐し始めた年であったか
も知れない。前者のような気がするが。
むろん盗聴法、通信傍受法の成立に私は烈しく反対し、ペン声明を主張した。結果としてつ
よい声明を出した。たぶん、これはうやむやになるだろうと見越していた。これがウカツで悔いても悔い足りない。
その時に非常に印象に焼き付いたことがあった。
私の盗聴法反対に対し、欧米の事例と共に「必要」を説き始めたのが猪瀬直樹だった。彼の
議論の一部は理解できないことではなかった。要するに日本の官憲は自己抑制ができない、隙あらば自己拡張を考えて国民の頭を押さえることに快感を覚え続け
てきた。欧米の情報開示が徹底した中での限定された盗聴と、日本の官憲の歯止めなど絶対に利かす気もない盗聴では、比較など愚かだと私は言った。
猪瀬はその際に繰り返し言い放った、「だいじょうぶだって。秦さんはぜったいやられない
んだから」と。この論法。これが「テレビに出ている」人たちの与党感覚なのである。自分たちは大丈夫、やられやしないと。そこへ私まで混ぜてくれて感謝し
ていいのかどうか、問題はそんな風には言えないのだと、つくづく、行く末が恐ろしくなった。幸い猪瀬はその後「反対」側に転じてくれたと見受ける。
しかし、意見を簡単に替えて行けるのは彼が「現実的」だからであり、賢いからであり、現
実の風向きが変わればまた考えを替えることに躊躇しないのが「テレビを利用して身すぎ世すぎしている口舌の徒」であることを、私たちは見知って居るではな
いか。かねがね私の謂う彼らは「現代人」ならぬ「現在人」なのである。田原総一郎の思想とは何か、確たる信念は何か、あれだけテレビで尊大に喋りまくって
いるが、分かっている人は有るまい。そんなものは無い、その場その場の口舌の徒でしかない。猪瀬直樹の「現在学」は豊かに広い。だがそこから「現代の運
命」を学ぶことはあまりに危険な気がする。
佐高信には思想がある。だが有効に表出されていない憾みが濃い。惜しいと思う。
* 南海に嵐で流され、奇瑞の琴をえて帰国した才能有
る公家が、絶世の美女で父にも優る琴の弾き手の娘をのこして世を去る。娘は貧しく親ののこした家に成人し、ふとしたことで、当代年下の貴公子に肌身をゆる
して、その後逢えないまま、妊娠し出産する。のちの「夜の寝覚」に似ている。生まれた少年は母を独特の「力」で守り養い、ついには山中不思議の「うつほ」
を熊たちに譲られて、ここへ母をうつし、母を護って年を経る。そして、女はかの男に、少年はまだ見知らぬ父に、再会する。宇津保物語の開巻の半ばまでをい
えばこんな筋であるが、古典は筋だけでなく、叙事叙述の気品に命がある。それがなければ遺るものではない。
「夜の寝覚」も長編だが、宇津保物語は三倍もの大長編、源氏はなお二倍有る。古典は、た
しかに今日の言葉ではないから読み煩うが、有り難いことに宇津保はずんずん読める。身も心地も洗われて行く。
世の中のナニもかもウンザリのときに、物語の美女や美男の行方を慕って読み進めるのは、
天与の清涼剤である。
* 六月三日 木
* また一足違いで黒川創の電話があった。池袋に向
かっていた。スパイスでビールをのみ「けやき」で懐石を食べた。満たされていい日になった。
* 六月四日 金
* ほら貝の加藤弘一氏からメールをもらって、初めて ホームページ「ほら貝」の通信傍受法案関連の意見頁を読んだ。豊穣な内容のホームページで、こうなくてはならんと思いつつ、我がホームページの野暮の骨頂 に、身を縮めた。黒川創『水の温度』への批評を読んだ。
* 昭和四十二年頃の年譜を書いているが、もうあれか
ら三十二年も経っている。すでに私家版は「懸想猿・続懸想猿」「畜生塚・此の世」「斎王譜」を出していた。四月に管理職に昇進し、現住所に土地を買い、妻
は長男を懐妊した。そしてやがて「新潮」の酒井健次郎編集長、小島喜久江編集者から、突如、原稿を見せよという通知が来る。あれには魂消た。だが、何故だ
ろうと長い間考えていた。
亡くなった酒井さんはあるとき、ふっと「斉藤重役から」と言われたが、わたしが斉藤十一
氏を識るわけがない。それで、たぶん私家版をやみくもに新潮社に送りつけていたのだろう、それが幸いに斉藤氏から新潮編集部へ動いていったのだろうと想像
していた。
日記を丁寧に見て行くと、この昭和四十二年に、順天堂大学内科の北村和夫教授から、私家
版の長編「斎王譜」を出した後に、円地文子さんに紹介して上げる、会わせて上げると言われていて、それがある日実現していた。診療を受けておられた円地さ
んと教授室で一時間の余もお話しした。谷崎潤一郎のことを沢山聴いた。円地さんの「なまみこ物語」が好きだと言い、円地さんも気に入っておられた。谷崎の
好きな作では「少将滋幹の母」に合致した。その若さで今どき谷崎愛とは、むしろ珍しいと言われ、住所や電話番号まで教わっていた。だが、わたしは著名な作
家を訪問するということを遠慮して、これまでもわざわざ呼ばれない限り殆ど一度も我から訪問したことがない。円地さんへも行かずじまいだったが、「斎王
譜」は送ったが。この長編は後の『慈子』であり、他に「蝶の皿」「鯛」などが載っていた。円地さんから何の返事もなかったし、そういうものと思っていた。
そして「新潮」との悪戦苦闘の間に、第四冊めの私家版『清経入水』を用意していった。こ
れが今度は中村光夫を介して筑摩書房の太宰治賞最終候補作へさし込まれ、受賞した。応募作ではないが応募したことにして欲しいと、「展望」編集部および筑
摩書房の電話を、家で妻が受けたのだった。
その授賞式が昭和四十四年桜桃忌のあとであったとき、円地文子さんは来て下さり、「おも
しろいところで、また会ったわね」と笑われた。わたしは、長い間、それをそれなりの挨拶と思い込み一種のユーモアと解していた。むろん嬉しかった。
だが、よく推理し想像してみると、「斎王譜」を新潮社の斉藤重役に手渡せる人として円地
文子を考えてみるのは、甚だ適切なのではないかと、こんど、初めて想い至った。
うーん、と眼の鱗が落ちた気がした。円地さんはその後も顔の合う機会には一言声を掛けて
下さることが何度もあった。授賞式にみえて、瀬戸内晴美さんと並んで署名しておられる記念写真が筑摩から送られてきている。
今となって確かめようもない。確かめてさてどうなるものでもなく、はっきりとそう想到し
た現在ただ今の感謝と驚きとを、大切に、胸に畳み込んでいたいと思う。
* 太宰賞の授賞式の日、娘朝日子が一歳半の弟を家で
留守番しながら面倒をみてくれた。その朝日子がやがて四十歳に近づきつつあり、建日子も三十一歳を過ぎてしまった。まだ結婚せず、自分の芝居に三度四度出
演させた年上の女優と同棲して、もう二年になる。この正しくは女優志望の人が女優志望のゆえに子どもを産もうという意思がなく、産まないという意志がつよ
く、これが、親にはなかなか切ない物思いの種になっている。同棲し、先方の親元では嫁に出したぐらいな気で居るらしいが、なにより「同棲」という絆
があっては、新たな見合いも恋愛も束縛されて出来ない。本人の望むようにするしかないが、妻には、どうかして孫を抱かせてやりたいのはわたしの強い希望な
のである。こんなことも、ある。避けて通れない家庭の難関なのである。
このままだとわたしを養子にした親たちの願いも潰え、「秦」家は絶えてしまう。それもわ
たしの立場では哀しい。われわれの願いは息子は重々知っているのだが、「同棲」の金縛りは厳しいらしい。
* それにしても小渕内閣は、危険極まりなく動いてい
る。平然と国をあやまらせようとしている。菅直人の軽率な振る舞い一つから流れは変わり、自民党政権は、小沢一郎と創価学会を取り込み、平然と悪魔への身
売りで警察国家の基盤をかため、新軍国主義へ逆落としに歩みはじめた。この警戒が誇大なものでないことが、夜に日をついで確かになってゆくであろう。そん
な世の中で、孫など望んではイケナイのだと思いかけている。
* 六月五日 土
* あんまり囀るので囀雀とあだ名をつけた歌舞伎文楽
舞踊に狂った読者がいる。はるか関西から定期的に囀りレターが届く。呆れるほど、大阪で東京で京都で、よくものを観たり聴いたりしていて、舌鉾甚だ鋭い。
偶然に芸に接してまだ数年だというが、なみなみの月謝ではないらしい。
そういえば能楽堂でしょっちゅう見かける大阪の出版社の女性編集者がいる。会社は左前で
危ないと聞いているが、能にはじつによく通ってくる。それも梅若万紀夫や友枝昭世と、こっちとの好みも合っている。足代が大変ですと聞いている。そうだろ
う新幹線の往復で三万はかかる。しかしこういう女性は決して少なくない。男性で気軽に東海道をまたにかけて、芝居の能のという人は、それが商売の人以外に
はいない、わたしの周りにも。女性は元気で御金もあるようだ。
それにしても囀雀丈の手紙のテンポにはついて行けないほどの勢いがある。ピンからキリま
で芸人さんの評判である。徹している。どうすると数年でここまで成れるのだろう。幸か不幸かこの雀さんの顔を見たことがない。ひょっとすると歌舞伎座や演
舞場や国立劇場で隣同士であったかも知れない。作者と読者というのは、その辺が面白い。あ、あなたが。あ、秦さん。そうなってから、どうなるのか、小説に
なりそうである。
* 電子メールも、パソコンでなくても携帯電話ででも
出来るようになった、と、四国徳島の読者が、二百五十字限度のメールを、朝に昼に晩に送ってくれる。字数が限られると「詩」のようになる。いや、梁塵秘抄
の「今様」のようでもあり、閑吟集の「小唄」のようでもある。閑吟集の大のフアンであるこの婦人は、自分を「花籠」と名乗り、わたしのことを「月様」と呼
ぶのが、もう何年もの文通の常になっている。なんだかくすぐったいが、浮世離れして面白い。彼女の拠ったもとの小唄は、閑吟集を代表し締めくくる秀吟であ
り、また、わたしの理解に拠ればじつにエロスの魅惑に富んでいる。
花籠に月をいれて もらさじこれを 曇らさじと もつが大事な
どんな人で幾つぐらいの人かも、幸か不幸か知らない。徳島はあまりに遠い。向こうからの
メールもこっちからのも厳格に二百五十字以内に限られたまま、月様 花籠さんと、詩のような今様のような小唄のようなやりとりを続けて行くとして、さて、
そんなロマンチックな擬似ないし真性の恋愛風土をも、もうやがて官憲は自由にのぞき込み、傍受できる、傍受するぞ盗聴するぞと言っている。
法律が出来てしまい、反対ももう手遅れのようである。世界を転覆させる意図はないが、世
間には背きぎみに生きて行くに違いなく、甘い囁きのそれが怪しからんと、メールを勝手次第に探り読まれることになる日々が、現にありあり危ぶまれる。囀雀
さん、花籠さん。なんと迷惑ではあるまいか。怒ってくれ。怒るだけではだめだ、今度の選挙でこそ自民党政権を潰したい。
* 佐高信さんの近刊を家内が夢中で読んでいる。面白
い面白いと近くで謳っている。いいことを言い、わるいやつらを徹して叩いているのは事実で、いい本であることは本当だが、だんだん読むのが辛くなってき
た。選挙に結びつかない限り、負け犬の遠吠えのようなものさと言われてしまうが、選挙の機会は遠のいた。それに選挙になんか行くものかとトクトクと言う連
中が多すぎ、その中にインテリと称しているニセインテリが多いから、いやになる。むかし舅のわたしに、選挙になど行ったことはない、無意味ですよ選挙なん
かと言い放った婿殿がいた。これは、クズだ。青山学院で国際政経学科の先生をし、平然とルソーのモンテスキューのと政治哲学を教えているそうだ。たまらな
い。
佐高さんの言葉がその辺の連中にまで効果を上げない以上、虚しい憤りはすこしもおさまら
ない。で、わたしは、バグワンを読み、宇津保物語を読みふけり、それでもやっぱり盗聴法阻止の手はないか、ペンクラブと文芸家協会共同の抗議声明が出せな
いものかと、協会側の電子メディア委員に内々に打診している。日本の国を奈落の餌食にしてしまう気はしない。
* 六月六日 日
* 完全に徹夜し所用を終えたときは、すっかり、日も 高い八時前だった。無駄なことであったか、のちに思い出し、しておいてよかったと思うか、悔いるか分からないが、やり過ごしてはならぬと思うことをしたの で、しなければ悔いたであろう。父として真裸で息子にものの言える機会は少なくなって行く。考えていること、考えてきたことを知ってもらって、そして励ま したい。そう思った。疲れはてて夕方まで寝た。
* 通信傍受法の問題点、九日の電子メディア対応研究
会=電メ研で話し合わざるをえない。明日の言論表現委員会でも大きな問題になる。どうも手遅れかなと言うくやしい思いを追い払えないが、参議院審議にはぶ
つけたい。私は、出来れば文芸家協会の電子メディア対応委員会と合意の案文をつくり、ペンクラブ梅原猛会長、文芸家協会江藤淳理事長連名の抗議声明が欲し
いと思っている。だが打診してみたが、文芸家協会は職能団体なので馴染まないと反対している委員があると聞いた。職能をも甚だしく脅威に晒すはずなのだ
が。
私は、この昨今は、最期の近衛内閣時代にちかいようなおそれを抱いている。杞憂であれば
いいのだが。とにかく明日からまた忙しい。
* 泉涌寺来迎院の縁側がとても懐かしい。現実の来迎
院と作品の中で描いた来迎院とがどこから夢とけじめもなく溶け合っている。朱雀先生もお利根さんも慈子も、わたしにすれば、現実の人たちとすこしも変わら
ず実在していて、現実の人たちよりも遙かに手づよく確かに懐かしい。そういう世界がなかったら、わたしは、所詮生き永らえてはこなかったと思う。支えられ
ている。それを幸せだと思う。身内を書いて身内を得てきた。絵空事の不壊の真実。むかし、その意味を知りたいと何度もわたしに質ねた人がいた。その人は元
気であろうか。
* もう人の顔も識別できなくなったような病み衰えた「先生」に、今生の見納めに、どうか
一目会いに行きたいと思うが、それは「エゴ」を満足させる行為だろうかと、「ひとりごと」で遠くから問うてきた人がある。つらい思いで読んだ。「ひとりご
と」でこう答えた。
* 父の違う兄の一人に生涯でいちどだけ会いました。
優しい紳士でした。その後も文通がありましたし子どもたちにもよくしてくれました。ガンで亡くなる間際に逢いたいと家族が大阪から伝えてきました。わたし
は行きませんでした。わたしのエゴでした。縁薄く共に暮らさなかった兄の只一度の温顔を大切にしたかったから、です。兄の希望に反して、自分の宝を捨てな
かった。
何度も、そのことを考えてきました。その時に浮かぶのは兄のいい顔です。それをわたしは
喜んでいますが、兄は失望して亡くなったでしょう。兄の遺族とは文通だけが続き甥や姪とも会ったことはありません。兄の柔和に優しかった表情は、そのまま
今も生きていて、いつでも対話できます、わたしの「部屋」で。
仮定として、わたしがいつかの日、深く愛した作中の「慈子」のような人が、同じように
行ってきたならわたしは死の床に馳せつけるでしょうか。正直のところ、答えは出てきません。来てとは慈子なら言うまいと思えるぐらいです。
ではもしわたしがそうだとしたら、慈子に来てと言うでしょうか。言いたいかも知れない。
言うかも知れない。しかし、それが大きな「喪失」であることは事実です、「死なれた」者にとって。病み衰えて極限にある人との対面は、多くの記憶に匹敵し
て打ち勝ってしまうかも知れない。
もしあなたのいう自分の「エゴ」が、或るなにらかの「清算」「思い切り」「けじめ」を付
けようとする動きを秘めているものなら、凄みがある。
「見る」というのは強烈な行為です。日本語では、見る・見られるは決定的な意味を持って
いました。見て欲しくない、見られたくないと思っている人を一方的に見てきた男たちの世の中がありましたね。侵し=レイプです。
あなたの心根に、侵してでも「きまり」をつけ、「自己満足」したいものがあるとして、そ
こで得られた満足とは、つまり「きまり」をつけた「清算した」意味でこそあれ、美しく佳き記憶の保存とは無縁でしょう。清算を願ったりしていないのなら、
逆に「自己崩壊」を敢えてすることにしっかり繋がりかねないでしょう。ご本人が呼んでいる求めているのでないならば、よけいに。最も辛いし見苦しいかもし
れぬところを目がけて「侵し」を敢行するのですから。
問題は、満足を求めているあなたの「エゴ」は、愛で動くのか侵しで動くのか、どうなの
か。あなたは迷わねばならない、それが地獄というものです。
* わたしの苛立ちが言わせたか優しさが言わせたか、
わからない。人は、してしまう存在である。喜怒哀楽はそこから生まれるが、救いは遠い。バグワンを置きみやげに飛び去った娘に感謝している。
* 六月七日 月
* じつは七日のもう午前二時半になろうとしている。 言論表現委員会は盗聴法について専ら議論した。徹底反対の表明以外にも手を打ちたいと図り、つい先刻、その具体案が形になって届いた。検討して賛成の返事 を送り、さらに委員長猪瀬直樹氏の電話も受けて、打ち合わせた。まだここに内容を公表はできないが。新委員がこのところ数人加わり、今日の議論はきわめて 活発で均衡のとれた結論へ導かれたと思っている。ことは緊急を要し、事態は深刻だけれど、粘って最善を尽くしたい。ペンクラブ執行部が敏捷に反応してくれ ることを切に望む。
* ビルの海の標高高い海峡に沈み、海の幸に酔うてき
た。
* 六月八日 火
* いやなものが鏡に映っている。どんなものであれわ
たしという鏡の前にきて移っている以上、曖昧でなく映し出したい。盗聴法もそうである。西欧の厳しい法運用と日本とは比較にならない情報開示のもとになさ
れている。その事実には都合良く頬被りし、公聴会を初めとする法案趣旨の国民的な徹底を、欠くというより無視しての通信傍受法の衆議院駆けぬけの通過で
あった。自と自との公明を抱き込んだ、老獪で狡猾な手口だった。一切の修正を受け付けずに、参議院も数で簡単に押し切る構えは固く、それは自民政府にすれ
ば沖縄サミットへの生け贄の提出至上命令なのであり、公明党にすれば池田大作の脛に傷をつつかれずに政権与党へ潜り込み、大臣のポストにありつこうという
執行部近辺の野望の結果にほかならない。何が何でも参議院を無修正で突破する腹は固まっていて、正直のところ手遅れかと臍をかむ思いだが、ただ見送るよう
なことはすまいと思う。
破防法の昔、法律は通ったもののずいぶん反対に頑張った。がんばったからこそ、法の発動
に、運用に、かなりの歯止めをわれわれは掛け得てきた。
通信傍受法など、ほんとうはデモがかかり国民的な運動が起きていいほどの大事であり、し
かも反対の筈の社民、民主、共産、みな歯がゆいほど動かない。
* 通信傍受法などといわずはつきり「盗聴法」で何故悪いかと誰かが新聞に書いていた。通
信はもともと傍受するものではないのだから、それが当たり前のような法の名称にごまかしがある。情報公開法といいつつ、平然と情報秘匿法、情報公開限定
法、情報公開禁止法のようなものを法案化してきた政府与党であった。私は、法律の名前には必ず、どの法律でも、頭に「国民のための」と明示するよう憲法に
謳ってほしい。「国民のための情報公開法」「国民のためのナントカ法」と。今のままでは実質「国民を縛るための」法ばかりが起案されて行く。こんなに危険
な内閣が戦後五十五年間に有ったろうか。
* 永井荷風を慕いつつ永井荷風であっていいものか
と、悩ましい。
* 六月九日 水
*
「群像」とかいう雑誌で、わたしのことを「商売上手」と言う人がいたそうです、これには、びっくり。「湖(うみ)の本」のことをいうのか、何をいうのか判
りません、片言の伝聞なので。或る人の知らせによれば「悪意」に満ちたものとか。その種の刊行物とは無縁に過ごしていますので全然知りませんでした。と
ばっちりで一緒くたにされたらしい黒川創にはじつに気の毒ですが。
ほんとに商売上手なら、まず湖の本のような、労は過重で、うっすら出血続きの出版物など
出さずに済ますでしょう。もっと如才なく、文壇と出版社会を頭を低くして世渡りしているでしょう。わたしには出来ない。職人だった父譲りで至って商売は下
手です。
自由でいたく、文芸出版から遠のいて、孤立を楽しむように生き延びてきたわたしのこと
が、癪に障ってならない世間のあるのは、知っています。第一、いまのわたしには書く「場」も出す「場」も無いに近いし、それも、自分でそこへ導いたと言わ
れれば、実はその通りなのです。それでも潰れてしまわず、仕事は年々積んできたし、今度は誰の手も届かない「ホームページ」という場で、好きにものを言っ
たり書いたりしています、それがまた腹立たしいらしい。
どんな短い小さい仕事でも、わたしはきっちり書いて、手抜きはしてこなかった。「商売上
手」な読み物など一切創らなかった。読者はよく知っていて下さり、だから「湖の本」が十三年も経って、六十巻も出て、まだ続くのでしょう、一年と保たない
と言われたものですが。
万に及ぶ大小の原稿を書いてきましたが、毎回答案を献じている気の、例えばわたしの太宰
治賞に満票を投じて下さった選者の先生方、井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫の何方に対しても、恥じ入るような一点も混じって
いないと信じています。商売上手では、できないことです。「カンカンガクガク」のあなたは、どうですか。
こういう世界では十人が十人、同じ事を言いはしない。毀誉褒貶半ばというのがやはり真実
で、褒められすぎはどこか臭いものです、思惑が絡んでいる例が多い。タイコモチやゴマスリは文芸の世間でも、どこの場にもいます。わたしはどんな偉そうな
人にも、是々非々で通してきました、今もです。編集者にも出版社にも、です。
読者が「五百人」もいると僻まれたという泉鏡花が好きですね。己を持して、卑しくない、
いい仕事をつづけることが大切だとわたしは思う。創作は、気稟の清質を世に問う仕事です。分かる人は、分かる。残念だが、だが、数少ないのが本来のように
思っています。古典ならぬ今々の本が、無数に売れるなんて、なんてウサンくさいことでしょう。
芸術としての文学、つまり純文学創作を取り扱う出版・編集個々人の世間は、残念ながら想
像以上に俗世間です、昔よりもますます恥ずかしいほどに、金の論理が先行どころかほぼ全面を覆っています。広告を出して下さるなら雑誌は何でもやるそうで
す。宣伝で文学の質を捏造してすらいます。
書き手は、そういう企業の「非常勤の雇い」の境涯にあるから、けっして自由にばかり生き
てゆけない。わたしも不自由にフンガイしながら永く生きてきて、そこから、断乎、意図して抜けて出た。自分の作品を守ってやりたかった。そして自分で自分
の道を「出版社会」で塞いだのです。いわば出世間したのです。
負け惜しみなど雫もありません、創作者は、魂の色の似た「いい読者」に出逢うことが願い
で、稼ぐことではない。それは付随してついてくるだけの、いわば副賞なのです。わたしにも副賞が十分あったから、今、誰の掣肘も拘束も受けることなく、煩
わしいことは落としてしまい、思うさま書き続けられています、器械で、ペンで。
しかしそんなことは、言ってはならないタブーなのです。わたしはそれを言い、「非常勤雇
い」での商売を、商売上手な世渡りを、蹴ったのです。無謀な反逆。許されるわけが無く、悪声を放たれる。あいにくと私には届かない、なにも見ていないから
ですが、わざわざ届けてくれる人がいます。しかし、何故あって耳を洗いたいような汚い言葉が聞きたいでしょう、耳を寄せてまで聞こうとはつゆ思わない。勝
手にやってくれ、です。
有り難いことに「不徳ナレドモ孤デハナイ」のです。わたしは、わたしの悔いのない言葉を
「闇に言い置く」ばかりです。
わたしは、自分ではみ出た。追い出されたのではありません。しかし、昔の誰かのように、
サボテンを育てて過ごす気はないのです。
東工大教授に引っぱり出された数年を栄誉とまでは思わないが、優秀な学生諸君と出会い、
コンピューターを使えるように指導してもらえたことを、今、心から有り難いと思っています。「ホームページ」という、この「原稿用紙」この「発表の場」
は、世界へ開かれ、無限にちかい原稿「量」と読者「数」を約束してくれています。
べつに、今そこでお金を稼ぎたいと思っていないから、少なくも未だ有料化も考えていませ
ん。考えるかも知れません。
大事なのは「量」や「数」に見合う、文学の、文章の、文体の「質」です。私に必要なこと
は、厳しい上に厳しい自己批評です、その点で甘くならないようにと、いつも頭を垂れています。むろん、ホームページだけが私の場ではありません。雑誌や新
聞の連載があります。普通の本も乞われれば何冊でも出しますし、出して来ています。
それにしても、わたしのそばにいると、この社会ではトバッチリを喰うおそれがあり、現に
甥がやられたようです、気の毒に。ヘンなのは政治や社会だけではないことが、よく分かります。常識の顔をしてヘンなのは、ハタ迷惑です。
* 今日の電子メディア対応研究会は、後半に、文字鏡
研究会から谷本玲大氏を招いて話を聴いた。今昔文字鏡の経緯と特色と長短が実例をあげて話され、研究会にはなかなかの勉強になった。おまけに『パソコン悠
々漢字術』という本を全員にお土産にいただき、今昔文字鏡も一部研究会に戴いた。どんなものかも試みたく座長権限を行使して持ち帰ってきた。じつに根底的
な仕事であり、創始された古家時雄氏に敬意を表する。素人にどの程度日常操作できるものか、慣れてみる必要がある。
それにしても「文字コード」ではない。「文字セット」である。単漢字八万字、コードが
振って有るのではなく、そこに短もあり、説明によれば長もありそうだ。原則的には可能な限り「コードが与えられて行くのが原則」としての方向だと思う。た
だ一気に行かないと言われれば分かる。とにかく「文字鏡」ソフト、使ってみようと思う。面倒すぎればいやだなと思うし、原則から目を背けたくはない。
* 漱石の『草枕』を読んでいると、これは「文字鏡」
にもどうかなと思うくらい、いろんな難漢字が出てくる。少なくも現在の文字コード漢字には入っていない、したがって、作品を引用しながらの論文や批評など
はとても自在には書けないおそれがある。確実にある。何万が必要なのではない。こういう個々の無視できない文献や作品が、再現できることが肝心なので、知
識と情報を多量に持つあまり、自分でああ言い、またこう言い、一人芝居を演じてかき回してばかりいる議論から早く脱却し、これは大丈夫、これも大丈夫と、
迂路のようでも着々とした「具体的検証」で必要な漢字や記号を確認したいと、私は思う。やはり思う。漱石の『草枕』みたいな、グレン・グールドのような外
国のピアニストも愛読した古典でもあり現代普通の名著すら再現できない状態では、話にならない。
言っておくがマーケットで通用するような文字でない。しかし『草枕』の文字である。工業
規格だけでものを言われては堪らない。
* 伝聞ながら「悪意に満ちた」文章が出ていますよと
聴き、一文を書いてみたが、ばかばかしいと思う。わたしにものが言いたければ、わたしのメールに直に言ってくるがいい。
この間の怪文書も、聴けば、でたらめなドメインでもメールとして送れるのであり、あれは
ハナからイタズラなでたらめですよと教えられた。そんなことも分からない。道理でこっちから送った返事は受取人非在ですぐ戻されてきた。
* 六月十一日 金
* 神学者の野呂芳男さんが保谷の宅までお出で下さっ
た。久闊を叙しお互いに大過なく健康であることを歓びあった。文庫本『慈子』の解説者であり、久しい心の友であり知己である。この方と話していると静かに
なれる。娘の朝日子もふくめ一家で敬愛してきた。結婚前の恋愛で悩んでいた娘は、わたしにも勧められ、野呂さんのもとへ胸中をさらけ出しに出かけたことも
ある。野呂さんは作中の「慈子」を親族がさようはからったのと同じに、アメリカに留学させてはと勧めて下さり、本人もその気になっていたが、わたしは賛成
しなかった。結局恋愛をすてて見合い結婚を娘は選択した。夫は筑波の技官を経て、青山で教鞭をとっている。子どもも
二人(だと思うが)でき、娘にはそれで良かったのであろう。娘がそれで良かったのなら、やはりそれで良かったのである。
孫は姉がもう中学、妹は小学校に上がっているが、記憶にあるのは上の子が幼稚園にいて、
下の子はようやく掴まり立ちした頃である。娘とも孫ともそれほど永く逢っていないし、現在の住所も知らない。分からない。野呂さんは、たぶん、それを案じ
て来て下さったのに違いないが、わたしも妻も、野呂さんのようないい方を「所詮不毛」の地へ煩わせる気になれず、仲介を辞退した。孫たちの意識と日常か
ら、一組の祖父母を不自然に「削除」したような現状は、孫たちにもわたしの妻にも、むろんわたしにも、じつに可哀相で不幸であるが、余儀ない不幸に目前を
阻まれることは、それも人生の一風景で珍しくなく、わたしたちからは所詮「手」の施しようが無い。
* 今朝の五時頃に息子が車で隣り棟にきて、わたしの 部屋で昼前まで仕事をし、夕過ぎまで寝て、飯を食い湯に浸かり、電話を相当あちこちに掛けまわしておいて、器械の前にいたわたしに「父さん、戻るよ」と階 下から声をかけて、五反田の自室へ帰っていった。終始和やかでもの柔らかで、多忙を極めているらしいが、殺伐と興奮していないのがとても気持ちよかった。 プロダクションに籍をおきマネージャーがついてくれることになり、さて、どんな舞台やテレビや映画の仕事が出来るのか、楽しみにしたい。孫はとても出来そ うにない。
* 元東大法学部長の福田歓一氏からも青山の元学長内 藤昭一氏からも湖の本新刊の『中世と中世人』にいいお手紙をいただいた。上野千鶴子さんや野島秀勝氏や近藤信行氏からも、いいお手紙をいただいた。こんな 風に挙げればまだまだ際限ないほどお便りが来ている。全国各地の大学研究所からも配本受領に添えて、漸く、定着し期待していて下さる返書が多い。これで六 七回合わせて計三十冊近くを寄贈してきた。どっちみち出血するのなら、識ってもらうのがよかろうと思ったのである。本で家が傾くのも困る。
* さて、小渕政権には困った。恐ろしくなってきた。
彼がかつて掲げて見せた「平成」の二字が、日本の大暗転の予告だった気がする。国民の背番号をつけ、盗聴法で管理し脅し、情報は屁理屈放題で秘匿し、公明
党を大臣のアメと証人喚問のムチで共犯関係に引きずり込み、民衆の拓銀は潰して政治家の隠し金を満載した悪徳銀行は必死で庇い続ける。大君ならぬ「外つ
国」を盟主に日本列島と日本人を「醜の御楯」に供出しながら、国歌の国旗のと「法制での強要」を実現して行く。
破防法の昔なら、先ず学生が立ち組合が立って抵抗した。そういう気力をもう日本国は擦り
切りに擦り潰してしまったのか。「日本から脱出したい」と本気で言う若い人もいますと野呂芳男さんは言われ、もう二度と戦争に巻き込まれることは有るまい
と信じていたけれど、そうは言えない情勢ですねと真顔になられた。わたしも、そう思う。
* 参議院の自自公議員と無所属議員に日本ペンラブは 質問状を送ったが、我々の電メ研は、広く世論に投じた真正面の緊急声明を重ねて出すべきだと意見が整い、下記の案文を用意した。理事会は重ねての表明に難 色を示すかもしれない、分からない。緊急に訴えたいことなので、あえて此処にも挙げておく。未決であり、ただ今の段階では「私案」であり、私の意思であ る。断っておく。
* 「通信傍受法案」に対する再度の緊急声明 案文
「通信傍受法案」が六月一日の衆議院本会議で可決さ
れ参議院での審議が続いているが、(日本ペンクラブは)重ねて本法案につよい反対を表明する。
本法案は国民のプライバシーや思想・言論の自由など、憲法の保障する基本的人権を明白に
侵害するものであり、国民の合意を得る議論も尽くされぬまま強行されようとしている。少なくもこの二点において、(日本ペンクラブは)本法案を断乎認める
ことができない。
本法案は、まだ犯罪が発生していない「将来の犯罪」に対しても適用され、現在の捜査概念
を覆すものである。また別件傍受も安易に認められ、「通信の秘密」に守られた従来の国民生活を大きく変更させ無用に侵害するものである。
加えて電話傍受のみか電子メールの傍受も認められることは、将来、誰のいかなる通信にも
恣に適用されると考えられ、信頼に成り立つ企業・学術通信、市民間の受発信を根源から破壊するものである。
良識の府、参議院での廃案を切に希望する。
* マスコミもジャーナリズムも、どうかしていないか。サッチーのなんのとうつつを抜かし
ていていいのか。世論を、小渕自民の意のままにかわすつもりの政権与党に、本音は、協力をしている積もりか。
* 六月十二日 土
* 三好徹氏のエッセイ集『旅の空 異国の夢』の冒頭
の方で、井上靖の思い出が書かれていて、懐かしいだけでなく、思わず涙が出た。三好さんが井上家を訪ね世界ペン大会に関する打ち合わせなども済ませて辞去
しようとしていたとき、井上さんが電話に呼び出され、やがて見たこともない顔色と表情とで戻って来られたという。何度かお邪魔していた井上邸であり、お二
人の様子が目に浮かぶ。
電話は大岡昇平からだった、三好さんがはっとしたのも当然で、井上・大岡両氏は歴史文学
論争で文壇も目をそばだてていた。その最中の大岡さんから井上靖に直接の電話であったのだから。
電話の内容は、「核状況下の文学」と決まった日本での世界ペン大会の主題に対する心から
の賛意と、ぜひ成功させたい、井上会長の折角のご尽力を願い自分も応援したいという趣旨であったとか。井上さんは嬉しそうにブランデー・グラスをゆっくり
傾け、三好さんも事の次第に感動されたという。これは二人だけのことにしておきましょうと、例の温顔に笑みをうかべて三好さんと約束され、三好さんは井上
靖の追悼文ではじめて秘話を披露されている。
披露してもらえて、ほんとうに良かった、わたしは嬉しかった。いい話ではないか、お二人
に何の成心もなく、これはこれ、それはそれであったろう。
こういう実話に触れると、芸術の世界で生きているよろこびを噛みしめることが出来る。
* 派遣法の成立が言われてきた。臨時職員の安易で安 価な採用が、正規職員の労働負担を助けるよりも、正当な権益を揺るがしてしまうことを、かつての労働組合はよく見抜いて、むしろ臨時職員の正規化をすら要 求し、共同で労使交渉の場へ出て行こうとしていた。いま、そんな労組の力は無くなっている、そこへ臨時採用派遣職員の合法化を図るというのである、これは 限りなく労働者の首切りを可能にして行く経営優位の対策である。ひどくなれば、企業に正規採用社員は派遣職員のほんの一割程度の管理職だけになるかも知れ ない。この間まで俳優座で演じていた「ロボット」という芝居が彷彿とする。とめどもなく押せ押せの小渕自民政権に、ビックリしたなぁモー、で済ましていい ものか。
* 資本家と労働者などという「階級」対立なんか、も
う雲散霧消している。今は、階級差を成り立たせているのは「権力」としての「テレビ」である。つまり「テレビに出る人たち」と「テレビを見るだけの人た
ち」が、鋭くとがった頂点と広い裾野をなして断絶して向き合っている。日本の国の運命は、「テレビに出る少数」の底意ある口から出任せのようなコメント
に、ただただ鼻面を引き回されている「テレビを見ているだけの大多数」の平和ボケ、によって傾いて行くように見受けられる。
だが「テレビ」を資金的に支えているのは「広告」以外になく、傾く運命の背後には、やっ
ぱり資本の意向があり、与党の政治もいつもその献金に期待している以上、こういう現状に対抗するには、やはり「労働する」市民・私民が再結束する以外には
無いのではないですか、どうですか、土井たか子さん?
* 『寂しくても』の推敲作業が「創作欄二」の三分の
一あたりまで、進んだ。最終の仕上げにはもっと手を掛ける気だが、知られざる一画家を介して芸術創造と生活という古くして新しい問題につっこみを掛けたこ
の新作は、地味だけれど、私の新たな探求として実って行きそうな手応えを感じている。
関連して、今、ゲルハルト・リヒターの『写真論・絵画論』を調べているが、興味津々。今
橋映子の『パリ・貧困と街路の詩学』からも好刺激をたくさん得ている。
* もう一度紹介しておききたい。
* ユングはこう考えている。
太陽が上昇から下降に向かうように、人生の前半で一般的な尺度によって自分を位置づけた
後に、自分の本来的なものは何か、自分は「どこから来て、どこに行くのか」という根源的な問いに答えを見出だそうと努めることで、死の受容に取り組むべき
だ。それは、下降することで上昇するという逆説を経験することで、大きい転回の為には相当な危機を経なければならない、と。
* エレンベルガーはこう考えている。
偉大な創造的な仕事は、中年における重い病的体験を克服しようとして、自分の内界の探索
を行った後に展開される、と。
* 紙と活字の時代はまだ衰えるところまで来ていない
が、内容的には退廃と衰弱と無残とに蝕まれている。好むと好まないに関わりなく、電子文字が大切に機能して行き、ここでは「私」の「志」の活かされる道
が、その気なら見つけだせるし、かなりに確保できる。純文学こそ活路を電子メディアに求めていい時節なのかも知れないと想う。
* 六月十四日 月
* 嬉しいことも辛いことも、ある。
愉快に幸せに若い人の給仕で上機嫌で食事を楽しんだ老人が、すこし足を滑らせて転倒した
まま帰らぬ人になったと、悲哀の限りのメールが届いた。お気の毒に…と、言葉も凍りつく。泣けるだけ泣いておあげなさいと、わたしも、辛い。
通夜、葬儀、いろいろなことが後に続く。煩わしいあれこれが続くので悲しみが紛れるのだ
ということまで聞いたことがある。
父を送り伯母を送り、可愛い猫のノコを見送り、そして母を送った。ろくな親孝行もできな
かった、それどころか、つらい思いを最晩年、みな九十過ぎてからさせた。病院や施設で死なせた。余儀ない理由がどんなに有ったとて言い訳にはならない、気
は軽くならない。ごめんよと謝ってみても今更自己弁護に過ぎない。両親と伯母との位牌を仏壇から身近に祀り替えて、しょっちゅう前を通る。通るたびに下げ
る頭が、このごろ、極く自然になってきた。いつもそこにいてくれる安堵感で、普通に声を掛けていたりもする。
* 学部の三年生を終えた学生が突如として電話をくれ
た。飛び級で大学院にはいることになりましたと。文学概論の教室にいて、なかなか文学のセンスがあった。それにしても一般教養の先生であった私にそんな報
告をしてくれた学生は、それが最初だった。彼とは、何回か逢い、鮨を食ったり天麩羅を食ったりした。博士課程で東大の大学院に移り、白金台の医科研で研究
している筈だったが、私が定年退職後の三年、連絡が途絶えていた。その岩崎広英君の元気できちんとしたメールが、突如、今日飛び込んできた。ああよかった
と、嬉しさ限りなし。ずうっと連絡の絶えずにきた岩崎君の二つ後輩の中野毅君からホームページのアドレスなどを聞いてくれたらしい、みんな、わたしの自慢
の友達である。
近い内に、詩人である、女性の卒業生編集者と逢うことになるだろう、お互いに忙しい中で
折り合わせながら、顔を合わせる。向こうもリラックスして近況やら恋の楽しさやら話してくれる。わたしは、聴く。聞かれたら、話す。
学生同士は、むしろ知り合いでない、年度も専攻もちがう間柄でも、私とは個々に直接親し
い。差し支えない限り、むしろ私の方で情報を伝えることすらある。文壇、読者、知人、そして東工大の若い友人たち。私の生活はこの四つの大きな世間に織り
込まれている。
* 大久保房男氏に『文士とは』(紅書房)を頂戴し
た。一気に読んだ。「房夫様」と手紙に宛て名を書いた或る女性作家への返事に、大久保房夫は「男」でござるとあったそうな。「群像」で鬼といわれた編集長
であり、私は氏が鬼の時代にはつき合いがなかったが、亡くなった上村占魚に下町の鮨屋で紹介していただいた。以来、久しい。湖の本にも、きちっと毛筆の便
りを下さる。そういうことは「新潮」のもと編集長の坂本忠雄氏も同じ、講談社の出版部長天野敬子さんも同じ、元中央公論編集長の平林孝氏も同じで、きちっ
と、その時時の返事が届く。こういう作法は若い駆け出しに近い編集者ほどできない。岩波書店の野口敏雄氏など、必ず全篇を読んでの感想がきちんと届けられ
る。文芸春秋出版部長の寺田英視氏は必ず電話でじかに労をねぎらい励まして下さる。みな昔の「文士」に交わり鍛えられた編集者であり、こういう文士体験の
ある編集者と、今日の編集者との落差に文学の危機も悲劇も胚胎している。
大久保さんの本は、文学とは何事であったか、作家とはどのようなものであったかを、怖い
ほどに語っている。
* 明日はペンクラブの理事会である。
* 六月十五日 火
* ペンの理事会は二つの点で、議論が集中した。一つ は、ペンクラブの「広報」とは何か、一つは通信傍受法への対応である。
* ペンの現在の「広報む委員会は現実には「会報」委
員会に他ならず、会員への通信で事足れりとしてきた。しかし、ペンクラブに必要なのは、会員以外の世間への適切な広報ではないかと私が言い、理事の高田宏
は必要がないとはいわないが、ほんとに必要なのだろうかと疑問符を呈した。森詠理事は高田説にはっきり反対を表明した。なんのことはない、ホームページの
運営を我々の電メ研が担当することになった。現広報委員会にホームページを運用の力のないことは致し方なくはっきりしている以上、誰かがやるしかない。や
れるのは電メ研以外にないのだから、仕方がないと思う。こちらの依頼に応じて各役員各理事に働いて貰うしかない。
とにかく、ペンクラブが「広報」活動を断念したり放擲したりしてどうなるというのか、梅
原会長も腰が退けていたが、ちいさな尽力を積み重ねれば足りるのである。
* 盗聴法については、すでに私の提案で、言論表現委
員会が参議院与党と無所属議員に質問状を呈しているが、条件付き反対の、ある緩やかさを以て質問を作ったのに対し、電メ研委員からは、「条件付き反対は、
裏返せば、条件付き賛成」と取られる、条件が通って修正され衆議院に戻される可能性があるならとにかく、望みの殆ど無い実状に鑑みても、従来声明を踏襲し
た、きちっとした断固反対の態度を再度鮮明にして欲しいという不満が出た。それに応じ、重複を敢えてしてもと、「再度の緊急反対声明」案を提出した。
理事会はやはり「重複しての声明」をきらい、理事会後に急遽「記者会見」し、その場で、
確たる反対の意向を公表することになり、猪瀬理事が言論表現委員会の議員質問状通達について話し、私が電子メディア対応研究会の考え方を話した。
* もう二つ、つぎの会員親睦会で驚くことがあった。
* 一つは若い新理事の女性作家が挨拶をした。その中 で「もう五十年は作家としてやって行くつもりだから」という表明があり、愕いた。わたしは、今年で三十年の作家生活を積んできた。出版した本は、私家版を のぞいても百種に及んでいるが、それでも、もうダメかもうダメかと怖れつつ乗り切ってきた。「三十年間、作家でいられるだろうか」と何度も嘆息しながら生 きてきた。自己批評というものがいつも働いて、これしきでいいのだろうか、もう終わりかも知れないと思いつつ、力と気力とを振り絞ってきた。いとも軽々と 先のように挨拶されてみると、昔の文士たちの呻吟や煩悶や悪戦苦闘がしみじみと思い起こされる。わたしは、可愛らしい女性の怖いもの知らずな昂然とした挨 拶に、正直の所仰天し、もう、こんな場所にはいたくないなと思った。
* 会も果てよう頃合いに、俳優の森繁久弥が現れた。
それと知って司会理事をはじめの浮き足立つことにも、あああ、伊藤整や高見順がいてもこんなだったろうかと、情けないほどに感じた。らちもない猥談ふうの
お喋りを聞きながらの会場の迎合、ペンという倶楽部は、この程度の集まりかと恥ずかしかった。巖谷大四氏が森繁に声を掛けて近寄って行かれ、ちょっと、み
なが呆気にとられたが、この文芸の世界での久しい功労者であり業績を残されてきた長老への、森繁の態度も、会場の反応も、痛ましいまでに軽かった。巖谷さ
んを知らないのである。知らないのは無理もないとして、森繁自身は知らないわけが無く、また司会の理事たちもよく知っている。それなのに、対応は拙劣で
あった。わたしはただの闖入者・妨害者めいてあしらわれた巖谷さんが気の毒に思われた。
会の果てる前に巖谷さんと一緒に会場を出て、西荻のお宅まで送った。車の中で巖谷さん
は、もっとも印象的に懐かしい作家の一人は佐多稲子だと言われた。きりっとして美しい人だつた。井上靖も大の佐多さん贔屓だった。もう一人、逢うことは出
来なかったが、芥川龍之介には一度逢いたかったなあと巖谷さんは呻いた。「文士」の世界があった。必ずしもわたしはそれだけを全面的に懐かしがりはしない
が、ぽっと出てきた女の子が、当たり前のように五十年は作家でやれると信じている強心臓にもくみしない。これだけでも昨今の編集者に、痛烈な力のないこと
が推量出来る。臼井吉見、巖谷大四、杉森久英、大久保房男、酒井健次郎、近藤信行。この人たちの時代を知っていた編集者が、企業にみな飼い慣らされ、ただ
もう大人しくなって重役に収まってしまったかと思うと、淋しいとしか言いようがない。
* 李恢成がペンクラブを脱退した。どんな理由があっ
たか、理由はあるらしいが伝えられなかった。なにとなく、今日それと知って、意味のない事ながら、反射的にとても羨ましかった。
* 六月十七日 木
* 昔、帝国ホテルにいた河合佐一郎氏は、正月まえに なると鉢植えの梅を下さった。よう上手に育てないので、数年、花を楽しんでのちは、次々に土に下ろして育つに任せてきたのが、実をつける。ぽとぽと落ち る。それを拾ってきて盃に一つずつ入れ、机に載せていると、くんくん香る。だんだん熟して色づいてくると、つよく匂う。いまも目の前のカラースキャナの上 に二粒のっかっているのが、すっかり濃い黄色になり、熟れきって、匂う。
* 明後日は桜桃忌。例年、うまい佳いのを買ってきて 食べる。昔は三鷹の禅林寺まで出かけていたが、近年は桜桃を食べて記念の日を送り迎えている。三十年経った。受賞したときに、三十年も作家を続けられてい るだろうかと本気で夢のように頼りなく思っていた。感慨、それは、ある。昨日のことのように思い出せる。だが、それはそれだけのこと。
* 上村松園について好きなテーマで好きな分量だけ書 くようにと依頼されている。こんな頼まれ方は珍しい。一人の人物を書くと言うことでは、近代人では松園が、谷崎に次いで多いようだ、わたしの場合。随分何 度も書いている。同じことになるが、ひとまとめにしておここうかという気になっている。好きな絵は、娘深雪、天保歌妓を頂点に何点もある。
* 暑さに、もはやバテている。
* 六月十八日 金
* 久方ぶりにホテルオークラまで新潮社四賞の記念
パーティに出かけた。書きかけた原稿の、メドというか方法が立った安心から出かける気になった。虎ノ門は必ずしも我が家からは便利でないが、家族で泊まり
がけでプールを利用しに、子どもの小さい頃は毎夏のように出かけた。若い日の女優宮本信子にプールサイドで出逢ったこともある。まだ今のように有名ではな
かったが、上手な人という印象を持っていた。まだ伊丹監督と結婚していなかったと思う。
ホテルオークラは食べ物が美味い。新潮社のパーティは、口いやしいことをいえばオークラ
の料理というのがメリットで、立食では殆ど食べないわたしも、オークらなら食べに行こうかなと気が動く。受賞者にも主催社にもなんだか気の毒である。
もう一ついやしいことをいえば、新潮社のお土産が、昔からゴデイバのチョコレートで、こ
れが好物。バレンタインデーのたびに名無しのゴディバが、五、六年も、きちんきちんと贅沢に凝った包みで決まって一粒ずつ送られてきたが、名無しのチョコ
は物騒で食べなかった。名乗ってくれれば安心して有り難く賞味しただろうに。
ともあれ、オークラでワインに合う食べ物を丁寧に選んでは口にして、ほどよいところで出
てきたが、オークラのあとでは、遺憾ながらよそでは食べた気がしない。しかし、ある店で、コーヒー酒というのがあり、これは、オークラには無い異色の味わ
いで、わるくなかった。雨で、冷えた一日だったが、アルコールのおかげで寒くもなしに街でゆっくりして、家路についた。パーティーでは、懐かしやかな古馴
染みに何人も会った。大久保房男さんにも梅原稜子さんにも会った。三十年前に絞られた新潮の小島喜久江さんや池田雅延氏、集英社の永田仁志氏にも会った。
作家生活三十年、ということは、彼女も彼らも三十、年齢を重ねているわけだ、自分のことは棚に上げて相手の年を思わず数えていた。ぎゃーと思った。
* マキリップの『星を帯びし者=イシスの竪琴第一 巻』をまた読み始めた。この本を読み始めると、ただちに他界に入り込んで、この上もなく不思議に静かに旅が出来る。ル・グゥインの『ゲド戦記』といいマキ リップといい、こういう愛読書に出逢えたのは幸せだった。いやなことは当面確実に捨て去れる。入り込んだ世界から、もう戻れないぞと帰還を遮られても、わ たしは泣かない。
* 「オーイ、元気カーイ」と呼びかけたら、「ハー イ、元気デース」と、バルセロナから、元気いっぱいの、若い女友達、東工大院卒業生のメールが届いた。「秦恒平さん」と、工大の卒業生の多くが呼びかけて くる。わたしも「京子さん」というふうにいつも呼んでいる。学生と、そんな風に呼ばれたり呼んだりとは羨ましいと、他大学の何人もの先生に言われたが、当 たり前にそのように接してきた。京子さんはドイツに留学してスペインの人と恋をし、覚悟も新たにバルセロナで新天地を拓いている。すばらしくフレッシュな 人だ。不安も苦労もあろうけれど、それに上越す意気と健康を身に抱いている。安心して、遠くで健康をだけ祈っていればいいのだ。あったりまえの話かも知れ ないが、要するに、重い責任の掛からない大勢の息子や娘をもったわけである。歓んでいい身の幸せである。
* 朝日子の葉うれを洩れてきらきらし という句をえ て、下句も出来ていたのに、忘れた。
* 松園の原稿に次いで、鏡花を「語る」見当をつけね ばならない。いやいや、その前に、「極く侘び」の茶の境涯を主題に、茶の湯の論を立てねばならない。どんな趣向で書けるものか、頭の中を綺麗に掃除しなけ ればならない。
* 名古屋の上のほうから、佳いメールが届いていた。
『草枕』の那美さんのことが書いてあった。好きだけれど友達にはなれないと。友達になれなくても好きで堪らないという人、いるだろう。「いいお友達でいま
しょう」なんて科白が出たら、おしまいだ。
* 六月十九日 土
* 作家秦恒平として満三十歳の桜桃忌である。朝一番
に、山形の芦野又三さんから、すばらしい桜桃の二キロもの贈り物が届いた。有り難いことである。早速電話でお礼を申し上げた。あの地方では聞こえたお蕎麦
やさんである。最上徳内の取材で楯岡へ行ったときに、徳内の子孫にあたる人に案内されて行ったことがあるが、湖の本の読者としては、福田恆存先生の奥様が
紹介して下さった。
雨の似合う桜桃忌である。禅林寺へは去年は妻と一緒に墓参に行った。今年は、これも読者
から報せてもらった上野の西洋美術館へ、新収蔵品のカルロ・ドルチ作「悲しみのマリア図」を観にでかけた。博物館にも、シドッチ神父がはるばる持参し新井
白石も模写している重要文化財の「親指のマリア」と呼ばれる「悲しみの聖母図」がある。西洋美術館の絵は、それよりぐっと大きく、縦楕円の枠の内に描かれ
ているが、一見して全く同一人の筆になると確信したいほど、容貌も衣服の筆致や色彩も酷似していた。こちらがカルロ・ドルチで間違いないなら、あちらもそ
れに極く近いと言える。少なくも極く極くの近親が描いたものと言い切れる。魂を吸い取られそうに二つとも美しい。佳いものが収蔵された、常設展示でしばし
ば観られるなら、こんな嬉しいことはない。
エルミタージュ展は、殆ど期待していなかった。何度も何度もエルミタージュの名を冠した
展覧会に裏切られてきたが、今度も二三流の作品が多く、雑踏のせいもあつたが、しみじみと胸に触れる名作にはあわなかつた。せいぜい数点。むしろ常設展の
ほうが断然佳いもの揃いで楽しめるのだが、妻が人いきれにバテてしまい、辛うじて上野駅の上のレストランで息をついだ。
その足で池袋に戻り、妻も回復していたので、東武美術館で「大ザビエル展」を観て、博物
館から借り物の「親指のマリア」に、また、しみじみと逢ってきた。こちらは銅板に描いた油絵で、小さいが、目にしみる優しさ美しさ、何度観ても感動する。
この絵に、写真図版で出会えばこそ、私は新聞小説の『親指のマリア』が書き切れた。シドッチと白石。二人の人物が相触れた「一生の奇会」に心打たれて書い
た。殆ど正確な資料というものを欠いたシドッチと、比較的実像や著書に恵まれた白石とを、全く対等に交互に章立てして七百枚ちかく書き切れたのも、このマ
リア図への感動が支えであった。カルロ・ドルチの同筆とも言えよう「悲しみの聖母図」に、一日の内に二点出逢えたのは幸福だった。すばらしい桜桃忌になっ
た。
満たされた心地で、久しぶりに東武スパイス最上階の「美濃吉」に行き、旬の懐石で記念の
日を祝った。お祝いにと馴染みの美濃吉がお銚子を一つとお土産をサービスしてくれた。
雨で、ラフな格好ですこし濡れながらも暑くなくて、快適だった。妻も幸い一息入れて頓服
薬のおかげで持ち直し、ザビエル展など、私よりも熱心に観ていた。それも、よかった。保谷駅からの途中に最近店をあけた蕎麦屋があり、もう一度寄って、妻
はせいろ蕎麦を、私は鴨南蛮を食べて帰った。心静かな、いい一日になった。
* 三十年の内には、数えれば大きな出来事が幾つも幾
つも有った。子どもたちが生まれ、家を建て、老人を三人引き取って京都の家を失い、三人とも見送った。実の親にも死なれた。湖の本を創刊し維持し、東工大
教授を無事定年まで務めた。娘を結婚させたことも、息子が演劇等の創作活動に入ったことも、大きい。しかし、何と言っても太宰治賞が舞い込んできたのは、
私たち夫婦の人生を最も大きく変えた、大事件であった。
三十年前の今日がどんな日であったか、未公開の「自筆年譜」から、昭和四十四年六月十九
日桜桃忌の項と、七月十一日授賞式当日の記事、併せて、中村光夫による朝日新聞文芸時評を、面はゆいが引いてみる。もう、これで゛太宰賞からも「卒業」し
たいからでもある。
* 六月十九日、五時過ぎ起床、太宰治『津軽』後半を
読む。九時過ぎ家を出、本郷三丁目「とっぷ」でコーヒー飲み、十一時前筑摩書房着。竹ノ内静雄社長の祝辞を受け、中村光夫、唐木順三の選評を見せてもら
う。打ち合わせの後に筑摩書房の土井一正、中島岑夫、小宮正弘、森本政彦とホテルニュージャパンへ行く。
正午過ぎ、第五回太宰治文学賞の発表会。竹ノ内社長の挨拶で始まり受賞者として紹介さ
れ、李白「静夜思」の詩の「頭をたれ故郷をおもふ」の故郷にふれ、話す。報道各社記者とカメラの前に立ち約一時間のインタビューを受ける。島崎藤村、夏目
漱石、谷崎潤一郎をとりわけ敬愛すると言う。
三時過ぎ、三鷹禅林寺に人垣をわけて太宰治の墓に花輪を献じ、合掌し報告する。桜桃忌会
場で真っ先に紹介されて短く話す。吉村昭と識る。また檀一雄、伊馬春部らと識る。迪子と建日子、持田晴美さんが、桜桃忌会場外に来ていた。五時半頃、吉村
と同車、中島、小宮に送られ禅林寺辞去、帰宅。
NHKテレビ等七時のニュース、毎日新聞、朝日新聞等の夕刊にも報じられ、竹内繁喜、沢
田文子、林路彰ら祝電が相次ぐ。各紙のインタビュー申し込みも相次ぐ。「共同通信」四枚の原稿依頼。筑摩書房は第二作を、(新潮)は七月二十五日までに八
十枚ほどの作をと。
七月七日「展望」に作品発表され、十一日には東京會舘で受賞式と祈念パーティーがある。
* 七月十一日、第五回太宰治文学賞授賞式と懇親パー
テイに迪子同伴で臨む。東京會舘。終生忘じ難い日となる。雨も上がり、実に大勢が見えた。井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫の
六選者。円地文子に「佳い所でまた会いましたね」と祝われた。臼井先生は大病後の車椅子での参加で激励下さる。吉田健一、佐多稲子、井上靖、中村眞一郎、
瀬戸内晴美、吉村昭、加賀乙彦、一色次郎、三浦浩之、金達壽、奧野健男、伊馬春部、田辺茂一、また(新潮)酒井健次郎、小島喜久江、さらに友人の女優原知
佐子、重森執氏、今原夫妻、持田夫妻、星野夫妻、田所宗祐伯父など、加えて医学書院金原一郎社長、長谷川泉編集長等々。とても覚えきれるもので無かった。
筑摩書房社長竹ノ内静雄から賞状を受け、友人代表で原知佐子が花束を呉れる。「太宰賞な
ら三年間は忘れられる事はない。焦らずに」と中村光夫選者代表が懇篤丁寧な選評と紹介のあと、短く謝辞を述べる。六時から八時過ぎまで、一世の晴舞台だっ
た。迪子の嬉しそうなのが嬉しかった。
二次会は新宿「風紋」で、中村眞一郎、奧野健男を囲む体に太宰賞関係の作家や柏原兵三ら
で和やかに乾杯、歓談。十時過ぎて車で送られ帰宅。ともあれ金原社長、長谷川編集長、また筑摩書房の竹ノ内社長、土井一正役員に謝辞を書いて一日を終え
る。
* 七月二十九日、朝日新聞夕刊「文芸時評」に中村光
夫「野心的な『「清経入水』」の見出しで推賛。
「秦恒平氏の『清経入水』(展望)は戯曲ではなく、太宰治賞を受けた小説ですが、風変りな
作風で、今月の小説のなかでも、孤立しています。
平重盛の息子で、『平家物語』によれば、一門の不幸のさきがけとして、豊前柳ケ浦で入水
したとつたえられる清経にたいして興味を抱いた主人公が、この知られぬ公達の事跡を探索し、彼にまつわる伝説をしらべて行くうちに、彼の「入水」を否定す
る見解をいだくようになるのを経とし、そこに主人公の丹後に疎開中の経験や京都における学生生活の記憶などもからませ、歴史と現在の「私」、さらにその生
活と夢とを打って一丸としようとする野心がうかがえます。
「『夢のまた夢でございますなあ』と聴いた海底の声々の主が、……平家の人たちのものと
悟った僕は、……いまは異端の鬼の群に身を絡められた即ちこの僕が清経なのだと知った」
という境地まで、読者をひきずって行く筆力は、もとより今のこの作者にはありませんが、
自己表現の欲求を、たんなる写実や自伝をこえてここまで拡大、あるいは深化しようとする試みは、現代小説の壁を破る企てとして意味があり、やがてこれを実
現する才能と根気を作者に期待したいと思います。」
前日時評で堤清二、井上靖の告白的自伝と私小説を、この日も大谷藤子、安岡章太郎、大岡昇平のいずれも私小説的写実や告白を前に置いて、最後に、それらと
かけ離れた「清経入水」の紹介と批評とで結んであり、一編の時評構成での扱いとして、意味がとても重くなっていることに感激する。「繰り返すが、しかし、
これからだ」と日記に記録。
* その「これから」が早や三十年になった。ここに挙
げた日々が、つい昨日のようであり夢茫々の大昔のようでもある。そして今また言えることは、同じ、「繰り返すが、しかし、これからだ」でしか、ない。過去
は過ぎ去ったのだ、もう太宰賞は「過去完了」にお蔵に入れていい時期が来たのである。佳い三十年であったと、感謝は深い。
* 六月二十日 日
* 終日、上村松園との対話で過ごした。村上華岳、浅 井忠を書いた。与謝蕪村も書いた。書きたい、他にどんな画家がいるだろう。ホームページで現在書いている『寂しくても』の画家は無名画家だ。「ラグーザ 玉」を書きたかった、「川上冬崖」も書きたかった、が、簡単に先を越した人がいた。作はいいとは思わなかったが、気持ちの上で後を追う気がしなかった。 「須田国太郎」「山口薫」「富本憲吉」などを書きたい気が今もあるが、松園や華岳のように行くかどうか。それよりも昔の絵巻に取材してみたい気が、ずうっ と残っている。狐草紙絵巻など。
* 中村真一郎が、「源氏物語を訳するなら秦恒平が一
番だと書いていましたよ」と報せてきた人がいた。中村さんは、私が京都人であることをよく知っていて、源氏は、京都者の性根をよく知ったものが、底意地わ
るく辛辣に訳して行くのが本当だという考えであったに違いない。与謝野晶子も谷崎も川端も円地文子も瀬戸内寂聴もみな京都からみれば異人さんでる。京言葉
で一貫して訳したりすれば、この古典は面目を一新するだろう、へえ、こんな物語であるのかと。出版を保証してくれるところがあれば、やりたいが。これは難
しい。
* 著名作家が、講演会で別の作家を語っているのを聴いても、とくべつ目新しい発見はなに
も無い。血の滴るような作家論が、作品論が、近年、有っただろうか。ばかげているほど、何とか講座の作家論、何とか講演会の作家論、みな、つまらない。自
分が著名であるという満足だけで思いつきを浅く浅く斜めに喋っているだけだ。聴かなくても分かる。聴いたら情けなくなる。十月の鏡花講演がそんなことにな
りかねず心配である。
* 笠間書院が片桐洋一氏の『歌枕 歌ことば辞典』増
訂版を呉れた。こういう基本資料が好意的に贈られて来るとじつに嬉しい。片桐氏一人での編纂著述であり、統一感に優れ、読み物としていつでも呼んで楽しめ
る。なにも和歌の理解にだけ役立つのではない、日本語の組成の秘密の基盤に、こつんこつんと行き当たる。眼か何枚も鱗が落ちるから堪らない。
東工大助手の江上生子さんが『「生命の起源」とロシア・ソ連』という新著を下さった。江
川さんは助手とはいえ、わたしより、十とは若くない、気の毒な言い方をすれば万年助手のまま東工大に籍を置いている学究であり、真摯にいつも励んでおられ
た。こういう変な人事を固定したまま恥じない大学にわたしはずっと不快を覚えていた。頂戴したご本は研究書でも紹介でもあり、「読める」本である。『生命
の起源』がオパーリンの歴史的な名著なのは言うまでもない。足でしっかり稼がれた、血の通った佳いお仕事に敬服する。この方のお名前は「ふゆこ」さんとよ
む。これがまた佳い。
* 二キロの桜桃を、妻と二人で二日間でことごとく戴 いた。こんなに美味い果物に最近いちども出逢わなかった、あまりの美味さに手が引っ込まない。次から次へと、もったいないと思いつつ、味が落ちるのはもっ と惜しいと、食べに食べに食べた。それでも、最後の十粒を五つずつ分け合って、なお残り惜しかった。「ああ、食べちゃったあ」と嘆息し満足した。新潮社の チョコレートも美味かった。
* 立て続けにスペインからメールが来て、楽しくも、
また恐ろしいこともある。ベルギーの食物事故の騒ぎはスペインへも波及しているようだ。院で生物学を専攻していた彼女なりに、強い危惧がたとえば遺伝子組
み替え食品などについても述べられていて、教わることがある。
教わるといえば、東大博士課程の男子院生は「カルシウム」と「蛋白質」との関係について
じつに興味深いことを教えてくれた。専門家にはあたりまえのことも、素人には堪らなく面白い。漱石が寺田寅彦からたくさん聴いて楽しんでいた気持ちがよく
分かる、もっとも居催促でおまえも『我が輩は猫である』や『三四郎』のような小説を何故書かないかと叱られるのは迷惑だ。小説は話の種で書くのではなく動
機が有って書くものである。
* 六月二十一日 月
* 表参道の画廊で橋本博英氏、青木敏郎氏らのグルー プ展、オープニングレセプションに行った。展覧会は予想通りのものだつた。美術評論家の瀧悌三が挨拶したが、いい加減なものであった。乾杯に、もと朝日記 者の米倉守氏が出てきておやおやと思った。久闊を叙した。細川弘司が来ていなくてがっかりしたが、上杉氏、四ヶ浦氏らに会った。出掛けていった目当ての青 木敏郎とも話せた。安定した力の人たちの展示ではあったが、穏やかに分を守って出ずという雰囲気だつた。その気になれば、どれも楽しめる繪であった。橋本 さんの風景がやはり落ち着いていてよかった。青木氏のものも期待通りだった。他は、ま、どうでもよかつた。
* 幼なじみの築山幸子の店が見つからず、銀座へま
わって松屋裏の「はち巻岡田」で岡田椀や菊正の樽の美味いので、十分に満足してきた。この店へは昔に巖谷大四、杉森久英両氏に連れてきていただいた。以来
一人で、時に妻と、くる。いつ来てもしみじみと美味い。酒も椀も美味い。仕合わせな気分で帰れる。この頃は銀座から有楽町線一本で保谷まで帰れるので、な
んとも銀座が近くなった。「はち巻岡田」「こつるぎ」「三河屋」「銀座アスター」「シェモア」「いまむら」「ベレ」「やす幸」そして鮨の「きよ田」「寿司
幸」また「ピルゼン」など、銀座にも好みの馴染みが何軒も出来た。まだ杉森さんが元気だった頃、助言するとしたら「銀座もっと出ていらっしゃい」と言われ
た。巖谷さんも傍におられた。銀座へは妻とよく来るが、奥さんといっしょじゃダメと言われた気もする。
* 六月二十四日 木
* 大阪朝日に六十五枚の長い原稿を送った。無事受け
取って貰えるといいが。
この間に、柳美里の小説に対するプライバシー侵害の有罪判決がおりた。これは、大きな事
件であり、文筆や創作の関係者は真剣に対応していい、歴史的な事件であると考える。ペンクラブの言論表現委員会でも理事会でも、むしろ緊急且つ真面目に討
議していい事柄だと思う。
こういうことを言うと、躍起に、判決に反対のためにと誤解する人もあろうが、私の真意は
まるでちがう。この折りにこそ、文筆や創作と、市民のプライバシー問題について、本気で考え直していい時機が、明治以来はじめて訪れたのだという認識で、
「書く」側がそれを真摯に謙虚に受け止めていいと思うのである。
過去十年の言論表現委員を経験して、何度かペンクラブに支援して欲しいと申し出てきた文
筆家がいた。被害者としてではない。何等かの形でその文筆に傷つけられたと訴えられている文筆家からの支援要請が多かった。私は、ほぼ一貫して、その種の
提議にたいし、「書く」側よりは「書かれた」側に立って発言してきた。「書く」側に思い上がりがあってはならないと考えてきた。
そうは言いつつ、私自身はといえば、どれほど多くの人を「書いて」傷つけてきたか知れな
いと思う。
『神と玩具との間』では、谷崎潤一郎や佐藤春夫や谷崎の三人の妻たちの私信を膨大な数公開
し、谷崎文学と作者との昭和初年を徹底的に検証した。事前に断るべきは断ったとは言え、私をあれほど可愛がって引き立てて下さった谷崎松子さんをすら私は
嘆かせたはずだ。三島由紀夫の奥さんに、あれでは谷崎先生の奥様はお気の毒だと言われたけれど、谷崎夫人はついに私には何一つ苦情を漏らされなかった。私
も遠慮して筆をまげることは一切しなかった。わたしの「谷崎愛」を、松子夫人ほどよく知っていて下さった方はない。そして怺えて下さったに過ぎない。佐藤
夫人にしても、丁未子夫人の遺族にしても、娘の鮎子さんにしても、耐え難いものがあったろうと思う。しかし、結局はどこからも苦情は私のところへ入ってこ
なかった。仕事自体は評価され、或る文学賞にノミネートされていたということも、後に聞いた。
実在の芸術家を書いても、わたしは斯くありし「事実」を重くは見ないで、それよりも斯く
あるべかりし「真実」を仮構する方へ、自分の方法と意欲を傾けつづけてきた。上村松園を書いても村上華岳を書いても浅井忠や正岡子規を書いても、わたしは
「斯くあるべかりし」書き方に徹した。そして、溢れるほどの思慕と敬愛とを書いた。作品が高度に結実することを願っていた。わたしの上村松園は虚構のうえ
に真実像を追い、げすな事実の詮索には向かっていない。松園女史へのそういう敬愛の深さ故にと思いたいが、私の作品は、文学としても高い評価を受けたし、
上村家からも一度も咎められずに今日まで来ている。今日送ったばかりの原稿にしても、朝日新聞社に勧めてわたしへ依頼させたのは上村家であったと聞いてい
る。
そうはいえ、私は、弁解の道もなく、己が文筆で多くの知人知友や家庭を傷つけてきたに相
違ない。我が家族となれば散々である。それを考慮しなかったわけではないが、それにもかかわらず、わたしはわたしの筆を捨ててなどこなかった。
いちばん、私を、この数年独り悩ませたのは、事実を確認できたのではないが、或る家庭に
「離婚」の不幸をもたらしていたのではないかという、確かめようのない「噂」であつた。噂を私に伝えたのは私の中学時代の先生であり、酒席で耳元に囁かれ
た。おまえの書いた小説のせいでとは先生は一言も言われなかったけれど、私は、そう言われていると感じた。四、五年も以前のことだが、確かめようがない。
私は、そのようなことが自分には許されるのだろうかと悩みつづけてきた。
ごく最近になり、そうではない、「その人」はご主人に死なれたようだという噂も耳に入っ
た。これまた確かめようがない。だが、なににしても私には文学とプライバシー侵害の問題は大きい課題であり、考えずにものを書いてきたことは一度もない。
* では、ホームページに掲載し公表している私の文章はどうなのか、創作はどうなのかとい
う現実の問題に突き当たる。それについては、「覚悟を決めて書いている」というしかない。そういう文学の可能性を、少なくもここで自ら殺してしまわないこ
とにしている。
* 早速某紙から原稿依頼が入った。私のホームページ などをよく見知っての上での依頼である。わたしは、書かねばならない、難しい極みのことを。
* 『近世説美少年禄』の「一」が寄贈されてきた。馬
琴の傑作の一つで、長い。古典をとことん楽しめるほど豊かな喜びはない。『日本霊異記』と『宇津保物語』を読み継いでいるが、また一冊を加えよう、就寝時
間が遅くなる一方だが、だれに遠慮もない日々である。ありがたい。昨日今日、酒以外にはお茶しか口に入れていない。堅い腹が、さわって柔らかくなってい
る。
* 六月二十五日 金
* 小雨。帝劇で、『レ・ミゼラブル』を観てきた。劇
場勤めの読者好意の招待で、いい席だった。
小学校五年の秋に急激な腎臓病で危うく命をおとすところだったが、母の機転で丹波の疎開
先から一散に京都へ走り、家にも帰らず昵懇の医院に転げ込んで助かった。秘蔵のペニシリンが効いた。しかし目玉も動かせない絶対安静の日々がつづいた。
やっと落ち着いてみると、寝かされていた医院の二階の畳部屋には、「大人の本」がたくさん枕元の戸棚に並んでいて、はじめて漱石全集のあの装幀にも出逢っ
たし、新潮社の世界文学全集も何冊も揃っていた。『レ・ミゼラブル』はそこにあった。可哀相で、よう読み切らなかった。子供向けの『ああ無情』などと簡約
された本も読めなかった。早川雪洲の翻案映画を学生時分に観ているが、あれも、辛かった。
そんなわけで、いくらか気が重かったけれど、出掛けた。ところが今日の芝居は、台本と演
出と舞台装置がなかなかよく出来ていた。オペラ仕立ての割りに帝劇の音響はむちゃくちゃだったが、一編の舞台劇としては優に及第点。前に観た『マイフェア
レディー』のひどかったのとは大違いに、群衆処理を初めとして人と舞台の動きがダイナミックに要領を得ていた。音声はおおかた潰れていて義理にも上手では
なかったが、それなのに音楽の効果をしっかり保っていた。台本もみごとに出来ていて、しっかり泣かされた。
何としてもカタルシスの乏しいのは、原作そのものの暗い悲惨さのせいで致し方なく、しか
し原作者の意図は立派で、よく伝わってきた。この作品がフランス革命の国で重く尊敬されてきたのは当然であった。わたしが音楽劇が好きなこともあるけれ
ど、それでなくてもドラマとして確立された力を感じられたのは良かった。満足した。
* それにもかかわらず、三時間の舞台を見終わった興 奮には、先日、上野と池袋とでカルロ・ドルチの『悲しみのマリア』図二点を観て得た、あの深い幸せは無かった。明日は、明日は、と人は希望を先送りしつ つ、つねに「明日」に裏切られつづけてきたような、弱気な気分に悩みながら帰ってきた。
* 帰りに、銀座の四川飯店で少し珍しい中華料理と、 大好きなマオタイを二盃。これで沈みがちな気分を持ち直した、が、それでも物憂くて。一つには、八月末までに、「極く侘び」の茶人たちについて、少し趣向 のある文章を淡交社に命じられている。これは右から左には出来ない、集中した思案が要る。つまりその締め切りが、もはやストレスになっていて、それが頭の 中で重いところへ、柳美里小説のプライバシー侵害判決が頭から離れない。避けて通れないが、この踏み絵は厳しい。一気に書いてしまおうと思う。
* 大阪の松尾美恵子さんが、とうとう『異形の平家物
語』を和泉書院から出版した。出版をすすめ、しかし雑誌に連載のままではダメで、何度も何度も組み替えや書き直しを勧め、松尾さんもまた辛抱よく繰り返し
それに応じて、とうとう本屋さんも見つけてきて出版にこぎ着けた。材料が、異本のとくに多い平家物語の中でも「延慶本」だから、面白い。著者からも書店か
らも「帯」を頼まれて書いた。著者と材料とが大相撲の末の、著者の寄り切りで勝ちであった。おめでとうと祝福する。私にはそんな力がないので版元を世話し
て上げることは、はなから断念していた。和泉書院といういい本屋さんを見つけてきただけでもすごいことだ。
松尾さんが、延慶本の研究的なエッセイを書き続けていることを、寄贈されてくる詩の雑誌
でみたのが激励したきっかけだが、どんな人か、文通以外に会ったこともなく、自分より若いのか年寄りなのかも知らなかった。
* 友人で、ながいながい間の読者である本間久雄君
が、ハイティーンの昔に、美空ひばりの名曲「悲しい酒」を彼女より何年も先に歌っていた悲運の歌手の、付け人だったとは知らなかった。テレビがその歌手を
紹介するから観て下さいと言ってきた。そのためにも今日はさっさと帰宅したのだった。
びっくりした。ひばりの持ち歌とばかり思い切っていた歌を、ひばりより先に、三人もの男
性歌手がレコードにしていたとは。本間君が、いい顔でいい話し方で出演していたのも嬉しかったが、一曲の演歌を支えた幾重もの運命には胸を熱くした。本間
君が、もう死の床にいた落魄の歌手のもとへ、口惜しさと憎さとのあまりひばりのレコードを買っていって投げ出すのも、分かる。それを残酷だったと目を潤ま
せたのも分かる。その曲を聴こうとはしなかった歌手の気持ちはもっと分かる。
それにしても、美空ひばりの「悲しい酒」の巧いこと、わたしは、今夜もまたひばりの歌
で、泣いた。「天才」という二字を捧げて心から愛せる歌手は、芸術家は、戦前戦後を通じて「ひばり」しかいないと思い、彼女の命日がちかづくと、決まって
レコードを聴く。ひばりが、ひばりどころか黒い小さい雀みたいだった頃に、わたしは、京都祇園白川の吉井勇の歌碑の辺で、殆どすっぱだかのはだしで、人垣
を潜り抜けて手のとどくような場所からまじまじと見た。一生に一度っきりの逢いであったが、生涯愛した。初恋の人は、「美空ひばり」と言ってもあながちウ
ソではない。人に死なれて心から泣いた、泣きつづけた、ひばりは、唯一の人であった。本間君よ、ゆるせ。
* 大江健三郎が筑紫哲也とのテレビでの対談で、もう
はや余命を数える今となって、もし死の間際にも悔いることはと言えば「戦後民主主義」を守り抜けなかったことだと言ったらしい、これは妻から聴いた。立派
なことの言える人だなと思った。現在ただ今なら、わたしも言う。しかし死ぬるまぎわに、悔いはと聞かれればわたしはもっともっと聞き苦しく見苦しく無念で
あった数々を思い出し、唇を噛むだろう。わたしが「戦後民主主義」をどんなに大切に考えてきたかの、原点は、すっぱだかで美空ひばりに恋をした、あのよう
な体験にある。しかも一度たりと彼女のライヴを聴きに行きはしなかった。それを悔いているし、最期にそれを一つだけ悔いるかも知れない。大江健三郎のよう
には、わたしは言わないだろう。
* 六月二十七日 日
* 柳美里の小説がプライバシー侵害判決を受けて、い
くらか話題になっている。私にも或る新聞から原稿の依頼があって送った。この問題は、決して小さくはない。論調は、なんとかして、これ一つの特異例であり
大騒ぎには及ばない、柳美里だけの特殊例なんだと小さく小さく囲い込もうとしている、が、それがテレビ人間たちの一般論のようだが、それは違うだろう。画
期的に文学の創作や文筆による表現に厳しい判決を突きつけている。しかも珍しく大方が賛成できる判決である。私の耳に判決に対する否定や否認や反論は入っ
てこないし、わたしも賛成である。それにもかかわらず、一人の書き手としてこれを思うときに、問題は小さくない。
わたしは、ペンクラブ理事会が討議のために緊急に集まってもいい、言論表現委員会がそう
してもいいと思った。文学の危機だとばかり、判決に抗議声明するためにではない。この機会に、文筆表現や創作と人権との関係をとくと論じ合ってみるぐらい
な、真摯さが、文学の関係者には必要だと思ったからだ。行き過ぎた報道によって、公然平然と人権侵害が得意顔さえして行われている。編集不信は編集者のな
かにも蔓延しているのだ。
そういう編集倫理を問題にしようとは、今更、考えたくもない、。情けないほどそれは諦め
ている。
そうではなく、文学が、人間を書くかぎり、どんな真面目で優れた創作であれ、大なり小な
り書かれた人や世間を傷つけずに済むわけがなく、自分は傷つけていないなどと言う現代小説の作家がいたら、よほど、いい加減な人だと思うのだ。柳田国男の
ように、なにもわるく書かれていなくても、実名を書かれるそれだけでも「いやだ」と頑張る人もいた。他方その柳田の文筆で泣かされたり怒ったりした人は随
分いただろう。我々には貴重で興味ぶかい報告や研究であった彼の民俗学で、事実傷ついた人たちは千、二千できかないだろうが、それはそれとして実にみごと
な学問的成果にむすびついた。今、あれほどのことをしようとしたら相当な覚悟と、先立つ配慮とを要する。
モデル問題では、文豪島崎藤村はいちはやく近縁の関係者から告発を受けていた。『破戒』
では、モデル問題ではなく、差別問題で烈しく糾弾された。私も藤村の思想と認識に不備のあることを藤村学会で厳しく講演したことがある。彼の名作『新生』
など、もし縁戚からの告発が有れば、現在なら有罪は間違いない。藤村に限らない、日本の近代文学は、「書かれた」側の口惜しい血の涙の海を泳いでいる。し
かも『新生』を初めとして名作や秀作や傑作が幾らもその中に混じっている。悩ましいそれが事実なのである。
その種の名作は、もう書かれない方がいいという判決であるのを、判決として私は進んで受
け入れる。しかし人に「書くな」とも自分は「書かない」とも決して言わない。書く限りは「覚悟して」書くがいい。いい作品を書くがいい。不当に書かれた人
は躊躇なく審判に委ねて、公論に決すればいい。泣き寝入りしないがいい。文学の名ゆえに人を傷つけていい道理は無い。それでも書きたいもの、書くべきもの
なら、書くなとは言わない。書かないとも言わない。覚悟だけは決めていなければならない。
わたしの新聞原稿は、掲載されてからこの場にも転載する。
* 六代目菊五郎に似ていたと言われるのが好きだった 谷崎潤一郎の「お数寄屋ぼうず」のような写真が、目の前で、いつもわたしを睨んでいる。眼光炯々としてこわいが、わたしはいつも知らんふりして、好きなこ とをしている。美しい若い女優澤口靖子の顔をにこにこと眺めている。バッハも聴くが、ひばりの唄も聴く。昔の唱歌や歌謡曲や演歌も聴く。カラオケの趣味は まったく持たないが、風呂場でよく歌っている。かなりの唄を知っている。谷崎はあまり骨董をいじらなかった。私も叔母譲りの茶道具類は愛用しているが骨董 趣味は避けている。谷崎は美食が自慢だつた。私は美食という言葉からして嫌いだ。谷崎は映画も芝居も好きだった。これは私も同じだ。女の趣味は、ちがう。 谷崎は猛然とした女がほんとは好きだつた。松子夫人は上品な教養と美貌の底に『痴人の愛』のナオミの魅力も確かに合わせもっておられた。私も、当の谷崎以 上に松子さんが大好きであったのだから似た趣味だと言えなくもないが、やはり違う。わたしは、普通の感覚で深くつきあえる聡明な人が好きだ。異常な女は好 きになれない。異常な女は書いてもこなかった。ピンと冴えて静かな人がいい。言葉の美しい人がいい。NHK七時のニュースを読んでいる森田美由紀アナのよ うな発声と表情と聡明さが佳い。
* それにしても、ひばりは、なんと可哀相なほどくだ
らない唄を、なんと巧く唄うことか。つい耳がそっちへ行ってしまい、そして苦笑してしまうほどこの天才が可哀相にも愛しくもなる。
* 六月二十九日 火
* 『慈子』上下をもって、はるばる時間をかけて京都
の泉涌寺来迎院まで、梅雨の晴れ間に日帰りした人がいる。あいにくと蚊柱が立っていたようだ、長時間は含翠庭におれなかったようだが、しっとりとした風情
には魅されたらしいい。懐かしい。折しも大河ドラマで大石の山科閑居にふれながらテレビでも庭と茶室とを紹介していた。小説では、あの庭で秋の夜ばなしに
茶を点てた。茶室で、わたしは、父をうしなって泣く慈子を抱き、ともに泣いた。
高校の頃から、教室を抜け出してはこの来迎院の縁側にすわって時の経つのを忘れた。その
頃は拝観料など無用だった。一度も咎められもしなかった。ああこんなところに好きな人をおいて通いたいと思った。もう源氏物語その他の古典にかなり親しん
でいた。
来迎院の家族とも『慈子』を書いてから知りあった。すてきな若奥さんがいて、可愛い赤
ちゃんが出来たころに一度逢っている。その頃はもう私は作家だった。『北の時代 最上徳内』の「世界」連載を終わったか終わる直前であった。その作中のヒ
ロインが、肩先にひしと乗っていたような頃だった。
作品を作っているとき、わたしは、いつもヒロインと行を倶にしている。あの日、来迎院
の、むかし慈子と初めて出逢った門前で、その若奥さんと赤ちゃんの写真を撮った。慈子も、あのとき私のもう一方の肩に来ていた。昔のヒロインと今のヒロイ
ンとが、とても仲良くてわたしは幸せだった。あのときのあの赤ちゃんも、もうひょっとして自分の赤ちゃんを抱いているのだろうか。
あの含翠亭に帰ってふかく眠りたい。いつか、あの庭は「慈子の庭」と呼ばれるだろう。
* 昭和十年十二月の誕生から四十四年歳末までの「自筆年譜」三百四十枚を昨日脱稿した。
四十四年桜桃忌に作家として世に出たのだから、いわば「作家以前」の三十四年間を顧みたことになる。だれのために書いたのでもない、やはり自分のために書
いた。一種の洗骨である。根を洗ったのである。自分自身に対する「モゥンニングワーク」を続けてきたと思っている。葬式はしなくていいと家族に言ってあ
る。自分は自分で葬りたい。紙の墓も自分でしたい、人を煩わせたくない。
* 昨日は息子が若い女優を家に連れてきて、家内の咄
嗟の手料理とお酒とで三時間ほど歓談した。息子は九月に、暫くぶりで芝居を作・演出するらしい。その女優が出るのか出ないのか、そんなことは知らないが、
盛んにいろんな人と連絡しては逢ってるようだ。テレビドラマで随分馴染んだ男優などと電話で連絡しあっている。テレビと映画の方へすっかり埋もれていると
見ていたが、芝居もやるという。八月から稽古だという。どこで、どんな風に世渡りをしているのか見えていないが、せっぱ詰まった風もなく、ずいぶん落ち着
いて穏やかに、大人になった。今度はふらりと来て二泊してまた五反田へ戻っていったが、親の家でくつろいでいた、温和に。その女優の話では、ふしぎに人を
落ち着かせ励ますことのうまい「作家さん」だというから、安心していよう。じわりじわりと自立している。いいことだ。
この春、就職して各地に散っていった若い友人たちは、元気だろうか。このホームページを
ときどき覗いている人もいる。わたしはわたしで、野暮ったく、鈍くさく、ま、マジに生きているよと伝えるためにも、この「私語の刻」は大切に、飾らずに書
き込んでいる。みな、元気でいて欲しい。
* 大阪サンケイに書いた原稿は一日に掲載と刷り見本 が届いた。東京でも日を替えて出るのかどうか、まだ知らないが、出るようである。
* 器械全体にびっくりするほど原稿が満載で、ずいぶ
んキーが重くなってきた。ホームページにもう数章、新しい頁を立てたいと思っている。「エッセイ」がずいぶん溜まっている。「講演録」もある。ホームペー
ジ容量は11MBだが、思い切って17MBにまで増したい。メモリーも最大の160に増やしたい。
* 七月一日 木
* 田中日佐夫氏の紫綬褒章祝賀の宴に出てきた。発起
人を頼まれたが、同様の人が五十人ほど名を並べていてびっくりした。顔見知りの人が何人かいるはずだったが、祝辞を述べた高山辰雄の他は一人も来ていな
かった。この頃こういう例が多い。出席しない発起人というのは変ではないのか。
もっともこういう会も多すぎる。発起人慣れした人が随分重なって、いっぱいいるのだろ
う。祝賀会の回り持ちも有るかも知れない。
若い友人の原善君も、今月、出版記念会をやる。発起人か挨拶かどっちか、出来れば両方を
頼むと言われ、発起人は願い下げにした。
今夜の会合では一ついいことがあった。大学以来の親友重森ゲーテとぱたりと顔があった。
懐かしかった。知る人は知っている、優れた芸術家だった重森ミレーさんの、ゲーテは息子である。兄弟にコーエンさんやカント君がいる。連れが何人もあるよ
うだったので別れて帰ったが、とても懐かしかった。
ちっとも遠くなったとは思っていない、いつも湖の本を買って貰っている。しかし顔を見た
のは久しぶりだった。昔は彼の「企画」に頼まれて何度も原稿を書いた。毎日新聞社の『坪庭』や小学館の『利休と現代文学』や、いろいろあった。今は何をし
てるのと聞くと「社長やんけ」と来た。ま、年からすれば不思議はない。よかったなと思った。出版の仕事はシンドイ季節だろうが、こっちの方がよほどシンド
イ。また逢いたいと思うがうまく機会があるかどうか。
* 年譜を作っていたら、作家になる前に重森と何度も何度もよく会っている。小説が本気で
書きたいなら、「書きたい」なんて言わずに「書け」と背中を叩かれた。もし今日にも「新潮」から書いたものを見せろと言われたら「どうすんにゃ」と言われ
た。そんなことがあるわけがないと思ったが、道理だとも思い、わたしはビリッとした。そしてついに書き出した。しかも、ある日「新潮」編集部から、ぶった
まげるほど突然に「作品を見せよ」と速達の手紙が、事実、来たのである、ウソでなく。わたしは、すでに三冊の私家版を出し作品を書き溜めていた。おかげで
作品を見せることが出来た。
* 重森ゲーテは、まさに、我が生みの親の一人なので ある。彼には他にもいろんなことを、節目に言われている。「秦はスケベー」と喝破したのも重森、「学問か、女か(妻のこと)、一つにしろ」と言い、わたし に、院の勉強を諦めて東京へ駆け落ちする決心をさせたのも重森だった。彼も書きたかったが書かずじまいで、わたしが物書きになった。「売れとらへんやろ、 御前」と、今夜も見抜かれた。ホームページで「タダ」で人にものを読んで貰っている、「売る気はなくなつた、もう」と返事して反応を待ったが、彼はまじめ に「そうか」と応えて、わたしの顔を見た。「そうなんだ」ともう一度返事した。いい気持ちだつた。またぜひ逢いたいと思う。
* 会合のあと、上野へ廻り、天麩羅を食べてきた。立 食ではほとんどなにも食べずに飲む一方になる。補わないと気分が満たされない。大手町から上野はすぐである。上野へまわると、ふしぎに銀座や池袋とはひと 味も二味もちがった夢が見られる。雑然と汚い街だが、ふしぎにくつろぐ。一人でも、独りでなくてもくつろぐ。
* 街の雑踏へマキリップの文庫本『星を帯びし者』を 隠し持って行く。満員の電車の中でも、読み出せば、もう一切を忘れる。はるかなそこは別世界であり、ふしぎな魔法と謎との秩序が、整然とし、また乱れても 行く。われわれの知っている現実の地球世界とは同じ地球上なのにも関わらず全く別の顔をしている。住む人たちもわれわれと同じ人間であり、しかし、人間を なぜか深く超えている。何でもいい、この世界の抱え込んだ夢はあまりにも濃く深く、小渕だとか公明だとか都政だとか、文字コードだとか著作権だとか誘拐だ とか総会屋だとかいう一切を、浄化槽へ叩き流してくれる。ああ、この感想は乱暴すぎる。この作品は、とにかく瞑想を可能にしてくれる優れた鎮静剤なのであ る。この翻訳本を三巻贈ってくれた訳者の脇明子は、このごろは、どこで、どうしているのだろう。母上は歌人であったと覚えている。アメリカで、わざわさ原 書三巻を買って帰ってくれた優しい友達は、遠い西の方でいまもいろんな繪を描いているだろう、心のカンバスに。
* ひばりの「河童ブギウギ」「涙の紅バラ」「東京
キッド」「角兵衛獅子の唄」「おさげとまきげ」「陽気な渡り鳥」「リンゴ追分」「旅のサーカス」「悲しき口笛」「拳銃ブギ」「越後獅子の唄」「私は街の
子」「ひばりの花売娘」「銀ブラ娘」「父恋し母恋し」「あの丘越えて」の入った盤が、わたしの一のお気に入りで、みな、まだ、ひばりが少女時代の、わたし
が少年時代のヒット曲ばかりであり、歌い方はすでにバラエテイーに富みじつに巧い。技巧などまだ凝らさないのに巧い。この盤を器械にセットしておいて、穏
やかな音量で耳に入れながら、わたしは、おそろしく難しい本などを楽しんで読む。本も楽しめひばりも楽しめる。
グレン・グールドのバッハと美空ひばりとを両手にというのは、どんなものかと言う人がい
た。なにも分かっていないのだ。
* そうそう一つ言っておく。小渕総理は「君が代」の
「君」は天皇だと明言した。ついで、「代」とは「国」を謂うのだと明言した。素直に言い替えれば「君が代」とは「天皇の国」の意味になる。「君が代」は即
ち「主権在民」の象徴だとも明言していたが、どんな日本語を小渕は学んできたのか。語るに落ちて詭弁もここに極まる。危険極まるということである。
* 七月三日 土
* 一日に大阪で、今夕東京で、産経新聞に私見を発表 した。柳美里さんの作品がプライバシーを侵害したという判決に関連して、「私小説とプライバシー」をどう考えているか書くようにとの依頼だった。私は、元 来潤一郎や鏡花の末座にいる者で、私小説風に私小説を否認した小説作りをしてきたが、私小説の魅力は心得ている。生前わたしをいつも強く支持して下さった 中に、瀧井孝作先生、永井龍男先生がおられたし、瀧井先生の『無限抱擁』は近代小説十指に数えていい名作だった。谷崎や漱石とならべて尊敬する島崎藤村の 名作にも私小説と謂うべきものが幾つもある。わたしも、年をとるにしたがい、私小説で心根を洗い出してみたい気が動いていることは、たしかである。必ずし も新聞社の希望どおりには書かなかったかも知れないが、依頼してきた記者は原稿をよろこんでくれた。見出しは東西で違うけれど、原稿そのままに、以下に書 き込んでおく。
* 作者は、覚悟を決めよ
秦 恒平
三
十年、書きたい小説だけを、書きたいように書いてきた。
「書きたい」には動機がかかわり、「書きたいよう」には方法がかかわる。動機と方法とを、
どれほどの文体と表現が支えるかで、作品が決まる。作品の優れているかどうかが、決まる。扱う材料で決まるのではない。「小説」ほど、どんな材料でも受け
入れるジャンルは珍しく、だから『モンテクリスト伯』も『新生』も『城の崎にて』も『吾輩は猫である』も『変身』もありうる。問題になった柳美里の「石に
泳ぐ魚」もありうる。柳作品がプライバシー侵害の判決を受けたことと、この小説が、作者の動機と力量とで高い評価をうける作品に成ったこととは、明白に、
別ごとである。動機と方法が強い力で作者に把握され、その成果である「表現」つまり作品が優れた結晶を遂げたことと、今度の裁判の結果とは、同じ次元には
ない。短絡は避けたい。
判決が示した判断は、私もふくめて、たぶん大半の市民や小説好きに支持されていると思
う。電子メールで連絡の取れた友人たちで、判決の趣旨を支持しなかった者はただ一人もいなかった。ただし柳さんの小説を読んでいた人も一人もいなかったか
ら、それらの意見は「一般論」になっている。私も同じだと断っておきたい。読者には読みたい小説を読む自由があり、世の中に、読まねばならない小説など一
編もない。作者は、それを承知のうえで骨身を削って創作している。私小説であろうとなかろうと、小説を書くとは、ものを創るとは、そういう「覚悟」に支え
られてでなければ出来ない。でたらめに出来るものを文学とはだれも呼んでこなかった。
柳作品だけの特異例であると、なんとかして小さく囲い込もうとするのも、違うだろう。一人の書き手としてこれを思うとき、問題は、そうは小さくない。
日本ペンクラブの言論表現委員をほぼ十年つとめているが、その間に、読者・関係者からの
苦情に背を衝かれ、支援を願い出てきた著者が何人かいた。それぞれに対応したが、私の判断は、いつも、同業の作者支援より、被害の苦痛・苦情を現に持った
側に傾けた。文学だから人を傷つけてもいいという道理は、どこにも無い。近代日本の文学史は、島崎藤村の頃からとみても、「書かれた」側の流した苦痛と汚
辱の血と涙に満ちあふれている。そのけわしい不幸な事実と、そんな加害を敢えてしたとしか謂いようのない作品に名作、傑作、秀作も数多かったという事実と
を、じつに悩ましく、われわれは今思い出しているのではなかろうか。
「ありもしないこと」を書いても傷つけ、「ありのまま」を書いても傷つける。「その人と分
からぬように工夫すればいい」という意見はもっともで、聴かねばならないが、文学の「動機」の深さは、そんな工夫で片づかない一面をもつ。小説が字義どお
り「表現」であるということは、根底に「暴露」「直視」「剔抉」の批評性ももっているのである。それとても悪や愚劣への非難からでなく、人の噂を楽しまず
にいられなかった清少納言いらい昨今の「サッチー騒ぎ」に至るまで、日本人は、「噂」と「ほんとのこと」つまり浅い事実の詮索に耽溺するのが、大好きとい
う性癖もかかえている。「私小説」繁栄のそれが土壌であったのは疑いなく、一般に日本の小説がそういう難儀な素質を、よほど深いところに孕んだ芸術である
ことは否定できない。
えらそうなことを言ったが、現に私自身の表現により、傷ついた人は大勢いたにちがいな
い。重々配慮したとも言え、配慮そのものを敢えて排した時もある。すべて「書かれた」人たちがじっと怺えてくれ、直接苦情を言ってこなかっただけで、噂で
は離婚にいたったかと耳にしている例もある。いたたまれず、真実つらい。
では、もう、書かないか。私は、書くべく命をうけてきた。おおよそ真面目な作家はそうで
あろうと思う。裁判の判決は判決として私は進んで支持したい。しかし私は書きたいことを、書きたいように書かずにいないだろう。ものを書く者が動機と方法
を殺し、表現を殺すことは出来ないし、そのような自己規制はすべきでない。人は傷つけてはいけない。傷つければ今回の判決が待っており、その方向は、より
厳しく広く重く拡大されて、創作者の前に、厚い高い当然の壁になる。不当に傷ついた人はためらわず抗議すべきである。しかし作者に必要なのは、自己規制で
はない。罪せられても「そう書く」かの覚悟であり、覚悟のない者は去るしかない。どのように文学の方法が変わって行こうとも、人間と社会とを書くかぎりこ
の問題は色を変え形を変え、必ずついてくる。言えるのは「作者は、覚悟を決めよ」という自覚しかあるまい。
この「書く覚悟」と、敬愛や慈心をでたらめに欠いた「暴露」「歪曲」の許されぬ罪とは、
別ごとである。まったく別ごとである。藤村の名作『新生』は訴えられれば「石に泳ぐ魚」の比ではないだろう。しかし、現代や未来のもし藤村に対し「書く
な」と言う気は無い。私に対しても無い。ぜひ必要と信じるなら「覚悟」を決めて書くしかない。
創作とは、えたい知れぬ「何か」へ向けた、血のにおいの「確信犯」なのである。きれいご
とでは、ない。
* きのうの晩、能の写真家としても解説者としても著
名な、保谷市内の友人堀上謙の家によばれ、毎度のように歓談かつ歓飲が過ぎて、十二時ごろ自転車で帰る途中、二度転倒した。一度などは全く仰向けに夜空を
見上げていた。自動車がきたら轢かれていただろう。幸い静かに寂しい脇道を通っていた。右の肩、肘、腰を打った。それでもすぐまた自転車を起こして乗って
帰った。まともに帰れてないのではと堀上氏は心配して電話をくれたが、もうちゃんと帰っていたから、ひどい方ではなかった。
彼の所へ行くと、自転車でものの十分足らずの距離を、二時間もかけて帰ったこともある。
途中で公衆電話をかけまくっていたような気もするが、それも、心配してくれそうな先へ「ここはどこですか」などと言ってはらはらさせていた、気がする。ゆ
うべはそういう悪行は働かなかった。しかし胸ポケットの定期入れを落としていたのが、今朝拾われて、酒一本をかついでもらい受けに行ってきた。夜中の土砂
降りでぐっしょり。たいしたものは何も入っていなかったが、あるべきものの無くなったままは気持ちがわるかった。
どうやら、種類の違う珍しいラム酒やウイスキーを実に楽しそうにみんなカラにしてきたら
しい。最後まで美味かったから、いいのである。不味ければ直ぐやめる。
* 親友の原知佐子が芝居をやるというので、三軒茶屋
まで妻と出掛けた。この日活ニューフェースに出逢わなかったら、私は大学で、美学でなく歴史を専攻するはずだった。ショートケーキのように可愛らしい人が
いて、美学志望らしいと耳にはいったので、その場で面接の先生に美学にしますと言ってしまった。後悔はしなかったが、その人は二年生になるとすぐニュー
フェースとして日活女優になり、小林桂樹らと「黒い画集」などのいい映画に主演したり、木下恵介監督の「野菊の如き君なりき」などで佳い助演をしたりし
た。太宰治賞の授賞式に花束贈呈役で駆けつけてくれたりして、もう久しい間柄だ、ウルトラマン創始者の実相寺昭雄監督と結婚した。やはり芝居をしている娘
さんもいる。
原知佐子は映画はどうか知らないが、テレビや時々の芝居で顔が見られる。私の本もずっと
見てくれている。脇役でも何でも、いとも楽しげに悠々と演じている。さっぱりとした気性で、女優という難しい仕事をわたしの小説よりずっと長くこなしてい
るのだから、エライものだ。先日逢った重森とも仲良しだった。俺の所へは芝居の案内が来ないと重森がむくれていたのがおかしかった。
永井愛の作・演出「兄帰る」は、けっこう笑わせてくれたが、軽い浅い、カタルシスのな
い、繪でいえば手練れの売り繪でしかなかった。小説で謂えば書けても書きたくない、書かない、小説だった。わたし上手でしょ、見て見てと言っている、それ
だけの現在芝居であり、前に俳優座の芝居でがっかりした山田太一のもそうだった、佐藤愛子の原作を脚色したのもそうだった。どれも下手ではないのである。
困ったものである。そんなのと較べると三谷幸喜の「ラジオの場合」など、遙かに笑いがよくはじけていて面白く、そして厳粛に訴えてきた。
* それにつけて胸にもう一度刻んでおきたい言葉があ
る。今日届いた志賀直哉全集第八巻月報に書いておいた「志賀直哉の自己批評」の中に、直哉が自作の「赤西蠣太」に触れてこんなことを書いている。この全文
はエッセイのページに書き込むつもりだが、この箇所だけをここに書き留めておきたい。この小説の原料はじつはいろんなジャンルで使われていた。講釈の円玉
も高座で話していて人気があった。直哉は言う。
「円玉の講談中の女中と此小説で書いた女中とは解釈が大分違ふ。此異ひは一方は所謂大衆対
手、他はさうでないといふ所から来てゐる。所謂大衆といふものは私が現した女中よりも、円玉の現した女中の方を喜ぶらしい。若しさうとすれば、そして若し
さういふのが大衆といふものであるならば、その大衆を目標にして、仕事をする事は自分には出来ない。己れを一人高くするといふ態度は不愉快であり、いやな
趣味であるが、現在の大衆に迎合するやうな意識を多少でも持つた仕事は娯楽にはなつても、仕事にはならない。」
「仕事」とはむろん直哉の考えている「文学」「優れた文学作品」の謂いであるのは無論であ
ろう。これに対しわたしは、「完璧に代弁して貰った気がする」とコメントしている。実感である。直哉の謂う「娯楽」をわたしは好んで観るし読みさえする
が、書かない。書きたいものにそれは入って来ない。
* 銀座へ戻って、胃にこたえるかなと思いつつ「らん 月」でしゃぶしゃぶを食べた。お代わりもした。ちょっとこたえたが、食べきった。ビールは一本がせいぜいだった。有楽町線で少し寝た。
* いろんな郵便物が届いていて胃の重みはぐっと軽く なった。いいメールも東西南北から届いていた。千葉市美術館での「甲斐荘楠音」展に招ばれていた。ちょっと遠いが甲斐荘も岡本神草も佳い画家だったし、む ろん土田麦僊も大好きだが、その土田に「穢い繪」と罵られて画壇から消え失せていった甲斐荘の作品も、類のない力強い芸術としてわたしは高く評価し続けて きた。観に行きたい。
* 画家ゲルハルト・リヒターの『写真論・絵画論』は 近来の愛読書だが、友人からリヒターを語るための材料と感想とが届いていた。佳い作品のコピーも沢山来た。去年の「京都賞」に推薦したが惜しくも選にはも れたものの、この稀有の思想的な画家の感性は、まだまだこれから先の芸術世界にとって、嚢中の錐のようであるだろう。
* 文字コード委員会の佐藤幹事の御厚意で、ニフティ
サーブをレベルアップ出来た。なんだか操作がすっきりした。有り難い。事のついでにホームページの容量を17MBに増やした。日本語でなら850万字書き
込めると聞いている。ついでにメモリを160に増そうと思っている。問題は視力である。これだけは大事に大事にしないと、増やすわけにも行かない。しか
し、だいぶ、あやしい。
* 七月四日 日
* 読書は寝入りばなに何冊も、今は五、六冊を少しず
つ併読するのが昨今の習いだが、珍しく、今日は昼間からなんとなし続きが読みたくて、滝沢馬琴の『近世説美少年録』を読み継いだ。これは『南総里見八犬
伝』なみの大作で、西国の守護大名大内家をめぐる、後の陶と毛利との激闘へ繋がって行く、波乱に富んだ伝奇もの。勧善懲悪の見本のような物で、構想奇想は
はではでしく、戦前によく流行った講釈読み物まがいであるけれど、そのレトリックの奇怪なまでに衒学的なのもめちゃくちゃ面白くて、つい読まされてしま
う。漢字や熟語へフリガナの「宛て読み」だけでもまことに面白い。小説の文学のということになると、甚だ臭気のきつい読み物でしかないが、これほど手が混
んでいると、それなりの敬意は払いたくなる。この作者、よっぽどの男だとは思わせる、あまり好きになれないが。
小学館の古典全集の第二期がはじまり、『宇津保物語』とこの『近世説美少年録』とは併読
している。どちらも三巻構成の一巻目だけが来ている。さきざきに楽しみがある。小学館の厚意は、感謝に堪えない。ま、わたしのように届くと右から左へ古典
を読み続ける読者は少ないかも知れない。思えば「宇津保」も伝奇性を備えている。平安朝初期のふしぎ物語と近世半ばの極彩色伝奇の取り合わせで、そして、
やがて私は鏡花講演のために鏡花文学もまとめて読まねばならない。ついでにわたしも、伝奇的な、また『清経入水』や『みごもりの湖』『冬祭り』『四度の
瀧』のようなのを書いてみようかなと思う。
* 昨日届いた『志賀直哉全集』の第八巻、これがまた 随想短章ばかりで小説と言うにはあまりに身辺心境の短文章ばかりなのだが、つまり伝奇なんてものは微塵も縁のない文芸だが、これが実に佳いのである。どれ 一つを読んでいっても、心洗われる。清々しくなる。カタルシスの効果が身に溢れてくる。ああ、これでも文学なんだ、どんな伝奇ものにも屈しない力を持って いるんだと感嘆する。
* 文字コードに関係して以来、古典を読むときには鉛
筆をもち、JISに入っているとは思いにくい漢字に丸印を付けていく習慣ができた。漱石の『草枕』にも随分あったが、志賀直哉には無い。このところ読んで
きた古典では、『日本霊異記』など、夥しい数、そういう難漢字が現に使われている。今の器械の文字コードではとうてい再現できない。『近世説美少年録』と
もなれば、空恐ろしいほど莫大に難漢字が次から次へと平然と使われている。今昔文字鏡のソフトでも使わなければ、器械に書き込めない。それでもどうかと思
う。その「今昔文字鏡」の類の漢字ソフトは使いよいかというと、途方もなく難儀である。音をあげる。しかもその文字は無条件には送れないようだ、送って化
ける。やはり、日本の代表的な古典全集に入る程の作品の用字には、もれなく文字コードが欲しいと痛切にまた思いかけている。ややっこしい極めて特殊な手順
でしか文字が再現できず転送出来ないなんて器械は、どう理屈をつけても不備なのである。
国文学者たちは、どう考えているのだろう、今、新世紀を目前に迎えて。文字セットから砂
浜の小さな落とし物をピンで拾うようなやり方で、必要不可欠な漢字を一つ一つ拾い続けてよしとするのか。
また日本の記号はどうなるのか。記号のことがいっこうに考えられていない気がする。
* 七月五日 月
* 胃に、かるい痛みとまでは行かない違和感がある。
酒が残っているのでなく、体験的に言うとストレスがあるのだ、何がと今すぐ指摘できるほどではないが、次の締め切り仕事にとりかかれと胃が命じているのだ
ろう。酒ではない、お茶のほうだろう。
叔母が裏千家の茶の湯を、京都の町なかで教えていた。敗戦後に疎開先の丹波樫田村から京
都の新門前に帰ってくると、もう、教えていた。
祖父が死んだのは昭和二十一年閏の二月二十九日だった。新円に切り替え実施のきわどい前
日であった。祖父が生きていたら、寝所になっていた奥の四畳半を叔母が稽古場につかうことは出来なかった。
わたしと母とは、敗戦後もなお一年の余を丹波の山奥の疎開暮らしから引き揚げなかった。
急激に腎臓を患ったから余儀なく京都の医者にかかり、そのまま丹波は引き払ったのであり、戦後一年余の二十一年秋であった。癒えて退院してくると、叔母
は、祖父の息を引き取った部屋をすっかり畳替えして、炉も切って、社中を集めて稽古していた。初釜の日など入りきれないほどぎっしりと社中を揃えていた。
裕福な家庭から若奥さんやその妹さんなどが通っていた。生け花の稽古場も風情があったが、茶の湯はなんと言っても気が改まったし、門前の小僧にもなりやす
かった。生け花には花材がいるが、茶の湯は袱紗を人に借りれば稽古が出来る。茶の味に腰のひけることは一度もなかったし、たとえ振出しの炒り豆や金平糖て
いどでも「お菓子」にありつけたのは、あの時節、有り難かった。
やがてわたしも、あらたまった気持ちできちんと稽古を始めた。熱心至極の門前小僧で、茶
は、見た目も綺麗にしっかり点てた。「やっぱり男の子ゃ、茶筅がよう通ってお茶が美味しい」と、来客の叔母の友人にも褒められた。袱紗を一手に扱っていた
北村徳斎の奥さんだった。この人も叔母も筆頭業躰だった金沢宗推氏の門弟だった、つまりわたしも金沢門に連なっていたわけである。
叔母が稽古日ごとに奥の部屋を使うと、もともとそこがわたしの両親の部屋であったから、
迷惑したのは母であった。わたしも小学校五年六年、新制中学に進んで行くにつれ狭い家は恐慌をきたし、父もさぞ苦労したことだろうが、ついに地続きに裏で
行け行けの、もとは母屋に対する隠居であろう一棟を含めて、久しい「借家」を大家から買い取り、叔母を隠居に入れた。叔母は自力で四畳半一室を茶室に設え
直し、簡便な水屋押入も備えると、本格に、茶の湯生け花の師匠で世渡りするようになった。おいおいに叔母は、なかなか、たいした茶道具持ちになっていっ
た。
わたしは中学時代には中学の茶道部を、高校でも茶道部を指導し、わたしのいる間はよそか
ら「先生」を頼むという必要が無かった。茶会もなにも、きちんと部員を率いて主宰した。茶名をもらったのは高校の間か大学に進んですぐか、とにかく早かっ
た。「宗遠」の文字は『老子』から自分で撰した。いい名を許していただいたと思っている。
町屋の稽古場であったし、また学校のクラブを指導していたから、飽きさせてはならず、工
夫がいつも必要だった。観念的な理屈は言わなかった。「偕楽成就」ということを気分の上でも大切にしていないと、どうにもならず、そのなかで点前作法の美
しさに対するセンスを自然と要求した。作法のない偕楽では自堕落になる。動作でなく所作の世界として茶の湯の場を弁えて行くと、楽しめるほどに身について
行くと、ぐんと稽古に身が入る。そして稽古だけでなく、どんな貧しい会でも茶会をすることで、楽しみが互いに幾重も増して行くことを覚えたのである。
学校だけでなく、叔母の稽古場をかりて、頼まれて一級下の後輩たち六七人に毎週お茶を教
えていた時期もあった。少なくもその中の四人とは今も作者・読者の縁がある。大学時代にも真如堂の方へ出掛けては何人にも教えていた。その中の一人が、い
ま、階下から「お昼ご飯、できましたよ」と呼んでいる。
* 志賀直哉の、ある時期以後の短い文業の数々を、わたしは、見捨てて読もうとしなかっ
た。一冊本の全集類に入っているものでも、『暗夜行路』の他は名の通った短編を二三十も読んでいれば足るものと思っていた。
今度「月報」を書いた巻では、ほんの数編も読んだものがあるかどうかであったが、読み出
してみると、一見片々たる短文・短章がじつに佳い。巻おく能わざる味わいにねぐいぐい引き込まれる。随筆類では谷崎のものがゆったりしていて好きだが、さ
すが志賀・谷崎とならび称された文豪の文章で、はっきり味わいにちがいはあるが、いずれ劣らないみごとな気息の妙に感嘆する。
それにしても、谷崎を読んでいて決して感じない身分「階級」差というものを、志賀直哉は
露骨に感じさせる。また、若い昔にはただただ「愉快」「不愉快」という批評でがんと通していた人が、六十過ぎて「それは面白かった」「面白いと思った」な
どと要所へ来ると「面白い」の肯定がよく見えるようになっているのが、面白い。
とにかく、もっともっと読みたくなった。
志賀直哉から滝沢馬琴に転じると、急にがさつで汚いものに触れる気がする。おそらく学の
あることでは直哉の百千倍だろうが、気稟の清質は争えない、馬琴は、少なくも今読んでいる『近世説美少年録』は俗悪である、それでも読ませるが。
『日本霊異記』は信仰がらみの不思議集であるが、今では世離れた話なのだが、引き込むよ
うに読ませる力があり、ときどき、ドキッとするほど面白くも深くもある説話がまじる。下巻も半ば過ぎて、やがて読み終える。通読するのは初めてだが、よ
かった。
松尾美恵子の『異形の平家物語 延慶本』もあらためて読み始めた。いま心惹かれている別
の一冊は、ゲルハルト・リヒターへのインタビュー集である。画家なる存在への先入主がみごとに破壊された気がする。
* 七月六日 火
* 雑誌「ミマン」の連載「センスdeポエム」が、定 着した感じがする。今回解答が届いたところだが、ま、た興味ある結果が出ている。何度もいうが、「古池や( )とびこむ水の音」の虫食いに漢字一字を補う のは、たいていの大人には何でもない。発句の代表句のように、誰もが「知識」で知っている。考えもしないで答えられる。しかし、
「十六夜の長湯の( )を覗きけり」ではどうか。
「泣くは我 ( )の主はそなたぞ」では、どうか。
知識で間に合わないとなれば、たった漢字一字を入れ
るために「作者」にならねばならぬ。
詩歌を読むなんてことは、若い、しかも理系の殆どの学生たちには、在るべくもない苦手な
ことだった。まして「作者」になるなど、考えも出来ないことだった。だが、こういう「出題」のしかたで試みると、かなりに推理推論の情緒と感性を刺激す
る。国立東京工業大学のわたしの教室には、出欠がわりのこの出題ひとつに惹かれて、学生が溢れた。よかった。
それを今度は、平均年齢六十歳ぐらいな女性読者を相手に試みかけていて、どうやら「作
者」もふえ「読者」はもっともっと大勢になっている。手応えが出ている。原作通りの「一字」だけを期待してはいない。思いも寄らぬ一字が詩歌の顔をはっき
り別のものに変えてくる、その機微にも妙味がある。易しい仕業ではない。非常に難しいとすら言える。こころみに上の二例を、知識に頼らず、原作者を捜し
回ったりしないで、ご思案あれ。
隔月の二年という約束だが、二年はすぐ経ってしまいそうだ。
* 七月七日 水
* 「今昔文字鏡」を使ってみた電子メディア研究会の
仲間の感想は、一言で、「とても使いづらい」であった。文字セットとしての完備度には敬服するが、実際に使ってみて使い良いかとなれば、何とも使いづらく
て、「外字を作るよりはマシ」というぐらいが実感だと声が揃った。
文字セットが十分便利に駆使出来るのなら、文字コードに過分に期待せずこういうソフトを
利用していいのかも知れぬと、姿勢の傾きかけていた人も、この使いづらさでは、やはり「文字コード」による完備がぜひ望ましいと、我々の「元々」の希望
へ、また意向が揃った。過渡期だからと姑息な妥協をすべきではないのだ、日本語表現と日本語での「日本」研究のためには。
* これからは、電子メディアの「著作権問題」が肝心要の話題になってくる。せめてペンの
会員に、電子出版に際して、少なくもこういう点に留意注意して欲しいという情報を、早く発信できるようにしたい。これなども、文芸家協会とも歩調を揃えて
行ければいいと思う。あっちはあっち、こっちはこっちというのはロスも大きい。ペンクラブは世界のペン憲章に基づく思想性をもち、文芸家協会はいわゆる職
能団体であり、性格は違うけれど、会員の相当多数は共通し、いずれも同じ土壌に根ざしている。ことに電子メディア問題でなら、多くの点で積極的に共通の地
盤も固め得ると思うが。
* 保坂展人社民党議員の携帯電話が盗聴されていた事
件を、今日の電メ研から帰宅してはじめて知った。もうもう、うんざりする。鈍い痛みのように怒りがこみ上げてくる。
日の丸君が代の法制化にしても、法制化がぜひ必要とは論理としても実状としても、とても
思われない。それ行けやれ行けと、ラグビーのモールのような、政権与党による思慮も配慮も欠いたスクラムでの、「悪政」ゴールへの持ち込みが打ち続いてい
る。なんというヒドイ政府なのだろうか。問答無用の悪政総動員がどこまで続くのか。
野党に力がなく、頭数だけで審議抜きに事の運ばれ行く政治風土。こんな時に、共産党がい
まなお「共産」主義的に小さく自己満足して「共産党」のままでいる気が知れない。根から政権構想をもたないのだ、断念しているのだ。与党は、怖くも何とも
ないだろう。
共産党が国民政党へ柔軟に転身し成熟し、せめてかつての社会党にかわって、自民の「そこ
のけ政治」に歯止めをかけてくれなければ、社民党もそれに協賛して行く度量がなければ、十年後の日本には、「自由」も「主権在民」も、「民主主義」なんて
ものも、払底していることだろう。
テレビ文化人たちの「現実に妥協を」と大合唱し続けてきた悪しき成果が、今、稔りつつあ
るのだ。「理想」をかなぐり捨てた「現実」適応主義への憂慮が、着々と形をとりつつある。
一例を挙げれば、日本ペンクラブの言論表現委員会が、「佐野洋」の指揮から「猪瀬直樹」
のそれに動いてきたのも、一つの大きな時代の転回なのだ。佐野には思想信条があった。猪瀬は、現状を「情報で把握し補完追随」するだけだ。だれも猪瀬直樹
の思想信条を見きわめた者はいまい。彼には、「思想」は悪しきイデオローグとしか受け取れていないし、「旧社会党」的な名残に過ぎないと切り捨てている。
それも理解できないことではないし、そういう浅いが融通の利いた割り切れた発言に、彼の、便利がられ重宝されるコメンテーターとしての面目がある。同時に
とても危険で有能な世論の誘導者たる素質がある。 だが、真に「日本」のために必要な誘導者は、こういうタイプの「現在人」なのだろうか。果たして「現
代」とはねそんな「現在」の同義語なのだろうか。
* 七月八日 木
* 松園論六十五枚の校正がもう届いた。湖の本通算六 十巻も二百頁ちかくで組上がってきた。文字コード委員会の第一ステージ終了を控えた詳細な報告書案が届き、それを読んで、「委員」としての意見を添えねば ならない、難儀である。仕事机の上にもまわりにもモノが山積みになり、ちょっと気をぬくと、「仕事」がそのまま積み残しに忘れられてしまいかねず、そう なって困るのはわたし自身である。「配慮」という哲学的な用語を始終身の回りに置いておかねばならぬ毎日では、草臥れて当然だが、一つの道は、それらの全 部の価値をストンと見捨ててしまって気楽になる方法だ。方法ではない、生き方だ。やらねばならぬことは、やらねばならぬ。しかし、だからどうだこうだと勿 体をつけない。空気を呼吸するように通過させて行く。実感だけを見捨てないで、理屈は通過させて行く。かなりラクになれる。人なかで生き街なかで生きると はそういうことであり、そういうことから遠くへ、人もいない世界へ、逃れ出たいとは思っていない。市中の山居は必ずしも不可能ではない。
* わたしはこのホームページで、だれか不特定ではあ れ「相手」を求めて「話しかける」という態度も方法も、とっていない。「闇」に「言い置く」のであり、闇とは「我が心の闇」であると思っている。自分の言 葉で、自分にものを言いかけては、答えている。へんなはやり言葉でいえば、「傍受されても構わない」という姿勢であり、傍受されなくても、表現・表出は、 わたし自身のために続けられて、やむことはまず、あるまい。ホームページはわたしの原稿用紙でありノートであるという意味は、こうである。
* 『寂しくても』の、今日までに書き込んだ初稿の殆 どを、簡単に推敲した。まだ根本からの直しが必要だが、さしあたっては更に続く初稿を進めて行きたい。
* 「心」は無尽蔵に容れ得るが虚無にも帰れる。八方 に関心を広げ得るが、ただ一つことに集中も出来る。どのような状況にあっても、心は内奥に「静」の質を金無垢の一点のように抱いている。そういう趣旨を荀 子は説き、漱石は小説『こころ』の「奥さん」にだけ、ひとり「静」さんという実名を与えていた。「先生」も「K」もその「静」を真に我がモノには出来ずに 自殺した。得たのは「私」だった。「私」と「静」の仲にはもう「子」の影がはっきりさしている。
* 心の内奥に、静かなものを。それが、さっき「全部
の価値をストンと見捨ててしまうことで気楽になる」意味に繋がる。心は働かせるけれど、心そのものを虚しくする意味で、「心=マインド」の「奴」になって
しまわない意味で、「静」を見失わない。そんなようで在りたいのである。出来なくはないのである。いや、出来ないことなのかも知れないが。
* 七月十日 土
* あんまり毎晩読んでいて佳いものだから、岩波版
『志賀直哉全集』を揃えることにした。八巻まで出ていて八巻を読んでいた。七巻までが、けさ岩波書店から直送されてきた。判の大きさが手頃によろしく、函
も清潔に美しい。『暗夜行路』以前の大概の作品は、何種類かの文学全集に入っているのだろうと思うが、これほどの文学・文芸ならば完備されていてよく、重
複をいとう気はない。第一巻巻頭の処女作「菜の花と小娘」をまず読んでみた。初めて読んだ。フーンという感じだった、心和んだ。「或る朝」「網走まで」と
この作品とが直哉の処女作とされている。書いた順、発表順などでこういうことになる。どんな書き手にもあることで、それは気にならない。三作とも、佳い。
好きである。
谷崎、藤村、漱石の全集はむろん揃えている。柳田国男と折口信夫の全集も揃っている。泉
鏡花も最初の全集と選集とが揃っている。福田恆存全集も梅原猛全集も井上靖集もある。梅原さんのは全巻頂戴したし、井上さんのも紀行全集の他はみな頂戴し
ている。古典全集は二種類以上が揃いつつある、みな版元や監修者から頂戴している。世界文学全集も意欲的な編集の、ナウいものを全巻もらっている。全集と
名のつくものが、数えてみれば狭い家の中にもう何種類もある。昭和万葉集も全巻もらっている。書庫の半分以上が恵贈本である。収拾がつかないほど書庫は溢
れている。読まない本は買わないことにしている。買えば、おおかた、すぐ読んでしまう。
直哉の全集は楽しみに、読んだものも、みな読み返そうと思う。瀧井孝作先生のことなど思
い出しながら読んで行きたい。
一番最初の私家版であったか、志賀直哉にも送った、おそるおそる。決まった挨拶が印刷さ
れていて、末に、直筆で大きく「志賀直哉」と署名の入った葉書が帰ってきた。志賀直哉という人がこの世に実在するのだと実感し励まされたのを、懐かしく思
い出す。詩人の三木露風、歌人の窪田空穂、小説家の中勘助、中河与一からも同時に、本を受け取りの葉書をもらった。いちばん欲しかった谷崎潤一郎のは貰え
なかったが、のちに谷崎精二さんから丁寧な謝辞をもらったし、松子夫人との有り難い生涯のご縁も生まれた。いろんな佳いことが、沢山あったわけだ。
* 「三田文学」が届いたら「志賀直哉」の特集だっ
た。巻頭の小川国夫、中沢けい、佐伯一麦の鼎談だけを先ず読んだ。それはそれで面白く読んでいったが、同時に、ほとんど何にも説得されてこない隙間風を感
じていた。志賀直哉はずいぶん論じられてきた作家で、むやみな賞賛から相当な酷評までいろいろあったのを知っている。
しかし、志賀さんの文学は、読んで感じたままでいい、論じてみても始まらない、だれがど
う論じてくれても、自分が作品を読んで受け取っている満たされた思いを、塗り替えるほどのものになってこない、そんな気がしている。わたしは全面賛美でも
何でもなく、むしろいわゆる小説家の「小説としては物足りない」モノの多いのを承知している。しかも、読んでみて満たされる生気がある。生彩がある。心地
よい突風も清風も実感できる。よけいな議論を吹きかけ、こねまわしてみても何にも効果のない「文学」になっている。具体的な作品論で新生面が拓かれるのは
歓迎したいが、いきなり「作家志賀直哉」から「文学」論議がされることは、したい人はすればいいが、虚しい気がする。
鼎談よりうしろにあった短文は、みな、ほんのご挨拶ばかりでつまらなかった。
* この機会にメモリを増設したいと思い切った量のメ モリを買ってきた。いざ器械に入れようとすると、器械の裏のねじ釘を二本抜かねばならない。この釘が、やけに細い深い穴の底に沈んでいて、見えない上に、 プラスのねじ回しに引っ掛からない。引っ掛かっても堅くてまわらない。頭に来たがじっと我慢して、作業を中断した。
* テレビで映画「評決の時」を観た。原作も読んでい る。こういう原作でこういう映画の撮れるアメリカであることは敬服に値するが、柄杓で海の水を掬っているような感じもある。アメリカや中国やその他の国々 が「いい国」かどうかなど、今はいい。日本の国が、どうなるのだろうと思う。
* 雑誌「ミマン」に解答の寄せられた私の「出題」 を、ここに書き上げてみる。今回の解答でも、なかなか興味ある結果が出た。作者名は、雑誌が刊行されるまでは控えさせていただく。漢字を一字補って、一首 一句の表現を完成してみて欲しい。
この世から去るにあらねど( )去るといふこ と深く噛みしめて立つ
少しおくれて( )しき人の入り来る
* 七月十一日 日
* 梅若万紀夫の能に招かれていた。「大原御幸」で、 ツレの後白河院に観世栄夫が付き合う。楽しみにして、二時始まりというので十二時半に家を出たが、あまりの蒸し暑さで、水の中をおよぐような気分になり、 息苦しくさえなったので途中池袋で休息したくなったが、何処へ行っても待っている客が溢れているありさまに、疲労困憊して家に帰った。器械に昨日買ったメ モリを増設し、そんなことをしている内に元気をやや回復した。万紀夫には申し訳なかった。おかげで「大阪朝日」に校正も戻せたし、ペン事務局への提出の文 書もみな送れた。
* 『元禄繚乱』の宮沢りえ=瑶泉院が美しく、実のあ
る演技でけっこうだった。宮沢りえは大好きな女優であった。例の「スッタモンダ」で停滞してと健康に問題ありげで、貴の花と婚約発表したときのあの満開の
美貌がかげ薄れ、残念だった。あれで、わたしは貴の花贔屓の札を削って捨ててしまった。
テレビ映画『北の国から』で、過去のある初々しい恋人役を演じたりえは、だが、痩せてい
ながら、すばらしくナイーヴだった。純な資質の持ち主で、うまいへたを越えて胸打つ芝居が出来る。今夜の瑶泉院あぐりの芝居は、勘九郎と組み合ってひけを
とらない感動を表現していた。美しくもなっていた。それが嬉しかった。もっと大輪の花を咲かせることの可能な女優だと思う。大事にして欲しい。
* 七月十二日 月
* 共産党の「前衛」という雑誌が原稿を頼んできた。
共産党を、「腹いせ」に応援したことが何度もある。政権与党への「腹いせ」である。そういう人がけっこう多いのを知っている。そういう消極的「応援」が、
積極的「支持」にまで深まるには、共産党は明らかにサボっている。政権をとろうという本気の姿勢がまるで無い、そんなものは頭から諦めている。そこがバカ
バカしくて支持する気になれない。近年、「連合政権むへのそぶりは見せたりしているが、瀬踏みというにも、あまりにへっぴり腰ゆえ、だれも本気で相手にし
なかった。玄関払いだった。何故そうなるかを、まともに考え直さねばダメなのだ。
私の送った原稿を、受け取るだろうか。
一言付記すれば、原稿を依頼するのに、「前衛」は原稿料について一言も触れていない。文
筆労働者に対してそういう古くさい勝手な感覚では困るのである。
* 土井たか子と東芝の副社長と三人、同志社の校友と
いうことで、学内の雑誌で鼎談したことがある。鼎談が済んで、雑誌からいわば稿料に準ずる支払いがその場でされた。その時土井たか子が、率先して即座に
「要らない」と言い、副社長もしたがい、私も受け取れなかった。
私は、あの時、いささかそれを生活の足しに、アテにしていた。母校に関連して母校の雑誌
で話すのだから、謝礼は受け取らないと頭から決めてはいない。寄付することもあろうし、その金額がぜひ欲しいときもある。私には、あの際、不要どころか、
必要のある金であった。
土井たか子のしたことは、ごく常識的なのではあろう、が、後輩の貧乏作家のためには問答
無用の配慮のないスタンドプレーに思われた。こういうことでは、この政治家、ダメだわと思い捨てた。ちょっと気を配れば、他人に強いずに、他の方法で趣旨
も気持ちも通せただろう。土井はそれで食っていないが、私はそれで食っていた。「私はこれで食っていますから」と、私も即座に言うべきであった。それが出
来なかった、恥ずかしい。
しかし私は、編集部に然るべく言い、報酬を受け取ることにした。不当な報酬は受け取るま
いが、正当な報酬を放棄できるほど裕福でないことを思ったからだ。
あの際、私が土井の立場であれば、明らかに他に関わりないよう、さりげなく別の方法を取
る。必ずそうする。労働者に総スカンを食って社民党が零落仕切った、一つの原因になる姿勢が露われていたのだと思う。
* 七月十三日 火
* 案の定、「前衛」共産党は、私の原稿をそのままで は受け取れないと、訂正を申し入れてきた。断った。以下に「只働き」の没原稿を掲げて置く。
* 「腹いせ」応援で満足か 秦 恒平
九十六歳でなくなった母は、「共産党に入れてやった
わ」と投票所から帰ってくるや、首をすくめ、ぺろっと舌まで出して、聞かれもしないことを、よく口にした。私もまだ京都にいて選挙権のなかった遙か昔のは
なしだが、そういう精神状態が母には最期までのこっていた。共産党とは「アカ」であると以外に母は知らなかったろう。ただ、今が今の政権与党をこのまま受
け入れておれないと思うと、「腹いせ」のように共産党に一票を投じに出かけて行くのだった。
京都は、知られた共産党色の濃い選挙区であり、よく不審がられる。母のような人が多いの
であろう、母だけではない、私も似たような判断から、何度も共産党候補に投票してきた。共産党支持ではない、共産党応援であった。
それが今は微妙に揺れている。支持に傾きたい気持ちと、支持しても始まらないというじ
れったさとが、縺れあっている。
かつての社会党は野党の頃から、政権は執ろうとしていた。問題は残るが、とにかく政権を
執った。社会党政権だから出来た良かったいうことも間違いなく有った。
いま共産党を見ていると、政権を執って日本をよくしたいと本気で思っているとは、全然見
えてこない。党としての主義主張はていねいに訴えているし、日常活動も他党よりずっとこまめにやっている。信義を曲げているようには見えない。けれど、そ
こまで。そこまでで、ぴたり、止まっている。
それだから、私の母と同じく「腹いせ」のクセ球を投じて暗に応援する選挙権者は増えて
も、共産党の支持者とは固まっていない。政権を執る気のない政党には、せいぜいテークバランスの分銅の役をしてもらうしかない。
共産党が「政権を執ります」と宣明し、戦略的に柔軟に本気で動き出せば、国民の多くは、
もはや民主の社民のといった力衰えた名目野党よりも、共産党を政権党へと支持を固めるだろう。目下は、だが、絶対に無理だ。共産党自身がそんなそぶりも見
せず、「野党」に自足して冒険も勇断もしないでいるのが、明白だから。
原則は言い続けている。だが実現のために何をしてきたか。そこだ。
政権与党を始めマスコミにしても市民にしても、共産党には、京ことばで謂うなら、「好き
に言うとい」「言わしとき言わしとき」で怖くも何ともない。これでは頭打ち頼りにはとてもならない。
他党との身を捨てた協同歩調にも大胆であれ。「共産党」名への滑稽なほど時代おくれなこ
だわりも、一日も早く捨てよ。「腹いせ」応援で満足なのか。
* 「前衛」の言い分は、連合政権への「そぶり」なら
見せたことはある、と。「共産党」の党名変更についての発言は困る、と。
どういうつもりで私のような者に原稿依頼をするのか。党の思いに添った内容のモノだけを
載せたいなら、党員だけで書けば宜しい。耳に逆らうであろう思いを抱いている少なくも「応援」の気のある外野は、少なくない。その好意有る外野からの声援
をすらおさえつけ玄関払いしてしまう姿勢は、相変わらずの「一党独裁」臭から抜け出ていない。これは、こわい。国民政党として育とうという度量がない。
予想通りのなりゆきであった。こんな「野党」しか無くて、他に野党が全く実在しない目下
われわれ日本の、この政治風土。これでは共産党をボロカスに言い、創価学会と公明党を自民の番頭が大声で賛美するばからしさが、嗤えない。いや、やはり自
民党の恥知らずな態度は、しんから嗤われてしかるべきであり、総選挙に心から期待したい。
* 七月十三日 火 夜
* 言論表現委員会のあと、銀座に出て、寿司の店を二 軒。寿司のはしごは初めて。有楽町線で帰った。雨、雨。久しぶりに銀座から電話をかけた二人が、二人とも元気そうで、気がはれた。広大な墓地のなかに住ん でいる江戸前の美女、超売れっ子司会者のスタイリスト。
* 言論表現委員会は、盗聴法のこと、君が代日の丸の
こと、を話題にした。柳美里作品のプライバシー侵害判決にも話題は及んだ。
君が代日の丸に、いちばん議論の紛糾したのが、むしろ解せなかった。
日の丸にわたしは反対ではない。例えば船舶のために日の丸は明快な国籍呈示になる。過去
の問題を問題にするのももう事大主義が過ぎよう。不快な思い出を持つ日本人も外国人もいるに相違ないのだが、「国」がしてきたことなど、どの国であれ、愉
快なことばかり有るワケがない。私など星条旗をみて気分がイヤだったことこそあれ、高揚したことはない。それは星条旗の咎ではない。日の丸は、国の旗とし
ては上出来のモノであると思っている。親しみもしないが嫌いではない。祭日には掲げようなどとも絶えて思わないが、そうしている家があってもイヤではな
い。
君が代は、もともと好きでなかった、音楽としても。まして今回政府見解の、「君」が象徴
天皇を意味し、「代」とは国の体制を謂うのだと明言されては、いいかげんにしてくれと言いたく、ましてや「法制化による強要」や「処罰」が、まっさきに教
育の現場に対し強硬に行われるであろうことなど、思うだにとんでもない。
法制化する必要がどこにあるか、自然に根づいているモノならそれでいいではないかと思
う。もと東大総長の有馬文部大臣という人が解らなくなった。ただの権力主義者であったのか。
法によって強いられることなど、一つでも少ない方がいい。法三章は人倫の理想である。事
繁くしてそうはいかないから余儀なく受け入れているだけで、やたら法、法というのは下卑ている。
言論表現委員の大方が、殆ど全員が、そういう考え方をしていた。委員長の猪瀬直樹ひとり
が、「法制化」ぐらいどうでもいい、たいしたことではない、それよりも、「仰げば尊し」といった歌が素直に歌えなくなっているのが問題なのだ、日本の国に
は「権威」が無くなった、「権威」が必要なのだと、とめどなく解釈をひろげて、「法制化反対」意見も、要するに55年体制をひきずった社民党感覚のイデオ
ロギーに過ぎないと言い張った。言い張り続けた。烈しい議論になった。承知しなかったのは何人もいて、私もきついことを言った。反対なのか賛成なのかと問
いつめたら、かなり渋々「反対に決まっている」と言いはしたが、それがいかにもいまいましそうで、思わず笑ってしまった。
広島で校長自殺問題など起きたのは某民間団体のせいであるとか、その団体も権力、日教組
も権力であり、文部省や教育委員会が権力であるのと変わりないとも言う。「権力」の方角を読み違えた世迷い言に類するのではないか。「情報」ばかり豊富に
抱え込んで、情報中毒しているのではないか。しっかりした思想も信条もなしに、場当たりに「通」を自慢の気分でいる。保坂展人議員と朝日テレビとの通話盗
聴事件も、某左翼過激派の犯行に間違いないなどと言い切られると、そうなのかも知れないけれど、そうではないかも知れず、この情報操作気味の情報通には全
く驚かされる。
「情報」とは意図して操作され得るものだということを、近代の世界史は教えている。いや
三国志の昔から情報は故意にも作られたし流された。過激派の反抗だという情報は、あの事件の報道された途端に、出て来るぞと私も予期していたが、猪瀬直樹
の口から言論表現委員会の席で、真っ先に、断定的に飛び出すとは思っていなかった。事実は私には分からないが、フレームアップだけはやめて欲しい。
* 佐野洋氏は日の丸君が代に意見を述べて、所用で中
途退席した。むろん、法制度化につよい反対意見を語っての退席だった。佐野氏とはこの問題を十年も一緒に話し合い続けてきた。
佐野氏の反対理由と、他委員の反対理由とには径庭がある。私も含めて、日の丸にもはや
「過去」を絡めて反対する人は少ない、というより佐野氏のほかには無かった。だが、よく分かっている。亡き夏堀正元氏が声を高く挙げて君が代にも日の丸に
も大反対されていた、あの気持ちが分かる。そんなのは只のイデオロギーに過ぎず、イデオロギーではだめなんだと猪瀬氏に吐き捨てられてしまうと、その「イ
デオロギー」なる意味を反問したくなる。
猪瀬直樹氏は「イデオロギー」を殆ど「社民党」の代名詞のように用いる。本音はその辺に
あるらしい。
君が代に特に好意を持たない意見が委員会では強く出た。それでもなお民間に安定して定着
しつつあるらしい現実を、否認するほどの声はなかった。ただ「法制化」に何のメリツトもないばかりか、強要しないと言いつつ現に強要しているのは、ハッキ
リ目に見えていて、政権与党には更に「その他絡み」の思惑のあるのも見え見えであると、その認識でも、猪瀬氏以外は声が揃っていたと思う。猪瀬氏がなにに
こうまで拘るのか、ついに理解出来た人は無かったように思われる。
* 七月十四日 水
* こんなメールを貰った。誰とは挙げない。
* 「志賀直哉をおもしろく読んでおられるとのこと、
楽しみですね。
テレビ司会の田原(総一郎)さんのこと、人相がわるくなったと、ご立腹の様子だったが、
ぼくはもう少し点数があまい。あんな番組をこれほどもたせる人がまともな人相でいられるはずがない。それはそれで一つの才能だと思います。
彼がテレヴィに登場する以前に、商社マン批判が世を風靡していたとき、彼の書いたものを
いい感じでおぼえている。ニューヨーク派遣の商社マンが、自分らが販路の敷石をあくどいまでに敷き詰めていくことで、安定的生産を可能にしてるんだ、と語
るインタビュ記事だが、商社虚業論の風潮のなかで異彩をはなっていた。ぼくの保守主義で、こういう記憶が甘い点数のもとにある。
梅原猛さんがいい顔になってきたことに満点異議はないし、だいいち田原のテレビなどほと
んどみないが、土井たか子よりはマシじゃないか。
共産党が君に寄稿を求めるまではいいが、やんぬるかなだね。(*)さんが、同じようなこ
とを(*)同盟との関係で経験し、がっくりきていた。この国の最も深刻な主体的危機だと思う。ともかく命を大切に。」
* 京都へ行き、祇園会の町を楽しみ、小野竹喬展を観
てきますと、懐かしいメールが西国筋から届いた。きゅーんと京都が恋しくなる。祇園祭は、一年の内で、観ようが観まいがわくわくする第一の年中行事だっ
た。梅雨が上がってぎらつく太陽の下で鉾が大きく揺れて動き出す興奮、御輿がきらめきながら鳴る興奮。少年の日に出逢った懐かしい恋しい少女たちの表情が
矢のようにいくつも甦ってくる。夏はほんとうにロマンチックに悩ましかったし生彩に富んでいた。
そして小野竹喬。いちど手紙を貰っている。麦僊の無二の盟友であり、華岳、波光、紫峰ら
のすばらしい仲間だった。五人の名前を器械にこう書き出すだけでもわたしは、胸ふるえるほど彼ら「国画創作協会」の人と芸術とが好きだ。観に行きたいなあ
とため息が出るが、ゆけるだろうか。
* 甘いモノのいいお店をみつけました、初めてのボー
ナスも貰ったし、秦さんに甘いモノをご馳走したいと、大きな企業にこの春入った女子学生がメールをくれた。院を卒業した人で、教室ではいつも一心にわたし
の話に聴き入っていてくれた、おとなしい、可憐な人であった。博士課程に進んだとてもすてきな恋人がいて、静かに愛を育んでいる。
甘いモノ、むろん好きである。たのしみにしよう。ペアで逢えるかも知れない、いまどき、
心洗われるようなペアであり、楽しみだ。
東大の博士課程に進んでいる学生からも、ぜひ逢いたいと声がかかっていて、きっと研究の
ことや今後のことを聴かせてくれるだろう。家が比較的近いので、どう逢うか思案している。博士論文を目の前に控えているようなので、早くしたい。これま
た、楽しみ。
* そうそう、昨日雨の銀座で、一軒目のばかに騒々し
い寿司屋から飛びだしたところで、京都の何必館主梶川芳友に出逢った。向こうに連れがありものの数十秒の立ち話であったが、懐かしかった。彼と久々に逢っ
てちょっと力になって欲しいことがある。ある画家のデッサンを観て欲しいのだ。それにしても蒸し暑いのにリュウとしたお洒落であった。わたしはあんな窮屈
なお洒落はごめんだ。若くてあんまりカッコいいので、少なからずヤキモチが焼けたのかも知れないが、暑いときは涼しくいたい、少々行儀悪くても。行儀を、
ほんとに構わなくなってしまった、老いてきた証拠かな。
* 七月十五日 木
* ペンクラブ理事会は議事が盛りだくさんで、小一時 間も延びた。大紛糾したところもあるが、もう触れたくない。日の丸君が代の「法制化」には反対する言論表現委員会起草の意見書は、文面明確と好評で、その まま決議された。それだけで、まずは良かったと思う。あくまで君が代日の丸に反対するのではなく、教育現場での強制強要と荒廃にのみ繋がるだけの「法制 化」に反対したのである。それにすら白票を投じ、態度を保留する一人二人の理事もいた。意見書を起草したのは雑誌「創」編集長の篠田博之氏である。事前に 意見を請われ、異存なく賛成の旨答えておいた。参考までに全文を掲げておく。
* 「国旗・国歌」の法制化についての意見書
政府は国旗・国歌を定める法案を衆議院に提出、今国
会での成立を急いでいます。そもそも小渕内閣は当初、法制化は考えていない、と言明していたにもかかわらず、いわゆる自・自・公協力態勢のもと重要法案が
つぎつぎと通っていくなかで、突然、今国会での法案提出は政党間の取引の印象が拭いえません。
日本ペンクラブではこれまで一九八九年、九四年と、日の丸と君が代を強制することに反対
する声明を発し、この問題に強い関心を示してきました。今回の国旗・国歌法案には罰則規定はありませんが、法制化が強制へと作用する怖れは充分考えられま
す。
日の丸と君が代を法制化することについて、必ずしも国民的合意を得たものとは言いにく
く、性急に結論を出すべきではなく、またその必要もないと考えます。したがって今国会での成立が規定の路線のごとく進められることに反対の意を表明しま
す。
一九九九年七月十五日 社団法人 日本ペンクラブ 会長 梅原 猛
* 何ら奇矯な反対意見とは思われない。日の丸は大勢として可、君が代には嫌悪を言う人も
いるがそれさえ、かなり一般に行われている。それでいいではないか。法制化に何のメリットがあるのか。権力的に押しつけたがる側にだけ法律という「この紋
所」が張り付くだけに過ぎない。公、権威。そういうものへの意思が郷愁かのように語られてもいたが、わたしは、「私」に支えられ「私」に奉仕する「公」で
ないかぎり、「私」の頭をおさえにかかる「公」になど与したくない。「私の私」を大切に考え、その考えにフィツトする「公」をして、「私」のためにしっか
り働かせたい。民主主義とはそれであり、主権在民とはそれであり、選挙制議会主義とはそれである。数が全てだと言うものもいるが、数合わせ政権などは、適
切に交代させて行けるほど「私」の知性が厳しく働いて行ける民主主義でなければなと思う。大江健三郎も、死ぬ間際になって悔いて「戦後民主主義」を痛哭し
ようというのでなく、今、発言し動いて欲しい。今までしてきたというのなら、もっと、して欲しい。
* 「君が代」は、もっと早い時期に新しい国の歌に取
り替えてしまうべきだったのに、出来なかった…、という梅原猛氏のいつにないしんみりした述懐がつよく耳に残った。そのとおりだ。十年前の言論表現委員会
では、わたしは新国歌運動が必要だ、ペンがその先頭にと発言していた。日の丸の方はこのままでいいと言って、亡くなった夏堀正元さんに怒鳴られたものだ。
夏堀さんの発言の全てに与することは出来なかったが、日本ペンクラブにそういう考え方が強かった経緯が、いまは極端に薄れてきて、危うく否定否認されよう
とすらしつつある。是非は別にして今昔の感おおいがたい。
* 七月十七日 土
* 原善君の『川端康成の遠近法』出版記念会に神楽坂
の「エミール」まで出かけ、祝辞を述べて、乾杯の発声をしてきた。彼の単行著書としては三冊目だそうで、もっと多いかと思うぐらい、このところ内外で頑
張って、編著や論文を増やしている。いいことだと思う。だれか元気な女性の教授が声を大にして原君の「悪文」に苦言を呈していたのがおかしかった。彼はう
ちへ来ると、いつでも、私に「文章」で苦情を食らってきた、若い頃から。
「祝辞」をそのままここに再録して、原善君との久しい佳いご縁の記念にしたい。
* はだかの善さん
善さん、おめでとう。本の出たこともさりながら、暑い暑い、梅雨明けもまだかという日
に、これほど大勢のお友達を迎えられるお幸せにも、敬意と祝意を呈します。
善さんとのお付き合いは、優に十五年以上、ご結婚の直前、あるいはもう少し前からになり
ます。長谷川泉先生のなにかお慶びの席ではなかったかと思いますが、善さんから声をかけてくれました。みなさんもご承知のように、むさくるしい青年でし
た。
もっとも異論もありまして、家内などは、善さんのあれは、むさくるしいのではなく、お洒
落なんだと申します。家内を愛しておりますので、私は、逆らいません。そうか、善さんはお洒落なんだと、以後、思うように努めてまいりました。今日のいで
たちを拝見しまして、あらためて「なるほどなあ」と思います。
久しいお付き合いのあいだに、わたしが善さんにしてあげた、いいことは、一つもありませ
ん。じつに頼みがいのない友人でした、私は。
逆に、善さんからは、いろいろと身に余る好意を頂きました。竹内整一先生を主宰に、私の
作品をつぶさに読み解く会を、もう十何年も続けてもらっている、その推進力が、原善さんであったことは間違いない事実です。その上に研究書まで一冊書いて
もらいました。この場を借りまして、あらためて、深くお礼を申し上げます。
なかには、中島みゆきの絶唱ばかりを集めたから、お聴きなさいと、テープを家に持ってき
てくれたこともありました。これには、いたく悩まされました、が、また、そんなことでもないと中島みゆきの歌などは、まるで知らずじまいに済んだかも知れ
ません。
漏れ聞くところ、善さんは、ご自分たちの結婚式だか披露宴だかの背景音楽に、中島みゆき
を流したというほど、珍で稀有なセンスの持ち主でありますから、そのセンスは、必ずや善さんの学問学芸にも浸透しているに相違ないと期待しつつ、また少し
は案じつつ、ユニークな、善さん流の「遠近法」を、著書からも論文からも、面白く、読み取ってみたいと思うのです。それが、ますます、これからの楽しみと
なることでしょう。
話は変わりますが、善さんを囲んでお友達や学生さんらの、楽しいお喋りの会が、暫く続い
ていたことがあります。私も加えてもらい、名付けて「ゼンラの会」といいました。 この会には、一つだけ約束ごとがありまして、男女をとわず「はだか」
で、「ゼンラ」「まるはだか」で話し合う、ということでした。いま眉をひそめた人は、かなりエッチなお人です。ところが、善さんは、なかなか、そういう時
に「はだか」にならない。なれない。大きな声でへたな野次なんかは飛ばすけれど、本性と本音はなにとなく伏せている。会の楽しさをかきたてる方へ気が行
き、座持ちに気が行っているのかもしれない、それは、間違いなく「名」は体を表しての「善」意のようなんですね。しかし、すこし、じれったいとも感じるの
ですね。
このごろになって、ようやくアクティブに「全裸」を呈してもいいやと居直ることが出来る
ようになってきた。その表れが、最近の内外での活躍であり、また著書、編著の数々となっているのではないでしょうか。その意味でも、今夜のこの会は、さら
に大きな今後を「期待してくれよ」という、善さん「全裸」の意欲表明としても、ひとしお、「おめでたい」ことだと、皆さんと、ともどもに慶びたいと思いま
す。 善さん、おめでとう。
* お茶の水の院を出て女子高校の先生をしている若い
友人とも久しぶりに逢った。着実に川端研究を積み上げている佳人であり、いい奥さん、いいお母さんである。こういう人にはぜひ「大学で」後進の指導をして
欲しいと思う。その資格は充分あるのに、運がめぐってこない、もったいないことだ。
「文学博士」と名刺に刷り込んだ若い女性研究者にも東大の竹内教授に紹介してもらった。
著書ももらった。長老長谷川泉氏にもお目にかかった。二次会は避けて帰った。美しい善さんの奥さんが不参で、さびしい気がした。
* それにしても祝賀会や記念会がよくある。
* 七月十九日 月
* 文字コード委員会の第一ステージが終了した。ほほ うと感じ入るようなうまく纏められた報告書が出来た。私が意見を差し挟めるような何もないし理解の届かないところもむろん有る。報告書に掲載する委員「意 見」を求められていたので、おそるおそる一文を提出した。
* 文字コード委員会報告書に附する、「委員」意見
日本ペンクラブ 秦 恒平
参加当初に申し上げたように日本ペンクラブを「代
表」する立場にはない。精到な報告書の成ったことに一委員として敬服し、感謝している。
委員会に参加していながら、報告書の全面にわたって理解が及んでいるとは言えない。問題の所在や性格により、一文筆家の知識や理解の水準を超えた点があ
り、参加の遅れたことによる従来経緯への斟酌の及ばない点、理解未熟な点も、多く残っているからである。そういう点に関して、この段階での「意見」は、差
し控えたい。
それでも、なお、つよい「希望」に属する「意見」が 無いわけではない。
奇警なことを言うようであるが、もし今、自分たちの
使っている万年筆やペンが、或る種の文字や記号は書けるけれど、何倍・何十倍する他の文字や記号は書き出せないというような魔術的制限を強いられたなら、
文筆家たらずとも、大いに不自由するであろう。
現在のコンピュータによる文字筆記能力は、まさに、そのように不備不満足な筆記具に等し
い。これでは電子メディア時代に活躍できる器械とは、とうてい言えない。
不備不満足を改善すべく多くの努力が進行中であるの
を心強く感じつつも、なお一層の改良改善が広範囲に、また操作上も平易に、公共的に実現するよう希望し続けたい。
言い替えれば、文字検索の便宜が、技術的になおなお探求されてゆく中で、可能な限り「文
字コード」によって、誰にでも、何処ででも、一字でも数多く「筆記」し「転送」「再現」できるよう、事が国際的に妥当に折衝されて行くことを切に希望す
る。歴史の過去を尊重し未来を担保する、これは根底からの大きな希望、文化の名による希望である。
そうはいうものの、悩ましい問題もある。いわゆる
「金がかかる」ではないかと言われると、一個人の判断や配慮の埒を越えてしまう。だが、事は「日本語」表現の根底と全面に深く食い込んだ大事であり、電子
化の要請も普及も、新世紀には格段に飛躍することを予想すれば、関係省庁の協力による「国の予算化」が考慮ないし追求されていい時機ではないのだろうか。
目前の偏跛な便宜にのみ拘泥して、「漢字・記号」の未来を誤ってはならないと思う。
現実に、日々の読書や執筆活動の中で、公的な標準「文字コード」では、なお再現できない
漢字や記号に、頻々として出会っている。使用しているATOK12を活用すれば、敬服に堪えないほどの難漢字も拾えるし有り難く利用しているが、それでも
なお近現代の作品にも、まして古典籍においては、まだまだそこから漏れた文字は、現に拾い出せる。或る意味で当然のことであり、また半面の不便と苛立ちも
決して小さいモノではない。
単なる一例を挙げて置くが、最近の読書から平安初期 の『日本霊異記』と、近世半ばの『近世説美少年録』(途中)から400字余を拾い、ATOK12の文字パレットで一々検索してみて、ほぼ10パーセントも の漢字の漏れていそうなことが分かっている。ごく普通の古典文学全集作品にしてこれである。決して稀覯の珍文書でものを言うのではない。
加えて、その周辺になお当方の理解不熟もあり、例え
ばATOK12で拾える文字は、あれらが皆公共の「文字コード」文字なのか、たんに市販私営のよく出来た文字ソフトで、しかも図像の貼り付けをしているだ
けなのか、恥ずかしいが分からずにいる。分かる必要もなく使用できていたのである。文筆人における一つの「例」として、敢えて恥を忍んで付記しておく。
また、かなりよく完備され充実した「文字セット」のあることは承知しているが、その図像
的な取り込み利用は、操作煩雑の一点からだけでも、共通の「文字コード」による文字使用とは、大きな差がある。創作や思考の途中での煩雑手順による停滞
は、文筆家にとっては時に致命的な痛手となる。
以上の意味からも、何とかの一つ覚えじみるのは覚悟
の上で、「漢字・かな・日本の記号」が、最大限「文字コード」により、自在にーー世界中の誰もが、世界中のどこででも、同一条件で、双方向的にーー利用で
きることが、窮極、望ましい。その理想を見捨てることなく、限りなく戦略的に理想に接近して行くことを希望する。
かりにも思想や研究や創作の「表現」「再現」に、制約や不便の生じるような、安易な口
実・安易な論理・安易な便宜による「文字コード」文字数の制限には、賛成しない。
結局、以上の「希望」を粘りづよく述べることが、「文筆家」委員として肝要の「意見」と
なる。そこへ落ち着く。技術面については専門家に期待をかけるしかない。
今一つを加えるなら、ことは「世界における日本語の問題」であり、通産官庁だけでなく、
文化官庁・外交官庁も積極的に加わった、より大きな基盤からの国際展望をもたねば、どこかで大きく「日本語」を世界の真ん中で誤るのではないかと危惧して
いる。 以上
* 昨日一日かけて「四百」難漢字を二冊の古典から書
き抜き、独特の訓みを添え、さらにその一字一字を厖大な量の「文字パレット」に有るか無いかを検索した。
疲労困憊したが、こういう実践抜きに「字がない」ということだけを言っても分かって貰え
ない。これを持参のかたわらで「意見」を提出したので、およそすんなりと受け取って貰えた。私の調べた限りでは、ATOK12の文字パレットに「有った」
「無かった」のであり、ここには約二万字近くが含まれている。すべてが「文字コード」を与えられているわけでなく「文字ツール」に「文字セット」されてい
るだけの文字の方が圧倒的に多いのだと理解している。私の意見はそれを踏んで書いているつもりなのだが、間違っていたら訂正したい。
* 会の果てたあとNECの伊藤さんと一緒に新宿に移 動し、いろんなお話を聴きまた著書もいただいた。第二ステージがまだ続行されるのか、たぶんこのままでは問題の積み残しが多いので続くのだろうが、私は、 もうこれまで以上に役に立たない気がする。おもしろい経験をさせてもらい、勉強した。有り難いことであった。こんな事がなければ、まずは決して出会わない であろう委員たちと出会えた。自分の考えをよほど相対化出来たと思う。
* 小日向の切支丹坂のちかくに「シドッチ記念館」が
出来ている。読者でまた関係者である人から、ぜひ連れて行きたいと誘われている。一般の民家に記念館が設けられ資料もあるらしい。私が新聞小説『親指のマ
リア』を書いた頃に、あの辺りは何度も歩いた。歌人で読者でその当時は高校の先生であった方のお宅が近くにあり、案内してもらいかたがた小日向台を散歩し
たこともあった。漱石の『こころ』を脚色する必要のあった頃も、ここら辺はよく歩いた。「先生」と「奥さん」との新婚家庭がこの辺であったと小説では書か
れてある。
「シドッチ記念館」は、あの当時まだ無かった。行ってみたいと思っている。
* マキリップの『イルスの竪琴』を三巻、また読み終
えた。ともだちがアメリカから送ってくれた原書で、最終場面を読み返して、また新たに感銘を深めた。私のためには最も効果的な「安心」剤になっている。や
がて、上下二巻の『道タオ 老子』を読み終える。何ヶ月読み続けてきただろう。バグワンに、連日連夜叱られっぱなしであった。嬉しいとすら思い続けて読ん
できた。いまもし頼まれれば「浄土」に連載した『無明抄』とはだいぶ異なったことを書くだろうなと思う。
志賀直哉の全集第一巻を、日に数編ずつ読み進めている。
* 七月二十日 火 緑の日
* ゆうべ帰宅して手洗いに入ったら、初期伊万里の小 瓶に、黄色い二輪の花が、葉の緑も美しく挿してあった。花は、バグワンふうにいえば、ほんとにビューティフルだ。見飽きない。
* 今から五年前にも日の丸君が代が問題になり佐野洋 委員長の言論表現委員会で活発な意見交換があった。今は懐かしい夏堀正元さんの「絶対」反対に対して、わたしは、むしろ当時の委員会では、いちばん右の端 にいたようだった。佐野委員長宛に自分の考えをまとめて提出したものが、古いフロッピーに残っていた。ここに記録しておきたい。
* 日の丸・君が代についての私見・私案
1994・10・22
1 「日の丸」を、今後は公式に「日本の旗」として認め、敬愛したい。強要するのでもなく
強要されるというのでもなく、自然に各場面に安着して行くことを望みたい。
「国旗」として温和に法で定められるなら受け入れたい。
「日の丸」への一部海外からの忌避を理解しないではないが、例えば星条旗に対して持た
ぬとも限らない感情と質的に通い合っている。この際はわが国民感情にほぼ定着して親しまれている大多数の事実に、素直でありたい。デザインもみごとであ
り、その美しさから受ける印象も本来攻撃的・刺激的ではなく、むしろ親しみやすい。
2 「君が代」は「国歌」にはまったく相応しくない。
互いが互いに千代八千代の幸福を祈り合うのだと歌詞を理解できなくはないが、そのようには決して理解されて来ず、あくまで「君」とは「天皇」であると認識
されて来た。天皇が君主でなく、民主主義を憲法に誓っている以上は、「国歌」として公的に機能させてはならない。
音楽としてもダラケており、国民各層が敬愛して受け入れてきた歌とは思わない。
「君が代」が一種の頌歌として、天皇・皇后および皇太子・同妃臨席の場に固く限定され
て、その寿を祝う心持ちで随時に歌われるのは、国民感情としてさほど不自然とも思わない。しかし何らの強制も受けず、制度化もせず、もとより官公庁・学校
等でのこれの唱歌は当然行うべきではない。「君が代」は皇室の家の歌とし、国民の日常とは切り離すべきである。制度化にも強制にも断然反対し抗議する。
天皇等が海外の諸国で歓迎される際に、諸国が皇室の寿を祝う意味で「君が代」を奏する
ことは、とくに問題としない。べつの「国歌相当」のものが浸透したときには、諸国の判断に任せてよく、しかし政府首脳等が「君が代」の礼を受けてはならな
い。
3 「国歌」に相当する「国の歌」が不要であるとは考
えない。むしろ叡智を尽くして新たに制定されることが望ましく、しかも拙速の策をとらず、不断の対策が官民の双方に望まれる。とくに文芸・音楽にかかわる
民間組織は意を用いてむしろ積極的にこれに当たる義務のようなものがあるのではないか。
私案としては、新たな制作は無理であろうと思う。一案として「さくらさくら」と歌い出
される現在も通行の歌など、きもちよく受入れやすい。日本の自然を静かに歌いあげており、歌詞も曲も美しく、無用に刺激的でない。しかも懐かしい感情をた
たえていて、特にこれに不快を感じる国民ないし海外諸国が多いとも思われない。
覚えやすく、「君が代」に代わるものとして周知徹底させるのも早く、無用の抵抗を最小
限におさえられそうに思う。現に、ややそのように無難に実践してきた例もあったのではないか。
これは、決して安易な代行・代案でなく、むしろ「君が代」に百倍する適切なものと積極
的に推薦したい。ペン会員においても公式に議論されていいように思っている。 以上
* ほぼ、今も同じ思いである。日の丸と君が代を一括 りにせず、分けて対処してはという気持ちだった。現在の実感では、政権与党の思惑が「法制化による権力行使と強要」に在るのを疑いにくいことからしても、 日の丸といえども悪しき意図をひめた法制化には、賛成できない。
* こういうわたしの考え方でも、これが今では「イデ
オロギー」だと言われてしまう。これが、わたしは、怖い。
* 七月二十一日 水
* 「私語の刻」の去年分(創作欄9 所収)を、すべ
て日付順に組み替えて読みやすくした。「私語の刻2」「創作欄 4」もそのように改めて行く。
「私語の刻1」は現在進行形なので、新しい日付を従来どおり冒頭に持ってくる。
* 風邪であろう、一気に喉がひどくなり、烈しく咳込 み、咳くとものすごく喉が痛む。腸が飛び出そうな咳をする。文字コード委員会で発言した途端に我ながら変な声をしていると感じた。昨日は午後から東大のド クターに在籍して、これから卒業論文を書くという学生君と、六時間も家で楽しく語り且つ飲み且つ食って、それは佳い時間を、妻も一緒に過ごした。その間は たいした咳もでなかったとはいえ、うつしていないといいがと、それを今は心配している。
* 彼は脳や神経の研究者であり生体学者であるらし
い。話してくれる一つ一つのいわば研究余話が面白くて堪能した。そういう方面になると妻はわたしよりもずっと好奇心旺盛に関心のある方だから、嬉しそうで
あった。
我が家に現れた東工大の卒業生や院生や院の卒業生はもう十人はいる。外で妻も一緒に食事
をしてお喋りを楽しんだのは、もっと大勢になる。そして妻の感心し悦んでくれるのは、どの一人一人もじつに個性的で、豊かな自分の世界と言葉とをもってい
て、話も面白く、話の中身が優秀だということだ。
打てば、さまざまに響く。「いまどきの学生はなーんにも言いませんよ。言うことをまるで
もっていないんだから、秦さん、がっかりしないで下さいよ。はじめから諦めていた方がいいですよ」と、任官前後に、ずいぶん大学の先生から声をかけられ
た。わたしには、それが信じられなかった。断絶が最初から設定されていれば、だれが言葉をかわすものかと思った。
わたしは在任の四年間、学生たちの生きた言葉を、生きたまま蒐集した、じつに貪欲に。そ
のお陰で退官して三年半、いまだに学生は私を訪れてきて話し、デートして話し、メールや郵便で話しかけてくる。彼らのいなかったような人生を、もはやわた
しは、想像できない。
昨日の友人に、へんな風邪をうつしていないことを祈っている。今も、かなり熱っぽい。
もっともクーラーを止めているのだから、たんに暑いのだ。ぼうっとしている。
* 七月二十二日 木
* 江藤淳氏自殺の報で夜が明けた。まさかという思い
を波洗うように、そうだったか、やはりそうだったかという思いが覆っていった。ひとごとでは、とても、ない気がした。否認したいよりも肯定している気持ち
に、わたしはわたし自身に抵抗しなければならなかった。
この日この記事に始まり、平成十一年十一月末日
に至る内容は、「秦恒平・湖(うみ)の本エッセイ」第二十巻に『死から死へ』と題し、長編の一作品として平成十二年二月二十日に刊行後、本文のみ、「創作
欄10」に一括して収録してある。
* 十二月一日 水
* いま兄の次男猛が訪ねてきた。ウイーンからきて父
親を葬りおさめ、またウイーンへ帰るのであろう。今夜はともに泣くだろう。
* 十二月二日 木
* 正式には日本ペンクラブのホームページに書き込ん
でいる。電メ研の同僚野村委員に座長として依頼した「シンポジウム」等の報告と感想とであ
り、参加していた一人としても、同感している。ここにも特に転載させて貰う。
* シンポジウム「ぺール・クルマン氏と語る─オン・ デマンド出版の力」を聞いて
<11月22日紀伊国屋ホールに於い て> 報告:野村敏晴
今、オンデマンド出版というのが大きな話題になって
いますが、11月に新宿・紀伊国屋ホールでシンポジウムがありましたので報告します。
オンデマンド出版は、製版や刷版をしないでパソコンから高性能プリンターでプリントをし
て製本する方法と考えていいかと思います。従って1部からの、300あるいは500部くらいまでの少部数出版が可能というものです。1部2000円くらい
から販売可能ということです。
出席者:ぺール・クルマン氏(スウェーデンの詩人)
松田哲夫氏(筑摩書房常務取締役)
津野海太郎氏(「季刊・本とコンピュータ」編集長)
●以下ペーテル・クルマン氏の講演から(スウェーデン の現状報告)
・書店がファストフード化している。
・再販制度がなくなってから、大量に印刷されたものか、ベストセラーしか本が並ばなくなっ
ている。
・書店の棚におかれる時間が短くなっている。
・取次の価格競争が激しい。
・スウェーデンでは本の寿命が短すぎると感じている。特に純文学や詩集が売れなくなってい
るし、書店に並ばなくなっている。
・以上のようなことから作家を中心にして、オンライン上のオンデマンド出版社である
PODIUM出版社を設立した。これによって、1部からでも読者の注文に応じることができるようになった。
・スウェーデンでは公共図書館が重視されていて、図書館から本が貸し出されると、一回につ
きアメリカドルに換算して20セントが作家に支払われる。うち50%は作家基金に。
◎PODIUM出版社について
・オンデマンド出版はすぐに利潤を生むものではない。
・現状の技術・システムの上に補足的にオンデマンドを取り入れるということ。
・絶版本を再度出版するのも目的の一つ。
・スウェーデン作家協会の会員は10%が異文化民族の人たち。オンデマンド出版によって、
彼らの言語で少部数出版をすることが可能になった。
・
民主主義の促進のためには書店の存在が重要と考え、PODIUM出版社はインターネットで注文を受けると書店に送品し、読者は書店に受け取りに行く。
・読者には欲しい本と欲しくない本を実際に見て撰ぶ権利と必要性がある。したがって、書店
の存在は重要。
・少部数の書籍化と発売を可能にするということからも、オンデマンド出版は言論の自由とも
関わりがあると言える。
・誰にでも出版の機会を与えたい。
・異なった部数、異なったページ数も印刷可能。表紙もデジタル印刷。
・PORISKOPという商業出版社がありPDFファイル(デジタル送信)の出版をしてい
る。、PDFで見て人気が出て、オンデマンドで少部数出版され、その経過から新たに商業出版されベストセラーになると言うこともある。
●以下パネルディスカッションから
・500部以上はオンデマンドになじまない。
・100人ほどのクラスや講演会のテキストを、オンデマンドで本にするということが考えら
れる。
・オンデマンドはメインではなくサブシステムである。ただしサブシステムのなかから生まれ
たものがメインシステムに移行することもあり得る。
・コンテンツをどう確保するか、印税をどうするのか。5部しか出ない本の印税を毎月払うの
かといった問題がある。
・オンデマンドは少部数出版のため広告費が捻出できない。従って商売としては成り立たない
のではないか。
・書店はどうなるのか。
・2年ほど前までは売れない本も市場に流せる寛容さがあった。現在は、売れるか売れないか
の二者択一の価値基準になった。オンデマンド出版によってこの二者択一ではない出版が可能になるのではないか。
・アメリカでは多数の絶版本の権利を所有して商売しているところもすでにある。日本では、
デジタルデータがそこまで完全ではないのでむずかしい。(責了時に訂正が入っていて、最終的なデータをそのままの形では使えない。)
●以下は当日出席した野村の感想です。
出版物の製作とインターネットを初めとする流通は、
劇的な技術革新によって刻々と変化していますが、これは、作家および編集者・出版者の出版の権利、そして言論の自由の問題など多くの問題とかかわっていま
す。ペンの会員も充分注視し、時には発言していく必要があるかと思います。
・再販制度がなくなってからベストセラーしか書店に列ばないというスウェーデンの現状が、
昨今の日本の現状と(再販制度が存続しているにも関わらず)似通っていて、これは何に起因するのか興味を覚える。流通システムの問題だけではない他の原因
を考えてみる必要があるのではないか。
・再販制度がなくなってから、価格競争が激しいというスウェーデンの現状は、いずれ日本も
襲うか。印刷部数に対する印税ではなく、売れ高に応じた印税支払いなどの現象が出てくると思える。そこで、好条件で契約を結べる作家と、そうでない作家と
の差が出る。売れ行きが必ずしも品質の良さを証明しないことが問題。
・スウェーデンでは、図書館の本でも、貸し出された回数に応じて印税が支払われると言う。
これはおもしろい。中古ゲームソフトの訴訟問題ではないけれど、出版社も貸し出し回数に応じて利益の配分を受けられれば、弱小出版社も少しは助かるか。で
もその資金源は税金?
・少部数販売で著作権料を支払う、というのはやはり難しい。デリバリーを含めて、もちろん
細かなコスト計算をしなければなりませんが、不可能でないにしても、手間がかかるばかりでやっかいかも。
・確かにオンデマンド出版は商業ベースには乗りにくいが、DTPで編集しフロッピーを渡せ
ば本になるというのは、誰もが著作者になれると言うことで、見かけは民主主義に貢献するかも。しかし、読む人があるかないかは別問題。むしろ、資金がな
く、かつあまり売れない(プロ)作家にとっては、やはり受難の時代に変わりはないかも。
・インターネットがブームで、本を読む時間がパソコンの画面に向かう時間にとって変わり、
本代がパソコン代に変わったわけで、可処分所得は数年前も今さほど変わらない(むしろ少ない)のだから、本が売れなくなり、今度はその本をインターネット
で売るというのは、これは矛盾しているのではないか、とも思う。
・私も、オンデマンド出版はサブシステムだと思う。インターネット、衛星を使ったデジタル
送信、オンデマンド出版プリントメディア、これらのメディアミックスがどのようになされるのか、なしていくのか、ということに興味があります。
・単に書店の存続が民主主義に繋がるとは思わない。そもそも書店も出版社も直接読者と向き
合っていないのではないか(志のある書店が少なくなったような気がする)。読者と向き合うために、インターネットでも衛星でも利用できるものはすればよい
と思う。
・最後に、津野氏の発言にあったように、2年前頃までは、売れない本も市場に流せる寛容さ
があった。今は売れるか売れないかの2者択一の価値基準になった、という言葉が印象に残っています。つまるところ、これをどうするかという問題に尽きると
思います。
* 野村さんにご苦労をかけたが、大変誠実なレポート
になっていて、このトレンディーな話題に関して、良く纏まった便利な整理がされている。大方の参照・参考に堪えるものとして敢えて此処にも紹介した。
* 十二月二日 つづき
* ウイーンから、父北澤恒彦との永訣と葬儀にかけつ
けた甥の猛が、「遺書」を持参、我が兄の最期などを告げに訪ねてきてくれた。一夜を語り明かし、わずかな睡眠の後、今日も午後二時半まで、父を、兄を、偲
んで時を喪うほど語り合った。おそらくは恒彦も、場に加わっていたことであろう。
この甥は、父の最期の旅となったウイーンからプラハやまたダブリンまでの十日余を、ひし
と付き添ってともに過ごしてきた。帰国して、彼の父は、わたしの兄は、やがて自身を処決した。「数通の遺書」はしっかりした書体で、常平生よりもよほど読
みやすい正確な文字で、どれも簡潔に、兄の真情と身体の衰弱をかなり的確に語っていた。それについて、わたしは、何も付け加えるものも付け加えたい気も無
い。わたしを名指しの遺書はなかったが、一通、宛名のない簡潔なものがあり、それが兄のわたしへの述懐と、しかと受け取った。
* 兄の最期のメールが四通受信箱に残っていたのを猛 のために刷りだしてやった。
* Date: Wed, 14 Jul 1999
11:58:45 +0900
From: kitazawa tsunehiko
<kitazawa@kyoto-seika.ac.jp>
To: "秦 恒平" <FZJ03256@nifty.ne.jp>
Subject: 志賀直哉のことなど
恒平さんに
志賀をおもしろく読んでおられるとのこと、楽しみですね。
テレビ司会の田原さんのこと、人相がわるくなったと、ご立腹の様子だったが、ぼくはもう
少し点数があまい。あんな番組をこれほどもたせる人がまともな人相でいられるはずがない。それはそれで一つの才能だと思います。彼がテレヴィに登場する以
前に、商社マン批判が世を風靡していたとき、彼の書いたものをいい感じでおぼえている。ニューヨーク派遣の商社マンが、自分らが販路の敷石をあくどいまで
に敷き詰めていくことで、安定的生産を可能にしてるんだ、と語るインタビュ記事だが、商社虚業論の風潮のなかで異彩をはなっていた。ぼくの保守主義で、こ
ういう記憶が甘い点数のもとにある。
梅原猛さんがいい顔になってきたことに、満点異議はないし、だいいち田原のテレビなどほ
とんどみないが、土井たかこよりはマシじゃないか。
共産党が君に寄稿を求めるまではいいが、(原稿を受け取ってからの没書処置など、)やん
ぬるかなだね。森嶋通男さんが、同じようなことを解放同盟の関係で経験し、がっくりきていた。この国の最も深刻な主体的危機だと思う。ともかく命を大切
に。
Date: Tue, 25 Aug 1998
11:41:02 +0900
From: kitazawa tsunehiko
<kitazawa@kyoto-seika.ac.jp>
To: "秦 恒平" <FZJ03256@nifty.ne.jp>
Subject: 留守すること:
わざわざありがとう。少し留守がちになります。みず
うみ(湖の本)、おくっていただいて応答がおくれたら、そういうことだと了察ねがいます。九月にはいったら、(ウイーンの)猛のところと、交通運賃がその
ままなので、ダブリンに足をのばしてきたいと思っています。ゾンビみたいな老人(養父)をかかえ、かえってきたら隣りの家をぶっこわす事態が待っているの
に、まったく無謀なハナシです。しかし、どう考えても、今しかチャンスがないきがする。
猛にあえるかどうかも確信がないが、会えれば、君の励ましを伝えます。喜ぶでしょう。
事情のご通知まで。
Date: Tue, 21 Sep 1999
17:54:00 +0900
From: kitazawa tsunehiko
<kitazawa@kyoto-seika.ac.jp>
To: "秦 恒平" <FZJ03256@nifty.ne.jp>
Subject: みずうみ拝受
予定どおりダブリン、ウイーンからもどり、みずうみ
の本拝受しました。ご心配をかけました。年寄りが生きていてくれ、(もちろん医者の助力によって)、今のところ自分もこうやって生きているわけですが、い
ずれが欠けても破滅的なものでした。それほどの値打ちがあるか、といわれれば、答えにくい。
猛はアトピー体質で、オーストリアの乾燥した気候があっていると元気でした。この点で
は、嬉しい見込みちがいでしたが、もはやぼくの手のおよばぬ所に彼が出てしまったという感はぬぐえなかった。旅に彼はぴったり付き添っててくれたが、これ
ほど至福で、悲しい旅はなかった。ダブリンとは、そういう街のようです。ここで倒れればお笑いぐさですから、気を引き締め、長屋の破壊に立ち会うつもり。
久しぶりで(月曜ごとに出講していた精華大学の)キャンパスで若いひとたちにあいました。やはり、いいものです。
猛はおじさんをたいへん誇りにしていました。
Date: Tue, 12 Oct 1999
14:34:02 +0900
From: kitazawa tsunehiko
<kitazawa@kyoto-seika.ac.jp>
To: "秦 恒平" <FZJ03256@nifty.ne.jp>
Subject: ひとこと
みずうみの中世論、家の老人が入院中で、なにか歴史も
んないかというので、貸してやりました。どうだ、というと「むずかしいけど、おもしろい」そう。
不思議なものです。
* これ以降、大学へ出るのも、講義の用意をするのも
大儀であったらしい。兄のEメールは大学の図書館かどこかにある器械を慣れない手つきでやっと此処まで使えるようになっていたので、出講の月曜日に限って
メールを呉れていた。ホームページもよく見て反応してくれることが多かった。八月末の「留守すること」は、最初三行ほどが空いていた。何か書いた文章を送
信前に削除したのではないかとも感じた。このメールには心配し、内心は、どうか無理な長旅など思いとどまって欲しいと思ったが、兄の行きたいものを引き留
めることはしたくもなく、出来ることでもなかった。行って、息子との「至福」の時をもったことに、今となれば良かったと思う。
肝硬変が末期化していたかもしれないと漏れ聞いている。事実は知らない。老父をあえて遺
して逝ってしまった、「そこ」に兄の秘めた「覚悟」を感じている。感じているだけである。
* 明けて一月には、鶴見俊輔氏や中尾はじめ氏らのお
世話で「偲ぶ会」が計画されるらしい。兄とために喜びたい。願わくは遺児三人が、誠実に、和やかに、父恒彦の遺書の遺志を尊重して、霊を慰めて欲しいとよ
そながら見守っている。
ちょっと世人の理解しにくいかも知れない奇妙な運命のもとに生まれながら生き別れ、僅か
に三面か四面、また死に別れてしまった兄と弟であった。兄弟とすら実は互いに戸籍上は証明もできないのである。それで良かったとも思わないが、それが悪
かったなどとも執着していない。親類とか親戚とかいった実感も拘束もお互いにきれいに棚上げして兄は私を愛してくれたし、私も兄を深く敬愛してきたのであ
る。幸せな兄弟だったと言うべきだろう。そうあって欲しいと死ぬる日まで切望していた生母や実父も喜んでいたと思う。そして今は静かに先ず一人の息子を迎
え取っていることだろう。
* もう再々は兄にふれて書くことは無いかも知れない ので、闇に言い置くことが、一つ在る。
* 私の最も早い時期の小説に「畜生塚」がある。のち
に新潮に出し桶谷秀昭氏に賞賛されたなつかしいものだが、これを最初の私家版に収めたとき、わたしは一度も逢ったことのない兄に宛てて送っていた。兄はす
ばやく、それも強く反応した佳い手紙を呉れたが、中でも心籠めて強く共感してくれていたのが、作中に書いていた「本来の家に帰る」という、作中の語り手の
考え、いや祈願についてであった。
人は死んで「本来の家」に帰る。此の世は旅先である。旅から帰って行く本来の自分の家に
は、自分が愛した、自分が愛された、全部の人がともに帰って行き、ともにその家に住む。そういう本来の家を、一人一人がみんな持っていて、帰って行く。
「私」はそんな自分の家に帰って作中の「妻迪子」とももちろん、妻のたえて知らないヒロイン「町子」ともきっと同じ家で仲良く住む。しかし「迪子」の本来
の家では「私」もまた必ずともに住むだろう、が、「町子」はいなくて、もっと他の迪子の愛した人たちが一緒に暮らすだろう。同じように「町子」の本来の家
にも「私」は必ず一緒にいるが、「迪子」の姿はそこにはなく、もっと他の町子の愛した母やだれそれが一緒に暮らすことだろう。
そのようにして、多くを愛し愛されたものほど、死後には多くの人の家で多くを満たされて
生きることになる。孤独地獄とは、本来の自分の家でだけ、ただ孤り・独りで永劫生きるしかない者の絶対苦を謂うのではないか。
* ま、そう謂ったことを作品の中で「私」は、「妻」
にも「町子」にも語っている。
兄恒彦のこの件りに関する共感はちょっと作者の私をも驚かせるものがあった。そして後
に、兄は『家の別れ』という独特の詩的文体の思想的自叙伝により、実の親たちや養いの親たちや家庭にふれた覚悟の著作を公にした。最後には弟である新進の
作家「秦恒平」の名も明らかにして触れている。
兄がどれほどの著作をしどれだけの原稿をどこに書いたかを詳しくは知らないが、『家の別
れ』は兄を最も多く代表したものであったように感じている。それを話題に、瀬戸内寂聴さんと兄が対談していたのを読んだ覚えもがある。
* そして兄の生涯の様々な市民活動のなかで、一つの 拠点として成果をあげていたのが「家の会」だったようだ。兄はロマンチストであるとともに、第一次火炎瓶闘争の高校生の昔から、一貫して優れて実践的また 合理性的な不屈の闘士であったらしい。その一方で兄は、このわたしが遠くの方にいて、谷崎や茶の湯や短歌などの世界で己と向き合っているらしいことを「良 かった」と見守ってくれていた、そうだ。そういうことも人づてに漏れ聞いていた。
* 『家の別れ』といい「家の会」活動といい、あの
「本来の家に帰る」という未だ逢わざりし弟の「夢想」のような想いに、あんなに感じ入ってくれた若き日の兄と無関係だとは私は思わない、思えない、のであ
る。それを、舌足らずながら此処に「言い置く」ことは、二人にとって、なにかしらかけがえなく大切なことに感じられる。
わが、只今の、痛いほどの mourning work = 悲哀の仕事である。
* 十二月三日 金
* 晴れていたが寒い風の中を、乃木坂まで。
言論表現委員会は前半空しく、後半は講師を招いて新聞報道と人権との話を聴いたが、問題
が大きく、余りに大きく、群盲の象を撫でる感じだった、が、来年の委員会討議の大きな柱になっておかしくない、大事なものとは実感した。
* 前半は、例の、角川抗議事件の処理の仕方(1.非
公開という信義で角川を喚んでおいて、猪瀬委員長が半端な受け取られ方の記者取材に応じ角川の抗議を招いたこと、 2.抗議を受けてのちに十分な時間は
あったのに委員会を開かず、拙速の回答文を委員長の手で用意し、結果的にそのまま理事会に持ち出されたこと、執行部は当然委員会の討議を経たものと思いこ
んでいたこと、会長自ら明確に委員会討議の無かったのは遺憾であったと表明したこと。)について、猪瀬直樹委員長のしどろもどろの、頑固に反省のない弁解
が大声で続いただけ。反論する五十嵐二葉さんの、まことに当然な発言や意見に対しても、「あんたは役人だ」といった暴言で応酬するありさま。これは好漢猪
瀬のためにも、まことに惜しまれる逸脱でしかなく、はしなくも、わたしは往年の思い出を新たにした。「分かる人には言わなくても分かる。分からない人にい
くら言ってみても分からない。だから言うは言わぬに優ることはないの」と、一つ年上の女生徒に、中学時代に教わった。聴く耳を持たない人には言ってみても
始まらないということ。
委員会委員長を、会長が「指名する」という制度がそもそも前時代的で改めるべきだとい
う、五十嵐委員から会議の始まる前に聞いた言葉が、重く耳に残る。さらに私の考えを率直に言えば、委員会委員がその委員長単独の指名と選抜とで決まる制度
も、輪をかけて安易で、途方もない弊害を生じかねない。委員長の恣な「色」が強くなり偏向のおそれが出ては、例えば言論表現委員会の如きペンクラブの心臓
部のような委員会では、ゆゆしい錯誤にもミスリードにも陥りかねない。もっと、推薦制や自薦制度も取り入れるべきで、それがあれば、五十嵐さんの先の問題
点も少しは修正できよう。
* 関連しての話題で、例えば先日報道されていた、早
稲田大学へ中国の主席がきたとき、全出席学生の個人情報を当局宛に大学が一括提出していた問題など、どうして学生は自らにたいして腹を立てないのか、大学
を責める前に自分の意識に自分のセキュリティイーは自分で守るという自覚が何故無いのかと、みなでいぶかしみ合った。
「私」がぼけているうちに「公」はどんどん「私」の権利を「擁護」の美名のもとに奪い上げ
て行くではないか。
早稲田はどうしたというのか。
* 三木紀人さん訳注の『今物語』(講談社学芸文庫)
を、またまた楽しんで読み返し始めた。どんな不愉快なざらついた気分も、これを読み始めるとたちまち故郷に帰ったように、うっとりと和む。鎌倉時代の優秀
な説話集で、他の多くのどれよりも、文芸としての雰囲気に濃密な統一感と優雅さとがあり、三木さんの訳も注解も驚くほど的確で簡潔である。ある程度まで平
安物語や和歌の魅力に馴染み、貴族社会の風情にも通じた人には、この本に盛られた理解や豊富な知識は堪らない味わいで誘惑してやまないだろう。超満員の電
車の中で窮屈な姿勢で読んでいても、完全に、時の感覚を喪っているほど没入できるから嬉しい。
* 十二月三日 金
* 晴れていたが寒い風の中を、乃木坂まで。
言論表現委員会は前半空しく、後半は講師を招いて新聞報道と人権との話を聴いたが、問題
が大きく、余りに大きく、群盲の象を撫でる感じだった、が、来年の委員会討議の大きな柱になっておかしくない、大事なものとは実感した。
* 前半は、例の、角川抗議事件の処理の仕方(1.非
公開という信義で角川を喚んでおいて、猪瀬委員長が半端な受け取られ方の記者取材に応じ角川の抗議を招いたこと、 2.抗議を受けてのちに十分な時間は
あったのに委員会を開かず、拙速の回答文を委員長の手で用意し、結果的にそのまま理事会に持ち出されたこと、執行部は当然委員会の討議を経たものと思いこ
んでいたこと、会長自ら明確に委員会討議の無かったのは遺憾であったと表明したこと。)について、猪瀬直樹委員長のしどろもどろの、頑固に反省のない弁解
が大声で続いただけ。反論する五十嵐二葉さんの、まことに当然な発言や意見に対しても、「あんたは役人だ」といった暴言で応酬するありさま。これは好漢猪
瀬のためにも、まことに惜しまれる逸脱でしかなく、はしなくも、わたしは往年の思い出を新たにした。「分かる人には言わなくても分かる。分からない人にい
くら言ってみても分からない。だから言うは言わぬに優ることはないの」と、一つ年上の女生徒に、中学時代に教わった。聴く耳を持たない人には言ってみても
始まらないということ。
委員会委員長を、会長が「指名する」という制度がそもそも前時代的で改めるべきだとい
う、五十嵐委員から会議の始まる前に聞いた言葉が、重く耳に残る。さらに私の考えを率直に言えば、委員会委員がその委員長単独の指名と選抜とで決まる制度
も、輪をかけて安易で、途方もない弊害を生じかねない。委員長の恣な「色」が強くなり偏向のおそれが出ては、例えば言論表現委員会の如きペンクラブの心臓
部のような委員会では、ゆゆしい錯誤にもミスリードにも陥りかねない。もっと、推薦制や自薦制度も取り入れるべきで、それがあれば、五十嵐さんの先の問題
点も少しは修正できよう。
* 関連しての話題で、例えば先日報道されていた、早
稲田大学へ中国の主席がきたとき、全出席学生の個人情報を当局宛に大学が一括提出していた問題など、どうして学生は自らにたいして腹を立てないのか、大学
を責める前に自分の意識に自分のセキュリティイーは自分で守るという自覚が何故無いのかと、みなでいぶかしみ合った。
「私」がぼけているうちに「公」はどんどん「私」の権利を「擁護」の美名のもとに奪い上げ
て行くではないか。
早稲田はどうしたというのか。
* 三木紀人さん訳注の『今物語』(講談社学芸文庫)
を、またまた楽しんで読み返し始めた。どんな不愉快なざらついた気分も、これを読み始めるとたちまち故郷に帰ったように、うっとりと和む。鎌倉時代の優秀
な説話集で、他の多くのどれよりも、文芸としての雰囲気に濃密な統一感と優雅さとがあり、三木さんの訳も注解も驚くほど的確で簡潔である。ある程度まで平
安物語や和歌の魅力に馴染み、貴族社会の風情にも通じた人には、この本に盛られた理解や豊富な知識は堪らない味わいで誘惑してやまないだろう。超満員の電
車の中で窮屈な姿勢で読んでいても、完全に、時の感覚を喪っているほど没入できるから嬉しい。
* 十二月三日 つづき
* 発送を終えた『丹波・蛇』に続々と反響が届く。講 演録の「蛇ー鏡花」にも、また、妻の、風変わりな「姑」にも、嬉しい感想が沢山来ている。
* 老ノ坂にある酒呑童子の首をまつったという首塚明
神にお詣りしたことがございます。
国道に並行して、あれが旧道でしょうか、ほそぼそ道があって。
その細い道に添って、幾軒か並んでいる、もう誰も住んでいない家の屋根に、菜の花らしい
花が頼りなげに咲いていました。首塚明神のあたりは一面の落椿。
びろうどの紐が祠の扉(と)のひまにひきこまれゆ く くちなはなりけり
声も出ませんでした。ぞォーッと総毛立ち、身体がこ わばって。それなのに、ゆっくり、なめらかにひきこまれてゆくびろうどの紐から目が離せませんでした。
あのへんは蛇が多いのでしょうか。
* 凄い、とはこれか。
* 豊田美術館で仕事をしている女性読者から、館で開
催している「村上華岳展」の充実した図録を親切に贈ってもらった。代表作の殆どを含む素晴らしい展覧会である。図録を見ているだけでも感じるものが、華岳
の場合真作に触れると百倍するほどの、深さであり高さである。よく知っている。六十四年の人生で華岳と出逢ったことは谷崎や鏡花と出逢ったのに相当する、
わたしの実感では。
あと二日の会期、妻はぜひ豊田まで行ってらっしゃいと言ってくれる。原稿書きが迫ってい
るので断念の他無い、が、読者の好意には心から感謝。
* 高校の頃の女友達があいついで関西の名酒、長野の
すてきな林檎を送ってきてくれた。学年では同じく二つ下だが、この人たちはお互いには記憶もふれ合いも無かろうと想う、だが二人とも学校の茶室で、茶道部
で、わたしから茶の湯の手ほどきを受けていた。一人は普通科、一人は美術科だった。普通科の人は奈良のあやめ池近くに住まいがあり、松伯美術館や中野美術
館に近いので、招待券が来るとご主人とどうぞと送って上げる。散歩がてらに夫婦で松園や華岳らの繪を楽しんでいますとか。美術科の人は春陽会に出展するプ
ロの画家として活躍している。いつもわたしのキツイ批評を甘んじて受けている。こういう人たちにも私はいつも励まされている。
* 十二月四日 土
* 今年の三冊をとある新聞の依頼があり、例年は断る
のだが、今年は書いた。
小西甚一『日本文藝の詩学』高田衛『蛇と女』持田叙子「折口信夫独身漂流』で、理由は、
新聞に出たあとに此処へも書き込むつもり。
* 「湖の本」と「ホームページ」に関する取材依頼や
原稿依頼が重なっている。そういう潮時なのか。
* 十二月五日 日
* 「お受験」という不愉快な言葉を「春奈ちゃん殺
し」の前にも聞いていた。息子が姉と電話かメールかでかで話したときの話題に、朝日子ががしきりに、来年は娘の、つまり我々の孫の「お受験」だと、見せび
らかすように「言いやがる」と気色わるがっていたのだ。わたしも気色わるかった。この秦の家で育った娘が、そんなことに熱中するようになったかと暗然とす
る一方、孫が可哀相になった。朝日子自身はいわゆる「未塾児」で、中学受験では落ちたが、自らの初志を貫徹して、高校受験では難関を自力で突破し、お茶の
水女子高校にパスし、卒業生答辞を読んで、大学はお茶の水にも慶応にも、塾になど一度も行かずに合格していた。娘の根性でし得たことであり、「お受験」な
どという雰囲気は、我が家にはなかったのである、自力の受験勉強はさぞ大変だったろうが。
その朝日子の口から、「お受験」などと、たとえ口づてにも聞くとは、耳を疑って
しまう。どんな考え方に変わってしまったのかと胸が痛む。
高校生活を、「外部」と言われながら通学していた。「問題の幼稚園」から、ずっと持ち上
がりの生徒も含めて、それ以前の大部分の生徒が「内部」だった。PTAにも「お受験」派といえばいいのか、一種独特の社交界が形成されていて、「おもしろ
いわよ」と妻は観察していた。妻はてんでそういう人たちに馴染みも気圧されも諍いもしないタチだから、べつだんもめ事もなく、それどころか、押しつけられ
てPTA会長をこのわたしにというような提案も、ああそうですかと呑み込んで帰ってきたりした。
PTA会長ーー。それは、およそわたしには似合わない職分だった。なあんにもしなかった
し、付き合いも一度もしなかった。金も使わなかった。卒業時の謝恩会に、すこし長い目の挨拶をして、会長就任の記念に時計をもらっただけで、社交界ふうの
母親たちからはあきれ果てられていただろうが、そんな狭苦しい世間のことは右になっても左になってもわたしたちには何の関係も関心もなかったのである。
* 今度の事件は、知れば知るほど痛ましい。私に言わ せれば、これもまた「国の犯罪」になる。子どもを殺した母親も殺された母親も確実に罪深いけれど、そういうばかげた学歴社会を煽り立ててきたのは、間違い なく文部行政であり、過剰管理教育であり、天下り特権官僚国家の罪なのである。地方の主婦が的確にテレビに投稿の手紙で指摘していたが、あの、「ここがヘ ンだよ日本人」に愚劣な顔をさらし下らない屁理屈の本音を自慢いっぱいに喚いていたような東大生を頂点へ持ち上げて行く「国」なのである。「国の犯罪」な のである。
* 特殊な蠅を育て、その蠅の幼虫を動物の糞に住まわ せて糞を化学的に解体させると、じつにすばやく、みごとな肥料が出来る。どんな他の処理よりも早くて有益で確実だという実地を、テレビが見せてくれた。旧 ソ連で開発されたもともと軍機密のプロセスだったらしいが、その理論と蠅とを買い取り、日本で有機農法に現に活用している実業家がいたのである。蠅の飼育 といい、産卵孵化幼虫の一貫管理といい、見ていて気持ちのいいものではないが鮮やかな成果を上げつつある。感じ入る。悪しき副産物が何も生ぜずに、永遠運 動のように、蠅と糞と動物と野菜とが連動して行く。見学者の多いのも頷けるし、取り上げた美里みすずの報道特集も、いい仕事をしたと思った。
* 逆に、何とも苦々しい後味が今頃まで残っていて思
い出すのは、先月末の「ペンの日」の文化勲章受章を語る会長の挨拶だ。無邪気でけっこうということだが、わざわざ、きっかけを司会者に催促してまで、なが
ながと「受賞の弁」を述べつづけた梅原猛さんには、躊躇なく「おめでとう」の祝意をもちながらも、過去に生きた数々の優れた文士や詩人たちのあの顔この顔
を思い浮かべて、気恥ずかしい感じがした。口に優れた「文学」を待望すると言いながら、勲章のよろこびを声高に語って会場の拍手を受けているとは。大岡昇
平や大江健三郎が辞退したのと比較してものを言うのではない。伊藤整や高見順が同席していたら、どんな顔をするだろう。わたしをこの世界に送り出した呉れ
たあの芸術家たち、井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫らが聴いていたら、どんな顔をするだろう。谷崎はどうだろう、川端はどう
だったろう。好んで我から自分の受賞を、かりにも文筆家・創作者とのあんな席であんな風にけらけらと喋るだろうか。そう思えてならなかったので、居住まい
の悪いこと甚だしかった。
ま、あれが梅原さんの天真爛漫な性格のいいところなのであろうよと、忘れようとしていた
が、「哲学」という二字が頭に浮かぶつど、ふっと苦笑される。
* 呼応するように、会場では、なにが世界平和のペン
クラブかと思われるまるで「お受験」お母さんたちなみのミーハーカメラマンたちが、知名の人の周囲で右往左往し、記念写真。シャンシャン入会の弊がピンか
らキリにまで浸透しているようで、うざったい気分だった。文学者らしい文学者が払底してきた、これも余儀ない「時代」なのであろう。硬骨の人の、信念の人
の、美しい人のいることも、むろん知っていて、わたしは尊敬も親愛もしている。勲章などを嬉しがらない芸術家たち編集者たちで会場の埋まるパーティにこそ
出たいものだ。めったになく出たからいけなかったのだろうが。
* 十二月六日 月
* 「本来は家庭で両親が育てるはずの『心』を、幼稚
園と在宅保育サービスのシッターが共に家族を援助しながら育てていこうという試み」についてメールしてきた人がある。この括弧付きの「心」という意味が分
からない。「心を育てる」とは、正しくはどういうことを謂うのだろう。こういう表現や評論はしばしば耳にも目にもしてきた気がするが、さて、どういうこと
を指し、どうなると「心を育てた」ことになるというのか、実に概念がアイマイなままに頻用されている。
子どもの心を、どうして両親が育てられるのだろう。どんなふうにして「幼稚園と在宅保育
サービスのシッターが共に家族を援助しながら育ててい」けるのだろう。「心」とは何か、把握しての話だろうか。
子どもは育つ。ものの苗も育つ。育てるとは謂っているが育つのに手を貸しているというの
が正しいだろうと前にも書いた。「育てる」意識で接してくる親や大人への反感や反抗が、かなりの力になり現代を混乱させてきた。反感をもち反抗的になった
子どもにだけ責任を問うのは筋違いで、子どもの心が育てられると過信しながら、我が心根はけっこう勝手次第に腐らせてきた親や大人の愚と責任とは、計り知
れないのではないか。疑問を呈したい。
* メールはさらに続く。
* 「お受験」の事件はもっと根が深く、何年か前のい
じめ世代の子ども達が親になって表れたものと言う感じもします。
今の若い母親は許容範囲が著しく狭い様に思います。「公園デビュー」などという昔は考え
られない言葉があり、そこであるグループに入りそこなうと、親子ともに仲間はずれ、いじめに合うということが、実際にあるようです。価値観、文化程度など
さまざまな点で違うと、もう分かり合おうとしないのです。何とか子どものために近所づきあいをよくしようと、あの加害者の場合は「ベビーシッター役」を無
償で引き受けていたのでしょうね。
子どもの預けあいがこんな暗い執念を生み殺人にいたるくらいなら、あるいは子育てにいら
ついて、虐待で大切な子どもを死なせるくらいなら、お金を払ってベビーシッターを頼んでくれればどんなに良かったかと思います。さらに子どもを持っている
家族に均等に子育て奨励金が出れば、もっと利用しやすくなります。
* 「お金を払ってベビーシッターを頼んでくれればど
んなに良かったか」とあり、さらに「子どもを持っている家族に均等に子育て奨励金が出れば、もっと(ベビーシッターを)利用しやすくなります」とある。あ
の殺人事件に絡めて謂うならば、この提言にはすこし無理がある。ベビーシッターの必要なのは時間や体力に余裕のない親であるのが普通であり、「公園デ
ビュー」して一団をなしているような、仲間に加わりたいような母親には時間も余力も、曲がりなりに子どもといつも接して「育てて」いるという気もある。ま
た、ひるがえってこういう母親や親たちが「子育て奨励金」など貰って、その金を支払って子どもをベビーシッターに預け任せてしまっている図も、想像するだ
にこれもまた肌寒くなる。
このメールの人はまた「早期教育と言うことにはぜったい反対です。子ども時代に自然に触
れ、自分で工夫し、探検するのびのびとした経験が大人になっても伸びる可能性を育てるのです」と書いているが、これは「子育て奨励金」といった発想や「ベ
ビーシッターを利用」するといった発想とはあまり触れあわない家庭内環境が可能にする、だれでも考え願っているごく普通の発想ではなかろうか。家庭生活に
ベビーシッターや幼稚園が積極的な働き方で有効に関与するというのなら、もっと目の覚めるような斬新で革新的な発想が欲しい。
* もとへ戻って、「心」とは何かを問い返したい。「子どもの心を大人(他者)が育てる」
とは、どういう意味なのか。可能なのか。そもそも必要なのか。
* こんなメールも来ていた。
* メールありがとう。嬉しく読みました。今日は寒気
が入り、風が吹いています。庭の名残のもみじが追われるように散っていくのを、しみじみ眺めています。しみじみを越えて一種凄惨さを感じ、何かに突き動か
されそうな、妙な心の動きがあります。こんな事を書いても、まあ、いつものことと笑い飛ばして下さい。
寒さに弱い植物を部屋に入れました。
「湖の本」読みました。迪子さんの文章は聞き書きと断っていますが、彼女の文章であり、
そしてあなた自身の文章でもある、文章と言うより、紛れも無く、人そのもののダブルイメージ、そこにお母様を加えればトリプルイメージさえ感じます。彼女
にこそ作家秦恒平を書いて欲しい。彼女こそあなたの伴侶、あなたの半身なのですから。
家のこと、まだ決まっていません。おそらくこのまま年を越すでしょう。住む場所に拘るの
は、それが生活、生き方といった方がいい・・生き方をかなり左右してしまうから。
我が侭を言うのではありませんと・・言われるのは判っているのですが。ただし早く状況を
脱したい、考えなくてよい状態まで。今はさまざまなことがかなりマイナス方向に動いています、が、逆に発想方法を変えれば良いのだと、そのための少しの勇
気があればいいのに・・。それでも私なりに来年への抱負は大いにあります。
この一年は娘にかなり振り回されました。日常的に、精神的に、経済的に。親とはいったい
何なんでしょうね。彼女は今朝、妹のいるフィレンツエに向けて旅立ちました。下旬に二人で戻ってきます。私も行きたかったのですが、仕事がありますの
で・・。
* この颯爽とした個性。事情こそ詳しくは分からない が、寒風に顔を真向けて、時にはのたうちまわるように苦しんだり怒ったり動いたりする、そういう人の決然とした文体がある。
* パソコンについて功罪の論議が雑誌にも溢れ始めて
いるが、人により活かしかたが違って当然だろう。精神の活躍という言葉を字義に即して大切に感ずるなら、わたしは自身の「精神の活躍」をホームページに刻
印していると思っている。そういう場を恵んでくれた文明と時代とに私は感謝している。今日は「出版ニュース社」にやや長めの原稿を送った。概ね今年の仕事
はメドがたった。九日から二十一日の誕生日まで、今年最期のペン理事会をはさんで、びっしりと予定がある。もっとも観能が三度有る。歌舞伎と新劇を観る。
文芸家協会の知的所有権委員会が新聞六社とデータベースの著作権問題で二年ぶりの協議もする。とうとう京都へも行けなかったが、いやいや分からない、師走
の南座へ飛び込んで来れないだろうか、曼殊院の庭や永観堂の見返り阿弥陀や祇園八坂神社の境内が観て来れたら、どんなにいいだろう。逢いたい人も。
* 十二月七日 火
* 寒さに負けて散髪に行かなかった。「黒い少年」は
活発に家の内外を領略し、意気盛んである。食欲の旺盛なことは「ジイヤン」におさおさヒケをとらない。何でも食べるといいたいほど食べに攻めてくる。蕎麦
も食う、ビスケットも食う、チーズは大好き、肉となれば牛も豚も目がない。そして脱兎のごとくではきかない、まるで戦闘機のように階段を駆けのぼり駆けお
り、砂塵を巻く勢いで廊下を疾駆してくれる。勇ましい。攻撃的で、負けず嫌い。わたしとボクシングしてパンチを食うと、両耳を三角に逆立ててジリジリと
迫ってくる。なかなか、逃げ出すようなことはしない。
妻はメロメロに優しい。わたしも、優しい。
* 奈良の吉野ちかくから素晴らしい豚肉が贈られてき
た。あやめ池のそばから届いた清い香りの清酒で、新潟から戴いた一夜干しの旨い肴を食べたい、それもこれも誕生日まで待とうと思う。つい先日夫に死なれて
電話で泣き伏していた人から、私や妻の手紙に感謝して、と、珍味が送られてきた。
岩手からは、やはり先年夫に先立たれた歌人から、手記が送られてきた。つらい思いの人が
此の世にはあまりに多いが、そんな中で師走逼迫の只今も、仕事は激減して借金は返さねばならない町工場の経営者たちの報道に、泣かされた。政治が決定的な
手段を全く持っていない情けなさは、来年もどっぷりと味わうことだろう。わたしなどは、本当に感謝して生きて行かねばならぬ。
* 十二月八日 水
* 散髪に行き、さっぱりした。落ち着いて、し残して いた仕事や気がかりだった仕事を次々に片づけていった。上天気で、昨日よりは暖かかった。
* 京都新聞の宮本さんが、親切に、いかにも生き生き
とした兄の写っている新聞などを送ってきて下さった。出町辺の商店の表なのだろうか、あの辺は中小企業経営診断士という資格をもった公務員であった兄の、
ことに力を入れていた地域である。見るから活気に満ちた風貌で、胸がつまった。有り難うございました。わたしのホームページを覗いていて兄の死をしり、う
まいぐあいにそんな新聞を見付けて下さった。感謝に堪えない。
他にも三千家と藪内家との大きな展覧会の図録ももらった。いかにもいかにも茶道具展だ
が、よさの分かる者にはすばらしい。
* 妻の「姑」を群像の鬼編集長だった大久保房男さ ん、文藝春秋の出版部長の寺田英視さんが揃って褒めて下さり、妻はほくほくして嬉しそうである。ずいぶんながくかけて、ワープロでひそひそと書いていった らしく、大阪育ちで京ことばの微妙なところは、よく尋ねてきた。言葉遣いの独特のニュアンスだけは細かく、助言した。大筋には口出ししていない。妻がもの を書いたというのは、婚約以来四十二年、初めての一事件だった。
* どんどん、感想を添えての送金がある。発行して
一ヶ月ほどは整理に追われるほど賑わう。お金のことは論外で、読者との直の暖かい応接が嬉しい。
* 十二月九日 木
* 風はあったが寒いほどでなく、晴れ上がって気持ち
いい一日だった。国立劇場はやや閑散としていた。顔見世にみなが出役の留守舞台を、雀右衛門と幸四郎と八十助とで支えるのだから大変だ、それは分かってい
たから無理は注文しない。渡海屋と大物浦は、三人が揃い彦三郎も助けて、なんとか一舞台にしあげた努力賞ものだが、脇役が小さくて薄っぺらでは何としても
盛り上がりにくい見本のような芝居だった。典侍局の雀が八十の老体でしっかり演じ、ひきつづき可憐な手習子を艶やかに踊ってくれたのには、感謝感謝。安徳
天皇役の子役が口跡あどけなく明晰で、なかなかのものだった。「深刻郎」の幸四郎知盛は、あらんかぎりに演じ尽くしてご苦労をきわめた。松緑の、富十郎
の、知盛を観ているが、もっと大らかに「歌舞伎して」いたが、幸四郎は必死に「演技して」見せる。彼の誠実に相違ないけれど、「歌舞伎する余裕」も幸四郎
ほどの役者には必要なのではないか。
ま、それでも泣かせた。
困ったのは芝浜革財布。台本がヘタクソとしか言いようなく、こまぎれに芝居を刻み上げた
から、煮えない煮えない。八十助がもひとつ、勘九郎などとくらべてはでな藝ではなく、温度の低い舞台になった。芝雀の女房はまだしもまともだった。なによ
りも台本が下手すぎる。落語を芝居にするぐらいなら、一幕かせめて二幕にきりっと纏め、じっくりと笑わせ泣かせる脚本にする藝が欲しい。五場も六場もを、
ちょんぎりちょんぎりなど、工夫のなさに呆れ、役者が気の毒だった。前半を一幕、夫婦二人の掛け合いで笑い転げさせ、後半は打って変わって晴れやかなめで
たい大晦日にする、それぐらいの工夫無しでだらだら見せられては、原作の円朝にもわるく、名演忘れがたい前の三木助にも恥ずかしいではないか。
それでも噺がいいから、ほろりと泣かされる。サゲの「また夢になるといけねえ」で締めた
方がいい、舞台でほんとに飲ませてしまうと、「また…」と、その先が心配になる。妻も言うように、噺にある佳いセリフがうまく活かされずに、手垢のついた
通俗なセリフが乱雑に出てくるのにも困った。
だが歌舞伎は楽しい。
* 紀尾井町を歩いてからタクシーに乗ったが、一番町 の霞友会館が改築中で、いっそと、八重洲富士屋ホテルへ「ヴァンベール」のフランス料理を食べに行った。チリのとフランスのと、二種類のワインが、けっこ うだった。メインの牛肉がうまく、満足してそのまま有楽町線で帰ってきた。
* 朝にウイーンの甥からメールが来ていたが、完全に 化け文字、一字も読めなかった。
* 「私語の刻」を、ぜんぶ日付順に直し誤植を直して プリントしたのが、二千枚ほどになっていた。そんな脇道に逸れていないで、と、言う人も有ろう、それも分かっているが、此処にものっぴきならない「表現」 がある。精神が萎縮していれば、とても書けるものでない。「疲れ果て気力を失ないました。」と、それだけを兄は私に書き遺して逝ってしまった。常平生、大 事なのは「気力」だ「体力よりも」と私は誰に向かっても言ってきた。闇に言い置くこの「私語」は、私の気力の証左である。戦闘的な気力は必要ない、落ち着 いた自然な気力を大切にしたい、今となれば兄の分までも。
* オフラインに通信を切っても、拾ってあるその
「ファイル」分に限っては読み続けられるらしい。わたしのホームページは一つ一つが猛烈に長いので、「ファイル」を一つ単位でオフラインにして読んでもら
えると、通信代がかからないで済む。
* 十二月十日 金
* 今日は、静かに家にいて、たまっていた手紙の返事
を書いたり出しに行ったり、「東工大余話」を補充したり、「講演録」に書き込んだりして過ごした。かすかに甘みさえ感じられる上等の豚のしゃぶしゃぶ肉
を、たっぷり、鍋でいただいた。奈良県の御所から送って貰った肉である、旨い。冷やしておいた赤ワインが、ぴたり。
秋成の取材で、御所(ごせ)を歩いた。金剛と葛城の大きかったこと。あの辺は天智天皇の
乳母かたの土地ではなかったか。秋成の父が御所の代官小堀家縁辺の人であったろうという、高田衛さんの新説に触れた昔の感動と驚愕とを忘れることはない。
秋成の小説を頼まれながら書けなかったのがかすかに痛みになって残っている。
* 今日は、婚約して四十二年めにあたる。イチロー君 に、いまどきそんなことを覚えている夫婦はいないでしょうと冷やかされた。
* 狭衣物語に、とてつもなく行儀のわるい女房たち が、狭衣中納言をまえにして上を下へ大騒ぎし、几帳は倒すわひっくり返るわ、「ぱぱ」ともの言うわを演じてくれる。こういう場面は源氏物語にも枕草子にも 夜の寝覚にも無い。しかし無い方が異様なので、有ったに違いない。そう思っていたとおりのミーハーぶりが騒々しく活写されているのに吃驚し納得し面白かっ た。途中だからまだ断定できないが、狭衣を読んで、ますます寝覚の上のリアリティーが懐かしい。寝覚の上は魅力と落ち着きとのある人間的な貴女に描かれて いるが、狭衣大将は、どうかすると光源氏以上に現実離れのした造形のように思われる。
* 新聞に原稿を送っても、ことが「宗教法人」制度へ の疑念や非難や廃止提案に踏み込むと、まったく採用されない。その他はよく活字になるけれど。これは広告収入のかなりの率が大宗教法人に支えられているか らで、広告を止められたくないから、いわば国家の大事にもしらんぷりして触れないのだろうと思う。サリンのオーム、定説のライフスペース、天声の三法行だ けが問題の「宗教法人法」ではない。伝統の遊芸の家元までが宗教法人なのは、何としたものだろう。信教の自由は、基本的人権に属すると信じたい。それは認 めねばならない、が、「信仰を売る」組織が、ボロ儲けの組織が宗教法人とは、やめてくれと言いたい。一律に撤廃し、「売った信仰」は「売った茶碗」や 「売ったパソコン」なみに扱えばいい。天下の公党で公明正大を旨とする公明党から問題提起をすべき時機は来ていると思うが、如何。
* 『和歌の解釈と鑑賞事典』は最良の編集とまでは純
熟していないが、パソコンにさわりながら、いろんな「待ち」時間ごとに、撰された和歌から近代短歌へどんどん読んでは好きな歌に爪印をつけていって、一段
落した。で、最古の作と最新の作とを合わせ、私なりの「歌合」と判とを付けて見ようか、などと思ったりする。
例えば、
左
倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠(ごも)れる倭し美(うるは)し 倭建命
右
たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり 河野裕子
これは面白い組み合わせである。
左
さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも 弟橘比売命
右
愛された記憶はどこか透明でいつでも一人いつだって一人 俵 万智
これは、どうじゃ。
この調子で合わせて行くと、すてきに面白い歌合が出来る。左方、右方の方人を選んで議論
させ判をしてみたら面白いだろうな。どこかの歌雑誌で私判させてくれないものかな。
* 十二月十一日 土
* 五十年記念の大きな高校同窓会名簿ができても、せ
いぜい前後二三年しか記憶の名前もない。嬉しいのは、大昔の先生方の住所氏名がよく調べてあり、これは懐かしい。残念ながら亡くなられた先生の多いのは、
ま、致し方もないが、思ったより多くご健在のようであったから、こんどの湖の本『丹波・蛇』を何人かの先生宛て、久しぶりのご挨拶に献呈した。その中で、
どうされているかなあと永らく思っていた、あの頃は若かった「英語」の男先生から、お返事をもらった。
中学の一年先輩で、東京芸大にすすみピアノの勉強をしていたはずの人の従兄妹とかにあた
る先生で、お住まいも同じ縄手の四条寄りにあった。
葉書に、小さな読みやすい達筆のペン字で、お返事には思いがけないことが書かれていた。
* 「湖の本」ありがとう、ゆっくり読ませて頂きま
す。貴君の消息で僕として一番新しいのは「朝日」の「著者に会いたい」です、お元気でご精進の様子、喜んでいます。
スリップに「覚えてて下さいますか」とありますが 貴君は次のこと覚えておられますか。
僕が日吉(ヶ丘)に就職して間もなく貴君はこの英語添削して下さいと言って一冊の大学
ノートを持って来ました、勿論すぐ引受けたのですが困ったことにそれがどこかへ行ってしまいました、翌日貴君に謝ったら貴君は赤い顔をして非常に迷惑そう
に「内容が内容やさかい…」と言いました。僕には何のことかわかりませんでした。所が数日後意外なことにそれが僕の机に連る向い側の実習助手の机上の端に
ありました、日常殆んど空席で僕はそこへ誤って置いたらしいのです。何にせよそれには誰も触れていない、という直観があったのでホツとしながらすぐ鞄の中
へ入れました。
家で開いて見ると日記だったのでヒヤッとしました。添削しながら読み進めていくうちに
「…彼女は雪子に似ている…」という意味の所に出くわし「あつ」と思いました、悪かったなあ、と、しばらく動けませんでした。 寒くなって来ました
ご自愛祈ります。 11.12. 6
* こういう先生だった。若くて兄貴分のような、柔ら
かい、気のいいインテリで、この時期のことゆえ、その頃熱愛していた漱石作『こころ』の「私」のように、その先生のことをわたしは印象していただろうと思
う。育ちのいい、まっすぐな、だが預かりものをこんなふうに紛失してしまいそうな先生にも思われた。
それにしても英語で綴った日記とは、このわたしにしては信じられず、記憶も全然ないが、
だからあり得ないとも言えない。なにしろ、しょっちゅう色んな事を課外に試みるのの好きな生徒だったから。なによりも「雪子に似ている」とは谷崎の『細
雪』のヒロインに相違なく、ちょうどこの頃は谷崎愛にボウッと火のついた頃であった。しかもわたしが「姉」と慕っていた人が、新制中学で先生のピアノの従
兄妹と同級の仲良しだったし、その「姉さん」の妹が、まさしく「雪子」のように魅力的だが、しぶとい子だった。好きだが、翻弄されていた。わたしより一つ
下で、高校には上がっていなかった。この先生に、そんな日記を英文らしきもので見せたのは、なんとなく「わが人模様の内の人」と謂った安堵か甘えがあった
のだろう。
記憶から完全に消えていたこんな一幕を、思わぬ湖の本の余録に頂戴したのは有り難い、
が、思えばおもしろい先生である。「数日」もそんな間近な机の上を一瞥もしなかったのだろうか、しなかったんだろうな、あの先生は、と、くすりと笑った。
* これから妻と、加藤剛の芝居を観に行く。伊能忠敬
をどう「物語」に仕立てているか、剛サンの真面目さは理解している、脚本が旨くできていますようにと願って、楽しみにしている。
* 十二月十一日 つづき
* 新国立劇場での、朝日新聞が記念協賛、俳優座オー
ルスターキャストといいたいほどの、加藤剛主演『伊能忠敬物語』を観てきた。が、残念なことに生ぬるかった。
通俗で、センチメンタル、伊能忠敬の「前」説に終始し、彼の偉さと強烈さが表現できな
かったし、あの時代が、世界史的に持たねばならなかった「地図製作」の、「測量」「星学」の、重苦しいような意義や狙いがすこしも描かれず、伝わっても来
なかった。ホームドラマなみの手軽さであった。
「子午線」といい一緯度の長さといい、舞台で交わされた会話や説明の、あんなことでは、一
伊能の小さな個人的功名心だけの話に終わってしまう。なぜ、あれが世界的な関心事であったのか、それが問題なのだ。そして、同じことは先達の日本人も何人
もが苦心し実践し私見を公開していた。一伊能ひとりの事業でなく、時代の要請を、技術的にも結果的にもかなり精密な正解に近づけた人物であった。彼の前に
先輩たちの知見と苦心の跡が多く積まれていたのである。
日本史上、天明の初の蝦夷検分は、老中田沼の必死の政策だった。田沼を逐ってそれを踏み
つぶした松平定信にしても、蝦夷と北方探検は引き継がざるをえなかった。田沼と定信との北方政策を通じて、大きな先駆者として実質働き続け成果を上げたの
は、最上の一百姓から、算学や測量の実力と経世・探検の意気によって着々出世した幕吏最上徳内であり、名高い近藤重蔵なども、すべて徳内の手引きで動くし
かなかった只の一上司に過ぎなかった。徳内の探検家としての素質には、主としてロシアを通して西洋事情に吶喊しようという経世家の気概があったし、またア
イヌへの深い理解と共感とがあった。有名な間宮林蔵にしても徳内よりはるかな後輩であり下僚であった。間宮海峡の探索も、当初徳内の任務であったのを、幕
府がその危険を顧慮して徳内を留め置き林蔵に命じたことであったし、樺太が島であり半島ではないことを、徳内はすでに推察していた。林蔵はそれを確認して
きたのだった。
最上徳内らの北方地図製作の成果はシーボルトらを驚かせその大著のなかで感謝させている
ように、かなりの精度で樺太や蝦夷地をすでに描きあげていたのは、よく知られた史実である。日本地図をすらかなりのリアリティで書き上げていた先達は他に
も存在していたのであり、こういう先達の大きな働きのあとへ、伊能忠敬は、日本列島地図製作の「仕上げ人」の如く登場した、高度の技術者であった。だが、
その技術を日本が何故に必要とし、いかに忠敬が必要を満たして成功したか、そういう凄さは、今夜の芝居には全く欠け落ちていた。熱烈な探検と測量と作地図
に対する世界の関心・世界の視野に呼応した最上徳内らの努力、そういう努力の成果の上に続いた伊能忠敬の緻密で克明なこだわりや優秀さが、あれでは観客に
的確には伝わってこない。
なにもかも不十分な脚本であり演技であった。加藤剛はこんなにヘタな役者だったかと初め
て思ったほど、甘っちょろい伊能忠敬であった。
伊能を引き立てた幕府の天文学者高橋など、じつは途方もない学力を持ったエラ者であった
が、またそれ故に悲惨な運命に死んだが、そういう片鱗も舞台は感じさせる用意がなかったし、今度ばかりは加藤の「唄う」芝居、センチメンタルな甘さと臭さ
に辟易した。真面目だが安い薄い演技。それは彼の個性で美徳あるとともに多大の欠点でもある、そのところが、この舞台に限って鼻持ちならず悪く出た。演出
家は、この大スターの為すがままにさせて、加藤の悪癖を矯める気迫と見識を持たなかった。持てなかった。
加藤剛は美声で明晰に語れる俳優としてかけがえない才能をもっているが、一方、科白をへ
んに浮かれて、自ら酔って、唄ってしまう。その唄い方が、過去の数々の芝居でと同じなのだから、見なれている者ほど堪らない。やりきれない。またかと思っ
てしまう。女優では岩崎加根子にそれがある。香野百合子にもそれがある。とにかく俳優座を背負って立つ加藤剛はほんものの大スターだし、わたしは好きであ
る、が、テレビの「大岡越前」をながながとやり続けたための悪癖が、彼の芝居を軽薄で安易なものに毒し切ったかと、実に惜しまれる。あの調子では、とても
深い強い質実な把握で、「偉人」を表現し演技することは出来ない。
このところ加藤は「漱石」や「鴎外」や「伊能忠敬」など、偉人の名によりかかつた通俗仕
立ての芝居が多いが、俳優加藤剛のプラスにあまりなっていない、むしろ安易にさせている。利休の言葉を借りていえば「かなひたがるは悪しし」を地でいった
「真面目がった」薄さと安さで舞台を浮かせている。客が呼べればいいだろうとだけ考えているのなら、先輩仲代達也にはとても追いつけず、引き離される一方
である。
俳優座の「かもめ」はわるくなかった。感銘を受けた。劇団昴の「三人姉妹」「ワーニャ伯
父さん」は傑作だった。じんじんする感動を胸に抱いて劇場をあとにしたが、今日の「伊能忠敬物語」には、拍手するのも面倒な気がした。志を高く見せようと
して志のじつは低いことを暴露したものと酷評するより無いのが残念至極である。
舞台の袖へ、ナレーターが出て説明するのも、回数が多すぎる。幽霊の扱いも、ただ軽演劇
風な効果狙いで、真率を欠く。おなじく幽霊を使うのなら、わたしが、長編小説『最上徳内』のなかで終始時代を超えて徳内とともに蝦夷地を旅したような、あ
えて言うが必然の妙を得てやってもらいたい。歴史の人物を演じる気なら、主人公の生涯の少なくも三倍ほどの歴史を掘り下げた上で、きちっと構築した方がい
い。その勉強を欠くから薄く安くなるのであり、把握が弱ければ表現も弱くなると、いつもわたしが自分を戒めるのはそれゆえである。
* 新国立劇場は不便だった、われわれには。新宿へは
やくに出て、サザンタワーで「ほり川」の寿司を食べてから、京王新線に乗った。池袋メトロポリタンホテル地下の「ほり川」と同じ店だが、新宿のは最上階
で、窓際のカウンターからは高島屋が目の下に見えるのを、あまり外へ出ない妻は嬉しがっていた。芝居のはねたあと、風が強く冷えていたので、タクシーで、
青梅街道を走って帰った。芝居に不足など言いながら、それでも芝居見物は楽しい。
* 商業演劇では、あの蜷川演出で市村正親主演の『リチャード三世』がわれわれには一等刺
激的で面白かった。芸術的にみごとだったのは、やはり昴のチェーホフによる二作で、俳優座では栗原小巻主演の『冬のライオン』に感動した。帝劇では『レミ
ゼラブル』が一等マシだった。身びいきするのではなく秦建日子の『タクラマカン』も、今日の舞台などに較べれば、数倍の熱があったと思う。
* 十二月十二日 日
* 梅若万紀夫の「砧」は前後ともにすこぶる上出来
で、烈しい感銘はないが、深い哀情を湛え、緊迫した静かさで演じられた。ツレはちと頼もしくなかったが、ワキはワキツレともどもきっちりした格を保ち、萬
斎のアイも丁寧だった。亀井忠雄と幸清次郎が佳い囃子で、地謡もよかった。歳末をきりりと締めた「梅若間紀夫・能の会」で、満足して帰ってきた。
もっとも萬斎・万之介の狂言「空腕」は、かつてのわたしのエッセイの題どおり、「冷えた
情念」そのもので、退屈だった。うすら寒くなった。風邪を引きたくなく、池袋東武で、仙太郎のおはぎを三種買い、さっさと帰った。仙太郎は京の菓子屋で、
叔母のお茶の稽古日にここの最中がよく使われた。お裾分けにあずかるのが大の楽しみだった。縄手の松原まで叔母のおつかいで買いにも行った。それが今は池
袋の百貨店で買える。叔母が懐かしい。父や母と冥土で仲良くしているかなあ。
* 十二月十三日 月
* ゆうべ、とうとう『元禄綾乱』が大団円と相成っ
た。十五分延長の後日のサービスまで付いた。めったになくよく大河ドラマに付き合ったものだ、はじめのうちはどんなものかと首を傾げていたが、勘九郎が動
き出してから面白く見続けた。だいたいが、赤穂浪士は、織田や豊臣や徳川と違い、それらの大権力への抗争であるという小気味よさも意義もある。そこが大好
きであり、上で威張っているヤツらの芝居は好きではない。来年の徳川ものなど観たくもない。
それにしてもお軽のお産までとはご丁寧であった。お軽役の安達祐美は、京ことばといい、
演技といい、なかなかの素材であった。ショーケンの綱吉将軍も面白く演った。大竹しのぶも煮詰まって行くにつれてさすがであったし、南果歩も佳い個性が生
きた。高岡早紀がいつも同じような着物で姿だったが、美しく儲け役でもあった。むろん、宮沢りえも情味があって宜しく、もっともっと働かせてやりたかっ
た。柳沢吉保も堀部安兵衛も、また吉田忠左、小野寺十内、原惣右その他の浪士たちもご苦労であった。
ちょっと来週から寂しくなる。
* こんなメールが届いていた。返事を送った。
* 夕刊で「伊能忠敬を破格の接待」の記事が。
伊能測量隊は徳島藩からの随行員を含めて十数人と、測量活動を手伝う作業員百二十人(地
元農民)。これに要した費用(昼食・休憩)は一日で、現在のお金に換算して約三百五十万円。費用と人材の協力は海岸線に在する地元民たち。この協力ぶりが
古文書で判明。
台風や津波が押し寄せる太平洋に面した海岸線沿いの住民にとって、正確な測量地図がいか
に貴重であったかと、その協力ぶりに窺い知れます。
* いい話ですね。測量と作図とは、当時以降今度の大戦まで、いや今日ですら、第一に国防
の一大事でした。幕末の洋画家で幕府、明治政府の地図方であった川上冬崖は、地図の紛失を咎められて獄死し、また伊能を引き立てた幕府天文方の高橋も、間
宮林蔵の密告により、地図の国外流出を咎められて無残に獄死しています。四国沿岸は外国船のとりつきやすさなどを配慮し、ことに大事に作図されたのでしょ
う。伊能は、異能の持ち主で凄いほどの技術者でした。
* 十二月十三日 つづき
* 新聞六社と文芸家協会との、著作権問題での談合。
記者クラブで。二年前の初会合で取り決めたものの、改訂の協議。もう二年経ったのだ、早い。
* 話し合いは、足りない時間の中で、なんとか、現協定を一年延長ということで終えた。こ
の件では、もっと慎重に、まず知的所有権委員会を開き、意見交換をしておくべきであった。委員長の三田誠広氏があたかも委員会結論のようなものを持ち出し
ていたが、十分討議されたものでなく、討議するならもっと本質的な問題点が別に有った。足りない時間なら、もっと要点を絞った用意のいい意見交換が必要な
のに、箇条書きにしておけば数分で足りる話を、えんえんと演説して、忙しい人間が大勢集まったのがもったいないような中途半端なことだった。
新聞に原稿を書く。それはその新聞紙面に載った原稿を介しての著者・筆者と新聞社との商
取引である。取引はそこでひとまず完結し、それ以外は一切二次利用であり三次利用であり、「その認識」が真っ先に双方で必要なのだ。縮刷版といえども、そ
れが、売りものである限りは明白に二次利用なのであり、データベースに入るのも、CD-ROMにされるのも、それらが有料で売られる限りは、筆者が新聞紙
面に書いたのとは全く別途利用であり、別の取引条件が必要であり、書き手は著作権を簡単に放棄は出来ないのである。
現実には、その認識は認識として、どういう課金やペイが可能かが話し合い可能なのである
けれど、原則はそういうこととお互いに先に確認の必要な、そのための場であったのに、いわば双方で時間の無駄に近いことをしてしまったと思う。三田委員長
も気負って独走せず、他委員の意見をよく徴して動いて欲しいし発言して欲しい。もう一つは、もっと要領よく手短に話すことも覚えて貰いたい。
* 十二月十四日 火
* 今年の演劇のベストスリーの第一番は昨日の
「砧」。ご覧になっていたのですね。
「烈しい感銘はないが」とおっしゃってですが、わたくしは、「深い哀情を湛えて緊迫した
静かさ」とともに、はげしく心ゆさぶられました。夫を愛し過ぎた妻、夫を信じ切れなかった妻、そして「死なれて、死なせた」夫……。
装束から砧、後ジテが最後にひらいた中啓に至るまでの色づかいも、心に残りました。松園
の「砧」の衣装の色も思い出されます。
以前観ました「砧」はどれも、砧を、地謡の前と申しましょうか、ワキ座近くと申しましょ
うか、そのへんに据えて、ツレと二人、向き合って砧を打っていましたので、(舞台正面に置いての)昨日のは珍しくおもいました。シテが砧の上に手をのせる
ポーズも。
ワキの待謡では、ふっと涙がこみあげました。「死なれて、死なせて」しまった夫の心が思
われて。
宝生閑のワキで「谷行」を観たことがございます。愛する稚児を「死なすべく」、谷行とい
うむごい処置を執らねばならなくなった阿闍梨のもろジオリに、胸が痛くなったことを思い出しました。
ごいっしょに「砧」を観ていたような気分になりました。
* 万紀夫の能は、時として、こういう賞賛に逢う。上 出来の時は、とにかく美しいし力にも満ちている。メールの人と同じ能楽堂にいたらしい、お顔を知らないとこういうすれ違いになり惜しいが、それも面白い。 今日は、宝生流三川泉の「砧」を観る。
* ある人から贈られた本をみていたら、サルトルの言 葉が出ていた。サルトルはノーベル賞もなにも、拒んで受けなかった哲学者であり作家で、「人がわたしに与えてくれる名誉より自分の方がすぐれていると思っ ていた」と常々語っていたと。痛烈な言葉だ、斯くありたいものだ。大江健三郎はノーベル賞は受け、文化勲章は受け取らなかった。その文化勲章をほくほくと 受け取る人もいる。勲章の方が自分より大きいと思っているのだ。
* 本が出てケアレスミスにすぐ気が付いていたが、俊
寛らと鹿谷に集うた一人の平康頼を「沙石集」の著者と『能の平家物語』に書いてしまったが、『宝物集』である。当たり前の話だが、三木紀人さんに注意して
いただいた。有り難い。佛教説話集として沙石集が好きなもので、手拍子で書いて確かめなかった、校正でも見過ごしていた。湖の本のあとがきでは、東工大を
まんまと「東大工」といきなり間違えて気が付かずじまい、本になって「ウヘッ」という有様。恥じ入る。
* 十二月十四日 つづき
* 幽の会は、能二番、狂言とも優れた舞台で、歳末の
大収穫だった。こんなに生彩に富んだ「経正」に、初めて出逢った。観世榮夫は独特の節をもった謡い手であるが、今日はそれが榮夫の声音とは聞こえず、経正
その人の哀しみ溢れて絞り出される地声に聞こえた。装束と面と物具とがぴたっと「人間」の姿を輪郭づけ、舞台の上をまさしく「経正」が歩いている、呻いて
いる、泣いている、舞っている、狂っているとしか見えないのが、めったになく生身の迫力で、こういうことを経験した覚えがない。ワキの行慶僧都も地謡も囃
子方も遠のいてしまい、凛々として「経正」が、舞台の上で生きて幽霊であった。へんなもの言いだがそんな風に言いたい経正の美しさ凛々しさ悲しさであっ
た。榮夫がわざわざ自身の会にこれを選んだわけは色々あろうが、凄いと思った。立ち居には破綻も見せたが、それさえが経正生身の魅力を増していた。一昨年
の「檜垣」もじつによかったが、能「経正」の特異な哀れを、今回、劣らずに演じきったと言える。
つづく狂言「柑子」を、野村万蔵が悠々と名演した。久しぶりに、ああ狂言だと思える舞台
を観た。万蔵がそのまま狂言になってきた。すばらしい。一昨日は万蔵甥の萬斎「空腕」を観たが、どうしようもないモノだった。伯父さんにも、よく習い給
え。
* さて三川泉は、一昨日の梅若万紀夫とこうも違うか
というまったく別の「砧」をみせてくれた。万紀夫のが三十代から四十代の美しい砧の女なら、泉は老女の砧を舞った。五十代であった。同じ宝生閑がワキの夫
なので、泉の妻は桿りやや年上の妻に見えてしまうぐらいで。そして、美しさよりも哀しみ方が静かに深く深く、動きも実に静かで、幕を出てからも幕にしがみ
つくようになかなか橋がかりを動かない。そういう行き方が、しっとりと澄んだ水のしみこんでくるように見所の胸に落ち着ききってくると、じわっと閨怨の哀
しみが透き通って膨らんでくる、迫ってくる。見ていて堪らなくなってくる。ことに前シテが充実していたが、後シテも動かなくて盛り上げて行くワザの深さに
感嘆した。
万紀夫の美しい哀しみに対し、三川泉のは底知れぬ哀れであった。どっちとも優劣をいう必
要はない。こういう二つの「砧」をたった一日おきに観られた幸せを噛みしめている。
* 歌舞伎、新劇、能、狂言。この師走は、恵まれた。 今日も見やすい佳い席をもらっていた。そして今夜も一昨日もドナルド・キーン氏と一緒だった。堀上謙氏がいっしょなら、今夜は出版のお礼も言い、帰りに一 献傾けたいと思っていたが、珍しく一昨日も今夜も能楽堂に姿がなかった。
* 明日のペン理事会に出れば、今年は、コラムの原稿
を三つほど送り、谷崎の「細君譲渡事件」へのコメントを書けば、おおかた終わりになる。次の入稿原稿づくりに手を掛け、身の回りの積み上がった乱雑を片づ
けることができそうだ。思い切って一人の小旅行ができないものか。新しい仕事に着手するのもいい。
* 十二月十五日 水
* 今年最後のペンクラブの理事会だった。時間にゆと
りはあり、意見を言う遑がなかったわけではないので、黙って帰ってきたのが少しやましいのだが、口を出す気にもならぬほど、いろんな点で価値観がちがって
いて、気色がわるかった。
ペンクラブが「金稼ぎ」の出版に熱心になるのは、財政的な理由からやむを得ないのかも知
れないが、まるでどこかの端物出版社の出店みたいな低調な本の題をならべて、それで「日本ペンクラブの本棚」のようにして大いに売ろうなどという話を聞い
ていると、ただただ恥ずかしくなる。
梅原会長は、事あるたびに「文学の興隆」こそペンクラブ根底の願いだと言い続けてきた
が、そんなご託宣とは裏腹に、理事会で諮られる本は、文学の興隆なんてモノでは全くない。ミーハー向けに売れ筋なのかも知れないが、世界に誇って、これが
「日本ペンクラブの本棚」でございと言えるようなものでは、全然ない。各出版社が売ろう売ろうというのはまだ分かるが、日本ペンクラブが、理事会の威信を
かけて作ろうという本が、なんという非文学的なモノばかりだろうと、耳も汚れそうにうら悲しくて、いやになった。水の低きにつくように、つくように、する
ことなすこと、低俗化している。
とにかく一刻も早く辞めてしまいたい。まだもう一年の任期かと思うと、うんざりだ。
* 「こつるぎ」で旨い寿司を食って帰ってきた。腹い
せに喰ってはもったいない。
* 十二月十六日 木
* 寒さのせいもあるが元気でなく、一日ぼんやりして いた。妻が聖ルカへ薬を貰いに行っている留守に、器械で『能の平家物語』本文の保存ディスクを、いつでもまた使えるように校正ゲラで訂正していたが、目が いたくなり、妻が帰った後めずらしいことに夕食まで寝てしまった。この季節、ことに宅配便がおおい。チャイムで二度三度起こされながら、それでもとろとろ していた。熱はない。風邪気というのでなく、兄の最期の弁ではないが、昨日に引き続き気力というか気が萎えていたのだろう。夜はずっと、この一年半交信し ていた兄とのメールを整理してフロッピーディスクに収めてみた。兄のことはいずれ書いておきたい、その用意といえばそれまでだが、器械の向こうに兄はまだ 健在である気がしてならなかった。気はますます沈んだ。
* 講演の依頼があったり、短い原稿の依頼がぱらぱら あるが、ひどく鬱陶しい。このごろ、ときどき、何のためにまだ自分は生きているのだろうと訝しい気持ちにとらわれる。こういう問いかけほど愚劣なモノはな いのを重々知りながら、とらわれていたりする。
* ふっと、去年か一昨年か妻と出かけた袋田の「四度 の瀧」ちかくの温泉を思い出す。豊かな湯であった。妻は心臓のために湯はにがてだが、わたしは一泊の間に何度も一人きりの湯船に漬かりに行った。他にはな にもない田舎の宿であったが豊かな湯は佳かった。温かであった。宿の名も豊年満作とか天下太平とかなんだかめでたい妙な名であった。
* 「狭衣物語」とバグワンの「十牛図」と直哉の「日 記」をずっと併読し続けている。ときどき「謡曲」も読む。昨夜は「砧」を読んだ。砧の妻が死んでのちに、夫の前にあらわれて、生前「邪淫」の罪深くして死 後の責め苦に悩まされていると告げているが、この「邪淫」という強い言葉にあらためて驚いた。これは考えてみてもいいカンドコロであろう。明後日に、堀上 謙夫妻と小林保治氏とで忘年会をする。その際にでも専門家のお二人に聞いて見よう。
* 編集者のむかしに『肺気腫』という本を書いていた
だいた日大の宮本教授のお嬢さんから、自分も、還暦を目前の「龍女」ですとお便りをいただいた。来る辰歳のことでもあり、湖の本に収めた講演録の「蛇」を
読まれたのでもあろう。「みらくる会」というもう三百回以上続いているグルメの会で一度か二度お目にかかったことがある。ありがたい、佳い読者である。
手紙をみていた妻が、それなら「龍ちゃん」も還暦よと思い出した。なるほど辰の生まれ
だった龍ちゃんは。あの譬えようもなく可愛かった少女がもう還暦か。懐かしいだけでなく、なんともおそろしい気もする。何十年も逢わないが今でもときどき
夢に見る。
* つい先日も誰方かが、「あなたは作家になるべき人であった」と言われたが、何故とは問
い返していない。そうかも知れないが、分かるとも分からないとも言える。
これでわたしも、ずいぶん大勢の作家を識ってきた。作品だけでの作家も多いが、接した人
も多い。深く敬愛し畏怖した人もあれば、まるで信頼しない作家も少なくない。作品を深く認めて尊敬する人となると、そんなに大勢いるわけがない。これは仕
方がない、誰もがお互いにそんな按配であるに違いない。
そういうことは別にして、それでも自分は、よほど他の作家たちとはちがう神経をしている
ようだと思うことがある。資質的にひとり己れを高く謂うのではない。変わっていると想うのであるが、作家はたいてい変わっている存在だった、昔は。この頃
はフツーの人の方が多いのかなと思うぐらい無頼な人は少ない。面白くもない。わたしだって、そう見られているかも知れないが。
自分の変わりようを、うまくは表現出来ない。文学を愛している、が、自分の人生をもっと
もっと強く愛している、それに執着しているのかも知れない。人生で出逢った大勢の人、大勢ではないかも知れないが、親密に触れあえてきた何十人、百何十人
かも、五百何十人かも、千人かも知れない、「魂の色の似た」いろんな人たちへの思い出を、ほんとうに大事に大事に感じ続け、文学への愛もそれを超えはすま
いと自覚している点で、わたしは変わり者の素人作家である気がする。
そういう人たちが先ず在ってわたしは「文学」してきた。死んでしまった育ての親たちも、
実の父母も、兄も、異父姉兄もそうだが、生きて元気な何人も何人もの一人一人と、わたしは、いつでも、どこにいても、向かい合って生きて来れた気がする。
一人一人を、ONE OF THEMなどと思ったことはない。兄の言葉を信奉して用いれば「個と個」「個対個」の一期一会である。
* 十二月十七日 金
* 「都の西北」から、『漱石の「こころ」戯曲の「こ
ころ』」について話せと、昨日、郵便物で依頼があった。戯曲の「こころ」とは、俳優座公演にわたしの書き下ろした脚本のことであろうか、話してもよく、話
さなくても、もう大方は書いて纏めて「本」にもなっているのだから、もしも話すとすれば、「心」なる難儀な相手と漱石の苦渋とを兼ねた内容でと思ってい
た。
但し、依頼状に、「講師料」「講演料」について全く触れていないのは、失礼ではないかと
思っていた。
いつも言うことだが、こういう前近代的な無礼なことで済むのだろうか、早稲田大学ともあ
ろう「進取」の学校が。レストランに入り、食うだけ食ってから、客があてがい扶持に好みの金額を置いて出て、どの店でそんなことが通用するというのか。普
通の食事では、一皿一皿の値段がメニュに明記され、それを承知で食べたり食べなかったりする。八百屋でも魚屋でも同じことだ、売り手に買い手が気ままな金
額を支払って済むわけではない。原稿料や講演料だけが、前提無しの「一方的な後払い」という失礼な悪習は、いかにも「進取の精神」に背いて古くさいうえ
に、失礼な仕方である。
ところが、これが早稲田大学だけではない、大新聞社でも有名出版社でもおおかた常習なの
は、いかがなものか。
今朝電話がかかってきたので、「おかしいと思いませんか」と担当者に尋ねたら、「失礼な
ことで」と謝られた。しかし呈示はなかった、「受けてもらえるかどうか」即答してほしい、その電話だと言うから、即答しないと返事した。「改めてお電話し
ます」と言うので「どうぞ」と答えたものの、変な話と思って無理はあるまい。
* 紅野敏郎さんの推薦であるらしいのは分かっていた
し、多年お世話になっているのだから、紅野さんだけのことでなら、いっそタダで引き受けてもちっとも構わないのだった。だが、主催は早稲田の成人向け講座
を専ら主催している組織であり、そういうところが、「それで食べている」者を相手に非常識な虫のいいことをしてもらっては困るのである。
鏡花の講演をした石川県は心苦しいほど何度も希望額を問われ、また呈示されて、気持ちよく話は纏まった。恐縮しまた嬉しかった。お互い、そうあるべきだろ
う。
二時間ほどして、また電話があった。
「電話口で金額を申し上げていいですか」と言う。
「構いませんよ」と言うと、講演料は「二万二千円」だという返事であった。即座に断っ
た。
講演時期の来年六月まで「課題」を抱いて用意するいろんな負担からすれば、これはタダよ
りも安い。原稿の二、三枚も書いて済む仕事ではない、講演となれば勉強もし調べもし、約五十枚の講演原稿をわたしはきちんとつくる。仕事には責任を持ちた
い、それが、わたしの常の気持ちである。その上、半日を費やしてわざわざ講演会場へ出かけても行く。わたしは大物でも小物でもなく、給料では暮らしていな
い文芸の生活者であるから、上の金額で何十百時間も費やしていては身が持たない、いっそ休息している方がよっぽどマシなのである。その時間に他の書き仕事
をしている方がはるかに助かる。
* 問題はそんなことではない。なぜ正直に最初から言
おうとしないで隠すのか、だ。タダより安くても喜んでする仕事もあるからだ、信頼と敬意とが持てるならば、だ。
もしも「はいはい」と黙って出かけて、あげく、「二万二千円」が銀行に振り込まれてきた
ら、やはり、これは、不快に感じる。金額の多少よりも、その非常識な非礼に怒るだろう。「些少のお礼」も時にはやむを得ないが、それならばなおさら、事前
に、どの講師にも「些少の」金額を呈示し、承諾を得るのが当然の礼儀であろう。
もとより組織自体の力量もある。これでしか成り立たないことも有ろう、それはよく分かっ
ている。それならば余計、事前に、「実は」と「呈示」するのが礼儀であろう。黙ってその仕打ちでは、これは「だましうち」に感じかねない。
人選して下さった紅野敏郎さんには、「ごめんなさい」と、ここで言っておく。
学生が対象なら、それでも、まだ話し甲斐がある。学生たちの教室へというのなら、それな
りの積もりでタダででも聴いてもらいに行くかも知れない。そういうものである。残り少ない貴重な時間をばかばかしく浪費したくはない。
* 十二月十八日 土
* 『義経記』が贈られてきた、楽しみだ。小さい頃か
ら蓄えた沢山な義経像の多くがここから出ていたろう、原典にまるまる触れるのは初めてである。高校での恩師岡見正雄先生の研究も、注に、たっぷり援用され
ているかと思うと懐かしい。
高校時代の岡見先生は和服と袴に革靴という恰好で、朗々と古典を読まれた。授業の大方は
先生が原文を朗読しておられた。声美しく、読み上げられる日本の古文も美しく、そういう授業を心から感嘆して喜んでいたのは私一人であった。みな、岡見の
坊主坊主と嘲り笑っていた。受験の役に立たないと不評だったが、坊主先生は平気の平左であった。じじつ先生は京の裏寺町の称名寺住職でもあった。だが、太
平記などの研究の精緻にして奥深いことは、真に日本一の大学者でもあった。それを生徒は誰も、当時はわたしも知らなかった。だが、わたしは岡見先生の存在
に畏敬の思いを抱いていて、小説家になってからも、例えば『初恋・雲居寺跡』のような作品に大切に丁寧に有難い記憶を書き留めてきた。のちに岩波の「文
学」座談会に呼んで下さったことがあり、京の祇園で「おでん」の「おいと」へ連れていって貰ったこともある。古典の現代語訳をおやりと何度も勧められたの
を覚えている。もう亡くなられたが、「室町ごころ」の研究でどんなに多くを学んだことだろう。あんな偉い先生に古典を習った、朗読を聴いたと思うと身内が
熱くなる。もったいないような大先生であった。
* 古典の現代語訳というと谷崎などの源氏物語を誰も
が思うが、もっと間近には古典全集のたぐいで対訳した本がいっぱい売られている。たいていは校注の研究者学者が訳しているのだろう、が、この日本語が「ひ
どい」ので呆れることがしばしばである。ケアレスミスで間違えるのは、仕方がない。そういうことは誰にもある。わたしなど、よく、やっている。そんなこと
でない、訳された日本語がとてものことにまともでない、訳したよりも原文の方がよほど明解で分かりいいという例が、あまりに多い。
岡見正雄先生も、そういうことを憂えておられたのだろうと思う。「あんたのような人が現
代語訳してくれないといけない」と言われた。そのことを、その後もよく思い出す。いま『狭衣物語』を読んでいるが、訳文は、すさまじい。困ってしまう。
源氏物語を以前ごく一部「京ことば」で訳したことがあり、亡くなった中村真一郎さんがと
ても気に入っていたらしいと漏れ聞いていた。中村さんも亡くなってしまったが、彼は、私の源氏物語理解が一番だと人に漏らされていたことも、また漏れ聞い
ている。
もっとも、源氏物語をどうこうしたいという気はない。谷崎先生のでいいだろう、他にも幾
つもあるが今さら読む気もない、原文で何度でも読みたい。
しかし『夜の寝覚』なら訳してみたいなという気がある。源氏物語のヒロインでなければ、
あとはあのヒロインだと思う。作り話の小説にしようとは思わない、現代の日本語で優しく訳してみたい。いずれ、ヒマになるだろうから課題に挙げて置いて佳
いなと思う。
* 義経記は、寂しい物語の筈である。なにしろ平家物
語のなかで最もはなやかな名将としての活躍が、ほとんど割愛されている。幼少の悲劇と末路の悲劇で尽きている。そういうツクリが特異なのである。その寂び
しみが分かるので、わたしは兄頼朝を少年の昔からほとんど憎悪し、義経や義仲の身の程に声援し涙してきた。
「身の程」ということを、この何年かしみじみと思い続けてきた。書いてきた。もともと寂
しい作品ばかりを書いてきたなとつくづく思う。寂しさは薄れてもいないし失せてもいない。もてあますほどに身をさいなんでいる。何故だろうと、われながら
不審であるが。
すぐの身の側に、おそろしいほど真っ暗な深淵が、いつも口をあいている、見えている。身
をその闇に翻せば万事済むのにとよく思いながら、そうはすまいと顔を背けている。兄もそんな気持ちであったのだろうか。
* 堀上夫妻と娘の仲人の小林保治氏と、四人で、練馬
の大衆酒場で『能の平家物語』を祝い、忘年会。
* 十二月十九日 日
* 前夜、バグワンの「十牛図」を読みながら突如動揺
し、眠れなくなった。人は社会に追従することで己が「決断」をすべて回避し放棄し、そのように生きていない者を狂人のごとく誹り、非現実的な愚者と嗤い、
しかしながら、至福の静謐に至る者はすべてそのような狂人のように愚者のように遇されて生きてきたとバグワンは言う。その通りだと思う。バグワンに出逢う
よりもずっと以前からわたし自身がそのように生きたかったから、そう説かれれば本当に深く頷ける。
頷けるにも関わらず、そのように生きることでどんなに傷ついているか、耐え難いほどであ
る自身の弱さに気づいて、あっと思う間もなくわたしは動揺し動転してしまった。寝入っていた妻を揺り起こして苦しいと訴えた。訴えてみてもどうなるもので
もない、わたしは惑ったり迷ったりしたのではなく、ただ意気地なく辛く苦しくなっている自分を恥じ、情けなくなったに過ぎない。
* 義経記を読み狭衣物語を読み、おそくまで物語世界
に漂いながらやっと寝たが、朝早くに目覚めて、また狭衣大将と付き合い、二冊本の第一冊をとうとう読んでしまった。
主人公としての狭衣をわたしは好まない。
実の兄妹のように馴れむつび育った従兄妹の「源氏の宮」への深い恋のゆえに、狭衣は、帝
に直々に望まれた内親王との結婚をためらいつづけ、そのあげく、ふとしたことからその「女二の宮」を犯して妊娠させてしまう。そのような劇的な状況設定
は、物語としては珍しくないにしても、その表現は、なかなかのものである。若宮を生んで後のうら若い母宮が、徹して狭衣を拒絶するのも劇的に優れている。
もう一人「飛鳥井」という女性の危難を狭衣は救ってやる。二人ははかない愛を育むが、狭
衣のエゴイスティックな不徹底ゆえに、飛鳥井はべつの男に西国へとさらわれてしまう。女はだが抵抗し、入水しする。だが、どうやら飛鳥井は救われてどこか
でに生きているらしかったりする、のが、巻二の最後であるが、こういう狭衣大将を実のある男には思いづらく、光源氏のほうがまだしも遙かに好もしいし、伊
勢物語の昔男はもっともっと懐かしく好もしいと思ってしまう。
* 終日、幼かりし日々の点検に費やしていた。わたし には、それは少しも消費的な行為ではないのである。ことに今のわたしには避けがたい追求なのである。
* ゆうべ仲人の小林保治氏に、孫に会いたくないのか
と問いつめられた。何と謂うことを言う人だろう。昨日の明け方にも、朝日子が孫の一人と颯爽と「帰ってきた」夢を見ていた。孫は二人いるのに、可哀相に、
下の一人は知らないも同じなのだ。
で、「逢いたくない」と答えた。呆れた顔をされたが、呆れていたのはわたしだ。「逢いた
い」と
もし言えばこの仲人氏、なにをしてくれると言うのか。してくれる気が有るならとうの昔に出来ていただろう。
* 十二月二十一日 火
* 六十四歳になった。一歩も出ず、ご馳走を食べにも 行かなかった。終日器械の前にいた。石垣島のMさんに以前に頂戴した「花彫」の紹興酒を箱から出した。青磁の面白い瓶に入っていた。おいしく半分ほどを玉 盃で飲んだ。うまい。有り難かった。赤い薔薇の花を妻が沢山買ってきた。例年バウムクーヘンの従業員一同から誕生祝にもらうバウムクーヘンを、薫り高い紅 茶をいれてもらい、食べた。蟹のピザを出前で取った。夫婦二人での静かな誕生日だったが、息子は前夜にメールをくれ、今さっきも電話で「おめでとう」を伝 えてきた。遠くからもメールで「おめでとうございます」とお祝いして貰った。
* 「死から死へ」七月の江藤淳の死から十一月の兄の 死までを、ずっとスクロールしながら思い返していた。ゆうべウイーンの甥の猛から電話がきた。猛の電話は何事でもなかった、が、さっき猛の兄の恒から電話 で、北澤家のおじいさんがとうとう亡くなったと知らされた。息子の死を知って亡くなったのか、知らないまま亡くなったのか。ご冥福をいのる。一面識もない 人であった。
* 書かねばならぬ事がたくさんあると思っていたが、
胸中、虚ろに寒い。もう少し、あの芳醇の中国の名酒をのんで、「ものやおもふ」と問われそうな佳い顔になって佳い夢を結びたいと思う。
* 十二月二十二日 水
* 茨城臨界事故により初の死者が出てしまった。無残
というもおろかな故人末期の病床を想うにつれ、新たな憤りがフツフツと湧いてくる。ひどいではないか。これぞ「国」という「公」による「犯罪」殺人罪であ
る。昔なら内閣が総辞職して詫びて然るべき重罪である。小渕さんは何を考えているのか。
むろん直接には会社犯罪であるが、核を扱う会社であり、水泳着や歯ブラシを売っていたわ
けではない。原子力にかかわる企業の監督責任は挙げて「国」にある。但しそんな公を選挙で容認した私に、根の罪のあることは見逃せないが。
ともあれ一つ間違えばどんなことになったか、死者に対して申し訳ない言い方をするけれど
も、よくこれで済んだと思うほど危うい大事であった。心より冥福を祈る。
* 階下に、異母妹の一人から電話が来ていて、妻がな
がながと相手をしている。わるいが、わたしは二階へのがれてきた。
このような類似の電話や手紙や来訪が、東京へ出てくる以前から、どれほど何度もあったこ
とか。わたしは生まれ落ちると直ちに我ひとりの戸籍を建てて、全くの孤独であった。「秦」家の戸籍に養子として入ったのは新制中学入学の直前だったと後々
に知った。それまでは里子ナミであったらしい。実の親たちの「戸籍に入るを得ず」と戸籍謄本は記載していたが、わたし自身の知ったことではない。先日死ん
だ兄と兄弟であったことも、戸籍の上では何一つ証明できないようにされている。
それなのに、いつのまにか、なしくずしに、ありきたりの親族のような関わりで大勢の人が
わたしの前に忽然と現出し、そしてそれこそが当然自然のように感じ、振る舞っている人が多い。こだわるのではないが、わたしには違和感がある。わたしはも
のごころついて孤独な孤立人であった。それを我が建前と守って、自身の「自由」を受け容れてきた。父母をともにした兄をさえ長く受け容れなかった。兄とし
弟として付き合ってきたけれど、少なくも二人は、互いに「親族」のようには振舞わなかった。兄には分かっていたのだ。
* こんなことを「闇に言い置く」必要が有ろうとは思っていない。成り行きでこんな事を書
いているのだ、だが、昨日も北澤恒は、当然のように彼らの祖父の死、兄の養父の死を告げてきた。通夜はいつで、葬儀はいつで、と。兄なら、告げても来な
かった。「なんにも関係は無いのだから、気にしなくていいよ」と兄は「北澤」家のことではわたしたちを煩わせなかった。わたしも一度も父や母や叔母の死を
兄に告げはしなかった。彼は兄でわたしは弟であるところまで認め合い、しかし戸籍上の親族では一度もなかった。だが兄がいて私がいる、その現実・事実のあ
ることで、わたしは甥や姪を愛してきた。兄が要であり、要がはずれた頼りなさはわたしには途方もなく深い。甥には、その気持ちが分からない。異母妹にも分
かっていない。
重苦しいことである。
* 辻邦生の佐保子未亡人からモウンニングワークの遺
著を贈られた。昨日は新井満氏から、今日は三田誠広氏から、エッセイ本を貰った。
凛として襟を正すような本が読みたい。そういうものが書きたい。書けるモノなら何であ
れ、書きさえすればいいのだろうか、本になればいいのだろうか。そう思っていた時期もあったが、そうは思わない。
義経記を読んでいると、流布本の平家物語が、いかに素晴らしい古典かが分かる。
* 学生君二人から、二千年問題に関して、対策を要す るというのと、秦サンの仕事にはおおきな差し支えは出まいと思うというのと、同時に飛び込んできた。今の気力ではとても対策する根気がない。せいぜいディ スクに原稿を保存しておき、大晦日の晩からは器械を明けずに、新年も元日二日ほどを閉じておこうと、そして、徐ろに世間の噂に応じて器械をまた明けてみよ うと思っている。
* 泉鏡花を読みましたという嬉しい元学生君がいて、 こう書いてきた。
* 「歌行燈」の後に、勢いに乗って、「高野聖」を読
み、つづいて先生の「蛇」を読みました。
さらにその後、「女客」「国貞えがく」を読み、昨日、「売色鴨南蛮」を読み終わりまし
た。
「高野聖」「国貞えがく」はぴんと来ませんでした。「女客」は芝居のような面白さがあり
ました。
「売色鴨南蛮」は、ラストがよかったです。
主人公の秦が、狂女となって入院しているお千のところへ見舞いに行くくだりです。
「不時の回診に驚いて、或日、その助手たち、その白衣の看護婦たちの、ばらばらと急い
で、然も、静粛に駈寄るのを徐ろに左右に辞して、医学博士秦宗吉氏が、
『いえ、個人で見舞うのです……皆さん、どうぞ』
やがて博士は、特等室に唯一人、膝も胸も、しどけない、けろんとした狂女に、何と……手
に剃刀を持たせながら、臨床に跪いて、その胸に額を埋めて、ひしと縋って、さんぜんとして泣きながら、微笑みながら、身も世も忘れて愚かに返ったように、
だらしなく、涙を鬚に伝わらせていた。」
状景がとても印象的なうえに、最後の、「愚かに返っ たように、だらしなく」泣く、というところに、強く魅かれました。「だらしなく」という言葉を見て、この人のやさしさを感じました。
「蛇」感想は、改めて、、。今は、ひとこと、、、ぼ くは生まれてこの方、日常生活で「蛇」を見たことが、一度しかありません。また、それとは別に、動物園で見た記憶もありません。(TVで見たことはありま すが、、、これは「見た」とはいいたくありません。)これは、先生の文章を読む上で、とても大きなハンデであったと、読後、思いました。
* 面白い感想だ。「だらしなく」という言葉に関連 し、こんな返事をした。
* 鏡花に出逢ってくれて、うれしいこと。
「だらしない」という言葉。これだけでも、奥が深い
んだよ。
「だらしない」は、じつは、「新しい」を「あたらしい」と読むのがまちがいで「あらたし
い」でなければ元々の意味が通らないように、「しだらない」が、元々なのです。
「しだら」は、地名にも「設楽郡」などがあるけれど、大道芸の「ささら」の元の名称、ま
たそれを生み、担い続けた人たちの称なのです。おそらく用いる日常語が異色過ぎ、多くの人によく聞き取れなかった、それを「しだらない」「ふしだら」など
と言ってきたのが、「だらしない」に転じてきたのでしょう。
「しだら」がどういう世界に繋がっているかを読みこんで行くと、「海」や「水」や、また
「蛇」にも突き当たります。「蛇」問題は、なにも生身の蛇とだけ関わるのでなく、多くの形象やイメージとからんでいます。
もっというと、「林」「林田」といったよくある姓の背後にも、むろん全てではないが、か
なりの率で、溯ると「囃子」「囃す」という芸能に突き当たって行く例が多い。これもまた「水」「海」の芸能に総括されやすく、どこかで「蛇」信仰ともから
んでいます。
ものごとも一枚ずつ皮を剥いでゆく=
discoverと、おそろしいほど遠くまで深層や真相が覗けてくるから、面白いともいえ、不思議さに身震いもされるのです。注意深く生きていると、もの
が、思わぬ姿で、これまでとは別の言葉を語りかけてくるものです。
湖の本の「次」を入稿したので、今年は、一足お先に
「上がり」です。寿司でもつまみたくなったら、連絡下さい。
* 十二月二十三日 木
* マインドで書かれた人生論=生き方論が多かった。 どこまで行ってもなにも解決しない、するわけがない。「心」を無に仕切った人の生きそのものに触れたいと思う。なかなか、無い。それならいっそ古人が「自 然(じねん)のことあらば」と謂っていた自然の方へ歩みたい、「問う」ことすら忘れて。いま瞬時、日なたの、草野の匂いや色にさゆらいでいる嵯峨野の風情 が、胸にとびこんできた。その一瞬は、百万のことばよりも美しくて深かった。
* 由岐さおりと安田祥子のうたう「夕焼け子焼け」に
つづいて「どこかへ帰ろ」という歌を、いまテレビの前で聴いてきた。この姉妹は、姉妹で謡うことでほんとに佳い仕事をしてくれる。つづいて坂本冬美ら演歌
三人娘の歌が始まったが、聴くに堪えなかった。純文芸と通俗読み物の理屈抜きに覆いがたい落差。いくら援護してみても、通俗モノのいやらしさは拭うことは
出来ない。これに「大衆」の名を冠して糊塗しようとは、真に大衆をバカにしているだけだ。
わたしの言うことに現実の無理筋のはらまれてあるのは承知しながら、それでも、わたしは
「いいモノはいい」「だめなものはだめ」という態度は捨てない。「大衆的」ということばに隠れた低俗は、まさに低俗なのである。演歌がいけないのではな
く、その個々の作や歌い手が「いい」こともあり、だがあまりに「よくない」方が圧倒的に多すぎるのである。由岐さおりたちの歌も「童謡」だから佳いのでは
なく、姉妹がしっかりと「佳い作品=佳い歌」に仕上げているから胸に響くのである。
* 外はいい天気だが、膝下が痛いように冷え込む。数
えてみると、明けて一月中に渡さねばならない原稿が、もう五つ六つと積まれている。なんとなく冬休みに入った心地でいるが、荷が重くならないよう年内に二
つでも三つでも片づけておきたい。しかし、ひさしぶりに街に出て、映画館などに入ってみたい気もする。
* 十二月二十三日 つづき
* 長い間机の端にのっていた案内のはがきを見て、ク リスマス・メニュがちょっと佳いので、どうせ満員だろうと思いつつ電話すると、今夜なら席があるという、すぐ予約した。麹町の「トライアングル味館」で は、以前に、食べる会の企画があった。わたしは欠席していた。文芸春秋の真ん前まっすぐの通りに店の在るのは知っていた。有楽町線だと一本で簡単に行ける のも気楽であった。
* アットホームなフランス料理の店で、料理をあれの
これのと品評する力もその気もないが、雰囲気は家族的、「みな、幸せそう」と妻も楽しんでいた。美味かった。たくさんなメニュを丁寧に工夫して出してくれ
たし、接客も親切で心親しかった。きっちり二時間かけてたっぷり食べ、シャンペンとワインを飲んだ。すぐ、ほんとにすぐの隣に、初々しい新婚夫婦が来てい
た。四十年たつと我々のようになるのかなと想い、微笑ましかった。
* 祭日で、麹町の宵は閑散としていた、それもよかった。めったになく、いい服を着ていい
オーバーで暖かくして出かけた。食事をすると、まっすぐ帰ってきた。誕生日とクリスマスの中間祭であった。
* いろんな成り行きでそうしたところへ関心が寄るせ いもあるが、妻と、古い昔のことを推測しいしい話し合うことが多い。話題は尽きない。電話で妹も不思議がっていたようだが、兄一人なら分かるが、どうして わたしの父と母とは「二人」までも子どもを作ってしまったのだろう。昭和十年ごろ、高等学校の書生だった父と、倍も年上の子持ちの寡婦であった母とが、漱 石の科白ではないがなぎ倒されたように恋に落ちたのは分かるとして、その後までも成り立つ恋でなど、とうていあり得なかった。それなのに二人目のわたしま で母は生み、案の定、仲は引き裂かれ、二人の幼な子も、巷間別々の家に捌かれた。わたしが秦家と養子縁組したのは中学に入る直前であったから、数えで四つ 五つ、かろうじて秦家に入った頃のわたしは、実は「もらい子」というより「里子」なみに預けられていたと言えるが、預けたのは父方の祖父母で、父自身は親 や親族の手で埒外に追われ、また母の方とは大揉めして交通途絶の状態であった。どうみても「小説より奇」な渦中にいたのだが、稚いわたしには事情や経緯の 何ひとつも諒解できていなかった。ただもう「もらい子」の境遇にそしらぬフリの演技をつづけて、だんだんに大きくなった。
* そんな過程で、あれは「どうやったんかな」と思う 不思議は、いろいろある。そういう話題が、何のしめっぽさもなく妻とは交わせる。当時兄のおかれていた境遇などは、殆どなに一つ知らない間に兄に死なれて しまった、聴いておきたかったことが沢山あるのに。
* ふしぎなもので、自然と夫婦して「私小説的な会 話」を紡ぎだしながら、洒落て美味いフランス料理を食べている。それも東京の麹町のまん中という、お互いに生まれ育った場所からは何百里も離れたところ で。我ながら、思えばおもしろい人生であった。
* 冬至の満月が、往きは大きく赤く低く、帰りは大き
く白く高くなっていた。
月照って心まづしき師走なり 遠
* 十二月二十四日 金
* クリスマスにはあまり関心がない。それでも連想的 に妙にアンデルセンの『繪のない繪本』の第一話を思い出す。娘のお年玉に添えて買って与えた昔のことが思い出される。娘や息子に、繪の美しい『日本の神 話』上下をはじめ、よく選んで繪本を買ったものだ。初めての子で、娘にはひときわ心を用いて本を選んだ。貧しかったから、たいしたことは何もしてやれな かった。慶応とお茶の水とに受かったときも親の懐具合を慮ってか、黙ってお茶の水を選んでいた。貧乏は少しも恥ずかしいことではない。だが娘や息子もそう いうふうに思えていたかどうか、今は、分からない。
* 左馬頭義朝が討たれて源氏の御曹司たちは、ちりぢ
りに或いは殺され或いは助けられている。義経記はそこから始まり牛若は鞍馬山に入り、いつか金売り吉次に誘われて奥州に入る。またひそかに都に戻り武蔵坊
弁慶と主従になり、再度奥州に入る。鎌倉の兄頼朝が挙兵するとはせ参じて兄弟が涙ながらに対面し、ただちに義経は平家追討の大将軍に任じられる。
平家追討の大活躍はあっというまに省略されて、もう、腰越から義経は兄頼朝の厳命で都へ
追い返されてしまう。この辺に、いかにも既成の平家物語を意識した叙事が見え、義経記もまた大きな意味での平家物語異本群の一角を成していることが推量で
きる。源平盛衰記がそもそもそういう異本の大雪崩を成しているとわたしは感じている。
* 平家物語の流布本、覚一本などがいかに優秀な文芸 性を備えているか、幾度言っても言い足りない。よくまああそこまで言葉や思いを鍛錬し精錬し洗練したものだと感嘆する。太平記はどす黒い。血の色がしばし ば感じられる。平家物語でも烈しい戦が繰り返されながら、拭ったようになまなましい血の色、血の印象は拭ったように清められている。小林秀雄は平家物語の 「活気」の面をとくに称揚したけれど、それをさえ含めて優美に凛々しいのである、平家物語は。
* 器械の二千年問題がなければ、すっかりリラックス
できるのだが、緊張がぎりぎりまでつづく。うまくバックアップがとれること、年を越えて器械が使える程度に大事ないこと、を祈りたい。
* 十二月二十五日 土
* 湖の本の「跋」文を「湖の本の事」のページに公開 する。新刊のエッセイ18.19巻、創作の42巻分から書き込んでみた。「創作余談」として購読者が「一番先に読みます」と言って下さる、いわば人気の頁 である。
* 吉永小百合の「伊豆の踊子」をテレビで。別れは泣 かされた。吉永の持ち味というよりは彼女の役づくりだと思うが、美空ひばりとも山口百恵ともちがい、巧さではいちばん巧いのではないか、前の二人の印象が もう薄れているので比較しにくいが。高橋、秀樹だか正樹だかも佳い、清潔感があり好きな役者だが、原作者川端康成はもっと塩辛い学生だったと思う。
* 旅芸人たちの腰が低く、一高の学生がそれは丁重に
扱われている。そういうのを見ながら佳いな佳いなと嘆じていて、妻に、「学生さんの身になって見ているからよ」と叱られた。大きにそうであろうと思う。昨
今の芸人たちの、我が世の春のような大手を振った厚かましさやくだらなさにあきれ果てていると、つい、往事往年の芸人たちのへりくだって物腰の柔らかなの
が床しくさえ感じられるのだけれど、それ自体が「差別」感情である怖れ、十分にある。
* 「役」という文字には遙かな由来がある。近代では「役人」というと官吏公吏の感じだ
が、江戸時代では不浄役人などといった。役人村があった。罪人の死刑執行や後始末をした。捕り方なども役人といった。もっと神代にも溯れば、神や人をして
「日八日夜八夜」をいろんなペルソナを配して遊んだものだ、いわば葬儀の際に。つまり神ないし屍霊を慰め鎮める「役」と「役人」があった。遊びと清めと祭
儀とはリンクされていた。藝は、人が先ず人をでなく、先ず神ないし死者の霊魂を慰め、その後に徐ろに生者に対し祝福を与えたのである。言祝ぎ=寿ぎにこそ
藝の名目があった。藝人や役者たちがめでたい名乗りをすることにはそういう遠い背後からの「役回り」があずかっていた。能の座や流儀のあの観世、宝生、金
春、金剛、喜多という名乗りをみればよい。最も典型的である。しかも能こそは死と幽霊との芸能である。死者を慰める藝である。昔の芸人の腰の低さには、死
者を静めつつ生者を祝おうという謙った使命感がひそんだ。それをしも是非せざるをえない、藝は身を助ける身の不幸、も、確かにあったのである。
今は拙い藝で人気を取り、物欲と名誉欲とをともに満たそうという仕儀に転じている。結構
なことではないかと思う一方で、図にも乗っておるなというはらはらするような不安もある。戦後僅か六十年足らずの大きな転換であったが、ほんとうに定着し
たのかどうかはまだ分かっていない。
* 畳半畳ほど、澤口靖子の胸から上の写真を、スポンサーから貰っていた。思い切ってパネ
ルに入れてみたら、とほうもない大きさで、どきどきする。黒にちかい濃い茶のトーンで、とても落ち着いている、かるく頬杖をついた顔写真である。ショート
の髪型がとっても佳い。完璧な美貌である。
先日堀上夫妻らと忘年会のおりに、堀上さんは宮沢りえが贔屓で大いに褒め上げていたし、
わたしも宮沢りえは可塑性に富んだ実のあるいい女優だと思う。だが、これほど、実の数倍大もの「顔」にしたりえを見たいとは思わない。完璧なデッサンがな
いと、佳い繪と目される著名な作品でも、映画のスクリーンほどに拡大すると、アラや歪みが見えてくる。澤口靖子の「動いている」写真にはまだ問題があるけ
れど、動かない繪にすると、とほうもない大きな写真に微塵の歪みもアラも出ていない。誰が撮ったのか知らないが傑作である。
* そのすぐ横で、お数寄屋坊主の河内山宗俊のよう な、谷崎潤一郎ご自慢のプロフィールが、口をへの字に、炯々とした眼光で朝から晩までわたしを睨んでいる。澤口靖子とやけによく似合う。
* 兄の『家の別れ』をひらいてみて、最後の最後にわ
たしの名前を母の思い出とともに書き添えているのを読み、思わず声を忍んで泣いてしまった。ある心親しい読者からも、わたしの「湖の本」たちに取り囲まれ
るように北澤恒彦の『家の別れ』などが自分の書架に今も見えていますと便りを貰った。
この本を落ち着いて再読するのには、もう少し時間がかかる。
* 十二月二十六日 日
* TBSの美空ひばり番組を二時間、しっかり付き合
い、しっかり泣いた。
彼女とは、戦後をそっくりともに生きてきた。彼女のデビューはわたしの思春期と重なって
いる。「ちっこい雀」に似た美空ひばりを、手の届く間近さで、京の白川ぞいの道に見たあの日、わたしは、ほとんど裸で裸足の夏休みの最中だった戦後の貧し
い児童たちの一人だった。以来ひばりは「天才」としてわたしの胸に生き続けた。妻と出逢った頃にも好きな「音楽家」として、ためらいなく、ひばりの名をあ
げ呆れさせたが、今夜もその妻とともに感嘆しつつ在りしひばりの歌に聴き惚れた。
豊かな声とつよい声帯。言葉の隅々まで正確に発声して一音も落とさず崩さず、言葉の意味
の底から歌詞を造形して行ける、詩人としての天才。実に下らない歌詞を実に美しくうったえて聴かせる歌唱力。作詞と作曲などの存在を完璧なまでに聴く耳に
忘れさせて、さこには「ひばりの歌」だけが実在している。
それだけではない、ひばりは確かにやくざな社会や人物と無縁でなかったけれど、政治家と
は、公の権力者とは、繋がりを持たなかった。ひばりを聴いて励まされたのは「私」たちだった。そんな「私」たちのために「公」を尻目に、闘い抜いて負けな
かった。わたしは、そういうひばりをこそ評価している。
それだけでは、まだ、ない。わたしはあの日からひばりの「顔」が好きになった。男歌のと
きも女歌のときも、気取っていてもざっくばらんでも、流し目の時も笑っていても、泣いていても怒っていても、洋服でも着物でも、服装よりはただ、ひたと、
ひばりの「顔」を見ていた。原節子ともちがい澤口靖子ともまるで違うけれど、いい「女」だと思っていた。かすかに中学時代のある少女に似ていた。その少女
とひばりはほぼ同い歳だった。そしてひばりの歌を自分の肉声で初めて唄って聞かせてくれた。あの少女はいまはどうしているだろう。
* ひばりを聴いていると、もうわたしは励まされたり
するよりも、静かに静かに人生の最期へと歩んで行く、そのための心用意をしている自分を感じる。ひばりは何曲も自分の人生に捧げるような歌を創っていた。
そして「川の流れのように」も「愛燦々」もいわば辞世歌のようだった。わたしは今まさに灰と灼かれるときに、ひばりの歌声とともに火のなかへ消えて行きた
いと心から願っている。少年の胸に焼き付けたそれがひばりの魔法であった。恋だった。
わたしは、こういう、たわいないことをいつも思っている人間である。
* こんなメールをもらっていた、『能の平家物語』 に。どの謡曲一番のためにも、心を入れて書いた去年の夏を思い出す。
* まず、「清経」を読みました。ゆっくりゆっくり、
たのしみながら読みました。それから『平家物語』や『源平盛衰記』をひらいたり、何度か観た「清経」の舞台を思い出したりしました。そのあと、もう一度、
ご著書にもどって。
ご本を閉じたあとも、しばらく、能の「清経」、『平家物語』、そして先生の『平家物語』
の読みのあれこれをおもっていました。何か、とてもぜいたくな思いをしている気分でした。
満足して、あとでまた、と、ご本を閉じることができるのも、不思議なことでございます。
そのご本にひきこまれたら最後、少々のことでは、あとでまた、が、きかないものですのに。
「敦盛」「經政」「忠度」と、公達がシテのお作から、それも一度に一曲、というペースで
読んでいます。
「敦盛」では、どきどきいたしました。そう、女にま
がう美少年ですもの、先生の読まれたような「読み」を、当時の人たちはしていたのでございましょう。少女のころに「敦盛最期」を読んだせいでしょうか、そ
うした読みには至らぬ浅い読みで終っていた拙い読者でした。
「經正都落」の御室に参じての別れの惜しみようには、經正のきびきびした言動にもかかわら
ず、たいそう、せつないものが感じられましたのに。經正の「紫地の錦の直垂に萌黄匂の鎧」という装束、琵琶を納めてあるのが「赤地の錦の袋」という派手や
かさからの連想も、あったのかも知れません。
最近ですが、經正の仕えた覚性法親王の御集を読みましたら、「いとしくしたまふわらは」
「人のもとなるわらはのもとへ」といった詞書のあるうたがありました。この「わらは」が經正だったらと想像いたしましたが、百首ほどしかない「經正集」
に、法親王の影を見出すことはできませんでした。
先生が先ごろご覧になった観世榮夫の「經政」がおもわれます。
忠度を、「地味な印象の底に渋く光る魅力」「武将と
しての忠度は剛強武勇の士」とおっしゃってでございますね。とてもうれしうございました。
以前、忠度のことを書くのに、どんな装束を好んでいたかと、『平家物語』を読み直したこ
とがあります。見落としがなければですけれど、忠度の装束についての記述があるのは二ヶ所でした。
最初は頼朝を討つべく富士川へ向かう維盛に副将として添うたとき。もう一度は忠度最期の
ときでした。この二度とも、「紺地の錦の直垂に黒糸縅の鎧」、「黒き馬の太うたくましいに沃懸地の鞍」という出立ちでした。
こうした装束を好み、着こなし得、よく似合った人、なのでございましょう。先生のお思い
になる忠度像にもよく似合う、シックな装束。忠度には、小侍従との贈答歌があるのも、わたくしにはうれしくて。
けれど、このご本で知った、
忠度と俊成、行盛と定家、二組の師弟のことには、しんと心が冷えました。俊成の処世の巧みなことはよく言われていることですけれど。世阿弥の眼、この曲の
創るにいたる能作者の心のうごきも、教えていただきました。
しばらくの間、装幀も凝ったこのご本で、たのしませていただくことになりましょう。
「通盛」か「頼政」とおもっていましたが、今夜は、
何となく、「小督」にいたしましょう。長々とメールを綴ったせいかも知れません。あの清閑寺の近くにねむっているひと……。
* 十二月二十六日 つづき
* デンマーク映画「奇跡」を観た。舞台劇の映画化か
と思われるほどシンプルな設営の中で、信仰と愛との永遠の課題が抑制された筆致で深刻に描き取られていた。息を詰めて観た。涙も流した。
老父は妻をうしない、子らへの不満ゆえに神への無垢の信仰を我から喪いかけている。長男
はまったく神を信じていないが心は清く、深く妻を愛している。感動をどこかに置き忘れた知的な善人である。三男は宗派のちがう家の娘を愛し結婚したいと
願っているが、父は許さないし、娘の父も許さない。次男は神学を学んでいたが、誰の目にも「乱心」としか見られないほど、さながらにイエス・キリストの如
く語り振舞い、しかし言うところ説くところは映画を観ているわたしたちには、すこぶる深い。すこぶる心深い。彼はみなにいたわられ愛されながら、家族の誰
もが持て余している。いやそうではない、長男の妊娠している妻インガは、信仰厚く、無垢の愛で誰とも接している。また誰もがこの主婦を愛し信頼している。
インガの幼い女の子も、キリストのように「乱心」した叔父さんの祝福を心から喜んで受けている。
そんな中で、主婦のインガのお産が始まり、痛ましい難産の末、期待されていた男の子は死
んで生まれ、インガも死の危機に陥る。女の子と次男との祈りゆえに一度は深い眠りの中へインガは甦るが、また、ふっと事切れてしまう。その期に及んでも、
父は、神のみわざと諦め、夫はただ哀しみ、弟も祈りはしない。「乱心」の次男は家族にむかい、なぜ心から深く祈ってインガを救われようと望まないかと、嫂
の死の床で倒れてしまう。そしてひそかに家を出て行方知れなくなる。
インガの葬儀のときが来て、なお父は嫁の死をただ主に委ね、夫はただ哀しみ、末の弟も哀
しみの中で、祈ろうとはしない。牧師も医師も「奇跡」などを全く信じないで、イエスのような次男をつまり「乱心」の「病者」と決めつけつつ、目前のインガ
の「死」を、成行きに任せ、自然のなせるものとしてただ見送ろうとするだけである。
他方、娘を嫁にやろうとしなかった父親は、神の前に偏狭を悔い反省して、娘をつれともに
死者のある家におもむき、インガの亡骸の前で、我が娘をこの家の三男と娶せたいと望む。新しい主婦として娘は、哀しみのさなかの祝福を受ける。
そこへ、行方知れずだった次男が、理性をとりもどして帰ってくる。その彼が、死者の幼い
娘のためについに「奇跡」をよぶのである。
* モノクロームの静かな静かな映画であった。だが吸 い込まれたように見入った。
* いまの私が私自身に言えることは、バグワンに何度 も叱られてきた、そのことである。ほんとうに透徹した存在は人の目には「乱心」したものと見えるであろうと。また、人は映画や物語には惜しみなく涙を流し て感動するにかかわらず、同じ事実現実に当面したときには、感動も涙もなく、ただ忌避し嗤い嘲り、理屈をつけながら、真に透徹した者を指さして「乱心・狂 気・非常識」の者とただ指弾する。幻影にはたやすく感動し、現実には背を向けて真実から遠のくことを「常識」とすると。そのようでありたくないと思いつ つ、ときにわたしは動揺し、自身の醜悪に目を剥いてしまうのである。
* 心親しい若い友より、暫くぶりの佳いメールが来 た。嬉しい。社会人二年生の彼は、彼の言葉で、彼なりにわたしを励ましてくれている。有り難う。
* こんばんは。
秦さん、お久しぶりです。
もうすっかり、冬ですね。
慌ただしかった(社会人)一年から、少し解き放た れ、久しぶりに落ち着いた時間を持てています。この何日か、ですが。
今年は、あたらしく合唱を始めたり、初めてお茶会で
お手前をしたり、いろいろと初挑戦のことが多く、その分一つ一つを、どれだけ深く受け止められたかは、自信ありませんが、とても楽しくはありました。
合唱は、以前から興味があり、機会を探していたところ、ちょうど同年代くらいの人たち
で、とても熱心に活動している団体にめぐり会うことができ、今までとはまた違う環境で音楽ができ、刺激的です。演奏会も経験し、来年の年末には、フォーレ
のレクイエムを演奏する予定です。
楽器は、いまだに手にすることができずにいます。いつかは、と思ってはいるのですが・・
初のお茶会は、かなり気合いを入れて稽古したにもかかわらず、当日の手前中、茶碗を持っ
て立ち上がったときに、何故かポトリとふくさを落としてしまい、悔しかったですが、それ以外は、まあ満足という感じでした。
仕事は、頑張ってはいますが、ふと疑問を感じるときはあります。少なくとも仕事におい
て、自然に抱かれているときに感じるような、心底からの幸せを感じることは、ありません。頭では、社会に必要な仕事で、無くてはいけないことは分かるので
す。その意味では、興味ややりがいはあります。しかし、個人としての自分とのズレや違和感は、いつもどこかで感じずにいられません。
ホームページ、数ヶ月振りに覗かせていただきまし た。
最近、人との関わりに、自信が持てなくなっていま
す。
結局人間は一人なのだ、という感覚がむしろ強いです。
人の存在が自分のなかで、溶けるような切実さを失い、所詮自分は冷たい人間なのかと、失
望にも近い気持ちを味わうことが、しばしばです。これが、時期的なものなのか、それともずっとこうなのかは分かりませんが。
ですが、これはいえます。
何人かの人々との出会いを、こころから喜び、その人たちの在ることを、こころづよく感
じ、それ故に自分も「生きる」のだと。
その時、「在る」は必ずしも「生きて在る」ことを意味しませんが、やはり、生きてゆく自
分としては、そうした人々がともにこの世に在ることは、嬉しいことなのです。秦さんが、この世に在って下さることも、とても嬉しいことです。
脈絡無い内容ですみません。
先日、年賀状を投函してしまいました。
申し訳ありません。
それではまた。どうぞお元気で!
* こんな佳い手紙をもらえる幸せを、誰も誰もが持て
るといいのだが。こういう「身内」と一緒に此の世を生きて今を在ること、これ以上のことがあろうか。
* 十二月二十七日 月
* 用事の合間に映画「若草物語」を覗いたりすると、
角川文庫の分厚いのを愛読した高校一年生ころを思い出す。あの頃でもこの原作は十分に時代小説であったが、あの少女たちは、まだ感覚的に手の届くところで
活躍していた。いまでは、見ていて「はづかしく」なる。これは日本の古典などで、ほんとうに気品に富んで非のうちどころない人を見るときの感情である。あ
まりに相手がお行儀いいので、こっちが恥ずかしくなる。そういう思いを、この物語の少女たち、メグ、ジョー、エイミー、ベスたちはさせる。させてくれる。
渋谷や新宿や池袋で出逢うストリートガールのような異様な化粧と服装の少女たちと較べたりするのは、もう間違いなのではないかと諦めかけている。
すぐれた少女というのは、少年時代にも、なぜか丈高く神秘的だった。いまでも胸の轟くよ
うな「はづかしく」も丈高い少女とまったく出逢わないわけではない、が、寂しいほど払底している。
『若草物語』はどこかで『ハイヂ』や『小公子』『小公女』また『クオレ』などを読んだ昔を
思いださせるけれど、もっと溯ればオースティンの『高慢と偏見』のような名作の系譜とも見える。あれはまことに優れた小説であった。
* 志賀直哉の明治四十三年の日記をゆうべの夜中に読み終えた。谷崎の「少年」を、とても
変わっている、同情はしないが、とにかく面白かったと書いていた。三十七八年では連日連夜の歌舞伎や義太夫の評判に終始していたのが、白樺の創刊からは、
ひとかどの作家らしく短編を書きついで、意識は甚だ高い。「濁った頭」のころである。谷崎はすでに「刺青」などを新思潮に発表していた。同人雑誌時代で
あった。
わたしは「仲間」で文学したことが一度もない。出身大学を基盤に二度ほどそんな動きに絡
められそうになったけれど、成るまいと予期したように雑誌は成らなかった。惜しいとも思わなかった。寄って集って青臭いより、一人で孤独に青臭い方が恥ず
かしくなかった。
* 悪癖かも知れないが、浴室で、長湯しながら本を読 むくせがついてしまい、何かがないと落ち着かない。上等の紙をつかった企業PRの雑誌には、ときどき堪らなく刺激的な佳い記事の出ていることがある。「ち くま」「本」「波」など文芸的な物がかえって面白くなくて、競馬や鉄道や電信電話や商社の贈って寄越す物に、斬新な中身の興味深い記事が特集されていたり する。ところが不景気のためか廃刊して行くのも増えてきた。真っ先に切られて行くものだろう、雑文で稼いだり対談や座談会で稼いでいる人たちは首筋が寒い だろう。
* 最近はビニールカバーでしっかり装幀されている古 典の小型本をときどき浴室に持ち込む。『堤中納言物語』など短編で、ほどよい。巻頭の「花桜折る少将」本文を、頭注から対訳から解説まで読み上げて、程の いい時間になる。なんとまあ先行の源氏物語が偉大なお手本であったかなど、じつによく分かる。可愛い人を寝所に忍び込み拐かし得たと思って自邸に帰った貴 公子が、まんまと頭を剃った尼お祖母さんを抱きかかえてきたと分かる短編だが、短い中に趣向が感じられ、わるくない。小説の歴史も久しいものであるなと感 心する。
* 今夜は、むかしに、中公新書『古典愛読』を書かせ
てくれた編集氏と、池袋で恒例の歓談。久しいお付き合いである。
* 十二月二十八日 火
* ハイな気分ではない。
京都から甥の一人が電話をよこした。おじいさんの野辺送りはすべて済んだようだ。北澤家
の祖父と父とが一時に逝去、母と孫三人が遺された。母は事実上もう久しく夫北澤を離れて一人暮らしをしてきたと聞いている。孫三人も京都を離れて一人一人
で暮らしてきた。長男とは、作家黒川創として同業の後輩として付き合って行くことになる。小さい頃から親族ともつかず赤の他人ともつかず私の身の回りに空
気のように在った「北澤」という名は、事実上これで雲散したものと思う。文字通り兄の望んだように、個と個とにかえった。それでよい。いま、いちばん願っ
ているのは、北澤の三人の兄と妹と弟とが、ごく自然に心から親しみ合い、より大きくなって欲しいこと。親のない後で同胞に感情のしこりやギクシャクのある
のは、ヨソのことでも胸が痛いものだ。
数えればわたしには何人の甥や姪がいるか知れない。が、兄の子たちのほかは会ったことが
ない。「いとこ」会を年々に開いているような一族もあるらしいが、羨ましいとは思わない。
北澤恒彦を偲ぶ会は明けて三月頃に開かれるようだ。
* 雑誌「ミマン」の新年号が届いている。三月号から
毎月発行になり、わたしの出題も毎月になる。新年号は臨時に、三月四月号分を出題している。新年号の原作を挙げておく。興味深い解答例やわたしの鑑賞は新
年号を見て欲しい。
射的場にビリケン人形うち落しわれに呉れしが(戦)に死にき 稲葉 育子
秋黴雨ことりことりと(妻)の居て 奥田 杏牛
新出題を、作者名は外させてもらいながら挙げてお く。
( )の字の中いっぽんが猫となり子は遠き地に中 年となる
声美人に見舞われている( )子かな
そして、
去り難くひとり( )にをり子の許に遠く移ると夫に告げつつ
( )な泣きして春暁の夢醒むる
* 作家・日本ペンクラブ理事の肩書で、某紙に昨日あ たり掲載されたろう、今年の「私の三冊」を挙げておく。
小西甚一氏の本『日本文藝の詩学』は一読し、ペンを
片手に再読し、別色のペンをにぎって三読し、さらに通読した。「分析批評の試みとして」と副題して主に芭蕉句がとりあげてあるが、
「或る作品が読む人を感動させるのはなぜか。批評は何をなすべきか」という著述の動機が完璧に説き明かされているのはむろんのこと、文藝の研究とはどれほ
どのことであるかを、あだかも最高の人生指南書にふれるほどの的確さと簡潔さで、わたしを感動に震えさせた。文藝論のほんものに出会いたい人、また芭蕉句
に親しんできた人には至福の読書となろう。
高田衛氏の本『蛇と女』は、出るべくしてなかなか穴から出なかった「蛇」を、ついに引き
ずり出して論策した希有の労作であり、「女」ないし「性」に限定されてはいるが、「蛇」論議の非常に有力な優れた一角が豊富な事例や表現と共に解説された
ものとして、この価値は、信じがたいほど高い。神話的・民俗学的な「蛇」論は若干先行してはいたし、問題提起はわたしも多年続けてきたが、社会学的な、ま
た人間学的な面からの論議が続々期待される。蛇ないし龍への根深い洞察抜きに人間の歴史は語れない。
持田叙子さんの『折口信夫・独身漂流』は優れて新鮮で切り口深く、若き学究の個性に彩ら
れ魅力横溢、今後を期待させる。
* 以下は歳末号「出版ニュース」に請われて発表した 原稿のままである。これがわたしの「闘い=ゲリラ」であるからは、挫けずに書いておくのだ。何と闘うのか。「出版」とか、ちがう。この仕事はむしろ「出 版」を助け補っている。人がおのがじし抱いている「弱さ」わたし自身の「弱さ」と闘うのだ。
* 再び・作者から読者へーー作家の出版
秦恒平・湖(うみ)の本 十四年の歩み
結果として私版の文学全集を成しつつある「秦恒平・湖(うみ)の本」の刊行に、読書界から、このところ、関心を寄せて下さることが増している。何故だろう
か。
一九八六(昭和六十一)年の桜桃忌を期して創刊第一巻『定本・清経入水』を出した、その
巻頭に、大略以下のような所感を私は掲げていた。
*
「帰りなんいざ、田園まさに蕪れなんとす、なんぞ帰らざる」と陶淵明は『帰去来辞』に志
を述べた。いまこそ、親しんだこの詩句に私は静かに聴きたい。
文学と出版の状況は、ますます非道い。良い方向へ厳しいのでなく、根から蕪れて風化と頽
落をみずから急いで見える。
幸い私は、この十数年に都合六十冊を越す出版に恵まれてきたが、また、かなりの版が絶え
てもいる。絶えかたも以前よりはやく、読んでいただく本が版元の都合一つで簡単に影をうしなう。数多くは売れないいわゆる純文学=芸術の作者はあえなく読
者と繋がる道を塞がれてしまう。私は、「帰ろう」と思う。
もとより創作をさらに重ね、機会をえては出版各社から本も出し、商業紙誌にも書いて行く
ことは従来と変りない。が、もともと私家版から私は歩き出した。今、私にどれほどの力があろうとも思えないが、望んでくださる読者のある限り、その作品が
本がなくて読めない…という事だけは、著者の責任で、無くしたい。
読者は作家にとって、貴重な命の滴である。一滴一滴が、しかも大きな湖を成すことを信じ
て作家は創作している。作家と作品とは、そのような母なる「うみ」に育まれ生まれ出る。
本は、簡素でいいのである。版の絶えている作品の本文を正し、時には新作にも必要の場を
ひらき、そして本の常備をはかりたい。作者から直接に(出費を願って)読者へ、また、読者から直接に(作品を求めて)作者へ、もっぱら口コミを頼みに、可
能な限り年に数冊。「創作」の自由と「読書」の意志とがそうして細くとも確かに守れるのなら、そこへ、私は「帰ろう」と思う。久しい読者との、さらには新
たな読者との重ね重ね佳い出逢いを願わずにおれない。
*
いつごろこの「湖の本」を発想しただろう。最初に
はっきり口にした場面なら、よく記憶している。筑摩書房の三人か四人の編集者と、当時社屋は駿河台下にあったので、あの辺のにぎやかなそば屋へ昼飯にでか
けた。
「自分の本を自分で再編し復刻して、本が手に入らず困っている読者に、自分の手から送っ
て上げたい、が、採算はとれっこない。ま、贅沢に遊び回る私ではないが、遊びの金を宛てるぐらいの覚悟でやってみようかな」と。
筑摩の人が賛成したとは覚えていない。賛成するわけはなかった。
幸運にも、太宰賞いらい、人が驚くほど私の本は数多く出版されていた。何年もの間、年に
四冊も五冊も六冊も出ていた。小説は慎重に書き、エッセイや批評は大胆に数多く書いた。日に五枚、年に千八百枚程度だったが、右から左に単行本になって
いった。
だが、たくさん売れる作風ではない。熱い読者がいるとよく編集者に励まされたが、そうい
う作者に、不特定大多数の読者は却ってつきにくい。出した本はさっと無くなり、その後は手に入りにくい。版元に増刷は強いられない、割高についてしまうか
らだ。
で、版元の肩代わりを私がして上げよう、そうすることで、作品と読者とへの作者の責任を
取れないかと思った。「読みたい本が、本が無くて読めない」という情けない思いを読者に、とくに地方在住の佳い読者たちにさせるのは、今日の出版の、余儀
ないとはいえ大きな責任放棄だとわたしは感じていた。
泣き言を言って引っ込むのが嫌いで、出来そうもないことを人に頼るのも好きではない。赤
字出血は仕方がない、飲み食い遊びを控えれば足しになるわけだし、手持ちの技術で本は作れるからと、むかし編集制作者だった私は、自分で自分に鞭をあて
た。慎重に計画し、八六年六月に創刊にこぎ着けた。予想外に反響と支持は大きかった。幸運だった。
以来、十三年半を経て「湖の本」は、創作42巻、エッセイ19巻、通算61巻に達してい
る。この間に出していった市販の新刊著書も、通算すれば百冊に及ぼうとしている。現役作家として終始働いてきたし、江藤淳の後任として東工大「文学」教授
も定年まで務め、今は日本ペンクラブ理事を二期め、京都美術文化賞の選者も十数年務めている。九八年四月からは新たな文学活動の「場」としてホームページ
『作家秦恒平の文学と生活』を開き、約三千枚の各種の原稿を日々更新しつづけ、また発言しつづけている。
そういった中での、多年「湖の本」の停滞なき持続には、どんな意味があるのか、意味はな
いのか、その評価は当人のする事でなく、ただ「事実」を挙げるにとどめたい。
「作者から読者へ ー
作家の出版」と表題して本誌に寄稿したのは、創刊から半年後の、一九八七年初めだった。「湖は広くはならないが、深くなった」と、作品を介して読者と作者
との直の関わりが支えた「刊行事情」を、率直に報告した。エッセイのシリーズが創作に伴走し始めたのは、もう二年後、やはり桜桃忌に、第一巻『蘇我殿幻
想』を読者の手に届けて以来だが、これが成功した。巻頭に私はこんなふうに述懐した。
*
この三年、言うまでもないが、私は孤独ではなかった。刊行の作業は予想を超えて厳しい
が、どれだけ多くのご支持に支えられて来たことか。無謀とさえ見られた『湖の本』がもう三年・十二冊を送り出し、幸いに今後の継続を可能にしているばかり
か、あらたに『湖の本エッセイ』の刊行もごく自然の流れで、読者に待たれるようになった事実が、それを証ししている。感謝にたえない。と同時に、このよう
な、いわば悪戦苦闘に内在し潜勢している文壇や出版への「批評」を、すくなからぬ方々が察してくださるのだと思いたい。「湖」が広くなったとは、言わな
い、しかし、深くなっている。良き繰返しの一度一度を、一期を賭して繰返したい。
これからは、「小説」のシリーズに「エッセイ」のシリーズが伴走することになる。私の
エッセイは、小説と両翼を成している。それも読者は、よくご存じであった。
*
そうはいえバブル景気は砕け散り、出版と読書にも深刻に影響した。「湖の本」も継続読者の葉の散り落ちるような脱落に見舞われ、一と頃の三割がたも人数が
減ったし回復できていない。だが製本部数は減らさなかった。思い切りよく全国の大学の関係講座や図書館に寄贈して行った。資金的な出血をすこしでも押さえ
たいのはやまやまでも、もともと利潤の上がろうわけがない私家版であり、私の仕事をより広く知ってもらう意味では、「大学」に寄贈と決めたのはすこぶる正
解だった。在庫をもち、読者の希望に応じ即日送り出すという当初の思いも、間違いなく果たし続けてきた。城景都氏の傑作画に飾られた簡素に美しい造本も、
旅行者には恰好の友とされ、また作品内容を吟味しては贈り物に利用されることも多くなっている。僅かながら外国にも読者があり、石垣島から稚内まで、口コ
ミひとつでひろげた読者の網は、目は粗いけれど、日本列島をくまなく覆っている。部数は減ったが、現在九割五分までが親密な「継続」購読者であり、作家、
批評家、編集者、新聞記者、学者、研究者、教師、他の芸術家にも支援を得つづけてきた。
だが苦心も工夫も必要だった、それでも維持するのは大変だった。
最初にもし百人の読者がいたとして、次回は、減る人と増える人とが同数だと前回分維持で
あるが、初めの内は、手をかけなくても、勢いで右肩上がりが期待できた。だが長くは続くわけがない。口コミしか頼れない以上、手をかける必要は巻数を増す
につれ、ますます深刻になった。
一度送金してもらっても継続の意思の判明しない人、次は要らないと告げられていない人に
は、必ず次回本を送った。気に入らなければ「送金の必要も返送の必要もありません、本の好きな人に払い込み用紙も添え差し上げて下さい」と、送った。本そ
のものを人目に広めたく、また一冊でも勝手下さった読者に感謝の気持ちもあった。一冊分の支払いで二冊届ける結果になることがずっと多くても、それでよい
とした。このおかげで、その後「継続購読」して下さった方も、かなりあったのだ、無ければ、部数は減る一方になる。
注文は受けていないが、この本はこの人にはどうかなと、趣旨または依頼を添えて送るのも
大切な工夫だった。気が動かねば、「返送・送金に及ばない、誰かに差し上げて下さい」と明記のうえ送った。こんな本を出しましたからと、本を見てもらう、
手に取ってもらう。手紙だけで頼んでも何の役にも立たない。代金の送金をはなから諦めて本を届けてしまう、それでなければ新しい読者には出逢えないのであ
る。
だが、そういう「送れる先」を見つけ出すのが、何よりナミたいていの苦労ではなかった。
この苦労を厭わなかったのが、十三年半を、かつがつ維持させた。そこで生じる若干のトラヴルを怖れていては、自滅して行くだけであった。作品と本とに自信
をもち、押すべきは押さねば維持できない。それは情熱に類することであって、商行為ではなかった。収入増にはまるで結びつかない、いわば「タダ本」を撒く
ことにしかならないのだ。だが、撒かれた「本」が口コミの材料となり「湖の本」の存在が少しずつ知られて行くと、数は増えなくても、大きく減って行くのを
なんとか防いでくれていた、と、その実感が今にして持てるのである。
親切な読者に「紹介」を願うことも諦めてはならぬことだった、紹介が紹介を生んで、思い
がけぬ連鎖の網目が広く出来てくる。これが有り難い。感謝しきれないほど有り難い。手繰って行けば、多い人なら数十人にも、もっと多くにも、輪を広げて
貰ってきたと思う。
どんな内容の本が、どんな順番で、刊行されてきたか。読者との約束事がどうなっている
か。それは私のホームページ
http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/
の「湖の本の事」という頁で御覧願いたい。最新刊の創作第四十二巻は、未刊の新作『丹波・
蛇』を平成十一年十一月末に刊行した。前者は敗戦前後のいわゆる疎開生活に焦点を結んで、自伝の一部を成してゆく。この少年時代の二十ヶ月が、創作生活へ
の基盤とも推進力ともなったことの自覚を動機にしている。後者「蛇」は、「丹波」と深く連携して作者の思想形成に寄与した重い主題を、敬愛する泉鏡花論に
重ね、金沢市での石川近代文学館主催講演会で話した講演録である。併せて、異例だが「参考」に、妻迪子の「姑」一編を敢えて加えてある。
ところで先ごろ新宿紀伊国屋ホールで「オン・デマンド出版」のシンポジウムがあった。講
演したP.グルマン氏の話を聴きシンポジウムの各パネラーの話もつくづく聴きながら、いつのまにか「秦恒平・湖の本」が出版時流の最先頭をきって走ってい
たのだと思い当たった。本が売れないと出版社は言い訳をするが、売れる本だけを売れるにまかせ、売れにくい本でもなんとか売ってゆこうという工夫も努力も
棚上げしていたに過ぎないのだし、これでは出版文化の実質が腐ってきたのも無理はない。私は、そんな非道い澱みから身をのがれて、自力で、読者と連帯のき
く潮目に棹をさしてきた。べつの見方をすれば赤坂城や千早城に籠もった楠正成の悪戦苦闘に異ならず、落城はもう目前に相違ない、が、はからずも「紙活字
本」にかわりうる「電子本」が、出版の流れを大きく動かそうと登場してきた。六波羅探題も鎌倉幕府も安閑とはしていられなくなっている。
だが目下は、私一人の事情で思い、また、私と立場の近い純文学作家、愛読者と実力とを十
分手にしている作家たちからすれば、著作権があいまいで不利の予想されるな電子本方式よりも、各自に工夫を凝らした「湖の本」方式で絶版本に息を吹き返さ
せ、新刊も世に問える「場」も手中にしてゆく方が、実質、実りがあるのではないかと、そんな気もしている。
ただ、我が「湖の本」の場合、既成の文芸出版社の露骨な敵意にも堪えねばならなかった。
私を世に送り出した筑摩書房にさえ、作家生活三十年の一冊を、何を出すとの一顧の検討もなく拒絶されてしまう。文庫本一冊の企画もないことと「湖の本」の
十四年・六十余巻の持続とは、どうみても「質」的に均衡をえていないと、私が言わなくても然るべき人が怪訝に思ってくれる。グルマン氏らの報告や討議の中
でも、物哀しいまで既成の出版権力への遠慮が語られていたが、いわゆる「出版資本」の固陋な認識やバッシング意識は想像を絶して根強いのである。同じそう
いうことが、実験段階に入っている「電子書籍コンソーシアム」にも「オン・デマンド出版」にも生じないこと、排除と独占の論理で新世紀の新出版モラルが汚
れないことをぜひ願いたい。
* 十二月二十九日 水
* taroliteとmyhomeとの原稿類をフ ロッピーディスクに保存したら、ディスクが15枚必要だった。ホームページの原稿やインターネット・エキスプローラーやその他のいろいろもすべてディスク に保存すると、もう10数枚は必要になる。他にも文章を書き込んでいるソフトが在る。wordもある。消え失せる心配よりは、無用でも保存して置いたほう がいいだろうと、あきらめの心境で、黙々と保存作業を続けて夜中になった。なにごともなくあってほしい。
* 桐生の読者から葛湯の素が贈られてきた。桐生の葛
は、吉野葛ににて温かくうまい。前橋講演のみやげに以前いただいて味をしめている。糖尿にちがいないと思うが、甘い物を体が要求すると感じる日々がある。
濡れ甘納豆も大好き、金色した甘露の栗も大好き、美味い菓子はみな大好きである。
京都は菓子が美味かった。菓子と庭とは京都を越えられないというのが持論である。
酒も好きで、酒だけは地方色が存分に楽しめる。なんのかんのと言いながら、酒は欠かして
いない。困ったものだ。今日は池袋で、懐石をワインで楽しんできた。よかった。それなのに終始「あたしバカよね、おバカさんよね」という歌が口をついて
困った。なにか歌が一つ身に舞い込むと、そのメロディからのがれられない。ま、しかし、わたしにピッタリの歌詞であったから、どうしようもなかった。
家に帰ったらカンビールと、呉市からの珍味「でびら」が来ていた。豊橋の最上等の竹輪も
沢山。酒に、すてきに佳い。ものを戴いてばかりの暮らしになり、有り難いものの、根が卑しくなっては困る。自戒もし、しかし心から感謝し喜んでいる。家が
賑わうのである。
* 暮れは、買い物役もする。明日も明後日も出かけ
て、京の白味噌や蛤を買う。花は家中の植木鉢と例年ご近所から戴く花とで足りる。念入りの掃除など考えられない、少なくもわたしの書斎も器械部屋も書庫
も。もうどうにも手が着けられないのだから、なまじ手を着けない方がいいのである。兄のことがあり、年賀状は一枚も書かない。
大晦日だ正月だという感慨はあまり持たなくなっている。自然体で通過して行く。電器とガ
スだけは、水も、切れて欲しくない。寒いのは閉口である。息子たちが元旦に来る。
黒い少年のマゴは、活発そのもの、妻の愛を一身に浴び、幸せそうに家の内外を駆け回って
いる。枯れ葉を拾ってきては得意そうに見せ、枯れ葉の舞を演じてくれる。母親の愛を知らなかったのか、よく噛む。二本の手で手を抱きかかえて軽く噛む。わ
たしとは盛んに拳闘をする。
* 十二月三十日 木
* 年の瀬に
秦恒平さん
どうも年末年始は好きになれないものです。
日本でもヨーロッパでも「家族と過ごす」ことが暗黙の了解ではあるけれど、家族のつどい
に心からやすらぎを感じている人は、いったいどれだけいるのでしょう。自分も含めていろいろな人を見るにつけ、「家族」とは「身内」とは何なのか、この時
季いつも、考えずにはおれません。
スペイン人は凄い見栄っ張りです(彼は違います)。 その点日本人とよく似ているのですが、見え隠れさせる日本の見栄と違って、こちらの見栄は赤裸々です。クリスマスというと、その見栄がもっとも発揮される とき。神と法律により日曜営業が禁じられているはずの店店も、まさにその慈悲深いイエス・キリストの名の下に、戸を開くことが許され、見事なクリスマス商 戦が繰り広げられるのです。あの意味のない日本のクリスマスさえも、かわいく懐かしく思えてしまう。
贈物に困るほどすでに何でも持っている子供たちは、 さらにほしいと思ったものすべてを(「選ぶ」という作業がない!)リストにします。そして「それらすべて+それ以外のもの」がほぼ確実にもらえることを予 期する傍ら、本気でサンタクロースと三人の賢者(1月6日に贈物を持ってやってきます)を信じているのです。そのくせ贈物が少ないと怒るのですよ! わた しには訳が分からない。小学校前の子供ですら贈られたプレゼントは5万円をくだらない。これが私がここで目にするクリスマスです。ぜんぜんうらやましくな い。
ほしかったものを手にしたときの喜び、私のは、誇ら しいくらい大きかった。ほてって、うきたって、どきどきして。わたしは、こんなふうに喜びを感じられる自分が嬉しい。ほんとうに、なにをもつことが、幸せ なのでしょうね。物の豊かさが心を貧しくさせているのは、日本に限ったことではないのですね。おぞましい。
それでも、日本の、受験戦争から生まれた異常な社会
現象はここでは見られず、ほっとしています。スペイン現地の学校で育っている日本の子供たちと知りあうたびに、その子供らしい素直さと正常な感覚に、驚き
と安どを感じるのです。どうか、日本に戻っても、その感覚をもち続けてほしい。波に呑まれず、朱に染まらないのは難しいものだけれど。子も親も。
恒平さん、少なくともわたしは、波に呑まれずにいたいし、いられると思います。
それにしても、日本は「子供など育てたくない国」にどんどんなっていく。スペインは「子
供にクリスマスを過ごさせたくない国」。
今年もあと2日。どうか心身共におだいじに、よい年
をお迎えください。
5月半ばに、ふたりで帰国します。きっとお逢いしましょう。
お元気で。
* この精神の活発な学生とはじめて口を利いた場所
を、よく覚えている。大学図書館の前、大桜並木のはずれの辺だった。こんなことで何とかなっているのかなと思っていた、授業というか講義というかに慣れて
いなかった。そんなときに向こうから来たたしかに大教室で顔見知りの女子学生が、ツツッと駆け寄ってきて、元気いっぱいの笑顔で、わたしの「文学」の時間
をとっても楽しみにしています、有り難うございますと言ってくれた。名前も知らなかった。いたく励まされた。文学概論は二年生の授業で、そしてそのままこ
の人は長津田校舎に移って行き、教室はその一年きりだったが、その後もずうっと記憶し連絡は途絶えなかった。他の大岡山校舎にいた学生たち大勢からすれ
ば、接触はごく稀な人であったが、気持ちは親しかった。「秦サンでいい」と教室でみんなに言い渡してあったとおりに、ずっと、呼び方は「秦サン」「恒平サ
ン」で、それの似合う人だった。またこの人がなにか特別のどうのということは何もなかった。誰とでも、男子でも女子でもみなこんな按配にわたしは付き合っ
てきた。
この人は院の途中一年間のドイツ留学中、週一回の「感想と観察」の便りを、欠かさずにわ
たしに送ってきた。なかなかの批評家で、現在を拒まずに、進んでありのまま楽しめる毅い頼もしい生活者である。
* どうも男がよわよわしい時代になっている。
* ミレニアムということで滾るような気分は、少しも
起きない。平成十二年が来るだけだなどとうそぶく気もなく、実感にキリスト生誕と結びつく思いがあるわけでもない。ま、大過なく大きな年の瀬を渡らせて欲
しいと願う。妻や子や孫たちの幸せを願うし、心したしい大勢の友の平安も心より願っている。気の衰えのあまりに早く来ないようにと自分を励ます気も少しあ
る。どんな仕事が出来るだろうと、自分で自分のことを楽しみたい。
* 一九九九年 平成一年 大晦日 金 晴れ
* 数多の故人の上に平安を。さらに数多の生者の上に も活気と平安を。幸あれ。
* 二千年問題に備えて、暫くのあいだ、器械を閉じて おく。幸あれ。午前十時半。
* 最近知りあった或る若い、ハイデッガー哲学などを
学んできたという、著書もある高校の先生の、歳末の手紙を読んだ。「哲学で人は救われるでしょうか」と前便に書いたのへ、返事ともなく返事があった。
正直に、率直に言って、そんなことを考えて哲学の勉強をしている研究者は、今の時節、ひ
とりもいまいと思います、自分もそうです、興味深いから、面白いからやっています、というのが、返事の主意であった。率直な表明で気持ちよかった。
* その一方で、全く予想通りの返事であり、今の時 代、哲学がほとんど「人間」の自立や安心の役には立たないワケも、よく分かるのである。言うまでもなく、彼ら、所謂「哲学」を勉強している人たちは、哲学 者ではない。「哲学学」の学者・研究者に他ならず、それは「文学学」の学者研究者と文学者とが異なっている異なり方よりも、もっと差が深い。「知を愛す る」と訳してしまえば、なにやら「研究」や「詮議」もその内のようであるけれど、だから哲学がもともと「人を救う」ものかどうかには異論が出て当然かも知 れないけれど、ひるがえって思えば、わたしを救ってくれない哲学になど、何の魅力も感じなくなっている。そんなものは知的遊戯的詮索の高級で難解なものに 止まる。つまり哲学がつまらないモノになってしまっている証拠だと思う。世間には「哲学者」などと麗々しく名乗っている人もいるのだけれど、おれは「哲学 学者」ではないぞという意味なのか、いややはり「哲学学者が哲学者なのである」意味なのか、どういう積もりであるかと時々教えを請いたくなる。老子は哲学 者などと言われたくもなかったろうが、とびきりの哲学者に思われる。ソクラテスもキリストも仏陀もそのように思われる。しかし彼らの、また彼らのと限らず 優れた「人の師」の教えを、ただ「祖述」し「解析・解釈・解説」して事足りている人たちを哲学者とは思われないし、ただの評論家を哲学者とは呼びたくな い。いや哲学者だとつよく主張されれば、もうこの年になってそんな哲学なら何の魅力も用も無い。そんな哲学とは、ただ「心」のコンプレックスに他ならな い。エゴの凝った「心」の、こてこてした、ややこしい塊に過ぎない。所詮は捨て去るより意味のない負担に過ぎないのである。安心や無心は到底得られない。
* すでに新年に入っている国があり、コンピュータに
事故は起きていないようだという嬉しい報道がある。だが、油断はならない。無事であればいいがと思う。
稀有の体験である。事故が起きようと起きまいと忘れられない体験になる、これぞ「二千年
体験」と呼んでよく、二千年を迎えるに当たってこういうことを思うものとは、夢にも予想できなかった。
二千年まで生きるだろうかと、子どもの頃、何度も思ったものだ。信じられなかった。妻も
そう思っていたという。そんな妻と二人きりで一九九九年の大晦日を過ごしている。黒い少年のあまえて鳴く声が階下でしている。もうコンピュータを閉じて階
下に往き、酒でも飲もう。