招待席
よさの
あきこ 歌人 1878〜1942。大阪府堺市生まれ。作歌は『乱れ髪』(明治三十四年=1901)以降、五万首をこえる。 掲載作は、明治四十四年
(1911)九月一日、雑誌「青鞜」創刊号の巻頭を飾った晶子異色の述懐詩である。 (秦 恒平)
そぞろごと 與
謝野 晶子
○
山の動く日来(きた)る。
かく云へども人われを信ぜじ。
山は姑(しばら)く眠りしのみ。
その昔に於て
山は皆火に燃えて動きしものを。
されど、そは信ぜずともよし。
人よ、ああ、唯これを信ぜよ。
すべて眠りし女(をなご)今ぞ目覚めて動くなる。
○
一人称にてのみ物書かばや。
われは女(をなご)ぞ。
一人称にてのみ物書かばや。
われは。われは。
○
額(ひたひ)にも肩にも
わが髪ぞほつるる。
しをたれて湯瀧(ゆだき)に打たるるこころもち。
ほとつくため息は火の如く且つ狂ほし。
かかること知らぬ男。
われを褒め、やがてまた譏(そし)るらん。
○
われは愛(め)づ。新しき薄手(うすで)の玻璃(はり)の鉢を。
水もこれに湛ふれば涙と流れ。
花もこれに投げ入(い)るれば火とぞ燃ゆる。
愁ふるは、若(も)し粗忽なる男の手に砕け去らば。――
素焼の土器(どき)より更に脆く、かよわく。
○
青く、且つ白く、
剃刀の刃のこころよきかな。
暑き草いきれにきりぎりす啼き、
ハモニカを近所の下宿に吹くは懶(ものう)けれども。
わが油じみし櫛笥(くしげ)の底をかき探れば、
陸奥紙(みちのくがみ)に包まれし細身(ほそみ)の剃刀こそ出づるなれ。
○
にがきか、からきか、煙草の味は。
煙草の味は云ひがたし。
甘(あま)しと云はば、かの粗忽者(そこつもの)
砂糖の如く甘しとや思はん。
われは近頃煙草を喫(の)み習へど、
喫むことを人に秘めぬ。
蔭口に男に似ると云はるるもよし。
唯おそる。かの粗忽者こそいと多(さは)なれ。
○
「鞭を忘るな」と
ツアラツストラは云ひけり。
女こそ牛なれ、また羊なれ。
附け足して我は云はまし。
「野に放てよ。」
○
わが祖母の母はわが知らぬ人なれど、
すべてに華奢(くわしや)を好みしとよ。
水晶の珠数(じゆず)にも倦(あ)き、珊瑚の珠数にも倦き、
この青玉(せいぎよく)の珠数を爪繰(つまぐ)りしとよ。
我はこの青玉(せいぎよく)の珠数を解(ほぐ)して、
貧しさに与ふべき玩具(おもちや)なきまま、
一つ一つ児等(こら)の手に置くなり。
○
わが歌の短ければ、
言葉を省(はぶ)くと人おもへり。
わが歌に省くべきもの無かりき。
また何を附け足さん。
わが心は魚ならねば鰓(えら)を有(も)たず、
ただ一息(ひといき)にこそ歌ふなれ。
○
すいつちよよ、すいつちよよ。
初秋(はつあき)の小(ちひさ)き篳篥(ひちりき)を吹くすいつちよよ。
蚊帳(かや)にとまれるすいつちよよ。
汝(な)が声に青き蚊帳(かや)は更に青し。
すいつちよよ、なぜに声をば途切(とぎら)すぞ。
初秋(はつあき)の夜の蚊帳は水銀(みづがね)の如く冷(つめた)きを。
すいつちよよ すいつちよ。
○
油蝉のじじ、じじと啼くは、
アルボオス石鹸(しやぼん)の泡なり、
慳貪(けんどん)なる男の方形に開(ひら)く大口(おほぐち)なり、
手握(てづか)みの二銭銅貨なり、
近頃の藝術の批評なり、
誇りかに語るかの若き人等の恋なり。
○
夏の夜のどしや降(ぶり)の雨、
わが家は泥田(どろた)の底となるらん。
柱みな草の如く撓(たわ)み、
そを伝(つた)ふ雨漏(あまもり)の水は蛇の如(ごと)し。
寝汗(ねあせ)の香、かなしさよ。よわき子の歯ぎしり。
青き蚊帳は蛙(かへる)の喉(のど)の如く脹(ふく)れ、
肩なる髪は鹿子菜(ひるむしろ)の如く戦(そよ)ぐ。
この中(なか)に青白きわが顔こそ
芥(あくた)に流れて寄れる月見草なれ。