iken59



 宗遠日乗

    闇に言い置く   私語の刻

     
  平成十八年(2006)八月一 日より八月末日まで 

   

           ☆      ☆

* この平成十 八年七月二十七日に、わたしたちの孫娘やす香は「肉腫」という怖いガンで、逝去。
 そして突如八月一日に、やす香の両親・押村高(現在青山学院大国際政経・教 授)朝日子(わたしの長女、現在改名している。)は、父親である私(作家・現在日本ペンクラブ理事)を、民事刑事ともに告訴し訴訟する、またわたしの関係 団体知人に対し文書を 配布すると「警告」し、いやなら「謝罪せよ」と要求してきた。寝耳に水であった。
 理由の最たるものは、わたしが日録でわれわれはやす香を「死なせてしまった」と書いている、それは両親を指さして「殺人者」だと決めつけたもので、名誉 毀損であると言うの だった。
 その 後、押村夫妻の父母に対すメール・手紙での「脅迫・威嚇=当方弁護士の認識」はエスカレートし、ついには第三者も予告・予想していたように、娘朝日子は、 二十年ないし四十年にわ たり性的虐待 を含む「ハラスメント」を受け続けてきたとまで言い募り始めた。あまりのことに、両親・秦恒平・迪子夫妻は民事調停を申し立てた。

事態推移を纏めて理解できるよう、継続する九月略記を末尾に副えた。                                                  
                                       平成二十三年一月五日    秦 恒平


注:  平成二十三年(2011)六月末の裁判所指示個所が、拡大・縮減な く以下八月日記で「削除」してある。

  


  宗遠日乗  「五十八」



* 平成十八年(2006)八月一日 火

 ☆ 博物館で見た知恩院の、「早来迎」を想っています。 雀(=読者。こういう名のりが使われて人の特定化が避けられている)

 * なによりのお心入れです、感謝。 湖(または遠の名のり等は、秦の名のり。)

* おとといに、朝日子が「MIXI」に出したアイサツを読んだ。
 「ごめんね、やす香」
 「やす香をむざむざ死なせて、お友達のみんな、ごめんなさいね」
の一と言も先立てない、それどころか堂々と若い人達の人生を「教訓」している一文である。
 「闘病記」という母親の言葉はあるが、やす香は六月十九日ごろに入院し、その後七月二十七日の遠逝までは、親と病院との敷いたレールの上を(参考までに 「病院は延命のための何もしていません」「すべてお母様がご存じです」と、やす香祖母は北里大病院の看護師からて聴いて確かめている。)運ばれたに、ほぼ 同じい。音楽まつりも、再三の死決定を予測したような発語、それに伴うモルヒネ増量、輸血停止の最後まで、また通夜・葬儀まで、また「MIXI」日記の運 営にまで、それは何らかの意味で「プロデュース」(母朝日子の言葉)またはディレクトされた、人為的に進められた経過であったと謂えないだろうか。治癒改 善への医療に伴う「闘病」は少なくも「肉腫」と決定後は無かった、直ちに終末期の緩和ケアを実施したことは明らかだ。
 肉腫と診断が確認された頃のやす香による記載は、

 ☆  2006年07月13日
  19:23  今日はね  大変だったの…。体力消耗〜

に尽きている。

* やす香はこう叫んでいた。


* この「生きたい」の、やす香ただ一語は、地球よりも、重い。

* 七月二十三日、建日子も一緒に三人で北里大学病院に見舞った日、やす香は、カリタスの先生もいっしょにいる吾々を目を開いて認め、
 「どうして勢揃いしているの」とはっきり問いかけた。わたしたちはその明晰な物言いと状況とに、驚喜も狼狽もして、笑い声をさえあげて、やす香に言葉を かけることが出来た。
 そして翌二十四日、もう一度建日子も一緒に見舞ったとき、たまたま朝日子が病室を出て、やす香と吾々親子との四人だけになったとき、やす香はうとうとと 寝入っていた中から、突として発語し、まず、「まみい」に「手をにぎって」と言い、妻は寄り添い、もうそこにしかやす香の命も感覚もない左手を、しっかり にぎってやった。やす香はきゅっと握り返したのである。
 やす香は、それから、語幹だけを謂うなら、「生きている」「死んでない」と明瞭に発語した。
 そうだよ、「やす香は生きているよ」 「死んでなんかいないよ」 「生きなさい」 「生きていっしょに本を書こう」などと三方から声をかけあった。やす 香は頷くようにし、しばらくして、「ツカレタ」と呟いた。
 それが、やす香とわたしたちとの「お別れ」になった。「明日からはもう来ないでほしい」と言い渡されたのだ。

 七月二十七日の母の誕生日をやす香も祝い、そして七月を乗り切り、八月を堪え、九月十二日の「成人」の日をと、わたしたちは、みな「生きよ けふも」と 願っていたが、嗚呼。
 やす香はどんなに「生きたかった」ろう。「くやしかった」ろう。どんなに、「死」の手に鷲づかみにされながら「生」の側にいる者達に「嫉妬」していただ ろう…と、想う、可哀想に。

* われわれに漏らした最期の言葉を、わたしと妻と建日子とは、それぞれに聴き取った、すこしずつニュアンスを変えて。
 朦朧とした眠りの渕から浮き上がったやす香の言葉を、或る者は、「やす香は生きているよ。死んでなんかいないよ」と聴いた。また「やす香は生きていた い、死にたくない」と聴いた。また「やす香は、まだ生きているの、もう死んでいるの」という悲しい不安な声と聴いた。

 やす香は「まだもっと生きてくれるよ」と、祖父も祖母も叔父も信じて、あの日二十四日月曜、保谷の家へ帰りついた。
 だが、あの翌日から見舞いは断られ、そして輸血停止の決定があったらしい。たまたまそれをまぢかに聴いていた、またそれを伝え聞いた、最期を伝え聞いた やす香の知人・友人は、思わず「号泣」したと(フランネルさんは)「MIXI」に書いている。

* 「死なれた」という受け身の感傷だけで、「死ぬ」という死の凄さとは、なかなか正しくつき合えない。関わりの深かったものほど、「死なせた」という痛 悔に根ざした「棘ある自責」をもつものだ。
 妻は言う、朝日子と同じ気持ちでやす香の死を悲しめないのが悲しい、と。同感だ。

* 差し迫った仕事に手がつかないのは、わたしの気が弱い。これはいけない。で、三日締め切りの分を書いた。読み返して電送する。二十五日締め切りの分 が、内容的に、気が張る。しかもわたしの他には決して書けない内容になる。

 ☆ お体の具合はいかがでしょうか。
 よそながら案じ申し上げております。
 実は、私は、13年前に夫を癌でなくしました。
 なくなった後ずっと、心に鍵をかけたような感じで、ほんとうにしみじみ偲ぶということを自ら避けて(避けざるを得ないような気持ちになって)きた気がし ます。
 先生の「死なれた」、「死なせた」のお言葉で、また自分の心を掘り起こしています。
 まさに「死なせた」思いが、心に鍵をかけさせているのだと改めて知りました。
 仕事を辞めればよかった、もっと心のうちを聞いてあげたらよかった、もっと手厚く看護してあげられたのに・・。
 まだまだ、今ここで言えないくやしい、わびなければいけない、微妙に入り組んだ気持ちがいっぱいあります。それを、明らかにすることの怖さ、情けなさ が、心に蓋をしているのです。
 これはだれに言うのでもなく、夫に、そして、この私への叱責であるのです。かなしいです。
 友人の中には、しのぶ思いを、あふれるままに俳句や、短歌に表し、表現によって、悲しみや感謝、愛を昇華している人がいます。でも、私にはとうていでき ません。
 こんなことを他人様に向かっていうのも初めてです。
 失礼をお許しくださいませ。
 先生のお言葉で、散らかったまま蓋をしている心の中の片づけが、すこしできたようです。
 でもこれは、このまま、私という入れ物に入れたまま、持って行くものだと思っています。
 いろいろ気づかせてくださってありがとうございました。
 どうぞ、お体おたいせつに。   一読者  四国


* 八月二日 水

* 吉村昭さんが亡くなった、想いもよらなかった、驚いた。
 太宰賞の第二回、事実上最初の受賞者であり、親切な方だった。作風などはあまりに違うが、わたしが最上徳内を岩波の「世界」に連載し始めると、こういう 良い参考書があるよと電話してくださる、そんな先輩であった。
 まだわたしが第五回受賞後まもないころ、あれは桜桃忌の帰りであったか、こんなことを教えられた。
 少し仕事に間があいたかなと思うと、足もとをみるように変に安いキワモノの仕事を頼んでくるところがありますが、そんなときこそ踏ん張って、大きな仕事 に打ち込んだ方がいいですよと。
 これはだいじな助言だった。ありがたかった。
 古風な美学の持ち主で、パソコンなどには全く見向きもしない人であった。
 井の頭のお宅にも呼ばれたし、吉祥寺で鮨をご馳走になったこともある。
 またかけがえない過去の一角を、死の手に切り取られてしまった。
 鶴見和子さんも、亡くなった。惜しい人を。

* やす香の写真を大きくプリントして、家の何ケ所にも、飾る。わたしも妻も声を掛ける。
 お見舞いには何がいいかなあ。
  「梨ッ」
  「お蜜柑!」
  「桃もッ」と、元気な声で電話をよこした、やす香。
 いいとも、梨も桃もあげよう。あの日は、もう最後ですねえと「タカノ」の店員が探し出してくれたが…もう、さすがに探し回らないと、ないなあ。落語に、 夏に、冬の蜜柑をさがしまわるハナシ、あったなあ。
 あんな、まだまだはんなりはじけたやす香の声を聴いた六月二十五日、日曜日。やす香はまだ「白血病」患者のはずだった。
 「治る病気だから」と、あの日朝日子は母に向かいぶっきらぼうに呟いていた。
 重大な誤診(=診断ちがい)と決したのは十日も「あとの祭り」だった。
 
* 散髪してきた。七十一のところを「六十九歳ぐらいに若く」刈りましたそうな。

* いま、戴いた本が文字通り山と積まれている。
 読みは、文学は鏡花全集と芹沢さんの『人間の運命』と『千夜一夜物語』を、読み物は久間十義氏の『聖ジェームズ病院』を、芯にしている。エッセイはモロ ワの『英国史』、そして叢書世界史の『宋と元』、日本書紀の『持統天皇紀』と旧約聖書の『サムエル前記』。バグワンだけは、繰り返し繰り返し籤取らずの別 格。その他に、この三倍は出を待っている。
 読むだけでなく、書いている。からだは、めっきり衰えて今日も気息奄々に近いけれど、頭は働いている。

* そのむかし、わたしの「身内」の説を小学生のように誤解したいい大人が、人も驚くヒステリーを起こしたことがあるが、今度は、私の著書『死なれて死な せて』の、その「死なせて」という意味が理解できずに、わたしたち老夫妻を「名誉毀損で訴訟」すると「警告」してきた。
 やす香に自分らは「死なれた」のに、それを「死なせた」ともいうのは、「殺した=殺人者」と言われているのと同じだ、「謝罪文を書け」と言うてきたよう である。
 べつに講義する気ではないが、わたしは、わたし自身孫やす香を「死なせた」悲しみのまま、いち早くすでに悲哀の仕事として、「MIXI」に、『死なれて 死なせて』を連載し、ほとほと心やりにしている。
 静かに読めば、大学の先生たるもの、「死なれて」「死なせて」の意味の取れぬわけ、あるまいに。
 人が、人を、「死なせ」るのは、いわば人間としての「存在」自体がなせる、避けがたい業であり、下手人のように殺すわけではない。いわば一種の「世界苦 (Welt Schmerz)」に類する不条理そのものである。大は戦争責任をはじめとし、ぬきさしならない身近な愛の対象に「死なれる」ときは、大なり小なり「死な せた」という悔いの湧くのが、状況からも、心理的にも、あたりまえなのであり、むしろそういう思いや苦悩を避けて持たないとしたら、その方がよほど鈍で、 血の冷たい非人間的なことなのである。
 本来はまずそこへ気づき、落ちこみ、苦しみ、藻掻いて、そこからやっと身や心を次へ働かせて行く。むずかしいことだが、そこに生き残った者の「生ける誠 意」があらわれる。
 だれも、しかし、そういうキツイ自覚には至りたくない。身も心も神経もそこから逸らして、そういう痛苦には「蓋をして」しまい、辛うじて息をつく。無理 からぬ事ではあるが、「死なれた」という受け身の被害感にのみ逃げこんで、「死なせた」根源苦に思い至らないようでは、「人間」は、その先を、より自覚的 に深く深くはとても「生きて」行けないのである。
 人とは、死なれ死なせて、その先へ真に「生きて」ゆく存在だ。ティーンの少女でも、分かるものには分かる。
 

* 八月三日 木

* 建日子と話し合う、メールで。

* 今日は街へ出る。

* 『死なれて死なせて』は、わたしのエッセイでは、今も広く読まれ、贈答にも用いられて、識語を求められたり、この本を契機に、いらい久しい知己の縁に も多く恵まれたりする著書であるが、どうも、「死なせて」「死なせた」という意義を読み取れない人もいて、それが大学の先生であったりするから、迷惑す る。
 いましも、「MIXI」の日記欄に公開再連載しているので、読んで下さっている人には、万々誤解など生じようもないのだが、オイオイ、落ち着いて読んで みたらどうかねと言っておく。
 念のために、「死の文化叢書」の「あとがき」も含んだ、「湖(うみ)の本」版の後記を、此処に挙げておく。
 本を読んでも理解できない個所は、(嗤われて平気ならご希望通り「日本ペンンクラブや日本文藝家協会へ公開質問状」をだすのもご勝手だが、率直にわたし に会って尋ねたらどうですかとも言っておく。

 ☆ 秦恒平著『死なれて 死なせて』の跋(私語の刻)
 
 こう書けば、一切足りていたのである。
 「死なれるのは悲しい、死なせるのは、もっと辛い。しかし、だれに、それが避けられようか。避けられないのなら、どうかして乗り越えねばならない。それ にしてもこの悲しさや辛さは何なのか。すこしも悲しくない・辛くない死もあるというのに。愛があるゆえに、悲しく辛い、この別れ。愛とは、いったい何なの か。」
 これだけの事は、これだけでも、理解する人は十分にする。そのような別れを体験したり今まさに体験しつつある人ならば、まして痛いほど分っている。
 だれに、それが避けられようか。避けられないのなら、どうかして乗り越えねばならない。そのきっかけに、もし、この本が役にたつならどんなに嬉しいかと 思って書いた。
 この本は、他人様(ひとさま)の体験を伝聞し推量して、その断片を切り接(は)ぎして書いてみても、真実感に欠けてしまう。それほどに個人的・私的な抜 き差しならない体験なのである。「自分」の体験を根こそぎ大きく掘り起こすくらいにしないと、そんな自分の実感や体験をさえ人に伝えるのは難しい。
 「生まれて、死なれ・死なせて、」やっと人はほんとうに、「生きる・生きはじめる」のだと私は思ってきた。その意味でこの本は、知識を授けて済むといっ た本では在りえない。自分の「人生」を、率直に顧みる以外の方法をもたなかった。言わでものこと、秘めておきたいことも、だから書いた。書くしかなかっ た。
 ただ「私」の表現に加えて、いくつかの、誰にも比較的知られた「文学作品」との出会いを交ぜてみた。作品はその気になれば誰とでも共有できる。まるまる 他人の体験に、当て推量に首をつっこむことにはならないので、叙述を単調にしない工夫としても、やや重点をさだめ、そう数多くない古典や現代の作品につい て深く関わってみた。文学を「私」が「読む」という、その行為もまた、私の場合「人生」であったのだから、たんにこの本のための方便ではなかった。
 この初稿を脱稿した日、一九九一年.平成三年の師走二十一日に私は、五十六歳の誕生日をむかえた。まだまだ、この先、一心に生きて行かねばならない。

 単行本に上の「あとがき」を書いたとき、わたしは、その十月一日付け東京工業大学の「作家」教授に新任の辞令を受けたばかりで、ありがたいことに授業は 翌春四月の新学期からと言われていた。まる半年を用意にあてる余裕があった。
 前から頼まれていたこの書下ろし原稿をきっちり一ヶ月で書いてしまい、そして四月の授業を開始のちょうどその頃、朝日新聞の読書欄に、この新刊は「著者 訪問」の大きな写真入りで紹介されていた。学生諸君に自己紹介のまえに、新聞や、テレビまでが、わたしを、この本とともに紹介してくれていた。ラッキー だった。本もよく売れて版を重ねた。
 人は、一度死ぬ。めったなことで二度は死なぬ。だが人に「死なれ・死なせ」ることは、なかなか一度二度では済まない。従来の「死」を扱った著作のおおか たは「己(おの)が死」であった。いかに己れが死ぬるかを考えたものが多かった。わたしを訪問した朝日の記者は、他者の死を己れの体験として人生を考慮し ていることに、「意表をつかれた」と話してくれた。「死なれる」「死なせる」は、「身内」観とともに、わたしに創作活動をつよく促した根本の主題であっ た。

 笑止なことに、親子とて、夫婦とて、親類・姻戚だからとて、容易には「身内」たり得ないと説くわたしの真意を、粗忽に聞き囓り、疎い親族や知人、遠くの 人たちから、お前は「非常識」に、親子、夫婦、同胞、親戚を「他人」扱いするのか、そんなヤツとは「こっちから関係を絶つ」と、手紙ひとつで一方的に通告 され罵倒されたりする。「倶に島に」「倶会一処」の誠意を頒ち持とうとは、端(はな)から思いもみないこういう努力の薄さから、どうして「死んでからも一 緒に暮らしたい」ほどの愛.情が生まれよう。真の「身内」は、血や法律で、型の如く得られるものではあるまいに。
「身内」はラクな仲では有り得ないと、「生まれ」ながらにわたしは識って来た。

 誤解を招きかねない、場合によって破壊的な猛毒も帯びた我が「身内」の説であるとは、さように現に承知しているが、また顧みて、どんなに世の「いわゆる 身内」が脆いものかは、夥しい実例が哀しいまで証言しつづけている。その一方、あまりに世の多くが、とくに若い人が「孤独」の毒に病み、不可能な愛を可能 にしたいと「真の身内」を渇望している。
 よく見るがいい、人を深く感動させてきた小説や演劇・映画のすべては、わたしの謂う「身内」を達成したか渇望したものだ。根源の主題は、愛や死のまだそ の奥にひそんだ、孤独からの脱却、真の「身内」への渇望だ。あなたは「そういう『身内』が欲しくありませんか。」わたしは「生まれ」てこのかたそんな「身 内」が欲しくて生きて来た、「死なれ・死なせ」ながらも。子猫のノコには平成七年夏に十九歳で死なれた。九十六歳の母は平成八年秋に死なせてしまった。

 この本の出たあと、読者から哀切な手紙をたくさん受け取った。ひとつひとつに心をこめて返事を書いた。いかに「悲哀の仕事=mourning work」でこの世が満たされていることか。愛する伴侶に死なれ、痛苦に耐え兼ねて巷にさまよい、日々行きずりに男に身をまかせてきたという衝撃と涙の告 白もあった。この本の題がいかにも直截でギョッとしながら、大きな慰めや励ましを得たという便りが多くてほっとした。たくさんな方が、悲しみのさなかにあ る知人や友人のため、この本を買って贈られていたことも知っている。
 そういうふうにして、この湖(うみ)の本版『死なれて・死なせて』も読まれてゆくなら、恥ずかしい思いに堪えて書下ろした甲斐がある。どう悲しかろうと 何としても乗り越えて行ってもらうしかないのだから。
 「湖の本」創刊十二年、桜桃忌にちょうど間に合ってお届けできる。折しも太宰治賞も復活されるようなことを報道で耳にした。いくらか幽霊に逢う気分でも あるが、いい作家、いい作品があらわれて欲しい。
 さて四月半ば(1998)過ぎてから始めたホームページヘ、現在、新しい長編小説を、日々推敲を繰り返しつつ草稿の初稿そのものを、書き次いでいる、仮 の題を『寂しくても』とつけて。
 脱稿できるかどうか保証のない新作を粗削りの段階、下書きの段階から公表するのは無謀なようだが、日ごろ無謀に生きているといえば言えるので、もうそん な斟酌はなにもしない。流れるように流れて生きている。無責任にではない、「退蔵」の日を待って「心して」「一心に」流れに身をまかせている。(=この 『寂しくても』は、題をあらためて『お父さん、繪を描いてください』上下巻に完成している。)
 この昨今、日本ペンクラブに「電子メディア対応研究会」設置を理事提案し承認された私の動機も、毎日新聞等に書き伝えた。(=2006年現在、この研究 会は、正式に「電子メディア委員会」及び「ペン電子文藝館」に発展している。)  (1998.6.)    秦 恒平

* 思い出す。この単行本が本になって、いよいよ東工大で初授業の頃に、すでにわたしたち娘の母、初孫やす香の祖父母は、婿殿から「離縁」され、以来十余 年、孫を奪われていた。

* 同じその人が、わたしが、自分の「私語」や「MIXI日記」に、「死なせた」という言葉遣いを繰り返しているのは、やす香の親である●・朝日子夫妻を 「殺人者」だと侮辱したものであり、刑事と民事と双方で「告訴」すると言ってきたのだから、また呆れてしまっている。
 どうなってるの。
 やす香の血を分けた祖父でも祖母でもあるわたしや妻も、何度も何度も、今日も、只今も、あのだいじな「やす香を手が届かないまま可哀想に死なせた、死な せてしまった、自分達にも何か出来ることが有ったはずなのに」と、悔しくも、泣いて、嘆いているというのに。

* なさけない世の中である。片棒を担いではいないとも強弁できないところが、また、なさけない。
 

* 八月四日 金

* 平成十八年(2206)八月四日付け 娘押村朝日子が夫と連名で、「e-文庫・湖(umi)」作品の掲載削除を求め、削除しない場合、「刑事・民事の 訴訟」をもって父・義父を告発すると実印つきの手紙を寄越した。
 掲載の趣意と真意は当初から欄外に明記していた。作品への或る程度の評価と共感や過褒ともいえる好意がなければ掲載し保存をはかるわけがなく、むろん本 人が掲載して欲しくないと言ってくれば外せばよいと考えていた。
 いきなり「告訴」とは、すさまじい。凄い時代になった。
 なおこの作品を読んだ際の、先輩作家としての、父親としての驚喜と激励のことばは、秦の当時の「闇に言い置く私語の刻」にくわしく、また大勢の読者もそ れを知っている。突如「告訴」されるに相当するものか、読んでくださればお分かりになる。  
 欄外の紹介を掲げておく。

 「コスモのハイニ氏」
 この小説は習作のまま作者押村朝日子が無署名で  2004.9.21 - 2005.7.27    ブログに連載していたもの。インターネット上での無署名作品の盗難等難儀な事態をぜひ防ぐべく、当座、編集者(秦恒平・父・小説家)一存で此処に保管す る。編輯者だけが知らないともいえるが、これは類のない題材で、一種の創世神話かのように物語られている。「こすも」(原題)なるモノが、不思議の多くを 担っていて、かなり壮大に推移し変異してゆく。ほぼ十ケ月、一日の休むこともなくブログに細切れに毎日連載した、わずか二作目、事実上は一作目といえる処 女長編の習作としては、行文にも大きな破綻なく纏まり、身贔屓ぬきに言う、相当独自な長編小説一編に仕上げてある。作者は1960生まれ。現在名は押村朝 日子だが、従前の筆名のままに。編輯者の長女である。   2006.2.9 仮掲載

 「ニコルが来るというので僕は」
 この小説は習作のまま作者押村朝日子が無署名で  2005.8.18 - 2006.1.8  ブログに連載していたもの。インターネット上の作品盗難等の難儀を防ぐべく、当座、編輯者(秦恒平・父・小説家)の判断で此処に保管する。たわいなげなき れいごとのようでありながら、不思議な批評を底ぐらくはらんで終末部へ盛り上げてゆく。ブログに細切れに毎日連載した、わずか三作目の習作としては、行文 に破綻なく纏めて独自の小説一編に仕上げてある。作者(現在の本名は押村朝日子)は、編輯者の長女、仮に筆名としておく。   2006.2.9 仮掲載

 「天元の櫻」
 この小説は、習作のまま作者(押村朝日子)が無署名で 2004.3.3 - 2004.3.29   ブログに連載していたもの。作品の盗難等の難儀を事前に防ぐべく、当座、此処に編輯者(秦恒平・父・小説家)一存で保管する。この作品はまだ小説の体裁を 堅固に備えていず、小手調べの習作めいているが、物語は囲碁の勝負ただ一局を芯に据え、十分巧んで運んであり、なかなか面白い。ブログに細切れに毎日連載 した、作者最初の習作としては、一風ある準小説の一編に仕上げてある。ないし仕上がる可能性がある。
 原題は「櫻」である。これも編輯者の一存で仮題にしてある。 2006.2.9 仮掲載

* 朝日子本人の希望であるので、三作とも、「e-文庫・湖(umi)」の読者へ割愛の事情を添えて作品は削除した。

* 押村家は加えて、この『生活と意見』(闇に言い置く私語の刻)の全部を削除せよと言ってきている。どういう根拠と権利があるのだろう。質と量(何万枚 に及ぶだろう。)の両面から、厖大なわたしのそれこそ「著作」なのであるが。

* わたしたち夫婦は、この広い世間では「極めつきの少数派」であると自任している。広い世間の「常識」と称する多くとわたしたちは、いや私だけは、と妻 のために限定しておくが、かなり背馳している。多数決で勝ったことなどなかなか無い、総選挙もしかり、である。ハハハ。
 わたしは、世間の常識に勝とうなどと、ちっとも願わない。気の低い常識とやらが、わたしからモノを奪い取りたいのなら、寄ってたかって、どうぞとも言わ ないが、「勝手におしやす」と思っているし、自分は行けるところまで自分の思うままに行く。
 その「思うまま」なるわたしのあらゆる思想が、この「ホームページ」に集中している。それを全く読まないで、見ないで、不当にあっさり型どおり断罪した いというなら、「大いに不当」だと鳴らすけれども、また、きれいに人生一巻をしめくくれば済むことと思っている。
 ホームページなんて、何であろう。
 なるべく広い場所に出て議論出来るなら、わたしは手元に蓄えた豊富で正確な資料を駆使し、書けるだけ書き、話せる限り話して見たいのである、なるべく大 勢の視・聴者の前で。わたしに喪うモノといえば、経費と健康ないし命だけである。特別惜しいモノではない。
 識る人は識ってくれている。十分だ。

 ☆ 本の、あとがきから先ず読むのはいけないことなのでしょうが、いつもご本が届くと、雀は、まず後ろをめくります。ごめんなさい。
 日本ペンクラブが、国からお金をもらって活動しようかなどという動きには、驚きました。日本の骨がなくなってしまう。ショックです。主人に話したら絶句 して、「あの会長でも…か」と考え込んでしまいました。
 昨日は日本将棋連盟が、名人戦の主催者を替えると報じられていましたでしょう。雀が「牛を馬に乗りかえてってわけネ」と言うと、「義理も道理も身共は知 らぬ。いずくも『ダイヤモンドに目が眩み』なのかァ」と。
 先月、ぼんやりテレビを見ていたなかで、NHKが大岡昇平さんの生前のインタビューフィルムを15分ほどに編集して流していたのが印象に残っています が、まさかペンクラブのそんな動きを知っての放送ではないでしょうね。だとしたら、えらい皮肉です。
 以下のような内容でした。
 会社勤めをしている人が反戦を叫んで仕事をクビになり、収入がなくなって生活できなくなるのはいけない。わたし(大岡氏)はそういう心配はない。だから 「ノー」と言える。文筆家は「ノー」と言える立場なんだから言わなくてはいけない。
 戦争のことなど忘れて楽しく毎日を送ることが悪いなんて言わないよ、そうしたいんだから、僕だって。
 だけど今だって“不沈空母”などとあの時代に戻るようなおそれがあるんだから。それがなくなったときは戦争のことを忘れて楽しく毎日を過ごすさ。
 「ノー」と言えるンだから、われわれ文筆家は。断固、言っていかなくちゃ、言い続けていかなくちゃ。 囀雀

* 湖の本を送りだして以来、予想以上に大勢の読者が、日本ペンクラブに、文化庁(政府)の経費負担を見越して大きなイベントを企画している話題に強い反 応を示されていた。
 ところが企画の関係者が大きな目玉にしてきた、台湾人監督の映画作品が、「台湾ノー」という理由で文化庁によりとりさげを要求されてしまい、六月理事会 では、誰ひとりの発言もないまま、致し方ないと容認されたのである。
 わたしは、その場で、「政府資金によるペン活動」は、そもそもおかしい、まして、こういう、まさに目玉を刳りぬかれても黙って金主の政府に従うというの は、他のペン活動、たとえば悪法成立への抗議や反対声明などの国民の信頼にも、わるく響くと憂慮を述べた。
 七月理事会にわたしは余儀なく欠席したので、どうなったやら知らないでいるが、委員会で事務局長に聞いたかぎりでは、その後になにも変化はないとのこと であった。

* 亡き大岡昇平さんのお話は、これこそが文学者の、文筆家の「通念」で「矜持」であったと、懐かしい。
 大岡さんとは、ただならぬ仲のようにおもしろづく噂されていた亡き井上靖会長が、国際ペン大会を担当され「核と平和」問題をテーマに取り上げられたと き、大岡さんはすぐさま井上さんに電話され、「自分は大賛成です、大会の成功を祈ります」と言ってこられ、井上さん頬を紅潮され喜んで居られた事実を、電 話のそばにいた三好徹さんが、何度も書いたり話されたりしている。わたしの編輯している「e-文庫・湖(umi)」にも載せてもらっている。
 文筆家には、気稟の清質最も尊ぶべきものを清貧と表裏して堅持していた人達が多かった。
 余儀ないこととはいえ、ペンの理事会でも予算と収支と、資金援助を自治体や企業に依存し依頼しようとする話題が、どうしても何割かを占めてくる。組織が 国際的にも国内的にも大きくなっているのだから維持のためには仕方がないとはいえ、ときどきウンザリする。まして、「政府のひも付きの金を頼む」のだけ は、ぜひ、やめたい。

* 秦先生  夏らしい暑い日が続くようになりました。いかがお過ごしですか?
 湖の本、ありがとうございました。自分の家庭環境や家族のことを思い出しながら、読みました。時に引き込まれ、時に読むのをためらいながら、自分が社会 に出るまで家族と過ごしていた時のことを思い出していました。
 私の家族は父母、二人の妹、祖母、祖父の姉と最大七人もいて、にぎやかでした。息子の目から見て、母が一番苦労していたと思います。
 父は自分のペースで物事をすすめる方でしたが、息子に対してはしっかりしたところを見せたかったのだと思います。
 大学の頃の授業の中で、以下の短歌が出題されたのを良く覚えています。
   『父として幼きものは見上げ居り ねがはくは金色の獅子とうつれよ』
 この短歌は自分から見た父のようだと、その日の挨拶に書きました。
 大学へ上がるまで、父には山に連れて行ってもらったり、数学を教えてもらったりしました。
 父は自分にとって負けたくない存在で、、私自身は父の数学とは似ているけど違う道化学を専攻しました。
 父にも胸をはれる存在になったつもりではありましたが、父は父で、定年後も新しい道を進んでいるのには驚きです。今では1/3以上家を空け、国内海外を 仲間と一緒に飛び回っています。いつまでも元気なのはうれしいですが、自分の退職後も、父のような満足の行く生活ができるかどうか疑問です。そのときには 父の姿を思い浮かべながら、何か違う充実した生活ができるように努力したいと思っています。
 本を読んでいて、妹二人のことも思い出しました。やはり難しい時期や、不安定な時期があり父は苦労していろいろと手を尽くしていました。息子とはちがう 甘やかしぶりに苦言を呈したこともありますが、育て方が両親の中で違っていたのだと今では思っています。
 久々に、自分の半生を思い出してしまいました。また次回作品もお送りいただけることを楽しみにしております。
 まだまだこれから暑い日々が続きますが、どうかお元気でいらしてください。 山

* 久間十義さんの『聖ジェームズ病院』を読了、力作で面白かった。
 人間の把握や造型は、またほのかな色模様など読み物風にやや型どおりであるが、ストーリーの組み立てや彫り込みはリアルを損じることなく、なによりも大 柄に堂々と書き込まれていて、いわば作の姿勢や根性に対する信頼のもてるところがとても良かった。信頼し安心して物語の展開に踏み込んでつきあうことが出 来た。
 医学書院の大冊『治療指針』『薬物指針』など、わたしにも大いに懐かしい出版物が参考文献の頭に挙げてあり、ああいう記載のこなし方としては、おみごと と手を拍つ心地。「病院」「医師」「ナース」「関連企業」「癒着」「接待」等々、みーんな編集者時代に大なり小なり深くも浅くも見聞してきた。その忘れる 事なき体験も大いに手伝ったから、わたしだけの深読みの楽しみも加わっていたと言えば言える。
 力の大きな書き手で、わたしは、なぜかこの人の本は「読みたい」と思い、何冊もねだるようにして貰ってきた。姿勢がおやすくないのと、最初に読んだ文学 作品の印象がよかったのである。
 犯罪がらみのルポルタージュふう読み物であるけれど、とにかく堂々と、しかも細部の手が抜けずに佳い意味で説明的にも確かなため、これほどの大作でも筋 が混乱しない。そしてこの作家は、根に珍重すべき「優しさ」をいつも謙遜に蔵していると見え、好もしい。浮かれ調子に堕さない。 


* 八月四日 つづき

* 返信に対し、以下のメールが届いたことを、日録に記録しておく。

* 秦恒平様
 改悛の情なきことがはっきりと確認できました。
 事務所からの指示により、これにてメール連絡は途絶とさせていただきます。 押村高・朝日子

* こういう調子で「姻戚関係を絶ちます」と手紙でぶつけられた昔が、妙になつかしいくらいだ。
 このメールと対比のために、押村からの提示に対し述べた、「改悛の情」なしとされるわたしの所感を、改めて此処に転記しておく。「改悛の情」などという 言葉、わたしたち老夫妻に対し此処へ使えるものだろうか。
「闇」の彼方にも、さぞ声なき声のたくさんな感想があろう。

* 今日届いた娘の夫からのメールは、「告発」という意図で書かれたものゆえ、わたしも大切にこの日記に記録しておく権利が有ろう。なぜかわたし以外に、 秦建日子ほか未知の何人かの名が添えてあるが、分からん。

 ★  押村高   訴訟にさいして系争点となる、秦恒平氏による違法行為疑いの一覧を作成しました。

  「生活と意見」 →プラィバシー侵害、侮辱、信用毀損、名誉毀損

  「聖家族」 →私文書偽造、プラィバシー侵害、侮辱、信用毀損、名誉毀損

  「コスモのハイニ氏」→著作権侵害(匿名公開著作物の筆者開示、無断転載、無断改編)

  「ニコルが来るというので僕は」→著作権侵害(匿名公開著作物の筆者開示、無断転載、無断改編)

  「天元の桜」 →著作権侵害(匿名公開著作物の筆者開示、無断転載、無断改編)

  なお、押村高と押村朝日子は違法行為者秦恒平氏の告訴に対する全権限を保留することを申し添えておきます。 押村高

* わたしの回答も記録する。

 ☆  秦 恒平 押村夫妻殿  はなはだ厳密と適切を欠いたアバウトな申し出です。

  「生活と意見」は、多年にわたり数万枚にも及ぶ、著作者・創作者秦恒平の著作・創作物です。この申し出の一々の主体・主語が誰であるのか明記せず、この申 し出が、一々その全容中の、何年何月何日のどういう個所をさして言うのかすら指摘していないのは、甚だ杜撰な申し出です。具体的な指摘も、具体的な理由も 付けずに、著作・創作物の削除を、著作・創作者に請求するのは非礼・非常識です。

  「聖家族」は、未完未定稿の仮題フィクションながら、創作者秦恒平による明瞭な「創作物」です。創作を紙や電子で出版するのは創作者の基本的に自由な権利 です。

  押村朝日子氏の三作品を掲載した編集者の善意の意図は、当初から掲載位置に大きく明示しています。今回朝日子氏の申し出を受けたので、「e-文庫・湖 (umi)」読者へ、折角割愛に至った理由を書きのこして、すでに削除済みです。作家であり父でもある編集者の、作品に対する好意と善意の配慮は、感謝さ れて自然です。  以上 06.08.04 

 ☆ 秦さん。 こんばんは。
 ご家族のなかでのことですから、他人は、口出ししない方が良いと思っておりますが、朝日子さんの作品掲載の削除は、別として、大兄の「生活と意見」全削 除とは、なんと非常識な申し出と吃驚しています。「凄い時代」というより、これは、かなり特殊で、凄い夫妻(あるいは、両親)ということでしょう。
 押村高さんは、直接は存じ上げないけれど、藤原保信ゼミナールでは、私の何年もの後輩に当たるし、先年の藤原保信著作集刊行パーティでは、同じ会場に居 たかも知れません。すでに、数冊刊行された著作集の最新刊の「5巻」は、ことしの5月に刊行されていて、押村教授(青山学院大学)ら2人が、責任編集者で したから、やす香さんの病状が不明なまま進行している時期、教授はご多忙だったのではないでしょうか。
 藤原さんが、生きておられたら、教授夫妻の、このような言動に、到底肯定などしないと思います。
 ことは、表現の自由の有り様に関わりますから、私も看過できないという気持ちになりました。
 それで、老婆心ながら、余計なことかも知れませんが、念のため、私の意志をお伝えしておこうと思った次第です。
 秦文学については、私は、いかのように考えています。
 
 秦恒平という作家生命からみても、提訴されれば、受けて立つしかないでしょう。
 いざと言うときは、私のの知り合いの、信頼できる弁護士さんを紹介しても良いと思っております。
 そういうことには、ならないよう祈念しますが、一応、頭の隅に留めておいてください。  ペンクラブ会員

 * 心強く感謝に堪えません。
 憮然としていますが、こういうとき、たじたじしているのは嫌いです。踏み込んで向き合うつもりでいます。 
 私には 孫の非在がいまも悔しくて、悲しいのです。死なせて一週間もたたぬうちのこの騒ぎよう。ま、そんな子の親ですから、大きな事は言えませんなあ。 呵々
 またお目に掛かります。
 またお力添えをお願いすると思います、どうぞよろしく。  秦生

 
* 八月五日 土

* わたしは、自分が冷静な批評家だと思ったことはない、熱い批評家だと言われれば黙して低頭するけれど。
 わたしは称賛するために批評を書きはじめた、最初の「谷崎潤一郎論」がそうであった。小説「清経入水」で選者満票を得て第五回太宰治賞をえたときも、あ れはそもそも私にすれば一方的な「ご招待」受賞でもあっただけに、それはそれは嬉しかったけれども、筑摩書房から最初の評論集のメインに、書き下ろしの 「谷崎論」が入ったときも、匹敵するほど嬉しかった。
 新聞小説の『少将滋幹の母』をはじめて貪り読んだ中学生いらいの、ほぼ同時に与謝野晶子の源氏物語に夢中で抱きついていらいの、いわば「本望」をそのと き、一つ遂げたのであった。
 失礼ながら平凡作といえども、本の活字に唇をそえてう蜜を吸うようにわたしは谷崎文学に親しみ、源氏物語などの古典も読んできた。それらへの思いを「批 評」として書かせてもらうのには、先に「小説家」として世の評価をえられればいいなと願望していた。
 わたしは幸運な書き手のひとりとして、文壇に向こうから手を取って引っ張り上げられたのである。
 しかし、わたしは冷静な批評家ではない、論旨は綿密に紡ぐけれども、熱くて烈しくて、ときに人を困惑させるのであるが、動揺したり惑乱したりしながらも のを書くことはけっしてしない。その意味で、わたしはいつも批評家であるより、観察者なのである。

* この際、自分自身への観察や批評は棚上げさせてもらうが、わたしが自分の二人の子、姉朝日子、弟建日子を深く愛してきたことを疑う人は、ないと思う。 この「私語」をながく読んでいてくださるみなさんは、ことに、けっして疑われないであろう。もし疑う者のあるとすれば、それは厳しい観察の対象ともされて きた、当の二人の子たち、であろう。朝日子にも建日子にも、わたしは、褒められないことを褒めたりしなかった、端的に、「バカか、お前」ともきめつけた。 この口癖が建日子の処女作『推理小説』の雪平夏見女刑事の後輩男刑事に対する口癖であったことは、読者はおぼえておられるだろう。
 建日子はああいうふうに父親から「門出」していった。このごろ親爺の点が甘いよと心配しているそうだ。
 朝日子は、親に、「どうせ捨てられたの」と人に漏らしていたそうだ。そのように思うであろう経緯もわたしはつぶさに「観察」してきた。朝日子のいいとこ ろを懸命に観察して、のびるものなら延びて欲しいし、手伝えるものなら本当に手伝ってやりたかった。頼まれもしないのに朝日子の小説の習作を、時間と手間 を掛けて貧弱なブログの日記から、手元で一日分一日分再現し、「e-文庫・湖(umi)」に仮におさめて作品の盗難を防いでおいたのも、編集者の目に触れ てくれないかなあと願ったのも、それであった。滑稽なほどわたしは娘の習作をこの「私語」でも褒めてやり、「驚喜」したとも最近ものに書いている。
 だが、朝日子の反応はそのわたしへの「告訴」であった。「著作権侵害(匿名公開著作物の筆者開示、無断転載、無断改編)」だそうだ。


 久しぶり、十四年ぶりに再会したわが娘に関して、わたしがこれまで少しも具体的な印象を語ろうとしなかったのは、娘が大学のころから日々に眉をひそめさ せられた印象と、ほとんど違わないのに内心仰天したからだ。
 娘やす香の死の初七日に満たず、親を法廷に訴えよう、と。そんな事例が世にあるのかどうか、わたしは聞いたことがない。

 ☆ 申し訳ありませんでした。まったく見当はずれなメールをお送りしたことを恥じています。
 というより、想像を絶した 常識からは考えられない 子を死なせたばかりの親とは思えない事態が起きていることに 驚き 憤りを感じております。
 世論が湖を支持することでしょう。有能な弁護士が法的に解決してくれることを祈っております。  波

* こんなメールを戴いた。失礼ながら、これから本格に法廷で向き合うことになるのなら、「力」になって戴けるどんなことばにも励まされたい。

 ☆ 秦恒平 様
  突然、そして初めてのメールにて失礼いたします。
 不仕付けで大変申し訳ありません。不穏当なメールでしたら、削除下さい。
 私は、*****と申します。
 ご子息様の
 『ラストプレゼント ――娘と生きる最後の夏――』に、涙した者でございます。
 最後に「明日香さん」が亡くなる場面を描かなかった、そして、このドラマは登場人物が皆気持ちいい人だった。
私は、テレビドラマを見る習慣がなく、そんな私にとってラストプレゼントが始めて最初から最終話まで見たドラマでした。
 そして、秦建日子様の世界観に魅せられたのです。
 そんなだけの私が何してるのか。。。ご家族のことに、他人の私が口出すことでないと承知で申し上げます。
 私は、秦恒平様の文字からは、「愛」そして信念を感じます。
 随分と昔の文章も読ませて頂きましたが、厳しさと優しさ、そして、「思う気持ち」「思う姿勢」きちんと伝わってきました。
 やす香さんとの再会。
 やす香さんの誕生日。
 その時の心弾んでらっしゃるご様子。
 自分の子供への厳しい発言に隠されてるもの。
 甘い言葉だけじゃなく、本心でぶつかっていくお姿。
 そして、やす香さんを愛されていた。
 なのに。

 今は、投げられた「うんこ」をどう処理するのかでなく、
 そのうんこを投げ返すのか?
 手の汚れていない人が正しいわけでない。
 うんこを握ったら、手を洗ってもなかなか臭い(うんこを握ってしまったという気持ちのコントロール)は消えないものです。
 ただ、自分に信念がある限り、うんこを投げることも必要な時があると思うのですが、
 申し訳ありません。私が熱くなってしまいました。

 私は、貴方様が名誉毀損だとか、おかしい!!
 と、強く思っておりますことをお伝えしたいと思いメールしました。   紀

* ありがとうございます。

* いま、日本ペンクラブの事務局一同で「お花」が送られてきた。わたしのこの「私語」を、日ごとつぶさに読まれていて、この事態に、「ことばもありませ ん」とメッセージが。単簡にして適切なのに、微笑。
 ありがとう、みなさん。 朱夏 お大切に。
 われわれに「改悛の情」がないと決めつけてきた婿さんにも、「事務所」とやらの人にも、落ち着いてわたしの書いてきたものを「読んで」むむもらいたい。
 これまで知らなかったので婿殿をたんに教員といってきたが、青山の教授だそうだ。国際政経学部。


* 八月六日 日

* 娘夫婦に寄す。

* 娘夫婦の名儀で、実父・舅であるわたし(秦)を、民事・刑事の両方で告訴するだけでなく、「日本ペンクラブ理事会、同人権委員会全員、ペンクラブ会員 で住所の判明した三十人、人権擁護局、DV・ハラスメント相談室ほか」への配布文書をつくった、配布されるのがいやなら「要求する総て」を容れ、「謝罪せ よ」という文書が届いた。
 
* 上の申し出は、ところが、本人である私へ届いたのではない。宛先は、「妻と息子秦建日子」への連名になっている。両人に、わたしの「英断」を説得・誘 導して欲しいというのである。
 押村は、ここ数日の「秦氏の生活と意見」(=この「私語」)における記述は、「徹底して親から子への説得という形であり、1人の人格として扱われない夕 日子(=押村妻・秦の長女)の態度を硬化させるばかり」と書いている。
 そういう受け取り方を、わたしは理解しないではない。が、朝日子は四十六歳の誕生日を迎えた「人格=大人」であり、わたしはいつも朝日子や高の「年齢相 応」ということに、期待をかけている。

* わたしたちは、「娘朝日子との対決」など、十四年間の完全な没交渉を経てなお、一度として考えたことがない。十四年前、朝日子との間に何ら問題があっ て訣別したわけでなく、朝日子に門戸を閉ざしていたことは全くない。
 わたしたちが、「孫やす香との再会」という嬉しさを噛みしめながらも、なおかつ押村高を許さなかったのは、十四年前にわれわれに加えられた「言語道断な 非礼」だけである。

* 簡単に言えばこうである。
 婿の押村高が、学者である婿(自身)に対しては、「妻の実家が住居や生活費の経済援助をするのは常識」だと言い張った。地味な一作家のわれわれ家庭に は、当時九十前後の老父母・叔母三人の生活と介護をかかえ、そんな過大な余力はない。若い健康な夫婦が力をあわせて生活してほしいと断った。
 彼は激昂し、そんな「非常識な妻の実家とは、姻戚関係を断つ」「頭をまるめ、膝をついてあやまれば、ゆるしてやる」と手紙を叩きつけてきた。むろん手紙 は他のさまざまな罵詈雑言の紙礫とともに保管して在る。
 われわれは「非礼は聴(ゆる)さない」と、離縁された押村家とは関係を絶った。妻は離婚を望んだが、やす香という子供もいたし、夫婦は夫婦で生きよとわ たしは朝日子の離婚を望まなかった。夫の方へと、娘の手を放したのである。正しい判断であったと思う。
 この「非礼」が一切の原点。彼はそこへ潔く立ち戻るべきだろう。

* 今日、押村高は、できることなら、妻である朝日子に、「実親を訴えるという手段を採らせたくはありません」と言ってきている。当たり前である。そんな 愚挙で恥をかくのが誰かはハッキリしている。
 わたし自身はどうか。娘に無道に告訴されたら恥かしいと思うか。否。恥ずかしいのは本人である。
 ただ、親としてそういう無残な真似はさせてやりたくないと、父も、母も、心から願っている。それ以外に喪う何物もわれわれはもたない。

* そもそも朝日子は、父親や母親にもし不満があるのなら、自身望むように「一人の人格として」堂々単独ででも親に会い、言いたいことは向き合って正々と 言えばいい。
 ところが、今回の「やす香の死」をめぐる経緯でも、両親へ、当然娘としてなすべき何一つの連絡・通知もせず、両親からの電話、メール等の問い合わせや、 朝日子への慰問・激励や見舞いにも只一度の返答もしてこないという、やす香危篤さなかにも終始幼稚な態度を一貫してきた。ついには、「もう見舞いに来ない で」とも。
 昔のわたしなら、そういう不行儀な娘には、「ばかか、お前」と一喝したが、朝日子はそれをしも「ハラスメント」「虐待」と言おうとしている。そしていき なり「告訴」といい、誹謗文書を配布すると迫っている。国立の女子大で哲学を学び、「人格」を自負する四十六歳の母親たる所為かどうか、父や母への礼とし て自然かどうか、朝日子は真っ先に胸に手をあて考えてみるとよい。

* 父であるわたしが「追いつめた」のだと、わたしに責めを迫る世間も、必ずあるであろう。その方が多数であるやも知れない。
 しかし一般論で律しがたいモノが、必ずこういう葛藤には蟠っている。他人には分からない。そして創作者であるわたしには、創作者ゆえの道がある。

* 妻もわたしも、娘朝日子を拒んで閉ざしている門口など、一つも持っていない。今度の入院中にも、娘の悲しみを想い胸を潰していたことは、気配りしたこ とは、気遣ったことは、此の「闇に言い置く 私語」(この七月以前)のそれぞれの場所で、誰の眼にも容易に読み取れよう。

* 朝日子の、今回配布するという文書から、「朝日子の言葉」に少し聴いておく。当事者として親として当然の権利であり、朝日子には天地に恥じない内容な のであろうから、わたしも率直に、この場の「闇に言い置き」ながら、読み直そうと思う。

 ★ 私こと(押村高の妻=)朝日子は、幼児期より父秦恒平氏による様々な言葉の虐待やハラスメントを受けてまいりました。秦恒平氏主宰ホームページ (http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/)子ページ「生活と意見」(http: //www2s.biglobe.ne.jp/% 7Ehatak/iken.htm)において、現在でも言葉の暴力を受け続けております。
   「我が娘ながら、コンナモノをよまされたかと、どうも気色が悪い」(注3A)  (手遅れで喪った子の通夜や葬儀を、「お祭りお祭り」と公言し、や す香の「人生最大の晴れ舞台」だという異様な朝日子のぶろぐでの公言には、仰天した。秦、)

 しかも、私朝日子が某サイトに匿名で連載しておりました小説『こすも』『ニコルが来るというので僕は』『櫻』を、高慢なコメントを付して無断で転載、改 編の上、作者を朝日子と開示して秦氏のホームページに掲載しました。これは明らかに著作権侵害に該当します。このような著作権感覚の秦氏が、日本ペンクラ ブにおいて「言論表現委員会」に席を置いているのですから驚きです。
これらはほんの一例に過ぎませんが、秦恒平氏は親であることを笠に着て、私を籠のトリか何かのように扱い(表面上は「愛している」「抱きしめたい」を繰り 返します)、現在でも朝日子個人の独立した人格・人権を頑なに認めようとしません。著作権侵害を理由に同3編のホームページからの削除と謝罪を要求しまし たが、むしろ小説を護ってやったのだから「感謝されて自然」(注3D)と述べており、いまだに私に対する謝罪の言葉を耳にすることはできません。

* 娘のいわば習作を悪意で取り上げたどころか。ブログの無署名作品は盗難に遭いやすいという情報をわたしはプロからも早くに得ていた。娘のほぼ相当な作 品を無事に保存できる一種の幸福感にも満たされ、こつこつとブログ日記から一日一日、一作一作に起こしていたことは、読者も見知っているし、妻もよく見 知っている。妻も、初めての娘の小説を喜んで読んでいた。
 親ばかのわたしには、できることなら、作家秦建日子と、筆名秦朝日子とが、ともに行き方を異にした姉・弟創作者としてならんだら、どんなに心行くだろう という、夢は夢でしかないが、淡い夢があった。他の場所でもその気持ちを「驚喜」という二字でわたしは書いている。朝日子への害意があると思う人がいた ら、わたしは仰天するだろう。
 朝日子のブログ作品は弟建日子がわたしに教えてくれた。ごく自然にその時こう感じた、朝日子はわたしにも「読んで欲しい」のかなあと。どこが可笑しいだ ろう。異様だろう。高慢だろう。
 さて、今日届いた朝日子たちの文書は、最後をこう結んでいる。

 ★ 私共押村やす香の遺族は、なぜ愛娘を亡くした上に、このような悪質な「娘いびり、婿いびり」の仕打ちを受けなければならないのでしょうか。やす香の 高額医療費の負債が残った私共には、民事告訴を展開、貫徹するのに十分な余裕もございません。どうぞ、この場を借りて秦恒平氏の「文学表現に名を借りた言 論の自由の濫用」を告発する私共の自助防衛努力をお許し下さい。そして、どうぞ、皆様の温かいご支援、ご協力をお願いいたします。
 押村朝日子・押村高                     

* わたしたちと朝日子とは、「十四年間も完全に没交渉・不通」であった。やす香が、親に秘して祖父母の家へ嬉々と顔を見せに来てくれるまで、その後も、 たぶんわたしの古稀自祝、歌集文庫「少年」を送った以外に、指一本動かしていない。
 正直なところ、わたしは朝日子との無用の接触を、「孫やす香との嬉しい再会」の半分も望んでこなかった。はっきり言って「謎(娘やす香の言)」の朝日子 とは、ま、用の無いかぎりは避けていたかった。言うまでもない、朝日子はかけがえない娘だし、いつも健康でいて欲しかったし、誕生日には欠かさず妻と二人 で赤飯を祝ってしんみり噂してきた。朝日子を愛していたか。むろん心から愛していたことは、何千何万遍と用いるわたしのパソコンパスワードが、娘の幼い昔 の愛らしい綽名にしてあるだけでも、分かる。何の「ハラスメン」トか。

* 孫やす香を、「肉腫」という怖ろしい病気で急激にうしなうという悲嘆、それは六月二十二日のやす香の「MIXI」告知で初めて知れた。
 朝日子夫婦と十四年ぶりに接したのは、やす香が、病床から祖父母を呼んで、病院へ「逢いにきて」というメールや電話を寄越したからである。わたしと妻と は、はるばる相模大野の北里大病院まででかけ、付随的に、十四年ぶりに朝日子と顔を合わせた。
 こんなさなか、どうして「娘いびり・婿いびり」など出来たろう。押村とは一度の挨拶もなく、朝日子ともほとんど会話は無いまま、やす香は遠逝。その最期 すらも、吾々にはついに通知されず、通夜や告別の儀についても、何一つ押村夫妻は、やす香のまみいにすら告げてこなかった。妻は泣いていた。
 そんなわたしたちも、「ああ、やす香を死なせてしまった」と悔いて嘆いて責任を感じていたのに、その、「死なせた」という言葉ひとつの意義を、はなから 誤解し、両親がやす香を「殺したと言うのか」と大脱線し、それが「告訴」という逆上へ直結している。なんという、幼稚さ。父 秦恒平には、『死なれて死な せて』というよく読まれた著書もあるのに。
 「死なせた は 殺した か」と題し、「そんな単純なことじゃない」と、わたしは「MIXI」日記に、「湖」署名で書いている。可能な人は参照された い。

* 親子の行き違い、舅と婿との確執など、世間に掃いて捨てるほどあるが、およそ無意味に「子が親を告訴し侮辱しそれを世間に流布して回ろう」などという 例は、聞いたこともない。たいした夫でたいした妻だと、まさか褒めそやされないことは確実である。わたしの方は、四十六歳にもなる娘のこういう幼稚さを、 親として恥じる気もあるが、もうリッパに「一人格」扱いせよと言うぐらいであるからは、わたしが恥じいることはない。
 わたしは、心行くまで書く、一人の物書きにすぎない。他は、わが妻の健康を心から気にかけるだけである。わたしの妻はやす香のことで格段にいま衰弱し困 憊している。

* 今、わたしが敢えて、こういうふうに、恰も「うんこ」をつかんでいるのは、(此の場に「書く」のは。
 朝日子達がこの「私語」日録を「読んでいる」と分かっているし、これより以外に、もう、「情理をわけて事態の愚かしさを伝える手段」を、「冷静な再考を 促す手段」を持たないからである。
 
* 八月十日までに謝罪せよ、そうすればゆるすと娘夫婦の押村二人は、親・舅であるわたしに高飛車に言っている。その「英断」を、妻と建日子により誘導し て欲しいと、夫の方は懇願している。「英断」とは驚いた用語だ。

* 提案しておく。
 あの原点の非礼へも立ち返り、両親、押村夫婦、弟建日子の五人で、落ち着いて話し合う「時機」だとわたしは考える。みな大人だ、介添えは要らない。
 名誉毀損と誣告との長期間の相打ちが果てないことを、まさか希望していまい。それでもと言うなら、断乎踏み込んで受けて立つ。
 メッセージが友人から届いている、「告訴」なんて不毛も不毛も、疲れ果て精根尽き果てて、それでも不毛と。しかも何も残らないと。

* わたしの妻から婿への返辞も返信した。

* 押村高様
 1 この十四年来の私の思いは あのとき 他人を介さずに  なぜ 私たちが「直接」話し合えなかったか ということです。
 今こそ それが必要な時機と考えます。
 その機会を持ちませんか。当然で最適の方法と信じます。これが 私の返辞の要点です。
 
 2 「実の娘に実の親を訴えるなど させたくない」とのお考え 当然です。よくわかります。
  夫であるあなたが、妻朝日子の「人格」のためにも、「実親を告訴」など とうてい 情理に叶うことでないと 心から説得・誘導なさるのが 当然のことと考 えます。
 私は 夫である秦と よくよく話し合い、そして歩調を揃えます。娘が父を告訴するという非道を 娘にさせたい母も、親も、この世界にはいないと信じてい ます。

 3 お尋ねします。 「告発」の原告は、 あなたなのか 朝日子なのか 夫妻連名なのか。それにより わたしたちの考え方も岐れて来ざるを得ません。

 4 提案します。 余人をまじえず、「両親、夫妻、秦建日子」が同座し、落ち着いて「何が問題であるのか」を話し合う。
 この際それが 理性ある大人同士の踏むべき順序だと思います。
 建日子も「ぜひ参加したい」と言っています。  06.08.06   署名

* 「条件」の、やたらついた押村の返辞が届いたそうだ。わたしは見ていない。妻は、こう返辞しましたという。

*  押村高  様
 1 先に送ったのは、秦迪子の返辞です。すでに夫と話し合った結果ではありません。

  2 「話し合い」は、無条件に始めるのでなければ話し合いにならないと思います。

 3 朝日子の、やす香入院以降のわれわれ両親への態度は、実に非礼でした。この際、朝日子の気持ちを、朝日子の言葉で聴いて置きたいのです。あの陳情書 のような文書に書いていた、あのような父を罵る言葉で、少女時代の両親との家庭生活全面を泥足で踏みつけ、父に対しても母に対しても、朝日子は恥ずかしく ないのですか。
 わたしは、烈しく怒っています。父に向かい、こと文学にかかわって「高慢」などと言えるどんな資格があるのか、魂の荒廃を感じます。    06.08.06-2        秦 迪子


* 八月六日 つづき

* とびこんで来た下記のメールは、「朝日子様」とあるように、わたしに宛てたものでなく、いきなり「娘朝日子に宛てられ」ていて、「ぜひ読んでほしい」 とある。むろん、わたしが頼んで書いて貰ったものではない。思いあまって書かれたモノのようである。
 天才だの名作だのと少し仰々しくて閉口し照れるところが多いが、また不用意に少し語弊を生じるところもあり、その辺は斟酌してあるが、つよい「お気持 ち」であるから、思案の末、此処へ置く。朝日子に直送の手段はない、しかもこの「闇の私語」にはつねづね注目しているようだから、「伝える」には恰好であ ろう。
 このメールには、以前に貰っている東工大の卒業生からのメールが一部引かれていて、その個所は、わたしにも感銘があった。

 ☆ 朝日子さま    (秦 恒平の一読者)

 初めて書き込みさせていただきます。私は朝日子さまより少し年上で、似た年頃の娘のいる母親です。

 ネットで、やす香さまの発病からお亡くなりになるまでの経緯を毎日胸を痛めながら読ませていただいておりました。やす香さまのご逝去、衷心よりお悔やみ 申し上げます。

 やす香さまのご葬儀の日、七月二十九日は隅田川の花火大会でした。私は花火大会に出かけるという娘に浴衣を着付けながら、旅立たれたやす香さまに昨年の 夏祭りの時の浴衣を着せたという朝日子さまの記述を思い出し、涙がとまらなくなりました。
 昨年の夏には元気に浴衣を着ていたやす香さまの身体に、その同じ浴衣を着せる母親の心はどのようなものかという想いで、泣けて泣けてどうにもなりません でした。生きている娘に浴衣を着せて花火大会に送り出すことのできる母親と、柩の中の娘に浴衣を着せる母親の運命は、あまりにちがいます。なぜやす香さま が天に選ばれたのかと心から悲しみました。

 一度もお会いしたことのない朝日子さまですのに、やす香さまのご病状に一喜一憂して夜も安らかには眠れぬほど心配していたのは、私がお父上の湖の本の愛 読者であるという以外の理由はないでしょう。

 「朝日子」というお名前は秦恒平の作品の中に宝石のように散りばめられてきました。朝日子さまは作家秦恒平の掌中の珠でした。ですから、朝日子さまのこ とはどうしても近しい人に思えてならなかったのです。

 本日お父様のホームページを拝見し、朝日子さまがそのお父上を「告訴」なさるおつもりということを知りました。ご家族の問題に部外者が立ち入るのは失礼 と承知で、私の考えを書くことをお許しください。

 朝日子さまが告訴という強硬な手段にいたったお気持ちは想像できます。朝日子さま以上にやす香さまを愛していた人間は世界のどこにもいないのに、お父様 に「目が届いていなかった」と言葉にされ、ご自分のせいでやす香さまが手遅れになったと言われたとお感じになったのでしょう。世界の誰よりも「死なせた」 くなかった娘を、死なせたと言われて心底お怒りになったのだと推察します。朝日子さまの気も狂わんばかりのお悲しみと悔しさは、察するにあまりあり言葉も ありません。

 そのお父様の指摘について、私はこう考えています。病気の診断が手遅れになったことは、どうしようもなかったこととはいえ、母親として手落ちの部分が あったのは事実で、たしかにお父様の指摘は正しい。でも、この時期に、やす香さまが亡くなってすぐに、朝日子さまに告げられたのはどんなにおつらかったで しょうと思います。

 ふつうの父親であれば、もう少し時期をみて言うのでしょうが、朝日子さまのお父様は作家です。それも文学史に残るような大きなお仕事をなさる天才的な方 です。一本のマッチを見ただけで、すぐに山火事を予言してしまう。人よりずっと先を見て、書いてしまうそういう定めの方なのです。娘と孫の不幸から、人間 存在そのものの痛苦に目が開け、書かずにはいられない業をお持ちなのです。

 書かれた朝日子さまの無念のお気持ちは理解できますが、これは天才を父親にもった子どもの幸福でもあり不幸でもあるのだと、そう申し上げるしかありませ ん。

 朝日子さまがお父様に対して告訴するまで過激に反応なさる必要はないのです。なぜなら、お父様の書かれたものを読んだ読者は、朝日子さまが悪かったとは 決して読まず、我が身のこととして読むからです。自分のいたらなさ、どうしても愛する者を「死なせて」しまわずにいられない人間を想い、わがこととして、 身震いせずにはいられないのです。

 朝日子さまは、次の「私語の刻」に掲載されたメールをお読みでしょうか。このメールは多くの読者の素直な感想を代表していると思います。お父様の「私語 の刻」の読者は、きちんと読むべきことを読んでいます。

* 秦先生  あまりのことに、あまりの事の早さに、先生のホームページを読んだ時に、手足がさっとしびれて凍りつきました。いくら若い方とは言え、こん なにも早いものとはとても予想できず、涙が止まらず・・・。
 身内の若い方を見送るのは、どんなにお辛いかと、先生の悔やみきれない思いを遠くから感じております。
 私にもやす香さんと同じ年の姪がおります。亡くなった姪ではなく、一浪して今年大学生になった姪です。その姪と比べても、やす香さんのお心の優しさ、お 健やかさはすぐれて高いものと思っておりましたので、本当に惜しい方を失ってしまった、と一度もお目にかかった事のない私ですら喪失感にさいなまれていま す。

 ただ、先生に一つだけ、お伝えしたくてメールしております。

 娘を育てている今、毎日が試行錯誤の連続ですが、その中で、子どもがいくつになっても「目を離してはいけない」ということを、私はやす香さんに教えて頂 きました。
 娘はいま5歳。得意なものと不得意なものが少しずつあらわれています。世の中の風潮は、「個性を大切に」ということで得意なものを伸ばすことに重点がお かれていますが、親としては「それだけではいけないのだ」と最近の娘を見つつ反省しているところでした。
 もちろん、最終的には個性を伸ばしていくことでこそ、人は生きるすべを手に入れるのですが、その土台として、しっかりとした人間としてのいしずえを築く 過程では、不得意な部分こそ、親が必死で見つけ出ししらみつぶしに穴埋めし、頑強な基礎をつくらなければならないのだと、最近の娘には実に口うるさい母親 になっています。手まめ口まめに子どもの欠点を見つけ出し、そこを訂正していくのは、褒めて育てることよりも、はるかに心身のエネルギーを消耗します。こ の口うるささ、いったいいつまで続ければいいのか、と、こちらのほうが気の遠くなっていた毎日でした。高校生になったら、いやその前までで、などと考えて いましたが、たとえ成人を目前にしても、口は出さずとも「目は離してはいけない」のだと、やす香さんのことに泣きながら、肝に銘じています。
 自らを振り返っても、大学生にもなると親などに口は出されたくありませんでしたし、自分で何でもできるように思っていました。確かに、そのくらいの年に なると、普通の大人よりはるかに優秀な方もいらっしゃいます。けれど、若者が逆立ちしてもかなわない部分、「それは経験値の部分」です。スケジューリング の仕方、健康管理、世間付き合い、そんな部分では、やはり親が口を出し続けなければならないのだ、と。
 思えば、口うるさい心配性な我が母親は、先生と同年同月の生まれです。戦争の経験のある世代の方達は、小さなサインへの敏感な対応に長けていらっしゃる のかもしれません。私たち姉妹三人は、母のその口うるささに実に辟易していましたが、今思うと、親としてのあり方の「一つの正解」であったのかもしれませ ん。ただ、あまりにも口うるさすぎた母に抵抗して家を飛び出した姉は、結局幸せを上手に掴みきれずに終わりました。あれから三回目の夏になります。
 口うるさく、けれど子どもの幸福をつぶさず、そのあたりの加減の仕方がこれからの私の親としての課題だと思っています。
 こういう形で、いのちについて、人育てについて「考える機会」を与えて下さったやす香さん、そしてそれを包み隠さずに報告して下さっていたご家族の皆 様、特にお母様に心から感謝しています。やす香さんから教えて頂いたたくさんのこと、決してわすれません。もちろん、やす香さんご自身についても。一度も お目にかかることはありませんでしたが、これほどたくさんの方に愛され、思いやり深かった方のこと、決してわすれません。よいお嬢さんに育て上げられたお 母様にも深く敬意を覚えます。
 なぜか不思議なほど「奇跡が起きる」と信じていました・・・。言っても栓のないことですが。
 お書きした内容に、大変失礼もあると思いますが、お許し下さい。ただただ、やす香さんに教えて頂いたことを忘れません、決して、ということだけをお伝え したかったのですが、上手に表現できず、お気にさわる書き方になっていましたら申し訳ありません。   

 私はとくに、この部分を強調します。

  もちろん、やす香さんご自身についても。一度もお目にかかることはありませんでしたが、これほどたくさんの方に愛され、思いやり深かった方のこと、決して わすれません。よいお嬢さんに育て上げられ たお母様にも深く敬意を覚えます。

 これは私の同感することです。朝日子さまはよいお嬢様をお育てになったことを誇っていいのです。「私語」の読者は秦先生の「死なせた」という言葉の奥に 「朝日子は、ここまでよい娘を育てたのに」という嘆きをもきちんと読み取っているのです。一体どこの誰が朝日子さまを殺人者でいい加減な母親だったなんて 思うのでしょうか。そんなことは誰一人として思いません。

 母親というのはどんなに愛が深く、注意深くしていても、ふっと子どもから目を離してしまうことはあるものです。私とて例外ではありません。恥をしのんで 申します。
 娘がまだ幼稚園に入る前のことです。友人の車に娘と一緒に乗っていました。その時に、もう一人の友人が先に車を降り、半ドアになっていました。誰も気づ かぬまま、車が発進しました。車が幹線道路に右折した瞬間、半ドアだった扉が大きく開き、娘が車から転げ落ちました。友人は慌てて急ブレーキを踏みました が、一瞬のことで私は娘の服の一部を掴むのに精一杯。放り出された娘は道路に両手をつきました。私がそのまま服を引っ張って車に戻しました。心臓が破裂し そうにパニックになりました。この時、他の車が通っていたら、娘は即死だったでしょう。大きな道路ですから、車が通らなかったのは奇跡です。当時はチャイ ルドシートは義務化されていませんでしたし、友人の車であればついていないのは当然でした。この危険な事態への責任はすべて母親の私にあります。

 子どもが無事に生きているというのは親の愛の深さに関係なく、運に左右されるものです。私はたまたま好運に恵まれたので子どもが生きているのです。紙一 重の差でした。断言してもよいですが、子どもが自分の落ち度で死んでいたかもしれない経験のない母親などいないと思います。

 病気についても、運不運はあります。肉腫のようなごく稀な最悪の病気に、まさか自分の子どもがかかるなど予想できる親は少ないでしょう。お父様の「死な せた」という意味は、すべての人間に対してのものと、そうとしか読まれないと思います。

 人間は自分の手にしているものの価値をなかなか理解できず、信じられないものです。
 朝日子さまは、これ以上ないほどの父親の愛を受けながら、ご自分がそれを手にしていないと思い込んでいらっしゃるようです。「親に、どうせ捨てられたの だと人に漏らしていたそうだ」というご心境は、「聖家族」を読んである程度は想像していますが、私はこの作品を読んで、これほどの娘への愛を描いた作品は ないだろうと感じていました。

 秦先生の作品を読んで痛感することは、娘の朝日子さまをいかに深く愛されているかということです。その愛はときには手放しの、読んでいて気恥ずかしいほ どの賛美にもなりますし、滅入るほど峻烈な批判にもなります。しかし、そのどちらも深い愛がなければ存在しないことはたしかです。

 朝日子さまがブログに書いていらした「コスモのハイニ氏」などの小説を読まれた時のお父様のお喜びのごようすに、読者として羨望を感じずにはいられませ んでした。文学への志はあっても才能に恵まれないために読者にしかなれない私のようなものにとって、秦恒平にここまで認められる才能はただものではありま せん。「e文庫」に掲載されている朝日子さまの詩は素晴らしく、私は大好きです。朝日子さまは可能性に満ちた方です。

 問題の「聖家族」ですが、一読して私がまず感じたのは、凄まじいまでの作品、名作であるということでした。モデルがどうのこうのとか事実かどうかなどと いう興味でなく、人間の真実に到達する恐るべき身の毛もよだつ作品だと思いました。

 この作品の中のご家族の姿が、そのまま秦家の姿とは思いません。当然これはフィクションとして読むものです。


 奥野家には家族愛溢れて、父親にはできないはずの母親の役までこなそうとするスーパーマン的父親と、理想の妻であるがために(そう思われて当然の美徳の 持ち主ですが)、夫と思考も行動も同化している母がいます。しかし、子どもの利益のために動こうとするしたたかな母親が決定的に欠けています。


母親が父親と同じ正義に生きたら、娘はどうしようもありません。この作品に描かれた娘は、私の目にはじつに気の毒な、それでも父親に熱烈に愛された娘とし て、キャラクターが生きています。父親に抗いながら、不思議な魅力を湛えています。
 どんな家庭の食器棚にも髑髏が隠されているというフランスの諺がありますが、「聖家族」はこの髑髏を見事に描き切った作品です。お父様の代表作にもなる でしょう。

 この「聖家族」と「生活と意見」が、朝日子さまの告訴の対象となるようです。
 この告訴は愚かしいの一言です。
 まず、押村家は勝てないと思います。常識でも法律でも。
 そして、万が一勝ったとしても、百年先には負けています。必ず負けます。この世からお父様の著作を抹殺することは不可能です。名誉を棄損した、された、 というのは当事者が生存している間でのことで、子孫に関係はありません。秦恒平が天才である以上、そして「聖家族」も「生活と意見」も疑うことのない名作 である以上、必ず後世には復権して作品として正しい評価を受けることになります。モデルがどうのなど問題になりません。
 むしろ告訴の記録があることで、これは本当の話なのだと見られてしまうでしょう。汚名が後々まで残ることになります。

 朝日子さまは、お父様をご自分の父親としてしかみていらっしゃらないようです。ご自分の私有の人間だと勘違いなさっています。秦恒平は娘一人の父ではな く、多くの人、世界の宝物です。娘の願うようには書いてくれなくて当然です。天才は周囲を泣かせますが、それ以上のものを世界に与えてもくれるのです。普 通の家庭でさえ、子どもは大なり小なり親に迷惑を受けるものですから、天才であればなおのこと。どうか、お父様が天才だということを覚悟してください。同 じように愛らしかったやす香さまも母親一人のものではありません。視野を狭く判断しては道を踏み違えます。目を覚ましてください。

 そもそも、告訴することは逆効果になりませんか。押村家を傷つけませんか。
 あれは小説だと流せばそれで済む話なのに、しかもコアなファンが読んでいるだけの作品ですのに、告訴に至れば急激に世間の注目を浴び、作品は益々広く人 に読まれ、そして面白ずくの噂になるだけです。たとえ勝利を手にしても、世間はあれは嘘の話だとは思わないでしょう。告訴は、自分がモデルだとかえって大 宣伝するようなものです。
 告訴して勝利したとしても、朝日子さまに得るものがありますか。

 お父様を社会的に抹殺したいというのが目的なのでしょうか。書くことにしか生きる場所のないお父様の場所を奪うことが目的ですか。そうすれば復讐がかな うのですか。気が晴れますか。               

 あれほどの愛をもって育ててくれた父親を切り倒すのですから、同じだけの傷はご自身にも致命的に及ぶでしょう。お父様を葬ることはご自分を葬ることでも あります。

 復讐も憎しみも愛の変形です。どうぞご自由になさったらいいと思います。しかし、告訴などという方法は、ただただお金と時間の無駄でしかありません。膨 大な人生の浪費です。

 朝日子さまは、やす香さまがなぜ母親の誕生日にお亡くなりになったかわかりますか。この世に起きるすべてのことに偶然はありません。お母様の誕生日に逝 かれたのは必然だったと私は思います。

 やす香さまは、母親であるあなたに最後の大きな大きなお誕生日プレゼントをしたのです。若くして逝くご自分の残りの寿命と果てしない可能性と才能を夕日 子さまに託されたのです。新しい命をお母様にプレゼントなさったのです。今こそ作家になってと。

 書いて生きてください。作家になってください。才能はお父様の太鼓判です。作品もあります。デビューするに足るコネでさえ充分です。父親が秦恒平で弟が 秦建日子なのですから。

 もし、お父様に復讐なさるのなら、どうぞご自身の作品で打ち倒してください。呪ってください。それが真実のものなら、必ず人の心を揺り動かします。お父 様を呻かせる作品を書いてください。あなたほどの才能なら書けるはずです。

 今すぐなさるべきことはやす香さまの闘病について書くことでなくてなんでしょう。告訴などしている暇がありますか。やす香さまはおじいさまが訴えられる ことをおよろこびになりません。やす香さまが祖父母に逢いたい、逢い続けたいと思った意味を想像してみてください。


 朝日子さまらしく、ご自身を輝かせて、この素晴らしいお名前のように生きてください。あなたは素敵な人です。人生はこれからではありませんか。

 天才の娘に生まれて、本当に大変だと思います。でも、これも必然のこと。死後も名前の残る存在として生きる幸せがある以上、並大抵でないご苦労も背負わ なければならないのはしかたありません。
 どうぞやす香さまのご不幸から、なんとしても幸福を掴み取ってください。幸せになってください。奮い立って書いてください。やす香さまのために。
 朝日子さまの作品を読ませていただく日を楽しみに、凡人の娘で母親である私は生きてまいります。どうぞ朝日子さまご自身のために、告訴はおやめくださ い。
 とても長くなってしまいました。凡女ゆえに、たどたどしく要領悪く書いてしまい申し訳ありませんでした。どうぞ、お元気で。お元気で書いて、生きて、お 幸せにと祈ります。

 ☆ 本日私語を読ませていただいて、心底驚きました。父と娘の間がここまで惨状を呈するとは想像もしていませんでした。


 だれの目にもばかげた、こんな父を娘が告訴などということにならないよう、必死にお祈りいたします。何より、このような事態はお亡くなりになったやす香 さんのお望みになることではないでしょう。
 万が一、訴訟になられた時には、なるべく格上の弁護士をお頼みください。弁護士間のランクの上下が訴訟の行く末を左右するそうです。また知り合いが遺産 相続で揉めたときに、やくざ弁護士がからんでひどいことになりました。どうか、細心のご配慮を。
 ミクシィのやす香さんの日記は保存されていますか。私などが言うまでもないことですが、意図的な改竄などありませんように処置をとられたほうがよいと思 います。
 以上、とり急ぎ申し上げた上で、私にできることはないかと考えています。 青山
 

* 八月七日 月

* 妻が倒れた。娘朝日子たちへの、血の退くほど、身震いするほどの烈しい嫌悪感と拒否感で、心身違和と不眠へ突き落とされている。

* わたしは決意した。いま何が大事か。

 一つ 妻の命。絶対に守らねばならぬ。 
 二つ やす香の死をわたしの手法で小説として書きのこすこと。
 三つ 実の娘に 実の父を告訴するという非道をさせてはならぬこと。魂の荒廃以外の何でもなく、それを放置するのは、娘の、もはや無きに等しい人格を、 さらに死なせることになる。親として、しのびない。それぐらいなら、わたしが自身を否定したい。残した朝日子への最期の愛の一滴を、斯く、つかい果たして おく。

 この際、わたしの「ホームページ」を閉じる。とうの昔からそういう時機到来をひそかに期待していなかったのではない。「書く」すべも、場所も、意欲も、 他にある。
 この機会に所属団体の役職も、さっぱりと退きたい。なるべくは退会したい気がある。「退蔵」は久しい願いであった。このことには、息子はつよく反対して いる。
 妻は、「二人」での静かな老境を希望している。娘は、生んでなかったものと忘れ果てたいと言う。同じ思いである。

 押村高(青山学院大学国際政経・教授)・押村朝日子(妻)を、婿としても娘としても拒絶し否定する。
 裁判には力ある誠実な代理人を立てて対応したい。

* 決意に導いた事情を、汚物に等しいのは情けないが、やはり最後に示しておこうと、昨夜この「私語」と「MIXI」日記とに更新しておいた。久しい、好 意に満ちた読者への、礼と感謝の気持ちである。「MIXI」は、小説とエッセイの今の連載を終えてから考える。
 「ホームページ」たる「遺跡」はのこしておく。
 コンテンツのバックアップと総削除には丹念に時間をかけたい。「「e-文藝館=湖(umi)」には大勢の作品があり、娘の作は悉く排除したが、他の大勢 の寄稿者への責任からも、考慮を要する。 

 ☆ HPの文言(八月六日・娘夫婦押村高・朝日子に寄す。)をじっくりと二度読みました。実に論旨明確でわかりやすかったです。
(八月六日つづき、ある読者の投稿)朝日子さん、読むといいのですがね。
 裁判に95%勝つとのたまう(押村側)弁護士事務所より、このメールの方(かた)の分析の方が、はるかに説得力はありますね。   小説家 東京  

 ☆ 秦さん   帰国からあっという間に一ヶ月が経ってしまいました。環境の変化にも少し慣れて、ようやく落ち着いて呼吸が出来るようになった感じで す。
 余裕なくご無沙汰していた秦さんのHPにも、久しぶりに訪れました。それが何ということでしょう。言葉が見つかりません。
 お孫さんのご冥福を、心からお祈りいたします。健全な若い生が、避けがたい力によって終わってしまうのは、本当にいたたまれません。
 娘さんご夫妻との事も、さぞやお心を痛めておられるでしょう。何ということでしょうか。秦さんのお子様方への愛情はすばらしいと、いつも思ってきました ので、尚更やるせなく感じます。
 ここまで出来る押村氏とは一体・・??  分からないものです。
 秦さんも書かれていますが、顔を突き合わせての話し合いが何より必要と、若輩の私にも、それは自明のことと思われます。 秦さんが、それで無くとも体調 がすぐれないご様子でしたのに、その上に数々の心労を背負われて、お体に障らなければ良いがと、非常に心配しています。 押村ご夫妻の、ある意味でのmourning workが、秦さんとの対決にすりかえられて、その大きなエネルギーが、結果として健康を奪ってしまうのではと・・
 どうぞどんな時でも、お身体は大切に過ごされて下さい。  敬  国家公務員

* いろんな機械的作業を要する日々に入るので、ここへも多くは割けないだろうと思う。メールなども戴いておきながら、つい返信は失礼させていただくこと が、ますます増えるのをお許し下さい。メール機能は平常通りですが。

* そんな中でも、鳶さんの配慮で手にした、念願の(上巻だけは読んでいたが)ツヴァイク『メリー・スチュアート』に夜遅く没頭している。ツヴァィクの評 伝はマリー・アントワネットもフーシェも面白くて繰り返し読んできたが、メリー・スチュアートというスコットランド女王の生涯は、堪らなく刺激的で胸に食 い込む。モロワの『英国史』という下地も出来ていて、イングランドのエリザベス女王とのかかわりの奇々怪々にも目は釘付けになる。

* 妻も、わたしのよく使った手にならい、ながいながい面白い本に没頭して読み終えるまではイヤなことを忘れ去るのがイイと思う。『モンテクリスト伯』な ど、ぜひ奨めたい。

* 今日は余儀なく予約してある歯医者に妻を連れて行く。

* 歯医者へは、今日妻と同行が、よほど大変だった。特別あつらえの照りと暑さとであった。診療後、やはり例の「リオン」の美味しいランチで、休息しなが ら力を付けねばならなかった。
 シェフがわれわれの顔を見て、特別メニュに切り替えてくれた。なにしろ毎週来ているから同じ献立になるのを避けてくれたのであり、オードブルは、妻とわ たしとで料理を変えて二皿出してくれ、半分ずつ取り替えながら、いろいろ楽しめた。すてきに美味かった。メインの肉も鴨を使ってすばらしいソース。堪能し た。
 絶品はデザート、冷たいパイナップルのスープ仕立てにプリンが浮かんでいて、食べるのが惜しいほどの美味、大満足。赤ワインも、いいのをねと頼んだの で、一段と美味かった。
 それでも妻は疲労し、食後に少し、息ぐるしそうな肩を揉んでほぐしてやった。
 電車の中が涼しくていいのだが、駅の階段は二人とも苦手。ゆっくり上がる。保谷駅からはこの頃はいつもタクシーを使う。この「熱い」と書きたい日照りの 夏である、自衛するしかない。

* 「ペン電子文藝館」の城塚委員長から巻紙の鄭重なお見舞い状と、香り高い佳いお茶を頂戴した。ありがとう存じます。電子文藝館の方、すっかり安心して みなお任せしている。もう何の心配もない。夏からはすこしまた新しい作品を送りこみたいと思っていたが。委員各位に申し訳ない。

 ☆ 洗濯と台所の洗い物と掃除を済ませ、あんまり暑い今日は、おとなしくしているつもりです。
 パソコンを置いてある東側の部屋は、そう暑くならないので、じっとしていれば扇風機だけでしのげそうです。もっとも、パソコンを稼動すると、熱を発して 部屋が暖まってしまいますけれど。
 今朝の、風の「私語」、拝見しました。
 怒り、悲しみ、情けなさ、等々、さまざまな感情が渦巻いていらっしゃることと想います。
 ずっと以前、叔父が、母のところに「訴える」と書いたおかしな手紙を送りつけて来たとき、風のわたしにおっしゃってくださいましたのは、わが身を問題の 外に置くように、ということでした。
 他人には、母と叔父の問題だと見えたかも知れませんが、母はわたしをとても頼りにしていたので、わたしもわが事のように考え、悩んでいました。
 けれど、風のご助言に従い、あえて自身を渦中の外に置いてみたら、だいぶ楽になりました。
 改めて申し上げるまでもないことでしょうが、今回のこと、どうか、「よそ事」のように外側から眺めるよう、おつとめください。
 風と奥様のお体をとても心配しています。
 精神の疲労は、肉体に影響を及ぼすことがありますから、できるだけお気をゆったりお持ちなりますよう。
 データのバックアップは、あとでもできることです。どうか、ご無理をせず、ゆっくり進めてくださいね。
 今は、大事なことに元気に専念なさってください。  花

 ☆ 裁判など本当に不毛です。
  朝日子さんに宛てた読者からの文章、ほぼすべて納得のいくものでした。
  わたしも思い切り書いて伝えたいことがありますが、何よりも何よりも今は奧様とともどもの健康を第一に、この夏の暑さを乗り越えられますように。
  繰り返し、お体大切に、心身無理なさらぬように。   鳶
 

* 八月七日 つづき

 ☆ こんにちは。私は中学3年生の者です。   山形県
 秦恒平さん、お願いがあります。ホームページを閉じるのだけはやめてください。

 私の父は10年以上も秦さんのホームページの愛読者です。
 その父は涙をためながら、いつも私に秦さんの生き方やこの度永眠なされたやす香さんのことをたくさん話してくれました。
 そして、毎回私に言うのです。
 「秦恒平さんの日記を見るのが、お父さんの日課なんだよ。
 お経をあげるのと同じで、1年365日いつも見ているんだ。」
 そんな父はとても生き生きとしていています。

 それなのに、ホームページを閉じられては、そんな父を見ることはできなくなってしまいます。
 ですからお願いします。閉じないでください。

 また、私としても秦さんの考え方は正しいことだと思っています。
 何も分からない子どもが何を言うかと思うかもしれませんが、娘さんは、自分を責めることに恐怖を感じているのではないでしょうか。
 だから実の父を告訴するなどという、考えを起こしたのかもしれないと、私は思います。

 世間もしらない子供がこのような発言をしてしまいすみません。
 でも、これが私の思っていることです。

 「ホームページを閉じる」ということ、もう一度考え直していただけないでしょうか。お願いします。

* お父上は禅僧であられる。むろんお目にかかったことはない。ご子息のメールにも御礼を申します。 


* 八月八日 火

* このわたしの「闇に言い置く 私語の刻」に、このところ続いている、下記のようなことを、書き込むのは、もとより、押村高と妻朝日子による、わたしへ の告訴・告発への、「情理」両面からの心用意であること、言うまでもない。そういう立場に強いて置かれたからは、今、これに打ち込むのは当たり前の姿勢で あると思っている。
 むろん、これもみな現世を生きる浅ましい夢の泡であると承知している。わたしは今そんな夢の「観察者」である。

* 妻に、わたしへの「説得誘導」を懇願してきた押村高に、妻から出した返事はこうであった。再録する。

 ☆ 押村高様
 1 この十四年来の私の思いは あのとき 他人を介さずに  なぜ 私たちが「直接」話し合えなかったか ということです。 (=秦はすべてに自身出席したが、先方からは終始事情のよく分かっていない、身贔屓一辺倒 の伯父さん、そして仲人の小林教授が出て、要するに秦に我慢しろ、であった。我慢の問題でなく、親と子との基本の「礼」の問題であったのに。)
 今こそ それが必要な時機と考えます。
 その機会を持ちませんか。当然で最適の方法と信じます。これが 私の返辞の要点です。
 
 2 「実の娘に実の親を訴えるなど させたくない」とのお考え 当然です。よくわかります。
  夫であるあなたが、妻朝日子の「人格」のためにも、「実親を告訴」など とうてい 情理に叶うことでないと 心から説得・誘導なさるのが 当然のことと考 えます。
 私は 夫である秦と よくよく話し合い、そして歩調を揃えます。娘が父を告訴するという非道を 娘にさせたい母も、親も、この世界にはいないと信じてい ます。

 3 お尋ねします。 「告発」の原告は、 あなたなのか 朝日子なのか 夫妻連名なのか。それにより わたしたちの考え方も岐れて来ざるを得ません。

 4 提案します。 余人をまじえず、「両親、夫妻、秦建日子」が同座し、落ち着いて「何が問題であるのか」を話し合う。
 この際それが 理性ある大人同士の踏むべき順序だと思います。
 建日子も「ぜひ参加したい」と言っています。     06.08.06        

*  押村は話し合いを「歓迎」の一方、一方的な条件を前提としてつきつけ、秦が受け容れぬかぎり、話し合いの場にはつかないと答えてきた。妻宛のメールであ り、わたしは読む気になかなかなれなかったが、妻の再度返辞の内容はすぐ聴いた。

 ☆  押村高 様
 1 先に送ったのは、秦迪子の返辞です。すでに夫と話し合った結果ではありません。
  2 「話し合い」は、無条件に始めるのでなければ話し合いにならないと思います。
 3 朝日子の、やす香入院以降のわれわれ両親への態度は、実に非礼でした。この際、朝日子の気持ちを、朝日子の言葉で聴いて置きたいのです。あの陳情書 のような文書に書いていた、あのような父を罵る言葉で、少女時代の両親との家庭生活全面を泥足で踏みつけ、父に対しても母に対しても、朝日子は恥ずかしく ないのですか。
 わたしは、烈しく怒っています。父に向かい、こと文学にかかわって「高慢」などと言えるどんな資格があるのか、魂の荒廃を感じます。    06.08.06-2        秦 迪子

* おとなしい妻にしては、異例の「詰問」が爆発した。無礼な娘の頬に一発くらわしたという体である。
 ひと言の対話も手紙もなく、こう十分な時を経て、なおいきなり親の「告訴」へ突っ走るわが娘に、ごく当たり前なことを母である妻は言い、きっちり叱って いる。だれもそう読まれるだろう。
 これに対し、「さようなら」という「結論」の返辞が、その日のうちに折り返し押村高の名で届いた。
 「話し合い」になんぞ出てくる気も、勇気もあるもんかね、と、わたしは自分でも話し合いを提案しながら、成る話とは思えなかった。
 その「さようなら」という返辞だけは、双方で最後の交信だけに、ここに記録しておく。

 ★ 秦迪子様   押村高
 お返辞届きました。
 そばに朝日子がいます。
 もともと朝日子はそちらが条件を満たしても「よりは戻したくない」、と申しておりましたが、いま話し合った結果、「もはや秦家と話し合う余地はない」と いう結論に至りました。現局面で「秦家が条件を付けられるはずがない」というのが根拠です。
 あとは文学でも親族関係でもなく、法が決着してくれると思います。
 さようなら。

* 「秦家が条件を付けられるはずがない」という日本語の意味が、手前味噌に曖昧模糊としている。

* わたしは、フェアな気持ちから、ここで、押村高の、「子を喪った父」としての悲哀の深さが、相当なものであったことに共感して、認めておく。
 病院内の食堂で、ひとりぽっち食事している彼を遠目に認めたときも、やす香のベッドサイドで本当に悲しかったわれわれに黙って席を譲ったり、すすめたり していた彼をも、わたしは目に留めていた。気の毒に可哀想にと感じた、悲しくないわけがないのだ。互いに「娘」の父親だ、分からないワケがない。
 だがまた、彼の面持も姿勢も、おどろくほど傍観的に感じられたのも事実であった。高は、あまりに静かだったという感想を、われわれは、家に帰ってから も、幾らかずつ分かち持っていた。
 そして、例の「お祭りお祭り」「やす香の人生最大の晴れ舞台」と、母朝日子が「プロデュース」した、女優さん司会の「通夜や告別」の場で、わたしたちの もとに届いている、幾つかの証言では、見た目に最も悲嘆にくれうち沈んで傷ましかった「只一人」「最も目立った一人」が、押村高であったということを、わ たしたちは、聴いて即座に素直に信じた。さもあろうと同情し、わたしは覚えずもらい泣きしたのである。好感を持ったのである。わたしも妻も息子も、同じ く。
 但し、こと、それだけに関しては、である。その理由は以下に言っておく。

* 話し合いに、押村の条件を事前に秦が容れるなら応じようと言ってきた押村からの返辞には、こういう文面が含まれていた。
 二つの段落に尽くされるが、前半は、押村高の思いであり、もし真実を真率に語っているのなら、わるくない話だと、わたしも、息子も読んでいた。

 文面はこうである。

 ★ もとより私(押村高)は、やす香が白血病の告知を受けたとき、それを「秦家と押村家が仲良く暮らしなさい」という天降のメッセージだと捉え、やす香 にも朝日子にもそれを伝えました。それゆえ私は、秦夫妻が見舞いに来たさいにも抵抗なく受け入れ、「余命2〜3日」との宣告も、朝日子の反対を押し切って 建日子さんに伝えました。

* もし真実なら、それこそ吾々もまた、強く期待していたことだった。
 そのためにも、われわれが病室の前まで来たときに、たとえ廊下の立ち話ででも、まず、「遠方をようこそ見舞ってやって下さいました」という父親らしい、 当主らしい挨拶から対話が始まるのだろうかと、期待した。
 「十四年前は、若気の至りでほんとうにご無礼を働きました、申し上げたことなどもすべて撤回し、あらためておわびします」ともし言われていたら、やす香 のためにも、われわれは喜んで直ちに和解に応じる気だった、既往はもう咎めず、物理的に応じうるならいろんな希望を聴いて受け容れようと。
 「やす香の見舞い」がなにより絶対の先決であるにしても、ひとつには、その「和解」の為にも、われわれはやす香が呼びかけるままに、はるばる病院へ出向 いていた。父親でなく、やす香こそ、枕元での両家和解をどんなに切望していたか、それを信じる方が、高の先の弁より、遙かにリアリティがある。
 高に強い意志がほんとうに有ったのか、以降の経過から見て、首を傾げてしまうのは、どうだろう、間違いだろうか。
 事実はこんな経緯を辿ったのである。 
 押村家の主人である彼は、ついに、わたしに視線をあわせることもなく、終始吾々とやす香との場面にただ同座していただけで、帰るときにも、ひと言の挨拶 もなかった。その気なら、直ぐ近くに静かな談話コーナーもゆったり用意されてあったのに。
 われわれもそういう押村に、ましてそれより仏頂面な朝日子に、とりつく島もなく、むりやり口をきくきっかけも持てなかっし、そんな気にもなれなかった。 押村側から自発的に話しかけられて応ずる以外に、ありえない、入院・病棟の状況であった。


* さて、つづく文面は、妻「朝日子の様子」を夫の高が伝えている。



* 両家仲良くとの天の教えを、本気で言うのなら、たとえ朝日子は疲労し気も顛倒していたにしても、押村高自身が、診療の「方針」や「考え方」を、電話や メールで、また院内で、紳士的に告げて祖父母に緊急説明し、必要なら協力を要請すればいいではないか。ところがその為には指一本も押村は動かさなかった。
 全くこんなことだから、やす香の目に見えてきた衰弱と、「生きたい」という叫びを「MIXI」で聴くにつけても、不安と悲嘆の余り、わたしたち老親の思 いが「攻撃」性をたとえ帯びてたとしても、血を分けた祖父と祖母の感情として、許されるのではないか。われわれはヒステリックに喚いたりしなかった。「私 語」にも「MIXI」にも、秦恒平のすべての「言葉」は、そのまま人目にも触れている。読み返せる。

* 「生きたい」やす香に、祈りをこめて、「やすかれ やす香 生きよ けふも」と、わたしは心から願った。祖母も祈った。同じ願いの人達は、たくさん、 たくさん、いた。

* ところが朝日子は、その、「生きよ けふも」を憎悪して、父を「殺してやる」と絶叫していたのだ。「断じて誇張ではありません」と、夫はわざわざその 事実を強調して認めている。いい年の、教育も受けてきた大人、「人格」を自負している大人が、かりにも父親にむかい発する言葉か。父親の行動や言語の、ど こにどんな邪まがあったか、「朝日子、言いなさい」と言いたい。

* では、なぜ「殺してやる」になるのか。問題はこれだ。

* 「死を受け容れたやす香に」 「生きよ けふも」などと祈るな、という意味らしい、今日この頃の押村からの文面で、やっと、それが分かる。
 そして、「死を受け容れたやす香」と聴けば、今も、わたしたちは、忽ち涙にむせぶ。骨に喰い入る「肉腫」の激痛に喘ぐわずか十九歳の娘が、未来に希望を 山のように描いていたやす香が、みずから「死を受け容れたい」か。
 ついにやす香の真意など知れるモノでないが、それにしても、なんと酷いことであったことか、医学的には所詮助からぬと分かっていても、やす香を愛する友 達や、知人や、われわれ祖父母には、「やすかれ やす香 生きよ けふも」と祈ることは許されていたと信じる。「殺してやる」と「絶叫」されて当然のこと か、「朝日子、よく考えなさい。」
 問題は、「何一つ説明も要請もしなかった、お前の頑なに自己中心な態度が招いていた事ではないのか。」

* 最後に逢った日にも、つよいモルヒネ効果の中で、あのやす香は、右手をとっていた祖父と、「握って」と孫に言われ涙ながら左手を握っていた祖母と、顔 を覗き込んでいた叔父建日子とに、驚くほど明瞭に、「やす香生きている」「死んでない」と目を開いて話しかけ、この言葉を、わたしや息子と心持ちニュアン スを異にして、祖母は、わたしの妻は、「やす香はまだ生きているの」「死んでないね」と問いかけ「怯えていた」と、聴き取っていた。
 ああ、それが可哀想で、祖母は、廊下へ出て泣いた。

* それでも、われわれの真率の願いは、やはり「生きよ けふも」であった。生きていて欲しかった。それは「MIXI」でも、恰も「大合唱」のように流れ ていた「祈り」でたあったと、感動的によく読み取れた。
 わたしたちは、やす香の日記一切を、入院以前からよく読み、「やす香生彩」という題で正確に記録してきた。「MIXI」に流れた関連の祈りや見舞いの声 も、なるべく、多く。
 だが、朝日子は、なんとそれらの願い・祈りにむかい、「殺してやる」と。「絶叫」したと。
 これをわたしは、こう思う。
 我が子やす香が、「遁れがたい死を前にして動揺するから」という気持ち、それが朝日子を烈しく揺らしたのであろう。わたしは、それはそれで、とても可哀 想にと思う。


 
 
* 八月八日 つづき

* この「秦恒平 生活と意見」=「闇に言い置く私語の刻」は、総体が小説家であり批評家である、実績も持っているわたしの、間違いない創作物であり著作 物であり、それを闇の奧で自発的に読まれる人は、国内にも国外にもびっくりするほど多くおられる。その大部分はわたしのいわゆる「いい読者」であり、情理 をともに備えた読者に支えられている。

* 押村高と朝日子とは、父に対し、その「生活と意見」全部を削除せよと要求している。厖大な量で、おそらく原稿用紙なら何万枚という大量になっていて、 すでに六十ちかい「私語」のファイル一つ一つ、多いところでは一つで単行本の二冊三冊分を含んでいる。
 押村夫妻に、その全部を消却せよなどと求める、どんな権利があるのか、理解に苦しむ。
 秦建日子は、たとえ一歩譲って消すにも、押村と朝日子の道理にかなって「求める個所だけで十分だよ」と言っている。あたりまえだ。
 わたしも、ファイル1 以降の、厖大量のうち、どのファイル、どの個所の、どんな記事を削除してほしいと言うのか、具体的に列挙して来るのが、仮にも告 訴側の当然の手続きだと思っている。そう伝えてある。

* 例えば、こと訴人の一人「朝日子」の名前を、手始めにファイルで「検索」してみても、いや検索などするまでもなく、親として、娘を大切に思い、健康を 遠くから願ったり、赤ちゃんから大学生にいたる娘の思い出を、妻と語り合ったり、そんなのばかりである。だいたい、孫やす香に向かっても、われわれは朝日 子の悪口など、たったひと言も吹き込んだりしなかった。
 押村のことには、また、ひと言も触れなかった。
 その「押村高」の名前も、「私語」には自然登場する。たまたま今、目に付いた、例えば平成十三年の「私語」では、こういう「押村高」が登場する。

  * 平成十三年九月二十五日

  * 徳田秋聲の「或売笑婦の話」を読んだ。佳かった。淡々と出始めて、どきりと終わり、大げさでないのに劇的であり、純文学の優れた興趣をしっかり表 わし得ている。うまく「つくった」話なのだが、散文に妙味と落ち着きとがあり、作り話だけどと思いつつ、ふうんと唸らされる。佳い文学に触れた嬉しい気持 ちと、ほろ苦い生きる寂びしみとに胸打たれる。この胸打たれたのが響いたのだろうか。いまも、胸は安定しない。午後には美術館へなどと思っていたが、無理 か。晩には一つ日比谷で会合がある。朝日子の披露宴会場と同じ場所で、フクザツな気分。


  * 九月二十五日 つづき

  * 猪瀬直樹の出版記念会(励ます会)が帝国ホテルであるというので、行く気でいた。昼間から出て、上野辺をまわってと思案していたが、朝からの体不 調で昼間はとりやめ、晩には出てゆこうと思っていたが、心身大儀でとりやめた。帝国ホテルの光の間というのは、娘の結婚披露宴の会場だったところで、往時 に触れるのもイヤではあった。
 (主賓・来賓の=)谷崎(=潤一郎先生)夫人も藤平春男氏(=早大文学部長)も尾崎秀樹氏(=朝日子をわたしの代わりに中国の旅に連れて行って下さっ た、日本ペンクラブ会長)も森田久男先生(=朝日子の、危険の予測された誕生時、実に親切に母産婦を医学的に保護して下さった東邦大学内科教授)も亡くな られた。
 離婚の経験のある谷崎夫人を新婦側主賓におくとは非常識なと、婿の押村高(青山学院大国際政経学部)に罵倒されたとき、正直のところわたしは虚をつか れ、じつにイヤな気がした。およそそのようなことは、考えたこともなかった。谷崎文学とわたしと、谷崎夫人と我が家と、の縁は知る人ぞ知る、深いものが あった。まして娘を孫のように愛して、自ら何度も身をはたらかせて朝日子を本人熱望のサントリー美術館学芸部に就職させてくださったのも谷崎夫人であっ た。離婚も再婚もそれが何だというのか、松子夫人あって昭和の谷崎は名作の山をつみ、二人は添い遂げて、夫君没後も夫人が谷崎文学のために奔命されたこと は、まさに知る人はよく知っている。
 よそう。

* たまたま飛び出したこの記事など、名誉毀損もなにも、正確な事実そのもので、押村の罵倒の手紙も保管しているし、なぜ、これを自分の著作物から除かね ばいけないのか、「心情」として納得しにくい。
 第一、この文を削除すれば記事の主体を成している前段の思いは不当に損なわれる。ももともと後段の無念や不快へ流露して行く文脈は自然であり、端的にい えば、わたしの「文藝」に属している。しかもわたしに恥じるところはなく、削って貰いたいほど恥ずかしいのは言うまでもなく、押村の「非礼」の方であろ う。

* この調子で「押村高」の名前の出てくる個所を、彼が具体的に引き出して削除を望んできたとき、場合によって応じないではないが、法的な力に強制されて するのではない。
 しかもその前に、書かれてある内容について、いちいち押村高に、説明や自己弁護を求める権利が、わたしにもあるはずだ。
 事実は消えはしない。事実を真実として表現し創作物に仕立てていく権利を、わたしが抛棄するわけはないから、際限なくいろんな場で、後世まで、押村は恥 をかき続けるだろう。
 わたしは証拠もなく、こういう記事を書きはしない。法的に勝つの負けるのなど、人間的真実の前には、なにほどのコトでもない。

* 厖大な量の「私語」から、何処の何を外して欲しいか、一つ一つ指示して希望するのは、告訴側事前の手続きであろう。
 だが押村はそれを、ようしないだろう、言えば言うほど、非礼は自身にあったことにまざまざと思い当たるであろうから。


 だが、むろん受けて立ち、コトそこに至れば、ねわたしはそれらを裁判所が具体的に命じるまで、現状に保存し、またその内容や表現に従い、著作権をあらそ う申し立ても出来る。

* いざやり出してみると、厖大な量のコンテンツを消去していくのは、手作業としても容易なことでなく、乱暴にどんどん消して行くより手がない。もう「私 語」の二から始めているが、押村高に来させて手伝わせたいほどだ。バカげている。

 ☆ hatakさん   
 二十世紀の終わりごろから私は、「闇に言い置」かれた言葉を聞くことから一日を始め、眠る前に再読することを一日のとじめにしてきました。

 「闇に言い置く」の膨大な文章の蓄積は、hatakさんの著作物であると同時に、私が石垣島や札幌に暮らし、エジンバラや中国やハワイの島から、想いを 送り続けた八年間のかけがえのない記録でもあります。
 私と同じように、この蓄積の中には、高校生だった少年が、親元を離れて大学へ入り、卒業し、就職した成長の記録や、私が密かに「参拝上人」「参詣聖」と 呼んでいる、おびただしい数の社寺仏閣訪問記、卆寿を超えた「押し掛け弟子」の初々しい作品が世に出る記録もあるのです。
 これらの貴重なアーカイブを、インターネット上から消し去ることができるのは、サイトオーナーであるhatakさんだけで、「闇」をどうのぞいて見て も、誹謗中傷や名誉毀損を訴え得るような何人も見出すことができません。

 国公立機関に属する図書館が独立行政法人化され、交付金運営費を5%など数値を示し削減されるようになってから、学術論文の紙媒体による購入を取りや め、コンテンツサービス会社などから、電子ジャーナルの供給を受ける契約をするところが増えてきました。経費や時間の節約になる反面、電子媒体は、例え ば、配給会社が倒産したり、公権力が悪意を持って介入した場合には、あっけないほど簡単にこの世から消えてなくなります。紙媒体では、サーキュレーション が薄く広いので、一旦発行されたものは簡単には回収できず、どこかで生き残る可能性があります。
 わが身の一部のようなサイトが突然このような事態を迎え、インターネット上の記録媒体の利便性と脆弱性をあらためて感じました。

 いずれにせよ、闇の彼方に、事の成り行きを見守っている多くの「目」があることを忘れないで下さい。   maokat@帯広市にて

* わたしも九八年ころからの「私語」を眺め初めて、maokatさんのいわれることが、有りがたく、よく分かる。
 所詮押村高も朝日子も、このような「世界」とは異邦人であり、読んでいないのだ。この数万枚もの、秦恒平の思索と批評、まさしく「今・此処」で生きてい るという生彩、その意味も価値も、テンデ押村には分かっていないというだけだ。
 おそらく、これが、量的にも質的にも個性的な「日記文藝」であることは、自分で言うからおかしいけれども、間違いなく読み返して行って、すぐ分かる。わ たし自身、興に惹かれて読みやめられなくなってゆく。ナルシストだとわらわれるだろう、それはそれでいいのである。
 上の、maokatさんのような読者が、ずいぶんな人数実在するらしいとは、わたしが言わなくても、広い範囲でいろんな人から、わたしが言われている。 「あれは、読まずにいられませんよ」と。


 わたしの「私語」の中で、わたしの舌鋒に娘が刺されているのは、この六月下旬、やす香の「白血病」入院から、酷いような痛恨の遠逝と、それ以降の不当極 まる告訴さわぎの時期に、はっきり限られている。
 わたしは、娘の批評はしても、名誉を傷つけるようなことを、それ以前のこの「私語」で、一度として書いた記憶がない。有るというなら、「これ」と指さし てわたしに示してみなさい。


* 八月九日 水

* 天野哲夫さんの大部の二巻本を頂戴した。早速、まえがきから読み始めている。読み終えるまでは、他に心労するのはやめ、成り行きのまま、信頼できる人 達の助言にしたがいながら、事態を、むしろよそごとに「観察」し、ときに「批評」し、ひとつの笑劇のように観ていたいが。

* いま、本当に胸痛め困惑すら覚えるのは、例のイスラエルと、ヒズボラとの、根の混雑した血戦の惨劇で、とても論評のちからも無い。
 「靖国」問題など、この中東の死と恐怖の泥沼からみれば、理性と感性とだけで聡明にカタをつけてしまえる、つまりは政争と外交の具=愚にされているにす ぎない。前者には念々のうちに命がかかり、後者では単に欲と思惑とだけが動いている。政治屋どもの場合、英霊はただダシにつかわれ、拝礼という信心信仰は 空洞そのもの。
 鳥居をくぐって拝殿の前に手を拍たねば遂げられない崇敬や感謝などというものは、無い。それは、こと死者に関わる場合、ただの「まつりごと=政・祭」で あり、真実の思いでいうなら、心籠めた遙拝ないし祈念で十二分に足りる。死者や(在るとして)霊魂が特定の場所に集中して蠢いて在るなどと想う方が可笑し い。より的確には、人の一人一人の記憶と敬愛の中に在る。遙拝と祈念。そして思い出して倶に在ること。それで足る。

* 「遠逝」とわたしは孫やす香の死を書いているが、しかもやす香は、ふだんに、わたしの肩にきて耳に語りかける。わたしは自在に聴き、わたしも自由に語 りかける。対話できる。
 いままで思いもしなかったが、そうそう、いずれやす香の墓が押村家では用意されよう。しかし祖父母はついにその場所すら知るまいが、知っても知らなくて もわたしは、たぶん妻も、行く気がない。その必要がない。
 お寺さんにはわるいが、わたしは「墓」なる装置に、慣習としてはよく付き合っているけれども、そもそも死者の記憶を、重い重い石の下敷きにおしこめて、 もう出てこないでという陰険な意図には、共感しかねる。言葉はイヤだが、いつでも化けて出ていらっしゃいという気で待つし、こっちからも逢いに行く。『最 上徳内』に書いて働かせているあの「部屋」が、まさしくそれ。
 生者は自在に死者とともに生きて在る。在り、得るのである。京都まで、恩ある秦の親の墓まいりにわたしはよく行く方だが、そこの墓石の下に親たちが縮こ まって身動きならないなどと、そんな失礼なことは想わない。
 たった今も、じつの親、育ての親たちも、姉も兄たちも、孫のやす香も、それどころか多くの先達友人たちも、みんないつでもわたしの此の身のそばに、在 る。そういう人達と倶にと、わたしは毎夜静かに本を音読して欠かさないのである。

* わたしが、いわゆる葬儀のたぐいの祭式に気が乗らないのは、大事な人の死ほど、他人(ひと)と共用して済ませたくないからで。やす香との一応の「わか れ・おくり」も、わたしは、ただ賑やかなパフォーマンスにしたくなかった。大勢寄れば、どうしても思いは雑駁に混雑する。だからわたしは浅草の花火という 「送り火」を、ごく静かな場処をいただいて、やす香と二人だけで眺めてきた。やす香はすでに自由自在に花火の空を飛翔し、笑っていた。わたしはビルの屋上 の一隅で、やはり泣いていたのだが。

* ただ人は情あれ 花の上なる露の世に    閑吟集


* 八月九日 つづく 

 ☆ ご決意読みました。こんなに早く、こういう不幸な形は想像もできませんでした。 
 この「私語」は私にとって、単なる毎日更新されるホームページではありませんでした。電子書物でもありません。この「私語」と一緒に生きていたのだと思 います。特別な存在でした。「私語」は人生の伴侶、魂の親友でした。今は万感胸に迫って、言葉がありません。実はずっと泣いていました。
 私語は秦恒平らしい、秦恒平にしか書けない形の素晴らしい生彩ある文藝作品でした。知の巨人の仕事でした。この創作を心から愛していました。今までのも のを保存して愛蔵し、文学論やいくつかの本になりそうなテーマでエッセーの編纂めざして集めているところなのです。もう間に合いませんか? 仕事の途中な のでほんとうに困ってしまいます。愛読者としての最後の切実なお願いです。

 この痛ましい「愛」の決断が、大きな愛の代償が朝日子さんの胸にまっすぐ届きますように。もはや押村家の訴訟対象がなくなるのですから、せめて愚かしい 告訴の不毛が避けられますことを切に切に祈ります。

 これからは、やす香さんへの喪の仕事と奥様の看病の毎日でいらっしゃることでしょう。かならず奥様をお守りください。そしてご自身のお身体も大切に大切 にお守りください。
 やす香さんは、お書きになる小説の中で、とわの命を得るでしょう。やす香さんとの再会を楽しみに待ちます。そして私語との再会も信じています。どうか 「聖家族」も本になさってください。
 「私語の刻」長い間ありがとうございました。パソコンのホームページに深々と一礼いたしました。  町田市民

* 愛読者は斯くも嬉しい有り難い存在であるが、照れくさくもかなり熱い存在、とても、ピュアな存在でもある。だが、いかなる大金でも自由には買えない宝 である。娘朝日子の、おおむかしの名セリフを借りれば「魂の色の似た人」とは、作者にすれば、読者こそ第一である。

* ただ、作者という化け物は、創作行為や自分の創作物のためには、ひたすらな愛読者より、かなりしぶとく、油断ならない闘う存在でもある。

 ☆ 「どうして」という眩暈に苛まれたまま、思念が膠着しております。
 高橋新吉の「心」という詩に「心は虚空よりもやはらかい」の一節があります。
 告白すれば、私は、ただそれだけのことを「わかる」のに三十年余かかりました。五十歳を過ぎていました。
 詩のつづきにこうあります。
 「何もないが心だから、心は通ぜぬところがない」
 すでにそのような状況に無いことを知りつつ、あえて、私自身の父に対する悔悟の心から、お叱りを覚悟で申し上げます。
 どうぞ、待ってあげてください。どうぞ、朝日子さんを待ってあげてください。
 涙しつつ、お願いいたします。   六  香川県

* 有り難いことだ。いま、わたしは、こういう、「朝日子」を想っての呼びかけに包まれている。
 ご安心を。わたしも妻も、忘れるどころか、少しも変わらず、じいっと朝日子誕生から十四年前までの娘のあれこれを見守り、思い出していて、娘が、自前の 理性と自覚とでしっかり立ち直るのを待っている。
 子は変わっても、親は変わりようがない。
 一時の言葉などそれは灰のようなもの。言葉はついに言葉であり、真実は言葉にされた瞬間に真実から遠のくと、異なるモノになると、仏陀も、老子も、バグ ワンも正確に語っている。その時その時にわたしは胸の奥からまっすぐ言葉をつかんでは来るが、それが言葉であるというはかなさを、文学者の覚悟として、い つも持っている。

* 真実に近づける言葉は、わずかに、「詩」としてのメタファー(喩)があるのみ、だから文学・演劇の真の創作者は、「表現」という「文藝」に、命を削 る。「月=真実」をさししめす「指=(言葉」は、けっして「月」ではない。ただ優れて「喩」となりえた言葉だけが、月=真実に近づいて、人にもそれを感じ させる。ただの「おしゃべり」ではどう賢しらを言ってみても、情けないが、届きはしない。情けなさを一番いま噛みしめているのは、いま、わたしである。

* わたしの「言葉」は上のことを痛いほど知っての言葉であるから、少なくも、囚われていただかないように。
 ウソを言い散らしているという意味ではない。言葉より、思いを汲んで下されば有り難い。

* 「待ってあげてください」とは、なんと、私たち親子にとり嬉しい有り難い言葉であろう。また「待つ」しかないということでもあり、それは押村高につい ても言える。
 彼はいま、妻へのメールによれば、途方に暮れているようだ、そしてひたすら朝日子が自身告訴の決意をかため、わたしのこういう「私語」からも、聴く耳を 塞いで、近づかない様子を伝えてきている。
 そういう娘の硬直ぶりは、娘を観たことのない方には、なかなか想像もされないだろう、朝日子のいささかの文才だけを遠目に愛して下さる読者達にも。

* 押村は、やす香病床にいながら、わたしたちに「礼」を以て接する好機を、空しく逸したが、今更にあえて胸中を忖度はしない。逸機はまた、吾々の咎でも あった。

* おそらく今回朝日子たちの不幸の最大なのは、やす香の医療継続と緩和ケアとのはざまで、親としてせざるを得なかった、痛恨の「死へ向かわせる決断」 を、祖父母にすら秘して漏らさなかったことにある。もし漏らされていたなら、間違いなく最終的に同じに決意していたと思う。
 しかし、そこのところで、異様な、わたしには考えられないことが起きていた。それが、今にして、朝日子自身の言葉により分かってきた。

 わたしの親しい優れた医師も、肉腫発見の遅さ、この病気の激越な進行から見て、ホスピス=緩和ケアの選択は、その時点で余儀ない、或る意味で正しい選択 だったろう、けれども、 
 「それをお子さんに告知するかなあ」
 「僕ならぜったいしない」
と言われる。

 わたしは、やす香が最初に自分から「白血病」と、ソシアルネットに公開したときにも、何故にと、すでに病名の本人に告知されている事実に、仰天した。そ れでも朝日子も、母にむかい「治る病気よ」と呟き、またどの段階でであったか、「命がけでやす香の命は守って見せます」と「MIXI」に公言していた。診 断違いが、だが、その後に有った、ということか。
 肉腫。これは、もう、……。医学書院の編集者であったわたしは「肉腫」を、ともあれ識っていた。そしてまた驚愕したのは、「肉腫」「緩和ケア」という言 葉すら、やす香自身の「MIXI」が、告げていたではないか。さきの医師の「信じられない」という愕きを、わたしはあの瞬間に愕き、色を喪った。
 緩和ケアの方針が親と医師とで定まるのは、病状の進行しだいでは仕方がない。だが、やす香の精神的な安楽を守ってやるのに、酷い告知と「死の受け容れ」 の説得が、なぜ必要だったか。黙ったまま優しく静かに見送ることも、モルヒネを使用し輸血停止の決断も予定されていたぐらいなら、難なくできたろうし、朝 日子のより賢いプロデュースで、音楽会も、大勢の友達の見舞いも実現出来たろう。
 やす香を、いとやすらかに死に至るまで、せめて「だまして」おいてやるのは、何かの正義の前に「罪」だとでもいうのだろうか。

* これはもう「繰り言」である。わたし自身、早く繰り言をやめて、新しい創作にかかりたい。朝日子もそうしたら。
 お父さんに「復讐」したいというなら、母としての名作に、やす香さんを「書いて」なさいませと、人の言われていたのは、核心を射ている。わたしの寿命の ある間にわたしも読みたい、ぜひ。

* だが、なかなか。
 朝日子は、告訴の決意が鈍らないように、わたしの「私語」からも、パソコンからも離れて、触れようとしないと、朝日子の夫押村高は、わたしの妻に伝えて きている。これでは、「待って上げてください」が、道をうしない宙にさまよう。「今こそ抱きしめてあげてください」も、途方に暮れる。
 ホームページを開設したとき、これは、わたしの「原稿用紙、作品発表場所、電子書籍、作品展示室、作品保管庫、文学活動そのもの」と認識していた。これ を全部「消去せよ」とは、だが凄いことを言うなあ。

* その朝日子にあてて、七月二十六日の夜の九時に「MIXI」の日記で、「やす香の母朝日子に」こんなメッセージを送っている。
 二日続きで、われわれは建日子ともどもやす香を見舞っていた。そして、「もう見舞いにはこないで」と言われていた。二十四日のやす香は、言語もはっきり と祖父母と叔父とを認めて、話しかけた。脳は言語という難しい機能とともに生きていたのは間違いようがない。
 このメッセージは、一つの山として待ちに待っていた母朝日子の誕生日の日付に入る、ちょうど三時間前。なにも知らないわたしは、やす香の明日を迎ええそ うなことを喜びながら、四十六歳になる娘朝日子の誕生日を祝ったのである。

 * 2006年07月26日  21:14   やす香母の朝日子に  湖
 やす香のようすを「MIXI」のみんなに報せてくれて、ありがとう。さぞ君も疲れ切っているだろうが、此のかけがえのない一刻一刻を、やす香とともに静 かに豊かにすごしてください。

 もう三時間で、君の四十六の誕生日だ。

  ひそみひそみやがて愛(かな)しく胸そこにうづ朝日子の育ちゆく日ぞ

 「朝日子」の今さしいでて天地(あめつち)のよろこびぞこれ風のすずしさ
                     (一九六○年七月二十七日朝日子誕生)
  そのそこに光添ふるや朝日子のはしくも白き菊咲けるかも

 安保デモで国会の揺れた初夏から、君の生まれた真夏から秋へかけての、わたしの歌だった。

 あした、可能なら、やす香の病室で、おまえのママとわたしとでえらんだ、目に明るい真っ赤のストローハットに、大きな白い花をつけたのを、君にかぶら せ、目に立ちやすい大きな七宝のブローチを、胸元にかざらせ、やす香に、「そーら、ままの誕生日だよ」と声かけて、一目でも目をあけ、思わずやす香に、吹 き出し笑いをさせてやりたかった。
 やす香に、一と声 「まま、おめでとう」と言わせてやりたかったよ。

 いまの君に「おめでとう」は、なかなか言いづらいけれど、やす香を授かってくれて、「ありがとう」と心から、いま言っておく。
 どうかして明日を乗り越え、七月から八月を乗り越え、こんどは九月「やす香の二十歳」を迎えたい。やす香はつらいだろうが、迎えたい。やす香はせつない だろうが、迎えたい。やす香の「生きの命のかがやき」のために、迎えたい。
 みんなで、心一つに迎えたい。 
 
 朝日子 やす香をお願いする。  父


 知らなかった。知らぬまま、わたしたちは、ひたすら「やすかれ やす香 生きよ けふも」と祈る以外の道をしらなかった。
 わたしは、そんな前だか後だかにやす香の母に「殺してやる」と絶叫されていたと夫押村に確証されてみると、ああ「生きがたし」と、この不条理な人生にひ しがれる心地がする。
 

* 八月十日 木

* 日本近代政治史家で「震災」「空襲」の研究家として著名な、横浜市大名誉教授の今井清一さんから、『大空襲5月29日 第二次大戦と横浜』そして「日 本の歴史23」『大正デモクラシー』新版を戴いた。嬉しいお手紙がついている。有り難く披露させていただきます。

 ☆ 暫くの酷暑が台風の余波で飛んで行き、ほっとしております。もう一年余り前になりますが、ご高著「日本を読む」上下と「わが無明抄」を頂戴し、あり がとうございました。
 ちょうど「横浜から見た関東大震災」の仕事に追われていて、ぽつりぽつりと拝見しましたが、個々に見ても、また連ねて見ても面白く、またそこから自分な りの考え方を展開させたくなる点でも、読み甲斐がありました。
 ただ、どうお礼を申し上げようかととまどい、今日にいたり、失礼いたしました。
 先にご覧くださいました小著『大正デモクラシー』の、活字を大きくし解説を付した改版がちょうど出来ました。
 私は震災と空襲を研究しており、毎年七月末に開かれる空襲戦災を記録する会全国連絡会議への出席を楽しみにしていて、今年は今治に行って来ました。
 ご本のお礼を遅ればせに申し上げると共に、この改版と横浜大空襲に関する『大空襲五月二九日』をご覧に供します。
 暑中ご自愛をお祈りします。  8月8日   今井 清一

* 「ペン電子文藝館」の「主権在民史料室」を新設したとき、幾つかの企画をもち実現した中に、大きな「柱」にわたしは、「憲法」論議と、日本の近代史 の、大づかみでいいから「通観」できる歴史記述を切望していた。それで、全巻通読し感銘を受けていた、学んでいた、中公文庫版「日本の歴史」の26巻の、 それぞれ責任執筆者の異なる末7巻から、各一章をひきぬいて、全七章分の略式「日本近代史の流れ」を、大切に史料室におさめ、インターネットで発信した。 わたしの秘かな志であり、自慢のしごとになった。その時今井清一先生からは、もちろん『関東大震災』の章を頂戴したのだった。

* 中公版の『日本の歴史」が、版を新たにしたとは嬉しい。
 わたしは若い人にほど、超古代からもいいけれど、この日本の「現代」がむごく歪められ、かち得た人権を着着奪われつつある今日、真っ先に『明治維新』か ら『近代国家の出発』『大日本帝国の試練』『大正デモクラシー』『ファシズムへの道』『太平洋戦争』『よみがえる日本』の七冊をぜひ「読破」しておいて欲 しいと切望する。
 このシリーズの執筆姿勢と魅力は、学問的であると同時に、権力機構への迎合がほぼ全く見られない、新鮮な視角と見識にある。字の大きくなった「新版」 で、もういちど通読し直したくなった。

* この略式「日本近代史」の思いつきを助けて頂いたのが、『近代国家の出発』を責任執筆されていた東京経済大学名誉教授の色川大吉さんであった。この巻 にもわたしは感動した。
 「主権在民史料室」を「ペン電子文藝館」に建てようとすぐ思いついた。実現した。そこには、明治の憲法論議も多く取り込んである。
 色川先生からは『廃墟に立つ』と題した『昭和自分史』の一九四五ー四九年の大冊を戴いた。変な物言いであるが、ドッカーンと胸に響く歴史記述であった。

* 天野哲夫・沼正三代理人さんに戴いた『禁じられた青春』上下も「はじめから」して身震いの来る興奮の第一波が感じられる。『家畜人ヤプー』の著者・代 理人さんたる人が、手紙に添えて「何故御高名な秦様が、私如き怪しき物書きに、かほどまでご興味をお持ちなのか解しかねます」などと言われては恐縮する。 わたしは最も早い時期のあの本に、著者もよろこばれた一風変わった角度からの「書評」を書いて、あの本のブームにかすかに一役買っていたし、「私如き怪し き物書き」というみごとな自負に惹かれるのである。
 およそ考えられる限りの世間の美徳と真っ逆さまの、現代の天才が沼正三だが、そのまま天野哲夫さんに通じていると、わたしは読んできた。
 この本も読み進めるのが大なる楽しみ。

 ☆ 拝復  湖の本追加分頂戴しました。有難う存じます。
 御不幸がおありでしたとの御事、
 謹しんでお悔み申上げます。
 初孫、それも女の子、といふのは例へやうもなく かはゆうございました。
 それを花の盛りの、といふお年頃でふっとお亡くしになった お二方のお気持、如何ばかりとお察し申上げます。 御気落がお体に障りませんやうにと 願つ て居ります。
 更めて御冥福をお祈り申し上ます。 かしこ     福田恆存先生夫人

 ☆  ホームページを閉じられることについて・・
  秦さま   あまりの物事の速い進みに深く悲しんでいます。
  全く存じ上げない方の生と死について、こんなに深く考えることも初めてのことかも知れません。
 今日のやす香さんの写真は大学に入られてからなのか、少しオトナっぽいお顔ですね。穏やかな笑顔です。
 ホームページを閉じられる決意をされたことを、一昨日に読み、少なからずショックを受けています。
 ただ、その決意は心して受け取らせていただきます。
 私にとって「生活と意見」は、正直に言いますと毎日かかさず見るというものではありませんでした。
 ただ、何かが起こったときに(戦争や、政局に関することが主なことでしたが、)秦さんはどんな意見を述べておられるだろうと開けてみて、心の中で会話を するという場所でした。
 もちろん、日々のご活動も読むのが楽しかったですし、同志社大学の寒梅館で食事をされたりしているのを読むとこんなにすぐ近くにいるのに!!と、妙に悔 しがったり・・・(私は**大学**学部の研究室事務室で働いています)
 閉じられると聞き少し、いえ、かなり途方にくれています。。
 今日は一日再度読み直しておりました、朝までまだ少し・・・続けて読ませていただきます。
 もちろんこのメッセージには返信は不要です。
 建日子さんのページにもメッセージも残さず時折足跡だけを残す失礼な私をお許しください。(これはご本人にちゃんと言うべきですね、でも今は、文学と生 活のページに戻ります。
 くれぐれも奥様も先生もともにお体ご自愛くださいませ。 京都市読者

* 昨日押村から届いた妻へのメールで、朝日子は、父親の「私語」にあらわれる上記のような交信は、秦恒平の都合のいい「創作」だと言っている。マトモに 向き合う柔らかい思いが働けば、よもやそんな心ない読み方はしないだろう、父親の作文能力を称賛してくれたものと思っておこう。
 わたしは、もう早くにであるが、「私語」に紹介・転記されたくないメールには、 @ マークを付けるか、明記しておいて欲しいと「読者」「知友」には、おおかたお願いしてある。同時に、どの方と人に名指しされるような特定の記事は省くか、 記号化している。互いに綽名をわざと付けていたりするのも、幾つかの点で有効だと互いに馴れているからである。
 いかにわたしが多方面に発言しても、そこは、一人だけの世界。闇の彼方から覗き込み、聴こうとしてくださるエッセイや事件や見聞にも、単調さがにじみ出 てくるオソレは否めない。
 一つには作者と読者はふしぎな「身内」感覚で近づきあえる。当たり前の話で、「ことば」は「心の苗」であり「精神の音楽」である。魂の色が似かようよう な嬉しさが互いにふと味わえれば味わえるほど、同じ一つの大きい世界を組み立てあっているとも言える。そして此の「闇」という場が、時に東京の人と北海道 の最果ての人との場になったり、名張の人の様々な歴史紀行に何人もの読者が出来ていたりする。それは、そのままわたし自身の「世界」の豊沃を示してもくれ る。
 わたしの「私語」の闇を、大勢がなんとなく交感・交歓の場にしてくれている。わたしは、それで、また大いにラクをさせてもらえるのである。

 ☆ 秦 恒平様    この夏も蓼科へ行ってきました。
  車山のニッコウキスゲは昨年のような全山黄色というわけには行きませんでしたが、一株(写真)お目にかけます。
 その後秦さまご夫妻はどのようにお過ごしかと、ただただ心痛み、帰宅して恐る恐るホームページを開きましたら、なんと思いもかけぬ展開になっていて-- ---呆然といたしました。
 やす香さまを喪われたご両親が平静なお心で居られるのはご無理としても、どうしてそこまでと思い、この悲しみがせめてもこれまでのご両家の確執のとける 契機になればとの私のはかない望みも、単に傍観者の楽観であったのかとうち砕かれました。しかしやす香さまの仲直りして欲しいとの願いがきっとよい方向へ とみなさまを導いて下さるであろうと、まだ私は(ご事情もよくは知らず勝手に)希望を持ち続けています。
 回復の見通しの立たぬ病の人にどう声をかけるか、とても難しいことです。
 私の親友のおつれあいが致死的な難病のALSで身動きも発語もかなわず、蓼科の山荘で療養して居られるところへ私が息子と立ち寄った時のことです。
 別れ際に息子は、「おばさん、おじさんはきっと治ります、大丈夫です」と懸命に励ましました。
 私などは到底こんな言葉を心から発することは出来ませんでした。
 知恵が邪魔をするのですね。
 どんな状況でも、生きていてほしい、元気になってほしい、と祈ってどうしていけないのでしょう。
 末期ガンで清瀬の救世軍ホスピスにいた友人を何度か見舞いました。
 彼女には知的障害のある息子さん二人と病身のおつれあいがあり、しかしあまりの治療の苦しさに、死んでも死に切れぬ思いを絶って、自らホスピス入りを決 心されたのでした。
 それでも投薬等で苦痛が治まると、自分はここでこんなにして楽していて、死んでしまって、良いのだろうか---と悩み苦しむ、と私に告げられました。
 このような心の葛藤を繰り返し、やっと最後は安らかな気持ちになられたと、お世話をした救世軍のシスターが葬儀の時話してくださいました。
 そんなこんなを思い出しながら、HPを拝読しています。 2006/8/10  藤

 ☆ 昔、私が父に激怒した時に、母から「パパの言ったことではなく、今まであなたにしてくれたことを思い出しなさい。言葉で判断してはいけない」と諭さ れました。
 あれだけ父に苦労していた母ですが、ありがたい言葉でした。許すということのきっかけになりました。
 私語で、やす香さんのミクシィの記述を読みました時、「治ることは絶対にあり得ない」という部分に実は驚愕しました。医師に対して湯気の出るほど憤って いました。
 朝日子さんがキューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」を読んでいらっしゃらなかったとしたら、残念でした。
 高校生の頃に恐怖に震えながら読んで、そしてとても学ぶことが多かった。ご存じのように、これは死にゆく人々に取材したものです。
  印象に残ったのは、よい死を迎えるためには、絶望させてはいけないということでした。たとえ不治の病であっても、その告知にはどこかにかならず希望を持た せなければならないというのです。
 余命の宣告は非常に慎重にと。
 つまり嘘をついてもいいのです。治らないとわかっていても、治る可能性も延命できる可能性もあると伝えることで、患者は救われる。
 そういう意味のことが書いてあったとうろ覚えながら記憶しています。
 私は自分の遺言ノートの中に、病名の告知はしてほしいけれど、余命の告知は不要と書いています。何しろ悟りなんか全然ない。弱虫で怖がりの臆病なんで、 死ぬのが恐ろしくてたまらないのです。
 朝日子さんに告知について助言できる人が周囲にいなかったことは痛恨の極みです。朝日子さんはご自分の孤独な責任で告知を背負っていかれたのですね。そ のご胸中をお察しすると涙しかありません。
 それでも、一つ救いは、女は男より告知に強いということです。テレビで看護婦さんが証言していました。男の人は誰も誰も告知でよれよれになってしまう。 実に弱い。
 でも、女の人は強いですよ。きちんと後始末までしていくと。   夏
 
* いま、わたしの知己たちは、大勢が、朝日子の心事に思い入れて娘の立ち直りを励ましてくださる。またはわたしを宥めたり窘めたりすることで、間接に朝 日子をなだめたり窘めたりしてくださる。バルセロナの京など、わたしをむちゃにやっつけながら、「朝日子さん、いっそのこと、『やーめたっ』と、無責任 に、実に無責任になって、手を放してみたらどうですか」などと言ってくれる。わたしが昔娘の手を放したように、押村の方へ預けたように、朝日子ももう父親 の手なんかを放してしまい、穏やかに、家族とのこれからの日々を過ごしたらという勧めか。

* 建日子の連続ドラマ「花嫁は厄年」が、今夜で何度目かちょっと覚えないが六度目ぐらいか。
 最初は好まなかった。駄作だとこきおろした。
 続けてみていて、断然篠原涼子の溌剌のうまみが全編をリードし、岩下志麻が対極をガンとおさえて、このシーソーゲームは、支点の位置が甚だしくずれてい るままの好バランスになっている。その他大勢はその他大勢の模様になり、みな楽しそうにバカをやっている。この、楽しそうというのが、甚だいいミソ味に なっている。
 今夜で、この連続ドラマははっきり水準を抜いて、独特のハートを躍動させ始めたとわたしは見て取った。
 気がつくと、これは珍しい農業ダネでもあり、農作業や農家やとりまく自然の豊かさによって、作品のストーリーを支える佳い実景になっている。わたしは、 それを評価する。
 やはり、安土家の岩下母に、わたし。
 家を出て十年帰らぬ長男一郎に朝日子。
 両者のあいだで奮闘する明子に、作者は、ね自身を擬していると、この私流に眺めていると、建日子「作意」の優しい情感が、ほんのり伝わってくる。

* だが、そんなのんびりしたことは言ってられない、押村の告訴攻勢は執拗で、気はぬけない。


* 八月十一日 金

* 妻はいわゆる「三年日記帳」の実践者で。『鍵』の老夫婦のようには、わたしは、決して覗き込まないが。妻が今年一月二日の日記を全文書き抜いて持って きてくれた。

 ☆ 2006.1.2 月 晴
 午后から やす香 と みゆ希が来た。叔父さん(=秦建日子)からもお年玉が出た。
 朝日子のお振袖を出して やす香に着せかけて 楽しむ。
 建日子が恒平さんの気持を察して 皆で 車にのり込んで 玉川学園(=姉妹の家がある。)まで送ることになった。
 この日変に臭い我が家、帰宅後わかったのは Goo (=建日子が連れてきていた、巨大な灰色の愛猫)の下痢 !!

* まみいの、腕によりを掛けたお節料理やその他のご馳走を、「やす香」「みゆ希」と書かれた祝箸を、翔ばす勢いで、大いに食べに食べ、ご機嫌で大笑いし ていた、やす香、みゆ希。まみいに振り袖を着せかけてもらって、大いに照れながら、喜色満面で少しポーズしてみせたやす香の笑顔が、今も目の真ん前に浮か ぶ、涙ににじんで。
 あのとき、「今年九月にはやす香二十歳だけれど。成人式は、もうすぐ(此の一月)の成人の日にするのかい」と聞くと、「それは来年のお正月ですよ」と答 え、この着物を今夜貰って帰ることは(親たちにナイショで来ている今は=)まだ出来なくて残念無念だけれど、「来年まで…。この一年のうちにはね、きっ と…この振り袖が着られますように」と、独り言のように呟き呟きうち頷いていたのを、
 「思い出します」と妻は言う。
 用事で席をはずすこともある私と違い、わたしの知らない会話も、妻と孫娘とにはそれはそれは沢山あったであろう。まみいの方へ愛らしく顔をかしげた写真 を今も身のそばに大きく眺めている。
 母の朝日子に家で着物を着せて貰ったことがあり、「保谷の家には、ママの着た佳いお振り袖があるんだけれど、貰いに行くわけにも行かないしねえ」と言っ ていたとも、やす香はまみいに話している。
 朝日子はいったい、なにに義理立てをしていたのだろう。とにかく十四年、保谷では朝日子が尋ねてくる夢を見るか、帰ってきてもこの辺の変貌にきっと道に 迷うぜ、キット迷うわねなどと話し合って、「待って」いたのだ。

* 理事・委員など務めている日本ペンクラブその他諸団体・諸組織に宛て、わたしへの「詰問書」を配布すると言ってきている。その殆ど全部は、やす香のこ とをめぐるこの春以来の、わたしの「私語」「MIXI日記」に関係している。押村高と妻朝日子とは、それらの全部を廃棄せよと「告訴」「訴訟」の名におい て要求してきている。
 なにより、それらはわたしの「著作」であり、つまり日記文藝、またエッセイという「創作物」である。
 またこの間両家に会話対話が全然不可能だった以上、それら「日録」は、字句をつまみ食いした詰問内容のすべて不当なことを、経時的文脈において正確に示 している資料であり、読み返せば、すべて判明する。
 まして名誉毀損で告訴を前提にした廃棄請求になど応じられるわけがない。
 ものごとは、日かずを経つつ、いろんな側面をみせては変容し、転移してゆくものである。そのものごとの経緯を記録するのは、創作者の日々の「用意」とい うもの。「歴史」に幼来熱心に学んできたわたしの「方法」は、そうした推移や変転のなかから「人間」のいわば秘密をつかみだし「表現」することにある。だ がかなしいことだ、客愁に生きる者の、はかない夢よ泡よと、識ってする、「創作」といえども、やはり愚癡のわざに相違ないことは。

* 山形県から、ホームページを閉じるなんて、ぜったいやめてくださいと言ってきた「中学三年生」は、なんとなく同年である孫みゆ希との対照で、男子と勝 手に想像していたが、中三女子、女の子であったと知れた。失礼しましたね。ごめんなさい、ありがとう。


* 八月十二日 土

 ☆ 秦 先生
 『死なれて・死なせて』を、ミクシイの電子版で拝読していましたが、やはり、活字のほうがと、「湖の本」版を取りだし、読みはじめました。
 先生の掌中の玉、白珠乙女をお思い申しての、わたくしのモゥンニング・ワーク(=悲哀の仕事)でございます。
 以前、拝読しましたときにもまして、作家の厳しい自己裁断に息を呑み、「死なせた」存在としての自分がつよく意識されました。
 『源氏物語』の読みを変えてくれたのも、『死なれて・死なせて』でしたし、「死なれ・死なせる」というキイ・ワードで諸々の書を読むことも、この書から 学びました。
 しかし、この度は、拝読していまして、先生のこのほどのお悲しみ、痛苦に思ひの及ぶことがしばしばでございました。あたかも、今のお悲しみが予見されて いたかのような個所もあり、「言の葉もなし」、謡の一節でしたか、ひそかにつぶやくばかり……。
 奥様がお倒れなされた由、これも心の痛むことでございます。どうぞ、おだいじに。大切な背の君のためにも早く、ご恢復なさいますよう。先生もご心労のあ まり、お身体を損ねることのありませぬよう。白珠乙女が守ってくださいましょうが、わたくしにも祈らせてくださいませ。     香

* どうやら、押村の「告訴」するぞという威嚇前提の争点が、だいぶ推移している。現在までに、わたしの方で処置済みのことを、整理しておく。

 一、 朝日子名の著作全部を、希望を容れ、「ホームページ」からすでに削除してある。
 二、 押村夫妻が「ホームページ」から外して欲しいと切望する「創作物」を、押村夫妻の言う理由からではなく、「作者の一存」で、すでに外してある。
 三、 「生活と意見=闇に言い置く  私語の刻」の全部 (= 現在58ファイル、原稿用紙換算すれば何万枚に相当) を「全削除」との要求に対しては、過剰で不当な「著作権侵害」であると拒絶し、その一方、或る「決意」から、やむなく「准・全削除」作業にも慎重に取りか かっていた。
 ところが、「全削除は求めない、押村夫妻に関する個所のみでよい」と変更されたので、それならば、請求側の当然の手続きとして、押村・朝日子両名、それ ぞれの「データ (=ファイル・ナンバー、何年何月何日の何段落め、どの文面等) 」の正確な提出を求めた。大海の中で鰯の一尾、一尾を探して釣るような作業であり、それは、わたしの負う仕事ではないからである。請求側からデータが提出 されれば直ちに検討し、「もっともな希望であれば即時削除も吝かでない」と答えてある。
 同時に、当然ながら、取り組んでいた「准・全削除」作業は停止し、復旧を考えている。
 四、 それでもなお、「告訴」「訴訟」をもし強行すれば、「二」は直ちに「復旧」し、「三」には、十四年前の「非礼」と不幸な「何の関わりもない孫と祖 父母との断絶」にも溯り、また別の、或る重要な「情報開示」も求めて、裁判所で、夫妻の反省を望むことになると伝えてある。

* これに対し、押村夫妻は、上の「三」の範囲を、今回「やす香」の、入院前から遠逝に至る辺りに限定し、「生活と意見」内の「関連個所削除」を求めて、 それが容れられれば「告訴」「訴訟」しないと告げてきた。

 わたしにも妻にも、孫やす香を喪った痛恨・悲苦こそあれ、そしてそれはやす香の両親にも妹にもより深いと十二分に知ってこそおれ、そのことで押村家を弾 劾する気など毛頭あろうワケが無いのである。
 しかも祖父母は、思いあまる「死なせた」くやしさを感じ続けている。
 そもそも吾々の全員に、「死なせた」という人間としての痛悔がなくて、やす香はどう浮かぶ瀬があるかと、わたしは悲しむ。だから、やす香を喪って直ち に、わたしは、著書『死なれて死なせて』の「MIXI」連載を開始し、関係した大勢の人にも、「悲哀の仕事=MOURNING WORK」の何たるかを伝え始めた。
 最大の関係者である押村夫妻が、それを心静めて読みもしていないことに、そして父のわたしを「殺してやる」などと「絶叫」することに、わたし は実に驚愕するのである。

* ともあれ、上の請求には、上の、「三」の第二段落、を以て答える。厖大な量の文章から、そのごく一部を探し出すことの大変な難しさを、わたしが負うて することではなく、削除して欲しいと求めている側が、「データ」として具体的に提示すべきなのは、あまりに当然の手順だろう。(妻が試みても、とても探し 出せなかった。)

* 押村家は、もう、「告訴」「訴訟」「誹謗文書」配布という「威嚇」を先立てて、あれこれ老親に対し高飛車に「要求」するという悪手段を、まずきれいに 撤回し、むしろ「今回やす香のこと」で、終始一貫祖父母に対し、何一つ「報知」「説明」「相談」しなかった非礼をこそ、真っ先反省するのが道だと言ってお く。



* 押村夫妻は、なにより真っ先に、こう言ってくるのが当たり前でないのだろうか。
 「告訴」は撤回します。十四年前の「非礼」へも溯って反省し、当時の暴言はみな撤回してお詫びします。「やす香」の遺志を深く思って、総ての回復と前進 へ、両家で立ち向かいましょう、と。

 ☆ こんにちは。山形県の中学3年生の者です。
 秦さんに少しでも気持ちが伝わったのかと思うだけで本当に嬉しかったです。
 また、私が女子であることを訂正してもらいましたが、このような大変なときに、そのようなことにまで気を配っていただき、申し訳ないです。
 最後になりますが、今も私の気持ちは変わりません。
 秦さんがホームページを開き続けることを望んでいます。父も同じ想いでいます。
 閉じるか、閉じないか、決断するのは秦さんですが、私、父、他にもたくさんの方々が同じように、これからも秦さんのホームページを見続けたいと思ってい ることを忘れないでください。それを胸に置いた上のことならば、どんな結果でも私は受け入れたいと思っています。
 何度も何度も子供の意見をすいません。   真

 * 感謝します。心しています。 湖

* 妻が、気持ちをひきしめ、しっかり立てるようにと、八月は行かないはずでいた歌舞伎座に連れて行って欲しいと言う。終日はとてもムリな体力だが、幸い 八月納涼歌舞伎は三部制なので、一部だけ、成駒屋に頼んで席を用意して貰った。少し気が晴れるだろう。
 高麗屋からは十月の大歌舞伎の案内があった、九月の秀山祭もとうに頼んであるが、十月もぜひ楽しみたい。
 幸四郎は昼の熊谷陣屋、夜の髪結新三。仁左衛門が勘平腹切や「お祭り」など昼夜に活躍の予定。なにより市川団十郎の無事の舞台をぜひ観たい。忠臣蔵で は、海老蔵がはまり役に想える、例の中村仲蔵の伝説をしのぐ、秀逸の斧定九郎が観てみたい。
 高麗屋は、十二月国立劇場という案内も来ている。真山青果の元禄忠臣蔵の通しである。


* 八月十二日 つづき

 * 今井清一 先生   秦 恒平
  雷鳴とどろいて、「夕立」ということばを、久方ぶりに思い出しました。落雷などの障りはございませんでしたか。

 このたびは、御著二冊「大正デモクラシー」「大空襲5月29日」を戴き、ご鄭重なお手紙までも賜りまして、ありがとうございました。

 中公文庫版の「日本の歴史」が、新版になっているのですね。これは私、何度もものにも書いて希望してきたことで、欣快至極です。
 いろんな日本通史を読んできまして、わたしはこの、全26巻本を、最も姿勢といい内容といい信頼し愛読してきました。若い、これからの日本に当面しなけ ればならない心ある人達に、ぜひ読まれたいと希望します。
 全巻を一頁もとばさず、朱筆片手に順に読み通した私のような読者は、数あるまいと想います。ことに、明治維新以降の日本近代史の七巻に、私はそれはたく さん教えられました。
 恥ずかしいことに平安時代や鎌倉時代や、とにかく昔の歴史にばかりうちこんでいた私が、日本近代史をしっかり読みたいと思ったのは、いわば「手遅れ」の 「遅蒔き」でしたけれど、多大の感銘を得ました。読みながら、毎日毎日唸っていました。
 日本ペンクラブで責任者を務めております「ペン電子文藝館」に、すぐさま「主権在民史料室」を特設し、色川大吉先生のお口添えを得たりして、いわば 「略・日本近代史」をシリーズから再構成させていただいのが、電子文藝館に展示中の、最も心行く仕事となりました。あらためて、深く御礼申し上げます。

「日本を読む」のような戯文にお目とめ下さいまして、嬉しい、有り難いことでございます。図に乗りまして、甘えて、もう二冊お送りさせて頂きとう存じま す。
 日本人の「からだ」と「こころ」とに関わる躍動するセンスを、暮らしを流れる血潮のような具体的な「ことば」を介して把捉しようと試みました。お笑い下 さい。

 京都で育ち、少年時代じかに大空襲に遭わずに終戦を迎えましたが、私の通った市内の幼稚園運動場に一発爆弾が落ちました。
 あの時代は遠くなったか、とんでもなく。またまたイヤな空気です。
 日本ペンクラブですら、政府の資金援助をアテにして事業をしようというアンバイで、憮然とすることの日々に多いのには閉口です。

 お大切にお過ごし下さいませ。  06..08.12


* 八月十二日 つづきの続き

* 押村朝日子・高夫妻は、わたしを「告訴」「訴訟」と決したらしい。午后十時ごろにメールで伝えてきた。受けて立つしかない。
 メール差し出し署名は、「押村朝日子・高」となっている。告訴・訴訟は主として朝日子がするものと読むしかない。

* 朝日子が「父告訴」「父訴訟」を強行するのでは、いかなるわたしの配慮も無意味になった。
 ホームページから消去し、「たいへん感謝します」と言われていた創作も、元通り公開する。「生活と意見」を含むホームページを撤収する必要もまったくな くなったし、「准・全削除」しかけていたファイルも復旧する。

* 明日から、不快な日々がつづくが、わたしは、朝日子とちがい、「法」よりも、「人間の真実」を大事に思う。父は無価値な「信義」をせいぜい言いなさ い、自分は、朝日子自身は、ひたすら「法」「法」で、父を打ち倒してみせると言ってきている。なにをか言わん。


* 八月十三日 日 

 *  やす香の母、わたしの実の娘朝日子が、やす香の祖父、自身の父であるわたしを、「告訴する」「訴訟する」と決めた由、昨夜、「朝日子・高」という 連名で伝えてきました。夫とは、やす香父である青山学院大学教授、教育哲学などを教えているであろう、押村高氏です。

 訴状はまだ届きません。何を以て娘が父をと、異様さに、おののく思いです。


* 「私語」ファイルも、復旧する。ホームページを閉じる理由は完全になくなった。娘朝日子は、父を「告訴」したのである。


* 朝日子に父を「告訴」させまいと願い「決意」した大きな「理由」を明記しておく。


 その危惧と推測とは、昨日より以前に押村家に伝え、「理解して頂いて感謝する」と言われていた。
 あげく「告訴」「訴訟」になった。

他の誰にも秘めていただろう朝日子(例外的に只一人朝日子から知らされていた人がいたらしいのを、夕日子自身が語っているが。)の十字架を、それ以上重く したくなかった。久間十義氏の『聖ジェームズ病院』を読んでいて、あんなきたない取材や裁判の渦巻きに朝日子が巻かれかねないと思い、とてもイヤな気がし ていた。 

* なぜ此処にこういうことを「書く」のか。
 相手を刺戟し、相手に手の内を明かし、「みんな父さんの損になるよ」と息子も妻も言うが、そんなことは百も承知している。
 わたしは「物書き」以外の何者でもなく、それしか生きる道も処世の道ももたない。書いて人の胸にうったえる以外手はない。それが法にかなうかなわぬは、 知らない。わたしが、わたしに、「書いてうったえよ」と奨めることは書くのである。賢いことでないと言われても、賢いというのはそんなに尊いことかと思っ ている。


* 八月十三日 つづき

 * お人柄も力でも、最も信頼できるペンクラブでの知友牧野二郎氏を弁護人に依頼し、快諾してもらえた。安堵。妻も愁眉を開いてくれた。それが有り難 い。
 この方なら、相手方の朝日子にたいしても配慮してくださると信じられる。わたしは娘に勝とうなどと考えていない。受け止める裁判であれば好く、出方がつ よければ強く押し返すし、ひっこむならそれでよい。そこまでしないと気の済まない娘に、好きなだけさせてみる。
 
* 今日一日、超多忙のあいまに建日子は、なんとか、押村家と会おうと折衝をつづけてくれたが、朝日子は一切応じず、押村はあすの九時から十時まで一時間 だけ時間は提供する、大学まで来れば、と。しかし「告訴・」訴訟に賭ける意思は一ミリももう動かない、「法的システム」はもう動いている、来てもムダだよ という話だったらしい。
 賽は投げられたのだ、それなら受けましょうと、わたしは建日子の奔走に感謝し、冷静に代理人よしなにと依頼した。躊躇わなかった。

* 問題になっているたぶん中心、此の七月の「私語」を資料としてプリントしてみた。A4用紙に112枚。一枚が原稿用紙四枚と換算すると、この一ヶ月の 「私語」だけで、「湖の本」一冊の二倍ある。七月分には他からの書き入れも多いから、全部わたしが書いたモノではないけれど、それだけにここから僅かな字 句を探し出して、こと、この「七月私語」に関する限り、朝日子の名誉を傷つけた悪意の証拠など、どう探し出しようもないであろう。
 日記は、いわば一回読み切りの連続ドラマに見えて、さにあらず、大川のように流れて行く連続ドラマであり、その文脈において眺めるとき、ときに長編小説 よりも興趣に富み躍動し、また悲劇にも喜劇にもなる。「日記文藝」とはそういうもので、日付こそなくても『蜻蛉日記』を始めとし、現代に至るまでの充実し た日記文学には、やはり独特の味わいがある。「創作」なのである。訴訟・告訴などというコトよりも、重いものである。

* 建日子が仕事ですこし遠くへ出るので、留守のうち頼むと、巨大猫クンと、なんと小さい円い亀とを預けに来た。
 その息子の説によれば、朝日子は、父親に百パーセント「無償の愛」を求めているのではないかと言う。
 何のこっちゃ…。
 翻訳すれば、秦恒平にはいつも文学ないし「書く」こと、また自分の信念や思想にしたがって生き貫くということが先立ち、何が何でも子供が一番、ではな い。たとえ子が何をしでかそうとも理屈抜きに子の味方というところがない、めったに褒めない、遠慮無く批評する、あれが「大嫌い」というんゃないかと。
 聴いておきます。

* 西国の方から、声。

 ☆ (私も)考えました。
  何とも気が重いです。が、それはやはり秦さんの書かれるものは、同時に「考えよ」という力を持っているので、「読む」と、「考える」ので す。逃げやごまかし、後回しはなく、読むともうそこに、考える私が引っ付いてしまいます。
 そういう読者は多いと思います。

 父と娘…。
 母親と娘は同性である、母親の胎内で育ち母という身体から産み出た「繋がり」の事実が、先ずある。
 父と娘は同性ではない。父という男(性)は、結婚した場合、生涯で、母、妻、娘という三通りの女(性)に、凡そ、その名のもとに愛を掛ける。
 秦さんは、物書きだ。
 秦さんは…、 
 たいていの人は、普通当たり前に、特別に意識することもなく、自分を産んだ人のことを、「母」と呼び育つ。何でもないが神聖なその当たり前の「生の故 郷」は、身体ごと「赤ん坊」になってこの世に産み出る。 母と子である。
 秦さんは事情から、人が生きる時に意識することなく、予め備わっていて、それを以って、それが生きるという始まりの「生の故郷」を、特別に意識するハメ になり、それは普通意識されるようなものでなく、だからこそ人は、そこから生きていく(いける)のに、そこがどこかと戸惑いながら、問いながら、乞い(恋 い)ながら、生きていかなくてはならなかったこと。
 一心に、書いて、生きてきた。のですね!
 生まれたばかりの赤ん坊は、まだペンを持たないけれど、生きてきたから、それは、私が私に書けということだ。 秦さんは書いた。

 「物書きである父」の娘への愛情は、朝日子さんは解せないのでしょうか。
 父である秦さんが書いたものを読む読者には、娘さんへの愛情が深く読み取れ伝わるのに。
 朝日子さんのお父さんは、書いて生きてきた人(これからも)ですから、「物書き」を抜いて、「父」だけでは部分のようで、「秦恒平」にはならないでしょ う。
 物書きでそれも秦恒平となると、愛情にもそれなりのキツさがあるけれど、それだけに愛情も深い。
 朝日子さんは一般の読者とは違い、子、娘ですから、いつまでも父のそのキツイ愛情に反抗しているのでしょうか。
 母親、こどものことなどは、どのように考えていらっしゃるのでしょう。
 ご自分でさえこのようなことで、何かの決着が付く筈もないと思われますが。
 このような事態は、ホントに気が重いですね。
 父と娘、 先のこととしても、願うこと(歩み寄るとか笑い合う)は一緒、ではないのでしょうか。  福

* これは、朝日子にもわたしにも、有り難い知己の言葉、滋味あふれた言葉であるが。

* もう二時過ぎた。


* 八月十四日 金

* 熟睡。起きて、黒いマゴ、灰色のグーと、それぞれ少し遊ぶ。ピンポン玉のような亀には興味がない。

* ****さんから、また此の夏もすばらしい「桃」を一箱頂戴した。青山学院大学の元学長さんで、十四年らいおつき合いがある。

 ☆ 湖様 おはようございます。 「私語」早速 7月分1か月分をPCにコピーいたしました。
 思わぬ方向に進み、言葉も失っておりました。よい弁護士さんにお頼みになったとのこと、安堵しております。
 やす香さんがご家族を一同に集う機会をつくり、その後の円滑な交流が復活することを願いながら逝かれたことと思い、そうなることをひたすら祈っておりま した。しかし、事態はまったく逆の方向に進んでしまいました。
 娘さんである朝日子さんがどうか平常心にもどられ、お孫さんのヶヶヶさんがご自分の道を健やかに進まれることを祈っております。
 実の親子というものは、なかなか難しいものですね。
 私の娘も(絵画)自作に対する批評を好みませんし、まったく受け付けません。少しでも口を開けば反発し、親であることを否定するような発言をすることす らあります。
 それでも率直に批判して伝えるか、壊れ物に触るようにそっとしておくか・・・。鋭いガラス片のような娘の言葉に傷つきながらも、真綿でくるみ、娘のガラ ス片が少しでも丸くなっていくことを願っている日々です。
 本当に傷ついているのは娘のほうなのではないかと思いながら。
 大きな猫と亀と、日々少しでも心静かに過ごされますように。  波

* こんな日頃であったけれど、妻は、永田仁志氏から贈られてきた中西進さんの文庫本『日本語の力』にはまりこんで、心やりに一度読みまた二度目を読んで いる。面白いという。万葉学の大家中西さんのいわば研究余話であり、上出来の美酒の滴りのようなもの、面白くてあたりまえ。そういう気にはまる本に出会 う、それが幸せということの一つである。妻は、もう一冊、友だちに贈られたらしい、草の花、木の花をめぐる、写真も入ったエッセイ本を読んでいて、いつも 枕元にある。我が家のつねの風俗で、行儀がいいかわるいかは別にして、変わることがない。
 新刊本がぞくぞくと贈られてくる。研究書も評論もエッセイも小説の大作も絵本や写真集もある。詩歌句集も雑誌も常のように届く。目を通さないということ がない。返礼を失念することもあるが、その点メールの可能な方は、御礼も、ちょっとした感想も言いやすい。
 一冊読んだら次の一冊という読み方を、わたしはしていない。いつも八冊ぐらいを併行して少しずつ前進するが、混乱しないし感興を殺ぐこともない。おのず と興をひかれれば、就寝前だけでなく外出時に持ち出す。読み物はそれで通過して行く。文庫本が軽くていいが、時に久間十義作のような大冊も持ち歩く。

* books をなぜ「本」と呼んできたか。ま、「本当の本物」を示唆し得て、人の思いの芯の所で太く大きくそそり立ちうるものだからだろう。そうでないものも「本」あ つかいされるから混乱しているが、そんな混乱の中から確かな「本」を見つけ出せるかどうかは、人それぞれの「本」の思想に依る。
 いまも興味津々読んでいるアンドレ・モロワの『英国史』など、りっぱな「本」の太さを発揮している。


* 八月十五日 土

* 深更、こんな読者からの通報があった。いたずらをするような人ではない。久しいおつき合いがある。

 ☆ MIXIで「思香=やす香日記」に次のような内容の文が掲載されていたことを お知らせいたします。 波

  ★ 2006年08月15日 17:36   このMIXIの「(押村)やす香(=思香)日記」も、アクセス数が30,000を越えました。皆様の想い が、天国のやす香にまで届いていることと思います。皆様のご要望により、この日記は数ヶ月間記録として保存することにしました。

  さて、このような折に誠に残念ですが、皆様にお伝えしなければならないことがあります。自称文筆家の某氏が個人開設のブログに、「死を受け容れたこと」を 最大、最期の誇りにしていたやす香の名誉を毀損する記事を掲載している、との複数の情報をお寄せいただきました。

  また某氏は、MIXIの「やす香日記」だけを根拠に北里大学病院の診断を「誤診」と決め付けたり、日々、私共遺族のプライバシーに踏み入って、告訴云々と 自作自演らしきストーリーを掲載していると聞きます。

  私共は現在、対抗手段を取るために情報を収集しております。ただ、当該ブログにアクセス拒否が掛けられており、真相の把握が叶いません。つきましては、こ の点に関するどのような情報でも結構です。お持ちの方は、「メッセージ」で私共宛にお寄せいただけませんか。

  また、娘やす香の名誉を護るこの闘いに、どうぞ皆様の温かいご支援、ご協力を賜りますようお願いいたします。
                               押村朝日子・押村高

* 驚いた。この署名の二人は、恥ずかしながら、わたしの実の娘・その夫(青山学院大学教授)である。どうして、こんなことをするのだろう。
 なぜ、「自称文筆家」などというのか、わたしの名前を使えばよいではないか。
 「逃げ道をつけているのよ」と妻は言う。
 八月初めから、わたしが、娘と婿から「訴追」で威嚇され続けてきたことは、経緯がくまなく明かしている。「話し合い」の道もすげなく断たれ、余儀なくわ たしは弁護士に依頼せざるをえなかった。そんなことは、この「私語」でも「MIXI」日記でも、あまりに明瞭になっている事実。
 まだ彼等が「投げ出してくる余地」はあると観ていたが、ま、もう仕方がない好きにやるがよろしい。何がわたしの「自作自演らしきストーリー」か。バカは よせと幾ら言っても、建日子が幾ら言っても、なんだか「聖戦」じみて頑張っている二人ではないか、何が欲しいんだろう。わたしからいったい、何を、取り込 みたいのだろう。
 「対抗手段」とはこの際「被告」のわたしが言うならわかるが、「原告」の夫妻が情報を今更募集するとは、何のこっちゃ。真相の把握も何も、アクセス拒否 も何も、わたしは妻にも人にも窘められながら、思うまま書き、たくさん書き、自分の「ホームページ」を、世界中の誰一人にも、拒絶していない。わたしの考 えなら、そこに満載されているのだから、また二人ともそれを読んでいるのは分かっているのだから、上の「情報不足云々」は、なにか狡猾そうな「ごまかし」 の手なのであろうか。へんな人達。

* ま、窮したら、上の「MIXI」発言も、「他人のいたずら」だと言い出すのだろうか。今、北海道で読んだ建日子からも、「明いた口が塞がらない。読ん でみたら」と、今し方メールで●・朝日子メールを「転送」してきた。

* 大学病院のとったであろう方針に、わたしたちは異をとなえていない。難しい判断だったろうと思いつつ、親からついに何一つ聴けなかったいささかの説明 なら、うけたい気はあるが。

* やす香の名誉をわたしが傷つけたとは、何ごとかと思う。

* 一つ、いいことが書いてある。やす香の「MIXI」日記を当分そのままにすると。少なくも一月から七月永逝までのやす香の日記は、じつに多くを明かし て雄弁であり、大勢の方に読み返して欲しい。わたしたちは、やす香の片鱗も惜しんで、入院とほぼ同時に悉くそのまま保存した。
 ことに自身の健康の悪化を書いているのが、びっくりするほど多くを語っている。
 わたしは、「対抗手段」のひとつとしても有効すぎるほどだが、やす香の、生きたい願いのせつなく潰えて行く悔しさを表した、かくも人が不幸に不運に死に ゆくものかを露わにした、貴重な日記だと思うので、抄録を、とうに終えていた。
 大勢の人にぜひ読まれたい。通して読むと、日々断片を読むより、はるかに訴求力が濃く、また強烈。
 以下に、一月から六月下旬「白血病」通告までを、一覧で記録しておく。
 大量なので、やがて別に移すつもり。関心深い人は、コピーして下さい。

 
* 孫やす香06/1−6月の体調違和を語る日記を抄出した。
 日を追い月を負い、目をそむけたいほ深刻で具体的な記事が続くど急激に病魔が、やす香を切り刻むさまが見えてくる。十九の大学生女子が無残な「死」に引 きずられてゆく怖ろしい記録になっている。しかもそこにやす香の人間がよく表れている。相当な量である。
 大量の日記から、病状と心情とを語ってある個所のみ抄出したが、大きな推移の相で、モノが明瞭に見えてくる。一括して記録し「流れ」で観ないと間違うと つくづく思った。
 やす香を愛した吾々なら、だれもただ「死なれた」受け身の悲しみにだけは浸っていられまい。わたしは、そう、はっきり「闇に言い置く」。一月から六月半 ば過ぎまで、よく、眼をこらしてみたい。
 「寂しい」と叫んでいるやす香を想い、「死なせ」た悔しさ申し訳なさに、妻と読んで、また涙した。
 
* 押村やす香の、06.1月 - 06.06.22「白血病」告知に至る、身心違和の日記である。病状の深刻な推移と心情を告げた部分のみ、抄録。注目される記事を太字にしたのは、私。

        * *

12:23  湖
 
おじいやん(湖)です。

とてもとても心配しながら、六月十日のわたしの「日記」で、やす香(思香)宛てにメッセージを送ったが、見ていないようだ。

からだの具合がそんなに悪いのかと、心配が加わり、まみい(おばあちゃん)とも眉を顰め合っています。

ただ甘ったれてダラケているなら論外だけれど、ぐあいが本当に悪くて大学へも行けないなら、やはりきちんと医学的な対策をしないといけないね。

元気でいて欲しい、とてもとても大切な、二十歳まえだもの。 

 
02:38  はたぼう
 
ずっとベッドの上はつらいね。
お見舞い、何かリクエストはないですか?
 


宛 先 : 思香    「MIXI」メッセージ  祖父・湖
日 付 : 2006年06月22日 10時19分
件 名 : いま読みました。

 いま読みました。 じいやんは泣いています。診断は確かなのだろうかと、ウソであって欲しいと。
 しかし泣いてばかりは居られない。出来る限りをお互いに努めなくては。
 同じ病気と闘っている人を知っています。日々、とてもとても慎重に、しかし今は大学を卒業してドクターです。親子してそれはそれは慎重に一日一日を大切 にしていました。この闘病は、細心の注意と摂生と聞いています。最良のドクターを親に探して貰いなさい。いい主治医。この病気では、日々の指導にも気配り のいい主治医が大事な大事な鍵と聞いています。
 疲労の蓄積。これが、最もよくない亢進へのひきがねになる。余分なムリはゼッタイにだめ。慎重ななかで日々安心して静かな心で元気にくらしてゆくことが 肝要です。我をはらないで、我にも人にも素直に柔らかい気持で。
 百まで生きなさい。しっかり生きなさい。 愛している。 じいやん                

*  一人の優れた素質をもてあましたような、聡明でもあり、また愚かしく日々を孤心に生きた、優しかったやす香よ。
 どうして、この数ヶ月の間にこそ、おまえは親にもっと甘えられなかったのか。なんとこの異様に烈しい危険な容態の毎日に、やす香、お前の身のそばに、日 記の記述のなかに、親の注意深い視線や、優しい声や、差しだす手のぬくみの、希薄というよりも、ゼロに近いのは、どうしたことか。
 そして「死の受け容れ」が、おまえの生涯最大の誇り・尊厳だったって。 えッ? どんなフィロソフィーのつもりなんだろう。
 やす香はそんな誇りよりも健康の回復を、適切な救いの手を、狂わんばかりに切望していた。それは不可能であったのか。
 山形県の中三女子は、やす香の親は、「責任を恐怖しているのだと思います」と推測している。何の責任だろう。親を告訴したり、ばかげたメッセージを世間 に投げかけたり。そうとでも説明するよりなさそうな、愚行だ。
 

* 八月十四日 つづき

* 「未来についてツラツラと…。ずいぶん前から書き途中でほったらかしてあった」とあのやす香はこんな詩句を書き置いてくれた。やす香の思いも願いも、 「未来」にあった。

* 2006年03月07日   
* 四ヶ月と二十日後には自分が病魔に斃されるとは、まだ夢にも思えなかったろう十九のやす香の、この詩句の静かな輝きはどうだろう。わたしは、ベッドサ イドで「サッサ」先生が静かに静かに歌っていられた日、やす香に、「お前は佳い詩人だよ」「ほんとだよ」と褒めた。本気でそう言う。やす香の「MIXI」 日記には他にも思わずわたしを立ち止まらせる詩句が象嵌されて在る。
 やす香から「白血病」と「MIXI」で告知してきた日から、わたしは、散逸させてはいけないやす香日記を、妻と二人で祈るように拾い続けて、悉く保管し た。またやす香に触れて頂いた多くの「声」も、あたう限り採拾させて頂いた。いま、しかし、「思香」へのアクセスを祖父母は、はっきり朝日子により拒絶さ れている。

* 今日は、今年の一月から「白血病」までの日記に、体調の違和が、日を追い月を重ねて深刻に激越に悪化していたあとをピックアップしてみて、その孤独な 経過に暗澹とした。すでに一月十一日にやす香は書いている。


*2006年01月11日 11:18  
* 二月に三月に四月に五月に六月にと、目を覆いたい異様な容態悪化が、扇形に進行している。読むだけで分かる。
 三月に四月に、もうもうわたしはヒステリーを起こし、やす香の病容激甚に「親と相談しろ」と怒り心頭であった。

* それにしても、まみいに最後の最期までくれていたメールの優しさ、聡明さには、妻もわたしもただただ泣かされる。やす香には言ってあった、一人でおじ いやんとまみいを相手にしていたらおまえさんも大変だ、メールはせいぜいまみいに送ってやっておくれと。妻はむろんそれをみな、わたしに伝えてくれるのだ から。

 ☆  気に入る愛情    福
 愛情は伝わる、伝わらないではなく 、気に入るか、気に入らないか。
 その愛を自分のもの(自分という人間)にできるか、どうか、ではないか。それは、親と子でも、男と女でも、お互いが言えること。
 どんな愛も愛に違いはないけれど、
 人は自分(の愛)を届けたい、自分(の愛)にあてがう愛が欲しい。
 いくら愛している、これが愛だと言われても、その愛はあなたの愛で私の愛にならない、私の愛にもなり得る安らぎがその愛にはないと思うことがある。
 秦さんはご自分の確信の愛を以って…父であり…その愛を子へ。
 父はしかし、父であるが、、個「私」だ。
 同じように親である、「父と母」を横並びに考えにくい夫婦がいる。
 母のようには、到底くるめられない父がいる。
 父は自分の気に入る愛情を示してくれない、受けたことがない。
 自分は否定されている、自分は認めてもらえない。
 かつて、朝日子さんが「魂のいろが同じ」と言ったのは、男性に、自分の求めていた愛の気配を感じたから? 自分のもの(自分という人間)になる愛だと。
 父は母と横並びの父で充分だ、否、朝日子さんも物を書く父の子で、物を書く。夫は哲学が専門だ。
 以前どこかで、夫が、子どもが…でなく、自身で大きく羽ばたいてみろよと 声かけされてましたよね。
 父から娘へ、それは物書きとして生きてきた父から、物を書く娘へ、最愛のメッセージと聞き取れましたが。

* ホームページに復旧した『聖家族』を、四章の終わりまで、つくづく読み直していた。
 「どんな家庭の食器棚にも髑髏が隠されている。 (フランスの諺)」と。


* 八月十六日 日  盆あけ 大文字送り火

* 朝一番。ポーランドの柳君に、元気で健康な赤ちゃん誕生の報。おめでとう! 妻と、歓声をあげました。有り難い、充実した長いメールで、わたしを鼓 舞・激励して呉れている。

* また朝日子が「MIXI」のやす香日記の欄を借りて、昨日と同じような、こんなことを書いていると報された。「これって、なんてデタラメなの」と、妻 がまず失笑。困ったコドモだ。


* 資料を幾種類もきちんと整え、新宿高層ビルの、高い階にある法律事務所で、懇意であり、力量に定評ある弁護士さんと、二時間近く綿密に話し合ってき た。この告訴も訴訟、もそもそも「成立の余地」がないでしょうとハナから笑われてきた。これは「脅迫」ですと。もし無思慮に強行すれば、押村側は、二人と も手痛い傷を負うことになりますよと。お任せ下さい、と。
 押村高とは徹底的に闘うが、朝日子は窮地に追いつめたくありませんと言ってきた。
 われわれは、十四年前から朝日子と争っている気など、まるでない。押村「妻」でまた孫の「母」あるから「手は放した」が、それだけのこと。朝日子が依怙 地に泣こうと喚こうと悪声を放とうと、娘は娘、仕方がない。
 やす香の曰くも、朝日子は「謎」だ、腫れ物のように対処するしかない。
 万事、弁護士先生にお任せしてきた。
 妻も大いに安堵し、また回れ右して保谷へ帰ってきた。また、元の暮らしへ戻って行ける。

 ☆ 肝心なところ     やす香ちゃん(=七月末に死なせた秦の孫)は、「家」に暮らしていたのではなく、「孤室(個室)」に暮らしていた!?
 20歳前の子どもです。
 学生、バイト、交友…それに自分の部屋があるので、今頃の子どもは、家族の前にさらす姿が圧倒的に短い。親もまた、然り。
 大人も子どもも、何かに、それぞれに塗(まみ)れ、紛れて、日々を送っている。
 それでも、親は、自分が身を以って知り得ることで、責任云々よりも何よりも、図体が大きくなって測り知れないものも多くなった目の前の(愛しい)子ども にでも、目は離さない。この自分(=親)が出来る最大の(愛)とは、生きるツボを押さえ(てや)ることぐらいで、他人は、本気で気遣うことがない。
 遅い帰宅や、一緒の食卓でなくても、「ちゃんと」寝てるよね、食べてるよね、と親は子に「気持ち」を向ける…。ヨシヨシ笑っている、と。
 一人住まいでなく、同じ屋根の下に暮らす家族四人とお聞きしてるので、同居する子どもの心身の異変に気が付かないほど、(親が)日常に塗れていたもの、 紛れていたもの、それが何なのか、どういうことなのか、ご両親が、家族がこれから生きるためにも、そこのところが、うやむやにできない「肝心のところ」 で、目をつぶってはいけないところだと思います。 
 家族、身内は、大きな問題に触れるとムズカシイ。
 愛はあっても、ひとりひとりが問われることが大きい。   永 
 
 ☆ 私は、私小説、日記文学を、事実の或る一面しか書かれていない、と思いながらいつも読んでいます。
 作者の考えを表現するために、事実そのものが変わらなくても、その順番が違ったりしていると思います。ですから、そこに描かれている登場人物が、モデル となった人と全く同じ人物だと思いながら読んでいません。創造された人物として捉え、どのような主題が隠れているのかを探しながら読んで、楽しんでいま す。読者が小説の中の人をモデルと同じだと考え、どうこう言うのは、違うと思っています。   北海道

 ☆ 本日、HPで「聖家族」読みました。
 思えば私は、ここのところ秦さんの書かれた物を読み追っています。
 何故。
 秦さんの生き方の発するものには、自分の途絶えることがないテーマがそこに見えるからでしょうか。
 私はマセていました。高校生のころ秦さんのいう「身内」論(のようなもの)を、寂しいかな、厳しいかな、自覚してしまって。表面上と違い、オイソレト! 自分の島に誰も立たせないし、また人の島にも一緒に立たない。恋愛結婚、仲良し夫婦だった夫でも、やはりそうでした。まさか島の話はしませんでしたが、最 後まで「解らない」という夫から、私は離れました。
 身内ではなかったので、未練は、だからないのです。
 (子どもは、また別問題です)
 敢えてひとりを選んだり、好んだりする性分は、また切に私が「共に島に立つ」というコトを大事なテーマにしているということで、これは「個」で生まれた 私という人間が、死まで、どのように生きてきたかということに繋がりますから。
 秦さんの書いたものから、目が離せない!    神戸市

 ☆ 大文字 送り火
 大泉から孫娘が一人で京都へ帰ってきて一週間居ました。中学二年ですが背丈はわたしより高くなりました。これ以上伸びたくないと本人も言い、回りも同じ 思いですがこればかりは…。おっとりとして心優しくしおらしい子です。
 左大文字を一緒に見て、パパと、桂にある向こうの実家に帰っていきました。
 大文字の炎に、あのほっぺの愛らしいやす香さんの笑顔が浮かんだようで、心を込めてお見送りしました。
 やす香さんの日記、読んでいて胸が締め付けられるようで、なんとかして助けてあげられなかったかと悔やまれるお気持ち痛いほどわかります。
 奥様共々くれぐれもお大切にお過ごしください。  のばら 


* 八月十六日 つづき

 ☆  8月7日 子供が生まれました。  博
 秦先生、 お久しぶりです。ポーランドへの引越通知以来になりますでしょうか。御連絡が途絶えておりまして、申し訳ありませんでした。
 やす香さんの御冥福を心から思い、お祈りします。やす香さんの死を思うこと、これをおいて我々が死なれたやす香さんを生かすことはないと思いますので。
 7月の初め頃に先生のHPにより、ことの次第は知りえておりましたが、奇跡を願っておりました。いや、正確に言えば、先生に対する言葉が見つかりません でした。これを書いている今でさえ、言葉で伝える何かを見つけられずにいます。先生のそばで言葉なく時間を過ごすこと、それが私の先生へ出来うることと想 像しますが、それもここポーランドにいては叶いません。こういう「今」は、時間ではなく、「此処」という空間が大事のようにも感じられます。
 私は当然ながらHPからしか、やす香さんのことを知るすべがありません。やす香さんにも会ったことも話したこともありませんし、当然朝日子さんにも同様 です。つまり秦先生側からの情報しか知りませんので、公平な判断は出来ないと思います。
 つまり、現状の判断が出来ない状態であることから、逆に私がかつて先生の学生であった頃の気持ちに立ち返り、教授室で、様々なことについて教えていただ き、生意気にも自分の思いをぶつけていたあの頃に帰ることで、何か力になれるかと思いました。
 しかしそう言ったところで、残念ながら先生に「してあげられること」などありません。あの頃から私が先生に出来ることは、私が私でいる、ことです。
 そして思い出すことは、再び「仮面(ペルソナ=PERSONA)」についてです。私は仮面を被らずとも「素の面」で万事に対応できうると答え、秦先生に 「仮面」をつけること自体が人(PERSON)であることと同意とも謂えるのではないか、と言われました。
 さらにその後、示唆をいただいたことに、「未練」という言葉とともに、本当によいと思うこと、そして「今、此処」に「正面から向き合う」ということがあ ります。
 上記二点の先生からの言葉は、一見相反することのように思いましたが、私と先生の間ではこのことについてとやかく意見が混濁するようなことはありません でしたね。私はこれらを、「人として関係を築き上げる」ことは「生きる上で逃げおおせない」事柄であり、その手段としての仮面である。そしてそれら大事な ことに(私という)仮面を被りながらも真正面から向き合い考えることが、人を人として作り上げていくのだ、と解釈しています。だからこそ、先生は、一度作 り上げた人と人とのホンモノの「関係」を自分は大事にしてきたと、私にも伝えてきたのだと思います。
 だから先生、どのような仮面を用意するべきか、私にはわかりませんが、先生のよく言われた「ぐぅーっと」物事が腹のところへ落ちてくるように、朝日子さ んと向き合ってあげてください。
 時間の隔たりを空間で埋めることが出来ることを信じます。

 次に私の事柄です。

 8月7日午前10時10分頃、ポーランド・ヴロツワフ市で無事、子供が生まれました。体重2650g、身長49cmの男の子です。名前を「博琴(ひろこ と)」と名付けました。
 妻の体調もまだ出産による疲れは取れておりませんが、問題はないようです。母子ともに健康という言葉の意味を初めて実感として噛締めているところです。
 異国での出産までの道程は、様々な不確かさに直面し、不安を押さえ押さえしてきた10ヶ月でした。12月の妊娠判明から、チェコでの出産事情などを調べ ました。しかし、それ以上に安心して妊娠していられる心持ちを作り、保つことに腐心してきました。
 また、御承知のように3月下旬にチェコからポーランドへの引越があり、病院、先生ともに一から探しなおさなければなりませんでした。また、日本−チェコ −ポーランドの医療レベルの違いにも正直戸惑いを隠せませんでした。このときの妻の不安は推し量ることは出来ません。しかし、そのようなことを微塵も出さ なかった妻には感謝の気持ちと尊敬の気持ちで一杯になります。
 5月には妻の母が糖尿病及びそれに伴う脳梗塞により入院し、緊急に妻共々一時帰国しました。私は1週間でポーランドへ戻りましたが、妻は3週間ほど多摩 の実家へ留まり、母の面倒を看ました。現在も母は入院を続けております。実はこの3週間の間、お腹の赤ちゃんの成長が遅れたのです。こちらに6月初旬に 帰って来てから、お医者
さんに「小さ過ぎる。」「薬を飲むべき。」「入院しなさい。」と、言われながら不安の中2ヶ月を過ごしました。こう言われた理由としましては、確かに成長 が遅れた部分もありましたが、日本での出産時の新生児の平均体重は3,000gであるのに対し、こちらでは3,500gであることもあるように思います。
 そして8月7日、2650gという生まれてきた体重は比較的小さいことも事実でした。しかし、保育器に入れられる必要もない健康な大きさで無事、外に出 てくることが出来たのは、本当にうれしいことでした。
 普通などないということもわかっていますが、普通と思えることを普通に行なえることが、如何に難しく、そして「願うこと」であるかを痛感しました。
 これらの過程において、大事なものは、受け入れる「事実」ではなく、事実を受け入れる「気持ち」であることも痛感しました。例え事実(可能性と言い換え ても良いかもしれません)が一つしかなかったとしても、その事実にどう向かい合えるのか、どう受け入れることができるのか、と心にしみこませること、気持 ちを作り上げることが、如何に人の気持ちを和らげ、更なる一歩を踏み出す勇気を与えるのか、ということを感じました。
 それらは選択することの自由度を確保すると言い換えることが出来るかもしれませんし、可能性を持ち続けることと言えるかもしれません。
 そしてそれらの一歩を確実に歩み続けた妻に、感謝しています。
 先生と隅田川の花火を見に行ってから、早いもので2年が経ってしまいましたね。私たち夫婦は先生との隅田川の花火で結ばれましたが、その同じ花火が今年 は送り火となったようですね。複雑な気持ちです。しかし、美しい花火だったでしょうね。 柳
 追伸: 息子は「博琴」という名としました。私の「博通」の「博」をつけ、「博く琴の様に響かせる」意味で「琴」をつけました。名前を考える上で先生の 「恒」や、先生から教えていただいた「心」「静」などを考えましたが、残念でしたがしっくりきませんでした。その後、妻と、「こと」という響きの良さに惹 かれ、「琴」としました。あとで気づいたことですが、私が先生の授業を最初に受けたのが、「心」と「春琴抄」についてであったことを思い出し、これにして よかったと、再び思いました。
 息子の写真を添付いたします。ご覧いただければ幸いです。

 * なんて可愛い博琴クン。生彩あふれてどこが優美ですらあるまどかな表情。第一級の表情。父母の愛を一心にもう感じているようだ。ようこそ、赤ちゃ ん! おめでとう、ご両親。あの花火の夜に、懸命に、かなり強引に結婚を奨めてよかったなあ。ほんと、よかった。 
 奥さん、産後はむしろ妊娠中よりも大事に慎重に体調に心配りしてください。夫君は、今まで通りに、一人増員の家庭のよく気が付くお父さんを努めたまえ よ。家の中でも外でも、大事に大事に身を守りたまえよ。嬉しい、待ちかねていた報せでした。ありがとう。 メールで伝えられたきみのひさびさの「アイサ ツ」をとても頼もしく懐かしく読みました。わたしは、きみたちに体系的な何ものも概論などしなかったね。できれば金の小粒のきらきらした輝きのようなこと ばばかりを、ふと記憶して欲しかったのです。
 マルちゃんも元気です。上尾クンもイギリスから帰国しました。林君もいいお父さん。子松君も世界をひろげています。みんなで、にぎやかにいつか話したい モノです。元気に元気に、お父さんはお父さんの、お母さんはお母さんの生彩を放って下さい。奥さんのお母さんの平安も祈ります。また便りをください。
 娘達とのこと、まっすぐ向き合って、おろそかにせず、と。 ありがとう。  秦


* 八月十七日 木
 
* 緊急、ペンの言論表現委員会の開催を求めた。加藤紘一氏の私宅に放火された背景に言論封殺の意図があったかどうか、新聞テレビの報道以外にわたしは情 報をもたないが、少なくも言論表現委員会が開かれていいと判断し、猪瀬直樹委員長に申し入れた。

* 雨、はげしい。

* 依頼されている原稿にとりかかる。小説の新作に気を入れて取り組む。構想を創って行く。


* 八月十八日 金

* 八月は休もうかと言っていたが、妻の気鬱と疲労とを慰めようと、成駒屋に頼んで三部制納涼歌舞伎の第一部だけを観にでかけた。
 黙阿弥の「慶安太平記」を橋之助の丸橋忠弥が大奮闘。女房が扇雀、舅が片岡市蔵、そして松平伊豆に市川染五郎がつきあった。染五郎は、あそこで舞台を大 きく抑えるには柄が細かった。忠弥の酔態、捕り物の奮迅にはいい点をあげるが、それにつけてしっとりおもしろく見せたのが意外にも開幕の一場で、忠弥と、 酒売りの亭主・客の人足三人とが、ちょっと類なく佳い場面を現出していて、気持ちよかった。なんでもないのに、佳い芝居が絵のようにリアルに出来上がって いた。
 福助の「近江のお兼」は、伝説の大力の美女を可愛らしくはんなりと踊って見せた。からみもわるくなかった。
 そしてこれを見に行こうよと言って出て来たのが、舞踊劇というよりダンス歌舞伎の「たのきゅう」で。大和屋一党の慶事二つを舞台半ばの口上祝儀を含みな がら、三津五郎が終始軽快・軽妙にダンスしてみせ、染五郎お「おろち」役で気持ち悪く気持ちよげに「たのきゅう」を威しつけ、返り討ちに小判を舞台にまき 散らしながらむざんに千切れ去る。
 大和屋の秀調、弥十郎、また、たのきゅうの母役中村扇雀はじめ市川高麗蔵、片岡亀蔵らが、気散じに付き合っていた。あははと笑い、三津五郎の踊りの美味 さを再確認して歌舞伎座を出たのが日照りの二時半。

* その足で新宿へ。用を済ませてゆっくり和食。満腹。そして保谷へ。

* 「MIXI」の連載は、例の「徳内」と「死なれて死なせて」だが、今日は後者をすこし長めに書き起こした。十年余も昔の著述だが、今にもそのまましっ かりモノを言っている。


* 八月十九日 土

* やす香を夢に見て、目覚めた。
 夜前も七、八冊も本を次々読んでから枕元の灯を消した。「千夜一夜物語」がまた好調におもしろくなっていた。ただ、このところの肩凝りが、頸筋へ這い上 がっていてあまり心よくない。
 あけがた、つづけざまにいろんな夢を追っていたが、気分しか、覚えない…、おおかた人懐かしい夢であった。
 そして…家の近くを家の方へ帰っていた。
 すぐうしろに連れがいて、妻ではなくもっとずっと歳幼いもののように感じ、建日子か朝日子のように感じ、ときどきふりむきもせず声だけかけていた。
 と… 道には、青々、あえかに蔓だつ草むらが静かにそよいで、白い…ごく小さい蝶の、一つ、二つ、と舞うのをわたしはみかけた。うしろへ「蝶だよ」と声かけた。 ああ、やす香かしらん…。
 「やす香が来ているね…」と声にしかけたとき、蝶がみるみる数を増して、広くない道の、空は青い道の、頭よりわずかな上を、たちまち五十も六十も爪先ほ ど小貝ほどの白い蝶たちが、乱れ舞いにひらひら上下しながら、わたしの…前へ、前へ。
 「やす香がいる」とわたしは口にし、手を、右の掌(て)を挙げて、蝶たちの群れを小走りに追った。空が、黄金色(きんいろ)に…。と…すぐ、ことに小さ な蝶の二つが、からみあうように掌へ来て、そのちいさい一つをわたしは掬うように掌にうけた。
 もう一つはひらひらと掌の上で舞っていたが、ひとつは羽をすこしいためているか、そのままわたしにかすかに傾くように受け止められ、そして…さも、わた しの顔を見るのだった。
 「やす香」と呼ぶと、白い蝶はそのまま…ちいさなちいさなやす香の、「MIXI」にのせているまみいの方へ顔を寄せたあのやす香の「顔」になった…だ が、あんまり小さくて可愛くて、膨らむ涙に白い花のようににじんだ。
 目が覚めた。
 わたしのうしろにずっとついていた幼いものの気配が、あれもやす香であったと、わたしは覚めて感じた。
  執拗だった左頚の痛みがウソのように消えていた。

* 妻はうらやましがり、絵のようねと言う。まこと、夢のような夢だった。
 その同じやす香笑顔の大きくした写真が、手の届く、ファックス電話の受け台にもたれて、いまも…わらっている。

* 自著『死なれて 死なせて』第四章の末尾でこう書いていた。

 ☆ もし世界中に「死」の文藝といえるものがあるとすれば、もっとも多く広く深く「死」を描いているのは、我が国の「謡曲」だろうか。『源氏物語』や 『平家物語』に取材したものは、まず例外なくそうであるが、ほかにも、『隅田川』では母が子に、『海人』では子が母に、『綾鼓』や『恋重荷』では下賎の老 人が高貴の女御に、『砧』では夫が妻に、『善知鳥(うとう)』では鳥獣が漁師に、『松虫』では相愛の友が友に、『松風』では姉妹がともに愛する男に、『求 塚』では二人の男が一人の女に、『藤戸』では母が子に、『楊貴妃』では皇帝が愛妃に、『錦木』では男がつれない女に、『定家』では定家が式子内親王に、そ れぞれに「死なれ」たり「死なせ」たり、まことに、挙げれば際限がなく、もろもろの幽霊が夢と幻に舞台にあらわれては、嘆き、迷い、怒り、泣く。
 私が文壇へでた最初の作の『清経入水(きよつねじゅすい)』は、題が示すように平家の公達(きんだち)の清経が、一族にさきがけて孤独に海にひとり沈ん で果ててゆくという『平家物語』の記事に取材したが、彼の死こそは、平家の人たちに、こぞって「死なれた」という大きな負担と衝撃をあたえたことは、繰り 返し物語のなかで指摘されている。能の「清経」では、「死なれた」妻が「死んだ」夫を恨んで遺品を受けとるのを拒むといった、ごく異色の展開のうちに、夫 婦死別のおそろしい悲しみの深さが表現されるのである。
 歌舞伎や人形浄瑠璃もまた「死」の種々相の多彩な表現で溢れている。ことにそこでは封建的な主従社会における無惨な身代わりの死や切腹死が、また、やは り封建的な身分社会の身動きならなさゆえの、心中死が、あまりに惨(むご)い。
 『義経千本桜』の舞台では、鮨屋いがみの権太は、妻子を主(しゅう)の身代わりに敵(かたき)の手に渡しながら、しかも自らも謬って父親の手にかかって 死なでもの命を死んで行く。狐忠信は、初音の鼓の皮と化した親狐たちを恋い慕うあまり、静御前の身辺に侍って鼓の音色に身も世もなく泣き嘆く。
 『熊谷陣屋』にも『寺子屋』にも『先代萩』にも、身代わりに「死なれ・死なせ」る無惨な展開があり、忠臣蔵では判官がまた勘平が腹を切る。「死なれ」て の嘆きが復讐の「死なせ」に転じ、よくもあしくも人が泣く。『心中天網島』といい『鳥部山心中』といい『曽根崎心中』といった凄い情死があれば、おさん茂 右衛門のような哀れな愛ゆえの惨い刑死もあった。
 舞台でどう美化しようとも、現実の「死なれ」「死なせ」の結末は、いつも酷くつらい「死なれ」の負担を人の心にのこした。お夏は清十郎に「死なれ」て狂 い、お七は吉三郎に逢いたさに江戸を火にして磔(はりつけ)にあった。
 そういえば近世も半ばちかくまで、いま幕末にいたっても、キリシタンの「死なせ」には、世界が目をおおう劇しさがあった。
 愛・相聞(そうもん)の歌とともに、人に「死なれ.死なせ」た嘆きの歌は、挽歌は、記紀歌謡や万葉集の昔から日本人の、心をとらえていたが、古今集は死 をこころもち避け、代わりに恋とならぶ四季の歌を大きく取り上げた。それでも人は死に、つまり人は「死なれ・死なせ」てきたのである。そうであり続けてき たのである。
 なにも日本人の問題とは限らない。世界中、人間の歴史がそうであり続けてきた。いたずらに知識や記憶を誇って網羅する必要など、ない。身近なところで、 ヒットした映画の数々を思い出してみても言える。『禁じられた遊び』では、幼い二人の子の「死なれ」ざまが悲しかった。それだけ彼らの親たちを「死なせ」 た戦禍・暴虐のはげしさにも心は騒いだ。『ウェストサイド物語』のあのトニーたちの死、マリアの悲しみは、何であったか。
 ああ、そういえば、そもそも釈迦の死は、イエスの死は、またソクラテスの死は、人類のために何であったのか。オイディプスの死は、ハムレットの死は、 ジャンヌ・ダークの死は、何であったのか。彼らに「死なれ.死なせ」て人類は何をえたのか、学んだのか。はじめて『ハムレット』を読んで、また舞台でみ て、何人の人が「死なれ」また「死なせ」るのかと震えた。若きヴェルテルを「死なせた」のもむごく、恋するアリサに「死なれた」のもむごく、阿部一族を 「死なせた」のもむごい。
 安楽死や尊厳死の問題は、もう遅すぎるほどに思われる今日の大課題となっていて、そこにも、もはや、死者のために生者が嘆くだけの「死なれ・死なせ」で ない、生きているが故に生きて互いに堪えねばならない「死なれ・死なせ」との真っ向の対面がわれわれには強いられている。

 言い換えれば愛する「対象の喪失」という恐れを、人は、それぞれに「喪失」を予期して日常の覚悟に織り込んで行かねばならなかった。ないしは、そうせね ばならない状況が確度を増しているということになっている。つまりは互いが互いに徐々に「死なれ」つつある、「死なせ」つつある状況、愛する「対象」の 「喪失」を覚悟しながら暮らすという状況を強いられ、それを例えば「無常」といった認識にゆだねてきたし、今後ますますそうなるだろうと恐れねば済まない わけである。
 もとよりこれにも「悲哀の仕事」はついてまわる。必ずしも現に「死なれて」から「悲哀の仕事」が始まるのでなく、免れがたい「死」を予感ないし実感しつ つそれに堪え、また堪えられずに、人はすでに多くの「悲哀の仕事」に従事を強いられている。その場合、死に直面している当人が、ただに自身の不本意な死を 悲しむよりも時に何倍して、じつは「死なれて」生き残る者たちゆえに痛烈な「悲哀の仕事」を強いられる。
 例えばまだ幼い子を残して行かねばならない親は、愛する妻をたずきなく残して行かねばならない夫は、老いた親を残してゆかねばならない子は、みな、我が 事以上に残された者たちの悲しみまでも悲しみながら死んで行かねばならない。
 死別のむごさは、むしろ、ここにあり、例えば歌舞伎の舞台が、えんえんと死に瀕した人物に喘がせてみせる作為には、「死なれる」者のために「死ぬ」者が 嘆くところを見せつけているとさえ言えるのである。
 もとより、それらの多くはとうてい免れることのできない運命であり一定(いちじょう)死ぬるさだめにあらがう力は、人はもっていない。しかし、だからこ そ、無用の死、不急の死、不自然な死、暴力による死、殺人行為は、最大の努力と執念とで徹して避けねばならないのだ。平和への努力とはつまりそういうこと である。

 治せる病気は治せるようにだれもが医学と看護の恩恵に平等にあずかりたい。
罹らなくて済む病気に、出遭わなくて済む事故や怪我に、戦わなくて済む戦争に、いわば過度な欲望や愚かな不注意でとびこんで行ってはいけないのだ。冒険と 無謀とは、どこかで深刻に矛盾していることを悟らねばならないだろう。脳死判定の複雑に難儀な問題もここへ関わって来るのである。
 死は左右できない。しかし「死なれ」ても「死なせ」ても仕方がないのではない。死は必要悪ではなく、死は悪なのである。左右できない悪である。だからこ そ戦っても負けるだけと諦めてはならない、最後の最期まで不条理な戦いの相手なのである。念々に死去するという覚悟も、ただ死ぬ覚悟でなく、それは死を見 返して念々に新生する覚悟なのだ。死ぬまいと死から逃走するのではなく、死ぬと定まっているからそれを見据えて、深く生きることを考えるのが、本筋なので ある。
 しかも大事なのは、己れ一人の覚悟にとどまらず、いつも「身内」を、「他人」を、「世間」を、そして「時代」や「世界」をあい伴って確保されるべき覚悟 なのである。ほんとうに時代や世界が渾身の努力で戦いを挑みつづけねばならないのは、たとえそれが神であろうとも、その名は「死に神」なのである。
 いま私は、だれより妻に「死なれ」たくない。出逢ったその瞬間から、私の人生の戦いは妻を「死なせ」まいと始まった。感傷的で、しかもエゴイズムだとか しこい人には笑われるかもしれないが、人を愛するということは、とどのつまりは、そういうことのように私には思われる。世界中の、ありとある時代の感動を 与える藝術や説話伝承や事件はそれを教えている。ごく身近な人の世のありさまもそれを教えている。
 「死んで花身(芽)が咲くものか」と人は言ってきた。「命あっての物種」と言ってきた。「死んだらおしまい」とも言ってきたのである。それは、冗談で あったか。
 いやいや、それは、かなりの怯えに堪えながらの本音だった。と同時に、人は、それをいつもいつも自分ひとりの励ましに口にしてきたのでは、ない。より大 きく、より深く、より強く、自分の「愛する者たちの命」のために口にしつづけて来た。まさにそれは「祈り」の声であった。「願い」であった。それが「愛」 というものであった。
 「風立ちぬいざ生きめやも」と愛する人は「死なれ」行く不条理に堪えて祈った、祈りつづけて来た、のである。


* 「MIXI」の「思香=亡きやす香」日記に、今日も(押村朝日子・高連名で)、こういうものが出ていますと知らせてくれる人がいた。わたしからは、こ の日記にアクセス出来ないのである。だから、実見したのではないが、伝えてくれた人はいたずらをする人でない、名の知れた大人である。

 ★ 2006年08月19日 09:42  思香   (「MIXI」日記に。思香は先月末に逝去している。)
  本当に、本当に沢山の温かいメッセージをありがとうございました。皆様から寄せられた情報で、発信人を特定することができ、ブログの内容を掴むこともでき ました。
  発信人は、やす香が冷静に死と向き合って終末期医療を選択した翌日、やす香本人に「そのままだと親と病院に殺されますよ、誰か他の人に生きたいと叫びなさ い」という心無いメールを送りつけた張本人のようです。
  当該のブログは、「やす香」の写真と名前で注意を引いた上で、「死なせる」「殺す」「安楽死」などの単語をひたすら連呼するという悪趣味なもので、自分の 別のHPに誘い込み、足跡を辿ってメッセージを遣り取りするのが狙いだったと考えられます。
  また発信人は、そのさいに「やす香親族」を名乗り、やす香や私共のプライバシーを探っているという情報もありました。実際に被害に遭われた方も、何人かお られました。
  発信人が私共により「告訴される」云々と口走り、怯えているのも、発信人自身の行為への「後ろめたさ」ゆえだと思われます。発信人は、かつて女流作家(= 朝日子当人のことらしい。)の著作権を無視して作品を全編無断転載、改変するなどの行為を犯した人物でもあるとのこと。
  それにしても、当該ブログの中で私共の名前が頻出し、演技までさせられていたのを見て、愕然としました。ただ、私共が懸念しておりましたほど、「やす香の 死についての歪んだイメージ」が伝播していなかったことも、皆様のメッセージでよく分かりました。
  ともあれ、ブログは一目見れば虚言と分かる代物で、その内容もMIXIに掲げるには場違いなものに映っていたので「無視するのが良いのでは」、という大方 の皆様のアドバイスに従うことにしました。
  あそこに描かれているのとは無関係に、私共一家3人はお陰様で平穏無事に暮らしております。やす香の遺産でもある開放プールを引き継ぎながら・・・どうぞ ご安心下さい。
  ありがとうございました。
  押村朝日子・押村高

* 内容が毎日少しずつ増補改変されていて、「朝日子さんの精神の状況が心配です」と書かれていた。
 確かに心配。何を言っているのか意味も文脈も不明。なにより、「発信人」として「わたしの名前」を特定していないことで、逃げ腰の「怪文書」に類してい るし、わたしが書かれているような品のないメールを孫にあてるわけがない。メールは、変改出来ずにトップ表示つきで保存される。虚言は効かない。
 わたしのホームページは逃げも隠れもしないで、此処に莫大な質量で実在するし、「ブログ」というのが「MIXIの「湖」名義日記を意味するのなら、また 逃げも隠れもしない内容がすべて公開されている。いささかも怪文書ではない。そしてわたしは、その他に「ブログ」を持つほど、ヒマではない。
 「女流作家」と自称しているのが、万一朝日子自身の自称であるなら、これは、あまりにみっともない。お恥ずかしい。
 いくら何でも朝日子本人がこんなことを書くだろうか、信じられない。しかし夫婦で堂々と名乗っているのだから匿名の怪文書とも言い難い。


* 八月二十日 日

* 困った。しばらくぶりADSLルータが故障しかけている。ランプの一つ二つが点灯せずピキピキ鳴っている。点灯しない限りインターネットは全く使用不 可能になる。光ファイバーはいまも稼働していない。
 いま…復旧している。薄氷をふむ思い。
 頭が働かず、わたし自身固まっているあんばいで、参る。
 涼しければ運動に走るのだが、昨日のような熱暑だと危険きわまりない。

* NHKの国会討論会を聴いていて、それぞれの問題について与野党、もう一歩二歩まで理解の近づいているにかかわらず、いざとなると自民党内部の分裂や 対抗で問題改善へ前展しないのが見えてくる。各国首脳が問題なく祈念・礼拝に立ち寄れる国立の完備した公正な戦争被害者霊廟がやはり必要なのだ。この問題 で小泉総理のたんなる我執がもたらした混乱の罪は重すぎる。
 何度も言ってきたが、あの戦争について、日本人が日本人としてきちんと責任を明らかにしなかったツケが、こんなにも国と国民とを混乱させてきた。戦後日 本の「大人」「政治」「知性」の未熟であったこと、これに尽きる。

* 我が家は、これから、より厳しい事態へ覚悟をきめて立ち向かう。娘朝日子を前衛にたてた、押村朝日子・高の「告訴」「訴訟」が決行されれば、仕方がな い、強い力で対応する。
 たんに威嚇のまま、遠吠えのような情理伴わないいやがらせが続いても、対応する。バカげて腐った根は、抜いて処理しないかぎり両家の不幸は治癒しない。
 話し合って本筋を正すこと、もしドチラにも非とすべき問題があるなら、穏当・正当に正すこと。心情的なものの急速に一時に回復するわけはなくても、時間 の治癒効果に自然に任せうるまで、「話し合い歩み寄る」落ち着きが必要だが、その為にはかなり厳しい場面も必要になろう。やす香の死についてすら、私たち には「聴きたい・知りたい・確かめたい」ことは幾らもある。
 一切私たちとは話し合わない、民事刑事宣伝の三面から私を追究し、95パーセントの法的勝利を確信していると高らかにメールしてきている押村夫妻に、そ んな真似は事実上とても出来まいと、わたしも、代理人も冷静に観測しているが、それでも決行するときは受けて立ち、踏み込んで反撃する。
 しかし私たちは、「話し合い」でのまっとうな落ち着きを一に考えている。押村高はゆるしていないが、娘と争ってきた気はわれわれ両親には無い。朝日子に 父を告訴・訴訟・誹謗などという真似はさせてやりたくない。娘をそこへ追いつめる気はないのである。「バカはやめなさい」ということ。
 すべて、すでに、対策した。

* 例年のように韮山のすばらしい桃を戴いた元青山学院大学学長****さんに、息子が「桃」農家を舞台にしたテレビドラマを書いていることを手始めに、 暫くぶりにながい手紙を差し上げた。

 ☆ 花 
 (家族の夏休みから) 帰宅しました。帰りの車の中で、駒大苫小牧と早実の試合を聞きながら、帰宅して、延長15回引き分けの死闘を見届けました。
  今日は、秋葉原で、中古のシグマリオンVを買いました。三万四千円くらいでした。Vは、予備機として買ったのですが、シグマリオンUより液晶の質がいいの で、主に使うかもしれません。
  曇り一時雨だったので、昨日に比べてだいぶ涼しかったです。
  昨日は浅草をブラブラしましたが、暑くて、二時間もすると限界でした。銀座に移り、デパートのベンチで休憩してから、母と妹と待ち合わせし、夕食を一緒に しました。
  一週間余のお盆休みは今日で終わり。明日は溜まった洗濯物を片付けたいです。
  風はお元気ですか。   

 * お帰り、花。
 久しぶりに 百分間 自転車で快走しました。夕暮れてから道に迷うと帰れなくなるので、夕茜をたよりに、西へ西へ西へ、南へ南へ南へ、そして東へ東へ東 へと走り続けて、迷わずに帰りました。このところ高い血糖値がすこし下がっていました。
 熱戦の十一回以降観ていました。わたしは早実の斎藤投手の佳い顔・表情を、西東京の決勝戦で観ていらい、ファンになりました。じつにしっかりした大人の 風格があります。風、元気ですよ。

* 長い夏休みをうらやましくも一家で遠出していた人達が多い。そろそろ、みな、帰ってくるようだ。

*  また今夜も、「MIXI」の「思香」日記が、錯乱状態のようで、第三者としても見るに堪えなくなっていますと、報せてくれる人がある。わたしは、大分前か らこの日記にアクセスを拒絶されていて読むに読めないのである。

  2006年08月20日       19:54  思香(=押村朝日子・高)
                       ↑
    大変、ご心配をお掛けしました。
    その後も、多くの情報をありがとうございます。類似した別のサイトを見つけたというご報告もいただきました。

     いずれにしましても、皆様のお話を総合いたしますと、発信人のサイトは次のような特徴を持っています。
            1 やす香親族の名を語っている
            2 やす香の写真を掲載したり、名前を連呼したり、まるで売名行為を行っているようだ
            3 その割には、MIXI「やす香日記」だけを見て話を組み立てていて、やす香の闘病や最期の様子についてほとんど知らない
            4 何が何でも自分のHPに引き込もうとする、「〜を見てください」を繰り返す
            5 説明や解説、言い訳が長く、くどい。ほぼ毎日同じストーリーを循環させている
            6 「死」「殺」など遺族の感情を害する単語をわざとちりばめている
            7 「誤診」「安楽死」など北里大学病院を中傷している
            8 誰かを挑発したい様子で、何か情報を得たいのか、日々反論を待っているようだ

     何かお気づきの点がありましたら、ご一報下さいますようお願いいたします。  朝日子・● 
 
* わたしには、こんな品のないねじまげたことは、幾ら何でも朝日子は書かないと思う。こういう頓狂な文体には、あああれだ、あれと似ていると、わたしの 創作の中から想い当たる人があるだろう。
 わたしは、朝日子が人に宛てて、それなりに落ち着いて書いている手紙などを読んでいる。小さい頃から何度も何度も文章の書き方を手を取るようにして教え てきたのだから、朝日子の調子はよく知っている。わたしの読者も大勢知っていて下さる。人は或る程度身につけた文体は、変えようにも簡単に変えられるモノ でない。こういうバカげた駄文を書く人間はそうそういない。 

* 不思議なモノで、ま、普通かややマシな、またかなりマシな文章に、書き手に知られず、数枚分の原稿用紙にたった十個所もそっと手を入れておくと、それ だけでずいぶん作が立ってくる。力ある推敲とは、そういうことである。朝日子の書いてきたエッセイや小説まがいも、本人はまともに書いたと思っていても、 細部にそういう手がこまかに入って、なんとなし立っていることに、本人は気づいていないだろうが。
 文章は謙遜に書いた方がいい。力のあるモノを知った編集者に出会えば、なみのものでは、ひとたまりもないのだから。 

 ☆ お盆の時期になると青々とした稲の上を飛び交う可愛い精霊(しょうろう)トンボや夜空に降るほどの星を眺めながら、ずっとやす香さんの魂の行方を 想って過ごしていました。湖に、こんな安らかな世界をお届けしたいと願っていました。
 戻ってきた東京の暑さは、どこか夢、悪夢のようでぼんやりしています。
 十四日の建日子さんのブログのコメントに、「from: zelkova   2006/08/15 2:19 PM 姪御さんとも関わった医療関係者です。ご家族がどういう方達か、全くわからず関わっていました。亡くなってから、種々しり驚いています。いま、あや しい雲行きになっているようですが、お父様側にも、かなり、かなり、誤解もあるようなのですが、、、。哀しみのために理解したくないのかもしれませんが。 どのように訂正をしてよいのか、当方としてどういう対処をすればよいのか、教えて頂けましたら幸いです。コンタクトをとる方法が分からず、こちらに書き込 みしました」と書かれていました。
 いたずらなのか、あるいは何かがわかるのか、と気にかかっています。
 告訴は避けられないことになったのでしょうか。本決まりですか。
 そうならないことをどんなにお祈りしていたかわかりません。今からでも避ける手だてはないものかと、ただそれのみを願い、そしてむなしく過ごしていま す。
 いつも祈っているのを、時々は思い出してください。どうぞご無理なさらずに、お過ごしください。    帰ってきた 真夏

 * ありがとう。湖


* 八月二十一日 月

* 歯科医院に。そして「リオン」で昼食して帰る。
 わたしはメインに豚の料理を頼んだが、生まれてこの方、こんな繊細で品良く美味い豚料理を食べたことがない。感じ入った。
 妻の真鯛料理も良かった。
 オードヴルもシェフのはからいでそれぞれちがうものが出された。それもすてきだった。デザートはパイナップルのスープ仕立て。冷たくて美味。赤ワイン も。
 この中継点でご馳走を食べて、やっと妻は帰路に一息がつける。佳い店をみつけ、シェフやみなともよく馴染んで、最高。

* 夕方一時間走る。

* 「千夜一夜物語」の「黒檀の馬」が、おもしろく展開している。


* 八月二十二日 火

* 狭苦しくなってきた部屋を、少し工夫して、明るく効率よく模様替えした。書庫に、二メートル近い書架用予備の頑丈な棚板のあったのを利し、即席の安定 した棚を作った。一気に空間を二層化できて、倍の物が整理できた。それでも、まだまだ。

* 頼まれ原稿をじりじり書き進め、「MIXI」には『最上徳内』と『死なれて死なせて』を連載し、日なかには図書館に本をはこび、夕方には、自転車で、 東大泉から石神井三宝寺池へ、そして新青梅街道を保谷新道まで走り、保谷新道を戻りながら郵便本局前で左折、尉殿神社前から斜めに、住吉町を通り抜けて 帰った。最後の長い坂道を疾走して登っては降り、また疾走して登り、三度繰り返してから帰宅。体力はまだ有る。

* 「MIXI」に、わたしのアクセスは遮断しておいて、わたしに当てつけた怪文書が連続して出るらしい。知らせてくれる人が、「世にも不愉快極まる、こ れは男性の文ですね」と、送ってきてくれる。嗤ってしまう下品さであるが、なによりもよくまあこんなものを書くよと、信じがたい。朝日子がこんなものを書 くだろうか。
 なにより、亡くなった孫やす香が可哀想でならない。先日まで「押村朝日子・高」連名だったのが、今日漏れ聞いたものでは、「やす香親族一同」となってい る。

 ★ やす香親族の名を語り、このMIXI日記をやす香の名誉の蹂躙と遺族や病院の誹謗・中傷のために悪用する心無い人物が現れています(この人物は、か つてハラスメントを繰り返した挙句に、逆上してやす香とやす香ママに「生も死も含めた100%の義絶」を言い渡した男で、やす香親族ではありません。親族 一同より「親族」の名を語るのを拒否されておりますのでご注意下さい)。
 対抗手段として、現在、日記には著作権を設定しております。再公開は数日後になります。ご了承下さい。  やす香親族一同 2006年8月21日

* じつに不出来の喜劇である。

 (二十三年一月補足  * 実は、この日から九月七日にかけて、朝日子は木漏れ日名義の「mixi」日記に、おぞましい内容で父親を二十年ないし四十年 に亘る「虐待者」「性的虐待者」「やす香にも毒牙をかけようとしていた」などと想像を絶する虚偽の捏造記事で父親を侮辱し、社会的な名誉を毀損していたこ とが、明らかになっている。
 虐待などの全く無かったこと、あり得なかったことは、今日まで法廷への豊富な反証の数々の提出で、委細明白になっている。)


* 八月二十三日 水

* 逃げない。
 私が、なぜ「MIXI」に、自著『死なれて死なせて』を再録しているか、もし続けて読んでいて下さる方があれば、これが、マイミクシイを約束し合った 「孫やす香の祖父」である私の、「悲哀の仕事= mourning work」であり、もう今はなにもかも自在に理解できる「やす香への呼びかけ」であることを、分かって下さるであろう。やす香も静かに聴き取って呉れてい るであろう。
 私たちの悲しみは果てないのであるが、やす香のためにも、私たちは、残り少ない歳月とはいえ、しっかり眼をみひらき、毅然と生きて歩んで行かねばならな い。
 やす香をこれ以上悲しませても、また恥ずかしめてもならない。
 どう生きるか。
 古稀の関をくぐり抜けてきた、私は、それを思う。
 やす香は、日記の中でも、ここぞという際の「痛い悔い」のように、自分は大事なときに「逃げて」事態を見据えなかった、闘わなかったという意味を漏らし ている。真意は察するに由ないが、あの、我も人にも「笑い」を求めつづけたやす香が、時に突如として「号泣」して友人達を驚愕させたという。
 やす香を、私たち祖父母と、叔父で作家の秦建日子とで最後に見舞ったのは、七月二十四日であった。
 うとうとしているやす香を見守って、病室で私たち四人だけになったとき、やす香はふと眼をひらいて、私たちを認め、まずひと言を発した。
 そのひと言を、息子建日子はこう聴き取っている、「逃げてばかりいて」と。祖母は手を「にぎって」と聴き取り、私はやはり息子と同じに「逃げてばかり」 と聴き取った。
 やす香はつづいてしっかり発語し、「生きているよ」「死んでないよ」と、私たちは聴いた。「そうだとも、やす香」と、私たちは声を揃えた。
 その二日後に、「輸血停止」が「MIXI」に伝えられている。三日後母朝日子の誕生日に、心優しかったやす香は、大勢に、大勢に心から惜しまれて永逝し た。

 (小説家として人間の情理を多年読んできた私は、此処で書いておく。
 朝日子は、おそらく自身の誕生日を「考え」に入れていただろう、と。自分の誕生日を、二度と「おめでとう」と思うまい、言われまい、と。それが、愛児を 「死なせた」母の身を切る悔いと「悲哀の仕事=mourning work」とであったろう。もし当たっているなら、父も母も、娘朝日子とともに泣きたい。)

 そう、大事なときに「逃げて」は、心行く「生」はつかめない。「逃げるが勝ち」という如才を一概に否定しないけれども、痛い悔いは、「逃げた」ために生 じることが多い。
 私たち祖父母は、愛する孫を「死なせた」悔いと咎を身に負いながら、決して老いの坂を、逃げない。
 
* 武蔵野の道は面白い。七十分、走りに走る。今日は家から一筋の細道を、どこまでもどこまでも道なりに進んでいった。ひばりヶ丘の南の方をななめに抜け て、まがりくねって、ついには新青梅街道大通りの北原の辺へ出た。初めて通る裏道だった。北原から武蔵境の方へどんどん南下していたが、夕日の落ちて行く のを横目に東へ向きを変え、保谷第二小学校わきをすり抜け、武蔵野市の方へ深く入り込んでいった。武蔵野市は緑の整備もよく、綺麗な街だ。結局、西武線武 蔵関駅のちかくへ北行し、保谷へ戻った。七十分。

* 北海道から帰った息子たちが、愛猫グーと鶏卵ほどの亀とを引き取りに来た。グーは心優しい温和しい猫だが、マゴの三四倍の十五キロほどもある巨大猫。 亀と来たら暖冷房つきの大きなケースに入っていて、神経質に気温に反応して、すぐ死にかける。
 妻も私も、だれよりも我が家の黒いマゴが、へとへとに疲れた。一度はグーが外へ出て行方知れずになりかけ、妻とマゴとは肝を冷やして捜索に協力奔命。堪 らん。
 やっと、マゴといっしょに熟睡できる。

* 「MIXI」の押村日記は、どっちにしても夫婦「合作」と読むしかないよ、わらってしまうねと、建日子。あれだけ大騒ぎしておいて、告訴・訴訟は保谷 の「自作自演」とは、インテリジェンスはどうなっているのだろう。いずれにせよ朝日子に裁判などさせまいために、私たちは抑止に努めた。
 あんな幼稚に愚かしいことをトクトクと「MIXI」の公衆相手に遣っていたら、大学教授の地位も失いかねませんねと、法律事務所はそこまで心配している が。

 ☆ 風が吹くと、嬉しくなります。暑いですね。。
   散髪してきました。三時間くらいかかりました。つっかれたあ。お尻が痛くなっちゃいましたよ。
  サイクリングが順調のようですね。風は日に焼けたかしらん。車通りの少ない道を選んで走ってくださいね。
  原稿、がんばってください。 花

* 頼まれ原稿、二十五枚脱稿して送稿。もう一本ある。私用でも、ある。ある。次々片づけて行く。「ペン電子文藝館」でも一、二未解決の用を残している。 やす香との別れこのかた、いろいろ煽られてきたけれど、専門家の助言を受けながら、元の軌道へも戻って行くし、新しい路線へも躊躇いなく踏み込んで行く。

 ☆ メール嬉しく。こちらは夏時間で日本と7時間の時差。今夕方四時半です。ベルギーをまわって九日,アントワ−プです。
 明後日アムステルダムから日本に帰ります。
 ベルギーのロマネスクの寺院を主に廻っ ていました。
 今日はささやかなショッピング。
 ル−ベンスはあまり好きではないのですが,教会のともすれば陰気な中で見ると彼の俗的な明るさに救われます。
 一日のうちに雨が降ったり晴れたり目まぐるしく,気温は二十度位,一日一回しっかり食事をとり,体調に注意しています。
 かなり歩きまわっていますが,痩せません!  鳶

 * 血糖値には少し好結果を生んでいるが、自転車でいくら走っても、わたしも、痩せません!

 ☆ 『死なれて 死なせて』はしっかり、しっかり読んでいます。 「MIXI」でのコメント

 ☆ 「逃げない。」
  『死なれて死なせて』しっかりと読ませて頂いております。
 ただただ、それだけをお伝えしたく。
 しっかり、しっかりと読みました。
 貴方様はやす香さんのおじいやんです!!
 ちゃんとおじいやんの気持ち感じます。
 今は、どうぞご自身、そして奥様 お大切に。
 どうかどうかご自愛下さいませ。      「MIXI」でのメッセージ

* 感謝。


* 八月二十四日 木

* 夕方、ゆっくり、しっかり七十分、自転車で走ってきた。すべき仕事も順調に動いている。

* 小沢昭一さんから岩波文庫の『放浪芸』を贈ってもらう。小沢さんの本を、もう十指できかぬほど戴いていて、どれも興趣に富んでいる。思いもよらなかっ たいい出逢いを、これで、何年ものあいだ喜んでいる。

* 八月もあますところ一週間になり、月が変わるとまたどっと忙しくなる。
 さっき大阪讀賣の米原さんから大阪城の薪能を観にいらっしゃい、関係者席を用意しておきますとお誘いがあった。パンフレットに原稿を頼まれていた。気の ふさぎがちな日々と察しての招待で、ふっと夢を惹かれる。どうしようかなあ。
 九月には歌舞伎座で「秀山祭」初代吉右衛門の追善興行がある。高麗屋・播磨屋兄弟の競演が昼夜楽しめる。また加藤剛主演の「コルチャック先生」が国立東 京博物館で公演される。招待されている。気を晴らし晴らし元気に過ごしたい。

 ☆ 今日は蒸し暑かったです。風は今日もサイクリングなさいましたか。
 風の走り抜ける場所は、どんなところでしょう。
 夏休み、わたしははじめて四国に上陸しました。
 香川、高知を抜け、徳島県西祖谷(にしいや)にあります、かずら橋に行ったんです。
 地上十メートルくらいの高さに架けられた木の吊り橋は、観光名所らしく人がたくさんで、橋を渡るのに、二十分くらい並びました。橋はワイヤーで補強して あるのですが、揺れますし、足元から下がよく見え、結構恐かったです。
 西祖谷は深い山で、急な斜面に家々が建ってい、この辺りの人は足腰が強いだろうなあ、と眺めました。近くに「平家屋敷」がありました。決して住み易いと は思えない山あいに暮らす人々は、平家落武者の子孫かしらん、と思ったり。
 かずら橋から車で一時間弱のところに、四国の水がめ、早明浦ダムがありました。こちらは山を登るという感じはまるでなく、町のすぐ傍に巨大なダムがあっ たので、ちょっとびっくり。
 車で走っていると、まさかこんなところに、という山奥にも民家があります。海の傍もいいけれど、山の深遠な空気や、木立のあわいから射す光が懐かしく、 ほっとしました。山育ちなので。
 そして、日本は、ほとんど田舎でできていますね。   花

* 四国は、阿波、讃岐、伊予へは渡っているが、土佐は知らない。じつは土佐へいま或る関心が向かっている。行ってきたいなあと思う。

* 建日子作の「花嫁は、厄年!」観た。建日子の、また岩下志麻と篠原涼子のだから観ている。
 わたしには、自作ながら『北の時代最上徳内』の達成感に心を惹かれる。蝦夷地と現代とを把握し得た「方法」と、細部にいたるまで「表現」のこまやかさ、 つよさに、あの旅の懐かしさがこみあげる。地味な仕事だと思い思われてきたが、「天明蝦夷地検分」の歴史的な仔細をただ説明的にでなく、北海道や、見も知 らぬクナシリ、エトロフ、ウルッブ、の風光や厳しい自然とともに、あたう限り想像力を駆使して書き取れているのが、我ながら面白い。
 わたしの、この方法も文体も、オリジナルで、こういう行き方の作をわたしは他に知らない。長編小説『親指のマリア』『冬祭り』『みごもりの湖』『罪はわ が前に』そして『北の時代最上徳内』のどれ一つも同じ手口でなく、それぞれの「方法」と「趣向」を貫いた。今、読み返しながら、何ともいえず「徳内さん」 がわたしは好きだ。キム・ヤンジァも好きだ。

* 「MIXI」の『死なれて 死なせて』も三十回連載で終わる。
 『徳内』も終われば、そして、やす香ももういないし、「MIXI」を撤退してしまうかどうか、迷っている。


* 八月二十五日 金

* 暫くぶりに夕方から新有楽町ビルの故清水九兵衛追悼展に出掛け、奥さん、ご子息八代目六兵衛さんにご挨拶してきた。京都でのご葬儀に弔辞を求められて いたが、ちょうどやす香の永逝と時をともにしていたので失礼させて頂いた。ついこのあいだ、京都美術文化賞の授賞式や晩の嵯峨吉兆での理事会でもご一緒し てあれこれお喋りを楽しみ合ってきたのに……、はかないお別れとなった。
 会場は、さすがに文学系の人は一人も見かけなかった、そのまま失礼して久しぶりにクラブに行き、66年もののすこぶるうまいブランデーを、サーモンを 切って貰って、たっぶり呑み、そのあとクラブの特製だという鰻重を頼んで食事にしながら、九大の今西教授にわざわざ送って頂いた、或る古典の、ながい研究 論文を半分近く読んできた。
 アイスクリームとコーヒーをゆっくりと。クラブは客が多かった。ホステスを二人も連れ込んでいる社用族もいた。

* 一階のアーケードで、妻に腕輪にもなる時計を土産に買って帰る。この夏は旅もならず、さぞ気もくさくさしたであろう、元気を回復して貰わねばならぬ。

* 車中は、文庫本の、アラビアンナイト。どんな雑踏も満員も忘れてしまえる。

* 信じられない下品さで、朝日子自身が、ミクシに新しい名前で、わが母親を嘲弄するような日記を、とくとくと書いていると人に報され、情けない限り。
 書くなら、堂々と、われわれのアクセスを拒んだりしないで、オープンに書いたらいいだろう。
 わたしは「MIXI」であろうと此のホームページであろうと、押村や朝日子達のアクセスをこっちから拒むような、卑屈な真似はしない。ソシアルネット で、人に読まれるのが約束事の場所で、引用すれば著作権を侵す物として法に訴えるの何のとタイソーに言っているが、「MIXI」の精神にも背いてよう。誰 が読み、誰がコメントしても自然当然の建前なのに、居丈高なのはよそながら恥ずかしい。

* 「MIXI」でのやす香を思う「悲哀の仕事=mourning work」は、ちょうど三十回三十日かけて『死なれて死なせて』連載を終えた。
 朝日子のわたしに対する告訴・訴訟の愚をさせず、他方押村高とはとことん話し合うべく、弁護士の「助言」により裁判所に対し「民事調停」を申し入れ、受 理された。遠吠えのように繰り返し告訴の訴訟のと無意味に喚かれつづけるより、踏み込んで向き合おうと思った。「逃げない」と謂う意義であり、第一回、九 月の調停日ももう通達される。


* 八月二十六日 土

* 以前NHKラジオで四回に分けて話した『日本語で「書く」こと「話す」こと』を「MIXI」に四回分載することにした。

* 八月はもう五日しかない。つらい七月、イヤな八月だった。あます四日五日、すこし寛ぎたい。

* 夕方、まわりまわってひばりヶ丘に出、東久留米市から新座市、大泉の方へ大回りしてちょうど一時間、自転車で走ってきた。起伏多く、いい運動ができ た。

* 久しぶりに荷風の短篇『勲章』をスキャンし、校正している。荷風など読んでいると、心持ちが落ち着く。会員から預かっている作品もあり、とりこんでい てつい棚上げしていたが、きちんと処置したい。
 今まで繁雑・混雑の極みであった機械部屋の右ワキが、わたしの工夫からとても明るくすっきりして必要な本へも手が出やすくなった。もっともそれは椅子か ら振り向かない限りの話で、いちど振り向くと、まだ、かなりひどい有様。だが、片づくであろう希望は見えている。

* 近刊のあとがきでわたしはこんなふうに書いている。

* 大久保(房男)さんの尊重されるようには、わたしは、文士として「のたれ死に」しようとは思わない、が、伊藤整の説いたように、わたしもまた物書きと しての根は「ゴロツキ」に近いし、その思想に殉じたい気がある。好もうと好まずともついには「のたれ死に」するのであり、だから、書きたいことは何として も自由に書くのであり、へんに筆を曲げたりしないし、自分の恥も他人の上の取捨も遠慮なく、それを書くべきだと思えばそれを書くことにしている。親類縁者 や知友の中に、まことヤツは「ゴロツキ」だとわたしのことを想っている人は多い。だが、わたしは、敬愛した漱石や藤村や鏡花や潤一郎の、また永井荷風や徳 田秋声や志賀直哉や瀧井孝作や高見順の文学精神に学んできただけのハナシである。いやいや、こういう人達とくらべて自身の「俗」を恥じているだけのハナシ である。
 
* ゴロツキという言葉はきついが、知性派文士の代表格だった小説家・詩人さらには卓越した文藝批評家であった伊藤整は、最も文士らしい文士は高見順のよ うな人で、あれは「ゴロツキ派です」と言っていた。
 伊藤さんはまた「日本の文士にはプライバシーはないんです」とも言っていた。こういう意味であったと大久保さんは伝えている。「文士自ら己のプライバ シーをかなぐり捨て、一般市民ならひた隠しにする恥しいことをさらけ出すからだ、つまり作者が傷つきながら血を流して書いたものが読者に感動を与える」 と。「これが日本独特の文学風土」だと。伊藤整が「ゴロツキ」という意味には、「一般市民」の「世間」から眺めた文学者・文藝家への視線と陰口を積極的に 逆用したまでの個々と読み取れる。
 時代はうつり動き、かならずしも伊藤整のいうままでなく、大久保房男氏の共感するままでもない今日の文学風土ではあるけれど、こと「私小説」に拘泥する ことなく、わたしは文学に生き文藝に生きてきた一切を賭して、大本においてこういう精神を肯定している。敬意を抱いてきたのである。
 このこと、ひと言、書いておきたかった。

* 芹沢光治良のご遺族に戴いた『人間の運命』は近代日本文学の一二の大作で、わたしは、ぎっしりつまった六冊本のようやく第二冊めに入っている。一冊目 は第一、二巻を収めていて主人公森次郎の少年時代を、生家と天理教に奔った父母との、また母の縁家石田家等との、入り組んだ漁村での暮らしを書いていた。 富士山麓、沼津に近い海浜の貧しい漁家と信仰との問題点が具体的に執拗に説明的に縷々書き綴られて行く。
 そして第二冊目では次郎は貧窮に追われる好学真面目な一高生であり、大学も目前に、時代の動乱にも恋にも文学にも、そして経済生活にも奔命の日々を過ご している。悠揚せまらざる、しかしこれも私小説であるが、印象は西欧の教養小説に近い。


* 八月二十七日 日

* 孫やす香の遠逝から一月経った。なんということか。

* あれだけ親を罵倒し、告訴の訴訟のと無残に言いつのり、弟建日子が懸命に「話し合い」の場を用意しようと奔走したのも一蹴しておいて、それで、今、 押村たちは何をしているか。
 四十六年前に「朝日子」という美しい名前を親に享けながら、今は「木漏れ日」と名乗って私たちの娘は、「MIXI」に、生みの母や父を愚弄する駄文を書 き散らしていると聞く。可哀想に。なさけない。

* 朝日子、いい小説を書きなさい。はずかしくない小説を堂々と立派に書き上げ、父親や弟を顔色なからしむるがいい。それによりなにもかも誇らかに乗り越 えて行くがいい。風船玉を針の先でつついて、いじましい空気ぬきなどするんじゃない。パーンと大きく爆けるがいい。おまえのやす香は、それをママの名誉と 呼んで、心からよろこぶだろう。
 やす香、ママを手伝ってやりなさい。
 おじいやんも、書く。

* 奈良から、栃木から、素晴らしい葡萄をたくさん戴いた。わたしは、何でも美味しく戴いている。今日も八十分たっぷり、武蔵野を自転車で走り回ってき た。体重は少しも減らないが、体調はすっきりしている。

 ☆ 今日はクーラーいらずでした。涼しいといいですね。激しい夕立は歓迎しませんが。
  家でのんびり過ごしました。
  映画「真珠の耳飾りの少女」を観ました。
  画面がすべて、フェルメールの絵のようでした。
  風はおしごと三昧の一日でしたか。 花

* 「噂の二人」を観た。オードリー・ヘプバーンとシャァリー・マクレーンという、モノクロームながら豪華版。男優がジェームス・ガーナよりもう少し張り 込んであるとよかったが、名匠ウイリアム・ワイラーの間然するところない作劇。
 シャァリイ・マクレーンの陰翳ある分厚い細やかな演技力が、みごと、みごと。女学校の共同経営者で親友ヘプバーンへの愛に気づいて行く、そこへ追い込ま れて行く女教師を、さすが宝石のように彫琢して行く。
 ヘプバーンも悪かろうはずなく、顔合わせの意外さが大成功していた。名画の一作と数えていい、一瞬も眼がはなせなかった。

* 「真珠の耳飾りの女」は池袋の映画館で観た。フェルメールの絵のように確かな画面の深さに感嘆した。適役であった。

* ジャン・レノ主演の凄いような氷河映画を観ていたが、途中から沢口靖子主演の舞台にチャンネルが変わったので、わたしは二階へ上がってきた。映画の続 きを観るのが楽しみ。途中まで見応えがあった。「薔薇の名前」に感じが似ていると妻は言う。時代はちがうけれど、その感じ、わかる。

* 映画も、久しぶりだ。


* 八月二十八日 月

* やす香、おはよう。

 ☆ まだまだこれからと言うお歳でしたのに…お慰めする言葉もございません。今はまだ、お孫様との切ない思い出の中におられると存じますが  くれぐれもお身体お大切にお過ごし下さいませ。  「生死ー如」とは、70歳近くになってようやく理解出来る様になりましたが本当にこれからは一日一日そして一瞬一瞬を良い縁に触れ合いながら大切に生きて 行きたいですね。お孫様の分もお幸せにお過ごし下さいませ。お孫様のご冥福を心からお祈りいたします。奧様にもくれぐれもお元気にお過ごしになられます様 よろしくお伝え下さいませ。  あやめ 奈良市

* 歯医者に。やはり帰りに「リオン」は外せない。前菜の、熱いグラタン風が嘆声を禁じ得ない美味さ、参りました。肉料理にした。デザートのエスプレッソ 仕立てのアイスクリームも佳かった。赤いワイン。
 昨日今日、心もち暑さも控えめで過ごしよい。それでも江古田駅の階段で妻はへこたれた。涼しい空いた西武線で息を吹き返し元気に話していた。パンを買っ て、タクシーで帰宅。

 ☆ ゆめ 
 夏は旅と読書と俳句で過ごし、先日、インドネシアへの旅から戻りました。いま改めて日本の夏を味わっている所。今回で3回目となりますが、バリ島の山間 部の村・「ウブド」に2週間あまり滞在しました。爆破テロがあった海辺のにぎやかな「クタ」あたりとは全然違い、棚田や渓谷がある静かな農村。舞踊家や音 楽家などたくさんの藝術家たちが暮らしています。最近では「デトックス」とか「癒し」の地として人気が出、観光客もたくさん訪れるようになって、昔の素朴 さは若干薄れてきましたが、それでもまだまだ根元的な人間の暮らしが随所に残っています。
 人々は日の出と共に起きて田圃仕事、真昼は暑いので昼寝や家の中で神様に捧げるお供え物を作り、夕方になると水浴びして神様に一日の礼を行います。いま は乾期で冬(日本とは反対)なので比較的涼しいのですが、それでも赤道直下の亜熱帯のこと、昼は28度〜30度近くになります(ただし夜は山間部なので、 肌寒いほど。エアコンは不要です。)
 村の中心部に古い王宮跡があり、広場では毎晩踊りや音楽が披露されます。少女(処女)舞「レゴンダンス」、善悪が剣をもって闘う「バロンダンス」、満月 と新月の晩だけに行われる「ケチャ」など、何度みても素晴らしく興奮します。できればここで一生暮らしたいくらいですけれど、そうもいかないので、次回は 10月の終わりから11月のはじめにまた1週間ほど行くつもりです。(物価は日本の十分の一ほどなので、贅沢しなければそんなに費用はかかりません。)
 9月4日から7日まではソウルにいってきます。知人の韓国人の絵描きさんが毎秋、銀座とソウルの明洞で個展をしますが、そのオープニングパーテイーに参 加をかねての旅です。仮面劇をみたり、韓国の焼き物村へいったり、美味しい冷麺を食べたりしてきますね。
 俳句一日一句はがんばって続けています。これをはじめてから、少し生活への目が変わりました。一番変わったのは音に敏感になってきたことです。これは意 外でした。いま我が家のすぐ外の林は、まさに蝉時雨。もう夏は終わってしまう、と声を限りにないています。7年もの間暗い土の中で眠り、やっとお日様をみ てもそのいのちは1週間しかないのですね。いま、その滝のような蝉時雨のなかに居て、しみじみと生きていることの嬉しさを感じています。
 追伸 ようやく「千一夜物語」読み終えました。
 最後の大団円は本当に嬉しかった! 

* 海外を旅してきた、海外へ旅に出掛ける、というのが、ほとんど女性であるのが、近年の大特徴。時代がよくなったか、どうか、は安易に謂えないが、いい ことだ。ただ、こうは思う、先日、亡き市川房枝がテレビで話しているのを聴いたが、婦人参政権を手に入れるまでのすさまじい男性社会との葛藤と努力。そう して一つ一つ手にしてきた権利や自由を、むざむざとまた手放さないで済むように、また奪い去られないように、賢い選挙権行使は忘れないで貰いたい。


* 八月二十八日 つづき

 ☆ 鴉様へ  
 東京はいくらか暑さが和らいでいるでしょうか。お体大切にお過ごしでしょうか。
 週末に帰国して以来、徐々に日常に戻っています。帰国当日から何故か眠る時間は日本での日々とまったく変わらない時間になりました。二晩ぐっすり眠れた のは本当に幸せでした。一気に回復したいと体が叫んでいるような感じでした。が、大袈裟なものではなく、一人旅の疲れや時差ぼけから抜けて、涼しかった ヨーロッパから西日本の残暑に早く適応して・・そのためにもう少し時間が必要ですが。週日が始まり、今朝は友達数人と電話で長話したりして時間が過ぎてし まいました。
 HPを閉じる可能性あるとの記載を読んだのは、旅に出る直前でした。どのように状況判断したらいいのか分からず、ただただ旅行の準備を脇において、わた しはHPの記載をコンピューターにコピー保存する作業をしました。(お笑いください。でも、愚かに慌てるなかれ、慌てん坊じゃなあ、など決して言わないで くださいな。)
 旅行中、旅先のインターネット・カフェやホテルのロビーにある器械からHPの様子を知りたい衝動にかられましたが・・怖くてそれさえ避けてしまいまし た。できませんでした。
 帰国して今日午後になって初めて、きょう、ゆっくりゆっくり書かれたものを読みました。繰り返し読みました。わたしが感想をどんなに述べても言葉足らず になりましょう。
 この一ヶ月、つらい時間の流れの中でいっそ精力的なほどにあなたは書かれています。
 既に既に、あなたが言葉を尽くして書かれています。そして、

 「わたしは「物書き」以外の何者でもなく、それしか生きる道も処世の道ももたない。書いて人の胸にうったえる以外手はない。それが法にかなうかなわぬは 知らない。わたしが、わたしに、書いてうったえよと奨めることは、書くのである。賢いことでないと言われても、賢いというのはそんなに尊いことかと思って いる。」

と。
 一切はそこにあります。物を書く人・あなたが決してHPを閉じたり、書くことをやめることはないのだと、改めて強く思います。
 現実においても、あなたが毅然と状況に対処されていかれるのを確信できます。そしてたとい裁判になっても恐れることは何もないのだと思います。

 夏の暑さが大の苦手なわたしは、夏の旅行はまったく考えていませんでしたのに、何故か説得されて、そして行く以上はと、例の如く欲張りになりました。
 八月八日に発って二十五日に帰国、十八日間の旅行でした。その間ロンドンでのテロ未遂事件などニュースも耳に入りましたが直接的な影響を受けることも脅 威に出遭うこともありませんでした。
 十二日から一人でオランダとベルギーを・・以前立ち寄った街は避けて、殊にベルギーを丹念に廻りました。思いがけない避暑を兼ねての良い旅になりまし た。相変わらず1ユーロ150円近い状況で金銭的には決して優雅とはまいりませんでしたが。
 旅のこと、書き溜めたメモ、手紙もありますが、まだ整理できません。本当は旅の途中から、推敲も整理もせず送る方が本来でいいのですが、裁判のことなど で忙しく「交信」できないとのあなたのメールに・・いささか悲しくなって、そして「遠慮」して書けなくなってしまったのですよ。
 これから少しずつ反芻し楽しんで旅を思い起こしたい。帰ってくればそれなりの日常のさまざまに取り囲まれています。子供たちのことが現在は一番の問題の ようです・・。
 夕方になってしまいました。今日はここまで・・。 鳶

* 民事調停への陳述書を書いた。むろん、調停の申請であり、訴訟でも告訴でもない。 


* 八月二十九日 火

* 栃木県の読者からやす香に供華を贈られる。写真の前に。写真が、ときに笑顔に、ときに寂しそうに見えるの、と妻は言う。

* 法律事務所で、今後の「民事調停」進行に関し入念に打ち合わせてきた。

 ☆ 湖様 短いフィレンツェへの旅から昨日戻りました。街はアメリカ人や中国人の観光客で溢れていました。  波

* もう過ぎた多くは忘れ、次の仕事へ取り組んで行く。

* 正岡子規に「死後」というエッセイがある。死を主観的に考えると、ことに彼のように重篤の病につねに苦しんで臥していれば、堪らない不愉快と恐怖とが 輻輳して煩悶する。客観的に死を考えるのは容易でないがも不可能でもない。主観から客観へかろうしで転じて行くことで、子規は、死ぬことと、死後の処置さ れよう、葬られようについてあれこれ弁舌し文筆する。面白いとも謂え、つらい読み物でもある。
 死に間近にいての文筆家の日録では、よく、わたしは、子規と中江兆民と女性である中島湘烟を対比的に思い出す。湘烟の微動だにしない死への足取りに最も 畏敬の念をおぼえたものである。兆民も子規も、比してのはなし、やや騒がしく、しかしそこが懐かしくもある。湘烟女史の達観は人間離れしている。

* 土田麦僊は画家として最高に近い域にあったが、まだ鈴木松年の膝下にあり、松岳と号していた十七歳頃の「幽霊図」が、紳助の「お宝鑑定団」に登場し、 喫驚。初見。驚嘆した。


* 八月三十日 水

* 「朝日子や同僚弁護士の強い薦めもあり、メディアにおける侮辱、プライヴァシー侵害で(私・秦恒平を相手取り)法的手段を取ることに決めました。」と 娘婿の押村高が、当の私にでなく、妻と息子宛にメールを寄越したのは、「八月二日」であった。
 息子秦建日子から「話し合い」のための提案メールを受け、しかしこれを拒絶して、「明日手続きを開始し、来週中頃にも司法プロセスが機能し始めますの で、そうなると、別ルートで和解を話し合うこと、またこちらの訴訟方針に支障をきたすような解決策を話し合うことは、できなくなります。再来週はちょうど その頃かと存じます。
 建日子さんの折角のお申し出に応ずることができないのはまことに心苦しい次第ですが、時期的な問題もあります。事情ご賢察のほど、お願いいた します。 押村高」と、言って寄越したというのが、「八月十三日の午前」だったと息子から聞いた。
 「告訴・訴訟・誹謗文書配布」で威嚇し続けていたのは押村高と妻であり、われわれは、押村とならいつでも対決するが、朝日子にはそういう愚行をさせまい と苦慮し続けた。
 「誹謗文書の配布」など出来るわけがありません。それでもなお「告訴・訴訟」を朝日子さんが強行するというなら、その前に「民事調停」を申請しましょう と、ペンの会員で知友である弁護士は奨めてくれた。

 氏は、しかし、押村夫妻の言うこんな告訴を受理する警察はなく、こんな訴訟に及んで最高裁まで闘える何の根拠もありはしません、バカげていますとわらっ ていた。よほどタチのわるい弁護士ならともかく、普通に考えて、とてもありえない話ですと。威嚇や脅迫のための自作自演でしょうと。実はそれならそれで、 こういう威嚇や脅迫は「犯罪行為」にすら近いとして反撃することも出来ますよと。
 わたしも息子も、押村が裁判へもちこめるなど不可能としか思ってこなかった。児戯に類していると。
 はたして今日まで、押村から告訴や訴訟に及んだ形跡は何もなく、それどころか聞き及ぶところ、(と言うのも、「MIXI」のブログを、朝日子の「木洩れ 日」とやらも、高も共用の「思香」日記も、私のアクセスを「拒絶」しているから読めないのであり、おそらくそんな処置をすれば平等に彼等から私の連載など も見られないのであろうかと思う、分からないが。私は、アクセスを彼等に拒絶するような自信のない真似は一切していない。) 
 告訴も訴訟も、私たちの方での一人芝居、自作自演であったとか、その他、生みの母親を愚弄したり、いろいろ愚かしい駄文をは書き散らしているらしい。な ぜ、そういう自身をイヤシクするような誇りのない真似が平気で出来るのだろうと、人ごとながら、恥ずかしい。

* 九月から民事調停が始まったら、押村教授も教授夫人も、正々堂々出席し、人格に支えられた公正で平静な物言いで、話し合いに応じてくれますように。 


* 八月三十日 つづき

* 萩の、三輪壽雪の陶藝は魅力に溢れていた。わたしは、日頃、ぐいぐいやりたいときは、壽雪創る豪快で品位高い大盃で酒を呑んでいる。土味にぶあつに白 雪が絡んだようで、器胎も凡でない。
 萩焼がわたしは好きで、叔母から佳い茶碗を二枚相続している。蹴上の都ホテルで大きな茶会をしたとき、その萩の茶碗を贅沢な替え茶碗につかったのを懐か しく覚えている。床には、小堀宗中の月一字の軸をかけた。

* 久しぶりに、中華料理で、マオタイ、佳い紹興酒を楽しんできた。次の新刊のために用意した原稿を街で読んできた。

* 九月に、三鷹で、音楽=声楽の会のお誘いがあった。八月は、もう一日。不快なことの多い八月であったが、今日は久々に街に出て、ながく畳んでいた羽を ひろげてきた。美しいものを見るのは楽しい。気稟の清質最も尊ぶべしと芭蕉は言う。


* 平成十八年(2006)八月三十一日 木

* 加藤剛と俳優座が紀伊国屋ホールで演じ、NHKが「芸術劇場」に撮影したフィルムを、必要あって板にやきつけるため、二度観た。もう幾度も幾度も観て きたが、この「心」との出逢いが、わたしの人生の幕開きだったなあと思う。

* 長谷川一夫と香川京子との競演した溝口健二監督『近松物語』を、久方ぶりに観て、感動を新たにした。おさん茂兵衛の悲劇が、さすが近松の原作、きっち りと把握し表現して神撫にいささかのおろそかもない。宮川一夫の美しい黒白の写真にも魂を吸い取られて行く。なによりもあのようにひたむきな愛が、現代の 作品ではもう払底しているのに、実に豊かに輝かしく描かれて、リアリティの正しさ美しさには驚嘆のほか無い。こういう作品にまた出逢った嬉しさは一日身内 に生きていた。

* ヨガで、ちょっと筋肉痛の花です。
  エアエッジの解約をなさいましたか。多分、ホームページからできると思いますので、早めになさった方がいいですよ。
 シグマリオン  お気に入れば、秋葉原方面にお出かけになることがありましたら、お一人でふらっと寄ってみてもいいでしょう。「シグマリオンV」と店員さんに訊けば、たぶ ん三万五千円弱で手に入ります。
 わたしは、ブログをはじめようかな、と思い、申し込みました。手続きに数日かかるみたいです。見られるようになったら、風にアドレスを教えます。
 マオタイも紹興酒もワインも召し上がったって。お帰りになって、バタンキューだったのではないですか。
 今日は晴れ間があり、ちょっと暑いくらいでしたが、またサイクリングなさいましたか。 明日は雨のようですので、サイクリングはお控えくださいね。 花

* 「MIXI」に、新しく『漱石「こころ」の問題』を連載し始めた。自転車にも乗らず、終日仕事していた。八月、尽。


          ーーーー☆ーーーー☆ーーーー



  以下、平成十八年(2006)「九月」に入り、懸命に気持ちをコントロールして、日々の記事もふつうの「日録」風を回復していたが、じつはこの間にす でに「mixi」での朝日子の「木漏れ日」日記には、父を多年に亘る虐待者と書き散らした虚偽と捏造の誹謗記事が書かれ始めていた。
 そして先ず「mixi」事務局への誹謗 (事実を調べた事務局は、すぐわたしに詫びてくれた。その後も執拗な誹謗がつづいたらしいが、すべて事務局は 「門前払い」してくれた。)がつづき、そして、ついにわたしの此のホームページを「全壊滅」させるサーバーへの策動に出て、長期に亘りホームページが消滅 したのだった。
 「九月記」の出だしは大方平静であった。それが又も、大きく揺り動かされはじめた関連記事のみ再掲して記憶を新たにし、また知己・知友の判断も仰ぎた い。  平成二十三年正月



          ☆ーーーーーーー☆ーーーーーーー☆

* 平成十八年(2006)九月六日 水

* こんなメールが「MIXI」の運営事務局から届いた。 湖・秦恒平

 ☆ mixi運営事務局です。突然のご連絡失礼いたします。
 このたび、お客様のご登録内容について、他のお客様より複数のご指摘がございました。こちらで確認させていただきましたところ、「秦恒平」様であるとお 名前をご使用になっており、日記内においても本人として発言をなさっておりますが、ご本人でいらっしゃいますでしょうか。
 また、日記の内容は以下サイトの転載であることを確認いたしております。
  http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/home.htm
 無断で転載や名前を騙っている場合、法令に違反し名誉毀損や肖像権の侵害等にあたる可能性がございます。転載の許可やご本人であることを証明できるもの があれば、ご提示いただければと思います。(書類でも結構です)
 なお、以下の期日までにご連絡、ご対応いただけない場合は、ご使用中のアカウントを運営事務局にて削除させていただきますので、あらかじめご了承くださ いますようお願い申し上げます。
 ■期日 2006年9月8日 午前10時

* 「湖」のプロフィールには、きちんと秦恒平であることが明示してある。「湖」という名乗りが「秦恒平」の代名詞のような「秦恒平・湖の本」に由来する ことは、私の読者ばかりでなく、文壇でも、文化界でも広く知られている。二月以来の私の連載はもう数多いが、すべて私・秦恒平の作品であることも知られて いる。
 「MIXI」をやめることは、私には何でもないが、私に「秦恒平」という名で「MIXI」へモノを書かれると、よほどイヤな人、都合の悪い人がいるとい うことか。
 私「湖」が、作家秦恒平であることは、マイミクシイの、ことに、「はたぼう」氏が誰よりもよく知っている。息子秦建日子なのだから。「木漏れ日」名義の 押村 朝日子もよく知っている、私の娘なのだから。
 私の方角へ「悪声」をとばしているらしい「一団」のあるらしいことは、風の噂に察しているが、わたしは、そんなものを耳朶にも歯牙にもかけていない、見 ようとも聴こうともしていないが、「困った人達」は、どこにもいる。

 ☆ こんばんは。今日の「闇に言い置く 私語の刻」を拝読しましたが、あまりにも酷(ひど)いことで驚いています。
 秦先生ご自身の意志でならばまだしも、他の人の、悪意によってmixiをやめられるようなことになるのは、納得がいきません。
 よけいなお世話になるかもしれませんが、mixiの運営者に秦先生ご自身であることを伝えるメールを送ろうと考えています。
 こんな酷いこと、まかり通ってほしくありません。    昴

* 同じようなことを、作家の朝松健さんもコメントされている。何が、どこで、どう行われているのか、分からない。
 考えようでは、おもしろいハナシである


* 九月七日 木

* (妻と歌舞伎座秀山祭から帰ってくると=)  「MIXI」の事務局から、失礼を謝ってきていた。


* 九月十日 日

* 暁どころかお午すぎまで「つつがなく」寝入っていた。一両日の疲れが出たか、リラックスしているのか。明日からの十日ほどは、いろいろなことがある。 委員会も理事会もあるし、最初の「民事調停」もある。
 押村も朝日子もヘンな取り巻きもあれだけ騒ぎ立てながら、当然ながら告訴も訴訟も、ようしなかったらしいのは、(してみたものの受理されなかったかも知 れないが。)空騒ぎに終えたのは、だれより朝日子のためによかった。まだ「MIXI」をつかって、ぷすぷす品のない悪声を燻らせつづけていると、風の便り に耳にせぬではないが、妻も私も呆れたまま、耳を洗って近づかない気でいたが。

* 「MIXI」に紹介されたとき、真っ先に思ったのは、その「場」が、わたしの執筆の「場」に成りうるだろうか、という期待だった。「場」があり、日か ら日へうつるならば、一度書き出せば、書き継がねばならない。そのためには、むしろ易しい仕事よりも、ぜひ手を付けたい仕事が良いなと思った。
 それで、「いわゆる日記」は書かず、いきなり「静かな心のために」という無謀なほど難しい連載の仕事に取り組んでみた。取り組んで良かったと思ってい る、大きい、これからの仕事の、ま、手慣らしが、一里塚が出来た。

* 今更らしく繰り返すのもナンだが、わたしには、自分の代名詞のような、『秦恒平・湖(うみ)の本』という、創作とエッセイとで、満二十年、八十八巻に もなり、なお継続してゆく「私版の全集」がある。
 明治期に島崎藤村が四冊『緑陰叢書』をつくって、有名な『破戒』『春』などを私版で世に問うたことは知られているが、現役の作家が自身の作を、二十年に 亘り、九十、百巻にも及ぼうほど自力で国内外に出版し続けている例は、わたし以外に無いと思っている。
 趣味的な仕事ではとても、こうは、続かない。作品の質と量とに導かれて、しかも本づくりの技術がなければ出来ない。また制作費を回収できる程度に売れな いと、続けられるワケがない。
 しかし、この仕事は所詮営利のためには成り立たない。現にわたしは、愛読者に支えられながら、しかも文化各界の知名人や大学の研究室・図書館へ、惜しみ なく「湖の本」を寄贈している。買って貰えればむろん助かるけれど、それ以上に、作品を作者から読者へ送り届けることに意味を置いている。それで二十年通 してきた。
 そういう考え方だから、一度そうして送りだした作品は、例えば「MIXI」であれ、わたしのホームページであれ、無償で公開し続けることに何の物惜しみ ももっていない。もし商売として売ろうというのなら、作品を出すわけがない。作品は出し惜しみしながら「広告」し「宣伝」して、買って欲しいと頼むだろ う、が、「MIXI」でも、わたしは、ひたすら作品を惜しみなく「よく校正して、無償公開」しているのである。あたらしい読者が一人でも二人でも知らぬま に出来ていたら有り難く、たとえそれが期待できなくても、実は「紙の本」からスキャナにかけた誤記の多い原稿を、しっかり校正できる「機会」には成ってく れる。
 間違いの少ない本文を創りながら、ついでにみなさんに公開している、それだけのことである。

* 秦恒平というヤツは、「MIXI」で「湖の本」を売って、売りつけて商売しているという「悪声」が、「MIXI」事務局の方へ届いているらしいが、本 文を無償公開していてどうして商売になるものか、どうか、そんな魔法があるなら伝授ねがいたい。
 すでに「MIXI」に連載した『北の時代最上徳内』は三巻、『日本を読む』は二巻、『死なれて死なせて』も『青春短歌大学』も各一巻なら、今も続けてい る『漱石「心」の問題』も『秘色』も、みな「湖の本」作品であり、「あとがき」も添えてあるから、プリントされれば、そのまま「本」の内容は、校正済みで 完備している。
 「MIXI」は、わたし自身のこれまで触れてきた読者世界からは、とびきり異色の不特定多数世界であるだけに、そんな中へ自作を惜しげなく投げ込んでゆ くことに、わたしは、それなりのスリルと喜びを感じている。まれに本が欲しいという人には、喜んで差し上げてもいるほど。
  もともと「MIXI」では、送り先や宛先は知れない約束のはず。
 むしろ、「書きたい」「書きたい」ひとたちに、わたしは、「MIXI」に作品を書けばいいじゃないですかと言いたい。人目にさらしてこそ作品は、創作 は、鍛えられるはず。
 この作品はどうだこうだと批評されるのは歓迎だが、商売をしている、けしからんと事務局へ言い付けに行くとは、どんな神経をしているのか、なさけないこ とを言うてくれるものだ。 


* 九月十一日 つづき

* もう寝ようかと思っているところへ、押村朝日子の個人名で、「著作権泥棒が図書館長?」と題した、甚だ幼稚な品のない誹謗文書が手元へ舞い込んだ。文 書は、朝日子のメールアドレスを用いてわたしに届いたけれども、宛先は「日本ペンクラブ電子メディア委員会」その他、理事・会員各位となっている。「同 報」したとある。
 相談している法律事務所が予測していた、朝日子には最悪の選択・行動になるだろう。来週にも第一回「民事調停」が予定されている今、こういう怪文書まが いの一方的な配布が、配布者のどういう状態を暴露しているかを考えれば、わが娘の精神的な頽廃がみえるようで、いっそ、いたましい。
 こういうバカげた暴発をさせまいために、「民事調停」を申し出たのであったが。
 そしてもし、これも訴訟の告訴のと言っていたと同じ、ただ不発のイヤがらせに終わるなら、それまた、あまりにバカげている。
 「失礼ですが、それにしてもヘンな娘さんですねえ」と、今日も、つい辛抱しきれずに口にしたペンの会員がいた。娘が初めて父親に呉れたメールが、「著作 権泥棒が図書館長?」では、どこに知性が雲散霧消したのか、恥ずかしい。なにより、これが朝日子一人の「仕事」になっていて、夫「押村高」は雲隠れしてい る。「やす香」の著作権を言うなら父親ももの申すべきだろうに。「娘に父親を誹謗させる」ことで、わたしの名誉を傷つけたいのだろうが、そんな脆弱な名誉 なんぞわたしに何の必要が在ろう。

 * 押村高殿  押村朝日子名義の下記の文書到来。夫妻同意のものとして対応します。以上 秦恒平

* この間までひっきりなしにメールを寄越した押村のメールアドレスは、上のわたしの転送メールを、受け付けずに戻してきた。拒絶しているのかアドレスを 韜晦したのか不明だが。


* 九月十二日 火

* 孫やす香が元気でいたら、今日は満二十歳の誕生日。どんなにこの日を迎えさせたかったか、「やすかれ やす香 生きよ けふも」と、あんなに日々祈り 続けたが、空しかった。祝って食するはずの赤飯を、泪でほとびさせながら、「やす香堂=我が家のダイニング」で。
 「おめでとう、やす香」と言ってやりたかった、いや、今日ばかりはそう言おう。
 建日子のホームページも、我が家の前であかい椿(侘助)の花に彩られて立つ、まだカリタスの高校生だったやす香の写真、おじいやんの撮った写真をはりつ け、二十歳の誕生日であるべき「今日」を、彼も心から愛おしみ惜しんでいる。このわが愛機のすぐ傍でも、やす香は、まみいのほうへかしげた愛らしい笑顔を みせている。

* このカリタス高制服姿のやす香の写真は、2004.12.17日、保谷へ遊びにきて祖父母を大喜びさせた日の、一枚。たくさんたくさん話し合ったあ と、見送りかたがた西武線にのって夕食に出掛けた、その空いた車内で向かいの席から「おじいやん」が撮った。やす香がこころもち右に傾いでいるのは、とな りの「まみい」へ寄り添うていたのである。

 (言うまでもない、この「九月記」ではこれに何十倍する普通の日録私語は、割愛してある。)

* 朝日子から送ったという公開文書なるものに関連した、ペンその他からの連絡や問い合わせは、全く無い。朝日子独りでの示威・威嚇に類するものであるか どうか、まだ判断できないが、内容・形式も、とても専門家の指示や示唆に従ったとは思われない、コドモじみて一種異様なものなので、われわれは、むしろ朝 日子の心的事情を心から案じている。「押村高」の名が完全に脱落し、「押村朝日子」独走の挙と見受け得るのも、心配でならない。いずれにせよ強行すれば、 押村高の社会的地位まで当然巻き込んだ、とても厄介な問題となる。
 そもそも、告訴の訴訟のということは、「押村高」による高飛車で見当違いな「警告」から、この八月極初、つまりやす香死後すぐに始まったことだが、いつ 知れず、そういう威嚇が「夫妻連名」になり、それもいつのまにか「押村高・朝日子」から「押村朝日子・高」となり、ついには、夫「押村高」は妻の蔭にすっ かり隠れてしまい、「押村朝日子」単独の「悪声」に転じ続けてきている。そのような経緯を、わたしたちは、娘朝日子のために心から憂慮しているのである。
 「押村家」や「MIXI系地元」で、朝日子が孤立してしまい、自暴自棄に類する「孤独な暴走」を心理的に強いられてはいないだろうか、と。
 本当の意味で、聡明で愛に溢れた友人が、いま、朝日子の間近に独りでも二人でもあるといいのだが。こういうときは、おもしろづく以前の「未咲」とかいう ような悪意の野次馬がワルノリしてくる。いまは弟建日子からの連絡にも朝日子は応えていないらしいが、冷静で、朝日子のために今いちばん優しくて聡いのは 弟だろうと思う。弟とのパイプは大切にして欲しい。
 成人したばかりのやす香よ、母のこころを慰めよ。守れよ。
 もう一両日で、いわゆる四十九日になる。

* 弁護士とも、この状況について、落ち着いて意見交換した。わたしは、平静に事態を目撃している。楽観も悲観もしていない。何が起きてくるか分からな い、そういうものだ、と見ている。

* むかし朝日子に代筆させた『徽宗』の時代を、いま「世界の歴史」で読み返している。朝日子はもっぱらこの本一冊をつぎはぎして書いていたようなもので あるから、書き入れや傍線の後がアチコチに残っている。調べ仕事やいわばダイジェスト仕事はそつなくやる方であった。だがそんな仕事はそれまでのことで、 発展はしない。何としてもほんものの仕事とはオリジナルに創り出せる力によるし、創ったものに生気を与える、文章なら文体が生動しないと、お話にならな い。文体とは独自の呼吸である。それが分からずに一人前なことを考えて「作文」だけで自足して自称「女流作家」なんてのは滑稽で危険なことだ、あたら少し ある才能も腐蝕させてしまう。


* 平成十八年(2006)九月十三日 つづきの続き

* 読者のひとりりから、「木漏れ日」こと、娘押村朝日子が、「MIXI」に書いた「今日の日記」を送ってもらった。
 読んで、おどろいた。これはひどい。
 「MIXI」という広範囲なソシアル・アナウンスで、こうむちゃな誹謗・中傷がゆるされていては、流石にがまんならない。がまんの問題でなく、被害であ る。「MIXI」に対しても厳重に抗議する。「木漏れ日」や「思香」日記のムチャクチャをずうっと無視してきたけれど、自衛のためにも言うべきを、ハッキ リ言っておく。「MIXI」をこういう目的に使わせて良いものか。

* 孫やす香が生きていたら、今日は二十歳の誕生日。朝日子の日記前半は、さもあろうと共感もした。だが、後半は、事実無根の捏造といえる「悪声」で、こ ういうことを、亡くなった孫やす香二十歳の誕生日を期し、その名に借りて「公開のブログ」で書き続けていること自体に、しんから驚いた。精神の頽廃、傷ま しいと言うほかない。

 こういうことを「木漏れ日」が「MIXI」に書き散らしている「目的」は、何なのだろうか。
 もし両親への抗議や弾劾なら、なぜ、それを、両親にも「読める」ようにしておかないのか。「MIXI」のアクセスを、親には「拒絶」しておいて、「悪声 だけ」を好き勝手にとばしているのは、すくなくもフェアではない。少なくもわたし「湖」は、朝日子等の眼をふさいでおいて、彼等を批判したり非難したりは していない。
 (亡きやす香とわたしとは「MIXI」での「マイミクシイ」同士であった。これをアクセス拒否したのは、やす香死後に「思香」の「MIXI」を勝手に使 用しはじめた、押村高・朝日子達からであった。自然、朝日子達も「湖」の「MIXI」が見えなくなっているのかどうか、わたしは知らない。どうもそうでは なく、彼等はわたしの日記を見ているらしい。むろんわたし自身は彼等のアクセスを拒絶したりしていない。)
 われわれの眼を機械的に塞いでおいて、ものかげで公衆相手に捏造した「悪声」を飛ばし続けているのは、文字どおり誹謗中傷そのものではないか。ちがう か。

* 朝日子が今日の日記「MIXI」に書いた文面を、わたしは書き写す。悪意の誹謗から身を守るために。

 ★ やす香、二十歳になったね。
 昨日までは「子供」のやす香を抱きしめて過ごしてきたけれど、
 もう「大人」になったんだし、
 あなたが大空にはばたいていくのを、静かに見送ろうと思います。

 ちょうど明日、四十九日だしね。
 別に仏教徒ではないので、だから何と言うことでもないんだけれども、
 あなたと病院で見た映画のように
 あなたとどこかで出会えたらいいのにと思う。
 たくさんの人が「やす香の夢を見たよ」と言ってくれるけれど、
 相変わらず、私の夢にあなたは出てきません。
 ああ、これは夢なんだ、夢なんだから、夢から覚めればすべて元に戻っているんだ、と、思い続けてるような夜ばかりで、ちょっと悲しくなります。

 でも、この前、とても楽しい夢を見たの。
 指導員とわーわー遊んでいる夢でね、
 私は「ざ・ぶーん!のおばさん」ではなく、「指導員」なわけ。
 目が覚めて、変だよな、私がキホよりいっこ下? ・・・と思って気がついた。

 あのときママは、やす香自身だったんだね。

 昨日は、ないちゃんたちや、あやのたちが訪ねてくれて、
 お花もたくさん届いて、
 あなたの好きだった「お誕生日メニュー」をそろえたりして、
 とても楽しく過ごせたけれど、

* ここまでは、少なくも、一人の母親が亡き子との「対話」として、わたしもしんみり読むことが出来る。こういう物言いは、誰でもうわべ取りなして、綺麗 事で簡単に書ける。
 だが、このあとは、いけない。こうである。

 ★ 一方でまた母から、
 私がやす香を見殺しにしたと言ってきました。
 私があなたのBFを公認したのも、
 とても「変わった服装」を容認したのも、
 「愛情もなく、無関心だったから」だそうです。

* これは全然事実を言っていない。あるいは事実を、朝日子が都合良く「自己弁護」しているに過ぎない。
 こういうことを母親に向かい言い出すなら、はっきり、父であるわたしは言う。

* 今年の一月から六月まで、朝日子や押村高は、両親は、やす香の「過激な病悩」を救護すべく、何をしていたと言えるのか。自分達の手で、北里病院の前 に、いつ、どこの、どんな確かな病院や優れた医師のもとへ、やす香を連れて行っていたか、正確な記録を見せて貰いたい。
 やす香の「病悩日記」を読んだ人達は、「やす香さんと親御さんとは、一つ屋根の下で暮らしていたんじゃないんですか。この病状の烈しさに、親がまるで気 付いたふしがない、六月まで病院へ連れて行った気配もない」と驚愕するが、それは、われわれ祖父母の驚愕そのものでもあった。
 そのありさまだから、「死なせた」ないし、少しつよく「見殺しにしたようなものじやないか」と人さまに言われて、適切に弁明一つできないのではないか。

* 病院で病気の告知があってから、初めて、「やす香の命は命がけで守ります」と綺麗事を言うより前に、今年一月から六月下旬に到る半年間にこそ、「やす 香の命を救う」まだしも可能性があった。もはや「全く手遅れの緩和ケア」に入ってから、「命を守る」どころか、今度は「死を受け容れ」させたり、あげく 「輸血停止」したり、葬儀を「プロデュース」して「お祭りお祭り」「人生最大の晴れ舞台」などと口走ったり。
 何もかも、そもそも順序が違うではないか。
 死後の四十九日になって、むざむざと死なせた子に優しそうな口をききながら、一方で生みの母を、公然、ウソで譏ったり。
 あまりに非道なのではないか。

* 朝日子は、この三月頃、すでにやす香に「異様な異常」のはっきり出ていた頃、それには全く無頓着、ないし気が付かないまま、自分は現在、速記者格で 「就職している」と人に言い、また、かけがえのないほど立派な囲碁の先生に出会っている、と、囲碁への愛着や執心を嬉しそうに語り、さらに小説を書いてい くことに一種の意欲を述べている。そのメールが残っている。
 それ自体は朝日子の自由であり、それだけを問題にすることでもない。しかしながら、愛しているはずのやす香の「死病」からは「無関心」に近いほど「目が 離れ」ていた事実の歴然の「傍証」にはなっている。その延長上で、三月以降もずうっと会社勤務し、碁の先生との付き合いないし囲碁を楽しみ、ブログ小説を 書き継ぐことにも熱中していたのだろうか。
 三月四月五月六月と、やす香の病態があれほど険悪に進行していたことに、とんと気も付かず、或いは気がつきながらも、何も有効に医療や救命の手を打た ず、あまつさえ、ある日など、疲労困憊して帰宅したやす香に、母親自身の仕事上のミス、ダブルブッキングの尻ぬぐいを、半分やす香の助力でしのいで、「ス パルタ母さん」と苦痛に悶える娘に慨嘆させてもいた。
 日記上のそうした悲劇的事実は、まがまがしくも、やす香の命運を損ない続けていたと言えるだろう。

* 親の目が、やす香に温かく深切に届いていたとは、日記から見る限り、お義理にも言えない。押村朝日子も夫・押村高も、その点を言われまい為に、無謀に 声高に、「死なせた」は「殺した」だとか、やす香の命の尊厳を祖父母が傷つけただとか、「生きよけふも」と祈ったりするなら「殺してやる」と喚くとか、す べてがあまりに異様ではないか。
 こういう自己弁護ないし問題のすり替えを朝日子達がしかねなければこそ、わたしは、やす香の全日記、ことにも『病悩日記』をいち早く正確に、そのまま記 録し、保存しておいた。やす香の言葉は、まさに生ける証しとして貴重であったから。むろん今度の調停のためにも大事な資料として提出しておいたのである。

* 「責任への恐怖」で自暴自棄になっているのではと指摘した若い人がいたが、朝日子のことばに、やす香入院に到る「半年」の無為無策・愛の欠如への痛悔 と反省とがいっこう現れてこない理由と、やす香祖父母への(言葉だけは装った)ヤケクソの八つ当たりとは、まさに「表裏している」ということを、言ってお く。

* 「愛情もなく無関心」の、「愛情もなく」は朝日子の勝手な言い添えであり、一方「ママはわたしには無関心」と来訪早々いくつか例を挙げて話してくれた のは、孫やす香自身であったことは、祖母が聞いた「当日の日記」に、印象的に記録されてある。

* そもそも、やす香が、確執久しい両家の隔てを敢然と自分の手でぶち破って、両親に秘しても自発的に祖父母のもとへ親しく訪問し続けた彼女の真情を、 押村村の両親はどう思っているのか。
 さて、朝日子による「木漏れ日」日記の、その次。

 ★ もちろんその何百倍も、もう一人から来るわけだし、
 パパへの悪口に至っては、A4用紙で何百枚あるでしょう。
 その分厚く重たい封筒が、
 あの二人からあなたへの誕生日プレゼントなのです。

 裁判所に呼ばれる日まで、あと一週間。
 私はあなたにもらった勇気を糧に
 あなたとの20年を、そして私の生きてきた46年を
 しっかり振り返って、その日に臨まなければね。
 そのためにもう少し、この日記を使おうと思っています。

* 「もう一人」とは、父親のわたしのことのようである。「何百倍も」わたしが朝日子に、かりに伝えたいとして、どういう方法で、どう伝えられるのか。 メール等の交通は完全に朝日子側から遮断されている。
 押村高への「悪口」の量と言うが、これは悪口どころではない。わたしのホームページに久しく未完の未定稿として掲載されているフィクション小説『聖家 族』のことであろう、これは読者が判断されるだろう。
 それからまたホームページの私の日記「私語の刻」をいうのであろうか。それも、誰一人の例外なく、自由にわたしのホームページで読めるのであるから、ど うぞ判断願いたい。
 押村高の悪口などで、手間や時間を費やしているほどわたしはヒマでない。現に「MIXI」に、わたしが書き込んできた内容は、のこりなく、誰でも読め る。それで判断されればいいことだ。

* 「分厚く重たい封筒」とは、察しるところ、「民事調停」の簡易裁判所から、わたしの「陳述書」とともに、未完未定稿ながらフィクションである小説『聖 家族』全編や、この六月七月八月の日記『闇に言い置く私語の刻』、それに、やす香による半年に亘る『病悩日記』、まだその上に、八月一日二日から連日のよ うに押村夫妻から送りつけられた、「告訴・訴訟・誹謗」の「威嚇メールや手紙」の全コピーが提出してある、それが、朝日子たちへも届けられたのではない か。
 これらは、すべて、わたしの代理人が用意したものだと思う。陳述書とともに押村に届いたのは、もっと早いのではないか。

* 民事調停は九月二十日に始まる。押村高そして朝日子が相手方当事者であり、わたしたちは朝日子と衝突したい気はない、あくまで押村高との対決を希望し ている。それほども、われわれは押村高をゆるしていないのである。
 わたしは、決して訴訟を起こしたのでもない、告訴したのでもない。娘・朝日子にそんな真似はさせたくないので、先だって、押村家との落ち着いた話し合い を、手続き的に求めて受理されたのであり、「民事調停」は、相手方地元の簡易裁判所で行われるが、「裁判」ではない。われわれは押村夫妻を訴えたりしてい ない。
 だが卑怯な手法で「悪声」が「MIXI」に流され続けるなら、弁護士の強力な助言と判断に従うつもりでいる。
 一両日前に朝日子からメールでわたしに届いた、「日本ペンクラブ」と理事・会員宛電送すると威嚇してきた「誹謗中傷文書」が、どんな勝手なシロモノで あったかも、場合によりホームページに公開することを辞さない。 「MIXI」

* 九月十四日 つづき

* 「MIXI」の値の付かないほどの株式上場の報道に、ビックリした。「やす香ママ」の「MIXI」での日記、イヤになってきましたとやす香の友人が書 いているのを読んだ。わたしのおそれているのは、それだ。
 朝日子がこれまで地元や身近でたぶん受けていたであろう、それがたとえ浅いものであろうとも、敬意や評判を、みずからうしない地金を露わにしてしまう、 そんな真似だけはしないでいて欲しかった。
 アランという哲学者に、ヒトは、素裸でこそ自分自身であるのか、衣裳を身につけていてこそ自分自身であるか、という問いかけがあった。大学生の頃にその 問いかけに応えようと試みたことがある。その後も、何かの場合にはそれを問い直し答え直す機会が何度もあった。朝日子も、問い直して欲しい。


* 九月十五日 つづき

* もうよほど前になる。
 聟夫婦である押村高と朝日子とが、手遅れの肉腫で二十歳前のやす香を死なせた直後、八月一日から始めて、執拗に両親を「告訴する訴訟する」と騒ぎ立てて いた八月の、ある日、事態を心配した或る知人が、こんなメールを呉れていた。
 長いメールだった、こういうことに詳しい立場の人であった。長いメールの、以下に抄した辺を読んでいたとき、実はわたしは失笑して、まさかァと呆れてい たのを思い出す。

* 私には、あなたが作家としてご自身の作品を守り、言論の自由を守り、それでも朝日子さんのためを思い、訴訟には強いて勝たなくてもいいとお考えのよう に見えてしまいます。
 これは、最悪ではないでしょうか。
 さらに訴訟があなたの心身の健康に与える負担を思うと、ぞっとします。何十年も訴訟している例をいくつも知っています。泥沼です。
 そして、相手の弁護士を甘く見てはならないと思います。
 まず、実の娘からの告訴を煽るということは良識ある弁護士ならしません。「九十五パーセント勝つ」という妙な強気もおかしい。これはかなり質の悪い「や くざ」な弁護士がついていると推測すべきです。
 さらに私がもっとも恐怖するのは、裁判が不利になった場合に、朝日子さんが「言葉によるハラスメント、虐待」だけでなく、少女時代に「性的虐待」を受け たと「嘘を訴える」ことです。朝日子さんはそこまでしても勝ちたいでしょう。負けないために身辺・周囲が煽るでしょう。アメリカでは無実の父親がこうやっ て社会的に葬られた例が山ほどあって、本になっているくらいです。
 もし、そのような根も葉もない訴えがあった場合、裁判は女の味方です。自称被害者のほうが強いです。痴漢の冤罪よりも無実の証明は絶望的です。あなたの 作品はことごとく抹殺され、百年は埋もれなければならない。あれほどの名作なのに。日本語の宝なのに。
 私の願いは、一先ず譲歩して、「告訴」騒動を鎮めてくださることです。ご家族、弁護士さんなど色々な方々とご相談して、あちらの要求がこれ以上傲岸に過 大になる前に、お考えいただけないでしょうか。
 その上で決断されたご判断は一番正しいことですし、それを心から支持して、あなたとご家族の皆さまのお幸せをお祈りし続けることに少しも変わりありませ ん。

* いくら何でも度はずれていると、わたしはメールのこの辺は読み飛ばしていた。
 ところが、朝日子は「木漏れ日」名義の「MIXI」日記を利し、しかもそれがわたしには「読めない」ように画策しておいて、八月以降、公衆相手(六百万 人)に、じつに、読むも忌まわしい上記に危惧されたとおりの「嘘を訴える」ことをしていた。
 わたしには、今日まで、それが読めなかった。人がコピーして送ってきてくれない限り。
 よほど見るに見かねて癇癪玉を破裂させた人が、全文を、今日送ってきてくれた。
 ひと言だけにしよう、あきれ果てた。
 もうひと言、何と情けない人間になったのだろう、わたしの娘は。

* わたしは、ものに書く場合、それが批判や非難にあたる場合は、いわゆる「ウラ」を確保してでなければ、断定しないようにしている、当然の作法である。 推測は人性の自然であるが、それも前後の状況から推して、蓋然性を堅くにらんで、する。まともな評論や批評は、そうでなければ出来ない。
 それぬきに、好き勝手なでたらめな「作文」は、幾らでも出来る。誰にでも出来る。上のメールの人が、「心から危惧」し予測していたことを、朝日子は臆面 なく、とうに、やり始めていたんだ。それも実の父や母に向けた、むちゃくちゃな「悪声」「誹謗と中傷」。

* そこまでやって、いったい朝日子は、何の自意識から責任遁れしようとしているのだろう。

* 我が家はきわめて狭い家で、しかも妻と私は何十年、常にまぢかに暮らしてきた。わたしが一人の時は、書斎とも呼べない机に向かい、夢中で依頼原稿を書 きまくっているときだけだった。
 妻や建日子に、こういう娘や姉のむちゃくちゃを、どう思っているか、どうか尋ねてみて欲しいが、妻は、朝日子のこの日記部分をまだ読んでいない。弟は、 姉とマイミクシイのようだ、どうだろうか。

* 昨日やす香の友達がメッセージを送ってきてくれたことは、書いた。全文は遠慮せねばならないが、朝日子の恥知らずな「MIXI」日記を通読してみれ ば、申し訳ないが、少し引用させてください。

* ・・・私は正直、やす香のママにがっかりです。
 私には押村家の深い事情はわからないにせよ、やす香のMIXIを使い続けて、やす香のおじいちゃんについて、なんかいやな感じに書き綴って、、、
 湖さまは、責任感が強くて、頑固で(失礼っ)、だけど、優しい方なんだなあって、私は知っています。
 私はやす香はこんなこと望んでるなんて思えません。
 やす香はおじいちゃん、おばあやんを最後、憎んでいたんですか?
 やす香の築いてきた人間関係をママとパパが勝手に使うほうがおかしいんじゃないかな。。
 でも、直接やす香ママとパパにメッセージを送る勇気のない私です。ごめんなさい。
 でも、これ以上なんかあったら送ってしまうかもしれません。泣。  

* この「声」に、実情は尽きている。朝日子は「道」を踏み外している。

* 朝日子が結婚するまでの、大冊のアルバムが何十冊も溜まっている。弟より六七年長く付き合ってきた朝日子と父や母との写真は、千枚できかないかも。み な自然に、健康そのものに、それはそれはよく撮れているではないか。
 ホームページに余力があれば、各時代の「朝日子写真館」を此処へ開いてみようか、百聞は一見にしかないであろう。

* 結婚したあとでさえ、朝日子は、母親の代理で、雑誌「ミセス」だったか「ミマン」であったか、父親といっしょに、編集者やカメラマンたちともいっしょ に、編集部に着せ替え人形のようにいろいろお洒落させてもらって、楽しそうに四国松山や中国路取材の何泊もの旅をしているではないか、ちゃんと雑誌が刊行 されている。
 文壇関係のパーティーといえば、いそいそと父にくっついて来て、作家や先生達と、忘れもしない岡本太郎や梅原猛なんかともそれは嬉しそうに話して、編集 者にはちやほやされて、興奮していたではないか。
 父が作家代表でソ連へ旅するときも、朝日子は一人率先して、横浜港まで大きなトランクを引きずって、波止場での出航を見送ってくれたではないか。あれは もう大学生だったろう。
 大学入学を祝いに銀座の「きよ田」でうまい鮨も嬉々として喰って、呑んで、あんなに上機嫌だったではないか。カウンターにたまたま並んだ小学館の編輯者 に、「秦さん、コドモに、きよ田は過剰サービスですよ」なんて言われたのを、わたしは忘れない。
 盲腸の手術あとがこじれて朝日子が二度も入院したときも、わたしは自転車で、毎日保谷から吉祥寺の向こうまで走って見舞った。朝日子は毎日、パパを待ち わびていて、時にはベソを書いて父の手を握って放さなかった。あれも、そんなに小さいコドモの時じゃない、高校生ぐらいな朝日子だったではないか。
 もっとも、わたしは朝日子だけでなく、建日子が交通事故入院したときも、一日も欠かさず自転車で顔を見に・見せに通ったが。
 なりたくもないお茶の水女子高校の父兄会長を強引に押しつけられたときも、お父さんの七光りで「卒業生答辞」が読めたなんて、晴れがましそうな得意顔も していた、あれも高三を終えた朝日子ではなかったか。
 そもそも夫押村高と出会わせるために、仲人の小林保治教授に頭を下げに行ったのも、美術展での見合いに引き合わせたのも、この父であったのを朝日子は忘 れたのか。

* なにが「セクシャル・ハラスメント」か。

* 九月十六日 土

* 三枚の写真  平成三年(一九九一)一月、この頃、今夏亡くなったやす香は、四つ半になっていた。娘朝日子は結婚して足かけ六年。妻といっしょにと依 頼されたが、体力的に長い旅に堪えない、また晴れがましいことは苦手な妻の代わりに朝日子と、四国・中国(松山や柳井や厳島)を旅したときの写真である。
 なんと娘は楽しそうであったことか、朝日子が旅館やホテルのカラオケであんなにじょうずに歌うとも、わたしは、ついぞ聴いたことがなかった。国木田独歩 のゆかりの地、醤油づくりで名高い柳井市の、屋根より高いような大醤油樽の上へ追いあげられたわたしが、オッカナビックリへっぴり腰なのを、下から見上げ て「ミセス」編集者やカメラマンところころ笑っていた娘の上機嫌を懐かしく思い出す。朝日子結婚後にも、こんな楽しい笑顔の父と娘との旅が、有った。父の 方が終始照れていた。
 こういう屈託なく愉快な家族・親子仲良し写真が、朝日子の誕生時から、こうして結婚・やす香出産後までも、文字どおり枚挙にいとまない。写真も、撮って おくモノだなあ。この朝日子の自然な表情の、どこに、父子の不幸な確執が読み取れよう。
 すべては、この直後に、朝日子のいわゆる、夫押村高の「不幸な暴発」が起きた。嫁の実家である私と妻とが、押村高により一方的に「姻戚関係」を絶たれ た。聖家族とも見えた家庭の食器棚に、どすぐろい髑髏が投げ込まれたのである。それから始まり、それが十数年後のやす香の死に繋がっていった。やす香を 「死なせて」しまったと謂う意味も其処に在る。むざむざ「死なせて」おいて、あとで千万言綺麗事を飾ってみて何になろう。まして朝日子までが「不幸に暴 発」して、何になろ う。


* 九月十六日 つづき

* わたしは昨日今日まで何も知らなかった。なにか「MIXI」日記に朝日子がむちゃくちゃ書き散らしているらしいと感じていても、アクセスを拒絶されて いて自力では読めないし、人も、あんなことが書かれていては、うっかりわたしにも伝えにくかったろう、息子はやす香の日記は読めるのだが、わたしには、伝 えてこなかった。息子から聴いていた妻も、わたしには黙っていた。伝えるに忍びない朝日子の嘘八百と知っているからよけいわたしに話せなかったと言うが、 なさけないことだ。わたしは真実がっかりした。
 おそらく、三枚の写真は、その自然で親密な父と娘との姿勢や表情は、朝日子の「MIXI」日記が無残な虚言であることを明かしてあまりある。既に押村家 にいたのであり、父親がイヤなら、御免蒙ると同行を断れば済む。喜んで付いてきてかくもご機嫌サンである、自然な笑顔である。
 それにしても、わたしはウカツに笑い飛ばして気にも掛けなかったが、ある読者の「予言」メールは、的確に朝日子の無道なウソ行為を見抜いていた。これに は参りました。掌をさすようにとはこれだ。
 家族も知らぬ顔してわたしに隠していたのに、しっかり「助言・忠告」していてくれた。もう一度、感謝して此処にひいておく。

 ☆ 私には、あなたが作家としてご自身の作品を守り、言論の自由を守り、それでも朝日子さんのためを思い、訴訟には強いて勝たなくてもいいとお考えのよ うに見えてしまいます。
 これは、最悪ではないでしょうか。
 さらに訴訟があなたの心身の健康に与える負担を思うと、ぞっとします。何十年も訴訟している例をいくつも知っています。泥沼です。
 そして、相手の弁護士を甘く見てはならないと思います。
 まず、実の娘からの告訴を煽るということは良識ある弁護士ならしません。「九十五パーセント勝つ」という妙な強気もおかしい。これはかなり質の悪い「や くざ」な弁護士がついていると推測すべきです。
 さらに私がもっとも恐怖するのは、裁判が不利になった場合に、朝日子さんが「言葉によるハラスメント、虐待」だけでなく、少女時代に「性的虐待」を受け たと「嘘を訴える」ことです。朝日子さんはそこまでしても勝ちたいでしょう。負けないために身辺・周囲が煽るでしょう。アメリカでは無実の父親がこうやっ て社会的に葬られた例が山ほどあって、本になっているくらいです。
 もし、そのような根も葉もない訴えがあった場合、裁判は女の味方です。自称被害者のほうが強いです。痴漢の冤罪よりも無実の証明は絶望的です。あなたの 作品はことごとく抹殺され、百年は埋もれなければならない。あれほどの名作なのに。日本語の宝なのに。
 願いは、一先ず譲歩して、「告訴」騒動を鎮めてくださることです。ご家族、弁護士さんなど色々な方々とご相談して、あちらの要求がこれ以上傲岸に過大に なる前に、お考えいただけないでしょうか。
 その上で決断されたご判断は一番正しいことですし、それを心から支持して、あなたとご家族の皆さまのお幸せをお祈りし続けることに少しも変わりありませ ん。

* わたしはこの助言を聴いて、親しい弁護士を頼む気になったし、娘に父親を告訴・訴訟させるようなバカを止めたさに弁護士の勧めに従い、すばやく「民事 訴訟」を申し立ての勧めにも従ったけれど、それでもまだ、朝日子があれほどひどいウソを平然と、得々と世間に言いふらして恥じないなど、夢にも想えなかっ た。そんなバカナと思っていた。
 言葉で何をあとから言い繕っても、なかなか人の耳には入らないものだ、だが、朝日子が、押村と結婚して五年余も経っているあの自然な父娘の旅写真は、幼 来のわたしの痴漢なみの「虐待」など、百パーセント打ち消してくれる。そして昔へ溯ればさらにお互いの信愛や慈愛や敬愛なしには有り得ない写真の数は夥し い。母親と弟友達と、また一人で。写真機を向けているのはみなわたしであり、朝日子が元気に笑っているのはみなわたしのレンズとファインダーへ向かってで ある。演技で、ああいう顔は、お互いにできっこない、何百枚も。
 それにしても我が親を、隠し「MIXI」でありもせぬ自分への痴漢呼ばわり出来る娘も娘だし、される父親も間抜けである。知らぬは父親ばかりなりという のも、情けないほど間抜けである。小説より奇である。おもしろいではないか。

* 「MIXI」へ厳重抗議したのが利いたか、朝日子の「木漏れ日」は、自身のマイミクシイとその周辺に「日記」へのアクセスを制限したらしい。弟すらも 外したという。範囲を制限したらその範囲内で何を誹謗しウソを書いてもいいということには絶対ならない。弁護士は強硬な手を打とうとするだろう。だが、わ たしは娘を訴えたりはしないつもり。
 しかし、もし、悪質なこういう不特定超大多数への誹謗行為が、押村夫妻の「共謀」であるのなら、夫である押村高青山学院大学国際政経教授を、大学も視野 に入れながら、徹底追究する。
 息子は、たぶん「あの夫婦」は気を一つにしてやっているよと推測している。

* 挑発に乗るのは賢くないと、賢い人はとめにかかる。それでは、この舞台劇がつまらない、おもしろくない。
 わたしは、どこかで、ひとごとのように平静にこの事件の推移を面白く堪能したいのである。「まあまあ」などと賢こぶるのは好みでない。 


* 九月二十日 水

* 代理人の判断で、わたしは町田(簡易裁判所)へは出向かなかった。いま、正午。第一回の「民事調停」がもう済んだだろう。

* 建日子から。そして「いい読者」の二人から。メールが来ていた。その一人、今朝十時過ぎのメールが、わたしのホームページが「消えています」と書いて いるが、何の事か。

 * 建日子に。  どのような紛争も、ややこしければややこしいほど、「終結」は必要なのです、つまり落としどころ。それが無いと、十数年経てからも、 根の反省無しに、突如として今回のように「告訴する・訴訟する」が降って湧く。形の上で結論を出しておかないと、先へ行ってまた臍(ほぞ)を噛む。わたし も母さんも、幸い今回はまだ気力あり対応しているけれど、もう五年後になれば、言いたい放題が出て来ても対応できないでしょう。そんなとき、建日子が代 わって闘ってくれるかどうか。
 「これでおしまい」という形をつくること、それが「民事調停」に依頼した必要十分条件なのです。過去に、、あいまいに流しておいたから、今回の騒動が起 きたと思いませんか。このままやがてわたしが死ねば、当然のようにまた両家に紛糾が起きかねない。母さんは、そんなハメになったら、どうなると思います か。
 この紛争には、きちっとした「収束」こそ必要。だから「調停」を願いました。プライベートな話し合いは、建日子の尽力にかかわらず、簡単にフイにされ た。紛争の火種を残しておけば、いつでも簡単に燻り、発火の引き金は押村夫妻に与えたままになり、その迷惑は、今回の比ではないこと、想像できませんか。 彼等にはむちゃくちゃが出来ること、今回が証明している。若さもある。反省もなくおどしにかかる。
 わたしには「書く」しか無い。
 母さんには何ひとつ無い。
 わたしには「書く」しか無い。彼等がヘキエキしているのは「書かれる」ことでしょう。辛うじてとれている、このバランス!
 黙って引いて見せるのもまた、器の大きさ、愛の形とは、平凡な、百万遍も聴いてきた常識・良識? です。そんなことも念頭に置かずにわたしが生きている と思うのですか。わたしは母さんの身の安全や名誉のためにもガンバッテいるし、建日子に、空疎で事なかれの世渡りが、ほんとうに聡明な人間的なことかどう かを、身を以て教えている気でもいる。人間対人間は、人間の数だけ違った対応が在る。ニンを観て法を説けというのはその意味です。押村高たちの一切は、コ レまで彼等が吐き出してきた「言葉」が、如実にあらわしていることは、「言葉」のリアリティで生きている建日子には、分かるでしょう。
 わたしは黙って引いて見せるのもまた、器の大きさ、愛の形といった腹藝や覚悟の実例も、たくさん知っている。知らないのではない。しかしその正反対の例 も知っていて、前者はえてして、俗ないし超級の悟りに近く、後者は俗を離れるかわりに、悲劇的な自爆へ向かう例も少なくはない。わたしが、どちら寄りに人 生を歩んできたかは、評価してくれなくて構わないけれど、お前は知ってはいるはずだ。
 器の大小などわたしは気に掛けない。気概と気稟の一途さをより尊いと思っている。
 「非礼を受け入れる」のは、「非礼を働く」よりも仁に遠いと昔の人はきっちり覚悟している。もしそんなにわたしの「名」が大切なら、生きている間はわた し自身の覚悟で守るし、わたしの死後は、子であり教え子である建日子おまえ自身の「言葉と行為」とで、きっと守り抜いて呉れるだろう。
 助言はありがたく聞きました。わたしのこういうメールのひと言ひと言も、あるいはむちゃくちゃ間違っているかも知れないのだけれど、「今・此処」「今・ 此処」での、大切なお前との「対話」だと思っていてくれますように。
 わたしは、聴くべき意見には素直に従うタチだと、笑うなかれ、思っています。 ありがとう。 父
 追伸 お前達 姉と弟とのことは、なにがあろうと心配していない。「MIXI」の写真に出ている朝日子と建日子。わたしや母さんがいなくなったとき、お 前達二人はただ二人だけのかけがえない存在になる、必ず。目先のことで視野を喪わないように。朝日子には、父の生みの母を、朝日子自身の祖母を渾身の力で よく調べて書くように奨めてやっておくれ。右顧左眄していないで、もっともっともっと大きく朝の光のように健康に生きて欲しいと。

* ホームページの「転送が不可能」になっている。手元でホームページに書き込むことには問題ない。他のインターネットもまともに稼働している。
 ところが、昨夜遅くまで何の問題もなかった ホームページ転送が「接続」しない。「正しいパスワードを入れよ」と言うが、パスワードなど、久しく固定し たまま触ったことがない。念のためホームページ契約のパスワードを正確に入れてみるが、何度やっても「パスワードが違う」という。
 何としても、いま、ホームページが動かないとどうにもならない時期なので、困惑している。 

* 第一回の調停には、押村は二人で出席し、弁護士はついていなかったという。大量の書き物を提出してきたが、内容は「むかつく」ほど過激極まるものだと いう話。まだ告訴だ訴訟だと言うているらしい、わたしたちは、まだ何も見ていない。

* ホームページのことで、電子メディアのプロに問い合わせた。
 状況から見て、機械的な故障以外に考えられる唯一は、悪質な悪意の中傷をプロバイダというのかサーバーというのか、とにかく大元がそれを鵜呑みにし、全 部削除したとしか考えにくい、と。
 ふつうは数日前にメール予告してくるはずだが、しなくてもいい約款になっていると。そんな予告は一度も受けていない。
 法律事務所に連絡し、厳重に対応して欲しいと深夜ながら連絡。
 心配するメールが続々。
「MIXI」には予想以上に鳴りをひそめながらも関連記事を覗いている知人達の多いのは分かっているので、「MIXI」日記で、わたしのホームページに何 らかの「悪質な妨害」が入って「潰された可能性」があるむね、通報した。

* 「闇に言い置く 私語の刻」を、暫定、「MIXI」日記に移管する。


* 九月二十一日 木

* 心配し懸念する声がぞくぞくと。

* 「MIXI」に「木漏れ日=朝日子」の「足あと」が来ている。初めてだろう。へんな名前で怪しげな名乗りは他にも見つけているが、わたしの方からは、 朝日子が「MIXI」で何を書いていたか一度も読めていない、アクセスを拒絶されているから。憤激したわたしの読者から伝えられて読んだだけ、全部かどう かは分からない。
 「不正なアクセス」をしかけているなどと朝日子は書いていたらしいけれど、「MIXI」の作法にしたがい何方も読まれているはず。
 ひとのアクセスを拒絶しておいて、物陰で「二十年間虐待されハラスメントを受け続けていた」などと「悪声」を放ち続けている押村夫妻のむちゃくちゃぶり に、わたしは汚物を踏んづけた不快な気がする。
 しかし、その朝日子がわたしのところへ「足あと」をつけてくれたとは、嬉しいではないか。「虐待」「ハラスメント」が既に「七歳」から始まったと彼女の 言う、その「八歳」の昔、わたしのカメラに真向かった、みるから可愛い朝日子の自然な笑顔、また結婚後も父と同行して旅を楽しんでいた自然なご機嫌の笑顔 や身ごなしを、ゆっくり自分の目で眺めて、いま現在の「行い」をよっく顧みて貰いたい。
 わたしは、これらの写真を眺めて、しみじみと心癒され慰められている。皮肉な話、この頃の不愉快な日々の一の慰めや嬉しさが、娘のこれらの写真をながめ ることだとは、ね。だが、これらが、わたしのいつわりない娘朝日子だった。何枚も何十枚もの写真はなにも偽らない。

* ああ、おどろいた。
 やはりホームページは「誰かがBIGLOBEあてに申し出」、「BIGLOBEで鵜呑みに削除していた」ことが、判明した。法律事務所が連絡し、わたし へBIGLOBEのサポートセンターから電話が来たが、説明にも何もならない、電話口の自分は何も知らない、専門部署がしていることで、返辞をさせますと だけ。
 わたしに、事前にも事後にも通知したはずと言うが、何一つそんな連絡は来ていないのである。
 わたしのホームページは昨日や今日のものではないし、その量も厖大で、わたし以外の人の原稿も沢山入っている。何の確認もせず、全部を闇に葬ってしまう というこの暴挙・暴行には呆れる。
 削除要求が誰から来たか、知らないという以上なにも今は言わないが、法律事務所が追究する。

* BIGLOBEからはじめて、本当に初めてメールが来て、やす香の病状経過を表している「MIXI」日記を引用しているのは著作権違反なので、わたし のホームページ全部を削除したむね、通知してきた。
 なんと無断でバッサリである。
 やす香の件(くだん)の日記は「MIXI」のやす香全日記の一割量にも遙かに及ばない。しかも、その部分こそ、わたしを告訴の訴訟のと迫っていた件の 「最有力の反証内容」になる部分であり、押村両親がいちばん触れられたくない部分なのは明らか。半年間やす香から家族が「目を離していた」まさにやす香自 身の慨嘆であり、またそれあるがゆえに「死なせた は 殺した」だと言いがかって彼等が見当違いに激昂した問題点なのである。告訴や訴訟や誹謗の悪攻撃か ら身を守るために、私たちにはやす香の『病悩日記』はぜひ必要になってしまった。
 またその分量からして、わたしのホームページの全量は万倍以上になるはずた。しかもそれはわたしの文藝作品であり主催する文藝雑誌である。何の通達も無 しに無断でいきなり削除がゆるされることか、と言いたい。

* ホームページが表示されなくなって驚きました。卒業生君の指摘のように考えるのが自然です。
 mixiにコメントしましたように、ホームページには繋がります。コンテンツを強制削除して、トップページ(index.html)を入れ替えて単に 「ページが見つかりません」と嘘を表示しています。
 biglobeと言えども、ネットの法的なことについては素人であることを露呈し、どう対応していいのか全くわかっていず、その場しのぎをやって誤魔化 しているのでしょう。ネットの脆弱性を示しています。
 すでに法律の専門家に対応をお願いしているとのことですから、その専門家のアドバイスに安心してまかせられたら良いと思います。
 しかし調停と時期を同じくした思わぬ展開に、こういうこともあるのかと言う気がします。
 何のお力添えもできませんが、このメールが少しでもお気持ちの平穏に役立てばと思います。  ペン会員

* 適切な抗議の通告書をBIGLOBE社長宛、書いてもらった。内容に異存ない。わたしからは、メールで担当者宛てに電送した。
 いまホームページの全容を分かるように表紙部分だけでもとプリントし始めたが、途方もない量になっていて、ほんの主要部分だけで割愛した。


* 九月二十二日 金

* 脳裏に悪意と卑劣の毒気に居座られないよう、いくつか親切なメールを静かに読み、耳も眼も洗いたい。
 三時から六時まで、法律事務所で打ち合わせ。所長と少壮弁護士とじっくり懇談。だが人間の気稟は、「法」では所詮どうにもならないのだと思う。法のこと は弁護士に任せ、わたしはわたしの既に決意している「書き手の道」を、決然歩む。

* 「MIXI」で、こんな「声」を聴く。おゆるし頂いて一つの声援として励まされたい。

 ☆ 秦さま  京都の中君です。 「私語の刻」を読み進めています。
 HPの削除のこと、驚きと不信の気持ちで読みました。
 最近での日課は「私語の刻」を読むこと、でした。八月最初のころHPを閉鎖されるかも・・・という時に、過去分をすべてワードにコピペして、少しずつプ リントアウトして読んでいるのです。
 「言い置かれて」いることに、いちいち会話しています。(一方的にしゃべることを会話というのは変ですけど。)
 このひと月ずっと、秦さんに向かってしゃべりながら読んでいるので、本当に少しずつしか読めません。
 今は2000年9月のところを読んでいます。
 娘さんご夫妻とのあれこれは、片方に寄らず出来るだけ冷静に読もうとしてきました。ですから今までもコメントはできませんでした。
 mixiでは「思香」さんの「日記」は友人までの公開、「木洩れ日」さんのは友人の友人まで公開となっていますので、現在は私からは読めない状態です。
 いつでしたか、数時間ごとに「自称文筆業」の方を非難されている日記が更新されたときは、これは常軌を逸しているなぁと、更新されるたびにコピーして置 いてあります。どなたかも書いてらしたけど、男性の文章だったように思いました。
 大学の先生の割には幼いなぁと思ったんですけど(笑)
 これでは誰の共感も得られないんちゃうやろか? と。
 ちょっとこの先生、ヤバイな、実は追い詰められてはんのか? とか、いろいろ考えてしまいました。
  いい大人の書くメールじゃないんですけど、私の言葉で思ったまま書くと、こんな感じになってしまいます。
 mixiの日記を転載されたことが著作権違反になるから一気にページそのものを「全削除」というのも、かなりの驚きですね。
 ネットでの著作権違反は深くて、考えるとますますわからなくなってしまいますが、著作権違反は親告罪なのでまずは当事者に通告をするのが当たり前のはず ではないのでしょうか?
 「大学の先生」に言われたからばっさりいってしまった、なんてまさかまさかの話ではないでしょうね?
 そんな風に失礼な当て推量してしまうのも、「日記の非公開」が原因なんだろうなと思います。
 日記を非公開にされるのはご自分の自由なのでしょうが、秦さんのHPに不満、文句があるのなら、事実と違うと言うのなら、陰でこそこそして (いや、がなりたてて) いないで、万人の目にさらされることをお勧めしたいですね。
 ごめんなさい、なんだかとりとめも無く、ぐちゃぐちゃに書きなぐってしまいました。
  次回のメールでは湖の本の購読をお願いしたいと思っています。
   それでは。     中君

* (数多い)こういうメールに触れていると、こんな静かな人もいて、一方には下劣な画策で人を苦しめ舌なめずりしているようなのもいる。
 人の世は、あれもあり、しかしこんなのもある。おもしろや、人の世。

  ただ人はなさけあれ 花のうへなる露の世に   


* 九月二十三日 土

 ☆ 娘さんについて考えたことを書きます。まず娘さんが「MIXI」に書いた性的虐待の日記ですが、そもそも娘さんがハンドルネームを使っているとして も、周囲に自分とわかるように書いていること自体、そういう事実はなかった「嘘」とわかります。性的虐待のカミングアウトというのは、女にとってよほどの よほどです。使命感でそういう「活動」をしている人以外には、ほとんど例がないのでは。
 私は子ども時代の虐待について本人の書いたものをいくつか読みましたが、まずあまりの傷の深さに、そういう著作自体少ない。そして、書かれたもの二例で は、本人が自分の名前を戸籍から変えていました。「MIXI」に載った娘さんの写真は、みごとに雄弁です。
 次に、娘さんがこのように「変貌」したことについて、私の考えを書きます。不快に思われる部分もあると存じますが、失礼をお許しくださいますように。心 安だてに実際失礼なことを書きます。自分の、父親として、人間としての大欠陥を棚に上げてエラそうに書きます。
 田辺聖子さんでしたか、子どもは「当たりもん」と書いていらした。どのような子どもを持つかは運次第、くじ引きと同じ当たり外れがあるという意味です。 子どもの健康や能力や容姿や性格など、たしかに親の努力や心がけの範疇にはありません。その上で、ある程度は親が防げる不幸があります。
 当然よくわかっていらっしゃることですが、娘さんの今の異常ともいえる言動は、もし躁鬱の躁状態という病気でないとしたら、その根は、秦さんご自身に も、かなり大きな部分があると感じます。娘さんが結婚にいたった経緯はこれは「ご縁」でこうなるしかなかったことでしょう、当然ご両親に責任はない、娘さ んのもって生まれた「運」だったんでしょう。ですが、それにもかかわらず、あのとき、秦さんに、父親として防げるところが防げなかったのではないですか。
 もう昔、太宰賞を受けられたとき、その『清経入水』を、その以前に読んでいた「新潮」の酒井編集長が、「目をすったか」と苦笑して受賞を大いに祝って下 さったというお話をされてました。
 秦さんも、つまり、あのとき、仲人口に耳をひっぱられ「目をすった」ってことですかね。  稲  

* コワイ読者達が、喋りだした。疲れるなあ。 


* 九月二十四日 日

 ☆  こんばんは。 困っています 。
 HPのことですが、ただただ、驚いています。 内容を見て「湖の本」の注文すらできない状態なので、困ります。
 作家の作品を読みたいという、「読者の知る権利」も守ってもらいたいと思います。   昴

* BIGLOBEや押村家相手に読者が一斉に抗議文をだしましょうとか、そういう活動のために「MIXI」に推薦して欲しいとか、言ってこられる。慎ん でお断りしている。

 ☆ とにかくハードディスクに保存していた湖のホームページさえ見られないということにショックを受けていたのです。あまりと言えばあまりでした。湖の 「闇に言い置く私語」の編成・編集作業、湖の文学論・演劇論など、せっせと拾っていて大変面白い仕事でしたのに、まったく仕事ができなくなりました。お手 上げです。
 厚かましいお願いですが、今後ホームページの閉鎖の可能性も視野にいれて、是非今までのホームページをコピーしたディスクを分けて戴くことはできないで しょうか。個人的防衛策としても、信頼できる人間にコピーを渡しておくことはとても大切かと存じます。何卒、このお願いは断らないでください。  港区読 者

* 疲れ切っている。もう機械から離れてやすみたい。


* 九月二十五日 月

* 東京地裁はホームページの一方的「無断削除事件」を重く見て、専門部「著作権」で審訊することにしたようである。

 ☆ 萩が咲いています。
 先生のブログを毎日の励ましとして拝見していたのですが、このところエラーになってしまって開くことができません。復旧をお待ちしています。
 「湖の本」の一読者として、永い永い年月、蒙を啓いていただいたことを深く感謝しております。今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。
 ブログの復旧をお待ちしております。
 ますますのご健勝をお祈り申し上げます。  光

* 建日子がまた親切な報せをくれた。だんだん息子に頼るようになるのも自然の数か、感謝。

 ☆ 鴉さま。 お変わりありませんか? 元気ですか? 単なる器械のトラブルでページが表示されずHPが読めないのでしょうか? メールがないのでしょ うか? 元気に過ごされていることを願っています。 鳶は、心配ばかりです

* 例年のメール年賀状を少なくも、文化各界、新聞・出版・編集、大学、読者、知人など少なくも五百人には送っている。そういう方達だけでも、ホームペー ジの無道な消失について報せておかないといけないのではないか、と、文案を弁護士にチェックしてもらっている。

  現在の注  これらの私語は、ワープロソフトに書いていた日録の、後日の貼り付けです。 湖


* 九月二十七日  水

 ☆ 今日は、やす香さんの月命日ですね。二カ月しか経っていないのに、なんと遠くまできてしまったことでしょう。すべてを悲しんでいます。
 もう一度お願いいたします。なんとか今までの私語のコピーを希望する読者に、「湖の本版元」で販売してください。
 ホームページのあの膨大な文章はすべて、読者の宝だったのです。すばらしい文藝作品でした。書いた方お一人の専有の私物ではありません。ご自分で独り占 めしないでくださいね。湖の本のご趣旨のように、ディスクも販売していただきたいと思っています。
 「私語」は秦文学への理解に欠かせない手引きでもある。丹念に丹念に拾って秦氏の文学論を編集し、いつかご本人か、すぐれた研究者の手に渡したいと考え ていました。たかが一人の主婦にそのような仕事を望まないかもしれません。それでも、少なくも「私語」を読者として読み続けることは許してくださるでしょ う。
 湖の勝利は百年後には確実ですが、今は忍耐の時と思っています。お互いに今出来る仕事にひたすら励むしかありません。逢いたい人にはいつかかならず逢え るものです。
 やす香さんがお守りくださいますように。   玉


* 九月二十七日 つづき

* ホームページ消失への問い合わせや不審がぞくぞくと毎日届いている。
「MIXI」以外の読者には、まだ何も伝えていない、が、法律事務所も、やはり挨拶はしておいた方が良いと認めているので、用意の文面を先ず見てもらっ た。
 メールアドレスのある先に、一斉に「同報」で事情を説明することにする。マスコミや文化各界や大学・施設等にひろく及ぶのでどんな波紋が起きるか分から ないが。どう考えても、確認も取らないでの一切合財の一方的削除は、むちゃくちゃである。何故そんなことになったか、コトの発端にも触れざるをえない。

 ☆ はじめまして  
 見知らぬ「足あと」誰かと思われたでしょうね。
 建日子さんのドラマが好きで、ブログをずっと拝見していました。
 やす香さんの病気のことを知り、やす香さんの「mixi」を亡くなられるまで見守らせて頂きました。どうにも気になって陰から病気が回復されるのをお祈 りしていましたが、20歳になる前に亡くなられ さぞかし無念だったでしょうね。
 その後「湖」様のホームページも拝見させていただいていましたので、突然「見当たりません」のメッセージには驚いてしまいました。
 お父様の本心が素直に娘さんに伝わりますよう お祈り申し上げます。
 部外者ですが、お父様を応援いたしております。  不二
 
* 「足あと」とは「MIXI」用語。記事などを覗きに、読みに、きた人のニックネームとコレまでの総人数が記録される。二月十四日に加入して以来、二月 三月は数えるほどもなかったが、今見ると「七千人」に手が届いている。毎日鰻登りに増えている。連載の小説とエッセイと、そして日録「闇に言い置く私語の 刻」を、ホームページ事件を機に此処へ移転させた、それが読まれている。

 ☆ こんばんは 
 ホームページ閉じてしまわれたのでしょうか。メールは届くのでしょうか。
 こちらは毎日秋晴れの気持ちのよいお天気です。常林寺さんも萩が咲き乱れていました。十一月になれば、又、(東京の)娘の所へ行きたいと思っています。
 お元気でお過ごしでしょうか。    のばら 従妹


* 九月二十八日 木

* ぞくぞくとホームページの消滅に怒りの声や提案が来るが、みな此処へ書き込むことは出来ない。心知った人の分だけ、参考までに。

 ☆  >>> こういう時節に、上のようなBIGLOBEの処置は、遺憾余りあります。ユーザーへの親切の為にも、当然もっと確実な「電話」 確認や、「郵便」文書による確認を以て、「ユーザーの正確な意思決定」を手に入れて為すべきが、理の当然でありましょう、
 インターネットの専門家でなくとも、少しは知識があればインターネットメールが送信先に確実に到達する通信手段でないことは理解できることであり、到達 する保証がないことは世間の常識です。
 こともあろうに、プロバイダー(ISP)を標榜するbiglobeが、biglobe ドメインのメールアドレスに通知したから、それでもって相手が承 諾したとみなすことは極めて身勝手な論理と言えます。
 ホームページのコンテンツを削除するという極めて重要な案件では、電話もしくは文書によって確認するのが世間の良識と考えます。
 弁護士事務所は、著作権侵害に対してはもちろんですが、この無謀な意思確認の方法を攻めるべきでしょうし、そうするものと信じます。
 この程度の対応しかできなかったbiglobeはさっさと、プロバイダー事業から撤退するのが世の中の為であると思いたくなりますね。   I T 専門家 神戸市

 ☆ 私は、以下のようなことをすべきだと思いますので、お知らせします。
 まず、問題の所在を簡潔に明らかにし、ペンクラブの会員が、裁判所に「仮処分」を申し立てたことをペンクラブとしても、電子メディア時代の表現のありよ う、著作権侵害の実状を踏まえた「ルール」(事実上の 一方的な措置)のありようなど問題提起をし、かかる問題の所在の普遍的な影響(ペンクラブ全体に限 らず、表現者全般に関わって来る可能性がある)を広く訴え、具体的には、当面、裁判所に対して、当該「仮処分」の申し立てをすみやかに認めるよう要請し、 当該ホームページの原状回復をすることが大事なのではないでしょうか。
 ペンクラブの言論表現委員会の動きはどうなっていますか。   ペン委員

 ☆ ご連絡を有難うございました。どうしたのか心配していました。
  調停の結果ホームページを閉鎖するという合意に達したのかと思いましたが、このホームページが秦様の作家としての表現の場であることを考えれば、そのよう なことはないはずと考えました。ご連絡をいただいて得心しました。
 一刻も早く復旧なさることを期待しています。基になるファイルはご自身のパソコンにあるでしょうから、この際プロバイダーを替え装いを改めるのも、一つ の方法かもしれませんね。
 神沢杜口の『翁草』のうち初めの100巻は1772年になり、その後100巻を加えたところ1788年火災でその半ばを焼失し、再び編述して全200巻 の成ったのは1791年、杜口82歳の年であった由。
 どうぞご自愛下さい。  正  在・英国

 ☆ 鴉さま  メールを読んで事態が今も信じられません。酷い話です。biglobeはせめて確実な問い合わせ、そして意思確認をすべきでした。かりに 一歩譲ってもせめて最小限の「処置」にとどまるべきでした。あまりに理不尽です、表現の自由どころか抹消など。プロバイダーを変えるという単純な方策はも ちろん可能でしょうが、それで済む問題ではありませんね。できる限り早い時期にHPが回復されることを願っています。
 調停、審訊、どれほど大変なものか、わたしには想像もできませんが、時間的にも精神的にも重い負担になっていること察するにあまりあります。
 メールの返事はどうぞ無理になさらないで、ただ時折、そうかそうかと読んでください。HPに載るのを無意識であっても半ば「想定」して書くのではなく、 より素直に? 書いてしまうかもしれませんが、それもそのまま笑って受け止めてください。少しでも慰めになれるなら、たとい微力でも、嬉しいことです
 ここ数日は心配で落ち込んでいました。何もできず、ただ時間の流れるに任せて本を読んでいました。
 今日は京都市美術館に出かけようと思います。院展、例年のことで、それなりに「予想」もできますが、一作一作に注がれた時間とエネルギーを汲み取り、自 分への励ましにしたい。今週はよい天気が続くようで、まだ汗ばむほどですが、久しぶりの京都を楽しんできます。  鳶

 ☆ BIGLOBEは、削除する前に秦さんの言い分や意思をきちんと聴くべきでしたね。
 よほどの有害サイトでない限り、問答無用で削除するなど間違っています。  文京区

* わたしにしても強い人間ではない、が、弱さに甘えたり逃げこんだりはしていられない時がある。ほんとうに弱いとほんとうに逃げこんで頭をかかえてしま うが、頭を上げていなくてはならないときはちゃんと頭をあげて当面するしかない。しかない、のでなく、おそらくそれが当然の精神衛生というものだ。楽しい ことしか楽しめないのでは楽しみの味は単純だ。時には苦みや鹹みも楽しみとしたい。


* 九月二十八日 つづき

* つまりは「時代」そのものが人格障害をおこしているようなもの。ゲドは、それを直しに世界の一番奥まで行ってきた。『マトリックス』のあのキアヌ・ リーヴズ演じる救世主もキャリー・アン・モスのマドンナも、世界の一番奥へ飛び込んでいった。
 
 ☆ 私は、PC音痴で、よい方法など全くわかりません。すみません。でも私にでもできることがありましたら、なんでもいたします。
 ある日突然、いつものHPが開けなくなりました。
 何となく予感はしていたのですが、先生のおっしゃるように、こんなに突然、そして、全くゼロになるなど、思いもよりませんでした。何度検索しても「見当 たりません」の表示ばかり。それでも、むなしく、毎日同じ行為をくり返していました。
 だから、今日、メールをいただいて、やっと、少し安心しました。真っ暗な宇宙で迷子になっていた私に、かすかな、通信の回路が復旧した感じです。
 読み終わったメールや、送信済みの自分の返信メールも、私は消すことができません。そのとき、そのとき自分がどう考えたか、感じたかの記録です。私とい う人間の、「今・此処」をどう生きているか(大げさですが)の記録だと思えば、簡単な文章でも削除できません。そして、明らかに、その記録は、私の歩いて いる足跡になっています。面はゆさや、悔恨も含めて、やはりいとおしむべき足跡です。
 まして、先生のHPは、作家秦恒平氏そのものであり、紛れのない「作品」です。
 毎日拝読しながら、その思想と、行動を垣間見させていただき、自分の人生の指針としてきました。
 私のような人が、この電子の大海の中にどのくらいいるか、それはもう数え切れないことでしょう。先生の作品と、その作品を読む読者の権利とを、こんなに もたやすく奪えるのだということが信じられません。この、人権、著作権の叫ばれる時代に・・。
 そして、一方で、このIT時代の怖さも感じます。
 書物になったものであれば、「焚書」でもしない限りなくなるということはありません。もし、そうであったとしても、隠し持つ心ある人は必ずいます。
 でも、この電子上の情報は、こんなにも、いともたやすく削除されてしまうのですね。
 「私語」にあったので、7月・8月分はCDに保存しました(してもらいました)。でも、たったそれだけです。
 早く、復旧しますように、全作品が取り返せますように、切にお祈りしています。
 どうぞお体おいといくださいますよう。   讃岐

 ☆ 数日前からエラーになってしまい、いろいろ試してみましたがどうしてもアクセス不能で気がかりでした。理由を知って驚いています。
 お役に立てるほどの知識を持ちませんが、応援しています。   竹

 ☆ こんなひどいことがあって良いものでしょうか!!!
 普通の人がHPを作っているのとは訳が違います。
 日本文学の歴史・財産をこうも簡単に一方的に消されてしまうとは!! 今日ほど《IT世界の恐ろしさ・怒り》を感じたことはございません。
 どのような事情があろうともプロバイダー『BIGLOBE』が勝手に完全消去する権利など、何処にもない筈です。
 たとえIT社会の時代でも、通告・勧告などは、《文書による確認》が(本人であることを確かめた上での)大切と思います。
 『作家:秦恒平の文学文学と生活』が《どれほどの宝物》であるかを確かめもせず。。。《恐ろしい時代》になりました。《振り込め詐欺》どころの問題では ありません!!!
 HPを拝見できなくなってからというもの。。。日に何度もクリックしては、先生のご健康とPCの調子? リニューアル? などと心配しておりました。
 《決してこのような酷いことがあって良い筈ありません。》
 《応援いたしております。》
 《手立て》がないものでしょうか?
 プロバイダー『BIGLOBU』に抗議いたします!!!
 《末恐ろしさ》さえ覚えます。
 先生・奥さま、くれぐれもご自愛ください。  岡崎市: 枝


* 九月二十九日 金

* 昨夜から、ホームページ消滅への怒りと愕きの声、途切れずぞくぞくと。
 ペンの委員会で正式に取り上げましょうと委員長からも。
 ある学会では、ホームページにわたしの「通知文」をそのまま告知し広く訴えると言うし、自分のホームページにも転載し、またメルトモにも広く同送して、 この無道な処置に社会的な運動を起こそうという提言もたくさん来ている。
 もとより、やす香の「MIXI」日記を相続したという著作権者への痛烈な批評・非難も数多い。
 技術的、また法律的な、提言や助言も多い。相手のあることで全部を此処へ載せることはとても出来ないが、心安くゆるして頂ける人のだけに限って、以下、 順不同に「応援」していただく。

 ☆ プロバイダの行為に憤りを感じます。もしやと思い、先生のお名前で検索をしましたところ、「このページは、G o o g l e で 2006年9月18日 11:37:45 GMTに保存されたhttp://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/ のキャッシュです。G o o g l eがクロール時にページを保存したものです。」
 http://www.google.co.jp/search?hl=ja&lr=&q=+site: www2s.biglobe.ne.jp+ 秦恒平
という形で復旧までのあいだはこちらを「お問い合わせの方にご紹介」されてはいかがでしょうか。
 また、先生のお手元に記録がない場合にはこちらからDLをすれば、被害を最小限に留めることができるのではないかと存じます。ご存知のことは思いますが ご参考まで。
 また、プロバイダ「BIGLOBE」への抗議の意志を表わすため、当組織のサイトでも先生から頂戴したメールを公開させていただきたくご相談申し上げま す。
 とり急ぎ要件のみにて失礼いたします。以上。  国文学の学会責任者

 ☆ 残念でなりません。
 プロバイダというのは、一人の要求で、一方的に、万人の権利を奪うことが出来るのでしょうか。
 法的な通告というのは「内容証明」によるものでなければならない筈です。「仮処分」手続きはお進みとの事ですが、結果を待つのが「長い」と思います。頑 張りましょう。応援します。
 秦さんのページが読めなくなって本当に落ちつかず、メールにしようか郵便にしようか、あれこれ考えていました。ご検討の事と思いますが、他のプロバイダ からのホームページは如何なのでしょうか? 読者のみな さんも待っていると思っています。
 実は、私も「法律事務所」や「地裁」へ通い長い長い戦いをした事があります。苦労もありましたが、正しいものは正しいのですから頑張りました。
 それにしても、こういう事をして、やす香さんの相続権者は何がいいのでしょうか。そちらも心配です。
 秦さん くれぐれもお大切にお大事にいろいろお気をつけください。
 私はいつかお会いした時くらいには健康戻ったつもりです。なんでも食べています。
 お時間があればやっぱりまた遊びましょうか。 千葉 E-OLD

 ☆ 「民事調停」の席で、押村氏のあまりの虚言・暴言に先生がカンシャク玉を破裂させて、帰宅するやいなや、「えいっ」とばかりに器械の接続を切られた かと案じつつ、一日に何回も接続を試みておりました。
 事情がわかり、一安心・・・でもないようですね。お察しいたします。
 さて、さて、「秦恒平論」だいぶ進んでおります。読むのが八分、書くのが二分の牛歩ですが、これが楽しい、うれしい。あまりに没頭しているものですか ら、家内がおかんむり。ちょっとは、わたしの話も聞いてと、すり寄られても、なにせ秦恒平を読み解く方が、数段おもしろい。いろいろと勝手なことを書いて います。
 事態の好転を願っております。ご自愛ください。   六

 ☆ やはり何かあったのだと思っておりました。
 BIGLOBEの勝手な処置には怒りを覚えるとともに、あらてめてネット上の著作物の危うさを認識しました。
 秦さんのHP『作家・秦恒平の文学と生活』の中には、私の作品を含め、そこでしか読むことのできない貴重な作品が収蔵されていました。
 作品収蔵の当事者として、早速BIGLOBEに抗議をしたいと思います。まず私個人で抗議文を送付することを考えますが、もし「e-文庫・湖 (umi)」寄稿者の中で、同様な考えをお持ちの方がおられましたら、まとめて、という方法でもよろしいかと思います。「仮処分」審訊中とのことですの で、一応弁護士の方にも許可を得たほうがよろしいのでしょうか? お考えをご返信下さい。
 そのほか、私にできることでしたらなんでも致しますので、いつでもご連絡下さい。
 また、私はMIXIに入会していないので、現在唯一となってしまった秦さんのHPを見る事ができません。もし可能でしたら入会のためのご紹介をしていた だけないでしょうか。よろしくお願いいたします。
 札幌は冷え込み、ついに今日からストーブを使っています。  真

 ☆ プロバイダは、単価競争の中Webスペースをばらまいており、表現の場、というインフラ意識は薄く、消費するためのスペースを間借りさせてやってい る、という姿勢ではないかと思います。有名な中堅プロバイダの夜逃げの話を先週聞いたばかりです。よくある話で、そういう業界です。
 Webページを放置しておくと、一瞬でどんどん広まります。たとえば、今でも先生のページの影(キャッシュ)が、Googleで確認できたりします。件 の著作権を云々されたページも、多分読めます。
 プロバイダにとって、削除は時間との戦いです。Biglobeの取った措置を弁護する気はありませんが、無数のWebページへの無数の削除要請に対応す るには、電話や手紙などの、いつどんな返事がくるかも分からない方法
よりも、約款で一方的削除を宣言しておいて、今回の措置をとる、これが一番、彼らにとって痛手の少ない方法なのかもしれません。
 ただ、私が今回非常に「問題」に思っているのは、削除の判断基準です。
 よく言われる話だと思いますが、先生は、「引用」なさっています。これは、先生のページの総容量から見れば微々たる量で、かつ、容易に「引用」であるこ とが分かります。にもかかわらず、著作権を理由に削除された。
 著作権云々というが、評論・批評の中に引用を認めないというのが、信じがたい。
 多分プロの弁護士さんたちが色々対応してくれているのでしょうが、著作権を理由に、引用を行っている著作を、無関連なものも含めて全て削除する行為は権 利の濫用、これを争点にしていくんだと思ってます。
 こういうのが嫌で、若い(50代くらいの)方々は、独自ドメインを取って、専任スタッフに管理してもらっているのだと思います。
 e-Oldの孤軍奮闘を見ていると、悔しく感じます。
 一方で、先生が今年PCに投資した額の1/10があれば、独自ドメインの立ち上げを行うサービスはあるのではないかとも思います。
(その先の具体的なアドバイスができませんが、分かりそうな人にきいてみてください。)
 では。     イチロー

 ☆ 先生、驚きました。このような事が行われる事、私にはとても理解できないことです。怖くなりました。牧野弁護士に確りとこれからのためにもお願いし たい気持でいっぱいです。 芹沢先生ご遺族

 ☆ びっくり致しました。
 いち早くサイトを利用された作家として、そのような目に遭ってはいけませんよね。
 弁護士さんに御相談されていらっしゃるとのこと、その指示を仰ぐのが宜しいのだと思いますが、多少法律を勉強した私としては、BIGLOBEとの契約内 容が、どのようなものだったのか、興味があります。
 しかし、BIGLOBEの対応もさることながら、お嬢様との関係がそこまで悪化されてるとは思いませんでした。
 どちらも早く修復できますように、祈っております。  美術工藝家

 ☆ ご通知拝見、お怒りごもっともと存じます。「生活と意見 闇に言い置く」、ときどき、訪ねてました。作家の命をかけているサイトと評価していまし た。
 なんの連絡もなしに、勝手なことをされたこと、私にも似た経験があり、よく分かります。ちょうど、私のホームページ上に、「官こそ恃み」(二言・三言・ 世迷い言)という一文の中にそれを書き、昨日それを含む私の同人誌『琅』19号の印刷を印刷屋さんに御願いしたばかりです。
 弁護士にまで依頼されたこと、そこまでしなければならないことに対する心痛・心労、ご推察申し上げます。
 応援しています。  ペン会員

 ☆ メールは、無事なのですね。調停の過程での一時的な停止、もちろん秦さんの意思によるものと思っていました。プロバイダーがわが、一方的にはっきり した確認もなく、削除してしまうなんて、信じられないほどのお粗末、おそろしさです。恣意的に何でもされてしまうような、そんな危なっかしいところで生活 しているのですね。
 さいわいまだ日本では、手紙もあるし電話もあるし、くちこみも。
 どうすればよいのか、具体的なことに、手がつけられないのですが、腹をたてています。
 お二方とも、お元気でいらしてくださいね。
 もう! という感じです。   沙

 ☆ 実に大変なことが起きていたのですね。
 おかしいとは思ってましたが、私のPCのせいかと感じていました。
 メールで述べられていた通り、紙の資料と違ってかくも簡単に消えてなくなるものなんですね。
 私に出来ることなどあまり無いと思いますが、これからも強く秦さんを支持して行く気持ちにかわりはありません。
 もし私にも協力出来そうな事がありましたら遠慮なく言って下さい。
 湖の本の読者は皆同じ気持ちだとおもいます、尊敬する先生の味方ですから…
 とりあえず、一読者として応援メールを送ります。  東

 ☆ この度のBIGLOBEのとった処置は、非常識で多大な被害を、多くの人たちに対して与えるものであります。
 秦氏のホームページは 通常のホームページとは異なり私設図書館のようなものであり、そこには秦氏および多くの人の作品が蔵書としてしまわれていまし た。いずれも厳選された宝石のような作品であり、多くの読者が訪れる図書館でありました。
 BIGLOBEのとった処置は「図書館の中に、自分たちに関わる書籍があるので 図書館をつぶしてほしい」という 一部の人の誹謗中傷を鵜呑みにして 「図書館をつぶし、書籍を全部焼却するぞ」という通告を一方的に行い、館長の返事を待たず、館長の許可なく、図書館をクレーン車で壊し、蔵書をすべて焼き 捨てたようなものです。
 WEBの世界ではこのような非道が許されるのでしょうか。
 BIGLOBEの誰が、どんな権力を持って出版物の内容が不適正であると判断し、このような処置をとったのか鋭く追及する必要があります。 
 私もホームページを持っていますが、許可なく、一方的な誹謗中傷があった場合にこのように全削除される恐れがあるものなのかと非常に不安を抱いておりま す。
 一刻も早く、この事件が法的に 解決されることを祈ってやみません。  日本ペンクラブ会員

 ☆ 秦さんからのこのようなメールただただ吃驚しました。
 正直、この時勢にこのような出来事が起こるなんて全く考えられませんでした。良い事悪い事の判断基準を持合せていない人間が主観で行動したであろう恐る べき事であると思います。
 もしそうでないとしたらもっと恐ろしい事です。
 何れにしてもホームページ全消失が復活不可能かどうか先ず元の所に確認調査し、呼び戻す事が可能であれば直ぐに復活してもらわないといけません。その点 については如何だったのでしょうか。
 何れにしても迅速な調査と行動が必要であると思います。
 秦さんのショック度最悪だと思いますが、とりあえずうまく復活する事お祈り申し上げます。
  Sept. 29, 2006             京都・宇治    

 ☆ 秦恒平先生  驚きとともに拝読いたしました。
 この実情を是非多くのインタネット利用者に伝えたいと思うのですが、どこかにこの文章は公開なさっていらっしゃいますか? そうであればそのページをお 知らせしますし、まだそのような準備がなければこの文章を私のブログで転載許可をいただいたという形で公開したいと思いますがいかがでしょうか?   ペ ン会員

 ☆ 全くひどい話です。Biglobeの処置に憤慨しております。あれだけたくさんの内容のものが一瞬のうちに消失してしまうとは・・・。先生のご落 胆、ご憤慨ぶりが目に見えるようです。これは他人ごとではありません。明日は我が身に降りかかることでもあります。
 私ごとですが、パソコンが2度壊れてしまい、復旧に困難の極みを体験しました。こちらは全く自分のミスだけに納得ものでした。しかし今度の事件はまさに 「事件」です。明らかに告訴ものです。御健闘をお祈りしております。 星

 ☆ 『作家・秦恒平の文学と生活』削除、確認しました。なんともひどい話です。
 ただ、プロバイダは著作権という言葉におびえていて、こういう不用意な削除が日常的におこなわれているのも事実です。
 BIGLOBEの担当者は深い考えもなく、日常業務として機械的に処理したのでしょう。
 推測ですが、BIGLOBEは穏便な手打ちを求めてくる可能性が高いと思います。
 ぼくとしては、秦さんにここで踏んばってもらって、「判例を残す」のが日本の言論のために必要ではないかと思っています。
 規約に何が書いてあろうと、こういう社会常識に反することを許すような規約は、それ自体が無効です。規約が免罪符にならないという当たり前の事実を無知 なプロバイダに周知させる機会となるでしょう。 ペン会員 I T専門家

 ☆ 秦さま、ほかみなさま
 プロバイダー責任法の過剰運営のいったんを見た思いです。
 もしよろしければ、「私事」ではなく「社会的重大案件の1例」として、さっそく、小生の怠慢により「休眠中」の委員会議題として緊急会議を開催したいと 思いますが、いかがでしょうか。
 まずは、ご本人のご意向を尊重しつつ、みなさんのご都合をお伺いいたします。 委員長

* 委員長の御提案に賛同します。
 これまでもアカウントが抹消され、消えていったホームページはたくさんありますが、それは大抵アイドルの画像を勝手に載せた明かに著作権・肖像権を侵害 したページでした。
 しかし、そんなページといっしょにされては困るわけで、プロバイダ業界に一石を投じる機会になるかもしれません。
 さて、「湖」サイトという発言の場を奪われた状態ですが、BIGLOBE側によって事前通告なしに、一方的にアカウントを抹消されたという事実を読者に 知らせる場を設けられたらどうでしょうか?
 無料のblogサービスか「さるさる日記」あたりがいいかと思います。
 一番簡単な「さるさる日記」ですと、
  http://www.diary.ne.jp/
にアクセスし、「新規作成」という赤い大きなボタンを押して、所定事項を書きこむと、メールでパスワードが届くようになっているようです。  ペン委員

 ☆ 9月20日にぷっつりとHPの画面が出なくなって、これは機械の不調ではなく、押村様夫妻とのいざこざと関係があるにちがいないと、そのくらいは私 にでも想像はできました。
 それでも往生際悪く、もしや復旧しているのでは----と毎日いくどもいくども、何度いつものアドレスをクリックしたやしれません。
 ご事情を承り、そんなアホな!! と驚愕しました。
 個人のHPがそんなにたやすく、プロバイダーの一方的判断で閉鎖したり削除出来るなんて、信じられない事です。
誰かがクレームつけたら「はいわかりました」でプロバイダー自身ではでそのHPの内容や、クレームが妥当かどうかなど検討もしないで、本人から返事の確認 もせずに、勝手に閉じるなんて無茶です。
 秦様のHPの一つの問題ではなく、一般論としてもこんな信用の出来ない契約があって良いものでしょうか。
 「e-文庫・湖(umi)」の私のささやかな文章も消されたのですね。
 勿論それらの”著作権”は載せていただいた時点で秦様に委ねているわけですが、それでも、押村様と私はまるで関わりがないのですから、十把一からげはひ どすぎやしまいか----と憤慨しています。
 もし私にでも出来ることがありましたらおっしゃって下さい。やります。
 いくらなんでも、こんな無茶が通るとは思えないので、近い将来きっとHPは再開されるものと信じて楽しみにしております。
 すっかり秋めいて金木犀が香っています。
 先の日曜はミュージカルの練習があって東久留米に行きました。私は時間の関係で車で走ってしまうのですが、青梅街道から所沢街道に入り、六角地蔵からひ ばりヶ丘団地横を通り、落合川、黒目川を渡りながら、もしや秦様が自転車でひょっこりとお姿を見せられるのでは、と思ったりしたものでした。
 お陰様で一同息災に暮らしております。 2006/9/29   藤

 ☆ なんという事なのかとただただ驚いて居ります。私も秦さんのホームページを時々読ませていただいて居ります。お孫さんのご不幸には心を痛めており、 又、ご活躍の貴方様のお姿を想像してひそかに喜んでおりました一人です。
 長きに渡る過去の資料を一瞬に消され、どれだけ悔しい事でしょう。同情申し上げます。 信 京都

 ☆ かねてからHPにアクセス不可能となり、六さんともども心配していたところです。
 「調停期間中」に限り閉店しているのかなと思っていたのですが、とんでもない事態になっていたのですね。
 ひどい!! 本当にあきれ返ってモノが言えないほどの非常識です。
 営々として積み上げてきた秦さんのお仕事は、単なる一作家の営業ではないのです。あの中に含まれている秦著作をはじめとする数多くの方々の創造物は、日 本の文学を左右するほどの内容であり規模でありスケールでした。それを一朝にして完全削除(それも一方的に)するとは、著作権の侵害どころか「文化の破 壊」そのものです。歴史上、数限りなく繰り返されてきた「焚書」の現代版ではないですか!!
 腹が立って、ハラガタッテ、憤りを通りこして、怒り狂っています。沢山きているという「不審や抗議」は、向けるべき方向を間違えています。
 BIGLOBEのやり方と、その背後の陰険な策謀にこそ向けられるべきです。「父娘の情」の手前、他人がいらざる口を挟むまいと、従来黙ってきましたが 限度を超えています。
 友人に自身「詩作」をし、HPも持っているネット関連のプロがいますので、秦さんのメールを転送し、有効な措置がないか問合せしています。色よい返事が あるといいのですが。
 ご心痛のほど(本当に長い暑い夏を乗り切ってこられた末の結果がこれとは)お察し申し上げると同時に、こうした社会的不正には断固として反撃すべきだ と、心からの応援を致したくぞんじます。どうぞ、奥さま共々、お心丈夫にお過ごし下さい。  円

 ☆ 新資料郵送とのこと、お待ちしております。到着次第、検討することにします。裁判所に出せるものは直ちに出しましょう。
 皆さんの反応がありがたいですね。ビックローブへは、ガンガンと批判がいってほしいですね。顧客に背信的な行為をすることの意味を、思い知らせなければ ならないでしょう。
 参考になるご示唆などありましたら、お伝えください。よろしくお願いいたします。  事務所

 ☆ まったくもって晴天の霹靂以上の、ものでしょう。これからもこういったことは多々あることと推察できます。
 それだけに、ちゃんとした結果が問われます。文筆に携わる者にとって生命線でもありますデータの削除は、許しがたい。全面的に応援するものです。       苑 ペン会員

 ☆ 事情が判り、少し安堵いたしました。私には、何もご助言できませんが、どうか、くれぐれもおからだ大切にとお祈りいたしております。  都 ペン会 員

 ☆ H・Pを読む事で、いつも傍にいたような人が、霞と消えたような物足りない気分でいます。
 再開を待っています。  泉 
   

* 九月三十日 土

* 朝一番に娘、押村朝日子から「内容証明」の郵便が届いた。

* わたしのホームページやブログから、押村朝日子による著作物[小説・随筆・日記・手紙等]の全て、押村朝日子が収録され、押村朝日子本人と確認できる 写真、映像、イメージの全てを、本書面到達日より3日間のうちに削除せよというのである。わたしのホームページは、孫やす香の「相続権者」である押村夫妻 の申し入れで BIGLOBEにより完全消滅している、いまさらその話は無いであろう。
 では、ブロク。これは「MIXI」のことか。
 「MIXI」に朝日子の作品を載せたりしていないのは明白。載っているのは見る人が見れば朝日子かと分かる「写真」が出ている。父と娘との公刊された商 業雑誌取材中のスナップ写真で、いわば旅の記念写真。それで利を稼いだわけでもないふつうの何でもない写真で、それが秦恒平自身と娘押村朝日子の写真と分 かる人が公称「六百万人」中の百人もありはすまい。家族が家族の写真を人に見せて、何の不都合があるのだろう。
 朝日子に聞きたい、削除を強いる「理由」を。
 一つ、はっきりしている。
 「MIXI」の日記に、朝日子は父親私によって、七歳から二十年の長きにわたり、「虐待」「ハラスメント」を受けてきたと「公言」してきた。 アクセスをブロックされていたわたしはそれを読めなくて、知らなかったが、伝えてくれる人達が何人もあり、知って呆れかえった。むろん母も弟も呆れかえっ た。
 それで、朝日子八歳時の、また朝日子結婚後の、私自身がレンズを向けて撮った、また私と一緒に撮られている、屈託なく和やかに自然な朝日子八歳時の健康 な写真や、成人した「ミセス」の朝日子が父親と一緒に嬉々として楽しそうな写真を「MIXI」に披露したのは、千万言にまさる「朝日子虚言」を証明する 「最適の物証」だからである。
 わたしには「「MIXI」六百萬公衆の前に、「虐待者」等の悪声による不快な誤解を解く権利がある。これまで出した写真の娘に、いささかでも黒い陰翳が 見られ得たろうか。
 朝日子は、自分の「蒔いた種」をあまりに明らかに否定された自分の写真が出てくるのに、堪えられないのであろう。根拠のない虚言を公にした、父親だけで なく母親へも弟へも犯したことになる犯罪的な失礼は、どうなるのか、と朝日子に聞きたい。

* なお朝日子の愛すべき幾篇かの作品は、今は私のホームページを「消滅」に導いた本人がよく知っているように、わが愛機中に存在しない。写真のほかの、 「映像」「イメージ」とは何のことか分からない。しかし「日記」にせよ「随筆」にせよ、私が攻撃されている際はその「反証に引用する抗争上対抗の自由と権 利」はわたしも所持している。

* 「なお、本書面到達後も、私(押村朝日子)の承諾なく著作物や写真を掲示し、著作権や肖像権の侵害行為を継続する場合には、法的措置を講ずる旨を申し 添えておきます」そうだ。。
 よほど「法的措置」が好きらしい。そのまえに、人として、人の子として、人の親としての「誠の掟」を自問するがいい、夫婦ともども。

 ☆ むこうが千人殺すというなら千五百の産屋を建てて。
 どうか生きて、書いてください。  雀

 ☆ ブログに「ご通知」全文、転載させていただきました。
 お心落ちのないよう、という言葉はここではあたらないと思います。
 どうぞ一日も早く復旧されますように。    ペン会員
 
 ☆ ただただ驚いて 驚いて おどろいて びっくりして びっくりして 信じられなくて残念でなりません。
 夫も事の重大性に驚いて、こんなことがあっていいものか? と怒っています。こちらの承諾なくして削除など出来るわけがない! と怒っています。
 一体、何が起こっているのでしょうか? 理解に苦しむことばかりが続いていまして、挙句 HPも読ませていただけないなんて!!
 大きな嘆き! 悲しみ、でもあります。
 お役に立てることなど皆無ではございますが 心からの声援と応援を申し上げます。惑わされることなしに、当然な正直者が勝利されますように心から願って やみません。 頑張ってくださいませ。 勝利祈っております。 
 お静かにお暮らしの御身の上にとんでもない衝撃的な事件が重なり さぞかしご心痛深いものがおありのことと拝察申し上げます。頑張って乗りきってくださ いませ。 ”ひどいことが起こるものだと” 世の中には! 人生には!
 御身どうぞお大切におすごし下さいますように心から祈念申し上げます。   彬

* もう同じ怒りや声援のメールを掲載するのも、足りていよう。
 この「私語」にも、問題提起の意図をふくめ、あらためて、信じがたい「事件」が起きていたと「通知」の一文を此処に掲げておく。同じことが、いつ誰の上 に降りかかるか知れない顕著な事例として、多方面で議論されたい。転記されても構わない。

 * 前略 ますますのご健勝をお祈りします。
 
 さて、私のホームページ『作家・秦恒平の文学と生活』完全消失の実情をお伝えします。ご理解下さいますよう。

 私が、1998/3月以来多年運用してきたホームページ「作家・秦恒平の文学と生活」は、今年二○○六年九月二十日、突如、プロバイダ 「BIGLOBE」により、事実上「無断」で、私の「確認」を一度も取ることなく、一方的に「初期化・全削除」されました。ホームページが読めなくなって いる、何故か、困る、という読者ほかの皆さんの不審や抗議がたくさん来ています。

 このホームページは、原稿用紙換算六万枚を越すかと思われる私の創作物を擁し、内容として、「湖(うみ)の本既刊八十八巻の全電子化」、八、九年に亘 る、日々欠かさぬ日記文藝としての「生活と意見 闇に言い置く」、三好徹氏、高史明氏ら著名文筆家の寄稿や一般の投稿作品約二百を含む私の責任編輯「e- 文庫・湖(umi)」、そして私の「書斎作品の多く」を含んでいます。

 ところがBIGLOBEは、上の「日録」のなかに、今年七月二十七日に、癌「肉腫」で急逝しました私どもの「孫・やす香」十九歳の生前日記を転載してい るのが、やす香の「著作権相続者」と称する者(=ちなみに押村やす香の両親は「押村高氏・青山学院大学教授、同妻朝日子氏・私の長女」です。)の権利を侵 害しているとの申し入れを、そのまま受理し、一方的に強行削除したのでした。しかし、引用・抄出した日記は、全体の極く極く一部(日記全部から見れば七、 八十分の一程度か。原稿用紙にして十枚余か。私のホームページ全容からすれば、大海の小魚にもあたらない分量なのです。)
 しかも、私はそのようなBIGLOBEの通告など、全然見た覚えなく、またホームページを全削除してよいなどと意思表示した覚えもくないのです。有るわ けが、有るでしょうか。BIGLOBEは、受発信設定が全く出来ていない、使用していない、私のbiglobe.ne.jpメール宛てに発信していたので す。
 しかし私はパソコン使用以来、一貫してニフティのみを全面使用し、私の機械操作能力ではbiglobe受信設定は「存在しない」のです。
 更には機械的一律削除を「日課」にしなければならぬほど「不正広告メール・SPAMメール」が九割を越す大氾濫の今日です。やたら数多い大概の「営業通 知」も、私の日常活動からは「ほぼ削除対象」なのです。

 こういう時節に、上のようなBIGLOBEの処置は、遺憾余りあります。ユーザーへの親切の為にも、当然もっと確実な「電話」確認や、「郵便」文書によ る確認を以て、「ユーザーの正確な意思決定」を手に入れて為すべきが、理の当然でありましょう、もし一家で旬日余にわたる旅行でもしていたら BIGLOBEは一体どうするというのでしょうか。
 むろん言うまでもなく私が、かほど多年運営のホームページの「削除通知を、黙過する」わけが無いのです。加えてBIGLOBEは、私以外にも、他の多く の著作者・寄稿者の権利まで侵しており、全く言語道断な暴挙、厖大量の「著作権侵害」と抗議せざるを得ません。

 ホームページの此の無道な削除に対しては、地裁に「仮処分」を申し立て、日本ペンクラブの同僚会員である弁護士の総合法律事務所に、善処をすべて依頼し ました。地裁は事の重大性を慮り専門部に審訊を託したよし、法律事務所の通知がありました。 

 この電子メディア時代に、かかる奇怪に強引なことが、いとも簡単に為されてしまうおそろしさに愕き呆れながら、ともあれ、事情を申し上げまして、アクセ ス不能が只の機械のエラーによるものでないことをご通知致します。いずれホームベージは復旧出来ると確信しています。ご理解・ご支援いただけますようにお 願い致します。 
 
               日本ペンクラブ理事         
               日本文藝家協会会員  作家・秦 恒平     2006/9月末

 ☆ やす香さんの御不幸こころからお悔やみ申し上げます。
 もっと早くと思いながら、どのようにお声かけをしたらよいのかと、心弱くなってしまった次第です。
 奥様いかがお過ごしでしょうか。
 すこし時期はずれになりましたが岡山のマスカットをお届けします。月曜日に着く予定です。
 秦さんにはもう少し涼しくなる十一月には、お酒をお届けしたいと思っています。
 ポスト小泉も全く期待がもてず腹立たしく暗い気持ちになっています。
 建日子さんを含めて皆さんの御健勝をお祈りしています。  元

 ☆ 秦様の貴重な作品が消えてしまったこと全く残念です。
 加えて、私は何時もホームページを通じて「社会」との関わりを持たせていただくことが出来、今後も貴重な意見を拝聴できることを糧とも楽しみともしてき ました。
 BIGLOBEの会社に対し憤りを感じるとともに、全面的に信用を失いました。BIGLOBEを利用することは今後一切しないと決意しています。
 私個人は何のお力にもなれないこと申し訳ありませんが、きっと有識の方々がお側に沢山おられて、良い解決になることを切に切に願っています。
 ご夫妻の心の傷が心配です。それがお体に障りませぬようにまさに朝夕祈っております。 
 重ねてゆっくりと静かな平安なお時間がありますように、祈っております。お体お大切に。  晴

* みなさんにお返事を失礼している。あまりに何事にも時間が足りない。時間が貴重なのは必ずしも良いことでない。時間など気にならない日々こそよろしく 思われる。

                               「九月略記」了           


                         ======☆===========☆=====