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反論書証

やす香死以前、朝日子父恒平の「朝日子実名使用」の
全日記記事 
(原 文のまま)(98/03/20から2006/07/31まで )


 ☆ この欄の趣意

  1998年3月に創設の私のホームページ『作家・秦 恒平の文学と生活』に「宗遠日乗」(秦 恒平の日録)を書きはじめて以来、2006年7月、孫・やす香の死にいたるまでに、「むかしの娘・朝日子」に触れて書いてある「全記事」を、書 き抜いた。
全記事を、文脈を抱えつつ「再録・列挙」 した。

 娘・朝日子は、現在も、父である筆者を、
2006年8月、孫・やす香の 死の直後から、夫 大学教授と連名で、「虐待・著作権侵害・名誉毀損そして謝罪・損害賠償」 で訴えている。これら日録の文章が、果たして上の訴因の孰れに該当するというのか、原告本人 に答えて貰いたい。裁判員のお気持ちで、読者の皆さんにも読んで頂きたい。
 
2006年8月以降は、余儀ない民事調停や原告等による秦のホームペー ジ全壊作為にかかわる審尋や、また本訴等々の裁判沙汰が現在に至って継続 し、抗争上の対抗のための批評や抗議や反論等々の抗弁が観られるのは、致し方ない。     2011.03.08  秦 恒平




バグワンについては全く予備知識もなく、むろんオームとのことなど何も知らず関心もなく、いいえ、じつは無意味な先入見をひとつだけ持っていたのですが、 いわばそれが理由で、およそ気まぐれと言うしかない出会いで読み始めたのです。
 ずいぶん昔ばなしになります、が、今はもう四十ちかい、二児の(たぶん二児のままかと思うのですが、)母親になっています嫁いだ娘朝日子が、まだ大学に入って間もない時分に、他大学生との小さなグループで、盛 んにバグワン、バグワンと言いながら我が家へも集まって交流していたことがあったのです。講話集のような分厚い本が二冊三冊と娘の机に積んでありました。 わたしは娘がへんな宗教団体に接近してはいやだなと思っていましたので、冷淡でした。     1998.03.25頃


小山弘志さん、堀上謙氏らは先日も一緒、今日はドナルド・キーンさんと挨拶した。栄夫夫人の観世恵美子さんのお顔がみられなかった。いうまでもない谷崎夫 人松子さんの娘さん。朝日子がたいへんお世話になった。       1998.12.23.


* 私の日々は、そんなふうに、静かにいつも賑わっている。寂しいのは、年ごとに「死なれた」人の訴えを多く聴くことだ。聴いて、話しかけて、少しでも私 が役に立つのならと思う。今日、聖ルカに出かけた妻の留守に、ひとり映画『黄昏』を見て泣いてしまった。娘朝日子は、元気にしているだろうか。    1988.12.24


* 目の前に友人の画家にもらった画家の奥さんのデッサンが架けてある。A3大のプロフィールで、私の娘の朝日子が生まれた翌年ごろ、画家が奥さんと出逢って描いた若い日の横顔である が、じつに朝日子に生き写しのように見えて成らない。息子が見ても一 目で「姉貴か」と叫んだぐらいだから私一人のひがめではない。もっとも母親はさほどに感じていない。絵はみごとに描けていて申し分ない。娘のほんものの顔 はもう何年見ないことか忘れてしまったほどだが、一枚のデッサンにいつも目を向けて娘に話しかけている。
               1999.02.17


* 四月は忙しくなる。カレンダーは予定の書き入れで、真っ赤に近い。もとより楽しみの予定も含まれている、いや大方がそうかも知れない。歌舞伎座の通し と能『道成寺』そして京都行きがある。福田恆存作『龍を撫でた男』の誘いも来ていて、惹かれる。大寄せの会合に義理づきあいは、おおかた、やめようと思 う。娘朝日子の昔の科白だが、「魂の色の似た人」に、もっと出逢いた い。希望はある      1999.03.31


能楽堂で馬場あき子に逢った。きもちよく話してきた。ふとってはだめよと叱られた。このところちょっとうまいものの食べ過ぎである。朝日子の仲人をしてくれた早大の小林保治氏と並んでみた。直ぐ前に小山弘志、大 河内俊輝氏が陣取っていた。少し離れて堀上謙氏がいた。また松永五一氏、大岡信氏も来ていた。満員だった。
 山本東次郎の狂言『鱸包丁』もいい狂言だった。閑のワキも山本の狂言も口跡が粘って好きではないのだが、今夜は実力がよく出た。    1999.04.06


* 今、願わしいのは、娘の朝日子が、いまこそ「個と個」との対話の ために電子メールをよこさぬかという願い。娘とも孫二人とも、どこにいるのやら、もう何年も何年も顔も見ない。声も聞こえない。上のやす香は中学生になっ たろう。下のみゆ希は小学校の何年生だか、まだ赤ちゃんの時、父親が筑波の技官だった未だ青山の国際政経に就職するより以前に、ただ一度筑波の宿舎まで忍 んで行き、かろうじて抱いてやって以来、触れあわない。娘のいわば遺産の「バグワン・シュリ・ラジニーシ」をもう二年、毎夜読みつづけ、元気でいて欲しい と、キーボードに触れるつど祈っている。ときどき、もう此の世にはいないのだと想うこともある。    1999.05.09


* 太宰賞の授賞式の日、娘朝日子が一歳半の弟を家で留守番しながら 面倒をみてくれた。その朝日子がやがて四十歳に近づきつつあり、建日 子も三十一歳を過ぎてしまった。
   1999.06.04
       

* 神学者の野呂芳男さんが保谷の宅までお出で下さった。久闊を叙しお互いに大過なく健康であることを歓びあった。文庫本『慈子』の解説者であり、久しい 心の友であり知己である。この方と話していると静かになれる。娘の朝日子も ふくめ一家で敬愛してきた。結婚前の恋愛で悩んでいた娘は、わたしにも勧められ、野呂さんのもとへ胸中をさらけ出しに出かけたこともある。野呂さんは作中 の「慈子」を親族がさようはからったのと同じに、アメリカに留学させてはと勧めて下さり、本人もその気になっていたが、わたしは賛成しなかった。結局恋愛 をすてて見合い結婚を娘は選択した。夫は筑波の技官を経て、青山で教鞭をとっている。子どもも二人(だと思うが)でき、娘にはそれで良かったのであろう。 娘がそれで良かったのなら、やはりそれで良かったのである。  1999.06.11


* 朝日子の葉うれを洩れてきらきらし という句をえて、下句も出来 ていたのに、忘れた        1999.06.18


* この二十七日は朝日子の誕生日だ、三十九になる。女の三十台はほ んとうの花であるのに、どんな花に咲いているのかを、ついに殆ど観てやれないでいる。元気でいてくれるように。        1999.07.24
 
* 今日で娘は、朝日子は、三十九歳になる。指折り数えれば、まこと に、そのとおりである。朝食に赤飯が炊いてあった。黙々と食べた。   
  昭和六十二年正月 一歳半の朝日子と妻    撮影父(写真割 愛)    1999.07.27


前の京都近代美術館長で今はブリジストン美術館に移られた富山秀男氏と、ぱったり顔があった。京都美術文化賞の財団で理事同士であり、国立系施設の優待パ スなどでたいへん御厚意にあずかってきた。山種美術館にいた草薙奈津子さんや、現に横浜美術館に勤めている二階堂学藝員とも立ち話をした。二階堂君はむか し保谷の我が家にまで、弟だか兄さんとだったか娘の朝日子をたずねて 遊びに来てくれた。わたしは忘れていたが妻は覚えていた。     1999.09.10


* 人さまの下さったメールを、お許しを得てとは言え、おもむくままに此処に書き込むのはゆゆしき無礼であることを承知している。なぜ、するか。一つに は、これが、わたしの「生活」であり、こういう出逢いやふれ合いを通じてわたしの「意見」も生まれ、「文学」も生まれ出るからである。そのなかに「わた し」が反映しているのを見知っているからである。人の世の好もしい在りようが肌身に感じられるのである。娘朝日子の言葉を借用すれば、「魂の色が似ている」と思えばこそである。    1999.11.24


 (兄へのメール=)大学には何曜日に出ていますか。メールを開かれるタイミングを知っていたいので、教えて下さい。吉田が多いのですか、伏見ですか。急 の電話はどこへ。
 建日子、テレビにはまっている様子。ときどき、つまらない質問をしてきます、七十七は何寿かなどと。朝日子も孫も、行方も知れません。この年になると行方知れない旧知が多くなるの は自然現象のようです。 お大事に。  恒平      1999.11.30


* 「お受験」という不愉快な言葉を「春奈ちゃん殺し」の前にも聞いていた。息子が姉と電話かメールかでかで話したときの話題に、朝日子がしきりに、来年は娘の、つまり我々の孫の「お受験」だと、見せびらかす ように「言いやがる」と気色わるがっていた。わたしも気色わるかった。この秦の家で育った娘が、そんなことに熱中するようになったかと暗然とする一方、孫 が可哀相になった。朝日子自身はいわゆる「未塾児」で、中学受験では 落ちたが、自らの初志を貫徹して、高校受験では難関を自力で突破し、お茶の水女子高校にパスし、卒業生答辞を読んで、大学はお茶の水にも慶応にも、塾にな ど一度も行かずに合格していた。娘の根性でし得たことであり、「お受験」などという雰囲気は、我が家にはなかったのである、自力の受験勉強はさぞ大変だっ たろうが。
 その朝日子の口から、「お受験」などと、たとえ口づてにも聞くと は、耳を疑ってしまう。どんな考え方に変わってしまったのかと胸が痛む。   1999.12.05


* ゆうべ仲人の小林保治氏に、孫に会いたくないのかと問いつめられた。何と謂うことを言う人だろう。昨日の明け方にも、朝日子が孫の一人と颯爽と「帰ってきた」夢を見ていた。孫は二人いるのに、可哀 相に、下の一人は知らないも同じなのだ。     1999.12.19


「黒い画集」の主演女優で、木下恵介の「野菊のごとき君なりき」でも、嫂役のいい演技を見せた人だ、往年の日活ニューフェースだった。大学に入る間際から の友人である。そんな原知佐子が、息子の脚本で、老け役をしてくれるとは、感慨深い。
 新宿の六畳一間のアパートに、重森ゲーテ君らと一緒に遊びに来てくれたとき、彼女は立派にスターだった。姉の朝日子すらまだ生まれていなかった。太宰賞の受賞式に来てくれて、花束贈呈役を 引き受けてくれた晩、弟の建日子はまだ一歳半で、姉に守られ家で留守番をしていた。うんちをして朝日子にいたく面倒をかけていたのだ。
 建日子よ、驕るなかれ。まだ人様をつかまえて「格上の」「格下の」などと言うのは厚かましい、まだまだ「格」なんて「無い」のだし、ケチな 「格」など持ち急ぐな、と言って置く。          2000.01.11


* 丸善の近くで飛び込んだ薬局で初めて識った人から、メールが来た。高校生の頃に『みごもりの湖』と出逢い、『慈子』も愛読してもらっていた人が、いま は二人の子の母と。女の子なら「朝日子」と名付けようとまで思っても らっていたと聴くと、胸が熱くなる。         2000.02.26


器械の画面いっぱいにカラー写真が、ぱっと咲いた。いい気持ち。これは田中君が教えてくれた。ついでに、大学院を中退して就職試験に東京へ出た頃のわたし のスマートな黒白写真も取り込んでみた。さらには、娘の朝日子がまだ 小さかったころ、弟の建日子がまだ一つぐらいのころに、二人ともをわたしが抱き上げて三人で笑っている写真もスキャンしてみた。いちばん朝日子の笑顔の可愛い写真で、大好きだ。  2000.03.29


 ☆ (読者のメールに=) 朝日子様もお生まれにな り、出版社での生活は、決して心楽しいものではなくても幸せな日々が続いていらっしゃったものと思われます。  2000.04.17


* メール本文を欠いた同じ携帯電話番号でのメールが二度も届いたが、誰からとも判らない。そんなとき、ふと、娘かなとあてどないことを思う。明け方に、 ドアをあけて朝日子が帰ってきた夢を見た。もう中学生になる孫娘に も、突然そういうことがあるかも知れないがと、まこと、あてどない空想もする。元気で、いよ。  2000.05.23


* 明け方、娘の朝日子ががらりと戸をあけて、しろっぽいレインコー ト姿で帰ってきたのを夢に見た。元気でいるといいが。  2000.07.03


* 祇園会の後祭。むかしは、この日に、船鉾を殿にしたたくさんな山の巡幸があった。後の祭りの賑わいと寂しみに、十七日の、長刀鉾を先頭にした天地の揺 るぎ出すような先祭の興奮とは、ひと味違ったよさがあった。作『慈子』のなかで、幼い朝 日子を高く抱きあげながら見送ったのも後祭の巡幸だった。    2000.07.24


息子の、ドラマ「孫」がせめては佳作であって欲しいと願っている。朝日新聞には作者名も出て予告されていたと漏れ聞いている。姉の朝日子や、孫やす香やみゆ希たちも「予告」を見つけているだろうか。    2000.07.25


* 娘朝日子が、今日、満四十歳になった。赤御飯で、妻と、ひっそり 祝う。孫のやす香、みゆ希の誕生日にも、同じようにジイヤンとマミーとで祝っている。娘も、中年の花盛り。「お受験」になどウツツを抜かしていないといい が。健康を心から祈る。 2000.07.27


* 少女とあるのは『清経入水』のなかの、幼かった娘、朝日子のこ と。どうしているだろう、幸せでいて欲しいが。せめて個と個との電子メールがつかえれば嬉しいのだが。孫のやす香やみゆ希も、もう器械になじめる年齢に なっているだろう。突然、やす香から、ジイヤンやマミーにメールが届いたら、どんなに嬉しいだろう。 2000.10.11


* 娘の朝日子は、昭和六十年より以前に、手作りの、奥付をさえ持た ない、そんなことへ気も行かないような質素な私家版を二冊創っていた。わが娘である。その創刊の一冊を「e-magazine湖(umi)」の最初のファ イルに積み重ねた。今夜一晩かけてワープロ版からスキャンし、丁寧に読み返し読み返し、校正した。贔屓目でなく、娘には文章のセンスがあった。さりげなく 自然に清明に書ける力があった。いつも、わたしはそれを褒めてやりながら、自発的に「書く」よう期待していた。書けば、書けたのに、続けなかった。またい つか書き出すのだろうか。わたしがそれを読んでやる機会があるのだろうか。
 湖に載せた作品は、尋常な題材であるが、よく書いていると思った。よく書いて置いてくれたと、少し、泣いた。こういうかたちで公表されることを今の朝日子は好まないかもしれないが、幸せに穏やかな親子四人のいた日々を思い出 し、心しおれながら、いいものを読んだ嬉しさをいま反芻している。読んでやっていただきたい。二十三か四歳ごろの作である。   2000.10.28


* 朝日子の「ねこ」を褒めてくれるペンの友人のメールも来ていた。 ゆうべ、娘の置いていった「回転体の詩」の二輯を読んでみた。初読であった。拙い詩集であったが、数あつめてあったので、全体から来る情感は汲み取りやす かった。ま、最初の出産を体験したうら若い母親なら、だれしも内心に抱いた思いかも知れない。だが、それを言葉に置くのはやはり力業である。ある限られた 時機にこういうものをこう書き置いたことは、やはり尊いことだと思い、大袈裟な親ばかに照れながら、すこし涙をこぼした。
 これも、記録して置いてやりたいと思った。   2000.10.30


* マスコミがもう「「e-文藝館=湖(umi)」をとらえはじめた。新聞記事が知らされてきた。アクセスが増えている。

* 朝日子の「詩集 小さい子よ=回転体の詩 2」を、すべて「e-m湖」の一頁に書き込んだ。スキャンでは、かえって手間がかかるので、一つ一つ自分の手で書き込んだ。娘と孫娘とのそばにいて、体温 も息づかいも感じられた。   2000,10,30


 ☆ 朝日子様の作品に時のたつのを忘れて、読みふけりま した。
 仮に、今はお休みされていても、これほどの力の持ち主ならば、必ず、またいつかペンをおとりになられましょう。その日の訪れを、そして、新しい作品を読 ませていただける日を、心静かに待たせていただこうと思います。ありがとうございました。

 ☆ 朝日子さんの作品、一気に読みました。一気に読み進めたい気持 ちを抑えられぬほどの情感にあふれた作品でした。
 朝日子さんの目から見た「ねこ」「ご家族」は同じ被写体を別の角度から写した映像であり、けれどもそれらがぴったりと重なり合ってさらに立体的に見えた ような、そんな想いがいたしました。ぴったりと息の合った幸せなご家族だったのでしょうと・・・。
 朝日子さん どんな想いを持って日々をおすごしなのでしょうか。で も、お幸せならば、お元気ならば、生きていらっしゃるのであれば、それでよいのではと、決して還ることのない娘を想い、慰め事ではなくて心から想うので す。

* 優れた創作者やいい読者からのありがたいメールが届いていた。三編をとりまとめて掲載したのも効果的であったろうと親ばかの編輯人は思っているが、身 贔屓で採用したわけではない。載せるよと断わる道がないので、娘の本意ではないかも知れないが、ゆるして欲しい。あとにもさきにも、これだけしか「秦朝日子」のものはわたしたちの手元にない。親と娘でありえた昔の思い出にと いう感傷がないわけではないが、根本は、作品を、わたしが認めているということだ。繰り返して言うが、娘の本意ではないかもしれない。
 むかしこの娘は父親に代わって、実は、二人の中国歴史上の人の、小説風の評伝を書いている。或る社の文庫本の中におさまっている。小遣いに惹かれて大学 の頃に代作したもの、むろんわたしが読んで推敲した。いまもこつこつ書いているといいがと、いつか晴れやかな日のあれと、わたしも、内心願っている       2000.11.03


* 姪の北澤街子が十八でメルボルンに留学し、三十三回、三年近くも「思想の科学」にオーストラリア物語を連載していた。朝日子の「ジャン・ムーラン」が載った号にはその第七回が掲載されていたが、後 に新宿書房で単行本『メルボルンの黒い髪』になったときは、300 頁にちかい堂々たるものが出来た。清明な文章のセンスは兄の黒川創を凌がんばかりで、贔屓目なく、いい呼吸であった。街子から、アタマの辺を「e-文藝館 =湖(umi)」に採ってくれてかまわないと、兄黒川を経て連絡があった。    2000.11.03


* 幸せなことに、二十歳代のこういう思いが、胸に届いてくる。偶然だがこの二人の男女には、わたしの見たところ似通った、純なところがあり、美点にも或 る壁にもなっている。見えているものがあり、だが手は届いていない、いや、まだ何かをおそれてか、手をそれへ着けていない。
 あとの女性の声をこう聴きながら、自分の娘も、朝日子も、このよう に感じていたのかも知れないなと思ったりする。     2000,12,12


* さ、カウントダウンまで、静かに立ち働いて、少しだけでも身の回りを整えておこう。血糖値はこの二三日グレーゾーンの110台を上下している。甘いも のがときどき口にはいると響く。甘いものや酒が口にはいると、だが、気分は明るくなる。口淋しかった戦中戦後の「街の子」時代を明らかにまだ引きずってい る。
 だが、ひとこと、やはり闇に言い置きたい、一九三五年このかた二○○○年まで、わたしは、幸せであったと。そして、誰も誰もが…幸せにと、祈る。
 朝日子や、孫のやす香、みゆ希たちも、どうか幸せに、元気に、と。 2000.12.31


* もっと大事なのは、朝日子たちとのことだろうと心配してくれる人がいるが、健康で平安にあれと祈るだけ。      2001.01.01

* 十一時に、三人と黒いマゴとで、静かに、和やかに、元日の雑煮を祝った。朝日子た ちも、落ち着いた佳いお正月を迎えているようにと、言い合って。     2001.01.01


母の、深い優しさを、若い広末涼子が、こともなく深切に演じて揺るがなかった。どうも、わたしにはぴたっとこない敬遠ぎみの女優であるのだが、優秀な感性 に触れ得た喜びは大きい。もう十年も逢わない娘朝日子に、かすかに広 末は似ているのである、


* 嵐峡館は、京都でも高級な老舗の料亭ということになっている。もっとも、わたしも、宿の風情ほどは食べ物に感心したことはない気がするし、泊まったこ ともないが、むかし、朝日子の小さかった頃に、新門前の母も誘って、 妻や娘たちと食事に行き、美しい夏景色と嵐峡の碧り濃い流れを楽しみながら、家族風呂でゆっくりしたことを思い出す。
       2001.02.20


文章の才はあるのに娘朝日子には、従姉弟の恒(黒川創)ほど謙虚な意 欲も努力も見られなかった。息子建日子は演劇を創る方へ意欲的に出ていった。   2001.03.03


 ☆ 「生活と意見」、毎日読んでいます。ときどき「朝日子」の 文字を眼にすると、ぐっと胸がつかえます。朝日子さん、どうしている のだろう…秦さんのもとへ戻ってほしい、と余計なことを考えてしまいます。ごめんなさい。
 東京はものすごく暑かったと聞きます。季節の変わり目、体調など崩さぬよう、迪子さんともどもお元気でいてください。   2001.07.01


* ほんとうに久しぶりに品川駅でおり、京浜東北線に乗り換えて大森まで。四十年前、妻が朝日子を妊娠前から出産後も、東邦大学病院の内科、産科へ通院し、わたしもよく 付きあっていた頃、大森か蒲田で電車を降りていた。  2001.07.10


* 朝、赤飯で娘の誕生日を祝った。指折り数えて、娘が、朝日子が四 十一歳になる。もう十年見ていない間に、保谷の家のまわりも激変した。新しい廣い道路が出来たりマンションが幾つも出来たり、ご近所もみな老齢化。朝日子や建日子らの子供の頃は、近所に子供の遊ぶ姿や声が絶えなかったのに、そ の子たちがみな親になり、その子たちや連れ合いとよそに暮らしている。それでも、ときどき実家に帰ってきているが、朝日子には、その後に孫が増えているのかすら分からない。いろいろと、困惑させ たくないので、こちらから探すことも声をかけることもしないでいる。連れ合いが青山の、国際政経のもう教授にもなっているのだから、生活に困ることはない だろう。健康にと祈って、母は「心身ともに」健康にと祈って、今年も両親で赤いご飯を遠くの娘のために祝った。  2001.07.27


* 大学受験生の若き友人から「夜更かし」のメールが来ていた。きびきびと、息づかいの正しい散文になっている。宇治十帖をつつがなく夢の浮橋にいたって ください。そう、古典は声に出して読むのがいい。音読できるということは、言葉として受け入れ得ていることになる。細部の語彙以上のものがしみこんでく る。娘朝日子の大学受験勉強をてつだって、古典を山と積みあげ、片端 から少しずつでも音読させて聴いてやったことが思い出される。「読める」それが「分かる」初めなのだとわたしは考えてきた。それで、わたしは今も多くの本 を飽きることなく音読している。     2001.08.27


* 徳田秋聲の「或売笑婦の話」を読んだ。佳かった。淡々と出始めて、どきりと終わり、大げさでないのに劇的であり、純文学の優れた興趣をしっかり表わし 得ている。うまく「つくった」話なのだが、散文に妙味と落ち着きとがあり、作り話だけどと思いつつ、ふうんと唸らされる。佳い文学に触れた嬉しい気持ち と、ほろ苦い生きる寂びしみとに胸打たれる。この胸打たれたのが響いたのだろうか。いまも、胸は安定しない。午後には美術館へなどと思っていたが、無理 か。晩には一つ日比谷で会合がある。朝日子の披露宴会場と同じ場所 で、フクザツな気分。   2001.09.25


 谷崎夫人も藤平春男氏も尾崎秀樹氏も森田久男先生も亡くなられた。
 離婚の経験のある谷崎夫人を新婦側主賓におくとは非常識なと、人に罵倒されたとき、正直のところわたしは虚をつかれ、じつにイヤな気がした。およそその ようなことは、考えたこともなかった。谷崎文学とわたしと、谷崎夫人と我が家と、の縁は知る人ぞ知る、深いものがあった。まして娘を孫のように愛して、自 ら何度も身をはたらかせて朝日子を本人熱望のサントリー美術館学芸部 に就職させてくださったのも谷崎夫人であった。離婚も再婚もそれが何だというのか、松子夫人あって昭和の谷崎は名作の山をつみ、二人は添い遂げて、夫君没 後も夫人が谷崎文学のために奔命されたことは、まさに知る人はよく知っている。
 よそう。  2001.09.25


* 器械の同じ場所に、昔の社宅のベランダで撮った、一つは稚い娘朝日子と うら若い妻との写真、もう一つは一歳頃の息子建日子と妻との写真も置いてある。その息子がもう三十三、娘は四十になってしまっている。女盛りの美しかろう 娘の三十代を、わたしたち両親はついに一度も見てやれないで来た、同じ東京都に暮らしながら。   2001.09.28


* 建日子たちに誘い出され、池袋メトロポリタンホテルで夕過ぎに逢い、地下の「ほり川」でたっぷりお任せの「鮨」を食べた。カウンターで、妻は築山真有 美と、わたしは建日子とならんで、歓談・歓食・歓飲。引き続き西口のビヤホールで、飲みかつ喰いながらたっぷり歓談した。途方もなく楽しかった。池袋で別 れて家に帰ったら、もう二十四時に近かった。べつに何のために逢ったというのでもない、たまたまクリスマスイヴであったが、そっちの方の思い寄りはなにも ない。ただもう逢って楽しかった。朝日子や孫達もいっしょならなと思 いはしたが。    2001.12.24


* 前田夕暮の二冊目の歌集『収穫』の上巻を、いま校正している。「木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな」の名歌が入っていて、明 治四十三年三月九日に「自序」が書かれている。明治十六年(1883)七月二十七日に生まれ、(わたしの娘朝日子の生まれた日だ。)昭和二十六年四月二十日に亡くなった。    2001.12.26


 めざめて気持ちよく洗面などし、居間に田園交響楽を静かに響かせながら、妻と二人きりの雑煮を祝った。 東京へ来て夫婦 二人の元旦は、初めてではないか。朝日子の生まれるまでは京都へ帰っ ていたし、生まれてからも京都での正月が多かった。子供が二人揃ってからは帰らない年 もあったけれど、こどもたちが欠かさず一緒だった。朝日子が嫁ぎ、そ して婚家との往来が不幸に絶えてからも、元日は建日子が一緒だった。   2002.01.01


 アトへ能が二番、狂言もあったけれど、朝日子仲人の小林保治氏と顔が合っていたけれど、失礼した。    2002.01.14


 わたしの今の希望というか夢のようなものは、娘朝日子と心おきなく二人だけのメール交信が出来ること、もっと飛躍的に 希望をもっていいのなら、そろそろ高校へ上がろうかという上の孫娘の「やす香」から、突如メールの届くことであるが、さめやすき夢でしか、今は、な い。  2002.02.24 


* ひょっとすると今夜にも建日子が来るという。これも嬉しい。朝日子もいっしょなら、どんなに佳いだろう。   2002.03.27 

* 明治座の「居残り左平次」の前に、三遊亭円生の噺を聴いておいた。うまいものだ。風間杜夫がどう演じるのか、 平田満がどんな芝居を見せるのか。
 浜町へは久しぶりだ。朝日子のサ ントリー美術館就職では谷崎松子夫人が動いてくださり、何百人から二人だけの 採用に押し込んでもらった。関係者のお礼に接待をと、松子夫人が場所も決めて下さったのが明治座前の料亭で、場なれないわたしと妻とで、ぎごちないお礼の 席を勤めた。汗をかいた。
 いい職場だとよろこんでいたのが、結婚し、妊娠してのつわりがつらいと、フイと辞めてしまった。     2002.05.06  


上に引き出してみた記事は、いま、また、これから、エンターテイメントでなく藝 術としての文学作品を本気で書きたいと考えている人たちには、ぜひ伝えたくて、書き抜いたのである。たとえば、甥の黒川創に対しわたしが信頼しているの は、ここに坂本氏の言うその覚悟が、たぶん出来ていると思うからだ。かりにそうでなくても、彼はここに言われたことを理解するだろう。身贔屓ではなく期待 している。ああ、こういうことは、娘の朝日子に言ってやりたかった。     2002.05.26


* 明日は娘朝日子の 誕生日だ。四十二歳か。三十代の初め頃までの朝日子しか知らない。元 気でいてくれるように心 より祈る。孫達も。孫の人数は二人から増えているのだろうか。どんなに大きく成ったろう。建日子の「天体観測」など、観ているのだろうか。ある日、孫娘や す香や、みゆ希達から、メールが届けばどんなに妻は喜ぶだろう。わたしも。われわれのことは、記憶にもないかも知れないが。       2002.07.26 


* 朝一番、誕生日を迎えた朝日子の 健康と幸福を祈って、妻と赤飯を祝った。   2002.07.27


* 二十一年かけたというドラマ「北の国から」が、完全に終えた。佳い終幕であった。佳い終幕へ、五郎も純も蛍も元気でこれてよ かった。内田有紀を妻に、 嫁に迎えたのにも納得した。久しくたのしませてもらった、心から拍手を送りたい。同じ思いの人が日本中に多いことだろう。
 二昔あまり前、わたしは四十六歳になろうとしていた。思えば働き盛りであった。娘の朝 日子は大学に入ろうとしていたろうか、息子の建日子は中学生になっ ていただろうか。いやもおうもなく、自分の人生と共にこのドラマも変遷してきた。多くの場面がくっきり印象に残っている。     2002.09.07


* 朝日子の仲人さん である早大小林保治さんからは共著の注釈『続古事談』を頂戴した。有り難い。室町物語草子集をもう読み終えるので、引き続きすぐ楽し ませてもらう。    2002.10.09


* 若い記者さんだと真実思っていたら、母は秦さんと同年、お子さん達と変わりない年なんですと言われ、 びっくりした。朝日子と建日子のまんなかをとって も、フーンそうか。しかし、それは「天与の財産、大切に」と返事した。2002.10.29


対照的に、朝日子さんのパリ滞在記 など、ころころと鈴が鳴るように心地よく、すっと読めたものでした。そん なこんなで、この1年ほど、静かに話すことを心がけてきました。   2002.11.15


 自分の書くものもむろん含めて、ずいぶんムダな語尾を不用意にムダに付けているのに、気付く。その辺の 推敲がきれいにきまると、文章は、さらりと静かに なる。
 娘の朝日子にはいつも心してこういうことを習わせた、子供の頃の読 書感想文などを読みながら。だからと言えよう、大学時代までに、極少ないながら代筆し て貰ってもとくに見咎められない文章を書いてくれた。どこかで他の人達と一緒に文庫本に入っている、「李陵」「徽宗」はわたしの名で
朝日が下書きを書い ている。こういう学習が今にも役立っているといいのだが。  2002.11.15

* 市議選挙に、自転車のウシロへ妻を積んで近くの小学校へ。新しい広い道路が出来たりして、幾叉路にもなりどこが学校 だっけと迷うほど。「朝日子が帰っ てきても、迷うね、きっと」と言いながら、人けない投票所で投票を済ませた。  2002.12.22


 建日子さんの「最後の弁護人」シリーズが 15日から始まるそうで大いに 楽しみにしています。「天体観測」は回を追うごとに ドラマの展開に魅き入れ られて 待ちかねて拝見しました。
 朝日子さん 建日子さんのお名前を見ますと (和歌山の家の前の) プールで泳がれた小さい時の記憶が甦ってきます。35歳に成られたのですね。連続ドラマの脚本家として 堂々とご活躍されて嬉しい限りです。     2003.01.10


* 鮫島有美子が「千曲川旅情の歌」を歌っている。今宵はずうっと歌を聴いている。「花」も「椰子の実」も鮫島が歌っている。高峰三枝子の「宵待草」三鷹 淳の「坊がつる讃歌」が濃厚に抒情的。鮫島の「遙かな友に」を聴くと、かならず娘・朝 日子を思いだし涙が流れる。平安でいるだろうか。    2003.01.14



* 少しずつ時間は減って行く。建日子とも朝日子とも、話し合ってお きたいことが有るといえば有り、なにも無いようなもののようでもある。この厖大な「私 語」が「死後」の用をなすとは思わないが、あのときおやじはこんなことを思っていたと知るよすがにはなるだろう。書くとは、いつも遺言である。小説を書き 始めたころからそうであった。贅沢なムダごとである。この「私語」がわたしの「レイタースタイル(サイード)」に当たることだけは疑いがない。    2003.03.29


* 
アーシュラ・ル・グインのこの作品に出逢ったのは、娘朝日子が高校から大学への頃のこと、そう遠い昔ではない。しかしこの連作の世界 は、もうグインの作 品なんかではなく、わたし自身の原故郷として、実在している。アースシーの広大な多島海地図が頭に入っていて、わたしはゲドの行く先々に同行できる。
 そういう感覚で、わたしはまたわたしの「闇」との間柄を育ててきた。コンピュータのウエブとして目に見える「闇」もまたその派生であった。   2003.04.16


 しかし、秘蔵の美智子皇后さんの成婚直後の「取材接近」写真や、沢口靖子とのツーショットとか、愛蔵の朝日子や建日子の小さい頃の写真とか、ことに秦の 両親が建日子を抱いて嬉しそうなのや、また祇園界隈の四季の風景や、さらには、当尾吉岡の実の父方の大きな屋敷の遠望など、これがわたしの煙草がわりであ り     2003.05.21


* 朝日子は、何歳 になったことか。指折り数えるより先に、誕生日を祝って、父と母とは、おまえの健康をねがいながら、朝一番に赤飯を食しました。なにも 贈ってやれないが、インターネットが使えるなら、「ペン電子文藝館」の随筆欄、門玲子さんの「江戸女流文学に魅せられて」を読んでごらん。(この父が送り 出している「私語」が読めているのかどうかも、知らないが。)
 おまえが、誰よりも強く内心に願っていたある種の「活躍」は、すべてもう主婦として断念したのかも知れない。が、地道に息の長い研究や調査や、才能が無 いではない散文や詩作でも、まだ根から枯らすには惜しいと、父は思っています。おまえにはシンドかったのかも知れないが、それだけの鍛え方もしたし、頑張 る父の背中を十分見て育ったおまえのことだ。夢にも思わなかったお前の弟、秦建日子のほうが、曲がりなりに創作者として踏み出し活躍していること、それも 「現実」なら、おまえにも「新たな現実」の可能性は、少しもまだ無くなっていない。心行く日々を過ごしてくれるように。
 子供達には険しい時代環境になっています。孫・やす香やみゆ希の豊かな成長を、よそながらジイヤンとマミーとは心から願い祝っています。せめて孫達から マミーのパソコンにメールが飛び込んできたら、どんなにお前の母はよろこぶか。やす香が、登戸のカリタスで高校生になっていることだけは識っています。
 元気に、暮らしていてくれれば、いい。   2003.07.27


 ☆ 今日は朝日子さ んの誕生日だったのですね。
 昨日が娘の父親の六十歳の誕生日でした。娘に直接別れを告げることもなく、再婚して二人の息子の父となった人。娘には「捨てられた」という思いが残って いて、それはいつまでも大きなしこりになっているようです。相手の家庭の事情で、真ん中の娘が亡くなったときも「香典」が振り込まれているだけでした。下 の娘については共通の友人を通じて結婚式の日取りや場所を知らせましたが、一切音沙汰ありません。
 父親はほかの家庭を持つと娘を忘れるのでしょうか。私のことを実の父は思ったことはあったのでしょうか・・・。父に私の存在を一時でも思い出してほし かった。娘の父に娘のことを思い出してほしい・・・。朝日子さんがう らやましい思いです。朝日子さん、お父様に似た方なのでしょうね。 きっと何か書いてい らっしゃることと思います。   2003.07.27
 


* 余裕を持って書いている。書くことでますますこの人は確かな生活者になっている。ベンジャミンやパキ ラ。その他もろもろの植木鉢とわたしの妻はいつも 楽しそうに格闘しているので、書かれている感じがよく分かる。
 二人とも、何とはなく、「花火」にふれて書いている。闇をへだててたしかに呼応する挨拶の声がきこえるようだ。
 朝日子からも、自然で柔らかな彼女の持ち味であった散文が届くとい いのだが。
みんな元気でいて欲しい。    2002..07.27


* 九月十二日 金

* 初孫のやす香が十七歳の誕生日を、朝一番、赤飯で妻と祝った。いちばん娘らしいこの十年を、同じ東京に暮らしていながら顔を合わすことが許されていな い。惜しい十余年であることは、やす香やみゆ希にもそう、われわれ祖父母にはましてそうである。
 ま、こんな非道も、世間にはいくらも有るのだろう。たぶん世間並みをやっているわけだと、わがことながら仕方なく「眺めて」いるのである。娘朝日子や孫達が、 せめて健康でいてくれればいい。

  捨てかぬる人をも身をもえにしだの茂み地に伏しなほ花咲くに   斎藤 史

 暑さのせいではないが、昨夜は三時間余を眠っただけで、六時には物音で目が覚めてしまった。もう一度寝入るのも面倒で起きて、妻と赤飯を祝ったのであ る。
   私の留守に、妻は十余年来、初めて娘・朝日子と 電話でしばらく話すことができたという。二人のためにとても良いことであった。母と娘とのあいだに、表向きであ れ裏側でであれストレスが緩和されるなら、まちがいなく良いことである。「親不孝をしていて申し訳ありません」とすぐに朝日子は母にアイサツしたという。       2003.09.12 


笹はらに露散りはてず朝日子の ななめにと.どく渓に来にけり     2003.10.06


* 妻もわたしも、やはり、ほっとしている。そして、こういうことなら、姉の朝日子にも、また別の創作の道を努めて開拓してみて欲しかったなあと思うので ある。建日子は父親を世襲はしなかった。つかこうへい氏との出逢いを自力でバネにし、わたしとは別世間へ出て行った。それが良かった。朝日子にもまた別の なにかしら世界がありえたろうに、と、惜しい。娘が、「東京の小闇」のように、またちがったセンスのエッセイなどをホームページで書いていてくれたら、ど んなにわたしも妻も嬉しいだろう。元気にしているのだろうか。   2003.12.17


建日子もものを創る生活の、嬉しさと苦しさとが分かってきている。それが収穫だ。朝日子にもそういう収穫をえて欲し かった…   2003.12.21


 技術を覚えたからは、何も沢口靖子でなくても、小さい頃の朝日子や建日子でもいい、美術でもいいようなものだが、適度に縁遠くて、何より 健康・清潔・颯 爽としたものがわたしを慰める、励ます。わたしは、じつのところデロリンとして虚無的な人は苦手なのだ。すこしヤボだけれど健康な人がいい。おなじ「まめ 人」でも、薫大将より、若き日の夕霧のほうが気心が知れて親しめるのである
    2003.12.26


* むかし、勤めてた頃だが、歳末京都に帰ると、家のことは妻にまかせ、娘の朝日子をつれて、京のあちこちを歩き回ったものだ。お寺の床は凍えそうに冷た く、娘と、ヒヤッヒヤッと叫ぶように飛び跳ねたくなる冷たい廊下を歩いた。大人に話すようにいろいろと娘に話して聴かせた。醍醐の三法院、粟田の青蓮院、 そして七条の智積院や三十三間堂へも。もうそういう京の歳末を忘れて何年になろうか。   2003.12.28


* 平成十六年一月八日 木

* 建日子の三十六歳、誕生日を祝う。力満ちたまた此の一年を、怪我なく、努めまた楽しむようにと言祝ぐ。

* 三十六年前を懐かしく思い出す。特製の年譜をくれば、さっと早だしが出来る。太宰賞受賞の前年になる。まだ作家として世に出ていなかった。
 ☆ <<昭和四十三年(一九六八) 三十二歳>>
 元旦、払暁ひとり尉殿(じようどの)神社に迪子無事を祈る。女子なら肇日子(はつひこ)と。「母ひとり産むにはあらで父も姉も一つに祈るお前の誕生」祝 い雑煮。改めて朝日子とも参拝す。同二日、朝晩味噌雑煮。同三日、清 汁雑煮、晩は自前の闇鍋。病院事情が日常化するまで保たせたいと緊張の三が日、また静 かに過ごした三が日。同四日、迪子が仕事を再開。同五日、迪子予定日の通院、八日より入院と決まる。一階の永井家一足先に出産。学士会館の年賀会に朝日子 と参加。この日、母上京、疲れてタクシーで少し吐き入れ歯落とす。遠藤周作「影法師」よむ。「文学」ということばで創作を真剣に考えることができ、有り難 いと思う。
 一月八日、朝入院手続きして出社、午後出血前兆ありと電話受け午後休暇保谷に帰り万端を用意し、潤一郎全集第十四巻、文学界二月号、松田権六『漆の話』 を用意して病院に。永い永い経過があって午後十時十五分頃、日本大学病院で長男建日子(たけひこ)誕生。三千三百三十グラム。「赤ちゃんが来た・名前は建 日子・男だぞ・ヤマトタケルだ・太陽の子だ」迪子は出血多量で千百cc輸血で凝固能を維持。深夜に帰り母に伝える。朝日子は眠っていた。同九日、五時に目 覚め六時前に出て産院へ。迪子明け方にリカバリールームに移り落ち着いていた。事務室で手続きなど。「建日子」の名に事務では「次女」と間違い、訂正す。 安堵し出勤。三時で早退し母と朝日子に池袋「けやき」でしゃぶしゃ ぶ。禁酒を解き大いに祝い産院で建日子に初対面、大感激す。京都の父も喜ぶ。同十日、建 日子血小板不足で小児科特別乳児室に移る。同十一日、建日子入院手続きする。健常やや尿量少なし、対面すやすや寝ていた。同輸血分の預血返還を求めらる。 同十三日、富士預血センターで預血。向山肇夫、持田実・晴美夫妻も献血に協力呉れる。同十四日、朝日子熱発を押して産院に行きすやすやの建日子と対面、帰 宅後九度まで発熱深更に至り解熱。


同二十六日、母帰洛の切符用意。祖母が居 なくなり朝日子に やや動揺あるか、いじらし。よく頑張って助けてくれた。これからが親子四人の試練の時期となる。同二十七 日、母疲れて、帰洛、ほんとうによくしてくれた、 感謝に堪えない。朝日子祖母が帰るとオイオイ泣く。親孝行は子供たち が代わってしてくれる。「仏」主題の掌説を考える。 「仏」とは自分にとって何か。「書 く」方へ気力を向ける。同二十九日、迪子腹痛吐き気、朝日子頭痛、建 日子夜になって吐く。
    2004.01.08


* スキャンしながら日本の歌をCDで聴いていて、鮫島有美子の「遙かな友に」に突然声を放って泣いてしまった。なるほど「悲鳴」だと呆れながら。
 静かな夜ふけにいつもいつも 思い出すのはおまえのこと おやすみ安らかに たどれ夢路 おやすみ 
と鮫島は、美しく歌う。わたしが思い出しているのは「友」ではない、幼い日々の「娘」朝 日子、だ。この歌に日頃わたしは弱いが、何かが胸の奥で砕けたの だ。
 昼間、妻から聞いていた。もうだいぶ前になるが、妻は十何年ぶりに清水の舞台から飛び降りる気持で、久しい禁断の電話を朝日子にかけたという。娘が出て 第一声は「よかった」と。しかし母の声が聴けて、ではなかったのだ、朝日子の 傍に夫がいなくて「よかった」のだと娘は言った。それを聴いてわたしは黙って いたが、刺されるように傷ついた。そういう子には育てなかった……。
 それが胸に滞っていて、鮫島の歌で破裂した。どうしていいのか、分からない。   2004.01.23



 二十二歳もの年上、三人の子持ちの男と恋に落ちている娘瀬戸朝香が、なかなかのモノだった。等身大の落ち着きで、それらしき難しい立場の女を、グイと胸 をはりたしかに演じ、その勢いを幕切れ場面の感動に溢れた涙の表情で、セリフぬきにとても多くを見せた。力量も感情の付け方も立派。この、突出してリキの ある若い女優も、以前から、わたしのお気に入りの一人である。
 もうひとり、息子役は、あまり馴染みのない役者であったが、陰翳あり情味も自然に出していて、父親の眼からは嬉しい息子を、そして心配もさせる息子を、 巧みに提示していたから、わたしは感心した。岸部一徳の、二十二歳年上、三人の子連れ男、はいかにもという存在感と無言の演技で最後の場面をよく引き締 め、瀬戸朝香の感動演技を自然と引き出した。引き出したのは、両親の、ことに母親の、ここは「とにかく笑いましょう」という決断でもあったろうけれど。あ あいう場面で親はなかなか笑えるモノでない。

* このドラマの娘息子たちは、つい我が家の朝日子、建日子の姉弟を 想わせた。      2004.02.01


今朝、ふうっと気が付 いた。なあんにも義務的な仕事をもたないで居る日々が、もう、来ていたのだ。安心してそこへ到着したかった其処へ、わたしは着いていた。
 しかも今もしたい仕事は山のように有る。それが出来ている。退屈どころか。そして幸い、一病息災の夫婦の家があり、子や孫も、それぞれの場所に元気にい る。逢いたい人が有る。逢いたがってくれる人もいる。なにより、しょうもないものを沢山書いてみてなにになるだろう、金はいらない。好きな仕事でしっかり 稼いだ金があり、尽きようともそもそもごく貧しい新婚時代から、食卓もなかったようなアパート暮らしから、毎日歩んできた四十五年であり、そもそもあの時 代は不幸であったか、とんでもない。
 で、元へもどるだけのことだ、劇作家秦建日子もいるし、娘朝日子や 孫娘達もいる。   2004.02.07


 ☆ 叔母さん(恒平の母)が新門前に居られた頃は、父(船岡山の伯父)もよくお邪魔していたようです。 その 折に叔母さんから聞いてきたことを、私たちによく 話してくれました。恒平さんが結婚して東京へ行かれたこと、生まれたお嬢さんのお名前が朝日子さん、だとか。       2004.04.02


 ☆ どうか叔母様とともに、お体にお気をつけください。朝日子さんも建日子さんもお 元気でしょうか。草々 猛   2004.04.07

 わたしが医学書院に勤務し、白金台の公衆衛生院にせっせと取材に通っていた時分、人口問題の研究室の トップであられた林先生に叱られたことがある。その 頃我が家は娘朝日子だけのまだ一人子であった。それを聞かれた先生 は、温顔をにわかに謹厳に改められ、日本の重要課題の一つは人口の減少という前に「少子 化」の進行です。これがどんな難しい悲惨な情況を日本国にもたらすかは寒心に堪えない、憂慮すべき問題なのです。にもかかわらず、秦さんのような人がお子 さん一人でよしと諦めているなど、とんでもない。二人目をおつくりなさい、ぜひにと。
 四十年近くも昔である。日本の国は人口過剰で喘いでいるようにしか見えなかったから、わたしは叱られてなお推服しかねていた。ただ、冗談でチャラッポコ を言う先生でないことを信頼していたから、忘れなかった。二人目の建日子誕生を妻の危険を覚悟して迎えたのにも、林先生の助言に聴いたということが有る。 妻の健康に配慮すべきが多々有り、一度二度と出産を避けたようなことも、じつは有った。それを推して建日子(=タケヒコ。次女ではない、長男)は生まれ た。
 林先生の憂慮は掌をさすようにその後、社会の、政治の、大問題となってきた。   2004.06.12


* 大吟醸の「口吉川(くちよがわ)」が萬歳楽から届いていた。うまかった。濃厚に口柔らか。水のように 引けた。飲み過ぎそうで、やっと抑えた。建日子が 付き合っていたら忽ち一升の半分以上が吸い込まれていただろう。酒はうまかったが桜桃の代わりのアメリカンチェリーは今一つ口に硬かった。円卓を三人で囲 んで。よかった。朝日子の噂もした。  2004.06.17


* この感慨を、このまま、私も共有する。わたしは樺さんが殺されたすぐ近くをデモの渦の中にいたのだ、 国会は、あの夜民衆の波と怒号とに取り囲まれ、烈 しく動揺した。だが、われわれは勝てなかった。
 あれから、四十四年、それが、われらが長女朝日子の年齢である。あ の夜、妻は、生まれるすぐ前の娘をお腹に抱いて、私の帰りを、六畳一間河田町のアパー ト「みすず荘」で待っていた。  2004.07.01


わずか六世帯の社宅だった。会社へ近くはなかったけれど、鉄筋三階の三階ずまい、六畳と四畳半、狭いなが らも水 洗の手洗いと浴室はあったし、建物も真新しかったし、有り難かった。あの社宅の北窓の四畳半で、処女作を書き始めた。昭和四十四年(1969)の受賞後一 年ほどして、現在の下保谷に家を建てて移転した。
 あの社宅で、朝日子と建日子とをいっしょに両腕に抱き上げている写 真が好きだ。建日子はおでこに絆創膏を貼り、弟のそんな顔をみている朝日子の 笑顔が、 すばらしく優しい。可愛い。またやがて娘朝日子の誕生日がやってく る。  2004.07,14

* 娘朝日子の誕生 日。何歳になったろう。四十四歳か。華の三十も四十も、一目もみることなく過ぎてし まった。親二人で今朝は、例年の如く朝日子のため、 赤飯。一期一会。健康であれ、心身ともに。
  あはれともいふべき人は思ほえでみのいたづらになりぬべきかな  謙徳公
  人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける  紀貫之
 なにとなく口をついたままに書き記す。   2004.07,27



* 三輪の神様がほんとにお出まし? わたしを威している気かな。
 PL教団の花火は、いまは知らないが、三十余年昔、富田林まで娘朝日子と 二人招待されて行った年のそれは、驚くべき豪奢な大量の大花火で、美しさももと より、爆発音の轟きの深さと重さに圧倒され、朝日子などしまいに自分 のお腹をしっかり両手で庇っていた。あのころわたしは雑誌「芸術生活」の常連筆者だっ た、掌説や短篇や美術論を連載していた。「廬山」という佳いツクリの単行本が出来たのも芸術生活社からで、帯の推薦文を永井龍男先生に戴いたのが嬉しい懐 かしい思い出である。その肉筆の原稿もわたしが貰った。  2004.08.01


 建日子がこうして地道に自身の道を切り開き続けているにつけ、朝日子にも同じような生き甲斐を持たせてやりたかった、まだ遅くないよと言って やりたい。  2004.08.04


志賀直哉は、息 子さんとの共感や対話をたいそう大切にされていたように思われる。阿川弘之さんも佐和子さんとの丁々発止を好かれているように思われる。
 朝日子がちかくにいれば、もっともっと多くを娘からも得、娘にも話 してから逝けるのにと思う。身の回りにいただれもかもが、朝日子が、 いまの建日子のよ うな創作・文筆の生活に入って行けるだろうと期待していたのだった。正直の所、建日子の今日は(まだまだ、小さいものだけれども)両親共に夢にも想ってい なかった。ああ、そうかなあと想うのは「ハタ・タケヒコ此処にあり」というようになりたいと小学校からホラばかりふいていた、あれが「力」であったんだな あ、ということ。 2004.08.08


* 広範囲に強い風が吹き強い雨が降っている。みんな、怪我の無いように。建日子らも。朝日子達も。  2004.08.30


夢をいろいろ見ていた中で、しつこく「あらゆる水音の音符表現とその理論」という課題を背負っていた。
 またどこか部屋の中で立ったまま、娘の朝日子に、「後藤得三の孫」 のことを知らないかと尋ねられ返辞できなかった。後藤さんは宗家喜多実の兄であった能 の名手で、同じ下保谷に住まわれていた。とうに亡くなられている。気散じな聡明な奥さんがとてもよくお世話されていたが、たしかその元気な奥さんが先に 逝ってしまわれたのではなかったか。得三には子がなかったのだから、孫もいないはず。あるとすれば、一時期藝養子のように後藤の人になっていた観世栄夫さ んの子がそうとも謂えるが、栄夫さんには谷崎松子夫人の娘恵美子さんとのなかに二人か三人の子がある。そこまで繋ぐと、かろうじて夢で朝日子がそんなこと を謂う筋がついてくる。朝日子は松子夫人に可愛がられ、結婚式には主 賓としてお招きした。亡くなったときはわたしといっしょに馳せ付け最期のお別れをし た      2004.09.13


 『慈子』の書き出しはこんな風にして始まる。主人公の当尾(とおの)宏は、その妻迪子、娘朝日子たちが織りなすリアルな世界(現実の世界、約束事の世 界)と朱雀慈子と交わるイデアルな世界(絵空事の世界)との緊張関係のなかにある    2004.10.04


 大人になり月給などもらうようになって、休暇で帰ったある季節、両親と叔母と、こっちは夫婦とちいさ かった朝日子と、つごう六人で「かき春」をわたしが 奢った懐かしい思い出がある      2004.10.09


ママの「すまちゃん」は病気で、バーテンダーの「山ちゃん」に迎えら れ、一時間半ほどもユックリしてきた。朝日新聞の渡邊氏と初対面で、建日子の『推理小説』なども話題に、写真を撮ったり撮られたり、いろいろと楽しく話が はずんだ。この店へは、朝日子も建日子も連れてきたことがある。客を みる心眼無比のママに、朝日子と彼氏を連れて行ったこともある。すま チャンが渋い顔をしたのが忘れられない。
 「きよ田」「ピルゼン」「こつるぎ」また一つ、久しいなじみの銀座の名物店「ベレー」が閉店するのは、寂しい、と言うもおろかである。

       2004.122.10


 三十四年春に、上京し、入社し、それからはずうっと絶え間ないご縁であった。朝日子の誕生のときも、結婚式でも、優しく祝って戴いた。
 長谷川泉といえば、なによりも入社してそう間もなく、編集長の激職のまま国文学の久松潜一賞を受けられた。新聞報道に、わたしは驚愕した。研究の中身が 何であったかよりも、受賞の事実に驚いた。長谷川さんのようにあんな忙しい人に、社内の仕事とは縁の遠い「国文学の業績」が現にあり、現に立派に顕彰され ている。会社の仕事に追われて、その日暮らしなどしていられない、と、わたしは秘かに烈しく奮発した。    

悲しく思ったのは、長谷川さんが、長く病牀にあったと聞く奥様をこの晩秋になくされ、そのわずか十日か二 週間後には追われるように急に心不全を起こされ たのだということ。十二月十日であった。あの日、数十年ぶりの婚約の日を祝ってわたしたちは国立劇場で高麗屋の「勧進帳」を楽しんでいた…。
 お美しい奥様であった、ひところはむしろ長谷川さんの方が奥様の介添えで会合になど出て来ておられたのだ、朝日子の帝国ホテルでの結婚式の日が、そうで はなかったか。お気の毒な悲しいことを今日わたしは聴いたのである。胸ふさがったなどと云うもおろかである。
       2004.12.24


* 昨日、嫁がせた娘朝日子の 「メール仲間」であると名乗る未知の人から、「朝日子さんは元気にし ていて、いまは自分た ちの仲間の掲示板に小説を毎日 少しずつ書いています」と、わたしにメールが届いた。
 えッ、小説…。
 朝日子が「ものを書く」のは、弟の建日子が書くのよりも「よく分か る」と云いたいほど、もし姉弟でものを「書き出す」なら、100対0で姉の方がと、我 々も思い、そう観てくれている編集者も何人もいた。姉娘の作の一端は、「e-文藝館=湖(umi)」に示されてある。必ずしも身贔屓で載せたのではない。

* 現実は、まざまざと「逆」になった。弟の方は、すでに舞台の作・演出から、テレビの連続ドラマの脚本から、今度は真ッ当にカッコよく処女小説まで出し て、好調に版も重ねている。
 親しい人たちの誰の思いにも、もし姉の朝日子が書いていたら、また 異なる方面で落ち着いた作品へ向かっていただろうにと、想いも、言いも、し続けてきた のである。父親のわたしが、そうしたかったのでは、ない。本人がそうありたいのなら、「本気で書きたい」のなら、心行くまで書かせてやりたいなあと想って いた。むろんそんなもの「書かなくても」よろしい、構わない、イイ、のである、「人生いろいろ」なのだから。ちなみに娘達は東京都の神奈川寄りに暮らして いる。
  2005,01,03

 ☆ 私、現在でも彼女とはメール交換しております。彼女のお家にも平和な正月がやってきております。
 お二人のお子様もお元気なご様子です。
 今、朝日子さんは小説を書いております。「書いている」といって も、某電子掲示板に毎日少しずつです。その電子掲示板に集う皆さんと楽しく拝見しており ます。***好きの仲間が集う掲示板です。
 やはり血は争えないものだと感心しております。
 以上、簡単ではありますが、彼女の近況報告まで。  朝日子のメール友達  関西

* 「掲示板」に書かれる「小説」なるもののおよそ実状が如何なものか、関心のあるわたしは、少なからず知っている。「編集者」の濾紙を経てこない創作ま がいの無惨さを本気で嘆息するところから、わたしは、自分の「e-文藝館・湖(umi)」という文学雑誌を始めていた・いるのだから、朝日子の「某掲示 板」 を心配したのは、あたりまえである。せめて何かの同人雑誌にに加わったとかいうならまだしもと、真実ヒヤリとした。
 娘の、多少なりとまともな文才を知っている父親、(実は安んじて二度ほどわたしの名前で代筆すらさせてみた経験のある父親)としては、雑文は知らず、 「小説」ばかりは、まともな姿勢で書いて欲しい、誰よりも「本人の為に」と愕いたのはムリではないだろう。その気持ちが、こういう返信になる。

* 朝日子が何をどう書いているか、書けているか、読みたいと思いま す。作品をダウンロードして、そのまま「転送」して下さいませんか。題材によって気に なさるかも知れませんが、「読み手」としてもプロです、私情で動揺することはありません、安心して下さい。
 此の「小説を書いている」一件に関しては、作を「読まないうち」にともあれ率直にいうなら、そういう場所に、毎日「小出しに書く」と いう「方法」は、極めて危険だというのが、わたしの実感です。そんな技量は簡単には持てないものです。
 よく「書く」ためには、孤独と挫折感に耐えて堪えて書き抜かねば、初心者ほど所詮は浮ついた作文で終わりかねない。立派に小説を「書く」気なら、風船の 空気を針の先で少しずつ空気抜きするよなな方法ほど、危険なことはない。場合によると、自己満足だけを増長させ、無意味に傲慢に陥らせ、その域から抜け出 せなくなってしまうのです。心配です。

* しかしながら、今や、その朝日 子が、弟に刺戟されてか無関係にか、それはどっちでもいいが、こと小説 を「書く」気になって現に「書いている」というの では、無関心でいられない。少なくも、読みたい。
 わたしは朝日子の文才を、或る程度公平に肯定している。小説はとも あれ、優れたエッセイや、かなりの批評・評論は「書ける」と感じていた。敢えて、代筆 までさせてそれを心見たこともある。
 わたしだけではない、何人もの人が、今でも暗に彼女が「書く」ことを期待してくれているのを、私も妻も知っている。
 そして誰より朝日子自身、そのための才能は、「書く」より以外に、 たぶ ん無いとすら知っていただろう。

* だが、いざ「書く」となれば、文学・文藝は安直には行かない。幾百回の挫折と失望に堪えねばならない。安きに逃げだしたら、元へ戻れず、戻れないこと に「言い訳」をし続けねばならないのである。「言い訳」は大概他者へのなにかしら転嫁に流れ流れて行く。弟の建日子は、そういう「言い訳」から、ほぼ脱却 した。

* 下記のメールの文章が、あたかも朝日子の「理解者」のつもりで、 親切に書かれてあることを、わたしは疑わない。
 しかし、わたしは、父として、作家として、批評家とし、て編集者として、、これでは朝 日子を、より痛ましいところへ追い落とすようなもの、スポイルする ものと感じ、「暗澹」とするのである。
 朝日子の気持ちを、この人はやすやすと「代弁」しているつもりらし いが、メールだけの付き合いにはヴァーチャルな限界がある。それもわたしはよく知って いる。
 
 ☆ 朝日子さんが書かれる文章についてなのですが、お父様の言われ ておりますような『立派に小説を「書く」気』というものとは全く違った性質のものだと思 います。これを本にして出版するだとか、本気で小説を書く(プロのように)というものではなく、気楽に日記を書くように書いていらっしゃいます。ご自身、 楽しみながら書いていらっしゃいます。登場人物を私たちの仲間にして楽しんでいらっしゃいます。おそらく、お父様のお考えになっている「小説」とは全く 違ったものです。
 以前、朝日子さんは文章を書くのを極端に嫌がっておりました。「文 章を書く」ということを恐れていらっしゃいました。その朝日子さんが 電子掲示板に文章 を書き始めたのです。以前の朝日子さんなら、文章を書く前にお父様の 仰るような難しいことを考えてしまい、旨く書けなかったのだと思います。
 今、朝日子さんは、そういった、小説を書く上での難しい、いろいろ なことから解放されて、自由気ままに書いていらっしゃいます。誤字脱字も一向に気にし ないで、推敲もほとんどせずに、自分の気のおもむくまま書いていらっしゃいます。私はお父様とは違い、それでいいと考えております。彼女は小説家でも脚本 家でもありません。
 普通の我々が作文するように文章を書けるようになったのです。それはむしろ喜ばしいことだと思います。
 とんでもなく失礼な物言いになってしまいますが、朝日子さんが普通 に文章を書けなくなってしまったのはお父様の影響が大きいのだと考えます。彼女は、よ うやく、そこから解放されたのです。彼女は小説家になる気はさらさらありません。断言していらっしゃいます。

* 「お父さんや弟さんにならんで、あなたも小説家にならないのですか」と、仮にこの人がもし尋ねたとして、「なる気はさらさらない」と答える以外にない 谷間へ、上のメールを読むと、まさしくこの人達が「親切」に引きこんでいるに過ぎない。
 「普通の我々が作文するように文章を書けるようになったのです。それはむしろ喜ばしいことだと思います。」
 ところが、朝日子の自負と喜びとは、まちがいなく、例えばわたしが 「e-文藝館=湖(umi)」に載せておいたエッセイや詩(「ジャン・ムーラン公園に 革 命二百年の風が吹く」 「詩集 小さい子よ」 「ねこ」)にある。それらは、「文章を書く上での心構えとかテクニックとかにとらわれずに」はとても書けない「才能」の片鱗を見せていた。
 「朝日子さんが普通に文章を書けなくなってしまったのはお父様の影 響が大きいのだと考えます。彼女は、ようやく、そこから解放されたのです。」
 朝日子にわたしは、このメールの人と同じ程度の、「普通に文章を書 け」などと、一度として勧めたことがない。それでは、「いい書き手」になり「いい文 章」を「書きたい」であろうと察していたから。
 もし朝日子が、そういう暗黙の教えから今は「逃げだそう」としてい るなら、(それは前も前からかも知れない。)それが彼女の「幸福」に結びつくのなら、 むろん自分で決めたり選んだりすればいい、それもまた、逃げだす「言い訳」のひとつでないといいがと願うばかりだ、他者の強いていいことではない。
 「解放されて、自由気ままに書いていらっしゃいます。誤字脱字も一向に気にしないで、推敲もほとんどせずに、自分の気のおもむくまま書いていらっしゃい ます。私はお父様とは違い、それでいいと考えております。」
 朝日子の、まだ、何をするにも「間に合う」人生を、上のような「そ れでいい」と断言できる、どんな足場をこのメールの人は、もっているのだろうか。明ら かな、安易なスポイルではないのか。かけっこをするとか、将棋をうつとか、カラオケで歌うのならそれでもいい。だが朝日子には、ほぼ唯一自負の拠り所かも 知れぬ「書く」ことで、此処に言われてある「ありさま」は、やはり、わたしには、(親バカであるが、)ただもう痛ましいのである。

* 「本になる」「プロになる」などということは、本質的にメではない。それは努力と幸運との一つの結果に過ぎない。素人が書こうが玄人が書こうが、「い い作品」はいいのであるから。そんなこと朝日子はイヤほど知ってい る。そしてその上で朝日子は、成れるものなら「小説家」や「脚本家」 や「エッセイスト」 などに、誰よりも誰よりも、成ってみたい人であった。
 だが、ただ「成りたい」「成りたい」だけでは作品も生まれず、幸運も未だ来ていないのは、当たり前。
 もしいよいよ「書く」気がホンモノなら、朝日子は、ひとり、ひそか に、ワードでも一太郎でもいい、今から十年、努めて向き合った方がいい、と、わたし も、母親は、思っている。応援は惜しまない。

* この、顔も知らない、住所も何も知らないメールの人は、明らかに「親切な人」であろう、こういうことを言ってきている。 

 ☆ 解っていただきたいことは、私が中途半端な物言いになってしまうのは、朝日子さ んが、私がお父様とコンタクトをとるということに強い拒絶反応をしめさ れているのです。
 それでもなお、私がお父様に朝日子さんの近況をお知らせするのは、 「これは正常な親子関係ではない。朝日子さんにとってもご両親さまに とっても不幸な事 だ」と考えるからです。お父様が朝日子さんのことを案じていらっしゃ るのなら、今は、朝日子さんをはじめご家族が健康で幸せに暮らしてい らっしゃるという ことをお知らせしたかっただけのことです。
 だから、彼女のプライバシーに配慮しながらぎりぎりの選択をおこなっているということです。私自身、つらい思いをしながらメールしております。
 よけいなお世話だったのかもしれません。差し出口、申し訳ありませんでした。
 ただ、朝日子さんは、お母様とは連絡をとってもいいような口ぶりで した。そっとしてあげれば、時期が来れば、お母様にはメールをされるのではないでしょ うか? 私からも、お母様と連絡を取るように、折を見ては言うように心がけます。

* ああ、これに似たことを、この何年、何人も何人もがわたしたちに言い掛け、しかし、わたしたちは、わたしは、全く取り合わなかった。
 なるほど、上のわたしの「物の言いよう」からも知れるように、はっきり言って、「書き手」志望の朝日子に、はわたしが大きなプレッシャーだったのは分か るだろう。てんで「書き手」になるなど思いもよらなかった弟建日子ですら、「おやじにポロカスに言われる」のを「いつもいつも一番気にされてました」と彼 の担当編集者は笑っていたし、わたしも笑った。
 しかし、わたしは終始コウヘイだったと思う。ダメなものはダメといい、いいときは快く褒めている。褒められることが現実にふえて安定してきたから、弟の 方は今ではとても和やかに、自信すら持ってオヤジの批評をむしろ「アテ」にしてくれている。ひょっとすると、誰の批評よりも、かも知れない。父親はそうあ りたいと考えてきた。そう言う意味でわたしは甘い父親なのである。
 わたしが安直に甘いことを平気で言うか、それともてんで無関心だったら、彼秦建日子は、否応なしに業界のいいかげんさにわるく安易に泥(なず)んで行っ てたかも知れない、それがアタリマエなんだ、と。
 せめて、「自分に恥ずかしくない、本気の<仕事>をしてくれよ」とだけ、わたしは、いつもいつも「お願い」してきたのである、基本的には。 「普通」の「尋常」な創り手にはならないで、と。

* 「正常な親子関係ではない」? 
 それは、私には、たぶん朝日子にも建日子にとっても、「大きなお世 話」なのである。「不幸なこと」とは、人に言われて知るのでなく、また人目には「不幸 そうなまま」、が微妙にとても大切なことも、場合も、有る。そんな人間の機微を無視した、ムリに割り切ったこの人達のこんな割り込みを、わたしは、逆に 「どうしてそうなるの」と、腹の中で反問してきた。愛憎は、表裏でトータルなのである。幸不幸も同じである。
 そもそも「私がお父様とコンタクトをとるということに強い拒絶反応をしめされている」など、当然のハナシで不思議でも何でもない。そうすることで朝日子 なりにバランスをとり、わたしたちにバランスをとってきた。その必要があったし、それはこの人には分からない。「ご親切」は感謝するが、なんで又…と、こ れにも怪訝な思いが、ある。
 少なくも「書く」ということについて、上の程度「の考」えでただ仄めかすようだけに、わたしの耳に入れ目に入れては欲しくなかった、それは、酷い、ただ 暗澹とさせることだった。それは朝日子自身がするかしないかの問題 だ。

* むしろ、それぐらいなら、朝日子のメールアドレスを教えてもらえ れば、先ずは母親が、喜んで娘と毎日語り合いはじめるだろう。その辺が普通にいちばん 具体的な親切というものではないか。
 かなり世間とは度はずれている「もの書き親子」の「仲介」など、お気の毒であった。無理なことで、ほとほと申し訳なかった。

     2005.01.03


* わたしが自分で撮ったなかで心から懐かしいスナップの一枚は、あれで娘・朝日子がせいぜい三つかそん な頃の、京の祇園祭り。
 今にも家の前を神輿が通るだろうという縄手通りで撮っている。家の前に床几が出してあるが、女達は、みんな立っている。朝日子も母親も、われわれがそれ は大好きだったその家の娘の*ちゃんも、二人の若いお手伝いさんも、みんな、いかにも涼しそうな普段着で、浴衣すら着ていない。
 道の向かい側から撮ったのが、思い思いの恰好でとても自然に写っていて、和やかに心すゞやか。まんなかの龍ちゃんは、愛らしい半袖の白いブラウスに淡泊 なスカート、庭履きのサンダルですらりと立って。あれでもう大学生だったか。品よく、静かに愛くるしく、いささかの気取りもない。若かりし妻もおさない朝 日子を見まもって、なんとも楽しそうに。もうやがて神輿がくる直前の祭り景気が写真にただよっている。
 あれで、「慈子」の原作をもう頭に置いていたろうか、まだその前か。あの頃になら、よろこんで戻りたい。親ばかながら、朝日子がほんとに可愛かった。    2005.04.24


先 生は顔を曇らされ、「秦さんのような家庭が、子供を一人しか持たないとはいけません」と、それから暫くの間、日本の人口の確実に減少して行く大きな不安に ついて話されたのである。
 正直なところ、わたしはビックリしながら、むろん林先生が本気で言われているのを疑いはしない、が、確かに「実感」はもてなかった。なにしろ当時の日本 は、どうなるかと思うぐらい人口膨張の一途だったから。
 しかし、わたしたちは、やがて、建日子の誕生を期待した。人口問題からではなく、姉の朝日子が一人子のままでは寂しかろうと考えたのである。    2005.05.02


都電 の最寄りの停留所「若松町」から、ゆるやかな坂を「北町」方面へおりてゆくと、映画館は電車道の左にあった。小さかった。あのアパートに昭和三十四、五の 両年暮らしていたから、「おはよう」もその間のいつかに観たわけだが、朝日子が 生まれるまぎわやアトでは妻と歩いてそこまで映画を観に行くまいから、封切 りの時であったろう。   2005.06.30


わたしが、早くも文壇への忌避のおもいをもった、あれはまだ「蝶の皿」から「畜生塚」あたり、で桶谷さん は「畜生塚」を、また『慈子』を、 とても大きく褒めてくださった。つまりわたしは文壇に引き留められたのである、が、村上さんもまた毎年末の各種アンケート等でわたしを推奨してくださっ た。
 私的にも批評家と作家といった関係であるより、人として愛されたというよろこびをわたしは感じていた。自決される直前には、ひょっこりと我が家ヘまで徒 歩で訪れられ、たまたま朝日子のために雛人形を壇飾りしていた前で、 わたしの点てて上げた抹茶を、それは嬉しそうにゆっくり美味しそうに一喫され、そして にこやかに帰って行かれた。わたしたちは、何の異変も感じていなかった、のに、すぐ覚悟の自裁があった。
 仰天しまた悲しんだ。          2005.07.01


* 七月には娘朝日子が、 指折り数えて四十五歳の誕生月。晴れやかに心行く日々を健康に過ごしていて欲し い。ものを見ていても、街にいても、朝日子ににた 人影をみるとつい目で見送っている。孫達も元気かな。   2005.07.16


* 
そういえば、日付も変わり、今日は、娘朝日子の四十五歳 の誕生日です。おなじ東京に住んでいながら、もう十五年もお互いに顔が見られないでいます、それぐらいが悲しいことでしょうか。でも、それも日頃はきれい に忘却しています。
 今日は、娘のために赤い御飯を、父親と母親と二人で祝ってやります。今年の暮れには、わたしも古稀を迎えます。フーンという気持ちです。    2005.07.26


* 四十五歳になったはずの娘朝日 子を祝って、朝一番に、妻と赤飯を祝った。心すこやかにいて欲しい。

* 古稀などという二字がわがことに迫り来るとは、かつて一度も思いもせず実感もしなかったのに、ゆうべ、妻と朝日子の年齢を数えていて突如自分が古稀に と仰天した。暢気な話ではないか。   2005.07.27


* わたしは一日がかりで、写真と組み討ちして、何をどうやって組み伏せたかまったく自覚なく、とうどう一枚の写真を、「e-文藝館=湖(umi)」創作 欄 の、朝日子作の詩「回転体の詩 小さい子よ」のなかへ装填した。わた しの撮った夥しい数の写真の中で、ことに懐かしい我が子らの写真である。
 さあまたやれと言われても同じように悪戦苦闘するだろう。なにが決め手で出来たのか、分からないがいい気分である。「森」のように暖かい親切を呉れた 「神さま」に感謝する   2005.09.23


* 「e-文藝館=湖(umi)」冒頭に、わが近親中の死者たちのためにと「創作」をとりまとめている章がある。中に、娘秦朝日子の三つの作品が入れてあ るが、それへ写真を入れてみた。朝日子のごく幼い日の写真、成人して の写真と、プロフィールとを、それぞれに入れてみた。建日子の生まれるまでを書いた妻 の「姑」という作品には、その秦建日子の一歳前後の写真をいれてみた。
 卒業生「森林」君の熱心な後押しをえて、ようやく念願の操作に成功したという次第。   2005.09.24


☆ 湖さま  HPを拝見して、初々しい朝日子さんに初めてお目にかかりました。それから、桜の元のこぼれるような笑顔 にお目にかかることができました。   2005.09.25


* 集英社版『人物中国の歴史』の第七巻に「徽宗」を書いているが、実は二十歳になったばかりの娘朝日子に代筆させた。もう一つもう少し前の巻に「李陵」 一編も、朝日子が代筆している。昨日今日、その「「徽宗」を電子化し 校正しているが、二十歳の筆としてはじつに丁寧に調べ適切に表現している。たんなる解 説でも紹介でもなく、読み物としても読者の気を惹くにたる親切な、しかも行儀の良い文章で書き通しており、親ばかが、今にして喜んでいる。代筆させてわた しは少しも恥を書いていない。たいした原稿料も遣らなかったけれど、今にしては、書かせてやれて良かったと、あの時と同じように感じているし、この子には ずうっと書き続けさせたかった。ほんとうに惜しいことをしてしまった。「e-文庫・湖(umi)」に残しておいて遣りたい。   2005.10.05


* 朝日子著作の 「徽宗」をスキャンして読んでいるが、よくこれだけを二十歳前に書いたと、正直の所おどろいている。独創性をいうのではない、課題が「人 物中国の歴史」の一人なのであるから、根底は「調べ仕事」になるが、調べたことをどう表現するかは才能である。朝日子には、穏和な文章のこだわりなさと、 調べ仕事をナマのままに書き並べて済ませない、強いていえば藝術的なセンスが育とうとしていた。
 小さいときからいろいろ書かせて、どのように推敲するかを教えていた。この一文は、二十歳になったときの、父親へ提出した卒業論文なのであった。平明に 書けたいい文章を読むのは楽しい。いま楽しんでいる。
 お茶の水女子大の卒業論文は「ムンク」であった。これも読み直してみようと思う。やす香を抱いてパリで暮らし始めた記念は、いま「e-文庫・湖 (umi)」に載せてあるが、「パリ通信」という私信めく文集も朝日子は 保谷の家に置いている。これも読み返して復刻しておいてやりたい。
 朝日子はいま碁打ち仲間との交信を楽しんでいるらしい。碁にふれた 川柳だか俳句だかのコンクールで、末席の方に駄句を入選させている。そういう境涯もま た心身健康ならいいであろうが。    

* 朝日子の書いた 「徽宗」をスキャン校正し終えた。ほう、といろいろ教わった。よく調べ、よく参考文献をかみ砕いて、二十歳の筆とは思えない、気負わず ゆったりと書かれた、しかも悲惨な一皇帝の人生であった。この皇帝の悲惨は自ら招いたと言えなくない。君臨する人としても政治家としても、最低に無責任な 皇帝だった。そんな人物がなぜ「中国のルネサンス」と題した一巻に数人の一人として採り上げられるか。彼の稀有の藝術家たる才能のゆえである。彼の宸筆と 確認される「桃鳩図」は我が国愛好の国宝に指定されている。朝日子は、 その辺をよく調べよく考えて評価し、興味深いエピソードなども採り入れて、ほう、ほ うとわたしを喜ばせた。
 同じ『人物中国の歴史』で、もう一人、「李陵」に就いてもわたしは朝日子に 代筆させている。それも読み直してみたい。せいぜい大学一二年の時にこれらを 書いた。原稿料名義のお小遣いも欲しかったのだろうが、今となればそんな金銭づくは意味薄れて、これを、これらを朝日子は間違いなく「書いた」ことが大き い。青春の意気が生彩を放って此処にのこっている、それが大きい。父親の身贔屓でなく、そう思う。   
2005. 10.07


* 秦朝日子が二十 歳で父のために下書きした「ある皇帝徽宗」を「e-文庫・湖(umi)」の創作その他の欄に掲載した。ほどなく二十歳になろうとする孫 娘やす香 に母親の文章を贈りたい。   2005.10.08


* アラン・ドゥロンとマリー・ラフォレの「太陽がいっぱい」は、朝日子の生まれた年の映画。わたしは敬遠していて観たのは初めて。
  2005.10.28


 一年後、妻が朝日子をもう産もう という頃、わたしは労組の仲間たちと、連夜国会前へかけつけ、歴史的なデモの渦巻きのなかでは東大生の樺美智子さんが警 官達と揉み合って死んだりした。わたしは、怒号渦巻くそんな中で、処女作となった「或る折臂翁」のことをしきりにしきりに想いつづけた。新豊の折臂翁。白 楽天のその長詩は、少年の昔から気になって気になっていた、佳い詩、反戦の思想詩であった。具体的な表現でわたしを捉えて放さない。   2005. 11.19


* 七十という年齢へあと一ヶ月。あいも変わらず不安な日々を送り迎えて此処へ来ている。恥ずかしいと思 いもしない、こういう自分なのだもの、しようがな い。小一時間のうちに、出かけて谷崎先生の代表作を舞台でみてくる。朝日子 のサントリー美術館への就職が決まったとき、浜町の料理屋で、お世話になった松 子夫人らを慣れない気分でぶきっちょにご接待した昔を思い出す。
    2005.11.21



 朝日子の生まれた昭和三十七年頃までぽつぽつと歌作はあったけれ ど、以降小説にすっかり心をうつして、久しく離れきっていた。
 それでも、つぶやくようにときどきにその辺の紙切れに短歌を書き付けてはうち捨ててしまう。  2005.12.13


* 「三人で帰れよ」と夫人の渡航を祝ったのが、正夢に。よしよし。どうぞ慎重に、しかし萎縮しないで普 通に生活し、元気な「ヨーロッパ赤ちゃん」と、親子 して抱き合ってもらいたい。
 朝日子の、また建日子の生まれた昔を思い出す。
 親になる。それが本当の意味の「第一歩」になった、わたしの場合は。子供達の「存在」がわたしを限りなく誇らかに励ましてくれた。

    2005.12.14


 ☆ 古希を良いお祝い(=歌集文庫『少年』)迎えられおめでとうございます。
 掌にすっぽりと収まってしまうご本が新鮮に感じられます。また今までに読ませていただいたときより一首ごとに心に染み入るように思えます。先を読み続け るのも勿体無いような、でも秦様の以前のお気持ちを思えるようで、私には迪子様、朝 日子さま、建日子さまのことも。つい読みふけってしまいました。
 側において何度も読ませていただきます。  2005.12.17



* 秦の母の写真でいちばん好きな一枚は、階下の仕事場、よく見える場所に無造作に置いてきたが、此処へ入れてみたくなった。飯能にまだ東雲亭という料理 旅館があったとき、孫娘朝日子の小学校入学式を楽しみに上京した母を 連れて出かけた。辺幅を飾らない人であった。従妹「のばら」の血縁の叔母にあたる。明治三十 四年生まれであったから、この時はハテ幾つであったか。
 飯能東雲亭での母タカ 
 昭和四十二年四月九日 朝日子の小学校入学式に上京  (割愛)  2005.12.25


* 「看護学雑誌」編集の頃の看護婦さん筆者の一人。わたしより少し年輩。数十年の懐かしい仲良かった友でもある。この人ものちのちエライ看護学研究者として 大学の教壇に立っていた。朝日子が、わたしの注意を尻目に弓を引いた りバドミントンをやりすぎ、右の肱を傷めたとき、日赤へ入院の世話をしてもらったの が、この人。滑り台から落ちて腕を折り東大に入院したり。盲腸炎の術後をこじらせたり、朝日子もあれでけっこう吾々を心配させた。たくさん喜ばせて呉れも した。  2006.01.07


* 「新しい書き手」の小説が舞い込んできた。一挙に三作。一番長いのは、三、四百枚ほどあるだろうか、それを読み始めている。
 ユニークで、筆はよくこなれている。「のようというのだ」などに気配りして推敲すれば俄然佳い作品に纏まるだろう。コンピュータを作中にとりこんで、リ アルである以上にシュールな構想と味わいに才能を感じる。くどい書き方でなく、行間に不思議な風が流れている。不思議な異界へ爽快に流されてゆく感じの、 「e-文庫・湖(umi)」には、かつて例のない、あるとすれば昔、娘朝日子 の書いた文章の感じに似ている。読み進めるのが楽しみ。   2006.01.17


* 小松の井口哲郎さんの作、昭和三十六年また三十九年に放送されていたラジオドラマの脚本二作「能登の 火祭り」と「ホトケの後裔(すえ)」を戴いて、お もしろく読んだ。
 昭和三十六年八月の放送なら、わたしたちは娘朝日子を育てながら、 新宿区市谷河田町の 「みすず荘」から北多摩郡保谷町の医学書院社宅に移ったころであろうか、わたしが処女短編「少女」や中編「或る折臂翁」を書きだすまでに、もう一年ほど間 があった。

  2006.01.26


* 十数年両親とは離れている娘朝日子が、 自分のブログで「小説」を書き始めたことを、弟の建日子に報せてきて、それを建日子は誰のサイトとも言わず、わ たしに報せてきた。
 誰のとも分からないあやしげなブログになど触ってみる気はないと返辞すると、まあ、そう言わず覗いてくれと強って言われ、建日子自身の「隠れ書斎」なの かと思い、あまりお遊びに手を広げていないで、当面の大事に一心に集中したらと返辞した。電話がすぐ来て、「朝日子が書きだしたんだよ」と言う、わたし は、びっくり仰天した。作品の出来がどんなであれ、嬉しかった。
 読みにくいブログ原稿を、長い時間と手間をかけ、読みやすく一太郎に転記して読んでみた感想は、この「私語」に、つづけざま、たくさん書いた。何度も書 いた。しかし朝日子の作品だとは言わなかった。言えなかった。弟が父 親に伝えることを、姉は、朝日子は、「厳重に禁じている」からだと建 日子は言う。それ でも建日子は伝えてきたのである。
 朝日子は、それを予想しなかったろうか。わたしに伝わることを期待 していなかったろうか。朝日子は、以前からわたしのホームページは見 ているのである、 それは分かっていた。わたしが、今度の朝日子三作品を珍しくたいそう 褒めている、評価していることも知っている。そう思う以外にない、直接に確認出来ない が。そしてその事に関して、姉が弟のところへ「なぜ親に伝えたか」と、怒ったり、苦情を言ってきたりしていないことは、妻から息子に確認して、分かってい る。
 朝日子は問題にしていなかったようだ、が、建日子は、姉弟の関係が わるくなるので、おやじたちはあくまで知らないことにしておいて欲しいと繰り返した。 親心として、なかなか理解しにくいことだった。

* 一月二十八日、朝日子の二つの仕上がり作品を読み終えた時点で、 わたしは、嬉しい気持ち、驚きの気持ちを建日子にメールした。全文を挙げる。

* 建日子へ  父
 この間は、朝日子のメールもともに、朝日子の「創作」を読む好機を 贈ってくれて、心より礼を言います。
 朝日子が碁の仲間との、チャットか掲示板かに「ちょこちょこ書いて いる」という情報は、彼女の碁友という男性から、ちょうど去年の今頃に報せてきていま した。
 わたしは、そのとき、書いている「そのもの」を一部でも読みたいと頼んだのでしたが、朝日子を憚って、何処に書いているとも、此のようなものとも、見せ てはもらえなかった。わたしは失望のあまり、朝日子には細切れの空気 抜きのような文章は書いてほしくないのです、しっかりしたものの書ける力があるのだか らと、やや八つ当たり気味の返辞をしたものです。
 今度、四百枚前後の長編『こすものハイニ氏』(わたしの付けた仮題です。原題は「こすも」)と、百三十枚ほどの『ニコルが来るというので僕は』を、多大 の興味をもって通読し、正直、感嘆しました。
 この二作とも、初稿のままでしょうが、水準をしっかり超えた、慎重に手を入れれば独り立ち可能な、売り物にもなろうと思う作品でした。
 両作とも朝日子の仮名・無署名のブログに、一日も欠かさず書き継い でおり、前者は十ヶ月も連載し、構想的に大混乱させることなく綺麗に書き切っていま す。文章も、せいぜい一度二度の推敲でぐんと良くなるほど、朝日子本 来の文章センスが生きていました。一種独特の魅力を、ファシネーションを、はんなりと 発揮していました。まがうかたない才能の所産でした。
 後者の中編は、今年の建日子誕生日に脱稿されていました、贈り物として上等なもので。文学賞に佳作入賞してもおかしくない、ピンとした、ロマンティツク でもあるが不思議な批評性を根に秘めた一編の物語、かなり独特なものでした。父は感心しました。
 朝日子と逢えなくなって十三年ほどですが、じつに嬉しい「再会」で した。
 十数年、わたしには、朝日子にも書いて欲しい、書けるのだから、と いう信頼が強く根づいていました。弟が活躍すればするほど、へんな雑念はもたず無心に 「書き表す」嬉しさを朝日子にも味わって欲しいと、それこそいつもい つも思い、母さんとも話し合ってきました。
 朝日子は、その願いを、大晦日も正月もなく少しずつ書き続けるとい う、父さんの思い通りの仕方で、無欲に無心に新世界を紡いでいたた、書きつづけてい た。完成度のかなり高い、ユニークな文学世界を。
 あの悲劇的な醜悪な事件このかた、こんなに嬉しいことは初めてです。自発的に「書いた」「書き続けた」「よい作品になった」のですか ら、父は、言うことなしの満足で、感謝です。
 作品の感想は、父だからという身贔屓なしに、一人のきつい「読み手」としての平静な批評です、称讃です。ウソは言わない。
 こんな喜びを、建日子の配慮から得られたことに、もう一度お礼を言います。おまえからも、さらに励ましてやってほしい。
 これらの作品は、好機を得て、よく出来る親切な編集者に読んで貰いたい気持ちです。
 方面の全く異なった「創作」で互いに屹立出来るかも知れない 秦建日子と秦朝日子。  おまえはヘキエキかも知れないが、父さんと母さんの夢が一つまた出 来ました。しかしそんな世俗のことはともかくも、朝日子が期待通りの 力を発揮していたこと、それも肩に力の入らない清明な纏まりのいいものを、なにより自 発的に書いていてくれた事、で、わたしは大満足です。嬉しい。
 もういちどこの弟と姉とに、感謝します。 
 建日子。さしつかえなければ、このメール、朝日子に転送してやって 下さい。  父
 朝日子。あわてなくてもいい、書きたいこと、書かずにおれないこと を、しみじみと、心行くまで書きなさい。苦しみをも楽しんで。  父 

* 建日子は、だが、朝日子にこのメールは伝えない方がいいと言って きた。よく理解できなかったが、作品への称讃やわたしたちの喜びは、ホームページを通 して伝わるのだからと諦めた。
 母親は、妻は、朝日子は父親のホームページを見ているのだから、そ れを通して話しかけてやってと提案し、わたしもそうしようと思った。このメール時代 に、なぜ朝日子とわたしとの間に「個と個」との対話や交感が不可能な のか、建日子にずっと以前から頼んできた「朝日子のメルアド」をなぜ 教えては呉れない のか、ほとほと理解できなかった。もし親と姉娘とを引き離しておく必要が有るのなら、朝 日子の小説ブログをわたしに強いても教える建日子のはからいは、真 意が汲みにくかった。

* そのうち予告通り、二月一日から朝日子の新作がはじまった。だ が、(起こる頃だと)心配していた「運び脚の重さ」や行文のちいさな「杜撰」が重なり見 えたので、早く注意して、より良く書いた方がイイと思い、妻も賛成していたので、「私語」として、作品書き出しの一部に、すぐ気の付くダメ出しを、具体的 に書いた。むろん朝日子の作に、とは、ひと言も触れなかった。
 だが建日子は折り返し咎めてきた。自分は、弟は、即座に姉に対し、父にサイトを報せた「信義違反」を「詫びました」と言ってきた。咄嗟に、この際もっと 大事なことがあるのにと思った。大事なのは姉弟の関係というより、これを好機に、朝 日子と親たちの多年「喪ってきたもの」が回復出来ないか、みなで深切に 情意を尽くすことではないかと感じた。もともと、吾々一家と朝日子と の間に、何一つ喧嘩の種など無かったことは、経緯に照らして明瞭なのだから。朝日子は 「状況」に対し殉じたのであり、わたしは理解していたから、それでよいとして、朝日 子に向かい久しく一指も動かさなかった。古稀に辺り歌集『少年』を妻か ら送っただけである。
 ところが、わたしがホームページに、すべて、ああいうことは書かない方がよかったと建日子は断定する。父親の「独善」だと。朝日子は、「少なくとも父で ある秦恒平からだけはアドバイスされたくないと思っているのは明白です」、と。
 現に朝日子は書きかけていたブログを閉めている。
 父への、みごとな一刺しであった。

* そうなのか……。わたしは、建日子のメールを読んで、瞬時に積年の鬱を散じた。すべて忘れること、少しも不可能ではない。こういうことも有ろうかと、 自分の胸にも問うていた三句が、幸か不幸かムダでなかった。

  冬の水一枝の影も欺かず    草田男

  一筋の道などあらず寒の星    湖

  己が闇どうやら二人の我棲めり  遠

 呵々。  (朝日子の作品に関連して私語したすべて、愛情も称讃も 懸念もウソ・イツワリなく、そのまま機械に保存しておく。)

* 建日子がどんなことを思っていたか、書いているので読んでやれと妻は言う。わたしに宛てられたもので はなく、建日子の外向きの「私語」である。わたし の「私語」と同じで、その手のモノは、読みたければ読み、気がなければ触れることもない。わたしに直に宛てて別に、今朝も建日子のメールが届いていた。そ れは読んだのだ。それとブログの物言いとに齟齬あっては可笑しいわけだ。建日子はわたしに宛てて言っている。
 朝日子の作品にふれて褒めるにせよ貶すにせよ、ホームページに、す べてああいうことは、書かない方がよかった、と。父親の「独善」だと。朝日子は、「少 なくとも父である秦恒平からだけはアドバイスされたくないと思っているのは明白です」、と。
 それで足りている。
 嬉しさの余り、ことが「小説・創作」でもあることから、わたしが出過ぎた、と。そういう咎めである。「独善」だと。
 分かった。
 わたしはそういう「独善」が好きだ。自分の熱いいい性格だと、独善的に肯定している。朝日子も建日子もそういう「独善」に愛されてきた。育ってきた。よ かったではないか。これまでもそうだったように、この先も、その場その場で「おやじのせい」に出来る。親は「壁」という、それがその悪い方の意味である。 良い方の意味があるのかないのかは、銘々に考えたらいい。  2006.02.07


 ☆ 袋から目と鼻とだけ出しているマゴちゃんの神妙な表情が目に浮かびそう。自転車の籠、というのが何 とも良い景色です。
 寒風にめげず外出されていらっしゃいますが、絶対風邪を引きませんように。
 朝日子さんとのことは良い方向に向って欲しいと願うばかりです。 HPを読んで絶句。
 お父さんの思いが彼女にまっすぐ届きますように。   2006.02.09


 ☆ 私語にて、朝日子(建 日子)さんへのお手紙を読ませていただき、感銘を受けました。父親が娘に贈る手紙の最高の一つでした。お嬢さまへの愛のしみじみ 溢れる手紙でした。胸に迫って、私は読んでいて涙がこぼれました。
 朝日子さんがブログを閉じられたことなど、お父様には痛ましいこと かもしれません。ですが、失礼を承知で、書きます。
 お手紙の真情は、お力落とす必要もなく、かならず朝日子さんに伝わ ると思います。朝日子さんは一時的に反発し拒絶しても、最終的には強 く強く励まされる はずです。私の確信です。
 父をつよく避けた娘の一人だからこそ言えることですが、父の愛の娘にかならず届くことは、早いか遅いかの違いだけです。私の場合は父が死んでからわかり ました。遅すぎたかもしれませんが、それが私にとっての「時」でした。愛はその「時」がくれば必ず見えてくるものでした。
 朝日子さんが、父 の愛を知らないはずはありません。これからのお二人の関係に希望は、ある、にきまっています。また、
 「小説」に関して父親の指導を受けたくないという朝日子さんの拒絶 の理由は、私にも、ある程度同感できます。お父上は並みの物書きではないのです。空海 が他人のお習字に手を入れたらどうなりますか。本気のアドバイスでも同じことです。あっという間に本人のものでない名作になってしまうのです。幼稚でも下 手でも、作品はかならず自分のものでなければ書く意味がありません。お父様の力を借りるという誘惑をきっぱり撥ねつけるだけの性根のすわった朝日子さんの ことを、むしろ喜ぶべきだと思います。
 推察しますに、そもそもお二人の今の状態は、父と娘との問題なんかでないのはもとより、秦さんとお婿さんとの関係でもない。父にも娘にも「想定外」 の、「まったく別」のところに在ろうと思います。しかし、私はこれ以上のことを申し上げる資格はありませんね。
 色々失礼を書きましたが、朝日子さんへのお手紙について書いたのに は、もう一つ理由があります。
 私はこの手紙に胸打たれましたが、この手紙は朝日子さんに宛てられ たものにもかかわらず、私の人生を変えてしまうようなものであったことも申し上げたい のです。朝日子さんへの手紙(メール)を読んで、真実愛しているもの に書く手紙とは、このようであるのだと、私は目が覚めたようでした。
 朝日子さんへの手紙は、今までお書きになったあらゆる文より強く て、烈しく内に溢れる愛が感じられました。秦文学中のヒロイン達への愛すら、「慈子」へ の愛すら、この愛に比べたらなにほどのものでもないと思わせるほどです。『***』を読んでうなされた時の感じと似ていると言えるかもしれません。 (『***』の凄まじい迫力は、秦さんほどの作家が全身全霊で憎しみを描いたからというより、骨肉の愛を描いたからなのだと思います。)
 以前に、自分は愛を知らないとお書きになっていたことがあります。ちがいます、朝 日子さんへのそれは、無比の愛。娘を愛するのは父親として当然ですが、 それを考慮にいれてもなお、朝日子さんに(建日子さんにも)真実の愛 の花を咲かせているお父上なのだと痛感しています。   2006.02.11



 ☆ 波  朝日子さ んのこと
 雨戸を開けるとパンジーの花が寒さに縮み上がっていました。このたびの朝日子さ んのことに少し触れてみてよろしいでしょうか?
 よけいなことだと・・・ 思われるかもしれませんけれども・・・。

  >  朝日子は、それを予想しなかったろうか。わたしに伝わることを期待し ていなかったろうか。朝日子は、以前からわたしのホームページは見て いるのである、そ れは分かっていた。わたしが、今度の朝日子三作品を珍しくたいそう褒 めている、評価していることも知っている。
 ⇒ 朝日子さんは、湖の熱い期待を 親心を、もちろん誰よりも知っ ていました。そしてブログというかたちで、ひっそりとお父様に作品を読んでいただくこ とも望んでいらしたに違いありません。

 >  が、建日子は、姉弟の関係がわるくなるので、おやじたちはあくまで知らないことにしておいて欲しいと繰り返した。親心として、なかなか理解しにくいこと だった。
 ⇒ 湖も 建日子さん 朝日子さんも、並みの方ではありません。建 日子さんの「推理小説」も拝見しましたが、その構成は、表現こそ異なるにしても、湖ゆ ずりの非凡であっと息を呑むようなものでした。「あくまでも知らないこと」としながら、「実は知っている」という小説の世界をお子様たちは期待していらし たのではないでしょうか。すべてを直接伝える必要はない、直接伝えないけれども強く伝わっているというような関係を望んでいらしたのではないでしょうか。
 それは、おそらくお父様の一言が特に娘である朝日子さんには、お父 様が想像する以上に強烈に響き あるいは呪縛のように束縛するからではないかと思うか らです。建日子さんにはお姉さまの気持ちがよくわかるので、賞賛のメールでさえ「これは伝えないほうがよい」と湖に伝えていらしたのだと思います。

 >  朝日子の作品にふれて褒めるにせよ貶すにせよ、ホームページに、すべ てああいうことは、書かない方がよかった、と。父親の「独善」だと。朝日子は、 「少な くとも父である秦恒平からだけはアドバイスされたくないと思っているのは明白です」、と。
 それで足りている。
 嬉しさの余り、こと「小説・創作」でもあることから、わたしが出過ぎた、と。そういう咎めである。「独善」だと。
 分かった。 
 わたしはそういう「独善」が好きだ。自分の熱いいい性格だと、独善的に肯定している。朝日子も建日子もそういう「独善」に愛されてきた。育ってきた。よ かったではないか。これまでもそうだったように、この先も、その場その場で「おやじのせい」に出来る。親は「壁」という、それがその悪い方の意味である。 良い方の意味があるのかないのかは、銘々に考えたらいい。
 ⇒ 朝日子さんは湖さんに似た熱い性格の持ち主だと思います。「並 みの親子」でしたら、ブログをそっと読み、ホームぺージにのせることもなく直接メール のやり取りをすることもなく、遠くから可能性を信じて見守っていると思います。
 私の娘も、私が絵の批評をすることを何よりも嫌がります。もう一歩で絶縁状態になりそうなこともありました。私は並の親ですからそこで口をつぐみまし た。朝日子さんほどの才能はなく、多くの辛らつなアドバイスを必要と している娘に批評をしないことは、ある意味で親としての「逃げ」かもしれません。芸術 家としての娘に厳しい批判をして絶縁状態になるよりも、親子としてメールをやり取りし、いっしょに食事をしたり おしゃべりしたりできる関係を望んでいる 寂しい 並みの親です。そう、「親だけにはアドバイスされたくない」のが「娘」なのかもしれません。
 私は実の父を知りません。厳しい批判やアドバイスを受けずに育ちました。ただし義父は私を信じ、肯定して、至上の愛を注ぎ、私を育ててくれました。実の 母もそういうタイプです。どちらがよかったかわかりません。どちらがよい ということもないでしょう。今の私はそうして存在しているだけです。
 お子様たちは非凡な才能の持ち主で熱い性格、鋭い頭脳を備えた立派な大人に育たれたのです。「おやじのせい」にするほど子どもではありません。信じて差 し上げてください。交流の持てる才能豊かで活躍中の建日子さんも、直接交流が持てずとも湖の育てた芸術作品である朝日子さんも、元気に同じ時代に生きてい ることを・・・
 大きな喜びで感じ取っていただけたらと思います。寂しくはない・・・ 幸せなのだ と。   2006.02.11


* 娘朝日子のブロ グ連載小説を、こつこつとダウンロードしては読み、また同様に読み継いでいたあれでどれぐらいな期間であったか、幸せだった喜びが、い まもともすると甦ってくる。
 毎日、ブログをひらくのが楽しみだった。どこかで会って飯を喰おうが話をしようが、そんなのとは比較を絶した、小説を介した娘との日々の対面だった。十 数年見ない顔が行間に行文にありあり見え、声まで聞こえるようであった。
 ま、わたしが出過ぎたのであろう、亀が頚をすくめるように、新しいブログ作品そのものが中途で消え失せ、行方知れない。どうか、わたしを気に掛けないで 心行く創作を続けていてくれるよう、心から願っている。
 弟の活躍ぶりに立ち向かう必要など少しも無い。書いて生きればいい。
 いったい誰が朝日子の小説を読んでくれるのか、いい読者にも恵まれ て欲しい。そして、心身ともに、健康に。  2006.02.23


 ☆ 朝日子さんの ブログの小説、「こすも(のハイニ氏)」をゆっくりと読んでいます。宮沢賢治の銀河鉄道が脳裡をチラッとかすめました。余計な言葉を排した 端的で適切な言葉(熟語)の使い方がよく、脱帽の感があります。
 一言で云えば「センスとテンポのいい文章」と感じました。好きな文体です。 

* 若々しい客二人(=孫姉妹・やす香とみゆ希)を歓迎し、少し早い 雛飾りを。七十年前の妻が初節句の人形たちが、さほど古びもせず品良く筺のなかで今日を待っていた。棚飾りはたいそ うなので、あり合わせの卓にならべた。

* 妻が手作りの蛤汁にかやく飯。雛あられ。ケーキ。夕方、池袋へ出て景気のいい鮓店で、たっぷり。大とろ、中とろ、うに、あなご、鯛、鮑、牡丹海老、か んぱち、鯵、烏賊、白魚、玉など。さらに大とろと美味いサーモン。客も主も、大満足、満腹。このところ食をひかえていたのが、パー。ま、いッか。   2006.02.25


* シチリアの、パレルモか。彼の地には何度も旅して好きだという彫刻家、いっしょに京都美術文化賞の選 者を務める清水九兵衛さんは、わたしの作では『親 指のマリア』が一等お好きで、あのシチリアがうまく書けてるんだものなあとよく言われる。行ったことが、ない。あのころパリに住んでいた朝日子が大きな英 語版写真集を二冊送ってきてくれ、それを参照したのだった。  

 建日子さんのご活躍ぶり、また朝日子さんも小説を書かれているとの こと、よかったと思えば、すぐ手のひらを返されるようなことがあり…複雑な気持ちで す。
 親不孝という言葉があります。僕のいとこには、親の援助を平気で求めるフリーターもいれば、病気の親を見捨ててほとんど絶縁している人もいます。僕は、 国立大学に進み、業績のよい大企業に入り、親戚の中では「親孝行」になっているようです。
 一人息子を遠い九州に住まわせることは、心配だったろうと思います。法学部を出るからには、(父と同じように)地元に帰って公務員になってくれれば、と いう思いのあったことを、知っていました。知っていながら、公務員の試験に目を向けず、広島の製造業という、決して新潟に帰ることのない道を選びました。
 広島を選んだとき、父も母も、「おまえが考えて選んだことなら、それでいい。それがいちばんいい」と言ってくれました。ああ俺はこんなにも愛されている のだ、今まで俺は親の気持ちをどう思ってきたか、真実思いやったことがあるか!
 就職を通して、親とどう向き合うか、深く考えるようになりました。建日子さんの考え、朝日子さんの気持ち…自分ならどうするだろう。自分は親を傷つけな いと、今まで傷つけてこなかったと、胸を張って言えるか。
 十七にして親をゆるせとは、なんと厳しい言葉だと感じます。二十三にして親にゆるされるばかり、という気がします。

     2006.02.27



 ☆ 
 建日子さん、お作拝見しています。出るはたから映像化されるなど、イマ的な作家ですね。しかし原作のほうが、私にはおもしろいようです。
 朝日子さんのも、「探して」読んでみます。
 文学館のボランテァは、し残した資料の整理(私でなければわからないものがまだすこしあるようです)と、入館者のお相手程度です。友の会の人が何人か手 伝いに来ているようです。   2006.03.03


* 2006年06月23日 MIXI日記  湖の、おじいやん  14:17  MIXIに
 MIXIに頼りなく初ログインしたのは、今年の二月十四日でした。十日ほどして、二月二十五日に、孫娘ふたりが訪れてくれ、わたしは妻に、大学一年と中 学二年の二人に「雛祭り」をさせるように奨めました。二人は大喜びで妻の雛人形を飾りました、嬉々と声をあげながら。
 もともと姉妹の母親、われわれの娘朝日子が、嫁ぎ先へもっていって てもよく、上の孫娘の生まれたときにもって帰っててもいい雛人形でした。しかし、不幸な事件 から、かえって娘達とわたしたちとの交通は阻害されてしまったのでした。娘達やわたしたちの誰にも不本意な不幸なことでした。
 以来、両家の往来は拒まれてきました。むろん我が家の門は、いつも娘や孫達のために明けてありましたが。
 吾々夫婦は、二人の孫の育って行くのを見ることは出来ませんでした。娘の顔も見られませんでした。娘もあえて顔を見せませんでしたが、つい二年ほど前、 高校三年生の上の孫やす香が、母親の弟、叔父を介して、わたしたちに連絡をくれ、その後、祖父母に顔を見せに来てくれるようになり、いつしかに妹みゆ希も 連れ だって遊びに来るようになりましたが、親たちにはナイショにしていたのです。(いま、母親朝日子は容認してくれています。)
 雛かざりをみなで楽しんだ日、「おじいやん」 (幼い頃、そう呼んでいました。祖母は「まみい」と。)が「MIXI」に入ったばかりと聞くと、姉孫は「あたしも入っている」と、その場ですぐお互いに 「マイミクシイ」になったのでした。姉の方はもう大学に入っていて、やがて二年生になるのでした。
 それからの「MIXI」日記で垣間見る孫娘の日々は、しかし、「おじいやん」を心配させました。聞きしにまさる極早朝からの接客アルバイト、夜分の接客 アルバイト。気の小さい祖父は、癇癪が起きそうなほど孫の心身を案じました。苦言も呈しましたし、こんな心配をするぐらいなら、MIXIもやめたいと、何 度も思いました。「おじいやん」はさぞうるさい「おじいやん」であったろうなと、いま、泣いています。
 このアリサマでは、からだを必ず毀すと恐れていた、その孫が、まさかそんなことはと考えもしなかった病魔につかまってしまいました。信じたくない。が、 当人が、(ついに入院のためでしたが、)暫く休んでいた「MIXI」日記で、みなさんに病名「白血病」も告げてしまいました。母親は、弟を通じ、わたした ちには伝わらないようにはからっていたのですが。朝日子は、娘は、自 分の娘達が祖父母の方へ行っていることも今では知っていて、それをとやかく言う気は自 分には無いとも弟に伝えたそうです。
 「おじいやん」も「まみい」も、泣きながら堪えています。あたりまえなことですが、代われるなら代わって病気を引き受けてやりたいです。人に、いつも 「笑っていて欲しい、笑っていて欲しい」と求め、自分もいつもいつもよく笑う孫娘ですが、なんと泣かせる孫ではありませんか。ああ…
 しかし、泣いて済むことではなく、今からは、孫に、精一杯希望をもち気力を尽くして生き抜いてもらいたいし、そのために、わたしや、わたしたちのどんな 「力」が、「精神の力」がつかえるか。センチメンタルになるのでなく、悲しみへ遁れ沈んでしまうのでなく、いまこそ心を静かにして、「今・此処」の自然な 一歩一歩を歩んで行きたい。私たちの息が切れたのでは、孫のための力にはなれないでしょう。
 やす香。 みんなして、生きて行こうよ。 
 おじいやんは、だから、いますぐ飛んでいってベッドにいるやす香を見舞おうとは思いません。しっかり治療を受け、軽快し、退院し、社会復帰出来た日に、 元気な顔で逢える日に、がっちり将来を祝福の握手がしたい、おまえと。
 生きて行こうよ、やす香。  おじいやん    2006.06.23



* 建日子が夜遅くに来た。話して帰った。
 やす香は、来週早々から強烈な化学療法がはじまり、始まってしまうと、当分見舞客は謝絶される。診断が出たのは、やっと「三日前」だったと建日子の話 で、二十三日の早朝辺がやす香にも朝日子にもさまざまに心乱れて辛い 頃合いであったろう

なにしろ、あれこれ医者通いもすべて頼りなく、そし てその間に、残念極まるが、或る意味の逸機もあったろうか。とうどう入院して、決定的診断が、わずかに「三日前」と聞けば、暗涙をのまずにおれない。
 病室からのメールで、明後日の日曜には「まみいたち」に病院に来て欲しいと書いてきている。和梨が食べたいなどと言っている。
 朝日子が盲腸手術の失敗で腸閉塞を起こして長く入院したとき、わた しは自転車で毎日毎日毎日見舞ってやった。鼻から管など通されていたりした。わたしの 手を握って泣いていたのを思い出すが、やす香を襲った病魔はとてもそんなものではない。なんたることか…

* 朝日子   泣いて心配している。朝日子のことも心配している。やす香のためにも、われわれが元気でいてやりた い。朝日子も元気でいてやりなさい。そ して万全を。建日子でもいい、母さんでもいい、お前の気持ちさえゆるすなら、虚心に何でも告げ語らい、おまえの重荷を軽くして長期の苦しみに耐え抜いて行 かなくてはならない。
 この数ヶ月、私の見ている限り、あんまりにもやす香はムリを重ねていた。わたしはヒステリーの起きそうなほど心配でした。思いあまってやす香にもモノ申 したが。
 ああ、なんとかもっと早くに、なんとかしてやりたかった……
 朝日子がいま共倒れしたらたいへんです。大事にしてください。 父    2006.06.23


* 十時半ごろ、保谷駅を出て、相模大野まで。そして病院へ。清潔な新病棟の個室。やす香は白い顔で額を 冷やされながら、かすかな笑顔で、床にいた。妹が いた。母親の朝日子とは、あとで指折り数えて、「十三年半」ぶりに再 会したのだ。そのことについては、とても此処で書き表すことができない。
 やす香が好物の梨が食べたいといっていたので、池袋東武の「高野」で五つ買っていった。やす香は九月に、二十歳になる。その日には一時帰宅も可能にと医 師は予定しているらしく、朝日子の成人したおりに京都の母がつくって くれた、はんなりした佳い絞り模様の着物を持参した。このまえ姉妹で雛祭りにきたと き、やす香は嬉々として保谷の家で羽織っていた。あの頃は、だが、まだ、持って帰らせるワケに行かなかったが。どうか、少しも早く回復し、元気になって、 着て、喜んで欲しい。みなを喜ばせ安心させて欲しい。
 気を奮い立たせ闘ってもらわねばならない、と、付き添っている朝日子に ベッドサイドでせめて読んで貰うといいと、ゲド戦記の初巻『影との戦い』を持って いった。「おじいやんの大事な本だよ、早く良くなり、自分の脚で歩いて保谷の家へ返しに来るんだよ」と励まし、約束させた。午の食事に手を付けてないやす 香は、まみいにむいてもらって梨を、嬉しそうに、一つの四分の三も、おいしいと食べた。右腕の腹に、目をおおいたいほど広い大きな紫色で、内出血してい た。やす香の小さい頃に保谷で撮っていた写真も何枚も手軽にみやすいようにして持っていった。繪はいいと思うが、何としても画集は重すぎる。疲れさせたく ない。
 「十五分だけ」と念を押されていた。それでも三十分ちかくいたかも知れない。入室の際には手指消毒とマスクをした。手先に手先をふれると、やす 香は掴むようにわたたしの手を求めた。むかし入院中の朝日子がそう だった、やす香より泣き虫だった。それを思い出した。
 短い時間になにをどれだけ話せたか、言うてやれたか覚束ないが、視線をあわせてきた感じと、白い顔色は忘れられない。
 朝日子の私用のためにと用意したものを封筒で手渡し、帰ってきた。 妻は病室まえの廊下で娘を抱きしめて、いた――。 
    2006.06.25


* ゆうべ遅く、独りの病室から「力をかして」と呼びかけるやす香の声を「MIXI」に聴いた。すぐ返信 したが、先だって友達の何人かがコメントを送って くれていた。
 ひきついで「やす香母」と名乗った朝日子が、やす香の「MIXI」 にもぐりこんでメッセージしていた。   2006.06.26

 姉の朝日子は、弟 より遙かに優等生であった。しかし優等生とは危ういもので、性格はアイマイにひ弱くなる。弱い分をむりに頑張ると、へんに頑なになる。 あれにもこれにも手は出すが、路線の変更自在が利かなくなり、どれもホンモノとしては手に付かない。そのくせ生き方に勝手な旗印を押し立ててしまい、それ を下ろすにも替えるにも、思い切りがつかなくなる。結果、隠し持った才能の開花を、むしろ自身の手で阻むようになる。遠い遠い遠回りをして、それにもリク ツをつけて、自己肯定の勘定をつけてしまう。(つまり、これは、わたしがわたし自身のことを言うているのである。わたしは優等生であった、ただ、 娘よりは本質的にゴロツキであった。ゴロツキ文士というのは、意外に拡散しないで集中が利くのである。)
 わたしは、父であるわたしは、まだまだ朝日子の未来に、娘やす香の 闘病と併走して闘う「戦士としての自覚」がつよく生まれて、新しい自身の誕生日を、娘 と共に、自分たちの手で創り出すだろうと、内心で励ましている。 
 ながいながい子供達との付き合いの中で、いろんな思い出が蘇る。
 腕力にうったえる腕力はお互いにないので、つかいはしなかったが、わたしに、父の「激昂」を演戯で示す工夫ぐらい、いつも持っていた。子供に暴力へ走ら せるより、暴走させるより、意識して父から先ず、過剰に振舞ってやる。その方が、よほどいい。建日子を追いかけて包丁で勉強机をえぐってみせたのも、度肝 を抜いてしまうべく先ず卓で襖をぶち抜いたのも、子供たちではない、父親のわたしがした。してみせた。今もそんな痕跡を家のアチコチで見るつど、あれでよ かったなあと思っている。姉にも、弟にも、あれはまずかったなあと悔いるようなことは、思い出せない。親にとっても子にとっても、わたしは「逆らひてこ そ、父」と信じてやってきたし、今もそうしている。
 親子の間に「時効」なんてモノは存在しない。在りたいは「愛」である。朝日子は、 それを今はやす香に注いでいる。建日子にもそうするに足る「子」を持っ てほしいが。   2006.06.26


 ☆ 
やす香を「守る」役目もきっと、たくさんの友達と、そしてとってもすてきな「だれか」にバトンタッ チする日が来るのですね。それまでやす香ママは命がけで、や す香を守ります。
 だから、やす香も一人の夜を、強く、静かに乗り越えてください。  やす香ママ
 
* ほんとに、ほんとに  ほんとうに  ほんと  と、娘朝日子の 口癖が出て、ほとんど肉声のママにこれを「MIXIやす香」の「日記」欄で読んだ。朝 日子こそ、いまこそ、名の通りに晴れやかに元気でいてやって欲しい、やす香のために。さぞ、つらかろう、かなしかろう。  2006. 06.27


* やす香の目覚めのさわやかでありますように。朝日子も疲れを溜めませんように。  2006.06.29


* やす香が呻いている。

* 生涯に たつた一つの よき事を わがせしと思ふ 子を生みしこと
        沼波美代子(「山彦」昭和二二年)
 やす香母の
朝日子はそう思っているよ、きっと。ママの手を夢にもにぎり、ママの 声を耳の奧にいつも聞き、そのママといっしょに闘いなさい、姿なき「影」 と。戦士ゲドのように。
 やす香、お前には大勢の味方がいる。心の眼をみひらき、なるべく平静に自分を客観視してごらん。闘うべきこわい「影」の正体がみえてくる。
 それで、勝てる。  おじいやん
はそう思っているよ、きっと。    2006.06.30


* MIXIでの知人から、やす香の病症に関するたいへん親切な助言や示唆を得ることが出来た。感謝に堪 えない。そのまま朝日子に転送して参考にするよう 伝えた。  

* 心嬉しいメールを受け取った。MIXIで知り合った人が、自身の体験も踏まえながら、やす香の病気に親切な適切な具 体的な声をかけて下さった。朝日子 へぜひ参考にするようすぐ転送した。  2006.07.02


☆ 自転車で転んですりむかれたとのこと、大丈夫でしょうか? 心配です。どうぞお気をつけくださいます よう。
 やす香さま、朝日子さまを支える大切な方です。 
2006.07.03


* 出がけに、やす香の「告知」と題した「MIXI」日記が出た。癌センターに、転院、と。Ah…。
 朝日子に様子を聞かせて欲しいと連絡したが、あいかわらず朝日子からは、見舞いの日以前も以後も、わたしへも妻へも、何一つ報知も連絡もない。    2006.07.07


 どう遠目に「MIXI日記」を介して眺めていても、大学生やす香の毎日は、適度を遙かに遙かに超えた、 過剰も過剰なアルバイトや遊びの毎日らしいのが、 前から見えて、分かっていたし、今年になって体調をどんどん崩しているのもはっきり分かっていた。
 わたしはヒステリーを起こしそうなほど心配し、せめて「親に相談しなさい」と再々孫をうるさがらせていたけれど、後に母親朝日子の述懐を漏れ読むかぎ り、一緒に家居していながら、「大学生になって以降のやす香の日常について、何も知らなかった、分からなかった」という。そういうものかなあと、憮然とし た。
 そんな不幸な事態になって、いわば非常時、一つの大事な命の危機にさしかかって、★★家は、孫の病院への見舞いを「一度は黙認する」という「はからい」 であった、それも、やす香が「つよく求めた」からである。
 病院を訪れたときも、母親は真っ先に、「十五分だけにして」と言い置いて病室を出て行き、吾々と孫二人と四人だけにした。
「三十分」ほどして母親は戻ってきて、そのままわれわれは退去した。父親は顔を見せなかった。
「おまえがいま倒れてはどうにもならないよ。だいじにしなさい。やす香を頼むよ」とわたしは娘朝日子に廊下で言い、やす香「九月の誕生日」「来春成人の 日」のための晴れ着一式や、付き添う日々の朝日子用にと相当の金包みも手渡してきたが、朝日子はほとんどわたしたちに口を利かなかった。わたしが、この 「私語」に、あの日娘との久しい再会に関し、ほぼ一語も書かなかったのは、「書きよう」がなかった、「書く気持ち」になれなかったからである。
「上の世代としては思っているという気持を伝え続けるだけ」「若い世代がそのことに早くに気付いてくれれば、それは僥倖」とある、上のメールの人の言葉 は、ああ、まったくその通りだ…と思っている。それで仕方がない。
 ただやす香という孫の命は、そんなこととは別の次元ではなかろうか。この孫は、祖父母にむかい、自身の意思と行動とで、優しい手を伸べてきてくれた。今 度の病気でそれが親に知れたとき、母親は、「この際黙認」するとだけ言ったそうであるが。2006.07.09


* やす香の状態が、よくない。「MIXI」に、やす香自身が静かな筆致で書いて告げている。一日も早い うちに逢いたいと「みなさん」に訴えている。
 北里大学病院は治療を放棄したのか。親たちから、事情はわたしたちに何も伝わってこない。何も来ない。妻がやっと電話口に朝日子を掴まえたが、「電話なん かやめて」と泣き叫んだという。

 ☆ 7.11 19:04   みんなへ   
 母が私の「肉腫」という癌について、専門の場所の専門の先生と面会をしました。残念ながら私の癌は「骨」と「肉」の癌で治ることは絶対に有り得ないそう です。
 厳しい治療で得られるほんのわずかな時。あるいは治療はせず、痛みや苦しみを緩和しながら暮らす日々。そのどちらかが私に残されたわずかな選択肢だそう です。
 余命は誰にもわかりません。
 みんなにお願いがあります。病院に来て下さい。mixiを知らない私の友達にも伝えてほしい。みんなに会いたいと。
 20才の誕生日を迎えられるかわからない。もしかしたらしばらく生きてられるかもしれない。全然わからない。だからみんなに会いたい。さよならを言うわ けでもなく、哀れんでほしいわけじゃない。ただこの遠い辺鄙なところにある私の病室がみんなの笑いの場所になってほしい。その中で生きることが一番私らし い生き方だと思うから。本当に遠いだろうけど、みんなに会いたいです。
 
 すごくすごく重い話だけど、これは嘘でも冗談でもないんです。
 ただ生きたいとわめいていても、事実はかわらないんだと…みんなにもわかってほしい。
 今日を、明日を生きる。  やす香    
    2006.07.11


* 建日子に。 (建日子宛の朝日 子のメールが母親に転送されてきたのは、)母さんから、内容を聞きます。
 今が大変な非常事態であることは、初めから十分分かっていたし、容易ならざる事態とわたしは分かっていました。診断が遅れていることで、その不安は増大 していました。
 やす香の「命を守る」ということは、言葉は平凡でも「万全を尽くす」「手を尽くす」ということであり、北里大学病院に拘泥せず、一級の専門医を懇請して 懇切に往診を頼むなり、国立ガンセンターなどの緊急の再診を、いわゆるセカンド・オピニヨン、サード・オピニヨンを、せめて「データ的」にも求めるべきで はないですか。
 そういうことに一家を挙げ奔命・奔走しなくてはならぬ時に、それをしているのか。万一していないなら、「今すぐしなさい」と朝日子に伝えて下さい、これ 以上の手遅れにならぬうちに。
 病院の言いなりに流される必要はない、むしゃぶりついてでも最善を計って貰えと奨めます。
 いまは、父親も母親も、★★家の親族も、挙げて、やす香の延命のために最善をつくす時、それが、真っ先です。
 医学書院時代の昔のわたしなら、なんとか医学的なツテが求められたかも知れないのにと、残念です。 父  2006.07.11



*  昨日の「あいにきて」というやす香の呼びかけには、六十人ちかくの若い友達がどうっと瀧のように反応してくれていた。
 今朝、母親朝日子が、十六日に、大学病院内のどことやらで音楽会を ひらくので参加して欲しい、最初に朝日子が歌います、参加者は何を 歌ってくれるか、前 もって報せて欲しいとメッセージしてきた。
 音楽会はやす香の希望であること間違いなく、病院もそれを許しているのは、すでに「緩和ケアの一環」としてであろう。
 やす香の気持ちは分かる。しかし、この呼びかけに反応した友人が一気に数人以下になっているのは、もちろん事の異様さに一旦はフリーズしたの ではないか。
 まるで「お別れ会」ではないか、それもただの別れではない。そんなところで、どんなふうにどんな顔をして歌えるだろうと、一旦は、ギョットした人が多そ うに思われる。
 今は、貴重極まる時間であり、惜しみて余りあるやす香の体力。金無垢のように時間と体力を惜しんで、ただただ疲れないで「成人」の九月誕生日を目指して 生きて欲しい。それがわたしの願いだ。
「すべきことは、すべてした」などと言っていい、今ではない。今この瞬間からしなくてはならない「延命」の努力なのである。やす香には医療の万全を信じ、 しかも体力をうしなわず、苦痛に勝って貰わねばならない。周囲も諦めて手を離してしまってはならない。正念場へ来たということだけが間違いない。
 朝日子よ、不肖の娘時代に百も千も父はおまえに口を酢くした。謙虚 に聡く在るべきは今だよ。おまえも不安だろうが、母さんや父さんは離れているだけもっ と不安で様子が知れないのだ。母さんがようすを知りたがったら、心優しくせめて答えてあげなさい。やす香は、まみいに優しいよ、こまめにメールをくれて、 逆にまみいを慰め励ましているではないか。  2006.07.12


胸の底には一枚のガチンと揺るぎない不安と動揺とがあり、それに逆らうことも同調することもで きない苦痛。
 やす香はもちろん、朝日子も建日子も、妻も、みな同じである。そし てみなが、やす香のために少しでも少しでも良かれ、髪の毛一筋の希望でももたせたいと 願っている。そう信じる。ただ人間のこと、まわりの者達の思いは、少しずつ、願いも、苛立ちも、悲しみようも、異なるのである。

* 朝いちばんに岡崎の国立研究機構に在籍する岩崎広英君から、親切な助言と協力の申し出があった。すぐ朝日子にメールで伝え、建日子にも朝日子に勧めて 欲しいと願い同報した。
 やす香のケアへの、祖父母等の口出しや提案を、朝日子ないし★★家 は無言で拒絶し、口を出すなら「見舞いもさせない」と娘は、母親へのメールにも、母親 からの電話にも、答えている。いま、大人達が手を合わせなくてどうするのだろうと、蚊帳の外へ押し出されている祖父母の、あてどない不安は限りなく、鉄の 丸を嚥むような苦痛は倍加している。
 明日見舞いに行っても、はたして孫やす香に逢わせてくれるのかも、正直不安心なまま出向くのである。
 やす香は、「わたしは、気持ち、わかっているからね。よくわかっていますよ」と苦しい息の下から、われわれへ、まみいのメルアドへ、メールを寄越してい る。
 やす香の、ケイタイで辛うじて打っている今日の「MIXI日記」は、「今日はね 大変だったの…。体力消耗〜」とだけ。
 この肉腫という病気治療がどんなに苦痛で体力を消耗するかは、常識。それを何とかしてすりぬけすりぬけ、一日一日延命を図らねばならないときに、やす香 の希望もあるではあろうが、大勢とのひっきりなしの面会や、音楽会・歌唱会を院内で開いて、患者自らも歌を歌おうなどというのは、「消耗」の極限を越えて しまわないかと、わたしは真剣に、そして不安にたえられず、心から憂慮する。
 そしてわたしは空しくも願うのである、親たちや病院の、それは、もはや「断念」のサインでなど無いことを、と。
 正直の所、わたしたちに、あれこれ確言できる何の自信も確信もない。情報もなく満足な説明も受けられないでいる。だからまたあてどなく不安なのであり、 常識的に判断するかぎり、十六日午後に予定されている「歌唱音楽会」の、楽しいメリットと消耗一途のデメリッとトの落差に、深刻に惑うのである。命を縮め る暴挙には、切に切に、して欲しくない。それが、朝日子の「命がけで やす香の命は守って見せます」ことになるのか。   2006.07.13


 ☆ 窪田空穂の歌に   
  たふとむもあはれむも皆人として片思ひすることにあらずやも
  今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその片おもひ

* この「片思ひ」の歌に寄せて思うことがある。いま、「MIXI」に、東工大の教室で試みていた『青春短歌大学』(平凡社刊 秦恒平「湖の本」版上下 巻)を、「校正」かたがた連載しているが、じつは、あれより前に、講談社から、数人の責任編者制で、数巻の詩歌鑑賞の本を出したことがあり、わたしは『愛 と友情の歌』の一冊を担当した。それが、大学での授業に大いに役立ってくれたのである。
 いま「MIXI」での「連載」に、新たに毎回出題している作品の多くも、その本から採っている。
 『愛と友情の歌』は昭和六十年九月十日に刊行され、「あとがき」は同年六月八日に書いている。「娘(朝日子)が華燭の日に」と日付に添えてある。その 「あとがき」の末行は、こう書きおさめている。

  「愛」の、あまねく恵みよ! しかし「愛」の、難(かた)さよ! 努めるしか、ない。

 娘朝日子への父のはなむけであった。この本はひとりの女として生き て行く娘への、またひとりの男として生きて行く息子への、贈り物として編んでいた。幸か不幸 か、二人とも読んではいない。
 いま、その娘朝日子は今わが子の、想像をはるかに超えた急な重篤な病のかたわらに、母として、在る。  2006.07.14


* 熱暑。湯の中をあえいで泳ぐ心地であったが、シャツにネクタイし、ジャケットも着て相模大野の、北里大学病院に出掛 けた。

* やす香は眠っていたので、暫時待機してから病室に入った。
 やす香の希望で、今回も池袋東武の高野で「梨」と「桃」とを用意していったところ、もう新宿につくという車内へ、やす香から妻に電話が入り、ぜひ「お蜜 柑」もと。で、新宿高野で冬蜜柑を買い足し、ロマンス特急を町田で乗り換えて、相模大野まで。

* 病室には朝日子とやす香とが二人きり。四人で、あれで一時間ばか り、まさに「水入らず」の静かな時をすごした。やす香は、梨も蜜柑も、京都の佳い軽い せんべいも、少しずつ食べ、べつに昼食も美味しいと食し、妻はずうっとやす香の脚をさすっていた。
 ほとんど、目だけでものを言い合う静かな時間であったが、窓の外は遠くに薄い濃い山並みが重畳していて、時に垂直に強い稲妻と驟雨が来たりしていたが、 病個室はあかるく穏やかで、やす香は母にも祖母にもあまえ、私にも気を使っていた。わたしは、ただもうやす香の顔を見ていた。言葉は無力に感じられた。
 食べるとそれだけまた睡眠へひきこまれて行くやす香は、わたしたちにも気遣うか、寝入りかけてはうすく目をひらきひらき、顔を見ようとしていた。手を握 りあい、ただかすかな握力と視線とだけでうなずきあい、うなずきあい、「がんばるんだよ」と声をかけて病室を去ってきた。目は閉じていても「耳は聞こえて いるよ」ともやす香は言い、あわれで、泣いた。  2006.07.14



 あした、病院の食堂で、大学、中高校、地元、ヒッポの仲間達が来て演奏会をしてくれるそうだ。一時間ほどと。
 やす香のために、何という嬉しいことか。
 だが、予定されていたやす香自身も歌うことは、避けられた。ほっとしている。疲れがみえれば、残念でも打ち切られることだろう。
 やす香よ、元気だけをたくさん身に浴び、疲労しすぎないで、よくおやすみ。朝日子も。    2006.07.15


* おそらく朝日子が 自身一存にちかい、懸命の思いで今しも守っているのは、やす香の命の尊厳と安静であろうと、わたしは推量し理解している。
 それほどに無残に重篤で差し迫っていることは、北里大学と朝日子と のあいだで、よほど深く確認されているのだろう、ジタバタしないという、なるべく静穏 で平和な最期の時間を創り出そうとしているのだと、わたしは分かっている。それをしも母の深い思いやり、慈愛、とうけとらねばならない痛切な悔い口惜しさ は、いかんともしがたいけれど、少なくもわたしは、おそらく妻も建日子も、朝日子に 代わって、朝日子のほんとうは言いたいであろう言える限りの繰り言 を、 言い紡いでやらねばならない。そして哭いてやらねばならない。

* やす香の笑みこぼれて幸せでありますよう。朝日子、どうか、よろ しく頼む。 父   2006.07.16


 ☆  > 言葉もなく、深く深く感謝しています。
 いいえ、やはり余計なことを書いてしまったのだと思います。朝日子さ んのお気持ちはとっくにご存知だったのですね。私の書いたことは、他人からの単なる だめ押しでした。
  > 日記を読めば読むほど、「ああ手遅れ」したという悔いは、口惜しさは募ります。
 先生のお気持ちには、本当にもう、何も申し上げられる言葉がありません。やす香さんの日記を、体の不調と痛みを訴えていらっしゃる所を中心に、読んでみ ました。
 確かに日に日に状態が悪くなっているのが分かりました。
 でも、一番驚いたのは、4月の始めに病院で検査をしているのに、そこでは何も見つけられず、只「うちでは分からないから、大学病院にでも行きなさい」と 言うだけの対応をしているところです。
 ここですぐに付き合いのある大学病院を紹介する等の措置があればと、怒りも覚えますし、これが地域医療の限界なのかとも、愕然としました。
 今頃はお祭りが宴たけなわでしょうか。やす香さんが楽しんでいらっしゃることを願っております。   
2006. 07.16


* 下関の方が、ごく身近な温かみでこうして親切にしてくださる。嬉しい。
 建日子が電話で朝日子に聞いたところでは、音楽会には百人もあつ まって成功し、やす香に疲労での急変もなく、無事と。ありがたい。ありがたい。静穏であ りつづけますように。    
2006.07.16


* 雨中、相模大野まで。病棟に入って、ロビーで待機。
 廊下へ出て来た朝日子に、「命のあるやす香とは、今日が最期と思っ て欲しい。病室には五分間だけ。厳守して」と。朝いちばんに、四国からはるばるいただ いた「笹餅」も「葡萄一房」も、また「タカノ」の梨も、やす香の口には入らなかった。くやしい。
 妻はそうまで差し迫っているのかと動揺していたが、わたしは、堪えた。

 もう、朝日子達の★★家は、やす香の命からは手を放していて、その まま、なに一つもする気はないのだった。やす香に苦痛を味わわせることなく見送ると、 朝日子達はきめていて、やす香にも引導を渡すようにそれを分からせてあるのだろうか。やす香の言葉にもそれが出ていた。

 やす香自身の希望であったのかも知れないが、あの音楽会は、文字通りのつまり「お別れ会」であった。人事は尽くされたか。わたしが朝日子の為になら、 けっしてあのまま諦めたりはしなかったろう。
 
* やす香はうとうとと眠っているようであったが、「やす香」「おじいやんだよ」「まみいよ」と小声で呼べば、手先で少し反応した。少し肯き、何か言いた そうに、くちびるを動かしたが、言葉としては聞こえなかった。
 手を握ると、かすかに握りかえし、また手を動かして、わたしや妻の手を探し求めた。ほうっと、うっすら目をあけ、マスクをはずしたわたしたちを認め、肯 いた。「わかっていますよ、まみい、おじいやん」と言うようであった。
 わたしは、何度も「ありがとう」と言った。「ありがとう、やす香」と繰り返して言った。
 わたしちに、かけがえのない喜びを届けてくれたのは、やす香であった。奪われ失っていた孫の、希望に満ちた元気な声と笑いとを、決然、保谷の我が家に届 けてくれたのは、やす香一人の愛であった。妹の行幸までも連れてきてくれた、両親の意向に頓着せず、何一つの説明も言いわけもなしに、である。
 わたしは「ありがとうよ、やす香」という思いのほかを、口にするどんな言葉も知らない、「ありがとう、やす香」と。

* 病室には、朝日子のほかに、父親が椅子に腰掛けていた。黙ってい た。わたしたちは、彼に言うどんな言葉も持たなかった、

* やす香は、かすかに左手を、また右手を、あげて、わたしたちに手を振った。妻は「おやすみ、やす香」と言い、わたしは「ありがとう、やす香」と声を掛 けた。薄目をあけてやす香はうなずき、ゆらっと、ゆらっと手を振った。わたしは、白い細いとても綺麗なやす香の少女らしい手を握り、ふっくらと微熱を帯び た柔らかい頬に唇を添えた。堪らなかった。
 やす香は、目を開けるようなとじるようなまま、かすかに肯いて手をゆらゆらと動かした。

* 一度、ロビーにまで出たが、妻とわたしは、そこで動けなかった。妻は、ナースステーションで、ほんとうにそんなに差し迫っているのでしょうかと訊いて きた。
 「わかりません」「お母さん(朝日子)がよくご存じです」という返 辞であった。ただ、やす香が平穏・平安にいられるようにだけ最善は尽くしているが、「延命のため の措置は何もしていない」と言うのである。つまり、親も、病院も、苦痛のないやす香の最期をねがうだけで、すべて手を放しているのだった。そうとしか、道 がないのだろう、だが、まあ、なんと口惜しいことだろう。なんと口惜しい、口惜しいことだろう。

* 「白血病」ですと、やす香自身が「MIXI」に公表したのが、六月二十二日、あの時は朝日子も「治る病気なんだから」と、私たちの愁嘆を禁じた。あれ から一月たたないのだ、まだ。
 ほんとうに最善が尽くせたと言えるのか。残念だ。

 まして、やす香の日記をつぶさに読み返す限り、三月、四月、少し大人が注意していれば、こんなむちゃな 事態には絶対にならずに医療の威力が十分期待でき た。疲労と病勢とは相乗加速し、やす香の肉体をぼろぼろに蝕んだ。三月四月に治療体勢に入っていたら、確実に緩和し延命策が奏功または奏功の見込みを持っ たろう。
 やす香は、友人達がしきりに言っていたように、命にかかわる「異様な病変」を、「孤独に、ひとりで抱え込んだ」のである、友達はそんなことをしていると 「SHI」だよと威して、繰り返し警告していた。
 わたしも心配しメッセージを書いた。メールもした。「親に告げよ」と。
 だが、やす香は自分からは、母親にも父親にも訴えていないし、両親は六月半ばまでなお気づけなかったおで。くやしいことだ。「やす香、親に相談しなさ い」とメールで伝えても詮無いことだった。そしてわれわれには、やす香の親たちに、朝 日子に、直にものを言いまた伝える「道」が、酷いように断たれていたのである。む りやり伝えても★★家は聞く耳もたなかったのだ。くやしい。くやしい。

* 帰りの小田急線でも妻は泣いた、わたしも泣いた。池袋で、おそいおそい昼飯に西武の「たん熊北店」に入ったが、食べながら妻は泣き、呑みながらわたし は泣いた。あきらめきれずに、食べて飲んだ。美味ければ美味くて泣いた。やす香と三人でこの店で食べたことを思い出して泣いた。

* 朝日子の母心は どんなに悲しかろう、わがこととして、私も妻もしんそこ察している。朝日子の 分も私たちは血を吐くように悲しんでいる。代わってやりた いという気持にウソは全くない。朝日子達をどう、いま、責めてみても 詮無い。
 どうか奇跡が起きて、やす香が、ママの誕生日のこの二十七日までもちこたえ、八月までもちこたえ、……。ああ、九月のやす香二十歳の誕生日までが、何十 万年ものように、ながく、遠く、嘆かれる。
 がんばるのだよ、やす香。お前はまだ、そんなにも無垢に瑞々しく若いのだ。


* やすかれ やす香 生きよ けふも

  やすかれといまはのまごのてのぬくみほおにあてつついきどほろしも

  このいのちやるまいぞもどせもどせとぞよべばやす香はゆびをうごかす  
2006.07.19


* 妻は定期の診察をうけに出掛けた。心臓の主治医の話では、「肉腫」は若い人を突如襲って病勢はげしく、症例は多くな くて診療基盤を成す情報にいまなお 不足している強烈な病気だと。
 やす香の母親朝日子が幼稚園にもまだかという幼い頃、滑り台から転 落骨折し、東大整形外科に入院したとき、同じ病室にいまのやす香ほどの少女が「肉腫」 で治療を受けていた。今のやす香とはくらべようもないほどさわやかに元気そうに見えていたけれど、途方もなく難しい病気と漏れ聞いて心から案じながら、朝 日子は先に退院した。その記憶があったので、「白血病」という初診が「肉腫」に転じたとき、わたしたちは、ハンマーで殴り倒されたような恐 怖を覚えた。朝 日子達もそうであったろう。
 全身状態に未だ少しでも力のあるうちに、発症を食い止めねばいけなかった。そこで決定的に逸機した以上は、緩和ケアか、一縷の望みに縋ってあらゆる医療 の手を尽くすか、選択肢は二つしかないと分かっていた。
 どんなに若いぴちぴちした肉体も、過剰な疲労の蓄積と放置とは、病魔をここぞと立ち上がらせる。だれもだれも適切に用心して欲しい。親子・家族がお互い にいたわりあい用心して欲しい。こんな悲惨なことを繰り返してはいけない。 
 それにしても、妻の主治医いわく、「あっさり告知したものだなあ」と。おそらくは母親は、やす香の平安を、命の尊厳をまもりぬく平安をと、娘の叡智とも 真っ向むきあって申し合わせたつもりであろうか、厳粛な申し合わせをあえてしたつもりであろうか。ああ……。祈るしか、ない。祈るしか、ない。   2006.07.20


* 昨夜見なかった、息子が脚本の、題のまるで覚えられないドラマ、えーと、「花嫁は厄年!」篠原涼子と 岩下志麻の連ドラ三回目も観た。
 一般の視聴者にはまったく分かるまいが、息子の、ドラマを介しての私小説風発信がおもしろい。岩下志麻の母親役を此のわたしに、息子を娘の朝日子に置き 換えると、およそは、きれいに当てはまってドラマが作られている。母親の死んだ夫、息子の父を、いわば朝日子の夫かのように読み取れば、取材と脚色はなか なかうがっていて、佳い意味でしたり顔に如才なく巧みに出来ている。
 おお、やっておる、やっておると、わたしも妻も、特別の「桟敷」鑑賞で、笑ったり手を拍ったり話し合ったりできる。楽しめる。「メーッセージ」が如何様 に優しくまたシンラツに展開するのかも、期待しよう。   2006.07.21


 ☆ 湖の本届きました。ありがとうございます。
 哀しい大きな苦しみの中でも、粛然とお仕事をなさる姿勢に敬服いたします。それと共に尚一層のおじいやんとまみいの苦しみを思います。朝日子さん もどんなにかお辛いだろうと身を案じています。
 お心の傷が体に障らぬはずがありません。くれぐれもお体おいといください。
 夕飯の後片付けもそこそこにずーと頁を繰るのももどかしく読みふけっています。それがやす香さんの生を祈ることにもなるように思えて。      2006.07.22


* 朝いちばんに朝日子の メッセージが「MIXI」に公開された。

* 05:53  ほんとのこと (やす香ママ)
 ここ数日大勢の面会をお断りしてきました ほんとのことを言えないまま でも さっさ先生にはお話しました そしてやす香を愛してくださったたくさんの方々の代表として夕べ遅くおいでいただきました
 やす香の命は終わりの時を迎えています もう皆さんとこの病室でお目にかかることはないでしょう
 やす香は今 苦しい呼吸を繰り返しながら ゴールを目指しています やす香の新しい朝はやわらかな靄に包まれています―  願わくばやす香に残された歩みと ゴールと そしてその先の世界のやすからんことをお祈りください

* 十時半に建日子と出会い、彼の車で相模大野へ向かった。朝日子の メッセージがあるなしに関わらず、今日われわれは出向く用意をしていたし、朝日子に も 伝えておいた。

* やす香は、われわれを認めてうなずくようであった。息は喘ぎ、胸元は上下し、がくっと首を落としてはまた懸命にもたげ、薄目をあけて、われわれの顔を 見るような見えないようなアンバイであった。「聞こえるだけ、耳だけ」とかすかに呟いたようであり、涙が溢れた。
 手をにぎると熱は高く、持参の大好物の梨を掌に添えてやると、しばらく梨の冷たさを感じているようであったが、冷たいか、手の温度が抜けてしまいそう で、手放させた。
 指の長いまっ白い、それは綺麗な無垢な手であった。
 顔付きはそれほど変わっていないが、可哀想なほどいろんな施薬や介護の管に繋がれていた。
 疲れさせてはいけないので、一度退室し、上の階のきれいな食堂で昼食し、しばらくして、また病室へ戻ってみた。病室には、カリタス高校の先生だろうか (=上の朝日子の発語にみえている、「さっさ先生」と後に分かっ た。)、やすかの側で、極くこごえで、どうやら聖歌を歌っておられた。その側に立ったまま やす香の顔を見ていた。ときどき薄目をあけ、われわれを認めて肯いていたが、何かを言いたそうにした。
 父親が口を覆ってあるものをはずすと、「どうして…、勢揃いしているの」と。これには、皆で笑い声もあげて、いろいろに話しかけた。建日子は、やす香と 共著で本を出そうよ、約束だよ、と言うと肯く。妻は、安心しておやすみ、やす香のいい顔を見に来たのよとはんなり話しかけ、わたしは「やす香、大好きだ よ。やす香、ありがとうよ、優しくしてくれて」と感謝した。やす香はときどき、大きく目をみひらくようにし、首を動かして、まくらもとに飾ったあれこれへ 視線を配るようにしていたが、「つかれた」とつぶやく。
 ああそうだろうよ、安心して、よくおやすみ…と、そこで、別れてきた。 

* 朝の朝日子の メッセージには、信じられないほど大勢のやす香をはげますコメントが集中していた。わたしは、お礼を申さずにおれなかった。

* やすかれ やす香 生きよ けふも。  もう日付は動いている。母朝日子の誕生日は来週。朝日子をその日病院で祝ってやれればいいが。朝日子の祝われ るのをやす香が見て聴いて、喜んでくれるといいが。  2006.07.23


* 昨日の朝日子の 「ほんとうのこと」というやす香の容態を告げたメッセージに、夥しい「祈願」のコメントが届いている。「MIXI」の一角で、真実の 「生死」の劇がまぎれもなく進んでいる。若い大勢、若くはない大勢にも、やす香は身を以て「何か」を伝えている。この真実は重いものとして多くの胸に永く 伝えられる。

* やすかれ やす香 生きよ けふも。    2006.07.24

* 少しマッスグ読み取りにくい字句もないではないが、疲労困憊した母朝日子の静かな叫びと聴いてやりたい。
 ああ、だが、大方の大勢の、真の願いも祈りも、やす香「現実」の「命」にあるだろう、「生きよ けふも」と、奇蹟の生還を待ちたい気持にあるだろう。 「おわり」へと、吾々から先に手を放していいだろうか。
 やす香はひと言、振り絞るように「生きたい!」と「MIXI」の日記に叫んでいた、わたしたちは、あれを忘れない。大勢の友達を、あんなに大事にした友 達たちを、苦しい息の下で一人一人確認しあいさつを送っているやす香は、さぞ苦痛であろう、それでも間違いなくやす香は生きて、生きようとしているのだ、 やす香の「命の尊厳」はそこにこそ実在し輝いている。ああけっして、わたしから、「やす香、さようなら」とは手を振らないぞ。真実苦しいだろうが、やす香 よ許せ、別れのあいさつなど、おじいやんはしないからな。

    2006.07.24

* 歯医者から帰ってあれこれするうちに、建日子から、相模大野へもう一度一緒に行こうと言ってきた。大 急ぎで用意して、五時四十分に町田へつき、建日子 の車をみつけて病院へ。

* やす香はうとうと、しかし息をあえがせて、眠っていた。眠っているのかどうかも判じかねたが、ベッドのわきから熱発したほそい長い手をとり、じいっと 見守り続けた。
 朝日子が部屋を出ている間にやす香は、発語してはっきりこう言っ た。
 「生きているよ」「死んでない」と二回ずつ。
 妻と建日子とわたしとのその理解は三人三様に異なっていたけれど、「生きたい」「生きていたい」という望みには相違なく三人とも聴き取った。
「そうだとも、やす香は生きているよ、死んでなんかいないよ」と三人は思わず声を掛けた。
 わたしは、「やす香は生きているよ」「死んではいないよ」とやす香が言うたと聴いたのである。
 建日子は「まだ生きているのに」「死んでいないのに」と聞こえた、そしてその二語の前に、「にげてばかりいて…」と聞こえたと言い、だれかに叱られ責め られているように聞こえた、と理解していた。
 妻は、また少しニュアンスを異にしていたが、生きたいとやす香は言葉にしたのだと言う。死ぬのはコワイと訴えているのではないかと言葉を詰まらせた。

* やす香の言語能力は三人共にまだハッキリ感じ取れて、脳の混濁は認められない点でも一致していた。まだ生きられる、どうにかなるのではないかと、三人 とも希望をもった。希望を繋ぎたかった。つよい希望を胸に抱いて、病院を辞してきた。

* 保谷まで建日子は送ってくれて。鮨の「和可菜」でおそい晩飯を食い、家に帰った。
 帰るか帰らぬかに建日子のケイタイに朝日子の夫が電話してきた。初 めてのことだった。
 朝日子自身はわれわれに伝えたくなさそうだったそうだけれど、「じ つは、医師との話し合いでやす香の寿命は明日、明後日のウチとのこと、何なら病院の近 くのホテルを予約されては」とのこと。
 これには愕然とした。
 医療のことは分からない、が、今晩逢ってきたやす香に、明日・明後日だけの寿命しか残って無いなんて、実感できなかった。
 朝日子誕生日の七月二十七日にはまた行って、やす香を少しでも喜ば せてやりたいし、それも可能と三人とも感じていたのである。

* と、今度は、朝日子から、なんとわたしに電話が来た。興奮してい た。声が小さく、よく聴き取れなかった、受話器を息子に渡した。息子が話し、妻が話 し、また息子が話して、朝日子の興奮は静まったらしい。話の内容は、 よく察し得た。緩和ケアに託すると決断した日から、朝日子は、★★の 家族四人だけで過 ごしたかったが、そうは行かずに外向きの顔付きで過ごさねばならなかった。もう最期と医師の託宣を受けてしまったのだから、水入らずに過ごしたいと切望し ていた、ところが夫は建日子に電話してしまい、病院近くに宿泊してはとまで伝えた。自分の本意は、もうもうお見舞いはなくていいと思うと。
 朝日子の願いは察し得ていたし、あまりにも、もっともだった。わた しは「うん、わかった」と答え、うちの家族二人も承諾した。
 わたしは一期一会と覚悟して見舞っていたので、それでよいと自然に感じまた決した。今日出掛け、今日やす香に会えてやす香の生きたいと願う言葉も耳の奧 に聴きとどけて、わたしは、もう覚悟は出来た。妻にも建日子にも、そう告げ、やす香と朝 日子とののこされた時間に祈ろうと告げた。

* いましがた建日子は都心へ車で戻っていった。建日子に怪我などけっして起きませんように。

* やすかれ やす香 生きよ けふも。  2006.07.24


* 不如意な夢に悩みながら、はっと目覚めたとたんの、痛いような喪失感に悲しんだ。やす香は確実にまだ 生きて闘っている。だが、逢うことはない、も う…。今生の別れをすでに呑み込んでしまった、なんという運命。
 朝日子たちがやす香を胸に腕に親子三人で抱き囲って最期の時を迎え たいからという気持、よくわかる。
 だから「うん、わかった」と即座にわたしは返辞したし、妻も建日子も断念した。断念とは、つまり断念なのである。アキラメである。寂しくないワケがあろ うか。
 十余年奪われてきたやす香を、やす香自身の決意でわれわれはふたたび抱きしめることが出来た。ここにあげる二枚の写真は、正確に吾々の「隔てられた時 間」の長さを示している。
 やす香はそれを一気に回復してくれた。どんな嬉しさ、どんな歓声で、この初めての孫の成長した笑顔を、保谷に迎えたか。その前に、どんなに胸を高鳴らせ て、やす香の初のメールを読み、やす香の「まみい、おじいやん」と呼ぶ久しぶりの電話の声に息をのんだことか。
 ありがとうよ、やす香!  2006.07.25



まだ、ちっちゃかった保谷の姉孫やす香



再会した、大学合格通知の保谷のやす香


* やす香母の朝日子も 今朝の「MIXI」に書いている。

* 2006年07月25日  08:14  生きる  やす香母
 あれはいつだったろう 、やす香がいった
 奇跡が起きて そのさきにあるのが「命」なら 今生きてる私は 意味ないってことになるよ
 治ることだけが目標なら 今生きてる私は意味ないってことになるよ
 奇跡がなくっても 私は今生きてるし 私の人生はすてきだと思うよ

 新しい朝がきて
 やす香はきょうを生きる

* あの音楽会で、やす香自身もう「お別れ」などとあきらめていたろうか。「生きたい」とやす香は日記に書いた。やす香真実の本音を聴いてやりたい。
 「生きてるよ 死んでないよ」と、殆ど叫んだ昨晩のやす香の声が、一箭の西天をすぎるを感じるほど、鮮烈に蘇る。
 やす香、生きよ。奇蹟を切望するのもまた懸命に「生きている」ことだよ。大勢の大勢の友達が、人が、わたしたちも、そう願っているよ、おまえと一緒に。   

* そして丸山宏司君から、第二子結(ゆい)ちゃん誕生の朗報。葵ちゃんと顔を見合わせた写真の可愛いこ と、むかしの朝日子・建日子を思い出す。おめでと う。ポーランドからも、やがて朗報がくるだろ     2006.07.25


* 21:15  やす香母に 
 やす香のようすを「MIXI」のみんなに報せてくれて、ありがとう。さぞ君も疲れ切っているだろうが、此のかけがえのない一刻一刻をやす香とともに静か に豊かにすごしてください。

 もう三時間で、君の四十六歳の誕生日だ。

  ひそみひそみやがて愛(かな)しく胸そこにうづ朝日子の育ちゆく 日ぞ

   朝日子の今さしいでて天地(あめつち)のよろこび ぞこれ風のすずしさ
        (一九六○年七月二十七日朝日子誕生)

  そのそこに光添ふるや朝日子のはしくも白き菊咲けるかも

 安保デモで国会の揺れた初夏から、君の生まれた真夏から秋へかけての、わたしの歌だった。

 あした、可能なら、やす香の病室で、ママとわたしとでえらんだ、目に明るい真っ赤のストローハットに、大きな白い花をつけたのを君にかぶらせ、目に立ち やすい大きな七宝のブローチを、胸元にかざらせ、やす香に、
 「そーら、ままの誕生日だよ」と声かけて、一目でも目をあけ、思わずやす香に、吹き出し笑いをさせてやりたかった。やす香に、一と声、「まま、おめでと う」と言わせてやりたかったよ。

 いまの君に「おめでとう」は、なかなか言いづらいけれど、やす香を授かってくれて、「ありがとう」と心から、いま言っておく。
 どうかして明日を乗り越え、七月から八月を乗り越え、こんどは九月「やす香の二十歳」を迎えたい。やす香はつらいだろうが、迎えたい。やす香はせつない だろうが、迎えたい。やす香の「生きの命のかがやき」のために、迎えたい。 みんなで、心一つに迎えたい。  
 朝日子 やす香をお願いする。 父    2006.07.26


 2006年07月27日 10:14   秦恒平
 
 やす香 ありがとう ママのお誕生日に、ママに看取られて やすらかであったことと、おじいやんとまみいは、粛然とお前の深い愛にこたえています。
 
 朝一番に まだそれを知らず 朝日子のために例年のように赤いご飯で祝い、メロンを食べながら、やす香が今朝を迎えていたことを、とてもとても嬉しく、 喜んでいました。

 どんなに残念で口惜しいかはうまく言えませんが、今は、やす香の残していった愛と元気と誇りとを、静かに静かに想って、声に出さず、泣いています。  
 やす香 愛しい子よ。 やすかれ 生きよ 永遠に。 おまえの おじいやん まみい

 朝日子  ことばを失いながら お前のことを想っています。 父
   2006.07.27

* 
 やすかれとやす香恋ひつつ泣くまじとわれは泣き伏す生きのいのちを  祖父

 つまもわれもおのもおのもに魂の緒のやす香抱きしめ生きねばならぬ

* もう、泣くまい。
    凝視す永訣の空
    静思す自然の数
    心無きにあらねど
    怨まず生死の趨   宗遠


* 「やす香は、残念ですが、亡くなりました」という通知も、「通夜・告別」の通知も、メール一つも、保 谷の両親は受け取らぬまま、すべての事が果てる。 「MIXI」の有り難さというものか。

* だが、あの元気だったやす香が、まだ一日一日家族と共に一つ家に生活しながら、日々何ヶ月の日記が示 している、ああも言語道断な苦痛に呻き呻き続け、 援助の手と適切な医療とをもとめ喘ぎに喘いでいた時に、その時に、まさにその時に「生きていたやす香」に対し、家族の、つまり父親や、母親朝日子の優しい細やかな 注意や支援が、何で無かったのか。その欠落していた(事実上の)事実は、可哀想に、覆いがたいのではないか。

* 二月には(日記によれば)症状がもう始まっていた。
 三月には「急」を告げていた。日々の「やす香日記」は、痛いほどそれを明示し明記している。
 四月ともなれば、病状は烈しさを加え、五月は、もはや眼を覆わせるひどさになって、やす香はほとんど連日泣いていたではないか。そして孤独に、見当違い の病院や、カイロプラクティクスなんぞに一人で出掛けては、でたらめな診断に、微塵の改善も無さに、荒れに荒れたグチと罵倒を、絶望感を、繰り返し書いて いたのである。

* 結局、相模大野の北里大学に入院したのは、「六月」二十二日の「白血病」告知(「MIXI」)の、わずか数日前であった。
 そして白血病も診断違いで、結果は「肉腫」の、それもあんまりな「手遅れ」と宣告され、いきなり「緩和ケア=ホスピス=死へ向かう患者をそのように扱う 介 護」を、やす香は、医師と親とから、告知されたらしい。
 この本人への告知にも驚愕した。
 他で意見を聴いてみた医師もおどろいていた。言葉はキツイが、引導を渡されたようなものであった、やす香は。
 そして、「やすか祭り」と呼ばれたような、早や「お別れ・音楽会」が催された。やす香は大いに楽しんでくれた、何よりであった。よかった。
 だがあれで、がっくりとやす香の余力は減殺され、すべてが落ちこんだ。ただ、それより以外にやす香を慰める手がないと医師と親とは判断し、音楽会を楽し く盛り上げたらしい。せめてものことであった。
 だが、親切な、真剣な、幾つもの「医療援護」の申し出は、みな、すげないほどあっさり見捨てられてしまった。つまり、それほどに、ことは全く「手遅れ」 であった。

* やす香のそばにわたしがいてやれなかったのは、わたしにも責任の一半がある。わたしはやす香に死なれたから泣き嘆く のではない、「死なせた」と思い申 し訳ないと自身を責める。わたしはやす香の日々を現実に目に見ていてやれなかったが、日記からは目を離さなかった。危ないと見ていた、だから「親に相談せ よ」と喧嘩腰にすらなったのだが、それもメッセージやメールで言うよりなかった。逢うことが出来なかった。親にも伝えられなかった、聴く耳もなかったろ う。わたしたちもその点、やす香の大勢の友人達の域を出られなかった、いや友人の大勢は「生きている」をやす香を見て話せていたのである。

 ☆ 朝日子さんの 誕生日をこのような形で迎えるとは。
 「老少不定」とはいえ、余りにも早すぎる「逆縁」の訪れです。  2006.07.29


* 親に隠れてやす香が我が家へ来るようになり、以来二年半、どれだけ、やす香はわれわれに向かい、こう言いたかったか知れなかったのを、少なくも、わた しは感じていた。
 「どうか、父や母の犯した、おじいやんやまみいへの無礼や我慢を、ゆるしてやってください」と。
 やす香は、それがどんなに言いたかったか。なによりそれを言おうと、親に告げず思いきって祖父母の家までやってきたに違いない。
 だが、わたしたちは、やす香にそれを口にさせなかった。わたしも妻も、母朝日子の 幼かりし若かりし昔の話を次から次へして聴かせたけれど、父親に関 してはたったひと言も触れようとしなかったのである。
 だが、やす香の、「父や母をゆるして」という声なき声は、いつも少なくも私の耳には届いていた。
 わたしも妻も、やす香にそれを言わせたくなかったし、それを言うなら、婿であり、大学教員である、教育者である本人が、朝日子の夫とし て、やす香らの父として、礼にかなった大人の態度と挨拶とを、きちんと示すべきだと思ってきた。「礼にあらざれば聴さず」と。
 そしてやす香も、いつか諦めていたかも知れない。    
2006.07.29

* それでも、わたしは、帰ってきた。そして、知った。
 ★★家は、「MIXI」での「やす香=思香」と「おじいやん」の「マイミク」関係を、一方的に拒絶解消し、もはや「やす香=思香」の「日記」をどうク リックしても、「このユーザーの記事にはアクセス出来ません」と通告されてくる始末。
 まさか亡くなったやす香が、自分からこんな「無道」な措置を「おじいやん」相手にするワケがない。そんなことをしてみても、他のルートを通れば、今日の ★★家の葬儀の「御礼」は、ちゃんと読みとれる。

* わたしたち「やす香の祖父母」は、ついに一度もやす香が何日何時何分に亡くなりましたという通知も、通夜・告別の通知も、
朝日子からも、★★家からも受け取れなかっ た。「白血病」告知以来の見舞いの経緯すべてからみて、なぜ「やす香の祖父母」であるわれわれは、そんな仕打ちをやす香の親たちに、娘朝日子に、受けねばならないか、理 解に苦しむ。親へ、子のとるべき最低の礼儀ではないのか。
 「だいじな孫を死なせてしまいました、ごめんなさい」と、それが、大人として真っ先にする当然の礼であり挨拶ではないか。

* もっとも、十数年来心臓を病んできた老妻は、いま疲弊の極にあり、遠方の「お祭り」になど出て行く体力も気も無かったし、わたしは、「生きているやす 香」にこそ「生きよけふも」と願い続けたが、やす香の死に顔は見に行かぬと決めていた。
 わたしはつねづね葬儀という儀式に重きを置く思想は持たない。告別には私なりの作法を持っている、花火をやす香と一緒に観るとか。
 だからといって★★家が、朝日子が、やす香の祖父母へ何一つ通知も しないでいい「理」も、「礼」も、無いであろう。

* やす香は、こういう、ややこしさに板挟みにされていた、可哀想であった。
 それでもわたしたちの処へ、親に構わず、自発的に進んで来てくれたのだ。ありがとう。

* 2006年07月29日 23:02 御礼
 やす香は、たくさんの皆さんに送られて、
………延べ600人!!!………

 みんなの歌う「栄光の架橋」に送られて
 棺に入りきらないほどの花とメッセージに包まれて、

 そして、
 さまざまな事情でおいでいただけなかった方々も含めて
 たくさんの友情と祈りに包まれて

 「終わらない旅」へと旅立つことができました。

 ありがとうございました。
 ★★★・朝日子・みゆ希

* 「やす香を、なんで、むざむざ、こういうことにしてしまったか」。死なれた受け身だけを「人生最大の晴れ舞台」と飾り立てて、「死なせた自責」は、つ いにひと言も、この家族、両親は、口にしない。たくさんの友情と祈りに対し、それが正しい「礼」であろうか。
 この「御礼」のさばさばしたこと、だいじな子に死なれ死なせた哀惜、感じ取れるだろうか。わたしには、感じ取れない。
   2006.07.29


* このカリタス高制服姿のやす香の写真は、2004.12.17日、保谷へ遊びにきて祖父母を大喜びさ せた日の、一枚。たくさんたくさん話し合ったあ と、見送りかたがた西武線にのって夕食に出掛けた、その空いた車内で向かいの席から「おじいやん」が撮った。やす香がこころもち右に傾いでいるのは、とな りの「まみい」へ寄り添うていたのである。(こんなに大きく載せるのはひとえにわたし一人の「闇」の思いであって、人様にみせるためではない。遠慮無く カットしてくださるように。)

 在りし日の 愛しき孫 やす香 十九歳にして遠逝。   写真

*  この日の歓談で印象深く記録されているのは、母朝日子に ついて、「謎です。ワッカリマシェーン」と笑ったひと言。
   2006。07.30


* みずから「プロデュース」と称し、骨肉腫にあえなく落命した亡き娘やす香十九歳の、「人生最大の晴れ舞台」として「お祭りだお祭りだ」と、司会に見ず 知らずの女優さんを緊急に雇って、通夜・葬儀の演出に奔走した母朝日子に とって、それは、「死なれた」悲ししを、涙ではなく笑いで乗り切るのが「やす香を 見送る最良の方法」と思い決めたことであったろう。それはそれである。参会した六百人の誰しもが、「やす香」の人徳のまえで、じつに美しくピュアに悲しみ と親愛とを表現してくれたという。すばらしいやす香の生命力である。わたしはそれを微塵も疑わないし、わたしもまたやす香の徳を心から称賛してやれる。
 六百の参会者に満ちあふれた、「死なれた」受け身の思いは、あまりに自然で当然である。だが、むろんわたしたちもふくめ、やす香の家族に、やす香をむざ むざ「死なせた」という強烈な悔いと自責とを欠いていては、おはなしにならない。
 それほどの「やす香」を、家族の愛ある目の、手の、口のまるで及ばなかったため、「むなしく死なせてしまいました、やす香にも皆さんにも申し訳なかっ た、ごめんなさいね」という表白が、やっと葬儀のその日に朝日子の口 から少し漏れ出ていたようだ、「父さんが書いていたのを読んだと思われる」と、建日子 は、わたしたちに告げてくれている。何であれ、それでこそ、やっと本当の親の心情が流露したものと、やす香のために、また朝日子たち自身の心の平和のため に、頷いてやりたい。

* 「死なせてしまった」という家族の痛恨を欠いた、ただ葬儀の「プロデュース」など、いかに「死なれた」大勢を感銘させ得ても、肝心要の家族の振るまい としては、本末を転倒した偽善的なごまかしに堕する。まっさきに、自分自身の不注意と愛の薄さからやす香を「死なせてしまいました、ほんとうにごめんなさ い」という痛惜・痛恨が吐露され自覚されないかぎり、そしてそのうえでやす香のため、精いっぱいみなに参加して貰える晴れやかな儀式を仕組むのでないかぎ り、真の愛からも情からも薄く逸れてしまう。文字通り情けないことになる、わたしはそう思ってきた。
 わたしは、この「私語」に、いままさに朝日子達の頭をまことに垂れ て言うべき言葉までを「書いて伝え」ねば成らなかった。
 建日子によれば、やっと父さんの思いが届いたようだよ、と。少なくも、そうと漏れ聞いて朝日子達の悲しみにわたしも涙を添えることが出来る。よかったと 思う。  2006。07.31

* 二十三日にやす香を見舞った日、やす香の床のわきで、静かに静かに聖歌を歌って下さっていた方から、 やす香生前の思い出などをメールでたくさん教えて 頂けた。ご親切にも頭がさがるばかりであるが、告別式のあと、あまりに卒然として手早にやす香を運び去られるに堪えかね、朝日子が声を放ってついに泣き崩 れ、あとを追って駈けたというのを読み、朝日子が可哀想で可哀想でわ たしはとても堪えられなかった、さぞ悲しく悔しく辛いことだったろう。
 発病以来、長い間泣くのをこらえて笑おう笑おうとしていた、賢いようでバカなバカな娘よ。やす香は重い「十字架」になった、われわれは生涯背負って行き ますと、この母は漏らしていたそうだ、「死なれて・死なせた」われわれの、それは到底遁れようのない負担である。
 朝日子がつらいのは、この先の日々だ、だがよく堪えて、妹みゆ希か ら節度ある愛情深い眼をどうか離さないで、幸せ一杯にみごと育てて欲しい、心優しいや す香はそれをかならず喜んでくれる。

* しばらく囀りが聞こえず、心配していました。回復されてよかった。
 「逆らひてこそ、父」刊行日付の七月二十七日は、娘朝日子の四十六 歳の誕生日であり、孫やす香十九歳での遠逝当日ともなりました。
 やす香は、六月二十二日にみずから「白血病」発症を告げてきましたが、やがてそれが診断違いであり、最悪の「骨肉腫」であると決定した日から即緩和ケア に入 り、母の誕生日にようやく手を掛けただけで落命しました。

  この花火 やす香は天でみているか

* この四月十二日にまさしく「思いあまって」やす香にメッセージを送ったのが、「MIXI」に記録され ている。これを同文で母親の朝日子に送る手だてが もし有ったなら、と、残念だ。わたしは、かなりこのときやす香に対してもカンカンに怒っていたのである。

* 宛 先 : 思香(=やす香)   日 付 : 2006年04月12日 20時38分 
     件 名 : MIXIに加わってから、思香日記を
  欠かさず読んできました。もうまる二ヶ月ちかくなります。一言で言えば「心配」の連続でした。
 人から耳の痛い何かを言われるのを、頑固に拒絶しているらしいのは知っていたので、直接、何も話し掛けませんでした。
 書かれてある日々の生活、それを話している書き方・話し方。そして会話。それは、ま、本人の勝手であるから好きにしていいことですが、最近の日記には、 「心身の違和」が猛烈に語られはじめ、こと健康、こと診療となると、心配はもう極限へ来ています。
 ことに今日の日記など、これが「ピーターと狼」の例であるならべつですが、本当に本当にこんな有様なら、やがて神経や精神に響いてきます。親とも、本気 で何の相談もしていないように見受けるし。
 思香日記をみてくれている「大人」の知人・読者には、日記じたいが心幼い一つのパフォーマンスであり、自我の幼稚な主張であり、或いは遊戯に近いかと解 釈する人すらあるのですが、わたしは、おじいやんは、そうは思っていません。かなり危ないと、ほんとうに心配しています。
 相談したい事があるなら、素直に柔らかい気持ちで、遠慮無く言うてきてくれますように。とても「笑って」られる状態・状況とは思われない。
 まさか思香は他人からの「愚弄愛」に飢えているわけではないでしょう。だれからも、正常で正当な「敬愛」を受けたいのではないか。それにしては、あまり に言うこと為すこと「幼い」のではありませんか。
 思香は、こういうことを身近な誰それから直言されるのを、極端に嫌っている気はしますけれど、心の健康すら心配される今、手遅れにならぬうちに、「話し にお出で」と声をかけることに、おじいやん一人で決心しました。 湖

* この翌日にも親もともども東大とか慶應とか医科歯科とか、検査能力の高い病院へ駆け込んでいてくれたらと、此の後二ヶ月半ものほぼ空白の苦痛ばかりが 傷ましく、悔やみきれない。これを七月尽のわが呻きとして言い置く。   2006.07.31