「e-文藝館=湖(umi)」 書下ろし小説 投稿 

やませ ひとみ  1959年に生まれる。白百合女子大学卒業 東京都在住 主婦  すで に 『ドイツエレジー    ──母への手紙── 』を「書き下ろし長編」として、また海外生活に取材したそつのない短編の物語り『復活祭』を「e-文藝館=湖(umi)」に発表している。 掲載した長編 書下ろしの小説は、まだ荒削りの粗稿段階と言わねばならないが、一種の豪腕で三人の女を独楽のようにまわして書ききり、無視しがたい或る凄みを帯びてい る。読み巧者の読者に作の文運を占って欲しいと思い、あえて、「仮の掲載」にもちこんでみた。





       マーラーの恋   山瀬 ひとみ



 
   幸福であることはひとつの才能だ       グスタフ・マーラー




  藍子  その一

  去年のあの日も…地下鉄の…プラットホームに私は立っていました。
  車両が滑るようにホームに入ってくると、渦潮の昏い芯に惹き込まれる気持ちになります。「喉が乾いた」「眠い」といった躰の反応にも似ています。
  毎日乗らねば済まない地下鉄のホームで、こんな衝動をとにかく抑えこんでこれたのは不思議なぐらいで。日によっては、電車の光る目玉と轟音とに心線をゆす られ、プラットホームをこぼれ落ちまいと、ベンチに掴まったり、重く被さる天井を見上げたり……。
  去年のあの日…そう…あの日。私は、同じプラットホームに身を縮めていたのでした。
  車両が眼の前に、そして私がゆらっと一歩をふみ出した時、背後からの手が羽根のようにそっと、穏やかなやり方で、私の持ったヴィオラに触れたと感じまし た。
  気がそがれふりむいた私に、楽器にまだ手を置いたままの青年はもの言いたげな、険しい表情を見せました。扉が開くと、青年は私をうながすようにして、ずん ずん中に入っていきました。
「あぶない人だね。地下鉄と心中するつもり?  電車とあんまり呼吸(いき)がぴたりだったから、少し心配した」
  青年は、誰にも気づかれたことのなかった私の秘密を、一目で見破ったようでした。私は自分の陰鬱な衝動を恥じていましたから返辞のしようもなく、微かな反 発をいだきながら、相手を見上げていました。
「遠山藍子さんでしょ」
  青年は思いのほかの笑顔をみせました。錆び赤のシャツが似合い、手に、楽譜の束とトランペットケースを持っています。彼と私との目的地は同じなのでした。
「僕の大学にはあなたのファンがいるらしくてね。クラブの部室に何枚も写真が貼ってあるんです。すぐわかった」
  彼は私を安心させようとし、もう、幾分は成功していました。
「もしかすると、トランペットの重宗…恒一さん、ですか」
「おぅ。どうやらお互いに情報があったみたいだね」
  自分のことを知っているのは当然といいたげな、不遜めく笑みが思わずこぼれました。重宗の名は、大学のアマチュアオーケストラ仲間で、面識のない新入生の 私でも評判を聞いているほど、良かれ悪しかれ「有名」人でした。
  重宗と私は乗換のため次の駅で地下鉄を下りました。私達は明広大オーケストラクラブの定期演奏会に、ヴィオラとトランペットのエキストラとして召集をかけ られていたのですが、明広大学のキャンパスは、中央線でもう小一時間ほどかかる東京郊外にありましたし、重苦しい地下鉄から地上に解放され、気も楽になっ ていました。
  夕方の混雑にはまだ早い時間帯でした。乗り換えのホームに人影少なく、晩秋の黄ばんだ光が穏やかに射しこんでいるだけでした、やがて地上の黄色い電車がい とも常識的な顔つきで滑りこんできました。
  重宗はやおら隣に腰を下ろしました。電車は加速し、線路際の銀杏が黄金(きん)色を溶き流すように葉を散らすのを私は眺めました。
  重宗はしばらく無言でしたが、横顔がひりひりするほど私の方を見ているようで、声にならない息の濃さをはっきりと感じました。
「僕の子供の頃の話をしようか」
  いきなり、彼は真横で言いました。
  初めて会った私に、何を、何で話したいのでしょう。
  秋の日ざしに染まった午後の車内は空いていて、二人きりのように静かでしたが、話し始めた彼の声音はかすかに震え、思わず少し離れるて私は身じろぎまし た。
「ひどい暑さの夏のことでね」
  そう前置きして、思いなしぶっきらぼうに彼は話し始めました。

  中学に入った最初の夏休み、僕は父方の祖父母の家に遊びに行った、というより預けられていた。母が入院してたんで、仕事で忙しい父は親たちに孫の面倒を見 てもらおうとしたんだね。
  祖父の住む町も開発されてずいぶん便利になったけど、その当時は田舎だった。僕は時々祖父に頼まれ、駅の近くの郵便局にお使いに行った。自転車で三十分も かかったかな。あの日も、それで自転車を走らせていたんだ、と思う。
  暑い暑い日で、外を歩いてる人間なんてどこにもいなかった。真ッ黄色の陽ざかりで道は眩しく、夢中で自転車のペダルをこいでいたよ。急な上り坂を一気にの ぼったらさすがに息切れして…、とうとう一休みした。けど日陰らしい日陰もなくてね。ものがみな燃えるようなのに、不気味に静かで。一瞬こわくなったのを 覚えている…が、その時さ。人影を見たんだ。六、七十メートルほど先の、これから僕が通ろうとしている橋、跨線橋じやないんだ、道路よりずっと下に線路が あり、は駅の近くにある線路の上に架かる細い橋だけど、黒い人影はその上に立っていた。
  自転車を押しながら近づいていくと、黒っぽい服の人が、橋の上…でなく、橋の欄干に立ってたんだよ、そいつ。そして電車の来る音がして、そいつ…胸を反る ように息を吸いこんだかと思うと消えてしまった。いや何が何だかあっという間さ、信じられなかった。
  電車の軋むようなブレーキ音が響いて。僕は自転車を投げ捨てて、夢中で橋の下の線路へ何かの斜面を滑り降りてた。近くで確かめたかったんだ。
  擦り傷なんかつくって、線路までやたら駆け下りた時には、駅の周囲や乗客やらの野次馬がいっぱい集まっていた。飛び込みだ、飛び込みだと興奮している。騒 ぎは大きくなるばかりだった。
  僕は人垣の方にがむしゃらに駆けた。十三歳の少年なんて好奇心の塊だから、轢死体がどんなものか想像する前に見に行くだろ。僕は大人達の足の間からのぞき こんだよ。黒い着物の裾がわれて、二本の足があった。女の足で、目を射るような白さだ。真夏のじりじりした光線を射返して、目を開けてられないくらいだっ た。少しも屍体らしい感じじゃない。
  剥き出しの足の前で釘付けになってたら、子供の見るもんじゃないと、はじき出されたでも、大人達は熱狂している。顔だ、顔だ、と高ぶった大声を出してい た。僕は懲りずにまた割り込んでいった。今度は女の足の上の方に這いながら近づいた。もう見たい一心でね。そして見たんだ。女には、顔がなかったんだ。
  鋭利な刃物で頭頂部から顎まで一直線に削ぎとられていた。見事に平らな傷口から血が吹き出して、顔の代わりに血の海が広がっていた。あまりの血の量に、悪 酔いしたみたいに、僕はふらふらした。不思議なことに嫌悪感はなかったけれど、身動きできなかった。お面のとれたように顔がないことを除けば、何の欠損も ない、他は普通の躰だったので、僕の目は自分の意志と関係なく女の顔のあるべき部分ばかりに吸いよせられていた。
  女は飛び下りて、電車とぶつかった瞬間に顔面がすぱっと切り取られて、それで命を落とした。これで騒ぎが大きくなったんだ。躰はあっても、肝心の女の顔が 見つからない。顔面が、電車に踏みつぶされた形跡もなかった。顔を捜すんだ、という声が見物人からあがった。
  僕は目の中が血の色に染まった気がしていた。立ち上がったものの、数歩歩いて目眩がした。座りこんでしまった。大人達は女の顔が遠くに飛ばされたかもしれ ないと、線路を点検したり、まわりの土手の草むらを掻き分けたりして、捜していた。
  停車したままの先頭車両の脇に座り込んで僕はそんな大人をぼんやり眺めていた。だいぶ時間が経ったように思って。
  で……、ふと見上げると、目の前に電車の車輪が闇のように大きく見えた。そこにね、貼りついてたんだ、白い女の顔が。あの瞬間をどう言ったらいいだろう。 言葉では言えな
いほどの、大変な衝撃だった──。                                               
  女の顔は両方の目を見開いていて、ぞっとするほど蒼白。充血した白目の中の大きな黒い瞳は毒のように光りを放って真っ直ぐ僕を射すくめていた。躰中の血が 瞬時に氷結し、口が渇いて、声も出ない。恐怖で内臓が食い破られる気がした。
  取り返しのつかない出来事に遭遇してしまった。車輪に貼りついた顔が、とうに死んでいるはずなのに、凍りついて生きている。女はこの一枚の顔で狡賢く僕を じっと待っていたんだ、そうに違いない。
  女の顔からは妖気が放射されていた。口もとにはうっすらと、獲物を捕らえた酷薄な頬笑みが浮かんで、僕を嘲っているみたいだった。
  僕は自分の人生で経験するすべての恐怖を味わいつくしたように思う。死よりもおぞましいありとある恐怖が、女の死顔に同化していた。僕を骨の髄まで凍ら せ、劣敗者に変えた。僕はすすり泣いた。動けない。助けも呼べない、どうして?
  やがて、僕の様子が尋常でないことに気づいた大人が、視線の先の車輪に貼りついた顔を見つけた。
  車輪からべりっと顔が剥がれ、血糊が垂れた。それで事件は終わり、終わりのはずだった。
  僕は、だが昨日の自分にはもう戻れなかった。世界は変わってしまった、僕の子ども時代は終わったんだ。
  僕は四六時中あの顔を見ていた。網膜に残像が喰い込んでいて、片時も離れない。逃げ切れない。
  そうして日が経つうちに、自分があの女の顔をなぜか憎悪ばかりはしていないことに愕然としたんだ。
  僕が女の顔を再生し続けているのは、もしかしたら、怖れると同時に惹かれているのではないか、嫌悪しつつ欲望しているのではないか……。
  僕はあの顔に吐き気を催しながら、惹かれてた、醜いけれど魔の魅力を持っていた。ありとある恐怖の顔が、ありとある美しさも映し出していたんじゃないか。
  愛する者の手で閉じてもらえなかった両眼は輝いて、悲惨な最期を怯まずに見ていた。笑ってさえいた。死の紺碧にいながら、妖気漂う、滲(にじ)みだすよう な薄笑いを浮かべて……。男に征服されることのない女の、澄みとおった官能の笑み。快楽の中で絶命したような口元の歪み。女の頬笑みは、時に触れると血が 出るほどに研ぎ澄まされた武器になる。
  独特の微粒子のきらめく瞳と、その頬笑みには、優しさなどない。非情な、美しい顔だ悲劇的としかいいようがない美しさだ。女に嬉しがらせの優しさを求める のは、きっと生ぬるい男のすることだ。
  僕は十三歳のあの日に見た女の顔にずっと心を奪われてきたようなものだ。彼女が血の香りのする妖婦に思えることもあったし、臈長けた女人のように拝跪した こともある。どちらも必要だった。もしかしたら、一人の名も知らぬ轢死体の女の顔が、僕の初めての恋愛の対象だったのかもしれない。真実魅力のある女に魅 入られたら、男は金縛りにされる僕はあの笑んだ死顔、女の笑顔に死ぬまでつきまとわれるだろう。
  僕に愛を返してくれはしない残酷な死体が死人の顔が、人生最初の恋の陶酔感や恋の毒をたっぷり味わわせてくれたのは事実だよ。
  でも、誰に喋ってもきっと信じてはもらえない。だからあなたが初めてなんだ。地下鉄であなたを見た時に、何故か昔の情景が甦って、どうしても話したくなっ てしまった。
  驚かせただろうね。気分を悪くさせたなら謝るよ。

  気がつくと晩秋の乾いた空に、血のような雲が流れていました。痛いほどに夕日が、車内のあちこちにばちばち火花を燃やすようでした。
「ずっと答えを探してきた。なぜ僕は、こんな悲惨な愛を選んでしまったのかってね」
  削ぎ取られた女の顔の記憶が蘇ってくるのでしょうか。重宗の表情は、胸に鈍い痛みを抱えた病人のもののようでした。
  唐突に、心に暗闇が落ちてくるように、私は恐ろしい恋の予感に捉えられました。重宗のもの畏ろしい愛の対象の物語は、私の血に沁み入り、皮膚に爪をかけて きました。息詰まる切望と不安に、全身が悪寒に震えてきました。
  篠突く雨の勢いで、私の心は重宗に傾いていました。それからは、人生にたった一度の春が訪れたかのように、夢中の恋をしました恋を恋し始めました。


  沢子その一

  八月の真昼の太陽は、大きく真鍮色に灼けていた。
  目の前に広がる空も海も、透明な炎をあげて燃えあがる。押し寄せる波の飛沫に焦熱が加速されて、大気はなまぬるい息を吐く。
  沢子は潮水に入る気力などない。砂浜に腹ばいになって、目のくらむ暑さに耐えている
  パラソル代わりに二本の雨傘を置いていた合宿に来る日は大雨だった。持ち寄りの二本の傘の作るわずかな日陰に入りきれずに、ぬっくり突き出した沢子の長い 足は、容赦のない熱に微かな痛みを感じはじめる。沢子は溜め息をつくと起き上がり、両膝を抱えこみながら座り直す。
  湿気を含んだ空気は重たくて、呼吸するのが苦役のようだ。妙に息苦しい。沢子の前には、マーラーのスコアがずっと同じページを開かれたまま、砂粒を被って いる。沢子は、何度も同じ音符を目でなぞりながら、また溜め息をつく。
  本当にマーラーには疲れてしまう。うんざりだ。
  朝九時からの練習が終わって、やっと自由時間だというのに、沢子はマーラーから解放されない。海に入らない口実に持ってきただけのスコアだが、これは失敗 だった。長い旋律が頭の中で再生されてしまうと、マーラーという病熱に浮かされてしまう。
  それともこの海のせいだろうか。自然発火しそうな砂浜を、ねっとり舐めては返す波の舌を見つめていると、マーラーの、あの果てしなく拡大されていく長大な 旋律がどよもすけだるい響きが、沢子の躰の芯の方で、鈍い熱を放っている。沢子は背中にゆっくりと汗が流れるのを感じた。
  さらに勢いを増した太陽の反射で、砂浜が急にてらてら光り出す。その銀色の砂を、賑やかな男女の一群が駆け抜けていった。マーラー五番演奏会のための、こ の強化合宿に参加している学生達だ。彼らの動きは太陽の凶暴な光を浴びて、陽気な色彩に満ち溢れている。はしゃぐ声が大空に穴を開けそうだ。羞じらいのな い躰と、救いがたい若さと、呆れた騒々しさがぎらついている。目が痛い。
  一瞬マーラーの哀切な旋律は遠のいたものの、沢子は、突然自分が十も二十も年をとったと感じた。彼らの輪に入れない自分に苛立つ。ただの傍観者で、若さと いう人生の花舞台から降りてしまっている気がする。
  腹立ちまぎれに、仲間の数を数えてみた。一匹、二匹と、動物扱いして数えていった。十四匹いる。十四という数字が気に入らない沢子の記憶の中で、十四は何 か意味のある数に思えるのに、どうしても思い出せない。太陽の炎熱の下で、十四という数字は、沢子の頭の中を回虫のように這いまわる。
  そう、十四歳の頃だ。沢子が自分の容貌にはっきり失望したのは……。両親の影響の強い子供時代には、自分が不器量だという劣等感もそれほど深刻にはならな い。しかし、五つ年上の従兄は、思春期の沢子に向かってこんなことを言った。「僕はブスな女はきらいだね」美人は子供のときから蝶よ花よと可愛がられて育 つから、性質がいい。反対にブスの女は僻んで育つので根性が曲がっている。
  従兄の言葉は多感な年頃の少女を打ちのめした。魅力的な容姿をもたぬ女は、人生のおいしい部分、男に恋される甘美を味わうことができない上に、従兄のよう な男に人格まで否定される。やりきれないのは、彼が全く間違っているとは言えないことだ。沢子は自分が劣等感に屈折していることを認めている。
  十四歳を過ぎて、大学生になり、二十歳になっても、沢子が異性の興味の対象とならない現実は少しも変わらない。昨夜も、重宗恒一の眼差しは、西原千晶にし か注がれていなかった。沢子は男の視線が千晶に吸い寄せられることには馴れている。夕食の席で、重宗はマーラーの話をした。
「マーラーには葬送行進曲と名付けたものが多いけど、彼は子供の頃から頻繁に死を経験して、葬式ばかり見て育ったからね」
  重宗が話の対象としていたのは、隣に座る千晶だったが、とにかく沢子も聞いていた。
「十四人兄弟の内、八人が早死にしてしまったんだから仕方ないだろう」
  重宗の知識によれば、その早死にした弟やら妹やらは、盲目だったり、精神病だったり脳腫瘍だったり、詐欺師だ、自殺だと、まるで選りすぐった不幸の標本の ような具合だったらしい。
「マーラーの曲は血で記されたんだ。マーラーの生涯を、猛毒に充ちた生涯だと言う評論家もいる」
  重宗は作曲家に無関心な千晶を啓蒙することに、非常な喜びを感じている。その説明は途切れることなく続いた。
  マーラーはユダヤ人であり、世界の何処へ行こうと歓迎されない出自のコンプレックスを宿命としていた。彼は両親の不仲で家庭の幸福を知らない。父母のいさ かいは絶えず、冷酷な父親は足が不自由で狭心症の母親に度々暴力をふるっていた。次々に夭折する兄弟がいて、青年時代の親友も発狂死する。
  成人したマーラーを待ち受けていた運命も一直線に悲劇に向かう。人生最後の十年間に彼は何を経験しただろう。天才でありながら作曲家としてその真価をつい に認められなかった。指揮者としても、その人種と激しい性格ゆえに摩擦が多く、安住の場がない。不幸だった母親と同じ名前をつけて溺愛していた長女は四歳 で病死。その衝撃の中で医師の診察を受けたマーラー自身も、致命的な心臓障害を宣告されてしまう。希望を失ったマーラーに追い打ちをかけるように、ウィー ンフィルから追放同然の屈辱を受け、指揮者を辞める。とどめは類稀な美貌の妻アルマが愛人を作るという裏切り。妻を熱愛していたマーラーは苦悩のあまりフ ロイトの診察を受けた。マーラーの晩年はひどい失意の中にあり五十一歳で生き急いだ生を終える。
「芸術作品と芸術家の生涯を結びつけて考えることは、作品を理解するための最良の方法ではない。むしろ邪道だろう。悲しい一生を送りましたから悲劇的な曲 を書きましたなんて、そんな単純なことではないよ。モーツァルトやベートーヴェン、それにシューベルトだって、幸福とはほど遠い一生だったしね。でもマー ラーを演奏していると、どうしても悲惨な生涯が彷彿としてくる。トランペットのような、どちらかというと明朗な音色(おんしょく)の楽器を演奏していて も、なぜか人間の苦悩の熱烈な叫びのように響いてしまう。露骨な絶望が荒れ狂っている。スコアを読んでいても、何ページにもわたって、ぞっとするような緊 張や孤独が続いている」
  重宗はそう語ると、彼独特の眼差し、褐色の瞳の底から、激しい思いが燃え上がる火のような目で、千晶を凝視した。重宗は千晶が自分の言葉を理解できる程に は、知的であると信じていた。
  沢子は、その時自分が考えていることを、重宗には話すまいと思っていた。一種の僻みであることは認めている。しかしどう転んでも、重宗に限らず男というも のは、沢子の意見を本心からの興味で聞いたりはしない。百歩譲って、沢子の意見を聞く男がいたとしても、沢子は好意を持たれるわけではなく、面白がられる わけでもなく、存在を必要とされるわけでもない。
  男にとって、沢子は気の毒なくらい無器量な、魅力のない、おとなしいお嬢さんに過ぎない。女の容姿の美しさは、移ろいゆく一つの広告でしかないのに、男に とってそれこそが求めるに値するらしい。重宗は沢子ではなく千晶を見ていたのだし、彼が見つめるもう一人の女は、この合宿に来ていない恋人、繪に描いたよ うな麗人の藍子なのだ。
  沢子にとってマーラーの音楽は、ドラッグに似ている。ドラッグの実物を経験しているわけではないが、一度その魅力にはまりこんだら金輪際抜け出せないも の、毒と知りながら死ぬまで味わい尽くしてしまうものという意味だ。
  マーラーはその旋律の中で、嘆いたり、呻いたり、絶叫する。その癒しがたい悲痛な音楽に身を委ねていくと、段々に沢子は感覚が麻痺したような快感を覚え、 恍惚となっていく。どのような出口のない絶望も、不可解な快楽に導かれていく。マーラーの陰鬱な旋律が、ある瞬間に、えも言われぬ甘美な陶酔にすり変わっ てしまう。陶酔の行きつく果てがたとえ無惨な中毒死であったとしても、逃げ出すことのできないのがマーラーの放射する音楽だ。
  マーラーのように、不条理な目に遇い続けた人間は、最後は心の痛みに悶え苦しむことをやめるのだろうか。
  いや、ちがう。マーラーの体験した、許容量をはるかに超えた悲しみは、かえってドラッグのもたらすような恍惚状態を生み出すのだ。度重なる喪失や悲嘆の極 みに立った時、人の心はもしかしたら、不幸に陶然となっているのかもしれない。
  マーラーは真っ黒な絶望の瞬間に、突然降り下る、狂喜にも似た激情の洗礼を受けた。それはまるで、脊髄までが痺れるような痛烈な一撃。抗し難い陶酔の世界 だ。おぞましさの果てまで行きつくしたマーラーは、慟哭するのではなくけたたましく笑った。心底傷ついた時、人は哄笑する。
  沢子にとってマーラーの音楽は危険な罠だ溺れることはたやすいが、這い上がる岸辺はどこにもない。未来永劫に希望を失った人間の凄絶と孤独、犠牲者たちの 悲鳴、そして頽廃美の渦巻く世界に、胸の奥が痛むほどに痺れる。マーラーの賛美者は、破滅の誘惑と歓喜に引きずりこまれ決して抜け出すことはできない。残 された道は従容として死につくことくらいではないか。
  沢子の思考回路は再びマーラーに戻っている。目の前の海は、大蛇がゆっくりとぐろを巻くように、大きくうねりながら動いていく海のうねりの渦を動かしてい るのは、マーラーの膨張していく旋律……。
  突然、マーラーが昂奮し、痙攣の発作を起こし始めた。激しい音響が甦った。沢子は思わず耳を塞ぐ。熱された砂浜まで、波間のマーラーの歌を復唱しはじめて いる。沢子はマーラーから自由になろうと、もがき続けた。頭の芯が焼けつく。沢子は頭を抱え込んで、過剰なマーラーの洪水をやり過ごそうと試みた。息を詰 めるようにして耐えた。マーラーの音、また音。消耗していく。
  大気はぐったり動かない。沢子は熱で潤んだ目を、再び海に向けた。そして渚に立つ妖精を、千晶の背中を捉えた。
  そのすらりとした背中は、太陽の念入りな愛撫を受けて、艶やかに張りきっている。濡れた白い背中は、春の雪の柔和な明るさを放ち、動くたびに小さななだれ が起きる。千晶の姿は、沢子の目に心地よい。沢子の頭から熱病のマーラーがすっとひいていった。
  千晶の姿を見るという現実は何と喜ばしいことか。千晶の躰は天から恵まれた媚薬だ。後ろ姿でさえ、愛らしさが滴っている。世間に美しい女はいくらもいる。 たとえば藍子のように。だが、千晶の魅力は単に美人と形容するのと違った、特別なものがある。
  千晶は女の躰の魅惑を濃縮したような存在だ。自分が三百六十五日二十四時間、男の性の相手、ペニスの容れ物であると、一目で感じさせてしまう魔性をそなえ ている。可憐で華やかな娼婦。かわいい眼差しや無邪気な笑顔で科をつくる。媚を売る狡猾さと同時に、どんな男も拒まないなつかしい優しさで、男の魂を蕩け させる。命に花を咲かせてくれるような躰で、肉の甘い快楽に奉仕する。
  剥き出しの背中に、なげやりな媚態を漂わせていた千晶は、急に振り返った。喜色溢れる可愛らしい顔が、沢子に向かって手を振っている。千晶の爛漫と咲いた 笑みにつられて沢子も貧相な笑いを作り、手を上げて応えた千晶は豊かな胸を揺らしながら、駆けよってくる。
「沢ちゃん、せっかく水着着てるんですものこんなところにいたら、暑いだけじゃない。海に入ろうよ」
  息をはずませたままそう言い終わると、千晶は沢子の隣に腰を下ろす。思わず千晶に見惚れた沢子は、千晶の繻子のような肌が日に焼けて、一刷毛紅をさしたよ うに、うっすらと赤みを帯びているのに気づく。
「スコアなんか持ってきたの。沢ちゃん、エライ。さすが真面目人間ね。でも、千晶、思うんだけど、休み時間は遊ばなくちゃ。千晶は遊ぶために生まれてきた んだから、めいっぱい泳いじゃう」
  千晶は生き生きしてまるで疲れを知らない沢子は千晶の強引な誘いにのって、海辺までついてきたことを後悔している。昨夜は宿舎の部屋が蒸し暑かった上に、 枕が変わると寝られない性分なので、殆ど寝ていない。
  今の沢子には海の水はとても重たく感じられる。こんな暑熱の中で海に入れば、貧血を起こして倒れてしまう。大柄な沢子と千晶を比べれば、女らしい、嫋やか な躰つきの千晶の方が弱々しく見えるだろう。しかし、千晶は弱げに見えて逞しい。昨夜も素直な寝息をたてていた。
「今日はとてもそんな気力がでないの」
  沢子はやっとそれだけ言う。
「こんな暑いところで我慢できるの?  千晶は水の中の方が絶対に気持ちいいと思うわ。タンポンだったら平気でしょ」
  千晶は早合点していたが、沢子に訂正する元気はない。
「午後から管分奏でしょ。体力を蓄えておかないと、バテてしまうわ。午前中の練習だけでも、とても疲れちゃったから」
  そんなに疲れたの、大丈夫、と千晶は同情するような素振りをみせる。本心では沢子の体調など心配するはずはない。でも、その口調はまったく愛嬌に溢れてい たので、沢子は千晶に降参した。
「マーラーってどうしてあんなに長たらしいのかしら。千晶みたいに元気でも、一曲演奏しおえると、ぐったりしちゃう。だから千晶この頃ズルして、手抜きの 練習してるの。きっと管分奏で吉岡先生や重宗さんに叱られるわ。沢ちゃんは大丈夫よ。いつも真面目だしフルートもうまいし」
  千晶に真面目と言われるのは、女として色香に望みがないと言われている気がする。
  千晶は管分奏を全然苦にしていない。千晶にとって管インスペクターの重宗も、勿論指揮者の吉岡先生も、扱いやすい相手にちがいなかった。誰も千晶のような 女を強く責めることはできない。千晶は自分が男に対してどんな大きな影響力を持っているかを、本能的に知っている。もし、練習不足で失敗でもしたら、満座 の中で恥をかかなければならない沢子とは大違いだ。
  波打ち際で千晶を呼ぶ声がした。千晶は声の主に向かって、愛想よく手を振る。そして熱気のこもった躰を起こした。立ち上がった千晶を見上げると、彼女の柔 らかい髪が強い日差しにきらきらして見える。ぬめりを帯びて光った白い肌には、褐色の砂粒が一列に並んで付いていた。
「沢ちゃん、それじゃいってくるわ。バイバイ」
  千晶の足あとが、海までゆるやかな曲線を描いて、砂の上に残されていく。そのわずかなくぼみさえ、足の持ち主の愛らしさを伝えている。
  沢子は海の中に見え隠れしながら遊ぶ千晶を眺めていたが、ふと、ここにいないはずの藍子の熱い息づかいを感じた。藍子がすぐ隣に腰を下ろして、千晶のこと を見つめている気がした。藍子の存在を生々しく感じるなんて、やはり暑さでどうかしている。
  それにしてもなぜ、藍子はこの合宿に来ないのか。風邪の調子がそんなに悪いのだろうか。この頃の藍子はどこか変だ。沢子には藍子のことはまるでわからな い。藍子という人は、他人に心の中を覗かせる無防備なところがない。世間に裸身を晒して歩いているような千晶に比べ、防御が徹底している。おだやかにやさ しい人なのにどこか近寄り難いのだ友人との間にも見えない皮膜を作っている。
  午後の練習は二時から始まることになっていたので、遊びに来ていたメンバーはそろそろ海からひきあげなければならない。歩いて十分程の合宿所に戻ると、分 奏にそなえて練習している楽器の音が、あちこちで自己主張をぶつけあっていた。
  沢子はシャワー室に入ったものの、水を浴びる気持ちになれない。汗をかいているはずなのに、水に触れると悪寒に襲われる気がした。日射病になりかかったみ たいだ。砂で汚れた足だけ我慢して水道で洗い流し、あとは濡らしたタオルを固く絞って拭く。沢子は痩せて汗ばんだ躰を何度も拭くと、Tシャツとジーンズに 着替えて、火照った躰を引きずりながら部屋に戻る。
  女子学生専用の宿舎の、二階の沢子たちの部屋に近づくと、多くの楽器のぶつかり合う音の中から、突然、溜め息をつくような、くぐもった女の声のような、温 もりのある音が流れていることに気づいた。部屋の扉を開けて、沢子は息をのんだ。
  藍子が窓際に立って、ヴィオラを弾いている。藍子の細い背中をすべり落ちる、長い漆黒の髪の濡れたような光沢が、瞼の奥に粘りつく。
  ヴィオラの音色は、微かに暗い表情を帯びながら途絶えた。ヴィオラを下ろして楽譜を眺めている藍子の姿は、まるで祈りながらあるものを必死に待ち受けてい る姿に見える。部屋の中はひんやり静かだ。
  藍子は沢子の呼びかけに、ゆっくり振り返った。はにかんだ微笑みを浮かべていても、旅疲れのためか、病み上がりのせいなのか、めっきり面やつれして青白 い。
「風邪の具合はもういいの?」
「そんなに大したことはなかったの。沢ち
ゃんには心配かけてしまってごめんなさい  」
  どんよりした声の響きだった。沢子はふいに、藍子が這うようにしてこの合宿に来たことに気づいた。藍子は明らかに病気で、飴色のヴィオラは重すぎる。
  しかし、沢子はどのような言葉をかけてよいものか、見当もつかなかったし、二人の間に沈黙が続くことはもっと耐えられない気がした。仕方ないので、事務的 に宿舎の構造や練習予定について説明を始める。
「今日の午後は予定が変わって分奏になったの。管楽器が体育館の方を使って、弦楽器は食堂でやるの。食堂の場所わかるかしら。案内するわ」
  藍子は、いつもきっぱりした動きをする人だが、今はどこか物憂い仕草で、ヴィオラを畳に置かれたケースの中にしまいこんでいる沢子が藍子を連れて、中庭に 面した食堂に向かおうとしたその時、目のさめるように鮮やかなトランペットの音が鳴り響いた。
  藍子が、沢子の目にもそれと分かるほど動揺した。トランペットは、マーラー第五番の冒頭のソロの旋律を演奏している。「葬列のように」と指示された第一楽 章は、ただ一本のトランペットの陰鬱なファンファーレで始まる。一時間十五分ほどの、この長大な交響曲の口火をきるトランペットの奏者は、重宗恒一しかい ない。
  藍子をひっぱるようにして中庭に出た。重宗恒一は男子学生用の宿舎にされている、東側の棟の、二階のバルコニーに立って、トランペットを吹いている。
  そのトランペットの響きは、まっしぐらに青空に駆けのぼっていく。少しも、死の影に脅える葬送の旋律には聞こえない。重宗の語ったマーラーの絶望や孤独と も無縁の音楽だ青春の力に充ち溢れ、朗々として、力強い。若者らしい響きだ。
  バルコニーに立つ重宗の横顔は、背景から際立っていて、そのまま額縁に入れられる。天上を仰いで、一心に演奏に身を捧げている横顔は、ギリシャ彫刻のよう に美しい。鳴り響くトランペットの音は、ひたむきな若い生命力を、宿舎の上に降り注いだ。
「よおっ、ミスター・オーケストラ、頑張
れ」
「重宗さん、アンコール」
  見物の学生達から声援が飛ぶ。重宗は賑やかな応援団の喝采に、少年の笑顔を浮かべて応える。マーラーをやめて、フンメルのトランペットコンチェルトが始 まった。沢子は、以前にフルートのパートリーダーの野村が「管楽器は男の虚栄心を最高に満足させる。だから僕は弦楽器じゃなくて、管楽器を選んだんだ」と 言ったことを思い出していた。
  藍子は紅のない唇をきっと結んで、身じろぎもせず、ただ重宗恒一を真っ直ぐに見つめている。婚約寸前と噂される恋人を見るには烈しすぎる眼差し。苦しげな 表情だ。
「おーい、練習はじめるぞ」
  指揮者の吉岡先生が中庭に顔を出して、重宗に声をかけた。学生達はそれぞれの練習場所に移動をはじめ、重宗はトランペットに溜まった唾液を始末した。重宗 がバルコニーから部屋に戻ろうと向きを変えたその視線が、食堂の入口に立っている藍子の上を通り過ぎて、また藍子に戻って静止する。
「今来たのかい」
  重宗はバルコニーから、よく通る深みのある声で、藍子に声をかけた。重宗は藍子をじっと見下ろして、きわめて晴れやかな笑みを見せている。
  藍子は無言で、と言うより一言も発することができないふうで、ただ少女のようにこっくり頷く。衆目の中で話しかけられたためにまるで可愛い童女が羞じらう ようすを目にして、沢子は殆ど衝撃と言ってよいほどの驚きを感じた。
  恋愛において、恋人たちが平等の立場にいるなんて、あり得ないことだった。愛するか愛されるか、支配するか征服されるか。その天国と地獄、両極端のいずれ か、二つに一つの場所しかない残酷なゲーム。それが恋愛というものだ。沢子が望むもの全てを持っている藍子でさえ、完敗するかも知れない。そんな恐ろしく 理不尽な試みが、恋に落ちることなのだ。
  この発見は沢子を震え上がらせる。自分が勝者になる可能性を信じない沢子は、将来決して恋の情熱に巻き込まれることのないようにと、祈らずにはいられな い。
  重宗が部屋の中に去ってしまってからも、藍子は重宗の立っていたバルコニーを見上げている。恋人のいた余韻をいとおしむ心映えはどこか痛々しい。
「藍子さん遅かったじゃない。もう来ないのかと思って、みんながっかりしてたんだ。藍子さんの姿が見えないと、練習してても張合いがなくてつまらなかった よ」
  コンサートマスターの武井が、ヴァイオリンケースを抱え、脂下がったようすで藍子にすりよって来た。藍子は武井の調子のよさに表情を和らげると、急にいつ ものおだやかで誇り高い藍子に戻る。藍子は武井に対しては勝者なのだ。藍子は、女が自分の愛していない男には見せることのできるにこやかな態度で、合宿に 遅れた理由を説明し始める。武井は藍子の機嫌をとりまくって笑わせた後に、藍子の手をひこうとして、ぴしっと拒絶された。
  武井は大学入学当初は優秀な学生だったという噂もある。熱心なコンサートマスターとして、オーケストラクラブにいれあげたあげく留年を続けていた。背が高 くて敏捷な身のこなしをしている。音楽好きの青年というよりは、スポーツ選手という印象を与えるだろう。ヴァイオリンも達者だが、ヴァイオリンというス ポーツを力一杯にやっている感じが否めない。
  しかし、武井は下級生や女学生には人気がある。彼はこまめに気のつく男でどんな女の子にも、沢子にさえ親切に機嫌をとることができた。猥談が多いのだが、 不思議と嫌われない。上手く説明はできないが、重宗と違って女が構えなくていい。気安くすっと入りやすいところがあった。武井には奇妙な噂もある。合宿に 来ると夜中にストリーキングをして廻るというのだ。
  藍子は武井からうまく離れ、管分奏に行く沢子と別れる前に、囁くようにこんなことを言った。
「ああいう軽薄なやりとりも私には必要な時があるのよ。どんなに空っぽの言葉でもいいから、胸を満たしておきたいなんて思う時がね」
  藍子が自分の心情をさらけ出すということは、めったにないのだけれど、この言葉は本音のような気がした。藍子は自分でつけた錘(おもり)にひきずられて、 沼底に落ちていこうとしているみたいだ。


  千晶  その一

  恋人に抱かれているとき、千晶は光のなかの淡雪みたい。すべてがふわっと溶けてゆく心地よさに浸るの。その感覚はなんというか……とにかくとてもいい気持 なのよ。
  ゆれて揺られて夢をみている。二人は動きながら時間がとまっている。千晶の躰は蜜の壺。恋人と千晶は互いに嵌めこまれた一つの生き物になる。ふたつの躰 は、奥に奥に底深くまで入りこみながらひとつに潤んでいく。あたたかなひなたの匂いに包まれて、細胞の柔らかい襞と襞はとろりと消えてゆく……。
  色々な恋人を思い出してみると、千晶を最初に抱いてくれたのは、男の人じゃないことに気づいて不思議な気がする。初めはすべすべのほの温かい肌をしたきれ いなお姉さんだった。美津子さん、ミコ先生とみんなは呼んでいた。
  ねっとりしたものが澱んで流れる感覚がしてパンティを濡らしたのに気づいたのは、中学に入ってしばらくして……十二歳だったと思う。自分の下着に血がつい ているのを見てこれが初潮というものかと思った。驚きはしなかったし、とうとう女の秘密を知ったみたいで少し嬉しかった。でも、ねばねばむずむずして気持 ち悪い。
  どうしていいかわからなかったので、保健室に行ったの。保健室には徳永美津子先生、つまりミコ先生がいた。若くておしゃれで悩ましいくらい色気のある先生 でね。男子生徒なんかわざと怪我したり仮病をつかっては、保健室に入り浸ってた。
  ミコ先生は簡単な手当ての方法を教えてくれて、新しい下着とナプキンを千晶に渡してくれた。
「養護教諭としては、おめでとうって言うべきなのかもしれないけれど、そんな白々しいこと、わたしは言わないわ。肉体として大人になりますという印だけ ど、こういうことって色々と厄介なことの始まりなのよ。あなたにはまだよくわからないことでしょうけど、そのうちわかるわ」
  ミコ先生はそう言って両手で千晶の頬をはさんで、ふふふと意味ありげな笑いかたをした。
「ナプキンと生理ショーツの代金は、生理がすんでから持ってくればいいわ。あなたってほんとうにかわいい子。待ってるわ」
  言われたとおり、千晶は生理がすんだ翌日の放課後、保健室にお金を持っていったわ。ミコ先生は忙しそうにしていたけど、千晶を見るとベッドのある場所の カーテンを開けて
「ここのベッドに座って待ってて。疲れたらお昼寝しててもいいのよ」
  と言って、またカーテンを閉めてしまったミコ先生は忙しそうで、うんざりするほど待たされた。
  千晶はほったらかしにされて退屈で、そのままベッドに転がっているうちに、ほんとうにうつらうつらしていたみたい。
  なま温かい息の首すじのあたりにかかる感じで目が醒めた。目の前にミコ先生の顔があったわ。ミコ先生は白衣を脱いで、紫色のセーターを着ていた。いつも結 い上げている髪を、腰までたらし化粧を濃くしていて、一段とあでやかに見えた。
「待たせたわね。あなたと二人きりでゆっくりお話しがしたかったのよ。鍵もかけたし、もうここには誰もこないわ」
  ミコ先生はちょっと待って、と言うとまたカーテンのむこうに行き、がさがさ捜し物をして、戻ってきた。
「あなた、これ使ったことないでしょ」
  ミコ先生が差し出した物は、初めて見るタンポンだったわ。
「この使い方を知ってると便利よ。養護教諭がまだ生理のはじまったばかりの中学生にこういう物を薦めるのはいけないんだけれど、現実には、女はみんな使っ てるわけだから、ちゃんとした使い方を私が教えてあげるわ。開けてよくみてごらんなさい」
  包装を開けると、それは人指し指よりやや細い筒状のもので、先に白くて長い紐が付いていた。
「紐のついてる方がしっぽよ。手を汚さないように、プラスチックの容器に入ってるのもあるの。ここに説明書があるから読んでごらんなさい」
  千晶は女が股間を広げている何枚かの図を見せられてふしぎな気がしたわ。
「よくわかった?」
「なんとなく」
「なんとなくじゃ使えないわよ。結婚して子供でも産んだ女なら、わかりすぎるほどだけれど、あなたはまだ中学生でしょ。多分男の人は知らないわよね。ど う?」
「知ってます」
  むきに答えた千晶にミコ先生は独特の艶のある声で笑った。
「あなたの知ってるという意味はどういうことかしらね。さあ、パンティを脱いでベッドに寝なさい。早くして」
  ミコ先生の有無を言わさぬようす気圧されて、千晶は言われた通りにして、ベッドの上に躰を横たえた。
「脚をいっぱい広げてね。女どうしだから恥ずかしがらなくていいの」
  ミコ先生は、千晶の制服のスカートをまくり上げると両脚を掴んで思いきり開かせた。そして千晶のあの部分をゆっくり撫ぜながら
「入れる場所わかる?  自分の指でさわってごらんなさい」
  と言った。千晶は自分のしている姿が恥ずかしくて、躰中が火照っていたのに、ミコ先生にいわれるままに、指をおそるおそる動かした。やわらかい湿った場所 だった。でも、「ちがうわ」と言われ、ミコ先生の指がいきなり今まで千晶の触ったこともない場所に突き刺さった。躰の芯にびりびりと電極が差し込まれたみ たいだった。
「ここよ。ほら、あなたの指も入れてみて」ミコ先生は千晶の指を正しい場所に導いた。
「さあ、指を入れてみて、初めてなんだからそっとでいいのよ。どんな気持ち?」
  ミコ先生はそう言うと、またカーテンの向こうに行った。再びカーテンが開くと、ミコ先生は豹変していた。恐ろしく真剣な目をして現れたの。手に大きな鏡を 持っていた。ミコ先生は千晶の脚の間にその鏡を置いた。
「さあ、そのままの姿勢で上半身だけ起き上がってごらんなさい」
  ミコ先生は千晶の後ろにまわって、千晶を助け起こすと、自分もベッドにのった。後ろから千晶を抱きかかえるように自分も脚を広げて……。千晶の背中にぴっ たりくっついていた。そして、鏡によく映るように千晶のスカートを脱がせてしまった。
「鏡を見るのよ。あなたがすることを、しっかり見るのよ」
  千晶の首筋に、ミコ先生の熱い息がかかったわ。ミコ先生の甘い強烈な香水の匂いに包まれて、酔ったように目眩がした。くちなしの花がこもったみたいな匂い がする……。
  ミコ先生はその白い指を波のように動かして、千晶の秘密の場所を柔らかく、繰り返し愛撫した。千晶は生まれて初めて経験する妙な感覚に目を開けていること もできなくなってしまった……。腰から下が痺れて、心臓がピストンのように激しく動いて、肩で息を吐かなくてはならなかった。首筋にミコ先生の接吻の雨が ふった。いつの間にか千晶は、一糸まとわぬ裸にされていたのよ。
「なんてきれいなからだかしら。私の思っていたとおりよ。さあ、あなたのからだを見てごらんなさい」
  うっすらと目を開くと、鏡には千晶の首から下の部分が映っている。でも恥ずかしさと興奮しているのでよく見ることはできなかった。ただ眩しいくらい白い肌 と鮮やかに色づいた朱の乳首があったことだけ憶えてる。
  ミコ先生のしっとりした掌は、千晶のふくふくしたところを優しくはいまわり、ふとももをなぜまわしたの。千晶はミコ先生に促されるままに、初めて自分の性 器を見つめた。そこは千晶とは関係のない、不思議な生き物に見えた。牡丹の花びらが薄くれないにひろがり重なっているみたい。その一番芯の部分は紅潮し て、今にもぷるぷる震えそうだった
「ここが、あなたの中で一番大事なところよ男のひとが何としても見たがる場所。男のひとの欲望のすべてが降り注ぐところよ。タンポンてここに入るの。男の ぱんぱんになったペニスの代りに」
  ミコ先生は、皮をむいたタンポンを細い指で摘むと、いきなり千晶の花の中心に突き立てた。初めての固い異物を挿入された驚きで思わずうっと呻いた千晶の奥 に、ミコ先生は容赦なくタンポンをそのまま深々と押し込んでいく。
「痛い?  こんな小さなものを入れても処女膜は傷つかないわ。ほら、ずんずん入っていく。あなたのあそこがなめらかに呑み込んでしまったわ」
  白い紐がでていなかったら、千晶の中に何かが入っているとは思えない。
「この紐を引っ張って」
  千晶は紐を引っ張ってタンポンを取り出した。ミコ先生は別のタンポンを何本か、小さな束にして集めた。
「男のひとのあそこは、このぐらいの太さかしら。こんな太さと固さの、先の二つに割れたものが、武器のようにあなたのここをつつきまわして喜ぶの」
「そんなもの入ったら、つらくない?」
「初めての時は、そりゃあ少しはね。血も出るし。でも次からは、全然違うわ。とてもいい気持ちになるの。ペニスって先が丸々ぬるぬるしてちょうどいい固さ なの。回数を重ねる毎にペニスの気持ちよさはどんどん深まっていく。わたしくらい経験すると男のものに貫かれると、ぞくぞく震えて失神しそうになるの。オ ルガスムスという言葉聞いたことある?  いっちゃうの。天国に。男のあそこがわたしの奥にぴたりと吸着して、二人は一緒に揺れて、呼吸して、一緒に果てるの。女に生まれたのは特権よ。セックスを するか、そのそぶりだけでも男の人を思うままに動かせるの。とくにあなたみたいにきれいな躰をしてたら、すべての男を虜にしてしまう」
  ミコ先生はそう言うと、鏡を隣のベッドに放り出して軽く千晶の背中を押して千晶をうつぶせに寝かせた。「脚は開いたままにしていてね」ミコ先生はそう言う と、しばらくしてからふわりと千晶の躰の上にかぶさった。ミコ先生は服を脱いでしまった。千晶のように何も身につけてはいない。千晶はミコ先生に抱かれ た。ミコ先生の裸はやわらかで、熱くしとっていた。
  ミコ先生は千晶と密着しながら、その細い指を舞わせるように千晶の花びらの重なりを撫ぜたりつまんだり突き刺してみたりした。千晶はされるままになってい るうちに花から滴るように溢れるものを感じた。
  ミコ先生は何度もため息をもらした。そのたびに甘い匂いが千晶の喉の奥をくすぐったかわいくてたまらないわ、とミコ先生は囁いた。
  ミコ先生は指の動きをとめて
「今度はあなたの番よ」
  と言うと、千晶の手をミコ先生の花びらにまでもって行った。
「さあ。さわってみて」
  ミコ先生は千晶の指を導いた。
「すごく濡れてる」
  千晶が慌てて手を引っ込めようとするのを抑えて、
「もっと大きく動かして、さあ」
  と、ミコ先生は千晶の手をぎゅっと掴まえて上下させた。ミコ先生の女の秘密の場所は千晶のものより暗い色をしている。千晶はどうしてもその淫靡なひらひら から目が離せなかった。やがてミコ先生は眉を寄せて宙を見ているようなうつろな表情になり、目を細めながら段々に目を閉じて全身を細かく顫わせていく。ミ コ先生の白い喉がかすかに喘ぎ始めた。
  ミコ先生はしずかにはなやかに絶頂を迎えたのかもしれない。ミコ先生のその表情は甘さに耐えきれず、身悶えするような不思議な表情に思えた。信じられない ほどきれいな顔だった。千晶は自分も意識が躰からふわりと舞い上がるような不思議な気持ちになっていった。
  気づくと二人は疲れ切ってベッドに横たわっていて、ミコ先生は千晶の躰を優しく撫ぜ続けてくれた。
「あなたは、本当にふるいつきたくなるようなかわいい躰よ。今日から私のだいじな宝物になるの。私があなたにいろいろなこと教えてあげるわ。男のひとの扱 いかたも教えてあげる。毎週金曜日の放課後に、保健室にいらっしゃい。いいものみせてあげるから」
  ミコ先生のそれからの教育は、実に大胆なものだったの。千晶に、セックスの快楽と淫乱な行為と避妊を、ミコ先生以上に完璧に教
えこめる人はいなかったと思う──。                                             
  ミコ先生は、毎週金曜日の放課後に保健室にさまざまな男を誘いこんでた。千晶はミコ先生に指定された、薬品の入った大きな棚の中に隠れ、その隙間からミコ 先生の情事を眺めた。ミコ先生はいつもパンティをしていなかったので、男は前からでも後ろからでも、すぐミコ先生のスカートの中に手を入れてた
  千晶の知っているたくさんの男のひとが来たわ。礼儀作法にうるさい校長先生が、どんなに卑しい求め方をするか、新任の教師がどんなにへたくそか、千晶はつ ぶさに知ることができたわ。ミコ先生と男とのあらゆる痴態は、見飽きることはなかった……。
  でも、ミコ先生のせいで千晶は男に対する尊敬の気持ちを持てなくなってしまったわ。どんな男もスカートさえめくれば、いや、めくるそぶりをするだけで女の 言いなりになるミコ先生は結局千晶に、この一事をたたき込んでくれたの。
  千晶はそれまで、女は男より頼りなく弱い存在だと信じていた。でも、ミコ先生は男の上に君臨していた。男を支配していた。ミコ先生のように女の魅力を使え ば、女は男よりずっと強くなれる。ミコ先生のようになれたら……男を思うままにできたら、千晶はどんなに自由になれるかしら。ミコ先生のように男を従えな がら男の愛を勝ち得たい。女より優秀で力のある男という性を支配するのは、想像するだけでもぞくぞくする快感、芸術のように美しくて、政治のように狡猾な こと。これこそ千晶の生き甲斐かもしれない。
  それから、ミコ先生は保健の先生だから、避妊のことはよく教えてくれたわ。女は妊娠したらおしまいだと、それはくどいほど注意された。そしてこうも教えて くれた。妊娠というのは予定外にするのは最悪だけれど、どうしてもこの男を取りこみたいというときの最後の切り札になるからよく憶えておきなさいっ て……。
  避妊のためと性病予防のためにコンドームを使うことを教えられた。ムードをこわさないために、女の子がコンドームをつけてあげるといいのよということも教 えてくれた。それから避妊には低用量のピルが一番だけど、千晶のようにまだホルモンのアンバランスな年代に使うのはよくない。相手がコンドームを使うのを 嫌がるようなら、ペッサリーを使いなさいと使い方を教えてくれた。最初は子宮の入口に装着のしかたが難しかったけど、何度か使ううちに馴れてきた。だか ら、ミコ先生のお蔭で千晶は妊娠中絶なんてドジは踏まずにすんだんだと思う。
  今はね、もう二十歳になったし産婦人科でピルを処方してもらってる。これはとても簡単で確実なものだから、安心してセックスを楽しめるわ。でも、よく飲み 忘れちゃってひやっとする。
  千晶の最初の男は、ミコ先生が紹介してくれた人よ。ミコ先生と三人で遊びのようにやったの。もう名前も忘れてしまった。逞しくて精力の強い人だったという 印象はあるけどそれほど感動しなかった。とにかく猛烈に千晶の中に突っ込まれて痛かったわ。中学や高校の頃の恋愛やセックスは好奇心だけだったような気が するの。
  望んだ関係もあるし無理やり迫られてしかたなしの関係もあったけれど、今まで何人と寝たかなんて答えられない。数えたことなんてないんですもの。袖なしの 服なんか着てたり、ミニスカートを履いてたりするとよく痴漢にもあった。抱きつかれたり、道の暗がりに引きずりこまれたりね。通学の電車の中で制服のス カートの上から射精されたりすることもあったし、ひどい時なんか満員電車なのにパンティまで脱がされてあそこ触られて、もうエライ目にあった。
  千晶が痴漢にあうのに同情してくれた人がいてね。ある中小企業のオーナーのドラ息子で、毎日フェラーリで千晶の学校の送り迎えをしてくれたわ。でも、千晶 の住んでたところは新潟の地方都市だったから、近所ですぐ噂になっちゃったの。パパが烈火のごとく怒って二週間で終わりになっちゃった。
  大人の人のほうがプレゼントはしてくれるし、御馳走もしてくれるし、楽しかった。つきあうのなら年上の人がいいわよ、絶対。千晶は惜しみなくお金を使って くれる人が大好き。だから、同級生とかそういうのは、せいぜいキスして胸を触らせてあげるくらいのことしかしてない。それでもみんなむしゃぶりつくように して喜んだ。どうして男って千晶のおっぱいがあんなに好きなんだろう。
  ミコ先生とはあれから何度もいいことをしたわ。ミコ先生は、女は蔭ではどんなに淫乱でもいいけど、表向きは難しいという評判だけは守ったほうがいい。蛇の ようにずる賢くふるまえと教えてくれたから、大抵の人とは一度しか寝てないの。いつも処女のふりしてばれないためにもね。意外かしら……。でも一度寝て、 次もと思うから男はもう千晶のこと追いかけまわして目の色変えてた。命がけで求められるのは快感だったわ。
  当時の千晶はセックスが好きなんじゃなくて、男が自分に夢中になる姿が面白かったんだと思うの。セックスというのは男の人を惹きつけるただの手段にすぎな い。そう思ってきたわ。
  でも段々大人になってくるにつれて、セックスの悦びも急激にわかるようになってきたセックスというのはやればやるほど奥が深いものよ。男と女を親密に繋ぐ 唯一のものだし何より命の芯から燃え上がる。二人一緒に必死になれる。他ではないことよ。セックスは他のどんな行為よりも、生きている実感と幸福を味わえ るものだと思う。
  でも、千晶はただセックスの相手に恵まれているだけかもしれない。心から愛していると思える男の人とは、じつはまだ出逢ったことがないの。セックスは愛が 生れるきっかけであって、愛を深める方法だけれど、愛そのものとはちがうでしょ。だから、千晶はいつもどきどきしながら愛する人を求めている。


  藍子  その二

  重宗との出会いから二ヵ月あまり、私は三日にあげず彼と会い、二人で過ごす時間の幸福に浸りました。迎えた季節の底冷えのする寒さにもかかわらず、春のや わらかな日溜まりを漂うようでした。
  轢死体の話がよみがえると、不安は煽られて胸いっぱいに燃え広がりましたが、すぐに重宗の傍にいる喜びがそれを打ち消してしまいました。私たちはごく自然 に、恋人どうしと思われるようになり、婚約するだろうという噂までたったほどでした。
  二月に入ると、外は厳しい寒さに転がり落ちて、その日も冷たい灰色の風が吹き荒れていました。
  私はいつもの待ち合わせの場所にしている新宿の本屋で、砂漠の写真集の頁をめくっていました。砂漠は真昼の灼熱も夜の星の洪水も底光りする美しさでした。 レジで目的の本を買って戻ってきた重宗に、早速、サハラ砂漠の砂はサーモンピンクの色をしているのね光と風の具合によって一面の花吹雪のように見えるの よ、と話をすると、重宗もサハラには薔薇の花に似た石がたくさんあると答えました。
「美しいものは、どうして人が生きていけないような厳しい場所にあるのかしら。砂漠の光景とか北極のオーロラとか」
  この言葉を発した時も、私は満ち足りた心持ちでいたのです。ところが少しの沈黙のあとに、重宗はもの静かな言い方で、こう返したのです。
「本当に美しいものは、命と引きかえる覚悟がなければ、手に入らないということかな。この頃よく考えるんだ。僕が人生に求める切実な何かは、安らかな場 所、たとえば愛に酬いてくれる人からでは決して得ることができないだろうってね」
  不意打ちでした。重宗の言葉は、呑み込むと肺腑の奥深くまで、焼き尽くすようでした引導を渡されたのです。私は重宗の愛に酬いる女であるから、どうあがい ても彼の心を得られないのでした。これ以上不当で冷酷な理由で拒絶される恋人がいるでしょうか。
  重宗は自分の言葉が与えた衝撃には気づかないようでした。その証拠に、表面上は今までと変わらず穏やかな日々が過ぎていきます重宗は劇薬の言葉を投げかけ ただけで、私に別れのそぶりさえ見せなかったのでした。私は希望の消えたまま、今までどおり彼に会い続けました。
  重宗は充たされることのない意志の人で、自分の力を過信していました。傲慢で孤独なまま生きていこうとするのでした。私は重宗のそんな危うさに惹かれまし た。彼が私を切り棄てないのは、私が連れ歩くアクセサリーとしてまだ利用価値があるからではないか、それとも私が自然に離れていくのを待つつもりなのかと 疑いもしました。しかしあまりに深く恋の深みにはまりこんだので、戻れなくなっていました。私は自分の性格が痩せていくように、疲労していきました。
  そんな状態が変わる日がくるのは、必然のなりゆきでした。
  同じ指揮者の指導を受ける三つの大学のオーケストラクラブは、隔年ごとの十月に有志を集めて、合同で演奏会を開いていました。大学院一年生の重宗にとって は三度目、大学二年の私には初めての、そのジョイント・コンサートの演目はマーラー第五番交響曲でした。練習会場は三大学の持ち回りです。
  演奏会の出演者の初顔合わせが行われた六月のある一日が、事の発端となりました。私は偶然に重宗がある目をしている瞬間を捉えました。その眼差しは独特の もので、男に真剣に恋されたことのある女なら身に覚えのあるものでした。
  どんなに狡猾な男でも、本当に好きな女を見る時の目だけは、隠し通すことはできないでしょう。それは愛の対象を一途に追い求め一瞬も視線を外すことなく、 彼女をまるで目で愛撫するように、目で接吻でもするかのように見つめ続ける、そういう優しさの極みの目なのです。
  重宗がその眼差しを注ぐ相手を認めた時、私はうろたえました。信じられない相手でした。
  たしかに、私と同級生のその女は魅力がありました。ほとんどの男が、一度は彼女に夢中になることは知っていました。しかし、あの重宗が、自負心の塊のよう な男が、彼女を選ぶとは想像もできなかったのです。
  重宗は初対面でその女に心奪われたというのでしょうか。電車に切り取られた顔の恋人であった彼が、そんなに月並みで、庶民的な趣味の持ち主だったとは全く 驚きでした。器量もスタイルも申し分なく可愛らしくて、愛嬌のかたまりというだけの、知性とはほど遠い、男出入りの派手な女が、重宗の心をわし掴みにしま した。私から鞍替えした相手に彼がどれほど惚れこんでいるかは、その目が何より雄弁に物語っていました。
  初めは重宗の一時的な気まぐれかもしれないと小さな期待も持ちましたが、日を重ねる毎に重宗の目の愛撫は露骨になっていきました。私は成すすべもなく、重 宗の恋の烈しさを見ていました。
  最も知りたくないことを見ることは吐き気を催す苦痛です。私が拒まれたのは愛に酬いる人間だからと思っていましたら、重宗は彼女のようなお手軽に寝てくれ る、簡単に酬いてくれる女で満足という、とんでもない結論が現れました。男の肉体の本音はそんなものということなのです。目的はセックスなのです。
  重宗と私は、依然恋人どうしとみなされていましたが、私は近い将来棄てられるのでした。棄てられるとは屈辱でしたが、それ以上に私の心を刺し貫いたのは、 重宗が彼女を選んだという事実でした。
  なまぬるい男になりたくないと語った重宗が、口あたりのよい砂糖菓子で、肌触りのあたたかい猫のような、そういう女に跪くことが、どうしても呑み下すこと ができないのです。重宗も多くの男達と同じように、朝から晩まで彼女とセックスするきっかけを掴みたいと、思い悩むのでしょうか。
  理性は、諦めて身をひくことを命令しました。私が競争相手に勝てないことは火を見るより明らかです。それでも恋をすることは、バカになることとほとんど同 義語でしたから重宗に別れを告げることができませんでした恋の矢に当てられた女はいやと言うほど苦しみを味わうようにできていました。
  賭博は、本来全財産を失う為に賭けるから人の心を熱く滾らせるのです。同じように恋も失う危険が大きいほど人の心を狂わせ、引き返すことを難しくしてしま います。
  私は自分の心の奥に秘めている重宗への執着の凄まじさに、ぞっとすることがありました。時々私は愛を返してもらえない自分の不幸そのものにも、執着してい ると感じました重宗に関係するものなら不幸であっても、味わっていたいと思ったのです。不幸というのが、本当は私を楽しませるために存在しているようでし た。
  ひと月後、恋の膿は思いもかけぬ形で私を急襲しました。私はマーラーの練習会場になっている明広大学の、だだっ広く寒々とした講堂に向かおうとしていまし た。初めて重宗と出逢った日と同じ道順です。明広大学の最寄りの駅で電車を下車した私の視線は、すぐ前の車両から下りてきた二本のすらりと白い脚に吸い寄 せられました。
  大勢の後ろ姿にまじったその二本の脚は、際立っていました。これまで見てきたどのような脚も比較にならないほど、ほっそり優雅な生き物でした。これ以上、 僅か一ミリ細くても、太くても、その絶妙な均整はくずれてしまうに違いありません。
  スカートがペチコートを忘れたように頼りなく薄いので、臀部の丸みや大腿がほんのり透けて見えました。短めのスカートの下であらわになった小さな膝のうら は、ふかふかでやわらかな張りです。乳白色の肌には、ほんのり桃色の血管が透けて輝くようでした。弓なりのふくらはぎから細く引き締まった足首を流れて、 サンダルからのぞく白くてまるいかかとまでの絶妙の曲線を、私は行きつ戻りつ、ため息まじりに眺めてしまいました。なんとやわらかになめらかな造型(フォ ルム)でしょう。
  その二本の脚に頬ずりして、舌を這わせるかわりに、私は視線を上から下、下から上と舐めるように這わせました。その脚は見つめられ崇められるだけでなく、 発情した雌の匂いをふりまいているのです。
  鮮やかな歩き方です。野性のけもののように放縦であったかと思うと、次の瞬間には優雅な貴婦人のようにしなやかでした。刻々と変化する歩き方は、溌剌と生 彩を放っていていくら見ても見飽きることはありません。私は、その魅惑的な脚の持ち主が、自分のヒップや脚の曲線を見せつけるために、わざと透けるスカー トをまとっているのだと知りました。男を欲情させようとする企みはみごとに成功しています。
  突然、頭上に一撃が振り下ろされて、全身に激しい悪寒が走りました。その二本の脚の持ち主が彼女、西原千晶だということに、気づいたのです。
  自分でも信じられないくらい、火のようにかっと頭が熱くなったかと思うと、次には氷の冷たさが、爪先から心臓まで一気に突き抜けました。がんがんする頭痛 と、ひどい吐き気に襲われ、私はプラットホームの敷石の上に坐りこんでしまいました。
  躰が上下に浮き沈みして、天井が崩れ落ちてくると思いました。真っ黒い影に押しつぶされました。急激な動悸で胸が張り裂けそう喘ぎました。こんな得体の知 れない、いたたまれない苦痛は初めてです。狂ってしまうのではないかと、慄えました。
  血管の中に潜んでいた毒針が、体内を暴走していました。焼けつく痛み。脳髄の中は救急車のサイレンの響きが充満して、混乱しました。この時、ホームに電車 が入ってきたら夢中で飛びこんでいったに違いありません。
  必死で助けを求めて祈ろうとしました。今まで捧げた幾百の祈りを一つに重ねたよりも死にもの狂いでした。それなのに、舌も心も麻痺して、ただ一つの言葉も 出てこないのです。私は遂に祈ることすらかないませんでした。舌先に毒薬をのせられたように痺れていました。手足も奇怪な無感覚状態に陥り、動かないので す。
  千晶の脚が、これほど完璧な美しいもので私でさえ見惚れたという事実は耐えがたいものでした。人体の一部に過ぎない二本の脚という衝撃で、私は無惨に砕か れていました。徹底的な絶望というわけです。狂おしいほど千晶に嫉妬していました。
  今まで自分の中に養いながら、決して認めようとしなかったために、嫉妬は体内で成長し続けて暴発の機会を狙っていたのです。今この瞬間、嫉妬は制御不能の 巨大な怪物となり、私に襲いかかっているのでした。この苦痛こそ嫉妬の本体でした。「おまえは絶対千晶に勝つことはできない。千晶はすべてを手にし、おま えはすべてを失う」と私を嘲笑っているのです。
  その時からでした。どのようにしても逃げ場のない嫉妬で、身の破滅に追いやられるようでした。
  嫉妬は日々刻々と増殖し続け、私を養分にして私の人格を貪り喰うようになりました。私と嫉妬の間には、もはや何の区別もなく、私の存在そのものが嫉妬なの でした。嫉妬の力は凶暴なくせに、始末の悪いほど傷つきやすいので、千晶を見ることは拷問でした。私には千晶の髪の毛の一本一本までが輝いて見え、華奢な 指の舞うような動きが、周囲に強烈な誘惑の香りを放つのを感じました。
  千晶は華やかでかわいらしい女の性の魅惑を身にまとい、すべてにわたる勝利を手中にしています。千晶はあらゆる女を凌駕していました。私には千晶と同じ空 気を吸うことさえ不可能なのです。千晶だけは澄んだ酸素を呼吸出来るのに、私は嫉妬に絡みつかれた血のにじむ息を吐き続けるのです。
  千晶の美貌を思い知ることは、骨身にこたえることでしたが、千晶の傍から離れられません。いつ重宗を奪われるかという不安にさいなまれ、たとえ一秒でもい いから、その強迫観念が現実になる瞬間を食い止めたいと、必死でした。
  クラブの練習がなくて千晶と会えない日は恐ろしい妄想に襲われ吐き気をもよおしました。眠ることさえ苦しみでした。悪夢を見るのです。例えばシャガールの 絵のような、夜空を浮遊する男女の映像が現れ、その男女が突然重宗と千晶に変わって抱擁しあいます。全裸の千晶は私に見せつけるために、さまざまな媚態を こらし重宗に甘い言葉を囁いていました。重宗は軽く私に一瞥をくれると、すぐに千晶に向かって火のような眼差しを注ぐのです。愛の誓いがどちらにあるかは 明らかでした。
  嫉妬の発作に襲われてからは、毎夜悪夢にうなされ、悪夢にうなされた翌朝は、躰は水に濡れた真綿のようにぐっしょりと寝床に貼りついていました。今日も目 が醒めて、今日も一日千晶のことを嫉妬し続けるのだと思うと、悲鳴をあげたくなりました。私は疲労の極に達していましたが、嫉妬は首を締めつけてきまし た。
  いっそのこと嫉妬に燃えさかるまま精神が破綻してしまえば、どんなに楽だったでしょう。自分の中に残されている少しばかりの理性を呪いました。臆病で死ぬ ことなど及びもつかず、狂うこともできないのです。奇怪で卑しい「嫉妬」という魔物に取り憑かれている自分の醜悪な顔を、毎日鏡の中に見なければなりませ んでした。
  肉体の中では嫉妬が濃縮され凝固し、癌のように病巣を広げ、内蔵を浸食していたにちがいありません。私はとうとう倒れました。ただ風邪をこじらせただけと はいえない、原因不明の高熱が続きました。
  寝込んでいるのは、いつもの自分の部屋そのものなのに、枕元から目に映る物すべてが黄ばんで濁っていました。まるで映画の画面が、黴だらけのフィルムのせ いで薄汚れているようでした。何度目をぬぐっても黄色い汚れは落ちず、私は汚濁した世界に住んでいるのだと知りました。
  私の容態を心配して、父の後妻つまり継母が何かと世話をやき、ベッドの脇に花まで置きました。その薔薇は真紅ということでしたが、私には非常に奇妙な色に 見えました。セルロイドの花のように、うっすらと黄ばんでいて、安っぽくて、下品にまっ赤でした。
  翌日、昼頃目を覚ますと、その花が分厚い花弁を大きく広げて、だらりと咲ききっていました。見れば見るほど卑猥な口をあけている花でした。咲きすぎて、 すっかりしまりのなくなった、その大輪の薔薇を眺めているうちに、ぞっと鳥肌が立つのを感じました。
  高熱に歪んだ目には、その花びらの真紅が強烈で、ふいに紅の濃い千晶の唇を思い出させたのです。放心したようにいつも半ば開いていて、なまぬるく濡れてい る、あの女自身を思わせる隠微な唇にそっくりでした。大きく口を広げた花弁の奥から、むせるような千晶の女の匂いが漂ってくるようで、私は何度も嘔吐しま した。
  真紅の唇の千晶は私を嘲笑っていました。千晶には充分過ぎるほど私を笑う資格があります。私が土下座しても得られない重宗の心を、彼女はただ存在するだけ で、いともたやすく支配することができるのです。千晶はあっさりと私から重宗を取り上げてしまうに違いありません。
  だらりと広がった真紅の薔薇の毒気は脳の中でアメーバーのように増殖していきました私が凝視している紅い花弁、千晶の唇は、視界を瞬く間に染め上げまし た。その真紅の視界は、遠い昔、重宗の目撃した轢死体から噴き出す血の色そのものでした。
  数日して熱が下がると、私は継母がとめるのをふりきり、病気で欠席していたオーケストラクラブの合宿に向かいました。夏休みを利用したマーラー演奏会の為 の合宿でした。最後の二日間のみの参加でしたが、重宗に矢も楯もたまらず逢いたかったのです。重宗と千晶の間にとうとう何かが起こるとしたら、それを知ら ないでいることなど、耐えられません。嫉妬はすべてを暴かずにはいられないのです。
  千葉の海辺の合宿所に着くと、ちょうど昼休みの時間帯で練習は始まっていませんでした。海に遊びにいったメンバーもかなりいたようです。合宿所の中は時折 個人が練習する楽器の音が響くだけでした。私は重宗の姿を追い求めていましたが、彼を捜す勇気はありませんでした。もし事態が決していたらと思うと、とて も胸苦しいのでした。
  マーラーの第五交響曲の、冒頭のトランペットのファンファーレが響いてきた瞬間、それが葬列を物語る陰鬱な旋律であることも忘れて、私の内部に、朝のよう にやさしい気持ちが溢れてきました。熱い血がどくどく流れはじめて、胸が高鳴りました。その旋律を演奏するのは重宗のたった一本のトランペットなのです。
  重宗は男子学生用宿舎の、二階のバルコニーに立っていました。天空に向かって演奏する重宗の姿は、静かに私を貫いていきましたたとえ他人にはどのように平 凡な演奏に映ろうとも、私にとって重宗は、この瞬間最も美しい音楽の担い手でした。地上から天界への橋渡したらんとする、芸術の悲願をなし遂げようとして いるのです。幸福が降り下る感動を覚えました。重宗によって自分の中の醜いものがすべて浄化されて、私はこの時嫉妬から解放されていました。
  重宗が私の姿を認めて、トランペットから口を外し、「今来たのかい」と言ったそのたった一言を呑みほしました。重宗から愛されたいという欲望に責めさいな まれていたのに初めてその欲望から自由になりました。嫉妬に悶えていた女は姿を消し、重宗への憧れだけに充たされ、ただ素直に人を愛そうとする人間がいま した。
  次の瞬間、千晶が視界に入りさえしなければ、醜い姿に戻らずにすんだでしょうに、私は千晶も重宗を見ていたことを知りました。重宗を見つめていた千晶は はっとするほど魅力がありましたし、彼女が演奏する重宗を好もしく思って見上げていたことは、明白でした。私は再び千晶に烈しい注視を浴びせていました。 千晶は既に重宗に片手をかけているのです。破局が近づいていました。
  その日午後の練習が終わり、夕食に皆を送り出した後に、私は宿舎の夕冷えた部屋に座りこんでいました。病み上がりで疲れたし気分が悪いと言いわけして、食 事を断ったのでした。沢子たちが私の顔色が悪いと言って布団を敷いてくれました。横になりたいわけではなく、ただ一人になりたかっただけでした千晶を見つ めているうちに気分が悪くなったことを、誰にも知られたくありませんでした
  嫉妬は憎悪と区別がつかなくなっていました。千晶さえいなくなれば、耐えがたい苦しみから解放される。千晶さえいなければ、私は醜い姿にならない。すべて がうまくいく。うわべは千晶の親しい友人でありながら、私はこの時はっきりと、千晶に殺意を感じていました。
  嫉妬の行きつく先は、その対象を呪い殺したいという、どす黒い欲望です。私は心の中で自分の吐いた凄まじい恨み言に、戦慄しました。震えが止まらず、歯が かちかち音をたてました。
  部屋の窓から食堂に通じる中庭がよく見えます。私は食事を終えた千晶が、重宗と笑いながら中庭に出てくるのを見ていました。千晶は部屋に戻ってくると、畳 の上に胡座をかいて座りました。沢子に笑っていた理由を説明しながら、千晶はゆるく結い上げていた髪の櫛をさっと引き抜いて、首を振りました。髪の毛を扇 のように肩の上に広げると、千晶は私の方に顔を向けました。
「藍子だいじょうぶ?  重宗さんも心配してたみたいよ」
  その言葉の響きの中に、千晶の抑えようのない優越感を嗅ぎとりました。強者の弱者に対するほんの気まぐれの同情。身も心も病んだことのない人間の優しげな 言葉の冷やかなこと。その上、重宗にまで千晶のようなたやすい調子で心配されたとは屈辱でした。
  夜の練習時間は七時半から九時半まででした。私は鉛の塊より重たく感じるヴィオラを弾き続けました。弾けば弾くほどヴィオラは重量を増して、肩に喰い込ん できます。
  マーラーの甘美な旋律も、愛への憧憬も、もがき苦しみながら軋む歯車の音で鼓膜を引っ掻きました。私はただ弓を上下して、苦役の練習が終わるまで耐え続け ました。
「気分はもういいの」
  奈落に引きずりこまれるような疲労と闘いながらヴィオラを片づけていると、重宗が近寄ってきました。
  重宗は私の答えを待っているのでしょうか彼は自信に溢れた様子で、他のことを考えている目をしています。重宗はその時々の欲望を目と声に表す人間でした。 今の彼の目の中に、私の姿は映っていないようでしたし、彼のテノールの響きは私を心配して曇ってはいないのでした。
  重宗は彼の心の中の音楽に熱中していました。重宗がどのような音楽を聴いているのか私にはわかりません。人は結局、自分自身の音楽にしか魅せられないので す。重宗は少年がはにかむような微笑を浮かべて、
「僕もちょっと風邪気味なんだ。昨日の練習のあとで徹マンしたのがたたったみたいだ」と言いました。
「中川と岡部がカルテットだけじゃなくてトリオもやりたいから、今度は藍子にヴィオラの代わりにピアノを弾いて欲しいって言ってた。ブラームスだって。中 川はロマンチストだからね。僕が楽譜預かってるんだ。仕上がったら、またいつもの区民センターで発表会をやろうね。ええと、これかな」
  重宗は脇に抱えた楽譜の束から、トリオの楽譜を引っ張りだして、差し出しました。その拍子に何枚かの楽譜が落ちたので、私は拾い上げました。その楽譜に目 を落とした私を見て、重宗は
「それトスティだよ。最近このたぐいの歌がとても面白くてね。歌ってみようかと思って……。僕がこんなイタリアの色男の歌を歌うなんて似合わないだろ う?」
  と、言いました。
「イデアーレね」
「そうだよ。他にも何曲か選んだんだ。あとで食堂のピアノで練習しようかと思って持ってきた。じゃあ、からだ大事にして」
  重宗はブラームスの楽譜を私に押しつけて去っていきました。
  その夜部屋に戻ってから、食堂から漏れてくる重宗のピアノと歌声を聴いていました。重宗はピアノはあまり上手くはありませんが官能的な歌い方のできる人で した。教師に教え込まれたものではなく、本人が先天的に持っていた資質なのでしょう。もし声量が加われば、美声の持ち主でしたからオペラ歌手にもなれたか もしれません。
  重宗を失うことを何よりも怖れている私がトスティのあの甘くせつない恋の歌を聴かされるとは、狂気の取り合わせとしか言いようがありませんでした。
  トスティの歌には、たとえそれが失恋の歌であったとしても、絶望というものがありません。骨の髄までイタリアの輝く太陽が染みこんでいるのです。重宗は恋 への憧れを歌いあげ、非常に幸福なのでした。失った恋人をひたむきに求める調べ、充たされないからこそ無我夢中で胸を焦がす恋の歌「イデアーレ」を歌いた い。そんな熱い愛の対象がいることは明白でした。重宗のイデアーレ、理想の人は千晶なのです。
  私は、重宗に愛されたいという、ただそれだけの願いに取り憑かれていましたが、いま聴いている「イデアーレ」の旋律は、私を棄てる高らかな宣誓として響い てきました。彼は悪びれることなく、ばっさり私を断ち切りました。私を棄てる後ろめたさもなく、いえ私を棄てるということさえ忘れて、千晶の魅力に酔いし れ、輝かしい「イデアーレ」を歌い上げました。
  それにしても「イデアーレ」の何と甘美なことでしょう。重宗の歌声の中に生きる悦びが躍っているではありませんか。重宗は正真正銘の恋を、人間が一生に一 度できるかできないかの、絶対の恋をしているのだと悟りました。終わり、完璧な終幕です。
  千晶への嫉妬に膿み爛れていた私の心は、塩をもみこまれてひりひり痛み、のた打ちまわるのでした。私は重宗との出逢いを見誤っていたことを知りました。
  彼は初対面から交際をしている間も、一度たりとも私に恋などしてはいなかったのでした。私を好ましく思っていただけで、千晶と出逢った時の衝撃こそが本物 なのでした。私は用済の烙印を押されましたが、重宗は自分が棄てる女がどうなるかなど、知ったことではありません。正真正銘の恋に落ちたんですから……。 私の心は凶暴なほど加速を始めていました。
  心臓は泥を呑み込んだような重苦しい拍動で血流を刻みながら、濁った澱を指先にまで伝えるのでした。出口を求めて何かが荒々しく蠢いていました。棄てられ た痛みが、何か全く違う、得体の知れない力に変質していくようでした。
  激しい感情がうねりはじめ、後から後から迸り湧き出してくるのです。重宗を失うことばかり怖れて萎えていた女が、瀕死の淵から生き返るような高揚が、今こ の瞬間、躰の隅々まで充ちていることに驚愕しました。ここにいる女は、異様なほど精気に溢れ、生き生きとしているのです。
  人はどのような瞬間から、真実の人生を生きはじめるのでしょう。私の真の人生はたった今ここに始まった気がします。私の内奥に火を噴いているこの力は、あ あ、あろうことか奔流のような憎悪でした。重宗に対する狂おしい恋は、この瞬間狂おしい憎悪に逆転したのです。
  私は今まで千晶に嫉妬し、彼女を憎みぬいていました。しかし本当に憎悪すべき相手は千晶ではなく、重宗恒一ただ一人でした。千晶のような「性」を与える娼 婦しか愛さない重宗の中の「男」こそ、私の憎悪の標的に他ならず、私は重宗に「女」の復讐をしなければなりません。
  憎悪は成就しなかった恋の一つの形です。人の一生に必ず始まりと終わりがあるように一度始めた恋も完結させねばなりません。成就しなかった恋は、命懸けで あればあるほど憎悪に変質しやすく、復讐以外のことはできないのです。
  重宗を心底傷つけることをもってしか、もはやこの恋を閉じることができません。重宗を烈々と憎むことで、ようやく私にも生きる意味が与えられ、真の人生と 呼べるものが現れるに違いありません。
  重宗が、千晶の数多くの不品行にもかかわらず、彼女を清純な乙女とも、美の女神とも崇めて恋をするならば、そうさせましょう。重宗はせいぜい千晶をイデ アーレと賛美すればよいのです。そして千晶の裏切りと底意地の悪さを思い知る日が必ず来ます。
  私は、重宗が千晶に最も残酷な方法で、ずたずたに引き裂かれることを願いました。そうでなければ復讐にはなりません。誇り高い重宗が千晶に無惨に棄てら れ、衆目の笑いものとなるように、私は持ちうるすべての力を使い果たそうではありませんか。
  ぱっと稲光に照らし出された一瞬の映像のように、復讐の方法をありありと見ることができました。私の立てたその復讐の計画はとても単純で、薄汚れた醜いも のでした。私は自分の卑しい企みを蔑みました。しかし、どうしたわけか、躰の芯を蝕んでいた嫉妬がすっきり晴れわたり、身も心も軽く爽やかでさえあるので す。
  私は悪事を企んでいるという興奮に慄え、ある種の、幸福と呼んでもいい感情に酔っていました。今日からただ一つの生きがいは、重宗を破滅させることでし た。充実した毎日が始まることでしょう。悩むことも迷うこともなく、憎悪を実行していけばよいのです。


  沢子  その二

  午後の管分奏はうんざりする程長かった。ベートーベンの第五交響曲が「運命」ならばマーラーの第五番は「宿命」のシンフォニーだと言われる。強烈で密度が 濃く、指揮者泣かせだ。ある名指揮者はこの交響曲を練習していて、疲労困憊のあまり指揮棒を落としたという。
  管インスペクターとして管分奏を指導する重宗は、暑さに消耗したのか、音楽的細部をばっさり諦める方針をとったらしい。沢子たちのような「足」を徹底的に 無視した。
  「足」というのは、実力のない者もとにかく舞台にのせたいという、アマチュアオーケストラの苦肉の策だった。沢子は第一フルートの「足」で、それはつまり 第一フルートの楽譜の、ソロ以外のフォルテの部分だけを、正規の第一フルートと一緒に吹くというものである。因みに、千晶は第一オーボエの「足」というこ とになる。重宗は、沢子や千晶の「足」の能力を無視しているようで、二人共何の注意も受けなかった。
  このマーラー第五番を主要プログラムに組んでいる演奏会は、三つの大学のオーケストラクラブの有志が集まって行うものだった。二年に一回、一つの大学だけ ではできない編成の大きい曲をやる為に、同じ指揮者に指導を仰ぐ三大学のメンバーが混成楽団を構成する。三大学は、青葉フィルハーモニーの副指揮者、吉岡 敏に指導を受けていた。吉岡敏は指揮界の重鎮、井沢徹の愛弟子で、まだ三十歳をこえたばかりの新進気鋭だ。
  ただし、この三大学の実力には、かなりのばらつきがある。沢子の所属する私立の三光女子大学は、弦楽器は充実しているが、何しろ肺活量の少ない女子ばかり で当然ながら管楽器が手薄だった。トランペット、ホルン、ファゴットはそれぞれ一人しかいなかったしトロンボーンを捜すことなど不可能だ。
  三光女子大と対照的なのが、重宗や武井の所属する国立理系の市ノ橋工業大学である。秀才の集まりだが、東大や早稲田に比べると学生数のずっと少ない大学 で、圧倒的に男子学生ばかり。弦楽器が不足気味で、厚みがない。だが管楽器には上手い学生がかなりいた千晶は明広大学から来ていた。明広大学は裕福な家庭 の、少々出来の悪い子弟の多く行く私立の共学で、その管弦楽団は大所帯でまとまりが悪く難曲の演奏は苦手にしている。
  各大学のオーケストラの技量は、如実に偏差値を反映していて、世間一般に言う難しい大学ほどレベルが高い演奏をした。学力と演奏能力は密接な関係にある と、沢子は思う。市ノ橋工業大学が当然ながら一番高水準の演奏をした。この編成の大きい混成楽団では、市ノ橋工業大学や明広大学の男子に圧されて三光女子 大の管を受け持つ沢子たちは「足」になるしか道はない。しかし弦楽器は小さい頃からヴァイオリンを習っていた経験者も多く、充実している。藍子はこの混成 楽団のヴィオラのトップだし、第二ヴァイオリンのトップも、三光女子大の児島章代がつとめていた。この三つの大学が合同で演奏会を開くことは、互いの弱点 を補いあって、難しい大曲に挑戦できるという利点があった。
  「足」の沢子は手持ち無沙汰に、窓の外を眺めていた。練習が二時間程過ぎた頃だろうか。空が急に翳り始めた。日没にはまだ間があるが、窓の外の草木の青葉 が黒ずんできたかと思うと、突然数発の雷鳴が轟いた。しばらくして、迸る雨が地面を打ちつけた。
  管楽器の奏者たちは、自分たちが大きな音量を出すことに慣れているせいか、雷に対する反応は鈍い。稲光と雷鳴の中でマーラーの練習は続けられた。
  雷の轟音は、宿舎の頭上を旋回しながら、さらに不気味に勢力を増幅させていく。練習場の中は、黒い大きな翼に覆われたように暗くなった。稲妻が光る度に、 中庭の雑草に叩きつける雨のしぶきが、一瞬の火花となる。強烈な湿気が悩ましい程広い練習場にたれこめた。
  午後の長い分奏が終わる時分になって、雷は遠ざかったが、雨脚は衰えない。中庭は微かな夕影に包まれ、紫色にけぶって見えた。沢子たちは、練習場から女子 宿舎までの五十メートル程を傘なしに突っ切らなくてはならない。楽譜と楽器を抱え込んで、全速力で駆け抜けたが、宿舎に辿り着いた時には、薄手のブラウス の下まで雨が滲みとおっていた。
  すぐ後ろをついてきた千晶もびしょ濡れだ千晶は紺地に、一匹の大きな黄色い蝶々が両胸に大きな羽根をひろげている模様のタンクトップを着ていた。そのタン クトップは真っ白い肌に黒々と変色して張りつき、蝶の羽根の中につんと立った乳首の線が浮き彫りになっている。
「もう頭にくるわ、合宿っていうといつも雨にたたられるんですもの」
  千晶は文句を言いながら、派手な足音をたてて二階に駆け上がっていく。千晶は立ったまま無造作にタンクトップとジーンズを脱ぎ捨てて、躰を拭き始めた。
「千晶さん、カーテンしめるか、坐るかしたほうがいいんじゃないですか。外から見えますよ」
  同室の下級生が、自分もタオルで髪をさかんに拭きながら言った。
「部屋が暗いから大丈夫よ」
  千晶はいっこうに気にとめず、躰を拭き続けた。そこに弦楽器の一団がやはり水を滴らせるようにして、戻ってきた。
「弦の練習随分長かったのね」
  沢子は少し遅れて入ってきた藍子に尋ねた藍子は冷えきった顔色で、濡れた髪が益々艶を濃くしている。
「吉岡先生に四楽章みっちりしぼられて疲れ果てたわ」
「あのアダージェットは弦楽器のきかせどころよねえ。マーラーがアルマに贈ったむせぶような愛の告白だからとろけるようにロマンチックで、わたし、四楽章 が一番好き」
「ほら、アダージェットって映画に使われてたでしょ。金髪のきれいな男の子の出てくるホモの映画で、全然面白くないやつ」
  千晶がタンクトップを脱ぎながら、会話に闖入してきた。
「それは『ヴェニスに死す』でしょ。千晶にしては珍しい映画を観たものね」
  沢子がヴィスコンティと千晶の組合せをからかうと、千晶は笑いだした。
「飯塚さんの趣味に決まってるでしょ。飯塚さんが、この映画はマーラーをモデルにしたとか言って力説してたわ」
  飯塚は千晶がつい最近までつきあっていた男で、今アメリカに留学している。千晶に失恋して、傷心のまま外国に逃げたと噂されていた。千晶に芸術の香気溢れ る退屈なヴィスコンティを見せるなんて、ふられるに決まっていた。
  それにしても、男という男は不思議なほど千晶を教育したがる。重宗のマーラー論議もそうだが、千晶に教養をつけて完璧な女にしたいらしい。千晶は、理想の 女を育てるという男の願望をかきたてるのだ。
  ビクトリア朝のイギリスでは、下層階級の娘を磨いて教養ある美しいレディに育てるという、ピグマリオン・コンプレックスが流行っていた。男には女に強い影 響力を行使したいという支配欲があるらしい。男は時に滑稽な勘違いをする。千晶の今ある姿こそ完璧だということに気づかない。飯塚には気の毒だが、千晶は 彼の手には負えない。
「藍子さん、真っ青よ。調子悪いんじゃないですか」
  下級生の驚いた声に、沢子が振り向くと、藍子は畳の上に坐りこんでいた。
  沢子は声をかけようとして、思わず言葉を呑み込んだ。寒気を催させるほどの顔色で、壁にもたれてだるそうにしているのに、藍子からただならぬ妖気が放射さ れている。藍子は息のつまるような、焔を宿した眼差しをしていた。沢子は藍子の視線の先をたどってはっとした。
  薄暗い部屋の中に、千晶の後ろ姿が浮かび上がっている。千晶の一糸まとわぬ白い背中があった。
  その姿に首筋の毛が逆立つ気がした。何という綺麗な肌……。生クリームがふんわり融け込んだ感触、水蜜桃のように柔らかく新鮮で傷つきやすい肌だ。
  沢子は千晶の華奢な首筋、うなじから肩にかけての柔らかい曲線、まるい肩さきや、そこから流れる白い腕、背中の中心を走る、なまめかしい蛇のような、淡く 窪んだ背骨の影を貪り眺め、思わずため息をついた。
  千晶は舞うように両腕を動かしながら、ブラジャーをつけようとした。肌白のか細い手首が反りかえる。千晶は自分が見つめられていることを知っていた。形の 佳い横顔をわずかに沢子に傾ける。
「沢ちゃん、お願い」
  千晶は湿った声で、ブラジャーを留めてくれとせがむ。沢子はふらふらと千晶に吸いよせられた。千晶の背中の上のブラジャーの両端を引っ張り、今にも弾けそ うなホックをぱちんと留めた。
  雨に濡れた後の花冠の重たい花の、強烈な芳香が匂い立った。肉体の奥深くまで響く、官能を揺さぶる女そのものの匂いに、沢子は急に息苦しくなる。
  千晶がすーっと息を吐いたので、両の乳房も大きく上下した。千晶は右手をきゅっと握って小さな拳を作り、肩を叩き始めた。
「千晶肩凝っちゃった。練習長すぎるんですもの。沢ちゃん、ちょっとここ力入れて圧してくれる」
  千晶の躰は骨のあることが信じられない、しなやかな、やわらかなようすであったが、実はひどい凝り性らしい。よく指圧に行ったり、鍼灸師に出かけている。 しかし、時々マッサージを頼まれる沢子は、千晶の肩が壁のように凝っていると感じたことは一度もなかった。千晶は、他人の手で躰に触られることが根っから 好きなのだと思う。
  沢子は千晶の人指し指の示した場所を圧そうとして、あっと声を上げた。
「千晶、これどうしたの」
  それは、千晶のブラジャーの右の肩紐のほんの少し内側、青黒い打ち身の傷に似た、小さく丸い跡だった。千晶の雪白の背中ばかりに見惚れていて、今まで肩先 に残された、その無残な青痣に気づかないでいた。
「ああ、そこはね、この間お灸してもらったのよ。千晶、時々駒沢の鍼の先生に行ってるでしょ。そこでやってもらったの」
  たった一つの傷が、とろける蜜の肌の美しさを際立たせる。沢子は息を呑んだ。偶然できたその痣は、実は念入りに計算しつくされた演出に思えた。それは男の 作為で、最も刺激的な場所を選んで、狂おしいキスマークをつけたようなものだった。
  沢子は鬱血して青く痛々しい痣になったその部分をそっと押してみた。千晶の肌は指で押すとどこまでも沈みこむように柔らかいのに、ぴちぴち弾力があってす ぐ跳ね返された微かに湿った皮膚は、沢子の指先に痺れるような快感を与える。たちのぼる甘い千晶の体臭と、指先にふれる温かく熟れた肌の感触に眩惑されな い者がいるだろうか。千晶の肌はすべすべでつかみどころがない。入浴して支えられて立ち上がった楊貴妃の肌も、このようであったろう。沢子は自分が男の欲 情する目で千晶を見ていることに気づき、思わず頬を赤らめた。
  千晶は理由もなく笑いゆらめき、その時藍子が崩れ落ちた。藍子は畳の上に頬を押しつけ倒れこんでいた。沢子は夢から醒めて我に返り、藍子に駆け寄った。下 級生が慌てて布団を敷き、藍子を寝かせた。
「心配かけてしまってごめんなさい。少し疲れただけ」
  藍子は眉のあたりに苦しげな表情を浮かべながら、細い声で答えた。
「お医者さん呼びましょうか」
「ありがとう。大丈夫よ、本当に。少し横になっていたら、良くなると思うわ。お願いだから心配しないで」
  藍子は苦痛をあらわにして眼を閉じた。
「もう食事だけど、運んでもらう?」
  藍子はとても食べられないわと言うように首を振った。藍子は一人になりたがっている

  雨は降り続いていた。夜空が滴らせる汗のせいで、空気は重く湿気ている。
  食堂の中はエアコンが効かず、うだるようだ。学生相手の民宿はこんなものだろうが、相変わらず粗末な食事が提供された。口の奢っている沢子には、こういう 甘味のきつい味付けと、冷めた料理は耐えられない。病人の藍子がこんな料理を食べさせられたら、益々気分が悪くなるに違いない。藍子を無理に連れてこない でよかった。沢子は途中で食べることを放棄して、お茶ばかり飲んでいた。
  向かいに座った千晶は、割り箸の袋を折り紙にして遊び始めた。千晶は珍しく化粧もせず、ジーンズに白シャツを着ていて、よく似合っている。美人にありがち なことだが、千晶は化粧が下手で、洋服の趣味も悪かった。真っ青なアイシャドウ、べっとりした口紅、フリルや花模様の少女趣味の服はいただけなかった。し かし、そのわずかな野暮ったさは男にとっては、近づきやすい隙であり、脇の甘い魅力になるのかもしれない。
  とにかく、今目の前にいる素顔の千晶は別人のように洗練されて鮮やかに映った。可愛らしい顔にも、躰にも、余分な飾りが何もない。千晶は素晴らしく綺麗 だ。
  殆どの女に欠かすことのできない化粧や華やいだ服装は、かえって千晶を醜くしてしまう。千晶のように天から恵まれた完璧な可愛らしさには、いっさいの装飾 がいらない。暗い部屋の中で、羞じらいもなく躰を拭いていた千晶の姿態が瞼の奥に刻まれている。千晶は生まれたままの全裸だけがふさわしい姿で素顔でいる 時こそ輝くばかりに美しい。
  千晶は取り巻きの男子に囲まれて賑やかな中心にいた。千晶の隣にはオーボエのパートリーダーの宮川がいて、千晶は彼の腕に寄りかかっていた。これはいつも の千晶の悪い癖で、傍にいる男の腕とか肩とか太腿を触ったり、軽く叩いたりせずにはいられなかった。
  宮川は、秀才の誉れ高い内気でうぶな青年で、千晶の接触癖にすっかり頬を赤らめて俯いていた。千晶のスリーサイズが話題になった。千晶は羞じらう様子など 微塵もなく。愛嬌をふりまく。
  千晶は直観的に、今男が何を望んでいるか知っていて、実に大胆に振る舞うことができた。罪のない明朗な破廉恥ぶりで、「Eカップよ」などと暴露している。
「千晶今晩僕がEカップを調べに行くから待っててよ」
  武井が千晶の後ろのテーブルから大声で
叫んだ。
「武井さん、またストリーキングですか」
「いや武井さんはトイレットぺーパーを躰中に巻き付けていくから、ストリーキングとはいえませんよ」
「だから、トイレの紙がすぐなくなるのかよ迷惑だぜ。まったく」
  武井のストリーキングを知らない男子学生はいなかった。武井は下級生になんと言われても、まったく平気だ。
「おい、今日は宮川を剥くぞ。千晶とべったりくっついてる罰だ」
  剥くというのは、数人がかりで衣服を脱がせて裸にしてしまうという悪ふざけのことだ武井はこういうことでもリーダーシップを発揮して愉快がった。達者に ヴァイオリンを弾くことと、難関で知られる国立大生ということを知らなければ、誰も武井を知的なところのある青年とは信じられないだろう。下ネタしかな い、げすと思われても当然だ。
  クラブの者は武井のこういう言動には馴らされているので、今さら何も感じない。一人犠牲になる宮川だけは、「冗談じゃないですよ」と懸命に拒絶していた。 宮川のように内気な、腕力のなさそうな男は武井に狙われやすやすい。武井は弱そうな人間を、妙に苛めるところがあった。
  武井がよくちょっかいを出すのは、宮川の他にチェロの池田がいた。池田が剥かれて、眼鏡を取り上げられた姿が写真に撮られて、クラブ中を廻っていたことも あった。武井は高校時代ボートで鍛えたという噂もあり、非常に腕力があった。コンサートマスターという、一種の権威をちらつかせて武井は悪ふざけを止めな かった。
「おい、武井。おまえ宮川を剥くと言って、また昨日みたいに俺の前で、自分から脱ぐんじゃないだろうな。一体あれは何だよ。俺は野郎の裸なんて見たくない ぞ。特におまえのは真っ平だ。どうしても脱ぎたい時は、俺の目の届かないところで脱げよ。本当に武井はよく脱ぐやつだよ」
  騒ぎを聞きつけた指揮者の吉岡先生が、食堂の端のテーブルから、どすのきいた太い声で言った。
  武井は吉岡先生に何を言われても、気にする様子もなく、相変わらず下ネタ話を続け、千晶のぽってりした唇は笑いに笑い続けていた。
  沢子が夕食を早めに切り上げて戻ると、藍子が夕冷えた部屋にぽつねんと座っていた。布団はきちんと畳まれて、藍子は窓辺に凭れ中庭を眺めている。
  沢子がすぐ後ろに立っていることも気づかず、藍子は全身が目になっていた。必死に外を見ている。窓枠にかけられた藍子の白い腕は小さな青い静脈まで透けて 見えた。食堂からの蛍光灯の白々した光は、中庭の雨脚をくっきりして照らしている。藍子は微動だにしない。
  沢子は鬱々とした沈黙に胸苦しくなり、藍子に話しかけようとした。その時、中庭にぱっとピンクの傘が開いた。千晶の傘だ。千晶のすぐ後ろから、黒い大きな 傘が開いて、重宗が続いた。二つの傘は中庭をひどくゆっくり歩いた。
  何かおかしい話でもあったのか、千晶の傘が大きく揺れて、湿った笑い声がはっきり聞こえてきた。女子宿舎の前で二つの傘は別れ間もなくはずんだ息づかいと ともに千晶が階段を駆け上がって来た。
「やだ、暗いじゃない」
  千晶は電灯のスイッチをいれて、笑いの余韻を残したまま、結んでいた髪をほどいて拡げた。
「何が可笑しかったの」
  沢子が訊ねると、千晶はまた笑いが溢れだしたようになって、
「傘の小話をしていたの」
  と答えた。
「どんな小話?」
「大きな声じゃ言えないわ」
  千晶は沢子の耳たぶを軽く引っ張ると、沢子の耳に生温かい息を吹き込んだ。
「アベックの傘とかけて何ととく」
  千晶は藍子に聞かれているかどうか確かめるように、藍子の方にいたずらっぽい目を向け、更に答を続けた。千晶にこのばかげた単純さがあればこそ、生き生き して愛らしいのかもしれない。
  千晶の声だけが、真昼の明るさで部屋の中に響いていた。沢子はあきれるよりも、千晶はかわいらしい笑顔そのものだと思った。藍子は黙って生気を失った眼差 しを千晶に向けていた。


  千晶  その二

  この前、三日続けて三人の彼からプロポーズされたの。安直なテレビドラマにだってないような話ね。でも、ほんとのことなの。千晶、困惑したけど心のどこか で得意になってる。男のひとに愛されるってやっぱりしあわせ。
  この太陽みたいなオレンジ色のサマーセーターは千晶によく似合うでしょ。これくれたの寺田君。誕生日のプレゼントよ。千晶はまるい肩の線がとても魅力的だ から、肩の出るくりの深い形で白い肌に映える鮮やかな色がいいよって選んでくれたの。高かったみたいイタリアのブランド品よ。
  寺田君て、新潟の頃の上級生ね。千晶と違って優等生だった。だから東大の法学部にいってるの。背はあまり高くないけれど、結構ハンサムで生徒会長もやって た。高校時代は女の子のアイドルだったわ。高校の頃はおつきあいなんて、考えもしなかった。千晶の取り巻きの一人だったけど秀才だから千晶とは話が合わな いと思ってた。
  ところが、東京に出てきている高校時代の仲間の集まりで、六本木に遊びに行った時に再会したの。そうしたら、寺田君が千晶の顔を見るなり、まっしぐらに飛 んできた。突撃と言ってもいいくらい。本当に彼千晶しか見てなかった。そして、僕は千晶に逢いたくてここに来たんだって言うのよ、いきなり。そう言われる と無碍にもできなくて、ずるずる二次会、三次会と一緒で、最後は送らせて下さいというので、送ってもらうことに。
  ところが千晶の乃木坂のマンションの前まで来てから、大変なことに気がついたの。鍵をなくしてしまったのよ。千晶よくやるのよね。大学のロッカーの鍵から 机の引き出しの鍵も車の鍵も。とにかくそういう整理整頓がまったく駄目なの。
  でも、この時ほど困ったことないわ。夜中でしょ。終電も終わりで、六本木から歩いてきたんですもの。管理事務所は閉まっているし、眠いし疲れたし、お金も なかった。寺田君は針金みつけて扉の鍵をつついたけど、東大生に泥棒の真似事は無理ね。寺田君本当に責任を感じたような困った顔してたわ。彼のせいじゃな いのに。
  もう一度六本木に戻って、二十四時間営業の店で朝まで待つことにしたの。歩き疲れたので、タクシーを拾ったのはいいけれど、千晶お酒もだいぶ入っていて、 乃木坂から六本木なんてすぐ近くなのに、寝こんじゃったのよ。本当に熟睡していたらしいわ。気がついたら、寺田君の下宿の布団の中で、朝を迎えていたわ け。寺田君は本棚に寄り掛かって寝ていた。きっと布団が一組しかなかったんでしょ。布団取っちゃってごめんなさいと言うと、寺田君は目を覚まして、千晶よ く寝てたよと言ったわ。その寝惚けて疲れた様子が、かわいい少年のようで、なんだかほろりとしてしまった。それで、寺田君も一緒に布団に寝ないって誘っ て、何となくそういうことになって、つきあい始めたの。
  寝たのはその一回きりで、あとは誘われても、あんまり真面目過ぎてその気になれなくて、デートだけをそう二年ぐらい続けていたわ。宿題のレポートなんか手 伝ってほしいというずるい気持ちもあったのかもしれない。利用したみたいで悪いと思ってる。
  先週久しぶりに会ったのよ。ずっと約束がつまっていて、もう三回も四回も寺田君の誘いを断っていたから、かわいそうと思って時間を作ったの。そうしたらい きなりプロポーズされた。
  寺田君唐突に「僕司法試験受けるんです」って言い出して、「千晶の為に全力を出して頑張るよ」を何回も繰り返すの。寺田君が司法試験に頑張ろうと、頑張る まいと、受かろうが落ちようが、千晶にはよくわかんないことなのに、ずいぶん熱心だと思っていたら、「もし無事に司法試験に合格したら、僕との結婚を真剣 に考えてくれますか」と言うの。
  司法試験てむずかしいのよね。千晶はもうびっくりした。司法試験と結婚がむすびつく理由もよくわからないでしょ。司法試験に通るのは、結婚を決められるく らいスゴイことなのかしら。千晶なんて答えていいか途方に
くれた──。                                                                   
  寺田君は一途でいい人だから、目の前で傷つけたくはなかったの。それに千晶にことわられたせいで、もし試験勉強がうまくいかなくなって、落ちたらどうしよ うととても心配したわ。断るのは司法試験がすんでからの方がいいと思って「ありがとう。でもそういう未来の話は司法試験がすんでからにしない」と返事をし たわ。そうしたら、寺田君は拒絶とは受け取らなかったみたい。
「千晶にこんな話するのまだ早かった。男として無責任だったかもしれない。ただ千晶と会えない期間が長いと、千晶がどんどん雲の向こうにいってしまうよう で、耐えられなかったんだ。千晶に将来の約束をしてほしくて試験の結果もわからないのに、無理なことを言ってしまったね。ごめん。きっと良い結果が出るよ うに頑張るから、千晶待っててくれるね」
  寺田君の目が哀願してるみたいに見えた。千晶は寺田君を悲しませたくなかった。だから寺田君が思いたいように思わせたの。そして適当に相槌うって、試験頑 張ってね、応援してるからと言って励ましてみた。
  寺田君とはもう終わりかもしれない。寺田君と結婚するつもりはなかったけど、さよならした後でひどくさびしい気持ちがしたわ。プロポーズって、男と女の関 係を決定的に終わりにしてしまうものだと思う。今まで曖昧で時にはスリリングだった関係も一度結婚が口に出されると、イエスかノーしかなくなって、イエス と言わない限り、切れてしまうの
  イエスと言えば、永久に束縛されてしまうし、男の人ってどうしてそんなに白黒つけたがるのかしら。千晶はいままで何度もプロポーズされたけれど、それはた しかに女の勝利で誇らしい気はするのだけれど、その為に別れた人のことを思うと時々残念に思うわ。曖昧な関係の方が楽しかったのにって。
  気分が少し滅入ってしまったので、次の日にデートを入れたの。相手は梶本さんという人。一浪してるから千晶より四つ年上で、今はぴかぴかの社会人。とても 愉快な人で、よく笑わせてくれるの。去年の夏休みに、大学の榊原先生の主催する、ヨーロッパ音楽の旅という四十日間の学生ツァーで知り合ったのよ。旅行中 はよく食事に行ったり、梶本さんのホテルの部屋で気の合った仲間が集まって乱痴気騒ぎしたものよ。
  千晶と同室の女の子はとても痩せぎすの口うるさい子で、やれ千晶の荷物の詰め方が悪いだの、いつも千晶は自分より先にお風呂に入って長々使って困るだの、 洗面所の使い方が汚いなど、文句の言いどうし……。千晶が生理のナプキンを借りたら、女が四十日も旅行するのに、ナプキンも持って来ないなんてバカじゃな いってそりゃぁうるさく怒ってたわ。まあ千晶が悪いのかもしれないけれど、あんなに憎々しい棘のある態度はやめて欲しいわ。
  千晶がおみやげを買い過ぎて、トランクに入りきらなくなっちゃったので、毎日梶本さんが千晶の部屋に来て、荷物をぎゅう詰めにして、トランクの上に乗って 閉めてくれたの一度なんか、梶本さんが部屋に来ているの知らないで、彼女が下着のままシャワーから出てきて、大騒ぎ。痴漢よばわりされた梶本さんなんて 言ったと思う?
「たとえ君がすっぱだかで逆立ちして僕の目の前を歩いても、僕は絶対なんにも感じないまったく感じない。何もしない。保証するよ君と同じベッドに寝ていて も、僕が君に何かしたなんて信じる男はいないよ。だから安心して。気を悪くするなよ」
  千晶おかしくておかしくて、おなかが痛くなるまで笑っちゃった。
  旅行から帰ってきた後、何回かグループで新宿あたりに飲みに行ったけれど、梶本さんも就職活動で忙しかったみたいだし、千晶も色々あるから、二人きりで 会ったということはなかったわ。あっ、一回一緒にバレエ観に行ったかな。とにかく疎遠だったんだけれど寺田君みたいな真面目人間と違って、軽いノリの人で 気楽なので、千晶本当に何も考えずにどこか連れて行ってくださいって誘ったの梶本さんは新車のBMWに乗ってきたわ。大きな病院の息子だったけど、跡取り はお兄さんだと言ってた。彼は今商社に勤めていて月給もよくて、贅沢してるみたい。
  気前良くホテルの鉄板焼を御馳走してくれて、それから二人でドライブしたの。ホテルで食事している時はとっても楽しくて、笑いこけてたんだけれど、ドライ ブ始めたら梶本さん急に黙りこんだわ。そして突然「君は僕のおふくろに似ている」と言い出したの。「勿論おふくろより君の方がずっと美人だけれど、君とい う人にはおふくろとそっくりの温かさというか、ほっとする優しさがあると思う」千晶がきょとんとしていると、「君と二人でまたヨーロッパを廻りたいんだ」 ともつけ加えたわ。千晶鈍感で、この時は梶本さんの言いたいことわからなかったのよね。千晶が返事しないもんで、梶本さん、ついに「僕のお嫁さんになって くれる?」とプロポーズしたの。
  個人的にほとんどお付き合いしたことのない人から申し込まれたので、意外だった。驚いた。千晶は気安く考えていたのに、向こうは真剣だったのね。ずっと。 梶本さんて面白い人だと思っていたけれど、この時は怖いくらい真面目に見えた。
  いつもそうだけど、プロポーズされた後って、何をどう話したらいいのか困ってしまう梶本さんと結婚したくはないけれど、梶本さんを失いたくない、というの が本音だったわ千晶正直に言ったの。
「千晶まだ若すぎて、結婚なんて考えられないんです。でも梶本さんとも別れたくない。このままの関係でいたいな。もうすこし」
  自分でもあんまり甘えたかわいい声が出たんで、ずるい女ってあきれちゃった。むきつけに梶本さんと結婚したくないとは言いたくなかったの。だって梶本さん のこと好きなんですもの。千晶悪い女なのかもしれないけれど、ただのボーイフレンドが絶対必要なの。カレシのいない生活なんて退屈でたまらないと思う。梶 本さんを失わないためだったら、寝たっていいのよ。
  梶本さんしばらく黙っていたけれど、「君をずっと待ってるよ」と言ったわ。とってもがっかりしたみたいだった。ほんとうに悪いことしたわ。千晶、寺田君の こともあったし梶本さんにも罪なことしたみたいで、なんだか落ち込んでしまった。
  千晶が思わせぶりな態度をとって、男を惑わせてるなんて思わないでほしいの。みんな千晶の態度が誤解を招くって言う。でも、千晶は自分の気持ちに正直に動 いているだけ。結婚の意志がないのに男の人とつきあうのは悪いことなの?  男と女の間はもっとしぜんで自由なもののはずだわ。結婚というのは現実のビジネスのような面倒なこといっぱいの契約で、千晶には魅力がないことなの。千晶 はただ好きな人と会いたい時に会って寝たい時に寝る、別れたい時にさよなら。それで充分なの。
  もっとも、千晶はまだほんとうに心や躰の底から熱くなれる人と出逢っていない。千晶は恋を知らないのかもしれないと不安になるの。千晶が気持ちを昂らせる 前に、あまりに好きだ好きだと男の人に接近されて、重荷になってしまってるんだわ。男の人にもてるというのも良し悪しで、自分が恋心を感じる前に好かれて しまうと、戸惑うものよ。もう少しじらしてくれたらわくわくするのにと、いつも思うわ。本にあったわ。恋の味を痛烈に味わいたいならば、それは片思いか失 恋する以外ないだろうって。千晶、一度でいいから片想いとか、失恋とか、経験してみたい。
  三日目にはなんとあのダサイ宮川さんにプロポーズされたの。千晶は面食いじゃないけれど、でも生理的に受け付けない人はいる。宮川さんて牛乳瓶の底みたい にぶ厚いメガネして、運動不足だから全身ぶよぶよしてる。もっとも頭はいいらしいけど。
  千晶、宮川さんとは同じオーボエのパートというだけで、誘われてお茶飲んだりしたのに、深い意味なんてなかったわ。宮川さんの誘いを断らなかったのは、か わいそうだと思ったからなの。宮川さんは自分の容姿が醜いと思いこんでるみたいだったから、千晶がいやと言ったらよけいに傷つけると思って同情しただけ。 千晶はどんな男の人にもいつもやさしくしてあげたいと思っていたけど、それが間違いだったのね。
  宮川さんが勝手に千晶を好きになっても、千晶の責任じゃないわ。それなのに千晶がプロポーズ断ったら、彼ものすごく怒ったわ。なんて言ったと思う。「千晶 は僕をぼろ雑巾のように捨てるのか。千晶は僕の心を玩んだんだ」ひどい言いがかりだわ。なんで千晶があんな男を玩ばなくちゃいけないの。冗談じゃない。あ んな男、誘惑する気にもなれないわ。
  彼のプロポーズの言葉教えて上げましょうか。「僕は千晶を見てるととても心配なんだ僕が千晶を一生守っていくからね」千晶は宮川さんに守ってもらう必要な んてまったくないのに大きなお世話よ。気持悪くて鳥肌たった。本当にどんな秀才か知らないけれど、ああいう独りよがりの人間はごめんこうむるわ
  千晶は将来結婚したいと思わないことはないけれど、主婦になるなんてぞっとしてしまう。千晶が好きなのは結婚じゃなくて、結婚式だってこの頃気がついたの よ。
  結婚式はどんなに着飾っても許される場所でしょ。ウェディングドレスって女の晴れの舞台衣装なのよ。お姫様になりたいなんて言うと笑われるでしょうね。で も女なら、必ずそう思うわ。いつも綺麗におしゃれして、贅沢な環境で貴公子にもてはやされるのが大好き。結婚式や皇室に対する女の熱中ぶりは、例えば男が 賭事や野球やサッカーに対するようなものなの。
  人生に何を求めるか、答えは簡単ね。震えるような感動だわ。平凡じゃなくて、劇的で波瀾万丈で絢爛豪華な一生を送るの。もちろん、贅沢で豪奢な生活は欠か せない。生活の苦労なんてねえ、冗談じゃない。千晶はお金が大好きよ。こういうことを自覚してるなんて歪んだ性格かしら。でも、女はみんなそう労せずして 浪費するのが女の夢よ。自分であくせく働くのは、女が美しさを棄てることとほとんど同じじゃなくて。
  素敵なものに囲まれて、たくさん、たくさん恋をするの。そんなの無理だって言うんでしょ。確かに現代では難しいことよね。千晶は生まれる時代を間違えた。 貴族文化華やかなりし頃の貴族に生まれるべきだったのよ。夫は若い女、妻は年下の愛人という生活ね。さもなければ、椿姫のような、高級娼婦の存在が許され た場所と時代に住むべきだったわとにかく女の美しいことが絶対の価値で、何人恋人がいても非難されないような環境が、千晶には似合っていると思う。本当に つまら
ない時代に生まれてしまった──。                                               
  色香に望みのない女だったら、どの時代に生まれてもそれだけのことで、平凡にしか生きようもないけれど、千晶は違うわ。千晶のような特別な女の人生は、と きめきに満ちていて、感激と快楽に尽きるべきだわ。それに千晶のとりえは男の人の想いにいつだって応えてあげたいと思うところよ。セックスの欲求にもでき るだけ応えてあげるわ。
  千晶は所帯じみたおばさんと呼ばれる人種を見ると、うんざりするの。女を棄ててる。そんなになるまで子育てや家事をしたり、ローンのやりくりに苦労する必 要がどうしてあるのかしら。夫は浮気したくてうずうずしてるのに。
  千晶が一回そのそぶりを見せるだけで、千晶はおばさん達からほとんどのものを取りあげられるのよ。千晶は、普通の男とは結婚しないわ。食事の後片付けや家 計簿をつけさせられたら、死んでやる。千晶はたとえ家庭に入っても、創造的な仕事しかしない。だから料理はやってみるわ。おいしい物は大好き。美食って魅 力ある。それから得意の絵をかいて暮らすのもいいわね。個展を開くの。着飾ってオペラやバレエに出掛け、パーティに明け暮れ、千晶の崇拝者に囲まれて、高 等遊民をやるの。現代版のサロンの女王かしら。こんな望み、千晶には許されると思わなくて?
  千晶は自分のライフワークを「女商売」だと思ってるの。千晶の才能もそこにしかない千晶の会社勤めなんて噴飯物よ。企業に行っても千晶じゃ何の役にも立た ないのは誰だってわかる。事務処理能力ゼロですもの。計算は得意でも、忘れ物の名人だし、すぐ他のことに気をとられてしまう。上司のセクハラの対象になる のが関の山ね。
  女商売というのは、一にも二にもきれいでいること。二十四時間男のセックスの相手ができるように魅力的であること。男を悦ばせること。千晶はそれだけで生 きていける自信があるわ。それでうんと年とったら小説を書いてもいいわね。自分の恋の体験を書くのよ
  千晶は人生に不真面目ではないのよ、誤解しないで。自分の望みを正直に言うのはいけないことかしら。大抵の女の本音はいつまでも美しくて、ちやほやされて 生きたいというものだけど、それをかなえる能力がないから諦めているだけだと思うの。
  たしかに、千晶みたいな生き方を許してくれる人がたくさんいるとは思わないわ。美しければ全てが許されるというのは、特殊な考え方かもしれない。芸術家 じゃないと駄目ね芸術の魅力を知っている人じゃないと。貞淑なんて、モテなくてヤキモチ焼きの男と女の作った道徳だと思うの。千晶はそんな道徳に縛られる なんてつまらないと思う。
  千晶は自分が幸せを感じられるように生きたい。それが、ある人にとっては悪い女と映っても、気にしないことにしてるの。随分多くの男を泣かせたのかも知れ ないし、男を盗られて千晶を恨んでいる女も多いでしょうね
  でも、この前藍子が千晶にいいことを言ってくれた。藍子は目に涙を浮かべてた。藍子の目って湖のように澄んでいて心が吸いこまれそうよね。
  藍子はね、重宗さんは自分ではなくて、千晶に恋をしていると、告白したわ。千晶に重宗さんの恋人になってあげてほしいって。あのプライドの高い藍子が、そ んなこと言うなんて、つらかったと思うわ。藍子の涙を見て千晶も少しじんとした。そして、藍子はこんなこと言ったの。
「千晶は私のことを傷つけるなんて思わないで。人を傷つけるのが悪いことだって言いきれる?  心をえぐるような傷を受けることは恐ろしい痛みを伴うけれど、より深い人間になるためには、どうしても避けて通れないことなのよ。傷がなければ人の心は虚 ろなものだわ。千晶は今までたくさんの男の人に深い傷を与えてきたけれど、それはある意味では千晶の天職なんだと思うの。男のひとを心底傷つけることがで きるというのは、凄いことだと思うわ。恐ろしい才能よ。私を含めた普通の女は、決して千晶のように男の人を引き裂くことはできないの。千晶に傷つけられた 男の人は、正真正銘の失恋をしたのよ。真実絶望したの。本物のかなしみを強く悲しむことは、逆説だけれど、人生を美しくするのだわ。千晶には、男の人を傷 つけるという、素晴らしい力があるの。傷つけられた人の人生が、豊かになるのだったら、悪い女と言われることを、怖がる必要はないわ。私に言わせれば、千 晶の心は悪くないわ。千晶の心はいつも雪のように真白なの」
  藍子は、千晶のことを千晶自身より知っているのかもしれないわね。
  千晶、四日前から重宗さんとつきあい始めたの。藍子に頼まれたせいもあるけど、重宗さんのハンサムなところが気に入ったの。あれだけきれいな顔立ちはなか なかないと思うわ。宮川さんみたいな気持ち悪い男につきまとわれたあとだから、なおさらお口直しみたいで、とてもいい気持ちなの。しあわせよ。重宗さんの こと好きよ。
  千晶と重宗さんが歩いていると、びっくりした顔でふりむく人が多いわ。千晶はふりむかれたり、見つめられることには慣れているけれど、重宗さんと歩いてい ると、よけいに人目を惹いてちょっと得意な気分ね。重宗さんて、エスコートしてもらうには最高の人だわ。
  千晶はクラブの練習で夜がつぶれる日が多いから、デートの日程を組むのが大変なの。でも夕食御馳走してもらうわけだから、仕送りはあまり使わないでもすん じゃう。もっとも仕送りはたっぷりあるわ。パパは高校時代に千晶が男の人から贅沢なプレゼントもらうの知ってたから、千晶がプレゼント目当てに男とつきあ うのを心配してるのね、きっと。
  パパよく言ってたわ。千晶は男に対して凄い武器を持ってるようなものだ。そしてそれを悪用するどうしようもない子だってね。
  自分で一番魅力的だと思うところは、目。鏡を見ていつも思うんだけれど、千晶の目の白いところ、他の女とは比べものにならない程、透き通ってるのよね。そ して黒目が大きくて潤んだようにきらきらしてるし、黒目の輪郭がくっきりしているの。白目が澄んでいるから、黒目のまわりに青ざめた輪ができているのがき れいに映って、悩ましいくらいよ自慢だわ。
  嫌いなのは口もと。唇がぽってりしていて口紅がたくさんいるし、第一すごく物ほしげなんですもの。昔からバナナ食べたり、ソフトクリームなんて舐めてる と、必ず男の人がいやらしく見るの。もう一つの穴みたいで突っ込みたくなるよなんて言われたこともあるいやらしい男だったから、それ以来すっかり気に入ら ないの。
  プロポーションにもまったく不満はないわ特に背中がきれいだって、いつも言われるわ悔しいのよね。背中ばっかりは自分でよく見えないでしょ。肌はぬけるよ うに白くて、すべすべで柔らかで、高校生の頃、口の悪いボーイフレンドが「男を痴漢にする肌」って呼んでたわ。一度触ったら決して忘れることはできない極 上の感触なんですって。
  千晶は女に生まれて満足している。魅力的な女であることはどんな職業よりも面白い職業だと思う。異性の心をかきたてて、相手の人生の色を変えてしまう、そ ういうことができるなんてファンタスティックだわ。
  千晶はセックスがしたいだけで男そのものにはそれほど関心がないと思われたら心外よどうして、男とセックスを分けなければならないの?  セックス以外の方法でいったい、男とどういう関係が成り立つのかしら。
  セックスは男が生きていると感じる何よりのあかしね。世の中の多くの女は誤解しているけれど、男が女を見分ける方法はたった一つだわ。寝たいか、寝たくな いか。
  断言してもいいけれど、千晶を見るとき、セックスを考えない男になんて、今まで一度も会ったことないわ。何かで読んだことあるけれど、男は十分に一回セッ クスのこと考えているんですって。男ってそういう生き物なんですって。十分に一回よ、信じられる?
あのミコ先生だって、あんな色情狂だってそんなにはセックスのこと考えられないわよ。
  男の女に対する愛はセックスの中にあるんだわ。男の愛イコールセックスよ。男が誰か一人の女を愛するということは、その女とのセックスを愛するということ そのものなのよ男はセックスがなければ、愛を考えられないの。絶対そうだわ。男ってあんなに頭がいいのに、股間を密着させて棒で貫いて、精液をビールのよ うに女の中に注がないと、愛を信じられない変てこな動物なのよ。
  藍子は美人だけど、なんであんなに潔癖なのかしら。男とキスもしない感じじゃない。男を奥深いところで拒絶している。女は「あなたの射精を受け入れます」 というサインを常時出していなければダメなのよ。あれじゃあ重宗さんにも棄てられて当たり前だったわ


  藍子  その三

  私の立てた復讐の計画では、西原千晶、その人こそが致命的凶器でした。男を完膚なきまで傷つけ、どん底まで突き落とすことができるのは、千晶のような放縦 な性の魅力に溢れる娼婦だけです。
  重宗は本当に愚かな部類の女、雌という種族を崇めていました。千晶がオーケストラクラブの中だけでも、どんなに多くの男と寝ているのか、まるで知らないよ うに振る舞っていました。重宗にとって身持ちが悪いという評判は、真実であっても絶対に認められないものでした。彼にとって千晶が自分に向かって言ってく れることが真実でした。ですから千晶は純潔そのものだったでしょう。
  しかし、重宗のこの思い込みは、彼が恋に盲目になったせいとばかりは言いきれないのでした。千晶は、数々の男性遍歴にもかかわらず、その躰のどこにも穢れ たところがないのです。同性の私から見ても、千晶には男の手垢がこびりついたことはありません。どんなに乱痴気騒ぎをしても、遊びまわっていても、その花 の咲いた愛らしさが腐ることはなく、自然に溌剌として、透明な魅力がありました。それは男の相手をするために生まれてきた、正真正銘の娼婦にしか可能なこ とではありません。
  千晶の名誉のためにつけ加えれば、彼女は悪女ではないのです。結果的に男を傷つけるとしても、それは彼女が意図して行ったことではありません。彼女には甘 い魅力はありあまるほどあっても、独自の性格、強い個性、明確な意思というものはないのです。彼女は男の望むまま天真爛漫に反応しただけで、すべては無意 識の行動でした。彼女があまりに多くの男に好かれることが、揉め事を引き起こす原因でした。
  千晶は年齢や教養や人格の高低を問わず、あらゆる男の心を惹きつける女の中の女でした。千晶を恋敵に持った私はただ一言、不運と言うべきでしょう。交通事 故にあったようなものだからです。殆どの女は千晶と争う前に、勝利を諦めるしかないのでした。
  千晶は自分が男に対してどれほど圧倒的な力を持つか知りつくしていました。千晶は天から与えられたその魅力を行使せずにはいられないのです。触れなば落ち んという態度を捨てることも、男を拒むこともできない、天性の娼婦でした。
  千晶のような女は男にとって、実に美しく欲望をそそる対象でしたが、男に決して貞節という安心を与えず、快楽のみを供するのです。男は何とか彼女のすべて を支配できないものかと悪あがきしますが、千晶のような女を支配することは、金輪際不可能なことでした。なぜなら、千晶はあるゆる男達の共有物だから。千 晶は誰のものでもなく、ただ男にあらゆる破廉恥で性的なイメージを抱かせ、犯されることを許し続けるのです。現実にはほとんど存在しない男の夢想する女で した。
  私は重宗が千晶に恋するあまり、性急で下手な近づき方をするのを恐れました。私は千晶に、重宗との交際の一部始終を細大漏らさず報告してもらう立場にいる 必要がありますそのためには、私が千晶に重宗を勧めることから始めるべきでした。悪は急げというわけで、すぐに実行しました。
  少し乱暴な方法ではありましたが、千晶に率直に言うことにしました。もちろん演技でしたが、涙ながらに重宗恒一は私ではなく、千晶に恋をしていると伝えま した。この時期千晶にはデートをする相手は二、三人いましたが、特別に深い関係の恋人はいませんでした。千晶にステディな彼のいない空白の時期はめったに ありません。何かの力が味方してくれたようで、私は自分の計画がうまく運ぶことを信じることができました。
  私は自分が重宗と別れたことを告げて、重宗がどんなに千晶に想いを寄せているかを丁寧に信じこませました。千晶はおだてにのりやすく、賛辞とお世辞の区別 もつきません。甘言にころりと騙される性格は、男の目から見れば、大変に魅力のあるところです。
  千晶は私が重宗の恋人だったことに対して申しわけないとか後ろめたいとは考えず、私の打ち明け話に大いに満足していました。千晶は、男が自分に夢中である ことを楽しむ術を知っていました。重宗は美男で、オーケストラクラブの花形でしたから、悪い相手ではありません。人のものは良く見えるというのも一面の真 理で、千晶は私が大切にしていた重宗だからこそ、興味をかきたてられたのでしょう。
  千晶は重宗と交際して欲しいという懇願を簡単に承知してくれました。三人のボーイフレンドが四人になるだけのことです。私に頷いた千晶の表情は、まるで幼 い子供が年上の子から初めて悪戯に誘われたように、わくわくしていました。
  合宿から戻って一週間目に、私は重宗を呼び出しました。そこは神楽坂にある甘味喫茶で、重宗はここのあんみつをとても気に入っていました。私は重宗と向か い合ってすわりました。重宗はあんみつを注文して、私にもそれを薦めました。
  重宗は運ばれてきたあんみつをスプーンいっぱい口の中に放り込んで、満足しています
「相変わらず甘い物が好きなのね」
  私はそんなささいなことでも、重宗に向かってしぜんに会話できる今この瞬間をいとおしみました。
「皆に顔に似合わないからやめろって言われるよ」
  重宗は見かけによらず品行方正でした。声帯の為に煙草はやらず、酒は大好きでも酔いつぶれるほどは飲まず、甘い物に目がないのでした。私は重宗とどうでも いい話をしながら、あんみつのこってりした餡や、透き通った寒天のつるんとした喉ごしの両方を、静かに味わいました。自分がこれからしようとすることをほ とんど考えずに、人間食べることと寝ることの幸福さえ奪われなければ、かなりのことに耐えられるだろうと思いました。  私は時計を見て、そろそろ事を始めなくてはならないと覚悟しました。
「重宗さん、千晶とおつきあいして下さってもかまわなくてよ」
  今までの会話の平坦な流れをいささかも変えることなく、普通の口調で話しました。
  さらりと言いすごしたせいか、重宗は「えっ」と聞き返したまま、明らかに不意打ちをくらった様子で私の顔を見つめました。
「あなたが千晶をお好きなことは、前から知っていました。どうぞ私と別れて、自由に千晶とおつきあいしてください。実を言うと、以前から千晶に頼まれてい たの。もし藍子が重宗さんと別れる時には、重宗さんを譲って欲しいって。千晶はあなたのことを素敵な人だと思っています。どうか千晶の恋人になってあげ て……。あなたが千晶とおつきあいなさっても、私と千晶の友情は今までと少しも変わらないし、あなたと私の関係も悪くなるわけではなくて、今までどおりの 良いお友だちでいられるでしょう。音楽を通じての仲間として……。まわりの人は誤解していたみたいだけれど、前からあなたと私は、友達以上にはなれません でしたもの」
  自分でも驚くほど、淡々と用件を並べてしまうと、ごく自然に微笑むことさえできました。私にも多少の演技力はあったようです。
  私は冷静に重宗を観察することができました。重宗は私の言葉の真意をやっと理解したようでしたが、どう対応しようか混乱していました。重宗は少なくとも私 にだけは、千晶に恋をしていることを隠しているつもりだったのでしょう。動揺していました。重くよどんだ時間が流れはじめました。
  重宗はもろもろの感情の整理がつかず、硬直した眼差しで不機嫌に表情を曇らせたまま黙りこんでしまいました。
  私という厄介な重荷から思いがけなく解放される安堵感。女の私から図星をさされて別れ話を持ち出された不愉快。恋焦がれていた千晶が自分のことを好いてい てくれた喜び。しかし、自分はまるで贈り物のように藍子から千晶に譲り渡されるという屈辱。何より誇り高い重宗が自分の意志ではなく、私の意志によって動 かされつつある状況は耐え難いものでした。
  重宗は当然私の申し出を拒絶して、自分の方から別れ話を叩きつけるべきでした。ところが重宗はあまりに深く千晶に恋をしていましたから、私の申し出を蹴る ことはできないのです。これはまたとないチャンスでした。重宗と千晶の間の、大きな障壁となっている難しい女と、いとも簡単に別れられるのですしかもすん なり恋が叶えられる提案でもありました。結局千晶との恋をとるしかない弱みを見すかされているわけで、彼はどんなに私を小面憎く思っているでしょう。
  ただ別れ話を持ち出すだけであれば、重宗は傷つくことなく自由に千晶に近づけました私は重宗に、自分の悪意を気づかせたいが為に、いやな女の役を演じまし た。私は暗に宣戦布告したのです。
「もうじき千晶が来ることになっているのよ私が呼びました」
  重宗は私の言葉を無視するように、視線を窓の外の通りに向けていました。烈しい怒りが、火花を発する寸前でかろうじて踏みとどまっていました。
  私は、眉間に皺をよせて、人通りをきっと睨んでいるその横顔に、見入っていました。
  ふと過去の映像が蘇りました。重宗は考えに耽っていて、今のように形の良い横顔を見せていました。そして、急に向き直り、言葉もなく私を見つめて、溢れる ように笑いかけました。私はその瞬間を思い出したのです。それは想いのある、心やさしい笑いかたでした。あの瞬間はどんなにどんなに幸福だったことか。
  今、目の前に同じ横顔を見せている重宗は二度と私に笑顔を向けることはありません。それなのに、私は重宗が急に心変わりする幻想にとらわれました。重宗の 火のような眼差しが私の夢に点火するのです。重宗は真っ直ぐに私を見据え「僕が本当に愛したいのは君だけだ」と思いもよらぬ告白を始めます。私は重宗に抱 きすくめられる予感に、胸苦しいほどの喜びで打ち震えるのです。それはほんの数秒間の世にも美しい白昼夢でした。事ここに及んでなお、愚かな藍子は希望を 棄てられないのです。
  ふいに、重宗の横顔が電撃に打たれたように、緊張しました。重宗の眼は表通りを歩いてくる千晶を捉えたのです。重宗は微塵も笑顔など見せませんでしたが、 その表情は千晶の放射する新鮮な波動で、生き返ったように輝いていました。私の計画は寸分の狂いもなく実行されてしまうでしょう。
  店の入口で私たちを捜している千晶に合図を送りました。千晶は元気よく手を振って応えると、嬉しさ一杯のかわいい様子でやってきました。指示した通りで す。時間にいい加減な千晶にしては珍しく、許容範囲の遅刻で登場しました。くどいほど念を押したかいがあったというものです。千晶が現れれば、もう用はあ りません。別れ際に、もう一度重宗の目を見ました。重宗も鋭く私の目を見返しました。
「重宗さん、さようなら。千晶があなたの憧れに値しますように」
  重宗は私の心の奥底を見極めようとしているようでした。彼は恐らく私の悪意に気づいたでしょう。ついに一言も発しませんでしたしかし、千晶に執着する限 り、私の仕掛けた罠、呆れるほど単純な網からは逃れようもないのです。重宗にも私にも帰り道や逃げ道は断ち切られていました。
  千晶は呼吸するように自然に、重宗の隣に腰かけました。目元にまでおっとりした微笑みが溶け込んでいます。私は二人が並ぶ様子をたしかめてから店を出まし た。戸口でふりかえって二人をそっと観察すると、千晶は小鳥のように重宗に囀り続けていて、重宗はその千晶に向かって、露骨な熱中を見せていたのです。

  雑踏をぬけて歩き続けるうちに、私は神保町の古本屋街に出ていました。東京の九月はアスファルトの照り返しとオフィスビルからのクーラーの排気が充満し て、空気が重く澱んでいます。私は体温が内にこもったまま汗ひとつかかずに、熱気の中を泳いでいましたまるで暑さを感じないのが不思議でした。胸の中が燃 えているような、冷えきっているような質の悪い熱病にでもかかったようでした
  古本屋を何軒かのぞいて、意味もなく数冊の文庫本を買ってから、静かな場所を求めて地下にある喫茶店に入りました。ペリエを注文すると、電波が悪いので店 の奥の公衆電話に向かいました。私は西新宿にある病院の医局にかけ、成島悠を呼び出しました。二度転送された後に、受話器から聞き馴れた「成島です」とい う声が響いてきました。
「お忙しいのにごめんなさい。藍子です。うまく繋がってよかった。昨日の晩寧子(やすこ)おばちゃまに電話したら、なぜか帰ってこないのって言ってらした から、病院に電話したんです」
「ごめんね。帰るつもりだったのに、昨日はよそに泊まっちゃったんだ。朝起きてびっくりしたよ」
「また看護婦さん?」
「ご明察ということにしとく。藍子に嘘ついてもすぐばれちゃうからね。何か急ぐ用でもあるの」
「ちょっとお願いごとがあるの。電話では話せないから、今晩でもそっちに行っていいかしら」
「藍子が頼みごとなんて珍しいね。歓迎するけど、帰り遅いよ。十一時過ぎるかもしれない」
「隣だから平気。それに遅い方がパパに見つからないし。帰ったら携帯にメールちょうだい。この間パパがスイスに出張に行って買ってきた美味しいシュナップ スがあるから、よく冷やして持っていきます」
「それは楽しみだね。帰ったら連絡するよ」
  私は仕事と女に追いまくられて生活している成島悠を、今日中につかまえることができてほっとしました。彼は私の計画に欠かせないもう一人の人間だったから です。
  成島悠は私の十一歳違いの従兄でした。彼の母親の成島寧子と私の亡くなった実母が十歳も年の差のある姉妹でしたから、それぞれの子供の年齢の開きも当然の ことです。
  私の母親は姉と兄のいる末の妹でした。長男だった伯父は祖父の世田谷にある病院を継ぎ、成島の伯母と母は元代々木の土地を相続しました。年が離れていても 仲の良い姉妹だった伯母と母は半分に分けた土地にめいめいの家族の家を建て隣合って住んでいたのでした。私の母が三十を越したばかりの花の盛りで病死する という不幸がなければ、この仲の良い姉妹の暮らしは理想的なものだったでしょう。
  成島の伯母は小学校に入る前に母親を亡くした私を不憫に思ったのか、自分に一人息子がいるだけで娘がいなかったせいか、それとも私の顔立ちが亡き妹を思い 出させた為か、私をとてもかわいがってくれました。
  私は伯母を「寧子ママ」と呼んで育ちましたし、小学校から帰る場所は自宅ではなくて隣の成島の家でした。成島家でおやつを食べ宿題をし、ピアノをさらい、 毎日夕食をすませ、父親が帰宅するまで過ごしていたのでした。ですからこの時期の成島悠は私の従兄というよりは、兄の方がふさわしいような関係と言えたで しょう。彼は私のこれまでの人生で一番深くその生活に関わった男性でした。
  私がある私立付属の高等科に進学してまもなく父が再婚し、成島家との関係が変わりました。伯母は父の再婚を、亡き妹とその娘、そして母親代わりの自分への 重大な背信行為だと考えたようでした。父の若さを考えれば再婚するなと言うのは無理な話なのですが、伯母は本来妹のものだった家屋敷によその女が入り込む ことに我慢ならなかったのでした
  私の父と伯母の間にどのような争いがあったのか、私には詳しく分かりません。伯母は私を養女にしたいという申し出をきっぱり拒絶されただけでなく、これか らは私の養育から身をひいて欲しいと言われたようでした。伯母は自分が父から利用されていただけだと感じ激怒すると、父と殆ど絶縁状態になりました。
  私は父から、今までのように成島の家に入りこんでいてはいけない、「寧子ママ」という呼び方を止めて新しい母親をお母さんと呼ぶようにと申し渡されまし た。俗に言う反抗期の年齢にさしかかっていましたが、私は父親の言いつけに反抗しませんでした。私は父が好きでしたが、幼い頃から仕事に明け暮れていた父 は、反抗も出来ないほど遠い存在だったのです。私が思いのまま反抗できるとしたら成島の伯母しかいませんでした。
  新しい母は地味な人でしたが、完璧な主婦の役をこなす人でした。世にこれほど家事能力のある人間がいるとは知りませんでした。使用人に囲まれて育った成島 の伯母が、華やかでおしゃれな人でも、家事に対して極めて怠惰であったのとは対照的でした。
  継母は毎日六時に起きて、驚くほど手のこんだお弁当を持たせてくれました。継母が来てからというもの、家中の窓ガラスが磨き上げられて部屋が明るくなった のも事実です。倹約家でもありました。お手伝いさんを使わない。冷暖房や電灯のスイッチをこまめに切る。物を捨てずにリサイクルする。外食したり出前をと ることをしない等々。湯水のようにお金が出入りしていた成島家とは正反対なのでした。私は新しい母に親しみを感じることはありませんでしたが、非難すべき ところを見つけることもありませんでした。
  私は父や継母のいない時に伯母に会うようにしていました。両親の機嫌を損ないたくなかったのです。伯母はいつも私が継子いじめを受けていないか聞き出そう と、腕まくりして待ち構えていました。私が新しい母の悪口を言わないので失望していました。
  伯母は私に食べさせたい物がある時、プレゼントがある時などは、隣の私の部屋からよく見える二階の窓際に、私が子供の頃気に入っていた熊のぬいぐるみを置 くようにしていました。私は伯母の合図に気がつくと、すぐ行ける時は自分の部屋のカーテンを閉め、行けない時は窓際に本を積み上げました。父は私が時折伯 母に会っていることに気づいていたかも知れませんが、何も言いませんでした
  その晩成島悠は深夜一時少し前に携帯にメールを入れてきました。継母は朝が早いので寝ていましたし、父はいつものことで書斎にこもっていました。私は簡単 に家を出ることができました。成島悠は勝手口を開けておいてくれるはずです。
  私はそっと中に入ると伯母たちを起こさないように足音を忍ばせて、二階の悠の部屋に向かいました。この前悠の部屋に入ったのは何年前だったでしょう。部屋 の中はあの頃と少しも変わっていませんでした。膨大な量のLPレコードとCDと写真集に埋もれているのでした。
  悠は帰宅したばかりの様子で、まだネクタイも解いていませんでした。私に対する時はいつもそうでしたが、悠の躰のどこかに緊張があるのです。
「急患が入って予定よりだいぶ遅れてしまった。待ったでしょ」
  小児科の医者に急患はつきものでしたから予想していたことでした。
「はい、これおみやげ」
  私は電話で約束した、よく冷やしたシュナップスと冷蔵庫で冷やしておいたグラスを一つ、机の上に並べました。シュナップスとは日本語に訳すと火酒と呼ばれ るアルコール分の多い蒸留酒でした。私は、これはパパがヨーロッパで一番おいしいお酒だと聞いて買ってきた物だと説明しました。その洋梨の皮のような、薄 緑色の半透明の瓶の中には、実際洋梨が一つ入っていました。洋梨の濃厚な甘い香りにくらくらするような、喉が焼けるように強いお酒でした。
  悠は一つしかない椅子を私に譲り、自分はベッドの上に腰かけました。
「藍子は飲まないの」
「こんな強いお酒飲んだらひっくり返るでしょうね」
  悠は瓶を持ち上げて電灯に透かしながら、中の洋梨を観察していました。
「どうやってこんな大きい洋梨を中に入れたんだろう。この瓶の口は小さいから後から入れたんじゃないだろう。洋梨を入れて瓶の一部を溶接するようにつない で、それからお酒を注いだのかな。だったらどこが継ぎ目だろう?」
  そう言いながら、悠は酒をグラスに半分ほど注ぐと一気にあおりました。酒には滅法強いのです。
「うん、とてもいい。気に入った。これはいかにもヨーロッパらしいお酒だね。香りが素晴らしいし、強烈に効く。僕が貰っていいのかな。藍子のパパ怒らない かい」
「いいのよ。パパは二本買ってきたの。一本なくなっても怒りっこないわ。そんなにお酒好きじゃないし、悠にあげたと言えばそれだけのこと。パパは一人娘の 私には甘いもの」
  悠の部屋はクーラーがよく行き渡っていましたが、強い酒を飲んでいる悠は涼しそうではありません。既にグラスに二杯目が注がれていましたが、悠はネクタイ を緩めもしないで、静かに私が話を切り出すのを待っているようでした。
  悠は勤務先の病院では「女にもててもててパンツをはいてる暇もない」という、はなはだ不名誉な陰口を叩かれる人間でしたが、妙に律儀で几帳面なところがあ りました。
  私から見れば、悠は評判とは異なる人格でした。悠は多くの女と交渉がありましたが、そのことに心からの快楽も満足も覚えることはないのです。三十一歳の今 も親と同居していることが、何よりの証拠でした。
  悠は一度、病院の近くにマンションを借りていたことがありましたが、二ヵ月で親の所に逃げ帰ってきました。一人暮らしの悠のもとには、毎晩のように看護 師、薬剤師、検査技師、受付嬢、会計係、患者とあらゆる病院関係の女が、多い時は一晩に三人も、体当たりで迫ってきて、安らかに眠れる晩がなかったのでし た。ハンサムで若い独身の医者というのは、それだけでも女にもてるものです。悠にはその上に、生来の女好きのする雰囲気がありました。
  私の考える女好きのする雰囲気とは、悠の中にある女性に近い資質のことでした。女は自分たちに近いものが好きです。悠は運動選手のような腕力や筋肉を誇る タイプではなく背が高くすらりと細い体型で、化粧をしたら美しい女になれるだろうと思わせるところがありました。人あたりがやわらかで、細やかに気配りす る優しい物腰も、女に誤解を呼び起こしました。
  悠は私に「宿直の晩に看護婦が迫ってくるのは、仕事のうちだと思って相手をする」「自分がその気がある時に女の部屋に行くのはいい」と言いました。けれ ど、自分の部屋まで来られると「あなたとの間に子供を作って、何が何でも結婚してやる」と迫られるみたいで、背筋が寒くなると話したことがありました。親 の家にいれば、女達の肉弾攻撃から守られるというわけでした。
  とんでもない女たらしの仮面の下からのぞく悠の素顔は、さらに驚くべきものでした。私だけが知っている秘密は、悠が幼児性愛者所謂ペドファイルであるとい うことでした。彼の部屋の奥に隠された写真の大半は、違法なものでした。呑気な伯母が、これらの幼児ポルノを見たら衝撃のあまり卒倒するに違いありませ ん。
  悠が医者になった、それも小児科医になったというのは、彼が密かに自分の「童女趣味」という性の嗜好を満たそうとしたからだと言えます。自らの危険な性向 に合法的な解決を見出そうと、悠が必死だったことを私は知っていました。悠は仕事熱心な医者という評判でしたが、それは彼の救い難い性欲の結果に他ならな いのでした。悠の五、六歳くらいの女の子を見る眼差しは尋常ではありません。悠の目茶苦茶な女性関係は、彼が犯罪者となる衝動を辛うじて引き止めるため の、歯止めのようでした。
「紹介したい人がいるの」
  悠は生真面目に私の目を見ていました。彼は一言、なぜ、と聞き返しました。
「悪事の共犯者になってほしいから」
  悠の口もとが微かに歪んで、皮肉な笑みが顔中に広がっていきました。
「昔から僕たちは共犯者じゃないか」
「悠は私の望みをいつだってかなえようとしてくれたわね。真冬に花見がしたいとか、庭に池が欲しいとか、まだ小学生の私の頼みごとを悠が助けてくれて、後 で悠だけが叱られてたでしょ」
  私は高校生の悠が、二階の窓から細かくちぎった紙を桜だと言ってばらまいたり、庭に大きな穴を掘ってこっぴどく伯母に叱られていたことを思い出しました。 私も悠も成長して、そんなお願いごっこをすることもなくなり、ずいぶん長い歳月が流れました。
「どんな子?」
  悠はまるで興味のないような言い方で尋ねました。
「悠が今までつきあった中では、きっと一番の美人よ。男だったら誰でも夢中になるような女性。損はさせないわ」
「会ってどうするの。誘惑しろとでも」
「ドンファンの悠には簡単なことよ。好きなようにしていいわ。ただ一つ条件があるの。私がもういいというまでは彼女と別れないでほしいの」
「もう一度聞いてもいいかい。何のためにそんなことするの?」
「私には普通の恋ができないことがよくわかったので、その正反対のことをしてみようかと……。私の恋した男は私より彼女のほうがよかったの。だから私は復 讐したいの。ある男を愛するかわりに徹底的に憎むの。廃人にするくらいだめにしてみたい。傷つけたい。そういう欲望を抑えきれなくなってしまったの。運の いいことに、悠は私の意中の男より彼女に好かれるわ。まちがいなく」
「愛する者を切り倒そうというんだね。藍子ほどの女が、どうしてそんな危険を冒すのかわからない。君に夢中な男は多いだろうに、なぜその男に執着するのか い」
「私は男に愛される価値がない人間よ。不浄な魂なの。躰を流れる血の一滴まで穢れてるだから、そんなふうに復讐するしか、人を愛する方法がない」
  悠はなんとか冷静を装っていました。しばらくの沈黙は、悠が必死で涙を堪えているようにも見えました。
「また、いつもの悪い癖がはじまった。藍子が不浄だったら世の中の女はすべてゴキブリ以下のドロドロだよ。医者にもカウンセラーにも自分をそういうふうに 見るなと言われただろう。藍子は誰よりきれいだ。心も躰も、もちろん魂も」
  私は悠に甘えてみたかったのでした。悠は私に説教することも叱ることもできない人間でしたから、一緒にいて気楽なのです。私は悠に嘘よ、と言うと笑顔をつ くって、お酒ちょうだいと言いました。悠は黙って階下まで行きグラスを持ってきて、シュナップスを注ぎました。
  私は強い酒をゆっくり流していきました。その液体が喉や食道や胃を焦がす溶岩流のように進んでいくのを感じました。
「私は手に入らないものしか愛せないのかもしれない」
  悠にそう言いました。
「なるほど……。理解できないこともない。藍子の考えた悪事というのは相当なもんだろうね。藍子は世界一美しくて残酷なトゥーランドット姫になれるよ。世 の中の男という男は、藍子と一緒にいるとどんな無理難題にも飛び込む。藍子は僕がお願い事を断れないことを知っている。そうさ、僕は藍子のしもべというわ けだ」
  悠は天を仰ぐようにして、大きなため息をつきました。私は悠が頼みを断らないことを確信していました。
  悠は、私が彼のひた隠しにする秘密を知っている人間であることを、充分承知していました。幼児性愛者の悠が、少女の頃の私に、道ならぬ愛情を注いでいたこ とも事実でしたしかし私は悠を男として愛したことは一度もありません。だからこそ悠に対して絶対の力を及ぼすことができるのです。愛が存在しなければ、男 を支配することは難しくはありません。
  私が母を亡くした遠い日、悠は高校生でした。泣きじゃくっていた少女を慰めるために彼はよく言ったものです。
「僕がこれから藍子のどんな願い事も聞いてあげるよ、約束する。だから泣くのはもうやめようね」
  悠は「共犯者か」と殆ど聞こえないように呟くと、黙って酒を飲み続けました。私は悠に近いうちに連絡を入れることを伝えてから家に戻ったのです。
  悠は別れ際に「苦しかったらちゃんとこの前処方された睡眠薬のんで寝るんだよ」と確認するように言いました。悠のそういうほろりとさせる心づかいが、女に 好かれる理由なのです。
  私は成島悠が千晶の心を見事に捉えることを知っていました。なぜなら彼は成熟した女である千晶には、決してひれ伏すことがないからです。千晶は生まれて初 めて自分を愛さない男を見るのでした。
  百戦錬磨の恋の勝利者として生きてきた女が、あろうことか跪いて愛を乞う立場を味わうのです。千晶はその恋の苦さに必ずや執着するでしょう。彼女は悠の歪 んだ性愛の実態を想像もできないのです。
  成島悠の存在がなければ、私の復讐も存在しなかったのかもしれません。重宗への憎悪が業火となったあの瞬間です。成島悠と千晶の組合せが、閃光に浮かび上 がる映像となって網膜に焼きついたのです。私の復讐は女の直観によって実行されるので、決して急所を外すことはないでしょう。


  沢子  その三

  沢子はせっかちな性分で、いつも約束の時間より十分か十五分は早く着いてしまう。帰りの切符を買っても、一時半までにはまだ大分時間がある。
  上野駅公園口の改札は、土曜の午後というせいもあって、若い男女が多かった。デートコースに上野の美術館巡りというのは、誰もが考えるものらしい。電車が 到着する度に、改札付近の人数が膨れ上がる。人ごみに押しやられて、沢子はだんだん身の置きどころがなくなってくる気がした。
  もう九月も半ば過ぎというのに、夏の勢力は少しも衰えない。日ざかりのアスファルト道路は、目が痛くなるほど白く光り、空気は動かない。バッグを握りしめ た手がじっとり汗ばんできた。
  沢子がもう習慣になったように、ホームの階段を上ってくる人々に目を向けていると、きらりと風が光った。藍子はいつも涼しく現れる。白い素肌に麻の象牙色 の七部袖のワンピースをまとい、その手には赤と紫紺色のアネモネの、小ぶりの花束を持っていた。
  藍子は改札口に立っている沢子と目が合うと、にっこりして軽く右手をあげた。藍子は待たせたことを謝りながら、千晶はまだでしょう、と訊ねた。
「今日はどうしても二時からの開演だとわかっているから、千晶タイムでも駄目みたいよ」
  千晶はよほどのことがない限り、約束の時間に三十分ぐらいは遅れる。友人の間では千晶タイムと呼ぶものがあって、千晶には来て欲しい時間の三十分繰り上げ た時間を約束する習慣があった。沢子も藍子も千晶のいい加減さには諦めの心境に達しているので、すっかり待つ覚悟を決めた。
「紫と深紅に花芯が真黒なんて、素敵な配色ね。」
  藍子が手にしていなければ、アネモネもこんなに美しくは見えないかもしれない。藍子は顔を近づけて、アネモネの匂いを味わっている。透き通るような白い顔 にアネモネの濃い色合いが映って、一層華やいで見えた。
「昔からこの花が好きなのよ」
  藍子の声が微妙に翳るのを感じた。
「アネモネの花言葉って、貞節だったかしら」
  藍子は花の香りに集中しているように、両眼を閉じていたが、その瞼の底から漆黒に濡れた瞳が現れ、沢子を真っ直ぐ射ぬいた。
「この花言葉は、はかない愛とか報われぬ愛というのよ」
  藍子の口もとは微笑を浮かべていたが、眼は少しも笑っていない。
「花物語では縁起のいい花とはいえないみたい。ギリシァ神話では、アフロディーテの恋人のアドニスが猪に殺された時の血から生まれたとか、アフロディーテ の涙から生まれたとか……。風の神ゼフィルの妻フローラの侍女アネモネが美少女で、ゼフィルに愛されたので、嫉妬に狂ったフローラがアネモネを野の花に変 えたという説もあるわ。この花はかわいそうな花言葉を持ってるの」
「こんな綺麗な花に変えられるなら、悪くないじゃない。わたしなんか花にされるなら、せいぜいヒメジョオンってとこかなあ」
  沢子はなんとなく話題を転じたくて、おどけてみせた。千晶だったら沢子と一諸になって大笑いしただろうが、藍子は沢子の不器量を認めるような挑発にはのら なかった。
「こんなに暑いなら、文化会館の中で待ち合わせればよかったわね。失敗だった」
  沢子は汗かきだったから暑さは苦手で、文句も言いたくなる。日盛りの道路の眩しさに何度かまばたきを繰り返して、眼を開けた瞬間に、いとも派手派手しい色 が飛び込んできた。
「ごめん、待った?  お花選んでいたら、すっかり遅くなっちゃった」
「千晶にしては、十五分の遅れは上出来。それにしても、まあ……。千晶らしい恰好してきたわね。ほら、みんな見てるじゃない。その美貌と肌の露出は、ハリ ウッドの赤絨毯の世界よ。それになんて大きい花束なの」
  沢子は、千晶の目立つ姿には慣れていたがさすがに驚いて眼を見張った。千晶は桃色の地に白と銀の糸で刺繍の施された、ノースリーブのワンピースを着てい た。高価なブランド品とすぐわかる。躰の線にぴたっとした形で、思いきりミニスカートだ。しかも胸のところが大きく開いて、背中も半分くらいまで肌がみえ ている。千晶の賢いところは、女受けするだけの黒や灰色の陰気で地味な服を選ばないところだ。いつも男の視線を意識した甘い色合いと大胆な型を着こなして いる。飾りの多い趣味の悪さも、独特の魅力にしていた。
  千晶のせいで周囲の注目の的だから居心地が悪い。千晶は両手にいっぱいの、白薔薇と白のグラジオラスの豪華な花束を抱えている千晶にふさわしい、自信に溢 れた美しい花束だ。
「ねえ、沢ちゃんも藍子も見て。これとても形のよい薔薇でしょ。とくにこの茎の真っ直ぐの感じ。花屋のお兄さんと一本一本じっくりお見合いするみたいに選 んだの。白のグラジオラスはおまけしてくれたのよ」
「千晶、そんなゴージャスな花束誰にあげるつもり」
  沢子は今日の金管アンサンブルのコンサートの出演者の中に、千晶がこんな思い入れたっぷりの花束を贈る男がいたとは知らなかった。沢子が千晶から打ち明け られる男の話など、千晶の広い異性交遊のほんの一部に過ぎないらしい。
「沢ちゃんにはひ・み・つ・藍子はよく知ってるけどね」
  千晶は無邪気に形のよい歯を見せて笑った藍子を見ると、まるで千晶の言葉が聞こえなかった様子で、すべるように歩き出した。
  文化会館は公園口の改札の真正面にあるので、三分もかからず到着する。今日の小ホールでの金管アンサンブルは、市ノ橋工業大学の金管楽器のメンバーによる 毎年恒例のコンサートだ。小ホールに入る客は少なく、ロビーはひんやりしている。藍子は受付に、重宗宛のアネモネの花束を預け、プログラムを受け取った。
「千晶はそのお花、コンサートの後で直接手渡しなさいな。そのほうが彼喜ぶことよ」
  藍子は優しい声で千晶に助言していたが、沢子には千晶の新しい相手が誰なのか、全く見当がつかなかった。千晶はオーケストラの中のめぼしい男性とは一通り 付き合って、別れたと思っていた。
  会場はもう暗くなっていて、開幕を知らせるブザーが鳴った。三人は急いで入口付近の空席を捜すと腰掛けた。プログラムには、マイヤーのディベルティメント やピースリーの金管と打楽器の為のディベルティメントなどアマチュア楽団にしては、意欲的な曲目が並べられている。ライトに照らされた舞台に、メンバーが それぞれの楽器を手にして登場する。最後に白いワイシャツにネクタイで正装した重宗が颯爽と現れ、オーケストラならコンサートマスターにあたる位置に腰掛 けた。
  実を言うと、沢子は重宗のような男はあまり好きではない。トランペットが素人離れして上手いことと、藍子の恋人であることを除くと、自信過剰が鼻について 敬遠したくなる自分にあまり多くの美点を見出せない沢子にとって、重宗の自己陶酔は白けた気分になる
  だが舞台に上ると、沢子の嫌う重宗のナルシシズムも長所になるらしい。重宗はよく、僕はテクニックではプロに負けるかもしれないが、曲の心情を理解するこ とでは、決して負けないと豪語していた。そんな明らかな強がりでも、演奏に没頭する重宗を見ていると本当らしく思えてくる。
  良くも悪くも、重宗の演奏や重宗その人には何か特別の「力」がある。重宗のトランペットは、洗練されていない荒削りのところがあるにせよ、激しい情念が訴 えかけ、また知的な敏捷さもあった。時に野蛮で、時にセンチメンタルだが、いつも新鮮で活力に溢れ、重宗という個性の色濃い響きが、聴く者の心をわしづか みにする。
  重宗の一人舞台のような演奏プログラムが終わると、アンコールとして<宇宙戦艦ヤマト>が演奏された。最初のフレーズでそのアニメの曲がわかると、会場か ら拍手と笑い声が起こった。ぐっとくだけたアンコール曲が終わったのを確認すると、重宗は自分こそ主役であるという晴れやかな表情で立ち上がった。その舞 台上の自己陶酔の表情は、確かに水際立っていて、沢子もそれは認めざるを得ないのに、やはり不愉快だった。カラヤンやバーンスタインほどすべてを揃えた一 流の男に比べたら、象と鼠くらいの差で、重宗なんて全く大したことはない。よくも身のほど知らずの自信を持ったものだ。
  藍子のような、男にかしずかれることに慣れた女には、重宗のこの自己愛の強さが、かえって新鮮な魅力になっているのかもしれない。
  出演者が舞台を引き払うと、千晶は待ってましたとばかり立ち上がった。隣席に置いてあった豪華な花束を、包装のセロハン紙の派手な音をたてて胸に抱える。
「千晶、楽屋に駆けて行きたい気分」
  千晶は目元に可愛らしさを漂わせ、藍子に向けてにっこり微笑む。
「少しじらしてやった方がいいと思うわ」
  藍子は指南役らしく、千晶の目をのぞきこんで言った。沢子は自分だけが話題についていけないので、気分が悪い。しかし、千晶が花束を誰にあげるのか訊ねる のも、自分の好奇心の強さを露呈するようで癪だ。
  ロビーは知り合いの学生ばかりでひとしきり混み合っていたが、武井が人ごみをかきわけながらやって来た。
「千晶すごい花束じゃない。僕にくれるんでしょ。ありがとう」
  美人に目のない武井らしく、千晶にすり寄っていく。
「残念でした。これは武井さんには絶対あげないの」
  千晶も千晶で、鼻にかかった甘え声を出す
「僕と千晶の仲でそんなのないじゃない。僕は千晶に尽くしてるでしょうが」
「武井さんがこんどうーんといいことしてくれるなら、考えてあげてもいいわ」
「わかった。僕の躰鍛えておくから、楽しみにしてて。千晶にはたっぷりサービスするよ僕ホストクラブにスカウトされたことあるんだよ。千晶を何回でもいか せてあげる自信は充分ある」
「やだあ」
「ところで、一体誰がこんな高そうな花束もらうの。千晶ファンクラブの男でそいつを、袋叩きにしてやろう」
  武井は軽く拳をつくる真似をしてみせたが次の瞬間千晶とは反対側の自分の右隣に沢子がいて、その横に藍子がいるのに気がついてしまったという表情をみせ た。
「藍子さん、今日は白ですか。花嫁みたいで相変わらずお美しい」
  武井は沢子を通り越して、藍子に機嫌をとろうとしていた。
「今日の重宗はなかなか良かったね。藍子さんの前だからはりきったんじゃない。ところでこの間、藍子さんが重宗と婚約したって噂聞いたよ。本当?」
  藍子はさっと顔色を変えた。そして武井に冷やかな眼差しを向けたので、武井はしまったという顔をした。
「ごめんごめん。冗談よ。藍子さん怒った顔もいいねえ」
  武井は藍子がひどく機嫌を損ねた様子に、慌てている。藍子は急に口元の表情をゆるめた。
「武井さん、つまらないこと言った罰よ。これから私と付き合いなさい」
  驚いたことに、藍子が武井を誘った。今まで相手にしたこともなかった武井に近づくなんて、沢子は唖然とした。
  沢子の知る藍子は、今まで一度だって男にこのような馴れ馴れしい態度をとったことはなかった。大体、武井本人が呆気に取られて口もきけない。武井は操られ るように藍子に従って、ロビーをどんどん出口に向かって歩き出した。
「藍子、ちょっと待ってよ」
  沢子は急いで後を追い掛けた。藍子は沢子の声に振り向くと、ウィンクしてみせて、じゃあね、と微笑んだ。藍子は本気で武井と出かけるつもりなのだ。沢子と 千晶は置き去りらしい。「そんなバカな……」沢子はそう呟いて、藍子と武井の後ろ姿を見送った。沢子は藍子と武井の組合せにむかむかした。あんなストリー キング男のどこがよくて誘ったのだろう。藍子はどうしたというのだ。
  しかたなく、千晶のところに戻ると千晶はロビーの背もたれのない黒革のソファーに腰掛けて、早速四、五人の男たちに囲まれていた。
  千晶は人指し指と中指の付け根のところに煙草をはさんで、掌で顔を覆うようにして吸っている。実にへたくそな煙草の吸い方だ。吸い慣れないのに、気取る仕 種が可愛いと言えば可愛い。千晶は沢子を見つけると、「ここよ」と明るい声をあげた。何がそんなに嬉しいのか、千晶はいつも自分に満足している感じがし た。
「沢ちゃん、楽屋に付き合ってくれる?」
  男に囲まれた千晶の立ち上がり方が、花びらが数枚こぼれ落ちて、さらに美しい花の姿が現れるようだったので、沢子はつられて楽屋までつき従うことになっ た。
  千晶はエレベーターも使わず、軽い足取りで楽屋への階段を下りていく。そして最後の三段をぴょんと両足をそろえて軽やかに飛んで見せた。楽屋に着くと、千 晶は入口で沢子を待たせて、自分は上半身を楽屋の中に突っ込んで手を振った。
  飛び出して来た人物を見て、沢子は驚愕と混乱で膝ががくがく震えた。千晶の前に立っているのは、沢子の目の錯覚でも何でもなく重宗恒一その人だ。
  千晶と向かい合った濃い眉の下のその瞳は開けっ広げの喜びをみせて輝いている。千晶は白薔薇とグラジオラスに溢れる花束を、重宗の前につき出した。
「はい。プレゼント。このお花、一本一本花屋のお兄さんと一緒に、心をこめて選んだんだから大事にしてね」
  重宗の表情が誇らしげになり、顔いっぱいに笑顔が広がった。
「ありがとう。うれしいな。僕白い花が大好きなんだ。ピュアな感じがするでしょう。大切にするよ」
  豪華な花束は、と言うより千晶からの花束が重宗をよほど喜ばせたらしく、重宗は頬を紅潮させていた。睫毛を伏せて花を眺めるその横顔は、誰もが少年の頃に 置き忘れてしまった、全身に漲る熱中を思い出させた。「嬉しいよ」と重宗は何度も繰り返した。
  千晶と重宗に全く無視されて、沢子はただ二人のぴちゃぴちゃをを見せつけられている本当にバカだ。何でこうなっていることに気がつかなかったのだろう。自 分で自分がいまいましくてならない。千晶がどんなに男にけじめがないかを知りつくしていながら、彼女が重宗恒一とくっつくとは想像したことさえなかった。 重宗は藍子の彼であり、藍子と千晶は親しい友人であるから、この組合わせだけはないと、勝手に思いこんでいた。猛烈に腹が立った。
  今まで沢子は、千晶がどのように奔放な生活をしていようと、嫌いになったことは一度もない。ボーイフレンドの一人もいない沢子の青春も、千晶と一緒にいる と華やぐ気持ちさえした。男を次々に変える千晶はバカだけれど、可愛い女だと思っていた。
  ところがどうして、バカだなんてとんでもない。千晶はじつに狡賢く、したたかではないか。どんな男でもたやすく手に入れられるだけの美貌に恵まれながら、 わざわざ友人の彼氏に目をつけて横取りした。沢子が一番嫌悪するやり方だ。恋のルール違反だ。卑怯だ重宗にいたっては、幾百の悪態をついても、今の沢子の 激しい憤りを表現できるものではない。潔癖な沢子は、噛みつけるものなら目の前の二人に噛みついてやりたかった。
  沢子は昔、同級生から「あなたには安心して恋人が紹介できるわ」と、言われたことがある。軽い冗談のつもりだったのかもしれないが、沢子は深く傷ついた。 自分がいかに不器量で男にとって魅力のない存在か、公然と侮辱されたようなものだ。沢子と正反対なのが千晶で、大抵の女は千晶にだけは恋人を紹介できない と思っていた。実際千晶になびかない男なんていないだろう。藍子だけが、沢子の知るただ一人の、千晶と角逐できる女だった。
  実に無残な結末ではないか。千晶と重宗は藍子をダシにしたのだ。重宗は藍子を棄てた心の痛みなどまるでない。千晶に花束を貰って、あのように晴れ晴れと満 足な顔をしている。千晶も、藍子に御墨付をもらっていい調子になっている。重宗も千晶も最低だ。
  藍子が武井なんかと出て行った理由が、やっと理解できた。いくら冷静な藍子でも心中は荒れ狂っているに違いない。沢子は手にしていた今日のプログラムをで きるだけ大きな音をさせて引き裂くと、近くのごみ箱に投げ捨てた。
「わたし、帰るわ」
  沢子はこの一言を、精一杯の義憤を込めて言うと、さっさと楽屋を後にした。怒りのあまり帰りの切符を買っていたことをすっかり忘れていた。二重買いして電 車に乗り、益々いまいましくなって家にたどり着いた。

  二週間後に、マーラー第五交響曲の演奏会が行なわれた。
  重宗はリハーサル後の舞台裏で、沢子に話しかけてきた。晴れやかな声で「お疲れさま」と言う重宗にどういう態度をしたものか沢子は戸惑った。
  すべてが順風満帆という顔をしている男に皮肉の一つも言ってやりたい気分だったが、それも大人気ないことだと思い直した。
「マーラーは体力の限界に挑戦しているみたいで、本当に疲れますね」
  沢子は不愛想でない程度に答えた。
  本番を三時間後に控えているというのに、沢子は自分がフルートを吹き疲れて、冴えない顔色をしていると思った。活気に満ち溢れた重宗を目の前にすると、余 計にいらいらしてくる。沢子は重宗から目を逸らしたが、頭上からなおも明るい声は降り注いだ。
「僕も疲れた。マーラーはトランペットを偏愛したと言われるくらいで、とにかく旋律が目立つから大変だよ。昨日からちょっと力を抜いて練習してたんだ。本 番まで充分体力を蓄えておかないと、へばるからね」
  見上げると、重宗は沢子の返事を待っているように立っている。沢子は重宗に突っ張るのが面倒になったので、
「重宗さんの、あの出だしのソロが五番の成否の鍵ですから、責任重大ですね」
  などと、機嫌をとるようなことを言う。心にもないお追従を言っている沢子も沢子だがそう言われて当然みたいな顔をしている男の姿も美しいものではない。
「朝から胃が痛んでね」
  重宗は、左手で軽く胃のあたりを押さえている。しかし自信家だから、自分が失敗するなどとは夢にも考えていないだろう。
「一緒に頑張ろう」
  重宗は少年のような生き生きした瞳を沢子に向けると、沢子の肩に軽く手をのせた。それから沢子を追い越すように、楽屋へ向かう階段を下りて行った。艶のあ るテノールで、今日の最初のプログラムの、<子どもの不思議な角笛>の一節を口ずさんでいた。
  女子用に決められた楽屋に入ると、千晶がワンピースの背中のファスナーを下ろしたままで椅子に腰掛けている姿が、目に飛び込んできた。服の下から、ミルク 色の肌と淡いオレンジのレースの下着がのぞいて、コスチュームに着替える最中らしい。千晶は沢子に気づくと、目顔で合図した。というのも、千晶はそのふっ くりした唇に、オーボエの細いリードを挟み込んでくわえて、鳴り具合を確かめていた。千晶は桃色の舌を突き出して、リードを三度ぺろりと舐めた。
「急にリードがおかしくなっちゃって、宮川さんの予備のもの貰っちゃったの。前の千晶の作ったものより調子がいいみたい」
  千晶独特の湿り気のあるかわいい声を聴くと、甘えられている気がする。沢子は服の割れた背中から見えるなめらかな肌にどうしても目がいく。
「それはそうと、いい恰好ね。背中開けっぱなしよ」
  沢子は、千晶の背中をぱんと叩いた。千晶の香水の匂いがまったり漂う。
「沢ちゃん、弦楽器の人っていいと思わない?  本番に口紅つけられるんですもの。管楽器の人間が口紅なんかつけたら、リードが真っ赤に染まっちゃうから、お客さんびっくりよ」
  しかしそう言う千晶の紅のない唇は、濡れてものほしげな生き物みたいで、口紅という人工的な装飾よりずっとなまめいている。
  千晶はオーボエをケースの上に無造作に置いて立ち上がった。そしてサテンのつやつやした光沢のワンピースを肩からするりと滑り落とした。
「上下黒のコスチュームって、全然色気がないから、千晶ノーブラにするの」
  千晶はそう言うと、スリップとブラジャーを思い切りよく脱ぎ捨てた。白く柔らかい胸に牡丹色の乳首がつんと上向きに立って、男ならずとも生唾を呑み込みた くなるような裸体をさらけだす。千晶はくりの深いビキニパンティと、パンティストッキングだけの姿で楽屋の中を動き回っている。
「あったわ。こんな所に置いてあった」
  千晶は黒のブラウスとスカートをつまみ上げた。そして恰好の良いお尻を左右にウィンクさせるように動かして、黒いぴっちりしたロングスカートをずり上げ た。
  楽屋には四方の壁にぎっしり鏡がはりめぐらされているので、千晶のむきだしの白い上半身と、真っ黒なスカートが全方位に映し出されている。沢子は鏡に映る 千晶の姿を次々に目で追いかけていった。そうやって殆ど半周ほどしたところで、沢子はある鏡の一隅に目を留めた。楽器の音があちこちでぶつかり合い、化粧 道具や洋服の散乱する楽屋の中に衝撃的な静けさがあった。まるで別世界の空間が存在している。
  藍子が凛と鏡の前に腰掛けていた。鏡に映る藍子は微動だにしない。藍子の黒いコスチュームは喪服と呼ぶ方がふさわしかった。憂愁が濃い霧となって藍子を包 んでいる。藍子の波打つ黒髪や形の良い鼻筋や唇や顎の線を目でなぞりながら、沢子はその硬質な美しさに、頭の芯まで痺れるような気がした。
  藍子は鏡を凝視している。最初は、藍子が自分の姿を確認していると思った。だが、鏡に映る藍子の射るような視線は、藍子自身に向けられてはいなかった。沢 子が一瞬前まで目で追いかけていた千晶の半裸を見つめているのだ。藍子は表情も変えずしんとして坐っている。その静寂は凄惨なものを秘めているに違いな く、沢子はぞくっとした。
  鏡の中で凍りついた表情を見せていた藍子が、急に眉のあたりに優しさを漂わせて微笑んだ。柔和で少し羞じらいのある、藍子独特の微笑みだった。
  藍子は鏡に映った沢子に気づいて笑いかけたのだ。藍子の面持ちが鮮やかに急転したので、沢子はつられて微笑みを返してしまう。藍子は実に芝居が上手い人 だ。鏡に映る千晶を見つめていた姿が真実なのか、沢子に、えも言われぬ微笑みを見せた姿が本音なのか、全くわからない。
  沢子が藍子の隣に行くと、藍子の前に、プログラムが広げてあった。藍子が開いていたのは最後のぺージで、マーラーの音楽に対する印象を一言ずつクラブの中 の何人かに書かせたものだ。沢子はプログラムの編集委員をしていたので、藍子の文章をよく覚えていた藍子らしい書き方で、「マーラーの音楽は、苦悩の中か ら叫ぶようで苛立たしく、時に甘たるくて、私の心をなぜか暗くてわびしい快楽で一杯にしてくれるのです」というものだった。沢子がプログラムを見ているこ とに気づくと、藍子は「なんだか大袈裟でいやね」と言った。
  沢子には藍子のこの文章に妙に気にかかるところがあった。藍子の暗くてわびしい快楽とは、一体どんなものなのだろう。もしかしたら藍子という人は、心底傷 だらけなのかもしれない、いやそうに違いなかった。
  開演の三十分前の六時になると、最終のチューニングが始まった。弦楽器は女子の楽屋で、管楽器は男子の楽屋に集まってチューニングをし、終えた順に出演者 が舞台裏に集まった。沢子は千晶と一緒に音合わせを終えると、舞台裏の管楽器のグループと合流した。武井とすれ違うと、千晶は、
「武井さんネクタイうまく結べた?」
  と言いながら、武井の胸のネクタイをべたっと触る。
「難しいよ。めったに結ばないから。ほら変だろ。千晶結び直してよ」
  武井は、広い胸板をぐっと突き出した。千晶は、ぶら下がったネクタイの端をぐいと思い切り引っ張ると、きゃっと笑いながら、逃げ出した。
「こいつ、あとでおぼえてろ」
  武井は千晶に逃げられて、多少きまり悪そうにして、今度は沢子に話かけた。
「今日はお客の入りが少ないなあ。さっき舞台の袖から覗いたんだけど、がっかりしたよ」
「マーラーだから後ろの方で聴こうという人が多いのかも知れませんね」
  最近のマーラー人気を反映してか、今回の切符の売れ行きは悪くなかった。
「それもそうか。アマチュアオケのやるマーラーなんて、うるさいくらい音が大きいのが相場だからな。後ろで聴くのが自衛手段というわけだ」
  武井は納得したように頷いた。
  最初のプログラム<子どもの不思議な角笛>が無難に終わり、ソリストが盛大な拍手に送られて退場した。十五分の休憩が終わると客席はかなり混んできてい た。千晶と重宗は手をつなぎながら舞台に出て行く。
  マーラー第五交響曲の導火線である重宗のトランペットは、ホールの澄んだ空気を突き抜けて鳴り響いた。葬送ではなく、藍子の恋の惨敗を宣言している。瞬く 間に沢子はマーラーの音楽に染められた。悲痛な声と甘い味の毒を飲み、全身に寒気が走る。何故か藍子の凍てついた表情が眼の底から浮かび上がってくる。あ とはただひたすら怒濤の終結部に向けて、破滅に向けて、音楽は疾走した。
  演奏会の後の打ち上げ会は、浜松町駅前の店で行われる。演奏会場のホールから、自然に出来た長い列を十五分ほどついていくと、そのごてごてした中華料理食 べ放題の店に呑み込まれる感じだった。
  地下にある店内は既に学生の熱気で一杯だ学生達は空腹を満たそうと猛烈な勢いで料理に向かい、興奮と喧騒の会話を続けている。店の中央に設えたマイクの前 では、明広大学オーケストラ部長の鍋島の挨拶が続いていたが殆ど聞き取れない。
  こういう立食パーティでは遠慮していると飲み物も食べ物も口に入らないまま終わってしまう。沢子はひどく喉が渇いていた。いつもはアルコール類は飲まない のに、手近にあったのがビールだけなので、しかたなく飲み干した。てきめんに自分の顔が赤くなっていくのがわかった。
  ここに来るまでの道中、藍子は夜道を重宗と話しながら歩いていたが、いつのまにか姿を消していた。重宗の方といえば、得意の絶頂で管楽器の下級生に取り囲 まれている。今日のソロは素晴らしかったとかなんとか、ちやほやされているのだろう。重宗と向き合うと、なぜか彼を褒めなくてはいけない雰囲気になってし まう。
  重宗のような純粋培養のナルシストは見たこともないと、沢子は藍子に腐したことがある。
「あの人みたいなナルシストが、美しい自分という確信を失うことがあったら、きっと立ち直れないでしょうね」
  と、藍子も否定しなかった。
  よく考えれば、千晶だって負けないくらいのナルシストだ。千晶は自分以外のことが話題の中心になることを好まない。口説かれた時のことを話す千晶の生き生 きした様子をみれば明白だ。千晶はいつも言い寄る男そのものには、さほど興味関心がない。千晶が一番話したいのは、自分が男にとって稀に見る魅力的な存在 であって、どのように愛の告白を受けたか、誘惑されたかということだ。
  千晶には恋は仕掛けられるものと決まっている。片想いにも失恋にも無縁だ。千晶は必ず愛される側で、恋の勝利者だ。気づくと男は彼女に夢中で、千晶は自分 の魅力を確かめるだけで済む。自分から愛する必要などないむしろ愛さないほど、男は喜んで彼女の言いなりになる。千晶はそんな風に男から愛される自分に 酔っていて、それを恋と錯覚していた。
  沢子に言わせれば、千晶は本当の恋を知らない。男にちやほやされ、大切にされる自分の華やかな姿だけを眺めている。自分に恋しているに過ぎない。自分が痛 むまで愛さなくて、どうして恋が成り立つだろう。
  沢子はそんなことを考えながら、やっと見つけたオレンジジュースを、飲み干したビールのコップの上に注いだ。ビールの苦みが残って、奇妙な味だったが、渇 きを癒すには充分だ。沢子は酢豚の皿とオレンジジュースのコップを持ったまま、、ダンスパーティの壁の花よろしく会場の隅に立ち、中央の賑やかな集団を眺 めていた。
「同じ女でもずいぶん違うじゃない」
  今まで気づかなかったが、宮川がかなり酔ったらしい赤い顔をしている。千晶にプロポーズしてふられた宮川は、アルコールのせいでよけいにみじめに傷ついた 男という感じが漂う。沢子が黙っていると、尚も絡む感じで
「ほらあそこ。女二人でビールのつぎあい。料理のやけ食い。あんなにめかしこんでも、ブスの傍に男は寄ってこない。これを男日照りという。でも千晶を見て よ。あんなに男が取り囲んじゃって」
  と言い、焼酎の入ったらしいコップを千晶のいる方角につき出した。七、八人の男が千晶を取り巻いている。千晶は若い躰を撓わせて笑い、その派手な媚態は周 囲を圧倒していた。千晶は男の間で、まるで天女のように持ち上げられている。
「男っていうのは浅ましいね。あいつらの下心は丸見えだよ。みっともない」
  宮川は舌打ちした。沢子は宮川の負け惜しみを気の毒に思うより、見苦しく思った。酔っていなければ、決してこんな言葉を吐かないだろうに、酒の勢いで感情 をむき出している。
「宮川さんも、あの中に入りたいんでしょう」
  沢子はうんと冷やかに言い放った。人は図星のことを言われると、案外怒らないものらしい。宮川は沢子をじっと見た。
「君はきついことを言うね。仰せのとおりかも知れないよ」
  宮川は自嘲するようにそう言うと、コップの酒を一気に飲み干した。
「君頭いいね。だから男が寄りつかないんじゃない」
  宮川の酒くさい息がかかり、沢子をむかむかさせた。
「女の子はやっぱり可愛いのがいいよ。それにちょっとおバカなこといってくれるほうが楽しい。君、星新一の『ボッコちゃん』て知ってる?  ボッコちゃんて女のロボット」
  沢子はSFには興味がなかったし、まともに宮川の相手をする気になれないので、黙って宮川から離れるチャンスを捜していた。
「ボッコちゃんがどういうロボットかというと、美人なんだよ。あらゆる美人の要素を取り入れた、いい女のロボット。その上もう一つの特徴は頭はからっぽっ ていうことだよ。男がもしロボットを作るとしたら、こういうロボットが欲しいと思うに決まってる。あらゆる美人の要素とからっぽの頭なんて、まさに男の好 みの女だよ。ボッコちゃんてだからすごくもてるんだ。いいんだよな、ボッコちゃんて。女は魅力ある躰がすべてさ。躰だよ中身なんていらない。心なんていら ない。ただ男の望む通りに身を任せてくれればそれでいいんだ。自分を主張するようなこざかしい女はだめさ」
  沢子はむかむかしてきた。
「ブスで利口な女がいやなら、どうぞ他へ行って。あなたの大好きなボッコちゃんならあそこにいるじゃない。でも、あのボッコちゃんは、宮川さんの手に負え るようなやわな女じゃないわよ。それから私だって言わせてもらえば、ガリ勉男は趣味じゃないの。小さな脳味噌の女じゃなきゃ安心できないような、自分に自 信のない男はこっちからお断りするわ」
  沢子は男の本音なんてそんなものだろうと思うと、うすら悲しくもあった。しかし、宮川は離れようとした沢子の手首をぐいと掴まえて放そうとしない。
「男っていうのは、生まれたときからいつも自分の力が相手より上か下かと位取りしながら、劣等感いっぱいに必死で生きてるから、みんな自信がないんだよ」
  宮川はまだ手首をぎゅっと掴んでいる。
「宮川さんのように秀才の誉れ高い人が自信がないなんて言うとおかしいわ。手を放して下さい」
  沢子の語調の激しさに驚いて、宮川は手を放した。
「君わかってる?  藍子みたいに才色兼備というのは、男が怖がっちゃうんだよ。セックスしてくださいというと、あのきれいな顔でびしゃりと叩かれそうだもの。男は敬遠する よ。遠くから眺めるだけにしとこうってね。初めから断られるとわかる女に手は出さないさ。藍子は重宗には貞操堅固すぎて、ふられたんだよ」
  ついに沢子は頭にきた。慣れないビールを飲んで頭に血が上っていたせいもあるが、平静を美徳とする信条を忘れた。
「あなた藍子のことなにも知らないくせに、そんな言い方は失礼よ。藍子はふられたわけじゃないわ。ボッコちゃんと争うのがばからしくなっただけよ。あなた がボッコちゃんにふられた話は有名だけど、それと藍子の場合と一緒にしないでほしいわ」
  沢子はむきになって、藍子の名誉を弁護せずにいられなかった。
「それは失礼、厳しいお嬢さん。訂正するよ藍子はふられたんじゃなくて、ただ重宗と別れただけ。重宗が藍子から千晶にのりかえました。重宗こそゲスで下劣 で女たらしの最低の男だってね」
  宮川は重宗の名を嫌悪をもって口にした。その表情は日頃の無口なおとなしい男のものではなく、重宗への侮蔑と悪意にみちていて沢子を唖然とさせた。男の嫉 妬も女のそれのように、あるいはそれ以上に醜いものであるのを見せつけられた思いがした。
  その時、会場の中央の方で大きなどよめきがおきた。
「只今より重大ニュースを発表します」
  マイクに向かって学生のふざけた声ががなりたてている。
「重宗恒一氏より発表があります。おい重宗こっちこいよ」
  重宗は中央に押し出されるような恰好になったが、笑ったまま何も言おうとしなかった
「重宗は照れておりますので、私から申し上げます。どうぞ皆さん御静粛に」
  会場の騒ぎが静まるのを見届けて、男の声が続いた。
「皆さん。われらがオーケストラの重鎮、重宗恒一氏は本日ここに婚約したことを御報告します」
  冷かしのやじが飛び会場は大変な騒ぎになった。
「皆さんお静かに。これから先が許せないのです。なんと重宗のフィアンセはわがクラブきっての美女でありセクシーアイドルでもある、あの千晶嬢なのです」
  学生達の爆笑と拍手と怒号の中で、沢子は呆気にとられていた。
  お互いになんて節操のない婚約劇であり、婚約発表なのだろう。千晶は大胆にも重宗の頬に接吻してみせた。美男美女のことだから見苦しい絵ではなかったが、 いや見苦しくないからこそ、それぞれに傷つけた人間に対する薄情さがことさら際立った。コンサートの後でいつの間にか藍子が姿を消した理由がよくわかっ た。
「そろそろ打ち上げ会もお開きにしたいと思います」
  マイクの声が喧騒の中からがなりたてた。「みんなで二次会に行きましょう。重宗がおごるそうです。なに、そんなこと言ってない?  かまいません。重宗は罰をうけるべきであります。千晶に失恋した男は今夜は重宗におごらせよう。さあ行くぞ」
  千晶や重宗を中心とした騒々しい一団が、出口のあたりにいた沢子の方に移動してきた重宗の姿を見た宮川が一言、二言呪詛の言葉を吐いた。沢子には言葉の内 容までは聞き取れなかったが、重宗は悪意を敏感に察知して立ち止まった。
  幸いなことに千晶が割り込んできて、宮川と重宗の間に流れた険悪な雰囲気を切り崩した。千晶は自分が宮川をふったことなどすっかり忘れたような、いとも愛 想のよい笑顔を見せて、
「宮川さんも、沢ちゃんもこれから一緒にみんなと飲みに行かない」
  と誘った。宮川は可愛らしい独裁者に、牙を抜かれておとなしくなった。
「ねえ、いいでしょ。いっしょに行きましょうよ」
  千晶の人なつこい誘いに、宮川は曖昧な笑顔を作った。そして、
「僕は遠慮しとく。またこの次でも」
  と、答えた。沢子はその言いかたで、宮川が本当には酔っていないことに気づいた。宮川は酔ったふりでもしなければ、胸のつかえを言葉にできないらしい。急 に宮川が気の毒に思えてきた。
「そう。残念ね」
  千晶は口先だけ愛想良く宮川をあしらい、なおも沢子を熱心に誘い続けた。沢子が、二人の婚約を祝う心境にあるとでも思うのだろうか。
  千晶は沢子がどうしても動かないのを見てやっと諦めた。そして例のうっとりした微笑みを浮かべた唇からさよならと言い放ち、お供の男どもを従えて会場を出 て行った。
  背を向けた瞬間に、千晶は沢子のことも宮川のこともすっかり忘れているだろう。結局千晶は、他人のことなんかどうだっていいのだ。沢子は、千晶の柔らかな 躰を包んだドレスの、腰のあたりが左右に揺れる様子をじっと見送った。


    千晶  その三

  千晶には時々重宗さんの存在がうとましくて耐えられなくなるときがあるの。なぜかしら。とにかく疲れるの。重宗さんのこと好きと思っていたのに……。ほん と、好きなのよ嘘じゃない。
  重宗さんの躰が千晶の上にあるとき、体重をかけられているわけではないのに、重たくて重たくてたまらない。彼は汗まで重たい人男と寝ていてこんな妙な圧迫 を感じるのは初めてよ。
  重宗さんは狂気のように千晶を抱きしめる乳房を力いっぱい掴むので痛いくらい。あんまり夢中で吸うし、噛むから乳首に歯形が残る。重宗さんの性器は焼けた 棒のように熱く千晶を刺し貫いて、疲れることを知らない。千晶の感じやすい性器は潤んで濡れても、重宗さんの力技に反応しきれない。相性が悪いのかな。
  初めて重宗さんと寝た時、すべての力を使いはたした後に千晶が目を開けると、重宗さんの長い睫毛のきわにうっすらと涙の玉が浮かんでいた。
「僕はなんて幸福なんだろう」
  重宗さんのその言葉に驚いたわ。それはたとえようもなく、心やさしい響きで、重宗さんは本当に千晶のことを愛していると痛切に感じてしまったわ。
  千晶の躰は世界で一番美しい、千晶はとてもいい匂いだ、蜜の味だ、そんなありきたりの、でも、情熱そのもののことを言って千晶の喉にキスしてから、
「僕の命は千晶の手に握られているんだ」
  重宗さんはそう言うと、千晶の手をとって自分のものを握らせた。それは千晶が掴むと瞬く間に勢いを盛り返して力が漲ったわ。魔法みたいに。千晶は思わず震 えた。今まで経験したことのないような、なにか圧倒的な感じだった。
  もしかしたら、千晶は命がけで愛されているのかもしれない、そんな気がするの。重宗さんを見てると、この人にとって千晶はすべてなんだと思えて、なんだか 背筋がぞくぞくしてしまう。怖いの。重宗さんは千晶にコンクリートの壁みたいに貼りついてる。どうしようもない重圧。愛されるって息苦しくて恐ろしいもの なのね。
  重宗さんはあと一年で大学院を卒業して就職するから、結婚してくれって迫ってくる。最初から随分情熱的な人だとは思ったけれど男の人がここまで本気になる と女は脅えてしまう。真剣を通り越して深刻なの。千晶はもっと気楽な面白い場所が好き。重宗さんのように愛されると、見返りに千晶の人生までさしださなく てはいけないんじゃないかと思ってしまう。
  周囲はみんな重宗さんと千晶がうまくいってて情熱的な恋愛をしていると信じている。でも、千晶が今の状態に満足しているように見えたら、それはちがう。
  重宗さんの想いには感謝してるわ。感謝しなかったら罰があたるでしょ。彼は男がこれ以上できないほど深く千晶を愛してるんですもの。でもね、何かがいや。 からりと晴れてない。陰気よ。千晶の本当に望んでいることじゃない。愛というけれど、それってこんなに行き場のないような、重いものなの?  とても鬱陶しくて少しも愉しめないの。
  重宗さんからは、これ以上のものはなにも得られないほど愛されてるから、もう未来の可能性がない気がするの。夢がないというか彼とはこれ以上にはなれない のよ。始まったばかりなのに、もうすべてが終わってしまったような気がしているの。千晶は重宗さんのようには愛せないし、こんな状態しあわせとは呼べない と思う。窒息しそう。
  セックスにしても気持ちよく溶けないの。挿入された感覚がセックスのあとまでも残るセックスの合う男の時は、千晶と男がぴったり嵌まってほんとうに一つに なってしまう。挿入されていることも忘れて、心臓の鼓動まで一緒になるの。ところが、重宗さんとは微妙にずれていて互いに嵌まる感じがしない。
  まかり間違って結婚なんてしたら毎日こういうセックスかと思うと、千晶はたまらないわ。彼は飾りものの恋人としては最高だけれど、寝る男じゃない。熱いし 暑い。熱湯をかぶるみたい。重宗さんが千晶の躰を崇めれば崇めるほど、千晶は逆に冷えてくる。
  ベッドでは人間が変わったように淫らになりなさい、それはミコ先生が教えてくれたこと。千晶はいろんな体位を試したり、烈しく浅ましく求めあったりしたい の。重宗さんは千晶の前には女性経験がほとんどなかったみたい。重宗さんとお上品で真面目なだけのセックスするのは気が重い。
  千晶がたとえば藍子のように男を知らなかったら、重宗さんと一緒になっても幸福になれたでしょうね。とにかく、このままでは重宗さんの一心不乱な欲望に身 をまかせて溺れることなんてできないわ。重宗さんとでは酔えない。
  これから重宗さんとどうするのか、そんなことわかんない。結婚しないことだけは確かよ。だからと言って千晶からばっさり斬り棄てるのはまだ決心がつかな い。ちょっとかわいそう。惜しいの。重宗さんみたいな美男子はめったにいないし、あれほど千晶に夢中になってくれた誠実な人は今まで一人もいなかったわ。 千晶は重宗さんをどこかで必要としているのかな。重いけれど、大勢のボーイフレンドの中には重宗さんのような人もいてほしい。あの人には他の誰にもない必 死さがある。死に物狂いに千晶に恋してくれる。
  重宗さんとは今までの男のように簡単には離れられない。ある種の嫌悪に未練がいりまじってる。重宗さんの愛って銀行の預金みたいなものなの。たくさんある といざというとき安心というような。
  このまま互いに飽きて、先細りで自然に消えてゆくことができたら理想なんだけど……藍子に相談したら、しぜんに別れられる方法はあるのよ、と言うの。その うち教えてあげるわですって。藍子も重宗さんを紹介しておきながら、変な性格ね。
  とにかく、千晶はあまり深く考えないことにする。悩むことは嫌い。悩みとか苦労って女を醜くするものよ。千晶は今此処を楽しく生きる、それが人生で一番大 切だと思うの。快楽主義者かもしれない。
  千晶は、けっきょく重宗さんひとりを守るようなタイプじゃない。誘惑してくる男は相変わらずたくさんいるし。重宗さんと違って痴漢すれすれぐらい露骨にや られるのはスリルがあるわ。誘惑されるのは女の最高の幸せよ。好きかどうかわからないけど、文句なしに面白い人もいる。興奮するの。勿論恋人じゃない。遊 びね。
  たとえば、一番大胆にエッチなのはコンサートマスターの武井さん。この間もマーラーの練習の後に、皆で飲みにいったんだけど、彼しっかり千晶の右隣に坐っ て、テーブルの下で、最初から最後まで千晶のスカートの中に手を突っ込んでいたのよ。男の子には、千晶今日はものすごく上気していて、色っぽいなんてから かわれるし、まいったわ。武井さんて性欲が服着て歩いてる人。でもそういう人、女は正直言って好きなんだと思う。千晶は千晶とセックスしたがる男が大好 き。重宗さんはちょっと離れた所に坐っていたけど何か感じたのか、ずっと黙りこんでいたわ。
  武井さんがどんなにエッチかというと、例えば昨日なんて千晶の前に立って、ズボンのチャックを直してよなんて言うの。「僕の大きいからすぐこわれるんだ よ」って指差すから、思わずあそこを見ちゃうでしょ。ズボンの上からでも大きくなっているのがはっきりわかるし、しかもチャックが半分位下げられている の。そして彼いきなり千晶の手を掴むと自分の股間に引っ張って、あそこ触らせたんだから。千晶、きゃっって叫んじゃった。固くて元気ぴんぴんだったんで、 手を離してもいつまでもあの感触が残っていて変な気分になったわ。
  武井さんは藍子にも色目使ってる。でも、千晶の勝利はまちがいない。藍子はお高くとまってて、品行方正で処女の鏡のようなとってもつまらない女よ。純潔な んて後生大事に守るほどのものなのかしら。武井さんだって本気で口説こうとはしないはず。
  この前藍子に誘われて、大学の近くの喫茶店で待ち合わせてケーキ食べに行ったら彼も来てたの。彼、藍子の隣に坐りながら、千晶に向かいあってるのいいこと に、目配せしたり足を動かすの。あれやりたいって意味よ。藍子のことなんて、彼は結局気にかけてないの。千晶に興味があるんだわ。それじゃなきゃ、いくら なんでも藍子の前であそこまでできないわよ。片方の靴を脱いで、自分の足を千晶の膝を割ってぐいぐいスカートの中に伸ばしてくるんですもの。彼の足の指が 千晶のパンティにまで触れるの。
  藍子が千晶のことセックス狂いと思って軽蔑しているのは知ってる。自分だって一度でも男と寝たら夢中になるでしょうに、千晶のことどこか物凄く冷たい目で 見てる。千晶に重宗さんを譲る時泣いていたけれど、あれは今思うと悔し泣きかもしれない。
  藍子は自分が千晶ほど魅力がないんで嫉妬してるのよ。でも男が魅力ある女のほうになびくのは当然だわ。藍子は美人だけれど、男と寝る気がない。驚きだわ。 いい男を傍に置いてはいるけれど、それはまるで実体のない愛の為とか言って、セックスする気はないのよ。
  男女の恋愛なんて、藍子の考えるような観念の中にあるわけじゃない。躰なのよ。セックスをやりまくらなくては本物じゃないと思う。千晶が男だったら藍子み たいな女からは逃げ出すわ。一緒にいる意味がない。
  だから、千晶は藍子から彼を取り上げるのは悪いこととは思っていないの。男を藍子から解放して幸福にする自信は充分あるわよ。重宗さん、僕はなんて幸福な んだって、感動の涙を流したんだから……。千晶は藍子から男の人を助けてあげるの。絶え間ないセックスの欲望に苛まれて、男の人はかわいそう。なんとか想 いにこたえて助けてあげたい。
  男が千晶を全身全霊で感じて、味わって、讃美してくれることが最高の幸福だわ。男と女の間に必要なのは理解じゃない。一体になる感覚なの。肌のふれあいな の。
「セックスすれば男が幸福になるなんて、まさか。男はそんなにバカではないわよ」
  沢子だったらきっとこんな風に言う。沢子は藍子と違った意味で潔癖なところがあるから、千晶が多くの男とつきあうことを良しと思っていないでしょうね。
  千晶が今まで、色々な男のひととつきあったのは、本当にただ一人の自分のための恋人に巡りあえなかったからだと思う。重宗さんにとっては千晶がただ一人の 女性だけれど、千晶にとって重宗さんはそういう対象ではない。
  最近嬉しい予感がしてるの。この前知り合った人がいるんだけど、今までとは胸の高ぶりが全然違うの。不思議なの。千晶自分でも怖いぐらい彼に執着してるの かもしれない。こんな経験初めてよ。彼が好きでたまらないわ。今度こそ本当の恋人に巡りあったのかもしれない。
  彼のしなうような躰の動きや、ちょっとくもった声や、人を見る時の少し斜めの視線や大胆に千晶に接近してくるあの細くて長い指何もかもが、好きで好きでた まらないわ。彼はうんと年上で大人で、千晶を自由に呼吸させてくれる。束縛しない。それに女の子の好きな場所を知ってるし、千晶に対して、ものすごくお金 も使ってくれる。お金は愛情とはちがうけれど、男は愛情がない女にはお金を使わないものでしょ。
  彼は成島悠というの。お医者さんよ。頭もいいんだから。私は親しみをこめて「悠」と呼んでるの。
  藍子の従兄よ。不思議なんだけど、彼も藍子の紹介で知り合ったの。いい男はみんな藍子が連れてくる。
  初めて会ったのは、私がコンサートの後で藍子の家に泊った次の日のことよ。藍子の従兄だから、ちょっと藍子に雰囲気が似ているかもしれない。一目見て、な んて素敵な人と思ったわ。重宗さんもハンサムだけど、まったく違うタイプの美男子なの。悠は細身で艶かしくて、すこし女性的なくらいにきれいなの。髪もや わらかくて長めで、愁いを秘めたような眼差しをしていてうっとりしちゃう。
  もう深い関係になっているわ。あんなに最初から自信をもって千晶に迫ってきた人は初めてよ。悠は自分が女に好かれることをよく知ってるの。でも、重宗さん のように一途な情熱というのではない。なにか翳があって、本心は別のところにあるという感じで、まだ百パーセント千晶に目が向いていない。心の一番奥底が 凍っているみたい……。そこにじんとくるの。何か秘密のあるようなミステリアスな部分、一瞬垣間見せる暗い表情に惹かれるわ。悠をみているとなぜか哀しく なる。せつない気がしてしかたない……。もっと千晶のほうを見てと言いたくなる。棄てられたらどうしようと不安になるなんて生れて初めてのことよ。
  今までの男とちがうのはそれだけじゃない悠は躰の求め方が他の誰にもないほど烈しいの。まるで死ぬまえみたいな求め方をするの快楽を味わいながら、自殺し ようとしてるみたい。だから最初に寝たときから、千晶の躰にびんびん電流が走ったのよ。悠が指一本触れるだけで、千晶はもう失神してしまいそうになる。悠 が触れる場所すべてがとろりと溶けてしまいそう。
  悠とセックスしていると、このまま死んでもいいと思う瞬間があるの。躰の相性がいいなんていうそんな生易しい、平凡なものじゃないわ。何か悠には殺意があ るんじゃないかと思うくらいの力で、千晶のなかに奥深くに入ってくる。千晶のなかの女が悠の焼きゴテを受け入れると、悠の熱い精液がほとばしって、千晶の 子宮の中がみるみる湖のように満ちてくる。千晶はそのまま悠の精液のなかで溺れるんじゃないかと思うくらい。千晶の女からも歓喜の水が溢れ出すのよ。
  千晶は他の相手では、こんな錯乱するまでの性の悦びを味わうことは絶対にできないと思う。もともと千晶はどんな女にも負けないほど、男を受け入れるのに敏 感な感受性があるの。悠と寝てみて初めて千晶の官能が全開するのがわかったわ。
  千晶は悠と、生まれて初めてのような烈しい欲望を持って、恋をするかもしれない。きっと誰もとめられないわ。重宗さんが千晶のことをどんなに愛してくれて いても、千晶を鎖に繋いでおくことはできない。
  恋人を自分の愛情の深さでひきとめられるなんて信じていたら、それはとんでもない幻想だわ。恋人を自分に惹きつけることができるのは恋人の自己愛だけよ。 恋人が自分といて心地よいと思わないかぎり、恋人を自分に縛りつけることなんて不可能だわ。
  千晶はほんものの恋がしたい。たとえ不道徳と糾弾されても、情熱的に生きることは素晴らしいわ。千晶は波瀾万丈の人生を生きるの。恋するために生れてきた の。生活をするために生きてるんじゃないわ。過去は振り返らない。いつも今が一番きれいで輝いていると思うの。そして未来は今までに経験したことのない、 刺激的で濃厚な新しい恋の予感に充ちているの。大人は道徳や常識を守って退屈に生きているけれど、そんなの真っ平御免よ。千晶は冷めた幸福より熱い不幸を 選ぶわ


  藍子  その四

  長かった夏も燃え尽きて、青銅(ブロンズ)色の光が滲むように十月が訪れました。秋は眩しくもなく、やわらかです。重宗と千晶はすっかり気の合う生き物で した。二人の組合せは周囲の光景に溶けこんでいました。私と重宗の間のことは、今では誰の記憶の片隅にも残っていません。
  千晶と重宗の間の温度差に気づいていたのは私だけです。千晶はうっとり溶け崩れてゆくままに、恋を、恋されることを楽しんでいましたが、重宗は崖っぷちを 走り抜けていました。
  重宗は、直視すると撥ね飛ばされるほど千晶への渇望に張りつめていました。まるで千晶の接吻だけで輝いている命に見え、焼け焦げてしまうような愛し方でし た。重宗は非常に危険な場所に踏み込んでいたので、どんな悪魔でも簡単に近づくことができました。
  十月最初の土曜日の本番を目前にして、学生オーケストラの奏でるマーラーの響きは、音楽の輪郭を鮮明に描き始めていました。若さの過剰なまでの情熱が功を 奏して、作曲者の魂を吹き荒れる凄まじい絶望を垣間見せるのでした。爆発する勢いで最終楽章のロンドを演奏するオーケストラの中にあって、私は自分の気持 ちが音楽によって興奮しているのか、復讐の決意で沸騰しているのか、しばしば区別がつかなくなりました。
  昔読んだ本の中に、人間が本当に悪くなると、人を傷つけることにしか喜びを見出さなくなるという言葉がありました。私は自分が優しさのかけらもないそうい う人間になってしまったことを感じずにはいられませんでした。
  私はコンサートの夜に重宗と千晶を結びつける段取りに心を奪われているだけでした。その計画を思う時、ぞくぞくするほど生きがいを覚えました。重宗は長い 間の思いを遂げる素晴らしい一夜を過ごし、幸福の絶頂を味わうのです。後では、重宗はこの一夜が存在したことを、烈しく呪うことになるでしょうこの一夜が あればこそ、重宗の苦しみは耐えがたく狂おしいものになるのでした。
  演奏会はオール・マーラー・プログラムでした。前半はソプラノの独唱者を迎えて、マーラーの歌曲集<子供の不思議な角笛>から五曲を演奏し、十五分の休憩 の後に後半のメイン・プログラム第五交響曲に入ります。マーラーの音楽に傷つく心はとうに失っていましたが、マーラーに染まる色合いが濃ければ濃いほど、 自分がどんな邪悪なこともできる妄想に憑かれました。
  マーラーの旋律には葬送の暗さがあり、慟哭も悲鳴もあり、たえまない興奮があり、歓喜の絶叫があり、恍惚の蜜があり、断末魔の痙攣や恐怖の発作や死の沈黙 までがありました。だからマーラーの世界では憎悪も復讐もたやすいこと。殺人も自殺も思いのまま。私はそう感じました。やすらぎも平和もいらないから、さ あ藍子よ、やるのだ。音楽が私の背中を押すのでした。
  演奏会当日、重宗と千晶は照明が明るくなると手をつないで舞台に出ていきました。オーボエの席に着いた千晶は、後方の金管の席にいる重宗に、花の笑顔で合 図を送っていました。千晶にとっては誰にでもよく見せる、深い意味はない挨拶です。ソロの前で緊張している重宗には、恋人の温かい励ましと受けとめられた に違いありません。
  指揮者の吉岡敏がきびきびした足取りで登場し、タクトが厳粛に、刑の宣告をくだすようにふりおろされました。
  重宗の一本のトランペットの哀切な旋律がマーラーの第五番、宿命のシンフォニーの口火を切るのです。彼は自分が、もう一つの悲惨で滑稽な物語の口火を切っ たことには、まだ何も気づいていないのでした。
  マーラーの血管を切り開く作業でもある演奏は、一時間十五分ほどで燃え尽きました。舞台の幕が下りると、若い出演者たちはもう音楽の陰翳を引きずることな く、それぞれの楽屋に流れました。黒いブラウスにロングスカートという喪服を脱ぎすて、打ち上げパーティのための華やかな色彩に身を包むのです
  この夜の西原千晶は、私の創り上げた見事な美術品でした。愛らしすぎて趣味など磨く必要のなかった千晶を、洗練された美人に仕上げたのです。洋服は勿論の こと、下着、靴ハンカチ、香水にいたるまですべてを揃え、髪型と化粧も私が決めました。仕上がった千晶は、しっとりなまめく美しさでした。
  婚約発表の乙女にふさわしい白い服は、千晶の肌の色に合わせて少しクリーム色が混じり、光沢のある生地です。千晶の躰の線をそのままなぞるタイトなデザイ ンでしたので、見る角度によっては一瞬、千晶のヌードを連想させるワンピースでした。清楚で無垢とされる白をまとった千晶を見て、花嫁の白は実は男を騙す ための色でもあることがわかりました。ぎりぎりまで短いスカートからは、私を嫉妬に狂わせた脚がすらりと伸びています靴は脚の美しさを強調するために、八 センチとヒールの高いミュールを選びました。
  私は千晶に下着は全部つけるように言いました。ノーブラにすればセクシーだったのですが、今日は処女風に演出するのが目的でした。但し、色は男の性欲を一 番刺激するというオレンジ色。白のドレスの下にかすかに感じられる、温かみを帯びた女の大切な部分は充分に刺激的です。そして千晶が重宗から愛撫を受けそ うなところすべてに、金木犀の香りのする香水を擦り込んだのでした。
  千晶の唇にはいつものどぎつい赤ではなくもっと自然の唇に近い淡いオレンジ系の口紅をつけました。リップグロスで濡れた口元にすることも忘れませんでし た。それから千晶のコンパクトも真新しいものに取り替えさせました。何しろ千晶のコンパクトは白粉が真ん中だけえぐられたように凹み、鏡は飛び散った白粉 でひどく汚れていました。男は魅力的な女が身仕舞いも美しいものと錯覚しがちです。ところが、ベッドで男を喜ばせる女に限って大抵ひどくだらしがないので す。重宗の千晶への幻想を壊さないように用心しなくてはなりません。
  私は男子学生達が、息を呑んで千晶を見つめていることに満足を覚えました。彼らの視線は例外なく千晶のまるいヒップのあたり、スカートのスリットが深く切 れこむあたりで動かなくなりました。男という男は、その深いスリットから手を突っ込むことしか考えられないようです。そんな男たちの露骨な欲望の眼差し を、自然に受け流して楽しんでいる千晶は、やはり骨の髄まで娼婦なのでした。
  後片づけの遅い千晶を残して、楽屋を一足先に出ました。ホールを出て打ち上げ会場に向かおうとする一団の中から重宗を捜し出すと、私は重宗に寄り添うよう に話しかけました。重宗は演奏会の成功に上機嫌でしたから先ず彼のトランペットのソロを褒めあげ、そして大切な一言を唇にのせました。
「今夜はとても素敵なことがありそう」
  演奏会の終わった後というのは、たとえアマチュアであっても、気持ちが高ぶっていますので、暗示にかかりやすいものです。私はもう一言つけ加えたい誘惑に かられました。どんなに自信家の男でも、恋をすると臆病になるもの。私は重宗を勇気づけてやらなくてはなりません。
「決断というのは、瞬時に決めることだと思うわ。女は遅い決断をきらうの」
  自分の言葉が、乾いた砂に水が染み込むように、重宗の胸の奥に届いたことを確信しました。魔女が呪文をかけた気分に似ているでしょう。
  私は千晶が、取り巻きの男たちに囲まれながら近づいてくるのを認めると、すぐに重宗から離れました。もう一つ仕事が残っていました。数人のおしゃべり好き の上級生に、重宗が千晶にプロポーズしたらしいとか、二人が婚約したらしいとか、そんな噂をばらまきました。コンサートの後の高揚と解放感に沸く勢いに乗 り、この話は一気にクラブ中を駆けめぐるでしょう。注目の美男美女の婚約発表は、パーティの最大の話題になるに違いありません。
  打ち上げ会場の前で一団から離れると、私は一人で帰ることにしました。いくら自分で仕組んだことでも、さすがに婚約発表の場面につきあうのは気がすすみま せん。会場に入っていく重宗の鮮やかな姿が、身を切るようでした。私は彼の白熱する鼓動を感じることができました。
  彼が自分を燃やして支払う代償は何なのか見とどけたいと思いました。重宗は、私のただひとりの、憎悪するほど痛切で光り眩い存在なのです。
  打ち上げ会場に背を向けて、車を拾うために大通りに向かって歩き出しました。数メートルほど行ったところで、後ろから走ってきた指揮者の吉岡に呼びとめら れました。「藍子さん、帰るの?」
  私が軽く頷くと、吉岡はちょっと待っててと言い、会場の方に走って行きました。ビルの地下にある、その貸切りの中華料理店の前には、まだ店に入りきれない 学生達が並んで順番を待っていました。急用ができたから打ち上げに出ないで先に帰る、と吉岡が声をかけているのが聞こえました。学生達のなぜ、どうしての 騒ぎを無視するように、吉岡は息をはずませて戻って来ました。
「送っていくよ」
  吉岡は私の手をとると、大通りに引っ張って行きました。吉岡はタクシーの中で、少し寄り道して軽く食べていかないかと誘いました。結局吉岡は麻布のエス ニックカフェまで私を連れて行きました。私をタクシーに乗せてから下ろすまでの動作は、流れるようで手馴れたものでした。
「この店は朝までやってるから、演奏会の後なんかに便利で、よく来るんだ。カレーがお薦めだよ」
  吉岡は何品か酒のつまみを、てきぱきと注文しました。そして、
「藍子という名前にふさわしいカクテルを選ぼう。スミレのリキュールを使ったブルームーンというのが、とてもきれいな青だから、それにしよう。二つね」
  私の好みを尋ねようとしない吉岡の強引さを不快には思いませんでしたが、
「先生は何でもお一人で決めてしまわれるんですね」
  と、少し皮肉を込めて言うくらいは許されると思いました。
「決断は瞬時にするものでしょ」
  吉岡の切り返しは、私にはまったく思いがけないものでした。
「聞いてらしたんですか」
「僕は指揮者だから、耳には自信がある。何でも聞こえてる、特にあなたの声はよく聞いている」
  重宗に何を言ったかを知られても、私が何をしようとしているか見破られたわけではない、と自分に納得させました。動揺を見せてはならないと思いました。私 は自分が密かに軽蔑していた曖昧な笑いを浮かべて、話題を変えようと思いました。
「打ち上げにお出にならなくて本当によかったんですか?  先生が主役だったのに。皆きっと変に思いますよ」
「あなたと二人きりになれるチャンスをみすみす打ち上げなんかで逃したくないからね」
  とってつけたような話題の変化にも、吉岡の態度は変わることはありませんでした。
「前からあなたとこうして二人きりで会いたいと思っていたんだけれど、あなたは本当にガードの固い人だから難しかった」
「まあ、誘って下さればよかったのに」
「あなたを誘うのは、相当の覚悟がいるよ。美しすぎて、どうせ僕なんか断られるだろうって、勇気をなくしてしまう。大抵の男は誘う前から諦めてる。だから 今日は本当にラッキーだったね」
  吉岡のその口調は、覚悟を決めた人間のものと言うより、若い女の機嫌をとろうとする遊び馴れた中年男のものでした。
  私は青色のカクテルの後にウィスキーを一杯つきあいました。吉岡は退屈させることなく会話を運び、しつこく引き止める不作法もしませんでした。店を出た私 は、吉岡に少し歩きたいと言いました。私と重宗の会話を聞いて何を考えたか、なぜ私を誘ったのか、吉岡の真意を探りたくなったのでした。
  西麻布の交差点から広尾の方角に向かって車の流れる音を聞きながら外苑西通りを歩いていきました。吉岡が先に切り出してくれました。
「重宗と別れたんだよね」
「ええ、三ヵ月前に」
「僕に権利ができたかどうか聞いていいかい?」
  吉岡の表情は指揮をする時のものでした。彼は本気なのです。私は久しぶりに思いきり笑いたい気分になりました。もしそれだけのことだったら、危惧する必要 はないのです。「学生に手を出していいんですか?」
  吉岡は冗談にすることを嫌いました。
「クビになってもかまわないよ。プロの僕がお金にならない上に、技術もなくて、生意気で、理想ばかり追いかける学生オーケストラを指揮しているのはなぜ か。僕は正直だからはっきり言うけれど、若くてきれいな女の子を見るためにやってるんだ。だからあなたを初めて見た時は、感激したね。やってたかいがあっ たと思った。今の僕の望みはあなたの秘密を知ること。あなたはどこか病的なんだあなたの愛ってこわいだろうね。重宗みたいな若い学生にはあなたの魅力は理 解できっこない。あなたは何を考えているかわからない情熱がありそうなのに溺れない。頭がいいけど屈折してる。あなたはどういう時に泣くんだろう」
「もしかすると私、褒められたんですね」
  私は軽く笑いました。吉岡は右手でそっと私の頬に触れると次の瞬間唇を合わせました私は吉岡の行為にただ凍りついたように身動きできませんでした。
  吉岡に対する嫌悪が働いたのではありません。突然大きな暗い翳が迫りました。私は自分の躰が途方もない重さに圧迫されるのを感じて胸苦しくなりました。男 のざらざらした肌の感触やしつこい唇の動きが言いようのない恐怖でした。音のするほど烈しい身震いがして、全身が粟立ちました。
  吉岡は驚いて私から離れました。重宗が初めてのキスのあとに、哀しみを溢れさせて硬直した私を眺めたように、吉岡は私の顔をじっと見ていました。
「心がないけど、なかなか良かった。氷のようなところがじんときた。火傷は火だけじゃなくて、氷でもすることがあることを思い出したよ」
  吉岡は優しい口調でそう言うと、歩き始めました。吉岡は私をひどく滅入らせたのでした。
  家まで送ると言い張る吉岡を振り切り、一人で真っ暗な家に戻りました。疲れはててベッドの上に倒れ込みました。父は学会で出張していましたし、継母は入院 した自分の父親の世話で、病院に付き添っていました。家を留守にして私を一人にすることを躊躇していた継母を、私は親思いの子供の役を演じてうまく追い出 したのです。
  着替えることもなく、電灯のスイッチも入れずに、暗闇を見つめていました。消耗していても、眠りに落ちることはなくて、輾転としました。自分の苦痛の正体 が見えず、激しいあからさまな痛みもなく、ただ耐え難いと思いました。
  暗闇の中で目を凝らすと、無数の惨憺たるものが転がっているのです。
  私は重宗に愛されない。私は千晶のように生まれつかなかったので愛されない。私は私であるので愛されない。私は千晶に嫉妬した憎んだ。私は千晶のような女 しか愛さない男を許せない。娼婦に惹かれる男を許せない。私は重宗を傷つけたい。破滅させたい。
  今夜重宗と千晶はセックスしている。重宗はそれを愛の証と信じている。なんで男の愛は性と分かち難く結びついてしまったのだろう。男はセックスぬきでは女 を愛せない。男にとって女は躰。愛はセックス。欲しいのは性。女の魂も心もいらない。なぜか。なぜセ
ックスがそれほど必要なのか──。なぜ女の                                       
柔肌や性器のぬめりに執着する?  セックスは絶対に愛ではない。しかし、男はセックスを必死に求め続ける。きっと男にはセックスと魂は同じものなんだ。
  だから私は女の復讐をする。男に、女と抱きあえぬ地獄を味わわせてやる。そして復讐する私は、穢れていて醜い。とても醜い。吉岡が病的と表現したものは、 恐らくこの醜さだ。
  無数の惨憺たるものと一緒にいることに歯を食い縛って耐えているうちに、ぽっかり口を開いた魔界に迷いこんだ恐怖に襲われました。ずんずん広がる暗闇の世 界に堕ち続けて逃れる出口を見失う恐ろしさでした。私は総毛立つように脅え、呻いていました。
  暁の頃、辛うじてベッドから這い上がりました。私は自分の部屋の息苦しさに我慢できなくなり、父の書斎に逃げました。父の部屋のカーテンをあけ、大きな窓 をいっぱいに開きました。父の書斎はこの家の中で一番見晴らしの良い場所にありました。明け方の空気は冷たく澄んでいて、私の肺を少し清めてくれました。
  夜明けの藍色の空が、果物の皮を鋭利な刃物で一筋ずつ剥いていくようにだんだんと白い光を増して明るんでいきます。空は青くきらめいて、朝が暖まりはじめ ていました。ふと「青空などは暗いのだ」というランボーの一節を思い出しました。
  私は父の机の前の大きな椅子に腰かけてみました。父の書斎は子供の頃の私のお気に入りの場所でした。壁一面の本、床に積み上げられた本、資料の山、父の蒐 集しているペーパーウェイトの数々、しみついた煙草や葉巻の匂い。古ぼけた絨毯の染み。懐かしい色に染まったものばかりです。
  机上の煙草入れの中から一本取り出して火をつけてみました。肺の中まで吸い込まずに一口だけ吸うと、煙を吐き出しました。そのまま指に挟んで、煙草が煙を 吐きながら灰になり、燃え尽きていく様子をじっと眺めていました。指の熱さが我慢の限界までくると、火を消さずに煙草を灰皿に寝かせました。
  突然、船の霧笛のようなボッーという低音の耳鳴りがゆっくりと、しかし段々に音量を増しながら、私を襲いました。私は起き上がり際によく重苦しい耳鳴りに 悩まされました無音の部屋に不気味な低音が充満していくさまは、耳を切り落とさない限り逃れようもありません。疎ましい低音の襲来はじわじわと胸や喉を締 めつけるのです。息苦しくなり、急いでラジオのスイッチを入れました。
  スイッチを入れると、そこには天気予報を告げる事務的な音声が流れていました。私は夢の中ではなく、やはり現実にいるらしいのです。今日の東京は晴れ、降 水確率ゼロパーセント。予想最低気温十四度、予想最高気温十九度。開け放たれた窓から風が流れ、頭の芯がひんやりします。
  すっかり顔を出した太陽が、今日の晴天を保証しました。それでも私は、再び「青空などは暗いのだ」と思いました。
  私は千晶をじっと待っていました。千晶は重宗と過ごした一夜の言い訳に、私を利用するはずでした。昨夜の急な外泊を、実は藍子の家に泊まったと電話するの です。私が電話に出ればアリバイ作りは完成でした。みえすいたアリバイでしたが、千晶の母親にとってはこれで充分でした。娘の男関係が目を覆いたくなるも のだという事実から、逃げていたいのです。私は千晶から重宗との首尾を聞くためにも、この嘘に積極的に協力するのでした。
  ラジオから流れるバロック音楽の小品が一曲終わった頃、千晶が左右に微かに揺れて、早朝の人気のない住宅街を歩いてくるのが見えました。重宗が千晶を袖で 囲うかのようにいたわりながら、寄り添っています。二人はもたれあいながら、斜向かいの家の煉瓦塀の前で立ち止まりました。千晶は腰にまわされた重宗の腕 を振りほどきました。ここでいいわ、とでも言ったのでしょう。
  二人は接吻をはじめました。私からは重宗の後ろ姿と、千晶の恍惚の表情が見えました千晶の口もとは、熟れた果物の皮が裂け、今にも甘い果汁がとろけ出るよ うに開かれていきます。重宗はその果汁を一滴残さず吸い尽くそうとして、千晶に被さりました。
  二人の顔は一つの肉の塊になって溶けあいました。煉瓦塀の前の重宗と千晶は、無個性な男と女になり、口だけで繋がり、絡み合う一個の動物です。彼らは合体 して、強欲な性に蠢いていました。私は二人の性交のさまを見せられているのです。ムンクの「嫉妬」という繪と同じ構図にいる私は、繪の中の嫉妬する男と同 じ血走った目をして、死相が表れているにちがいありません。
  粘りついて凝視しているうちに、重宗と接吻しているのは千晶ではなく、私自身だという感覚に捉われました。重宗の昂った息づかいを、そのまま唇の上に感じ ました。重宗は千晶ではなく、千晶を操っているこの私と荒々しい接吻をしている。重宗は千晶の口から私の息を、血が混じった息を吸い込んでいる重宗は千晶 を吸い尽くそうとして、実は私の生暖かい、悪意のある息で胸を膨らませ、そして病魔に冒されていく。
  千晶は私の道具に過ぎない。重宗恒一、私はあなたをきっとだめにしてみせる。あなたをただのバカにしてあげる。
  千晶は息苦しくなったようで、唐突に重宗の躰を押し戻しました。欲情していた一つの生き物が、二人の若く美しい男女に分かれました。重宗の激しい接吻に熱 された千晶の唇は、熟れた苺のように紅を濃くして、じゃあね、と動きました。
  千晶は私の家の門の前まで一目散に駆けてきて、くるっと振り向くと、重宗に向かって手を振りました。私は重宗の表情を注視しました。長い接吻をして欲望を 満足させたその顔……。緊張感の途切れた男の顔など正視するに耐えないはずです。
  私は千晶を見つめる重宗の姿に、思わず息を凝らしました。一人の女を征服した有頂天は、重宗のようなナルシストを、益々傲慢で鼻持ちならない人間にするに ちがいありません。しかし、予想は完璧に裏切られました。
  重宗は心打たれる表情を湛えていたのです私は男という存在に充ちあふれる高貴を初めて知りました。そこに見たのは、恋を遂げてなお「悲しきものの美しさ」 とでも呼ぶしかないものでした。
  重宗の精悍な美貌には、愁いがありましたより深く愛する者につきまとう悲哀の翳です彼は癒し難い苦痛を抱えて、身に滲みるほどやさしい眼差しをしていまし た。誇り高い男が、生まれて初めて自分を棄てる、取り返しのつかない恋をしたのです。恋の苦しさも惨めさも喜んで受入れ、高まる憧れを隠そうともせ ず……。重宗の全身に千晶に対する想いがどくどくと脈打っているのでした。
  男が女に愛していると告白するのは、つまりセックスしたいということだと理解していた私は、重宗のようすを信じ難い思いで見つめていました。重宗の千晶へ の想いは、セックスをしたいというような肉欲の領域を遥かに超えて広がっていました。
  重宗は彼の中にあるすべての善きもの、気高さ、優しさを賭けて、千晶に向かっているのでした。重宗の千晶に捧げる性は聖なのです。彼が受難劇の主人公にさ え思えました。
  重宗は純粋に女を愛しています。彼は生身の女と交わり愛しきることで、遂に車輪に張りついた、凄まじい女の顔の呪縛から解放されたのです。重宗は残酷でな い女神、生身の
愛らしい千晶を見出した──。重宗は今、不                                       
安と切望に苛まれながら、深い歓びの中にいました。
  千晶が重宗にとって何であるかは明らかです。これは重宗にとって世界のすべてを包む恋でした。私は目の奥が錐で刺される感覚に襲われました。自分が考えて いた以上に、徹底的に惨めな敗者であることを思い知らされたのです。
  千晶は鍵のかかっていない門を開け、前庭を横切って玄関にたどりつくとベルを鳴らしました。その気忙しい音を聞きながら、私はまだ煉瓦塀の前に立っている 重宗を見ていました。重宗の位置からはもう千晶の姿は見えないでしょう。それでも彼は千晶の残像をいとおしんで立ち続けています。なんという美しい顔。私 は彼の姿に、胸がぎしぎしとしめつけられる痛みを感じました。
  騒がしいベルの音はまだ鳴り響いています私は立ちつくしている重宗を視界から追い払うために階下に下り、玄関の扉を開けました努めて明るく、まあいらっ しゃい、と千晶を招き入れました。
「藍子、眠くて死にそうよ」
  千晶はバッグと楽器を投げ出して、ミュールも脱ぎ捨てると、玄関に座りこんでしまいました。何とか千晶を抱え起こすと、二階の自分の部屋に運びました。千 晶をベッドに寝かせると、湯たんぽでも入ったように、布団の温度がじんわり上がっていきました。
「ゆうべ、寝かせてもらえなかったの。ものすごくねむい。ねむってもいい?」
「もちろんよ。どうぞゆっくり寝てちょうだい」
「藍子にまた迷惑かけちゃった。ママには昨日の夜、藍子の家に泊めてもらうって言ってあるの」
  千晶はそう言い終えると、小鳥のようにしっかり目をつむりました。私が一晩中輾転として一睡もしていないベッドの中で、千晶はすぐに可愛い寝息をたて始め ました。
  私は千晶の脱いだワンピースをハンガーにかけると、ベッドの横に腰かけて、眠っている千晶を見守りました。重宗に愛された躰です。千晶の躰は火照っていま した。千晶に顔を寄せると、シーツの中から花冠の重たい花の甘いねっとりした匂いと、微かな男の体臭が混ざりながら立ち上り、息苦しさを覚えました。
  千晶は無垢な子どもの深い眠りを眠っていました。私は、自分に訪れることのないその安らかな眠りを羨みました。喪うことを恐れ続けてきた人をきっぱり喪 い、喪うことの恐怖からやっと自由になりました。もう辛い願いを持つことはありません。
  千晶の愛らしい目元、その美しい薔薇色の瞼を飽きることなく眺めているうちに、私は真実と和解すべきではないかという思いに捉われました。重宗が私ではな く、千晶を選んだという真実を許したら、救われるかも知れない……。
  復讐の決意が鈍ったのは後にも先にも、この瞬間だけでした。重宗の悲しげな優しさが胸にこたえたのか、千晶の寝顔が私を諦念に誘ったのか。私は自分の気の 迷いに苦笑しました。
  真実と、なあなあのつきあいをして生きるつもりはありませんでした。諦めて静かな絶望を生きるなど、真っ平でした。負けると分かっていても、私は真実に烈 しく抵抗して生きる方を選びたい。
  マーラーもよく言っていたではありませんか。この世は「束の間の生」。どうせ死んでしまうのですから、やはり思ったことは性急にやり遂げなければなりませ ん。
  千晶が寝ている間に、私は手際よく働いて日曜日のブランチを準備していました。数種のパンやマフィン、バター、蜂蜜、ブルーベリーのジャム、チーズや二種 類の野菜サラダオーブンで焼きあげたチキンとポテト。何種類かのハムを並べ、卵料理や、コーヒーと紅茶の用意をし、ヨーグルトを使ったデザートを冷蔵庫で 冷やしました。継母の作りおきのサーモンのマリネと筑前煮もあります。
  もう一人の客である成島悠は約束通り十二時きっかりに、初めての家を訪問するような慣れない様子で隣家からやってきました。黒地に花柄の派手なシャツが、 不思議によく似合っていました。
  両親がいないと分かっていたのに、悠は自分が侵入犯のように感じているらしくて、落ち着きがありませんでした。私は千晶がまだ寝ていることを説明して、悠 に濃いミルクティーを入れました。悠は昔からコーヒーは飲まないのです。悠は、この家に来たのはお葬式の時と法事の時だけだったと言い、全然変わってない ねと部屋を見回しました。
  千晶が起きてきたのは、昼もだいぶ過ぎてからでした。千晶はなよなよしながら、私と悠のいる食堂に顔を出しました。
「藍子、悪いけどシャワー借りていいかしらまだ頭がすっきりしないの」
  千晶は重たげな瞼をわずかに吊り上げて、成島悠を怪訝そうに眺めました。私は千晶にタオルとバスローブの場所を教えて、化粧品も自由に使ってかまわないと 言いました。千晶が一瞥で悠に関心を持ったことを認めたので、悠を紹介するのは後まわしにしようと思いました。
「めちゃめちゃ可愛い子だね」
  悠は千晶がバスルームに入ったのを待ちかねたように、感嘆して言いました。
「そうよ、私の言ったとおりでしょ。悠が退屈するような女性は紹介しないわ」
「先の楽しみが想像できるかも。ずいぶん遊んでいるみたいだから、落とすのは難しくないと思うよ。でも僕は変わった人間だから、彼女との関係をもたせるの が苦労だろうね。もって半年じゃないかな」
「それだけ続けば充分よ。ただし、贅沢させてあげて、猛烈な半年間にしてちょうだい。悠のようなタイプは初めてだと思うから、千晶きっと夢中になるわ。と ころで、どのくらいで彼女と深い仲になれるかしら?」
「差し障りがなければ今日にでも」
「まあ、すごい自信ね。お手並み拝見します」
  私は千晶を待たずにブランチを始めるように、悠にすすめました。千晶は何事もゆっくりでしたから、シャワーも長いのです。千晶を待つ間に千晶の母親から表 向きはお礼の電話が入り、私は如才なく応対して、アリバイ証明のため、電話の子機をバスルームの千晶に渡しました。悠は私のことを大嘘つきだと評しました が、嘘つきと言われることは女の栄誉だとやり返しました。
  千晶はシャワーを終えるとバスローブのまま食堂に現れました。見知らぬ男がいることは百も承知で、そういう無防備な振る舞いができるのが、千晶らしいとこ ろです。
  濡れて額に貼りついた髪や湯上がりの上気した薄桃色の肌は、爛漫と咲きほこる花の美しさではあっても、めしべが腐りかけているような奇妙な匂いを放って、 私と悠のいた空間を性風俗のサロンに変えてしまいました。バスローブの下は一糸まとわぬ裸であることを意識した仕草で千晶は足を組み、椅子にもたれかかる と、活発な食欲を発揮しました。
  私は悠が従兄であり、まだ独身の小児科のドクターで、隣に住んでいることなどを教えました。千晶は私と悠がただの親戚であることに安心した様子で、二人と もよく似ているので兄妹かと思ったなどと言いました。
  悠は、それが作戦なのかどうか、千晶には殆ど関心を示さずに、私にしか通じない話や自分がいかに病院の仕事に忙殺されているかを主な話題として、昼間にも かかわらずウィスキーをオンザロックで流しこみ、料理もよく食べていました。
  無意味な会話の間中、私は悠の眼差しの中にずっと、ある意志を読み取っていました。彼は、今ここで千晶とやりたいと望んでいるようでした。私はその欲求を しばらく無視しましたが、悠に迫られたら、バスローブ一枚の千晶がその気にならないはずがないと思い直しました。
「買い物に行きたいんだけれど、二人に留守番を頼んでいいかしら」
  何ともわざとらしい理由をくっつけたのです。私は夕食も一緒に食べていってねと、千晶に念を押しました。
  食堂を出ていく時、悠は片手でグラスを持ち上げると、私に目配せさえしてみせました彼が失敗するわけがありません。私は一駅先のスーパーまで買い物に行 き、文庫本を買って喫茶店で一冊読み終えてから、戻りました
  帰宅すると悠は台所で後片付けをしていました。グラスや食器が几帳面に洗われて並べられています。鍋を磨いている悠に、ありがとう、千晶はどこ、と尋ねる と、
「洋服を着てくるっていってたよ」
  と返事がありました。
「楽しんだ?」
「期待以上にね。彼女、官能の海を泳ぐように生まれてしまったんだね」
  悠が千晶の躰を稀に見る素晴らしいものだと評価したことを感じていました。男を魅きつける蜜の肌の持ち主は私ではなく、千晶なのでした。
「本気になれそうかしら?」
「本気ってどういう意味?」
「悠が人生観を変えるくらい彼女に魅力を感じたかどうかということよ」
  悠は私の言葉に鋭い敵意を抱くように、反撃しました。
「僕は一生変わらない。僕が誰を愛するか、どういう人生を選択するかは、たとえ目の前にギリシア神話のヘレネや、映画の中のマリリン・モンローが現れても 変わるはずがない僕は性毛のあるような成熟した女には惚れない。万に一つ、僕が将来普通の女性を愛して結婚するとしても、それは藍子が結婚して幸福になっ たのを見届けた、ずっと後のことじゃないか」
  悠は語気荒く、怒りを露にしたのです。私は悠の反応を充分予想していました。
「でも、もうはじめてしまったのよ。悠は千晶に火をつけてしまったのだから、途中でやめられないわ」
  私が何を語っても、その一語一語が悠に突き刺さることを、知っていました。
「何が何でも悠に、私の思い通りに動いてもらいたいの。それにこれは悠にはまたとないチャンスのことがわからない?  千晶ほどの女はもう現れないわ。千晶は悠が現実に触れることのできるなかでは、最高の女よ。悠に写真や妄想の中ではない、最高のセックスをして欲しい。今 の目茶苦茶な生活を終わりにして欲しいの。私は、悠が私に望んでいるのと全く同じことを望んでるのよ。普通になって欲しいの。生身の大人の女とのセックス で心から充たされる男になって欲しいの。千晶のような女だったら、悠が変わることができるかもしれないじゃない」
  悠の暗い眼差しが私に注がれていました。悠は不可能を押しつけられていると感じていたでしょう。悠の小児性愛は彼の人生の根幹に居座っているのです。
「僕だって自分が変われたらどんなにいいかと思うよ。僕の過去を消すことができるなら何でもするさ。でも、そうはならない。絶対にね」
  悠の声から生きた色が失われていくように感じました。悠が私に感じている負い目の深さに思い至り、私は重宗だけではなく、悠まで傷つけようとしている事実 に突きあたるのでした。
「僕は変わらない。藍子の共犯者であるということもきっと変わらない」
  悠は、それでも共犯者として、私に利用されるつもりでいてくれました。


    沢子  その四

  一八八八年、この年のある日、ライプチッヒの仕事をしていた二十八歳のマーラーは、駅で女を待っていた。作曲家ウェーバーの孫にあたるカール・フォン・ ウェーバー男爵の妻マリオン・ウェーバーである。彼女と恋愛関係にあったマーラーは、一緒に駆け落ちすることを計画した。この約束の日、マーラーはひたす ら駅で待ち続けたが、遂に彼女は現れなかった。
  波瀾にとんだマーラーの伝記の中のこの小さなエピソードが、沢子はなぜか気に入っている。マーラーがまだアルマと出会う前の、数多い恋愛の一つに過ぎない が、読んでいると思わずにやりとする。マーラーのように、人生を闘争に明け暮れ、寸暇を惜しんで働いた男が、女のために一日待ち続け、すっぽかされた。少 々滑稽でもあり、嵐の中の小春日和のような印象を与えるのだ。
  前進あるのみ、精神の静止状態とは無縁のマーラーのような人間にとって、ただ待ち続けるということがどれほどの苦痛だったか想像に難くない。マーラーの胸 中、どのような激情や不安が渦巻いていたか知る由もないがとにかくマーラーは待ち続けた。全身全霊をもって生きていたマーラーが、待ち疲れて憤然として、 いやもしかしたら、女が現れなかったことに幾分かは安堵しながら、一人帰っていくようすが、ありありと目に浮かぶ。
  結局マーラーは愛しても愛しても報われぬ男だったのかもしれない。マーラーが早死にしたのは、熱愛するアルマに裏切られた痛手が影響したという説もあるく らいだ。女の魔性を相手にすれば天才もかたなしだ。しかし沢子はそういうふられた、かっこ悪い、この偉大な作曲家の横顔がとても好きだ。
  沢子は、クラブで自費制作したマーラー演奏会のテープを聴きながら、この待ちぼうけを思い出していた。素人の演奏だから、あらを捜せばきりがないが、女の ために一日潰したマーラーのエピソードみたいな、その人らしくない出来事が起きた感じがする。指揮者と楽員の意図が見事にずれている、というより素人集団 のオーケストラでは吉岡先生についていく技量がないのだ、沢子はそう思えてならない。
  吉岡先生は、マーラーの構造を理知的に、精密に響かせようとしている。感傷を排しドライに処理している。破綻を嫌うあまり、マーラーの音楽の持つ、沈痛 な、胸を抉るような嘆きや阿鼻叫喚を削ぎ落とそうとする。ところが、学生の方はマーラーへの思い入れ深く、もっと感情に溺れて演奏したがっているそれにそ ういう理解しかない。五番の出だしのトランペットのソロからして、重宗が詠嘆の限りをつくすような吹き方をしている。フィナーレの演奏など、吉岡先生は鮮 やかに生き生きした楽譜の再現を望んでいたにもかかわらず、学生の方はただがむしゃらの猪突猛進である。
  アマチュアオケだから、いろいろけっさくな失敗談にはことかかないが、フィナーレ、遂にクライマックスというところで、前代未聞の珍事が起きた。コントラ バスのトップである関口が、熱演のあまり弓をばちんと折ったのだ。観客は大音響で気がつかなかっただろうが、管楽器の面々は、真っ二つに弓の折れる派手な 音と、関口の困惑した表情を横目に、思わず楽器を吹きまくっていた口もとが緩んだ。千晶は殆ど笑いながら演奏していた力一杯弾けばよいというものでもな し、呆れてしまう。
  吉岡先生は、プロを相手の指揮者としては有望という話だが、この演奏は失敗だ。学生相手に高望みしすぎたのだと思う。技量に欠けて、心情だけが取り柄のア マチュアに、アマチュア向きでない演奏を求めても無理だろう。重宗のトランペットは目立って上手かったが、徹底して感情的で時には暴力的でさえある。いか にも彼らしい烈しさだった。
  沢子は時計を見て、慌ててテープを止めると、出かける支度を始めた。気の重い光景が待ち受けている。
  沢子は、演奏会の後のレセプションでの、千晶と重宗の婚約発表を許せない。あまり憤慨したものだから、それから千晶とろくろく話もしていない。重宗や千晶 や藍子が一緒にいるような場面に立ち会うことも避けてきたしかし、今日はそうもいかないのだ。藍子は当然いるし、千晶も重宗も来る。重宗と千晶の仲の良さ も、藍子の平静な姿も見たくなかった。
  今日は毎年冬休み前に行なわれる内輪のクリスマス音楽会がある。会場は沢子の大学でオーケストラクラブの部員の他に、マーラー演奏会で一緒だった他大学の 有志も参加することになっていた。
  クリスマスらしい飲物やケーキや菓子類が用意され、おしゃべりしながら、気楽に音楽を楽しもうという会である。部員がクラブの暇を見つけて練習した室内楽 などを披露する
  決められたプログラムがあるわけではなくその時々で気が向いた者が舞台にのぼって演奏した。重宗はこの会の重要メンバーの一人だった。去年は重宗作曲の <瞑想>と言う室内楽が登場した。たしか尺八なぞを持ち出して、洋楽を演奏するという変わったことをしていた。重宗は歌は勿論のこと、殆どの楽器をかなり のレベルで演奏することができた。今年も趣向を凝らして参加してくることだろう。沢子は藍子たちと一緒にモーツァルトのフルート四重奏を演奏することに なっていた
  外に出ると、沢子は寒さに身震いした。冬の一日が暮れようとしている。西の空には血の滲んだように赤い雲が広がり、木枯らしが肌に噛みついた。
  電車を乗り継いで大学に着く頃には、雲は既に鉛色に変色し頭上に覆い被さっていた。沢子の足取りは重くなった。去年はこの気儘な音楽会を楽しみにしていた のに、会場になっている別館の大教室に近づくにつれ、胃のあたりに不愉快な重石がのしかかってくる。気分はどんより鈍色に閉ざされたこの空と同じだ。
  廊下の突き当たりの部室にたどりつく。扉を開けた途端、頬が焼けるような熱気にたじろいだ。暖房が効きすぎていたし、若さの人いきれが、部屋に充満してい る。すぐにサンタカラーの赤と白の服が駆け寄って来た。熱いくらいの掌で、沢子の冷えた手を包みこむと、
「沢ちゃん、こっちよ。沢ちゃんの席とっといたんだから」
  と、しあわせを含んだ声が響いた。
「外、寒かったでしょ。コーヒー飲みましょうよ。千晶も欲しかったところ」
  沢子の返事も待たず、白いふわふわセーターと赤いぴちぴちスカートが飲物の並んだテーブルにとんでいった。その声の甘い余韻は目の中まで明るくする。千晶 はなんて屈託がないんだろう。赤いスカートの下にあるむっちりしたお尻は、多くの女から安らぎを奪いとって、幸運を肥らせていくみたいだ。
  千晶は湯気の立った紙コップ入りのコーヒーを差し出した。
「沢ちゃんの花模様のそのお洋服とってもすてき。もしかして、今日お見合いでもするの」
「まさか」
  千晶が手渡した紙コップの焼けるような熱さに、思わず取り落としそうになった。千晶は沢子の態度が最近よそよそしいので、沢子の席を用意したり、コーヒー 持ってきたり、服なんか誉めて機嫌をとろうとしているのかもしれない。可愛い子ぶってもその手にのるものか。
  沢子はお見合いの一言に腹が立った。自分が早々に婚約したからといって、他人も結婚したがっているなどと思わないで欲しい。千晶だって重宗だってもうすこ し慎み深くすべきだ。藍子の目の前でいつもべたべたして、どこで待ち合わせするとか、何食べるかとかおおっぴらに話しすぎる。二人とも藍子を手酷く傷つけ た上に、さらに藍子の誇りを公然と傷つけるような婚約発表をした。その思いやりのなさには愛想が尽きる。
「千晶の方こそ、やけに嬉しそうじゃなくてなにかいいことでもあったの。あれから、重宗さんとは楽しくてしょうがないのかしら」
  沢子は千晶には通じないと知りつつ、精一杯の皮肉を込めて言った。口調がとげとげしくなるのを隠そうとはしなかった。クリスマス会の間、ずっとまとわりつ かれるのはたまらない。
  ところが、千晶は沢子の腕に自分の腕をぴったり絡ませて、猫のように身をすりよせてきた。
「千晶やめるの」
「やめるって、なに」
「重宗さんと婚約やめるの」
  沢子は、千晶の腕をふりほどいて、千晶の顔を見た。真剣に観察したが、千晶は動揺するふうでもなく、自然なようすだ。嘘をついている顔ではない。
  沢子は絶句して、近くの椅子に坐りこんだ心臓がどきどきしている。千晶に言うべき言葉が見つからなかった。沢子はコーヒーを飲んで気持ちを落ち着けようと したが、手が震える。
  今までにも千晶の別れ話はたくさん聞いてきた。初めてのことじゃない。それなのに、こんなに動揺している。千晶の移り気は知っていた。重宗とのことに限っ て千晶が別れることはないなんて、どうして思いこんでいたんだろう。藍子が払った犠牲の大きさばかり考えて、千晶も今度こそ年貢の納め時のように考えてし まった。
  それにしても、こんなに早く別れるなんて……。沢子は千晶に新しい恋人がいることを確信した。沢子は千晶が新しい恋をした時の変わり身の早さをよく知って いた。千晶の場合、前の恋人が嫌になって新しい彼をつくるのではなく、新しい恋人が現れると、前の恋人がどうしても嫌になってしまうのだ。
  千晶は前の恋人を容赦なく切り棄ててきた千晶の新しい恋の相手は誰なんだろう。沢子は千晶を問い正そうか迷った。迷い続けている間に、部屋に藍子が入って 来た。沢子は藍子の姿に一瞬息をのみ、千晶のことを忘れた
  藍子は美しいから、いつも人目を惹くのだが、沢子が驚いたのはそういう外見ではない入ってきた時の藍子が、かつて見たこともないほど輝いて感じられたの だ。藍子は落ち着いたようすの人で、人前で自分の感情を露にすることはない。だが、重宗と別れてからはずっと紗がかかったようで、愁いがその表情を離れる ことがなかった。
  ところが今、沢子の視界に入った藍子はまるで別人で、表情がきらきらしている。見事に登場した舞台のヒロインよろしく生彩溢れる藍子に、沢子は喫驚した。 どうしたのだろう。
  しばらく沢子の頭は千晶の告白や、藍子の尋常でないさまに混乱していた。沢子は藍子に目が釘付けになっていたが、藍子が接近するにつれ、藍子の存在がひど く眩しく、目をそむけずにはいられなかった。
  間もなく沢子にも、千晶が重宗と別れたという事実と、藍子の鮮やかな表情が結びついてきた。そういうことか。沢子は漸く納得することができた。藍子のため には喜ぶべき事態なのだろう。
  藍子はこぼれ落ちるような微笑みで、にこやかに沢子の隣に坐った。その瞬間、沢子にとんでもないことが閃いた。藍子は狂ってい
る──。そう感じずにいられなかった。                                           
  藍子の華やぎは異常だった。藍子は、老婆の着るような、濁った青銅色の服を纏っていた。くすんでいて少しも彼女に似合う色ではないのに、これほど藍子が新 鮮な美しさを見せたことはなかった。常軌を逸した美しさだ藍子の中で感情の均衡が崩れて、一言で言えば滅茶苦茶な喜びが噴出したみたいだ。これは病気だ。 人間には喜びも悲しみも容量があるのに、それを越えてしまった感情は、殆ど狂気に近い。沢子は藍子を見て、言いようのない不安に胸が締めつけられた。
  さらに沢子の困惑に拍車をかけるように、背後から重宗の声がした。重宗は千晶のすぐ後ろに席を取り、千晶と話し始めた。何を話題にしているのか、沢子の頭 に入らなかった二人がどういう顔をしてやりとりしているのか、考えるだけでまいった。
  新しい恋をして喜色満面の千晶と、棄てられる重宗と、その隙間に入りこもうとする藍子の異常さが、沢子が部屋に入ってからものの十分もたたずに展開してい るのだ。演奏が始まった時、沢子は心からほっとした。どういう振る舞いをしたらいいのか、やっと考えることができる。
  演奏を始めたのは武井だった。ピアノと一緒にベートーベンのクロイツェルソナタをやっていた。重宗が技巧を見せびらかすような演奏だと、いつも批判してい るにふさわしい派手な身振りの演奏だ。細身のズボンが、あまりにぴったり下半身の線を出していて、ダンサーを思わせた。身のこなしも、バイオリンよりはダ ンスの方に向いていた。武井は弾きながら、ひっきりなしに沢子のほうを見た沢子の隣に藍子と千晶が腰かけていたから、沢子ではなく藍子か千晶を見るため に、視線が沢子を通過するのだ。
  沢子はまず千晶を観察した。千晶は実に熱心な鑑賞者だった。時々、可愛らしい瞬きで大きな澄んだ目を潤す以外は、神妙に聴いていた。千晶は好意のこもった 様子で、殆ど武井に見惚れると言ってもいいくらいだ。
  左にいる藍子は、口もとにうっすら微笑みを浮かべていた。武井の演奏を肯定しているという笑みではない。母親が、子供にまあ頑張ってねと、軽く励ますよう な印象で、重宗の演奏を聴く時のような一途さがない。
  沢子はそっと振り返って、重宗のようすをうかがった。重宗は下を向いて、フルートを取り出している。膝の上には自分が演奏する譜面が乗っていて、武井の演 奏には全く関心がないようだ。表情を見ることはできなかった。千晶の後ろに腰掛けているくらいだから少なくとも重宗の方は決定的な別離をしたとは思ってい ないのだろう。そう推測するしかなかった。
  部屋の前半分が広く開けられ舞台の代わりになり、後ろ半分が客席。そして部屋の後ろの壁に沿ってお菓子と飲物をのせた机が並べられている。貧弱な飾り付け のクリスマスツリーが、息切れしそうに豆電球を点滅させていた。
  武井の力まかせの体育会系の演奏が終わった。進行役の下級生が「次の演奏者はどなたでしょう」と声を掛けると、
「シュトックハウゼンを」
  と重宗の声で宣言された。重宗の演奏グループの一団が立ち上がった。管楽器の他にバイオリンも二本加わった。重宗は尺八奏者、指揮者兼作曲家を経験して今 年はフルート奏者となっている。
  沢子は現代音楽にはまるで興味はなかったから、シュトックハウゼンの得体の知れない音楽の響きが苦痛だった。情感というものが皆無である。安らぐこともな い。音楽ではなく、苦しみに満ちた音の連なりにしか聞こえない。重宗は相変わらずの熱演だが、何か不毛のものに打ち込んでいる気がした。
  いつ終わるか予測もつかないで、突然音が止んだ。重宗たちが立ち上がったので、終わりということがわかった。呆気にとられながら、沢子はお義理の拍手を 送った。重宗がコーヒーを片手に席に戻ってくると、待ちかねたように重宗の周辺から質問が飛んだ。
「シュトックハウゼンてどこの国の人?」
「ドイツの作曲家で、一九二八年生まれ。六十年代をリードした現代音楽家と言われている」
  重宗は、舞台で一年生の演奏しているシューベルトを邪魔しないように、いつもより抑えた声音で喋った。沢子にはそれ以上の興味はなかったが、重宗は元来人 に物を教えるのが好きらしく、重宗独特の、何かに傾倒した時の燃え立つような目の表情で、説明を始めた。沢子は背中越しに重宗の講義を聞いた。「カールハ インツ・シュトックハウゼンは現代ヨーロッパにおける電子音楽の実践的、理論的指導者の一人として知られている。日本にも来たことがあって、僕はその時の 音楽会も聴きに行った」
  千晶が、まあ物好きなといった顔で重宗の方を振り返ったので、重宗の声に力がこもってきた。
「シュトックハウゼンはね、日本の文化にも深い関心を持っている人物だと思う。新聞で読んだけれど、なかなか面白いことを言ってる。例えば、相撲について はこうだ。相撲というのは、長い長い精神の闘いがあって、立ち上がると一気に勝負が決まる。その一瞬の集中力が凄い。相撲は肉体ではなく、精神のスポーツ である。そこが素晴らしいというわけだね。それから、彼が好きなものは日本の庭で、日本の座敷に坐って庭を眺めると、障子を引いていくうちに、庭が一つの 動く過程として目の前に現れる。それが実に音楽的ではないか。そう彼は思うわけだ」
  重宗は、言葉を撃ち出すような口調で語った。
  沢子は突然重宗に反発したくなった。こんなことばかり話すから、千晶は離れていってしまう。少しも気づかない重宗に一矢報いてやりたくなった。藍子を傷つ けて得た恋だったら、もっとしっかり守るべきだ。千晶が知的な女でないのは承知のはず。それなりに千晶にあわせる努力をすべきではないか。
「重宗さん、私思うんですけれど、音楽というのは先ず感性に訴えるものでしょう。理論がいくら素晴らしくても、聴いていて美しさを感じられない現代音楽な んて必要なんでしょうか。私が許容できるのは、せいぜいストラヴィンスキーまでで、ウェーベルンなんて大嫌い」
「武光徹は、ストラヴィンスキーにも認められたんだよ。参考までに言っておくとね」
  重宗は威圧的な目をして、沢子を見た。
「僕は自分でも作曲したいと思っているから現代音楽にはとても興味がある。君は現代音楽は美しくないって言うけれど、その通りで現代音楽というのは表面の 美しさを棄てて、本質そのものを表現しようとしてるんだと、僕は思う。二十世紀の音楽家が十八世紀のスタイルで作曲することは許されない。確かに現代音楽 は皆に愛されるようなものではないと思うよ。しかし、本当にある一つの時代を反映している音楽というのは、同時代の大衆には決して理解されないんじゃない かな。大衆は自分たちの時代の音楽と向き合うのが、いたたまれない。だから受け入れない」
  沢子は重宗に説得されてしまうのは、絶対に嫌だと思った。
「私は、そういう風には思わないんです。現代西欧の音楽は、もう晩年を迎えているんだと思うんです。人の一生に寿命があるように音楽芸術にも寿命があると 考えています。もう出せるだけの力を出しつくして完成してしまって、あとは衰退していくだけなんです。調性の音楽は終わりです。本質を出すとおっしゃいま したけれど、本質って何でしょう。美しさというのはもともと表面のもの、一つの広告みたいなもので、儚い夢だから、尊いのであって、美しさの追求を止めて しまった芸術は瀕死の病人みたいだわ。女の人の裸体は美しくても、その薄い皮膚の下を切り開いて内臓を見せることは、グロテスクで医学にはなっても、芸術 にはならないと思うんです現代音楽は内臓を見せて、本質だと言おうとしているのではありません?  現代音楽を聴いていて、耳を塞ぎたくなるのは、醜悪な本質が蠢いているからだと思うんです」
  重宗はしばらく考えていたが、やがて、
「君は随分悲観的に考えるんだね」
  と苦笑した。
「僕は本質が醜いものだとは思わない。暗闇を突き抜けていった後には必ず何か、かけがえのないものがあるという風に考えている」  突然、千晶が何かに驚いたように立ち上がり、椅子が倒れて大きな音をたてた。シューベルトを演奏していた下級生まで思わず千晶のほうを見たが、千晶は自分 が注目を集めたことにまるで気づかない。千晶は藍子から何かメモを受け取ると、ハンドバッグとコートを手にして、一目散に部屋を飛び出してしまった。
  千晶のその急ぎかたは、いつものんびり動く千晶らしくないふるまいだ。約束の時間など守ろうとしたこともないのに、慌ててどこかに向かおうとしている。沢 子は千晶が新しい恋人に逢いにいくのだと直観した。千晶はその相手に夢中になっているにちがいない。どんな男なのだろう。
  重宗の顔が苦痛に歪んだように見えた。衝撃のあまり蒼白になっている。千晶はそんな重宗のようすには全然気づかなかったばかりか、一顧だにしなかった。重 宗の険しい表情に、沢子は息が止まりそうだった。シューベルトもびっくり協奏曲みたいに終わった。演奏者も水をかけられたのだ。
「今度は私たちがやります」
  藍子が何事もなかったように、涼しい声で立ち上がった。
「沢子、やりましょうね」
  藍子は全く落ち着いていた。千晶の派手な退室騒ぎはどうやら収まったが、沢子は藍子に声を掛けられてもすぐには楽器を取り出すことを思いつかなかった。
  藍子は千晶が出て行ったことを、何でもないことのように印象づけようとしているのかもしれない。藍子は明らかに重宗に恥をかかせまいと庇ったのだと思う。 そうでなければシューベルトの後に、間髪を入れず演奏を始めようとはしなかっただろう。
  沢子は舞台に行って、椅子に腰掛けたが膝が震えていた。クラブの本番の演奏会よりずっと緊張している。藍子に突然声を掛けられたので、心構えができていな かった。大体沢子はあがり症なのだ。本番でもあがり症のために大失敗したことがあった。
  ペール・ギュント組曲の<朝>の出だしのソロは思い出すのもおぞましい。あの有名な旋律を失敗したのだから、目もあてられない惨状だった。曲が終われば、 本来だったら花束をもらって脚光を浴びるはずが、花束もさすがに出てこられなかった。拭いきれない苦い思い出が、こんな内輪だけの小さな音楽会にまで甦っ てきて、膝の震えがどうしても止まらない。掌がじっとり汗ばんでいる。
「沢子、ごめんなさい。突然でびっくりしたでしょ」
「いいわ、もうやけくそよ」
  沢子は藍子に怒る気持ちもなかったから、腹を括ることにした。藍子の少しこもった独特の声の響きを胸の中で繰り返すうち、心なしか肩の力がぬけたように思 えた。
  頭の中が真空の状態で、フルート四重奏ニ長調K285の一楽章、二楽章、三楽章と進んだ。演奏し終えると、沢子は額にうっすら滲んだ汗を手の甲で押さえ て、大きく嘆息をついた。膝はまだ震えている。ブラボーの声がかかった。
「沢子、素晴らしかったわ」
  藍子が嬉しそうに耳打ちしてくれた。沢子が思った以上に佳い演奏ができたらしい。
「いいモーツァルトだったね」
  重宗が声をかけてきた。重宗が沢子をお世辞にしろ褒めるなんて、想像したこともなかった。重宗は千晶が出て行った時の険しい表情から、少なくとも表面は、 いつもの顔を取り戻している。
「作曲家もああいう曲が書けたら、いつ死んでもいいと思うよ」
  重宗は彼らしくない、驚くほど謙虚な調子で言った。沢子は重宗の性格が変わったのかと思ったくらいだった。重宗のように目標に対して熱狂的な人間が、かく も寛容に、あえて言えば善意さえこめて、沢子を認めるような態度をとるのは意外だった。
「私の演奏じゃ、特に二楽章の比類なく美しいと絶賛されるメロディーを汚してしまったようなものです」
  沢子は落ち着かない気分で答えていた。
「そんなことないさ。君の実力がよく出ていて、楽しめたよ。それに、モーツァルトは、誰が演奏しても最高だ」
「重宗さんが、そんなにモーツァルトがお好きとは知りませんでした」
「音楽が好きな人間で、モーツァルトが嫌いな人間がいるとは、僕には信じられない。モーツァルトに感動できないような人間は、音楽とは無縁の人種だよ」
「重宗さんはシュトックハウゼンが好きなんだとばかり思ってましたけど」
  重宗は口元を歪めた。
「マーラーの臨終の言葉を知ってる?」
「たしか、モーツァルト、モーツァルトと言ったと読んだことがあります」
  重宗は軽く頷いて、
「マーラーはモーツァルトをとても尊敬していて、モーツァルトの病歴なども調べていたらしい」
「なんで、病歴なんか調べたんでしょうね」「これは僕の想像だけど、マーラーもモーツァルトと同じで、いつも死ぬことを考えていたんじゃないかと思う。ヴ イタ・フガクス、束の間の人生、マーラーの好きな言葉だった死がやって来る前に……マーラーはいつもそう思って生きていただろう。まるでモーツァルトみた いに死の予感に憑かれて、人生を駆け抜けるみたいに生き急いだ」
「それで挙げ句に行き着いたところは、<生は暗く、死もまた暗い>という悟りのわけかしら」
  今まで重宗と沢子のやりとりを黙って聞いていた藍子が、突然『大地の歌』の詞の一節を口に挟んだ。藍子はそれだけ言うと、婉然と微笑んで立ち上がった。
「マーラーにはけっきょく救いがないのよ。子どもの頃、殉教者になりたいって言ってた人だから、大人になっても悲劇的な魂なのかもしれない。今度は神聖な バッハを演奏して身を清めてくるわ」
  藍子は再び舞台に向かった。


    千晶  その四

  千晶が重宗さんと婚約したのは藍子のせいよ。藍子の頼みだったし、それに重宗さんと婚約したほうが、停滞した重宗さんとの仲にけりをつけてしまえるような 気がしたから。重宗さんはハンサムだし、頭が良くて優しくて、申し分のない人で、千晶のこと一心に愛してくれてる。同じ量の愛を返すことなんかとても不可 能だけど、でも千晶、重宗さんのこと好きは好き。重宗さんのように真剣で誠実な人とは薄情に別れられないじゃない。どうしようか悩んでいたの。そうしたら 突然藍子が、婚約したら重宗さんの愛に報いることができるのよと言い出した。
  本当のこと言って千晶は悠に惹かれてるのだから藍子に、重宗さんと結婚なんて考えられないと言うと、藍子は結婚と婚約は違うのよと言うの。婚約しても結婚 しないカップルはたくさんいるでしょって。約束は守るためだけに存在するわけじゃなくて、むしろ破るためにあることが多いと、藍子は言ったわ。
  たとえ短い間でも、一人の男を完璧に幸せにするのはよいことで、この機会を逃すべきではない。千晶しか重宗さんを幸福にできないのだから、やりなさい。ど んなに熱烈な恋人どうしでも、一生幸福ではいられないのだから、期間が短いなんて気に病む必要はない一月でも二月でも重宗さんを幸せにすればいい。そうし たら、別れたとしても重宗さんに美しい想い出が残る。
  婚約したら、千晶は重宗さんに対しての役目を充分に果たしたのだから、しばらくして正々堂々と悠と新しい恋をすればいい。千晶は重宗さんに、人間が一生の うちにただ一度味わうことのできる極上の恋の悦びを与えるのだから、悪く思う必要はない。自分は、千晶を少しも酷いとは思わない。さあ重宗さんを幸福にし てあげなさい、そう藍子は言ったわ。それで決めたの。
  婚約と言っても正式なものじゃない。結婚したいという彼にイエスと言っただけ。重宗さんが両親に会ってほしいと言うのも先延ばしにしてるの。重宗さんはま だ学生ですもの自立してないのに、具体的な結婚話が進んでるわけじゃない。
  千晶は思うんだけど、藍子はまだ重宗さんに未練があって、千晶と重宗さんが婚約してそれから別れるのを待ってるんじゃないかしら。行くところまで行って千 晶と重宗さんが別れれば、藍子にまたチャンスが来るって思ってるの。藍子ってしつこい女なんだと思うわ。千晶、断言してもいいけど、重宗さんは決して藍子 のとこなんか戻らないわよ。
  重宗さんは千晶に骨抜きにされてるんだもん。千晶の躰をなめつくした男が他の女に満足するわけない。藍子ってバカよ。男のことなんか何にもわからない人。 いくら勉強ができて、本をたくさん読んでも、男のことは、男と深い躰の悦びを分かち合った女にしかわからないもの。肉体が熱に爛れるくらいまで結びつかな ければ恋じゃないのよ。
  重宗さんとはどうやって別れるか問題だけど、藍子は千晶が何もしないでも、ただ悠と逢い続けるだけでいいと言ったわ。重宗さんはじきにわかるだろうって。 重宗さんは千晶のことを心から愛してるから、婚約不履行で訴えたりしないから安心しなさいとも言ってた。千晶もその通りだと思うの。重宗さんはやさしいか ら、千晶のすることを最後には認めてくれる……。勿論、重宗さんを傷つけてしまうでしょうね。悪いとは思っているのよちょっと泣けるわ。重宗さんのこと嫌 いなわけじゃないもの。でも、悠のことを考えると燃え上がる気持ちを抑えられない。
  悠は忙しいからなかなか逢えないけれど、毎日のように電話があるの。重宗さんとかち合わないように、時々部屋にも来てもらう。この前、重宗さんが電話もせ ずに急に尋ねて来た時なんか、もう慌ててしまった。
  だって悠とベランダに出て愛しあおうとしていたの。悠が東京タワーの夜景を眺めながらしようよと、ベランダに引っぱり出したの千晶のマンションは十一階で しょ。電気を消してやればどこからも見えないだろうって……。夜空の下で二人とも生れたままの姿で一枚の毛布にくるまって、立ったままやろうとしてたの。
  ブザーが鳴って重宗さんだとわかったときは、どうしようと思った。千晶は急いでガウンを羽織ってごまかしたけれど、悠は部屋に戻って着替えてる暇もない し、隠れる場所もない。しかたなくて、悠は裸のまま毛布まいてカーテンをしめて、ベランダに隠れてもらった。玄関の靴は下駄箱に押し込んで。
  部屋に入った重宗さんはずっと千晶と連絡がとれなくて心配だったと言うの。千晶、悠とのことで夢中だったから重宗さんからの電話に出ないことも多かったの よ。重宗さんがわざわざ夜に来たのは、千晶とセックスがしたかったからだということは露骨にわかるわ重宗さんは、最近千晶がやらせないんで、機嫌が悪かっ たのよ。だから、千晶、調子が悪くて熱があるし、寝てたところだって嘘ついたの。
  重宗さんがそれでも動かないので「今生理中だし、気分が悪いの」と、さもつらそうな演技をしてみた。重宗さんはすぐに騙された千晶の躰のことを本気で心配 しているみたいで、お医者さんに行かなくていいの、薬飲んでる、病院に連れていってあげようか、とか色々訊いたわ。だから千晶はベッドで休んでいればその うちに良くなるからと答えた。
  悠がベランダで凍えてると思うと気が気じゃなかった。だからもう顔をしかめて一所懸命苦しそうなふりをしたわ。うんと大袈裟にね。一刻も早く帰ってもらわ なくては大変だから嘘の涙を流して、重宗さんに「あなたって優しいのね、ありがとう。千晶、重宗さんに巡り逢えて本当に良かった」そう言って重宗さんの手 を引いて玄関まで連れて行ったの重宗さんは千晶の涙に感激したように見惚れてたから、自分が実は追い出されてるなんて考えてもいなかったわ。
  千晶は、ありがとう、あなたが好き、愛してるわ、なんて思いきりかわいくしちゃって玄関のドアを開けて、重宗さんにお別れのディープキスをしてあげて、あ りがとう、また来てね、と言ってドアをしめて、鍵かけたの
  すぐベランダに行ったわ。悠の躰冷たくなってた。こんなに待たせて、重宗と何してたんだって、凄く怒って怒って……。千晶の着てたサテンのガウンを剥ぎ取 ると、びりびりに引き裂いたのよ。それで引き裂いたガウンを紐にして千晶の右手をベランダの手すりに縛りつけたの。それから左手をめいっぱい広げてまた、 手すりに縛りつけたの。彼と何してたんだって言いながら、千晶の両足も広げて手すりに縛りつけた。
  千晶は悠のされるがままになってた。新しいプレイだと思った。千晶はセックスの時に芝居がかったことするのは嫌いじゃないから面白がってたの。千晶はベラ ンダで裸のまま両手、両足を手すりに縛りつけられて、開かれた足の間がスースーした。悠は、千晶一人をベランダに残したまま、部屋の中に入ってしまった。 窓を閉めて、千晶の躰をなめまわすように見てたんだけど、急に千晶の部屋をかきまわし始めたの。何を捜してるのかと思ったら、物入れから、ビデオカメラを 出してきたの。
  「ちぇっテープがない」それから悠は洋服を着だしたの。まさかと思ったら、千晶をおいたまま出て行ったのよ。毛布一枚は掛けていってくれたけど、千晶は慌 てたわ。悠が怒って千晶に仕返ししてこのままにしていったのかと思ったの。千晶待ったわ。本当に長い間待たされた。十一階だから、風が強くて、裸のままで いるうちに寒くて寒くて震えが止まらなくなってきた。悠ものすごく怒って縛りつけたから、あがいてもあがいても、手も足もびくとも動かない。
  やっと悠が戻ってきたら、テープを持ってたの。買いに行ってたのね。悠は震えてる千晶から毛布を取り上げて千晶の何もつけてない姿を見ながら、笑ってた。 千晶の躰をビデオカメラで撮影し始めたの。千晶は寒いからこんなことやめてと何度も言ったけど、全然聞き入れてくれなかった。彼千晶の足の下にもぐり込ん でまで撮影したわ。それから部屋から三脚を取ってきてカメラを千晶の横に据えたわ。
  千晶の躰は冷たくて、もう感覚がなくなってた。彼はそれまで、千晶の躰に指一本ふれてなかったの。彼はゆっくり服を脱ぎ始めた全部脱ぎ終わると、千晶の前 にたって、片手でカメラをセットして、撮影したまま接吻した。冷たくて死体みたいだねと言いながら、千晶の乳房を荒々しく掴んで揉んで、千晶の女の部分に 指を突き立ててみたり、やりたい放題よ。
  それから、千晶の中に挿入する態勢で、その部分だけ映るように撮って、また、あそこを少し深くいれて撮る、だんだん千晶の中に彼が入っていくようすを撮り 続けたわ。千晶は両足を開かされたまま同じ姿勢で気が遠くなってきた。すると悠が千晶から引き抜いて部屋からウィスキーを持ってきて、口移しで千晶に飲ま せたから、喉がかっとして少し元気になった。それから悠はまた千晶の中に入ってきて烈しく突き上げた。冷えきった躰に入ってきた悠の男は硬く熱された鉄棒 みたいに、千晶をずんずんおし上げたわ。千晶の躰の中に火炎が一気に侵入したのよ。
  「いいか」って悠が聞いたわ。「最高よ」と喘ぐと、悠はまた撮影しながら、千晶に「さあ、もっと声を出して、全身が声になるんだ。身も世もあらぬよう に……いつものように声をかぎりによがってみるんだ」と迫った。悠は千晶のあの声を聴くと興奮してぞくぞくするって。千晶は悠に突かれて上下に揺すられ て、子宮の奥から波が押し寄せるみたいに顫えながら悠をののしったわ。このけだもの、変態、悪魔。ありとあらゆる仕返しを言おうとしたのに、人間でないも のの啼き声にしかならなかった。
  悠が射精した瞬間、目の中が白く明るい炎に貫かれた。千晶の中に悠の生命が入ったんだと思った。千晶の冷えきった躰に電気が走った。悠の迸る命の精が注が れて千晶の太股にまで熱く流れ出したのを感じて、ただ夢中に泣いてた。狂喜して興奮してめちゃくちゃな声で……。
  千晶は悠に射精された瞬間、全身で感応したの。これまで一度もあんな歓喜を覚えたことはなかった。男の人を躰の一番深い魂の芯で受け入れたことを感じた。 きっと初めてほんとうのセックスをしたのよ。
  二人の躰はぴったり合わさって、たがいの奥深くに入りこんでいた。二人は一つの燃える焔になったのよ。幸福感でしばらく動くこともできなかった。千晶はひ たひたと充たされていたの。悠は「千晶、たまらなくきれいだよ」とため息をついた。千晶、悠の手に噛みついたわ。思いっきり。嬉しくてそうでもしないと耐 えられなかった。悠の手から血が滲んだ。悠は千晶をほどいて自由にすると、千晶に噛まれた所をなめながら、殆ど泣きそうな顔をしたわ。
  そして、千晶に服をやさしく着せてくれながら、「僕は千晶の躰から離れられそうもない」と言ったの。悠は千晶を抱きしめてから自分も服を着ると、そっと テープを持って出て行った。

  このセックスのあとだった。千晶のマンションは邪魔が入るからどこかに二人だけの秘密のスペースを持とうよと悠が言ったの。もちろん、千晶も賛成した。重 宗さんのことも気にせずにすむし、ママが突然訪ねてきたりする心配がない。場所が変わればまた新鮮な刺激もあるわ。
  悠はあるマンスリーマンションを見つけて借りてくれたの。前からラブホテルは薄汚れてていやだと言ってたから、悠はラブホテルは一度も使わなかったわ。千 晶を大切にしてくれてるの。大体そのへんのラブホテルなんかに誘われると、女は安買われた気がするわよね。
  悠とホテルを利用するときには、帝国ホテルとかニューオータニとか一流のところばかり。千晶が一番好きだったホテルは目白にあるフォーシーズンズホテルか しら。あのロマンチックな内装が千晶のお気に入り。悠はホテルに行くと大抵和食のコースかフランス料理のコースを食べさせてくれて、バーにも連れて行って くれる。大人の世界を味わわせてくれるの。重宗さんなんかの学生にはできない贅沢をさせてくれる。
  悠の見つけてくれた部屋は、清潔な部屋だった。部屋からの眺めも悪くないわ。ただベランダが大通りに面していて三階だったからベランダでするのはさすがに 無理なの。
  部屋はワンルームで、玄関の扉を開けると真っ先に大きなダブルベッドが目に入る。部屋の中央にどんとあるの。他にはテレビとか椅子とか机の家具があったけ れど、要は寝るための部屋、セックスのための部屋。でも、悠は必ず千晶と逢う日にはいっぱいのお花を持ってきてくれたし、二度目にその部屋を訪れたときに は、ベッド脇の両方の壁に二つ大きな鏡を入れてたの。あまり大きな鏡なので驚いたら、悠は「千晶のきれいな裸を見るためだよ」と言ってた。わざわざ輸入家 具のお店から運ばせたらしい。
  悠は近くにおいしい鰻屋とそば屋があったからここに決めたと言ってた。悠は外に食べに行く時間がもったいないんだと言うのよ。悠と千晶は逢うなりお互いの 躰を貪りあう。言葉も交わす時間が惜しくて、逢ったらすぐに求めあう。そんなふうにして時間が経ってお腹がすくと店屋物をとるの。
  悠がある日いたずらを考えついた。鰻屋の出前持ちはまだ高校生くらいだけど、あいつ絶対童貞だ。千晶に興味をもってるから、からかってみようって。それで 注文してから、悠はわざと玄関の鍵を開けておいた。
  悠と千晶は裸でベッドに入って二人でシーツ一枚にくるまったの。悠は千晶が上になれと言ったわ。玄関のブザーが鳴ってから、わざと返事をしないでしばらく 千晶はやっているという喘ぎ声を出してみた。またブザーが鳴ったので、悠が「開いてるよ」と返事をしたの。悠ったらそう言ってから、いきなり千晶の背中か らシーツを剥がしたのよ。
  かわいそうに、入ってきた彼は鰻をひっくり返しちゃった。だって開けた瞬間に眼に飛び込んできたのは、千晶の裸の後ろ姿。背中とお尻が丸見えなんですも の。しかも鏡が二ヶ所にあるから、千晶の乳房だって見えてしまったはずだわ。
  彼はどぎまぎして、下向いたまま「すみません」と慌てて鰻を拾い集めてたわ。耳の根元まで真赤になってた。悠は笑いながら起き上がって、「お腹すいてるか ら、早く替えを持ってきてくれるかい」と言うと、まあ、裸のままで財布から一万円札を出して、「お釣りはいいよ。驚かせたお駄賃。だから早くもってきて」 と渡してた。彼はもう逃げるように帰っていったわ。私たちのこと変態と思ったかもしれない。
  もちろんものの十五分と待たせないで戻ってきたけど、絶対に自分から扉を開けないのもう服は着てたのに。
  悠はしばらく千晶をいじめたわよ。あいつ今頃、絶対千晶の姿を思い描きながらしごいてるって。
  悠はだんだんに「誰かに見せる」ということを意識するようになったみたい。千晶があんまり素敵だから、見せびらかしたいと言うの。玄関の鍵をかけなかった り、部屋の灯をつけたままカーテンを開けたり、妙に冷静で他人の眼を意識していた。まるで見せなきゃいけないと思っていたみたい……。
  千晶は見られるのが嫌というほどではないけれど、悠とはこの点に関しては温度差があった。千晶には見られているという意識と快感はまるで別のもので結びつ かないわ。
  千晶は絶頂になると自分の躰がただ男の通り道、ペニスの導管になっている。何も考えていない。そこにあるのは悠でもなく千晶でもない。千晶の躰も悠の躰も ないの。二人とも存在していない。至福の一体感。躰は空(くう)よ。セックスしているという感覚すらないわ。千晶と悠は一つの焔になるの。時間も止まって 音もしない。何も見えない。同じ息づかいだけがかすかに感じられる。
  あの日は朝から雨が降ってた。悠は暗い部屋で待ち構えていた。千晶が来るなり、悠は千晶を抱きとめて痛いくらいのキスをしたわ唇が腫れてしまいそうだっ た。息ができないので千晶が抵抗すると、悠はやっと千晶の唇から離れてくれた。口の中に悠の甘いお酒のような匂いが残っていた。悠は千晶を見て微笑みなが らこう言ったわ。
「さあショータイムのはじまりだ」
  悠は部屋の灯をいっぱいにつけた。雨なのに眩しい真昼の明るさになる。
  悠は千晶の着ていたものをほとんど破くような勢いで脱がせていくの。千晶が一糸まとわぬ裸になると、悠は千晶を抱き上げてベッドに投げ出した。そして千晶 の躰を大きな鏡の前へ向けたの。悠は、みてごらん、きれいな躰だよ、と囁くと首筋から背中にかけてゆっくり舌を這わせていった。天鵞絨で撫ぜられる感触。 ときどき悠の歯が軽く千晶の肌を噛んで意地悪した。
  悠は千晶の後ろにいて、一緒に鏡を見ながら、鏡の前で千晶の躰をだんだんに開いていった。脚を撫ぜるようにさわりながら、ももの内側に手を入れて、ほら千 晶のきれいな花が開いていくよ、と言ったわ。千晶が恥ずかしくて下を向くと、ちゃんとみてごらんと顎をあげさせるの。
  悠は千晶の脚を開ききると、今度は千晶の前にまわって、よくみせてと言った。まるで牡丹の花みたいだ、花びらのさきがぽっちり桃色にふくらんでいる。そう いうと、指で軽くさわりはじめて、そして花びらにやわらかい唇を寄せた。悠は自分の両手で千晶の両方の太股を支えて、足を高くあげさせた。
  悠が舌の先でそっと千晶のクリトリスを舐めてくれると、えも言われぬ気持ちよさ。千晶は両手を後ろについて、思わず首をのけぞらせた。悠の舌が千晶の襞を 軽くつついている。もう一つの鏡のなかで千晶の長い髪が後ろに流れて、白い喉はこきざみに顫えていた千晶の乳房が大きく上下する。喉からは熱い息がこみあ げて、千晶の唇から濃いため息になって洩れ出ていく。
  悠の唇は千晶の薄桃色の花びらに吸いついて離れなかった。熱い舌が旋回しながら、だんだん千晶の花びらの芯に向かってぬれぬれと分け入っていく。その舌の やわらかな感触に千晶の大切な砂糖菓子が溶けてしまいそうだった。千晶は自分のあそこと、悠の舌の動きしか感じられなかった。千晶のなかから泉が溢れはじ めた。ものすごく流れた。濡れた下半身がじんじん痺れて溶けそう。千晶は身悶えして、悠にお願いじらさないでと哀願した。もうこれ以上待てない。来て、悠 来て、ああ、欲しいわ、ちょうだい、早く、早く、そう叫んだ。
  ふいに涼しい風が流れて頬に触れたわ。部屋が冷え冷えした。
「千晶」
  水のなかで揺れるように声の震えているのが聞こえたの。
  千晶が風のほうに顔を向けると、玄関のところに重宗さんが立っていた。でも、それは千晶の夢だったかもしれない。だって千晶は重宗さんの顔を見たのに、感 覚が現実に戻らなかった。千晶はうつろに重宗さんの姿を感じて、なにをしているんだろうとぼんやり考えた。でも、それだけだった。
  重宗さんよりも今味わう、この悠の舌だけが千晶を支配していたの。受け身であることの心地よさに酔いしれた。千晶の女の芯が悠の舌に吸いとられていく感触 の、狂いたくなるほどの快感。
  悠はその舌で千晶と繋がったままだった。重宗さんが現れたことにまるで反応しないの悠には重宗さんのことが見えなかったのかしら。悠の舌は躰を開いた千晶 の中心に入ることだけに集中していた。
  千晶も悠も烈しく次にくる快感の波を求めあった。二人はもう人間の躰じゃなくて、ただ感じやすい性器でしかない。これこそ愛だわ。愛の絶頂だわ。もう息を していることも忘れた。ただ一つの空な生き物になることだけを求めていた。
  千晶は悠の動きにふわっと魂が舞い上がる気がして、重宗さんの顔を見ることをやめたわ。千晶は悠に身をまかせたの。瞼をゆっくり閉じていった。そしてただ 悠の舌と唇が千晶の女自身に密着するところに神経を集中させた。目の底にきらきら金色が輝きはじめる……。そのあとは気の遠くなるような夢見心地の陶酔だ けが続いた。
  次に気づいた時には重宗さんの幻はどこに
もいなかった──。                                                             


  藍子  その五

  恋、あるいはセックスは麻薬と同じで、馴れてしまえば次から次に、より刺戟の強いものを求めずにはいられません。
  男を遍歴する女の常で、千晶は段々と過激な興奮を与えてくれる男でなくては、満足できないようになっていきました。まともな男に飽きて、悪い男悪い男とな びいてきて、成島悠に行き着いたのです。重宗のような直進してくる男は、千晶には新鮮でも何でもありません。重宗が棄てられることは明白でした。今まで続 いたのは私という障害があったから私の恋人を奪い取るという優越感があったからにすぎないのです。
  千晶はコンサートの夜の他に数度だけ重宗に躰を許しましたが、その後は成島悠との関係に溺れていきました。官能の悦びをより多く与える方が勝者なのでし た。二十三歳の大学院生と、桁外れの女性関係を持つ中年の医師とでは勝負にもならないでしょう。千晶は全身で性の悦びに酔い痺れ、恋に生きていました。
  私は千晶の躰は幸福を奏でる楽器なのだと思うようになりました。千晶が男に愛されるのは、単なる美しさからではなく、千晶が生き生きとした幸福のかたちと して現れるからなのです。とは言え千晶は、自分が幸福を体現する存在、などと言われたら目を丸くするに違いありません。
 本当に幸福な人間は、自分の幸福を意識することはなくて、ただ好きなことをして夢中に生きているだけです。
  幸福の感覚は肉体の感覚と殆ど同じものだと、ようやく私は気がつきました。真の幸福は頭の中や胸の内で味わうものではありません。幸福は行為です。幸福は 全身で浴びる悦びの感覚でした。幸福は何より人間の躰を必要としました。
  幸福は音楽に漂いながら舞う躰に、水の中を自在に泳ぐ躰に、必死に求め合うセックスの中に、あるいは病人の排便を拭う修道女の奉仕労働の中に現れました。 ですから肉体の悦びの希薄な私には、真の幸福は訪れないという結論が成り立ちました。
  私と重宗には躰を与えあう関係はなかったのですから、すべてが終わりでした。私と重宗の繋がりはたった一度の接吻。私はその接吻にさえ胸ときめかせて酔う ことのできなかった女でした。
  私は彼の接吻を待ち望んでいたはずなのにその時なぜか全身の戦慄きが抑えられず、暴発する恐怖の発作をどうすることもできなかったのです。私の躰の反応 は、重宗を幸福から一番遠い場所に運んだことでしょう。重宗は二度と私に接吻しようとは思わなかったのでした。
  悠は私に千晶とのことをさらけ出すことがありました。彼は露悪的な性格でした。悠は千晶との関係を「泥沼にはまりこんだみたいだ」と表現しました。どんな に疲れていてもその気が無いときも、千晶に指一本でも触れられると、引きずり込まれ最後までいってしまうのでした。少しも気持ちよく感じなくても、千晶と は何回も事に及んでしまう、と吐き捨てるような言いかたでした。
  千晶は、女性遍歴を重ねた悠ですら出逢ったこともないほど「稀有な女体の持ち主」で「少し触れただけでも、肌がほんのりとピンク色に染まる」そうです。 「淫乱」で「尻軽」「男と寝るためだけに生まれてきたような女」と軽蔑しながら、悠は「千晶の名前を忘れることはあっても、胸と胸を合わせた時の千晶の肌 の柔らかさ、欲情の高まりにつれ溢れ出す愛液の中の女の部分の感触や絶頂の瞬間に震える白い喉元は、決して忘れることができない」と認めるしかないので す。悠は自分が愛情も尊敬も感じない女でも「あの蜜の匂うような肌と甘い啼き声に反応してしまう」と打ちのめされました。
  悠は千晶との情事だけのために、マンションを一部屋借りるはめになったのでした。千晶は「今までに悠ほど悦ばせてくれた男はいなかった」と語ったそうで す。「二人の躰の相性はまたとない組合せ」とも信じきっていました。悠と千晶の行為は回数を重ねるごとに、破廉恥で卑猥なものになっていきました
  悠は自分の性の秘密を知られないために、好色な男を装い続け、確かに千晶を悦ばせていました。悠は次々と刺戟的で大胆なセックスを試み、今度こそ少女では ない大人の女の躰でエクスタシーを得ようと、必死になりました。つい最近では、深夜のベランダに出て他人に見られる危険の中で、千晶を手すりに縛りつけて ビデオを撮りながらやったそうです。しかしどのような行為も、結局悠に本当の満足はもたらさないという事実を確認するだけでした。
「今度こそ、この女といい思いをしようと、躰を重ねてしまう。千晶の姿態を想像するだけで我慢できなくなる。それなのに。絶頂が訪れる瞬間に急に冷めてい くんだ。僕は千晶に溺れない。千晶は僕の醒めた部分を微妙に感じるらしくて、一つの行為が終わると、狂ったようにまた僕を挑発し始める。ひどく露骨な愛撫 を浴びせる。そして再び僕は繰り返す。僕は正直言ってひっきりなしにセックスのことを夢想する男だけれど、それが現実になってしまったらどうなると思う。 千晶と寝たあとは抜け殻で、何もする力がない。あの娘はそのうち僕の精力を汲み尽くして、枯らしてしまうよ。僕はあの娘の底知れない欲望を満足させるおも ちゃだ。このままいくと、廃人になりそうだ」
  悠は今では千晶といることが恐ろしいのでした。千晶の声を聞くと、矢も楯もたまらず逢いたくなり、逢えば果てしないセックス遊戯に耽り、消耗してしまうの です。
「どうあがいても、僕は子供相手じゃなくちゃ充たされない恥知らずな男なんだ。重症のペドフィリアさ。大人の女は好きじゃない。それなのに千晶の躰に磁石 みたいに引きつけられて、射精してる。藍子、僕は疲れた。このままでは千晶にのめり込んで、不完全燃焼みたいなセックスを続けて抜け出せなくなってしま う。そろそろ僕を解放してくれないか」
  悠は憔悴した様子でした。今、悠に降りられては困りますから、私はあと一月したら千晶と別れさせてあげると約束しました。悠の躰に耽溺している千晶が、簡 単に悠と離れられるとは信じていませんでした。別れさせるという約束など何の役に立つのでしょう。とにかく、一つはっきりしたことは、計画が仕上げの段階 に入ったということでした。私は悠に一つの条件を出して、時を待つことにしました。
  予想していたより困難もなく、呆気ないほど早く事が進んでいました。千晶は生まれて初めて男に棄てられようとしていました。悠が千晶に逃げの姿勢を持って いることが、千晶をいっそう恋の網に絡めることになりそうでした。千晶は悠を失いたくないあまりに、重宗に対して今まで以上に冷淡な態度を取るに違いない のです。女が心変わりした時の非情なことは恐ろしいくらいです。私に必要なのは、重宗にいつとどめを刺すかを決断することでした。
  重宗と出会ってから一年目の冬が巡ってきていました。冬の午後の光は、既に夜を含んでいて暗く重たいものでした。私はその灰色の空を見上げて、完成に近づ いた作品を眺める画家のように、いくぶんの充足と空虚に浸っていました。
  手に入れたものは二つ、悠と千晶のベランダでの情事を撮影したビデオテープと二人の逢い引き用マンションの合鍵でした。この二つの証拠を前にして、どのよ うに使うかを想像しました。重宗のもとに差出人不明で送り付けるのでは、醜すぎると思いました。私の計画はもともと最低の人間のすることでしたが、やり方 くらいは、むきつけではない多少の品位が必要でした。
  私は重宗を少しずつ殺そうと思っていました。ビデオですべてが明らかになるような方法は即死でしたから、避けるべきでした。私は悠にテープの編集を頼んだ のでした。千晶の顔がはっきり映っている部分は切ってしまうこと、時間を三分程度に短くしてしまうこと。私の目的は重宗に重大な疑惑を抱かせること、嫉妬 に狂わせることなのです。そして最終的に、重宗は自分の両眼で千晶の真実を見るべきでした。
  私はビデオとマンションの合鍵を茶封筒の中に入れ、千晶に持たせることを考えました重宗の前に私の存在を感じさせず、彼にすべてを委ねる方法でした。真実 を暴いていくのは私ではなく、彼自身です。
  重宗は千晶の態度の急激な変化に動揺していました。重苦しい疑念に胸が張り裂けそうなのです。千晶には別の相手がいる。自分はもはや千晶に好かれてはいな いという事実を打ち消すために、彼は無残に格闘していました。
  私がいやというほど味わったこの嫉妬ほど制御不能の救い難い感情はありません。誇り高い男はかき乱され、顔つきまで尖っていくようでした。重宗は自分を避 け続けている千晶に疑いを抱きながら、しかし、問いつめて別れを持ち出されることを何よりも怖れていました。
  私の筋書きによれば、ある日、重宗は千晶の忘れ物の中に不審な茶封筒を見つけます。中を探るとそこには一本の鍵がある。一体どこの鍵だろう。疑いが奔流の 勢いで確信に変わり、嫉妬で熱病やみになった重宗は茶封筒の中のビデオテープを確かめようとする。そこに映し出された光景は、恐るべき裏切りを示唆するも の。激情。混乱。怨嗟。しかし、これは一体現実か。一縷の望みはないのか。もう何も重宗の理性の砦を守ることはできない。重宗は千晶と悠の密会のマンショ ンを捜し出す。鍵を回す。そして遂に煮えたぎる真実を飲み込む。重宗が愛した千晶の正体を、肺腑をえぐるまでに存分に見る。呪う。失恋のかたち。私の勝 利。
  私が重宗へ、毒の入った贈り物を届ける日を決めるのは簡単でした。私の計画のために用意されたような、ある集まりが間近に迫っていました。
  十二月の半ば、冬休みに入る直前に、毎年恒例でオーケストラクラブ主催のクリスマス音楽会が開かれました。参加者から会費を集め、ケーキやお菓子と飲物を 用意し、希望者が思い思いの曲を演奏する会。部員の親睦を深めることと、演奏を聴かせたいという身勝手な欲求を叶えることを目的としています。参加者は合 同演奏会をした三大学の有志で、会場はいつも私の大学でした。好きな時に来て、好きな時に帰る気楽な集まりです。人の出入りが多いこの会は、私の思惑通り のものでした。
  舞台ではコンサートマスターの武井がベートーベンのクロイツェルソナタを演奏し始めていました。ピアノと張り合って、競り勝とうと懸命の演奏は苛立たしく 感じられましたトルストイの同名の小説の主人公が、この音楽によって嫉妬に苛まれていく姿が、妙な現実味を持って迫ってきました。
  その後の重宗たちの演奏するシュトックハウゼンは退屈な音楽で、千晶は可愛いあくびをかみ殺して聴いていました。
  次のシューベルトが始まると、私は隣で友人とおしゃべりに夢中の千晶にそっと耳打ちしました。
「家を出る時に悠から電話があったの。千晶と連絡が取れないんだけれど、今日逢いたいんですって。早く来てほしいそうよ」
  私の言葉が言い終わらぬうちに、千晶の面差しは奥の方から目覚めはじめて、恋する女の色が滲み出してきました。千晶の表情の変化は開きゆく大輪の花を見る ようです。刻々と華やかな光彩を増していくその顔立ちを、私は讃嘆しながら見つめました。この、一瞬も停滞しない放埒な美しさこそ、千晶が男にとって致命 的な女であることのあかしでした。
「楽器持っていくのが邪魔になるなら、私が預かっておいてもいいわよ」
  千晶は楽器のことなど何の関心もなく、ただ私から待ち合わせ場所のメモを受け取り、それを最近悠に買ってもらったばかりのディオールのバッグに押し込んで 出て行きました。もうクリスマス会などどうでもよいのです。成島悠が病院近くで会おうとすることなど初めてなのでした。
  千晶がその濡れた瞳に情交の喜びを溶かしこみ、椅子をひっくり返して飛び出していくのを、少なくとも沢子と重宗の二人が不審に思っていたようです。
  四人のメンバーでモーツァルトの有名なフルート四重奏を演奏している間、私は重宗の視線を何度か感じることがありました。久しく忘れていた感覚です。青ざ めて物問う眼差しは痛々しいばかりでした。千晶が誰かに会うために出て行ったことを、重宗がはっきり感じたのだと思いました。彼にできることはせいぜい何 かを知っているらしい私を見ることくらいだったでしょう。
  私は隙を見て、千晶の楽器ケースを入れた手提げ袋に、ビデオと鍵の茶封筒を滑りこませました。千晶のオーボエを入れた楽器ケースは把手が壊れていました。 無頓着な千晶はそれを修理などせず、いつも猫の模様の手提げ袋に突っ込んで持ち歩いていました。これで「忘れ物」ができ上がりです。三時間ほどのクリスマ ス会は、最後に何曲かの聖歌を全員で合唱して、お開きになりました。
  クリスマス会のあとに沢子が近寄ってきました。
「千晶は新しい恋人ができたんでしょ。あの慌てかたはそれしかない。相手は誰か知ってる?」
「沢子も知ってる人よ。昔私のところに遊びにきてくれた時に、隣の家の前で一度会ってるわ。従兄の成島悠なの」
  沢子は息を止め、しばらく二の句が告げないようすでした。
  潔癖な沢子は、重宗を横取りした上に、私の従兄にまで手を出した千晶に憤りを感じているようでした。沢子は、私にその鬱憤をぶつけてはいけないと抑えてい ます。彼女の目から見れば私は被害者でしかありませんが、私が同情を嫌うことをよく知っているのでした。沢子の遠慮をいいことに、私はこの話題を打切りに しました。
  帰り支度を始めた学生の流れの中で、私はしばらく荷物置き場のある一点を見つめることに専念しました。長く待たされることはなく、私の視線を追いかけた、 よく気のつく学生が、千晶の忘れ物を見つけました。
  その荷物は婚約していると噂される重宗に預けられるのです。忘れ物を受け取るのが他の人間になるという危険は感じませんでした。重宗が千晶の忘れ物に早く から気づいていて受け取りたがっているのを見ていました。重宗は自分を避けている千晶に会う口実を求めていました。忘れ物を受け取りたい気持ちが強いあま りに、かえってすぐにその手提げ袋を取り上げられなかったようです。千晶の楽器を持った重宗を見ていた沢子が、ひと言、
「重宗さんも、ばかよね」と呟きました。
  三日後、私は千晶に重宗から楽器を返してもらったか尋ねました。千晶は、昨日返してもらったと答えましたが、その返事はまるで天気の話でもするような、熱 の入らないものでした。私は重宗が何か言わなかったか質問しました。千晶は思い出そうとしていましたが、何も変わったことを言われた覚えはないということ でした。重宗の様子はいつもどおりだったのか、尚も確認しました。
「千晶、授業に遅れたくなかったんでゆっくり会ったわけじゃないのよ。重宗さんが大学のそばの<グレコ>まで来てくれたから、コーヒー飲んだだけ。それ に、重宗さん頭かお腹か、どこかが痛いみたいな感じだったから無口で、ほとんど会話らしい会話してないと思う」
  女は一度男に関心を失うと、これほどまでに鈍感になれるというわけです。重宗はいろいろな痛みを一身に集めて苦しんでいたから無口だったのに、千晶にはて んでに無視されたのです。自分の懊悩のかけらすら、千晶に気づいてもらうことはできなかったのです。  ビデオを見たに違いない重宗が沈黙していたのは、嫉妬にこわばってしまったせいか、本当に悲しむ時には語る言葉もなくしてしまうせいか、よくわかりませ ん。重宗は鍵とビデオを千晶に返さないことで、自分が裏切りを知ったことを伝えたかったのかも知れませんが、千晶はまるで平気でした。彼女は何も知らない のですから当然のことですが、これは重宗を打ちのめすに充分でしょう。千晶は開き直って重宗を裏切り、いつでもあなたと別れられると宣言しているようなも のでした
  成島悠と千晶はたいてい土曜と日曜にマンションを利用していました。千晶は親の手前もあり、なかなか泊まり込むことができません。それで二人は、週末の朝 から夜まで、この部屋にこもりきりで過ごしていたのです。
  悠と千晶は普通の恋人どうしのように、映画に行ったり、レストランで食事をすることはなく、一日中ここで互いの躰を貪りあっていました。雌と雄がものも言 わずに交尾を続けている状態で、悠は「自分も堕ちるところまで堕ちた」と感じていました。
  私は、次の土曜か日曜には重宗がこの部屋を捜し当てるだろうと思いました。鍵に少しヒントを与えていました。テープも入れた大きな茶封筒のなかの鍵は、小 さなもう一つの茶封筒に入れられていました。その封筒はマンスリーマンションを経営する会社のものでした。千晶の住んでいる場所を考えれば、可能性のある 物件は限られます。もし彼が嫉妬に狂っていたら、目星をつけた建物の前で何時間でも千晶の訪れるのを待っているでしょう。あるいは千晶のマンションで待ち 伏せして千晶を尾行するのかもしれません。恋というのは、人間を徹底的に貶めることがあります。重宗が愚かしい行動をとることは、もはや避けがたいのでし た。
  そして重宗だけではなく、この私、醜い復讐劇の立役者も、恋の情熱変じて、浅ましい行動をとろうとしていました。重宗が毀れていく瞬間をこの目で見届けた いという欲望に胸を焦がして、出かけて行ったのです。隠れて女を待ちうける男を、さらに隠れて見張る女という図式は、滑稽千万の上に、どこに身を置けばよ いのかという探偵技術の問題もありました。
  重宗は、奨学金と地方の親からの仕送りを受けて学生生活を送る身、私は東京の親元で経済的に恵まれた学生だという差が、思わぬところで役に立ちました。私 には、親の所有する車がありました。それでマンションの五十メートルほど先に、建物に背を向けるように車を駐車して隠れる方法にしました。重宗に気づかれ る心配はないでしょう。長い髪をキャップに丸めこみ、手に双眼鏡を持っている自分の姿は、これ以上の屈辱があろうかという姿です。自分のしている行為の卑 しさを知り尽くしていながら、それを止められない自己嫌悪で、血の中まで腐りきっていました
  重宗は土曜日には現れず、日曜日に現れました。悠と千晶の待ち合わせ時間は朝の十時でしたから、私は一時間ほど前に着いているようにしました。隠れ場所と なりそうな、玄関脇の植え込みの蔭にも、ゴミ集積所の角にも重宗の姿はありませんでした。
  悠は十時前にマンションに入りました。十時を二十分ほど過ぎて今日も重宗は来ないのかと諦めかけた頃千晶が現れて、その数十メートル後ろに、重宗の姿を認 めることができました。千晶が無防備な性格だったからよかったようなものの、下手な尾行でした。重宗は千晶の家を見張って、後をつけるというストーカーま がいの方法を取ったのでした。彼の行動は想像通りに愚かしいものでした。
  重宗はマンションに入った千晶を見失わないように、早足で続きました。鍵があるのでオートロックの玄関を通るのは簡単です。悠と千晶の部屋は三階でしたか ら、階段を駆け上がっても追いつくことはできるでしょう。
  私は待ちました。重く被さる曇り空からは灰色の雨粒が落ち始めました。一時間経っても、二時間過ぎても何も起こりません。重宗が千晶の部屋をつきとめたと ころで、彼が鍵を使う決心をためらうのは当然でした。鍵を開けた瞬間に目に入るものを恐れる気持ちもあるでしょう。
  しかし、それ以上に鍵を試す行為は、重宗という人間の崩壊です。彼は千晶の物を盗み見て、彼女の行動を疑い、後をつけまわし、その秘密を不当に暴こうとし ているのです。彼自身、自分の行動を呪っているに違いありません。
  鍵を開ければ、嫉妬が勝利し、彼の人格の尊厳は木っ端微塵に砕けるのです。重宗はもっとも惨めな男になるかどうかの瀬戸際にいました。しかし、彼の人格が 嫉妬に打ち勝つチャンスは殆どないでしょう。
  純粋や高潔や孤独でさえ、嫉妬には食いつぶされてしまうのです。オセロが何をしたか『クロイツェルソナタ』の主人公が何をしたかを考えれば答えは簡単で す。重宗も悠のように、女のために堕ちるところまで堕ちるしかなく、骨の髄まで傷つかなければもはや呼吸もできない状態でした。私は彼が恥ずべき行動をと る方に賭けていました。パンドラの箱は必ず開けられるのです。
  年末の町は忙しく、マンションには住人以外にも宅配便や出前の人間が出入りしましたが、重宗の姿はかき消えて見つかりません。針のように細い雨は、いつの 間にか、車のウィンドガラスを叩いて流れ落ちるほど勢いを増していました。ワイパーを使いたくなかったので、視界はきかなくなりました。私が耐えられない のは見えないことでした。見えないことをそのままに放置するのは、逃げていることと同じでした。底の底まで知るためには見つめなくてはならない。何の役に も立たないことですが、私の信条でした。
  私は重宗とかち合う危険を冒すことにしました。車から降りて、マンションまで歩いていくことを決めました。キャップをつたい、ダウンコートを濡らす雨はし んしんと冷たいものでした。
  道程の半分ほど近づいたところで、何気なく見上げた雨空の下の、目指す建物の屋上に人影が横切るのを感じました。それが重宗の姿と確信するのに時間はかか りませんでした胸騒ぎがしました。屋上で重宗がすることは一つしかない気がしたのです。私は夢中で駆け出しました。息がつまりそうでした。鍵を持たない私 は、裏口の非常階段を七階まで喘ぎながら急いだのです。
  重宗は雨に打たれたまま、空ろな様子で手すりの前に立ちつくしていました。咄嗟に恐れたような展開になっていなくて、安堵しました。間に合ったようです。 しかし、重宗のその背中には衝動的に飛び降りようとしたあとが食い込んでいるのです。私の試みた悪意は、彼にあまりに多くの壊滅を与えてしまったのでし た。
  彼は完璧に傷ついてしまった人間の標本として立っていました。重宗の愛は千晶との性の交わりに分かち難く結びついていたので、千晶が違う男と寝たというこ とは、重宗という男の無価値、無能をとことん宣告するものでした。男にとって愛のないセックスはありましたが、セックスのない女への愛は存在しません、男 の愛は、必ず、ある特定の女体を媒介に完成されるものでした。千晶の躰は他の男のものとなり、重宗は千晶に、野良犬のように惨めに死ねと吐き棄てられたの でした
  私は重宗が何故飛び降りなかったかを考えていました。重宗を踏みとどまらせたものは人間の本能的な生への執着だけとは思えません。千晶にとどめの一撃を受 けて、彼の中に存在していた男の剛毅の部分が死んでしまったからだと感じました。
  重宗はこの世で最もやさしいと信じていた女にむごく裏切られ、くずれ落ちていました重宗には命がけの恋だったのに、千晶には何ほどのものでもなかった。重 宗の心は砕け散ってしまいました。
  誇りも気骨も失った男の弱さをまざまざと目にして、私は急に自分が勝負に勝ったことに気づきました。輝く黄金の毛並みをなびかせた野性の猛獣であるべきも のを、飼育小屋にうずくまる兎に変えてしまったのです。私はやり遂げてしまったのでした。
  もう重宗に近づくことをためらいませんでした。重宗の横に並ぶと、迷わず彼の顔に見入りました。重宗のあの疑いようもなく美しかった顔立ちは、一度に二十 も年をとったように萎びてしまい、醜さと殆ど変わらない敗北が刻まれていました。重宗の顔が濡れているのは雨のためというより、涙の流されたあとのせいで した。
  私は唐突に、今まで経験したこともない慄きを覚えました。それは断じて雨に濡れた寒さによるものではありません。恐怖でもありません。噴き上げてくる得体 の知れない何かのせいでがくがくしているのです。頸筋が冷えて痺れていく感覚に似ていました。耐え難い反応でした。原因がわからないのです。周囲の静寂ま でが、耳の横で蜂の群れのような羽音をたてて唸り出しました。
  私の体内に凶暴な力の限りを持って闖入した、この身震いするほど切迫した激情は何なのか。混乱の中で、私は自分を襲ったこの烈しい力の正体を、あらゆる言 葉を使って捜し求め、とうとう発見しました。
  それは歓喜、まがうことない歓喜の情なのでした。私の全身は喜びに貫かれていたのです。脳髄から手足の指先まで、電流のように一気に駆け抜けた歓喜の急襲 に、私は発作のように身震いするしかありませんでした。体内から沸き上がる歓喜の塊が腹の底から喉元まで押し上げられ、抑えることができずに私の唇から迸 り出ました。
  くっくっく、くっくっく……。私は声を出して笑ったのです。その笑い声は空気に触れるたびに、新鮮で密度の高い喜びの結晶となって、そこら中に飛び散って いきました。あとからあとから迸り出る笑い声はとどまることがありません。くっくっく、くっくっく……。私は悶えながら笑い続けました。重宗の空ろな瞳を 見つめながら、ただ笑うのでしたこんな激烈な歓喜ほど不気味なものに、かつて遭遇したことがありません。
「藍子」
  重宗は茫然と立ちすくみ、絶句しました。そして狂ったように笑い続ける私に、恐怖の入りまじった眼差しを向けたのです。くっくっく、くっくっく……。笑い 続ける私の口を重宗の大きな手が押さえつけました。指の隙間から私の声が漏れて、まだ高笑いが止まりません。
「やめろ、やめるんだ」
  重宗は私の肩を掴んで目茶苦茶に揺さぶりました。重宗が誇りを傷つけられて取り乱すさまを、私はいよいよ目を見開いて凝視しました。くっくっく……。私の 笑い声が、重宗を苦しめ激昂させている。そのことに有頂天な気持ちが湧いてきました。
  怒りと非難と圧倒的な悲しみで一杯の重宗の心を、今この瞬間、私が支配しているのでした。一度も私に向けられなかった彼の心をとうとう物にしました。重宗 の敗北の絵姿は私を冷酷な快楽で充たしたのです。重宗は自分が棄てた女に嘲笑されていました。
「殺してやる」
  重宗の両手が私の頸に絡みました。私はこの時、重宗の空虚な瞳が憎悪に燃えて異様な輝きを放つのを認めました。重宗の殺意は、恐ろしい磁力を持って、私の 心を再び彼に惹きつけました。私は初めて男の躰に怯えませんでした。殺されてもいい、私ははっきりこう思いました。重宗の憎しみに血走った熾烈な目に見入 られながら殺されるのなら、何も思い残すことはありません。
  重宗は荒れ狂っていました。私は段々に息苦しくなり、狭まった喉からはもう笑い声が漏れることはなく、ひゅうひゅうという鋭い音がこぼれました。胸が激し く上下して、意識が薄れ世界が遠のいていく中で、私は澄みきって静かでした。あたり一面に青く、銀色に輝く靄のようなものに囲まれて、えも言われぬ平和に 充たされました。死は、酔いから醒めることのない媚薬なのです。
  私は重宗に殺されるほど憎悪されていました。全身全霊を傾けた行為は、それが憎しみからだとしても、私にはもう殆ど愛されていることと同じなのでした。こ の瞬間、私は重宗にとってついにただ一つの躰になりました殺したいほど重宗に求められる躰なのです。千晶よりも求められている躰なのです。苦痛は消え、狂 おしい幸福感が沸き上がるままに私はのみ込まれていきました。
  気がつくと──。意識が現実に引き戻され                                       
るのはつらいことでした。私は手すりにもたれるように倒れていました。重宗は足元で声もなく坐り込んでいました。私は重宗に殺されなかったのでした。
  私には彼の充分な憎悪を受けきる価値もなかったのかも知れません。重宗は何かを懇願するかのような表情を向けていました。殺意を後悔したのか、粘りついて 憐れみを乞う彼の眼差しに胸が焼けつき、鳥肌さえ立つのでした。
  重宗がもし私を殺しきるほど強ければ、彼の中の「男の誇り」は救われたでしょうが、彼は失敗しました。やはり私が彼を切り倒したことに間違いないのでし た。
  盲目的で堅固な生き物さながらの歓喜の情はすっかり消えていました。
  重宗に語るべきことは何もありません。私は重宗と向き合っていたのに、彼の姿が目に入らなくなっていました。雨に濡れた両肩が自分のものとは思えぬほど に、錨のように重たく、立ち上がる動作に苦労しました。
  すべてから去る時が来た、それだけを思いました。
  見るに耐えられぬもの、最も知りたくなかったものが、とうとう姿を現しました。私は重宗の愛の愚かさを完膚なきまでに証明しましたが、私の中にはその浅は かで脆弱な愛ですら存在しないと、心臓めがけてまっすぐに突き刺すものがありました。
  私は重宗に愛される幸運に恵まれたことはありませんでしたが、この私も、実は一度も重宗を愛したことはないのでした。私は重宗を特別な男と思い、幻想を抱 いて恋と錯覚し執着していただけでした。
  愛に酬いてくれる女から得るものはないと語った不遜な男は、私から見れば空っぽの心と最高の躰、最高のセックス、つまりお手軽に手に入る娼婦に仕えまし た。
  しかし、重宗の娼婦千晶への恋愛は真実でした。重宗は全身全霊で千晶を求めていました。対象が美しい躰というただの見てくれでどんなに私には価値のないも のであっても、そこにたしかな「愛」が存在していれば、引き下がるしかありません。
  重宗も千晶もしぜんな人間で少しも悪くはないのに、私は彼と彼女に意志を持って悪を成しました。私は無知の礼讃のような男女間の愛が許せなかったので、破 壊しようと試みたのです。躰や性を愛と認めることが我慢ならなかったのです。彼らの肉体の眩しさや美しさや翳りのない幸福感を叩き毀し、重宗が愛と信じる ものの嘘とはかなさを、思い知らせてやりたかったのだと思います。
  私は自分の勝利の醜さに目を据えていました。勝利のもたらした一撃、突発的な歓喜の情に慄然としました。この恐ろしいほどの歓喜は、愛を毀すという一番罪 深い悪こそ、私の本望であったことを、白日のもとにさらけ出したのです。
  私は一人の男の最も傷つきやすくやさしい部分を抉り出して復讐を遂げ、尋常でない喜びを感じました。凄まじい狂喜の渦に飲み込まれたのです。笑いの刑とい う天罰でした。私の憎悪は愛が変容したものと信じていましたら、そうではなくて愛を侮蔑するだけのものでした。私は冷血で不毛な人間。愛の不可能な女で す。
  私は重宗を、男というものを、どうしても愛せなかったのです。爆発する陰惨な笑いに身を悶えさせていた自分の姿に、総毛立つように脅えました。身も世もな い笑いの底にはもっとおぞましい形相をした笑いが、まるで死相のような笑いが隠されていました。私は復讐には勝利しましたが、今、不思議な破滅を経験して いました。
  重宗に愛されなかったことではなく、重宗を愛さなかったという真実が、私を致命的に打ち砕いたのでした。毒々しい絶望が広がっていきました。私は自分の存 在を容赦なく厭悪し否定しました。何万回断罪してもまだ足りないのです。これほど憑かれたように、無我夢中に、自分をこの世から排除したいと渇望したこと はありません。人間は愛するために生まれてきたというのに、私にはそれができない。私は生きて狂おしく愛したいと願っていたのに、決してかなわない。
  あの死相の染み込んだ不気味な哄笑の発作の中で、私はきっと自分のことも嘲っていたのです。滑稽だ、こんな人生は茶番だと。
  真実を見つめて生き永らえるのは、拷問でした。ただ凄惨な自滅に向かうだけです。自分が底なしの泥に生き埋めになりながら、世の中から抹殺されていくのを 感じました。私の存在はすべての人間に憎まれるべきものです。私の孤独は、死よりもおぞましい孤立でした。
  ただ自分に罰が降り下ろされることだけを切望しました。できるなら自分で自分を棄ててしまいたかった。私は自分の人生の幕を引くべきだと感じましたが、 「死」は死にたがっている人間の前はいつも素通りしていくのです。私は狂うことに失敗した狂人でした。
  千晶を選んだ重宗も、その重宗を選んだ私も、結局自分を極限まで傷つける相手を選んだわけですが、その恋の果てとはこういうものでした。深い痛みと疲れの ようなものだけが残されていました。私は重宗を振り返ることもなく、熱のない躰でぼんやり歩き続けるしかありませんでした。


  沢子  その五

  太陽がプラチナの溶解するような強烈な光を放って海中に沈もうとしている。海は波が高く、風は浜に突き刺さった。
  季節はずれの二月の海には沢子と藍子の二人しかいない。藍子の漆黒の瞳は、夕陽の輝きを浴びて底光りしている。
  満々と湛えてひろがる蒼い海の中へ太陽が静かに没すると、波の深みからさっと真紅が滲み出した。浜辺は急速に暮れて行く。きらきらした朱い残照に砕けては 光り、光っては砕ける波は、澄んだ響きをたてて、砂の絨毯と衝突した。
  太陽が空に残した黄金の槍が、雲を烈しく染めはじめた。凍える空に舞う雲は、火を吹いて燃え上がる。しかし、それも束の間で、東の空から藍色の闇が無気味 な勢いで夕空を呑みこみはじめていた。そのインキ壺を流したような闇は、空の色彩をめまぐるしく変容させていく。金から朱、茜、紫、そして紫紺へと雲は万 華鏡になって咲き乱れる。
  夕翳が深まるにつれ、空と海の親近が強くなっていく。空と海はひとつの色に溶けあおうとしていた。唯一の境界である水平線は、その輪郭を曖昧にする。空も 海も夕闇の魔術に、もつれあい、互いに犯しあっていた。水平線はこのまま夕空の色に紛れていくだろう一捌けごとに夜に近づく。
  湿りを帯びた風が頬を包む。藍子は夕闇をそのまま反射したほど蒼ざめながら、ふっと微笑んだ。藍子はたぶん、その胸の中に世にも美しい音楽を響かせてい る。沢子には藍子の聴き入る音楽が、コンサートで演奏したアダージェットと感じられた。弦楽とハープだけのその旋律は、薔薇色から神秘めく青さに暮れなず む海辺にふさわしい。
  マーラーの音の一粒一粒が微粒子となって明と暗の境に満ち満ちている。遠い日に失ったもの、追憶の嘆息、降りかかる火の粉、憧憬、美しい妄想、根底の癒 し、新鮮な鼓動、もつれあう痛み、終末の予感……。そんなアダージェットの旋律に心揺さぶられながら、沢子はなぜかマーラーの恋の中にいると感じた。
「この夕暮れの海を見ていると、ずいぶんばかなことを考えてしまうわ」
  言葉を発したのは藍子のほうだった。
「どんなこと……」
  潮風が沢子の声を運び去る。
「あの空と海を見て……。まったく異質のものなのに、寄り添ってひとつになっていくわ昼の眩しい光の中とは全然ちがう。空にも海にも区別がないのよ。正反 対に見えるものが実は同じ一つのものかもしれない……。それは救いじゃない?」
  海は空の、空は海の青黒い鏡になっている
「空も海も、愛も憎しみも、希望も絶望も、生も死も、大した違いではないのよ。すべてがいつかは闇の中に消えて行く。何もなかったのと同じ。みんな夢よ。 そう信じられるととても心が安らぐの」
  藍子はかすかに眉を寄せた。藍子の眼差しは苦痛に耽ったあとのように力を失っている海はぐんぐん紺碧を深めていき、やがて真っ黒い塊になった。寒々と広が る巨大な塊はブラックホールになり、藍子の言葉もため息もアダージェットの旋律も静かに吸い込んでしまった。波の轟きだけがうつろな貝殻を揺らしている。
  このようにして、人は人生のうちのもっと
も大切な瞬間を、無為にすごしてしまう──                                       
  二月の、刃物のように冷たい風の吹きすさぶ海辺で、藍子はほとんど死と隣あわせにいたのかもしれない。沢子はこの時、漠然とした不安を感じながら、何もせ ず、何も考えずに、ただ藍子と並んで海を眺めていた。
  あのクリスマス会の後、沢子はずっと藍子に逢えなかった。藍子はクラブにも現れなかったし、新年明けて大学が始まってからも、授業に顔を出すだけで、友人 を避けるように帰ってしまった。
  入試のために大学が休みになる二月の第一週に、突然、藍子から電話をしてきた。沢子は誘われるまま、藍子の運転する車に乗った雑談をしながら、あてもなく ドライブを続け疲れると喫茶店に入り休憩した。そして藍子は「海を見たいわね」と言い、二人は夕方の逗子の浜辺に立った。
  藍子の死んだあと、沢子はよく海での藍子のようすや言葉を想い出す。藍子は沢子に別
れを言いたかった──。そんな気がした。                                         
  人が人の心を知るというのは、何と絶望的なことか。藍子はほんとうに束の間の生を生きた。葬儀の日、藍子の透きとおった死に顔をみて沢子が分かったことは たった一つ、それだけだ。心が凍てついて涙もでなかった。

  いつものように大学に行く途中、藍子は地下鉄のホームから落ちて電車に轢かれた。貧血を起こして目眩に襲われたのだろうと推測された。傍にいた何人かが線 路に向かって倒れる藍子を掴んだが間に合わなかった。藍子は脚を切断されたが、救急車が到着する前までは何とか息があったという。しかし、病院に運ばれて 間もなく、藍子の命は絶えた。藍子のあまりの若さに、医師たちは死に物狂いの手立てを尽くしたそうだが、どうしても助からなかった。
  藍子の告別式にはオーケストラクラブの有志が演奏をした。吉岡先生が灰色の顔で指揮をした。しかし、そのなかに重宗の姿はなかった。千晶は、いつもの愛嬌 が嘘のようにしょんぼりと参列していた。沢子は告別式の間中泣きじゃくっている千晶を愛らしいと思いながら、またどこか冷やかにもみていた。今さら藍子の ために泣いてどうなるというのだろう。
  藍子の家族がどんなに打ちのめされていたか、それは言葉にしたくもない。藍子の従兄の成島悠は親族席に坐っていた。見れば見るほど藍子に面差しが似てい る。神経質そうに白い指を組んだりほぐしたりしながら、成島悠は視線をうつろに泳がせていた。
  藍子の父親は最後の挨拶のときにこんな内容のことを述べた。

  娘は誠に不運な星のもとに生まれてしまいました。どうしてなのか、遺されたものはそればかりを考えて、これからも考え続けて、納得できないままに、ただ耐 えに耐えて生きてゆくしかございません。
  二十歳の一人娘をこのような事故で喪うのは、親としてほんとうに耐え難いものがござ
います──。まだ悪い夢をみているのではな                                       
いかと、そう思えるのです。
  娘の短い人生が幸福なものであったかどうか、私にはわかりません。娘は早くに母親を亡くし、父親の私は仕事に忙しくて、子供の頃の娘にはずいぶんさびしい 思いをさせてしまいました。夜に娘の寝ている姿を見にまいりますと、娘が抱えていたうさぎのぬいぐるみがよく涙で濡れておりました。私は娘にすまないと思 い続けておりました。
  それでも、父親の私が言うのもおこがましいことですが、娘は大変心やさしく、美しく成長いたしました。大学では比較文学などを勉強し、またオーケストラク ラブでは、小さい頃から親しんできた音楽を、多くの友人と一緒に楽しんでおりました。それは娘なりに輝いて、充実した青春の日々であったのだと信じており ます。
  しかし、父親の私が何より望んでおりましたことは、平凡なことではございますが、娘が幸福な結婚をして家庭を築いてくれることでした。娘の花嫁姿をみるの が私の願いでございました。もはやどんなに望んでもかなわぬことでありますが、娘が誰かを愛し愛され子どもを持つような、そんな人生の花を一度でも味わわ せてやりたかったと思います。しかし、娘はわずか二十歳と五十三日の命でした。ただただ無念でなりません。
  今となりましては、娘が天国に迎えられ神の花嫁になった、娘はあちらの世界で幸福でいる。そう信じて、いつかまた娘に逢える日を待ち続けたいと思います。 私は新しい世界で、娘にかならず逢います。本日はお忙しいなか、娘のためにお集まりいただきましたこと心から御礼申し上げます。

  父親は呻き一つ洩らさず、丈高く毅然としてその声音も乱れることがなかった。
  深い哀しみというのはなんと人間を崇高に見せるものかと、そんなことを感じる自分をどこかで恥じながら、沢子は藍子の父親の顔を見つめ続けた。沢子は藍子 の死も、告別式も、まだ現実のことと受けとめられていないのかもしれない。胸が張り裂けるようなのにそれは葬儀の映像の中で起きていることだった。藍子の 父親と同じように、醒めることのない無明長夜の夢の中にいるのかもしれない
  出棺の前に、柩のなかの藍子の遺体のまわりに親族友人が花を入れる。そのときも沢子は空中を漂っているように、自分の躰がふわふわ浮いている気がした。
  周囲の嗚咽の中で、藍子の横たわる場所だけが澄みきってしんと静かだった。悲嘆の渦のなかで、花に囲まれた藍子だけが、微笑んでいて幸福にみえた。なぜだ ろう。
  沢子は何となしに成島悠に近づいた。成島悠は藍子の胸の上に一輪の白百合を置くと、「藍子さよなら。ついに終わりだよ。よかったね」とそう呟いた気がし た。何がよかったのか、それは沢子の想像のつくことではない沢子は藍子が魂の奥深いところで傷ついていたことを感じていただけだ。藍子が沢子に助けを求め たことはなかったし、沢子が役に立つはずもなかった。
  棺が霊柩車に運ばれた。藍子の父親と継母がその車に乗り込んだ。火葬場に行く親族がバスに向かおうとした時、千晶が成島悠に駆けより、一言、二言なにか話 しかけた。成島悠の顔色がはっきり変わった。青ざめた顔が急に興奮したように紅潮した。それは愕きのような混乱のような表情にみえた。成島悠は茫然と立ち つくしていたが周囲に促されて、千晶に返事もしないまま、バスに乗り込んだ
  沢子はゆっくり動き出した霊柩車に向かって深く頭を下げながら「藍子、どうして」と心のなかで何度も問いかけていた。

  葬儀から帰る参列者の中をぼんやり歩いていると、ふいに吉岡先生が沢子の肩に手をかけた。
「あなた、藍子と仲がよかったよね。僕、気が滅入ってしょうがないんだ。お茶でもつきあってくれませんか」
  沢子はろくに口をきいたこともない指揮者に誘われたことに面食らった。だが、藍子がいなくなってしまった今は、驚くことも緊張する必要もない気がする。沢 子は吉岡先生の後についていった。
  吉岡先生は結局、沢子を近くのホテルのラウンジに連れて行った。ラウンジは空いていて、一組の客が入っているだけだった。吉岡先生はお茶でも、と誘いなが ら自分はビールを注文し、沢子には紅茶を頼んだ。
  吉岡先生はソファに寄りかかると、しばらく無言で窓の外の庭を眺めて、何度も深い吐息をついた。
「重宗さんはなぜこなかったんですか」
  沢子は、自分の発した質問に明らかな非難がこめられていることにはっとした。
「あなた知らないの。藍子を救急車で運んだのは重宗だよ」
  息をのんだ。唖然として吉岡先生を見つめた。
「昨日重宗から聞いたんだ。ようすがあまりに変だったから」
  吉岡先生は沢子の目をまっすぐに見ていた
「重宗は以前にもあの駅で藍子と会うことがあったそうだ。たまたま事故の日の同じ時間帯に、重宗はホームに立っていた。なにげなくあたりを見たら、数メー トル先に藍子が立ってたそうだ。藍子は重宗に気づいていなかったらしい。横顔が今にも笑いだしそうに華やいでみえたそうだ。重宗は藍子に声をかけることも なくそのまま立っていた。まあ、あの二人の関係では親しく話すというわけにもいかなかったんだろう。すぐに電車が入ってきて、事故が起きた。重宗が藍子に 気づいてから事故が起きるまで、ほんの数分のことだったらしい」
  吉岡先生は大きく息を吐いた。
「重宗はその瞬間を見ていた。電車と接触した藍子の白い首が大きくのけぞった。倒れる藍子の服の端を掴んだ人がいたらしい。周囲は大騒ぎだったんだろう が、重宗には音が何も聞こえなかった。時間が止まったような気がしたと言ってた。重宗はただ、躰が藍子のほうに動いたそうだ。救急車がくるまで、重宗は藍 子を抱きかかえていた。出血を少しでも止めようと、必死で脚の方を高めに持ち上げていた。でも、激しい出血でどうやっても助からないと思ったそうだ」
  藍子の血を一身に浴びる重宗の姿を想像して、沢子は肌が泡立つようにぞくぞくした。

「担架に乗せられる前まで何とか藍子の息はあったそうだ。『こんなしあわせなことって
あるかしら─』藍子はそう重宗の腕のなかで                                       
呟いて意識を失った。重宗は一緒に救急車に乗り込んで、それから藍子の家族に連絡したりした。藍子の最期まで病院にいたそうだ」
  空気の中に無数の傷跡がみえた。とめどなく溢れ出る藍子の血の渦で、視界が赤く濁った。
「藍子と重宗さんが居あわせたのは偶然なんでしょうか」
  吉岡先生に答えられるはずのない質問だった。
「せめて重宗がいてくれてよかった。結論としてはそういうことじゃないか」
  重宗の腕のなかにいることが、藍子の命と
引きかえにするほどの幸福なのか──。藍子                                       
が最後に感じていた幸福というものを、沢子は憤怒とともに飲みくだした。何かに噛みつかれたような鋭い痛みを感じた。
  事故だったのか自殺だったのかと訊くことはできなかった。これは藍子が望んだ自然死にちがいないと、そう思いたかった。傷ついたまま平然と生き続けること ができなかった烈しい魂の痛ましい結末なのだ。
「重宗さんはどうしてますか」
  やっとの思いでこう訊ねた。吉岡先生は長い間考えこんでいた。
「わからない。重宗はこう言った。僕は藍子を見殺しにしたのかもしれない。いや、殺したのか。藍子を見た瞬間に、かならずホームから落ちるとわかった。も しかしたら、自分の魂が躰からぬけ出して、藍子を突き落としたのかもしれない。こうなることはわかってた。藍子の足から溢れる血の海を見た瞬間に悪夢から さめたのか、さらに夢の迷路に入りこんだのか……。藍子が腕の中で自分に向かってしずかに微笑んでいたのが、どうにも耐えられなかった。そう言ってた」
  沢子は自分の胸が砕ける音を感じた。酔いがまわったように、吉岡先生の目が充血してみえた。
「僕、じつを言うと、藍子にかなり惚れてた何かはりつめた不思議な身構えかたをする子だった」
  そうかもしれない。そんな気もしていた。「重宗みたいな健康な青年が千晶を選ぶのはよくわかるよ。千晶は触れなば落ちん、とろける寸前のクリームのようで ね。なにか、男にころっと騙されてくれそうな印象だもの。それに比べると藍子は病的で、思いつめてた痺れるくらいいい女だけど近寄り難い。でも指揮者なん て職業の男は支配欲が強烈だからこの生意気な女の秘密をものにしたいと思う藍子を口説こうとしたこともあるけどうまくいかなかった。いやちがうな。僕みた いな下心のある男が無理に口説くと、藍子がガラスみたいに脆く砕けそうな気がして、腰がひけてしまったんだ」
  吉岡先生は自嘲気味に言うと、コップに残っていたビールを一気に飲み干した。
「女の愛は怖い。でも、怖いものの底に何があるのか見たくて、僕は藍子と一緒に堕ちるところまで堕ちたいと思ったよ。その欲望が強かったものだから、未練 がましくいつまでもひきずるだろうな。もう新年度からはあなたの大学での指揮はやめようかと思う。藍子
のいないのはつらい──」                                                       
  今まで一度も誘惑者に出会ったことのない沢子は、吉岡先生の言葉をもの憂く聞いた。
「藍子は悲劇的と言うか、憂愁美のような印象が強かった。あなたのようなバランスのとれた女性が、結局一番幸せに落ち着くんじゃないかな。藍子のことあま り嘆かずに生き続けてほしい」
  吉岡先生らしい慰めかただろうか。沢子は自分がやはり人生という劇場の観客でしかないことを感じた。
「これから重宗さんはどうするんでしょう」  沢子は、重宗が藍子の死をどう悼んでいるのか知りたかった。
「最後のセリフを手にしたのは藍子のほうだから、その呪縛から自由になるのは容易なことじゃない。千晶にもふられたみたいだしなあ。いい男なんだけ ど……。愛の傷口がふさがるには何年もかかるだろ」
  吉岡先生は、それから何も言わずにビールを二杯も飲んだ。重いものが心の底にずしりと沈んでいる。沢子は吉岡先生を残したままラウンジを後にした。
  帰る道すがら、気づくと頬が冷たく濡れていた。泣いているつもりはないのに、とめどなく涙が溢れてくる。それが哀しみなのか、怒りなのか、悔しさなのか、 後悔なのか、諦めなのか、沢子はわかりたくもなかった。


  千晶  その五

  千晶と悠は前の日の夕方から抱きあいっぱなしだったの。悠の躰は細いんだけど、どこにあれほどのパワーがひそんでいるのかしら、満足することを知らないみ たい。なんてセックスの強い男なのかしら。千晶の腰が立たなくなるくらい。
  悠の借りてくれたマンスリーマンションの期限があと二日ということで、悠はこの二日間をずっと使おうと言ったの。病院の休みまでとったのよ。悠はいつもよ りねっとり、たっぷり時間をかけて、千晶を楽しませてくれた。悠の求め方ってほんとうに凄まじい。
  悠は今のマンスリーマンションの契約を更新しないで、場所を変えようと言ってた。いつも同じ場所では飽きてくるだろうと言うの、今度はどこにしようか、一 緒に選びに行こうという約束も出ていたわ。
  千晶はもうママにばれてもいいと思って、悠と一緒に泊まることが多くなってて、心地よく悠の腕のなかで眠った。悠も千晶の中で何回目か果てたあと、死んだ ように寝てた。
  お昼ちかく、十一時頃だったかしら。気づくと悠が起き出していた。悠はベッド脇の椅子に向こうむきに腰かけてた。背中が震えているの。泣いてたのよ。驚い て、どうしたのと訊くと、悠は振り向きもしないで、
「夢の中に藍子が出てきた」
  と答えたわ。千晶はそれがどういうことなのかちっともわからなかった。だから誰かが夢に出てくるのはよくあることじゃないと言ったの。そうしたら悠はこう 言った。
「藍子がさよならを言いにきたんだ」
  思わず、まさか、と笑ってしまったわ。だってそうでしょ。
  でも、悠は千晶のことにかまいもせずに、電話をかけはじめた。自宅や藍子の家や勤務先の病院やあちこちかけてたみたい。何度電話しても藍子の家にも自分の 家にも誰もいなくて、いらいらしていた。そんなことをしているうちに、悠の携帯に電話が入ったのよ。悠の躰が電極に触れたみたいにびくっとしたわ。
  悠は携帯電話を受けた。相手は悠のお母さんじゃないかしら。年配の女の人の声が洩れてたから……。長い電話だったわ。悠は頷くばかりで、黙って聞いてた。 電話が終わると悠はしばらく凍りついたみたいに動かなかった。そして突然、ものすごい勢いで携帯電話を床に叩きつけた。携帯は電池も飛び散って真っ二つに 割れた。びっくりした。そんな乱暴なことする人じゃなかったんですもの。
  どうしたのと訊ねることもできなかった。悠の眼が血走ってみえた。それから悠がなんて言ったと思う。
「千晶、これですべて終わりだよ」
  悠は千晶をまっすぐに見て、そう言ったの何が終わりなのか、咄嗟にはわからなかった。
「藍子が死んだ」
  悠はそれしか言わなかった。
  藍子がどうして死んだのかも説明しなかったわ。
  千晶は悠を見ているうちに泣けてきたの。悠は藍子が死んだから、千晶と別れると言いたいんだってわかったから。
  千晶は藍子が死んだこともとてもショックだったけれど、藍子が死んだことで、どうして悠と終わりになるのかわからなかった。
  千晶は泣きながら、こんなに愛しあったのになぜ。そう聞かずにはいられなかった。今までこれほど深く感じあった人はいないのに、どうして終わりなの。何度 も何度も夢中で訊いて、それでも悠が何も答えないので、わんわん泣いた。
  悠は黙っている。千晶はまるで壁に話してるみたいな気がした。昔恋人と喧嘩してて、千晶が黙るとみんな怒ったけれど、その相手の気持ちが初めてわかった。 黙るというのは後ろめたい秘密があるからなのよ。
「すまない」
  やっと悠はそう言ったわ。それから、しずかに話しはじめたわ。
「もう、藍子もいないんだから、ゲームは終わりだ。最後だから、千晶にほんとうのことを話す。許してくれとは言わないけれど、いつかは僕のしたことを忘れ てほしい……」
  世の中には聞かないほうがいい話があるのね。悠の話したことがそうだと思う。悠の話はいくら拭っても拭いきれない汚れみたいにまだ千晶の皮膚にこびりつい てる。一生とれない心の穢れのような話よ。まったくひどい話。思い出すたびに吐き気がするわ。ぞっとする。悠の話は長かった。

  僕は千晶に謝らなくてはいけない──。僕                                       
は千晶に悪いことをしていた。
  僕が千晶を誘ったのは、じつは藍子に頼まれたからだ。千晶とこういう関係になったこともそうだよ。藍子のためにしたんだ。
  千晶は自分でもわかっていると思うけれどとても魅力がある。気立てがよくて、きれいでかわいくて、男なら誰でも千晶のことを好きになると思うよ。僕も、勿 論千晶のことを好きだ。千晶と夢中でセックスしたのも、千晶が素晴らしかったからだ。それはほんとうのことだ。
  でも、僕は変わった男でね。異常なんだ。普通の男が千晶に惹かれるようには、千晶に執着できない。千晶だけじゃなくて、あらゆる女性にたいしてそうだ。
  こういうふうになった責任のすべては、僕にある。千晶はまったく関係ない被害者だし藍子だって悪くない。僕が罪深いんだ。
  藍子がなぜ僕に千晶を誘惑してほしいと頼んだかという理由は想像つくね。藍子には重宗という好きな男がいたけれど、彼は千晶のことが好きだった。それで藍 子は千晶が彼を棄てたらと、そう考えたんだ。藍子は僕を利用して、自分の私怨をはらそうとした。好きだった男に復讐しようとした。単純にいえばそんな話 だ。
  でも、それは表面的な話で、真相はそんな単純な話じゃないんだよ。ただの復讐話であれば、僕が藍子に協力するのは変だろう。忙しい仕事をしている三十を過 ぎた男が、いくら大事な従妹の頼みでも、千晶と大学生の男に痛い思いをさせるなんて……あり得ない。
  僕には、藍子のどんな頼みも断れない理由があったんだ。藍子からこの計画を聞いたときに、僕は、ついに恐れていたことがきたと悟った。そしてとにかく藍子 を救わなくてはならないと思ったんだよ。
  僕が一番恐れていたことは、藍子が大人になって誰かに恋をすること、誰かを愛することだった。
  なぜなら、藍子には普通の結婚生活は不可能だったから。恋愛だって到底無理だったん
だ──。藍子がまともに男を愛したら、藍子                                       
は引き裂かれてしまう。生きていられないだろう。だから僕は怖かった。藍子が普通の娘のように恋をすることが。
  こんな言いかた、千晶にはわかりにくいね。でも、はっきり言うのがとてもつらいんだ。話を続けるためには避けて通れないから、だから僕の言うことを聞いて 驚かないでほしい。
  千晶には想像もつかないことだろうけれど藍子はじつは、男とセックスができないんだ、どんなに相手を愛していても、男の躰を受け入れることができないん だ。
  どうしてかという説明をする。できるだけ短くする。思い出したくないんだ。自分のした取り返しのつかない過ちだから。僕は藍子の人生をめちゃくちゃにし た。
  どこから話そう──。                                                         
  僕と藍子は従兄妹どうしだけれど、年は一回りほど離れている。僕が十七歳のとき、藍子はまだあどけない幼稚園児だった。
  僕はなぜか、昔から小さい女の子が好きだった。幼女とか童女と呼ぶような年齢の女の子に一途に惹かれていた。ロリータコンプレックス、ペドファイルなんて 言葉があるくらいだから、少女や幼女が好きな男は世間には案外多い。チャップリンなんかそうだったしエドガー・アラン・ポーは十三歳の姪と結婚してた。ラ スキンは少女妻を得て一度も手をつけなかった。
  しかし、僕が幼女を愛するようになったのは、藍子がいたからだと言ったほうが正しい幼女の中に秘められた女の魅力にとり憑かれたのは、傍に藍子がいて藍子 に魅入られたからなんだ。
  僕は幼女、つまり幼い藍子にこの世で出逢えるなかで最高の女を感じていた。希望の結晶、至宝だった。あどけなくて精一杯、今・此処を生きている。幼女は一 瞬一瞬がかけがえのない命だ。なんて純で柔和な魂だろう。無垢な笑顔は澄んで輝いていた。そのほのかな媚態も、類稀な愛らしさも僕は飽かず眺めて暮らして いた。インドのある地方には美しい幼女を生き神にする制度があるけれど、藍子は僕にとっての生き神のように清らかな存在だった。
  もちろん、当時その想いは心の底に漠然と横たわっていただけで、現実には何の行動も伴わなかった。今みたいに幼児性愛者、ペドファイルという言葉を知って たわけじゃない。ただ、悶々とはけ口を求めて鬱屈を抱えて過ごしていたんだ。
  ところが、高校時代に所属していた写真クラブに一人、僕と同じ嗜好の上級生がいた。他の高校生が同じ年頃の女の子を夢中で追いかけているときに、彼は小さ な女の子の写真なんかを、しかもヌードの写真なんかを持っていたんだ。初めてそれを見せられたときの衝撃は忘れられない。僕はかつてないほど興奮する自分 を感じて愕然とした。胸のふくらみもない、性毛もないすべすべの女体はこんなきれいなものかと魂を奪われた。ポルノ雑誌をみたときとは比較にならない性的 な興奮だった。
  その上級生は僕に同類の匂いを嗅ぎとったんだろう。僕と彼は暗い秘密を共有する、ある意味親しい友人となった。お互いにいかがわしい、今なら所持している だけで犯罪になるような写真を集めたりしたんだ。
  最初は新しい写真を見せあったりしていただけの、さして罪のないものだった。ところが彼が段々エスカレートしていった。幼稚園とか、小学校の低学年の女の 子の写真をとるようになって、お金をあげるとか、お菓子をあげるとか誘いこんで、いささか危ない写真を撮り出した。
  ある日、彼は完璧な美少女を見つけたと言って、その子の写真を何枚かみせてくれた。きれいだろう、と何度も言った。僕はそれを見て、本当になんの考えもな く、もっときれいな子がいるよ、と言った。彼が気色ばんでそんなはずはないと言った。だから、なんとなく売り言葉に買い言葉で、僕の従妹のほうがずっと美 少女だと言ってしまった。すると彼はだったら証明してみろと迫った。
  当時藍子は母親を病気で亡くしたばかりで隣に住んでた伯母にあたる僕の母が面倒をみていた。母は藍子を自分の娘のように可愛がってたよ。藍子は近所でも評 判のきれいな子だった。色が透き通るように白く、細面で黒目勝ちで、まるでかぐや姫が現れたみたいだって言われてた。父親が仕事で忙しいものだから、幼い 藍子は僕の家で夕食も摂ったし入浴もしてたんだ。僕と藍子は年の離れた兄妹のように暮らしていた。
  僕は自分の言葉を証明するために、お風呂上がりに躰を拭いている、上半身裸の藍子の写真を何枚も撮った。もちろん、母に見つからないように隙をみてね。
  でも、たとえ見つかったとしても、母は咎めなかったろう。何しろ藍子はまだ六歳だ。胸のふくらみもないほんの子供だ。自分の息子が、忌まわしい性的な対象 として写真を撮るなんて、母には想像もつかなかったと思う。藍子は何もわからず、カメラに向かってかわいい笑顔を向けてたよ。
  僕は撮った写真を彼に見せた。ただ、自分の持ち物を自慢したかったんだ。案の定、彼は写真を見て目の色を変えた。素晴らしいと感嘆していた。写真をくれと 頼まれたが断った。僕は自分の宝物をちらっと彼に見せて勝利を味わった気分だった。愚かなことをしたもんだよ。僕はどうしようもないバカだ。
  ここから先のことを話すのは苦しい──。                                       
 事件の起きた日の細かいことは、じつはよく憶えていない。脳天から一撃をくらったようで、もうどうしたらいいかわからず、気が狂いそうだった。
  今でも眼の底に焼きついて離れない光景は血まみれで気を失っていた幼い藍子の姿だ。僕がその日なんで藍子を連れ歩いていたか、記憶がとんでしまってる。
  ただ気づくと、藍子は父親の勤務する大学の研究室の、同じ階にある女子トイレに倒れていた。
  僕はトイレに行った藍子の帰りがあんまり遅いんで、女子トイレの入口をうろうろしながら、思い切って入ってたしかめようかどうしようか迷っていた。そこ へ、掃除のおばさんが来た。すぐにトイレからおばさんの絶叫が聞こえた。僕が慌ててトイレの中にいくと藍子が床に倒れていたんだ。
  何が起きたかは、ひき裂かれた服や傍に捨てられていた藍子の血まみれの下着をみれば誰だってわかった。周囲には男の精液の臭いが残っていた。すぐ救急車で 運んだよ。僕じゃなくて、掃除のおばさんや藍子の父親が手配した。
  藍子は膣も子宮も深く傷ついていた。まだ六歳なのでまともに男の部分を受け入れるなんて無理な話だったんだ。
  僕は犯人が誰だかすぐわかった。彼しかいないじゃないか。あいつは僕が藍子を連れ出すのを待っていて、一瞬の隙をついて欲望を遂げたんだ。僕に見せつけた かったにちがいない。僕の宝物を奪ってやったとね。
  僕は藍子の手術が終わると、すぐあいつに復讐しに出かけた。ところが、あいつは開き直った。藍子の写真を撮ってたことを家族にばらしてやると、反対に脅さ れた。家族に知られたら、僕は母からも藍子の父親からも、そして何より藍子自身から生涯許されないだろう。怖かった。そして僕は卑怯にも沈黙した。
  藍子の躰の傷は長い入院のあとに癒えた。藍子は事件前後の記憶を失っていた。衝撃に耐えるために自分を防衛する本能が働いたのだろう。家族もほっとした。 忘れられるならその方がいいに決まっている。
  藍子は時々ある種の男に脅えて凍りついたように身動きできなくなった。でも、それ以外は順調に回復していったんだ。僕は事件を忘れるために必死に勉強して 医大に合格した。それは勿論両親から期待されていたことでもあるけれど、将来何か藍子の役に立つかもしれないという思いもあったんだ。
  僕が小児科を選んだのは僕の幼児愛が影響していたことは認める。しかし、僕は絶対に実際の子供に手を出すようなことはしていない。藍子がされたようなこと を、どうしてできるだろう。僕は妄想の中でだけ幼女に欲情して、それだけでよかったんだ。小児科で毎日毎日、多くのかわいい子供と母親をみるたびに、僕の 胸は疼いた。
  あの事件の深刻な影響を思い知らされたのは、僕がどうにか一人前の小児科医として働き出してからだ。
  藍子が大学に入学が決まった時、僕はお祝いをした。藍子を食事に誘い、プレゼントを買った。たしか、真珠のアクセサリーだったよ。藍子は喜んでくれた。藍 子を家の前まで送って別れ際にふと藍子が愛しくて、藍子のおでこに軽くキスしようとした。僕の唇が触れるか触れないかのその時だ。突然藍子が真っ青になっ た。ぶるぶる震えだして飛びのいた。それは明らかに異常な反応だった。藍子の瞳は恐怖心でいっぱいに見えた。
  二人は仲のよい兄妹のようで、性的な欲望のキスというわけではなかったし、本当に軽い挨拶のつもりなのに、藍子の異様な反応に僕は狼狽した。嫌な予感がし た。
  大学に入って間もなく、藍子は僕に相談にきた。誰にも、両親にも僕の母にも話せないことだと言ってね。
  藍子の話では、ある男友だちに誘われた。その友だちと一緒に歩いていた時だ。急に自転車が飛び出してきたので、友だちが庇おうとして咄嗟に藍子の肩を抱き 寄せた。抱きかかえられた瞬間、得体の知れない凄まじい恐怖に襲われた。心臓が激しい動悸をうち、息ができなかった。なにか自分が男に覆い被さられる映像 が鮮やかに浮かんできて、躰がこわばってしまった。そして、もうただ恐ろしくなって、男友だちをふりきって無我夢中で逃げてしまったと言うのだ。
  藍子は僕がおでこにキスしようとしたときにも同じような、わけのわからない、どうにも抑えられない死ぬような恐怖におののいたのだと教えてくれた。
  藍子はあの事件のことをまったく知らされていなかった。一体、家族の誰が藍子に真相を告げられただろう。できるはずがない。ただ、忘れさってほしいと、そ れだけを祈り続けてきたんだ。
  ところが、十数年経って突然フラッシュバックのように事件の映像の断片が藍子の脳裏に甦った。引き金になったのは男の躰との親密な接触だ。つまり、あの忌 まわしい事件は消えるどころか藍子の幼い日の記憶の奥底に凍りついていただけなんだ。凍っていただけだから一つのきっかけで解凍された瞬間、事件のままの 衝撃で藍子に襲いかかった。凍りついた記憶は、長い間虎視眈々と復活の機会を狙っていたんだ。男の肌が藍子に触れた瞬間に、さあ出番だとばかりに生々しく 凶暴に姿を現した。
  藍子はいきなり恐ろしい感情の嵐に巻き込まれた。それは言葉にできない強烈な恐怖感の襲撃だ。どんなに怖かったかと思うよ。僕は大変なことになったと案じ たが、どうにかなると、治療できると希望を棄ててはいなかった。
  精神科医や心理カウンセラーなどの専門家に相談した。どういう対処がいいか。ところがみんな僕にいい答えをくれなかった。ため息をついて、ただ時間のかか る非常に難しい問題だと言った。とりあえず、藍子をいろいろ診察につれていったよ。
  これは世間的にはあまり知られていないことだけれど、幼女期の性的虐待は成人女性のそれよりさらに恐ろしく深刻なものだ。この時期の性的虐待は消えること のないトラウマとして、終生本人を支配することもあるそうだ。ある専門家はこう言ったよ。虐待を受けた年齢と症状のひどさは反比例する。せめて高校生であ ればよかったんだが……。そしてこんな説明をしてくれた。
  自分が何をされたかわからないほど幼い時期のレイプは、容易には乗り越えられない。しかもその後遺症は思春期以降に現れる場合が多く、被害者の心と躰を引 き裂いてしまう。
  もちろん個人差があって、全ての被害者がそうだというわけではない。同じ事件に遭遇しても二人として同じ反応を示すことはない最も壊滅的な被害を受けるの は、幼児の頃から近親者に日常的に性的虐待を受けた場合だ、アメリカの統計では多重人格の原因の八割がたは、こういう幼児期に繰り返された性的虐待にある と言われている。
  藍子が被害を受けたのは一度だけだ。だから慢性的な虐待よりはましだ。たしかに。でも、一度だから受けた傷が浅い、治りやすいなんてことはあり得ない。藍 子は幼い頃からそれは神経質なくらい感受性の強い、賢い子だった。母親を喪ったばかりで、心細く不安定に生きていた幼い藍子にとって、このレイプは耐え難 い衝撃だったにちがいない。肉体的にもダメージの大きいひどいレイプだった。藍子の心と躰にはおそろしく深い傷が残った。しかも傷を癒してくれる一番大切 な存在の母親がいないまま、一人で耐えなければならなかった。
  医者は言った。成人女性ならば必ずレイプ被害から立ち直れるが、まだ人格が形成される以前のレイプは、その後の性生活に致命的な影響を及ぼす場合がある。 ある意味で、人間の人格は生命よりも脆いんだ。
  幼い頃、兄にレイプされて育ったある女性は、結婚生活が破綻した。愛する夫とセックスしようとする度に、どうしようもない恐怖心で下半身がこわばって夫を 受け入れられない。骨盤底や脚の筋肉が強く緊張してしまってどうにもならない。男を受け入れられるだけ膣がやわらかくなるには、脳のホルモンが出なくては ならない。それが無理なんだ。産婦人科でだんだん太さのちがうスティックをいれて、物理的に膣を広げたりする練習もあるけれど、すべての患者に効果がある わけじゃない。
  その夫婦はついにセックスできないまま離婚した。夫の躰を受け入れようとすると、生命の根源からの恐怖、理性でコントロールのきかないパニックに陥るの だ。異母兄二人にレイプされて育ったバージニア・ウルフなどの例も知らされたよ。
  レイプ犯罪は女にとって命は奪われなくても、魂を殺される犯罪でね。とくに子供の魂はやわらかく無垢なものだから、魂を徹底的に損なわれてしまう。死の刻 印という言葉を使う専門家もいる。
  レイプは人間として生きていくために不可欠な「自分は生きている価値がある」という感覚を強奪するそうだ。その痛手の深さに、藍子は激越に苦悶しながら生 きていくだろう。それが診断された藍子のたどっている道だった。藍子はレイプによって魂に修復不能な傷
をおった──。                                                                 
  藍子は治療を受けて、抑圧されていた記憶の破片を回収してしまった。それは不幸なことだったよ。安眠できなくなった。藍子は夢の中でも覚醒時のフラッシュ バックでも、しつこくあのレイプを現在進行形のように再体験しなくてはならなかった。
  藍子はときどき得体の知れないものに誘われて、発作的に死にたくなることがあるとも言った。藍子のとっくに殺されてしまった魂が、藍子の躰を呼び寄せてい たのかもしれない。
  藍子の悩みは深かった。記憶の映像が甦るたびに恥辱や敗北感や劣等感や罪悪感にうち震えた。自分を汚泥のように不浄だとしか感じられないんだ。藍子の中に 刻みこまれた自己否定は、死か狂気によってしか拭えないほど強烈なものだった。下半身には焼けつく痛みを感じた。人間の脳はコンピューターよりはるかに容 量があって、そんな昔の痛みまで記憶して同じ強さで再現できるらしい。
  藍子は自分が男の躰を受け入れられないことも予期していただろう。藍子は愛する男とまっとうに関わることができなかった。男との肉体的接触がトラウマを引 き起こしてしまう。制御不能な残虐の記憶が甦るんだ。何ということだ。
  藍子の躰は男とひとつになれない、男の愛を受けいれられなかった。それなのに、藍子の心は躰を裏切って烈しい恋をした。藍子には最初から結末が見えていた にちがいない。僕の恐れていた悲劇のはじまりだ。
  僕は一度コンサートに行って、藍子の相手の重宗を隠れて見たことがあるんだ。ほんとうにふつうの、健康そうな青年だったよ。とてもセックスを求めずに女を 愛するなんて珍しいタイプには思えなかった。藍子の恋がうまくいかないのは決まっていた。結果としてどんなに藍子が傷つくかも理解できた。藍子はセックス をしないでも自分の魂を深く抱きしめてくれる男をさがしていた。そんな男が
この世にいないことは知りながらね──。                                         
  だから、藍子に計画を知らされたとき、僕は千晶を必死で誘惑したんだ。失敗は許されなかった。そして僕は千晶とのセックスを楽しんだ。それは知っての通り の事実だよ。でも、それだけだ。後ろめたさがつきまとって満足も幸福もなかった。欲望が充たされたにすぎない。
  藍子は死に物狂いで性なき愛を求めたけれど、僕はどんなに性があっても愛が生まれないことを身をもって藍子に証明してやりたかった。僕が女漁りを続けてい たのは、藍子に性のむなしさを伝えるためだ。藍子にセックスなんて無意味だと、セックスは結局二つの皮膚の摩擦でしかないと、ただそれを知らせたかった。
  藍子は一生元通りにはならないだろう。でも、僕はいつの日か藍子は後遺症を克服するとも信じていた。藍子の傷が癒えて幸福になるまでは、自分は断じて幸福 になるまいと決意していた。もし、藍子が治らなかったら、一生家庭を持たず藍子に償うつもりにしていた。
  藍子が千晶や重宗という青年にしたことはたしかに、歪んだ悪い行為だ。二人には無惨で不当な復讐だ。でも、逆説のようだけれど藍子は重宗や千晶をある意味 で誰よりも求めていた。半分死んでしまった自分の人生だから、二人の生きるに値する花の人生に、藍子のやり方で深く関わりたかった、愛したかった。二人の 人生に藍子の刻印を残したかったんだと思う。
  藍子の方法は卑怯で痛ましい。しかし、世界中の人間が藍子を非難しても、僕だけは藍子の味方になる。
  藍子を歪めた原因は僕だし、藍子を徹底的に傷つけたあいつは何の罰も受けずに、今は結婚して子供までいるんだ。あいつには幸福が許されていて、なぜ罪もな い藍子が一生苦悩しなければならないのか。僕はそれを許さない。
  藍子の最初のセックスは血だらけで男の精液の匂いに塗れている。六歳の少女に運命は凄まじい贈り物をしてしまった。男と肌を触れ合うことは地獄だとたたき こんだ。
  藍子が醜い性の欲望にまみれた加害者としての男の性に復讐したいと望むなら、許されない僕のような男に逆襲したいと願うなら、
僕は喜んで手伝ってやるさ──。藍子が苛烈                                       
な復讐の海に生きたいというのなら、僕もそうする。すべてを犠牲にしてもいい。藍子のために何度だって同じことをしただろう。
  千晶を傷つけることは悪いと知っていたけれど、僕には他の選択肢はなかったんだよ。わかってほしいと言う資格はないが、それが事実なんだ。憎まれても、罵 られても貶まれても当然だと思う。殺されても文句は言えない。千晶にはほんとうにすまなかった。
  千晶は魅力的なかわいい女性だ。これからいくらでも千晶にふさわしい男に出逢えるだろう。僕のことなんか一日も早く忘れて幸福になってほしい。
  もうすべて終わったんだよ。

  悠のおぞましい話を聞き終えて、千晶は言葉もなかったわ。胸の中を蛆虫が這い回るみたい。何をどうしていいのかもわからなかった。呪いたかった。悠の理屈 などまったくわからない。ただ、血だらけの藍子の姿が目に浮かんで目眩がした。
  俯いて頭を抱えこんでいる悠が、傷ついた鳥のように思えたわ。
「悠は藍子のことを愛してたの?」
  千晶はしばらくしてこれだけは訊いてみたいと思った。
「愛って何だ。愛するってことは傷つけること以外に一体なにができる……」
  悠はぽつんとそう言って俯いた。
「幼い頃の藍子は僕の究極の宝物だった。藍子が成長してからは、ただ申しわけない、僕の命にかえても幸福になってほしいと、それだけを思いつめて生きてき た」
「夢のなかで藍子はなんて……」
「にっこり微笑んで、見たこともないくらい幸福に輝いてみえた。僕はああ、これで藍子の苦しみもとうとう終わりなんだと、漲る光の中で涙をながしていた」
  千晶は、悠の姿を見ながら、自分が今までで一番惹かれた人はこの人だと、ただそれだけを想っていたわ。あんなひどいことをされたのに、悠を憎めない。
  悠が千晶のことを絶対に愛してくれないのはわかっていた。千晶は少女ではないし、藍子のように悲劇的な宿命を背負っているわけでもない。千晶は悠をひきと めるものを何ももっていないのよ。胸の底にぽっかり大きな穴があいたようで無性にさびしかった。
  悠は服を着ると、黙って出ていこうとした。千晶は悠の背中に向かって小さな声で言ったの。
「お別れの言葉もないの」
  悠は立ち止まった。そして振り返りもせずに言ったわ。
「愛されなかったという傷はいつかは癒えるよ。愛そうとして相手の息の根をとめてしまったら、どうやって生きればいい……」
  悠は行ってしまった。部屋のなかががらんとして寒かった。千晶の恋は死んだの。
  千晶は泣いたわ。二時間くらい土砂降りの雨が降るみたいに泣き続けた。泣き疲れたら何か急に胸がむかむかしてきて、ほんとうに吐いたの。それから何度も吐 き続けてしまいには胃液しかでなくなった。
  藍子のお葬式は、事故の二日後だった。学生がたくさん来てた。沢子は千晶のことをまるで赤の他人のような目で見てたわ。沢子だけじゃない、周囲がみんな妙 に刺々しくて冷たかった。重宗さんは来なかったけれど、自分がどんな風に見られるかわかっていたのかもしれない。
  みんなきっと千晶を非難しているんだわ。藍子の恋人を盗った女としか見ていない。千晶が藍子に何をしたというの。誰も千晶に親しげに寄ってこないなんて、 今までには考えられないことよ。千晶を庇ってくれる男がいない。千晶への蔑みや嫌悪が針のように全身に突き刺さった。こんなこと初めてだった。
  千晶はこのときやっとわかったの。男は千晶の躰を愛してくれても、千晶の心なんてどうでもいいんだって。千晶の外見や肌の感触だけが男には大切なんだわ。 男は千晶をちやほやするけど、それは機嫌よく、心地よくセックスの相手をしてほしいからよ。千晶の白い吸いつくような肌を貪りたい。千晶のあのときのきれ いで淫らな姿態を見たり、うれしい喘ぎ声を味わったりしたい。ただそれだけなのよ。千晶って一体何なの。男のおもちゃなの。
  千晶はこのときほど自分を一人ぼっちと感じたことはなかった。千晶の躰はたしかに男に愛される。でも、千晶の魂を愛してくれる男はいないのよ。千晶の美し い躰さえあれば男はそこに自分勝手な理想や夢を乗せられる男は千晶に自分好みの虚像を描いてそれを愛するんだわ。男は結局、自分が女の中に見たい映像しか 見ようとしない。知ろうとしない。
  千晶は男の快楽を媒介する道具でしかないのよ。初めてわかったわ。男は快楽の幸福を得るために、女の躰が必要なの。千晶の躰は美しいから、媒体として便利 なの。男の愛なんてそれだけのことなのよ。千晶の躰を愛するのは男のエゴイズムにすぎなくて、千晶の心は男には必要とされていない。男の愛撫が千晶の魂に まで届くことは決してないんだわ。千晶は死ぬほど悲しかった。寂しくてたまらなかった。
  悠は力尽きたようにぼんやり坐っていた。その姿は透きとおってなまめかしい感じさえした。
  千晶はもう悠の心を取り戻すことができないと想うと、後から後から涙が溢れたわ。千晶は、藍子を喪って魂の脱け殻になっている
悠を──孤独な悠を心から愛しいと想った。                                       
悠を失いたくないと、今まで一度も男のひとに対して抱いたことのないほど執着していた。  千晶は火葬場に行く悠に近づいたわ。悠が千晶のことを見た瞬間に、千晶は自分でも思いもしなかったことを口にしてしまった。悠をこの世に、そして千晶の人 生に引き止めておくために。
「千晶妊娠したの。悠の血を引く、そして藍子の血もひく子供よ。悠が千晶と別れるのなら、藍子の生まれ変わりのようなこの子は生まれないわ」
  口にした瞬間にこの言葉は真実になったの、悠は動揺をみせた。頬がみるみる紅潮して呻くような表情をした。悠の眼は寒く慄えて千
晶を見ていた──。                                                             


                                (了)