編集者でなく、作家の秦
恒平を語った長編の批評・論考であり、作家自身で読んで取捨すべきものと、少なくも現段階では思いにくいので、正直のところ編輯者としても読まずに、ただ
掲載している。得てきた書評、作品論、作家評等は数多く、目の通せるものは読ませてもらってきたが、長大な真っ向「秦
恒平論」となると、読者、批評家の批評に先ず待つのが至当と考えた。
筆者は東京都在住、五十代の作家、多年の読者とのみ紹介しておく。 2016.07.23 掲載
山瀬ひとみ
はじめに
京都の老舗「帯屋捨松」の会長木村登久次氏は、かつてインタビューでこう言っていた。
「売れる、売れへんというのは、何を基準にしますのや? 山と一緒で何合目に基準を合わすでっしゃろ。頂上狙ったら、ひとつしか売れまへんやろ」
着物業界の話ではあるが、この発言はあらゆる業種に共通しているだろう。頂上を狙うことは、商売に適さない営為である。それでも木村登久次氏の発言には、佳いものを作りたい、作るべきという心意気が感じられる。
話を出版業界にむけてみよう。
平成二十七年現在の日本の文壇に、幸田露伴や島崎藤村や泉鏡花や志賀直哉が登場しあの文体で作品を書いたとして、滝井孝作や石川淳が新人だとして、はたし
て彼らが充分に才能を認められ、作風の変更を強いられることなく本の出版を続けることが可能だろうか。現在の大手老舗出版社は、頂上を棄て、間違いなく数
多く売れるところに基準を合わせている。
ロラン・バルトは「文学とは高貴さの唯一の領域」(『喪の日記』)だと書いていた。しかし、この最後の砦ともいうべき「高貴さの領域」、つまりこれまで頂上とされてきた「藝術」としての文学は、カネと市場原理の世の中にのみこまれていこうとしている。
洪水のように新刊は出ている。さまざまな新人賞があり、大規模書店はいつも賑わってはいる。ただ、それは見せかけの繁栄でしかなく、「ほんもの」は、息も
絶え絶えに片隅に追いやられている。現在の日本の出版界は、過去の名作と今すぐ売れる読み物でかろうじて命脈を保っていると言っても過言ではない。少なく
とも次の世代に遺す「古典」を生み出そうとしているとは到底信じられない。新人作家がデビューしても三冊出して売れなければ、出版社から見捨てられる。九
割以上の作家がデビュー五年後には新刊を出せないという現実がある。今の出版界で一番に求められているのは高貴な領域の文学作品ではなく、短期間に元がと
れる商品になった。街の本屋に入って書棚を眺めていれば一目瞭然にわかることだ。
どんなに困難であっても高貴であろうとすることが、ここまで見事に金銭に負ける時代がきてしまったことを私は心底おそろしく感じている。文化と商売のバランスを極端に失った社会にこれから何が起きるのだろう。
昭和三十年代に生まれた人間が平成も三十年近くまで生きてきて感じるのは、どうやら世の中は「ほんもの」がわからなくなっているということだ。ほんものを
求める姿勢そのものが希薄になって、頂上をめざすことは絶対の価値ではなくなった。いや、もしかしたら事態はもっと悪くて、売れることを頂上と勘違いする
さもしい世の中になっているのかもしれない。漱石や鴎外の抱えていた「ほんもの」の苦悩は一体どこにいったのであろうか。
その結果、名作が絶版になったり才能ある作家の本が出版されないだけでなく、真の意味で本を読んで愛する人々の集団、日本の読書社会そのものが崩壊してい
きかねない切羽詰まった状況になっている。何がほんものかわかる批評家も読書人もどんどん高齢化する旧世代となり、やがて消えていこうとしている。
この状況は、ファッション業界の藝術品であるオートクチュールの世界を考えるとわかりやすい。以前からオートクチュールの顧客は世界で数百人といわれてい
た。一度しか着ない服を何百万円も出して毎シーズン誂えることのできる人間は限られるから、当然商売としては成り立たない。贅沢の限りをつくしたオートク
チュールは利益一パーセント以下といわれる。事実多くのメゾンが倒産したり買収されているし、赤字経営である。それでも、ファッション業界がオートク
チュール部門をすてることをしないのはなぜか。もしオートクチュールがなくなれば、ブランドの格が下がり、ライセンス事業に影響がでて商売の主軸の既製服
や香水は売りにくくなる。才能あるデザイナーは発表の場がなければ生まれてこない。オートクチュールを欠いては流行の発信力は弱くなるし、精緻な刺繍や羽
飾り等の優れた伝統工芸技術も滅びる。その結果ファッションそのものに生彩や魅力がなくなり、服飾文化そのものが衰退してしまう。世界中が安価な量販店の
服ばかりになったとき、女は手の届かない美に羨望のため息をつくことを忘れ、人間にしか味わえない装うことの快楽を失うだろう。服は実用品、消耗品、気晴
らしとして売れるだけで、ファッション業界そのものが大沈下していくに違いない。
先行きは不透明だとしても、ファッション業界にはまだ美しさの頂点に近づきたいという本能は根強く残っていて、商売との折り合いに悪戦苦闘している状況で
あろうと推察する。時間の問題かもしれないが、ファッション業界は、商売のために頂上を棄てるという最後の一線をまだ越えてはいない。
ある業界が頂上を目指す理想や気概を捨てたとき、ゆっくりと山そのものの崩壊がはじまる。山裾だけでは山は存在しない。エベレストが消えれば、エベレスト
を訪れる人間も、山頂を見上げて憧れる人間もいなくなるように、頂上のないものはやがて持つに値しないもの成り下がる。
出版不況といわれて久しいが、出版社がオートクチュール部門に相当する「藝術」としての同時代の極上の文学を切り捨て、量販による金儲けに邁進してきた当
然の帰結であろう。天守閣のないものを城とは呼べないが、出版社は自分たちが天守閣のない城をつくろうとしている自覚がない。
藝術としてすぐれた同世代の新しい文学を読めなくなったとき(これは外国文学も含めている。海外文学の翻訳は、初版1500部とか、初版印税ナシが普通になってきているという。これでは藝術としての外国文学の翻訳者は生活が出来ない)読
書を悦びとしていた市井の真摯な読み手には書店で買いたい本がない。過去の名作を読んでいればいいから、新刊本を買わなくなる。そして思想や哲学や宗教や
歴史や藝術や教養に従来の価値がなくなった現在、若い世代は真剣に本を読む必要がない。かつての旧制高等学校必修「デカンショ」など受験勉強にはいらな
い。電子メディア環境でゲームなど視覚聴覚を直接刺戟するおもしろいことが他にいくらもあるのだから、一字一句読み進む地道な読書は面倒なだけだ。
戦後の日本は読書を生きる悦びとする一定数の次世代、紙の本好きで蔵書してくれる次世代を育てることに失敗した。美術館の役割のひとつは次世代のアーティ
ストと鑑賞者を作ることにある。しかし、日本の図書館は、いつからか美術館に期待されると同様の文化的意志を捨てた。商売にならない、絶版になりやすい、
良質の文化財としての書物を収蔵、継承していくことより、本をただで読みたい読者のためにベストセラーを揃えようとしている。無料の貸本屋になることが納
税者へのサービスと勘違いしているのだ。(本が売れなくなったのは図書館のせいと主張するのも間違っているだろう。図書館で売れ筋の本を読もうとする人間
は、本を所有する必要も喜びも持たない。借りられるから買わないのではなく、買いたくないから借りるので、本に優先的にお金をかける真の意味の読書人には
ならない)
書店に並ぶ本を、自ら汗を流す登山からテーマパーク巡りかゲームセンター用の娯楽商品ばかりにしてしまえば、それは受け身の、自分の頭で考えない人間を量
産することになる。そこそこの感動と安い涙と無責任な笑いに満足する衆愚社会の礼賛にほかならない。読者は洗脳される奴隷になってしまう。自分の力以上の
本を読むことは、本を書くことと同じように、切実にものを考える創作活動であるのに、易々と読める読み物ばかりにしてしまったら、それは人間の知性の否
定、思想の放棄であろう。
読書は頂上をめざす登山である。名作であればあるほど頂上は高く、登ることは簡単ではない。しんどい。しかし、その高みに登らなければ視界は広がらない。
自らの両足で頂上に立ってこそ初めて見ることのできる絶景がある。生きる悦びも感動もある。読書は人類最高の知的営為である。人間が人間である醍醐味と
いってもよい。
惜しまれつつ閉店したリブロ出身で現在はジュンク堂書店池袋本店副店長の田口久美子氏は週刊朝日 2015年8月28日号の中でこう語っている。「受け取
れる刺激がわかりきった安易な本が売れがちだという現実には、危機感がありますね。読者が歯ごたえのある本を求めていなければ、奥の深いものを書く人は存
在できない」
建築家高山正實がこんなことを述べている記事を読んだことがある。「建築はクライアントあっての仕事ですので、それに応えるのが建築家の宿命ですが、社会の求めるもの自体がおかしくなってしまったら、それに応える作品を造ることはできない」
市場原理を突き詰めていけば、ほんものの創作者は亡びていく。
高貴な領域の文学、古典を読みこなす能力のある人間が少数であっても世の中に一定数いることこそが、商売としてうまみがなくても、遠回りでも、日本文学や
日本語や日本の出版流通システムの堅実な未来を保証したのだと思う。売れないものでも、設備投資として頂上を目指すものを一定数出版し続けることが、読書
社会の大崩壊をふせぐ力になったはずだった。この地道な設備投資あってこそ、オートクチュールあっての既製服のように、山裾も華やぎ、今をときめくベスト
セラーの書き手やエンタテインメント作家の居場所も安泰に保たれるのだ。頂上の文藝の質が保たれることでエンタテインメント作品も隆盛になるので、その逆
はない。
一定数の読書人(知識人と呼んでもいい)を社会が育てなければ、読書を娯楽のなかの一つと思っている読者層は、いずれ「歯ごたえのある」高貴な領域の文学
作品を読みこなせなくなっていく。このままでは日本語の古典さえ読まれなくなる日がくるだろう。江戸時代の頼山陽などの日本文学としての優れた漢詩を読み
こなす人間が絶滅しつつある現況考えればいい。目先の利益を優先し続けた結果が今日の危機的状況である。この悪循環を断ち切るにはどうしたらよいのか。私
はしばしば絶望にうちひしがれそうになる。
今私たちは、先祖たちが営々と築いてきた日本文学の霊峰の崩壊を目の当たりにしようとしているのかもしれない。商品が「売れる」、あるいは会社が「儲か
る」ことを至上の価値としていけば、文学に限らずいずれ世の中から価値あるもの、美しいもの、ほんものは消えてゆくしかないだろう。 国民全体で、売りや
すいものを売る、買いやすいものを買うことに狂奔した結果は、民族丸ごと絶滅でないと、誰が断言できるであろうか。
日本人のいのちに直結することにおいても同じことがいえる。消費者は割高であっても自覚的に国産の農作物を買い支えなくては、日本の農業を守ることはでき
ない。安い輸入食糧に頼っていれば、外国が戦争や自然災害等で売ってくれなくなったときに日本人は激しい飢餓地獄に襲われる。世界の穀物供給については悲
観的な警告が何度もされているがそのとき慌てて国内農業を復活させようとしても、荒廃した田畑の収穫は戻らない。食糧は国防の根幹に関わる武器であるの
に、日本の食糧自給率は危機的状況だ。先の大戦で国民を餓死させたことを忘れている日本は、闘う前に仮想敵国に圧倒的に負けている。
売りやすいものばかり作る企業、安いものばかりを買う消費者は無自覚に罪悪に加担する場合もある。世の中には、不当に安い賃金で働かされている海外の、子
どもを含めた労働者の犠牲の結果の安い衣服があり、実験動物の苦しみの上に完成した安いシャンプーや化粧品がある。売りやすさ、買いやすさの追求ははどこ
かに無理を押しつけ、かけがえのないものを犠牲にする。
「頂上」あるいは「ほんもの」は、言いかえれば、民族の魂や叡知、美や愛やいのちである。本来商売にしてはならないものだ。このまま流されていけば、日本
文学だけでなく、日本文化そのものが有史以来の大規模な地盤沈下をはじめ、やがて日本は色々な分野での富士山を失ってしまう。
企業の宣伝にのせられて消費する社会的昆虫でなく、尊厳ある人間として存在したいなら、決して棄ててはいけない理想も正義も矜恃もある。ほんものを見失っ
た国民は、もはや亡びる道しかのこされていないと私は思う。この流れのまま、知的精神的に劣弱な民族となって、どこぞの植民地となり、日本の高貴な領域が
亡びてゆくにまかせてよいのか。それは断じて許されないことだ。
小沢昭一は「戦争ってものは、なっちゃってからでは止められません。なりそうなときでも駄目。なりそうな気配が出そうなときに止めないと」と語っていた。
それに従って考えれば、出版界の文化的使命や正統な日本文学が亡びそうな気配が出そうな今こそ、危機を自覚した人間が何か行動を起こさなくてはならないの
だと思う。
津波が来るか来ないかわからないうちに子どもたちを避難させるように、日本語の精華を、日本文学の宝を、営利目的の市場経済から避難させ、次世代の子ども
たちに大切に継承していかなくてはならない。今ならまだ間に合う。何としても間に合わせねばならない。遺すべき「ほんもの」を親世代が当たり前のものとし
て守らなければならない。私がこのような身の程知らずの文章を書く理由はここにある。
これから私の論じるのは、現在の日本で極めて不遇な作家秦恒平についての考察である。秦恒平の異常なまでの不遇こそ、日本の出版界の、日本社会の根の深い
問題の象徴でもある。このほんものの藝術家に対する正当な評価を取り戻すことなしに、日本の文藝に未来はないだろう。秦恒平はひと言でいうと、文藝におけ
る京都のような存在である。秦恒平の正統な評価がされなければ、間違いなく秦恒平作品とともに亡びる日本の美がある。
秦恒平の愛読者に過ぎない人間が、明らかに自分の力にあまる途方もなく大きな作家論に挑まざるを得なかったのは、他の批評家が未だにすべきことをしてくれ
ていないためである。凡人の危機意識だけで何ができるか。書きおおせることは殆どないかもしれない。しかし「自分の正しいと思ったことはたった一人でもし
なければならない」というガンジーの言葉がある。マザー・テレサは大海の一滴に過ぎなくても、あなたがその一滴を注がなければ大海の一滴が減ると教えてい
た。
元々、文学作品の鑑賞と理解はプロの批評家だけの仕事ではない。プロであっても素人であっても、出発点が読者であることにかわりはないはずだ。評判とか収
入など失うものが何もないことは素人の強みである。素人の無欲と怖いもの知らず、そしてもし可能ならば素人の清潔さが、プロには見えないものを見て、書け
ないことを書ける場合もあるかもしれない。結果はこれをお読みいただく方のご判断にまかせるしかないが、自分の書いたものがそうありたいと切に願ってい
る。
秦恒平は一生をかけて読み続ける価値ある作家であるのに、秦恒平を知る人ぞ知る作家にしてしまっている昨今の日本に、私は一読者として悲憤慷慨し、日本文
学の未来を深く憂えている。秦恒平を正当に復権させなければならない。この論考はそのためのものだ。この拙文が、たった一人でいい、日本文学を愛する一人
の読者の胸に届き、将来出てくるにちがいない素晴らしい一人の才能に、秦恒平文学研究に進むきっかけとして、少しでも役立ててもらうことができたらこれ以
上の幸せはない。
一、岡田昌也氏の手紙
まず、私がこの考察を書くきっかけとなった、2014年9月12日秦恒平のホームページ内「私語の刻」に引用されていた、神戸大学名誉教授で歌人岡田昌也氏の秦恒平に宛てた手紙全文を紹介することをお許しいただきたい。
☆ 拝啓
漸く清涼な季節となりましたが、先生にはお心持も新たに、日々ご精励の御事と拝しあげます。
又、此度は選集第二巻のご上木、おめでとうございます。
第一巻に続き、さらに格別のご厚意を賜わり、まことにかたじけなく存じました。「出版文化最後の光芒か」との賞賛ありし由、まさにわが意をえた思いです。見る人は居るうれしさです。
しかし、「それにしても今の日本文学に(筆者注 鴎外に露伴に藤村に漱石に鏡花に秋聲に荷風に潤一郎に康成に由紀夫にあたるほどの)人と作は、作品は、
いったい、どこへ行った」のか、そして、「生ける文豪のだれ一人いない日本文学」になってしまったのは、一体どういうことなのか、との先生のご述懐は、ま
た小生の永らくの自問自答と重なっております。
小生は、はるかの昔、先生のお作に出逢った瞬間、実は、なぜか、先生こそは、日本文学の正統を継ぐ、おそらくは最後のお方であり、まさに日本文学の「最後
の光芒」をまとう殿(しんがり)として登場なさったお方である、と直観致しました。その思いは直ちに確信となり、今日に至っております。
そして、それゆえにか、先生の全業績への不当な軽視、そして評価そのものを避けようとする雰囲気とその常態化。その結果としての更なる無視・異端視。黙
殺……。そのような事態が、門外漢たる小生の単なる感違いならば それで構わないのですが、何ごとによらず直観で生きて来た小生としては到底、そのように
は思えません。むしろこれは、そうではなくて、何か重大な病理、まさに日本の社会全体を覆い尽くしている 件の宿痾の一現象形態ではないのかと、暗然たる
思いで居ります。
実は、小生、三十年以上前から、日本社会にはとんでもない業病が巣くっていることを直観し、それを“日本の宿痾 和の全体主義”と名付けて。その病因・病
態について愚考をめぐらせて来ました。そして、それゆえに、先生のご達成への異様なる処遇(傍点)も、この宿痾の典型的な発現として診断・断定申し上げて
いる次第です。
それはともかく、今やこの日本を覆い尽くしている宿痾の猖獗ぶりは目も当てられぬ惨状を呈しており、不肖 戦後民主主義の第一期生を自任する小生として
は、日々、腸が煮えくり返るような無念さの只中に坐す思いです。戦後何十年もかけて、一体何をして来たのか、と。何もして来なかったにに等しいではない
か、と。全く死んでも死にきれない思いです。
しかし、断じて魂を売り渡すことなく、そのくやしさをエネルギーにしてこの國の行末を見届けてやろうと思い定めております。
ついついつまらぬことを記してしまいました。御無礼、何卒おゆるし下さい。
先生におかれましては、一層のご精進の上、選集の完成をお目指し下さいませ。その完成の暁には、必ずや、あの栄誉が、ほんの少しですが小生も相知るあの司
馬遼太郎先生が大いにためらいながらお受けになる決心をされたあの栄誉が、秦恒平先生のご達成の上にも訪れるにちがいないと、小生は確信しておりますの
で。なぜなら正真正銘の本物は必ずや評価定まり、正統も必ずや受け継がれてゆくにちがいないからです。
小生は、むしろ、先生の後のほうを危惧しております。
しかし、この点とて、先生の選集がそのゆるぎなき雄姿をを現すに到れば、その金字塔を道標として、いつかは正統継承の動きも生まれて来ることでしょう。そのためにも、何卒何卒ご専一に願い上げます。
乱筆乱文多謝。 不尽 九月九日朝 岡田昌也 拝 (神戸大学名誉教授 歌人)
私は岡田氏のこの手紙の問題提起に深く賛同し感謝の思いを抱いた。(この私的な手紙をホームページに公開することを秦恒平の自画自賛と批判するむきもあるかもしれないが、この手紙は秦恒平の文学観を示す一環として引用されている)
>
そして、それゆえにか、先生の全業績への不当な軽視、そして評価そのものを避けようとする雰囲気とその常態化。その結果としての更なる無視・異端視。黙
殺……。そのような事態が、門外漢たる小生の単なる感違いならば それで構わないのですが、何ごとによらず直観で生きて来た小生としては 到底、そのようには思えません。
岡田氏の指摘のように、「日本文学の正統を継ぐ」「最後の光芒」である秦恒平への徹底した冷遇は、不当を通り越してもはや異常事態であるとしか言いようがない。
秦恒平がその長い文学生活の中で得ている文学賞、公的な栄誉が太宰治賞ただ一つ(他二〇一五年に京都府文化功労賞を受賞しているがこれは文学賞ではない)
だということは、信じ難いし、日本の赤恥である。現在の文壇とか出版界というところは、じつは藝術の価値にまったく無関心な集団なのではないかと私は本気
で疑っている。
秦恒平の受けている「異様なる処遇」の原因については後述する。
ここで強調したいのは、秦恒平が不公平で「異様なる処遇」を受けながら、殲滅作家にならず二十九年間「湖の本」を出版し続けてこられた、つまり作家として生き延びてこられた理由である。
単純な理由だ。秦恒平には岡田氏のような実績ある学者や文学関係者のみならず、無名であってもその作品を愛するほんものの読者が存在している。秦恒平は、
芥川賞、谷崎潤一郎賞、泉鏡花賞など候補になったものの受賞していないし、現在文化功労者でも芸術院会員でもなく、よって文化勲章を受ける可能性もないと
いう、実績に見合わない異様な処遇を受けている。ただ、熱く深く愛読する、一定数の読者たちが、読書社会が、秦恒平の長年の作家活動を支えてきたといって
も過言ではない。
秦恒平がどういう愛読者を抱えた作家であるかを端的に物語るエピソードがある。
ある読者が自分が死んだら棺に秦恒平の本をいれてほしいと遺言していたというものだ。亡くなったときに、遺族は棺に故人がとくに愛読していた秦恒平著作を数冊いれてその読者を見送った。
もう一つのエピソードは、たまたま趣味で詩を書いている知人に、私が湖の本の読者であることを話題にしたときのことだ。彼女は偶然出逢った同好の士に驚い
たようにして、自分も長年の湖の本の読者だと語りこう続けた。自分は夫を見送り、子どももいない独居老人だ。自分が死んだら、蔵書は他人の手で処分されて
しまうだろう。愛読してきた秦恒平の「湖の本」シリーズが処分されるのは悲しいので、今のうちに手持ちの全冊を図書館に寄贈しようと思う。しかし、秦恒平
の名前すら知らない図書館員もいる。そんな図書館には寄贈したくない。秦恒平の真価のわかる、信頼できる寄贈先図書館を探しているところだ。
他にも、秦恒平にあてた読者のこんなメールの一節を読んだことがある。
「私も今の齢ですと、大切なご著書を保存的に遺していくことが出来ないだろうな、という思いが迫り残念でなりません。」2015 7/2 164(作家小滝英史)
読者が、自分の死後の愛読書の行方を真剣に考えずにいられない作家というのは稀だろう。秦恒平の作品は、ある読者にとってはそこまでする必然性も価値もあるのだ。岡田氏が手紙を書かずにいられなかった理由も、私がこの考察を書く理由も同じところにある。
また、秦恒平ほど一人一人の読者を大切にする作家はいない。秦恒平は「読者は作家の魂の同伴者」「命の滴」だとまで書いている。秦恒平の求めた文学とは、次の彼の言葉に集約されるだろう。
「人の魂に触れて鳴り響く文学でありたかった。人の人生に深く関わる本が書きたかった。今もだ。」
これほど強い読者との結びつきを求め、達成し得ている秦恒平が、「異様なる処遇」を受けて当然の作家であるだろうか。秦恒平の愛読者は奇妙な趣味の集団なのか、それとも世間の処遇が間違っているのか。少数派と多数派のどちらが正しいのか。
作家が真実求めるものは何か。書かずにいられないから書いたものを、誰かに読んで共鳴してもらう。基本はそれだけのはずだ。結果として賞をとったり、職業
として収入を得たりすれば嬉しい。しかし、心底から求めるのは、読者でなくてなんだろう。本は誰かに読まれなければ決して完成しない。文学に全人生を捧げ
ている秦恒平が、その作家人生において求めるものは読者以外になかったともいえる。秦恒平はこうも書いている。
わ
たし自身は、作家生活のハナから、よく読んで下さり、感想を持って育てて下さり、なんらか生涯に響き合うモノを感じて下さる読者を、血縁や俗縁を超えて心
の「身内」と想い、親しく迎えてきた。血縁や俗縁には偶然がある。読者との縁には「作品」というよかれあしかれ命が在る。 (2015 5/30
162)
私が作家なら、死出の旅路を一緒にと願われる、あるいは自分の死後もいのち永かれと願われる作品をこそ書いてみたいし、読者としてなら、そのような本に出逢うことが無上の幸せである。それこそが作家と読者の勝利だと思える。
だが、このような作家と読者の築く世界は、現在の出版流通システムの中で尊重されることはない。商売になるのは深く何度も読まれて棺まで共にする本ではな
く、数多く売れる作家の本だ。出版社の本音は、極言すれば読み捨てていいから、いや中味を読まなくてもいいから、とにかく本を買ってくれではなかろうか。
粗製乱造という言葉を思い出す。 もちろん、広く売れるものの中にもすぐれた作品があることは否定しない。エンタテインメント作品に心を救われることもあ
ることは知っている。しかし、頂上に到達した文学には、ふつう同時代では多くの読者はつかない。つくはずがない。読者にも作品の格に見合う力量が必要だか
らである。ミッシェル・フーコーは『言葉と物』を書くときに二千人程度の読者を想定したそうだが、もともと頂上の領域の作品を読みこなす人間の数は多くな
い。原民喜は『砂漠の花』の中でこんなふうに書いている。
「私には四、五人の読者があればいいと考えている。だが、はたして私自身は私の読者なのだろうか、そう思いながら、以前書いた作品を読み返してみた。心をこめて書いたものはやはり自分を感動させることができるようだった。私は自分で自分に感動できる人間になりたい。」(原民喜「沙漠の花」)
ただ一人の魂にまで深く届く作品は、必ず世代を超えた多くの読者の作品となる。
山のかたちは常に頂上が裾野より狭い。いつの時代もエベレストを目指す人間、まして実際に登攀できる人間は限られている。少数の読者が幾世代にもわたり読み継いで 長い時間をかけ読者が山裾まで拡大してゆき、結果として誰よりも多くの読者を得るのが名作の運命であろう。
これだけは言える。戦後の日本社会は、子孫に真実価値ある「ほんもの」を遺す文化的意志を徹底的に排除してきた。一時的にすぎない経済大国となるための、
あまりにばかげた選択であった。文化を捨てれば数字の上では節約できて一時的に経済に有利になるのは当たり前のことだ。精神的財産の価値がわからぬ愚かな
金の亡者共が、愛すべき日本国家を牛耳ってしまっている。
最近あの由緒ある下賀茂神社にマンション建築することが話題になった。京都という世界にも稀な美しい古都を、金儲けのための乱開発で今も現在進行形で無惨
に破壊し続けているように、出版界は、京都に生まれ育ち、京都文化、ひいては日本文化の最強最高の発信者でもある秦恒平という作家を、しずかに見殺しにし
ている。
二、遅れてきた文豪
秦恒平はこう書いている。
それにしても今の日本文学に、鴎外に露伴に藤村に漱石に鏡花に秋聲に荷風に潤一郎に康成に由紀夫にあたるほどの人と作は、作品は、いったい、どこへ行ったのでしょう。
生ける文豪のだれ一人いない日本文学にしてしまったのは、さあ、誰なのでしょう。(2014 7/27 私語の刻)
秦恒平の言うように「今の日本文学に生ける文豪のだれ一人いない」の
か。じつは一人いる。秦恒平そのひとに他ならない。「文豪」かどうかは他者の判断が決めるものだから、秦恒平は自分を除外してこう書いているのだろう。秦
恒平は文豪である。しかし「遅れてきた文豪」であると私は思う。秦恒平は優れた文藝批評家でもあるから、当然自分で自分の価値は知っているはずだ。
日本が文学の正統な評価のできる国であれば、秦恒平は、今頃は文化勲章を得ていて当然の、平成日本唯一の「生ける文豪」である。小説においては鴎外、露
伴、藤村、漱石、鏡花、秋聲、荷風、潤一郎、康成、由紀夫に続く日本文学史上のビッグネームであってしかるべしだし、文藝評論家としてもあの小林秀雄に比
肩する重要な存在だ。
先に紹介した神戸大名誉教授、歌人の岡田昌也氏のより的確な表現をもう一度引用したい。
>
小生は、はるかの昔、先生のお作に出逢った瞬間、実は、なぜか、先生こそは、日本文学の正統を継ぐ、おそらくは最後のお方であり、まさに日本文学の「最後
の光芒」をまとう殿(しんがり)として登場なさったお方である、と直観致しました。その思いは直ちに確信となり、今日に至っております。
岡田氏はこうも書いている。
小生は、むしろ、先生の後のほうを危惧しております。
岡田氏だけでなくたとえば、別の読者、明野潔(文藝春秋)からのメールの一節にもさらりと同様の感想が記されている。
「先日は 何とか京都に行ってまいりました。 新しくなった国立博物館を見たのですが、国宝、重文ぞろいの展示に圧倒されました これらの文華の伝統は 現在どこに行ったのだろうと考えますと 作家では秦さんしか思い浮かびません」
岡田氏の「日本文学の正統を継ぐ、おそらく最後のお方」はまったくもって正鵠を得ている。しかし、なぜ「最後のお方」なのか。私が秦恒平を「遅れてきた文豪」と表現するのとおそらく同じ理由だろう。
日本文学の正統を継ぐとは、その文学者の作品が古典という豊饒な日本語の土壌にしっかり根をはり栄養を得て、咲き匂う名花であることだ。ケネス・クラーク
の言葉に「偉大な藝術作品というものは、ほかの藝術作品から得た記憶を含有している」があるが、過去の古典を読みこんで消化吸収できない作家に名作は書け
ないともいえる。
秦恒平を論じた評論は後述する理由(湖の本刊行の影響等)もあり、彼の若い頃のものに限られ数が少なく、その中でも優れた論考を見つけることは難しいが、
笠原伸夫氏の『祇園の子』への解説として書かれた「秦恒平における美の原質」は、その稀少な素晴らしい評論の一つである。その中で笠原氏はこのように書い
ている。
自然主義によって封が切られた近代日本文学の流れのなかで、伝統文化を汲みあげようとする傾向は、旧来ほとんど傍流のものとして位置づけられて来た。鏡
花、谷崎の史的位相は、かの有名な三派鼎立説ふうの見解ではどうにも処置のつかないものでありつづけた。いまここで大仰な文学史論を展開するつもりはない
が、鏡花、谷崎の系譜が、近代文学の流れのなかで無視されてはならない、という点だけは指摘しておくべきだろう。その部分を削ぎ落とすことによってもたら
されるものは、想像力の涸れはてた、痩せ馬の行列である危険が充分あるからだ。同様に戦後文学史のなかでも伝統文化への正統なかかわりは不当に無視されつ
づけて来た。されば秦恒平の世界は、鏡花、谷崎の美的血脈を受け継ぐものとして特異な地歩を築きつつあり、戦後文学史への反措定としての意味をもっている
ようにも思われる。
短編「祇園の子」初出が昭和四十一年、当時秦恒平がまだ三十歳の作品であることを考えれば、その後に続く本格的長編名作群を是非笠原氏に論じてもらいたい
と思う。秦恒平が日本文学の美的血脈を受け継ぐ、鏡花、谷崎の系統の「文豪」に駆け上ったことを認めてくれるものと思う。
秦恒平の世代を最後に、それ以降の世代は、福田恆存などの嘆いたような戦後日本の国語教育の惨憺たる改悪により、古来日本人の積み上げてきた古典群から急速に切り離されていく。
秦恒平の仕事を正しく評価する場合に不可欠な「正統」、つまり秦恒平なみの力量で古典を血肉としている作家、批評家が笠原氏ふくめ、すべて秦恒平と同世代
か上の高齢世代であったことは、秦恒平が「最後の光芒」で「遅れてきた」文豪にならざるを得なかった理由の一つであることは間違いないと思う。
現在の日本人が夏目漱石のように過去の漢文、漢詩を殆ど読むこともできず、まして書くことなど及びもつかないことは(門玲子の孤軍奮闘によって江馬細香が
なんとか復権した例外をのぞき)この事実の一つの証明になろう。秦恒平の娘世代の私程度の古典読解力だと、『夜の寝覚』を読むことより、ヘミングウェイを
英語原文で読むことのほうがずっと容易なのだ。この傾向は近年拍車がかかっているが、これについて説明するとおそろしく長くなるので、ここでは割愛する。
広辞苑では「文豪」について、「文章、文学に抜きんでている人。文章、文学の大家」と簡単に書かれているが、私にはこれではあまりにもの足りない説明である。
私の考える日本文学における「文豪」とは、他の言語では絶対に置きかえることの不可能な「日本語」でしか表現し得ない真理、日本語そのものに内在する思想
に到達する文章によって、普遍的な人間の真実に迫る作品を描き続けている文学者のことである。彼乃至彼女の作品のどの一冊をとってもそこに最良の「日本
語」「日本人」が生きて在ることになる。日本とは何か、と問われて「これを読んでください」と、その膨大な仕事(文豪は仕事量も必要条件になる)の中から
どれでも一冊選んで渡すことのできる文学者こそ「文豪」と呼ぶにふさわしいと思っている。絶海の無人島に持っていくただ一冊の「日本語」の本になれる作品
を書いた人間が「文豪」である。
この考えでいくと、たとえ村上春樹であっても(彼が優れた作家で私も愛読者の一人であっても、将来ノーベル文学賞をとったとしても)私の意味する「文豪」とは呼べない。安部公房も大江健三郎も然り。
次の秦恒平の言葉は彼の「日本語」で小説を書く姿勢を表す一つの重要なものだと私は考える。
「きれいに割り切れるものに真実は宿っていない。それは真実の滓でしかない。撞着や矛盾があればこそ真実なのだ」 2001 9/17
私はこのような言葉が、たとえばフランス語で書く人間から生まれる思想だとは思えない。有名な「明晰でないものはフランス語ではない」という言葉はフラン
ス語の不変の直接的語順について述べた論文からのもので、当然フランス語全体が明晰という意味ではない。しかし、私のような門外漢でもこれだけはわかる。
この言葉が人口に膾炙するほど「明晰さ」が標榜される言語がフランス語で、日本語はそういう言語とは違うということだ。
主語、動詞、目的語の語順がフランス語のように安定せず、時に省略もされる日本語は、文章がその構造だけで自己完結するのではなく、一つの文章に文章構造
を超えた何か別の要素や力が働く言語といえる。受け手の想像力と創造力をプラスするという稀有の言語である。それが佳い意味では和歌、俳句などの読み手に
自由な解釈をゆだねる文藝を生み、また広島の原爆慰霊碑文のような「過ちは繰返しませぬから」誰が? というどこまでも「無責任」でいられるという日本人
的心性の弊害を生んだと私は思っている。
秦恒平は、万巻の古典を愛読し、日本語の特性を知り尽くし、その長所を美しく生かしきる道を極めた、当代屈指の日本語の遣い手である。彼の『日本語にっぽん事情』という一冊ほど、日本語について目を開かせてくれる本はない。
『日本語にっぽん事情』は一九九三年NHKラジオで四回にわたって放送されたインタビューをまとめたものである。秦恒平の日本語への理解と思想のうかがわれる文章を少し引用してみる。
こと日本語にかぎって言えば、物、事、人の関係や輪郭を、日本語で明確に書こう、ないし書けると過信することは、大きな自己矛盾を犯すことになるだろう
と、わたしは考えてきました。それよりは適切に表現して真意を伝えなければならない。伝えるのは真意であって、極端に言うと、言語や文章そのものでは、な
いんです。伝える工夫こそが大事なんです。そういう考えの根本には、所詮言い尽くせるものではないという認識があります。これを積極的に申せば、「言いお
ほせて何かある」という考えです。言葉には、相互の了解や納得を容れる、また容れなくては成り立たないという本来の性質が備わっていて、言葉だけで万事露
骨に言い尽くせては、むしろ困る。そんなことでは人間の人間のたる妙味が薄れてしまう、と、そういう考え方へ行き着くような言語なんでしょうね、日本語と
いうのは。(湖の本 エッセイ21 P6)
……
日本語の伝達能力がけっして至れり尽くせりではないから、では、だから文学・文藝も、不十分で不如意な作品しか生まないかとなると、これまた、けっしてそ
う言ったわけのものでは、ない。なかった。それどころか、逆に、そうした日本語の素質に、素直に添いながら、その表現に特色を出してきた。源氏物語のよう
な、仰ぎみる達成も遂げてきています。
詩歌も、特殊ではあるが、量、質ともに、世界的にも、古くから藝術的に誇らしい成熟をみせていました。
そして、その特徴はといえば、端的に、物語、和歌、俳譜、連歌も、演劇言語も、歌謡も、また随筆や批評も、日常の手紙なども、すくなくとも明治以前までの
文学言語は、むしろ、物・事・人の関係や輪郭を、ことさらに、ぼかし、かすめとり、互いに滲(にじ)み合せる風に表現していた。明確に言えるとも、言おう
とも、認めず、また努めもしていなかった。もっぱら、余情や、残心や、含蓄に、ものを言わせていました。それで、それなりの達成を遂げている。他国の古典
にくらべて、だから価値が低いなんてことは、全く、無い。日本の古典とは、つまり、そういう言語表現であったのですよね。(同 P15)
日本の文学・文藝の真の目的が、事柄の明確な「表現」に向かうということには、私は賛成です。しかし、明確な「説明」に向かうというのは、さほど大事と
も、また可能とも思われない。と同時に、賛成だとは申しましたが、さきの、「明確な・表現に」向かうという、そのこと自体が一種の矛盾関係にあるというこ
とも、私は、日本語ないしは古典語体験を通して実感しています。「明確」とは行き兼ねればこそ、「表現」という手段に工夫と創意とが必要となり、それへ
「文藝」という藝・術を洗練する。むしろ明確なではなく、「有効な・表現に」「的確な・表現に」「みごとな・表現に」文学・文藝は向かうべきであると思う
のです。その意味で西洋語に学んだ散文感覚だけで日本語を律してきたような近代以降の日本文学の主流ないし研究態度に対して、いささか、危惧を抱いている
ことも、申し添えておきたい。(同P54)
秦恒平は、日本人の発想や態度、判断や認識を、支えているのは「日本語」であり、「日本語的なもの」であるとも語っている。それゆえに、「西洋語に学んだ
散文感覚だけで」書いている作家は、日本語の特質を最大限に生かす表現に到達し得ないといえる。このような作家だけが認められるとしたら、日本語はどんど
ん痩せていってしまうだろう。
村上春樹や大江健三郎が、夏目漱石より世界に評価されやすかったのは、まさにこの西洋語の散文感覚による翻訳のされやすさであろう。日本語を母語とする読者が彼らの文章に物足りなさを感じる理由は、日本語で書く妙味の薄さに他ならない。
「文豪」であるためには母語の頂上を極めていることが絶対必要条件であり、そういう文豪を、正しく読めて評価するだけの読書社会が形成されていなければならない。秦恒平は残念なことに生まれた時代が遅すぎたのである。
私ごときがくどくど説明しなくても、その作品の数頁も読めば秦恒平がいかなるレベルの作家であるか、ふつうならわかるはずだ。わからなければ、その人間は
もともと文学とは無縁である。本を読まずに幸せなタイプ、本は読み捨ての娯楽であれば満足という人間なのだ。モーツァルトが嫌いで音楽が好きな人間がいる
なんて信じられないと某指揮者が語っていたことがある。それと同じで、私には秦恒平の価値がわからなくて日本文学を愛好する人間がいるとは信じられない。
もちろん、誰でも好き嫌いはある。本好きなのに谷崎潤一郎を奥さん取り替えたエロじいさんと嫌っている知人がいる。夏目漱石の名作「こころ」をあんな陰鬱
な作品御免蒙るという親戚もいる。当然、秦恒平の作品世界を生理的に受け付けない、難しい、暗い、辛いという読者はたくさん存在すると思っている。その政
治的発言に賛同できないという意見も少なくないはずだ。しかし、と私は強調したい。人間への好悪や政治姿勢や肩書に関係なく、日本は、文藝の鑑賞や批評
を、作品そのものの価値で、自由に正統に評価できる社会であるべきだ。文藝をその本質以外の理由で無視、黙殺することは、文化への犯罪に等しい。日本語へ
の愛、人間への愛がないのである。
三、秦恒平の仕事
秦恒平の膨大な仕事を、彼自身は次のように書いている。「わたしの文学的な産物は、短歌にはじまり小説へ転じ、双翼のていに比較的広範囲な論考・エッセイも書いてきた。同じ小説でも、物語もあり、そうでないのもあり、私小説もある」
ここには述べられていないが、このほかに秦恒平はすぐれた戯曲も、日録も書いているし、俳句も佳い。手をつけていないのは漢詩類やノンフィクションくらい
だが、その気になればもちろん可能だったろう。つまり文藝の殆どのジャンルを最高の水準で網羅できるオールマイティな文学者である。
私は愛読者なので、秦恒平の広範囲な仕事のほんの少々、ほんのさわりの文章をここに書き写し、秦恒平文学の魅力の一端を感じていただけたらと願う。これは
無謀を通り越して正気を疑われる試みだが、この考察は一読者が秦恒平の業績について世の中に広く訴えたいという一念で書くものなので、どうかお許しいただ
きたい。
秦恒平のような文豪の仕事を限られた紙数で伝えることなどもとより不可能であるから私の偏った好みの選択でしかないこともご勘如いただきたい。その上で、是非秦恒平の全作品を読破してみようと思う読者の増えることを願ってやまないものである。
先ず第一に小説家としての仕事では、秦恒平がざくっと分けているように、物語(ロマンス)小説(ノベル)私小説があるが、圧倒的にロマンスが多く、次に私小説、ノベルという割合になるだろう。
長編、中編、短編、原稿用紙三枚半から四枚程度の掌説まで、多作多彩な文豪である。
@ロ
マンス系列 処女作ではないが、まず秦恒平、若干二十七歳の時の『畜生塚』は、秦恒
平の原点というべき作品である。その後の彼の創作に一貫して流れる「身内」の認識が初めて描かれている部分を書き写したい。
私はもともと定まった自分の家と家族をもっていたのです。いつか私は必ずその家へ帰り、私は家族(身内)と永劫一緒にすごすのです。その家族とは親子同胞
といった区別のない完全な家族ですが、その家族が本当にどんな人たちなのか今の私は忘れていてよく想い出せないのです。なぜなら、私はその家を出て、この
現実世界の混乱の中へ旅に来ているからです。
今の私の生活はすべて旅さきの生活であり、家庭は仮の宿です。私はいつか、死ぬという手段であの本来の家(この本来という言葉はよくいう父母未生以前の本
来です)へ戻り、本来の家族(身内)に逢うでしょう。私より先に帰って来ている人もいるでしょうし、あとから帰る人もあるでしょう。
私がいつか死ぬようにあなたも死ぬでしょう。あなたはあなた自身と家と家庭とを本来もっているのですから、その家へ帰ってゆくのです。その家にはあなた自身の家族(身内)が住むのです。私もその中に入っているでしょう。そして、私の家にあなたはもちろん居るわけです。
この意味がわかりますか。死後の世界、いいえ、本来の世界では、私という存在はただ一つではありません。私のことを身内と考え愛してくれた人たちの数だけ、その人たちのそれぞれの家で私はその人たちの家族として生きるのです。同じことが誰にでもあてはまるのです。
私の家にいるあなたと、あなたの家にいるあなたとは全く同一異身なのです。私の家には廸子がいますが、あなたの家に廸子はいないかもしれない。しかし私の家では廸子とあなたは完全に一つ家族です。こうして無数の家がある。
あの世では、一つ蓮の花の上に生まれかわりたいと昔の人は願い、愛を契る言葉として実にしばしば用いていますが、それは私のいうこの本来の家と家族との意味を教えているように思います。
笑う前に考えてみて下さい。これは私の理想です。これが信念になるとき、私は死を怖れず望むようになりましょう。これが極楽であり、地獄とはその永劫を一
人で生きることです。人は現世での表面的な約束ごとで結ばれた家族、親子、同胞、夫婦や友だちをもっていますが、真実の家族は本来の家へ帰った日に、はじ
めてわかる。
私は私の家へ、あなたはあなたの家へ、廸子は廸子の家へ帰ってゆくのです。私の家にいる私と、廸子やあなたの家にいる私とは別のものではない。どの家にい
ても、私は私を分割しているのではないのです。どれも本当の私であり、どの家を蔽っている愛も本当の全的な愛なのです。
年齢も容儀も思想もどんなことも詮索することなしに信じて愛し疑わない身内だけの世界がある。このふしぎな私の夢をあなたもいつか信ずるでしょう。そう信じなければ、人は寂びしくてこの旅の世界に惑い泣いてしまう。
私はこういうことをあの博物館の中で花火のように想い描き、瑞泉寺を出るときに信じはじめました。私の得たふしぎな安心は大きなものです。死をおもうことに恐怖がうすれています。
廸子はこの私の描いた夢を理解したようでした。
『畜生塚』のヒロイン「町子」は続く「慈子」とともに秦恒平の文学の基調を形作る。(湖の本11作品の後に)秦恒平が「美しい限りの小説を書こう」として
書いた小説『慈子』はロマンスの系列の名作の一つである。この系列の『みごもりの湖』は秦恒平文学の最高傑作ともいえるが、あえてここではとりあげない。
『慈子』の冒頭は、現代日本文学の中でもっとも美しい書き出しの一つであろう。
正月は静かだった。心に触れてくるものがみな寂びしい色にみえた。今年こそはとも去年はとも思わず、年越えに降りやまぬ雪の景色を二階の窓から飽かず眺め
た。時に妻がきて横に坐り、また娘がきて膝にのぼった。妻とは老父母のことを語り、娘には雪の積むさまをあれこれと話させた。
三日、雪はなおこまかに舞っていた。初詣での足も例年になく少いとニュースは伝えていた。東山の峯々ははだらに白を重ね、山の色が黝(くろ)ずんで透けて
みえた。隣家の土蔵の大きな鬼瓦も厚ぼったく雪をかぶって、時おり眩しく迫ってくる。娘もはや雪に飽いたふうであった。私はすこし遅い祝い雑煮をすませ、
東福寺へ出かけた。市電もがらんとしていた。
そしてこの物語のヒロイン朱雀慈子が初めて登場する場面はこんなふうだ。
年の瀬の来迎院には、雪を被(き)て淡(うす)色の山茶花(さざんか)と痛々しく白い侘助が咲いていた。雪しずくがしきりと池に落ちた。
慈子(あつこ)は持って来た朱い傘をぱちんと開いた。傘は身一杯に迫った生垣の雪を勢いよくはねた。あやうく庭石を一つに踏んで私は傘のかげにすべり入った。慈子はすこし微笑って言った。
「截(き)って下さいます」
ああ、そうかと鋏を受けとり、足もとに気を配りながら池をまわって、山茶花を枝長に截った。そばに朱い実の千両の一叢(ひとむら)がある、それも、と慈子は言った。
雪はこやみがちに降りついでいた。丈高い生垣に囲まれ、ものの底に佇むふうに慈子は含翠庭の池をのぞいていた。傘の下で顔が朱い翳(かげ)にみえた。お利
根(とね)さんが見覚えのある男傘を持って出てくれた。慈子は開いたままの自分の傘をお利根さんに手渡して、私の方へきた。門へつづく石道のわきに寒さに
いじけて石楠花(しゃくなげ)の株が黝ずんでいた。
次の文章は、この小説が世間に溢れる不倫小説とは一線を画す作品であることを示していよう。
朱雀の人たちのことは決して話さなかった。親にも友だちにも知られない私一人の“来迎院”という意味は、幼いほどの判断のままにもただの独占欲とはまるで
別の価値観を心に灼きつけていった。そうしなければ所詮は保ちきれない交わりとして、“隠す”というよりは“守る”という気もちで、先生やお利根さんのこ
とも朱雀慈子のことを固く秘した。来迎院の人たちはこのひたむきな姿勢を揺がそうとは決してしなかった。現実の煩いから離れて愛だけを守るというのは絵空
事なのである。絵空事には絵空事にしかない不壊の値のあることを先生が、慈子が、私におしえた。
『慈子』について秦恒平は「作品の後に」で次のように書いている。
……
『慈子』をもし書かずにいたら自分はどうなっていただろうと、しみじみ思う。作家としても、客愁になやむ一人生の旅人としても、である。「慈子」をえて初
めて真実何を求めて生きているかに気づいた。まだ絵空事(イデアル)の不壊の値のいくばくかを、私は知らない。知れば知った瞬間、生活者(リアル)の私は
爆発してしまうかも知れないと、覚悟して私はこれを底知れぬ闇に言い置くのである。
一般的に『慈子』は恋愛小説に分類されるかもしれないが、私は『慈子』を「宏=私」という作家の彷徨を描く藝術家小説として読んでいる。この『慈子』は秦
恒平の『トニオ・クレーゲル』といってもよい。秦恒平は基本的に優れた「藝術家小説」を書き続けてきた作家といえよう。
『糸瓜と木魚』で正岡子規と浅井忠を、『墨牡丹』で村上華岳を、『閨秀』で上村松園を、『加賀少納言』で紫式部を、『あやつり春風馬堤曲』で与謝蕪村とい
うように、藝術家を題材にしているものだけでなく、表向き恋愛小説の顔をしている『畜生塚』『初恋』『慈子』『みごもりの湖』『冬祭り』『誘惑』なども一
貫して藝術を生きる人間を描いている。
秦恒平は藝術家小説の中でも、とくに絵画、画家を描いたものが多いが、私は優れた絵画にここまで「言葉」で肉薄した作家を他に知らない。吉田健一の『閨
秀』への朝日新聞文芸時評には「我々は言葉の存在を忘れてただ絵がある世界に遊ぶ思いをしばらくしているうちにその凡てが言葉であることに改めて気付く」
「我々は絵と言葉とその両方の秘儀にあずかっているのを感じる」と絶賛されている。この「絵と言葉の秘儀」のごくごく一部描写を紹介したい。
興
に乗って、その晩の内に覗き込む妻の息づかいを聴きながら、短冊ほどの画仙紙にすらりと美しい清姫の立ち姿一枚を走り描いた。頭上に僅かに緑の松と藤が見
え、右手を編笠の下に隠して清姫はふっくら白い憂い顔をあげ、遠くを見ていた。口もとにちいさく朱を点じ、前にのびた白い左手が画面にない日高河の急流を
予感させた。絵具は淡く、しかもなまめいて、総じて吾ながら花やかだった。 (湖の本『墨牡丹』上 P75)
華岳は面相筆にもちかえ、一隅の空にくきやかにちいさな月の輪を描き加えた。白い胡粉を浅くさっと刷く、と、たちまち月光は音楽となって空に満ち山はらに
滝のように溢れ流れた。華岳の身内をおそろしい予感が、これ以上の清い山はもう生涯描くことはないのだという予感が貫いた。 (同『墨牡丹』下
P209)
秦恒平は歴史への深い関心のある作家で、歴史上の人物や出来事を舞台にしたロマンスも多く書いている。これらは司馬遼太郎の書いたような所謂時代小説とは
まったく趣の異なる、新しい形の歴史小説である。彼には「また一つの歴史小説を創りたい」という意図がある。歴史を舞台にしているが、作者の想像と創造の
筆が縦横無尽に行き交う、時には研究評論の要素も内包する豊かな物語である。これらの小説は、歴史を舞台にした秦恒平の「思想小説」ともいえる。
『清経入水』(太宰治賞受賞)『秘色』『三輪山』『風の奏で』『北の時代=最上徳内』『親指のマリア=シドッチ神父と新井白石』 等がある。
ここでは秦恒平文学の金字塔ともいうべき『親指のマリア』から紹介したい。これは秦作品にしては異色に「私」が出てこない手法をとっている。この作品にはそれが効果的である。
弾圧の苛烈さに、カトリック教会がついには布教をあきらめざるを得なかったキリシタン禁制の日本に、1708年(江戸時代中期)熱塊の信仰をもって単身潜
入したイタリア人神父シドッチがいた。捕らえられたシドッチは幕府重臣新井白石の訊問を受ける。優れた聖職者と日本の碩学との、言葉の全く通じない二人の
知性と誠意は、やがて人種、宗教、文化、政治体制のあらゆる相違を乗り越えて、いつしか互いに共感と親愛と敬意を抱きあう関係を築き、『西洋紀聞』という
書物として結実する。
私は基督者ではない。だが佛・道へのそれと変わりない敬意は久しく持っている。信仰を書こうとは思っていなかったが、白石とシドッチとの「一生の奇会」を
まこと下支えしていたのは、仁であり愛であり悲でもある広大な「知性」であったと信じて私は、この歴史小説を、我らが「日本」を「近代」に導いてくれた愛
ある「明し・証し」かのように創作した。 (選集 第十巻刊行に添えて)
こう書いているように秦恒平は遠藤周作の『沈黙』のようなキリスト教文学を書こうとしたのではない。しかし、これは布教の願いかなわず極東日本の地に散っ
ていった最後の宣教師シドッチへの、そしてそれ以前に来日し殉教したり棄教させられたりした多くの宣教師たちへのこれ以上ない鎮魂の書である。シドッチを
訊問する新井白石を通して、秦恒平の「日本」とは如何なる國かという思想が描かれていると私は読んでいる。
この作品の中で、秦恒平は新井白石に代表される当時の日本の知性がキリスト教を受け入れなかったのは、宣教師の体現するものの価値がわからなかったのでは
なく、むしろよくよく理解したからこそ、またそれを悪用する西欧の野望を認識したからこそ、殉教させることより棄教させることを目的とし、断固受け入れな
かったと描いている。
新井白石と側用人間部詮房とのこのようなやりとりが書かれている。
「あの男と…会いましょう。お許しが出れば、ですが。品川という通詞に同席してほしいと思います。
ヨワンは、だが…なにも言いますまい。ま、一生の奇会でした…、それなりに締め括りがつけば、それも天爵……」
「天爵……どういう事ですか」と間部詮房は尋ねた。
「孟子が説いているのです。高位高官は人爵、仁義忠信は天爵と。そして古人のえらいところは、天爵を修めてその結果人爵がおのずと之にしたがったのに、今人(きんじん)は、はなから人爵を得たくて天爵を表むき修め、官位を得てしまえば天爵を顧みない……」「なるほど…」
「ローマに生きれば、あの男も人爵に恵まれた程の人物でしょう……。選んだ道は狂気の沙汰ですが、卑しからぬ狂気ではあったようです」
「ふむ……仁義忠信ですか」
「彼は、愛というでしょう。ところが聖人の教えもまた、士の天職は人を愛する…即ち仁の一事と説いています」
「東海の涯まで、つまりたった二人に教えを説きにヨワンは来たのですか」
「二人が一人でも、来たでしょう…」
じろりと間部は彼を見て、すぐ視線を遊ばせた(選集 P431)
「異人が。とうとう…」と間部は話題を替え、頷く彼へ、
「代わりが。また、来るでしょうか」
「一人や二人では来ますまい。まして坊主は、もう…。しかし…いつか、国をあげて迫って参りましょう。切支丹がどうのといった詮議ではとッてもケリのつかない、国と国との自在な……は口実で、欲の深い談判を力ずくで押しつけてくる国が二つや三つ、続きましょう」
「あなたにそう言われると、今にもそう成る気がしますが。何年ほどの余裕がありますか」
「…百と、五十年…すれば、もう国を鎖したままでおれますか、どうか」
「それまでは長生きできない…流石のあなたも」、と間部は揶揄した。(P504)
ヨワン=シドッチの「神」と対峙した新井白石の「日本」を作者はこのように描く。これも秦恒平の一つの日本文化論と読みたい。
彼は╶─
独りになってからも、長助の死から自由ではなかった。心外なほどであった。どうでもいい筈のことであった。それなのに、彼は、喉へふたつの袋を無理に嚥み
こんだような息苦しさを覚えていた。徳川、江戸城、幕府、政道、儒教、武家、四民。そんなものが一つの袋に入って、学問や歴史の紐で結わえてあった。詩人
といわれ、すこしは自慢なその詩ですら、その大きな重い袋の飾りであった。それで、その袋だけが丈夫で、いい筈であった。
だがヨワンは全くべつの袋を彼の口へねじこんだ。彼らのいう神しか入っていない袋。なのに、ひどく、重い……。
正徳四年(一七一四)十月十四日。先代将軍の三周忌法会を締めくくる経供養が御霊屋(おたまや)であった。明(あけ)七ツ時すぎに彼は束帯して増上寺へ参
仕した。なにか、さわさわと頻りに風が動いた。骨を噛んでくる寂しみに彼はほとほと負けていた。ながながと経を聴きながら彼は来し方を思わずにはおれず、
それもただ思い出に耽るといった感傷とはほど遠いものであった。
彼はある日の父を、先刻思い出していた。父のそばに懐しい母も在った。静かな静かな日であったが、すこし雪の降った朝ではなかったか。彼は早く起きて自身
で親たちのために湯を沸かしたりしていた。かすかに目がさめられてか、雪らしいとでも言い合われるのか、母の声がして父の声もかそけく漏れ聞えた。いい
な……。彼は聞きとれない両親のなにかしら和んで雪の夜明けを話しておられる「今」をしみじみ嬉しい、いい、と思った。
やがて父と母とは彼が用意の湯で、雪を眺めながらささやかな毎朝のたのしみに茶を飲まれていた。その似あって静かに並んだ肩から背への美しさに、彼は見
入っていた。なぜともない、手を畳において眺めていたい後ろ姿であった。二人とも、もうなにも口を利きあうふうでなく、彼の父も母も、おもえば昼間のうち
はほとんどこれという事も喋らず、それは静かな、平常の夫婦であった。
幼いながらにあの時彼は悠久を感じていた。あの静謐には、美も倫理も覚悟の深さも意気の毅さすらも秘められていた。「日本」は好むと好まぬにかかわらずこ
ういう父母の国でありたい……、子もこういう父母にまた成ろうと務めたいもの…。そこまで思ったか思わなかったかは覚えないが、親に愛されていた事を、ほ
んとうに愛されていた事を、彼はたった今、亡き文昭院殿の御法事のまっ只中愕然として思いあたり、ぶわッと泣けた。泣けた╶─。 (P496 495)
そして物語最終章で、イタリア本国からも忘れられ、異国の地下牢に朽ち果てたシドッチを痛哭する新井白石の言葉を読んでほしい。二人の気高い魂の、真実の出逢いと別れを、シドッチの生と死の栄光を描く静かに激しいドラマに、読者は万斛の涙を禁じ得ないだろう。
A私小説
秦恒平の私小説は秦文学の大きな柱となる重要なものである。彼は小説を書かざるを得ない環境に生まれたと言ってもよいかもしれない。不謹慎かもしれない
が、その家庭環境を描くだけでも一生題材に困らないくらいであろう。四人の子持ちの寡婦と息子ほど若い学生との間の恋愛の末の、二人の私生児の弟として生
まれ(兄は北澤恒彦、兄の息子は作家の黒川創)、幼児の頃に実父母や兄と引き離されて秦家の養子として育った。血縁の運のない人であるともいえる。この環
境が秦恒平独特の「身内」の思想を育んだといえる。
しかし、秦恒平であるから、従来考えられてきた私小説とは一味もふた味もちがうものを書こうとしてきた。
むかしから、男女間の、家庭内の、交際上の、生い立ちの、暮らし向きの、貧しさ等々の「情け無い恥」「うしろめたさ」を敢えて忍んで「そのまま書く(掻
く)」のが「私小説」であるという「説」がもっぱら通用してきた。その代償として、作品は「純文学」「藝術」といわれ、作者は「藝術家」という名誉を手に
入れてきたと。書き手たちは、けっこうその積もりでいたと。
わたしの考えている「私小説」はちがう。どうちがうかを、わたしは書いて実現して行かねばならないが、一言でいえば、「いま・ここ」に在る人間の「私」自
身書き、「私」自身の思想を社会的にも文学的にも定置し表現して行く「手法」「方法」として「私小説」を書く。「日記」を書く。「年譜」を編む。そういう
気である。(『狂気』私語の刻)
私小説として主な作品には、『罪はわが前に』『逆らひてこそ、父』『凶器』『生きたかりしに』等がある。『もらひ子』『早春』は自伝的作品であるが、秦恒平はこれを私小説とはよばず純文章と読んでいる。
波乱にみちた実母の一生を描いた『生きたかりしに』から引用する。
菜の花に埋められたる地蔵かな
こんな句を作ってみたことがある。路傍の嘱目とみえて、じつは浮かんで消えた想像の句に過ぎない。が、一度は消えた景色がまた折々に浮かんで眼に見え、春が来ると思い出す。
この道はむろんどこかへ通う道、それをどこへと感じていたか想像していたか、句のできた時の気持を憶えていない。のに、石地蔵のまるい頭が菜の花に埋まっ
たこの道を通って、追い追いに、私は私を産んだ母の生家を訪ねて行く気分をもちようになった。母に死なれたと人づてに知ってまもない春の句作りだった。
生母を憶えていない。母の生家など根から知らない。菜の花とちいさな石地蔵と、という幾分月並みなこんな取り合わせにすら、なにも知らぬ気安さや心細さ
は、だから容易(たやす)くまといついたのだろう、句中の私は菜の花の道の向こうの「生家」に今も実の母が生きて自分を待っているような、待っていてほし
いような気でいるのか、それを祈って、ちいさくとも野の地蔵にふと頭をさげたのか、自分が頑是ない四つ五つの姿で想像されてならない。 (湖の本
『生きたかりしに』P23)
母の信仰を本物と思っていいか今も幾分の不満を感じていることを、氏は率直に私に告げられた。告別「さようなら」の最後にみられる「十字架に流したまいし
血しぶきの一滴を浴びて生きたかりしに」を氏は指さし、「生きたかりしに」と嘆くのでなく、キリストと神の御手に喜んで身をゆだねてほしかった、と言われ
る。
私は内心に肯(がえ)んじなかった。この「生きたかりしに」とはじめて読んだ瞬間、貫かれたような感動があった。生前のあらゆる醜いまでも辛い部分を母は
末期の一句で浄化した。「生きたかりしに」はけっして未練なのでなく、恒彦でも恒平でもない「人間への愛」の無私の表白だ。 P221
引用箇所だけでは今までの私小説に思われるだろうが、これは私が秦恒平の俳句と実母の歌人としての才能を書き留めておきたいという欲望にかられたものであ
る。作品全体の構成としては、秦恒平と同じ私生児であった上田秋成の出自の秘密についての作者の考察が併行して描かれている。
実父母を許さずに生きてきた秦恒平は、この『生きたかりしに』を書きながら中断して三十年近く放置していたという。「湖の本の『生きたかりしに』は幸い晩
年の一記念作となり好評でした。生みの母と、ようやく出逢いました。」と書いているように、秦恒平は八十歳前にようやくこの作品を書き上げ発表すること
で、遂に実母との和解を遂げたと私は読んでいる。
娘夫婦との確執を描いた、私小説の極北ともいうべき『逆らひてこそ、父』はここではとりあげないが、十九歳の孫娘の死に至る日々と死後を描く『かくのごと
き、死』『凶器』とともに、この一連の作品はただもう骨肉の葛藤凄まじく救済はない。私は読み終えた夜に、悪夢にうなされた。
Bノベル
「ノベル」の系譜では、短編、中編が多い。秦恒平は短編、中編においても名手であり、『祇園の子』『青井戸』『月皓く』唸るようなノベルの名作がある。こ
の系列長編では労使紛争を描いた『迷走』が代表的なものになろう。ノベルの系列は、一般的な読者が思い描く「小説」なので、現代と過去、現世と他界の行き
かう前述したロマンス系列の作品群より読みやすいかもしれない。
C掌説
多種多様の長編、中編、短編だけでなく、掌篇という秦恒平独自の文藝形態で、原稿用紙三枚半から四枚以内に書き切った百篇近い作品がある。
秦恒平は文藝ジャンルの中でなぜか詩だけは殆ど書いていないが、私はこの掌篇を小説としてではなく詩に相当するものとして読みたい。あるいは、掌説集『無
明』を、秦恒平の敬愛する上田秋成の『雨月物語』にならった怪談集と読んでもいいと思う。「思いもよらぬ凄いハナシがわが身内からジワジワと湧いて出るの
に吃驚し、時に怕(こわ)かった」と作者が書いているように、掌説はこの作家の毒に眩暈を感じる作品集になる。秦恒平が『雨月物語』を批評した言葉「心が
白くなるほど怕い」をそのまま進呈したい作品集である。
D戯曲
秦恒平は芝居好きであるので、戯曲も書いている。夏目漱石原作を秦恒平の解釈で戯曲化した『こころ』は加藤剛主演で公演もされ好評だったと聞く。他に、『懸想猿・続懸想猿』『なよたけのかぐや姫』がある。
E評論
小説家としての仕事だけでも、これほど幅広い質と量であるが、評論、随筆においても質量ともに傑出した仕事をしている。秦恒平が、もしあの魅力的な数々の
小説を一作も書かなかったとしても、文藝評論家として、随筆家として文学史に大きく刻まれる存在であることは間違いない。
秦恒平のことを「学匠文人」と呼ぶ読者もいるが、まったくこれ以上彼にふさわしい呼称があるだろうか。博覧強記という言葉をを絵にできたら秦恒平の顔になりそうだ。
文芸評論家としての功績では、まず何よりも谷崎潤一郎論の数々をあげる必要がある。 秦恒平は「谷崎愛」と自ら称する文学者である。水上勉がある編集者に、秦恒平のことを谷崎と松子夫人の隠し子かと耳打ちして訊ねたという逸話がある。
私は、ウソでなく一時谷崎先生の隠し子ではないかと「噂」されていました。噂の震源は、私が『神と玩具との間 昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち』を
書き下ろし出版した際に「本の帯」でいい推薦文を下さった水上勉さんでした、ご本人からも笑い話に私は聴きました。
谷崎が松子夫人と祝言を挙げられたのは昭和十年、私はその年の師走に生まれています。有りがたいことに、なんだかツロク(相応)しています、が、むろん
残念無念事実ではない。 (講演「いま、谷崎を本気で読むために わたくしの谷崎愛」)
秦恒平と谷崎夫妻に血縁はなくても霊的には親子関係があると言ってもよいほど繋がりは深い。谷崎文学なくして、秦恒平は作家にはなっていなかったろう。秦
恒平の自筆年譜によると昭和四十年谷崎の訃報を聞き、秦恒平は法然院墓地に走り「まず作家になり作家として谷崎論を書こうと誓った」とある。秦恒平は谷崎
論を書きたくて作家になった人間である。
だが自分自身を表現する為には、私は、小説を書くだけで足りず、何としても谷崎潤一郎への思いを書かずにおれなかった。私にとってそれは二つの別の表現ではなく、分ちがたい一つの思いであり深い望みであったから。(「筑摩叢書」谷崎潤一郎╶─<源氏物語>体験╶─ 後記)
私はかつてこれほど面白い谷崎論を読んだことはないし、秦恒平の谷崎論を読むことによって谷崎潤一郎文学への視界がおおきく開かれたと思っている。
『神と玩具との間──昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち』『谷崎潤一郎を 読む──夢の浮橋・蘆刈・春琴抄』『谷崎潤一郎の文学』等が代表的な作品 である。
秦恒平は自身を「創作的な批評家でも批評家的創作者でも」あると書いているが、秦恒平の文藝評論は対象に迫る推理小説として読むことも可能なほどおもしろい。秦恒平の評論は、作品の読み方は、一つの創作であることを教えてくれる。
たとえば『春琴抄』についての評論では、火傷を春琴自傷であると説いている。
谷崎は作品の題を、けっして無造作にはつけなかった。「佐助抄」よりは『春琴抄』の方が、むろんはでに大きい佳い題である。しかし作意において佐助よりワ
キで小さい春琴を以て作品に題するほど、谷崎はいいかげんではなかった。佐助にあくまで重きを置くのなら、当時の作者好みの佳い題くらいは、なんでもなく
付けえられた。しかもきっぱり『春琴抄』と題して迷わなかったのは、「春琴」に、あえて言えば「春琴の心理」に作者の作意も共感もあり、しかも「最も横着
な、やさしい方法」でそれを描いてみたが、どうだと「春琴抄後語」は読者の前に明していたのである。
どういう意味か。谷崎という作家は、だいじのところほど書かずに表わすという作家であった。
つまり男佐助の心理と行為とにすべて巧みに蔽い隠されて、いわば美しい衣裳に深く包こまれた女春琴の愛欲を描き切るという方法で『春琴抄』は書かれている
のである。佐助を書けば即ち春琴の「心理」が書けているという「方法」だった。書かずに書く。巧みな語りと叙事のつきまぜのなかで、『春琴抄』が珠のよう
に秘し隠したのは、「佐助犯人」などにくらべれば遙かに凄い「春琴自傷」の一挙であったろうことを私は説こうというのである。 (湖のエッセイ15
P119 120)
この評論を読み終えたあとに、春琴自傷に反論することは殆ど不可能に思われる。
前述の「いま、谷崎を本気で読むために わたくしの谷崎愛」という講演において、秦恒平は評論を書く上での姿勢をこのように述べている。
みなさんは論文を書かれる。評論もされる。いずれそれを仕事にされるかも知れない。論文と評論のちがいは、難しくいえばいろいろに言える。それはみなトバしまして、文系の場合、私はこう考えています。即ち、
優れた論文は「正しくて面白い」と。
優れた評論は「面白くて正しい」と。
そして作家論も作品論も、その作家と作品とを未曾有に豊かに太らせるものでありたい、と。批判のための批判だけなら書かない方がマシ。また重箱の隅をつついて爪楊枝の先をねぶって独り満足しているような議論だけでは、しょせん或る「閾値」は越えられない。
谷崎潤一郎と秦恒平の出逢いは文藝にとってもっとも幸福なものの一つである。谷崎文学は秦恒平の「身震いのするような目覚ましい」評論によって、また新し
い生命を得た。さらに言えば、秦恒平にとっての谷崎論は、秦恒平のすぐれた「日本文化論」でもある。(湖の本33 谷崎潤一郎の文学)
さて、『細雪』の姉妹たちが平安神宮の神苑で「繰り返す」演戯に近い行為も、それが「花」の、「桜」のなせる業であること、大なり小なり「花」「桜」の魅
力に酔う素質、物狂いの心地に惹き入れられる素質あってのことかと私は書いた。「花の魅力」といい「酔う素質」といい「繰り返し」という、その内面の関わ
りが語られねばならない。
躊躇なく花は「桜」、魚は「鯛」と言い切った、その選択には、桜や鯛が、日本人の心に生きつづける或る「繰り返し」の象徴の如くでありながら、しかも一見
平凡な好みの底に「一定不変」の美しさ豊かさ、即ち谷崎ふうの「美の極致」のイメエジが生き生き息づいていることが諒解される。花は「桜」、という言い方
は文字どおり正々堂々と通用する。余の花が花でない訳でなく、それは十分判っていながら花は桜と言い置いて言い尽くせているという自覚はむろん久しい或る
「繰り返し」が可能にしたことであったし、そうも「繰り返し」得たのは桜が、鯛が、真に美しいもの豊かなものとして心に「秘蔵」され育てられて来たからだ
と言うよりない。想えば吾々の祖先は巌(磐長媛)の不動不変を退けても、花(木花開耶姫)を「繰り返し」の精妙なるものと選んだのであり、その瞬間に、人
の生命も、美しきものの生命も、繰り返しの一度一度に新しき充実あるべきものと、ものの生命の在り様を具体的に象徴的に把握したのである。因果の輪廻とは
全く違った断面で、「繰り返し」の真相を理解し、受容し、尊崇して、一定不変の「美の極致」と謂うべきものを「花」と喩えて把握したのである。人はしかも
「木の花」をいつか「桜」と信じて疑わぬようになった。 (同 P26)
「物狂い」と言えば我々は能を想い出す。能と言えば自然に物真似ということが想い出される。「繰り返し」の意味を物真似に活かして「花」の生命を見極めた
伝統的に最も秀れた思想は、言うまでもなくも物狂いの能に長けた観(阿弥)世(阿弥)父子に帰する。物真似そのことが物狂いであり、繰り返しや重ね合わせ
に他ならぬことは殆ど何の説明も要しない。すぐれた物真似の内に「花」を語った世阿弥らは文字どおり「繰り返し」に酔う日本人の心の素質を掴み切ってイデ
アルな絵空事の真実世界を露わにしてみせたのである。「花」は戻り行くべき「美の極致」を象徴した。
谷崎潤一郎の伝統は、美の様式面からみれば、紛れなく世阿弥の世界に根をおろし、さらに藤原定家に届くであろう。谷崎の美の感受はより古代的でもより近世
的でもなく、殆ど中世的であることはその趣味や言説を、殊に『陰翳礼賛』を仔細に読めば明らかである。源氏物語をも、谷崎は定家、世阿弥の無形の影響下に
受け入れていたと私は想う。定家流の歌の伝統を尊重した世阿弥らと考え併せると、京都時代の谷崎が水の流れ寄る如く自然に能狂言、京舞などの世界に友人知
己を得ていたことは無意味と思えないのである。
さて、「繰り返す」人があれば、その人の内部で敢て繰り返しを選ばせるものがある。そのものは何か。「色々の物まねは作り物なり。これを持つ物は心なり」
と世阿弥は『花鏡』で言っている。萬能を綰ぐこの一心とは無心無風の位を通じて或る奥深く隠された絶対と関わる心、繰り返しや物真似を営む主体に呼びかけ
催し、それへかりたてる或る「もの」がそれだと考えられる。物凄い、物々しい、物哀れなどと謂う。物まね、物ぐるいという絵空事を構えるとは、これらの
「もの」の声にしたがうことであり、この「もの」即ちあたかも幽鬼が語る息づかいが、絵空事を常凡の陳腐や退屈から分つのである。先人がしばしば鬼の字を
あてて「もの」と呼び、夥しい述懐の歌に寄せて「ものぞ悲しき」「ものぞ恋ひしき」と嘆息し、巧みな心打つはなしを聴けば「鬼(もの)の語り出づるか」と
驚いたように、彼らは文字通りそれを鬼気かと想像していた。「もの」とは身をもがいて外へ露われようとする動き、人と物の動作を表情をことばを動かして露
われて来る呼びかけ、暗く深く隠されてある声のやむにやまれぬ噴出であった。もし谷崎の語りくちを「物語的」と評するなら、その故にまた「伝統性」を結論
するのなら、およそこのような「もの」の意味を踏んだ上でなくてはならまい。 (同 P39 40)
谷崎潤一郎以外の文学作品についての主な評論
漱石「心」の問題
春は、あけぼの・桐壷と中君
古典愛読・古典独歩
濯鱗清流 秦恒平の文学作法
秦恒平が「文学」を読む
作・作品・批評
詩歌についての主な評論
歌って、何!
青春短歌大学
花鳥風月・好き嫌い百人一首
愛、はるかに照らせ
閑吟集
梁塵秘抄
千載和歌集と平安女文化
センスdeポエム 詩歌を体験
私の特に好きな詩歌評論は、秦恒平の座右の愛読書である『閑吟集』についての一冊である。
好色古典の第一等に西鶴の『好色一代男』を挙げられて異存はない。元禄世之介が恋の手習いについわたしも見習い、想えば想えば空恐ろしいほど「恋の手管」
を学びましたといえばむろんウソであるが、日本の古典全集につねに加えられるすてきに粋にポルノグラフィックな室町小歌の『閑吟集』からはもっと深く、
もっともっと懐かしく「恋愛の孤心」を悩ましく教わったのは決してウソでない。愛読して真実面白い歌謡の集では閑吟集の右に出るものは無い。
(湖の本 閑吟集 孤心と恋愛の歌謡 P210)
当時どのように謡われていたか知る由もない中世の歌謡『閑吟集』三百十一篇が秦恒平の絶妙な批評により、現代の読者にも歌謡の詞句を心の中で歌いあげ、魅力にふれることが可能になる。たとえば、こんな小歌と批評に思わず口元がほころぶ。
小 身は破れ笠よなう 着もせで 掛けて置かるる
うまいものです。謡われていることは悲しい女の嘆息であり愚痴ではあるのですが。「着もせで」は、「来もしないで」でもある。「掛けて置かるる」がさなが
ら晒しものの感じでして、愛を喪っている女の「破れ笠」同然の侘びしさが、しみじみ言い尽くされています。傑作の一つでしょう。
一八八番。これは、なまめかしい。
小 上さに人の打ち被(かづ)く 練貫酒(ねりぬきざけ)の仕業かや あちよろり こちよろよろよろ 腰の立たぬは あの人の故(ゆえ)よなう
「上さ」はどこか方言の感じがします。つまり、いつも頭から被(かず)いて着るなよやかな練貫小袖と似て、よくよく練った練り酒をあおったのが祟ったか、
「あちよろり こちよろよろよろ」と腰が立たない。練貫の小袖のなよなよとした感じが、立たぬという感じに巧くかぶさっているのです。が、「腰の立たぬ」
本当の理由は、あの人と愛し合って愛し抜いた一夜の耽溺の、あまり烈しかったせいですのよ、と、女は燃えつくした五体の余炎にまだ身を焼かれつづけている
のが、本当の意味です。酒はだしにされての惚気(のろけ)なンですね。「腰ぬけの妻うつくしき炬燵かな」蕪村、もあります。
そして日本文化論として大きな仕事がある。
蘇我殿幻想・消えたかタケル
花と風
茶ノ道廃ルベシ
中世の美術と美学(女文化の終焉・趣向と自然・光悦と宗達)
中世と中世人(中世文化の源流 日本史との出会い)
日本を読む・わが無明抄
いま、中世を再び
宗遠、茶を語る
秦恒平は裏千家の宗遠という茶名を持つ茶人である。彼がもし作家になっていなければ、現代屈指の茶人となっていただろう。この茶道への深い造詣が彼の日本文化論の底流であることは間違いない。
日本文化の素質である日本語についての主な評論
手さぐり日本──「手」の思案──
日本語にっぽん事情
からだ言葉の日本
こころ言葉の日本
特筆しておきたいのは「女文化」「からだ言葉」「こころ言葉」はすべて秦恒平の造語であるという点である。秦恒平以前にこの言葉を使った文学者はいない。
この三つの言葉が秦恒平の創作であることを明示されず、他の文筆家にいい加減に使われることがあるが、秦恒平がオリジナルで使った意味を是非彼の作品を読
んで学んで楽しんでほしいと願う。秦恒平のこれらの造語を説明する文章を引用する。
「女文化」とは、女性主体の文化といった意義を謂うのではない。強いて謂えば逆様であり、謂わば「女手による・男性のための・女風の文化」とでも規定した
い。創作者が女に限るわけでない。男である場合がむしろ多いだろう。変な譬えになるが、あの啄木の歌のように、妻とともに自分も楽しみたく慰められたくて
買って帰る「花」のような、ま、そんな性質が、少なくとも京都を中心に起こった文化にはあることを、わたしは感じつづけてきた。古今和歌集も、源氏物語や
その絵巻物も、仏像も寺院も、家具や調度も、極端な例では大鎧兜や太刀の拵(こしら)えも、蒔絵も、衣裳はおろか衣冠束帯でさえも、庭でも家でも、みんな
そんなように創られて来たと言えるのである。
そして、むろんのこと、そんなものばかりで済まなくなる時代を段々に迎え入れながら、なおかつ今日においてすら日本文化の素質には、この「女文化」性が抜
けきるどころの騒ぎでなく濃厚なのではないか。「終焉」と見えては蘇り蘇りして来たのではないか。そういうことを示唆したいとわたしは考え、二十三年も前
に『女文化の終焉』を書いていた。『趣向と自然』も書いた。 (湖の本 女文化の終焉 下巻 P134)
さて此の巻の『からだ言葉』とは、少なくも一九八四年の筑摩書房初版『からだ言葉の本╶─付・からだ言葉拾彙』よりも早く、同社の「言語生活」に本書前半を連載していた頃からの、いや、もっと早く、雑誌「技術と人間」に『手さぐり日本╶─「手」の思索」を連載(一九七四)していた昔からの、わたしのオリジナルな「造語」である。『こころ言葉』もそうである。それがどういうモノかは、「頭が痛い」「骨を折る」などの、生理的な頭痛や骨折とは全くべつの表現力を推知されれば、たちどころに知れる。
(湖の本 からだ言葉の日本 P143)
秦恒平は『からだ言葉の日本』執筆の動機について「日本語の古くかつ新たな魅力に、すこしでも面白くいつも触れていたいから」と書いている。(『からだ言葉の日本』の序にかえて)
「“か
らだ”の表現力や伝達力を、“ことば”はこの際“日本語”は、たいへん上手に生かしている」「“からだ”に借りて日本の“ことば”は、たいへん豊富な言い
まわしを得ている」(湖の本 からだ言葉の日本 P14)というのが、現代屈指の日本語の遣い手である秦恒平の主張だ。
美術についての主な評論
おもしろや焼物・やきもの九州を論ず
猿の遠景・母の松園
繪とせとら日本
同時代への批評、政治的発言
歴史・人・日常 流雲吐月
ペンと政治 一、二、上下
耐え・起ち・生きる
九年前の安倍政権と私
秦恒平は日本の歴史への深い理解と研究の底荷の上に、現代の政治、時事問題に対する考察と渾身の訴えを多くを書いている。秦恒平は当然ながら古典の世界だ
けの住人ではない。今此処を生き生きと生きている作家である。現在の日本の作家の中で、彼ほど電子メディア社会に鋭い視線の届いて文学者は少ないだろう。
私の近年また昨今、ここ十年ほどは、電子メディアとの、言換えればコンピューターとの付き合いを、色濃い縦軸にして、多くの仕事がその軸に集中していました、今も、同じです。
なかでも理事を務めています日本ペンクラブに、「電子メディア委員会」を提案し、創設したことと、もう一つ「電子文藝館」の創設を提案して開館にこぎつ
け、数年の間に、近代現代の六百人余の各ジャンルの秀作、記念作、問題作等を、七百作を超えるほど、世界中に無料公開、発信している仕事は、誇りにもして
います。
いま此処での話題に即して申せば、なかでも「電子メディア委員会」は、この先々も言論表現の自由や、思想信条の自由と絡み合って、人権上の大きな一つの「橋頭堡(きょうとうほ)」になるものと思っています。
と云いますのも、その創設を提案するに当り、私が、現在ないし近未来に具体的に「懼れ」ていたことがある。技術的な学習や、ちいさな事件への対処ではな
く、もっともっとグローバルに危険な、一つは、サイバーテロ、そしてもう一つは、サイバーポリスへの恐怖とその現実化でした。より具体的にいえば、「私民
(しみん)」の個人情報の国家的、世界的権力による、強引で無差別な没集と管理と、それの「迫害的な悪用」を懼れていました。
そういうと、皆が、まさかと、少なくとも自分には全く関係がないという顔をしたものですが、とんでもない。その一端を、先日もテレビは、「データマイン」
「アシュロン」といった観点から、いかに今日の、例えば米国社会が、個人情報を、國に、大統領の手に吸い上げられているかの「戦慄すべき実情」をありあり
と報告していました。ウソじゃない、たったの「一秒」に数十百億ものデータ、個人や団体の情報を、無差別に収集しながら、篩(ふるい)に掛けて、特定の事
実へ近づこうとしている。それが可能なんです。国家機関が、また軍や諜報機関が、物凄い手の広げ方で民間の情報を無制限に集めています。
むろん憲法違反で禁じられている。ところが國がやれば違反なものが、民間の「情報収集企業」がやれば問題ない。これらと大規模に秘密に提携し結託して、権力機関は、信じられないほどのことを現に日々に実行しているわけです。
よく映画などで、個人の情報をコンピューターで追跡し、履いた「パンツの色」まで、持った財布の中の「小銭の数」まで「分かる」などと豪語しているのを見
聞きしますが、法螺(ほら)だと言えない、もはや出来る機関には何でもなく出来るんですよ。電子メール、そんなものは百パーセント秘密になんぞ出来るもん
じゃありません。
問題は、日本でも、それは必ず、いえすでに行われているということです。サイバーテロはそうは頻繁に実行され得ないが、サイバーポリス行為は、一秒の隙間
なしに稼働していると考えていた方がよい。電子メディアの上で自分のしている一切合切は、秘密を奪われていることを承知していた方がいい。逃れることは不
可能な時代にもう成っているんです。
諦めたがいいというのでは、むろん、ありません。現実を最大限に聡明に察知し認識して、怖れと怒りをもって、圧倒的な「私(し)」民の多数が強く意識し、廣く深く連携して、悪しき「國の犯罪」に猛烈に対抗しなければならないんです。
わたし個人のホームページは、十万枚を越す原稿、情報で溢れ、其処が、わたしの作家生活の主要な「場」になっています。すでに、今申しましたように「兆
(きざ)しつつ」あるサイバーポリスやサイバーテロの脅威に対しても、立ち向かい、闘いつづけねばならないし、悪政への視線を逸らすことなく、必ず選挙に
も行く、発言もしています。
(湖の本118 歴史・人・日常 P8〜10)
F随筆
京都についての主な随筆
京言葉と女文化・京のわる口
洛東巷談─京とあした・京都私情
京味津々・きのう京あした
京と、はんなり
京のひる寝 等がある。
秦恒平文学の大きな要素となる「京都」もの「京都」ジャンルがある。秦恒平の仕事には小説、評論、随筆のほとんどに「京都」が関わっている。
藝術家がある土地に生まれるのは偶然ではない。そこには人智を超えた天のはからいがある。マリア・カラスが生まれたのは女神たちのいたギリシャであるべき
であったように、京都という千年の古都は、自らの語り部として秦恒平という天才を選び、生み育てたと私は思っている。京都について知りたければ、秦恒平の
京都を舞台にした小説、評論、随筆を読むことが一番である。
京都の人は「ちがう」と言わない。智慧のある人ほど「ちがうのと、ちがうやろか」と、それさえ言葉よりも、かすかな顔色や態度で見せる。「おうち、どう思
わはる」と、先に先に向こうサンの考えや思いを誘い出して、それでも「そやなあ」「そやろか」と自分の言葉はせいぜい呑み込んでしまう。危うくなると「ほ
な、また」とか「よろしゅうに」と帰って行く。じつは意見もあり考えも決まっていて、外へは極力出さずじまいにしたいのだ、深い智慧だ。
この「口の利きよ」の基本の智慧は、いわゆる永田町の論理に濃厚に引き継がれている。裏返せば、京都とは、好むと好まざるに関わらず久しく久しい「政治
的」な都市であった。うかと口を利いてはならず、優れて役立つアイマイ語を磨きに磨き上げ、日本を引っ張ってきた。京都は、衣食住その他、歴史的には原料
原産の都市ではない。優れて加工と洗練の都市として、内外文化の中継点であり、「京風」という高度の趣味趣向の発信地だった。オリジナルの智慧はいつの時
代にも「京ことば」だったし、正しくは「口の利きよ」「ものは言いよう」であった。この基本の智慧を、卑下するどころか、もっともっと新世紀の利点として
磨いた方がいい。 (湖の本 早春・京のちえ P118)
京都以外の随筆
死なれて・死なせて
酒が好き・花が好き
櫻の時代
有楽帖(舞台・映画・ドラマ) 等
G短歌
実母は歌人であったが、秦恒平はそれを知らずに思春期から熱心に歌を詠みはじめ、そして早い時期にやめてしまっている。現在は折にふれ詠んだものを作品やホームページに載せている。湖の本に二冊歌集があり、それは数少ないが優れた仕事である。
歌集 (湖の本 少年)
ひむがしに月のこりゐて天霧(あまぎ)らし丘の上にわれは思惟すてかねつ
(十七歳)
光塵(湖の本 詩歌断想)
あけぐれのほのかにひかり生(あ)るるときいのちましぶききみにみごもれ
(2004年)
H俳句
秦恒平自身は自分の俳句を評価していないので句集は創っていない。私は作品の中やホームページに時々出てくる俳句には佳句がたくさんあると思っている。
月皓く死ぬべき虫のいのち哉 雨の日の 雨うつくしき秋桜
死にいそぐ道には多き春の花 手にうくるなになけれども日の光
I電子メディア上の作品
詳しく後述するが、秦恒平には新しい時代の文学者としての大きな仕事がある。
電子メディアを使っての文藝創作である。彼の運営するホームページに毎日、日記形式の作品「私語の刻」を書き続けている。ここには今までの秦恒平の全仕事
のあらゆる要素が詰め込まれている。これは新しいかたちの「電子文藝」とでも呼ぶもので独特の魅力をそなえた作品である。原稿用紙で十万枚は超えるだろ
う。
以上秦恒平の仕事について書いてきた。
もともとこれほどの巨人の全貌を要約して語り切れるはずがない。ミジンコが白鯨について語るというような無茶苦茶なことをしたので、なんとも不満足な紹介
である。作品群の分け方一つにしても色々なやり方があろう。私がここに紹介したのは概略にもならないくらいであるが、とりあえず秦恒平の仕事の桁違いの質
と量だけでも想像していただければ幸いである。
採り上げなかったが、その他に充実した講演集、対談集もある。未発表の小説、創作ノート類の文学資料、新聞、雑誌に寄稿した文章などでも大変な数になるだろう。読んでも読んでも追いつかない。
この稀有の相貌をもつ学匠文人作家秦恒平の書いたものを全部読もうとすると、彼の作家人生くらいの年月はかかるかもしれない。天才に限っていえば、夭折し
ない限りはむしろ量が増すほど仕事の質が高くなる。量は質に比例するのだ。文豪に粗製濫造ということはあり得ない。書き流したりした無駄な文章は一つもな
い。
秦恒平は堂々たる文豪、しかし、未だ真価の全貌の理解はほど遠い「遅れてきた文豪」である。
四、不遇の理由 内的なもの
秦恒平ほどの「文豪」が、知る人ぞ知る作家であり、不当に黙殺されてきた理由を考察すると、秦恒平という文学者の個性の問題と、出版業界をふくめた時代の
劇的な変化、日本社会の宿痾の両方の要因があることに気づく。この内的、外的な要因が表裏一体でからみあい、一人の文学者の名作群を不幸にも埋もれさせて
いる。考えれば考えるほど、秦恒平の置かれている現在の状況は不可避であったという結論になってしまう。
先ず、不当な黙殺に至る、秦恒平自身の内なる要因について述べたい。
この考察は秦恒平の人物批評を目的とするものではないし、同時代に生きているだけで現実の秦恒平を身近に知らない読者には論ずる資格もない。ただ、作品やネット上に公開されている秦恒平ホームページの日録を読めば秦恒平がどのような人間であるかおおよそのことはわかる。
秦恒平は徹頭徹尾文藝に献身する藝術家である。しかし、赤貧洗って早世した石川啄木や樋口一葉のような旧型の文学者ではない。
太宰治賞でデビューして以降、次々と六十冊あまりの本を出版して順風満帆に見えたプロ作家としての人生であったが、秦恒平は、デビューしてしばらくして
「作家さよなら」という一文を書いてひそかにしまっておいたと告白している。この一文は公開されていないので未読であるが、秦恒平にとって職業作家として
生きることと、自身の文学を生きることが両立しなかったのだと思う。それは結果として、世渡りが極端に下手な文士と同じに見えるが、秦恒平は時流に乗れず
不遇になったのではなく、時流に乗らない覚悟によって不遇をも辞さなかったというのが正しいだろう。
ある時期から、つまり湖の本刊行時から、秦恒平ははっきりと現在あるようなかたちでの「作家」という職業に見切りをつけたのだと思う。秦恒平は自身の藝術
の理想のためにふつうのプロ作家として生きる世渡りを捨てた確信犯であり、既存の作家の枠を超えて書き続ける自由人「秦恒平」という職業を選んだ。
秦恒平の本質は、自身の創作の自由と、作品を読者に届けるというただ二つの目的を遂げるために、道なきところに道を切り開いていこうとする、戦略的藝術家なのだ。それ以外のこと、世間的な成功とか名声とか収入などはどうでもよいことであった。
秦恒平は、谷崎潤一郎のような恋愛遍歴も、ドストエフスキーのようなギャンブル依存症もない常識人にみえる。だが、妻子との家庭を大切にし、有能な編集者から作家になったインテリ紳士の風貌の下には、不屈の文士魂と闘士がひそんでいる。
藝術家秦恒平の孤立無援の闘いのもっとも象徴的なものは「湖の本」である。秦恒平は「湖の本」は私の人生の最大の創作である、と語っている。
おそらく、私の最大の「創作」は、もし評価してくれる人が後のちにあるとしたら、たぶん「湖の本」という営為にあると読んでくれるのでは無かろうか。
2014 10・27 156
しかし彼の最大の創作は、彼の異様な不遇の最大の原因となる。
昭和六十一年(一九六六年)湖の本第一巻『清経入水』の刊行の弁を、ここに引用したい。
刊行の弁
友人であり多年の読者でもある石川の井口哲郎氏から、「帰去来」の印をおくられた。「帰りなんいざ、田園まさに蕪(あ)れなんとす、なんぞ帰らざる」と陶
淵明は『帰去来辞』に志を述べた。「雲は無心にして以て岫(みね)を出で、鳥は飛ぶに倦(う)んで還るを知る。」いまこそ、親しんだこの詩句に私は静かに
聴きたい。
文学と出版の状況は、ますます非道い。良い方向に厳しいのでなく、根から蕪れて風化と頽落をみずから急いで見える。
幸い私は、この十数年に都合六十冊を越す出版に恵まれてはきたが、また、かなりの版がもう絶えてもいる。その絶えかたも以前よりはやく、読んでいただく本
が版元の都合一つで簡単に影をうしなう。数多くは売れないいわゆる純文学の作者はあえなく読者と繋がる道を塞がれてしまう。私は、「帰ろう」と思う。
もとより創作をさらにさらに重ね、機会をえて出版各社から本も出し、商業紙誌にも書いて行くことは従来と変りない。が、もともと私家版から私は歩きだし
た。今、私にどれほどの力があろうとも思えないが、望んでくださる読者のある限り、その作品が本がなくて読めない…という事だけは、著者の責任で、無くし
たい。「帰去来」の思いを心根に据えて、ていねいにこの叢書を育てたい。
読者は作家にとって、貴重な命の滴である。その一滴一滴が、しかもたちまちに大きな湖を成すことを信じて作家は創作している。作家と作品とは、そのような母なる「うみ」に育まれ生まれ出る。
本は簡素でいいのである。版の絶えている作品の本文を正し、時には新作にも必要の場をひらき、そして紙型を手もとに本の常備をはかりたい。作者から直接に
(出費を願って)読者へ、また読者から直接に(作品を求めて)作者へ、もっぱら口コミを頼みに、可能な限りは年に二、三冊。「創作」の自由と「読書」の意
志とがそうして細くとも確かに守れるのなら、そこへ、私は「帰ろう」と思う。久しい読者との、さらには新たな読者との重ね重ね佳い出逢いを願わずにはおれ
ない。
昭和六十一年 桜桃忌に
秦恒平
従来の出版流通システムを逸脱した「湖の本」という作家個人による出版の目的は、このようにいたってささやかなものであった。秦恒平自身には文学者として
の純粋な願望があっただけで、出版業界や世の中を変えてやろうというような大それた目的は持ち合わせていなかったであろう。
しかし、プロ作家としては致命的蛮勇であった。秦恒平は「湖の本」の出版によって、出版業界という既存のシステムの破壊者とみなされたといえる。
湖の本出版の影響をわかりやすくたとえると、芸能プロダクションから一人で独立しようとしたアイドルタレントが見せしめに芸能界から干され、活動の場を失って実質的に業界から追放されることだろう。
秦恒平は、作家個人の独立出版という行為によって出版界に叛旗を翻したと目された。早い話、出版社に勝目のない喧嘩を売ったことになる。あらゆる業界にい
えることだが、既得権益の破壊者は、たとえ巨象と蟻のような力関係であったとしても、徹底的に踏みつぶされずにはいられない。
たしかドストエフスキーの言葉だったと思うが、「新しい一歩を踏み出すこと、新しい言葉を発することは、人々が最も恐れることである」がある。秦恒平と
「湖の本」の歩みを振り返ると、既得権益集団が警戒するのは、特定組織の力ではなく実は不屈の個人の力であることに気づく。歴史をみてもよくわかる。労組
とか日教組とか原水禁運動を分断したり骨抜きにすることにはたやすく成功したのに、ガンジーや田中正造はどんなにしてもつぶせなかった。幸徳秋水の命を奪
えても、彼の名前も思想も生き存えている。集団に埋没しない「個」は、「個」に徹するゆえに強い。真実は集団の大声より個人の静かな声のなかにある。集団
に属すると人間は弱くなる。オスカー・シンドラーや杉原千畝やラウル・ワレンバーグは命がけの「個」であったからあれだけの人間愛をやり遂げた。権力はじ
つは個を貫く人間を一番恐れている。
他の作家たちが「湖の本」を真似て、自作を自分で出版する流れができたら、作家が好き勝手に稼ぎはじめたら、出版権力の存亡に関わる脅威につながる。湖の
本の創刊当時は、出版社は傾きながらもまだ十分金儲けができたし、だからよけいに蟻の穴から堤の崩れることを恐れていた。華やかに目立つが、出版業界は金
融とか製造業とは比較にならない規模の小さな業界である。少ない牌を奪い合っている。出版社を通さない作家活動など看過できることではない。
既存の出版界の輪の中にいる限りは評価の対象になるが、秦恒平のように早くからその集団の輪から飛び出してしまったものについては、その作品が世の中に存
在しないことになる。作品の価値にもかかわらず秦恒平の作品は出版界から無視、黙殺される現状にいたっている。酷評されるならまだいい。評価の土壌にあげ
ないという状況になって久しいのだ。
このことを裏付ける事実を秦恒平自身の湖の本第一巻の「第三刷に添えて」から一部抜粋する。
「読みたい本が、品切れ・絶版ゆえに読めない」という読者の不満には、誰かが、なにらかの方法で応えるしかない。出版社にそれを望むことが無理なのも分
かっている。それなら、その無理なところを作者の自力で補おうというのが、「湖の本」の基本の発想であり寄与であった。ときに出版社への造反かのように誤
解する人がいるが、とんでもない。品切れ・絶版本を安価に補充しているのであって、出版社に迷惑はかけていない。出版社で在庫確保ができないのを作者の私
費で補充しているのであり、「読者」を向こうに、いわば作者の方で出版社に協力しているに等しい。誤解されると情けない。
この一文は、自身の絶版本を救済したいという純文学作家の当然の願いそのものが、出版業界で到底許されるものではないことを証明している。ある本を絶版に
するかどうかでさえ、生殺与奪の権利は出版社が握っている。出版社の絶対権力は侵害されてはならないのだ。問題は、現在の出版システムには藝術を正しく識
別する能力はない上に(優れた目利きの個人はたくさんいるだろうけれど)、その能力があったとしても商売を優先せざるを得ないことにある。
さらに湖の本に関係する秦恒平の発言を引用したい。
た
だ、我が「湖の本」の場合、既成の文芸出版社の露骨な敵意にも堪えねばならなかった。私を世に送り出した筑摩書房にさえ、作家生活三十年の一冊を、何を出
すとの一顧の検討もなく拒絶されてしまう。文庫本一冊の企画もないことと「湖の本」の十四年・六十余巻の持続とは、どうみても「質」的に均衡をえていない
と、私が言わなくても然るべき人が怪訝に思ってくれる。グルマン氏らの報告や討議の中でも、物哀しいまで既成の出版権力への遠慮が語られていたが、いわゆ
る「出版資本」の固陋な認識やバッシング意識は想像を絶して根強いのである。同じそういうことが、実験段階に入っている「電子書籍コンソーシアム」にも
「オン・デマンド出版」にも生じないこと、排除と独占の論理で新世紀の新出版モラルが汚れないことをぜひ願いたい。
1999 12/28 3
秦恒平の立場にたって考えると、この作家が好んで湖の本を出版したわけではないことは容易にわかることだ。出版社が本を出してくれれば、作家は書くことだ
けに専念できるからそのほうがらくでよいに決まっている。藝術家が数字と雑務の経営者を兼ねるのは負担であろう。自力出版などすれば出版社の機嫌をそこね
るし、金儲けにはならないし(湖の本は売れれば印刷代金が回収できる程度で利益はあがらないと秦恒平が書いている)、本を発送する作業の肉体的な負担と多
くの事務処理が必要だし、自費出版扱いされることでいずれ新刊の書評を含め、文壇からのあらゆる評価の枠外にでてしまうという対外的に何一つメリットのな
い出版であった。
湖の本127巻めの出版を前にしての次の記述にも、湖の本に関する煩雑な仕事の一端が書かれている。
* さ。六日に出来てくる「生きたかりしに」下巻完結のための発送用意に取り組まねば。
@ 封筒を注文する。代金を上中下すでに頂いている読者への挨拶、今回分をお願いする挨拶、これまでに未納のある読者へのお願い、各界人・大学・高校・文学館・図書館等への寄贈の挨拶を、それぞれに書いて A 印刷し B さらに一つ一つにカッターで分割する。 C 買い入れた封筒に、湖の本の印、謹呈・贈呈の印などを全て捺す。 D 払い込み用紙に版元等の必要な登録印を捺す。 E 用意されている全ての送り先宛名住所を印刷し、一枚一枚封筒に貼っておく。
すくなくもこれだけの作業は本が出来てくる前日までに終えておかねばならない。これを、もう三十年近く、現在までに126巻ぶん、妻と共に励行してきた。
編輯、入稿用意から校正・責了までの間にも手抜きの利かない慎重な作業や判断が幾重にも必要になる。編輯・制作体験を積んでいなかったら、これは到底でき
ることでない。たくさんな作家達がいまではわたしの「湖の本」と同じような作家の出版を希望もし憧れてさえいることをよく承知しているが、@ 出すに足る作品と量 A 編輯力 B 愛読者・知己の多さ C 家族の献身的な協力 D 健康と気概 E それなりの資金用意 が無ければ、誰にも真似も出来ない。人を雇って機械的に事を進められるような仕事ではない。知る限り、追随例を一つも知らない。「騒壇余人」に徹する覚悟も、むろん容易ではないだろう。
* いまの私たちには、さらに「秦恒平選集」の刊行という大仕事がある。一巻一巻の一期一会、気概の繰り返しにじっと耐えて行く、資金の続く限り。命の続く限り。
2015 7/1 164
秦恒平は破綻しつつある出版流通システムの中で、藝術としての文学の存亡のための新しい道を「湖の本」によって発信し続けてきた。時代の負の遺産と闘いつ
つ、最先端を行くものの困難な道を歩んできた。湖の本創刊と三十年近くにわたる継続は、未だかつて世界のどの文学者も実現したことのない仕事である。真似
すらできない仕事だ。これは文学界の一つの偉業といってもよい。
それにもかかわらず、他のプロフェッショナルの作家、批評家(編集者ふくめ)、学者が、湖の本の出版や秦恒平の作品について、正当な評価を与え擁護しない理由を推察すると、二つ考えられる。
第一には秦恒平を評価することで自分の仕事への悪影響を避けたいという保身だろう。湖の本を認める行為は、彼の同類とみなされる危険を伴う。そんなことを
して自分の本を出版してもらえなくなるのではないかという潜在的な恐怖がある。ただでさえ生存競争の非常に厳しい文壇の中で、唯一無二の大切なお得意さま
の出版社の機嫌をそこねて干されたら生計に関わる。そこまでして自分の強力なライバルを庇うお人好しはいない。著述業の個人と出版社には圧倒的な力関係の
差があるのだ。たとえ一般社会より自由と思われている文壇であっても、作家も学者も評論家もジャーナリストも本を出版しなければ生きていけない。つまり出
版社のご機嫌を伺いながら働く零細な下請け、弱い立場の派遣労働者にすぎないのだ。ペンは剣よりは強いかもしれないが金には弱い。湖の本や秦恒平の作品を
おいそれと論評するわけにはいかないのは当然だ。
第二は、出版する側からみての、このような作家個人による自作販売方式に対する疑問や批判、反感や嫉妬である。第二の理由について少し説明する。
湖の本の刊行は、秦恒平ほどの仕事の質量のそろった作家で、しかも編集のノウハウのある実務能力のある人間でなければ実行し続けられない。そして何より肝心なのは、この販売方式を維持するためには、必ず一定数の読者がいなければならない。
湖の本の読者が受け入れているのは、現在の出版流通システムの中では特異な形態である。年に数回刊行される湖の本の内容を読者は事前に知らないし、配本さ
れる本はすでに所有し既読している本の場合もある。二冊目であっても喜んで購入する読者が湖の本を購読している。それを押しつけと感じる読者は、購読をや
める。
このシリーズは、本好きにはどこにでも持ち歩ける最高に読みやすい、字の大きさも装丁も考えぬかれた形態の本であるが、ハードカバーになれた読者がみたら
本というより冊子に近く、しかも一冊二千五百円程度(刊行時一刷は1300円)の金額は割高と思うかもしれない。自分が選んでもいない本が、年に数回請求
書つきで定期的に送られてきたら、ふつうは迷惑である。怒るだろう。
秦恒平は湖の本を送付する際に、もし不要ならば代金の振込は不要、返送も不要、本はもし請求書つきで誰かに譲ってくださることがあればありがたいとしている。29年のあいだには、この販売形式に反発して離れていった読者も少なくないだろう。
つまりこれはあくまで読者の好意によりかかった販売方法であり、読者への甘えにほかならないという批判が起きて当然である。湖の本がこの方式で長年継続し
ている事実は、本が売れるかどうかに心血を注ぎ一喜一憂する出版関係者には、過度な読者依存であり感情的にも容認できないことであったろうと推察してい
る。それが秦恒平へのさらなる反感や嫉妬を招く原因になったかもしれない。
ところが面白いことに、この観点から湖の本を批判しているプロの文章を読んだことはない。これは湖の本が広く世間に認知されていない、あるいは無視、黙殺されているため酷評すらされないと見ることもできる。しかし、それだけの理由だろうか。
たとえ、湖の本出版という仕事に批判的な人間であっても、三十年近く百冊以上の自作本を購入してくれる読者、たとえ少数であろうとそこまで甘えられる読者
の存在する作家に内心驚いているのではないか。その上、秦恒平がどれほどのレベルの作品を書き続けているかを少しでも読んで知っていれば、沈黙以外にどん
な対応があるだろう。何をしようと、どんな人間であろうと、藝術家は作品がすべてだ。あらゆる現世の迷惑や非常識をその作品の藝術性によって凌駕するのが
天才の仕事である。だからこそ、あえて批判はしない、したくてもできないという形で、本心は秦恒平の作品を評価しているサイレントマジョリティーが存在し
ている可能性もある。私はそれを疑わない。
世間に色々な批判があってよいし、色々な読者があってかまわないと私は考えている。作家の勝手な都合による販売形式であろうとなかろうと、甘えだろうとな
かろうと、強制ではないのだから、読者はいやなら買わなければよいだけの話だ。湖の本が長年続いてきた事実は、このような作家本位の販売形式を受け入れ購
読する愛読者がいる以外の理由は何一つない。
とにかく初回配本から入れ代わりはあっても一環して支援し続けている一定数の読者(たとえば福田恆存、没後はその未亡人が引き継いで購読)がいるために現
時点で通算126巻に及び、2015年現在創刊から29年もの出版事業は続いている。湖の本刊行以来毎回三冊ずつ二十九年間購入し続けている読者がいると
知ったとき、私は何だか泣けてきた。同一著者の同一著書を二十九年間毎回三冊買う、これはどんなベストセラー作家でも簡単にはかなわぬ夢だろう。書き続け
ることと同じように、読者であり続けることの地味な偉業ではないだろうか。
一冊ずつ購入する読者であっても、これほど長期間に渡り同じ作家の本を百冊以上購入し続けるのは、決して義理や好意だけでは続かない。置き場所だけでも大変だ。数が少なくても熱い読者、真の愛読者たちが今も力強く湖の本を支えているのだ。
秦文学はとにかく一読ではほとんど理解不可、最低二回読みが原則と心得、初期の単行本時代から湖の本シリーズに至ってもほとんどの作品を最低二度読み、中
には三度読み(糸瓜と木魚 墨牡丹 蝶の皿 青井戸、等々)してようやく味がわかり、じっくりかみしめるという読み方を楽しんできました。まことコクのあ
る料理を味わう醍醐味。本当に数十年、これが小説だと心の中で喜び続けてきました。
高槻市 昇 高校同窓 2015 7/3 164
このメールのように、湖の本の読者は本を買うという消費行動ではなく、作家秦恒平の真価を理解した上で、応援したいという思いでおそらくお金を支払ってい
る。届いた本が二冊目であれば、初版とどの部分が校訂されているかを細かく確かめる読者までいる。彼らは消費者というより、藝術家を支える一種の知的パト
ロン集団なのだ。
秦恒平がもしこの「湖の本」を刊行していなかったらどうなっていただろう。彼のような純文学作家が今日の出版不況の中でこれほど膨大な仕事を本として出版
出来ただろうか。一割程度の作品しか日の目をみられなかったであろう。遅いか早いかの違いで、秦恒平のような藝術としての文学作品は商業出版の世界からは
切り捨てられる運命にあったにちがいない。資本主義をつきつめれば、冨や権力の対極にある藝術の領域にさえ経済が持ち込まれることになる。しかし、費用対
効果の優れた文化、藝術などかつて存在したためしはない。二十九年前に出版業界の中に自分のような純文学作家の居場所がなくなると予見したからこそ、秦恒
平は湖の本の刊行を決断し実行した。次の一文にも明らかである。
*
「文藝家協会ニュース特集号」が「続 書籍・雑誌の流通について」の問い合わせに答えた何人もの手記もみつかった。本が売れない。出せない、手に入りに
くいと作家や書き手たちが、もう堪らないといっせいに悲鳴をあげはじめた記録で、平成七年(一九九五)九月のもの。曾野綾子「本の復活」 粕屋一希「出版
市民大学を」 槌田満文「小出版社はどうなる」 大林清「再版問題と印税」 伊藤桂一「私の考え方」 石田貞一「オーイ、店員さん」 森まゆみ「手配りで
売る」 松田昭三「贅沢な願いかも知れないが」 長部日出雄「売れない本は無価値か」 北川あつ子「悲鳴をあげたい」 菅野昭正「本が買いにくい」 竹西
寛子「漠然とした疑問」 長谷川泉「荒縄くくり返品の解決」 と、なまなましい。
参考までに、わたしの、つまり作者から読者へ手渡し出版『秦恒平・湖の本』の創刊は昭和六十一年(一九八六)六月で、すでに九年前に上のような泣き言を
吹っ切って、一九九五年には創作篇31巻、エッセイ篇11巻を悠々「売り」続けていた。いまは通算してその五倍ちかくまでも出し続けている、出血はもう避
けがたいけれど。
ともあれ出版事情は、地味な藝術文学の書き手にも、そのいい読み手にも、つまりは真面目な出し手にとっても、極端に反文化的悪化の到来は必然とわたしは明
瞭に察し、「作者から読者へ」しかも「作者の書きたい本を」出し続けることへ、文壇人たちが慌て出すより一と世代も早くに踏み切っていたのだ。ものが見え
ているようで見えていない者たちのいわば暢気そうなお立ち台であった、文壇とは。
(2014 3・8 149)
わたしは、子供のむかしから、お年寄りに愛されるタチであったが、太宰賞以降、どれほど多くの諸先生、諸先輩のお引き立てを蒙ってきたか、数え切れない。
しかしまたお年寄りは早くに亡くなって行かれる。「湖の本」へ意気を振り向け、しだいに「騒壇余人」の境涯へ歩んでいったのは、もうわたしの理解者は「い
い読者」と尊敬し敬愛できる各界の知己と思い詰めたからでもあった、それはじつに豊かなわたしの心の財産であった。
2015 7・3 164
湖の本のお蔭で、読者は年に数冊刊行される秦恒平の作品を読み続けてこられて本当にありがたいことであった。秦恒平は出版社ではなく、「作品」と「読者」を選んだ作家といえる。
この章の最後は秦恒平の自讃の文章でしめくくりたい。
評判の名作がちっとも世に出ず、文豪がちっとも生まれてこない責任は、(本音を言う)一に読者にある。「いい読者」が少ないのだ。数少ない、けれど「いい
読者」に恵まれてきたわたしは、秦恒平は幸せである。さもなければ私家版の「秦恒平・湖(うみ)の本」が二十八年も、百二十一巻も続くわけがない。
2014 8・4 154
これを書いている私自身は、もちろん秦恒平のいう「いい読者」レベルに達しているとは思っていない。せいぜい読者のはしくれにひっかかっているにすぎな
い。たとえば長谷川等伯や藤田嗣治の繪のどこが優れているか説明できないまま、ひたすら陶然と眺めていたい鑑賞者レベルであろう。ただ、その作品が「ほん
もの」である確信だけがある。
秦恒平は、文豪の生きられる時代に生きるべき人間であった。彼の不運は、文豪の求められない現代の日本に生きざるを得ないことだ。それでも、この闘士は
「反文化的悪化」の時代に真実の藝術家たらんとして、「湖の本」を創作した。その新しい文学活動は早すぎたために、不当に造反分子の烙印が押されて、無
視、黙殺という異様な状況のまま現在にいたる。
しかし時代は変われば変わる。出版不況が泥沼化した二〇一五年現在では作家の独立出版は決して珍しいことではなくなった。出版界は、作家の独立出版に反撃する力もないほど斜陽産業に転落している。あの大新聞すら斜陽産業になりそうなのだ。
今後作家の独立出版が当たり前になったとして、それが秦恒平や湖の本の再評価につながるだろうか。そうであってほしいが、私は楽観していない。
日本に起きていることは次章に述べるように、近代出版流通システムと読書社会の崩壊という歴史的大転換であり、深刻な事態である。
五、不遇の理由 外的なもの
秦恒平の不遇を招いた外的な要因は、間違いなく、近代出版流通システムの崩壊とそれにともなう読書社会の衰退である。
オイルショック以後の経済一辺倒の価値観の蔓延、電子メディアの急速な普及、その結果日本文学の「高貴な領域」が軽視されうち棄てられていく社会の劇的変貌、劣化の経緯は、作家秦恒平の文学上のキャリアにぴったり重なる。
しかし、そこにいたるまでの日本独自の問題点もある。秦恒平を正統に遇しきれない日本の文化的な土壌について二点指摘したい。
まず一点目は、岡田教授の言う日本の宿痾の影響である。
前述の岡田教授の言う「和の全体主義」がどのようなものなのか、手紙の文面だけでは明確にはわからない。私の理解では、日本を覆い尽くす独特の空気、事大主義の同調圧力に近いものではないかと捉えている。
岡田教授の言葉をふまえて、私がつけ加えたいのは、日本はさまざまな分野において突出した才能や仕事の評価の苦手な風土の国だという一事に尽きる。お上のお墨付きがないものを大胆に勇気をもって認める土壌がない。
日本にあるのは自立した個人のつくる社会ではなく、人目を憚る世間である。未だかつて時の権威に迎合した優れた藝術が存在したことがないのに、世間は従来
の慣習に逆らうような判断を避けたがるし、自分の属している集団と違う個人の主張が嫌われる。しかも、その集団の肝心の意思決定の責任の所在がどこにある
かは誰にもわからない。なんとなくお上が、周囲がそんな雰囲気を漂わせているからそれに従う。出版社の誰それが秦恒平の湖の本をけしからんと言ったという
話はきいたことがなくても、ただなんとなく個人出版など始める変わった作家に肩入れして仕事を失わないようにしたい。肩入れしたところで数の売れない作家
だ。そんな空気がいつの間にか醸し出されてきた。
日本には勿論、具眼の士、優れた見識をそなえた市民が多くいるが、社会全体としてみると、藝術の評価の甚だ不得手な社会だと思う。自由で溌剌とした精神の
発露のないところで、藝術の正しい評価は難しい。ほんものの藝術は、根底に必ず既存の価値観への叛逆や批判精神があるものだが、これは日本人の根っこにあ
る、成り行きに逆らわないという「和」を乱すものでもある。
日本人の多くは集団から飛び出した判断をして疎外され排除されることを、遺伝子レベルで恐れている気がする。横並びでいることが原則であり、個人の精神的
な自由を未だに獲得していないのだ。村八分となっても一人で闘う勇気を、長い徳川の支配下の歴史の中に捨ててしまった。生きるために一人で闘うくらいな
ら、みんなと一緒に死んでもいいのが日本人の大勢ではないかと思うことすらある。凄まじいまでの同調圧力、「和の全体主義」である。
だから、物事や人への判断に、学歴、肩書、〇〇賞といった箔があると安心する。組織内の有力者の意向や人事バランスまで考慮する。そんな同調圧力の中で突
出して優れたものを評価する目が生まれるだろうか。藝術とは孤立をものともしない世間のはみ出し者でなければできない仕事だ。
反面、一度権威づけに成功したら、日本はなんともラクな社会である。肩書でいくらでも騙せる社会だ。日本にはあらゆる分野に裸の王様がいる。世間は、在野
の科学者の真実の告発より、東大教授の政府御用達の見解を信じる。芸大卒業しているピアニストの退屈な演奏を、無学歴のピアニストの名演よりありがたが
る。芥川賞をとった作品なら読まなくても、きっと良いものだと信頼する。思考停止状態でいることに無自覚な社会だ。
上から与えられたものに抵抗しないという民族性は、戦後七十年近くたって再びさらなる同調圧力の強い空気となって日本を覆っている。第二次大戦のあの惨状
を経たにもかかわらず、自由にものを考え判断し主張できる個人の育っていない日本であることに、私は絶望を禁じ得ない。
既存の出版流通システムの枠外に飛び出した秦恒平の、独創的な藝術世界の理解には決定的に不利な社会である。
二点目は、権威づけの立場にある現在の日本の文壇に、秦恒平を論じることのできる、花のある、ブリリアントな文藝評論家が不在であることだ。(気骨ある編集者がいないことについては言うに及ばず)
純文学作家の生息場所さえ失われつつあるのだから、当然のことかもしれない。大量に出版される読み物は、一時的に楽しんで読み捨てるもので、批評という格闘技の対象にはなり得ない。
たとえば山本健吉の『芭蕉』のような文藝評論の名作が昨今見当たらないし、仮にそのような作品があったとしても出版されるだろうか。売れるだろうか。批評
対象となる元の作品、作家を知らない読者が増えれば文藝評論は成り立たない。簡単に読めて売れる本の中には批評に値するものは少ない。文藝評論というジャ
ンルで食べていけなければ、当然人材も出てこない。
日本は文藝評論を格下に見る傾向がある。しかし、優れた文藝評論の有無は、その時代の文化程度をはかる一つの物差しだ。文藝評論家は、名曲を解釈して聴衆
に感動的に伝えてくれるベームやカラヤンのような名指揮者の役割を担うものだと思う。秦恒平の一連の谷崎潤一郎論などがその好例である。
文藝評論家は、学問的真理を追求する学者とは違う。批評とは明らかに創作行為で、正しい学識の上に非凡な才能、想像力、優れた文体、ある作家、ある作品への献身的愛が必要だ。
秦恒平と角逐できる才能のない凡百の批評家は、この巨人に太刀打ちできないだろう。下手に批評すると自分の浅学非才をさらす。自分がこけることになる。天才を正しく評価できるのは天才だけである。
バッハやメルヴィルやゴーギャンに限らず、古今東西、天才を生前に正しく評価できた例は稀である。存在が大きければ大きいほど棺桶に蓋をおろしてからでな
いと、その業績の全貌を理解することは難しい。並の文藝批評家にとって、秦恒平は存命中は怖くて手の出せない作家であろう。秦恒平自身もこう書いている。
*
わたしの文学的な産物は、短歌にはじまり小説へ転じ、双翼のていに比較的広範囲な論考・エッセイも書いてきた。同じ小説でも、物語もあり、そうでないの
もあり、私小説もある。それらの全部を包括して秦恒平の文学世界を纏めてくれるのは、率直に言って簡単ではないと思う。わたしを、比較的よく分かっていて
下さる人ほど、『秦恒平論』は秦恒平自身が書けと言われる。どうも、もうそんなヒマもチカラも失せようとしている。出逢いたいのは、わが身内の闇に叡智の
光をさしこんでくれる真の批評家、わたしよりもずっとずっと大きい深い論者なのだが。
ま、夢のような望みは棚に上げて、一作、一編、一巻でも心ゆく仕事をし続けたい。
2015 6・1 163
秦恒平でさえ難しいと自覚している秦恒平についての考察を、私のような素人が書いているのは、要するに怖いもの知らずのバカだからに他ならない。無名の読
者で、その作品の理解が甚だ稚拙であったとしても、その価値を「信じて」「感じる」ことはできる。ただそれだけの厚かましさでこれを書くのである。読者に
徹しているからできることで、世間に名を出している批評家があえて火中の栗を拾うだろうか。虚名でも食べていける社会なのだから、誰があえてそんな冒険を
するだろう。
以上二点の問題に共通するのは、日本は文化藝術を正しく評価出来ない機能不全社会であるということだと思う。奇異なことだが、評価する能力のない人間が評
価の権限をもっている。日本では、文系の官僚が理系の研究費の決定をすることがあるほどなのだから、あとは推して知るべしの惨状であろう。
2015年11月26日東京新聞コラム「大波小波」で文化勲章、文化功労者、あるいは芸術院会員などの選定基準はどうなっているか、政府が行うものについ
ては明確な物差しが示されるべきであろうという疑問が呈されている。年齢順の持ち回りで選ばれているような歌舞伎役者もいれば、抜きんでた実力をもちなが
ら無冠の梅若万三郎がいて不公平であるという指摘はまったくその通りである。日本では、お上のお墨付きそのものが、じつにいい加減なご都合主義で選ばれて
いるのだ。
おそらく文化価値に無知蒙昧な役人、あるいは時の政府の意向に添う御用文化人が選定しているものと思われるが、まったくもって藝術の正しい評価がされる可
能性はないのだ。たとえば選定されて当然なのに、不世出の演劇人美輪明宏は、性的マイノリティーであるため今後も顕彰される可能性はないだろう。松本清張
が文化勲章をとらなかったことも信じ難い。選定組織は、国家権力になじまない個性は評価しないことになっているのではないかと疑いを持たざるを得ない。
しかし、前述二点の問題は、じつは大したものではない。たとえこのまま秦恒平の不遇が続いても、いずれ必ず秦恒平の時代がやってくる。間違いなく歴史は正しい結末を書くだろう。だからこそ多くの世界に誇る日本文学の古典が生き延びてきた。
ずっとそう信じていたのだが、最近それすらも困難な時代がきたかもしれないという恐るべき危機感に襲われて、胸苦しくなっている。
近代出版流通システムの崩壊は想像を絶する規模であり、本を書く、読むというこれまでの長い日本人の文化の根底を覆すほど深刻な事態になっている。
秦恒平は、もう少し早く生まれていたら、文豪として世間に広く名を知られていて、文学史に谷崎や川端と同様に名前を刻み、書店の棚に彼らの作品と共に恭しくその作品が並べられていたに違いない。
しかし、若い作家であった彼がその評価の確立する前に、日本が劇的変化を迎えてしまった。秦恒平の文学だけでなく、新古今和歌集も西鶴も漱石もみーんな出版流通システムの中で絶滅危惧種になりつつあるのだ。
秦恒平の『清経入水』太宰賞受賞が1969年で、それからしばらくは破竹の勢いで彼の作品の出版が続くが、本の質の保証されていた黄金時代は長く続かな
かった。オイルショック以降、日本の出版業界は大きく変化した。品のない言い方をすれば、ぼろ儲けを目指すようになった。
出版流通システムのどこがどうしてどうだめになっていったのか、出版社、取次、書店の経営や歴史について、私は不勉強な素人であるしうまく説明できる自信もない。
小田光雄著『出版社と書店はいかにして消えていくか』を私の理解した範囲で要約したい。
オイルショック以降、1974年を境として、出版業界はそれまでの本の文化財としての「質」を切り捨て、コミック、雑誌、文庫、ベストセラーという「量」優先の時代に大きく方向転換した。本の大量生産、大量宣伝、文庫などの低価格販売である。
これにはまず、読者の質が変化したこと。本を文化ではなく娯楽商品として購買する読者が増えたこと。あるいは出版社が従来の読者を相手にするのをやめ、大
量消費者を相手に「売れること」を最優先に商売するようになったことの、ニワトリが先か卵が先かの二つの原因が考えられる。
その結果、読者は従来の読者ではなく、洋服などを買うように本の消費者となり、従来の人文系の読書社会はなくなった。読み捨てのもの、消耗品の本がどんどん出版され大量のゴミとなる時代になった。
秦恒平のような文学的価値は高いが、まだ確定した評価の定まる前の若い文学者の作品を大量に売っていくことは難しい。藝術はすべてそうだが、受益する人間が限られる。出版社は扱わなくなっていく。これが秦恒平の遅く生まれた最大の不運であろう。
1986年湖の本創刊から13年後の、秦恒平のこんな述懐からも出版社の苦境のようすは明らかである。
* 津野海太郎氏、室謙二氏、萩野正昭氏らとも初対面を果たせてよかった。新宿ライオンでのレセプションで、ビールを何杯か飲んだ。
パネラーの一人だった筑摩書房取締役の松田哲夫氏とも久しぶりに出会ったが、彼の口振りから察するところ、筑摩書房はもう昔のあの懐かしい古田晁さんや竹
之内静雄さんやまた原田奈翁雄さんらの筑摩書房、臼井吉見先生や中村光夫先生や唐木順三先生らの筑摩書房とは雲泥の相違を来して、出版の理想も見失いがち
に喘いでいるらしい。悲しいことである。しかも商売が隆盛になっているわけでもないと言う。どうしたというのだろう。 1999 11/22 4
作家の立場から、丸山健二賞創設にあたっての、丸山健二の出版業界への以下の手厳しい批判には納得させられるので一部を引用する。
そもそも文学という行為は、人間という特殊な存在が複雑怪奇な生き物であることから発生し、際限なく派生する無限の感動を言葉のみに頼って捉えるという、極めて難しく、しかも極めて地味なことである。
その反面、他のあらゆる芸術と比較しても申し分のないほど奥深い世界であり、そしてこれ以上は望めないほど人間的な営みであって、数千年を経ても、まだ入り口の段階をさまよっている程度の進化と深化なのだ。
つまり、しっかりと本腰を入れて、身震いを禁じえないほど真剣に没頭するだけの価値が充分過ぎるほどあるということなのだが、しかし、現実はどうかというと、甚だ残念ながら、ほとんど先へ進んでいないどころか、逆行しているという体たらく。
その原因については、あまりに単純なゆえに誰でもわかる。比較的楽な商売として成立する時代を長きにわたってくぐり抜けてしまったことにより、いつしか知
らず芸能界染みた華やかさに彩られることになり、版元は書き手をそれにふさわしい扱いをし、浮いた立場に追いやって世に送り出し、そうすることでさらに大
儲けを企むようになった。
ために、文学における真の狙いはどうでもよくなり、芸術性の理念などどこかへ消し飛んでしまい、中身たるや娯楽性をますます強め、言葉はただ単に万人受けする物語を万人に伝えるための道具と化した。
そして、安っぽいナルシシズムと安直な散文によって構成された、読み捨て用の作品を大量生産し、大量販売するという、最も安直で、最も下世話な路線を突き
進むことを主たる眼目として、また、それが文学の王道であるという自分たちにとって都合のいい解釈と誤解に身を投じながら、惰性のままにだらだらとつづけ
てきた結果が、このザマという、あまりと言えばあまりな、当然と言えば当然の、恥ずべき答えを出すに至った。
文学は芸能ではない。
従って文学賞がお祭り騒ぎであってはならない。
それにもかかわらず、依然としてこの国の大手を中心にした出版社は、長いことつづいた濡れ手に粟の大儲けがどうしても忘れられず、いや、それどころか、自
分たちのやっていることがまさに文学そのものであると固く信じて疑わず、ついにはそのやり方が揺るぎない伝統として固定化されてしまい、ほかの真っ当な道
を模索しようとせず、未だに愚かしく、浮ついたやり方をだらだらと繰り返している始末。
そして、働きに見合っているとはとても思えぬ、書き手をダシにして経費で遊ぶことだけが狙いであるにもかかわらず、異常に高い給料と、編集者としてあるま
じき異様に低い才能のせいで、ちゃんとやればそれなりの結果が出せ、企業として成立させていられたはずなのに、案の定、質的にはむろんこと、商売的にもい
よいよにっちもさっちもゆかないところまで追いこまれ、あとはもう時間の問題で自滅するのを待っているといったありさま。
作家丸山健二の手厳しい指摘の次に、前述の『出版社と書店はいかにして消えていくか』の著者小田光雄が、端的に現状をひと言で語ってくれていると思うので引用する。
「だから今文化財として本を作ってはいけないということになる。出版社を続けようとしたら消費財やゴミを作らなければいけない。そんな状況になっている。」
さらに事態を悪化させているのは古書業界の崩壊ということを、私は小田光雄に教えられた。こちらも要約する。
古書業界は読み捨ての本は最初から相手にせず、売れ残った文学価値ある本を商いにして、本のリサイクル、セーフティーネットシステムに一役買っていた。と
ころが、大量の読み捨て本、廃棄本ばかりになると、商品がなくなる。さらに、新古本を商売にするブックオフ等の登場で、古書の価格破壊がはじまった。古書
価格七万円くらいで販売されてきた永井龍男の全集が、ブックオフで一冊百円、全集千二百円で売られる。岩波の『日本古典文学体系』が全冊百円で出る。埴谷
雄高も吉本隆明も百円で売られ、芸能人のスキャンダル本より安い値付けがされている。文学価値のわからぬ業者の参入で、従来の古書業界ではあり得ない、文
学のものすごいデフレ現象が起きている。
これでは古書店の経営は成り立たない。ただでさえ儲からない古書店は現役世代の後継者が亡くなれば、いずれ淘汰されるだろう。
出版社にとどまらず、書店、古書店まで含めた日本の出版文化全般にわたっての大規模な壊滅がすでに始まっているのだ。日本の知性の危機的事態といえるだろう。
再販、委託制に基づく構造の近代出版流通システムは、完全に破綻している。ところが惨憺たる数字の実情については誰にもわからない。なぜなら、出版業界が
自分たちの構造的な経営破綻状況を活字にして公開することはあり得ないから。一刻も早く根本的な改革を行わなければ日本の出版システムは壊滅するが、現状
は不可避の破綻を、目先のやりくりのために先送りしているだけの深刻な事態である。大規模書店が増えているのは、本が売れているからではない。借金を返す
ために別の借金をするような現象なのだ。
私はこのままいくと大手出版社が倒産、戦時中のように国営化され政府プロパガンダ書籍のみ流通する事態もくるだろうと危惧している。現在の書店には嫌韓、
嫌中本が異様に増えているし、今の社会科の教科書には憲法九条の記載がないそうだ。出版社は「言論の自由」という理念を棄て、なりふり構わぬ御用出版にな
りかねないほど追い詰められている。
秦恒平が歴史の正しい審判に浴する前に、価値ある文学作品がゴミと一緒に叩き売りされていく現状では、当然未来のほんものの読者は育っていかない。読まれない文学は、存在しないも同然だ。
文学価値のある本と、流通価値のあるものは違う。気の毒なのは置き去りにされた、文学価値を求めるほんものの「読者」である。ふつうの書店で欲しい本がな
く、今後神田の古書街すら廃れていくとしたら、旧世代の文化、教養的な、読む価値ある本を求める「読者」はどこに行けば読みたい本が手に入るのだろうか。
秦恒平の作品を読みたいと願っても、書店に並んでいるのはベストセラー系の読み物ばかり。岡本かの子や林夫美子や芹沢光治良や大岡昇平や井上靖の名前が街
の書店から消えて久しい。丸谷才一や吉行淳之介でさえ文庫本をさがすのに苦労する。まして私の青春時代に愛読した福永武彦や小川国夫は古本屋以外でどこを
どうさがしたらよいのか。泣けてくる。島崎藤村でも谷崎潤一郎でも、全集を買わないかぎり読めない有名な作品がたくさんある。頼りの古書街がシャッター街
になる日も現実になりつつあるとしたら、もうお先真っ暗だ。
以前に泉鏡花の「蛇くひ」を探すのに苦労していた折、知り合いの編集者に「泉鏡花は売れないからねえ」と、まるでよそ事のように言われたときは言葉を失うほどショックを受けた。今の日本に泉鏡花が生きていたら、秦恒平と同じ道をたどることは火を見るより明らかであろう。
たとえ数は多くなくても、確実に本を買い続ける、蔵書を保持していくほんものの読者を切り捨ててきたツケ、そして才能ある若い作家と真の読者予備軍の若い
世代を育てることを考えてこなかった無策のツケが、結局現在の出版社の苦境を招いている。せめて書籍を買切制にしておけば、人文書の出版社だけでも返品に
喘ぐ状況からは逃れられたのに、残念無念なことだ。
かつて芥川賞選考委員会で二作同時受賞にしたらどうかと文藝春秋社の社長が提案したところ、選考委員の永井龍男が「貴様は黙ってろ」と一喝し社長が土下座
して謝ったというエピソードを読んだ時私は驚愕した。あの大出版社文藝春秋の社長より一介の文士のほうが発言権が強い時代があったのだ。純文学作家はまだ
尊敬されていた。現在の小説家と出版社との力関係からすると信じられない。かつての文士はいつの間にか小説家という行儀のいい、営業成績を気にするサラ
リーマン、しかも正社員ではなく出版社のご機嫌をうかがう派遣社員になり下がってしまった。
先日某お笑い芸人が芥川賞を受賞した、その選考について私は作品そのものを読んでいないので論評はしないし、情実があったとも思わない。ただ、その場の選考委員たちが文藝春秋社の社長に「貴様は黙ってろ」と言える立場になかったことは否定のしようがないだろう。
丸山健二のいう「真っ当な道を模索」してこなかった出版社のために、埋もれた名作がどれほどあるかと思うと薄ら寒くなる。正攻法が結局一番正しいやり方で
あることを忘れたところに、ほんものの花の咲くことはない。利益のあがらない「高貴な領域」「オートクチュール」の世界があってこそ、他の本も売れる。
譬えれば、今の出版社は「マタイ受難曲」よりAKBのCDのほうが売れるからといって「マタイ受難曲」を平気で絶版にするような目先の商売をしてきた。出版業界は、遅きに失したけれど今からでも猛省してどん底からやり直すしかないと思う。
なぜなら遂に消耗品の本ですら売れないという、最悪の状況が来てしまっている。出版される本は増えているのに、売り上げは年々落ち続けているのだ。エキサ
イティングな他の媒体に娯楽の主役の座を明け渡してしまった現在、娯楽商品としての紙の本の行く末は暗い。この現実に向き合わない限り未来はない。本にし
かできないことを、真っ当に模索しない限り、真の意味での読書社会は若い世代に引き継がれないまま消えてしまう。
こんな言葉がある。「安い商品を買い続ける消費者は、そのうち安いものしか買えない消費者になる」これは書店で本を買う行為についてもまったくの真実であ
るが、こうも言い換えられるだろう。「安い(文学価値の安い)本しか売らない出版社は、そのうち安い本も売ることができなくなる」
この悪循環を脱するにはよほどの荒療治が必要だろうが、これまで通りの収入を維持しようとする限り、それは不可能だ。延命だけを考えているうちに、ほんも
のの文学者、ほんものの読者、そして文化財としての本を出版して倒産する、志ある中小の出版社の、死屍累々の姿があるだろう。
以上が「遅れてきた文豪」としての秦恒平の不遇についての、私の総括である。次に「早すぎる天才」としての秦恒平の著しい不遇について述べていく。
六、早すぎる天才
* 文学作家はラクではない。ラクだった時代は、無かった過去にも。誇りはあった。栄達も願わない。勲章もいらない。自分の言葉で「世界」を創り「思想」を鍛えて行きたい。やがてはのたれ死にするであろう、覚悟は出来ている。
1998 6/22 2
秦恒平はこうも書き、自身のことを「素人作家」、素人の「気稟の清質」を大事にしたいと書いていたことがある。
素人であることはもちろん、彼の仕事の藝術的価値とは無関係なことだ。これは、創作の自由を手にするためには、金儲けの手段、食べていくための職業作家の道は選ばない、自分は文学作家であるという宣言のようなものだと思う。
極言すれば、秦恒平は自分が読みたいと思う小説、好きなものを書いて、それを読んでくれる人間がいるだけでいい。その願望だけで生きるほんものの藝術家なのだ。
もっとも秦恒平が経済観念のない、お金に無頓着な人間だとは思わない。むしろ、経済にすら強かったから、老後の今も好きなように書いて、湖の本を出版しな
がら生きることができていると見るべきだ。自由な創作を貫くために、出版社に頼らない道をさぐり続けたことを「素人」と称している。
サラリーマン時代に「一流の編集者」と評価を受けていたように、秦恒平は事務的な仕事にも有能な人間であると推察している。『生きたかりしに』の中で秦恒
平はこう書いている。「長かった編集者暮らしで私にもし有能といえるところがあったとすれば、雑用の負担に耐え抜いてしまうのがそれだった。P273」
ビジネスの世界に生きれば起業して成功するだけの才覚もあったに違いない。そうでなければ、自分と家族の生活を養いつつ、29年も湖の本を出版し続けるお
金の続くはずがない。京都のラジオ店の貰い子として育ったのだから決して資産家ではない。しかし、私家版を出版し続けるための金策において用意周到であっ
た。たとえば次の一文にもその経済感覚があらわれている。
東工大教授としての給料と賞与等、その後の年金等の一銭にも手を付けないで来た。それが今、非売本「秦恒平選集」を可能にし「湖の本」刊行の赤字分を補ってくれている。最良の費用になってくれている。
2015 7/7 164
所蔵のもの、選集や湖の本の相当な費用に充てるため、確実な逸品からさきに、実は次々「処分」している。(筆者注 茶の湯の師匠をしていた義理の叔母の遺品と推察する)私存命のうちに、のちのち禍のタネに成りかねない品ほど、惜しみなく処分しておこうと決めたのである。残り物に福など、何一つ無くして置く。
2015 6/21 163
秦恒平は、文学を生きるために作家になったほんものの藝術家であるから、出版業界を見限ると、自分の作品の受け手、読者を自ら求めていく方法を考えた。経
営思想家ドラッカーの有名な言葉「顧客の創造」を企てたわけである。そこが「早すぎる天才」の面目躍如で、出版社の要求に適応して、売れる物を書いて生き
残ることを考えるタイプの小説家とは違うところだ。売り繪を描くことを潔しとしなかった。
秦恒平は新時代に向けて、「湖の本」の紙の本の出版と、インターネット活用の両輪を、自身の主な文学活動の場とするようになったのだ。これは従来の小説家
という職業形態を塗り替えるまったく画期的なことである。これは文壇に属さない文学者によってほんものの文学が生み出されているということだ。
私は秦恒平の炯眼に敬服する。
彼が湖の本を始める頃に活躍していた作家、批評家、編集者等で、現在の出版業界の構
造的不況を正しく見通していた人間がどれほどいるだろうか。とくに藝術性の追求をする純文学作家の居場所がおそろしいまで失われる日が来ることを、秦恒平以外の誰が予想し得ただろうか。
秦恒平は誰よりも早い時期に、現在の日本の出版業界の末路を予見し、自分で湖の本を出版する行動をおこした。1986年の『清経入水』が創刊号である。
残念ながら、それは早すぎる人間の悲劇を招くことでもあった。前章で述べたように、湖の本の出版は、出版業界に歓迎されるものではなく、業界全体を敵に回
す行為とも受け止められる。湖の本は、秦恒平の求めるほんものの「読者」を得ることには有益であったが、現在まで続く秦恒平への文壇や出版業界からの制裁
的黙殺の一因になっている。
しかし現在、自作を出版して読者に届ける方法は、電子出版含めて他の作家のあいだでも広まりつつある。「日本独立作家同盟」という個人出版をする人間の交
流支援団体が存在するくらいだ。作家が生き残りを賭けて直販するというこの流れは、今後益々加速していくに違いない。中小の出版社の中にも直販をとるもの
がでてくるだろう。やっと時代が秦恒平に追いつきつつある。秦恒平の選択は正しかったことが証明されているのだと思う。
湖の本出版の次に、秦恒平は自身の文学活動にインターネットを利用することを考えた。秦恒平はごく早い時期からインターネットの功罪を理解し、その上でこの諸刃の刃を効果的に使いこなしている。
出版業界に藝術としての文学の居場所が狭められていくなら、インターネット上で、純文学作家や作品を提供しよう、読者を求めていこう。秦恒平はどこまでも
創造的に動く、無から有を生じさせようとするタイプの人間だ。そこには、藝術としての文藝が、次の世代に引き継がれていく、小さいかもしれないがたしかな
希望の種がある。インターネット活用についての、秦恒平の言葉を引用する。
読者が「五百人」もいると僻まれたという泉鏡花が好きですね。己を持して、卑しくない、いい仕事をつづけることが大切だとわたしは思う。創作は、気稟の清
質を世に問う仕事です。分かる人は、分かる。残念だが、だが、数少ないのが本来のように思っています。古典ならぬ今々の本が、無数に売れるなんて、なんて
ウサンくさいことでしょう。
芸術としての文学、つまり純文学創作を取り扱う出版・編集個々人の世間は、残念ながら想像以上に俗世間です、昔よりもますます恥ずかしいほどに、金の論理
が先行どころかほぼ全面を覆っています。広告を出して下さるなら雑誌は何でもやるそうです。宣伝で文学の質を捏造してすらいます。
書き手は、そういう企業の「非常勤の雇い」の境涯にあるから、けっして自由にばかり生きてゆけない。わたしも不自由にフンガイしながら永く生きてきて、そ
こから、断乎、意図して抜けて出た。自分の作品を守ってやりたかった。そして自分で自分の道を「出版社会」で塞いだのです。いわば出世間したのです。
負け惜しみなど雫もありません、創作者は、魂の色の似た「いい読者」に出逢うことが願いで、稼ぐことではない。それは付随してついてくるだけの、いわば副
賞なのです。わたしにも副賞が十分あったから、今、誰の掣肘も拘束も受けることなく、煩わしいことは落としてしまい、思うさま書き続けられています、器械
で、ペンで。
しかしそんなことは、言ってはならないタブーなのです。わたしはそれを言い、「非常勤雇い」での商売を、商売上手な世渡りを、蹴ったのです。無謀な反逆。
許されるわけが無く、悪声を放たれる。あいにくと私には届かない、なにも見ていないからですが、わざわざ届けてくれる人がいます。しかし、何故あって耳を
洗いたいような汚い言葉が聞きたいでしょう、耳を寄せてまで聞こうとはつゆ思わない。勝手にやってくれ、です。
有り難いことに「不徳ナレドモ孤デハナイ」のです。わたしは、わたしの悔いのない言葉を「闇に言い置く」ばかりです。
わたしは、自分ではみ出た。追い出されたのではありません。しかし、昔の誰かのように、サボテンを育てて過ごす気はないのです。
東工大教授に引っぱり出された数年を栄誉とまでは思わないが、優秀な学生諸君と出会い、コンピューターを使えるように指導してもらえたことを、今、心から
有り難いと思っています。「ホームページ」という、この「原稿用紙」この「発表の場」は、世界へ開かれ、無限にちかい原稿「量」と読者「数」を約束してく
れています。
べつに、今そこでお金を稼ぎたいと思っていないから、少なくも未だ有料化も考えていません。考えるかも知れません。
大事なのは「量」や「数」に見合う、文学の、文章の、文体の「質」です。私に必要なことは、厳しい上に厳しい自己批評です、その点で甘くならないように
と、いつも頭を垂れています。むろん、ホームページだけが私の場ではありません。雑誌や新聞の連載があります。普通の本も乞われれば何冊でも出しますし、
出して来ています。
それにしても、わたしのそばにいると、この社会ではトバッチリを喰うおそれがあり、現に甥(筆者注 作家黒川創)がやられたようです、気の毒に。ヘンなのは政治や社会だけではないことが、よく分かります。常識の顔をしてヘンなのは、ハタ迷惑です。
1999 6/9 3
秦恒平は紙の本の古典の名作群を自身の土壌としつつ、電子化時代の作家としてパソコンを原稿用紙として活用する最先端を歩んでいる。「温故知新」が実践で
きる数少ない知識人である。秦恒平の新しい困難な道を、一人でも多くの読者が理解し支持していくことは、高貴な領域の文藝を守り次世代に継承していくため
に欠かせないだろう。
七、早すぎる天才としての貢献
電子化時代の「早すぎる天才」秦恒平の、日本文学への大きな貢献は私の考えの及ぶ限りでは三つ考えられる。この三点について、文壇のエライ誰かが評価したという話を私はまだ知らない。ここでも秦恒平は良き理解者を得ていない。早すぎて不遇であるとしみじみ残念に思う。
秦恒平は、文学者のインターネット利用の先鞭をつけた日本文学界の大恩人である。多くの文学関係者はこのことに気づいていないのだろうか。それとも知りつつ黙殺しているのだろうか。
@文字コード問題での貢献
秦恒平は、パソコンにおける日本語表現の未来のために、ペンクラブ代表として、文字コード委員会で孤軍奮闘してくれた。パソコンで使用する漢字をどこまで
許容するか、利便性のために使用漢字数に大幅な制限をかけようとする会議に、この時期秦恒平がいてくれたことは、天の配剤としか言いようがない。秦恒平以
外に誰が、この圧倒的に不利な闘いを闘い抜けただろうか。
もし、秦恒平がこの会議で日本語の未来のために四面楚歌の状況で闘ってくれなければ、人文系の学者も文学者もジャーナリストも、現在まともな仕事ができな
かったであろう。将来漢字文明が生き残れるか生き残れないかを決定するのは、パソコンで使える、役に立つ「文字コード」の成否にかかっている。パソコンで
使える文字が限定されてしまえば、漢字を使う人間の表現手段に大幅な制限がかかる。日本は秦恒平にいくら感謝してもしたりない。現在殆どの人文系学者、文
学者たちは決して満足がいくとはいえなくても、大きな不自由はなくパソコンを使用しているが、その蔭に秦恒平の貢献のあることにあまりに無知である。
以下、文字コード問題についての秦恒平の発言をいくつか引用する。この文字コードについてだけでも本が一冊書けてしまうくらいの膨大な説明の必要な問題で
ある。私の下手な説明より当事者であった秦恒平の言葉を引用させてもらいたい。少し長くなるが、文字コード問題はこれから益々主流になる電子メディア環境
における日本語の文字表記にとって非常に重要な問題なのでお許しいただき,是非一緒にお考えいただきたいと願う。
*
以下に、二月二日第三回の会議に初めて参加する情報処理学会・文字コード標準化検討委員会の委員として、自己紹介を求められるのが分かっているので、序
でながら、送られてきた議事録等を読んだ「所感」もとりまとめ、「委員会各位」宛て、事前に送信したものを転載しておく。パソコン・インターネット上で使
用する「日本語・漢字」が絶対数にしても少ない・足りている・偏っていて根拠がない、増やして行けばよい、漏らしてはならない等々のややこしい議論が無統
制になされてきたが、「文字コード」問題を少しでも国際的に妥当なものにすべく発足した委員会である、らしい。
所感
遅れて委員参加の、秦恒平(日本ペンクラブ理事・電子メディア対応研究会)です。
会議当日に余分の時間をとらずに済むよう、「縦書きの文章表現」で多年生活してきた立場から、簡単な自己紹介と、議事録等を読んだ当座の感想を伝えておこうと思います。
ペンクラブから出ておりますが、申すまでもなくペン全体の見解を代弁する立場になく、概ね私一人の思案を、今後とも発言させていただきます。最初に、私自身にもことわって置きたい、この委員会に参加するに当たって、いったん頭をリセットして臨みますことを。
(自己紹介は略)
以下、順不同、いかにも門外漢の「感想」を述べます。誤っていればすぐ改めます。ご批正ください。
*
完璧な標準一本化は、あまりに現実離れ。公的と特殊との棲み分けや相互運用も、ここへ重点が来過ぎれば、結局「しまりのない」現状容認に陥る。「文字が
足りて」いて、妥当な「異体字も共通して使える」ような「一本化」を、なるべく断念しないで済む方角へ意図し努力して歩まねば、議論のための議論になり意
義が薄い。有効性が無い。最初から「分散開発」「分散保守」を言うのでは早すぎないか。現実無視の理想論は困るが、最善を忘れ拙速を急ぐ現実論は、もっと
困る。
*
どうあるのが「最善」かを想定し、引き算して行くセンスが欲しい。「残念ながら、今は無理」なものは無理として割愛し、しかし将来無理でなくなる可能性
への「道」も推測して後へ伝えて行くのが、現代の「責務」というものであろう。とかく「今」の便宜本位に議論が終始しやすいが、ことが「ことば」「文字」
に関係する限り、数千年の過去と未来へ、現代人として「責任」を感じながら考えたい。「困ったことをしてくれる」と「歴史」に顔をしかめられない「大度」
と「視野」で臨みたい。
*
日本人が「日本語・日本文字で、考えたり書いたり表現したりする」ことを、基本に据えて考えたい。ことが国際性のある問題なので、いかにも狭い国民的エ
ゴに感じられるかも知れないが、日本人としての「最善」をヴイジョンとして確認もしないまま、議論が半端に国際的に拡散するのは、かえって迂路に過ぎる。
「日本人の日本語表現は、器械上こう在りたいのだ、これが日本の望みだ」と世界にしっかり持ち出せるものを、我々はまだ持っていない。それを欠いたまま
で、妥協的な「棲み分け」方向へ我から重点を傾けて行き過ぎては、順序を誤らないか。
*
漢字の問題が突出しているが、上の問題に絡めていえば、「表現」には言語だけでなく、どの民族も多彩な「記号・符号類」をもち、日本人も例外でない。漢
文表記、芸能台本、音譜、訓詁、建築、工芸等々。その採集とコード化が「有る」と「無い」との実際的・学問的な意義と便利の差は計り知れない。
漢字に意識が集まるのみで、それだけで文字コード問題の主題は「上がり」のようになると、「ひらがな」「カタカナ」「変体がな」問題も含めて、日本語表現や、関連の業務・研究に従事する者は実に不利を強いられてしまう。
記号・符号の機能が文字に劣るものでないことは、皆が意識しないで済むほど実は承知の筈である。ところが「文字コード」的に完備していないどころか、無いに等しい。
*
多彩な日本的「表記」に腰を引いて、頭から、いろんなジャンルの文字や記号を特殊なボランティア規格にし、公的に排除してしまうのは、どんなものか。一
切合切の記号・符号・かな文字の変化を採集しても、数量的には知れたもので、漢字の何万、十何万とは比較にもなるまい。しかも日本人にとって、日本の研究
や表現にとって、それを「ヒエログリフ」なみとは、断然、言われたくない。日本の文化を謂うのなら、それらは、世界へ向けて主張したい、希望したい、
「コード化」が自然当然の機能言語である。領域領分ごとに、ばらばらのボランティア規格として分散簇生していなければならぬ理由があろうか。こういうとこ
ろをこそ、「公的に」大きく掬い採る姿勢が必要だと思う。「漢字」以前に、ないし並行して、記号・符号・かな文字も、漢字なみに「セット」化を視野に入れ
たい。
* 漢字については、目下、こう考えている。
先ず、漢字に限らず「この字は存在して良い、この字は要らない」と言える権能者はいないし、いてもならない、と。数千年前にその字を使っていた「人と実
績」を否定することは出来ず、数千年後にその字を使いたい「人と意図」を封殺することも、「現代」人は決して許されていない。「文字」に対面する、これが
一つの原則でありたい。それを忘れ、文字を勝手気ままに「いじる」のは軽薄かつ傲慢に過ぎる。
*
私一人のことなら、現在の文字セットで、今も、今後も、書いて行くことは大方出来るだろう、が、二十年三十年前にすでに書いたものを、きちんと「再現」
するとなると、困る面が現に幾つも生じている。現在の、現代の「問題」としてのみ片付けられないのが「言語」「文字」の問題であり、過去の筆記者の業績や
未来の筆記者の可能性を殺してしまう権利を、我々のだれ一人も持っていない。「今」を考えるだけでいい問題ではない。
* それにもかかわらず、歴史は保存されるだけでなく、変動する。上の原則をよく承知の上で、謙遜に現実に「対応」する必要が生じる。「手直し」可能な「手順・手続き」として歴史に「手を加えてきた歴史」をも我々は持っている。現代にもそれは許される。
* 文字コードに関連させて言うなら、今日までの議論は、「足りない」から「足し増す」という、つまり「足し算」式の是非論だった。それは正しい原則ではないと思う。
過去に在った、未来にも在り得る一切の文字を含め、完璧に残り無く採集・保存・利用できるのが、最善の原則であると承知していたい。
ただ、それは言うべくして不可能である。だから、これは、ないしこれらは割愛する・割愛して差支えない・割愛したほうがいい、というふうに理想的完満から
余儀なく「引き算」して行くのが原則なのである。同じ事のようで、実は「文字」に対する敬愛の基本姿勢がちがう。思想も違う。
何をどれほど、全体から「引き算」して行くかが、即ち議論の対象になる。そして「引いた」もののことも、責任をもって確認し、記録ないし別途の方法で保存することも、「歴史」への責任として忘れてはならない。
「青
天井」議論も、この「足し算」「引き算」の差によっては、現代人の浅知恵が露出しかねない。従来の文字制限や文字認定には、残念ながら「当座の間に合わ
せ」的な「足し算」姿勢が見えていた。足し増すのではない。余儀なく、全体から割愛し、文字数を引いて行くのである。
* もとより技術的・経済的な問題が伴う。出来ないことは出来ないとし、しかし出来る工夫は尽くさねばならない。小幅の手直しなど利かない以上、担いうる負担は担うしかない。金の問題だけではない。技術的な進展にも期待がかかる。
* 標準語に著しい長短があったように、「標準字」指向にもプラスマイナスが大いに有ると心得ていたい。さもないと、いたずらに「文字」を私し、凌辱することになる。そんな権利はだれも持たない。しかも、
*
中国・台湾・朝鮮半島等との漢字の差異に関しては、ひとまず「日本の漢字」本位に、意識して整備しないかぎり、あるべき国際間の調整も計れない。しかも
なお彼の「地名」は、省・県・郡・市区水準までの漢字を網羅したい。日本の地名は、町村の大字小字レベルまで、必ず採集したい。「氏姓名」は、代表的な史
書、文献、古典、武鑑等のものを優先網羅し、極端な特殊例については「採集・記録」に重点を置いて、「コード」上は割愛の対象にするかどうかを検討考慮し
てよい。
*
漢字を採集するのに、いきなり内外の著名辞典や字書に拠るのは安易である。むしろ、大蔵経、四書五経、史記、唐詩選、資治通鑑、三国志、あるいは古事
記、日本書紀以下の正史や吾妻鏡等、また道真、白石、山陽らの漢詩集、頼長、兼実、定家らの日記、空海、最澄ら以下高僧・祖師、また禅僧らの著書、江戸の
儒学者らの著書、平安遺文や大寺保存の文書類、絵巻類の詞書や代表的な古典物語・小説・詩歌集等々、また近代以降の露伴・・鴎外・鏡花また柳田・折口ら古
典に近い全集等々、具体的に重用度の高いものから、使用漢字の異同を地道に認めて行く地に脚のついた方式が望ましい。
これらは、工業や経済や行政や一般日常の書記用からはたとえ逸れようとも、「日本」「東洋」の文化的享受の根を成しているものであり、欠いてよいとは言えないのである。先に謂う記号・符号・各種かな文字も含めてである。
*
今日の表記以上に、貴重希少な過去の文字遺産の可能な限りの「保存・継承」を、私個人は大切に考えている。活字化出版の不可能な稀覯本や文書の、「映像
的保存」に加えて、現代人にも通読判読の可能な「電子文字」による確保を、本の破損・劣化・消滅以前に急ぎたい。そのための国の支援体制も欲しい、が、世
界にそのまま通用する「文字コード」がなくては「世界の財産」にならない。「日本のものとして完璧に、世界中が無条件に利用できる日本の電子的な文字資
源・文字資産」を、持ちたい。それを世界中の誰が利用するかというのは、別問題である。
*
異体字、私造字、勝手字などあり、毛筆の筆癖によるものまである。原則的には、日本の市場や学界や専業者の世間で、従来「活字表記」され問題の生じな
かったものは、歴史が許容していたと緩やかに認めて、およそ器械の上では準拠してよいのだと考えたい。過度にここに拘泥していると、前に出られない。
ただ原作・原典ではこういう表記であったという事実を、文字コードとは別の次元で記録し記憶されて行く方策も忘れてはならないだろう。
いわゆる活字体に準ずるという、やや乱暴ではあるが、いささか伝統ともなりえてきた方式を活用するなら、かなりの問題が同時にかたづく道もあろうか。
*
何時代の字は「もう要らない」などと言ってはならない。今後電子メディアを最も効果的に生かして欲しい人のかなりの率は、学者・研究者であり、彼等に
よって底上げされて行く文化的な成果をまた電子メディアが有形無形に享けて行くと考えれば、実は「ヒエログリフ」ふうの「青天井」系の議論も、はなから軽
視してはいけないと思う。有意文字は、原則として「代用が利かない」のであり、過度に「包摂」や「標準」を間違えてやり過ぎると、結果、天に唾する事にな
りかねない、それは、どの時点でも心得ていたい。
*
文字については、私は、デザインの美しさよりも、漢字本来の形を漢字学的に優先したい気持ちでいる。美しいに越したことはないが、デザインのためには字
形を少々変えても差支えないという考えが、もし在るならば、言語道断である。いわゆる三跡時代、文字の優美を書記の正確以上に重んずる余り、誤字も誤字の
ままという例があった。藤原定家は、書としての美より言語・思想の実を重んじ、「手をばなにとも思は」なかった。そこから中世の学芸の実は伸びて行ったと
いわれる。統一的に公共化されるであろう「文字コード」のフォントには、この点を大切に考え、学者の協力を得てほしい。
*
思想・歴史・文学等の日本語による「学問・研究・創作・表現」に耐える「文字コード」かどうかに関心せざるをえない。今までのままでは痛く不十分なので
ある。また近代以降かなり強権的に行われがちであった、安易な文字制限の行政的・便宜的処置には違和感があった。その延長上で、電子メディア上の「文字
コード」まで左右されてはならない。技術的に可能な事であれば、文字を「殺す・省く・減らす」ためにでなく、より「生かせる道」へ導く「規格」や「標準
化」でありたい。
その意味では、この委員会に、日本語や日本の文字の専門家といえる文系学者・研究者、司書、編集者・記者また作家や詩人たちの参加があまりにも数少ないのは疑問が大きい。
*
これは国際的な議題であり、また日本語で書いたり考えたりしている者は、簡単に身を引いていられない。しかも「実装」ということになると、英語圏企業の
実力や意向は壁であり、そこまで行ってなお頑張るためには、通産でも文部でも、工業でも文学でもなく、それを越えた外交課題にまで位置づけねばならない。
そっちへの方途も見通しをつけて行かねばならない。その方面の委員も欠けているのではないか。
* 文字を、営利的・政治的思惑や個人的な立場上の材料にすることを、極力避けて、なるべく「平たい」「明るい」「広い」場所へ持ちだしたい。また議論が中傷や怪文書の乱舞に変質せぬように是非心がけねばならない。
日本ペンクラブでは、会員の意識調査を始め、最初の結果はホームページの「電子メディア対応研究会」の頁に掲載している。初歩的な感想をまだ出ないが。
思いがけず長いものを書いてしまいました、お許し願います。漏らしたところは、会議で随時に申し述べます。 新委員 秦 恒平(作家)
1999 1・23 3
以上が非常に大切な文字コードに対する秦恒平の姿勢であり、私はこの主張に全面的に賛同するものである。
しかし、秦恒平の正論が通るには困難を極めた。
* 不思議なことが起きるものである。今朝メールをあけてみると、文字コード委員会の委員長と幹事のメールが来ていた。海浜幕張で昨日から開幕のMacworld Expo へ東工大の学生君と出かける間際であったため、とにかくこの二通を早読みしてみた。
委員長のメールは尋常なもので、よく分かり、感謝して手短に返信した。
もう一通は、読めば読むほど奇妙な内容だった。自分の書いた文章をぜひ「読め、」「まだ読んでないとは」と、先の会議の席でつよく勧められ、もし読んでい
たなら、それをめぐって質疑なり対論のありそうなムードだった。さもなければ、半年以上も昔の旧稿を、だれがそんなに熱心すぎるほど勧めるであろうかと、
私には思えたのである。現に追っかけて送ってこられたのである、その文章を、二本も、コピーして。これはもう会議の延長と思うより仕方がなかった。
じつは、あの時、会議室の暑さに耐えかね、口舌の渇きをなんとか癒したくて室外に飲み物を求めに出ていた。部屋に戻っていきなり、名指しで、自分の今言っ
ていたことを「理解したか」「理解したか」と壇上から一幹事に聞かれ、中座していたのだから、聞いていないものは理解もなにもなかろうにと苦笑して答えな
かった。その時だった、この幹事は、中央公論に書いた自分の原稿は「読んだか」とまた問いかけ、私は読まないと正直に答えたのである。なんだ読んでないの
か、ぜひに「読め」と迫られた。
このときの幹事の出方に、いささか気にくわない失礼なものは感じたが、承知したと答えた。会議のために必要ならば必要なのだろうから。
そして封書で文章のコピーが家に送られてきた。私は読み、感想をメーリングリストで発信した。明らかに「会議の席での発言や勧奨」に応じたのであり、私が
それを「読め」と勧められているさまは、他の出席者全員が聞いて知っていたのだから、これは単に筆者だけに私的に答えるものでなく、会議での「議論」の一
環として「どう読んだか」を委員諸子にも伝えるのは当然だと私は考えていた。メーリングリストを用いて、委員やオブザーバーの意見交換は公然となされ、往
来は活発だった。メーリングリストの効用はそこにあり、また利用について何の説明も規制も受けていなかったから、当然「意見開陳の場」として機能している
と思っている。意見には、きわめて具体的な手続き上のものから、解説風のものも感想もあり、むろん有り得て当然自然なメーリングリストの役目だと私は考え
ている。
ところがそんな場で答えるのは「失礼」だと言ってきた、その幹事は。あげく、「幹事」も「委員」も、二月十四日で「辞任」したと言う。二月十四日とは、私
が、「所感 松岡榮志さんに」という感想をメールに入れた翌日に当たる。そして今日、五日間を経て、辞任したという松岡幹事の上のようなメールが届いたの
だから、不思議なことがおこるものだとしか言いようがない。
どんなに変なメールか、挙げてもいいならここに挙げるけれど、かえって気の毒である。とにかく私は、走り書きのようにして、こう返信して置いた。
* 松岡榮志様 秦です。 二月十九日
失礼があれば云々ときちんと断りながら、遅れてきた者の不審や疑念や意見を、丁寧に落ち着いて、話したつもり。あなたの人格に触れた話など一行もしていない。ことを分けて話しているのはお分かりの筈。失礼なのは、どちらですか。
メールで答えたのは、会議の際に強調して「読んでいないのか」「読め」と何度も発言されていたからです。この件に関しては「私信」でなく、明らかに会議関
連の、しかも一委員たる私に対しての意見陳述を求めての勧奨と解釈しましたから、それほどのものならと、一委員としてメールに入れました。同席された他の
委員の方へも、秦が「読んで」の私見を伝えてしかるべき、会議上の経緯であったはずです。私人たる松岡さんについては何ひとつも言っていない。議論を避け
て、こんな抗議を受けるとは心外です。
もっと「普通の」の大人の話し合いが必要なのでは。失礼なのはあなたです。公私も、議論の仕方も心得ています。話にならない。せっかくのお招きゆえ、努めて話題に参加し、協力したいと思っていましたのに。
*
私が「松岡榮志さんの文章を読んで」どう考えどう書いていたか、念のためにもう一度挙げておく。これに対して一言半句の議論もない。それでいて「辞任」
とはどういうことか解せない。つぶさにかみ砕いて、私のような或る一面の事情には甚だ暗い人間の不審にこたえながら、長短を補い合うべく委員会に「参加を
お願い」されたのだと理解していたが。その幹事役が悲鳴のような「辞任」を口にされるのは解せない。議論のための委員会では無かったようだ。何しに私は忙
しい中でこんな時間を割いてきたのかバカらしい。
* 所感 松岡榮志さんに。 秦恒平 二月十三日
二月四日の文字コード委員会でとても熱心にお話のあった、中央公論「漢字の危機は杞憂にすぎない」文藝春秋「電脳時代でも漢字は滅びない」のコピーをわざわざお送り下さり恐れ入ります。読みましての少々の感想を述べます。
もっとも、これら「表明」の強い「抗議」気味の行文は、少なくも私にはあまり触れ合って来ません。特記されている四箇条の「悪意に満ちた批判」につき懸命
に抗議されているわけですが、先日の会議に初参加以前に、私にはかつて「ユニコード」で此の手の発言をする知識も不十分なら、機会も、気も、なかったので
すから。挙げられたこの四箇条など、実にラチもない興味もないことで、それに関する松岡さんの発言にも一定の関心以上は持てません。去年一月の文芸家協会
のシンポジウムも、「文字コード」の何かも分かっていない人の立場で出よという人選に応じたわけで、それ以降ペンクラブに電子メディアの会を作ったのも、
これから勉強、それも著作権関連の勉強を急がねばと私などは思っていたぐらいです。
コピーを読み、知識をいくつも持てたのは幸いでした。感謝します。その余の松岡さんの「反省」や「提案」の中には、とてもいいことも書かれているなと教わりました。そういう点はもっと発言して欲しいものです。
その上で松岡さんの論調から、これは見逃してはならないなと思ったことがあり、それを言います。
あなたは「普通の日本人には一万字以上は必要でないことは自明」と書き、もう一つの文章にも、大きな字で、「ふつうの日本人には漢字が一万字あれば十分」と強調しています。
伺いますが、松岡さんは「普通」「ふつう」の「日本人」なのですか、それとも「特別の日本人」なのですか。揚げ足を取るのではありません、根底の態度を問うのです。
前者なら、あなたは漢字一万字で「中国古典文学と中国語学」の研究を全う出来る研究者だというわけだし、しかもそういう専門家であるあなた以外に、漢字一
万字以上を必要とする「特別な日本人」を想定していることになる。それはどういう人のことで、どこがあなたとは違うのでしょうか。
後者であるなら、あなたの「普通の日本人」とはどんな人で、どれほどの人数になるのですか。委員会に出ている人はみな「特別の日本人」なのか「普通の日本
人」も混じっているのですか。「普通の日本人」とは何なのですか。かくいう私はあなたには「普通の日本人」なのか「特別の日本人」なのか、それを正確に言
えますか。あなたは莫大な人数の日本人を「自明」なほど代弁できる足場を持っているのですか。
私から言えば、この私は、普通も特別もない「ふつうの日本人」です。松岡さん、あなたも「ふつうの日本人」です。しかも、あなたも私も「一万字では足りな
い」方の日本人でありましょう。だが「一万字で足りる」人を即ち「普通の日本人」だという言い抜けは利かない。それは、この際、論理の循環、理屈のすり替
えでしかない。
松岡さん、日本人を分けて「普通」だの「普通でない」だのという足場に立つのは、それは少なくも不正確です。不正確の上に立って主張を妥当そうに見せかけ
ようとするのは困ります。「一万字で十分足る日本人」も「一万字では不自由な日本人」もいて、両方とも、普通の、普通でないの、と他人に言われる必要のな
い、同じ日本人同士です。屁理屈でないことを、今少し付け加えます。
私はいつも言っている。私は、今使っている器械の第二水準までで、自分の文章を書こう、表現しようとすれば、その自由をかなり持っています。不可能ではな
い。私が現に生きて用字の判断も取捨も出来るからです。その意味では「一万字」もあればけっこうな「日本人」であり得る。
しかし分かりやすく喩えましょう、あなたの専門の方の中国古典の筆者、孔子や鳩摩羅什や司馬遷らや、また敦煌変文等の貴重な文献類の、名も知れぬ筆者たち
は、今更自分の書いたものを変え得る魔法を持っていません。そういう中に「一万字」を漏れた漢字や符号文字がいっぱい出てきたら、一字一字はたとえ希少例
とはいえ、まさか無かったことにしてあなたの研究が満足にできるわけではないでしょう。彼らはもう書き直せないし、書き直せないまま伝わってきたことが大
切な学藝研究の対象になる、享受鑑賞の対象になる。学者だけではない、私のようなただの日本人読者もそれらから学びたければ学べるべきです、そしてその際
の私は、「一万字で足りているのは、自明」などと決して言えません。
言うまでもなく、この際は、器械がいわゆるインフラとしての基盤性を確立して行くであろうと仮想の上でものを言っています。そしてユニコード感覚で言っています。どこの地球上で、誰もが、いつでも、問題なく、と。
井上靖の「鬼の話」を私はたまたま話題にしました。つい近年の現代作家の全集にも選ばれる佳作が、もののみごとに再現不能と分かりました。現状、作品解説
のために私は作品の芯になっている鬼の名や星の名も、目下のプランでは器械に書き表せない、再現できないのです、ユニコードでも、その他でも。一万字以上
でも「足りていないのが自明」を、現に露呈しています。井上さんの小説は、まさに「普通に」廣く日本人に読まれてきたのですが。こんな例は他にも続出する
でしょう。
文字コードに私の知識も理解もまだ不十分ですが、漢字や仮名や記号符号を「情報交換用」にでなく、「日本工業規格情報交換用」にでなく、それも十分必要で
すが、また聖徳太子の経疏このかた「日本語」として用いている人はいっぱいいて、しかも「書く」だけでなく「読む」「引く」「調べる」「味わう」も含めて
いっぱいいて、そんな大勢の日本人を、松岡さんのように単純に「普通の日本人には」などと分別してもらっては迷惑なのです。どの程度の常識として言われて
いるのか察しはつくけれど、「ふつうの日本人」の感覚で、「大きなお世話」なのです。私は、他人を目して「普通の人には」この程度だといった立論には、生
来我慢がならないタチです。
さて、そうなれば、議論の場は、われわれの元の場へ自然に戻ります。あなたのおっしゃる「文字が足りないとマスコミを煽ってきた一部の作家のみなさん」に
私が含まれていないことを信じますが、現実に「足りない」のは確かなようですね。松岡さんの文章を読んでいると、煽っているのは実は松岡さんのように読め
ましたが。
「ア
ジア各国で使われている漢字を、コンピュータの上で共通に利用するための統一コード化を行って」きたと言われるのはその通りでしょう、が、正確には「使わ
れている漢字の極く限られた少数を」というところから「文字コード化」が始まったわけですね。そして無理と不都合で、だんだん「足し算」せざるを得ないの
が現状だと見られます。そこまで辿り着いたご苦労を多として感謝することにやぶさかではありません。本当にご苦労でした。
最後に申し添えますが、「一部の好事家による趣味的な日本語ではなく、簡潔でしっかりした日本語を書き表わすための漢字がどうあるべきか、今こそ私たちは
まじめに考えるべきです。コンピュータは、私たちの社会生活を豊かにするための道具にすぎません」といった、浅々しい発言は、どんなものでしょうか。
「一部の好事家による趣味的な日本語」というのが「表現者」の根底を愚弄する発言でないことを希望します。察しが付かぬではないものの、誤解も招きかねないこういう物言いは、さっきの「普通の日本人には」と通底した嫌みもつい感じられ、愉快になれません。
また「表現者」がみな「簡潔でしっかりした」日本語だけで創作したり思索したりしているわけでなく、饒舌も、冗漫をすらも文体にしている人もいるのですか
ら、私個人は「簡潔でしっかりした日本語」大好きですが、この辺も「大きなお世話」に部類されるでしょう。いろんな「表現」もあることを、李白も杜甫もあ
ることを、尊重して下さるように。
さらに、「書き表わす」だけが漢字の問題でなく、大切な文字遺産の大切なところが「正しく再現できる」ことも、思案に是非入れられるよう希望します。
大事の点ゆえ敢えて繰り返します。今日只今のわれわれだけが「書き表わ」して事が済むなら、話は、簡単かもしれない。しかし未来の人も書きたい筈です、自
由に。そして過去の人は、書いてしまって書き換えが利かない。その人たちのいわば本意や著作の尊厳を、現代のわれわれが気ままに扼殺はできないでしょう、
古典の研究家ならよくよくお分かりの筈です。
現在から過去が、なるべく原典に近く再現して「読める、書ける、理解できる」という重大さを、「ふつうの日本人」として、ぜひ忘れないでいただきたい。
「一万字で足りているのは自明、では、ない」ことが、この辺で言い切れないものでしょうか。未来から来たような若い作家最新の芥川賞作品の漢字も、よく調
べてみたいものです。
「コ
ンピュータは、私たちの社会生活を豊かにするための道具にすぎません」というのも何が言いたいのか。 私や私の仲間たちは、コンピュータが近未来に、かな
り圧倒的なインフラとなり、活字や紙での「表現」の場は、激減ないし解消してしまう場合をも一応仮想の上で、「日本語表現の未来」を憂慮しているのです
よ。「社会生活を豊かにするための道具にすぎません」とは軽く言うものですが、むろん道具に違いないのですが、私など、自分の文学生活を表現するのに、お
おかた不可欠に近い大切なものとして現に既に日夜器械に親しんでいます。社会生活だけでなく、精神生活においても大事だから、真剣に「文字」「漢字」のこ
とも考えたいのですよ。
こういう議論があまり出来なかったまま、文筆家が、やっとおそまきにここへ登場し初めてきているのです、どうぞ、よろしく。但し、ここ当分、この手のこのメールでの議論は、休ませてもらいます、日々の仕事に相当響いてきましたので。
失礼な言い過ぎがあろうかと、お許し願います。以上
* なお委員会参加に先立ち「所感」をまとめたものは、「一月二十三日」のところに記載してある。
1999 2・19 3
この松岡氏への反論の中で、とくに重要なのは「私や私の仲間たちは、コンピュータが近未来に、かなり圧倒的なインフラとなり、活字や紙での「表現」の場
は、激減ないし解消してしまう場合をも一応仮想の上で、「日本語表現の未来」を憂慮しているのですよ」の部分だと思う。秦恒平の紙媒体の本への危機感がこ
こでも表明されている。
* 西垣通さんの新刊本『インターネットで日本語はどうなるか』で、第二部「日本語はどうなるか=インターネット多言語情報処理環境」を読んでいる。
改訂された新JISの漢字は6355字、これだけが器械で文字コードをエンコード=与えられていること、更にJIS補助漢字5801字が追加されているものの、これは事実上「文字集合」としてエンコード候補にされているだけで、「現在でも、日本の大半のパソコンやワープロで使える漢字は」さきの、「6355字」に「限られている」ということまでを確認した。合計して「12156字」がJISの「文字コード」なのではない。日本国内にあってもなお文字化けなしに多方向に使えるのは「6355字」だけ。
使用頻度だけでいえば、おそらくこれで九割近くカバーしているに違いなく、だから理工系・経済系、文部省系は、十分だとしてきた気味がある。ところが、予想される漢字の数は、学者により、最大200万字ないし以上とすら言う。大幅に割り引いて仮に10万字としても、JIS漢字は、全体の
10
パーセントにも遙かに足りない。そしてそれら夥しい数の全漢字は、現に一度は使用されたことがあるから「存在している」と、これは原則とし
て認めねばならない。過去の文物の研究上、そんな稀用文字など、抹殺してもいい、無視してもいいと謂える権能を、たかだか「今日生きている」だけに過ぎな
い我々が、無条件に持てる道理がない。それこそ甚だしい傲慢で越権だといわねばならない。釈迦も孔子も、日本書紀も名月記も殺してしまうことに成りかねな
い。
そこで、「文字集合」と「エンコード」との、果てしない道程における、「リーズナブルな折り合い」が必要になってくる。「文字集合」がどう完備されよう
と、十全なインターネットで機能するには「エンコード」を経なければその価値に限界のあるのは明らかだからである。現に「JIS補助」の5801字
も、絵に描いた餅に近似している。その辺までは、わたしにも、もう、だいぶ以前から理解できている。コンピュータは、例えば「わたし一人の器械」でだけ何
とかなれば済むという器械では本来ないはずである。それなら昔のワープロにすぎない。世界中のあらゆるユーザーに無条件・無前提に通用する器械として偉大
なのではないか。
そういう理解の上で、なお、わたしは、漢字は「原則」「全部必要」説をとり、「確認不可能=当たり前」であるその観念としての「全部」から、「リーズナブルな折り合い=判断」により、賢明に「引き算」し、現実問題として、「文字集合=文字セット」に「文字コードを与える=エンコード」あらゆる技術的・学術的・実用的な対策と研究へ「前進」してくれることが大事だ、と主張し続けてきた。必要になったら足すという「原則」にもならない原則は姑息だと批評してきた。
「エンコード」は少ない方がいいのだと言う議論の背景には、正にいろいろあるのだろう、が──莫大な金がかかるという経済的なことも、検索の煩雑などとい
うことも──、それはそれとして、文化的には、コンピュータが真実人類社会のインフラとして揺るぎなく定着の可能性があるのなら、なおさら、どんな桎梏も
克服されてゆくことに「原則的な希望」をもつことが、それを断念し放棄することよりも遙かに、大事だと考えるのである。今が今にも直ぐというような事は、
わたしは一度も言わない、最初から。
しかし「原則」を曲げようとも、放棄しようとも、断じて言わなかった。
技術の問題は、いわば坂村健さんたちが、時間をかけて達成してくださるものと信じたい。検索にも飛躍的に簡易化した道がひらかれるものと期待したい。
金のことは大事だけれど、極端に言えばそれは一私人の知ったことでなく、それこそ国と行政とが国家や民族の文化に誇りを持って「大きく永く対処すべきこと」というに過ぎないのである。
2001 4・3 9
誠に正統な秦恒平の考え方であるが、文字コード関連の会議においては、下記のような混迷が続く。
*
あんまり「私」過ぎるのかも知れず、文字コード委員会の棟上昭男会長に「仏の顔も三度」とやられてしまった。私の、ないし文筆家の立場での発言が、よほ
ど気にくわないらしい。私だけでは無いらしく、作家委員が憤然として一人辞めた。私も辞めたいが、好奇心があり辞めない。
1999 4・29 3
*
一日中大忙しで働いてからメールを開くと、下記のような怪文書が届いていた。名乗りが無いのだから、これは私信ではない。怪文書である。ここに転記し、
何処の誰とも分からない者に、あげた返事も添えて置く。ペンクラブの電子メディア研究会宛になっていて私の所に届いているのは私が研究会の座長役を命じら
れているからだろう。
*
差出人 :INET GATE
kana@nihongo.com.jp
送信日時:1999/05/20 17:37
題名 :ペダンチックなゴギロンをみておもうこと
Date: Thu, 20 May 1999 17:36:04 +0900
From: kana <kana@nihongo.com.jp>
Reply-To: kana@nihongo.com.jp
To: fzj03256@nifty.ne.jp
ハイケイ デンメケンさま
ごギロンをよんでみたのですが,ペダンチックなディレッタントたちのおはなしばかりがつよくかんじられました.おおごえをだしていられるのだけはよくリョウカイできました.10マ
ンものモジをよみかきするにはそれだけのためにひとはイッショウをささげねばならないでしょう.まったくバカげたおはなしですね.でも,ひとつだけたのし
いことがあります.そのようなひとたちがくだらないことにかかわっていることはかれらのちからをそぐのにはよいことだとかんがえられますから.ニンゲンの
イッショウはみじかいのです.モジのことはこどものうちにシュウトクしたいものだとかんがえます.セイジンしてからいちいちジショでモジをしらべねばなら
ぬようなゲンゴはそれだけでいきのこれないでしょうね.まことにアクマのモジとはよくいったものです.むつかしいモジなどはいくらでもムスウにつくれます
から.さかさまのギロンをこれからもせいぜいおつづけください.
どうもほんとうにシツレイいたしました
返信先 :kana@nihongo.com.jp
題名 :RE:ペダンチックなゴギロンを聞いて思う事
当人も「シツレイ」と思ってものを言ってくるのに、答える必要はそもそも無いのですが、名無しの、名乗るによう名乗れない気弱なあなたの、ベダンティック
で口からでまかせの浅いギロンに呆れ、せめて一つだけでも、とんでもない箇所を指摘してあげようと思います。怪文書と議論する気はありません。
10マンものモジをよみかきするにはそれだけのためにひとはイッショウをささげね ばならないでしょう.まったくバカげたおはなしですね.
どこの世界に、一人で十万の文字を読み書きする人間が何人といるものですか。
「一人」なら、多くても一万字もあればたいてい足り、私ならそれで十二分です。
しかし、人間の数は、どの時代の人も、現代の人も、未来の人も含めて、「一人」では無いことぐらいは分かるでしょう。
「一人」「一人」が無数に集まって十億できかない、その十億もの「一人」「一人」が、各々の一生に触れ、かつ用いる漢字は、むろんかなりの量で重なり合いながら、また、時代により、国により、個々の関心により、必要によっても異なることを、あなた、気づいていませんね。
医師には医師の用語があり、哲学には哲学の用語があり、孔子には孔子の、毛沢東には毛沢東の、万葉集には万葉集の用字用語がある。だれも、おのれ一人で
「十万字」を駆使するのではなく、その一人一人の必要は知れた数であっても、漢字を使ってきた・使っている・使って行く歴史の全容からみれば、自然と想像
以上に多数の漢字が必要とされ用いられてきたのです。その総人数は凄いものでしょうが、一人一人が十万字を必要としたなどと、いったい誰がどこで言ってい
るのですか。あなたの妄想による思いこみでしょう。そんな間抜けたことを盾にして、ものを言ってくるあなたの「ゴギロン」こそ、軽率を絵に描いた、「ベダ
ンチック」で、底の抜けた笊同然の「まったくバカげたおはなしですね。」まっとうな議論なら議論しますが、なにしろ名無しの怪文書なのですから、投げられ
たことばを、迷惑千万、返しておきます。
あなたも「一人」わたしも「一人」ですが、だからといって、あなたの必要とし読み書きできる漢字と、わたしの必要とし読み書きできる漢字が、みな同じであ
るわけも、数が同じであるわけも、ないではありませんか。しかし、あなたのつかう漢字のどれこれは私には必要がなく、私のつかう漢字のあれこれはあなたに
必要がないということは十分ありえます。だからと言って私に必要なく、あなたにはぜひ必要な漢字を、わたしが一方的に断固排除せよと言ったら、あなたは迷
惑でしょう。
かりに「一人」五千字で済むと仮定しても、十億人の「一人」「一人」の一生に使う五千字が、ぜーんぶ集まれば、どれほどが重なり合いまた重なり合わない
か、あなた、想像もしたことがないのでしょう。あなたは、上の発言だけで、軽率な二重ねの思い過ごしを平気でしていて、それは、事実に全然合っていないの
です。
戯れ文で高みから物言う風情でも、実は、名乗りもできないほど軽薄な自信なさから、間違ったことを得々と言っている、あなた。ハタ迷惑ですね。
顔を洗って出直しなさい。 秦 恒平
ついでに言えば、あなたなら「一生」を費やす必要があるでしょうが、ある時代ならば、十万字を読み書きするのに、必要な人は、意図してから五年で足りたでしょう。そういう人にはそういう人の、幼来の基盤があったからです。
現代のわれわれ、少なくもわたしにはそんな必要はまったく無い。あなたも含め今日のわれわれ「一人」「一人」に、そんな必要が、あるわけ、ないではないで
すか。辞書を引く引かぬなどは、人の勝手で、どっちにしても大きなお世話なのです。これもまた人それぞれで一概には言えるわけがない。
漢字の文明が生き残れるか生き残れないか、一度は死にかけた孔子もまた復活している昨今の中国事情をみているだけでも、誰が軽々に文明や言語の脳死診断がくだせるものか、ましてや、あなたには無理。
今後は,名無しの「シツレイ」自称者は、軽蔑して黙殺します。せっせと、よそで喋りなさい。
* こんなのと、なぜ付き合わねばならんのか、ここへ首をつっこんでいるのだから仕方ないが、百鬼夜行の世界らしい。それも面白いではないかと小説家は平気で思う。
* そんなことだろうと思っていたとおり、 kana@nihongo.com.jp
で返信したメールは、「宛先無し」で舞い戻ってきた。素性も知られたくないのだ。私は記紀歌謡の昔から今日まで、いわゆる童謡などの匿名性
を支持しているから、匿名じたいは驚かないが、「シツレイ」の何のと気取るばかりで、ラチもない軽薄なことを言わんでくれと希望しておく。
1999 5・20 3
しかし、こうした秦恒平の奮闘の結果、その主張が勿論全部とは言えなくても、基本的な方向性においては認められたのである。
* 文字コード委員会に出てきてもらった村山副座長の報告を、理事会のアトで、資料とともに受け取った。
文字コード委員会の趨勢にも大きな様変わりがみえ、村山さんのはなしではあるが、「秦さん」のこれまでの発言趣旨や主張に大きく沿ってゆく方向へ、委員会の討議全体が流れてゆくようだ、と。
例えば、標準化される漢字は、「所謂足し算方式」でこれまでは姑息的に必要が生じたら数を足してゆくやりかたを繰り返してきた。この言葉を用いてわたし
は、それは間違いではないかと言ってきた。必要なものは必要であったのだ、みんな必要なのだ。だが漢字に「みんな」という網羅は事実問題としてあり得な
い。よぎなく、これは無理、これは拾えない、これは辛抱しなければなるまいと、架空の「みんな」から仕方なく「引き算」して行きながらも、必要で可能な限
り「みんな」を標準化してゆくべきであると、言い続けた。どう孤軍奮闘であろうとも、あざ笑われようとも、妥協せずこの原則論を言い続けてきたが、この原
則が、いまや本流になって行くようだと村山さんは報告してくれた。ふーん、がんばり抜いてよかったのかなあ、と、ちょっと驚いた。
なにしろ、わたしが、文字コード委員会に出始めた頃は、たとえば孔子や釈迦の文献がそのまま再現できないようなパソコンが、何のインフラかとわたしが言う
と、おおかた失笑された。経済行為や工業的必要に応じられれば、文学表現や宗教や歴史などは二の次、三の次のこと、辛抱してくださいと言わんばかりに、招
かざる部外者発言のように受け取られた。ガンとして、わたしは、だが、「表現者」「人文研究者」の立場からの「使える」パソコン、役に立つ「文字コード」
を言い続けた。どんな優秀な文字セットが出来ようと、世界中の、どこででも、だれでも、いかなる漢字や記号も双方向で等質に使えて文字化けしない「環境」
が器械に装置出来なければハナシにならんと言い続けてきた。そういう時節なのである。
2001 2・15 8
* たださえ忙しいのに、今度は文字コード委員会の方からふりかかってくる火の粉を払わねばならない。このところ文字コード委員会へあまり視線を振り向けてられる余裕がなかった、が、今朝、メーリングのなかで、例えばNTTの千田昇一さんのこんなメールが飛び込んできた。長い文章の最後の方にあり、それまでの議論は明快でよく分かるものだった。だが、こうなると、ちょっと困るのだった。
「私は、例えば、文筆家の方々が、多様な文字を扱いたいという要望を持っていることは理解していますが、その文字の扱いにしても、出版物を出すまでの道具
としか見ていないのではないかと思っています。もし、出版物を出すまでの道具として情報処理機器をつかっているのだとすれば、情報処理機器の能力不足の点
は、従来の技術(手書き等)で補足していただくのがコスト的に有利なのではと思います。
もし、文筆家の方々が、電子出版をお考えであれば、情報発信側だけの機能を検討するだけでなく、情報受信者となる読者の側にどの程度の価格の受信装置を
もっていただくかを想定するのが、通信技術としては定石なのですが、この部分についての検討はしないまま、自分がほしいと思った機能は受信者は必ず持って
いると思い込んでいるのではと危惧します。」
*
これは事実認識に大いに違ったところがある。現に、私たちの今奮闘している電子文藝館の立ち上げに関しても、その基本のフォーマットをきめるについて、
発信者の我々の問題以上に、不特定大多数の受信機械の現状や近未来にどう対応するかを何よりも激しく議論もし苦慮し工夫している。「情報受信者となる読者
の側にどの程度の価格の受信装置をもっていただく」などという厚かましい希望は我々には持ちにくく、しかし「想定」して極力それに対応した発信をと考えて
いる。当たり前の話ではないか。文筆家へのこの程度の認識で「危惧」されては堪らない。
千田さんには余儀なく、こう返事をした。
* 千田さん 明快なご意見です。
ただ最後に例えば「文筆家」云々の箇所には、誤解もあるやに感じましたので少し申し添えます。
前々回の会議の席で申し上げ、小林幹事より「全面的に同意見」といわれたわたしの見解をご覧になっていないようです、この全文は長いので千田さんに直接お
送りし、ここのメーリングには繰り返しません。むろん文筆家全員の意見とは言いません、が、わたくしも文筆家であり、千田さんの非難されているような頑迷
な立場をのみ固執しているわけでないことをご理解願います。
ことに、「紙の本にする前段階としてのみ機械を使っているのではないか、それなら手書きで補え」といわれるのは、認識不足の暴論です。
私などは、紙の本への依存度をぐんと減らして、機械そのものを創作と執筆の「場」としています。ホームページをご覧下さい。18MBの文章をすでに書き込み、何倍にも及ぶでしょう。こういう傾向は、私だけでなく文壇の内外でますます増してゆきます。
またインターネットによる、小規模ながら堅実な準研究集団やサークルが出来ています、どんどんと。そういう際には、古典や仏典・外典、古文献の引用も双方
向通信でお互いに必要となりますが、文字で、記号で、苦労の多いことは察してくださらねばいけません。そういう場と傾向も、さらにさらに増えてゆくでしょ
う。
インターネットがインフラ化してゆくというのは、ただ、経済や工業や情報の畑だけであっていいという考えでは、偏狭に過ぎます、むろん、いろんな工夫の要ることですが。
日本ペンクラブは、従来紙の本=著
書二冊以上を入会審査の条件としていたのに加え、紙の本でなくても、電子化されて現に公表されている作品も、規定の条件をクリアしたものは「著述」と認定
すると正式決定しています。電子作品が市民権を与えられたのです。「出版」という言葉が、紙の本をだけをさしていた時代は、過ぎつつあります。原稿用紙に
は書かない、機械に書く、「機械で出版」する人は、老いにも若きにも増えています。
また現在日本ペンクラブは、島崎藤村初代会長から現在の梅原猛会長時代に至る、全会員の「紹介」とその主要作品の電子化による、「日本ペンクラブ電子文藝
館」を開館しようとしています。すでに実験段階で作品を掲載し、年内には少数のコンテンツからでも開館しはじめます。無料公開です。世界に持ち出せる日本
の文学・文芸のいわば代表作文化財を企図していますが、文字・記号で、多大の障害が現に予測され、どう乗り切ろうかと頭を悩ませています。「無い字は手書
きで済ませよ」と言われますか、千田さん。会員は小説家・詩人・随筆家だけでなく、いろんな難しーい研究者もいます。井上靖の「星の話」をぜひ入れたいと
なれば、思わず唸るのです。
こういう文化面の事業にも、千田さん、ご理解いただきたい。無理とわがままを言うているとは思いませんが。
結果として「ハ藤」「ソ藤」を例にした千田さんの提起に対し、文筆家の私個人は、2 の考えではないこと、ま、1 に近く、3
も分からぬではないがと言ったところです。これに関連した以前の見解は、部分的に、下記の通り。
「包摂」という考え方を、原則として強く容認し、同じ意義と用字法をもち、あまりに偶然の書法=書き癖・筆癖・気まぐれ・誤記等で、形に変化こそあれ本来「異字」度の希薄な異体=異
形字は、賢明に包摂し、大胆に整理することで、大きく「引き算」する。将来にわたる原則的な大課題として、包摂による引き算を敢行する。もの凄い数の、本
来は同じ意義と用意の、ただ偶然の書字癖や写字癖や誤解にもとづく異形字・異体字・放恣な造字等が淘汰されるであろう。これは、文字に対する「尊大・傲
慢」とは、全くべつごとの、当たり前の処置である。なぜなら、伝えられた漢字の殆どは、「手書き」されてきた歴史・時間が圧倒的に長く、「手書き」の偶発
的な変容・変態・変形に一々重きを置くことの非合理なことは、自身日常の書字体験から推してあまりに明白だからである。
当然次には、アイデンティティの名においてされる「氏名・地名」漢字における、あんまりな異形字・異体字は、これを整理し包摂するのを「原則」とし、「引
き算」を有効に進めるべきである。それには意識改革等を働きかける「現代の知恵とキャンペーン」とが相当の時間必要であろう。言うまでもなく、これらを原
則として整理してゆく作業もまた、「尊大・傲慢」には当たらない。異民族による弾圧的な創氏改名は知らず、人間や家系のアイデンティティを、奇抜な漢字使
用の固守で計ろうなどと謂うミスチックな思想の方が改訂されてゆくべきである。わたしの姓字も戸籍謄本では現用の「秦」とはかなり奇妙に異なる字形である
が、困るとは思わない。戸籍の方を直したいとすら考えている。「秦」は秦の文字形で活字社会では常用され、同じ一つの意義を広く認められている。それでい
いではないか、戸籍謄本どおりの字でないとアイデンティティが失せるなどと謂う、衰弱した思いは、わたしには、無い。拘泥しないで包摂に賛同してくれる人
の増えてゆくように、現代思潮を先導してゆく働きなどをこそ「文字コード委員会」も持つべきではないか。(四月九日) 以上 九月七日
*
ところがこれで済まなかった。第一期の主導者であった棟上昭男氏が、割り込んできて、慇懃無礼に、文筆家ないし私に、敵意まるだしの揶揄を送ってきた。
「黙っていればよいものをと自分でも思いつつ,また一言感想です」と。「驚きました.秦さんがここまで踏み込んで発言されるようになるとは,正直言って小
生にとって予想外のことだったので,世の中も随分変ったという感じがしているのですが,これはもともと小生の思い違いか認識不足だったのでしょうか」と。
以下長いのであるが、そして論旨において我々としても聴くべきものを含んでいないのではないが、どこかに文筆家達の発言や希望や主張を「うるさい」「外野
はひっこんでいろ」と言わんばかりの口吻があらわなのだ、特にこの人は第一期に参加した最初から「文筆家の文字表現」になど見向きもしないという印象で
あった。また、こっちも「文字コードって何?」といったていたらくであった。だが、文字コードのことは知らなくても、文字表現と文字の伝統については、深
い関心も体験の豊富さももっているのである。文筆家団体を代表して出ている限り、何とバカにされても、原則的に、言うべきことは一歩も譲らずに言い続けて
きたのが、この人にはよほど腹に据えかねていたのだろう。ところが、最近のわたしの総括的な「現状」認識に対して、委員会の幹事が、全面的に同意・合意で
きるものですと言うところまで、わたしは出て行っていた。それを棟上さんは「世の中も随分変った」と言うらしいのだが、まさに「認識不足」なのである。何
年か継続して一つ事に関わってきたものが、思考を集中し集約していくのは当然であり、しかも、わたしの意見は最初から変わっていないのである。従来の「足
し算」方式は、文字への思想や態度として姑息でおかしい、全体からの余儀ない「引き算」思想であることが望ましいと発言しつづけていた意味を、「青天井」
の「無際限要求」のと勝手にわるく翻訳して、嗤っていたのである。わたしの「引き算法」のことは、きちんと纏めて説明し、「全面的に合意できる」理解とお
墨付きを貰い、かえって私の方がびっくりしたことは、この「私語の刻」にも言い置いてある。
*
どうも、もう、文筆家団体への義理は果たしたから、委員会から閉め出したいという意向のようにすらにおってくる。憶測に過ぎないが、千田さんのような温
厚な論者にも、先のような「危惧」のかたちで文筆家の参加は無理か無駄かのようなニュアンスでものを言われてしまう。
だが、こうもわたしは観測している。かなり「瑣末」化してきている、つまり専門家だけの議論が、専門家だけの言葉で語られ合わねばならないだろうと言う感
じの委員会の流れのように。しかしここで専門家というのは当たらない。文字コードの標準化や経済効果の算定については専門家であろうけれど、漢字や表現の
専門家ではない。そういう方面の専門の人がほとんど参加していない。編集者も出版人もいない。作家はわたし一人しかいないし、詩人もいない。新聞の人が一
人か二人か。そういうところで「専門的」という意味は、極めて偏狭に偏ったものでしかありえず、そういうなかで、未来に及ぶ文字表現の死命を左右されてし
まってはたいへん困るから、わたしは辛抱して、出てゆくのである。発言していなければ、文筆家達も賛成、となってしまうのは目に見えている。そういうとこ
ろへ持ち込むために、癇癪をおこしてやめると言わせたいのかなと、邪推したくなる。現に、文芸家協会から出ていた作家委員たちは、みな引っ込んでしまっ
た。その方が賢いと思う。だが、わたしは、理事会がもういいよと引き留めてくれるまでは、出られるだけ出ていよう、それも仕事だと諦めている。
2001 9・7 10
* 文字コード委員会の幹事たちから、改めてわたしの総括的な暫定理解に対し「全面同意」し、千田・棟上氏への反論部分にも賛同の言が伝えられてきた。その上で、しかし他者(委員会多数)の価値観に否定的であり過ぎるのでは苦情が来た。返信を、念のために書き込んでおく。
* 一言だけ申しますが、他者の価値観に過剰に否定的でありながら、小林(幹事)さんたちからの全面同意が得られるところまで、理解が纏まるということ、可能だったでしょうか。皆さんのお話を、それなりに傾聴していたからではないのでしょうか。迎合はしないし、理解し切れぬ事を分かった顔はしないだけの話です。
初参加の頃のわたしを思い出されればと思います。文字コードに関して、百パーセントの無知識人でした、わたしは。外国語を聴いている按配だったのです。それでも投げ出しはしなかった。
もう一つは、文筆家団体をともあれ代表している立場なので、必ずしも私一人の理解でなく、表現者からの原則的希望を語らねばならず、ときには過剰なまで反
応しておき、また安易にウンウンとも承知して帰れない・言えない、ことは有るのです。当然ながら。私個人にすれば、どうでもいいことなのですが。
2001 9・8 10
「インターネットでは文字コードが標準化されてなければ、結局伝達出来ない」秦恒平は、パソコンで書き発信されたものを世界のどこの誰のパソコンでも正しく受信する「双方向」のやりとりの必要性を、漢字を使う「日本文化」のために死守しようとした。
これらの経緯を読めば、現在の文字コードの流れを創ってくれた秦恒平の貢献を充分理解してもらえるだろう。「遠い過去の遺産と遠い未来までの表現の可能性
を守りたい」という立場から現代人が経済性や利便性のために使える漢字を操作してはならないという原則を、彼が鋼鉄の意志と驚異的な学識を持ち闘ってくれ
なければ、パソコンで使用できる漢字が少なすぎるというとんでもない方向に事態は進んでいったであろう。現在の文字コードですら「森鴎外」としか表記でき
ないのだから、想像するだにおそろしい結果になっていた。文字コードの役割は今後も極めて重要である。
しかし、ここでも私は、経済優先の市場原理の壁の厚さにため息をつく。
秦恒平は要するに人間の叡智の集積である漢字とそれを使用する学問、文化、藝術を守るために闘ったが、文字コード委員会体制はそんな理想論を言ってたら、費用対効果が悪すぎて商売にならないではないか、ということだったのだろう。
秦恒平は原則論を主張し続けることでインターネット上での日本語文化の大惨事、大壊滅を防いでくれたといってもよい大恩人なのだ。困難な状況の中で、現状望みうる最善の方向を道づけしてくれた秦恒平の功績は実に大きいと思う。
A日本ペンクラブ電子文藝館創設
日本ペンクラブ電子文藝館は、秦恒平のこれもまた孤軍奮闘の超人的な仕事により2001年開館した。日本文学の名作の数々、現ペンクラブ会員の作品をイン
ターネット上で、無料で読むことができるようになった。電子空間に無尽蔵に本の収納ができる画期的な図書館が誕生したのだ。
これはまさに偉業と呼ぶしかないのだが、これによって秦恒平が日本ペンクラブから顕彰されたとか、文化功労者に推されたという話を聞かない。たとえこの仕
事一つしかしなかったとしても、秦恒平は文化功労者として遇されて当然だろう。それほどの国家的大事業であるのに、この世間の鈍い反応はふしぎだ。なぜだ
ろう。肝心のペンクラブでも、電子文藝館が出来たことの意味を充分に理解しているとはとても言えない。
私の推測にすぎないが、現在活動している文学関係者の中で、インターネット時代到来にほんとうの意味で危機感をもって立ち向かおうとする人間はまだ少数なのだ。電子メディア環境の中での、新しい文学公開の在り方に自覚的な人間は少数なのだ。
最近電子出版がずいぶん盛んになってきてはいるけれど、大半の物書きは自分たちの紙の本はまだまだ売れるし、名誉も賞ももらえるとどこか呑気にかまえている気がしてならない。
彼らはインターネットが巨大な怪物で、烈しく闘わないと自分たちが食われることを認識していない。自分たちの生きているあいだに紙の本が安泰であること
を、それほど疑っていない。たしかに紙の本は消滅しないだろう。しかし、それはある種の本に限ってのことになると私は予感している。紙の本が必要なのは、
売れないと冷遇されている学術書とか純文学の分野であり、出版社が売りたい読み物系の紙の本は、このままでは、たぶんゲーム世界の魅力に負けるだろう。
早すぎる天才である秦恒平は、インターネットは人間の本質を変えていくツールで、文学への凶器ともなり得ること、近代出版流通システムが崩壊していく現象とともに、もはや従来の紙の本時代の読書社会の復活は来ないことに気づいている。
彼は、この時代の大きなうねりの中で、価値ある文藝が殲滅していく危険を誰よりも知っている。そして、インターネットの普及を逆手にとって、千載一遇の好機と捉えて、闘おうとしている。
文学価値はあるが殲滅しかねない作品を発信していく新しい道具として、インターネットを利用することを試み、熟慮を重ね、電子文藝館を創設し遂げたのだ。
電子文藝館の企画立案から実現に至る一切を引き受けて完成させたこの渾身の文学活動は、まさに秦恒平のスケールの大きな「創作」にほかならず、彼以外に実現できる人間はいなかったであろう。まさに知の巨人でしかなし得ないことだ。
日本ペンクラブ電子文藝館は、どこかのホームページのようにあれこれの作品を玉石混淆で並べてみせただけのものではない。安い代物ではないのだ。日本語に
よる日本を代表する、真実文学的価値ある文藝館にするために、秦恒平は細心の注意を払い、その目的のために献身的に動いた。
秦恒平は、この大事業の前にまず自分のホームページにe−文庫を開設する。日本ペンクラブ電子文藝館の構想を自身の場所で先ず実践した。
*
e-magazine湖(umi)=秦恒平編輯
これは、在来の雑誌の常識を超えた、作家秦恒平の責任編輯による、広範囲な「文学・文藝サロン」です。小説・詩歌・エッセイ・批評・研究・紀行・論争、長短を問わず、ジャンルごとに自立の頁に、原稿を配列して行きます。ファイルが満杯になれば拡充しますが、また MOディスクにバックナンバーとして保管し、希望が有れば、頁に戻したり希望の読者に電送します。
しばらくは、寄稿をまちながら実質を築いて行き、やがて、この雑誌独自の表紙と目次・索引を設けて行きます。
寄稿は、原則として何方も自由です。秦恒平のホームページ内に「入れ子」に設定された文学・文藝の「場」として、利用し活用して下さい。掲載料もとりませ
ん、読者に接続課金もしません、原稿料も一切支払いません。我がホームページの一郭を進んで「文学表現」の場として提供します、活用して下されば幸いで
す。但し、質・量・表現にかかわる取捨の自由は編集権者の秦恒平にあり、不可とみたものは、掲載しません。
寄稿には、秦恒平宛て電子メール「FZJ03256@nifty.ne.jp」をご利用下さい。
「湖」と名づけた原像は、少々古いのですが、幼年の昔に、供え物のための蓮の葉に散った露の玉が、たちまち一つの湖をなしたあの清さと美しさの記憶です。この「e-湖」は、広くはならなくてもいい、深くありたい。
こういう「e-文藝」の「場」が、世間でも、これから次々に生まれてくると思います。この「e-
magazine湖(umi)」
は、理念としても実践としても、魁の意義をもつでしょう。電子メディアを場にして生まれくべき新世紀の若々しい文学・文藝のためには、こういう、きちっと
した「場」が必要です。落書きに過ぎない野放しの垂れ流しの文章が、いくら無数の「掲示板」に満載されても、「文学・文藝」の表現にいい土壌を培っている
とは言えません。
幸いこのホームページのビジターには、作家・芸術家・編集者・研究者・学者・教師・大学生そして「湖の本」の読者たちが、つまり優れた読み手も書き手もが、相当数含まれています。「e-湖」は、そういう「いい読者」にはじめから恵まれているとも言えなくはなく、これは大きなメリットです。編輯者自身も、かなりウルサイ読み手です。逆にいえば、寄稿者に恥はかかせないつもりでいます。
原則として秦恒平は、ここには書かないつもりですが、各頁の形と実質を整えるまでは、適宜に原稿を入れて行きます。また心親しい書き手の方たちにも、当分の間、原稿を頂戴したいとお願いに上がるつもりでいます。ご支援下さいますよう。
* ご吹聴・ご紹介、それよりも寄稿参加願えれば幸いです。
2000 10・23 7
この秦恒平の私的電子文藝館には、秦恒平の選んだ多くの文学者と素人の書き手の作品が公開されている。そして準備万端整え、いよいよ本丸の建設、ペンクラブ電子文藝館の立ち上げが始まる。
* 電メ研提案
日本ペンクラブ「電子文藝館」構想 2001.6.15理事会に。
* 六月五日の研究会で討議の結果、以下のように提言する。 座長 秦 恒平
* 日本ペンクラブ・ホームページ活用は、型通りではあるが現在支障なく行われ、委員会活動等の広報内容は充実している。強いてリニューアルの必要はないと考える。
ホームページによる「広報活動」は、現状のまま「広報委員会」に委ねるのが適当で、従来通り事務局による交通整理ないしATCによる入力・転送で、技術的・運営的に何の問題もないと思われる。ホームページ利用による「広報」は「広報委員会」に返したい。
*
「電メ研」は、日本ペンクラブによる「電子メディア活動」の一環として、PENの名に背かない文藝的・実質的な「ホームページ活用」に当たりたいと、具体案の検討に入っている。会員による「日本ペンクラブ・電子文藝館」のホームページ上での創設である。
以下、「電子文藝館」構想の大要を示したい。
*
発想の原点には、日本ペンクラブが、思想は思想としても、本来文藝・文筆の団体であるというところへ足場を固めたい希望がある。さらにはまた、日本ペン
クラブ会員となっているいわゆる地方・遠隔地会員にも、会費負担に相応・平等の「何か」特典が有って然り、今のままではあまりに気の毒という思いがある。
「会員である」事実を、本来の「文藝・文筆」の面で実感できる、極めて経済的な「場」として、「ホームページ」を活用しない手はないのではないか。
*
日本文藝家協会には、会員共同の「墓」地が用意され、希望者は、生前ないし没後に、夫妻の姓名と会員生涯の代表作名を一点刻み込んで、永く記念できるようにしてある。だが莫大な費用もかかる。
しかし、もし我々のホームページに適切に「電子文藝館」のファイルを設定し、そこに、会員自薦の各「一作・一編・一文」をジャンル別に掲載してゆく分に
は、ほとんど何の費用もかからないで、直ちにみごとな「紙碑・紙墓」を実質的に実現できる。作品の差し替えも、随時、簡単に出来る。
* それのみか、アクセスする国民その他の、自由に常に閲覧できる優れて文化的な「場=電子文藝館」にも成る。人は、具体的な作品と数行の略歴により、筆者がどのような文藝・文筆家であるかを即座に知ることが出来る。もし会員になれば「電子文藝館」に自作が掲載できるのだと分かってもらうのも、一つのメリットと成ろう。
*
即ちこの「電子文藝館」に作品の掲載されることは、そのまま自身が日本ペンクラブ会員たる事実を、世界にむけて発信することになる。会員の一人一人が
「その気」になれば、すぐにも我々のホームページ上に「電子文藝館」は実現し、収容能力に不安は全く無く、維持経費は極めて軽微で済む。
*
掲載は現存会員に限らない、遺族の許可や希望が有れば、過去の著名な会員の作品も適切なファイルを設けて、積極的に収容した方がよい。さしあたりは、島
崎藤村以下歴代会長の各一編を順に掲載できれば、極めて大きなアピールとなろう。不可能なことではない。電子メディア時代ならではの雄大構想になる。
* 会員の自薦作であるから審査は不要とする。すでに慎重審査を受けて入会を許可したプロフェショナルな会員である以上、掲載作には筆者が自身で質的に名誉と責任とを負えばよろしく、ただ作品の長さや量にだけ、一定の約束(例えば、一作限定、二百枚まで。短歌俳句は自撰五十、詩は適宜、とか)を設ければ済む。申し込みの順に適切に積み上げて行くのが公平な扱いになる。目次と検索索引は工夫できる。
*
会長以下、役員・理事諸氏が率先作品を提供されれば、直ちに「呼び水」とも「評判」ともなり、寄稿希望者は漸次増えてくるに違いない。一年で三百人が集
まれば、それだけで偉観をていするだろう。さらに「電子文藝館」が充実すれば、ここから「日本ペンクラブ」の質の高い選書・叢書すら出版して行ける可能性
も生まれる。
なによりも、会員各自が「自信・自負の作品」を集積するのが趣旨であるから、文字通り「日本ペンクラブ」の価値ある「大主張」と成ろう。
こういう本格・本来の事業が、文筆家団体の雄である「日本ペンクラブ」に是非必要ではないか。ホームページを活用すれば、簡単に、金もかからずに出来るのである。
* 但し、原稿料も出さず掲載料も取らない。アクセス課金もしない。収益は一文もあげる気はない。
また重大な点ではあるが、電子メディアについてまわる著作権侵害の危険はある。この点は「覚悟の上で掲載作品を各会員が自薦」することになる。作品の差し替えはいつでも簡単に出来る。退会者の作品はその時点で削除する。
* 寄稿は、原則としてデータファイルの形で担当者に送信して欲しい。少なくも手書き原稿は、事務的な手不足と煩雑からも扱いかねる。最低限度、スキャナーにかけられるプリント状態で寄稿してもらう。手間のかかるものほど、掲載に時間のかかるのはやむをえない。
*
「日本ペンクラブ・電子文藝館」は、設営に、アトラクティヴな相当な技術的工夫を要するので、またファイル構成や編成にも機械操作の技術をともなう編集
実務を必要とするので、「電子メディア小委員会」が委員会内に「編成室」を組んで担当したい。日本ペンクラブの大きな財産に成るようにと期待している。英
断による即決をお願いしたい。
内閣にも電子マガジンの出来る時代である。 以上 文責・秦
* 会員はもとより、一般のユーザーからも、より良い助言や批評が得たい。早くも賛同と期待のメールが次々に入っている。
2001 6・11 9
*
公開される事業であり周知をはかるのもだいじであるので、今日の理事会で承認された「書面」報告を掲げておきたい。最初に、梅原猛会長・初代館長による
宣言。館の入り口に掲げられる宣言を、口調をやわらげて出稿依頼状の冒頭に掲げるべく用意したもの。この「電子文藝館」構想と実現の仕事も、また一つの我
が「創作」と考えている。
* 「日本ペンクラブ電子文藝館」を開設します。
日本ペンクラブは国際的な文筆家団体であります。国際ペン憲章は、「藝術作品は、汎く人類の相続財産であり、あらゆる場合に、特に戦時において、国家的あ
るいは政治的な激情によって損われることなく保たれねばならない」とし、また「文藝著作物は、国民的な源に由来するものであるとしても、国境のないもので
あり、政治的なあるいは国際的な紛糾にかかわりなく諸国間で共有する価値あるものたるべきである」とも宣言しています。核実験に反対し、環境問題や人権問
題につよく提議し、言論表現の自由を護ろうと闘うのも、その基盤には、会員の文学・文藝の「ちから」がなくてはならないでしょう。「ペンのちから」を信じ
愛して、世界の平和と言論表現の自由のために尽くして行かねばと思います。
今、日本ペンクラブは「ペンの日」を期して、ここに独自の「電子文藝館」を開設し、島崎藤村初代会長以来、あまた物故会員の優作を、また、二千人に及ぼう
とする現会員の自愛・自薦の作品ないし発言、加えて簡明な筆者紹介を、努めて網羅展観する事業を通じ、国内外に、メッセージを発信します。大きなご支持を
お願い申し上げます。
2001
年 仲秋
日本ペンクラブ会長 梅原 猛
日本ペンクラブ歴代会長著作権継承者の皆様にお願い申し上げます。
別紙、梅原会長の「開館のことば」を受け、「日本ペンクラブ電子文藝館」実現へむけて、電子メディア研究委員会が作業を始めました。ご支援をお願い申し上げます。 (以下略)
* 「日本ペンクラブ電子文藝館」の概略 電メ研による理事会書面報告
以下は、七月理事会決定以降、数次の会議を経た討議内容です。実験段階でのサイトも、入念にフォーマットを整え、和文英文の梅原館長による開館宣言、また
初代会長島崎藤村の「嵐」、梅原現会長の「闇のパトス不安と絶望」、上司小剣の「鱧の皮」などの他にも、試験的に数点の展観作品を掲載しています。索引
も、幾重にもクロスオーバーした便利に
使いよい装置が仕上がり、即座に、めざす作者と作品へ画面を展開することが出来ます。用意ができ次第、会員向けに
公開し始めます。理事諸氏の率先出稿を希望します。
梅原会長名および担当委員会からの、歴代会長・物故会員の著作権継承者に対する懇切な出稿依頼状も、用意しました。十一月「ペンの日」を期した「開館」は、恙なく実現の見通しが立っています。
電子 メディア研究委員会 委員長 秦 恒平
「日本ペンクラブ・ホームページ」の看板のもとに、「電子文藝館」と「広報」とが、別個に並び立ちます。相互にリンクして外向きには一体感をもたせた運営になります。
以下、「電子文藝館」現在の概略を、順不同に書き上げて行きます。
「日本ペンクラブ電子文藝館」 初代館長は梅原猛会長。「開館」に至る運営は電子メディア研究小委員会=日本ペンクラブ電子文藝館編輯室が担当し、事務局長が支援する。
「トップページ」 文藝館の入口にふさわしいデザインにし、梅原館長の「文藝館宣言」を掲げる。別に「英語版トップページ」を作り、「文藝館宣言」の英訳を載せて、世界に対する日本ペンクラブの顔とする。「入口=背景画面」には日本字と英語との題字=看板を横書きに入れる。実現している。
「会員名総覧」 現会員全氏名および物故会員全氏名と、ローマ字読み及びP.E.Nの区別を掲げた「日本ペンクラブ会員総覧」を用意し、簡明に通覧可能にする。そのままで、近代文学史の一資料となる。住所電話肩書等は不要。容易に実現できる。
「見出し」 氏名 題名 小見出し 筆者紹介 等は形を統一する。一任願う。
「文
字化け」 利用者(読者)の使い勝手をよく考慮し、文字化けしない画像文字も活用して文字が正確に読者に届くことを最優先する。なるべく作品に必要な文
字の使えるよう、わかりやすく解説した「表記法の手引」を用意し、また出稿に伴う問題点の事前周知にも適切な「パンフレット」を用意して、全会員に配布す
る。主催側の独善を排し、展示改良へフォローし、リニューアルも覚悟の上で進める。
「作
品の質」 高いに越したことはなく、バーは高く設定したい。イージーなことは出来ないと会員諸氏に先ず思ってもらい、次の段階では、こういう中に並びた
いと思ってもらえるように。余儀なく一つには「ネームバリュー」であり、初代会長島崎藤村ほか、上質の出稿の期待できる「著作権切れ作者や物故会員」作品
を、古い会員名簿で物色したところ、錚々たる作者たちのみごとな作品が、多数、しかも容易に期待できる。現任理事諸氏の意欲的な出稿が特に待望される。事
務局は過去会員の名簿を提供して欲しい。
作品審査はしないが、外国語原稿に限り、専門家の内容確認を委嘱する。是非には従ってもらう。
「作品の分量」
編輯室ないし理事会で可とした現会員には、一人に「2」ジャンルを与える。詩人にして小説家とか、小説も随筆も書くとか、作家で批評家とか。その才能を一作限定で殺さない。賑やかにしてゆくためにも少なくも当初は好配慮となろう。
量は原則を示し、四百字(20x20)原稿用紙換算とする。
「小説」 30枚から150枚以内。一作に原則限定。短編作品なら、100枚以内厳守で複数作、可。
「戯曲・シナリオ」 150枚以内。一作に限定。
「ノンフィクション」 30枚から150枚以内。一作に限定。
「児童文学」 30枚から100枚以内。一作に限定。
「評論・論考・研究」 30枚から100枚以内。一作に限定。
「短詩型」 短歌・俳句・川柳は一行アキ組み、150作品(300行)に限定。総題希望。
「詩」 300行(1行20字計算)以内。複数作、可。複数の場合、総題希望。
「詩歌」作品は、努めて、生涯全作品からの精選を期待する。
「随筆」 合わせて50枚以内。複数作、可。
「翻訳」 各ジャンルに準じる。
「外国語」原稿 原則として上に準じるが、内容の確認を含め判定を加える。
「オピニオン」 出版人・編集者・報道人等広くエディターの、「テーマ」をもった発言の場とする。討論・論争に及んだ場合、複数回の発言可能。但し個人間の私的紛争や誹謗に相当すると編輯室ないし理事会で判断した際は、掲載しないことがある。発言量は、年度内複数回で計50枚前後とする。P.E.Nならではの「Editor」発言に期待する。所属等を明示する。
すべて質・量にわたり若干の配慮措置はありうる、が、編輯室ないし理事会の判定には従って貰う。
「作品の提出」 適切な「出稿要領」の提供を用意している。
原則として、入念に本人校正されたテキストファイルを、ディスク、またはE-Mailおよびプリントも添えて提出してもらう。但しWindowsの場合、一太郎、MSワードでも可とする。原稿は、段落単位に、改行なしベタ打ちで提出してもらう。Macに関しては技術的に検討して改めて通知する。
デジタル化の技術的に不可能な会員には、申し出があれば、出稿製作のため適当な「業者=アルバイト等」を紹介することもある。誤植は筆者本人の責任とする。
なお、図版、挿絵、表組み等は「原則として」不可。主に文字による文学・文藝・文筆作品を展示掲載する。但し編輯室ないし理事会が必要と認め、かつ
MSWord、一太郎形式による提出に限り、特例として受けつける場合がある。版権のある画像については、必ず著者の責任において版権問題を事前に解決しておく。展示後にトラブルを生じた際は、一時ないしその後、作品を撤去する。
なお「外国語」作品は校正を必要としないファイル等による提出に限定し、専門家の内容確認を得る。是非には、従ってもらう。
総じて、限られた人手で運営する電子文藝館であり、寄稿提出したら即座に掲載されると性急にならないで欲しい。なるべく速やかに正確に掲載する。
「新入会会員の出稿」 理事会で入会を承認された新会員は、自薦作品を提出することを原則とし、義務づけたい。その能力の認められた者が入会を承認されるのだから。
「索引」 作品の題、作者・筆者氏名、ジャンル等から、複合的に構築する。
当面約六万枚の原稿を収録、さらにほぼ無際限に拡大出来る。リンクと索引目次の完備により、支障なく随時・随意に手早く望む作品を選んで読むことが出来る。
「作品の掲載」 会長も現会員も物故会員も、目次や索引には明瞭に区別されるが、作品は、すべて索引に対応して展観される。作品は、並ばない。原則として、受付順に「ジャンル=小説・随筆等」別に掲載するが、すべて索引による単純乱載法を採用する。
スキャン校正等の作業を要する場合掲載が遅れるのはやむをえない。不公平は排する。実掲載年月日を明記する。
原稿料は支払わない。掲載料は取らない。利用者への課金行為も一切行わない。
「歴代会長」 目次を別に立てて敬意を表する。作品のジャンルは問わない。目次面に特に立てるのは「歴代会長」に限り、他は「物故会員」「現会員」と、斉しく並立する。
「作品の差し替え」 現会員の場合、最低一年掲載後には、別作品に差替えることが出来る。
「作者略紹介」
氏名と英字によるフリガナ、P・.E・.N登
録別、「小説家」「哲学者」「大学教員」「高校教諭」「新聞記者」「編集者」「随筆家」「評論家」」等の端的具体的な名乗り。生年月日、出身府県、受賞歴
一つ、作品初出、作品受賞歴、掲載年月日に限定する。顔写真など無用。作者による作品解説も無用。文化勲章・文学賞等の受賞は、主要な一つに限る。会員
データベースの基底部を形成する。
「著作権」 作品は著作権者に属し、電子文藝館は掲載のために無償で「場」を提供している。電子メディアにつきものの著作権被害には著作者として納得の
うえ作品を提出してもらう。もとより明白な侵害行為には日本ペンクラブとしても著作者と共同して厳重に対応する。原則として著作権問題のクリアは原作者・
原筆者に委ねる。
著作権の切れている作者の作品は、「青空文庫」等の提供を受けることも出来る。日本ペンクラブとして挨拶と希望申し入れをすれば無料提供される。歓迎されている。
「掲載の体裁」 作者名を先とし、略紹介が添い、そして作品が掲載される。作品は横書きで展示され、縦組みに換えて読むか横書きのまま読むかは、読者の自由である。
ジャンルによる一定の体裁を定め、作者や作品により差別することはしない。フォーマット=方式設定は、慎重に用意している。
「原則運用」
当面は全てに「原則として」と限定することで、運用の融通も確保したい。原則設定と細目運用に関しては、電子メディア研究小委員会=日本ペンクラブ電子文藝館編輯室の配慮に一任願いたい。よほど難問は理事会に諮る。なお、技術的な運営には従来通り業者の協力を得てゆきたく、経費的な手当は事務局長に委ねる。
「開館と公開まで」
2001年の「ペンの日」を期して開館する。着実に進んでいる。技術的な推進等に就いては一任してほしい。協力出来るという会員には参加して欲しいが。
「実現すると」 日本ペンクラブの名の下に、少なりとも全会員の文学・文藝・学問の成果が、自負・自撰の作品とともに、世界に向け発信される。将来的に
は、作品という実質を伴った全会員のいわば「人名索引」ともなり、「日本ペンクラブ・データベース」の一翼を「文学・文藝」そのもので実現することにな
る。やがて第一歩を踏み出せる。
以上、報告し、理事会承認を得た。
原案作成2001年 9月
13日 電子メディア研究委員会
2001 9・17 10
ここから電子文藝館のための作品収集が始まる。秦恒平はこの作業を「木を一本一本植えていく」とも表現していたが、地道な気の遠くなるような根気仕事を重ねていく。秦恒平ほどの読書量がなければ、到底できないことである。
秦恒平はこの作業を心から楽しんでいたように思える。たとえば、次のような記述に数々の名作を読み直し校正し掲載することの秦恒平の息づかいや悦びがひしひしと伝わってくる。
*
徳田秋聲作「或売笑婦の話」の校正を終えた。秀作と謂うに何のためらいなく、散文による文学の藝術的達成とはこういうものかと嘆賞を久しうする。底知れ
ず寂しい読後でありながら、胸は静かに洗われて、そこに溜まる清水は澄んでいる。人情話として噺家が話しても成る題材であるが、そのような落ち付け方では
なく、あくまでも人間の、生きている哀しみに視線が注がれ、強いて解決を与えようとしない。解決のつくことなど、そう有るワケのない人の世なのだから。
日本文学の一方に泉鏡花の文学を置くなら、対極に徳田秋聲の文学をと思う。この二人は共に金沢から出て、前後して尾崎紅葉の門下生となり、愛憎こもごもの
ライバルであり、お互いに理解者であったろうとも想う。表現し到達した日本語は、まったく質を異にしたものだが、甲乙なくたとえようなく光り輝いている。
文豪と謂うにふさわしい。
2001 10・1 10
*
林芙美子を校正しつつ読んでいて、心底感嘆するほど、細部の表現が利いている。無技巧とみえてさにあらず、天成の人間把握の強さが生んでいる確かな表現
で、舌を巻く。嬉しくなる。高畠さんが、上司小剣の「鱧の皮」に舌を巻いたのも、さこそとわたしは会心の笑みを禁じ得なかったが、芙美子の「清貧の書」
も、秋聲の「或売笑婦の話」も、微妙にしたたかに時代と渡り合って毅い文学なのである。こういうのを、大勢に読んで欲しい。みな「eー文庫・湖」第二頁、
第十五頁に収録してある、多くの出逢いが望まれる。 2001 10・8 11
出版状況に明るい展望がないとしても、秦恒平はこの電子空間における新しい方法で文学者と読者との新しい形での出逢いを目指した。これは自身の作品の発表
の場という個人的な欲望ではなく、日本文学全体への深い尊敬と愛の成せる業であり、この電子文藝館を日本ペンクラブの誇り、文化財として続く世代へ遺して
いきたいという決意である。
* 「日本ペンクラブ電子文藝館」は「恐ろしい場所」になるだろう、無条件に比較されてしまう真剣勝負の場所、「文藝合せ」の現場になるからだ。
わたしは、頭の中でよくやる。美術展に行き、目の前の作品に見入りながら、べつの最高最良と思っている作品をその横に置いてみる。「そんなのと比べないで
よ」と言うことは、「創作」の場合けっして許されない。比較を絶する作品を自分は書いたか、書けたか。それだけが残る。
三筆、三跡、光悦、良寛。これらと並べられて比較を絶する個性を、その「書」が成し得ているか。そのようにして、絵の場合も焼き物の場合も彫刻でも工芸で
も、わたしは、推服し称賛する最高の作品と容赦なく押しならべて、目の前のものを簡単にはゆるさないのである。だめなものは、だめなのだ。小剣の「鱧の
皮」秋聲の「或売笑婦の話」白鳥の「今年の秋」藤村の「嵐」芙美子の「清貧の書」かの子の「老妓抄」利一の「春は馬車に乗って」綺堂の「近松半二の死」そ
して光治良の「死者との対話」を、物故会員のそれぞれ一代の作中から、条件も考慮しつつ、選んで、わたしは用意した。追って靖の「道」や直哉、康成、中村
光夫らの作品も掲載してゆく。われわれ、なお生きてある者は、これらと、真剣で渡り合うほどの気迫の作品を用意し「電子文藝館」に提出しなければならな
い。安易な気持でいると、無惨な恥をかかなくてはならない。自信が、自負が、度胸がなければなかなか提出しにくいほどの「試合場」を、早く作り上げておき
たい。同じことは、今生きてある者同士にも、言える。もっと厳しく言える。
この「場」では、もはや虚名という看板で、言いわけは利かない。大衆文学であれ純文学であれ、そんな区別で何の言いわけも出来ない。それが深い感銘を与
え、優れた表現を得ているか、どうかだ。それだけだ。依怙贔屓はこの場では通用しないし世評も定評も通用しない。読者が、同業者が、それぞれの能力に応じ
て、ただ判定する。彼らも又作品群により試され鍛えられるであろう。
こういう、公平で公正な文学・文藝の「場」がこれまでなかった。文学全集の人選など依怙贔屓の最たるものに流れがちであったし、文学賞もそのようなものでありがちなのが今や常識である。選者といえども、五十歩百歩の水準だ。
わたしは、「電子文藝館」の根の意図の一つに、こういう「恐ろしい場所」を創ろうとという仕掛の気持も堅く持していた。物故会員の作品を先ずと言いだした
のは、それ故であった、ただ選択しやすいと言うからではなかった。世に時めいている「いいかげんなもの」を容赦なく炙り出さねばならない。この意図を本能
的に見抜いているファジイな著名作者たちは、むしろ尻込みする方を選ぶだろう。
2001 10・28 11
* メールからメールへ、文字通り World Web Wide
にひろげてもらうのが、なにより「電子文藝館」の周知と広い範囲での愛用に繋がるだろう。趣旨を伝えるだけではだめで、せめて具体的な展観
内容を目次風に観てもらうにしくはないと思い、三百近い知人・読者のメールのある人に、いましがた電送した。インターネットの使える人でなければ、読めな
い。漠然と広告するより、私から、直に声援をお願いしようと思った。
* お変わりありませんか。秦恒平です。
もしも、
近代・現代の、よく選ばれた小説や評論や詩歌に出逢いたいと思われるときは、「日本ペンクラブ電子文藝館」を訪れてください。
島崎藤村、正宗白鳥、志賀直哉、川端康成、芹澤光治良、中村光夫、石川達三、高橋健二、井上靖、遠藤周作、大岡信、尾崎秀樹から現会長梅原猛まで十三代の
日本ペンクラブ歴代会長、また徳田秋声、谷崎潤一郎ら錚々たる物故会員、そして現会員二千人の、自負・自薦の各一作が、ジャンルを問わず、「無料」で読め
ます。
開館して二箇月半の「展観現況」をお知らせします。十年のうちには少なくも千人千作を優に越す「Digital Library」が育ってゆくものと信じています。
どうぞ文学好きな、メールのお仲間に、URLとともに、ご吹聴下さいますよう。Hoya e-old 秦 恒平
* 日本ペンクラブ電子文藝館 (2001.11.26開館)
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/ 無料公開
展観内容 (2002年2月15日現在 予定)
* 歴代会長
島崎藤村「嵐」 正宗白鳥「今年の秋」 志賀直哉「邦子」 川端康成「片腕」 芹澤光治良「死者との対話」 中村光夫「知識階級」 石川達三「蒼氓第一部」 高橋健二「(未出稿)」 井上靖「道」 遠藤周作「白い人」 大岡信「長詩・原子力潜水艦『ヲナガザメ』の性的な航海と自殺の唄及び英訳」 尾崎秀樹「『惜別』前後─太宰治と魯迅」
梅原猛=現会長・電子文藝館長「闇のパトス」
* 物故会員
「詩歌」 与謝野晶子「自撰・明治期短歌抄」 前田夕暮「歌集・収穫上巻」 土井晩翠「荒城の歌及び回想」 蒲原有明「智慧の相者は我を見て及び回想」
「戯曲」 岡本綺堂「近松半二の死」
「随筆」 長谷川時雨「旧聞日本橋 抄」
「論考」 戸川秋骨「自然私観」 三木清「哲学ノート抄」 加藤一夫「民衆は何処に在りや」 戸坂潤「認識論としての文藝学」
「小説」 白柳秀湖「驛夫日記」 徳田秋聲「或賣笑婦の話」 谷崎潤一郎「夢の浮橋」 横光利一「春は馬車に乗つて」 上司小剣「鱧の皮」 林芙美子「清貧の書」 岡本かの子「老妓抄」 高木卓「歌と門の盾」 吉川英治「べんがら炬燵」
* 現理事・幹事
伊藤桂一「雲と植物の世界」 加賀乙彦「フランドルの冬抄」 阿刀田高「靴の行方」 神坂次郎「今日われ生きて在り」 秦恒平「清経入水」 猪瀬直樹「『黒い雨』と井伏鱒二の深層」 米原万里「或る通訳的な日常」 眉村卓「トライチ」
* 現会員
「詩歌」 篠塚純子「ただ一度こころ安らぎ」 和泉鮎子「果物のやうに」 岩淵喜久子「蛍袋に灯をともす」 村山精二「特別な朝」 平塩清種「季節の詩情」 池田実「寓話」 牧田久未「世紀のつなぎめの飛行」
「随筆」
渡辺通枝「道なかばの記」 竹田真砂子「言葉の華」
「論考」 長谷川泉「『阿部一族』論ー森鴎外の歴史小説」 井口哲郎「科学者の文藝ー中西悟堂・中谷宇吉郎・谷口吉郎」 川桐信彦「世界状況と芸術の啓示性」 加藤弘一「コスモスの智慧ー石川淳論」 大原雄「新世紀カゲキ歌舞伎」 篠原央憲「いろは歌の謎」
「小説」 木崎さと子「青桐」 久間十義「海で三番目につよいもの抄」 崎村裕「鉄の警棒」 武川滋郎「黒衣の人」 武井清「川中島合戦秘話」 筒井雪路「梔子の門」
「児童文学」 松田東「海洋少年団の秘宝」
「翻訳」 田才益夫「カレル・チャペックの闘争 抄」
「意見」 大原雄「テロと報復軍事行動の狭間で、何を見るべきか」 大林しげる「怒らねば」 阿部政雄「もう一度人類のルネサンスへ一歩踏み出さそう」
* 一見雑然としているが、単行本の二十五册分ぐらいは在る。かけた経費は限りなくゼロに近い。紙の本でならもう一千万円はかかっている。
2002 2・13 12
この時点からさらに作品は積み上げ続けられていくが、作品の掲載すべてが秦恒平の仕事である。勿論手伝ってくれる委員はいたが、作品の選定、校正の最終責任は秦恒平が担っている。たとえれば、この仕事の木の太い幹が秦恒平で、他の委員は枝である。
また、青空文庫とペンクラブの電子文藝館の違いについてはこのように書いている。
* 活動の性質は明瞭にちがうものと考えています。
著作権の切れた人達のものに限定して「青空文庫」は頑張っておられます。枠組みはその一点にあり、或る意味で無差別・無中心の収拾のように思われます。
* 「電子文藝館」を要約すれば、
初代会長島崎藤村以来、現第十三代梅原猛に至るまで、「日本ペンクラブ」所属の、過去・現在「在籍全会員」の存在証明を、「一人一作品」のかたちで展示
し、「日本ペンクラブ」が、過去・現在、どんな人材により組織されて来たか・現に活動しているかを、如実に示そうとしています。
物故会員・現会員を問わず、著作権期限は一応考慮外におき、それよりも、各作品を、できるだけ「読みやすく」十分な鑑賞に供し得るよう、電子環境での多彩な読者たちのために、配慮しています。(研究者のために厳密な研究テキストを提供するという意図は、一応放棄しています。)
むしろ、この一つの「電子文藝館」という「場」で、過去・現在の会員が、「地方・中央」「有名・無名」「ジャンルの違い」超えて、全く平等・対等に自愛・自薦の「自作」を呈示し、読者の鑑賞ないし評価を求めている、ということです。
詩歌、小説、児童文学、ノンフィクション、評論・論考、随筆・エッセイ、翻訳、外国語作品等、あらゆるジャンルを問わず、また「芸術、通俗」を問わず、同
じ一つの「電子文藝館」の中で、読者が自由自在に比較しながら、好きに価値判断をされる「機会と場所」としても、大いに利用して欲しいと企画・提案者は、
編輯室責任者は、願っています。
したがって、この「ディジタル・ライブラリー」の読書に関する「課金」等は、一切求めていません。完全な「無料公開」です。「電子文藝館」は、国内外に対する「日本ペンクラブ」の文化事業であり、ボランティアなのです。
おそらく、いずれ読者のうちで、「こんなに素晴らしい作品に出逢えた」という思いと、「なんだこの程度のものか」という思いが微妙に交錯してくることでしょうし、そこに、「日本ペンクラブ」の素顔が否応なく浮き上がってくる筈です。そういう
現実を足場にしつつも、しかし「日本ペンクラブ」は、真向から、世界平和を求め、言論表現の自由を心をあわせて守って行こうと願う文藝団体なのです。「国際ペン」の一環なのです。
「電子文藝館」が日本ペンクラブ活動の「目的」ではありません、これは、会員全員のいわば「存在証明」なのです。「顔写真」なのです。筆者の「略紹介」を
極端に簡素にしてあるのは、「作品」そのものをして語らせよう、主観的な先入見をなるべく排しておこう、という意図に出ています。
クラブ創設六十六年の二○○二年十一月二十六日、「ペンの日」を期して誕生・開館したばかりの「電子文藝館」ですが、十年を経ず、少なくも「千人・千作」を擁した大図書室に育つことは確実です。
* 上の「要約」は、私、企画・提案者の考え方である、が、この通りに、どこへ引用されても差し支えない。今夜の例会での映写紹介に先立って、わたしの気持をも要約しておく。
2002 2・15 12
この大事業は、片手間にできる仕事ではない。電子文藝館の短期間での驚くべき達成は、ひとえに秦恒平のすべてをなげうっての集中力の賜物である。肉体的精神的にタフでなければできない。
ここまでは、発起人としてのわたしの意欲も意地もあって、かなり苦しくても頑張ってきたが、いつまでも続けられる事ではなく、委員会内での協力関係が進ま
ねばならない、その点は今後に期待するより無い。高畠委員から、ともあれ、もう当分は遅疑することなく電子メディア委員会の中で電子文藝館も維持し続けて
行きましょうという発言に、励まされてきた。
2002 2・4 12
電子文藝館では、ただ言葉と文字だけを送り出せばいいという意見もある、が、それでは、原稿に対しても読者に対しても不親切なことである。文字の大小と
か、行間の適正というのが有って、はじめて文意も言葉も伝わりやすくなる。今後も「日本ペンクラブ電子文藝館」がながく存続して行くとして、いつまでも、
わたしが従事してはいられない。だが、アトを受ける人に、こういう心得や心がけのある人が見つからないと、機械的な、殺風景を平然と現出しかねない。転送
の業者にそれは望めない。
「原稿整理」というのはかなりに高等な技術に属している。形だけでなく、原稿の内容に適応しつつ読み込む能力も必要になる。加えて一般の製作では写真や凸
版での図版組みや表組みがある。十五年余も勤務した医学書院で、亡くなった細井鐐三氏や鶴岡八郎氏らにこまかく指導されたことを、今こそ、懐かしく、有り
難く思い出す。
「原稿整理」の適切に出来ない「編集者」なんて、昔は考えられも存在もしなかったのに、今は、編集者とは、原稿取材だけする者のように、製作は下請けに任
しっぱなしの者に、なろうとしている。なっている。昔は校正できる人は製作もできた。製作者で校正できない人などあり得なかった。
2002 2・10 12
電子文藝館に入れば、秦恒平によって選ばれた過去の作品群の素晴らしさに圧倒されるだろう。書物の海から選ぶということも一つの創作である。膨大な量の本を読んでこなければ選べない。秦恒平の読書量は信じがたいレベルである。
私は電子文藝館でたくさんの未知の名作に出会った。読まれる価値ある文学作品を選び、それがパソコンに一字一句正しく表示されるように校正に心血を注ぎ、
すべての責任を担い、ひたすら地道に電子文藝館の中に一作一作積み重ねていく。一本一本木を植えて森をつくる気の遠くなる仕事を続けた。しかも秦恒平によ
るごく短い作者、作品紹介ですら文藝の香気漂う詩的短文の「作品」にしてしまっている。
国会図書館でも、すでに書物の電子化は始められているが、紙の本の寿命を考えると、
これから本の電子化は必須になることは間違いない。その時にどれだけ質の高い電子図書 館を有しているかは、国家の文化力の問題になろう。
日本文学のために、秦恒平は命がけのただ働きをしてくれたのだ。一銭にもならない過酷な仕事で、そのために秦恒平は自身の多くの時間と仕事と収入の道を犠牲にし、あげく自身の視力を傷めるはめになった。
私はこれほどの文藝への愛と献身を他に知らない。彼の大いなる文藝愛と芸術家魂を前にして、胸の熱くなる感動をおぼえずにはいられない。
十年後、二十年後に日本文学を読む読者は、「電子文藝館」そして彼個人のホームページに併設されているe−文庫にこめられた、彼の文藝への愛から深く学び、深く感謝することだろう。
B私語の刻
秦恒平がインターネット環境の中で打ち出した最大の文学上の功績は、彼のホームページ中の日記・日乗「私語の刻」であろう。秦恒平の「私語の刻」は早すぎる天才による非常に独創的な、世界のどこにもない「機械環境文藝」である。
彼のホームページは次のような構成になっている。
*
私のホームページが、記録容量上、厖大な所蔵可能に創られていることは、前世紀末いらい、かなり広くに知られている。おそらく、これほど大量の記事を擁
している私的な一個人のホームページはめったには実在していない。日記ひとつにしても、書き始めて間もなく中断し抛たれている例は数限りなく、それが一般
である。私のように日記・日録・日乗として、ホームページ開創の1998年いらい、ほとんど一日も欠かさず記事を満載してきた他例は、聞いたこともない。
しかも私のホームページは日記だけでなく、湖の本の全部(現在126巻)の悉くを収録しているし、多彩な電子文藝館も内蔵している。凄い量の「フォルダ・
欄」が多くの「頁・ファイル」を擁していろいろに利用できる。そのために明けてある欄は数十できかない。
公開のためにでなく、思い切った私用のために、例えば無数の書留めや書置きを字にしておいたり、和歌集の撰なども、一々公開しないで書き置いて吟味し感想
を書き添えたりできる場として活用しようと、いま、ポツポツといろいろに為し始めている。「私用」の「私語」を自在の物にしておきたくなった。「遺言」も
のこしておく。愛しみも憎しみも尊敬も軽蔑も遠(慮)なしに書いておく。
2015 6・8 163
秦恒平のこのホームページで特に重要なものは、彼が毎日更新している「私語の刻」である。すでに原稿用紙にして十万枚を超える長大なものだ。これはイン
ターネット時代の画期的革新的な文藝ジャンルであると思う。文学史上初の試みであろう。17年間にわたりこのようなことをしている作家は、私の知る限りで
は世界のどこにもいない。
小説でも戯曲でもないことははっきりしているが、所謂日記とは違う独特の創作である。モンテーニュの『エセー』に近い美しいモザイク模様のような文藝、し
かしパソコンで書かれるとほぼ「同時進行」でインターネットの向こうの不特定の読者に届くという、秦恒平が世界に先駆けてはじめた世界初ともいえる「機械
環境文藝」なのだ。
インターネットの中に身辺雑記のブログは星の数ほどあふれている。有名な作家、ジャーナリストのブログも山のようにある。ところが、それらは読み続けてい
るうちに同じことの繰返しで単調になる。一人の人間の生活は有名無名にかかわらず、大きな変動があるものではないので、どうしても似たようなことが続いて
飽きてくる。
しかし、「私語の刻」は一般のブログとは似て非なるものだ。1998年3月に始まり、2015年10月現在までほぼ毎日更新されているこの17年にもわた
る長期連載の日録はなぜかマンネリ化しない。読み続けているのにふしぎに退屈がない。毎日更新されている文章のなかにいつも秦恒平の息づかいを感じる。読
者は行動としては多くのブログ同様代り映えしないこの作家の日常に接するのだが、「私語の刻」には作者の「人間」が存在し作品の「いのち」が走っている。
だから面白い。これは稀有のことではないか。
秦恒平は「私語の刻」を、はっきり自分の文学作品に位置づけて、毎日真剣勝負で書き続けている。秦恒平は日々、息をするように書いて読んで生きている。
*
私の便宜のために日付をつけ日録の体にしているが、これは「闇に言い置く・私語」の分を守ったものである。それだけに、本音である。幸い器械の奥は闇深
く、インターネットといわれながら双方向感覚を忘れていられる。露出感などすこしも無くて、表現し発信している。原稿用紙であり、ノートであり、個人の雑
誌であり、本である。営業していないだけで、原稿料や印税が有ろうが無かろうが、ここに表現するものは私の作品であり文芸だと思っている。人生の記録でも
ある。 1999 4・13 3
ここには、自身の日常生活のこと、湖の本を中心とした仕事のこと、文学観、古典への言及、交友関係、読書の感想、歌舞伎、演劇、能への批評があり、時事問
題への政治的発言あり、歴史への考察や作家論あり、美術論、旅行記、交遊録、健康状態、実兄や孫娘との死別をふくめた家族の記録、短歌や俳句まで入る。さ
らに自身の作品についての述懐にもなっている。そして大きな特徴は読者のメールや手紙を載せているところにある。
ほんとうに多彩、多岐にわたる内容が、秦恒平自身が「非小説、純文章も大切にしたい」と語っていたように、生き生きした叙述で綴られていく。読者のメール
も、ただ転載しているわけではなく、「他者との対話」ともなり、「私語の刻」の世界に外部の刺戟がもたらす波紋となるよう、読者のプライバシーに配慮しつ
つ、場合によっては秦恒平が手直しもして、取り込んでしまっているのだ。
次の文章には、手紙に代わる主力の通信手段になっているメールに対する秦恒平の姿勢が見えている。
*
数え切れない多数から何万と数えてもきかないメールをもらってきたが、明らかに上手下手があったなと思う。所用以外のメールが「恋文」とまで謂うのは刺
激が過ぎるが、メールとは「呼びかけ」が基本なのだと感じている。「呼びかけ」上手にこっちの胸の内へ適切な言葉と呼吸とで飛びこんでくるメールは、読ん
でいて心もおどり、なつかしく、人柄まで嬉しく見えてくる。わたしは、もう十五、六年も昔から、程なく「メール」のなかから新たな「機械環境文藝」が起
こってくると予見し言及して、じつはホームページのなかで文藝としてもみどころあるメール実例を記録し蒐集してみたいと試みかけた。それ自体は可能であっ
たが、あっというまに往来のメールの数が山積してしまい、とてもそんな仕事は続けようもなくなった。だが、その見通しはまちがってなかった思う。
わざとらしくなく、知的にも行儀の点でもこっちの「胸を打って届く」メールは、明らかに「呼びかける命ぢから」に富んでいる。
返事だけのメール、自己紹介と主張 自身に関して呟くように書いてはいるが、読み手へ呼びかけていない陰気に弾まないメールもすくなくない、いや、これが
多数ともいえるだろう。で、返事は省略しよう、となってゆく。貴重な時間は大事な仕事のために所用のために使いたい、使うべきだろう。
兼好がある女性に用を頼む手紙を送り、その女性からの返事に、今朝から降り積む雪へただ一言も触れてない味気ない頼みなど聞いてあげたくないわと有った。
ここをはじめて読んだ中学三年のころ、わたしは何かしらだいじなことを教わっていた。兼好さんもヘコンダ、だからこそその人を誉める気持ちで書いている。
名文美文の必要はない。「伝わってくる肉声」の温かみ。
いつもいつも「思ひ」という「火」を美しく聡くかきたてて人の胸に温かに「呼びかける」 そういう人とのメールを楽しみたい。
2014 4・10 150
秦恒平はメールの中にも新しい「機械環境文藝」の誕生を予見している。「私語の刻」は、文学的効果を意識して取り込まれたメールの扱いといい、二十一世紀の機械環境文藝の先駆けとなる記念碑的作品ともいえよう。
秦恒平は、この「私語の刻」を自身の言葉で「文藝連鎖」「箚記」と書いている。機械環境的「箚記」である。
*
ところでわたしが此処にこういう具合に、思いついたことを先後もとくに省みも顧みもせず書きとめている、これを「闇に言い置く 私語の刻」と称している
が、やや難しくいえばこういう筆記を「箚記」(さっき、とうき)という。大塩平八郎に「洗心洞箚記」がある。荷風に有名な「日乗」がある。日記であり、わ
たしも日記・日乗感覚で十七年も書いてきたが、有難い読者の整理してくださったように細かく分ければ三十五、六項にも分けられる多彩な、しかしまた断想で
こそあれ完結した著述形式はとらない雑纂になっている。「文藝連鎖」と自称もしてきた。感想、着想ないしは癇癪の落としどころとして用い、しかも隠した陰
口ではなく電子ネットの闇へ放った私語になっている。この筆述形式が、つまり「箚記」であり中国では「册記」とも書かれている。
このところ続けて試みてきた『湖の本』の何冊かはまさに「箚記」なのである。「有即斎箚記」(うそくさいとうき)と呼ばれても差し支えない。(筆者注 有即斎とは秦恒平の名乗りの一つ)
さらに彼は「私語の刻」についてこのようにも書く。
……わたしの作品として最も長く、最も生き生きとした仕事が基処に在るだろう。百冊に及んでいるわたしの創作やエッセイの、これは作者自身が付けた索引と批評と解説に当たっているだろう。人生行路のこれがアンカーになる。底荷になる。
2003 4・1
秦恒平文学を理解するために、「私語の刻」は不可欠で重要な作家研究資料的役割までも担っている。詳細な作家の年譜として読むことだってできる。どこを
とってもぎっしり秦恒平の詰まった文章の宝箱である。私がこの論考で数多く引用しているのは主にこの「私語の刻」からの文章である。
「私語の刻」のふしぎな魅力は、あらゆる文藝のジャンルを流動的に行き来する自由さにあるのかもしれない。秦恒平の日々の断片の集積を読むことによって、
読者は秦恒平の生命の息吹を、「呼吸する意識」を、秦恒平といういささか「狂を発している」作家の人生を追体験している。リアルタイムで秦恒平の生を共有
している感覚にとらわれてしまう。人間のいのちの在り方が、そもそも私語の刻のような断片の堆積だからだ。この「私語の刻」は文藝の形をした生命体に感じ
られて、私は読み続けるのをやめられない。
このような現在進行形で作家の人生を共に「経験」する読書は、インターネット時代でなければあり得ない。そして、もしかしたらこの日記、日録風「私語の
刻」そのものが途方もなく長く大きな繪空事の創作であるという可能性すらも棄てきれない。読者はどういう結末に連れていかれるかわからないまま読み続けて
いる。
今の私は、「私語の刻」を、稀有な天才によって描かれた、新しい時代の個性的な創作活動、モダンアート、現在進行形の私小説的藝術家独白小説としても読み続け、毎日読書の喜びを味わっている。
この「私語の刻」には読者それぞれ千差万別の読み方があるが、たしかなことは、これがどこをどう切りとっても、日記と読んでも、随筆と読んでも、何と読ん
でも、優れた文藝であることだ。その証拠として、秦恒平はこの「私語の刻」を編集して何冊もの湖の本を出版している。「私語の刻」の中にはただの一文も無
駄に書かれたものがない。
しかし、このように、インターネットに惜しげもなく密度の濃い創作を公開してしまう手法は、現在の出版流通システムを完全に逸脱する仕事だ。あまりに先を
行き過ぎている。この中の文章がいつ盗作の憂き目をみるかもしれないし、まったく収入には結びつかない文学活動は、職業作家には出来ない。受け入れられな
い。これほどの質と量の藝術を、素人のブログのように無料で配信されてしまっては、同業者も出版社も扱いかねる事態ではなかろうか。これは驚異で脅威の入
館無料の美術館なのだ。
ここでも、悪循環ともいえる秦恒平の不遇は続いている。時代に早すぎる人間の不幸に他ならない。既存の出版流通システムの範疇を超えた電子化時代の先進的
な、この文学活動を評価する方法を、まだ日本の文学界はものにしていない。評価できる新しい時代の文藝評論家が現れていない。そのために、秦恒平のイン
ターネット上における文学史的業績についても「湖の本」と同様、評価の対象外になってしまう。文豪の命がけのただ働きを無視したまま、「私語の刻」が変人
の純文学作家の道楽かなにかとして黙殺され続けているのは残念なことだ。こんなことが許されるだろうか。
好意的に考えればあるいは、単に出版業界にこのホームページの存在もその内容も周知されていないのかもしれない。読む前から身辺雑記ブログだから読む価値
はないと決めつけられているのかもしれない。作家も出版社も量産しなければならない時代で、とりあえず目先のことをこなしていくことに精一杯なのだ。実際
佳い作品がまったく出版されていないわけではない。
これは文壇の座頭市状態ともいえる。降りかかった火の粉を払うように自分の手の届く範囲で必死に刀を振り回し、目先の危機をやり過ごし生き延びているだけで、奈落があるかもしれない十メートル先、十年後のことはまるで見えていない。
出版業界は時代の大転換期にさしかかっていることに深刻な危機感を抱いていないのか? そんなことはないだろう。漠然と気づいていてもどう対処したらいい
のかわからないし、立ち向かう方策も勇気もない。立ち向かうとしたら、秦恒平のように、今まで得ていた収入を棄てる覚悟がいる。だから、決定的な破局を迎
えるまでは、時間稼ぎをしながら従来のまま変わらないでいるほうがらくである。真っ当な道を模索するより、すぐそこにある危機を見て見ぬふりをして小手先
の対策で対処する。それが壊滅的な破局を早めることにしかならないにもかかわらず、無意味な延命を続ける。そのように門外漢の私には見えてしかたない。
人類史上初体験となる電子メディア時代の劇的環境変化の中にあって、藝術としての文学の行く末に無関心であり、市場原理ゆえの保身や臆病は、悪意や嫉妬よ
りずっと始末が悪いと思う。そこにかけがえのないものがあるのに、見なかったり無視したり傍観するのは罪悪だ。早すぎる天才を評価しそこねているうちに、
日本文学の喪失するものは取返しのつかない規模になってしまうだろう。
湖の本創刊当時、自分の作品を自分で出版した作家が他にいなかったように、秦恒平のようにインターネットを文学活動の場としてしまう自覚的な作家はまだ当
分現れないだろう。秦恒平はいつも早すぎる。孤立無援の文士であるが、諦めない勇敢な闘士として彼は今後も命の限り書き続けていくだろう。
藝術としての文学の灯火を守るために、これからの時代に可能な方法はじつは秦恒平の始めている行動しかないのかもしれないと、私は感じている。明治の樋口
一葉や石川啄木のような、市場原理という魔物支配から自由になり、本来の誇りある文学作家の在り方に戻るしかないのだ。
「私語の刻」はこれまでになかった文藝というだけではない。未来の人間にとっての新しい文藝の起源(オリジン)なのだ。私を含めた同時代の読者は「私語の
刻」という機械環境文藝の生みだされる瞬間に立ちあっている。このことに気づいている人間はまだ少数だろうが、私はこの自分の予感を正しいものと確信して
いる。この未来の文藝の誕生する瞬間に立ち会い、文学者秦恒平と「今」を共に生きる読者であることを、私は心から感謝し幸せに思うものである。
最後に、秦恒平がこの電子化時代の文藝環境の負の側面を恐ろしいまでに認識している数少ない思想家、言論人であることを付け加えておきたい。秦恒平は日本ペンクラブに初めて「電子メディア研究会」を創設した。
* 日本ペンクラブ言論表現委員会で「盗聴法反対」を討議していたときも、再々口をはさんで、電子メディアでの盗聴、ひいてはサイバーポリスの現実に立ち上がりつつある脅威に対しても、せめて予防的に声明に書き加えたいと発言したものだが、言論表現委員会(猪瀬直樹委員長)ほ
ど先端で活躍している委員達でも、まだまだ電子メディアには冷淡で、話題は脇へ脇へ避けられていった。日本でも三沢基地内に一根拠を置いている米軍の世界
的盗聴機構「エシュロン」のことも、わずかに猪瀬君が関心を持ち始めていただけで、誰もまだ知らなかった。だが、電話での盗聴に限度のあること、しかしイ
ンターネットを逆用した電子通信盗聴があらいざらい徹底的に可能であること、どれほど厖大な量であろうと容易に検索をかけうること、その影響が産業にも政
治にも科学にも甚大に影響するぐらいは、このドンなわたしにも見通しは付くことであった。日本ペンクラブに「電子メディア研究会」を委員会として提案し立
ち上げたときから、わたしの「パソコン」遊びかのように冷ややかに揶揄的にみていた人は少なくなかったらしいが、時代の読めない人たちであったと言うしか
ない。
コンピュータは、文筆創作者には「表現」の場と方法に影響してくるし、言語文化財の保存にも関わってくる。しかし、ペンの関心からいえば、それにも増し
て、平和や人権を根底から脅かしたり、またそれに貢献し得たり、広大なちからで、影響してくる。サイバーポリスが、旧内務省や憲兵隊と同じか遙かに強大な
力をもって国民の権利を狭め抑え奪って来るであろう事は、もうすでに着々と法制化がすすんでいるのだ、具体的に。さらには、大規模なハッキングによるセ
キュリティー破壊のサイバーテロが、人類の安寧を破滅的に脅かしうることも、映画やSFの絵空事で
なく、現実の懼れとなってきている。機械のことなどいともいとも暗いわたしが、笑止なことに電メ研の委員長になっているのは、そういう時代の読みでは、少
しでも目が奥へ向こうへ走っていると自覚しているからであり、こういう目が、日本ペンから欠けて落ちてしまうのは危険だと思うからだ。文字コード程度のこ
とは、おいおいに前へ進んでゆくが、人権への脅威には闘わねばならない。
心底、もっと若い人に、この場を、適切に手渡したいと思う。だが、若い人には目の前に現実の仕事があり、それ自体が道半ばもいいところなので、気の毒で無理が言いかけられない。やれやれ、仕方ないかと冷や汗を流している。
2001 8・29 10
この電子メディア研究会は、真剣な議論もないままに 阿刀田ペンクラブ会長になってから廃止されてしまった。
*
なによりも時代が変わり環境が変わっている。ペンの仲間達が「環境環境」と鬼の首を取ったように騒いでいた「環境」は、わたしがいつも指摘して嗤ってい
たように、自然環境の一点張りだった。そうではない、人間の環境には自然だけでなく、今日は「機械環境」が猛烈に力を持っていて、それが人間精神を傷つけ
また無感覚化してしまう、その怖さを認識しなくてどうして「文学」が対応できるかと。わたしが、「電子メディア委員会」を世界のペンに先駆けて提案し実現
した根の深い理解はそれであったが、今期理事会や阿刀田執行部は理解できず、安易に言論表現委員会に吸収させ、潰してしまった。「言論表現」の問題は余り
に広大、しかし「電子メディアが引き起こしてくる問題」は具体的にそれ以上にますます広大になる。両輪両翼で対応しなければ追いつかないのに。
2011 3・6 114
サイバーテロもサイバーポリスも、紙の本のことしか考えられない現在の文筆団体には無縁のことらしい。将来歴史は秦恒平の危機感の正しさを認め、それに目を向けられなかった日本ペンクラブのお気楽な作家たちを嗤うのだろう。
以上総括して、秦恒平は「遅れてきた文豪」であり「早すぎる天才」として、その作品が評価の対象ともされていない現在の日本の異様な状況に生きている。
このままでよいのか、もちろん、不当で不幸な状況は変えなくてはならない。秦恒平に正統な評価を与え、国民文学の財産としてその作品を加えなければならない。一刻も早くそうしなければならない。
なぜなら、秦恒平の復権がなければ、日本の美の伝統がまた一つ消えてしまう。私のこの考えを、贔屓の引き倒しと笑われるであろうか。少なくとも岡部教授は賛同してくださるのではなかろうか。
しかしながら、「遅れたきた文豪、早すぎる天才」である秦恒平を取り巻く状況は今後益々厳しくなるだろう。秦恒平だけではなく、日本文学の未来について、藝術の未来について、楽観できる要素が今の日本には一つもないのだ。
八、日本文学にたちこめる暗雲
今の日本では、目に見えないところで現在進行形で亡びていく日本の美が色々ある。所謂伝統工芸、伝統芸能世界のものは、国あるいは多くの教養ある市民の庇
護がなければ今後生き延びることはできないが、ものの見えている人間は大抵お金がないし、国には文化を守るためにお金を出す哲学も政治もない。最近では、
大阪府が世界に誇る文楽の助成金をカットするという愚劣な暴挙に出た。橋下市長を見ていると、自分の理解できない藝術文化を憎んで亡ぼしたいと願っている
としか思えない。
2015年に九十六歳で亡くなったヘルムート・シュミット元西独首相は「わが国では藝術文化が存分に開花できるようにしなくてはいけない」と語っていた。
こういう指導者をもてない彼我の差を思うと私は涙がでる。そもそも日本の政治家で文化が大切と考えていたのは、せいぜい石橋湛山くらいだろう。平成に入っ
てからの歴代内閣の顔ぶれを思い出してもため息しかでない。これ以上は堕ちることができないくらいの現在の惨状は言うべき言葉もない。彼らは金儲けしかわ
からない。そしてこのような政治家を選んできた国民の責任を痛感せずにはいられない。
この秦恒平論を最初に着物の話からはじめたのには理由がある。着物と純文学の運命は分野は違えどもじつはよく似ているのだ。市場原理の中で、もはやこの日
本の美は二つともに生き残れそうにない。市場原理に突き動かされた社会は色々な分野で頂上を棄てることになる。美は提供するにも享受するにも時間と労力と
お金がかかるから、金儲けにならない。消費者がすぐに飽きて新しいものを数多く買い続ける循環こそ、市場経済の目指すところだった。
頂点の着物、つまり留袖、訪問着などの礼装としての格の高い、美しい上等の着物製作の消滅はもう免れないところまできた。少し昔の、祖母から孫まで大切に
受け継がれた正統派の良質な着物制作はもう余命を予測できる段階まできている。カウントダウンが始まってしまった。今後は安物のゴミ着物だけが使い捨ての
洋服のように生き残る。晴れ着などの中国製のシルクスクリーンによる安物が高値で流通するにすぎない。近い将来、日本は着物もどきしか制作できなくなるだ
ろう。上物の絹織物の産地はすでに壊滅している。友禅や西陣は何十もの分業で成立していて、そのどれか一つ欠けても着物や帯はつくれなくなる。蒸しとか糊
とか箔とか刺繍とかさまざまな工程に不可欠なある店が職人の高齢化で店を閉じれば万事休す。どこもかしこも高齢の職人ばかりで後継者がいないので、もって
あと数年といわれている。西陣の帯を織るための機械を製造する工場すら消えたのだ。機械の寿命が尽き、職人も消えたら世界最高の織物制作の西陣はその高度
で複雑な技術ゆえに二度と復活できない。
母親世代や祖母世代の極上の着物や帯や素材がまだ大量に残っているから、大半の日本人はこの惨状に気づいていない。あと五十年後には、私たちが知っている
ほんものの、美しい着物や帯は博物館でしか観られなくなる。極上の着物や、輪島塗や高級家具のように世代を超えて長生きするものは、すべからく売れにくく
目先の利益にならない。日本人は世界有数の美しい服飾文化を、日本人が世界に出て勝負に勝てる唯一の民族衣装を棄てた。
なぜ着物が廃れたのか。消費者が激減したからである。最盛期の5%も生産がない。驚くほど単純な理由だ。昭和の時代は式典で晴れ着としての着物着用が当たり前であったが、今は天皇陛下主催の園遊会や叙勲の場でも平気でレンタルの着物を着る時代である。
着物は洋服に比べ手間がかかる。安いものではないから、長く着続けるために丁寧な手入れが欠かせない。着る前には半襟をつけたりしつけをとったりする必要
があるし、脱いだあとにも風通しなど手入れがかかせない。洋服は数分で着られるが着物を着て帯を結ぶのには、馴れている人間でも十五分くらいはかかる。洋
服は流行を追っていればそれなりの着姿になるが、着物はどんな佳い着物を買っても、上手に着付けて自分の良さを生かさないと美しい着姿にならない。その
上、着物には自分で着つけることを前提としていない振袖や丸帯のような、他人の手を借りて最高の礼装を身にまとうという文化もあった。楽しむには相応の出
費も努力も必要になる。
純文学と読み物の関係も着物と洋服の関係に似ている。
読み物は流行の作を最初から最後まで筋をおっていけば楽しめるが一度読めばそれでおしまい。しかし、純文学を楽しむには自助努力が必要だ。読者は辞書をひ
いたり、作品の背景を調べたりしながら、何度も丁寧に読み込み考えなければならない。難しくて退屈する部分も忍耐をもって読む必要がある。しかし何十年
経っても読みつくせず読み飽きない。。読むほどに新鮮な読み方、考え方の発見があるのが純文学だ。
着物も純文学もレールに乗っていれば終点につれていってくれるようなものではなく、どちらも自分の力が厳しく試される。らくで便利なもの、すぐに楽しめるものばかりを求めるのが世の中の大勢になったとき、真実美しいものから先に亡びていく。
純文学においてもまだ谷崎純一郎でも志賀直哉でもたくさんの本物があるから、日本文学の行く末も安泰だと人々が錯覚しているにすぎない。岡田教授が危惧し
たように、秦恒平がいなくなったら彼を継承する純文学作家はどこにいるだろう。気づいたら、日本から藝術としての国民文学が消えていはしまいか。
最近私が読んだ本の中でもっとも衝撃を受けたのは水村美苗の『日本語が亡びるとき』である。これは日本人必読の警鐘の一冊である。出版当時も世評高く小林
秀雄賞もとっているのでご存じの方も多いはずだ。この本の訴える日本語の危機は2011年3月11日の大震災と原発事故後さらに猛然たる勢いで加速して
いっている。
水村美苗のこの大冊を簡単にうまく説明する方法はないかとずっと考えていて、良い例を思いついた。たまたま、BSでメジャーリーグの野球が放送されていたのである。
野茂選手が初めてメジャーリーグに選手として登場する以前に、日本人にとっての野球観戦は国内の巨人阪神戦などしかなかった。メジャーリーグの試合は、野
茂以前はテレビ放映もなかったのではないか。それが現在は当たり前のように日本人選手の出る試合の放映が行われている。
今後日本の野球界にイチローのような天才的な選手が出てきて、その選手ははたして選手生活を日本のプロ野球界だけで過ごしたいと思うだろうか。優れた選手
であればあるほど、必ずメジャーリーグに挑戦するであろう。以前秦恒平が私語の刻のなかでも書いていたが、日本のプロ野球は、メジャーリーグの二軍化して
いる状態だ。
水村美苗が『日本語の亡びるとき』で訴えていることは、非常に乱暴な要約をするとこの状態のことだ。水村美苗はこの本で一度としてメジャーリーグに言及しているわけではないが、日本語においても、このままいくと日本のプロ野球界のようなことが起きると警告している。
水村の言う日本語が亡びるというのは、日本語を話す人間がいなくなる意味ではない。現在日本のプロ野球はなくなってはいないが、エースが抜けて空洞化し人気は衰退している。国民はかつての巨人戦を観るようにメジャーリーグにチャンネルをまわしている。
やがて日本のプロ野球は優秀な選手をメジャーリーグに提供する工場の役目しかなさなくなる。野球そのものもかつての熱狂的な国民スポーツの座から滑り落ち
る日が近い。同じように、日本語が植民地の現地語、英語の二軍の言葉としての役割しかもたなくなり、叡知を求める人間の使う言語でなくなる事態になれば、
日本語が日本人の思想を創る言葉でなくなれば、これが水村の言う「日本語が亡びる」ことになる。
インターネットの普及は、英語の世界共通語としての地位を不動のものとし、その傾向は益々加速している。すでに今世界の学問の言葉は英語になっている。プ
ライドの高いフランス人だろうと、ドイツ人だろうと、論文は英語、会議も英語である。つまり叡知を求める人間のアクセスする学問の言語は英語であり、商売
の言葉も英語であり、「英語の世紀」が到来している。
学問の場合は、英語によって学問的真理が変わるわけではないから、これでもなんとかなる。しかし、文学の場合は、その言語でしか表現し得ない真理がある。他の言語に決して置きかえることはできない表現がある。
英語化していく世界のなかで、日本がこのまま無為無策であれば、日本のなかの叡知を求める人間はいずれ英語にアクセスするようになり、日本語は読まれるべ
き価値ある言語ではなくなる。その時に夏目漱石のような天才が日本に生まれていたら、もはや日本語でものを書こうとは思わないだろう。英語で書くだろう。
ラテン語の運命を考えてみればいい。
つまり、このままいけば日本人は日本語によって書かれた日本文学の至宝である過去の古典にアクセスしないし、いずれできなくなる。国民に読まれなくなった国民文学は消滅するしかない。この流れが止めようもなくなった時、日本語が真実亡びるのだ。
日本語を滅亡から救うための方法として、水村美苗は二つあげている。まず世界相手にタフな交渉のできる高度な英語のエリートを育てること。もともと英語を
ものに出来る能力のある人間はたくさんはいない。だから、英語エリートの養成こそ国益に叶う。しかし、見識のない文科省はそれと正反対のことをしている。
英語エリートは少しも育てられず(国会議員や官僚の英語力をみればわかる)日本人全員に、猫も杓子も英語教育を施そうとしている。その結果、国民が商売や
観光に使う片言程度の英語を理解するようになって、そこにどんな国益があるのだろう。
水村の力説する第二の主張は、国民にきちんと日本語の教育をすることだ。日本語が日本人にとって読まれるべき価値ある言語であり続けることでのみ、日本語は亡びることから救われる。それだけが日本の国民文学が国民文学として存在し続けることを守る道である。
私は、イェール大学で学びプリンストン大学で教鞭をとっていた水村美苗の、この一冊の訴える危機感の凄まじさに非常に衝撃を受けた。読み終えてため息しかなかった。
日本語が亡びるとき、たぶん私の愛した歴史上の静かなたたずまいの日本人たちも、芭蕉も蕪村の世界も、輝かしい文豪たちもすべて亡びてゆくのだ。そしてこれは急速なグローバリズムの中、現実の可能性になっている。
歴史の潮目は大きく変わろうとしている。グローバリズムという世界の潮流は、その副産物として各国の文化の多様性を破壊する。グローバリズムについては、
よく1パーセントの冨と権力が99パーセントを支配すると言われるが、これは1パーセントの支配的人間の文化に99パーセントの人間があわせるように強制
するということでもあろう。英語で有能な仕事のできない人間は、奴隷的な下積みの仕事に甘んじて死になさい、極言すればこういうことだ。力のある英語圏、
表音文字の白人の文化以外は、世界からなくなってかまわないという文化的圧政に向かっている。
おめでたいことに、日本の支配層は自ら率先してジャパンハンドラーズと呼ばれるこの勢力に阿り、日本人がゆくゆくは彼らの栄養不良のブロイラーになるため
に動いている。日本の文化が崩壊しても、日本語が亡びても、金勘定しか関心のない彼らは何ら痛痒を感じないのだ。彼らを亡国の輩と呼ばずして何と呼んだら
いいだろう。
なにが誇れる日本であるか。政治でも経済でも軍備でもない。文物と技術と自然と歴史が築いてきた、またこの先も築いて行ける文化力を願うのが、ひ弱そうでも本格の本道のように思われて成らない。
2014 4・20 150
秦恒平のような、水村美苗のような一部知識人の深刻な憂慮がこの国の権力支配層の心に響くことはない。そして、存亡の危機にたつ日本語に止めを刺すかもしれないニュースが飛び込んできた。
文部科学省が国立大学に対し、人文社会系と教員養成系の組織の廃止を通知したと、知ったとき、私は息をのんだ。言うことをきかないとお金を渡さないという
恫喝つきのこの通告にぞっとする。大変なことが始まってしまう。これは安倍政権による「焚書坑儒」にほかならない。「焚書坑儒」という言葉は私だけの思い
つきではなく、ネットの中の批判にも溢れかえっている。今後、この文科省の通達が実施されれば、国立大学に保有されている膨大な書物、資料、論文、古文書
等が死蔵=焚書されることになり、文系の大学教授、研究者らが失職する=坑儒。
広く知られたことだが、進学塾で成績の良くない生徒の成績をあげたい場合、まず国語を集中的に強化する。国語の成績が上がることによって他の学科の成績も
上がるからだ。国語の力がなければ、それが数学にしろ物理にしろ英語にしろ設問そのものが正しく理解できない。このことから考えても人文系学部を軽視する
ことは、大学生のみならず、日本人の知的劣化、国力の低下を招くだろう。科学とはどれだけ価値ある設問が考えられるかに左右されることを文科省は知らない
のだろうか。
人文系の学問は哲学や歴史や心理等々奥深く幅広くあるが、こと文学に限ったことだけでも、今後恐るべき事態になろう。源氏物語や古今和歌集や徒然草や上田
秋成や谷崎潤一郎など自国の優れた文学を、国のお金で研究する必要はないという判断を、どこの誰が、いったいどんな権利があってしたのだろう。たかだか平
成に何十年間生きているだけの人間たちが日本の過去と未来を破壊する権利があるのか。国民の知力を貶めるこの発狂したような発想はどこからきたのか。映画
もテレビも歌舞伎も文楽も台本があるし、歌には歌詞という詩がある。文学で世の中は満ち溢れている。世界は半導体や発光ダイオードだけで出来ているわけで
はない。
人文系の学問は人間生活の土台である。何より、日本語が叡智を求める人間のアクセスする言語であり続けるための絶対的な基盤である。人文系は不採算だから
ら切り捨てとは、なんとなんと凄まじい亡国の決定かと、私は、しばし天を仰ぎため息をついた。この政策は、確実に日本語滅亡への速度を速めるものだ。
広義の文学に関わるメディアが、どうして一丸となって速攻で猛然と反対しないのかと、私は地団太踏んでいる。これは知識人を淘汰する言論封殺ではないか。
十年後には自分たちの言論の息の根がとめられることである。大半のメディアはすでに市場原理にのみこまれてしまっているのか。
最近になってようやく遅きに失したような批判記事が散発的に掲載されはじめている。遅いとは思うが、ないよりましだ。
現在頑張っている数少ないメディアの一つ、東京新聞(2015 6/25)の特集の見出しは「国立大人文社会系『改廃』強要」「大学の権力批判封じ込め目的か」と打ち出している。
その記事の中で一橋大大学院鵜飼哲教授(フランス思想)は「権力の横暴に抗する研究者に人文社会系が多いという事実一つ取っても、この領域の学問は権威や
権力を批判する思考の源といえる。そうした力が衰退した後に待っているのは、批判精神を失った人びとを組み敷く独裁権力の台頭だ」と述べている。また京都
大大学院岡真理教授(アラブ文学)は「人文系の教養は人間を人間たらしめている『知』の根源だが、政府の行いは『知』の否定。文化財を破壊している『イス
ラム国』の愚挙にも等しいと憤った」とある。
政権寄りとされる日経新聞でさえ、立花隆の言葉「すでに教養部門が弱体化しているところに、さらに大学でカバーされる学問分野が近視眼的な実学分野ばかり
になってしまったら、日本人の教養レベルはガタガタになってしまいます」を引用しながら、「問いや疑い、広い教養を見失った学問ほど悲しいものはない」と
文科省通知に批判的だ。
「政府が確保すべく奔走しているのは、政府を指導する知識人ではなく、政府の下僕となってはたらく知識人である」とはエドワード・サイードの言葉だが、今
回の国立大学文系廃止せよという政治介入は、あからさまな文系知識人排斥政策の一つであろう。政府は下僕的知識人として理系技術者だけ必要なのだ。政府に
物申す文系の学者、学生は要らないと宣言したようなものだ。
私のような大学行政の門外漢が考えても、これは毛沢東の文化大革命なみの、日本文化への最大級の破壊行為ではなかろうか。あるいはスターリンがカチンの森
でポーランドの将校たちを大量殺戮したのと同じ目的、支配するのに邪魔な知識人を一掃する以外の何の目的があるというのだろう。血の臭いのかわりに、経
済、つまりカネの腐臭漂う、新しいかたちの文化の大弾圧である。
国立大学で文系学部を廃止した場合、水村美苗のいう英語エリート層などは金輪際育たない。シェークスピアの科白も知らない無教養な人間が、英語圏でまとも
な交渉相手として認知されるだろうか。英語力とは単に英語を使いこなす技能ではない。通訳能力だけではない。言葉の背景にある英語の思想を理解し、その上
で英語で思考する相手の魂にまで届く言葉で話さなければならない。つまり英語文化の根底まで届く、達成困難な言語能力のことだ。それはTOEICの点数だ
けで計れるものではない。さらに英語エリートは、日本の立場を正しく主張するために日本語への深い理解がなければならない。つまるところ、英語力とは日本
語力のことでもある。人間はどんなに努力しても母国語以上の語学力はもてない。日本の古典を読みこなす能力がなければ、当然英語力も浅いものになる。肝心
なのは真の意味の知性である。人文系の教養のない人間は世界のどこにいこうと尊重されることはない。金儲けだけの人間や自分の専門分野だけの人間は、バカ
にされ信用されない。
日本は現在でも英語で対等に交渉できる人材が少ないのに、今後この措置で英語でのあらゆる交渉が益々稚拙に敗北するだろう。私立大学だけでこの希少なエ
リート層の養成はとても間に合わない。日本はあらゆる対外交渉で負け続けるたびに毎回戦争でもするつもりだろうか。理屈じゃ勝てないから腕力に訴えること
が許されるのはカタコトがもどかしい幼児くらいのものだ。そもそも文系知識人がいなくて戦争に勝つ国があるはずもない。 私は何も特殊な主張をしているの
ではない。まともな日本人として、大人としての意見を述べている。ちなみにネットで拾った一般人のツィッターなどでもこんなふうに書かれていた。
今
夜の主人はいいことを言った。「結果の出ること、お金のことしか興味がないという人々ばかりだから、日本がおかしくなってきた。人文分野をバカにしてはら
ない。文学を読んで他者の気持ちを想像できることを知性と呼ぶんじゃないのか?」と、ごちゃごちゃ居間で怒っていた。いい人かも。
この件についてもう一つ、ネットに掲載されていた村田哲志署名入り記事の一部を少し長いが抜粋する。(このような記事が全国紙に載せられないこと自体、現在の日本の新聞雑誌含めた出版システムの異常さと、言論の自由が失われていることの証明かもしれない)
大学進学率が50%を超え、真理の探究にとりくむ象牙の塔という大学のイメージはすでに過去のものとなった。今や大学は、そのあたりの民間企業も真っ青な、徹底した経済の論理による支配が強まっている。
しかし、まさかここまで、と関係者を震撼させたのが、最近、文部科学省が国立大学に示した方針だ。この問題を伝えた数少ない報道である『東京新聞』9月2日付朝刊の「国立大から文系消える?文科省が改革案を通達」と題された記事ではこう紹介されている。
(中略)
文科省の露骨な指示によって、すでに国立大学での教員養成系、文系の廃止は着実にすすめられているのだ。
福井県でも、県下でたった2つしかない人文社会科学系のひとつである福井大学地域科学課程の廃止が決定し地元に波紋を広げていると福井新聞が8月6日に伝えているところからも、事態が相当進展していることは間違いない。
「国立大学」は2004年に設置形態が変更され、国立大学法人という独立行政法人となった。文科省のHPなどには、大学の自主性を高め柔軟な教育研究をすすめるためと謳われているが、国からの運営費に頼らざるを得ない財政構造になっていることから、結局、国すなわち時の政府の方針に逆らうことができないのが実際だ。
こうした、大学に市場原理が導入されカネをうまない学問を切り捨てていく流れが、いっそう加速しているのには、もちろんあの男の登場が背景にある。
あの男、安倍首相は5月6日のOECD閣僚理事会基調演説でこう語っている。
「だからこそ、私は、教育改革を進めています。学術研究を深めるのではなく、もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育を行う。そうした新たな枠組みを、高等教育に取り込みたいと考えています。」
安倍にとって「学術研究を深める」ことなどまったく無意味で、社会のニーズにあった職業に就けるための教育こそが必要だと考えられている。ほとんど大学教
育そのもの否定である。大学の専門学校化といってもいい。象徴的にいえば、文学部の存在意義など見い出しようのない教育観、学問観である。
「人
間とは何か」「社会はどうあるべきか」そしてそもそも「学問とは何か」を問い、先人の知的蓄積を継承し、未来を構想する知的活動を「教養」と呼ぶことにし
てみよう。こうした教養を欠いたままで、科学技術の発展を追求することがどういう結果を招くのか。つい最近、この社会はそれを見てしまったのではなかった
のか。
吉田昌郎所長が東日本壊滅の状況を想起せざるを得なかった3.11福島原発事故の惨事こそ、短期的な経済の論理だけに追随し、人類史や文明史のなかに科学技術を位置づけることができなかった、大学の貧困、学問の貧困が将来した結末なのだ。
また、経済の論理に支配される日本の科学界の惨憺たる研究環境を露呈したのがSTAP論文騒動だ。小保方晴子氏は、学問や研究の何たるかについての見識を深める契機も与えられずに5年任期の研究員ポジションにつき、任期内に結果が出せなければ地位を失うギリギリの状態に置かれていた。一方、笹井芳樹氏の死亡をめぐる報道のなかで、企業の出資により総工費40億円近い「笹井城」とも呼ばれる研究施設の建設が進んでいることが伝えられた。産官で莫大な投資を行い、短期的に回収できる成果をあげる仕組みをつくり、研究者を追い回しているのが、科学界の実状なのだ。
哲学者カントは『学部の争い』(1798年)で大学論を展開した。大学部の学部には、神学部、法学部、医学部上級学部とその基礎をなす哲学部に分類される。上級学部は社会的有用性を持ち国家と結びついているが、国家から自由な哲学部こそが学問の真理性を判断することができると述べている。
時の政権の意志と経済的利害だけで大学が統制され、とりわけ人文社会科学という人間や社会のあり方を考察する学問がないがしろにすることは、知的営為そのものの否定である。
「大学改革」の名の下に進行する文化破壊と知的荒廃の様をもっと多くのひとびとが知る必要があるだろう。
(村田哲志)
私は文科省のこの方針を知った時点で、次に国が「採算」という名目で標的にするのは国公立図書館ではないかと予想した。人文系学部が国立大学に不要と考え
る集団は、「知性」そのものを憎悪の対象とすると考えてよいからだ。独裁支配に一番邪魔な知識人をつくらないためには、知の拠点の大学や図書館の解体が一
番効果的であろう。
そんなことを考えていたら、それはもう現実に起きていた。
佐賀県武雄市から委託をうけて、武雄市図書館がツタヤの運営になったのである。早い話図書館の民営化である。ツタヤの売れ残りと推察される資料価値の低
い、ダイエット関連などのごみ本ばかりが購入され、めちゃくちゃな蔵書処分、たとえばこの地域の貴重な郷土資料などが廃棄された。「14年4月のリニューアル時には、貴重な佐賀県の郷土文化誌などの合計8,760点を除籍、廃棄処分した」とされている。これは図書館の存在意味を根底から否定する悪意の廃棄といってもよい。こんなの図書館じゃないとまともな利用者からの批判が噴出するのは当たり前である。
私は不明であったが、現在、全国にある約3200の図書館のうち、武雄市のように民間企業に運営を委託している図書館は約1割で、紀伊国屋書店や丸善といった大手企業も参入しているそうだ。今後この民間企業による図書館の運営はどんどん増えていくだろう。
民間の運営になるということは、文化より採算重視になるということである。それは現在の出版業界と同じことがそのまま図書館にも起きるということに他なら
ない。本の文化的価値に無関心な企業は稀少な書物を廃棄し、自分たちの在庫処理のはけ口としてごみ本を増やす。図書館行政に詳しい慶応大学教授片山善博氏
は「最も重要なのは地域の知の拠点として長期的かつ安定的に資料を貯蔵する機能。そして必要な時に、必要な人がスムーズに情報にアクセスできること」と述
べている。図書館はある研究者にとっては絶対必要な資料を探しにいく場所、市民が手に入りにくい過去の名著を求める場所でもあったが、そういった文化財の
保存継承の場としての図書館は、たぶん消えていく方向にある。この国の公文書の取り扱いのお粗末さをみても、後世に真実を遺す意志の薄弱なことは明らかだ
し、何しろ人文系の研究者をばっさりいらないとする恐るべき国なのだ。何が起きてもふしぎではない。
叡智を求める人間のアクセスする図書館に市場原理をもちこんで破壊し、知識人の再生産を防ぐ。私はクメール・ルージュも思い出した。邪悪な勢力のすること
は世界どこでも基本的には変わらない。そして知識人を一層してしまった国家は、平たく言えば愚者の支配下にあるからやがて他国に亡ぼされて、立ち直るのに
途方もなく時間がかかる。それでも立ち直れればよいが、そのまま言語と共に亡びていく可能性のほうが高い。文化、知性の分野を解体するのが、さらには言語
を奪うことが国と民族を壊滅させるための迅速確実な方法である。日本が第二次大戦のあの焦土から、平和の中で奇跡の復興を遂げることができたのは、戦火を
生き延びた戦前に教育を受けた知識人がいてくれたお蔭である。
人間のもっとも高度な知性を否定して、日本民族に未来などない。文化のない国に世界が敬意をはらうだろうか。この国はアングロサクソンに征服されたネイ
ティブ・アメリカンの運命をたどるのだろうか。このままでは日本語は水村美苗の警告する何倍も早いスピードで亡びの道に突入していく。私は日本語が亡びて
いく終わりの始まりに立ち会っているのかもしれない。
私は抑えがたい憤りに打ち震えている。心底絶望している。私の愛した文学者たちとお別れするくらいなら、「見るべきほどのことは見つ」と言う事態になる前に、この世とさよならできることを祈っている。
しかし、当然のことだけれど、ここで諦めたらほんものの終わりになってしまう。無力な凡人だから、文学の素人だからと諦めたら今すぐに私の人生は生きるに値しないものになる。この絶望を私の出発点にしなければならないと思っている。
九、それでも立ち向かう
小谷野敦は2015年ツィッターでこのように書いていた。「もう純文学は商業的には成立しないという前提に立ち返るべきだろう。純文学小説を書きたい者
は、かつて同人誌に作品を発表したように、ウェブサイト上に発表すればよく、批評家がそれを見つけて批評すればいいと私は思っている」
小谷野氏のこの発言のように純文学が商売として成り立たない時代がきていることは明らかで、この流れをとめることは困難だろう。しかし、小谷野氏のこの提案に全面的に賛同してはならないと私は思う。
たしかに多くの読者の目に触れるという意味で、純文学をウェブサイト上に発表することは良いことだ。少なくとも佳い作品が消えるという最悪の事態は避けら
れるかもしれない。劣化する紙の本を半永久的に保存する最善の方法でもある。しかし、商業的に成り立たない純文学こそ紙の本としても出版され続け、読者の
書棚や図書館に収蔵されるべきである。
詩や短歌など短いものはスクリーン上で読みやすいが、純文学のように行きつ戻りつ、辞書ひきながら、線をひきながら、何度も繰返し読むものは紙の本でなく
ては読みにくい。まして源氏物語のような大長編を読むとしたら、ブルーライトで目が傷んでしまうだろう。プリントアウトするとしても、長編ではそれも大仕
事になる。小谷野氏は紙の本に頼らずウェブサイトの読書だけで評論を書けるのであろうか。そのような手法で文藝評論を書けるとは信じられない。
ほんものの文藝作品はゴミにはならない国民の貴重な文化財だ。むしろ、読み物のほうを娯楽としてウェブサイト主体で電子出版すべきではないか。何度も書いてきたが、現在の出版業界は本末転倒しているのだ。
私は日本の出版社に本来の純文学出版のための仕事を捨てないで欲しいし、倒産してほしくない。世界に唯一の言語、日本語も、日本人も命永かれと心から願う。
私の好きな秦恒平の俳句の中に「寒ければ寒いといつて立ち向かふ」がある。私は自分があえて「もの申す」読者になることで寒くても立ち向かおうと思った。
私はただの読者でしかない。素人がこんな大それた秦恒平論を書いて世間の物笑いでしかないことも承知している。しかし、今、一人一人の読者が立ち上がること以外に、他にどんな方法があろう。
次の秦恒平の一文にもはっきり読者の責任が書かれている。
「選集」を始めて、いまのところ、読むのもイヤなと思う自作に、幸い出くわしていない。まるで誰かが書いてくれていてそれをこころよく面白く打ちこんで読
んでいる、満たされているという心地でいる。自己満足と人は嗤うだろうが、どうぞ御勝手にと。わらわれるのには慣れている。書けるなら書いてご覧なさいと
思っている。
作は作。その「作」に「作品」が備わっているかどうか、わたしが気に掛けてきた最高至難の課題は、ソレだった。「作品」の備わらないシロモノを平気で作品
作品と自称し他称しているから、文学は根から崩れてきた。お上品にという意味では決して無い。「作品」を「作」に備えてなくて文豪と呼ばれたような人はい
ないのだ。材料としては下品に属するものを観て扱って、しかも立派な「作品」の豊かさ美しさは紛れもないという「作」の書ける人。藝術家と謂うに値するの
作家とは、そういう作家のことだ。
* そういう作家が余りに少ない。その責任は「書き手」にだけあるのか。
ちがうだろう。
本や雑誌に触れる一人一人の例外ない「あなた」に「責任」がある。それを一人一人の「みな」が忘れて、グウ(感性・良い趣味)もエスプリ(知性)も棄て果てている。文学の質は、当然崩れてきている。
エンゲル係数などというのに倣って、熟さないが物言いだが「文学係数」と謂ってみようか、「読み本」に触れる(=関わる)一万人のうち、今日の文学係数(いい文学と作品を愛し理解し希望し続ける、いわばいい人の数)は、限りなく一万人中の「ゼロ」に近い。
古事記や万葉集の時代は、また土佐・伊勢・源氏や和歌集の時代には、それがよほど低めにみても七千人を上回っていて、時代を経るにつれて低減の一途を辿った。
けれども、露伴・鴎外・藤村・漱石・一葉らの時代にはまだ二千人近く、鏡花・秋声・荷風のころでも千人に近く、直哉・潤一郎・芥川の時代でも、三百人近くはあったろう。
しかしそれ以後は読み物や週刊誌やマンガ・劇画やテレビの安物ドラマなどの、また優れて佳い映画を含めての影響下に、文学係数は一万分の一をもぐんと下回
り、「文学」はほぼ有りそで無いに等しい今日を「絶息に近く」過ごしている、そして、その現実から目を背けて低俗をいとわず持ち上げて満足しているのだ。
わたしは、優れた映画を観、面白い歌舞伎や演劇を愛好しているが、この二、三十年「文学作品」にはどうお目に掛かりたくても、ほとんどお目にも掛かれないのだから、どうしようもない。
わたしは太宰治という「人」には近寄らないが、太宰治という作家は敬愛している。なぜなら、彼太宰治は、あのように人生を乱暴に小心に終えたけれど、作家
としては「文学」を守り抜き、くだらない読み物は決して書かなかった。「伝説」になり得たほどの文学作品を幾つも遺して逝った。周囲の出版者、編集者、批
評家、また読者らの質を貶めるような仕事はしなかった。
そういう作者こそが「必要」なのではないか。この機械的に堕落しきった低級現代にあって、せめて一万人に一人ぐらいは満たされて「文学」に志し深く関われるそういう日本現代文学でありたいものだ。
2014 9・20 155
この「反文化的悪化」の危機的状況を招いたのは読者である。この私にも責任があったのだ。だからこそ惨状に気づいた読者は色々な方法を模索しながら改善に
向けて闘うしかない。文学において、今何が出来るだろう。私が考えるのは、一刻も早く日本に再び、ほんものの読書社会を再構築しなければならないというこ
とだ。国民の「文学係数」を少しでも上げて行くことだ。次世代の若者が「消費者」ではなく「読者」の顔をもつことが何より必要なのだ。未来は「読者」に委
ねられている。本は誰のものかという原点に立ち返る時がきた。これからの時代を出版社と消費者ではなく、ほんものの「書き手」と「読み手」主導の時代とし
なければ、日本も日本語も紙の本も亡びてしまう。
取返しのつかないことになる前に、私の世代のほんものの読者を復活させ、未来のほんものの読者を育てなければいけない。私たち読者は、読まれる価値ある文学を、大量の駄本の中から救いださなければならない。
私は猛烈な読者でありたい。
これは勝目があるかどうかの問題ではない。ただ一人の蟷螂の斧であろうと、振り上げなければいけないのだ。私はもちろんのこと、殆どの人間は大したことは
できないかもしれない。しかし、小田実は『終らない旅』で書いていた。権力をもつ「大きな人間」は権力のない「小さな人間」を使わないと戦争ができない。
だから、「小さな人間」には力がある、その力を信じなければいけないと。
たった一人でもすべきことをする。その個人としての矜持と勇気を私は失いたくない。これは私だけの問題ではなく、突き詰めていけば、未来ある子どもたちを他言語の支配下にあえぐ奴隷にしないという日本人一人一人の愛と覚悟の問題だ。
一人の人間が心から訴える言葉は、必ず世界のどこかに真摯に聴いてくれる一人がいる。その一人から二人への輪がいつか大きな輪になる日がくるという希望を
創る必要がある。絶望にひたっている暇はない。カロッサの「蛇の口から光を奪え」という言葉を今こそ信じなければと思う。
日本語と日本文化が命脈を保っている限り日本は生き続ける。「円」などで生き延びられるはずがない。まして軍事力などで日本は守れない。もし日本語が亡び
たら、今度こそ日本に復活はない。日本人は現在のこの理不尽な日本文化殲滅の道に断固抵抗しなければならない。それは世界のためでもある。日本語が失われ
れば、世界のどの言語でも代替できない日本語にしかない叡知は世界から消えてしまう。これほどの損失があろうか。(現在世界の六千とも七千とも言われる言
語のうち半分は絶滅の危機にある)
だから出版社に「読む価値のある」高貴な領域の書籍を出版してほしいと、私は言い続ける。本は単なる商品なのか。本が商品であるとしてもそれは結果であ
り、商品であることを越えた崇高な目的があるのが書物ではないか。もしそうでないとしたら、いずれまともな読者も国を支える知識人も日本語も国民文学も亡
びる。母親は金儲けのために子どもを産むのではない。
売れる本を書くプロ作家も一つの職業の在り方だし、彼らの優れた才能もわかっているけれど、「今をときめく」彼らの死後に古典として遺る作品がはたして何
冊あるだろうか。大半の作家は死んだら終わりだ。金儲けのために本を出す側面があるのはしかたないにしろ、それは出版の本道を支えるための手段であるはず
だ。出版社の本来の使命は、次世代に引き継いでいく「死なない作品」を、母親のように生み育てることだろう。
近頃は売れる本を出すために、多くの作家が編集者にあらかじめいくつもプロットを提出し、それが売れそうと判断された場合のみ書き始めるという話も聞く。
これはそもそも「書く」行為を間違って理解している。頭の中で作り上げたものを書く、しかも編集者の「売れそう」という判断に基づいたプロットに添った小
説など、売れたところで名作になりようがない。
書くことでひとは初めて、自分の中に宿っていて見えていなかったものを見出す。自分の奥深くにある秘密の鉱脈を掘り出すことができる。それは旅に似てい
る。書かなければ到達できないもののために書くのだから。書く悦びとは、自分の意図したものではない「何か」が生まれる瞬間に立ち会うことに他ならない。
書くことで発見することにこそ真実は宿る。プロットに添って書くのならそれは原稿用紙を字で埋めることでしかない。
現在の出版不況の理由は、読者に栄養ある食事ではなく安物のファストフードやコンビニスイーツばかり食べさせた結果、読者が食傷したかメタボで病死してし
まったせいだ。目先の金儲けのために近道しようとした結果だ。読み手側も、手間暇かかる本物の味を忘れて、手近な味を安くてそこそこおいしいと求めすぎて
きた。
結局今すぐ売れる商品だけでは堅実な読書社会を維持することは不可能だ。少部数しか売れない藝術として、学術として価値ある本を長期間にわたり出版するこ
とは、数が多くなくても安定的な読者を生み出す。高貴な領域の本の出版は損失ではなく確実な未来への設備投資になる。出版社はこの安定的な読者なしには存
続できない。可能な限りこの安定的な読者数を増やすことが理想だ。そして純文学を好きで買う、娯楽読み物も読むという中間層の読者の読む力を底上げしてい
くことも不可欠だ。知性の本道を守り正攻法でいかなければ業界全体が衰退する。
出版社を支えるのは眼力のある読者だ。読者こそまず第一に頂上をめざすべきなのだ。読書を愛する人間は、エンタテインメントだけでなく何度も何度も繰り返
し読み続ける価値ある本も求めなければいけない。読書は本来自分の思想を鍛えて創るためのものだ。「読者の質を貶める」ような本や、そういう本ばかり出す
出版社に無抵抗でいることは罪悪だ。
もし出版社が経営上の理由でどうしても正当な読者のこの要求に応えられないのなら、彼らはせめて秦恒平のような、王道を堂々と歩む藝術家を無視、疎外、排
除してはならない。この文壇に属さない作家によって生み出される作品や個人出版を一つの在り方として受け入れ、当然のこととして書評や文学賞の対象にする
べきだろう。横綱である秦恒平を土俵にあげない現状を一日も早く解消しなくてはならない。
ほんものの文学が出版社からしか生まれないなどというのは思い上がりもいいところだ。自分たちがどれほど多くの名作をとりこぼしているのか、そういう疑い
や怖れを抱かない出版社はこれからも堕落し続けるだろう。今後は益々ほんものの文学が、出版流通システムの外から出てくる可能性が高いのだ。
出版業界は変わらざるを得ない。私は紙の本を愛好する旧世代に属する人間であるけれど、それでも紙の本が売れない方向に社会が変化しているのはひしひしと
わかる。今までのように、どんな本が売れるかという前提で物事を考えていては破局は時間の問題だろう。もう出版で大儲けの可能な時代は終わっているのに、
出版業界は再販委託制度を廃止することさえ出来ていない。悪循環のゴミの山とともに倒産するのか、きれいな「断捨離」をして高貴な領域の文化財を遺すため
に名誉ある撤退戦をしていくか、どちらかしかないだろう。
出版業界に関わったことのない素人にこの難題への答えがあるはずがない。しかし、水村美苗が英語エリートの必要性を説いたように、出版文化が生き延びるた
めには、紙の本を愛好し蔵書する読者層を作ることが遠回りだが一番確実だと思う。時間のかかることだが、それは当たり前だ。小手先の対策ではもうどうにも
ならない。個々の読者にオートクチュールの本を作ってもいい。金持相手ならぬ、生粋の読書人相手の商売があってもいい。本の価格が高くても、読む価値ある
本なら必ず買う読者はいる。古書店が成り立ってきたのは、本にお金をかける無類の愛書家の存在があったためではないか。
古典を、藝術としての文学を読むことを、国も学校も出版社もやらなければ、個人が家庭や周辺でやるしかないだろう。国に望みがなくても、まだ個人には望み
がある。親世代には国語を守り、豊かな日本文学を読める幸福を子どもを与える義務も権利もある。水村美苗の受け売りだけれど、日本語力のある読者を育てる
ことが、日本語を守ることで、それは祖国日本を守る最善の方法でもある。
名もない小さな読者たちが読む価値のある本を探し読み続けていけば、いずれ正しい結果がついてくる。一人ひとりが遺すべきものを見極める目を持ち、ほんの少し高価な文化的消費を優先するだけでも、、世の中は必ず変わっていく。
秦恒平の湖の本を支えてきた読者集団はその一つの証明ではなかろうか。この読者集団のようなものがあらゆる分野で広がっていけば、遅きに失してもまだ救え
るものは救える。遺すべきものを遺していける。安きに走った程度の低い仕事ばかりの日本にしたくないなら、美しいものを亡ぼしたくないなら、このことに自
覚的にならなくてはならない。文化とは価値ある贅沢である。どんなに小さくても希望の芽はある。日本語と日本文化の生き残りのために動くときは、「今」し
かない。
わたしは道徳家でありたいと願ったことのない一人である。
それより、本当に良き叛逆者でありたい、時代や社会や国や制度の枠組にしつように指令を擦り込まれ飼い慣らされた存在では、極力、いたくない。
それだから、孤独を懼れてはいられない。孤立をすら強いられても根限り堪えようと思っている。力尽きたら自らおさらばする元気だけを保存しておきたい。ど
うころんでも、この悪しき政治経済社会とても、男と女の社会に違いないし、創作者にはたとえ乏しくても想像力が生きている。男でも女でも創り出せる。恋愛
も性愛も迸るほどに描ける。出版社会はもう叛逆者のわたしを受け入れてくれまいが、幸い「書く」ことは出来る。それで「書いて」いる。さあどうか、「
湖(うみ)の本」 で刊行できるだろうか。「 e-文藝館=
湖(umi)」に公表できるだろうか。できる・できないは、問題外。
書き上げておくことだ。わたしにはもう夏休みも冬休みもない。
2011 8・25 119
出版界はこのように書いている叛逆者秦恒平を本当にもう受け入れるつもりはないのだろうか。ほんものの藝術家で「良き叛逆者」でなかったものはいないこと
を忘れているのか。叛逆者でなければセルバンテスはドン・キホーテを書かず、ビクトル・ユゴーもジャン・バルジャンを書けはしなかった。赤穂浪士たちは叛
逆者集団ではなかったか。文学に殉じる秦恒平は出版界の良き叛逆者であろう。
未来の国民文学、古典になり得る秦恒平の文学を封じていくことは出版人としての、日本人としての正しい選択だろうか。単なる無知か保身、あるいは目先の勝ち馬に乗り出世したいだけではないか。
まず先入観のない読者として秦恒平の作品を読み純粋に味わってほしい。楽しんでほしい。商売道具としての本だけが、商売に協力的な作家だけが大事、高い利
潤に結びつかない少数派の読書社会は相手にしないという拝金主義の価値観でやり続けた結果が、現在の倒産寸前の出版大不況であろう。藝術はビジネスになら
ないから極力扱わないできた出版関係者が 現在の出版業界を斜陽産業、いや絶滅危惧種にしてしまった。このままでは出版流通システムも読書社会も完全に崩
壊していく。失敗した原因を外的な理由のせいにするのは間違っていよう。悲劇はいつも内なるものにより重い責任がある。
未だに秦恒平の業績を黙殺し、正しく評価できない文壇は、現在進行形の文化破壊に加担しているといっても過言ではない。編集者たちに一矢報いる闘いをする
勇気はないのか。未来に現代日本の文学を古典として遺すために、やれることをやろうとする、あるべき姿のために闘う良き叛逆者はいないのか。
活字離れした読者を呼び戻すためには、数少ないほんものの読み手を掘り起こしていく以外にない。地道な正攻法以外に、他に一体どんな対策があるというのだ
ろう。これは一刻を争う。今初めても結果の出るのは数十年は先なのだ。使命感をもって頑張ってほしいと猛烈な一読者は訴え続けたい。
十、おわりに
前章で諦めたら終わりだと書いたけれど、じつは、私はかなり悲観的にこの国の行く末を見ていて、日本は亡びると思っている。たとえ日本国という名前が形ば
かり存続したとしても、ほんものの日本人のいる日本という国はいずれ終わる。言葉が強すぎるなら、日本は亡びる方向に、終わりの始まりに差しかかってい
る、と言ってもいい。
これは私のような凡人が言わなくても、言い古されてきた。夏目漱石は『三四郎』の中の登場人物に日本は亡びると言わせていたが、司馬遼太郎も次の時代なん
てこないと思うと最後の対談の中で絶望していた。彼らが間違っていたかというと、残念ながらその洞察は間違ってはいないと思う。ただ、それでも絶望しなが
ら闘い続けた一個人としての彼らや多くの同胞により亡国の要因が妨げられ、決定的破局に至るまでのスピードが何とか遅くなってきたのだと思う。
内田樹のブログ二〇一五年の年頭予言にもこう書かれている。
今年の日本はどうなるのか。
「いいこと」はたぶん何も起こらない。
「悪いこと」はたくさん起こる。
だから、私たちが願うべきは、「悪いこと」がもたらす災禍を最少化することである。
平田オリザさんから大晦日に届いたメールにこう書いてあった。
「私は大学の卒業生たちには、『日本は滅びつつあるが、今回の滅びに関しては、できる限り他国に迷惑をかけずに滅んで欲しい』と毎年伝えています。来年一年が、少しでも豊かな後退戦になるように祈るばかりです。」
これから私たちが長期にわたる後退戦を戦うことになるという見通しを私は平田さんはじめ多くの友人たちと共有している。
私たちの国はいま「滅びる」方向に向かっている。
二〇一一年三月十一日の東日本大震災が破壊したものは、被災した土地だけではない。津波は象徴的な意味でも、日本という国を壊滅から防いでいた最後の防波
堤をなぎ倒した。福島第一原子力発電所の事故は日本崩壊の決定打になるだろう。この原発事故は猛烈に日本の破局を加速し続けている。しかし、ここではこの
人類史上最悪の災厄については述べない。書き出したら本の何冊も書ける恐ろしい被曝実態だろうが、それは私の手にあまることだしそもそもこの論考の目的で
はない。明らかなのは、福島原発事故が日本の政治経済のみならず文化を徹底的に破壊するきっかけになるということだ。脱原発訴訟弁護団の河合弘之氏が「日
本で国を滅ぼすとすれば、原発事故と戦争しかありません」と語っていたとおりになりそうだ。
2015年度のノーベル賞作家スベトラーナ・アレクシェービッチの『チェルノブイリの祈り』の中である環境保護監督官はこのように語っていた。「実生活の
なかで、恐ろしいことは静かにさりげなく起きる」これは放射能汚染の隠蔽から始まった新しいかたちの経済的言論弾圧が独裁政治の母体となり、その結果秦恒
平の憂慮する「国民最大不幸」を招きつつある現状を示す。
いよいよ日本の終わりが避けがたいとしたら、私たち親世代に出来ることは、可能な限りその終末への途を遅らせることしかないだろう。個人個人が日本の、そ
して世界のあるべき姿のために抵抗することしか道はないと思う。万に一つの幸運があれば、延命の時間を稼ぐことができるかもしれない。
抵抗している人間は世界中にいる。先日読んだ新聞記事は、破壊される遺跡を撮影し続けている人物をとりあげていた。こんな内容であった。
「イスラム国」勢力は支配地域の遺跡を次々に破壊してきたが、現在もシリアで、世界で最も美しい遺跡の一つパルミラ遺跡を破壊し続けている。三十代前半の
ハレド・ホムシ(仮名)はパルミラの破壊の現状を映像で伝えようとしている。見つかれば命の危険があるが、イスラム国戦闘員の目を盗んでカメラを回し三年
あまりで約二百本を撮影した。彼にこの活動をやめる考えはない。「危険だし報酬はゼロ。だが、ずっとパルミラ遺跡を見てきた自分がやらなければ、一体誰が
できるのか」「記録しても破壊をやめさせることはできない。でも破壊されている事実を伝えることはできる。それがさらなる破壊を防ぐ力につながると信じた
い」
これは学者でもジャーナリストでもない考古学素人である市民の、非凡な勇気の活動だ。文化遺産を抹殺しようとする狂気の渦中、砲弾とびかう現地にとどまり
ただ一人で抵抗している。考古学の専門知識はなくても、「自分がやらなければ誰がやる」という彼の遺跡への愛と使命感に私は敬服する。
世間の大半は無関心だとしても、彼のように抵抗する市民は世界中に必ず存在する。想像をめぐらせれば、歴史の風雪を乗り越えて現存しているすべての文化遺
産が生き永らえてきたのは、おそらく彼のような名もなき人間の勇気と決意の結果にちがいないことがわかる。私をふくめてこの世に生まれた人間は殆どが歴史
の泡となって消えてゆく。しかし、歴史の泡でしかない小さな人間たちの抵抗によって、価値あるものを「死なせない」ことはできる。藝術文化は歴史の泡でし
かない亡びてゆく人間たちの悲願を託されてこそ、初めて「死なない仕事」になるのだ。
「遺す」ということは小さな人間にしかできないことかもしれない。少なくとも徒党を組んだ大きな集団にはできない。個人から個人に伝えられる深い想いに
よってのみ、次世代に遺される遺産がある。世界中で絶滅危惧種の動物や植物を救おうとしている活動の中心は大抵志ある一人の人間である。文学の読者は独者
となっても遺すべき文藝を守りたい。
自分の死をいつかは受け入れなければならないように、日本の終わりについても潔く覚悟しなければならない時が迫りつつあるとしたら、その時どうするかは一
人ひとりの問題である。幸いに私のような市井の人間は一人ではなさそうだ。たとえばこんな言葉をネットから拾うことができた。
「そこに住んでる人がどれだけ抵抗し有効な対抗策をとって未来を少しでも残せるかどうかだと思ってます。やれるだけやるしかないです。いつか死ぬまで悔いの無いようできることを全てしたいと思ってます」
能力の有無はしかたないが、自分の信じるもののために闘わないことは恥ずかしい。沈黙していては亡びの道に加担することになる。東日本大震災の津波で起き
た大川小学校の悲劇は、真っ当な危機意識のある、子どもを愛する平凡な大人がたった一人いれば避けられた。ふつうの大人がいれば子どもたちは助かってい
た。避難したことが美談にもならず、昨日と同じように明日も子どもが(ほんものが)当たり前に生きていることが、正しい社会のありかただと思う。
二〇一四年
秦恒平は小説選集として秦恒平選集を刊行し始めた。百五十部限定の非売品としてすでに十巻まで刊行されている。日本語の精華である作品内容のすばらしさは
言うまでもないし、紙の本として望みうる最高の、美術品ともいえる美しい本である。まさに「紙の本時代の最期を飾る光芒」である。
象牙色の函入りで、函から少しのひっかかりもなく取り出すことができ、濃紺の背表紙には品のよい金で「秦恒平選集」と刻印されている。秦恒平の長年の盟友
井口哲郎氏の手によるものだ。頁がきれいに開き、紙質も字体も字の大きさも考え抜かれた読みやすさで、こんな細部まで行き届いた本は近年見たことがない。
「一流の美的感覚を持つ人は、何を作らせても最高のもんを作りますえ」とは冒頭に使わせていただいた帯屋捨松の木村登久次氏の言葉であるが、その通りの最
高の紙の本だ。
私が限定百五十部の中の貴重な一冊を届けられる読者であれたことは、私の何よりの誇りである。と、同時に私は配本の度に深い哀しみを覚えながらこの本に触
れている。秦恒平自身が「紙碑」「紙の墓」を建てると書いているように、この選集は今年十二月に八十歳になる秦恒平がとうとう店じまいを始めたということ
なのだ。秦恒平の作家としての出発は、二十八歳の美しく慎ましい一冊の私家版作成から始まった。その後の長い作家生活の集大成として、いよいよ名実ともに
美意識の極みの私家版をつくることで秦恒平はその稀有の人生を終えようとしているのだ。それならば、読者の私も、非力は承知で全力で応えよう。私はこの論
考を仕上げることに集中した。遺跡を命がけで撮影するホムシのような危険を冒しているわけではないし、世間からはおこがましいとさぞ嗤われるだろうけれ
ど、私は遺書のつもりでこれを書いてきた。
文明は勝つモノの卑しさを見せつけてきた。文化は敗れたモノの真実を遺してゆくのだ。
2011 8/23 119
秦恒平のこの言葉にならい、私の残された人生は敗れるモノの真実を遺すための、価値ある敗戦を全うしたいと思う。誰も読んでくれないかもしれないこの「秦恒平論」は、日本語の頂上を未来に届けたいと祈る一読者の悲願と思っていただければと願う。
誰にも限りある時間の中で、私は秦恒平の愛読者としてこの作家の作品に殉じたい。悪政と愚かしさ渦巻く、愛すべきわが日本の落日を直視し、しぶとく抵抗し
ながら亡びていこうではないかと思う。私は小さな人間として、日本の撤退戦において最後まで後悔のない、誇りある闘いをしたいと願う。
愛娘の亡骸を前にして『リア王』の最後のセリフは「見ろ、これを見ろ」であった。遺跡の破壊を見ているしかない人間と同じように、私も愛する日本人と日本
語が亡びていくさまを見ることしかできないだろう。しかし、その絶望の底からでも意志的な楽観は捨てまいと思う。敗れたとしても闘い続ける限り、遺すべき
ものを遺すことは、決して不可能ではない。少なくとも遺したいという想いは誰かに引き継いでいける。それは立派な負け戦のための、亡びの作法である。
秦恒平の描いたシドッチ神父のみならず、日本に布教にきた宣教師たちはすべて敗者である。彼らは祖国からも家族からも忘れ去られ異国に朽ちていった。しかし、彼らが日本に来たことに本当に意味はなかったのか。彼らは「敗れたものの真実」を遺しはしなかったか。
日本の滅亡を他国の出来事と思っている心ある外国の読者にも書き置きたい。日本人でない勢力に亡ぼされゆく、植民地と化したこの国の運命に一掬の同情の涙
を流すより、、もしあなたの国の原発に福島のような事故が起きれば、真実を隠蔽するためにいずれ日本と同じことが必ず起きるであろうと知っていただきた
い。世界のどこであろうと核兵器への野心と莫大な利権を克服できる権力者はいない。しかも、文化が破壊される原因は原発事故だけではない。そうと自覚のな
いまま現在新しいかたちの世界大戦が始まってしまっている。
イギリスの天才的軍略家リデル・ハートが広島の原子爆弾投下のあとに「これで総力戦、古いタイプの戦争はもう終わりだ。これからまともな戦争は起きない。
ゲリラとテロの時代になる」と予言したように、世界各地でゲリラとテロによる第三次世界大戦が始まっている。ベトナム戦争も九・一一テロもアフガニスタン
やイラク戦争も、パリのカラシニコフ乱射テロも、新しいかたちの戦争なのだ。テロは極右勢力と軍産複合体と仲良くスクラム組んであなたの玄関の戸口まで
やってきている。世界の民主主義も言論も風前の灯である。「小さな人間」である世界の読者は、強欲な市場原理と非道な戦争とファシズムに対して、いついか
なる時も抵抗していくしかない。
それにしても今私に出来ることは、秦恒平という文豪を取り巻く状況分析と明るくない未来についての、この程度の拙い考察を書くことだけというのは、あまり
に情けないことである。「坑道のカナリア」として、私の秦恒平論を書き、ゼロから一にすることをしただけである。それでも、この一が、未来の優れた才能に
よって、千にも万にもなることを夢見ながら死んでいけたら幸せである。
秦恒平は徹頭徹尾「個」に徹して書き続けてきた。秦恒平の生き方をみるとき、私は個で起つ人間の毅さ、烈しく文学を生き切る気高さに畏敬の念を抱く。彼は
既存の出版権威という強大な集団に依りかからずにほんものの「文学」を創作する。未来に生き永らえるのは現在の出版業界ではなく秦恒平のほうであろう。
最後に秦恒平の言葉を、私の未来への希望として遺したい。
* わたしはもう走れない。だけど、まだ歩ける。歩けなくなったら、這う。
2010 7・5 106
* 滝壺へ身をなげるようなことを自分がしつつあるのを、わたしは、今にして自覚しているのではない。小説というものを書き始めたときから、そういう覚悟であっただろう。「書く」というのは、そういうことだ。
2010 12・25 111
* ものごとには終わりが来る、そして作家には初めが来る、「書く」と謂う「初め・始め」が。
2012 7・16 130
(了)
参考文献
秦恒平 湖の本全冊一〜一二七巻
秦恒平選集一〜十巻 ホームページ 「私語の刻」
小田光雄『出版社と書店はいかにして消えていくか』 論創社 2008年
水村美苗『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』 筑摩書房 2008年