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宗遠日乗
闇に言い置く 私語の刻
平成十八年
(2006) 十月一日より十月末日まで
注: 平成二十三年(2011)六月末の裁判所指示個所が、拡大・縮減なく下記
十月日記で「削除」してある。
宗遠日乗 「六十」
* 平成十八年(2006) 十月一日 日
* 月光。しずかに静かに。アシュケナージのピアノ。
* 十二時十分、自転車で走り出したら、やがて小雨。谷原の陸橋まで行き、東大泉、北大泉から北向きに和光市に入り、西へ転じてさらに新座市の北から朝霞
市の奥深くを縦横に、つまり地理不案内で足任せに走りまわり、東久留米市のずうっと西側へ達して黒目川のふちを。ずぶぬれだったが冷えもせず、まわりにま
わって途惑って、やっと家に戻ったら三時十分、三時間走っていたことになる。血糖値は確実に百を割り込んでいた。
* 昨日、冥界の「お父さん」の繪が金澤から届いた、薔薇。今まで描いた中でいちばん好きだと。花のいのちのそよぎをとらえて、目を吸い取るような出来映
えに妻と感嘆。そして、克明な手紙も読んだ。
* 昨夜おそく、建日子がきて暫く歓談、また戻っていった。床に就いたのは二時半。それから何冊も本を読んだ。
太平記では資朝卿についで俊基朝臣も鎌倉の手で斬られた。源平盛衰と南北朝の物語は少年の昔から網羅的に頭に入っている。
音読しやすいのもあたりまえ、「太平記読み」は「平家読み」についで室町時代以降盛行した。ほんとはもっと声を張って読みたいのだが真夜中のこと、憚
る。
漢文、唐詩、宋詞、元曲と謂う。元という帝国は極端に尻すぼまりに衰えた国だが、ジンギスカンの子孫の帝王達には、歴代酒色にすさむという悪癖とも宿痾
ともいえる遺伝があった。ああいうモンゴル第一主義の北方民族も、手もなく中国化してしまう中国の懐深さに感嘆する。
宋というのはダメ帝国でもあったけれど、どうしてどうして、とても無視できない「文化」と勝れた官僚政治があった。「科挙」という制度のよろしさを宋ほ
ど仕上げた帝国はなかったし、人物も多彩に豊かだった。
* 新しい内閣はもう走り出しているのだろうか。最初の駅は何駅になるのか。安倍警戒の声の高いのは正解だと思うけれども、性急に否定するより、一つでも
マシなことをさせてみたい。
* 昨日「MIXI」の「足あと」さんのなかに、国歌国旗を否定することが即ち知識人だといったよくない風が見えると、慨嘆している若い女性がいた。これ
はすこし一概な物言いではないだろうかと心配した。
* 国歌を国旗を「否定すること」=知識人 という評価は、すこしアバウトではないかしらん。議論が一概に流れることはなかなか防ぎにくいことだけれど
も、せっかくの足場を自分で崩しかねません。
わたしも知識人のはしくれですが、国際社会で国歌国旗が必要なのは明らかで、別に愛してはいないけれども、否定していません。例えを船舶の航行一つに
とっても、国旗日の丸の重要で不可欠なことは明白ですし、国際的な交際場裡に国歌の吹奏が不可能ではかなり困る事態が多い。否定する知識人がいるとした
ら、知識の無い知識人でしょうね。
しかし、国歌も国旗も不文律の不動の慣行化が定着しているなら、法制化までが必要だろうかと懸念した国民は、決して少なくなく、それも知識人に限らな
かった。
なぜ懸念したか。それは不必要に過度に「強制・強要」という形で、個々の個人の思想信条や良心の自由を奪いかねないと心配されていたからで、法制時の大
きな議論のタネでしたし、政府も役人も、決して「強制・強要」などしないという答弁を繰り返したものでした。しかし、現に強制し強要し処罰さえしていま
す。
国歌も国旗も「国」の「しるし」として用いられるのは当然ですが、国民の力づく統合・管理の手段やシンボルに使われてはならないものです。公権力がそう
いうかたちで「私民」の基本的人権を抑圧するための道具のように使われて、国歌も国旗も、決してよろこびはしないでしょう。
「私」民を平然と無意味に抑圧して建てられる「公」というのは、自己矛盾なのですから。そういう不幸な事態に立ち至ってなお、国歌国旗は愛国の良きシン
ボルたり得るでしょうか。むしろそれでは、ただの歌、ただのマークのようになり、それとくらべてなら、「人間の尊厳と自由と権利」とがより遙かに大切なの
は自明のことでしょうと、私は思います。
いわゆる知識人が、あまりにレベルダウンしていることは自身も含めて恥ずかしい現実ですが、せめて一概にものを見ず、言わず、しかも本質思考により、何
がより大切かを考えたいと思うのですが、いかが。
私はこよなく日本を愛していますが、そういう「私民」が決して少ないわけではありませんよ。しかし、愛国という意識過剰を本当に日本を愛するが故に警戒
している人も大勢いて、それは何故だろうと本質思考することもとても大切なのではないかと思っています。
* 秦先生 ご無沙汰しております。
ブログを毎日拝見していながら、いかがお過ごしですかと書くのもおかしいのですが、けれどもやはり、ご心中を100%お書きにはなれないでしょうから、
私達読者の与り知らぬ部分も含めて、いかがお過ごしですか、と書かせて頂きます。
めっきり秋めいてきました。
今年の秋、このあたりでは、なぜか曼珠沙華が例年になく多く禍々しいほどに咲き誇り、娘が「赤い道だね」というくらいの毎日です。
新学期が始まって早々、娘と同じクラスの男の子が突然に亡くなってしまい(本当に一晩のことでした)、私にも娘にも大きな衝撃でした。曼珠沙華の多さは
今夏に旅立った人が多かったからなのかもしれない、彼岸まで赤い道しるべを作っているのかもしれない、と思ったりもしています。
でも、昨年は悪阻で食べられなかった庭の茗荷も今年は堪能していますし、もう散ってしまいましたが金木犀かぐわしく、爽やかなよい秋です。
今日は雨ですが、それはそれで優しい気持ちになれて、こんなふうに珠玉のように平穏な毎日が送れることこそ、本当に幸せなのだと思います。毎日毎日を、
刃の中の綱渡りのように送っていた少女時代の自分に、こんな日が待っていたんだよ、とそっと教えに帰りたいなどとも。
ここ数年、何度も身近な人のお葬式がありました。そして思うのは、曼珠沙華の道の中をあの世まで持って行かれるのは、ただただ自分自身のやわらかな心だ
けなのだと。
お金やおいしい食事や身の回りのものなどもちろんのこと、悲しみも憎しみも現世に置いていかれる。
そして、悲しみに比べて憎しみはどれだけ自分の力で制御できるものであろうか、と。
憎んでも憎んでも、それはなんとはかないことなんだろう、と思います。近年亡くなった肉親の一人は、憎しみを制御できずに逝きました。でも、そんなこと
で暮らすのはどんなに空しいか。 と、さわやかな秋風の中、思います。憎
む相手を力ずくでねじ伏せても、自分の心は決して晴れないのですから。自分の心がやわらかさを取り戻せるのは、唯一自分が人を許せた、受け入れられた、と
思うとき。
こんな話はここまでにします。
実は先生に夏前からお伝えしたいと思いながらも、こんな他愛のない話などお送りしていいような場合でない、と思ってためらっていた話があります。でも、
なんとなく今、お伝えしたくなりました。
京都に村上重というお漬け物屋さんがあるのをご存知でしょうか(ご存じないわけないですよね、すみません)。先日、お中元に使わせて頂いたのですが、先
方が別宅にいた関係で、お送りしてからすぐに受け取れずに、お店の方に品物が帰って行ったそうです。その後、お送りした方から連絡が行っていついつなら受
け取れます、と日時を言われた時に、村上重さんは、わざわざ新しいものを無償で送って下さったのです。
京都の心意気を感じました。
京都の心としてもう一つ。
京都のある中堅会社に勤める知人から聞いた話ですが、その会社ではご挨拶に伺う時、ある和菓子屋さんのものを必ずお使いするそうですが、なぜか必ず本店に
買いに行かされる。デパートにも入っている有名店なのに、本店にしか行かず、急用で本店が休日だったりすると、大騒動になるそうです。なぜそれほどに本店
にこだわるのか謎だったらしいのですが、知人は、包装の仕方が微妙に違うということに最近気がついたそうです。デパートで買うと、デパートのシールが最後
に貼られますし、途中包装紙をセロテープで止める。けれど本店ではセロテープは一切用いず、最後にお店のマークのシールをピッと貼るだけなのだとか。もし
かしたらお味の方も微妙に違うのかもしれませんが、こんな包装の違いにもいかにも京都を感じます。少しだけイケズのエッセンスの入った、でも豊かな文化を
背負った京都です。
などなど、ずるずると深みにはまるようにあの街には少しずつからめとられてしまいますね。学生の頃に、恋したように通いはじめて、その後、仕事で行くよう
になり、いろいろな面を見れば見るほど「おもろいなぁ」と飽きません。
どうでもよいお話をだらだらと失礼いたしました。
人生は自分の力ではどうしようもないことも多いのですが、心の持ちようだけは自分で少しだけ変えられると最近感じています。
実りの秋をお楽しみ下さいませ。 典 卒業生
* 秦さん あれ程に充実した内容のホームページを、運営者の確認を取ることもなしに全削除するとは、そのような事が起こり得ることに、心底驚愕してい
ます。
デジタル社会における表現の自由は、かくも危うい足場の上に成り立っているという事なのでしょう。権力者による言論統制も、さぞや簡単な事でしょう。
自分にとっても、この10年近くの大事な歴史が消し去られたようで、どこかにポッカリ穴が開いたような心持です。
決して許されて良い事ではなく、一日も早い復旧がなされるべきと思います。
と、ともに、どうぞご心労がお体に響きませんようにと、お祈りしております。 敬 卒業生
* 先生のブログは、私にとって毎日の家庭教師のような存在です。
それが開けないとは、誠に残念ですし、これまで蓄積された私たちの財産を奪われたような感じで、ほんとうに腹がたちます。
しかるべき方法による説明もなく、着信したか読んだかの確認もなく一方的に消去してしまうなど許せることではありません。
法的手続きによってすぐ復旧できると思いますが、電子的著作物の保存の権利について、確実にしておきたいものだと思います。
一読者として、抗議の手を挙げさせていただきます。 重
* 電力,ガス,水道に電話など社会的インフラは,本来ギャランティのある社会基盤です。
一方,インターネットはギャランティがないベストエフォートという宿命的脆弱さをもっていながら,今や完全に社会的インフラとなってしまいました。
プロバイダーがむいている方向は、政府ではなく社会に対してであり,責任は表現の自由の確保なはずですが,残念ながら無自覚すぎますね。
ネットが誰でも自由に参加して発言できるという市民参加型革命の幻想がいまだ続いていて,過剰に反応した結果が「プロバイダー責任法」という論理破綻な
法律ができたと思っています。
「責任」のとるべきベクトルが間違っています。
本来,決めるべきことは電話と同じ通信の秘密や信書の秘密を保証することだったのではないかとも思います。 ペン同僚委員
* やす香さんのご逝去をお悔やみ申し上げます。さらに今回の事件が重なり、さぞおつらいこととお察し申し上げます。
それにしても、このようなことがあるのですね。
ビックリしてしまいました。今までのご苦労が一瞬にして消えてしまうなんて、アナログ人間の私には、信じられない出来事です。よりによって先生にこんな
事件が起きてしまうなんて。これを契機に世の中が著作権、ホームページのありかたなど再認識するようになるきっかけになればと願いますが、いずれにして
も、先生のホームページの内容は復活できるのでしょうか。当然出来ますよね。
先生が怒りや、このことで仕事をする時間がなくなってしまうことなどの様々なストレスで、体の調子を崩しませんように、案じております。どうぞあまり無
理をなさいませんように。また、先生の願っている方向に解決するよう祈念しております。 安
* 湖様 心晴れない日が続いていることと思います。
HPが何らかの形で完全に復旧することをお祈りしております。
今日は本当に久しぶりに家に閉じこもり、一人で休日を過ごしました。
「市民ケーン」のDVDをワインを飲みながら見ました。オ−ソン・ウエルズが20代で主演・監督したというこの作品、実は初めての鑑賞でした。
アメリカで成功を収めたケーンの心象のジグソーパズルの中で見つけることのできなかった1つのピース「バラのつぼみ」・・・・ 。
人の心の痛みも愛も「親子関係」という逃れることのできぬ人間関係に始まるのですね。
だれもが完全なジグソーパズルを完成させることは不可能なのではないかと思いますけれども。
雨が静かに、終わりかけた芙蓉の花に降り注いでいます。
心落ち着くフォーレのレクイエムを聴きながら、一人の夕食を始めることといたします。 波
* なにごともさっさと退却しようとは考えない、そういう「退屈」は嫌い。しかし、それに「重き」を置いているかとなれば、じつは、成るものは成り、成ら
ぬものは成らないとだけ考えている。「退蔵」は本当の人間なら理想としていい最も優れたこと。わたしはねばり強い、が、執着しない。退却はしない。つまら
ぬことに吶喊もしない。
* 明日の晩、久しぶりに卒業生と会う。
* 十月一日 つづき
* BIGLOBE問題、読者からの応援や憤懣の声に続いて、専門家、法律家、学者、技術者等のむしろ弁護士さんを応援する助言等が入って来始め、またペ
ンの関連委員会ではもう討議の議題に取り上げようとしている。場合により理事会議題にもなる。わたしのもホームページなら、ペンクラブにもホームページは
あり、「ペン電子文藝館」ですら同じ抹消の対象にされかねない。
* 「MIXI」でわたしは「マイミクシイ」を積極的には持とうとしていない。やす香の「思香」が強制的に外されて以降、十人ほどである。「足あと」は自
然マイミクシイがつけやすい。私の日記など、当初は一日にせいぜい十か十五の「足あと」だった。この八月九月で一気に七千三百を越えている。
* 読みたい、読まねばならないメールも沢山来ているが、ゆうべの睡眠が少なかった。日付の変わる前に機械を閉じる。
* 十月三日 火
* 昨夜電灯を消したのは三時半。宋史、遼史、金史、元史「四史」の研究史など面白く読んでいた。
旧約聖書と千夜一夜物語の対照感覚も、相変わらず刺激的。
太平記は後醍醐の笠置蒙塵。幼稚園前だったか、町内会の遠足で笠置の岩屋までのぼったが、菊人形で歴史の語られていたのが怖くて、泣き出したのを覚えて
いる。あの日は母と一緒だった。母が紫地にの縦縞の着物を着ていたのも懐かしく思い出せる。
そしてバグワン。
* もし人が自由であれば、その人は自然である。道徳的であろうなどと考えたりしない。道徳とは、いいかえれば掟としての法の意味にちかい。自由な人は法
に従えなどと人にも自分にも言わない。自然であろうとすら言わずに自然にふるまう。
法的・道徳的人間は、自然じゃない。そうはなり得ない。もし怒りを感じても彼は自然に怒ることができない。法にすがり道徳をふりかざす。もし愛を感じて
も彼は自然に愛することができない。法に触れないか、道徳に障らないかと逡巡する。道徳や法にしたがってものごとを律したい人の、自然でありえたためしは
ない。
人が自身の自然にしたがってでなく、道徳や法のパターンに従って動こうとするとき、その人はとうてい自然であることの最も高い境地には至れない…と、バ
グワンは、そう言っている。
わたしはバグワンに日々ひたすら聴いている。
我が家にバグワンをもちこんだのは大学時代の朝日子だった。仲間と瞑想・瞑想とさわいでいたが、本をちらと開いてみて、これは彼女や彼等にはとうてい手
に負えないと感じた。あっというまにみな抛たれて、パグワンの本は物置に投げ込まれたまま朝日子は結婚した。
娘の結婚後に、それも朝日子のいわくの「暴発」のあとに、わたしは物置からバグワンを救出し、以来今日まで正月と言わず盆と言わず、ときには旅先でも、
欠かさず三冊五冊七八冊に増えたバグワンを、毎晩毎晩音読してきた。学ぼうとしてではない。わたしの思いでは世界史的な優れた人だと感じているので、ただ
ただその言葉を聴いている。バグワンによって何かを得ようなどとちっとも願わない。ただただ読むのが嬉しくて読みに読み次いでいる。
* わたしは喜怒哀楽にさからわない。喜怒哀楽する自身を開放したまま自分がどう動いたり静まったりするかを、ただ眺めている。海は絶え間なく動いてい
る。川は絶え間なく流れている。雲は絶え間なく去来する。同じように思考は、分別は、また感情は働き続けているが、自分は海辺に座って海を眺めている人の
ように、川岸に座って川の流れをただただ眺めている人のように、雲の動きをただ眺めて見送っている人のように、海のような川のような雲の空のような自分自
身を、ただ眺めている。
好きにするがいい、と、自分で自分に言ってやる、あんたを「眺めているからね」と。
* 「MIXI」に、自分の写真を載せていた。自分だけでなく結婚後の娘朝日子と仲良くにこやかに旅を楽しんでいる写真を載せていた。それを見るのが、お
かしなことに、近ごろの嬉しい憩いであり心和む一ッ時であった。のに、「内容証明」の手紙で、三日の内に「削除」しないと「法的手段」に訴えるとまた夕日
子に威された。情けない話。
弁護士先生は肖像権を認めている法は法であるから、削除して下さいと。
法のまえには悪意も優情もごちゃまぜ。法は「三章」つまり三箇条もあれば足りているのだと古代の人は喝破した。今の時代は、やたら尻抜けの法を立てに立
てて、大勢の「私」の情意を一律に踏みつけて行く。
* 唖然としています。私はてっきり、「調停」が始まったシルシかと受け取っていました。恒平さん側に、ホームページを一時的に削除した方がよい、という
判断があった、と。
それなら騒がず静かに待とう。そう思っていたところが・・・。大変な世の中になった、と思います。
相手は、そういう騒ぎを起こすのを、「生きる最大の目的」にすらしている感じです。
どうか、相手の息の根を止めても、止められることのないよう(事故、病など)、くれぐれもご留意ください。
『聖家族』を本で読む日を待っています。 バルセロナ 京
* 有元様 すばらしいマスカット頂戴し家内が大喜びしております。有り難うございます。わたくしもおいしく頂いております。
自転車で走っていましても、武蔵野はすっかり秋の空です。
お互いに元気で歩んで行きましょう。 秦生
* 市役所で印鑑証明をとった足で、元保谷の中央郵便局の角を自転車で南行、まっすぐ関前を越え、玉川上水に突き当たってから、真西へひたはしり、武蔵野
市、小金井市を通り過ぎて、一時間半経過したところで北へ転じ、初めての道を小平市に入り、清瀬市まで北行後、東久留米市、ひばりヶ丘を経て帰宅。二時間
半ちかく走っていた。
総じて快適だったが、東久留米からひばりヶ丘への途中、なぜか狐にバカされたように田舎の道を堂々めぐりしてしまうのがワケが分からない。
* 夜は、女刑事雪平夏見の「アンフェア」二時間半ちかくを見た。凡百の刑事物、警察物の安いドタバタや人情ものやパタンものに比するなら、異色のクウォ
リティーを持っていて、ドラマとして引っ張られた。原作は秦建日子『推理小説』としてあったけれど、このテレビのスペシャル版は、前の放映連続ドラマ「ア
ンフェア」をほぼ独自に脚色していた佐藤嗣麻子の作品のように思う。
いくらか気になるコンピュータ万能ぶりで、いかに公安といえども、十数年二十年前の日本のコンピュータ駆使の水準は、サイバーポリスにはほど遠かったと
思うけれど、まして中年を越していたろう雪平刑事の父親などに、どの程度の技術またどんな優秀機がありえたかと気にはなるけれど、概して、しっかりドラマ
は構造化されていた。
篠原涼子の女刑事役には、もっともっと乾燥した硬質の芝居をさせてみたかったけれど、魅力は十分発揮していた。
* 十月四日 水
* ブッダもソクラテスもイエスも、自身で書きのこしたものは、伝わっていない。弟子達の記録しかのこっていない。そんな「記録=経典・聖典」には、自
然、記録者や側近の仲間達の「解釈」と「誤解」とに充ち満ちている。その証拠に同じブッタの後進達、イエスの後進達は、師の死後に忽ちに数多い「教派」に
分裂して行く。よほど優れた徹底を得た人には、それら「解釈」や「誤解」や「曲解」を適切に正しうるだろうが、他の誰にもそんなことは不可能だ。
「聖典」「経典」が本当に「役立つ」のは。徹底しえた人にだけで、彼等はアハハと笑いながらいろんな経典を聖典を、フンフンと読んで自在に字句を、趣意
を、取捨できるだろう、だが、われわれ凡人には、そんな成典も経典も全く役に立たない。ただ道徳めいた教えを「箇条」にしてどう掬い取っても、それは受け
売り用の知識に過ぎない。少なくも宗教的な高みや深みへは、かえってそんな知識が邪魔にこそなれ、何の役にも立たない。せいぜいこの世間で「いい人」らし
く見えるようになるかも知れないが、狂信の厄介人になってしまうだけかも知れない。
わたしも随分経典や聖典を「勉強」してきたけれど、受け売りの知識は蓄えられても、何の安心にも寄与しなかった。そもそも、安直に寄与する物はそれゆえ
に本質的に役に立たない。役に立つ知識ほど、死んで行くものには役には立たない。あしき意識だけが過剰になる。身構えてしまい待ち構えてしまい、しかし、
そういう構えた人の所へはなにも訪れてこない。神も仏も悟りも安心も。そして結局「間に合わない」で終わるだろう。「間に合わそう」としてもダメなのであ
る。
* 芹沢光治良の『死者との対話』は、あの戦争に駆り出された学徒、また敗戦後の悩み深い学徒たちの、「哲学」というものに対する深刻な「不信」を、一つ
の、主要な話題にした問題作であった。
京都で学生だったわたしは、大学院で哲学研究科に籍をおいたが、あっさり見棄ててきた。少しの悔いもない。恩師は、きみは教授になれる人だから院に残り
なさいと何度も言われたけれど、頭をさげて、妻になる人と二人で東京へ出てくる方を選んだ。そして小説家になった。
哲学は、美学は、わたしの「魂」に何の役にも立たない。わたしは広い意味での「詩」人になりたかった。そしてただ「待つ」人、「一瞬の好機=死生命」を
待つ人になろうとしてきた。
* 繰り返し書いてきたけれど、二十世紀最大の哲学者といわれた或る哲人は、ヴィトゲンシュタインは、哲学の最大有益の効用・効果を喝破し、「哲学が何の
役にも立たないという<真実>をついに確認したこと」こそ人間に対する大きな「哲学の貢献」だと言っている。含蓄がある。哲学の否定ではない、哲学の
「先」への示唆だ。
その通りだと双手をあげてわたしは賛成する。
あれが「月=真如」だと指さす「指」は、なんら「月」ではない。哲学はその「指」にやっとこさ成れはしても、そんな指や手で「月」は捉えられない。そん
な哲学で、人をほんとうに深く高く救いあげた事例は、世界史上ただの一例もないのではないか。「南無阿弥陀仏」の一言の方が、まだしも無数の人を安心させ
た。しかし「念仏」というつまり「抱き柱」を人に与えただけであり、一種の催眠術的な宗教効果であったに過ぎない。むろん、それでも、なみの哲学より遙か
に優れて人を安心させはした。ありがたいと思う。
* 今、「憲法と言うものは市民の人権を守ると言う意味よりも、公権力の力を制限する目的のものです。」と説く或る学生、やがて公職に就く人が、
「MIXI」日記上で、しごく真面目に、心親しく気をつかいながら、真っ向「議論」を繰り返している。「MIXI」をより良い意味で利したいと願いなが
ら。
またいろんなものを「書いている」と「MIXI」日記に書いている人には、「ペン電子文藝館」の「読者の庭」へどうぞ評論を寄せて欲しいと、こまめに依
頼している。まだ一人も書いてはくれないけれど。
なんでわたしのように、作品を「MIXI」に公開しないのだろう、書いているが世に出ていない人達は。潜在的には「六百万人」も読者が可能なのに。書い
たものを両腕に囲って隠していてはダメだ。絶好の発表場所として利すればよい。個人のブログでしこしこと書いていても誰も読めない。
原稿料も出ないのに…なんて、そんなことを思ってちゃ、ダメだ。「MIXI」はだれでも読みに来れる。むろん何を言われるかも知れないが、それには堪え
なければ。
* 孫・押村やす香の「著作権相続人」とBIGLOBEにより、原稿用紙にして優に六万枚を越す「ホームページ」を、文字どおり無残に全削除されてしまっ
てから、もう二週間が過ぎた。
幸か不幸か日記「闇に言い置く 私語の刻」だけは、急遽「MIXI」へ移転させたが、過去八九年のものは読んでもらえない。
東京地裁の「審訊」がやがて始まる。この問題は、もうこれだけの私的事件でなく、法的にも社会的にも時代的にも、電子メディア世間の根底へひろがる難儀
な問題意識に包まれはじめている。或る関西の法学部教授は、「徹底的に裁判してぜひ判例をとってもらいたい、日本ペンクラブ理事といういわば時代のオビニ
オンリーダーの一人としての責務ですらありましょう」と、何ともごっついハッパをかけてこられている。弁護士のほうへ直接いろんな示唆や意見を送られてい
るようでもある。
「ホームページ」をどう復旧させるか、それとも削除されたままになるか。それがわたしには当面の勝負であるが、問題はもっと大きいことをペンの同僚委員
達はわたしよりはるか前を走って指摘されている。ウーン…。
* 難儀にも、二言目に「告訴・訴訟」と吹っかけてくる押村高夫妻との、わたしは余儀ない「民事調停」という厄介もかかえている。「世間の人」には、よせ
ばいいのにと嗤われもしていようが、「今・此処」に生きるとは、そんな賢いだけのことではない。まして賢こぶることではない。ものに、ことに、ひとに、
「真向かう」ということである。
* 秦様 (BIGLOBE事件=)胸中いかばかりかと、お察し申しあげます。
表現というものへの認識及び評価についての、この国のレベルの低さを改めて感じ、怒りを覚えます。私に何かできることがあるのかどうか、毛頭わかりませ
ん。ただひたすら今は秦さんを取り巻く、相手側の行動と認識に怒りを覚えるばかりです。
若年の私が申しあげるのもおかしいのですが、どうか精神を強く、体をいたわってくださいませ。
弁護士さんがついてくださっているとのこと、この件についての専門的な作戦については何もご心配申しあげることがないと理解しました。とりあえずは、ど
うかお心を大切にお過ごしください。 未来
* どうしていらっしゃるのだろうと、とてもとても心配しています。ご様子のわからないことはこんなにもさびしいものなのですね。湖を想い、胸が痛くなり
ます。
最近考えるのは、成長する過程で、志を棄てる、あるいは変節させてしまう人は多いなあということです。人間やはり志は最後まで貫かなくては生きた甲斐が
ありません。世渡りは下手でもいいし、成功なんてしてもしなくてもいい。志を高く持ち続ける人になれたらと。
今どのような豊かな世界に遊んでいらっしゃいますか。どうぞお元気で、ご無理なさらずにお過ごしください。 秋
* 元気です。涼しく成ってからは飛び回ってます。
十月一日は、宇治の茶祭りで**さんにお会いしました。帰りに、友達の染めの展示会へ、雨のなか古門前まで行って来ました、「懐かしい道」を通って来ま
した。
15日から26日まで南アフリカへ行ってきます。元気な内にと思っています。 門
* 佳い茶室のあるを幸い、わたしは高校に「茶道部」を創って、多いときは二十人を越す部員に、高校生のまま裏千家の茶の湯を教えていた。教えてよい資格
はもう持っていた。中学の茶道部でも、叔母の稽古場でも、教える体験は積んでいた。釜もかけた。
このメールの人は、わたしの三年生だった年に一年生でクラブに入ってきた。最も優秀な弟子の一人であった。宇治の茶祭りで会ったという人は、わたしと同
級生で、これまた優秀、自慢の弟子二人であり、二人とも今もお茶の先生をしている。同級生の方は卒業後叔母の社中に入って、私と一緒にながく稽古をつづけ
た。二人とも「湖の本」をずうっと支援してくれている。
二人でどんなわたしの噂をしたことか。
* 「女文化」という言葉を創って著書を出したのは「わたし」だった。京都の文化に首までつかって育ったわたしだから「女文化」という、有りそうで無かっ
た一つの概念を提示できた。育った家も、育った場所も、環境も、またわたしが進んで関心をそそいで身につけた和歌も茶の湯も物語も、「女文化」であった。
わたしは、率直なところ男はあまり好きでない。厚かましくいえば……あ、やめておく。
* 申し込んでおいた『雅親卿恋絵詞』が届いた。フフフ…。幸か不幸かもうわたしの役には立たぬ。
以前、或る国立の大学教授お二人と小学館版の「日本古典文学全集」にかかわって、鼎談したことがある。そのときに一人の先生が、用の済んだ後の歓談のた
めに、それは見事にやわらかに描かれた枕絵巻を持参して見せてくださった。あれにはだいぶ負けるし、なにより原本のかなり精巧なしかし複製に過ぎないのだ
から仕方ないが、巻物で繪と詞とを我が物で読むのは初体験。妻には見せないが、いずれ息子にやってしまう。息子は見ないかも知れないが。
* 十月五日 木
● 「美しい国創り内閣」の発足 (安倍内閣メルマガ創刊準備号より)
こんにちは、安倍晋三です。
私は、毎日額に汗して働き、家族を愛し、未来を信じ、地域をよくしたいと願っているすべての国民のための政治をしっかりと行っていきたい。そのために
「美しい国創り内閣」を組織いたしました。
* はなはだアバウトで論理を欠いた提唱であるが、「国民のための」の一語を記憶しておく。関連してわたしの持論を書いておく。
日本の法律のすべてに、「国民による国民のための」という角書きを付けて欲しい。立法の時も改正の時も例外なく。それにふさわしい「法」を起こし、運用
して欲しい。まちがっても「政権・公権力の政権・公権力による政権・公権力のための法律」は、断じて御免蒙る。
ところがこの五年十年のうちに建てられた、名前だけはもっともそうに美しい法律には、法の下に国民・私民をねじふせ、法の下に公権力の野放図な安定をは
かるそういう悪法が平然と強行成立されてきた。
安倍内閣が真に「国民のために」何をするか、目を離すまい。
● かつて、日本を訪れたアインシュタインは、「日本人が本来もっていた、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に
保って、忘れずにいてほしい」という言葉を残しました。
* アインシュタインの「ご挨拶」を無にする気はないが、久しい歴史のいまだかってどの時代においても、こんなアバウトな日本人観で日本人が理解できた時
代は存在しない。せめてわたしの『日本を読む』を読んで考え直して欲しい。
政治家がこういう一概でうわっつらの美辞麗句を利用するとき、秘めた悪意にこそ警戒しなければならなかった。
安倍氏の言には、相対化する智恵が働いていない。もしそれを一方の「美徳」と観ずるなら、他方に日本人の抱え持ってきた「悪徳」「欠点」の認識も働かね
ばウソになる。人間は一人なら美徳の持ち主らしいのに、人数が増えれば増えるほど悪徳の平然たる発揮者に変容して行くものだ、付和雷同そしてご無理ご尤も
の「日本人」であったし、今正にその頂点へ来ている日本だとも認識できていないのでは、優れた宰相とは謂えまい。
そもそもなぜ引き合いにアインシュタインか。他国を訪れた人たちの「ご挨拶」は、俳諧のへたな挨拶句よりもっと空疎な美辞麗句に流れて無難なことは、当
然の儀礼とされている。むしろ日本の宰相として謙虚に聴くなら、上杉鷹山などの厳しい国政観などを、新井白石などの現実と理想とを兼ねた政治姿勢などを引
用してこそ、困難の前に「身を引き締め」られたろう。
● 日本は、世界に誇りうる美しい自然に恵まれた長い歴史、文化、伝統を持つ国です。アインシュタインが賞賛した日本人の美徳を保ちながら魅力あふれる活
力に満ちた国にすることは十分可能です。日本人にはその力がある、私はそう信じています。
今日よりも明日がよくなる、豊かになっていく、そういう国を目指していきたい。
* 私もむろんそう信じたい。望みたい。総理は、歴史観においてつまり「上昇史観」の持ち主であるのか、ただ期待がそうなのかは、俄に推測できないけれ
ど、日本人の歴史観は、早くも安土桃山時代までは顕著に永続して「下降史観」ばかりであった。誰も天皇以上にはなれずに、官位にも極官が重い不文律になっ
ていた。土地という所領をどう多く望んでも、日本列島には限りがあり望みはガンとして物理的に阻まれていた。そして末法末世の観念がいつも人を現世的に弱
気にした。ますます「魅力あふれる活力に満ちた国にすることは十分可能」などと信じられた日本人は、権力者にすらいなかった。政治・経済・思想において頭
打ちは目に見えていたからだ。
安土桃山時代になり、キリスト教が入ってきた。天皇以上の「神」の存在に人は仰天しながら、頭の上のひろがる思いをした。信長も秀吉も家康もみな内心の
癪の種を落としていた。そして世界の広さが目に見えてきたとき、秀吉のように、足らない土地・領土は、他国切り取りで拡げればよろしいという姿勢に出た。
日本国は天皇に任せておくが、世界へ出て世界の王になるのは勝手だというぐらいに秀吉が考えたのは、日本人がはじめて具体的に「上昇史観」を手にした事実
上の最初だった。だが、それも鎖国でしぼんでしまい、徳川幕府の搾り取り政治・管理政治で、まただれも「希望」など見失った。人の歴史は下降していった。
安倍総理の、上の、ノー天気なほど楽観的な姿勢には、じつは、歴史観の思いつきに等しいほどの貧弱、というより欠如が心配される。信じるのも目指すのも
口先では簡単だが、「日本人にはその力がある」と言うとき、日本人をほんとうにノヒノビと内発的に、力強く、日々幸せに政治が生活させているか、まっさき
にその反省がなければなるまいに。今の日本は、ひと頃よりも半世紀分ほど反動的にあと戻りしている。変わったのは機械的な便利さだけで、便利という実体に
は、少なくも五分の利に対し五分の猛毒が籠もっていると想わねばならない。大学は品位と自負をうしない、思想も哲学も払底し、宗教は衰弱。そして教育は政
治の玩具にされている。
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● 世界の国々から信頼され、そして尊敬され、みんなが日本に生まれたことを誇りに思える「美しい国、日本」をつくっていきたいと思います。
* 戦争時代の教科書にも新聞にも先生のお言葉にも少国民達の綴り方にも、こんな言葉ばかりが氾濫していた。
北朝鮮の放送が、いまもいつもこんな調子で声高に喋っている。安倍さんのこれは、「北朝鮮みやげの日本語」なのかと失笑する。
アメリカ仕込みの憲法だとおっしゃるが、憲法には人間の理想と祈願も籠められているし、憲法が憲法であるあいだは、総理はそのもとで総理なのだと忘れな
いでいて欲しい。
わたしに言わせれば、戦後、アメリカに仕立てられ、アメリカふうに徹底して動いてきたのの第一番が「自民党」ではないか、と。
同じリクツをつけるなら、自民党改正ないし廃棄の方が、「先」であって当然だろう。
* >>国公立というものは、法律関係において特別権力関係にあります。(簡単に言うと法律の手続きなく、ある程度の人権を制限することがで
きる関係のことです。父は国立大学の憲法学者ですが、この意見には否定的……
私(秦)も否定的です。
昔の、高等学校や帝大に根付いていた大学自治や学問思想の自由という理想は、日本では崩され続けて今日に至っていますが、どの段階で見ても、公権力の抑
圧や抑止政策が本質的に良く働いた事例は皆無で、時代の悪しき傾斜に追い打ちを掛けた嫌いがあります。
国公立に属するがゆえに多少の人権が制限されたり抑圧されたりしても当然という考え方は、けじめや歯止めがきかなくて、これまた「無惨な歩み」をみせて
きました。公務員個々人の良識と道義心と忠誠心が求められること自体は理解できますが、公職にあるから憲法の認める基本的人権までが阻害されては逆立ちで
あろうと思います。
>>憲法と言うものは市民の人権を守ると言う意味よりも公権力の力を制限する目的のものです。
運用という意味ではそうかもしれませんが、理想において、やはり国民の権利と安全を確保するための憲法であると私は思っています。
したがって現実に公権力のシンボルのような総理大臣や都知事が、憲法に制限されるどころか、憲法を、呼応して足蹴にしていることで、憲法軽視の風潮を助
長しているなど、犯罪そのもののように私は感じていますが、どうでしょう。
少なくも国公立・公職・公務員というものが、度を超して公権力に隷従させられる傾向の強まって行くのは、おそろしい気がしませんか。
* 秦恒平様 ホームページの完全消滅、大変驚いております。プロバイダのあり方の問題で、今後多方面に関わる課題ですね。
もし、こんなことが許されるなら、誰も安心してHPを立ち上げることができなくなりますし、悪意の第三者あるいは
権力者がこのように自分に都合の悪いHPを消失させる可能性もあります。本人の意思確認と削除の根拠についてのきちんとした方針あるいは基準の設定が求め
られます。
どうか、これからのプロバイダのあり方について、利用者全ての人々のためにご健闘下さいますようお願い申し上げます。 女子大学学長
* 10.2
いかがお過ごしですか? 十月になってしまいました。旅行前に車庫に移動して夏を越した鉢植えの植物を庭に戻して、オランダで買ってきた球根と日本水仙
の球根など早く植えようと思っています。が、まだまだ藪蚊に刺されて・・すぐ退散。
この街の展覧会に間に合わせようと思って50号を描き始めたので、やはり集中的に進めないといけません。
10.5
早くHPが回復されるのを期待してインターネットを毎日チェックするのですが。解決には時間がかかるのでしょうか。
外出が二日続いたので、今日はじっと部屋にいます。昨日夕方からの雨も降っていますし・・。
昨日は湖東三山に。
百済寺の十一面観世音菩薩、金剛輪寺の聖観世音菩薩、西明寺の薬師瑠璃光如来、ほぼ五十年ぶりの秘仏ご開帳が九月半ばから今月27日までというので思い
立ってでかけました。どのお寺も石段を上り下りして大変?でしたが、木々の緑に囲まれて静かな佇まいでした。・・十一月の紅葉は素晴らしいけれど人で溢れ
るでしょう。
殊に感動したのは百済寺の観音様でした。後の修復なども加えられて、また岡倉天心、フェノロサが寺社を調べたときもこの仏様は秘仏のまま開扉されず、何
の「評価」もされないままだったため、重文でもなんでもないが飛鳥奈良時代に製作されたことがうかがわれると、住職様の説明。腕が長いのが、お顔の小ささ
でいっそう際立って。十一頭身だそうです。唇をわずかに尖らせて、拝む一人一人に語りかける表情でした。絵葉書なども何もないのが残念、そして手元の『観
音総鑑』にももちろん何も載っていませんから、がっかり。
金剛輪寺の小さな黒い端正なお顔と、肩から下は荒削りのお像も心に残りました。
湖東三山には三回ほど行ったことがありますが、今回はどのお寺も内陣まで入ることができました。
今回は日帰りのバスツアーに一人で参加したのですが、三人の女の人と言葉を交わしたら、三人とも連れ合いを亡くされた方たちで、わたしより五歳から十歳
年上・・淋しいけれど、それ以上に今は気楽で幸せと。女は強い? 複雑ですね。
PS,向源寺の十一面観音様は、今月初めから東京の博物館に行かれていると思います。行く機会がありましたらお出かけください。 鳶
* こういう便りがなつかしい。
自分の日記をひとに上げる、それが最良の信愛のしるしだと西鶴が作中に書いていた。鳶はむかしから日記を送ってきてくれる。
* 私は、湖の魅力を作品中にも深く感じます。書かれたものに人間のエッセンスが凝縮されているように思います。私の知る限り最高最良の日本語の一つで
す。
湖は谷崎と実際に逢いませんでしたが、谷崎の魅力を誰よりご存じです。谷崎は湖という読者がいたことで、さらに輝いた。現実に逢わなくても深く逢うこと
のできる関係はいくらでもあるのだと思います。
言い換えると、凡女の場合、才能より実物のほうがまだマシであるという情けないことなのかもしれません。
先日、ウッディ・アレンの「マッチポイント」という映画を観ました。太陽がいっぱいによく似た話ですが、犯人がまんまと逃げおおせるところ
に、ウッディ・アレンらしい痛烈な皮肉があって、なかなか面白かった。
セクシーな魅力満点の愛人が主人公と逢い引きするたびに「あなたは私とセックスしかすることないの」と怒るのが印象的でした。ラストシーンの笑いの苦
かったこと、ちょっと類例がないくらいでした。
今日は雨なのに、箪笥の着物類の更衣に励みました。単から袷に。一日延ばしにしていましたが、旅行前になんとか出来てよかった。着物は季節
の決まりごとが多いので大変ですが、秋からは本格的に着物が楽しめます。でも、お稽古以外に出かける場所もなさそう……。
湖、ご無理なさらず、どうぞお元気でお元気でお過ごしください。 秋
* 海外へ遊びに行くのは、女、女、女。美しい日本の世界的進出のツモリだろうか、安倍総理に聞いてみよう。
* エドワード・ノートンとアンソニー・ホプキンスの映画「レッド・ドラゴン」は、ジョディ・フォスターとアンソニーとの秀作「羊たちの沈黙」の前編に位
置して、劣らぬ力作だった。釘付けにされた。
* 十月六日 金
* 田中真紀子をはさんで民主党の菅直人と岡田元代表とが阿部総理を追究していた。田中真紀子が喋りすぎずに、鋭く深く、聞いては追い込み、聞いては追い
込んでくれると、もっとよかったと思う。菅直人の分は聴きそこねた。岡田の分は戦犯論議。安倍総理の不毛のごまかし答弁、まことしやかな無意味さに、呆れ
てしまった。大臣というのは、率直に素直にモノを言うと損をするとの価値観に、髄まで染められた人種がなるものらしい。
* ようやく秦建日子の新刊『アンフェアな月』を読み上げた。十日もかけたか。
これだけ読むのに時間をかけさせた、それが、今回の本の顕著なマイナス点であろうか。それはわたしがいろいろに忙しかったからか。
端的に言えば、前作同様、前作よりももっと、映像用の大胆なコンテ、一篇の物語の動的なシノプシスに類していた。作者の得手を存分発揮した、要領のいい
「ト書き小説」であるところは、前作『推理小説』よりも徹している。時間に追われてやっつけてしまうには、この作者にこの手法は効果的に向いている。
「ト書き」は、簡潔に動的に映像・画像や演劇の舞台が目に見えるように把握する、まさしく「文藝」の一種であり、この著者は、多彩に経験的にその「藝」
にたけている。
文体の動的な統一をこの方法は、一見とりやすそうで、実は実に難しい。いいかげんにやったなら、収拾のつかない「説明羅列」に陥る。
それにしても作者は、その「演劇」手法の得意技で「小説」を終始するトクをとったけれど、また、それにより喪うソンの方も犠牲にしたのではないか。その
「思い切り」のよさで、作品が自律し自立したけれど、文学を読む喜びとしては半端な印象も否めない。
この作者は、前作『推理小説』で、初めて「ト書き小説」といういわば文藝の新ジャンルを開拓して見せた。それは事実として動かない。だが、在来の文藝、
優れた文藝がかかえもった、「読む喜び」「読ませる魅力見」の味わいをも、此の手法で発揮するには、まだ「文藝」そのものが足りていない。当然、はなはだ
「読む喜び」は希薄になっている。走り書きの「あらすじ」を走り読みさせられるような錯覚に陥る。
とはいえ、字句や章句のなかには、ずいぶん面白い、耳目を惹く「表現」が意気盛んに、しかも落ち着いて散らばっていて、決して索然としたただの「ト書
き」ではない。新味も深切味も文章として決して味わえないわけではない。大げさに認めて言うなら、「新しい文体への、これも試み」かなり「有効な試み」で
あるのだろう。大事な意欲の表れと解釈することで応援しておく。
だが、ちぎれちぎれにしか読ませなかった散漫な弱点はやはり覆えない。譬えて謂うと、投げ出された一つかみの、くしゃくしゃの紙切れ、それがこの推理小
説の原体。その紙の皺を興味を持ってのばしのばし、作者と読者とで前へ前へ歩いて行くのだが、最後に、すうっと最後の皺をみーんなのばしきって見せて、あ
れれ、たいした紙ではなかったんだ、と少し拍子抜けする。結果として、面白い珍しいお話を堪能したという程の思いは、させてもらえなかったのである。秦建
日子の作だからわたしは読んだけれど、人の本なら読まないか、途中で厭きていたかも知れない。
今度の作では、前回とちがい、作者の「述懐」がときどきややペダンチックにでも露出していて、それを面白い、興有りと受け容れるか、深みもなくちっとも
面白くないと見棄てるか、どっちに読者がつくかは、わたしには一概に言えない。わたしという読者はそこへ行くと、やはり特別の読者であり、おお建日子はこ
んなことを言うか、思うかと、次元を異にした興味にもひきずられる。
さて女刑事・雪平夏見が、前作でよりも一段と魅力的であったか、というと、難しい。すこし水気をふくんで、あの硬質に乾いた、敲けばカンと鳴るような魅
力はややうすれ、普通に近づいたのではないか。この作者が昔に田中美佐子という女優を使って書いていたテレビドラマの女刑事程度へ、気分、退行していたか
なあとも思うが、映像ではどうなるのやら。
それにしても、こういう風に、実験的に文藝・文学を作って行く意欲は、凡百の推理小説氾濫の中では、すぐれて良質に満たされているのは間違いなく、孤独
では有ろうがその意欲は金無垢にたいせつなものと、わたしは声援を惜しまない。
しかしまた、この作品のように、はなから安直に映像化期待に隷従した文藝・文学は、わたしには、本質、頽廃現象であるという基本の評価をくつがえすこと
は出来ない。息子と同じ年に『みごもりの湖』を書いていたとき、「映像化」など、できるものならしてみろ、できるもんか、とわたしは思っていた。新潮社の
担当編集者が映画化権がどうのこうのと話していたときも、腹の中でわらっていたのを思い出す。
秦建日子のさらなる新作をわたしは、だが、楽しみに待っている。そして旧作ばかりでなくわたしの新作も読ませてやりたいと心掛けている。
* 建日子には、わたしがいま「MIXI」で連載している「講演集」の、ことに文学・文藝に触れたものには目を向けていて欲しいと願っている。朝日子にも
同じである。同行の我が読者にもむろん同じ気持ちでいる。
* やはり、いま「MIXI」で連載している長編『罪はわが前に』は、わたしが書いた長い小説の中では、久しく作者自身読み返すのをやや羞じらうもので
あった。瀧井孝作先生がこれを大きな文学賞に推したといわれたときも、嬉しいより身をちぢめて羞じらった。不出来を恥じたのではない。あまりに自身の魂に
じかにふれていたし、「私小説」そのものと当時も今も読まれて反論のしようがない。電子化原稿の校正を目的に今度此処へ持ち出してみて、わたしは少年の昔
のママに、胸を鳴らし続けているが、なにより、書いている筆付きの若い意気に今こそ気が付く。若いということの健康な魅力を自身の中に再発見する。
ヒロインは「あなたにしか書けない文学を」と、二十年ぶりリに再会した「宏」に望んでいる。有り難いと思う。
その有り難いヒロインを、作中の「姉さん」を、この作品ゆえであったのかも知れない、「離婚」させてしまったかも知れぬと人づてに聞いたときの衝撃は凄
かった。その実否は今のわたしには確かめようがない。しかも一番下の妹は残念無念、亡くなったともやはり伝え聞いている。この作の校正は、寂しくも辛くも
ある。
* 四国讃岐の方から、やす香を偲んですばらしい梨を下さった。都内の読者からも、霊前に豊かに供華を送って下さった。
* 「MIXI」で此の「私語」を読まれる人達のために言っておきたい。わたしは、平生此の「私語」を一日中随時に書き足している。それで足りないとき
は、同じ日付で「つづき」「つづきの続き」を書くときすらある。書き足されていることが多いので、同じならそれにも注意して下さいますように。
* マイケル・ダグラス映画を特集しているらしく、彼の映画なら何十度観てもぜったい厭きないで心から楽しみ感銘を受ける作品がある。『アメリカン・プレ
ジデント』だ、シビアな作ではないむしろロマンティックな作り話である。だが、シェファード大統領のクライマックスの演説は、それへ向かう姿勢は、もっと
も優れた大統領と、もっとも優れたアメリカとの理想とを、きっぱり表現してくれている。アメリカ憲法の理想とする基本的人権と真の自由について遺憾なく
語ってくれている。悪意に満ちた発言もアメリカではゆるされている、自由の名において。それに真っ向立ち向かう自由もゆるされている、アメリカでは当然
に。もっとも悪しき政策をうちだす権力に対して、国民の自由と基本的人権を蔑(なみ)する権力の悪意に対して立ち向かうとき、国旗を焼いて抵抗することも
またゆるされているのがアメリカの自由でありアメリカの憲法に許容された自由であり権利であり良心であると、此の大統領は演説する。
闘うべき相手にむかい闘わないことを恥じよと。
* 一両日前、親族内のトラヴルに悩んだある女性が、テレビ番組の中で四人のゲストコメンテーターや司会者に親類の誰それを非難して泣訴していた。話の中
味をわたしは聞いていなかったけれど、親類の誰かがむちゃくちゃに自分の悪口を言いふらすらしいとは、すぐ分かった。ゲストの主なるひとりの或る作家が、
しかし、テレビ番組であなたがこういうふうにその親類を非難して悪く言えば、それはもうお互い様ではないか、と。
こういう論法をわたしも何十度となく聞かされたが、バカげていると思う。理に合わないバカげたことを一方的に言いつのるバカに向かい、どんなに正当に反
駁し反攻し反論しても、それは相手の域に身を落として「どっちもどっち」になるだけだから、やめた方が賢いと。
わたしは、こういう賢こそうなものの考え方が嫌いだ。大嫌いだ。むろん無視してもいい。しかし完全と立ち向かってもむろんいいのであり、どちらも自由
で、時宜と状況に適しているならどちらの道を選んでも良いのである。「どっちもどっち」だから恰好の悪いことは止しておこうというのは、むしろ姑息で卑怯
な逃げ腰に終わりやすい。それでいて、ものかげではブツクサ愚痴がつづくなど、これぞ愚の骨頂である。
人間の自由はふくざつで微妙な価値であり、時代により時に悪徳でもありえたが、悪しき沈黙はつねに姑息である。怒らねばならぬと信じるなら、怒って良
い。憎むべきは憎めばこそ、愛や慈悲の意義にも近づける。ただし、怒りにも責任があり、憎むのにも責任がある。責任を果たす覚悟が有ればそこに怒る自由も
憎む自由も生きてくる。自由という基本的な人権の基本には、喜怒哀楽の美しい開放がなくてはならない。その抑圧をよしとする考え方にはいつも力ずくの危険
がしのびよる。無価値な断念や妥協が人の魂を蝕み始めるほど素早いことはない。
* つよい雨つよい風 花
今日の運動は午前中で、夜は、住宅会社と間取りや外壁についての打ち合わせでした。
三連休は、**に行かなくてはならないので、前日に夜からの打ち合わせとなりました。
ふつうは、週末の昼間にすることになるようです。
> 花ブログは、小説が流れとして読みにくく、興趣が湧きにくい
そっかあ。風に読んでいただくのが目的のブログでしたが、だったら、あれはわたし自身の推敲用、外へは非公開にして、これまでのように仕上がったものを
メールで送り、風に見ていただく方がいいですね。そうします。
風さん、お忙しさの中で、花を忘れてしまわないで。
風のホームページが復旧できたら、大勢が喜ぶでしょう。
「私語」には、風の個人的なこともいろいろ載りますが、風の生き方といいますか、指針があらわれていて、フローベールの『書簡集』のように、人を励まし
ます。
復旧、がんばってくださいね。
次の評論の論旨が固まってきました。章立てができたら送りますので、ご意見をお願いします。
* イチロー君、機械の隘路について、テキパキと大いに導いてくれ助けてくれた。有り難う、心から感謝。
* 十月七日 土
* すばらしい秋空。西を向くとサングラスでも眩しくて顔を背けるほどの夕晴れ。
保谷中町から真っ直ぐ南行し、三鷹駅をこえ、太宰治の禅林寺も左に垣間見たまま、さらに調布市中へ突っ込んでいった。今日は多摩川をめざしていたが、四
時四十分、人に川まではと聞くと、もう二十分ほどと。家からちょうど一時間分来ていた。もう日暮れは早足になる。断念して、ひたすら北行に転じた。そのつ
もりであったが、突き当たったのはかなり西へ振っていて、玉川上水の境三丁目。で、境浄水場の前を北向きにまっすぐ走り続ける、と、田無の真ん中へ。右折
して保谷新道を走り、名物の「かりんとう」をまた一箱買って、家に帰り着いた時は、とっぷり暮れていた。
* 入浴、「宋学」「朱子学」を読む。すこぶる興味深し。宋以前、中国には体系をもった哲学は存在しなかった。佛教の体系に比して、儒も道も思想の構造と
しては散漫だった。北宋にいたってやっと周学が成り朱子学が成った。十三世紀の思想体系としては宋学は世界に冠たる重量を誇っていた。禅宗とは想像を超え
た親縁関係にあるが、朱子学は、禅とちがい絶対の境地よりも、時間・空間・運動などをトータルに相対化した把握に長けて実践的である。理を謂い礼を謂い、
生活に理想の規範を与える。あくまでも儒で、禅とは質的に異なっているが、通うモノをもっている。
禅の達磨だと、瞬間から瞬間を内発的に生きるというところを、宋儒なら、無極から太極へ、太極から無極へ動き静まり、それが生活だと謂うだろう。中庸、
そして礼と理と。想像したよりも宋学の境地は現実に足場をおいて難解ではない。達磨なら「あなたこそ真理だ、どこへ動いて行く必要もない、行ってはならな
いのだ、真理は我が家にあるのだから」と言うが、宋学は「運動」に世界の働きを、また人の働きを観ている。
* 「MIXI」の新しい講演録には、源氏物語『桐壺更衣と宇治中君』をとりあげた。中日新聞社が名古屋で主催した連続講演『源氏物語の女達』の、開幕第
一回を引き受けたもの、わたしの源氏物語「読み」をとり纏めて話した。
* 今回のホームページ『作家・秦恒平の文学と生活』のプロバイダ「BIGLOBE」による無断の削除事件をお知らせ頂き、事の重大さを痛切に直感致しま
した。膨大な文化遺産がいとも簡単にこの世から消滅することがある。誤操作とか人間のミスとかではなく『意図的な行為』で。
高度な知識産業に携わる企業人、経営者の倫理観の欠如。非常識極まりない行為のように思いますが、『電子の世界』では一瞬にして情報が無に帰してします
ことが常にありますから、今回は『バックアップ』などの処理は全くとられていないのでしょうね。
驚きのみで根の深いこの事態へのいい智恵は浮かびませんがどうか健康を害されないように、お体をご慈愛下さい。
もし消去したのは「表向き」だけで『データのコピー』が何かにとられている(良心的に)ようでしたら有り難いのですが、現場の操作員、責任者がどこまで
事態の重要性を認識してこの分野の仕事に携わっているかという企業倫理
の問題もありますね。情報化社会の大きな社会問題であります。 川崎 e-OLD
* もう程なく地裁の「審訊」がはじまる。ペンの委員会での討議も、日程が決まった。「民事調停」は私事に類してているが、この「審訊」は問題としての周
縁がひろい。
* いくらかボーゼンとしている、睡眠を欲しているのかもしれない。三連休で、休んでいる人は大勢。わたしも休んだ方が佳い。で、寅さん映画を楽しんだ。
妻もわたしも贔屓にしていた、最近は余り顔を見ない中原理恵がマドンナで、寅さんの常のパタンを少し変え、詫びたなかに良い情味の心優しい一編のロマンで
あった。釧路、霧多布・根室、中標津などと、懐かしい地名や景物が画面を流れて、わたしは徳内さんやキム・ヤンジァまで思い出していた。
* 十月八日 日
* 快晴と強風のなか多摩川をめざして三鷹駅から南へ調布市内を走ったが、なかなか川に出逢えず、また回れ右して、武蔵境駅の南の方から延々北行、二時間
四十五分ほど走って帰宅。入浴して、「宋」の時代の文化を復習。
* 茶碗があるのだから中国人も茶をのんできたことでは、大の先駆者であった。いろんな茶の製し方も飲み方も識っていた。古典には『茶経』もある。
ただ飲茶のふうに、日本の茶の湯のように「作法」を創り上げたかどうかははっきりしない。中国はある時期には他を圧して佛教の勢力がつよかった。しかし
結局生き延びたのは禅宗だけであったと謂えるかもしれない。
禅院には学僧たちの日常を律する「清規(しんぎ)」がつくられ、これが宋儒のとくに大切にした中庸の礼または理にちかい規範であった。宋の大学等では学
生達の生活の規範として、清規に類した「学規」を用意した。
学規といえば、我が家の玄関には、会津八一がかつて自宅にかかげて寄宿の学生達を律した、八一自筆の「学規」(複製)が掲げてある。
禅宗の坊さん達は座禅の睡魔をはらう卓効の飲料として茶を愛好したから、清規においてやや飲茶、喫茶の作法めくきまりが無いわけではない。日本の茶の湯
の、作法としての濫觴はその辺に求められていいのかもしれない。
八一の書いた「学規」を、わたしに下さったのは、もと日中文化交流協会の理事長を務められた宮川寅雄先生であった。わたしは両三度先生のお宅を訪ねてい
るが、そのつど、いろんなものを頂戴した。南洋の土で唐津の作家の焼き締めた渋い湯呑みは逸品である。先生が自作の、天山ふうに焼いた筆架も洒落ている
し、ドンキホーテのような乗馬の仙人像もとぼけている。画もなさり、「杜ら」と署名の何枚かを頂戴している。非合法時代の強烈な闘士でもあられた先生は、
温厚そのものの文人で美術史家でもあられ、先生の晩年、可愛がっていただいた。わたしも甘えて何でも申し上げた。
宮川先生や井上靖先生の頃の日中文化協会は、存在自体に貫禄があった。白土吾夫さんが専務理事でどっしり要を締めていた。みな亡くなってしまった。
今日、文藝家協会の会報ではじめて知る迂闊さであったが、巌谷大四さんが、もう一月も前に九十歳で亡くなっていた。嗚呼なんということ。井上先生夫妻と
いっしょに中国へ旅したお仲間の、長老であった。井上先生、白土さん、巌谷さん、清岡卓行さん、辻邦生さんと、あの一行の半数が亡くなってしまい、井上先
生夫人、伊藤桂一さん、大岡信さん、私、そして協会から秘書として同行の佐藤純子さんがのこされた。
あのとき訪れたのは、北京と大同、そして杭州、紹興、蘇州、上海。思えば遼や金の、また南渡した宋の故地であったのだ。あの旅のことは昨日のことのよう
に覚えている。
二十年目に訪れた中国では、西安が珍しかった。秦の兵馬俑もまぢかに見てきた。院展の松尾敏男さん、バイオリンの千住真理子さんらと一緒だった。
* 茶のはなしにもどるが、茶の功徳として上げられる、一は覚醒効果、二に消化薬の効果、三に性欲などを抑える効果。そんな茶を飲んでいる坊さんに、上の
功徳をきかされ茶をすすめられた牛飼いは、ヘキエキして断ったそうな。一日中働きづめ、夜眠れないのでは地獄。貧しくて僅かしか食えないのに食い物が腹の
中で消え失せても地獄。まして性欲がなくなればほかに何の楽しみ、女房にも逃げられてしまう。ハハハ。
* よくまあと呆れるほどSPAMメールが洪水のように、また流れ込む。そしてその中に、まともな知り人のまともな用事のメールも混じっているのは、とん
だ迷惑。
* 十月九日 月
* 「MIXI」連載の『罪はわが前に』は上巻を終えて、以降の中巻下巻は割愛する。わたし自身が息苦しくなってきたので。
で、思い切りよく一九六九年の第五回太宰治文学賞受賞作品『清経入水』を連載することに。
講演は『桐壺更衣と宇治中君』を。わたしの源氏物語「読み」の一つの到達点を語っている。
「MIXI」を利してわたしはわたしを開放しようとしている。新しい優れた後進たちとの出逢いの場に、アクティヴに、仕立てて行ければいい。足あとをみ
ていると着実に真面目そうな「いい読者」に出逢いつつあるような気がする。わたし自身の「MIXI」を清め浄めてゆきたい。
* 『太平記』の音読に快く惹かれている。いまは巻第三、東国勢がいよいよ赤坂城の楠木正成に当面する。子供の頃にどんなにか惹き入れられたか。少し思い
上がって言うのであったけれど、二十年前にわたしが「秦恒平・湖の本」を旗揚げしたときから、この「出版への叛旗・謀叛」と叩かれた実践を、「わが赤坂
城」と自覚し名付けてその旗を今も降ろしていない。二十年、八十八巻まで来てまだ落城していない。まだ千早城は健在に温存されているのだから、我ながら健
闘してきた。六波羅の両探題と目していた東版・日版の今がどんなであるかわたしは知らないけれども、わたしは、湖の本の実に山中の小城にもおよばないささ
やかな闘いを通して、単に事業としてでなく、一人の男として自由自在に生きられる喜びも得てきたと思う。
* 湊川の戦に果てた正成をわたしは「あかんやっちゃなあ」と嘆いたこともあるが、正成は、昔から今まで好きである。身近である。しかしながら太平記の称
賛する正成とは異なるべつの正成像、実像のあることをも、わたしは積極的に受け容れている。
太平記は憚ってそうは描かないけれども、楠木が鎌倉の被官であったこと、根は鎌倉方に在ったこと、鎌倉に背いて後醍醐天皇との間に連繋が出来ていったこ
と、それはそれで少しも可笑しいとも、卑怯だとも思わない。この時代降参と反逆とは少しも珍しくない当然の処世であり、そういうことをしていない有力武士
の方が少ないぐらい。
それに正成が「悪党」と呼ばれる悪党の意味は少しも悪人の意味ではなく、この時代を特色に満ちて生きた一部土豪や下層武士たちのじつに興味有る処世を謂
うたまで。
わたしには、なにより正成たちが、観阿弥世阿弥など猿楽の徒とも血縁というにちかい連絡を保っていたらしいことも、すこぶる面白い。彼の武略・知謀の根
底には、根生い地生えの民衆の支持もあったことを推定しなければ理解が拡がらない。
「あかんやっちゃ」とわたしの嘆くヤツが、この南北朝・太平記の時代にはいっぱいいて、尊氏も義貞も北畠もみんな例外ではないけれど、正成のそれは、共
感に値するモノも最後まで持ち得ていた。生き疲れたんやなあと思っていた、子供の頃から。湊川にたつ途中、「わが子正行」を「青葉しげれる」櫻井の駅で故
郷に帰した「訣別」の真意にこそわたしは感じ入って、その後の南朝の善戦に固唾を呑んだ。
幼稚園国民学校のはじめごろ、近所の子供達の競って唄ったのが「青葉茂れる櫻井の里のわたりの夕まぐれ」であった。源平合戦と南北朝。やはり時代の覆い
かけていたネットからは、遁れ得なかった。それでもわたしは、軍国少年とはほど遠い心根を抱いていた。同じ頃にひそかに読んで胸の奥に畳み込んでいたの
は、白楽天詩集の厭戦・反戦の長詩『新豊折臂翁』でもあった。「京都」育ちのわたしを、文学へすすませた原動力は、「平家」と「折臂翁」とであった。
* なんとかして多摩川へ到達してみたいと思い、二時五十分に家を出て西へ南へとひたすら走って、小平霊園を南へ抜け、一橋学園駅から国分寺市へ南行した
もののどうも多摩川の気配は遠すぎる感じで、またも断念し、国分寺市から三鷹線を東へ向かい、少しずつ北へ東へと帰って行った、新小金井街道を北へ、また
小金井街道を北へ、花小金井四丁目から新青梅街道を田無方面へ戻って行ったが、またしても左へ折れ込んでいったのが失敗、道に化かされてまた新青梅街道に
逆戻り、仕方なく礼の保谷新道をかけぬけて元の保谷市役所前を通り帰宅。二時間四十分を越えていた。血糖値を前後で計ったところ、運動後は半分以下に減っ
ていた。
入浴して、世界の歴史を読む。
* 戴いた北海道の毛ガニの三杯目をおいしく、妻の隠していた日本酒を特別にもらって、機嫌宜しく。
* 北朝鮮の核実験実施に、各国の反応は厳しい。日本政府は安倍総理の訪中訪韓ということもあるにせよ、官房長官による声明も一番遅れた。「京ことば日本
の政治」らしく、自分の意見はせいぜい言わないか、人のあとから曖昧な表現で差しだす。
核実験は論外、目が離せない。
日本ペンはどうする気だろう。以前、核の問題に対しては「原則」として声明を出すと理事会で決めていた。文士が原則でことを決めるのかと嗤ったことがあ
る。しかし今回は必要だ反応が。
* それよりも、最近気持ちの、ことに悪かったのが、教育委員や学校長達が徹底して「いじめ」による自殺を「いじめ」とは認めたがらなかった事件。
あそこに限らず、コレまでにもこういう事件は何度かあった。そのつど「いじめ」はなかったとしつこい弁明があった。それでも結局謝りに行っている。
「いじめ」という言葉をつかうことに社会的な誤魔化しがあるのでは。苛酷な「差別」があった、そして自殺に追い込んだ、のではなかろうか。ところが「差
別」という言葉を避けて「いじめ」と謂い、マスコミも妙にはぐらかした物言いをする。
わたしは京都で育った。丹波に疎開生活もした。わたしの文学の根底には「差別」を非難する姿勢が根付いている。『清経入水』も『冬祭り』も『初恋』も
『北の時代』も『親指のマリア』も『四度の瀧』もみな「差別の糾弾」小説だと謂える。小さい頃から差別を目撃してきた、体験してきたとすら謂わねばならな
い。水や川や海に思想の根底を求めて泉鏡花を意識するのもそれだ。
どんな土地にもどんな環境にも「差別」がある。誰もが意識しながら誰もが口にはしないで「いじめ」ている例がある。とんでもないことだが、在る。
七通も遺書を書いていた子、修学旅行で女の子同士から外され男の子の中へ入れられたという子。教師達は失格という以上の加害責任を負わねばならない。弁
解は聴かない。あのような校長や教育委員に「人間」は任せられない。わたしは怒りで何を言い出すか知れない。
* ウルグアイで創った『WHISKY』という映画をワキのノートパソコンで観た。これぐらい言葉のすくない音声の低い人数の少ない動きのない映画を観た
ことがない。ウイスキーとは洒落た題だが、写真をとるときのチーズと同じ。その時にしか登場人物は笑顔をつくらなかった。さよう、つくり笑いである。
遠国から、兄と同じような事業で成功しているらしい弟が、久しぶりに親の墓参に兄のもとへ帰ってきた。兄はしがない自分の工場の、歳のいった従業員に、
弟の滞在中だけ臨時の妻の役をしてくれと頼む。そうして、奇妙に静かでちぐはぐな三人ぐらしが始まる。
兄らしい気位はある、が、うだつの上がらない寡黙を繪に描いたような愛想もコソもない不機嫌そうな兄。兄の現状を察して援助の手も差しだそうとするすこ
し気軽な弟も、兄の機嫌には弟としての気を使いながら、仕方なく臨時の妻役のマルタ、映えない映えない極度に寡黙なマルタを少し喜ばせ、心を少し動かす。
マルタは、妻を喪っている工場の主人からの「働きかけ」を暗に期待しているようだが、主人にもその気がまるでないとは言えないのだが、彼は動かない。そ
んなときに、やや気散じな弟の滞在はマルタにも段々に刺戟である。
そして弟は帰国してゆく。また前のママの毎日が繰り返されるのだ、しがない町工場の中で。
マルタは、どうするだろう。
版で捺したように変わりない、靴下編みの古びた機械が動く工場に、その翌日、マルタは出勤しなかった。機械だけが変わりなくゴトゴト。そこでバサリと映
画は終わる。
そんな映画だが、世の中には『タイタニック』や『マトリックス』や『風とともに去りぬ』や『ダイハード』や『ヘン・ハー』のような映画が溢れているの
に、なんでこんな映画を観ているか。映画の力がわたしをとらえて離さないからである。映画の力学が美学とともに理屈抜きに強烈で途中でやめて投げ出せない
のである。
* 帰宅しました。無事。
三連休はお天気に恵まれ、短い滞在日数でしたが、後楽園を見ることもできました。
明日は洗濯をたくさんせねば。晴れるといいなあ。
花は元気。風は。
* ネット上ですが、とても綺麗な文章を書く友達というか、知り合いというか、師匠がもっとできたらいいなと思っています。
明日は歌舞伎なんですね。
美しい世界を堪能してきて下さい。
お忙しく、大変な日々を、少しの間、忘れるほどに。 昴
* 十月十日 火
* 歌舞伎座に。幸四郎の熊谷、初役の髪結新三。先月、高麗屋が播磨屋と組み合った『寺子屋』松王丸を観てきた。今度は熊谷。「十六年は……夢だ」と嘆く
熊谷蓮生坊に、また泣いてくるは必定。やすかれ やす香 いのち とはに。
団十郎久々に「対面」の祐経。 楽しみは菊之助と海老蔵の十郎、五郎。
* 日比谷のクラブに寄ってサーモンも切ってもらい、中華風の酒の肴で、振る舞いのシャンパンと、コニャック。疲れもなく帰宅したのが十一時。
* 歌舞伎は昼も夜も大満足。
昼は盛りだくさん。「葛の葉」を魁春が姿で演じて、ほろり。この優のセリフは聴きやすいモノではない。以前観た坂田藤十郎の葛の葉がいかにみごとに「恋
しくばたづねきてみよ」「うらみ葛の葉」の歌を障子に書いて見せたかを、つくづく思い知る。門之助の保名は藝の性根がよわく物足りない。
次の『壽曾我対面』は願ってもない佳い舞台になった。団十郎が大きく高座に居座り、若い菊之助と海老蔵とを堂々と威圧してゆるがず、十郎五郎の気合いも
見事で、楽しんだ楽しんだ。菊之助の美しいこと、海老蔵の勇ましいこと、あれで佳い。あの佳さも、やはり団十郎祐経との豊かな調和の手柄。季節はずれの秋
盛りに「対面」というのも珍しいが、成田屋の堂々とした復活を誰もが祝っている舞台であり、嬉しかった。大磯の虎が田之助、化粧坂の少将が萬次郎というの
は、ウーン。そのかわり権十郎の小林朝比奈が、この役者かなり大きく成ってきて、めでたい。
三つ目がお目当ての「熊谷陣屋」で、引き花道まで幸四郎は悠々としかも熱演、演劇的な歌舞伎ながら、妻相模(芝翫)を、敦盛母藤の方(魁春)を、主君義
経(団十郎)をと、八方にきびきび対応しながらしみじみと悲劇的に事を盛り上げる。幸四郎らしい構築的な舞台運びに真率感がにじんで、やはり泣かされる。
この舞台での大手柄はわたしは成田屋の義経であったと思う。能で謂えばワキだが、ワキの不出来な、又は小さい能はどんななにシテがうまく演じても一番の
曲が出ない。「熊谷」を、また「熊谷陣屋」という舞台を芯で支えるのは義経であり、義経の眼力であり、義経の策謀であり、義経のそれなりの情けである。こ
れを女形に演じられると舞台が小さくなる。
団十郎が終始座ったまま、じつに叮嚀にセリフの隅々までを生かし、幸四郎と団十郎と、もう一人弥陀六宗清との取り組みが大きな建造物の効果をあげた。大
立女形の芝翫もさすがだが、今夜の舞台では男トリオのいわば膂力がそれぞれの表情を伴いよく生きた。
おしまいに仁左衛門の気分良くはんなりとした所作事の『お祭り』は文句なく楽しめた。すばらしい役者ぶりだといつも感心させてくれる仁左衛門クンは。気
持ちよい舞台で、昼の部のいいハネ出しになった。
昼の食事は例の「吉兆」で。酒はつつしんだが、食事は贅沢に楽しめた。
* 茜屋珈琲でマスターと談笑しながら休息。コーヒーが美味い。カップも、ニンをみて選んでくれるのが嬉しい。
* 夜の部は、先ず『仮名手本忠臣蔵』の五段目で、海老蔵の斧定九郎役がお目当て。圓生の人情話とは稍異なるものの、気の入った凄みの定九郎、仁左衛門の
勘平に二つ玉の鉄砲で撃ち殺されるまで、けっこうでした。
六段目は、定九郎を撃ち殺した勘平が、女房お軽の父親を殺したものと早合点のまま赤穂浪士の一人として腹切って死んで行く。仁左衛門の実と情との芝居ぶ
りが、すこし愚かしい勘平の魅力をしんせつに表現してくれる。
勘平腹切りの前に、夫の出世を望みつまた売られ行く身を嘆きつ、菊之助演じる女房お軽がそれはそれは清潔で情愛深い女を見せてくれる。いい女形だ、菊之
助の芝居を踊りをもっともっともっと観たい。家橘の母親役が、とても良いのか一本調子に乾いているのか、分からなかった。女衒の松之助がよく勤めていて目
立った。妻も同じ感想だった。
次が幸四郎初役の『髪結新三』通し狂言、終盤へ大いに盛り上がって楽しんだ。弥太五郎源七(段四郎)との最後の立ち回りは省いてもよかったかも知れな
い、興趣は家主に十五両と初鰹の半身を悪新三がまんまと持って行かれるところで尽きている。あそこで盛り上がっている。弥太五郎源七には気の毒だがあれは
あのようにしたたか新三に追い返されて用は済んでしまっている。さぞ悔しかろうが、芝居の力学ではあの閻魔堂橋での立ち回りは、蛇足。
なによりも初役なんて信じられない高麗屋の颯爽、軽妙、凄みの熱漢ぶり、みな申し分なく面白かった。初役という気迫と造型の成功、表現の成功、まぎれも
ない美しくさえある新三ぶり。熊谷は幸四郎演劇であったが、意外にも新三は幸四郎歌舞伎に成りきって、当代一の持ち役になるという気がした。明日にももう
一度観たいほど満足した。下剃りの片岡市蔵に感心した。坂東弥十郎の家主は儲けものの大役。楽しんで演じていることはよく分かった。白子屋のいわばヒロイ
ンお熊は、宗之助にやらせてみたかった。高麗蔵は昼に武士役堤軍次、夜に攫われるお嬢のお熊と便利に器用に使われていたが、トクかソンか分かりにくい役者
になりかけている。
この芝居のセリフに、落語でもこれまでの歌舞伎舞台でも、新三が攫ってきたお熊を「なぐさんだにちがいない」というのが繰り返し出て印象深かったが、今
日の舞台では一度も使われていなかったのは、高麗屋が避けたのだろうか。
ともあれよく笑い、からりと楽しめた。妻は新三なんて嫌いだというが、悪のわりにはそう嫌われていない気がするのは、黙阿弥の手柄か、ああいうキャラク
ターを誰もが多少自身に望んでいるからか。存外女のひとにも内心受け容れられやすい悪漢ではないのだろうか。幸四郎の新三の成功にもそれが汲み取れる。女
の客がずいぶん喝采し拍手を送っていた。
* 明日もう一度読み返してみる。もう一時をとうにまわっている。明日は歯医者に行かねばならぬ。今夜は書きっぱなしで、これまで。
ことわっておくが、わたしの此の「闇に言い置く」は、変換ミスなど少しも気にしないでまず書きっぱなしに書いている。すべて、日数を経てから、日付順に
あらめてすべて読み直して、いくらか言葉や行文の感じを新たに改めているのが普通である。推敲の範囲を出はしないけれど。
* 十月十一日 水
* 昨日芝居への行き帰りに読んでいたのは、今井清一さんの『大空襲5月29日 第二次世界大戦と横浜』だった。巻頭の「第二次世界大戦と戦略爆撃」のつ
ぶさな世界的実態にふれ、慄然とした。「ペン電子文藝館」の「反戦反核特別室」に戴きたい。
* 宮崎市定さんの責任編輯された「世界の歴史」の『宋と元』を再読して、また新たに多く眼の鱗を払った。面白かった。ゆっくり時間を掛けて読み終えたが
『宋』という帝国の世界史的意義にとことん触れ得て大満足。朝日子に下書きさせた「徽宗」ほど物哀れな末期を遂げた帝王はすくないが、宋というと彼の帝王
としてのイメージの不出来が印象をかげらせがちなのだが、一方、彼ほどの優れた帝王画家は古今に類が無く、わたしは少年の昔から彼の筆と伝えられる「桃鳩
図」や「猫図」にイカレていた。お見事と言うしか無く「国宝」ありがたしという気になる。
宋の絵画はたとえ議論が在ろうが、北のも南のもわたしは敬愛し親愛する。精到くまなき白磁や赤繪や青磁などの陶磁のすばらしさ、書風の個性的な大展開、
宋詞から元曲へ展開する白話文藝の絶頂。そういった文化的なことには多年に仕入れた知識があったけれど、優れた「科挙の実施」による中央集権の官僚政治体
制の独自さ、製鉄の飛躍的な発展を基盤にした商工業の画期的な拡充、そして印刷に置いても羅針盤試行においても、火薬の使用においても、宋は、ヨーロッパ
近代の漸くの追随を尻目に数百年も先んじていた。
そして朱子学という思想体系。それらはいろいろの批判や批評を浴びながらも、現代の吾々の今日只今にも具体的な看過や影響を与えていて死に絶えて乾燥し
た博物館型の文化でも文明でもなかった。
そういうことを、またしみじみと感じ得たのは、別に今更にわたしの日常を変えるような何ものでもないけれど、頭の中が少し新鮮に帰った気さえする。
* さ、歯医者に出掛ける時間になった。
* 長雨から解放されてこのところ秋らしい爽やかな日々、自転車での遠走もはかどるようでございますね。
多摩川を目指して居られるとのこと、このコースが実際可能かまたどれほど遠いのかはわからないのですが、
まず、多摩川上水沿いに(三鷹方面ではなく反対に)小金井方面へ学芸大(大学の中は自転車なら通り抜けられる)のあたりから国分寺、国立方面へ。国立谷保
の先に「滝野川学園」という日本最古? の障害児施設がありその裏手はもう多摩川です。
(昔学園を見学したとき敷地のはしから川が見えた!)
ちなみにこの滝野川学園の中には古いチャペルと当時のピアノが保存されていて、同志社とも関わりが濃いようです。
昨夜は珍しく夫婦で明治神宮薪能に招待され行って参りました。程良く肌寒い夜気の中、都心とは信じられない静寂があり、月も出て私は能には無知なのです
が、親王誕生を言祝ぐ演目「枕慈童」の面(おもて)は遠目にも美しく輝いていて、私を、うっとり別世界へと導いてくれました。 2006/10/10
藤
* スパムメール他でいろいろお困りのようですが、アドレスを変更なさるなどの対策をお考えになられてはいかがでしょうか。
ニフティのものはアルファベットと数字の簡単な組み合わせなので、不特定多数に向けての宣伝広告のメールが一斉に送信できてしまう業者の仕様にかかりや
すいことになっていると思います。
私も以前は迷惑メールに悩んでいました。プロバイダに相談し、アドレスを変更しました。
現在使用中のアドレスはアットマークの前がアルファベット小文字24文字(桁)まで使用可能ということなので
24文字をいっぱいに使ったものにしています。メールアドレスを変更してからは過去二年間に着信した迷惑メールは5通程度に減りました。差し出がましい事
かも知れませんが、ご提案まで。以上。失礼いたします。 国文学者
* この際、本気で考えたい。感謝。
* 鴉さま 10・10
明るい日差しの秋の一日でした。歌舞伎を楽しまれたことでしょう。熊谷で「泣きました」か?
三連休はふだんより忙しく、一人の時しか機械には触らないし、絵に集中するのもやはり週日です。三日間黙って眺めて、それなりに描き足すところを見定
め、今日は描いてほぼ完成に近づきました。
「MIXI」で、『太平記』のことを書かれたあとに「湖の本」に触れて、『二十年前にわたしが「秦恒平・湖(うみ)の本」を旗揚げしたときから、この
「出版への叛旗・謀叛」と叩かれた実践を、「わが赤坂城」と自覚し名付けて、その旗を今も降ろしていない。二十年、八十八巻まで来てまだ落城していない。
まだ千早城は健在に温存されているのだから我ながら健闘してきた。六波羅の両探題と目していた東版・日版の今がどんなであるかわたしは知らないけれども、
わたしは、「湖の本」の実に山中の小城にもおよばないささやかな闘いを通して、単に事業としてでなく、一人の男として自由自在に生きられる喜びも得てきた
と思う。」とあります。
ささやかな闘いどころではなかった。現実に本当に出版への叛旗・謀叛とみなされたために、以後出版社という通常のルートからの本の出版が極めて限られた
ことは事実で、一読者としてわたしは返す返すも残念で口惜しい。そのような孤軍奮闘をしている作家を、他にわたしは知らない。
そしてあなたはそれに対して一種の闘いであるとも覚悟しつつ、それに泣き言など決しておっしゃらなかった、弱気になられたことはあったとしても、継続の
ための作業を淡々とされていた。その経緯について、遠くから微かにですが、わたしはこの二十年を振り返ることができます。
より多くの読者の目に触れること。従来の「湖の本」の刊行、インターネットのHPや(目下問題が生じていますが、そしてそれは表現の自由に関わる大問題
なのですが。) mix iを通してさらに拡大、充実していくことを願っています。勿論、「一般」の書籍としても出版されることも願っています。
「自由」について言及された中で、「悪しき沈黙はつねに姑息である。」と書かれています。これはわたし個人を振り返ってみても、過去現在にわたって大き
く重く考えさせられます。が、容易に解決できることでもありません。強い人間になりたいです、真の意味で。なれそうにないので・・なるがままになど思って
いるのが実情です。
北朝鮮の核実験について、インタヴューの答えを聞いていると、実際に問題が生じると人はすぐ短絡的に安易に「愛国的」「戦闘的」になりうることも痛感し
ています。
書かれていた「差別」のこと、人間の意識の中から決して消え去らないものなのだろうと思うようになりました。
チェチェンの問題に批判的だった女性記者が暗殺されたことにも危機感をもちます。中央アジア、中近東、アフリカ・・至る所に日本では考えられないような
恐ろしく厳しい事態があることを忘れるわけにはいきません。
10.11
おはようございます。昨晩送らなかったメールと一緒に送ります。わたしはまだ絵の前にぐずぐずと座っています。今日はわたしも歯医者さんに出かけます。
小さな町の、のんびりした歯医者さんの待合室は、わたしも含めて皆おじさん、おばさん、いいえ、おじいさん、おばあさんが殆んどです。
栗を頂いて毎日毎日食べています。丹波の黒枝豆、梨、などなど痩せるわけがありませんね。
どうぞ元気にお過ごしください。自転車、転ばぬように。大切に。 鳶
* やはりBIGLOBEらのやり方は許す訳にはゆきません。京都で再会した友人と話題になりましたが、現在のIT関連法体系の不備は喫緊の要事だとの認
識で一致しました。根本的な対策が確立されるまで、とりあえず貸しサーバー上でのHPのモロサをふまえて、とても面倒なことですが「バックアップ」を日常
化、自動化する以外に方法はないようです。
本来、創作にそそぐべき精力の一部を下らない下世話な俗物対策にあてるなど、実に情けなくもったいない話ですが、それも自己防衛(読者を含めた文化共有
の)措置として、やむを得ないことなのでしょうか。どうぞ、これからの無駄と思える日々のあれこれも、「秦ワールド」の一部として取り込まれ、文学に咀嚼
するタクマシサで乗り越えられんことをと祈っています。お元気で。 円亀山人
* BIGLOBEとは徹底的に戦ってください。 波
* この22・23日に、岡崎の美術館のジョー・プライスコレクションと、楽美術館の「光悦と道入」展を見に行くことになりました。
プライスコレクションは、芳賀徹の『みだれ髪の系譜』で知り、オクラホマまででも、見に行きたいと思っていたものですので、東京から、京都にも来るのを
聞き、とてもうれしく思っていました。
また光悦の「雨雲」写しに稽古中に出会い、形と、命名の妙にしびれていました。
そして、最近読んだ『湖の本』 エッセイ14の「光悦と宗達」 にも、強い刺激を受けました。
その「雨雲」と、ほかに「乙御前」・「峰雲」、道入の「残雪」・「稲妻」というような名品の数々が出ているそうです。
京都在住の友人にホテル予約を頼んだら、この日は時代祭の当日で、いつものホテルもほかもとれないとのこと。日帰りも覚悟していましたら、東山三条の修
学旅行クラスのホテルがあったと知らせてくれました。それでやっと、何とか1泊旅行ができそうになりました。
夜は祇園の仕出し屋さんが開いている料理屋に連れて行ってくれるそうです。先代鴈治郎ひいきの店とか、福田平八郎も通ったところとか、盛んにPRしてく
れました。そのうえ、安くておいしくてきれいなのだそうです。
私は、いっしょに行く友達があまり京都へ行かない人なので、菊の井に連れて行ってあげようと思っていたのですが、あそこよりおいしいというので、そこに
決めました。
感想をまたお知らせします。 讃岐
* 歌舞伎と歯医者を済ませて(わたしは今日で歯医者通い卒業!)まだ明日から来週へ、ごった煮のようにいろいろ、続く。十三日の金曜には聖路加の診察。
先憂後楽、さきに楽しいことがあるといいのだが。
* 小雨に降られながら一時間二十分走ったが、二度危ない目に遭い、前輪のリムが一本弾け飛んだ。自転車屋に預け、ベルとバックミラーとを付けて貰うこと
にし、車体全部の手入れを頼んだ。明日は自転車走の時間の余裕がない。
* 十月十一日 つづき
* 漸と頓との別がある。順々に段々と。それが漸。お薬に頓服というのがある、速やかに即刻に不意に。それが頓。
たとえば、enlightenment
早い話「悟り」だが、漸で覚るのか。頓で覚るのか。前者には自然に、順序を踏んだいろんな修業や修養が、勉強が必要になる。過去世の好意や罪障に関して勘
定を付け、きちんと清算することを求めるのが、漸。
そんなことは全く必要がない、そもそも過去世に積み重ねた問題に人は何の責任もない、もし罪障が積み重なったにしても、それは無知ゆえであり、無知とは
勉強が足りなかったのでなく、もともと誰もが完璧に身に備えている内奥の真実に気づかなかった、寝惚けていた、目覚められなかったからに過ぎない。目覚め
ればよい、気づけばよい、それだけだというのが、頓。 目覚めれば即刻に、瞬時に一切が片づく。それが enlightenmentだと。
* 聖典などいくら読んでも内奥の無知は明るまない。どんな意図的な修行を重ねても決して明るまない。内奥の無知は、内奥で目覚めたとき霧消する。内奥の
闇を瞑想しながら、待つとしもなく待つ、目覚めを待つ。自分は夢の中にいて夢を観ているにすぎない、それに気づけば、それから醒めれば、頓、思わず笑い出
してしまうほど明快な明るさにおいて世界と一つに在る自身の無と実在とが一瞬に覚知できる。
わたしは、それを待つとしもなく待っている。どんな抱き柱にも抱きつかない。そんな執着はいらない。「今・此処」でわたしは喜怒哀楽・苦集滅道に遊んで
いる。受け容れて我が身を通過させている、黙って目撃し傍観し、おもしろいじゃないかと感じている。
* 小雨の中を自転車で一時間半ちかく走り、二度危険な目に遭い、前輪のリムが一本折れた。自転車屋で、ベルとバックミラーをつけてもらうことにし、全体
に整備して貰っている。
自転車も大いに危険だが、北朝鮮の核ミサイルは東京の西部に照準をとっていて、着弾すれば百万人は殺傷されるだろうと。一瞬の好機ならけっこうだが、ぼ
ろぼろになって生き延びては辛いことになる。
* 栃木から美味い新米が二十キロ贈られてきた。ご飯好きのわたしは、とても贅沢な豊かな気分にさせてもらっている。子供の頃、家の米びつにいつも米が
入っているかと、母は心配し、父は感心に米を絶やさなかった。父は他のなにより米の飯の好きな人であった。梅干しはぜったいダメだったが。わたしは梅干し
大好き。滋賀県の読者から毎年ご自慢の梅干しが贈られてくるのが、すばらしく美味くて、わたし一人が、つい摘んで次々に食べてしまう。残り少ないと惜しい
なあと思いつつ食べてしまう。
* 来年二月の松たか子主演のジャンヌ・ダルク舞台を予約した。
十一月の歌舞伎座は出演者に縁がなかったが、昨日たまたま高麗屋の番頭さんと松嶋屋仁左衛門の番頭さんとがならんで受付にいたので、高麗屋に仲介して貰
い、昼の部だけを頼んだ。松嶋屋は、我当の同級生で弥栄中学などと分かってみるといっぺんに、笑顔。
これで今年も東京の顔見世興行が観られる。『伽羅先代萩』の通しで申し分ない大歌舞伎。それに三津五郎がひとりでたっぷり踊ってくれる。嬉しいこと。
夜の部をやめたのは演目から。『河内山』も『良弁杉』ももう一つなので。明るい内に街へ出て、映画ぐらいもう一つ観て帰る手もある。
* 明日は新宿で俳優座公演のあとが、気の重い打ち合わせ会議。ま、仕方あるめい。
* 「お止橋」を読んでいました。半分くらいまでいきました。
ちょうど、風にメールしようとしていたところ。
洗濯は、明日も。明日の方がいい天気みたいですよ。
風のサイクリングにもいい季節ですね。でも、わたしは花粉症、おそらく、稲の。秋めいてくる頃なのだからでしょう、皮膚の調子もいまひとつです。
これから郵便局に行ってきます。
風、お忙しいようですが、お体お大切にしてくださいね。 花
* 十月十二日 木
* 安倍総理の官邸メルマガが創刊された。北朝鮮への制裁決定にも具体的に触れてあり、それはそれで、よい。
一つ聴きたいことがある。
「国民の安全を守るのが私の第一の仕事です。私はこの問題で決して妥協することなく、強いリーダーシップをもって、私たちの国の、そして、世界の平和と
安全を守る気概です。」
繰り返しどんな宰相からも聴かされてきた。わたしは聴きたい。「私」と「公」との比重ないし関連評価について。総理は「私の私」をまもるべく「政治=公
僕の仕事」をすると受け取れる表白だが、間違いないか。「公」権のもとに「私」民を従わせる政治に奔命するのではないのでしょうね。「公と私」とについて
明快に所見が欲しい。くだくだしい言い訳の説明は無用。「国民=私」に主権があり「公僕=総理以下官僚」として仕えてくれるのでしょうな。
* おはようございます、風。とてもいい天気です。洗濯、洗濯。
風に逢いたくてたまらないときは、目を閉じてます。 花
* これから家の新築が始まるという。颯爽と花が咲けばよい。わたしたちはあれから三十五、六年ほど経った。まだ花は生まれてもいなかったろう。建日子が
まだ赤ん坊の域を脱していなかった。
* 建日子の健康を祈っている。仕事師の仕事の大きな一つに健康管理がある。むちゃくちゃ仕事をするだけではない、「からだと相談」しながら長続きするよ
う願うよ、建日子。思いつきの民間療法を無統一に試みていないで、本当に佳い医者の身近へ引っ越してでも長期間統一的な診療を受け続けてくれるように。医
者には、幼稚園の児童と博士とほどのピンからキリのあることをわたしは医学書院時代の見聞で知っている。人間は感じ悪いが医学にはトビキリという医者も世
の中にはいる。不条理のようだが現実です。
* 今日は新宿で二つの用事。明日は糖尿の定期診察なので、今日は飲食を慎まねば。
* 紀伊国屋ホールでの俳優座公演『罪と罰』を観てきた。脚色は難しいとは思うが、おそらく脚色台本を「目読」しているほうが遙かにコトもよく分かり面白
いだろうと思う。わたしは原作を三度以上読んでいるし、ソ連作家同盟に日本作家として招待されたときは、ラスコーリニコフや殺された金貸しの婆さんのいた
という部屋まで、関連の場所をあちこち案内されもしたから物語も臨場感も人よりくわしく知っているとはいえ、今日の舞台では、演じられている芝居の下だか
蔭だかに台本があると言うより、演技者や効果音や装置を利して「台本」をいちいちこまぎれに「説明」して貰っているような舞台に感じた。終始一貫体温の上
がらない、煮えない舞台だった。
台本を読めばそれなりに内容を感じさせるのだろうが、渾然として動的な流れに盛り上がりのあるお芝居でなかった。要するに面白くなりきれないまま終えて
しまった。俳優達のアンサンブルもいまいちだった。
妻の隣に老御大の浜田寅雄さんが、妻の真後ろに加藤剛さんがいた。帰り際、剛さん夫妻に先日の東博での『コルチャック先生』の素晴らしかったのを褒め、
二人の健康を祝してきた。久々に親しく口をききあう機会があって、それが、今日の収穫。
* そのあとの用事は、要するに、ヤボ用そのもの。
* 真理・真実に到る道が、いろんな道が在る、などとそんなことを、達磨は言わない。彼は「あなたこそ真理だ」と言い、それに気づかず無明長夜を眠りこけ
夢を見ながら、ひとかど生きている気で居るだけだと言う。
真理・真実のために、われわれはどこに「行く」必要もない、「行く」なんてことはやめねばならない。真理の真実のもともと在る「我が家」にとどまり、目
覚め、気づかねばならない。すべて「道」は過った場所へ夢醒めぬ人を惑わせ迷わせる。そして真実からだんだん遠のいてしまう。青い鳥はついにいくら探し求
めても外の世界にはいなかった。
「あなたは現に在るべき場所にすでに在る。」それに「気づく」ことだと覚者なら必ずそう言う。
* 明日は糖尿の診察に出掛ける。
* 十月十三日 金
* 夜中一時半、低血糖値 54
という、かつてない値と、危険で不快な顫動症状に襲われ、物騒であった。砂糖とジュースなどで脱したが、気持ちのわるさは三十分ほど続いた。妻もわたし
も、ほぼ一睡もできなかった。わたしは一度二度嘔吐感にせまられ、五時にはあえて床を離れた。
午前から午後へかけ、聖路加病院に行く。
* インシュリン投与量を減らすかという話も出た。状況は横ばいと見えるが。自転車走りは大いに認められ奨励された。だが、十一月中のことかなあ。寒い季
節の自転車は心臓を冷やして危険なので。
ストレスで血糖値が上がるかと聞くと「上がります」と。「ストレスがありますか」と聞かれたところから、今日は患者が少なく暫く雑談になった。
「人格障害」の話題になり、傾聴した。ドクターいわく、「人格障害」の一大特徴は「話し合い」が全く成り立たないことですと。九月にこんなメールをも
らっていたのをまざまざと思い出した。
「湖さん 「人格障害」でも、社会生活は成り立ちます。社会的地位すらかちえています。しかし、周囲の人間に、おそろしいまでの苦痛を与えずにはおきま
せん。「治療不可能な病気」ですから、どんな非道も、責めても無駄です。本人に責任があるのはもちろんですが、資質と生育環境などで、こういう風な、周囲
を不幸にする人はたくさんいます。うわべがどうあれ、まっとうな人間と思って相手にしてはいけません。安穏な共存を希望するならどんなに不条理に思えて
も、正常な人間の方で耐えに耐えて、できるだけ早く一方的に折れてやる以外に、いかなる方法もないのです。
精神科医は言います。精神病は薬が効くけれど、人格障害は薬が効かないから、一番始末が悪いと。人格障害には一方通行の強硬な自己主張しかありません。
話し合いが成立しません。自分の言いたいことしか言わず、聞く耳もたないのですから。闘いや話し合いは「不毛」で、もともと闘うにも話し合うにも意味のあ
る相手ではありません。ふつうの人間なら一生に一度も言わないことを平気で言い放ち、実行もするのです。脅し屋、ゆすり屋です。落としどころは往々お金に
なります。
どんなに話し合っても無駄です。謝罪を求めるなど徒労以外の何物でもありません。そもそも人格障害の人間は人格が一ミリも変わらない。言語道断に無礼な
のは火をみるより明らかでも、そういう道理が通じないから人格障害なのです。見切りと諦め、それが何より何よりで、その方法しかないんです。
私は今島尾敏雄の「死の棘」の狂気と究極の愛を描いた世界を思い出しています。 医師 表参道
* 今日のドクターの何の躊躇もない確言に驚いた。
* まっすぐ帰り、修理の自転車を受け取る。ベルとバックミラーをとりつけてもらった。休息半分の一仕事してから綺麗に散髪してきた。
* 明日明後日は、やすめる。
* 十月十四日 土
* 押村高からの申し立ても、よくぞまあというシロモノで、これも、朝日子のものも、公に提出された文書なので、此処にも「公開」する気はあるが、ひとご
とながら気の毒千万。
* 「民事調停」陳述書
先ず、「調停」お願いを受け容れて戴きましたことに、感謝申します。ご厄介をかけますが、どうぞ、よろしくお願いします。
秦 恒平
(七十歳) 平成十八年(2006)八月二十七日
* 「調停」をお願いした理由を二つ、先ず、申します。
一 今年(平成十八年)七月二十七日に、孫押村やす香(十九歳。法政大学二年生)を肉腫というがんにより喪いました。
その直後、八月二日以来、先ず押村高(長女朝日子の夫。現青山学院大学教授)の名で、以降、むしろ妻押村朝日子(私の長女。)の名を先立てて、私朝日子
の父。小説家・元東京工業大学教授)を相手どり、再三再四、「告訴・訴訟・誹謗文書の諸団体<私が理事また電子文藝館館長等を務めます日本ペンクラ
ブその他へ>配布」を以て威嚇され、息子秦建日子(劇作・小説家)の再三の「話し合い」仲介も拒絶され、「司法プロセス」に既に入っていて「話し合
いは無用」と通告されるに到ったためです。
(この威嚇は、孫娘やす香の入院から死に至るまでに、われわれ祖父母がやす香両親の名誉を毀損・孫娘の死の尊厳を傷つけたというのが一理由になっていま
す。かかる理由の余りの無意味さについては、十分に申し上げる用意があり、どうぞ調停中にお聴き取り下さいますように。)
押村高との話し合いは強く望むところですが、娘朝日子に、父を告訴・訴訟・誹謗する等の愚行をさせまいためには、先だって「民事調停」をお願いするのが適
切であろうと、知友、ペンの同僚会員でもある牧野弁護士のお奨めに、進んでしたがいました。
二 押村夫妻からの告訴・訴訟の申し立てには、今一つ、大きな理由が在るようです。
実は両家には、平成二年にも溯る紛糾があり、少なくも十四年もの間、没交渉でした。
その状態を、平成十六年(2004)二月以来、自発的に、また両親に内密に解消して、祖父母との和やかな嬉しい再会や親密を取り戻してくれたのが、不幸
にも病魔に斃れました孫やす香(当時高校二年生)でした。また妹孫(当時中学二年生)でした。母親朝日子らは、この娘達の内密の行為を、やす香の発症入院
まで気づかなかったのでした。
それについても調停に臨んで、ぜひ申し述べ、押村高と話し合いたい経緯がありますが、その経緯の核心に、私の仮題未完の草稿ながら創作『聖家族』一編が
存在します。押村側は再々にわたり此の創作(フィクション)を、私のホームページから「外して」欲しいと、執拗なほど懇願しています。
問題の、その長編創作の草稿を、重い資料として、調停前に提出しておきますので、どうぞご一読を宜しくお願いします。多くをお察し願えるものと信じてお
ります。
私どもは、上のやす香の死をめぐる問題よりも、遙かにこの方の「話し合い」を重くみております。押村高と向き合い、ぜひ話し合いたいと願っています。
「話し合い」が拒絶され、どうしても実現しませんので、その為にも牧野弁護士のお奨めにしたがい、「民事調停」を申請しました。
* 今一つ、娘押村朝日子から申し立てている一点があります。娘の創作物を、私の責任編輯しています「e-文庫・湖(umi)」に掲載したのは、著作
権の侵害だという申し立てです。
娘朝日子の作品と謂えるものを、私は、自身のホームページに、過去に七点掲載しています。内三点、「ねこ」「回転体の詩」「エッセイ」及び、父名での代
作「徽宗」は、秦朝日子の名で、親族関連の作品欄に八年来掲載されていましたが、これについては過去にも全く故障の申し立てはありませんでした。
父の私は、娘朝日子の文才を、息子建日子のそれより以前から愛し、評価し、幼来懇切に指導してきたのですが、不幸な両家断絶以来、娘は、とうに文筆を断
念したかと父は惜しんできました。その間に息子建日子はつかこうへい氏の薫陶をえまして、劇界・テレビ脚本界また小説等の世界で、新進作家として今まさに
活躍しています。
ところが、今年早々、その息子秦建日子を介し、娘朝日子が、或るブログに、匿名で、日記なみに長い小説を次々書きついでいる、ぜひ読んでやって欲しいと
頼まれ、驚喜して、三作「こすも」「ニコルが来るというので僕は」「桜」を読みました。私自身の手で労を厭わず片々たる日々の「日記」から、順次書き起こ
し、それぞれに読みやすい形にすべて置き換え、通読の上小さな誤記等も訂正して、私の編輯する「e-文庫・湖(umi)」に「仮掲載」しておいたのです。
これには、次の二つの理由がありました。
一 匿名でのブログ作品は盗難に遭ったとき防ぎようがないこと。
日本ペンクラブに電子メディア委員会を私が創設し委員長を務めていた頃から、この手の情報をよく耳にしていました。
二 私の「e-文庫・湖(umi)」の読者には、編集者や知識人、優れた読者等が大勢いて、自然、娘の作品を人目に触れる好機になること。(ちなみに
「e-文庫・湖(umi)」の筆者には文化勲章の梅原猛氏作品始め、知名人の作品も沢山掲載されています。)
いずれも娘の作品を評価し愛した父親の「情」として、また先輩作家、電子メディア関係の情報も持っていたこと等による、悪意どころか、善意と愛情による
予防と配慮との所為であったことは、当時の私の「日記」の記述にも歴然としています。日記には朝日子作品への推讃のことばや、期待の批評のみいっそ嬉々と
して書き込まれています。
それでもむろん、当人から苦情が出ればすぐ対処するとして、「仮掲載」の名で懇切に紹介、三編ともに掲載保管していました。掲載にも、また今回削除に
も、それぞれの理由を付して、ホームページ上に残してありますので、御覧下されば明白です。
少なくも父であり先輩であり指導者であった私の好意に依る「掲載・保管」でこそあれ、それにより娘朝日子が受けた被害など、微塵もないはずです。
証明できる記事が、はっきり、数多くのこっていますので、調停時に提出もし、くわしく説明させていただきます。
次いで、「調停」により、何を、私どもが望んでいるかを申し上げます。
それら孫やす香の「入院」より「死」に至る経緯一切を、われわれ祖父母は、押村家より、相談は愚か、何一つ報されることなく過ごしました。
やす香自身が「MIXI」やメール・電話などで報せてくれなかったら、私たちはその入院も病気も最期も、何一つ知らずに過ごしたかも知れないのです。
従ってやす香のすべての病状経過について、祖父母は知りたい多くを、説明して欲しい多くを胸に抱いています。そして当然にも入院以降のやす香を案じる余
り、「やすかれ やす香 生きよ けふも」と祈り続けましたが、これに対し押村夫妻は理不尽にも、親を名誉毀損し、やす香の死の尊厳を傷つけたと、死後、
告訴・訴訟の威嚇を続けました。「やす香には<死を受け容れさせた>のに、<生きよ・生きて欲しい>とは何ごとか」と、やす香祖
父、自身の父に対し、「殺してやる」とも娘朝日子は怒号したのです。
どう名誉毀損し、どう尊厳を傷つけたか、真っ向話し合う用意がありますが、やす香の命はかえらず、やす香の霊をいたずらに悲しませる必要の何一つないこ
とも思います。
端的に、今一つ、過去の十数年来の数々の「非礼」に反省と謝罪を求めます。
その詳細は、仮題未完の創作草稿「聖家族」のほか、調停の間に大量の証拠資料を提出し、上の要求の当然であることを逐一説明申し上げます。
多年に亘る不幸な時間を経てきたことです、曖昧で放恣な、「言った・言わない」の水掛け論は、ただ不毛です。双方から、当時の物と確認できる「資料」を
きちんと出し合いながら「話し合い」を進めて戴けますように、善処をお願い申します。 以上
* 押村夫妻から出たそれも、公に提出した文書ではあり、必要と思えばどんなことをわたしが言われているか、一つの興味ある資料としても公開を辞さない。
今夜はスキャナーにとるヒマがない。
* 秦家の「朝日子」略史
(弟建日子誕生・姉朝日子七歳以降のアルバム・父年譜から。)
(2006.10.14
15日に急いで作成、完備の記録ではないが、事実だけは正確におさえてある。この「年譜」記録、また掲示した写真等を以てしても、朝日子の「二十年(四十
年)以上続いた父の虐待、ハラスメント」などの発言が虚偽・強弁であることは一目瞭然です。秦記)
68 正月八日 弟建日子誕生 七歳の朝日子に祖母より戴いた和服で父と初詣。母の無事出産を祈願。
* 私には、あなたが作家としてご自身の作品を守り、言論の自由を守り、それでも朝日子さんのためを思い、訴訟には強いて勝たなくてもいいとお考えのよう
に見えてしまいます。
これは、最悪ではないでしょうか。
さらに訴訟があなたの心身の健康に与える負担を思うと、ぞっとします。何十年も訴訟している例をいくつも知っています。泥沼です。
そして、相手の弁護士を甘く見てはならないと思います。
まず、実の娘からの告訴を煽るということは良識ある弁護士ならしません。「九十五パーセント勝つ」という妙な強気もおかしい。これはかなり質の悪い「や
くざ」な弁護士がついていると推測すべきです。
負けないために身辺・周囲が煽るでしょう。アメリカでは無実の父親がこうやって社会的に葬られた例が山ほどあって、本になっているくらいです。
もし、そのような根も葉もない訴えがあった場合、裁判は女の味方です。自称被害者のほうが強いです。痴漢の冤罪よりも無実の証明は絶望的です。あなたの
作品はことごとく抹殺され、百年は埋もれなければならない。あれほどの名作なのに。日本語の宝なのに。
私の願いは、一先ず譲歩して、「告訴」騒動を鎮めてくださることです。ご家族、弁護士さんなど色々な方々とご相談して、あちらの要求がこれ以上傲岸に過
大になる前に、お考えいただけないでしょうか。
その上で決断されたご判断は一番正しいことですし、それを心から支持して、あなたとご家族の皆さまのお幸せをお祈りし続けることに少しも変わりありませ
ん。
* いくら何でも度はずれていると、わたしはメールのこの辺は読み飛ばしていた。
ところが、朝日子は「木漏れ日」名義の「MIXI」日記を利し、しかもそれがわたしには「読めない」ように画策しておいて、八月以降、公衆相手(六百万
人)に、じつに、読むも忌まわしい上記に危惧されたとおりの「嘘を訴える」ことをしていた。
わたしには、今日まで、それが読めなかった。人がコピーして送ってきてくれない限り。
よほど見るに見かねて癇癪玉を破裂させた人が、全文を、今日送ってきてくれた。
ひと言だけにしよう、あきれ果てた。
もうひと言、何と情けない人間になったのだろう、わたしの娘は。
* わたしは、ものに書く場合、それが批判や非難にあたる場合は、いわゆる「ウラ」を確保してでなければ、断定しないようにしている、当然の作法である。
推測は人性の自然であるが、それも前後の状況から推して、蓋然性を堅くにらんで、する。まともな評論や批評は、そうでなければ出来ない。
それぬきに、好き勝手なでたらめな「作文」は、幾らでも出来る。誰にでも出来る。上のメールの人が、「心から危惧」し予測していたことを、朝日子は臆面
なく、とうに、やり始めていたんだ。それも実の父や母に向けた、むちゃくちゃな「悪声」「誹謗と中傷」。
* そこまでやって、いったい朝日子は、何の自意識から責任遁れしようとしているのだろう。
* 我が家はきわめて狭い家で、しかも妻と私は何十年、常にまぢかに暮らしてきた。わたしが一人の時は、書斎とも呼べない机に向かい、夢中で依頼原稿を書
きまくっているときだけだった。
69 夏 桜桃忌に父「第五回太宰治文学賞」受賞後に 家族で京都帰省 子供達元気な写真
69 秋 下保谷新築始まる 朝日子も楽しみにしていた。
69 秋 最終の社宅生活 家族で楽しい写真 朝日子の愉快そうな笑顔写真多し
70 正月 叔母新築新宅に上京 家族和やかな写真 新宅での佳い家族写真 続々
70 三月 朝日子雛祭り 縁側で和やかに揃った家族写真
70 七月 朝日子誕生日にお風呂で水浴後、お友達ら六人と嬉しそうな誕生パーティ写真
70 八月一日 父と朝日子と二人で大阪府富田林の大花火楽しむ。
71 正月 揃って尉殿神社初詣の朝日子の愉快そうな写真 ピアノの下で建日子と遊び興じる朝日子の写真
73 四月 朝日子、保谷市立青嵐中学入学
74 正月 のびのび笑顔の天神社初詣の写真
74 五月 父の退社意向を朝日子にも相談し異議無いことを確かめる。作家自立は朝日子達の将来の生活にも響くかも知れないので。
75 正月 京都で朝日子総疋田の晴着着付け、喜色満面の晴れ姿何枚も。茶会にも。真如堂坂根家訪問。
75 夏 家族で和歌山へ旅。潮岬に興奮、周参見の浜で荒波に揉まれる。和歌山市の三宅家に歓迎され朝日子はプールで大はしゃぎ楽しんだ。
75 秋 青嵐中学の運動会に両親も行く。朝日子懸命のリーダーシップ空振りの様子可哀想。女の友達が無いといえるほど無く、学校生活はかなり浮き上がっ
ていた。
76 正月 朝日子新調の着物で、縁側で澄ましたり噴き出したり。家族で仲良く写真。叔母も。
76 初春 お茶の水女子高の受験勉強を手伝い 古典本を山と積んで「音読」体験を授ける。
76 四月 妻、朝日子ともども父の谷崎論に関して議論・検討、いい解決へ。脱稿。
76 十一月 居間で愛猫ノコを片掌にもちあげパパに写真せがむ朝日子。父、作家代表団で中国へ。そのためのピッカリコニカでパチリ。
77 正月 父の中国土産の中国服を着て満悦の記念写真。
77 一月 島田正治画展に家族で。このころから努めて朝日子を文壇や各界会合に連れて行く。朝日子もよくくっついて歩いて、「秦さんのお嬢さん」「夕日
子ちゃん」と呼ばれて、ご機嫌だった。むしろこの頃は建日子が教室での「いじめ」で意気銷沈、親は苦慮した。
78 四月三日 湯河原の谷崎潤一郎夫人邸に、朝日子と招かれる。親交を一段と深める。
78 七月十六日 朝日子救急入院、十八日虫垂炎手術。手術の失敗に父が気付き、二十七日、病院派遣の救急車で即再入院。腸閉塞。父はその間、した保谷か
ら吉祥寺の奧まで毎日欠かさず自転車で見舞い、朝日子は日々待ちわび、父の手をつかみ、しばしばベソをかく。八月十日退院。
78 十一月 家族で仲代達也無名塾公演「オイディプス」に招かれる。
79 一月 朝日子共通一次試験
79 三月十五日 朝日子と井上靖敦煌展レセプションに参加。梅原猛ら著名人と何人も逢い、話し、朝日子上機嫌。帰りに銀座「きよ田」で知人に「過剰サー
ビス」とからかわれながら、鮨。朝日子お茶の水女子大に合格。お茶の水女子高校を卒業。父・父兄会会長の「七光り」で晴れがましい「卒業生答辞」が読めた
と朝日子は鼻高々の大喜び。成績は上から三分の一程度と。
79 五月 父の代わりに尾崎秀樹団長の中国訪問旅行に、切望する朝日子を送り出す。入学祝い。
79 九月 秦、ソ連作家同盟との交歓訪問の代表として訪ソ。朝日子、率先、大きなトランクを引いて横浜港へ一人父を見送る。
79 十一月 父の新聞小説取材、京都への旅に朝日子望んで同行。
80 五月 朝日子とソ連からの来客ノネシビリ夫妻、エレーナらを銀座のホテルに土産持参、訪問。
80 秋 小学生の頃の朝日子に「英会話の個人教授」を相次いで二人に依頼していた、その一人の先生の父親が中日新聞の役員だったと知り、びっくり。
80 十一月下旬 長谷川泉氏の出版を祝う会に朝日子も父とともに招かれ出席。大人達に珍しがられご機嫌。原善君に初対面。
81 正月 朝日子袴をつけて颯爽と初詣に。 八日 弟の誕生日に朝日子は晴着盛装、家族で観世能楽堂に喜多実の翁、野村万作の狂言を父と見にゆく。
81 一月 朝日子に一切を下書きさせた「徽宗」四十三枚に父が手を入れ成稿を出版社に渡す。文藝の才を育ててやりたく、こういう「調べ仕事」を手伝う機
会を父はつねに娘に考慮していた。
81 四月七日 朝日子 関西へ旅
81 七月九日 朝日子と二人で歌舞伎座で猿之助「黒塚」など観る。
81 九月四日 朝日子、父旅中、谷崎夫人の招きで歌舞伎座に。「恋を知る頃」など。
81 十月二十日 朝日子と父と、谷崎夫人の招待でサンシャイン劇場「玉三郎リサイタル」を観る。
81 十二月八日 朝日子と谷崎夫人とで明治座観劇。
81 十二月末 朝日子建日子京都の祖父母の家で正月をと。この頃、朝日子はのちに結婚を考えあうI
君と「魂の色」の似たのを意識し、この京都への旅にも、東京駅でI君も同行していたとあとで知る。夫婦だけで迎春。
82 六月十五日 ペン例会に朝日子と出席。帰途、銀座のバー「ベレ」に朝日子の名で初めてボトル置く。翌日父の「世界」連載原稿を朝日子が岩波書店に届
ける。
三十日 朝日子と父と、尾崎秀樹夫妻の会に出席。
82 七月 朝日子誕生日の佳い写真。その腕には父の読者からせしめた外国の高級時計。この当時、朝日子の洋服も父がよく選んで買っていた。
82 十月 朝日子の懇望によりサントリー美術館への就職斡旋を谷崎潤一郎夫人に懇請、谷崎夫人・娘恵美子さんの努力で、紹介者村山治江さんの強い推薦
により、十月末サントリー美術館就職の最終選考に残り、十一月四日、就職内定、朝日子欣喜雀躍。御礼に村山夫人の店で大きな「買い物」をする。
歳末 京都の舅介護の疲れから母迪子心臓病発症、入院を勧められる。以降継続して今日まで要治療。
82 十二月末 朝日子、双方の親が結婚を念頭に交際していたT君とドライブの写真。
83 正月 書庫の前でみんなで写真撮りあう。
83 三月家族四人で伊勢鳥羽へ旅行
十四日 朝日子と父と、上野の「ボストン美術館展」レセプションに出る。
83 三月二十三日 朝日子お茶の水女子大卒業式。両親参加。謝恩会の洋服も父と選ぶ。卒論「ムンク」は「パパに読んで欲しい」と書いたとか、母の弁。
「ムンク展」を早くに奨めたのも父。
83 四月一日 朝日子、サントリー美術館に初出社。父、深々と一安心。谷崎夫人、ハンドバッグを下さる。
83 七月一日 朝日子日赤整形外科に入院、バドミントンや弓術で痛めた肘を手術。
83 秋 朝日子、書庫前のテラスでノコを抱いて父のカメラにポーズ。
83 九月 青山で観能後 朝日子と合流、夕食して帰宅。
83 十一月 朝日子と連日無名塾公演「ハムレット」や歌舞伎座芝居を観て、親子で食事も楽しむ。
84 三月 両親の結婚記念日に親子四人で帝国ホテルで。朝日子佳い表情で母に寄り添って父に写真を撮らせている。
84 四月 家族で熱愛した猫の「ネコ」死去。朝日子が発見して泣く。のちに一文在り。
84 五月十一日 朝日子と父、「井上靖展」「植村松篁展」「横の会展」を観て歩く。
この月、朝日子は初の美学会に出席。父のあとを追い美学・哲学の道を歩いていた。
84 七月 朝日子の誕生祝いに家族で六本木に会食し、俳優座公演を観る。
銀座のバー「ベレ」に親子四人がならんで、朝日子もご機嫌の笑顔で水割り。父が馴染みのバーで「朝日子ちゃん」はママにも客にも可愛がられ、結婚相手は
ママが必ず前に婿殿の品定めをする約束だった。
(限定豪華本所収『年譜』はここまでで一応終えている。)
85 正月元日 みなで仲良く初詣の写真。
85 春以降 朝日子 高齢のM氏との恋愛から同棲・結婚を熱望、I
君再度の求婚を一蹴、一転単独アメリカ住まいを希望、また一転押村高と見合い結婚に奔走。この間のてんやわんやは秦家を揺るがした。両親も弟も必死で対応
した。
85 六月八日 朝日子、押村高と結婚式。新婦側主賓谷崎松子夫人 加賀乙彦、尾崎秀樹、長谷川泉氏ら。父は著『愛と友情の歌』跋文に愛の難さを告げて努
めよと激励。
86 正月二日 高・朝日子来泊、三日に帰る。和やかな写真。
86 つわりあと 朝日子は大きいお腹で父と二人或るパーテイに出席している。
86 九月十二日 やす香誕生 退院の翌日から保谷で母子暮らす。家中でやす香夢中で可愛がる。朝日子も寛いでいる写真数多い。高も保谷へ来てやす香を抱
いている写真。みなが幸せそう。
86 十一月以降 観世恵美子さんに戴いた服など着て、保谷でのやす香・朝日子家常の写真いっぱい。高も迎え取りに来て、佳い親子写真を舅が撮っている。
87 正月二日 押村一家来賀。北澤夫妻・原夫妻らもともに歓談盛り上がる。
87 雪の頃 弟建日子、やす香を胸に抱いて姉の婚家に戻るのを送る。
87 三月 やす香と来泊 雛祭りしてご機嫌の朝日子達。高も来訪。
87 四月下旬 高も来て、みな和やかな写真
87 五月下旬 朝日子達の引っ越しに母、やす香の子守に行く。
87 六月十一日 朝日子と父でかけ、池袋サンシャインで朝日子の夏洋服と帽子とを買う。
87 夏 朝日子とやす香来泊 みんな和やか。写真係はいつもおじいやん。
87 七月二十三日 叔母の茶道具保谷へ移送。老親たち三人の東京移転近づく。
87 八月十二日 高、パリ留学、歓送会。餞別贈る。朝日子とやす香 多く保谷で暮らす。やす香立ち始める。
87 十一月 朝日子親友の結婚式にも保谷から参会。
87十二月 従妹北澤恒の会か。父と二人で参加。
88 正月 朝日子とやす香来賀 一家団欒の楽しい写真いっぱい。曾孫を可愛がる老親たちも。
88 三月 書庫カウンターにやす香と雛と祖父と。朝日子が撮影。
この頃母娘の里帰り頻々、近所でも評判。大きなアルバムを埋め尽くす母と娘との写真。老親たちも大喜び。
88 朝日子母娘パリへ。この時に朝日子結婚資金の残高百万円を送金。旅など楽しんだと。
88 七月十二日着 パリ、ブーローニュ等での朝日子とやす香の写真。その他にも再々写真来る。
89 正月 パリの押村親子の写真届く。
89 八月末 秦の父・朝日子祖父逝去 葬儀
89 秋十月 やす香・朝日子帰国 母子とも概ね保谷で暮らす。仲良しの日々、写真多し。
89 十二月 父の誕生日を祝う朝日子とやす香、書庫の前で母と娘との写真祖父が撮る。
90 正月 老母・叔母らと朝日子・やす香新春を祝う。おじいやんのお年玉の洋服でやす香嬉しい。
90 二月 まみいと朝日子やす香は伊豆に遊ぶ。
90 三月三日 高帰国。朝日子たちの保谷生活は終わる。帰国祝いを保谷武蔵野で。
90 四月 母の誕生日に朝日子母子も機嫌良く参加・天麩羅
90 春 やす香にマミープレゼントの自転車。朝日子も喜色満面で小さい自転車に乗ってみせ保谷の家の前を走る
90 夏 やす香と朝日子来泊 保谷のテラスでみなで花火で遊ぶ。朝日子の両親・やす香を撮った写真もたくさん残っている。
90 八月末 やす香と朝日子来泊 婚家へ帰りたがらない朝日子。
90 九月二十九日 高も来訪 機嫌良く写真に写っている。朝日子ものびのび笑顔。やす香は保谷のご近所にお友達何人も出来る。
90 十一月初め 朝日子・やす香来泊 やす香おじいやんの自転車に乗せてもらいご機嫌。
90 十二月二十日 父の誕生日を祝うために来朝日子ら来泊。やす香連れて森林公園で自転車乗り。二十一日父五十五歳を親子孫五人、朝日子らの従兄弟の北
澤恒も加わって呑んで喰って談笑尽きず。
91 正月二日 高も年始に来訪。やす香お年玉の着物、冬のコートで、玄関で撮影。
91 正月八日 弟の誕生日に朝日子単独来訪。朝日子父のカメラにご機嫌Vサインのポーズ。
そして、引き続き、父と、母代役の若いミセス朝日子とは、文化出版局「ハイミセス」編集者カメラマンとともに、四国松山、中国柳井・厳島等への「旅」に
出た。雑誌掲載以外にも佳いスナップ写真が何枚も。だれもが「見るから仲のいい父娘」と評判。
91 四月十日 建日子の車で朝日子やす香とも宮沢湖・川越方面にドライヴ楽しむ。遊園地・食事などの楽しい写真いっぱい。
91 四月二八日 朝日子と母と誘い合って両国で「ヤマトタケルオラトリオ」楽しむ。
91 五月末 朝日子やす香来訪 ご機嫌の写真
91 六月 秦の老叔母逝去 通夜に朝日子 初七日入院中の老母も一時帰宅 朝日子やす香来ていて世話なども。
91 十月 秦、東京工業大学工学部教授辞令・就任。
92 三月十日 行幸誕生 この頃か、押村高 筑波大学技官就職成り家族宿舎に入る。
92 九月九日 建日子の車で筑波在のやす香幼稚園を三人で訪問、やす香驚喜。行幸の顔も初めて見る。朝日子たちと、高不在の数時間を筑波で過ごす。やす
香別れ際「イヤ」だと烈しく烈しく泣く。
93 初冬 高不在を利して朝日子と二人の娘、保谷来泊。祖母を病院に見舞う。
この頃以降行幸の成長写真再々送られ来る。朝日子からの手紙もある。
* むろん、朝日子の虐待やハラスメントの訴えに、データなど何一つ付いていない。捏造する以外に在るわけがない。
ちなみに「押村朝日子」提出文書には「主任児童委員」と肩書きがつき、前にペンの委員会等へ送りつけると脅してきた文書には「東京都町田市付 厚生労働
省民生・児童委員」としてある。
また「MIXI」の日記では「女流作家」と称していたし、父わたしのことは自分朝日子の小説を批評する「高慢な」「自称文筆家」ともあった。こういう物
言いは、どういう「人格」から湧き出てくるのだろう。
* 十月十五日 日
* ヨガ入門は、そろそろ難しい姿勢に挑戦するようになってきまして、今日は腰から下がヘンな感じです。
本日午後から住宅(新築)の打ち合わせ。明日は丸一日打ち合わせです。
人に借りた松本清張を読んで返さねばと思うのですが、あの世界は、どうも馴染めません。せっかく貸してもらいましたが、読んだふりして返そうかなあと。
評論の目次は、もうちょっと。がんばります。
風、しんどいこと多いでしょうが、がんばってください。 花
* 打ち合わせ段階は本で謂えば「校正」段階、しっかり「読んで」いわば「間取り」正確に確認しておくことでしょうね、建ってからでは遅いので。根気よく
がんばれ、安易に妥協しないで。予算は、打ち合わせ予算の十五パーセントちかく隠し球としてもっていると、あとで口惜しい思いをせずに済む仕上がりに近づ
きます。これがたいへんなんですが。
清張について謂われていること、それが彼の仕事のきつい限界のはずです。それを真っ向気迫で批評すると、本格の清張文学論になるはずなのです。 書く方
も、がんばって。 風
* ミクシイで、風の書いてらしたこと、今度書こうとしている評論に関連しています。
「告白する小説」と題しているのですが、書きたいという衝動、表現したい欲求は、人間の本能なのではないか、と、あらゆる芸術を見て思うのです。
自分をさらしたいと思っても、世間の目があるから、赤裸々な表現に仮装が必要で、虚構が生まれたのか、と、はじめ、思いました。カソリック的な抑圧のな
い日本では、ゆえに私小説・告白小説が発達したのか、と。
でも、事実をそのまま書いたものが、事実だからということだけで、成功するとは限りません。
たとえば、フローベールは、初期に自伝的な小説を書いていましたが、親しい友人に酷評され、奮起して、「ボヴァリー夫人」を書きました。
そして、「ボヴァリー夫人は私だ」といえるくらい、田舎の人妻を、ある種の人間典型として描ききりました。
自伝的小説が、あまねく読者にうったえかける普遍性を持ちうるのは、至難の芸が要ることでしょう。
日本文学の不幸は、このフローベールを批評した友人にあたる者のいなかったことではないでしょうか。
詳しくは、目次と一緒にまとめ、近日中に風に見ていただこうと思っています。
明日の打ち合わせもがんばります。書くのも、がんばります。風も、お元気でいてくださいね! 花
* このやりとりに触れられた「MIXI」でのわたしの発言だが、新たに、「漫々的 <書きたい>人との対話」と題して、書き始めたのであ
る。「MIXI」のなかには夥しく「書きたい」「書いて行く」人達の述懐がある。実作にはなかなか出逢えない。なかには何かしら琴線にふれる発言もあり、
催されてわたしもふっと発言したくなる。それを遠慮無く書いておこう我が為にもと思い立った。小説は『清経入水』を、そして「秦恒平講演集」はもう一月近
く純に連載していて、今はNHKラジオで話した『春は、あけぼの』を関連のエッセイとともに掲載中。ほかに、もう二種類の書き下ろしのエッセイ連載を続け
て行こうとしている。
言うまでもないが、わたしの創作の仕事は、こういう外向きの場所でなくしかし続けられているからご心配なく。
* 明日、ああいう娘夫婦の顔を見に町田簡裁まで行くのかと思うとひたすら情けないが、人生劇場、この年になってかくも活況を、むしろ、よろこぶべきか。
人に言われてわれながら驚いたが、自転車乗り平気でこの頃は二時間半も休みなく走り回ってくる、それって新幹線で東京から京都へ着くほどなんだ、と。そ
うなんだ。我ながら驚いた。
* 高史明さんから佳いメールを戴いた。「お久しぶりです。お元気なごようす、いまの時代にあっては、それだけでも元気がもらえる感じです。ありがとうご
ざいます。 合掌 高史明」と。
* 八月二十一日にもらっている或る人のメールの一節に、「負けないために周囲が煽るでしょう。アメリカでは無実の父親がこうやって社会的に葬られた例が
山ほどあって本になっているくらいです。
もし、そのような根も葉もない訴えがあった場合、潔白を信じてもらえる可能性はほとんどない。裁判は女の味方です。被害者のほうが強いです。痴漢の冤罪
よりも無実の証明は絶望的です。あなたの作品はことごとく抹殺され、百年は埋もれなければならない。あれほどの名作なのに。日本語の至宝なのに。」とあっ
たのは、、おそろしいほどの炯眼というか、分かっている人には掌をさすように分かっていたのだと、今更におどろいている。
九月二十三日にはビックリのメールが固まって来た日だが、その一つはこうであった。これも明快におそろしかった。
* 娘さんについて考えたことを書きます。まず娘さんが「MIXI」に書いた性的虐待の日記ですが、そもそも娘さんがハンドルネームを使っているとして
も、周囲に自分とわかるように書いていること自体、そういう事実はなかった「嘘」とわかります。性的虐待のカミングアウトというのは、女にとってよほどの
よほどです。使命感でそういう「活動」をしている人以外には、ほとんど例がないのでは。
私は子ども時代の虐待について本人の書いたものをいくつか読みましたが、まずあまりの傷の深さに、そういう著作自体少ない。そして、書かれたもの二例で
は、本人が自分の名前を戸籍から変えていました。「MIXI」に載った娘さんの(結婚後にも父親と楽しそうに並んで旅している、また自然な笑顔の幼時の)
写真は、みごとに(上の嘘を証明し得ていて) 雄弁です。
次に、娘さんがこのように「変貌」したことについて、私の考えを書きます。不快に思われる部分もあると存じますが、失礼をお許しくださいますように。心
安だてに実際失礼なことを書きます。自分の、父親として、人間としての大欠陥を棚に上げてエラそうに書きます。
田辺聖子さんでしたか、子どもは「当たりもん」と書いていらした。どのような子どもを持つかは運次第、くじ引きと同じ当たり外れがあるという意味です。
子どもの健康や能力や容姿や性格など、たしかに親の努力や心がけの範疇にはありません。その上で、ある程度は親が防げる不幸があります。
娘さんが結婚にいたった経緯はこれは「ご縁」でこうなるしかなかったことでしょう、当然ご両親に責任はない、娘さんのもって生まれた「運」だったんで
しょう。ですが、それにもかかわらず、あのとき、秦さんに、父親として防げるところが防げなかったのではないですか。
もう昔、太宰賞を受けられたとき、その『清経入水』を、その以前に読んでいた「新潮」の酒井編集長が、「目をすったか」と苦笑して受賞を大いに祝って下
さったというお話をされてました。
秦さんも、つまり、あのとき、仲人口に耳をひっぱられ「目をすった」ってことですかね。
*
目をすることは、ほかにも、いろいろ有る。目をすったわけでないが、ものごとを「ほっとく」「ほっといた」ことで、多年まったく思い違いしたまま過ごして
きたんだということに、やっと気づくことがある。今が今にもある。
弟は、再三再四最後の最期まで、わたしや妻の娘・朝日子に対する見方は「甘い」、まるでズレていると言い続けてきた。どう甘くて、どうズレているのか、
わたしたちは信じられなかったが、要するに吾々両親には、娘である朝日子を憎んだり嫌ったりする理由が無く、十数年、いつ帰ってくるかな、いつでも帰って
おいで、門は開けてあるよと思い込んでいた。だからこそ、娘に実の両親を告訴したり訴訟したりさせてはいけないと思ってきた。朝日子の胸の芯には、人らし
い娘らしい柔らかい気持ちがあるに違いないと信じていた。
弟は、「そりゃないね」と言い続けてきた、朝日子は親を、ことに父親を、明確に「敵」として憎悪し、その気持ちは「石」のように硬いよと。
なんでそんなことを言われるのかと、わたしは、いささかならず弟の言い分を受け取りかね十数年来たのである、妻もきっと同じでは無かろうか。
朝日子は、「高の職のちゃんと決まらない内は、パパは教授になんかならないでッ」と叫んだ。
押村高は金のことは執拗に言ったけれど、地位のことでは黙っていた。わたしには、就任依頼を受けたらいいと言った。「どうせパンキョウ(一般教養)」で
しょ、と。
わたしに当時働き盛りの若い健康な夫婦の生活を抱え込む、余裕も気もなかった。九十の老人を叔母も含めて三人かかえてきた。わたしはベストセラー作家で
はなかった。勤勉だが地味な文学者だった。
そして機械音痴のわたしは、東工大に、コンピュータ世界との有縁を心頼みにしていた、明らかに。わたしは「時代」をほぼ正確に読んでいた。文壇でも極め
て早い時期からワープロを使ってきたが、ワープロではダメだと見通しをもっていた、知識は絶無なのに。
わたしは押村に金を与えることもせず、東工大の門も真っ直ぐ潜って躊躇わなかった。
* あのとき、わたしを憎むことにおいて、じつは朝日子の方が夫押村よりも激越であった、と、高は言いたいらしい。わたしたちは、朝日子は夫と父との板挟
みで苦しかろう、どっちかなら親子の手を放して、夫婦でがんばりなさいと思っていた。わたしの思想では当然至極。わたしはヨコ型社会に少年時代から憧れて
いた。基本は親子じゃない、夫婦だと。だが、朝日子のはそんなものでなかったらしい。つまりわたしが甘かったか。
* あの大過去事件のあと、二年ほどおいて、両家和解の談合がもたれたが、押村高も朝日子も、只の一度も出てこなかった。わたしと妻とは、終始押村の親代
わりの叔父さんだか伯父さんだかと、仲人の****教授とに向き合うしかなかった。それでは、どう納得のしようもなかった。余儀なく双方ではっきり「物別
れ」したあとで、その伯父さんから手紙が来ていたが、わたしたちはもうもはや読む気がなく、厳封のまま「ほっとい」た。今も見ていない。
もう一通、朝日子からも手紙が来ていたはずと彼等はいうのだが、全く記憶にないのであるが、その手紙で、朝日子は、よほど思い切った「秦家との絶縁」を
敵意を籠めて述べ立てていたらしい。「民事調停」の場に出て来たその手紙を妻は初めて読んだらしい。わたしは読まない。あの当時、朝日子はいつも肉筆書き
であった。肉筆の手紙かワープロのものかも確かめていない。フォントはどうか。電子文字ならその辺の見極めがあろうと思う。
なににしても、その手紙のことを聞いた上で、久しい弟の物言いを思い起こすと、なるほど、親とは甘い者であった。十数年、われわれは娘の思い出をだいじ
にだいじに慈しむ思いでいつも噂し、健康を祈っていたのだから。誕生日には必ず赤飯を祝い、日記にもなにかしら書いた。わたしの今年七月以前の日記に、朝
日子をわるく書いている例など、ありえない。
* 朝日子から十数年前に送られていたという憎悪の手紙に、わたしはまったく記憶の片鱗もないが、「ほったらかし」に失われたのか、そんなのは届いてな
かったか、何にしても知らなくてよかった、少なくも十数年のあいだまだ吾々には「娘」が生きていたのだから。嬉しい気持ちももって毎日のように朝日子の噂
を、父と母とでしてこられたのは授かっていた天恵である。
それにしても、わたしが「目をすっていた」のは朝日子も高といっしょだったと気づかされたのは、情けない。明日その朝日子の罵倒の声を聞かされに町田ま
で夫婦して出向くかと思うと、天恵どころか、これはわたしには天罰だと思われる。
天罰を受けて当然なことは、山ほどしてきたのだろう。それでも昨日から今日へ無数にシャッターを切ってきた朝日子我が娘の可愛い、和やかな、自然な笑顔
や嬉々として笑み崩れたり澄ましたりした朝日子の写真を、数十冊の大アルパムから、百枚ほども編集していた楽しい思いは、忘れたくないものである。
年貢のおさめどきが来たのであろう。あるいは、こんな世の中に生き過ぎたかな。
* 十月十六日 月
* イヤな日だなと思いながら起きたが、思い起こせば、十月十六日は、妻とわたしには懐かしい記念の一日だった。四十九年まえ、ふたりで大文字山にのぼ
り、大きな比叡山が目の前に見える温かさを思い切り吸い込んできた。あれから二た月とかからず婚約した。一年半足らず後に、昭和三十四年二月に大学を出る
妻と上京して、新婚生活を始めた。初冬には妻のおなかに朝日子がいた。
父となり母とならむの朝はれて地(つち)にくまなき黄金(きん)のいちやう葉
ひそみひそみやがて愛(かな)しく胸そこにうづ朝日子が育ちゆく日ぞ
* 「なにを達成しようと達成は条件によるものであり、因果によるものだ。それはかならず応報を生じ、車輪をまわす。生死に従属するかぎり、けっして悟り
は得られない。」達磨(スワミ・アナンド・ソパン訳)
「悟り」はなんらかの原因や修業によって生じる結果ではないし、一定の条件を満たしたときに得られるものでもない。達磨が「いや、宗教が人々に説きつづ
けているこれらのいわゆる修行によって、仏性を見いだすことはできない」と言うとき、彼の言明はとてつもなく意義深い。(バグワン)
わたしもそう思う。「財宝はそこにある、ただその被いを取り去るだけでよい。」自身存在の内奥に気づき目覚めるということ。無明長夜の夢にわたしは眠り
こけている、いまも。夢と気づきかけていても、目覚める、それはいつのことか。
あせりはしない。間に合えばいい。
* わたしがいま何を思っているか、当てた人はえらい。子供のとき、そんな風に言い合って遊んだ気がする。
* 昨日だったか散髪してもらいながら、マスターと自転車乗りの話をしていて、わたしが死ぬとすると交通事故が一等可能性が濃いと、あはあは笑ってきた。
新幹線で東京・名古屋どころか京都に着くまでぐらい長時間走り回っているうちには、何度も危ないめを見ている。起伏の多い武蔵野で、えいえい登り坂がある
と必ず数百メートルもブレーキを握りしめながら疾走する降り坂がある。降って走るこっち側だけではない、登ってくる車と対向するのだから、あの坂で瞬時で
も眼を閉じたなら、確実にわたしは大怪我をするか死ぬるであろう。まだまだ用意が出来てないから、そうやすやす死ぬわけに行かない、注意の限りを尽くして
走っているけれど、このごろ「生きていたい気持」はとみに薄れている。妻を安心して息子に委ねられるなら、わたしは、「一瞬の好機」をはやく自ら求めて空
中に炸裂したい。
* わたしの中にまだ闘おうという気と、闘うほどくだらぬことはないという気がある。この葛藤は、しかしたいしたことはない。生きていてもつまらないと思
う気と、生きてなにかしらしなくては、楽しまなくてはという気とが、いっこう拮抗しない無力感にヘキエキする。いやヘキエキではない。だらしなく生きてい
るほどみっともなくつまらないことは他に無いよという囁きが、耳の奧に聞こえ続けるだけ。
わたしは、「今後の自分」をかつぎながら無意味な未来へ歩いて行く気がしない、もう。ああそうか…、独りでしか立てないちいさい「島」に、投げ落とされ
るように此の世に「生まれた」自分なのだし、その島から海のなかへ独り退散するのは、父母未生以前本来の最期であるのだ、当然だなあと思う。
* ごく最近、ある学会誌の巻頭記事として書いた原稿を、「遺書」のように、此処に掲載しておく。わたしは、こういうことを思い思い生きてきた。こういう
ことを思い思い、「自分の家」に帰って行くときが来ている。
* わが「島」の思想と文学 ―わたしの「身内」観― 秦 恒平
島を見る・島から見る「島の文学」という特集企画と聞いたとき、その主題が、「日本近代・現代文学」のためのものと限れば、何が言いたいのか、正直のと
ころ合点がいかなかった。
「島」と書く限り、それは島である。「シマ」と書けばすこし意味がひろがる。「うちのシマ」を守るの侵されるのということは、ある種「領分」「配慮下」
を意味して、昔から例の親分子分たちの言い分であったし、今も、そうらしい。「島」を、「あの世」の意味で謂う地方もあるが、あまりに特殊すぎて、特集企
画の意図は、そこまで逸脱していないだろう。もっとまっとうに、大島小島、離れ小島、あの島この島の「島」の意味であるのだろう。わたしはそう理解し、お
鉢がわたしへ及ぶとは夢にも思わなかった。
だがまた、わたしは、ごく限られた範囲でではあろうが、「島の思想」の持ち主だと思われており、わたし自身も繰り返し発言してきた。その「島」も、明ら
かに例の島の意味やヴィジョンを離れた島ではない。海に浮かぶ「島」を踏まえたままの「島の思想」といわざるを得ないが、だがしかし、また、やくざ衆たち
の謂う「シマ」とも、必ずしも背馳していないかもしれないのである。私にお鉢が回れば、やむをえず私はそのような自分の「島」を語るしか手がない。それで
よいという依頼なので、その気で書いて行くのをお断りしておく。
とはいえ、「総論」ふうにとも謂われている。持論や持説を書いて「総論」とは凄まじい。で、そこへ行く前に、漫然と前置きを書くことも許して頂きたい。
日本は「大八州国」といわれる。「豊秋津島」とも「日本列島」とも総称され、日本が、東海粟散の「島国」という自覚は大昔からあった。そのような日本で
書かれる文学が、大なり小なり、深くも浅くも、「島」生まれ「島」育ちの文学であり、島にも大小のあることなどを、申し訳のように付け加えることが妙にわ
ざとらしいほど、つまり日本は「島」の寄り合い所帯だと認めざるをえない。その世界からとびぬけて出たような文学と、いかにも「島」めく文学とが「分別」
出来ると謂われれば、むろん否定する段ではないが、どんな区別差別が本質的に見極められるか、遣ってみないので分からない。
島には、陸や大陸とはちがい「狭い」意味、海に「封鎖されている」意味などが、つきまとう。「島国根性」は日本人のぜんぶに言われているので、広い本州
の人はちがう、小島暮らしの人にだけそれを謂うわけではない。そうなると「日本人」らしいちまちました料簡の人物が活躍する小説や演劇は、どこか「島の文
学」だという大雑把なかぶせようも、まんざら否定できなくなり、そしてそんな指摘にはたいした意義の生まれようもない。
しかし明らかに「島」という環境と時代に取材した小説は、幾らもある。「硫黄島」「八丈島」「沖縄」「佐渡島」「沖永良部島」「隠岐」「対馬」「五島」
「桜島」「竹生島」「伊豆大島」「千島」「樺太」「淡路島」「小豆島」「松島」「厳島」「鬼界ヶ島」「児島」瀬戸内の島々、果ては架空の「鬼ヶ島」まで、
作品の世界になっていない現実の島はないと言って良く、芥川賞や直木賞や太宰賞やその他で評価を受けた作品を思い出すことは、そう苦ではない。しかしなが
ら、戦争文学の舞台でもあれば幻想的な舞台でもあり、瀟洒な、あるいは貧窮の舞台でもある。それはもう「各論」的に語られ得ても、どう総論して、かりに分
類などしてみても、それがどうしたというに留まるだろう。一つ一つの作品に触れて「読む」、そして個々に「楽しみ」「感じる」だけのことではないか。そし
て、そうなるとことさら「島」の文学という特定に、たいした意義は失せている。残るのは個々の作品の出来と不出来とだけではなかろうか。
で、わたしは、気の進まない前置きから、この辺で撤退する。以下の発語は、よほど方面が異なってしまうことをお断りしておきます。
生きとし生けるものは、此の世に「生まれて」くる。この、「誕生」を意味する日本語は、「生を享ける」などと難しく言わない限り「生まれる」の一語しか
なく、この「れる」は、文法的には「自然」または「受け身」を意味すると、教室で早くに教わった。また英語の時間には「was
born」という「受け身」形で、「生ま・れる」と習った。英語の文法でもっと別の解釈や解説があるかどうか知らない、「was
born」は受け身を意味していて日本語に翻訳すれば「生まれる」しかないなあと、敗戦後すぐの新制中学一年生は合点したのである、その余のことは知らな
い。
では、人はどう受け身で「生まれる」のだろうと、私は想った。私はその頃まで、自分が秦家の「貰ひ子」であると人の噂にも重々知りながら、実父母のこと
を何も知らなかったから、そういう想像・空想・妄想にはふだんに慣れていて、つまりそれが幼いながら思索・思想の下地を成していた。
私は、育ててくれた秦家に黙然と服して育った。事実はゆめにも冷遇などされず、むしろ大事に可愛がられて育っていた。昔風に謂うと「最高学府」にまで
やって貰えた。お前は「貰ひ子」だなどと言われたこともない。親も子も黙って実の親子のように、ほぼ大学をでる間際まで過ごしていた。そして家に子供はわ
たし独りだった、つまり私は祖父と両親と独身の叔母という大人達のなかの、見た目も「一人ッ子」だった。淋しかった。
こういう境遇で、友達も少なくいつも独り遊びしていた私が、人はどう「生まれて」来るのだろうと想うとき、その「人は」の「人」とは「何」であるのだろ
うと想うことから、あれこれと問題が展開したのは自然だった。むろん「人間とは何ぞや」などと難しく思索したのではない。
「人って?」という関心ないし疑念は、自然と「自分」という「人」を起点にした、「人の分類」へ向かった。「人はどう生まれてくるのか」は、その先の問
題として、むくむくと太ってきたのだった。
「自分」と謂えるものは、此の世にただ「一人」だけいる。一人しかいない。これは疑えなかった。
自分以外は「自分でない」以上、みな「他人」だと思った。すると親子も夫婦も兄弟も親類も「アカの他人」同様に「他人」なのか。「自分」でないのだも
の、当然に「他人」だった。世間の人はそういう存在を「身内」と呼んでいたけれど、疑問だった。疑問は到底拭えなかった。そんなのはみな、ただの「関係」
を示す呼び名であるだけだ。疎遠な親子も、仇同士の親類も、他人の始まりの兄弟も、琴瑟和すにほど遠き夫婦もいる。
「身内」ってそんなものか。ちがう、と私は断定した。現に育て親に私は親しんでなかったし、実の親は非在、そしてどこかにどうやらいるらしい兄や姉や妹
の、顔すら一度も見た覚えがない。所詮「自分」じゃない、向こう三軒両隣の人、町内の人、学校の友達らと同じみな「他人」、つまり「知っているだけの人」
という意味の「他人」であると、私は厳正に決定した。
そして「知っているだけの人達=他人」の、背後に、遠くに、「まるで知らない人達=アカの他人」という「世間」が在る。世界中にそういう世間として「人
類」が実在している、それは疑えない。軽くも見られない。そう思った。「男」「女」などという分類は、「アメリカ人」「ギリシァ人」などという、「黒人」
「白人」などという分類は、わたしの関心や思索とは無縁の、つまり科学的・社会的事実でしかなかったのである。
纏めるとこうである、「自分」と、「(自分でない=知っているだけの人達=)他人」と「(その人について日常的に何も知らない人達=アカの他人の=)世
間」の三種類が、此の人の世に「人」として存在している。幼いわたしは、そう考えたのである。
そして、こういう「人」達は、自分も含めて、どのように此の「人の世」に「生まれて=was
born」来るのだろうか、と。むろん、生物的な出産・出生の生理現象を問うたのではない。
産み落とすという言葉がある。「生まれる」がほんとうに受け身の形であるなら、つまり絵に描いて想像してみるなら、「生まれる」とは、「此の世=世間」
という広い海に、神様だか誰かは知らないが、石を投げ込むように人を投げ込んだのではないか。われわれは、此の世に「投げ込まれた」ように受け身に「生ま
れた」存在ではないのだろうか。私は、子供心にそう想った。その先は、よちよちと思索の進展である。
もし「生み=海」に投げ込まれた石ころの一つのようなもので「人間」があるなら、溺れて沈んでそのまま死んでしまう。人は魚ではない。
わたしは、こういう想像をした。眼を閉じ、どうか、私の謂うとおりに想い描いて戴きたい。
見渡す限りの、海。広い広い、海。よく見ると、その海に小豆をまいたように無数の島、小さい小さい島、が浮かんでいる。さらによく見ると、それら無数の
小さい島の一つ一つに一人ずつ人が立っている。
島は、その人の二つの足を載せるだけの広さしかない。島から島へ渡る橋は無い。橋は架かっていない。「人」は斯くのごとく孤立して此の世という「海」
に、「自分」独りしか立てない「島」に、あたかも投げ込まれるようにして「生まれる was born」「産まれ落ちる thrown
down」のであると、わたしは想像し、銘々に「自分」なる「人」本来孤独・孤立の「誕生」を、脳裏の絵に描いたのであった。誰一人として、この想像を否
定できないと確信した。
海(人の世)と島(「自分」孤りの生=無数の「他人」「世間」の生)との、世界。父母未生以前本来の「人」の在りよう。そんな構図の世界観。
そして思索は、先へ、また動いて行った。
天涯孤独は人間として当然の前提らしいと私は納得していた。その上で、「寂しい」という気持ちを、世界苦(Welt
Schmerz)のようにもてあましている自分自身に、いつか気づいていた。手近に謂えば「独り=孤り」はイヤという、苦痛に似た思いである。
気が付いてみると、(本なども読むようになると)、橋の架からない島と島との間で、自分の足ひとつしか載らない小さな島の上で、人が人へ、他人の島へ島
へ、さまざまに呼び合っている声が聞こえてきた。自分もまた渇くように呼んでいると痛感し始めていた。人の「愛」が欲しい……。「個」としての「孤」は絶
対の世界意思(Welt Wille)であろうとも、「孤」を脱したい人間の意思(Mensch
Wille)も確かに在る。人は「愛」を求め合っている。本来不可能と分かっていても、島から島へ橋は架かっていないと分かっていても、なお「愛」を求め
ずにおれない渇仰が酸の湧くように心身を痛める。愛が受け容れられねば、この世界、底知れない孤独地獄でしかない。
私は、かくて真の「身内」を真剣に考えるようになった。名前をもった社会的・生物的「関係」ではない「真の身内」を、人は寂しさの余り渇くほど求めてい
る、いつも求め続けて、他の島へ呼びかけ呼び交わしていると思った。
だが、それは可能なことか。私は本気でそれを考えた。
そして、こう思い詰めていったのである。
幸いにして、人は、自分独りしか立てないはずの小さな島に、ふと、二人で立てていることに気が付く。三人で、五人で立てているとすら、気づくことがあ
る。恋をしたり、すばらしい親友が出来たり、信じ合える先生や教え子が出来たり、水ももらさぬ伴侶が出来たり、愛し合う子、敬愛してやまぬ親、すばらしい
チームメート、慕い合える知己などと、倶に島に立てているではないか。
一過性の相手もあれば、崩れゆく信愛もある、が、生涯変わらない単数の、また複数の相手と、この時に、あの時に、時々に出逢い、それら出逢いの幸福感や
充実感ゆえに、ああこの人と一つの「島」を、運命を、分かち合って立っているぞ、と信じられる。
こんなことは、人により多少と深浅の差はあれ、体験する人は必ず一度ならず体験しているものだ。
私は、こういう相手を真に「身内」と呼ぶべきであると思った。親子だから、夫婦だから、きょうだいだから、親類だから「身内」であるといった思いよう
は、子供心にも軽薄だと思ったのである。
「自分」が独り、自分の他に「他人」が大勢、「世間」はさらに無数。しかも、日々生きて暮らして、「自分」は広い「世間」のなかで「他人」と知り合う。
より大切なのは、そういう「他人」や「世間」のなかから、孤り=独りしか立てぬはずの「島=いわば運命」を共有しあう「身内」と不思議に出逢う。不思議に
そういう「身内」を見つけ出す、見つけ出したい、見つけ出そう、と「生きて」行く。人として何よりも根底から願っているのは、名誉よりも富裕よりも権力よ
りも、本質的にかけがえない「身内」だ。世界中の誰も誰もがそう根の思いで欲し欲して生きているはずだと私は信じた。
自著『死なれて 死なせて』(弘文堂<死の文化叢書15>一九九二)に私はこう書いている。
それにしても不思議なことではないか、東京のような巨大都市に暮らしていると、百メートルと離れない近くのお葬式にも、胸にさざ波ひとつも立たないとい
う事実がある。その一方で、顔も見たことのない、年齢も仕事もよく知らない文通だけの一読者の訃報に思わず涙をこらえるという体験もある。十年、二十年
たってもまだ「悲哀の仕事=mourning work」の終え得ない死もある。これはいったい、どういうことなのか。なぜ、そうなのか。
それを誠実に考えつづければ、私は、どうしても「世間」「他人」「身内」と感じ分けてきた「自分」の「島の思想」へと立ち帰らずにはおれない。
「死んでからも一緒に暮らしたいような人――そんな身内が、あなたは欲しくありませんか」
私の戯曲『心―わが愛』(俳優座劇場、加藤剛主演、一九八六)では、「K」が「お嬢さん」にそう問いかけ、彼女は声をつよめて「欲しいわ」と答えてい
た。
あなたは、どう、思われるだろう。
世界中の名作小説や戯曲を私は思い出す。
谷崎潤一郎は、こんなことを言っている。むかし、あるところに男(女)がいて、その男(女)を愛する女(男)がいた。小説はつまりその幾変化であると。
そう簡単ではあるまい。
万葉集の基本の部立ては時代(治世)のほかに「愛(相聞)と死(挽歌)」であった。人は愛し、そして、死なれ・死なせて、生きてきた。幸福に、また無残
に苛酷にと。そう謂えるだろう。
そう見極めた上で、私は、人は「生まれ」ながら孤独であり、もともとその運命=足場としての「島」「島」は絶対的に孤立していると観た。島から島へ橋は
架かっていない。だが、それでは到底寂しくて叶わない人間は、錯覚、貴重きわまりない錯覚としての「愛」なしに生き難い。互いに島から島へ呼び交わして、
広い「世間=海」から「他人=島々」から、「身内」を渇望し、我一人の「島」にともに立とう・立てたと幻想するようになる。必ず、なる。これ以上必要で価
値多い幻想はほかに無いのだ。
そして、いつか、そんな身内にも人は「死なれ」る。いや「死なれる」どころか、苛酷に「死なせ」てしまう実例も事実数知れない。光源氏は最愛の藤壺も紫
上も「死なせ」ている。薫大将は宇治大君を「死なせ」ている。勇将平知盛はむざむざと目の前で愛子十六の知章を「死なせ」て自身生きのびたのである。ヒイ
スクリフはキャサリンを「死なせ」、ジェロームはアリサを「死なせ」、王子ハムレットもファウスト博士も愛する「身内」の女を「死なせ」ている。わたしに
言わせれば、春琴と佐助も、いわばともに相手を「死なせ」るに等しくして、ともに生きたのであり、世に愛し合うものたちは、時に親を棄て子を棄て伴侶を棄
てても、より愛おしい「身内」と運命を分かち合おうとする。
「身内」とは何であろうか、通俗に言えば、まさしく「死んでからも一緒に暮らしたい人」の意味でなくて何であろう。
阿弥陀経に「倶會一處(くえいっしょ)」の四文字がある。意味するところは極楽であろう、が、私は仏門の意義に聴きながらも、囚われない。死んでからも
同じ一つの「家」に心おきなく住み合える人達。私はそんな人達を「身内」と思ってきたし、あらゆる文学・文藝に登場して、愛と死とを深く身に刻み合い分か
ち合った同士は、本質、これと少しも異ならない、その示現そのものだと観ている。
しめくくりのモノローグに、ごく初期の自作『畜生塚』から一部を引かせていただこう。私の主な仕事は、すべてこの作よりあとから生まれた。少年の、青年
の、少しはにかんだような「理解」が語られているが、私の死んだ実兄が最も愛してくれた「手紙」である。静かな気持ちで、どうか読みおさめて頂きますよ
う。
*
もう夕暮といいたいほどの陽のかげが広くもない境内に斜めにきれいな縞をつくっていた。甃(いし)みち、築山、それに萩があちこちにうずくまったように
みえる。鶏がいる。自転車がある。ふとんが干してある。セーターを着た若い人が庫裏(くり)をせわしげに出たり入ったりしていた。それでいて堂前の庭のた
たずまいなど清潔で美しい。薄ぐらい感じはない。案内を乞うまでもなく、門を入って右の方へ甃の上を歩んでゆくと立派な石碑がならんでいた。瑞泉寺、前関
白と割書きして一段大きく秀次入道高巌道意尊儀と刻んだ大きな石塔を真中に、右に篠部淡路守外殉死諸士墓、左に一之台右府菊亭晴季公之姫外局方墓と刻んだ
石塔が並び、これをぐるりと左右後にとり囲んで、普照院殿誓旭大童子とか容心院殿誓願大姉とか妻妾子女の墓石がびっしりと居並ぷ。だが、どうみても非業の
死をとげた人たちの畜生塚とはみえない、白いみかげ石がまだ新しみさえ帯びていて、きちんと墓石が整列している。さっぱりしている。
町子はセーターの青年に博物館でみた掛物の残りが寺にあるかときいていたが、それはやはりみんな博物館へ渡してあるとのことだった。
何の恐しげな古塚を期待したわけでもなかったが、仕合せそうにちんと鎮まっている秀次たちの墓所には、妙な皮肉な味があった。町子も私もこの皮肉がよく
わかっていた。眩しいほど真黒な猫が門のわきの萩むぐらの下に碧い目と茶色の目とをけいけいと光らせて私たちをみていた。妖しく美しい姿態をきりっと緊張
させて、黒き猫は萩の下にいた。ああこれがそうだ、この猫がそうだったのだと感じた。何がそうなのか言葉にはならずに私は合点した。黒猫が目をみはるほど
美しいこと、すこしも気味わるくないことが私たちの気分を救っていた。
東京から長い手紙を書いた時も、私はあの萩の下に輝いていたものの美しい光沢を意識していた。文面はともかくとして、町子に伝えた夢想とは大体こんなも
のだった。
私はもともと定まった自分の家と家族をもっていたのです。いつか私は必ずその家へ帰り、私は家族(身内)と永劫(えいごう)一緒にすごすのです。その家
族とは親子同胞といった区別のない完全な家族ですが、その家族が本当にどんな人たちなのか今の私は忘れていてよく想い出せないのです。なぜなら、私はその
家を出て、この現実世界の混乱の中へ旅に来ているからです。
今の私の生活はすべて旅さきの生活であり、家庭は仮の宿です。私はいつか、死ぬという手段であの本来の家(この本来という言葉はよくいう父母未生(み
しょう)以前の本来です)へ戻り、本来の家族(身内)に逢うでしょう。私より先に帰って来ている人もいるでしょうし、あとから帰る人もあるでしょう。
私がいつか死ぬようにあなたも死ぬでしょう。あなたはあなた自身と家と家庭とを本来もっているのですから、その家へ帰ってゆくのです。その家にはあなた
自身の家族(身内)が住むのです。私もその中に入っているでしょう。そして、私の家にあなたはもちろん居るわけです。
この意味がわかりますか。死後の世界、いいえ、本来の世界では、私という存在はただ一つではありません。私のことを身内と考え愛してくれた人たちの数だ
け、その人たちのそれぞれの家で私はその人たちの家族として生きるのです。同じことが誰にでもあてはまるのです。
私の家にいるあなたと、あなたの家にいるあなたとは全く同一異身なのです。私の家には迪子(=妻)がいますが、あなたの家に迪子はいないかもしれない。
しかし私の家では迪子とあなたは完全に一つ家族です。こうして無数の家がある。
あの世では、一つ蓮(はちす)の花の上に生まれかわりたいと昔の人は願い、愛を契る言葉として実にしばしば用いていますが、それは私のいうこの本来の家
と家族との意味を教えているように思います。
笑う前に考えてみて下さい。これは私の理想です。これが信念になるとき、私は死を怖れず望むようになりましょう。これが極楽であり、地獄とはその永劫を
一人で生きることです。人は現世での表面的な約束ごとで結ばれた家族、親子、同胞、夫婦や友だちをもっていますが、真実の家族は本来の家へ帰った日に、は
じめてわかる。
私は私の家へ、あなたはあなたの家へ、迪子は迪子の家へ帰ってゆくのです。私の家にいる私と、迪子やあなたの家にいる私とは別のものではない。どの家に
いても、私は私を分割しているのではないのです。どれも本当の私であり、どの家を蔽っている愛も本当の全的な愛なのです。
年齢も容儀も思想もどんなことも詮索することなしに信じて愛し疑わない身内だけの世界がある。このふしぎな私の夢をあなたもいつか信ずるでしょう。そう
信じなければ、人は寂びしくてこの旅の世界に惑い泣いてしまう。
私はこういうことをあの博物館の中で花火のように想い描き、瑞泉寺を出るときに信じはじめました。私の得たふしぎな安心は大きなものです。死をおもうこ
とに恐怖がうすれています。
迪子はこの私の描いた夢を理解したようでした。 06.08.23
――了――
* 言っておく、「第二子(弟・秦建日子)誕生以降二十年」のながきにわたり、実父であるわたしから「性的虐待」「ハラスメント」を受け続けてきたと、イ
ンターネット上での謝罪と賠償金を「民事調停」の場に求めている「第一子(姉・押村朝日子)」を、わたしは心底軽蔑し、永訣する。
* 今日は、風につらいことがおありだったのではないかなあと、一日想っていました。
どうして風を辛い目に遭わせるのか、誰をというではなく、風をそういう環境に置く見えない力に、腹を立てています。
言葉が見つかりません。
お元気で、風。 花
* 秦恒平はこれからが益々花の盛りではありませんか。書いて書いて生きて女たちを愛してください。
それにしても「畜生塚」いいですねえ。何度読み返しても惚れ惚れします。二十七歳でこれを書いたなんて……。湖は天才の人生を全うするしかありません。
お元気でいらしてください、湖。 月
* 絵! 感激しました。あまりにも巨大な絵でしたのでピクチャービューBとかのソフトをいれてもらい拝見させていただきました。
生きている薔薇でした。
バックの処理もお見事です。色も絶妙! すばらしい薔薇の絵に出合うことができました。お陰様で。
風景画も水面を実によく描いておられます。構図といい水面の占める大きさといい 満点ではないでしょうか?
私は薔薇の絵のほうがどちらかと言うと好きです。とてもとても私には描けないすばらしいものです。有難うございました。
お話したいことが余りにも多くて 話せませんが 調停のほうどうぞ頑張ってくださいませ。
11月18日に京都美工関東地区の同窓会があるそうです。 詳細はまだですが恒平さんはいかれますか? もしご出席のようでしたら 私も前向きに考えま
す。
明後日から 昔の(勤め先)吉忠の方たちと白馬の切久保館へいきます。 紅葉をたのしんできます。7名で毎年何処かでかけています。OB会です。辞めて
40年にもなります。
また近いうちに私も 制作した絵を添付ファイルにてお送りさせていただこうかなーと思っております。
ではどうぞごきげんよう! 郁
* 「MIXI」に三枚の絵を載せているが、花の一つはこのメールの人の作。わたしの好きな作。もう二つの薔薇と風景とはわたしのべつの親友の作。とく
に、郁さんも褒めてくれているように、この「薔薇」の原画はおそろしいほど秀れて描けている。妻など、眼が薔薇に吸い取られて行くと感嘆する。そう大きく
もそう小さくもない繪だが、画家が自分でもいちばん好きな繪と断定的に言うほど。なんでもない無造作なほどの構図なのに、繪がそこに在るだけで佳いし、見
れば見るほどさりげない中に真実の美がある。この画家は静止した命は描かない。命はいつもそよいでいると言う。この薔薇はいのちの美しいふるえをよくとら
えてくれた。
風景もさすがであるが、あまりに美しく静かに落ち着いている。
* 明日は四時に電子メディア委員会。わたしのホームページ消滅事件に端を発した問題が議題になる。
* 十月十七日 火
* 久しい付き合いの元阪大教授中村生雄さんの編纂された『思想の身体 死の巻』をいただいた。孫の死をめぐる「MIXI」状況などを思い合わせ、感慨あ
り。「死」の環境がインターネット時代にはいって激変して行く状況に初めて言及されている。昭和天皇の崩御にいたる電波による報道とは、また大きくサマ変
わりして行くことを、わたしは、孫やす香の「MIXI」日記、やす香と親とによる病名公開と、死への経緯の「MIXI」での公開、知人とだけに限定されな
い国内外からのコメントやメッセージによる参加、また祖父であるわたしのホームページ「闇に言い置く私語」公開など、きわめて顕著な新現象として「死」の
時代の大きな烈しい変換に一頁を開いたことになる。多くの批評や検討や推移がこの先にあるわけだが。
* 珍奇絶倫『小沢大写真館』昭和の「色」の世界をいただいた。小沢昭一氏のこの関連の著書は何冊も戴いてみな読んできた。「日本俗情史」という分野が拓
かれねばならないと、わたしは一九六九年文壇に顔を出して直ぐ、「芸術生活」に『消えたかタケル』を書いて、提唱した。小沢さんの一連の仕事はまさにそれ
で、単なる芸能史を広く深く越えている。
* 「たとえ十二部経を暗誦できようと、そのような者は生死の輪廻を免れえない。解放の望みなきままに三界に苦しみを受ける。」達磨
「教師(ティチャー)」たちの誇るどれほど多くの知識も、それは頭脳(マインド)を多くの言葉で満たすが、彼等の「存在」は空っぽで虚ろなままだ。大博
識の学者というのはたんに知識のある愚か者でしかないと、ほんとうの「師(マスター)」はその存在そのもので分からせる。ブッダもイエスも。達磨も。老子
も。
* 芹沢光治良『人間の運命』をじりじり読み進めている。いわば証言としての関東大震災で「人間」がひきおこす「恐怖からの凶暴」が、じつに無反省に無自
覚に世の中を大混乱の不幸へ導くさまに、戦慄する。地震災害以上に「人間」が悪意とともに意図してもちだし、「大衆」があらゆる知性と判断を見失って付和
雷同し追随して拡大させる人間性の凶暴化。おそろしい。
* そういう「人間の悪」に文学でふれ現実に生々しくふれていると、生の希望は、糸のようにやせ細る。いかに苦い味も楽しもうという姿勢でいても、イヤに
なる。生きていることが恥ずかしくなる。そういう「悪」が、ほかならぬ私自身の身の奧からも生まれ出ているのであるから、自己嫌悪は痛切。自分の血をすべ
て絞り出しどぶに流したいほど。
* 電子メディア委員会に電子文藝館委員会も合同して四時から六時過ぎまで。
おおかた「プロバイダ問題」を話し合った。委員長は立法面にもくわしく、他にも詳しい委員がいて、問題点は具体的にかなり突っ込んで話し合えたのではな
いか。
十一月に、プロバイダからも人を招いてより詳しく討議し、その上で、シンポジウムも必要なら開く視野で検討を続行すると。続行しなくてはならない問題に
当面しているという認識で、一致。
問題はとにかく大きく、「プロバイダ責任制限法」に規制されたプロバイダもじつはブログ等の運営やコンテンツ吟味や表現の監視に困惑するところがあり、
ユーザー側にもわけわからずに一方的に処理されて行く不満も不安もある。
双方が寄りより問題点を煮つめて、より良い「慣行」へ具体的な提案が出来て行かないだろうかと。
ことは、問題提示者である秦委員の私的な事件を上越して、このブログ盛行時代におけるプロバイダと表現者や著作権者のあいだで、より堅固で適切な共通認
識や慣行や基盤が出来て行かねばならないだろうというのが、委員会の認識であり、それが確認されてひとまず終えた。その線でもう一度二度と具体的にフォロ
ウされて行くことになる。
およそそういう事で。合同委員会のかたちになり、良かった。
* 昨夜の睡眠時間がみじかく、疲労していてどこかで食べて帰る根気がなかった。上等のカステラを一箱買って帰った。明日は亡き神戸一三歯科医の葬儀に妻
と列席。二人とも後継ぎの娘先生に御世話になっている最中。
明後日には、校正刷りをもって、すこし秋の空気を気儘に吸ってきたい。夕刻以降、谷崎賞のパーティーもあるが。いま、自分に必要なのはしずかに自己を開
放してやることだろう。
* 「MIXI」日記をしらべてみると、今年二月十四日にログインして以来、即翌日から新連載をはじめて、作品だけで、のべ三百三十回分も掲載している。
その他にいわゆる日記も五、六十回書いている。ほぼ八ヶ月になろうとして、「MIXI」利用度は予期していたより頗る高い。
いうまでもなく「MIXI」もいわばプロバイダであり、この八ヶ月の間に不可解な干渉や不愉快な干渉を何回もわたしは受けた。やす香との足かけ六ヶ月の
マイミクシイ関係に有ったなればこそ、わたしたちは実に多くのやす香の記憶を日記から得られたし、友人達の証言からもえられた。つらいことだが、なにより
もやす香の病状に深い悲しみも苦しみも味わった。おまけにやす香の死後にやす香の名前を悪用した奇怪なイヤガラセにもイヤほど遭った。「MIXI」への愛
着は、わるいが今のところ殆ど無い。ただ、小一万にたっしている「足あと」を経て新しい何人もの友を得てきたよろこびが、退会の足を引き留めている。
* 薔薇の繪を五十パーセント大に拡大してみると、その把握の精緻におどろく。精緻というと細かに描いていると思いがちだが全くちがう。命の把握が精緻に
トータルなのである。画家はいみじくも「思い通りの効果」をこう言うている。
* 何度も、もうこれは失敗だなと考えたりしたのだが、やっと『これだった!』と言いたいイメージに近づいた。
完成したのではない。重要なイメージが発生したのだ。そうなると、完成するかどうかなどは消えてしまった。つまり、仮りに完成しなくとも、イメージは消
えないからだ。むしろ下手に完成させて、その結果、イメージが消えたりしたらそれこそ絶望的である。
この、イメージが発生すると、その繪から目が離せなくなる、ということを体験する。つまり、その繪を眺めてばかりいることになる。これは重要なことであ
る。忘れてはならない。
イメージを発生させた繪とは、視線をそこに釘づけにするのである。
* ごつごつした物言いであるが、素晴らしい「秘密」を語ってくれている、この画家は。しかしこの「イメージ」という通常な一語の含蓄を酌むのは、たいて
いではない。ものの見えぬ人には寝言のように聞こえるかも知れない。画家は形の精緻へ完成しようなどとつゆ願っていない。命の精微な「ゆらぎ」をそのまま
捉えていたい、捉えうれば眼はもう繪から離れられない。
* やす香さんの遺したものがこんな悲惨な結果であることが 本当に辛く思えてなりません。
愛するものを共に失った朝日子さんと心の交流が復活することを心から希っていたのですが。
湖さま。
やす香さんのぶんまで 生きて差し上げてください。
ケケケさんのためにも。今の朝日子さんは 病んでいてその力はありませんから。
三枚の絵 私は バラの絵と川の絵に心惹かれます。さりげないバラの絵ですが、力強い生命があります。イタリアの娘(画家)の感想も聞いてみようと思い
ます。
毎日 本当に夜七時 八時まで忙しくしています。
でも 一度 にごり酒のおいしいお店にご一緒したいですね。久々お逢いしてわかるでしょうか・・・・。 波
:結婚し母となってなお、父と嬉々として旅する朝日子 写真
* 平成三年(91)
正月、わたしと、母の代役の若いミセス押村朝日子とは、文化出版局「ハイミセス」編集者カメラマンとともに、四国松山、中国柳井・厳島等への「旅」に出
た。これはその旅中の仲良しな父と娘との写真。雑誌掲載以外にもこういう佳いスナップが何枚も手元にある。「見るから仲のいい父娘」と評判された。
見るがいい。この朝日子の笑顔の自然なこと。二十年にわたり父の「性的虐待」に悩み続けたと「調停」の場で訴える暗い多年の影が、この表情のどこに見え
ているか。
そもそも結婚して五年半もの主婦であり、母親であり、実家の父がそんなにも疎ましいなら、何泊もの長旅に同行する必要は少しもなく、誰も強いることなど
出来ない、朝日子はニベもなく断って少しも構わなかった。ところが母に代わって父と旅が出来ると、朝日子は幼いやす香を家族に預けてでも、大喜びで西国へ
仲良く同行してくれた。晴れやかな顔をした同じ時の写真が、このファイルの末尾にも三枚ならんで出ている。
だいたい、我が家では父親はいつもカメラマン。父親とならぶ写真は自然少ないが、このときは幾らでも同行の編集者がわたしのカメラで撮ってくれた。
弟が生まれて以降、自身が「七歳」の春から父のセクハラが急に始まり、自分の結婚まで二十年間ずっと続いたと朝日子は訴えている。
何のことはない、七年も親の愛を独占できていたのが、弟の誕生に親の愛も祖父母の愛もみんな奪われたと、世間普通なら一過性に通過するいじけやひがみの
表れを、なんと二十年も、いやいや今四十六だか七だかまで引きずってきましたと、自ら「解説」しているに等しい。
わたしは、妻もむろん協力してくれるが、われわれの朝日子が、いかにのびのびと両親に愛されて育った娘であったか、遠慮無く、みごとな「朝日子アルバ
ム」を此処へ一ファイル分「編集」してみようかと思っている。心なごむ、この際恰好の「癒し・楽しみ」で、ばかげた腹立たしさがいっとき忘れられるだろ
う。
写真はもう、各年代にわたりたっぷり用意した。それだけでアルバムが三冊。みな、上の写真のように、生き生きと可愛い昔昔のわれらが娘朝日子の、ウソも
仕掛もない像である。こんな佳い写真をこんなに沢山撮ってもらっていたかと、感謝してくれなくてもいいが、内心にきっと驚くことだろう。
見る人は、みな、これら朝日子が、父親から「性的虐待」を受けつづけけていた可哀想な娘の像と見えるか、きちんと、判定して下さるだろう、裁判官にもぜ
ひそうして欲しい。
わたしは、一般市民であるたとえば向こう三軒両隣のオジサン、オバサンを公然非難したり批評したりは決してしない。するのは、政治家や、知名度で以て働
いている創作者や演技者や教育者や文化人・知識人や、組織団体に対し何かを感じたとき、その時はきちんと遠慮なく批評する。褒むべきは褒める、非難すべき
は非難する。むろん自分がそうされることにも異存はない。
ただし、朝日子よ。押村高よ。でたらめなウソはいけないね、恥ずかしいじゃないか。
そうそう、わたしは、自分の家族にむかっても、お互い何の遠慮もしない。建日子でも朝日子でもむかしから何かあると父から「バカかお前ッ」とやられてき
た。しかし、二人とも大いに可愛がられもした数々の記憶、忘れたなどといえた話ではあるまい。家族写真は、その点、ウソをつかない。一枚二枚ではない、我
が家のアルバム、大判で三十冊はあった。カメラマンの父親が向けるレンズの前で、ウソの迷演技などできるものでない、そんなことは、今はプロの建日子が
ちゃんと保証してくれるだろう。
こういうことを、秦さんが自ら言うのは情けないという声が聞こえてくるようだ。だが、わたしは、一糎でも逸れて行く火の粉は払わないが、ふりかかる没義
道(もぎどう)な、しかも実の娘から狂ったように繰り出される火焔を黙って受けるような、グズな偽善的な聖人ではない。わたしはハッキリ胸の内で怒鳴って
いる、「バカか、お前ッ」と。
* 十月十八日 水
* 妻の衰弱が目にあまってきた。体調よりも精神の疲弊。この苦境は二人が死ぬ日までつづくこと、はまちがいない。
* 随分早くにこう観測して、わたしに懼れねばいけないのは「朝日子」だと教えていた人があった。朝日子達がこういう「作戦」から父母を圧迫しようとして
いることを、経験あるその道の「観察者」は正確に見通していた。
* もし、そのような根も葉もない訴えがあった場合、秦さんの潔白を信じてもらえる可能性はほとんどない。裁判は女の味方です。(自称)被害者のほうが強
いです。痴漢の冤罪よりも無実の証明は絶望的です。 読者
* 掌をさすように朝日子は「そう」出て来た。建日子が生まれて以来(朝日子が七歳以来)二十年、絶え間なく父親から虐待されてきた、と。しかし、こうい
う別の観察もきっちりされている。
* まず娘さんが「MIXI」に書いた性的虐待の日記ですが、そもそも娘さんがハンドルネームを使っているとしても、周囲に自分とわかるように書いている
こと自体、そういう事実はなかった「嘘」とわかります。性的虐待のカミングアウトというのは、女にとってよほどのよほどです。使命感でそういう「活動」を
している人以外には、ほとんど例がないのでは。
私は子ども時代の虐待について本人の書いたものをいくつか読みましたが、まずあまりの傷の深さに、そういう著作自体少ない。そして、書かれたもの二例で
は、本人が自分の名前を戸籍から変えていました。「MIXI」に載った娘さんの(結婚後にも父親と楽しそうに並んで旅している、また自然な笑顔の幼時の)
写真は、みごとに(上の嘘を証明し得ていて) 雄弁です。 読者
* わたしの読者はほんとうに多彩で、その道、道で著名な人もいっぱい、いまは亡くなったけれど最高裁判事の一人もながいあいだ「湖の本」の熱心な支持者
であった。
* この写真。上のが六九年秋深く、九歳数ヶ月の娘・押村朝日子が、二歳に近づきつつある弟と大笑いしている。撮影は、むろん父親のわたし、ニッカの愛機
で。保谷泉町にあった医学書院社宅時代。翌年早々には下保谷に新築の新居に移転した。この写真の年の六月桜桃忌にわたしは第五回太宰治賞を受賞し、文壇へ
仲間入りを遂げている。
ところで朝日子の「民事調停」陳述では、これらより二年二年半も前から、すでに「父親による性的虐待等」を受けて苦しんでいたとある。
この頃わたしは激務の編集管理職のかたわら、新潮社新鋭書き下ろしシリーズ『みごもりの湖』をすでに依頼されていた。受賞第一作に旧作『蝶の皿』を新潮
に、また新作『秘色』を展望のために書き継いでいた。編集職の繁忙と新進作家への意欲や不安とで寧日なき日々、こういう写真を写せる機会が、ほんとの憩い
と楽しみであった。わたしは一にも二にも自身とひたと向き合い「創作」に打ち込んでいた。さもなくて生き延びて行ける世間でなかった、純文学の文壇は。
子煩悩過ぎるとまで人に笑われたわたしが、なんでこんな無邪気に可愛い娘を性的に精神的に虐められるだろう。この当時の医学書院鉄筋六世帯の社宅は、一
世帯、襖で隔てた六畳と四畳半だけ。家族は妻と四人。妻はわたしの夥しい手書き原稿を、日々家事と育児のかたわら懸命に清書してくれていた。
* わたしの妻は、母に先立たれた父に自殺されている。それを今でも自分の気のゆるみから父を「死なせて」しまったと悔いて嘆いている。まともな親なら我
が
子に死なれれば「死なせて」しまったと嘆き悔いてむしろ自然ではあるまいか、祖父母ですら、そう嘆いているというのに。「死なせた」が「殺した」と同じ日
本語なものか、どんな語感でいるのだろう。文学音痴は、「哲学」に学んだ夫婦ともどもなのか、情けない。
わたしは、ふつうの言葉ではもはや言い解きようのない娘夫妻のこういう卑劣な言いがかりに応える、これより他の「方途」を知らない。弁護士も教えてくれ
ない以上、こういう写真を二十数年分一枚一枚掲載して行く。自身を守り妻の名誉をまもってやる、他の方途をわたしは知らない、持たない、からだ。
* 歯科の神戸一三先生葬儀に妻と列席してきた。葬式は寂しい。
江古田の神戸先生は上の写真の社宅時代から御世話になってきた。お嬢さんが二人、上の蘭子ちゃんはお茶の水女子高で朝日子と同学年、下の葵先生には夫婦
していま歯を診てもらっている。その、上の蘭子ちゃんのご主人の舅・神戸先生を悼んだ遺族挨拶の言葉には、妻もわたしも感動して泣いてしまった。なんと世
の中にはこうもちがった「娘夫婦」がありうるのかと。はっきりしている、神戸先生に徳があり、わたしたちが不徳であった、それに尽きている。
* 幼い日の娘の写真を見ている間は、老いた父と母はひととき心癒されている。なんという皮肉なことか。
* だが必ずしもそれだけではない、『千夜一夜物語』を文庫本で読み始めると、わたしはあっというまに他界に翔んでゆける。午前・午後、葬儀からの帰りの
電車で本をポケットから出すとたちまち、わたしはシェヘラザーデのお噺に溶け込んでしまい、気が付くとクツクツ笑っていたりする。四百十九夜「男女の優劣
についてある男が女の学者と議論した話」には吹きだした。わたしの妻にもどうか、こういう何かしら別世界をもって溶け込み、何の意義もない不愉快を押しや
り押し払って日々過ごして欲しいと思う。
* ブッダは無益な修業をしないと、こんなことは、達磨だから言える。獅子吼とはこういう言明をいう。
* 無心の本性は根源的に空であり、清浄でも不浄でもない。心(マインド)のレベルであれこれしている限り、だから当然、無心にはなれない。心はいつも思
考で溢れて在る。心とは思考の容器にひとしい。そしてそんな心の働いている過程は、清いか汚いか、なにしろ容易に空ッぽに成れないのが心(マインド)であ
る以上、それは清浄か不浄かのどちらか。心はけっして二元対立を超えることはできない。いつも賛成か反対かであり、いつも分割・分別されていて、分裂症の
状態にしかない。けっして全一(トータル)にはならない。なれない。二元対立を免れうるのは「無心」という静かな、心ではない心だけだ。それは曇りなき大
空のようなもの、トルストイの『戦争と平和』でアンドレイ公爵が戦場で斃されて見上げていた無限の青空がそれだった。
* いまわたしのマインド(心)の世間は黒雲が渦巻いておはなしにならない不浄な世間だけれど、わたしはそれがそういう世間だと知っていて、無明の闇にい
る自分を感じているが、そこから抜け出せるときを持っていないのではない。雲に目をむければひどいものだが、雲と雲のかすかな隙間を通して広大無辺の澄ん
だ大空を垣間見ることもそれに気づくことも出来る。そのとき押村高も押村朝日子もない、何の価値もないただの雲屑とすらも意識しないでいられる。
それなら大空になればいいではないかという催しがあるにしても、まだそれが理であり言葉であるあいだは、わたしは慌てて覚り澄ますフリなどしたくない。
まだマインドで分別してなんとかしようなどと思う自分を完全に否認し得ていない間は、ま、現世風に闘わねばならず、苦しまねばならない。
* 十月十八日 つづき
* まことに奇妙なものを読まされた。一字一句そのままに、まずさしあたり、「秦による押村朝日子に対する40年にわたる虐待行為」と題してある。調停の
町田簡易裁判所へ提出された公式文書で、前にあげたわたしの「陳述書」に相当する。
放っては置けない。すべて、順に応えてゆく。
わたしの「伝記」を書きたいと言うている人もある、恰好の資料になるだろう。毎日「つづき番外日記」として書いていこう。先ず太字の「第一項目」から。
年次が挙げてある。それだけでデータは無い。
*1967年
秦家弟二子妊娠をきっかけに、朝日子への虐待が始まる。性的虐待を含む精神的蹂躙等。 押村朝日子
* 母迪子の妊娠を「きっかけに」とは何を謂うのか、意味も因果関係も全く不明、事実の証挙も全然無い。こういうことを言いかける以上、明確に願う。
この年の朝日子はわずか七歳、だが、書いている今は四十六歳、もう少し大人の言葉を使って欲しい。
母迪子には生来出血性素因の出産危険があり、一度は医科歯科大で、妊娠しないようにと警告それていた。その対応に結婚以前からともに憂慮してきた我々夫
婦は、朝日子を妻が妊娠したとき、会社先輩を通して当時血液学会の泰斗であられた森田久男先生を頼り、「任せなさい」と太鼓判をおしてもらい、それでも出
産に当たっては会社同僚から献血してもらったり、予定日二ヶ月も前から入院したり、病院も両親も懸命に努力した。秦の上司で著名な文学者長谷川泉編集長の
朝日子誕生祝いには、氏の著書の見返しに、そのことを含めた温かい献呈詩が書かれて残っているし、後年朝日子の結婚式には御世話になった森田教授と助教授
にも、長谷川氏にも出席して祝って戴いている。
第二子建日子の妊娠を永く夫婦がためらったのは、そういう母親の体質上の懸念があったからだが、第二子をぜひにと奨めてくださる先生もあり、日本の「新
生児学」草分けの馬場一雄先生に御世話戴いて、日大病院産科と小児科との緊密な協力のもと、建日子の誕生へ、むろん姉朝日子の期待もふくめて、家族が心を
一つにしていった。
わたしには永年の手書き日記がすべて残っていて、今此処にも、まさしく一九六七年から八年九月までの大学ノート二冊が在る。
昭和四十三年元旦、それは一週間後の建日子誕生をまだそれとも知れず、ただただ病院の空白な正月休みを何としても無事乗り切りたいと肝の冷える思いで年
を越してきたところだった。その日記にはこうある。わたしはまだ作家ではなかった。
1968年 昭和四十三年元旦
使い馴れ、沢山の仕事をしてくれた古いペンのインクを抜き、この新しいパーカーにインクを入れることから新年は迎えられた。このペンで今年は良い、納得
のゆく作品を生みたい。多くということより、良い作品を一つでもと願う。会社の仕事は難しい一年を迎えるだろう。朱い校正ペンのインクもしっかり入れかえ
た。
つい先刻、私は一人で尉殿(じょうどの)神社へ参ってきた。(大晦日の)十一時十五分頃だったからまだ人はいなくて、あかあかしとかがり火がたかれてい
た。祈ることは一つ、迪子の無事と安産。誕生する子の無事健全。そして朝日子の健やかでつつがない成長。父、母、叔母の安穏で健康な老年時代。それに私の
力強い生活。
しかし、何よりも迪子の無事だ。私は参拝に出かけずに居れなかった。何という緊張の月日だったことか。九月中頃、病院へ呼び出され、手術か安静かで心を
悩ませ、一時入院し、母の上京を乞い、そしてマル二ヶ月余にわたる静臥の日々。やっと十二月十日の婚約記念の日から(出産への最低)目標圏に達したが、そ
の後も大事に大事をとり、ついについに年を越えたのである。大晦日のマル一日の長く切なかったこと、刻一刻、私は祈らずに居れなかった。しかもこの日、社
用で(本郷の)編集長宅へ出向かねばならなかった。
だが、私は1967年に感謝する。私たちにもう一人の子を授けてくれた。どうか1968年がつつがなく朝日子につぐ私たちの建日子(男子なら)、肇日子
(女子なら)を迎えさせてくれますように。
日の出まつ祈りは一つ父と母
母ひとり産むにはあらで父も姉も一つに祈るお前の誕生
私の思うことは今はただただ迪子の無事安産だ。その瞬間まで私はベストを尽す。迪子、頑張っておくれ。Good Luck! 1968年!
南無阿弥陀仏、南無観世音菩薩、南無大勢至菩薩、 合掌
* なんとも気恥ずかしい男三十二歳であるが、さ、此の切なる祈りの日々のどこに「朝日子への虐待が始まる。性的虐待を含む精神的蹂躙等」の影がさしてい
るか。
「朝日子への虐待が始まる」どころか、この夏から翌年一月八日の建日子誕生までの日々は、ただただ母胎の安定を祈りながら切迫流産の危険に堪えて暮らして
いた。わたしは、なんどか夜にひとり近くの尉殿神社に無事祈願に通っていたし、それでも、秋口までは同じ社宅にいた、いまは米沢女子短大学長である遠藤恵
子さんや親友の小椋春美さんという女子社員に「茶の湯の作法」も教えていた。妻がきわどく入院しそうになると京都から母も手伝いに来てくれたし、朝日子も
じつに懸命に洗濯や風呂の用意などそれはそれはしっかり手伝ってくれて、どんなに両親は助けられたか知れないのである。感謝こそすれ虐待、性的虐待、精神
的蹂躙? どこにそんなものがありえたろう、いったい何のために。わたしは、もう孜々として小説を書き継いでいて、それに命がけだったし、朝日子のために
も弟か妹が出来るといいと、「一人子」で育った淋しさをよくよく知っているわたしは、妻に身の危険を冒してもらったと言えば言えるし、妻も同じことを夕日
子の為に願っていた。親として当たり前の願いである。
だが、あの「絶対安静」はしんどかった。とにかくも出産予定日に一日でも近づけたいと医師にいわれた。そのためには暮れ正月の病院の空白期を跨がねばな
らない、気が砕けるほど心配し日々祈った。家の掃除もするな、埃りで死にはしないと医者に言われるほど、母迪子は安静を要し危険であった。
その状況で当時七歳の朝日子の懸命の協力は、よくやってくれると親として感謝感激であった。父は主任編集者として部下とともに月刊雑誌数冊の定期発行、
さらに単行本企画やその刊行の責任を帯びていて、言語道断の激務であったが、日々食材の買い入れから簡単料理、おりしも正月を迎えるための雑煮やご馳走の
用意など、生涯に二度となかったほど、朝に晩に台所に立った。朝日子は洗濯や風呂の用意などを良くしてくれたが、閑散とした郊外の社宅ではあり、買い物は
ごく近所へだけ。だが、よく手伝ってくれた。わたしは池袋の地下ショッピングセンターで毎日帰宅途中ひたすら肉の細切れや卵など、ワケの分からない買い物
をして帰った。正月のご馳走は仕方がないので、むやみに買ってきたいろんなものをぶちこんで、闇鍋風にしたのを覚えている。
京都から老母がまた手伝いに来てくれたのは、一月八日に建日子が生まれて後であったが、この建日子の状態が朝日子の時よりもそう簡単ではなかった。建日
子だけの院内生活が長引いて母親は嘆いた。京都の祖母は朝日子のために和服の晴れ着を土産にくれて、それを着て一緒に宮参りしたりした写真もある。
その後も、弟との生活が嬉しくて楽しくての、おもしろい姉と弟の仲良し写真は何枚も何枚父が撮っている。
いったい、どこにその父親から性的虐待を受けたりハラスメントされた暗い影があるか、写真は一目瞭然で、要するに冒頭の第一項など、何の裏付けも無い夕
日子の「虚言」「妄想」である。この当時から、太宰賞を受けて文壇へ出た父親には、ひたすら文学、文学の創作意欲で貫通された歳月が続くのである。新人離
れした年に四、五冊平均も単行本を出し続けて十数年、息もつかないような中で、わたしと娘との触れあいは、たくさんな自慢の可愛い子供達写真が雄弁に物語
るであろう。
* ただ一条、わたしは朝日子のために言い添えてやりたい。朝日子は1960年、昭和三十五年七月二十七日、われわれがやす香をついに死なせてしまったそ
の日付けに生まれていて、弟より七年半の年長である。わたしは妻の危険を懼れるあまり第二子出産をためらいつづけた、そのために夫婦生活にも厳格に注意を
はらい妊娠を避けた。それでも実は一度妻は初期の内に妊娠中絶も敢えてしたのである。それだけに朝日子への両親また京都の祖父母達の愛も深かった。まさに
朝日子は大人の愛を一心に集めていた。鍾愛とはあれであったろう、妻とわたしはのちのちにもそれをこう言ったものだ、「朝日子は建日子より七年半もなが
く、あんなに愛されたトクをしてきたんだなあ」と。
しかし建日子という男子の、生まれたときからやや健康につまづき多い弟の、誕生は、一つには両親を心配もさせ、また男子なるが故に京都の老祖父母達の驚
喜をもかちえたのは自然の数であった。「男の子というのは、あんなに喜ばれるんだ…」とも、両親はしんじつ驚いた。それが朝日子をよほど心外に落胆させて
いたのでもあろうことは、当時から理解していた。すこし可哀想な気もしていたが、秦家に限った現象でないのも事実で、姉は七歳半の年長ということに、われ
われは当然「期待」していたし、まして両親である我々に弟・建日子を偏愛したなどというバカげたことは微塵もなかった。「良くできる朝日子ちゃん」「わす
れもの上手なアホーのタケちゃん」という、ま、幼少期からの人様からの定評は永く動かなかったのであり、「良くできる」「いい子」の朝日子にそれゆえの負
担があったにしても、そんなことは世間には「愚弟賢兄」の顰み余りあり、ほんとうに聡明な兄や姉は、みなふつうにそれを乗り切っていっている。まして七歳
半も年長ならば。
* 十月十九日 木
* 黒いマゴの夜中の出入りに、二度睡眠を中断され、六時半には起床。前夜は日付が変わってやがて床に就いていたので問題はない、いつもどおりバグワンも
太平記も英国史も『人間の運命』も、そして「ルネサンス」もみな読んだ。この「ルネサンス」という文明現象ほど或る意味で怪奇にフクザツなものはない。イ
タリアという当時の半島文明の政治的・藝術的異様の対照を眺めるだけでも、思いあまるややこしさがある。悪の権化のような、しかも勝れて有能な君主や商人
達の、底知れないキャラクターを評価し得ないまま「ルネサンス」を安易な決まり文句で分かった気になる危険さこそ、思うべし。
小沢昭一さんの怪著にもクツクツ笑わせられながら、黒いマゴが電気スタンドの上に寝ていて消せないそのまま、例の夢路に滑り込んでいった。
* ブッダは戒めを守らない。彼はどんな戒律にも従わない。彼は最大限の「気づき」をもって生きているから。ただ静かに眺め、自らの全存在がすべてに応答
するのをゆるしている。彼はまるで鏡のようだ。ただ映し出すだけで、ほかにはなにもしないとバグワンは正しく語る。「なにもしない」ということを言い換え
ると、「なにをしてもしないと同じ」だということ。
わたしは座禅したまま暮らせる状況にいない。それなのに強いて座禅をしてみてもそれだけでエゴの業に陥る。すべきと感じたことを為すべく為して「なにも
していないと同じ」一面の鏡のように生きて在ることが、不可能とはわたしは考えていない。そこに偽善的な世間のリクツを持ち込まない方がよほどいい。
* 今日は大部の校正刷りを抱いて、頭をつかいに電車にのったり美しいモノをみたりしに街へ出る。晩には谷崎賞のパーティーがバレスホテルである。いちお
うそれにも出る気で出掛ける。
* 夜にはまた朝日子の申し条を読んで応えよう。
* ほぼ終日、家の外へ出て過ごした。頭をつかい視力をつかい、もう何度も読んだものを細部まで神経をとがらしながら大量に校正するのは、しんどい仕事
だ。院展があり創画展があり、足を運べばいくらも観るべきはあるけれど、何処へ行ってもあまりに大量展示。そして店に入っても、呑んでは出来ない仕事をす
るのだから。たくさん水を飲んだ。
それでも、秋晴れはけっこうであった。
* 今日はBIGLOBE削除問題で第一回地裁審尋だった。法律家同士の話し合いは、なかなか部外者には理解しにくい。明日か二十三日にまた打ち合わせて
二十四日午前に第二回を、と。疲労が溜まっているので明日は勘弁願い、二十三日午後に法律事務所へまた出掛ける。
* 十月十九日 つづき
* 朝日子の次なる申し条は、1985年に飛んでいる。ここには関連して何箇条も書かれているが、順に一条ずつ検討する。
* 1985年
朝日子の交友関係をことごとく妨害した後、「孫がほしい」と見合いを強要。
* これまた具体的な何一つのデータもない。これではただの「言いがかり」に過ぎず、まさに言いがかりであることを以下に個別に示す。
* 昭和六十年、朝日子は二十五歳、この六月早稲田大学教育学部助手の押村高と結婚している。お茶の水大学の「哲学」専攻を卒業し、谷崎松子さんら父の知
人の多大のご尽力、ご推薦を得、なにより朝日子自身の熱望黙しがたく父母の奮闘努力のおかげで、念願のサントリー美術館に就職していた。まともにはとても
パス見込みのない人気の就職先であった。
この年までに、わたしは六七十冊の単行本等を出版し、人もおどろく多忙・多産。そんな働き盛りの中で、朝日子の複雑多岐な恋愛問題にも巻き込まれて、両
親も弟も重ね重ねの家族会議などを要し、心底ヘキエキしていた。
そもそも朝日子の「交友関係をことごとく妨害」しながら、連年ぞくぞくと出版し執筆し、新聞雑誌に連載し講演し放送放映にも作劇依頼にも応じて、それぞ
れ満足にこなしていけるものか、父親の仕事量も質も、半端ではなかったのである。その意味で、朝日子の交友関係のとばっちりに一番父が迷惑を忍んでいた一
例だけを言っておく。狭い狭いわが家の中で、執筆創作中にも絶え間ない長電話長電話の連日には、癇癪が起きて当然だったろう。
一番呆れたのは、そんな多忙な中で、父が当時唯一の「執筆」道具であるワープロを、恋人の何だかの用のために二三日貸してあげてくれとと廊下に正座し両
手ついて朝日子に頼まれたこと。何を考えているか、「バカかお前」と言う以外に言葉がなかった。
当時の予定表を観ると、わたしは常に十数種もの依頼原稿を抱えていた。書かねば済まなかった。それがわたしの一所懸命の仕事であり、ワープロは絶対に寸
刻も手放せないツールだった。
朝日子の恋愛がいかなる経緯で、何度何人との間で継起したか、むろん正確に覚えているわけがない。けれど、言える範囲でも、この85年近い数年のうち
に、顕著に、三人の男事件が同時に継起・併行していた。
妨害どころか、その一人とは親同士でも何となく望ましい間柄として見守っていた。東北大院生で中学時代に同期だった温厚なT君。何度も彼の自動車で夕日
子はドライヴデートしていたし写真ものこっているが、残念ながら観るからに体温の低そうなカップルだった。親たちのいくらか未練も残しつつ、自然解消し
た。親は終始傍観していたのであり、何ら干渉していない。
今一人は、お茶の水在学中からの、朝日子より一つ若い、どうやら朝日子を熱愛していた 他大学のI
君がいて、「魂の色が似ている」からと、一時は朝日子も結婚前提の交際を受け容れたがっていた。大学卒業後は遠い故郷に帰り家庭科教師になる「約束」のあ
る男性で、朝日子がそんな海山の向こうへついて行けるとは思われもしなかったし、なによりその男性に対し朝日子が敬意を少しも持っていないこと、下目に見
て軽蔑口調にだんだん移っていることからも、むしろ I
君に気の毒という印象を持っていた。まして婚約の結婚のに親として賛成できなかった。妨害といえば妨害でも、ちゃんと理由があった。それでも朝日子は親に
隠し弟をダシに京都へ一所に旅するなど、あとからバレた行跡不明朗が一度ならずあった。時代も時代と諦めていた。そしてあげく、朝日子が完全にこの I
君から逃げ回ってすげなく袖にしたのであつて、親が妨害したのでも何でもない。
彼が、三年の冷却期間を置いたあと、諦めきれず改めて求婚してきたときも、朝日子はニベもなかった。たいした「魂の色」だと親はむしろ唖然と観ていた。
若い I
君を剣もホロロに朝日子が振ったかげにいたのが、朝日子より両親の方に年齢の近い、或る美術研究家のM氏だった。この人は学問的には勝れていて、友人とし
てなら父親の方で歓迎しいろいろ教わりたいぐらいだったけれど、若い朝日子の夫としてふさわしくはないと、これにはハッキリ賛成しなかった。理由は色々
持っていた、問答無用で「妨害」したわけではない。イヤほど話し合った。他の家族もあげて此の件では朝日子の欲求に反対したのである。
だが朝日子は家を出て同棲をすらしかねまじき日々の惑溺ぶりであった。われわれは心底苦慮し苦渋を嘗めていた。
ところが、「二つ」の別々の様相が朝日子に兆すと、朝日子は、あれほど狂乱的であったM氏との結婚希望を、忽ちに打ち捨てて、父の心友野呂芳男教授の提
案するアメリカ遊学に乗り換え、両親にむかい夢中で渡米を切望した。むろん何をしたいという具体的なプランも何も無くて、である。九十老人三人の介護を目
前の大事に控えていたわたしの家には、そんな無目的なお遊びにまわせる余力は皆無だった。
もう一つは父の依頼を受けて早大教育学部****教授が紹介してくれた、押村高との「見合い」があった。だれもがアアッと驚く電撃的早変わりとなり、夕
日子は押村との結婚へ短距離疾走して、忽ちに六月挙式となった。
この見合いは、わたしたちが「強いた」とも言える。だまされたと思って会ってみよと奨めたのである。ところが朝日子は、母にむかい、「パパは今頃になっ
てあんないい男をみつけてくるんだからあ」とボヤキのていで、やにさがっていたのである。
朝日子は男性にもてるタチでなかった。弟もそう観ていたし、父親は、遺憾ながら、いくらか相手になる男の方にいつも気の毒な気がしていた、 I
君のときのように。だからこの四人の男性が去来した以外に、親密な男友達の気配はほとんど感じられなかった。むしろわたしが気を利かせ、美術研究の方面か
らの若い知人学芸員などに家まで遊びに来てくれるよう頼んだこともある、が、朝日子を魅力的に感じてくれる客はなかった。小説『ディアコニス』に書いたN
子ちゃん一人が朝日子と結婚したいと殺到してきた事件の方が強烈な印象だった。大学生の朝日子は障害を持った昔のクラスメートの来襲の日々、机のかげに隠
れて怯えて震えていたのである。
「孫が欲しいと見合いを強要」という朝日子の物言いは、二つの全く別のことを、強引に繋いでいる。
「孫が欲しい」のは真実の事実である。一つにはわたしを貰い子してリッパに育ててくれた「秦家」を、子として継ぎ伝えられるようでありたい、わたしの義
理の気持ちが強かった、今も強い。娘と息子とがいて「孫の欲しい」のは親なら自然の願いというもので、誰が咎められようか。
ところが「見合いの強要」などしているヒマは、執筆その他の文学活動に大わらわなわたしには、クスリにしたくもなく、現に朝日子の見合い体験は、ご近所
から来た富士通社員とのホテルでの見合いが一度、これはお義理であったし、双方から断りとなった。
もう一度は、うんと年上のM氏との同棲結婚事件への緊急回避策であった押村高との見合い以外、わたしは一例も記憶しない。そして「強要」はしたけれど、
押村との見合いがいかなる素早い展開を見せ、朝日子から「ぼやき感謝」をされたかは、これら総てに詳細な記録がのこしてある。
もう一つ、これは先方からメールでわたしのもとへ舞い込んできた、ミセス朝日子の男友達か、趣味の囲碁のかかわりで奈良にいて、上京の時には逢っている
らしくえ、朝日子が元気であることなどをわざわざわたしのために報せてくれたことがある。どういう人か、どの程度の碁敵なのか知らない。が、朝日子はやす
香が苦しみを露わにしていた今年三月ごろ、弟へのメールに、自分が速記職として就職していることと並べて、じつは或る得難い「碁の先生」を自分は大事に
持っていると特筆していた。その先生とメールの主が同じ人かどうか分からない。この例など、私には、妨害のしようもない。
* 以上「朝日子の交友関係をことごとく妨害した後、『孫がほしい』と見合いを強要」など、これまた朝日子の身勝手な「つくりごと」に等しい物言いで、こ
との経緯は、各男性事件の推移を略示したわたしの日記が軌跡を残していて、簡単に記憶の再現が利くのである。ちなみに、かの家庭科教師になった I
君は、つい最近も我が家を訪れて朝日子の消息を知りにきたし、大学院を出て結婚のときには、わたしに「証人」になって欲しいと頼んでも来た。妻としみじみ
「朝日子と結婚しなくて I
君、幸せになれたね」と話し合ったものだ。彼が朝日子の結婚を知らず、誕生日に赤い薔薇の二三十本もを我が家に贈ってきたとき、母がミセス朝日子に電話で
報せると、「棄てちゃって」とただ一言、妻は、我が娘の凄まじさに憮然としていたのを忘れない。
* 朝日子一歳半、社宅ベランダでのこの写真こそ、われわれ夫婦両親と娘朝日子の「今生」を象徴するはずの一枚であった。
喜びに溢れて撮影したのが父親の私であること、言うまでもない。
* 十月二十日 金
* 今日、裏千家の講習会で、業躰(ぎょうてい)さんから「香合(こうごう)番付表」の話を聞きました。江戸時代、人々は、何でも「番付」にするのを好ん
だそうです。東の大関(第1位)は黄交趾(きごうち)「大亀」、西は染付(そめつけ)の「辻堂」なんだそうでした。
今日秦さんの講演録にも「番付」の二字を見て、いつもなのですが、自分の経験や、想像や思考との合致を発見する不思議さに、少なからず驚いています。
『枕草子』も一種番付の一面をもっているとのご指摘、納得いたしました。
高校のころ、ヘッセ詩集で『霧の中』を読みました。「人生とは孤独であることだ」との断言に打ちのめされつつも、それが真実であることを疑えませんでし
た。また『独り』の末尾に、「だからどんなつらいことでもひとりでするということにまさる知恵もなければ能力もない。」とあり、これも心に刻み込まれまし
た。
そして、今日秦さんの『島』を読みました。一人一人が自分だけしか立てない小さな島に自分独りの足を置き、隣の島とは断絶している。
まさしく、孤独そのものの自分の姿が、はっきりと再び目に浮かびました。今、私の周囲には愛しい孫たちや、新しく親戚になった人たち、老後を心おきなく
語り合える友人など世間にいわゆる「身内」の「愛」にあふれています。でも、私は、しばしば「独り」を、自覚もしています。人間としての根源的な孤独はあ
ると思います。この安らかさや、幸福が「貴重な錯覚」であるとの自覚を持てと教えてもらいました。 一読者
* こういう読者にであうとき、「書いて」いてよかったなと思わずほっとする。読み手と書き手はこのように人生をふと重ね合わせる。魂の色が、ふと、似て
思われる。それもまた「貴重な錯覚」であろうとも、人は尋常な人間関係をもとめて日々奔命・奔走しながら、心底には真の「身内」、死んでからもともに暮ら
したい人をその上に渇望している。生涯にひとりのそんな「身内」も持てない人がいる。十人も二十人も持つ人もいる。真の不幸と幸福とのけわしい岐路、孤独
地獄と極楽の岐路がみえてくる。
* 書かれた言葉は屍体にすぎないが、語られた言葉は生きており、それはまだ息づいている。世界中で、いつの時代にも、光明を得た人が書き記すことをしな
かったのはそのためだ。 バグワン
* 風のメールを、大切に、懐かしい想いで読みました。
風、がんばって。
客観・俯瞰してみれば、人間世界は愚かなものでしょうね。
でも、まだ、自分の創造するヒーロー・ヒロインは、聡明であってほしいなあと思ってしまいます。 花
* 聖人君子を書きたい、読みたいなんて思わない。感心するかも知れないが面白くはない。花は「聡明」という言葉を書いてきた。わたしは如才ないと同義
の、また偏差値や知能指数の高い意味らしい「賢い」ことには、敬意を感じない、賢人という言葉も実質も、気持ち悪い。しかし聡明な人にたいする敬慕はふか
い。残念ながら深い敬慕の思いは、だが、めったなことで満たされない。七十余年の人生で、何人に逢えたか。
娘にも息子にも、言いつづけた、賢くなくていい、聡明に生きてくれと。
* 十月二十日 つづき
* 朝日子による「秦家」指弾の第三弾はこうである。
* 1985年
結婚式直前になって、「子供ができたら離婚して帰ってこい、子供は私のものだ」「風になって、夫婦の寝室でもどこでもついていく」などと脅迫。 押村朝日
子
* 妄言とはこれかと、思わず嗤ってしまう。先ず、後段のいやらしい言いがかりから始末を付ける。
父・秦恒平には「昭和六○年六月八日 娘が華燭の日に」「あとがき」を書いて祝った、講談社刊の叢書「詩歌日本の抒情」第四巻『愛と友情の歌』編著の一
冊がある。子弟への祝儀などに好んで贈られた好評の一冊であり、わたしはこれを執筆の間、嫁ぎ行く娘や育ち行く息子を念頭に、古来・現代の厖大な詩歌か
ら、心籠めて佳い作品を選びまた心籠めて鑑賞文を書いた。「結婚式直前」というより、朝日子が幾つもの恋愛迷走で一家を混乱させていた頃の書下ろしであっ
た。
多くの掲出作品中、「親への愛」の章に伊藤靖子さん作のこの一首が在る。わたしの読みとともに掲げる。
抱かれて少しずつかわりゆくわたくしを
見ている風は父かもしれず 伊藤靖子
思い切った五・十・五音の上句に、手粗いが素朴に新しいリズムも生まれている。「わたくし」を「われ」として強いて五・七・五に音を揃えなかった感覚
に、誠実な若さが感じとれる。「わたくし」と「父」との対応に、おそらく一首の真実は隠されているのだから、作者の意図をあるいは超えて読めば、恋する男
の愛の手に「抱かれて」「少しずつかわりゆく」うら若い女の状況は、まさにさまざまに「風」のなかにある。その喜怒哀楽のそれぞれの場面で、「わたくし」
は、男でもある「父」の目と存在とを体温のように、体重のように同時に感じ取っている。おそれ、愛、怒り、不安、希望。父と娘とだけの余人のはかり知られ
ぬ交感を率直に歌いえている。「未来」昭和四十六年十一月号から採った。
* 歌を選ぶ作業をしていたのは、依頼されてから執筆に入るまでの、およそ刊行より二年以上も以前からになるだろう。むろん朝日子がとびつくように結婚し
た押村高の存在は、、一ミリの影もまだ我が家にさしていない。そして選歌の段階から、たぶん校正中にも、我が家ほどの「談笑」家庭では、ひっきりなしにい
ろんな話題が具体的に出て、この歌など、新鮮な衝撃度で食事時の話題にあがっていたかも知れない、そういうとき朝日子はけっこう雄弁な存在であった。その
記憶をねじ曲げるのでなければ、「風になって」という具体的な表現の一致は、とうてい考えられない。こういうのを都合のいい、品のない、ただ為にする「言
いがかり」と謂うのである。
ことのついでに、「子への愛」から朝日子・建日子を念頭に選んでいた作品をアトランダムに挙げておこう。どの一つ一つも、父・恒平の深い共感から選抜し
ている。言うまでもない、朝日子の結婚より二三年前から半年余も前の仕事。朝日子は百パーセント秦家の「アコ」であった。
お望みなら「親への愛」の作品もすぐさま書き抜いてお目に掛ける。
十五年待つにもあらず恋ひをりき今吾にきてみごもる命よ 長崎津矢子
万の朝万の目覚めのふしぎよりわれの赤子の今朝在る不思議 池田季実子
産みしより一時間ののち対面せるわが子はもすでに一人の他人 篠塚純子
乳のますしぐさの何ぞけものめきかなしかりけり子といふものは 斎藤史
ぢいちやんかといふ声幼く聞え来て受話器の中をのぞきたくなる 神田朴勝
花びらの如き手袋忘れゆきしばらくは来ぬわが幼な孫 出浦やす子
混み合へる人なかにして木耳(きくらげ)の如く湿れる子の手を引けり 長谷川竹夫
吾と臥す肉薄き孫の背を撫でつ此の子を召さむいくさあらすな 吉岡季美
あはれ子の夜寒の床の引けば寄る 中村汀女
わが顔を描きゐし子が唐突に頬ずりをせりかなしきかなや 岡野弘彦
我が家の姉と弟 写真
おどおどと世に処す父に頬を寄す子は三年を生きしばかりに 島田修二
神は自分に一人の女を与へた。
女は娘といふ形で
おれとともに生活をし出した。
おれは権知事さげ
この城の番人となり
神をもまだ軽蔑しないでゐる。 室生犀星
此秋は膝に子のない月見かな 上島鬼貫
幼き息子よ
その清らかな眼つきの水平線に
私はいつも真白な帆のやうに現はれよう
おまへのための南風のやうな若い母を
どんなに私が愛すればとて
その小さい視神経を明るくして
六月の山脈を見るやうに
はればれとこの私を感じておくれ
私はおまへの生の燈台である母とならんで
おまへのまつ毛にもつとも楽しい灯をつけてあげられるやうに
私の心霊を海へ放つて清めて来ようから。 佐藤惣之助
こんにちはさよならを美しくいう少女 岸本吟一
汗くさくおでこでクラス一番で 篠塚しげる
強くなれ強くなれと子をわれは右より大きく上手投げうつ 福田栄一
光の中を駈けぬけて吾子母の日に花弁のごとき整理もちくる 嵯峨美津江
生々となりしわが声か将棋さして少年のお前に追ひつめられながら 森岡貞香
人間は死ぬべきものと知りし子の「わざと死ぬむな」とこのごろ言へる 篠塚純子
子の未来語りあふ夜を風立ちて父我が胸に鳴る虎落笛(もがりぶえ) 来島靖生
安んじて父われを責める子を見詰む何故に生みしとやはり言ふのか 前田芳彦
花菜漬しくしくと娘に泣かれたる 清水素人
外国に留学したき娘(こ)の願ひ抑へおさへてわがふがひなし 松阪弘
人の世のこちたきことら娘(こ)にいひて娘が去りゆけばひとり涙す 村上一郎
花嫁の初々しさ打ち見つつ身近く吾娘(あこ)といふも今日のみ 山下清
生涯にたつた一つのよき事をわがせしと思ふ子を生みしこと 沼波美代子
赤んぼが わらふ
あかんぼが わらふ
わたしだつて わらふ
あかんぼが わらふ 八木重吉
* わたしが今嫁ぎ行く娘に「風になって、夫婦の寝室でもどこでもついていく」などと脅迫」するようないやらしい父なら、いつか華燭をも念頭に祝って、こ
ういう作を選ぶことも、こんな本を書くことも、それで人の胸を打つことも、決して無い。文は人であり、言葉は「心の苗」だと信じているわたしが。「気稟の
清質もっとも尊ぶべし」と娘や息子にも身を以て教えて来た父が。
上掲の室生犀星の詩を、村上一郎の短歌をよく読むがいい、朝日子。
* さて前段の結婚式直前になって、「子供ができたら離婚して帰ってこい、子供は私のものだ」と父・私が娘・朝日子に言ったという。
これはまあ何という破廉恥な言いぐさであるか。小説家の想像を用いるまでもなく、文脈は、こういう翻訳を可能になる。「お前の腹には父である私の子が宿
してある。結婚だけはして来るがいい、そして子供を出産したら離婚して子供を連れて帰ってくるがいい。其の子の父はお前の父である私なのだから」と。
これこそ父親・母親に対する破天荒な名誉毀損であり、いわばやす香は押村高との子ではないと主張しているありさまですらある。
わたしは妻と異なり朝日子の「離婚して帰る」ことに終始反対だった。やす香の生まれている、ケケケも生まれてくる、夫婦親子が一家をなすのが当たり前と
いう理由である。そのことは、いろんな場所で繰り返し繰り返し書いている。そもそも離婚して帰られたら要介護の九十老人を三人抱えようという狭い我が家の
どこにも、いて貰う場所はなかったではないか。
* こういうことを書き継がねばならないことを、秦さんのために「傷ましい限り」と言うて下さる人は多い。しかし、黙っていてはこの調子で何を言い立てら
れて窮地に陥るか知れたモノでない。また相対ではつまり「お話しにならない」現に調停の弁護士委員はそれを案じている。
* こういうばかげたことを言いだしながら、われこそ世界一正気と信じているので、つけるクスリがない。結局は「金を要求してきますよ」と人に注意されて
きたが、OH! たしかに押村夫妻は現に「金を払え」と要求している。
* お気に入り登録の「生活と意見」をクリックすると、今日もまたのBIGLOBEリサーチの画面でがっかり。
先のみえない確執はひとつ措き、プロバイダーを替え、「生活と意見」の化粧がえをして新規に立ち上げてみるのも一興かと存じます。
小生、多量な迷惑メールに辟易し、いちいち削除するのも面倒になり、腹立ちまぎれにプロバイダーごとアドレスを替えてしまいました。いずれまた、疫病神
は舞い込むことでしょうが。
ちかごろ、介護センターから人を派遣してもらうような怪しげ体調になってしまいましたが、貴殿も老躯はしっかりいたわり、多難に対処してください。
ペン会員
* 十月二十一日 土
* 中国の対北朝鮮外交が、覇権意図をもった傀儡政権の獲得と前線化に向かうに違いないとは、早くからこの「私語」に、何度も書いた。朝鮮半島の国家的統
一は、中国のこの意図が見え見えである以上、なかなか成るものではない、成るとすれば韓国も覇権で取り込み、対日米の前哨・前線化するときであろう。
日本人の対中国錯覚は歴史的にあまりに久しく、そのつど、ちいさな「成功の錯覚」についで、「大崩れ」するのが普通だった。天智天皇も豊臣秀吉も近代の
藩閥政府も戦後の日本政府も中国を半ばナメテかかって、結局は敗退してきた。
今中国の実力は、まだ国土と国民との全部を充実把握・掌握しているとは思われない、が、意欲はすでに中国と米国と二国が世界に存在し、当面、アジアから
米国の覇権を歩一歩退却させ、かつての日本が想い描いて失敗した大東亜覇権を確立しようとの意思を、すでに爪も隠していないとわたしは見ている。アメリカ
の極東からの退散度はまだはっきり目に見えないが、この先、韓国と台湾とを中国がしっかり抑え込んだときには、アメリカは日本列島と運命をともにすること
はしないであろう。さっさと退散するだろう。日本列島は、いずれ中国東海の別荘地となるオソレが濃厚。平和ボケした被管理志向日本人の危機意識は、あまり
に低い。政治的に、外交的に時刻の安寧を願うなら、国民は自分の思いと言葉とで政治と外交とを「主権者」としてチェックし、ある種の国民的共感帯でハラを
括っていないと危ない。
* 昨夜おそく階下に降りてテレビをつけてみると、現代のバイオリン協奏曲を女性が演奏していた。あれは私の好きなヴィクトリア・ムローヴァであったろ
う、見事な演奏ぶりであった。
そのあと、日本の田口選手が活躍場所をえたカーディナルスが、リーグ優勝する最後九回のすばらしい攻防を観た。田口壮をわたしは日本にいるうちから何と
なくいい選手だと気に掛けていたが、大リーグを目指して出国したときは正直危ぶんだ。危ぶみながら気に掛けてニュースを追っていたが、イチローや松井のよ
うにはやはり行かず、苦労に苦労を重ねながら粘っていた。わたしは応援した。アメリカの大リーグでリーグ優勝し優勝に貢献もしていた田口壮選手に拍手す
る。
イチローは偉大だが、田口のような選手にも、わたしは共感を惜しまない。
* 母親が「目を離し」ていた隙に、浴室から幼児をさらって、サンザンに性的暴行を加えて殺したという外国の事件が報道されていた。人間の「犯罪者」だけ
がつけ込むのではない、子供の場合は「病魔」もまんまと親の目を盗む。子から「目を離す」危険を、その体験を、わたしの読者は二人も三人も大切に言い寄越
していた。
いま押村高・朝日子夫妻は、「目を離して」いたまさに証拠物件に等しい「やす香日記」を人目から隠したいと躍起になり、わたしのホームページを
BIGLOBEに潰させたのも、「やす香日記の著作権継承者」としてであった。やす香のあの「病悩日記」は、あまりに雄弁に「真相」を示唆しているからで
ある。
わたしは「やす香白血病」と「MIXI」に公表されると即座に、妻とも手分けして「MIXI」の全日記を「記録保管」した。万一の時には「MIXI」に
より消却されるかも知れないと懼れたのだった。
* 地裁審尋の提示書類などが牧野事務所からいま届いた。第二回へむけての意見交換は昨日からメールで交信しあっている。明後日に打ち合わせ、火曜には第
二回審尋が開かれる。
* こういう堪らないアレコレを受け身に受け止めていると、気分的には陰惨な地獄を這うような思いを嘗め、生きているのがイヤになる。わたしは、足腰を痛
めた力士が、引き技でさらに身を痛め、押し技に徹してやっと勝機を得ているように、踏み込んで姿勢を前傾させている、引き技にかからぬよう気をつけて。バ
カげた夢の所業と見切ったうえで、夢なら夢なりに無心の相撲がありうる。親しい読者たちのたくさんな支えが、力強い後押しになっている。感謝している。
* 情けない、こんな事を書いて応えないと調停もままならないのであるから。
* わたしのホームページの「私語」は、近年は一ヶ月ごとに一つのファイルに整備されている。
現在六十ファイルに日録が分蔵されているわけであるが、第一ファイルだけは、「現在進行形の私語日記」を、毎日上へ上へ積み上げている。つまり「日付逆
順」で、一番上に一番新しい日付の記事が書き込まれている。
しかし、月をまたいで十日半月するうちには、前月分を一度「一太郎lite」へ転写し、一太郎ソフトの上で、変換ミス等の誤記や句読点、冗漫等を訂正し
つつ、総て「日付順」に直してゆく。
直し終えれば順番の明いたファイルに、一ヶ月分一括して収め、その段階で第一ファイルから「移転した同内容分を消去」する。その操作に気づかない人も、
馴染みの薄い人にはあるけれど、その由は、update欄内にも、第一ファイルの冒頭にも、きちんと案内し明示してある。文字検索でしか見ないような不親
切な読者には、その実情がまるで飲み込めていないだけの、つまり誤判断がある。
今回BIGLOBEや押村はソレに気が付かず、第一ファイルから別ファイルに移動した同内容の記事を、一度削除したと思わせてまた別の所で復活していた
などと、自分達の時間差発見を、不用意・不親切に悪意に誤解していたのである。
要するに、BIGLOBEの不親切な早とちりで悪意に取り、削除を強行したのである。
* 「再三通知」したと言うが、どんな手段でいつという特定が出来ているかもともかく、そもそもBIGLOBEメールをわたしは一切使用していない。ホー
ムページ開設以来、受信設定もせず、どうしても出来ず、すべてそれ以前から愛用の「ニフティですべて送受信」してきたのだから、そんな通知の読める道理が
なかった。
周知徹底したなどととても言えない「一方的で勝手な内規」にのみしたがい、「不確実な通信方法」にあぐらをかいたまま、「超過剰な削除を不用意に決行」
したBIGLOBEの「不親切と無責任」はきわまりない。もし、長期の海外旅行をしているなどの時も、情け容赦なくこういう強行を敢えてするのかを厳しく
問いたい。
これを機に、われわれ「日本ペンクラブ電子メディア委員会」とも協力し、時代に合わなくなっている「プロバイダ法」の見直し等の機運をはかってもらいた
い。協同でシンポジウムを開くなど委員会は考えている。プロバイダ間のあまりに不統一な慣行も、ユーザとしては不安不信に堪えない。
* 十月二十一日 つづき
* 朝日子らによる「秦家」指弾の第六弾はこうである。
1985年
結婚式で作成した結婚証書を「谷崎夫人の直筆だから提出させない」と没収。 押村朝日子
* これにも嗤ってしまう。
* 一九九一年(平成三年)九月九日付、聟・押村高から舅・私に、「学者である聟には経済支援が常識、それの出来ない嫁の実家とは『姻戚関係』を断つ」旨
を、一方的に通達する手紙が届いている。その一通には、押村高著述『お付き合い読本――常識編』がくっついている。得意の作とみえ二度同じものが送られて
きている。五十音順に警句でも書いたつもりらしい。その中の「け」には、こうある。
「『け』結婚式: 誰を招くかは迷うところ。注意すべきは、離婚歴のある人、しかもそれを売り物にしているような人は、招待しないことである。かの有名な
文豪Tは、惜しげもなく奥さんを取り替えたそうだが、常識的に考えて、そんな筋の客は来賓として呼んではいけない。招待された他の者が奇異に感ずるだろ
う。押村高」
この「文豪T」が谷崎潤一郎であり、「そんな筋の客」として、朝日子側の主賓をお願いしたのが松子夫人であった事実は、何度も、作品やエッセイでわたし
自身が書いている。
わたしはこれを読んだとき、筆致の下品さはともかく、少し意表をつかれた気がしたのを隠さない。ああこれが「世間」かと。一方、そんな凡庸な「常識」一
般論とは没交渉な思想を自分が持っていることを是認もしたのである。
谷崎文学の大成に終生いかに貢献された夫人であったかを思うだに、押村高のこういう侮蔑の言葉は恥多く、当人の性根の汚さを想わせてあまりある。たいし
たルソー学者である。
* 要するに押村夫妻は、結婚式前の「両家」懇切な、「双方異存無く賛同」の申し合わせを、仲人の小林教授夫妻にも私たち秦家の両親にも無断で「破棄」し
たのである。
打ち合わせでは、結婚披露宴に際し、参客全部の目前で、双方の主賓が「結婚届書に署名捺印」し、それを以て「人前結婚式」にあてると、堅く約束できてい
た。
ところが署名捺印された「その結婚届書」は、上記のような「押村による谷崎夫妻への軽蔑・侮蔑」から「届」として使用せず、誰だか我々の知らないまった
く別人に再依頼した届書を、結婚式よりよほど後日に届け出ていたらしいのである。だからこそ、問題の清水司氏・谷崎松子さん署名の「結婚届」が押村夫妻の
手に残っていたのだし、それと知ってわたしが憤慨したのは当然である。そんな無礼をしたのなら、せめて秦家念願の「記念に貰っておく」とわたしの手元へ、
朝日子に届けさせたのも当然である。考えても見よ、彼等押村家がわたしに手渡さなかったら、わたしたちにはそんな経緯も所詮わからず仕舞であった。実物
は、朝日子が夫に内緒でか「申し訳なかった」と秘かに我が家に届けてきたのである。実物は、今・此処に在る。
清水司氏・谷崎松子さんお二人の署名・捺印、押村高・秦朝日子の署名捺印、完備している。
申し合わせでは、二人は披露宴のあとそれを役所へ届けてから新婚旅行に出るはずだったが、彼等はその約束も反故にしていた。ウソを演じていたのである。
「届書」は、かりに新婚旅行から帰ってすぐでも届け出られた。だが、この届書が現に提出されずに朝日子から私に届いていて、しかも二人の結婚・入籍はな
されているのだから、証人は別に立てたのである。何故か。前掲の押村の「常識」に従い、清水・谷崎両氏証人の書類は「勝手にボツ」にしたこと、歴然の事実
である。
* 思えばこういう「文学者への軽蔑」を誇示することが「学者」の卵の当時押村高にはよほど愉快であったらしい。こういう姿勢が我が家に出入りの始めから
押村には在った。
一方新婦である朝日子が、サントリー美術館への就職・また結婚式主賓の以前から、どんなに谷崎夫人に可愛がられ、わが娘のようにことごとによくして下
さった数々を、朝日子もまた、挙式したばかりの夫とともに、まるで足蹴にしたのだった。
* 言うまでもなく谷崎家とのその様な親交は、「谷崎愛」作家と自他共に広く知られた父親・秦恒平の谷崎文学敬愛と多くの関連業績に発していた。国文学の
世界で、また文壇でそれを知らない人は少ない。
*『結婚式で作成した結婚証書を「谷崎夫人の直筆だから提出させない」と没収』とはホトホト嗤わせる。
谷崎松子さんを当方の主賓・結婚の証人に得て、晴れて娘を送り出したいとは、秦の両親の熱望であったし、それは事前の何度もの打ち合わせで確認され、披
露宴の場でだけは「一応実現」していた。
だが押村高はまさしくそれを「反古」にすることで、人をバカにし愉快がって『お付き合い読本』をトクトクと書いていたのである。廃棄された空しい「清
水・谷崎署名届書」が役所に入っていないことで、事実は、明明白白 落とし紙にもされぬうち、かろうじて朝日子が届けてくれただけでも、せめての心やりで
あった。わたしが「没収」しに押村家へ押しかけ得た道理がない。それが「使われた」ものと信じていたのだから。
どこの世界に披露宴までした「結婚届書」を「没収」して届けさせない花嫁の親がいるものか。建日子作の主人公なら「バカか、お前ッ」と吐き捨てるだろ
う。
第一考えてもみよ。これが、実の親を娘達が告発するに、そもそも値する事項か。
「暴発」とは、当時の朝日子が夫・押村高を自筆長文の手紙で評した、辛辣で適切な直言であった。その手紙も必要なら今・此処にある、そのまま書き写すこと
が出来る。
* 朝日子らによる「秦家」指弾の第五弾はこうである。
1985年
結婚式祝儀を没収。 押村高
* これは、まさか朝日子が親に言える義理でなく、昔から押村高の何だかくやし紛れの「言いがかり」なのである。
此の、結婚式当日の秦家への祝儀金については、朝日子と両親との間で、挙式前からきちんとした「約束」があった。押村家は結婚式の少し前に父君の病没が
あり、その為かどうかは知らないが「結納金」は勘弁願いたいと申し入れがあった。こころよく承諾し、「持参金」といったものも持たせませんということにし
た。両家の了解事項であった。
帝国ホテル光の間での披露宴その他(当時総支配人は、わたしの良い読者で先輩でもあった。最大限のサービスをして貰えた。)可能な限り押村家に負担はか
けず、表向き費用は「請求書折半」という申し合わせになった。このとき、借り衣装代も折半かと私が早合点する失敗があったりした。
そんな中で、しかし結婚後の生活に「朝日子個人の自在・自由になる金額」はぜひ持たせたく、さしあたり五百万円のいわば小遣い金を与え、さらに後々も振
り込めるよう口座を開かせておいた。わたしも妻も何かあると数万ずつ振り込んでやった。
その代わりに、ややこしい勘定など当日にするヒマもなし、結婚式当日に持参の祝儀金はいわゆる「お祝い返し」に当てるということで、朝日子と我々とはき
ちんと「合意」していた。これにも理由がある。
結婚に際し、両家各四十人という客をと求められたとき、私たちが当惑したのは、そんな人数を東京であれ京都からであれ、どう集めようかという事だった。
朝日子は学生時代の友人を一人も呼ぼうとしなかった。僅かにサントリー美術館の上司と同僚。私には生い立ちからして、親類というものが無いにひとしい。仕
方なく、主賓の谷崎夫人はじめ文壇や大学や各界から知名人に、いちいち私が頭をさげてお願いするしかなかった。日本ペンの会長を務めた尾崎秀樹氏、副会長
の作家加賀乙彦氏、また早大文学部長の藤平春男教授、紅野敏郎教授また小松茂美氏、長谷川泉氏ら堂々たる顔ぶれが揃うことになった。
そこで秦家のわれわれが案じたのは、まさか押村家がそういう秦家の客にまで心入れの「お祝い返し」はしてくれないだろうし、失礼が有ってはこっちの立つ
瀬がない。それで、結婚式当日持参の祝儀に限り「お祝い返しに当てるからね、お前にはお前の自由に出来るお金を当座渡しておくよ」と約束したのである。
秦家に下さる祝儀が新婚旅行で聟殿に勝手のきく「小遣い」になるなど考えてもいないし、それでは、『女の一生』の悪聟ジュリアンと同じではないかと呆れ
たのである。
秦家で前後をよく考慮の上、朝日子とも申し合わせてしたことで、押村高に嘴の挟めるコトではない。
* 十月二十二日 日
* 『愛と友情の歌』から「子への愛」の章の選歌を摘録した一両日前の記事に、複数の読者の感銘を得られた声あり、「親への愛」の章の、せめて選ばれた作
品だけでも読ませて欲しいと。
「子」たる者の「親へ」の思いを、また「親」たる存在の「子へ」もつ意味を、秦さんがどのように感じながら作品を選んでいたか、このような際であり、知
りたいと云われる。
育ててくれた、生んでくれた「親への愛に気づく」という、その大事を、わたしは娘・朝日子、息子・建日子の日頃も十分念頭に、一つ一つ鑑賞していったあ
の日々を今思い出す。
作品のみ、全部とはいわない、適宜に並べて行く。
ここにいう「母」とは、まず我がことなどと自身を甘やかさず、お前をこの世に送り出し慈しみ育てた母・迪子その人を思うがいい。またあれほどの苦しみと
寂しさとに悶えていたお前の娘・やす香から「目を離していた母」なる己れを省みながら、「親」なるものをせめて謙虚に思惟するがいい。
* 「親への愛」の章より 秦恒平著『愛と友情の歌』より
父母よこのうつし身をたまひたるそれのみにして死にたまひしか 岡本かの子
独楽は今軸かたむけてまはりをり逆らひてこそ父であること 岡井隆
まぼろしのわが橋として記憶せむ母の産道・よもつひら坂 東淳子
闘ひに死ぬるは獣も雄ならむ父へのあこがれといふほどのもの 東淳子
かくれんぼいつの日も鬼にされてゐる母はせつなきとことはの鬼 稲葉京子
<父島>と云ふ島ありて遠ざかることも近づくこともなかりき 中山明
雲青嶺母あるかぎりわが故郷 福永耕二
あゝ麗はしい距離(デスタンス)
常に遠のいてゆく風景……
悲しみの彼方、母への
捜り打つ夜半の最弱音(ピアニシモ) 吉田一穂
雪女郎おそろし父の恋恐ろし 中村草田男
母の胸には 無数の血さへにぢむ爪の跡!
あるひは赤き打撲の傷の跡!
投石された傷の跡! 歯に噛まれたる傷の跡!
あゝそれら痛々しい赤き傷は
みな愛児達の生存のための傷である! 萩原恭次郎
十六夜の長湯の母を覗きけり 津崎宗親
進学をあきらめさせた父無口
幼子のわれのケープを落し来て母が忘れぬ瀋陽の駅 佐波洋子
抱(いだ)かれて少しずつかわりゆくわたくしを見ている風は父かもしれず 伊藤靖子
あなかそか父と母とは目のさめて何か宣(の)らせり雪の夜明を 北原白秋
草枕旅にしあれば母の日を火鉢ながらに香たきて居り 土田耕平
いねがたき我に気付きて声かくる父にいらへしてさびしきものを 相坂一郎
父の髪母の髪みな白み来ぬ子はまた遠く旅をおもへる 若山牧水
薬のむことを忘れて、
ひさしぶりに、
母に叱られしをうれしと思へる。 石川啄木
よく怒る人にありしわが父の
日ごろ怒らず
怒れと思ふ 石川啄木
寝よ寝よと宣らす母ゆゑ目はとぢて雨聴きてをり昼の産屋に 田中民子
女子(をみなご)の身になし難きことありて悲しき時は父を思ふも 松村あさ子
先ず吾に洗礼をさづけ給ひたり中年にて牧師になりしわが父 杉田えい子
背負ひ籠が歩めるごとき後姿(うしろで)を母とみとめて声をかけ得ず 平塚すが
眠られぬ母のため吾が誦む童話母の寝入りしのち王子死す 岡井隆
どっと笑いしがわれには病める母ありけり 栗林一石路
卯月浪父の老いざま見ておくぞ 藤田湘子
挫折とは多く苦しきおとこ道 父見えて小さき魚釣りている 馬場あき子
夜半を揺る烈しき地震(なゐ)に母を抱くやせし胸乳(むなち)に触るるさびしさ 野地千鶴
病む母の生きの証(あかし)ときさらぎの夜半をかそかに尿(ゆまり)し給ふ 綴敏子
<病む父> 伊藤整
雪が軒まで積り
日本海を渡つて来る吹雪が夜毎その上を狂ひまはる
そこに埋れた家の暗い座敷で
父は衰へた鶏のやうに 切なく咳をする。
父よりも大きくなった私と弟は
真赤なストオヴを囲んで
奧の父に耳を澄ましてゐる。
妹はそこに居て 父の足を揉んでゐるのだ。
寒い冬がいけないと 日向の春がいいと
私も弟も思つてゐる。
山歩きが好きで
小さな私と弟をつれて歩いた父
よく酔つて帰つては玄関で寝込んだ父
叱られたとき母のかげから見た父
父は何でも知り
何でも我意をとほす筈だつたではないか。
身体ばかりは伸びても 心の幼い兄弟が
人の中に出てする仕事を立派だと安心してゐたり
私たちの言ふ薬は
なぜすぐ飲んでみたりするやうになつたのだらう。
弟よ父には黙つてゐるのだ。
心細かつたり 寂しかつたりしたら
みんな私に言へ。
これからは手さぐりで進まねばならないのだ。
水岸に佇む葦のやうに
二人の心は まだ幼くて頼りないのだと
弟よ 病んでゐる父に知られてはいけない。 伊藤整
<無題> 高見順
膝にごはんをこぼすと言つて叱つた母が
今では老いて自分がぼろぼろごはんをこぼす
母のしつけで決してごはんをこぼさない私も
やがて老いてぼろぼろとこぼすやうになるのだらう
そのときは母はゐないだらう
そのとき私を哀れがる子供が私にはゐない
老いた母は母のしつけを私が伝へねばならぬ子供のゐないため
私の子供の代りにぼろぼろとごはんをこぼす 高見順
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる 斎藤茂吉
今絶ゆる母のいのちを見守りて「お関」と父は呼びたまひけり 谷崎潤一郎
今死にし母をゆすりて春の地震(なゐ) 岸田稚魚
父をわがつまづきとしていくそたびのろひしならむ今ぞうしなふ 岡井隆
思ふさま生きしと思ふ父の遺書に長き苦しみといふ語ありにき 清水房雄
柩挽(ひつぎ・ひ)く小者な急(せ)きそ秋きよき烏川原を母の見ますに 吉野秀雄
亡き母の登りゆく背の寂しさや杖突峠霧にかかりて 阿部正路
山茶花の白をいざなふ風さむし母は彼岸に着き給ひしか 佐佐木由幾
命惜しみ四十路の坂に踏みなづむ今日より吾は親なしにして 安江茂
凍(し)み蒼き田の面(も)に降りてみじろがぬ雪客鳥(さぎ)の一つは父の霊かも 大滝禎一
病む祖母が寝ぐさき息にささやきし草葉のかげといふは何処(いづく)ぞ 岡野弘彦
玉棚の奥なつかしや親の顔 向井去来
いくそたび母をかなしみ雪の夜雛の座敷に灯をつけにゆく 飯田明子
庭戸の錆濡れてありけり世にあらぬ父の家にして父の肉われ 河野愛子
お父様 ほんとは一番愛されたと姉妹はそれぞれ思っています 利根川洋子
亡き父をこの夜はおもふ話すほどのことなけれど酒など共にのみたし 井上正一
子を連れて来し夜店にて愕然とわれを愛せし父と思えり 甲山幸雄
これひとつ生母のかたみと赤き珊瑚わが持ちつゞく印形(いん)には彫りて 給田みどり
この鍬に一生(ひとよ)を生きし亡き父の掌の跡かなし握りしめつつ 佐竹忠雄
明珍(みやうちん)よ良き音を聞けと火箸さげ父の鳴らしき老いてわが鳴らす 藤村省三
墓石の裏も洗って気がねなく今夜の酒をいただいておる 山崎方代
たふとむもあはれむも皆人として片思ひすることにあらずやも 窪田空穂
今にして知りて悲しむ父母(ちちはは)がわれにしまししその片おもひ 窪田空穂
百石(モモサカ)ニ八十石(ヤソサカ)ソヘテ給ヒテシ、
乳房ノ報ヒ今日ゾワガスルヤ、
今日ゾワガスルヤ、
今日セデハ、何(イツ)カハスベキ、
年モ経ヌベシ、サ代モ経ヌベシ。 和讃
父に虐待され精神的に蹂躙され性的虐待すら受けた日々と告発しているその時期に、社宅の庭で、父のカメラに向かう娘・朝日子の元気な自然な笑顔のこういう
写真が、何枚も何枚も有る。以前にも以後にも、結婚するまで、結婚してからも、とぎれなくアルバムに「まとも」な朝日子の日々が残されている。 写真
* すべて親から子へ強いている詩歌ではなく、すべて子から親へ献じている詩歌の真情である。やはり親も子もこういう風でありたい真実の希望をわたしはも
ちながら、無慮何百万もある詩歌の中からこれらを選んで、日々に心を洗われ励まされ泪していた。
伊藤整の「病む父」をはじめて読んだのは大昔だ。わたしには現実に兄弟がなかったけれど、何かの折りにはこの「兄」のように朝日子が弟建日子とともに心
美しく元気に生きていってほしいと心底願望していた。今も書き写しながらわたしは、悲しい声を忍ぶことが出来なかった。
わたしは、自身のためにも、さらに大事には「妻や息子の名誉」のためにも、理不尽に心ない娘と闘わざるをえない。
* 十月二十二日 つづき
* 朝日子らによる「秦家」指弾の第七弾はこうである。
1985年
押村が「見合いにもかかわらず、従順な婿でない」と激怒。
* 誤解のないように。この一行のほかにに縷々押村の憤懣が具体的に書かれてあるのでは、全然、無い。ただこれだけ。
文脈から推して「激怒」したのは舅の私ということになるのか。しかし「見合いにもかかわらず」とは何が言いたいのか。「見合い」結婚すると舅に従順でな
くてはいけないのか。恋愛結婚なら従順でなくてもいいというのか。「従順」の二字で何が言いたいのか。わたしが押村高に「従順」でいて欲しいどういう具体
的な事態や希望があるというのか。玉川学園と保谷である。朝日子はご近所にも目立つぐらいよく実家へ帰ってきては母親からモノを貰っていったり、私と出て
服を買ったり食事したり、小遣いを貰ったりしていたけれど、押村には早大の助手生活があり、総じて後に「暴発」するまで、数えれば実に数少なくしか妻の実
家には来ていない。来てもろくに談笑しない。世間の出来事で議論もしない。酒は飲めない。「従順」を強いるどころか話題も乏しくて退屈な限りの聟殿であっ
た。わたしは歓待に厭きると仕事場へ遁れて自分の仕事をしていた。だからといって、何を「激怒」する必要があるのか、話せない男だと想っていただけであ
る。
よくよく「見合い」ということに拘りがあるのか、彼から来た手紙には「見合い結婚した嫁の実家は学者の聟には口は出さず金をだすものだ」と書かれてい
る。そういう気で結婚していたらしいが、我が家で朝日子に婚約指輪をはめてみせて、私たちには「朝日子さんを幸せにします」と神妙だった。私からすれば、
それだけをちゃんと果たしてくれれば他に何の文句も無いのだった。いったいこれが麗々しく裁判所に持ち出して、「秦(家)による押村朝日子に対する
40年にわたる虐待行為。並びに押村高・やす香・みゆ希に対する加害行為の経緯」などと言い立てうる事柄か。
譬えにも五年あれば二千日、時間にすればその二十四倍。どんな家庭のどんな家族にも喜怒哀楽がある。ところが押村高とは、喜怒も哀楽も無く、同座した時
間はせいぜい百時間にも遙かに満たないだろう。口を酸くして朝日子に不足を言ったものだ、そういちいちお前が男二人の中に割り込んできては、どうしてわれ
われは高君と話し合えるんだね、と。しかも私の文筆の仕事は新聞小説や雑誌の長い連載も加わってきて、正直の所、押村どころではなかった。若い者は若い者
でやってくれというのが、多忙に追われた作家の本音であり、聟の従順を求めるなんてバカげた事には指一本動かす気もなかった。
* 朝日子らによる「秦家」指弾の第七弾はこうである。
1985 年
頻繁な電話による嫌がらせを開始。
* わたしは、極端な「電話嫌い」で、そばで長電話されるのがいやなのは物書きとして当然としても、自分に掛かってくるベルを聞くだけでも嫌い。顔も見え
ずに電話口で「口を利く」というのが気持ち悪くて嫌いなのである。よくよくよくの必要がなければ、自分で電話はかけない。
電話嫌いなわたしから電話を貰う人は、よほど心親しい人であり、押村へ片づいた朝日子に電話したことも、たぶん他には一度もないだろう。
現在息子は別の家で生活しているが、父親から電話をもらったことは無いに等しいはず、電話番号すらわたしは覚えていない。息子は必ず自分から電話してく
るし、常はメールで十分。一般にどんな電話の用事も、今でも妻にかけてもらっている。ガンとして携帯電話もわたしは持たない。
わたしがコンピュータに飛びついたのも、メールが使えるからというのが大きかった。この八九年メールは愛用しているが、電話は昔から自分ではかけない
男、かけてきて欲しくもない男なのである、私は。
会社で編集者をしていたときは電話無しに仕事が捗らない。あの頃に一生ぶんの何十倍も電話は使い切った。
私の関心は、ひたすら依頼原稿の山を崩すことに集注されていた。
第一押村にいったい何をどう「イヤガラセ」する必要があるのか、データも事例も皆無、口先一つのまさしく「言いがかり」、作文としてもあまりに拙劣。
* 十月二十二日 つづきの続き
* 雨の音
風、お元気ですか。
住宅に関する大きな打ち合わせは、この週末で終わりました。土地代を先に支払うことになったので、明日は口座のある複数銀行を回り、積水ハウスに振り込み
ます。 送金が無事に済みますように。
評論の走り書きを、はじめています。
読む方もいろいろあるのですが、「全部読んでから」なんて思っていると、いつまでたっても仕上がりそうにないので、現段階で書けることを書くことにしまし
た。
秋声の『仮装人物』、読んでみます。
ほかに、参考になりそうな作品があったら、教えてください。
花は、ヤル気、満々。
* ヤル気。それが若い人には何より。1と2と、2と3との間隔は1だけれど、0と1との間隔は無限。真っ先に確実に一を起し、そして着実に、二を生ずる
こと。
家が建つのだ、志もまた建って行くように。着々と、照り降りなく歩んで行く「今・此処」の意気。それしかなく、それだけで良いと思う。功名心などいらな
い。
* つよい雨を聴いています。水に沈んでいるような感覚があります。気温は、高いほど。
今夜は中日が日本ハムに負けたでしょう。気の勢いは日ハムにありそうです。好きな落合に全国優勝を一度させてやりたい気がするのですが。中日に今一つ陽
気が足りない。立浪選手が全盛期を過ぎている寂しさも。
昼に、「僕たちの戦争」という再放映ものを見ました。感激しました。森山未来、上野樹里、内山理名、玉山鉄二、古田新太なんて一人も知らなかった。樹樹季
林だけ。しかし志のある作品で、巧みに構成されていて胸に厳しく響きました。似た、こういう舞台も有りましたがね。若い人達がしっかりしたものを造って
「現代」を批評してくれると嬉しくなります。
評論、慌てなくていいが、気に隙間あけず、ひたひたと押していって「押し出し」の勝ち相撲になるといいな。読みたいもの、誰のどんなものと具体的に希望
をいつでも念のため聞かせてください。講談社版の百冊以上の日本文学全集がかなりを中に「積んで」いますから。文庫本でもおもしろそうな文学論など、揃う
ものは揃えます。
花に雨、これも風情です、いい雨を祈ります。 風
* 京都のばらです。
秋晴れのもとの時代祭。
主人の兄が騎馬で参加というので、何十年振りに見に行ってきました。
父に連れられて平安神宮で何回か見て、しんきくさいお祭りやなと思っていましたが、出発の御所で見た感想も同じでした。それでも二千人からの行列は圧巻
です。
やはり婦人列の別嬪さんが、カメラマンの人気の的ですね。
鞍馬の火祭りはまだ見る機会がありません。
「子への愛」「親への愛」を読んでいると、胸打たれ、父や母が懐かしく恋しく思い出されます。
どうぞ、くれぐれもお大切にお過ごしくださいますよう。 従妹
* 時代祭というと「しんきくさい」の一語。楽しんだことがない。その点、鞍馬の火祭はすばらしい。いまでも想うだけでどきどきしてくる。
「子への愛」「親への愛」の作品たちの文句なしのよさ、確実に誰もの胸を打つ。佳いモノを選び出す、それはほとんど創作行為に等しい。
* SPAMメールばかり、よくもこう怒濤のように押し寄せると、呆れるばかり。わたしの現況がほとんど戦時体制かのようで、気疲れもしメールを遠慮され
るのだろう、それはそれで、有り難くもある。少し淋しくもある。
そのかわり、「MIXI」の方で、心親しい、何人もの、古い、新しい、読者や友人達と出会っている。今日もふと「足あと」を追ってみたら、「茶入れの仕
覆」などつくっているとあり、おやおやこういう人にも出会うかと嬉しくなった。そしてよく見るとあまりに自然に、いかにもそうに相違ないという人の紹介で
「MIXI」に参加されていた。その人なら久しい私の友であった。その新しい知人ともすこし話し合えて心安らかであった。
わたし自身は、自ら求めて「マイミクシイ」を殆どつくらないでいる、が、親しい人の「マイミクシイ」を気分転換にちょくちょく覗いたりする。ずうっと欠
かさず毎日訪れて下さる、実際にはご本人のことを存じ上げない方も、ある。海外からも。なにとなく賑わって心励まされる。
しかし時に少し心さわぐもちかけの来ることも無いではない。それが「MIXI」というものか。
* 十月二十三日 月
* 雨。牧野法律事務所へ出掛けて、ホームベージ消滅の第二回審尋のための打ち合わせをしてくる。
* ホームページ復旧を、多くの読者たちはどんなにか待望していることでしょう。でも、プロバイダーの問題はまだ未解決で、これから大変と存じます。
重大な社会問題、全ての利用者のためにも、くれぐれもよろしくお願い申し上げます。
米沢はすっかり寒くなり、学内の植木に雪囲いを施している最中です。太い丸太でできた雪囲いです。それだけ重い豪雪なのでしょう。
公私共に多事多難な毎日と存じますが、どうぞお体をお大切にお過ごし下さいますよう。 短大学長
* この今は学長さんに、わたしはむかし、医学書院の狭い社宅で、茶の湯の手ほどきをしていた。いま朝日子が、父に「性的虐待」され「精神的蹂躙」を浴び
ていたと云っているまさにその真っ最中のことである。建日子を妊娠していた妻は切迫流産のおそれを抱いて絶対の静穏を要したので、稽古は中断した。が、出
産のお祝いに、白玉の佳い湯呑みを六人前揃えて戴き、それを、私たちは今も毎年の正月王福茶のために、恒例として使っている。朝日子が我が家でどう愛され
ていたかを目に見て日々に知っているお一人である。
* 或る大主教の説教を聞いたエドモンド・バークは、説教への称賛を聞きたがる大主教に「白痴的」だと言い「知性ある人があんな事を言うなんて信じられな
い」と答えた。気色ばんで大主教は反問し、バークは答えた。
「君はイエス・キリストを信じ、善行を施す人は天国へ行き、イエス・キリストを信じず、悪徳を為す人は地獄へ行くと説教したが、これが白痴的だと思わな
いのか」と。大主教には理解できなかった。バークは云う。
「では教えて上げよう――もしイエス・キリストを信じないが善行を施す人は、どこへ行くのかね。イエス・キリストを信じるが悪徳を為す人は、どうかね。
行為の善悪が決定要因なのだろうか。だとしたらイエス・キリストを信じる信じないは余計なことだ。あるいはイエス・キリストを信じるかどうかこそ判断基準
だとしたら、行為の善悪は無関係ということになるがね」と。
人は宗教などひとつも信じなくても、預言者や救世主を少しも信じなくても、間違いなく彼の生は、英知と善にあふれた生になりうる。逆もある。神やイエス
を信じていようと、その人の生はまさに動物的な生以外のなにものでもないかもしれない。
「抱き柱」は抱かないというところへ直観的にわたしが出て行った筋道を、バグワンは指さしてくれている。
* さ、今日からわたしが是非しなくてはいけないのは、いや、して置きたいと希望するのは、「七十年の人生」をさっぱりと閉じるための「後始末」だ。頭の
中に、あれ、これ、それと思い浮かぶ、妻のために、建日子のために、朝日子に、と。どうするかの思案はあまり要らない、いろいろ考えてきたからである。小
一年掛ければたぶん総て始末は付けられるだろう。
BIGLOBEとのことでは、あまり引きずらない、仮処分申請は取り下げれば済む。わたしや電子メディア委員会での関心事や問題意識など、法律事務所は
気にも掛けていない、要するにこっちも大きく譲歩して、BIGLOBEにも大方を復旧させようと。わたしの本意は、そんなつまり「取引」のために九月二十
日以来「審尋」までに時間をかけてきたのかと憮然とした思いが残るだけ。「後始末」して浮き世におさらばするためには実はパソコンもホームページもあまり
用はなくなるだろう。
書庫の蔵書・辞典等の書物では、またわたしの著書では、まず建日子に欲しいものを譲っておきたいが、行き方の大きく異なる作家だけに、古典や美術や文学
や歴史の書物は欲しがるまい。せいぜい図書館に寄贈するとし、こういうものが欲しいと希望のある人に上げてゆきたい。
すこし価値のあるものでは相当量の叔母から譲り受けた骨董・茶道具、わたしの買い入れたり貰ったりした美術品がある。この始末がいちばん頭が痛い。満足
な金に替えるというようなことは考えられないが、その値打ち値打ちにふさわしい貰い手がいてくれないかと思案している。建日子には、この方面、皆目値打ち
が分かるまい。お茶の先生をしている友人や読者は京都にしかいない。ロサンゼルスに一人。お茶に趣味のある友人や読者も数少ない。惜しげなく形見分けする
方が、道具屋の手に棄てるよりいいに決まっている。東京・横浜の道具屋が何軒も熱心にわけて欲しいと云ってきているので、任せてしまう手はあるが、十把ひ
とからげの二束三文になるのは目に見えている、叔母に申し訳ない。これがいちばん頭が痛い。京都だと知り合いが多いのだけれど。
「湖の本」の在庫分は、最終的にはぜんぶ屑に出ししまうことも考えねばならない。大学の講座に、希望が有ればまとめて寄附して教材にして貰えればと思う
が、その手順・手続きはよほど繁雑になるだろう。後始末を建日子と相談する手は残っている、彼に、少し考えがあるようなことも云っていたから。幸い、同じ
畑の本に生きるしかない同士だから、彼に任せたいと思う。
土地家屋の不動産についても、もう建日子と話し合っている。幸いわたしは他に何も収集したりしていない、書庫に溢れた蔵書だけ。
* 現金は妻の今後に十分なものをと思うが、建日子も快調に仕事を伸ばしているし、「母さんのことは安心して任せて」とかねがね頼もしく確約してくれてい
るので、過剰に考えることはない。久しく一所に頑張ってきたのだから、妻にはそれだけの権利がある。具体的にどうするか、だ。
またわたしが、何にどのようにその残りを心おきなく費消するかだが、いい車を買い、いい運転手をそのつど雇って、思うさまの旅を妻とマゴとでしてみたい
気もある。わるい娑婆心がついては困るが。
幾ら好きでも酒は飲めずものも食えず、衣服や持ち物に何の興味もない。基金を積めば、質の良い「電子文学賞」をペンか文藝家協会が考えてくれる気がある
なら寄附を、などと今は空想しているだけ。
* 只今は、何はともあれ、自分の作品。
* 雨しとしと。今日は野球はお休みですね。
中日に勝ってほしい気はしますが、北海道の喜ぶ様子も見たいです。
「僕たちの戦争」は、ほんのひと月前くらいに放送したものではないでしょうか。もう再放送したのですね。
見なかったけれど、設定が、今井雅之さんの「the winds of god」に似ているなと、宣伝を見て思いました。
風に「いい」と言われますと、花は見たくなってしまいます。森山未来という若い俳優は、宮本亜門演出の「ボーイズ・タイム」というミュージカルに、弱冠
十五歳で出演し、踊りのうまさでひと際目をひきました。わたし、踊れる人には敏感なんです。
今日、大きな額の振込みを済ませました。ああ、緊張した。
貯金がスッカラカンになりました。 花
* きっと富士山に似合った素晴らしい新居が建つでしょう。
* この人は、あえて何にもふれないで、ひしと、いつも力づけてくれる。いまはそれが力になる。凍えきった心にほっと温みがもどる。
* 挨拶をするしないでなく、此の世では「もとのひとりに」だんだんに戻って行き、「ただいま」ともとのあの家に帰りたい。はやく。
* もうやすもうかと思ってのぞいてみた「MIXI」に、見知らぬ人のわたしに語りかける優しいことばが、重ね重ね書き込まれているのに気付いた。温か
い。
気をとりなおしてもう今夜は、寝よう。インシュリンを約束の十倍もキュッと注射すれば目覚めることは無いのだが。
* 十月二十三日 つづき
* 押村による指弾のつづきはこうである。
1986年
押村家第一子妊娠に際し、「押村の子など要らない」と中絶を主張。
重篤なつわりに衰弱する朝日子に、電話による嫌がらせを継続。朝日子、入院。
わたしは昭和三十四年(1959)医学書院に入社し、「助産婦雑誌」「臨床婦人科産科」という月刊雑誌をともに何年か編集担当し、その間に、新人なが
ら、東京大学で産科と小児科と協力協著の、画期的な大冊『新生児学研究』を企画し刊行した。これが契機となり推進力となり、ついに日本の医学界に「新生児
学会」が創立されていった。
その強い動機は何であったか。妻の朝日子妊娠をぜったい「中絶」させたくなかったから、そして無事に出産して欲しかったから。その為にも産科と小児科と
の間で「あかちゃん」を取り合っているような医学の間違った体制は正されねばならないと信じたからである。
わたしは若い若い一介の編集者だったが「功績」に感謝され、第一回新生児学会が仙台でひらかれたとき「会員」待遇で学会に迎えられている。『新生児学研
究』編集に当たって下さった、五つ子成育など未熟児学の草分け馬場一雄先生(当時東大助教授からのち日大医学部長、病院長)との今もつづくご縁は、久しく
久しい。
安易に「中絶」などする「怖さ」を、わたしは多くの症例報告や医師・助産婦達との付き合いで熟知しており、それでも妻に一度敢えてしたイヤな怖い思い出
からも、そんなバカげた「主張」を、吾が娘の初孫のために思いつくだに道理一片も有りえず、それどころか妻も私も、また秦の親たちも、朝日子の懐妊をみな
雀躍して喜んだ。
押村夫妻が口にするこの前段の、お話にもならないバカらしさは、「第一子やす香」の誕生を迎えた夥しい数の歓喜に溢れた写真アルバムが雄弁に物語ってい
る。
もしそんな険悪な間柄なら、朝日子母娘が、押村家と我が家とどちらが多いかと云うほど頻繁に里帰りして、ご機嫌であった数々の写真の説明がつくまい。
押村高本人もこの頃は何度も我が家に現れ、ごく尋常につきあっているし、私や妻の、やす香を可愛がりようは、まさに手放しの有様であった。それもあまたの
写真があまさず伝えてくれ、それが何年にも及んでいる。やす香の死に至るまで我々祖父母や叔父建日子がやす香を愛し愛したことは、あまりに多くの物証や記
録が残りなく証明してくれる。
祖父母達に嫌われた孫なら、あのやす香が、親にナイショで祖父母と祖父母の家や、銀座や新宿や、また建日子公演の劇場などで、死ぬまで深く親しみ、祖父
に真っ先に「大学志望で要提出の論文」を「読んで欲しい」と届けに来たり、躊躇なく即座に「MIXI」の「マイミク」同士になったりするワケがない。
押村高が筑波大学で技官として就職できたとき、やす香の祖父母と叔父とは筑波まで出向いて、朝日子の案内でやす香の幼稚園へ訪ねてゆき、いま家に帰ろう
というやす香に声を掛けた、あの瞬間のやす香の驚喜したこと、驚喜したこと、とうてい忘れられようがない。祖父母との都内各所での洋服の買い物で、こぼれ
そうな笑顔で喜びを隠さなかったやす香。あれもこれもやす香が秦家で無上に愛された反映である。押村両親には、この事実がよっぽど悔しかったのは察しられ
る、現に次女ケケケに対し祖父母を敵のように教唆し監督するのに大童らしい。
ところが押村高がかつて送ってきた「お付き合い読本」の第一条には、たしか「人間の精神の自由」などと書いてあった。娘や孫へ送った手紙、娘に与えた父
の著書の揃え、孫に与えた季節の衣服等を、率先途中で奪い取りそのまま保谷の祖父母へ送り返してくるのは押村高という「人間の精神の自由」をうたう専門の
哲学学者・教授なのだから、撞着もあまりに低級ではないか。
それに言って置くが、朝日子のいわゆる「夫・押村高の暴発」(1991)に至るまでは、押村家での姑と嫁との葛藤こそ屡々聞かされたものの、そのことが
逆に教えているほど、押村親子と秦家の状態は「静穏・尋常」で、押村の留学に際しても、わたしたちは相当な餞別を与えて歓送している。
数ヶ月日本に残った朝日子母娘が保谷の実家で過ごす日々が多かったのもごく自然であった。「嫌がらせ」「虐待」など、どこにありえよう。
みな我が家での写真で、上二枚は秦が、下上は妻が、下の孫と祖父とは朝日子が撮影。どこに忌まわしい虐待や険悪な間柄の暗さが見えるか。この当時、押村は
町田の玉川学園、我が家は西東京の保谷、当然、別世帯である。
秦は書き仕事や早大出講などに多忙で、ともすると書斎に逃げこんで客の応対もろくにしなかった。おじいやんを見上げたやす香のなんともいえず身をよじった
可愛らしさはどうだろう。
写真
* 朝日子の妊娠悪阻が異様にひどく重かったことは事実である。せっかく就職したサントリー美術館も退職してしまったくらい。わたしが多年懇意な日赤の看
護学教授の斡旋を得て入院を世話してもらったのも事実で、ひどく心配させられた。ところが、入院した朝日子の「我が儘が過ぎ・迷惑」と、仲に立った人から
苦情がきて再三再四眉を顰めたことも両親の記憶に苦々しく残っている。
朝日子に「電話による嫌がらせ」とは何を以て謂うのか、作り話の一つも具体的になく、これが「言いがかり」でなくて何だろう。もしそんなに険悪なら、と
ても出産後に我が家へなど尋ねても泊まりにも来れなかったろうに、そんな気配一つ無く、実家の母親にも父親にも頼り切りの産後の里帰りは近所でも評判にな
るほどであった。むしろ押村の姑との育児意見の相違など、どれほど朝日子から聞かされたことか、「ぜったいあんな人とは一緒に住みたくない」と朝日子自身
の口から父も母も聴かされ、「考え方が違うんだろうなあ」と妻と私はよく苦笑した。
書き立てていることの、あまりな非常識ぶりと稚拙な言い分に、呆れるしかない。
* 当時わたしの日々は、そんなことにかまけていられるヒマなものではなかった。『秋萩帖』という小野道風らを書いた見切り発車の連載小説に苦闘し、また
頼まれて早稲田大学文藝科のゼミに出講し、建日子を早大法科に入学させ、「湖の本」を創刊し、俳優座で秋公演の『心 わが愛』脚本の仕上げや稽古。朝日子
のことはただもう無事に生んでくれと願いながら、妻も私も作家生活に没頭協力しつつ、加えて老親たちに三人の介護にも日々心を砕いていた。
「若い夫婦は若い夫婦でちゃんとやってくれ」というのが超多忙な私の本音であった。何が「ハラスメント」か。玉川学園と保谷とはずいぶん遠いのであり、
私たちは父君の葬儀以外に玉川学園の押村家を訪れていないのである。わたしは朝日子たちのアパートの住所も電話番号も覚えなかった。必要がなかった。我が
家では電話は妻の役なのである、今でも。バカもやすみやすみ言えと云うしかない。
1986年
長女誕生。押村夫婦で命名したところ、「命名権の侵害、遺産相続権を剥奪する」と脅迫。
* 生まれてくる子にどんな名前がつくかと、祖父母が楽しみにあれこれ噂するのは、何処の家庭でも当たり前のこと。我が家も例外ではなかった。しかし「命
名権」などとご大層な意識などあるわけなく、吾が子の名前を親が付けるのも当然の話、権利があるというなら当然親にある、何をバカなと呆れてしまう。
娘「朝日子」の名前を、わたしが、いつの日にか男でも女でも「朝日子」と名付けたいと心に願ったのは、昭和二十八年、高校三年生になる直前に、京都泉涌
寺の山でえた「笹はらに露散りはてず朝日子のななめにとどく渓に来にけり」の作が最初だった。斎藤茂吉や三好達治や古歌などの「朝日子」という表現につい
て、幾度朝日子に教えてやり、どんなに朝日子が誇りに思って喜んでいたかは、朝日子自身もものに書き表していたことがあったと思う。「建日子」のときも、
女なら「肇日子」と予定していた。祖父母に「命名権」なんてバカげたつくり話はやめて貰いたい、少なくも我が家では絶対にありえない。その上に、何の理由
有って此処へ「遺産相続権」などというヨタ話がくっついてくるのか、非常識というか突飛というか、異様な「病状」をすら推測したくなる。
わたしは自分のお恥ずかしい限りの遺産のゆくえどころか、日々の作家活動に孜々として日々勤しんでいたし、そうでなくては暮らしの立つベストセラー作家
なんかでなかったことは、天下周知のことである。お笑いである。
* しかし一つだけ、やす香にも朝日子にも「すぐ謝った」一つの事実がある。やす香を初めて保谷に連れてきた日だったか、「名前は」と楽しみにしていたこ
とを尋ね、「やす香」と聞かされ、わたしは咄嗟に「舞子か芸妓みたいやなあ」と口にして、朝日子が泣いたこと。これは悪かった。
わたしは京都の祇園と背中合わせ、骨董商たちの通りで育ち、いつも親とは祇園の廓なかの銭湯に通ったが、脱衣室にはたくさんな芸妓・舞子の名披露目の団
扇が飾られていた。わたしは幼時からそれらのひらかなや漢字を読んで字を覚えたし、祇園のあちこちを通り抜けても、軒下の表札にはそんなような名前がいつ
でも何処ででも読めて、身にも目にもしみついていた。
わたしも妻も根は「靖子」とか「節子」とか「明子」とか「子」名が好きでもあったし、「やす香」には意表をつかれ、思わず口走ったのである。ま、悪い悪
いとその場で詫びた。その少し前であったか後であったか、著名なタレントに生まれた子が似たような名だったことを、むろんわたしは知らなかった。やす香の
短かった生涯に一つだけ悔いと負い目を覚えることである。これだけは両親にも重ねて詫びておく。
それにしても「命名権」にも仰天するが、それが「遺産相続権」に直結して「脅迫」となる筋書きなど、三文小説でも成り立たない拙劣なセンス、これがまと
もな大人の言い立てることだろうか。痴愚の言としか云いようがない。
* 十月二十四日 火
* ぼく個人としては、父上が、朝日子への反論で疲弊してしまうより、それを消化し昇華して、長大な小説をものにしてくれることを望みます。それを、心し
て読みたいと思っています。物書きの後輩として、父上の作家としての矜持をぜひ見せていただきたいと思っています。
HPは、堂々と新たにおやりになればいいと思います。
電子文藝館などの「湖の本」の事業(非営利含む)は、いずれはぼくが引き継ぐのがよいと思います。
時間は貴重です。不毛な消耗はつまらない。
なかなかに難しいとは思いますが、朝日子のことは一度忘れてしまうがよいと思います。彼女は、大人になるというハードルを越えられなかったの
です。よい土ではあったのかもしれないけれど、不完全なまま焼かれ、固まってしまった器なのです。もう戻りません。
古典美術文学歴史の本は、遠くない未来に、一度勉強のための長い休みを取るつもりにしているので、処分はしないでいただきたいです。
茶器の類は、***が真剣に今も茶道の稽古をしているし、ぼくもその方面の勉強もいずれはしたいので、やはり処分はしないでいただきたいで
す。
車を買い運転手を雇うのはいいアイデアだと思いますね。うちの若い役者でもいいかもしれない。
母さんの健康も心配です。
気の晴れる用事を努めて入れてほしいなと。 では。 建日子
* いまのような混乱の最中で趣向のある長編にとりかかるのは、やはり難しい。その前に片づけておく仕事が二つある。
建日子のメールにくっつくように、長いメールが一読者から届いている。これが、わたしへも朝日子へも相当な「批評」である。
* お元気ですか。とてもつらい思いで「私語」を拝見しています。
ひどい事態ですが、これは「想定内」のことでした。こういう濡れ衣に苦しむのは湖お一人のことではなく、今までもこれからもたくさんの人が経験すること
です。今朝のフランスのニュースでも、同じ職場の人間からの告発で無実にもかかわらず築いてきた事務所を失った人の闘いが取り上げられていました。
人間はよくこの手の煮え湯を飲まされて、理不尽な左遷や退職になります。告発者が正義感ですることなら許されるでしょうが、殆どは社内のライバルを蹴落
とすためにハメルのです。自分も会社の方針に同じに従っていたのに、正義の仮面をかぶって、まんまと逮捕させてしまう。ねたみ、そねみ、ひがみが支配する
のがこの世界のようです。
湖は幸いにも職を失うわけでもなく、ご家族が路頭に迷うわけでもありません。これからも書き続けることで、湖の真実はかならず伝わります。事情を知らな
い人から万が一ひどい誤解を受けたとしても、湖の業績は微動だにしません。湖は世界の続く限り生き続ける文学者です。どんと構えて、もっと周囲の人間を信
じてください。悪が栄えることはありません。結局は真実が生き残るようになっています。安心して幸せにお過ごしくださいますように。
私の個人的考えでは、湖の潔白の証拠となるのは、八月二十一日のメール、「さらに私がもっとも恐怖するのは、裁判が不利になった場合に、朝日子さんが
「言葉によるハラスメント、虐待」だけでなく少女時代に「性的虐待」を受けたなどと嘘を訴えることです」を読んで、湖が失笑したという事実、まさかと思っ
て無視していたという事実、今苦悩していらっしゃるという事実にあります。そして先の、ご家族の細かい略史や湖の日記のほうが、写真よりずっと良い証拠の
ように思えます。写真はこの略史を裏付けるものとしては、やや、役立ちます。写真を使われます時は、できるだけ朝日子さんお一人でないものがいいと思いま
す。ご家族、とくに奥様とご一緒のものが一番かと。
今の事態の打開に、何より重要なのが奥様です。「母親としての迫真の陳述」が伝われば、かならず、湖の潔白は証明されると信じています。奥様は朝日子さ
んと刺し違えるほどの覚悟で説得してくださることと信じています。奥様の力次第です、すべては。
さて、これから本題です。お元気のある時にお読みください。
この長くなるメールを書こうかどうかずいぶん悩みました。湖を傷つけるでしょう。でも、今の「私語」の惨状と湖の痛ましさをこれ以上見ていられません。
わたくしが明日死ぬとしたら、書いたことを後悔するか、書かなかったことを後悔するかと考えました。答えはでましたので、書きます。
湖の作品論、作家論の一種と読んでくださってもかまいません。いえ、そんな立派なものではなく、わたくしの妄想と妄言の羅列です。でも、一つの見方とし
て、何か湖のお役に立つことがあればと願います。
湖への深い尊敬と信頼そして、湖にとっては迷惑千万なわたくしの「使命感」から書くことをどうぞ信じてください。
私のごく若い頃、今から二十年近くも前のことです。あなたは遥かかなたの尊敬する作家で、私は本屋であなたの本を見つけるたびに購入する読者でした。
湖の本を読みこなす力など殆どなかったと思いますが、あなたの作品を何より愛していました。
そしてある時、あなたの作品を読みながらふと、「この著者はいつか娘を失うかもしれない」と感じました。私は幸か不幸かあまり直感を外したことがありま
せん。
たとえ小説であっても、湖のような形で娘に愛を表現すれば、それはどこか不吉でした。災いを招く、そう思えてなりませんでした。
今手元に見つけられないので、正確な文章ではありませんが、「赤毛のアン」の中で、マニラが養女にしたアンを愛していることを自覚して、このように深く
誰かを愛し執着してよいものか、こんなことでは神の罰を受けて失うのではないかと不安にかられるという場面がありました。
知り合いの文学趣味のある先生から、自作の詩や短歌などを自費出版した本をいただいたことがあります。その中に「娘を恋うる唄」という詩がありました。
胸騒ぎがしました。そして翌年、その先生はまだ若い娘さんに突然に先立たれました。
愛の中には隠したほうがよいものがあります。とくに、親から子への愛については、秘めて小出しにしていないとこわい。魔物が潜んでいるからです。
湖がふつうの家庭の在り方を知らずにお育ちになったこと、真実心底孤独にお育ちになったことがはじまりだったかもしれません。高校生の頃から将来のお
子さんの名前を考えていらしたなんて、普通ではありません。どんなにおさびしい境涯でいらしたことかと胸がつまります。
湖が愛する女性と出会い家庭を持たれた、そのお喜びは察するにあまりあるものでした。他の人間には当たり前のものでも、湖にとっては生まれて初めて得た
家族です。命にかえても守らなければと決意なさった。もともと内に豊かな愛の溢れていらっしゃる方が、そのまままっすぐ家族に、とくに初めてのお子さんの
朝日子さんに躊躇うことなく愛を表現なさったのだと思います。
結論から言うと、湖は愛しすぎたのです。娘への愛を表現するについて抑制することを知らなかった。息子さんのほうは男ということもあり、どこか厳しく鍛
えるという発想がおありだったと思いますが、異性の娘さんに対しては手放しで愛し可愛がったのだと思います。
そもそも父親というのは言葉のない男です。想いを言葉にするのが不得手です。そこに溢れる愛とのバランスがとれていた。
ところが湖は文学者、しかも天才的表現者でした。愛をそのすばらしい文藝で表現してしまいました。現実の生活でいくら「バカか、お前」と叱っていらした
としても、書かれたものを読む限り、湖は「朝日子」の存在の喜びを表現せずにいられなかった。
ひそみひそみやがて愛(かな)しく胸そこにうづ朝日子が育ちゆく日ぞ
「朝日子」の今さしいでて天地(あめつち) のよろこびぞこれ風のすずしさ
本当に朝日子のまぶしく輝く佳い歌です。私語の「e文庫」朝日子さんの作品に写真をつけて、湖は「詩人朝日子は」と書いていらっしゃいました。たとえ逢
えない娘への「励まし」としても、私はこの「詩人」という表現に実は驚きました。たしかに、朝日子さんの詩には舌を巻きます。プロの域です。しかし、「詩
人」は、文学者に対する最高の敬称ではありませんか。それをあなたほど一流の文学者が娘に使うとは、たとえその力があったとしても適切だとは思えないので
す。朝日子さんがご自身を「女流作家」と自称していた素地は、こんなささいなところにも見えています。賢い娘は砂が水を吸い込むように父の愛の言葉を受け
入れたのです。そして自分を特別の存在と思い違いしていったのかもしれません。
「湖の本」を一読した時に、どうしても理解できなかったのは「夏生」の恋愛についてでした。誰も誰も夏生の愛に値する男たちに思えなかったからです。何
より夏生は青春お決まりの手痛い失恋さえしていない。
読者の自由とも、物書き的飛躍とも受け取れるでしょうが、私にはひらめくものがありました。
夏生は誰でもよかったのです。父親を選べないのなら、父を夫と出来ない定めなら、相手は誰でも同じでした。アメリカに留学してもよかった。見合い相手で
もよかった。夏生が理想とし、愛していた男は父一人なのです。
そう読むと、今の異常事態への理解も可能な気がします。性的虐待と表現している朝日子さんのあなたへの憎悪は、父親であるあなたとそういう関係になるこ
とが出来なかった烈しい怒りと恨みの噴出です。長年の無念の爆発です。男女の愛を望んでいたのは、あなたではなく、娘の朝日子さんのほうでした。朝日子さ
んはご家族の中でおそらく一番お父さんの天才を理解した娘です。さぞ自慢の父親であったことでしょう。そして、その父に愛されることに特別の喜びを感じて
いたと思います。
しかし、原因はそれだけではないでしょう。父を理想の男と恋する娘は世間にごまんといるからです。あくまで「聖家族」の一つの読みとして書くので、許し
てください。ご家族の歴史についても、現実についても何も知らないのです。作品からの感想です。
朝日子さんは母親との関係がうまくいっていなかったと感じられてなりませんでした。
以前にも申し上げましたが「聖家族」の家庭に妻はいても、娘の母はいませんでした。それが事実だったのかどうか勿論私には判断できませんが、父と子はも
ともとうまくいかないのが基本です。子どもに対する責任は三と七の割合で父親より母親に重いと私は考えています。
朝日子さんが幸せな結婚生活を送ってさえいれば、色々なことがすべて潜在意識の中だけの妄想ですんだのです。それは恥じることでもなんでもなく、人間な
ら誰しも色々な形で抱えている妄想ですから、朝日子さんの溢れる才能で小説の中に美しく昇華することも可能だったでしょう。
とどめはやす香さんの悲劇でした。
湖は百パーセントの人だとつくづく思います。いつも、ご自分の信念に向かってまっしぐらに完璧を求めていらっしゃる。
芸術においてそれは素晴らしいことですが、今回の件でも最初から百パーセント勝つという発想でいらした気がします。しかし、複雑な親子関係にそれが可能
だったでしょうか。正義が貫ける状況だったでしょうか。
私の考えではアラブとイスラエルのように、決着はつかないことに思えてなりません。女の味方になりやすい「調停」にも私は不賛成でした。妥協を最小限に
とどめることだけが可能な解決と信じていました。それが湖にとって一番傷が浅くてすむ、そう書いたことは今も正しいと思っています。
人格障害を相手にして何かが解決することはありません。被害を小さくすることだけが可能な、不治の病と思うしかなかったのです。糖尿病と似たようなもの
です。寿命尽きるまでなんとか暴走をコントロールすることでやり過ごすしかないのです。十字架は最後まで背負うしかない。
私は人格障害者と四十年以上苦闘してきた女です。理由なく湖のご家庭の問題に対してあんな失礼なことは書きませんでした。
しかし、湖はわたくしの意見を聞くべきものと判断してはくださらなかった。湖のほうが正しいのでしょう。でも、正しいことがそれほど大切ですか。
わたくしは、正しいことより、湖ご自身とご家庭とその作品やホームページを現実的に守ることを大切に考えていました。毎年文化勲章の時期になると腹立た
しい気持ちになっていた読者です。ノーベル文学賞でもそうです。湖は、決してご自身の作品が埋もれることを望んでいらっしゃる方ではありません。作家なら
当然です。一人でも多くの読者がほしい。作品が名作ならなおのことです。
湖はネットだけでなく、ご自身の作品を海外に発送するなど、もう少しご自身の名作を広く認知させることに欲望を働かせる必要があるのです。あなたはご自
身の価値について知らないのでしょう。自分の天才を信じていないのです。過小評価しているのです。
ことさら悲劇的な方向に、狭い穴に、あえて不遇な状況に進むあなたを見ているのは身を切られるようです。それが自分の道と開き直るのは一種の傲慢と甘え
ではないかと感じます。類まれな才能を与えてくれた天に申し訳ないと思いませんか。
朝日子さんは湖のこの百パーセント「自分の道」主義をよく受け継いでいるように感じます。父親の百パーセントの愛が得られないくらいなら、百パーセント
の憎悪なのです。父の世界の徹底的破壊なのです。あなたと朝日子さんは表裏一体です。
湖による朝日子さんへの愛の文学表現は感動的でした。娘は自分の父への愛の成就の不可能から逃れるために、それが自分の崩壊につながることも覚悟で恐ろ
しい反撃に出ているのです。
私は批評家でも作家でもなく、ただの読者です。凡人で素人で文学のことなどわからない。ただあなたの作品を熱愛している読者として湖の文学世界に問いた
い。
湖の作品は芸術の香気溢れる名作ばかり。今の形でしかあり得ない美しさです。湖は以前、名作なんてお笑いだと書いていらっしゃいました。そんなことは二
度と書かないでください。ご自身の真価を知ってください。あなたの書いたものは総て後の世に残るものです。
私はこれからも今までのように、湖文学の熱い熱い読者です。生涯の敬愛を捧げています。
しかし、なぜ朝日子さんはこうまで無茶苦茶な行動に出るのでしょう。病気としても、烈しい愛の裏返し以外にありません。そして、その朝日子さんに対し
て、あなたは今「私語」に書いている方法以外に、答えようがないのでしょうか。無惨です。
あなたの潔白を完全に証明するには、実は朝日子さんが「嘘だ」と「認める」ことしかないのです。法律で勝つより大切なことです。私はそれが絶望的なこと
とは思いません。可能です。でも、あなたの方法ではむずかしいと思います。
今、あなたの私語に書き綴っていることは、相手に手の内を見せるだけのこと。そしてあなたの人間性までおとしめてしまいます。公表なさる必要性もわかり
ますが、あちらと同じレベルにならないで、弁明は私語から独立させたらいかがでしょうか。
あなたに出来なくて、あなたのご家族に執念がないなら、私がいつの日か朝日子さんに「嘘」と認めさせてみせましょう。でも、今私など出てはややこしくな
るだけなので、かかわれません。時を待ちます。
何より、あなたご自身の手で、朝日子さんをどんな形でもいいから、小説の中だけでもいいから、必ず取り戻してください。あきらめないで取り戻そうと闘っ
てください。
私はこの世に天与はあっても天罰はないと思っています。だから、朝日子さんの今の行動は湖にとって天罰ではありません。このようになったのは、何か大き
なはからいによって、湖に一つの課題が与えられたのだと思うのです。
湖は、人間を問われているのです。真実娘を愛せるか、人を愛せるかと問われているのです。
湖は、以前に「愛を知らない」と書いていらした。今回のことで、私はその意味を知りました。湖はどこかで自分を棄てられない人です。その部分だけ愛が足
りないのです。母なるものを知らない湖は、そういう愛しかたしか知らない。(同じ言葉が、こう書く私の身にもあてはまることは充分承知しています。許して
ください。)
今こそ湖が愛を知る、愛を示すその時なのだと思います。朝日子さんが湖の愛に値しない人間に成り果てても、そうだからこそ愛すべきなのです。残骸でもい
いから愛してあげてほしい。心が腐っていても抱きしめてほしい。到底愛することのできぬ非道をしている娘だからこそ、愛してあげてほしい。「本来の家」に
迎えいれると言ってあげてほしい。「朝日子」という名前をとりあげないでほしい。湖のお心の奥にはそのような娘への熱い愛があるにちがいないのです。
湖は今、島に立っている「だけ」でいいのでしょうか。動かない島であり続けるのでしょうか。真実「愛は錯覚」なのですか。
私の理想の愛は、湖の考えるような、一人しか立てない島に一緒に立つと錯覚する愛ではないのです。
自分の島を棄てる愛です。自分から相手の島に泳いでいく愛です。相手の島には一人しか立てない。それでも、自分の島を棄ててひたすら泳いでいく。相手の
島には上がることができないから、相手を見ながら溺れて海の藻屑となりますが、そのことに悔いなく喜んで死ぬのが私の求める愛です。
あるいは、自分の島を与える愛をめざしたい。相手のために自分の島を与える。自分だけが海の中に消えてゆく。愛は身を棄てることでしか完成されないもの
ではありませんか。
このような愛は人間には成し難いことですが、もしそう出来ないとしても、そう試みること。愛せないことに苦しみ抜くこと。それこそが「貴重な愛の錯覚」
だと思います。
身内を探し求めるのが愛ではなく、縁あって自分に与えられた人を受け入れ、身内になろうと死ぬまで格闘することが私の考える愛なのです。
天才とは愛する魂です。そして、湖はそのように愛せる高貴な魂だと知っています、わたくしは。
やす香さんと朝日子さんによって、どうか湖に新しい文学世界が与えられますように。
天は湖に比類なき才能を与えた。ですから、代償としてその才能に見合う酷い苦悩を与えて、もっと高みをめざして書きなさいと言います。天才の人生が平穏
無事だったためしがないように、あなたは人生の集大成の老境を迎えて命のかぎりを尽くして書くべきものを与えられたのです。これこそ天与です。
凄まじい女というものについて、血を分けた人間たちであるからこその、恐ろしい葛藤と愛憎を描いてください。今までの湖世界にはない世界、狂気と修羅場
の果ての人間への愛を読ませてください。愛の可能性をその作品の中で描ききってください。気高い湖の魂を書いてください。一世一代の名作を書いてくださ
い。
この課題を果たすまで、湖は「一瞬の好機」に身をゆだねるわけにはいきません。
だから生きて書いてください。湖が書かなければやす香さんは永遠に生きることができません。やす香さんにどうぞとわの命を与えてください。朝日子さんも
やす香さんも、湖に描かれるためにこの世に生まれてきたのです。湖の筆によってしか命を生きられない女たち、最高のヒロインになります。
以上です。 どう思われてもよかった。お力になりたかった。ただそれだけで衝き動かされて書きました。書かずにいられなかった。私はただ一通のこのメー
ルを書くために湖に出逢ったのかもしれないとさえ思います。
次の作品で、湖の答を期待しています。湖は強い人です。食えない男です。さあ、新しく美しいものを見に、地獄の花見に、元気に出かけてください。
お元気ですか、湖。どうぞお元気で、いつもいつもお元気でいらしてください。死ぬまで生きてください。 一読者
* 建日子
谷崎潤一郎は「母」ものの作家としても知られています。幾つも名作があります。
これはわたしの「読み」であり、また肉親を書くどんな作家にも或る程度共通しますが、ことに親や子に対しては、たとえば生身の母や娘とカッコ付きの
「母」「娘」ないし「妻」とでは、全然・意図的に異なっている例が多いのです。カッコのない母や娘への、妻への日々に遠慮会釈無い愛憎や嫌悪感をもってい
ながら、「創作」という力学や美学の磁場に「母」「娘」「妻」などとカッコ付きでその影像を書き込み送りこむとき、当然ながらモチーフにしたがい理想化
や、少なくも異化を働らかせて、それにより思いも寄らない別次元の世界を創り出そうとする。
このメールの人は、カッコのない朝日子も、カッコ付きの「朝日子」も同じに見ています。わたしの作品の中の「朝日子」は或る意味で現実の朝日子とは似て
非なる異化を経ていることに、この人は理解が届いていない。輝いているのは当たり前なのです、わたしはそのように愛情こめて表現している。しかし日々の日
常の場で接していた朝日子は、相当にちがう。
朝日子が何を考えていたかは分かりません、正直のところ。このメールの人は基本的に錯覚しているように思うけれど、また際どいところを容赦なく見ている
のも事実で、教えられることが少なくない。こういう「批評家」もいるんだね。
わたしは「今・此処」でずうっと努めてきたし、その時々の仕事にも、満足はしないがひど仕事はしてこなかった自負はあり、この先へ「今・此処」がどう延
長するしないにかかわらず、いつも一期一会です。ぶつっと命が絶えたとてその意味で悔いはないんです。ありもしない明日に対して義務など感じていない。
「今・此処」に在るばかりです、わたしの理会での「一期一会」です。 父
* BIGLOBE問題は、第二回審尋で「和解解決」したと法律事務所から知らせてきた。今年の六月七月八月の「私語」のみ削除し他は復活すると。
何の感慨もない。過剰な削除であり、押村高らが著作権を相続したというやす香の「MIXI」病悩日記の引用のほかにも、わたしの創作的な文章やエッセ
イ・批評はこの三ヶ月の日記に実に満載されている。引用にも適切な個所の方が遙かに遙かに遙かに多いはず。乱暴と云うしかない。
一応結末を待ってみたわけで、用は済んだ。BIGLOBEとのホームページ契約はすぐに解約する。
* 十月二十四日 つづき
* 押村による指弾のつづきはこうである。
1987年
度重なる嫌がらせ行動を回避するため、押村、海外留学を企図。幼児を伴う渡欧計画に秦激怒し、離婚を主張。
* 「度重なる嫌がらせ行動」というなら、どう「度重なる」のか、いつ、何を、どのように「度重なった」というのか、具体的に挙げてもらいたい。八七年の
DIARYが手元の此処に在る。日記もある。その日付と照合してみようではないか。高利貸しの取り立てなら知らず、どこの世界に、そんなことの「回避」の
ために「海外留学を企図」するヤツがあるだろう。
これには実にハッキリした理由があった。
もう一年二年学部内の特例で何とかならないでもないと、舅のわたしは漏れ聞いていたが、押村高は妻・朝日子にも隠したまま、フルブライトだかの留学試験
を受け、パスした。それだと留学に手当が出て給与なみの支給があるという。
問題はそこに一つ起きた。普通なら一年留学のところを、押村は、またも独断で「三年」留学に決めた。朝日子から聞いた。オーバードクターに地位の払底し
ている日本事情である、日本を三年も留守にすれば、帰国後の就職難は目に見えて嶮しいであろう、それは常識だった。わたしの若い友人にも血眼で地位を求
め、履歴書を山のように書いて撒いているのがいた。押村高はそれすらしなかった。朝日子はじめ押村の家族の不安は当然で、わたしたちも娘夫婦親子のために
極く普通に心配したのは、理の当然だった。
だが、また、ものは考えようで、パリでの三年の修学が将来によく反映することも有りえようからと励ました。そのことは、わたしの作品にもその通り書かれ
ている。朝日子はかなり心配していたが、パリへ呼んでくれて向こうで親子で生活体験ができるのを歓迎もしていた。
そして半年と遅れず母娘も渡航した。勿論相応に援助もした。
やす香に遠く去られるのは流石に辛かった。書庫の奧でちっちゃいやす香を抱いておじいやんがおうおう泣いたのを、「かすかに覚えています」と高校三年生
になったやす香は云っていた。その記憶にも驚かされた。
婿殿が資金供与を受けて三年パリに留学する、いわば慶事の一つを、何故舅が「激怒」する必要があるか。すべて彼等が欲して彼等が決めることで、舅が采配
するいわれはない。そんな関心はない。ましてそれで「離婚」せよと主張したなんて、バカげていて笑い話にもならない。
繰り返して云うけれど、わたしは「朝日子が離婚して戻る」など絶対イヤであった。どんな夫婦でも夫婦は夫婦で問題を解決せよと云うのが、わたしの思想で
ある。やす香なら引き受けても、朝日子との日常は御免であった。やす香も苦笑していた、「ママは謎でーす」と。わたしは謎々は苦手なのだ。
それどころか朝日子達は、自分らがパリに居る間に、なんでハパやママは遊びに来てくれないのと云っていたではないか。わたしが新聞の連載用に、シチリア
の写真が欲しいと頼むと大きな良い写真集を二冊も見つけて送って日本へ送ってくれたではないか。パリからの朝日子の手紙、パリ通信はかなりの量、今も保谷
に残っている。留学を「激怒」され「離婚を主張」された父親なら、とてもそんな気にはなれまいに。
1990年
朝日子・長女が半年早く帰国したため秦家に逗留すると、「ただ飯を食いに来た」などと痛罵。3歳の長女に「勝手に冷蔵庫のジュースを飲むな」と罵倒するな
ど。
何故か知らないが、朝日子母娘だけは一足早く帰国して、ほぼ我が家に起居した。
さて何でこれしきが朝日子の云う「虐待」で「ハラスメント」なのか。事実であったとしても、どんな家庭でも冗談交じりの繪に描いた茶飯事だろう。子供に
も体調はみてやらねばならず、食べすぎ飲みすぎは子供の得意技である。度重なれば注意もする。この程度の会話を「痛罵」と感じていたら、世界中の日常がみ
な「ハラスメント」「虐待」になる。云うことが幼稚に過ぎて、読んでいても恥ずかしい。
それどころか、朝日子とやす香との何年かの間で、押村はパリに、朝日子ら母娘は保谷にというこの時期。これぞ、本当に水入らず三世代、わたしの老親たち
も含めて四世代が、幸せに酔えた、ほんとうに幸福な日々であった。数ある団欒遊楽の写真がそれを雄弁に証明してあまりある。朝日子は母親任せにのうののう
と怠けていた。渋々押村の実家へ帰れば、嫁と姑とは険悪そのものであったのだから、朝日子もまさに鬼の居ぬ間の命の洗濯をしていた。
わたしは前年から「湖の本エッセイ」シリーズも出し始めていたし、相変わらず書きまくっていた。仕事、仕事。わたしは仕事が好き。朝日子達を虐めるどん
な理由がそんな日常にあるか。あったなら、それは酷いと云うほどの一例でも挙げればいい。
* 十月二十五日 水
* いつも、ふと感じることなのですが、芸術・・・例えば華道などで、何を表しているのですか?? こんな事を表現しています。そー言った物を見るたび、
聞くたびに、デザインや、表現と言う物には、そー言った事が必要なのかな? と、思います。確かに、なるほどって思ったりする事もあるのですが、あえて何
か足さなくても、心で良いと感じる物であれば良い様な・・・
けど、世間ではそー言った何かを付けないと良いとは言えないのでしょうか? それだけでは自己満足。表現では無いのでしょうか・・・そー言った要素を満
たして初めて技術、芸術と呼ぶのでしょうか? 「MIXI」の友より
* こんなメッセージをもらっていた。
これは関心の持てる提言であり、少し考えてみたいが、今から劇団昴の芝居に今日はわたし一人で出掛ける。三百人劇場での公演ももうこの辺でオシマイとな
り劇場が無くなる。今日は「夏の夜の夢」で、妻はシェイクスピアを、いや何度も観る演目を、敬遠した。わたしは佳い芝居なら何度でも繰り返し観たい方であ
る。
で、亡き長谷川泉さんにインタビューされた対談記事を、さしあたり「MIXI」日記に入れはじめた。これとは別に、あらためて落ち着いて考えてみたい。
* 秦先生 Web消滅から一ヶ月もたって、ようやく片が付きましたね。
弁護士を交えて和解というひとまず結びに入ったわけですが、和解というのは、裁判官の判断が入らないものなのか、(知らないので)興味があります。裁判
官の判断を含むのであれば、これは大騒ぎになる事案だと思っています。
生活と意見、読んでいます。先生のWebのこと、また何かありましたら遠慮なくおっしゃってください。
先生。言われなくても分かっている…と言われるのを承知で。
先生が続けられている消耗戦は、先生方を疲弊させるためだけのものでしょう。奥様のご健康を承知でやっているとしか思えません。
それでも、戦いを続けることしかないのではないかと思います。そして、相手方にヒビが入り、続かなくなる方法しか。まだどんな手を控えているか分かりま
せん。
できる限り、正面は事務方に任されることを願っています…。 卒業生
* ありがとう。
消耗もまた人生の一局面とおもい、懸命に消耗しています。まだまだ何が起きてくるかしれませんが、そういう人生を選んできたものと。わたしの「今・此
処」がくっきりと続いて行くだけ。
BIGLOBEの復旧を早く目で見たいけれど、更新しようとしても「パスワードが正しくない」といわれ、BIGLOBEは以前のままのパスワードでいい
のだと云い、つまり復旧を「確認できない」ままでいます。今となれば空しい話ですが。
今日は一人で 劇団昴の三百人劇場での残り少ない公演を見てきます。わたしの人生劇場の只今の「場」よりは楽しめるでしょう、「夏の夜の夢」です。
またのんびり飲み食いがしたいな、イチローと。 湖
そうそう、むろん裁判官の判断があっての「判決」だそうで、正式の書類は届いていません。
* 「夏の夜の夢」はおもしろくつくられたシェイクスピア人気の舞台だけれど、原作のふまえた「夏至」前夜の民俗などに、日本人は没交渉であり、その一点
からも原作の妙味を汲むことは容易でない。粗筋を追うばかりになり、またそれでは日本の今日只今を利発に刺戟する何ものも殆ど無い。これはもうハナから覚
悟して掛かるしかなく、その覚悟で観る分にはけっこう面白い筋書きを孕んでいる。
演出の妙味と福田先生の訳とにすっかりよりかかって観てきた。十二月には名作「八月の鯨」を再演してくれるらしい。わたしの七十一の誕生日ぐらいに観ら
れればいいが。
* 巣鴨へもどるつもりが逆向きに三田線に乗ったので日比谷でおり、「きく川」で鰻を食ってきた。ツヴァイクの『メリー・スチュアート』と小沢昭一さんの
珍奇絶倫『小沢大写真館』を、仲良く半分ずつ読みながら行き、読みながら帰ってきた。どっちもおもしろい。
* 秦先生
市役所勤務になって、改めて思うのは、良い悪いに関わらず、皆一生懸命に生きている、という事実の痛感です。
事業者も懸命、反対住民の方も懸命です。
私の役割は何なのか、私ごときに何ができるのか。私自 身の思いは傍らに置いて、そういった人達の話を聞く、結果として、当たり障りの無い対応しか出来
ていない様な気がしてなりません。
職場の人達に向けた思いも同じです。通常の仕事をこなしつつ、家族との生活、自分の趣味の生活を一生懸命過ごされている姿を見ると、色々な思いはあった
としても、プラスαの業務は言いだし切れません。
職場の人であれ地域の人であれ誰であれ、そういった人達の思いをきちんと受け止める事、出来る事と出来ない事などをきちんと整理して明確にすること、そ
の結果として選択された事は、自分の仕事として責任をもって行うこと。こんな様な事を、今考えています。
まだまだ半人前の私ですが、世の中には色々な事をやったり言ったりする人がいるけれども、そんな人でも皆一生懸命なんだ、と思っています。(というより
も、“思いたい”という方が正確かも知れません。こんな事を考える事自体が未熟者の証しかも知れませんが。)
現在の社会は、“多様化の時代”と一括りされることが多いですが、その実態は、選別が繰り返された結果としての多様性であるとも思います。街に溢れる商
品やコマーシャル、TVも例外では無いのではないでしょうか。
この様にして選別された人々が“多様化”と十把一括りに称され、次の選別の対象となる・・・この悪循環の結果、市民の思いも“多様化”が前提となり、バ
ラバラになっていく・・・。誰かが何かの手を打たないと、という思いはありますが、国旗や国歌が良いなどとは到底思えません。
行政は、こういった選別はできません。やってはいけません。色々な人達が居るのは事実ですが、がっぷり四つで行くしか無いと思っています。時には裁判沙
汰になる事もあるかも知れませんが、一人一人の目線に立って地道に一つ一つ対応をして行くしかない様な気がします。
うまく書けませんが、今の仕事をしている中で、また、先生のHPを読ませて頂きながら、こんな様な事を考えています(と断言できるかどうかも不安な位で
すが)。 丸
* 本省から政令大都市に出向しながら頑張っている、信頼している卒業生のいかにも難しそうな日々がうかがえる。
* 十月二十五日 つづき
* 押村家による指弾のつづきはこうである。
1991年
押村家第二子妊娠に際し、再び強硬に中絶を主張。つわりに衰弱する朝日子に対し、連日、電話による脅迫。押村、たまりかねて抗議文を送付。秦激怒し、夕日
子への虐待を強化。
朝日子、被虐待退行に陥る。「こうすれば楽になれる」という迪子の甘言に乗り、「押村との不和を自白する手紙」を書く。この手紙を後に「証拠」としてイン
ターネットに公開され、そのまま現在に至る。
秦が「紛争」と呼ぶのはこの一時期のみ。
ここへ来て、上の文の書き手は、朝日子ではなく、夫・押村高のものかと推察される。最初から一貫してそうなのではないかとすら思われる。
この項に関しては、秦の未完の創作草稿『聖家族』を以て答えるのが、フィクションながら適切だと思う。このホームページの長編小説欄「ファイル8」に掲
示されている。
* 他家に子供が生まれるのに、「強硬に中絶を主張」する、われわれ秦家にどんな必要や動機があろうか。そんな非常識を誰ができるだろうか。割り切って云
えばすべて押村家のことであり、よそ事であり、妊婦が吾が娘といえども戸籍上も他家へ嫁いだ主婦、すでにやす香という可愛い孫も有る。
「中絶」の怖さは職業的に熟知していたし、体験的にも懲りていた。
それを「連日、電話による脅迫」とは何というおどろおどろしき虚言であることか。何をどう脅迫したのか、一片の具体性もない。「連日」とはいつからいつ
を謂うのか、そこまで云うなら通話の物証を示して貰いたい。何度も云うが、秦は生来大の電話嫌い、しかも朝日子たちは頻繁に我が家へ里帰りしていたではな
いか。
みな、我が家での団欒。この母・朝日子に父から虐待を受けている娘の暗さがありますか。
この写真はみな父が撮っているのです。下左にはちらと最晩年の秦の祖父も見えます。
* 要するに「妊娠した嫁は、実家で面倒をみよ」というのが押村高の一方的な希望であった。押村高著『お付き合い読本』の、「つ つわり」の項を押村高は
こう書いている。
「つ つわり きわめて厄介な代物。妊娠中、とくにつわりが続くと、夫婦の仲もギスギスしがち。統計ではこの期間に夫が浮気したという例も多い。あま
りひどければ、実家に籠ることが肝要であろう。嘔吐する姿を最愛の夫にみられずに済むし、症状について気軽に相談できる両親がいる。出産の際も同様だ。た
だ最近は住宅事情などのため、隣に借りて貰ったアパートに里帰りする嫁もいる。肉親が近くにいれば問題はなかろう。」
「浮気」の話など、押村高の知性の無さ、品の無さを露わにし、その人物を表してあまりある。つまり、自分のいやなことは他人任せ。これは「夫婦愛」では
なく、「夫の身勝手」である。「被虐待退行」という難しいことが書き込まれているが、「妊娠中、とくにつわりが続くと、夫婦の仲もギスギスしがち。統計で
はこの期間に夫が浮気したという例も多い。あまりひどければ、実家に籠ることが肝要であろう。嘔吐する姿を最愛の夫にみられずに済むし、」などとドギツイ
ことの平然と書ける、 押村高が、再々、「インターネッとからの削除を懇願」してくる創作『聖家族』を読めば、真相は一目瞭然。
* わたしの妻は、「甘言」とやら術策とやら、そんな卑劣な策の弄せる性格でない。
作品が「公開」してあるのは、間違いなく秦の創作著作である以上当然の活動であり、一連の事態の正確な証言をその創作の含んでいることが、押村高にはよ
ほど恥ずかしくて堪えがたいのであろう。
* この年の秋、秦は、東京工業大学の専任教授に就任し、就任に至る迄には種々の手続きや用意に手を取られ、また『死なれて死なせて』書き下ろしの仕事も
版元弘文堂に督促されていたし、さらには老人介護にも、いろいろ出版の仕事にも、相変わらず大童であった。そんな最中に、朝日子の第二子妊娠・出産は、夫
婦相揃って自宅にいる状態なのだ、力をあわせて無事出産してもらうのが自然で当然だった。いたかった。われわれには手が回りかねる日々の生活があった。
だが幸い、押村高が朝日子のいわゆる「不幸な暴発」をするまでは、両家に「紛争」などなかったことは、やはり同時期多数の両家団欒の写真が示している。
写真は偽らない。朝日子の悪阻もやす香の時に較べれば観察していてもラクなようであった。夫・押村は、「働く」のに何不足もない健康体そのものだった。
それらも、みな創作『聖家族』に正確に示唆・表現されている。
上の申し条などは、あまりに馬鹿げた「捏造」と謂うしかない。
* 十月二十六日 木
* もうわたしの以前の、http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/
というホームページサイトは存在しない。数万枚ものわたしの著作・創作を、何の顧慮も躊躇もお構いもなく、適切・確実な通知も確認もせずに一気に全削除し
てしまった。言語道断なそんなプロバイダを安心して使うわけに行かない。プロバイダを替えてこのホームページはもとのままに送信している。アクセスして下
さっている方は、秦のホームページがもとのまま支障なく復旧していると、どうぞ新しい「URL」をお知り合いの方々にお伝え下さい。リンクもご自由にな
さってください。
* 地裁審尋の「判決書」が届いていた。大山鳴動して鼠も出なかった。長くて「数日」ということだったから「仮処分申請」に同意しお願いしたが、「一ヶ月
余」もかかり、結局復旧したという画面も見ること出来ず、BIGLOBEを解約した。何の必要があってわたしのこの六月、七月、八月の全部の「私語」削除
を容認して「和解」なのか、わたしには全然理解できない。わたしのために何の利益をはかろうと仮処分申請してくれたのか、尽力の成果がどこにあったのか、
全く理解できない。
この事件で法律家とも当事者として話し合わねばならず、ほとほと驚愕したのは、法律家の言葉はじつに私たちの耳に入りにくいと云うこと。しかし裏返す
と、法律家の耳にはわたしのような文学者の言葉はほとんど一顧もされないほど無意味で無効なのである。裁判官は「そういう訴えには一顧もあたえません」
と、さらさらと云われる。ダメダ、コリャと「人間」を務めているのが情けなくなる。
* 情けないときは、さような「世間」をわたる人間の「役」をしばらくやめて、じっと自分の内側を覗いて過ごすのがいい。
「禅」という文字のことなど、思ってみる。
「禅=ゼン」という日本語には何の根拠もない。中国の「禅=チャン」が訛って伝わっただけであり、その「チャン」にしても中国語ではない。パーリ語の
「ジャーナ」という言葉で達磨が、つまり「禅」に相当する教えを伝えた。禅はただの宛字である。
ブッダは佛教を、民衆の言葉パーリ語で語った。インドの学者達に専有されていたサンスクリットでいえば、「ジャーナ」は「ディヤーナ」だった。そこまで
は、要するに「知識」の範囲であり、あまり意味がない。そんなことを知っていても屁のつっぱりにもならない。
(このごろオヤジの日記のことば、ナマになっているぜ、おやじらしい抑制の利いた文章で読ませてよと息子の方から声が聞こえている。言葉は「心の苗」で
あり、いつも一本調子は偽善的なウソにちかくなる。言葉の生彩は、喜・怒・哀・楽の情感に適切な出口をつくってやって生まれる。それが自然であれば、言葉
は生き生きはずみ、不自然であればことばは過度に飾られるか表情を喪う。此処は、屁のつっぱりにもならないと言わせてもらいたい。)
* 「ディヤーナ」とは、心を超えること、分別し思考するプロセスを超えること、またはそういう心、分別、思考を落とすこと、静寂のなかにはいることだと
分かりやすい言葉で言い換えられている。何一つ動くもののない、なにひとつかき乱すもののない、完全な静寂、純粋な虚空、そのスペース=時空が、「禅」と
いわれる。
「禅」は中国では宋の時代に相当な感化をのこしたが、ほんとうに禅が落ち着いたのはむしろインドでも中国でもなく、日本だったといわれていて、そうとも
言える、が、かなり逸脱して「禅趣味」が日本人に根付いたと正確に謂えるというのが、わたしの批評で持説である。禅と禅趣味とをいっしょくたに混同してい
ると、禅も遊藝化してくるから危ない。
あらゆる宗教や信仰の中で、「禅」だけが、ほぼ「抱き柱」を抱かずに、人間の内奥に生死の動静を把握する。禅宗とは云わないが、わたしが「禅」に心親し
む思いがそれであり、なにが人に大事か、自身の内奥にenlightenment=無明長夜の眠りからの眼覚め=気付き、を得ることより有り難い「生」は
あるまいなあと、わたしは只今も感じている。金無垢にピュアで確かな生が、さてこそ、予感される。外の世間には、余りにもくだらないものがゴミためのよう
に淀んで流れもしていないと、ま、そんな風に毒づくのは簡単だけれど、気付いてしまえば、綺麗も汚いも大事も不大事も何にもないであろう、だって、「ディ
ヤーナ」であれ「禅」であれ、その静寂は虚空で、分別する「識」を無に帰している。きれいのきたないの、くだるのくだらないのというのは、夢の中の悪夢に
悩まされているという以上のなにものでもなく、夢は醒めてしまえばおしまい。
* こう思っていると、おもしろいことにその夢が、ま、シェイクスピアではないが「夏の夜の夢」めくお芝居のようで、長い狂言にはいい幕もいやな幕も、明
るい幕もくらい幕もあって当然と思えてくる。どうせ醒めてしまう夢に違いないと信じているから、ならまあ、あいつとも、こいつとも、どいつとも夢の中で適
当に付き合ってやるかとアキラメがついてくる。なに、高見の見物などと気取ることはない、自分も自分の「一役」をぎしぎしと演じてみるがいいのである。夢
と知りせば覚めざらましをと嘆いたのは、無明の夢と知りつつしたたかに悦楽出来た、まちがいなくあれぞ「女の強み」だったろうなあと、ふと思う。誰だった
かな、小町にきまっている。
思ひつつ寝(ぬ)ればや人の見えつらん夢と知りせば覚めざらましを 小野小町
あはれこの雨に聴かばやうつつとも夢とも人にまどふ想ひを
みづうみをみに行きたしとおもひつつ雨の夜すがら人に恋ひをり みづうみ
* ここ数日、私の心は羽を味方に遊びにでかけては、夜遊びで元気になって戻ってくるようになりました。
今後ともご面倒でない程度に、羽のはえた心の勝手なふるまいにお付き合い頂きたく思います。
美しい時間が訪れますように。 珠
* やす香の日ごとに増しゆく劇症を見舞って、はるばる四国から、准看護師の勉強をしている一と教室六十五人の生徒たちが、私に激励の手記集を送ってきて
くれていた。やす香の亡くなった日に全部読み上げて泣いた。もうまる二月になろうとしている。やがて戴帽式と聞いて、今日『死なれて死なせて』六十五冊を
四国へ御礼に送った。せめてもの気持ちに。
* 思いがけない戴帽式の記念に、ご本ご贈呈くださるお話、ありがとうございます。
びっくりするとともに、先生のお気持ちがしみじみ伝わってきました。『死なれ死なせて』は、私はまだ拝見していないのですが、看護師を目指す人たちに
とって、何にもまさる座右の銘となるものだと思います。
あの手記を書きました中に、エリザベス・キュープラー・ロスの『死ぬ瞬間』という本の存在を教えてくれた男子学生もいました。きっと、深い理解と感銘を
得られると思います。ほんとうにありがとうございます。
別件をここに書いて、すみません。
一昨日、『乙御前』・『雨雲』・『園城』に逢ってきました。『光悦』を、事前・事後熟読しました。少しは理解が深まったかもしれませんが、やはり難しい
です。
『乙御前』は写真よりずっと明るい色で、むしろ桃色といいたいくらいかわいらしい色と思いました。
『雨雲』の、とくに口部の厳しさはぞくぞくするほどでした。
『園城』は、二条城書院の茶にぴったりの風格とともに、荒法師の恐ろしさを感じました。
またおたよりします。 讃岐
* 京都1泊旅行はとても楽しかったです。
朝、7時の電車に乗って、10時前には岡崎の近代美術館の前に並んでいました。若冲・蘆雪・瀟白など、さもありなんと思われるコレクションの数々が出て
いました。
異国の人の目を通してみる江戸の美、興味津々でした。
やっぱり、あの若冲のタイル絵のような動物の絵の大作は圧巻でした。とらえられている動物の姿態が、色が、あっと驚く作品でした。そして、普通なら、表
装の部分も幾何学模様で埋められています。(枠だけが木材でした)
ゾウの正面向いた絵が入ったTシャツを買いました。
時代祭見物の人たちが集まり始めている平安神宮や、丸太町通り、御池通りをタクシーの窓から見ながら、楽美術館へ行きました。ここも、お茶の先生たちの
着物軍団がひっきりなしに訪れていて、落ち着かなかったけれど、
じっくりと立ち止まって時間をかけて対面をしてきました。
横から高台を見ると、あの繊細な高台が、まだそのうえ、陳列の棚の面に密着しないで、かすかにすきまが空いているのです、ほんの数ミリの2か所を残し
て、宙に浮かんでいるのです。道入の端正な、整った高台がかえって平凡に見えました。
あの「御ちゃわん屋」ののれんが光悦の書だということを初めて知りました。のびやかで、やさしい字ですね。
先生のお好きだと言っておられた、「乙御前」、ほんとうに手のひらで包んで撫でたい、ほおずりをしたいと思いました。胴のふくらみと、鮮やかな色が、心
に今も残っています。
説明を(お茶の先生方にしていたのを横で、勝手に盗み聞きしました)聞くと、黒楽は、確かに楽家の釉薬(鴨川の黒い石を砕いているとか)だけれど、赤は
どうも違うらしくて、こちらは、鷹が峯の自邸で焼かれたものではないかと言っていました。ピンクがかった橙色に細かい貫入があって、ほんとうにきれいでし
た。
次は、大急ぎで駆けつけた、国立博物館の「京焼き」の展覧会です。仁清の壺、乾山の皿、道八の鉢、永楽保全の水指等々、なんと、300点近くあるので
す。
ゆっくり出直しをしなくては・・と思いつつ外へ出るともう真っ暗でした。
夕食の場所がこれまた、祇園の真ん中、「一力」を花見小路から少し西へ入ったところの「川上」という料理屋でした、通の味を堪能、ついでにお酒もたくさ
んいただきました。
吉井勇の「かにかくに・・」のお軸を本物ですか、ときいて笑われました。
次の日は、室町の着物の問屋さんに着物を「見に」行きました。
目移りして、何が何やらわからなくなるくらい、高価な着物が数限りなくありました。
「買い」に行ったのでなくてよかったと思いました。
というような忙しくも楽しい旅でした。 讃岐
* 気が遠くなるようなお忙しさで、少しお気の毒。
しかし光悦をしっかり観る機会は、天恵ともいうべく、いいことをされたと思う。祇園の「川上」もなつかしい。もう昔になる、板さんと対談したことがあ
る。
* 十月二十六日 つづき
* 押村家による指弾のつづきはこうである。
1992年
次女誕生。電話による嫌がらせ、継続。
* 孫・みゆ希の誕生は、三月だったと思う。この前後に、押村高はやっと筑波大学技官として就職し、筑波の宿舎に家族で移っていった。
嫌がらせどころか、我々祖父母は、やす香はむろん、まだ顔も見ないみゆ希に会いたい一心で、息子・建日子の運転する車にのり、押村が留守という情報を利
し
て、筑波の宿舎まで逢いに出掛け、幼稚園をひけてくるやす香を驚喜させているし、まだやっと首の据わった程度のみゆ希とも、嬉しい写真を何枚も撮ってい
る。
また朝日子は、みゆ希とやす香とを連れ、やはり押村高の不在を利して、かつがつ保谷を訪れて、当時骨折入院していた秦の祖母を見舞い、曾孫二人の顔を見
せ
てやってくれている。その写真も大きく撮ってある。
上は筑波の押村宿舎。下は清瀬の病院へ孫と曾孫のお見舞い。 写真
「秦の病人を見舞いに行くなら、離婚する」と夫押村の口癖に脅され威嚇されていたさなかの、スリリングにきわどい慌ただしい朝日子らお見舞いの決行で
あった。「虐待」していたのは誰なのか。
「電話による嫌がらせ、継続」などと曖昧模糊としたこんなことが、まさか朝日子に言えるワケが無く、これまた押村高の下手なウソ八百と云うしかない。
* 十月二十七日 金
* > こんな問いかけが来ています。
> いつも、ふと感じることなのですが、芸術・・・例えば華道などで、
> 何を表しているのですか??
> こんな事を表現しています。
> そー言った物を見るたび、聞くたびに、デザインや、表現と言う物には、そー言った
> 事が必要なのかな? と、思います。確かに、なるほどって思ったりする事もあるの
> ですが、あえて何か足さなくても、心で良いと感じる物であれば良い様な・・・け
> ど、世間ではそー言った何かを付けないと良いとは言えないのでしょうか? それだ
> けでは自己満足。表現では無いのでしょうか・・・そー言った要素を満たして初めて
> 技術、芸術と呼ぶのでしょうか?
>あなたは、どう思いますか。 湖
「作品は誰のものか」ということのように思います。 珠
表現は誰もがいろいろな方法で試みるでしょう、私も作ります。
試行錯誤の製作には、思いや目的、分析した結果からの方法..など ”自分はこう考え作った” というまず ”自分”
という「個」があると思います。
それはまず第一歩。
芸術は技術の話ではなく、もっと ”他者” の近くにあるものだと思います。
作品そのものではなく、作品とそれを受け取る他者との間に生まれるその空間が思いがけず心震わせるとき、そこに芸術がみえるのではないかと思います。
だから私は動かない物にだけ芸術が在り得るのではなく、人の行為など瞬間過ぎゆく現象にも芸術は在り得るのではないかと…。
誰もが芸術を求めて彷徨い「言葉」を尽くすのでしょうが、作品自身が受け手と交感をはじめていれば「言葉」は不要でしょう。
ただ受け手によっては、「言葉」を聞くことによって作品と受け手との間の空間がより色濃くふくよかになる場合もあるのかもしれません。
作品は、作者が手を離した瞬間から受け手に向かっていくのではないでしょうか。受け手が作品と対峙してみえてくるそれが芸術..、そう思ったら
”みる”
ということの重大さに今更ながらに気がつきます。作品の前では謙虚になって自分と作品を対峙させられるように、日頃から奥深き鍛錬が必要なのですね。
”拝見させて頂きます”の言葉の奥にあるもの、そこへ難しいけれどゆきたい。
* 動かない造型のほかに演劇、舞踊、体操ないしは茶の湯の手前作法にも藝術または藝術味がある。ときとして日常の人と人との情理をともなった関わりの瞬
間にもそれがあるということをこの人は云おうとしているなら、尊いことだと思う。
* わたしは、この問うてきた人に、こう答えておいた。
* ここで、華道が一例にあげてある何か理由があるのか、察しがつきませんが、云われている「華道」が、伝統的な、投入れ 盛り花、また生花などとは別趣
の、いわゆる「造型」「オヴジェ」風の花術についていわれているとすれば、同様の質疑は、ことに前衛彫刻やオブジェ造型の現場でもされているし、絵画で
も、極度のアブストラクトやシュールなものにふれると、頻繁に同じ質疑がされていると思われます。もっともっと普通の作品に対しても同じ質問、同じように
答えている場面に、よく行き当たります。
沢山な個人展覧会のお誘いが来ますが、物書きのわたしもビックリするような、まるで「詩」かあるいは「演説」かのような「ことば」で、自身の創作につい
て書き込んだ葉書や郵便物の多いのに、苦笑することがあります。
展覧会に行くと、作品の題に、じつに凝った題がついていて、それだけの「文学的な」苦心を、むしろ絵筆なら絵筆の「表現」に集注したらと苦笑する例もあ
ります。
作者が自作について自己批評したり反省したりするとき、たいてい内心の「ことば」に翻訳してされている例が多いはずで、これは余儀ないことですが、個展
に出掛けたところ、作者にぴたりとくっつかれてあれこれ苦心談や説明をされますと、とても落ち着いて観てられるものじゃありません。
むろん尋ねている方もあります。「何」を表しているのですか?
この質問は、たとえ答えて貰っても、多くは得られない、作品というのはそういう表面の「何」という現象だけでは片づかない謎をふくんでいるからです。説
明されても無意味で、自分の眼で観て、直観するしかない。直観を豊かにするためには、結局「深く観る」以外にないんですね。
文学でも造形美術でも、「説明的」なものはどうしても浅い。説明の付かない或る魅力を、説明的な「何」とか「彼」とかの奧から、彼方から、汲みとらねば
ならない。いや汲むという以上に一度は作品の前に自身を「明け渡さねば」ならない。その意味では、努めないで聞いてもダメ、努めないで口で説明しても、両
方とも、得るところはあまり無い。有っても本質的じゃない。
以前或る美術展で講演しました題が、『絵の前で<わかる>と<みる>と』でした。その「枕」にこんなことを話しています。
落語に『抜け雀』という、亡くなった志ん生師匠なんぞの旨(うま)かった咄(はなし)があります。小田原の宿場で宿引きをしていた、気のいい小宿の主
(あるじ)が、見るからにこきたない若い男を引き止めます。のっけから、内金に百両も預けようかなどと言う男です、が、発つとき払いで結構でございます
と、宿の客にしてしまいます。朝に昼に晩に、酒を一升ずつ飲んではごろごろ寝ている客を、おかみの方が気にします。せめて五両でも内金をと亭主にもらいに
やりますと、案の定この客、一文ももっていない。仕事をきいてみると繪師だと言う。大工ででもあるなら家の傷みを直させることも出来るけれど、「繪なん
か、みたって、わからないし」と亭主は困ってしまいます。この亭主の「わからない」という言いぐさを、お耳にとめていただきましょう。
それでも自信に溢れた若い繪師は、これも宿賃の代わりに旅の経師(きようじ)屋に造らせてあったまっさらの衝立(ついたて)に目をとめまして、亭主のイ
ヤがるのも構わず、手練の墨の筆を走らせます、と、そこに五羽の雀が生まれ出る。けれども亭主は申します、「何が描いてあんのか、わからない繪ですな」
と。雀だと聞いてやっと頷き、「そういや雀だな、わかりましたよ」とも。
で、この雀五羽を宿代のカタにおき、繪師は江戸へ向かうのですが、この雀たち、毎朝、朝日を浴びますと、チュンチュンと元気に鳴いて衝立から抜け出し飛
んで遊ぶんですね。「抜け雀」の題のついている所以(ゆえん)でありますが、じつに生き生きとしている。 ま、咄は、私の口から聴かれるんじゃつまりませ
んから、みんな端折りますけれども、ここで、宿の亭主が「繪をみてもわからない」と言い、また「何が描いてあるのか、わからない繪だ」と言う、そして「雀
か、あぁわかった」とも言っている。ま、これくらい世間でもよく聞く言いぐさは無いんでして、繪を「みる」と「わかる」とが、たいてい対(つい)になりま
して、途方もなく厄介な関所になっている。これは、ひとつ、ぜひ、考えてみなけぁならんと、そう久しく考えて参りました。
いったい、どういうことなんだ、繪を「みる」と繪が「わかる」とは、と。どうにも気になって叶わんなと。
ま、こういう難儀にアブナイ話題には、専門家は、ふつうお触りになりません。かと言って、放っておいていい問題でもないことは、こんなに大勢お集まり下
さったことからも察しがつきます。手に余るかも知れません、が、みなさんの方でもご経験で補い補い、お聴きください。ひとりの自由な小説家の言説を、半分
は冷やかすぐらいにお楽しみいただくということで、私も、気楽に、でも真剣に、お話ししてみようと思っています。
で、以下話して話し終えてきたのですが、「何だかわからん」客にに対し、言葉で解説する作者や演者じゃ、一般に、仕方ないんです。せいぜい「雀だ」ぐら
いで済んでしまいまして、作品の秘密には関わってこない。この絵描きは名人でしたから別段の噺が進みますけれど、一般に「何が」「わからん」に対し、「こ
れだ、これこれ」などと説明し始める作者の作品には、豊かな謎なんて、魅力なんて、無いのが普通でしょう。無いから、気楽に表面を説明してくれる。
自分のもっている動機(モティーフ)や主題(テーマ)について、作品の説明としてでなく、つねづね考えたり語ったり書いたりすることはありますね、それ
が藝談、藝術論になっている例はいくらでもあります。たいてい深い自問自答の苦慮や思慮のなかから生まれています。「説明」することじゃない、「説明」し
てしまったら停まってしまう。
ま、そんなふうに考えています。華道ではよく分かりませんが、作者が、作品を成し遂げるまでに、ある体験的な基盤や強い契機というものが、むしろ佳い仕
事にほど必ず有ります。それをあらかじめ知っていると、非常に深くまで作品が見て取れる、読み取れるということがあります。批評や評論にはその効用があり
ますが、作者が自身の作品に簡明にそれを添えていてくれたのが有りがたい例は、志賀直哉などに佳い例があり、ほかにも在りますね。わたしは作者のエッセイ
は大切に好んで読んでいます。
しかし作品をその場で指さすように「何が」「何を」と聞いたり話したりは、イヤですね。自分でも答えませんね、普通は。ま、先ずはよく「観て」下さいと
かよく「読んで」下さいと云います。
* こんなわたしのくどい話より、先の人の、物静かな述懐が適切に機微をこたえている。
* 三時十分に自転車で出て、五時五分に帰ってきた。帰って測ると血糖値は、102。心おきなく夕食にウイスキーを呑むから、仕方がない。
* 平野謙の『新生論』は、読みたいと思っていますが、まだ読んでいません。図書館の検索で平野謙を探すと、『島崎藤村・戦後文芸評論』というのがありま
す。これに入っていればいいけれど。
講談社版の日本現代文学全集では、97巻に平野謙が入っていますね。
講談社版日本現代文学全集は、図書館にも一応あるけれど、全部で108巻と、別巻が4つ。途方もない量ですね。
先日借り出した大久保房男さんの本によると、講談社は戦前、その名のとおり、娯楽本を扱っていた出版社だったのに、立派な文学全集を出しているのだなあと
感心しました。『群像』なんて、硬派な文藝雑誌ですし。大久保さんらの尽力の成果なのでしょうね。
『仮装人物』を読みました。
私小説系の作家たちはみな、かなりの割合で、書くために私生活の「波乱」を求めた部分があり、秋聲もその例にもれていないと想いました。
『仮装人物』の「仮装」とは、葉子という奔放な若い女性に耽溺し苦悩しながらも、その状況を、作家として、「書いてやろう」とする、冷徹な目を持ってい
ることを指しているのではないでしょうか。
この場合の「仮装」は、女性に溺れている人格の方にあるように想えます。
葉子という女性はかなりの悪女ですが、そんな女性と縁を切れずにずるずる繋がっている、はたから見たら相当愚かな庸三を、秋聲は自ら演じているのです
ね。
フローベールやモーパッサンらの造形した普遍的に愚かな市井人に、秋聲は自らなりきっている。小説の中に起こるのは女性問題ばかりですが、主人公の庸三
は作家なので(それから、妻に先立たれたやもめであることもあり)、会社勤めの人のような世をはばかる様子もなければ、葉子との関係が暴露したからといっ
て、社会的に抹殺されることもありませんから、その方面の悩みはさほどでもなく、糸の切れた凧みたいに、別の男のところへ飛んでいってしまう葉子の行動
に、ひたすら苦しむばかりです。
同じやもめでも、藤村と違うのは、藤村が、姪との恋愛関係ばかりでなく、数多い、問題を抱えた親戚たちの暮らしの援助もしなければならなかった苦しい生
活者であったことかなあと。
ま、これは『仮装人物』だけを読んでの感想で、手許の国語要覧の秋聲の解説には、「暗い現実や本能的な衝動を誇張や感傷なしに描き、庶民生活の忍従やあ
きらめを克明にとらえた。」とあるので、秋聲も、藤村に劣らない生活者だったのかも知れません。他の作品も読んでみます。
しかし、中村光夫曰く、『破戒』が日本の近代小説のわかれ道にあったという事実は(残念ながら、藤村の力不足と、花袋の成功とで、文壇は『破戒』の方へ
進まなかったけれど)、藤村が旧家に生まれ、親戚の、社会の、生活のしがらみを、人より強く感じていたからこそのことだったのではないでしょうか。
藤村は、志賀直哉のように「家」を捨てませんでしたし、芥川龍之介のように自殺もせず、断ち切れない世俗のしがらみを全身に絡ませたまま、「偽善者」と
呼ばれようとも、創作を諦めなかった。
一口に自然主義といってもさまざまで、伊藤整の「逃避型と破滅型」がうまい分類かなあ、と思います。
岩野泡鳴は、まったく読んだことはありません。名前は知っているけれど。(こうして紹介してくださる風の助言、とても感謝しています。参考になると思い
ます。)
岩野泡鳴を図書館で検索すると、全集が16巻と別巻が一つあります。五つの大連作というのも、図書館にあるようですが、図書館からは、いつも上限目一杯
借りていて、長編を読み終えないうちに返却日が来てしまったら、どこまで読んだかメモして、また借りる、という風にしています。
読んでも読んでも、本は尽きません。
一生かかっても読みきれないのではないかというほどの名作の存在を想うと、ワクワク、嬉しくなります。 花
* 無欲のうちに着々と歩を運んでいる人、言葉も弾んでいる。こうなってくると毎日が満たされ、楽しめているだろうと思う。
はじめてメールをくれた何年も前は、コチンコチン。書いてくる文章もギクシャクしていた。いま一人ひそかにブログで書いている作など、別人のようにらく
に書いている。らくが即ち佳いというのではないけれども。予期していた以上にねばり強い勉強家で、くさらないのがいい。
* ヨガから帰宅。先生に、「体やわらかくなったね」と言われてゴキゲンです。
ベンベヌート・チェリーニは、図書館蔵書検索でヒットしませんでした。会田雄二さんも。でも、記憶に留め、折に触れて探してみます。
創作とは、ショッキングな事実を露骨に記したものでなくとも、それが佳いものであればあるほど、はだかの作者がそこにいるものだと思います。
鴎外の「ヰタ・セクスアリス」が、どんな過激な性遍歴を記した雑文より、興味深くおもしろく感じられるのも、そのせいかと。(もちろん、鴎外の教養の高
さと、文章のうまさのせいもあります。)
お元気で、風。 花
* 現在のわたしに、「いかがおすごしでしょうか」とメールで挨拶されると、ぐらりとなる。
* 十月二十七日 つづき
* 押村家による指弾のつづきはこうである。なんというガサツな物言いであろう、裁判所に正式に提示する知性ある大人の文書とはとても思われない。
1993年
押村就職に際し、職場に中傷文事を送付。まともに働けると思うなと脅迫。
夫か親かと迫り、夫と応えると、「生死を含めた十割の義絶」を宣言する。朝日子受諾の手紙を送付。その後、宣告どおり、祖母の死去に際し何の連絡もなかっ
た。
秦の「証拠書類」はこの件を隠匿している。
* 押村の「暴発」後は、文字どおり押村とは「交流杜絶」して、押村高がどこに、いつ就職したか就職替えしたか、どういう地位・職種かなど、知れもせず知
りたくも無かったが、能楽堂で仲人筋とのわずかな立ち話や、或いは息子からの伝聞ていど。不本意な筑波大をやめ、青山学院大学講師に転じたというのもいつ
のことだか、知らない。いずれにしても、そもそも押村に対し、軽蔑と怒りのほか一片の関心もなかった。
「職場に中傷文事?」を送付というなら、どの職場へいつどんなモノと実物を示すべし。「マトモに働けると思うな」と脅迫とは凄まじいが、これも、どこ
で、どういう方法でなされたか示せ。わたしは「暴発」後の押村高の顔を見たのは、2006年のやす香病室まで、ただの一度も無い。
この年一月十五日、十六日に、夫・押村の不在を利して、朝日子と二人の娘・やす香、みゆ希が保谷に一泊している。祖母を病院に見舞っている。これを
押村高はどう説明するのか。この頃以降ケケケ成長の写真が再々朝日子から送られて来ているのは、どう説明するのか。朝日子の「おだかやな誕生日7/27」
と近況を告げるごく尋常・穏和な手紙も来ている。消印が示している、平成五年、まさしく押村達のいう1993年の夏のハガキである。どう説明するのか。
上に申し立てているあらけない文面とあまりに食い違う、朝日子の当時の文面。
捏造・虚言がどちらかは、かくも歴然。 ハガキの写真
* やす香・みゆ希の写真は、このハガキのなお二年ほど後に、朝日子から送られてきている。この写真は、じつは多くを語っていると思われる。高校生のやす
香
が、祖父母をひとり訪れ来るようになって、ときおり片言のように漏らすことに、「親は、みゆ希贔屓なんです、仕方ないけどね」が、何度かあった。しかし
母・
朝日子のように、第二子が出来てから「親に虐待された」などとバカげたことは決して言わなかったが、よほど寂しかったらしい。相模大野の病院に見舞った
日、母親を独占して食事をさせてもらい、あれこれ甘えてすっかり子供返りしたようなやす香を見ながら、わたしも妻も、やす香の、やっと母を取り返したかの
ような幸福そうな様子に、烈しく胸をつかれた。姉妹と雖も難しいものだと思った。むろんケケケに何の責任もない、やす香のかなしい思い過ごしであったろ
う。たとえ四十六歳まで生きていても、突如として「虐待されていました」などとい言い出すやす香ではなかった。
* そもそも娘が二人も生まれている母親の朝日子に、「夫か親かと迫る」そんな滑稽な選択がどこの世界にあるか。
わたしたちは、板挟みに苦しむ娘の「手を放し」て、夫婦親子で幸せになるように、保谷の両親に思いを残して苦しむことのないように、少しも親の気持ちに
ついて心配しなくていいとは言ってやったが、根本で「離婚」は不可と堅く考えていた秦として、ここで「手を放してやる」のは、情においてごく当然で自然な
こと。
叔母ツルの葬儀には喪服で来て通夜している朝日子の写真がある。しかし、母(祖母)タカの死には、ただ秦の夫妻だけで通夜し、見送った。朝日子をわざわ
ざ煩わすことは無用であった。「秦の『証拠書類』はこの件を隠匿している」とは何の「件」か。朝日子が何を「受諾」したのか。
押村の妻として、子供達の母として生きて行くのが朝日子の自然、順当と、「手を放し」たことか。「受諾」とはものものしい物言いであり、親子として切な
い一つの別れであった意味でなら、事実が示している。朝日子がのちのちまで「親に棄てられた」と弟にも漏らしていたことを斟酌すれば、朝日子は押村との生
活をイヤがっていたことになるが、やす香やみゆ希の父親はまちがいなく押村高であり、それを否認する気持ちはわたしには全くなかった。妻は夫と、子は両親
と
暮らして欲しかった。しかし押村高とわたしたちとは、彼の妙な物言いを借りるなら「生死を含めた十割の」断絶を宣言したかったし、今も同様である。
この年、秦は東工大教授の実質二年目、学内で学生達との時間は充実していた。教室や教授室タネの著書も実りつつあった。ものすごい多忙、楽しい多忙であっ
た。一片の共感もない押村高の足を遠くからひっぱっいるヒマなど全然無かったことは、著書『東工大「作家」教授の幸福』『青春短歌大学』いずれも平凡社を
一瞥して分かるはずである。
* わたしのこの反駁の後でまたまた捏造しても、それは後出しの作り話。確実なモノは確実に始めからデータを添えて出て来ていた筈である。
* この以後の十数年に及ぶ「長い断絶期間」については、今直ちに何も云うことはない。わたしが東工大生活の余録としてインターネットで発言するように
なったのは、1998年春以降であり、時に押村高を日録であげつらい批判し批評したことは前後の文脈にも引かれて、何度もあったろう。当たり前のことを、
当たり前に云ったので、わたしは虚妄を捏造して書いたり話したりはしない。しかも一度も苦情が届いたわけでもない。
* やす香の可哀想な死に至る、また死後の押村家の「再度の暴発」に関しては、いずれわたしに一冊の著在って、多くを、きちんと明かすであろう。著作『聖
家族』もぜひ一読されたい、わたしはこれを自分の「作品」としては評価していないけれど、記録性という点では保証付き正確である。
* 十月二十七日 つづき
* 仏陀は言う、「迷える衆生はおのれを知らない」と。迷える衆生とは誰のことでもない、わたしのこと、あなたのこと、生きとし生けるほとんどあらゆる人
のことで、大統領も総理大臣も王様も社長も教授も藝術家も恋人同士も、金持ちも貧乏人も、何のかわりもない。自分は人とはちがうと思うなら、それそのこと
が迷えるしるしで、「おのれを知らない」。では人の迷いとは何なのか。己を知るとはどういうことなのか。
「真実の自分を知らない」で生きて在る気でいることだ。真実の自分を知らないから、平気で自分自身のまわりに偽りの人格を積み上げ築き上げ塗り込めてい
る。
* あなたは「何か」と答えを問えば、医者だ、技師だ、教授だ、キリスト教徒だ、念仏だ法華だ、資産家だ、藝術家だ、会長だ、民生委員だ、弁護士だなどと
きっと云う。それがほんもののアイデンティティなんかであるワケがないのは、ハッキリしている。秦恒平だ、安倍伸三だというのも同じで、なにら名前がアイ
デンティティであるわけがない。名前なんて生まれたときには持ち合わせていなかった。真実の自分が分からないというどうしようもない状況を忘れるため、身
の回りに創り出した偽りの着物の一つに過ぎない。荀子のいう人間の「蔽」つまり垢に等しい襤褸だ、すべて。
親であることも子であることも夫であることも妻であることも、それが一人の人間の「本性」であるわけがない。弁護士として、教授として、作家として生ま
れたのでもない。自身の空虚さを感じなくて済むように自分や社会が着せかけている「うわべを飾っている着物」に過ぎない。しかも人はそれにも満足できず
「もっと」「もっと」と着物を着重ねたがる。政党の幹事長になったり、ライオンズクラブの会員になったり、役員食堂で飯を喰いたがったり、社長夫人になり
たがったりする。
人は自分自身を覆ったこれらすべての襤褸を脱いで、つまりそれは襤褸に過ぎないとよく分かって、自分自身と直面しなくてはならない、「自分は何か」と根
源を問うべく。
襤褸と自分とを一体化して、自分=教授、弁護士、作家などと思っている間は決して己は知れない、つまり「迷える衆生」のままえんえんと何生もの永きを眠
りこけて目覚めない、ま、それだけのことだ。
目覚めた人、己の何であるかに気付いた人は、司祭にも僧正にも文化勲章にもいるものではない。その連中はみんなご機嫌の夢を見ているだけである。そのう
ちに死に神が呼びに来る。彼の前では、みーんな同じだ。自分が何ものか知らずに屑のように死んで行くだけだ。
* 拈華微笑という。なぜ笑いがあの瞬間に浮かぶのか。
* 来春の書道展に向けて作品の制作やら、なにかと多忙らしい***さんが、27日は空いているから平成館の「仏像」展を観に行かないと誘ってくれたの
は、三週間も前でした。
仏像の林立は贅沢に拝観できるものの、私は遥々とお寺を訪ねての拝観が好みのようです。それでも、端正で美しい十一面観音を見比べておりました。
関東以北に多いという鉈彫りの仏像は、円空や木喰とは違った素朴さで、関西人としては目新らしく。
彼女がお目当ての滋賀、向源寺の国宝、十一面観音菩薩が後期の展示で、残念、出直します、と。 私は関西の仲間とお寺で拝観していていたのを想い出し
て。
淡交のこの二人、話をしていて共通のアイドル(?)が判明。
興福寺の阿修羅像。
こんなに胸キュンに好きなんて、この歳で 、人には恥ずかしくて言えないよね。
奈良にはこの像を観たさに行くようなものよ。
そうそう。
ひょんなことで、えにしがあった彼女です。
湖の本エッセイの「蘇我殿幻想」は心服しました、と。碩学の書道仲間にお貸ししましたら、こんな風に書けるのか、と同じく感服されたそうです。 ほな
又 泉
* やす香さんの三回目の月命日になりました。三カ月が三十年にも思われるひどい時間でございました。喪われたものの大きさ、かけがえのなかった日々を思
い、私も涙を抑えきれない日々を過ごしていました。
このような日々では心身ともにお疲れになりますことは当然ですが、どうかお元気でいらしてください。切なる願いです。
>なにか、あたらしいことを始めてみたくないですか。
もちろん始めたい。今少しでもお役にたてることをしたいです。 「あたらしいこと」とはなんですか。教えていただければ嬉しいことです。役に立ちそうな
時にはどうぞお声をかけてください。喜んで働きましょう。
>創作にとりかかりたいが、余震のある間は手をつけまいと思います。かならず文章が汚れるから。
創作姿勢を教えていただいたようです。
余震の勢いで書くもののよさというのもあると思っていました。文章はあとからでも書き直せるけれど、当事者の感情は冷静に書かれたものより、今此処の感
情の迸るに任せるほうがインパクトがあるかもしれないなどと思いました。時間が経つと忘れる部分もあるから早く書かなければなどとつい焦ります。湖速攻の
メールほど喜ばせてくれたものはありませんけれど……。
>お稽古は順調でしたか。お母さんの体調はこのごろどうですか。猫はお元気ですか。
扇を飛ばしまくる(つまり不細工に落としまくる)「桐の雨」がすんで、「朝戸出」を始めました。袂から抜いた襟元に手を出すという緋牡丹お竜一歩手前の
どっきりする所作(色気のある人がすれば)のある舞いです。
母は季節の変わり目で不調ですが、入院するようなことはありません。猫はびっくりするほど大きくなりました。家に来た時には掌サイズでしたのに、体重は
三倍になっています。啼いて甘える手練手管はたいしたもの。猫ながらあっぱれな女で半ば呆れながら感心しています。
ゆっくりおやすみくださいますように。やす香さんが湖の夢に現れてくださいますように。 東雲
* 新しい「URL」を、「MIXI」の沢山な人が聞いてこられる。裁判官も弁護士もわたしを人間的にまもってくれるかどうか、分からない。だが、あたた
かい人の輪は在る。分かる人は、分かってくれると信じられる。それでいいのだ。たとえわたしが牢屋へ抛り込まれようと、分かっている人は分かってくれる。
「分かる人は、言わんかて分かるのん。分からへん人には、なんぼ言うても分からへんのえ」と昔、「姉さん」と慕った人はわたしを肩から抱くようにして、
そう言った。その人は思えば当事十五歳だった。京都という町は懐が深い、たった十五の女の子がこれほどのことを言う…と、京大の有名な数学教授がものに書
いていた。
しかしわたしは、いま、愚かにも、聞いても見ても「分からへん人」相手に分からせねばと闘っている。そんな相手と同じ列に降りてものを言うな書くなと、
傷ましがってくれる人がいる。そのリクツは分かっているが、わたしは、やめないだろう。「今・此処」のわたしがそれをせよと命じるかぎり、わたしは闘うこ
とで自分を見詰める。そんなとき、いつもあの鏡花劇「山吹」の舞台を思う。
* 十月二十八日 土
* 「MIXI」の「足あと」をみていて、なんでこの人がわたしのところへと首をかしげる例がいっぱいある。プロフィールを見て、少し分かるときも、まる
で分からないときもある。新しい会員を捏造して偵察にきていると分かる例もある。「MIXI」は必ず誰かの推薦がなければ入れず、推薦者は自動的に「マイ
ミクシイ=親しい仲間?」になるから、一人もマイミクシイのない会員というのは原則いないだろうに、現にマイミク非在の人の「足あと」もあらわれる。なに
もかもアイマイ。だから「ブロック」してしまう。
しかしプロフィルを見ていて、おやおやと忽ち気がうごく時もある。いかにも「美空ひばり」の好きそうな人のようなら驚かないが、あれあれと思う人の「好
きな人」の欄にひばりが好きとあると、ひばりを「初恋の一人」と秘めてきた古稀の爺はすぐ嬉しくなる。「メッセージ」を入れると、忽ちに元気溌剌、生彩に
富んだ声が返ってくる。まだまだバーチャルの限りで、だから保てるのかもしれないが、「MIXI」ではこうして「影像世間」がひろがる。わたしが、
「MIXI」以前の小説家のままであれば、絶対に触れあいもしなかった人達と、今、触れ合っている。あきらかなわたしの「いい読者」たちもそこにたくさん
実在しているが、名も住処も知らない人、ニックネーム一つで付き合う世界である、が、確実に二十歳代と思われる友達をいまわたしは、アメリカにも沖縄にも
北海道にも東京にも京都にも、ずいぶん多く得ている。
何度も何度もやめてしまおうかとイヤな思いをした「MIXI」だが、今もやめないで、信じられないほど沢山な作品を提出してきた。つまりわたしはニック
ネームに隠れないで、「秦恒平」の名を明示して、自分の作品を公開している。
* わたしが「美空ひばりが好き」に引っ張られ、「足あと」へメッセージしたその沖縄の若い人は、好きな「源氏物語」を「検索」して「MIXI」のなかの
わたしに行き着き「足あと」をつけました、仲良くして下さいと弾むような佳い返辞が、今朝来ていた。
なんだか「MIXI」の宣伝役をしたテイタラクであるが、それだけに「MIXI」の運営は十分「深切・鄭重」であって欲しい。
* 小説が書けない書けないと息子クンが、「MIXI」やブログで嘆いている。そんな外向きに嘆いていられる程度だからさほどは案じないが、「書けない」
という不安は物書きには死ぬほどくるしい。太宰賞をうけると、すぐ新聞や雑誌からの依頼が来始め、しかしあのころは、「何でもいい、お任せします、エッセ
イを四枚で、五枚で」という註文にわたしは、ハラでも切りたいほど呻いた。「題自由」の作文はいちばんの難題で、東工大の教室でも、とにかく具体的に「い
ま、真実、何を愛しているか」「いま寂しいか」「不惜身命か、惜身命か」「地位とは何か」などと聞くと挙って山のように書いてくれたが、たまに「自由に書
いてください」となると、何を書けばいいのか分からずにノタウツようであった。
エッセイでなく「小説」が書けないのは、註文と自身のモチーフが重ならないときが多い。その点、噺家が三題噺をとにかくも纏めていくのに倣える蓄えが、
底荷が、常備されていないと、どうにもならない。持ち前の財を費消してしまうのは早い。いつも片々としていても多彩な断片に感動する気持ちが要るし、それ
を脳内電池に充電し分類しておく日頃の用意がぜったい欠かせない。しかし小説の場合はなにより作者の日常がいつもフレッシュでないと、蓄えも腐ってしま
う。
* わたしは電車や汽車にひとり乗っているあいだに、よく想を得た。じっと座って思案していたもたいした智恵は出ない。からだを適切に揺らしている方がい
い、つまり静かな揺れと移動とはからだに小刻みな曲がり角をつくりだし、思わぬモノが曲がり角からあらわれたりする。自転車は危ない。注意力を運転から欠
くと命取りになる。自動車の運転も論外、危険そのもの。人が身近にいても邪魔。そこへ行くと、山手線ほど人がいてもみな世間の影のようなもので、邪魔には
ならない。空いた新幹線やローカル線の一人旅も、その気なら絶好。
歩いて、は、かなり危ない。いま放心しながら歩いていたら迷惑な危険を路上に置いているのと同じ。
* わたしは日頃いろんな短いエッセイを書いておく。この「私語」にも拾い出せばタネはたくさん植えてある。その気に入ったのを、原稿用に手で書き写して
ゆくと、それが新作の書き出しにつかえる。「清経入水」の序詞がそうだった、「みごもりの湖」の書き出しがそうだった。エッセイは小説の文体で書いておく
方がいいし、時には事実でなく小説として書いておいた方がいい。わたしは小説家のエッセイはただのエッセイストのそれとはちがうものだと、谷崎先生に教え
られた気がしている。
いつか使おうと、意図してフィクションを書き入れてあるエッセイが幾つかある、わたしにも。
* 建日子。 根本はしかし健康だよ。夜中に焦って書いた文章は、たいてい夢魔の所産、朝の光があたると畸形であることがよくある。静かな夜は落ち着いた
推敲にあてるようにわたしはしてきた。「推敲の力は才能のあかし」だ、それも大切にするといい。
* ホームページでよそ様ご家族の ”もめごと”を読むというのもおかしなもの、と思いつつも目が離せず拝読しています。
しかし、読むほどに一体全体このような事が裁判の対象になりうるものなのかと、法律にうとい私は困惑してしまいます。
確かに「訴状」はきつい言葉で書かれていますけれど、内容を普通の言葉で言い換えれば、親子のあいだ、父娘の間、娘夫婦との間でそんなに珍しいことで
しょうか?
訴えるほどのことなのでしょうか?
自分の下に弟妹が生まれて親の愛情が移ったと感じた子どもはちっとも珍しくなんかありません。
女の子より男の子の誕生を周囲が望みちやほやするのも(個人的には不愉快ですが)、家族制度の改革を訴えるのならともかく、親を訴えるのはお門違い。
父親が可愛い娘の縁談につぎつぎケチをつけて”妨害”したという笑い話はそこここに転がっていますし、結婚式の時に両家のいわば習慣の違いでぎくしゃく
し、中に入った子ども夫婦が困った、などと言う話も山ほどある。
結婚後、夫が海外に行っての留守中に娘が孫連れて実家に来るなんてごくごく普通の話、その間に何をどれだけ食べたとか、何を買ってやったとか「いろいろ
かかって大変なのよ」とうれしげに友人にぼやいて見せる祖母はいても、それは孫自慢の延長線。
どれも、どうしてそこまで”角の立つ”言い方が出来るのかと、全く不思議ではありますが、事ここに至っていちいち反駁せねばならぬ秦様ご夫妻のお気持ち
を思うと、どれほどにお辛かろうかと、それがご健康にさわらねばよいがと、ただただお案じしています。
順調で幸せなときには、内在されていても目立たなかった人間関係のひずみや不満が、不幸な出来事をきっかけに露呈し極端な場合夫婦やその周囲の関係を破
壊する、長年「親の会」の相談員をしている私は障害のある子どもの生まれた家族で体験します。
逆に不幸を共有することで関係がしっくりと良くなる例も沢山見ます。
やす香さんの突然のご病気が良い方へのきっかけになれば、と祈っていた私なのですが、どうも逆に出てしまったようです。あまりにも早い死への経過だった
からでしょうか。
なんとか、どうか穏やかに納まりますようにと祈っています。
それはきっとやす香さんの願いでもあると思うからです。
お身お大切になさって下さいませ。 2006/10/28 藤
* その通りだと思っている。朝日子も押村高も、よほど秘め隠して、やり過ごしたい負い目をもっていた。その糊塗のために、父親であるわたしを「性的虐待
者」とまで捏造して視野をくらまそうとした。
十三歳の少女が的確に指摘していた、朝日子さんは自分の「責任に恐怖」しているのですと。やす香から半年ものあいだ「まったく目を離して」いてあのような
事になった、その「責任に恐怖して」、しかも白血病・肉腫と知って愕然と、とりかえしのつかぬ責任を自覚していた。「死なせた」と自身嘆いている祖父母
に、自分達を「殺人者」だと「キャンペーン」していると逆上したのもその自覚の裏返し、一種の糊塗行為だった。
* ごく最近知らせてくれる人があった。娘・押村朝日子は、今年2006年の二月ごろ(すでにやす香が「肉腫」発症の苦痛を露わに「MIXI」に語り始め
ていた頃)から、新規に、大がかりなブログを開設し、ブログを通して一種の「新聞論」から始まり、いわば近隣での「タウン活動=ふれあいサタデー」を単独
企画していたことを。
小学校時代から人の先頭で「仕切る」のが好きな子であった、「三つ子の魂」というものだろう、それ自体に何の問題もない。しかし現今の新聞事情に対する
判断は、はなはだ見当がずれている。それは別事だが。
しかしながら、その「七月一日の朝日子(=ぬぼこ)日記」は、こう書かれている。此処に引用しているのは「ぬぼこ」全日記のごくごく一部分である。煩瑣
な割書きを整理したが、一字一句そのままである。
* そのまえに、六月六日と十二日との、やす香の悲惨な「MIXI」日記を、対照に掲げておく。やす香全日記の百分の一にも当たらない適量内の引用であ
る。印象を鮮明に保つべく、そのままに書き込む。
2006年06月06日
* 十月二十八日 つづき
* こういう嬉しい「MIXI」メッセージが届いていた。申し訳ないが東工大というご縁に甘えて、私のジマンの一つに書き込ませて頂く。ごめんなさい。
* 秦さん URL、ありがとうございます。
>(おもしろいエッセイを心行くまで読みたいと、プロフィールにある=)わたしはエッセイ本も何十冊も出しています、読んで下さい。
秦さんの御本は、『少年』『慈子』『お父さん、繪を描いてください』を読ませていただきました。いつかメッセージを送りたいと思っておりましたが、おそれ
おおくてなかなか果たせませんでした。HP削除という不幸な出来事をきっかけとしてやり取りさせていただけたのは申し訳なくも思います。
わたしが関心のある領域にいつも秦さんがいらっしゃるという印象を持っています。著作権について認識を深めようと手に取った『デジタル著作権』という本に
秦さんが寄稿されていたのがお名前を知ったきっかけです。
最近も、著作権団体による期間延長のアピールに対してなされた評も素晴らしいものでした。
さらに、わたしは東工大で経済学を学んでおりました。秦さんの次の次にあたるのでしょうか、井口先生や、社会学の橋爪大三郎先生といった東工大の文系教
員があつまってできた文系と理系の学問の融合を目指す大学院に、今年の三月まで通っておりました。
そして、大学生のとき以来短歌に興味を持っています。『少年』に示された端正なうたのお姿を読むたびに思わず身震いします。
犯罪者のような顔写真の人間の「足あと」がついているのに気味悪く思われたかもしれませんので、自己紹介させていただきました。これからもmixiの連
載や「闇に言い置く」を読んでいきたいと思っています。 東工大院卒
* 励まされる。わたしの当時の学生クンたちより、よほど若い人のよう。
* おはようございます。 ゆうべのヨガで、背中が筋肉痛です。背筋をかなり使ったのだと思います。
花は、いろいろしながら、元気いっぱい。
* タントラの徒につながるからか、わたしには、ヨガは、「もっともっともっと」と段階をふんでとどまるところない即ち「不自然」の代名詞のように思われ
る。信仰を伴ったヨガは「もっともっと」と肉身に負荷をかけてゆく。信仰をともなったその修業と実践は、「もっと」の究極へ向かおうとするが、そんな究極
のあるわけがなく、どう段階を踏んでみても内奥の扉をひらく鍵にはならない。たんに修業の為の修業になる。
まして信仰をはなれてスポーツのようにこの「もっと」を肉身に試み続ければ、自然当然に「不自然」な不可能へぶつかり、からだを毀しかねない。花にはわ
るいが、そういう感想をもっている。ほどよく鍛えて、楽しむのがいいと思う。背筋に損傷を生じるこわさは、まして途方もないのだから。
あ、風は、ヨガにやきもちをやいている、と花は思うかな。
* 湖さん おはようございます。
美しい青空が目覚めの贈り物のようで、気持ちのいい朝、いえ昼。
素敵な名前を頂いたたことを湖さんのHPで知りました。ありがとうございます。名は言霊となって私を導いてくれるでしょう、好きな響きでうれしい。
その字の成り立ちを知りたくなりました。字の中にある朱は大好きな色。激しすぎずおさえめの朱、私の珠はどのような色合いに、そしてどんな感触で...
湖さんの掌のなかで暖められ、時にはその湖に浮かべられ楽しくたゆとう珠となるのでしょうか。
「青井戸」はあの茶碗と関係がある小説でしょうか。HPに収蔵されているのでしょうか、探してみます。
根津さんには最近ご無沙汰していますが、ようく行きました。師は根津さんのお道具の仕事をしていましたので、思わず道具に触れさせて頂く機会もあった縁
のある美術館です。
上京中の***さんと一昨日ご一緒してきました。
縁の糸がキラキラ輝いてみえる一週間でした。 珠
* 「青井戸」は、新潮の編集者に、もう少しでも長く書いてあれば芥川賞に推したい作なんですがねえ、あまりに短篇と慨嘆され、それだけで嬉しかった。育
てられた茶の湯という師に、一礼を返したような小説であった。ホームページには、特別の場所におさめた。
* 鴉、今日がよい一日でありますように。こう書くと毎朝聞いているFMのバロック音楽のアナウンサーの言葉とまったく同じになってしまうのですが、とに
かく「よい一日でありますように。」それは人に対しても自分に対しても。
昨日北京から戻りました。十月の北京はまだそれほど寒くなく、いい時候でした。
故宮は広かった、さすが中国の王朝の権力構造は強大で怖い・・。外朝にあたる太和殿、中和殿、保和殿のあたりは謁見や審問の場。この広場に点々と列に
なった白い石は、この上に人が立って上奏や謁見を待ったとか。乾清宮は皇帝の執務室。昔ゼミや購読会で読まされた「朱批諭旨」などはここ書かれたのだなと
奇妙に懐かしい思いがしました。内朝の西太后や宣統帝溥儀にゆかりの場所なども説明されましたが、それ以外はほとんど通り過ぎました。故宮を四時間ほどか
けて廻って・・通り過ぎた感、対象が大きすぎるのです。
ただ歩き回るだけでは決して分からない多くの、歴史のかなたに去っていったものを感じ取るためには・・今回の旅はあまりに不十分だったと残念に思い、反
省していますが、改めてさまざまな本を読んで補っていくことにします。
テレビなどで最近の中国の目覚しい経済発展は知っていたものの、実際に北京の大きな道路に沿って三十階ほどの高層建築が「群生」し、自動車が溢れて到る
所で渋滞している様子、沸騰するアジアのエネルギーを感じました。あっという間に変貌を遂げるのは、土地が国有で、政府がほとんど意のままに「開発」を推
し進められる状況があるのでしょう。
日本に帰って、大阪の街が静かで小さく見えたのは、北京を見た後だからですね。オリンピックに向けて急速に変わったと言われる東京のように、北京も、中
国社会も今大きな転換期。良い面も悪い面もすべて呑み込んで、公害問題も抱え込み拡大させながら。
とにかく大きなうねりを目にしました。
繰り返し、よい一日でありますように。今年はいつまでも夏の名残の日差しです。これからHPを読みます。
メールがあまり届かないのは、お忙しいからでしょうが、気に懸かります。
* いま中国は、「北流」と呼ばれる流民の北京集注を大筆頭とする、都市部への人口集注を、際だった「時代」現象にしている。逆に言えば火の消えたような
広大無辺の中国大陸も実在しているわけだから、北京や上海に仰天するだけでは片手落ちなので、人的エネルギーの大きな深い落差を、アイマイに相対化するの
でなく、リアルに二つとも睨まねば展望をあやまるかも知れない。北京と上海とを見てくると、いや西安でも杭州でも同じこと、あの「人繁昌」をみてくれば中
国のエネルギーには胸倉をつかまれた驚愕や懼れをすら感じるが、それだけが中国かどうかの見極めを、落ち着いてする必要もある。
わたしは初の訪中以来四半世紀余も「人民中国」という雑誌に目をふれているが、その現象的な変貌は凄まじいまでであるけれど、本質的変貌がどんなものか
には軽々にものを言いにくい。
現象だけで一例をエピソードとして言えば、華国鉾もケ小平も亡く、訪中したわたしたちの招待車に同乗して、長旅の全行程を一人の通訳として接待役で同行
してくれたトウ・カセン氏が、いまや中国の外務大臣より権威有る外交担当の衝にある。しかし党独裁のたぶん国家そのものが、今なお「一言堂」であることに
変わりはないだろう。
* 新しいURLでの復活安堵致しました。嬉しく読ませていただいています。日常の生活に張りが戻ってきた感じです。またMixiでも新しく秦さんの読者
も共感者も増えたご様子、私まで何か心強い思いです。是非その方たちのためにも、ご健康で過ごしてください。
今週の始めに「湖」宛に書かれた「一読者」の長いメールを読ませていただきました。
どうしても引っかかるものがあります。
「今の事態の打開に『母親としての迫真の陳述が必要』とか『娘と刺し違えるほどの覚悟で説得』とか書かれていました。後のほうには『聖家族』の作中に
は、「妻はいても娘の母はいない」とも書かれています。
読みが浅いのかも分かりませんが、筆力がなく言葉足らずになりますが、私も思い余って。
この家族にはよき妻とそれ以上に慈母がいます。
そしてこの母は刺し違えるのでなく、どれほど自分一人を刺し、苦しんでいることでしょうか。
あれほどの母恋いの作品を書かれておられる秦さんが愛されている妻です。その妻がよき母親でない筈がないのです。子どもたちを慈しみ愛し育てた母です。
秦さんの多くの作からも読み取れるのではないでしょうか。
今回の件に関しても、普通人には考えられないほどの執拗さで(ゴメンナサイ)書いて身を削り削り決着をつけようとなさっておられるのも、妻への限りない
深い愛情がさせていると確信しています。
迪子さんのお気持ちを思うと辛くて分かって欲しくって書きました。何よりもご夫妻のお心の平安を祈っています。
運転手つきの車でのご旅行案など書かれていましたが、良い季節も短いです。自然はお二人を大きく包んでくれることでしょう。ぜひ実現してください。 晴
* 妻にもわたしにも有り難いお気持ちと読んで、感謝申し上げる。たしかにわたしが「普通人には考えられないほどの執拗さで(ゴメンナサイ)書いて身を削
り削り決着をつけようと」しているのは、自分を守ると同じく、妻であり息子である者の名誉を守りたいからで、それを愛情と呼ばれればそれに相違ない。
「この家族にはよき妻とそれ以上に慈母がいます」は、妻には嬉しい声援だと思う。この場合の「この家族」とは、とりもなおさず「秦家」を意味されている
だろうし、あの「一読者」の筆致もまた似たものではあったけれど、『聖家族』という未完のフィクションの「奥野家」「妻」と、「秦家」のわたしの妻と、こ
の両人、は区別した方がいい。これはモデル小説を意図してはいないから。
建日子への最近のメールに添えて谷崎潤一郎の例をあげたと覚えているが、谷崎は、きこえた「母恋い」作品の作家であった。だが、現実谷崎家の母、カッコ
のつかない母と、母恋い作品の「母」、カッコのつく「母」とは、書き方が違っていた。一般化してまでは敢えて言わないけれども、向き合い方も表現の質も谷
崎の場合意図して「異化」されているとわたしは読んできた。
おなじことは、わたしが「妻」を書くときと、ま、日記にしか書かないけれども現実の妻とは、やはりちがう。このちがいを、「一読者」さんは、作品の
「妻」側から読み込んで混同され、「晴」さんは妻の親友として平生のわたしの妻から見て同じく作品の「妻」と混同されている。
現実の妻は慈母という美称には照れるであろうけれど、確実に言えるのは、妻がなにより実の娘の、またその夫の無道な、考えられない蛮行により日々五体と
精神を痛めていること。わたしは、それを許さない。
* 正確な日付のない、おそらく下書きか心覚えであろうが、1993年に妻が書いていた朝日子への「呼びかけ」が、朝日子のモノをまとめた大きな筺の中か
ら、つい今し方見つかった。
もう今夜はあまりに遅いので後日に回すが、妻の「思い」はかつてこうであり、いまもこうであろうと思う。
わたしは怒ることが出来るし、憎悪することも出来る。わたしは一つの悟りかのように、自身の喜怒哀楽に鍵をかけていない。わたしの妻は、悲しんで堪える
ことしかできない。堪えるというのも危うい。
決して「刺し違える」人ではない。むしろ「救いたい」と思う人だ。「慈母」とか「悲母」と読みかえて良いのかも知れないが、それを「母の弱み」と見て娘
夫婦が露骨に付けいっている。四十六歳になる「主任児童委員」と称しているわれらが娘・押村朝日子に、母への愛はひとかけらも残っていないらしい。
朝日子は市会議員にでもなりたいのだろうか。
だが当然にも、ブログに書かれている中味は、中にはわたしの関心をひく論点も在るけれど、総じて言葉をただ操った空疎な演説に終始しがちで、小説のユ
ニークさよりよほど落ちる。文章は昔から父親に「虐待?」されたおかげでシッカリ書く、が、ハートが伝わらない。理に落ちて情が働いていないのだから、読
む者の胸に熱く届いてこないのはムリもない。わたしと意見を同じくする、国歌・国旗の強制に反対の弁などが、わずかに印象に残るが、一つハッキリしている
のが、朝日子は「フォーラム」へ「公衆」へさながら「上から下目に」弁舌している。わたしは、「闇に言い置く 私語」をしか語らない。わたしは「わたし自
身に先ず話しかけ」ている。朝日子の言葉が、とかく上滑りに飾られるのはそのためで、白い手袋でマイクを握り宣伝カーから慇懃そうに呼びかけている候補者
に似ている。偽善にスレスレだと言っておく。
* 十月二十九日 日
* 自然にゆったりと。それは古来の覚者たちに共通する在りようであった。
そんなことをして「何になるか」と考える人がいる。何になるかは「翻訳」の利くことばである。何の役に立つか、何の効果があるか、損か得か、という意味
もあり、弁護士になるか大臣になるか絵描きになるかといった意味もある。いずれにせよ、少なくもこの両者に共通するのは、「未来」依存「未来」期待であ
る。
ところが人間に「未来」はない。未来は予想できるだけである。在るのは「今・此処」の連続する常に「現在」の時空だけである。
自然にゆったりと、も、その「今・此処」に於いてでなければならない。「今・此処」で自然にゆったりするためには、「今・此処」と向き合って「今・此
処」を生きる、ごまかさずに生きることが総てであり、如才ない世間のリクツをあやつって喜怒哀楽もごまかしながら、問題を先送り先送りするのが、自然に
ゆったりであるわけがない。
老子が無為自然といい、親鸞が自然法爾と謂うとき、何もしないでごろりと昼寝が良いと謂ったわけではない。いま、自分は何で在るかをみつめて自然に行為
せよとと言ったのである。
むかし「梵天丸はかくありたい」と幼時の伊達政宗が口癖にするドラマがあったが、人は「何になるか」を在りもせぬ未来に空しく問うのでなく、人は「何で
在るか」の根本の本性に繋がりながら、為したきを為せばよい。ゆったりした気分で烈しくも強くも優しくも静かにも、為せばいい。ごまかしてはいけない、そ
れは見苦しい。
* わたしはこのところ毎日毎夜、人のわらうであろうことを一心にしつづけているが、それが何になるかを問いも求めても居ない。わたしは「何で在るか」を
問うている。それが必要ならそれをする。ひとに頼めないことは自分でする。喜怒哀楽に鍵は掛けずにする。自然でゆったりは、そんな「今・此処」に在るから
だ。
* 秦恒平はと、なぜ父親の名前を出さないのだろう。礼儀でではない。逃げ道を用意してしか、ものが言えないのだろう。
第一段落の「?」に至る二つの文段は、乖離している。「書いて顔にはら」なくても、本当に不幸で「精神的に蹂躙」されている人は、まして子どもは、まし
て虐待者のむけるレンズへ自然に美しい笑みはみせられない。そんな演技は出来ない。
第二段落の弁も、野放図に「世界」に話題をおしひろげて拡散させている。だが、「深刻なまなざしやうつろな表情の写真が 世界の過酷を表現する」例は圧
倒的で、その中に可愛い笑顔の一枚二枚が混じっても、現実の悲惨は覆われないだろう。
しかしながら都合良く混乱させてはいけないだろう。いま此処で問題なのは、たった四人の両親姉弟のちいさな家庭、二間の社宅ずまいの「秦家」の日常であ
り、広大な「世界」ではない。そのまだ幼い姉ひとりが、父親から「性的にも精神的にも虐待」されて「苦しんで」いながら、その父親のカメラに現に向けてい
る「顔」の問題である。
弟と嬉々として笑い合う姉の顔は、ただ一枚でもこんなに雄弁ではないか。「MIXI」の写真も、今月二十二日つづきに出したのも、わざと同じ時期の写真
が選んである。朝日子は演技で同時にこんな笑顔が幾つもつくれたと強弁するのか。
* 「一会一切会(いちえ・いっさい・え)」という。「一事が万事」ともいう。「一瞥でわかる」とも謂う。一が全を示唆し会得する例は多くあり、ここで夕
日子の軽率にあげつらってみせたことも、「観る眼」さえしかとあれば、その笑顔が自然な笑顔か、引き攣ったつくり笑いかは、すぐ分かる。性的虐待ほどのく
らい虐待に怯える子供が、どんな演技力を発揮したとて、内心の地獄は隠せない。そんな被虐を言い立てている朝日子が、八歳から結婚後にいたるまで、どの年
代にも、にこにこと「虐待者?」のカメラにむかいじつに自然な喜色満面の笑顔やポーズを示し、四国中国へ一緒に長い旅をしたり、一緒に文壇のパーティに出
たり、食べたり飲んだり出来るものかどうか、示してある実例・物証そのもに適切に反駁してみるがいい。
父と母と弟との日々、朝日子は「笑うしか術のなくなった子供」であったと本気で言うなら、ふくれて仏頂面の写真もみてみるといいね。
そして極めつけ、押村との両家葛藤のいわば絶頂期に、「虐待者」と指さしている当の父親宛てに寄越している自分自身の繪ハガキを、良く読むがいい。「聖
母・神が造り給うた山」というイコンの絵葉書だ。
* 保谷市 秦恒平様 町田市 押村朝日子 平成五年(1993)七月三十日
お手紙ありがとうございました。お陰様でおだやかな誕生日を迎えることができました。尋ねられて悪びれることなく、”三十三です”
と答えられるのがなによりと思っています。 やす香は毎日プール、でもまだもぐれません。ヶヶヶは汗も(傍点)と競争でシャワーをあびる毎日です。学期中
より、むしろ忙しいので、母親としてはいたしかゆしといった夏休みです。
* ごく自然に実家の父に語りかけているではないか。文面の実物が、一昨日、十月二十七日の「つづき」に挙げてある。よく見るといい。
「四十年」に亘り父親に虐待されつづけて苦しんでいると訴える娘が、なんで婚家からこのように便りをよこすか。なんでわが子達の成長の写真をその父親や
母親に送り届けるか。四国中国への旅にたくさん見せた朝日子の笑顔は、子供の頃の笑顔をそのまま開放して、実に気持ちがいいではないか。
* 無理無理につくウソというのは、かくも黴のように増殖するが、自らの愚をただ暴露しているのである。よそごとに逸らすことなく、自分自身の写真の数々
に見入って、正しくモノを言うがいい。どこの世界にこんなことで親を訴える子があるでしょうと嗤われていることに羞じらうがいい。 父
* 十月二十九日 つづき
* hatakさん 今日の札幌は晴天。羊ケ丘は晩秋の木々が美しく、丘の起伏に沿って白樺やポプラの色模様が見えています。
食糧を仕事にしていながら最近「食べること」に情熱を失っていたと、夕方思い立ち買い出しに行きました。食材の豊富な豊平の大型店舗は大変な賑わい。駐
車場にテントを張って、大根、鷹の爪など漬物の材料が山積みにされ、目の前で飛ぶように売れていきました。
夕方から風が冷たく、日が落ちるとまるで冬のような気配。自然、鍋の材料を買い求めます。白菜は四分の一で五九円、十勝正直村の焼豆腐一丁百八十九円、
知床地鶏百四十七円、北見産玉葱四個で百二十八円、具は全て道内産で揃いました。
土鍋に日高昆布で出汁を引き、鶏肉でスープが乳白色になったところで、スダチのポン酢で野菜をたくさんいただきました。外は7℃。二重窓のガラスが湯気
に曇って部屋全体が温まります。仕上げに用意してあった道産米「おぼろづき」とイクラの醤油漬けは、腹ごなしにこのメールを書いてからいただきます。
来週は札幌も初雪とのこと。そちらの「季のもの」は、今何でしょうか? maokat
* しらたまのつきになごりの酒くみておもひのたけのかぐやひめこそ 翁
* 秦さん。民事調停と審尋、ともにお疲れさまです。
大兄のホームページに以下のような記述があってから、電子文藝館のメーリングリストに何らかの告知が載るのかなと思っていました。
大兄からの告知があれば、メイリングリスト上で、一言書きたいと思っていましたが、とりあえず、大兄宛に書くことにします。
* 地裁審訊の判決書が届いていた。大山鳴動して鼠も出なかった。長くて数日ということだったから仮処分申請に同意しお願いしたが、一ヶ月余もかかり、
結局復旧したという画面もみることなく、BIGLOBEを解約した。何の必要があってわたしのこの六月、七月、八月の全部の「私語」削除を容認して「和
解」なのか、わたしには全然理解できない。わたしのために何の利益をはかろうと仮処分申請してくれたのか、尽力の成果がどこにあったのか全く理解できな
い。
この事件で法律家とも当事者として話さねばならず、ほとほと驚愕したのは法律家の言葉はじつに耳に入りにくいと云うこと。しかし裏返すと、法律家の耳に
はわたしのような文学者のことばはほとんど一顧もされないほど無意味で無効なのである。裁判官はそういうことには一顧もあたえませんと、さらさらと云われ
る。ダメダ、コリャと人間を務めているのが情けなくなる。
「プロバイダ責任制限法」に基づく、今回の大兄のホームページの全面削除問題に対する審尋での裁判所の「判断」は、私も腑に落ちません。
私の拙い知識で判断するに、「プロバイダ責任制限法」は、免責手続法なのですね。
迅速な手続きを最優先するため、類型的、形式的な、つまり、あまり、判断力を必要としない、機械的な判断で、「迅速かつ適切な対応」をするように法は、
薦めています。
インターネット上での個人の権利侵害が多発する中で、プロバイダに迅速な対応を求める代りに、手続きさえ、ルールに則っていれば、最大限に免責する法律
のようです。異義申し立てがあったら、プロバイダは、発信者に連絡をして、7日間経っても、反論がなければ、速やかに削除する、という手続きは、この法律
が定めています。従って、ビッグローブには、瑕疵がないというのが、そもそもの裁判所の前提なのでしょう。
著作権上の問題があるとすれば、当該の日記の引用だけのはずなのに、一部を削除するという対応ではなく、まったく無関係の「秦文学館」ともいうべきホー
ムページ全体を削除したという「過った判断」は、何ら問題にされず、ビッグローブには、何のおとがめもなしということなのでしょうか。せめて、過った判断
だというような裁判所の見解が示され、その上で、過失の重大性の有無を判断し、云々という文脈ぐらいには、なるのかなと期待をしておりました。
ビッグローブの問題点は、
1) 削除した範囲の是非→これは、明らかに、「非」であって、過剰な対応です。
2) 判断基準の是非→1)の判断をした基準は、なんであったのか。これは、是非とも知りたいですね。
3) その上で、今回の削除にあたって、ビッグローブに「重大な過失」があったのか、どうか→今回の審尋の結果示された裁判所の判断を見ると、裁判所
は、ビッグローブに「重大な過失」があったとは、認定していないんですね。情報が、プロバイダによって、「過って削除」されても、ほとんど免責されてしま
うということのようですね。
プロバイダ責任制限法の「著作権関係ガイドライン」という文書を読むと、ガイドラインは、「プロバイダ等が責任を負わずにできると考えられる対応を可能
な範囲で明らかにした」として、さらに、「裁判手続においてもプロバイダ等が責任を負わないものと判断されると期待される」と明言していますが、今回は、
本当にその通りに進行しています。
さらに、新たに、審尋で示された削除範囲も、ビッグローブの全面削除の「精神」と通底していて、「私語」の、6、7、8月分の全てという、類型的、形式
的、機械的な判断で、規模は、ビッグローブより小さいものの、「過剰な削除」という点では、同根なのです。因に、例えば、6月の場合、6・22以降は、日
記の引用などが多用されるものの、それ以前は、「普通の」の「私語」という作品です。
審尋の結果、ひとつのプロバイダの問題にとどまらず、プロバイダ責任制限法の問題性の深刻さを改めて浮き彫りにし、この問題については、裁判所も当てに
ならないということがはっきりしたわけで、自分のホームページやブログを持つ、私たち(個人も、ペンクラブのような団体も含む)としては、誰かにいちゃも
んを付けられ、それぞれのプロバイダにたれ込まれたら、7日間以内に、精々反論をしないと、今回同様の目に遭うこと必定ということです。法も法の番人も、
電子メディア時代の情報発信を保護してくれないということを社会的に訴えて、問題を顕在化するしか、私たちの前には、途はないようですね。
民事調停に関する記述も痛ましく、是非とも、いずれは、文学作品に昇華させてください。ご子息が、冷静に父上を支援しているのには、ホッとします。奥様
ともども、心身共に、御自愛専一にと願っております。 英
* がっくり消耗のあまり二つの委員会に「報告」すべきを失念していた。問題は、指摘されているその通りだと思う。こういうことが平然と為されて差し支え
ない不備な法律のまえで、不当な不利益を「和解」の美名で結局押しつけられるのでは、堪らない。
* 十月三十日 月
* 『畜生塚』に併行して、大原富枝さんとの懐かしい対談『極限の恋』を「MIXI」に連載しはじめた。汚されきったいまの気持ちを、絶妙にバランスして
くれる。
こういう小説を書き、こういうことを思っていた、考えていた、まさにそのさなかで、わたし秦恒平は、実の娘・押村朝日子を、「虐待」「性的虐待」してい
たと、娘の七歳以降「二十年」「四十年」にわたり、ずうっと「虐待」「性的虐待」されてきたと、その「実の娘」から、いま公然とうったえられている。
押村 朝日子は夫・押村高(青山学院大学教授)とともに町田市に暮らしていて、「民生・児童委員」を務めていると「肩書き」にいう。
父親のこのむちゃくちゃな悲しみが、わたしの生き方・書き物を通じて、はたして人に伝わるのだろうか。絶望にちかい絶望を堪えてわたしは絶望などしては
いけないのである。わたしは「今・此処」に生きて懸命。そのあかしはわたしの「文学と生活」とで示す以外に無い。
* 押村高と秦家との確執は、押村が、オーバードクターとして就職難に喘ぎ、わたしが偶々東工大教授に就任したまさにその時に表立った。押村からムチャク
チャに親を罵倒した手紙で「暴発」(当時、妻・朝日子の言)した。
さらに時久しき断絶を経て、不幸、今年の夏、押村の長女やす香が劇症の癌「肉腫」で亡くなったときに、またも押村高の名で、わたしを「告訴・訴訟する」
と今度は「威嚇」してきた。その「理由の最たる」ものは、われわれ祖父母自身、手も尽くし得ないで可愛い孫を「死なせてしまった」と嘆いていた、その「死
なせた」を、「やす香の両親を、やす香を殺した殺人者だと謂い広めている」「キャンペーンしている」とねじ曲げて釈ったのだ。
わたしには、早くに弘文堂「死の文化叢書」の一冊に、版を重ねよく読まれた『死なれて・死なせて』の著書があり、その「死なせて」と謂う意義は、誤解し
ようもなくハッキリしている。「死なれる」のは主情的な悲しみであるが、「死なせる」のは人間存在のかかえた根源苦・業苦のようなもので、自責の悔いとし
て表れる。『心』の「先生」の友人「K」を死なせたのも、薫大将が宇治大君を死なせたのも、ハムレットが多くを死なせたのも、建礼門院の存在がじつに多く
を死なせたのも、知勇の宗盛が我が子知章をむざむざ死なせたのも、ヒースクリフがキャサリンを死なせたのも、ファゥストがグレートヒェンを死なせたのも、
みな「殺した」というのとは異なる。下手人ではないが、「死なせた」のである。
* いきなり誤解と言っては失礼かも、しかし早稲田政経出の「秀才」という仲人口であったのに。秦恒平の「身内」観が独自・独特のものだとは、彼を娘に引
き合わせた仲人さんの****教授もよく御存じである。ただの知人ではない、わたしの「いい読者」であった、氏は。むろん娘・朝日子も父親の「身内」観は
十二分に聴いている。
ましてその押村の誤解を生んだのが、紀伊国屋ホールで上演された、俳優座加藤剛主演になる漱石原作『心 わが愛』を、家族みんなで「観た」あとだったの
だから、それはもう、お笑いというしかないのだった。わたしが脚本を書いたこの『心 わが愛』は、漱石の原作を借りて、利して、といってもいい、わたしの
「身内」観を主題に劇化したと謂えるものだった。劇場は通路にも客の座るほど、消防署から注意が来かねないほどいつも満員だった。劇評もびっくりするほど
よかったし、「真面目な作の真面目な感動」と謂われ、分かりにくいなどとは謂われない芝居だった。いま、NHKが藝術劇場で放映したビデオで見直しても、
どうするとあんなバカな押村高の憤懣がとびだすのだろうと笑えてしまう。
むろん娘の夫になったばかり、ろくに話す機会もない押村高が、わたしの「身内」でなどあるワケがなかった。
彼は親類縁者だから「身内」だと言い張る、が、わたしは舞台の上でも著書の上でも、人間とは、「自分」「他人」「世間」の三種類しかなく、親も兄弟も親
類も自分ではない以上「他人」=知っているだけの人の意味だと、子供の頃から思い決めていた。「世間」とはつまり知らない人。
しかし人はそれでは寂しすぎる。だから死んでからも一緒に暮らしたいほどの「本当の身内」が堪らなく欲しくなる。その「本当の身内」とは何だろう、とい
うのが平たく謂ってわたしの文学の動機であり主題であった。その一つだった。押村高はそれが理解できず、また文学への、あるいは文士である舅への軽蔑の念
から、理解しようとすらしなかっただけのことなのである。そして秦の家に行っても、朝日子とやす香の写真は飾ってあるのに俺のはないと、家に帰ると妻に当
たり散らしたというのだった。
* わたしの多年の「いい読者」たちは、こんなことは、寝言でも言えるだろうほどよく知っている。やす香の死をめぐる信じがたいような紛糾の経緯も、よく
よく知って貰っている。
わたしには何の闘う武器もない、「書く」ことでしか身も守れない。裁判も法律もアテにはならない。
何度も紹介しているが、何度でも紹介する必要がある。そしてわたしは絶望などしてはいけないのである。どんなに言う大勢が在ろうとも、わたしはわたしと妻
とのために、かかる無道の前に絶望してはならないのである。
その読者の一人は、はっきり、こう予想していた。
* 私には、あなたが作家としてご自身の作品を守り、言論の自由を守り、それでも朝日子さんのためを思い、訴訟には強いて勝たなくてもいいとお考えのよう
に見えてしまいます。
これは、最悪ではないでしょうか。
さらに訴訟があなたの心身の健康に与える負担を思うと、ぞっとします。何十年も訴訟している例をいくつも知っています。泥沼です。
そして、相手の弁護士を甘く見てはならないと思います。
まず、実の娘からの告訴を煽るということは良識ある弁護士ならしません。「九十五パーセント勝つ」という妙な強気もおかしい。これはかなり質の悪い「や
くざ」な弁護士がついていると推測すべきです。
もし、そのような根も葉もない訴えがあった場合、裁判は女の味方です。自称被害者のほうが強いです。痴漢の冤罪よりも無実の証明は絶望的です。あなたの
作品はことごとく抹殺され、百年は埋もれなければならない。あれほどの名作なのに。日本語の宝なのに。
私の願いは、一先ず譲歩して、「告訴」騒動を鎮めてくださることです。ご家族、弁護士さんなど色々な方々とご相談して、あちらの要求がこれ以上傲岸に過
大になる前に、お考えいただけないでしょうか。
その上で決断されたご判断は一番正しいことですし、それを心から支持して、あなたとご家族の皆さまのお幸せをお祈りし続けることに少しも変わりありませ
ん。 読者
* いくら何でも度はずれていると、わたしはメールのこの辺は読み飛ばしていた。
ところが、朝日子は「木漏れ日」名義の「MIXI」日記を利し、しかもそれがわたしには「読めない」ように画策しておいて、八月以降、公衆相手(六百万
人)に、じつに、読むも忌まわしい上記に危惧されたとおりの「嘘を訴える」ことをしつづけていた。
わたしには、それが読めなかった。人がコピーして送ってきてくれない限り。よほど見るに見かねて癇癪玉を破裂させた人が、全文を、送ってきてくれた。
ひと言だけにしよう、あきれ果てた。
もうひと言、何と情けない人間になったのだろう、わたしの娘は。
* わたしは、ものに書く場合、政治と外交とは、別。それが普通の批判や非難にあたる場合は、いわゆる「ウラ」を確保してでなければ、断定しないようにし
ている、当然の作法である。推測は人性の自然であるが、それも前後の状況から推して、蓋然性を堅くにらんで、する。まともな評論や批評は、そうでなければ
出来ない。
。
* そこまでやって、いったい朝日子は、何の自意識から「責任遁れ」しようとしているのだろう。
我が家はきわめて狭い家で、しかも妻と私は何十年、常にまぢかに暮らしてきた。わたしが一人の時は、書斎とも呼べない窮屈な机に向かい、夢中で依頼原稿
を書きまくっているときだけだった。
* もう一人の読者はこう書いてくれている。
* 娘さんについて考えたことを書きます。まず娘さんが「MIXI」に書いた性的虐待の日記ですが、そもそも娘さんがハンドルネームを使っているとして
も、周囲に自分とわかるように書いていること自体、そういう事実はなかった「嘘」とわかります。性的虐待のカミングアウトというのは、女にとってよほどの
よほどです。使命感でそういう「活動」をしている人以外には、ほとんど例がないのでは。
私は子ども時代の虐待について本人の書いたものをいくつか読みましたが、まずあまりの傷の深さに、そういう著作自体少ない。そして、書かれたもの二例で
は、本人が自分の名前を戸籍から変えていました。 読者
* 朝日子はおそらくこの二つの読者メールを「逆手に利用」しようとしたのではないか。「使命感」を偽装して仁義なき闘いに勝利をめざしているのだろう。
上の「読者氏」は、つまりは秦さんが「押村高」で「目をすった」のが根本原因でしょうと冷徹だ。一言もない。だが絶望してはならぬ。
この半月ほど克明に「押村指弾条々」に答えてきた全部を写真ももろともに印刷した。これは個と個との間の内緒ごとではない。町田簡易裁判所に公然提出さ
れた文書そのものへの否定の反駁である。
裁判所に提出するが、わたしの気持ちは裁判官や調停委員や自分の弁護士よりも、インターネットの「読者」に向いている。わたしはそこで身内ならぬ「身
方」を得なくてはならない。異例の手段であるが、「インターネット時代の一つの実験」をもわたしは意図している。すでに「MIXI」を舞台にくりひろげら
れたやす香の死への「全逐一」は「死」を迎える全く新しい次代の新しい「先駆の一例」を世界に提示したと、専門書の中で冷静に評価されている。そういう時
代、そして「かくのごとき、死」が在った、現実に在ったのである。愚劣きわまりない「かくのごとき、闘い」もまた在ることから、わたしは身を退かない。夕
日子が「MIXI」で隠れてしていたような卑劣なこと、何一つの裏付けも実感もなく、父を「性的虐待者」として指弾していたようなことは、わたしはしな
い。アケスケに真っ当に、わたしはそれと闘う。
* 十月三十日 つづき
* 京都の星野画廊から『日本人の情景』という画冊が贈られてきて、この種のものでは、書画骨董の思文閣の図録が網羅的で目の法楽だが、星野画廊のは、主
人夫婦の眼識にみごとに淘汰されての珠玉ぞろいなので、面白いったらない。ちょっと収録されている画家達の名前をあげてみよう、何人ご存じか。
山口草平、小川千甕、平井楳仙、伊藤快彦、守住勇魚、国光宣二、辻晋堂、秋田江陵、菅禮之助、小笠原豊涯、竹村白鳳、笠木次郎吉、青木大乗、森田恒友、
恩田耕作、黒田重太郎、桑重義一、劉栄楓、三露千萩、島成園、森守明、矢野雅蔵、斎藤与里、西村更華、岡村宇太郎、中井吟香、飯田清毅、石原薫、幸田暁
治、久保田米僊、松山致芳、太田喜二郎、吹田草牧、寺松国太郎、大石輝一、御厨純一、浅井忠、牛田鶏村、河合新蔵、織田東禹、榊原一廣、奥瀬英三、八條弥
吉、斎藤真成、鮫島台器、横江嘉純、五姓田芳柳、五姓田義松、田村宗立、平福百穂、北蓮蔵、柴原魏象、千種掃雲、寺本萬象、三宅鳳白、小西長廣、甲斐莊楠
木音、玉村方久斗、潮司、高嶋祥光、秦テルオ、赤井龍民、堀井香坡、野長瀬晩花、辻愛造、山口八九子、上山二郎、中村貞以、竹内夢憂樹、北野恒富、岡本更
園、松村綾子、林司馬、不染鉄、柴田晩葉、山田馬介、上田真吾、谷出孝子、下村良之介、藤田龍児。
おお、途中でやめたくなった。三十二人はわたしにも分かる。のこりの人は、初めて知った。略歴をみれば、いくらか有名で知っている人が、知らなかった人
よりも勝れているとか、当時格別働いていたとも言えない。これはもうわたしが「ペン電子文藝館」で心掛けたのと同じ、力有る湮滅画家の発掘と復権をねがう
画廊の心意気だ。
繪を一つ一つ見て舌を巻く。じつに面白い。もう一遍作のよしあしを挙げ始めると、キイを叩く手がしびれてくる、機会を改めるが、こんな面白い繪が、画家
達が埋もれていたと思うと、惜しい、惜しい。わたし流に、これだけ多くから、好きなベスト10を選んで眼識と批評を吾から吾に試みてみたい気さえする。
星野画廊創業三十五周年記念特別展だそうだ、拍手喝采を贈らずに居れない。欲しくて堪らない繪もあるのだよ。京都へ行きたくなる。
* 日本でいちばん長続きしている雑誌。それは、丸善の「学鐙」で。鴎外も漱石も書いていた。日本の知識人ならここへ一度は「足あと」をつけたいところ
だ。その歴代編集長のなかで名声のひときわ高かった北川一男さんを偲ぶ会に、わたしは裁判の煽りでどうしても出られなかった。今日奥さんの編まれた『塔の
旅』という遺稿集が贈られてきた。エッセイを書く人のお手本にしたい多彩で且つ端正な名文家の精髄。しかし何よりも最後に病床で原稿用紙に自筆された奥さ
んへの「金婚」を祝い感謝されている乱れ文字の美しさ。感動。
この北川編集長にわたしは、『一文字日本史=日本を読む』をまる三年間にわたって、また谷崎論を三連載、その他にも東工大を退いたときなど、計四十回以
上も書かせて貰っている。大きな恩人のお一人であった。偲ぶ会への不参、まことに心苦しいことであった。
* もう一冊の特筆ものは、元「群像」の鬼といわれた名編集長大久保房男さんの新刊『日本語への文士の心構え すぐれた文章を書くために』である。お説の
相当量はくりかえし教えられてきて心身にすりこまれているが、なおかつ堪らなく面白くタメになるからつい笑ってしまう。妻はわたしより先に一晩で読み上げ
てフフフフと笑っていた。わたしはいま笑っているが、けっして軽く見て笑っているのではない。身を縮めてじつに心して照れ笑いをしているようなもの。そこ
が門外漢の妻とは違い、臑の傷が痛んでこないかとハラハラしているのである。
ひとかどの作家が平気で書いていると、そこは実例に事欠かない大久保さん、出す出す、 「馬脚を出す」「札片を撒く」「溜飲を晴らす」「古式豊かに」
「自前を切る」等々等々、笑ってしまう。いつどこで笑われているかと思うべきであるが、あまりのことにガハハと笑う。
この本、読み終えたら人にあげよう。
* 秦 恒平 様
プロバイダの大問題が法律上では、そういうことになるとは驚きです。司法は、法に書いてないことは何もできないのですね。法も司法も、技術の現実の進歩
に追いついていないのでしょう。本当に残念です。
「闇に言い置く」を拝読して、私たち(**さんと私)が、御礼に差し上げた湯呑みが、今もお役に立っていると知り、嬉しいやら恥ずかしいやら、ビックリ
致しました。
毎週のように(社宅の部屋へ)押しかけ、全く月謝も払わず、それどころかいつもおいしいお菓子までごちそうになって茶の湯の基本と心を教えていただきま
した。
その当時の朝日子さんはよく覚えています。おっとりと上品でしかも賢くしっかりしたお嬢さんでしたね。虐待など、とうてい信じられるものではありませ
ん。当時の社宅の物理的環境から考えてもあり得るはずもないと断言できます。もちろん、当時の朝日子さんのご様子から考えても。
どうぞ、奥様ともども、お大切に。 米沢女子短大学長 遠藤恵子
* ご心配下さって、有り難い。ほんとうに有り難い。
* 時計を見ると、まだ台所に立つのには早い時間。日暮れが早くなりましたね。
HPを読んでいて 紀伊国屋ホールで俳優座再演の『心 わが愛』を観せて戴いた頃は、まだ両家交流のある時でしょう。
姉弟(朝日子・建日子)であなたの事を話しているのが、耳に留まりました。なんて? それはナイショ。大した話ではなかったから。食いしん坊とか・・・
なんとか。分かる分かる。(^o^)
私は中央のいいお席を戴いていました。隣りが婿殿だったのでしょう。その向こう隣りが朝日子さん、その後ろに建日子さん。幕間に弟さんがお姉さんにフラ
ンス語で新聞読んでいるの、凄い、ただのマンガだけよ。なんて、私一人だったので、会話が聞こえてきました。小さいお孫ちゃんはお留守番の様子。
書きたいのは、幕が下り、誰もが拍手をします。普通、拍手はパチパチパチパチと。感銘を受ければ更にアンコールの拍手になります。
ところがお隣りから、パーーチパーーチと間延びした拍手が聞こえたのです。こんな拍手を聞くのは初めてでした。 ウン? 何故?
その不審の想いが永らく脳裡に蔓延(はびこ)っていました。
婿殿との関係を全く知らなかった頃の挿話、初めて話します。
私は、あなたを信じています。
秋の気候、いいですね。走っていますか。
ほな さいならは云いません。ほな 又。 泉
* それでいて、「高、なにかというとスグ、秦恒平の聟だって自分から言うのよ」と、朝日子はよく笑っていた。東大の女性教授が一言で言ってのけたもの
だ、「嫉妬です」と。
* 十月三十一日 火
* 「覚性をはぐくむ」とは、あらゆる状況を、醒めているための機会に変えることを意味する、とバグワンは言う。生がもたらしてくれるすべてを受け容れな
さいと彼は言う。この深い受容性に超越的なモノが隠れている。覚性は隠されていない。だが、それはまさに「いま」にしか見いだせない。たった「いま」だ。
「いま」がその時だ、それは延期するようなことではない。
バグワンは言う、「光明を得た存在になりたければ、<いま>がその瞬間だ、<ここ>がその場所だ」と。
先入観ででいっぱいのマインド(心)を持っていたらわたしは決して心を超えられないと思っている。そう思い、だから手を拱いて物わかりのいい聖人めいた
振舞いはしない。腹が空けばものを喰うように、目の前の自然な催しに逆らわずにいる。怒るのも悲しむのも、また闘うのも、である。
* だが「抱き柱」をみな手放した、この、そうそうと風に吹かれたような寂しさ寒さは、どうだろう。
そうだ、忘れかけていた。眼を閉じて闇に沈透くのだ。湖底に沈透くのだ。人を頼んではいけない。人を頼んではいけない。
* いつか、涼しくなったらお酒をと申しましたが、お体に障ってはと気懸かりで、とりあえず小ぶりですが塩蒸しの桜鯛をお届けします。2日に到着予定で
す。
お酒も召し上がられるようでしたら清酒・焼酎(麦,芋,黒糖,米などのどれか)その他指定していただいたものをお誕生日前後にお届けしたいと存じます。
時の解決を待つほかに、よいてだてがみつかることを願っています。外側の人間の無責任な言葉をお許しください。お二人の御無事をお祈りしています。
元
* 朝日子は病んでいると言ってくださる人の気持ちは、言うまでもなく庇っていてくださるのであり、有り難いと思う。病んでいるのかどうか、わたしには確
言できない。
* しかし、今年の二月二十五日から今日に至る、「押村朝日子」発信になる、『がくえん・こらぼ』という個人ブログの日録が、幾つかの意味で甚だ独特。自
称「特技」が「机上の空論」で、「長所」は「おもしろがる」とある、この朝日子自身の自覚と、相当よく符合しているらしいのは、事実と思われる。
* いったい朝日子は、やす香とみゆ希とが我が家へ嬉々として遊びにきた、正にその二月二十五日以来、そのブログを用いて、何を、実現したかったのか。
(ちなみに、その日の姉妹の保谷へ行きたいのという申し入れは、みゆ希からまみいに先にあり、「一人で行く」というオファーだった。だがそれと知ったやす
香
も「一緒に行くわよ」と、二人で尋ねてきたのだった。みゆ希は少し早めの誕生祝いを貰って帰った。やす香にはまた適切な機会にねと、ご馳走しかしてやらな
かったのが今となっては心残りで、今もそばのやす香の写真に詫びている。)
* で、「ぬぼこ」こと押村朝日子は、在住する町田市内らしい「がくえん、という小学校区に散在するグループや個人をコーディネート(=取り纏め、仕切り
を=)したいとひそかに願っている、一主婦のブログです。具体の活動報告より、『思い』を書くことのほうが多いかも。きのうを整理し、あしたに臨む、きょ
うの私の心の内・・・かな(笑)」と、真正直に看板が掲げている。ブログに筆録された総量は、「一太郎」に置き換えて、七十頁分に及んでいる。
「ぬぼこ」が分からない人もありそうだ。
浮き橋の上から天つ神さまが、地表の混沌をこおろこおろと攪拌したあの鉾だ、朝日子は「かき混ぜる」のが好きなのだ。
その肝腎の「コーディネート」という目的の方は、「笛吹けど人踊らず」まだ寥々と、協力者にも去られて、事実上空回りしているようだが、こういう仕事は
そう簡単に短時日で成るわけがなく、折角踏ん張って、初志をのべたら良い。まだ文字どおり「机上の空論」を「おもしろが」っている程度らしいが、その軽薄
さが、願いの筋を人の和や輪とともに成しえられない「理由」なんだろうと思うし、昔から父親によく呆れられたように、いまだに、「おまえは、セリフしか知
らないんだ」ということだ。
朝日子自身もブログの中で何度か自認している、「口さき」「口八丁」だけで「お祭り」気分でやれると勘違いしているあたりが、贔屓目にも歯がゆい。つま
り自分が「おもしろが」りたいのでは、舞台の役者が率先笑ってしまっているのと同じ、ハートのない上滑りだけを招くのは目に見えている。
だが、何とかの上にも何年と謂う。、コケの一念とも謂う。なにより人に信頼され愛されて歩むべきだろうに、とんと、それが見えないのは、つまり「自己満
足」を追いながら、こうすれば人も満足するに違いないのにと、暗に「お祭り」を他に強いているからだ。方法論なしに手探りで奔走しても、大きな仕事は成ら
ない。協力を断念して去っていった人の意識の高さにくらべると、「机上の空論」とは、よく自分が分かっていると褒めてやるべきか。
* ま、それだって、いいのだ。好きにする「自由」は本人にある、他人にトバッチリをひっ掛けないなら、だ。朝日子のとにかく飯より好きそうな「コーティ
ネート」は、いずれ、モノの「上手」になり、市会議員くらいに推されるのかも知れない、ハハハ、頑張るがいい。
* しかしながら、朝日子は、トバッチリをひっ掛けなかったろうか。
朝日子が此のブログ始めの「二月二十五日」という日付に注目する。先も言うように、、やす香とヶヶヶの姉妹が我が家に遊びに来て、雛祭りに打ち興じ、池
袋で「寿司田」の寿司を大騒ぎで食べて帰った、当日のことである。即座にわたしがやす香と、入会したばかりの「MIXI」で、「マイミク」を約束し合った
当日である。
朝日子は、もうブログの立ち上げに夢中のようだし、やす香は、これに先立つ一月十一日に、「痛」一字を「MIXI」に掲げて、はや劇症の進展を言葉で自
覚していた。
* わたしたちは、どうか。
妻は二月二十五日のやす香が、ともすると畳や廊下に寝そべるのがとも気になったと言っていた。だが、あのような「病気」を、その時点ではとても想像も出
来ず、その後は、もう、病院に「肉腫」を見舞う日まで、やす香とは一度も逢えなかった。しかし「MIXI」は毎日観ていたし、メールも祖父母ともにやす香
と交換していた。
気が狂いそうなほど、やす香の「MIXI」に連発する「容態」が心配で、わたしは妻にも当たるほどだったが、メールしたりメッセージする以外の「手」は
ついに出せずじまいだった。われわれがやす香を「死なせてしまった」と嘆くのは、そこだ。
* では朝日子のブログでは、どうか。日々の「思い」も書くと朝日子は言い、事実たくさん書かれている中で、「やす香入院必要」と電話で知らされるその瞬
間まで、朝日子のブログ日録は、ただの一個所ででも、やす香について触れていない。我が子の異様な容態を懸念した記事も、言辞も、じつに「絶無」なのであ
る。ひたすら「コーディネート」へ熱中、また高邁そうな言説も展開していて、ただ「読む」だけなら、父親をもつい嬉しくさせるほどツンツンと身を反って得
意満面書いているけれど、あれほどやす香が病苦に呻いて、泣いて、愁訴し激怒しているどんな日にも、ただの一個所でも、二人の書いている「記事内容」は、
ほんの一ミリも接触した例が無い。全然みつからない。
どうか、只の一個所でも、「やす香が心配で母親はこうした」「ママが気遣ってこうしてくれた」という一致点が見つからないかと、詳細なやす香の「病悩全
日記」と朝日子の「全日記」をくわしく照合してみたが、わずかな接点のただ一つも指摘できなかった。
* 言うまでもない、やす香の「MIXI」日記が明白に刻々と告げている「病症」の烈しさだけではなくて、それから完全に「目を離していた」「手も出さな
かった」「言葉もかけなかった」らしき事実であったのだ。いやいや「目を離して」いたどころか、「目もくれていない」のであり、その責任を指弾されるのを
押村夫妻は「恐怖」していたのだ。
* 悲しいことにしかし<事実は否定できそうにない。昨日引用しておいた「七月一日の朝日子日記」は、それより「二週間」前に、突如として「入院」の必要
を告げてくる、病院からか、やす香からか、の一本の電話に仰天する朝日子を浮き彫りにしている。
それでいて、わたしの「死なせた」という、語彙そのものに根拠も意味づけもきちんとされている言葉に対し、祖父母は、われわれ両親を「やす香殺し」「殺
人者」と言っている「キャンペーンしている」などと、中学生以下の理解の薄さで、告訴の訴訟のとわめきだした。
頭を少し冷やせば「死なせた は 殺したでない」ぐらい、やす香のお友達でも分かってくれている。「わたしは大学で哲学を学んだ」とブログにも立派に自
負している朝日子のこのお粗末には、お茶の水女子大学も嘆くだろう。
* わたしは、例の「二十年ないし四十年」もの「虐待」「性的虐待」という朝日子の「言いがかり」が、いかに慌ただしく捏造された虚妄であるかを、もう縷
々この場で反駁した。この場でしたのは、この場でこそ知友にも読者にも一般にも分かって貰えるからであり、その他に、この様な破廉恥な言いがかりを逆に攻
撃するどんな場所も無いからだ。わたしは、わたしの名誉も妻や息子の名誉も守りたい。そのために紙の本を出版しているヒマもない。
* 朝日子のブログとやす香のブログのいわば「日付合わせ鏡」を見れば、露骨なほど二人に愛と信頼の連繋が無かったのは明瞭であって、それが、ブログにた
だ一言(かなりアイマイに綺麗につくろって、だが)出ている「自責」の一語に繋がっている。
この母親も父親も、親・舅を告発できる何一つの権利も足場も持ってはいなかった。祖父母は一切のやす香の医療事情を知らされていなかった。しかもわわれ
は、一度と
して押村の両親がやす香を「殺した」などと口にも書きもしていない。殺人者なんかであってはそれこそ大変だった。よくわたしの日記を読めばいい。
* こうも批判した上で、これはおかしいけれど、足かけ九ヶ月の朝日子のブログを逐一日付順にならべ、字句は触らないが無用な分かち書きなどを整理して
いって、つくづく朝日子の文章に接しながら、けっこうわたしは純粋にものを「読む」楽しさも楽しんでいた。
なるほど「机上の空論」の多さに苦笑してしまうが、その一編、一編だけで読んで「なかなかよく書けているエッセイ」が幾つかあり、「おう、うまいうま
い」などと内心褒めていた。こう書ける人はそうはいない、しばらく音沙汰ない東京の「小闇」の短いエッセイとは、またちがったいい味をみせることもある。
多くはない、たいていはいやみに空疎に文を舞わしているだけだが、でも書けるじゃないか、それならこんな駄文にいま力を磨り潰していないで、本格の小説を
書かないか、書かないでいるともう「小説の文章」が出てこなくなるよと、すっかり忘れ果ててしまうだろうよと、心配した。
何の「高慢に」自称文筆家が自称女流作家に批評するなと、また喚かれるかも知れないが、わたしは「書ける朝日子」の長生きを、まだ心底願っているという
のが本音だ。
* 代理人から「和解案」というのが送られてきた。よく、検討するが、わたしはこんな段階で妥協する気などない。
* 日付はもう変わっている。十月は尽き、十一月だ。さ、機械を消して、この椅子のまま「瞑目」しよう。三十分。小一時間。
うつつあらぬ何の想ひに耳の底の鳥はここだも鳴きしきるらむ 湖
父に虐待され精神的に蹂躙され性的虐待すら
受けた日々と告発しているその時期に、社宅の
庭で、父のカメラに向かう娘・朝日子の元気な
自然な笑顔のこういう写真が、何枚も何枚も
有る。以前にも以後にも、結婚するまで、結婚
してからも、とぎれなくアルバムに「まとも」な
朝日子の日々が残されている。
* 朝日子一歳半、社宅ベランダでのこの写真こそ、われわれ夫婦両親と娘朝日子の「今生」を象徴するはずの一枚であった。喜びに溢れて撮影したのが父親の
私であること、言うまでもない。愛とは高貴な、だがしばしば苦々しい錯覚であるのが本来と、だが、わたしは根源の認識で少年の昔から自覚してきた。いまこ
の両親はこの娘の汚辱の暴言により、裁判所で公然はずかしめられている。その一々に私たちは応えねばならない。
* この写真。上のが六九年秋深く、九歳数ヶ月の娘・押村朝日子が、二歳に近づきつつある弟と大笑いしている。撮影は、むろん父親のわたし、ニッカの愛機
で。保谷泉町にあった医学書院社宅時代。翌年早々には下保谷に新築の新居に移転した。この写真の年の六月桜桃忌にわたしは第五回太宰治賞を受賞し、文壇へ
仲間入りを遂げている。
ところで朝日子の「民事調停」陳述では、これらより二年二年半も前から、すでに「父親による性的虐待等」を受けて苦しんでいたとある。
この頃わたしは激務の編集管理職のかたわら、新潮社新鋭書き下ろしシリーズ『みごもりの湖』をすでに依頼されていた。受賞第一作に旧作『蝶の皿』を慎重
にまた新作『秘色』を書き継いでいた。編集職の繁忙と新進作家への意欲や不安とで寧日なき日々、こういう写真を写せる機会が、ほんとの憩いと楽しみであっ
た。わたしは一にも二にも自身とひたと向き合い創作に打ち込んでいた。さもなくて生き延びて行ける世間でなかった、純文学の文壇は。
子煩悩過ぎるとまで人に笑われたわたしが、なんでこんな無邪気に可愛い娘を性的に精神的に虐められるだろう。この当時の医学書院鉄筋六世帯の社宅は、一
世帯、襖で隔てた六畳と四畳半だけ。家族は妻と四人。妻はわたしの夥しいきたない手書き原稿を日々家事と育児のかたわら懸命に清書してくれていた。
* わたしの妻は、母に先立たれた父に自殺されている。それを今でも父を「死なせて」しまったと悔いて嘆いている。まともな親なら我が子に死なれれば「死
な
せて」しまったと嘆き悔いるのではあるまいか、祖父母ですら、そう嘆いているというのに。「死なせた」が「殺した」と同じ日本語なものか、どんな語感でい
るのだろう。文学音痴は哲学に学んだ夫婦ともどもか。
わたしは、ふつうの言葉ではもはや言い解きようのない娘夫妻のこういう卑劣な言いがかりに応える、これより他の「方途」を知らない。弁護士も教えてくれ
ない以上、こういう写真を二十数年分一枚一枚掲載して行く。自身を守り妻の名誉をまもってやる、他の方途をわたしは知らない、持たない、からだ。
:結婚し母となってなお、父と嬉々として旅する朝日子
* 平成三年(91)
正月、わたしと、母の代役の若いミセス押村朝日子とは、文化出版局「ミセス」編集者カメラマンとともに、四国松山、中国柳井・厳島等への「旅」に出た。こ
れはその旅中の仲良しな父と娘との写真。雑誌掲載以外にもこういう佳いスナップが何枚も手元にある。「見るから仲のいい父娘」と評判された。
見るがいい。この朝日子の笑顔の自然なこと。二十年にわたり父の「性的虐待」に悩み続けたと「調停」の場で訴える暗い多年の影が、この表情のどこに見え
ているか。
そもそも結婚して五年半もの主婦であり、母親であり、実家の父がそんなにも疎ましいなら、何泊もの長旅に同行する必要は少しもなく、誰も強いることなど
出来ない、朝日子はニベもなく断って少しも構わなかった。ところが母に代わって父と旅が出来ると、朝日子は幼いやす香を家族に預けてでも、大喜びで西国へ
仲良く同行してくれた。晴れやかな顔をした同じ時の写真が、このファイルの末尾にも三枚ならんで出ている。だいたい、我が家では父親はいつもカメラマン。
父親とならぶ写真は自然少ないが、このときは幾らでも同行の編集者がわたしのカメラで撮ってくれた。
弟が生まれて以降、自身が「七歳」の春から父のセクハラが急に始まり、自分の結婚まで二十年間ずっと続いたと朝日子は訴えている。
何のことはない、七年も親の愛を独占できていたのが、弟の誕生に親の愛も祖父母の愛もみんな奪われたと、世間普通なら一過性に通過するいじけやひがみの
表れを、なんと二十年も、いやいや今四十六だか七だかまで引きずってきましたと、自ら「解説」しているに等しい。
わたしは、妻もむろん協力してくれるが、われわれの朝日子が、いかにのびのびと両親に愛されて育った娘であったか、遠慮無く、みごとな「朝日子アルバ
ム」を此処へ一ファイル分「編集」してみようと思っている。心なごむ、この際恰好の「癒し・楽しみ」で、ばかげた腹立たしさがいっとき忘れられるだろう。
写真はもう、各年代にわたりたっぷり用意した。それだけでアルパムが三冊。みな、上の写真のように、生き生きと可愛い昔昔のわれらが娘朝日子の、ウソも仕
掛もない像である。こんな佳い写真をこんなに沢山撮ってもらっていたかと、感謝してくれなくてもいいが、内心にきっと驚くことだろう。
見る人は、みな、これら朝日子が、父親から「性的虐待」を受けつづけけていた可哀想な娘の像と見えるかきちんと、判定して下さるだろう、裁判官にもぜひ
そうして欲しい。
わたしは、一般市民であるたとえば向こう三軒両隣のオジサン、オバサンを公然非難したり批評したりは決してしない。するのは、政治家や、知名度で以て働
いている創作者や演技者や教育者や文化人・知識人や、組織団体に対し何かを感じたとき、その時はきちんと遠慮なく批評する。褒むべきは褒める、非難すべき
は非難する。むろん自分がそうされることにも異存はない。
ただし、朝日子よ。押村高よ。でたらめなウソはいけないね、恥ずかしいじゃないか。
そうそう、わたしは、自分の家族にむかっても、お互い何の遠慮もしない。建日子でも朝日子でもむかしから何かあると父から「バカかお前ッ」とやられてき
た。しかし、二人とも大いに可愛がられもした数々の記憶、忘れたなどといえた話ではあるまい。家族写真は、その点、ウソをつかない。一枚二枚ではない、我
が家のアルバム、大判で数十冊もあった。カメラマンの父親が向けるレンズの前で、ウソの迷演技などできるものでない、そんなことは今はプロの建日子がちゃ
んと保証してくれるだろう。
こういうことを、秦さんが自ら言うのは情けないという声が聞こえてくるようだ。だが、わたしは、一糎でも逸れて行く火の粉は払わないが、ふりかかる没義
道(もぎどう)な、しかも実の娘から狂ったように繰り出される火焔を黙って受けるような、グズな偽善的な聖人ではない。わたしはハッキリ胸の内で怒鳴って
いる、「バカか、お前ッ」と。
雑誌「ミセス」の旅企画に娘・朝日子を伴い、松山
柳井、などに厳島などに遊んだ日々のスナップ写真。
在りし日の 愛しき孫 やす香 十九歳にして七月二十七日遠逝。
まだ、ちっちゃかった保谷の姉孫やす香
十四年後再会した、大学合格通知の保谷のやす香
作・演出 稽古中の秦 建日子
* 東京工業大学 教授室で 1995.4.8
父に虐待され精神的に蹂躙され性的虐待すら
受けた日々と告発しているその時期に、社宅の
庭で、父のカメラに向かう娘・朝日子の元気な
自然な笑顔のこういう写真が、何枚も何枚も
有る。以前にも以後にも、結婚するまで、結婚
してからも、とぎれなくアルバムに「まとも」な
朝日子の日々が残されている。
* 朝日子一歳半、社宅ベランダでのこの写真こそ、われわれ夫婦両親と娘朝日子の「今生」を象徴するはずの一枚であった。喜びに溢れて撮影したのが父親の
私であること、言うまでもない。愛とは高貴な、だがしばしば苦々しい錯覚であるのが本来と、だが、わたしは根源の認識で少年の昔から自覚してきた。いまこ
の両親はこの娘の汚辱の暴言により、裁判所で公然はずかしめられている。その一々に私たちは応えねばならない。
* この写真。上のが六九年
秋深く、九歳数ヶ月の娘・押村朝日子が、二歳に近づきつつある弟と大笑いしている。撮影は、むろん父
親のわ
たし、ニッカの愛機で。保谷泉町にあった医学書院社宅時代。翌年早々には下保谷に新築の新居に移転した。この写真の年の六月桜桃忌にわたしは第五
回太宰治賞を受賞し、文壇へ仲間入りを遂げている。
ところで朝日子の「民事調停」陳述では、これらより二年二年半も前から、すでに「父親による性的虐待等」を受けて苦しんでいたとある。
この頃わたしは激務の編集管理職
のかたわら、新潮社新鋭書き下ろしシリーズ『み
ごもりの湖』をすでに依頼されていた。受賞第一作に旧作『蝶の皿』を慎重にまた新作『秘色』を書き継いでいた。編集職の繁忙と新進作家への意欲や不安とで
寧日なき日々、
こういう写真を写せる機会が、ほんとの憩いと楽しみであった。わたしは一にも二にも自身とひたと向き合い創作に打ち込んでいた。さもなくて生き延びて行け
る世間でなかった、純文学の文壇は。
子煩悩過ぎるとまで人に笑われたわたしが、なんでこんな無邪気に可愛い娘を性的に精神的に虐められるだろう。この当時の医学書院鉄筋六世帯の社宅は、一
世帯、襖で隔てた
六畳
と四畳半だけ。家族
は妻と四人。妻はわたしの夥しいきたない手書き原稿を日々家事と育児のかたわら懸命に清書してくれていた。
* その妻とわたしが、今、古稀を過ぎて、押村高の妻となった娘朝
日子のいわ
れなき狂暴ででたらめな攻撃に苦しめられている。
わたしの妻は、母に先立たれた父に自殺されている。それを今でも父を「死なせて」しまったと悔いて嘆いてい
る。まともな親なら我が子に死なれれば「死
なせて」しまったと嘆き悔いるのではあるまいか、祖父母ですら、そう嘆いているというのに。「死なせた」が「殺した」と同じ日本語なものか、どんな語感で
いるのだろう。文
学音痴は哲学に学んだ夫婦ともどもか。
わたしは、ふつうの言葉ではもはや言い解きようのない娘夫妻のこういう卑劣な言いがかりに応える、これより他の「方途」を知らない。弁護士も教えてくれ
ない以
上、こういう写真
を二十数年分一
枚一枚掲載して行く。自身を守り妻の名誉をまもってやる、他の方途をわたしは知らない、持たない、からだ。
:結婚し母となってなお、父と嬉々として旅する朝日子
* 平成三年(91)
正月、わたしと、母の代役の若いミセス押村朝日子とは、文化出版局「ミセス」編集者カメラマンとともに、四国松山、中国柳井・厳島等への「旅」に出た。こ
れはその旅中の仲良しな父と娘との写真。雑誌掲載
以外にもこういう佳いスナップが何枚も手元にある。「見るから仲のいい父娘」と評判された。
見るがいい。この朝日子の笑顔の自然なこと。二十年にわたり父の「性的虐待」
に悩み続けたと「調停」の場で訴える暗い多年の影が、この表情のどこに見えているか。
そもそも結婚して五年半もの主婦であり、母親であり、実家の父がそんなにも疎ましいなら、何泊もの長旅に同行す
る必要は少しもなく、誰も強いることなど出来ない、朝日子はニベもなく断って少しも構わなかった。ところが母に代わって父と旅が出来ると、朝日子は幼いや
す香を家族に預けてでも、大喜びで西国へ仲良く同行してくれた。
晴れやかな顔をした同じ時の写真が、このファイルの末尾にも三枚ならんで出ている。だいたい、我が家では父親はいつもカメラマン。父親とならぶ写真は自然
少ないが、このときは幾らでも同行の編集者がわたしのカメラで撮ってくれた。
朝日子は「肖像権」を楯に、「内容証明郵便」で自分の写真を使うなと削除要求してきた。わたしも肖像権は心得ている。だが、データも具体性も何一つない
口から出任せの虚言であっても、また「朝日子さんは父親に勝ちたい
一心から、ウソの性的虐待をすら平気で言いかけてきますよ」と、その危なさを早くに予想してくれていた観察者もいたわけだであるが、それでも、「セクハ
ラ」や「痴漢」裁判は
「女の勝ち」が世間の常識であるらしい以上、わたしには、娘の破天荒なでたらめ虚言を、娘の母、わたしの妻、である者の名誉のためにも、「物証」で示して
身を護る「権利」
がある。訴えられるなら訴えてみればいい。
弟が生まれて以降、自身が「七歳」の春から父のセクハラが急に始まり、自分の結婚まで二十年間ずっと続いたと朝日子は訴えている。
何のことはない、七年も親の愛を独占できていたのが、弟の誕生に親の愛も祖父母の愛もみんな奪われたと、世間普通なら一過性に通過するいじけやひがみの
表れを、なんと二十年も、いやいや今四十六だか七だかまで引きずってきましたと、自ら「解説」
しているに等しい。
わたしは、妻もむろん協力してくれるが、われわれの朝日子が、いかにのびのびと両親に愛されて育った娘であったか、遠慮無く、みごとな「朝日子アルバ
ム」を此処へ一ファイル分「編集」してみよ
うと思っている。心なごむ、この際恰好の「癒し・楽しみ」で、ばかげた腹立たしさがいっとき忘れられるだろう。写真はもう、各年代にわたりたっぷり用意し
た。それだけでアルパムが三冊。みな、上の写真のように、生き生きと
可愛い昔昔のわれらが娘朝日子の、ウソも仕掛もない像である。こんな佳い写真をこんなに沢山撮ってもらっていたかと、感謝してくれなくてもいいが、内心に
きっと驚くことだろう。
見る人は、みな、これら朝日子
が、父親から「性的虐待」を受けつづけけていた可哀想な娘の像と見えるかきちんと、判定して下さるだろう、裁判官にもぜひそうして欲しい。
それにしても夫・押村高=青山学院大学教授は、西欧のヒューマニズム
時代の人間哲学にくわしい学者であり同時に若い学徒を預かる教育者であって、社会的な地位と責任をもつ紛れもない公人である。わたしからの真っ向批判を浴
びてしかたない、地位有る
「先生」である。自分の妻の我が父親に対するかかる破廉恥な狂乱を、どう傍観しているのか、あるいは容認しているのか、聴いてみたい。
わたしは、一般市民であるたとえば向こう三軒両隣のオジサン、オバサンを公然非難したり批評したりは決してしない。するのは、政治家や、知名度で以て働
いている創作者や演技者や教育者や文化人・知
識人や、組織団体に対し何かを感じたとき、その時はきちんと遠慮なく批評する。褒むべきは褒める、非難すべきは非難する。むろん自分がそうされることにも
異存はない。
た
だし、朝日子よ。押村高よ。でたらめなウソはいけないね、恥ずかしいじゃないか。
そうそう、わたしは、自分の家族にむかっても、お互い何の遠慮もしない。建日子でも朝日子でもむかしから何かある
と父から「バカかお前ッ」とやられてきた。しかし、二人とも大いに可愛がられもした数々の記憶、忘れたなどといえた話ではあるまい。家族写真は、その点、
ウソをつかない。一枚
二枚ではない、我が家のアルバム、大判で数十冊もあった。カメラマンの父親が向けるレンズの前で、ウソの迷演技などできるものでない、そんなことは今はプ
ロの建日子がちゃんと保証してくれるだろう。
こういうことを、秦さんが自ら言うのは情けないという声が聞こえてくるようだ。だが、わたしは、一糎でも逸れて行く火の粉は払わないが、ふりかかる没義
道(もぎどう)な、しかも実の娘から狂ったように繰り出される火焔を黙って受けるような、グズな偽善的な聖人ではない。わたしはハッキリ胸の内で怒鳴って
いる、「バカか、お前ッ」と。
雑誌「ミセス」の旅企画に娘・朝日子を伴い、松山
柳井、などに厳島などに遊んだ日々のスナップ写真。
在りし日の 愛しき孫 やす香 十九歳にして七月二十七日遠逝。
まだ、ちっちゃかった保谷の姉孫やす香
十四年後再会した、大学合格通知の保谷のやす香
作・演出 稽古中の秦 建日子
* 東京工業大学 教授室で 1995.4.8