「e-文藝館=湖(umi)」旅と 体験

やなきさわ まさおみ 1953年生れ。25年の金融機関勤務を経て2002年4月英国に移り、2006年8月末からフランスのノルマンディーに住み、読書と音楽活動 を楽しむ。掲載作は、2003年8月、自身のホームページ「柳絮舎の書斎」に初出。





            内蒙古と北京        柳沢 正臣
 


 はじめに

 発端   内モンゴルに行くという話は、オックスフォードのミリア ムの誘いであった。彼女が昨年夏と今年の初め、子供たちに語学を教えに行ったことがあり、又行くので一緒に行かないかと声を掛けてくれたのである。北京ま で自前で行けば、あとは国内旅費も宿泊もすべて先方持ちで、連日のご馳走、週末は色々見物が出来る。子供たちに教えるのは会話だから、何も準備は要らない わよ、というのである。
 眉唾のような話だが、これは面白そうだというので、承諾をしたのが2月。履歴書をミリアムに渡し、航空券を手配し、中国入国のビザを取ったのが5月で あった。ところがミリアムは、高齢のお母さんの面倒を見ざるを得ないことになり、大学にも休みを取って、6月初めにカリフォルニアに行ってしまい、結局当 方だけになったのである。
 6月も後半になるのに、主催者からは一向連絡がなく、ミリアムもロスアンゼルスに行きメールでしか連絡できなくなってしまう。大丈夫かと心配になってき た。オックスフォードのフェローでも、ミリアムには夢を見ているようなところがある、切符を買ったのは無駄であったかと思っていたところ、直前に現地のミ セス・オーから電話連絡があって、漸く本物らしいとわかり、北京に向け出発した次第である。この不確実性が今回の旅行の基調をなしている。
 出発の時点で判明しているのは、フランバイル市ハイラル区のある住所と、北京で国内航空券を手配した人間が待っているから、それで現地に行くことができ る、というだけであった。フランバイルがどこにあるのかは、インターネットで調べても良くわからないままであった。

 到着まで   航空券は、安いものを探してオーストリア航空の便を 予約した。ロンドンからウィーンに行き、そこから北京に入るのである。しかしSARSの影響で、行きの便はキャンセルとなり、ウィーンからフランクフルト に戻り、ルフトハンザの便で北京に入るという遠回りになってしまった。途中のウィーン、フランクフルトの空港の本屋で、案内記などを読んでいるうちに、ハ イラルは内蒙古でも東の黒龍江省に近く、ロシア国境にも近いことが判ってきた。
 16日の朝、北京に到着すると若いお嬢さんがこちらの名前を書いたカードを持って待っていてくれ、一安心。彼女はすぐに国内便の手配をするからと切符窓 口に連れて行き、座席はあるのですぐ切符を買って下さいという。早速「こんな筈ではない」の事例が出て来る。国内航空券の手配は先方の負担の筈と伝える と、彼女は携帯電話で誰かと連絡をとるが、埒が明かない。結局当方と変わる。電話口に出てきたのは先日電話で話したミセス・オーで、話をしてとりあえずこ ちらで立て替えて、あとで返してもらうことになる。前途多難を予想させる北京であった。
 行き先は、航空券を見てやっとフランバイルではなくハイラル(海拉爾)とわかる。午後4時25分の便なので、それまでを喧騒の空港内で過ごした。その 間、周りを見ていると、発券カウンターでは、窓越しに係員と搭乗券を求めるお客が大声でやりあっている。混雑してなかなか座れない待合室の一角でも、座席 を巡って、つかみ合うばかりのやり取りが始まるなど、なかなか騒々しい。
 夕方6時半にハイラルの空港に到着。迎えが来ていて、すぐにホテルに連れられ、そこで歓迎の夕食会となる。参加者は以下の通り。
 呂忠氏。フランバイル市の民族少年宮の主任で、党の下部組織である共青団フランバイル市委員会の副書記。40歳位の漢族の男性。
 モンゴル族の女性、包君花さんは副書記で2番目の地位。3回乾杯をするのがモンゴルの習慣というので、敬意を表してその通りにする。
 包群光氏、少年宮の対外交流の責任者で40歳。後に彼の運営のまずさに呆れることになるのだが、この時はわからず。
 金従波氏と、童鈞氏。共に少年宮の副主任だが、金氏は運転手のようなもの、ウイグル族。童氏は満州族。
 金東梅さんは市の観光局に勤める女性で、日本語が非常に上手。最初日本人かと思った。お父さんは残留孤児の帰国に尽力をされたという。少数民族タオール の出身。
 英語教師は韓国系米国人の呉(オウ)さんと英国のキャスリン。電話で話したのはこの呉さんであったのである。韓国語の先生が韓国の李さんというお嬢さ ん、日本語が当方。申華さんという韓国系中国人の女性も参加。


 少年宮の夏期講習

 フランバイル市ハイラル区   数日たつうちに、少しずつ事情が呑 み込めてきた。ここは内蒙古自治区のフランバイル市である。面積25万平方キロは、日本の国土の3分の2の広さ、ほぼ英国全土の面積となる。人口は270 万人、蒙古、タオール、オンク、オロチョン、ロシア、朝鮮、漢、回、満州など全体で36の民族からなるという。そのうち7割が漢族で、モンゴル族は26% を占める。中国全体では漢族が95%、全部で56の民族がいるとのこと。
 日本語を教えるのは、その中心のハイラル区にあるフランバイル市民族少年宮においてである。ハイラルの人口は26万人。昔はハイラルが一つの市であった のだが、周辺と合わせてフランバイルという非常に大きな市にしたのである。
 地図を見ていたら、南南西200キロほどの所に、ノモンハンの地名を見つける。関東軍はハイラルに一大拠点を築いており、観光資源の乏しいこの地では、 ノモンハンの古戦場とハイラルの地下要塞はツアーの対象になっている。

 少年宮   到着の翌日、朝食に呂さんが迎えに来てくれ、これから 教えることになる民族少年宮を案内してもらう。少年宮は中国独特の課外教育の施設である。ここの少年宮は宿泊したホテルと棟続きになっていて、84年に出 来たとのこと。音楽・芸術・体育活動の部門と、対外交流部門、それにこの少年宮の特色である併設幼稚園(2学年)と小学校(5学年13学級)とで、全部で 3部門からなっている。ピオネール、書道、絵画、音楽(二胡、馬頭琴、笛、揚琴、合唱、声楽、アコーディオン、電子オルガンなど)、功夫、卓球、コン ピュータ、最後は天文台も見せてくれる。
 教師は音楽や芸術などの専門教師が80人、幼稚園・小学校で40人、すべて合わせて120人である。1学級の生徒数は60〜70人と大きい。少年宮の見 学を簡単に考えていたが、結局大勢の職員が総勢で歓迎してくれることになる。

 ホテル   ホテルは少年宮と棟続きになっていて、その最上階の4 階に泊まっていた。しかしこのホテルは、建設してから殆ど手を入れていないようで、数日夕立が続いたところ、天井から雨漏りがするようになった。桶を3つ 持ってきてもらう。ロビーに降りてみても、あちこち盥を置いてある。
 水周りや什器備品の古さのほかに、新鮮というか驚いたのがトイレット・ペーパーのことで、申し訳ばかりを手巻きにして洗面所に置いてあるだけなのであ る。用を足すのにも大事にしなくてはならず、それでも1回で使い切ってしまい、すぐに追加を各階の服務台にいる係の女性に頼まないといけない。
 不便この上ないのだが、レストランの手洗いを覗いても紙が備え付けられておらず、どうもおかしいと思い金東梅さんに聞くと、各自が必ずトイレットペー パーを持っているのだという。子供の頃ハンカチと鼻紙を持っているか学校で点検をした記憶があるが、これと同じことと合点する。どこに行くにも落とし紙を 持参するというわけで、自衛しなくてはいけない。しかし自前で買った紙をたっぷり使って用を足すと、今度は手洗いがすぐ詰まる。ゴムの吸盤でつかえを取っ て貰ったが、難儀なことである。


 日本語を教える

 初めての授業   SARSの影響で遅れたということであるが、7 月21日の月曜日から、2週間の予定で日本語の授業が開まった。午前中10名の生徒が集まる。参加者には、日本語を習い初めて3ヶ月の初心者から、大学の 日本語科の学生やある程度話せる社会人までおり、焦点をどこに合わせるかで苦労する。
 初心者の高校生4人を連れてきたのは、杜敏さんという日本語を教えている女性。彼女の日本語も初心者の段階で止まってしまっていて、話がなかなか理解で きない。それなのに授業中は他の生徒に余分な解説を加えたりしている。教える水準をどうするか、彼女のお節介をどう封ずるか思案しつつ、最初の授業を終了 する。
 一番問題なのは、生徒の水準が区々なこと。休憩時間に杜敏さんと話をして、初心者には申し訳ないけれどもお引取りを願う。それで午後は初心者の4人を含 む6人が抜けて、新たに1名が加わり5名で授業をする。杜敏さんは相変わらず、途中で「先生、それは助動詞で連用形につきますですね」などと、いの手を 入れてくる。困ったことと思いつつも、多少応対をしながら授業を進める。しかし彼女も外の生徒との対比で自分の実力を知ったのか、数日するうちに静かに なった。第2週は最終日以外来なかったので、大いに助かる。

 混乱の開講式   開講式は見ていてなかなか面白かった。式を初日 の午後4時からするという。朝一番にしないのはどうしてなのかわからないが、とにかく時間に生徒が集まり、こちらも午後の授業を打ち切って待っているのだ が、一向に始まる気配がない。しかし彼らは汗をかくでもなく、平然として、のろのろとマイクの用意をしたりしている。
 何かが原因で遅れているのであるが、説明がこちらにないので、事情がわからない。前提とする考えが違っていることに気付かず、説明しなくともわかると考 えているという推測もできる。会話力に問題があって説明できずにそのまま放置されているとも考えられるし、そもそも関係者に事情を説明をするという発想が ないのかもしれない。
 そのうちにオレンジ色のTシャツと帽子が到着する。これを待っていたらしく、子供たちにそれを着用させる。背中に2003年少年宮英語サマー・スクール と書いてあり、日本語と韓国語はどうしたのかと疑問になる。
 半分ほどの児童がそれを着用して整列し、4時半をすぎて開講式が漸くに始まる。司会の児童の手には印刷した式次第と話す内容が書かれたものがあるところ を見ると、事前準備はしているのである。包群光氏が長々演説をし、司会とは別の子供が歓迎の挨拶をし、少年宮の団旗授与があったり呂氏が熱弁を振るったり して、そのあと教師の紹介がある。テレビの撮影もある。さらに女性英語教師が自分で作った英文挨拶を読む。ただ彼女の発音は聞き取り難くて、どれだけの人 がわかったか不明である。最後に主催者と語学教師一同が、風船を渡されそれを針で割って、賑やかに式は御仕舞いになった。
 食事の時に呉さんが、英語の教室は少年宮の対外交流部が主催者となり、240元の参加費をとっていること、それに対して日本語と韓国語の教室は、東京在 住の韓国人牧師の黄氏の主催で、金東梅さんが面倒を見ていおり、参加費は無料と話す。このような語学コースは昨年8月に始まり、今年1月にも行なわれたと いうが、その時には黄氏がおり、フランバイルの少年宮側でも呂氏の上司になる人物が面倒を見ていたのが、今回は両名を欠き、対外交流部の包氏も2ヶ月前に 着任したばかりということで、運営が混乱しているとのことである。

 日々の授業   授業2日目の午前中は、4名の出席に留まる。うち 1名は今回からの参加で、平仮名が読める程度の初心者。今日からやや水準を高くしたので、途中で多くの生徒が脱落して、最後まで教室が存続するか不明。
 この語学コースは運営が良くわからない。最初に受講生の一覧を渡されるわけでもなく、その日本語の水準も不明であり(一行読んで貰えばすぐにわかること ではあるが)、受講生の友達がひょっこり顔を出すとか、曖昧模糊としたまま進む。こちらもくらげのような対応で行くことにする。
 教科書は、最初は英国で教える時に使ったものをもとにしたのだが、勝手が違う。漢字を知っていることが、横文字の国で教えるのに比べると、決定的に違う のである。そこで方針を変更することにした。もっとレベルを上げていいのである。ただ材料がないので、生徒の高静さんの持っていたテキストを拝借すること にする。これは日本語に中国語の解説がついたもので、上海大学の編になるもの。彼女は大連民族学院日本語学部の2年生で、この教科書の一部をコピーしても らい、各課を順番に見ていくことにしたのである。彼女の夏休みの宿題の手助けとなるし、彼女が脱落する心配もなくなるという計算もあったのである。最初コ ピーを事務局に頼んだのだが、学校のコピー機は使えない、外で取ってくるという。しかしこれが全くあてにならず、必要な時までに出来ていない。それで自衛 のために高さんに頼んだのだが、これが正解であった。
 週の半ばになっても、朝の授業に来た若者が午後の授業ではもう脱落しているとか、公務員勤めを11年していたが今は日本語を教えているという30過ぎの 人物が午後に参加するとか、受講者には出入りが続く。しかし初日に来た若い女性2人が戻り合計6名となり一安心。
 水曜日の午後、生徒から教科書を離れ日本の話を聞きたいという希望が出たので、机を向かい合わせに並べ替えて座談会のような形に切り替える。これはこち らの用意なしで即興で話さなければならないので、かなり力が要る。彼らは日本ことを知りたいのである。ある日の自由会話は日本の映画の話となり、各人の興 味ある映画の題名を挙げて貰ったが、寅さんなどの外に当方が知らない若い映画監督の作品が出てきたりする。

 生徒たち   その後、日本語の生徒はほぼ定着した。日本語が一番 上手なのはモンゴル族のソリナさんで、9月に北京民族学院の大学院でモンゴル語を勉強することになっている。日本語とモンゴル語とは似ているところが多い という。絵描きの満達君は30歳で、少年宮で絵を教えていて、彼女が宇都宮に留学しているので、日本に行って見たいという。彼もモンゴル族。この二人はフ フホトの内蒙古師範大学で学んでいるのだが、そこではモンゴル語で勉強したという。
 教科書を借りた高静さんは、大連民族学院の学生で、モンゴル族。しかし漢族に近い顔をしていて、家庭でも中国語で話しているという。内蒙古のモンゴル族 は大多数がモンゴル語を話すことが出来るが、読み書きが可能な割合となると大分少なくなり、若い人ほど読み書きが出来なくなっているという。天津大学でビ ジネス日本語を学ぶ楊洋さんは、漢族だがふわっとして、日本の女の子と同じような雰囲気である。
 ウイグル族の王奇君は22歳、ジュースを作る会社で働き始めたところ。王心男君も22歳でロシア系、曾祖母がロシア人という。外見は中国人である。日本 語は、ソリナ、高静、楊洋の女性3人が大分上手で、男性3人は彼女たちに助けてもらっていた。
 ある朝、生徒の王君がこちらの名前を飾り文字で書いたものを持ってきてくれた。名前の漢字四字を、めでたい鳥や魚や動物や宝船などで飾ったものである。 絵かきの満達君も、自作の油絵の写真を持って来て見せてくれたり、生徒同士も電話番号の交換をしあったりしてお互いが良い雰囲気になってきたのは有難かっ た。満達君はその後も馬頭琴の名手、斉宝力高(チー・ボルゴ)の演奏を収めたカセットを持って来てくれたり、写真を撮ってくれたりした。

 教材   木曜の午前中の授業には、260キロ離れた根河市から李 福氏が来て、総勢11人となる。彼は金曜日まで2日間参加。
 昼食後は杜敏さんの持っていた読売新聞の記事のコピーをとり、それを教材にする。同じ生徒を相手に、午前2時間半、午後2時間半、2週間続けて話をする となると、結構大変である。教える材料が枯渇しないように現地調達を工夫しないといけない。
 週の途中からは、私の好きなこと、好きな食べ物、私の家族、といった課題を与えて作文を書いてもらうこともした。添削をしながら読んでみると、テニヲハ はおかしいが、結構皆のことが判る。休憩時間に一人ずつ呼んで、添削した所を説明していると、なかなか休みにならない。
 閉口したのは、教室で使うチョークが粗末なことで、少し力を入れるだけで折れてしまうのである。また、黒板拭きがないので、書いたものは濡れ雑巾を使っ て消し、休憩ごとにそれを洗わなくてはならない。ただ、終わって黒板を消したり雑巾を洗ったりしていると、先生やりましょうと、生徒が申し出てくれて、後 半は楽をさせてもらった。生徒が時間にきちんと現われることも、やや意外であった。

 漢字の力   英国で日本語を教えるのに比較すると、中国で教える 時には中国人に漢字の基礎があるだけに理解が早い。表記法が多少異なるものの、漢文的な漢字を並べることによって、意思疎通がある程度可能なのである。少 し日本語を話せる生徒が通訳になってくれるのも、助けになる。発音も西洋人より上手にできる。
 こちらも、漢字を見ていると街の看板は大抵見当がつく。テレビも字幕を見て何の話かおよそ理解できる。漢字を共有していることの有難さである。香港や台 湾では昔ながらの繁体字を使っているが、中国本国では簡体字なので、少し慣れないといけないが。
 教室ばかりでなく、日常生活でも筆談で意思疎通はほぼ出来る。漢字を並べて漢文まがいの文章を作れば、買い物には不自由しない。但し漢字は同じでも意味 の異なるものもあり、手紙がトイレット・ペーパーのことであったりする。トイレット・ペーパーの調達は、初めの数日間の最重要事であったが、ホテルでは巻 いたものの絵を描いて示しすと、こちらの意図は十分通ずる。
 しかし自分で食事の注文をしてみると、毎回が意外なことの連続であった。その都度新たな食事ができたとも言えるが、漢字で見当をつけて頼んでもなかなか 思った通りのものが出て来ない。ある時にメニューの冷菜の所に鶏という字の入ったものがあり、値段が高いので頼んでみたら、野鳥を丸ごと佃煮にしたような ものが出てきて、驚いたことがある。

 授業色々   2週目になると、教科書のほかに、各人の作文の講評 をしたりして、教材の枯渇は心配せずに乗り切れそうな目途がついてきた。前週の個別の作文をまとめて、自己紹介として完成させる課題を出したところ、お互 いに助け合いつつ、それなりのものが出て来た。王心男君は・・・ですという文型だけで、かなりのことを表現したので、大いに誉めたところA嬉しそうな顔を していた。
 ある日、日本語の本があれば持って来るように言った所、モンゴル族のソリナさんが日本語の歌の本を持ってきた。それで授業の予定を変更して、日本の歌を 教えることにする。教えたのは四季の歌と瀬戸の花嫁。午後は皆の歌に、王奇君の持ってきたギターを王心男君が弾いて伴奏をつける。当方も持って行ったリ コーダーで旋律を吹く。
 日本語の授業では、説明を漢字で書けば、生徒は大体のところは理解してくれるが、その外に多少のジェスチャーが必要で、毎日やっていると大根役者になっ たような気がしてくる。ある日の教科書に、福沢諭吉の紹介の文章があった。自ら買い物に行かざるを得ない中津藩の下級武士が、外聞を憚り夜半に頬被りをし て出かけたということの説明をする時には、背景説明も含め、身振り手振りで大分時間がかかった。彼らは下手な演劇を見ているような気分であったろう。笑っ て見ていたが、最後に「わかった?ミンパイ?」と聞くと、「ミンパイ」と皆の答えが返ってきた。
 ある時、ソリナさんからビールと乾燥チーズを貰った。ビールは醗酵に砂糖を使っていないという特別なもので(本当に砂糖なしでアルコールになるのだろう か)、夕食に供して語学の先生たちで飲んだが、果実の香りがあり口当たりも滑らかで、普段飲んでいるハイラル・ビールよりも上等であった。チーズは完全に 乾燥していて、口の中でなかなか溶けない。少しずつ口の中で溶かしながら食べるのだというが、外の食べ方があるだろうか。

 オンク族の祝賀   2週目の水曜日に、「日本の友人を連れて、市 内を日本語で案内する」という課題を与えた。授業の最終日に生徒たちに市内を案内してもらおうという魂胆があったのである。博物館があるのではないかな、 最後は貴方たちのおすすめレストランに連れて行くというアイディアはどうかな、などとこちらで勝手な注文をつけるが、皆色々な材料を持ってきてくれる。 昔、鳴滝塾でシーボルトが蘭学の生徒たちに課題を与えると、日本人はシーボルトの求めに応えようと、各地の植物や産物を一生懸命に集めたというが、それを 思い出した。
 そんな話をしている中から、8月1日の金曜日に、オンク自治旗(旗はチと読み、この地の行政単位)の創立45周年祭がある、そこの博物館も新装なって開 館するという話が出てきた。それで最後の金曜日は博物館の見学もしがてら、その記念祭に皆で出かけることにした。車で20分ほど南に下った所が会場とい う。
 その日は、生徒の一人、例の杜敏さんがこの地区のオンク族の出身なので、便宜を図ってくれる。姉婿が地元の警察に勤め警備を担当していて、入場券なしで スタンドに入ることが出来たのである。但し入ることが出来たのは3名で、他の生徒は立ち見席で、最初の入場行進などが行なわれている時には彼らと合流でき なかった。一緒に行こうと言った当方として彼らに申し訳ない気持になる。
 9時に式典は始まり、開会の辞、国旗掲揚のあと、旗を持ったり色鮮やかな民族衣装や各種の制服の人達の入場が続く。蒙古風の衣装にも、帽子の形や、腰の ベルトの有無など、それぞれの民族ごとの違いがある。牛や馬の行列や、山車もある。マス・ゲームや花火の打ち上げもあって、大変賑やか。一緒に入った生徒 のソリナさんの話では、夏の祭典のために子供たちは半年余練習をするのだという。集団での演技に費やす時間と労力の多さ、使う色彩の鮮やかさに、彼らの考 えや趣味の一端が伺える。
 1時間ほどで開会の式典は終わり、その後、場内では競馬やモンゴル相撲や、木の棒を敵味方が奪い合う試合などが始まる。その頃には外の生徒たちもスタン ドに入ってくる。夏の日差しはかなり強く、半日スタンドで見学しているうちに顔も腕も日焼けをした。馬の競技には、地面に置かれた羊の模型を、騎手が拾う ものもあった。騎手は、身体を鞍から離し、地面すれすれまで横になって、子羊に模した毛皮の塊を拾うのである。疾駆する馬の尻尾が横になり風に靡いてい る。
 昼は招待客用のゲルで、羊肉の茹でたものと野菜2種をご馳走になる。接待の責任者の弟という杜さんが同席。オンク自治旗のモンゴル相撲の第一人者とい う。立派な体格、立派なお腹の人物。その外に民族衣装の娘さん2人も来る。一緒に記念撮影。こちらも民族衣装を着せてもらい、写真を取ってもらう。
 祭りの帰りがけにオンク自治旗の博物館に寄る。その女性館長が杜敏さんと親友というので、これもフリー・パス。どの国にも役職者が知人に便宜を図ること はあるので、それは程度の問題かもしれないが、ここでは、私的なつながりの果たす役割が非常に大きいと思える。彼女の父親はオンク旗の有力者であったとの ことで、訪ねた博物館にお父さんの写真が飾られていた。

 送別会   その日の夜、祝典の時にスタンドで一緒になれネかった 生徒たちも加えて、ジンギスカン広場の前のモンゴル料理の店で送別会をする。満達君の友人で少年宮で馬頭琴を教えている顎雪松氏が合流。ガンバを弾いてい るので、二弦の馬頭琴も何とかなるだろうと、彼に弾き方を短時間だが2回指南してもらったことがある。弦を押さえる左の指を、横から弦に当てたり、もう一 本の弦の下から押さえたりというのが難しかった。娘さんも北京民族学院で馬頭琴を習っているという。
 彼は41歳のタオル族だが、切れ長の目、やや厚めの唇、しっかりした肩と手の持ち主で、典型的なモンゴルの顔をしている。その彼が、何度も乾杯と言って 来るので、こちらもコップを乾さなければならない。高さんと楊さんは、しきりに気を遣って「先生、私たちが送って行きますから、心配しないで下さい」と 言ってくれる。
 顎氏は途中で、馬頭琴の独奏曲を披露したり、皆の歌の伴奏をしてくれる。独奏は草原を駆け巡る馬を描写したもので、音量が豊かでダイナミック。送別会の 御仕舞いに、生徒に教えた四季の歌を皆で歌う。顎氏が馬頭琴で伴奏をつける。最後に記念撮影。写真は翌日ソリナさん、満達君が持ってきてくれた。若い人達 なので、こちらで食事代を払うといったのだけれども、いいですと言って、彼らは受け取らない。
 楊洋さんが、あとで読んで下さいと言って、カードを渡してくれた。少し日本語としてはおかしいところもあるが、それでもかなり良く書けている。以下の通 り。

 柳沢先生:この間いろいろお世話になりました。どうもありがとうございました。短い時間でしたが、先生は易しくて熱意を持っていて才気がずばぬけている 人だと思います。先生に知り会うことは私の幸福だと思いますから、心から感謝いたします。先生の御家族にまた事業に神様の豊かな祝福がありますように。も し機会があったら、いつか日本で先生にお会いしましょう。 2003年7月31日 楊洋。


 小旅行

 根河市   ハイラルに到着したのは水曜日で、翌日施設の案内をし てもらうが、そのあと授業開始までどうなるのか、勝手に動いていいのか、何か計画しているのか、全くわからない。こちらから要求を出して押さないと予定が わからないのが彼らの特徴と合点して、金曜日の朝、呂さんを訪ねる。明日は何か企画するという。
 聞きたいのは本日の予定で、結局は話し合って市内見学となり、市の西側にある森林公園を訪ねる。松林の公園である。老人がそこで2人太極拳をしていた。 その後デパート見学をするが、小判のノートを記録用に買っただけ。買う時は、従業員に品物購入の伝票を書いてもらい、それを持って収銀台というレジで代金 を払い、再び売り場の従業員のところで品物を受け取る仕組み。ロシアのデパートでもこの方式であった。昼を取ったあとは暫く昼寝、夕立で目が醒め、かなり 蒸し暑くなる。
 週末に呂氏が何か計画すると言ったのは、ハイラルから260キロ北東の根河市への一泊旅行であった。予定は前日夜か当日にならないとわからないのが、こ この人達の特徴。土曜日の朝金従波氏ともう一人が運転する車2台に、先生4人、呂氏、童氏、金東梅さんが分乗して出発する。
 ハイラルの町を出るとすぐに草原となる。100年来希な雨の少ない年ということで、草原はやや黄土色でやや乾いた感じ。そこに痩せた牛が放牧されてい る。10数頭の群れに牧童が1人ついている。ハイラル市内の市場で見かけた、郊外から来たと思われる人達が、一様に日焼けして黒い顔をしていたのがわか る。毎日高度が高く紫外線の強い屋外で牛を追っていたら当然のことなのである。時々ゲルが見える。
 途中オルグナ市(旧の拉布大林、ラブダイリン)で小休止。ロシアとの国境まで43キロのところ。公衆便所の大は扉のない仕切りだけで、中には排泄物だけ ではなくあらゆるがらくたが捨てられている。
 車を走らせるに従って、次第に草原の緑が濃くなり、海抜が高くなっていく。時々広い菜の花畑や畑作地がある。周囲は徐々に樹木の緑が多くなってくる。見 渡す限り全く手付かずの原野で、草地に潅木があり、その間を澄んだ水をたたえ根河がゆっくりと流れ、さらに向こうには草で覆われたなだらかな山が見えてい る。根釧原野に近いのだろうか。この風景は旅行の中で一番印象に残るものであった。
 車中で、今晩晩餐会には副市長か党の副責任者が出て来ると聞かされる。きちんとした上着を持って来れば良かったかとも思ったが、それほどの事もなかろう と多寡を括ってそのままにする。
 根河は林業の町で人口17万人。面積1.9万平方キロ、平均海抜1,400メートル。平均収入は月に800元。昼食は町の入口の所で、根河団委(党青年 団、党の下部組織)の劉志臻という若く野心的な女性が出迎える。午後は市内野生動物€と鹿の飼育場を見学。鹿は肉と角を取るために140頭を飼育してお り、一部は所有者からの寄託を受け、その場合は利益を折半するという説明を聞く。角は強壮剤に使われ、毎年切っているが、3キロの角で4,200元のこと で、平均収入と比較するとかなり高い。
 根河のホテルで荷解きをする。部屋は一見立派だが、風呂場に脚盤と書いた大き目の洗面器の様なものが置いてある。これで足を洗えということには理由があ るはずと、風呂の水栓をひねって湯を出してみると、案の定、最初に少し黒い水が出ただけですぐに止まってしまった。確認してみると、風呂場は使えないとい う。ハイラルの宿舎のほうが、その点では上等。トイレット・ペーパーがないのは、ハイラルのホテルと同様。
 夕宴の時間まで町に出てみる。といっても、ホテルから中心部の交差点まで50メートル、店は東西に200メートル程、南北に100メートル程あるだけ。 今後のためにトイレット・ペーパーを2巻買う。郊外からきた農民たちが、路上に山野で摘んだ苺や木の実などを並べて売っている。青い松かさもあるが、これ は何にするのだろうか。
 時間に宴会場に行ってみると、運転手のような人物が2人待っていたので、ニイハオと握手をしたが、宴席についてみて、彼らが今日の宴席の主催者であるこ とがわかる。根河市共産党委員会副書記の鄭学文(ジェン)氏と、政府事務所主任の張氏。副書記は副市長ではなく局長クラスという。会った時に無視せず握手 をしておいて良かった。
 鄭氏は40代半ば、党の任命で赴任して来ており、日本のキャリア官僚と同じような立場であろう。宴席で彼に根河市の人口や主要な産業を聞いてみた。当然 ながらきちんと数字は頭に入っている。着任後1年というので、何に力を入れているかと問うてみたところ、観光開発をしたいという答であった。魅力ある観光 資源を開発すること(例えば森林遊歩道)、受け入れの施設を拡充すること(ホテルにトイレットペーパーがないと外国人は驚く)、内外の交流を盛んにするこ と(人を海外に送る、海外から人を招く)が大切ではないかと、尤もらしく述べておく。しかしここまで来る外国人は殆どいないようである。
 鄭氏が同じ党の仲間である呂氏や劉さんとしきりに中国語で話をしているのを見て、ロンドンの支店にいた時、中華料理店でよく出張者を囲んで食事をしたこ とを思い出した。出張者をもてなしつつ、仲間内で仕事の話をして、結束を固めているその雰囲気が、良く似ているのである。
 翌日の日曜日の朝食に、日本語を独学で勉強して4年になる李福(リップ)氏が同席する。41歳のモンゴル族。日本語はたどたどしいけれど、何とかわか る。総合執法局の局長というが、局長さんというにはやや頼りない雰囲気。今年1月のスクールにも参加し、忙しいけれど、第2週目には参加したいという。独 学を激励して、来る時には使っている教科書など持参するようにという。余り使う機会もなさそうな根河で、彼が中年になって日本語を始めたのは、何故なのだ ろうか。人の不思議さである。
 朝食後ハイラルに戻るが、李福氏が市の郊外30キロの所まで車で先導して送ってくれる。古人は、塞外に赴任する人の送別のために郊外まで一緒について 行って漢詩を作っていたが、李福氏の行動はそれと似ていると感じる。
 根河市の外れで、荷台に一杯の長い枯れ枝を積んだ自転車と何度もすれ違う。郊外の森に出かけて薪を拾い、炊事に使っているのである。まだガスが整備され ていない由。途中で写真を撮りながら戻るが、道端で人々がバスを待っている。バス停はない。どこでもバスに乗れる自由は便利。そのバスは盛大に黒煙を撒き ながら走っている。
 3時間余の道のりを、往復とも運転するのは金従波氏。途中で助手席の童鈞氏が居眠りをすると、起きろと膝を叩いていた。後ろから、こちらもご苦労様、寝 ないでねと、金氏の肩を揉む。二人は西遊記の猪八戒と沙悟浄のコンビを思い出させるが、共に少年宮の副主任なのである。
 夕食には金さんが同席してくれる。自分はあとで自宅で食べるのに、ご苦労なこと。筆談で以下のことが判る。彼は回族で先祖が100年前にこの地にやって きて、ウイグル語で話す習慣は早くに失い、家庭では中国語だけだという。筆談で「ウイグル語はアラビア語でわからない」と書いていたので、ウイグル語を辞 書で調べると、かつてこの言葉は独自のウイグル文字を使用していたが、現在ではアラビア文字またはローマ字を用いる、と出ていた。

 満州里へ   第1週の終わった土曜日は、昨日の曇り空と打って変 わり、朝は快晴。土曜日の授業をしないことにしたので、英語のクラスの野外活動に付き合う。森林公園に再び行き、爬虫類の展示を見る。蛇が5種類、亀が3 種類、イグアナと小さな鰐が1匹ずつガラス・ケースの中に入れられていた。ケースに、草木や石もなく、蛇が安手のメラミンの板の上にとぐろを巻いているだ けである。鰐は、展示場の係の女性が時々棒で突付いて、口を開けさせていた。
 森林公園の松林の日陰で、英語クラス参加の子供たちを集めてゲームをさせていたのだが、例により場当たりと見えるようなやり方で、子供たちのゲームに参 加するよう依頼を受ける。少しだけお付き合いするが、余りの無計画さに、昼食時に筆談で再考を促す。趣旨は伝わったようである。
 その昼の席で明日は、国境の町、満州里に行きたいと希望を述べたが、こちらで単独で行けるのか、誰かと行くのか、車を手配できるのか、バスで行くのか、 列車を使うのか、何時に迎えが来るのか、一向に埒が明かない。英語をきちんと話せる人間がいないことも原因であるが、包氏からは、その場の思いつきのよう な対応しか出てこない。昼食後呉さんのパソコンでメールをチェックし、午後はのんびりする。
 満州里行きについては、なかなか返事がない。出発前夜、ホテルに人が来て打ち合わせをするということを伝聞で聞いたのだが、結局誰も来なかった。
 日曜日の早朝、英語を話す女性がドアをノックする。これから満州里に案内するというのである。好意を謝しつつ当方が包氏から十分な説明がなく一方的に決 められても困ること、早朝来られても迷惑するので自力でゆっくり出発すること説明し、引き取ってもらった。しかし食事をするために下に降りていくと、童と 金の両氏と今朝ほどの女性が待っていた。彼女は孫洪泉さん、少年宮の幼稚園の先生とわかる、英語は比較的まし。結局彼ら同道で満州里に行くのである。金氏 がバス・ターミナルまで送ってくれて、童氏と孫さんそれに孫さんのご主人が同行する。彼は木材の輸出入の仕事をしており、満州里まで行き一泊するという。
 待合所で掲示を見ると、満州里までは214キロとある。バスは8時半に出発。ハイラルを出ると道は殆ど一直線に延びていて、対向車はあまり走っていな い。自家用車らしきものは見かけず、バスか公用の車ばかりである。緑の草原には羊の群れ、牛の群れが点在し、群れのどこかにそれを追う人がいる。時には水 辺に馬の群れもいる。前を走るトラックを追い越したり、道を横切る子牛を追いやるために、運転手は盛大に警笛を鳴らしながらバスを運転していく。
 町と町との間は何十キロも離れているのに、途中で歩いている人がぽつりぽつりといるのが不思議。なだらかながらも道には上り下りがあり、長く延びた坂を 上りきると、はるか向こうまで見渡すことが出来る。見える限りすべてが草原で、地平線とはこのことかと思う。少しずつ高度が上がっていく。この風景を眺め られたのが、今回の日帰り旅行の最大の収穫である。
 満州里まで3時間余かかる。ここは交易の町で、ロシアへのショー・ウインドウということもあるのであろう、町に近付くに連れて道も広くなり、中心部の建 物は綺麗に見える。しかし今完成したばかりのショッピング・センターの集合のようなもので、歴史が感じられない。買い物以外には見るべきものがないのであ る。バスを降りてその一つの建物に入ってみる。衣料品、日用品、電気製品、装身具などを並べた小さな店がこまごまと並んでいて、ロシア人が大勢、大きなト ランクを提げて買出しに来ている。個人用か更にこれを転売するかするのであろう。独特の冬の帽子や毛皮製品が並んでいる所にロシアを感じさせる。当方は買 い物には全く興味がない。
 連日、中華とモンゴル料理なので、昼食にはロシア料理店を希望する。バス停で童氏が知人らしき人物と話していて、レストランにその人物も同行する。当方 には紹介がなく、孫さんにもそっと聞いてみるが彼女も知らないという。初対面でも紹介しないというのは、童氏の個人的な問題というより、曖昧なままに進行 しているうちにわかるという、この地の流儀なのだろうか。昼食をしながら話をして、この人物は童氏の中学時代以来の友人の張氏で、中国農業銀行の満州里支 店の副主任、45歳とわかる。支店は従業員200人という。彼は家族をハイラルに残しての単身赴任で、二週間に一度帰っている由。
 帰りは列車にすることにして、切符を駅で予め買いに行く。駅にはロシアで切出された材木を満載した貨車が、何十輌も停車していた。ハイラルも満州里も同 じで、この地域の歴史を知りたいと思っても、町を歩く限り歴史的建物は皆無で、由緒を示すような看板には一度も出会ったことがない。唯一、駅の南側で、ロ シア人の建てた平屋の古い木造建築が、保存建物に指定されているのを見たぐらいである。これは軒下に連続して切り込みの装飾を入れた板が下がっているも の。戦前のもので、ロシアの農民の建物の様式か。
 市内を歩きながら博物館に入る。観客は余りおらず、展示室も我々が入っていって初めて点灯するという具合。その土地その土地に豊かな歴史があるはクなの に、展示は考古学の時代から現代に至る簡単なもので残念。あとで年表を調べると、398年にモンゴル系遊牧民族である鮮卑の拓跋氏が北魏を建て、947年 に内蒙古の契丹族が宋を滅ぼし遼を建てているのだが、それらに関する展示は余りない。抗日と革命から現在までのことが全体の半分を占めている。博物館を出 ると張氏はいなくなっていた。
 ここの名所は、ロシアとの国境にある中国国門と、大きな湖であることをあとで知る。市内観光バスがあったので乗ってみれば良かったとも思ったが、町に来 たことで良しとしよう。童氏と孫さんにはずっと付き合ってもらって気の毒なので、暫く休んではどうか、見学ぐらい何とかなるからと言ったのだが、応じな い。善意なのか監視なのかわからず。
 帰りの列車は長く続く車両の先頭の方、4号車の硬座車で、普通の乗客と混じる。車内販売でもトイレット・ペーパーを売っている。向かい合った座席の子連 れの男性が中国語で話しかけてくるので、日本語と英語で返事をし、少し筆談をする。先方は明らかに興味を持っているのだが、うまく話が出来ないので、その うちに向こうは突っ伏して寝てしまった。
 線路はバスの道とは異なり殆ど高低がない。窓から見える草原は、かなりの砂地で地味は痩せていて、草もやっと生えているという風情。夕陽が沈む時の、空 の紫色と雲に映る残照の茜色が印象的。時に遊牧の人達のゲルや家が影になって見える。ハイラルと満州里の間の所要時間は、バスも列車も3時間余で、バスの 方が便数が多いだけ便利かも知れない。ハイラルに戻り、皆と駅前でラーメンを食べて宿舎に戻る。童氏と孫さんには休日早朝からの同行を感謝する。


 内蒙古雑感

 街の音、交通、浮遊する人々   ホテルで寝ていると、朝6時前に 労働を称えるようないかにも中国らしい音楽が市内に流れ、目が醒める。これがモーニング・コールの代わりとなる。土日には、太鼓と鉦の音が5時半ごろに鳴 り始める。初めは、宗教団体か何かの行進かと思っていたが、音の強さは一定で、街を練り歩いているのではないらしい。同じリズムをかなり切迫した調子で繰 り返して、夢うつつでもそのうちに目が覚める。あとで聞くと、老人団体の定例練習を少年宮の運動場でしているのだそうな。賑やかというか、何と言うか、や れやれ。
 少年宮では、最後の土日に音楽・芸術・体育活動の部門の発表会が行なわれた。子供たちが楽器演奏をするのを聞いていると、幾つもの楽器でも斉奏である。 その単旋律を繰り返し演奏するのを聞いていると、子供の時からこのような訓練を受けていると、彼らの思考法がある形に出来上がらざるを得ないような気がし て来る。
 街で運転する人達は、盛んに警笛を鳴らしながら自転車や人ごみを掻き分けて、車を走らせていく。注意していると、前方に人を認めた時と後ろから追い越し をする時に警笛を鳴らしていて、それなりの法則性があるようであるが、盛大な警笛はいかにもアジアで、町中が賑やかである。シートベルトをしないことと合 わせ、お国振りが出ている。車の車線変更も、表示を出さずにふらりとやっている。中央線をはみ出すのもしばしばで、外国人がここで運転するのは、余程馴れ ていないと危ない。タクシーの運転手には女性が多く、八割近くが女性だろうか。
 街の通りを漫然と歩いている人々も、車が来るとその直前にふわっと避けている。浮遊している塵がなかなか捉えられないようなもので、意外に事故にならな いのかも知れない。歩行者も車を運転する者も、お互いの身のこなし方を知っているのでそれで良いのであろうか。
 この、直前にふっと避けるという彼らの行動様式は、日常のすべてを律しているのかもしれないと考えた。その日の予定が直前まで決まらないというような運 営者のどたばたを毎日見ているうちに、こちらの人には、ある事態が発生する直前に何とか応急で間に合わせてしまう性癖があるのではないかと思うようになっ たのである。このような人々が整然とした組織行動をとることは出来るのだろうか。

 食事   パオを模した個室に案内され、モンゴル料理を供されたこ とがある。出てきたのは脚部を水煮にしたもので、ナイフで切りながら手づかみで食べるのが正式と聞かされる。手把肉というのである。丸テーブルの中央にあ る鍋で羊の肉を茹でて、タレにつけて食べるものもある。これはシャブシャブと同じ。どちらの料理でも、タレには胡麻ダレ、醗酵した豆腐、菜の花のような花 を油で炒め細かく刻んだもの、野菜の漬物様なものを細かく刻んだものが出て来る。しかしどの調味料も塩味だけで、日本のタレのような微妙な旨味がないのが 残念。羊の肺の油炒めというのもあった。何ということもないはずだが、肺と言われて食べるのを躊躇するのは、こちらフ固定観念。赤地に派手な銀の縫い取り をした中国風の制服の従業員たちが駆け回り、馬頭琴の伴奏で女性歌手が各個室を回りながら、歌を歌っていた。
 或る夜は、街の繁華街にある別のモンゴル料理店に案内された。そこでは、羊の首から脊髄にかけての部分を茹でたものばかりが出て来る。羊のすべてを活用 するとはいえ、肉は余りついておらず、外見もあってなかなか食べにくい。脊髄の中の太い神経がそのまま入っているのもあって、狂牛病を心配する国では決し てお目にかかれない料理である。味付けはやはり塩味のみ。さすがにこの時は、山と積まれたその骨を自分の皿に取ると、すぐさま食べガラの容器に移動して、 せっせと食べているふりをせざるを得なかった。
 中華料理の方は、特に変わったものではない。前菜があり、そのあと菜(ツァイ)と呼ばれる主菜の皿が出て、最後に餃子や麺類、ご飯などの飯(ファン)で 締めくくる。飯では、歓迎や帰国した人を祝うには麺類、出発や別れの宴では餃子が出るという。この地域の特徴なのか調理人の特性なのかは判じ難いが、総じ て油を沢山使い、味が濃い。
 朝は普通の中華の朝食で、薄味の粥に、塩味の野菜やピータンを少しだけ載せて食べていて、これはまあいける。玉蜀黍の玉米粥や、ナイ茶というお茶に牛乳 を入れたものを、その時一緒に飲んでいた。食事にはハイラル・ビールという銘柄が出てきて、これは日本のビールに良く似ている。昼夜と結構飲んでいた。ラ ベルに人民大会堂の国賓接待用と書いてあるのは、宮内庁御用達と同じ。そのほか野生の果実で作った赤ワインがあったが、舌に雑味が残り、こちらはそれほど 惹かれなかった。

 韓国料理   昼食に、韓国の呉さんと李さんとが、ご飯、海苔、若 布の味噌汁、胡瓜と大根の一夜漬け、それに胡瓜を切ったものをホテルの食堂に持参してくれたことがある。これは、中華やモンゴルの食事とは違い、実に腹に よく収まる。また別の昼に、少年宮と商業地との中間にある韓国料理の店に行ったこともある。韓国料理は、日本食に近い味で満足。ロンドンでも、昼時に韓国 料理を食べに行っていたのを思い出す。

 乾杯   ここに来て色々な席で乾杯をする。乾杯をしようといって 丸テーブル越しに杯をかち合わせ、注がれたビールや時にはアルコール度の強い白酒(パイチュー)を飲み干し、お互いにコップの底を見せ合うのである。何度 となくそれをしているうちに、この乾杯の風習はアジアのものかと考えるようになった。日本でも親しい客が来れば、今夜は大いに飲もうと痛飲することがあ り、多少似ている。ロシアにはウォッカで乾杯する習慣があると聞いたことがあるし、東欧などにも似たような風習があるのかもしれない。しかしユーラシア大 陸の西のはずれまで来ると、事情が異なる。英国では飲酒を強要する習慣には余りお目にかからないのである。
 大量の酒を一気に飲み干すのは身体に良いことではない。そのような犠牲を伴うこと敢えてして、客人への敬意と男らしさの証しとするのは、チンパンジーの ディスプレーに近い動物的な本能かもしれない。
 英国のもてなしの席では、相手のグラスが空になって注ぐことはあるが、人はそれぞれに適量のワインを楽しむのみで、相手に無理強いすることはない。人は それぞれに好みが違うことを認め、他人のことには容喙せず、その代わり自分のことについても人に干渉させないのが個人主義であるとすれば、それが徹底して いるともいえる。自分の流儀を相手に押し付けず、他人へ配慮することが出来て、人は一人前と認められるのである。
 相手を知るのに食事を共にすることは、原始的で本能的かもしれないが、大切なことである。酒を伴うことも認めよう。しかし、酒の無理強いは自分の感覚に は合わない。相手を理解するためには、理性的な会話が必要だと考えるからである。ただ、理性的な会話と酒の一気飲みのどちらを好むのかは各人の選択の問題 であり、乾杯がここの風習としてあることは知っておいて損はない。

 市場   ホテルの裏は野外市場になっている。西瓜や桃や各種果 物、野菜、香辛料、ビーフン様のもの、羊や牛肉や鳥や魚、金物や電気製品、日常の必需品、あらゆるものが並べられている。西瓜や瓜は山積みになっていた。 通りがかったら、鶏がまさにつぶされようという所で、最期の声をあげていたこともある。肉も普通のものだけでなく、色々な臓物が並んでいる。人々は自分の 所で取れたものを、自転車やロバに挽かせた車で持ってきて、売っているのであろう。どの顔も一様に日焼けをした赤黒い色をしていた。
 ある夜に、そのマーケットの屋台で串焼きとビールを取って、夕食とした。串焼きを頼むと、羊の肉に脂身を時々混ぜた串を保冷箱から取り出して焼いてくれ る。焼きあがったものは、皿の上に載せて出して来るのだが、そのMは汚さないように全体を薄いビニール袋で覆ってある。皿を洗う手間を省くためであろう が、これはその後、満州里に行った時にもお目にかかることになる。元々は水が少ないところで食器を洗わずに済ます知恵だったのだろうか。

 色彩感覚   夜になると、窓から見える中国工商銀行の建物に、ネ オンが点灯される。建物全体が赤と緑に黄色と青とで覆われ、大変賑やかである。ホテルと棟続きの少年宮も建物全体が照明によって浮かび上がるが、これも鮮 やかな緑と紫色。色彩感覚が日本とは随分違う。

 竹笛   少年宮を見せてもらった日の午後、竹笛を吹いてくれた伊 振さんを訪ねて笛のレッスンを受けた。竹笛は歌口のすぐ下に薄紙を張った穴があり、独特の音色が出るところが独特であるものの、基本はトラベルソと同じ。 伊振氏は薄紙の調子を見て、こちらに一つ楽器を貸してくれた。構え方、姿勢、音階、息の使い方などを習う。花舌という舌を震わせながら音を出す技法はうま く出来なかったが、それ以外は教えられた通りに出来、簡単な曲を吹くことが出来るようになった。
 使っている楽譜は数字譜で、中音域のドレミファソラシに1から7までの番号をつけ、低音域なら数字の下に、高音域なら数字の上に黒丸をつけている。音の 長さは四分音符を基本にし、八分音符は下線一本、十六分音符は下線二本で表わし、付点は数字のあとにつけるようになっている。練習曲集を見ていたら、春を 愛する人は、で始まる四季の歌が出てきた。これは小学校で習うと、あとで日本語の生徒が教えてくれた。
 夕食後、町の中心部の交差点まで歩くと、立派な中国風の屋根を載せた市政府の建物が北西の角に立っていた。その少し北側に楽器店を見つけ、そこに馬頭琴 や竹笛もあったので、土産にと竹笛を買う。竹紙を歌口の下の穴に貼って試しに吹いてみるが、音が出ない。薄紙が濡れていると音が出ず、かといって乾燥して いると独特の音がしないということを試行錯誤のあとに理解する。伊振氏が吹く前に紙の調子をみながら舐めていたのはこのためであったのである。

 多言語   毎回の食卓では中国語、韓国語、日本語、英語が飛び 交っている。意思疎通に苦労しながら、どたばたの毎日を続けていると、その昔、様々な民族が交流するところでは、このようなことが日常茶飯事のこととして 起きていたのではないか思い至った。
 フランバイルにも36の民族がおり、普通話す言葉は中国語に統一されたとはいえ、人々は多言語が並存する状況に慣れているのかもしれない。蒙古相撲の チャンピオンの杜氏は、中国語、モンゴル語、オンク語、タオル語の4つを話すことが出来ると話していた。その土地の言葉を話せない外国人がいても、特別に 驚くことはないのである。国際化というと我々は長く欧米との交流を念頭においていたのであるが、この内モンゴルでは別の形の国際化が大昔から続いていたと も考えられるのである。
 しかし、こうも考えた。多民族が行き来するある種「現場」では、当座の意思疎通が出来ればよしとする傾向があって、それ以上にものごとを論理的に考えて みようすることは必要としないかもしれない。抽象的な思考をしたり知的活動をするためには精密な言葉が必要であるが、そのような言葉を磨くことは、現場を 離れたところでの仕事である、と。
 到着以来、授業の運営についてもきちんとした意思疎通がなく、食事と旅行を共にするだけで、彼らが本当のところで何を考えているのかよく分からない理由 の一つには、このような多言語並存の現場の雰囲気に因るのかもしれない。尤も本当に語るべきものがあるのかも疑問だが。

 統合に必要なもの   ここで聞いた音楽は、音が大きく賑やかで活 力に溢れ、見栄えがする。テレビに流れている音楽も同じこと。多民族の中で主張をしていくにはそれが必須の条件かもしれないが、繊細さや深みを求めること は難しい。同じ文化の中であれば、微妙な違いも理解できるであろうが、異民族が交流するところでは、精妙さよりも大胆で人を驚かせるような派手さが必要に なるのだろうか。
 少年宮の活動を見ても、子供たちの衣装、旗、飾りなどの色彩が鮮やかで、対外発表を強く意識したものになっている。プレゼンテーションに精力を費やすこ とには、多民族の統合をしていかねばならない中国の政治的な状況が、無意識のうちにも反映していると見るのは、穿ち過ぎであろうか。
 中国中央電視台の報道番組を見ていたら、日本の国会で自衛隊の海外派兵を可能とする有事法案が可決したことを、2日にわたり繰り返し放送していた。繰り 返す所に、中国政府の自国民に対する政治的意向が働いているように感じられた。慰安婦問題についても、長い時間をかけて報道していた。

 人々   同じような顔をしているがAこちらの人々は日本人とはど こかが根本的に異なっている。昔使われた同文同種という標語が誤りであることは、抽象的に理解はしていたが、実際に体験すると良くわかる。
 滞在していた中宝賓館でのことである。授業の始まった週にはゲートボールの大会があり、その事務局がこのホテルの2階に設けられ、参加者も大勢宿泊して いた。彼らは早朝から賑やかで、6時前から大勢の老人の声高な話し声がして、壁越しでも相当に聞こえる。ある朝も大声で目が醒めたのだが、ふと、ドアの開 閉の音がしないし集まっている雰囲気もないので、どこで話しているのかと思って廊下に出て見た。向き合って並んでいる4室のドアがすべて開け放しになって いる。4部屋同時に廊下越しに話していたので、賑やかなのも無理はない。
 ゲートボールの参加者はその翌週には引き揚げたが、依然として泊まり客の各人各様の携帯電話の着信メロディー、電話での話し声、声高な話などが、深夜ま で耳に入ってくる。
 ハイラルから北京までは飛行機で2時間かかり、東京から宗谷岬までの飛行に相当する。乗客は行きも帰りも機内に沢山の手荷物を持ち込んでいた。親族や関 係者への土産物なのか、手荷物は上の荷物入れに入りきれない。飛行機を設計する時は、各民族の行動特性まで考えないといけない。ヒースローで、アフリカ便 の乗客が一様に大きな荷物を抱えていたのを思い出す。
 公衆便所の大は扉のない仕切りだけで、中には排泄物だけではなくあらゆるがらくたが捨てられている。果たして清掃や汲み取りはしているのだろうか。それ とも一杯になったら、新しいものを作るのかしらん。
 車の運転のこと、各所の手洗いのこと、その他あれこれを併せると、個人の問題というよりはこの国全体の意識の問題として、他者への配慮なり公徳心の観念 が、西側と違っているような気がする。

 分業   近くの浴場に2回行って見る。垢すりをしてもらい、水泳 を少ししたあと、2階で休憩する。2階にはマッサージ室や、休憩室があり、そこでも足や頭のマッサージをしてもらえる。食堂もあって健康ランドである。 プールにいた青年は、頬骨が高く目が細く胸が厚くモンゴルの戦士のような雰囲気であった。
 小さな施設なのに、ドアボーイ、受付、内部の案内係、2階の従業員、マッサージ係、すべて違う制服を着ている。そういえば北京空港の2階の食堂でも、従 業員は色々な制服を着ていた。入口からテーブルまで案内するだけの受付はチャイナ・ドレス、テーブルで注文を取りに来る係は緑色の制服、長い差し口のつい た薬缶で特製のお茶を出す青年は派手な中国服、全体の目配りをする筈で実は何もしていないマネージャーは鮮やかな緑の服、床を掃除する係は茶色の服と、細 かい仕事の区分とそれに応じた各種の制服が印象に残っている。
 さて、これだけの区分は必要なのだろうか。ボールが各職分の中間に落ちた時には、お互いにどちらの責任かを議論したり、隣りの担当に伝えるだけで、落ち たボールを実際に処理することは後回しになりはしないだろうか。そういえば、ホテルと少年宮の建物をつなぐコンクリートで固められた裏庭は塵だらけで、誰 も掃除をしていなかった。

 床屋   昼食後ホテルの前の床屋に行く。美髪と書いた店が間を隔 てて三軒あった。一軒は既に仕事をしているところ、二軒目は閉まっている。三軒目は女性が昼寝中であったが、空いていたので入って散髪を頼む。手真似で通 じる。あとから入ってきた年配の婦人と話している言葉は、中国語ではなく、モンゴル語かどこかの言葉。簡単だがこちらの思っている通りの散髪をしてくれ る。散髪代は5元。信じられない位に安い。


 北京にて

 北京到着   ハイラルでの2週間半の滞在を終えて、3日間北京で 見物をした。北京は1980年にフォーラム80で来て以来になる。その時も何十年ぶりという暑い夏であったが、今回も暑い。空気は霞んだようになり、市内 へ向かう道の街路樹の緑は土埃で白くなっている。バスを降りると、一斉にタクシーの運転手たちが押し寄せ、観光地図を売らんとする人々が叫んでくる。
 北京駅の近くの宿は、ハイラルで知り合った英語を話す青年がインターネットで予約してくれた4つ星のホテルで、流石にトイレット・ペーパーも備えてあ り、文明地に戻ってきた感じがする。CNNも見る事ができ、英語なので久し振りに何を言っているのかわかる。見ていて、CNNのアジア・マーケット情報 に、東京株式市場のことが全く出て来ないのが気にかかる。日本の存在感が薄くなってしまったのであろうか。
 ホテルで荷解きをしてから外に出る。都市を知るには歩いてみることが一番だが、北京は大きく歩いてすぐに全体観を得るという訳にはいかない。王府井まで 1キロ半ほど歩いたのだが、大変であった。東西に走る大通りは道幅が広く、それに面して新しく作られたビルもまた規模が大きい。広い道を横切るには、横断 歩道がないので、両側を繋いでいる地下道を使うしかない。暑いこともあって殆ど歩行者はいない。通りの北側の新しいビルに入って見ると、空調の効いた商店 街が地上階と地階の2層になって東西に続いていて、人はここを歩いていたのであった。見物をしながら王府井に着く。

 王府井   王府井の土産物屋を覗く。翡翠や瑪瑙の装身具、汕頭 (スワトウ)の刺繍や中国服、筆や硯や墨などの文房四宝、現代作家の水墨画、金ぴかの布袋様や鐘馗様の置物など、内外の観光客を相手にさまざまなものを 売っている。しかし金色に輝く布袋様など、どうも当方の感覚とは随分隔たっている。物欲もなくなっているせいか、見た中に自分で使ったり飾ったりする気に なるものはない。
 翡翠は古代から中国人の愛好するもので、装身具や置物として様々な物に加工されている。その一つに白菜がある。あちこちで見かけて、その意味するところ を知りたかったのだが、漸く了解した。白菜と百財の音は中国語では同じになることから、白菜の彫刻は蓄財や富貴を意味していたのである。日本ではあからさ まに富を尊ぶ姿勢を見せることを憚るところがあるのだが。
 土産物屋のビルの地下が広い飲食店街となっていたので、早めの夕食とする。中国風の食事ばかりではなく、吉野家の牛丼やラーメンや寿司などの店も出てい る。日式という、日本風のラーメンと冷やっことビールを頼むが、鰹節のかかった冷やっこは木魚豆腐となっていた。成る程。

 皇帝の肖像   天安門を潜り故宮博物館へ向かう。天安門から博物 館に入る端門まではかなりの距離があり、その間に展示が並んでいるので、通し券を買って幾つか見る。買った通し券は、母系社会について、明清皇帝后妃につ いて、明清の歴史の八つの謎、清代の太監(宦官の官署の長官)の生活について、という4つの展示が見られるものであった。入ってみると見世物小屋のような ものであるが、意外に面白い。
 紫禁城には、明の三代目の永楽帝の北京遷都から、1911年の清朝の終焉まで、24人の皇帝が居住している。その歴代皇帝の肖像が見世物風の展示の中に あって、肖像画を一人一人順番に眺めていると興味が尽きないのである。明王朝を立てた朱元璋は、貧農の家に生まれ紅巾軍の一兵卒から身を起こしたのである が、立派な面構えをしている。その子で第三代皇帝となった永楽帝もなかなかの顔。下膨れで、お腹も突き出した肥満体。
 清の太祖ヌルハチなど、馬面で細い目に髭を生やし、したたかで食えない人物であることがその肖像から伺える。清朝最盛期の康煕・雍正・乾隆の三代の肖像 を眺めても、色々なことを考える。膨大な康煕字典や佩文韻府の編纂を命ずるなど文化事業に意を用いた康煕帝は、まだヌルハチの面影を宿し、学問とは余り縁 のなさそうな厳しい顔をしている。その一方同じく学術の奨励をした孫の乾隆帝は、髭もなくなりさっぱりとして開明的な顔をしている。
 歴代の皇帝の顔は血が繋がっているので親子で良く似ているのであるが、王朝の末期になるに従って、皇帝の顔が次第に細く穏やかなものになっていくのも興 味深い。創始者の顔にあった荒々しく野性的なものが、徐々に消えていくのである。
 清朝末期の宮廷の様子を撮影した写真が並んでいる。そこに写し取られた宮女の幼さも印象的。西太后を取り囲む宮女は十五歳にもなっていないのではないか という子供たちばかりであった。総じて中国の人々は若いというか子供のような感じがする。故宮の中や人民大会堂の横の兵舎で、訓練をしたり隊伍を組んで歩 いている兵隊たちも、少年のようである。こちらが歳を取ったことばかりでもあるまい。制服姿が、七五三の子供が制服を着ているような感じで、締まりがない というか今ひとつ身についていない。日本の制服を着た人々とは随分違っている。
 故宮博物館の入口で暫く入場者を観察していたが、来るのは殆ど中国人に見え、欧米人はSARSの影響なのか殆ど見当たらない。中国人以外には韓国の観光 客がかなりいるようである。当方もこちら風の半袖に半ズボン、足は草履なので、中国人と見られる。
 紫禁城は外朝と内廷に分かれて、後半部の内廷では、王妃の寝室なども覗けるようになっている。造営した時には一般人が寝る所をぞろぞろと参観することな ど考えてもいなかったであろうにと思い、連想はさらに飛躍し、バッキンガム宮殿の寝室もいつか人々の好奇の目に曝されることがあるのかなどと考える。
 故宮博物館の収蔵物の精髄は東側の別の建物に展示されていて、入るのに別料金がかかる。前回はこれを見るのに時間がかって、裏門まで辿り着かなかったの で、今回は故宮博物館は飛ばして、西側の建物の陶磁器だけを見て裏門から出る。
 そのあと王府井まで車で行き、餃子で昼食とする。燕京ビールというのがあり試してみるが、なかなかいける。これも人民大会堂の国賓接待用と書いてある。

 車のこと   23年前、通りは多くの自転車で埋まっていたが、今 回は自転車より、車の渋滞が気になった。アウディやVWは国内生産をしているようだが、大型車が多い。日本製もかなり見られる。それらが、道路を埋めてい る。最初、渋滞は彼らの気ままな行動様式によるものと考えたが、それは中国の人に対して酷かもしれないと考え直した。良く考えてみれば、人口が余りに多い のである。余程整然と人々が行動するのであれば別だが、13億の人々が一斉に車を使い出せば、その数の多さだけで、種々の問題が生ずるのは当然であろう。

 催眠商法   出発の前の日、ホテルで1日コースのツアーを予約し て、明の十三陵と八達嶺の万里の長城へ行く。幾つかのホテルを回って拾い集めた参加者は、中国、韓国、英、米、オーストラリアの観光客に当方を加えて15 人程。若い小柄な女性が中国語と英語で説明をする。
 万里の長城と明の十三陵の説明を道すがらしてくれる。途中のラウンド・アバウトの中に銅像が立っており、誰かと尋ねると、農民反乱の首領で明朝を滅ぼし た李自成であるという。
 明の十三陵の前後で、バスは翡翠工場兼販売所と漢方研究所兼販売所に立ち寄る。いずれも観光客に買い物をさせるのが目的であるが、漢方の方は手口が巧妙 であった。その研究所が由緒あるものであるという展示や漢方薬の展示を見せられたあと、一同が案内されたのは診療室のような所で、白衣を着た説明者が、脈 の取り方や診断の仕方の基礎を説明する。そのあとで、今から経験豊かな漢方の先生を紹介すると説明者がいうと、確かに本物のお医者さんらしい白衣の年配者 が5人、一斉に部屋に入ってくる。
 このお医者さんたちが、各人の体調を無料で診断をして、必要な処方を出してくれるというのである。ツアー参加者たちが、次々に5人の先生の前に行くの で、こちらも診断をしてもらう。両手首の脈をとり、舌を出させて見て、年齢を聞いてから、ビールを飲みすぎている、腎臓が弱っていると頭髪が薄くなる、体 内が熱くなっており運動が必要である、などと述べる。確かにハイラルでは連日ビール攻めにあい、小用をしたとき少し泡だち気味となっており、アルコール断 ちをしなければと思っていた時なので、当たっているかもしれない。
 しかしこれは一種の催眠商法のようなもの。診断を受けそれが当たっていれば、処方箋を書きましょうかという申し出に応じてしまうし、高い漢方薬でもつい 買ってしまう。クレジットカードで構わないというのがうまい。実用的な土産と考えれば、安いのかも知れないが。こちらは最初から買う気はなくて診療を感謝 しただけであるが、皆は結構買っている。
 明の十三陵では、前回は確か定陵で地下に潜った記憶があるが、今回は永楽帝の墓所である長陵で、地下に入ることはできない。紫禁城の外朝の建物とよく似 た廟と、その後ろの門のような建物に登る。この門のような建物がある領域は既に冥界であると、説明を受ける。来る途中で沢山の桃の果樹園を見たが、長陵の 中でも売っているので一つ買って食べる。大変においしい。
 長城では、前回にはなかったスライディング・ウェイというのが途中まで出来ていた。一人乗りの橇のようなもので、上りは軌道の中央にあるチェーンで乗客 ごと橇を引き上げ、下りは滑らかなステンレスの半チューブを滑り降りるというもの。下るときには真ん中にある操縦桿のようなブレーキでスピードを調節す る。
 長城の回廊には手すりが付けられて、中国風の縦に長い旗がひらめいている。露店も出ている。これも前回なかったこと。しかし、回廊がこんな急坂であった ことは、すっかり忘れていた。露店の人々が、大声で写真やシャツを売り掛ける。急に雨が降り出し、みな慌てて薄いビニールの雨合羽を買い込むが、不当な値 段と売らんかなの態度が気に入らず、痩せ我慢。何ほどの値段でもないのに。

 笑顔   ここのホテルや街の物売りの人達には余り笑顔がない。だ から中国の人は、と一般に拡大するのは、わずか数日の滞在で早計である。それに、ハイラルのホテルの従業員たちは一生懸命にやってくれていた。それぞれの 事情を考慮しなくてはいけない。
 ただ、お客を包み込むような暖かな応対という点では、欧米の人達の方が少し上かもしれない。帰りのオーストリー航空のスチュワーデスからは、日本の方が 中国よりも滞在しやすいという話を聞いた。日本の場合も、マニュアル的で親身になっての応対でないことが多いのは、中国同様のような気がするが、それでも どこか違うということか。


 旅とは

 内蒙古に行って日本語を教えることにしたのは、面白い、滅多に行ける所ではないと思ったからであるが、その背後には二つの意識が働いていたように思う。 一つは、変わった環境に如何に順応できるかを試すという意識である。平穏無事な旅行では面白くなく、困難な状況にあって初めて旅行に来た価値があると思っ ている所が、自分にはあるかもしれない。
 今一つは、新しいことを知り、その前提となっている考え方を知りたいという好奇心である。未知の所に行って違和感を感ずる時には、こちらの予想していな い前提があることが多い。その知られざる前提が何かを突き止める所に、発見の面白さと旅の醍醐味がある。乾杯にしてもトイレット・ペーパーにしても、その ような事例である。運営の混乱に巻き込まれても、それを怒る気にはならない。混乱に彼らがどう対応するかを見ることは、こちらの人達の物の考え方を知る良 い機会であるからである。その曖昧さはどこから来るのだろうと考えるきっかけとなる。
 そして、違う考え方を理解すれば、好みの問題は残るが、少なくとも状況に即した対応が出来る。
 今回モンゴルで日本語を教えてみて、彼らの考え方の一端を知ることができたのだが、これはいつか自分の考えの枠組みを見直すことにも役に立つであろう。 観光旅行では、これだけ考えることはないかもしれない。ハイラルで最後の土曜日に公式送別宴があり、次のような話をした。

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 私たちは英語、韓国語、日本語を教えるためにここにやってきて2週間を過ごしました。しかし、私たちは教えるためだけに来たのではありません。学習する のは生徒だけではなく、教える私たちも生徒から学んでいるからです。そして受入れをして下さった、皆さんからも学んでいます。
 学習するのは、広い意味で言えばお互いの文化の相違であります。違う文化に育った私たちが共同してこの夏期コースのような事業を実行する時には、否応な く考え方の違いに直面します。時にはそこから誤解も生じます。しかしその相違を乗り越えて共同事業を成し遂げた時には、大きな学習をしたと感ずることがで きるでしょう。
 そのためにはどうすれば良いのか、二点申し述べます。一つは、まず事前によく相談をし、お互いに合意をしてから、ものごとを進めることが必要です。思い 込みで相手も了承していると考えると間違いが起きます(講習の内容、生徒の水準、スケジュールなど、全く事前の相談がなく、英語組は土曜日の5時まで、働 かされていたのである。日本語は自分で一方的に土曜日は休みと宣言して、難を免れたが)。
 もう一つは、外国人というと違った人と感じるかもしれませんが、豊かな感情を持った同じ人間であるということを理解することです。嬉しければ喜び、不都 合があればどうしたのかいぶかる、普通の人間です。そのことへの配慮も、忘れてはなりません(上の話ともつながるが、食事と宿だけ提供して、あとはお任せ という運営側、特に包氏に、不満が高まっていたのである)。
 私たちは、皆さんがこれらのことを理解され、当地での対外交流を更に発展させることを、お祈りしています。2週間お世話になった、呂主任以下、両包さ ん、金さん、童さん、金東梅さん、その他の方々に感謝を致します。

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 講習が終わり当方の出発となる日曜日に、英語クラスの子供たちによる長い送別式があった。演奏や演技をする子供たちは切れ長の目で、扁平であるけれど も、どこか雄偉という雰囲気を持った顔をしていて、北魏や大同の仏像の面影がある。その昔のこの地方の人々が仏像を作った時に元にした顔は、今ここの子供 たちの中に生きていた。(2003年8月)