闇に言い置く0−3


 以下の写真を此処に「置く」のを、娘・夕日子(強 硬な原告夫妻の要求があり、サーバーの困惑を慮り仮 名にしてある。娘は東京都町田市の主任児童委員)と夫(青 山学院大学教授・国際政経学部)とは、「肖像権」を侵していると い う。多額の損害賠償を現に父に対し法廷に求めている。 

 何ゆえに「被告」にされている父・私は、あえて此処に写真等を置くか?

 弟が生まれて以来、二十年ないし四十年、親の虐待・性的虐待を受け続けてきた、不倶戴天の親だと、物陰に隠れて書き散らしていた娘・夕日子の捏造と罵詈 の訴訟を、これらの写真は正しく裏付けているか。 それを、問うためである。

 虐待? 観れば、分かる。撮っているのは殆どすべて父・私である。或いは編集者・カメラマンである。
 必要なら、もう百も二百も、和やかに微笑ましい娘の写真をアルバムからここに掲載出来る。

 杓子定規な「法」より以前に、父母が、祖父母が、娘や孫との平和で親愛に溢れた 家庭写真を撮ったのである。
 不幸でバカげた裁判沙汰がなければ、これらの写真の全ては、その和やかさに、観る人の頬を思わずゆるめたであろう。その簡明な事実の方を、これら写真の 娘が、親を「虐待者」だと訴えたり「 肖像権侵害」だと訴え出る心性よりも、尊く、大事だと父・私は信じている。

 以下一連の写真から、いやな陰を見てとれる人が有るだろうか。わたしは自身の名誉以上に、妻と息子との名誉をまもりたい。 秦




    東工大教授の頃に、妻と。娘も息子もこの二人から
    生まれ愛された。表情晴れやかな以下写真のように。  





 なんとも愛 らしい懐かしい。私たち両親はこのように分 け隔てなく姉弟を愛したし、今も。
 


             
 
 やす香・行幸(仮名にしてある)の 写真は、一九九三年七月のこのハガキの、
 なお二年ほど後 に、娘の手で送られてきてい
る。娘の悪意は微塵も 感じられぬ。

                    

  上は筑波の★★宿 舎
下の孫とは、このときが初対面
 下 は清瀬の病院へ孫(娘)と曾孫娘二人のお見舞 い



秦 の祖母を、二人の娘とともにちゃんと見舞いに来てくれていた。
母娘三人で保谷の両親宅に泊まり、女四人は仲良く雑魚寝。



        

 やす香には祖父母の家もわが家だった。後年、親に秘し祖父母を訪ね て
 いつも楽しそうだったのも、自然必然の成行きだった。事実は、雄弁。



          
 
保谷で、曾祖父母にやす香をみせる娘      保谷へは、夫婦でも機嫌良く。



               

や す香と両親。保谷で雛祭り。   保谷のテラス でご機嫌サンの
                      娘とやす香。むろん撮影は父。

やす香は保谷へ最期の訪問に
妹と嬉々として此のお雛様を
飾っていった。十九歳だった。
06.02.25





結 婚後も娘はしばしば保谷へ。
母のカメラに、父と。この笑顔!
 



お じいやんが一等好きな、
可愛いやす香。保谷で。




 
  父のカメラにご機嫌の娘。弟も生まれ、幸せそのもの。


           撮す父 撮される母と姉弟       

    二十歳の娘と愛猫ノコの雛祭り

    見合い用の 写真  


    華 燭の日 父のカメラに笑む娘。
   夫を引き合わせたのも、結婚式場
   を奔走用意したのも、父。




父のソ連旅行を横浜埠頭に進んで独り見送ってくれた娘 十九歳か。
同年齢で、孫・やす香は死んでいった。葬儀直後から暴発した娘夫妻の
裁判騒ぎは。小説『逆らひてこそ、父』日記『かくのごとき、死』が真相を示唆。




 
我が家の姉 と弟 愛されてのびやかに育っていた。






 父 へ全身で笑む可愛い娘。我が家の原点!




父親のカメラに、姉も弟も腹から の笑顔。子宝!



 結婚後にも、文壇のパーティや結婚披露宴等に夕日子
は喜んで父と同行していた。


1991 年1 月:
結 婚し母となってなお、父と嬉々として旅する夕日子。
婦人雑誌「ハイミセス」の企画で、母に代わって。








雑 誌「ハイミセス」1991年3月号の「旅」企画に、娘を伴い、
松山、柳井、厳島などに遊んだ日々のスナップ写真。
どこに「虐待」の暗影ありや。娘はもう結婚して母であった。
虐待されているなら、同行など簡単に断れたのである。



在り し日の 愛しき孫 やす香 十九歳にして七月二十七日遠逝。




ま だ、ちっちゃかった保谷の姉孫や す香
祖父母が大好きな写真。





十 四年後再会した、大学合格通知の 保谷のやす香。
やすかれ やす香 生きよ とはに。逢いたいよ、また。






     作・演出 稽古中の作家・秦 建日子




 *  東京工業大学・工学部 教授室で  秦 恒平 1995.4.8





 此処、此の位置に、余儀なく掲載していた「記事」の多くを、新年を迎える前に他 に移転した。
 必要が生じれば、復旧する。 07.12.24


 
以下に、平成十八年・二○○六年「mixi」に 掲載した記事を一括掲示しておいたが、用は足り る であろう、目次のみ残して、他に移転した。必要が生じれば、復旧する。   08.01.20〜22正午


      湖・ 秦 恒平 2006「mixi」日記本文 

       「創作またホームページ記事以外の。」


 孫・★★やす香の不幸な発病・入院・死、そしてその後に続々生じ た紛糾の一年間 に相当しています。
 最初に、「湖=秦 恒平」がその一年に「mixi」に書いた「全作品・記事」の目録を掲示し、次いで、そのうち既出または書き下ろしの純然たる創作文(小説・評論・随筆・短 歌・講演・対談等)を除いた「日記」「エッセイ風」の文章全てを掲示しておきます。順次に通読すれば、「流れ」歴然です。




 2006年「MIXI」に掲載した「湖・著作」 目次


2/15 - 3/17 『「静かな心」のために』    31回
3/18 - 4/7 『本の少々』(エッセイ集)    31回
4/8 - 5/13 『一文字で「日本」を読む』   36回
5/16  共謀罪新設法案に反対する
5/21 「長編小説を連載する気持」
5/21 - 6/8(上巻跋) - 9/3 『最上徳内 北の時代』 87回
6/10  マイミクシイの思香(マゴ・やす香)へ 祖父
16/11 - 7/26 『「東工大」青春短歌大学』 上巻 42回
6/23  孫よ生きよう
7/3  七月四、五日は京都で対談
7/11 「優れた文学とは」 (徳内 中巻跋)
7/14  片思ひの歌に寄せて
7/15  願い
7/18  初孫やす香の三枚の写真
7/20  やすかれ やす香 生きよ けふも
7/25  生きよ けふも
7/26  やす香母の夕日子に 湖
7/27 - 8/25 『死なれて 死なせて』 (30回) 
7/27  やす香永遠に  おじいやん
7/29  孫やす香の使命
7/30  この花火やす香は天でみているか
8/1   ノータイトルの一言 生きたい
8/3   死なせた は 殺した か
8/7     ある読者から「孫・やす香の母」への手紙 もりコメント
8/11  八月十一日 金
8/13    告訴されたおじいやん
8/15    連載『死なれて死なせて』20
8/19  やす香が夢に来た
8/19    やす香の死を悼んで下さった方、また母・夕日子に。
8/19    怪文書? 未咲さん
8/23  逃げない
8/25 「死なれて 死なせて」を終えて
8/26 - 8/29 『日本語で「書く」こと「話す」こと』 (4回)
8/27  初の月命日
8/30 「心の問題」
8/31 - 9/15 『漱石「心の問題」』 (17回) 後記
9/3  「永かった『最上徳内 北の時代』の連載を終え」
9/4 - 9/17 『秘色(ひそく)』(太宰治賞受賞第一作・14回)
9/6   湖と作家秦恒平とは同一人ですが。
9/7    湖=作家秦恒平は同一人。
9/10 「MIXI」に作品を公開する理由
9/14    ひどすぎる。湖
9/16    道を踏み外している。湖
9/16    娘との三枚の写真
9/17    父と娘との旅写真を見て欲しい。
9/16 - 9/18 『講演・私の私』  3回
9/17 - 9/23 『三輪山』  5回
9/19 - 9/23 『講演・知識人の言葉と責任』 4回
9/21   ホームページの強制削除か
9/21 - 10.12 『闇に言い置く 私語の刻』(HP被害の為)22日
9/23  「秘色・三輪山 作品の後に」
9/24 - 9/26 『講演・マスコミと文学』 3回
9/24 - 10/8  『罪はわが前に』上 15回 
9/27 - 9/29   『講演・蛇と公園』 3回
9/30        『歌集・少年』 全
10/1 - 10/3   『講演・短歌のことばと日本語』 3回
10/4 - 10/6   『講演・把握と表現』 3回
10/7 - 10/12  『講演・桐壺更衣と宇治中君』 5回
10/9 - 10/12  『清経入水』 第五回太宰治文学賞 7回
10/13 - 10/18 『講演・春はあけぼの』 6回
10/13   「平成癇癖談」1
10/14 - 10/15  「漫々的 書いて行く人との対話」1.2
10/17   「闇に言い置く 遺書として」 
10/19 - 10/21 『講演・春琴と佐助』 4回
10/20    「町田市主任児童委員」を名乗る
10/21    主任児童委員氏の被虐第二条
10/21     被虐第三条
10/21   志賀直哉と瀧井孝作と
10/21 - 10/24 『講演・名作の戯れ』 5回

10/22     「町田市主任児童委員」氏へ「親の愛」の詩歌

10/24     主任児童委員氏の被虐第四・五条
10/25 - 10/26 『対談・いけ花と永生』(長谷川泉) 2回
10/27    私の潰されていたホームページのこと
10/28 - 11/1 『畜生塚』 5回
10/30 - 10/31 『対談・極限の恋』(大原富枝) 2回
11/1   『対談・創作への姿勢と宗教』(加賀乙彦)
11/1   「畜生塚と加賀さんとの対談」
11/2   『生まれることと生きること』(竹西寛子)
11/3   「今日の私語から 仏と仏像」
11/3 - 11/7 『対談・京ことばの京と日本』(鶴見俊輔)3回
11/3   「今日の私語から 死を告げる鐘は」
11/8   『竹取翁なごりの茶を点つる記』
11.10   インターネット不調 adsl不調
11/13    三枚目のやす香の写真
11/13 - 11/13  『対談・一遍聖繪と一遍の信』 2回
11/13 ・11/23 - 11/25 『初恋=雲居寺跡』 4回
11/23    機械の不調深刻で
11/24    「芹沢光治良『人間の運命』を読みながら」
11/26 - 11/30  『マウドガリヤーヤナの旅』 5回
12/2 - 12/10   『能の平家物語』 11回
12/3   親機の不調深刻
12/6     エッセイ能の平家物語 6
12/11 『花鳥風月』
12/11 「甲子さんを紹介します」
12/11 - 12/21 『好き嫌い小倉百人一首』 12回
12/18    むらっちサン
12/21 「当た亥年 述懐 七十一郎」 
12/22 - 12/31 『歳末随感十編」 10回
「芥川のこと(追加)・病院・かなひたがる・寅さんたちの国語・和歌・篠村・京都・ソ連へ・お酒・大晦日」     以上   湖  



2006年「MIXI」日記に掲載した「湖・執筆の全記事」 

但し既刊本所収の著作「清経入水」等また書き下ろし文藝連載等は省いてある。






 ログインに  2006年02月14日17:25

やっと成功したのか、まだ確信できない。mixiの何であるかも理解できていない。この世界が雑踏しているのか、閑散としているのかも不明。隣は何をする 人か、隣の確認もできず、探索の手だても見えない。無い無いづくしのまま、今日がどういう「記念日」になるのか。



共謀罪新設法案に反対する。 秦 恒平  2006年05月16日13:45

 いま日本国民に迫っている危険の最大の一つは「共謀罪新設法案」がどさくさに国会で成立することです。日本ペンクラブの吾々は以下の声明を もって、五月十五日記者会見し、私も理事(電子文藝館館長)として発言してきました。この声明文は吾々の深切な意思表明です。賛同して下さいますよう、ま た賛同願えれば、一人でも多くメールで、またホームページで、このまま、より大勢に伝えて下さいますよう。

* 「共謀罪新設法案に反対し、与党による強行採決の自制を求める」 
社団法人 日本ペンクラブ会長 井上ひさし
 二〇〇六年五月十五日
 いままさに日本の法体系に、さらにこの国の民主主義に、共謀罪という黒い影が覆いかぶさろうとしている。自民・公明の両与党は衆議院法務委員会におい て、一両日中にも共謀罪導入のための法案の強行採決を行なうつもりだという。
 私たち日本ペンクラブは、文筆活動を通じ、人間の内奥の不可思議と、それらを抱え持つ個々人によって成り立つ世の中の来し方行く末を描くことに携わつて きた者として、この事態に対して、深い憂慮と強い反対の意思を表明するものである。
 いま審議されている共謀罪法案は、与党が準備中と伝えられるその修正案も含めて、どのような 「団体」 であれ、また実際に犯罪行為をなしたか否かにか かわりなく、その構成員がある犯罪に 「資する行為」 があったとされるだけで逮捕拘禁し、厳罰を科すと定めている。法案の 「団体」 の限定はまったく 不十分であり、また 「資する行為」 が何を指すのかの定義も曖昧であり、時の権力によっていくらでも恣意的に運用できるようになっている。
 このような共謀罪の導入がこの世の中と、そこで暮らす一人ひとりの人間に何をもたらすかは、あらためて指摘するまでもない。民主主義社会における思想・ 信条・結社の自由を侵すことはもちろんのこと、人間が人間であるがゆえにめぐらす数々の心象や想念にまで介入し、また他者との関係のなかで生きる人間が本 来的に持つ共同性への意思それ自体を寸断するものとなるだろう。
 この国の戦前戦中の歴史は、人間の心象や意思や思想を罪過とする法律が、いかに悲惨な現実と結末を現出させるかを具体的に教えている。私たちはこのこと を忘れてはいないし、また忘れるべきでもない。
 そもそも今回の共謀罪法案は、国連総会で採択された 「国連越境組織犯罪防止条約」 に基づいて国内法を整備する必要から制定されるというものである が、条約の趣旨からいって、人間の内心の自由や市民的活動に法網をかぶせるなど、あってはならないことである。にもかかわらず、法案は六百にもおよぶ法律 にかかわり、この時代、この社会に暮らすすべての人間を捕捉し、その自由を束縛し、個々人の内心に土足で踏み込むような内容となっている。
 このような法案に対しては、本来、自由と民主を言明し、公明を唱える政党・政治家こそが率先して反対すべきである。だが、与党各党はそれどころか、共謀 罪の詳細が広く知れ渡ることを恐れるかのように、そそくさとおざなりな議論をしただけで、強行採決に持ち込もうとしている。こうした政治手法が政治それ自 体への信頼を失わせ、この社会の劣化を招くことに、政治家たる者は気がつかなければならない。
 私たちは、いま審議されている共謀罪に強く反対する。
 私たちは、与党各党が行なおうとしている共謀罪強行採決を強く批判し、猛省を求める。

* 昨日の記者会見でいささか発言したわたし(秦恒平)の「思い」も、ここへあげておきます。これはただ御覧下されば有り難い。

* この法案は、万機「公論」に決したいという、近代日本さきがけの意向を、真っ向と圧(お)し殺そうとする法である。遠くは明治の大逆事件、近くは昭和 の横浜事件という、「国の犯罪」ともいうべきフレームアップ(でっちあげ)を、またも公々然と国をあげて容認することになり、それが、堪らない。
 「公論」としての「ことば」を、どう抹殺しようとしても、人の言葉は容易に殺されたままでいない。当然、政治的・社会的に何かを求めたり、批評したり、 非難したりするとき、「ことば」は地下や闇に非合法に潜り隠れても、現状批判や現状破壊への隠れた力、武器として働かざるをえなくなる。あたかも、上古の 童謡(わざうた)や中世の落首のように、隠喩や諷刺や陰口のかたちででも働かざるを得なくなる。
 文学的な意味に引っ掛け、あえて皮肉に謂うなら、それは「隠微な表現力」を豊かにするかも知れないけれども、どう考えても、「ことば」が不健康に「危険 化」して行くことは避けられない。
 人々の「ことば」が健康な「公論」としてでなく、政権与党の恐れている「テロリズム」を、逆に誘発し喚起し起爆的にはたらく「ことば」になって行きかね ないのである。
 そういう「ことば」に導かれながら生活する国民が、健康で幸福である道理がない。怖ろしい事態に必然繋がってゆくことを真剣に恐れて、この悪法にわたし は反対したい。「ことば」により書いたり創ったりしている者として、国民の「ことば」が、隠微に危険な歪みを強いられ、それが精神の健康にまで影響するこ とを、わたしは、つよく嫌悪し恐れている。

* さらにまた付け加えて、日本の若い世代(ことに学生)が、世論への牽引的な役割を果たして、「憲法無視の悪法」等に、どうしてもっと批評的に立ち上が れないのか、マスコミもそのような論議の盛り上げをして欲しいと希望しました。



長編小説を連載する気持。  2006年05月21日12:22  

MIXI に招待され、少し好奇心も動いて入ってみた。幸便に、書き起こしたい「仕事」もあった。「静かな心のために」だった。心新たな世間を覗くことにもなろうか とも期待した。なるほど、かなりな世間ではあった。日を追って、あれこれ覗いたり読んだりし、しかし、失望感は濃かった。なにかしら期待した自分が間違っ ていたと感じるようになった。
 ま、間違いダラケの七十年だった、また一つ間違えても珍しいことではない。で、MIXIを撤退しようとほぼ決めていた、のに、もう少し間違い続けてみよ うと、思い直した。その本音は言いにくい。そして誰にも読まれそうもない、ながーい小説を、我一人「読み直す」ために、少しは手も入れ校正もし直すために 「再連載」しようと思い立った。ま、だれのメイワクになる場所でもない、我一人の勝手な「日記」を書くのと同じで、みんなそうしているのだし。

 岩波の「世界」に随分ながく連載した小説がある。その途中で、初めて東芝のワードプロセッサ「トスワード一号機」が発売(七十万円ほどした)され、わた しは直ぐ買い入れ即日原稿書きに使い始めたのだから、かなりな大昔の話だ。連載していた小説の題は、『最上徳内』であった。筑摩書房で単行本にしたとき、 『北の時代』とした。

 最上徳内という日本人は、江戸の幕府の官僚としては最も早く、間宮林蔵などよりはるかに早く、クナシリ、エトロフの北端まで、また樺太の北端まで単身探 索し、事実上間宮海峡をも確認していた人、緯度経度を測定してほぼ正確な蝦夷地の地図を最も早くに創り上げていた人、またロシア人との意義深い共同生活も した人、アイヌ人とじつによく親しみ愛し、アイヌ語の辞典も最も早く制作した人、そしてあのシーボルトに「だれよりも優れた日本人」と絶賛され、大著『日 本』に大きな佳い肖像画と業績とをこまかに紹介されていた人、誇らしいほど力量に富んだおもしろい「人間」であった。

 わたしは、事実上、日本の近代の幕明きに大きく寄与した二人の偉人として、新井白石とこの最上徳内とを相呼応する存在とみて尊敬している。そして二人と も、長編小説の主人公とし、後者は「世界」に、前者は『京都新聞』朝刊に連載した。
 その一人の、およそ今の日本人ではほとんど知る人の少ない、あまりに少なすぎる「最上徳内」像を、この、かなりもかなり場違いな「MIXI」日記欄に、 再掲連載してみようと思い立ったのである。毎日載せて一年はかかりそうだ、いそがしいわたしに果たして仕遂げられるかどうか分からない、が、ま、歩き出し てみようと思う。

 わたしの小説は、ひわひわした通俗読み物ではない。どんな読者にも歯ごたえの堅い文学作品と受け取られてきた。まして少しずつの連載についてこれる人は 容易に有ると思われない。つまりこの連載はいささかの挑発でもなくて、自分の「用」があってすることである。
 しかし、もしも読みついて下さるがあれば、この歴史小説は、また現代小説でも幻想小説でも政治小説でも、淡いがこまやかな恋物語でもあることに、気付か れるだろう。そして北方四島問題や「北」問題に絡めて、「現代そのもの」の問題を読み取る人もあるだろう。
 目次だけを、先に挙げておく。

『最上徳内 北の時代』  

秦恒平 作 (秦恒平・湖(うみ)の本 32 33 34所収)

   目次

序章 〈北〉の時代………………………………5
二章 曙光、天明初年……………………………32
三章 徳内、蝦夷地へ……………………………91
四章 襟裳岬で……………………………………148
五章 アイヌモシリ………………………………中巻
六章 尾岱沼(オダイトウ)……………………中巻
七章 徳内、択捉(エトロフ)島へ……………中巻
八章 天明六年、暗転……………………………下巻
終章 〈北〉の時代、今なお〈北〉の時代……下巻




 孫よ生きよう  2006年06月23日14:17  

MIXIに頼りなく初ログインしたのは、今年の二月十四日でした。十日ほどして、二月二十五日に、孫娘ふたりが訪れてくれ、わたしは妻に、大学一年と中学 二年の二人に「雛祭り」をさせるように奨めました。二人は大喜びで妻の雛人形を飾りました、嬉々と声をあげながら。
 もともと姉妹の母親、われわれの娘が、嫁ぎ先へもっていっててもよく、上の孫娘の生まれたときにもって帰っててもいい雛人形でした。しかし、不幸な事件 から、かえって娘達とわたしたちとの交通は阻害されてしまったのでした。娘達やわたしたちの誰にも不本意な不幸なことでした。以来、両家の往来は拒まれて きました。むろん我が家の門は、いつも娘や孫達のために明けてありましたが。
 吾々夫婦は、二人の孫の育って行くのを見ることは出来ませんでした。娘の顔も見られませんでした。娘もあえて顔を見せませんでしたが、つい二年ほど前、 高校三年生の上の孫が、母親の弟、叔父を介して、わたしたちに連絡をくれ、その後、祖父母に顔を見せに来てくれるようになり、いつしかに妹、下の孫娘も連 れだって遊びに来るようになりましたが、親たちにはナイショにしていたのです。
 雛かざりをみなで楽しんだ日、「おじいやん」 (幼い頃、そう呼んでいました。祖母は「まみい」と。)がMIXIに入ったばかりと聞くと、姉孫は「あたしも入っている」と、その場ですぐお互いにマイミ クシイになったのでした。姉はもう大学に入っていて、やがて二年生になるのでした。
 それからのMIXI日記で垣間見る孫娘の日々は、しかし、「おじいやん」を心配させました。聞きしにまさる極早朝からの接客アルバイト、夜分の接客アル バイト。気の小さい祖父は、癇癪が起きそうなほど孫の心身を案じました。苦言も呈しましたし、こんな心配をするぐらいなら、MIXIもやめたいと、何度も 思いました。「おじいやん」はさぞうるさい「おじいやん」であったろうなと、いま、泣いています。
 このアリサマでは、からだを必ず毀すと恐れていた、その孫が、まさかそんなことはと考えもしなかった病魔につかまってしまいました。信じたくない。が、 当人が、(ついに入院のためでしたが、)暫く休んでいたMIXI日記で、みなさんに病名も告げてしまいました。母親は、弟を通じ、わたしたちには伝わらな いようにはからっていたのですが。朝日子は、娘は、自分の娘達が祖父母の方へ行っていることも今では知っていて、それをとやかく言う気は自分には無いとも 弟に伝えたそうです。
 「おじいやん」も「まみい」も、泣きながら堪えています。あたりまえなことですが、代われるなら代わって病気を引き受けてやりたいです。人に、いつも 「笑っていて欲しい、笑っていて欲しい」と求め、自分もいつもいつもよく笑う孫娘ですが、なんと泣かせる孫ではありませんか。ああ…
 しかし、泣いて済むことではなく、今からは、孫に、精一杯希望をもち気力を尽くして生き抜いてもらいたいし、そのために、わたしや、わたしたちのどんな 「力」が、「精神の力」がつかえるか。センチメンタルになるのでなく、悲しみへ遁れ沈んでしまうのでなく、いまこそ心を静かにして、「今・此処」の自然な 一歩一歩を歩んで行きたい。私たちの息が切れたのでは、孫のための力にはなれないでしょう。
 やす香。 みんなして、生きて行こうよ。 
 おじいやんは、だから、いますぐ飛んでいってベッドにいるやす香を見舞おうとは思いません。しっかり治療を受け、軽快し、退院し、社会復帰出来た日に、 元気な顔で逢える日に、がっちり将来を祝福の握手がしたい、おまえと。 生きて行こうよ、やす香。   湖のおじいやん

コメント

○ 伶 2006年06月23日 16:01
今朝「闇に言い置く」22日を読んでこちらを訪ね、やす香さん
の日記を読みました。おふたりに何とお声かけしてよいやら、
ためらい、迷い、午前はそのままに過ぎました。けれどもいま
こうして書いてらっしゃる、また昨日も言い置かれたお言葉を
想い、一歩踏み出してみました。
やす香さんに、こんなにもお友だちの多いこと、妹さんと共に
お宅にいらしていたこと、ほんとうに嬉しく読みました。
お祈りしています。
※ 湖(うみ) 2006年06月24日 02:13
 有り難うございます。湖 呼幸 2006年06月24日 09:14 ご無沙汰しています。
久々に湖さんの日記に訪れて、途中まで読んで、「ああ、お孫さんが逢いに来てきださっているんだ…!」とすごく嬉しくなりました。

その後読んでいるうちに…。

お孫さん心配ですね。
兄嫁の妹の長男6年生が同じ病です。

周囲の人間が諦めないこと…大切ですよね。

私も心からお祈り致します。
※ 湖(うみ) 2006年06月24日 10:07
感謝します。 湖
○ はったん 2006年06月25日 02:20
きっとよくなりますよ!!

必ずです。

僕も、同年代の一人として祈ってます。
※ 湖(うみ) 2006年06月25日 08:32 ありがとう、はったん君!



ノータイトルの一言 生きたい   2006年08月01日18:02

* おとといに、わたしたちの娘、やす香の母、朝日子が「MIXI」に出したアイサ ツを読んだ。冷淡なほど冷静に、カッコよく磨いた文章になっている。「死なれ・死なせ」たものの痛苦を希釈し、
 「ごめんね、やす香」
 「やす香をむざむざ死なせて、お友達のみんな、ごめんなさいね」
の、只一言も先立てない、それどころか堂々と大人の見舞い客や若い友達たちの人生に、今後に「教訓」している一文である。装われたひとつの「文藝」「文 才」ではあるけれど、ほとばしる誠は、はなはだ薄い。これも「プロデューサー」の仕切術か。
 「セリフだけはリッパそうに言うが」と、娘の昔によく窘めたのを、またしても苦く思い出す。

* 2006年07月30日 09:07 そして、明日を、生きる。
 皆さんに支えていただいたこの短い闘病記を終えるにあたって、母・朝日子から、皆さんにお伝えしたいことがあります。
 言わずもがなかな、とも思うのですが、
 でも、やす香が命をかけたメッセージです。間違いなく、届けたい。
 長くなりますが、読んでください。

*****
 不思議に思われるかもしれないけど、私(=やす香)笑うことがすごく、すごーーーーーく好きだから、そして人は必ず誰もが死ぬものだから、最後まで友達 と他愛もなく生きていることを自分で選びました。自分の命が見えた分だけ、自分が本当に何が好きなのか、どうしたいのかを見つけることができたんです。
*****

 お別れ会でご紹介したこの文章は、やす香の叔父・秦建日子のブログに、お見舞いへのお礼として記されました。軽く流したようでいて、考えに考えて書いた 文章です。

 だけど、
 やす香の人生において「本当に好き」なのが、「他愛もなく生きる」ことだったわけではないと、どうか忘れないでください。やす香は「未来を生き、夢を実 現する」という、もっとも大切な道を奪われました。その断崖に立ったとき、残された日々を、悲嘆や、悔恨や、憎悪や、絶望で過ごすか、あるいは、「他愛も なく」「笑って」過ごすか、やす香は後者を選びました。究極の選択であったことを、忘れないでください。

 それは、やす香がみずからに課した最後の規範でした。お見舞いの賑わいが去った病室に一人残され、恐怖と絶望がにじみよる夜の闇の底で、やす香は何度も 泣きました。失われた未来を思って、泣きました。あるいは、苦痛を早く終わらせたいと、泣きました。けれど朝が来ると、やす香は自らの規範に立ち戻りまし た。そうやって残された日々を、大事に、大事に生きました。

 友達は大事です。偉大です。やす香の最後の日々を支えたのは、医療でも、親でもなくて、まぎれもなく「友達」でした。そのことを私は何度も、何度も感じ ました。
 でも、言わせてください。
 いえ、やす香のこの言葉を聞いてください。

*****
 NOと言うことから逃げないで、
 自分の思う道を進む。
 道は一つじゃないんだから、
 どの道を歩もうと、
 早足で歩もうと、ゆっくりと歩もうと、
 たどり着く先に
 確かな夢さえ見えていれば大丈夫だよね。
*****

 「友情」にがんじがらめにならないでください。
 あなたたちに有る「明日を生きる」道程で、もし「友情」が、あるいは「愛や善意」の名のおいてなされる「干渉や束縛」が、あなたを損なうと気づいたら、 自分を守る勇気を、どうか、忘れないでください。

 もう少しだけ、つきあってくださいますか?

 「何もできなかった、後悔でいっぱいです」
 夕べ、そんな電話をいただきました。
 いえいえ、あなたはやす香の命を支えました。

 「できなかった」という悔恨は、私たち両親だけが、しっかりと胸に抱えて生きていきます。それで十分です。それは私たちに科された十字架でもあります。
 だけど、やす香はけして、私たち二人にも、「悔恨だけの日々」を望まないでしょう。だから私たちも、やす香のように、明るくこうべを上げて歩む未来を選 択したいと思います。

 「この痛みを一生忘れたくない」
 そんなメッセージもいただきました。
 いえいえ、忘れていいんです。

 私たちは皆、これから、未来を生きます。
 やす香の望みは皆を引き止めることではなく、生きて進んでいく背中を押すことだったはずです。勉強に、バイトに、恋に、日々流れていく時間の中で、私た ちは皆、やす香を忘れている自分にふと気づくでしょう。そのときに、後ろめたく思わないでください。むしろ「やす香のことを、ふっと思い出した」、そのこ とを喜んでくだされば十分です。

 「やす香のように生きよう」とか、「やす香の夢を引き継ごう」と思っていただく必要もありません。
 人がそれぞれに違うということを、やす香はよく知っていました。「異」を受け入れる世界を、望んでいました。だから、皆がそれぞれに、自分らしく、違う 未来を歩んでくれることを望んでいると思います。もしそれがやす香に似た歩みになったとしても、それは「あなた自身の歩み」であると、胸を張って宣言して ください。

 私はこの一月に、知らなかったやす香をたんさん教えてもらいました。特にカリタスの方からは、たくさん、たくさん伺いました。でも、大学のお友達とは、 なかなか話す機会がありませんでした。いつか、たくさん、聞かせてもらえたらと思っています。

 でも、振り返るのは、少し先にしましょう。
 それまで、しばしのお別れです。

 今日を、明日を、生きるために・・・・・またね♪

* 「究極の選択」をしたのは、病院と家族であり、あの苦しみの中でやす香にそれが出来たと考えるのは、錯覚か作為である。病床のやす香自身は、まだ強い 意志と意識のあるうちに、ともあれ、こう書いていた。胸をうってやまない言葉を書いていた。

* 2006年06月28日 02:54 夢   やす香
 自分のやりたいことが、自分の思うように自分でできないって、こんなに悲しくて悔しいことなんだ。今まで、自分がどんなに、たいした病気もけがもせず、 恵まれて生きてきたのか、思い知らされた。
 こうやって、みんなに励まされながら思うことは、みんな、想像以上に多くの人が、今までけがや病気と闘ったことがあるんだなっていうこと。
 「私だけ」なんかじゃないんだな。
 頑張らなきゃいけないんだなって。

 今までずっと、同じ夢見続けてきたから、今、こんな体になって、それが叶えられるような体に戻れるか、すごく不安でしかたがない。自分の特技や経験を全 部集めて叶えようとしてた夢だから。

 だけど、こうやってベットの上で病気と闘うことにも、何か意味があるのだと信じて、きっとこの経験も何かに生かせる日が来るんだと信じて、闘っていかな きゃいけないんだと思う。

 今、多くの人に助けられて生活している。私は丸裸の心一つでベットの上に寝ている状態。気持ちだけが自分のもの。その中で、見たこと、思ったこと、精一 杯みんなに伝えていこうと思う。

 これからもよろしくね。

* 2006年07月03日 18:05 命の重さ   やす香
 私が
 ただ普通に生きたいと思うことが、
 こんなにも多くの人を
 巻き添えにしなくちゃいけないことだなんて
 思ってなかった。

 家族、友達、医者…
 ただ普通に生きたいだけなのに。

 感謝の言葉すら言い切れなくて、
 悔しさばっかりたまっていく。

 一つの命が
 自分の力で生きていけなくなったとき
 そのたった一つの命に
 一生懸命になってくれるみんなの重さが
 命の重さなんだと思う

 命は決して自分だけのものじゃないんだよ

* 2006年07月07日 07:58 告知   やす香
 私の病気は
 白血病
 じゃないそうです。
 肉腫
 これが最終診断。
 れっきとした
 癌
 だそうです。
 近々 (院内の)癌センターなるところに転院します。

 やす香の未来はどこにいっちゃったんだろう…

* 何のゴアイサツでもない、ぎりぎりの実感(ハート)を、苦悶の下から白い蓮の花のように、柔らかに開いている。この直後から、やす香は「肉腫」患者と して、待ったなしの即時「緩和ケア」対象にされていた。文字通りの「治療断念」である、「どう死を迎えさせるか」だけが、病院と親との対応だった。幾つも あった診療援助の提案や斡旋も顧みられない、つまりあまりに手ひどい「手遅れ」だった。六月二十二日の「白血病」から、この七夕の「肉腫」までの半ケ月余 は、いったい、やす香のために「何」であったのか。
 だがここへ来て初めて、やす香は、「平安な最期を」という選択をむごく「説得」されたのである。やす香は絶望し健気に受け容れたかも知れない、だが、や す香は実際はこう叫んでいた。

* 2006年07月07日 14:31 会いたい   やす香
 親友に会いたい
 友達に会いたい
 先輩に会いたい
 後輩に会いたい
 先生に会いたい
 みんなに会いたい

 最後の土日に
 みんなに会いたい

* 2006年07月08日 19:20 嫉妬   やす香
 私の命は私だけのものじゃないけれど、
 痛みや苦しみと闘うのは私しかいない。
 矛盾。

 うらやましい。
 動けることが。
 生活できることが。

 私の下半身は
 しびれて思うように動かない。

 私の胃も腸もまともに動いてくれない。

 管が増える。

 もうここにいるやす香は
 みんなの知ってるやす香じゃない。

 嫉妬でいまにもおかしくなりそうな
 一人醜い身体でしかない。

* 2006年07月10日 01:32 夜    やす香
 夜が嫌い
 必ずおいていかれる夢をみる
 歩いても走って
 絶対に追い付かない
 夢でも管に繋がれ、
 食べたいものも食べられない
 そんな夢を見る夜が大嫌い

* 2006年07月10日 08:09 タイトルなし   やす香

 生きたい

* やす香から命の火の消えたのは、このあと十七日め、だんだんやす香自身は「MIXI」に書けなくなって行き、多く「やす香母」が代筆していた。

* この、「生きたい」の、やす香ただ一語は、千万言の装った、繕った、演出した綺麗事よりも、地球よりも、重い。

* 七月二十三日、建日子も一緒に三人で北里大学病院に見舞った日、やす香は、カリタスの先生もいっしょにいる吾々を目を開いて認め、
 「どうして勢揃いしているの」とはっきり問いかけた。わたしたちはその明晰な物言いと状況とに、驚喜も狼狽もして、笑い声をさえあげて、やす香に言葉を かけることが出来た。
 そして翌二十四日、もう一度建日子も一緒に見舞ったとき、たまたま朝日子が病室を出て、やす香と吾々親子との四人だけになったとき、やす香はうとうとと 寝入っていた中から、突として発語し、まず、「まみい」に「手をにぎって」と言い、妻は寄り添い、もうそこにしかやす香の命も感覚もない左手を、しっかり にぎってやった。やす香はきゅっと握り返したのである。
 やす香は、それから、語幹だけを謂うなら、「生きている」「死んでない」と明瞭に発語した。
 そうだよ、「やす香は生きているよ」 「死んでなんかいないよ」 「生きなさい」 「生きていっしょに本を書こう」などと三方から声をかけあった。やす 香は頷くようにし、しばらくして、「ツカレタ」と呟いた。
 それが、やす香とわたしたちとの「お別れ」になった。明日からはもう来ないでほしいと言い渡されたのだ。
 伝え聞くところ、翌二十五か六日に、病院と親とは、やす香の「輸血を停止」したのである。
 七月二十七日の母の誕生日をやす香も祝い、そして七月を乗り切り、八月を堪え、九月十二日の成人の日をと、わたしたちは、みな「生きよ けふも」と願っ ていたが、朝日子はあの「生きよ けふも」の祈りがやす香をいちばん苦しめると分からないのかと、わたしたちに怒った。嗚呼。
 輸血を停止されて、どう肉腫のやす香が生きられよう。はっきりと、やす香は医療から、「これまで」と、もうそこで見放された。病院はやす香を「死なせ」 る決断をし、親たちは承知したのだ。余儀ない措置と、たぶん常識は教えているだろうが、やす香はどんなに「生きたかった」ろう。「くやしかった」ろう。ど んなに、「死」の手に鷲づかみにされながら「生」の側にいる者達に「嫉妬」していただろう…と、想う、可哀想に。

* われわれに漏らした最期の言葉を、わたしと妻と建日子とは、それぞれに聴き取った、すこしずつニュアンスを変えて。
 朦朧とした眠りの渕から浮き上がったやす香の言葉を、或る者は、「やす香は生きているよ。死んでなんかいないよ」と聴いた。また「やす香は生きていた い、死にたくない」と聴いた。また「やす香は、まだ生きているの、もう死んでいるの」という悲しい不安な声と聴いた。いずれにしても、それは母朝日子がや す香の「本意」と伝えているゴアイサツとは、甚だかけ離れている。説得された出来合いの覚悟と、まだ十九歳の生命の根から噴き出た「生・死」を問う熱い執 着と不安の言葉と。うら若きやす香の本音は、あまりにハッキリしていて、朝日子の陳述はうわべをすべっている。
 やす香は「まだもっと生きてくれるよ」と、祖父も祖母も叔父も信じて、あの日二十四日月曜、保谷の家へ帰りついた。
 だが、あの翌日から見舞いは断られ、そして輸血停止の決定があった。たまたまそれをまぢかに聴いていた、またそれを伝え聞いたというやす香の知人・友人 は、思わず号泣したと「MIXI」に書いている。

* 人は、久しい文明の歴史を閲(けみ)して、「死」を、幾らでも空疎に飾り立てるスベを覚えてきた。それを「手」として使った政治家達も、いやほどい た。偽善と欺瞞とのアイサツを「みなさん」へ向けて達者に書き綴ることなど、すこし賢いものには容易に出来る。なんと気色の悪いことか。
 「死なれた」という受け身の感傷だけで、「死ぬ」という死の凄さとは、なかなか正しくつき合えない。関わりの深かったものほど、「死なせた」という痛悔 に根ざした「棘ある自責」をもつものだ。そのきつい棘を免れたいためにワキへ置いておいて出来る、そんな白々しいアイサツが世にあっていいのだろうか。
 我が娘ながら、わたしは、最期に、コンナモノを読まされたかと、どうにも気色が悪い。妻は言う、朝日子と同じ気持ちでやす香の死を悲しめないのが悲し い、と。同感だ。
 それよりも、或る方の伝えてくださった、こういう朝日子の姿に、わたしも妻も、ああさぞやと声を放ち泣き、我が子の朝日子を、二人して抱きしめてやりた かった。
 
* お葬儀のあとのことをお話します。マイクロバスに乗るほどもない距離を走り、あっというまの野辺の送りとなりました。到着後はすぐに手はずも整ってし まい、神父やお坊さんでもいればそこで一緒にお経を唱えたりもするのでしょうが、係の人にうながされてただ黙祷。あれよあれよという間に、柩が乗ったスト レッチャーは運ばれていきました。
 それまで決して人前では声を出して泣くことのなかった朝日子さんが、泣き崩れて、鉄の扉が閉まるのを止めようとするのを係の人にやんわりとかわされて、 また柱にもたれて泣いていらっしゃるのがつらかったです。一番つらい場面でした。  (やす香の知己)



死なせた は 殺した か  2006年08月03日23:42  

 そんな単純なことではない。

 そのむかし、わたしの「身内」の説を小学生のように誤解したいい大人が、人も驚くヒステリーを起こしたことがあるが、今度は、私の著書『死なれて死なせ て』の、その「死なせて」という意味が理解できずに、わたしたち老夫妻を名誉毀損で刑事・民事ともに訴訟すると「警告」してきた。

 我が子やす香に自分らは「死なれた」のに、それを「死なせた」ともいうのは、「殺した=殺人者」と言われているのと同じだ、謝罪文を書けと言うてきたの である。

 やす香の血を分けた祖父でも祖母でもある、わたしや妻も、何度も何度も、今日も、只今も、あのだいじな「やす香を手が届かないまま可哀想に死なせた、死 なせてしまった、自分達にも何か出来ることが有ったはずなのに」と、繰り返し悔いて、泣いて、嘆いているというのに。
 どうなってるの。

 べつに講義する気ではないが、わたしは、わたし自身孫やす香を「死なせた」悲しみのまま、いち早くすでに「MIXI」に『死なれて死なせて』を連載し て、わずかな心やりにしている。
 やす香のお父さん 逆上する前に静かに読めば、大学の先生たるもの、「死なれて」「死なせて」の意味の取れぬわけ、あるまいに。

 人が、人を、「死なせ」るのは、いわば人間としての「存在」自体がなせる、避けがたい業苦であり、下手人のように「殺す」わけではない。いわば一種の 「世界苦(Welt Schmerz)」に類する不条理そのものである。
 大は戦争責任をはじめとし、ぬきさしならない身近な愛の対象に「死なれる」ときは、大なり小なり「死なせた」という悔いの湧くのが、状況からも、心理的 にも、あたりまえなのであり、むしろそういう思いや苦悩を避けて持たないとしたら、その方がよほど鈍で、血の冷たい非人間的なことなのである。

 本来はまずそこへ気づき、落ちこみ、苦しみ、藻掻いて、そこからやっと身や心を次へ働かせて行く。むずかしいことだが、そこに生き残った者の生ける誠意 があらわれる。

 しかし、そういうキツイ自覚には至りたくない。身も心も神経もそこから逸らして、そういう痛苦には「蓋をして」しまい、辛うじて息をつく。無理からぬ事 ではあるが、「死なれた」という受け身の被害感にのみ逃げこんで、「死なせた」根源苦に思い至らないようでは、「人間」は、その先を、より自覚的に深く深 くはとても「生きて」行けないのである。

 人とは、死なれ死なせて、その先へ真に「生きて」ゆく存在だ。ティーンの少女でも、分かるものには分かる。

 連載合間の妙なタイミグではあるが、余儀なく、『死なれて 死なせて』の刊行時後記を含んだ、湖(うみ)の本版のあとがき「私語の刻」をこの位置へはさむことにする。

 死なせた は 殺した か。そんな単純な事じゃない。


 著書『死なれて 死なせて』の跋(私語の刻)


 こう書けば、一切足りていたのである。
 「死なれるのは悲しい、死なせるのは、もっと辛い。しかし、だれに、それが避けられようか。避けられないのなら、どうかして乗り越えねばならない。それ にしてもこの悲しさや辛さは何なのか。すこしも悲しくない・辛くない死もあるというのに。愛があるゆえに、悲しく辛い、この別れ。愛とは、いったい何なの か。」

 これだけの事は、これだけでも、理解する人は十分にする。そのような別れを体験したり今まさに体験しつつある人ならば、まして痛いほど分っている。

 だれに、それが避けられようか。避けられないのなら、どうかして乗り越えねばならない。そのきっかけに、もし、この本が役にたつならどんなに嬉しいかと 思って書いた。

 この本は、他人様(ひとさま)の体験を伝聞し推量して、その断片を切り接(は)ぎして書いてみても、真実感に欠けてしまう。それほどに個人的・私的な抜 き差しならない体験なのである。「自分」の体験を根こそぎ大きく掘り起こすくらいにしないと、そんな自分の実感や体験をさえ人に伝えるのは難しい。

 「生まれて、死なれ・死なせて、」やっと人はほんとうに、「生きる・生きはじめる」のだと私は思ってきた。その意味でこの本は、知識を授けて済むといっ た本では在りえない。自分の「人生」を、率直に顧みる以外の方法をもたなかった。言わでものこと、秘めておきたいことも、だから書いた。書くしかなかっ た。

 ただ「私」の表現に加えて、いくつかの、誰にも比較的知られた「文学作品」との出会いを交ぜてみた。作品はその気になれば誰とでも共有できる。まるまる 他人の体験に、当て推量に首をつっこむことにはならないので、叙述を単調にしない工夫としても、やや重点をさだめ、そう数多くない古典や現代の作品につい て深く関わってみた。文学を「私」が「読む」という、その行為もまた、私の場合「人生」であったのだから、たんにこの本のための方便ではなかった。

 この初稿を脱稿した日、一九九一年.平成三年の師走二十一日に私は、五十六歳の誕生日をむかえた。まだまだ、この先、一心に生きて行かねばならない。

 単行本に上の「あとがき」を書いたとき、わたしは、その十月一日付け東京工業大学の「作家」教授に新任の辞令を受けたばかりで、ありがたいことに授業は 翌春四月の新学期からと言われていた。まる半年を用意にあてる余裕があった。
 前から頼まれていたこの書下ろし原稿をきっちり一ヶ月で書いてしまい、そして四月の授業を開始のちょうどその頃、朝日新聞の読書欄に、この新刊は「著者 訪問」の大きな写真入りで紹介されていた。学生諸君に自己紹介のまえに、新聞や、テレビまでが、わたしを、この本とともに紹介してくれていた。ラッキー だった。本もよく売れて版を重ねた。

 人は、一度死ぬ。めったなことで二度は死なぬ。だが人に「死なれ・死なせ」ることは、なかなか一度二度では済まない。従来の「死」を扱った著作のおおか たは「己(おの)が死」であった。いかに己れが死ぬるかを考えたものが多かった。わたしを訪問した朝日の記者は、他者の死を己れの体験として人生を考慮し ていることに、「意表をつかれた」と話してくれた。「死なれる」「死なせる」は、「身内」観とともに、わたしに創作活動をつよく促した根本の主題であっ た。

 笑止なことに、親子とて、夫婦とて、親類・姻戚だからとて、容易には「身内」たり得ないと説くわたしの真意を、粗忽に聞き囓り、疎い親族や知人、遠くの 人たちから、お前は「非常識」に、親子、夫婦、同胞、親戚を「他人」扱いするのか、そんなヤツとは「こっちから関係を絶つ」と、手紙ひとつで一方的に通告 され罵倒されたりする。「倶に島に」「倶会一処」の誠意を頒ち持とうとは、端(はな)から思いもみないこういう努力の薄さから、どうして「死んでからも一 緒に暮らしたい」ほどの愛情が生まれよう。真の「身内」は、血や法律で、型の如く得られるものではあるまいに。

 「身内」はラクな仲では有り得ないと、「生まれ」ながらにわたしは識って来た。

 誤解を招きかねない、場合によって破壊的な猛毒も帯びた我が「身内」の説であるとは、さように現に承知しているが、また顧みて、どんなに世の「いわゆる 身内」が脆いものかは、夥しい実例が哀しいまで証言しつづけている。その一方、あまりに世の多くの人が、とくに若い人が「孤独」の毒に病み、不可能な愛を 可能にしたいと「真の身内」を渇望している。

 よく見るがいい、人を深く感動させてきた小説や演劇・映画のすべては、わたしの謂う「身内」を達成したか渇望したものだ。根源の主題は、愛や死のまだそ の奥にひそんだ、孤独からの脱却、真の「身内」への渇望だ。あなたは「そういう『身内』が欲しくありませんか。」わたしは「生まれ」てこのかたそんな「身 内」が欲しくて生きて来た、「死なれ・死なせ」ながらも。子猫のノコには平成七年夏に十九歳で死なれた。九十六歳の母は平成八年秋に死なせてしまった。

 この本の出たあと、読者から哀切な手紙をたくさん受け取った。ひとつひとつに心をこめて返事を書いた。いかに「悲哀の仕事=mourning work」でこの世が満たされていることか。愛する伴侶に死なれ、痛苦に耐え兼ねて巷にさまよい、日々行きずりに男に身をまかせてきたという衝撃と涙の告 白もあった。この本の題がいかにも直截でギョッとしながら、大きな慰めや励ましを得たという便りが多くてほっとした。たくさんな方が、悲しみのさなかにあ る知人や友人のため、この本を買って贈られていたことも知っている。

 そういうふうにして、この湖(うみ)の本版『死なれて・死なせて』も読まれてゆくなら、恥ずかしい思いに堪えて書下ろした甲斐がある。どう悲しかろうと 何としても乗り越えて行ってもらうしかないのだから。(後略)         (1998.6.) 秦 恒平


 思い出す。この単行本が本になって、いよいよ東工大で初授業の頃に、すでにわたしたち娘の父母、初孫やす香の祖父母は、婿殿から「離縁」され、以来十余 年、まことに不幸で無道な別離を強いられた。

 同じその人が、今度は、刑事と民事と双方で娘の父母、やす香を心から愛した祖父母を「告訴」すると言ってきたのだから、また呆れてしまっている。
 どうなってるの。 

 湖

コメント
○ 樹 2006年08月04日 15:35
単純なことではない。

天気が良ければ良いように過ごし、
悪ければ、今日はお天気が悪いと思い、過ごす。
イヤな奴、気が進まない、ムッ。
ありがとう、嬉しい、ヤッター。
毎日の事象、感情で人は生きている。
モノがあり、コトを受けて、
この先、その先を生きなければならないから
ヒトは想像し、創造する。
何でもなければ慣れ、
つまずいたり、引っ掛かかれば
気の済むように均す。
が、とんでもないとか途方もないことで
初めてだったり、重さが測り知れそうにないときは
鋤き返したりぐらいでは
先を生きていく自分が自覚できない。
辛くても、苦しくても
もっと、だ。
「テッケツ」…掘って掘って抉り出す。
そして、やおら均していく。
人として(経験として)、
こんなのイヤぁーー
耐えられない、
もがいて、泣いて
それでも生きていくのだから
「テッケツ」の作業を誰彼言われず成した人は
時を経てハハハ(秦先生のように)と笑う。
「テッケツ」作業がその人の生き様であり
後にみる、人の深さ豊かさになる。

いつもヘラヘラ笑ったり、
笑わない人、はいけない。
ハハハと笑わなくちゃぁ。



ある読者から「孫やす香の母」への手紙  2006年08月07日02:11  

湖   とびこんで来た下記のメールは、「朝日子様」とあるように、わたし湖に宛てたものでなく、いきなり娘朝日子に宛てられていて、ぜひ朝日子に読んで ほしいとある。むろん、わたしが頼んで書いて貰ったものではない。思いあまって書かれたモノのようである。天才だの名作だのと少し仰々しくて閉口し照れる ところが多いが、また不用意に少し語弊を生じるところもあり、その辺は斟酌してあるが、「お気持ち」であるから、思案の末、此処へ置く。朝日子に意思を直 送の手段は不幸にして、無い。しかし「MIXI」は娘やもう一人の孫のホームグラウンドのようだから、「伝える」には恰好であろう。
 このメールには、以前に貰った東工大の卒業生からのメールが一部引かれていて、その個所は、わたしにも感銘があった。
 娘朝日子のお友達や親しい方から、幾分の一なりと伝わるべきが伝わればありがたい。


* 朝日子さま

 私は朝日子さまより少し年上で、似た年頃の娘のいる母親です。

 ネットで、やす香さまの発病からお亡くなりになるまでの経緯を毎日胸を痛めながら読ませていただいておりました。やす香さまのご逝去、衷心よりお悔やみ 申し上げます。

 やす香さまのご葬儀の日、七月二十九日は隅田川の花火大会でした。私は花火大会に出かけるという娘に浴衣を着付けながら、旅立たれたやす香さまに昨年の 夏祭りの時の浴衣を着せたという朝日子さまの記述を思い出し、涙がとまらなくなりました。
 昨年の夏には元気に浴衣を着ていたやす香さまの身体に、その同じ浴衣を着せる母親の心はどのようなものかという想いで、泣けて泣けてどうにもなりません でした。生きている娘に浴衣を着せて花火大会に送り出すことのできる母親と、柩の中の娘に浴衣を着せる母親の運命は、あまりにちがいます。なぜやす香さま が天に選ばれたのかと心から悲しみました。

 一度もお会いしたことのない朝日子さまですのに、やす香さまのご病状に一喜一憂して夜も安らかには眠れぬほど心配していたのは、私がお父上の湖の本の愛 読者であるという以外の理由はないでしょう。

 「朝日子」というお名前は秦恒平の作品の中に宝石のように散りばめられてきました。朝日子さまは作家秦恒平の掌中の珠でした。ですから、朝日子さまのこ とはどうしても近しい人に思えてならなかったのです。

 本日お父様のホームページ
(http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/)を拝見し、朝日子さまがそのお父上を「告訴」なさるおつもりということを知り ました。ご家族の問題に部外者が立ち入るのは失礼と承知で、私の考えを書くことをお許しください。

 朝日子さまが告訴という強硬な手段にいたったお気持ちは想像できます。朝日子さま以上にやす香さまを愛していた人間は世界のどこにもいないのに、お父様 に「目が届いていなかった」と言葉にされ、ご自分のせいでやす香さまが手遅れになったと言われたとお感じになったのでしょう。世界の誰よりも「死なせた」 くなかった娘を、死なせたと言われて心底お怒りになったのだと推察します。朝日子さまの気も狂わんばかりのお悲しみと悔しさは、察するにあまりあり言葉も ありません。

 そのお父様の指摘について、私はこう考えています。
病気の診断が手遅れになったことは、どうしようもなかったこととはいえ、母親として手落ちの部分があったのは事実で、たしかにお父様の指摘は正しい。で も、この時期に、やす香さまが亡くなってすぐに、朝日子さまに告げられたのはどんなにおつらかったでしょうと思います。

 ふつうの父親であれば、もう少し時機をみて言うのでしょうが、朝日子さまのお父様は作家です。それも文学史に残るような大きなお仕事をなさる天才的な方 です。一本のマッチを見ただけで、すぐに山火事を予言してしまう。人よりずっと先を見て、書いてしまうそういう定めの方なのです。娘と孫の不幸から、人間 存在そのものの痛苦に目が開け、書かずにはいられない業をお持ちなのです。

 書かれた朝日子さまの無念のお気持ちは理解できますが、これは天才を父親にもった子どもの幸福でもあり不幸でもあるのだと、そう申し上げるしかありませ ん。

 朝日子さまがお父様に対して告訴するまで過激に反応なさる必要はないのです。なぜなら、お父様の書かれたものを読んだ読者は、朝日子さまが悪かったとは 決して読まず、我が身のこととして読むからです。自分のいたらなさ、どうしても愛する者を「死なせて」しまわずにいられない人間を想い、わがこととして、 身震いせずにはいられないのです。

 朝日子さまは、次の、「私語の刻」(ホームページ)に掲載されたメールをお読みでしょうか。このメールは多くの読者の素直な感想を代表していると思いま す。お父様の「私語の刻」の読者は、きちんと読むべきことを読んでいます。

* 秦先生  あまりのことに、あまりの事の早さに、先生のホームページを読んだ時に、手足がさっとしびれて凍りつきました。いくら若い方とは言え、こん なにも早いものとはとても予想できず、涙が止まらず・・・。
 身内の若い方を見送るのは、どんなにお辛いかと、先生の悔やみきれない思いを遠くから感じております。
 私にもやす香さんと同じ年の姪がおります。亡くなった姪ではなく、一浪して今年大学生になった姪です。その姪と比べても、やす香さんのお心の優しさ、お 健やかさはすぐれて高いものと思っておりましたので、本当に惜しい方を失ってしまった、と一度もお目にかかった事のない私ですら喪失感にさいなまれていま す。

 ただ、先生に一つだけ、お伝えしたくてメールしております。

 娘を育てている今、毎日が試行錯誤の連続ですが、その中で、子どもがいくつになっても「目を離してはいけない」ということを、私はやす香さんに教えて頂 きました。
 娘はいま5歳。得意なものと不得意なものが少しずつあらわれています。世の中の風潮は、「個性を大切に」ということで得意なものを伸ばすことに重点がお かれていますが、親としては「それだけではいけないのだ」と最近の娘を見つつ反省しているところでした。
 もちろん、最終的には個性を伸ばしていくことでこそ、人は生きるすべを手に入れるのですが、その土台として、しっかりとした人間としてのいしずえを築く 過程では、不得意な部分こそ、親が必死で見つけ出ししらみつぶしに穴埋めし、頑強な基礎をつくらなければならないのだと、最近の娘には実に口うるさい母親 になっています。手まめ口まめに子どもの欠点を見つけ出し、そこを訂正していくのは、褒めて育てることよりも、はるかに心身のエネルギーを消耗します。こ の口うるささ、いったいいつまで続ければいいのか、と、こちらのほうが気の遠くなっていた毎日でした。高校生になったら、いやその前までで、などと考えて いましたが、たとえ成人を目前にしても、口は出さずとも「目は離してはいけない」のだと、やす香さんのことに泣きながら、肝に銘じています。
 自らを振り返っても、大学生にもなると親などに口は出されたくありませんでしたし、自分で何でもできるように思っていました。確かに、そのくらいの年に なると、普通の大人よりはるかに優秀な方もいらっしゃいます。けれど、若者が逆立ちしてもかなわない部分、「それは経験値の部分」です。スケジューリング の仕方、健康管理、世間付き合い、そんな部分では、やはり親が口を出し続けなければならないのだ、と。
 思えば、口うるさい心配性な我が母親は、先生と同年同月の生まれです。戦争の経験のある世代の方達は、小さなサインへの敏感な対応に長けていらっしゃる のかもしれません。私たち姉妹三人は、母のその口うるささに実に辟易していましたが、今思うと、親としてのあり方の「一つの正解」であったのかもしれませ ん。ただ、あまりにも口うるさすぎた母に抵抗して家を飛び出した姉は、結局幸せを上手に掴みきれずに終わりました。あれから三回目の夏になります。
 口うるさく、けれど子どもの幸福をつぶさず、そのあたりの加減の仕方がこれからの私の親としての課題だと思っています。
 こういう形で、いのちについて、人育てについて「考える機会」を与えて下さったやす香さん、そしてそれを包み隠さずに報告して下さっていたご家族の皆 様、特にお母様に心から感謝しています。やす香さんから教えて頂いたたくさんのこと、決してわすれません。もちろん、やす香さんご自身についても。一度も お目にかかることはありませんでしたが、これほどたくさんの方に愛され、思いやり深かった方のこと、決してわすれません。よいお嬢さんに育て上げられたお 母様にも深く敬意を覚えます。
 なぜか不思議なほど「奇跡が起きる」と信じていました・・・。言っても栓のないことですが。
 お書きした内容に、大変失礼もあると思いますが、お許し下さい。ただただ、やす香さんに教えて頂いたことを忘れません、決して、ということだけをお伝え したかったのですが、上手に表現できず、お気にさわる書き方になっていましたら申し訳ありません。    卒業生

 私はとくに、この部分を強調します。

もちろん、やす香さんご自身についても。一度もお目にかかることはありませんでしたが、これほどたくさんの方に愛され、思いやり深かった方のこと、決して わすれません。よいお嬢さんに育て上げられ たお母様にも深く敬意を覚えます。

 これは私の同感することです。朝日子さまはよいお嬢様をお育てになったことを誇っていいのです。「私語」の読者は秦先生の「死なせた」という言葉の奥に 「朝日子は、ここまでよい娘を育てたのに」という嘆きをもきちんと読み取っているのです。一体どこの誰が朝日子さまを殺人者でいい加減な母親だったなんて 思うのでしょうか。そんなことは誰一人として思いません。

 母親というのはどんなに愛が深く、注意深くしていても、ふっと子どもから目を離してしまうことはあるものです。私とて例外ではありません。恥をしのんで 申します。
 娘がまだ幼稚園に入る前のことです。友人の車に娘と一緒に乗っていました。その時に、もう一人の友人が先に車を降り、半ドアになっていました。誰も気づ かぬまま、車が発進しました。車が幹線道路に右折した瞬間、半ドアだった扉が大きく開き、娘が車から転げ落ちました。友人は慌てて急ブレーキを踏みました が、一瞬のことで私は娘の服の一部を掴むのに精一杯。放り出された娘は道路に両手をつきました。私がそのまま服を引っ張って車に戻しました。心臓が破裂し そうにパニックになりました。この時、他の車が通っていたら、娘は即死だったでしょう。大きな道路ですから、車が通らなかったのは奇跡です。当時はチャイ ルドシートは義務化されていませんでしたし、友人の車であればついていないのは当然でした。この危険な事態への責任はすべて母親の私にあります。

 子どもが無事に生きているというのは親の愛の深さに関係なく、運に左右されるものです。私はたまたま好運に恵まれたので子どもが生きているのです。紙一 重の差でした。断言してもよいですが、子どもが自分の落ち度で死んでいたかもしれない経験のない母親などいないと思います。

 病気についても、運不運はあります。肉腫のようなごく稀な最悪の病気に、まさか自分の子どもがかかるなど予想できる親は少ないでしょう。お父様の「死な せた」という意味は、すべての人間に対してのものと、そうとしか読まれないと思います。

 人間は自分の手にしているものの価値をなかなか理解できず、信じられないものです。
 朝日子さまは、これ以上ないほどの父親の愛を受けながら、ご自分がそれを手にしていないと思い込んでいらっしゃるようです。「親に、どうせ捨てられたの だと人に漏らしていたそうだ」というご心境は、「聖家族」を読んである程度は想像していますが、私はこの作品を読んで、これほどの娘への愛を描いた作品は ないだろうと感じていました。

 秦先生の作品を読んで痛感することは、娘の朝日子さまをいかに深く愛されているかということです。その愛はときには手放しの、読んでいて気恥ずかしいほ どの賛美にもなりますし、滅入るほど峻烈な批判にもなります。しかし、そのどちらも深い愛がなければ存在しないことはたしかです。

 朝日子さまがブログに書いていらした「コスモのハイニ氏」などの小説を読まれた時のお父様のお喜びのごようすに、読者として羨望を感じずにはいられませ んでした。文学への志はあっても才能に恵まれないために読者にしかなれない私のようなものにとって、秦恒平にここまで認められる才能はただものではありま せん。「e文庫」に掲載されている朝日子さまの詩は素晴らしく、私は大好きです。朝日子さまは可能性に満ちた方です。

 問題の「聖家族」ですが、一読して私がまず感じたのは、凄まじいまでの作品、名作であるということでした。モデルがどうのこうのとか事実かどうかなどと いう興味でなく、人間の真実に到達する恐るべき身の毛もよだつ作品だと思いました。

 この作品の中のご家族の姿が、そのまま秦家の姿とは思いません。当然これはフィクションとして読むものです。

 このフィクションに描かれているのはある人格障害(現実にはたまにいるタイプ)の男を夫とした夏生という不運な娘と、その人格障害に真っ向からぶつかっ てどうにもならない両親の姿です。

 奥野家には家族愛溢れて、父親にはできないはずの母親の役までこなそうとするスーパーマン的父親と、理想の妻であるがために(そう思われて当然の美徳の 持ち主ですが)、夫と思考も行動も同化している母がいます。しかし、子どもの利益のために動こうとするしたたかな母親が決定的に欠けています。

 婿の人格は治らない。治せない。父親は正義あるいは信念を生きるしかない生き物で、これも変えようがない。それを埋めるとしたら、母親の狡猾さしかない のに、その存在がない。妻の美徳など棄てた狡猾な母親なら、夫に過保護にされることなく修羅場をくぐってきた母親なら、父親に内緒で人格障害の婿に土下座 してでも、娘との縁を保とうとするでしょう。そうして父親の立場と娘の利益を守るのです。汚れ役です。

 内心で婿に舌を出しながら、異常に言語道断な婿と折り合いをつけ、大切な娘の手を放さない。他に娘と切れない方法がないなら何でもする。そういう存在が 良くも悪くも母親です。母親が父親と同じ正義に生きたら、娘はどうしようもありません。この作品に描かれた娘は、私の目にはじつに気の毒な、それでも父親 に熱烈に愛された娘として、キャラクターが生きています。父親に抗いながら、不思議な魅力を湛えています。
 どんな家庭の食器棚にも髑髏が隠されているというフランスの諺がありますが、「聖家族」はこの髑髏を見事に描き切った作品です。お父様の代表作にもなる でしょう。

 この「聖家族」と「生活と意見」が、朝日子さまの告訴の対象となるようです。
 この告訴は愚かしいの一言です。
 まず、押村家は勝てないと思います。常識でも法律でも。
 そして、万が一勝ったとしても、百年先には負けています。必ず負けます。この世からお父様の著作を抹殺することは不可能です。名誉を棄損した、された、 というのは当事者が生存している間でのことで、子孫に関係はありません。秦恒平が天才である以上、そして「聖家族」も「生活と意見」も疑うことのない名作 である以上、必ず後世には復権して作品として正しい評価を受けることになります。モデルがどうのなど問題になりません。
 むしろ告訴の記録があることで、これは本当の話なのだと見られてしまうでしょう。汚名が後々まで残ることになります。

 朝日子さまは、お父様をご自分の父親としてしかみていらっしゃらないようです。ご自分の私有の人間だと勘違いなさっています。秦恒平は娘一人の父ではな く、多くの人、世界の宝物です。娘の願うようには書いてくれなくて当然です。天才は周囲を泣かせますが、それ以上のものを世界に与えてもくれるのです。普 通の家庭でさえ、子どもは大なり小なり親に迷惑を受けるものですから、天才であればなおのこと。どうか、お父様が天才だということを覚悟してください。同 じように愛らしかったやす香さまも母親一人のものではありません。視野を狭く判断しては道を踏み違えます。目を覚ましてください。

 そもそも、告訴することは逆効果になりませんか。押村家を傷つけませんか。
 あれは小説だと流せばそれで済む話なのに、しかもコアなファンが読んでいるだけの作品ですのに、告訴に至れば急激に世間の注目を浴び、作品は益々広く人 に読まれ、そして面白ずくの噂になるだけです。たとえ勝利を手にしても、世間はあれは嘘の話だとは思わないでしょう。告訴は、自分がモデルだとかえって大 宣伝するようなものです。
 告訴して勝利したとしても、朝日子さまに得るものがありますか。

 お父様を社会的に抹殺したいというのが目的なのでしょうか。書くことにしか生きる場所のないお父様の場所を奪うことが目的ですか。そうすれば復讐がかな うのですか。気が晴れますか。            
 あれほどの愛をもって育ててくれた父親を切り倒すのですから、同じだけの傷はご自身にも致命的に及ぶでしょう。お父様を葬ることはご自分を葬ることでも あります。

 復讐も憎しみも愛の変形です。どうぞご自由になさったらいいと思います。しかし、告訴などという方法は、ただただお金と時間の無駄でしかありません。膨 大な人生の浪費です。

 朝日子さまは意味のない告訴で、ご自分の人生を投げやりな悲劇で終わらせるおつもりですか。親に棄てられ、娘に死なれたかわいそうな人間としてこれから 捨て鉢に生きるのですか。そんな甘えが許されますか。もっと生きたいと血を吐く思いで願っていらしたに違いないやす香さまは、そんな母親の行動を喜びます か。

 朝日子さまは、やす香さまがなぜ母親の誕生日にお亡くなりになったかわかりますか。この世に起きるすべてのことに偶然はありません。お母様の誕生日に逝 かれたのは必然だったと私は思います。

 やす香さまは、母親であるあなたに最後の大きな大きなお誕生日プレゼントをしたのです。若くして逝くご自分の残りの寿命と果てしない可能性と才能を朝日 子さまに託されたのです。新しい命をお母様にプレゼントなさったのです。今こそ作家になってと。

 書いて生きてください。作家になってください。才能はお父様の太鼓判です。作品もあります。デビューするに足るコネでさえ充分です。父親が秦恒平で弟が 秦建日子なのですから。

 もし、お父様に復讐なさるのなら、どうぞご自身の作品で打ち倒してください。呪ってください。それが真実のものなら、必ず人の心を揺り動かします。お父 様を呻かせる作品を書いてください。あなたほどの才能なら書けるはずです。

 今すぐなさるべきことはやす香さまの闘病について書くことでなくてなんでしょう。告訴などしている暇がありますか。やす香さまはおじいさまが訴えられる ことをおよろこびになりません。やす香さまが祖父母に逢いたい、逢い続けたいと思った意味を想像してみてください。

 朝日子さまと夫である押村さまは別の人格でありましょう。夫婦一緒の自暴自棄の怨みの告訴など、恐ろしく不毛です。愚行です。
 朝日子さまらしく、ご自身を輝かせて、この素晴らしいお名前のように生きてください。あなたは素敵な人です。人生はこれからではありませんか。

 天才の娘に生まれて、本当に大変だと思います。でも、これも必然のこと。死後も名前の残る存在として生きる幸せがある以上、並大抵でないご苦労も背負わ なければならないのはしかたありません。
 どうぞやす香さまのご不幸から、なんとしても幸福を掴み取ってください。幸せになってください。奮い立って書いてください。やす香さまのために。
 朝日子さまの作品を読ませていただく日を楽しみに、凡人の娘で母親である私は生きてまいります。どうぞ朝日子さまご自身のために、告訴はおやめくださ い。
 とても長くなってしまいました。凡女ゆえに、たどたどしく要領悪く書いてしまい申し訳ありませんでした。どうぞ、お元気で。お元気で書いて、生きて、お 幸せにと祈ります。

コメント

○ モリ 2006年08月07日 11:14
非日常性でもある文学から一歩距離を置き、日常を省みると、家庭、小社会には生の被害と加害の主張、思い込み、意地、闘争、怨念がそこらに転がっておりま す。
そして、仮構と現実は実に微妙な紙一重の隔たりで傷つき、傷つけあうことがありましょうか。外野の読者ではなくモデルと当事者間の話です。
私は、長く実母の短歌で被害をこうむり――あるいは、過度にそう思い込み――あらがってきました、もう一昔の前ですが。
作者名、住所が明らかな投稿歌で「次子」「二男」と名指しされ、性根をたたき直そうとする嘆き歌、恨み節が数多く紙誌に掲載されました。母はいつも、お前 のことを案じて詠んだのだから読めとしつこく手紙を寄越しました。私は、既にあらかたを読んでおりまして、数度に一度ぐらいは、怒りを抑えきれず、激しく 反発しました。返事は「正しいことを書いて、詠んで何が悪い、まずお前が改めよ」の一点張りでした。いつの間にか可愛さ余って憎さ....となっていたの でしょうか。
不出来でも、親不孝でも、繰り返し指弾されると、たまりたまったものが爆発します。
私は、子供時代に母から受けた一種の虐待を思い起こし、それを反発と憎しみの種にもしました。まわりの勧めで「無視」を決め込むと、母の矛先は、いつし か、きょうだい、親類にも向かい、不幸が続きました。
そのうち、私は自分の非も認め、会って話を聴き、「折れ」「諦め」、うちとけました。
母がすっかり老いたからです、介護の必要なほどに。
歌作も出来なくなっていました。
今でも、たまに会うと、頑な説教や周囲への恨みが飛び出しますが、私は今は平気で「折れて」います。話も聴きます、笑顔や冗談を絶やしません。義絶の気持 ちはとうに捨てました。

まず、過剰反応かどうかはありましょうが、被害には「妄想」はありえません、必ず根っこがあります。害を痛みを感じるかどうかは「被害者」のこころです。 それを思いやるのは大切なことです。
被害意識は溜まり過ぎるといつかは弾けます、ばらばら四方に、あらぬ方へ。
剣呑はいけませんね、お互い。舌も筆も度が過ぎると「禍」を招きます。書き過ぎ、言い過ぎは書かざる、言わざる方へ、被害意識を残します。
頑な過ぎるのもいけません。
親はいつまでも子の親。子は(ふつう)夫婦の時間の方がはるかに長くなります。親と離れていれば、養育・教育・躾の感謝も薄れてまいります。それが普通で す。お互いうまく離れていないと、思い出したくないことを思い出します、ほじくり出します。
それで、昔の古傷もうずくか、またぞろ痛み出すか、そう感じるのではないでしょうか。

「あれほどの母とのいさかい忘れいぬ
 それが親子と妻はいい切る」
十一年前夏の腰折れですが、母との前述のいさかいは、この歌のあと二三年後の出来事で、改めて長く続きました。
夫婦別れ子別れもその間に経験しました。
いまは、自分では丸くやっているつもりですが、元に戻らぬものもあります。別れた妻や子らに「傷」を残したかも知れません。
私が四十代、母が七十代、ずっと続いて五十路なかば、八十路なかばまで続けてしまった、母との愛憎紙一重のおろかな「イクサ」話です。
こう書いていても、自戒はいつも「書かずもがなかな」です。

父はすでに三十年前に献体され、母もいずれ献体となりましょう。私も登録済みで、誰かにみとられるかどうかは今はわかりませんが、献体あるいはアイバンク でお役に立てて、それで父母の後を続き葬儀も何もいりません。墓もいりません。残すものがあればある時期に譲り、それで十分です。


○ 樹 2006年08月07日 14:22
非日常性でもある文学…文学も日常のものと思っています。
人の営む日常から生まれ、日常にある、もの。

※ 湖(うみ) 2006年08月07日 22:13  湖  ロミオAさんのご自身例は、そのまま一般論や通念には出来ない、特定、というより単に限定された「或る個と個と」の「或る母と子と」の一例に過ぎ ませんね。世の中に浮游している夥しい類例も、みな現象的には、それでしか在りえません。
 たとえば「親子の関わり」ようは、一例として世に「同じ」ものはない。一つの例で他の例を説明できる、割り切るなどということは、無いと思います。
 だからこそイージィに自身の体験した実例を、ただの独り言ふうに述べることは、誰にだって出来ます。しかし、そのままでは、その人の述懐または愚痴や自 慢に留まるだけで、生きた参考にはならない。どこかで自己肯定の弁を聞いているだけに終わります。

 つまり「書かでもがな」という左うちわが、涼しい顔で出ておしまいになるのに、わたしは賛成ではありません。いかにも如才なげで、不毛の結語のように思 えました。
 文学や演劇などの「表現」が、「創作」が、意義と価値を持ち始める機微を想ってみて下さい。それらの優れた「表現」は、苦心と能力を尽くして、なにかし ら、少しでも普遍の相を示唆したり誘引したり出来る独特の「文体」をもちます。
 失礼だけれど、ロミオAさんの「書かずもがな」という述懐のママ、母上とのおはなしを顧みましても、ただ人の身の上ばなしを世間話として綿ぼこのり舞う ように聞いただけじゃないかと思えてしまいます。

 「書かずもがな」という、いわば世俗の、世間の、常識に身も心も預けたような、体よくニゲを打った姿勢からは、文学も演劇も生まれようがない。たとえば 親子や家族の葛藤を書いて見事だった藤村も、秋声も、直哉も、善蔵も太宰も、それじゃ要らないことになりませんか。
 ただのナマな私的具体から、表現の力でもう一段も二段も掴み出す意義や価値を、わたしは創作者としてとても大事に思いますし、ロミオAさんも、実は創作 者であると承知していますから、母上とあなたとの葛藤じたい、「書かかずもがな」ではなく、「書く」という「表現」を期待したいなあと思います、そういう 意欲はないよと言われればそれまでですが。

 もしお気持ちが、くさいものには蓋をして「書かずもがな」だとしますと、それが佳いのだと言われますと、一つの人生観として賢こい処世のようですけれ ど、だから書く気のない人にはそれで良いのですけれど、その臭い物を掴みだし、力ある良きモノへと大化けさせ得ないかと、創作者は、立ち向かう。そうでは ありませんか。
 親子や夫婦の実の例だけでは、他人にはふつう無縁のよそごとですが、それを、さも自分のことかと思わず読者に、観客に、踏み込ませるもの、それが優れた 創作であることは、実はあなたも心掛けておいでなのではないのでしょうか。

 人間関係なんて、実の生活レベルでは貴賤都鄙のべつなく、「うんこ」同然です。それ自体は非難の対象にも称賛の対象にもなれない、まさに千差万別。その 一つや二つをどう世間話で披露してみても、大勢との共用は成りません。

「書かずもがな」という臭い物に蓋は、大多数の世間の自然当然ですが、その蓋を敢然とあけてくさいものを掴みだし、臭くない佳い「表現」に術をこらす。た とえ成功しにくくても、失敗することが多くても、それに挑むのが創作というもの。そう思いませんか。

 作家の父親に本気で復讐したいなら「書いて」復讐しなさいと言われている投稿者の言は、的確だと私は読みましたが。  湖

○ モリ 2006年08月08日 12:25
湖さま、残暑お見舞い申し上げます。お考えよく分かりました。有難うございます。お忙しいなか、煩わせたようで済みません。どうぞおふた方、御身おいとい 下さい。ロミオA


* 八月十一日 金  2006年08月11日16:52

* 妻はいわゆる「三年日記帳」の実践者であるようだ。『鍵』の老夫婦のようには、わたしは、決して覗き込まないが。妻が今年一月二日の日記を全文書き抜 いて持ってきてくれた。

  * 2006.1.2 月 晴
  午后から (押村=)やす香 と みゆ希が来た。叔父さん(=秦建日子)からもお年玉が出た。
  朝日子のお振袖を出して やす香に着せかけて 楽しむ。
  建日子が恒平さんの気持を察して 皆で 車にのり込んで 玉川学園(=姉妹の家がある。)まで送ることになった。
  この日変に臭い我が家、帰宅後わかったのは Goo (=建日子が連れてきていた、巨大な灰色の愛猫)の下痢 !!

* まみいの、腕によりを掛けたお節料理やその他のご馳走を、「やす香」「みゆ希」と書かれた祝箸を翔ばす勢いで、大いに食べに食べご機嫌で大笑いしてい た、やす香、みゆ希。まみいに振り袖を着せかけてもらって、大いに照れながら、喜色満面で少しポーズしてみせたやす香の笑顔が、今も目の真ん前に浮かぶ、 涙ににじんで。
 あのとき、「今年九月にはやす香二十歳だけれど、成人式は、もうすぐの成人の日にするのかい」と聞くと、「それは来年のお正月ですよ」と答え、この着物 を今夜貰って帰ることは(親たちにナイショで来ている今は=)まだ出来なくて残念無念だけれども、「来年まで…。この一年のうちにはね、きっと…この振り 袖が着られますように」と、独り言のように呟き呟きうち頷いていたのを「思い出します」と妻は言う。用事で席をはずすこともある私と違い、わたしの知らな い会話も、妻と孫娘とにはそれはそれは沢山あったであろう。まみいの方へ愛らしく顔をかしげた写真を今も身のそばに大きく眺めている。
 朝日子に家で着物を着せて貰ったことがあり、「保谷の家には、ママの着た佳いお振り袖があるんだけれど、貰いに行くわけにも行かないしねえ」と言ってい たとも、やす香はまみいに話している。朝日子はいったい、なにに義理立てをしていたのだろう。とにかく十四年、保谷では朝日子が尋ねてくる夢を見るか、 帰ってきてもこの辺の変貌にきっと道に迷うぜ、キット迷うわねなどと話し合って、「待って」いたのだ



告訴された おじいやん  2006年08月13日10:56  

押村やす香の母、わたしの実の娘朝日子が、やす香の祖父、自身の父であるわたし湖を、「告訴する」と決めた由、昨夜、「朝日子・夫」の連名で伝えてきまし た。夫とは、やす香父である青山学院大学教授、教育哲学などを教えているであろう、押村高氏です。

訴状はまだ届きません、何を以て娘が父をと、異様さに、おののく思いです。

 「死を受け容れたやす香」の死への静安を乱し、わたしが「やすかれ やす香 生きよ けふも」と祈り続けたのを、押村家の「方針」も知らないくせにと朝 日子が激昂し、わたしのことを「殺してやる」と「絶叫」したと、夫押村氏は、!!付きでわたしに対し確認しています。

 「方針」? よほど「隠された事情」があったのでしょうか。

 推測を出ませんが「終末期医療」にかかわる「安楽死」へと、「肉腫」の診断が定まった決定的な手遅れの当初から、病院と家族とは「方針」として何かを協 定していたのでしょうか。
 病院職員に妻がいろいろ尋ねましたとき、「お母様がすべてご存じです」「病院として延命のためには何もしていません」と聞かされています。

 安楽死問題は、世界的にも、日本国内でも、まだまだ容易ならぬものです。これは自然死を本来とする「尊厳死」ではありません。「輸血停止」劇薬投与等に よるいわば人為死・医療死に至る法的に関係者で協定されたいわゆる「方針」と思われます。情報開示を求めていない以上は、やす香の場合推察に過ぎません が。じつに正確に母朝日子の誕生日迄「生かされていた」とも、今になれば受け取れる感じがあります。感触ですが。

 もしも安楽死なら「インフォームド・コンセント」「説得された患者本人の承諾」は、法的にも人道的にも正しくなされていたのでしょうか。
 そもそもやす香は平静に「死を受け容れた」などと言い得るのでしょうか。あんなに「生きたい」と叫び「くやしい」と呻いていた十九の、烈しい病苦のなか の、やす香が。

 見舞った、わりとまだ早い段階でした。母朝日子から、「生きているやす香に逢うのは、もう今日だけよ」と釘をさされ、ギョッとしたことがあります。なん でそんなことを言うのか?!

 しかし、その後日にも重ね重ね見舞って、やす香に逢いました。死の三日前、七月二十四日には、祖父母と叔父とは、明らかにやす香と「対話」しています。 やす香の脳は、言語能をまだしっかり保っていました。喪っていませんでした。

 ところがその一両日後、「永眠」の前日ぐらいに、なんと「輸血が停止され」た事実を知りました。自身で聴いた、見聞した?と、「MIXI」ではっきり語 り、それを聞いて号泣したとも記録されています。
 
 もし可能で、この異様な「告訴」に関心をお持ちの方にお願いしたい。
 わたしのホームページ http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/ の、やす香遠逝記事をふくむ、七月分「生活と意見 私語」file58 をそっくり他のワープロソフトにでもコピーしてくださいませんか。証拠保全の意味でも。

 其処に、また、「MIXI」日記に僅かながら書いてきた、やす香永逝までの私・湖の思いに、更に連載中の『死なれて 死なせて』にこめた「悲哀の仕事=mourning work」に、もしも、孫やす香への、娘朝日子への、深い「愛」ならぬねじけた「悪意」を読み取れるようなら、わたしは、娘朝日子の「告発」に、進んで頭 を垂れましょう。

「栄光の架け橋」が、このような「やす香母」「押村朝日子」の行為から汚されて行くのを、亡きやす香のために祖父母は深く悲しみます。孫やす香もあまりの ことに泣いているでしょう。まみいは憔悴し、また倒れました。

 あのやす香の死が、申し合わされたいわば「安楽死」に近いか等しいか、で、もし事実あったならば、通夜や葬儀に参会してくださった大勢様には間違いなく ピュアに記憶にのこる「お祭り」でしたでしょうが、朝日子や押村氏には、病状重篤の手遅れゆえに余儀なく「プロデュース」した、「やす香の人生最大の晴れ 舞台」だったのでしょうか。

 やす香はもう諦めていたかも知れませんが、本心はさぞや生きられないのが悔しかったでしょうね。

 やす香は何度も、目はつぶってても「耳は聞こえているよ」と言いました。やす香は何を聞いていたでしょう、「輸血停止」と聞いたかも知れない、その瞬 間!  湖



連載『死なれて 死なせて』20朝日子誕生 秦恒平  2006年08月15日19:16  

言うまでもなく、いい医者に縁ができれば妻の健康に展望が開けると信じ、私は躊躇なく京都を捨てた。東京本郷台の医学書院に身を投じた。愛し合った夫婦に 子供が欲しくて出来ないなど、ゆるされない不自然だと思った。子供を産ませてやりたい。上京と就職との一切の、それが動機だった。秦の母のように、よその 子を貰って育てるしかないようなことは、妻にはさせてはならない。なにより、よくワケの分らない病気で「死なれ」ては堪らない。「よき友」として兼好法師 のいちばんに挙げていたのも、「くすし」医者であった。
 医師と医学とへ、その勤め先は、予想以上に至近距離にあった。全国の大学医学部・研究所や各専門の研究者・臨床家・看護婦との折衝で、会社の全出版は 成っていた。編集部に配属されれば、いやでも付き合いができる。すくなくも関連の情報にこと欠かない。妻は勤めてすぐ解雇されてきたが、私は、財布に一銭 の現金ももたない日があっても、もう妻のことは大丈夫と、たわいなく安心しかけていた。会社は東大医学部や病院の、すぐ近くにあった。その規模も権威も、 新米社員には白い巨塔をものの三十も積んだような超巨塔に見えた。安心のかたまりのように見えていた。
 相変わらず妻はときどき腹痛に悩んでいた。昭和三十四年(一九五九)二月末に上京してそして五月、たまりかね、私は先輩に紹介を頼んで医科歯科大学外科 の教授診察を妻に受けさせた。予診では、むろん「死なれ」た母の病状を妻は話した。盲腸が肥大していたが、諸検査のための入院が必要とされた。盲腸なら、 あらゆる手術中でいちばん安全という思い込みを私はしていた。そのくせ私はかつて一時間に及ぶ痛いめをみせられ、やっとの思いで移動盲腸を取っていた。
 検査の妻は二日とせず退院してきた。血液の状態が不安定で、盲腸の症状は薬で散らそう手術は避けましょう、そのうえ「出産も危険」と妻は言われてしまっ た。退院まぎわの妻の電話を私は職場で、殴り付けられたように聞いた。「死なれる」という言葉が、大音響となって初めて我が身のうえに具体的に炸裂した。 まだ生みの母の死も実の父の死もない前だった。文学や表現のうえでしか「死なれる」厳しさは知らなかった。
 あの日、定刻すぎて私は会社から駆け戻った。一歩足をふみだせば、その足元にくらい穴が沈んだ。都電をおりるとアパートまで泣いて走った。妻の顔を見る なりおうおうと泣いた。何の言葉も口には出せなかったが、不安のあまりに泣くしかできない自分を思い知った。怖くて辛くて胸が潰れていた。情けない。そん なことが、あってたまるか。
 日本一の血液学の先生を、私は、先輩に紹介してくれと頼んだ。そして妻は、大森の東邦(当時医科)大学の森田久男教授にかかることになった。私も何度も 一緒に遠い大森まで行った。死んだ妻の両親が上京のむかし、一時期大森ちかくに住んだらしいという記憶が、妻を奇妙に安心させた。
 通院の最大目的は、出産できるようにという事だ、私は大声でそれをお願いした。森田先生は大丈夫と太鼓判だった。さきに腹の痛いほうを治そう、これは腹 膜炎だからねと。以来、少なめの血小板に対する継続治療と腹膜の治療とに、妻は市ヶ谷河田町から大森へせっせと通院した。その秋には妊娠した。出産も中絶 も同様に危険、それなら産もう…。
 お腹が大きくなってからも私は、当然のように、よく妻の産科外来につきあった。廊下の壁のふるいしみを見つめながら、小説が書きたいなどと思っていた。 まわりに妊婦ばかりでも平気であった。医書編集者の仕事があんなに好都合であったことはなく、内科にいようと産科にいこうと、つまり「仕事」にしてしまう ことが出来る。月刊雑誌も担当していたが、書籍の企画という仕事には、かなり自在なところがある。その証拠に妻に「死なれ」たくない、子供も「死なせ」た くないと祈る気持ちから、いつしか私は、「新生児学」という、当時の日本にはまだ輪郭さえ漠然としていた真新しい医学分野の成立へと、しゃにむに関与して いったのである。
 「出産」は明らかに母親の産科的行為である。しかし「出生」した赤ちゃんの医学的管理者がだれなのか、新米編集者の私の目にも当時は暖昧であった。母親 の付属物めいて産科の担当のごとくであったが、産科医は小児科医ではない。小児科医は生まれた子を新生児といい、産科医は産まれた子を新産児といってい た。『新産児学』という本は一、二出版されていたが、『新生児学』はまだ無かった。
 これは、困る。赤ちゃんは、両方の科が協力して誕生させ保育すべきだ。むしろ「新生児科」が出来ていいのでは…。父親になるべき私は、妻にも子にも「死 なれ」たくない一心で困っていた。当時の小児科ではまだトピックスの未熟児保育のほうに関心ふかく、けれど見ているとそこから、じりじりと新生児へも研究 範囲がひろがり始めていた。
 忘れもしない、東大産科に取材に行った或る日、医局で、学内産科と小児科と合同の、新生児に関する小研究会(コンファレンス)のあるらしい掲示に目をと めた。
 これだ! 東京大学が全国に率先して両科協力の新生児学・新生児科を建設してくれれば、そうすれば、気運は各大学や大病院にひろがる。私は確信した。
 とはいえ東大医学部の権威と権勢は、かけだしの編集者である私には身にしみて絶大であった。要するにこれを出版企画へ仕上げるには、何としても東大の産 科と小児科と、双方の主任教授の同意をとりつけ、平等に監修に祭り上げなければ絶対にできない。まだ医学部改革の火の手があがるだいぶ以前のはなしだ、企 画成立は聳え立つ大断崖を素手で登るような難事に思えた。なにしろ教授室のドアをただノックすれば済むはなしではない。ただ面会して済むはなしでもない。 素人の私が専門家のトップに趣旨を説き、納得して協力の指揮を具体的に承知してもらわねばならない。
 どうしよう。しかも妻も子も「死なせ」てはならない。絶対「死なれ」たくない。
 社内企画を先に通した。当時はまだ看護婦対象の雑誌課にいた私が、純然たる医学書籍の企画へ首をっっこむのは、縄張り感覚からすればどこか非常識な逸脱 であった。しかし、会議を主宰した金原社長も長谷川編集長も「よし」と言ってくれた。やってみろと激励された。手立ては自分でつけるしかなかった。チーム を組んでといった編集部の体制ではなかった。
 私はいきなり教授室のドアを叩いたりはしなかった。小児科の助教授室をまず訪れた。両科コンファレンスの小児科側の責任者が、その馬場一雄先生であっ た。それは生涯の出逢いであった。三十年余を経ても今もそう思う。先生はのちに日本大学の病院長や学部長を歴任され、また初の五つ子保育の主治医としても 著名な方であり、息子の誕生はこの馬場先生にご厄介になった。それだけではない、のだが、今は措く。
 だれかが百済観音のようなと評していた長身の馬場助教授の研究室で、あのとき私は、たぶん、おそるおそる、しどろもどろの熱弁をふるったに違いない。先 生は、企画『新生児研究』を、東大の産科・小児科の現在の総力をあげて最新の研究書に仕上げていただけないかという私の提案に、賛成してくださった。感動 した。
 次は産科側。
 次は双方の教授へと、とほうもない説得と依頼。そして企画立案の会議。
 次は分担執筆者の人選・分担と趣旨徹底のための大会議。外科からも麻酔科からも、基礎医学からも執筆者は加わっていく。そのつど両方の教授に報告し承認 を得ねばならない。馬場先生が斬新な目次を組み上げられた。生前生後の「新生児」の世界が見えてきた。
 私は、ひとつひとつ、夢中で階段をのぼった。ただ登っていった。
 筆者や編集者の会議はふつう会社の会議室で、した。会議は必要だし、私は必死で調整しながら日取りを決め、予定筆者の全員呼集に没頭した。教授も助教授 も出席なのだから、さすがに否やをいう人は少ない。
 ところが女性の大先輩に横から注意され、私は受話器を手に、絶句した。社内に、そんな五十人を越す先生方を入れる部屋は、どこにも無いではないか。社屋 のまだ手狭な昔だった。
 長谷川泉編集長は、即座に学士会館の大きい部屋を頼んでくれた。昼飯を御馳走してから、会議だ。
 大会議当日、編集長は、カメラマンを手配して記念写真をとらせた。その写真を見ると、私は、あの当日の興奮をまざまざと思い出す。
 あわや事は流れかけたりもした。馬場先生の助け舟と、高津忠夫.小林隆両教授の、こうして御馳走を食ってしまったことだしナという掛合いで、すべては収 拾された。
 うそ偽りなく画期的な『新生児研究』は、大冊の書物となって二年ちかくかけ刊行された。吾等が長女朝日子は、昭和三十五年七月二十七日に、生まれた。も う日に日に可愛く育っていた。住まいも新宿のアパートから、郊外保谷の社宅へかわっていた。
 妻はおかげで森田内科と産科との緊密な協力により、むしろ安産であった。お産の半月もまえから入院して予備治療がはじまった。本郷の会社から大森の病院 へ私はせっせと通い、毎日寄るおそくに市ヶ谷河田町のアパートヘ独り帰った。苦にするどころではなかった。
 まだ妻の入院まえには、六十年安保反対の国会デモにも熱心に参加し、樺(かんば)美智子さんの死にも間近に出会った。兵役忌避を扱って処女作になった 『或る折臂翁の死』の想が、デモ参加の間にじわじわと熟していった。
 白楽天詩集は、秦の祖父鶴吉の書架にのこされていた、私にも読める有り難い本であった。ごく幼い日にそのなかの長詩「新豊折胃翁(しんほうのせっぴお う)」を知り、私は感銘をうけた。
 翁は、若い日に、征きて帰る者なしといわれた兵役を忌避し、深夜にひとり大石(たいせき)を槌(つい)して肘の骨を砕き出征を免れた。いまでも寒夜には 腕が痛むけれども後悔はしていないと、翁は童児に話して聞かせていた。
 私はちょうどその童児の年頃でしかなかったが、翁が、みずから「死なない」以上に、身寄りに「死なれ.死なせ」たという苦痛をあたえなかった勇気に感じ 入った。あつかましくも小説になると思った。私はその少年以来の久しい思いに、とりついて行ったのだ。
 思えば私たち夫婦の、疾風怒涛の時代であった。朝日子はそんな時代に二人して掌にした珠の愛児であった。妻は後日、また森田先生にたすけられて東邦医大 で懸案の盲腸手術もしてもらった。腹痛は消え失せたように出なくなった。
 付け加えていえば、『新生児研究』の後、全国的な「新生児研究会」がようやく組織され、発展して「新生児学会」となり、たしか現在は日本医学会総会の正 式の分科会にも昇格した。昨今、新生児科を独立させた大学や病院は少なくなく、そうでなくても赤ちゃんのことは両科で協力してというのが常識となってい る。仙台で発足した第一回の学会では、幹事の先生のはからいとみえ、会員名簿に私の名前が加えてあった。あれには、びっくりした。東北大学におられたその 産科の先生とも、私は今も親しくお付き合いをつづけている。



やす香が夢に来た  2006年08月19日10:05

* やす香を夢に見て、目覚めた。夜前も七、八冊本を次々読んでから、枕元の灯を消した。「千夜一夜物語」がまた好調におもしろくなっていた。ただ、この ところの肩凝りが頸筋へ這い上がっていてあまり心よくなかった。
 あけがた、つづけざまにいろんな夢を追っていたが、気分しか、覚えない…、おおかた人懐かしい夢であった。
 そして…家の近くを家の方へ帰っていた。
 すぐうしろに連れがいて、妻ではなくもっとずっと歳幼いもののように感じ、建日子か朝日子のように感じ、ときどきふりむきもせず声だけかけていた。と… 道には、青々、あえかに蔓だつ草むらが静かにそよいで、白い…ごく小さい蝶の、一つ、二つ、と舞うのをわたしはみかけた。うしろへ「蝶だよ」と声かけた。 ああ、やす香かしらん…。
 「やす香が来ているね…」と声にしかけたとき、蝶がみるみる数を増して、広くない道の、空は青い道の、頭よりわずかな上を、たちまち五十も六十も爪先ほ ど小貝ほどの白い蝶たちが、乱れ舞いにひらひら上下しながら、わたしの…前へ、前へ。
 「やす香がいる」とわたしは口にし、手を、右の掌(て)を挙げて、蝶たちの群れを小走りに追った。空が、黄金色(きんいろ)に…。と…すぐ、ことに小さ な蝶の二つが、からみあうように掌へ来て、そのちいさい一つをわたしは掬うように掌にうけた。もう一つはひらひらと掌の上で舞っていたが、ひとつは羽をす こしいためているか、そのままわたしに貸すかに傾くように受け止められ、そして…さも、わたしの顔を見るのだった。
 「やす香」と呼ぶと、白い蝶はそのまま…ちいさなちいさなやす香の、「MIXI」にのせているまみいの方へ顔を寄せたあのやす香の「顔」になった…だ が、あんまり小さくて可愛くて、膨らむ涙に白い花のようににじんだ。
 目が覚めた。
 わたしのうしろにずっとついていた幼いものの気配が、あれもやす香であったと、わたしは覚めて感じた。
 執拗だった左頚の痛みがウソのように消えていた。

* 妻はうらやましがり、絵のようねと言う。まこと、夢のような夢だった。
 その同じやす香笑顔の大きくした写真が、手の届く、ファックス電話の受け台にもたれて、いまも…わらっている。



やす香の死を悼んで下さった方。また母朝日子に。  2006年08月19日10:39

今日の、私の『死なれて 死なせて』連載文をどうぞお読み下さいませんか。
朝日子は、私の日記が読めないそうですから、サッサさん(粗相に敬称を落としておりました。失礼、お許し下さい。)でもどなたでも、お手間ですがコピーを 伝えてやって下さいませんか。 湖



 怪文書?未咲さん  2006年08月20日15:45

東京大学法学部の学生だとプロフィールにある自称女性の差出人 : 未咲 と名乗る

日 付 : 2006年08月17日 23時17分
件 名 : ??

「MIXI」メッセージ以下もう一通のメッセージを受け取りました。
 先の一通では「やす香父である青山学院大学教授、教育哲学などを教えているであろう、押村高氏」について、「押村さんは教育哲学など教えていませんよ? 嘘をつくならもっと調べてからにした方がいいですね。」とありました。

わたしは、彼が筑波大学技官であった時期以降に、青山に講師として就職したことしか伝聞しないので、彼現在のカリキュラムを知るわけがありませんが、彼の もともとの専攻学と、昔本人から聴いていた「ルソー」「モンテスキュー」等からして、またお父上の学問を受け継いだとも聴いていたことからして、「教育哲 学などを教えているであろう」と推測するのは、大過ない常識の範囲内です。
 わたしは東工大で「文学概論」というカリキュラムのもとで概論はせず、漱石や潤一郎の人と作品を講義していました。大学のカリキュラムの名前と、教室で 行う講義や授業内容に違いのあるのは普通のこと、調べ上げて厳密を要する何事でもなく、こういう拘泥の「嘘」よばわりは、品のない話です。

差出人 : 未咲
日 付 : 2006年08月17日 23時54分
件 名 : 続き

> どうしてやす香様のご親族の方ならお葬式にいらっしゃらなかったのですか?お嬢様の祖父は来ておられましたが、あなたではありませんでしたね。虚偽を続け て楽しいのでしょうか??東工大ぐらいの頭の方ですゆえ、なんとも言いかねますが。。。(HPの方、訴訟名、及び罪名の記述のミスが多すぎますね)文章を 読んでも知性が感じられません。もう少し勉強をなされた方がいいのではないでしょうか。反論はいつでもお受けいたしますよ。

かなり内容が混乱して怪文書らしい筆致ですが、一々お答えしておきます。  湖

 告別式はおろか、やす香の入院、白血病、肉腫、遠逝、通夜等々、やす香の両親は祖父母に対し、只一度も報せて来ていないのです。すべてやす香本人ないし やす香の「MIXI」、最期の後も「MIXI」「思香」日記を読んで知る以外に無かったのです。
 あまつさえ、葬儀にもし祖父が現れたなら「警備員に排除させる」という他の方面からの情報もありました。
 
 今一つ、私は、やす香のと限らず「葬儀」という行事に対し或る思想を抱いています。それはわたしはいつも書いていますので「未咲」さんに説明する必要は 無いでしょう。
 当日、私は浅草の花火を静かないい場所を人に与えられ、やす香とともに、互いの「悲哀の仕事mourning work」とし、寂しい「送り火」をしてきました。それが祖父の心からの告別でした。告別式だけが告別ではないのです。

 祖母はやす香への悲しみで疲労困憊し、とても遠方まで動ける体調・体力でなかった。七月二十四日のやす香見舞いの帰り、相模大野駅の階段で倒れて寝入っ てしまったことでも、不参は当然です。
 また当人も「お祭りお祭り」仕立てのお葬式など「イヤ」ということでした。

「お嬢様の祖父は来ておられましたが、あなたではありませんでしたね。虚偽を続けて楽しいのでしょうか?? 東工大ぐらいの頭の方ですゆえ、なんとも言い かねますが。。。」

 お嬢様というのがやす香なら、父方祖父は昔に逝去、残るは私だけです。私がお葬式に行っていたなら、それは幻ですね。
 もし娘朝日子の祖父なら、とうの昔に父方母方祖父とも逝去、非在です。
 いかにも知性に欠けた、デタラメ、下品さですね。

「(HPの方、訴訟名、及び罪名の記述のミスが多すぎますね)文章を読んでも知性が感じられません。もう少し勉強をなされた方がいいのではないでしょう か。反論はいつでもお受けいたしますよ。」

 法学の語彙を正確に駆使して何かを言う、どんな必要が私にありましょう。親を告訴・訴訟すると言い立ててきたのは、押村高・朝日子であり、私ではないの です。

 文章について主観を述べられるのは自由です。三十数年作家を業としていますので、文品の有無はよく心得ています。

 「反論はいつでもお受けいたしますよ」と言いながら、忽ちに「MIXI」上で、こちらからアクセスを拒絶しているというデタラメ。まさに雲隠れの卑怯な 措置をとって「逃げ隠れ」てしまいましたね。あまりにオソマツ、ボロボロの怪文書なのですが、此処へ、一応返辞は書いておきます。
 「未咲」名の「足あと」は、昨日も今日もわたしの「MIXI」に残っているので、気にはしていろいろ覗き込んでいるようですから。

 こういう低調極まる怪文書に応援されている押村夫妻をも哀れに感じます。

 どうか、私に共感してくださる何方も、この「未咲」メッセージのような恥ずかしい応援は、ぜひご無用に願います。私どもは誰一人にもこんな怪文書発行を 依頼したことはありませんので、堅く、念のため。  湖

コメント
○ もうそんなバカほっとくしかないと思いますよ。

「東工大ぐらいの頭の方ですゆえ、なんとも言いかねますが」

など単なる学歴コンプレックス丸出しですし。

※ 湖(うみ) 2006年08月21日 00:22 ほっときます、ハイ。ありがとう。

お元気ですか。京都は朱夏炎々でしょうね。真夏、疏水の「武徳会」へ水泳に通いました、子供の頃。五組から一組まですすみ、三級の試験にパスしますと、先 生無しに好きなだけ自由に泳ぎ回れるのでした。
その帰りの日照りの川端通りを京阪三条の方へ歩いて帰る暑さは、いつも焦げるようでした。
たまりかねて途中、ふしぎな図書館に立ち寄って、大冊の「絵入太閤記」というでかい一冊を借りて帰り読んだのが、とても面白かったのを思い出します。
日々楽しそうですね。病気しないで生き生きお過ごし下さい。 
ありがとう、京都の秦恒平君。 東京の秦恒平



逃げない。  2006年08月23日11:01  

私が、なぜ此処に自著『死なれて 死なせて』を再録しているか、もし続けて読んでいて下さる方があれば、これが、孫やす香の祖父であり祖母である私たちの「悲哀の仕事=mourning work」であり、もう今はなにもかも自在に理解できるやす香への呼びかけであることを、分かって下さるであろう。やす香も静かに聴き取って呉れているで あろう。
 私たちの悲しみは果てないのであるが、やす香のためにも、私たちはまた残り少ない歳月を、しっかり眼をみひらき、毅然と生きて歩んで行かねばならない。
 やす香をこれ以上悲しませても、また恥ずかしめてもならない。どう生きるか。古稀の関をくぐり抜けてきた、私は、それを思う。

 やす香は、日記の中でも、ここぞという際の「痛い悔い」のように、自分は大事なときに「逃げて」事態を見据えなかった、闘わなかったという意味を漏らし ている。真意は察するに由ないが、あの我も人にも笑いを求めつづけたやす香が、時に突如として「号泣」して友人達を驚愕させたという。

 やす香を、私たち祖父母と、叔父で作家の秦建日子とで見舞ったのは、七月二十四日であった。うとうとしているやす香を見守って、病室で私たち四人だけに なったとき、やす香はふと眼をひらいて私たちを認め、まずひと言を発した。
 そのひと言を息子建日子はこう聴き取っている、「逃げてばかりいて」と。祖母は手を「にぎって」と聴き取り、私はやはり息子と同じに「逃げてばかり」と 聴き取った。
 やす香はつづいてしっかり発語し、「生きているよ」「死んでないよ」と、私たちは聴いた。そうだとも、やす香と私たちは声を揃えた。
 その二日後に、「輸血停止」が「MIXI」に伝えられている。三日後母朝日子の誕生日に、心優しかったやす香は、大勢に、大勢に心から惜しまれて永逝し た。

 (小説家として人間の情理を多年読んできた私は、此処で書いておく。朝日子は、おそらく自身の誕生日を「考え」に入れていただろう、と。自分の誕生日を 二度と「おめでとう」と思うまい、言われまいと。それが、愛児を「死なせた」母の身を切る悔いと「悲哀の仕事=mourning work」とであったろう。もし当たっているなら、父も母も、娘朝日子とともに泣きたい。)


 そう、大事なときに「逃げて」は、心行く生はつかめない。「逃げるが勝ち」という如才を一概に否定しないけれども、痛い悔いは、「逃げた」ために生じる ことが多い。
 私たち祖父母は、愛する孫を「死なせた」悔いと咎を身に負いながら、決して老いの坂を逃げない。


コメント
○ 樹 2006年08月23日 14:29  
連載「最上徳内 北の時代」は読んでないのですが、
「死なれて 死なせて」はしっかり、しっかり読んでいます。



「死なれて 死なせて』を終えて  2006年08月25日22:38  

ちょうど三十回で、連載を終えました。


コメント
○ 2006年08月25日 23:28 お疲れ様でした。

そして、有難うございました。
○ 2006年08月26日 09:45 連載が始まってすぐ、続きを待ってられなくて書庫の図書を借り出して読みました。
そしてmixiでも追いかけ追いかけ読みました。

以前に読んだ時と比べるとおよびもつかない程に毎日いろいろなことを考えて読めました、ありがとうございました。



初の月命日  2006年08月27日20:37  

孫のやす香が遠逝して、一月経た。
 つらい、寂しい夏であった。
 
 やす香のためにも、元気に生き、書き続けなくては。

 わたしらしく、まったくわたしらしく、やす香を小説にと想を起こしている。わたしの「MOURNING WORK」を一年ほど掛けて、と、思い立つのは、もうあの日に決めていたことだが。

やす香、おじいやんの肩にいて、観ておいで。  湖



心の問題  秦 恒平  2006年08月30日09:51  

私の「湖(うみ)の本エッセイ17」に『漱石「心」の問題』という、問題の一冊がある。私の『心』の読みでは学界も揺れ動いて余震は続いているが、大筋は 否定のしようがないと読まれてきた。
 この一文は、その一冊の序文のように書かれている。
 私が漱石の『心』に接したのは戦後の新制中学三年生になる直前であったが、その前史もあった。漱石にも関心があるが、より永く久しく私は人間の「心」に 思いがあり、この「MIXI」でも真っ先に『静かな心のために』と題して連載し始めた。
 心、ことば、からだ。そして日本。私の関心は多方面にわたって、それに伴う著作も発言も多いが、ひとつの群を成して私を動かし続けたのは、心、ことば、 からだ、そして日本であった。
 しばらく、その方面から「連載」して行く。


  心の問題 秦 恒平
        (作家・日本ペンクラブ理事)

 ちかごろ、わたしの気にしているのは、何だろう。
 手短かにいえば「心」の安売りである。
 テレビでも新聞でも雑誌でも「心」を看板にした企画が多い、いわく「心の時代」いわく「心の教育」いわく「心のページ」などと。『心の問題』という本も あった。「心」とさえ謂うておれば、世の中、問題なしかの風潮になっている。
 「心」とは、それほどのモノだろうか。「心」が諸悪の根源ではないのか。
 いいや「心」は諸善の根源であり、教育の場では少年少女にもっと「心」を教えねばと、つい最近にも或る文学者の会議で、座長格の哲学者から聞いた。これ が世間でも常識かのようである。
 そうなのだろうか。「心」は、そんなに頼れるものであるか。さきの会議では、座長の「心」善玉説に即座に否認の声も上がった。声を上げたのはさすがに仏 徒であった。尼僧であった。だがNHKのテレビ番組で、禅門や浄土門の高徳らしき僧の口から、どれほど空疎な「心」尊重の説法を聴かされてきたことか。も う一度問うが、「心」は、そんなにも頼れるものであるか。
 「心」の原初の意味は分かっている。心臓の象形文字である。だが「こころ」の語源は指摘しにくい。普通の辞書はたくさんな「意義」を挙げているが、語源 の詮索は避けてある。出来ないらしいのである。仏教語辞典なら「意・識」を中心に無数の熟語を挙げている。英語で謂えばまさに「マインド」である。言い換 えれば分別である。頭脳の働きに同調または伴走している。
 人の常識では「こころ」は目に見えない。形もない。在るとしてどこにどう在るかが分からない。つかみどころがない。
 だからつかまえようとは「試み」なかったか。そうではない。「心見」の試みは、いろいろ為された。工夫された。あんまり日常的な努力・工夫であったため に、気づかずに見逃しているけれども、人の「こころ」との取っ組み合いは久しく久しいのであり、証拠は山ほど積もっている。その一つが、私の謂う「こころ 言葉」である。
 例えば文学の表現は、心の微妙なところへさしかかればかかるほど、「こころ言葉」のお世話になり続けてきた。あまりなり続けて決まり文句めき、文章に新 鮮な冴えが無くなりかねぬところまで、ずいぶん、ご厄介になってきたのである。
 「こころ」に、温度というものがあろうか。立証はできない、が、「心が寒い」「冷たい心」「心暖かい」「熱き心」「心温まる」「心も凍る」などと謂うて みることで、心の在りようを分かりよくしたには相違なかろう。「こころ」には、堅さ・大きさ・形など無い筈と分かっていながら、「心やわらぐ」「堅い心 で」「心を大きく」「小心な」「歪んだ心」「心を真っ直ぐに」などと謂う。なんとも分かりが早い。「赤き心」「心を暗くする」「明るい心で」「心の闇」 「心が晴れる」などとも謂う。
 本来は無いのであろうことを、自在に比喩し付託し示唆して、「こころ」を、可能な限り、つかみどころ有りげに仕立てて来たのである。
 「こころ」を、「閉ざし」たり「開い」たり、われわれは、しているようだ。「心の隅」「心の奥」「心の底」「心の内」「心の襞」などと、さも容れものめ いて想ってもいるし、「心構え」だの「心の扉」などと建造物のように眺めたり、どこかしら底知れぬ世界へ「心根」を下ろしているのだとも推量している。
 それどころではない。
 「一心に」打ち込んでいるかと思うと、たちまち「こころ」は「騒ぎ」「乱れ」また「舞い」「浮かれ」たり「病み」「やつれ」たりして「心ここになく」荒 れ「狂う」こともあり、また一転、「心静かに」「心澄み」「心清く」冴え渡ることもある。
 「心づかい」しても「こころ」は減らない。遥か天涯に「心を馳せ」てもたちまちに戻って来れる。「心行く」ことも「心残り」なこともあるのが「こころ」 であり、「無心」にも「有心」にも「一億一心」にもなり、「こころごころ」に「心砕け」ることもある。
 「心を配る」ことも「心掛ける」ことも「心を用いる」ことも「こころ」には可能であり、「心弱く」も「心細く」も、また「心丈夫」にも「太ぇ心」にもな れる。「心得て」いるのかと思っていると「心を失っ」ている。「きれいな心」も「きたない心」もある。「心化粧」がちゃんと利くのである。「良き心」に も、「悪しき心」はもとより、「直き心」にも「ねじけ心」にもなり、「深い心」にも「浅い心」にもなる。
 「心あて」「心任せ」「心次第」「心のままに」何でも出来ると思っている。成行きによっては平然と「心にもない」「心得違い」もしてしまう。
 挙げれば大事な有効な「こころ言葉」は、もっともっともっと沢山有る。
 問題は、何故そんなに有るのかだ。何故なんだろう。「心知った」人と共に生きたい。「心安く」「心親しく」交わり、生きて行きたい。「安心」が何よりだ と、たいていの人は願っている。だが他人の「こころ」はもとより、自身の「こころ」ですら容易に把握できないのが正直な感想ではなかろうか。「心知る」こ とが大事な希望でありながら、その「こころ」というヤツの正体は厄介きわまって、屁にはあるにおいすら、無い。形象も色彩も大小も硬軟も温度も働きも、見 れども見えず、掴みたくても掴みとれない。どこに存在しているのか、心臓か頭脳か全身にか、どこか空中に浮遊しているのか、みな分からない。今でも本当の ところは分かっていなくて、諸説紛々がいいところのようである。
  人の心は知られずや 真実こころは知られずや
と、室町時代の人々が小歌にして、嘆いている。洋の東西古今の別なく同じ嘆きを、今も続けている。自然科学がなにもかも明らかにしたなどとは、自然科学者 自身がいちばん言いづらい筈なのである。
 なににせよ、「心知る」ことは容易でない。その分からない「こころ」を分かりたい・知りたいと思って「心見」た最たるものが、「こころ言葉」の発明と運 用であり、日本人の知恵のひとつとして、たいした遺産なのである。観念的などんな「こころ」論よりも、存外に具体的に「こころ言葉」の収拾と解析とが、多 くをもたらすのではないかと思いつつ、日本人と日本文学の「心」をわたしは考え続けてきたが、道は遠い。言えるのは安易に「心」は頼れないという真実だ。
 ブッダは、「心」が肝腎だなどと説かれただろうか。般若心経の「心」はいわゆる我々の多用する「こころ」の意味でなく、中心にある大事な、根本のと謂っ た評価・形容語であり、大事に説かれているのは「無」「空」であろうと誰もが読んできた。いわゆる「心」も、無に空に、つまり「無心にあれ」とこそ説かれ ていて、「心=マインド」という「分別」を根源の「罣礙=障り」としている。障りが失せ無心が得られれば、何の恐怖有ることもなく、一切の顛倒夢想を遠離 しついに涅槃に至ると。「心」とは「顛倒夢想」の巣であることをみごとに証明してみせるのが、無数に生まれた、生まれざるを得なかった日本の「からだ言 葉」である。無に帰する以外に所詮は把握もできず意義も確かめ得ない「心」なのであり、「心」を説いてやまない人の多くは、いわば「顛倒夢想」の範囲内で より好都合に心理的な「心」操縦術を賢しげに説いているに過ぎぬ。いわば銘々が勝手な「こころ言葉」を用いて自説を補強しているのであり、だから言うこと は勝手次第にさまざまで、ちょうど何を食べると健康によいという類の「情報」と、少しも違わない。あっちではああ言い、こっちではこう言っている。そして いよいよ現代人の「心」は乱れ・騒ぎ・砕け・散って「心ここになく」貪瞋癡に狂奔する。するしか道がないかのように「心=マインド」が祭り上げられ、あた かも強要されているのである。
 「心に、ふりまわされてはなりません」と、なぜ説かないのか、現代の僧や宗教家たちは。根本をまちがえた哲学学や宗教学や心理学のエセ説法がはびこり過 ぎ、世を過っている。安心とは無心であるとまっすぐ説く仏徒、「心」よりもいっそ「体」を大事にしなさいと説く思想家・教育者に出会いたい。



永かった『最上徳内 北の時代』の連載を  2006年09月03日20:30

ほぼ三ヶ月かけて全部終えました。
孫やす香の死に遭うという、つらかった、寂しかった夏でしたが、徳内サンとキム・ヤンジァとの北海道の旅に、どんなに慰められたか知れません。

天明の蝦夷地検分は、有能で果敢な幕吏たちの、無私のと頌えたいほどのみごとな活躍でした、悲劇的ではありましたが。
最上徳内はその中から一人生き残り、世界史的な仕事をしましたが人間的にも優れた懐深い「男」でした。いい日本人でした。

いま思い起こしても微笑むのですが、徳内が神社に掲げた算額の問題は、ほんとうに解の難しいものらしく、東工大の述べ何千人にも及んだ学生諸君で、正解で きたのは四年の間に十人と出なかった。その解き方もひとによりみな違いました。徳内は算学の大家でもありました。

また別の「小説」をえらんで連載してみようかなと思案しています。 湖



湖と作家秦恒平は同一人ですが。  2006年09月06日18:55

こんなメールが「MIXI」の運営事務局から届いた。湖・秦恒平

mixi運営事務局です。
突然のご連絡失礼いたします。

このたび、お客様のご登録内容について、他のお客様より複数のご指摘がございました。こちらで確認させていただきましたところ、「秦 恒平」様であるとお名前をご使用になっており、日記内においても本人として発言をなさっておりますが、ご本人でいらっしゃいますでしょうか。
また、日記の内容は以下サイトの転載であることを確認いたしております。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/home.htm
無断で転載や名前を騙っている場合、法令に違反し名誉毀損や肖像権の侵害等にあたる可能性がございます。
転載の許可やご本人であることを証明できるものがあれば、ご提示いただければと思います。(書類でも結構です)
なお、以下の期日までにご連絡、ご対応いただけない場合は、ご使用中のアカウントを運営事務局にて削除させていただきますので、あらかじめご了承ください ますようお願い申し上げます。

■期日
2006年9月8日 午前10時


「湖」のプロフィールには、きちんと「秦恒平」であることが明示してある。「湖」という名乗りが秦恒平の代名詞のような「秦恒平・湖(うみ)の本」に由来 することは、私の読者ばかりでなく、文壇でも、文化界でも広く知られている。二月入会以来の私の「連載作品」はもう数多いが、すべて私・秦恒平の作品であ ることも知られている。
「MIXI」をやめることは、私には何でもないが、私に「秦恒平」という名で此処へモノを書かれるとイヤな人がいるということか。

 私「湖」が、「作家秦恒平」であることは、マイミクシイの、殊に「はたぼう」氏が誰よりもよく知っている。同じく作家である息子秦建日子なのだから。 「木漏れ日」の押村朝日子もよく知っている、私の娘なのだから。

 潮時であるのだろうか、「MIXI」などおやめなさいという。 湖


コメント
○ 2006年09月06日 19:08 皆に口裏を合わされたらアイデンティティすら危うくなる……これはインターネット世界の盲点ですね。
さて。
「湖」氏が、まことの秦恒平先生だと知り、かつ過去に三冊の本をお送りして確認しているわたし、日本文藝協会会員・朝松健としては、どうしたものでしょう か? 陰で姑息な手を回している方たち(?)も、こんな所に邪魔者がいたとは思わなかったでしょうね。



「湖=作家秦恒平」は同一人。  2006年09月07日23:32

「MIXI」運営事務局から下記の確認有り。
「湖」と名乗っている私はまた、自分が作家で日本ペンの理事の「秦恒平」であることを少しも隠す気はない。プロフイルに明示したつもりであるが、まぎらわ しい思いをさせてしまったならお詫びしておく。


 ご返信いただき、ありがとうございます。mixi運営事務局です。

 「湖=秦恒平」、ご本人様であるとご連絡をいただきましたので、運営事務局での対応は控えさせていただきたいと存じます。
 湖=秦様にはご不快の念、多大なご迷惑とお手数をお掛けいたしましたことを深くお詫び申し上げます。
 今後このようなことのないよう一層の管理体制の向上に努める所存でございます。


コメント
○ 2006年09月07日 23:48 これで一件落着なのでしょうか……。
釈然としませんね。
「ご不快の念、多大なご迷惑とお手数をお掛けいたしました」
事務的な謝罪ですね。
○ 無礼千万です。 MSHIBATA 2006年09月08日 20:06 わたしも釈然としません。
そもそもmixi運営事務局は会員の招待による認証で本人認証を済ませているわけですから、本人に再度本人である証拠を出せちうのはいかがなものでしょ う。
自らのmixiのシステムを否定しているわけですね。
○ 2006年09月08日 21:04 MSHIBATAさんのおっしゃる通りです。なんか泥縄に対処してるだけで、ユーザーに対して何も考えていないことが分かりました。   



「MIXI」に作品を公開する理由  2006年09月10日22:55 「

MIXI」に紹介されたとき、真っ先に思ったのは、その「場」がわたしの執筆の「場」に成りうるだろうか、という期待だった。「場」があり、日から日へう つるならば、一度書き出せば、書き継がねばならない。そのためには、むしろ易しい仕事よりも、ぜひ手を付けたい仕事が良いなと思った。
 それで、いわゆる日記は書かず、いきなり「静かな心のために」という無謀なほど難しい仕事に取り組んでみた。取り組んで良かったと思っている、大きい、 これからの仕事の、ま、手慣らしが、一里塚が出来た。

 わたしには、自分の代名詞のような、「秦恒平・湖(うみ)の本」という、創作とエッセイとで、満二十年、八十八巻にもなり、なお継続してゆく「私版の全 集」がある。
 明治期に島崎藤村が四冊「緑陰叢書」をつくって、有名な「破戒」「春」などを私版で世に問うたことは知られているが、現役の作家が自身の作を、二十年に 亘り、九十、百巻にも及ぼうほど自力で国内外に出版し続けている例は、わたし以外に無いと思っている。
 趣味的な仕事ではとても、こうは、続かない。作品の質と量とに導かれて、しかも本づくりの技術がなければ出来ない。また制作費を回収できる程度に売れな いと、続けられるワケがない。

 しかし、この仕事は所詮営利のためには成り立たない。現にわたしは、愛読者に支えられながら、しかも文化各界の知名人や大学の研究室・図書館へ、惜しみ なく「湖の本」を寄贈している。買って貰えればむろん助かるけれど、それ以上に、作品を作者から読者へ送り届けることに意味を置いている。それで二十年通 してきた。

 そういう考え方だから、一度そうして送りだした作品は、例えば「MIXI」であれ、わたしのホームページであれ、無償で公開し続けることに何の物惜しみ ももっていない。もし商売として売ろうというのなら、作品を出すわけがない。作品は出し惜しみしながら「広告」し「宣伝」して、買って欲しいと頼むだろ う、が、この「MIXI」でも、わたしは、ひたすら作品を惜しみなくよく校正して無償公開しているのである。あたらしい読者が一人でも二人でもしらぬまに 出来ていたら有り難く、たとえそれが期待できなくても、実は「紙の本」からスキャナにかけた誤記の多い原稿を、しっかり校正できる「機会」には成ってくれ る。
 間違いの少ない本文を創りながら、ついでにみなさんに公開している、それだけのことである。

 秦恒平というヤツは、「MIXI」で「湖の本」を売って、売りつけて商売しているという「悪声」が、「MIXI」事務局の方へ届いているらしいが、本文 を無償公開していてどうして商売になるものか、どうか、そんな魔法があるなら伝授ねがいたい。

 『北の時代 最上徳内』は三巻、『日本を読む』は二巻、『死なれて死なせて』も『青春短歌大学』も各一巻なら、今も続けている『漱石「心」の問題』も『秘色』も、みな 「湖の本」作品であり、「あとがき」も添えてあるから、プリントされれば、そのまま「本」の内容は、校正済みで完備している。

 「MIXI」は、わたし自身のこれまで触れてきた読者世界からは、とびきり異色の不特定多数世界であるだけに、そんな中へ自作を惜しげなく投げ込んでゆ くことに、わたしは、それなりのスリルと喜びを感じている。まれに本が欲しいという人には、喜んで差し上げてもいるほど。もともと「MIXI」では、送り 先や宛先は知れない約束のはず。

 むしろ、「書きたい」「書きたい」ひとたちに、わたしは、「MIXI」に作品を書けばいいじゃないですかと言いたい。人目にさらしてこそ作品は、創作 は、鍛えられるはず。

 この作品はどうだこうだと批評されるのは歓迎だが、商売をしているとは、なさけないことを言うてくれるものだ。 湖


コメント
○ 2006年09月10日 23:25 顔なき誹謗者もいよいよ誹謗のタネがなくなってきたようですね。
「商売をしている」とは……。



 ひどすぎる。湖  2006年09月14日04:13

 * 読者のひとりりから、「木漏れ日」こと、娘押村朝日子が、「MIXI」に書いた「今日の日記」を送ってもらつた。
 読んで、おどろいた。これはひどい。
 「MIXI」という広範囲なソシアル・アナウンスで、こうむちゃな誹謗・中傷がゆるされていては、流石にがまんならない。がまんの問題でなく、被害であ る。「MIXI」に対しても厳重に抗議する。「木漏れ日」や「思香」日記のムチャクチャをずうっと無視してきたけれど、自衛のためにも言うべきを、ハッキ リ言っておく。「MIXI」をこういう目的に使わせて良いのか、みなさんにもご判断願いたい。

 孫やす香が生きていたら、今日は二十歳の誕生日。日記の前半は、さもあろうと共感もした。だが、後半は、事実無根の捏造といえる「悪声」で、こういうこ とを、亡くなった孫やす香二十歳の誕生日を期し、その名に借りて「公開のブログ」で書き続けていること自体に、しんから驚いた。精神の頽廃、傷ましいと言 うほかない。

 こういうことを「木漏れ日」が「MIXI」に書き散らしている「目的」は、何なのだろうか。
 もし両親への抗議や弾劾なら、なぜ、それを、両親にも「読める」ようにしておかないのか。「MIXI」のアクセスを、親には拒絶しておいて、悪声だけを 好き勝手にとばしているのは、すくなくもフェアではない。
少なくもわたし「湖」は、朝日子等の眼をふさいでおいて、彼等を批判したり非難したりはしていない。
 (亡きやす香とわたしとは「MIXI」での「マイミクシイ」同士であった。これをアクセス拒否したのは、やす香死後に「思香」の「MIXI」を勝手に使 用しはじめた、押村高・朝日子達からであった。自然、朝日子達も「湖」の「MIXI」が見えなくなっているのかどうかは、わたしは知らない。わたしは彼等 へアクセスを拒絶したりしていない。)
 われわれの眼を機械的に塞いでおいて、ものかげで公衆相手に捏造した「悪声」を飛ばし続けているのは、文字どおり誹謗中傷そのものではないか。ちがう か。

* 朝日子が今日の日記「MIXI」に書いた文面を、わたしは書き写す。悪意の誹謗から身を守るために。

* やす香、二十歳になったね。
昨日までは「子供」のやす香を抱きしめて過ごしてきたけれど、
もう「大人」になったんだし、
あなたが大空にはばたいていくのを、静かに見送ろうと思います。

ちょうど明日、四十九日だしね。
別に仏教徒ではないので、だから何と言うことでもないんだけれども、
あなたと病院で見た映画のように
あなたとどこかで出会えたらいいのにと思う。
たくさんの人が「やす香の夢を見たよ」と言ってくれるけれど、
相変わらず、私の夢にあなたは出てきません。
ああ、これは夢なんだ、夢なんだから、夢から覚めればすべて元に戻っているんだ、
と、思い続けてるような夜ばかりで、ちょっと悲しくなります。

でも、この前、とても楽しい夢を見たの。
指導員とわーわー遊んでいる夢でね、
私は「ざ・ぶーん!のおばさん」ではなく、「指導員」なわけ。
目が覚めて、変だよな、私がキホよりいっこ下?
・・・と思って気がついた。

あのときママは、やす香自身だったんだね。

昨日は、ないちゃんたちや、あやのたちが訪ねてくれて、
お花もたくさん届いて、
あなたの好きだった「お誕生日メニュー」をそろえたりして、
とても楽しく過ごせたけれど、

* ここまでは、少なくも、一人の母親が亡き子との「対話」として、わたしもしんみり読むことが出来た。こういう物言いは、誰でもうわべ取りなして、綺麗 事で簡単に書ける。
 だが、このあとは、いけない。こうである。

* 一方でまた母から、
私がやす香を見殺しにしたと言ってきました。
私があなたのBFを公認したのも、
とても「変わった服装」を容認したのも、
「愛情もなく、無関心だったから」だそうです。

* これは全然事実を言っていない。あるいは事実を、朝日子が都合良く「自己弁護」しているに過ぎない。
 こういうことを母親に向かい言い出すなら、はっきり、父であるわたしは言う。

 今年の一月から六月まで、朝日子や押村高は、両親は、やす香の「過激な病悩」を救護すべく、何をしていたと言えるのか。自分達の手で、北里病院の前に、 いつ、どこの、どんな確かな病院や優れた医師のもとへ、やす香を連れて行っていたか、正確な記録を見せて貰いたい。
 やす香の「病悩日記」を読んだ人達は、「やす香さんと親御さんとは、一つ屋根の下で暮らしていたんじゃないんですか。この病状の烈しさに、親がまるで気 付いたふしがない、六月まで病院へ連れて行った気配もない」と驚愕するが、それは、われわれ祖父母の驚愕そのものでもあった。
 そのありさまだから、「死なせた」ないし、少しつよく「見殺しにしたようなものじやないか」と人さまに言われて、適切に弁明一つできないのではないか。

 病院で病気の告知があってから、初めて、「やす香の命は命がけで守ります」と綺麗事を言うより前に、今年一月から六月下旬に到る半年間にこそ、「やす香 の命を救う」まだしも可能性があった。もはや「全く手遅れの緩和ケア」に入ってから、「命を守る」どころか、今度は「死を受け容れ」させたり、あげく「輸 血停止」したり、葬儀を「プロデュース」して「お祭りお祭り」「人生最大の晴れ舞台」などと口走ったり。
何もかも、そもそも順序が違うではないか。
 死後の四十九日になって、むざむざと死なせた子に優しそうな口をききながら、一方で生みの母を、公然、ウソで譏ったり。
 あまりに非道なのではないか。

 朝日子は、この三月頃、すでにやす香に「異様な異常」のはっきり出ていた頃、それには全く無頓着、ないし気が付かないまま、自分は現在速記者格で「就職 している」と人に言い、また、かけがえのないほど立派な囲碁の先生に出会っている、と、囲碁への愛着や執心を嬉しそうに語り、さらに小説を書いていくこと に一種の意欲を述べている。メールが残っている。
 それ自体は朝日子の自由であり、それだけを問題にすることでもない。しかしながら、愛しているはずのやす香の「死病」からは「無関心」に近いほど「目が 離れ」ていた事実の歴然の「傍証」にはなっている。その延長上で、三月以降もずうっと会社勤務し、碁の先生との付き合いないし囲碁を楽しみ、ブログ小説を 書き継ぐことにも熱中していたのだろうか。
 三月四月五月六月と、やす香の病態があれほど険悪に進行していたことに、とんと気も付かず、或いは気がつきながらも何も有効に医療や救命の手を打たず、 あまつさえ、ある日など、疲労困憊して帰宅したやす香に、母親自身の仕事上のミス、ダブルブッキングの尻ぬぐいを、半分やす香の助力でしのいで、「スバル タ母さん」と苦痛に悶える娘に慨嘆させてもいた。
 日記上のそうした悲劇的事実は、まがまがしくも、やす香の命運を損ない続けていたと言えるだろう。

 親の目が、やす香に温かく深切に届いていたとは、日記から見る限り、お義理にも言えない。朝日子も夫・高も、その点を言われまい為に、無謀に声高に、 「死なせた」は「殺した」だとか、やす香の命の尊厳を祖父母が傷つけただとか、「生きよけふも」と祈ったりするなら「殺してやる」と喚くとか、すべてがあ まりに異様ではないか。
 こういう自己弁護ないし問題のすり替えを朝日子達がしかねなければこそ、わたしは、やす香の全日記、ことにも「病悩日記」をいち早く正確に、そのまま記 録し、保存しておいた。やす香の言葉は、まさに生ける証として貴重であったから。むろん今度の調停のためにも大事な資料として提出しておいたのである。
 「責任への恐怖」で自暴自棄になっているのではと指摘した若い人がいたが、朝日子のことばに、やす香入院に到る「半年」の無為無策・愛の欠如への痛悔と 反省とがいっこう現れてこない理由と、やす香祖父母への(言葉だけは装った)ヤケクソの八つ当たりとは、まさに「表裏している」ということを、言ってお く。

 「愛情もなく無関心」の、「愛情もなく」は朝日子の勝手な言い添えであり、一方「ママはわたしには無関心」と来訪早々いくつか例を挙げて話してくれたの は、孫やす香自身であったことは、祖母が聞いた「当日の日記」に、印象的に記録されてある。

 そもそも、やす香が、確執久しい両家の隔てを敢然と自分の手でぶち破って、両親に秘しても自発的に祖父母のもとへ親しく訪問し続けた彼女の真情を、押村 の両親はどう思っているのか。
 さて、その次。

* もちろんその何百倍も、もう一人から来るわけだし、
パパへの悪口に至っては、A4用紙で何百枚あるでしょう。
その分厚く重たい封筒が、
あの二人からあなたへの誕生日プレゼントなのです。

裁判所に呼ばれる日まで、あと一週間。
私はあなたにもらった勇気を糧に
あなたとの20年を、そして私の生きてきた46年を
しっかり振り返って、その日に臨まなければね。
そのためにもう少し、この日記を使おうと思っています。

* 「もう一人」とは、わたしのことのようである。「何百倍も」わたしが朝日子に、かりに伝えたいとして、どういう方法で、どう伝えられるのか。メール等 の交通は完全に朝日子側から遮断されている。
 押村高への「悪口」の量と言うが、これは悪口どころではない。わたしのホームページに久しく掲載されている小説『聖家族』のことであろう、これは読者が 判断されるだろう。
 それからまたホームページの私の日記「私語の刻」をいうのであろうか。それも、誰一人の例外なく、自由にわたしのホームページで読めるのであるから、ど うぞ判断願いたい。
 押村高の悪口などで、手間や時間を費やしているほどわたしはヒマでない。現に「MIXI」に、わたしが書き込んできた内容は、のこりなく、誰でも読め る。それで判断されればいいことだ。

 「分厚く重たい封筒」とは、察しるところ、「民事調停」の簡易裁判所から、わたしの「陳述書」とともに、小説「聖家族」全編や、この六月七月八月の日記 「闇に言い置く 私語の刻」、それに、やす香による半年に亘る「病悩日記」、まだその上に、八月一日二日から連日のように押村夫妻から送りつけられた、「告訴・訴訟・誹 謗」の「威嚇メールや手紙」の全コピーが提出してある、それが、朝日子たちへも届けられたのではないか。
 これらは、すべて、わたしの代理人が用意したものだと思う。陳述書とともに押村に届いたのは、もっと早いのではないか。

 民事調停は九月二十日に始まる。押村高そして朝日子が相手方当事者であり、わたしたちは朝日子と衝突したい気はない、あくまで押村高との対決を希望して いる。それほども、われわれは押村高をゆるしていないのである。

 わたしは、決して訴訟を起こしたのでもない、告訴したのでもない。朝日子一人にそんな真似はさせたくないので、先だって、押村家との落ち着いた話し合い を、手続き的に求めて受理されたのであり、「民事調停」は、相手方地元の簡易裁判所で行われるが、「裁判」ではない。われわれは押村夫妻を訴えたりしてい ない。

 だが卑怯な手法で「悪声」が「MIXI」に流され続けるなら、弁護士の強力な助言と判断に従うつもりでいる。
 一両日前に朝日子からメールでわたしに届いた、「日本ペンクラブ」と理事・会員宛電送すると威嚇してきた「誹謗中傷文書」が、どんな勝手なシロモノで あったかも、場合によりホームページに公開することを辞さない。 湖

 以後の対応は 努めて、わたしのホームページの日記でする。
 http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/

 


道を踏み外している。 湖  2006年09月16日00:31

* もうよほど前になる。聟夫婦である押村高と朝日子とが、手遅れの肉腫で二十歳前のやす香を死なせた直後、八月一日から始めて、執拗に両親を告訴する訴 訟すると騒ぎ立てていた八月のある日、事態を心配した或る知人が、こんなメールを呉れていた。
 長いメールだった、こういうことに詳しい立場の人であった。長いメールの、以下に抄した辺を読んでいたとき、実はわたしは失笑して、まさかァと呆れてい たのを思い出す。

* 私には、あなたが作家としてご自身の作品を守り、言論の自由を守り、それでも朝日子さんのためを思い、訴訟には強いて勝たなくてもいいとお考えのよう に見えてしまいます。
 これは、最悪ではないでしょうか。
 さらに訴訟があなたの心身の健康に与える負担を思うと、ぞっとします。何十年も訴訟している例をいくつも知っています。泥沼です。
 そして、相手の弁護士を甘く見てはならないと思います。
 まず、実の娘からの告訴を煽るということは良識ある弁護士ならしません。「九十五パーセント勝つ」という妙な強気もおかしい。これはかなり質の悪い「や くざ」な弁護士がついていると推測すべきです。
 さらに私がもっとも恐怖するのは、裁判が不利になった場合に、朝日子さんが「言葉によるハラスメント、虐待」だけでなく、少女時代に「性的虐待」を受け たと「嘘を訴える」ことです。朝日子さんはそこまでしても勝ちたいでしょう。負けないために身辺・周囲が煽るでしょう。アメリカでは無実の父親がこうやっ て社会的に葬られた例が山ほどあって、本になっているくらいです。
 もし、そのような根も葉もない訴えがあった場合、裁判は女の味方です。自称被害者のほうが強いです。痴漢の冤罪よりも無実の証明は絶望的です。あなたの 作品はことごとく抹殺され、百年は埋もれなければならない。あれほどの名作なのに。日本語の宝なのに。

 願いは、一先ず譲歩して、「告訴」騒動を鎮めてくださることです。ご家族、弁護士さんなど色々な方々とご相談して、あちらの要求がこれ以上傲岸に過大に なる前に、お考えいただけないでしょうか。
 その上で決断されたご判断は一番正しいことですし、それを心から支持して、あなたとご家族の皆さまのお幸せをお祈りし続けることに少しも変わりありませ ん。

* いくら何でも度はずれていると、わたしはメールを読み飛ばしていた。
 ところが、朝日子は「MIXI」日記を利し、しかもそれがわたしには「読めない」ように画策しておいて、八月以降、公衆相手(六百万人)に、じつに、読 むも忌まわしい上記に危惧されたとおりの「嘘を訴える」ことをしていた。
 わたしには、今日まで、それが読めなかった。人がコピーして送ってきてくれない限り。
 よほど見るに見かねて癇癪玉を破裂させた人が、全文を、今日送ってきてくれた。
 ひと言だけにしよう、あきれ果てた。
 もうひと言、何と情けない人間になったのだろう、わたしの娘は。

* わたしは、ものに書く場合、それが批判や非難にあたる場合は、いわゆる「ウラ」を確保してでなければ、断定しないようにしている、当然の作法である。 推測は人性の自然であるが、それも前後の状況から推して、蓋然性を堅くにらんで、する。まともな評論や批評は、そうでなければ出来ない。
 それぬきに、好き勝手なでたらめな「作文」は、幾らでも出来る。誰にでも出来る。上のメールの人が、「心から危惧」し予測していたことを、朝日子は臆面 なく、とうに、やり始めていたんだ。それも実の父や母に向けた、むちゃくちゃな「悪声」「誹謗と中傷」。

 そこまでやって、いったい朝日子は、何の自意識から責任遁れしようとしているのだろう。

 我が家はきわめて狭い家で、しかも妻と私は何十年、常にまぢかに暮らしてきた。わたしが一人の時は、書斎とも呼べない机に向かい、夢中で依頼原稿を書き まくっているときだけだった。
 妻や建日子は、こういう娘や姉のむちゃくちゃを、どう思っているか、どうか尋ねてみて欲しいが、妻は、朝日子のこの日記部分をまだ読んでいない。弟は、 姉とマイミクシイのようだ、どうだろうか。

* 昨日やす香の友達がメッセージを送ってきてくれたことは、書いた。全文は遠慮せねばならないが、朝日子の恥知らずな「MIXI」日記を通読してみれ ば、申し訳ないが、少し引用させてください。

* ・・・私は正直、やす香のママにがっかりです。
 私には押村家の深い事情はわからないにせよ、やす香のMIXIを使い続けて、やす香のおじいちゃんについて、なんかいやな感じに書き綴って、、、
 湖さまは、責任感が強くて、頑固で(失礼っ)、だけど、優しい方なんだなあって、私は知っています。
 私はやす香はこんなこと望んでるなんて思えません。
 やす香はおじいちゃん、おばあやんを最後、憎んでいたんですか?
 やす香の築いてきた人間関係をママとパパが勝手に使うほうがおかしいんじゃないかな。。
 でも、直接やす香ママとパパにメッセージを送る勇気のない私です。ごめんなさい。
 でも、これ以上なんかあったら送ってしまうかもしれません。泣。  

* この「声」に、実情は尽きている。朝日子は「道」を踏み外している。

* 朝日子が結婚するまでの、大冊のアルバムが何十冊も溜まっている。弟より六七年長く付き合ってきた朝日子と父や母との写真は、千枚できかないかも。み な自然に、健康そのものに、それはそれはよく撮れているではないか。
 ホームページに余力があれば、各時代の「朝日子写真館」を此処へ開いてみようか、百聞は一見にしかないであろう。

 結婚したあとでさえ、朝日子は、母親の代理で、雑誌「ミセス」だったか「ミマン」であったか、父親といっしょに、編集者やカメラマンたちともいっしょ に、編集部に着せ替え人形のようにいろいろお洒落させてもらって、楽しそうに四国松山や中国路取材の何泊もの旅をしているではないか、ちゃんと雑誌が刊行 されている。

 文壇関係のパーティーといえば、いそいそと父にくっついて来て、作家や先生達と、忘れもしない岡本太郎や梅原猛なんかともそれは嬉しそうに話して、編集 者にはちやほやされて、興奮していたではないか。

 父が作家代表でソ連へ旅するときも、朝日子は一人率先して、横浜港まで大きなトランクを引きずって、波止場での出航を見送ってくれたではないか。あれは もう大学生だったろう。

 大学入学を祝いに銀座の「きよ田」でうまい鮨も嬉々として喰って、呑んで、あんなに上機嫌だったではないか。カウンターにたまたま並んだ小学館の編輯者 に、「秦さん、コドモに、きよ田は過剰サービスですよ」なんて言われたのを、わたしは忘れない。

 盲腸の手術あとがこじれて朝日子が二度も入院したときも、わたしは自転車で、毎日保谷から吉祥寺の向こうまで走って見舞った。朝日子は毎日、パパを待ち わびていて、時にはベソを書いて父の手を握って放さなかった。あれも、そんなに小さいコドモの時じゃない、高校生ぐらいな朝日子だったではないか。
 もっとも、わたしは朝日子だけでなく、建日子が交通事故入院したときも、一日も欠かさず自転車で顔を見に・見せに通ったが。

 なりたくもないお茶の水女子高校の父兄会長を強引に押しつけられたときも、お父さんの七光りで卒業生答辞が読めたなんて、晴れがましそうな得意顔もして いた、あれも高三を終えた朝日子ではなかったか。

 そもそも夫押村高と出会わせるために、仲人の小林保治教授に頭を下げに行ったのも、美術展での見合いに引き合わせたのも、この父であったのを朝日子は忘 れたのか。




娘との三枚の写真  2006年09月16日15:30

平成三年(一九九一)一月、この頃、今夏亡くなったやす香は、四つ半になっていた。娘朝日子は結婚して足かけ六年。妻といっしょにと依頼されたが、体力的 に長い旅に堪えない、また晴れがましいことは苦手な妻の代わりに朝日子と、四国・中国(松山や柳井や厳島)を旅したときの写真である。

 なんと娘は楽しそうであったことか、朝日子が旅館やホテルのカラオケであんなにじょうずに歌うとも、わたしは、ついぞ聴いたことがなかった。国木田独歩 のゆかりの地、醤油づくりで名高い柳井市の、屋根より高いような大醤油樽の上へ追いあげられたわたしが、オッカナビックリへっぴり腰なのを、下から見上げ て「ミセス」編集者やカメラマンところころ笑っていた娘の上機嫌を懐かしく思い出す。朝日子結婚後にも、こんな楽しい笑顔の父と娘との旅が、有った。父の 方が終始照れていた。

 こういう屈託なく愉快な家族・親子仲良し写真が、朝日子の誕生時から、こうして結婚・やす香出産後までも、文字どおり枚挙にいとまない。写真も、撮って おくモノだなあ。この朝日子の自然な表情のどこに父子の不幸な確執が読み取れよう。

 すべては、この直後に、朝日子のいわゆる、夫押村高の「不幸な暴発」が起きた。嫁の実家である私と妻とが、押村高により一方的に「姻戚関係」を絶たれ た。聖家族とも見えた家庭の戸棚に、どすぐろい髑髏が投げ込まれたのである。それから始まり、それが十数年後のやす香の死に繋がっていった。やす香を「死 なせて」しまったと謂う意味も其処に在る。

むざむざ「死なせて」おいて、あとで千万言綺麗事を飾ってみて何になろう。まして朝日子までが「不幸に暴発」して、何になろう。



父と娘との旅写真を見て欲しい。  2006年09月17日01:36


* わたしは、昨日今日まで何も知らなかった。なにか「MIXI」日記に朝日子がむちゃくちゃ書き散らしているらしいと感じていても、アクセスを拒絶され ていて自力では読めないし、人も、あんなことが書かれていてはうっかりわたしにも伝えにくかったろう、息子はやす香の日記は読めるのだが、わたしには、伝 えてこなかった。息子から聴いていた妻もわたしには黙っていた。伝えるに忍びない朝日子の嘘八百と知っているから、よけいわたしに話せなかったと言うが、 なさけないことだ。わたしは真実がっかりした。

 おそらく、三枚の写真は、その自然で親密な父と娘との姿勢や表情は、朝日子の「MIXI」日記が無残な虚言であることを明かしてあまりある。既に押村家 にいたのであり、父親がイヤなら御免蒙ると同行を断れば済む。喜んで付いてきてかくもご機嫌サンである、自然な笑顔である。

 それにしても、わたしはウカツに笑い飛ばして気にも掛けなかったが、ある読者の「予言」メールは、的確に朝日子の無道なウソ行為を見抜いていた。これに は参りました。掌をさすようにとはこれだ。家族も知らぬ顔してわたしに隠していたのに、しっかり「助言・忠告」していてくれた。もう一度、感謝して此処に ひいておく。

  * 私には、あなたが作家としてご自身の作品を守り、言論の自由を守り、それでも朝日子さんのためを思い、訴訟には強いて勝たなくてもいいとお考えの ように見えてしまいます。
 これは、最悪ではないでしょうか。
 さらに訴訟があなたの心身の健康に与える負担を思うと、ぞっとします。何十年も訴訟している例をいくつも知っています。泥沼です。
 そして、相手の弁護士を甘く見てはならないと思います。
 まず、実の娘からの告訴を煽るということは良識ある弁護士ならしません。「九十五パーセント勝つ」という妙な強気もおかしい。これはかなり質の悪い「や くざ」な弁護士がついていると推測すべきです。
 さらに私がもっとも恐怖するのは、裁判が不利になった場合に、朝日子さんが「言葉によるハラスメント、虐待」だけでなく、少女時代に「性的虐待」を受け たと「嘘を訴える」ことです。朝日子さんはそこまでしても勝ちたいでしょう。負けないために身辺・周囲が煽るでしょう。アメリカでは無実の父親がこうやっ て社会的に葬られた例が山ほどあって、本になっているくらいです。
 もし、そのような根も葉もない訴えがあった場合、裁判は女の味方です。自称被害者のほうが強いです。痴漢の冤罪よりも無実の証明は絶望的です。あなたの 作品はことごとく抹殺され、百年は埋もれなければならない。あれほどの名作なのに。日本語の宝なのに。
 願いは、一先ず譲歩して、「告訴」騒動を鎮めてくださることです。ご家族、弁護士さんなど色々な方々とご相談して、あちらの要求がこれ以上傲岸に過大に なる前に、お考えいただけないでしょうか。
 その上で決断されたご判断は一番正しいことですし、それを心から支持して、あなたとご家族の皆さまのお幸せをお祈りし続けることに少しも変わりありませ ん。

* わたしはこの助言を聴いて、親しい弁護士を頼む気になったし、娘に父親を告訴・訴訟させるようなバカを止めたさに、弁護士の勧めに従い、すばやく「民 事訴訟」を申し立ての勧めにも従ったけれど、それでもまだ、朝日子があれほどひどいウソを平然と、得々と世間に言いふらして恥じないなど、夢にも想えな かった。そんなバカナと思っていた。

 言葉で何をあとから言い繕っても、なかなか人の耳には入らないものだ、だが、朝日子が、押村と結婚して五年余も経っているあの自然な父と娘との「旅写 真」三枚は、幼くから朝日子へのわたしの「虐待」など、百パーセント打ち消してくれる。
 そして昔へ溯れば、さらにお互いの信愛や慈愛や敬愛なしには有り得ない写真の数は夥しい。母親と、弟と、友達と、また朝日子一人。写真機を向けているの は、みな、父であるわたしであり、朝日子が元気に笑っているのは、みな、わたしのレンズとファインダーへ向かってである。演技で、ああいう顔は、お互いに できっこない、何百枚も。

 それにしても我が親を、隠し「MIXI」でありもせぬ自分への痴漢呼ばわり出来る娘も娘だし、される父親も間抜けである。知らぬは父親ばかりなりという のも、情けないほど間抜けである。小説より奇である。おもしろいではないか。

* 「MIXI」へ厳重抗議したのが利いたか、朝日子の「木漏れ日」は、自身のマイミクシイとその周辺に「日記」へのアクセスを制限したらしい。弟すらも 外したという。
 範囲を制限したら、その範囲内で何を誹謗しウソを書いてもいいということには、絶対ならない。弁護士は強硬な手を打とうとするだろう。だが、わたしは娘 を訴えたりはしないつもり。

 しかし、もし、悪質なこういう不特定超大多数への誹謗行為が、「押村夫妻」の「共謀」であるのなら、夫である押村高青山学院大学国際政経教授を、大学も 視野に入れながら、徹底追究する。電車の中で女の子の尻を撫でたとかいう教授よりも、はるかに陰険で悪質だから。昔から悪質だから。わたしの息子は、たぶ ん「あの夫婦」は「気を一つにしてやっているよ」と推測している。 湖


コメント
○ 呼幸 2006年09月17日 05:32
湖さん、ご無沙汰しております。マイミクではありませんが、お孫さんのことが気になって、久しぶりに日記を拝見しましたら、大変なことになっていたので、 驚いてしまい、コメントしたいのに言葉が見つからずに出来ませんでした。

遅れましたが、お孫さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

わたしは朝日子さんの日記を読んでいませんが、湖さんの日記を読みながら胸が苦しくなるような思いです。

まだ、一周忌も終わっていないのに、愛するおじいさまやお母さんがこんなことになっているなんて、どんなにお孫さんは辛いでしょう。
どんなに天国で辛いと思っていても、やすかさんの声は届かないのでしょうか。朝日子さんも、深くお嬢さんを愛しているはず。娘の死が母にとって余りにも辛 くてなにか暴走を抑えられなくなってしまっているのでしょうか。心がコントロール出来ず、何かを、誰かを責めていなければ立っていられないのでしょうか。
娘が死ぬと言うことがどれほど辛いか、わたしも娘がおりますので、又、大事な人の死を乗り越えてきたので、分からないということはありません。
朝日子さんも、湖さんもご家族の方もこんなに辛いとき、なのに何故こんな…。
湖さんも激しい心労が募ってらっしゃるはず。
どうぞ、お身体の調子を崩されません様に。
どうか早く、朝日子さんが、親の愛に気が付き、天国のお嬢さんの悲しみに気付いてくださいますように。

ああ…本当に心からお祈り致します。

お心を害されましたら申しわけ御座いません。
※ 湖(うみ) 2006年09月17日 07:48
呼幸さん  有り難う存じます。 湖



ホームページの強制削除か  2006年09月21日00:12

昨夜まで何の問題もなかった私の許容量100MB申請されているホームページ「秦恒平の文学と生活」が全面、削除された。パスワードをとりあげられ て、転送できない。

転送ソフトの故障かと落胆していたが、電器大手の卒業生から、悪質なクレームがBIGLOBEに入り、簡単に会社が受け容れて削除してしまったという可能 性が濃いので、法律事務所を通じて、緊急に調査し抗議してぜつたいに回復するようにという助言が入った。

わたしのホームページは、わたしの過去の全作品を含み、日々の「私語」日録を含んで厖大な、よく知られたホームページの一つである。
まさかそんなことはと思うモノの、その種の悪意ある挑発や中傷はこの「MIXI」でも何度も受けてきた。

何にしても、わたしのホームページは全面削除の状態にある。
言論表現の自由への許し難い侵害行為として真相を調べて貰うよう手配した。真相次第では、断じてゆるさない。

かんたんな事故・故障であって欲しいが。大勢の読者の心配の声を受けているので、ともあれ此処で状況をお伝えしておく。 湖



コメント
○ Lyuka 2006年09月21日 00:28
おぉ、そういうことだったのですか。
先ほど「音羽山」で検索して湖様のページにアクセスしようとしたところページが見つからないとのことでいぶかしく思っていたところでした。

それにしても、本人に連絡無しで削除なんていうのは普通は考えられないので、サーバーの障害かも知れないです。まずサーバーの管理者に調査依頼をかけてみ るのが良いと思います。

単純なシステム障害とかで、何事もないと良いですね。
○ なんや 2006年09月21日 07:19
ホームページが見当たらないので驚きました。
サーバーが連絡なしにパスワードを削除する
ということは、
法にも抵触することですし、
ありえないことだと思います。

サーバー管理者に徹底的な調査を依頼して 
早急に回復されることをお祈り申し上げます。

○ 香魚 2006年09月21日 09:15  
ああ、やはりと思いました。
 とても、おそろしい。
 いろいろ、いやなことが想像されて、暗澹たる思いです。
 Lyuka さまのおっしゃるように、単純な故障でありますことをねがっております。
○ 2006年09月21日 09:36
びっくりしました。
昨夜は出かけていて見られなかったので一日の間に「何か」がおこったのかと。
ホームページの違反(芸能人の画像を使用して壁紙としてダウンロードできるようにしていた)で削除された友人がいますが、それでもサーバー管理者から通達 がきていました。
それがないということは↑の皆様がおっしゃってるとおりシステムの障害かな?そうだったらよいですね。
○  MSHIBATA 2006年09月21日 18:23
障害情報を見ましたが、現在傷害は発生していないとのことです。
http://support.biglobe.ne.jp/info/shogaiap/today.html
するとbiglobeというのは、ユーザーに連絡もせずにコンテンツの削除ならびにアクセス拒否をしたのでしょうか。
わたしの常識が通用しないところまで、時代は来ているのでしょう。
事実なら厳重に抗議すべきであり、言論への挑戦です。
○ MSHIBATA 2006年09月21日 18:44
会員規約によれば、緊急の場合は会員に通知することなく利用中止を行うとしています。以下参照。
電器大手の卒業生の意見が妥当と思います。

第4章 利用中止、利用停止および当社が行う契約の解除
第14条(利用中止)
   当社は、次のいずれかに該当する場合には、何らの責任も負うことなく、会員による本サービスの利用を中止することがあります。
  (1)当社の本サービス用設備の保守上または工事上やむを得ない場合
  (2)他の電気通信事業者が電気通信サービスを中止した場合
  (3)第29条第3項の規定による場合
 2 当社は、前項の規定により本サービスの利用を中止するときは、あらかじめその旨を会員に通知します。ただし、緊急やむを得ない場合は、この限りでは ありません。
○ MSHIBATA 2006年09月21日 20:30
トップページにはつながります。
もともとのindex.htmlを削除して以下のindex.htmlと入れ替えています。
そのソースは以下のようになっており、4秒後に自動的に
http://search.biglobe.ne.jp/notfound/
にジャンプさせて、ページが見つからないと嘘を言ってます。
どうしてすぐ見つかるような嘘をつくのでしょう。
意図的にコンテンツを削除していることがよくわかりました。

<HTML dir=ltr lang=ja>
<HEAD>
<TITLE>BIGLOBE エラー お探しのページが見つかりません。</TITLE>
<META content="text/html; CHARSET=SHIFT_JIS" http-equiv=Content-Type>
<meta http-equiv="refresh" content="4;URL=http://search.biglobe.ne.jp/notfound/">
</HEAD>
<BODY>
<!------------------------------------------------------------------------------------------------->
<!------------------------------------------------------------------------------------------------->
<!------------------------------------------------------------------------------------------------->
<!------------------------------------------------------------------------------------------------->
<!------------------------------------------------------------------------------------------------->
<!------------------------------------------------------------------------------------------------->
<!------------------------------------------------------------------------------------------------->
<!------------------------------------------------------------------------------------------------->
</BODY>
</HTML>
○ teru 2006年09月21日 20:34
昨夜開けなかったのでお母さんと
心配していたのですσ(・ε・`●)
早く回復することを願っています (๑→ˇ㉨←)ノ
○ SAB 2006年09月22日 22:30
言論の自由とのたまうならやす香の日記や朝日子さんの日記に何を書こうと勝手だと思うのですが。
このコメントに対して意見があるなら媒体を通してではなく直接話しましょう>
※ 湖(うみ) 2006年09月22日 23:32  
SABさん 言論の自由を否定することは出来ません。基本的人権なのですから。
 ただその場合、あからさまな虚偽や、いわれない誹謗や、ねじまげた中傷にも「言論の自由」という権利をあなたは認めますか。同じ言葉を適用するのです か、その点を、真っ先に聴かせて下さい。

 私の孫やす香は、今年七月二十七日に亡くなりました。ひょっとして、あなたも見送って下さったのではありませんか。
 そのやす香が、どうして、今も日記が書けるのですか。あなたのお仲間からも、「思香」はもういないのに、その名前で日記を書いている神経を疑いますとい うメッセージを貰っています。私が、「生きた幽霊」という理由です。
 もう「やす香」を「利用する」のはヤメテやって欲しい。やす香のために。

 娘の朝日子が、何を書いても一応は自由でしょうが、それが、ウソであれば、悪意にのみ満ちて、恥じる想いがまるで無いのでは、言論の自由の前に、人間的 に失格でしょう。
 父親に、七歳の昔から二十年間にわたり「虐待」され「ハラスメント」にあったと書いていたようですが、あなたは、私が「MIXI」に掲載した、八歳の可 愛い朝日子、結婚後も父親と旅して、じつに自然に楽しんでいた写真を、見ませんでしたか。どこかに「虐待」されてきた、「ハラスメント」を受けてきた者 の、歪んで不自然に暗い表情が認められましたか。言葉では信じさせにくい機微も、写真は偽りません。
 お望みなら、各年代にわたり、われわれの家庭と家族とが、和気藹々に満ちていた幸せな時代の佳い写真を、何十枚でも、「MIXI」に並べて見せましょ う。
 つまり朝日子は、明らかに強引な虚偽を吹聴し、どうにも体裁が繕えなくなって、「木漏れ日」日記を消去したと言っているようですが、その実は、うらへ 回って、わたしの、文学者としての全人生が其処にあり、文学活動の全基盤が其処に在るといえる、誰もがそう認めている、原稿六万枚にも及ぶ「ホームペー ジ」を、プロバイダに鵜呑みにさせて、すでに潰滅・全削除の惨劇に陥らせてしまった(らしい)のです。裁判所でいずれ確認されるまで、(らしい)と書いて おきます。
 その余波で、八、九年書き続けてきたわたしの「闇に言い置く私語の刻」という、国内外に莫大に読者がある、日録を、此処「MIXI」へ暫定移動している シマツです。

 あなたは、こういうことも人間の「誠ある行為」と思っていますか。ほんとうにやす香の心友であったのなら、やす香の気持ちを酌んでやってください。
 また朝日子の友達であるなら、みっともない、恥ずかしいことをし散らすよりも、お父さんと二人で話し合ってみたらと奨めてやって下さい。  

 わたしは、自分が「誰」であるかを、すべて打ち明けて「MIXI」で仕事をしています。わたしの連載作品は、もう相当な量になりましたが、あなたなど、 心静かに素直に読んでみるといいですね。

 わたしは、何処の誰ともあなたを知りません。それでいて直接話そうなどという提案は、いかにもアバウトですね。わたしと個人的に話し合いたいなら、どう ぞメールを使って下さい。必要ならメッセージ欄でメルアドを教えて上げますので問い合わせて下さい。
 
 それよりもSABさんがもしご存じなら、やす香が、生前、我が家に訪れた最初に、一番親しい「彼氏」だと打ち明けてくれた或る「消防士」青年をご存じあ りませんか。一度お目に掛かりやす香の思い出を聴きたいなと祖父母は単純に、しかし深く願っています。

 わたしたちは、やす香の思い出をたくさん持ちたい、聴きたいのです。  湖
 


闇に言い置く 私語の刻 6.9.20秦恒平  2006年09月21日10:23

多年運営のホームページが事故または悪質な悪意の妨害により潰されているので、暫定、日録「闇に言い置く 私語の刻」を「MIXI」日記とする。多数読者の要望にもこたえて。 秦恒平=湖


* 九月二十日 水

* 代理人の判断で、わたしは町田(簡易裁判所)へは出向かなかった。いま、正午。第一回の「民事調停」はもう済んだだろう。

* 建日子から。そして「いい読者」の二人から。メールが来ていた。その一人、今朝十時過ぎのメールが、わたしのホームページが「消えています」と書いて いるが、何の事か。もう一人の分。

* 以下、不謹慎ながら思いきり励ましのエールです。失礼はお許しください。
 一、死なないでください。朝日子さんをもう一度抱きしめて取り戻さなくてはいけませんから、なんとしても自然に死ぬまで生き続けてください。大事に長生 きして名作を書き続けてください。一瞬の好機に誘惑されませんように。
 二、書いていらっしゃいますように、この劇場益々面白くなってきました。退屈よりよほどいい。幸福は別名凡庸ともいいます。天才の役には立ちません。
 創作の至福を生きる実人生が幸福だった例が思いつかなくて。偉大な天分はそもそも悲劇的なのか、それとも天才にはそれに釣り合う不幸が必要なのか……。
 今はレンブラントを思い出します。妻も子も資産も栄誉も全部全部失って描いた最後の自画像の惻惻と胸に迫る感動は忘れられません。
 三、書く題材があるというのは豊かな財産があるのと同じですね。作家魂に火がついて、もう一つ名作をものにされますように。
 血縁の女性、お母上と娘さんは烈しい方々です。モデルとしてこれ以上の存在はないでしょう。人間味溢れていてとても魅力を感じます。このお二人は「まま ならぬ女」そのもので、愛読者として読みがいがあるというものです。濃厚で破綻しているヒロインです。
 四、「災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候」
 五、さらに大きな愛の翼広げて朝日子さんをお包みくださいますように。これほどの抵抗にはそれ以上の愛と忍耐で応えるしか太刀打ちできませんから。   以上。

* わたしは大器でも天才でもない。わたしが、わたしであること、わたしらしくあることを、読者の権利としてこの人は求めているのだろう。わたしが、わた しらしくなく世間的に落ち着くことを、たぶん無意味な妥協・堕落と思う人だろう。感謝する。

* 建日子に。  どのような紛争も、ややこしければややこしいほど、「終結」は必要なのです、つまり落としどころ。それが無いと、十数年経てからも、根 の反省無しに、突如として今回のように「告訴する・訴訟する」が降って湧く。形の上で結論を出しておかないと、先へ行ってまた臍を噛む。わたしも母さん も、幸い今回はまだ気力あり対応しているけれど、もう五年後になれば、言いたい放題が出て来ても対応できないでしょう。そんなとき、建日子が代わって闘っ てくれるかどうか。
 「これでおしまい」という形をつくること、それが「民事調停」に依頼した必要十分条件なのです。過去に、、あいまいに流しておいたから、今回の騒動が起 きたと思いませんか。このままやがてわたしが死ねば、当然のようにまた両家に紛糾が起きかねない。母さんは、そんなハメになったら、どうなると思います か。
 この紛争には、きちっとした「収束」こそ必要。だから「調停」を願いました。プライベートな話し合いは、建日子の尽 力にかかわらず、簡単にフイにされた。紛争の火種を残しておけば、いつでも簡単に燻り、発火の引き金は押村夫妻に与えたままになり、その迷惑は、今回の比 ではないこと、想像できませんか。彼等にはむちゃくちゃが出来ること、今回が証明している。若さもある。反省もなくおどしにかかる。わたしには「書く」し か無い。母さんには何ひとつ無い。わたしには「書く」しか無い。彼等がヘキエキしているのは「書かれる」ことでしょう。辛うじてとれている、このバラン ス!
 黙って引いて見せるのもまた、器の大きさ、愛の形とは、平凡な、百万遍も聴いてきた常識・良識? です。そんなことも念頭に置かずにわたしが生きている と思うのですか。わたしは母さんの身の安全や名誉のためにもガンバッテいるし、建日子に、空疎で事なかれの世渡りが、ほんとうに聡明な人間的なことかどう かを、身を以て教えている気でもいる。人間対人間は、人間の数だけ違った対応が在る。ニンを観て法を説けというのはその意味です。押村高たちの一切は、コ レまで彼等が吐き出してきた「言葉」が、如実にあらわしていることは、「言葉」のリアリティで生きている建日子には、分かるでしょう。
 わたしは黙って引いて見せるのもまた、器の大きさ、愛の形といった腹藝や覚悟の実例も、たくさん知っている。知らないのではない。しかしその正反対の例 も知っていて、前者はえてして、俗ないし超級の悟りに近く、後者は俗を離れるかわりに、悲劇的な自爆へ向かう例も少なくはない。わたしが、どちら寄りに人 生を歩んできたかは、評価してくれなくて構わないけれど、お前は知ってはいるはずだ。
 器の大小などわたしは気に掛けない。気概と気稟の一途さをより尊いと思っている。
 「非礼を受け入れる」のは、「非礼を働く」よりも仁に遠いと昔の人はきっちり覚悟している。もしそんなにわたしの「名」が大切なら、生きている間はわた し自身の覚悟で守るし、わたしの死後は、子であり教え子である建日子おまえ自身の「言葉と行為」とで、きっと守り抜いて呉れるだろう。
 助言はありがたく聞きました。わたしのこういうメールのひと言ひと言も、あるいはむちゃくちゃ間違っているかも知れないのだけれど、「今・此処」「今・ 此処」での、大切なお前との対話だと思っていてくれますように。
 わたしは、聴くべき意見には素直に従うタチだと、笑うなかれ、思っています。 ありがとう。 父
 追伸 お前達 姉と弟とのことは、なにがあろうと心配していない。「MIXI」の写真に出ている朝日子と建日子。わたしや母さんがいなくなったとき、お 前達二人はただ二人だけのかけがえない存在になる、必ず。目先のことで視野を喪わないように。朝日子には、父の生みの母を、朝日子自身の祖母を渾身の力で よく調べて書くように奨めてやっておくれ。右顧左眄していないで、もっともっともっと大きく朝の光のように健康に生きて欲しいと。

* 自民党総裁選挙。すべて、これからを監視する。問題は多いが悠長にしていられまい。どんな政策決断がなされるにしても、「私の私」は奪わせてはならな い。いや、取り返してゆかねばならない。

* ホームページの転送が不可能になっている。手元でホームページに書き込むことには問題ない。他のインターネットもまともに稼働している。
 ところが、昨夜遅くまで何の問題もなかった ホームページ転送が「接続」しない。「正しいパスワード」を入れよと言うが、パスワードなど、久しく固定し たまま触ったことがない。念のためホームページ契約のパスワードを正確に入れてみるが、何度やっても「パスワードが違う」という。
 何としても、いま、ホームページが動かないとどうにもならない時期なので、困惑している。 

* 第一回の調停には、押村は二人で出席し、弁護士はついていなかったという。大量の書き物を提出してきたが、内容は「むかつく」ほど過激極まるものだと いう話。まだ告訴だ訴訟だと言うているらしい、わたしたちは、まだ何も見ていない。

* ホームペーシのことで、電子メディアのプロに問い合わせた。状況から見て、機械的な故障以外に考えられる唯一は、悪質な悪意の中傷をプロバイタという のかサーバーというのか、とにかく大元がそれを鵜呑みにし、全部削除したとしか考えにくい、と。
 ふつうは数日前にメール予告してくるはずだが、しなくてもいい約款になっていると。そんな予告は一度も受けていない。
 法律事務所に連絡し、厳重に対応して欲しいと深夜ながら連絡。心配するメールが続々。「MIXI」には予想以上に鳴りをひそめながらも関連記事を覗いて いる知人達の多いのは分かっているので、「MIXI」にホームページに何ら化の悪質な妨害が入って潰された可能性があるむね、通報した。

* 「闇に言い置く 私語の刻」を、暫定、「MIXI」日記に移管してみる。
 



闇に言い置く 私語 6.9.21秦恒平  2006年09月21日19:50

* 九月二十一日 つづき

* もう日付は変わっているのだが。思えばやす香が白血病と「MIXI」で公表した日から、きっかり二ヶ月が経った。二十年経ったような、昨日のような気 もする。

* この不快だった一日に、なぜかそれでも一掬の、しかもちからづよく澄んだものが胸に残っているのは何だろうと、さっきから思っていた。
それは「MIXI」に今日連載を終えた小説『三輪山』への想いであった。昭和四十九年の末の「太陽」に書いた。
妻は好きな作の一つだといい読み直してくれている。わたしは久しぶりに読み返したのだが、何度もこみあげるものがあった。
『秘色』もそうだった『三輪山』もそうだ、わたしは書いていたあの頃、生みの母のことを、ずうっと想っていた。顔もろくに知らない、口もほとんど利いた覚 えがない。秦の養家に生母(らしき女)が姿を見せると、わたしは二階から屋根づたいに逃げだした。
 あんな振る舞いをわたしは今も自身にとがめはしないが、悲しくなる。
 この小説は、「織物」を特集した雑誌の特集小説として依頼されたので、どうしても織物に的をしぼる約束があった。どうしようかなあと思案しながら、締め 切りにおわれながら書き進めていって、ある夕暮れ、保谷野を、妻と散歩に出た。夕茜であった。そして自然にものの熟するあんばいに、ラストを創った。唄も 創った。
 一個所だけ、わたしは「おかあさん」と書いている。その言葉は、わたしの堅い禁句であったのに。
 あの小説、書きながら何度も泣いた。
 今日も建日子の「花嫁は厄年!」最終回を観ながら、ふっと『三輪山』の感じに重なってくるものを感じていた。篠原涼子がさいごまで気を抜かずによく付き 合ってくれたし、誰よりもさすが岩下志麻はリッパに我をとおして美しかった。俳優のみんなが、ま、あの娯楽作に、しんみりと朗らかによく付き合ってくれた なあと、建日子の喜びが伝わってくる。
 ものを創るという嬉しさを建日子は覚えてきた。わたしは懐かしみながらひそかに構想している。

* これだけを書いて寝ようと想っていた。疲れた、とても。


* 九月二十一日 木

* ホームページを心配し懸念する声がぞくぞくと。

* 萩焼  6.9.20 21:43 バド(ミントン)の後、北の丸公園で「三輪寿雪の世界」を観てきました。これまで持っていた萩焼のイメージを覆す豪壮な、そしてはんなりとし た品のある色合いの数多くの作品に出会えて満足し、初秋の北の丸公園を少し散策しました。
 先ほど「私語」を開きましたが繋がりません。こちらに不備があるようでもなく、どうかしたかと案じています。お返事下さい。
 一日が一週間が一月が慌ただしく過ぎていきます。元職場や同窓からの古稀を祝う会のお知らせが幾つか届いています。嬉しいよりも一抹の寂しさを感じてい ます。 泉

* 慌てふためいて、あちこち検索していますが、出てきません。
 何か、異変があったのですね。
 勘三郎のこと、薄井八代子さん(「ペン電子文藝館」に力作『お止橋』を出稿の会員)のこと、お茶のこと、「磬子」(私の母と同じです)という名前(小説 『慈子』登場人物)のこと・・・。
 いっぱいいっぱい聞いていただきたいことがあります。
 他の人のHPから、先生に関連の項目を抜き出して読みつつ、先生や、先生のお仕事の大きさを改めてかみしめました。
 時々刻々、先生とともにあることを体感していた、その場所が不意になくなり、ネットの迷子になっています。
 早く、自分のあるべき場所にたどり着かせてください。
 お体どうぞご自愛くださいますよう。  讃岐

* 「MIXI」に「木漏れ日=朝日子」の「足あと」が来ている。初めてだろう。へんな名前で怪しげな名乗りは他にも見つけているが、わたしの方からは、 朝日子が「MIXI」で何を書いていたか一度も読めていない。アクセスを拒絶されているのだから。憤激したわたしの読者から伝えられて読んだだけ、全部か どうかは分からない。「不正なアクセス」をしかけているなどと朝日子は書いていたらしいけれど、「MIXI」の作法にしたがい何方も読まれているはずで、 わたしは埒外。
 ひとのアクセスを拒絶しておいて、物陰で二十年間虐待されハラスメントを受け続けていたなどと「悪声」を放ち続けてきた押村夫妻のむちゃくちゃぶりに、 わたしは汚物を踏んづけた不快な気がする。
 しかし、その朝日子がわたしのところへ「足あと」をつけてくれたとは、嬉しい。「虐待」「ハラスメント」が既に「七歳」から始まったと彼女の言うその 「八歳」の昔、わたしのカメラに真向かった、みるから可愛い朝日子の自然な笑顔、また結婚後も父と同行して旅を楽しんでいた自然なご機嫌の笑顔や身ごなし を、ゆっくり自分の目で眺めて、いま現在の行いをよっく恥じて貰いたい。
 わたしは、これらの写真を眺めて、しみじみと心癒され慰められている。皮肉な話、この頃の不愉快な日々の一の慰めや嬉しさが、娘のこれらの写真をながめ ることだとは、ね。だが、これらが、わたしのいつわりない娘朝日子だった。何枚も何十枚もの写真はなにも偽らない。

* ああ、おどろいた。
 やはりホームページは誰かがBIGLOBEあてに申し出、BIGLOBEで鵜呑みに削除していたことが、判明した。法律事務所が連絡し、わたしへ BIGLOBEのサポートセンターから電話が来たが、説明にも何もならない、電話口の自分は何も知らない、専門部署がしていることで、返辞をさせますとだ け。
 わたしに、事前にも事後にも通知したはずと言うが、何一つそんな連絡は来ていないのである。
 わたしのホームページは昨日や今日のものではないし、その量も厖大で、わたし以外の人の原稿も沢山入っている。何の確認もせず、全部を闇に葬ってしまう というこの暴挙・暴行には呆れる。
 削除要求が誰から来たか、知らないという以上なにも今は言わないが、法律事務所が追究する。

* BIGLOBEからはじめて、本当に初めてメールが来て、やす香の病状経過を表している「MIXI」日記を引用しているのは著作権違反なので、わたし のホームページ全部を削除したむね、通知してきた。なんと無断でバッサリである。やす香の件の日記は「MIXI」のやす香全日記の一割量にも遙かに及ばな い。しかも、その部分こそ、わたしを、告訴の訴訟のと迫っていた件の反証内容になる部分であり、押村両親がいちばん触れられたくない部分なのは明らかであ る。半年間やす香から家族が「目を離していた」まさにやす香自身による慨嘆であり、またそれあるがゆえに「死なせた は 殺した」だと言いがかって、彼等 が見当違いに激昂した問題点なのである。
 告訴や訴訟や誹謗の悪攻撃から身を守るために、私たちにはやす香の「病悩日記」はぜひ必要になってしまったものだ。
 またその分量からして、わたしのホームページの全量は万倍にもあたるだろう。しかもそれらは悉くわたしの「文藝作品」であり主催する「文藝雑誌」であ る。何の通達も無しに無断でいきなり削除がゆるされることかと言いたい。

* 全く、内情を知らない者からみれば、プロバイダーがユーザーの承認を得ず、カヤの外に置いて、抹殺してしまえるものなのか、不可解です。wwwの不気 味な部分ですね。
 昨日も、たった二万円の資本で五億円もの大金をネット株で懐に転がせた青年の話が話題に上り、ナンジャコリャ、汗水たらす並のサラリーマンはどうなるの よ、ややこしい世の中になったわね、と今の世についていけない老女たちで嘆いていました。
 インターネットから手軽に得られる過剰な情報を、賢く選択出来ない人が増えれば、この世の行く末が恐ろしくなります。
 mixi等のブログも、顔を合わせば云えない話が出来るからと、株式に上場する程に賑わっていますが、人は顔を逢わせてこそ本音が分かるのです。イン ターネットやメールだけのお付き合いなんて、真実の真実は汲み取れません。
 一日も欠かさず長く続いたH・Pの「私語」、早い復帰を待ちます。
 サイクリングに良い気候になってきましたね。今日は何処を走っているのでしょう。
 明日は下谷へお墓参りです。  泉

* 遠距離の人はともかく、身を働かせば顔の合う同士が、メールのケイタイのと過剰なまで中毒しているのは、精神の衰弱以外の何ものでもないのは明らか だ。電子の杖をはたらかせて有効なのは老人。若い人達に電子メディアの濫用は、どう考えてもクスリにはならない。
 やす香にもしあの半年、メールやケイタイが無かったらもっと悲惨だったろうか。もっともっと早くに、肉声で、身のそばの家族に「ママたすけて」「パパた すけて」と声を掛けなかったろうか。
 あの、家族みんなの留守に、苦痛をこらえ階段をおりて冷蔵庫のジュースをとりにゆく…、あの日記の悲惨さ、読んでいても目を覆いたかったと先日も友人の 口から聴かされ、わたしは思わず泪をのんだ。
 何が、何が、何がこの九ヶ月、本当に大事だったのか。あんな苦境から一日も早くやす香を救い出すことであったはずだ。そのあとの総ては、どんな綺麗事も つまり言い訳ではないか。
 おじいやんのホームページを葬り去り、まみいを悲しさで絶句させれば、あの優しいやす香が「パパ、ママ、よくやった、よくやったわね」と、褒めてくれる のか。 


* ホームページが表示されなくなって驚きました。卒業生君の指摘のように考えるのが自然です。
 mixiにコメントしましたように、ホームページには繋がります。コンテンツを強制削除して、トップページ(index.html)を入れ替えて単に 「ページが見つかりません」と嘘を表示しています。
 biglobeと言えども、ネットの法的なことについては素人であることを露呈し、どう対応していいのか全くわかっていず、その場しのぎをやって誤魔化 しているのでしょう。ネットの脆弱性を示しています。
 すでに法律の専門家に対応をお願いしているとのことですから、その専門家のアドバイスに安心してまかせられたら良いと思います。
 しかし調停と時期を同じくした思わぬ展開に、こういうこともあるのかと言う気がします。
 何のお力添えもできませんが、このメールが少しでもお気持ちの平穏に役立てばと思います。  ペン会員

* 適切な抗議の通告書をBIGLOBE社長宛、書いてもらった。内容に異存ない。わたしからは、メールで担当者宛てに電送した。
 いまホームページの全容を分かるように表紙部分だけでもとプリントし始めたが、途方もない量になっていて、ほんの主要部分だけで割愛した。
 やがて建日子のドラマの最終回、これは見逃したくない。建日子はいま下北沢でまた芝居の公演中。明日はムリだが、明後日には観てやりたい、観て欲しいら しいし。
 
* 「MIXI」で文学を話し合っている若い(らしい)人たち。いっしょに話したいと思う。イヤなことに追いかけられている。わたしのところへ、今も「思 香」が「足あと」を残す。ほんとうにやす香だったらどんなに、おじいやんは嬉しいだろう。だが、やす香はいまもわたしの肩に来ている。「MIXI」の「思 香」は生きた化け物である。きもちがわるい。



闇に言い置く私語の刻 6.9.22秦恒平  2006年09月23日01:20

* 九月二十二日 金

* 脳裏に悪意と卑劣の毒気に居座られないよう、いくつか親切なメールを静かに読み、耳も眼も洗いたい。

* 三時から六時まで、法律事務所で打ち合わせ。所長と少壮弁護士とじっくり懇談。だが人間の気稟は、「法」では所詮どうにもならないのだと思う。法のこ とは弁護士に任せ、わたしはわたしの既に決意している「書き手の道」を、ただただ歩んで行く。

* 「MIXI」で、こんな「声」を聴く。おゆるし頂いて一つの声援として、励まされたい。

* 秦さま  京都の中君です。 「私語の刻」を読み進めています。
 HPの削除のこと、驚きと不信の気持ちで読みました。
 最近での日課は「私語の刻」を読むこと、でした。八月最初のころHPを閉鎖されるかも・・・という時に、過去分をすべてワードにコピペして、少しずつプ リントアウトして読んでいるのです。
 「言い置かれて」いることに、いちいち会話しています。(一方的にしゃべることを会話というのは変ですけど。)
 このひと月ずっと、秦さんに向かってしゃべりながら読んでいるので、本当に少しずつしか読めません。
 お能のことはさっぱりわからないし、読めない漢字もたくさんあって、自分の不勉強が恥ずかしくなっています。
 今は2000年9月のところを読んでいます。
 思い立って、古典『夜の寝覚』を借りて読もうとしております。さて、古文の素養のない私にどこまで読めるかわからへんのですけど、ちょっとチャレンジ。
 2000年8月のところに杉本秀太郎さんのお名前がありましたね。私が秦さんの『清経入水』から「湖(うみ)の本」を読むようになったのも、杉本さんの お名前が「あとがき」にあったからです。手に取るきっかけを杉本さんが作ってくださいましたので、秘かに感謝しています。
 娘さんご夫妻とのあれこれは、片方に寄らず出来るだけ冷静に読もうとしてきました。ですから今までもコメントはできませんでした。
 mixiでは「思香」さんの「日記」は友人までの公開、「木洩れ日」さんのは友人の友人まで公開となっていますので、現在は私からは読めない状態です。
 いつでしたか、数時間ごとに「自称文筆業」の方を非難されている日記が更新されたときは、これは常軌を逸しているなぁと、更新されるたびにコピーして置 いてあります。どなたかも書いてらしたけど、男性の文章だったように思いました。
 大学の先生の割には幼いなぁと思ったんですけど(笑)
 これでは誰の共感も得られないんちゃうやろか? と。
 ちょっとこの先生、ヤバイな、実は追い詰められてはんのか? とか、いろいろ考えてしまいました。
いい大人の書くメールじゃないんですけど、私の言葉で思ったまま書くと、こんな感じになってしまいます。
 mixiの日記を転載されたことが著作権違反になるから一気にページそのものを「全削除」というのも、かなりの驚きですね。
 ネットでの著作権違反は深くて、考えるとますますわからなくなってしまいますが、著作権違反は親告罪なのでまずは当事者に通告をするのが当たり前のはず ではないのでしょうか?
 「大学の先生」に言われたからばっさりいってしまった、なんてまさかまさかの話ではないでしょうね?
 そんな風に失礼な当て推量してしまうのも、「日記の非公開」が原因なんだろうなと思います。
 日記を非公開にされるのはご自分の自由なのでしょうが、秦さんのHPに不満、文句があるのなら、事実と違うと言うのなら、陰でこそこそして (いや、がなりたてて) いないで、万人の目にさらされることをお勧めしたいですね。
ごめんなさい、なんだかとりとめも無く、ぐちゃぐちゃに書きなぐってしまいました。
次回のメールでは湖の本の購読をお願いしたいと思っています。
ユーロが強くなって外貨貯蓄ですこーしですが儲かりましたので、その分を使いたいと思っています。
それでは。 中君

* 長い長い、しかし、じつに深切を極めてものを観た、感じた、考えた、そしてわたしを、わたしの家族をしみじみ案じてくれるメールが届いていた。いま此 処に紹介している、もう今日はわたしに、体力がない。
 しかし今わたしの考えている、今日も弁護士さんたちと話しながらの秘かな思いに、ぴたっと重なる意見もあり、真っ向異なる意見もあったけれど、一つ一つ の言葉に、ある種凄みを感じた。この凄みは、まったくの称賛語である。ながくてご迷惑どころではなかった。

* 建日子の芝居も、今回は両親とも休ませてもらうことにした。その建日子が電話をくれた。その話が今日のわたしをそれは力強く元気づけてくれた。いつか かたちに現れるだろう。

* 一昨日は気がつかなかった彼岸花がいっせいに茎を伸ばして咲き始めました。
 HPが読めない状況,気になります。 鳶

* 今日も爽やかに晴れています。
 ホームページが見られませんが、機械の不都合ならよいのですが。体調でも崩されておられるのかと心配しています。
 今日は誕生日、67歳になりました。
 萩の寺もそろそろ見頃でしょうか。明日お参りに行ってきます。
 お元気でお過ごしのことと願っています。  のばら 従妹

* まだまだ暑いですね。湿度が下がってきたので、窓を開けるのですが、何かの花粉が入ってくるみたいで、咳き込みます。
 焦らず、けれど、風に早くお逢いしたいなあ、と想っています。 花

* 先の日曜日、毎回楽しみにしているKBS京都制作の15分番組で久多の松上げと花笠踊を紹介していまして、その上、志古淵神社も映ったのには思わず声 が出ました。
 短編集『修羅』に出てきますでしょう。行ってみたいと思いながら夜の久多へひとりは心細くて実現しませんの。
他の機会と併せて行った、祭り準備も始まらない真昼の花背八桝と祭り翌日の雲ヶ畑で目にした景色を重ね合わせ、この早春、お水取りの神事を特集した奈良の タウン誌で見つけた小川光三さんの写真と記事、白洲正子さんの文で、わずかずつ想像を膨らませていましたが、画面から受ける感じでは久多の景色や景気はさ ほど観光化して
いない感じで、鞍馬の火祭りと、京で体験した地蔵盆の夕暮れとを足した印象をもちました。一面火の海になる迫力は想像以上でしたわ。
 灯籠木がお水取りの籠松明そっくりで、お水取りや鵜の瀬の景色を思い出しました。
 いまも小浜市、名田庄村、美山町あわせて10ヶ所。京都市内では雲ヶ畑、久多、広河原、八桝で行なわれているそうです。
 3/2のお水送り、8/15.23.24の松上げ、10/22鞍馬の火祭り、岩倉の石座神社の松明を使う祭り、2/15南山城湧出宮の居籠り祭初日の行 事、2/12の島ケ原正月堂の達陀と3/12に汲む二月堂若狭井。小川さんは若狭から大和へ文化が伝わった足跡と書いてらしたけれど、雀は7/14の那智 の火祭りまでつなげて想いたい。
 愛宕神社はミヅハノメノカミの次にうまれたワクムスビノカミとイザナミを本宮に、雷神とカグツチノカミを若宮に祭り、現在西山の金蔵寺に預けられている 愛宕権現勝軍地蔵は幽冥界と現世の境に立つ菩薩だそうですね。
 若狭湾から那智勝浦へ龍がのびて、愛宕と花の窟(いわや)がつながりますでしょう。
 花の窟秋の神事が来月2日と迫ってきました。丸く白い石に寄せてかえす波音が、そうよそうよというように耳の奥によみがえって誘っています。  囀雀

* こういうメールに触れていると、こんな静かな人もいて、一方には下劣な画策で人を苦しめ舌なめずりしているような人もいる。人の世は、あれもあり、し かしこんなのもある。おもしろや、人の世は、と。

  ただ人はなさけあれ 花のうへなる露の世に   

* 小金井公園は、車でも自転車でも比較的近い(といっても二、三十分)ので、お昼弁当とビニールシートを携え、孫守り(実は孫に遊んでもらっているのか も)を兼ねてちょくちょく出かけます。これも幼稚園までですが。
 今はコスモスの群生するあたりが綺麗かも。一度は郷土館にも入ってみては(必要があれば、洗面所は無料区域で清潔!)。お奨めデース。
 去年からの中日を避けてのお墓参りは、正解。程よい気候。
 ごく近くの中華のお店も楽しみで、ウエイターのサービスよく、美味しいのでお気に入りの店です。
 朝、物干しから今日開いたばかりの沢山の真っ白い花に交って、二、三輪の濃紅に酔いのまわった昨日の酔芙蓉を眼の下に観て、胸キュンになりました。ほん まにうっとりとさせる、佳い花。下からでもなく横からでもなく、上から見下ろすのがいい、と毎年変わらず、モノ想う心は後退していないようです。
 「私語」を読めないのは、山葵の利かないお寿司みたい。 泉

* 「MIXI」日記にいくつもコメントが寄せられている中で、今日、一人朝日子の友達らしい男性からのものがあり、まじめに返辞しておいた。そのあと は、まだ見ていない。もう今夜は疲れ切っている。小説の新連載も講演のつづきも、今日は終えなかった。小説には、朝日子の登場する長編を連載してみようか と思っている。

* 「私語」も、わたし本来のもっと多彩に思索的な、また批評的な話題で埋めたい。闇に言い置くもの、だが、闇の奧で発光するような。「夜の寝覚」に入っ て行くという京都の、まさに「中君」さんの愛読に堪えるような。あの物語の「中君」は紫上や宇治中君に匹敵してそれはすばらしい近代性すら帯びた女人。古 代の物語の中で只一人のヒロインとしてそびえ立つ魅力と知性の持ち主。



闇に言い置く私語の刻 6.9.23秦恒平  2006年09月23日20:26

* 九月二十三日 つづき

* 建日子さんのお芝居は大盛況のようですね。よい息子さんをお持ちです。創作者としての成功は、お父さんが一番望んでいらしたことですから、わたくしも とても嬉しい。
 ホームページがなくなって、まだ呆然と過ごしています。今日は在宅していたので、意味もなく床を水拭きして、時々書いて、腰が痛くなると子犬と遊びまし た。
胸にぽっかり大きな穴があいています。
毎日「私語」で「今、此処」に生きていらっしゃる息づかいを感じてどんなに幸福だったかを思い知りました。あらためて、秦恒平を読むことがわたくしの生き ることだったと思います。
 やす香さんは今頃どこで何をしているのでしょうね。もうじき二カ月。一人の無垢な少女がいなくなって、わたくしの世界の色まですっかり変わってしまいま した。
 やす香さんがお守りくださいますように。お元気で。おやすみなさい。  東雲

* 昨日の昼すぎから、大事な印鑑が見つからず往生していたのを、今し方、発見。いかにもそれらしき所で、しかしあくまでふと仮置きした所でモノに隠れて いた。こういいうことがだんだん増えて行く。

* 今日布谷君の普通のメールに「SPAM」マークが付いて届いた。何千何万という過去の削除例の仲に、以前にも一度同じ例を認めたことがある。


* 九月二十三日 土

* 東京都等の自治体が国歌国旗に起立しない職員を処分処罰してきたのをわたしは当初来厳しく批判し反対してきた。法制定の前から、国歌国旗では言論表現 委員会でどれだけ議論しただろう、戦中戦前を生きた委員も何人もおられて、法制化には断然反対だしあの国歌にも賛成したくないが、国旗だけは必要では国際 慣習上必要だろうなどと言うだけで罵倒されかねなかったりもしたのが懐かしいし、あの老人達の一途さをわたしはイヤとはいつも感じていなかった。法制化に は最後まで反対し、強制はしないなどと言う役人や政治家の言い抜けを一度たりとも信用していなかったが、石原都政の反動的な基本的人権無視は、彼の就任以 来あたりまえのようになっていた。小泉総理のように率先憲法に忠実であるべく総理の地位に就いた者までが、平然と憲法を破り続けてきたこの五年余は日本の 国の不幸な下り坂であった。彼は、国歌国旗は法以前の前提だというようなことを放言していたが、法か人か、人が大切なのが前提であり、人間の基本的な権利 と自由と良心のために法が存在するのである。わたしが「私の私」の幸福と安全のために「公」が奉仕すべしという思想も、其処に拠点をもつ。人の私が安全で も自由でも幸福でもなくて「公」権力が上から人を抑え込むなど不幸の最たるものである。小泉総理の退陣をわたしは差い゛いの希望として明日を迎えたいと願 うのだが、さて安部政権に「私」という名の私民=国民はなにがして欲しいかでなく、何をさせるべきかを考えねばならぬ。

* NHKで七八人の指導層俳人が自句を出し合い点を入れ合い批評し合っていた。途中から見はじめたとき、それらの句が会場の人達の投句と思いこんでいた わたしは、一つ二つしか秀句のないことにも納得していたが、彼等が点を入れた最高点句が、

  一片の月
  速かりき
  一遍忌

であったのにガッカリした。あざとい「イッペン」「イッペン」また脚韻のような「キ」音にまだ「カ」音まで入って硬い「カ」行音の拙な斡旋などもあり、え らい先生方の多数点を献じて説明している説明までが拙劣であった。うるさい句だった。むしろ、初句に難はあるがいちばん若い人のさくであった

  淋しさや
  サルノコシカケ
  二つある

の詩的秀逸、

  胸白く
  秋の燕と
  なりにけり

の自然な季節の発見にもっと点が入っていい筈だった。最後にそれらがそこに座って話していた先生方の自句と分かって、いっそ可笑しかった。

* 高麗屋の奥さんから、今月も松たか子との父娘往復書簡の載った「オール読物」が贈られてきた。今月は父松本幸四郎の手紙の番。すぐ読んだ。
 幸四郎の文章はかなりの量を読んでいるが、今月の感懐は、舞台と、舞台外ないし劇場外との、微妙な「合間」の時間の不思議や奥行きについて語り、先月の 娘松たか子の書簡になかなか見事に呼応した、佳い、そして初めて語られる内容にも恵まれ、読みでのある文章で感心した。
 
 通用門出でて岡井隆氏がおもむろにわれにもどる身ぶるい
岡井 隆

 この歌にもどこか気の通う、仕事こそ違え、歌舞伎役者・演劇俳優の秘めもつ「合間」のおもしろさ、確かさ。
 八月は、こういう大物役者が、京都で集中して映画やドラマの撮影にも組み合う暑い時季だが、その間の、ご夫婦でのこころよい銷夏や、不思議の出逢いや、 黙想や、うまそうな味覚にも、じつに手配り美しく触れられていた。
 その高麗屋から、昨日は、十月歌舞伎の通し座席券がわれわれ夫婦分、届いていた。幸四郎は熊谷、そして初役という髪結新三。団十郎も仁左衛門も。芝翫 も。楽しみ。

* 小田実さんに新刊の『玉砕』を戴いた。戦争の真の苦痛を人間の誠の問題としてガンガン掘り下げている。イギリスでティナ・テプラーらが劇化し、ラジオ 放送した音盤も、以前に貰っている。関連の英文のエッセイは「ペン電子文藝館」にも掲載した。今度の新刊には、巻頭に、「私の『玉砕』へのかかわり、思 い」という長い文章が作者により新たに書き足された分がまた読ませる。ドナルド・キーン、ティナ・テプラーの文章も寄せられて三人が共著という造りになっ ているが、小田さんの一筋が太く貫通している。岩波書店刊。
 わたしは、小田実が、日本ペンクラブを引っ張ってくれないかと、本気で期待しているのだが。

* 湖さん  「人格障害」でも、社会生活は成り立ちます。社会的地位すらかちえています。しかし、周囲の人間に、おそろしいまでの苦痛を与えずにはおき ません。「治療不可能な病気」ですから、どんな非道も、責めてみても無駄です。本人に責任があるのはもちろんですが、資質と生育環境などで、こういう風 な、周囲を不幸にする人はたくさんいます。うわべがどうあれ、まっとうな人間と思って相手にしてはいけません。安穏な共存を希望するならどんなに不条理に 思えても、正常な人間の方で耐えに耐えて、できるだけ早く一方的に折れてやる以外に、いかなる方法もないのです。
 精神科医は言います。精神病は薬が効くけれど、人格障害は薬が効かないから、一番始末が悪いと。人格障害には一方通行の強硬な自己主張しかありません。 話し合いが成立しません。自分の言いたいことしか言わず、聞く耳もたないのですから。闘いや話し合いは「不毛」で、もともと闘うにも話し合うにも意味のあ る相手ではありません。ふつうの人間なら一生に一度も言わないことを平気で言い放ち、実行もするのです。脅し屋、ゆすり屋です。落としどころは往々お金に なります。
 どんなに話し合っても無駄です。謝罪を求めるなど徒労以外の何物でもありません。そもそも人格障害の人間は人格が一ミリも変わらない。言語道断に無礼な のは火をみるより明らかでも、そういう道理が通じないから人格障害なのです。見切りと諦め、それが何より何よりで、その方法しかないんです。
 私は今島尾敏雄の「死の棘」の狂気と究極の愛を描いた世界を思い出しています。  医師 表参道 

*「悲哀の仕事」とか「人格障害」とか、ただの形容語のような術語を医学は用いる。専門家に言われて初めて驚く。妻がパソコンで検索してみると山のように 解説されているらしい。「依存型人格障害」とか何とか、いろんなタイプがあるらしい。いろんな病気の症状をテレビなどで羅列されると、みな思い当たるよう なアレで、青山脳病院近くのこの読者先生、ひょっとするとわたしへの警告かなあ、ハハハ。   

* ホームページの一日も早い復旧をお祈りします。
 けれど、もしかしたら、これは一つの天の啓示、あるいはチャンスともとれます。「私語」よりも、一心に「小説」にだけ向かいなさいと、天が行く道を示し ているのかもしれません。マイナスの条件をいつもプラスに変えてきた方です。今回もこの経験をしたたかに生かしていかれることでしょう。
 私たちのような秦文学と共に生きているつもりの人間には、ホームページ閉鎖はひどくつらいことですが、書かれた言葉はすべて後々まで残りましょう。今読 めなくても嘆く必要はないのです。ホフマンではありませんが、あなたの「言葉」は消えません。しぶとく生きて、書くのが、秦さんの運命です。
 「世の中は地獄の上の花見かな」ですね。でも花だけでなく、地獄も楽しみましょうよ。  世之

* 娘さんが「MIXI」に書いた性的虐待の日記ですが、そもそも娘さんがハンドルネームを使っているとしても、周囲に自分とわかるように書いていること 自体、そういう事実はなかった「嘘」とわかります。性的虐待のカミングアウトというのは、女にとってよほどのよほどです。使命感でそういう「活動」をして いる人以外には、ほとんど例がないのでは。
 私は子ども時代の虐待について本人の書いたものをいくつか読みましたが、まずあまりの傷の深さに、そういう著作自体少ない。そして、書かれたもの二例で は、本人が自分の名前を戸籍から変えていました。「MIXI」に載った娘さんの写真は、みごとに雄弁です。
 稲妻  

* コワイ読者達が、喋りだした。疲れるなあ。
 



闇に言い置く私語の刻 6.9.25秦恒平  2006年09月25日21:21

* 九月二十五日 月

* 位人臣を極めた人に、それはどんなことかと尋ねると、「はしごのてっぺんまで登ったということ、それだけの話だ」と答えたそうな。よく分かっている方 である。はしごのてっぺんに登ってみてもそれまでだ。その先へ一歩を踏み出せない限り、梯子の下にいようと天辺にいようと変わりないのである。

* 東京地裁はホームページの一方的「無断削除事件」を重く見て、異例の、専門部「著作権」で審訊することにしたようである。

* 秦 恒平さま ご挨拶申し上げます。   マルデン
初めまして。私はハンドルネームをマルデン、本名は***と申します。
 つい最近、友人に誘われてこのmixiに入り、そこで始めて書いた日記に、秦さんのホームページを友達たちに薦めるつもりで、リンクさせて頂いておりま した。この件、遅くなりましたが、勝手な事で失礼いたしました。
 さて昨日、“三輪山”で日記を検索していましたら、秦さんをmixiで発見し驚いていたのも束の間、今日、日記を少し詳しく拝見していたら、ホームペー ジが閉鎖されてしまった旨を知り、衝撃でした。
 自分は文学の熱心な読者という訳ではありませんが、あのページには真摯なご姿勢と熱意を感じておりました。
 たまたま興味を持った大神神社の三輪山について調べていた際、『神奈備 大神 三輪明神』三輪山文化研究会編(東方出版)という本で、小説『三輪山』が紹介されており、ネットで検索し、行き着いたのです。
 誠に残念な状況ですが、また復活される事を願っております。書かれておられる日記なども、まだ読み切れておりませんので、詳しい事情など何も分からない まま、取り急ぎ、応援のエールをお送りしたく、メッセージさせて頂きました。
 突然に、大変失礼いたしました。お身体にお気をつけてお過ごし下さい。
 追伸 私の日記で、mixiでの小説『三輪山』へリンクさせて頂きたいと思っていますが、よろしいでしょうか? もし問題ございましたらお知らせ下さい。万一掲載後でも、その旨お伝え頂けましたら、直ぐに削除いたします。よろしくお願い申し上げます。

* 有りがたいこと。こういう読者たちに助けられている。 
 自分の過去の仕事のおおかたを、私は、もう半ばは「パブリック・ドメイン=公共財」に準じて考えているので、ことに「MIXI」に公開した過去作品のす でに「湖の本」に入っているモノは、ご自由に読んで下されば好い。リンクもご自由に。
 但しまだ著作権はあり、勝手に商品化するのはお断りする。まだ売れているので。

* 日本文藝家協会などが、没後著作権を「七十年」に延長せよと声明しているが、同会員であるが、わたしは徹して「不賛成」である。海外事情に安易に諂う が如く追随する必要はどこにもない。日本の文化は、日本人が先ず或る程度まで主体的に恩恵を受けてしかるべきもの、これは国粋エゴではぜったい無い。
 そもそも海外でも、「七十年」を強硬に打ち出し強要してきたのは、アメリカであった。ディズニーなどの超弩級外貨稼ぎ頭などの強引無比な企業エゴに、政 権が利益を求めて便乗した話であり、アメリカ議会の中にも「憲法違反」とする説得力或る論争や訴訟が成されていると聞く。
 大統領ワシントンの頃の政権は、没後、たしか十八年程度を制定している。つまり創作者が亡くなったあと、配偶者ないし一代子孫に権利が委譲される程度が 「適切」という判断であった。それが、国益保護という瞑目の利害感情が、政治と企業のエゴで、次第に延長を何度も重ねて、「七十年」になったり、なろうと している。際限なしであり、そのうちに百年、百五十年などとすら言い出しかねない。
 そもそも、「没後七十年」といえば、何代の子孫にまで及ぶか、よく考えてみよ。
 しかし、創作されて、真に価値あり文化に寄与すればするほど、それを育んだ「時代」や「国民」の広範囲の喜びのために、「公共財=パブリック・ドメイ ン」として貢献すべき広義の義務が創作物には有る。それを思うべきである。国民の財産として良いのである。
 いったい、没後七十年も、創作者本人の「声も顔も知らない孫子」にまで経済利益を強引に及ぼさねばならぬ、いったいどんな論拠があるのか。皮肉を言え ば、そんな生命力の長い作品を世に遺せるいったいどれだけの創作者が、人数としてあるというのか。
 わたしは、「ペン電子文藝館」の主宰者として、過去の優れた大勢の書き手を再発掘し、名と作品との復権に努めてきたが、没後五十年でも大方の若い読者 は、作者の名前どころか存在自体を知らない。それでも著作権年限がもう切れていればこそ、また新たに装いして、広く国内外の読者に提供できる。作者も作品 もどんなに喜んでいることだろう。だが遺憾ながら、それは、とても売り物にはならない。
 その一つの証拠に、日本ペンクラブの歴代十四人の会長 (島崎藤村・正宗白鳥・志賀直哉・川端康成・芹沢光治良・中村光夫・石川達三・高橋健二・井上靖・遠藤周作・大岡信・尾崎秀樹・梅原猛・井上ひさし) 作品の、優れた各一作をそっくり「名作撰集一冊」にしようとしても、どんな出版社も、皆目出版する気など出てこないのである。それが現実だ。
 そういう現実の中で、たとえば夏目漱石や樋口一葉や芥川龍之介らの優れた作品が、末裔も末裔どころか原作者からすれば血縁すら失せたような遠い遠い存在 のゆえに、広く容易く再刊する、公開する、読まれる便宜が喪われてしまって、本当に好いことなのだろうか。
 「七十年」を推進している三田誠広副会長らの言い分を聞いていると、海外に行ったとき、日本の「権利」意識の遅れが「恥ずかしい」などとバカげた事をい つも言っている。
 本当に恥ずかしいのは、そのように無意味に「私的な占拠・占有」意識で以て、「国民や時代の公共文化財」にできない「狭量」そのものである。
 私など、著作権は三十年で足りている、五十年でも不当に長すぎると前々から思っている。こんな権利を無際限に何時何時までも厚かましく希望しているの は、ディズニー的な企業と、それに結託して税金や外貨を狙う政権や、バカげた話、自分の死後も「七十年」は人に記憶されて売れる売れると思っている「有り がたいご先祖」意識の高慢な人間だけである。
 そもそも自分の祖父母についてさえ、ナーンの関心も知識も持たない孫は、世界中に雲のようにうようよしている。まして曾孫となれば、途方もない。曾祖父 なんて異星人である。そんな曾孫世代にまで「著作権の恩恵」にあずからせようなどという、いわばどことなく「何かに対し阿(おもね)った発想」そのもの に、無性に「いやらしさ」をわたしは感じる。「七十年」著作権なんて、強欲からの発想。反対である。

* 歯医者で、奥の臼歯にかぶせた冠をがりがりがりと削られた。噛み合わせが高くて具合が悪いので。だいぶ落ち着いた。歯が味覚を持っているかどうか断言 できないが、味覚に影響する食べ物の堅さ柔らかさのようなものを歯で感触しているのは間違いない。一本の臼歯が疲労で浮いていると、他の歯までものが噛め ない。
 谷崎潤一郎の若い頃の写真をみると悪魔的な乱杭歯で、わたしより凄い。彼は天才のシルシだと自ら豪語していたものの嫌いな歯医者の手でよほど綺麗にし た。彼の大正期の歯医者ものの作には、上出来のものはなく、しかし歯で悩んだことはよく分かる。歯で厭なことがあるとわたしは大いに谷崎先生の天才を意識 して自分も慰めた。ククク。

* 帰りの「リヨン」は、お任せあれレとシェフの独断と洗練とで美味い昼食になった。オードブルき繊細に魚と野菜とをあしらって美術的、美味い。主菜は、 妻が分厚に美しい焼いた鯛。、私はローストした豚に煮詰めて多彩な野菜の天盛り。赤ワイン。わたしは堪らず二杯。とびきりの美味は冷製のデザートで、微妙 な素材を二層にミックスした上に軽い薄い香ばしいビスケットをかぶせ、砕きながらスプーンで。主菜の口当たりを、きれいさっぱり清めてくれる味と冷たさ。 唸った。もう一つと追加したいほどだった。そしてうまい珈琲。お値段はいつものランチ代とかわりなく、実にリーズナブルに廉い。
 店先の土間に焼いた小さなライオンを三つ置いていた。ああ店の名だ。見送ってくれたシェフに「きれいな街だねえ」というと嬉しそうににっこり。

* この最後の部分の会話は、わたしからの少し意図的な仕掛であった。
 わたしはフランスの「リヨン」を知らない。一昨日ぐらいにテレビで、同じシェフ修業していた在仏日本人の紹介番組を見ながら、その街が見るから美しい 「リヨン」であったというだけのこと。
 わたしは駅まで歩きながら妻に言った。
 「あのマスターは、間違いなく、わたしがリヨンを知っている、行ったことのある人だって思いこんだよ。ライオン=リヨン、同じ名の店のオーナー、そこへ <きれいな街だね、リヨンは>ときたからね。こう自然に話題が流れていたからね、間違いなく、あの人は、このわたしは、実際にリヨンへ行って 知っている人だと思うよ。何かあればそう証言するよ。わたしが自由業の作家だってことも知ってるしね、彼は。」

* こんなふうに、たったの或る一言だけで、人は人に意識され認識され、しかしそれが「事実でない」ってことが、実に多い。無数の他人が、みな銘々の「あ の人は」という、正解でも誤解でもある「私」像を持っていてくれる。それらを全部足しての「私」像を描くことも不可能ではないけれど、所詮正確には仕上が らない。事実でないことがいっぱい混じっているからだ。おまけに、自分で自分を見た「自分」像も、また別に厳然と在って、それがまた、正確とはとても言い 切れぬ。
 しかもそれら全部の根に、もともとに、「言葉」という曖昧で勝手な生き物が働いていて、人は「言葉」をともすると信用するけれど、全く逆に、だからこそ 「言葉ほど信用できないものは無い」とも言える。

* 言葉なんかより、妻と田舎道を辿って家に帰りながら、道野辺のいろんな花こそが、どう見ても真実だけを語っていた気がしてならない。


コメント
○ 樹 2006年09月26日 00:05 こんばんは。
いろんなことがあり、それについて自分の気持ちも動いたり変わったり、均す作業で消耗することも多いのですが。
最終二行、何とも言えずイイ感じに届いてきました。

何だかんだ言っても、こういう(そういう)ことなんじゃないか。
勝るものはないだろうというのが、
二行のようなことだと、この頃思っていて。
そういうことに思い通わすのが、
人間らしい暮らしだと思ってます。
私達の回りには外れたものが、あまりにも多すぎて
最終二行ワールドにはあるべきものがただアル。

※ 湖(うみ) 2006年09月26日 00:22 感謝。 湖  コメントを書く



闇に言い置く私語の刻 6.9.26秦恒平  2006年09月26日21:31

* 九月二十六日 火

* 秦建日子の新刊『アンフェアな月』(河出書房)が、著者と版元から贈られてきた。『推理小説』の続編であり、「刑事雪平夏見」と副題がしてある。大売 れ篠原涼子の拳銃を向けた写真が「応援」の弁を、帯に述べてくれている。
 お世辞にも心静かでなどいられない派手な表紙絵。だが相談されたとき、わたしはこれに票を投じた。単行本の表紙は、つまり題と作者の名がくっきり見えて いること。その狙いによく合っている。背表紙も明瞭、これで良い。なかを読むのはこれから。
 建日子は今三十八歳と九ヶ月。わたしが医学書院を退社して草鞋の一足を捨てた年齢と、ぴったり重なる。あのときわたしは新潮社新鋭書き下ろしシリーズの 『みごもりの湖』を出版し、同時に当時大判の純文藝雑誌「すばる」巻頭に長編『墨牡丹』を発表。いよいよの独立に、気を引き締めていた。そしてその先を一 心に歩んでいった。そういう歳なのだ。建日子のますます真剣な健脚と勉強とを、心から願い、この上梓を心底喜んで祝う。

* 手塚美佐さんの句集『猫釣町』を戴く。帯ウラの自選十二句の大半に傾倒した、拝見が楽しみ。永井龍男先生にも師事されていて、永井先生のご縁で「湖の 本」を最初から、ご兄妹で応援して頂いている。岸田稚魚さんの主宰されていた俳誌を嗣いで主宰されている境涯たしかな方である。
 この表題の「猫釣町」が分かる人は少ないのか、意外に多いのかどうだろう。「むかし巴里のセーヌ川ほとりにあったという難民(政治亡命者)の吹き溜まり に由来しています。巴里の人々はそこに住む難民のことを、「釣をする猫」と蔑みました。釣をする猫たちが棲む町、すなわち猫釣町です。私の住む町も人手不 足の農家や工場をあてにして異国の人がたくさん移り住むようになり、いつしか猫釣町になりました。漂流する者として私もまた猫釣町の住人の一人にほかなり ません」と、作者。
    萩供養残る燠とてなかりけり
    冬蝶となりて遊びをもう少し   美佐

* 萩が咲いています。
 先生のブログを毎日の励ましとして拝見していたのですが、このところエラーになってしまって開くことができません。復旧をお待ちしています。
 先生に見ていただけるような作品を書いておりませんのでお恥ずかしい次第ですが、先日、子規の糸瓜忌を記念して作りました新内『子規・のぼさん』と講談 『野球ぞなもし』が、浅草演芸ホールの東洋館で公演されました。糸瓜忌については根岸の子規庵で不折の絵の展示会程度しかイベントがなく、さびしい情況で すので、少し貢献できたような感じです。
 台東区の文化遺産を発掘し発信して町の賑わいを創出するというような仕事をしております。
 数年前、谷中に故岡本文弥師の後継者がおられると聞き、新作を提案したところ曲付けをしてくれました。岡本宮之助師で、まだ40代です。『子規・のぼさ ん』のほかに『一葉日記』も初演・再演され、拙い作品ではありますが下町のみなさんに楽しんでいただきました。
 謡曲「隅田川」ゆかりの妙亀塚が橋場にありますので『妙亀・梅若』も作詞し、発表の機会を待っているところです。
 「湖の本」の一読者として、永い永い年月、蒙を啓いていただいたことを深く感謝しております。今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。
 ブログの復旧をお待ちしております。
 ますますのご健勝をお祈り申し上げます。  光

* 日牟礼神社、大嶋・奥津島神社、市神神社浜宮、沖の島、そして秀次、ヴォーリーズ。
 近江八幡を訪ねてみたいと思わせる手がかりが続けざまに起こって、不思議な気持ちでいるところへ新橋演舞場に橋之助さんを観に行った友人から、天草四郎 役の成宮くんが云々と聞いて、大河ドラマ“関白切腹”を見ました。
秀次の母はあの時どうしていたのでしょう。
 実家にいた間、新潟日報で「順徳天皇の石碑が建立された」と小さな記事を目にしました。切り抜きもメモもしなかったことを悔いています。順徳天皇の碑と いう情報だけがオツムに刻まれ、ほかの情報が入らなかったのですよ。情けない‥。新潟市鳥屋野だったかしら。
 来月半ばから京都市美術館で始まる「浅井忠と関西芸術院展」を、お作『糸瓜と木魚』を読み返してとのんびり待っていましたら、すでに府中で開催中のよう ですわね。「風待ち」も気をひきしめなくては。
 肌に冷たい雨となりました。お風邪など召しませんよう、どうか日々お大切に。 囀雀

* 日本文化資料センターという出版社は、かなり稀覯の珍本も出してくれるところだが、昨日きた、前にも来ていたと思うが、宣伝広告物に『雅親卿恋の繪 詞』が入っていた。巻子本・桐箱入、原色複製だが六割縮尺しているほど丈が高い。室町時代の枕繪で、繪もまず上出来だがその時代の口語が男女咄嗟の詞とし てかなり豊富に出ていて面白い物になっている。よくもあしくも男女の行き着く姿がむかしといまとで大違いとは言えないまでも、やはり資料的には貴重な絵 巻、それも原本に忠実に複製しているという。一本買っておくかなとふと電話で残部を問い合わせたりした。玉のさかづきの底抜けなんてのは、七十すぎても疎 ましいではないか、呵々。

* 建日子がまた親切な報せをくれた。だんだん息子に頼るようになるのも自然の数か、感謝。

* 鴉さま。 お変わりありませんか? 元気ですか? 単なる器械のトラブルでページが表示されずHPが読めないのでしょうか? メールがないのでしょう か? 元気に過ごされていることを願っています。 鳶は、心配ばかりです。
 
* 例年のメール年賀状を少なくも、文化各界、新聞・出版・編集、大学、読者、知人など少なくも五百人には送っている。そういう方達だけでも、ホームペー ジの無道な消失について報せておかないといけないのではないか、と、文案を弁護士にチェックしてもらっている。




闇に言い置く私語の刻 6.9.27秦恒平  2006年09月27日20:43

* 九月二十七日 つづき

* ホームページ消失への問い合わせや不審がぞくぞくと毎日あちこちから届いている。
 「MIXI」以外の読者には、まだ何も伝えていない、が、法律事務所も、やはり挨拶はしておいた方が良いと認めているので、用意の文面も先ず慎重に見て もらった。
 メールアドレスのある先に、一斉に「同報」で事情を説明することにする。マスコミや文化各界や大学・施設等にひろく及ぶのでどんな波紋が起きるか分から ないが。どう考えても、「確認も取らない」で「一切合切の一方的削除」など、むちゃくちゃである。
 何故そんなことになったか、コトの発端にも触れざるをえない。

* はじめまして  見知らぬ「足あと」誰かと思われたでしょうね。
 建日子さんのドラマが好きで、ブログをずっと拝見していました。
 やす香さんの病気のことを知り、やす香さんの「mixi」を亡くなられるまで見守らせて頂きました。どうにも気になって陰から病気が回復されるのをお祈 りしていましたが、20歳になる前に亡くなられ さぞかし無念だったでしょうね。
 その後「湖」様のホームページも拝見させていただいていましたので、突然「見当たりません」のメッセージには驚いてしまいました。
 お父様の本心が素直に娘さんに伝わりますよう お祈り申し上げます。
 部外者ですが、お父様を応援いたしております。  不二

* 「足あと」とは「MIXI」用語。記事などを覗きに、読みにきた人のニックネームとコレまでの総人数が記録される。二月十四日に加入して以来、二月三 月は数えるほどもなかったが、今見ると「七千人」に手が届いている。毎日鰻登りに増えている。連載の小説とエッセイと、そして日録「闇に言い置く 私語の刻」を、ホームページ事件を機に此処へ移転させた、それが読まれている。

* こんばんは ホームページ閉じてしまわれたのでしょうか。メールは届くのでしょうか。
 こちらは毎日秋晴れの気持ちのよいお天気です。常林寺さんも萩が咲き乱れていました。十一月になれば、又、娘の所へ行きたいと思っています。
 お元気でお過ごしでしょうか。  のばら 従妹


* 九月二十七日 水 やす香の月命日(二ヶ月)

* 安倍晋三内閣に、むろん期待する。しかし期待はずれ以上の「私民」困惑ないし迷惑の到来は必至だろう。小泉純一郎はチャランポランの出たとこ勝負だっ たが、安倍は国益という名義の党利党略から<確信犯的に国の右傾と反動を<これまで以上に加速・画策してゆく人物なのは、目に見えている。その意味で小泉 のさらに何十倍も「私」を抑圧して「公」の名に借りた、あいまいに美しげな、実のない美名・反動政治を突き進むオソレ十分。
 なにしろあの顔には、岸信介や佐藤栄作の国民的な「わるい夢を見た」記憶がかぶっている。
 戦時中岸信介は何一つの良い政策が出せなかったし、戦後の「安保」と対米依存の、依存どころかほぼ隷属の下地をつくったのも、彼である。その岸を血縁に 甘えて安倍は尊信しているといつも口にする。そんな新総理に期待するのは、とても叶わぬ夢物語。せいぜい、拉致問題に大きな道をつけて実効をあげ、中国と 韓国との関係をとにかくもフツーに戻したら、素早く辞任してくれること。そのタイミングが来年の参議院選挙になることを切に切に希望。

* 小泉、安倍とかまびすしいことですが、昨日は小泉八雲忌でした。
 出雲は変わらず未だ見ぬ憧れの地ですが、京から奈良へ近江へと拡がった雀の遊山は、紀州、河内、そして美濃へも拡がってゆきそうです。
 吉備も行ってみたい、九州まで行かないと終わらないかしら…困ったナ。
 この夏の歴遊の一は、海南市。名張から二時間余で和歌山市駅に着くのですよ。
 朝七時に名張を出立、豊耜入姫命(とよすきいりひめのみこと)が四年滞在したナグサ浜宮を訪ね、黒江塗のさとを歩き、竈山神社に立ち寄り、夕方六時に帰 宅して、ニュースで堺市が37℃を超えていたと聞いて、ノビました。
 有間皇子のお墓を訪ねて一度海南には来ておりますが、元伊勢も名草も「日本の塗り物四大産地の一」という黒江塗も、まったく知りませんでした。
 根来寺に遊山しながら、根来塗が海南市黒江で作られていることを知らず、紀三井寺に参りながら近くの竈山神社がどんな神社か調べもせず、寄らずに帰って いましたの。今回は加太神社がそれに当たり、淡島神・雛流し・針才天女・賀太潜女の氏神・形見の浦=潟海=干潟の海・淡島願人・淡島ものとあとで知って心 残りに思いました。
 和歌山市三木町の北に月読橋があるのも寄ってみたかったァ。
 元伊勢のひとつ、木乃国奈久佐濱宮(名方浜宮)は海南駅の東に「大神宮遺蹟」と石碑が立っているそうで、もともと海浜にあった宮を津波などを避けるため 日方浦の東山に遷し、現在、海南駅から線路に沿って北上したところに伊勢部柿本神社としてあります。
 神社の前を道路が横切り、その向こうに石灯籠が並ぶ参道が続いていました。くねくねと曲がる細い道の両脇に連なる個人商店、古い建物、懐かしさ漂う道を しばらく歩き、隣の黒江地区に行くと、昔ながらの家がところどころ残る路地のあちこちに、「ここは海抜2.7Mです。地震を感じたらすみやかに高いところ に避難してください」と貼り紙がありました。
 集落の上には中言神社、下には金比羅さんを祀るお社。
 縁結びの神中言神社は淡島神社の摂社で、祭神は県下唯一の夫婦神、名草彦と名草媛。日本書紀の「名草邑に着き名草戸畔という女賊を誅した」とあるナグ サ。ナギサ、渚浜でしょうか。
   をたけびの かみよのみこゑ おもほえて
     あらしはげしき かまやまのまつ   (本居宣長)。
 竈山神社は一の鳥居、二の鳥居とも大きく、昭和十三年に国費と献資で造営されたというだけあって、さすが格のある建物です。寂寞とした能褒野(のぼの) 神社の建物が胸に応えたあとだけに、この大社の厳かでのびやかな雰
囲気にはため息をつきました。   囀雀 

* うまい食べ物の皿や鉢にしっかり箸を付けながら佳い酒を酌むような喜びが、雀さんの、こんな囀りには有るのであーる。わたしの手元に悉くのこっている 「囀雀女旅日記」を編めばもう単行本の何冊にもなっているだろう。一種の新風土記と謂える。そして何よりもこの人は、この行脚をこそ心の糧にして心身安定 を計り続けてきた。それに成功してきた。

* 今日は、やす香さんの月命日ですね。二カ月しか経っていないのに、なんと遠くまできてしまったことでしょう。すべてを悲しんでいます。
 短いメール読みました。「たまのさかづきの底抜けたようなお人」という意味がわかりませんが、いつものようにけなされているとは承りました。
 もう一度お願いいたします。なんとか今までの私語のコピーを希望する読者に、「湖の本版元」で販売してください。
 ホームページのあの膨大な文章はすべて、読者の宝だったのです。すばらしい文藝作品でした。書いた方お一人の専有の私物ではありません。ご自分で独り占 めしないでくださいね。湖の本のご趣旨のように、ディスクも販売していただきたいと思っています。
 「私語」は秦文学への理解に欠かせない手引きでもある。丹念に丹念に拾って秦氏の文学論を編集し、いつかご本人か、すぐれた研究者の手に渡したいと考え ていました。たかが一人の主婦にそのような仕事を望まないかもしれません。それでも、少なくも「私語」を読者として読み続けることは許してくださるでしょ う。
 湖の勝利は百年後には確実ですが、今は忍耐の時と思っています。お互いに今出来る仕事にひたすら励むしかありません。逢いたい人にはいつかかならず逢え るものです。
 やす香さんがお守りくださいますように。   玉

* このメールの人は、いつも、まるで自慢かのように自分は色気ぬきの女でとおっしやる。で、「たまのさかづきの底抜けたようなお人とはすれちがうことも ないでしょう」と諧謔を弄したつもりが伝わらなかった、呵々。「よろづにいみじくとも、色このまざらむ女は、いとさうざう(寂々)しく、玉のさかづきの当 (そこ)なきここちぞすべき」と兼好さんは喝破している。但し「男」と書いているが、本来「女」もそうだと私は想っている。内容のある人ほど自然な色気が 滲んでいる気がする、人にも文章にも。精神が柔らかい。

* 太平記の音読は毎夜楽しんでいる。ちいさきときからお馴染みの人の名や場面が次々に現れるが、ゆうべはちょうど阿新丸(くまわかまる)が佐渡の父資朝 卿配所へはるばる訪ねゆく件り。昔講談社の絵本で小さい心臓が飛び出そうにどきどきさせた少年だ。
 そういえば、「ペン電子文藝館」にとうどう佐々木邦の小説が招待された。創設の企画説明をしたときに、鴎外や漱石も入るが佐々木邦も入りますと言った ら、当時の梅原会長に佐々木邦なんてと軽蔑発言されてしまった。いやいや佐々木邦はそんな作家ではない。それほどの作家ではないかも知れないけれど、わた しは、少年の頃古本屋での立ち読みには佐々木邦をねらい打ちに読みふけっていた。立ち読みには恰好の読み物だったし、記憶にも残っている。
 山中峯太郎も震えながらよく読んだ。『見えない飛行機』というのが何故か震えるほど怖くて心惹かれたのを忘れない。佐藤紅緑なんて、みな忘れたが。

* 中国の歴代帝国のなかでも「宋」はけったいに不出来な帝国であったけれど、歴史を大きく変えた文化国家でかつ重商資本主義型の帝国として、また前半の 北宋から南渡領国を半減して南宋を成し、その間に世界史上帝室の悲劇としては最悪無惨な靖康の異変も体験した。北から遼に金にそして元に攻め立てられて、 最後にフビライの元に完膚無きまで攻略され滅亡した。その滅亡は平家が壇ノ浦で潰滅したのとそっくりよく似ている。そしてその悲惨さへの挽歌が、例えば 「正気の歌」などが、なんと幕末の攘夷思想に巧みに取り入れられて明治維新への足取りを刺戟していたことなど、歴史はいろいろに置いた私をもまた新たに刺 戟してやまない。面白い。

* ミケランジェロであったか、石礫をにぎったウツ駆使も力有るダビデ像があった。あのダビテに相違ない、いま、旧約聖書の「サムエル前記」はダビデの執 拗に王に憎まれ懼れられて殺されんとする姿を読んでいる。

* 『雅親卿恋絵詞』を二万八千円、買うことにした。わたしの蔵書の中に一点ぐらい優れた筆致の古典枕繪巻があっても自然。届いて、そのいかさまにガッカ リするか、リアリティに感嘆するか、楽しみだ。

* きれいに晴れた武蔵野の通ったことのない道を幾曲がりもしながら、田無の南奧へ、武蔵境へ、武蔵野大学前から、千川上水沿いに青梅街道へ出て、関町南 三丁目まで、そこから帰路を保谷へ、一時間半近くはしってきたが。よくなかったのは、スリッパだったこと。二三度脱げて危なかった。飲み物も電話用の小銭 もクスリも持たなかった。良くない。しかし秋の風情で心地よかった。この季節にせいぜい走っておこう。運動量のことは分からないが、からだは柔らかくなる し、何と言っても郵便配達用のような重量級の自転車を運転するのは、果然新のバランス運動になる。

* 柳君の連絡がない。明日か二日かと言ってきていたが。せっかくの一時帰国ゆえ、彼の大事な用事や会合を優先してまだ余裕が有れば、彼のつごうのいいと ころで逢おうと思っていた。今夜に連絡がなければ、明日は快晴のようだし外出を楽しみながら校正をたくさんしてきたい。

* 雨あがる。
  晴れたら暑くなりました。
 今日は買い物などして、ゆっくりできました。住宅会社との打ち合わせがなかったので。
 昨日は、住宅会社の営業さんが来ているとき、別の不動産屋さんがアポなして来てしまって、間の悪い思いをしました。ま、業者の人は、こちらが一社だけと 話をしているとは思っていないでしょうけど。
 「生もの」と言われる土地から探していますので、返答を急かされますし、九月中に返事がもらえるなら値引きができる、なんて言ってくるので、ゆっくり考 える時間はありません。
 建物の外観やインテリアのデザインにも希望がありますが、高額なのはムリ。条件のそろったものとは、なかなか巡り逢えないものですね。来週中くらいまで 忙しそうです。
 急に涼しくなりました。お体に気をつけ、お過ごしくださいね、風。  花

* 土地を買い家を建てる。わたしも三十四歳ごろだった。それまで社宅にいたが太宰賞を受賞し、何かの折りに社宅ずまいがブレーキになるのを顧慮し、融資 を受けて決行したのが今の家。はじめは朝日子も建日子もちいさくて子供部屋の二段ベッドにいたりしたが、そうは行かなくなり、隣の家を買い足しても九十老 人が三人とも京都から出て来ては、狭くて狭くてヘキエキした。今は妻と二人だけなのに、二棟の家が足の踏み場に困るほど狭い。

* 今日は住宅会社の訪問がなく、ほんとに、ほっと。 ここ数日、緊張の連続でしたもの。とはいえ、明日も大きな案件が二つもあります。
ま、成るは成る、成らぬは成らぬ、ですね。
風を想い、ニコニコしている 花

* 黒いマゴが安心して寝そべったり熟睡しているそばで、校正また校正。明日柳君と会えると良いのだがなあ。今日電話をくれる約束なのだが。




闇に言い置く私語の刻 6.9.28秦恒平  2006年09月28日23:58

* 九月二十八日 つづき

* つまりは「時代」そのものが人格障害をおこしているようなもの。ゲドは、それを直しに世界の一番奥まで行ってきた。『マトリックス』のあのキアヌ・ リーヴズ演じる救世主もマドンナも、世界の一番奥へ飛び込んでいった。
 いま、妻もいっしょに「人格障害」のおそろしさを勉強している。

* 私は、PC音痴で、よい方法など全くわかりません。すみません。でも私にでもできることがありましたら、なんでもいたします。
 ある日突然、いつものHPが開けなくなりました。
 何となく予感はしていたのですが、先生のおっしゃるように、こんなに突然、そして、全くゼロになるなど、思いもよりませんでした。何度検索しても「見当 たりません」の表示ばかり。それでも、むなしく、毎日同じ行為をくり返していました。
 だから、今日、メールをいただいて、やっと、少し安心しました。真っ暗な宇宙で迷子になっていた私に、かすかな、通信の回路が復旧した感じです。
 読み終わったメールや、送信済みの自分の返信メールも、私は消すことができません。そのとき、そのとき自分がどう考えたか、感じたかの記録です。私とい う人間の、「今・此処」をどう生きているか(大げさですが)の記録だと思えば、簡単な文章でも削除できません。そして、明らかに、その記録は、私の歩いて いる足跡になっています。面はゆさや、悔恨も含めて、やはりいとおしむべき足跡です。
 まして、先生のHPは、作家秦恒平氏そのものであり、紛れのない「作品」です。
 毎日拝読しながら、その思想と、行動を垣間見させていただき、自分の人生の指針としてきました。
 私のような人が、この電子の大海の中にどのくらいいるか、それはもう数え切れないことでしょう。先生の作品と、その作品を読む読者の権利とを、こんなに もたやすく奪えるのだということが信じられません。この、人権、著作権の叫ばれる時代に・・。
 そして、一方で、このIT時代の怖さも感じます。
 書物になったものであれば、「焚書」でもしない限りなくなるということはありません。もし、そうであったとしても、隠し持つ心ある人は必ずいます。
 でも、この電子上の情報は、こんなにも、いともたやすく削除されてしまうのですね。
 「私語」にあったので、7月・8月分はCDに保存しました(してもらいました)。でも、たったそれだけです。
 早く、復旧しますように、全作品が取り返せますように、切にお祈りしています。
 どうぞお体おいといくださいますよう。   讃岐

* 数日前からエラーになってしまい、いろいろ試してみましたがどうしてもアクセス不能で気がかりでした。理由を知って驚いています。
 お役に立てるほどの知識を持ちませんが、応援しています。   竹

* こんなひどいことがあって良いものでしょうか!!!
 普通の人がHPを作っているのとは訳が違います。
 日本文学の歴史・財産をこうも簡単に一方的に消されてしまうとは!! 今日ほど《IT世界の恐ろしさ・怒り》を感じたことはございません。
 どのような事情があろうともプロバイダー『BIGLOBE』が勝手に完全消去する権利など、何処にもない筈です。
 たとえIT社会の時代でも、通告・勧告などは、《文書による確認》が(本人であることを確かめた上での)大切と思います。
 『作家:秦恒平の文学文学と生活』が《どれほどの宝物》であるかを確かめもせず。。。《恐ろしい時代》になりました。《振り込め詐欺》どころの問題では ありません!!!
 HPを拝見できなくなってからというもの。。。日に何度もクリックしては、先生のご健康とPCの調子? リニューアル? などと心配しておりました。
 《決してこのような酷いことがあって良い筈ありません。》
 《応援いたしております。》
 《手立て》がないものでしょうか?
 プロバイダー『BIGLOBU』に抗議いたします!!!
 《末恐ろしさ》さえ覚えます。
 先生・奥さま、くれぐれもご自愛ください。  岡崎市: 枝


* 九月二十八日 木

* 建日子の『アンフェアな月』も含め、何冊もの夜読書のあと、二時半頃電気を消したが、一時間ほどして、急激な低血糖症状があらわれた。経験がもう二三 度あり、急いで計ってみると過去最低の「56」とは、危険そのもの、ショックを起こしかける数値。
 すぐさま砂糖を補い、いただき物の葡萄を十粒ほども口にした。すこぶるイヤなイヤな違和感が長く残り、血糖値がもち直してからも気分わるかった。
 だが、朝が来て生活していると、午前中にすっかりリバウンドし、昼前に「202」まで上がっていた。高すぎる。

* 北海道から、大きな毛蟹三バイを頂戴した。感謝。

* 午後、二時五十分から四時四十五分まで、自転車で石神井台を大回りしてから、井草、善法寺公園を一周し、千川上水を遡行、武蔵野大学前までうんと走っ てから、柳沢方面へ戻っていった。相当な走行距離ではないかと思う。今日は少し疲れた。ボトルの水分を一本必要とした。いつもは口も付けないのだが。江古 田の百円ショップで手に入れた方位磁石が役に立つ。
 帰って血糖値を計ると「85」は上等だが、一気に下がりすぎている感じも。

* 入浴して、「元」帝国論を読む。

* ぞくぞくと{ホームページの消滅}に怒りの声や提案が来るが、量的にも戦略的にも、みな此処へ書き込むことは出来ない。心知った人の分だけ、少し参考 までに。

*  >>> こういう時節に、上のようなBIGLOBEの処置は、遺憾余りあります。ユーザーへの親切の為にも、当然もっと確実な「電話」 確認や、「郵便」文書による確認を以て、「ユーザーの正確な意思決定」を手に入れて為すべきが、理の当然でありましょう、

 インターネットの専門家でなくとも、少しは知識があればインターネットメールが送信先に確実に到達する通信手段でないことは理解できることであり、到達 する保証がないことは世間の常識です。
 こともあろうに、プロバイダー(ISP)を標榜するbiglobeが、biglobe ドメインのメールアドレスに通知したから、それでもって相手が承 諾したとみなすことは極めて身勝手な論理と言えます。
 ホームページのコンテンツを削除するという極めて重要な案件では、電話もしくは文書によって確認するのが世間の良識と考えます。
 弁護士事務所は、著作権侵害に対してはもちろんですが、この無謀な意思確認の方法を攻めるべきでしょうし、そうするものと信じます。
 この程度の対応しかできなかったbiglobeはさっさと、プロバイダー事業から撤退するのが世の中の為であると思いたくなりますね。   I T 専門家 神戸市

* 私は、以下のようなことをすべきだと思いますので、お知らせします。
 まず、問題の所在を簡潔に明らかにし、ペンクラブの会員が、裁判所に「仮処分」を申し立てたことをペンクラブとしても、電子メディア時代の表現のありよ う、著作権侵害の実状を踏まえた「ルール」(事実上の 一方的な措置)のありようなど問題提起をし、かかる問題の所在の普遍的な影響(ペンクラブ全体に限 らず、表現者全般に関わって来る可能性がある)を広く訴え、具体的には、当面、裁判所に対して、当該「仮処分」の申し立てをすみやかに認めるよう要請し、 当該ホームページの原状回復をすることが大事なのではないでしょうか。
 ペンクラブの言論表現委員会の動きはどうなっていますか。   ペン委員

* ご連絡を有難うございました。どうしたのか心配していました。
調停の結果ホームページを閉鎖するという合意に達したのかと思いましたが、このホームページが秦様の作家としての表現の場であることを考えれば、そのよう なことはないはずと考えました。ご連絡をいただいて得心しました。
 一刻も早く復旧なさることを期待しています。基になるファイルはご自身のパソコンにあるでしょうから、この際プロバイダーを替え装いを改めるのも、一つ の方法かもしれませんね。
 神沢杜口の『翁草』のうち初めの100巻は1772年になり、その後100巻を加えたところ1788年火災でその半ばを焼失し、再び編述して全200巻 の成ったのは1791年、杜口82歳の年であった由。
 どうぞご自愛下さい。  正  在・英国

* 鴉さま   メールを読んで事態が今も信じられません。酷い話です。biglobeはせめて確実な問い合わせ、そして意思確認をすべきでした。かりに 一歩譲ってもせめて最小限の「処置」にとどまるべきでした。あまりに理不尽です、表現の自由どころか抹消など。プロバイダーを変えるという単純な方策はも ちろん可能でしょうが、それで済む問題ではありませんね。できる限り早い時期にHPが回復されることを願っています。
 調停、審訊、どれほど大変なものか、わたしには想像もできませんが、時間的にも精神的にも重い負担になっていること察するにあまりあります。
 メールの返事はどうぞ無理になさらないで、ただ時折、そうかそうかと読んでください。HPに載るのを無意識であっても半ば「想定」して書くのではなく、 より素直に? 書いてしまうかもしれませんが、それもそのまま笑って受け止めてください。少しでも慰めになれるなら、たとい微力でも、嬉しいことです
 ここ数日は心配で落ち込んでいました。何もできず、ただ時間の流れるに任せて本を読んでいました。
 今日は京都市美術館に出かけようと思います。院展、例年のことで、それなりに「予想」もできますが、一作一作に注がれた時間とエネルギーを汲み取り、自 分への励ましにしたい。今週はよい天気が続くようで、まだ汗ばむほどですが、久しぶりの京都を楽しんできます。  鳶

* BIGLOBEは、削除する前に秦さんの言い分や意思をきちんと聴くべきでしたね。
 よほどの有害サイトでない限り、問答無用で削除するなど間違っています。  文京区

* こんな話より、わたしの心を呼び寄せてやまないのは、こういう時だから余計そうなんだが、バグワン。
 それから好きな歌人や俳人の歌集、句集。
 『井伊直弼 修養としての茶の湯』という研究書を手に取ってみる。するとすぐ世外の人となり、なぜか亡き白鸚や松緑の顔が思い浮かぶ。歌舞伎舞台の『井伊大老』やテレ ビドラマの『花の生涯』を思い出すのか。されば連想は歌右衛門にゆき、あれは淡島千景であったか、に、行く。
 人にも逢いたい、芝居の日もはやく、と。しかし難儀な糖尿診察が待っていて、不快なだけの「調停」や「審訊」の日も来る。難儀で不快なことほど、踏み込 んで受け取らねばならない。

* わたしにしても強い人間ではない、が、弱さに甘えたり逃げこんだりはしていられない時がある。ほんとうに弱いと、ほんとうに逃げこんで、頭をかかえて しまうが、頭を上げていなくてはならないときは、ちゃんと頭をあげて当面するしかない。
 しかない、のでなく、おそらくそれが当然の精神衛生というものだ。楽しいことしか楽しめないのでは、楽しみの味わいは単純。時には、苦みや鹹みも楽し む。

* 「MIXI」に連載している『罪はわが前に』も講演『蛇と公園』も、楽しんで校正している。もう一人の孫のみゆ希が中学生。自分の中学時代の日記を読 んでいると気恥ずかしいが、いい時代ではあった。みゆ希の「MIXI」日記をときどき読んでいる。「時代」はいま、あんなふうに「口」をきいているのかな あ。

* 何が気になるのだろう「木漏れ日」の朝日子が「足あと」を置いている。明らかな接触である。中学の頃へ帰ってみたいのか。何でもいい、時には変換ミス が平気な父の文章をゆっくり読むがいい。ミスを見つけたら教えてくれるといい。



闇に言い置く私語の刻 6.9.29秦恒平  2006年09月29日23:26

* 九月二十九日 つづき

* もう日付が変わろうとしていて、やはり心身に落ちているものの佳いものは、「つる屋」の熱い「貝真蒸の吸い物」「酒の肴各種」「かやくご飯」そして 「白鶴」の酒。

* 京都行き  昨日もそして今日も、関西は汗ばむほどの秋晴れの午後でした。
 院展を見た後、河原町二条、夷川通りを歩いて、烏丸二条で岩絵の具を買い求めて帰りました。
 院展はいくらか低調な感じがして・・それでも、ああこんな風に描いているのか、などと探求? してきました。
 家具屋の並ぶ夷川通りは容易に推測できることですが、時代の変化とともに衰退して、違う業種に変わった店や閉まったままの店が目につきます。老舗の宮崎 の立派な店構えも寂しげでした。レトロな雰囲気を楽しむ気分はなく、若い人のわあ可愛いのノリからはよほど遠く、四十年も前の夷川通りを思い起こします。
 それでもやはり京都は京都、地方都市の商店街の無残な衰退ではありません。(東京に暮らしていると「地方格差」が叫ばれても分かりにくい実感ではないで しょうか・・。)
 烏丸二条の放光堂さんの岩絵の具、もっと買ってくればよかったなど思っていますが、現在描いている絵には十分足りる絵の具が手元に揃いました。
 堀川御池近くに下宿していたこともあって、中京区は懐かしいです。
 お忙しいとは思いますが、鴉さん、どうぞお体大切に、くれぐれも大切に。 鳶
 
* この鳶は、世界中をとびまわる鳥。


* 九月二十九日 金

* 安倍総理への警戒感がつよい調子で諸方で表明されている。すくなくも冷静に耳に目に入れておく必要はある。

* 午後、表参道の「ボイジャー」という会社へ呼ばれ、作品を、機械的に音声で読み取り読み上げるのを聴いてきた。わたしの「ペン電子文藝館」に載ってい る『閨秀』を機械が読み上げる。まだ固有名詞の読みなどに不安定があるが、信じがたいほど明瞭に機械が作品の通り読んで行く。人間の朗読ではない。機械が 機械的に読み上げるのですこしばかり変な調子も付くが、視角に不自由のある人には福音である。じつは、こういうことはもう前から実際に可能な開発がすすん でいて、「ペン電子文藝館」の全作品はPDF処理してあるが、開発された機械的な設定をアクセス側で用意すれば問題なく「聴きとれる」。
 ただ文学は「読む」こともともに楽しむ読者が多く、晴眼の読者は奇怪に読んで欲しいとは思うまい。しかし目の不自由な人や、病症の人には福音である。し かし、こういう開発にも、大手出版社の多くは待ったをかけるらしい。紙の本の売れ行きに響くかも気にするようだし、うまい話なら自社で開発をと欲が出る。
 「ペン電子文藝館」では視角不自由なひとへの配慮をして行こうと考えているときなので、委員会へ提議して欲しいと言ってきた。ボイジャーの経営者はペン の会員でもあるのだから会員として堂々提案・提議する権利がある。そう奨めてきた。

* 表参道から銀座へ出て、なんと京都の「つる屋」をみつけ食事しながら、たくさん校正してきた。、静かなよい店でバカ高くもなく店員の行儀も静かでい い。文庫仕込みの何より献立も調理も、さすが「つる屋」で、「吉兆」「たん熊北店」にならぶ老舗の包丁、大満足。京料理は酒にうまい。開店してあまり間が ないと。また佳い店に出会った。木村屋でパンを沢山買って帰ってきた。
 
* 昨夜から、ホームページ消滅への怒りと愕きの声は、ぞくぞくと届いている。ペンの委員会で正式に取り上げましょうと委員長からも。ある学会では、ホー ムペジにわたしの「通知文」をそのまま告知し広く訴えると言うし、自分のホームページにも転載し、またメルトモにも広く同送して、この無道な処置に社会的 な運動を起こそうという提言もたくさん来ている。もとより、やす香の「MIXI」日記を相続したという著作権者への痛烈な批評・非難も数多い。
 技術的、また法律的な、提言や助言も多い。相手のあることで全部を此処へ載せることは戦略的にも、また遠慮もありとても出来ないが、心安くゆるして頂け る人のだけに限って、以下、順不同に「応援」していただく。

* プロバイダの行為に憤りを感じます。もしやと思い、先生のお名前で検索をしましたところ、「このページは、G o o g l e で 2006年9月18日 11:37:45 GMTに保存されたhttp://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/ のキャッシュです。G o o g l eがクロール時にページを保存したものです。」

http://www.google.co.jp/search?hl=ja&lr=&q=+site:www2s.biglobe.ne.jp +秦恒平

という形で復旧までのあいだはこちらを「お問い合わせの方にご紹介」されてはいかがでしょうか。
 また、先生のお手元に記録がない場合にはこちらからDLをすれば、被害を最小限に留めることができるのではないかと存じます。ご存知のことは思いますが ご参考まで。
 また、プロバイダ「BIGLOBE」への抗議の意志を表わすため、当組織のサイトでも先生から頂戴したメールを公開させていただきたくご相談申し上げま す。
 とり急ぎ要件のみにて失礼いたします。以上。  国文学の学会責任者

* 残念でなりません。
 プロバイダというのは、一人の要求で、一方的に、万人の権利を奪うことが出来るのでしょうか。
 法的な通告というのは「内容証明」によるものでなければならない筈です。「仮処分」手続きはお進みとの事ですが、結果を待つのが「長い」と思います。頑 張りましょう。応援します。
 秦さんのページが読めなくなって本当に落ちつかず、メールにしようか郵便にしようか、あれこれ考えていました。ご検討の事と思いますが、他のプロバイダ からのホームページは如何なのでしょうか? 読者のみな さんも待っていると思っています。
 実は、私も「法律事務所」や「地裁」へ通い長い長い戦いをした事があります。苦労もありましたが、正しいものは正しいのですから頑張りました。
 それにしても、こういう事をして、やす香さんの相続権者は何がいいのでしょうか。そちらも心配です。
 秦さん くれぐれもお大切にお大事にいろいろお気をつけください。
 私はいつかお会いした時くらいには健康戻ったつもりです。なんでも食べています。お時間があればやっぱりまた遊びましょうか。 千葉 E-OLD

* 「民事調停」の席で、押村氏のあまりの虚言・暴言に先生がカンシャク玉を破裂させて、帰宅するやいなや、「えいっ」とばかりに器械の接続を切られたか と案じつつ、一日に何回も接続を試みておりました。
 事情がわかり、一安心・・・でもないようですね。お察しいたします。
 さて、さて、「秦恒平論」だいぶ進んでおります。読むのが八分、書くのが二分の牛歩ですが、これが楽しい、うれしい。あまりに没頭しているものですか ら、家内がおかんむり。ちょっとは、わたしの話も聞いてと、すり寄られても、なにせ秦恒平を読み解く方が、数段おもしろい。いろいろと勝手なことを書いて います。
 事態の好転を願っております。ご自愛ください。   六

* やはり何かあったのだと思っておりました。
 BIGLOBEの勝手な処置には怒りを覚えるとともに、あらてめてネット上の著作物の危うさを認識しました。
 秦さんのHP『作家・秦恒平の文学と生活』の中には、私の作品を含め、そこでしか読むことのできない貴重な作品が収蔵されていました。
 作品収蔵の当事者として、早速BIGLOBEに抗議をしたいと思います。まず私個人で抗議文を送付することを考えますが、もし「e-文庫・湖 (umi)」寄稿者の中で、同様な考えをお持ちの方がおられましたら、まとめて、という方法でもよろしいかと思います。「仮処分」審訊中とのことですの で、一応弁護士の方にも許可を得たほうがよろしいのでしょうか? お考えをご返信下さい。
 そのほか、私にできることでしたらなんでも致しますので、いつでもご連絡下さい。
 また、私はMIXIに入会していないので、現在唯一となってしまった秦さんのHPを見る事ができません。もし可能でしたら入会のためのご紹介をしていた だけないでしょうか。よろしくお願いいたします。
 札幌は冷え込み、ついに今日からストーブを使っています。  真

* プロバイダは、単価競争の中Webスペースをばらまいており、表現の場、というインフラ意識は薄く、消費するためのスペースを間借りさせてやってい る、という姿勢ではないかと思います。有名な中堅プロバイダの夜逃げの話を先週聞いたばかりです。よくある話で、そういう業界です。
 Webページを放置しておくと、一瞬でどんどん広まります。たとえば、今でも先生のページの影(キャッシュ)が、Googleで確認できたりします。件 の著作権を云々されたページも、多分読めます。
 プロバイダにとって、削除は時間との戦いです。Biglobeの取った措置を弁護する気はありませんが、無数のWebページへの無数の削除要請に対応す るには、電話や手紙などの、いつどんな返事がくるかも分からない方法よりも、約款で一方的削除を宣言しておいて、今回の措置をとる、これが一番、彼らに とって痛手の少ない方法なのかもしれません。
 ただ、私が今回非常に「問題」に思っているのは、削除の判断基準です。
 よく言われる話だと思いますが、先生は、「引用」なさっています。これは、先生のページの総容量から見れば微々たる量で、かつ、容易に「引用」であるこ とが分かります。にもかかわらず、著作権を理由に削除された。
 著作権云々というが、評論・批評の中に引用を認めないというのが、信じがたい。
 多分プロの弁護士さんたちが色々対応してくれているのでしょうが、著作権を理由に、引用を行っている著作を、無関連なものも含めて全て削除する行為は権 利の濫用、これを争点にしていくんだと思ってます。
 こういうのが嫌で、若い(50代くらいの)方々は、独自ドメインを取って、専任スタッフに管理してもらっているのだと思います。
 e-Oldの孤軍奮闘を見ていると、悔しく感じます。
 一方で、先生が今年PCに投資した額の1/10があれば、独自ドメインの立ち上げを行うサービスはあるのではないかとも思います。
(その先の具体的なアドバイスができませんが、分かりそうな人にきいてみてください。)
では。 イチロー

* 先生、驚きました。このような事が行われる事、私にはとても理解できないことです。怖くなりました。牧野弁護士に確りとこれからのためにもお願いした い気持でいっぱいです。 芹沢先生ご遺族

* びっくり致しました。
 いち早くサイトを利用された作家として、そのような目に遭ってはいけませんよね。
 弁護士さんに御相談されていらっしゃるとのこと、その指示を仰ぐのが宜しいのだと思いますが、多少法律を勉強した私としては、BIGLOBEとの契約内 容が、どのようなものだったのか、興味があります。
 しかし、BIGLOBEの対応もさることながら、お嬢様との関係がそこまで悪化されてるとは思いませんでした。
 どちらも早く修復できますように、祈っております。  美術工藝家

* ご通知拝見、お怒りごもっともと存じます。「生活と意見 闇に言い置く」、ときどき、訪ねてました。作家の命をかけているサイトと評価していました。
 なんの連絡もなしに、勝手なことをされたこと、私にも似た経験があり、よく分かります。ちょうど、私のホームページ上に、「官こそ恃み」(二言・三言・ 世迷い言)という一文の中にそれを書き、昨日それを含む私の同人誌『琅』19号の印刷を印刷屋さんに御願いしたばかりです。
 弁護士にまで依頼されたこと、そこまでしなければならないことに対する心痛・心労、ご推察申し上げます。応援しています。  ペン会員

* メールは、無事なのですね。調停の過程での一時的な停止、もちろん秦さんの意思によるものと思っていました。プロバイダーがわが、一方的にはっきりし た確認もなく、削除してしまうなんて、信じられないほどのお粗末、おそろしさです。恣意的に何でもされてしまうような、そんな危なっかしいところで生活し ているのですね。
 さいわいまだ日本では、手紙もあるし電話もあるし、くちこみも。
 どうすればよいのか、具体的なことに、手がつけられないのですが、腹をたてています。
 お二方とも、お元気でいらしてくださいね。
 もう! という感じです。 沙

* 実に大変なことが起きていたのですね。
 おかしいとは思ってましたが、私のPCのせいかと感じていました。
 メールで述べられていた通り、紙の資料と違ってかくも簡単に消えてなくなるものなんですね。
 私に出来ることなどあまり無いと思いますが、これからも強く秦さんを支持して行く気持ちにかわりはありません。
 もし私にも協力出来そうな事がありましたら遠慮なく言って下さい。
 湖の本の読者は皆同じ気持ちだとおもいます、尊敬する先生の味方ですから…
 とりあえず、一読者として応援メールを送ります。  東

* この度のBIGLOBEのとった処置は、非常識で多大な被害を、多くの人たちに対して与えるものであります。
 秦氏のホームページは 通常のホームページとは異なり私設図書館のようなものであり、そこには秦氏および多くの人の作品が蔵書としてしまわれていまし た。いずれも厳選された宝石のような作品であり、多くの読者が訪れる図書館でありました。
 BIGLOBEのとった処置は「図書館の中に、自分たちに関わる書籍があるので 図書館をつぶしてほしい」という 一部の人の誹謗中傷を鵜呑みにして 「図書館をつぶし、書籍を全部焼却するぞ」という通告を一方的に行い、館長の返事を待たず、館長の許可なく、図書館をクレーン車で壊し、蔵書をすべて焼き 捨てたようなものです。
 WEBの世界ではこのような非道が許されるのでしょうか。
 BIGLOBEの誰が、どんな権力を持って出版物の内容が不適正であると判断し、このような処置をとったのか鋭く追及する必要があります。 
 私もホームページを持っていますが、許可なく、一方的な誹謗中傷があった場合にこのように全削除される恐れがあるものなのかと非常に不安を抱いておりま す。
 一刻も早く、この事件が法的に 解決されることを祈ってやみません。  日本ペンクラブ会員

* 秦さんからのこのようなメールただただ吃驚しました。
 正直、この時勢にこのような出来事が起こるなんて全く考えられませんでした。良い事悪い事の判断基準を持合せていない人間が主観で行動したであろう恐る べき事であると思います。
 もしそうでないとしたらもっと恐ろしい事です。
 何れにしてもホームページ全消失が復活不可能かどうか先ず元の所に確認調査し、呼び戻す事が可能であれば直ぐに復活してもらわないといけません。その点 については如何だったのでしょうか。
 何れにしても迅速な調査と行動が必要であると思います。
 秦さんのショック度最悪だと思いますが、とりあえずうまく復活する事お祈り申し上げます。
  Sept. 29, 2006 京都・宇治    

* 秦恒平先生  驚きとともに拝読いたしました。
 この実情を是非多くのインタネット利用者に伝えたいと思うのですが、どこかにこの文章は公開なさっていらっしゃいますか? そうであればそのページをお 知らせしますし、まだそのような準備がなければこの文章を私のブログで転載許可をいただいたという形で公開したいと思いますがいかがでしょうか?   ペ ン会員

* 全くひどい話です。Biglobeの処置に憤慨しております。あれだけたくさんの内容のものが一瞬のうちに消失してしまうとは・・・。先生のご落胆、 ご憤慨ぶりが目に見えるようです。これは他人ごとではありません。明日は我が身に降りかかることでもあります。
 私ごとですが、パソコンが2度壊れてしまい、復旧に困難の極みを体験しました。こちらは全く自分のミスだけに納得ものでした。しかし今度の事件はまさに 「事件」です。明らかに告訴ものです。御健闘をお祈りしております。 星

* 『作家・秦恒平の文学と生活』削除、確認しました。なんともひどい話です。
 ただ、プロバイダは著作権という言葉におびえていて、こういう不用意な削除が日常的におこなわれているのも事実です。
 BIGLOBEの担当者は深い考えもなく、日常業務として機械的に処理したのでしょう。
 推測ですが、BIGLOBEは穏便な手打ちを求めてくる可能性が高いと思います。
 ぼくとしては、秦さんにここで踏んばってもらって、「判例を残す」のが日本の言論のために必要ではないかと思っています。
 規約に何が書いてあろうと、こういう社会常識に反することを許すような規約は、それ自体が無効です。規約が免罪符にならないという当たり前の事実を無知 なプロバイダに周知させる機会となるでしょう。 ペン会員 I T専門家

* 秦さま、ほかみなさま
 プロバイダー責任法の過剰運営のいったんを見た思いです。
 もしよろしければ、「私事」ではなく「社会的重大案件の1例」として、さっそく、小生の怠慢により「休眠中」の委員会議題として緊急会議を開催したいと 思いますが、いかがでしょうか。
 まずは、ご本人のご意向を尊重しつつ、みなさんのご都合をお伺いいたします。 委員長

* 委員長の御提案に賛同します。
 これまでもアカウントが抹消され、消えていったホームページはたくさんありますが、それは大抵アイドルの画像を勝手に載せた明かに著作権・肖像権を侵害 したページでした。
 しかし、そんなページといっしょにされては困るわけで、プロバイダ業界に一石を投じる機会になるかもしれません。
 さて、「湖」サイトという発言の場を奪われた状態ですが、BIGLOBE側によって事前通告なしに、一方的にアカウントを抹消されたという事実を読者に 知らせる場を設けられたらどうでしょうか?
 無料のblogサービスか「さるさる日記」あたりがいいかと思います。
 一番簡単な「さるさる日記」ですと、

  http://www.diary.ne.jp/

にアクセスし、「新規作成」という赤い大きなボタンを押して、所定事項を書きこむと、メールでパスワードが届くようになっているようです。  ペン委員

* 9月20日にぷっつりとHPの画面が出なくなって、これは機械の不調ではなく、押村様夫妻とのいざこざと関係があるにちがいないと、そのくらいは私に でも想像はできました。
 それでも往生際悪く、もしや復旧しているのでは----と毎日いくどもいくども、何度いつものアドレスをクリックしたやしれません。
 ご事情を承り、そんなアホな!! と驚愕しました。
 個人のHPがそんなにたやすく、プロバイダーの一方的判断で閉鎖したり削除出来るなんて、信じられない事です。
誰かがクレーム つけたら「はいわかりました」でプロバイダー自身ではでそのHPの内容や、クレームが妥当かどうかなど検討もしないで、本人から返事の確認もせずに、勝手 に閉じるなんて無茶です。
 秦様のHPの一つの問題ではなく、一般論としてもこんな信用の出来ない契約があって良いものでしょうか。
 「e-文庫・湖(umi)」の私のささやかな文章も消されたのですね。
 勿論それらの”著作権”は載せていただいた時点で秦様に委ねているわけですが、それでも、押村様と私はまるで関わりがないのですから、十把一からげはひ どすぎやしまいか----と憤慨しています。
 もし私にでも出来ることがありましたらおっしゃって下さい。やります。
 いくらなんでも、こんな無茶が通るとは思えないので、近い将来きっとHPは再開されるものと信じて楽しみにしております。
 すっかり秋めいて金木犀が香っています。
 先の日曜はミュージカルの練習があって東久留米に行きました。私は時間の関係で車で走ってしまうのですが、青梅街道から所沢街道に入り、六角地蔵からひ ばりヶ丘団地横を通り、落合川、黒目川を渡りながら、もしや秦様が自転車でひょっこりとお姿を見せられるのでは、と思ったりしたものでした。
お陰様で一同息災に暮らしております。 2006/9/29   藤

* なんという事なのかとただただ驚いて居ります。私も秦さんのホームページを時々読ませていただいて居ります。お孫さんのご不幸には心を痛めており、 又、ご活躍の貴方様のお姿を想像してひそかに喜んでおりました一人です。
 長きに渡る過去の資料を一瞬に消され、どれだけ悔しい事でしょう。同情申し上げます。 信 京都

* かねてからHPにアクセス不可能となり、六さんともども心配していたところです。
 「調停期間中」に限り閉店しているのかなと思っていたのですが、とんでもない事態になっていたのですね。
 ひどい!! 本当にあきれ返ってモノが言えないほどの非常識です。
 営々として積み上げてきた秦さんのお仕事は、単なる一作家の営業ではないのです。あの中に含まれている秦著作をはじめとする数多くの方々の創造物は、日 本の文学を左右するほどの内容であり規模でありスケールでした。それを一朝にして完全削除(それも一方的に)するとは、著作権の侵害どころか「文化の破 壊」そのものです。歴史上、数限りなく繰り返されてきた「焚書」の現代版ではないですか!!
 腹が立って、ハラガタッテ、憤りを通りこして、怒り狂っています。沢山きているという「不審や抗議」は、向けるべき方向を間違えています。
 BIGLOBEのやり方と、その背後の陰険な策謀にこそ向けられるべきです。「父娘の情」の手前、他人がいらざる口を挟むまいと、従来黙ってきましたが 限度を超えています。
 友人に自身「詩作」をし、HPも持っているネット関連のプロがいますので、秦さんのメールを転送し、有効な措置がないか問合せしています。色よい返事が あるといいのですが。
 ご心痛のほど(本当に長い暑い夏を乗り切ってこられた末の結果がこれとは)お察し申し上げると同時に、こうした社会的不正には断固として反撃すべきだ と、心からの応援を致したくぞんじます。どうぞ、奥さま共々、お心丈夫にお過ごし下さい。  円

* 新資料郵送とのこと、お待ちしております。到着次第、検討することにします。裁判所に出せるものは直ちに出しましょう。
 皆さんの反応がありがたいですね。ビックローブへは、ガンガンと批判がいってほしいですね。顧客に背信的な行為をすることの意味を、思い知らせなければ ならないでしょう。
 参考になるご示唆などありましたら、お伝えください。よろしくお願いいたします。  事務所

* まったくもって晴天の霹靂以上の、ものでしょう。これからもこういったことは多々あることと推察できます。
 それだけに、ちゃんとした結果が問われます。文筆に携わる者にとって生命線でもありますデータの削除は、許しがたい。全面的に応援するものです。  苑 ペン会員

* 事情が判り、少し安堵いたしました。私には、何もご助言できませんが、どうか、くれぐれもおからだ大切にとお祈りいたしております。  都 ペン会員

 


闇に言い置く私語の刻 6.9.30秦恒平  2006年09月30日20:24

* 九月三十日 土

* 朝一番に娘、押村朝日子から「内容証明」の郵便が届いた。

* わたしのホームページやブログから、押村朝日子による著作物[小説・随筆・日記・手紙等]の全て、押村朝日子が収録され、押村朝日子本人と確認できる 写真、映像、イメージの全てを、本書面到達日より3日間のうちに削除よというのである。わたしのホームページは、孫やす香の「相続権者」の申し入れで BIGLOBEにより完全消滅しているというのに、いまさらその話は無いであろう。
 では、ブロク。これは「MIXI」のことか。「MIXI」に朝日子の作品を載せたりしていないのは明白。載っているのは見る人が見れば朝日子かと分かる 「写真」が出ている。父と娘との公刊された商業雑誌取材中のスナツプで、いわば旅の記念写真。それで利を稼いだわけでもないふつうの何でもない写真で、そ れが秦恒平自身と娘押村朝日子の写真と分かる人が公称「六百万人」の百人もありはすまい。家族が家族の写真を人に見せて、何の不都合があるのだろう。
 朝日子に聞きたい、削除を強いる「理由」を。
 一つ、はっきりしている。
「MIXI」の日記に、朝日子は父親私によって、七歳から二十年の長きにわたり、「虐待」「ハラスメント」を受けてきたと「公言」してきた。アクセスをブ ロックされていたわたしはそれを読めなくて、知らなかったが、伝えてくれる人達が何人もあり、知って呆れかえった。むろん母も弟も呆れかえった。
 それで、朝日子八歳時の、また朝日子結婚後の、私自身がレンズを向けて撮った、また私と一緒に撮られている、屈託なく和やかに自然な朝日子八歳時の健康 な写真や、成人した朝日子の嬉々として楽しそうな写真を此処「MIXI」に披露したのは、千万言にまさる「朝日子虚言」を証明する最適の物証と思ったから である。
 わたしには「「MIXI」六百萬」公衆の前に、「虐待者」等の悪声による不快な誤解を解く権利があるからだ。これまで出した写真の娘に、いささかでも黒 い陰翳が見られ得たろうか。
 朝日子は、自分の「蒔いた種」をあまりに明らかに否定された自分の写真が出てくるのに、堪えられないのであろう。バカな虚言を公にした、父親だけでなく 母親へも弟へも犯したことになる犯罪的な失礼は、どうなるのか、と朝日子に聞きたい。
 なお朝日子の愛すべき幾篇かの作品は、今は私のホームページを「消滅」に導いた本人がよく知っているように、わが愛機中に存在しない。写真のほかの、 「映像」「イメージ」とは何のことか分からない。しかし「日記」にせよ「随筆」にせよ、私が攻撃されている際はその「反証に引用する自由と権利」はわたし も所持している。

* 「なお、本書面到達後も、私(押村朝日子)の承諾なく著作物や写真を掲示し、著作権や肖像権の侵害行為を継続する場合には、法的措置を講ずる旨を申し 添えておきます」そうだ。。
 よほど「法的措置」が好きらしい。そのまえに、人として、人の子として、人の親としての「誠の掟」を自問するがいい、夫婦ともども。

* むこうが千人殺すというなら千五百の産屋を建てて。
 どうか生きて、書いてください。  雀

* ブログに「ご通知」全文、転載させていただきました。
 お心落ちのないよう、という言葉はここではあたらないと思います。
 どうぞ一日も早く復旧されますように。    ペン会員
 
* ただただ驚いて 驚いて おどろいて びっくりして びっくりして 信じられなくて残念でなりません。
 夫も事の重大性に驚いて、こんなことがあっていいものか? と怒っています。こちらの承諾なくして削除など出来るわけがない! と怒っています。
 一体、何が起こっているのでしょうか? 理解に苦しむことばかりが続いていまして、挙句 HPも読ませていただけないなんて!!
 大きな嘆き! 悲しみ、でもあります。
 お役に立てることなど皆無ではございますが 心からの声援と応援を申し上げます。変なやくざ的な弁護士などに惑わされることなしに、当然な正直者が勝利 されますように心から願ってやみません。 頑張ってくださいませ。 勝利祈っております。 
 お静かにお暮らしの御身の上にとんでもない衝撃的な事件が重なり さぞかしご心痛深いものがおありのことと拝察申し上げます。頑張って乗りきってくださ いませ。 ”ひどいことが起こるものだと” 世の中には! 人生には!
 御身どうぞお大切におすごし下さいますように心から祈念申し上げます。   彬

* もう同じ怒りや声援のメールを掲載するのも、足りていよう。
 この「私語」にも、問題提起の意図をふくめ、あらためて、信じがたい「事件」が起きていたと「通知」の一文を此処に掲げておく。同じことが、いつ誰の上 に降りかかるか知れない顕著な事例として、多方面で議論されたい。転記されても構わない。

*  前略 ますますのご健勝をお祈りします。

 さて、私のホームページ『作家・秦恒平の文学と生活』完全消失の実情をお伝えします。ご理解下さいますよう。

 私が、1998/3月以来多年運用してきたホームページ「作家・秦恒平の文学と生活」は、今年二○○六年九月二十日、突如、プロバイダ 「BIGLOBE」により、事実上「無断」で、私の「確認」を一度も取ることなく、一方的に「初期化・全削除」されました。ホームページが読めなくなって いる、何故か、困る、という読者ほかの皆さんの不審や抗議がたくさん来ています。

 このホームページは、原稿用紙換算六万枚を越すかと思われる私の創作物を擁し、内容として、「湖(うみ)の本既刊八十八巻の全電子化」、八、九年に亘 る、日々欠かさぬ日記文藝としての「生活と意見 闇に言い置く」、三好徹氏、高史明氏ら著名文筆家の寄稿や一般の投稿作品約二百を含む私の責任編輯「e- 文庫・湖(umi)」、そして私の「書斎作品の多く」を含んでいます。

 ところがBIGLOBEは、上の「日録」のなかに、今年七月二十七日に、癌「肉腫」で急逝しました私どもの「孫・押村やす香」十九歳の生前日記を転載し ているのが、やす香の「著作権相続者」と称する者(=ちなみに押村やす香の両親は「押村高氏・青山学院大学教授、同妻朝日子氏・私の長女」です。)の権利 を侵害しているとの申し入れを、そのまま受理し、一方的に強行削除したのでした。しかし、引用・抄出した日記は、全体の極く極く一部(日記全部から見れば 七、八十分の一程度か。原稿用紙にして十枚余か。私のホームページ全容からすれば、大海の小魚にもあたらない分量なのです。)
 しかも、私はそのようなBIGLOBEの通告など、全然見た覚えなく、またホームページを全削除してよいなどと意思表示した覚えもくないのです。有るわ けが、有るでしょうか。BIGLOBEは、受発信設定が全く出来ていない、使用していない、私のbiglobe.ne.jpメール宛てに発信していたので す。
 しかし私はパソコン使用以来、一貫してニフティのみを全面使用し、私の機械操作能力ではbiglobe受信設定は「存在しない」のです。
 更には機械的一律削除を「日課」にしなければならぬほど「不正広告メール・SPAMメール」が九割を越す大氾濫の今日です。やたら数多い大概の「営業通 知」も、私の日常活動からは「ほぼ削除対象」なのです。

 こういう時節に、上のようなBIGLOBEの処置は、遺憾余りあります。ユーザーへの親切の為にも、当然もっと確実な「電話」確認や、「郵便」文書によ る確認を以て、「ユーザーの正確な意思決定」を手に入れて為すべきが、理の当然でありましょう、もし一家で旬日余にわたる旅行でもしていたら BIGLOBEは一体どうするというのでしょうか。
 むろん言うまでもなく私が、かほど多年運営のホームページの「削除通知を、黙過する」わけが無いのです。加えてBIGLOBEは、私以外にも、他の多く の著作者・寄稿者の権利まで侵しており、全く言語道断な暴挙、厖大量の「著作権侵害」と抗議せざるを得ません。

 ホームページの此の無道な削除に対しては、地裁に「仮処分」を申し立て、日本ペンクラブの同僚会員である弁護士の総合法律事務所に、善処をすべて依頼し ました。地裁は事の重大性を慮り専門部に審訊を託したよし、法律事務所の通知がありました。 

 この電子メディア時代に、かかる奇怪に強引なことが、いとも簡単に為されてしまうおそろしさに愕き呆れながら、ともあれ、事情を申し上げまして、アクセ ス不能が只の機械のエラーによるものでないことをご通知致します。いずれホームベージは復旧出来ると確信しています。ご理解・ご支援いただけますようにお 願い致します。 
日本ペンクラブ理事         
日本文藝家協会会員  作家・秦 恒平 2006/9月末

* やす香さんの御不幸こころからお悔やみ申し上げます。
 もっと早くと思いながら、どのようにお声かけをしたらよいのかと、心弱くなってしまった次第です。
 奥様いかがお過ごしでしょうか。
 すこし時期はずれになりましたが岡山のマスカットをお届けします。月曜日に着く予定です。
 秦さんにはもう少し涼しくなる十一月には、お酒をお届けしたいと思っています。
 ポスト小泉も全く期待がもてず腹立たしく暗い気持ちになっています。
 建日子さんを含めて皆さんの御健勝をお祈りしています。  元


* 秦様の貴重な作品が消えてしまったこと全く残念です。
 加えて、私は何時もホームページを通じて「社会」との関わりを持たせていただくことが出来、今後も貴重な意見を拝聴できることを糧とも楽しみともしてき ました。
 BIGLOBEの会社に対し憤りを感じるとともに、全面的に信用を失いました。BIGLOBEを利用することは今後一切しないと決意しています。
 私個人は何のお力にもなれないこと申し訳ありませんが、きっと有識の方々がお側に沢山おられて、良い解決になることを切に切に願っています。
 ご夫妻の心の傷が心配です。それがお体に障りませぬようにまさに朝夕祈っております。 
 今日は喜多六平太記念会館で「佛原」と「菊慈童」を見てまいりました。緑泉会の例会で、菊慈童は坂真次郎先生が舞われるはずだったのですが、夏に急逝さ れ「偲ばれる」会にもなり、緑泉会主宰の津村禮次郎師が勤められました。
 緑泉会は女性の方が活躍なさって、日ごろとは違った舞台が新鮮でした。「佛原」のシテなど優しい舞姿で、他の舞台でももっともっと女性の力が認められる ようになればと思いながら見ておりました。
 津村先生の小書きのついた「菊慈童」は先生らしいきりっとした軽快な楽の舞でした。秦様にもお心の安らぎとしてお見せしたいと思いました。
 重ねてゆっくりと静かな平安なお時間がありますように、祈っております。お体お大切に。  晴

* みなさんにお返事を失礼している。あまりに何事にも時間が足りない。時間が貴重なのは必ずしも良いことでない。時間など気にならない日々こそよろしく 思われる。




闇に言い置く私語の刻 6.10.1秦恒平  2006年10月01日20:58
* 十月一日 つづき

* BIGLOBE問題、読者からの応援や憤懣の声に続いて、専門家、法律家、学者、技術者等のむしろ弁護士さんを応援する助言等が入って来始め、またペ ンの関連委員会ではもう討議の議題に取り上げようとしている。場合により理事会議題にもなる。わたしのもホームページなら、ペンクラブにもホームページは あり、「ペン電子文藝館」ですら同じ末梢の対象にされかねない。

* 「MIXI」でわたしは「マイミクシイ」を積極的には持っていない。やす香の「思香」が強制的に外されて以降、十人ほどである。「足あと」は自然マイ ミクシイがつけやすい。私の日記など、当初は一日にせいぜい十か十五の「足あと」だった。この八月九月で一気に七千三百を越えている。ビックリしている。

* 読みたい、読まねばならないメールも沢山来ているが、ゆうべの睡眠が少なかった。日付の変わる前に機械を閉じる。


* 平成十八年(2006) 十月一日 日

* 月光。しずかに静かにはじまっている。アシュケナージ。

* 十二時十分、自転車で走り出したら、やがて小雨。谷原の大陸橋まで行き、東大泉、北大泉から北向きに和光市に入り、西へ転じてさらに新座の北から朝霞 市の奥深くを縦横に、つまり地理不案内で足任せに走りまわり、東久留米のずうっと西側へ達して黒目川のふちを。ずぶぬれだったが冷えもせず、まわりにま わって途惑って、やっと家に戻ったら三時十分、三時間走っていたことになる。血糖値は確実に百を割り込んでいた。

* 昨日、冥界の「お父さん」の繪が金澤から届いた、薔薇。今まで描いた中でいちばん好きだと。花のいのちのそよぎをとらえて、目を吸い取るような出来映 えに妻と感嘆。そして、克明な手紙も。

* 昨夜おそく、建日子がきて暫く歓談、また戻っていった。床に就いたのは二時半。それから何冊も本を読んだ。太平記では資朝卿についで俊基朝臣も鎌倉の 手で斬られた。源平盛衰と南北朝の物語は少年の昔から網羅的に頭に入っている。音読しやすいのはあたりまえ、太平記読みは平家読みについで盛行した。ほん とはもっと声を張って読みたいのだが真夜中のこととて憚る。
 唐詩、宋詞、元曲と謂う。元という帝国は極端に尻すぼまりに衰えた国だが、ジンギスカンの子孫の帝王達には、歴代酒色にすさむという悪癖とも宿痾ともい える遺伝があった。ああいうモンゴル第一主義の北方民族も、手もなく中国化してしまう中国の懐深さには感嘆する。
 宋というのはダメ帝国でもあったけれど、どうしてどうしてとても無視できない「文化」とスグリれた官僚政治があった。科挙という制度のよろしさを宋ほど 仕上げた帝国はなかったのである。そして人物も多彩に豊かだった。

* 新しい内閣はもう走り出しているのだろうか。最初の駅は何駅になるのか。安倍警戒の声の高いのは正解だと思うけれども性急に否定するより、一つでもマ シなことをさせたい。

* 昨日「MIXI」の「足あと」さんのなかに、国歌国旗を否定することが即ち知識人だというよくない風が見えると慨嘆している若い女性がいた。これはす こし一概な物言いではないだろうかと心配した。

* 国歌を国旗を「否定すること」=知識人 という評価は、すこしアバウトではないかしらん。議論が一概に流れることはなかなか防ぎにくいことだけれど も、せっかくの足場を自分で崩しかねません。
 わたしも知識人のはしくれですが、国際社会で国歌国旗が必要なのは明らかで、別に愛してはいないけれども、否定していません。例えを船舶の航行一つに とっても、国旗日の丸の重要で不可欠なことは明白ですし、国際的な交際場裡に国歌の吹奏が不可能ではかなり困る事態が多い。否定する知識人がいるとした ら、知識の無い知識人でしょうね。
 しかし、国歌も国旗も不文律の不動の慣行化が定着しているなら、法制化までが必要だろうかと懸念した国民は、決して少なくなく、それも知識人に限らな かった。
 なぜ懸念したか。それは不必要に過度に「強制・強要」という形で、個々の個人の思想信条や良心の自由を奪いかねないと心配されていたからで、法制時の大 きな議論のタネでしたし、政府も役人も、決して「強制・強要」などしないという答弁を繰り返したものでした。しかし、現に強制し強要し処罰さえしていま す。
 国歌も国旗も「国」の「しるし」として用いられるのは当然ですが、国民の力づく統合・管理の手段に使われてはならないものです。公権力がそういうかたち で「私民」の基本的な人権を抑圧するための道具のように使われて、国歌も国旗も決してよろこびはしないでしょう。
 私民を平然と無意味に抑圧して建てられる「公」というのは、自己矛盾なのですから。そういう不幸な事態に立ち至ってなお、国歌国旗は愛国の良きシンボル たり得るでしょうか。むしろそれでは、ただの歌、ただのマークのようになり、それとくらべて「人間の尊厳と自由と権利」とがより遙かに大切なのは自明のこ とでしょうと、私は思います。
 いわゆる知識人が、あまりにレベルダウンしていることは自身も含めて恥ずかしい現実ですが、せめて一概にものを見ず、言わず、しかも本質思考により、何 がより大切かを考えたいと思うのですが、いかが。
 私はこよなく日本を愛していますが、そういう「私民」が決して少ないわけではありませんよ。しかし、愛国という意識過剰を本当に日本を愛するが故に警戒 している人も大勢いて、それは何故だろうと本質思考することもとても大切なのではないかと思っています。

* 秦先生 ご無沙汰しております。
 ブログを毎日拝見していながら、いかがお過ごしですかと書くのもおかしいのですが、けれどもやはり、ご心中を100%お書きにはなれないでしょうから、 私達読者の与り知らぬ部分も含めて、いかがお過ごしですか、と書かせて頂きます。
 めっきり秋めいてきました。
 今年の秋、このあたりでは、なぜか曼珠沙華が例年になく多く禍々しいほどに咲き誇り、娘が「赤い道だね」というくらいの毎日です。
 新学期が始まって早々、娘と同じクラスの男の子が突然に亡くなってしまい(本当に一晩のことでした)、私にも娘にも大きな衝撃でした。曼珠沙華の多さは 今夏に旅立った人が多かったからなのかもしれない、彼岸まで赤い道しるべを作っているのかもしれない、と思ったりもしています。
 でも、昨年は悪阻で食べられなかった庭の茗荷も今年は堪能していますし、もう散ってしまいましたが金木犀かぐわしく、爽やかなよい秋です。
 今日は雨ですが、それはそれで優しい気持ちになれて、こんなふうに珠玉のように平穏な毎日が送れることこそ、本当に幸せなのだと思います。毎日毎日を、 刃の中の綱渡りのように送っていた少女時代の自分に、こんな日が待っていたんだよ、とそっと教えに帰りたいなどとも。
 ここ数年、何度も身近な人のお葬式がありました。そして思うのは、曼珠沙華の道の中をあの世まで持って行かれるのは、ただただ自分自身のやわらかな心だ けなのだと。
 お金やおいしい食事や身の回りのものなどもちろんのこと、悲しみも憎しみも現世に置いていかれる。
 そして、悲しみに比べて憎しみはどれだけ自分の力で制御できるものであろうか、と。
 憎んでも憎んでも、それはなんとはかないことなんだろう、と思います。近年亡くなった肉親の一人は、憎しみを制御できずに逝きました。でも、そんなこと で暮らすのはどんなに空しいか。 と、さわやかな秋風の中、思います。憎む相手を力ずくでねじ伏せても、自分の心は決して晴れないのですから。自分の心が やわらかさを取り戻せるのは、唯一自分が人を許せた、受け入れられ た、と思うとき。
 こんな話はここまでにします。
 実は先生に夏前からお伝えしたいと思いながらも、こんな他愛のない話などお送りしていいような場合でない、と思ってためらっていた話があります。でも、 なんとなく今、お伝えしたくなりました。
 京都に村上重というお漬け物屋さんがあるのをご存知でしょうか(ご存じないわけないですよね、すみません)。先日、お中元に使わせて頂いたのですが、先 方が別宅にいた関係で、お送りしてからすぐに受け取れずに、お店の方に品物が帰って行ったそうです。その後、お送りした方から連絡が行っていついつなら受 け取れます、と日時を言われた時に、村上重さんは、わざわざ新しいものを無償で送って下さったのです。
 京都の心意気を感じました。
京都の心としてもう一つ。
京都のある中堅会社に勤める知人から聞いた話ですが、その会社ではご挨拶に伺う時、ある和菓子屋さんのものを必ずお使いするそうですが、なぜか必ず本店に 買いに行かされる。デパートにも入っている有名店なのに、本店にしか行かず、急用で本店が休日だったりすると、大騒動になるそうです。なぜそれほどに本店 にこだわるのか謎だったらしいのですが、知人は、包装の仕方が微妙に違うということに最近気がついたそうです。デパートで買うと、デパートのシールが最後 に貼られますし、途中包装紙をセロテープで止める。けれど本店ではセロテープは一切用いず、最後にお店のマークのシールをピッと貼るだけなのだとか。もし かしたらお味の方も微妙に違うのかもしれませんが、こんな包装の違いにもいかにも京都を感じます。少しだけイケズのエッセンスの入った、でも豊かな文化を 背負った京都です。
などなど、ずるずると深みにはまるようにあの街には少しずつからめとられてしまいますね。学生の頃に、恋したように通いはじめて、その後、仕事で行くよう になり、いろいろな面を見れば見るほど「おもろいなぁ」と飽きません。
どうでもよいお話をだらだらと失礼いたしました。
人生は自分の力ではどうしようもないことも多いのですが、心の持ちようだけは自分で少しだけ変えられると最近感じています。
実りの秋をお楽しみ下さいませ。 典 卒業生

* 秦さん  あれ程に充実した内容のホームページを、運営者の確認を取ることもなしに全削除するとは、そのような事が起こり得ることに、心底驚愕してい ます。
 デジタル社会における表現の自由は、かくも危うい足場の上に成り立っているという事なのでしょう。権力者による言論統制も、さぞや簡単な事でしょう。
 自分にとっても、この10年近くの大事な歴史が消し去られたようで、どこかにポッカリ穴が開いたような心持です。
 決して許されて良い事ではなく、一日も早い復旧がなされるべきと思います。
 と、ともに、どうぞご心労がお体に響きませんようにと、お祈りしております。  敬 卒業生

* 先生のブログは、私にとって毎日の家庭教師のような存在です。
 それが開けないとは、誠に残念ですし、これまで蓄積された私たちの財産を奪われたような感じで、ほんとうに腹がたちます。
 しかるべき方法による説明もなく、着信したか読んだかの確認もなく一方的に消去してしまうなど許せることではありません。
 法的手続きによってすぐ復旧できると思いますが、電子的著作物の保存の権利について、確実にしておきたいものだと思います。
 一読者として、抗議の手を挙げさせていただきます。  重

* 電力,ガス,水道に電話など社会的インフラは,本来ギャランティのある社会基盤です。
 一方,インターネットはギャランティがないベストエフォートという宿命的脆弱さをもっていながら,今や完全に社会的インフラとなってしまいました。
 プロバイダーがむいている方向は、政府ではなく社会に対してであり,責任は表現の自由の確保なはずですが,残念ながら無自覚すぎますね。
 ネットが誰でも自由に参加して発言できるという市民参加型革命の幻想がいまだ続いていて,過剰に反応した結果が「プロバイダー責任法」という論理破綻な 法律ができたと思っています。
 「責任」のとるべきベクトルが間違っています。本来,決めるべきことは電話と同じ通信の秘密や信書の秘密を保証することだったのではないかとも思いま す。   ペン同僚委員

* やす香さんのご逝去をお悔やみ申し上げます。さらに今回の事件が重なり、さぞおつらいこととお察し申し上げます。
 それにしても、このようなことがあるのですね。
 ビックリしてしまいました。今までのご苦労が一瞬にして消えてしまうなんて、アナログ人間の私には、信じられない出来事です。よりによって先生にこんな 事件が起きてしまうなんて。これを契機に世の中が著作権、ホームページのありかたなど再認識するようになるきっかけになればと願いますが、いずれにして も、先生のホームページの内容は復活できるのでしょうか。当然出来ますよね。
 先生が怒りや、このことで仕事をする時間がなくなってしまうことなどの様々なストレスで、体の調子を崩しませんように、案じております。どうぞあまり無 理をなさいませんように。また、先生の願っている方向に解決するよう祈念しております。    安

* 湖様  心晴れない日が続いていることと思います。
 HPが何らかの形で完全に復旧することをお祈りしております。
 今日は本当に久しぶりに家に閉じこもり、一人で休日を過ごしました。
 「市民ケーン」のDVDをワインを飲みながら見ました。オ−ソン・ウエルズが20代で主演・監督したというこの作品、実は初めての鑑賞でした。
 アメリカで成功を収めたケーンの心象のジグソーパズルの中で見つけることのできなかった1つのピース「バラのつぼみ」・・・・ 。
 人の心の痛みも愛も「親子関係」という逃れることのできぬ人間関係に始まるのですね。
 だれもが完全なジグソーパズルを完成させることは不可能なのではないかと思いますけれども。
 雨が静かに、終わりかけた芙蓉の花に降り注いでいます。
 心落ち着くフォーレのレクイエムを聴きながら、一人の夕食を始めることといたします。   波

* なにごともさっさと退却しようとは考えない、そういう「退屈」は嫌い。しかしそれ重きを置いているかとなれば、じつは、成るものは成り、成らぬものは 成らないとだけ考えている。「退蔵」は本当の人間なら理想としていい最も優れたこと。わたしはねばり強い、が、執着しない。退却はしない。つまらぬことに 吶喊もしない。

* 明日の晩、久しぶりにポーランドから一時帰国中の卒業生と会う。




闇に言い置く私語の刻 6.10.2秦恒平  2006年10月03日01:48 * 十月二日 月

* 小雨であったが、どうしても今日の内に読み上げたい、校正してしまいたい仕事があり、それには空いた電車の隅席に座るのが最も効率の良いのを知ってい るので。山手線は混む。総武線がいい。かりんとうをボリボリ。ペットボトル二本。それで足りる。そして休息。すこし、うとうとしたり。

* 六時前に日比谷のクラブに入り、電話すると柳君ももう有楽町駅についたという。オードブル、中華料理の皿、そして伊勢源の鮨。クラブ十五年の感謝デー でもありシャンパンのサービス。うまいブランデーを飲む。売り出しの珍しいウイスキーを新しく買おうかと思ったら、試飲したほうがいいですよとクラブの女 性に教えられた。二種類試飲したが、二つともたしかに産も味も珍しかったけれど、一つはヨードチンキめく味、もう一つは舌をさしたのでやめた。

* 柳君との歓談はまことに楽しく、ポーランドやEU近国の話もたくさん、彼と彼の愛する家族の話もたくさん、遠慮のない話題でたくさんたくさん話し合え た。彼は明日の朝九時頃には夫人と愛児の待つポーランドへ発つ。二年前の浅草の花火で結ばれた奥さん、そして今年生まれた赤ちゃん。
 彼との初対面は東工大の教授室。彼が部屋のアレンジを引き受けてくれて、教授室らしくなった。あれ以来、ずうーっと途切れない親交がつづいて、まだまだ 未来に及ぶ。
 柳君同様の若い友達がまだまだ何人も。どんなに彼等にわたしは慰められたり励まされたりしてきたことか。

* BIGLOBE問題では敢然裁判に及んで、この微妙に大事な問題に画期的な判決を取って貰いたいという意見が或る大学教授から縷々寄せられている。ペ ンの委員会も正式に召集された。

* わたしのホームページ事件は、一例が、「ほらがい」の次の加藤弘一氏提起のようにも、課題や問題として展開して行く。押村とBIGLOBEとが安直無 比に合作した事件は、想像以上に社会的にも法的にも思想的にも文化的にも重いし広い。あえてわたしが文化各界に此の件を「通知」したのも、わたしに具体的 な指摘こそできなくとも、途方もない大事を孕んでいると感じ取れていたからで、またそういうことのあればこそ、わたしは日本ペンに「電子メディア委員会」 を創設した。だが、まだまだこの問題意識は一般には共有できていない。時代の先端を成している問題なのである。いつものように加藤産にはお許し願って問題 を少しでも人の目に映したい。

* アカウント抹消事件と直接関係ないのですが、ネット資産の保存継承という点で、国会図書館の中途半端なWebアーカイブ事業についても議論した方がい いのではないでしょうか?
 ホームページの場合、ローカルなマシンにデータが全部残っていますが、blogの場合、大半の人はデータのバックアップは取っていないと思うのです。
 したがって、アカウントが抹消されたら、その原稿はこの世から完全に消えてなくなります。
 意図的な抹消でなくても、事故などで消えてしまう場合もあるでしょう。
 これはとても恐ろしいことです。
 アメリカに archive.orgがありますが、カバーしているのはごくごく一部です。
 本来、国会図書館のWebアーカイブ事業がカバーすべきだと思いますが、著作権問題と言論を萎縮させるという反対論のために、行政機関のサイト限定に なってしまいました。
 ペンクラブとしては明確な立場はとらなかったと思うのですが、Webアーカイブ事業はネット資産を後世に残す切札として、条件づきで推進すべきではない かと思います。
 条件というのは公開時期をサイトのオーナーが選択するということです。
 すぐに公開から、十年後の公開、百年後の公開、二百年後の公開と選択肢を作り、何も選択しない場合は二百年後の公開にします。二百年後なら、著作権問題 も言論の萎縮の問題もなくなります。
 ネットのデータは日々消えています。
 今の価値観で「便所の落書き」でも、後世の見方は「違う」可能性があります。
 数百年後、数千年後まで残すには国会図書館しかないのではないかと思います。

* ブログ消失のメール拝見しました。 甲子
 当時はさぞ REメールが氾濫する、と予想されましたので、いままで控えておりましたが、内容には驚愕しております。
 当初、20日ごろは、私の機械の不具合か扱いが間違ったか(過去にもありましたので)と軽く思いましたが、IGLOBEのsearch画面からメイン画 面へと、ついと移行するのを見て、ああ、これは以前に「いつ、ふっと消えるか」と仰せられていたように、これはまさしく文字通り「闇に言い置く」をいまこ の場で実践されたのか、と思ったものでした。そうして「お身内」愛弟子など少数の方には発表の場として「自身のブログ」を開設せよ、と予告してあったのだ ろう。などと下司の勘ぐり、お許しください。
 それにしてもプロパイダが勝手な判断で個人の無形財を削除・消失させるなど、驚くべき暴挙であり、許し難い行為であります。多分その裏には何らかの魔手 が伸びているのでしょう。こうなると、引用・転用など迂闊にできなくなり、恐ろしくさえなります。
 あたかも新政権は、憲法・教育・組織犯罪法など、じわじわと、1930年代へ逆進しつつあるようにさえ思われます。加えて世間は、親殺し・子殺し・・・
 人類の狂気はいまに始まったことではありませんが、一企業が個人の築き上げたものを奪い、己れの意のままに操作するなど、将に狂気極まれり、という他あ りません。
 万全の構えで、断固戦い抜かれるよう、祈ります。
 微力にて、思いつく案などありませんが、これに関してお力になれることあらばお申し付けください。
 体調、損なうことなきを祈ります。    甲子
 
* ずいぶん拝眉の機会を得ませんが、湖の本やホームページで、いろいろご教示いただいておりました。
 メールさせていただいたのは、このほど刊行した編著の一部で、やす香さんの早世についての私なりの驚きと印象の一端を、対談のなかでではありますが取り 上げてみたからです。
 いちおうお名前は伏せたかたちで紹介させていただきましたが、当然ご存じの方にはわかることであり、先生にもご確認いただいて、不適切な箇所などありま したらご指摘いただきたいと考え、事後ではありますがお知らせする次第です。
 いずれにしても、今回の出来事には胸をつかれ、ことばもありません。
 心よりやす香さんのご冥福を祈るものです。
 また、お嬢様夫婦との問題についての先生ご夫妻のご心痛も想像を越えるものであろうと拝察され、ただただ穏やかな解決を祈るものです。
 このほどはホームページも強制的に閉鎖されてしまったようで、様子がわからなくなってしまいましたが、くれぐれもご自愛専一を念じております。 敬具    前阪大教授


* 以前に「著作権」の文字と「朝日子」さんの文字を認めた折、二重の意味で心配しておりました。
 この度のことは遺憾としか言いようがありません。
 牧野氏のお話は、数年前に飯田橋の消費生活センターで伺ったことがあり、ネットの著作物もありますから、最適な方ではないでしょうか。
 それにしても、プロバイダの見識のなさには驚くべきものがありますね。譲れるのは、最大限当該部分の削除というところでしょう。
 悪質な書き込みのようなケースとは、あきらかに異なるわけですし、全体を見れば、いかに貴重なコンテンツかは誰の目でも判断できるもののはずです。それ を・・・
 通知の確認という回路が用意されていないのも、今回初めて知りました。失礼な物言いを恐れずに、言えば、消費者問題として、ネットの課題の一つが明確に なってきたとも言えます。プロバイダの方とご一緒の消費者教育の仕事も経験がありますので、一度訊ねてみようと考えます。まだ勤めて居ればの話しですが。
 一ついえることは、完全消去までは、あるいは多少の日数を見ているかもしれませんので、牧野さんが当然着手していることかと思いますが、保全の仮申請を することかもしれません。
 最悪は、読者に呼びかけて、各自が保存しているファイルに共通書式ののタグをつけるなどして、集約復活をめざすということもありますね。当然これも想定 済みとは思いますが。
 何かお手伝いできることがあれば、お申し越し下さい。あまりお役には立てないかと思いますが、気は心ということで。
 無理だけはなされませんように。  拓 栃木県




闇に言い置く私語の刻 6.10.3秦恒平  2006年10月04日01:06 * 十月三日 火

* 昨夜電灯を消したのは三時半だった。宋史、遼史、金史、元史「四史」の研究史など面白く読んでいた。旧約聖書と千夜一夜物語の対照感覚も、相変わらず 刺激的。太平記は後醍醐笠置蒙塵。幼稚園前だったか、町内会の遠足で笠置の岩屋までのぼったが、菊人形で歴史の語られていたのがおそろしく怖くて、泣き出 したのを覚えている。あの日は母と一緒だった。母が紫の地の縦縞の着物を着ていたのも懐かしく思い出せる。そしてバグワン。

* もし人が自由であれば、その人は自然である。道徳的であろうなどと考えたりしない。道徳とは、いいかえれば掟としての法の意味にちかい。自由な人は法 に従えなどと人にも自分にも言わない。自然であろうとすら言わずに自然にふるまう。法的・道徳的人間は、自然じゃない。そうはなり得ない。もし怒りを感じ ても彼は自然に怒ることができない。法にすがり道徳をふりかざす。もし愛を感じても彼は自然に愛することができない。法に触れないか、道徳に障らないかと 逡巡する。道徳や法にしたがってものごとを律したい人の、自然でありえたためしはない。
 人が自身の自然にしたがってでなく、道徳や法のパターンに従って動こうとするとき、その人はとうてい自然であることの最も高い境地には至れない。
 バグワンは、そう言っている。わたしはバグワンに日々ひたすら聴いている。
 我が家にバグワンをもちこんだのは大学時代の朝日子だった。仲間と瞑想・瞑想とさわいでいたが、本をちらと開いてみて、これは彼女や彼等にはとうてい手 に負えないと感じた。あっというまにみな抛たれて、パグワンの本は物置に投げ込まれたまま朝日子は結婚した。
 娘の結婚後に、それも朝日子のいわく押村高の「暴発」のあとに、わたしは物置からバグワンを救出して、以来今日まで正月と言わず盆と言わず、ときには旅 先でも、欠かさず三冊五冊七八冊に増えたバグワンを毎晩毎晩音読してきた。学ぼうとしてではない。わたしの思いでは世界史的な優れた人だと感じているの で、ただただその言葉を聴いている。バグワンによって何かを得ようなどとちっとも願わない。ただただ読むのが嬉しくて読みに読み次いでいる。

* わたしは喜怒哀楽にさからわない。喜怒哀楽する自身を開放したまま自分がどう動いたり静まったりするかを、ただ眺めている。海は絶え間なく動いてい る。川は絶え間なく流れている。雲は絶え間なく去来する。同じように思考は、分別は、また感情は働き続けているが、自分は海辺に座って海を眺めている人の ように、川岸に座って川の流れをただただ眺めている人のように、雲の動きをただ眺めて見送っている人のように、海のような川のような雲の空のような自分自 身を、ただ眺めている。
 好きにするがいい、と、自分で自分に言ってやる、あんたを「眺めているからね」と。

* 「MIXI」に、自分の写真を載せていた。自分だけでなく結婚後の娘朝日子と仲良くにこやかに旅を楽しんでいる写真を載せていた。それを見るのが、お かしなことに、近ごろの嬉しい憩いであり心和む一ッ時であった。のに、「内容証明」の手紙で、三日の内に「削除」しないと「法的手段」に訴えるとまた朝日 子に威された。情けない話。
 弁護士先生は肖像権を認めている法は法であるから、削除して下さいと。
 法のまえには悪意も優情もごちゃまぜ。法は「三章」つまり三箇条もあれば足りているのだと古代の人は喝破した。今の時代は、やたら尻抜けの法を立てに立 てて、大勢の「私」の情意を一律に踏みつけて行く。

* 唖然としています。私はてっきり、「調停」が始まったシルシかと受け取っていました。恒平さん側に、ホームページを一時的に削除した方がよい、という 判断があった、と。
 それなら騒がず静かに待とう。そう思っていたところが・・・。大変な世の中になった、と思います。
 相手は、それを、「生きる最大の目的」にすらしている感じです。
 どうか、相手の息の根を止めても、止められることのないよう(事故、病など)、くれぐれもご留意ください。
 『聖家族』を本で読む日を待っています。  バルセロナ 京

* 有元様  すばらしいマスカット頂戴し家内が大喜びしております。有り難うございます。わたくしもおいしく頂いております。
 自転車で走っていましても、武蔵野はすっかり秋の空です。
 お互いに元気で歩んで行きましょう。 秦生

* 市役所で印鑑証明をとった足で、元保谷の中央郵便局の角を自転車で南行、まっすぐ関前を越え、玉川上水に突き当たってから、真西へひたはしり、武蔵野 市、小金井市を通り過ぎて、一時間半経過したところで北へ転じ、初めての道を小平市に入り、清瀬市まで北行後、東久留米市、ひばりヶ丘を経て帰宅。二時間 半ちかく走っていた。
総じて快適だったが、東久留米からひばりヶ丘への途中、なぜか狐にバカされたように田舎の道を堂々めぐりしてしまうのがワケが分からない。

* 夜は、女刑事雪平夏見の「アンフェア」二時間半ちかくを見た。凡百の刑事物、警察物の安いドタバタや人情ものやパタンものに比するなら、だんとつ異色 のクウォリティーを持っていて、ドラマとして引っ張られた。原作は秦建日子『推理小説』としてあったけれど、このテレビのスペシャル版は、前の放映連続ド ラマ「アンフェア」をほぼ独自に脚色していた佐藤嗣麻子の作品のように思う。
 いくらか気になるコンピュータ万能ぶりで、いかに公安といえども、十数年二十年前の日本のコンピュータ駆使の水準は、サイバーポリスにはほど遠かったと 思うけれど、まして中年を越していたろう雪平刑事の父親などに、どの程度の技術またどんな優秀機がありえたかと気にはなるけれど、概して、しっかりドラマ は構造化されていた。篠原涼子の女刑事役には、もっともっと乾燥した硬質の芝居をさせてみたかったけれど、魅力は十分発揮していた。




闇に言い置く私語の刻 6.10.4秦恒平  2006年10月04日21:58
* 十月四日 水

* ブッダもソクラテスもイエスも、自身で書きのこしたものは、伝わっていない。弟子達の記録しかのこっていない。そんな「記録=経典・聖典」には、自 然、記録者や側近の仲間達の「解釈」と「誤解」とに充ち満ちている。その証拠に同じブッタの後進達、イエスの後進達は、師の死後に忽ちに数多い「教派」に 分裂して行く。よほど優れた徹底を得た人には、それら「解釈」や「誤解」や「曲解」を適切に正しうるだろうが、他の誰にもそんなことは不可能だ。
 「聖典」「経典」が本当に「役立つ」のは。徹底しえた人にだけで、彼等はアハハと笑いながらいろんな経典を聖典を、フンフンと読んで自在に字句を、趣意 を取捨できるだろう、だが、普通のわれわれ凡人には、そんな成典も経典も全く役に立たない。ただ道徳めいた教えを「箇条」にしてどう掬い取っても、それは 受け売り用の知識に過ぎない。少なくも宗教的な高みや深みへは、かえってそんな知識が邪魔にこそなれ、何の役にも立たない。せいぜいこの世間で「いい人」 らしく見えるようになるかも知れないが、狂信の厄介人になってしまうだけかも知れない。
 わたしも随分経典や聖典を「勉強」してきたけれど、受け売りの知識は蓄えられても、何の安心にも寄与しなかった。そもそも、安直に寄与する物はそれゆえ に本質的に役に立たない。役に立つ知識ほど、死んで行くものには役には立たない。あしき意識だけが過剰になる。身構えてしまい待ち構えてしまい、しかし、 そういう構えた人の所へはなにも訪れてこない。神も仏も悟りも安心も。そして結局「間に合わない」で終わるだろう。「間に合わそう」としてもダメなのであ る。

* 芹沢光治良の『死者との対話』は、あの戦争に駆り出された学徒、また敗戦後の悩み深い学徒たちの、「哲学」というものに対する深刻な「不信」を、一つ の、主要な話題にした問題作であった。
 京都で学生だったわたしは大学院で哲学研究科に籍をおいたが、あっさり見棄ててきた。少しの悔いもない。恩師は、きみは教授になれる人だから院に残りな さいと何度も言われたけれど、頭をさげて、妻になる人と二人で東京へ出てくる方を選んだ。そして小説家になった。哲学は、美学は、わたしの「魂」に何の役 にも立たない。わたしは広い意味での「詩」人になりたかった。そしてただ「待つ」人、「一瞬の好機=死生命」を待つ人になろうとしてきた。

* 繰り返し書いてきたけれど、二十世紀最大の哲学者といわれた或る哲人は、ヴィトゲンシュタインは、哲学の最大有益の効用・効果を喝破し、「哲学が何の 役にも立たないという<真実>をついに確認したこと」こそ人間に対する大きな「哲学の貢献」だと言っている。含蓄がある。哲学の否定ではない、哲学の 「先」への示唆だ。
 その通りだと双手をあげてわたしは賛成する。
 あれが「月=真如」だと指さす「指」は、なんら「月」ではない。哲学はその「指」にやっとこさ成れはしても、そんな指や手で「月」は捉えられない。そん な哲学で、人をほんとうに深く高く救いあげた事例は、世界史上ただの一例もないのではないか。「南無阿弥陀仏」の一言の方が、まだしも無数の人を安心させ た。しかし「念仏」というつまり「抱き柱」を人に与えただけであり、一種の催眠術的な宗教効果であったに過ぎない。むろん、それでも、なみの哲学より遙か に優れて人を安心させはした。ありがたいと思う。

* 今、「憲法と言うものは市民の人権を守ると言う意味よりも、公権力の力を制限する目的のものです。」と説く或る学生、やがて公職に就く人の 「MIXI」日記上で、しごく真面目に、心親しく気をつかいながら、真っ向の「議論」を繰り返している。「MIXI」をより良い意味で利したいと願いなが ら。
 またいろんなものを「書いている」と「MIXI」日記に書いている人には、「ペン電子文藝館」の「読者の庭」へどうぞ評論を寄せて欲しいと、こまめに依 頼している。まだ一人も書いてはくれないけれど。
 なんでわたしのように、作品を「MIXI」に公開しないのだろう、書いているが世に出ていない人達は。潜在的には「六百万人」も読者が可能なのに。書い たものを両腕に囲って隠していてはダメだ。絶好の発表場所として利すればよい。個人のブログでしこしこと書いていても誰も読めない。
 原稿料も出ないのに…。そんなことを思ってちゃ、ダメだ。「MIXI」はだれでも読みに来れる。むろん何を言われるかも知れないが、それには堪えなけれ ば。

* 孫・押村やす香の「著作権相続人」とBIGLOBEにより、原稿用紙にして優に六万枚を越す「ホームページ」を、文字どおり無残に全削除されてしまっ てから、もう二週間が過ぎた。
 幸か不幸か日記「闇に言い置く 私語の刻」だけは、急遽此の「MIXI」へ移転させたが、過去八九年のものは読んでもらえない。
 東京地裁の「審訊」がやがて始まる。この問題は、もうこれだけの私的事件でなく、法的にも社会的にも時代的にも、電子メディア世間の根底へひろがる難儀 な問題意識に包まれはじめている。或る関西の法学部教授は、「徹底的に裁判してぜひ判例をとってもらいたい、日本ペンクラブ理事といういわば時代のオビニ オンリーダーの一人としての責務ですらありましょう」と、何ともごっついハッパをかけてこられている。弁護士のほうへ直接いろんな示唆や意見を送られてい るようでもある。
 「ホームページ」をどう復旧させるか、それとも削除されたままになるか。それがわたしには当面の勝負であるが、問題はもっと大きいことをペンの同僚委員 達はわたしよりはるか前を走って指摘されている。ウーン…。

* 難儀にも、二言目に「告訴・訴訟」と吹っかけてくる押村高夫妻との、わたしは余儀ない「民事調停」という厄介もかかえている。「世間の人」には、よせ ばいいのにと嗤われもしていようが、「今・此処」に生きるとは、そんな賢いだけのことではない。まして賢こぶることではない。ものに、ことに、ひとに、 「真向かう」ということである。

* 秦様  (BIGLOBE事件=)胸中いかばかりかと、お察し申しあげます。
 表現というものへの認識及び評価についての、この国のレベルの低さを改めて感じ、怒りを覚えます。私に何かできることがあるのかどうか、毛頭わかりませ ん。ただひたすら今は秦さんを取り巻く、相手側の行動と認識に怒りを覚えるばかりです。
 若年の私が申しあげるのもおかしいのですが、どうか精神を強く、体をいたわってくださいませ。
 弁護士さんがついてくださっているとのこと、この件についての専門的な作戦については何もご心配申しあげることがないと理解しました。とりあえずは、ど うかお心を大切にお過ごしください。  未来

* どうしていらっしゃるのだろうと、とてもとても心配しています。ご様子のわからないことはこんなにもさびしいものなのですね。湖を想い、胸が痛くなり ます。
 最近考えるのは、成長する過程で、志を棄てる、あるいは変節させてしまう人は多いなあということです。人間やはり志は最後まで貫かなくては生きた甲斐が ありません。世渡りは下手でもいいし、成功なんてしてもしなくてもいい。志を高く持ち続ける人になれたらと。
 今どのような豊かな世界に遊んでいらっしゃいますか。どうぞお元気で、ご無理なさらずにお過ごしください。 秋

* 元気です。涼しく成ってからは飛び回ってます。
 十月一日は、宇治の茶祭りで**さんにお会いしました。帰りに、友達の染めの展示会へ、雨のなか古門前まで行って来ました、「懐かしい道」を通って来ま した。
 15日から26日まで南アフリカへ行ってきます。元気な内にと思っています。 門

* 佳い茶室のあるを幸い、わたしは高校に「茶道部」を創って、多いときは二十人を越す部員に、高校生のまま裏千家の茶の湯を教えていた。教えてよい資格 はもう持っていた。中学の茶道部でも、叔母の稽古場でも、教える体験は積んでいた。釜もかけた。
 このメールの人は、わたしの三年生だった年に一年生でクラブに入ってきた。最も優秀な弟子の一人であった。宇治の茶祭りで会ったという人は、わたしと同 級生で、これまた優秀、自慢の弟子二人であり、二人とも今もお茶の先生をしている。同級生の方は卒業後叔母の社中に入って、私と一緒にながく稽古をつづけ た。二人とも「湖の本」をずうっと支援してくれている。
 二人でどんなわたしの噂をしたことか。
 
* 「女文化」という言葉を創って著書を出したのはわたしだった。京都の文化に首までつかって育ったわたしだから「女文化」という有りそうで無かった一つ の概念を提示できた。育った家も、育った場所も、環境も、またわたしが進んで関心をそそいで身につけた和歌も茶の湯も物語も、「女文化」であった。わたし は、率直なところ男はあまり好きでない。厚かましくいえば……あ、やめておく。

* 申し込んでおいた『雅親卿恋絵詞』が届いた。フフフ…。幸か不幸かもうわたしの役には立たぬ。
 以前、或る国立の大学教授お二人と小学館版の「日本古典文学全集」にかかわって鼎談したことがある。そのときに一人の先生は、用の済んだ後の歓談のため に、それは見事にやわらかに描かれた枕絵巻を持参して見せてくださった。あれにはだいぶ負けるし、なにより原本のかなり精巧なしかし複製に過ぎないのだか ら仕方ないが、巻物で繪と詞とを我が物で読むのは初体験。妻には見せないが、いずれ息子にやってしまう。息子は見ないかも知れないが。

 


闇に言い置く私語の刻 6.10.5秦恒平  2006年10月05日15:23 * 十月五日 木

● 「美しい国創り内閣」の発足 (安倍内閣メルマガ創刊準備号より)

 こんにちは、安倍晋三です。
 私は、毎日額に汗して働き、家族を愛し、未来を信じ、地域をよくしたいと願っているすべての国民のための政治をしっかりと行っていきたい。そのために 「美しい国創り内閣」を組織いたしました。

* はなはだアバウトで論理を欠いた提唱であるがね「国民のための」の一語を記憶しておく。関連してわたしの持論を書いておく。日本の法律のすべてに、 「国民による国民のための」という角書きを付けて欲しい。立法の時も改正の時も例外なく。それにふさわしい「法」を起こし運用して欲しい。まちがっても 「政権・公権力の政権・公権力による政権・公権力のための法律」は、断じて御免蒙る。ところがこの五年十年のうちに建てられた名前だけはもっともそうに美 しい法律には、法の下に国民・私民をねじふせ、法の下に公権力の野放図な安定をはかるそういう悪法が平然と強行成立されてきた。
 安倍内閣が真に「国民のために」何をするか、目を離すまい。

●  かつて、日本を訪れたアインシュタインは、「日本人が本来もっていた、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋 に保って、忘れずにいてほしい」という言葉を残しました。

* アインシュタインの「ご挨拶」を無にする気はないが、久しい歴史のいまだかってどの時代に置いてもこんなアバウトな日本人観で日本人が理解できた時代 は存在しない。せめてわたしの『日本を読む』を読んで考え直して欲しい。政治家がこういう一概でうわっつらの美辞麗句を利用するとき、秘めた悪意にこそ警 戒しなければならなかった。
 安倍氏の言には、相対化する智恵が働いていない。もしそれを一方の「美徳」と観ずるなら、他方に日本人の抱え持ってきた「悪徳」「欠点」の認識も働かね ばウソになる。人間は一人なら美徳の持ち主らしいのに人数が増えれば増えるほど悪徳の平然たる発揮者に変容して行くものだ、付和雷同そしてご無理ご尤もの 「日本人」であったし、今正に苑頂点へ来ている日本だとも認識できていないのでは、優れた宰相とは謂えまい。
 そもそもなぜ引き合いにアインシュタインか。他国を訪れた人たちの「ご挨拶」は、俳諧のへたな挨拶句よりもっと空疎な美辞麗句に流れて無難なことは、当 然の儀礼とされている。むしろ日本の宰相として謙虚に聴くなら、上杉鷹山などの厳しい国政観などを、新井白石などの現実と理想とを兼ねた政治姿勢など引用 してこそ、困難の前に「身を引き締め」られたろう。

● 日本は、世界に誇りうる美しい自然に恵まれた長い歴史、文化、伝統を持つ国です。アインシュタインが賞賛した日本人の美徳を保ちながら魅力あふれる活 力に満ちた国にすることは十分可能です。日本人にはその力がある、私はそう信じています。
 今日よりも明日がよくなる、豊かになっていく、そういう国を目指していきたい。

* 私もむろんそう信じたい。望みたい。総理は、歴史観においてつまり「上昇史観」の持ち主であるのかただに期待がそうなのかは、俄に推測できないけれ ど、日本人の歴史観は、早くも安土桃山時代までは顕著な「下降史観」であった。誰も天皇以上にはなれずに、官位にも極官が重い不文律になっていた。土地と いう所領をどう多く望んでも、日本列島には限りがあり望みはガンとして物理的に阻まれていた。そして末法末世の観念がいつも人を現世的に弱気にした。ます ます「魅力あふれる活力に満ちた国にすることは十分可能」などとしんじられた日本人は権力者にもいなかった。政治・経済・思想において頭打ちは目に見えて いたからだ。
 安土桃山時代になり、キリスト教が入ってきた。天皇以上の「神」の存在に人は仰天しながら頭の上のひろがる思いをした。信長も秀吉も家康もみな内心の癪 の種を落としていた。そして世界の広さが目に見えてきたとき、秀吉のように足らない土地・領土は他国の切り取りで拡げればよろしいという姿勢に出た。日本 は天皇に任せておくが、世界へ出て世界の王になるのは勝手だというぐらいに秀吉が考えたのは、日本人がはじめて具体的に「上昇史観」を手にした事実上の最 初だった。だが、それも鎖国でしぼんでしまい、徳川幕府の搾り取り政治・管理政治で、まただれも「希望」など見失った。
 阿部総理の上のノー天気なほど楽観的な姿勢には、じつは、歴史観の思いつきに等しいほどの貧弱、というより欠如が心配される。信じるのも目指すのも口先 では簡単だが、「日本人にはその力がある」と言うとき、日本人をほんとうにノヒノビと内発的に、力強く、日々幸せに政治が生活させているか、まっさきにそ の反省がなければなるまいに。今の日本は、ひと頃よりも半世紀分ほど反動的にあと戻りしている。変わったのは機械的な便利さだけで、便利という実体には、 少なくも五分の利に対し五分の猛毒が籠もっていると想わねばならない。大学は品位と自負をうしない、思想も哲学も払底し、宗教は衰弱。そして教育は政治の 玩具にされている。

● 世界の国々から信頼され、そして尊敬され、みんなが日本に生まれたことを誇りに思える「美しい国、日本」をつくっていきたいと思います。

* 戦争時代の教科書にも新聞にも先生のお言葉にも少国民達の綴り方にも、こんな言葉ばかりが氾濫していた。
北朝鮮の放送が、いまもいつもこんな風に喋っている。安倍さんのこれは、北朝鮮みやげの日本語なのかと失笑する。
 アメリカ仕込みの憲法だとおっしゃるが、憲法には人間の理想と祈願も籠められているし、憲法が憲法であるあいだは、総理はそのもとで総理なのだと忘れな いでいて欲しい。
 わたしに言わせれば、戦後、アメリカに仕立てられ、アメリカふうに徹底して動いてきたのが「自民党」ではないか、と。同じリクツをつけるなら、自民党改 正ないし廃棄の方が、「先」であって当然だろう。
 
* 
 >>国公立というものは、法律関係において特別権力関係にあります。(簡単に言うと法律の手続きなく、ある程度の人権を制限することができ る関係のことです。父は国立大学の憲法学者ですが、この意見には否定的
 私も否定的です。
 昔の、高等学校や帝大に根付いていた大学自治や学問思想の自由という理想は、日本では崩され続けて今日に至っていますが、どの段階で見ても、公権力の抑 圧や抑止政策が本質的に良く働いた事例は皆無で、時代の悪しき傾斜に追い打ちを掛けた嫌いがあります。
 国公立に属するがゆえに多少の人権が制限されたり抑圧されたりしても当然という考え方は、けじめや歯止めがきかなくて、これまた「無惨な歩み」をみせて きました。公務員個々人の良識と道義心と忠誠心が求められること自体は理解できますが、公職にあるから憲法の認める基本的人権までが阻害されては逆立ちで あろうと思います。
 >>憲法と言うものは市民の人権を守ると言う意味よりも公権力の力を制限する目的のものです。
 運用という意味ではそうかもしれませんが、理想において、やはり国民の権利と安全を確保するための憲法であると私は思っています。
 したがって現実に公権力のシンボルのような総理大臣や都知事が、憲法に制限されるどころか、憲法を、呼応して足蹴にしていることで、憲法軽視の風潮を助 長しているなど、犯罪そのもののように私は感じていますが、どうでしょう。
 少なくも国公立・公職・公務員というものが、度を超して公権力に隷従させられる傾向の強まって行くのは、おそろしい気がしませんか。

* 秦恒平様  ホームページの完全消滅、大変驚いております。プロバイダのあり方の問題で、今後多方面に関わる課題ですね。
 もし、こんなことが許されるなら、誰も安心してHPを立ち上げることができなくなりますし、悪意の第三者あるいは
権力者がこのように自分に都合の悪いHPを消失させる可能性もあります。本人の意思確認と削除の根拠についてのきちんとした方針あるいは基準の設定が求め られます。
 どうか、これからのプロバイダのあり方について、利用者全ての人々のためにご健闘下さいますようお願い申し上げます。  女子大学学長

* 10.2 
 いかがお過ごしですか? 十月になってしまいました。旅行前に車庫に移動して夏を越した鉢植えの植物を庭に戻して、オランダで買ってきた球根と日本水仙 の球根など早く植えようと思っています。が、まだまだ藪蚊に刺されて・・すぐ退散。
 この街の展覧会に間に合わせようと思って50号を描き始めたので、やはり集中的に進めないといけません。
10.5 
 早くHPが回復されるのを期待してインターネットを毎日チェックするのですが。解決には時間がかかるのでしょうか。
 外出が二日続いたので、今日はじっと部屋にいます。昨日夕方からの雨も降っていますし・・。
 昨日は湖東三山に。
 百済寺の十一面観世音菩薩、金剛輪寺の聖観世音菩薩、西明寺の薬師瑠璃光如来、ほぼ五十年ぶりの秘仏ご開帳が九月半ばから今月27日までというので思い 立ってでかけました。どのお寺も石段を上り下りして大変?でしたが、木々の緑に囲まれて静かな佇まいでした。・・十一月の紅葉は素晴らしいけれど人で溢れ るでしょう。
 殊に感動したのは百済寺の観音様でした。後の修復なども加えられて、また岡倉天心、フェノロサが寺社を調べたときもこの仏様は秘仏のまま開扉されず、何 の「評価」もされないままだったため、重文でもなんでもないが飛鳥奈良時代に製作されたことがうかがわれると、住職様の説明。腕が長いのが、お顔の小ささ でいっそう際立って。十一頭身だそうです。唇をわずかに尖らせて、拝む一人一人に語りかける表情でした。絵葉書なども何もないのが残念、そして手元の『観 音総鑑』にももちろん何も載っていませんから、がっかり。
 金剛輪寺の小さな黒い端正なお顔と、肩から下は荒削りのお像も心に残りました。
 湖東三山には三回ほど行ったことがありますが、今回はどのお寺も内陣まで入ることができました。
 今回は日帰りのバスツアーに一人で参加したのですが、三人の女の人と言葉を交わしたら、三人とも連れ合いを亡くされた方たちで、わたしより五歳から十歳 年上・・淋しいけれど、それ以上に今は気楽で幸せと。女は強い? 複雑ですね。
 PS,向源寺の十一面観音様は、今月初めから東京の博物館に行かれていると思います。行く機会がありましたらお出かけください。   鳶

* こういう便りがなつかしい。
 自分の日記をひとに上げる、それが最良の信愛のしるしだと西鶴が作中に書いていた。鳶はむかしから日記を送ってきてくれる。

* * 私は、湖の魅力を作品中にも深く感じます。書かれたものに人間のエッセンスが凝縮されているように思います。私の知る限り最高最良の日本語の一つ です。
 湖は谷崎と実際に逢いませんでしたが、谷崎の魅力を誰よりご存じです。谷崎は湖という読者がいたことで、さらに輝いた。現実に逢わなくても深く逢うこと のできる関係はいくらでもあるのだと思います。
 言い換えると、凡女の場合、才能より実物のほうがまだマシであるという情けないことなのかもしれません。
 先日、ウッディ・アレンの「マッチポイント」という映画を観ました。太陽がいっぱいによく似た話ですが、犯人がまんまと逃げおおせるところに、ウッ ディ・アレンらしい痛烈な皮肉があって、なかなか面白かった。
 セクシーな魅力満点の愛人が主人公と逢い引きするたびに「あなたは私とセックスしかすることないの」と怒るのが印象的でした。ラストシーンの笑いの苦 かったこと、ちょっと類例がないくらいでした。
 今日は雨なのに、箪笥の着物類の更衣に励みました。単から袷に。一日延ばしにしていましたが、旅行前になんとか出来てよかった。着物は季節の決まりごと が多いので大変ですが、秋からは本格的に着物が楽しめます。でも、お稽古以外に出かける場所もなさそう……。
 湖、ご無理なさらず、どうぞお元気でお元気でお過ごしください。  秋

* 海外へ遊びに行くのは、女、女、女。美しい日本の世界的進出のツモリだろうか、安倍総理に聞いてみよう。

* エドワード・ノートンとアンソニー・ホプキンスの映画「レッド・ドラゴン」は、ジョディ・フォスターとアンソニーとの秀作「羊たちの沈黙」の前編に位 置して、劣らぬ力作だった。釘付けにされた。

 


闇に言い置く私語の刻 6.10.6秦恒平  2006年10月06日15:26

* 十月六日 つづき

* 「MIXI」で此の「私語」を読まれる人達のために言っておきたい。わたしは、平生此の「私語」を、一日中、随時に書き足している。それで足りないと きは、同じ日付で「つづき」「つづきの続き」を書くこともある。「書き足されて」いることが多いので、同じなら、それにも注意して下さいますように。

* マイケル・ダグラス映画を特集しているらしく、彼の映画なら何十度観てもぜつたい厭きないで心から楽しみ感銘を受ける作品がある。『アメリカン・プレ ジデント』だ、シビアな作ではないむしろロマンティックな作り話である。だが、シェファード大統領のクライマックスの演説は、それへ向かう姿勢は、もっと も優れた大統領と、もっとも優れたアメリカとの理想とを、きっぱり表現してくれている。アメリカ憲法の理想とする基本的人権と真の自由について遺憾なく 語ってくれている。悪意に満ちた発言もアメリカではゆるされている、自由の名において。それに真っ向立ち向かう自由もゆるされている、アメリカでは当然 に。もっとも悪しき政策をうちだす権力に対して、国民の自由と基本的人権を蔑(なみ)する権力の悪意に対して立ち向かうとき、国旗を焼いて抵抗することも またゆるされているのがアメリカの自由でありアメリカの憲法に許容された自由であり権利であり良心であると、此の大統領は語る。闘うべき相手にむかい闘わ ないことを、恥じよと。

* 一両日前、親族内のトラヴルに悩んだある女性が、テレビ番組の中で四人のゲストコメンテーターや司会者に親類の誰それを非難して泣訴していた。話の中 味はわたしは聞いていなかったが、親類の誰かがむちゃくちゃに自分の悪口を言いふらすらしいとは、すぐ分かった。ゲストの主なるひとりの或る作家が、しか し、テレビ番組であなたがこういうふうにその親類を非難して悪く言えば、それはもうお互い様ではないか、と。
 こういう論法をわたしも何十度となく聞かされたが、バカげていると思う。理に合わないバカげたことを一方的に言いつのるバカに向かい、どんなに正当に反 駁し反攻し反論しても、それは相手の域に身を落として「どっちもどっち」になるだけだから、やめた方が賢いと。
 わたしは、こういう賢こそうなものの考え方が嫌いだ。大嫌いだ。むろん無視してもいい。しかし完全と立ち向かってもむろんいいのであり、どちらも自由 で、時宜と状況に適しているならどちらの道を選んでも良いのである。「どっちもどっち」だから恰好の悪いことは止しておこうというのは、むしろ姑息で卑怯 な逃げ腰に終わりやすい。それでいて、ものかげではブツクサ愚痴がつづくなど、これぞ愚の骨頂である。
 人間の自由はふくざつで微妙な価値であり、時代により時に悪徳でもありえたが、悪しき沈黙はつねに姑息である。怒らねばならぬと信じるなら、怒って良 い。憎むべきは憎めばこそ、愛や慈悲の意義にも近づける。ただし、怒りにも責任があり、憎むのにも責任がある。責任を果たす覚悟が有ればそこに怒る自由も 憎む自由も生きてくる。自由という基本的な人権の基本には、喜怒哀楽の美しい開放がなくてはならない。その抑圧をよしとする考え方にはいつも力ずくの危険 がしのびよる。無価値な断念や妥協が人の魂を蝕み始めるほど素早いことはない。 


* 十月六日 金

* 田中真紀子をはさんで民主党の菅直人と岡田元代表とが阿部総理を追究していた。田中真紀子が喋りすぎずに鋭く深く聞いては追い込み聞いては追い込んで くれると、もっとよかったと思う。菅直人の分は聴きそこねた。岡田の分は戦犯論議で、阿倍の不毛のごまかし答弁のまことしやかな無意味さに呆れてしまっ た。大臣というのは、率直に素直にモノを言うと損をするとの価値観に髄まで染められた人種がなるものらしい。

* ようやく秦建日子の新刊『アンフェアな月』を読み上げた。十日もかけたか。
 これだけ読むのに時間をかけさせた、それが、今回の本の顕著なマイナス点であろうか。それはわたしがいろいろに忙しかったからか。
 端的に言えば、前作同様、前作よりももっと、映像用の大胆なコンテ、一篇の物語の動的なシノプシスに類していた。作者の得手を存分発揮した、要領のいい 「ト書き小説」であるところは、前作『推理小説』よりも徹している。時間に追われてやっつけてしまうには、この作者にこの手法は効果的に向いている。
 「ト書き」は、簡潔に動的に映像・画像や演劇の舞台が目に見えるように把握する、まさしく「文藝」の一種であり、この著者は、多彩に経験的にその「藝」 にたけている。文体の動的な統一をこの方法は、一見とりやすそうで、実は実に難しい。いいかげんにやったなら、収拾のつかない「説明羅列」に陥る。
 それにしても作者は、その得意技で「小説を終始する」トクをとったけれど、また、それにより喪うソンの方も犠牲にしたのではないか。その「思い切り」の よさで、作品が自律し自立したけれど、文学的には半端な印象も否めない。
 この作者は、前作『推理小説』で、初めて「ト書き小説」といういわば文藝の新ジャンルを開拓して見せた。それは事実として動かない。だが、在来の文藝、 優れた文藝がかかえもった、「読む喜び」の味わいをも、此の手法で発揮するには、まだ「文藝」そのものが足りない。当然、はなはだ「読む喜び」は希薄に なっている。走り書きの「あらすじ」を走り読みさせられるような錯覚に陥る。
 とはいえ、字句や章句のなかには、ずいぶん面白い、耳目を惹く「表現」が意気盛んに、しかも落ち着いて散らばっていて、決して索然としたただの「ト書 き」ではなく、新味も深切味も文章として決して味わえないわけではない。大げさに認めて言うなら、「新しい文体への、これも試み」かなり「有効な試み」で あるのだろう。大事な意欲の表れと解釈することで応援しておく。
 だが、ちぎれちぎれにしか読ませなかった散漫な弱点はやはり覆えない。譬えて謂うと、投げ出された一つかみの、くしゃくしゃの紙切れ、それがこの推理小 説の原体。その紙の皺を興味を持ってのばしのばし、作者と読者とで前へ前へ歩いて行くのだが、最後に、すうっと最後の皺をみーんなのばしきって見せて、あ れれ、たいした紙ではなかったんだ、と少し拍子抜けする。結果として、面白い珍しいお話を堪能したという程の思いは、させてもはらえなかったのである。秦 建日子の作だからわたしは読んだけれど、人の本なら読まないか、途中で厭きていたかも知れない。
 今度の作では、前回とちがい、作者の「述懐」がときどきややペダンチックにでも露出していて、それを面白い、興有りと受け容れるか、深みもなくちっとも 面白くないと見棄てるか、どっちに読者がつくかは、わたしには一概に言えない。わたしという読者はそこへ行くと、やはり特別の読者であり、おお建日子はこ んなことを言うか、思うかと、次元を異にした興味にもひきずられる。
 さて女刑事・雪平夏見が、前作でよりも一段と魅力的であったか、というと、難しい。すこし水気をふくんで、あの硬質に乾いた、敲けばカンと鳴るような魅 力はややうすれ、普通に近づいたのではないか。この作者が昔に田中美佐子という女優を使って書いていたテレビドラマの女刑事程度へ、気分、退行していたか なあとも思うが、映像ではどうなるのやら。
 それにしても、こういう風に、実験的に文藝・文学を作って行く意欲は、凡百の推理小説氾濫の中では、すぐれて良質に満たされているのは間違いなく、孤独 では有ろうがその意欲は金無垢にたいせつなものと、わたしは声援を惜しまない。
 しかしまた、この作品のように、はなから安直に映像化期待に隷従した文藝・文学は、わたしには、本質、頽廃現象であるという基本の評価を、くつがえすこ とは出来ない。息子と同じ年に『みごもりの湖』を書いていたとき、「映像化」など、できるものならしてみろ、できるもんか、とわたしは思っていた。新潮社 の担当編集者が映画化権がどうのこうのと話していたときも、腹の中でわらっていたのを思い出す。
 秦建日子のさらなる新作をわたしは、だが、楽しみに待っている。そして旧作ばかりでなくわたしの新作も読ませてやりたいと心掛けている。

*建日子には、わたしがいま「MIXI」で連載している「講演集」の、ことに文学・文藝に触れたものには目を向けていて欲しいと願っている。朝日子にも同 じである。同行の我が読者にもむろん同じ気持ちでいる。

* やはり、いま「MIXI」で連載している長編『罪はわが前に』は、わたしが書いた長い小説の中では、久しく作者自身読み返すのをやや羞じらうもので あった。瀧井孝作先生がこれを大きな文学賞に推したといわれたときも、嬉しいより身をちぢめて羞じらった。不出来を恥じたのではない。あまりに自身の魂に じかにふれていたし、「私小説」そのものと当時も今も読まれて反論のしようがない。電子化原稿の校正を目的に今度此処へ持ち出してみて、わたしは少年の昔 のママに、胸を鳴らし続けているが、なにより、書いている筆付きの若い意気に今こそ気が付く。若いということの健康な魅力を自身の中に再発見する。
 ヒロインは「あなたにしか書けない文学を」と、二十年ぶりリに再会した「宏」に望んでいる。有り難いと思う。
 その有り難いヒロインを、作中の「姉さん」を、この作品ゆえであったのかも知れない、「離婚」させてしまったかも知れぬと人づてに聞いたときの衝撃は凄 かった。その実否は今のわたしには確かめようがない。しかも一番下の妹は残念無念、亡くなったともやはり伝え聞いている。この作の校正は、寂しくも辛くも ある。

* 四国讃岐の方から、やす香を偲んですばらしい梨を下さった。都内の読者からも、霊前に豊かに供華を送って下さった。

 


闇に言い置く私語の刻 6.10.7秦恒平  2006年10月07日23:44
* 十月七日 土

* すばらしい秋空。西を向くとサングラスでも眩しくて顔を背けるほどの夕晴れ。
 保谷中町から真っ直ぐ南行し、三鷹駅をこえ、太宰治の禅林寺も左に垣間見たまま、さらに調布市中へ突っ込んでいった。今日は多摩川をめざしていたが、四 時四十分、人に川まではと聞くと、もう二十分ほどと。家からちょうど一時間分来ていた。もう日暮れは早足になる。断念して、ひたすら北行に転じた。そのつ もりであったが、突き当たったのはかなり西へ振っていて、玉川上水の境三丁目。で、境浄水場の前を北向きにまっすぐ走り続ける、と、田無の真ん中へ。右折 して保谷新道を走り、名物の「かりんとう」をまた一箱買って、家に帰り着いた時は、とっぷり暮れていた。
 入浴、「宋学」「朱子学」を読む。すこぶる興味深し。宋以前、中国には体系をもった哲学は存在しなかった。佛教の体系に比して、儒も道も思想の構造とし ては散漫だった。北宋にいたってやっと周学が成り朱子学が成った。十三世紀の思想体系としては宋学は世界に冠たる重量を誇っていた。禅宗との想像を超えた 親縁関係にあるが、朱子学は、禅とちがい絶対の境地よりも、時間・空間・運動などをトータルに相対化した把握に長けて実践的である。理を謂い礼を謂い、生 活に理想の規範を与える。あくまでも儒で、禅とは質的に異なっているが、通うモノをもっている。
 禅の達磨だと、瞬間から瞬間を内発的に生きるというところを、宋儒なら、無極から太極へ、太極から無極へ動き静まり、それが生活だと謂うだろう。中庸、 そして礼と理と。想像したよりも宋学の境地は現実に足場をおいて難解ではない。達磨なら「あなたこそ真理だ、どこへ動いて行く必要もない、行ってはならな いのだ、真理は我が家にある
のだから」と言うが、宋学は「運動」に世界の働きを、また人の働きを観ている。

* 「MIXI」の新しい講演録には、源氏物語『桐壺更衣と宇治中君』をとりあげた。中日新聞社が名古屋で主催した連続講演『源氏物語の女達』の、開幕第 一回を引き受けたもの、わたしの源氏物語「読み」をとり纏めて話した。 

* 今回のホームページ『作家・秦恒平の文学と生活』のプロバイダ「BIGLOBE」による無断の削除事件をお知らせ頂き、事の重大さを痛切に直感致しま した。膨大な文化遺産がいとも簡単にこの世から消滅することがある。誤操作とか人間のミスとかではなく『意図的な行為』で。
 高度な知識産業に携わる企業人、経営者の倫理観の欠如。非常識極まりない行為のように思いますが、『電子の世界』では一瞬にして情報が無に帰してします ことが常にありますから、今回は『バックアップ』などの処理は全くとられていないのでしょうね。
 驚きのみで根の深いこの事態へのいい智恵は浮かびませんがどうか健康を害されないように、お体をご慈愛下さい。
 もし消去したのは「表向き」だけで『データのコピー』が何かにとられている(良心的に)ようでしたら有り難いのですが、現場の操作員、責任者がどこまで 事態の重要性を認識してこの分野の仕事に携わっているかという企業倫理
の問題もありますね。情報化社会の大きな社会問題であります。 川崎 e-OLD

* もう程なく地裁の「審訊」がはじまる。ペンの委員会での討議も、日程が決まった。「民事調停」は私事に類してているが、この「審訊」は問題としての周 縁がひろい。

* いくらかボーゼンとしている、睡眠を欲しているのかもしれない。三連休で、休んでいる人は大勢。わたしも休んだ方が佳い。で、寅さん映画を楽しんだ。 妻もわたしも贔屓にしていた、最近は余り顔を見ない中原理恵がマドンナで、寅さんの常のパタンを少し変え、詫びたなかに良い情味の心優しい一編のロマンで あった。釧路、霧多布・根室、中標津などと、懐かしい地名や景物が画面を流れて、わたしは徳内さんやキム・ヤンジァまで思い出していた。

 

闇に言い置く私語の刻 6.10.8秦恒平  2006年10月08日23:08
* 十月八日 日

* 快晴と強風のなか多摩川をめざして三鷹駅から南へ調布市内を走ったが、なかなか川に出逢えず、また回れ右して、武蔵境駅の南の方から延々北行、二時間 四十五分ほど走って帰宅。入浴して、「宋」の時代の文化を復習。

* 茶碗があるのだから中国人も茶をのんできたことでは、大の先駆者であった。いろんな茶の製し方も飲み方も識っていた。『茶経』もある。ただ飲茶のふう に、日本の茶の湯のように作法を創り上げたかどうかははっきりしない。中国はある時期には他を圧して佛教の勢力がつよかった。しかし結局生き延びたのは禅 宗だけであったと謂えるかもしれない。禅院には学僧たちの日常を律する「清規(しんぎ)」がつくられ、これが宋儒のとくに大切にした中庸の礼または理にち かい規範であった。宋の大学とうでは学生達の生活の規範として、清規に類した「学規」を用意した。学規といえば、我が家の玄関には、会津八一がかつて自宅 にかかげて寄宿の学生達を律した、八一自筆の「学規」が掲げてある。 
 禅宗の坊さん達は座禅の睡魔をはらう卓効の飲料として茶を愛好したから、清規においてやや飲茶、喫茶の作法めくきまりが無いわけではない。日本の茶の湯 の、作法としての濫觴はその辺に求められていいのかもしれない。
 八一の書いた「学規」を、わたしに下さったのは、もと日中文化交流協会の理事長を務められた宮川寅雄先生であった。わたしは両三度先生のお宅を訪ねてい るが、そのつど、いろんなものを頂戴した。南洋の土で唐津の作家の焼き締めた渋い湯呑みは逸品である。先生が自作の、天山ふうに焼いた筆架も洒落ている し、ドンキホーテのような乗馬の仙人像もとぼけている。画もなさり、「杜ら」と署名の何枚かを頂戴している。非合法時代の強烈な闘士でもあられた先生は、 温厚そのものの文人で美術史家でもあられ、先生の晩年、可愛がっていただいた。わたしも甘えて何でも申し上げた。
 宮川先生や井上靖先生の頃の日中文化協会は、存在自体に貫禄があった。白土吾夫さんが専務理事でどっしり要を締めていた。みな亡くなってしまった。
 今日、文藝家協会の会報ではじめて知る迂闊さであったが、巌谷大四さんが、もう一月も前に九十歳で亡くなっていた。嗚呼なんということ。井上先生夫妻と いっしょに中国へ旅したお仲間の、長老であった。井上先生、白土さん、巌谷さん、清岡卓行さん、辻邦生さんと、あの一行の半数が亡くなってしまい、井上先 生夫人、伊藤桂一さん、大岡信さん、私、そして協会から秘書として同行の佐藤純子さんがのこされた。
 あのとき訪れたのは、北京と大同、そして杭州、紹興、蘇州、上海。思えば遼や金の、また南渡した宋の故地であったのだ。あの旅のことは昨日のことのよう に覚えている。
 二十年目に訪れた中国では、西安が珍しかった。秦の兵馬俑もまぢかに見てきた。院展の松尾敏男さん、バイオリンの千住真理子さんらと一緒だった。

* 茶のはなしにもどるが、茶の功徳として上げられる、一は覚醒効果、二に消化薬の効果、三に性欲などを抑える効果。そんな茶を飲んでいる坊さんに、上の 功徳をきかされ茶をすすめられた牛飼いは、ヘキエキして断ったそうな。一日中働きづめで夜眠れないのでは地獄。貧しくて僅かしか食えないのに食い物が腹の 中で消え失せても地獄。まして性欲がなくなればほかに何の楽しみ、女房にも逃げられてしまう。ハハハ。

* よくまあと呆れるほどSPAMメールが洪水のようにまた流れ込む。そしてその中に、まともな知り人のまともな用事のメールも混じっているのは、とんだ 迷惑。

 


闇に言い置く私語の刻 6.10.9秦恒平  2006年10月09日13:59

* 十月九日 月

* 「MIXI」連載の『罪はわが前に』は上巻を終えて、以降の中巻下巻は割愛する。わたし自身が息苦しくなってきたので。で、思い切りよく一九六九年の 第五回太宰治文学賞受賞作品『清経入水』を連載することに。講演は『桐壺更衣と宇治中君』を。わたしの源氏物語「読み」の一つの到達点を語っている。 「MIXI」を利してわたしはわたしを開放しようとしている。新しい優れた後進たちとの出逢いの場に、アクティヴに、仕立てて行ければいい。足あとをみて いると着実に真面目そうな「いい読者」に出逢いつつあるような気がする。わたし自身の「MIXI」を清め浄めてゆきたい。

* 『太平記』の音読に快く惹かれている。いまは巻第三、東国勢がいよいよ赤坂城の楠木正成に当面する。子供の頃にどんなにか惹き入れられたか。少し思い 上がって言うのであったけれど、二十年前にわたしが「秦恒平・湖の本」を旗揚げしたときから、この「出版への叛旗・謀叛」と叩かれた実践を、「わが赤坂 城」と自覚し名付けてその旗を今も降ろしていない。二十年、八十八巻まで来てまだ落城していない。まだ千早城は健在に温存されているのだから我ながら健闘 してきた。六波羅の両探題と目していた東版・日版の今がどんなであるかわたしは知らないけれども、わたしは、湖の本の実に山中の小城にもおよばないささや かな闘いを通して、単に事業としてでなく、一人の男として自由自在に生きられる喜びも得てきたと思う。

* 湊川の戦に果てた正成をわたしは「あかんやっちゃなあ」と嘆いたこともあるが、正成は、昔から今まで好きである。身近である。しかしながら太平記の称 賛する正成とは異なるべつの正成像、実像のあることをも、わたしは積極的に受け容れている。
 太平記は憚ってそうは描かないけれども、楠木が鎌倉の被官であったこと、根は鎌倉方に在ったこと、鎌倉に背いて後醍醐天皇との間に連繋が出来ていったこ と、それはそれで少しも可笑しいとも、卑怯だとも思わない。この時代降参と反逆とは少しも珍しくない当然の処世であり、そういうことをしていない有力武士 の方が少ないぐらい。
 それに正成が「悪党」と呼ばれる悪党の意味は少しも悪人の意味ではなく、この時代を特色に満ちて生きた一部土豪や下層武士たちのじつに興味有る処世を謂 うたまで。
 わたしには、なにより正成たちが、観阿弥世阿弥など猿楽の徒とも血縁というにちかい連絡を保っていたらしいことも、すこぶる面白い。彼の武略・知謀の根 底には、根生い地生えの民衆の支持もあったことを推定しなければ理解が拡がらない。
 「あかんやっちゃ」とわたしの嘆くヤツが、この南北朝・太平記の時代にはいっぱいいて、尊氏も義貞も北畠もみんな例外ではないけれど、正成のそれは、共 感に値するモノも最後まで持ち得ていた。生き疲れたんやなあと思っていた、子供の頃から。湊川にたつ途中、「わが子正行」を「青葉しげれる」櫻井の駅で故 郷に帰した「訣別」の真意にこそわたしは感じ入って、その後の南朝の善戦に固唾を呑んだ。 
 幼稚園国民学校のはじめごろ、近所の子供達の競って唄ったのが「青葉茂れる櫻井の里のわたりの夕まぐれ」であった。源平合戦と南北朝。やはり時代の覆い かけていたネットからは、遁れ得なかった。それでもわたしは、軍国少年とはほど遠い心根を抱いていた。同じ頃にひそかに読んで胸の奥に畳み込んでいたの は、白楽天詩集の厭戦・反戦の長詩『新豊折臂翁』でもあった。「京都」育ちのわたしを、文学へすすませた原動力は、「平家」と「折臂翁」とであった。

* なんとかして多摩川へ到達してみたいと思い、二時五十分に家を出て西へ南へとひたすら走って、小平霊園を南へ抜け、一橋学園駅から国分寺市へ南行した もののどうも多摩川の気配は遠すぎる感じで、またも断念し、国分寺市から三鷹線を東へ向かい、少しずつ北へ東へと帰って行った、新小金井街道を北へ、また 小金井街道を北へ、花小金井四丁目から新青梅街道を田無方面へ戻って行ったが、またしても左へ折れ込んでいったのが失敗、道に化かされてまた新青梅街道に 逆戻り、仕方なく礼の保谷新道をかけぬけて元の保谷市役所前を通り帰宅。二時間四十分を越えていた。血糖値を前後で計ったところ、運動後は半分以下に減っ ていた。
 入浴して、世界の歴史を読む。

* 戴いた北海道の毛ガニの三杯目をおいしく、妻の隠していた日本酒を特別にもらって、機嫌宜しく。

* 北朝鮮の核実験実施に、各国の反応は厳しい。日本政府は安倍総理の訪中訪韓ということもあるにせよ、官房長官による声明も一番遅れた。「京ことば日本 の政治」らしく、自分の意見はせいぜい言わないか、人のあとから曖昧な表現で差しだす。
 核実験は論外、目が離せない。
 日本ペンはどうする気だろう。以前、核の問題に対しては「原則」として声明を出すと理事会で決めていた。文士が原則でことを決めるのかと嗤ったことがあ る。

* それよりも、最近気持ちの、ことに悪かったのが、教育委員や学校長達が徹底して「いじめ」による自殺を「いじめ」とは認めたがらなかった事件。
 あそこに限らず、コレまでにもこういう事件は何度かあった。そのつど「いじめ」はなかったとしつこい弁明があった。それでも結局謝りに行っている。
 「いじめ」という言葉をつかうことに社会的な誤魔化しがあるのでは。苛酷な「差別」があった、そして自殺に追い込んだ、のではなかろうか。ところが「差 別」という言葉を避けてしまい「いじめ」と謂って、マスコミもはぐらかした物言いをする。
 わたしは京都で育った。丹波に疎開生活もした。わたしの文学の根底には「差別」を非難する姿勢が根付いている。『清経入水』も『冬祭り』も『初恋』も 『北の時代』も『親指のマリア』も『四度の瀧』もみな差別の糾弾小説だと謂える。小さい頃から差別を目撃してきた、体験してきたとすら謂わねばならない。 水や川や海に思想の根底を求めて泉鏡花を意識するのもそれだ。
 どんな土地にもどんな環境にも「差別」がある。誰もが意識しながら誰もが口にはしないで「いじめ」ている例がある。とんでもないことだが、在る。
 七通も遺書を書いていた子、修学旅行で女の子同士から外され男の子の中へ入れられたという子。教師達は失格という以上の加害責任を負わねばならない。弁 解は聴かない。あのような校長や教育委員に「人間」は任せられない。わたしは怒りで何を言い出すか知れない。

* ウルグアイで創った『WHISKY』という映画をワキのノートパソコンで観た。これぐらい言葉のすくない音声の低い人数の少ない動きのない映画を観た ことがない。ウイスキーとは洒落た題だが、写真をとるときのチーズと同じ。その時にしか登場人物は笑顔をつくらなかった。さよう、つくり笑いである。
 遠国から、兄と同じような事業で成功しているらしい弟が、久しぶりに親の墓参に兄のもとへ帰ってきた。兄はしがない自分の工場の、歳のいった従業員に、 弟の滞在中だけ臨時の妻の役をしてくれと頼む。そうして、奇妙に静かでちぐはぐな三人ぐらしが始まる。
 兄らしい気位はある、が、うだつの上がらない寡黙を繪に描いたような愛想もコソもない不機嫌そうな兄。兄の現状を察して援助の手も差しだそうとするすこ し気軽な弟も、兄の機嫌には弟としての気を使いながら、仕方なく臨時の妻役のマルタ、映えない映えない極度に寡黙なマルタを少し喜ばせ、心を少し動かす。
 マルタは、妻を喪っている工場の主人からの「働きかけ」を暗に期待しているようだが、主人にもその気がまるでないとは言えないのだが、彼は動かない。そ んなときに、やや気散じな弟の滞在はマルタにも段々に刺戟である。
 そして弟は帰国してゆく。また前のママの毎日が繰り返されるのだ、しがない町工場の中で。
 マルタは、どうするだろう。
 版で捺したように変わりない、靴下編みの古びた機械が動く工場に、その翌日、マルタは出勤しなかった。機械だけが変わりなくゴトゴト。そこでバサリと映 画は終わる。
 そんな映画だが、世の中には『タイタニック』や『マトリックス』や『風とともに去りぬ』や『ダイハード』や『ヘン・ハー』のような映画が溢れているの に、なんでこんな映画を観ているか。映画の力がわたしをとらえて離さないからである。映画の力学が美学とともに理屈抜きに強烈で途中でやめて投げ出せない のである。

 


闇に言い置く私語の刻6.10.10秦恒平  2006年10月10日08:34

* 十月十日 火

* 歌舞伎座に。幸四郎の熊谷、初役の髪結新三。先月、高麗屋が播磨屋と組み合った『寺子屋』松王丸を観てきた。今度は熊谷。「十六年は……夢だ」と嘆く 熊谷蓮生坊に、また泣いてくるは必定。やすかれ やす香 いのち とはに。
 団十郎久々に「対面」の祐経。 楽しみは菊之助と海老蔵の十郎、五郎。

* 日比谷のクラブに寄ってサーモンも切ってもらい、中華風の酒の肴で、振る舞いのシャンパンと、コニャック。疲れもなく帰宅したのが十一時。

* 歌舞伎は昼も夜も大満足。
 昼は盛りだくさん。「葛の葉」を魁春が姿で演じて、ほろり。この優のセリフは聴きやすいモノではない。以前観た坂田藤十郎の葛の葉がいかにみごとに「恋 しくばたづねきてみよ」「うらみ葛の葉」の歌を障子に書いて見せたかを、つくづく思い知る。門之助の保名は藝の性根がよわく物足りない。
 次の『壽曾我対面』は願ってもない佳い舞台になった。団十郎が大きく高座に居座り、若い菊之助と海老蔵とを堂々と威圧してゆるがず、十郎五郎の気合いも 見事で、楽しんだ楽しんだ。菊之助の美しいこと、海老蔵の勇ましいこと、あれで佳い。あの佳さも、やはり団十郎祐経との豊かな調和の手柄。季節はずれの秋 盛りに「対面」というのも珍しいが、成田屋の堂々とした復活を誰もが祝っている舞台であり、嬉しかった。大磯の虎が田之助、化粧坂の少将が萬次郎というの は、ウーン。そのかわり権十郎の小林朝比奈が、この役者かなり大きく成ってきて、めでたい。
 三つ目がお目当ての「熊谷陣屋」で、引き花道まで幸四郎は悠々としかも熱演、演劇的な歌舞伎ながら、妻相模(芝翫)を、敦盛母藤の方(魁春)を、主君義 経(団十郎)をと、八方にきびきび対応しながらしみじみと悲劇的に事を盛り上げる。幸四郎らしい構築的な舞台運びに真率感がにじんで、やはり泣かされる。
 この舞台での大手柄はわたしは成田屋の義経であったと思う。能で謂えばワキだが、ワキの不出来な、又は小さい能はどんななにシテがうまく演じても一番の 曲が出ない。「熊谷」を、また「熊谷陣屋」という舞台を芯で支えるのは義経であり、義経の眼力であり、義経の策謀であり、義経のそれなりの情けである。こ れを女形に演じられると舞台が小さくなる。団十郎が終始座ったまま、じつに叮嚀にセリフの隅々までを生かし、幸四郎と団十郎と、もう一人弥陀六宗清との取 り組みが大きな建造物の効果をあげた。大立女形の芝翫もさすがだが、今夜の舞台では男トリオのいわば膂力がそれぞれの表情を伴いよく生きた。
 おしまいに仁左衛門の気分良くはんなりとした所作事の『お祭り』は文句なく楽しめた。すばらしい役者ぶりだといつも感心させてくれる仁左衛門クンは。気 持ちよい舞台で、昼の部のいいハネ出しになった。
 昼の食事は例の「吉兆」で。酒はつつしんだが、食事は贅沢に楽しめた。

* 茜屋珈琲でマスターと談笑しながら休息。コーヒーが美味い。カップも、ニンをみて選んでくれるのが嬉しい。

* 夜の部は、先ず『仮名手本忠臣蔵』の五段目で、海老蔵の斧定九郎役がお目当て。圓生の人情話とは稍異なるものの、気の入った凄みの定九郎、仁左衛門の 勘平に二つ玉の鉄砲で撃ち殺されるまで、けっこうでした。六段目は、定九郎を撃ち殺した勘平が、女房お軽の父親を殺したものと早合点のまま赤穂浪士の一人 として腹切って死んで行く。仁左衛門の実と情との芝居ぶりが、すこし愚かしい勘平の魅力をしんせつに表現してくれる。
 勘平腹切りの前に、夫の出世を望みつまた売られ行く身を嘆きつ、菊之助演じる女房お軽がそれはそれは清潔で情愛深い女を見せてくれる。いい女形だ、菊之 助の芝居を踊りをもっともっともっと観たい。家橘の母親役が、とても良いのか一本調子に乾いているのか、分からなかった。女衒の松之助がよく勤めていて目 立った。妻も同じ感想だった。
 次が幸四郎初役の『髪結新三』通し狂言、終盤へ大いに盛り上がって楽しんだ。弥太五郎源七(段四郎)との最後の立ち回りは省いてもよかったかも知れな い、興趣は家主に十五両と初鰹の半身を悪新三がまんまと持って行かれるところで尽きている。あそこで盛り上がっている。弥太五郎源七には気の毒だがあれは あのようにしたたか新三に追い返されて用は済んでしまっている。さぞ悔しかろうが、芝居の力学ではあの閻魔堂橋での立ち回りは蛇足。
 なによりも初役なんて信じられない高麗屋の颯爽、軽妙、凄みの熱漢ぶり、みな申し分なく面白かった。初役という気迫と造型の成功、表現の成功、まぎれも ない美しくさえある新三ぶり。熊谷は幸四郎演劇であったが、意外にも新三は幸四郎歌舞伎に成りきって、当代一の持ち役になるという気がした。明日にももう 一度観たいほど満足した。下剃りの片岡市蔵に感心した。坂東弥十郎の家主は儲けものの大役。楽しんで演じていることはよく分かった。白子屋のいわばヒロイ ンお熊は、宗之助にやらせてみたかった。高麗蔵は昼に武士役堤軍次、夜に攫われるお嬢のお熊と便利に器用に使われていたが、トクかソンか分かりにくい役者 になりかけている。
 この芝居のセリフに、落語でもこれまでの歌舞伎舞台でも、新三が攫ってきたお熊を「なぐさんだにちがいない」というのが繰り返し出て印象深かったが、今 日の舞台では一度も使われていなかったのは、高麗屋が避けたのだろうか。ともあれよく笑い、からりと楽しめた。妻は新三なんて嫌いだというが、悪のわりに はそう嫌われていない気がするのは、黙阿弥の手柄か、ああいうキャラクターを誰もが多少自身に望んでいるからか。存外女のひとにも内心受け容れられやすい 悪漢ではないのだろうか。幸四郎の新三の成功にもそれが汲み取れる。女の客がずいぶん喝采し拍手を送っていた。

* 明日もう一度読み返してみる。もう一時をとうにまわっている。明日は歯医者に行かねばならぬ。今夜は書きっぱなしで、これまで。
 ことわっておくが、わたしの此の「闇に言い置く」は、変換ミスなど少しも気にしないでまず書きっぱなしに書いている。すべて、日数を経てから、日付順に あらめてすべて読み直して、いくらか言葉や行文の感じを新たに改めているのが普通である。推敲の範囲を出はしないけれど。

 


闇に言い置く私語の刻6.10.11秦恒平  2006年10月11日10:17

* 十月十一日 つづき

* 漸と頓との別がある。順々に段々と。それが漸。お薬に頓服というのがある、速やかに即刻に不意に。それが頓。
 たとえば、enlightenment 早い話「悟り」だが、漸で覚るのか。頓で覚るのか。前者には自然に、順序を踏んだいろんな修業や修養が、勉強が必要になる。過去世の好意や罪障に関して勘 定を付けきちんと清算することを求めるのが、漸。そんなことは全く必要がない、そもそも過去世に積み重ねた問題に人は何の責任もない、もし罪障が積み重 なったにしても、それは無知ゆえであり、無知とは勉強が足りなかったのでなく、もともと誰もが完璧に身に備えている内奥の真実に気づかなかった、寝惚けて いた、目覚められなかったからに過ぎない。目覚めればよい、気づけばよい、それだけだというのが、頓。目覚めれば即刻に、瞬時に一切が片づく。それが enlightenmentだと。

* 聖典などいくら読んでも内奥の無知は明るまない。どんな意図的な修行を重ねても決して明るまない。内奥の無知は、内奥で目覚めたとき霧消する。内奥の 闇を瞑想しながら、待つとしもなく待つ、目覚めを待つ。自分は夢の中にいて夢を観ているにすぎない、それに気づけば、それから醒めれば、頓、思わず笑い出 してしまうほど明快な明るさにおいて世界と一つに在る自身の無と実在とが一瞬に覚知できる。
 わたしは、それを待つとしもなく待っている。どんな抱き柱にも抱きつかない。そんな執着はいらない。「今・此処」でわたしは喜怒哀楽・苦集滅道に遊んで いる。受け容れて我が身を通過させている、黙って目撃し傍観し、おもしろいじゃないかと感じている。

* 小雨の中を自転車で一時間半ちかく走り、二度危険な目に遭い、前輪のリムが一本折れた。自転車屋で、ベルとバックミラーをつけてもらうことにし、全体 に整備して貰っている。
 自転車も大いに危険だが、北朝鮮の核ミサイルは東京の西部に照準をとっていて、着弾すれば百万人は殺傷されるだろうと。一瞬の好機ならけっこうだが、ぼ ろぼろになって生き延びては辛いことになる。


* 栃木から美味い新米が二十キロ贈られてきた。ご飯好きのわたしは、とても贅沢な豊かな気分にさせてもらっている。子供の頃、家の米びつにいつも米が 入っているかと、母は心配し、父は感心に米を絶やさなかった。父は他のなにより米の飯の好きな人であった。梅干しはぜったいダメだったが。わたしは梅干し 大好き。滋賀県の読者から毎年ご自慢の梅干しが贈られてくるのが、すばらしく美味くて、わたし一人が、つい摘んで次々に食べてしまう。残り少ないと惜しい なあと思いつつ食べてしまう。

* 来年二月の松たか子主演のジャンヌ・ダルク舞台を予約した。十一月の歌舞伎座は出演者に縁がなかったが、昨日たまたま高麗屋の番頭さんと松嶋屋仁左衛 門の番頭さんとがならんで受付にいたので、高麗屋に仲介して貰い、昼の部だけを頼んだ。松嶋屋は、我当の同級生で弥栄中学などと分かってみるといっぺん に、笑顔。これで今年も東京の顔見世興行が観られる。『伽羅先代萩』の通しで申し分ない大歌舞伎。それに三津五郎がひとりでたっぷり踊ってくれる。嬉しい こと。
 夜の部をやめたのは演目から。『河内山』も『良弁杉』ももう一つなので。明るい内に街へ出て、映画ぐらいもう一つ観て帰る手もある。

* 明日は新宿で俳優座公演のあとが、気の重い打ち合わせ会議。ま、仕方あるめい。   


* 十月十一日 水

* 昨日芝居への行き帰りに読んでいたのは今井清一さんの『大空襲5月29日 第二次世界大戦と横浜』だった。巻頭の「第二次世界大戦と戦略爆撃」のつぶ さな世界的実態にふれて慄然とした。「ペン電子文藝館」の「反戦反核特別室」に戴きたい。

* 宮崎市定さんの責任編輯された「世界の歴史」の『宋と元』を再読してまた新たに多く眼の鱗を払った。面白かった。ゆっくり時間を掛けて読み終えたが 『宋』という帝国の世界史的意義にとことん触れ得て大満足。朝日子に下書きさせた「徽宗」ほど物哀れな末期を遂げた帝王はすくないが、宋というと彼の帝王 としてのイメージの不出来が印象をかげらせがちなのだが、一方、彼ほどの優れた帝王画家は古今に類が無く、わたしは少年の昔から彼の筆と伝えられる「桃鳩 図」や「猫」図にイカレていた。お見事と言うしか無く「国宝」ありがたしという気になる。宋の絵画はたとえ議論が在ろうが北のも南のもわたしは敬愛し親愛 する。精到くまなき白磁や赤繪や青磁などの陶磁の
すばらしさ、書風の個性的な大展開、宋詞から元曲へ展開する白話文藝の絶頂。そういった文化的なことには多年に仕入れた知識があったけれど、優れた科挙の 実施による中央集権の官僚政治体制の独自さ、製鉄の飛躍的な発展を基盤にした商工業の画期的な拡充、そして印刷に置いても羅針盤試行においても、火薬の使 用においても、宋は、ヨーロッパ近代の漸くの追随を尻目に数百年も先んじていた。そして朱子学という思想体系。それらはいろいろの批判や批評を浴びながら も、現代の吾々の今日只今にも具体的な看過や影響を与えていて死に絶えて乾燥した博物館型の文化では文明ではなかった。
 そういうことを、またしみじみと感じ得たのは、別に今更にわたしの日常を変えるような何ものでもないけれど、頭の中が少し新鮮に帰った気さえする。

* さ、歯医者に出掛ける時間になった。

* 長雨から解放されてこのところ秋らしい爽やかな日々、自転車での遠走もはかどるようでございますね。
多摩川を目指して居られるとのこと、このコースが実際可能かまたどれほど遠いのかはわからないのですが、
まず、多摩川上水沿いに(三鷹方面ではなく反対に)小金井方面へ学芸大(大学の中は自転車なら通り抜けられる)のあたりから国分寺、国立方面へ。国立谷保 の先に「滝野川学園」という日本最古? の障害児施設がありその裏手はもう多摩川です。
(昔学園を見学したとき敷地のはしから川が見えた!)
 ちなみにこの滝野川学園の中には古いチャペルと当時のピアノが保存されていて、同志社とも関わりが濃いようです。
 昨夜は珍しく夫婦で明治神宮薪能に招待され行って参りました。程良く肌寒い夜気の中、都心とは信じられない静寂があり、月も出て私は能には無知なのです が、親王誕生を言祝ぐ演目「枕慈童」の面(おもて)は遠目にも美しく輝いていて、私を、うっとり別世界へと導いてくれました。 2006/10/10   藤

* スパムメール他でいろいろお困りのようですが、アドレスを変更なさるなどの対策をお考えになられてはいかがでしょうか。
 ニフティのものはアルファベットと数字の簡単な組み合わせなので、不特定多数に向けての宣伝広告のメールが一斉に送信できてしまう業者の仕様にかかりや すいことになっていると思います。
 私も以前は迷惑メールに悩んでいました。プロバイダに相談し、アドレスを変更しました。
 現在使用中のアドレスはアットマークの前がアルファベット小文字24文字(桁)まで使用可能ということなので
24文字をいっぱいに使ったものにしています。メールアドレスを変更してからは過去二年間に着信した迷惑メールは5通程度に減りました。
 差し出がましい事かも知れませんが、ご提案まで。以上。失礼いたします。  国文学者

* この際、本気で考えたい。感謝。

* 鴉さま 10・10 
 明るい日差しの秋の一日でした。歌舞伎を楽しまれたことでしょう。熊谷で「泣きました」か?
 三連休はふだんより忙しく、一人の時しか機械には触らないし、絵に集中するのもやはり週日です。三日間黙って眺めて、それなりに描き足すところを見定 め、今日は描いてほぼ完成に近づきました。
 「MIXI」で、『太平記』のことを書かれたあとに「湖の本」に触れて、『二十年前にわたしが「秦恒平・湖(うみ)の本」を旗揚げしたときから、この 「出版への叛旗・謀叛」と叩かれた実践を、「わが赤坂城」と自覚し名付けて、その旗を今も降ろしていない。二十年、八十八巻まで来てまだ落城していない。 まだ千早城は健在に温存されているのだから我ながら健闘してきた。六波羅の両探題と目していた東版・日版の今がどんなであるかわたしは知らないけれども、 わたしは、「湖の本」の実に山中の小城にもおよばないささやかな闘いを通して、単に事業としてでなく、一人の男として自由自在に生きられる喜びも得てきた と思う。」とあります。
 ささやかな闘いどころではなかった。現実に本当に出版への叛旗・謀叛とみなされたために、以後出版社という通常のルートからの本の出版が極めて限られた ことは事実で、一読者としてわたしは返す返すも残念で口惜しい。そのような孤軍奮闘をしている作家を、他にわたしは知らない。
 そしてあなたはそれに対して一種の闘いであるとも覚悟しつつ、それに泣き言など決しておっしゃらなかった、弱気になられたことはあったとしても、継続の ための作業を淡々とされていた。その経緯について、遠くから微かにですが、わたしはこの二十年を振り返ることができます。
 より多くの読者の目に触れること。従来の「湖の本」の刊行、インターネットのHPや(目下問題が生じていますが、そしてそれは表現の自由に関わる大問題 なのですが。) mix iを通してさらに拡大、充実していくことを願っています。勿論、「一般」の書籍としても出版されることも願っています。
 「自由」について言及された中で、「悪しき沈黙はつねに姑息である。」と書かれています。これはわたし個人を振り返ってみても、過去現在にわたって大き く重く考えさせられます。が、容易に解決できることでもありません。強い人間になりたいです、真の意味で。なれそうにないので・・なるがままになど思って いるのが実情です。
 北朝鮮の核実験について、インタヴューの答えを聞いていると、実際に問題が生じると人はすぐ短絡的に安易に「愛国的」「戦闘的」になりうることも痛感し ています。
 書かれていた「差別」のこと、人間の意識の中から決して消え去らないものなのだろうと思うようになりました。
 チェチェンの問題に批判的だった女性記者が暗殺されたことにも危機感をもちます。中央アジア、中近東、アフリカ・・至る所に日本では考えられないような 恐ろしく厳しい事態があることを忘れるわけにはいきません。
 10.11
 おはようございます。昨晩送らなかったメールと一緒に送ります。わたしはまだ絵の前にぐずぐずと座っています。今日はわたしも歯医者さんに出かけます。 小さな町の、のんびりした歯医者さんの待合室は、わたしも含めて皆おじさん、おばさん、いいえ、おじいさん、おばあさんが殆んどです。
 栗を頂いて毎日毎日食べています。丹波の黒枝豆、梨、などなど痩せるわけがありませんね。
 どうぞ元気にお過ごしください。自転車、転ばぬように。大切に。  鳶

* やはりBIGLOBEらのやり方は許す訳にはゆきません。京都で再会した友人と話題になりましたが、現在のIT関連法体系の不備は喫緊の要事だとの認 識で一致しました。根本的な対策が確立されるまで、とりあえず貸しサーバー上でのHPのモロサをふまえて、とても面倒なことですが「バックアップ」を日常 化、自動化する以外に方法はないようです。
 本来、創作にそそぐべき精力の一部を下らない下世話な俗物対策にあてるなど、実に情けなくもったいない話ですが、それも自己防衛(読者を含めた文化共有 の)措置として、やむを得ないことなのでしょうか。どうぞ、これからの無駄と思える日々のあれこれも、「秦ワールド」の一部として取り込まれ、文学に咀嚼 するタクマシサで乗り越えられんことをと祈っています。お元気で。  円亀山人

* BIGLOBEとは徹底的に戦ってください。  波

* この22・23日に、岡崎の美術館のジョー・プライスコレクションと、楽美術館の「光悦と道入」展を見に行くことになりました。
 プライスコレクションは、芳賀徹の『みだれ髪の系譜』で知り、オクラホマまででも、見に行きたいと思っていたものですので、東京から、京都にも来るのを 聞き、とてもうれしく思っていました。
 また光悦の「雨雲」写しに稽古中に出会い、形と、命名の妙にしびれていました。
 そして、最近読んだ『湖の本』 エッセイ14の「光悦と宗達」 にも、強い刺激を受けました。
 その「雨雲」と、ほかに「乙御前」・「峰雲」、道入の「残雪」・「稲妻」というような名品の数々が出ているそうです。
 京都在住の友人にホテル予約を頼んだら、この日は時代祭の当日で、いつものホテルもほかもとれないとのこと。日帰りも覚悟していましたら、東山三条の修 学旅行クラスのホテルがあったと知らせてくれました。それでやっと、何とか1泊旅行ができそうになりました。
 夜は祇園の仕出し屋さんが開いている料理屋に連れて行ってくれるそうです。先代鴈治郎ひいきの店とか、福田平八郎も通ったところとか、盛んにPRしてく れました。そのうえ、安くておいしくてきれいなのだそうです。
 私は、いっしょに行く友達があまり京都へ行かない人なので、菊の井に連れて行ってあげようと思っていたのですが、あそこよりおいしいというので、そこに 決めました。
 感想をまたお知らせします。  讃岐

* 歌舞伎と歯医者を済ませて(わたしは今日で歯医者通い卒業!)まだ明日から来週へ、ごった煮のようにいろいろ、続く。十三日の金曜には聖路加の診察。 先憂後楽、さきに楽しいことがあるといいのだが。

* 小雨に降られながら一時間二十分走ったが、二度危ない目に遭い、前輪のリムが一本弾け飛んだ。自転車屋に預け、ベルとバックミラーとを付けて貰うこと にし、車体全部の手入れを頼んだ。明日は自転車走の時間の余裕がない。

 


闇に言い置く私語の刻 6.10.12秦恒平  2006年10月12日11:22

 * 十月十二日 つづき・お知らせ

* ホームページは「審訊」待ちで相変わらず無法な消滅状態にあるが、「MIXI」に加入していない本来のホームページ読者の大勢の中に、「MIXI」で だけ「闇に言い置く 私語の刻」が読み続けられるというのでは、復旧をガマンして「待つ」身には情けない、と言われる人もある。なるほど。これは失礼しました。

* で、「MIXI」での「私語」はやめる。「私語」自体はわたしの機械の中で、日々に変わりなく好きに書き続けられるし、ホームページが復旧したら、即 座に、九月二十日以来書いてきた全部を残り無く転送する。
 ホームページの方でいいから読み継いでみたいと思われる人には、まだ、どんな新しいURLになるか、変わるかは申し上げられないが、メッセージなり、わ たしへのメールの方へなり申し出て下されば、各自にURLをお知らせできるだろうと思います。


* 十月十二日 木

* 安倍総理の官邸メルマガが創刊された。北朝鮮への制裁決定にも具体的に触れてあり、それはそれで、よい。
 一つ聴きたいことがある。
 「国民の安全を守るのが私の第一の仕事です。私はこの問題で決して妥協することなく、強いリーダーシップをもって、私たちの国の、そして、世界の平和と 安全を守る気概です。」
 繰り返しどんな宰相からも聴かされてきた。わたしは問い返したい。聴きたい。「私」と「公」との比重ないし関連評価について。 総理の言は、「私の私」 をまもるべく「政治=公僕の仕事」をすると受け取れる表白だが、間違いないか。「公」権のもとに「私」民を従わせる政治に奔命するのではないのでしょう ね。
 「公と私」とについて明快に所見が欲しい。くだくだしい言い訳の説明は無用。「国民=私」に主権があり「公僕=総理以下官僚」として仕えてくれるので しょうな。

* おはようございます、風。とてもいい天気です。洗濯、洗濯。
 風に逢いたくてたまらないときは、目を閉じてます。 花

* これから家の新築が始まるという。颯爽と花が咲けばよい。わたしたちはあれから三十五、六年ほど経った。まだ花は生まれてもいなかったろう。建日子が まだ赤ん坊の域を脱していなかった。

* 建日子の健康を祈っている。仕事師の仕事の大きな一つに健康管理がある。むちゃくちゃ仕事をするだけではない、「からだと相談」しながら長続きするよ う願うよ、建日子。思いつきの民間療法を無糖何時に試みていないで、本当に佳い医者の身近へ引っ越してでも長期間統一的な診療を受け続けてくれるように。 医者には、幼稚園の児童と博士とほどのピンからキリのあることをわたしは医学書院時代の見聞で知っている。人間は感じ悪いが医学にはトビキリという医者も 世の中にはいる。不条理のようだが現実です。

* 今日は新宿で二つの用事。明日は糖尿の定期診察なので、今日は飲食を慎まねば。

* * 紀伊国屋ホールでの俳優座公演『罪と罰』を観てきた。脚色は難しいとは思うが、おそらく脚色台本を目読しているほうが遙かにコトもよく分かり面白 いだろうと思う。わたしは原作を三度以上読んでいるし、ソ連作家同盟に日本作家として招待されたときは、ラスコーリニコフや殺された金貸しの婆さんのいた という部屋まで、関連の場所をあちこち案内されもしたから物語も臨場感も人よりくわしく知っているとはいえ、今日の舞台では、演じられている芝居の下だか 蔭だかに台本があると言うより、演技者や効果音や装置を利して「台本」をいちいちこまぎれに「説明」して貰っているような舞台に感じた。終始一貫体温の上 がらない、煮えない舞台だった。台本を読めばそれなりに内容を感じさせるのだろうが舞台からは渾然として動的な流れに盛り上がりのあるお芝居ではなかっ た。要するに面白くなりきれないまま終えてしまった。俳優達のアンサンブルもいまいちだった。
 妻の隣に老御大の浜田寅雄さんが、妻の真後ろに加藤剛さんがいた。帰り際、剛さん夫妻に先日の東博での『コルチャック先生』の素晴らしかったのを褒め、 二人の健康を祝してきた。久々に親しく口をききあう機会があって、それが、今日の収穫。

* そのあとの用事は、要するに、ヤボ用そのもの。

* 真理・真実に到る道が、いろんな道が在る、などとそんなことを、達磨は言わない。彼は「あなたこそ真理だ」と言い、それに気づかず無明長夜を眠りこけ 夢を見ながら、ひとかど生きている気で居るだけだと言う。
 真理・真実のために、われわれはどこに「行く」必要もない、「行く」なんてことはやめねばならない。真理の真実のもともと在る「我が家」にとどまり、目 覚め、気づかねばならない。すべて「道」は過った場所へ夢醒めぬ人を惑わせ迷わせる。そして真実からだんだん遠のいてしまう。青い鳥はついにいくら探し求 めても外の世界にはいなかった。
 「あなたは現に在るべき場所にすでに在る。」それに「気づく」ことだと覚者なら必ずそう言う。



平成癇癖談(へいせい・くせものがたり)  2006年10月13日20:45 18.10.13 金

*「闇に言い置く 私語の刻」はホームページ復旧を待って再公開してくれていいが、せっかく「MIXI」でも継続して読んできたのだから、「小説」と「評論・批評」とだけで なく、いわゆる「日記・エッセイ」も続けて欲しいと、新しい横槍が「MIXI」の中から来た。あわや腋を刺されそうになった。
 上田秋成の顰みにならうのはおおけないが、彼に「癇癖談(くせものがたり)」と謂う伊勢物語をもじっての、思い切った「わる口」エッセイの一冊がある。 根がかるいフザケ屋さんではない秋成だから、とても軽妙な読み物とは謂えないながら。かなり当時当節の人気者やエラ者をバッサリ斬り付けている。存念にも その当時当節にもう疎い平成の読者には、江戸川柳よりもまだ通りが悪くなっているのは仕方がない。

* 清少納言は「ひとのわるくち」「かげぐち・うわさばなし」ほど面白いものはなく、禁じるなんて酷よと平然居直っている。わたしは「わるくち」は好きだ が「かげぐち」は嫌いだ。ひとやもののかげに自分は隠れて叩く「かげぐち」ほど卑怯にいやみなものはない。わたしは、広い場所でちゃんと名前をあげて事実 そのものを叩くことはさんざんしてきた。さんざんされてもきたと思う。お互い様であるが、妙にあてこすりに名乗りをいじって逃げ道をつくりながら、へっぴ り腰でやる「かげぐち」ほどいやらしい、虫酸のはしるものはない。

* わたしに『京のわる口』(平凡社)というよく売れた本がある。生まれ故郷の京都に悪態をついた本ではない。京都の人のよく使う・巧みに使う「わるくち =批評語」をたくさん拾って解説しながらわかりにくいと謂われがちな京都の物言いのふくみやすごみを説いた本である。京都の人に「えらいお人やな、あん た」といわれて褒めて貰った気でいたらお嗤い草にされる。京ことばには仕込みの利いた無数のわる口があるが、しんからピュアなほめ言葉はめったにない。金 と太鼓でさがしても「はんなり=花あり=hannaari」ぐらいなほめ言葉には出会わない。いっそ「じょうずにウソをおいいやすなあ」なんてのが、かな り高等な褒め言葉になる場合もある。じつに難しいのである、京ことばをつかうのは。まして確かに聴き取るのは。「ほめ殺す」ということばが政界でいっとき 流行ったが、「褒め殺す」のにつかう言葉は、根が「わる口」であるのは理の当然だろう。むっとされても「褒めてますのやが」とニゲを打つことが出来る。

* で、わたしは此処で何か誰かの「わるくち」を謂いたいのか、日本の「批評語」について論じたいのか、となると、とうからわたしは此の二つを二つとも、 一つは仕事として、一つは楽しみにやりたいのである。だが、此処で二つともは、混線するだけの話。
 それなら清少納言の顔を立てて、思いっきり京都風の「わるくち」を叩かせて貰おか知らんと、待てしばし、此処で立ち止まる。  湖水郎  
 


漫々的 「書いて行く」人との対話 1  2006年10月14日11:35

先日、「足あと」を辿ってだったか、ある人が自分は「こっそり」書いていると述懐していたので、ふと(不図=はからずも)、こんなコメントを入れた。

   *

>こっそりと、いろんなもの、書いてます。

こっそりと にはいろんな「理由」が考えられますので、結論としては本人の自由です。ただ「書く」という営みに何か希望の芯がひそんでいて、それが小説で あれエッセイであれ評論であれ、創作的な性質のモノであるなら、そして人に読まれることに深い希望が有るのなら、「こっそり」は本質的ではありません。
 腕に囲って人に見られるのを嫌い拒んで書いたいた大勢を大学の頃から何十年見てきましたが、大きく自立した一人にも会っていません。
 本当に書きたいなら、風船玉に針先をあててちいさな空気抜きをしていては(変な譬えですが)リッパには爆けません。何がしたいのかを自覚して、駄文を書 き散らさないことが大切です。駄文は駄文の文章をもう抜け出させない毒を持っていますから。
 ごめんなさい余計なお節介ですが、本気で書きたいなら、本気を見定めねばいけません。「MIXI」日記に、過去に書いた自信の文章を公表し、大勢の目に ふれさせてみることもお奨めします。わたしは、読んでみたい。 湖

   *

この若い人は、感じの良い返辞を、メッセージと新しい日記とで下さった。嬉しかった。気を入れて書かれた日記の中に書いて「自分をさらけだしたい」という 一句があったので、もう一度、書き送ることにした。こういう述懐は「書きたい」「書いて行く気」と希望したり漏らしたりしている大勢から聞こえてくる。わ たしは「さらけだす」ということの難しさを知っている気なので、それを伝えるのは、少しでも先に歩き出していた者の、余計な話だが責任化のように感じたの である。

   *

お返事をくださるだろうと信じていました、感謝します。

あなたは、なによりもいちばん難しいことをしようとしていますよ。自分を飾り立てるのは実は簡単なもんです、が、「自分を、書いてさらけだす」というの は、ことにそれを他者に「読ませ・共感させる」というのは、近代文学・文藝の歴史にあっても、成功例はじつに少ない、稀なほどの大仕事です。たいていは逸 れて飾って、つまりウソを巧みに混ぜ込んで「表現」しています。
無技巧にさらけだしてしかも成功した作品を、本格の作でも通俗の読み物ででも、見つけるのは難しく、当然とはいえ、たまに日記、たとえば徳富蘆花や石川啄 木や樋口一葉などにさらけだしていて読ませる力がありますが、日記ですね。

しかし「自分をさらけだす」のに、何も事実を事実のママ書くのが必要でも十分でもなく、仮構や表現を経て、つまりウソを巧みに書き継いでいって見事に「自 分をさらけだして」いる作品は、数多く実在します。優れた作家は要するに皆がそれをやっているとも謂えます。谷崎でも川端でも、太宰でも。ハッキリいえ ば、通俗読み物にはソレが希薄なんですね、だから繰り返し読ませ得ない。

むかし、アランという美学・哲学者が、人間は、素裸であってこそ「さらけだしたほんとうの自分」でありうるのか、衣服を身にまとった姿が自分らしい自分を 真正直に「さらけだしている」のかと、われわれに問いかけていました。

ひとは、めいめいに、想い思いにこの問いかけに答えるような按配に「じぶんを正直にさらけだす」工夫をしてきた、それがものを「書く」いわば方法や課題に なっていたように想われます。

このアランの問いかけに、あなたが、どう答えてきたか、これからはどうか、そういうコトなんじゃないでしょうかね、要点は。

小説家というのは紫式部のむかしから、京都弁でいえば「うそをじょうずにおつきやすなあ」と褒められてきた人種でしたが、ウソをつかずに「自分をさらけだ そう」と頑張りだした明治以降の新しい伝統が、私小説や告白小説です、手っ取り早く謂えば。ですが、なかなか、それは至芸に属する難事でした。瀧井孝作 『無限抱擁』『結婚まで』などの名作がわずかに咄嗟に想い浮かびます。

しかし「私小説」には、事実に即しようとすれば息苦しい限界がかならず生じます。自身も人も傷つきやすい。やはり「素裸」では道を歩けないんですね。

わたしは「MIXI」の日記に『罪はわが前に』という、まさに自分を「さらけだした」小説をこの間まで連載していました。完全な私小説でした。ウソは微塵 も交えませんでした、さっきの瀧井孝作先生がほめてくれた作品でした、が、今回三分の一を再連載したところで、読んでいるわたしの息がつまりそうになり、 途中でやすんでしまいました。

誠実にほんとうに「自分をさらけだす」のはビックリするほどの勇気と、そうですね蛮勇とが要りますね。

ちょっとわたしの気持ちを書きました。「こっそり」書くのでもいいのですが、「こっそり」と「さらけだす」とが撞着していることには、あなたはもう気づい ておられるでしょう。そこが、むずかしいところ。

そして最終の問題は、その「自分をさらけだし」て書いた文章が、「読者」の胸に魂にしっかり届くかどうか、それが一つのリトマス試験紙です。これに成功す ればホンモノです。 お元気で。 いつでも、声を掛けて下さい。  湖

   *

わたしが館長を務めている日本ペンクラブの「電子文藝館」には七百人ほどの近代文学・文藝史の幕末から平成の只今に到るあらゆるジャンルの作者たちの作品 を「無料公開」しているのと全く同じ待遇で「読者の庭」に評論原稿を受け容れ、厳正審査の上で展示掲載しているが、最近若い主婦である静岡県吉田優子さん の「私小説という小説」という評論を掲載させてもらった。この人も小説を「こっそり」書いていたのだけれど、もう数年前からこっそりを抜け出て書き出すよ うになり、ついに評論も書くようになった。作品は、私が責任編輯している「e-文庫・湖(umi)」に他の百数十人ちかい著名な書き手達の作と一緒に、編 集者との検討を何度も経ては次々に公表されてきた。
書きたい人、書いて行く気概の人は、書くものに気稟の清質をこめて、どんなジャンルの仕事であれ本気で取り組まれると佳い、「紙の本」と出版資本とが神話 を警世していた時代では、もう、ない。だが、だからこそ、くだらない駄文の悪癖で自身に固有であるかも知れない天成の文体を枯渇させてしまわぬ前に、人の 胸に届くものを胸をはって書き、人の批判にサラされるように。人に見られている俳優やアナウンサーが見た目よく育って行くように、勇気と誠意をもって書き 表し人にも読まれるようにされるのが、ホンモノへの覚悟である時節になっている。垂れ流しの文章ばかり書いていると、まちがいなく、二度とまともには立ち 上がれない。それが文章・文体の魔なのだから。  湖=秦恒平 
 


漫々的 「書いて行く」人との対話 2  2006年10月15日14:32

* 「人に借りた松本清張を読んで返さねばと思うのですが、あの世界は、どうも馴染めません。せっかく貸してもらいましたが、読んだふりして返そうかなあ」と メールを呉れた人がいた。
 存外に的を射ていて、清張について謂われていること、それが彼の仕事のきつい限界になっているとわたしも思う。「どうも馴染めない」「そこ」を真っ向気 迫で「批評」すると、本格の清張文学論になるのではないか。

* 「ミクシイ」で昨日書いてらしたこと、今度書こうとしている評論に関連しています。
 「告白する小説」と題しているのですが、書きたいという衝動、表現したい欲求は、人間の本能なのではないか、と、あらゆる芸術を見て思うのです。
 自分をさらしたいと思っても、世間の目があるから、赤裸々な表現に仮装が必要で、虚構が生まれたのか、と、はじめ、思いました。カソリック的な抑圧のな い日本では、ゆえに私小説・告白小説が発達したのか、と。
 でも、事実をそのまま書いたものが、事実だからということだけで、成功するとは限りません。
 たとえば、フローベールは、初期に自伝的な小説を書いていましたが、親しい友人に酷評され、奮起して、「ボヴァリー夫人」を書きました。
 そして、「ボヴァリー夫人は私だ」といえるくらい、田舎の人妻を、ある種の人間典型として描ききりました。
 自伝的小説が、あまねく読者にうったえかける普遍性を持ちうるのは、至難の芸が要ることでしょう。
 日本文学の不幸は、このフローベールを批評した友人にあたる者のいなかったことではないでしょうか。

* 佳い反応が得られたとよろこんでいる。

* 「さらけだす」のは至難の藝に属する。その一方で「さらけでてしまう」という垂れ流しも有る。これが多い、が、それは「藝」ではなく藝がないからそう なるのである。自慢にはならない。いちばん気をつけなくてはいけなくて、しかも的確に気づいて制御できないのが、これ。  湖=秦恒平
 


闇に言い置く 遺書として  2006年10月17日00:30 * 十月十六日 月

* イヤな日だなと思いながら起きたが、思い起こせば、十月十六日は、妻とわたしには懐かしい記念の一日だった。四十九年まえふたりで大文字山にのぼり、 大きな比叡山が目の前に見える温かさを思い切り吸い込んできた。あれから二た月とかからず婚約した。一年半足らず後に、昭和三十四年二月に大学を出る妻と 上京して新婚生活を始めた。初冬には妻のおなかに朝日子がいた。
 父となり母とならむの朝はれて地(つち)にくまなき黄金(きん)のいちやう葉
 ひそみひそみやがて愛(かな)しく胸そこにうづ朝日子が育ちゆく日ぞ

* 「なにを達成しようと達成は条件によるものであり、因果によるものだ。それはかならず応報を生じ、車輪をまわす。生死に従属するかぎり、けっして悟り は得られない。」達磨(スワミ・アナンド・ソパン訳)「悟り」はなんらかの原因や修業によって生じる結果ではないし、一定の条件を満たしたときに得られる ものでもない。達磨が「いや、宗教が人々に説きつづけているこれらのいわゆる修行によって、仏性を見いだすことはできない」と言うとき、彼の言明はとてつ もなく意義深い。(バグワン)
 わたしもそう思う。「財宝はそこにある、ただその被いを取り去るだけでよい。」自身存在の内奥に気づき目覚めるということ。無明長夜の夢にわたしは眠り こけている、いまも。夢と気づきかけていても、目覚める、それはいつのことか。あせりはしない。間に合えばいい。

* わたしがいま何を思っているか、当てた人はえらい。子供のとき、そんな風に言い合って遊んだ気がする。

* 昨日だったか散髪してもらいながら、マスターと自転車乗りの話をしていて、わたしが死ぬとすると交通事故が一等可能性が濃いと、あはあは笑ってきた。 新幹線で東京・名古屋どころか京都に着くまでぐらい長時間走り回っているうちには、何度も危ないめを見ている。起伏の多い武蔵野で、えいえい登り坂がある と必ず数百メートルもブレーキを握りしめながら疾走する降り坂がある。降って走るこっちだけではない、登ってくる車と対向するのだから、あの坂で瞬時でも 眼を閉じたなら確実にわたしは大怪我をするか死ぬるであろう。まだまだ用意が出来てないからそうやすやす死ぬわけに行かない、注意の限りを尽くして走って いるけれど、このごろ生きていたい気持はとみに薄れている。妻を安心して息子に委ねられるなら、わたしは、「一瞬の好機」をはやく自ら求めて空中に炸裂し たい。

* わたしの中にまだ闘おうという気と、闘うほどくだらぬことはないという気がある。この葛藤は、しかしたいしたことはない。生きていてもつまらないと思 う気と、生きてなにかしらしなくては、楽しまなくてはという気とが、いっこう拮抗しない無力感にヘキエキする。いやヘキエキではない。だらしなく生きてい るほどみっともなくつまらないことは他に無いよという囁きが、耳の奧に聞こえ続けるだけ。わたしは、「今後の自分」をかつぎながら無意味な未来へ歩いて行 く気がしない、もう。ああそうか…、独りでしか立てないちいさい「島」に、投げ落とされるように此の世に「生まれた」自分なのだし、その島から海のなかへ 独り退散するのは、父母未生以前本来の最期であるのだ、当然だなあと思う。

* ごく最近、ある学会誌の巻頭記事として書いた原稿を、「遺書」のように、此処に掲載しておく。わたしは、こういうことを思い思い生きてきた。こういう ことを思い思い、「自分の家」に帰って行くときが来ている。

* わが「島」の思想と文学  秦 恒平 小説家

 島を見る・島から見る「島の文学」という特集企画と聞いたとき、その主題が、「日本近代・現代文学」のためのものと限れば、何が言いたいのか、正直のと ころ合点がいかなかった。
 「島」と書く限り、それは島である。「シマ」と書けばすこし意味がひろがる。「うちのシマ」を守るの侵されるのということは、ある種「領分」「配慮下」 を意味して、昔から例の親分子分たちの言い分であったし、今も、そうらしい。「島」を、「あの世」の意味で謂う地方もあるが、あまりに特殊すぎて、特集企 画の意図は、そこまで逸脱していないだろう。もっとまっとうに、大島小島、離れ小島、あの島この島の「島」の意味であるのだろう。わたしはそう理解し、お 鉢がわたしへ及ぶとは夢にも思わなかった。
 だがまた、わたしは、ごく限られた範囲でではあろうが、「島の思想」の持ち主だと思われており、わたし自身も繰り返し発言してきた。その「島」も、明ら かに例の島の意味やヴィジョンを離れた島ではない。海に浮かぶ「島」を踏まえたままの「島の思想」といわざるを得ないが、だがしかし、また、やくざ衆たち の謂う「シマ」とも、必ずしも背馳していないかもしれないのである。私にお鉢が回れば、やむをえず私はそのような自分の「島」を語るしか手がない。それで よいという依頼なので、その気で書いて行くのをお断りしておく。

 とはいえ、「総論」ふうにとも謂われている。持論や持説を書いて「総論」とは凄まじい。で、そこへ行く前に、漫然と前置きを書くことも許して頂きたい。

 日本は「大八州国」といわれる。「豊秋津島」とも「日本列島」とも総称され、日本が、東海粟散の「島国」という自覚は大昔からあった。そのような日本で 書かれる文学が、大なり小なり、深くも浅くも、「島」生まれ「島」育ちの文学であり、島にも大小のあることなどを、申し訳のように付け加えることが妙にわ ざとらしいほど、つまり日本は「島」の寄り合い所帯だと認めざるをえない。その世界からとびぬけて出たような文学と、いかにも「島」めく文学とが「分別」 出来ると謂われれば、むろん否定する段ではないが、どんな区別差別が本質的に見極められるか、遣ってみないので分からない。
 島には、陸や大陸とはちがい「狭い」意味、海に「封鎖されている」意味などが、つきまとう。「島国根性」は日本人のぜんぶに言われているので、広い本州 の人はちがう、小島暮らしの人にだけそれを謂うわけではない。そうなると「日本人」らしいちまちました料簡の人物が活躍する小説や演劇は、どこか「島の文 学」だという大雑把なかぶせようも、まんざら否定できなくなり、そしてそんな指摘にはたいした意義の生まれようもない。

 しかし明らかに「島」という環境と時代に取材した小説は、幾らもある。「硫黄島」「八丈島」「沖縄」「佐渡島」「沖永良部島」「隠岐」「対馬」「五島」 「桜島」「竹生島」「伊豆大島」「千島」「樺太」「淡路島」「小豆島」「松島」「厳島」「鬼界ヶ島」「児島」瀬戸内の島々、果ては架空の「鬼ヶ島」まで、 作品の世界になっていない現実の島はないと言って良く、芥川賞や直木賞や太宰賞やその他で評価を受けた作品を思い出すことは、そう苦ではない。しかしなが ら、戦争文学の舞台でもあれば幻想的な舞台でもあり、瀟洒な、あるいは貧窮の舞台でもある。それはもう「各論」的に語られ得ても、どう総論して、かりに分 類などしてみても、それがどうしたというに留まるだろう。一つ一つの作品に触れて「読む」、そして個々に「楽しみ」「感じる」だけのことではないか。そし て、そうなるとことさら「島」の文学という特定に、たいした意義は失せている。残るのは個々の作品の出来と不出来とだけではなかろうか。
 で、わたしは、気の進まない前置きから、この辺で撤退する。以下の発語は、よほど方面が異なってしまうことをお断りしておきます。

 生きとし生けるものは、此の世に「生まれて」くる。この、「誕生」を意味する日本語は、「生を享ける」などと難しく言わない限り「生まれる」の一語しか なく、この「れる」は、文法的には「自然」または「受け身」を意味すると、教室で早くに教わった。また英語の時間には「was born」という「受け身」形で、「生ま・れる」と習った。英語の文法でもっと別の解釈や解説があるかどうか知らない、「was born」は受け身を意味していて日本語に翻訳すれば「生まれる」しかないなあと、敗戦後すぐの新制中学一年生は合点したのである、その余のことは知らな い。

 では、人はどう受け身で「生まれる」のだろうと、私は想った。私はその頃まで、自分が秦家の「貰ひ子」であると人の噂にも重々知りながら、実父母のこと を何も知らなかったから、そういう想像・空想・妄想にはふだんに慣れていて、つまりそれが幼いながら思索・思想の下地を成していた。
 私は、育ててくれた秦家に黙然と服して育った。事実はゆめにも冷遇などされず、むしろ大事に可愛がられて育っていた。昔風に謂うと「最高学府」にまで やって貰えた。お前は「貰ひ子」だなどと言われたこともない。親も子も黙って実の親子のように、ほぼ大学をでる間際まで過ごしていた。そして家に子供はわ たし独りだった、つまり私は祖父と両親と独身の叔母という大人達のなかの、見た目も「一人ッ子」だった。淋しかった。
 こういう境遇で、友達も少なくいつも独り遊びしていた私が、人はどう「生まれて」来るのだろうと想うとき、その「人は」の「人」とは「何」であるのだろ うと想うことから、あれこれと問題が展開したのは自然だった。むろん「人間とは何ぞや」などと難しく思索したのではない。
 「人って?」という関心ないし疑念は、自然と「自分」という「人」を起点にした、「人の分類」へ向かった。「人はどう生まれてくるのか」は、その先の問 題として、むくむくと太ってきたのだった。

 「自分」と謂えるものは、此の世にただ「一人」だけいる。一人しかいない。これは疑えなかった。
 自分以外は「自分でない」以上、みな「他人」だと思った。すると親子も夫婦も兄弟も親類も「アカの他人」同様に「他人」なのか。「自分」でないのだも の、当然に「他人」だった。世間の人はそういう存在を「身内」と呼んでいたけれど、疑問だった。疑問は到底拭えなかった。そんなのはみな、ただの「関係」 を示す呼び名であるだけだ。疎遠な親子も、仇同士の親類も、他人の始まりの兄弟も、琴瑟和すにほど遠き夫婦もいる。
 「身内」ってそんなものか。ちがう、と私は断定した。現に育て親に私は親しんでなかったし、実の親は非在、そしてどこかにどうやらいるらしい兄や姉や妹 の、顔すら一度も見た覚えがない。所詮「自分」じゃない、向こう三軒両隣の人、町内の人、学校の友達らと同じみな「他人」、つまり「知っているだけの人」 という意味の「他人」であると、私は厳正に決定した。
 そして「知っているだけの人達=他人」の、背後に、遠くに、「まるで知らない人達=アカの他人」という「世間」が在る。世界中にそういう世間として「人 類」が実在している、それは疑えない。軽くも見られない。そう思った。「男」「女」などという分類は、「アメリカ人」「ギリシァ人」などという、「黒人」 「白人」などという分類は、わたしの関心や思索とは無縁の、つまり科学的・社会的事実でしかなかったのである。
 纏めるとこうである、「自分」と、「(自分でない=知っているだけの人達=)他人」と「(その人について日常的に何も知らない人達=アカの他人の=)世 間」の三種類が、此の人の世に「人」として存在している。幼いわたしは、そう考えたのである。
そして、こういう「人」達は、自分も含めて、どのように此の「人の世」に「生まれて=was born」来るのだろうか、と。むろん、生物的な出産・出生の生理現象を問うたのではない。
 
 産み落とすという言葉がある。「生まれる」がほんとうに受け身の形であるなら、つまり絵に描いて想像してみるなら、「生まれる」とは、「此の世=世間」 という広い海に、神様だか誰かは知らないが、石を投げ込むように人を投げ込んだのではないか。われわれは、此の世に「投げ込まれた」ように受け身に「生ま れた」存在ではないのだろうか。私は、子供心にそう想った。その先は、よちよちと思索の進展である。
 もし「生み=海」に投げ込まれた石ころの一つのようなもので「人間」があるなら、溺れて沈んでそのまま死んでしまう。人は魚ではない。
 わたしは、こういう想像をした。眼を閉じ、どうか、私の謂うとおりに想い描いて戴きたい。 

 見渡す限りの、海。広い広い、海。よく見ると、その海に小豆をまいたように無数の島、小さい小さい島、が浮かんでいる。さらによく見ると、それら無数の 小さい島の一つ一つに一人ずつ人が立っている。
 島は、その人の二つの足を載せるだけの広さしかない。島から島へ渡る橋は無い。橋は架かっていない。「人」は斯くのごとく孤立して此の世という「海」 に、「自分」独りしか立てない「島」に、あたかも投げ込まれるようにして「生まれる was born」「産まれ落ちる thrown down」のであると、わたしは想像し、銘々に「自分」なる「人」本来孤独・孤立の「誕生」を、脳裏の絵に描いたのであった。誰一人として、この想像を否 定できないと確信した。
 海(人の世)と島(「自分」孤りの生=無数の「他人」「世間」の生)との、世界。父母未生以前本来の「人」の在りよう。そんな構図の世界観。
 そして思索は、先へ、また動いて行った。
 
 天涯孤独は人間として当然の前提らしいと私は納得していた。その上で、「寂しい」という気持ちを、世界苦(Welt Schmerz)のようにもてあましている自分自身に、いつか気づいていた。手近に謂えば「独り=孤り」はイヤという、苦痛に似た思いである。
 気が付いてみると、(本なども読むようになると)、橋の架からない島と島との間で、自分の足ひとつしか載らない小さな島の上で、人が人へ、他人の島へ島 へ、さまざまに呼び合っている声が聞こえてきた。自分もまた渇くように呼んでいると痛感し始めていた。人の「愛」が欲しい……。「個」としての「孤」は絶 対の世界意思(Welt Wille)であろうとも、「孤」を脱したい人間の意思(Mensch Wille)も確かに在る。人は「愛」を求め合っている。本来不可能と分かっていても、島から島へ橋は架かっていないと分かっていても、なお「愛」を求め ずにおれない渇仰が酸の湧くように心身を痛める。愛が受け容れられねば、この世界、底知れない孤独地獄でしかない。

 私は、かくて真の「身内」を真剣に考えるようになった。名前をもった社会的・生物的「関係」ではない「真の身内」を、人は寂しさの余り渇くほど求めてい る、いつも求め続けて、他の島へ呼びかけ呼び交わしていると思った。
 だが、それは可能なことか。私は本気でそれを考えた。
 そして、こう思い詰めていったのである。

 幸いにして、人は、自分独りしか立てないはずの小さな島に、ふと、二人で立てていることに気が付く。三人で、五人で立てているとすら、気づくことがあ る。恋をしたり、すばらしい親友が出来たり、信じ合える先生や教え子が出来たり、水ももらさぬ伴侶が出来たり、愛し合う子、敬愛してやまぬ親、すばらしい チームメート、慕い合える知己などと、倶に島に立てているではないか。
 一過性の相手もあれば、崩れゆく信愛もある、が、生涯変わらない単数の、また複数の相手と、この時に、あの時に、時々に出逢い、それら出逢いの幸福感や 充実感ゆえに、ああこの人と一つの「島」を、運命を、分かち合って立っているぞ、と信じられる。
 こんなことは、人により多少と深浅の差はあれ、体験する人は必ず一度ならず体験しているものだ。
 私は、こういう相手を真に「身内」と呼ぶべきであると思った。親子だから、夫婦だから、きょうだいだから、親類だから「身内」であるといった思いよう は、子供心にも軽薄だと思ったのである。

 「自分」が独り、自分の他に「他人」が大勢、「世間」はさらに無数。しかも、日々生きて暮らして、「自分」は広い「世間」のなかで「他人」と知り合う。 より大切なのは、そういう「他人」や「世間」のなかから、孤り=独りしか立てぬはずの「島=いわば運命」を共有しあう「身内」と不思議に出逢う。不思議に そういう「身内」を見つけ出す、見つけ出したい、見つけ出そう、と「生きて」行く。人として何よりも根底から願っているのは、名誉よりも富裕よりも権力よ りも、本質的にかけがえない「身内」だ。世界中の誰も誰もがそう根の思いで欲し欲して生きているはずだと私は信じた。
 自著『死なれて 死なせて』(弘文堂<死の文化叢書15>一九九二)に私はこう書いている。

 それにしても不思議なことではないか、東京のような巨大都市に暮らしていると、百メートルと離れない近くのお葬式にも、胸にさざ波ひとつも立たないとい う事実がある。その一方で、顔も見たことのない、年齢も仕事もよく知らない文通だけの一読者の訃報に思わず涙をこらえるという体験もある。十年、二十年 たってもまだ「悲哀の仕事=mourning work」の終え得ない死もある。これはいったい、どういうことなのか。なぜ、そうなのか。
 それを誠実に考えつづければ、私は、どうしても「世間」「他人」「身内」と感じ分けてきた「自分」の「島の思想」へと立ち帰らずにはおれない。
 「死んでからも一緒に暮らしたいような人――そんな身内が、あなたは欲しくありませんか」
 私の戯曲『心―わが愛』(俳優座劇場、加藤剛主演、一九八六)では、「K」が「お嬢さん」にそう問いかけ、彼女は声をつよめて「欲しいわ」と答えてい た。
 あなたは、どう、思われるだろう。

世界中の名作小説や戯曲を私は思い出す。
 谷崎潤一郎は、こんなことを言っている。むかし、あるところに男(女)がいて、その男(女)を愛する女(男)がいた。小説はつまりその幾変化であると。
 そう簡単ではあるまい。
 万葉集の基本の部立ては時代(治世)のほかに「愛(相聞)と死(挽歌)」であった。人は愛し、そして、死なれ・死なせて、生きてきた。幸福に、また無残 に苛酷にと。そう謂えるだろう。
 そう見極めた上で、私は、人は「生まれ」ながら孤独であり、もともとその運命=足場としての「島」「島」は絶対的に孤立していると観た。島から島へ橋は 架かっていない。だが、それでは到底寂しくて叶わない人間は、錯覚、貴重きわまりない錯覚としての「愛」なしに生き難い。互いに島から島へ呼び交わして、 広い「世間=海」から「他人=島々」から、「身内」を渇望し、我一人の「島」にともに立とう・立てたと幻想するようになる。必ず、なる。これ以上必要で価 値多い幻想はほかに無いのだ。
 そして、いつか、そんな身内にも人は「死なれ」る。いや「死なれる」どころか、苛酷に「死なせ」てしまう実例も事実数知れない。光源氏は最愛の藤壺も紫 上も「死なせ」ている。薫大将は宇治大君を「死なせ」ている。勇将平知盛はむざむざと目の前で愛子十六の知章を「死なせ」て自身生きのびたのである。ヒイ スクリフはキャサリンを「死なせ」、ジェロームはアリサを「死なせ」、王子ハムレットもファウスト博士も愛する「身内」の女を「死なせ」ている。わたしに 言わせれば、春琴と佐助も、いわばともに相手を「死なせ」るに等しくして、ともに生きたのであり、世に愛し合うものたちは、時に親を棄て子を棄て伴侶を棄 てても、より愛おしい「身内」と運命を分かち合おうとする。
 「身内」とは何であろうか、通俗に言えば、まさしく「死んでからも一緒に暮らしたい人」の意味でなくて何であろう。
 阿弥陀経に「倶會一處(くえいっしょ)」の四文字がある。意味するところは極楽であろう、が、私は仏門の意義に聴きながらも、囚われない。死んでからも 同じ一つの「家」に心おきなく住み合える人達。私はそんな人達を「身内」と思ってきたし、あらゆる文学・文藝に登場して、愛と死とを深く身に刻み合い分か ち合った同士は、本質、これと少しも異ならない、その示現そのものだと観ている。
 しめくくりのモノローグに、ごく初期の自作『畜生塚』から一部を引かせていただこう。私の主な仕事は、すべてこの作よりあとから生まれた。少年の、青年 の、少しはにかんだような「理解」が語られているが、私の死んだ実兄が最も愛してくれた「手紙」である。静かな気持ちで、どうか読みおさめて頂きますよ う。



 もう夕暮といいたいほどの陽のかげが広くもない境内に斜めにきれいな縞をつくっていた。甃(いし)みち、築山、それに萩があちこちにうずくまったように みえる。鶏がいる。自転車がある。ふとんが干してある。セーターを着た若い人が庫裏(くり)をせわしげに出たり入ったりしていた。それでいて堂前の庭のた たずまいなど清潔で美しい。薄ぐらい感じはない。案内を乞うまでもなく、門を入って右の方へ甃の上を歩んでゆくと立派な石碑がならんでいた。瑞泉寺、前関 白と割書きして一段大きく秀次入道高巌道意尊儀と刻んだ大きな石塔を真中に、右に篠部淡路守外殉死諸士墓、左に一之台右府菊亭晴季公之姫外局方墓と刻んだ 石塔が並び、これをぐるりと左右後にとり囲んで、普照院殿誓旭大童子とか容心院殿誓願大姉とか妻妾子女の墓石がびっしりと居並ぷ。だが、どうみても非業の 死をとげた人たちの畜生塚とはみえない、白いみかげ石がまだ新しみさえ帯びていて、きちんと墓石が整列している。さっぱりしている。
 町子はセーターの青年に博物館でみた掛物の残りが寺にあるかときいていたが、それはやはりみんな博物館へ渡してあるとのことだった。
 何の恐しげな古塚を期待したわけでもなかったが、仕合せそうにちんと鎮まっている秀次たちの墓所には、妙な皮肉な味があった。町子も私もこの皮肉がよく わかっていた。眩しいほど真黒な猫が門のわきの萩むぐらの下に碧い目と茶色の目とをけいけいと光らせて私たちをみていた。妖しく美しい姿態をきりっと緊張 させて、黒き猫は萩の下にいた。ああこれがそうだ、この猫がそうだったのだと感じた。何がそうなのか言葉にはならずに私は合点した。黒猫が目をみはるほど 美しいこと、すこしも気味わるくないことが私たちの気分を救っていた。

 東京から長い手紙を書いた時も、私はあの萩の下に輝いていたものの美しい光沢を意識していた。文面はともかくとして、町子に伝えた夢想とは大体こんなも のだった。

 私はもともと定まった自分の家と家族をもっていたのです。いつか私は必ずその家へ帰り、私は家族(身内)と永劫(えいごう)一緒にすごすのです。その家 族とは親子同胞といった区別のない完全な家族ですが、その家族が本当にどんな人たちなのか今の私は忘れていてよく想い出せないのです。なぜなら、私はその 家を出て、この現実世界の混乱の中へ旅に来ているからです。
 今の私の生活はすべて旅さきの生活であり、家庭は仮の宿です。私はいつか、死ぬという手段であの本来の家(この本来という言葉はよくいう父母未生(み しょう)以前の本来です)へ戻り、本来の家族(身内)に逢うでしょう。私より先に帰って来ている人もいるでしょうし、あとから帰る人もあるでしょう。
 私がいつか死ぬようにあなたも死ぬでしょう。あなたはあなた自身と家と家庭とを本来もっているのですから、その家へ帰ってゆくのです。その家にはあなた 自身の家族(身内)が住むのです。私もその中に入っているでしょう。そして、私の家にあなたはもちろん居るわけです。
 この意味がわかりますか。死後の世界、いいえ、本来の世界では、私という存在はただ一つではありません。私のことを身内と考え愛してくれた人たちの数だ け、その人たちのそれぞれの家で私はその人たちの家族として生きるのです。同じことが誰にでもあてはまるのです。
 私の家にいるあなたと、あなたの家にいるあなたとは全く同一異身なのです。私の家には迪子(=妻)がいますが、あなたの家に迪子はいないかもしれない。 しかし私の家では迪子とあなたは完全に一つ家族です。こうして無数の家がある。
 あの世では、一つ蓮(はちす)の花の上に生まれかわりたいと昔の人は願い、愛を契る言葉として実にしばしば用いていますが、それは私のいうこの本来の家 と家族との意味を教えているように思います。
 笑う前に考えてみて下さい。これは私の理想です。これが信念になるとき、私は死を怖れず望むようになりましょう。これが極楽であり、地獄とはその永劫を 一人で生きることです。人は現世での表面的な約束ごとで結ばれた家族、親子、同胞、夫婦や友だちをもっていますが、真実の家族は本来の家へ帰った日に、は じめてわかる。
 私は私の家へ、あなたはあなたの家へ、迪子は迪子の家へ帰ってゆくのです。私の家にいる私と、迪子やあなたの家にいる私とは別のものではない。どの家に いても、私は私を分割しているのではないのです。どれも本当の私であり、どの家を蔽っている愛も本当の全的な愛なのです。
 年齢も容儀も思想もどんなことも詮索することなしに信じて愛し疑わない身内だけの世界がある。このふしぎな私の夢をあなたもいつか信ずるでしょう。そう 信じなければ、人は寂びしくてこの旅の世界に惑い泣いてしまう。
 私はこういうことをあの博物館の中で花火のように想い描き、瑞泉寺を出るときに信じはじめました。私の得たふしぎな安心は大きなものです。死をおもうこ とに恐怖がうすれています。
 迪子はこの私の描いた夢を理解したようでした。  06.08.23 ――了――


コメント
○ まさ 2006年10月17日 05:17 これが極楽であり、地獄とはその永劫を一人で生きることです。

お寺の前で育ち、極楽浄土や地獄、南無阿弥陀仏、そんな言葉を何千何万と聞いて育ちました。色々な僧侶と話たり、店で話してられる事が聞こえてきた り・・・知ろうとしてなかっただけかも知れませんし、こんなことを言うのはそんな方達に失礼だと思うのですが、極楽浄土、地獄と言う捉え方に初めて解りや すく理解できましたし、なるほど!!と思いました。
※ 湖(うみ) 2006年10月17日 09:42 まささん。ありがとう。身内を得た思いです。

お店、いろいろご工夫なさっているようですね、心ゆくみのりありますように。お元気で。   


「町田市主任児童委員」を名乗る  2006年10月20日21:30

 本人の、町田簡易裁判所「民事調停」に正式に提示された「秦(=家?)による押村朝日子に対する40年にわたる虐待行為」なる条々を読んだ。 いま私の「闇に言い置く」私語で、克明に一条ずつ感想を書いている。やがて「転送」可能となれば広く読まれることになる。
 一字一句間違いなく朝日子氏の提示文を先ず掲げる。日記では詳細に追究反駁否認してあるが、此処には、要点を書きだしておく。

『1967年  秦家弟二子妊娠をきっかけに、朝日子への虐待が始まる。性的虐待を含む精神的蹂躙等。押村朝日子』

 わたし(秦)には永年の手書き日記がすべて残っていて、今此処にも、まさしく一九六七年から八年九月までの大学ノート二冊が在る。
 昭和四十三年元旦、それは一週間後の建日子誕生をまだそれとも知れず、ただただ病院の空白な正月休みを何としても無事乗り切りたいと肝の冷える思いで年 を越してきたところだった。
その元旦日記に、こうある。わたしはまだ作家ではなかった。

1968年 昭和四十三年元旦
 使い馴れ、沢山の仕事をしてくれた古いペンのインクを抜き、この新しいパーカーにインクを入れることから新年は迎えられた。このペンで今年は良い、納得 のゆく作品を生みたい。多くということより、良い作品を一つでもと願う。会社の仕事は難しい一年を迎えるだろう。朱い校正ペンのインクもしっかり入れかえ た。

 つい先刻、私は一人で尉殿(じょうどの)神社へ参ってきた。(大晦日の)十一時十五分頃だったからまだ人はいなくて、あかあかしとかがり火がたかれてい た。
祈ることは一つ、迪子の無事と安産。誕生する子の無事健全。そして朝日子の健やかでつつがない成長。父、母、叔母の安穏で健康な老年時代。それに私の力強 い生活。
 しかし、何よりも迪子の無事だ。私は参拝に出かけずに居れなかった。何という緊張の月日だったことか。九月中頃、病院へ呼び出され、手術か安静かで心を 悩ませ、一時入院し、母の上京を乞い、そしてマル二ヶ月余にわたる静臥の日々。やっと十二月十日の婚約記念の日から(出産への最低)目標圏に達したが、そ の後も大事に大事をとり、ついについに年を越えたのである。大晦日のマル一日の長く切なかったこと、刻一刻、私は祈らずに居れなかった。しかもこの日、社 用で(本郷の)編集長宅へ出向かねばならなかった。

 だが、私は1967年に感謝する。私たちにもう一人の子を授けてくれた。どうか1968年がつつがなく朝日子につぐ私たちの建日子(男子なら)、肇日子 (女子なら)を迎えさせてくれますように。

  日の出まつ祈りは一つ父と母

  母ひとり産むにはあらで父も姉も一つに祈るお前の誕生

 私の思うことは今はただただ迪子の無事安産だ。その瞬間まで私はベストを尽す。迪子、頑張っておくれ。Good Luck! 1968年!

 南無阿弥陀仏、南無観世音菩薩、南無大勢至菩薩、 合掌

* なんとも気恥ずかしい男三十二歳であるが、さ、此の切なる祈りの日々のどこに「朝日子への虐待が始まる。性的虐待を含む精神的蹂躙等」の影がさしてい るか。
 「朝日子への虐待が始まる」どころか、この夏から翌年一月八日の建日子誕生までの日々は、ただただ母胎の安定を祈りながら切迫流産の危険に堪えて暮らし ていた。朝日子もじつに懸命に洗濯や風呂の用意などそれはそれはしっかり手伝ってくれて、どんなに両親は助けられたか知れないのである。感謝こそすれ虐 待、性的虐待、精神的蹂躙? どこにそんなものがありえたろう、いったい何のために。わたしは、もう孜々として小説を書き継いでいて、それに命がけだった し、朝日子のためにも弟か妹が出来るといいと、「一人子」で育った淋しさをよくよく知っているわたしは、妻に身の危険を冒してもらったと言えば言えるし、 妻も同じことを朝日子の為に願っていた。親として当たり前の願いである。

* 朝日子氏のちょうどこの頃、祖母にもらった晴れ着で目をくりくりと可愛い無邪気な「MIXI」写真を見て欲しい。肖像権の侵害だそうだが、娘への性的 虐待を捏造されている父として、妻の夫として、弟・秦建日子の父として、自身と家族の名誉は自力で守らねばならぬ。
 以下各条、漏らさず私の日記で徹底的に反論否定してある。「MIXI」にも必要な箇条はせめて要点だけ書いて行く。朝日子氏恋愛迷走の相手をしていた何 人もの第三者を引き合いに出したりは、省くけれど。 湖
 



主任児童委員氏の被虐第二条  2006年10月21日00:09

「1985年
 朝日子の交友関係をことごとく妨害した後、『孫がほしい』と見合いを強要。押村朝日子」


* 1969年桜桃忌の太宰賞受賞以来、わたしの意欲は当然にも作家活動に集注された。さもなくば、とても十数年に六十七十冊の著書は出版されてない。小説に 評論に講演に放送放映に、大学の先生にもわたしは引っ張り出され、孜々として「作家」をやってきた。朝日子氏の交友関係の「ことごとく」に付き合っている ヒマが何処にあろう、冗談じゃない。

* それでも私が徹底的に反対し、妻も弟も朝日子氏のその結婚に反対した例が只一度あり、その対策として人を頼んで世話されてした見合いが、押村高氏との 見合いなのであった。確かに渋々で応じた朝日子氏であった、が、一目見て忽ち、掌を返して脱兎の如く婚約し結婚し、母親には「パパったら、今頃になってこ んないい人を紹介するんだから」と喜んだのである。
 私の知る限り、朝日子氏の見合いは、この押村氏との一度のほか、全く同時期にご近所との義理からホテルで一度、これはもう双方でお断りと半ば決まってい た。他には只の一度も無い。
朝日子氏の幾つかの「恋愛迷走」については、あえて、此処では触れないが、もし「妨害」といいたいなら、精魂込めて一度だけ両手をひろげて父がとめた御陰 で朝日子氏は、押村高氏との強要された見合いにいと満足し、電光石火、二人いた別の求婚者をもののみごとに事実「打ち棄てた」のであった。

*「孫が欲しい」のは、健康な年頃の娘や息子を持った親なら、ごく自然な希望というもの、わたしたちに限ったことか。
 もし限ったというなら、わたしの場合一つの事情はある。「貰い子」の私を大切に育ててくれた「秦家」の大恩ある両親や叔母のためにも、秦家を継いでくれ る「曾孫」の欲しい思いは想像以上につよく、それを隠したことは一度も無い。朝日子氏に対してだけではない、弟の秦建日子でも、父親の「孫ほしい」にはヘ キエキしているだろう。だが、老いてゆく親として、いささかも不自然な願望であるわけが無い。京都の祖父母たちに、朝日子・建日子という孫を見せ得たこと は、育ててもらった義理の子として、誇らしくまた恩返しの一端とほんとうに安堵した。
 孫が欲しくて、どこが悪いか、と今でも思っている。残念無念一人死なせてしまったのだ、今でも欲しい。何人でも欲しい。

* 朝日子氏の仰々しい指弾には、ひとつも、具体的なデータも物証も付いてこない。付けようがあるまい、みんな虚言だからである。わたしは克明に記録した 日記や著作で自信をもって簡単に朝日子氏のウソを指摘できる。
 町田市の主任児童委員氏に言う、ウソはやめた方がいい。 湖
 


志賀直哉と瀧井孝作と  2006年10月21日10:40  

* 闇に言い置く(平成十二年四月八日 土)

 (この短文は、湖の本エッセイ21『日本語にっぽん事情』の中の、講演録と講演録との間に一頁埋め草として入れた「日記」である。 湖・秦恒平)

* 明治四十四年一月十日の日記に、気になることを志賀直哉は書いている。
「自分は総て物のDetailを解するけれどWholeを解する力は至つて弱い、小説家としてはLifeのDetailを書いてゐればいいと自分は思つて ゐるがホールが解からないと考へると一寸不快でもある。ケレドモ、自分にはホールは解かるものではないといふ考へもある。Detailは真理であるがホー ルは誤ビヨオを多く含むと思ふ。
 又かうも思ふ、今からホールが解かる、或はホールに或る概念を易く作り得るやうになる事は結局自己の進歩を止まらせはしまいかと。
 兎も角今はLifeのDetailを正確に見得る事を望む。」と。
 よく考えてみたいところだが、甚だ直哉の芯に触れた感想のように読める。
 二週間ほどして、また直哉は、
「健康が欲しい。健康なからだは強い性慾を持つ事が出来るから。ミダラでない強い性慾を持ちたい。(略)自分は年寄るまで左うでなくていいが、四五十才ま では左うでありたい。
 いい子孫はそれでなければ出来はしない」と。
 これも志賀文学の根幹につよく触れている言葉だろう。

* 同じ年の二月二十五日には藤村の『犠牲』を「少し読むで」直哉のこう書いているのが、たいそう興味深い。
「書かれた事が作者の頭にハツキリうつつてゐるといふ事はよく感じられる。けれども直接読者の頭へハツキリとは来ない。書かれた物と読者との間に作者がハ サマツテゐる感じがある。
 藤村の物を見る時には上手ないい芝居を遠い所から立ち見をしてゐるやうな感じがする。兎も角読者に面接して来ない。いい句でもいい科(せりふ)でも遠く でやつてゐるので何所かオボロ気な感じがある、時々ボンヤリしてゐるといい句やいい科を、聞き落したり見落したりしさうである。夏目(漱石)さんとはマル デ反対である。」と。
 漱石も出てきて、面白い。藤村について言われてある「感じ」が、よく解る。
 それにつけて想い出すのは瀧井孝作先生がわたしの『糸瓜と木魚』を褒めて下さり単行本に帯の推薦文を下さったとき、表題作になっていた『月皓く』は、美 しい物が遠くで動いているようだと評されていたこと。瀧井先生のこの批評は、直哉のここにいう「上手ないい芝居を遠い所から立ち見をしてゐるやうな感じが する」に当たっていた。
 これを見ても、わたしは間違いなく直哉の孫弟子でもあったのだなあと思える。
 瀧井先生は、作品がそう落ち込まないように文学・文体・文章をいつも力強く彫り込んでおられた。
 


主任児童委員氏の被虐第三条  2006年10月21日16:12 1985年

結婚式直前になって、「子供ができたら離婚して帰ってこい、子供は私のものだ」「風になって、夫婦の寝室でもどこでもついていく」などと脅迫。


* 妄言とはこれかと、思わず嗤ってしまう。先ず、後段のいやらしい言いがかりから始末を付ける。
 父・秦恒平には、「昭和六○(1985)年六月八日 娘が華燭の日に」「あとがき」を書いて祝った、講談社刊の叢書「詩歌日本の抒情」第四巻『愛と友情 の歌』編著の一冊がある。子弟への祝儀などに好んで贈られた好評の一冊であり、わたしはこれを執筆の間、嫁ぎ行く娘や育ち行く息子を念頭に、古来・現代の 厖大な詩歌から心籠めて佳い作品を選び、また心籠めて鑑賞文を書いた。
「結婚式直前」というより、朝日子が幾つもの恋愛迷走で一家を混乱させていた頃の書下ろしであった。その多くの掲出作品中、「親への愛」の章に、伊藤靖子 さん作のこの一首が在る。わたしの読みとともに次に掲げる。

  抱かれて少しずつかわりゆくわたくしを
    見ている風は父かもしれず  伊藤靖子

 思い切った五・十・五音の上句に、手粗いが素朴に新しいリズムも生まれている。「わたくし」を「われ」として強いて五・七・五に音数を揃えなかった感覚 (センス)に、誠実な若さが感じとれる。「わたくし」と「父」との対応に、おそらく一首の真実は隠されているのだから、作者の意図をあるいは超えて読め ば、恋する男の愛の手に「抱かれて」「少しずつかわりゆく」うら若い女の状況は、まさにさまざまに「風」のなかにある。その喜怒哀楽のそれぞれの場面で、 「わたくし」は、男でもある「父」の目と存在とを体温のように、体重のように同時に感じ取っている。
 おそれ、愛、怒り、不安、希望。
 父と娘とだけの余人のはかり知られぬ交感を率直に歌いえている。「未来」昭和四十六年十一月号から採った。

* 歌を選ぶ作業をしていたのは、依頼されてから執筆に入るまでの、およそ刊行より二年以上も以前になるだろう。むろん朝日子がとびつくように結婚した押 村高の存在は、一ミリの影もまだ我が家にさしていない。
 そして選歌の段階から、たぶん校正中にも我が家ほどの「談笑」家庭では、ひっきりなしにいろんな話題が具体的に出て、この歌など新鮮な衝撃度で食事時の 話題にあがっていただろう、そういうとき朝日子はけっこう雄弁な存在であった。
 そんな折の記憶をねじ曲げるのでなければ、「風になって」という具体的な表現の一致は、とうてい考えられない。こういうのを都合のいい、品のない、ただ 為にする「言いがかり」と謂うのである。
 ことのついでに、「子への愛」の章から、朝日子・建日子を念頭に選んでいた作品を、アトランダムに挙げておこう。どの一つ一つも父・恒平の深い共感から 選抜している。言うまでもない、朝日子の結婚より二三年前から半年余も前の仕事。朝日子は百パーセント秦家の「アコ」であった。
 お望みなら「親への愛」の章の作品も、すぐさま書き抜いてお目に掛ける。

 十五年待つにもあらず恋ひをりき今吾にきてみごもる命よ  長崎津矢子
 万の朝万の目覚めのふしぎよりわれの赤子の今朝在る不思議  池田季実子
 産みしより一時間ののち対面せるわが子はもすでに一人の他人  篠塚純子
 乳のますしぐさの何ぞけものめきかなしかりけり子といふものは  斎藤史
 ぢいちやんかといふ声幼く聞え来て受話器の中をのぞきたくなる  神田朴勝
 花びらの如き手袋忘れゆきしばらくは来ぬわが幼な孫  出浦やす子
 混み合へる人なかにして木耳(きくらげ)の如く湿れる子の手を引けり  長谷川竹夫
 吾と臥す肉薄き孫の背を撫でつ此の子を召さむいくさあらすな  吉岡季美
 あはれ子の夜寒の床の引けば寄る  中村汀女
 わが顔を描きゐし子が唐突に頬ずりをせりかなしきかなや  岡野弘彦
 おどおどと世に処す父に頬を寄す子は三年を生きしばかりに  島田修二
  神は自分に一人の女を与へた。
  女は娘といふ形で
  おれとともに生活をし出した。
  おれは権知事さげ
  この城の番人となり
  神をもまだ軽蔑しないでゐる。   室生犀星
 此秋は膝に子のない月見かな  上島鬼貫
  幼き息子よ
  その清らかな眼つきの水平線に
  私はいつも真白な帆のやうに現はれよう
  おまへのための南風のやうな若い母を
  どんなに私が愛すればとて
  その小さい視神経を明るくして
  六月の山脈を見るやうに
  はればれとこの私を感じておくれ
  私はおまへの生の燈台である母とならんで
  おまへのまつ毛にもつとも楽しい灯をつけてあげられるやうに
  私の心霊を海へ放つて清めて来ようから。  佐藤惣之助
 こんにちはさよならを美しくいう少女  岸本吟一
 汗くさくおでこでクラス一番で  篠塚しげる
 強くなれ強くなれと子をわれは右より大きく上手投げうつ  福田栄一
 光の中を駈けぬけて吾子母の日に花弁のごとき整理もちくる  嵯峨美津江
 生々となりしわが声か将棋さして少年のお前に追ひつめられながら  森岡貞香
 人間は死ぬべきものと知りし子の「わざと死ぬむな」とこのごろ言へる  篠塚純子
 子の未来語りあふ夜を風立ちて父我が胸に鳴る虎落笛(もがりぶえ)  来島靖生
 安んじて父われを責める子を見詰む何故に生みしとやはり言ふのか  前田芳彦
 花菜漬しくしくと娘に泣かれたる  清水素人
 外国に留学したき娘(こ)の願ひ抑へおさへてわがふがひなし  松阪弘
 人の世のこちたきことら娘(こ)にいひて娘が去りゆけばひとり涙す  村上一郎
 花嫁の初々しさ打ち見つつ身近く吾娘(あこ)といふも今日のみ  山下清
 生涯にたつた一つのよき事をわがせしと思ふ子を生みしこと  沼波美代子
  赤んぼが わらふ
  あかんぼが わらふ
  わたしだつて わらふ
  あかんぼが わらふ   八木重吉

* わたしが今嫁ぎ行く娘に『「風になって、夫婦の寝室でもどこでもついていく」などと脅迫』するようないやらしい父なら、いつか「華燭」を念頭に祝っ て、こういう「作を選ぶ」ことも、こんな「本を書く」ことも、それで人の「胸を打つ」ことも決して無い。「文は人」であり、言葉は「心の苗」だと信じてい るわたしが。「気稟の清質もっとも尊ぶべし」と娘や息子にも身を以て教えて来た父が。
 上掲の室生犀星の詩を、村上一郎の短歌をよく読むがいい、朝日子。

* さて指弾の前段、結婚式直前になって、「子供ができたら離婚して帰ってこい、子供は私のものだ」と父・私が、娘・朝日子に言ったという。
 これはまあ何という破廉恥な言いぐさであるか。小説家の想像を用いるまでもなく、文脈は、こういう翻訳が可能になる。
「お前の腹には父である私の子が宿してある。結婚だけはして来るがいい、そして子供を出産したら離婚して子供を連れて帰ってくるがいい。其の子の父はお前 の父である私なのだから」と。
 これこそ父親・母親に対する破天荒な名誉毀損・侮辱であり、いわば、初孫やす香は押村高との子ではないと主張しているありさまですらある。
 この恥知らずなむちゃくちゃな物言いと、わたしの思いをそのまま映した上の諸作品とを、しみじみ読み比べてみて下さい。すでに「女流作家」を自称するら しい押村朝日子の妄想力は安直さにおいてもすさまじく、狂気にちかいと愕かされる。診察が必要ではないか。
 東京都町田市はどこを評価してこういう人物を「主任児童委員」に任命しているのだろう。
 わたしは妻と異なり、朝日子の「離婚して帰る」ことに終始反対だった。やす香は生まれている、みゆ希も生まれてくる、夫婦親子で一家をなすのが当たり前 という理由である。そのことは、いろんな場所で繰り返し繰り返し書いている。そもそも離婚して帰られたら、要介護の九十老人を三人抱えようという狭い我が 家の、どこにも、いて貰う場所はなかったではないか。

* こういうことを書き継がねばならないことを秦さんのために「傷ましい限り」と言うて下さる人は多い。しかし、黙っていてはこの調子で何を言い立てられ て窮地に陥るか知れたモノでない。また「相い対」ではつまり「お話しにならない」だろう、現に調停の弁護士委員はそれを案じている。

* こういうばかげたことを言いだしながら、われこそ世界一正気と信じているので、つけるクスリがない。結局は「金を要求してきますよ」人に注意されてき たが、OH! たしかに押村夫妻は現に「金を払え」と要求している。 湖



「町田市主任児童委員」氏へ「親への愛」の詩歌  2006年10月22日16:20

*「町田市主任児童委員」氏の実の両親に対する破天荒に無道に捏造された告発にこたえて、伊藤靖子さんの短歌をあげるなどし、氏の妄想と乱暴と虚偽を明ら かにしました。その際著書『愛と友情の歌』から「子への愛」の章に選歌した多くの勝れた作品を列記したところ、「親への愛」の章の作も読みたいと、複数の 希望がありました。「子」たる者の「親への」思い、「親」たる者の「子へ」の祈りを、この際、秦さんがどのように選歌に反映されているかも知りたいという 希望でした。
 よろこんで以下に大略、作品だけを列記します。
「町田市主任児童委員」に自負をもつらしい氏に、しみじみ多くの先達たちの真率な声を聴いて恥じ入って欲しい。児童を謬らないで欲しい。「主任児童委員」 氏とお知り合いの地元の方に申し上げる、これは中傷ではなく、氏の、町田市簡裁への申し立て条々を受けての身を護らねばならぬ反噬です。


* 「親への愛」の章より  秦恒平著『愛と友情の歌』より

父母よこのうつし身をたまひたるそれのみにして死にたまひしか  岡本かの子
独楽は今軸かたむけてまはりをり逆らひてこそ父であること  岡井隆
まぼろしのわが橋として記憶せむ母の産道・よもつひら坂  東淳子
闘ひに死ぬるは獣も雄ならむ父へのあこがれといふほどのもの  東淳子
かくれんぼいつの日も鬼にされてゐる母はせつなきとことはの鬼  稲葉京子
<父島>と云ふ島ありて遠ざかることも近づくこともなかりき  中山明
雲青嶺母あるかぎりわが故郷  福永耕二
 あゝ麗はしい距離(デスタンス)
 常に遠のいてゆく風景……
 悲しみの彼方、母への
 捜り打つ夜半の最弱音(ピアニシモ)   吉田一穂
雪女郎おそろし父の恋恐ろし  中村草田男
 母の胸には 無数の血さへにぢむ爪の跡!
 あるひは赤き打撲の傷の跡!
 投石された傷の跡! 歯に噛まれたる傷の跡!
 あゝそれら痛々しい赤き傷は
 みな愛児達の生存のための傷である!  萩原恭次郎
十六夜の長湯の母を覗きけり  津崎宗親
 進学をあきらめさせた父無口
幼子のわれのケープを落し来て母が忘れぬ瀋陽の駅  佐波洋子
抱(いだ)かれて少しずつかわりゆくわたくしを見ている風は父かもしれず  伊藤靖子
あなかそか父と母とは目のさめて何か宣(の)らせり雪の夜明を  北原白秋
草枕旅にしあれば母の日を火鉢ながらに香たきて居り  土田耕平
いねがたき我に気付きて声かくる父にいらへしてさびしきものを  相坂一郎
父の髪母の髪みな白み来ぬ子はまた遠く旅をおもへる  若山牧水
 薬のむことを忘れて、
 ひさしぶりに、
 母に叱られしをうれしと思へる。  石川啄木
 よく怒る人にありしわが父の
 日ごろ怒らず
 怒れと思ふ   石川啄木 
寝よ寝よと宣らす母ゆゑ目はとぢて雨聴きてをり昼の産屋に  田中民子 
女子(をみなご)の身になし難きことありて悲しき時は父を思ふも  松村あさ子
先ず吾に洗礼をさづけ給ひたり中年にて牧師になりしわが父  杉田えい子
背負ひ籠が歩めるごとき後姿(うしろで)を母とみとめて声をかけ得ず  平塚すが
眠られぬ母のため吾が誦む童話母の寝入りしのち王子死す  岡井隆
どっと笑いしがわれには病める母ありけり  栗林一石路
卯月浪父の老いざま見ておくぞ  藤田湘子
挫折とは多く苦しきおとこ道 父見えて小さき魚釣りている  馬場あき子
夜半を揺る烈しき地震(なゐ)に母を抱くやせし胸乳(むなち)に触るるさびしさ  野地千鶴
病む母の生きの証(あかし)ときさらぎの夜半をかそかに尿(ゆまり)し給ふ  綴敏子

 <病む父>  伊藤整
 雪が軒まで積り
 日本海を渡つて来る吹雪が夜毎その上を狂ひまはる
 そこに埋れた家の暗い座敷で
 父は衰へた鶏のやうに 切なく咳をする。
 父よりも大きくなった私と弟は
 真赤なストオヴを囲んで
 奧の父に耳を澄ましてゐる。
 妹はそこに居て 父の足を揉んでゐるのだ。
 寒い冬がいけないと 日向の春がいいと
 私も弟も思つてゐる。
 山歩きが好きで
 小さな私と弟をつれて歩いた父
 よく酔つて帰つては玄関で寝込んだ父
 叱られたとき母のかげから見た父
 父は何でも知り
 何でも我意をとほす筈だつたではないか。
 身体ばかりは伸びても 心の幼い兄弟が
 人の中に出てする仕事を立派だと安心してゐたり
 私たちの言ふ薬は
 なぜすぐ飲んでみたりするやうになつたのだらう。

 弟よ父には黙つてゐるのだ。
 心細かつたり 寂しかつたりしたら
 みんな私に言へ。
 これからは手さぐりで進まねばならないのだ。
 水岸に佇む葦のやうに
 二人の心は まだ幼くて頼りないのだと
 弟よ 病んでゐる父に知られてはいけない。    伊藤整

 <無題>   高見順
 膝にごはんをこぼすと言つて叱つた母が
 今では老いて自分がぼろぼろごはんをこぼす
 
 母のしつけで決してごはんをこぼさない私も
 やがて老いてぼろぼろとこぼすやうになるのだらう

 そのときは母はゐないだらう
 そのとき私を哀れがる子供が私にはゐない

 老いた母は母のしつけを私が伝へねばならぬ子供のゐないため
 私の子供の代りにぼろぼろとごはんをこぼす      高見順

 死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる  斎藤茂吉
 今絶ゆる母のいのちを見守りて「お関」と父は呼びたまひけり  谷崎潤一郎
 今死にし母をゆすりて春の地震(なゐ)   岸田稚魚
 父をわがつまづきとしていくそたびのろひしならむ今ぞうしなふ  岡井隆
 思ふさま生きしと思ふ父の遺書に長き苦しみといふ語ありにき  清水房雄
 柩挽(ひつぎ・ひ)く小者な急(せ)きそ秋きよき烏川原を母の見ますに  吉野秀雄
 亡き母の登りゆく背の寂しさや杖突峠霧にかかりて  阿部正路
 山茶花の白をいざなふ風さむし母は彼岸に着き給ひしか  佐佐木由幾
 命惜しみ四十路の坂に踏みなづむ今日より吾は親なしにして  安江茂
 凍(し)み蒼き田の面(も)に降りてみじろがぬ雪客鳥(さぎ)の一つは父の霊かも  大滝禎一
 病む祖母が寝ぐさき息にささやきし草葉のかげといふは何処(いづく)ぞ  岡野弘彦
 玉棚の奥なつかしや親の顔  向井去来
 いくそたび母をかなしみ雪の夜雛の座敷に灯をつけにゆく  飯田明子
 庭戸の錆濡れてありけり世にあらぬ父の家にして父の肉われ  河野愛子
 お父様 ほんとは一番愛されたと姉妹はそれぞれ思っています  利根川洋子
 亡き父をこの夜はおもふ話すほどのことなけれど酒など共にのみたし  井上正一
 子を連れて来し夜店にて愕然とわれを愛せし父と思えり  甲山幸雄
 これひとつ生母のかたみと赤き珊瑚わが持ちつゞく印形(いん)には彫りて  給田みどり
 この鍬に一生(ひとよ)を生きし亡き父の掌の跡かなし握りしめつつ  佐竹忠雄
 明珍(みやうちん)よ良き音を聞けと火箸さげ父の鳴らしき老いてわが鳴らす  藤村省三
 墓石の裏も洗って気がねなく今夜の酒をいただいておる  山崎方代
 たふとむもあはれむも皆人として片思ひすることにあらずやも  窪田空穂
 今にして知りて悲しむ父母(ちちはは)がわれにしまししその片おもひ  窪田空穂
  百石(モモサカ)ニ八十石(ヤソサカ)ソヘテ給ヒテシ、
  乳房ノ報ヒ今日ゾワガスルヤ、
         今日ゾワガスルヤ、
  今日セデハ、何(イツ)カハスベキ、
  年モ経ヌベシ、サ代モ経ヌベシ。    和讃

* すべて親から子へ強いている詩歌ではなく、すべて子から親へ献じている詩歌の真情である。やはり親も子もこういう風でありたい真実の希望をわたしはも ちながら、無慮何百万もある詩歌の中からこれらを選んで、日々に心を洗われ励まされ泪していた。伊藤整の「病む父」をはじめて読んだのは大昔だ。わたしに は兄弟がなかったけれど、何かの折りにはこの「兄」のように朝日子が弟建日子とともに心美しく元気に生きていってほしいと心底願望していた。今も書き写し ながらわたしは、悲しい声を忍ぶことが出来なかった。
 わたしは、自身のためにも、さらに大事には妻や息子の名誉のためにも、理不尽に心ない娘と闘わざるをえない。 湖
 


主任児童委員氏の被虐第四・五条  2006年10月24日22:06 1985年

結婚式で作成した結婚証書を「谷崎夫人の直筆だから提出させない」と没収。


* これにも嗤ってしまう。

* 一九九一年(平成三年)九月九日付、聟・押村高から舅・私に、「学者である聟には経済支援が常識、それの出来ない嫁の実家とは『姻戚関係』を断つ」旨 を、一方的に通達する手紙が届いている。その一通には、押村高著述『お付き合い読本――常識編』がくっついている。得意の作とみえ二度同じものが送られて きている。五十音順に警句でも書いたつもりらしい。その中にの は、 こうある。
「『け』結婚式: 誰を招くかは迷うところ。注意すべきは、離婚歴のある人、しかもそれを売り物にしているような人は、招待しないことである。かの有名な 文豪Tは、惜しげもなく奥さんを取り替えたそうだが、常識的に考えて、そんな筋の客は来賓として呼んではいけない。招待された他の者が奇異に感ずるだろ う。押村高」
 この「文豪T」が谷崎潤一郎であり、「そんな筋の客」として、朝日子側の主賓をお願いしたのが松子夫人であった事実は、何度も、作品やエッセイでわたし 自身が書いている。
 わたしはこれを読んだとき、筆致の下品さはともかく、少し意表をつかれた気がしたのは隠さない。ああこれが「世間」かと。一方、そんな凡庸な「常識」一 般論とは没交渉な思想を自分が持っていることを是認もしたのである。谷崎文学の大成に終生いかに貢献された夫人であったかを思うだに押村高のこういう侮蔑 の言葉は恥多く、当人の性根の汚さを想わせてあまりある。たいしたルソー学者である。

* 要するに押村夫妻は、結婚式前の「両家」懇切な、「双方異存無く賛同」の申し合わせを、仲人の小林夫妻にも私たち秦家の両親にも無断で「破棄」したの である。
 打ち合わせでは、結婚披露宴に際し、参客全部の目前で、双方の主賓が「結婚届書に署名捺印」し、それを以て「人前結婚式」にあてると堅く約束できてい た。
 ところが署名捺印された「その結婚届書」は、上記のような「押村による谷崎夫妻への軽蔑・侮蔑」から「届」として使用せず、誰だか我々の知らないまった く別人に再依頼した届書を、結婚式よりよほど後日に届け出ていたらしい。だからこそ、問題の清水司氏・谷崎松子さん署名の「結婚届」が押村夫妻の手に残っ ていたのだし、それと知ってわたしが憤慨したのは当然である。

* そんな無礼をしたのなら、せめて秦家念願の「記念に貰っておく」とわたしの手元に朝日子に届けさせたのも当然である。考えても見よ、彼等押村家がわた しに手渡さなかったら、わたしたちにはそんな経緯も所詮わからず仕舞であった。実物は、朝日子が夫に内緒でか「申し訳なかった」と、秘かに我が家に届けて きたのである。実物は、今・此処に在る。清水司氏・谷崎松子さんお二人の署名・捺印、押村高・秦朝日子の署名捺印、完備している。

* 申し合わせでは二人は披露宴のあとそれを役所へ届けて新婚旅行に出るはずだったが、彼等はその約束も反故にしていた。それについても身の震うほど不快 なやりとりが押村高との間に有ったことは、創作の中に書いてある。読んだ人は読んで知っている。
 「届書」は、かりに新婚旅行から帰ってすぐにでも届け出られた。だが、この届書が現に提出されずに朝日子から私に届いていて、しかも二人の結婚・入籍は なされているのだから、証人は別に立てたのである。
 何故か。前掲の押村の「常識」に従い、清水・谷崎両氏証人の書類は「勝手にボツ」にしたこと、歴然の事実である。

* 思えばこういう「文学者への軽蔑」を誇示することが「学者」の卵の当時押村高には、よほど愉快であったらしい。こういう姿勢が我が家に出入りの始めか ら、押村にはあった。

* 一方新婦である朝日子が、サントリー美術館への就職・また結婚式主賓の以前から、どんなに谷崎夫人に可愛がられ、わが娘のようにことごとによくして下 さった数々を、朝日子もまた、挙式したばかりの夫とともに、みごと足蹴にしたのだった。

* 言うまでもなく谷崎家とのその様な親交は、「谷崎愛」作家と自他共に広く知られた父親・秦恒平の谷崎文学敬愛と多くの関連業績に発していた。国文学の 世界で、また文壇でそれを知らない人は少ない。
 押村高は、まさにそこを目がけて、結婚式の当日からすでに文学の秦家への侮蔑、「嫁」朝日子への軽視を明白にし、誰かの弁で謂えば「うんこ」を投げ付け はじめていたのだった。

*『結婚式で作成した結婚証書を「谷崎夫人の直筆だから提出させない」と没収』とは、ホトホト嗤わせる。
 谷崎松子さんを当方の主賓・結婚の証人に得て、晴れて娘を送り出したいとは、秦の両親の熱望であったし、それは事前の何度もの打ち合わせで確認され、披 露宴の場でだけは「一応実現」していた。
 だが押村高はまさしくそれを「反古」にすることで、人をバカにし愉快がって『お付き合い読本』をトクトクと書いていたのである。廃棄された空しい「清 水・谷崎署名届書」が役所に入っていないことで、事実は、明明白白 落とし紙にもされぬうち、かろうじて朝日子が届けてくれただけでも、せめての心やりで あった。
 わたしが「没収」しに押村家へ押しかけ得た道理がない。それが「使われた」ものと信じていたのだから。

* どこの世界に披露宴までした「結婚届書」を「没収」して届けさせない花嫁の親がいるものか。建日子作の主人公なら「バカか、お前ッ」と吐き捨てるだろ う。

* こういうことが有った。新婚旅行から帰ってきた押村高から、結婚届けのまだなことを聴いて一言、早い目にと言うやいなや、「あんた、ガタガタとウルサ イぜ。文句があるなら結婚なんぞ取りやめてもいいんだぜ。いいのか」と電話機の闇の向こうで押村高に凄まれた想い出は、凄まじかった。
 ああ…こんなヤツだったんだ…。
 しかも顔を拭ったように、後年にまた「暴発」するまで、この聟殿・押村高は如才なく我が家を何度か訪れている。

* 何と謂うことか、つまり、こういうウソを、続々と平気で夫婦二人して言い立ててくる。いずれにしても主張できるはずのない矛盾・撞着を、厚顔に言い立 てているのである。大学教授・主任児童委員の質のわるさに、憮然とする。
 第一考えてもみよ。これが、実の親を娘達が告発するに、そもそも値する事項か。
 「常識」を疑われるのは、思い上がった、謙虚のひとかけらも無い押村高と妻・朝日子の方である。こういう経緯の総てが、創作である『聖家族』に、語り手 の思いを籠めて書き尽くされている。聟・押村高の舅姑に対する「無礼・暴発」の多くが描写され、読んでいる人はつぶさに理解されている。
 「暴発」とは、当時の朝日子が夫・押村高を自筆長文の手紙で評した、辛辣で適切な直言であった。それも必要なら今・此処にある、そのまま此処に書き映す ことが出来る。
 


私の潰されていたホームページのこと  2006年10月27日

13:19 BIGLOBEの暴挙で全消滅していたホームページは地裁審訊の判決で「復旧」しましたが、それを機に、断然「解約」しました。多年のユーザーに対し適切 で確実な通知も確認も欠いたまま、数万枚ものコンテンツ、しかも著名なまた熱心な寄稿・投稿の筆者作品をも多数、無差別に全削除するという過剰な著作権侵 害を平然としたBIGLOBEへの信頼も愛顧の念もけし飛んだからです。

ホームページ『作家・秦恒平の文学と生活』は、すでに新しいURLで元通りに稼働しています。数万枚分の「新しいURL」をご希望の方は、メッセージ、ま たは私の電子メールアドレス
 FZJ03256@nifty.com
へ、ご遠慮無くご請求下さい。またご遠慮なくリンクして下さい。むろん、完全に無料公開です。

 日録「秦恒平の生活と意見 闇に言い置く私語の刻」 秦恒平責任編輯の文藝電子雑誌「e-文庫・湖(umi)」 既刊「電子版 秦恒平・湖の本50巻」「電子版 秦恒平・湖の本エッセイ38巻」いずれもなお継続刊行 そして「秦恒平各ジャンルの創作蔵庫」を擁しています。
 表向き稼働していなかった一ヶ月も、やすみなく書き込んでいましたので、もと通りに全部読み取ることが出来ます。

 なおホームページが完全復活しましたので、「MIXI」の日記を利した創作以外の言説や表明は、原則としてホームページで継続します。中断してしまいま すモノも、ホームページ「闇に言い置く」の日録で克明に書き継いでいます。

コメント
○ sun 2006年10月28日 13:56 お知らせくださりありがとうございました。まずは、おめでたい、と申し上げたいと存じます。新しいアドレスのHPで毎日、お目にかかれるのが何よりうれし く存じております。
○ 呼幸 2006年11月06日 16:28 湖さんが正しかったことが認められてよかったですね。

よろしかったら新しいURLを教えて頂けますか。

メッセージにて送信させて頂きます。 



畜生塚と加賀さんとの対談 湖・秦恒平  2006年11月01日12:14  

この二つをならべて、ここへ書き置くことができ、わたしは、なぜともなく深く安心している。

「畜生塚」の末尾近くに書かれてある手紙を、何年か前に、そう十一月に自殺した実兄が、わたしの書いたもののなかでいちばん印象深く読んだように手紙をく れていた。この兄とはただの一度も一つ屋根の下でくらした記憶がない。顔を見合って出逢ったときは二人とも五十前後であった。

 「讃岐町子」というヒロインを創らなかったら、わたしのその後はまるでちがっていた気がする。この初稿を書いたのはわたしが二十七か八ぐらいのときだ。 川の流れのように時は流れてきた。

 いまは息子の秦建日子が創作者として健闘している。死なれてしまった兄北澤恒彦の息子黒川創もりっぱに小説家としてやっている。川の流れのように人生は あり、もうわたしの海までは遠くない。帰って行く「本来の家」でどれほどの人たちと暮らすだろうと想うと思わず顔がほころぶ。 湖



今日の「私語」から 仏と仏像  2006年11月03日00:08

* むかし、よくものも分からず、礼拝の対象である仏様をつかまえて、「美しい」のどうのというのは筋違いな失礼なことだ、と二度三度言いもし書きもした が、それはむしろ逆であった。
 仏陀は、礼拝を教えてはいなかった。
 おまえがどこにいようと、そこにはブッダがいる、なぜならおまえがそこにいるからだ、と。お前の内なるそのブッダに気付き目覚めよと。
 仏陀の教えの中には本来祈りに属するものなんか、何もなかった。すべて後々の方便や変改に過ぎない。仏陀は信仰という名で「抱き柱」をもてとも一切教え ていない。自らの無心、それが仏だ、その仏になれとだけ教えた。その余は後生の方便だ。達磨もまったく同じ、無心としか言わない。
 無心のままに自然に生じる崇敬ならば、真摯さも誠実さも愛も感謝も真実も美しさもある。偶像をもたなかった佛教に美しい仏像が造像された功徳の第一は、 それに抱きついて祈ることより、そういう意味の崇敬に気付けることだ。仏の像はすぐれた造像であればあるほど、底知れず柔らかに美しい。
 そう感じられればいい。
 美しさにただ無心に頭をたれ、わがままなお願いごとなどはしない。 湖
 


今日の私語から 死を告げる鐘は  2006年11月03日21:18

* 死を告げる鐘…。誰がために鐘は鳴ると、尋ぬることなかれ。そは汝がために鳴る。
 死は象徴的だ、それはおまえが同じ行列に並んでいることを、そしてその行列はどんどん短くなって行くことを示している。
 だがバグワンは言う、バグワンが言うとは、ブッダが言いボーディ・ダルマ達磨さんが言うのだが、自らの本性(ブッダであること)に気付いている人達は、 誰ひとり死なないということを知っている、と。死は幻想だと。

 おまえは肉体ではないからだ。おまえは呼吸でもない、心臓の鼓動でもない、、おまえはそうしたものすべてを超えているのだ、そして「彼方に」滑り込んで 行くのだが、惜しいことにおまえは少しもまだそれに気付かず、眠りこけていると、仏陀も、達磨も、バグワンもそう言う。

 自分自身を身体と同一視したら、おまえは身体になる。
 そのとき、おまえは死すべき衆生だ。
 そのときおまえには死の恐怖がある。
 自分を身体と同一視しないとき、おまえは自分自身のただの「見張り人=純粋な意識=静かな心=無心」だ。
 真正な宗教は礼拝を教えたりしない。真正な宗教は自らの不滅性の発見、内なるブッダの発見を教える。形にとらわれてはいけない、しがみついてはいけな い。とらわれずにはなれれば「理解」が得られる、それ以上の助言はないと覚者たちは口を揃える。

 わたしは黙々と聴いている。腹の奥の奥の方で聴いている。湖
 


インターネット不調  adsl不調  2006年11月10日07:45

この一週間ちかく、機械の不調で、一日の内のごく僅かな偶然にしかインターネットが使えずにいます。

記事のないときは、そのためです。いまかろうじて復旧しています。 湖

コメント
○ 樹 2006年11月11日 12:47 自分の身体を含め、身の廻りの動いているもの、活きているもの
の滞りなくが…ひとつでも不調になると、困りますが、チョッと
それまでの当たり前を考えたりしますよね。
 


いま奇跡的にインタネット復調  2006年11月12日21:30

しかし瞬時の後がアテになりません。対策しています。

いずれ、また作品を発表し続けますが、暫くは強制的に休ませられています。ADSLの不調です。わたくしは、この機会に疲労をへらして、静かに過ごしたい と。 湖

コメント
○ 樹 2006年11月12日 21:53 そうです、賛成。
いつもと違う調子は新鮮で、何かイイことが
あるかもしれません。
どうぞ、お静かに。
○ MADDY(・ω・)ノ 2006年11月13日 00:01 ですね!!!
なににもとらわれることなく沢山寝てくださいっっ☆★
※ 湖(うみ) 2006年11月13日 00:31 ハハハ  お静かに仕事します 機嫌良く。機械のご機嫌が、すこしいいので。機械の機嫌を損じたら、呑んで寝ます。スーパーマンの夢見て。天の邪鬼じゃあ りません。  湖



三枚の孫やす香の写真  2006年11月13日10:27

 好きな写真はたくさんあるが、おじいやんを足もとで見上げてかるく身をよじったやす香ほど可愛い写真は少ない、大好き。

高校生で、十何年ぶりに祖父母をたずねてくれたやす香。見送って池袋パルコで、この日は何を食べたろう。船橋屋の天麩羅かな。階段で、まみいに寄り添い笑 顔をみせたやす香。

そして大学生。姉貴ふうにカンロクのついた笑顔のやす香。たった一年後には…。死なせてしまって…。信じられない。残念でならない。やがて四ヶ月。 今年 は年賀状を失礼する。 おじいやん



機械の不調深刻で  湖  2006年11月23日20:13

二週間ほどインターネットが全く使えませんでしたが、なぜか、たまたま今復旧していますので、少し多めに小説を書き込みました。
『初恋』という小説は、歴史と現代、リアルと幻想とを畳み込むように書いた、微妙な「京都」を書いています。あまりこまぎれにするより、これぐらいずつ読 んで頂く方がいいかなあと思います。

ことに京都に住まわれている若い方に、読んで欲しいと願います。また日本の歴史の陰翳にふれてみようという方には。

湖の「MIXI」参加の途切れますときは機械の不調と想って下さい。



芹沢光治良『人間の運命』を読みながら  2006年11月24日13:26

 芹沢さんの畢生の大作といえば間違いなく『人間の運命』であり、近代日本文学が生んだ最大の長編小説の一つ。ご遺族から全巻をお贈り頂いたの を好機に読み始め読み進んできて、感想は読み終えてからと思っていたのに、その日その日に書き置かずにおれなくなり、気儘に「闇に言い置く 私語の刻」に 日記してきた。あまりバラバラになるのもどうかと、まだ途中、とはいえ、全七冊本の第六冊半ばへ来ているので、途中ながら最近分まで此処へ持ち出しておく 気になった。
 芹沢さんは、日本で最初にノーベル文学賞の候補になったりその推薦委員になったり、フランスの最高文化勲章を受けたり日本ペンクラブ会長を務めたりした 世界人であるが、日本の文壇ではかならずしも適切な待遇を得なかった、大きなエクリバン(作家)であった。ロマンシュ(小説家)ではないと自覚していた。 ロマン・ロランらに繋がり理性と自由とを生き抜いて、世界の視野から「時代」ことに「日本」と「日本人」とを痛切に批評しえた稀有の人であった。『人間の 運命』はただならぬ大作であり、その批評が今日只今の日本と日本人とを切実に衝いている意味でも貴重な大仕事であった。島崎藤村の『夜明け前』『東方の 門』を事実上受け継いだ歴史とすら言いうるが、晦渋ではない、芹沢さん独特の明るい平明な叙述で「日本の運命」を優れた視野に書きおさめている。
 わたくしは必ずしも芹沢さんの理性や自由の理解に全面与するモノでなく文学・文体にも陶酔しはしないが、じつに立派な姿勢の文学者であったことには惜し みない敬愛いや尊敬を捧げている。
 いま、この大作に日本人が心して触れることは、一芹沢光治良の問題でなく現下の日本・日本人ないし「わたくし・あなたがた」の問題だと信じている。こう いう文学が日本の近代・現代に置かれていたということを改めて考えてみたいと思う。 
 以下の日記はむろん十全の感想ではない、文字どおり「読みながら」の感想でしかないが、間違いも有ろうけれどその時々の率直な実感ではあるので、とらわ れて頂かないように。 湖・秦恒平


  芹沢光治良『人間の運命』読みながらの感想


* このところ芹沢さんの『人間の運命』が進んでいる。感想は読み終えてにしたいが、主人公森次郎は初恋の女性に背かれ、べつの節子と結婚式はあげたがま だ夫婦になっていないまま、二人でやがてパリに遊学する。次郎はとびぬけたエリート官僚の地位を休職という形で振り捨てて行くのである。変わった小説であ り変わった主人公であり、まだ半ばに達していない。
 わたしは『ファウスト』ならつづけて三度も通読するけれど、どうしても、何度試みても読み通せない西欧の長編をもっている。ロマン・ロランふうの教養小 説というか、真面目そうな伝記的な作品である。芹沢さんの『人間の運命』も、もし図書館で借り出していたら深入りできないで離れていたかも知れない、が、 読み終えてみなければ確かな感想は言いにくい。しかし、乗ってきた。次郎は有島武郎に若い頃に傾倒しているが、有島の文体にある西欧文学の匂いに、時とし てヘキエキするのと少し似かようものがこの大長編にある。「唖者の娘」にも通じる物言いを『死者との対話』で主張していた芹沢光治良について書いた論説 で、わたしは、最後に、それでもなお、「文学」の問題にはそう単純化しきれないものもあり、それはまた別に論じねばならないと書き添えた。  6.11.15


* 『人間の運命』全七冊本の四冊目に入った。頭脳明晰な本だと感じる。はなはだガンコに変わった個性の主人公だと思う。
 血の熱いような冷えたような、その見極めがつきにくい。『死者との対話』でも感じていた。自身の感情や理性や概念にビクともブレない目盛りが確定してい て、それで他を測ることは、かなり厳しい。文体も生活も個性も対蹠的に異なるけれど或るガンコさにおいて志賀直哉に共通する、志賀さんよりはややしつこい 体臭をともなった唯我独尊も感じられる。
 感情移入という同情や同感や共鳴が他へ向かうこと、比較的微弱。自律の精神で他も律して行く。きわめて真面目、それが堅い物差しになる。それで敬愛され また顰蹙もされている。理想て思い、しかし拒まれて失恋したマドンナがいて胸を離れないでる。そんな初恋の「加寿子」との交際も、恋愛と呼ぶには文字とこ とばとが優先して、それしかない。敬愛はあろうが文通でしか育てられていない概念的な恋心で読んでいても胸ときめかない。時めいてリアルなのはそんな擬似 の恋が破局に陥って行く時であったり、妻が地金を露わにブルジョアの令嬢のエゴイズムから感情や言葉を爆発させるときである。少なくも女性が親身に身に 添ってこない。
 典型的なブルジョワの世界に抱え込まれるように身を置きながら、自身は極貧に育った漁村の秀才という根を抱いて、コンプレックスは鞏固に残存している。 中学、高等学校、帝大とすばらしい秀才で終始し、在学中から文官としての試験も通過し、官庁に入ってもいちはやく高等官に任官しているが、理想を侍してゆ るがず、官職を抛つように結婚してパリへ旅立つ。ブルジョアの丸抱えといえば繪に描いたようにその通りで、その代償のように妻も得ているが、妻を愛してい るかといえば、否認するしかないような微温的な伴侶感覚。。価値観の物差しを日本よりもパリにおいたような、日本のインテリにときどきある奇妙な世界人志 向がつよい。
 そして何よりも顕著なのが、数え上げても何人も何人もの男の大人に愛されてきた。そういう「少年」の素質をぬきがたい「個性」の一つに森次郎という主人 公は抱え持っている。

* 『ブルジョア』は芹沢さんの出世作で懸賞当選作だった、いちはやく「ペン電子文藝館」にも戴いている。しっかりした骨組みの確かな生きた小説であっ た。もっと昔に『パリに死す』を読んだ記憶がある。日本人の作家でノーベル賞の候補に噂されたりその推薦委員を務めたりしたほど、むしろ日本でよりも国際 的な作家だった芹沢さんであるが、その日本語は、堅い主張にも支持されて平易で説明的で読みやすいがディレッタントのものという批評も受けてきた。
 『人間の運命』で期待していたのはパリを中心にした芹沢氏の西欧世界とそこでの学びや暮らしを読みたかったのだが、意図的に其処が割愛されて「日本」国 内での運命に的を絞った旨が第四冊目の冒頭に書かれている。すくなからずガッカリした。五年の在仏、そして肺結核との闘病と夫婦違和。それが日本へ帰って 行く船の中でこじんまりと説明的に回想されていて、ああと目を覆う夫婦の、いやブルジョア妻の夫に対する批判や無理解が書かれている。ああこうなるのか と、五年の空白部に想像がはたらく、そこがフィクションとはいえ小説『ブルジョア』で補いがつく。読んでいて良かった。
 名古屋の妻の実家にとりこめられたような森次郎は、まさしくブルジョアの蜘蛛の巣にからめとられた悩ましい小虫のようである。その辺まで、昨夜遅くまで 読んでいた。


* 『人間の運命』では愕かされることが少なくない。ことに仰天したのが、「小説を書く」ということへの妻を始めとする舅や義父らの強烈で容赦のない軽 蔑・侮蔑の念で。
 極めつけの秀才主人公森次郎が、名古屋の電鉄経営者の娘と結婚し、農林省の高等文官の職を棄ててパリへ留学、ソルボンヌ大学で経済学を学びつつパリ在住 の文化人たちと親交を重ねる内に、その卓越した文才により友人達の信頼や敬愛もえて、演劇や小説創作に気分的に馴染んで行くのだが、不幸にも重い結核にか かりスイスの高山療養所へ入る。この時の妻の罹患した夫を責め立てる激昂にも驚愕したが、友人達が共著で文学活動をしよう、小説を書けと奨められていると 告げるや否やの、狂人を見たような恐れ軽蔑と必死の拒絶ぶりはゾッとするほど凄かった。日本へ帰ればナニ不自由のない妻の実家での抱きかかえたような生活 であったが、自立を願う次郎はふとした契機にうながされて新聞の懸賞小説に『ブルジョア』を応募し一等当選してしまう。それに対する家庭内の風当たりのき つさは凄まじく、そんな恥さらしな真似をされるよりぶらぶら遊んでいてくれる方がよほどマシだと袋叩きにされている。また嘱望されて講義に出ていた中央大 学の経済学部からも、朝日新聞に小説を連載するなどトンデモない大学の恥辱とばかりバッサリ馘首されてしまう。
 むろん、理解を示し応援し高く評価して世界へ出て創作を続けよという人達もいる。が、彼の人柄と能力に魅せられたように応援する義父一家も妻の親族も、 ことに後者は容易に容易にそんなふしだらな真似を聟殿に許そうとはしないのである。

* 鴎外漱石から直哉や潤一郎や川端や三島や大江健三郎にいたる文学史を心得ている人達には思いも寄らないことのようであろうけれど、わたしの読者で小説 を書きたい書いている人の中にも、ガンとして本名でそんなものを世に出すことなんか出来ません、親類が何というかと、それが当然のように息巻く人も現にい るのだから、芹沢さんの例ほどろこつであるかどうかは別にしても、そういう傾向はまだ残存しているに相違ない。大臣大将博士。そういう時代がたしかに有っ て、それがそうでなくなってきている現実への憂慮から、もういちどそういう価値観世間へ戻したい強い意向。強い念願。それが現今の政治屋どもの深層心理を 刺戟しているのではないか。日本はそういう国のように想われる。

* いま、とにもかくにも『人間の運命』に読みふけっている。第四冊目を足かけ三日で読み通してしまいそうだ、長くかけていた頃は一冊に三週間も要したの に。


* この機械部屋のすぐ近くへ等身大に朝日子が来て立っている夢を見た。三十台の半ばに見えた。声をかけて、夢は醒めた。
 それから暫く『人間の運命』を読み継いで、また寝た。
 芹沢さんの『ブルジョア』が懸賞小説一等当選作であったことは知られている。「懸賞小説」でデビューしたことを、芹沢さんに向かい女としての愛情を臆せ ず表現していたらしい林芙美子は、作家としての「汚点」になったと惜しんでいる場面に出会った。もっと文壇人と付き合わないと「孤立」して書く場所が無く なると助言し、書き手の集まる銀座の「おでんや」へ誘ってもいる。芹沢さんは重い肺結核の予後を養う日々であったこともあり常にそういう誘惑から身をのが れ断っているが、文壇からはブルジョアの坊ちゃん作家と眺められ、家庭環ら。は謂うもおぞましい小説家風情を、妻からも舅からも嫌悪・侮蔑され続けてい る。
 暮らしている家は、林芙美子などの眼でみれば、絵に描いたような宮殿のような邸宅であり、舅は浜口雄幸の旧友で名古屋を中心とする私鉄の大社長で一時期 民政党代議士でもあったし、芹沢さん自身も余儀ない成り行きで総理令嬢のフランス語の個人教師もしていた。
 ややこしいことに、その芹沢さん本人は、沼津我入道(がにゅうどう)の貧漁村のもと網元の育ちで、それも両親が天理教へ家産のすべてを抛ち零落しきって いたから、貧の極を味わい尽くしていた。ただ人並み優れた秀才故に他人の情けに幸運にあずかりつづけて、貧苦に喘ぎながらも目をみはる最高学歴をかちえて いったものの、そのコンプレックスから容易に抜け出られない人であった。しかも真面目、しかも或る意味で頑固な人柄に出来ていて融通が利かない超級の堅 物。終生思いは世界にありパリにあり、そして文学にある。
 芹沢さんの作品を読めば察しがつく、彼はあたかもフランス語で下書きして日本語に置き換えるような文体を身につけていて、文学的な日本語の伝統から謂え ば、明るくて軽いハイカラな文体をもう抜きがたく持っていた。読みやすいが、「晦渋の妙味」はうすい。日本語文学の文章として、こくがない、ためがない。 さらさらと行ってしまう。それは希少価値的な珍しさと同時に、文壇には一つの異物感を投げ込んだのかも知れない。

* 芹沢さんの社会観、政治観、ヒューマニズムにも、日本という足場からすれば批評されていいある種の色がついていて、百パーセント賛同しかねる個人的な 限界もある。いみじくも彼が謂うように、パリのセーヌ川は、川をへだててブルジョア世界とプロレタリア世界に截然と分かたれているというが、芹沢さんは明 らかに自身をブルジョアの側に自覚し生活してきた。しかしそれを可能にしていた財力は、小説家(藝術家)芹沢光治良を「家の恥辱」としか考えない妻の実 家、舅の手から恩恵されていた。彼を真実息子として愛した義父にしても始めは小説家「森次郎」を容認しなかった。ブルジョアとしては逸脱も甚だしい嘆かわ しい仕事へ落ちこんだものと観られていた。
 「ブルジョア」という言葉は、決して貴族的な由来にはない。マニュファクチュアを階層化して行けるほどに実力をつけた商工業由来の財産家・富豪の意義を 根にもっている。芹沢さんを貧の底から拾い上げて養い続けた篤志の人達はすべてそういう意味合いのブルジョアたちで、例えば白樺の人達のような華族的背景 とは少し、いや全然ちがっている。白樺の人達は華族・貴族世間に間近く、人も彼らをブルジョアとは呼ばない。
 芹沢さん自身は、ブルジョアの上澄みの恩恵をたっぷり吸い込んでいるけれど、なんら本来の意味のブルジョア生活は体験してこなかった、そこへ取り込まれ ただけである。優秀な学歴と能力を、ブルジョア達に惚れ込まれ取り込まれた寄生者なのであるが、それが芹沢さんの意識にあり、またともするとそれも意識か ら薄れかけもし、実にややこしい立場に立っている。

* 間違いなくしかし「森次郎」という主人公は、大人の男性に好かれる。嫌った人は一人しかいない、それは初恋の令嬢の父親だった、徹底して嫌われた。そ して恋人もまた父の側について、彼を背き棄てた。令嬢の父は「森次郎」を事実無根の「社会主義者」ゆえに認めなかったが、事実は、その「育ち」ゆえに排除 したのだろう。「育ち」には天理教がらみの、しかもそれだけではない数奇の背景や遠景が纏わりついていた。そのコンプレックスは根強く彼を苦しめ続け、そ ういう思いに苦しむとき、森次郎はおのれを、「すでに死んだ者として」生かしめようと努めざるをえない。それが「日本人」森次郎の生き方だった。フランス でなら、世界でならそうでなく生きられると信じ憧れながら、日本で日本人に混じって生き苦しく生きたのである。

* 芹沢さんは、「自分」の他は「他人」だと明瞭に意識している。親も親族も、である。そして少なくも今までの処、かれが心底から「身内」を欲したり探し たりしているようではない、あるとすれば「親友」であるが、親友にも容易に心をゆるせず絶えず動揺し、価値判断の堅い目盛りから少しでも逸れると、絶交、 これまで、最後だ、と思う。バグワン流に謂えばまさに「分別と思考」のマインド人間なのである。家庭のなかでも「死んだ者として生きている」から冷ややか で概念的で、愛情といった感情の熱度ははなはだ低い。『死者との対話』でわたしがかすかに感じていた或る違和感は、『人間の運命』を読んで行くにしたが い、みごとに説明されて行く。一例を挙げれば、ほぼ一冊で千枚あるであろう全七冊の『人間の運命』第五冊の半ばを過ぎて、ただ一度も「我が子」のことが書 かれていない。結婚して早くにフランスで第一子をえており、帰国後にも少なくももう一人は生まれているらしいのに、この父親である森次郎という小説家から 我が子との関わりも我が子への思いも、まだ、ただの一度も親密に書かれていないのは、そうと気が付けば一種冷や水をかぶったような異様な感じ。欠落。非 在。そう謂うしかないほど徹底している。
 かつて日本人、日本文学では見たことも聞いたこともない一つの「存在」としての主人公、小説家、人間がこの大河というにふさわしい教養小説のなかに実在 していて、おどろかされる。
 おおざっぱに味わいの濃くない教養伝記ものにみえて、実は巧緻なまでに組み立ての利いた大建築物の小説になり、はじめのうち一冊読むのに二十日も一月も それ以上もかけジリジリと読み進めていたものが、第四冊にかかってからは、二三日で読み上げていることでも、牽引力が分かる。「大河」という云い方でかつ 藝術的達成感もしっかり備えたこれは近代日本でも初の「大河小説」の名にふさわしい。だが、まだ二冊半ものこしている。読まされてしまうだろう、加速度も ついて。トルストイやロマン・ロランの名があがっているように、明らかにその方の同類小説である。決して決して『モンテクリスト伯』のようなものではない が、佳い意味でも少し抵抗のある意味でも「ブルジョア」という言葉は作家芹沢光治良には運命的だ。日本の近代作家のとても持てなかった可能性を豊かに持つ とともに、どこか日本の近代文学の佳い意味の魅力から逸れたタチの日本文学だとも謂わねばならない。


* 『人間の運命』第六冊目に入ったが、時代は昭和十年代。わたしの生まれて最初の、敗戦に至る十年間だ、何から何までほとほとイヤな時代。生まれる一月 前、昭和十年十一月に日本ペンクラブが発足し、島崎藤村が初代会長、芹沢光治良は「会計」役の理事を頼まれている。引き受けるとすぐに、林芙美子がやって きて、そんな役を引き受けたのは宜しくないという。「藤村」派だと思われてしまうのは文壇渡世のために不味い、ペンには菊池寛が入っていないが、彼の文藝 春秋に睨まれては作家として損だからと窘めている。やがて菊池寛肝煎りの日本文藝家協会ができると、やはり会計を頼まれ芹沢さんはいったん断るが、また林 芙美子が来て菊池寛には楯突かない方がいい、ぜひ引き受けるようにと、本気で助言している。芹沢さんも林芙美子の処世の真剣さにほだされ、引き受けてい る。
 そんなことばっかり気にしながら文壇文士たちはモノを書いていたかと思うと笑止千万で、時代もわるいが、これは時代の問題でなく、物書き達のいじましさ の問題であるから、読んでいてもうんざりする。しかしペンの例会にも必ず特高が参加し監視したと知ると、これは「時代」のおぞましさ。
 日本には、民衆のために本当に佳い時代なんて時代や時期は無かったんだといつも思う。そして今また一段と日に日にひどいじゃないかと情けなくなる。
 破産した夕張市の市民達はどう生きて行くのか。文科省の、社会保険庁の、労働や雇傭の現場の、だれの、かれのと眼がまわりそうに政治・行政の各場面を見 回して行くと、ほとほと、生きながらえて行くことに希望どころか、暗澹としてしまう。
 わたしには芹沢さんの体験が無い。だから確信して謂えることではないけれども、芹沢さんのようにはフランスを中心としたヨーロッパ各国のすばらしさを、 簡単には認められない。だがそれでも、そういうヨーロッパを一方の念頭にしかと置いてなされる芹沢さんや優れた学友達からの、「ひどい日本」への批判や批 評に対し、到底反対し得ない気はしている。適切な指摘に頷かされてしまう。
 わたしはけっして芹沢さんの「理性」に全部賛成ではない。その理性があまりに概念的に棒立ちしていると、この人は繪に描いたような「マインド」人間だな あと多少滑稽に感じたりもする。それにも関わらず、十に八つは芹沢さんの日本と日本人批判に頷くし、その一方それだけ非難するなら、非難を貫く実践があっ てもいいのにと思ったりする。それほど彼の「在日世界人」としての日常はには、情けないほど日本人的な妥協もたっぷり読み取れる。金持ち喧嘩せず。そうい うところが物足りない。

* 芹沢さんのことは、だが、もう過ぎた過去の話。問題は、この私、である。
 わたしは文壇にも日常にも、ほぼ、今、「抱き柱」を持たずに生きている。家庭はどうだ、妻はどうなんだともし言われたら、わたしは大切にしていると言う し、お前のそれが「抱き柱」じゃないかと言われたら、頷きさえするだろう。妻も息子もわたしは「身内」と感じているのだから、当たり前だ。
 わたしは林芙美子のような文壇人であろうと努めたことは一度もない。何事も誘われれば、誘われた一人の書き手としての自由を投げ出すことなしに、馴染む べきは馴染み、疎ましいモノは疎ましいと見切って遠慮などしたことがない。幸い「時代」はわたしに、わたしの「場所」をほぼ無償で与えてくれている。紙と 活字の世界で身を細くされても、電子の世界でわたしを殺せる存在は事実上一人もいないし、それじゃ生活できないだろうと言われても、幸い過去のガンバリが 今しばらくの余生をほぼ支えてくれているとサラリと言い切れる。
 わたしはわたし自身のために懸命に書いてきた。家族のために稼げる限り「自分の仕事」で稼いできた。誰に貢いで貰ったこともない、大方は自分のちからで 稼いだ。有り難い育ての親たちに助けられたのもむろん事実で、感謝している。
 近い時代にも只今にも、林芙美子の謂う意味の「菊池寛」ふの存在がいな
いではない事実をわたしは漏れ聞きも洩れ知りもしているけれども、幸いそういう誰とも気持ちの上では間隔を置いてきたし、ことさら離れも近寄りもしなかっ た。受ける行為は有り難く真面目に受けて仕事でお返しし、べたつく事はしなかった。出版者にも編集者にも同じこと。そして今、わたしをぶち殺すこともぶち 斃すことも誰にも出来ない。その意味では佳い時代とまで謂わないけれど、この時代の有り難い一面をわたしは掴んで生きた気がする。それがお前の「抱き柱」 じゃないかと言われたら、頑なに抵抗しない。わたしは「東工大教授」に導かれたのを意思的に利して、いわばコンピュータを抱いて「文壇出家」してしまっ た。それをどう譏ることはできても、だれも追いかけてきてわたしをぶちのめすことは出来ない。
 わたしには芹沢さんの林芙美子のような友人はいないけれど、欲しいとも思わない。そして芹沢さんが得ていた「自由」の意味をよく会得できる。出来ている と思っている。芹沢光治良は「世界の芹沢」として成功し、わたしはそういう成功とはあまりに程遠い小さな存在にしても、「自由」の高みにおいては遜色ない 自由わたしはを手にしている
。もとより誰かも言ったように「自由」とは牢獄の意味でもあり極めて寒い境地でもあるのを知っている。それでもわたしは人を支配したくもないし、協力すべ きは進んで協力するが不当に支配など決してされたくない。

* だけれども、しかしまあ、何というイヤな国民無視の「日本の政治・政権」だろう。もうそんな言葉は死語かのように使われないけれども、大企業優先の格 差日本は、れっきとした「ブルジョア日本」に相違なく、ブルジョアのための政治に政権は奉仕し寄生している。そして飼い慣らされた学歴社会は「おれだけは 大丈夫、落ち零れはしない」と空しい夢見心地で政権に尻尾をふりつづけている。あらゆる意味での知性の喪失時代。 6.11.22

(未了)



小説 「マウドガリヤーヤナの旅」 2 秦恒平・湖  2006年11月27日10:32

愛しい孫・やす香との現世の別れから、はや今日で四ヶ月が流れ去った。祖父母の眼に泪は乾かない。だが、それではやす香も気が晴れまい。この「旅」の物語 をやす香の前に贈る。かたわらでやす香のキラキラ輝く笑んだ双の眸が微笑している。6.11.27  湖


  マウドガリヤーヤナの旅 2  秦 恒平・湖


 「あるとき」昭和五十三年(1978)五月創刊号



 長かった三年の旅はカルパの冒険と好奇の心を満たしてくれた。織物や薬や金の細工物を商うこつもおぼえた。中国人やギリシャ人とも交わった。天文や算数 の知識もえた。砂漠や密林では危険なめにあい、都会や港では歓楽の味も知った。しかし、日を追い月を重ねて一年送り、二年過ぎ、カルパは自分がいつも奇妙 に孤独だったと気がついた。人を憎み嫌うこともないかわり、とくに愛してもいなかった。そして人もそのように自分と距離をおいていた。ミトラだけが例外 だった。
 美しく賢い女と出会っても、カルパはうやうやしく、時に快活にやり過ごした。人のために喜ぶことも泣くこともなかった。ただミトラに強いて、花のよう だったチュッラの噂をさせ、楽しそうに聞いた。聞きながらカルパが恋しいと思うのは死んだ父マシパと、マシパの墓をひとり故郷で守っている母アモーガの面 影だけだった。
 カルパは悔いていた。
 父の死後三年を子としてつつしみなく過ごし、またその後三年、母をさびしくうち捨ててきたことを、そぞろ心に恥じていた。
 そのカルパの耳に、風のたよりがとどけるマガダ国の首都ラージャグリハの噂は、時にいぶかしく、時にしきりに胸をさわがせた。
 ミトラは馬を駆って街に入ると、まっすぐもとのマシパの家に急いだ。羊飼いのダッタは、さけんで門の内ヘミトラの名を告げた。わが子の帰ってきたのを 知ったアモーガは、ミトラをしばらく門からいれぬようタッタに言いつけた。
 アモーガは蔵をあけ、にわかづくりに金銀で織った幡(はた)を立て、五色の幕を張ってみ仏をまつる壇を築いた。池のある裏庭にはさも五百僧のための食事 の場所ももうけた。もうけ終るとダッタに門をあけさせ、ミトラをいれて、アモーガは自分から機嫌よく声をかけた。ミトラは若い主人のことばをひざまずいて 伝えた。
「あの子が、お前といっしょにラージャグリハを出て行ったあれ以来、わたしはこの家と亡き夫のお墓を守っていつも心にみ仏を尊み、来る日ごと五百人のお坊 さんのために欠かさずお食事をさしあげてきましたよ」
 ミトラは黙って女主人の顔を見あげていた。
「信じないのなら裏庭へ出て、見るがよい」
 言われたとおり、裏庭へまわると、五百人もの僧が食事をすませて行ったあとらしく、木の匙はたてに横に一面に散らかって、仏壇のお香や華の匂いはむせか えるほどだった。ミトラは、客が食べあました銀の碗や金の皿を、顔見知りの召使いらがせわしなくかたづけているのをしばらく驚きあきれて眺めていたが、や がて両膝を地に折ってアモーガに頭をさげた。
「カルパに、見たままを話しておくれ」
「はい」と、ミトラはまたさげた頭をあげて、さっきから顔を出さないチュッラが「元気でおりましょうか」と女主人にたずねた。アモーガは眉をくもらせ、 ちょっと口ごもってからたまりかねてミトラの肩に手をおいたふうに、あのチュッラがミトラの帰りを待ちきれず、遠いバドラジッドの威勢のいい毛皮商人に望 まれ、嫁入ってしまったことをそっと告げた。
 うなだれ聞いていたミトラは、それでもやがて若ものらしく眉をはって、肩さきにアモーガの手のぬくみをのこしたまま、また、カルパのもとへといっさんに 馬に鞭をあてた。遠い西の空のあかね色に馬と人の影はながい尾を引き、天の半分は刻一刻青くかげっていた。
 ミトラの表情に胸をさわがせ、カルパは母が留守居のようすを、耳かたむけて聞いた。
「あなたのお母様は、ただのお方とは思えませぬ」
 すこし顔をそむけるふうにミトラは、若い主人に見てきたままをくわしく知らせてから、そうこごえで呟いた。約束のとおりだった、ということかとガルパが 念をおせぱ、うなずいた。
 カルパはしばらく身動きしなかった。じっと顔を伏せていた。やがてくずおれるように大地に額を押しあてて母が待つラージャグリハの方を何百回となく伏し 拝みつづけ、ミトラはそばで、ただ頭を垂れていた。立っていたらくだもみな膝を折り、豚や羊は鳴き声をやめた。
 マシパの息子が帰ったと知り、商人組合の仲間たちは待ちかねてカルパを出迎えにきた。中には家族そろって来たものもあった。彼らは、カルパがまるで昇る 月でも拝んで立とうとしないのを見ると、前に仏をまつってもなくそばにお坊さんの姿も見えないのに「あなたは、何をいったい拝んでいるのですか」と声をか けた。
 カルパははずかしそうに告白した。あの旅立ちの前、母の言うことを聞いて父の財産を眼の前で三つに分けたとき、自分は胸の奥にかすかにその一つ分を惜し む気持を抱いていた、と。また、旅しているあいだには、母がその金をむだに使ってしまうのではないかと危み思うときもあった、と。それでいて風のたよりに 故郷の母の悪いうわさを耳にするつど、とても信じられず、かえって母が恋しくなつかしくてならなかった、とも。
「いまミトラのしらせを聞いて私は、自分のいやしさにくらべ、あの母が三年間のけだかい行いに心から感謝していました。私は自分がはずかしく、母のことが ほこらしく、それでこのように母がいる方へ頭をさげずにおれなかったのですよ」
「――」
 迎えの人たちは声をのみ、八方からカルパを立たせて口々に、「それは違う」とさけんだ。
「あなたの母上は、あなたが行ってしまうと、その日からお坊さんたちを棒で打って殺すめにあわせたのですよ。あなたのお金でたくさんの鳥けものを飼って は、首をゆって殺し皮をはいで殺して庭に血のにおいのしないときはなかったのですよ。羊の生き血をしぼり生きたまま豚の心臓をえぐって魔法の神神を家の中 にまつりながら、あらくれ男や女を好きに出入りさせ、みだらな遊びに明け暮れていたのですよ」
「うそだ」とミトラはさけんだ。さけびながら、こらえきれなくて子供のように泣きだした。
「うそなものか」
 しかし、泣いているミトラのために、みな、しばらくは口ごもった。ほかの男に嫁ぐはずのないあのチュッラの身に起きたことを、やがてミトラは聞かぬわけ に行かなかった。
「ミトラゆるしてくれ」
 カルパは悲鳴をあげてころげまわり、やにわに立って自分で頭をうち顔をうち、胸も腹もわが手と手で骨も砕けよと打ちつづけた。毛あなという毛あなは血を 流し、カルパは悲しみとはずかしさのあまりみなの前で地に両の眼をすりつけて詫びながら、気をうしなった。ミトラと街の人々は、あくる朝、死んだもおなじ カルパを象の背にのせ、涙をこらえてラージャグリハヘ帰って行った。
 アモーガは、わが子を出迎えて街の西の門の外で待っていた。カルパは顔をあげず、母が呼びかける声に、身ぶるいしてただ「わからない」とうめくだけだっ た。
 アモーガはわが子のそばへ行き、自分の着物でカルパの血や泥をふきとりながら語りかけた。
「カルパよ、お聞きなさい、誓いを立ててわたしがお前に話すことを。ガンジス河ほど大きな流れは、いつもゆったりとけっして騒がないもの。ところがせまい 小さな流れほど、とかくあさはかな波音をたてるものです。何をお前が聞いたのか知らないけれど、真実を話す人は数すくなく、心ないうそで人をまどわせるも のはいっぱいいます。ミトラが自分の眼でたしかめて帰ったように、お前たちが旅立って行ったあの日から、わたしはお前との約束をたがえず、いつもみ仏にお つかえしながらお父さんのお墓を大事に守っていましたよ。わたしは誓う。それがうそならこれからお前の家にいっしよに帰って、七日たたぬまにわたしは死ん で大阿鼻(だいあび)地獄におち、想像もできない苦しい罰を千年も万年もうけつづけることでしょう」
 やっと半分からだを起こし、かすんだ眼をあいてカルパは、母の眼や口もとを指でまさぐった。ミトラがうしろから支えた。
「信じますとも、お母さん。あなたはきっと天に生まれ変ってまたお父さんとごいっしよになられますよ」
 さわがしく人垣が四方へ割れた中を、カルパは母をおなじ象の背にのせて家に帰った。象は鼻を高々とあげて一と声二た声鳴いた。「おそろしいことだ」とい うささやきは人の口から口へつむじ風のように舞っていたが、カルパの耳にとどかなかった。母のやわらかな膝に頬をあずけて、カルパはいっとき幼な児のよう に夢をみていた。アモーガはそんなわが子の背中をじっと抱いていた。
 家についた。
 アモーガは先に立ってカルパをもとの部屋に誘いいれ、しかしもうそのとき白い花が黄色くしおれるように、音もたてず床のうえにくずれ落ちた。どう手をつ くしても病いははげしく、七日たたぬまに前の組合長マシパの美しかった妻アモーガは、わが子の泣いて呼ぶ声のしたで息絶えた。その死をかなしむ街の声は一 つとして起きなかったが、ラージャグリハを遠くとりかこんだ山なみには、しずかに紫の雲がたなぴいて、消えた。

 カルパは母の亡きがらをていねいに山の墓地にほうむると、マガダ国のうちそとに知られたゆたかな商いも家もミトラにあずけ、形ばかりの小屋をつくりひと り父と母の墓を守って、燃える火のように、心とからだを鍛える苦しい修行の生活をはじめた。昼間はかごをかつぎ、土を運んで墓に積んだ。夜は、いつか仏の 身に生まれ変るようにと教えた尊いお経を、一心に読んだ。また無心に菩提樹の下にすわりつづけ、まごころからみ仏の世界へ近づこうと願って、瞬時もおこた らなかった。カルパがお経をよむ声は鷲の峰にもひびき、カルパが心こめて見るまぼろしは、ラージャグリハに住む人の夢にも、けだかいみ仏の国の景色となっ てあらわれた。
 いつか青玉の角と金の爪をもち、五色の光に守られた仔鹿が来て、カルパを慰めるようになった。まっ白な鶴もあらわれ、さまざまに不思議なことばでカルパ の修行が日一日深まり行くのをほめた。また烏は子が親の口に餌をはこぶさまを演じてみせながら、眼に血の涙を浮かべてカルパの行いに感謝した。たくさんの 小鳥やけものたちは、地をはう蛇までも、めいめいに清らかな土を口にくわえ、手につつみ、からだに抱き運んで、マシパとアモーガの墓を高く高く盛った。
 カルパは日に日に不可思議をまねく自由自在の力をそなえて行った。鳥やけものたちが土を運ぶのを見て心は喜びふるえ、その清い土でカルパはみ仏の姿をか たどり造って、いよいよ深くうやまった。
 いつとなく三年が過ぎ去った。
 カルパの心はきまっていた。ミトラにあずけた家に帰らず、父と母の墓の前にながいあいだひざまずき祈ったあと、その足でラージャグリハをかこむ峰々の 王、この世の仏、世尊(せそん)とたたえられているブッダに会いに鷲の峰をめざした。
 カルパはゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)のみ前にひざまずき、両手を合わせて問いかけた。
「世尊よ、私の父と母とはなくなりました。子として三年、墓を守り行いをつつしむ月日も過ぎました。私は人の世に生きて、いつかはのがれられない罪をおか す人間です。父や母に心おろそかだったのはその手はじめです。いまはお導きにより出家して、自分がおかす重い罪を遠ざかりたいと熱い気もちで願っていま す。しかし世尊よ、お教えください。出家にはいかほどの功徳があるものでしょうか」
 しずかに眼をあいて、ブッダはこころよく答えた。
「よく来たカルパ。そしてよく問うた。この世のもので、もしも男の子、女の子、あるいは男の召使い、女の召使いのどの一人なりと仏弟子として出家させた功 徳というものは、八万四千のりっぱな寺を建て、塔を築いたよりまさっているのだ。子を僧にもち尼にもった父や母は百年の幸せと楽しみをうけ、その後七代の 子や孫まで、死んでみ仏の国に生まれ変ることが約束されている。まして自分から僧になり、すえは仏にも成ろうと決心をつらぬいた功徳は、たとえようもな い」
 カルパは五体をなげだしてブッダに感謝した。
 アーナンダが出てカルパの髪を美しく剃ると、ブッダは頭に手をそえ新しい仏弟子の未来を祝福して、名を、マウドガリヤーヤナと変えた。カルパが三年の修 行を、鷲の峰でぜんぶ見知っていたブッダは、マウドガリヤーヤナの神通力を数ある弟子の中の第一とほめた。四つの膝とひじを地につき、み仏の足にうやうや しく頭をふれてからマウドガリヤーヤナはもう一度問いかけた。
「出家の功徳は八万四千の塔を築くにもまさると世尊はおっしゃいました。立派な寺を建て塔を築いてみ仏をまつり教えをひろめることは、くらべようのない正 しい行いと思われます。重ねてお聞かせください」
「マウドガリヤーヤナ、聞きなさい。寺をどんなに大きく建て、塔をどんなにいかめしく築いても、また軒と軒が触れあうほど数多く建て大空にとどくほど高く 築いても、きっと二百年五百年せぬまに雨は漏ってみ仏たちの顔をぬらすであろう。それではかえって罪を次の世でうけることになる。しかし出家の功徳は金剛 石の輝きのように永遠(とわ)にたしかなのだ」
 マウドガリヤーヤナはいまは迷いなくブッダにいとまを告げ、どこか清くけわしい山に入っていっそう修行したいと願った。ブッダは笑って、どこへ行くこと もない、この鷲の峰に分けいり、心とからだをもっと鍛えるようにとすすめた。
「この峰は鷲や虎など鳥けものでいっぱいだ。しかしマウドガリヤーヤナ、お前にまごころがあればその鳥けものがさまざまな食べものを供養して、けっしてお 前を飢えさせはしない」
 聞くが早いかブッダに一礼したマウドガリヤーヤナは、ただ一つたずさえた木の鉢を高くなげうち、たちまち神通力を起こして鉢に乗り空にあがると、真一文 字に鷲の峰の奥深く飛び去った。
 一つの山ほどある崖の根に池が光っていた。水べに鏡のような平たい岩があり、菩提樹のかげに赤い花が咲いていた。マウドガリヤーヤナは右足を左のももの 上に、左足を右のももの上に重ねて静かに両手の指を組んで岩にすわった。百、二百、三百六十五日すわりつづけてけっして飢えなかった。マウドガリヤーヤナ がいながらに天界をくまなく見とおすと、父マシパひとり天に幸せに生まれ変って、母アモーガの姿はどこにも見つからなかった。
 マウドガリヤーヤナはブッダのみ前にもどって、母がいまどこにいるかと問うた。
「お前の母は」とブッダは答えた。
「お前の母は、仏と、仏の教えと、教えを説く僧侶のことばを信じなかった。うやまわなかった。ものを惜しみ、むさぼり、ヒマラヤよりもうず高く悪業を積ん だ。いまは大地獄に落ち、限りない責め苦にあっている」
 マウドガリヤーヤナは、母が、出家の功徳も及ばない罪を数かぎりなく重ねたことを知った。頭をうち顔をうち、胸や腹を自分の手で打ちさいなんでマウドガ リヤーヤナは悲しみ泣き、きっと母を地獄から救おうと心に誓った。
 ブッダの許しをこい、地獄をへめぐり歩こうと鷲の峰を下りて行くマウドガリヤーヤナのうしろから、アーナンダが呼びかけた。
「あなたは大きな願いをたてた、というわけですね」
 ふりむいてマウドガリヤーヤナは満月のように澄んだ眼でうなずいた。
「そうです、アーナンダ。かならず母ひとりの身は、どんな大地獄の底の底からでも救い出して来るつもりです」
 アーナンダは若い友の行方に両手を合わせ、黙って見送った。
 マウドガリヤーヤナの耳に、天で聞いた父マシパの声が、まだ、のみこんだ針のように残っていた。父は出家した息子に大きな声できいた、「お前、お母さん をどうしたというのだ」
 自分は、あの母を三年のあいだ置き去りにした。「それだけがたしかなことです」と、マウドガリヤーヤナは地獄の道をたどりながら眼に涙をためて遠い天の 父に答えた。道は一足ごとに地の下にまっくらに沈んで行った。さわがしく呼びかわす化性(けしょう)の声がそこここに聞えてはあやしく魂消(たまぎ)えて 行った。

(つづく)



親機の不調深刻  2006年12月03日02:42

かろうじて子機で間に合わせているがこころもとない。連載もできないでいる。
機械からそろそろ足をあらえということかも。
五日から新しい湖の本の発送になる。それが済むまでは落ち着かない。 湖



エッセイ・能の平家物語 6 秦 恒平  2006年12月06日18:40
 
能の平家物語 6 「巴」「忠度」 秦 恒平


 「朝日ソノラマ」一九九九年十一月刊 書下し



     巴 ─薙刀柄長くおつとりのべ─

 題は忘れたが木曾義仲と、寵妾たちの確執を扱った映画が、むかし、あった。好ましい作とは観なかったので殆ど忘れているが、巴を京マチ子が演じていて、 適役だった。記憶はあやしいのに、頭の中でぴたりのはまり役として、まだ生きている。華やかな鎧姿の表情まで蘇る。京マチ子は昔も今もひいきの女優であ る。巴と、確執いや角逐した相手の女のことはさっぱり忘れているが、葵、山吹、朝日など、の名前が平家物語諸本に少しずつ見えていて、関わりの、こんな思 い出がある。
 京都市東山区の東大路に安井金比羅宮があり、大路をまたいで鳥居前の広道をまっすぐ上って行くと、高台寺や、京都神社もとの護国神社などへ突き当たる。 突き当たる直前に右へ路を逸れて行くと清水寺の方へ行ける。
 この東大路から東向きに、ものの百メートルも行った右側民家、道路から十段ほど石段を上がった玄関先に、朝日御前の墓と称する石塔がある。朝日御前が木 曾義仲の愛妾の一人という以上のことをわたしは知らなかった。そういう遺跡の遺ったことが嬉しかった。
 また私の通った小学校、戦争当時は国民学校であったが、校庭の校舎寄り中央に、大きな椋の樹がそびえ立ち、根方に山吹御前の墓とした石塔が建っていた。 山吹は、木曾殿最期の際に、病でか義仲と倶に都を遁れられなかったと書いている、本がある。なんだか先の映画の題が、「巴と山吹」だったような気がしてき た。
 平家物語に、木曾義仲の書かれようほど、極端なイメージの分裂は珍しい。八島大臣の宗盛など、比較的人物像が揺らいでその時々の言動や印象がちがって感 じられる方だけれど、そして宗盛のためにはそれが人間味を添えた効果をもち得もしているのだが、大方は、することなすことほぼニンというものが定まってい て、意外なと特に驚くことは少ない。
 ところが義仲にかぎって、木曾に決起の頃の勇猛果敢、武将として最大限の魅力を発揮していた頃と、都に入って宮廷や公家社会に接して以後の振舞や描写と では、別人かのように、扱われ方も書かれ方も大差がある。そして一転して、近江の粟津松原での最期になると、また凛々として哀情痛切、芸術的感動に富んで いることは、平家全編の白眉といえる場面になる。義仲も哀れならば、最期まで義仲をいたわり庇って壮烈に死んで行く乳兄弟の今井兼平のみごとさは、涙なし におれない。
 人物の幅と魅力となれば、べつの価値観を持ち出すしかないが、「書かれ方」という表現の結晶度においては、全編に無数の人物のあるなかで、木曾義仲は図 抜けて傑出している。匹敵するのは義経でも清盛でもなく、私は、後白河院と平知盛とを挙げたい。これは人それぞれの思い入れでよいことと思う、が、こと義 仲に関して一つ言えるのは、清盛や高倉院もしのぐほど「女」が好きで、いささかダラシもなかったことか。
昔も今も変わらない、この筋の噂は面白づくに飛び交い、新聞も週刊誌もないけれど、筆まめに書き留めたり囁き合うたりすることは、今以上であったろう。そ れが説話の集にも編まれ、また多大な平家物語の異本を生む、いわば「話嚢」となった。
 さしも朝日将軍義仲も、宇治川の備えを、義経率いる佐々木・梶原らの先駆けに打ち破られ、はや都は維持しかねると見て、法皇に「最後のいとま」申して落 ちようとするのだが、「六条高倉」辺に「見初めたる女房のおはしければ、それへうち入り、最後のなごりおしまんとて、とみにも出でもやらざりけり」という 按配だった。この女、「おはしければ」の言葉遣いから、たぶん「松殿入道殿下(関白基房)御娘」であろう、いや「ある宮腹の女房」であろうと、詮索されて いる。基房の娘で絶世の美女を義仲が強奪した話も先の方に出ていて、都入りした「木曾冠者」は、その粗暴の故に都人士に大いに顰蹙されていた。
 しかし義仲はたいへんな美男でもあった。義経は醜男の小兵だったそうだが、義仲は鎧兜をぬいでしまうと別人のような二枚目であったと、多くの本が口を揃 えている。もとより剛勇の猛將であり、女は、結局は魅せられてしまった。そういう女を義仲も好んだ。
 もうそこの河原まで東国の敵勢が「攻め入ッて」いるのに、義仲は女との別れを惜しんで出てこない。まだ新参だという家来の武士が口を酸くして諌めても、 聞かない。
「さ候ば、まづさきだちまいらせて、死出の山でこそ待ちまいらせ候はめ」と、癇癪を起こした家来はその場で「腹かき切ッて」死んでしまい、「われをすすむ る自害にこそ」と、やっと木曾は女のもとを離れた。
 いくらか、いらいらする。但し「英雄色を好む」のが常であるなら、或る意味では美女たちがぶらさがるのは、勲章だった。義仲は勲章を同時にいくつも遠慮 なくぶらさげていたわけで、なかで、最後の最期まで義仲から離れなかったのが「巴」であった。
 さすが好色の木曾義仲も、最期の場に寵愛の女が同伴で、枕をならべて戦死したとあっては人聞きがわるいと、心を鬼にし、我が菩提を弔うてくれてこそ「倶 会一処」「後の世までの伴侶ぞ」と強く云い含め、強いて巴を粟津の戦場から落としてやる。巴は泣き、だが義仲はゆるさなかった。
 さらばと、巴は最後のめざましい一働きをし、鎧を脱ぎ捨てひとり戦場を落ちていった。だが巴の魂は決して義仲の身から離れなかったというのが、能「巴」 前シテの出になる。
巴は、あの実盛の友中原兼遠の娘であり、今井兼平、樋口兼光らの妹である。義仲とはもともと乳兄妹であり、この一族を抜きに木曾義仲の生涯は語れない。至 福真実の身内であり、一心同体の主従だった。
 能にも、「木曾」という能は、木曾最期を描いたものでなく、義仲挙兵を祝って神の加護をうたいあげた特殊な作であり、かえって「巴」「兼平」の二番が、 義仲戦死を、まことみごとに表現している。義仲は兼平を求め、兼平は義仲を求めて、近江路を敵の勢いからのがれのがれ幸せにも行き会うのであり、平家物語 のその辺からは、凛々しい緊張感と清らかな哀情に満たされて、読みながら感動で息も喘いでくる。その時もまだ美しい巴はひしと愛する義仲に付き随っていた のである。
 
 木曾殿は信濃より、巴、山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹は痛はり有て、都に留りぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔誠に勝れたり。ありがたき強 弓、精兵、馬の上、歩立ち、打物持ては鬼にも神にも逢はうと云ふ一人当千の兵也。究竟の荒馬乗り、 悪所落し、軍と云へば、実よき鎧著せ、大太刀強弓持せ て、先づ一方の大将には向けられけ り。度々の高名肩を並ぶる者なし。されば今度も多くの者ども落行き討れける中に、七騎が中 まで、巴は討れざりけり。

巴は、女ながら、一騎当千の強者をすら一時に二人もとりひしいで頸をねじきってしまうような無類の強豪であり、戦の場に出て負けたことなど一度もなかっ た。兼平は、義仲とただ二人になったときに、自分一人で兵の千人には当たります、気弱になられるなと励ましていたが、巴でも、必ずそう言ったにちがいな い。
 我が国の説話の世界には、女ながらに桁はずれな力持ちがときどき現れる。神の申し子のような、とんでもなく強い女であるが、この巴は、美貌と強力とを兼 ねもった女として、史上第一位の名声と人気を保ってきた。義仲は、女に気の多い男であったけれど、一番深い心の底では、巴を、我が身と同然に熱愛し親愛し ていたに、頼んでいたに、違いないとわたしは思う。いつしょに死のうとしなかったのは、薄情であったとか、武士の意気地で見栄をはったとかではあるまい、 愛情であったろうと思いたい。
粟津の別離はどのような平家物語異本でも洩れなく読めるが、その後の「巴」を書いているのは、例によって読み本であり、盛衰記などである。義仲と別れるま での戦で巴は目立つ活躍をしつづけたので、国中に知らぬものはなかった。中には女ごときにと、好色を下心に秘めて、言挙げして巴にわざと組み付いて行った 武者も何人もいた。だが例外なく巴の手に命を落とすか赤恥をかいた。それほどの巴であれば、元の木曾に落ち伸びたにしても、鎌倉の頼朝が見逃しては置かな い、ついには鎌倉に呼び出された。
 一目見合って、もとよりうち解けるうる二人では、ない。頼朝は森五郎に預けて、斬らせようとしたが、武勇の和田小太郎義盛がつよく願って出て、巴を貰い 受けた。見たところわるびれもせず落ち着いて、なかなかの者、あれほどの女に我が子を産ませたい、頂戴したいと。用心深い頼朝は、親の敵で主の敵である鎌 倉の侍に、隙あらば寝首もかこうとするに相違ない、よせよせと諾かないのを、強って申し受けた。
「即チ妻トタノミテ男子ヲ生ム。朝比奈三郎義秀トハ是ナリケリ。母ガ力ヲ継タリケルニヤ,剛モ力モ双ナシトゾ聞ヘケル。和田合戦ノ時、朝比奈討レテ後、巴 ハ泣々越中ニ越エ、石黒ハ親シカリケレバ、ココニシテ出家シテ、巴尼トテ、仏ニ花香ヲ奉リ、主(義仲)親(兼遠)朝比奈ガ後世弔ヒケルガ、九十一マデ持 テ、臨終目出度クシテ終リニケルトゾ。」
 巴ほどの女を永く末あらしめよと願う人の多かったことが想われ、何となく私は嬉しい。



     忠度 ─ただ世の常によもあらじ─


「薩摩守タダノリ」と、気の毒な駄洒落のたねにされているが、地味な印象の底に渋く光る魅力があり、一人の人気者、平家の悪逆をほとんど担わないままに人 の心に影像を置くことの出来た、或る意味で幸せな公達であった。
 歌を詠むとなると、その場を逃げ出す平家の公達もいた。清盛や重盛の和歌を急には誰も思い出せまい。知盛でも宗盛でも辞世の和歌はない。南都奈良の寺々 を焼き払った重衡にはしみじみとした辞世歌があるけれど、およそ平家の和歌を一手に引き受けていたかに見えるのが、平忠度であった。薩摩守忠度には「俊成 忠度」「忠度」と二つの能があり、一つの能に編集できそうなほど、一連の、即ち和歌徳の能になっている。いや、和歌道に執心執着の能になっている。
 平家では、忠度や清盛の父忠盛が、機転の利いた、文字通り「和する歌」の達者であった。古代の素養を新興の武家として巧みに身につけ、幾分はその徳を一 門の徳に結びつけたのが平忠盛であった。忠度は、すこし違う。和歌の歴史でいうと、確実に父忠盛の一歩先を歩いており、歌は即興味よりも、真実を尽くして 自然と境涯とをいわば写生していたと見受ける。清新な詠みくちで、真剣だった。和歌の道にしんから出精していた。そういう時代であった。
武将としての忠度は剛強武勇の士であった。最期の力戦はみごとで、死にざまも美しかった。ここでそれを繰り返すのはやめよう。忠度は粋な人でもあった。王 朝の女文化に対する素養も確かで、敬意も払った。諸本の中には、こんな逸話を伝えた本文もある。
 宮廷社会に、才色兼備をもってその頃ひときわ評判の女性がいて、忠度との親愛には濃やかなものがあった。ところが、いい女というと目のない高倉院も、評 判にひかれて時折りに訪れておられた。ある秋の夜長に忠度が訪ねて行くと、先客がある。忠度は院とも知らず、庭面を徘徊して客の帰るのを待ちわびていた が、なかなか腰をあげそうにない。すこしく焦れて、忠度は扇を鳴らしてそれとなく催促した。
 女には忠度とわかり、気の毒には思うものの、院に、ぶしつけに振舞うわけに行かなかった。また扇の骨をきしませるらしい音がする、院も不審げにされたと きに、女は、さりげなく「野もせ」とだけ、呟いた。忠度はそれと聴きとめると、そのまますっと帰っていったのである。源氏物語の夕顔の巻に、「かしがまし 野もせにすだく虫の音よ我だにものを言はでこそ思へ」と出ている歌を、忠度は心得ていた。忠度の扇を鳴らすのを女は蟲の音に譬えながら、一方歌の下句に情 深い忠度への思いも託した。それも忠度はきちんと汲み取ったのである。二人の仲らいは、また一入深まったと謂う。
 こういう忠度が、誰を歌の師としていたのか、本当に俊成卿であったのか。

更くる夜半に門を敲き わが師に託せし言の葉あはれ
いまはの際までもちし箙に 遺せしは花や今宵のうた

わずか四句に能「俊成忠度」や「忠度」の全部が唄われていて感心するが、この美談にひとしい理解に対し、必ずしも賛成ではない人が、わたし自身もそうなの だが、わたしだけでなく、昔から、いた。いたらしい。平家物語が語り伝えられた時分から、実は少なからずいたのである、能「忠度」の作者、たぶん世阿弥も その強硬な一人であった。
 忠度に取材した能は、「俊成忠度」はもとより、ことに能「忠度」は、源氏の勇士岡部との最期の決闘を語るための修羅能では、ない。「生前の面目」を賭け た和歌への執心、それによるいわば無念怨念が忠度を幽霊にしているのである。忠度は俊成の弟子ではなく、歌風からも、俊恵らの歌林苑に筋を引いた歌人で あった気が、わたしは、している。 
 藤原俊成はいずれ勅撰の和歌集、のちの千載和歌集を撰するであろうことは宮廷社会に知れ渡っていた。だから「門を敲」いて、書き溜めた家集を辛うじて忠 度は届け終え、心おきなく都を落ちて一門の悲運に殉じた。
 師弟と見るには、この際の俊成の迎え方が硬かった。「青山」を持参の経正を招じ入れた御室の法親王や行慶らと比較しても分かるし、平家物語の本に依って は、門前に忠度が来たと知って俊成邸は周章狼狽し、俊成は「ワナナキ、ワナナキ」門の陰まで出て、門を開けること無く忠度と応対した、余儀なく忠度はだい じな歌巻物を門内に「投入レ」て行ったとまで書いている。少なくも門の内へ俊成は終始迎え入れなかった。「勅勘」の平家で、無理もない。それを咎めはしな い、が、師弟の情があったとは思わないのである。
 知られているように俊成は、千載和歌集に忠度の「故郷花」と題する一首を、「勅勘」朝敵であった平家の身分を憚り、単に「読人しらず」として撰し、採っ た。

 さざ浪や志賀の都はあれにしを
     昔ながらの山桜かな  読人しらず

 近江大津京にほどちかい「長等」の地名もよみこんで、温和に懐かしい秀歌である。そして忠度が最期まで身に帯びていた有名な一首は、唱歌「敦盛と忠度」 にも唄われた、

 行きくれて木の下蔭を宿とせば
     花や今宵の主ならまし 平忠度

 能ではこの「花や今宵」の歌を「読人しらず」と脚色しているが、岡部に最期の手柄を授ける段取りからも、これは、頷ける。それは、この際はどっちでもい いのである。
 平家物語では、ある本は、千載集に採られたことを、忠度の「亡魂イカニ嬉シク思ヒケン」と前向きに評価している。
 だが覚一本をはじめ幾つもの本は、「読人しらず」とされたことに、「其身朝敵と成ぬる上は仔細に及ばずと云ながら、恨めしかりし事ども」だと明記し、憚 らない。世阿弥もその怨執の念を主題に能を作りき、どれほど和歌の道に「生前の面目」を賭して忠度が生きたか、その無念を代弁している。能「忠度」のワキ は、今は亡き俊成の身近にいた僧だが、忠度の幽霊は、俊成子息の名誉の歌人、藤原定家がやがて勅撰集を編まれる時には、どうぞ「忠度」の名を顕わして一首 なりと採っていただけまいか、お口添えが願わしいと切望すしているのである。岡部に討たれた修羅の無念に、忠度は迷い出たのではない。勅撰の歌人たる名誉 が、「忠度」の「名」に与えられなかったのを、俊成に対しても、恨めしく思っている。そこが肝心なのである。そこに世阿弥の批評がある。
 ここに「定家」名の見えるところが、興味深い。世阿弥は、能の作者は、平家物語の或る本に書かれたこんな記事を、確実に踏まえていたに違いないからであ る。
 清盛の子の基盛は早くに死に、遺児に左馬頭行盛がいた。彼は和歌の道を、俊成の子の定家について出精していた。明かな師と弟子とであった。
 都落ちに、もとより平家の一門の行盛も運命を倶にしたが、怱忙の間に行盛は師の定家に別れを告げ、定家も懇ろに迎えて薄き縁を惜しんだ。行盛は師の手元 に、日ごろ心に入れて書きとめた歌百首の巻物と、手紙とを遺し、都を離れて行った。見ると、巻物の端に、自作の和歌一首がそれとなく書き入れてあった。

 流れての名だにもとまれ行く水の
     あはれはかなき身は消えぬとも 

 若き定家は感動し、心に期するところがあった。父俊成が忠度の和歌を「読人しらず」として撰した時も、子息定家はそれを「本意ナキ」こと、「忠度朝家ノ 重臣トシテ雲客ノ座ニ連ナレリ。名ヲ埋ム事口惜し」いことと思い、自分はきっとあの「行盛」の名を顕わしてやりたいと、心にまた誓った。それでも定家は三 代の御代をやり過ごし、ついに後堀河院の頃、新勅撰和歌集を苦心して編み、宿願の行盛の歌を「左馬頭平行盛」と明記して入れたのであった。「寿永二年大か たの世しづかならず侍りし比、読置きて侍りける歌を、定家がもとへつかはすとて、つつみ紙に書附て侍りし」という題詞も、定家が自身で書き添えたのであろ う、「亡魂イカニ嬉シト思フラント、アハレナリ」とは、其の通りである。
 それにしても、この行盛と定家、忠度と俊成の二つの話は、対照が利きすぎていて、意図的な脚色とすら読める。忠度の「無念」を、ぜひに代弁して遣りたく て堪らなかった人たちが事実いたのだろうと想像させる。忠度の幽霊が、俊成縁者のワキ僧に向かい、定家に頼んで欲しいと懇望するところに、能の意図は、と ても面白く、とても哀れに、露出している。世阿弥が、この対照的な平家物語の話柄に取り付いて能を作ったのは、ほぼ確かではないかと、わたしは考えてい る。

(つづく)
 


花鳥風月  秦恒平=湖  2006年12月11日10:26

凛々師走  もう十日でわたしは「七十一郎」になり、もう二十日で今年も大歳を迎えます。むかし平凡社のために書きました「花鳥風月」を大きめの前置き に、同じく平凡社から出版した『好き嫌い百人一首』を、年内にちょうど完結すべく連載してみようと思います。 湖


別冊太陽愛蔵版『花鳥風月』所収 一九八○年十一月 平凡社刊
『面白い話』所収 一九八二年六月二十五日初版 法蔵館刊
『秦恒平・湖の本エッセイ36 花鳥風月・好き嫌い百人一首』



    花鳥風月


     一

 いま、なぜ、花鳥風月かという問いが頭に去来する。懐古趣味的な日本文化論を私は好まない。
 花鳥風月を一の思想″としてとらえ、現代なお一の積極的な態度″と受取れるものか、その可能性なしに花鳥風月など語ってみても空しい。
 花鳥風月は、もはや過ぎ逝きし死語なのか。そうかも知れない。そうでないのかもしれない。よく分からない。今どき、自身の思想や態度を花鳥風月の四文字 に積極的に託しうる少なくも若者に出会おうとすれば、絶無とも言えまいが、もし出会ってみるといささか鼻つまみなただ退嬰的な変人にすぎない虞れは、あ る。どうでもいいことのようだが、しかし現代″とは粗い目盛の(例えばヤングの関心度といった)そういう温度計で先ずざっと計測せざるをえない或る沸騰 点であるには違いない。その沸騰に花鳥風月がよく耐えて未来にも生きのびられるのかどうか、何よりそこが知りたい。
 日本人は「昔」も「今」も変わらない、という推測がよくなされる。むろん、所詮変わらない、容易に変わらない、決して変わらない、などと微妙な差があろ うし、「今」はともかく、「昔」の意味も必ずしも正確でない。それでももし、この曖昧な「昔」の上限がおよそ認識できてそこに前後の見境が利くなら、つま りは先の「変わらない」という推測にもとづいて、「昔−今」即ち「同時代」として眺めうる道理ではなかろうか。はたして花鳥風月を「今」の我々は「昔」の 人人と「同時代」的に感受しているのか、どうか。
 歴史時代の区分には、いろんな実例がある。上古、古代、中世、近世、近代、現代などと分ける。飛鳥、奈良、平安、鎌倉、南北朝、室町、安土桃山、江戸、 東京などとも分ける。ながくても「同時代」が五百年をこえたことがない。
 私は以前に、右のような時代区分とは別の認識も必要との意味で、一つ「いろは」の時代というのを挙げたことがある。童幼の習字の手本に、「なにはづにさ くやこのはなふゆごもりいまをはるべと咲くやこの花」といった古歌が一、二用いられ、歌の父よ母よと重んじられたことは古今集の仮名序にも見えるが、事 実、法隆寺五重塔の修理の際に見つかった古材には、創建の昔の職人の一人が、ふと仕事のひまに右の歌の最初の九字を万葉仮名で綴ったなり、親方にでも呼ば れたか叱られたかしてそのままになっている手跡が残っていた。まずは八世紀、奈良時代のものと認められる。
 源氏物語「若菜」の巻にも、稚い少女紫の容子を、今もって「なにはづもたいして書けないほど」という侍女の言葉で表現した箇処がある。この物語はおよそ 九、十世紀の交点に時代が設定されている。が、およそ紫式部の西暦千年前後までも、「いろは」ならぬ「なにはづ」の時代というのがあっただろう。
「いろは」を仮名手本として慣用した平安時代に溯る文献例は、じつは容易に見当らないのだが、七五句四行の今様型式そして洗練された仏教の理念ないし情緒 からして、最初は僧院内の実用だったものも、遅くも十一世紀末葉には、おおかた識字階層の平常の朽ち口遊みに浸透して行ったとみて、たぶん間違いない。以 来、「アイウエオ」の時代まで、古代・中世・近世・近代を通じて主に「いろは」で文字を覚え、また数勘定の記号に用いてきた日本人の「同時代」は、優に 七、八百年余も続いたことになる。
 むろん政権は摂関家、院、平家、源氏、北条、足利、織田豊臣、徳川、維新政府などとめまぐるしく交替し、それに伴い社会、経済、文物など多彩な変化変容 を経てきたには相違ないにしても、激しい時代転換に耐えた日常生活の一の基本的営為として、「いろは」で文字を習い覚えた事実は、なにかしら「同時代」的 刻印を、貴賤の別なく日本人の心身にのこしてきたはずだと私は思う。
 私は、この文章で花鳥風月にこめられた美の意識や様式を美学的に解釈する気はない。自然信仰に絡めてこむづかしい観念論へ還元してみようとも試みない。 ただ、いつ頃からこんな感じ方や思い方や考え方が、生き方とも関わり合って日本人の心と暮しとを捉えるようになったかを、遠まわしに焙り出してみたい。そ の程度でも出来たら有難く、その結果、いわば「花鳥風月」の時代といえる時期がどのくらいの「昔」から「今」にも及んで一つの「同時代」を形成しえていた か、なぜか、まで手が届けばさらに上出来と願っている。
 こころみに妻と中学一年の息子とに紙と鉛筆を用意させ、これから仮名で示すことばを、即座に漢字一字一語と二字一語とに書きかえてほしいと頼んだ。
 出題の仮名文字は「し・き」の二字。
 妻も息子も寸分たがわず一呼吸のもとに「式」そして「四季」と書いた。
「じゃ、もう一度……」
 すると母親は「敷(布)」と書き少年は「識」と書いて、もう一つはまた期せずして「死期」と出た。「色」や「織」が出ず、「指揮」「士気」「子規」「史 記」なども出てこなかったのは、それなりに面白かったが、ロウティーンの息子と四十の坂の妻とがとりあえず「四季」を想い「式」と書いた事実は、さらに面 白かった。面白いだけで済まぬこととも思えた。
 折から小説、映画、芝居それともテレビドラマなのか私は知らないが、巷に「四季・奈津子」の広告が氾濫していた。妻の場合はそれがやはり頭にあったとい い、息子の場合それは全然頭になかったという。それも面白い。妻の「四季」と反応したのがただ受身のようにも見えるが、小説にせよ映画にせよ売り言葉″ としての「四季」一語の効果を狙った何かの題であり広告であったに相違なく、じつは大方の日本人に潜在する「四季」感覚がかなり正確にアテにされていたと 言えよう。
 劇団や、喫茶店や、パチンコ屋にまで「四季」と名のったところが多い。
  春樹、夏代、秋男、冬子などとわが子の名前をえらぶ親も多い。さきの「奈津子」の伝でいえば波留子、亜紀子、布由子というのも、けっこう多く、こう季 節を命名にとりこむ風は、けっして昨今に限った流行というのではない。雅号、法名、諱も含めて、古来の人名から春夏秋冬の文字を拾うのはいとも容易い。
 だが、それも、どうだろうか。「古来」という推測も平安時代をさらに奈良時代やそれ以前、いわば万葉集時代にまで溯れるものだろうか。
 またこころみに、ごく尋常な系図で、有数の公家の名を当ってみた。すると、少なくも平安以前に春夏秋冬の一字を体した人物は、稀という以上に、ほとんど 見当らない。
 平安時代に入るとやがて、例えば、紀善蜂の子に「春枝」「夏井」「秋峰」と並ぶようなぐあいになって来る。すこぶるナウな名づけだったろうと想う。中 臣・藤原氏の系譜を辿っても、北家主流が独占した摂関政治へのレールを敷いたといえる実力者「冬嗣」や、その兄「真夏」までにこうした名前の人物は一人も 見当らない。名高い『令義解』を作った右大臣清原氏の「夏野」も、藤原冬嗣のすぐあとを襲って九世紀前半の政治に重きをなした人である。



 冬嗣や夏野の活躍があって以後の日本の九世紀とは、いったいどういう時期だったかを考えてみたい。
「令義解」成立に見られるように、行政法、民法に相当する令法に、何らかの補強がぜひ必要な、盤根錯節、まさに「こと繁き」世の中となって、政治、経済、 社会の相がまず煩雑化して来た。律令のほかに、速度を加えつつ「格」や「式」が大量に法制化されて行くのがなによりの証拠であり、それは公地公民、班田収 授といった、律令政治の根幹に、おもむろに亀裂が深まりはじめ、やがて荘園の拡大につれて藤原氏による独特の摂関政治の体制が実現して行く兆でもあった。 八五七年(天安一)に藤原良房(冬嗣の子)が初の人臣太政大臣となり、八六六年(貞観八)には清和天皇の摂政となる現実は、大化改新このかた律令体制に生 じた大異変と評価される。
 同じこの八六六年天台宗の最澄と円仁に伝教、慈覚の大師号が与えられたのも、この後の貴族社会と延暦寺との結託をつよめた意志表示として忘れられない。 つづく数百年の日本の信仰に対し、この意志表示は、内容はともあれ鞏固な型″を付加することになった。ちなみに、真言宗の空海が弘法大師になるのは、古 今集撰進よりよほど後れて、九二一年(延喜二一)のことである。
 もう一つ挙げておこう、九世紀に入ってから「新撰姓氏録」「日本後紀」「続日本後紀」「文徳実録」また「三代実録」「類聚国史」など修史ないし関連の事 業が相次いだ。
 九世紀はじつに日本風ともいうべきさまざまな新しい型″づくりが大がかりに進行した百年であり、その後半期に登場して、宇多天皇の庇護のもとに活躍 し、藤原基経、時平の権勢のもとに失脚して行った菅原道真の存在は、彼自身の献策とされる遣唐便の廃止にも象徴されながら、時代の転換、いわば上古の倭国 風から古代の日本風へといった過渡期の意味をかなり雄弁に証言してくれる。
 道真のことは、改めて、のちに触れる機会があろう、今一度「名前」にもどって考えてみよう。
 世にいう藤原時代が幕をあけるのは、先にも言った左大臣冬嗣、その子摂政良房、その養嗣初の関白基経の三代からに相違ない。
 ところで冬嗣より以前の名乗りを家系をまっすぐ溯ってみると内麿、真楯、房前、不比等、鎌足(鎌子)となる。その以前は御食子、可多能砧となる。
 この系譜ひとつに代表的に見てとれる名乗りざまのちがい”は、微妙だけれども歴然としている。九世紀以前は概して万葉仮名風であり、冬嗣、良房、基 経、忠平、師輔、兼家、道長、頼通と順に時代の流れを下って行けば、いっそう対照的にはっきりする。我々がおなじみの義経や正成や信長や、はては隆盛や利 通に至る字義を体して意味ありげな男子命名の風は、明らかに冬嗣の辺を前後の見境に、良房の辺を劈頭に確定していたとほぼ断言できる。いわばこの一点を指 標とする限り大平「正芳」や中曽根「康弘」の今日まで、少なくとも明治維新までを、一の「同時代」と認定しても差支えない。
 日本人は名を重んじてきた。その命名観を、襲うに足る伝統として継承し襲名してきた事実が、広い意味で「日本」の理解に無縁であろうわけがない。
 ところで冬嗣、良房、基経の三代の藤原氏が皇室を凌いで行った頃の天皇の諡号を順に挙げてみると、また対照的に奇妙な傾向が見てとれる。
 桓武、平城、嵯峨、淳和、仁明、文徳、清和、陽成、光孝、宇多、醍醐の十一代が相次いで九世紀の朝廷に君臨した。平城と嵯峨、そして宇多と醍醐がゆかり ある地名に拠っており、他の七人は神武このかたの唐風諡号。但し平城の場合は配所の名を冠したものといえて、のちに崇徳天皇を讃岐院と通称したのと似てい る。例外とみていい。
 だが嵯峨は違う。一代の豪奢と風雅に明け暮れた土地の名を末代までの名乗りにえらんでいる。そこには泊瀬朝倉宮御宇天皇代(はつせのあさくらのみやにあ めのしたしろしめすすめらみことのみよ)といった万葉集的上古の残翳も見える。
 嵯峨天皇は九世紀に君臨し光被した大きな帝王だった。良くも悪しくも彼の遺風がいわゆる「日本的」な日本を用意した。
 嵯峨を別格にすれば、歴代天皇がものものしい唐風諡号から身を抜け出て、ゆかりのある京都とその周辺の地名で記憶されるようになったはじめは、嵯峨の孫 王、宇多天皇からだった。僥倖をえて臣籍から登臨したものの、関白基経に徹底していじめ抜かれながら、菅原道真を登用しまた見殺しにした、なんとも弱腰の 帝王だった。彼のあと醍醐、朱雀、また一条、三条とか白河、鳥羽とかおよそ江戸幕末の唐風諡号復活まで、千年ちかくはぼ宇多に倣う例が続いた、いささかの 例外を含みながら。
 天皇がさも大袈裟を平服に着がえたのと逆に、死して良房は忠仁公、基経は昭宣公、忠平は貞信公などと仰々しく諡名されている。公地公民、班田収授、天皇 親政の律令体制が、荘園(私地私民)拡大化の摂関体制へ傾斜して行く時代の表情を、期してか期せずか、このように名前ひとつが表わしていた九世紀こそ、我 々が「同時代」感覚を潜勢させながら、「昔」と気がるに呼んで来た時期の上限″、あるいはそれ以前との〃境界期〃ではなかったか。

     三

 古今和歌集の部立がまず春の巻にはじまり夏秋冬の巻とつづくことは、よく知られている。
 万葉集は巻一に雑歌、巻二に相聞と挽歌をおさめ、全二十巻中のわずか巻八と巻十に限って春雑歌、春相聞、夏雑歌、夏相聞など四季に応じた見出しで編集し ている。これで見ても、万葉集の部立は基本に四季を立てず、あくまで雑歌および相聞と挽歌という、いわば天皇の治世および愛と死とが世界観の骨格をなして いる。古今集はこれを解体して先ず四季をあげ、次いで恋をあげた。「泊瀬朝倉官御宇天皇代」などという斟酌はすっかり影を消している。
 紀貫之らによる古今集の撰進は、醍醐天皇の延喜五年(九〇五)のことだが、同じ年に藤原時平の手で『延喜式』も撰出施行されている。「四季」の古今集 と、「式」の延書式。はしなくも「し・き」の二字に私の家族が一致して反応した二つの指標が、正確に今(一九八○)から一〇七五年前に出揃っていたことに なる。
 妻や息子が、はたして古今集や延喜式を意識していたかどうか、まったく念頭になかったものと想像していいだろう。だが念頭になかったから、それらの歴史 的影響下にもない、とは言えまい。少なくも、春が来たら、夏になったら、秋には、冬までにはといった一年中の心づもりは、二十世紀の、よほどアメリカナイ ズされた大都会での暮しにあっても、ごく習慣的に規範化された用意であり態度であって、四季の繰返すリズムからまったく自在に遊離して一年三百六十五日を 暮している日本人はめったにいないはずだ。
 そんなことは、何も古今集以来と限らぬ縄文、弥生の太古からそうだったともし嗤う人があれば、それは日本人が体験してきた「暦」の歴史に錯覚があると応 えたい。
 今日の我々は、四季の四の字にひかれて春夏秋冬を均分の三カ月ずつと、型の如く割切っているが、同じ四季でも古今集の部立では例えば春と秋に各二巻、夏 と冬に各一巻をあて、量の多少を介しておのずと質の軽重にも差を表現している。これが時代をもっと溯ると、春秋と夏冬との質量両面の差は、期間の長さにお いても生活に占める重要度においても遥かに拡大され、極端な場合「ふゆ」の如きは、秋から春へ変わる日のただ一夜の「みたま殖ゆ」魂祭りの時を指していた という民俗学からの指摘すらある。「み雪ふる」という枕詞は、「ふゆ」にかかることの多いのは当然だが、古くは「あき」にもかかっていた。これを、秋の領 分が今いう冬季にも侵入していた暦の上の事実を示唆するものかと折口信夫は書いている。
 こういう事情から、万葉集時代はまだ四季を均分に立てて、数千首もの歌を分析するだけの生活的基盤が、もしあっても、はなはだ薄弱だったことが察しられ る。
 もともと「四季」とは、一年を四分しての各々季の月、即ち三、六、九、十二月を指すことばだった。それすら甚しく古いことばではない。そして現に「四 季」の二字の用例では、やはり源氏物語の「絵合」の巻に、「四季の絵」として出ているのがごく古い。この物語が古今集を承け、京都という環境にも恵まれて いかに四季の感覚に鋭敏か、一読誰しも異存を唱えることは出来まい。日本人の「四季」に応ずる美しいまでの敏感は、一にも二にも古今集と源氏物語とに負う ていると言って、けっして言いすぎではない。   
 じつは「四季」については、こうまで力説せずともすむあまりに汎日本的な諒解事項で、その意味では古今集の「昔」から一九八〇年の「今日」まで、変わり ない「同時代」が持続している。
 むしろ今一つの、「式」を話題にしてみたい。
 延喜式――五〇巻。約三千三百条。法典とはいえ宮中の儀式作法をはじめ諸国諸省の百科便覧的な令の施行細目であり、先行の諸式を集大成した律令体制下の 周到な行政マニュアルである。が、今日の我々の暮しに直かに関わるとは、さすがに思いにくい。延喜式の成立は律令制崩壊期に最期の振興をはかった対策で、 多くの実効をもはや望むべくもない皮肉な労作ではあったが、それにもかかわらず「式」の意義と必要とをその後久しく人々の胸に植えつけ、のちの「御成敗式 目」なり「武家諸法度」なりにも当然うけつがれた或る規範性を豊富に内包し、今日となってはかけがえのない貴重な歴史的証言の宝庫と化している。法制上の 実効とは別に、延喜式が、文化における古今集に優に匹敵する莫大な影響力を政治、経済、社会に対してもちえた貢献は、いささかも割引く必要がないのであ る。
 ところで一般に「式」といえば、定まった形、やり方、法式、様式、型、体裁、規準といった意味をもつ。法的に理解すればいわゆる手順、手続きの意味にも 近い。とすれば結婚式、葬式の「式」も、入学式、卒業式の「式」も同じく手順、手続きを予め定め、世の常の動作振舞いよりはいささか所作めいて厳格にとり 行う行事らしい意味合いも分かるし、数学において答に対応する「式」の意味も分かる。「式」は、広義の順序・秩序であり、同時に型・枠でもある。
 このように日本人は、千年来の「式」の時代を、かなり忠実に今日も生きていると思わざるをえない。儀式好きで、形式ばっていて、格式を重んじ、様式美に 富む藝術藝能を愛好し、一つの答えを出すのに幾つもの式をたて、その中からことに趣向に富んだ式次第を日々の演出に用いている。東京オリンピックの開会式 も、紅白歌合戦の演出も、国会解散も、やくざの仁義もみな「式」に則っている。私の家族が、判で捺したように先ず「式」と書いた心根がここに露出してい る。
 古今集の「四季」も延喜式の「式」も、その西暦九〇五年という同年の成立からして、むしろ九世紀内に準備されていた所産だったことは認められよう。
 四季と式に共通するのは単に訓みだけでない。両者は自然に内在し人間社会にも内在する〃勤き〃に〃型〃を嵌めて、これを抽象し、概念化し、さらに記号化 もしている点で、もともと無いものを有るものに転じえた一種人文主義的な思想〃の名に値する発明〃なのであった。
 自然が順を経て経過し繰返すことを明確に認識した時点と、人間の社会的営為を手順、手続きという型に嵌めてえられる政治的利点に法的支持を与えた時点と が、あまり見事に合敦している二つの史実に、素直に驚いている。それは、複雑な実態を単純な理念に変えて把握した、自然および人事に対するかなり賢明な 支配″原理でもあった。
 むろんわが九世紀を生きた特定の誰かが、こうした新旧の、古今の、前後の交替現象を推進したとも言えない。が、いつの時代にもものの〃とじめ〃をなす人 がいて、またものの〃はじめ〃を開く人もいる。ここは便宜上、菅原道真と紀貫之とをあげて話の運びを早めたい。
 東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ      菅原道真
 桜より優る花なき春なればあだし草木をものとやは見る       紀 貫之
 秀歌ゆえに引くのではない。
 八九二年に「類聚国史」を作り、翌年「新撰万葉集」を編み、そして九〇三年、五十九歳で怨み死にに太宰府で鬼籍に入った道真と、その二年後、古今和歌集 撰進の中心人物として名高い仮名序を書き、九三五年ごろ「土佐日記」をものし、そして九四五年に七十八歳の寿命を全うした紀貫之との、生まれにしてたかだ か二十余年しか適わない二人に見てとれる〃異時代〃を、この歌の「梅」と「桜」とから端的に受けとりたいと思うまでのこと。
「万葉集」の時代から「古今集」の時代への変化を「梅」の時代から「桜」の時代への移動として理解する思い慣わしは、今ではよほど一般化している。早くに 引いた「なにはづに咲くやこの花」と歌われた「花」を同時代人はまちがいなく「梅」と承知していたのには、いろんな傍証がある。ところが、今日の我々は、 古今集このかた千年釆の感覚に従順に「この花」をつい「桜」と思い着きやすい。
  久方の光のどけき春の日に
    しづ心なく花の散るらん   紀 友則
と詠われれば、この散る「花」が「桜」であることを、友則や貫之の昔びととまったく同じく、疑いもしない。「なにはづ」ならぬ「色は匂へど散りぬるを」と 歌った「いろは歌」に匂いかつ散ってゆく花が、「桜」以外の何ものでもない当然必然を、今なおほとんど無条件に日本人は信じている。
 だが、いわゆる万葉集の時代、道真を下限とする時代には、それは決して自明のことではなかった。

     四

 中国に、琴詩酒をさして風雅の「三友」と呼ぶ思い慣わしがあり、わが朝の文人を大いに刺戟したことは大納言公任の『和漢朗詠集』などに著しい。しかし一 般に、より日本的な風雅の友を挙げるなら、もっと自然に「雪月花」がまず思い浮かぶ。ひとり風雅の文人詩人にとどまらず、長屋住みの八つぁん熊さんに至る まで雪月花は、腹のたしにはならないけれども、なにかしら価値ある気持ちの拠りどころとして広く歓迎し親しんだ暮しの友だった。それも別して冬の雪、秋の 月、というぐあいに季節感に関わる、それ故に年々に新鮮で多感な思い愛でであったに相違ない。むろん花の場合にしても、四季あり百花の多彩ざはあろうと、 押して、ここは春の花、やはり「桜」に極まり行く思い愛でとして人の胸に根をおろしていた。そういう国民的合意の一つの帰結として、紀貫之の「優る花な き」といった極言も自然と支持ざれたし、「春」を巻頭に立てての古今和歌集も結晶しえたのだと言えよう。
 万菓集が「詠花」と題した最初の歌(一一一七番)はじつは梅でも桜でも萩でもない「磯に見し花」だった。何の花か、おそらく註釈者の説は多岐に及んでい るだろう。次で「花に寄せた」歌七首(一三〇六、一三六〇〜六五)はそれぞれに萩やかきつばたや韓藍の花や山ぢさの花だった。そうでなければ何の花ともさ だかでない、ただ「花」だった。
 この時代、「花」を漠と指して、直ちに特定の一つの花を想わせるようなことはまだなく、強いていうなら「梅」や「萩」である率が高かった。けっして 「桜」ではなかった。
 だが、たとえば小倉百人一首に「花」を詠んだ歌は八首あり、名指しの花は「置きまどはせる白菊」が一つで、他は「奈良の都の八重桜」「高砂の尾上の桜」 「諸共に哀と思へ山桜」だし、たんに「花」とあるうちに紀貫之がことさらに「むかしの香」と詠んでいるのが「梅」である以朋外、すべて明白に「桜」を意味 している。
 古今集以降つい昨今、たとえば女主人公に「好きな花」は「桜」と言下に答えさせている谷崎潤一郎の『細雪』に至るまで、なぜ「花」といえば迷いなく 「桜」となったのか。この久しい「桜の時代」千年の意義については、私自身以前に『花と風』『優る花なき』などの本で語っているので、ここでは繰返さない が、一つには『花』は「春」という型=思い慣いが仕上がっていて、冬の雪、秋の月などに対応していったのに違いない。
 春=花=桜という単純化は、一種の消去法が可能にする象徴志向ないし記号志向であって、直観を駆使した観念の飛越に快を感じたおそらく一部知識人の思考 が徐々に、パターン化したものだろう。私はそれをおよそ小町や業平ら六歌仙の頃からと眺めている。
 万葉びとが、銘々に好みの「花」をその時々に歌にしていた即物的な態度とくらべて、古今集以後の人々が、「花」といえばとくに注釈のないかぎり「桜」を 指すと認めあったかのような、融通の利いた象徴ないし記号化志向は、よほど四季自然との関わり方において前後、レベルを異にした互いに〃異時代〃を生きる 在りようと言わざるをえない。
 ところで「雪月花」といえば一語として意味ありげにも通用はするが、概して雪と月と花とを単純に足し算している。いわば具体具象をただくっつけた便宜語 の感じがつよく、一義的に一語と受取って、何かの態度や思想を表明するといった使われ方にはあまりつながらない。
 だが「花鳥風月」となると、必ずしも四つをただ足し算したと思えない、より一語としての確かな響きがある。妙に互いに切り離せない関わり様において或る 理想が托されているといった響きがある。むろんそういう受け取り方をする理由の一つは、この「花」が万葉集的個別の花でなく、古今集的象徴の花であること をすでに我々が十分理解しているからであり、その意味で「鳥」もまた、花の場合の桜に相当するどんな鳥を想い描くにもせよ、とうに個別以上の抽象化を経た 理念化された鳥だということがわかっている。花があらゆる植物的自然を、鳥があらゆる動物的自然を代表し象徴しているという受取り方が、すでに我々には出 来上がっている。花も鳥も、また風も月も理念的な価値をはらんで、いわば森羅万象を優に代表している。
 つまり夥しい他のものが背後の闇に消去され吸収されたことで逆に浮かび上がった、極めて明快な図形ないしは記号と化している。花鳥風月は典型の如く、ま た類型の如く、いずれにせよ他から選ばれたもの〃残されたもの″である。
 このような選ばれ方、残され方は例えば「地水火夙」といった四元の抽象とはちょっと違っている。強いて言えば美と関わった選択と言った方がいい。本当は 風月も余計で花鳥だけに極まっていい。花だけ、鳥だけでもいい。最もすぐれて日本的な繪画のスタイルである花鳥画は、こうした消去法による撰択の思想を一 の世界観、美なる世界観として表現しえたジャンルと言ってよい。
 万葉集には、物に寄せて思いを陳べた歌がたくさんある。花、鳥、月、よはど後れて風の歌もある。が、詠い方は日常的で、具体的であり、抽象化も理念化も されてはいない。
 そもそも「花鳥」と熟した語の用例が、古今集以降もなかなかあらわれて来ない。「花鳥風月」ともなれば、鎌倉末期の「庭訓往来」にようやく「花鳥風月ハ 好士ノ学ブトコロ」などと見え、また南北朝時代も末の、名高い『風姿花伝』に「源平などの名のある人の事を花鳥風月に作り寄せて」といった表現の作法が見 られる程度にすぎず、語としての理念化はさらに下って芭蕉の頃を待たねばならない。これは、古今集の「四季」が「花鳥風月」へ思想%Iに煮つまるまでに 要した歳月の久しさを思わせる。
 それにしても花鳥ないし花鳥風月とは何なのか。
 繪にたとえれば、森羅万象を描いた画面から海を消し山を消し、川を消し野を消し、家を消し人を消し、多種多様の鳥獣や木や草や虫を消し、遠きも近きも消 し、ついに一鳥一花に窮まって天もなく地もない画面。森羅万象を一如に帰する心の働き。
 だが、面白いことに、それは無でも空でもない。ぎりぎり結着なにか一つは、花にせよ鳥にせよ〃残す〃働きだ。森羅万象即ち仏教にいう〃五薀〃であり、ひ いては単に色≠ナある。色は空に異ならずと教え、さらに徹して色は即ち空なりと仏は教えている。だが花鳥風月とはいわばもろもろの色をとことん消し去っ て最後に残したなお一つの色なのだ。決して空でも無でもない。
 色即ち空を以て是とする徹底とは、最後の一線でレベルを異にする一種の保守、融和。人が自然との間にぎりぎり残す最後の手がかり。
"あと一歩″つねに〃あと一歩″で理想への到達は可能と安んじたまま、限りある自然の恵みを美しく身に浴びて生きていようという、すぐれて感覚的な態度の 表明が即ち「花鳥風月」という撰択には生きている。あくまで現世の〃色″の側に身を置いて〃空≠竅V無≠ヘ彼岸に尊ぶというのが「花鳥風月」の態度と思わ れる。したがってまた「すべて月花をばさのみ眼にて見るものかは」と兼好法師に喝破されるような不徹底のあることをも、いつも自覚していなければならな い。"型"という現世的な納得がもつ限界だろう。同時に無礙に融通の利く発想でもある。簡単に思想性を趣味性に見替えて、ただ造形の主題としてのみ生かす 才能も、この「花鳥風月」の徒はもち合わせている。思想の意匠化であり、実例はたぶんふんだんに本書(愛蔵版『太陽』)が蒐集しているだろう。その限りで は、もはや残念ながら、「花鳥風月」を積極的な現代の、未来の日本の思想として維持しつづけるには、趣味的傾斜の度が進みすぎている気がする。
 変わらないようでも、「今」は「昔」とちがうのではないか。そう思い切ることで、むしろ新しく力強い思想を、哲学を、日本人は育てた方がいい。 
 


甲子さんを紹介します  2006年12月11日20:00

甲子さんが、今日、わたくしのメルアド宛て、いつものようにメールを下さいました。わたくしはそれを甲子さん紹介のためにここに転記します。そして甲子さ んに奨めました、こういう「日記」を「MIXI」に気軽に書かれるようにと。きっといいお仲間が出来るでしょうと。湖の一読者にしておくだけでは勿体ない 手練れの小説や文章の書き手です、湖が自身の大きなホームページ上に責任編輯している「e-文庫・湖(umi)」にも、力強い作品を幾つも掲載されていま す。若い書き手希望者達を刺戟しうる人です。「MIXI」にはそういう「湖」仲間がずいぶん増えてきました。

甲子さんの紹介は、プロフィルを観てください。以下に、今日の湖への私的なメールを載せます。甲子さんごめんなさい。 湖


☆ 甲子  先日のメールではわたくし事ばかり申し上げ、心配をおかけしました。恐縮しております。奥様も検査を受けられた由、結果はいかがなのでしょう か。気がかりなことです。

 遅れましたが、今日、(湖の本新刊の)代金を振り込みました。上り坂の歩道、しかも横道への車のため、歩道はアップダウン多く、車道は平らに整備されて いるのに歩行者のための道はがたがた、道路特定財源の一部を一般財源へ繰り入れる、などで国会は揉めているようですが、「自転車の道はどうしてくれるん だ」と叫びたくなります。北京・上海はいざ知らず、中国の地方都市では歩道と車道の間に自転車道があります。もっとも土地の広さの問題もありますが。

 しかし、郵便局へ行く時には楽しみがひとつあります。郵便局の隣に美味しい蕎麦屋があるのです。若い(四十歳ぐらい)夫婦だけでやっている店で、麺の固 さが最適、時間が早すぎると(準備中)の札が下がっており、遅いと混むので十一時ぐらいを狙って行きます。自転車は郵便局の駐輪場に置いたまま、鴨汁蕎麦 を注文します。鴨南蛮もありますが、わたしは、掛け蕎麦は好みません。うどんなら鍋焼きとかシッポクなど食しますが、蕎麦はセイロから箸ですくって食べる にかぎる、と思っています。帰りの道はもう下りですから…。

 わたし自身、(来春に予定されている)手術を受けることじたい、たいしたことではないと考えております。まかり間違って後遺症・合併症など最悪の事態に 至っても、まだまだ車椅子というてもありますし、坐ってキーボードを叩くには何の支障もありません。
 人は(人にはかぎりませんが)だれでも、いつかは障碍が現れるもの、摂生の加減で早い遅いはあれ、呆け (差別語でしょうか、ニンチショウと言い直します)ないだけでもマシなのかもしれません。(ほんとに呆けてないんやろか…)。

 ベランダの前の欅の黄葉、今年は綺麗です。風の日などハラ・ハラ・ハラと落葉の舞。
 昨年は葉がちぢれ、わくら葉然とした焦茶色で、欅の秋(冬)はだめだな、と思ったのでした、が、こぞ・ことし、の気候の違いでしょうか。全体の黄葉の間 に若枝の柔葉薄緑がまだ残って渾然となり、たいへん美しい風情です。やはり、命とは若さのことだと、つくづく感じ、眺めております。

 実はこの一年で300枚のものを書きました。作品と謂えるかどうか怪しいのですが…。
 妻の発病がわたし77歳の時でして、その日まで仕事一筋、定年後もボランティアとして途上国のお役に立ちたいと考えておりましたことは前にも話したと思 いますが、独りになってみると、昔(五十年)愛好した、(書くこと)へと思いが寄って行きました。その間の長い長いブランク、書くようになるのだったら様 々な人情・情感・風情をもっと精緻に書き留めておくのだった、と臍噛む思いしきりです。メモはあります。が、内容は仕事に関することばかり…。
 石久保豊さんの作品を読め、と当初、先生から指摘されました。その時点でわたしはすでに読ませていただいていました。驚嘆するばかりの確かさが現前して いましたが、わたしの能力では、そういう(現在進行形)のような世界を写しとることはできません。
 いったいに、わたしの書くものは年代が古く、文章・文体も確立しておりません。いまから調べものをすることも出来ず、取材紀行など思いもよりません。ま た、当世風な風俗・人情に触れることも適いません。ただ過去の経験を連ねてフィクションを構成するばかりです。
 (私小説)という言い方がどのような定義のもとに謂われるのか知りませんが、上の意味も含まれるなら、わたしの作品はやはり(私小説)ということになる のでしょうか。
 つまらないことをまたも長々とかいてしまいました。政治も世間も世界中が冬吹雪にさらされているようです。下半身、特に足を冷やしすぎるとわたしのよう な症状になるようです。他山の石であれば幸いです。奥様、お大事に…。       甲子
 追記 MIXI のニックネーム、やはり (甲子) Kine にしました。まだ使い方がわかりません。


 文中の石久保とよさんは、つい先ごろ静岡の病院で九十九歳で亡くなりました。わたくし、秦恒平への自称「押しかけ弟子」でしたが、弟子どころかというみ ごとな「作家魂」のもとは歌人でした。その生涯の短歌から選んだ二百首ほどわ、わたくしは「ペン電子文藝館」の短歌室へ「招待」しましたが、すぐ高名な現 役詩人から舌を巻いたという称賛を聴きました。わたくしの「e-文庫・湖(umi)」には短篇小説など出ていますが、「e-文庫・湖(umi)」が発足し てまもなく毎日新聞社の学藝部記者がみつけて感嘆してきました。
 最近「MIXI」へ誘い入れた甲子さんは八十すぎて鋭意長編小説などものする埋蔵豊かな文脈保持者です。  湖 

コメント
○ reichii 2006年12月17日 13:01 湖様
はじめまして。
k-komori様のマイミクの末席に加えていただいているreichiiと申します。

先日もお邪魔させていただきましたが、ご高名な先生の日記にコメントを残すのも畏れ多くて、そのまま失礼してしまいました。
また拙日記(変な表現ですが、まさにそうなので)にご光臨の栄を賜ったようですので、本日はご挨拶させていただきます。

やす香様のご不幸心よりお悔やみ申し上げます。何故前途洋々とした心優しいお嬢様を天が召したのか、悲しく思います。
湖様も奥様も、やす香様の分までお健やかにお過ごし下さいませ。

甲子様の前向きな姿勢に感心いたしました。私は今までかなり自分自身のことも人生も否定的に考えてきたものですから。mixiを始めてから、マイミクの皆 様方に触発されてだいぶ前向きに生きられるようになりました。

読書は幼い頃から大好きでしたが、mixiを始めてから書くことの楽しさにも目覚めたようです。

また、お邪魔させていただくこともあるかと存じますが、これからもよろしくお願い申し上げます。
 


むらっちサン  2006年12月18日19:13

* 「MIXI」に無数の縁遠い人から「足あと」がつくのは、或る面で醍醐味にも繋がる。想い寄らなかった発見につながる。先日鹿児島市在住の男性が「足 あと」をくれたので折り返し表敬したところ、幾編ものエッセイを読むことが出来た。玲瓏と美しい、それはみごとな述懐で感嘆。一編一編に夥しいコメントが ついているのもムベなるかなと。
 好きな本に『自省録』とあり、この名で知れるのはマルクス・アウレリウスが最良だと思うが、コメントにメッセージが返ってきて、その通りだと。嬉しく なった。

* その一方で、ふと顔色の曇るような「足あと」もひょこっと混じって、一過性でない。なにしろ誰であるかは全く分からないシステム。
 しかし、だれにも一人は「MIXI」に推薦者のマイミクがいるのが原則。だが時にマイミクをもたない、プロフィルも書かない相手から「足あと」のつくこ とが、もう両三回あった。これはいやな気分。
 で、その「足あと」人のマイミクを見て行くと、およそ様子は知れるが、こういう人も混じってくる。メッセージを送ってみた。

* むらっちさん。
 七月末には亡くなって、もう数ヶ月経った「思香」さんを、今も「唯一のマイミク」にしている「アルセー」さんを、これまた「唯一のマイミク」にしてい る、「むらっち」さん。
 「思香」は、私たちのかけがえない優しい孫・押村やす香のハンドルネームでしたが、可哀想に我々身近な大人の愛の至らなさから、むざむざ「死なせて」し まいましたことは、ご存じなのではありませんか。
 ただ「死なれて」悲しいのではなく、あたら目も手も届かず「死なせた」というつらい自責に、祖父母は、いまも、優しい笑みをうかべた遺影を目に、泪のか れるときがありません。

 もう、ほんとうに、やす香(思香)を、「MIXI」の雑踏から安らかに静かに逝かせてやってもらえないでしょうかね、いつまでもまるで「幽霊」のように 扱わないで。これって、かなり心ないことですが。

 「むらっち」さんは、やす香の両親が、――大学教授の父親と大学で哲学を学んだ母親とが――、手を携えて祖父母を、自身の両親を「法廷」に引き出そうと しているのを、ご存じでしょうか。その理由の最たるものは、祖父母がやす香を「死なせた」と云うのは、やす香の両親を指さして「殺人者」だと云っているの だ、名誉毀損だ、というのです。

 「死なせた」という言葉は、決して「殺した」の同義語でないぐらい、子供でも知っています。ニュース報道でもテレビドラマででも、頻繁に耳にする、普通 の、しかし、「自責の辛い」重い言葉です。

 自責のゆえの逆上でしょうか。それとも日本語が読めない・聴けないのでしょうか。それともやはり根の愛が涸れているのでしょうか。

 「むらっち」さんのことは知らないから何も分かりませんが、私のところへ「足あと」を重ねて残してくださるのは、私から「何か」がお聴きになりたいので すか。どうぞ率直にお尋ね下さい。答えられることは答えますよ。

 私たち祖父母が心の中で「もしや」と、ほんとに望んでいるのは、「むらっち」さんか「アルセー」さんかが、押村やす香の心許した親友で、やす香の想い出 を私たち祖父母に分け与えて下さる方なら、どんなに嬉しいだろう、ということ。
 もしそうならそれも、どうか率直におっしゃってください。感謝します。
 もしやす香の父親や母親とのお知り合いであるのなら、どうぞ「思香」ならぬ「亡き娘やす香」を、これ以上悲しませ、はずかしめないで欲しいと伝えて下さ い。 湖
 
* 以前にも同じような理由から問いかけた「足あと」人がいた。当然かもしれない、ナシの礫でその名前はわたしの「MIXI」からは消えていった。むろん 「思香」名義を相続した気のやす香の母親か父親かであることも邪推はできる。十分出来るが、やはり「やす香の親友」「やす香のボーイフレンド」だったら嬉 しいがと「おじいやん」は願うのである。

 *

 今日やす香のお友達だった人の、嬉しいメールをもらった。繰り返し読んで、妻は声を放って泣いてしまった。嬉しくて。悲しくて。それでも、ほんとうに嬉 しかった。どうか、やす香のお友達でいてくださった方たち。祖父母に聴かせてやろうということがあればお伝え下さい。

 悲哀の仕事 mourning workとして『かくのごとき、死』を出版しました。読んで下さる方には差し上げます。 湖
 


当る亥歳 七十一郎 秦 恒平  2006年12月21日22:33
 
 述懐

 あはれともいふべきほどの何はあれ冬至の晴の遠の白雲  湖 

コメント
○ 甲子 2006年12月22日 11:11  お辛い日々を過ごされた古希のお歳であったか、と、お察しいたします。
 冬至と重なるお誕生日、おめでとう、などの言葉は控えさせていただきます。お芽出とう、なら別でしょうか…。
 わたしのほうでは、孫娘が祖母(わたしの妻)の亡前すれすれに、留学していたデンマークから帰国し、現在某電器メーカーのIT部門で働いております。そ の話…。
 北欧では太古から冬至の祭りがあり、友人など招待し、ペーチカ囲み合唱などして過ごす。お祭りというより、お祝いに近い、と話していました。実際に体験 してしてきたのですから、孫にはたいへんによい勉強であった、とわたしも喜んで聞きました。
 シベリウスの楽曲などにも、冬至の祭りの舞曲があり、極北の人たちにとっては、これから寒さ厳しくなる、ということより、太陽が還ってくる、ということ の方がはるかに大きな喜びなのでしょう。温帯地域に棲息するわたしたちには判らないことですが。
 後から浸透して行った耶蘇教徒の知恵者が、この冬至祭りに便乗してクリスマスをでっち上げた、という説もあります。調べたわけではありませんので真偽は 判りません。
  枯れ枝の やがて花咲く葉も揃う  甲子
 


歳末随感 一 芥川のこと  湖=秦恒平  2006年12月22日22:42  

思いのほか短期に、いや短気に、『好き嫌い百人一首』の連載をかたづけてしまった。べつの何かを新たに連載してもいいと思いながら、しばらく漫談してもい いと、ふとその気になった。いわゆる日記は、此処に書かない。べつに私のホームページがあり、

  http://umi-no-hon.officeblue.jp の中で、

「生活と意見」「闇に言い置く私語」は欠かしたことがない。重ねてはつまらない。


 手の届くところに「芥川龍之介編」とある書物がある。作でなく「編」である。題して『近代日本文藝讀本』の「第一集」を書庫から運んであった。開巻、最 初の頁に、たしか五巻あるこの本の「縁起」を芥川が書いていて、懐かしい肉声を聴く思いである。漢字は略字にしたがう。

 **

  「近代日本文藝讀本」縁起

 僕は大正十二年九月一日、――即ち大地震のあつた当日に友人神代種亮氏の紹介により、書肆興文社の石川氏から「近代日本文藝讀本」を編纂してくれろと言 ふ依頼を受けた。何でも石川氏の計画によれば、明治大正の諸作家の作品を集めた副讀本用の選集を出版したいとか言ふことだつた。僕は格別この仕事を大事業 とも何とも思はなかつたから、やつて見ても好いと返事をした。しかしこれはとりかかつて見ると、漫然と僕の想像してゐたよりも遙かに骨の折れる仕事だつ た。僕は実際どうかすると本職も碌に出来ぬのに驚き、何度もこの仕事を抛たうとした。が、石川氏はその度に巧みに僕の機嫌をとり、如何に抛たうと試みて も、到底抛たれぬやうに仕向
けて行つた。たとへば「近代日本文藝讀本」は始は文部省の検定を受け、学校用副讀本になる筈だつた。けれども検定を受ける為には有島武郎、武者小路実篤両 氏の作品を除かなければならぬ。両氏の作品を除くことは勿論天下の好奇心を刺戟し、両氏の著書の発行部数を百倍せしめるのに違ひない。僕は何もその売れ行 きに異存を持つてゐる次第ではなかつた。しかし「近代日本文藝讀本」は「近代日本文藝讀本」にしたかつたから、やはり両氏の作品は保存するこどに決定し た。が、この時にも石川氏は快く僕の意見を容れ、「では検定を受けないことにしませう」と即座に初志を撤回した。これは必しも石川氏には易々たる犠牲では なかつたであらう。しかし石川氏の僕を待つことは概ねかう言ふ調子だつた。僕はその為に苦情を言ひ言ひ、始に依頼を受けた時から一年有半を閲した後、やつ と「近代日本文藝讀本」五冊の編纂を終ることになつた。今編纂を終るのに当り、この縁起を記したのは啻にBook-makingの男児一生の大業たること を世間に広告する為ばかりではない。同時に又如何に安請け合ひの自他ともに苦しめるかを僕自身末代までも忘れざらんことを期する為である。
  大正十四年三月
               芥 川 龍 之 介
 **

芥川が「ぼんやりした不安」から自殺したのは、二年半後であった。この五巻本は、校正こそ芥川自身しなかったが、作品を選ぶだけでも容易でなかったろう事 を、私は「ペン電子文藝館」を獅子奮迅開館し、そのために、幕末から平成に至るあらゆるジャンルの諸家力作や問題作や記念作を、すべて「読んで選んだ」体 験から、つくづく察することができる。
 有島武郎や武者小路実篤が文部省検定で忌避されていたなど、なるほどなあと興味ふかいが、芥川は頓着なく「文藝」の大筋を譲らなかった。有り難いこと だ。
 私自身は、芥川が避けたという黙阿弥や福沢諭吉からはじめて、ほぼ六百作ほども選んで展示・掲載した。しかも不出来なスキャン原稿を逐一原本に当たって こまかに校正もし、世界に発信し続けてきた。しかもその仕事のこれまでの半ば過ぎるまで、実は芥川龍之介に『近代日本文藝讀本』編纂の努力のすでにあった のを気付かずにいた。気付かずに、私は、芥川のしていたのとほぼ同じことを数年余、そして今なお、大切に続けている。

 芥川は「縁起」についで「序」も書いている。それも記念に値すると思い、スキャンして紹介しておく。(実のところ、スキャンして校正するより書き写した 方が早いぐらいだが。)

 **

   「近代日本文藝讀本」の序

「近代日本文藝讀本」は明治大正の諸作家の作品中、道徳、法律、社会的慣例等に抵触せす、しかも文藝的或は文藝史的に一讀の価値のある作品を百四十八篇 (短歌や俳句は数首或は数句を一篇とし)収めたものである。しかしこの讀本に収めた諸作家の外に必しも作家のない訣ではない。現に編者は種種の事情によ り、明治初葉の諸作家――たとへば河竹黙阿彌を割愛した。のみならずこの讀本に収めた作品は各作家の面目の一斑は示してゐるにもせよ、その又面目の全豹を 示してゐるかどうかは疑問である。若しこの讀本を目するのに近代日本文藝選集を以てするならば、それは編者を誤るばかりではない、恐らくは明治大正の諸作 家にも(この讀本に洩れたると否とを問はず)累を及ぼすことになるであらう。編者は唯この讀本が在来の文藝讀本よりも若干の長所のあることを信じ、併せて 文藝的教育の上にも多少の貢献を与へることを期待してゐるのに過ぎないのである。
 文藝的教育の特長は今更多言を費さずとも好い。唯編者の一言したいのは文藝的教育の「特短」である。文藝的教育は特長と共に時には「特短」をも説かれぬ ことはない。しかしその「特短」とは何かと言へば、薄志弱行に陥るとか、偸安姑息に傾くとか、いづれも文藝的教育とは直接に縁のないことばかりである。薄 志弱行の輩や偸安姑息の徒も尚且文藝を愛するであらう。が、それは偶彼等の園藝をも愛するのと向じことである。よし又文藝を愛した為に悪徳を学んだものが あるとしても、一を以て他を律するとすれば、我等は日射病を予防する為にもやはり日輪を打ち砕かなければならぬ。編者がこの讀本を編したのは勿論文藝的教 育の「特短」を認めてゐない為である。けれども万一この讀本にさへ毒せられるもののあつた時には、―――編者は決して教育家諸君や年長者諸君や青年諸君の 「特短」を認めるのを辞せないであらう。
 この讀本の成つたのは勿静編者の力の外にも高作の掲載を許された諸氏、殊にこの讀本に掲げる為に高作の全部或は一部に加筆の労を吝まれなかつた有島生 馬、佐藤春夫、廣津和郎、上司小剣、長田幹彦、藤森成吉、久米正雄等の諸氏の好意に待つ所の多いものである。更に又この讀本の編纂の上には泉鏡花、鈴木三 重吉、久米正雄、久保田万太郎、菊池寛、廣津和郎、室生犀星、小島政二郎、佐佐木茂索等の諸氏も便宜を与へられたことは尠少ではない。いづれも禮を失する のを避けず、編者のここに深謝の意を表したいと思ふ所以である。
   大正十四年十月
            編 者 記
 **

 我々の「ペン電子文藝館」は、文科省との関わりも持たないし、必ずしも教育的意図も持っていない。日本の近代文藝の歴史的な流れを穏当に適切に汲みなが ら、湮滅のおそれと、そうあってはならない優れた創作者達の「名と仕事」とを記念し保存し伝達したい、と、それが創立者たる私の最も願うところであった。 そしてそれには、芥川も名を多く掲げているように、諸先輩作家達の大きな理解や協力があって初めて可能なことであった。
 芥川龍之介のここに謂う「縁起」からも「序」からも、私はいまなお強い励ましを受けている気がしている。
 それにしても「特短」などという物言いに一笑した。  湖
 


歳末随感 一 追加 湖=秦恒平  2006年12月23日00:52

 芥川龍之介編『近代日本文藝讀本』の「第一集」に、では、誰のどのような作品が選ばれていたか。それを失念していいワケはなかった。


「第一集」目次

最もよき夕       佐藤 春夫

千住の市場       吉田 絃二郎

椰子の実        島崎 藤村

朝の散歩        谷崎 精二

仏陀と孫悟空      武者小路 実篤

「己が名を」其の他   石川 啄木

飼犬          野上 弥生子

夕の星         土井 晩翠

笛を合はす人      室生 犀星

「冴え返る」其の他   小沢 碧童

雀の巣         真山 青果

薬草の花        加藤 武雄

植ゑ忘られた百合の赤芽 岩野 泡鳴

非凡なる凡人      国木田 独歩

雪女          秋田 雨雀

「愛しげに」其の他   窪田 空穂

競漕          久米 正雄

父の記憶        宇野 浩二

新体詩見本       齋籐 緑雨

入鹿の父        岡本 綺堂

郊外小景        近松 秋江

「遣羽子や」其の他   高濱 虚子

トロツコ        芥川 龍之介

嗚呼廣丙号       山田 美妙

曙           千家 元麿

練馬の一夜       大町 桂月

植物園小品       北原 白秋

「青麦の」其の他    尾上 柴舟

平凡          二葉亭 四迷

大判半裁紙
 ストリンドベルク原作 小山内 薫

遠き薔薇序詩      堀口 大学

向島          坂本 四方太

老曹長
 リリエンクロオン原作 森 鴎外

附録 初出その他


 懐かしい名前と作品とが並んでいる。いまにも文学作品を「書きたい」「書いている」という若い世代に、こういう先達のせめて名を、作をみてもらいたい。 みな、その時代時代にみごとな活躍をしていた創作者たちなのである。先達への敬意と新たな創造。それは両方とも「必要」なのだが、たいていは両方ともに欠 いている。それが、私は寂しい。寂しいだけではない、そんなことではただの空転がつづくか、垂れ流しに終わるのを気の毒に思う。  湖

コメント
○ kasa 2006年12月23日 20:00 非凡なる凡人      国木田 独歩
懐かしいです。教科書に載っていたと思います。田舎の(疎開先の)国民学校〜新制中学生には「とてもかなわないな」という感じだけ残ったようです。



歳末随感 二 病院 湖=秦恒平  2006年12月23日21:05

 暗闇の中央に一点の明処がある。窮屈な台に顎をあずけてその眩しい一点を片方の眼の真ん前に見つめる。もう片方の眼にはガーゼと絆創膏で被いがかかって いる。
 大きく眼をあけてください と優しい声で無理なことを言われる。わたしの眼は大きくは開かない生まれつきである。
 暗闇のあちこちに、随分出鱈目に、微少の、極小の明滅が出る。不規則の極みのようにチカッ、チカッとやたら光り、瞬く間なく消えてしまう。中芯の明点を 取り囲んで、四方八方、遠く近く浅く深くの差別なく、順序の遠慮もまるでなしにただ明滅する。
 明滅を認めるつど、右手に握った機械をプスプスと押さねばいけない。何故にしかるかは知らない、説明されても分からない、が、そんな按配に片目ずつ各十 五分は針の尖ほどの明滅を追いかけ追いかけ、握った機械を押し、また押す。いや「追いかけ」てはいけないので、それをやると優しい声が、目は真ん前を見て いて下さいと叱られる。視野検査というのである。

 半年に一度ずつこれをやる。やり終えて、また外来で検査結果といっしょに診察をうけるが、二時間も待つ。えいくそと築地から表参道まで用足しに行って 帰って、まだ待たせるからこの病院は一流である。本が一冊読めてしまうが、眼科はときに瞳孔を魔術的に開いてくれるため、光りが眩しくて字が読めないのは どうしてくれる。仕方なく食堂へ行ってシチューなど食べコーヒーを飲み、ビールは無いかとムリを云うと、「ノンアルコールでーす。この前も聞きましたよお ン」と笑われた。

 病院は好きでないが、視野検査の優しい声と、「この前も聞きましたよおン」は少し贔屓なので、がまんしている。
 


歳末随感 三 かなひたがる 湖=秦恒平  2006年12月24日21:49

 かなふは、よし。かなひたがるは、あしし。

 こう書いて、かな文字ばかりでも意は通りそうだ。茶の湯の利休の言葉と覚えるが、だれのでもよく、尊いと私は聴いてきた。座右銘をと請われてこれをあげ ることもある。「一期一会」とあげることもある。「念々新生」と私の思いを伝えることもある。

 かなふ  

は、そう途方もない言葉ではない。だが、聴くにしたがい漢字に書けば、「叶ふ」とも「適ふ」とも「敵ふ」とも人によって読み取るようであり、かならずしも 安々と意が通るわけでなかったし、私の理会が正しいとも言い切りにくい。
 それでも私は、二番目の文字に随い、「適ふ」のはよいが、「適ひたがる」のはよろしくないと受け取っている。願いが「叶ふ」とも、力量がつりあう意味と も受け取っては来なかった。釦と釦穴とがしっくり合うとか、材と材との羽目がしっくり嵌るとか。端的に、人と人の気がしっくり合うとか。そんなことであろ うと納得し合点してきた。座右銘らしく謂い及ぶなら、「人づきあひ」の機微を教わったと感じていたし、ややひろげて解釈すれば モノ コト との出逢いや 処する態度にも思い及んで意味深いと感じてきた。「しっくり」という感触を大切に大事に受け取ったのである。
 だが互いに「しっくり」行く、「しっくり」するヒトに、モノ・コトに出逢うのはむしろ稀ではなかったか。はなから自然にそんなふうである「幸せ」には、 なかなか出逢えない。
 むしろ、やや努めていつかそうなる、そうなってゆく相手もある道理で、実感として、その方が数多い。ことに、モノやコトとちがい、人と人とが「思ひ適ひ 合ふ」のは容易なことでない。
 だれしも実感してきたことだろう、どうしても人と人との間では、天恵のように即ち「適ふ」間柄には簡単に成れはしない。だから「適ひたい」「適はう」と する希望や努力が働き、すこしずつ「しっくり」し「適つて」行く。事実そうなら、それも大きな喜びであり、天賜となる。

 かなひたがる

 だが「適はう」と努めるのと、「適ひたがる」「適ひたがらう」と努めるのとでは、その距離、小さくない。利休は端的に後者を「悪しし」と否認した。彼の 眼には「かなひたがる」人達の方がはるかに数多く、また不幸せに醜く、日ごろ映っていたものか。
 意を迎えて諂うのも、卑下して己をいやしくするのも、イヤだと感じてきた。「がる人間」は嫌い。それが幸と不幸との、どちらを私に引き寄せてきたかは知 らない。知らなくていいのである。 湖  
 


歳末随感 四 寅さんたちの国語 湖=秦恒平  2006年12月25日17:07  

もう一年ちかく「寅さん映画」が土曜ごとにテレビでつづいて、落ちなくDVDに録画しながら、妻と二人の「我が家映画館」を楽しんできた。国民的な懐かし いヒット作の連続なので、何を言ってみても、書いてみても、みなさん先刻ご存じ、とうにご案内、みなみな銘々に一家言も批評も声援もあるに相違ない。

 まだ四十何作かある全編全部を見届けたわけでないから、あるいは私たちの見落としであるかも知れず、不確かなことではあるけれど、つい先日、妻が、ポ ロッとこう漏らしたのである。
 寅さん映画には、選挙投票の場面も噂も一度も無いのね、見覚えがあって、と。
 私にも覚えがない。
 渡世人と自称の寅さんも戸籍は柴又にあるにちがいなく、選挙権行使は可能だし、旅の身空では投票が制度的に許されてなかったとも思えないが、しかとは知 らない。だが、一度ぐらい寅さんの、選挙と政治にふれた啖呵も聴いてみたかった。

 浩瀚な大全集本から、すぐさまあの作のどこそこと言えないのが惜しいが、柳田国男という、この人こそ碩学・師表と尊敬している人があって、この大学者 に、意外にと思う人もあろうか、国がまともに成り立つには、誰もが「正しく選挙権を行使」するのが、「籤取らずの一番大事」という意味の「持論」を、わた しは間違いなく読んでいる。
 それだけでおしまいではない。
 正しく選挙するには何が必要、何が大切か。柳田国男は一言、「国語の勉強」と言い切り、他に贅言は用いていない。

 これは途方もなく大事な、また心して深く深く思惟して受け止めねばならない、示唆であり、警告である。人が、人とともに生きて暮らすに、「言葉」なしに はありえない事実や現実への底知れぬ洞察であったろう。
 深く正しく聴き、深く正しく語る、読む。その力量こそが判断や認識を豊かにする。歪みがちな、もの・こと・ひと、の歪みを出来るだけ小さく少なく押しと どめられる力は、「国語力」なんだとは、コロンブスの卵よりも尊い教えと謂うしかない。

 昨日、わたしたちは、この市の市会議員を選挙してきた。候補者達の「国語」を、わたしは、妻は、自身の「国語」のちからでよく聴いて判断し、投票できた と思っている。

 寅さんの、さくらさんやヒロシさんの、おいちゃんやおばちゃんの、たこ社長や御前様たちの「国語」を、いつもそれぞれに実に懐かしく聴いてきた、だから こそ、一度でいい、懐かしいこの人達自身の政治への判断を、意見を、「投票という権利行使」のかたちで観てみたかった。  湖
 


歳末随感 五 和歌 湖=秦恒平  2006年12月26日21:01

 来年がそこに見えてきた。口からとびだすように次々歌が漏れて出た。

 これやこの一途の道に咲く花のつゆも匂へとまぼろしにみる 

 あらざらんこのよをよそにとめゆかめ 紅きは椿しろきも椿

 はんなりと老いの一途を歩みたし来る幾としの数をわすれて

 谷崎潤一郎が云っていた、歌はいわば排泄物だと。汗や唾液に似ていると云ったのだ、わたしは賛成している。
 谷崎は歌を国風と呼んでいた。短歌とより、和歌という意識であり自然な好みであった。松子夫人と出逢って間もない昭和の初め頃の、

 いにしへの鞆のとまりの波まくら夜すがら人を夢に見しかな

などは、和歌と読んでもおかしくない。

 今絶ゆる母のいのちを見守りて「お関」と父は呼びたまひけり

 我といふ人の心はただひとりわれより外に知る人はなし

などは現代短歌を呼吸している。
 ま、総じていえばしかし谷崎の歌は和歌ふうの情感に豊かで、彼には、汗か泪かのように排泄されて自然な流露感が心もちよかったのだろうと思う。
 わたしは、少年時代からむろん「短歌」をつくっている気だったが、昭和の歌人としては、それも少年・青年の歌としては、京生まれ京育ちからか、和歌に心 底なじんでいた。
 岡井隆が最初の「昭和百人一首」に選んでくれた、

 逢はばなほ逢はねばつらき春の夜の桃の花ちる道きはまれり

など、和歌と現代短歌との中間に位置していたし、はやく「歌とのわかれ」を経てからの口遊みは、ことさら和歌の風趣を慕うことで遊んできた。ふざけてきた のではない、遊んできたのである。
 そんな中で、この夏、愛しい孫娘、二十歳の誕生日をもう前にしていたやす香の病床で、噴くように胸板を衝いて出た次の二首は、せつなかった。

 やすかれといまはのまごのてのぬくみほおにあてつついきどほろしも

 このいのちやるまいぞもどせもどせとぞ よべばやす香はゆびをうごかす

 やすかれ やす香 生きよ とはに。 忘れられない。 湖


コメント
○ 甲子 2006年12月27日 11:47 いとしみも かなしみも経て歳尽くる   甲子
○ 真 2006年12月27日 18:08
世は忘年というてばかさわぎ
摩天楼に 偽りの
聖夜の光 杯の酒

つごもりに白き雪ふりゆく
百歳も千歳も
我には忘れられぬ歳

我には忘れられぬ君

 真 



歳末随感 六 篠村 湖=秦恒平  2006年12月27日21:59  

戦時の疎開先は、丹波。そのころはまだ京都府南桑田郡の樫田村字杉生という深い山間のちいさな部落だった。何の縁故もなく、ただもう京の隣組の一人に紹介 されて、老いた祖父と母と三人で迷い込んでいった。なにもかも初体験の農山村であった。
 いま樫田村は大阪府の高槻市に改組されている。高槻市としてはとびぬけて山奥、杉生(すぎおう)はそのなかでも奥の奧にあたる。そこからわずか一里半山 坂をおりてゆくと、京都府の亀岡市。すぐそばを保津川が流れている。京寄りに昔は篠村があり、ここの八幡宮に祈願して明智光秀は老の坂を越え本能寺に殺到 したのであった。光秀だけではなかった。足利尊氏が六波羅探題を攻めて後醍醐天皇の側へ味方したときも、篠八幡に祈願を籠めていた。はて、おそろしき由緒 を背負った八幡さんではあった。お祭りも盛大だった、わたしは杉生から山間の隘路を村の子たちに必死にくっついて、篠村まで祭り見にはるばる出掛けたこと もあった。

 これだけ書くと、想い出の徒枝が八方へのび、何を書いてもキリがなく思われる。ま、大方は『丹波』という作品に書いたので繰り返したくないが、今でも、 あの疎開時代を顧みて、ひとつ惜しいことをしたと思うのが、成る話なんかでは全くなかったのだけれど、亀岡辺から丸見えの愛宕山という京都で最も豪宕な高 山にのぼらなかったこと。代用食にすらありつきにくかった欠食の時代、学校に通ううすっぺらな鞄が重くて持てあましたひ弱い都会モンの四年生、五年生に、 そんな登山のかなう道理はなかったのだけれど、杉生と京とのときたまの往き帰りに大きな愛宕山を何度も振り仰いできた想い出が、くっきりしていればいるほ ど、かなり残念でならないのである。
 あの愛宕山の上で、その前夜光秀は反逆の意をたくした「時は今 あめがしたしる」と有名な一句を句会にのこしたという。光秀に感情移入するわけではな い。同情もしない。しかしそんな話に場所を提供していた「愛宕」さんを、わたしは京都自慢のくせに知らないのだ、心残りだ。もうこの体力ではとても登れな い。
 この光秀の句を思い出すと、なぜともなく反射的に赤穂浪士討入前、大高源吾がどこかの橋の上で、何とやら「水の流れと人の身は」と前句を呈され即座に応 えて「あした待たるるその宝船」とやったとか、気合いの付け合わせが思い出されてならない。
 
 こういう際に、あまり秀句秀逸を求めてはいけない、気合いが伝わればよく、それで我々は頷けるのである。

 この師走、宝船を待つあつかましさはとうに五体を抜けているが、老い衰えても平安ではありたい。ぜひ、ありたい。やはりねあつかましい。  湖
 


歳末随感 七 京都 湖=秦恒平  2006年12月29日00:11  

勤めていた頃、わたしたちの場合は京都であったが、歳末帰省の乗車券確保に、かなり苦労した。ちいさい子供連れではことに苦労があり、二十一日のわたしの 誕生日を済ませると、ひとあし早く娘と妻とを京都へ帰す年が多かった。まだその頃、恒例のように我が社の労使は、歳末一時金の交渉ではげしく揉み合い、本 郷台に医学書院ありとけたたましい名を轟かせていた。妥結を待ち、ボーナスを受け取ってからでないと、わたしは帰るに帰れなかった。

 京都へ帰る。
 胸の熱くなる楽しみだった。小説を書き出す前も、書き始めてからも、京都へは最良の栄養を得に帰った。
 わたしは根から芯からの京男で、どんな埃くさい日常を東京で過ごしていても、京都の空気を吸い、京都の水をのみ、京都の土を踏んで歩き回ってくれば、 シャンと蘇った。生気で五体がはち切れるほどだった。歳末でも夏休みでも、同じだった。

 妻には正月の用意の母を手伝わせ、わたしはちいさい娘の手をひいて、底冷えの師走の寺々を、よく歩きまわった。
 三十三間堂のあの犇めく観音像のまえへくると、朝日子はぎゅっとわたしの手をつかんで緊張した。懐かしい。あの通し矢のながいながい廊下で、わたしに写 真をとらせ、縁側から可愛い足をぶらぶらさせて朝日子は天を仰ぐようにころころ笑った。そのころの朝日子の洋服は、みな、母親の丹精した手作りで、とても よく似合った、通りすがりに可愛いと声を掛ける人もいた。

 大晦日には祇園さんへ親子三人でオケラ参りし、知恩院の釣鐘堂まで除夜の大鐘つきも見に行った。鳴り響く鐘も、大勢で搗くかけ声も腹に沁みた。もの畏し く、しかも愉快だった。
 その足で粟田坂の青蓮院へゆき、ここではお庭の釣鐘を搗かせて貰った。しっかりと音色深く搗くのは、難しい。娘を抱き上げながら父と母と三人で一つの鐘 を二つ鳴らす。鐘声はほど近き白川新門前の我が家へもらくに届いていただろう。

 正月二日に、醍醐三法院へ娘と二人ででかけた日の、廊下や畳の冷たかったことは。父も娘も思わず爪先だち、ちょこちょこ歩きしながら、叩けば鳴りそうな 寒さに声あげて笑い合った。それしか冷たさ寒さの凌ぎようがなかった。冬ざれといえども、瓢なりに木立も石組みもすばらしいお庭。池には薄氷がはって襖絵 の柳が風に靡いていた。
 大きいお寺には、ものの隈のように、あちこちに小さな庭や坪がある。ほらね、あれもと朝日子に見覚えさせながら、その一つ一つが美しく呼吸している自律 世界で在ることを、わかってもわからなくてもいい、話してやっていた。

 わたしの京都。そんな云い方をすると叱られるか知れないが、それが、確かに在った。漱石『行人』の一郎さんの物言いを借りれば「所有」だった。京の自然 を「所有」しているのがわたしは嬉しくて、いつも癒され満喫して、かぎりなく自身の俗気をわたしは肯定していたのだろう。妻や娘とも佳いものはみんな共有 していたくて、じつによく連れ立ち歩いて厭きなかった。 

 東福寺の伽藍、境内、通天橋、楓樹。泉涌寺の金堂、御陵、翆巒、来迎院の書院、庭、茶室、戒光寺の丈六釈迦、悲田院の眺望、即成院の閑静。………
 ああ、いまわたしの脳裏には、京の東、北、西、南へ、山辺に居流れしずまった無数の寺地の名が、疾走するもの影のように、せせらぐ川の流れのように連続 してとどまらない。なんだか…もう、わたしは、自分が生きてあるもののように思われない。  湖



歳末随感 八 ソ連へ 湖=秦恒平  2006年12月29日20:40  

支那への二度の旅よりも、ソ連への一度の旅が気楽だった。お連れがずっと年長の宮内寒弥さんと同世代でしかも同じ京都の高橋たか子さんだった、それだけの 三人旅だった。それにソ連作家同盟から終始エレーナさんが通訳で同行してくれた。道連れとして最良の友であった。

この旅のことは、たまたま帰国して直ぐ依頼をうけた新聞小説『冬祭り』に、すっかり取り込んだ。だが旅を書いたのではない。旅に纏わる異様な愛の物語を 凝った趣向で書いた。
 凝りすぎたか、新聞に細切れの連載中は分かりにくかったかもしれない。遠慮のない親しい編集者など、「秦さん、支離滅裂だぁ」と酷評した。
 ところが完結して、ほとんど手も加えず大冊の本にしたとき、同じ彼が、「こんなに高い完成度だったんかぁ」と褒めてくれた。
 おそらく、わたしの長い小説で、これがいちばん複雑なストーリイを持っているのに、いちばん大胆に実験的であった。九百枚ほどの長編で、語り手の一人称 主語が唯一個所も使われていない。日本語ならそれができる。古典を読んでいれば実例もみつかる。現代文学では、短篇は知らず、長編小説では見たことがな い。
 この小説、じつは、主人公が人間でなかった。しかも生存していない。本の帯には、秦文学畢生の恋愛小説とあった。美しいロシアの秋と美しい日本の秋が舞 台だった。あのとき、ソ連作家同盟の招待がなかったら、高橋さんの熱心な同行の誘いがなかったら、書かれていない。それでも主題は、動機は、やはり自分の 物だった。まちがいなかった。

 津軽海峡を通ってバイカル号でナホトカに上がった。ハバロフスクまで汽車に乗り、飛行機に乗り換えてモスクワに着いた。数日をすごしレニングラードでも 数日を楽しみ、飛行機でコーカサスを越えてグルジアへ飛んだ。
 三四日のこのグルジァには魅された。傾斜地に展開した市街も美しく、大きな川の流れる暖かい景色も、モスクワやレニングラードとは様変わりに珍しかっ た。のびのびした。このあたりは、いわば古基督教の遺跡でもあり、教会の風情も簡古。ちいさな美術館にも吸い込まれそうな工藝の逸品があった。
 親しく自宅へも招かれた政治家ノネシビリ家の闊達で賑やかな歓迎ぶりに寛いだ。惜しげなくいろんなお土産をくれた中には、ワイン用のグルジァ壺が美し く、いまも我が家で珍重している。大きな琥珀のカフス釦は、いま妻のブラウスの袖口を贅沢に飾っている。
 ノネシビリ一家は、その後グルジァの政変に巻き込まれ、不幸な最期だったと後々に聞いた。一度は東京まで夫妻で訪ねてみえたのに。あの時もエレーナさん が一緒だった。銀座での嬉しい再会だった。そのエレーナさんの最期も、政変がらみであったか、お気の毒であったと伝え聞いている。

 そんなことを少しずつ伝えてくれたのは、今年、若く惜しまれて亡くなったロシア通の米原万里さんだった。彼女とは、ソ連の旅の間に、モスクワの作家同盟 本部で初めて逢った。文豪トルストイ伯の旧邸宅だった。食堂でエレーナも一緒にわれわれ四人が食事しているところへ、講談社専務の三木章氏と、旅案内人ら しき米原さんとがやってきて、陽気に話し込んでいった。賑やかな人だった。
 次に米原さんと逢ったのは、日本ペンクラブの同僚理事としてで、いろんなロシア事情を、ぽつぽつとよく話してくれた。本のやりとりなどあり、律儀でいつ も親切な人だった。あんなに若くして亡くなるとは…。
 あれ以来親しくなった三木さんも早くに亡くなられた。宮内寒弥さんも亡くなられた。

 ことの序でではあるまい、ソビエト連邦もなくなった。ロシアという昔の名に戻った。
 あの旅の頃、ソ連の党書記長が誰であるかなど一度も思いもしなかった。
 モスクワもレニングラードもグルジアも、終始、ソ連のようでもあり、まるでロシアのままのようでもあった。温御飯と冷御飯の入り交じった飯を喰う感じ だったけれど、それがまた気楽な懐かしい気分で、中国の旅での、どこへ行っても威圧的な熱烈歓迎より、よほど肩の凝りが少なかった。
 オペラ、バレエ、コンサート。宝玉のように生き延びていたロシア正教の教会、イコンの数々、礼拝。
 そしてプーシキン、チェーホフ、トルストイ、ドストイェフスキー、またチャイコフスキーらゆかりの建物、住居、彫像、さらには墓地。
 壮麗な冬宮殿、夏宮殿もわるくないが、フィンランド湾をしばらく船で回遊したのが、お天気に恵まれて長閑だった。  湖

コメント
○ 香魚 2006年12月30日 00:29
『冬祭り』、また、読みたくなりました。古りたる塚ときらきら日のひかりを返してゐた黄泉がへりの泉を見にゆきたくなりました。



歳末随感 九 お酒 湖=秦恒平  2006年12月30日19:31

 酒を、母は「さかしお」と謂った。父をはじめ、秦の家の大人はだれも酒を呑まなかった。粕汁でも父は顔を真っ赤にした。「さかしお」とは調味料の謂いで あった。
 お節料理に高野豆腐を買い忘れていたと、妻に命じられ近くのスーパーに走ったついでに、ヱビスビール三本と本場紹興のすこし値の張る「花彫」酒を買って きた。ほくほくと物色しながら、ちょっと口に奢るとなると、結局「酒」なんだよなと自分で自分に言いわけしていた。
 暮れ正月、日本酒もワインも、医者に睨み付けられそうに、たっぷり在る。みんな呑んでしまうさと、はずんだ佳い気分になる。血糖値にもインシュリンにも 「正月休み」させちゃおと勝手にきめて、そうだそうだ、ビールと紹興酒のほしくなるのご馳走が有る、きっと有るぜと、わたしは都合よく気を働かせてきた。
 ロシアも支那も、大国と名のつくどこの国にもわたしは心ゆるさないが、こと「酒」となるとロシア選り抜きのウオトカ、支那のマオタイ、上等の紹興酒、が 世界のお酒のなかで籤取らずにわたしは大好き。
 父とちがい、子供の頃から、粕汁だと具の野菜も否やを言わず食べた。酒の香にはここちよく惹かれれ、タバコの臭いは好まなかった。
 日本酒に、はじめて口をつけたのは、戦後、新制中学の頃だ忘れもしない。裏千家流のお茶の先生をしていた叔母が、いきさつは知らない、近江唐崎の、湖水 に臨んだ綺麗な松原での「園遊会」というのに連れて行ってくれた。「唐崎の松は月より朧ろ」どころか、戦中戦後の欠食児童に、緋毛氈の床几のあちこちで戴 くご馳走たちの魅力満点だったことは、こんにち大寄せのいかなるパーティよりも愛想がよかった。そして、戯れ半分叔母は中学生のわたしに、朱盃の澄んだ酒 を「ちょっと呑んどおみ」と唆した。
「おいしッ」
 あれで、わたしは酒童貞を喪失した。
 もっとも結婚して十数年、編集者勤めの間は、はじめのうち貧乏、あとの半分は小説を「書く」のに欲深くて、酒など見向けなかったし見向かなかった。だが 筆一本に、会社勤めをやめてからは自前で好きなだけ呑んだ。ひとり酒がよく、二人なら気のあった美女と呑みたかった。つまりたいてい一人で呑んできた。妻 は、やっと近年すこし杯に口をつけ、ビールの少しなら呑めるようになったが、若い美女とは呼ぶに呼べないから残念だ。二十歳になろう目の前で死んでしまっ たあの孫娘が元気なら、この暮れ正月など一緒に呑んで楽しんだろうに、残念だ。当たる亥歳、わたしの干支だが年賀状も控えて、静かな静かなお正月だろう が、お酒だけはどれほど「さかしお」にまわしても豊富にある。酒正月とすべし。 湖

コメント
○ MSHIBATA 2006年12月30日 20:28
亡くなった父親は普通に酒を飲んでいました。
晩年は焼酎ばかりだったようです。
それとは無関係に、体質的にも酒に弱くなかった私の好物です。
昨年は丹波の蔵から購入しましたが、神戸は酒蔵の町、古くから付き合いのある東灘区の濱田屋から大黒正宗のしぼりたてが先ほど到着しました。正月に開ける ことにします。
もっとも正月用にと買った1本目は空になってしまいました。南京町へ行けば紹興酒も安く手に入りますが、神戸市はいつまでもハイカラ神戸と言わず、なぜ もっと酒の宣伝をしないのだろう。
また今年20歳になった息子が酒を呑まないのが寂しいので、少しは呑むように仕向けたいとも思うこの頃です。
○ 恋童 2006年12月30日 21:11
父も母も父の兄弟も誰も酒を飲む人はいませんでした。
私も飲めないだろうと思っていましたが、高校の時に1年イギリスに留学した時に寄宿することになった寮の同僚に洗礼を受け、実はウワバミということに気付 きました。
最初の勤務先では出版営業で九州の書店を担当しましたが、お酒飲みの多い福岡や鹿児島の書店さんには、お酒のおかげでずいぶん可愛がっていただきました。 その後編集者になっても、ずいぶん助けられた気がします。
でも一人で飲むお酒が好きで、仕事で飲んだ後は必ず飲み直していました。
父と飲めるようになったのは母が病気になって、父が酒の力をかりなければ眠れなくなってからです。
今日も母の一周忌を終えて、二人で飲んでいます。
生まれて、死なれて二重の受け身を背負うということが、ようやく実感できるようになりました。



歳末随感 十 大晦日 湖=秦恒平  2006年12月31日23:29  

述懐 みづうみ

 逝く年の背を見送れば肩ごしにやす香はわれに笑みて手を振る

 来る年をむかへに立てばそこやみに幻の橋を踏みてあしおと

 きのうの夜から建日子が帰っていて、我が家は暖かににぎやか。「グーちゃん。グーちゃん」と呼ぶ声があまい。負けずに「マーゴ。マゴちゃーん」とやって いる。まみいは平等に両方を呼んでいる。
 猫たちの方がずっとクール。静かに見合ってかしこく平和共存している。

 お正月さんがござった。ゆずりゆずりござった。

 絵本からだったか、ちいさかった朝日子が声をはりあげてそんな言の葉を唱えていた昔。
 あのころ、猫はいなかった。建日子も生まれていなかった。

 除夜の鐘の鳴る頃には、すこし緊張して大学ノートに感慨をたくさん述べたものだけれど、もう、今はしない。「今・此処」が静かに推移してゆく感触を、身 に、心に、有り難く受け取るだけ。

 いま建日子が、機械の傍へ来て、わたしの出来ない板焼きの方法を教えてくれた。ありがとさん。出来るかなあ。
 ま、もう機械から離れて除夜の酒を呑みに階下へ行こう。

 みなさま、いろいろお騒がせしました、お許し願います。ご機嫌よう佳い春をお迎え下さい。 湖・秦 恒平