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   宗遠日乗

    闇に言い置く   私語の刻

     
  平成十八年(2006)七月一 日より七月末日まで 
注: 平成二十三年(2011)六月末の裁判所指示個所が、拡大・縮減な く「削除」してある。




  宗遠日乗  「五十七」



* 平成十八年 (2006) 七月一日 土

* 今年も半ばを過ぎた。蒸し蒸しするのも梅雨なかばでは仕方ない。この時期をわたしは「慈雨の季」と呼んできた。その様に思って梅雨を過ごすのである。

 ☆ 七月になってしまいました。朝からずっと雨、時折強く降ります。湿度があまり高くないからでしょう、気温が上がらない分、わたしは過ごしやすいと感 じます。梅雨が大嫌いといわれる方も多いのですが・・。そして雨ともなれば浮かれ心のままに外出することも諦められます。
  予定していた庭仕事も延期。庭に出たらすぐに蚊に悩まされるので庭仕事は嫌いになりつつありますが、窓の外いっぱいに木の枝が伸びてきていますし、花の手 入れも、雑草も、ちょっと目を離すとすぐ仕事がふえます。
  一昨日のメール、届きましたでしょうか。器械がやっと回復したものの、まだ何となくこれでいいかと不安になります。
  歯の治療のことを書かれていますが、わたしも最近は医者に通っています。一大決心をしないと思い切って歯を治療できません。昔になりますが出産の後、やは り歯を悪くしてしまい、土台は自分の歯ですが、そこに義歯をかぶせました。そこを改めて治療してもらっています。もちろん大きな出費になるでしょうが、こ れも投資?、自分のために大切な投資と思っています。
  一昨日からやや不眠・・歯の治療で注射の後、口の周辺の違和感があとあとまで残り、リンパ腺が腫れたりしました。そのお蔭で?? 眠れないものですから、 昨晩はサッカーの準々決勝の試合を見て・・ドイツのPK戦や贔屓のイタリアの試合を見て・・明け方眠りました。
 およそわたしらしくない夜中の観戦でしたが、もちろん楽しみましたよ。  鳶

* パソコンの不調でながいあいだ、手短なケイタイメールが届いていたが、復旧したらしい。

* わたしも眠りにくいままに、主催国ドイツにアルゼンチンが一点リードしている途中から見はじめて、ドイツが同点に追いつき、二度の延長もなお引き分け て、PK戦になってしまうまで観戦した。追いつ追われつ角逐あいひとしく、どっつちに応援ということなく堪能した。

* やす香が「MIXI」の日記にみずから「おはよー」と書いていて、ああ、なんといい言葉だろうと嬉しかった。やす香の襲われている病気は、二次的な感 染や疲労がまこと怖ろしい禁忌であり、せめて、よくてもよくなくても当分は診断と治療の対策が定まるまで、安静に、心境と体調とを保つことに心強く専念し て欲しい。沈みきってはいけないが、わるく浮かれてはもっといけない。あらゆる危険に、きりっとした覚悟で向き合い落ち着いていること。


* 七月二日 日

* 「一期一会」という言葉が好きと表白する人は大勢いる。だが、まだ、なかなかその真意にふれて理会し会得している例は少ない。
 小説『慈子(あつこ)』にすでに、井伊直弼著『茶湯一会集』により一期一会のことは書いた。のちに裏千家の雑誌「淡交」にも「異論・一期一会」を書いて いる。井上靖さんが「本覚坊」を書かれた前後に、「秦さんの説が正解ですねえ」と、わざわざそれののった本を求められたこともあった。
 いま思い出したが、井上さんあの小説が出たり映画になったりした頃か。井上さんに、利休はどんなふうに座ってお茶をたてるのですと突然質問したことが あった。当然のように「正座」と答えられたが、わたしは、あの時代に誰がいつ、どんなときに正座していたか、罪人以外に正座などする日本人がいたでしょう かねと問い直し、井上さんは絶句された。ま、それは今は余分なはなしである。
「一期一会」は、無際限な日常の挙措振舞の一度一度を、恰も「一生に一度かのように」繰り返せという「覚悟」の謂である。それは直弼の表現に明瞭だし、溯 れば、利休の師武野紹鴎や弟子山上宗二らの「一期一碗」という四字が、より具体的に示している。さらにいえば禅の「一会一切会」も、つよく示唆している。

* 光通信の一つのネックが判明した。
 ランケーブルと思って利用したのが電話ケーブルだというのである。コンバーターを売るのであるから、当然にTEPCOは、必要で適切な「ランケーブル」 もセットにすべきではないか。無意味に不親切極まる。似たものがあれば素人は判別もきかず電話ケーブルを利用して当然だ。ランケーブルだけは、客がとこか で買ってこいはないだろう。

* 夕方自転車で出て、一時間ばかり走ってきたが、走りながら、左右の脚に攣縮が来て、二三度も危なかったが、ついに右脚の攣れと痛みに堪えきれず、歩道 車走から右の車道へ転落転倒、あわや自動車の急停車に救われた。よく無事であった。大小の擦り傷や打撲であちこち痛いが、骨に異常なく、そのまままた自転 車を走らせ、ゆっくり帰宅、晩飯を食った。イタリアのワイン、美味。
 ま、なかなか安楽には「一瞬の好機」に出会えない。

* MIXIでの知人から、やす香の病症に関するたいへん親切な助言や示唆を得ることが出来た。感謝に堪えない。そのまま朝日子に転送して参考にするよう 伝えた。

* 千葉の勝田さんや四国の大成さんや名張の雀さんからもメールを戴いているが、拝見するに留めておく。

* 心嬉しいメールを受け取った。MIXIで知り合った人が、自身の体験も踏まえながら、やす香の病気に親切な適切な具体的な声をかけて下さった。朝日子 へぜひ参考にするようすぐ転送した。

* お孫さんが入院されていたことを、今日、知りました。ご心痛、お察しいたします。
 全く違う私の体験や経過なんかを書き連ねても、何のお役にも立ちませんが、当時の心境などを思い出しつつ少し、書き送らせて頂きます。
 入院当初は検査が忙しく辛かったこと、毎日がだるく重く、考えもまとまらず、何もやる気がしなかったことが思い出されます。特に薬物の大量投与時は体全 体が熱っぽく、自分が湯たんぽか何かになったようで、本当に何も手につきませんでした。只、寝ているしかありませんでした。副作用の一つにある「憂鬱〜」 な精神状態が続き、不機嫌な自分に嫌気がさしたりもしました。と同時に心は体の働きの一つなんだと初めて認識した、貴重な体験でもありました。「気をしっ かり持つ」ためのエネルギーは検査や治療で使い果たしてしまい、病室に戻ったときにはもうぐったり、といった状態でした。
 そして、入院中はいつも、どこかしら気が張った状態で、心から寛ぐことが出来ないのでした。家族が来て、そばにいるときだけは何とかほっと安心すること が出来ました。友人などの他人でなく、話すことが何もなくても、少しの時間でも肉親や家族がそばにいてくれることが、何よりの安心でした。
 このことは、私自身が入院するまで、ここまでとは思いも寄らないことでしたので、気づいた今は、家族が入院した際などは特に注意して、条件の許す限り出 来るだけ見舞いに行き、顔を見せるよう心がけています。
 それから、特に思い出されることがあります。
 ある程度病状が落ちつくまでは、病気そのもので自分自身が振り回されてしまっていました。この時に思ったのが「どうも、病気とは、『闘う』というのとは 違うのかもしれない」ということでした。
 入院した際、***大の院内で、創始者の、「病を診ずして、病人を診よ」という言葉に出会いました。これは「病める人を全人的に診る医療」を表したもの だそうですが、私の勝手なイメージでは、罹患中の時、患者の存在そのものに病気が存在していて、病気と患者は分かちがたいもの・・・という印象でした。自 分と病気は別のものとして、まるで病気に見舞われたかのように思い病気と対峙するのは、実はすこし、考え方がずれていて、実際は自分の中に病気が発生し、 今、伴に存在している・・・と考える方が自然に思えました。ですから「病気と闘う」のではなく、「病気とともに、平癒に向けて協力し合う」のかもしれない と感じたのでした。
 そしてもう一つ、ストレスとの付き合い方によって病状がリアルに左右される、というところです。ここで重要なのが、所謂「心労」だけがストレスではな く、「張り切ること、頑張ること、元気に飛び跳ねること」もストレスになるのでした。もし、悪いことを−、良いことを+と考えたら、心労や心痛等は−、頑 張る・張り切る・元気に行動する等は+。でも、どちらもストレスとして、体に負担をかけるのです。
 ですから、悲観しないのも勿論のこと、前向きに頑張ることも控えて、一番良いのはノンビリ気楽に・・・・心静かにリラックスして、に努めることでした (この場合「努める」もストレスのうちになってしまうのですが・・・)。
 この、緩やかな、穏やかな気持ちを維持するために、本当にいろいろな工夫をしました。
 少しでも心地よいことを探しては、身の回りのものを可愛いモノにかえてみたり、インターネットで基礎化粧品を買ってナースセンター宛に届けて貰ったり、 写真や絵を眺めたり・・・。でも、ここでも、一番有効だったのは、家族の顔を見ることでした。それから同病の友人と仲良くなれたのも良い思い出です。自分 では分からないことを友人達が知っていて、医師や看護婦の方々より役に立つことも多く、同病でないと分からない辛さや決意を分かち合うことが出来、お互い を支える力になりました。
 ☆長々と書き連ねてしまい、すみません。最も大切なことの一つは、家族の入院で、周囲の生活が疲弊しないことだと、今はなき人がよく語っていました。
 先生がお孫さんのことでお辛い気持ちを抱えつつ、きちんと毎日をお過ごしなことに安心し、尊敬申し上げます。どうかお孫さんのためにも毎日をお元気に、 ご無理をなさらず、お過ごしくださいませ。  百合

* このメールには、日頃バグワンに聴いているわたしには、相通うて示唆に富んだところが何カ所もあり、感心した。若い人のようであるが、観念的でなく言 葉が適切に響いてくる。感謝します。

* 上尾敬彦君が英国から一年ぶりに帰ってきた。まずは体調を調えてもらい、特許庁での新部署にも馴染んだ頃に、夫人もともども帰朝祝いをしたいものだ。

* さて来週には京都での対談を控えている。この対談はラクではないが楽しいモノで在らねばならぬ。そして同じ来週には、岩下志麻と篠原涼子がぶつかり合 う、秦建日子脚本の連続ドラマが、また始まる。熱など出していないで、作者クン、しっかりおやり。

* 右肱の外側が、見るも無惨に真っ赤っかに大きくすりむけ、ヒリヒリする。傷は膝外だのあちこちにあるが、痛むのは肱近くだけ、骨はどこも傷んでいない ようだ。今日は、落合川を溯り、また降ってきてから、東久留米市内をウロウロ走って、二三度両脚が攣った。あやうく降りてふんばって直したりしていたが、 歩道を走って車道に転倒したのは、もう保谷の地元近くへ戻ってからであった。つまり疲労していたようだ。迫ってきた自動車が家族連れのワゴンふうであった から停まってくれたと思われる。商用の急ぎ車であったら転倒したままとばされかねなかった。わたしの責任である。
 じつのところ地元で自転車での転倒は、数度経験している。段差のある車道脇の歩道を走るのがいちばん危ない。今日はマンがわるく上り道をだいぶ頑張った あとで、転んだ。いい気分ではないが、変な感覚である、ゆっくりと倒れ落ちて行くのは。


* 七月三日 月

* 「世界の歴史」の『西域とイスラム』を読み終えて、『宋と元』へ。中央アジアの歴史はきわめて繁雑に紛糾し、とても一度読みでは頭で「繪」にならな い。責任筆者の歴史叙述にも少し工夫がなかった。
 それに較べると、アンドレ・モロワの『英国史』は示唆豊かに要点をおさえ、また厳しく批評していて、筆致も展開もすこぶる滋味と興趣に富む。イギリスと いう難しい面白い国の個性を、こんなに暴き得ている他田にどんな著述かあるのか知ってみたい。
 日本書紀は「天武紀」の下巻を進んでいる。壬辰の乱も平定され、都は近江からまた飛鳥に転じている。いま吉野へ行幸、天皇・皇后が六人の異腹の男子を懐 に抱いて行く末の協調を誓わせているが、そういうことを心配してかからねばならないのが心配の根であり、この誓い、いずれ無残に破綻して行く。つづく持統 天皇紀で『日本書紀』三十余巻のすべて「音読」が終わる。もう少し。

* 京都への往復にどの本を持って行こうか思案している。通算の米壽をかぞえる「湖の本」の本文は責了にして行こうと思っている。
 三好閏三氏(祇園梅の井主人)との対談は異色のものになろう。

* 対談 心づもり
 「美術京都」という準専門誌で、配布先は、先ず美術家・愛好者、それに「京都」に関心深い人です。それを念頭に置きたいですね。
 三好さんは「京都」「祇園」の人、美術やその雰囲気を「創る」側でなく、「享受して活かし楽しみ喜ぶ」側にある人です。わたしと、その辺は、殆ど全く同 じ立場にあります。期待したのはその度合いが、わたしよりずっと具体的で生活的だという点です。
 ただし一時間半ちかい対談時間を、具体的な、しかし個人的・私的な体験や日常の話題だけでうずめると、読者はそこから或る纏まった何かを把握しにくく、 読み捨てになるか、ひとごと・よそごとで終わってしまいかねない。何らか「理解」や「納得」のための「筋」、手がかりを提示しなくてはなりません。
 それを、聞き出し手のわたしは、わたしの著書である、女文化論、京言葉論、伝統芸能論また文化論としての「趣向と自然」という考え方、茶の湯論等から迫 りたいと思っています。
「遊び」の達人三好閏三氏を支えているであろう「考え・思い」を絞りだしてみたい。もとより美・美術に力点を置きながらです。
 およそ、美術の話になると創る人の「どう創るか」の話ばかりですが、あきらかに偏りすぎています。
 美術や美は、創り出す側だけのモノでなく、それを享受し享楽する側の問題でもあるのですから。そっちの方が人数は圧倒的に多い。
 わたしたちは、もっぱら、その方面からおしゃべりしようと思います。
  享受・享楽とは、言いようを変えれば、「美しい」モノやヒトやコトに触れて、佳い意味で「遊ぶ」ということでもありますし、そうなれば、わたしたちに は、手に触れ、目に触れ、耳に聞き、口にして、遊び喜べる美しいものは山ほど有りますから、話題には困らないはずです。
 ただ、あまりとりとめなくならならないよう、「筋」を掴んで、「舵」をとらねばならず、その役をわたしがおよそ引き受けますので、対話を楽しみに来て下 さるように。
 いろんなことを聞きます。答えられることは答えやすいように気楽に答えて下さい、そこから問題が整理できてゆきますでしょうから。せいぜい七、八十分。 それに、あとで幾らも手入れして添えたり削ったり順序を替えたり出来ます。固有名詞の表現だけは最終的に間違えないようにしましょう。
 対談の場を、ひとつの架空の「茶席」のように想定し、三好さんお好みの趣向と自然で、「七月某日」という祇園会の時季にふさわしい、道具組その他を、脳 裏にご用意ください。
 その一つ一つを、私に、美しく堪能させて下さい。むろん道具だけでなく、一応「茶事」の体で、衣・食・席・庭や雰囲気づくりのお好み・趣向を、「自然」 にご説明下さるよう。
 むろん、架空の客も念頭に、おのずからな、少し逸れて行くほどの話題を楽しみましょう。音曲や歌舞伎や、京の「女」文化へも「ことば」へも話をひろげま しょう。
 最初に、今朝の「梅の井」さんのお店、またはお宅に心用意された、季節のお花、また書、画、装飾の工芸品などを簡単にうかがい、そして、気楽に本題へ 入って行きますが、どんな美や美術や遊芸にしても、それへ向かわれる「三好さんのお気持ち」が、趣向もあり、自然なものとして「生活術」としてうかがえれ ば、何よりなのです。堅苦しくする気はありません。

* さ、そんなにうまく話が運ぶかどうか、ま、堅く成らずに話し合ってこよう。彼に恥をかかせずに済むように。

* 秦恒平さま お孫様の身になんということが-----
 ただただ、治療が順調に進みますようにとお祈りしています。
 年が明けてから同年の友人が急死したり手術したり気の滅入ることばかり、気分直しにとカナディアンロッキーへの格安ツアーに突然に申し込みました。
 去る22日から28日息子と二人で心洗われる一週間の旅をして帰国、留守中に溜まっていたメールなど読み、秦さまのHPを読んでたった一週間の(私たち 親子が氷河や森や花を見て幸せだった同じ)間にご一家をこのようなご心痛が襲っていたなんて!!
 障害を持った息子が生まれたとき私はもう一生外国旅行など出来ないのかなあと悲しいでした。
 でも今彼は旅の一番楽しい道連れです。
 山や川や氷河に素直におどろき、若い女性添乗員さんと記念撮影し、レストランのウエイトレスを「「ベリーグッド!」といって喜ばせ、むつかしい顔の税関 のオジサンをにっこりさせ、ツアー参加者と自然に接してこれぞノーマライゼーション  こんな幸せな旅が出きる日が来るなんて、人生わからぬものです。
 ただただお祈りしています。 2006/7/3      藤

* すばらしいこと。わたしの心も晴れる。自転車で黒目川に沿って自然な小川のせせらぎや草のしげりをみて走っているとき、かつてこの辺で、母と子とのど んな時間があったろうと想うことがある。歳月というものの豊かな懐の深さを信じたい。

*  サッカーW杯が佳境に入ってきました。
 実力のある国が順当に勝ちあがってきているので、戦力が拮抗し、あまり動きのない試合展開になっています。
  アルゼンチンの敗退は残念でした。あの、小さい人たちの国を、応援していました。
  フランスの勝利は、嬉しかったです。ジダンのために、喜んでいます。
  それから、先日「第二章」という、とてもいいアメリカ映画を見ました。ニール・サイモンの脚本で、マーシャ・メイスンとジェームズ・カーン主演です。共に 再婚同士の、女優と脚本家で、女は未来を見、男は過去にとらわれている。
  最後に、うじうじしているジェームズ・カーンに、マーシャ・メイスンがぶつける、「妥協した人生なんて厭。わたしがほしいなら、戦い取って」という長台 詞、暗記しておきたいほど感動しました。
  風は、明日から京都でしょうか。
  お気をつけて、行ってらっしゃいませ。  花

* 郵便局へ走り、いろんな用事を一度に片づけてきた。雷が鳴っている。湖の本、跋をのぞいて責了に。

* 先程「mixi」にアクセスし、やす香さんの日記を読みました。命の重さを真剣に想う姿勢に胸を打たれます。お友達も凄いです。「mixi」の何たる かがやっと分かりました。
 このSNSというシステムは、祖国と離れて海外で暮らすエンジニアが、なかなか会えない家族や友人と手軽に交流するために作ったのが始まりと聞いたこと があります。
 明日は京都ですね。行ってらっしゃいませ〜。     from 百合

* 祇園会に入っている京都。明日は、午後から半日、なにもなく、ゆっくり出来る。明後日の午後、対談して、その脚で帰ってくる。七夕に、糖尿の診察。今 度はこれまで以上に惨憺たる成績で、怒られるだけで済むかどうか。京都で気儘に飲み食いしてくればデータは正直に暴露するだろうなあ、やれやれ。

 ☆ 自転車で転んですりむかれたとのこと、大丈夫でしょうか? 心配です。どうぞお気をつけくださいますよう。
 やす香さま、朝日子さまを支える大切な方です。   波


* 七月四日 火

* 時折さぁっと音がして、ひとしきり雨が山も野も洗い、ダム放水のサイレンが何度も響いていた一日が暮れ、くっきりと月が照っています。
  水無瀬川をちの通ひ路水満ちて船渡りする五月雨の頃  (西行)
 このあと数日は晴れて真夏日になるそうです。お大切になさってお出ましください。
 一目なりとお目もじがゆるされるなら京へ押しかけたい、心を羽にして飛んでゆきたいけれど、お仕事前とのことですし、祇園祭、そして谷崎さんの月ですも の。
 わがままはいたしません。
 市内の書店に見つからなくて、思いのほか遅くなりました。「吉野葛・蘆刈」(岩波文庫)を入手しまして、ようやっと二度読み終えたところです。500円 でお釣りがもらえ、北野恒富の挿絵に何葉もの吉野の写真は思わぬ付加(おまけ)。
 秦さんが大事に書いてらっしゃる、京都市内のあちらこちらや、亀岡など、ずかずか訪ねて覗くことを差し控える思いがずっとありました。谷崎さんについて はなおのこと。力量のまったく足りない雀が拝読して何らかの感想や印象を抱くなンて厚かましい、僭越と、おゆるしを待つ心中で永らく過ごしてまいりまし た。
 この春、小倉遊亀さんの原画から「少将滋幹の母」を、白洲正子さんに背を押され押されして「吉野葛」を、水無瀬神宮の宮司さんのご著書から「蘆刈」を読 み、あぁそぅか、そうだったのと、色とりどりの風船が膨らむような気持ちでいます。
 これからはお作の読みも違ってまいりますでしょうし、なにより谷崎作品の読み方をこの20年で教わったことへの感謝と感慨にひたっています。 雀

* 例の探訪・探索のメールを何度ももらっていながら、やす香ののことに思いひしがれて、なかなか落ち着いて読めなかった。が、雀行脚の向きはひろがり報 告が細かになっている。ま、この人ほど私の作品や言葉をすみずみまでよく囓って味わっててくださる読者は、少ない。どこでどういう勉強をした人かも知らな いでいる。
 京都。それで興奮したのではないが五時前に床を離れた。出掛ける前に、用事をすこし。新幹線で寝ればよい。

* 洋食のほうがお好きなようですが、当地のうどんも召し上がってみてください。
 いちばんおいしいのは「打ち立て、ゆでたて」(これはもう「うどんの刺身」なんだそうです)に及くはなく、ぜひ召し上がっていただきたいのですが、まず は「生うどん」でお試しください。
 こちらにおいでになったそのときには、「うどん八十八か所巡り」にお誘いいたしたく存じます。田舎の素朴(というより、粗野)な食べ物ですが、それなり にたくましい食べ物です。
 つるつると食べると、元気がわいてくるかもしれません。
 やす香さまの順調なご回復をお祈りしています。    讃岐

* ヒロインにいろんな名前をつけたけれど、『畜生塚』の讃岐町子はごく初期の。この名、ことに讃岐という音に惹かれ、あれで作品は出来た気さえする。

* 乗車時間を十時過ぎという早い時間にムリに決めて、眠れずにべらぼうに早起きまでしていたのが、万事につまづいた。新幹線では、茫然と眠っていた。
 目ざめた時はマーガレット・ケネディの『永遠の処女』を読んでいた。この角川文庫本は昔から手元にあるのに何度読み始めても読み進められなかった。旅に 持ち出すには不味いかなあと案じていたが、意外や、すらすらと今回は興に乗って面白く読み進んだ。旅の連れにして成功した。
 こういう経験はやはり角川文庫の『嵐が丘』で昔味わった。何度読みだしても入れなかったが、数度目にすうっと入って行き、そしてわが愛読ベストテンの上 位にランク出来る名作になった。『永遠の処女』は二十世紀に熱狂的に読まれた一作で、作者がまだ若かりし頃の二作目か三作目ではなかったか。まだ半分に行 かないが、これを読みたいばかりに旅中退屈するということがなかった。
 
* 昼過ぎにホテルに入って、すぐ昼食に四条へ出たが、いかに祇園会とはいえ、梅雨明けしていないはずがギラギラの日照りと猛暑にたちまち参ってしまっ た。両脚とも痛く攣って攣って歩くのも面倒、と言うより堪らなくて、転げ込むように「田ごと」の本店に入って、幸いうまい昼懐石にありついた。ただし葛を 使った煮物碗にでっかい賀茂茄子には閉口、うまい葛汁だけすくって食べ、茄子には箸もつけず勿体なかった。鮎はうまかった。酒もよかった。涼しい店にいた 間はご機嫌であったが、また日照りの四条に出るとたちまちに全身疲労が発熱したように昂じ、息まで喘ぎだして、喫茶店へ逃げこみ珈琲を飲んでも、やはり珈 琲で躰が燃えだし、外へ出るともうどうしようもなかった。ゆるゆる痛む脚を引きずって歩いたが、しゃがみたくなり、仕方なく近距離をタクシーに逃げこんで ホテルに戻った。
 そして熟睡から目覚めるともう七時だった。
 あまりうまくないホテルの晩飯をしながら対談の心用意のメモを沢山書き、部屋に戻ったものの、ただもう眠くて、テレビでやす香の病気に触れ女性のドク ターの話しているのだけ聴いてから、何もしないで寝入った。
 夜中二度覚めたが、結局、明くる朝の十時過ぎまでひたすら寝入っていた。
 こういう京都もじつに前例がなかった。


* 七月五日 水

* 十時過ぎ、外はどんより雨雲の雨もよい。どこかへ出ようと思っていたのも断念し、朝飯の時間にも遅れていたので、午後の対談の用意にメモを書き直した り、北朝鮮のミサイル発射のニュースを見聞きして、ホテルのランチを食べた。窓の向かいに産経新聞の京都支社のあるのは前から知っていた。対談の前に、ふ らりと立ち寄り、デスクと少しお喋りしてから、対談に出掛けた。

* 幸い対談は三好閏三氏の積極的な協力もあって、予定し期待していたとおり、おもしろい対話が堪能できた。弥栄中学以来の同期同窓であり、心やすさもあ り趣味も好みも考え方も近く、話題は多岐に亘っても混乱しなかった。その上三好氏は、茶道具の秘蔵品をいくつも持参して見せてくれた。
 白隠さんと伝える鰻の繪賛一軸といい、瀬戸の肩衝茶入れといい、さらに東山三十六峯の三十六あるという茶杓のうち「円山」と銘のある大文字山の松で削っ たど茶杓といい、目の法楽にあずかった。対談の中に、今日にちなんだ趣向の茶席一会の会記も、また茶事のための献立表も載せられるだろう。
 美も美術も創る人だけの物でなく、むしろ享楽し堪能し愛好する人達のものである。楽しまれ用いられ活かされて美しい物が生きてくる。その典型的な実例 を、この京の町衆のひとりからまちがいなく語って貰うことが出来、おお満足して、その脚で京都駅へ直行、予定より数十分早いのぞみで帰ってきた。よく寝た し、また『永遠の処女』も心長閑に嬉しく読み進んだ。

* ま、よくよく躰が疲労しきっていたとみえ、時間の余裕はたっぷりみて出掛けた京都で、殆どの時間を寝て過ごしてきたのだから、想えばヘンな京都行きで あった。明後日は糖尿の診察。これの気が重い。配剤されている薬の副作用らしいが、脚はむくみ、体重は減るどころか増え気味になっている。あんなに自転車 で運動していてもである。

* やす香の病気「白血病」は、以前に比べて新しい治療の進歩で、軽快への希望が見られるというテレビ番組に、力強い頼みを覚えている。どうか、そういう 医学的な幸運に恵まれて欲しい。

* 帰宅してみると、作家の近藤富枝さんや読者の岡部洋子さんたちにご馳走を頂戴していた。郷土出版社からは京都の文学の一セットが寄贈されてきていた し、讀賣新聞大阪から原稿依頼も来ていた。
 あす一日は休養する。疲れというのは溜まるモノのようである。

* お久しぶりです 今年は梅雨闇が長いように感じられてなりません。
  自転車で20分ほどなので、湧水地にはときどきでかけ森を散歩しています。水音もますます豊か、水遊びのこどもたちの姿を多く見かけるようになってきまし た。以前はカモのつがいなどもよく来ていたのですが、ここのところ子ども達のげんきな声に飛来を敬遠している様子。
  退職して2ヶ月、これからの人生をどう創っていこうかと思い、いろいろ考えてはどうも寡黙になりがちです。手始めに日々の雑記帳から書き始めてみようかな と思っています。
  旧約聖書と千一夜物語は変わらず、少しずつ読みすすめています。
  千一夜物語の巻6、353〜「肉屋ワルダーンと大臣の娘の話」のくだりは、王の気持ちがだいぶ和らいできた兆しがみえ、なかなか興味深いところでした。、 肉屋の若者が、少女の頃黒人に最初に犯されたために淫乱(?)になってしまった美しい姫を助けるお話。老婆に頼んで薬を調合してもらい、燻しだすと黒いウ ナギと黄色いウナギが出て姫は穏やかな気性を取り戻すわけで、シャハラザードからそれを聴いた王が「昨年、その薬があったならば・・・」と述懐するシーン は印象的でした。
 また、最近読んだ『わたしを離さないで』は大変衝撃的な作品で、2〜3週間人間とはなんだろうと考えこんでしまいました。医療のため、臓器移植用の人間 コピーを製造し育てる・・・話です。
 先日ひばりヶ丘に行きましたので、「テイファニー」に寄り、おすすめの「ハンバーグ」試してみました。なるほど、素朴で美味しかった! じゃがいもの冷 製スープとても素敵でした。

* お帰りなさいませ〜♪  百合
 ご無事のお帰り、何よりです。
 日記、拝読いたしました。お疲れだったんですね。どうぞ明日はゆっくりとお休みください。
 足のむくみと体重ですが、体内の水分が上手に排出されていないから、足がむくんで体重も見かけ上は増えて見えるのかもしれませんね。もしそうだったら、 強い利尿作用のある食べ物=西瓜、メロン、小豆、珈琲なんかが効くのではないかと・・・。あとは、少し安静になさって、腎臓そのものを休ませると、よろし いのではないかなぁと思いました。

* 四国の花籠さんからも「お帰り」のメールをもらった。

* インシュリンを利かせるために「アクトス」という薬を併用し始めてから脚にきついむくみが出て、体重まで増え始めた気がしている。これをやめたいと、 明後日ドクターに頼んでみる。わたしは、これまでの七十年に、盲腸の手術で入院した以外は、小学校五年生の秋に腎臓病で死にかけた入院が一度きりで、他に 入院したことがない。アクトスにはたしかに排尿阻害の傾向も感じられる。腎臓をいためるのは困る。今一つは、むかしにくらべて皮膚が傷つきやすくなってい る。糖尿病の関連であることが濃厚に推測できるのだが。

* 光文社智恵の森文庫の『古美術読本』二「書蹟」の巻の編著が出来てきた。井上靖在世の頃、先生の推薦で随分いろいろ私は仕事をさせてもらった。枕草子 や泉鏡花も編纂したし、淡交社の『古寺巡礼』にも書いた。そういえば、「建仁寺」の巻も智恵の森文庫に入っている。「書蹟」には、岡倉天心、幸田露伴、青 木正児、小林太市郎、三条西公正、小松茂美、安田靫彦、武者小路実篤、高村光太郎、村上華岳、会津八一、北大路魯山人、亀井勝一郎、吉川英治、宮川寅雄、 山本健吉、井上靖、大岡信という豪華な顔ぶれで編んだ。わたしは本のお添え物の「序」を書いただけである。なつかしい。


* 七月六日 木

* 同じ夢にしつこく悩まされながら、熟睡。熟睡していても、十一時前、確実に血糖値は上がっていた。

* 昨日は半ば呆然と暮らしました。折りしも北朝鮮のミサイルが日本海に・・一日中テレビをつけて・・それでもミサイル云々を比べようもないのですが、健 康のこと…断然重要なのです。お元気でありますように。
  午後、BSで「草原の輝き」という映画を見ました。エリア・カザンの原作で1960年頃の映画で、わたしは高校生の時に見ています。「草原の輝き、花の華 やかさは失われるが・・今日を強く生きること」というメッセージ。作中のまだ十分に若いナタリー・ウッドやウォーレン・ヴィーティから遥かに遠い年齢に なっても伝わる言葉を自分に向けていくしかありません。  鳶

* 京都は暑かったでしょう。
  ここ二日は準決勝を観よう、とワインの力を借りて早寝早起きをしています。
  ご贔屓イタリアが勝ち。
  今、終盤のロスタイム、前半、ジダンのペナルテイキックで一点先取のフランス、好きなラ・マルセイエーズが一際大きく響いています。ポルトガルも応援して いたので、複雑。フランスが決勝戦へ、生放送していま〜す。
  と、わたしは元気。  泉

* 胸の底に、とぽんと黒い深い穴が覗ける。よく分からないが、寝起きに目に入った北大路欽哉の「子づれ狼」のせいかもしれない。この時代劇には、わたし のもっとも嗤う通俗の極みその代表例である「大岡越前」「水戸黄門」「暴れん坊将軍」とは抜きんでて異なる美質と強い訴求力があり、しかし哀しくも心楽し ませないつらさもあり、画面に触れるだけで私の胸は塞ぐのである。そうさせる力があり、運命とか宿命とかの愚かなほどの苛酷さを横溢させている。

* 九月歌舞伎座、初代吉右衛門生誕百二十年の「秀山祭」は、待ってました。すぐ幸四郎夫人に注文。八月の納涼歌舞伎には扇雀、染五郎二人ともしつかり出 勤するのだが、演目にやや心行かぬ物があり、休むことにした。もし妻の体力がゆるすようなら少し涼しいところへ一二泊の小旅行を楽しみたいが、こればかり はその時次第。

*『最上徳内』と『青春短歌大学』の「MIXI」連載をつづけている。のこっていた後書きも入念に良く読んで「湖の本」新刊を責了し、これでいつ本が届く やら、困ったことに発送の用意が本の搬入までに間に合いそうにない。発送の仕事も、今度は一冊が二百頁という一入の大冊、その重さからも容易でない。ハラ を決めて、ゆっくり時間をかけてやる。

* 讃岐うどんのおいしいのを昼にいただき、そのあと、一時間余自転車で走ってきた。田無の電波塔の北方に自然なままの大きな森林が残っているのにはじめ て気づいた。鬱蒼という二字がふさわしい、少しコワイほどの樹林の中をぐるりと往復してきた。
 今日は危なげなく、帰りにはひそかにお目当てにしてきた「保谷のかりんとう」を箱で買って帰った。

* アイドリングの気分。ルータまでがまたヘンに怠け始めた。しばらく機械から離れる。

* ミシェル・ファイファーのしっかりした映画をみたあと、息子の新しい連続テレビドラマの始まるのを、見た。
 よくもまあ、というほどの駄作で、落胆。
 場面と台詞をさわがしく繰り出すわりに、動的なテンポの練り上げもなく、リアリティーもなく、人間の造型もなく、むろん演劇的なクオリティーもなく、要 するにドタバタのへたな作り物で、演出も写真も演技も、お話にならない。
 一回目だけで全体を推測はしないけれども、一回を見た限り、篠原涼子も、まえの「雪平女刑事」の颯爽とした造型からくらべれば、陳腐でウソくさい、面白 くもない芝居ぶりだし、筋書きの設定も、カードの撒き方も、真実感が少しもない。女優が可哀想みたい。騒々しさを面白さと勘違いした低俗ドラマの低俗演 出、いただけない軽薄さに、しんから呆れる。このぶんでは、岩下志麻のミスマッチも予想され、がっくりくる。
 そもそも京都のワコーめく会社に、何年勤めたからといって、福島育ちの青年に、あんな完璧な関西弁を柄悪く駆使されては、そもそも「ことばや方言、訛 り」というものへの理解がどうなっているのだろうと想う。福島の桃つくり農家の母親岩下志麻は、どうやらかなり端正な標準語をしゃべり出しそうなアンバイ だが、この脚本家は、「ことば」「方言」「訛り」「風俗」を、小道具として、今後巧みにドラマの筋書きに組み入れる算段なのか。それなら少し期待してもい いが、「ことば」はバカにならない生き物、またこの予定された筋書きから見れば、そんなことをすればするほど、不自然負けするのではないか。

* がっかり……。

* こんばんは。京都の旅のお疲れは取れましたか。ご心労に暑さが重なってどっとお疲れがでたのでしょう。
 晴れるとすぐに30度を越える暑さで、今からうんざりしてしまいます。
 今年の祇園祭は、宵々山が土曜日、宵山、巡行が連休になり大変な人出になりそうです。
 父がお祭りが好きでよく連れてもらいました。一度だけ通りのニ階に上げてもらったことがあって、お囃し方の顔が目の前をいくのが、なんだか恥ずかしかっ た記憶があります。あのころは粽も鉾の上から盛んに投げられていましたね。
 もうあの熱気の中に出ていく勇気もないです。
  ご無理されませんようお大事にしてください。
 やす香さんのご回復を心からお祈りしています。   のばら 従妹

* 従妹のたよりもいつも具体的で、メッセージとして包み込んだ容量が大きい。懐かしさが共有できる。
 この母方の伯父はまことにふぅっくらと柔らかい人柄・身柄で、絵に描いたような美しい京ことばをはなした。わたしが京ことばわ意図して用いるときは、よ くこの伯父の肉声に乗せるようにして正確さを計ったものだ。

* 京都ご出張おつかれさまでした。
 ご対談の、茶会記、献立表を拝見するのが楽しみです。
 「三十六峰」のお茶杓は三十六本あるのですね。一本一本の銘が山の名とは、なんと趣深いこと。  讃岐

* 京都からお帰りなさいませ。
 脚のほうはいかがですか。肘のお怪我も。心配しています。痛むのではありませんか。今は周囲にも体調が悪いという人ばかり。鬱陶しい季節のせいもありま すでしょう。どうぞやさしくやり過ごして、お大切になさってください。
 地唄舞の先生から歌舞伎のタダ券をくださるというお話がありました。二階席というので、それほどいい席ではないでしょうが、チケット二十枚ほど手に入れ て満席にしたいお知り合いがいるそうです。夜の部のほうです。一度は観てみたいと願っていた玉三郎の泉鏡花なので、とても楽しみに。少しお近くに行けるよ うでドキドキします。
 明日の診察が良い結果でありますように。  夏


* 七月七日 金  七夕

* 黒いマゴに足さきを軽く噛んで起こされた。早起きすると、用事ははかどる。

* 予約は一時だが、検査を早く済ませておくと診察も少しでも早く済むので、十時前に出掛ける。聖路加へは保谷で有楽町線に乗車して、一時間あれば受付へ 着く。一時過ぎに気分良く昼食出来るかどうか、今日は雲行きが良くない。

* 出がけに、やす香の「告知」と題した「MIXI」日記が出た。癌センターに、転院、と。Ah…。
 朝日子に様子を聞かせて欲しいと連絡したが、あいかわらず朝日子からは、見舞いの日以前も以後も、わたしへも妻へも、何一つ報知も連絡もない。

* 聖路加の食堂で、ビーフシチューのランチとアイスクリーム・珈琲で、早めの昼食。「ビールは、ない…よね」「ありませーん。ノンアルコール…ノンシガ レットでーす。前にも聞かれましたねえ」「ハハハ」「ビール、呑みたくなったなあ」と、ウェイトレス嬢。気散じで、よろしい。

* 先に早く検査を済ませておいた御陰もあろうか、一時の予約だが、十二時半には名を呼ばれて一時には会計も終えていた。検査結果は、なんと、格別の改善 ぶり。アクトスのせいもあり体重は少し増え気味でもむしろ当然、前回い「八台」といたく叱られた値(ヘモグロビン?)が、「七」ちょうどにめざましく下降 改善されていて、ドクターはご満悦であった。アクトスでむくんでも腎臓への影響は心配しなくてもいいと。それでもアクトスは一応おやめとなる。体重の増え 気味に嫌気がさしていたが、この季節とこの薬剤投与からすれば自然増で問題はないと。よしよし。自転車運動は卓効を奏したようであるが、運動過多で疲労し たり、その結果事故死したりしないでくれと、命の心配をしてもらい、恐縮した。わたしとしては、あれぐらい野放図に飲み食いしていたのに状態改善というの は、バカされたような気分だが、儲けもの。

* 銀座ニュートーキョーで生春巻で乾杯。ケネディーの『永遠の処女』がおもしろく、寸刻の退屈もなし。池袋のさくらやで「ランケーブル」を買い、ついで に豪華版のロースカツ弁当を二つ買って、帰宅。

* 運動(ヨガ)に行ってきました。少しずつ、体が慣れてきたのか、はじめの頃ほどしんどくなくなってきましたよ。運動してかく汗は、サウナや岩盤浴など の、じっとしていてかく汗とは別の汗腺から出るんですって。やはり、何事も、ラクしてはいけませんね。
 ですから、風がからだを動かして汗をかくのは、とてもいいことなんです。
 さてさて、風の診断結果はいかがでしたでしょうか。一緒においしいものが食べられるといいな。
 一時から、以前風がごらんになったとおっしゃった「女の園」がNHKでありますので、見ます。
 富士山をみあげながらいつも風を感じています。   富士浅間の、花

* 率直に励ましてもらっている気がして、有り難い。
 私も帰宅して『女の園』のラストを観た。こういう映画の創れた時代、創った映画が時代をほんとうに刺戟し得たあの時代を、わたしは、胸が痛むほど懐かし む。おそらく今の若い人達にはこのような映画は「ダサイ」のではなかろうか。
 たとえば「**をするのがいけない」のではない、「校則で禁じているのにするのがいけない」のだと学校の先生が言われるのは理の当然のようである、が、 それはその一方で「校則を適切に変えて行く自由と権利」の抑圧になっていては「いけない」だろう。この抑圧に闘ってきた時代があり、多くの大事な権利を人 は手にしてきたのに、いまや、着々と奪い返されつつあり、わるいことに、もう『女の園』『日本の悲劇』『笛吹川』『野菊の墓』のような映画がまっとうに創 られない、創ろうともしないし、創ってもひとが見ない時代になりきっている、それが実に辛いし、切ない。消耗娯楽映画はあたっても、時代を厳しく批評しつ つよりよい時代を創り出そうとする映画は、たいがい頭でっかちの空疎な大作というだけで終わっている。なさけない。


* 七月七日 つづき

* マーガレット・ケネディの『永遠の処女』は、小説を読むという嬉しさをたっぷり感じさせてくれるしファシネーションに溢れている。まだ年おさない娘の 作品としては才知に溢れて、生き生きとした会話を書いている。彼女の戯曲的な才のなせるところと解説されている。
 ルイス・ドッドとフローレンス・チャーチルの対話の中で、天才的な作曲家のルイスは二十歳前にサーカスの楽隊でコルネットを吹いたりサーカスのための曲 も作っていた経歴を、令嬢フローレンスに打ち明け、「僕の様式はいまだにその名残を止めている」と言うと、フローレンスは即座に、「ジャーナリズムと同じ ようなもの」ですねと応じ、「どんなにその人が文学的でも、ジャーナリスト上りの作品にはそれがでてますわ」とルイスをたじたじとさせる。なかなかの批評 家。
 新聞記者や記事を書いていた雑誌記者あがりの作者は少なくないが、このフローレンスの言うようなところを、わたしも感じてきた。それがわるい、よいの問 題ではないが、筆致にそれが出てくる。読みやすいが味は浅いのである。

* 昨日京都の星野画廊が送ってきた図録、「忘れられた画家シリーズ30」『没後78年増原宗一遺作展』「夭折したまぼろしの大正美人画家」は、正真正銘 のすばらしい発掘で、眼を吸い取るほどの画境。岡本神草や甲斐莊楠音らを凌ぐ凄みを描いて、なまなかの美人画とはとても謂い得ない天才を輝かせている。秦 テルオともどこかで魂の色を通わせているが、恥ずかしながら是ほどの画家の名前も作品もまったく知らなかった。鏑木清方門の師も一目置いたであろう画人 で、ひと言で言えば、最も佳い意味で「凄い」し、人によれば「怕い」であろう。「春宵」「舞妓」「藤娘」「手鏡」「五月雨」「七夕」「夏の宵」「夕涼」 「浴後」「両国のほとり」「落葉」「鷺娘」などとならぶと、尋常な美人画の題目であるが、一作一作はもっともすごみのある、鏡花や潤一郎の大正の作に通底 する悪魔性も隠している。
 「夏の宵」という二曲の屏風が凄い。この一冊しかない『宗一画集』のなかに黒白の図録として遺された「舞」「三の糸」「悪夢」ことに蛇をからませて立つ 「伊賀の方」の二図や「誇」はその美しい凄さに肌に粟立つ心地でいながら、深い官能美は、やはり鏡花にも潤一郎にも共鳴する。こんな画家に出会うとは、た だもう、驚嘆。
 こういう極めて貴重な掘り出しの仕事を、夫妻でつぎつぎにやって行く星野画廊の業績は、文化勲章ものである。これを京都で見てこなかったとは、痛嘆。

* この天才画家増原宗一の発掘に較べれば、偶々手に入れた「オール読物」五月号の「発掘! 藤沢周平幻の短篇」なんてものは、「無用の隠密」も「残照十 五里ヶ原」もただの通俗読み物を半歩もでていない。手慣れた措辞に渋滞のないところは、他にも満載されているくだらない通俗小説のヘタなのに較べれば、三 段も五段も優れているのだけれど、こと文藝としてみれば講釈の達者という以外のなにものでもない。これでも比較的藤沢周平は何作か見る機会があった方だ が、おはなしの上手以上の感銘など雫も得られなかった。藤沢にしてしかり、「力作短編小説特集」など、どこが力作なのやら、まことにくだらない。「オール 読物」に載っている作品は「つまらない」と言うのですかと、このまえ、自称エンターテイメントの、大家らしき人に顔色を変えて迫られたが、この号で見る限 り、優れた作は優れた作ですよとすらも、ただ一作として言いがたかりしは、如何に。

*『初恋』から読み始めました。
 先生、素敵なご本をありがとうございました。
 谷中いせ辰の和紙(水色の鹿の子)でカバーを付けて読んでます。
 清冽な文章! 本当にもう、凄いです♪ 引き込まれます。気づけば、両の眼を大きく見開いて読んでいて、目がぱりぱりに乾いてしまいました。
 電車で読んでたら危うく乗り過ごしそうになり、買い物でも、直しに出していた洋服を忘れるところでした。日常生活の全てを道端にバラバラと落として歩 く・・・。本を開いたとたん、人生を小説に持って行かれちゃう・・・。そんな感じです。  百合

* こういう思いをわたしも潤一郎作でひしひし味わった。こういうレターを書きはしなかったが、谷崎潤一郎論を思う存分に書きたいばかりに小説家に先に成 りたいと本気で考えた。『吉野葛』『芦刈』「春琴抄」『少将滋幹の母』『武州公秘話』『細雪』『猫と庄造と二人のをんな』などだけでなく、初期の短篇や、 大正時代のあれこれでさえも、わたしは活字に唇を添えてうまい味をのみほしたかったのである。そういう思いをさせてくれない軽薄な読み物など、どうでもい いのである、わたしは。時間つぶしに過ぎない。熱狂して読んだ作品を列挙したらたいへんな量になるが、むろん読み物もたくさん読んできた末に断言できるの は、そういう感銘作の中に読み物は一つも入っていない。それらから何か魂の糧をえられたという覚えは全くない、ということ。

* 2006年07月07日 07:58  告知   やす香
 私の病気は
 白血病
 じゃないそうです。
 肉腫
 これが最終診断。
 れっきとした
 癌
 だそうです。
 近々 (院内の)癌センターなるところに転院します。
 やす香の未来はどこにいっちゃったんだろう…

* 愕然! 白血病ならばまだ何とか…と希望を持っていた。最悪の事態。言いしれぬ憤りのようなモノに苦しむ。

* 2006年07月07日 14:31  会いたい   やす香
 親友に会いたい
 友達に会いたい
 先輩に会いたい
 後輩に会いたい
 先生に会いたい
 みんなに会いたい

 最後の土日に
 みんなに会いたい

* おお、やす香は恐怖している! 行くよ、やす香。行くとも。


* 七月八日 土

* 今日は、歯科。暑い。転んで傷つけた右肱裏がひりひり痛む。

* 診察 よかったですねー。気持ちが晴れ晴れとなさいましたでしょ。
 > 機械本体へはジャックが大きくて合わず、
 変ですね。最近のパソコンには、LANケーブルの差込穴がついているみたいですが。どこかに穴があるんじゃないかしらん。
「女の園」は、力強い映画でした。感動しました。現代にも通用する作品です。アイルランドの女子更正施設の映画(題名忘れました)を思い出しました。
新刊の発送という大仕事を控えておられる風、重い本を運ぶ際は、くれぐれもご注意を。ほんとうに、これがいちばん心配。
 心配しつつ、元気な、花。

* まるまる一ヶ月、テレビもラジオもない無銭旅行のような、あるいは読書さえもままならぬ苦役のごとき身辺整理の日々をすごして寝つかれぬ深夜、ひさし ぶりにパソコンを開いて、愕然と「私語」を遡りつつ、涙しております。
 わたしの「石火のごとく」にふれて妹が米国から送ってくれたメールに、
 「いつも思い出すのは、わたしが離婚の泥沼にいるとき、他にはなにも言わず、「かんばれ。がんばれ」と、ただそれだけをなんどもなんども電話の向こうで 繰り返してくれた、あのときのお父さんの声です。」とあるのを読んで、あらためて父の妹への深い愛情を感じ、また心配されることの幸せに思いいたったので すが、先生のご心配は必ずや届いています。
 そしてまた、「がっかり・・・」の手厳しい叱咤が愛情表現の変形であることを、建日子さんは先刻ご存知のはず。こころの芯より心配し叱咤してくれる人の あることの幸せ。それがどれほど得がたいものであることか。
 やす香さんの治癒を遠くからお祈りいたしております。 六 四国

* 感謝。

* 歯医者のあと、「リヨン」でうまい昼食。ワインは赤。
 ケネディの小説を読むのが嬉しくて仕方ない。こんな不思議な気持になるのは久しぶりだ。二十世紀といえどもわたしの生まれるより前だろう。イギリスにま だ「イスラエル」の自覚と理想の揺曳していたのが分かる。
 小説とは無関係であるが、英国はあれで、ローマ公教会、イングランド国教会、清教会などが組んずほぐれつの闘争を繰り返した国で、トーリ党、ウイッグ党 の軋轢も甚だしかったが、理想の清き「イスラエル」を本気でイングランドに建設しようという熱烈な信仰が、政治的にも渦巻いた時期がある。おもしろい国で ある。
 なにしろ王様が純然のイングランド人ではない時代が永い永い。王様の信仰と国民の信仰とが真っ向ぶつかりあうこともしばしばで、しかもイギリス国民の 「議会」主義は根強い。王様に強力な常備軍のあったことが少なく、君臨すれども、議会を招集し解散する権力はあれども、議会の決議無くして好き勝手に王は 金も使えなかった。フランス国王から小遣いを貰っていた王もいたのである。
 そういう国の貴族社会も、根を辿れば複雑な出自である。騎士も領主も農民出も商人出も、僧侶もいるから難しい。
 オースティンの『高慢と偏見』も優秀な藝術であるが、この国のゼントルマンやレディたちのうごめく小説を通して見て取れる「英国像」はいかにも懐が、深 いと謂うよりも、ややこしい。だから面白い。

* 光通信は相変わらず宙に浮いている。

* 映画二作を「聞き」ながら、新刊発送のための作業をよほど進めることが出来た。それでもまだいろいろ遅れている。追いつけるかどうか、はらはら。
 明日は休めるけれど、明後日の月曜から木曜まで、四日連続して、委員会二つや歯医者など、休める日がない。


* 七月九日 日

* 夢見わるく、目覚めは気色わるかった。「夢」「夢」「夢がある」「夢をもとう」などと言う人がいると奇妙な気がする。まともな人間を惑わせる諸悪の根 源のひとつであるに相違ないのが、夢。そもそも生きていると思っている、それ自体が夢にほかならないのは明らかで、真に生きるとは、そんなたわけた夢から 覚めること、ああみんな根のない夢なんだと気づいて覚めること、そこで始まるものであろうと信じている。
 こんな風に書いている、考えている、手まさぐりしている、このすべてが夢であることを、わたしは「感じて」いる。感じているからそれを「眺めて」いる。 与えられた役のように意識して演じている。あえていえばそういう舞台に置かれていると知りながら、演じている。楽しんでさえいるのである。
 「夢だよ」「これは夢だよ」「夢なんだよ」と囁く。人生は、「闇」に言い置く夢である。闇が真っ暗だと思うのは、夢から覚めていないからである。闇の絵 空事はかがやいている。創り出した小説が示している。闇は光っているのである、ほんとうは。

* 『初恋』、読み終えました・・・  
 本当に凄い作品、只只感動するばかりです。読んでいると、いろいろな想念やら情動やら、もはや虚実がはっきりしない過去の記憶の断片やらイメージやら が、諸々押し寄せてきて、その大きな塊をどう扱えば良いか途方に暮れるような状態です。
 読み始めた瞬間、乱暴に持ち上げられた子ネコのようにひょいと掴まれ、無造作に{あの場所}へ放り込まれた感覚でした。
 読み終えても、主人公と木地(雪子)さんが居る、あそこから出られません。あまりに現実と地続きで出口を見つけられずにいるのです。そして、まだ帰らず にもう一度たどり直して深く理解したい、と、帰ることを拒む私も居ます。困りました・・・。
 物語は、何本もの絹糸が寄り合わさって一本の美しい紐になったような造りで、読んでしまったことで、それ以前の自分には戻れないと思うほどです。
 私の人生では、ごくたまに、こんな風に、天から翼を持った鯉が降ってきたような、そんな歴史的な出会いを賜ることがあります。私は特定の宗教を信じてい ませんが、こういうときは、確かに神様に祝福されているなぁと実感します。湖先生に会わせてもらえたことを、本気で神様に感謝しました。
 そういえば、私の一番好きな女神がアメノウズメノ命で、作品中に彼女の名が出てきたこと、愛八さんたちが嗣いできた藝能の消息とともに、深く心に刻まれ ました。
 とりとめがありませんが・・・。それではこれにて・・・。  from 百合

* 原題は『雲居寺跡(うんごじあと)』現在では京都の東山、大きな露座の観音さまのおわす高台寺になっている。名作能『自然居士』の舞台であり、わたし の小説では、平家物語そのものを主人公にした現代小説「風の奏で」でも重要な舞台になっている。『初恋』も『風の奏で』もれっきとした現代小説であるが、 梁塵秘抄や平家物語の時代へずぶと半身をさしこんで幻想的であり歴史的であるように創作されている。そしてともに「藝能」を担ってきた人達への愛と理解と 痛恨を書いている。
 そうそう易しい小説ではないが、読み巧者、達者には愛されてきた。
 『風の奏で』ではこんな人もいた、はじめて文藝春秋本を手にしたとき、読みにくいと腹が立ち、壁に投げ付けました、と。それが、アヘンを呑んだようにも う手から放せない、何度も何度も何度も読んでいます、と。
 文学とは、優れた力ある読者にこのように迎えられるものでありたい。百合さんに感謝、作が幸せである。
 
* 十日ほどか、「ひだる神もどき」のようなものにとり憑かれ、ぐずぐずしていましたが、「いつまでこんなふうにしていてよいものか」と思ったきっかけ は、ミクシイのわが日記にあった先生の足あとでございました。ありがとうございました。
 連載の「青春短歌大学」で、岩上とわ子さんの「海みゆる窓べを吾にゆづりつつ旅の日も言葉すくなし夫は」を取り上げていらっしゃいました。
 岩上さんは、うたの大先輩、いろいろご指導をいただいたおひとです。おやさしくて、「臈長けた」ということばがぴったりのおひとでした。生き形見とおっ しゃって、紬の袷と帯をくださいました。お背が高くていらしたので、裄がわたくしには少し長いのですが、仕立て直すのが惜しくて、そのまま、着せていただ いています。
 近頃はめったにそのお名を見ることがなかったものですから、なつかしくうれしく、つまらぬおしゃべりをしてしまいました。おゆるしくださいませ。    香

* アイヌ語と江戸時代の言葉とを対訳するように蝦夷地事情を報告している最上徳内の文書が在る。「MIXI」にこれも連載中の長編でそれを読んだ人が、 すばやく反応してくれていて、にんまりした。

* こういう話ばかりだといいが、今はそうは行かぬ。猛雨の災害も厳しいし、北朝鮮をめぐる日本の外交のもたつきも、なんだか後手にさえ回りかねた総理の 無策にもいらだつが、やはりそれどころでないのは、孫やす香の病状。
 「白血病」として一度下りた診断がぐずついていると、やす香自身が前に「MIXI」で報せていたが、「肉腫=癌」と決定し、今日九日をかぎりに今の個室 を出て「がんセンター」に転院すると「告知」していた。病態の表現としては肉腫とだけでは少し分かりにくい点もあるが、ともあれやす香自身、まだ、わずか なりとケイタイを通じてメッセージを送り続けてくるし、友人達の激励もまた涙ぐましいまでにしきりであるけれど、いかなる吾々の問い合わせにも、押村家か らは、ただ一度の返信も返辞もこない。転院先の「がんセンター」が、相模大野の北里大学内にある施設をいうのか、たとえば東京築地の「国立がんセンター」 などをさしているのか、それも分からない。「会いたい」「会いに来て」とやす香のメールは叫んで呼びかけているが。
 母親も父親も、この期になにを考えているのか。

* メッセージを頂いて、その続きで「生活と意見 闇に言い置く」など興味を持って、読みました。読みっ放しでスミマセン。
 今、居らっしゃるところ、偽りのない生活の中から聞こえるものには、素直に読める静かな迫力があります。 また時間をみて読ませていただきますね。
「mixi」に参加しながら、言うのも変ですが、PCのネットワークというのが、どうも以前より違和感があり…慣れないのです、が、自分なりの活用や愉し み方を模索してみます。よろしくお願いします。
 ありがとうございます。
 ◇年齢とは…気が付けば、○○才。この事実を何としよう。明かす必要があれば、隠すこともないので「○○才です」。それで、一括り。収まりがつくよう な。が、しかし私自身は「私」が数字で収まる筈もないので倦む。
 大人になったか。
 親になったか。
 ○○才になったか。
 老いたか。
 昔と違って、今の大人とされている人は 自分の役目や老いを「ちゃんと」節目で自覚するような術も曖昧で、長く生きることになっているが(寿命)、今こ の自分はどうだ?
 何とも収まり悪く、漠然とした不安も多い。
 その昔、子供の頃、大人には「ちゃんと」という、子供には分からない 当然で、自然で、明確なものが備わり、それが大人として映るものだとばかり思って いた。
 新しいものに惹かれ、自由な感覚、ミーイズムを謳歌してきたその質はお粗末で、途方に暮れさせるものだった。
昔の大人、老人も「ちゃんと」という備わりは、ひとりひとりのことで何を以って据えたように見えたのかは分からないが。
 ここのところ、そんなようなことを考えています。 親友(62才)と呑みながら話題にしたり、本読んだり…。  福
 
* この人の、「MIXI」の自己紹介の「味」に気を惹かれ、思わず立ち止まった。表向きわたしより一世代余り若い人になっているが。
 若かった昔に耳にしたような、或る「物言い雰囲気」が蘇ってくる。


* 七月九日 つづき

* サイトでお孫さんのご様子を拝見しております。ご心配になるお気持ちが文面を通してこちらによく伝わってきます。治療の成果があがり快方に向かわれる ことを心よりお祈りしています。
 最近の一連の動きをめぐるご家族のご様子や、特にお嬢様へ言い及んでいるものを拝見していると、自らを振り返りつつ親子のことをあれこれ考えさせられま す。
 水上勉氏の御令息である窪島誠一郎氏が、「人生60半ばになると、結んだひもがこぶたん玉になっているところがある。ところが僕は、こぶたん玉を隠そう と、ひもを両端からぎゅーと締めてごまかそうとしてきた。だけど、ひもに手をやると、やっぱり、コブがあることはわかるんですよ。あのとき、なぜコブをほ どかなかったか、そういうチャンスは何度もあったのに・・・。」という発言をされたことがあります。
 これは窪島氏を育ててくれた養い親のお母様とのことをおっしゃっているようですが、それに限らず肉親との関係で未熟であった自分の対応に気付き、それを 悔やむということは誰にでもあるでしょう。
 ただそれに気が付くには時間がかかります。月次な表現になりますが、孝行をしたい時には親はなしということになりましょうか。
 では親は、祖父母はどうすべきなのか。
 昨日81歳になる母と長いこと話をしたときにも、そのことに及びました。
 人は、自分の肉親であったとしても上の世代のことを考えるのは難しい、そこに思い至るまでには長い時間がかかる、それが当たり前なのである、上の世代と しては思っているという気持を伝え続けるだけであるというのが、私の母の締め括りでした。若い世代がそのことに早くに気付いてくれれば、それは僥倖です。
 繰り返しとなりますが、お孫さんの治療の経過が良いことを願い、お嬢様(それにお孫さんのお父様を含め)、そして秦様御一統が心安らかとなることをお祈 りします。     正  英国

* 物心着いたときから、わたしは「親」をいつも観察していた。身の傍にいた親は、わたしを「もらひ子」した育ての親たちであった。実の親たちのことは知 らなかったが、もののほつれからこぼれる糸屑のように、ぽつぽつと年数に応じて何かしら知れてはきた、ただ、確かめる術は、ほとんどなかったし、なにより わたしに確かめたい気持がなかった。「自分」以外は自分でないのだから、一律「他人」と思い、親だから、きょうだいだから他人ではない、などと思わなかっ たのである。
 大事なのは、自分のほんとうの「身内」を自分でみつけ、一人でしか立てないはずの「島」に一緒に立とうと願っていた。「妻」とはそういう身内でありた かった。恵まれた子供達や孫達も、子や孫という関係によって身内であるのでなく、「身内」で在りうる子や孫であればいいなと願っていた。
 事実上なかなか容易でないことを、わたしは知っているのである。
 わたしが子や孫達に愛情を失ったことのないのは、誰もが信じてくれるだろう、が、それゆえに彼等がわたしの謂う「身内」であるという「保証」は何もな い。無条件にそんなことをわたしは彼等に強いも、求めもしていない。それは親たちに対しても、終始そうであった。

* 娘が波瀾のあげく結婚した相手は、通俗な「親類縁者」観の持ち主で、婚姻により結ばれた家庭と家庭や、家族と家族とは、当然に「身内」であるという常 識から半歩も出られない、大学で哲学を教えている先生である。学者であるそういう婿を持ったからは、妻の実家たるもの、婿にたいし、家屋や生活費の経済支 援をするのは当然の義務であり、そんな常識も弁えないバカな親なら、「姻戚関係」をこっちから断つと離縁の手紙を寄こし、それきり一切の交通を断ってし まった、そういう「哲学」の持ち主であった。
 その当時、わたしたち夫婦は、自分を育てあげてくれた、三人とも九十歳台になる・なろうという義理ある父や母や叔母を、一手に抱えていたのである。
 わたしたちは、妻は、夫との暮らしに拠るのがいいという考えだったから、娘が離婚して戻ってくるなど、全く望まなかった。
「他人」でったら愛情はもたないとか、捨てるとかいうような考えは微塵もなく、娘や孫達が幸せならそれでよいと考えて、孫のやす香からの嬉しい働きかけが あるまで、何一つよけいな手は出さなかった。それでよいと考えてきた。
 そして孫達は、親に内緒という窮屈さもむしろ楽しむかのように、姉も妹も、二人とも、祖父母の家を何度も訪れ、街でもデートしたり芝居も観たりしてきた のだが、その心優しいやす香(大学二年生)の方が、いま、あまりに酷い難病に不運に蝕まれている。
 どう遠目に「MIXI日記」を介して眺めていても、大学生やす香の毎日は、適度を遙かに遙かに超えた、過剰も過剰なアルバイトや遊びの毎日らしいのが、 前から見えて、分かっていたし、今年になって体調をどんどん崩しているのもはっきり分かっていた。
 わたしはヒステリーを起こしそうなほど心配し、せめて「親に相談しなさい」と再々孫をうるさがらせていたけれど、後に母親朝日子の述懐を漏れ読むかぎ り、一緒に家居していながら、「大学生になって以降のやす香の日常について、何も知らなかった、分からなかった」という。そういうものかなあと、憮然とし た。
 そんな不幸な事態になって、いわば非常時、一つの大事な命の危機にさしかかって、押村家は、孫の病院への見舞いを「一度は黙認する」という「はからい」 であった、それも、やす香が「つよく求めた」からである。
 病院を訪れたときも、母親は真っ先に、「十五分だけにして」と言い置いて病室を出て行き、吾々と孫二人と四人だけにした。
「三十分」ほどして母親は戻ってきて、そのままわれわれは退去した。父親は顔を見せなかった。
「おまえがいま倒れてはどうにもならないよ。だいじにしなさい。やす香を頼むよ」とわたしは娘朝日子に廊下で言い、やす香「九月の誕生日」「来春成人の 日」のための晴れ着一式や、付き添う日々の朝日子用にと相当の金包みも手渡してきたが、朝日子はほとんどわたしたちに口を利かなかった。わたしが、この 「私語」に、あの日娘との久しい再会に関し、ほぼ一語も書かなかったのは、「書きよう」がなかった、「書く気持ち」になれなかったからである。
「上の世代としては思っているという気持を伝え続けるだけ」「若い世代がそのことに早くに気付いてくれれば、それは僥倖」とある、上のメールの人の言葉 は、ああ、まったくその通りだ…と思っている。それで仕方がない。
 ただやす香という孫の命は、そんなこととは別の次元ではなかろうか。この孫は、祖父母にむかい、自身の意思と行動とで、優しい手を伸べてきてくれた。今 度の病気でそれが親に知れたとき、母親は、「この際黙認」するとだけ言ったそうであるが。


* 七月十日 月

* 体調ととのわず、今日午後の「電子文藝館」委員会、急遽欠席。

* 市役所に証明書を貰いに、薬局にインシュリンを受け取りに、行く。

* 建日子も忙しそうだ。自身を鼓舞し鼓舞して、たぶん懸命に日々を過ごしているだろう。そんな中でも、ときどき、いや毎日かも知れないのだが、わたしの 「私語」にも耳を寄せているらしい。此処で、親たちの日々がいくらか察しられて、安心も不安もあることだろう、電話で話し合うのは二人ともあまり上手でも なく、好きでもない方だ。
 いま「MIXI」にわたしは二種類の連載をしている。わたしにすれば「旧作」を読み直して校正するのが目的の大きな一つなのだが、『青春短歌大学』の方 は、三十八にも成る息子へそう言っては気の毒だけれど、父親からのそれとない「授業」の気持も無いではない。同時にほんの一服の時でもあってくれればと 願っている。わたしの肉声はこういう仕事に、より良く通っているつもりでいる。ときには、一服の気持で観てくれるといい。

* 今日は短歌でも俳句でもなく、一編の詩を出題した。転載しておく。漢字一字分あけておいた「虫食い」に字を補ってみて、ふと「生きる」思いを味わって 欲しい。やす香は必死で「生きたい」と今日も叫んでいた。

* 「病む父」 伊藤 整

雪が軒まで積り
日本海を渡つて来る吹雪が夜毎その上を狂ひまはる。
そこに埋れた家の暗い座敷で
父は衰へた鶏のやうに 切なく咳をする。
父よりも大きくなつた私と弟は
真赤なストオヴを囲んで
奥の父に耳を澄ましてゐる。
妹はそこに居て 父の足を揉んでゐるのだ。
寒い冬がいけないと 日向の春がいいと
私も弟も思つてゐる。
山歩きが好きで
小さな私と弟をつれて歩いた父
よく酔つて帰つては玄関で寝込んだ父
叱られたとき母のかげから見た父
父は何でも知り
何でも我意をとほす筈だつたではないか。
身体ばかりは伸びても 心の幼い兄弟が
人の中に出てする仕事を立派だと安心してゐたり
私たちの言ふ薬は
なぜすぐ飲んで見たりするやうになつたのだらう。

弟よ父には黙つてゐるのだ。
心細かつたり 寂しかつたりしたら
みんな私に言へ。
これからは手さぐりで進まねばならないのだ。
水岸に佇む(  )のやうに
二人の心は まだ幼くて頼りないのだと
弟よ 病んでゐる父に知られてはいけない。

* 疲れて、夕食のあと十時前まで寝入っていた。予定していた用事だけをそのあと済ませて、機械の前へ来た。「ペン電子文藝館」委員会は欠席した。明日は 「言論表現委員会」だ。


* 七月十一日 火

* マーガレット・ケネディの『永遠の処女』を夜ふけて読了した。ひとかどの名作であった。若い女性の才気の作らしいある堅さや鋭さがきららかに光ってい て、手づよいモティーフが十字架のように交錯している。サンガーの世界とチャーチルの世界との真剣勝負とも読める。そこから、簡単に割り切ってもなるまい 重いテーマが露頭する。ベースに優れた「音楽=藝術」がズシリと岩盤をなして横たわる。好く書けている。
 長い作品が優れた音楽効果をあげ、四章に分かれたシンフォニイになっている。さらにさらに大きく深く盛り上げ描ききるもう少しの力が作者には、さぞ欲し かったであろうが、好く書けている。すくなくもわたしは、とてもとても楽しんで読んだ。こころ惹かれて読んだ。
 大勢の人物を描きながら類型の描写に堕していない。読み進むにつれて人物の一人一人への共感が深く目覚めて行くのは、優れた作の特質というものであろ う。
 ひさしぶりにやすらかにかつ興奮して嬉しい読書を楽しめた。批評と言うことを忘れさせてくれる読書。長い永い旅に心身をひたしてきた喜び。

* 最上徳内北の時代の「湖」版中巻を、「MIXI」に書き込み終えた。ついでにその跋文も書き入れた。東工大教授を、当時六十歳定年で退官したあの三月 に、跋を書いている。優れた文学について述懐していて、この際の話題にふさわしく、此処へも転写しておく。

* 作品(「最上徳内」中巻) の後に
 小説ほど「旅」に似た創作はない。読むのもそうだが、書くのもそうである。実際に旅したことを書いたり読んだりが似ているというのでは、ない。書くとい う行為、読むという行為が、さながら「旅」に似ていると思う。説明の必要があるだろうか。
 けだし「旅」にも、いろんな旅があろう。かりそめの旅、行きずりの訪れ、また周到な用意と時日とをかけた旅行。読書にもそれがある。小説を書いて創るの にも、それがあると思う。旅には再訪・歴訪があり、長逗留もあれば暫く住み着いて暮らすほどの例もある。そういったことを長編や短編小説の創作にあてがっ て想うことは、そう突飛な比喩ではあるまいし、読書にからめていえば、やはり繰り返し訪れ読むような・読ませるような作品に出会いたいと思うことだろう。 私にもその癖があって、ある種の魚の周游するに似て、馴染んで忘れ得ない作品を周期的に繰り返し読んできた。『源氏物語』もそうなら、『ゲド戦記』もそう だし、トルストイや唐詩選も、漱石や鏡花も、そうなのである。
 この数年、私は、気晴らしに翻訳のスパイものやミステリーの類を少なくとも二百冊ぐらい読んできたが、どんなに気晴らしにはなっても深い喜びを得たとは 言えない。読むとたちどころに忘れてしまう。だが、たまたま古本屋で手にした例えばヘッセの『車輪の下』などを懐かしく読み返しはじめると、もう何ともい えず優れた文学にまた逢えた嬉しさに(ファシネーションの魅力に)胸の底まで満たされ励まされる。オースティンの『高慢と偏見』でも鴎外の『阿部一族』で もそうだった。みな何度めかの読書であるのに、しみじみとする。そういう作品は、もう、一行から次ぎの一行へが、すばらしい「旅」そのもののように私を魅 する。そして、そういう小説が書きたいなと思う。願う。文体と文章そのもののうねりに乗って、乗せられて、それが嬉しい楽しい面白いという作品に出会って みたいし、書きたい。
 東工大の教室で、
  遺品あり岩波文庫『阿部一族』
という鈴木六林男氏のいわば世界最短の戦争文学をとりあげ、無理を承知で、最初の「遺」の文字を虫食いに隠し、漢字一字を埋めよと試みたことがある。戦争 を知らぬ世代に「遺品」の入る望みは薄かった、が、それでも若い戦死者の境涯を推察しえた正解者は、何人かいた。そういう学生は『阿部一族』を読むか、中 身を知っていた。だが案の定読んでいない、『阿部一族』を全く知らない学生が大方であった。そんな彼らがどう答えるか、実は、それを私は知りたかった。い ちばん多かった、圧倒的に多かったのが「気品あり」であった。鴎外原作だからとアテて読んだ者もいたが、たいがいは「岩波文庫だから」と理由づけをしてい た。岩波文庫の装丁や選書の姿勢に、東工大の学生のかくも大勢が「気品」を見てとり、または感じとろうとしていたのが、印象深かった。首肯けるものがあっ た。そして「品」とはいったい何なのであろうかと、古くして深い問題へ、その後何時間もかけて学生諸君といっしょに踏み込んでみた。文学の問題でもあり、 人間の問題でもあったからだ。
「気稟(きひん)の清質最も尊ぶべし」と芭蕉は有名な旅の文に書き付けている。及ばずながら座右の銘とし、わが価値観を統(す)べしめている。
「気稟の清質」を欠いた文学も藝術も、また人も、私は好まない。「気稟の清質」がもしあるなら、どんなに無頼で、どんなに世の掟に背いていようが、荒くれ ていようが、逆よりも、私は「最も尊むべ」く惟(おも)うのである。
 この『北の時代=最上徳内』は、こういう歴史の世界にうとい、興味のない人には、とっつきにくいかも知れない。歴史ものは好きだといいつつ読み物=時代 物に馴れている人には、かなり骨っぽいだろう。そういう人ほど、先を急がないで、よく干した堅い干魚を焼いて噛むような気で、ゆっくりと一行から次ぎの一 行へと長い「旅」を味わう気で読んでみて欲しい。むかし、今は亡い安田武という読み巧者が、「秦さんの文体はアヘンなんだよ、いちど嵌まってしまうと、抜 けられないんだ。ただそこへ行くまではシンドカッタ」とよく慰め励ましてくれたが、文体だけでなく、作品の発想や展開にも読者にシンドイめをさせる「病 気」が抜けない。お付き合い下さる方々には頭を下げるよりない。
 それにしても思うのだが、この「最上徳内」氏が身をもってした「歴史」は、けっして遠い過去完了の抜け殻なんかではなく、現在なお血をにじませ、我々 に、我々の今からの二十一世紀に重い大事な「問題」を突きつけている。その意味では徳内サンは優に一人の現代人なのである。急がず焦らずその人の味わいに 触れていただきたいと願っている。
 さて、四年半になる東京工業大学「工学部(文学)教授」の日々は無事終わった。この巻をお届けの頃は、最期の成績も提出し、教授室の掃除をしながら弥生 尽の定年退官を清々しく心待ちにしているだろう。
 念々死去、すなわち、念々新生。わが旅は、ゆっくり続いて行くだろう。 1996.3月

* 少しずつ少しずつ退蔵を、と。世間への「窓」を、少しずつちいさく狭く絞って行く。自分からメールを送ることを抑制し、メールは返信にとどめるように 心掛けている。「MIXI」に新しい小世界がみえてくるなら、それはしばらくフォロウしてみたい。

* 午後の委員会へ出て欲しいと事務局から電話。出掛ける。

* 言論表現委員会、例によって委員会らしき行儀ととのわず、委員長意思だけの乱暴な強要。二つの大きな議題が用意されていながら、定刻の五時まで一つの 議事で費やした。費やすに足る議論ならいいが、話題の焦点がなかなかさだまってこず、推測・推定による定まりかねる状況への漠然とした意見交換ばかりが、 「事情聴取」室の聴取なみに「取材」されるばかり。的を絞って肝腎の要件へなかなか近づかない。
 暴力団に関わる記事を精力的に書いてきたライターの、無関係なご子息が刺された事件で、実行犯はつかまり、その一つ上ヘも警察の手が延びているらしい が、詳細が確定するような事件ではない。
 問題は、日本ペンクラブとしてどんな声明が出せるのか、当事者で今日のゲストであるライター氏(ペン会員)は何をペンに対し要望されるか、その二つから 話題を絞らねば話は纏まらない。事実、なかなか纏まる筋道も出てこぬママ、これに関し原稿を書く気の猪瀬委員長の取材聴取がえんえん先行した。癇癪が起き た。
 結局、五時定刻。もう一つのシンポジウムについての討議時間は切れてしまい、わたしは失礼した。およそ今回のシンポジウムは、意義不明、何のために言論 表現委員会が主催しなければならない、とてもそんな主題とはも思われない。思えば思うほど愚劣なもので、会議の始まる前、講談社の元木委員とも、ゲストの ライター氏とも、首を傾げあった。
 『売れなければ作家じゃないのか?』と題したシンポジウム。売れるの売れないの、それが、どうしたというのか。それが、今日の「言論表現の問題」か。ま さに「気の低い」愚劣な発想である。副題の案が「現代における作家とは何か」と。
「現代における文学とは何か」ならまだしも切実な問題だが、「作家」など人数分の差があるのだ、現代意義をどう問うか、シンポジウムに馴染む問題じゃな い。そんな中へ某大出版の取締役が顔を出し、「作家」の「売れる売れない」を拝聴して何になるのか。バカにするなと言いたい。
 約束の時間は過ぎたのだから、疲れている私は、さっさと失礼してきた。

* わたしは、言論表現委員会に、すでに1989年には副委員長で加わっている。井出孫六さんが委員長であった。その後佐野洋さんが委員長になり、わたし はもう一期副委員長を務めたかも知れない。以来ずうっとわたし生き残ってきた。なにしろわたしはこの大事な委員会に、ほとんど一度も欠席しなかった。西堀 正元さんとか、本多さんとか、厳しい論客が多かった。佐野さんのあと、「清貧」の中野さんが委員長になり、途中で投げ出され、また佐野さん、そして猪瀬氏 が委員として登場した。佐高進氏と猪瀬直樹氏とがいがみあう委員会から、佐高氏が抜けられて、猪瀬委員長時代が来た。もう長い。
 ペンも委員会も、むずかしい転回期を迎えていたのである。


* 七月十一日 つづき

* やす香の状態が、よくない。「MIXI」に、やす香自身が静かな筆致で書いて告げている。一日も早いうちに逢いたいと「みなさん」に訴えている。
 北里大学病院は治療を放棄したのか。親たちから、事情はわたしたちに何も伝わってこない。何も来ない。妻がやっと電話口に朝日子を掴まえたが、電話なん かやめてと泣き叫んだという。

* 7.11 19:04   みんなへ  やす香  

 母が私の「肉腫」という癌について、専門の場所の専門の先生と面会をしました。残念ながら私の癌は「骨」と「肉」の癌で治ることは絶対に有り得ないそう です。
 厳しい治療で得られるほんのわずかな時。あるいは治療はせず、痛みや苦しみを緩和しながら暮らす日々。そのどちらかが私に残されたわずかな選択肢だそう です。
 余命は誰にもわかりません。

 みんなにお願いがあります。病院に来て下さい。mixiを知らない私の友達にも伝えてほしい。みんなに会いたいと。

 20才の誕生日を迎えられるかわからない。もしかしたらしばらく生きてられるかもしれない。全然わからない。だからみんなに会いたい。さよならを言うわ けでもなく、哀れんでほしいわけじゃない。ただこの遠い辺鄙なところにある私の病室がみんなの笑いの場所になってほしい。その中で生きることが一番私らし い生き方だと思うから。本当に遠いだろうけど、みんなに会いたいです。
 すごくすごく重い話だけど、これは嘘でも冗談でもないんです。
 ただ生きたいとわめいていても、事実はかわらないんだと…みんなにもわかってほしい。
 今日を、明日を生きる。  やす香

* こんなに静かなやす香の言葉を聴くとは…。五臓六腑が動転する。

* 折から堀上謙さんの電話。お誘いは受けなかったが、話は聴いてもらった。
「あきらめて投げ出してはいけない、最期の最後まであきらめないで、わらの一すべでも掴まなくては」と。もはや「緩和ケア」に入るというのは、あまりに諦 めが早くはないか、と。
 わたしもそう思い、建日子を通して伝えたが。母親は動転している。

* 建日子に。 (建日子宛の朝日子のメールが母親に転送されてきたのは、)母さんから、内容を聞きます。
 今が大変な非常事態であることは、初めから十分分かっていたし、容易ならざる事態とわたしは分かっていました。診断が遅れていることで、その不安は増大 していました。
 やす香の「命を守る」ということは、言葉は平凡でも「万全を尽くす」「手を尽くす」ということであり、北里大学病院に拘泥せず、一級の専門医を懇請して 懇切に往診を頼むなり、国立ガンセンターなどの緊急の再診を、いわゆるセカンド・オピニヨン、サード・オピニヨンを、せめて「データ的」にも求めるべきで はないですか。
 そういうことに一家を挙げ奔命・奔走しなくてはならぬ時に、それをしているのか。万一していないなら、「今すぐしなさい」と朝日子に伝えて下さい、これ 以上の手遅れにならぬうちに。
 病院の言いなりに流される必要はない、むしゃぶりついてでも最善を計って貰えと奨めます。
 いまは、父親も母親も、押村家の親族も、挙げて、やす香の延命のために最善をつくす時、それが、真っ先です。
 医学書院時代の昔のわたしなら、なんとか医学的なツテが求められたかも知れないのにと、残念です。 父


* 七月十二日 水

* バルセロナの京から
 恒平さん
 二十年振りでしょうか、七夕の飾りを作りました。
 〜ささの葉 さらさら〜 
 いや、これはどう見ても、かさかさ、だなあと思いながら、道端で折ってきた茶けた笹に、輪飾りを、切り紙を、そして短冊を掛けると、華やかな、ちょっと 郷愁誘われる祭りの気分になりました。
 七夕が出産予定日だった親友を見舞うと、笹の葉の飾りにひととき言葉を失っています。
 二人で今日が晴れだったことを、誰のためにともなく喜んで、生まれたばかりの赤ちゃんの寝顔をほっと見つめました。
 友人は子を望まれる境遇にいなかったため、つくる決心をしたものの、健康で生まれてくるかどうかが、最後まで肩に重く圧し掛かっていました。
 私は知らない(日本の)藤江さんのことを何度となく想い出し、これを機に、また『ふつうのくらし』を読み返してみました。
 病院に毎日足を運びながら、やす香さんのことも想っています。 京

* ありがとう、京。祈るということを、意識して暮らしのワキに置こうとしてきましたが、やす香のためにわたしは思わず祈っています、今も。

* やす香が初めて「痛」みを「MIXI」で訴えたのは、「一月十一日」だったと思う。あの正月には、初めて妹の行幸も一緒につれて来て、保谷の祖父母を 驚喜・狂喜させてくれたし、「一月九日」の日記には、わたしが話したことを、やす香の表現と理解とで、丁寧に「日記」に書き記していた。それを読んだわた しの気持は、どう月並みであろうと、張り裂けそうであった。
 あの「痛み」に、あの頃から適切に対応できていたら、と、くやしい。わたしはまだ「MIXI」に入っていなかった、やす香のそういう表白を知るに知れな かった。
「二月十四日」からわたしは「MIXI」に日記(=いわゆる日記ではない、書き下ろしの「静かな心のために』)を連載し始め、「二月二十四日」には、今度 は、行幸があたかも姉やす香を連れてくる体で、二人で保谷にやってきた。行幸の誕生祝いもかね、姉妹は嬉々として「雛飾り」をしたのである。そして池袋パ ルコへ出てにぎやかに鮨をいっぱい食べた。姉妹は夢中で、しかもせいいっぱいはしゃぎ、美味しい美味しいと沢山食べ、若い板さんに愛想をふりまいてもら い、嬉しそうだった。
 この日、誕生祝いを引き立たせるために、妹にお祝いをやりながら、姉にはとくに何もしてやらなかったのが、今更に可哀想で寂しい。
 しかし、やす香には二十歳成人の日のための振り袖の晴れ着を披露し、ざっと服の上から羽織って見せた。帯こそ締められなかったが、その姿が今となって眼 にやきつく。(=後日妻の日記で確認したが、この晴れ着を羽織ったという記憶は、正月二日のことであった。)
 やす香二十歳の誕生日は、この九月十四日。ほぼ二十年前、生まれくるやす香のために今の家のキッチンを、急遽兼用居間に造りかえた。やす香誕生のあの年 の九月だった。われわれはそこを、「やす香堂」と呼んできた。

* バルセロナの京の、静かなお見舞いがわたしを揺する。静める。

* 歯医者に行く。

* 診療のあと、別室で、以前の親先生を見舞う。彫りの深い眼光、ただしく深い表情にわたしたちは感嘆した。間断無い痛みと朦朧感があると言いながら、言 語は明晰で、もう残り無い日々、あっちまで持って行くことばが欲しいと望まれた。
 あっちへ行けば言葉は要らない、その瞬間までは、年々死去 即 念々新生、あるがままに自然にと申し上げた。そうありたいわたしの願いのままに。

* お元気ですか、風  雨になりました。これで少し涼しくなるかも。
  じゃがいもと玉ねぎをたくさんいただいたので、さっき、インターネットでレシピを検索していました。
  わたしはおいものパサパサ感が苦手で、煮っ転がしや、肉じゃがなどが、あまり好きではありません。
  じゃがいもを使った、なおかつ食べたくなるお料理を探しましたが、あまりありませんでした。僅かに、ポテトグラタンならイケます。(大好きなチーズを使う から。)あとは、ヴィシソワーズ(じゃがいもの冷製スープ)も好きです。これは牛乳を使って作ります。要するに、わたしは乳製品が好きなんです。
  今年の夏は、ヴィシソワーズできまり! です。
  いつも風を想っています。 花

* このさりげない励ましが、いま、なにより嬉しい。いまは気持を劇的にもちたくない。いまこそ静かにいたい。

*  昨日の「あいにきて」というやす香の呼びかけには、六十人ちかくの若い友達がどうっと瀧のように反応してくれていた。
 今朝、母親朝日子が、十六日に、大学病院内のどことやらで音楽会をひらくので参加して欲しい、最初に朝日子が歌います、参加者は何を歌ってくれるか、前 もって報せて欲しいとメッセージしてきた。
 音楽会はやす香の希望であること間違いなく、病院もそれを許しているのは、すでに「緩和ケアの一環」としてであろう。
 やす香の気持ちは分かる。しかし、この呼びかけに反応した友人が一気に数人以下になっているのは、もちろん事の異様さに一旦はフリーズしたの ではないか。
 まるで「お別れ会」ではないか、それもただの別れではない。そんなところで、どんなふうにどんな顔をして歌えるだろうと、一旦は、ギョットした人が多そ うに思われる。
 今は、貴重極まる時間であり、惜しみて余りあるやす香の体力。金無垢のように時間と体力を惜しんで、ただただ疲れないで「成人」の九月誕生日を目指して 生きて欲しい。それがわたしの願いだ。
「すべきことは、すべてした」などと言っていい、今ではない。今この瞬間からしなくてはならない「延命」の努力なのである。やす香には医療の万全を信じ、 しかも体力をうしなわず、苦痛に勝って貰わねばならない。周囲も諦めて手を離してしまってはならない。正念場へ来たということだけが間違いない。
 朝日子よ、不肖の娘時代に百も千も父はおまえに口を酢くした。謙虚に聡く在るべきは今だよ。おまえも不安だろうが、母さんや父さんは離れているだけもっ と不安で様子が知れないのだ。母さんがようすを知りたがったら、心優しくせめて答えてあげなさい。やす香は、まみいに優しいよ、こまめにメールをくれて、 逆にまみいを慰め励ましているではないか。

* こうしてメール差し上げるのはずいぶんと間が空いてしまいました。mixiや先生のホームページを拝見しつつ、お目にかかっている気持ちになっており ましたもので。
 唐突ですが、宮部みゆきの「たった一人」という短編をご存知でしょうか。『とり残されて』という文庫本に収録されています。解説を書いている北上次郎氏 が、他の収録編については触れもせずひたすらに 絶賛している短編です。
 初めて読んだとき、私はこの小説がそれほどのものだと思わなかった。
 けれど、やす香さんのご病状を読ませて頂いてこの話を思い出しました。話の内容をここで記してしまうのは気が引けますが、人が「自分が離れたくない人= たった一人」を助けるために奇跡を起こせるかどうか、が、隠しテーマで あったことが最後の最後でわかります。
 主人公は、一度奇跡を起こして大事な人を助けるのですが、失ってしまう。そして最後に、もう一度同じ奇跡を起こしに出かけて行くのです。一度できたの だ。もう一度できる、と。
 こう書くと安っぽくなってしまうのですが、これは私の表現が至らないためで、白磁の壺のようにやわらかく丁寧に描かれた佳品です。
 先生が奥様のご病気を治されるためにご尽力されたご様子を「湖の本」の中で書かれていたのを思い出しつつ、今日もう一度読み返しました。
 やす香さんに、もう一度軽やかに歩ける日が来ますよう。あれほどたくさんの方たちから注がれている愛情をその養分として惜しみなく用いてくだされば。
 ご報告が大変遅くなりましたが、息子はお陰様で健康にすくすく育っています。抱きしめても女の子のようなやわらかさがないのは残念ですが。母親として子 どもに手塩にかけられる一年を一時も無駄にしないよう、娘の方にもにわかに口うるさくしております。母親が今までそばにいなくても、それなりに育ってくれ た娘は私にとって「授かりもの」でしたが、親族で初めての男の子の方は「預かりもの」のように感じています。託されたのだからきちんと育てて世の中に還そ う、と。小さくてもいい、人のために何かできるようなヤツになれよ、と思っています。
 子どもが増えて、人をつくることに関わる深さをさらに感じている今、やす香さんのことが心を離れません。毎日毎日、祈っています。
 先生も、ご体調が優れないご様子、どうぞ大事になさって下さいませ。「たった一人」では、主人公は奇跡が起きるその時まで「死ぬことさえないかもしれな い」と、結ばれます。もう一度奇跡を起こすその日まで、先生どうぞごどう
ぞお健やかに。  典

* ありがとう。


* 七月十三日 木

* 重い鉄の丸を嚥んだままのような歌舞伎座観劇であった。鏡花の輝く四篇、「夜叉が池」「海神別荘」そして「山吹」「天守物語」だから、どうやら昼夜と も観て来れたけれど、そしてむろんとても面白かったけれど、胸の底には一枚のガチンと揺るぎない不安と動揺とがあり、それに逆らうことも同調することもで きない苦痛。
 やす香はもちろん、朝日子も建日子も、妻も、みな同じである。そしてみなが、やす香のために少しでも少しでも良かれ、髪の毛一筋の希望でももたせたいと 願っている。そう信じる。ただ人間のこと、まわりの者達の思いは、少しずつ、願いも、苛立ちも、悲しみようも、異なるのである。

* 朝いちばんに岡崎の国立研究機構に在籍する岩崎広英君から、親切な助言と協力の申し出があった。すぐ朝日子にメールで伝え、建日子にも朝日子に勧めて 欲しいと願い同報した。
 やす香のケアへの、祖父母等の口出しや提案を、朝日子ないし押村家は無言で拒絶し、口を出すなら「見舞いもさせない」と娘は、母親へのメールにも、母親 からの電話にも、答えている。いま、大人達が手を合わせなくてどうするのだろうと、蚊帳の外へ押し出されている祖父母の、あてどない不安は限りなく、鉄の 丸を嚥むような苦痛は倍加している。
 明日見舞いに行っても、はたして孫やす香に逢わせてくれるのかも、正直不安心なまま出向くのである。
 やす香は、「わたしは、気持ち、わかっているからね。よくわかっていますよ」と苦しい息の下から、われわれへ、まみいのメルアドへ、メールを寄越してい る。
 やす香の、ケイタイで辛うじて打っている今日の「MIXI日記」は、「今日はね 大変だったの…。体力消耗〜」とだけ。
 この肉腫という病気治療がどんなに苦痛で体力を消耗するかは、常識。それを何とかしてすりぬけすりぬけ、一日一日延命を図らねばならないときに、やす香 の希望もあるではあろうが、大勢とのひっきりなしの面会や、音楽会・歌唱会を院内で開いて、患者自らも歌を歌おうなどというのは、「消耗」の極限を越えて しまわないかと、わたしは真剣に、そして不安にたえられず、心から憂慮する。
 そしてわたしは空しくも願うのである、親たちや病院の、それは、もはや「断念」のサインでなど無いことを、と。
 正直の所、わたしたちに、あれこれ確言できる何の自信も確信もない。情報もなく満足な説明も受けられないでいる。だからまたあてどなく不安なのであり、 常識的に判断するかぎり、十六日午後に予定されている「歌唱音楽会」の、楽しいメリットと消耗一途のデメリッとトの落差に、深刻に惑うのである。命を縮め る暴挙には、切に切に、して欲しくない。それが、朝日子の「命がけでやす香の命は守って見せます」ことになるのか。

* 湖さま  14年前 北里病院の庭の周りにはくちなしが香っていました。
 北里病院の七夕 夏祭り ・・・ 19歳の娘と過ごしました。
 静かに 穏やかに ときが 長く 長く 長く 過ぎていきますように。  波


* 七月十四日 金

* 窪田空穂の歌に 

たふとむもあはれむも皆人として片思ひすることにあらずやも

今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその片おもひ

* この「片思ひ」の歌に寄せて思うことがある。いま、「MIXI」に、東工大の教室で試みていた『青春短歌大学』(平凡社刊 秦恒平「湖の本」版上下 巻)を、「校正」かたがた連載しているが、じつは、あれより前に、講談社から、数人の責任編者制で、数巻の詩歌鑑賞の本を出したことがあり、わたしは『愛 と友情の歌』の一冊を担当した。それが、大学での授業に大いに役立ってくれたのである。
 いま「MIXI」での「連載」に、新たに毎回出題している作品の多くも、その本から採っている。
 『愛と友情の歌』は昭和六十年九月十日に刊行され、「あとがき」は同年六月八日に書いている。「娘(朝日子)が華燭の日に」と日付に添えてある。その 「あとがき」の末行は、こう書きおさめている。

 「愛」の、あまねく恵みよ! しかし「愛」の、難(かた)さよ! 努めるしか、ない。

 娘への父のはなむけであった。この本はひとりの女として生きて行く娘への、またひとりの男として生きて行く息子への、贈り物として編んでいた。幸か不幸 か、二人とも読んではいない。
 いま、その娘はわが子の、想像をはるかに超えた急な重篤な病のかたわらに、母として、在る。

* 教室で出題した日の「後始末」を『青春短歌大学』上巻から此処に再記して、わたしの気持を静めておく。

* ☆ 痛み

たふとむもあはれむも皆人として(  )思ひすることにあらずやも

今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその(  )おもひ     窪田 空穂

  虫くいには、同じ一つの漢字を補うように出題した。さて作者は……。いやいや作者の説明などはじめると、とたんに学生は退屈する。東工大の学生は概して人 名、ことに文系の大物の名前に無関心であり、また、知らない。太宰治は通用しても小林秀雄は通じない。ときめく梅原猛などでもテンで通じない。まして突然 の短歌の作者を、有名であれ無名であれ、それらしく納得したりさせたりするにはずいぶんな言葉数と時間とを要する。それは困るから、歌人についての解説は 原則として省く。窪田空穂ぐらいな人でも、近代の短歌の歴史でベストテンに入る立派な人としか言わなかった。学生は当面問われている作品にしか意識がな い。短歌史の時間ではないのだから、それでもいいとしている。
 四七四人中で、「片」思ひ、と入れた学生、一二七人。四人に一人は超えた。好成績であるが、こう答を知ってみれば、こんな簡単で通常の物言いが、なんで もっと多くないのかと呆れる人もあるだろう。
 一年生は五分の一しか正解していない。二年生になると、三分の一近くが正しく答えている。一九歳と二〇歳とのたった一年の差だが、ここに一つの意義があ る。そんな気がいつもする。
 試みに解答を羅列してみよう。「物」思い、「親」思いが多い。前者は手ぬるいなりに当たっていなくもない。ただ把握は弱い。表現も、だから弱い。後者だ と後の歌に適当しない。意外に多く、「恩」という字を拾っている。なんとなく歌の意へは近づこうとしているのだ。しかし詩歌たる表現にはなっていない。 「心」「子」「我」「恋」「愛」「人」「罪」「内」「昔」「熱」「温」「夢」「情」「苦」「深」「相」「今」「憂」「長」や「先」「女」「常」など、ほか にまだ二、三〇字も登場している。
「片思ひ」では、なんだかあたりまえすぎてという弁明が、次の週に出ていた。「片思ひ」といえば恋愛用語であり、この歌に恋の気配は感じられなかったので 採らなかったという言い訳は、もっと多かった。空穂のこの短歌は、いわば二十歳の青春のそんな思い込みへ、食い入る鋭さ・深さをもっている。
 人の世を人は生きている。世渡りとは人付き合いなのである、好むと好まざるとにかかわらず。無数の人間関係がこみあい、理性でだけの交通整理が利きにく い。人の心情や感情はとかくもつれあう。言葉というものが重要に介在すればするほど、必ずしも言葉が問題を整理ばかりはしてくれずに、むしろ足る・足らぬ ともに過度に言葉は働いて、不満や憤懣を積み残していくことになる。こと繁きそれが人の世である。
「たふとむ=尊む」も「あはれむ=愍れむ」も、このさいは人間関係に生じてくる一切の感情や言葉を代表して言うかのように、読んでよい。むろん親と子との それかと、第二首に重ねて察するもよく、もっと広げた人間関係にも言えることと読んでも、少しもかまわないだろう。要するにどんな心情・感情も、どこかで 足りすぎたり足らなさすぎたりして、そこにお互い「片思ひ」のあわれや悲しみや辛さが生じてくる。それもこれも「皆、人として」避け難い人情の難所なので あり、だからこそ自分が他人に「片思ひ」する悲しさ・辛さ以上に、知らず知らずにも他人に自分がさせてしまっている「片思ひ」に、はやく気がつかねばなら ない……と、この歌人は、痛切に歌っているのだ。
 残念なことに、自分のした「片思ひ」ばかりに気がいって、自分が人にさせてきた「片思ひ」にはけろりとしているのが「人、皆」の常であり、自分も例外で はなかった。そう窪田空穂は歌っているのである。しかも例外でなかったなかでも最大の悔い・嘆きとして、亡き「父・母」が、子たる私に対してなさっていた 「しましし片思ひ」を挙げている。「今にして知りて悲しむ」と指さし示して歌人は我が身を恨むのである。父も母ももうこの世にない。この世におられた頃に は、いつもいつも自分は、父母へ「片思ひ」の不満不足を並べたてていた。なんで分かってくれないか、なんで助けてくれないか、なんで好きにさせてくれない か。しかも同じその時に、「父母がわれに(向って)しましし」物思いや嘆息や不安の深さにはまるで気づかないでいた……。
「片思ひ」も、このように読めば、恋愛用語とは限らない。それどころか人間関係を成り立たせるまことに不如意にして本質的に大事な、一つの辛い鍵言葉であ ることに気がつく。ここへ気がついた時、初めて他人のしている痛みに気がつく。愛は、自分が他人にさせているかも知れぬ「片思ひ」に気づくところから生ま れる。差別という人の業も、これに気がつかずに助長されているのではないだろうか……。
 二年生が、一年生よりもうんと数多く「片思ひ」を正解してくれていたことに、「成長」の跡を見ていいと、わたしは、つよく思う。
 そんなふうにわたしの理解を語った当日の学生のメッセージのなかに、「秦さんに教わっている多くのことは、いつかは忘れてしまうでしょう。でも、今日の 『片思ひ』という一語だけは、忘れません。ありがとうございました」と書いたのが、あった。

たふとむもあはれむも皆人として片思ひすることにあらずやも
今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその片おもひ

 巧みであるとかそうでないとか、そんなことだけで「うた」の値打ちを決めてはいけない。どれだけ自身の「うったえ」たいものを「うたえ」ているか、金無 垢の真情が詩を育む。巧緻のみを誇るものに、恥あれ。ただし概念的にのみ翻訳されて愬えている詩歌も困る。窪田空穂のこの歌などは、真情のより優ったかつ は微妙な境涯にある歌だと言うべきか。

* 妻と連れ立ち、相模大野の大学病院にやす香の顔を一目見て声一つかけてやろうと、いましも出掛けるところである。
 われわれは「やす香の祖父母」である。「片思ひ」は無い。


* 七月十四日 つづき

* 熱暑。湯の中をあえいで泳ぐ心地であったが、シャツにネクタイし、ジャケットも着て相模大野の、北里大学病院に出掛けた。

* やす香は眠っていたので、暫時待機してから病室に入った。
 やす香の希望で、今回も池袋東武の高野で「梨」と「桃」とを用意していったところ、もう新宿につくという車内へ、やす香から妻に電話が入り、ぜひ「お蜜 柑」もと。で、新宿高野で冬蜜柑を買い足し、ロマンス特急を町田で乗り換えて、相模大野まで。

* 病室には朝日子とやす香とが二人きり。四人で、あれで一時間ばかり、まさに「水入らず」の静かな時をすごした。やす香は、梨も蜜柑も、京都の佳い軽い せんべいも、少しずつ食べ、べつに昼食も美味しいと食し、妻はずうっとやす香の脚をさすっていた。
 ほとんど、目だけでものを言い合う静かな時間であったが、窓の外は遠くに薄い濃い山並みが重畳していて、時に垂直に強い稲妻と驟雨が来たりしていたが、 病個室はあかるく穏やかで、やす香は母にも祖母にもあまえ、私にも気を使っていた。わたしは、ただもうやす香の顔を見ていた。言葉は無力に感じられた。
 食べるとそれだけまた睡眠へひきこまれて行くやす香は、わたしたちにも気遣うか、寝入りかけてはうすく目をひらきひらき、顔を見ようとしていた。手を握 りあい、ただかすかな握力と視線とだけでうなずきあい、うなずきあい、「がんばるんだよ」と声をかけて病室を去ってきた。目は閉じていても「耳は聞こえて いるよ」ともやす香は言い、あわれで、泣いた。

* 雨は晴れていた。わたしも妻も新宿まで、池袋まで、ほとんど黙していた。特急の中で、瞑目しているわたしのとなりで、妻は幾度も幾度も涙をすすり上げ ていた。
 池袋で、互いにいたわり合うようにバルコを上へ上がり、遅い昼食に、「船橋屋」の天麩羅を食べた。わたしは甲州笹一をのみ、妻は抹茶のアイスクリーム を。
 黒いマゴまでも、ひっそりとわれわれの様子を気遣っている。

* 少し厚めのものも洗濯でき、気持ちがすっきりしました。部屋の掃除、ガラス窓も拭き、サッとシャワーで汗も流して、サッパリ。
 お変わり有りませんか、風。
 きのうは、フードプロセッサを買ってきて、ヴィシソワーズを作りました。第一作は・・・改良の余地あり、でしたが、朝、コーヒーカップに一杯ほど飲みま すと、冷たくて、よいです。
 明日あたりからまた雨みたいですが、今日の天気は、いよいよ夏、という感じです。団扇の出番です。 花

* またADSLのルーターが不調で、インターネットが停頓。この大事なときに、肝腎の光通信は全く働いてくれないし、ウィルコムも稼働しないまま。嫌気 がさしてくる。


* 七月十五日 土

* インターネットは朝から利かなかった。利かないと云うことは、「私語」の転送も出来ない、メールも受発信できない、「MIXI」も使えないということ であり、電子的な交信は一切不可能という意味。連絡不能の時は、そういうことであるとアキラメて戴きたい。
 さっきからホンの一時的に回復していたので、受信だけしたが、返信中にまたダメに。ADSLのルーターの不調かと思ってきたが、わたしの機械自体の不良 に帰因しているなら、たとえ強引に光通信にかえてみてもダメであろう。
 マイクロソフト98というOS自体に問題が出来ているのかも知れない。

* 一瞬一瞬、気を起こして堪えるのはきついけれど、最も苛酷な体験であるけれど、堪えています。誘う水にひかれ闇に沈透いてこんこんと眠りたい。
 二十一日からの本の発送が、かつてなく重圧です。用意も満足に出来ていない。
 鏡花劇だから心惹かれて観ていましたが、行きも帰りも幕間も気がふさがり、「吉兆」の二字に頼む思いで食事するなど、笑止に心弱いばかりです。
 熱暑、お大事に。
 異色の「山吹」をしっかり見てください。現世的整合性からの賢い批評でなく。花道でのたった一句の痛烈な声をお聴きなさい、自身の胸に。  湖

* htakさん  札幌も日中は気温が上がり、今日は真夏日になりました。
 こちらの夏は短くて、七月に入ると、今週から週末ごとに花火大会が催されます。今週、来週、再来週と、金曜日の夜に、まだ明るみを残した夜空を背景に光 の華が咲きます。
 豊平川の川岸は大変な人手だそうですが、私は例年こっそりと、丘の上に立つお風呂屋さんの三階から、この花火を見ることにしています。涼しい風にあた り、時おり上まで聞こえてくる車のクラクションや階下の湯桶の音を聞きながら、少し遠くの花火を見る楽しみ。
 花火の週末が終わるとお盆が来て、そしてその後は、もう秋が来ます。
 皆々平穏に、来年も再来年も、この同じ風景がみられますことを、夜空に願いました。 maokat

* ありがとう、maokat。

* 【秦先生の書いたもの】  正直に言って、読み通すのは…始めにしんどそうと思ってしまうので、それがシンドイですが、読むと文中に必ずイイものを見 つけます。で、わたしは読み進めます。
  【読書】
   私は、こういう文章が、好きだ。
   私は、こういうのが、好きだ。
   こういうのは、この私だ。
   この私が、そう思う。
 読んでいて、そういう文章が見つかった時、とても嬉しい。
 見つかったのが、先ず何とも嬉しい。  福

* 「ふわふわのポン」と謂うていた。生米をすこし持って行くと、道ばたに店だししたおじさんは、米を鉄の窯に入れて密封し、ハンドルをゆるゆる廻し続け て、時間が来るとどんな仕掛けか「ポン」と大きく鳴らして窯の蓋をあける、と、ふわふわに膨れた米菓子がどっさりできる。甘い蜜をかけ、かきまぜて、呉れ る。おやつになった。
 菓子としては美味かったが、文章への譬喩として「ふわふわのポン」とわたしのいうとき、ネガティヴな意味である。そんな文章で綴られた読み物など、ひま つぶしに読むときも無いではないが、自分では書きたくない。書かないのでなく、書けないのだろうと言われれば、否定しない。わたしの本が沢山は売れないの は、「読み通すのは…始めにしんどそうと思」わせてしまうからで、つまり藝が無いだけの自業自得である。それでも「読み進め」てくれた人は、たいがいもう 放しはしてこなかった気がする。

* 湖先生、おはようございます(^^)
 > 湖の本で、手も入れ、一編のエッセイを加えて『花鳥風月・好き嫌い百人一首』として復刊したばかりでした。
 あわわ! そうだったのですか。ホームページで既刊リストをチェックしたつもりだったのに、私、ちゃんと見ていなかったんですね。今後は湖の本の方で入 手させていただきます。
 ☆ やす香さんのところに行かれたんですね。親・娘・孫水入らずのお時間が作れて、本当に良かったです。やす香さんにとって一番安心できるひとときだっ たと思います。
 そういえば、入院中は、熟睡できない夜よりも、午前中の方が体も楽で、休養できたのを思い出しました。  百合

* ああ、そうであって欲しいとしんから思います。
 
* これはわたしひとりのヘキかも知れないが、人と会うと、どんなに楽しい時間であろうと、それなりの疲労があり、人の多い街へ出るだけでも人のもつエネ ルギーの波動に揺すられ、疲れて帰る。
 気の乗らない会議などとくにそうだし、タダのお付き合いでもそうである。
 最高に嬉しい出逢いからはとても佳いエネルギーをきっともらうけれども、それとて快い疲れとが裏表であることも免れない。いやな疲れの無い、ないしふつ うの疲れの極めて少ないのが、やはり妻との家庭である。

* やす香は、基本的に今、疲れて疲れすぎてはいけない。しかし、友達や家族や知人と全く会わない会えないのでは、不安な孤独さ寂しさという消耗と動揺と 焦慮が湧くであろう。
 今何よりも願わしいのは、人と会う、大勢と会う「嬉しいプラスの値」が、それから身に受ける「消耗や疲労のマイナスの値」よりも、一ミリでも二ミリで も、一グラムでも二クラムでも多く、そうして得た体力や気力を、薄紙を貼り合わせて行くように蓄積しつつ、どうかどうか「快方へ転じて行って」欲しいこ と。これが、わたしや妻の身を刻むほどの切望である。
 あした、病院の食堂で、大学、中高校、地元、ヒッポの仲間達が来て演奏会をしてくれるそうだ。一時間ほどと。
 やす香のために、何という嬉しいことか。
 だが、予定されていたやす香自身も歌うことは、避けられた。ほっとしている。疲れがみえれば、残念でも打ち切られることだろう。
 やす香よ、元気だけをたくさん身に浴び、疲労しすぎないで、よくおやすみ。朝日子も。

* ご夫妻へ  お見舞い
 じっとしていても耐え難いこの暑さの中を相模大野へ向かわれたお二人のお姿を想像するだけで、私は胸が一杯になります。
 箱根(や江ノ島)へ行く特急の中で、お孫さんの病床へ向かわれるお二人の姿が、切なく目に浮かびます。(娘の住まいが鵠沼なので私はよく相模大野を通り ます)
 子どもを授かることは(孫を授かることは)沢山の楽しい想い出と喜びに恵まれることなのだけれど、悲しみの種も増えるのだと以前(長男が交通事故で死に かけたとき---幸い生き返りましたが)思ったことがありました。
 医師に長男の生死の確率は五分五分と告げられた日は次男の養護学校の学芸会当日でした。
 私は学芸会に行きました。そして知恵遅れの子たちがお腹の前に茶色のクッションをくくりつけて踊る猩々寺の狸囃子に笑い転げました。
 どうか暑さとご心労にお二人が体調を崩されませんようにと祈っています。
 京都は祇園まつりですね。   藤

* お見舞い、有り難う存じます。

* わたしはもう涙を流して泣くのをやめている。泣いてどうなろう。水を打ったように静かにしている。玉三郎達の鏡花に見入っている最中は、少なくも心を うちこみ楽しんでいた。いましも喘いでいるやす香のためにも、わたしは、せめても楽しむときは楽しみたいと思う。わたしの肩に孫がきて乗っていると、一緒 にそれをし、あれをしていると想う。

* 雷ごろごろ、雨も降ってきました 
  梅雨も終盤らしく、だいぶ暑くなってきました。お変わりなくお過ごしでしょうか?   今日・明日全日、市の公民館主催のパソコン講座「エクセル講習会」。今まで自分の仕事のみで、全く応用不可だったので。これで写真入りカレンダーなども作 れるようになるはず(?)。
  盛夏の花、むくげが木にいっぱい咲きはじめましたね。 ゆめ

* いま、「お変わりなくお過ごしでしょうか?}と聞かれると、さすがに、ひどく遠い世間の夢を、紗のすかしを透かして眺めるといったアンバイ。


* 七月十六日 日

* おそらく朝日子が自身一存にちかい、懸命の思いで今しも守っているのは、やす香の命の尊厳と安静であろうと、わたしは推量し理解している。
 それほどに無残に重篤で差し迫っていることは、北里大学と朝日子とのあいだで、よほど深く確認されているのだろう、ジタバタしないという、なるべく静穏 で平和な最期の時間を創り出そうとしているのだと、わたしは分かっている。それをしも母の深い思いやり、慈愛、とうけとらねばならない痛切な悔い口惜しさ は、いかんともしがたいけれど、少なくもわたしは、おそらく妻も建日子も、朝日子に代わって、朝日子のほんとうは言いたいであろう言える限りの繰り言を、 言い紡いでやらねばならない。そして哭いてやらねばならない。

* やす香の笑みこぼれて幸せでありますよう。朝日子、どうか、よろしく頼む。 父

* やす香 やす香 やす香  
 今晩には、やす香のための「音楽会」がある。やす香が、こころから「みんな」との静穏で平和な楽しみを味わい、やす香の大好きな「笑い」が顔いっぱいに 匂い出ますように。  おじいやん
 やす香 わたしたちは、みな、やす香を、自分の命そのもののように愛し、尊重し、そしておまえの呉れたこの上もないわたしたちへの「贈りもの」に、深く 深く深く感謝していますよ。 おじいやん・まみい・たけひこ

*「MIXI」での出題に、東工大の卒業生から答が来ていた。

*  「前回の出題」
どっと笑いしがわれには病める(母)ありけり  栗林一石路

 父でも母でも子でも友でも師でもいいであろうが、苦しい人生の一断面として厳しい吐露である。けっして、病を諦めようとはしていない祈りの深さ。

    「今回の出題」
切子ガラスのごとき青年が(  )反射たのしむ会話目をつむり聞く  富小路 禎子

 コメント   2006年07月16日 08:19 典
  今回のは「乱」でしょうか。
 昨日の方のは、「娘」と入れていましたが「母」だったのですね。「妹」も思い浮かべていました。なぜか年下の女性のような気がしていたのですが、「母」 なのですね。姉や姪に死なれて以来、これ以上、父母より先に死んではいけない、と、これだけを自分に課しています。(もちろん運命なのでわかりません が。)
 なので、「母」と埋めると、この作の持つひやりとするものが生きないなと思っていたのですが。順送りって、ある意味めでたいことだと思ってしまうので。  
 
2006年07月16日 09:26   湖
 人間関係はいろいろに多彩ですね、「ことば」のように。
 教室でみんなに聞いたことがありました。大学以前の「先生」に聴いた、身に彫まれた一言を、と。たくさんたくさんありました中に、「がんばれ」が多かっ た。この一語は、近来口にするのも、されるのも、嫌い嫌われる気味がありますし、またいかにも平凡なようですが、人間関係、個と個との、ぬきさしならない その「事態」で輝きを持つ言葉なら、単語としての尋常は論外のことでした。
 この栗林一石路の句は、大切な間柄の人、ときにはペットの名前すら入れられると想います。わたしなら、さしづめ「孫」としか想いようがない。「はっと一 瞬涙を誘われた。それ以上を言う必要などあるまい」と、四半世紀まえの本で、わたしは、言葉多い鑑賞を避けていました。
 病む人も元気な人も、寂しいものです。 
 今回のは、「乱」反射ですね。孫やす香の「MIXI」日記と友人達との対話会話を読み返し読み返し、富小路の歌に向き合っていました。

* たまたま昨日の連載本文にとりあげていた『青春短歌大学』では珍しい方の、道歌を、紹介しておく。

* ☆ 境涯
ある(  )らず無きまた(  )らずなまなかにすこしあるのがことことと(  )る     道歌

 西山松之助さんの絵入りの美しい本で見つけた。「瓢箪の繪」に「狂歌」とあり、だれの作ともよく知れず、西山先生自作と拝見しておくことにした。作者は この際そう問題ではない。やさしい出題ではなかった。三箇所ぜんぶ同じ一字で埋めるように強調してあったのに、別の漢字を押し込んできたのが数人いる。 「問題をよく読め」と受験技術としていやほど強いられた反動か、のんきに気ままにしたいのだろう。
 瓢箪から駒といっても、もう通用しない。まして瓢箪に酒など入ったさまを想像できる学生は少ない。いないかも知れない。だから、振れば「ことこと」でも 「ちゃぷちゃぷ」でも「鳴る」さまに想い至るのは難儀である。
 まして一種の道歌とも読める諷喩の歌、意味を取って読まねばならない。狂歌を面白く正しく読むのは、そうやさしい作業ではないのである。
 瓢箪のなかに酒が、実でもいいが、いっぱい詰まっていたなら、振っても鳴らない。まるで詰まっていなかったら鳴りようがない。「なまなかに少し有る」の が鳴るのだ。「ことことと」を、気ぜわしく小うるさい感じに読めば、そこに人柄も見えてくる。中途半端にしたり顔のやつほど、なにかにつけ小うるさい、 と、まことに耳に痛い狂歌である。
 自嘲と自戒の意味で学生諸君にあたまをさげておく気分もある。
 東工大にも合格、とかく自信満々の高校生あがりに、ちょっと先手に出て冷や水をかけてやり、わが田に引き入れようとの作戦でもあった。
 「ある有らず無きまた有らずなまなかにすこしあるのがことことと有る」と入れてきた学生がいちばん多かった。禅問答めいて面白いが、「ことこと」で落ち 着かないのが惜しい。

ひきよせてむすべば柴の庵にてとくればもとの(   )はら成けり   慈圓

 これは大勢の学生が「野」を正解した。「草」としたものが五四九人中の四〇人、出てきた漢字は約四〇種類もあったとはいえ、四一七人がやや説経じみる歌 の意味も境涯もほぼ理解していた。つまり、どこか歌一首に理屈の気味があり、そういうところは数式を読むように東工大の諸君には「解」けてしまうのである らしい。

* ホスピスから生還した知人がいます。好きなものを飲んで食べて毎日楽しく、大いに笑っているうちに、症状が改善されてしまって、ホスピスを出されたの です。笑うことには不思議な力があるそうです。
 医療の現場はじつに厳しいものですが、それと同時に奇跡は決して珍しいことではありませんし、希望はいつもいつも出番を待っています。
 どうか、他人の無責任な気休めとお受け取りにならないでください。奇跡はすぐそこに。やす香さんに笑顔があふれること、そのことがすでに素晴らしい奇跡 でなくてなんでしょう。信じています。  夏

* 音楽を絶えず聴き、ワインに気持ちを静め、息を詰めて……苦しい。すべて、予感し覚悟し呻いてきたことだけれど。

* バク  yurikoさん(>_<)突然のプレゼント
 本当にありがとうございました。
 大切にかかえて夜をすごしています。悪夢が減り増すように(〃_〃)
 音楽会 うまくいくといいなぁ。
 まずは私の体調が…   やす香
 
* 獏のぬいぐるみをいただいたらしい。こわい夢を獏よ、食べてしまっておくれ。

 ☆  > 言葉もなく、深く深く感謝しています。
 いいえ、やはり余計なことを書いてしまったのだと思います。朝日子さんのお気持ちはとっくにご存知だったのですね。私の書いたことは、他人からの単なる だめ押しでした。
  > 日記を読めば読むほど、「ああ手遅れ」したという悔いは、口惜しさは募ります。
 先生のお気持ちには、本当にもう、何も申し上げられる言葉がありません。やす香さんの日記を、体の不調と痛みを訴えていらっしゃる所を中心に、読んでみ ました。
 確かに日に日に状態が悪くなっているのが分かりました。
 でも、一番驚いたのは、4月の始めに病院で検査をしているのに、そこでは何も見つけられず、只「うちでは分からないから、大学病院にでも行きなさい」と 言うだけの対応をしているところです。
 ここですぐに付き合いのある大学病院を紹介する等の措置があればと、怒りも覚えますし、これが地域医療の限界なのかとも、愕然としました。
 今頃はお祭りが宴たけなわでしょうか。やす香さんが楽しんでいらっしゃることを願っております。
 入院生活で一番の敵は、一日のメリハリが無くなることでした。行動が著しく制限されていて、することが何もないと、具体的な、生活のはりあいが失われて しまうのでした。特に、長期入院になると、これが一番困りました。そんな生活の中、面会のお客さんは、外の世界を運んでくれ、「会って話す」というはりあ いを持ってきてくれるので、只会いに来てくれるだけで、華のある生活になるというか、そういう部分はありました。確かに疲れるので、体調によって制限な さった方が良いとは思うのですが・・・。
 日記を読みますと、やす香さんは今年の春頃から、肩から胸の辺りが痛くて安眠できない日々が続いていたんですね。
 今は安眠できているでしょうか。夜に眠りが浅くなるなら、ご家族がそばにいらっしゃる昼間、のんびり眠るのも良いことだと思います。勿論薬の副作用もあ りますが、お母様の前でうとうと眠ってばかりのやす香さんは、きっと、安心していらっしゃるのだろうとも思いました。
 先生も、どうかお体を苛まれませんよう。
 とても難しいことだと思いますが、どうかお元気でお過ごしください。 百合

* ありがとう。ありがとう。

* 「MIXI」での意思疎通には、「日記」への「コメント」があり、これは一首のチャットで、誰でも参加でき誰にでも読まれうる。もう一つ「メッセー ジ」があり、これは相手へ個と個との通信として直通し、誰にも読まれない。
「コメント」では埒が明かないとみて、私は「四月十二日」に、やす香にメッセージしている。これは、もはや言語に絶した苦痛でありなが、まだやす香はひと り堪え、わけわからずに狂った昆虫の一匹のように、日々過ごしていた時点である。

* 宛 先 : やす香   日 付 : 2006年04月12日  20:38
 件 名 : MIXIに加わってから、
 やす香の日記を欠かさず読んできました。もうまる二ヶ月ちかくなります。一言で言えば「心配」の連続でした。
 人から耳の痛い何かを言われるのを、頑固に拒絶しているらしいのは知っていたので、直接、何も話し掛けませんでした。
 書かれてある日々の生活、それを話している書き方・話し方。そして会話。それは、ま、本人の勝手であるから好きにしていいことですが、最近の日記には、 「心身の違和」が猛烈に語られはじめ、こと健康、こと診療となると、心配は、もう極限へ来ています。
 ことに今日の日記など、これが「ピーターと狼」の例であるならべつですが、本当に本当にこんな有様なら、やがて神経や精神に響いてきます。両親とも、本 気で何の相談もしていないように見受けるし。
 やす香日記をみてくれている「大人」の知人・読者には、日記じたいが心幼い一つのパフォーマンスであり、自我の幼稚な主張であり、或いは遊戯に近いかと 解釈する人すらあるのですが、わたしは、おじいやんは、そうは思っていません。かなり危ないと、ほんとうに心配しています。
 相談したい事があるなら、素直に柔らかい気持ちで、遠慮無く言うてきてくれますように。とても「笑って」られる状態・状況とは思われない。
 まさかやす香は他人からの「愚弄愛」に飢えているわけではないでしょう。だれからも、正常で正当な「敬愛」を受けたいのではないか。それにしては、あま りに言うこと為すこと「幼い」のではありませんか。
 やす香は、こういうことを身近な誰それから直言されるのを、極端に嫌っている気はしますけれど、心の健康すら心配される今、手遅れにならぬうちに、「話 しにお出で」と声をかけることに、おじいやん一人で決心しました。 祖父

* 「親に話しなさい、父親に話しなさい、母親に話しなさい」と、もっともっともっとハッキリ指示すべきであった。この、四月半ばにも成らぬ時点で、すで に「手遅れ」に近いほど、やす香の訴える苦痛は深刻を極めていた。おお、しかも、やす香が今の病院に入院し、精密検査され、「白血病」と告げられたのは、 なお「五十日も遅れた六月二十日前後」であった。
 その間にもやす香は、ひとりカイロプラクティックの治療を受けに行っている。弱り切ったやす香の骨に、きついカイロの治療は無用な苛酷ではなかったか、 骨の肉腫は、骨が溶けるように砕かれ弱ってゆく病気なのである。 

* こんにちは。先生のホームページを久しぶりに拝見し、驚き、なんと申し上げてよいのかわからぬままにメールしております。
 やす香さんのご病気の回復を信じてお祈り申し上げます。秦先生もご家族の皆様もどうかお体をこわされませんように。
 早稲田大学の在学中、私は欠席がちな学生でしたが、1986年に受講した先生の授業で、先生が「今年、こどもが二人生まれます。」とおっしゃったのを憶 えております。
 その記憶のせいか、私はなぜだかやす香さんは「湖の本」と同じ6月生まれだと思っておりましたが、お誕生日は9月なのですね。
 きっとその日を迎えられると、非力ながら私も強く念じております。
 蒸し暑い毎日ですが、どうぞ皆様お大事になさってください。  濱

* ありがとう。ありがとう。

* 今日、看護・介護の仕事に携わっている友人に尋ねたところ、リラックスして自然治癒力・免疫力を高めるという方法もある、そのために無理な治療をする より緩和ケアを選ぶこともあるよ、との答えでした。
 それを聞き、音楽会が少しでも、やす香さんの力を引き出せますように、と祈っておりました。
 毎日、祈っています。
 どうぞ秦さんも御大切にお願いいたします。   清

* 下関の方が、ごく身近な温かみでこうして親切にしてくださる。嬉しい。
 建日子が電話で朝日子に聞いたところでは、音楽会には百人もあつまって成功し、やす香に疲労での急変もなく、無事と。ありがたい。ありがたい。静穏であ りつづけますように。


* 七月十七日 月

* 祇園会。ひたすら京都が懐かしい。永遠に帰ってしまいたいとも思うが、それはタワコトに過ぎない。そんな京都は、もうわたしの念裡にしか実在しない。

* 祇園祭、降り続く雨の中での巡行になりました。テレビで観ていますが何もかもずぶ濡れのお祭り。
 この雨と共に災厄も一掃され流されますように。
 やす香さんのご回復を信じてお祈りしています。
 どうぞ、皆様も少しでも心安らかにお過ごしになれますよう、お祈りしています。従妹

* ただただ 祈る  甲子
 私語にて、やす香さんの入院を知り、六月二十三日、若い頃に起こりがちな病の一種、それにしても祖父母のご心労いかばかりか、と、何はさておきお見舞い のメールさしあげました。が、翌日の「私語」文中、
  * お見舞いをたくさん戴いているが、この返礼はご勘弁願っている。
とのお言葉、さもありなん、忙中の雑音、痛苦の源。と、以後の発言は控えて下りました。
 ところが、その病根の深さ言外のことと聞くに及び、見舞いの言葉など空疎にひとしいものと知りました。
 しかし、昨・日曜、建日子さんの電話で音楽会には百人もあつまって成功し、やす香さんに疲労の急変もなく無事。とのこと、それそれ、医・智・に限りは あっても、気・には計り知れない力がある、と信じます。
 どうぞ、周囲から、特に先生の「持ち観念」であられる「身内」の方々、有声無声の励ましによって、やす香さんの内なる気力を高め、現前させ、快癒の方向 へ向かわしめるよう、祈ってやみません。
 何の知識もなく、お役に立てる提言のひとつだに申し上げること適いませんが、ご心労のほどは深くお察しいたします。そのあまり、日々のこと、体調などに 齟齬の来たらすことなきよう。お過ごし下さいますように…。  060717     甲子

* 恐れ入ります。
 秦と押村という、錯雑した多年の確執のなかで、ただ愛おしい孫娘に思いを凝らすしかない、ややこしさにもわたしたちは翻弄されています。一期一会。繰り 返しの一度一度にその思いをひそめ、先日の見舞いにも、めったにしないネクタイをしめ、せめて孫の眼に、祖父のきちんとした姿をみてもらっておこう、もう 二度と来れないかも知れぬと覚悟して参りました。そういう宿世なのでしょう。

* 発送用意の作業に追いつこうと頑張っている。もう、明日から三日間しかない。うち一日は、相模大野へ見舞いに行く予定。二十一日に出来本が搬入され る。今度は二百頁、作業の重量負担が大きい。本はときに石のように重い。

* 夕方から、またインターネットが利かない。ルーターがピキ、ピキと鳴っている。いま、いちばん頼りにしているメールと「MIXI」とがともに使えな い。ホームページの更新も出来ない。外向きの表示がすべて使えない。なにか、工夫をしようと思っても、悲しいかな今は、頭がてんで働かない。こんぐらがっ てる夥しい配線をみるだけで気が萎えてしまう。
 この間にも、役に立っていない光通信もウイルコムも料金を支払い続けている。社会保険庁みたいだ。

* ほんの一瞬回復したが、キーを押し間違えてしまった。

* やす香の妹、中学生の行幸が声もなく「MIXI」のわたしの処に「足あと」をつけている。行幸もさびしいことであろう。

* 行幸  久しぶりに逢って、まさに再会して、おじいちゃんは行幸に、碁でみごと一敗したんだなあ。夢のように懐かしく思い出されます。
 やす香もまみいも一緒に、四人で保谷駅まで、みなで手を繋いで歩いたのは、あの日だった。やす香は元気だったね。
 お正月には、タケちゃんもいっしょだった。玉川学園まで彼の自動車で走ったのも、夢のようです。行幸の誕生日前祝いをした二月には、お雛さんを姉妹で声 をあげて飾っていたね。そして池袋のお寿司屋さんで、四人で、板前のお兄さんに煽られながら、にぎやかに沢山食べました。
 どうかして、また、また、行幸もやす香もみないっしょに、手を繋いで歌うたって歩きたいなあ。みんなで食べて話したいなあ。
 一月の十日過ぎに、やす香は、はじめて日記に「痛」という字を書いて異状を自覚していました。
 二月のあの日のやす香は、みたところ元気そうだったけれど、なんだか上半身に異様な違和と苦痛をもうもっていたらしいと、今でこそ、ねその姿態が目に浮 かぶように思い出されます。あのときが仮にまだ早くても、なんとか三月中に、あのやす香の苦痛に、異様な全身状態に直観が働いていたらなあ、気が付いてい たらなあ、「ママ、これ、なんだか普通じゃないよ」って訴えていてくれたらなあ、身近なだれか大人が一人でも異状に驚いて、最初から大学病院へすぐ駆け込 んでくれていたらなあと、おじいちゃんたちは、及ばぬ繰り言を話し合って、毎日泣いています。 おじいちゃん
 
* 今日はさすがに昨日の疲れがあるのか、やす香自身は「MIXI」で語っていない。建日子が見舞いに行ったときも寝ていて、しばらくは外で待っていたら しい。今夜も、雨降って地堅まり、バクに護られて平安でありますように。 


* 七月十八日 火

* 西向きに、新幹線に飛び乗ってみたい気持でいた。今日も雨がつよい、と聞いている。

* 音楽会は盛況で、やす香のために、やす香を愛してくれている大勢のために、佳いひとときであったろう。その一つの山を越え、やす香がまた新たな目標を 持ってくれるといいと心から願う。
 さすがに昨日は疲労したか、見舞った建日子への反応もぼんやりしていたとか。疲れの溜まるのをどうかして避け、新たなちからの蓄えられる看護を、介護を と願う。
 せめて「MIXI」に反応できるちからを、と、心からねがう。何が食べられるだろう、飲めるだろう。
 笑うのの大好きな孫のために、つみのない志ん生や小さんのテープを持っていってやろうかなと思っていたが…。

* 気温が下がり この二日、いくらか人心地がつけます。
 昨日の祇園祭山鉾巡行は、例年に違わず雨降りでしたが、幸い関西地方も、あの汗の吹き出るような蒸し暑さはなかった、とメールがありました。
 京都では折々の季節の移り変わりを、そんなイヴェントで確認していたと懐かしく、寸時のテレビニュースを追っています。
 友人の旦那様たちがそんな京の三大祭の管理をする立場の長老だと聴き及んで、自分の歳をつくづくと。
 いよいよ梅雨明け間近です。
 雨降りで運動出来ませんね。
 やす香ちゃんの事、心から離れないでしょうが、ご自分も病人であることを忘れずに、お気をつけて。今はあなたの健康に声を掛ける人はいないでしょうか ら。
 何をさておいても、お見舞い(ただ顔を見せるだけでも)を頻繁になさるのが一番かと思います。  泉

* アンドレ・モロワの『英国史』は、大陸の絶対王政とはみごとに相貌を異にし、王の権威と権力をも議会が左右できる政治体制へ、それが「国民の権利」と して堅まった時期を、敬意と羨望とを痛いほど覚えつつ、読み進めている。
「世界の歴史」は、ちょうど宋の太祖が、中国史上最後の禅譲・革命で天子・皇帝におされ、めざましい王権の拡充を智恵を絞って実現している辺りを読み進め ている。唐末から宋初をつないだ五代十国の歴史など、つい目をそむけてきたが、今度はつぶさに読んでみて、そこにも歴史の必然の働いていた面白さ厳しさを 納得した。
 芹沢光治良の『人間の運命』は第一巻の半ばを過ぎ、主人公「森次郎」少年と生家や環境との、ことに父の、また協力した母の、天理教信心と実践によって、 一家一族が大きな波瀾と没落にあう運命を、読み進んでいる。
 小沢昭一氏にもらった新しいエッセイ集も、ほぼ読み終えて、高橋茅香子さんの翻訳の大作、久間十義氏のルポふうの小説も面白く併読している。
 『アラビアンナイト』は、短章がつづくと少し意欲が落ちてくる。荒唐無稽なほどの長篇がおもしろい。
 鏡花全集は、本の重いこともあり、寝床では読みにくいけれど、じりじりと。
 旧約聖書は、文語での翻訳に句読点がずいぶん節約してあって、読み取ってゆくのに苦労しつつ、これまたじりじりと頁を進んでいる。何といっても、今日の イスラエルの、ほとんど暴虐としかいいようない攻撃的な聖戦思想との関連で、ズーンと重い気分になりながら読む。
 「聖書」と受け容れるのは、少なくも、現在進行中のあたりでは、とても難しい。
 日本書紀は、天武天皇によるまさしく「現代史=現代政治」そのものを音読している。いまは「八色の姓」の整えられた辺を読んでいる。
 バグワンは、最初に戻って『存在の詩』を音読し続けている。やす香 やすかれ、静かに在れという思いをこめて読んでいる。やす香の耳に届いていると信じ たさに。

* 国際政治や国内政治やいろんな事件への目配りも欠かしていないが、さすがに、ウンザリもしている。ながい電車に乗って遠くへ走りたい気の萌すのも、 じっとしているとそのまま全身が石のようにかたまりそうに感じるから。
 いまこそ、静かな心でいたいし、そうしているつもり。つもりは、つもり。

  
* 七月十八日  つづき

* 秦建日子のブログから転載する。篠原涼子さん、ありがとう。建日子、ありがとう。建日子の御陰で、やす香母娘も、われわれ老人も、みんながどんなに負 われ助けられ力づけられていることか。

*  篠原涼子さんの手紙とビデオ。  秦建日子 
 昨日から今日にかけて、こんなことがありました。

 姪は、明日をも知れぬ重病の床の中、それでも「花嫁は厄年ッ!」だけは頑張って観てくれています。

 と、それを知った主演の篠原涼子さんが、昨日、彼女宛の激励メッセージを私に託してくれました。
 ドラマのポスターへのサイン。
 色紙へのサイン。
 別の色紙には、手書きのお手紙。
 その上、ハンディ・ビデオで撮影した姪への激励メッセージ―――

 連ドラの主演女優といったら、それはもうびっくりするくらいのハード・スケジュールで、体力も神経もすごく磨り減るハード・ワークなわけで、なのに、僅 かなオフの時間を使って、サインに手紙にビデオ。。。
 ビデオが出来た時、、そしてそれを渡して貰う時、篠原さんが「あ。ラベル貼るの忘れた」って言って、ぼくが「あ、いいですよ。ラベルなんかなくてもその ままで」って言って、でも篠原さんが「ううん。ラベルは絶対あった方がいいよ。私、今すぐ書くから」って、ペンを取りにだだだだって走っていって―――そ の時、ぼくは不覚にも、スタジオのメイク・ルームの前で、篠原さんの優しさに泣きました。

 ぼくは、その「篠原涼子メッセージ」の山を大事に大事に抱えて家に帰り、今日、7話の撮影で緑山スタジオに入る前に、姪の―――やす香の病室に届けまし た。

 やす香はちょっと疲労していて、一日の大半は笑顔っていう子だったのに、じっと無表情で、見舞いに来たぼくを見るのもしんどそうだったけれど、でも、篠 原さんからの手紙を差し出すと、それをしっかりと手に持ち、にっこりと微笑みました。
 それからビデオをじっと何度も観ました。
 看護婦さんが、とても興奮して、「すごい。うらやましい」と何度も言ってくれました。
 ぼくの姉が、いそいそと、色紙とポスターをやす香のベッドの真正面にドーンと貼りました。
 病室のカレンダーを見たら、ちゃんと7話のオンエアの日も、最終回のオンエアの日も書き込まれていて、「篠原さんがね、最終回の感想、絶対、聞かせて ねって言ってるよ」と言うと、強くうなづきました。
 そしてぼくに、篠原さんに、
 「ありがとう。私、頑張るからって(篠原さんに)伝えて」
と、しっかりと言いました。

 ぼくは、「また来るね」と彼女の手を握り、それからスタジオに向かいました。

 やす香の手はとても暖かくて、きちんと命がそこにありました。

* 佳い息づかいで、建日子の優しさがよくあらわれている。

* 百合の花が咲きました。  いい香りで、家に帰ってくると、うれしくなります。
 やす香さん、音楽会楽しまれてよかったですね。
 それから今「私語」を拝見すると、ビッグスターからの励ましも・・。
 大いに楽しみ、いっぱい笑って、病気を吹き飛ばしてください。
 今日、田舎の、産直市場に、ハウスもののニューピオーネがありましたので、1つだけお送りしました。『一房の葡萄』です。
 召し上がってくださるとうれしいです。
 『こころ言葉』と『光悦・宗達』を並行読みしています。からまっていた糸がするすると解けていく快感を味わっています。
 先生は、ほんとに京都がお好きなのですね。
   なつかしき
   故郷にかへる思ひあり、
   久し振りにて汽車にのりしに。    讃岐

* ひとことでいい、やす香のメッセージが「MIXI」に流れてくれるかしらんと、願っている。音楽会の反動、よほど強かったのではないか。次の目標をな にとか工夫できないだろうか。

* やす香母の「きょうのやす香」の容態が「MIXI」に報告されている。とろとろと寝ているとも、うとうとと覚めているとも。見舞いの友達の手を手でま さぐりにぎると。
 やすかれ、やす香。

* やす香はときに「詩」を書いた。書くことばがそのまま詩になることもあった。はっとするほど、失礼ながら見た目のやす香を裏切るほど、ピッカリ光った 詩句を紡ぎ出していた。
 大学へ入学時の「自己推薦文」は、提出前にわたしに見せてくれた。
 今年の正月の目標はフランス語の検定試験だった。
 正月早々、フランス語で、覚悟の程を書いていたりした。

* 秦恒平様
   *「わたしは、ただもうやす香の顔を見ていた。言葉は無力に感じられた。」
 じいやんの、この痛切な記述を前に、何もいうべき言葉が無い。最近の「秦ブログ」を読むのが、辛くて仕方がない。メールもそうそう気楽に送れるものでは ない。だが、じいやん、やす香さんに逢えてよかった。
 気のきなかい読者は、ただただ、声にならない言葉を、言葉にならない声を、密かに心で念じ入るのみ。それでも、秦さんのいわれる「世間」は、何事も知ら ぬげな顔して動き、通り過ぎていく。それが人の世の習いかもしれないし、所詮私も「身内」にはなれない一読者に過ぎないのであろうが・・・。ひとえに秦さ ん自身の「消耗」を心配しつつ・・・。 
 ※ クロネコのクール便にて「製造元」より、ささやかな暑気払いをお届けします。一両日中に届くはず。
 七夕はとっくに過ぎましたが、越後名物の「右門の笹だんご」です。年に一度、七夕の時期に知人が送ってくれる私のひそやかな楽しみを、人生で一番かもし れない苦しみにあえぐ秦さんにも、お届けしたいと思いました。冷蔵庫で冷やして2日は味わえます。固くなれば電子レンジで数十秒温めて下さい。くれぐれ も、余り温め過ぎないように。
残りは必ず「冷凍」して下さい。新鮮なヨモギと、熊笹の葉の薬効が、適度な甘さの小豆餡に共鳴して秦さんの心を癒してくれるようにと願いながら。  円   四国E-OLD

* 恐れ入ります。

* 奪われていた十余年が惜しまれる。痛切に惜しまれる。


* 七月十九日 水

* 雨。散髪のひまもなく、やす香の顔を見に行くつもり。頭の芯まで、やす香になっている。生きていると謂うこと。

* 雨中、相模大野まで。病棟に入って、ロビーで待機。
 廊下へ出て来た朝日子に、「命のあるやす香とは、今日が最期と思って欲しい。病室には五分間だけ。厳守して」と。朝いちばんに、四国からはるばるいただ いた「笹餅」も「葡萄一房」も、また「タカノ」の梨も、やす香の口には入らなかった。くやしい。
 妻はそうまで差し迫っているのかと動揺していたが、わたしは、堪えた。

やす香の言葉にもそれが出ていた。

 やす香自身の希望であったのかも知れないが、あの音楽会は、文字通りのつまり「お別れ会」であった。人事は尽くされたか。わたしが朝日子の為になら、 けっしてあのまま諦めたりはしなかったろう。
 
* やす香はうとうとと眠っているようであったが、「やす香」「おじいやんだよ」「まみいよ」と小声で呼べば、手先で少し反応した。少し肯き、何か言いた そうに、くちびるを動かしたが、言葉としては聞こえなかった。
 手を握ると、かすかに握りかえし、また手を動かして、わたしや妻の手を探し求めた。ほうっと、うっすら目をあけ、マスクをはずしたわたしたちを認め、肯 いた。「わかっていますよ、まみい、おじいやん」と言うようであった。
 わたしは、何度も「ありがとう」と言った。「ありがとう、やす香」と繰り返して言った。
 わたしちに、かけがえのない喜びを届けてくれたのは、やす香であった。奪われ失っていた孫の、希望に満ちた元気な声と笑いとを、決然、保谷の我が家に届 けてくれたのは、やす香一人の愛であった。妹の行幸までも連れてきてくれた、両親の意向に頓着せず、何一つの説明も言いわけもなしに、である。
 わたしは「ありがとうよ、やす香」という思いのほかを、口にするどんな言葉も知らない、「ありがとう、やす香」と。

* 病室には、朝日子のほかに、父親が椅子に腰掛けていた。黙っていた。わたしたちは、彼に言うどんな言葉も持たなかった、

* やす香は、かすかに左手を、また右手を、あげて、わたしたちに手を振った。妻は「おやすみ、やす香」と言い、わたしは「ありがとう、やす香」と声を掛 けた。薄目をあけてやす香はうなずき、ゆらっと、ゆらっと手を振った。わたしは、白い細いとても綺麗なやす香の少女らしい手を握り、ふっくらと微熱を帯び た柔らかい頬に唇を添えた。堪らなかった。
 やす香は、目を開けるようなとじるようなまま、かすかに肯いて手をゆらゆらと動かした。

* 一度、ロビーにまで出たが、妻とわたしは、そこで動けなかった。妻は、ナースステーションで、ほんとうにそんなに差し迫っているのでしょうかと訊いて きた。
 「わかりません」「お母さんがよくご存じです」という返辞であった。ただ、やす香が平穏・平安にいられるようにだけ最善は尽くしているが、「延命のため の措置は何もしていない」と言うのである。つまり、親も、病院も、苦痛のないやす香の最期をねがうだけで、すべて手を放しているのだった。そうとしか、道 がないのだろう、だが、まあ、なんと口惜しいことだろう。なんと口惜しい、口惜しいことだろう。

* 「白血病」ですと、やす香自身が「MIXI」に公表したのが、六月二十二日、あの時は朝日子も「治る病気なんだから」と、私たちの愁嘆を禁じた。あれ から一月たたないのだ、まだ。
 ほんとうに最善が尽くせたと言えるのか。残念だ。
 まして、やす香の日記をつぶさに読み返す限り、三月、四月、少し大人が注意していれば、こんなむちゃな事態には絶対にならずに医療の威力が十分期待でき た。疲労と病勢とは相乗加速し、やす香の肉体をぼろぼろに蝕んだ。三月四月に治療体勢に入っていたら、確実に緩和し延命策が奏功または奏功の見込みを持っ たろう。
 やす香は、友人達がしきりに言っていたように、命にかかわる「異様な病変」を、「孤独に、ひとりで抱え込んだ」のである、友達はそんなことをしていると 「SHI」だよと威して、繰り返し警告していた。
 わたしも心配しメッセージを書いた。メールもした。「親に告げよ」と。
 だが、やす香は自分からは、母親にも父親にも訴えていないし、両親は六月半ばまでなお気づけなかったおで。くやしいことだ。「やす香、親に相談しなさ い」とメールで伝えても詮無いことだった。そしてわれわれには、やす香の親たちに直にものを言いまた伝える「道」が、酷いように断たれていたのである。む りやり伝えても押村家は聞く耳もたなかったのだ。くやしい。くやしい。

* 帰りの小田急線でも妻は泣いた、わたしも泣いた。池袋で、おそいおそい昼飯に西武の「たん熊北店」に入ったが、食べながら妻は泣き、呑みながらわたし は泣いた。あきらめきれずに、食べて飲んだ。美味ければ美味くて泣いた。やす香と三人でこの店で食べたことを思い出して泣いた。

* 建日子は、そんなに差し迫っているとは思わなかったがなと、電話で母親に言う。母親もそれを言う。
 わたしは、あの音楽会が盛況で、やす香が顔を輝かせて笑いかつ楽しみ喜んだ反動は、深刻なものになると予期し、覚悟していた。すぐ次の目標になる生き甲 斐をすかさず設定してやらない限り、音楽会の反動は、深刻な心身の衰弱をひたすら招くだろう、と。

 望まれていたのは、やす香の安静と平穏な、終焉。

 一か八の祈願も、試みも賭けも、すべて、なかったのである。藁など掴む気に、親も病院もならなかった。そ れほど容態が悪すぎるというのだ。

 苦しい選択であったろうと、想うことは思う。だが、残念だ、念は残る。

* 朝日子の母心はどんなに悲しかろう、わがこととして、私も妻もしんそこ察している。朝日子の分も私たちは血を吐くように悲しんでいる。代わってやりた いという気持にウソは全くない。朝日子達をどう、いま、責めてみても詮無い。
 どうか奇跡が起きて、やす香が、ママの誕生日のこの二十七日までもちこたえ、八月までもちこたえ、……。ああ、九月のやす香二十歳の誕生日までが、何十 万年ものように、ながく、遠く、嘆かれる。
 がんばるのだよ、やす香。お前はまだ、そんなにも無垢に瑞々しく若いのだ。

* 発送の用意を、ひとまず最初段階の分、追いついた。だが、頭を使うむずかしい作業はまだ残っている。
 明日は妻が自身のために聖路加病院に行く。わたしは、明後日からの発送のために、もう一段二段を努めねばならない。

* 歌舞伎座から帰宅しました。お見舞いのことが気にかかり、なぜか胸騒ぎがして、すぐに私語を拝見しました。涙があふれて文字がかすみ、どうにか読み終 えた今、言葉がありません。すべてが痛く感じます。
 メールを書きながら時間ばかりが経って、何をどう書いていいのかわからなくなってきました。やす香さんを愛している多くの方々と共に祈り続けます。希望 を持ちます。   夏はよる

* やすかれ やす香 生きよ けふも

  やすかれといまはのまごのてのぬくみほおにあてつついきどほろしも

  このいのちやるまいぞもどせもどせとぞよべばやす香はゆびをうごかす    


* 七月二十日 木

* 雨あがり、今朝も涼しい。 やすかれ やす香 生きよ けふも。

* 昨日、本屋に『メリー・スチュアート』を注文しました。新潮文庫は絶版久しく、インターネットで調べても文庫本は現在ありません。古本屋を時間をかけ て折りにふれ丹念に探すことにしましょう。お手持ちの本の訳者が誰か分かりませんので、もし訳者が異なっていたらと懸念はありますが、入手可能なツヴァイ ク・コレクションというシリーズに『メリー・スチュアート』がありますので、それを頼みました。翻訳は古見日高という人です。来週以降お手元に届くでしょ う。ちょうど発送作業が一段落する頃でしょうか。くれぐれもお体大切に発送を済ませられますよう。転んだ後の腕の傷が思いやられます。
 雨が降り続き、祇園祭は例年の半分ほどの人出だったとか。今年はいろいろ用事があって出掛けられませんでした。
 八月にヨーロッパに半月余り行くことになりました。ずっとわたしには珍しく躊躇していたのですが、断れなくて。行く以上はそれなりに目的も多々あり、少 し「勉強」も準備もしたい。それまでに仕上げなければと思う絵もあります。
 気持ちばかり忙しくなりそうですが、わたしの気分はそこからかなり遠い状態です。  鳶

* かろうじて明日からの新刊「湖の本」発送の用意がほぼ調った。いつもいつもストレスの多い駆け込みであるが、このようにして満二十年、八十八回もわた したちは「湖の本」を送り出し続けた。
 趣味でも道楽でもない、わたしの、文学史にも例のない孤独だが長寿の出版活動であり、読者と理解者とに支援され期待されながら、一度の停頓もなく続けて きた。出し続けた。次々と期待して頂ける作品の質・量が豊富であればこそ、成り立ってきた。
 問題はわたしの気力でなく今は体力である。本は重いとつくづく思う。腰の蝶番はもうボロボロになってきている、ハハハ。
 今度送り出すのは小説の第五十巻で、A5版二百頁という大きな増頁、三百円臨時に値上げはしたが、厳しい。しかしこれでわたしは営利を求めては来なかっ た。維持し続けられれば目的は十分達している。

* 先生が、フルーツの「高野」で求められた果物を病床に持参された由拝見して、健康な初物のフルーツをと、失礼ながら送らせていただきました。
 ご丁寧なお便りいただきまして、恐縮に存じます。
 それにしても、なんという病勢の激しさでしょうか。
 めまぐるしく変化するご病状に、どきどきしながらHPを拝見しています。お見舞いのご様子、泣きながら読みました。
 まして、やす香さんはまだ花のつぼみのような19歳、そして、おじいやんとの長い途絶の時間の後のうれしい再会をしたばっかりというのに。
 あの(ホームページ「私語の刻」の)お写真のかわいいやす香ちゃんが病魔にあわや連れ去られようとしている。
どんなにつらく悔しい思いをなさっているか、言葉で言い尽くせません。「ふしまろびて嘆き悲しむ」と言った、昔の人の表現こそ言いえてくれているような気 がします。
 代わってやりたいと、私も思うでしょう。
 奇蹟を信じます。
 近くに、聖武天皇時代の国分寺があり、霊験あらたかな観音さんがいらっしゃいます。
 毎日祈っています。どうぞどうぞよくなりますように。  讃岐

* おたよりのあらましを摘記しながら、感謝している。バグワンは「思考」はモノであり力であると説いている。このような思いの数々が癒しの力となりやす 香の病症をきっととりつつんで力を発揮してくれるのだと想っている。

* 妻は定期の診察をうけに出掛けた。心臓の主治医の話では、「肉腫」は若い人を突如襲って病勢はげしく、症例は多くなくて診療基盤を成す情報にいまなお 不足している強烈な病気だと。
 やす香の母親朝日子が幼稚園にもまだかという幼い頃、滑り台から転落骨折し、東大整形外科に入院したとき、同じ病室にいまのやす香ほどの少女が「肉腫」 で治療を受けていた。今のやす香とはくらべようもないほどさわやかに元気そうに見えていたけれど、途方もなく難しい病気と漏れ聞いて心から案じながら、朝 日子は先に退院した。その記憶があったので、「白血病」という初診が「肉腫」に転じたとき、わたしたちは、ハンマーで殴り倒されたような恐怖を覚えた。朝 日子達もそうであったろう。
 全身状態に未だ少しでも力のあるうちに、発症を食い止めねばいけなかった。そこで決定的に逸機した以上は、緩和ケアか、一縷の望みに縋ってあらゆる医療 の手を尽くすか、選択肢は二つしかないと分かっていた。
 どんなに若いぴちぴちした肉体も、過剰な疲労の蓄積と放置とは、病魔をここぞと立ち上がらせる。だれもだれも適切に用心して欲しい。親子・家族がお互い にいたわりあい用心して欲しい。こんな悲惨なことを繰り返してはいけない。 
 それにしても、妻の主治医いわく、「あっさり告知したものだなあ」と。おそらくは母親は、やす香の平安を、命の尊厳をまもりぬく平安をと、娘の叡智とも 真っ向むきあって申し合わせたつもりであろうか、厳粛な申し合わせをあえてしたつもりであろうか。ああ……。祈るしか、ない。祈るしか、ない。

* やす香のケイタイに。 
 やす香 ありがとう おじいやん    
 ありがとう ありがとう まみいと二人で やす香に ありがとう! ありがとう ありがとう ありがとう。
 今夜の篠原涼子に、逢えたかな。
 がんばれ やすか。おじいやんの、だいじな、やす香。

* インターネット不調で送れない ああ。

* いま、送れた。日付がもう変わる。やす香、明日も生きよ。


* 七月二十一日 金

* 午前、折良く雨のなかやすみに、新刊の「湖の本」創作第五十巻が出来てきた。早速発送作業に入って、夕食前に第一便を送り出した。嵩の高い分、作業量 は多い。用意はほぼ万全にしてあり、注意深く運んでいれば作業自体はむしろ単純なのだが。そばで、ジョルジュ・クルーゾー監督、ベラ・クルーゾーとシモー ヌ・シニョレが主演の「悪魔のような女」を観ていても仕事は進む。

* 昨夜見なかった、息子が脚本の、題のまるで覚えられないドラマ、えーと、「花嫁は厄年!」篠原涼子と岩下志麻の連ドラ三回目も観た。
 一般の視聴者にはまったく分かるまいが、息子の、ドラマを介しての私小説風発信がおもしろい。岩下志麻の母親役を此のわたしに、息子を娘の朝日子に置き 換えると、およそは、きれいに当てはまってドラマが作られている。母親の死んだ夫、息子の父を、いわば朝日子の夫かのように読み取れば、取材と脚色はなか なかうがっていて、佳い意味でしたり顔に如才なく巧みに出来ている。
 おお、やっておる、やっておると、わたしも妻も、特別の「桟敷」鑑賞で、笑ったり手を拍ったり話し合ったりできる。楽しめる。「メーッセージ」が如何様 に優しくまたシンラツに展開するのかも、期待しよう。

* もう日付が変わる、それほどまで今日は米寿を迎えた「湖の本」新刊の発送に没頭していた、と、ま、それに違いなくても大層な言いようだ。宮崎駿の「ハ ウルの城」なる童画を妻が観るというので、そばで付き合いながら作業していた。能率をあげた。
 童画は、いつもながら、こんなものかと思った。原作というか構想というか、やわいし甘い。善意のお伽噺ではあり、繪は美しいが、『ゲド戦記』などの本質 的な思想性からみると、月とすっぽんのように少女漫画めいて、すぐれた児童文学の原作、たとえば「魔神の海」などと較べても、魂を揺さぶられる刺戟がな い。静かに考えさせられる佳い意味の負荷も軽い。

* それよりも、我が息子秦建日子のブログの、今日のコメントに、少し、たちどまってみよう。 全文は必要ない、前の半文で足りている。題以下に、こうあ る。

* 2006.07.21 Friday ウンコ投げ競争はガマン!
 以前、スティーブン・キングの「ウンコ投げ競争の優勝者は、手が一番汚れていない人間だ」という言葉をこのブログで紹介したことがありました。
 「どれだけ他人にウンコを投げて命中させるかが大事なのではなく、そんな無意味なことで手を汚さないのが人間の品格なんだ。それよりは自分がやるべきこ とをちゃんとやろうよ」(村上春樹さんの解説)
 無性にウンコを投げ返したくなると、ぼくはこの言葉を思い出しては踏み止まることにしています。他人にウンコを投げつけたいウンコ野郎は、静かに無視す ればいいのです。あるいは、静かに軽蔑すればいいのです。あるいは、哀れに思えばいいのです。だって、他人にウンコを投げるしか自己実現の方法を知らな かったりストレス解消法を知らなかったりするわけでしょう? そんなウンコな生き方、哀れですよ。
 それよりも! (以下は、此処では略しておく。わたしの批評とは関わらないからである。 秦)
 とまあ、ちょっとここ数日、立て続けにウンコな気分になったので、自分自身に言い聞かせてみました。
ウンコ投げ競争はガマン!―――「ウンコ」「ウンコ」書き過ぎですかね(笑)

* 引用されている村上春樹の「解説」が、一部引用でしかないかも知れず、問題を一般化し、ここでの言及は氏とは一応「無関係」としておく。その限りにお いて上に引用された一文は、わたしには、タワイないものに思われる。秦建日子はこれに賛同しているようだから、わたしの「物言い」は、彼の理解や共感に対 してだけ及ぶとしておく。

* 先日、歌舞伎座で、泉鏡花昨の「山吹」という芝居を観てきた。これだけが幻想性を庶幾しない一応現代劇で、ほかに「夜叉が池」「海神別荘」「天守物 語」があった。
 わたしと妻は、昼夜に、この四つともみてきたが、四つに共通して言えるのは、異界・魔界と俗(人間)世間との火花の出る対決であり、作者の思想は、眼を みはり思わず呻くほど烈しく、後者、つまり俗な人間・世間への侮蔑と憎念を示している。
 鏡花世界の構造は複雑で、こんな簡単に割り切って尽くせるモノではないが、鏡花の「根の哀しみと不平」との思いには、「そんな無意味なことで手を汚さな いのが人間の品格なんだ」という式の、「世間」の行儀・判断に対する「不信」が重々しく沈んでいる。それが無意味であったり意味ありげであったりする、そ んな判断を、誰が、どんな目盛りの物差しで決めつけているかの批評抜きに、どうして人間の「品格」にまで言い及べるのであろう、と。
 わたしもまた、したり顔のそういう軽さや浅さや薄さに、おいおいおいと目を剥いてしまう。
 
* で、「山吹」の話にもどるけれど、この戯曲は、三島由紀夫がやけに執着し称賛したほどは纏まりいいモノではない。ないけれど、なみの世間の判断や価値 観からすれば、極めて過激に非常識な価値転換の凄みを主題にしているとは、はっきり、いえる。
 芝居の粗筋をくどくど書き立てる根気はないのだけれど、或る資産豊かな料亭の美しい娘が、本意なく華族家に嫁いで、暴慢・強欲な夫に虐待され、もう死ん でもいい、死にたいと、家出している。
 その家出の旅先で、たまたま、娘時代にひそかに思いを焦がした新帰朝の有名某画家と出会い、女はかつての思いを男に告げて、死にたいとも、あなたに一夜 でも添いたいとも、嘆くのである。
 画家先生は、死んではいけないよと諭し、しかし自分には妻子もあり現世の名声も備わっていて、女の情をたとえ一夜なりと受け容れるわけにゆかないと、窘 める。それとても男画家は動揺しており、女の気持ちに添いたい欲求も隠しきれないのだが、しかし、終始毅然と腕組みし、拒んで、起っている。「そんな無意 味なことで手を汚さないのが人間の品格なんだ」と、絵に描いたような「紳士」なのである。
 そのもう一方に、これが「主役」ともいえる、落魄流浪の乞食くぐつ師がいて、これも先の美しい人妻と舞台の上でさきに出会っている。
 この地を這うような乞食男は、ものに襲われ傷つき腐った池の鯉を、「土にほうむってやろう」と言いつつ腰袋に拾い上げていた。我が身とも思いなぞらえた いそんな腐れ鯉を、女はもの哀れに見つめていた。
 そしておいおいに、女は、乞食男の秘め持っていた「過去」を知ってゆく。
 男は過去に、理想の貴婦人と出会い、しかも心なく傷つけ、死なせていて、その悔い一つを焼け石のように抱き込んで、呻きながら人外境を流浪しているの だった。
 乞食男は出会った女に、美しく品のある家出妻についに懇願し、ただひたすら女の手で打ち打擲されたい、骨も砕けるまで「憎い、畜生」と打擲してくだされ と、人目離れた山なかで、女に向かい切望する。その責め苦を受けるより外に、かつて犯した美しい貴女への罪苦は、増しに増すばかりだと泣くのである。
 女は、ついに、婚家への憎しみを想い描きながら、狂ったように「くぐつの男」をとめどなく木の棒を掴んで打擲するが、それを制止したのが、ひとり山なか を散策していた、先ほどの画家紳士であった。
 制止の言葉も態度も、世間の常識にいかにもかなっていた。家に帰れとすすめる言葉を、だが、女はことわり、あなたが自分の宿へ連れて帰ってくださるなら 従うが、それが叶わない上は、死か、流浪か、と絶望する。ついに画家は、わたしには家も仕事もあるが、当分の時間の余裕を呉れるなら、あなたと添うことす ら考慮していいとまで、オトコくさい譲歩もするのだった。
 女は、即座に拒む。それならば、自分は目の前の人形つかいの乞食男と「人外の境」に進んで落ちて行きます、この男と暮らして、男の望むまま、朝に昼に晩 に五体を折檻しながらでも、ともに生きて行きますと言い切る。そして人形遣いに、何処へでも何処までも連れて行ってくれるかと頼む。
 乞食男は随喜の涙をこぼして、女に礼を言う。そうと聴くと女はいきなり「ここで祝言」したいと、男がさっき腰袋に入いれた無残に腐った鯉をとりださせ、 やにわに女は口ずからその生き肝を吸い、男も躊躇わずそれにならう。「悪食の共食」が、すなわち二世を誓う「祝言」になった。
 画家紳士は、茫然とし顔を背け、しかもなお女をいさめるが、自分を受け容れる気があるのかと女に迫られると、「仕事があります」と思わず逃げ腰になり、 観客席に失笑の渦が湧く。
 そしてそして、鏡花ゼリフの、最も痛烈な一句が、男と抱き合うように立ち去る女の花道から、本舞台の画家紳士に向かって、投げつけられるのである、
 「世間へ、よろしく」
と。花道は魔界に入る至福の道であり、本舞台は「品格」を守って「そんな無意味なことで手を汚さない」紳士達のいかにも堅固そうな「世間」そのものを示現 していた。

* 何が「うんこ」で何が「うんこでない」か、また「うんこ」はきたないだけのものであるのかどうか、俗な「世間」の掟いに従えば明白・明瞭かもしれない が、人間の誠からみれば、そんなに甘い判断ではない。
 鏡花は、それを言い、実は夏目漱石も繰り返し繰り返しそれを書いてきた。漱石と鏡花とには、よほど意気の通じ合うもののあったことは、実証可能である。

* 「うんこ」どころではない、泉鏡花の凄い短篇の代表作に、「蛇くひ」というおそろしい幻想の作があり、その先に「貧民倶楽部」という現代小説の秀作が あり、まさしく「そんな無意味なことで手を汚」してでも、人間としての尊厳や自由を闘いとらねばならない世界が描かれている。その世界は、しかし、なみの 「世間さま」からみれば、堪えがたい汚辱に塗りつぶされたような、「品格」とは絶対に無縁な世界に映る。そう侮蔑的に眺めてトクトクと生きている安く思い 上がった人間紳士どもへの不快感、憎悪感を痛切に吐き出しつつ、鏡花の傑作戯曲は、四編、すべて光り輝いている。この不思議を、その輝く価値を知った・理 解した者の胸には、「うんこ」も「うんこでない」も、それを「投げる」も「投げない」も、とうてい本質の問題にならない。
 自身の「誠」を、そこに一途に賭けねばならないなら、たとえ「うんこ」で「手を汚し」ても、「蛇」をそのまま喰いちぎって俗世の驕慢に酬いても、それら を躊躇いなく掴んで投げ付けられる「全的自由への気迫」こそ、本当に必要なのではないか。
 「うんこ野郎」より「品格の紳士づら」の方がはるかに薄汚い例が、あまりに多ければこそ、批評をはらんだ「創作」行為が、大切に機能するのではないので しょうかね、秦建日子氏よ。

* あす、読み直してみるけれど、言いたい趣意は変わらないと思う。
 たかが「うんこ」ででも、「いやみな世間」へ凛然と反逆できないような創作者なんか、あれどなきがごとき、不用なモンです。そもそも人は、人それぞれの 「うんこ」を持っているし、それを敢然と投げ付けてでも是非守りたい乗り切りたい譲れない何かがある。それなのに、「うんこ」をただ握りつぶして如才ない ごアイサツだけを大事がり守るような「品格」って、いったい何なのよ。
 「手を汚さない」意識と、みせかけの「品格」とが、気色悪く「世間」へむけてわれ賢こに演技している光景、たとえば、選挙演説のマイクを握った、真っ白 い手袋。
 投票という「うんこ」もよう投げ付けないで、「品格」という名の怠惰や遊惰に嬌声をあげている日本の「世間」へなんぞ、うち背きたい方の気持に、むしろ ホンモノがあるんじゃないですかねえ。


* 七月二十二日 土

* やすかれ やす香 けふも 生きよ。 「白血病」と告げてきたあの日から、まる一ヶ月が経った。

* 日中文化交流協会の白土吾夫代表が亡くなった。
 井上靖夫妻を団長に、巌谷大四、伊藤桂一、清岡卓行、辻邦生、大岡信氏らとともに、作家代表団の一員に加えて、わたしを初めて中国へ連れて行ってくれた 人であり、それ以降も、「湖の本」を最新刊に至るまで欠かさず購入・支援してくれた大きな大きな知己であった。
 中国の旅での白土さんのああも言われこうも話されていた豪快で深切なとりなしのみごとさを、忘れることは出来ない。わたしの歌集『少年』に、だれよりも 早く目をとめて「天才の風貌」と褒めてくれたのも、白土吾夫さんであった。療養されているとは前から漏れ聞いていて、たまに会合でお見受けするときの姿に も、往年の生気溌剌の様こそ無かったけれど、いつ挨拶しても、ものやわらかな大人の風格はそれはみごとな方であった。死なれた喪失感は深い。大きい。残念 だ。心よりご冥福を祈る。

* 京都美術文化賞で二十年、同僚の理事として、また選者同士として親しくしてきた彫刻・陶藝家の清水九兵衛さんもまた亡くなられた。国際的な藝術家であ り、インタビューのテレビ番組を撮ったこともあり、選者仲間では石本正氏とともに最も仲良く親しみ続けてきた、尊敬し信愛する大きな大きな知己であったの に。「湖の本」をおくるつど、こんなに几帳面にお手紙を下さる人は少なく、それも型通りではないのだった。
 『親指のマリア』が好き、あのシチリアは良く書けていますねえと何度も繰り返し褒められた。清水さんにはお茶碗を、湯呑みを、ぐいのみを、何度も幾つも 頂戴している。六兵衛を隠居してまた九兵衛に戻られてからも、先日の京都蹴上の授賞式場でも嵐山吉兆での理事会の宴席でも、また「茶碗」をやいています、 ちかぢかに差し上げますよと言われ、秦さんの酷評はコワイがなあと呵々されていた。「酷評は創作家の栄養じゃないですか」と笑うと、即座に真面目に「そ りゃそうだ」と断言された表情も、口調も、口元も、ありありと懐かしい。まさか、こうも早くとは、驚愕、残念至極。
 中村真一郎さんにも、こんなふうに、お達者そうにお目に掛かり、あっというまに死なれてしまったが、清水九兵衛さんまたあまりに名残多く、にわかに死な れてしまった。三井海上火災の庭の巨大な代表作「朱龍」に乗って、懐かしい九兵衛さんは西天へ去って行かれた、嗚呼…寂しい。

* ・・・続ける、ということ。
  私語の刻を読んでいます。
 そのひとときは、静かに考えさせられる佳い意味の負荷(秦さんの言葉)を感じながら。
 常々、取り立てることでもないけれど、取り去ることもない(できない)から、横たわっているようなこと。秦さんの書くものは、よくその部分に触れるの で、「静かに考えたい思っている」そのような自分を又、あらためて当然に感じています。
 「人間」や「品格」について、さも…顔で言い放つ、その軽さ、薄さ…に目を剥く秦さん。さもしいものが見え隠れするようなことは、私もゴメンです。
 今、居るそこは何処で、何を見て(見据えて)、そのようなことは、その人に言われている(ことば)か。
 たかが、ひとりの人間に言い切れるものは、そうそうないと思うので、考え続けること、静かに考えたいと思うことを持ち続けること。せめて、そのようなこ とぐらいは、私の生活から取り払わないようにしよう。
 ■凛然と反逆する・・・創作について(7/21 建日子のブログに立ち止まるより)
 テレビの仕事などは、スポンサー、視聴率など厄介なものにひれ伏して、又、個人ではなく大勢の人と規制の中にあって創作→制作されるものと思いますか ら、そのような環境で培われる(好まれる)のは、余計なものはふるいにかけて、直球で、ストレートなもの。
 個人として持つべきものは、自分の本意が宛がうところを、まき散らさず、的を射る、見極める作業を続けることだと思います。   樹

* 鴉 がんばって。 
 やす香さんの時間を、その貴重さを、思います。
 発送の仕事、捗っていますか? 腕、足腰、大丈夫ですか? 大切に、大切に。
 鏡花小説の人物の凄さなど。忘れかけているもの、忘れようとしているものの重さを痛切に問われています。 鳶

* 御本のお礼  
 秦様、早速に新しいご本をお送りいただき有難うございます。カミさんから秦先生から本が届いたよ、とメールが入りました。彼女も「湖の本」を時々拾い読 みしておりますが、帰るまで開封するなよと威張って言いました。今日は夜まで家に戻れないので、待ち遠しいなあ。お代は月曜日にお送りします。まずは御礼 まで。どうぞお大事に、お心やすまりますよう。 ロミオ

* 京都 のばら です。 早速に新しいご本届きました。いつもありがとうございます。創刊満二十年をお迎えになり、通算第八十八巻の出版、心よりお祝い 申しあげます。これからも益々ご活躍されますよう応援しています。
 今度の小説は遠い時空を行き来して頭がこんがらがる事もなさそうだし、楽しみに読ませていただきます。
 ご心痛の絶え間ないご日常、発送などのお疲れがでませんようにお大切にしてください。
 やす香さんに皆さんの祈りが届きますよう切に願っています。  

 ☆ 湖の本届きました。ありがとうございます。
 哀しい大きな苦しみの中でも、粛然とお仕事をなさる姿勢に敬服いたします。それと共に尚一層のおじいやんとまみいの苦しみを思います。朝日子さんもどん なにかお辛いだろうと身を案じています。
 お心の傷が体に障らぬはずがありません。くれぐれもお体おいといください。
 夕飯の後片付けもそこそこにずーと頁を繰るのももどかしく読みふけっています。それがやす香さんの生を祈ることにもなるように思えて。
 ご本が届く前の昼には「細川ガラシャ」の書かれた本を読んでいたのですが、毎日何か祈りに通じるものへ身を置きたい気持ちでいます。
 重ね重ねお二人のお体をお大切に。  晴

* 明日は建日子と一緒に、三人で病院へ出掛けてみる。逢えるかどうか、分からないが。


* 七月二十三日 日

* 朝いちばんに朝日子のメッセージが「MIXI」に公開された。

* 05:53  ほんとのこと (やす香ママ)
 ここ数日大勢の面会をお断りしてきました ほんとのことを言えないまま でもさっさ先生にはお話しました そしてやす香を愛してくださったたくさんの方々の代表として夕べ遅くおいでいただきました
 やす香の命は終わりの時を迎えています もう皆さんとこの病室でお目にかかることはないでしょう
 やす香は今 苦しい呼吸を繰り返しながら ゴールを目指しています やす香の新しい朝はやわらかな靄に包まれています―  願わくばやす香に残された歩みと ゴールと そしてその先の世界のやすからんことをお祈りください

* 十時半に建日子と出会い、彼の車で相模大野へ向かった。朝日子のメッセージがあるなしに関わらず、今日われわれは出向く用意をしていたし、朝日子にも 伝えておいた。

* やす香は、われわれを認めてうなずくようであった。息は喘ぎ、胸元は上下し、がくっと首を落としてはまた懸命にもたげ、薄目をあけて、われわれの顔を 見るような見えないようなアンバイであった。「聞こえるだけ、耳だけ」とかすかに呟いたようであり、涙が溢れた。
 手をにぎると熱は高く、持参の大好物の梨を掌に添えてやると、しばらく梨の冷たさを感じているようであったが、冷たいか、手の温度が抜けてしまいそう で、手放させた。
 指の長いまっ白い、それは綺麗な無垢な手であった。
 顔付きはそれほど変わっていないが、可哀想なほどいろんな施薬や介護の管に繋がれていた。
 疲れさせてはいけないので、一度退室し、上の階のきれいな食堂で昼食し、しばらくして、また病室へ戻ってみた。病室には、カリタス高校の先生だろうか (=上の朝日子の発語にみえている、「さっさ先生」と後に分かった。)、やすかの側で、極くこごえで、どうやら聖歌を歌っておられた。その側に立ったまま やす香の顔を見ていた。ときどき薄目をあけ、われわれを認めて肯いていたが、何かを言いたそうにした。
 父親が口を覆ってあるものをはずすと、「どうして…、勢揃いしているの」と。これには、皆で笑い声もあげて、いろいろに話しかけた。建日子は、やす香と 共著で本を出そうよ、約束だよ、と言うと肯く。妻は、安心しておやすみ、やす香のいい顔を見に来たのよとはんなり話しかけ、わたしは「やす香、大好きだ よ。やす香、ありがとうよ、優しくしてくれて」と感謝した。やす香はときどき、大きく目をみひらくようにし、首を動かして、まくらもとに飾ったあれこれへ 視線を配るようにしていたが、「つかれた」とつぶやく。
 ああそうだろうよ、安心して、よくおやすみ…と、そこで、別れてきた。

* 連ドラの撮影と打ち合わせに緑山のスタジオへ向かう建日子の車で、相模大野駅まで送ってもらった。妻は疲労困憊し、駅の階段に腰をおろしてしまい、う とうとさえした。通りかかる人が心配の声を掛けたほど疲れていたが、幸いロマンス特急でやすめた。新宿から大江戸線で練馬へ、そして保谷からタクシーをつ かった。

* 朝の朝日子のメッセージには、信じられないほど大勢のやす香をはげますコメントが集中していた。わたしは、お礼を申さずにおれなかった。

* みなさん ありがとう。祖父の湖です。
 いましがた、やす香を、相模大野に見舞って、また西東京の家に帰ってきました。
 さっさ先生もふくめて、わたしたち祖父母と叔父の秦建日子とで、ベッドサイドでやす香を見守り、声を掛け、手を握っていますうち、やす香はせわしい息の 下から小声で、「どうしたの、勢揃いして」と、逆に、私たちをはげますほど明晰な意思を持っていました。私たちは思わず笑い声さえあげました。
 息子はやす香と「共著」でぜひ本を出そうよ、約束だよと声を掛け、やす香はウンと肯いていました。
 わたしは、寂しかった祖父母のもとへ、敢然として会いに来てくれた優しかった孫に、こころから「ありがとう、やす香」と感謝を告げずにおれなかった。
 「つかれた」と、やす香は、ひとに取り巻かれた今日の時間に、かすかに手をふって、これまで、とサインを送りました。そんなにもやす香は心身をはたらか せながら、全身の苦痛に堪えていました。
 ああ、俊足のあのイチローのように、**のモーションをあざやかに盗んで、盗塁し、また盗塁して、やす香が日一日をまだまだ生き延びてついに生還してく れるものと、この祖父は、逆転勝ちに望みを持っています。
 どうか、みなさんも、切なる思いを、力ある思いを、やす香の上に集めてやって下さいますように。 ありがとう。  

* 心身を臼に投じてさんざんに餅に搗かれるように疲れる。妻はあきらめずにまた出掛けると言うが、妻を倒れさせてはならない。

* 私の目・私の手  理
 ごぶさたしています。梅雨とばかりによく雨が降っています。内陸の山間で土砂崩れがかなり起きていて、中国山地の険しさを思い知る心地です。
 たいへんおつらい日々をすごされているところ、このたびの湖の本、いつにもましてありがたく受け取りました。「逆らひてこそ、父」・・・楽しみに、読み ます。
 (払い込みですが、平日郵便局に行く時間がないので、前回のように直接お届けするか、また払い込むにしても少し日にちがあくと思います。お待たせしてす みません。)
 会社はなかなかたいへんです。楽しくやっているとは言いませんが、日々何かしら失敗し、そこから学び、充実しています。
 配属されて、いきなり職場に自分の机とパソコンをもらい、担当の上司と先輩について回っています。来年いっぱいまではこの体制で、’08年1月から独り 立ちせよ(担当の部品を全て自分の判断で買いつける)、とのことです。
 私は変速機のチームに入り、手動変速機用のギア部品を受け持っています。ギアすなわち歯車です、私の机には歯車のサンプルが置いてあり、さわりすぎて錆 だらけになってしまいました。
 自動車は大半が鋼でできており、歯車も同様です。(近年、プラスチック、アルミ、マグネシウムなど、素材の多様化が進んでいます。ただ、日本の自動車 メーカーは鉄鋼会社への依存度が強いです。それだけ日本の鉄鋼は優秀なのですが、フェアな取引ができているかという問題はあります。)
 鋼を刀鍛冶の要領で叩いて(鍛造といいます)円盤状にします。これを加工して歯車にするのですが、鍛造された鋼は組織の密度がつまって硬いため、加工し にくい。
 そこに焼きを入れて組織の質を変えてやります。すると強度を保ちつつ組織に柔軟性が生まれ、加工しやすくなります。
 加工には刃物が必要です。円盤の中をくりぬき、外周に歯を削りこみ、表面には磨きを入れます。それぞれに異なるカッター、磨きには砥石を使います。歯車 ひとつのできるまで、加工用の設備は四、五台用意されます。
 加工のすんだあと、もう一度焼きを入れます。はじめの焼入れとは違って、歯車全体をとことん硬くするために行います。その上にマンガンや亜鉛などを吹き つける表面処理をほどこすことで、中身は硬く、表は滑りのよい、立派な歯車になります。
 鍛造、加工×5、焼入れ×2、表面処理。それぞれに人件費、設備投資、償却、製造時間によるばらつき、といったコストが発生します。そこに洗浄、検査、 梱包、物流が加わります。すべて合わせてこの歯車ひとつ300円です、こいつは高い精度を出しているので500円です、といった見積もりが出ます。
 歯車は地元(広島、山口)の下請けに造ってもらっています。下請けは親と一蓮托生ですから、価格交渉というより、一緒に努力して製造コストを下げていこ う、といった協働作業がほとんどです。そのぶん下請けは見積もりの細かい明細を出してくれ、工場も隅々までよく見せてくれます。
 大手の独立系や、他社系列の有力企業(系列外とも取引があります、それだけ優秀ということです)、また異業種(電子部品、商社など)は、こうはいきませ ん。見積もりをとっても総額しか載っていないし、工場に行っても「見学」しかさせてくれません。こういう相手とはまさしく交渉で、騙されているとわかりつ つ、こちらもはったりで対抗するしかない・・・のだそうです。
 たまたま私は地元中心の部署に配属されました。教育の一環で近隣の取引先工場を見て回りました。大手メーカーのきれいで自動化された大きな工場を見て、 いやあすばらしいと感心はしますが、見学を終えても何をどう造っていたか、よくわからないままです。いいところも悪いところも全て見せてもらって、いわば むきだしの「ものづくり」は、何よりの勉強になります。
 少しずつ、自分の目、自分の手で何かつかめている、という実感があります。まだまだ目は方向違いだし、手は先輩の足を引っ張っているのですが。
 大学の後輩が、いま四年生ですが、潰瘍性大腸炎という病気にかかり、一年半ほど入退院を繰り返しています。本来であれば就職活動に取り組み、もう進路を 決めていておかしくない時期ですが、むしろ悪化し、先日また入院したそうです。今までは抗生物質で抑えていたものを、手術で取り除く・・・大腸を切除し、 人工のものに取り替える。それで完治の可能性はある一方、たいへん難しい手術で、失敗の危険性もある、と。手術に賭けるか、完治をあきらめるか、悩んでい るようです。
 私はいままで大きな病気にかからず、健康に恵まれています。だから毎日仕事に行き、休みの日は遊びに行ける。つらいこと、いやなこと、苦しいこと、ある にはあります。しかし、それは健康だから降りかかるものであり、健康であれば乗り越えられるものです。健康に生まれたことの幸せ、よろこび・・・。
 秦さん、迪子さん。どうか、おからだお大事になさってください。やす香さんの若い、たくましい、強い生を、私も祈ります。

* この若き友は、彼らしい話し方で、懸命にわたしたちを慰め励ましてくれているのだ。なんという生き生きとしたことばと暮らしぶりであることか。頼もし い。嬉しい。

* いつも「湖の本」お送りくださいましてありがとうございます。
 最近職場で大きな変化があり、毎日とても疲れてしまってパソコン開けるのもお手紙出すのも難儀で、失礼しておりました。
 勤務先は今年度から「指定管理制度」が導入され、「**区地域振興公社」から抜けて「株式会社***メソッド」が、区から直接委託されてホールを運営す るようになりました。
 しかし、大幅な人員削減(私はかろうじて居残り)と新しいシステムが始まったため、勤務日数が増えて大変なことになりました。(お金は増えないんですけ ど)企画や事業も提出しなければなりませんし。
 先生、人生ってこんなに疲れるのでしょうか。
 創作もやりたくてやりたくて、何かたくさんの「やりたいこと」が頭を渦巻くばかりです。
 母はなんとか元気にしてくれています。
 ただ10歳の飼い犬が、なんと糖尿病になってしまいました! 治療はしてやれないので(ほんとに動物医療は高額です)食事療法で持ちこたえています。彼 女(メスのヨークシャーテリアでジャスミンと言います)がわたしの今一番の生きがいです。
 先生の「自分の幸せと健康だけを考えて」とのお言葉、胸に染みる日々です。
 先生、奥様、どうぞお元気でお過ごし下さい。   弓
 
* 持ちこたえて下さい。

* 秦先生  ごぶさたしております。  道  神戸
 生活と意見は拝見しておりますが、なかなかメールのタイミングが掴めませんでした。
 やす香さんが病気で大変な折のご発送ありがとうございます。
 晩婚だったので、長男が今大学2年で、やす香さんと同じ年です。息子は先月誕生日を迎えましたが、やす香さんが二十歳の誕生日を迎えられますことをお祈 りしております。

* ありがとうございます。

* ご不調と伺っていますが、その後いかがでしょうか。御高著『湖の本』50号をお送りいただき、ありがとうございました。
 大変おもしろく、考えさせられながら拝読しましたが、巻末の「未了」には悔しい思いをいたしました。
 早く続きが読みたいです。代金は明日振込みいたします。  ペン会員

* 秦 先生  ご本、いただきました。
 たいへんななかをお送りくださいましたこと、また、ただならぬ時を、「濯鱗清流」の寿詞を賜りましたこと、どう、申しあげたらよろしいのか。
 どうぞ、おたいせつになされますよう。
  メロスのごとイチローのごと走りませ**のモーション盗みて
    相模大野に病む乙女子に届きますように。   香

* このところ、なにげなく困憊したわたしを慰めてくれるものに、身のそばの、山種美術館のカレンダー七・八月分の繪写真、竹内栖鳳描く「緑池」といって も分からない、つまり水中からわずかにあたまだけだし、まさに蛙泳ぎしている蛙の繪である。
 池らしいリアルな写生ではない、ただ濃淡の緑から黄色へのむらむむむら描きの水面下に、蛙はからだを沈めたまま、左脚は鋭く曲げ、右はながく伸ばして水 の上へとがった横顔を覗かせている。画家の視線はほぼ右後ろにあり、蛙も池も静かで繪はじつに美しい。栖鳳の落款も朱印もにくらしいほど適所をしめて、そ れもまたとびきり美しい。
 こういう繪の美しさに触れていると、華麗にして複雑な、賑やかな大作に近寄りたくなくなるからこわい。古池に蛙のとびこんだ水の音も吸い取られて、しな やかな蛙泳ぎの音もしない。静寂、また清寂。


* 七月二十三日 つづき

* 霊的な世界観では、「想念のプレゼント」というものがあるそうです。自分にとって天国と思える情景を相手に届けることで、喜ばせることができるという のです。生きている人でも死んでいる人でも誰にでも願った人に想念は届くと。
 病床のやす香さんとご一緒に歌舞伎を観ていらしたように、わたくしも好きな人とずっと一緒でした。
 初めての歌舞伎でしたが、抱いていた歌舞伎のイメージではなく、二作とも新派みたいな舞台と感じました。
 「山吹」は鏡花らしいすさまじい話だと思いながら、舞台には今ひとつ乗れずに観ました。縫子が玉三郎だったら全然違っていたでしょう。折檻したり死んだ 鯉の肝を吸う笑三郎が美しくも凄艶にも見えないし、歌六の辺栗藤次も難しい役とは思いますが、もうちょっとどうにかならないかと。一本調子のただの年寄り に見えました。落魄の身にも品格は表現されていてほしい。島津正役は誰がやっても最低の役。客席の笑いはとれますが、こんなお行儀のいいだけの紳士は願い 下げです。つまらん男。
 最後の「世間によろしく。さようなら」という縫子の痛烈な一言は、島津のような男を理想とした自分への愛想尽かしであったのかもしれません。縫子と藤次 の人間の「誠」は、脚本として伝わっても、舞台では世間を捨てて守り抜く人間の矜恃よりも、グロテスクな印象が勝っていたようで。

 「天守物語」はとてもとても楽しみました。佳い夢が見られました。何しろ生の玉三郎は初めて。登場しただけで舞台の色が変わるくらい圧倒的です。海老蔵 も初めて。二人とも噂にたがわぬ美しさで堪能しました。この二人なら、一目で恋に落ちるでしょう。
 歌舞伎は役者の華で見せるものかしら? 若い頃の玉三郎と仁左衛門の「蝶の夢?」の舞を観た友人がこの世のものとは思えなかったと言います。海老蔵はテ レビで観ると好きになれませんが、舞台ではきれいで、声の佳さが際立っていました。ダイヤの原石なので、よくよく磨いてほんものの珠になってほしいです。
 記憶が正しければ、舞台は「舞」であるという意味のことを以前書いていらしたような。玉三郎と海老蔵は型が出来ていて、バレエのパ・ドゥ・ドウを観てい るようでした。
 歌舞伎座の休憩時間は長いのですね。時間をもてあまして、蟹のお寿司をいただきました。鯖のお寿司はこの時期怖くて。お味は悪くなかったです。
 一階後ろのほうの席でしたから(それでも一万一千円のチケット)、オペラグラスを持っていて正解でした。また、観に行きたいものですが、今度はもう少し 観やすい場所でと思います。その時も「想念のプレゼント」を送ります。逢いたい人にいつでも想いを届けます。
 おやすみなさい。おつらい一日の眠りが猫のお昼寝のように無心でありますように。  祈り続ける お夏

* 「山吹」「天守物語」の批評、その通りである。
「山吹」の舞台は、肝腎の役者達が不適切で、いうまでもなく美しい家出妻が玉三郎で、梅玉が島津画伯を演じ、人形師には段四郎をと願っていた。
 戯曲自体もわたしは三島が言うほどとは踏まないけれど、「世間へよろしく」の一句に燃え立つ批評は、鏡花世界に身も心もよせてやまないわたしには、有り がたい金無垢の刺戟であった。
 あの舞台は、そう再々は実現しないだろうと思うだけに、他の三作は繰り返し上演されるだろうだけに、稀有の出会いで有りがたかった。
 お夏さんには「海神別荘」を見せたかった。玉三郎と海老蔵のコンビは、さらにさらに魅力に溢れて烈しい。
 鏡花劇は、新派で多くを演じてきたけれど、また歌舞伎劇としては書かれていないけれど、「山吹」以外は、歌舞伎座の演目として十分熟している。かぶくと いう意味の非常識な過激さは、だが現代劇である「山吹」によけい出ていて、「グロテスク」に感じさせたのであろう。

*  「湖の本」届きました。ありがとうございます。
 どのようにも、
 抗うことができない(恐怖の)緊張感が覆っているとき、
 何かに取り憑かれたように、
 何かに取り憑かれないように、
 普段どうりの、
 やるべきことをしました。
 自分が生きてて、
 できることは、それが精一杯でした。
 そういうことが、私の祈りでした。
 (数年前、今の先生と同じような時間を持ったとき。)   樹

* やすかれ やす香 生きよ けふも。  もう日付は動いている。母朝日子の誕生日は来週。朝日子をその日病院で祝ってやれればいいが。朝日子の祝われ るのをやす香が見て聴いて、喜んでくれるといいが。
 

* 七月二十四日 月

* 祇園会後祭、むかしは鉾ではない山車の群れが、殿(しんがり)の船鉾ともども、都を巡幸したものだ。

* 昨日の朝日子の「ほんとうのこと」というやす香の容態を告げたメッセージに、夥しい「祈願」のコメントが届いている。「MIXI」の一角で、真実の 「生死」の劇がまぎれもなく進んでいる。若い大勢、若くはない大勢にも、やす香は身を以て「何か」を伝えている。この真実は重いものとして多くの胸に永く 伝えられる。

* やすかれ やす香 生きよ けふも。

* 秦建日子のブログから。

* 2006.07.24 Monday  まだ、声が出た―――
 皆さん、姪・やす香へのたくさんの激励、ありがとうございます。
 今日は、父と母と三人で見舞ってきました。
 病状は、とても深刻な状態に進んでいましたが、でも、とにかく私たちは彼女に会えました。

 ☆(父・恒平の日記より転載)☆

 やす香は、われわれを認めてうなずくようであった。息は喘ぎ、胸元は上下し、がくっと首を落としてはまた懸命にもたげ、薄目をあけて、われわれの顔を見 るような見えないようなアンバイであった。「聞こえるだけ、耳だけ」とかすかに呟いたようであり、涙が溢れた。手をにぎると熱は高く、持参の大好物の梨を 掌に添えてやると、しばらく梨の冷たさを感じているようであったが、冷たいか、手の温度が抜けてしまいそうで、手放させた。指の長いまっ白い、それは綺麗 な無垢な手であった。顔付きはそれほど変わっていないが可哀想なほどいろんな施薬や介護の管に繋がれていた。
 疲れさせてはいけないので、一度退室し、上の階のきれいな食堂で昼食し、また病室へ戻ってみた。病室には、カリタス高校の先生だろうか、やすかの側で、 極くこごえで、どうやら聖歌を歌っておられた。その側に立ったままやす香の顔を見ていた。ときどき薄目をあけ、われわれを認めて肯いていたが、何かを言い たそうにした。父親が口を覆ってあるものをはずすと、「どうして…、勢揃いしているの」と。これには、皆で笑い声もあげて、いろいろに話しかけた。建日子 は、やす香と共著で本を出そうよ、約束だよ、と言うと肯く。妻は、安心しておやすみ、やす香のいい顔を見に来たのよとはんなり話しかけ、わたしは「やす 香、大好きだよ。やす香、ありがとうよ、優しくしてくれて」と感謝した。やす香はときどき、大きく目をみひらくようにし、首を動かして、まくらもとに飾っ たあれこれへ視線を配るようにしていたが、「つかれた」とつぶやく。ああそうだろうよ、安心して、よくおやすみ…と、そこで、別れてきた。

 ☆ それからぼくは撮影所に向かいました。
 「花嫁は厄年ッ!」の9話を決定稿にし、7話を2シーン撮り、それから秋ドラの会議に出ました。
 何を話していても、頭の片隅に、ベッドの上で最後の命を削って懸命の呼吸を続ける姪の姿が消えませんでした。
 まさか、会話が出来るとは思わなかった。。。本人も、もう声は出ないと思っていたようだった。。。でも、出た。きちんと、意思の疎通が出来た。
 これはもう、奇跡と呼んでいいほどの出来事だったと思う。
 「花嫁」のセットには、玄関脇に両目の入った達磨が飾られていて、なんとなくすがりたくなり、ぼくはそれを写真に撮った。

 ☆ 夜十時。緑山スタジオを出て、東京に帰りました。
 なんとなく、無人の仕事場にまっすぐ帰るのが嫌で、ワークショップTAKE1の連中の、稽古後の飲み会に合流しました。とにかく、大声で笑いたかったの ですよね。
 飲み会では、かーなーり頭に来た不愉快な出来事も実はあったのですが、それを吹き飛ばすほど、四期の青木さんと西野くんと加藤さんと武田くんがぼくを笑 わせてくれました。四人に感謝。

 ☆ 家に帰ってきて、姪のMIXIのページを読みました。
 激励のコメント、63件。たったの一日で。
 いい友達がたくさんいるんだね、やす香。
 いい友達がたくさんいる人生は、何よりも豊かな人生だと思う。何よりも。

* やす香、おまえは誰からも誰からも愛されているよ。ときどき、ひとりでブツブツと沈んでいたけれど。凹んでいたけれど。それでもすぐ笑い飛ばしていた んだ…おまえは。
 ああ、あんなに五体の苦しかった日々、三月、四月、五月のはやい時期に、おじいやんがヒステリーのように怒り癇癪を起こし、ナニをやってるんだとおまえ に「MIXI」で噛みついていたあの頃までに、どうして、だれもそれに気づいてやれなかったのだろう。友達の多くが、声をからすようにし、お前の体調に 「MIXI」その他で警告しつづけていたのに、おまえは、なんで親に訴えなかった…、なんでそばの大人達はやす香のあれほどの大異状に気が付けなかった… か。
 繰り言だけれど口惜しい。それが口惜しい。肉腫の病状は扇形に急激に拡大する。それでもああも手遅れになるまえの早い時期に手を打てていれば…と、やっ ぱりそれが口惜しい。二月の雛祭りのあと、せめてもう一度逢えていたら、わたしたちに何かがしてやれたか知れなかった…と口惜しい。「ひとりで(魔物を) かかえこんで」……

* 歯医者に行く。発送は、あとは、もうゆっくり、出来たところで、でいいのである。

* 「リヨン」で昼食して帰ってきた。やす香への思いと口惜しさであふれるものを、妻は飲めないワインの酔いにのがれようとしていた、可哀想に。
 家に帰ると、「MIXI」にやす香母のメッセージが出ていた。

* 006年07月24日 
* 少しマッスグ読み取りにくい字句もないではないが、疲労困憊した母朝日子の静かな叫びと聴いてやりたい。
 ああ、だが、大方の大勢の、真の願いも祈りも、やす香「現実」の「命」にあるだろう、「生きよ けふも」と、奇蹟の生還を待ちたい気持にあるだろう。 「おわり」へと、吾々から先に手を放していいだろうか。
 やす香はひと言、振り絞るように「生きたい!」と「MIXI」の日記に叫んでいた、わたしたちは、あれを忘れない。大勢の友達を、あんなに大事にした友 達たちを、苦しい息の下で一人一人確認しあいさつを送っているやす香は、さぞ苦痛であろう、それでも間違いなくやす香は生きて、生きようとしているのだ、 やす香の「命の尊厳」はそこにこそ実在し輝いている。ああけっして、わたしから、「やす香、さようなら」とは手を振らないぞ。真実苦しいだろうが、やす香 よ許せ、別れのあいさつなど、おじいやんはしないからな。

* 歯医者から帰ってあれこれするうちに、建日子から、相模大野へもう一度一緒に行こうと言ってきた。大急ぎで用意して、五時四十分に町田へつき、建日子 の車をみつけて病院へ。

* やす香はうとうと、しかし息をあえがせて、眠っていた。眠っているのかどうかも判じかねたが、ベッドのわきから熱発したほそい長い手をとり、じいっと 見守り続けた。
 朝日子が部屋を出ている間にやす香は、発語してはっきりこう言った。
 「生きているよ」「死んでない」と二回ずつ。
 妻と建日子とわたしとのその理解は三人三様に異なっていたけれど、「生きたい」「生きていたい」という望みには相違なく三人とも聴き取った。
「そうだとも、やす香は生きているよ、死んでなんかいないよ」と三人は思わず声を掛けた。
 わたしは、「やす香は生きているよ」「死んではいないよ」とやす香が言うたと聴いたのである。
 建日子は「まだ生きているのに」「死んでいないのに」と聞こえた、そしてその二語の前に、「にげてばかりいて…」と聞こえたと言い、だれかに叱られ責め られているように聞こえた、と理解していた。
 妻は、また少しニュアンスを異にしていたが、生きたいとやす香は言葉にしたのだと言う。死ぬのはコワイと訴えているのではないかと言葉を詰まらせた。

* やす香の言語能力は三人共にまだハッキリ感じ取れて、脳の混濁は認められない点でも一致していた。まだ生きられる、どうにかなるのではないかと、三人 とも希望をもった。希望を繋ぎたかった。つよい希望を胸に抱いて、病院を辞してきた。

* 保谷まで建日子は送ってくれて。鮨の「和可菜」でおそい晩飯を食い、家に帰った。
 帰るか帰らぬかに建日子のケイタイに朝日子の夫が電話してきた。初めてのことだった。
 朝日子自身はわれわれに伝えたくなさそうだったそうだけれど、「じつは、医師との話し合いでやす香の寿命は明日、明後日のウチとのこと、何なら病院の近 くのホテルを予約されては」とのこと。
 これには愕然とした。
 医療のことは分からない、が、今晩逢ってきたやす香に、明日・明後日だけの寿命しか残って無いなんて、実感できなかった。
 朝日子誕生日の二十七日にはまた行って、やす香を少しでも喜ばせてやりたいし、それも可能と三人とも感じていたのである。

* と、今度は、朝日子から、なんとわたしに電話が来た。興奮していた。声が小さく、よく聴き取れなかった、受話器を息子に渡した。息子が話し、妻が話 し、また息子が話して、朝日子の興奮は静まったらしい。話の内容は、よく察し得た。緩和ケアに託すると決断した日から、朝日子は、押村の家族四人だけで過 ごしたかったが、そうは行かずに外向きの顔付きで過ごさねばならなかった。もう最期と医師の託宣を受けてしまったのだから、水入らずに過ごしたいと切望し ていた、ところが夫は建日子に電話してしまい、病院近くに宿泊してはとまで伝えた。自分の本意は、もうもうお見舞いはなくていいと思うと。
 朝日子の願いは察し得ていたし、あまりにも、もっともだった。わたしは「うん、わかった」と答え、うちの家族二人も承諾した。
 わたしは一期一会と覚悟して見舞っていたので、それでよいと自然に感じまた決した。今日出掛け、今日やす香に会えてやす香の生きたいと願う言葉も耳の奧 に聴きとどけて、わたしは、もう覚悟は出来た。妻にも建日子にも、そう告げ、やす香と朝日子とののこされた時間に祈ろうと告げた。

* いましがた建日子は都心へ車で戻っていった。建日子に怪我などけっして起きませんように。

* やすかれ やす香 生きよ けふも。 


* 七月二十五日 火

* 不如意な夢に悩みながら、はっと目覚めたとたんの、痛いような喪失感に悲しんだ。やす香は確実にまだ生きて闘っている。だが、逢うことはない、も う…。今生の別れをすでに呑み込んでしまった、なんという運命。
 朝日子たちがやす香を胸に腕に親子三人で抱き囲って最期の時を迎えたいからという気持、よくわかる。
 だから「うん、わかった」と即座にわたしは返辞したし、妻も建日子も断念した。断念とは、つまり断念なのである。アキラメである。寂しくないワケがあろ うか。
 十余年奪われてきたやす香を、やす香自身の決意でわれわれはふたたび抱きしめることが出来た。ここにあげる二枚の写真は、正確に吾々の「隔てられた時 間」の長さを示している。
 やす香はそれを一気に回復してくれた。どんな嬉しさ、どんな歓声で、この初めての孫の成長した笑顔を、保谷に迎えたか。その前に、どんなに胸を高鳴らせ て、やす香の初のメールを読み、やす香の「まみい、おじいやん」と呼ぶ久しぶりの電話の声に息をのんだことか。
 ありがとうよ、やす香!



まだ、ちっちゃかった保谷の姉孫やす香



再会した、大学合格通知の保谷のやす香

 「生きているよ」「死んでないよ」と苦しい息の下からやす香は、昨日の見舞いで、正確に気持をわたしたちに伝えてくれた。
 たまたま病室でやす香を見守っていたのは、叔父建日子とわたしたち父母の三人だけであった。
 「そうとも、やす香、生きているんだよ、死んでなんかいないよ」と、期せずして三人の声はやすかに注がれ、やす香は息を喘ぎながら静かに眼をつむってい た。「耳はきこえているよ」と、昨日もやす香はかすかに示唆していた。おお…やす香よ。

* 余儀ないあはれではあるけれど、今朝目覚めて、もう、やす香の熱に火照った真っ白い指のきれいにのびている手を、掌を、包んでやることが出来なくなっ たと、文字そのまま、痛感した。
 今日からは、奇蹟を願いながらむなしく、あてどない時間を堪えて過ごすしかないのだということが、苦い霧のように真っ向わたしをとらえた。妻を手伝い、 回収される故紙をよそへ運びながら、わたしは、路上に正座して私たちの作業をじっと見ている「黒いマゴ」の名を、ただ呼ぶだけであった、「まご…、ま ご…、まご…」と。
 この我が家に紛れ込んだ、掌にも満たなかった黒い仔猫を拾い育てて、ためらいなく「マゴ」と名付けたとき、わたしたち祖父母は、未だ、やす香を押村家に 奪われたままであった。「黒いマゴ」はやす香の明らかに身がわりであった。

* やすかれ やす香 生きよ けふも。   めめしい繰り言はよそう。建日子がきのうのことを「最期の見舞い」とブログに書いている。同感である。情理 を尽くして、われわれの息子は、姉の弟は、優しい。

* 2006.07.25 Tuesday  最後のお見舞い。  秦建日子
 本日(昨日)は、撮影は日中のみ。夜は、「花嫁」のキャスト・スタッフで、中打ち上げ。私も、当初は参加しようと思っておりました。
 が、午後、姪のやす香の容態が更に悪化。モルヒネの常時投与を行うので、もう今後は、普通のコミュニケーションは無理になりますとの連絡が。
 なので私は、失礼ながら中打ち上げは欠席し、両親とともにまたやす香の病院を訪れました。
 病室でのやす香は、昨日とは違って呼吸は小さく、脈拍は弱く、その代わり、苦痛もだいぶ軽減されているようで、その両方が、モルヒネの効果なのだろうと 思いました。
 昨日聞いた声が、ぼくの聞くやす香の最期の声なのかもしれないなと思いました。
 眠っているのを起こしてしまわないよう、父と母と三人で、夕景が、とっぷりと暗い夜に変わるまで、無言でやす香の手を代わる代わる握っていました。
 30分くらい、そうしていたかな。
 と、突然、やす香が目を覚まし、はっきりとした声で言いました。
 「逃げてばかりいるのに?」
 それから
 「まだ生きてるのに?」
 そして最期に、
 「もう死んでるの?」
 彼女の脳内に、どのような意識があったのかはぼくにはわかりません。
 推測は出来ますが、正解かどうかはわかりません。
 ぼくらはただ、「死んでないよ」「生きてるよ」と大きな声で答えました。
 何度も、繰り返し。
 「死んでないよ」「生きてるよ」
 ―――たぶん、やす香には聞こえたと思います。
 再び彼女は眠りました。
 静かな白い病室に、父、母、姉、ぼく、そして孫のやす香、そしてもうひとりの孫。
 血のつながった家族が、こうして同じ場所にいるのは、実は10年以上ぶりなのだとぼくは気付きました。
 その後、西東京の実家まで、両親を車で送りました。
 と、姉夫婦から、一本の電話が来ました。
 曰く、「医師はもう、あと一日か二日の命だと言っている。最期の数日だけは、誰も呼ばず、夫婦と娘ふたりの家族四人で水入らずで過ごしたい」
 「そうだね。気持ち、よくわかるよ」
とぼくは答えました。
 母親として当然の願いだと思ったし、何よりも最優先されてしかるべき願いだと思いました。
 というわけで、結果的に、今日が生きているやす香とのお別れの日になりました。いや、なりましたという書き方はおかしいか。多分、なるのでしょう。淋し いけれど、もう、お見舞いには行けない。実感はまだ全然わかないけれど。
 姉は頑張ったと思う。たくさんのお見舞いのお客さん相手を、精一杯の明るさでもてなし続けた。オフィシャルな母親を演じ続けた。
 せめて最期は、家族にしか、実の娘にしか見せない素顔で、やす香へ愛を注いで欲しいと思います。

* やす香母の朝日子も今朝の「MIXI」に書いている。

* 2006年07月25日  08:14  生きる  やす香母
 あれはいつだったろう 、やす香がいった
 奇跡が起きて そのさきにあるのが「命」なら 今生きてる私は 意味ないってことになるよ
 治ることだけが目標なら 今生きてる私は意味ないってことになるよ
 奇跡がなくっても 私は今生きてるし 私の人生はすてきだと思うよ

 新しい朝がきて
 やす香はきょうを生きる

* あの音楽会で、やす香自身もう「お別れ」などとあきらめていたろうか。「生きたい」とやす香は日記に書いた。やす香真実の本音を聴いてやりたい。
 「生きてるよ 死んでないよ」と、殆ど叫んだ昨晩のやす香の声が、一箭の西天をすぎるを感じるほど、鮮烈に蘇る。
 やす香、生きよ。奇蹟を切望するのもまた懸命に「生きている」ことだよ。大勢の大勢の友達が、人が、わたしたちも、そう願っているよ、おまえと一緒に。

* 私語の刻を読みました。
 「生きている、死んでいない」と発っせられた言葉が胸に、涙がとまりません。今日を、明日に繋がる今を、生きて欲しいと祈ります。  花籠

* いやです、しんじたくない。24日の「私語」拝見しました。
 奇蹟を信じます。 讃岐

* 孫娘のやす香さんのこと、なんとも言えません。
 「肉腫」といえども、適切な治療が、早ければ、ほかに転移せず、手術と化学療法で、3人に2人は、再発しないまま、5年経過(5年再発しなければ、治っ たというそうですね)する確率が高いということを知りました。
 それだけに、悔しい秦さんの思いが、私の胸にも、高波のように、どっと押し寄せて来て、なんとも言えなくなってしまいます。お許し下さい。
 「湖の本」(50)安着しました。エッセイも(38)まで揃っていますから、88の米寿達成ですね。次は、とりあえず、白寿が目標。
 きのう、受け取り、きょうまでに、一気に読んでしまいました。批評、感想などは、いずれ、直接お会いしたときに述べるとして。   
 御自身の体も御自愛下さい。   英

* 湖の本 50 私でも理解できそうな感触を得ています。送金も近いうちにさせていただきます。 有難うございました。
 さて このところのHPで毎日毎日胸のふさがる衝撃を受けております。どんなに深いご心痛の日日かと。奇跡よ起こって! 心からのお見舞いを申し上げま す。
 私はこのところすこしさぼりながら、それでも一水会展本展に向けての制作をしています。2点 どちらもパッとしない作品になりそうで私も胸がふさがりそ うです。時折気分転換にモデルを描いたり、展覧会をのぞいたり・・・と、このごろのお天気のように、晴れない日日でもあります。 もううんざりでしょう が、そのうちまた絵の添付をさせていただくかもしれません。 郁

* 本(ツヴァイク「メリー・スチュアート」)が、たとい僅かでも苦しみを紛らせてくれたら・・。
 怖くてHPをあけられない。やす香さんのこと、祈るばかりです。  鳶

* 布谷君が来てくれて、妻のコンピュータを整え、わたしの方のも診察して行ってくれた。「ケケデプレ」で歓談、少し妻の哀しみを散じ得たか。コンピュー タは、しかし難しい。あわや惨事かと思ったが、持ち直して知らぬ顔して働いている。気むずかしい機械とも気まぐれな機械とも。疲れた。布谷君はもっと疲れ たろう。

* やす香の様子が間断なく気になるが、手が届かない。平安でありますように。
  やす香の「MIXI」日記に何度も何度も「OTL」とあるのが分からなかった。建日子の解説によると「ガックリ」の姿勢を示した絵文字の類ではないかと。 わたしも妻も、いまは、「ガッカリ…」萎れている。
 七月も八月も、もう、なーんにも無くなってしまった。よし、仕事をしよう。


* 七月二十五日 つづき

* 「金八先生」作者の小山内美江子さんに、根岸海老屋の藍染め、みごとにみっちり織り染めた卓布を頂戴した。「創刊満二十年、心から敬意を捧げ、また励 ましていただいた思いでいっぱいです。すばらしいタイトルですね。米寿のお祝に」と、お手紙も戴く。
 院展の長老松尾敏男さんからも、「精力的なお仕事ぶりに感嘆しております、創作の大変さは吾々も同じ立場で良く分かりますが、絶え間のない御努力を重ね 次々とご著作をつみ重ねて行かれることに敬服しております」とお手紙を戴く。
 元新潮編集長の坂本忠雄さんからは、「岡井隆さんの短歌に題を借りられたことにも含蓄があります。「作品の後に」を先ず拝読致しましたが、(ペンクラブ が)政府に金を出してもらうこと、御令息、御令嬢の文運隆盛、「私小説」の重要性等々、共感致したり、色々と啓示を受けたり致しました。「気儘に消光する こと」は同世代者として羨ましく、大いに後に続かねばとの想いを強うしました」などと、いつもながら有りがたく。

* そして丸山宏司君から、第二子結(ゆい)ちゃん誕生の朗報。葵ちゃんと顔を見合わせた写真の可愛いこと、むかしの朝日子・建日子を思い出す。おめでと う。ポーランドからも、やがて朗報がくるだろう。
 若い友人達の大勢がゾクゾクおやじ、おふくろになってきた。世に秀でたきみたちこそ、日本のためにも優れた子供達をしっかり何人も育ててください。
 わたしたちにまだ子が一人と聞いて、穏和な、国立公衆衛生院の林路彰先生が、思わず叱咤された昔を懐かしく思い出す。日本の国は人口減にかならず困惑す るのです、分かりましたかと教えられたあの頃は日本列島に人間が溢れに溢れていた、が、わたしは建日子の出生を求めたのだ、林先生は彼のこのよへの後援者 であった。その彼が、子供を一人も作れないでいるとは、いやはや。 

* 歌舞伎の感想で一つ言い忘れていました。泉鏡花が笑わせる意図で書いたセリフではないと思うところで、客席から笑いが何度か起きました。これは舞台の 作りに問題があったのか、役者のせいなのか、どうなのでしょう。こちらの感性が変なのかもしれませんが、ここは笑うところなのだろうかと首をひねっていま した。  夏

* 客とは一般に見巧者でも理解者でもなく、自分に似せて舞台を喰いちぎって食べる人種であり、役者のせいにするのは気の毒です。読者に「いい読者」はす くなく、観客にも「いい観客」は劇場内に数えるほどもいないのが普通なのではと思いますが、それはそれで成り立つ関係であり、だから劇場には独特の陽気も 滑稽さもあるのでしょう。

* hatakさん   湖の本が届きました。
 しおりに強く書かれていた「ありがとう」という言葉の大きさ重さを思いました。
 HPを通して、私も大きな波を感じています。耐えて堪えて、踏みとどまってと念じつつ、日々の仕事を進めています。
 先週は職場がある羊ヶ丘の丘の上から、遠い花火を見ました。少し風の冷たい日でしたが、空気が澄んで、音のない、きれいな花火でした。今週末は、豊平川 の川岸から、今年最後の花火を見ます。
 平安を祈っています。  maokat


* 七月二十六日 水

* 2006.07.26 Wednesday 奇跡はなくても、今日を生きる。 秦建日子のブログ

 あれはいつだったろう やす香がいった
 奇跡が起きて そのさきにあるのが命なら 今生きてる私は 意味ないってことになるよ。
 治ることだけが目標なら 今生きてる私は意味ないってことになるよ。
 奇跡がなくっても 私は今生きてるし 私の人生はすてきだと思うよ。

 新しい朝がきて
 やす香はきょうを生きる。



 やす香・母の文章です。

 電話が鳴るたびに、嫌な予感に胸がドキリとしました。
 無関係の相手に、八つ当たりもしました。

 でも、何の連絡もなく、また日付は新たになりました。

 世の中には醜いニュースが溢れているけれど、それでもでも、この世の中に踏み止まっていられる幸運に感謝して、今日をもっと前向きに生きたいと思いま す。

 
 * やすかれ やす香 生きよ けふも 
 おまえの生まれたとき 生まれ落ちてすぐさま、母は、こう歌ってお前に教えた。
 やす香、もう一度 お聴き。夢中でお聴き。優しかった 強かった おまえの母の声を 耳を澄ましてお聴き。  おじいやん

:::::::::: 子守唄

 障子に揺れる 母(=祖母)の影が唄っている
   あきらめなさい
   あきらめなさい
   ばば抱きだから
   おっぱいはないの
   おまえのままはおねんね
   だからおまえもおねんね
   あきらめて
   ねんねしなさい
 眠りに揺れる 私の心は叫んでいる
   あきらめるな
   あきらめるな
   新しい生命(いのち)よ
   人生の最初に学ぶものがあきらめだなんて
   そんな馬鹿なことはない
   泣け 泣け
   力をふりしぼって
   おまえの母の目覚めるまで
 そうして 泣いている ・ ・ ・ おかまいなしに

 やす香 生きよ けふも  
 神よ やす香に 生きる強い歓喜を 恵みたまへ    おじいやん まみい 建日子

* メールがこないので、体調が優れないかと 心配の中で心配し寂しく感じていました。
 六月二十二日に「白血病」と報せてきた孫娘は、その後に最悪の「肉腫」と診断が変わり、今をも知れない危篤の床にあります。なにもしてやれなくて…
 発送も九割余終えていますし、もう急がなくていいのですが。ぽっかり時間もからだも空いてしまい、放心しています。 悲しい報せが永遠に無いといい。  せめて明日の母親の誕生日に意識有って笑顔を贈ってやってくれると、と願っています。
 息子も、「切り抜けて呉れる気がしてならないんだ」と呟きます。わたしもそう想って願って堪えています。

* 「湖の本」が届いて〜   樹
  読みかけの本が、いつも数冊(電車の中用、就寝前用、ゆっくりした時用、探求分、等々…)適当に手許にあるのですが、「湖の本」は初頁をめ くってから、何用もなく「今、一番」で読みあげました。
 素直にとりつき、読み進んだこと。
 これはどういうことだろう。
 真っ直ぐに向かっていった「私のこと」を考えました。
 その時、考える私は、
 「湖の本」を開く前でなく、読み終え閉じてからの私だ。
 何かが、きりっと動いたな。
 そのような自覚がハッキリ。
 ひとりひとり、人の加減で、その人の折りしも、や、間合いがある。
 私は、「秦 恒平(先生)が一心に生きる」事実を知った。
 きりっと動かす力を持っているのが、
  秦 恒平の文学。
  秦 恒平の存在。
だと、思った。

* 「MIXI」により、ありがたい読者に、一人また一人出会っている。感謝。

* 21:15  やす香母に 
 やす香のようすを「MIXI」のみんなに報せてくれて、ありがとう。さぞ君も疲れ切っているだろうが、此のかけがえのない一刻一刻をやす香とともに静か に豊かにすごしてください。

 もう三時間で、君の四十六歳の誕生日だ。

  ひそみひそみやがて愛(かな)しく胸そこにうづ朝日子の育ちゆく日ぞ

   朝日子の今さしいでて天地(あめつち)のよろこびぞこれ風のすずしさ
        (一九六○年七月二十七日朝日子誕生)

  そのそこに光添ふるや朝日子のはしくも白き菊咲けるかも

 安保デモで国会の揺れた初夏から、君の生まれた真夏から秋へかけての、わたしの歌だった。

 あした、可能なら、やす香の病室で、ママとわたしとでえらんだ、目に明るい真っ赤のストローハットに、大きな白い花をつけたのを君にかぶらせ、目に立ち やすい大きな七宝のブローチを、胸元にかざらせ、やす香に、
 「そーら、ままの誕生日だよ」と声かけて、一目でも目をあけ、思わずやす香に、吹き出し笑いをさせてやりたかった。やす香に、一と声、「まま、おめでと う」と言わせてやりたかったよ。

 いまの君に「おめでとう」は、なかなか言いづらいけれど、やす香を授かってくれて、「ありがとう」と心から、いま言っておく。
 どうかして明日を乗り越え、七月から八月を乗り越え、こんどは九月「やす香の二十歳」を迎えたい。やす香はつらいだろうが、迎えたい。やす香はせつない だろうが、迎えたい。やす香の「生きの命のかがやき」のために、迎えたい。 みんなで、心一つに迎えたい。  
 朝日子 やす香をお願いする。 父

* 意識だけがはたらき、五体は、冬瓜をとろっと煮ふくめて、うす青う透けているかのように感じている。時間というものに溶けてしまっているようだ。

* 新刊 受け取りました。お送りくださり、ありがとうございました。
 今日は、ひさしぶりに、朝から晴れています。
 とはいえ、部屋の中は高湿。先日買った除湿機を動かしています。お孫さんのことは、わたしにとりましても深い悲しみです。
  どうしてそんなことが起こったのか。風がやっとお逢いになれたお孫さんなのにと、胸を痛めています。
  風がお気を確かにお持ちになり、どうか挫けないようにと祈る毎日です。
  八月は、月曜午前の英語サークルが夏休みです。たとえ今世間の常識とちがっても、お逢いして、風をちからづけて差し上げたいです。  花

* いま、バグワンを読んでいて、妻に、なんでバグワンを声に出して読むのと訊かれた。空念仏とでも思ったかな。
 読み始めて十余年になる、ほとんど一日も欠かしていない。が、わたしは、バグワン・シュリ・ラジニーシを、気休めの薬用や、ただの日課・習慣で読んでき たのではない。勉強でもなく、受け売りしたいのでもなく、まさに「一語」一切会、無心に耳に深く聴いて音読している。語句を記憶しようとか言葉を知解しよ うとか、全く思わない。いわば感嘆・嘆美そして尊敬の思いで、こころから頷いて読んで聴いて、こころから嬉しく読んで聴いている。だから十年もその余も読 みやめようなど、夢にも思わないでいられる。
 いっこうにバグワンを読んでいる効果が上がっていないじゃないのと妻は言いたいのであるらしいが、遠く及ばない高い峯は、振り仰いでいるだけでも、心嬉 しいということを、べつに分かってくれよとも、わたしは願わない。
 バグワンに出逢っていなかったら、あるいはわたしはとうの昔に死んでいたかも知れぬのである。いつか闇の底から光りが生まれ出て、わたしは気づき目覚め るだろうが、「気づきたい」「目覚めたい」と努力など少しもしない。するなとバグワンが言うのだから、わたしは何もしない。
 待っている。間に合えば嬉しいがと、その程度に思っている。わたしは理解者でも信徒でもない。世界史に一人か二人ほどの人のようだと感じているだけで、 それが正確だとも的確だとも主張もしない。


* 七月二十七日 木 晴れ

* やす香 とわに生きよ やすらかに。

 
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 2006年07月27日  09:52  秦建日子
 
 やす香、お疲れさま。
 最期まで、ちゃんと話ができて嬉しかった。
 約束、きちんと守るから待っていてね。

 やす香ママ、お疲れさま。
 不出来な弟はあなたに何もしてあげられないけれど、
 このコメントは、あなたを抱きしめるつもりで書いています。
 やす香が、最期まであなたに甘えられてよかったです。

 2006年07月27日 10:14   秦恒平
 
 やす香 ありがとう ママのお誕生日に、ママに看取られて やすらかであったことと、おじいやんとまみいは、粛然とお前の深い愛にこたえています。
 
 朝一番に まだそれを知らず 朝日子のために例年のように赤いご飯で祝い、メロンを食べながら、やす香が今朝を迎えていたことを、とてもとても嬉しく、 喜んでいました。

 どんなに残念で口惜しいかはうまく言えませんが、今は、やす香の残していった愛と元気と誇りとを、静かに静かに想って、声に出さず、泣いています。

 やす香 愛しい子よ。 やすかれ 生きよ 永遠に。 おまえの おじいやん まみい

 朝日子  ことばを失いながら お前のことを想っています。 父
 
 2006年07月27日 09:59  さっちゃん
 
 やす香、おはよう。いつものあいさつは忘れないよ。

 頑張った。お疲れさま。
 最期までやす香は人を思いやる優しい子だったんだね。
 あなたの大好きな優しい家族のもとで、やす香の大好きなおしゃれをめいいっぱいするんだよ。
 ありがとう。ありがとう。ありがとう。
 
  2006年07月27日 10:01  kayo
 
 やす香、みゆ希、朝日子、そしてぱぱ。
 お疲れ様でした。

 落ち着いたら、連絡ください。
 やす香にあえて、ほんと、嬉しかった。
 ありがとう。
 
 2006年07月27日 10:06  えみんちゅ。
 
 やすか、おはよう。
 今私の頭に浮かぶのはやすかの笑顔☆
 あの素敵な笑顔だよ。
 こんな幸せになれる笑顔をありがとう。
 大好きなやすかの笑顔わすれないからね。
 ありがとう、やすか…
 
 2006年07月27日 10:08  よぉ
 
 やすかおはよう。
 お疲れさまでした。頑張ったね。
 これからもやすかのこと思い続けてるよ。
 大好きだよ。ありがとう。
 
 2006年07月27日 10:08  YCeooIpoIp
 
 やす香、おはよう。
 頑張ったね。やす香に会えて本当に幸せだったよ。
 今まで本当にありがとう。
 また一緒に遊ぼうね!それまで待っててね。
 
* 「MIXI」に早くも入っていた声を添えさせて頂きました。

* 七月二十七日 朝 メール拝見、深く感謝申し上げます。お心入れ、ありがとう存じます。
 たった今、「MIXI」に報じられたようです、今朝ほどに、やす香はわたくしどものもとを離れて行きました、いま息子を介して知らされました。母の誕生 日まで、よく頑張ってくれました。いい子です。

* 7・27 HPを読みました。旦夕に迫る悲しいことを思うと言葉を失います。口惜しいです。今朝出品する絵を運んでくれる人に託し、送り出したところ です。ガンジスの岸辺にしゃがみこんでいる女を描いた絵、テーマを思うと複雑な気持ちで描き続けてきました。
 数日前のHPに(清水)九兵衛さんのことが書かれていましたが、あの方に京都で会ったのが今月初めで、あまりに急な知らせだったと、本当に人は、この世 は・・悟れないわたしは嘆きます。生きているというのは死なれることだとも嘆きます。
 それでも、それでも、鴉、どうぞ。 「ただ一心に生きて行こうぞ。」と書かれた言葉が響きます。 鳶
 
* 
 やすかれとやす香恋ひつつ泣くまじとわれは泣き伏す生きのいのちを  祖父

 つまもわれもおのもおのもに魂の緒のやす香抱きしめ生きねばならぬ

* もう、泣くまい。
    凝視す永訣の空
    静思す自然の数
    心無きにあらねど
    怨まず生死の趨   宗遠


* 七月二十七日 つづき

* 「やす香は、残念ですが、亡くなりました」という通知も、「通夜・告別」の通知も、メール一つも、保谷の両親は受け取らぬまま、すべての事が果てる。 「MIXI」の有り難さというものか。

* 数多い哀悼の「コメント」が、「永眠」の告知に続いて、「MIXI」を続々と埋めている。哀別の情誼に溢れている。
 だが、「なんで、こんなことになったの」という不審や残念を、あえて口にした人は、まったく、いない。それが世間常識の作法・行儀なのであり、当然だろ う。有っても、せいぜい、「悔しい」と漏らした数人いたか、どうか、だ。

* 通夜と告別式とを、「故人の遺志」にしたがい「お祭り」風に賑やかにしたいと、すでに「MIXI」に告示されている。ま、けっこうではある。「お祭 り」だと!?

* 「なんでこんなことになったの…」と、そのことに、若いお友達の大勢が学んで欲しい。わたしはそう願う。
 過剰に過剰な疲労(朝の四時起きのアルバイト、そして終電車に遅れそうになることもあった夜のアルバイト、そして大学の授業や、お遊び)の蓄積が、こわ い病魔に、「待ってました」と、つけ入らせてしまった。
 一刻一刻が、文字通り倍々ゲームのように病勢を烈しく燃え上がらせる、肉腫、若年の癌。
 だからこそ半日一日も早く、適切に気が付いて、医療の手を求めなければならなかった。それを、うかうかと欠けば、やす香が抱えたと同じ不幸な「病例」 が、またも、あちこちで「再発」するのである、そのオソレがあるのである。
 この貴重な「生死の劇」から、のこされた吾々はそれをこそ学ばねばならない。「生きる」難しさと有り難さとを心底学ばねばならない。

* 「手遅れ」にしてしまった、それが悔しい、それこそ悔しいと、その口惜しさの結末の、あまりに悲惨だった事実から、「死なれ・死なせ」て今しも生きて いるわれわれが、深刻に反省し真剣に学ばなければ、やす香の死は、可哀想に、「不毛」の苦痛だけに終わってしまうではないか。「お疲れさん」「ご冥福を」 で、さも賑やかげに偲ぶ「お祭り」葬儀だけでは、それこそ繪に描いたような「あとの祭り」で済んでしまうではないか。

* 何故三月に、せめて四月早くに、やす香の苦悶に、苦痛に、衰弱に気づいてやらなかったのか、と、それが悔しい。やす香の「MIXI」日記も、大勢のマ イミクからの注意や忠告や助言も、大人は知らなかったのではないか。あげく「手遅れ」をただ「確認」するために、おくればせにやす香の「MIXI」を利し て、つまり「広報」に用いただけではなかったか。

* やす香存命のあいだ、わたしは、こう露わには書かなかった。しかし、やり場無く怒っていた。怒りながら、わたしは、それ以上の何もしてやれず、やす香 宛てメールやメッセージで、不興を買いながらも、「一刻も早く親に相談しなさい」としか言ってやれなかった。親に対し、直に何一つ伝えられなかった。そう いう大人同士の理不尽を招いていたのは、ただに両親と祖父母との「愚」であり、やす香は無縁であった。だからやす香は、親たちにナイショで、嬉々として保 谷の祖父母との時間を、二年にわたり、楽しみに来れたのであった。わたしたちも嬉しかった。
 そのやす香が、もう、いない。「かぐやひめ」は月へ帰って行った。……悔しい。


* 七月二十八日 金

* せめて「プロデュース」の成功を、翁と姥とは祈るが、十九のやす香の通夜と葬儀とが、何故に「あなた(やす香)の人生最大の晴れ舞台」と謂えるのか、 怪訝、といわざるをえない。「やす香、国連に勤めて、国際舞台で語学の力をいつか発揮するの」と、わたしたちに向けて面を輝かせたやす香を思い起こせば、 悲しみのあまりとはいえ、こういう公言は、意味不明、聞き苦しい。

* 秦 恒平様
 運転しながら腕が震えていたらしく、「危ないから、止めて」と妻に制せられました。路肩に停車し、「秦さんのお孫さんのこと?」と聞かれたとたん、どう と涙があふれて、数分間、妻とふたりで遠くより、やす香さんのご冥福をお祈りいたしました。
 それにしても悔しい。かわいい姪っ子を亡くしたような心地です。
 先生には気を落とされませんように。そしてどうぞ、いつものごとくわたくしどもを叱咤してくださいますように。
 私事ながら、「秦恒平論」少しずつ書き進めております。 六

* 秦さん とうとう、けさを迎えてしまったのですね。
 お孫さんのご逝去、心から哀悼の気持ちをお伝えします。
 私も、先週、7・19の夜、連れ合いの母を亡くしました。92歳でした。
 いまも、遺骨と遺影が、私の傍にあります。

 親しい人に亡くなられると、心に穴が空いたような空漠感に襲われます。
 空があり、地があるということの不思議さ。世界が存続しているのに、あの人はもういないということが、不思議な気がします。

 まして、若くて、未来のある人に先立たれると大きな空漠感で、心が潰れる思いだと思います。御心痛をお察しいたします。
 奥様ともども、御身御大切に。切に、切に、祈ります。   英

* 娘に死なれて 11年が経ちました。
 娘はまだ 23歳のまま 心の中に 生きつづけております。  波

* わたしは、今日は放浪する、せめて美しいものを見て、見つけて。

* 秦先生  あまりのことに、あまりの事の早さに、先生のホームページを読んだ時に、手足がさっとしびれて凍りつきました。いくら若い方とは言え、こん なにも早いものとはとても予想できず、涙が止まらず・・・。
 身内の若い方を見送るのは、どんなにお辛いかと、先生の悔やみきれない思いを遠くから感じております。
 私にもやす香さんと同じ年の姪がおります。亡くなった姪ではなく、一浪して今年大学生になった姪です。その姪と比べても、やす香さんのお心の優しさ、お 健やかさはすぐれて高いものと思っておりましたので、本当に惜しい方を失ってしまった、と一度もお目にかかった事のない私ですら喪失感にさいなまれていま す。

 ただ、先生に一つだけ、お伝えしたくてメールしております。

 娘を育てている今、毎日が試行錯誤の連続ですが、その中で、子どもがいくつになっても「目を離してはいけない」ということを、私はやす香さんに教えて頂 きました。
 娘はいま5歳。得意なものと不得意なものが少しずつあらわれています。世の中の風潮は、「個性を大切に」ということで得意なものを伸ばすことに重点がお かれていますが、親としては「それだけではいけないのだ」と最近の娘を見つつ反省しているところでした。
 もちろん、最終的には個性を伸ばしていくことでこそ、人は生きるすべを手に入れるのですが、その土台として、しっかりとした人間としてのいしずえを築く 過程では、不得意な部分こそ、親が必死で見つけ出ししらみつぶしに穴埋めし、頑強な基礎をつくらなければならないのだと、最近の娘には実に口うるさい母親 になっています。手まめ口まめに子どもの欠点を見つけ出し、そこを訂正していくのは、褒めて育てることよりも、はるかに心身のエネルギーを消耗します。こ の口うるささ、いったいいつまで続ければいいのか、と、こちらのほうが気の遠くなっていた毎日でした。高校生になったら、いやその前までで、などと考えて いましたが、たとえ成人を目前にしても、口は出さずとも「目は離してはいけない」のだと、やす香さんのことに泣きながら、肝に銘じています。
 自らを振り返っても、大学生にもなると親などに口は出されたくありませんでしたし、自分で何でもできるように思っていました。確かに、そのくらいの年に なると、普通の大人よりはるかに優秀な方もいらっしゃいます。けれど、若者が逆立ちしてもかなわない部分、「それは経験値の部分」です。スケジューリング の仕方、健康管理、世間付き合い、そんな部分では、やはり親が口を出し続けなければならないのだ、と。
 思えば、口うるさい心配性な我が母親は、先生と同年同月の生まれです。戦争の経験のある世代の方達は、小さなサインへの敏感な対応に長けていらっしゃる のかもしれません。私たち姉妹三人は、母のその口うるささに実に辟易していましたが、今思うと、親としてのあり方の「一つの正解」であったのかもしれませ ん。ただ、あまりにも口うるさすぎた母に抵抗して家を飛び出した姉は、結局幸せを上手に掴みきれずに終わりました。あれから三回目の夏になります。
 口うるさく、けれど子どもの幸福をつぶさず、そのあたりの加減の仕方がこれからの私の親としての課題だと思っています。
 こういう形で、いのちについて、人育てについて「考える機会」を与えて下さったやす香さん、そしてそれを包み隠さずに報告して下さっていたご家族の皆 様、特にお母様に心から感謝しています。やす香さんから教えて頂いたたくさんのこと、決してわすれません。もちろん、やす香さんご自身についても。一度も お目にかかることはありませんでしたが、これほどたくさんの方に愛され、思いやり深かった方のこと、決してわすれません。よいお嬢さんに育て上げられたお 母様にも深く敬意を覚えます。
 なぜか不思議なほど「奇跡が起きる」と信じていました・・・。言っても栓のないことですが。
 お書きした内容に、大変失礼もあると思いますが、お許し下さい。ただただ、やす香さんに教えて頂いたことを忘れません、決して、ということだけをお伝え したかったのですが、上手に表現できず、お気にさわる書き方になっていましたら申し訳ありません。   典 卒業生

* 約(つづ)まるところ、これが「親」の位置だと、わたしも信じてきた。「逆らひてこそ、父」「逆らひてこそ、母」を、愛情と責任をもって生きるしか、 未成年の子の親に、適切な道は、なかなか、ない。それでも失敗することがある。
 「生きたい!」と叫んだ十九歳のやす香無念の死は、このことを痛切に教えている。
 死なれた「あとの祭り」を「晴れ舞台」めいて盛り上げるより、その前に、我が子から目を離していて「死なせて」しまいました、残念でなりません、やす香 にも、応援してくれた皆さんにも申し訳なかった、という親の「真摯な挨拶」がなければ、通夜は「お祭りだ、お祭りだ」、葬式は「人生最大の晴れ舞台」だな んて、しらじらしい。参会して下さる皆さんのピュアな情愛や親愛は微塵も疑わない、が、それとこれとは、断然別事である。

* わたしは死なせてしまった愛孫のと限らず、もう死んでしまった人の葬儀には、加わらない。大事な人であればあるほど、わたしは、いつもその人を自分の 胸の内に迎えて、静かに話し合うだけである。そのための「部屋」を常に持っていることは「MIXI」に連載中である長編小説『最上徳内北の時代』の冒頭の 辺にくわしく書いている。

* ずっとマタイ受難曲を聴いています。武満徹さんが病床で最後に聴いていた曲です。ほんとうに悲しい時にはこの曲しかないのです。
 底力を見せてごらんと、文学の神様が待っているのです。よく体調をコントロールなさって、無理な自転車運動はなさらないで、お元気にお過ごしください。   春


* 七月二十九日 土

* hatakさん  
 ご無理はしていませんか?
 豊平川の河辺に建つホテルから、目の前に上がる花火を観ました。今日の札幌は日中は暑かったものの、夕方から涼しい風が吹いて、今年最後の花火をみるに は少し肌寒い夕べでした。
 プールサイドのテラスで、静かに、はじまりからおわりまで、一部始終を観ました。
 川岸には大勢の人が出て、ときおりざわめきが遠く聞こえてきました。
 茶友が昨日師を失い、このHPも読んでいて、「心がきしん」で泪をこぼし、メールを送ってきました。
 その茶友が贈ってくれた時代物の帷子に、細い帯を締めました。
 秋のような柔らかな夕日が去ると、空は清らに澄んで、張りのある大きな音が響きます。最後の一瞬は、色のない、白い光りの束が、大空に、縦横無尽に広 がって、無垢で清らかで美しい世界をみせてくれました。
 『みごもりの湖』冒頭の送り火や、『チェケラッチョ』で、渚が透のために、本部のホテルで上げる花火。
 夜を焦がす火の色には、送りや励ましの願いが籠もります。

   帷子(かたびら)で野辺の送りぞ白花火

 お体をおいといください。  maokat

* 身にしみ、思わず瞑目する。
 昨日浅草の望月太左衛さんの弔電が来た。河出書房の小野寺優さんからも戴いた。
 今夜は浅草の花火だ。お誘いもいま届いた。

* 秦先生、おはようございます。大変な時に、と思いましたが、隅田川花火、もしよろしければいらしてください。私も今年は浅草におります。よろしくお願 いいたします。   太左衛

* 妻は精神的にも疲労困憊していて、安静が必要。今日は、遙かに遠い斎場で、やす香告別の「お祭り」だという。行かない。花火にわが「送り火」の思いを こめて、はかなく、くやしく、浅草にひとり行って、やっぱり泣いてきたい。

* 昨日、「MIXI」の「足あと」をさぐっていて、とある若い人達の会話にまぎれこんだ。事情の正確なことは分からないが、やす香の死に触れ合って、や す香は「使命」を果たした、遂げたのだということが話されていた。
 おどろいた。
 おどろいたことに、「使命」とは「命を使いはたす」意味であり、やす香は命を使いきって「ラク」になれた、だから「お疲れさん」「やすらかに」「よかっ たね」と自分達もほっとして見送れたというのだ。「命を使う」とはウマイ謂い方だねえと感心しあっているのだった。
 それは、その若いやす香の友達たちのオリジナルな解釈では、どうやら、なく、通夜の「お祭り」で披露されたやす香を「送別の意味」づけのひとつであった らしい。
 わたしは仰天し、思わずコメントを添えた、やす香の祖父だとことわって。

* 押村やす香の祖父です。みなさん、ありがとうございました。

 使命ということが語られていたので、ちょっと割り込ませて貰います。 

 「使命」とは、命(めい)つまり神の命令、天命、天職を、使(し)つまり「全う」するという意味です。もし命(いのち)を使う、使い切るという意味に取 るとしても、それは、生まれ来て、そう生きたいと願った「天命・天職を、満たす」というのが、本当の意味です。

 病に倒れた私たちの孫やす香の場合は、例えば、生前に面を輝かして話してくれました、「いつか国連に勤め、語学の力を思いきり活かして、国際的に活躍し たいの」という「願い」が満たされたときに本当に「使命が全うされた」のであり、その意味では、半途に若く落命したやす香の残念・無念をこそ心から惜しん でやりたいと思うのです。
 
 やす香が、自ら「死にたかった」と思われますか。「生きたい」「生きたかった」と苦しい息づかいで叫んでいました、きっと自分の落ちこんだ事態が、悔し くて悔しくて仕方なかったはずです。
 「ラクに死ねてよかったね、お疲れさん」とは、言ってやりたくないのです、可哀想に。

 「いったい、どうしてこんな事になっちゃったんだろう、何かが間違っているよ、こんなのイヤだよ」という、痛切に残念な、悔しい思いを忘れてしまい、文 字通り「あとの祭り」に流してしまえば、やす香の無念の死、満たされなかった命は、そのまま、本当のムダになりかねません。

 若いお友達には、やす香の真に願っていた「使命」って、ほんとは何だったんだろう、と考えてやって欲しいのです。

 その無念・残念を、お友達の一人一人が「自身の使命」を考えることで、どうかやす香を慰めてやって下さい。

 「命を使ってらくに苦しまずに死んだ」なんて、それでは安い洒落になってしまうのが、悔しいのです、祖父であるわたしは。
 わたしは愛していた孫のやす香に、「死なれた」のだ、とは思えないのです。「死なせた」のです。あんな手ひどい「手遅れ」の大苦痛に追い込んでしまった だけでも、ほんとうにやす香にも、みなさんにも、申し訳ないことをしたと心からお詫びしたい。
 身のそばの大人が、子供から目を放さず、せめて三月四月のうちに適切な医療の手を打っていれば、「らくに死なせてやる」どころか、命を救い得た可能性は 高かった、有った、と思います。残念です。 

* そのあとにつづけて、何かコメントがあるかと待ってみたが、一夜を経て、寂として声がきこえない。

* われわれは往々愛する者に「死なれた」と受け身の涙を流すけれど、「死なせた」という自責からは、つとめて目を反らせてしまう。死なせてしまいまし た、やす香にもやす香を愛してくれた皆さんにも申し訳なかったと、わたしも妻も悲しい。なにが「お祭りだ、お祭りだ」であろう、なんで通夜や葬儀がやす香 十九歳の「人生最大の晴れ舞台」なのか。バカなことを言ってくれるな。
 人は、人として現世に「存在する」かぎり、夥しく人を「死なせて」いるのである、自ら下手人にならないだけだ。
 時には自分自身が愚かなために、自身をついに死なしめることも屡々実例があり、孫のやす香も、まちがいなくその実例の一人であった事実から、目を背けて いては、その無残な落命から何一つも、此の世に残されたわれわれは、ことに若いお友達たちは、学び取れないだろう。
 どうか、やす香のおよそ十ヶ月の「MIXI」日記を、一字も曲げず、「会話」のすみずみまで読み返して欲しい、やす香が自分の「命の使い方」に本当に聡 明であったとは言えないのである。死者に鞭打つのではない、「なぜこんなことになったんだろう」「間違っていたよ」「こんなのイヤだよ」と、心底から思い 直したい、のである。
 わたしは「生きよ けふも」と呼びかけつづけた。やす香に命あるかぎり、やす香に「死」という文字とことばとで触れることは、絶対に避け続けた。言忌み した。

* やす香のそばにわたしがいてやれなかったのは、わたしにも責任の一半がある。わたしはやす香に死なれたから泣き嘆くのではない、「死なせた」と思い申 し訳ないと自身を責める。わたしはやす香の日々を現実に目に見ていてやれなかったが、日記からは目を離さなかった。危ないと見ていた、だから「親に相談せ よ」と喧嘩腰にすらなったのだが、それもメッセージやメールで言うよりなかった。逢うことが出来なかった。親にも伝えられなかった、聴く耳もなかったろ う。わたしたちもその点、やす香の大勢の友人達の域を出られなかった、いや友人の大勢は「生きている」をやす香を見て話せていたのである。

* 寂しい花火になる。  

 ☆ 秦 恒平さま  四国の****です。
 メールしにくく、我慢しつつも、堪え難く、ついにメールしました。
 残念です。
 毎日のブログを開くのが怖くもあり、気にもなり、目を瞑りながらの訪問でした。
 その間、湖の本・米寿のインパクトを交え、ネット環境にない読者には味わえない(創造者・表現者の)極限に触れる戦慄を味わい、体験し、なおかつ、若き 「生命力」への信仰のごとき僥倖への渇望を託しながらの日々でした。
 しかし、朝日子さんの誕生日をこのような形で迎えるとは。
 「老少不定」とはいえ、余りにも早すぎる「逆縁」の訪れです。
 しかも、予告されたかのような、母娘の絆。長くつづくのは、「苦しむ」のは、死者以上に、残されし者の現世の営みであり、それゆえにこそ秦さんが忌避さ れる、形骸化された死者への「祭典」であり、儀式なのでしょう。「レクイエム」は、本来、苦しみを共有した、限られた者だけが、しめやかに内心で唱える 「鎮魂」のメロディであるはずです。
 しかし、少女は苦しさに堪え、友の手向け(音楽会)を素直に受け入れ、あたかも「逆修」のごとく現世でそれを実現させた。
 やす香さんの優しさは、「おじいやん」の想いの深さを超える天使のような境地だったのかも知れませんね。これもある種の「因縁」と割り切らねば、私のよ うな凡夫でも、他人ごととは思えない身を切られるような「痛み」の原因が納得できません。
 人と人が信じあい支え合って生きてゆく「生物」としての、あるべき姿、ありたい理想。内外の理不尽な「死」が永遠のごとく絶えない世界への、成人前の 「やす香」さんからのメッセージを、苦痛とのセットで重く受け止め、抱きしめていたいです。心をこめて合掌。  円

* 有り難さに涙が噴き零れる。この知己の言われる如くである。
 「おじいやん」の思いは、いま、ただただ堪えがたく奔騰していて、わたしはそれを意識し、認知している。平静に激し、平静に言を切し、この不条理な劇を わたしはかなり平静に観察していると謂って間違いない。
 やす香の厳然たる不幸な最期の前で、それをしもあたかも平安な必然の死であったと謂うがごとき、ごまかしは受け容れたくない。それは生者の自己慰安であ り自己弁護に過ぎない。
 わたしは、堪えかねてこの間にただ一度だけ「神」を呼んだけれど、わたしは、いわゆる「神」なるものには頼まない。神をむなしい抱き柱にはしていない。
 やす香の気持ちに、あたう限り近いところで、このかけがえなかった孫娘の魂と共生したいと願うのみである。
 わたしは神を憎みも賛美もしない。神はいない。神に願う者に、神はけっして訪れないことを、わたしは感じている。やす香も、いまはそれを知っている。


* 七月二十九日 つづき

* この花火 やす香は天でみているか   遠

* 浅草へ、例年のように花火に招かれ、出向いた。
 ひとり、いつもの場所に椅子をもらい、花火を間近に眺めた。送り火をたく気持ちであったが、あはれ美しさ・はかなさに、何度も胸つまり、宵闇と花火の響 (とよ)みに隠れて、嗚咽をこらえた。

* 花火で、悲しみを散じることは、とても出来なかった。ほとほと身も心も、ますます萎え疲れた。やす香は帰らない。
 言問大通りを、花火から流れて帰る人波と共に、とにかくJR鶯谷駅まで歩く以外に、車もとても拾えないのは、例年のこと。
 だが、もう歩く元気がなかった。いつも目に付いていた「高勢」という佳い寿司屋の暖簾をはねた。もう三十分ほどで店をしまうがいいですかと主人に念をお された、それでよかった。
 肴を次々に切らせて、銚子は一本。気持ちは深く沈透(しず)いていたが、美味さに思い和み、それでもともすると気は遠く、引き沈んでいった。両脚が、し きりに痛く攣った。
 心地和らいで、「高勢」をやがて出、信号のあるところで、向かい道へ渡り、人波にまじって歩いたが、そのうち、わたしは、歩きながら、わが肩に来ている やす香を感じ、はじめてやす香に詫びて、路上、おいおい泣いた。

* 親に隠れてやす香が我が家へ来るようになり、以来二年半、どれだけ、やす香はわれわれに向かい、こう言いたかったか知れなかったのを、少なくも、わた しは感じていた。
 「どうか、父や母の犯した、おじいやんやまみいへの無礼や我慢を、ゆるしてやってください」と。
 やす香は、それがどんなに言いたかったか。なによりそれを言おうと、親に告げず思いきって祖父母の家までやってきたに違いない。
 だが、わたしたちは、やす香にそれを口にさせなかった。わたしも妻も、母朝日子の幼かりし若かりし昔の話を次から次へして聴かせたけれど、父親に関して はたったひと言も触れようとしなかったのである。
 だが、やす香の、「父や母をゆるして」という声なき声は、いつも少なくも私の耳には届いていた。
 わたしも妻も、やす香にそれを言わせたくなかったし、それを言うなら、婿であり、大学教員である、教育者である本人が、朝日子の夫として、やす香らの父 として、礼にかなった大人の態度と挨拶とを、きちんと示すべきだと思ってきた。「礼にあらざれば聴さず」と。
 そしてやす香も、いつか諦めていたかも知れない。

* わたしは夜の言問通りを歩きながら、頑なに過ごしたおじいやんの「無言」を、今更やす香に詫び、絞るほど声を放って泣き、とぼとぼとぼとぼと、気落ち した、重い痛い疲労困憊したからだをずるずるひきずって、JR鶯谷駅まで、やっと辿り着いた。保谷の家が、まだ千里もあるかと絶望するぐらい、疲れた。

* それでも、わたしは、帰ってきた。そして、知った。
 押村家は、「MIXI」での「やす香=思香」と「おじいやん」の「マイミク」関係を、一方的に拒絶解消し、もはや「やす香=思香」の「日記」をどうク リックしても、「このユーザーの記事にはアクセス出来ません」と通告されてくる始末。
 まさか亡くなったやす香が、自分からこんな「無道」な措置を「おじいやん」相手にするワケがない。そんなことをしてみても、他のルートを通れば、今日の 押村家の葬儀の「御礼」は、ちゃんと読みとれる。

* わたしたち「やす香の祖父母」は、ついに一度もやす香が何日何時何分に亡くなりましたという通知も、通夜・告別の通知も、娘朝日子からも、押村家から も受け取れなかった。「白血病」告知以来の見舞いの経緯すべてからみて、なぜ「やす香の祖父母」であるわれわれは、そんな仕打ちをやす香の親たちに、朝日 子に受けねばならないか、理解に苦しむ。親へ、子のとるべき最低の礼儀ではないのか。
 「だいじな孫を死なせてしまいました、ごめんなさい」と、それが、大人として真っ先にする当然の礼であり挨拶ではないか。

* もっとも、十数年来心臓を病んできた老妻は、いま疲弊の極にあり、遠方の「お祭り」になど出て行く体力も気も無かったし、わたしは、「生きているやす 香」にこそ「生きよけふも」と願い続けたが、やす香の死に顔は見に行かぬと決めていた。
 わたしはつねづね葬儀という儀式に重きを置く思想は持たない。告別には私なりの作法を持っている、花火をやす香と一緒に観るとか。
 だからといって押村家が、朝日子が、やす香の祖父母へ何一つ通知もしないでいい「理」も、「礼」も、無いであろう。

* やす香は、こういう、ややこしさに板挟みにされていた、可哀想であった。
 それでもわたしたちの処へ、親に構わず、自発的に進んで来てくれた。ありがとう。


* 「やす香を、なんで、むざむざ、こういうことにしてしまったか」。死なれた受け身だけを「人生最大の晴れ舞台」と飾り立てて、「死なせた自責」は、つ いにひと言も、この家族、両親は、口にしない。たくさんの友情と祈りに対し、それが正しい「礼」であろうか。
 この「御礼」のさばさばしたこと、だいじな子に死なれ死なせた哀惜、感じ取れるだろうか。わたしには、感じ取れない。
 
* 浅草へは、やす香と一つ年下になるか、望月太左衛さんのお嬢ちゃんでこの春藝大に入学した真結(まゆ)ちゃんのお祝いに、小池邦夫から昔に買い、ず うっと身近に掛けてきた好きな絵を持参。やす香にかわって、元気に、天賦の音楽の才能を伸ばして欲しいと、祈念して。
 太左衛さんと一門の人達に優しく迎えられ、ビルの屋上で、(見物のお客はいつもより大勢だったが、)ひとり、いつもの場所に椅子をもらい、花火を眺め た。

* 太左衛さんは、同じ浅草の雷門近くに新しい稽古場を開いたという。
 わたしの事情をホームページでつぶさに知っている太左衛さんは、あえて花火に誘ってくれた。花火のあと、わたしをわざわざ見送って、しばらく、言問通り まで一緒に歩いてもくれた。ゆかりのお地蔵様に二人で、元気な真結ちゃんのためにも、他界したやす香のためにも参拝し、ひさご通りで別れてきた。

* 「高勢」はいい寿司屋だった、肴の吟味がすこぶる上等、備前などのいい食器(もの)を出してくれ、心地よかった。鮨飯は海胆にだけ添えてもらい、銚子 の数は控えた。花火を観ながら酒もビールもお握りなども振る舞われていた。


* 七月三十日 日

* 虚脱。あれをしこれをしていても、ボーゼンとしているだけ。ひきこまれるように瞼ふさがって睡眠へ落ちこんで行く。

* このカリタス高制服姿のやす香の写真は、2004.12.17日、保谷へ遊びにきて祖父母を大喜びさせた日の、一枚。たくさんたくさん話し合ったあ と、見送りかたがた西武線にのって夕食に出掛けた、その空いた車内で向かいの席から「おじいやん」が撮った。やす香がこころもち右に傾いでいるのは、とな りの「まみい」へ寄り添うていたのである。(こんなに大きく載せるのはひとえにわたし一人の「闇」の思いであって、人様にみせるためではない。遠慮無く カットしてくださるように。)

 在りし日の 愛しき孫 やす香 十九歳にして遠逝。   写真

*  この日の歓談で印象深く記録されているのは、母朝日子について、「謎です。ワッカリマシェーン」と笑ったひと言。

* 悲しみは、人から人へ、波紋のように拡がり、人の悲しみを想像すれば、自分もその悲しみに染まるものです。
 事実、風のHPからは、大勢の人の涙しているようすがうかがえました。
 一緒に泣くこと。それも一つの、風への励ましかもしれません。はじめ、わたしも、風の悲しみ、無念を想い、自らも沈んでしまいました。
 けれど、これではいけない、と思い直しました。
 風がふと視線を投げかけたとき、そこに咲く花のように、わたしは、自身の日常を溌剌と生きるべきで、それが、風への励まし、支えになってほしいと思いま した。
 お孫さんの亡くなったことについて触れるのは、風の悲しみに拍車をかけるみたいな気がするので、今後、わたしからはしない、できないと思います。
 でも、風が、話したい、吐き出したいと思われたら、もちろん話してください。花はいつでも両手を広げ、風を受け止める姿勢でいます。
 上に書いたこと、黙っていても伝わるかなあ、とも思いましたが、メールのやりとりだけの間柄なので、念のため記しました。
 今日は、遅く起き、遅くにとんかつを食したので、夜になってもおなかが空きません。
 風も、おいしいものを召し上がって、元気にしていてくださいね。 花

* ありがとう。花の思いは分かっています。


* 七月三十一日 月

* みずから「プロデュース」と称し、骨肉腫にあえなく落命した亡き娘やす香十九歳の、「人生最大の晴れ舞台」として「お祭りだお祭りだ」と、司会に見ず 知らずの女優さんを緊急に雇って、通夜・葬儀の演出に奔走した母朝日子にとって、それは、「死なれた」悲ししを、涙ではなく笑いで乗り切るのが「やす香を 見送る最良の方法」と思い決めたことであったろう。それはそれである。参会した六百人の誰しもが、「やす香」の人徳のまえで、じつに美しくピュアに悲しみ と親愛とを表現してくれたという。すばらしいやす香の生命力である。わたしはそれを微塵も疑わないし、わたしもまたやす香の徳を心から称賛してやれる。
 六百の参会者に満ちあふれた、「死なれた」受け身の思いは、あまりに自然で当然である。だが、むろんわたしたちもふくめ、やす香の家族に、やす香をむざ むざ「死なせた」という強烈な悔いと自責とを欠いていては、おはなしにならない。
 何であれ、それでこそ、やっと本当の親の心情が流露したものと、やす香のために、また朝日子たち自身の心の平和のために、頷いてやりたい。


* わたしは、この「私語」に、いままさに朝日子達の頭をまことに垂れて言うべき言葉までを「書いて伝え」ねば成らなかった。
 建日子によれば、やっと父さんの思いが届いたようだよ、と。少なくも、そうと漏れ聞いて朝日子達の悲しみにわたしも涙を添えることが出来る。よかったと 思う。

* 妻と歯医者に通う。妻は疲弊している。わたしも元気ではないが、元気に生きてゆかねばならない、二人とも。

* 大急ぎで特筆・感謝したい、香川県下の(固有名詞を避けるが、)或る、准看護師資格を志して勉強している生徒さん達が、主に「MIXI」の記事をみ て、やす香の祖父である私のために、全員が優しい所感と私信とを届けて下さっていた。書かれていたのは、まだやす香生前で、大きな郵便物が届いたのは二十 七日、亡くなったその日であった。とりまぎれて御礼も申し上げられず、なかなか読み始めもならなかったが、告別の日の二十九日、わたしは浅草の花火へそれ を鞄に入れて持ち出し、電車の中から百人百枚にちかいであろうみな鉛筆自筆の手紙を、一枚一枚、一人一人ぶん、丁寧に読んでいった。そして今日、歯医者の 待合いですべてをありがたく切なく全部読み終えたのである。みなさん、ありがとうございました。こういうふうに生徒さん達にし向けて戴いた先生にも心より 御礼申し上げる。胸にしみ通る言葉が多かった。看護師さんになろう、なりたいという人達であることも、記述にしっくり来るところ多く、教えられもし頷いて 涙をぬぐって読んだ。
 わたしが数十年前、妻と上京して医学書院に就職、いきなり担当したのが「看護教室」という准看護師ないし志望者対象の雑誌であったなあと、懐かしく思い 出しもした。あの頃雑誌編集委員は、東京女子医大総婦長の関光さんと、もうお一人が高野貴伊さんであった、お二方とも大先生だった。いろいろお世話になっ た。
 看護師の卵さん達、ありがとうございました。やす香は残念ながら七月二十七日朝、母親の誕生日にしっかり手を掛けて永逝しました。

 ☆ 届いたご本の表題を見てなぜか胸がどきどきしました。長いことパソコンから離れていましたが、しばらく振りに今日ホームページを拝見し、初めてお孫 さんのことを知り本当にびっくりいたしました。そしてお写真を見てはっと息が詰まりました。自分もいろいろな想いを経験したつもりでいましたが、こんなこ とがあり得るのか、あっていいのかと、胸ふさがる想いです。
 言葉にしようのない気持ちのまま、心からお悔やみを申し上げます。   竹

* ありがとう。

* 二十三日にやす香を見舞った日、やす香の床のわきで、静かに静かに聖歌を歌って下さっていた方から、やす香生前の思い出などをメールでたくさん教えて 頂けた。ご親切にも頭がさがるばかりであるが、告別式のあと、あまりに卒然として手早にやす香を運び去られるに堪えかね、朝日子が声を放ってついに泣き崩 れ、あとを追って駈けたというのを読み、朝日子が可哀想で可哀想でわたしはとても堪えられなかった、さぞ悲しく悔しく辛いことだったろう。
 発病以来、長い間泣くのをこらえて笑おう笑おうとしていた、賢いようでバカなバカな娘よ。やす香は重い「十字架」になった、われわれは生涯背負って行き ますと、この母は漏らしていたそうだ、「死なれて・死なせた」われわれの、それは到底遁れようのない負担である。
 朝日子がつらいのは、この先の日々だ、だがよく堪えて、妹行幸から節度ある愛情深い眼をどうか離さないで、幸せ一杯にみごと育てて欲しい、心優しいやす 香はそれをかならず喜んでくれる。

* 『逆らひてこそ、父』拝受のお礼、およびお代の振込みが遅くなりまして誠に申し訳ございません。
 心身ともに先月下旬から不調の淵に沈んでおりました。
 いただいたメールのありがたかったこと! まったきカンフル剤でしたのよ。お目にかかれるかどうかはどうでもよく、同じ空気を吸いたくて、一等気に入り のきものを着て、同じ京の空の下にいたい…今、思い出しても狂気かというエネルギーが湧き起こってまいりましたの。
 伊賀に、餡炊きも上手い菓子職人がいると知った嬉しさに、ご都合もうかがわず、なまものをお送りいたしましたことお詫び申しあげます。
 まるで水底に着いてしばらくしているうち、やっとまた、ゆらゆらと浮き始めてまいりました。秋成忌と河童忌をそのままじっと冷たい水底で過ごし、ご本の 発行日である7月27日 “お父さんの日” が、暮れて、明けた28日から、もとより点火も動きも悪い左脳はすっかと放り、少ォし復活してきた体力と、右脳を、一気にフルスロットルにいたしまし
た。
 滝倉と、河内長野の古寺と、南朝行宮寺院。山科四ノ宮から藤尾。山崎の関から水無瀬。
 東大寺大仏殿の茅の輪くぐりと二月堂、そして奈良国博と京国博のはしご。斎院跡の櫟ノ七野神社〜寺之内〜出雲路(上善寺、阿弥陀寺)〜“萩の寺”長徳寺 〜「夕顔」「鉄輪」の地…。
 動けるうちは動いておこうと彷徨の数日を送り、最後は、昨日。
 7月30日。法然院の(谷崎先生)お墓に、「幼稚な読みですが、おもしろくたのしく読み始めました。こんな調子でこれから読み進んでいきますが、どうぞ おゆるしください」等々、うったえること沢山にお参りしてまいりました。
 外出先で一番最初に “薬師” の扁額を見たとき、思わず掌を合わせ、お孫さまのご恢復をお祈りいたしました。
今回、奥様のお加減が案じられて胸騒ぎがおさまらなかったところに、ご本が届いたのです。
  からだ言葉を露払いに、静かな心を太刀持ちに、米壽祝いは「新・罪はわが前に」とは。うれしかったです! 囀雀
 
* しばらく囀りが聞こえず、心配していました。回復されてよかった。
 「逆らひてこそ、父」刊行日付の七月二十七日は、娘朝日子の四十六歳の誕生日であり、孫やす香十九歳での遠逝当日ともなりました。
 やす香は、六月二十二日にみずから「白血病」発症を告げてきましたが、やがてそれが誤診であり、最悪の「骨肉腫」であると決定した日から即緩和ケアに入 り、母の誕生日にようやく手を掛けただけで落命しました。

  この花火 やす香は天でみているか

 浅草の太左衛さんの招きで、二十九日、ひとり花火をながめ、「送り火」の寂しさと悔しさに宵闇に隠れて泣き崩れました。
 雀 雀 だいじに長生きして百まで囀れよ。
 此の件はもう忘れて下さい、なにも言わなくて宜しいです。


* 平成十八年七月尽  つづき

* やす香月が尽きた。母の誕生日を自身の命日に書き換えた、やす香。おまえは、何を思っていたろうね。

* この四月十二日にまさしく「思いあまって」やす香にメッセージを送ったのが、「MIXI」に記録されている。これを同文で母親の朝日子に送る手だてが もし有ったなら、と、残念だ。わたしは、かなりこのときやす香に対してもカンカンに怒っていたのである。

* 宛 先 : 思香(=やす香)   日 付 : 2006年04月12日 20時38分
     件 名 : MIXIに加わってから、思香日記を
  欠かさず読んできました。もうまる二ヶ月ちかくなります。一言で言えば「心配」の連続でした。
 人から耳の痛い何かを言われるのを、頑固に拒絶しているらしいのは知っていたので、直接、何も話し掛けませんでした。
 書かれてある日々の生活、それを話している書き方・話し方。そして会話。それは、ま、本人の勝手であるから好きにしていいことですが、最近の日記には、 「心身の違和」が猛烈に語られはじめ、こと健康、こと診療となると、心配はもう極限へ来ています。
 ことに今日の日記など、これが「ピーターと狼」の例であるならべつですが、本当に本当にこんな有様なら、やがて神経や精神に響いてきます。親とも、本気 で何の相談もしていないように見受けるし。
 思香日記をみてくれている「大人」の知人・読者には、日記じたいが心幼い一つのパフォーマンスであり、自我の幼稚な主張であり、或いは遊戯に近いかと解 釈する人すらあるのですが、わたしは、おじいやんは、そうは思っていません。かなり危ないと、ほんとうに心配しています。
 相談したい事があるなら、素直に柔らかい気持ちで、遠慮無く言うてきてくれますように。とても「笑って」られる状態・状況とは思われない。
 まさか思香は他人からの「愚弄愛」に飢えているわけではないでしょう。だれからも、正常で正当な「敬愛」を受けたいのではないか。それにしては、あまり に言うこと為すこと「幼い」のではありませんか。
 思香は、こういうことを身近な誰それから直言されるのを、極端に嫌っている気はしますけれど、心の健康すら心配される今、手遅れにならぬうちに、「話し にお出で」と声をかけることに、おじいやん一人で決心しました。 湖

* この翌日にも親もともども東大とか慶應とか医科歯科とか、検査能力の高い病院へ駆け込んでいてくれたらと、此の後二ヶ月半ものほぼ空白の苦痛ばかりが 傷ましく、悔やみきれない。これを七月尽のわが呻きとして言い置く。