「e-文藝館=湖
(umi)」 小説 投稿
やませ ひとみ 1959年に生まれる。白百合女子大学卒業 東京都在住 主婦 すでに 『ドイツエレジー
──母への手紙── 』を書き下ろし長編として発表している。海外生活に取材したそつのない短編の物語りとして纏まっている。
2004.4.16掲載

復
活祭
山瀬ひとみ
ベルギーのブリュッセルに赴任した従弟を、ドイツから、私ひとり車で国境を越え訪ねて往った、お話はみなそれに始まったのです。
役人の従弟は初の海外勤務でした。私のほうは商社勤めの夫と、デュッセルドルフに暮らして三年めを迎えていました。従弟夫婦は赴任二カ月で、もう日本食
が恋しくて恋しくて、私が数々買いこんでいった故国風の食べ物を、うっすら涙も浮かべて大喜びしてくれました。
私は従弟の家に二泊し、翌朝、デュッセルドルフへの長い帰途につきました。ブリュッセルからデュッセルドルフまでは、云うまでもなくよほどの遠距離運転
になります、けれど運転の好きな私には、さて、さほど苦痛という遠さではありませんでした。
私は、遠い我が家へ帰る前に、ブリュッセルの市場で、ベルギーの食材を買い溜めしていく魂胆でした。ベルギーは名にし負う美食の国で、ドイツにくらべ何
もかも豊富。私は保冷材をしっかり用意し、ドイツで手に入りにくいお魚をはじめ、果物やチョコレートもせっせと買いました。それやこれや市場で思いのほか
長時間を過ごしてしまい、私の車が高速道路に入ったのは、もはや昼すぎでした。
高速道路にのって間もなくでした、愛車のアウディがガタガタとひどい音をたてはじめ、急いで車を路肩に寄せました。なんてこと、点検すると左前タイヤが
パンクしていました。きっと釘のようなものを刺してしまったのでしょう、思わず呻きましたものの、猛スピードの車が走り抜ける高速道路でさすがにタイヤ交
換する技量はありませんし、迂闊にも携帯電話を従弟の家に置き忘れてきたことにまで、やっとその時私は気づきました。
しかたなく路肩を歩いて非常電話を捜し、日本のJAFにあたるVABを呼ぶことにしました。私が歩いていると、一台、乗せてやるよと停まってくれたト
ラックがありましたが、異国で見知らぬ男の好意を信じられるものでもなく、お礼を言って断るとそのまま電話まで二十分ほど歩くよりありませんでした。
VABを呼んで、修理車が到着しパンクがなおるまでに、小一時間もかかったでしょうか。私は、暗くなる前にぜひドイツに入りたいと思っていました。かな
りスピードをだして再び高速道路を走りました。ところが、アウディがまたもけたたましい音をたてはじめたのです、パンクのときと比べものにならない異様に
烈しい音ですもの、すぐ車を下りて調べても理由(わけ)がわかりません。しかたなく高速道路をはなれ、近くのガソリンスタンドに入ってVABの修理工場の
ある場所を訊ねました。幸い工場は三キロほど先にあり、私は猛烈な騒音をまき散らしながら、地図を頼りに頼む目当てを探しあてました。
修理工場に着くなり、けたたましい爆音に煽られたように背の高い顎ひげの青年が、くつくつ笑いながら飛び出してきて、すぐ、マフラーの故障だよと診断し
てくれました。車の下をのぞくとマフラーは折れ、曲がった部分が今にも地面につきそうです。私は指示された場所にいそいで車を入れました。
青年ときたら、うろうろと工場の中を何かを捜して歩きまわっています。やがて赤いジュースの空き缶一つを手に、ゆらゆらと戻ってきました。なんでジュー
スの缶なのと奇妙に思い観ていますと、彼氏、抽出しに見つけた缶切りで、口もとをとがらせ缶の両底をギシギシ抜き出したものです。ジュース缶は目の前で丸
い筒抜けの筒に変わりました。
顎ひげの青年は手早く車の下にもぐると、折れたマフラーを容赦なく二つに切断しました。折れてひしゃげた部分を切り落とすと、なんと、さっきのジュース
缶を真ん中にし、切断されたマフラーを一つにつないだのです。私は、恐ろしくいい加減なこの修理に唖然とし、「ねえ、そんなので大丈夫なのかしら」と息も
せいて声をかけました。
「いやあ、これで二、三日は大丈夫だよ」と青年は、屈託ない表情で鷹揚に答えました。VABは応急処置しかしないことを思い出して、私は諦めました。日本
とは違います。ジュース缶がマフラーの代わりになるなんて、考えたこともありませんでした。
時計はもう四時近くなっていました。夜道の運転は避けたかったが、しかたありません。修理工場の近くのカフェに入って、私はよく冷えた炭酸入りのミネラ
ルウォーターを注文し、夫の孝之に電話で事情を説明しました。帰宅が遅くなるわと言いました。復活祭まえの休日でほんとうは孝之も一緒に来る予定でいまし
た。急な本社からの客をライン下りの観光に連れて行かねばならなくなって、私ひとりブリュッセルへ往復することになったのでした。
とりあえず静かになった車で一時間も運転しているうち、ほっこりと疲れてきました。二回も車を修理したのですもの、急がねばならないとはわかっていまし
たが、私は少しでも休息したくなりました。高速道路の標識に「マーストリヒト」という地名を見つけたとき、私はもう無性にその街に下りてみたくなりまし
た。マーストリヒトの地名だけが、他の標識のよりも大きく目に飛び込んで来たのです。
マーストリヒトは、ブリュッセルとデュッセルドルフを結んだちょうど中間くらいに位置しています。ベルギー国境に近いオランダのこの街は、マーストリヒ
ト条約以外ではあまり日本人になじみのない地名でした。私ももちろんこの街に来るのは初めてでした。
そのマーストリヒトの街に駐車スペースを捜して車を停めると、私は街区の中心部に向かってとことこと歩きました。休日のせいか人通りが多いようです。四
月半ばの聖金曜日でした、まだコートの必要なドイツと違って、汗ばむくらいの陽気です。私はまたカフェに入り、今度は眠気覚ましのコーヒーとケーキを注文
しました。熱くて濃いコーヒーを味わううちに、ようやく自分がマーストリヒトの名前に引き寄せられた理由に気づきました。はっきり気づきました。十年前、
姉のりさ子から日本に届いた一枚の絵ハガキ。それは、そうです、こんな文面でした。
千世ちゃん、イサベルと一緒に今オランダのマーストリヒトに来ています。キリストが十字架にかけられた聖金曜日にちなんで、ここの聖母教会でヨハネ受難
曲が演奏されるのですが、周平さんも歌うの。もちろんテノールだから福音史家(エヴァンゲリスト)でね。周平さんがこの役で歌うのを聴くのは私初めてな
の、今晩の演奏会、とっても楽しみです。この間もこちらの新聞評で周平さんのことを「喉に黄金を持つ男」と褒めていました。コピーして近いうちに千世ちゃ
んにも送ります。演奏会のあとはイサベルとこちらに一泊し、それからミュンヘンに戻ります。 りさ子
姉りさ子は当時ミュンヘンの音大声楽科に留学していました。江坂周平はりさ子より六歳年上で、上野の芸大を首席で卒業後ドイツに留学し、既にいくつもの
コンクールに入賞していました。新進のテノールとしてドイツを拠点に活動のかたわら、大学で声楽の講師もしていました。学生のりさ子とはそんなふうな縁で
知り合ったようです。
二人は交際を始めて半年で婚約しました。ハガキの文面は簡単なものでしたが、姉の幸福なようすは妹の私までわくわくさせたものです。おそらく姉りさ子の
一番華やいでいた時期に書かれたそのハガキを私は思い出して、そうでした、さっきから胸苦しいほど懐かしく、切なく感じていました。今日ほど爽やかな晴天
はドイツではめったにないのに、私は言いしれずうち沈んだまま、復活祭休暇に賑わう街の雑踏をぼんやりと眺めていました。
勘定をすませれば、すぐ駐車場にもどるべきはずが、足は、自然と逆へ、反対の方へ向いていました。私はさらに街の中心をめざして歩き、観光案内所のよう
なところを探していました。街の地図を手に入れ、姉が行ったという聖母教会を見たい、ぜひ見たいと考えていたのです。マーストリヒトに来るなんて、二度と
ないかもしれない。そう思うと、姉の足跡を是が非でも辿りたかった。
観光案内所はすんなり見つかりました。ヨーロッパの小さな街は、どこも似たような法則でできていますから、市の中心となる大きな教会や市庁舎を目指して
いけば見つけやすいのです。私は英語の案内パンフレットと地図を手に入れました。この街のいくつかの教会では、聖セルファス教会という、オランダ最古の教
会が有名のようです。
十分ほど地図を見て歩いて、その聖母教会をなんなく私は見つけました。とくに建物が美しいのでも、観光の目あてになる秘宝があるのでもないようでした
が、十二世紀に溯る信仰の場処で、日々人々の敬虔に支えられたなんとも落ち着きの感じられる教会でした。あの姉が此処に来ていたと思うだけでも、古色も懐
かしい壁に掌(て)をおき、撫で慈しみたいとまで感じました。
石造りの教会のなかを見て行こうかと迷ううち、ふと目の前に貼ってあるポスターに気づきました。今日の日付で、ヨハネ受難曲が演奏されるという案内でし
た。十年前と同じに、聖金曜日にヨハネ受難曲のコンサートが開かれる、その断乎とした習慣はヨーロッパらしいものでした。
私の視線はポスターの出演者の名前のところへおりて行き、おッ…と、釘付けになりました。Shuhei Esaka
の名前を見つけたのです、驚きと畏れで、私は一瞬足の底から震えが駆けのぼると感じ、棒になりました。
十年前と同じに江坂周平がエヴァンゲリストとして登場する。姉りさ子にとっても妹の私にとってもこの十年がとりかえしのつかない歳月であったのに、まる
で影法師みたいに江坂周平は十年前と同じ場所に立っている――そんな気がして、その理不尽な苦々しさに私は突き刺されました。但し喉元へこみ上げてくるそ
の感情には、なぜか妙な懐かしさも入りまじっていました、うそではありません。姉のりさ子が、何かの力で私を、むりにもこの教会まで連れてきた気がしまし
た。
今晩八時半からのコンサートを、ぜひ聴こうと私は思いました。音信の跡絶(とだ)えていた江坂周平が、今・此処でどうしているのか、なんとしても見届け
ねばならない。マーストリヒトに、一泊する。そう決心するとすぐホテルを捜すことにしました。いいえ捜す必要すらなく、教会のすぐ隣がホテルだと私はすぐ
気づいたのです。
こじんまりとした清潔なホテルのようです。女の一人旅が歓迎されないのは万国共通ですから、手持ちのカードから、アメックスのゴールドカードを見せて今
晩の部屋があるか受付の女性に訊ねました。カードを見せたせいか私は値踏みの視線を浴びることもなく、ツインなら空いているという答えをもらいました。か
なり高価な予算でしたが、コンサートのある教会の隣という利便を考えればしかたありません。
部屋をとると、すぐ駐車場を確認しました。ホテルに駐車場はついていませんが、契約している先があるのでと言われ、フロントの女性は地図にわかりよく印
をつけてくれました。まだ陽射しの強い街並みを私は来た方向に戻り、そして車を運びました。ベルギーで買った生まの魚はだめになりますが、他の食品は車に
おいたままでも何とかなるでしょう。ボストンバッグ一つだけを抱えてホテルに戻り、部屋から国境越えに夫孝之に電話をいれました。
「マーストリヒトに…。またどうしてそんなとこに行ったんだ?」
夫は呆れた声をあげました。事情を話すと「お義姉さんにそんなフィアンセがいたのか、知らなかったな」
「十年もまえのことですもの」
「どうして結婚しなかったの」
「婚約の間に発病してしまったからよ」
「……、彼に逢ったらどうするつもり」
「わからない。向こうだって……私が声をかけても憶えてるかしら」
「なんだ。だったら逢ってもしょうがないじゃないか」
「見るだけでいいのよ。歌を聴くだけでいいの。なんだかお姉ちゃんが私を、マーストリヒトにまで導いたような気がするの。あんなに調子の良かったアウディ
が一日に二回も故障するなんてただごとじゃなくてよ、ほんと。りさ子姉(ねえ)がかわりに江坂周平に逢ってと、ここまで私を引っぱった気がするの」
孝之はふーんとあまり納得してないような返事をしました。
「その人が千世のこと憶えてなくても、コンサートのあとで名乗って出てさ、お義姉さんのこととか話してきたらどうだい。そのほうが千世もすっきりするだ
ろ」
私は、その場の雰囲気でどうするか決めるわと返事し、孝之は女の一人旅だ充分用心するようにと念を押しまして、電話は切れました。
時計は六時をまわっていましたが、外の陽光(ひざし)が衰えるようすもありません。軽く夕食をとろうと考えました。サンドイッチにはあきあきしていまし
た。オランダは、ドイツやイギリスほどではありませんが、レストランにあまり期待はできません。私は一軒の中華料理店を見つけて入りました。時間が早いせ
いか、客はまだ一組。
軽いものと考えて「ヌードル」とあるなかから一品選びました。出てきたのは日本のラーメンに似ていましたが、麺はもっと太く、お箸で持ち上げると、ぶつ
ぶつ切れてしまうほど柔らかく茹でてあります。私はぶつ切れの麺を苦労して掬い掬い食べました。スープの味は悪くありませんでしたが、どうにもこれは中華
料理とは言いがたい代物でした。私は以前に江坂周平が見事な中華料理の数々を自身で作ってごちそうしてくれたのを、しんみりと思い出していました。
私が姉の婚約者江坂周平に逢ったのは、結納のときをのぞくと、遠い昔の或る旅先の数日のことでした。りさ子のマーストリヒトからのハガキを受けとって数
週間後、五月の連休を利用して、当時大学二年生の私は姉のいるミュンヘンに遊びに行きました。
りさ子は妹の私のために、スイス旅行の計画をたてていてくれました。じつのところは五月五日に江坂さんがベルンでヘンデルの「天地創造」を歌う、それを
姉が聴きに行きたいばかりの計画(プラン)だったかもしれないのですが、それでも私は大いに嬉しかったのです。姉の婚約者についてもっともっと知りたい思
いもありました。
私たちは電車でスイスに入りました。ドイツの国境を越えて、ベルンに向かうスイスの国内電車に乗った奇態な印象は、今にして突き刺さるほど忘れがたいも
のでした。車内に乗客があると信じられないほど、不気味にしずかなのです。顔立ちはみなドイツ人よりきれいなのですが、棒でも呑んだような陰気な無表情で
押し戻さんばかりに日本の娘二人を迎えていました。誰も誰もが自分の隣には坐ってくれるなという、言葉にならない拒絶の感情をむき出しにしているのでし
た。
「なに、これ。まるでオカルト映画の世界じゃない」
りさ子が驚いたように小声で私に言いました。スイスの乗客は全身で闖入者である私たち姉妹を拒んでいました。スイス人ほど排他的な国民はいないという悪
口を思い出すまでもなく、ひしひしと外国人である身の居心地の悪さを感じました。車内の異様な沈黙に身構えたまま、ほとんど言葉もなく私たちは夕刻ベルン
に到着しました。
ベルンは空気も澄んだ古い街でした。西をのぞく三方をアーレ河に囲まれ、目にふれる何もかも中世の感触を伝えてくる美しい古都でした。遠くに純白の雪を
いただいたアルプスの山々があり、赤レンガの街並みとアーレ河の水底まで透きとおる真青な流れに、思わず二人とも溜め息をつきました。そして顔を見合わせ
ました。姉の、あの、なにかしら眉宇に予感を漂わせた一瞬の笑顔が忘れられません。
私たちはタクシーで江坂さんの予約してくれたホテルに向かいました。橋を渡りながら、国会議事堂やカジノの建物を眺め、アーレ河を取り囲む深くこんもり
した緑の木々と咲き競う名も知らぬ白い花に酔うようでした。
約束の七時、江坂さんはホテルまで迎えにきて、その足で連れて行ってくれましたのは、アーレ河沿いにある瀟洒なレストランでした。ここの鱒料理はおいし
いんだと言い、江坂さんは鱒のグリルを三人分注文しました。さぞ清流で捕れたのでしょう、お味すっきりの鱒でした。鱒を焼いただけのシンプルな料理が、乗
換え駅で口にしてきたソーセージの脂っぽさをまるで洗い流してくれました。堪能しました。
姉は殺風景なドイツ食にはよほど辟易していたらしく、なにもかも嬉しそうでした。婚約者たちは並んでデザートのアイスクリームを食べました。背丈は姉と
そうちがわない、けれど印象は端正な江坂周平氏と、ほっそり清楚な見た目の姉りさ子とは、妹の目にはよく似合ったカップルでした。お互いがお互いに一途で
あることもすぐわかりました。江坂さんの視線は、食事の間と限らず貼り付いたようにりさ子をはなれるということがありませんでした。姉もそうでした。
姉妹がベルンに着いた翌日に、江坂さんの出演するオラトリオ「天地創造」のコンサートがありました。オーケストラは下手でしたが、江坂周平の歌は後半に
向かうにつれて調子づいて、みごとな盛り上げでした。声に、明度の高いピュアな響きがありました。声量に厚みがともなえば世界的なテノールになれるのに
と、りさ子は残念そうに囁きました。姉は、江坂さんの声質は無類にきれいだけれどオペラで成功するにはどうかと思うのよと、私にはこっそり案じ顔を見せて
いました。大劇場で歌うには、江坂は小柄すぎ、美声も巧緻な表現力も、どこか痩せて聴かれてしまうのだというのです。
「周平さんも言ってるんだけど、オペラの場合、声量ももちろんルックスが重要なのよね。アルフレードがヴィオレッタを見上げて歌ったら噴飯ものだし、小柄
な僕じゃオペラでは佳い役が来ないよって。ヨーロッパのオペラ世界で日本人が生き抜くのは至難よね。私はね、周平さんには深みのある歌、人を泣かせる歌を
歌ってほしい。リートとかエヴァンゲリストで活躍してほしいの」
私の耳は江坂さんの可能性と限界を見極めるほど音楽的に肥えていませんでしたから、りさ子の語ることをそのまま聴いていました。姉の選んだ相手ですも
の、彼がテノール歌手としてそれなりに成功するだろう、して欲しいなと思っていました。
コンサート会場のベランダからは、ベルンの街の夜景が洒落た胸飾りかのように一望できました。闇の遠くにアルプスの山々を窺うことこそできませんでした
が、高い峰からはひんやりした夜気が胸深くにまで流れ込んできました。見下ろす街の灯は天然の楽音、華奢な星座のように瞬きつづけ、美しさにぞくぞくする
総身を私は姉の腕にとり縋って堪えました。
コンサートが終わると、表情も晴れやかにその世の主役江坂周平はりさ子と私とを誘いました。ホテルのラウンジでも無造作に宝石をぶちまけたような夜景が
望めました。姉と私は赤ワインを飲み、江坂さんは炭酸入りのミネラルウォーター。喉に悪いしと、あまりお酒は飲まないようでした。空気はからっとして硬質
で、喉も渇きました。和やかに、乾杯を発声したのは嬉しそうな姉りさ子でした。
三人で何を話したか、幸か不幸かは言い切れませんが、思い出せません。りさ子と婚約者との他愛ないやりとりなど、恋人どうしの、ま、おきまりの幸せな時
間だったでしょう、私がちょっとした余り物のようでなかったとも謂えません。忘れました。
江坂さんはタキシードのまま、二人をホテルまで送ってくれました。すてきなお散歩。三人は夜の街を深々と流れるアーレ河の橋を歩いて渡り、夜の闇を素地
に点々と明るい繪柄のようにぽつぽっと浮かぶ幾つものショーウィンドウを眺め眺めゆっくり歩きました。現実のものでないどこかしら幻想の世界を、ただ酔う
たように漂うていたのでした。
「まあ…、きれいなお雛さま」
りさ子が店先で驚きの声をあげました。アンティークショップに並んだ日本の古い雛人形でした。こんなの…日本でも今は見つからないわと私も感じました。
切れ長の涼しい目もと、それは品の佳い一対の雛人形でした。装束も細工もこまやかに行き届いて、職人技の冴えが誇らしいほど窺えました。お隣りの、豪華な
ドレスに身を包んだ西洋人形は薔薇のようにあでやかでしたが、気押されもせず日本の雛人形は、こんな遠い異国の店先にいて、見るから清らかでした。雅びに
静かでした。
りさ子は、なぜだか最近視力が落ちたのよと言い言い、ショーウィンドウに貼りつくほど熱心に見つめていました。
「内裏雛をみていると、なんででしょうね、とても不思議な気がするの」
姉が、あの時、かすかに吐息のようにもらした言葉でした。どうして、と尋ねますと、
「内裏雛って、あんなに仲良そうに並んでいても、向き合って見つめ合わないのよね……」
街なかの闇を下這うように、りさ子のその声音は流れて消えていきました。暖かにものを包んだような、けれど不思議に遥かな遥かな風の声のようでした。自
分でも驚いたのでしょうかりさ子は揺れた視線をふと恋人のほうに向けると、変身したかと想う咲きこぼれる笑みを向けました。江坂さんになにか歌ってと急に
せがみました。
人通りのない夜道を歩きながら、江坂さんは歌いはじめました。なんてこと、それは「冬の旅」の、私にもわかる一曲でした。婚約している同士の選曲にして
は不吉なと、思わず眉をひそめました。姉はだまって聴いていました。それでも歌は妙なる魔物なんですね、胸えぐられる不幸な恋の歌が、聴き手にはやさしく
慰められるもののように響いたのですもの――。
ホテルに着くと、江坂さんは、明日の夕食に招待するよと言いました。
「腕によりをかけて、ぼくのうまい手料理をごちそうするよ。五時に迎えに来るからね」
りさ子は曲がり角で江坂周平の後ろ姿が見えなくなるまで、じっと見送っていました。
江坂さんは、知り合いのフラウ・ゼーンのお宅に泊まっていました。フラウ・ゼーンは八十歳にはなろうという老夫人でしたが、江坂さんとは長い知り合い
で、ベルンでの演奏会のときはいつもフラウ・ゼーン宅に泊まるということでした。婚約したりさ子は今回がフラウ・ゼーンとの初対面でした。姉はさぞ晴れが
ましい気分だったでしょう。
フラウ・ゼーンの住まいはベルン郊外の童話めく森のなかにありました。老婦人は腰はだいぶ曲がっていましたが、生気に溢れた笑顔で出迎えてくれました。
りさ子はドイツ語で招待の礼を述べ、用意の花束をちょっとシナをして笑顔で手渡しました。客は私たち姉妹のほかに、三人いました。昨日の演奏会で隣り合い
挨拶をかわした二人の青年と、見知らぬ中年の女性でした。青年は二人とも歯科医の卵で、女性はフラウ・ゼーンの姪でした。
居間でお互い簡単な紹介を終え、食前酒を一通り飲んだところで、隣の食堂に案内されました。会話はドイツ語のだめな私ひとりのために、英語になりまし
た。
「周平は今晩のごちそうを三日がかりでつくったんですよ。彼、歌手にならなかったらレストランを開いて、とても成功していたと思いますよ」
フラウ・ゼーンは聴きやすい英語と意外な方角から江坂さんを褒めました。
「こちらで夕食に招かれて、おいしいごちそうが戴けるなんてめったにないことよ」
りさ子はいたずらっぽい顔で私にそう囁きました。
お料理は中華風の前菜からはじまりました。江坂さんが自分で台所から大きな皿を抱えてきました。焼き豚です、蒸し鳥です、色鮮やかな野菜もおいしそうに
盛ってありました。大根やニンジンのきれいに飾り切りされているのに、一同は声をあげました。
次は、豆腐やきくらげの入ったスープでした。きくらげがスイスでも手に入るのかと驚いて私が訊ねますと、フラウ・ゼーンがきくらげのことは「ユダの耳」
というのよと教えてくれました。
五目ビーフン、海老のチリソース、牛肉とピーマンをいためたチンジャオロースなどが、日本のおいしい中華料理店で食べられるような味付けで、次から次に
運ばれてきました。スイスでこれだけの食材をそろえるだけでも、まあ大変…と、江坂さんの奔走ぶりが推しはかれました。
デザートのフルーツタルトが、絶品、と謂ってさしあげたい出来でした。ごちそうになった客は口々に江坂シェフを絶賛しました。
「僕たちは食べるだけだけど、お礼にせめて皿洗いをするんですよ」
歯医者の卵たちはそう言い、歯並びのいい真っ白な笑顔を私たちに向けました。
締めくくりのコーヒーは居間に戻ってソファでいただきました。一同が満足して晩餐をしめくくったのを見ると、江坂さんはグランドピアノを弾きはじめまし
た。生真面目な彼の印象に似つかわしくない、濃厚に官能にふれてくる音楽で、私はびっくりして椅子から転げ落ちそうになりました。
「江坂さんてロマンチストなのね」
姉をすこしこづいて話しかけると、
「あら、今ごろ気づいたの」
りさ子は当たり前のように答えました。
そのりさ子がごちそうのお返しに歌ってと、恋人に催促されていました。彼のところどころあやしげな伴奏も苦にせず、姉は悠々とフィガロの結婚からケル
ビーノの「恋とはどんなもの」を歌いあげ、満場の喝采を博しました。りさ子はアルトの豊かな声の持ち主でしたから、もう少し野心があれば江坂さんのような
活躍をするのも少しも夢ではなかったでしょう。
ほんとうに心ゆくパーティでした。フラウ・ゼーンは私たちが排他的と感じてきたスイス人への印象をぜひ訂正しなければならないほど、温かくアジアからの
客人をもてなしてくれました。座持ちも上手で、高齢とは思えない快活さで盛んに笑わせてくれました。
江坂周平と過ごしたあの三日間の記憶は、ベルンの街の胸揺する懐かしさ美しさとともにいつまでも刻まれていました。あの三日、私もりさ子も江坂さんも輝
く若さのなかでたしかに幸福でした――。
私はかけがえのない思い出をふり払うように、マーストリヒトの一角にある中華料理店を出ると、八時頃、聖母教会に入りました。教会のなかはもう人でいっ
ぱいでした。私にはこの盛況もいくらか意外でした。ヨハネ受難曲に類する音楽を、こう楽しみにしている大勢の人間は、日本のちいさな地方都市ではやはり
ちょっと考えられない気がしたからです。ま、それは一外国人の勝手な思いでしたけれど。
私は大きな柱の陰になっている席に坐りました。ほとんど満席で、舞台から死角になるそんなところしか空いてなかったのですが、かえって好都合でした。私
は歌っている江坂周平から見つからない場所にいたかったのです。日本人が世界のあちこちにいるとはいえ、地方都市の教会では、日本人の姿はやはり珍しくて
目立つでしょう。私は江坂さんに昔の婚約者の妹が来ていることを知られたくありませんでした。
八時半になり、指揮者とソリストたちが登場したようですが、私の場所からは何も見えません。オーケストラと合唱の一部が見えるだけでした。
拍手が鳴りやむと、底知れぬ森の沼のような静けさが会場に満ちました。いまから始まる悲しみの音楽を全身で待つように、聴衆は息を凝らしていました。
痛ましい音楽が流れはじめ、しばらくして、おお、私は江坂周平のあの声を聴いたのです。黄金の喉を持つと評された江坂の声に、かつての力も張りも失せて
いるのはすぐわかりました。彼の声はほの暗く、昔は微塵もなかったつらい悔いの翳りのようなものの漂うのも私は感じました。
江坂の声を聴くうちに、私は、渦巻く烏の群れのような過去の情景に溺れてゆきました。昔、姉のりさ子と天地創造の舞台に息をつめていた緊迫感がまざまざ
と甦り、りさ子の真剣な眼差しや息づかいが身の傍にありあり感じられました。こみ上げてくる感情を抑えるのに私は懸命でした。
江坂の黄金色(きんいろ)の声にかつての輝きは失われ、私の隣で感動にふるえていたりさ子の生命も、既にこの世にない──。バッハの音楽がひしきわ血を
噴きあげるように、私の思い出の傷口もつらい痛みと戦きとを感じていました。柱に隠れ、わたしは痛いほど手で顔を覆いました。
ベルンでの休暇から二カ月ほどして、りさ子は秋の結婚式準備に、またすこし体調不良も感じていたために、一時帰国して来ました。ドイツのお薬は売薬でも
体質にあわないという理由でしたが、本人はいくらか覚悟もして日本に帰ってきたのかもしれません。種々の検査の後に、想像もしなかった恐ろしい病名が告知
され、余命も長くないと知った、あの姉の驚愕、私たちの悲嘆。
りさ子は、江坂さんに手紙を書きました。決然と書いたのです。私は、りさ子が妹の私にだけ読ませた長文の手紙を、脳に灼いて複写する気で何度も読みまし
た。そして今も憶えています、忘れはしない。そして長い手紙にみな委ねて姉の決意を聴くのは或る意味でらくです、間違いがない。そうしたい気持はなみ大抵
でないのです、が、姉が必死の言葉をどう妹があのとき読んで泣いたか、私は、やはり私の言葉で姉の手紙をもう一度読んでみたいのです。
江坂さんにあげる「これは最後の手紙」と、姉は自身の未練を断ち切るように書き起こしました、「周平さん、どうか泣かないで、りさ子の別れの言葉を最後
まで読んでくださいますように」と。
「昨夜、私がせいぜいあと数カ月しか生きられないと告げたとき、電話の向こうであなたがどんなに衝撃をお受けになったか、胸が抉られるようによくわかりま
した。どうか嘆き悲しまないでと申し上げるのは、あまりに酷なことと、りさ子も声をあげて泣いています。」姉は、これが「りさ子に天が与えた人生なので
す」などとつよい言葉を置いていますが、あんまりだと私は姉のつよがりが切なかった。姉は、ただ江坂さんをへの気持ち、いたわり、だけを強調して、むりに
自身を励ましていたのです、そうなんです。
「今、りさ子がどうしてもあなたにお伝えしなければならないのは」と姉は、自分の戦きよりも自分の死後の江坂さんについて云わずにおれない人でした。それ
が姉の必死の祈りでした。「電話で、あなたはすぐ大学を辞めて帰国し看病したい、すぐ結婚したいと仰言いました。そのあなたのお気持ちを受けることは心か
ら幸福です。でも、どうかそれだけはなさらないでください。今の職業や歌手としての将来を棄ててはなりません。」
姉がどれほど江坂さんが傷つかぬよう願っても、それ自体が無理なことは自明でした。姉は自身の切望を我から裏切ろうとしていたんです、必死に。
「周平さん。りさ子の最後の願いは、このまま二度と逢わずにあなたとお別れすることなのです。驚かないで。あなたを深く愛すればこそりさ子は切にそう願う
のです。
周平さん、りさ子が死んだら一日も早くりさ子のことは忘れてください。いつまでもりさ子を心の中にとどめていてはなりません。あなたにとってりさ子は、
青春の一頁だけの淡い存在でよいのです。あなたは、りさ子を二度と見てはなりません。………」
ばかな、りさ子。おねえちゃんの、ばか…。二度と見てはどころか、姉は末期の床へ江坂さんに来て欲しい、二人の躰を一つにしたいとどんなに願っていたこ
とでしょう、姉に愛されていた妹は、私は、知っていたのです。
「心やさしくて感受性の強いあなたが、病魔に犯され衰えてゆくりさ子最期の日々を見たら、一生その残像から逃れられないでしょう。りさ子もあなたに病醜を
見られることは堪らない。りさ子の死に顔はあなたの眼に突き刺さり、いつまでも苦しめるにちがいありません。愁嘆場などやめなくては……。見ることは、見
つめることはほんとうは怖いことなのです。
周平さん。あなたは、ドイツから帰国してはなりません。」
半ば本音でした。でもあの姉は……どんなにか何が何でも江坂さんと最期の日を、時を過ごしたかったでしょう。
「もうお電話も手紙もなさらないで。どうかりさ子のお葬式にもこないでください。ただミュンヘンでの希望に満ちた日々のりさ子を、フランクフルト空港で笑
顔であなたに手を振っていたりさ子の最後の姿だけを今、眼底(まなそこ)に見つめてください。そのりさ子を記憶の底に深く沈め、どうか二度と取り出さない
でください。
いつかあなたが私のことをすっかり忘れて、誰か優しい人と出逢い家庭を築いてくださいましたら、私の魂は喜んで微笑むことでしょう。りさ子は遠いドイツ
の地であなたが流してくださるたくさんの涙を受けとめて死にます。しずかに滲むようにあなたの人生から消えてゆきたい。
周平さん、りさ子に死なれて平然と生き続けるのは、暫くは死ぬより苦しみ多いでしょうね。でも、耐えて生きてくださいね。りさ子への愛の証にも、りさ子
を忘れて生きぬいてください。これが最後の必死のお願いですの、りさ子の。
出逢えて、真実幸福でした。あなたのすべてにすべてに、ありがとうと言います。
周平さん、りさ子は一足先に旅立ちますが、あなたには素晴らしい未来がありますよう。かならず、かならず幸せになってくださいね。
これでお別れです。さようなら。 あなただけのりさ子
聖母教会で、太い大きな柱にかくれ、私はりさ子の声を聴き、バッハの長い苦しみの音楽にうち震え、江坂周平の陰鬱な歌声に一心に耐えました。我に返った
ときにはイエスの受難も音楽も終わり、私は行方知れない疲れにほんとに萎えていました。
聴衆は温かい拍手で出演者をねぎらっていました。何度も舞台に呼び出された出演者が引き上げると、聴衆はめいめいに帰りはじめました。私は演奏の最初か
ら最後までついに江坂さんの顔を見ることはありませんでしたが、帰る前にひと目だけでも顔を見ようという気持になりました。
りさ子の別れの手紙を受け取った江坂さんは、りさ子の望んだとおりに、ドイツから帰国せず葬儀にも来ませんでした。私が何を感じたか、それは云いませ
ん、江坂さんと私たち家族との音信も細くなり、いつか途絶えました。江坂周平氏がその後どのように年を重ねていたか知ることもなく、長い歳月が黙然と流れ
たのです。
私は席をたつと、江坂さんの方へそろ、そろと重い歩を運びました。教会のことです、劇場の楽屋のようなものはありません。舞台になった正面祭壇の両脇に
大きな部屋があり、その一隅で出演者が知り合いやファンに和やかに取り囲まれていました。
私は、遠目に江坂さんが何人かの挨拶を受けているのを見つけました。髪には白いものも少し目につきましたが、十年まえと変わったとは見えませんでした。
江坂さんは背の高い男性とその連れらしい女性と話しこんでいました。昔から達者に英語もドイツ語も話せる人でした。私はの客の途切れを待つとなく待って
いました。
と、突然江坂さんの表情にやさしい笑みが、さも、ものの溶けたように滲んだのを私は見ました。
二、三歳の少女の後ろ姿が江坂さんの方へかけ寄りました。すぐ後(あと)を小柄な金髪の女性が、少女を追うように小走りについて――江坂は両手を広げて
少女を迎えいれると大切そうに高く抱き上げました。金髪の女(ひと)と心のこもったキスをしたので、江坂さんの妻と娘だったのはすぐ分かりました。
江坂周平が妻を愛し娘を可愛がっているようすを目の前に見て、私は立ちすくみました。予想はしていたことでしたのに、現実に江坂さんに妻子を見る覚悟は
なかったのです。塩辛いものが喉元に湧いてきました。ほんとうなら、江坂の傍にいるのは姉りさ子とその子どもでありましたのに。こうなるしか、なかった
か…と、私は膝の下でかすかに震えました。
江坂さんは、声だけ聴いていたときよりも、落ちついて健康そうでした。幼い子を見る眼差しは、もう愛しくてたまらないという父親のものでした。
江坂の今日の演奏を聴けば、彼が昔望んでいた歌手としての成功を得ていないことは推察できました。今の江坂さんの生活はこういう小さな音楽会や教職でで
きているにちがいありません。ドイツを活動の拠点とし、こちらで妻を得、子どもを得た。江坂周平氏はおそらく、少し苦さの入りまじったような平凡な中年男
の幸福のなかに現に生きていました。
私は彼が失ってしまった声や若さや可能性を惜しむ反面、りさ子が長生きしていても江坂は同じようだったかもしれないと思い直しました。年を重ねた彼が徐
々に何かを失っていくのは当然で自然なことです。私は江坂さんをしみじみした気持ちで少し切なく見つめました。青春に散ったりさ子への想いだけが追憶の春
風のなかに羽毛(はね)一枚のようにふわふわと輝いていました。
江坂親子三人のようすを見ながら、これでよかったと思えてきました。江坂さんにはりさ子を憶えていてほしいと心のどこかで望んでいましたが、あの姉の望
んだことは、ああ口先のことだったかも……江坂の中から自分自身が消え去ることでした。江坂さんは今、りさ子のことを忘れ、日本からも日本人からも忘れら
れて静かに生きていました。それなりに元気に暮らしているのです。それがわかって充分でした。
まるくふくらんだ頬をした黒髪の少女は目元が江坂さんによく似ています。少女はお父さんの腕からおりたがりました。江坂さんが抱いていた子をそっと床に
おろすと、少女はいきなりお父さんの周囲をぐるぐるまわってまるでダンスしてみたり、人の流れを右左と横切って可愛い声をあげていました。何度か転びそう
になりながら、人にぶつからずくるくる動いています。その瞳(め)は生き生きしていました。大人の言うことなんかきかないもん。少女の全身から発散される
利かん気のさまは可愛いものでした。
「リサコ、フォアジヒティッヒ!」
母親のよく響く澄んだ声が、たしかにそう言ったと聞こえ、私ははっとしました。
「リサコ、コム」
もう一度母親が娘を呼び寄せる声を聞きました。
リサコ……。少女は「リサコ」と名づけられている。私は頭上から鋭い一撃を振りおろされたようでした。胸は動悸を打ち、その衝撃は不思議な感動に変じて
行きました。
視界がさっとひらけました。呼ばれた少女が母親に駆け寄る姿に一条の光が差し――少女は母親の胸に抱かれ身を揉んで甘えています。目の前の少女リサコが
無垢な喜びのさ中にいることは、そのまま、きらきら漂う姉りさ子の魂の笑みこぼれているかと想えました。
これ以上此処にいて、あの江坂さんに何か話しかける必要はありませんでした。江坂の視線がふと私のほうに向いたと思う前、もう、私はそのまま江坂たちに
背を向け教会を後にしていました。身内には炎立(ほむらだ)ち溢れるものがありました。気づくと後から後から涙も頬をつたいました。
教会を出ると、マーストリヒトの空気が急にすみれ色に染まって、夜の底から静けさにみたされてゆくようでした。明日は夫の待つデュッセルドルフに帰れる
と思いました。 (了)