秦 恒平・生活と意見0−0

 作家 秦 恒平生活と意見
 

  ── 闇 に言い置く 私語の刻──

*  平成 十年以降の厖大な日録は、「ファイルiken2」より平成二十一年四月「ファイルiken91」までに、すべて日付順に整理・保管されています。


  

此の「ファイル0-0」には、現在、保存と検索の必要な「記録」類書き込んでいます。


   


  ── 闇に言い置く── 
                   
        私語の刻               
寒山






以下の写真を此処に「置く」のを、娘・夕日子(強 硬な原告夫妻の要求があり、サーバーの困惑を慮り仮 名にしてある。娘は東京都町田市の主任児童委員)と夫・★★★(青 山学院大学教授・国際政経学部)とは、「肖像権」を侵していると い う
。千数百万円に及ぶ多額の損害賠償を、現に父・秦 恒平に対し法廷に求めている。 


 何ゆえに「被告」にされている父・私は、あえて此処に写真等を置くか?


 弟が生まれて以来、二十年ないし四十年、親の虐待・性的虐待を受け続けてきた、不倶戴天の親だと、物陰に隠れて書き散らしていた娘・夕日子の捏造と罵詈 の訴訟を、これらの写真は正しく裏付けているか。 それを、問うためである。

 虐待? 観れば、分かる。撮っているのは殆どすべて父・私である。或いは編集者・カメラマンである。
 必要なら、もう百も二百も、和やかに微笑ましい娘の写真をアルバムからここに掲載出来る。

 杓子定規な「法」より以前に、父母が、祖父母が、娘や孫との平和で親愛に溢れた 家庭写真を撮ったのである。
 不幸でバカげた裁判沙汰がなければ、これらの写真の全ては、その和やかさに、観る人の頬を思わずゆるめたであろう。その簡明な事実の方を、これら写真の 娘が、親を「虐待者」だと訴えたり「 肖像権侵害」だと訴え出る心性よりも、尊く、大事だと父・私は信じている。

 以下一連の写真から、いやな陰を見てとれる人が有るだろうか。わたしは自身の名誉以上に、妻と息子との名誉をまもりたい。 秦





    東工大教授の頃に、妻と。娘も息子もこの二人から
    生まれ愛された。表情晴れやかな以下写真のように。  





 なんとも愛 らしい懐かしい。私たち両親はこのように分 け隔てなく姉弟を愛したし、今も。
 


             
 
 やす香・行幸(仮名にしてある)の 写真は、一九九三年七月のこのハガキの、
 なお二年ほど後 に、娘の手で送られてきてい
る。娘の悪意は微塵も 感じられぬ。

                    

  上は筑波の★★宿 舎
下の孫とは、このときが初対面
 下 は清瀬の病院へ孫(娘)と曾孫娘二人のお見舞 い



秦 の祖母を、二人の娘とともにちゃんと見舞いに来てくれていた。
母娘三人で保谷の両親宅に泊まり、女四人は仲良く雑魚寝。



        

 やす香には祖父母の家もわが家だった。後年、親に秘し祖父母を訪ね て
 いつも楽しそうだったのも、自然必然の成行きだった。事実は、雄弁。



          
 
保谷で、曾祖父母にやす香をみせる娘      保谷へは、夫婦でも機嫌良く。



               

や す香と両親。保谷で雛祭り。   保谷のテラス でご機嫌サンの
                      娘とやす香。むろん撮影は父。

やす香は保谷へ最期の訪問に
妹と嬉々として此のお雛様を
飾っていった。十九歳だった。
06.02.25





結 婚後も娘はしばしば保谷へ。
母のカメラに、父と。この笑顔!
 



お じいやんが一等好きな、
可愛いやす香。保谷で。




 
  父のカメラにご機嫌の娘。弟も生まれ、幸せそのもの。


           撮す父 撮される母と姉弟       

    二十歳の娘と愛猫ノコの雛祭り

    見合い用の 写真  


    華 燭の日 父のカメラに笑む娘。
   夫を引き合わせたのも、結婚式場
   を奔走用意したのも、父。




父のソ連旅行を横浜埠頭に進んで独り見送ってくれた娘 十九歳か。
同年齢で、孫・やす香は死んでいった。葬儀直後から暴発した娘夫妻の
裁判騒ぎは。小説『逆らひてこそ、父』日記『かくのごとき、死』が真相を示唆。




 
我が家の姉 と弟 愛されてのびやかに育っていた。






 父 へ全身で笑む可愛い娘。我が家の原点!




父親のカメラに、姉も弟も腹から の笑顔。子宝!

* この写真。上のが六九年 秋深く、九歳数ヶ月の娘・夕日子が、二歳に近づきつつある弟と大笑いしている。撮影は、むろん父 親のわ たし、ニッカの愛機で。保谷泉町にあった医学書院社宅時代。翌年早々には下保谷に新築の新居に移転した。この写真の年の六月桜桃忌にわたしは第五 回太宰治賞を受賞し、文壇へ仲間入りを遂げている。
 ところで夕日子の「民事調停」陳述では、これらより二年二年半も前から、すでに「父親による性的虐待等」を受けて苦しんでいたとある。
 この頃わたしは激務の編集管理職 のかたわら、新潮社新鋭書き下ろしシリーズ『み ごもりの湖』をすでに依頼されていた。受賞第一作に旧作『蝶の皿』を慎重にまた新作『秘色』を書き継いでいた。編集職の繁忙と新進作家への意欲や不安とで 寧日なき日々、 こういう写真を写せる機会が、ほんとの憩いと楽しみであった。わたしは一にも二にも自身とひたと向き合い創作に打ち込んでいた。さもなくて生き延びて行け る世間でなかった、純文学の文壇は。
 子煩悩過ぎるとまで人に笑われたわたしが、なんでこんな無邪気に可愛い娘を性的に精神的に虐められるだろう。この当時の医学書院鉄筋六世帯の社宅は、一 世帯、襖で隔てた 六畳 と四畳半だけ。家族 は妻と四人。妻はわたしの夥しいきたない手書き原稿を日々家事と育児のかたわら懸命に清書してくれていた。


* その妻とわたしが、今、古稀を過ぎて、★★★の妻となった娘朝 日子のいわ れなき狂暴ででたらめな攻撃に苦しめられている。
 やす香に「死なれた」悲しみはもとより、半年にわたりあの重篤なやす香の劇症から「目を離し」て、薬石の甲斐はおろかいきなりの終末期医療で残念にも 「死なせ て」しまったと、そう 祖父母は嘆いた 。ところがそれを、「両親を殺人者と言うの か」「殺してやる」激昂してのあげくである。わたしの妻は、母に先立たれた父に自殺されている。それを今でも父を「死なせて」しまったと悔いて嘆いてい る。まともな親なら我が子に死なれれば「死 なせて」しまったと嘆き悔いるのではあるまいか、祖父母ですら、そう嘆いているというのに。「死なせた」が「殺した」と同じ日本語なものか、どんな語感で いるのだろう。文 学音痴は哲学に学んだ夫婦ともどもか。
 わたしは、ふつうの言葉ではもはや言い解きようのない娘夫妻のこういう卑劣な言いがかりに応える、これより他の「方途」を知らない。弁護士も教えてくれ ない以 上、こういう写真 を二十数年分一 枚一枚掲載して行く。自身を守り妻の名誉をまもってやる、他の方途をわたしは知らない、持たない、からだ。




 結婚後にも、文壇のパーティや結婚披露宴等に夕日子
は喜んで父と同行していた。


* 平成三年(91) 正月、わたしと、母の代役の若いミセス★★夕日子とは、文化出版局「ミセス」編集者カメラマンとともに、四国松山、中国柳井・厳島等への「旅」に出た。こ れはその旅中の仲良しな父と娘との写真。雑誌掲載 以外にもこういう佳いスナップが何枚も手元にある。「見るから仲のいい父娘」と評判された。
 見るがいい。この夕日子の笑顔の自然なこと。二十年にわたり父の「性的虐待」 に悩み続けたと「調停」の場で訴える暗い多年の影が、この表情のどこに見えているか。
 そもそも結婚して五年半もの主婦であり、母親であり、実家の父がそんなにも疎ましいなら、何泊もの長旅に同行す る必要は少しもなく、誰も強いることなど出来ない、夕日子はニベもなく断って少しも構わなかった。ところが母に代わって父と旅が出来ると、夕日子は幼いや す香を家族に預けてでも、大喜びで西国へ仲良く同行してくれた。だいたい、我が家では父親はいつもカメラマン。父親とならぶ写真は自然 少ないが、このときは同行の編集者がわたしのカメラで撮ってくれた。
 夕日子は「肖像権」を楯に、「内容証明郵便」で自分の写真を使うなと削除要求してきた。わたしも肖像権は心得ている。だが、データも具体性も何一つない 口から出任せの虚言であっても、また「夕日子さんは父親に勝ちたい 一心から、ウソの性的虐待をすら平気で言いかけてきますよ」と、その危なさを早くに予想してくれていた観察者もいたわけであるが、それでも、「セクハ ラ」や「痴漢」裁判は 「女の勝ち」が世間の常識であるらしい以上、わたしには、娘の破天荒なでたらめ虚言を、娘の母、わたしの妻、である者の名誉のためにも、「物証」で示して 身を護る「権利」 がある。訴えられるなら訴えてみればいい。
 弟が生まれて以降、自身が「七歳」の春から父のセクハラが急に始まり、自分の結婚まで二十年間ずっと続いたと夕日子は訴えている。
 何のことはない、七年も親の愛を独占できていたのが、弟の誕生に親の愛も祖父母の愛もみんな奪われたと、世間普通なら一過性に通過するいじけやひがみの 表れを、なんと二十年も、いやいや今四十六だか七だかまで引きずってきましたと、自ら「解説」 しているに等しい。
 わたしは、妻もむろん協力してくれるが、われわれの夕日子が、いかにのびのびと両親に愛されて育った娘であったか、遠慮無く、みごとな「夕日子アルバ ム」を此処へ一ファイル分「編集」してみよ うとすら思っている。心なごむ、この際恰好の「癒し・楽しみ」で、ばかげた腹立たしさがいっとき忘れられるだろう。みな、上の写真のように、生き生きと 可愛い昔昔のわれらが娘夕日子の、ウソも仕掛もない像である。こんな佳い写真をこんなに沢山撮ってもらっていたかと、感謝してくれなくてもいいが、内心に きっと娘は驚くことだろう。
 見る人は、みな、これら夕日子 が、父親から「性的虐待」を受けつづけけていた可哀想な娘の像と見えるかきちんと、判定して下さるだろう、裁判官にもぜひそうして欲しい。
 それにしても夫・★★★=青山学院大学教授は、西欧のヒューマニズム 時代の人間哲学にくわしい学者であり同時に若い学徒を預かる教育者であって、社会的な地位と責任をもつ紛れもない「公人」である。「公人」としてわたしか らの真っ向批判を浴 びてしかたない、地位有る 「先生」である。自分の妻の我が父親に対するかかる破廉恥な狂乱を、どう傍観しているのか、あるいは容認しているのか、聴いてみたい。
 わたしは、一般市民であるたとえば向こう三軒両隣のオジサン、オバサンを公然非難したり批評したりは決してしない。するのは、政治家や、知名度で以て働 いている創作者や演技者や教育者や文化人・知 識人や、組織団体に対し何かを感じたとき、その時はきちんと遠慮なく批評する。褒むべきは褒める、非難すべきは非難する。むろん自分がそうされることにも 異存はない。
 た だし、夕日子よ。★★★よ。でたらめなウソはいけないね、恥ずかしいじゃないか。
 そうそう、わたしは、自分の家族にむかっても、お互い何の遠慮もしない。建日子でも夕日子でもむかしから何かある と父から「バカかお前ッ」とやられてきた。しかし、二人とも大いに可愛がられもした数々の記憶、忘れたなどといえた話ではあるまい。家族写真は、その点、 ウソをつかない。一枚 二枚ではない、我が家のアルバム、大判で数十冊もあった。カメラマンの父親が向けるレンズの前で、ウソの迷演技などできるものでない、そんなことは今はプ ロの演出家・建日子がちゃんと保証してくれるだろう。
 こういうことを、秦さんが自ら言うのは「情けない」という声が聞こえてくるようだ。だが、わたしは、一糎でも逸れて行く火の粉は払わないが、ふりかかる 没義 道(もぎどう)な、しかも実の娘から狂ったように繰り出される火焔を黙って受けるような、グズな偽善的な聖人ではない。わたしはハッキリ胸の内で怒鳴って いる、「バカか、お前ッ」と。



1991 年1 月:
結 婚し母となってなお、父と嬉々として旅する夕日子。
婦人雑誌「ハイミセス」の企画で、母に代わって。








雑 誌「ハイミセス」1991年3月号の「旅」企画に、娘を伴い、
松山、柳井、厳島などに遊んだ日々のスナップ写真。
どこに「虐待」の暗影ありや。娘はもう結婚して母であった。
同行など簡単に断れたのである。



在り し日の 愛しき孫 やす香 十九歳にして七月二十七日遠逝。




ま だ、ちっちゃかった保谷の姉孫や す香
祖父母が大好きな写真。





十 四年後再会した、大学合格通知の 保谷のやす香。
やすかれ やす香 生きよ とはに。逢いたいよ、また。




       作・演出 稽古中の作家・秦 建日子





    *  東京工業大学・工学部 教授室で  秦 恒平 1995.4.8




「娘・★★夕日子(=秦夕日子)」の成長アルバム 
    (両親の想い出のよろこびのために  準備中)



     ーーーーーーー**ーーーーーーーー

週刊新潮の次第   08.06.13 - 08.07.30


 週刊新潮が、★★高にインタビューして、「孫の死を書いて実の娘に訴えられた太宰賞作家」と表題した記事号を発売したのは、平成二十年六月二十六日で あった。
 秦は一度も記者に会っていない。面談はおろか電話取材にも応じなかった。
 以下に経緯を記録しておく。


* 平成二十年六月十三日 つづく   (秦のHR日録「闇に言い置く私語の刻」より)

* 帰宅して、留守中にうけた電話のことを聞いた。
 うち一つが、某大手「週刊誌」からの「取材」打診であったらしい。おどろいた。わたしが不在と告げるとくわしくは何も聞かず、また妻も無用な口は一つも きいていないが、例の、娘夫婦との「問題」についてであるらしい。
 この話題、単独で大きな切り口をつけてくるのか、全然べつの他の話題がらみにたんに関連の聞き取りか、一切分からない。が、何にしてもこの件は「相手」 あってのこと、不用意に娘や婿達を困惑させてもいけない。誌面でこれが真っ向話題になれば、大学や市の名前も、親や子や、関係者の名前まで表沙汰になるだ ろう。
  粗相に電話で聞かれて、電話で答えるようなことはしない。
  電話や聞き取りだけで、どれだけ事実から遠く逸れた記事が書かれるものか、こまった実例についても、聞かぬではない。幾らか体験もしてい る。「口頭」での話はあいまいに混乱しやすく、容易には受けられないと考えている。法律事務所の意見をまず聴きたい。
 もしも本当に必要なら、なにはさておいて『かくのごとき、死』という、きちっと経時的に纏まった三百四十頁もの著書を「読んで」もらえば済む。克明に記 録し保存した実物双方資料も、関連資料も、「読んで」判断してもらうのが確かでいい。その用意はわたしの手元でみな調っている。

* 来週は、コクーンの勘三郎についで、桜桃忌当日にわたしは循環器の診察を受ける。二十七日の「仮処分」審尋までに問われていることを答え、またいずれ は始まる「こと」にも、よく備えておかねばならない。

* 六月十四日 土

* 「週刊新潮」から、電話問い合わせがあった。電話や口頭での取材には、応じられない、代理人に相談もしてと答えた。
  わたしのブログなどを見ていると言うが、じつは『かくのごとき、死』すらまだ見ていないという。『死なれて死なせて』も知らないという。その他にも重要な 資料はあり、ことに★★が躍起になって公開をイヤがる『聖家族』と仮題の、創作下書きもある。
 わたしは書き手である。しかも逃げも隠れもなく文責氏名を明らかにして機械の「闇」に言い置いている。「闇に言い置く私語」と謂う「日記文学」を、わた しは遺している。知りたければどうぞ「書いたもの」を遠慮無く、誤解無きように読んで下されば有り難い。求められれば提供する。
 夕日子のブログ「がくえん・こらぼ」とかいったものも記者はみて、シンラツなことが書いてあると電話口で話していたが、一昨年の秋口までのものしか、わ たしたちは知らないし興味ももっていない。わたしのこの「私語」を克明に見て、いちいち仮処分審尋の場に持ちだしてくる夕日子側とは正反対である。

* マスコミが参加してくることは、マスコミが真に公正であるかぎり、正直にいえば、むしろ有り難い。結局は、「文学とことば」に執心出精の一作家が、書 いて「書き表したもの」が、最期に理解されると信じている。口は閉じていていいのである。「書くように」と求められれば、気負わずに書く。発表の場は、紙 でも電子の場でもわたしは持っている。



* 六月二十二日 日  つづき

*  ★★★氏(原告・婿・青山学院大学国際政経学科教授)にインタビューしてきたという記者氏が、氏の言葉を「六項目」に書き取って、それへの意見・感想を メールで求めてきた。記事は今日明日に書いて入稿すると。妻と丁寧に読み、一々メールで返答したのを、後日のために、此処に記録する。のちのちまで、私た ちの「思い」として、自身でも確かめ、人にも分かって欲しいからである。
(主張をハッキリさせる意味で、また、こういうことをインタビューで答えて、秦を名指しで非難しているのは誰であるかを明かしておくのは公平な処置だと思 い、二日間★★★氏の名をマスキングしません。)

   *   *
 
 @ 実の娘が父親を告訴したというのは、あまり例のないことですが、何でもかんでも書かれてしまうのを止めさせるには法的手段しかない。すでに書かれて しまっている文章も含めて取り消しを求める。やむをえない処置である。秦氏に悪意はないとしても、実の娘に嫌われるのを知りながら、なお勝手なことを書き つらねて世間に公表してしまうような父親がこの世にいますか?
 
 ● どうお考えですか?
 
 ☆ 反駁  「秦氏に悪意はないとしても」とあります、娘に対して悪意など有るわけがないのは、十年に亘る「日録」で、孫・やす香の死以前のたしか九 九ヶ月に至る長期、原稿用紙なら何万枚の大量のなかに、★★★に触れた箇所が、僅か七、八回(全部で千字に満たぬ程)だったと記憶します。それに対し、両 親で夕日子を想い、その平安を祈り願い懐かしく記述した箇所は、毎年の誕生日を初め、数十度か百度にも及ぶでしょう。読者はみなよくご存じです。
 二○○五年七月二十七日 水  四十五歳になったはずの娘夕日子を祝って、朝一番に、妻と赤飯を祝った。心すこやかにいて欲しい。

 * また「実の娘に嫌われるのを知りながら」とありますが、07.09.09に弟・建日子は、父に向かい、「もう百万遍も俺は言ってきたよ」と、また、 このように、繰り返しています。
 「夕日子は、ビョーキなんだよ。夕日子はお父さんがめっちゃくちゃ大好きなんだよ。その大好きなお父さんから良きにつけ悪しきにつけて、例外というモノ もコトも無しに愛されたいヤツなんだよね。是々非々の愛では絶対にダメ。しかしおやじは、いいときは手放しで褒める、しかしダメな時やモノやコトにはき ちっとダメを出し、半端にはうけいれないでしょう。俺はそれでいい。夕日子は、それでは絶対に不満。そして褒められたことや愛され可愛がられたことは忘れ ても、ダメとつきはなされたことは覚えに覚えて、それが積もって、今では憎さ百倍、何としてでもお父さんに復讐し勝ちたい。そういうビョーキなんだ。仕方 ないんだよ」と。

 * 「実の娘に嫌われるのを知りながら、なお勝手なことを書きつらねて世間に公表してしまうような父親がこの世にいますか?」などという俗論は、「学者 の婿には、舅姑は黙ってイキに金を出せ、」出せないなら「姻戚を絶つ」と、親の頭を殴りつけるような★★★だから出るので、「いいときは手放しで褒める、 しかしダメな時やモノやコトにはきちっとダメを出し、半端にはうけいれない」「おやじ」を、まるで理解できないのです。しかし、それが、わたしの、「父で ある」姿勢なんです。「逆らひてこそ、父」なんです。

 * 夕日子は、父が「嫌い」どころか、母にはよう甘えないのに、父には、入院中でも毎日見舞うと、手を掴んで放せずに泣く子でした。女子高時代いやがる わたしを泣き落としにPTA会長にさせたり、作家代表で訪ソ連の時は、大きな荷物をひっぱって横浜港の桟橋まで一人で見送ってくれたり、結婚の時はわたし に★★★を紹介されて、ものかげで母に照れながら嬉しさを告げたり、パリ在住の時も新聞小説のためにシシリア写真集をわざわざ探して送ってきてくれたり、 わたしの作品や仕事にはよく意見を語ってくれ、結婚後にも、母の名代でいっしょに婦人雑誌のために四国中国に仲良く旅して和やかないい写真をたくさん誌面 にのせたり、何度も親愛に富んだ感謝の手紙や、やす香の近況などを、親に送り届けているのです。全部もらさずモノが残っています。むろん金も頼まれまし た。そういう「父」と「娘」なのです。

 * じつは、息子より先に、娘が才能を広げるかも知れぬと期待していましたから、娘の若書きの雑文でも詩でも、大事にわたくしのウエブに保存し、人の眼 に触れて欲しいと願ってきました。多年に亘り一言の苦情も有りませんでした。
 だからこそ、「夕日子が小説を書き出したよ、見てやって」と、弟・建日子が知らせて来たときは「驚喜」し、その喜びと感想とをウエブに書き、本の後書き にも書き、編輯している『e-magazine 湖(umi) = 秦恒平編輯』にも、よろこんで掲載・保存して、誰か編集者・いい読者の目に留まって欲しいと願いました。文章上にも気づいた注意をしました。娘に、甘い、 うらやましいという読者のメールを、何度ももらいましたよ。
 ところが、もはや娘・夕日子は、その父の注意を、なんと、「高慢な」ことを「作者」に言うてくる父という言葉遣いで、拒否してきました。仰天しました。
 私が、孫・やす香の入院より以前の十年近く、娘に関してどんな「勝手なことを書きつらねて世間に公表してしまうような父親」であったか、一つでも二つで も「実例」を挙げてほしいモノです。一例も無かろうと信じます。
 やす香の入院後は、ないし死後は、嘆き悲しむ涙も絶えない祖父母を目して、告別式から僅か「三日」後には刑事民事の提訴で脅しに脅してきた、寝耳に水の 事実と、もはや無関係ではありえません。『かくのごとき、死』は、★★夫妻の非礼と非常識とをきちんと明かしています。
 私たちが嫌ってきたのは、★★★なのです。夕日子ではないのです。しかし、夕日子は親に二度まで捨てられたとひがんでいます。しかし、それは私が娘の 「離婚を望まない」というところに根があるのです。孫には、母も父も必要です。

 * 或るひとは、「夕日子さんは裁判沙汰にしがみついている以外に、★★さんとの家庭をもう維持できない、または、裁判沙汰を続けている間だけは「ご両 親」との糸が切れていないのを、一途の頼みにしているのではないでしょうか」という見解を伝えてきています。かなり事実に近いのではないか、じつはこうい うメールが、やす香の大の親友から届いています。
             
To: Michiko Hata
Sent: Saturday, February 23, 2008 2:05 AM
Subject: 秦恒平様 迪子様  ****

  こんばんは!
 日々、以前とは余り変わりありません。(中略)
 おじい様のブログで、綺麗な色のご近所の写真(二月十九日の生活と意見 秦注 もう削除されているかも。)拝見しました。
 やす香ママや行幸ちゃんへの目印と書いてあるのを拝見して、嬉しかったです。必ず、「ただいま」と帰ってくれる日を信じています。
 今まで迷っていたのですが、やす香から聞いていた事をお伝えしてよいかどうか。。。 もちろん、やす香ママは私がやす香から聞いていることをご存じない でしょうし。
 今現在の状況は分かりませんが、少なくともやす香が「病気になる前(二○○六前半)」までは、やす香ママとパパの関係は崩壊していました。
 やす香はたまに呟く様に、家族四人で撮ったプリクラを見せて、「家族四人で撮るのは、これが最後だと思う」と言っていました。
 やす香が病気になって、今は違うかもしれませんが、やす香ママは一人でした。
 おじい様おばあ様がやす香の病室にお見舞いにいらしたと知った時、これでやす香ママに帰る所が出来た、と、私は勝手に嬉しく思いました。
 嬉しいという表現は変かもしれませんが。。。
 以前、やす香の守るべき宝物は妹・行幸ちゃんだと書いたことがあると思います。
 病気になる前まで、ご両親の離別は決定的で、夜になると行幸ちゃんがよく泣いていたと聞きました。
 やす香は必死に行幸ちゃんを守ろうと、慰めていました。
 私の考えですが、やす香ママはその事を含め、自分自身をとても責めていらっしゃると思います。
 私から見て、やす香ママもやす香も、とても不器用で、本当は心の底から愛し合っているのに、お互い伝え合うのが下手なようでした。
 やす香は他の人にはとても優しくて、人の心にすっと入っていく人でした。
 でも、ママにだけは出来なかったのです。
 本当は大好きだったのに。ママの事が好きだと、何回も言っていたのに。
 ママにだけは伝えられなかったのです。
 やす香ママは今自分と戦っているのだと思います。
 そして自分の存在の根源である、おじい様おばあ様と戦っているのだと思います。
 多分修復出来るであったろう、やす香とのこの先の時間。。。
 いきなり(病魔に 秦注)奪われたその時間。。。
 やす香ママは、おじい様おばあ様の事を心の底で愛しているのだと思います。
 そしてその愛が、お二人の存在が、大きいからこそ戦っているのだと思います。
 やす香ママは、自分がずたずたに傷つくのを承知の上で、あえてずたずたになろうとして、おじい様おばあ様を選んでいるような気がします。
 私の考えだけで、生意気な事を書いてしまって申し訳ありません。
 この事は、いつかお伝えしなければいけない日が来ると思っていました。
 おじい様おばあ様にお目に掛かって、私はお二人が大好きになりました。
 やす香は、もっともっと何千倍も何万倍もおじい様おばあ様を大好きだったのですもの。
 いつか、やす香ママは帰ってくれると信じています。
 そしてそれを、おじい様おばあ様が待っていて下さるのが嬉しいです。
 それが、やす香の一番の望みだと私は思っていますから。。。
 今日はいろいろ書き過ぎてしまったかもしれません。
 お二人のお顔を拝見してから、何かほっとして素直に気持ちを伝える事できました。
 花粉が飛び始める季節になりました。アレルギーは大丈夫でしょうか。。。
 お身体どうぞご自愛下さいませ。またお目にかかれる日を楽しみにしております。
   
  * この若いお嬢さんのメールは、かなり、私どもの知り得なかった、しかし優に想像し得てもいた「真相」に触れていますかも。
 夕日子は、口でむちゃくちゃはよう言えない、気の小さい娘でした。夫・★★★は、むろんわが家とのことで、二十年余も妻を責め続けてきたのではないで しょうか、少しもフシギでない。
 そして妻・夕日子は親に捨てられたなどとひがんでいるのですから、この裁判で、夫の先に立ってでも「共闘」していなければ、離婚しても行く先が無いと 思っているかも知れません。先の、やす香親友のメールは、私の「赤い家」の写真記事に光明をえた気持ちだったと思われます。
 「* 近くに、こんな家(アパート)が昨今建った。赤いよと、評判芳しくないけれども、わたしはこの色、そんなにイヤでない。夕日子や行幸が帰ってくる 道しるべには、恰好。よく晴れていた先日、撮ってみた。ゴッホなら絵に描くんじゃないの」とウエブ日記に書き、写真も残っています。
 

  A 娘のやす香の死後、その死因に疑問を呈するような書き方で妻の夕日子を責めている。安楽死させた? などと書いているのがその箇所です。誰に聞いたか も分かっています(フランソワさんは私たちの知人です)。その人も、そんなことを明言しているはずはないのです。疑問があったら、私たちに訊くなり、病院 の医師に確認をとればいいのです。それもせずに、勝手な推測を書き散らし、世間に知らしめる。秦氏は作家だから表現の自由はあります。何を書くのもいいで しょう。しかし、疑問があったら、私たちに訊くなり、病院の医師に確認をとればいいのです。それもせずに、勝手な推測を書き散らし、世間に知らしめる。秦 氏は作家だから表現の自由はあります。何を書くのもいいでしょう。しかし人の名誉をわざと汚すような違法な内容を書くのだけはやめなさい、と言っているの です。
                
 ● このへんは、どう、お思いですか?
 
 ☆ 反駁   「死因に疑問」など、有るわけがないのです。「肉腫」で緩和ケア=治療は不可能状態、にあるとは、母・夕日子も「mixi」に公言してい て、遺憾にも疑いようのない過酷な癌だとは、医学書院の編集者であったわたしは、明瞭に承知しています。
 「死因に疑問を呈する」とは「輸血停止」に関する確かと思える証言を、私が「mixi」上で聴いた、それに驚いたということです。
 「疑問があったら、私たちに訊くなり、病院の医師に確認をとればいいのです。それもせずに、勝手な推測を書き散らし、」とは、誠に事実に反した異な事を 言うモノです。
 祖父母に対してやす香の病状や医療に関する説明や回答を百パーセント「拒絶」して知らせなかったのは、法廷の関係者も認知されているほどの心ない事実で す。そして病院は口を噤み、「治療に類する何もしていません」「全てはお母さんがご承知」と、祖母の必死の問い合わせにも首を横に振っていたのです。
 何一つ「肉親から肉親へ」知らされないまま、肉親の祖父母が、必死に「推測」と「情報」を頼んで孫の命を憂慮するのは、あまりに当然であり、なんら「そ れもせずに」ではない、病院も、親も、全く祖父母をやす香の病状・診療から閉め出していた以上、「確かな」と信じうる「情報」に聴くのは、情理ともに自然 当然のことです。
 しかも何等「名誉をわざと汚すような違法な内容を書」いているのでもない。以下に証拠を挙げましょう。
 
 「フランソア」さんという人のことは、われわれは、知りません。意味不明です。「輸血停止」を「証言」しているのも、この人本人ではありません。
 「MIXI」上にはっきり伝えられている、「見舞客の間近な確実な見聞として、七月二十五か六日に、病院と親とは、やす香の「輪血を停止」したと、『か くのごとき、死』P.239 平成十八年八月一日に、その記事があります。
 (やす香友人の母上。やす香死去の平成十八年七月二十七日付「mixi」日記9行目に、病室に見舞っていたお嬢さんの「実見聞」として「輸血を止めた」 ことを、明瞭に記事にしています。「悔しくて」の一語は、何らか入院以前からの病状経過に対する批評をはらむとも読めますが、それは措きます。
 しかし非常に重要な言及であり、参考までに、関連記事も記録してあります。書きのメールが証言の核心です。
 
 ☆ 「mixi」2006年07月27日 14:39  涙
 今朝、身体がフワットした状態で身体を起こしているのがとてもつらく。。。午後の出勤まで横になっていようとうつらうつらしてました。
 PCを開き・・・日記・・★★やす香さんの永眠の文字。。。
 原因のわからない肉腫と言う癌に侵され、それでも笑顔と周りへの思いやり、優しさを忘れないでいたやす香ちゃん。
 娘の同級生であり、活動仲間。
 闘病日記を通して、たくさんの友人に囲まれ頑張って生きていた姿が手にとるように分かっていた。
 昨日(二十六日 逝去前日)何度も病室を訪ねていた娘から、「土曜日のお見舞い・・無理かも。今日輸血を止めたから、やすかそれまできっともたない。」
 心の中で覚悟はしていたけれど、いざとなると、涙が止まらない。
 悔しくて、辛くて・・
 連絡をいれ、娘に伝え、号泣した娘に、本当は抱きしめて一緒に泣いてあげたいけど、「涙は家に帰るまでこらえなさい。涙顔は見せちゃ駄目よ。不安になっ ちゃうから。。。顔を洗って、頑張りなさい。」ってしか言えなかった。。。ごめんね。
 ご家族の思い、娘を始めやすかちゃんの大勢の友達の思い・・、悔しく、辛いだろうけど、やすかちゃんの笑顔を思い出して、前に歩み続けるしかないんだろ う。
 日記へのコメントを見ると、やすかちゃんの笑顔を胸に皆しっかりと先を見据えているよう。やすかちゃんらしい思いやりと優しさの心配りのおかげだと思 う。
 やす香ちゃんの笑顔は、みんなの笑顔の中に生きている。
 ご冥福をお祈りします。         (以上)
 
 やす香逝去の七月二十七日は「木曜日」でした。「昨日(水曜日に)病室を何度も訪ねていた」ほどのこの大親友は、なお土曜日二十九日にも「見舞」うつも りでいたのです。それが可能」と、まだ「病状を信頼」していたらしい。ところが、「今日輸血を止めたから、やすかそれまできっともたない」と確言している ではないですか。
 この大の親友は、やす香の「病室」に出入りしていました。しかも病院と親とが合意の上ででしょう、「輸血を止めた」と、「mixi」という広い場で明確 に断言しています。そのことを語るのが何の「名誉を傷つけるでたらめ」ですか。夫妻はこの優しい悲しみの友人をも名誉毀損で訴えるのでしょうか。
 「やすかそれまできっともたない」と、この親友が悲痛にも予知したとおり、正確に、やす香は翌日の朝、母親の誕生日にあたかもわざと符節を合わしたかの ように、死んでいきました。嗚呼というしかない。
 「輸血停止」には、このように確度高い証言があります。
 「輸血停止」とは、患者を人為的に「死なせる」決断であるとみられて当然な処置でもあります。そして証言通りにことは経過し、やす香は友人が予知したと おりに亡くなった。その事実通りの指摘・記述が、何の名誉毀損であるでしょう。
  なお、「安楽死」のことは、夕日子のために心底心配していたことだったのは、『かくのごとき、死』に明記してあります。久間十義氏の『聖ジェームズ病院』 を読んでいた最中の私は、もしも「安楽死」がマスコミにでも疑われたら、とんでもない苦境に母親が陥ると心配し、夕日子等に助言もして、その配慮に「感 謝」されているのです。そのメールが有りました。
 安楽死は難しい決まり事もあり、医師と親と本人の「文書」による「インフォームド インセント」が事前に是非必要なのです。やす香の状態からも、そんな ものの有るワケがなく、それでもし「安楽死」を外から疑われたとき、夕日子は持ち堪えられないと心配しました。そのことも『かくのごとき、死』は触れて書 いていますし、関連の私からのメールもきちんと残っていると思います。
 ★★は、こういう親の配慮をいったい何と思って、こういう「いい加減」をあなたに話すのでしょう。すべて、裏付けできる材料が手元にあります。
 
 
 B たとえ父親とはいえ、実の娘のプライバシーを侵害することは許されないのに、彼女が匿名で書いた作品を自分の書き物のなかで発表し、あまつさえ、そ の実名をわざわざ公表しています。娘のほうは秦恒平氏の娘であることが知られたくないために匿名で作品を書いたのです。10数年間も交流のなかった実の娘 に問えば必ず公表を阻まれると承知の上で、当人に一言の断りもなく勝手に名前を公表してしまった。プライバシーの侵害も甚だしい。父親にそんな権限はあり ません。自分で娘を愛しているといいながら、その愛しているはずの娘のプライバシーを平気で侵害し、公開するのはおかしい。法を守りなさい。こちらが言い たいのは、ただ、それだけです。
 
 ● 法的には★★氏の主張がとおる可能性が大きいと思いますが、この件に関しては、どう思いますか?
 
 ☆ 反駁   この回答はそう難しくないと信じています。 ★★は、かなり問題をねじ曲げて、間違った事実に拠っています。
 娘は、私の手元で、いわば「文章を書く」ことを覚えました。大学受験の昔、娘に請われて、日本の古典を文庫本で二三尺も積み上げ、その読み方を速成で教 えてやった娘です。娘には依頼原稿の下書きすら二度ほどさせて、それは一つに小遣い稼ぎさせるため、一つに経験を積ませるためでした。代理で書いた下書き 原稿もちゃんと今に残っています。
 夕日子が小説を書き出すのを、母親と、どんなに噂して、待望していたことか。それに成功すれば夕日子は★★から精神的に自由になれるかもと。
 しかし★★家と絶縁中、わたくしは夕日子に対しては久しく、指一本も動かさずハガキ一枚も書きませんでした。まして電話は嫌いです。歌集『少年』を送っ ただけです、そこには夕日子誕生前後のうたが幾つも載っているからです。
 しかしすでに世に出ていた弟・建日子から、「夕日子が小説を書いているよ。見てやって」と知らせてきたときの嬉しさは、タイヘンでした。湖の本の「あと がき」に、こう書いていますから、読者には周知の事実です、

 「じつを申すと、久しく顔を見ない、親に捨てられたと拗ねているらしい娘・夕日子(あさひこ)も、小説を書き始めていたのである、おやじには両手両腕で ひしと隠し、隠しながら。
 弟・建日子から漏れ聞いたわたしは、そんな娘の長編小説『こすものハイニ氏』も、短篇小説『ニコルが来るというのでぼくは』『天元の櫻』も、インター ネットで探し探し見つけて、読んでみた。息子よりももともと文才に富んだ書き手の娘が、かつておやじの書いたフィクションと、なにやら臍の緒の繋がった題 材で、かなりおもしろいものを書いていて、わたしは驚喜した。文句があれば言ってくるだろうと、勝手に「e-文庫・湖(umi)」に「秦夕日子作」として 入れた。気のある人は、どうか読んでやってください。夕日子も気を腐らせず、悠々、書き続けて欲しい。
 此の作品(本巻)を、「湖の本」米壽記念にと決めたのも、そんな驚喜のあまりと読んでくださる知己・知友、きっと少なくないであろうと思っている。叱ら ないで戴きたい。前作の書下し長編『お父さん、繪を描いてください』に続いて、また「お父さん」ですかと笑われそうだ。笑われついでに、昔の、『罪はわが 前に』三巻にもまた目を向けてくださると嬉しい。筑摩書房から出したこの作、瀧井孝作先生が谷崎賞に推してくださったと漏れ聞いていた、途方もないと思っ たが。今度の作に、「新・罪はわが前に」と副題した理由でもある。       以上 跋文の一部
 
 「匿名」で書いているということには、当時、「ペンクラブ電子メディア委員長」だった私には、大きな危惧がありました。プロは忠告してくれていました、 ウエブに匿名で作品を書けば、盗まれてしまう危険がありますよと。私もかねてそう思っていましたから、夕日子のガンバッた作品を作者を明らかにし「緊急避 難」しておくことは必要だと判断しました。「苦情」があれば「取りのける」と、ちゃんと断ってありました。そして夕日子の「苦情」を受けると、すぐさま朝 日子作品をわたしはすべて、仮置きしていた「e-magazine 湖(umi) = 秦恒平編輯」から、削除してい
ます。★★★のいうことは、事情も知らず、むちゃくちゃ。妻の書いたものを、わたしのe-magazine 湖(umi) = 秦恒平編輯を、見てるのでしょうか。

 「娘のほうは秦恒平氏の娘であることが知られたくないために匿名で作品を書いたのです。」
 こんなリクツが、どう証明できるのですか、弟に、「書いている」と、サイトまで知らせてきた以上、父親にも読まれない「わけがない」と当然分かっていた でしょう。まして父はそれを「待望し」ていたのですから、読みますよ、それは、他のことを置いても。
 「10数年間も交流のなかった実の娘に問えば」というが、「問う」パイプは絶無なのです。「必ず公表を阻まれると承知の上で」とありますが、素直に書い て延びたいと思っている娘ならば、父の好意は、喜びようは、分かってくれるものと信じていました。わたしは芯の所では、いつも娘を信じてきたのです。弟と 姉とがともに創作でガンバルかなあとは夢でした。
 
 「法的には★★氏の主張がとおる可能性が大きい」かどうかは、知りません。私が娘の「作品」と「書く意欲」に対して、作家である父親としてした配慮に、 「人間」として欠けるところがあったとは考えていませんし、文学者としては、それこそが、大切なことです。
 父親のちょっとした推敲上の「助言」を、父の「高慢」という非礼の言葉で退け得る無神経は、わたしには理解できません。この「高慢」も、そう書いている 夕日子の文章が残っています。しかも周囲には「女流作家」などと謂わせている。
 あ、ダメだ、これは、と一人の編集者でもある私は、こと文学に関しては「高慢な」娘を見捨てたというしかありません。

 「当人に一言の断りもなく勝手に名前を公表してしまった。プライバシーの侵害も甚だしい。父親にそんな権限はありません」などという言句を吐いているか らおかしいのです。ふつうなら、「親子じゃないか」と窘めるでしょう。こういう杓子定規の「法」依存をわたしは、じつは軽蔑しています。アカの他人がした のならともかく、父親が娘に終始一貫「驚喜」しながらしていた、しかもすぐ撤去した、それが「法」的に「弱い」などと私は思いませんよ。
 大事なのは、「人間」のうちなる、熱いもの、暖かいものでは有りませんか。「ブライバシー」もしかり、それは「人間の真情」を足蹴にしながら主張できる ような、やすい価値ではない。違うでしょうか。 
 
 
 C 秦家と★★家が断絶状態なったのは、父親による実の娘への虐待やハラスメント(言葉などによる嫌がらせ? 内容は裁判で言うそうです)が存在してい たことが主たる原因。秦氏は、私が義父に向かって罵詈雑言を書いたという手紙の内容も公表していますが、あれは手紙の一部。前後があるのですが、そこは公 表していません。裁判では全文が明らかにされるでしょうが、確かに私は手紙を書きました。
 おかげで秦家と断絶でき、それから以後、私の妻である秦氏の娘は平和で安穏な10数年間を送ることができたのです。私の妻が、実家と断絶したあとも、自 分の父親を罵倒した私との結婚生活を長年つづけてきたのが、その証拠です。
 
 ● 10数年間、両家が断絶していた時代の記述はなかったように思います。どんな心境でいらっしゃったのですか?
 
 ☆ 反駁  大きな虚偽が此の★★の言葉には狡猾に挟まれています。私の家内の弁を、先ずお伝えします。
 
 ☆ これはもう真っ赤な嘘です。 
 娘・夕日子が当時「つわり」で 我が家に来て休養していた と、お想い下さい。 
 私は持病(心房細動)をかかえ 九十媼の姑の面倒 幼い孫の世話等で疲れがひどくたまっていました。重ねて、雨漏りがするのでペンキ屋がはいることに なっていました。
 ペンキの臭いは つわりにこたえますので せめて一両日帰ってもらうことにして 夫・高に迎えにきてもらったのです。
 親子夫婦揃ったところで 就職の定まらぬ間の生活は大丈夫ですか? と 援助のこころづもりもあって夫婦して尋ねました。
 これが いたく 高のプライドに触ったとみえ 即座に「大丈夫です。私は常からアルバイトでも他人の初任給ぐらいはとります」と 胸をはりました。「他 人の三倍の能力がある」とさえ言い切りました。口癖のようなモノでした。就職も、もう間もなく決まりそうとも。
 私は娘から、★★★が背広の新調も我慢していると聞いていたので「援助」が気に入らないなら、就職祝いをはずもうと用意しました。見ていた息 子が 僕ももう一度 就職しなおすよ こんなに貰えるのなら と言うほど。
 しかし 娘等が帰宅した直後に我々夫婦に届いたのは なんともなんとも無礼な手紙でした。
 そして金の出せない非常識な妻の実家とは「縁を切る」と言ってきたのです。
 
 記者さん、「おかげで秦家と断絶でき、それから以後、私の妻である秦氏の娘は平和で安穏な10数年間を送ることができたのです。私の妻が、実家と断絶し たあとも、自分の父親を罵倒した私との結婚生活を長年つづけてきたのが、その証拠です」という、大人にしては、大学教授にしては、なんともかとも、心貧し い科白には、思わず眉を顰めませんか。これが小説の下書き『聖家族』の「あの男」に、フィクションとして映されていると読まれてケッコウです。
 妻の夕日子が、自分の祖母を子連れで見舞うと謂えば、離婚だと★★は脅しました。私も妻も夕日子の口からしっかり聴いています。そして、前にお送りし た、やす香の大親友の、★★夫妻に関する、「家庭の危機」「離婚のおそれ」というやす香への憂慮と同情に満ちたメールの文章を、どうぞもう一度読み返して 下さい。

 今現在の状況は分かりませんが、少なくともやす香が「病気になる前(二○○六前半)」までは、やす香ママとパパの関係は崩壊していました。
 やす香はたまに呟く様に、家族四人で撮ったプリクラを見せて、「家族四人で撮るのは、これが最後だと思う」と言っていました。
 やす香が病気になって、今は違うかもしれませんが、やす香ママは一人でした。
 おじい様おばあ様がやす香の病室にお見舞いにいらしたと知った時、これでやす香ママに帰る所が出来た、と、私は勝手に嬉しく思いました。
 嬉しいという表現は変かもしれませんが。。。
 以前、やす香の守るべき宝物は妹・行幸ちゃんだと書いたことがあると思います。
 病気になる前まで、ご両親の離別は決定的で、夜になると行幸ちゃんがよく泣いていたと聞きました。
 やす香は必死に行幸ちゃんを守ろうと、慰めていました。
 私の考えですが、やす香ママはその事を含め、自分自身をとても責めていらっしゃると思います。

 ★★は何の「証拠」だと胸を張っているのでしょう。かりにも教育哲学の教授が、知性有る大人が、自分の妻と親との確執を、恰も高見の見物のものの言いぐ さは、偽善も極まり有りません。
 「親子じゃないか」と、普通なら窘めるのが夫でしょう。かりにも大学教授でしょう。
 私たちは、「娘・夕日子と争ってきた」のではありません、あの居丈高に無礼な★★★に憤ったのです、そして今も同じです。私たちの軽蔑は一途に、こうい うウソの言葉を汚物のように投げかけてくる★★にあるのです。
 久しい「断絶」の期間のことですが、私は、夕日子の「離婚」するのを望みませんでした。やす香や行幸のためには両親の家が大事という考えでした。だか ら、私からは指一本動かさずに、いつもウエブで、夕日子や孫たちの平安と健康を祈っていました。
 夕日子が、現在もそうですが、目を皿にして父親のウエブを読んでいることは、弟の伝えるかすかな事情からもよく酌みとれていました。そうして夕日子は父 や母の暮らしに一途繋がっているのでしょう。

 ★★★はわたしに向かい罵詈讒謗の手紙を書いた事実を肯定しています。それだけでも、全ての名誉毀損の言い立てなど、砂上の楼閣です。全文を作品に利用 していては作品の空気は汚れる一方です。どう全文を出そうとも★★が恥を掻くだけですし、いまごろ変な作文など持ち出さないで欲しい。そういうことも有ろ うとすべて記録し保存されています。
 
 
 D それに、秦恒平氏から「お前達とは義絶する」と最初にいってきたのは、私が手紙を書く前です。こちらの一連の行動は、それを受けた後でした。
 
 ● 事実はどうだったのですか? 
 
 ☆ 反駁  これも呆れた全くの虚偽です。家内も云っている通り「真っ赤なウソ」です。下書きの小説『聖家族」』には、時系列で細かに記録した事件の経 過が書き込まれています。将来こういう厚顔な虚偽を言い募るであろうことの読み取れる、そういう恥ずかしい人物なのです。全く虚偽、真っ赤なウソです。物 証を日付で追ってきちんと証明できますし、すでに書いています。  
 

 E やす香は自分から祖父の家に訪ねたのはたしかです。ある日突然、高校生だった娘のブログの中に「やす香に会いたい、会いたい」という呼びかけが始ま り、じつに60回にもわたったそうです。若い連中だけのやり取りの中で「ヘンなじいちゃんが混じっているぞ」と話題になり、それで、やす香は祖父との交流 を始めたのです。今年の3月には、娘が祖父の家にいっているのは私たち夫婦も知るようになりました。女房がいろいろと、過去のいきさつを話して聞かせてお りました。母親の立場を理解してくれたそうです。
 その娘が入院したとき、私は「良い機会だから、秦家との交流を回復したら」と妻に勧めました。しかし、妻は断りました。葬儀の案内を出さなかったのも、 そのためです。ずっと断絶していたのですから、また、嫌な思いをしたくないという気持ちでした。案の定、やす香の死と同時に、秦氏は「娘が孫を死なせた」 というような文章を書き始めました。それが、氏の死生観だったとしても、子供を喪ったばかりの実の娘を「孫を死なせた」と非難し、平然と、しかも嘘っぽい 推理を並べ立てて、それを世間に発表する親なんかいないでしょう。
 
 ● 「かくのごとき、死」の全面的な削除を求める理由は、ここにあるそうですが、いかがですか?
 
 ☆ 反駁   よくこんなウソが平気で云えると、人柄にますます鳥肌だって、軽蔑を覚えます。
 やす香や行幸が祖父母の家に来ていることを知りながら、★★の両親が、そんな「自由」をわが子達にゆるすかどうか、原状の、また現在の、この軋轢を直視 するだけでも、明白に分かることです。
 やす香がいつ初めて、祖父母と連絡が取れたか、記録は明確です。
 二○○四年二月(やす香高二)二日に、やす香の方から、演劇家である叔父・建日子に「メール」を出しました。建日子はその日のうちに祖父母にその朗報を 初めて報せ、相談して、私たちは、「やす香宛の初のメール」を、建日子に託すことにし、転送してもらいました。それが二月三日です。
 すると二月四日に、やす香から初メールが届いて、友達との写真も添えられていました。二月五日には、やす香が電話してきて、本当に久々に孫娘の声を聴い たのです。その喜びは、今も胸が痛いほど甦ります。
 
At Wed, 4 Feb 2004 00:29:01 +0900 gros-bisous.vvv.7237@ezweb.ne.jp wrote:
>Date: Wed, 4 Feb 2004 00:29:01 +0900
>From: gros-bisous.vvv.7237@ezweb.ne.jp
>To:
>>こんなんです♪         (友達との写真二葉 貼付)
      ----------------------------------------
 
    宛先    :gros- bisous.vvv.7237@ezweb.ne.jp
    差出人名:hatak
    題名    :ありがとう
 
 やす香  元気な写真をありがとう。嬉しい。嬉しい。赤い鼻緒の下駄をはいて、白いヴラウスにジーンズスカート、玄関で左右の腰に手を当て、ちょっと上 体を左に傾けてポーズしている 89.10.16 のやす香と、みくらべています。高校生なんだ。夢をみているよう。マミーも、それはそれは嬉しそうです。わたしも、むろん。
 なんでも、いつでも、気楽に声をかけて下さい。じいやんの機械は、ほとんどいつでも開いています。マミーの携帯は機能がよくない、パソコンの方のメール アドレスが使いやすいようです。携帯なら、マミーには電話がいい。
 **** が、マミーの携帯番号。じいやんは携帯は使っていません。
 風邪ひかないでね。 では、また。 やす香のじいやん
      ------------------------------------------
 
 もしも「両親公認の祖父母との親交」であるなら、姉妹が「親に知られてはならない」と気配り十分に秘匿しつづけた意味がありません。
 かつ、私たちも、その事情に応じ、孫達の来てくれる嬉しさを日記に「書きたくて」「書きたくて」しようがないのに、姉妹のためを思い一行も書かずに、 「わかい友達」が訪ねてきて楽しかったなどと記録していたのです。その記録はウエブにちゃんと残っています、何度も。
 ついにやす香の入院で、ケイタイが調べられ、やす香と祖父との「mixi」のマイミク同士も知られてしまい、しかし、ここで毅然と示した「やす香の意 志」は、こうでした。われわれに、祖父母に、「見舞いに来て、お土産もこれこれ」という親愛の呼びかけでした。
 この両親の意に逆らった、「決意」に満ちた祖父母への呼びかけは、両家の確執や、やす香の悲しみをよく知っている親友たちには「大きな驚き」だったと聞 いています。やす香の「意志表示」 それは、あの両親に対してはたいへんな「ガンバリ」「NO」でした。なにしろ発病したことも祖父母には知らせないで欲 しいと弟に云っていた夕日子でした。
 ところが、夕日子がでしょうか、闘病記企画の第一声かのように、「mixi」に「白血病」と告知してしまい、はじめて「mixi」での、やす香祖父の存 在に、マイミクの親しさに気づいたのでしょう。
  ★★の云うことは、データも何も無い、口から出任せ、「六十回」の一度分でもいいから、やす香に「あいたい、あいたい」メールを、正確なデータで出してみ よと云えば、黙するしかないでしょう。そんな確かなメールを、あなた(記者氏)は、事実ご覧になりましたか、日付も書き手も確かに。
 念のため家内の短い一文も読んでやって下さい。
 
 ☆ この★★★の曰くも、真っ赤な嘘です。 
 やす香は 高校教室での教材配布に、祖父の名を見つけ とても喜んだそうです。お友達に自慢のしまくりだったそうです、やす香のお友達に教えてもらいま した。
 また私は 息子・秦建日子脚本のテレビドラマDVDを「作者代送」として やす香に贈りました。私の名前では やす香に届かない恐れがあったからです。 そして やす香の叔父さんの建日子が タケちゃんが、こんな仕事をしているわよ と そっと知らせたかったからです。ところが母の夕日子が、弟に礼のメー ルを返してきました。やす香と祖父母とは、直接には全く繋がりの付けようが無かったのです。
 二○○三年七月のことでした。
 そんなこんなで 二○○四年二月二日、やす香は、やっと先ず、叔父・建日子に自分で連絡をつけ、そしてついに祖父母をも 自発的に訪ねて来てくれまし た。妹・行幸も連れてきてくれました。嬉しいことでした。
 全てはそこから始まり、 やす香の ブログだの 携帯電話だの は、それ以前には全く知るよしもないこと。「六十回メール」だの「あいたい、あいたい」 など、思わず笑ってしまう「大ウソそのもの」です。通信記録を見たいものです。 

 以上で、お尋ねに、全てお答えしました。そして★★★の言葉の安さと偽り多いことに、夫婦で呆れています。こういうことも有ろうと、私は、あなた(週刊 新潮記者)に、より正確な「メールで回答」しました。これだけのことを会って、口で喋ったら、混雑は目に見えています。
 繰り返しますが、物証の裏付けは、ほぼ完全にのこしてあります。
                    以上    秦 恒平  08.06.22


 わたしは、こう看ている。★★★教授の言い立てる名誉の毀損とは、何か。ミソもクソも一律の法にすがりついた「名誉」である、と。本名では守れず、仮名 やマスキングで守られる「名誉」であると。わたしが観るのは、そんな名誉ではない。婿・★★★の「人間」だ。トクトクとして噴飯モノの『お付き合い読本』 を書き送ってくる「人間」だ。金を出さないなら「姻戚関係を絶つ」と舅姑を足蹴にできる「人間」だ。
 「法」のことは法律事務所に任せている。
 わたしがするのは、真っ向「人間」を見て「書く」こと。表現しても、卑しいウソで枉げはしないこと。   


* 六月二十六日、週刊新潮は発売されたが、「孫の死を書いて実の娘に訴えられた太宰賞作家」という記事にかかわらず、実父を「訴えた」娘の名も顔も一言 葉もなかった。誰もが看板に偽りあり、ワケが分からないと訝しんだ。秦の経歴はすべて本名をはじめみな露出されていた。ところが正しくは「婿夫婦に訴えら れ」ていて原告筆頭は、娘・夕日子の夫である青山学院大学国際政経学部教授の★★高であるのに、すべて★★は仮名の「高橋洋」なる配役(ペルソナ)を演じ て、妻の代弁者ですという風に喋っていた。
 青山学院大学教授といえば社会的責任もある公人ではないか、まして原告が名前も所属も地位も隠して取材に応じるなど、「うしろ暗い」事があるのかと、す ぐ不審の声が上がっていた。
 幸い、発売数日前、★★高に話を聴いてきた記者氏が、六箇条の★★発言を直接話法で読ませてくれて、反論を求められすぐに書いて渡しておけたのは幸い だった。「後日の証」に雑誌発売前に自分のHRに記録した。★★の言いぐさが、いかに虚偽多いかをはっきり明かしている。湖の本エッセイ39『かくのごと き、死』はさらに詳しく「★★曰くの根拠無さ」を明かしているのである。



◎ この件に後日談が一つあるが。すでに一応解決しているので此処にはその記録を置かない。




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 小説『ざばぶるぐ』事件の奇怪




* 平成二十年(2008)八月三十一日 尽 


* 法廷に、無視できない一事件を報告し、所存を申し述べます。

           秦 恒平・記       08.08.31


 下記はご覧の通りの日付で私・秦 恒平の日録「闇に言い置く 私語の刻」に書き置いた記事のままです。

 此処に突きつけられた、私に対し私名義で「公開せよ」と求められている(文字通りに読めば)娘・★★朝日子への「謝罪文」なる一文を、どうかご覧頂きた い。
 娘が、実の父親に対しこのような悪質・非人間的な文章が書かれた実例を、私どもは、一例としてかつて知らないのです。

 事のここに至る経緯をご理解下さい。今回此の「★★提訴」の拠って来た「反人間的」な性質に、どうか思い至って戴きたいと願い上げる次第です。


   ーーーーーーー***ーーーーーーーーー


  * 平成二十年(2008)八月十二日 火

  * 夜前、零時五十四分に発信されている一通のメールを、今朝、八時半近くに読んだ。

  * メールに、文責を示す署名がない。宛名もない。終始「私」名義で書かれているが、「私」が誰であるかは分からない。原文内に(冒頭にも末尾にも) 文責者・差出人の明記を欠いたこれは、いわば「怪文書」に属し、誰に誰が宛てたという「私信の体」をなしていない。機械上の設定であるメール発信者は、 h..oshimuraとある。「h..」の意味が分からず、少なくも私たちの娘のイニシアル・名でも、婿のイニシアル・名でもない。 「oshimura」も、何とでも読める。「忍邨」も「御志村」もあり得る。

  * 以下に「怪文書」を、そのまま記録する。怪文書と雖も「原文」は変害でき ず、挙げてある氏名はそのままにする。

          ーーーーーー***ーーーーーーー


 ★ 発信者:  h..oshimura     日時: 2008/08/12 0:54   
         宛先: hatak     件名: Re: D+F|;R$K!!Nd@E$K$b$&0lEY!!!!Ic
       
拒否されていることすら理解できないストーカーに対し、実際的な対応として着信拒否を設定した。今後いかなるメールも私には届かない。

私は最期の日々のやす香を忘れない。そしてやす香を貶めた秦恒平と迪子を終生許さない。支援の申し出など笑止千万。私の望みは、秦恒平が私の人生から消え 去ることのみである。

着信拒否を解除する唯一の方法は、以下の謝罪文を一語の修正もなく以下の2カ所に掲示することである。期限は2つのサイトが継続される限り永遠。文字を小 さくするなど姑息な手段を用いてはならない。


謝罪文

一、 私秦恒平は、故★★やす香の逝去に関連し、故人の尊厳と遺志を踏みにじる膨大な記述を行ったことを認め、衷心から謝罪いたします。故★★やす香は、その死 の瞬間まで信仰心と家族、友人への愛に満ち、明確な意志をもって自らの人生に向き合ったものと認めます。特に治療計画における故★★やす香自身の決断と行 動について、「19歳でできるはずのない」「錯誤」と侮蔑したことは私の犯した最大の罪であると認め、故人の御霊に深く額づいて謝罪いたします。

一、 私秦恒平は、故★★やす香の著述について、その趣旨を歪曲し、誤った目的のために悪用したことを認めます。また、故★★やす香が心を込めたメッセージを根 拠なく他者による「作文」と貶めたことを認めます。故★★やす香が親しき人々に遺した言葉に対する冒涜を私の犯した第二の罪と認め、亡き人の御霊に深く額 づいて謝罪します。


掲載場所

一、「文学と生活」更新履歴。常に最上段に置くこと。

一、「湖の日記」プロフィールページ。常に最上段に置くこと。


これは法的判断で行う訴訟での要求は全く異なる、私自身の要求であり、現世の法に守られない故人のための要求である。★★家に対する名誉毀損、プライバ シー侵害、著作権侵害等、現世の犯罪については、あくまでも裁判において容赦なく追及する。


追伸


   * 言っておく、「第二子(弟・秦建日子)誕生以降二十年」のながきにわたり、実父であるわたしから「性的虐待」「ハラスメント」を受け続けてきたと、 インターネット上での謝罪と賠償金を「民事調停」の場に求めている「第一子(姉・★★朝日子)」を、わたしは心底軽蔑し、永訣する。

  わたしの帰って行く「本来の家」にこの心腐った娘の影は微塵もささせない。わたしが高校生の頃から、いつの日か我が子にと、こころこめて名付けた「朝 日子」の名は返してもらう。せいぜいウソつき「木漏れ日」を名乗って生涯薄暗い虚偽の営為に生きるがいい。



希望とあらばいつでも返却する。「朝日子」なる文字列は、今や社会生活上やむを得ず使用する記号に過ぎない。私はとうの昔に「朝日子」であることをやめて いる。

表 現の自由を乱用し、無用な規制をふやすであろう文筆家の敵、秦恒平。社会から認められないことを「天才の証」と称し、間違いだらけの「筆者当て」に興じる 「小説読みのプロ」は、孫の死さえ食い物にし、ゴシップネタでもよいから人に思い出されることを待ち望んでいた。「法廷の外でも、あらゆる手を使って」よ うやくこぎ着けた取材は、しかし大いに裏目に出て、結果、太宰賞にドロを塗り、ペンクラブの名を汚し、息子の社会的立場を巻き添えにしつつ、後出しジャン ケンに負けた。かくのごとき人間と生物学的なつながりがあるというだけでも、虫ずが走るほど不愉快だ。「ペンクラブ理事が500箇所の名誉毀損」などとい う新たな記事が載る前に、潔く隠居することを心からお奨めする。もっとも、「潔い」ほど秦恒平と縁遠い言葉も少なかろう。「やめる、やめる」とは口先ばか りで何一つやめず、「死ぬ、死ぬ」と家族を脅しながら生き恥を曝しつづける秦恒平は、結局、誰よりも何よりも死を怖れ、目を背け、およそ「死と向き合う」 などという試練には耐えられない。だからこそ、それをなし遂げたやす香を愚弄する以外に、恐怖から逃げる方法がないのだろう。

私は金輪 際、秦家の人間ではない。★★高と行幸とが私の掛けがえのない家族であり、末期の床で私の手をしっかり握った★★襄、多くの知友が私の実の母と信じて疑 わなかった★★芳子、そして誇り高く逝った★★やす香の待つ★★の墓こそが、やがて私のついの棲み家となるのである。

たとえ地獄に堕ちようとも、私が秦恒平と同じ天を仰ぐことはない。

      ーーーーーー***ーーーーーーー

* (秦は=)重ねて云う、文初・文末に署名も文責表示もない極めて悪意の「怪文書」であり、文中の固有名詞も誰にでも詐称できる。文責者を名乗る何の表 記もない。(しかし以下の経緯から普通に読めば、秦恒平の娘・夕日子として書いたもののように見える。)

*  真っ先に感じる。一歩ゆずってこれを文中「★★やす香」(文書引用)の親が、親たちが、自分自身の実の親ないし舅姑に送ってきたメールかと読んでみた場 合、このメールの文面から、「人格」というものが全く感じ取れない。またやす香をあれほど病苦に苦しませ、手の施しようなくうら若く「死なせて」申し訳な かったという責任ある親のタダ一言も出ていない。「命の尊厳」というなら、何より先ずそれではないのか。
 さらに、この文面は、文体的にいろいろ の隙間を余して、筆者が「娘である」らしい、「娘一人であるらしい」とは、とても言えない。われわれ両親の承知している娘の育ちと人柄からはとても出てこ ない、親に向かって「早く死ね」と言い放つに等しい言辞が多すぎる。文面の痩せて乾いて硬直し、人格のまったく欠如した空疎に居丈高で冷血な所など、とて も東京都町田市の「主任児童委員」に任じたという私たちの娘ではあり得なく想われる。
 以下に、今回この件の発端となった、娘・「朝日子」(文書引用)自身の手になったと想われる「小説」習作の一部を読む人は、上のわたしの弁を肯う強い 「心証」をもたれるだろう。そしてそこに「問題」も隠れている。

* 上の「h..oshimura」メールの文面では、筆者のハートが干上がっている。撞着もたくさんある。子として人間としての最低限度の礼儀もなく、 「礼なきは聴(ゆる)さず」とした古人の教えは蹂躙されている。育てられた両親の名誉も人権も蹂躙している。
 あまねく「生命の尊厳を尊重」するような人は、信仰の人は、産みの親や妻の親に対し、こんな恥無き、ハートも無き、硬直した文章や言葉は用いない。

*  h..oshimura  の h.. とは、「husband =夫・主人」の意であるのだろうか。仮にもしそうとすれば、私たちの娘は、まともな通信手段をもう持っていないのではないか。そしてこのメールは、全文 が、「週刊新潮」誌上で卑怯に名乗った仮名「高橋洋」なる人物の「作文」ではないのだろうか。そう読んでみると「筋」が通る、推測を言うまでだが。

* Re: とあるように、上の怪文書は、私「hatak=秦 恒平」への「返信」になっている。

*  私・秦恒平は、これより前に、記録していたメールアドレスの宛先を「自分の娘・夕日子」であろうと思いこみ、八月十一日深夜一時四十一分に、久々にメー ルを発信した。(少なくも一昨年には、娘のメールアドレスとして使用されていた。しかし、現在も「娘が専用または共用、または譲渡」しているのかどうか、 確認のスベがなかった。)あとで触れる。

* 翌朝十二日十時四十二分に「短い返信」があった。だが、発信者が、前と同じくやはり「怪文 書」に類して不明であったけれど、「娘からであろうか」と期待し、「返信に感謝」した。そして再度その娘宛と信じた先に、「冷静にもう一度。父」と返信し た。それについても後に詳しく触れる。
 
* では、なぜわたしが、我が娘に、久々二年ぶりにメールを送ったか。その真意と心情を、送ったそのメールで、次ぎに示す。


 ☆  ----- Original Message -----
   to:Sent: Monday,August11,2008 1:41AM

 きみ(=★★夕日子)の小説『ざばぶるぐ』を読みました、夕日子。(=以下、秦の文章では法廷での、またサーバーとの仮の申し合わせにより、★★家のよ うにマスキング、または「夕日子」のように仮名にする。)
 
 夕日子と呼びかけるのを、いまは、寛大にみのがしてもらいたい。そして声の出るのをおさえて、黙って先へ読み進めてもらえないか。
 性急に激昂しないで、黙して、とにかく先へ読み進めて欲しい。
 
 このメールが無事届くようであれば、これは、夕日子と父とだけの交信になる。だれも干渉しない。あとで、夕日子にどんな判断をされても仕方がないと覚悟 の上で、夕日子に呼びかけ、以下、少し夕日子に向かい、話したい。
 
 今までになかった一つの「別」状況が出来ている、と、わたしは数日前に思い到った。その「別」状況に直面するのが、こうも遅くなってしまったのを、わた しは、心より悔いている。
 
 わたしたち両親は、夕日子の小説『ざばぶるぐ』を初めて読みました。そして「私語の刻」に日記を書いたが、その記事は、夕日子も気づいていることと思 う、「記事略」として八月八日の項から外へ、外してある。
 
 その「記事」をそのまま、此処へ置いてみるので、部分的に気に障る文言も含まれているだろうけれど、格別の思いで、とにかくも静かに読んでみてくれない か。
 
 そのうえで、わたしは夕日子に「提案」したいことがある。
 聞く聞かないは、強いられることでないから、先ずは「記事略」の「記事」を読んでくれればいい。
 そしてそのあとでの「提案」を、もう少しガマンして静かに思案してもらえると嬉しい。
 
 「日記」から外していた「記事」を以下に置きます。
 
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 * 八月八日 金
 
 * 娘 が、つまり姉娘がブログで小説を書いていると、弟息子・建日子から「ぜひ読んでやってよ」と言ってきたとき、わたしは最初ガセネタだと思い、道草を食うな と息子を窘めた。息子ははじめ、サイトのアドレスだけを言って寄越したので、息子の隠れ遊びのようなモノかと思ったのだ。
 「ちがう、姉貴が書いているんだから、読んでやって」と言い直してきたときは、文字通り「驚喜」した。だが、その不幸な顛末は、もう広く人にも知られて しまっている。
 しかし、「顛末」というほど、事は「済んで」いないとわたしは考えてきた。
 娘は、弟に対し、父に小説を書いていると報せたのを怒り、父が「e-magazine 湖(umi) = 秦恒平編輯」に保存したことを怒り、第四作目に当たるらしい『葛の葉』の出だしが、「気をつけないと緩んでいるよ」という父の助言に腹を立てた。のちに は、「高慢に批評する父親」といった物言いで、著作権侵害まで言い立ててきた。損害賠償せよと。なんたること。
 
 * わたしの記憶では、作品を最初に読んだ時点と、著作権侵害で訴えると言ってきたのとの間に、かなり時間差がある。父親が甘い点をつけ、作品保存・保 護の意味からも「e- magazine 湖(umi) 」に掲載していた時期がけっこう永くあり、その間、じつは娘からはなにも苦情は来ていなかった。すべては、やす香の『かくのごとき、死』直後の、★★夫妻 連名での「提訴の脅し」から始まっていた。記憶の間違いがなければそうである。
 
 * なぜ娘はあんなに時季後れで怒ってきたか。怒ったのは、ほんとうに娘だったのか。じつは夫の★★ではなかったのか。
  ★★は、娘が笑って漏らしていたように、外の世間では、聞かれもしないのに「作家秦恒平の娘の夫です」と口にする男であったという。事実は知らない。しか し、「作家・小説家」というわたしに対抗心か敵愾心をあらわに持ち、妻を前にしきりに「作家」をバカにしたがったということは、彼自作の『お付き合い読 本』を読めば、察しがつく。
 
  さ 作家とのお付き合い   作家とはすなわち、自己体験の特異さを専売にする人種。いくつかのタイプがあるが、中でもタチの悪いのは、自分の苦労を絶対だと信じ、自己を客観的に眺 める習性を持たない奴。それと、やたら「夫婦はかくあるべきだ」とか「人生はこう生きるべきだ」とまくしたて、常識とかけ離れたところで妄想にふける奴。 もっとも、小説とは「ウソ」であるからして、小説家にリアリティーのある認識なんぞ求めるほうが筋違いだという説もある。お付き合いもほどほどに。
 
 わたしはこの言説に「苦笑した」と、小説の中でとりあげている。他のくだらない項目より、これは或る意味謂えている一面も無くはない。
  それにしても、彼は、すでに「作家」であり、娘を妻にもらうに際して「光栄です」というウソくさいアイサツで頭をさげたようなその作家に、相当な対抗心・ 嫉妬心を持っていたのは分かる。彼が筑波で技官に成ったか成らない時期に、舅は思いがけず東工大教授として招聘されている。どうせ「ぱんきょう(一般教 育) でしょう」と言われたときは、正直、彼が可哀想になり、代われるなら娘のためにも代わってやりたかった。
 ともあれ私の前では光栄がっても、妻になった娘には、「作家」秦恒平なんかボロカスであったろうことは分かる。ありそうな、なにもとくべつのことではな い。
 
  しかしながら、その妻までが、自分に隠して「作家の真似事」をしていたと知ってみると、怒りは、まず夫から爆発したのではないか。「著作権侵害」とか「提 訴」とかいう「法」がらみは、★★★の昔からの得意技で、わたし自身、東工大時代に彼からそう「警告」されたことがあった。彼から送りつけた親を罵詈雑言 の手紙類を、もし秦が秦の書き物に利用したなら「訴える」という手紙が大学の教授室へ届いていた。そういうヘキの人物なのである。じつのところ自分の妻が 「作家」秦恒平の「娘」である事実が、夫の★★には時が経つにつれ、忌々しくて仕方なかったのではないか。
 
 * 「秦氏は、私が義父に 向かって罵詈雑言を書いたという手紙の内容も公表していますが、あれは手紙の一部。前後があるのですが、そこは公表していません。裁判では全文が明らかに されるでしょうが、確かに私は手紙を書きました。おかげで秦家と断絶でき、それから以後、私の妻である秦氏の娘は平和で安穏な10数年間を送ることができ たのです。私の妻が、実家と断絶したあとも、自分の父親を罵倒した私との結婚生活を長年つづけてきたのが、その証拠です。」と、★★★教授は、昂然と週刊 誌記者氏にこの通り語っているが、彼の虚勢と虚偽は、明らかに否定されている。
 「平和で安穏な10数年}どころか、以下のやす香大親友の「証言」は、はるかに真率に、★★の自己満足がウソで虚勢であることを告げている。

 
   ☆ やす香が「病気になる前」までは、やす香ママとパパの関係は崩壊していました。やす香はたまに呟く様に、家族四人で撮ったプリクラを見せて、「家族 四人で撮るのは、これが最後だと思う」と言っていました。やす香が病気になって、今は違うかもしれませんが、やす香ママは一人でした。
 おじい様おばあ様がやす香の病室にお見舞いにいらしたと知った時、これでやす香ママに帰る所が出来た、と、私は勝手に嬉しく思いました。
 嬉しいという表現は変かもしれませんが。。。
 以前、やす香の守るべき宝物は妹・行幸ちゃん(未成年を慮り、自発的に仮名を用いる)だと書いたことがあると思います。
 病気になる前まで、ご両親の離別は決定的で、夜になると行幸ちゃんがよく泣いていたと聞きました。
 やす香は必死に行幸ちゃんを守ろうと、慰めていました。
 私の考えですが、やす香ママはその事を含め、自分自身をとても責めていらっしゃると思います。
 私から見て、やす香ママもやす香も、とても不器用で、本当は心の底から愛し合っているのに、お互い伝え合うのが下手なようでした。
 やす香は他の人にはとても優しくて、人の心にすっと入っていく人でした。
 でも、ママにだけは出来なかったのです。
 本当は大好きだったのに。ママの事が好きだと、何回も言っていたのに。
 ママにだけは伝えられなかったのです。
 やす香ママは今自分と戦っているのだと思います。
 そして自分の存在の根源である、おじい様おばあ様と戦っているのだと思います。
 多分修復出来るであったろう、やす香とのこの先の時間。。。
 いきなり(病魔に 秦注)奪われたその時間。。。
 やす香ママは、おじい様おばあ様の事を心の底で愛しているのだと思います。
 そしてその愛が、お二人の存在が、大きいからこそ戦っているのだと思います。
 やす香ママは、自分がずたずたに傷つくのを承知の上で、あえてずたずたになろうとして、おじい様おばあ様を選んでいるような気がします。
 

  * 十数年前、「大過去」とわたしの呼んでいる「罵詈雑言事件」で、わたしは娘の手を放し、すでに孫二人いる★★家へ委ねた。離婚は望まなかった。その時 の騒動ぶりはフィクションながら『聖家族』が表現し得ていた。だれの想像からも、夫の★★は妻の夕日子に、最初のうちこそ知らず、かなり八つ当たりに当た り散らしたとみても可笑しくない。★★の親族間でも、「秦の娘」に親切や同情は寄りにくかったろう。娘は孤立しているだろうな、だが女の子二人は「母の 娘」として「心支え」になっていてくれるだろうと想っていた。幸いにもし父親が娘たちを愛していれば、妻への当たりようも和らいでくれるだろうと想ってそ う願っていた。
 
 * 小説を書いているのを父親に報せたと、娘が息子に怒ったとき、怒りは、じつは「他の心配」に向いていたのではない か。自分が小説を書き出したなどと夫が知ってしまったら、またまた辛いややこしいことになるのがイヤだったのではないか。父親には、黙ってそっと読んで欲 しかったのだろう。ところが愚かな父親は感激し驚喜した。娘は、夫の手前「当惑した」というのが、真実ではなかったろうか。
 幸か不幸かしかし★★は、舅のホームページ日記など読む男ではなかっただろう。だから、事実は何も知られないままかなりの月日を経過した。娘は緘黙して いた。そして自作「葛の葉」をまた書き始めた、それが一昨年(2006)の二月一日だった。
  ところが四十年近いプロ作家、百冊余の著書を持った父から、「文章がゆるみ始めている、気をつけなさい」と注意され、むくれたか、直ちに作品を捨てた。弟 に怒ってきたのもそのときだったろう。あげく娘の小説創作に関しては、娘・息子・父の三者がバラバラに、互いにそっぽを向いた。たぶん、★★★はまだ何も 気づいていなかった。
 
 * その間にやす香の病勢はどんどん悪化し、ところが不幸にもやす香の母親は、始めたばかりの自身の「がくえん こらぼ」サイトに熱中し、娘から全く目が離れていた、なんと入院そして「白血病」の告知日まで。そのことは、法廷に提出されている「入院前受診記録」が、 悲しくも雄弁にもの語っている。そして、やす香は、不幸にも『かくのごとき、死』を死んだ。
 
 * それにしても、自分の妻が、こともあ ろうに「秦夕日子」という名乗りで、「小説」を書いて舅のホームページに掲載されていた事実を知った、夫★★教授は、妻がパソコンの「対局碁」という「趣 味」に没頭するのを嫌った以上に、嫉妬心や、作家・秦恒平への敵愾心に火をつけられ、激昂したのではなかろうかと、推量する。
 娘は、はやくに弟 に話していた、自分の書いたモノを分かって呉れるのは、「あの人=父」ぐらいねと。もし、こんな科白が夫に知れていたら、やはりタダは済むまい。舅を罵倒 した結果が妻に「安寧」を与えたと、もし本気で考えていたのなら、その妻が父に褒められ喜ばれる小説を書いているなど、屈辱としか思えなかったことだろ う。
 
 * やす香の親友の、上の証言は、とても大きかった。わたしたちは、十分推測はしていたが「ああ、やっぱり」と思った。夫婦「十数年の平和と安穏」が保 証されていたなどという★★の妄言は、粉微塵の虚言であった。
 だが、私たちは、なおもう一つ「先」が知りたかった、その「先」へ、わたしたちは進みたかった。
 その「先」を、わたしたちは偶然見付けたのである。
 
 * 娘は、一昨年(2006)二月に書き始めてすぐ、筆が緩んでいると父に注意された『葛の葉』という作を、すぐ、捨ててしまった。あああとわたしは慨 嘆し、二度ともう娘のそのブログを覗きに行かなかったのである。
 ところが娘は、「葛の葉」断念のほぼ一ヶ月後、平成十八年(2006)三月一日から、「新作」を連載しだしていた。わたしは、息子も、妻も、まったく気 づいてなかった。わたしがその存在を偶然発見したのは、今も今、たった「数日前(2008)」のことだった。
  インターネット検索でふと思い出し、ある「碁の術語」をうちこんでみた。無数に出てきて、お話しにならなかったが、渋々サーフィンしているうち、よほど深 間のなかで、ふと、記憶にある語彙一つを見付けた。おや、と開いてみると、まさしく、わが娘のらしきブログサイトであった。まるで知らぬ筆名らしき物も出 ていたが、かつて読んだ三つの作品がそっくり残っていたばかりか、一昨年の三月一日から書き出されている「新作」が、其処に、ウソかのように見つかった。 我が目を疑った。
 
 * 娘のつける題は、いつも変わっている、『ざばぶるぐ』。なにごとか?
 平成十八年(2006)三月一日 から四月半ばまで、ほぼ毎日続き、そして六月一日に飛んで、ぷつんと終わっている。これで終わっているとも、中絶とも読める。娘はまた怒るか知れないが、 このままでは支離滅裂にもちかいが、自然そう見えてしまう「シュールな幻想的な作柄」でもある。
 ところがそのなかに、ギョッとするリアルな「現実」場面が、ねじ込むように中程に混入している。と謂うより、そういうリアルな場面から作品はまさしく 「書き始め」てある。作の「動機」が見える。量としては全体の一割程度。しかし、表現は凄まじい。
 醜く荒れていやみな暴君夫から、「専業主婦のくせに」「稼いでみろ」と生活費を投げ与えられ罵声を浴び、しかも黙々と頭を下げている妻、そして幻想世界 へ涙を押し隠して出かけてゆく「梢」忍従の様子が、まざまざと書き出されている。
 
 * わたしの妻によるさらなるサイトの探索では、この同じ作品が、同文で、はるか溯る平成十二年(2000)三月のカレンダーでも、前の十五回分ほどが 引き出せたという。しかし十八年 (2006)三月一日からは、一応最後まで引き出せる。
 もし本当に書きだしたのが、西暦2000年(平成十二年)というのが正しいなら、その記述や表現から看て、「夫婦不和の激しさ」はその頃に既に作者であ る娘を手荒く突き動かしていたと、十分推察される。作の動機はそこにあったと読める。
 もとより幻想をはらんだ小説で、そういうリアルな推測は普通は邪道である、が、その下地には、夫婦の家庭が崩壊状態にあり、離婚必至の死に体であったと いう、娘・やす香や行幸(仮名化)姉妹を介した、先の親友証言と、もののみごとに符合し裏付けられている。
 
 * そして今しも、とてもとても気になるのは、娘は、
 父が、サイトの他の小説を読んだと「当時十分知っていた」こと、
  そして、「葛の葉」は抹消したが、また重ねて「読まれてしまうと覚悟」ないし「むしろ期待」して、この、「梢」と名乗るヒロインの物語を連載していたので あるならば、それこそは、娘から我々両親や弟への「自分の結婚生活は破滅している」というメッセージではなかったのか、ということ。
 もしそうとすると、わたしたちは、まんまと二年ないし二年半、その「メッセージ」を知らないで、聞かないで、何の手も打たずに過ごしてきたことになる。
 
 * 一昨年の六月一日は、まだやす香の診療が、全く門口にも達しないで、六月十日には、なんと地元の「精神科」で「鬱病」だと診断され「投薬」されてい るというバカらしさ。
 入院は六月十九日で、やっと北里大学病院が容易ならぬ病状と判断し、即日、入院に到っている。過酷な症状は遅くも三月にはやす香を苛んでいたというの に。「mixi」のマイミクや友人達は声をからしてやす香の「shi」をすでに懼れていたというのに。
 母親は、娘・やす香の北里大学病院からの通知電話で事態を初めて知らされた。そしてむしろこと結着を安堵したとでもいうことを、「がくえんこらぼ」の同 年七月一日日記に、「初めて、やす香の病気に触れて」書いていることは、もう繰り返し言及してきた。
 娘は、二月から六月まで、やす香の病状に気づいたり憂慮したりする余裕すらなく、一方では「がくえんこらぼ」に孤独な活動を書きまくっていて、もう一方 では、夫婦不和の淋しい泣きの涙もふりこぼれる、不思議にシュールな小説『ざばぶるぐ』を書き継いでいた。
 せめて、その時期にわたしがこれを読めていたならと、悔しいのである。
 
 * 小説は、ひょっとして二◯◯◯年二月一日に書き出されたか、やはり二◯◯六年三月一日に書き出されたのか定かでないが、適量の引用範囲内で、「最初 の出だし」だけを引いてみる。しっかり書き初めている。
 
   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
   『ざばぶるぐ』 梢 一と二
 
 
 ノックしても返事がないのはわかっていたが、それでも女はこつこつと戸を叩き、一呼吸おいて、書斎のノブを回した。男は何も気づかぬふうに、コンピュー ターに向かっている。そのモニターには、お仕着せの初期画面が輝いている。
 
 出かけてきます。
 
 既にコートを着ている女をちらりと見ただけで、男は再びモニターに向かう。そう、何も開いていない初期画面に。
 
 どこに行く。
 
 図書館へ。
 
 男の視線がまたすっと走る。飾りなく束ねた髪、紅さえ引かぬいつもどおりの姿を確かめると、かすかにふんとわらった。
 
 ろくな教育も受けていないくせに、学問の真似事か。
 
 女は身じろぎもしない。
 
 何時に帰る。
 
 申しわけありませんが、きょうは閉館までいたいと思います。
 
 昼飯は。
 
 用意しておきました。
 
 専業主婦のくせに……。
 
 行ってまいります。
 
 男の言葉を遮るように、女は深々と頭を下げた。
 
  春の日射しは、まぶしかった。肺腑の底から空気を絞り出し、梢は歩き始める。ワンブロックも行くと、丈の長いコートは、すでに暑い。だが、仕方ない。夫が モニターの何かを隠すように、わたしもまた、隠さなければならないのだから。久しぶりに履く細いヒールが、突き上げるように梢の背筋を伸ばす。もうどれぐ らい、こんなふうに歩かずにいただろう。
 
 柳の青く霞むお堀端を過ぎると、駅が見え、人通りが増える。梢はすうっと息を吐き、萌えいず る昂揚を鎮めて、気配を抑えた。できればだれにも会いたくない。特に、図書館とは反対の、州境を越える列車に乗るところを、だれかに見られたくなかった。 太い鉄骨の陰に息をひそめて、ローカル列車を待つ。そして3つ目の駅で特急に乗り換えるまで、梢は緊張を解かなかった。
 
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
 * 作品のもっと中程にあらわれる夫婦の場面は、もっと生々しい。或る意味で醜く烈しい。
 「小説だ」とも謂ってしまえる。確かに小説にちがいない。しかし多年「小説家」であるわたしには、小説であるというその「意味」は、幾重にもいろいろに 分かっている。小説を利して書くことも、小説に隠れて書くこともある。フィクションの意味である。
 しかし娘は明らかに「此の場面」から書き出している。此処に「動機」がある。この「梢」という妻の、いわば夫からの逃避行はあわれに美しくすらある。
 
 * わたしは迷っている。このままホームページ「私語」を更新すれば娘は「読む」だろう。夫は自分で読まなくても、周囲から聞く耳はもっているだろう。
 娘を、ないし孫娘も含めて、より家庭的に窮地に追い込むことになるのか。
 それとも、そんなことはお笑いぐさで、今では夫婦は一枚岩で裁判劇上演に団結し懸命であるだけなのか。
 今日只今にも、もし娘がひそかに小説を書いていたら、むろん読みたいが、娘はそんなことは念頭にもなく、ただ裁判に勝つのが日々の目的だと、★★は知ら ず、娘自身も本気で言うのか、それとも言わないのか。分からない。通信するならメールしかあり得ない。それは確かだ。

 * 娘の「若さ」や「才能」のための時間がムダに費消されてゆくのは、惜しい。

 * 『かくのごとき、死』をはさむ「二年半」の思わぬ「逸機」が、 わたしの判断を惑わせる。
 
   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
 さて、夕日子。
 
 「提案」は、むずかしいことではない。
 
 できれば、この不幸な「二十年間」を双方でさらり忘れた「顔」をして、一度、会ってみないか。静かに美味い飯を食わないか。建日子(=弟・小説家・劇作 家)が一緒でもいいし、ママと三人でも、わたしと二人でもいい。もう一人の孫が一緒でもいい。
 
 夕日子。きみはまだ若い。やり直せる。恋も出来るし再婚も出来る。仕事も見付けられる。なによりも行幸の将来のためにきみの精神生活や経済生活を安定さ せたい。母と娘とが安息できる住まいも必要だ。
 なんとかできないものか。
  今のままだと夕日子は、どう苦しくなっても身動きがとれないのではないか。夕日子の気持ちしだいだが、その辺のことをもう一度親子として適切に話し合える なら、話し合う時機が来ていると痛感しています。しかし、いらいらと急ぐことはない、独りでよくよく考え、返辞を下さい。
 
 あの十数年も昔のきみの夫・★★★「暴発」後のことを、わたしは何度も思い出す。
 
  わたしは、願わくは、きみが我々とどうあらけなく仲違いしようとも、夫婦仲が緊密で愛情深くあってくれるなら、それが一番いいと思っていた。だが、それは 所詮ムリな望みではあるまいかとも、永い間深く案じていた。しかし二人の子がすでにあり、二度の外遊生活があり、希望をもちたかった、仲良くあれと。
 
 しかしやす香と行幸とは、自発的に祖父母との親交を求めて来たよ。しかも親には秘し通した。われわれも、夕日子たちの日常生活が、心配にはなっていた。
 
 ちょうどその頃だ、『ざばぶるぐ』は書かれていた。ひょっとすると、なお六年も以前に既に書き始められていたのかも知れぬと見えるが。
 「梢」夫婦の描写には容赦ないものがあり、一方に、まったく同じ、夕日子たちの不和と険悪とが、やす香・行幸経由で「外の世間」へも漏れていたと分かっ てきた。
 
  一昨年三月四月の時点で、もしわたしたちに『ざばぶるぐ』が読めていたなら、或いは夕日子とわたしたちとの間に、何らか連携があり得たかも知れず、そうす れば、日々にやす香の「mixi」日記を読んでいたわたしは、きみと連絡し協力して、やす香の診療に、より適切な手が打てていたかもしれなかった。
  『ざばぶるぐ』がはたして私たちへ、きみからのメッセージであったかどうかは確言しないまでも、あの不幸に抛れた、二月初めの『葛の葉』までは、わたしに も夕日子作品はみな読めていたのだから、もう少しガマンよくあのブログに注目さえしていたなら、三月一日からの『ざばぶるぐ』も読めていたのだった。悔い ても悔いきれない。
 
 これ以上、今日、ながながしく書くのはよそう。もし、よければ、喧嘩腰でもなく激昂するでもない落ち着いた返辞をくれないか。せく気はないが、よく考え てみて欲しい。
 いまこそみんなが、聡明にもの思うときではなかろうか。   08.08.10   父

   ーーーーーーー**ーーーーーーーー

* 付け加える何も無い。

*  いや、少し付け加えておこう、作品『ざばぶるぐ』が「★★夕日子」の作であるという確証も、ブログには表示されていない。「杜野」某という筆者らしき筆 名があげてあるが、「外」側の者から見て★★夕日子と同人という確認は出来ない。但し、同じブログに掲載されている過去の三作は一昨年にわたしも読んでい て、娘は自作と認めている。『ざばぶるぐ』も、内容から観て同じ作者と優に推知できるのである。

* 返辞はないかも知れない。あれば、「むちゃくちゃ」を云ってくるかも知れない。しかし、ゆっくり考えて返辞をくれるかも知れない。そんなことを想って いた。

* 返辞は、翌朝来た。
 娘の名乗りはどこにもない。誰が書いているか判じも付かない。
 発信元の名乗りは「h..oshimura」とあり、怪文書なみに、この頭字には全然心当たりがない。

 返辞メール

 ★ 創作と現実の区別のつかない方と、交信する気はありません。
   私を愚弄し、行幸(原文ではあるが未成年を考慮し仮名にする。)を苦しめることに
   夫婦揃って人生を使い果たしたいなら、勝手にしてください。


* むちゃくちゃに激昂した罵詈の言葉ではないと感じ、可能なら、対話を続けたいと、「冷静に、もう一度。父」という二度目のメールを送った。

* その際、案じたのは、このメールアドレスは、もはや、わが娘でない誰か、夫・★★★にでも使われているか。さもなくても、娘がすべて夫に打ち明け、わ たしの提案を読ませるかも、という危惧だった。
 あり得るとも、まさかとも想ったが、一つの思いには、それで娘の態度なり姿勢なりが見えて来るということも有った。


 ☆ 夕日子に。冷静に、もう一度。  父 

 h..oshimura という署名の「h」の意味は分かりませんが、夕日子自身の返辞と思い、感謝しつつ短い反問を呈します。冷静に読んで下さい。
 
  > 創作と現実の区別のつかない方と、交信する気はありません。
 
 これは、小説読みのプロとして、幾多の仕事で実績を持っている私には、根拠のない八つ当たりに思えますが。
 
  < 幻想をはらんだ小説で、そういうリアルな推測は普通は邪道であるが、その下地には、夫婦の家庭が崩壊状態にあり、離婚必至の死に体であったとい う、娘・やす香や行幸姉妹を介した先の親友証言と、もののみごとに符合し裏付けられている。
 
  < 「小説だ」とも謂ってしまえる。確かに小説にちがいない。しかし多年「小説家」であるわたしには、小説であるというその「意味」は、幾重にもいろ いろに分かっている。小説を利して書くことも、小説に隠れて書くこともある。フィクションの意味である。
 娘は明らかに此処から書き出している。此処に動機がある。この「梢」という妻の、いわば夫からの逃避行はあわれに美しくすらある。
 
と(父は前便に)書いています。「区別」の問題でなく、意識や動機が小説(フィクション) にどう現れてくるかを、「とらえる」ということでしょう、鑑賞(原文では干渉と誤記したかも知れない。)も批評も理解も解釈も。その「とらえかた」は間違 いだというのなら「反証」すれば一応話は分かるけれど。
 
  > 私を愚弄し、
 
  これまた、丁寧に自分のメールを読み返したけれど、意味が分からない。もし強いて謂えば「いまごろになって、遅すぎる」という咎めなら、悔いて悔しいと書 いているように当たっているが、「愚弄」という、辞書によれば「人をあなどりからかうこと」という気持ちは微塵も持っていないし表現してもいない。父の 「提案」はしごく真面目です。
 
  > 行幸を苦しめることに  (原文だが、仮名化しておく。)
 
 これまたわたしたちがどうして行幸(仮名)を苦しめるわけがあろう、法廷にも、行幸を大人の醜い争いのせめて埒外に置いて欲しいと繰り返し懇請して来続 けたし、どんなに案じてその平安を願っていることか。
 行幸は、かつてのやす香と同じく、着実に成人してゆくに違いなく、かならず自立した判断や思想の持ち主に成長してゆくので、或る意味では心配していない のです。
  一つには、わが家へ訪れていた頃の嬉々として朗らかな行幸を実際に観ています。やす香とともに、保谷へ来ていることも、行幸は、確実にきみにすら秘して話 さなかった。話してはいけないと姉妹は分かり合い、しかし、最後に訪れた一昨年二月二十五日には、「もう一年のうちには、問題が無くなる」とも頷き合うよ うに話していた。不安におそれながらも「親たちの離婚があるかも知れない」と姉妹は感触していたのでしょうか。
 わたしとやす香が「mixi」の「マイミク」であるのもその時から行幸は知っています。
 少しキツク云えば、姉に慰められながら夜ごと泣くほど行幸を苦しめていたのは、両親の「夫婦生活崩壊」ではなかったのですか。行幸が、「強い」碁の楽し みをやめてしまったのも。
 わたしが、サイトに書いてきたことなどにしても、行幸が、自立心のある大人になったときは、冷静に的確に判断するでしょう、賢い子です。
 それにしても今の高校二年生という過程は、とても大切。わたしたちが、誰よりもいま心配しているのは行幸の近未来です。苦しめるどころか、なんとか力に なりたい気持ちです。手出しは一切していませんけれど。
                
  > 夫婦揃って人生を使い果たしたいなら、勝手にしてください。
 
 わたしたち両親の人生が、どんな日々かは、わたしのHR日記の日常の愛読者であるらしい、きみ、夕日子には、よく見えているはずです。
  裁判劇などで人生を使い果たす無意味さをよくよく知りつつ、夫婦協力して、かなり楽しい満たされた老境を歩んでいます。友も知己も多く、その人たちが期待 しているのは、一つにはわたしたちの健康と、たゆみない作家生活、そしてきみ夕日子と行幸との、颯爽と健康な「今後」の発展です。
 
 わたしたちは、云わないよ、夕日子に向かって。
 「不味い道草を喰いながら、せっかくの人生を使い果たしたいなら、勝手にしてください」などという放言は、決してしない。
 残された多くの時間と努力とで、きみ、夕日子の秘めた才能にみがきをかけて欲しいと、父も母も素直にねがっているだけです。
 
 今朝の「私語」にこう書いた。今分はやはり「記事略」にしますけれども。
 
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  * 八月十一日 月

  * 見付けた娘の小説『ざばぶるぐ』の中程で、「梢」は、こういう場面に遭遇していた。断っておくがこういう「リアル空気」の場面は、夢から覚めた瞬間か のように、いわばこの方がシュールな物語の「外」側にある。梢は「外」に堪えかね、幻想的で「内」側なる異世界へ、例えば「先生」を尋ねてゆくのであるら しい、いや作品世界は、いま一段微妙に屈折している。

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 ☆ ざばぶるぐ  より一部引用  

 梢の新しい趣味(=秦注・ 娘に独特の、幻想をはらんだ囲碁ふうパソコン対局)を、夫は喜ばなかった。

  いや、そんなことは初めからわかっている。息子が幼稚園に入って、梢が母親たちの手芸サークルに加わろうとしたときも、小学校に上がって、保護者の勉強会 に出ようとしたときも、夫は喜ばなかった。お茶の会一つに出かけようとしても、身繕いの気配に気づくと、何やかと用を言いつける。応じているうちに出かけ る時を失った。言いつけを断ろうものなら、「専業主婦のくせに」「だれのおかげで食べていけると思っているのだ」と、お決まりのせりふが降り注いだ。そし て次の週、生活費はもらえなかった。書斎の入り口で頭を下げ、「おまえのような育ちの者が、分不相応を望むからだ」と嗤われながら、梢は金を受け取らねば ならぬ。その額は、夫の気分次第で、いくらでも下がったが、黙って頭を下げて、退出するしかない。

 昔はこんな人ではなかった、と、梢は思う。

  夫は大学院生で、梢は学部の事務員だった。祝福され、からかわれながら、2人は連れだって大学に通った。だがしばらくすると、夫は仕事を辞めてほしいと言 い出した。院生が事務員に養われていたのでは面子が立たない。その言葉を、梢はほほえんで受け入れた。自宅近くの小さな事務所に経理の口を見つけ、母校で もあった大学を、梢は去った。

 やがて助教授職を得た夫は、経理の仕事も辞めたらどうだと言った。仮にも州立大学の助教授なのだから、身重の妻に「そんなところで」働いてもらわなくて いいというのである。悪阻に苦しんでいた梢は、むしろ感謝して、その言葉に従った。

 事の始まりは、ささやかなプライドの衣を着た控えめな愛情だったと、梢は今でも思っている。思わなければたまらない。少なくとも大学にいる間、夫の給料 は「夫婦の」口座に振り込まれていたし、その口座の管理は梢自身がしていたのである。

  だが、ある時、あれは息子がようやく歩くようになったころだったろうか、生活費の口座はからになっていた。そして夫は、もう大学に勤めていなかった。問い 質すと、なにがしという研究所に「引き抜かれた」のだという。それがどんな研究所か、梢は知らなかった。さらに問うと、おまえには関係ないと言われた。

 子どもも小さいのに、生活は大丈夫?

 激昂する夫を、梢はあの時、初めて見た。

 金ならある、悔しかったら稼いでみろ。

 札束を投げつけて、夫は怒鳴った。

 何が起こったのか、わからなかった。尋ねる気力は、失せていた。

  職を変わってから、夫の生活は不規則になった。「仕事」はほとんど、家で行われた。たまに朝、出かけたので、きょうはと思って遠出をすると、先に戻ってい て、昼飯がなかったと烈火のごとく怒った。そうかと思えば、ふいと出かけたなり何日も戻らなかった。梢には、生活の組み立てようがなかった。いつも家にい て、「おい」と呼ばれたら、返事をしなければならなかった。

 とはいっても、経済的には、むしろゆとりができたようだった。夫はいつも施 しのような態度で梢に金を渡したが、その額は少なくなかった。梢は小さなコンピューターを買うことができたし、それを使って、居ながらに学びを得ることが できた。買い物もほとんど注文で済ませて、割高であることは苦にならなかった。やがてこっそりと在宅の仕事を見つけて、ささやかな小遣いも稼ぐようになっ た。

 だが、そうした抜け道に夫は遅からず気づき、梢がコンピューターに向かうと、たちまちに用事がふえた。それはほんの、「お茶」ということもあれば、何が 入っているのかわからない封筒を、何をしているかわからない事務所に届けるようなこともあった。

 メールじゃいけないんですか。

  そうつぶやいて逆鱗に触れて以来、梢は逆らうことをやめてしまう。むしろ、家から出られることを喜ぼう。ポケットに小さな本を忍ばせて、梢は電車に乗っ た。時間は計られ、帰宅が遅れれば叱られるのはわかっていたが、車中で本を読むことぐらいはできたからである。だが、いつも長時間、電車に乗れるわけでは なかった。歩くしかないようなところもあった。それでも散歩だと思って、梢は空を仰いで歩いた。

 何を泣く、こんなによい天気なのに。

 そうつぶやきながら、歩いた。

 白い紗におおわれた窓からやわらかな光が広がって、じっとしていると、繭玉の中で夢を見ているような心持ちになる。女はその心やさしさを振り切るよう に、庭へのガラス扉を開く。そこには丸い芝生がある。杜の中にただここだけ、広々と開けている、青い空。

 光の柱のまんなかに、丸太のふたり乗りブランコがある。子どものころは友だちも、よくここまで遊びにきたものだ。ブランコは庭師がつくってくれた。木馬 も、滑り台もあった。芝生はさながら、小さな遊園地だった。だが、いつからか、ここにはだれも来なくなった。

 わたしが外へ出ていくようになったから。

 だれもいないはずの芝生のまんなかに、たった一つ残ったブランコが揺れている。

 先生!

 空を仰いでいた男は、ゆっくりと振り返り、穏やかな笑いを含んで言った。

 やあ、どんぐりさん、こんにちは。
 
      ーーーーー***ーーーーー


* 小説は小説である。これを性急に現実の作者家庭の夫婦関係に直結するのは、読む姿勢として是認できない。が、その上でいろいろに読むのは読者の権利に 属している。小説はそのように読まれるし、「読み方」という規則は無いのである。
 この小説はシュールな場面からいきなり書き出されてはいなかった。
 図書館に行きたいという妻と、書斎でパソコン画面を隠しながらいやみを言い募る夫との、極めて冷ややかな場面に始まっていた。
 そして女は家を出て、図書館ならぬどうやら秘密の電車旅へ、涙を堪え身を隠すようにし、駅へ、電車へ急ぐ。
 動機=モチーフは露出している。「夫」は冷え切った「他人」であった。家の中が、梢には「外」世間だった。戸外が先へ先へ延びるにつれて梢の「内(身 内)」世界へ近づいてゆく。なんだか生まれ育った場所へも近づいてゆく。
 「先生!」
 「どんぐりさん」 という呼び方と呼ばれ方。まるで漱石の『こころ』のよう。

* こう引用してみて分かる。文章にはほとんど揺れも乱れもない。一にも二にも「推敲」と、父は娘におしえた。才能は推敲の力に現れるよと。
 娘は漱石が好きだった。『夢十夜』が好きだった。『ざばぶるぐ』は、堀辰雄の空気と『夢十夜』の世界に添い寄っているとすら読める、ただし未完成。

* 娘が囲碁に趣味深いとは、娘の囲碁友達!? という未知の人のメールで教えられた。平成十五年(2003)八月はじめだった。五年前だ。
  「娘さんは元気にしておられるのでご安心下さい」というメールで、しかもその頃仲間内相手に何かしら「書いている」という話だった。書くなら「本気で書い て」欲しい、風船玉の空気抜きのような真似はよくないと伝え、書いたものを是非読んでみたいと言ったが、本人がいやがるからと教えて貰えなかった。わたし は落胆した。そして忘れた。
 もし十二年に娘の『ざばぶるぐ』が書き始められていたのなら、この奈良県に住むという囲碁仲間氏の云っていたのは、後の三作でなく、此の作品『ざばぶる ぐ』だったことになる。この時点でこの作を教えてくれ読めていたら、事態はよほど変わっていたかもしれない。

* やす香は碁に手を出さなかったが、妹の行幸は小学生の頃すでに碁を打った。メンバーに選ばれ中国まで対局に遠征したこともある。しかし、やめてしまっ たらしい。
 母親の碁は、なぜ娘はやめたのかというかすかな疑問から、遅れて手をそめて行ったのかも知れない、その消息も『ざばぶるぐ』は何と無く書き示している。
 ちなみに中学生の行幸は、わが家に訪れ、祖父の挑戦を退けて勝っている。
 母親のはじめた囲碁趣味が気に入らない父親の「影響」で、幼かった行幸はなにとなく「罪悪感」をもち、碁から離れたのだろうか。
 
    ーーーーーーーー***ーーーーーーーー
 

 夕日子。静かな心で、落ち着いて、せっかちなリクツへ逃げ込まないで、もう一度、読み直してみてくれないか。 
 この際、わたしないし両親に落ち着いて尋ねたい不審があるなら、聞いてくれてもいいです。  父
 
        ーーーーーーーーー***ーーーーーーーーーー


* そして今朝の「怪文書」「Re:」メールが届いた。

* わたしも、もう一度読もう。一度目のほんの「数行の返信」には、まだ「肉声の湿り」があった。これは乾燥しきっている。何かに強いられ捨て鉢に書いた のかも知れない。
 二度目の怪文書、重ねて、そのまま記録する。怪文書とはいえ、これを私たちの娘が果たして言うか、と、気になる物言いを太字にしてみたいが、ほとんど全部になる。


      ーーーーーー***ーーーーーーー

    ★ 発信者:  h..oshimura     日時: 2008/08/12 0:54   
         宛先: hatak     件名: Re: D+F|;R$K!!Nd@E$K$b$&0lEY!!!!Ic
       

拒否されていることすら理解できないストーカーに対し、実際的な対応として着信拒否を設定した。今後いかなるメールも私には届かない。

私は最期の日々のやす香を忘れない。そしてやす香を貶めた秦恒平と迪子を終生許さな い。支援の申し出など笑止千万。私の望みは、秦恒平が私の人生から消 え去ることのみである。

着信拒否を解除する唯一の方法は、以下の謝罪文を一語の修正もなく以下の2カ所に掲示することである。期限は2つのサイトが継続される限り永遠。文字を小 さくするなど姑息な手段を用いてはならない。


謝罪文

一、私秦恒平は、故★★やす香の逝去に関連し、故人の尊厳と遺志を踏みにじる膨大な 記述を行ったことを認め、衷心から謝罪いたします。故★★やす香は、 その死の瞬間まで信仰心と家族、友人への愛に満ち、明確な意志をもって自らの人生に向き合ったものと認めます。特に治療計画における故★★やす香自身の決断と行動について、「19歳でできるはず のない」「錯誤」と侮蔑したことは私の犯した最大の罪であると認め、故人の御霊に深く額づいて謝罪いたします。

一、私秦恒平は、故★★やす香の著述について、その趣旨を歪曲し、誤った目的のため に悪用したことを認めます。また、故★★やす香が心を込めたメッセージを根拠なく他者による「作文」と貶めたことを認めます。故★★やす香が親しき人々に遺した言葉に対する冒涜を私の犯した第二の罪と認 め、亡き人の御霊に深く額づいて謝罪します。


掲載場所

一、「文学と生活」更新履歴。常に最上段に置くこと。

一、「湖の日記」プロフィールページ。常に最上段に置くこと。


これは法的判断で行う訴訟での要求は全く異なる、私自身の要求であり、現世の法に守られない故人のための要求である。★★家に対する名誉毀損、プライバ シー侵害、著作権侵害等、現世の犯罪については、あくまでも裁判において容赦なく追及する。


追伸

   * 言っておく、「第二子(弟・秦建日子)誕生以降二十年」のながきにわたり、実父であるわたしから「性的虐待」「ハラスメント」を受け続けてきたと、 インターネット上での謝罪と賠償金を「民事調停」の場に求めている「第一子(姉・★★朝日子)」を、わたしは心底軽蔑し、永訣する。

  わたしの帰って行く「本来の家」にこの心腐った娘の影は微塵もささせない。わたしが高校生の頃から、いつの日か我が子にと、こころこめて名付けた「夕 日子」の名は返してもらう。せいぜいウソつき「木漏れ日」を名乗って生涯薄暗い虚偽の営為に生きるがいい。


希望とあらばいつでも返却する。「夕日子」なる文字列は、今や社会生活上やむを得ず 使用する記号に過ぎない。私はとうの昔に「夕日子」であることをやめている。


表 現の自由を乱用し、無用な規制をふやすであろう文筆家の敵、秦恒平。社会から認められないことを「天才の証」と称し、間違いだらけの「筆者当て」に興じる 「小説読みのプロ」は、孫の死さえ食い物にし、ゴシップネタでもよいから人に思い出されることを待ち望んでいた。「法廷の外でも、あらゆる手を使って」よ うやくこぎ着けた取材は、しかし大いに裏目に出て、結果、太宰賞にドロを塗り、ペン クラブの名を汚し、息子の社会的立場を巻き添えにしつつ、後出しジャンケンに負けた。かくのごとき人間と生物学的なつながりがあるというだけでも、虫ずが 走るほど不愉快だ。「ペンクラブ理事が500箇所の名誉毀損」などという新たな記事が載る前に、潔く隠居することを心からお奨めする。もっとも、「潔い」ほど秦恒平と縁遠い言葉も少なかろう。「やめる、やめる」とは口先ばかりで何一つやめ ず、「死ぬ、死ぬ」と家族を脅しながら生き恥を曝しつづける秦恒平は、結局、誰よりも何よりも死を怖れ、目を背け、およそ「死と向き合う」 などという試練には耐えられない。だからこそ、それをなし遂げたやす香を愚弄する以外に、恐怖から逃げる方法がないのだろう。

私は金輪際、秦家の人間ではない。★★高と行幸とが私の掛けがえのない家族で あり、末期の床で私の手をしっかり握った★★襄、多くの知友が私の実の母と信じて疑わなかった★★芳子、そして誇り高く逝った★★やす香の待つ★★の墓こ そが、やがて私のついの棲み家となるのである。

たとえ地獄に堕ちようとも、私が秦恒平と同じ天を仰ぐことはない。


                ーーーーーー***ーーーーーー

 ☆ 此処では上に「太字」で示した中の要点に、すぐさま、逐条・反論しておく。バ カげた言辞は無視しておく。


 *「やす香を貶めた」と、 どう立証するのか。三年に及んでやす香ら姉妹に背かれ姉妹が祖父母と親交を回復していたこと、「mixi」のマイミクシイとして、病状亢進にも心配し助言 していたのは祖父母であり、全く両親は眼をはなして何もなしえていなかったことは、★★提出の貧寒として無内容な受診資料等が暴露しているではないか。や す香に「NO」を突きつけられていたのは両親ではないか。 

 * 秦恒平著『かくのごとき、死』が「故人(やす香)の尊厳と遺志を踏みにじる膨大な記述」としか読めない読者は、偏 頗な偏見の★★両親以外にいるだろうか。愛し愛された孫の日々の命を気遣いつづけた祖父母や多くの知友の思いを芯に通し、ひたすら「悲哀の仕事 mourning work」として書き上げられた日記文藝として、その真情を疑う人を他に知らない。「故人の尊厳と遺志を踏みにじる」とする立証がどこに在るか。故人自筆の「遺志」 を過去二年に間違いなく提出したことなど一片も無いではないか。「インフォームド コンセント」は故人の自筆でなければならず、二年間に片端も見たことは 無い。「やす香は、その死の瞬間まで信仰心と家族、友人への愛に満ち、明確な意志を もって自らの人生に向き合った」 と、物証を示したことは何もなく一度もなく、アトだしジャンケンの口先に過ぎない。やす香の生きた思想の多くは生前にのこした「mixi」のメールや祖父 母や友人が多く受け取ってきたメールの文面等にこそ残されている。「信仰心」「明確な意志」とは何に拠って謂うか、具体的に示すべし。

 *「治療計画における故★★やす香自身の決断と行動」とは具体的に 何に拠って言うのか。そもそも「治療計画」 とは何か、秦の両親に対しタダの一度でも説明したことがあるのか。専門医の「再診」申し出の一切を無言裡に無視したのは★★両親ではないか。一切の責めは ★★夫妻しか負えない状況に隠れていては、やす香の命の不安を歎く祖父母が当然の推測や、乏しい情報下で苦悶し不満や批判を洩らすのは自然当然の人間の 情・理である。まして「故★★やす香自身の決断と行動」とは何の裏付 けで何を意味した言葉か。空疎とはこれであろう。やす香が「mixi」に書き記した必死の一言は、「生きたい!」「くやしい」であった。

 *「★★やす香の著述について、その趣旨を歪曲し、誤った目的のために悪用」 したという以上は、論証すべきである。むしろやす香の意志を超えて母親は、やす香が憔悴の極にいたなかでも冷静で体温の低い言葉と文体の代弁をあえてして いる。ことに平成十八年七月七日の「肉腫告知」を絶望と放心の極にいた(証言在り)やす香の名で「mixi」日記に代筆していたのは、まさしく「誤った目 的のために(★★やす香の名と作文とを)悪用」した適例であると主張しうる状況証拠が出来ている。

 *「故★★やす香が親しき人々に遺した言葉」 と謂う実例が文書で、物証で、残っているなら過去二年の間に提示できたはずである。根拠無き空言を弄しては困る。死の三日前七月二十四日にも祖父母と叔父 とはやす香とかすかに対話している。その記録も『かくのごとき、死』は明記している。友人達の多くの「mixi」発言も記録されている。「親しき人々」の意味と範囲とは広い。やす香が何を言ったかは、証明の限りでない 以上、★★の主張を空疎にするに過ぎない。

 *「「夕日子」なる文字列は、今や社会生活上やむを得ず使用する記号に過ぎない。 私はとうの昔に「夕日子」であることをやめている」なら、進んで自発的に「改名」を所轄の役所に届けるべし。それが発言への誠意だろう。

 *「私は金輪際、秦家の人間ではない」なら、これまたしかるべき法 的方途を得て、除籍請求をぜひ願いたい。同意する。

 *「たとえ地獄に堕ちようとも、私が秦恒平と同じ天を仰ぐことはない」 のは構わないが、せめて「町田市主任児童委員」や「青山学院大学国際政経学部教授」の名分にこれ以上泥をかぶせぬよう、物騒な真似は願い下げにする。
  なお愛する孫の死を書いた作家・秦恒平は、「実の娘や婿」を訴えもしていないし、取材を断りこそすれ「仮名」を使って週刊誌にも売っていないし、太宰賞や 所属団体に対し、一心に酬いた仕事こそ有れ、泥を塗ったなど微塵も思っていない。それについてはウエブ日記にも明瞭に書き示しているし、作家からも編集者 からも「こんなバカげたこと」に屈する秦さんではないとキッパリ支持されている。

        ーーーーーーー***ーーーーーーー   
 

* 上に二度掲げた「h..oshimura」メールについて、もう一度わたしは言う。真っ先に感じること、この誰が書いたと一見確認できないメールの文 面から、「人格」というものが、全く感じ取れない。
 われわれ両親の承知している娘の人柄と文体からは、とても出てこない言辞や物言いが随所に多すぎる。一読『ざばぶるぐ』の地の文や文体とも、全然という ほど似ていない。むしろ作中の夫の冷酷さに通い合っている。
  娘は、『ざばぶるぐ』を、夫に秘したまま、いやもう既にきれいに娘の作品掲載のブログは昨日八月二十一日のうちに消失してしまっているが、娘は、間違いな く「夫との連携・共闘」を選択したということを告げ知らせたいのだろう。夫がわたしからのメールを読んだかどうか、とにかくも上のメールを妻に書かせて、 いわば婚家と夫へ従順の「宣誓」を妻にさせたとも推測できる。推測に過ぎないが、邪推だろうか。

* この際、この「怪文書」に即応すべく、いとしい孫の死を、祖父が渾身の筆と悲しみとで書き表した日記文学『かくのごとき、死』を、此の位置に置き並べるのが、多大の不審や怪訝とともに アクセスされる方々の判断や批判のためにも、何より適切だと信じるが、『かくのごと き、死』は、電子版・湖の本エッセイ 39ででも、簡単に自由に閲読して頂ける。むろん有料ではない。

*  また此処にも謝罪文をかかげよと云っている「mixi」の「湖さん」日記に、そもそもわたしが何を書いていたかも、このサイトの「ファイル0」で、全部 一覧して頂けるようにした。「mixi」運営当局は、★★の執拗な排除要請に対し、「問題なし」とすでに「門前払い」している。

* さて、事態は、予想していたように、「むちゃくちゃ」の返信でプッツリ途絶えた。やす香の重病を、ひとつ「天降の機会」として両家の和解に結びつけよ うなどと云っていた★★★の本音は、何であったのだろう。

*  親娘ののこされたただ一つのパイプであったメール交信を、強制的に禁じられたからは、夕日子への意思疏通はもはや「このサイト」を使うしか無い。此処へ は出さずに話し合いたいと願い、メールで連絡を取った。なのに、一方的に「h..oshimura」から道を塞いだ以上、今後は、此のサイトで「何事であ れ書き表す」ことになる。

* 秋から裁判が、つづく。向こうは若い。それだけは彼らが圧倒的に有利である。わたしたちの健康を祈って下さる誰にも、その不安があるということ。
 だが、それが何であろう。
 誰かが言っていた、たとえ裁判がどうなろうと、こういう「むちゃくちゃ」は、「人間」として必ず敗北すると。人は、ちゃんと見ていると。秦さんには『かくのごとき、死』があり、「聖家族」があり、厖大な「生活と意見」がある。全部を上申書にすれば「決まり」だと思っておりますとい う声もあった。

* わたしはわたしの「仕事」を通して「太宰賞」にせいいっぱい酬いてきた。ドロを塗ったなどと夢にも想わない。
 つい、昨日今日にも、優れた或る文藝編集者は、作品を書いてきた秦恒平も、娘夫婦と敢然闘っている秦恒平も、同じ「作家・秦恒平」さんですと見てくれて いる。太宰賞の選者の先生達も、お一人残らず生前、受賞後のわたしの仕事を評価し支援して下さっていた。
 日本ペンクラブにわたしはいろいろ協力こそしてきたつもりだが、ドロを塗ったなど微塵思っていない。除名の話も、理事を辞めろと云う話も出ていない。
 役員のお一人からは、「こんなバカげたことことで負ける秦さんではない」とも激励されている。

*  もう一つ、このメールの中に、わたしが娘をきつく非難している言葉を彼らは引用している。が、その中で彼らは「民事調停」という言葉をつかつているよう に、この非難は、一昨年秋の「調停」さなかのことで、娘が、自身の「mixi」日記に、わたしにはアクセス拒絶で秘し隠しながら、わたしから「二十年、四 十年」にわたっに「ハラスメント」を受けてきたという、やはり「むちゃくちゃ」な捏造記事を、朦朧とした異様な筆致で書いていたのに対する「怒り」の言葉 であり、必要なら、記録された娘のその日記全部を挙げてみせることが出来る。
 しかもなお、わたしは、やす香を喪った母親の動顛をおもいやり、この件については、「赦す」と二度三度日録にも書いてきた。現在とは全く無関係な古証文 に過ぎない。そうでなければ、此処に挙げたようなメールを娘に宛てて書くわけがない。

* さ、これからまた不毛の日々が続く。とはいえ、この「日録」は、わたしの文藝活動でもある。
 好い題さえ付ければ忽ちに『かくのごとき、死』の続刊が出せる。出 しても良い。出せなくても、「続いている」と思ってくださればいい。


      ーーーーーーーーーー*****ーーーーーーーーーーー




 原告提出「受 診・診療に関する証拠」資料を検

    

* 平成二十年(2008)八月二十七日 水 

* さて、九月を迎えるにあたり、まっすぐ立ち向かわねばならないことが、イヤほどある。最初に、★★側から提出された、やす香が入院前・入院後の「受 診・診療に関する証拠」資料を検討した。法廷への陳述の仕方など知らない。弁護士に提出して役に立つなら立てて貰いたい。長文だが、事実は 小説より奇妙を 告げていて、惘れる。


 ☆ 甲第19号証〜同第25号証 ★★やす香の入院 (06.06.19)以前・以後(06.07.27逝去)の「受診・治療」資料につき、所見を述べます。    秦 恒平


 この陳述で、二つのことを合わせ主張します。

 @ やす香「入院前」の診療等の経過を検証し、この段階で、やす香の両親が祖父をとらえて、「名誉毀損」「損害賠償」「謝罪」を言い立てうる情・理の根 拠は、全く見られないと云うことです。

 A やす香「入院後」にかかわる極めて不備な提出資料の批判を通じて、この段階でやす香の両親が祖父をとらえて、「名誉毀損」「損害賠償」「謝罪」を言 い立てうる情・理の根拠の、全く見られないと云うことです。


 やす香入院(06.06.19)以前の診療の実態と問題点。


 やす香自身による病識(問題点を太字で指摘)は、すでに平成六年一月から「mixi」に公表され、深刻な体調違和の訴えを、加えて、それ以前から体感し ていた憂慮を、明確に示しています。(絵記号の類は秦には理解不能ゆえ、再現されてあるそのままにします。)


2006年01月11日     (一昨年、やす香自身の「mixi」日記です。)
11:18  痛。

そろそろまずい↓
何もしてなくても痛む腰。
ろくに上も向けない首。
筋が変にきしむ肩。
血の巡り悪すぎ。
手足の先が凍る。
頭が動かない。
原因不明のびみょーな腹痛。
言うコトきかない身体に
もううんざり。

 これが見受ける限り、最初の自覚症状の記録です。正月年賀に祖父母の家に来たとき、思い合わせばかなりはっきりした(すぐ寝そべり休むなどの)容態が見 えていました。


2006年03月13日
02:45  胸の痛み
恋の病…

ではないんです(^-^;
ホントに痛いんです↓
クシャミとか、
寝返りとかすると
一たまりもありません(*_*)
アイタタタ…
ってなります。
鎖骨、
首の下あたり一帯が。゚(゚´д`*゚)゚。
妹に敷布団とられて、
かたーい布団で寝たから?

あぁ眠れない(:_;)


2006年03月15日
10:41  あんね〜

やっぱり痛ぃ(+_<)
筋肉痛ではなぃみたぃ。
首から下がってきて
ちょっと左あたり?
花粉症だから
くしゃみとかするたびにひびく(*_*)
肋骨?!
いゃ、まさかねぇ(^-^;
どんだけ骨もろいんだょ
ってぃぅ(o′艸`o)


 原告資料中最も時期の早い、地元玉*学*「野口整形外科」受診治療記録(甲第一九号証)は、2006年4月4日のもの。ほぼ三ヶ月経過していますが、こ れ以前に、上の愁訴に応じた受診治療履歴は見えません。レントゲン撮影と痛み止め投薬で終わった整形外科の対応は、単に無効でした。
 母・夕日子(此処では仮名に)の当時連日書き継がれていたブログ二種類(がくえんこらぼ・小説「ざばぶるぐ」)も、娘・やす香の病状には何の関心も対応 も示していません。
  受診の翌日、やす香は悲鳴をあげています。

 
2006年04月05日
00:41  悪化の一途をたどる。。。
 
痛いっちゅーーーーーーーーの(╬☉д⊙) www
咳とかしゃっくりとか、くしゃみとか、
するたびに泣きそうになるわァ。。。
目に涙浮かべてたら察してやってくださいwww
別に悲しいわけじゃなりません^^;
レントゲンにも写ってくれないなんて
いったい何が起こってるのかしら???
いやまァいたって元気ですけどね^^v


2006年04月05日
13:02  凹む。。。

なんでこーゆー時に限って
咳が止まらないんだろ↓↓
咳を流し込むための
水が手放せません。
それでも不意にでてくる咳に涙…。
痛み止めなんて効きやしない。

かがめないし
振り返れないし、
左手に力入れられないし、
走れないし。。。

何が一番嫌かって、
おもいっきり笑えない
。゜(゜´д`*゜)゜。

今まで日常生活に支障なかったのに…↓
今じゃ呼吸にも気を使う。。。


 翌日四月六日に野口整形外科が求めた結果か、麻生病院内科での血液検査報告書(甲第二○号証)が出ています。何等の検査所見もなく治療の実施された形跡 もない。やす香は訴えています。


2006年04月06日
13:03  Do I have to go ?!

しょーがないから逓信病院にでも行ってきます。。。 (=大学のそばにある。)
お金たくさんかかるかなァ。。。
こんだけ痛くてなんでもないって言われるのもシャクだけど、
なんかあるって言われるのもイヤ。


2006年04月06日
23:25  まぢ

意味わかんない。
CT撮っても原因不明って何?
痛み止め効かなきゃ
大学病院行けだって…。
次から次へと回し者だよ。
ダメだ…。
もう凹みっぱなしだ。。。
怖いとかそういんじゃなくて、
ありとあらゆる行動が
途中で止まるから
精神的に辛い。。。
もういっぱいいっぱいだよ…


 堪えかねたか大学のすぐ隣の逓信病院へも自前で受診しています。CTも撮ったとありますが、原告は資料を提出していません。母親のブログに徴しても、両 親が娘の苦境に反応し援助している形跡は全く見えません。やす香は病院費用の心配までしています。


2006年04月10日
00:46  〜

笑えない。
眠れない

医者なんてあてにならない。

辛い。

寂しい。


006年04月11日
16:11  なんだか、

最近愚痴っぽぃゎァ。

ぅらむょ。
こないだちゃんと診断下してくれなった医者。
可能性すらも示唆してくれなかった医者。
そもそも内科に行けって行った看護師。

ぁぁ、
ゃっぱ宛てになりませんね。。。
 

2006年04月11日
23:47  〜最近〜

暗い日記ばっかだなぁ(^-^;

なんでか知らないけど、
左腰が痛い( ̄- ̄;)
胸かばって
変な体制で寝てるからかなぁ。

まぁどーでもぃぃゃ。


 これらの吐息には、誰の援助も期待できない絶望が読み取れます。そしてこの翌四月十二日に日赤医療センター内科へ出向いていますが、驚いたことに提出さ れた診療費領収書(甲第二一号証)では何かの「撮影」をしたとあるだけで、治療行為や医師の所見等は全く見られない。
 しかもこれ以降、提出された資料は六月十日までほぼ二ヶ月間、何も無い。
 親たちは娘の容態を本気では把握していなかったのでしょう、しかしやす香自身は、この間に「整体=カイロプラクティクス」にも苦痛に耐えて通っています が、肉腫をかかえた躰にはあまりに過酷な見当違い。その見当違いのさらに最たるモノは、六月十日付けの提出資料が明かしていますが、以降二ヶ月間のやす香 の苦痛を具体的に顧みておきます。


006年04月16日
22:34  気持ち新たに

諦めました!
そのうち治るょね☆
病院行っても凹むだけだし!!
だからもーいぃです。
明日からちゃんと学校行きます。


 相変わらず両親が此の娘の苦境と絶望に、支援や憂慮の手や言葉を掛けていた形跡は、母親のブログにも、やす香の「mixi」日記にも、全く見えていませ ん。逆に母親の請け負っていた「仕事」のミスを、バイト帰りで疲労のやす香が手伝わされ、「スパルタ母さん」と苦笑しています。やす香が母親に具体的に触 れた「唯一」と言える記事でした。


2006年04月18日
00:10  固。

胸筋〜肩筋が
固まってしまったんじゃない?
ってくらい動かなぃょ?
両腕あがりましぇん。
グワングワン
ヒリヒリ
ジンジン
ってかんじ?
どうなってるの、
my body(?_?)


2006年05月08日
15:46  ヘタレ

まずいです。
何もする気が起きません。
5月病でしょうか。
いや待てよ、
3月からずっとこんなんです・・・OTL
何がいけないって、
寝ても覚めても疲れがとれないんです。
最近は腰痛がひどくて熟睡できません。
熟睡どころか寝っころがれません。
布団の上でウダウダするのが至福の時でしたが
今や布団の上は痛みとの格闘の場です。
胸の痛みは大分ひいてきたものの、
今さらながらに
「健康診断の結果がふんちゃら」
と大学の診療所から呼び出しくらいました。
結果やいかに・・・。


2006年05月12日
14:33  へこたれ

ぶっちゃけ
私へこたれてます。
動きたいのに動かないのょ
私の身体〜(*_*)
病気でも
怪我でもなけりゃ
なんなのさぁ?
たまに言われるんだよね。
「ストレスじゃない?」
って。
まぁ思い当たる節はあるものの、
除外しようのないもんでして…(- -;)

OTL      (=ガックリの文字絵らしい)


 「ストレスじゃない?」とは、誰の言葉であるか。友達は皆が「病院へ行け行け」と心配しているときに、これがもし親たちの口から出ていたなら、むごいこ とです。「思い当たる節」が、すでに証言もされている、もし、離婚も現実化していた両親の不和であるなら、これも、むごいことです。


2006年05月19日
16:50  WHERE R U FROM?

この例えようもない気持ち悪さはいったいどこからくるんだろう??
うげげiI||Ii(ツω-`。)iI||Ii━


2006年05月22日
05:30  遅寝。早起き。

まだ朝の5時ゃん\(*`∧´)/
3時間に1回目が覚めるんだけど、
不眠症なのかしら?
整体行って
腰はなんとかなったんです。
仰向けで寝られるなんて
久々の感動だったわけなんですが、
それでも熟睡できない理由があるのかえ?

まだ節々が痛いんですが、
まぁ要するに疲れなわけです。
整体師さんいわく
全身肩凝りみたいな状態らしい。
胸が痛いのも
恐らく、
本当は呼吸とかの度に動く骨が
周りの筋肉が固まってて
動けないかららしいんです。
だから熟睡したい。
時間はあるんです。
睡眠の時間ちゃんととってるんです。
なのに眠れなきゃ
疲れとれないじゃないですか。゜(゜´д`*゜)゜。
もぅ自分の中のわだかまりとか、
周りのイザコザとか、
全部忘れたい!

これ、
要はストレスなのでしょうか…?


「整体」さんの説明はこの病状に関して全然無効です。ワラをも掴む思いだったのでしょう。それよりこの時機にまだ、「まわりのイザゴザ」などに惑わされ て、こんな判断でいたこと、身近な大人が憂慮すらしていないらしいこと、に驚きます。


2006年05月27日
16:34  なんでぇ。゚(゚´д`*゚)゚。

身体が動くことを拒絶してます(´・c_・`)
家の階段の往復するだけでだるくて気持ち悪くなるiI||Ii(ツω-`。)iI||Ii息あがるしOTL
さっきは足に激痛がはしりました(*_*)
いったいどうなってるんだぁこの身体。


2006年05月27日
22:57  どわぁぁぁぁ

どうにか整体行ってきた。
帰り、坂の途中で
倒れるかと思ったOTL
ここ半年の疲れが
また一気にでてきた感じ。
どわぁぁぁぁって。
だるすぎて
ベットに張り付け状態。


2006年05月28日
06:20  くぅ( ̄- ̄;)

いったいいつになったら治るんだ!
。゚(゚´д`*゚)゚。
家の階段すら億劫だょ↓
起き上がるだけで一苦労だし↓
人に会えないのが一番辛い…。
風邪でもないのに
1日中ベットの上なんて
寂しくて死んでしまいそーデス(;c_;。)


2006年06月02日
22:43  久々のケータイ

ベット上の生活もかれこれ1週間。
トイレに行く以外食事もベットの上。
極度の貧血らしいです。
起き上がると
頭に血を送れないらしいです。
ひどい時は
ケータイすらさわる気になりません。


2006年06月04日
06:38  タイトルなし

考えてみたら、
3月以降
私の中の時が進んでない。

ずっと体調不良で、
なんだかんだ
どれも宙ぶらりん。

自分の許容量以上のものを引き受け、
というか、
自分の許容量というものを
全くわかっていなかった。
ただNOと言うことから
逃げていたんだと思う。

後に残った膨大なプレッシャー、
そして20歳を目の前に、
精神的にも体力的にも
あっという間にどん底。

動きたいのに動けない。
食べたいのに食べられない。
笑いたいのに笑えない。

この1週間、
起きては吐いて、
食べては吐いて、
自分で飲み物すらとりに行けない状態の中、
ふと映った真っ青な顔の自分を見て
なぁにしてんだろーって思った。

こうなったのは他人の責任じゃなくて、
自分の責任なんだってわかってるから
どーしようもない悔しさばっか溢れてきた。

自分の思い通りに
自分で動けることが
どんなに幸せなことなのかが身に染みた。

今は辛いけど、
なんで…?って思ったりもするけれど、
ハタチになる前に
こんなことに気付けて
よかったんだって思うことにする。

治ったら、
自分なりに時間を動かしていこう。
NOって言うことから逃げないで、
自分の思う道を進む。
道は一つじゃないんだから、
どの道を歩もうと、
速足で歩もうと、ゆっくり歩もうと
たどり着く先に
確かな夢さえ見えていれば大丈夫だよね。

“ガキ”っていいですよ。
「イヤイヤ」とか「ウン」が平気で出てきます。
私達って、けっこう怖がって、
簡単なことも、余計に難しく
考えがちです。
怖いかもしれないけど
「イヤイヤ」を言えるといいですね。


2006年06月06日
13:19  ◎筋肉◎

って使わないと衰える!!

パパもママもおうちにいなくって、
明日先生のお通夜に
這ってでも行くために

リハビリだ!!!

って凄んで
家の一階に
オレンジジュースとりに行ったの。

大丈夫だから、
大丈夫だから…
ちゃんと頭に血を送れぇ

って自己暗示と共に(笑)

ばぁちゃんみたいに腰曲げて
見るも無惨なかっこで
10日ぶりくらいに食卓に降り立ち、
オレンジジュース入れて

よし、上り頑張れ自分!

って2、3歩のぼってあらびっくり(◎o◯;)
足に力入りません(`・ω・屮)屮
手摺りないとフラフラしちゃう。

こりゃホントにリハビリせねば
って思ったね(^-^;

んで、
手摺りにしがみつきつつ部屋に戻ってきて、
ジュースおいて、
ベットに安らぎを求めようと
ヘナヘナ座り込んだ瞬間、


ガタン…。

えっ(i|!゜Д゜i|!)

恐る恐る振り返りました。

そーですとも。
汗と涙の努力の結晶を
ものの見事にひっくり返しました。

滴り落ちるジュース…。
まさかそのままにしておくわけにもいかず、
雑巾とりに下に降りる体力もないので、
木の神様にごめんなさいと謝りつつ
大量のティッシュで後始末。

あぁ意外と動けるじゃん自分…_| ̄|●

と思いつつ↑の退勢で床を拭いてたわけです。

よし、
この大量のティッシュを一度ゴミ箱へ…

と思い起き上がろうとした瞬間、

うっiI||Ii(′◎ω◎`;)iI||Ii

こっ腰が……_| ̄|●))

なんとまぁ
全然伸びないじゃないですか。
真っ直ぐ立てないんですよ。
腰が曲がってしまった
おばあちゃんの気持ちが

よぉぉぉぉぉぉくわかりました。

みんなちゃんと運動しようね(o′艸`o)


 すさまじいというも愚かな病状の悪化・激化が観られるのに、原告提出の資料は、この六月十日段階にいたって、町田市内の「すこやかクリニック」の診察券 一枚(甲第二二号証)だけ。所見も投薬も担当医師からの説明はなく、入院以後に、いや★★やす香逝去以後に北里大学病院の示した「転科サマリー」(甲第二 三号証)によって、この「すこやかクリニック」が「精神科」であり、やす香はなんと「鬱病」と診断されて、抗うつ剤の処方をされているというから、驚く以 外にありません。
 親たちの眼は、何を見ていたのか。愛の手をかけていた、言葉を掛けていたとは、ここに至るまで、全く、片鱗すら見いだせない。
 以降入院まで、やす香はこう書き続けていました。


2006年06月12日
11:10  みんなが恋しいょぉ。゜( ゜´д`*゜ )

世捨て人(?)になってから
かれこれもう
3週目に突入しております(*_*)
お医者さんに行ったら                     (=六月十日に鬱病と診断した精神科であると想われる。)
「大丈夫です、
夏休み頃には元通りですょ(^-^)」
って…
おぃ\(*`∧´)/
そんなに待たすんかぃ。。


 06:22  思香 (=やす香。「mixi」メッセージ)
 
>おじいやん
甘ったれやだらけで、大好きな大学にもバイトにもいかず友達とも会わず家に引きこもってる理由などあるでしょうか。医者に何度かかかった結果がこれです。 二十歳の誕生日前には治ると先生は言っていましたが…。ただただ信じて布団から垣間見える青空に動けぬじれったさを感じる毎日です。


 「三週間」も孤独に家のベッドに動けずにいたとあります。家人は留守がち。言語を絶する苦痛の中でジュース一つをとりに階段を上下し、あげく零してしま い泣いています。
  人は、はっきり「親の目が離れていた」と指摘しています。「いのちがけで娘の命をまもってみせる」といった入院後のむなしい豪語は、この一月から六月まで の入院前でこそ、親として実践して欲しかった。われわれ両家の大人はみな、やす香を「死なせてしまった」に万々間違いないのです。余人ならぬ肉親の家族 に、親に、あまりに当たり前のことを批判されて、「殺人者」呼ばわりされた「名誉毀損」「損害賠償」だ、「謝罪せよ」とは、知性のある筈の大人にしては、 まこと、無道な居直りです。恥ずかしい逆恨みです。

                                                         以上・やす香の入院前



 やす香入院(06.06.19)後逝去(06.07.27)にいたる治療事情と問 題点。


 北里大学病院への受診には父親の示唆が有ったかに提出資料「転科サマリー」(甲第二三号証)に見えていますが、この二年にわたりかつて一度も聞いたこと のない事情です。このサマリーが何時書かれたかにも、疑問を後に呈します。
 平成十八年六月十九日まで、やす香の母がこの入院にどれほども関与していなかったことは、ブログ「がくえんこらぼ」の七月一日の日記、それ以前の全日記 がまこと露わに物語っています。
 七月一日というと、すでに入院後二週間近く経過していますが、その時点での母親・夕日子が娘・やす香の病気「白血病」に感じていた重みは、自身の「こら ぼ」活動と「並行」していてなんら「二者択一」にも及ばない、というものでした。やす香が「白血病」で闘うように自分は「地域活動」で闘いたいと、はっき り書いています。


Posted by ぬぼこ(=★★夕日子) at 08:40 | 娘 | コメント(0) | トラックバック(0)

並行宇宙 [2006年07月01日(土)]

ふれあいサタデー(=地元でのコラボレーション)に向けて駆け回る私に
一本の電話が入る。
体調不良で
でも、「どこも悪くないですよ」と言われつつ、
幾つかの病院をめぐっていた長女の

その「不調の原因を突き止めてくれた病院」がある
そこに入院するという電話。

ありがたいニュース………・のはずだった。

だがその病院に駆けつけて以来
私はほとんど病院を出ていない。
洗濯のために家に2回帰っただけ。
仕事に大穴を開けたあげく、
幾つかのオファーをキャンセルする。

流れていた時はすべて断ち切られ、
過去はすべて邯鄲の夢であったように、
並行宇宙での活動であったように、

今の私に繋がっていない。

こちらが夢ならいいのにと思う。
ふっと目覚めたら、梅雨の蒸し暑い空気のよどむ、
自室のベットの上ならいいのにと思う。

だけど、
病院にパソコンを持ち込んで、
私は試みる、この宇宙と、あの宇宙をつなぐように
病院の窓際に座る私が現実であると同じように
がくえんという街と、そこでの活動を
私の現実として取り戻すために。

ブランクはたった2週間だ。
二者択一でなくていいはずだ。

私は負けずに進んでいこう。
娘が闘っているように、
私には私の闘い方があるだろう。


 これが二月二十五日(やす香姉妹が祖父母を訪れた最後の日)に始まっていた夕日子のブログの、以降一貫した姿勢です。母親が自身の「こらぼ」活動に夢中 で、やす香が病魔にひしがれた過去六ヶ月に、真剣に一度たりと目も向けていなかったことが、この「七月一日の日記」で明白になっています。ブログでの 「娘」というカテゴリーは、この日が最初であることも印象的です。
 母親は、「白血病」はくみしやすしと観ていたようです、やす香に呼ばれて祖父母が初めて見舞った六月二十五日、夕日子はしごくあっさりと「治る病気よ」 と両親に話していました。そういう認識なのでした。或る意味、願望であったでしょう。

 ところがこの母親は、七月七日に至り、真実ぼう然と、なすすべを喪ってしまいます。同じブログの「七月七日の日記」が、初めて母親絶望のさまを表してい ます。この事実はじつに大きく、後に具体的に触れます。

 六月十九日に入院後三日の「mixi」に、知友の全てを驚愕させた「やす香」の名による「白血病告知」が出ました。


2006年06月22日
05:04  みんなへ

長いこと更新しなかったことで
心配してくれた人ありがとう。

人生が逆転したかのような
この一週間。
ここに書き記すことをずっと迷っていたけれど、
やはり自分の記録として
今まで日記を残してきたこのmixiに
書き残そうと決意しました。

「白血病」
これが私の病名です。

今日以降の日記は
微力ながら
私の闘病記録になります。
必ずしも読んでいて
気分のよいものではないと思うので
読む読まないは皆様の判断にお任せします。

コメント等
返信遅くなってしまうかもしれませんが
力の限り努力するのでよろしくお願いします。            2006.6.22


 この告知文の筆致は、それ以前のやす香自筆の「mixi」日記とハッキリ異なっています。やす香自身は「白血病と告知」されて、身も世もなく烈しく動顛 したことが伝えられています。その際に「闘病記録」などという言葉が本人から出るとはとても思われない。「闘病記録」が母親・夕日子の「発案」であったこ とは、同時期の弟・建日子へのメールで明らかです。上の七月一日日記の文体と、そっくりなことは誰の目にも明らかでしょう。この「告知」は、いわば親が企 画した「闘病記録」の第一弾として代筆されていたものと推量が十分可能です。文体というものに馴染んで学んできた作家として、そう思います。 とはいえ、 やす香が、友人知人へ「mixi」を用いて自分の置かれた事態を告げ知らせたかったことも事実でしょう。友人知人こそ、やす香の「支え」でしたから。


宛 先 : 思香    「MIXI」メッセージ  祖父・湖(=祖父・秦 恒平)
日 付 : 2006年06月22日 10時19分
件 名 : いま読みました。

 いま読みました。 じいやんは泣いています。診断は確かなのだろうかと、ウソであって欲しいと。
 しかし泣いてばかりは居られない。出来る限りをお互いに努めなくては。
 同じ病気と闘っている人を知っています。日々、とてもとても慎重に、しかし今は大学を卒業してドクターです。親子してそれはそれは慎重に一日一日を大切 にしていました。この闘病は、細心の注意と摂生と聞いています。最良のドクターを親に探して貰いなさい。いい主治医。この病気では、日々の指導にも気配り のいい主治医が大事な大事な鍵と聞いています。
 疲労の蓄積。これが、最もよくない亢進へのひきがねになる。余分なムリはゼッタイにだめ。慎重ななかで日々安心して静かな心で元気にくらしてゆくことが 肝要です。我をはらないで、我にも人にも素直に柔らかい気持で。
 百まで生きなさい。しっかり生きなさい。 愛している。 じいやん  


 この時点、祖父母はまだ、孫の入院先が北里大学病院であることも分からなかった。★★家からは何の通知もなく、秦の祖父母にやす香のことは「報せない」 つもりと、姉・夕日子は弟・建日子に告げていました。何も伝えない、説明しない。排除。
 此処にこそ、此の★★側の姿勢にこそ、一切の「根」があったのです。「根」は一方的に★★家で作っていた。「やす香の病気に関する一切の説明も連絡 も」、秦家に対し「拒絶」していました。
 問いかけても、返辞もなかった。

 祖父母は乏しい情報から「推量・推測」しつつ、愛する孫の命脈を、身を揉んで憂慮するしかなかったのです。その正確な記録が『かくのごとき、死』です。
 この著は、★★に対する攻撃の著述では全くありません、「孫の死を」おそれ嘆き悲しみ書いていた「mourning works=悲哀の仕事 精神医学のターム」でした。久しい文学史の流れを汲んだ「日記」という文藝作品でありました。★★家に、この著作を「名誉毀損」 や「著作権侵害」で否定しうる立場も論拠も、全然無いのです。

 やす香が「白血病」入院と秦に知れたのも、両親の連絡があったのはない。孫と祖父とが「mixi」の「マイミク(=親友)」関係であったから、先の「告 知」が読めたのです。夕日子らはそんな「我が娘と我が父」との関係を全く知らなかった。とうの昔からやす香たち姉妹が、親に秘して、祖父母と親交を回復し ていたことなど、両親は気づいてもいなかったのです。そういう形で親は娘達の批判を、或る意味の厳しい「NO」を浴びていながら、気も付いていなかったの です。「無関心なの」と、在りし日のやす香が祖父母に向かい、親の自分に対する姿勢を「要約」していたのは象徴的でした。

 「mixi」がなければ、マイミクでなかったなら、祖父母は愛する孫娘の運命を知らされぬ儘であったろうという、此の「重大な事実」を、私は、強く強く 法廷に訴えたい。
 やす香の病状や治療経過等々について全く秘し隠して、一片の説明すら★★家が秦家に拒んでいたことこそが、『かくのごとき、死』をめぐる軋轢の根源の理 由であることを、此処で強く主張します。


 さて提出されている「入院後」医療の資料は、甚だ不備で、重い疑点も挟み得ますことを、以下に、訴えます。
 原告から提出された資料は、

 @「転科サマリー」(甲第二三号証)  (北里大学病院入院翌日の、「急性白血病疑い」による「血液内科へ転科」 (07.06.20)に関するサマリー) 

 A 診療情報提供書(甲第二四号証)  (06.07.05 北里大血液内科角田裕子医師より、神奈川県立ガンセンター比留間徹医師宛)
  B 比留間医師の角田医師への報告返答書(甲第二五号証)  (06.07.10)
 
 これら資料の日付よりみて、都合四十日間近い入院期間(06.06.19--06.07.27)の「前半」だけ、白血病の疑いから肉腫へ診断替えしたこ とを伝えるだけ、の不充分なモノに過ぎません。
 少なくも、最も問題にされている「mixi」七月七日「肉腫・告知」以降の医療資料は、全く提出されていないのです。

 まず提出されている資料を点検します。

 六月二十日、即ち入院翌日には「決定」されている「血液内科転科サマリー」(経緯の大要)(甲第二三号証)は、入院前の六ヶ月間、ほとんど何一つ有効な 医療を受けていなかった事実だけを明瞭に指摘しています。
 やす香自身の「mixi」日記がそれを強く訴えていますが、両親がほぼ全く何の手も愛も娘・やす香の上に掛けていなかった、要するに「目を離したまま」 であった事実も、蔽いようがないということです。
 ある中学生が、「やす香さんのお母さんは、その責任の恐怖を感じて」祖父母に対しいわば居直ったケンカを売っているのではないでしょうかと、メールを呉 れています。ウエブ時代といういわば「判決のでない裁判員」環境があたかも機能しているのを窺わせます。やす香の「mixi」日記や、秦の『かくのごと き、死』は、当時、オーバーにいえば世界規模で注目をあつめていたのでした。やす香の「かくのごとき、死」はいちはやく専門書にも採り上げられ論じられて いたのです。

 疑問が一つあります。
 入院翌日(06.06.20)には決していた院内血液内科への「転科サマリー」(甲第二三号証)が、資料中の日付から観て、「やす香の死 (06.07.27)以後」に書かれている不自然さ。「六月二十日以降についての病状推移等」は、当然ですが「全く書かれてはいない」のにです。

 必要なのは「六月二十日転科」以降の詳細な「カルテ」「処置」等の資料ではありませんか。無意味です。「安楽死」をすら結果疑わせる「転科以降」の病状 の推移や輸血停止等の処置が、日々の「カルテ」はもとより、何一つ提出されていない。無意味です。
 もとよりやす香自筆の、また、医師や両親の「インフォームド コンセント」も提出されていない。しかし七月二十六日に事実上安楽死を意味する「輸血停止 があった」という「mixi」上の証言、虚言を書く必要の微塵もない、やす香のお友達の真率で確かな証言を、我々は「mixi」上で聞いて、記録していま す。
 多くの問題がその前後にこそ集中しているのに、これら原告提出資料は、全く何一つも説明・説得できていないのです。

 一方、問題にされている『かくのごとき、死』の多くの記述は、もともと肉親の情と理において祖父母等に対し最低限果たすべき「病状説明」等を、故意に全 く与えようともしなかった無道への焦慮にも発しています。
 人として当然の推測・推量と、わずかな情報によって孫・やす香の容態を気遣い祈るのは、あまりに自然当然の祖父母達の真情であり、それを侵害し蹂躙して いたのは★★夫妻の、「子たる親たる非道」であるというしかない。その反省が微塵も示されていないのは何故でしょうか。

 やす香は明らかに、両親の、祖父母に対するそのような振舞いを是認していなかった。「見舞いに来て」「逢いに来て」とはやす香の心からな願いであったこ とを、残されたメール記録は示しています。友人も、やす香の「意志」の強さに、親への「NO」の表明に驚きながら共感しています。


 次ぎに、角田医師と比留間医師の交信(甲第二四、二五号証)を観てみます。
 いわゆる「セカンド・オピニオン」の取得なら、専門学に属することで介入しませんが、この書簡往来は「セカンド・オピニオン」の要請ではありません。
 北里大学側がすでに「肉腫(alveolar rhadomyo sarcoma)」(甲第二四号証)と診断した上で、神奈川県立がんセンターへの「入院治療・転院治療」を要請したのです。そして拒絶されています。がん センターセンは「緩和治療」を北里ないしやす香保護者に対し推奨しています。

「依頼された七月五日」「答えられた七月十日」という日付に、注目していただきたい。同時進行で日々記述されていた『かくのごとき、死』日録の記事と照合 して、幾つか問題点が出てきます。

 少なくもこの頃に、弟・建日子へも父・私へも、「セカンド・オピニオン」「サード・オピニオン」ないし「高度の受診・医療」について、親切な紹介の手が さしのべられていました。即刻★★夫妻に伝えましたが、すべて完全に無視され、何らのアイサツすらありませんでした。
 「癌の場合、ワラをもつかめ」という通例を、この際故意に無視したのも★★の両親でした。これに対し批判や不満の思いをわれわれが持ったとして、当然で す。「やすかれ やす香 生きよ けふも」と祈り続けていたのですから。

 日記によれば判然とします、七月五日には、まだ「白血病」は「なおる」というわずかな希望を少なくも母親も、祖父母も持っていました。

 ところで大きな不審が出てきます。
 比留間医師からの返答「セカンド・オピニオン」(七月十日)がまだ角田医師の手に届いていない筈の「七月七日」早朝の「mixi」に、「告知 やす香」 の題と、名乗りとで、

 私の病気は
 白血病
 じゃないそうです
 肉腫
 これが最終診断。れっきとした
 癌
 だそうです。近々癌センターなるところに転院します。
 やす香の未来はどこにいっちゃったんだろう…

という「日記」が出ています。

 先にも云いましたように、北里大学血液内科の角田医師は、七月五日の比留間医師に対する依頼書(甲第二四号証)時点で、はっきり「alveolar rhadomyo sarcoma」要するにやす香は「肉腫」であると、すでに診断しております。つまり、神奈川県立がんセンター」の比留間医師宛に要請したのは、繰り返し ますが「診断の確定」をでなく、入院加療希望・転院加療希望を「打診」していたのです。角田書簡(甲第二四号証)には、「本人、家族も可能な限りの治療を 希望されております。」と書いてあります。これが七月五日のことです。この「希望」はむろん当然の事でしょう。

 七月五日は「水曜日」でした。角田医師の比留間医師への依頼書は、郵送されたか親が持参して神奈川がんセンターへ赴いたか、たぶん六日または七日に母親 が単独で出向いたのでしょう、患者は安易に搬送できる容態ではなかったのです。
 しかしことは、案に違い、絶望的に立ち往生したことが、七月七日の母・★★夕日子のブログ「がくえんこらぼ」が明瞭に伝えています。母親は、ここへ来て 初めて進退窮まり絶句したのでした。

 もっともっともっと早くに、入院前に、よく看ていてくれたら。
 夕日子によるブログ「がくえんこらぼ」の存在を秦家が知ったのは、すでにやす香も亡くなっていた秋になってからでした。すべて余儀ないことでした。


壁だらけ [2006年07月07日(金)]

街に散在する小さな団体の、小さな壁を
乗り越えたいと思っていた。

だけど今の私は、もっととんでもなく大きな壁に阻まれた
迷路の中をさまよっている。

娘は、幾つもの病院を「異常なし」でさまよったあげく、
今いる病院で
「急性腎不全」として腎臓内科に入院した。
しかしそれは間もなく
「白血病」に変更され、
同じ病院内の血液内科に移動した。

そこで化学療法を目指して型の特定を行うはずが
調べれば調べるほど、
それは「白血病ではなさそうな感触」を増していった。
そして入院から2週間を過ぎてとうとう
彼女は「白血病ではなくて肉腫」と診断された。

そして肉腫の専門医はこの病院にはいないので
(神奈川県立=)がんセンターに転院してほしいと言われた。

だががんセンターには空きベットがない。
がんセンターにかかりつけの患者しか、
緊急入院を受け付けないという。

しかも今週末は、肉腫の専門学会が札幌である。
どこの病院にも、「専門の責任者がいない」という、
患者からすれば信じられない事態が起こる。

とりあえず週があけたらご相談に乗ります
・・・それまで3日以上ある、
「相談に乗」ってもらって、すぐ転院できる保証はない。

ガンは心臓発作みたいに救急の対処でどうなるものでないのはわかっている。
だが、
「一般論として」宣告された余命の
10%以上を無為に待たされる患者の気持ちは
医療の壁を越えていかない。

私は娘を抱きかかえて途方にくれる。
このとんでもない壁を、
私はどう乗り越えたらいいのだろう?


 読むも哀れな此の日記を、万事休して遙か後に祖父母は読みました。この歎きを打ち明けられていたとて、もはや何が出来たか分からないにせよ、われわれは 我が娘を慰め支えることを惜しみはしなかった。残念です。
 
 この七月七日日記には、やす香が「幾つもの病院を『異常なし』でさまよったあげく」と認識していますが、途方もない間違いを犯していたことに、この母親 はまだ気づいていない。直視すべきは頼りない医療機関の「異常なし」ではなかったのです。娘・やす香の半年間の全心身に★★の両親はまるで目を離し、ろく に心配もしていなかったことが、この安易極まる語句と認識とに露呈しています。挙げ句の入院にも、「異常」が把握されてよかった安心と云わんばかりの七月 一日の日記は、先に見たとおりです。咎められて仕方ない親の無責任がここにはっきり出ています。


 さて、七月十日に、たぶん母親の面前で書かれたろう比留間医師の角田医師への返答(甲第二五号証)はこうでした。
 入院も転院も「NO」で、病状は極度に宜しからず、「ご本人が、緩和、Supportive care にも理解がおありのようなら、緩和主体おすすめしたいと思います」「とお話ししたところ、御理解いただきました」と。これが回答の「結論」で、母・夕日子 は、或いは両親は、七月五日時点での「可能な限りの治療を希望」から、即座に断念して「緩和主体」に「理解」を示して北里へ回答書を持ち帰ったものと読み 取るしかないのです。
 あい次いだ父や弟からの「医療支援の情報」も全く顧みずに、「可能な限りの治療」に賭けるべき親が、ただ一度の比留間医師との面談だけで、全てを早々と かなぐり捨てていたことになります。

 驚愕の事件でした。
 比留間医師の回答も待たず、七月七日早朝の「mixi」に、なんと! 「わたしは肉腫」と、「やす香」の名で広く告知されました。やす香には此のあまり に酷い病名告知を誰がしたのでしょう。医師達でしょうか。親でしょうか。母親であったと本人がどこかに語っていました。「肉腫」は癌のなかでも最も凶悪で す。それを母親が娘に告知し、それを広く「mixi」で公開すべきどんな必然性が、理由があったでしょう。

 こういう行為を敢えてした理由の一つは、七月五日か前日六日のうちには、既に医師から親へ「肉腫」という診断が伝えられていて、そして事も在ろうに、動 揺と絶望の極にあった未成年の患者やす香にまで告げてしまわれていたのです。

 この七月七日早朝に、やす香が上のような「肉腫告知」を、上のような冷静な筆致で「mixi」に自身で書きえたと思う、誰がいるでしょう。誰の目にも思 いにも不自然きわまりない。その筆致をよく読み取って戴きたい。やす香にはとても書けなかったであろう傍証も以下に明記します。

 白血病なら持てた生存の期待を、肉腫は一分一厘の希望もなく打ち砕くのです。それをうら若い患者は親の口から聞かされたのです。
 比留間医師の言葉はこうでした、「御本人」に「理解がおありのようなら」と。
 比留間医師の前で「御理解」を示したのは決して患者のやす香本人ではなかった。母か、父か、両方か、とにかく死病に恐怖していたやす香のあずかり知らぬ 「理解」でした。

 この七月七日にやす香を見舞って、大親友の目の当たりにしたやす香「絶望」のさまは、痛ましくも雄弁です。


 2年前の七夕の日は、やす香に会いに行きました。
 やす香はその日、気分が落ち込んでいて、全く会話が出来ませんでした。
 一方的に私が話すだけで、やす香の心は私にはありませんでした。
 自分の事で精一杯だったと思います。
 肉腫と分かって、まだ数日でしたから。  
 やす香は疲れ切った様子で、目も合わせてくれませんでした。
 その日、沢山の友達がやす香を見舞っていました。
 やす香は会いに来て、と言ってくれたけれど、私は病院に行った事を後悔しました。
 弱りきっていたやす香にとって、大勢の友達は毒だった気がしました。
 やす香に気の毒な事をしたと、悔やんでいます。
 私が行った中で、この日が一番心が辛そうな日でした。


 この証言の前で、さきの肉腫を報告する「告知 やす香」の一文の、何と冷血なこと。やす香に書けるわけはなかったのです。


 さて、「甲第二三号証」転科サマリーの「ノンブル」に目を留めて下さい。「1/1」とは「転科サマリー」がこの一紙で尽くしていることを示しています。 が、その下に、手書きで「2」とある。
 提出された本資料全部に徴して、他は「1−@」「1--A」また「1」「2」などと正確に枚数を追っていますのに、ここには「1」が欠け落ちている。も ともと病院から入手して此処に加えるべき記事が、故意に提出資料から隠されているのではないですか。
 「緩和治療」に入って以降、死の転帰に至る病院側医療行為の全容が、説明が、欠け落ちた手書き「1」資料に含まれていたと観られます。
 資料全部の、作為されていない誠実な提出を望みます。                                                        以上
 

 以上を通じ、

 原告達は、親の責任と愛において、やす香入院前に、適切な何事も果たしていなかったこと、
 入院後にも、適切な連絡や説明を秦の両親や弟に対し全く欠いていたこと、
は明らかです。

 それらにより、やす香「死後」に、同じ肉親から批判を受けたことは、家族間の心事として決して不当でなく、むしろ原告達に、異様に両親の情理をふみにじ る無道のあったことは、明白であると主張します。名誉毀損など全く存在しないと主張します。
 正当な文学著作出版物である『かくのごとき、死』への不当な攻撃も、全く論拠のない居直りに過ぎぬと主張します。  
                                                      以上・秦 恒平・陳述

* わたしは、不当な提訴に対し、まだまだこういう陳述を信じられないほど大量に必要としている。誰もその代理はできないし、これを投げ出すことは、亡き やす香のためにも、また妻や息子のためにも、してはならぬことである。しかもこれらを「心静かに」わたしはしたい、つづけたい。
  こういう作業自体をわたしは現世という地獄での座禅・瞑想として受け容れている。「ばからしいから、いいかげんに、およしなさい」などとカンタンに言わな いで欲しい。



                
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