「e-文藝館=湖 (umi)」 人と思想  招待席

よご すいがん   大雄山最乗寺重職  筆者については何も知らないが、招待作は、平成三年十二月法蔵館の刊、季刊「仏教」編『私にとっての『仏教』」 に収録の一文で、平成元年十月「仏教」初出。本編は、私も含む各界36人が順次執筆している中で、最も感銘ふかい覚者のことばと受け取った。ぜひ、大勢に 伝えたい、読まれたいと願っている。  秦 恒平





 佛教に何が期待できるか                

          余 語翠巌
 


 百家争鳴というすがたを見ると、言説は余計なものだという思いが今更のごとく深くなる。
 佛教というものに何か期待できるかというふうな言い方を聞くと、佛教というものがあって、そこから何かを会 得しようということでもあろうが、佛教というものがあり、キリスト教というものがあり、更にはイスラム教というもの、いろいろの異質のものがあって、それ ぞれの主張をのべ立てていることが、百家争鳴の観を呈することである。それぞれ自らを正しとする故に、宗教間のいさかいを見るようになる。ヒンズー教とイ スラム教の間のいさかいなどその顕著な例である。
 いつも思うことは、天地の道理はただ一つということである。譬えてみると、一本の円柱を切るに、縦に切ると 断面は長四角となり、真横に切ると、断面は円となり、斜に切ると断面は楕円となる。断面は異なっていても、元は一本の円柱である。この一本の円柱は、人間 の価値判断にかかわりのないものであり、いわゆる法そのものというべきである。法という文字は、「サンズイ」扁に「去」と書く、水の流れて行くすがたであ る。水の流れて行くすがたは人間の相談して定めたことではない。法律や道徳は、人間の寸法の中のすがたである。憲法というのがあって、いろいろのことが憲 法に違反しているかどうかということが裁判で判定をうけたりするわけであるが、何千年もそのまま続いた憲法など世界中に一つもありはしない。人間の相談し て定めたことであるかぎり、何か都合が悪くなれば、また相談して改めて行くわけであり、それもこの頃流にすれば多数決の原理によって改められるわけであ る。されど水の流れて行くすがたは、地球上においては、高きより低きに流れて行く、人間がどのように考えても相談しても、このすがたは変りようはないわけ である。
 人間の間だけで通用する寸法を「相対判の世界」という。人間の分別の世界の様相である。唐の盤山という禅僧 は肉屋のそばで会得があったと伝えられている。肉屋での客と主人とのやりとりをきいての会得である。客が「よい肉をくれ」と注文をする。主人は「わしの店 には悪い肉はおいてない」と応ずる。この対話をきいてなるほどなと思うわけである。肉屋の店頭には、ロースから中肉それからそれ以下の肉が並べてあって、 それぞれ値段が違うわけである。人間の食べる味加減によって、上中下が分れるわけである。至極当然のことであって少しも異とすることはないのである。
 しかし今少し観点を変えて見ると、その並べてある肉が、牛や豚の体についていた時には、肩の肉でも、足の肉 でも、尻の肉でも、それぞれの場所にあって、それぞれのはたらきをしているのであり、そこには上中下などの序列はないわけである。人間の間だけで通用する 寸法をはずして見ると、人間の値段表のかかわらぬ世界がそこに見出される。人間の間で美人は良しとする寸 法があるわけであるが、犬や猫が見ても美人なのであろうか。天地の道理、それは人間の寸法のかかわりのな い世界である。そこは、大小、善悪、正邪など凡ての入間の寸法を拒絶する世界である。禅録などで、「歿柄破木杓」(柄のとれたこわれた木杓)、「死猫児 頭」(死んだ猫の頭)などと表現されてある世界である。人間の値段表に上ってこない世界、これを相対判に 対して「絶対開の世界」という。相対判は限定された世界であり、絶対開は無限定の世界である。道徳法律は 相対判の限定された世界であり、宗教は絶対開の無限定の世界である。「神は凡てのものを嘉し給う」のであり「唯揀択(よりごのみ)を嫌う」のである。
 かくのごとき世界が本来の円柱のすがたである。断面が、円となり楕円となり長四角になっているのが、いろいろ限定された世界となるわけであるから、佛 教、キリスト教、その他百般の宗教の本元は、そういう名前のつかぬ世界をいうわけである。こういう言い方が、それぞれの名において異質の宗教のイメージを もっている間は、その名前をきいて抵抗を感ず
向きも出てくるわけである。佛教においてはと言えば、キリスト教においてはという 立場が生ずる。更に百千の立場が主張されるわけである。もろもろの名前が消えて、天地の道理に正当(しょう とう)する時、はじめて何かを期待するに足るということができようか。
 佛教もキリスト教もイスラム教も、その他百般の宗教が消え去ってもどうということはないのである。もろもろ の宗教ができて、人類が生まれたわけではないのである。地球ができてから四十数億年の時が経っているという。そういうことがよくわかるものだと感心するわ けであるが、その四十数億年を一年の長さに配分して見ると、この地球上に人類が現れてくるのは十二月三十一日大晦日の午後十時三十分頃だという。釈尊やキ リストの現出から今日までは四秒ぐらいという。悠久五千年などというものの、悠久でも何でもないわけである。その四秒ぐらいだという時間は佛教やキリスト 教ができてから、二、三千年のことであるが、そういう教えが、教えという枠をもって、却って自由なる存在を束縛しているように思える。人は、そういういろ いろの枠、教条というようなものを、自らの納得のないままに、盲受しているようなところが多すぎる。教えといえども、一つの枠となる時、それは自由を束縛 するものとなる。ここに存立するいのちは無限の活動体としてここに存立するのである。
 唐の禅僧、洞山と雪峰の興味ある問答がある。
 一日雪峰が薪一把を運び来て、洞山の前に置く。洞山がたずねる。
 「その薪はどれくらい重いか」と。
 雪峰は答える。
 「世界中の人が来ても、持てませぬ」と。
 更に洞山は言う。
 「そんな重いものをよく運んでこれたものだ」と。
 雪峰無対(こたえなし)とある。
 この奇妙な問答は何を意味するものか。
 薪を運ぶということは、当時のあり方から言うと、「薪を搬い水を運ぶ」ということであって、お互いの日常生 活を意味する。お互いの日常生活の重さということを尋ねることであるが、「世界中の人が来ても、持てませぬ」という。日常生活の重さをはかるものはないの
である。人のいのちは地球よりも重いという表現もあるが、そういう比べ合うすがたでなく、無限のすがたを言う わけである。「そんな重いものをよく運んで来たな」という、ここに存立する一箇のいのち、その来所は誰にもわからないわけである。対(こたえ)ができない わけである。この無限の活動体であるいのちにいろいろ人間の手垢をつけて来ているようなところがある。
 人間のすがたの中で、本能とされている性欲について考えてみる。どのような生きものでも、自らを増やそう増 やそうとしている。増えてどうなるということが少しもわかっていなくても、ともかく増えよう増えようとしている。これも天地の道理である。人間のはからい
の立ち入れないすがたである。人間の場合は、それは性欲のかたちをとる。食性の二大本能ということになってい るが、本能のままに振舞うことにいろいろ規制されることもあるが、本能そのものは、人間のはからい分別心でいう善悪を越えているはずである。性欲そのもの を不潔なもの不浄のものとする傾向がずっとあって、それは修行によって除くべきものなどとの考えが、教えとして伝えられて来ている。それをそうでなく、男 女の交わりは花が春の園に咲くごとく純粋に美しいものだという思いもあるわけである。
 そういうことについての興味深い祖録を見出す。六祖壇経というお経の最後の部分に「自性真佛偈」というのが あって、流布本には、
 除婬即是清浄身 (婬を除けば即ち是清浄身)
とある。性欲を除いて清浄身となるのだという。あきらかに婬というものを不浄のものとしているわけである。
 この部分を敦煌出上本(六祖壇経の流布本よりもっと古いもとの形のもの)に見ると、
 除婬即無清浄身 (婬を除けば清浄身無し)
とある。あきらかに性欲を清浄なものとしてある。
 教えというものが、その教条をもって枠内に人をとじ込めようとする時、人を束縛するものとなる。
 人は宗教を語る時、一糸乱れぬ統一された形の信仰形態を讃美する傾向がある。諸外国のそういうすがたをほめ るのをよく聞くことがあり、日本の人たちの無信仰ぶりをなげく声を聞く。果してそういうものであろうか。
 芥川賞作家の作品にユダヤ教の家庭に縁づいた日本女性の物語があったと記憶する。その女性を転宗させようと することに反撥して逃げ出すというような大すじであったと思うが、その中の述懐に、「日本の坊さんは、法事にお参りに来て、後の人たちが私語していても一 向意に介せず淡々としてお経をあげている」ことに何ともいえぬ郷愁を感ずるとしているところがある。全くその通りである。日本では初詣に数千万人の人が出 かける。そして、神様も佛様もいとわぬわけである。更には、どのような信仰をもっていても村八分扱いをされることはない。一糸みだれぬ統制下にあるすがた は美事ではあるが、その中に個の自由はない。統制的な全体主義のグループほど住みにくいところはない。日本はそういう意味において宗教天国である。憲法に 信仰の自由など書き上げなくとも、もともと自由なのである。
 佛教というものに何を期待するかという提題にそわぬ論旨のようであるが、せまい考えを越えて、天地の道理の中に遊化(ゆげ)するということであれば、そ ういう意味においての佛教ということであれば、上述の次第であるが、天地の道理に人間の手垢のついた意味においての佛教には期待するものはないようであ る。 
(1989・10 大雄山最乗寺住職)