「e-文藝館=湖(umi)」 詞華集
やまなか
いつこ 詩人 1944年 愛知県に生まれる。 詩集「訣れまで」により、2001年度日本自費出版文化賞。内八編を自抄して掲載。湖の本の創刊以来の
読者。
訣れまで 山中 以都子
朝
地下のコバルト照射室まで歩いて通えたのは 一月前までであった。
十日前までは 車椅子をわたしが押した。
いま 父は ベッドから起きあがることができなかった。
風の舌が湿っぽい朝まだき 洗面所で口をすすいでいると 隣にやってきた少女が いきなり抱えていた花瓶の花をぐいと一掴みに投げすてた。
百合 菖蒲 牡丹 竜胆
一瞬宙に舞ったとりどりの鮮やかさが 冷たくわたしの眼にしみた。
少女は頬をふくまらせ 逆さにした花瓶から音をたてて水を流すと からになった花瓶も棄てた。それから手を洗い 顔を洗った 乱暴にいつまでも。
長い髪に隠された横顔をみやりながら 少女が懸命に洗い流しているものが ようやくわたしにもわかってきた。怒りのわけが やっとわたしにものみこめてき
た。
こらえきれずに洩れたかすかな呻き声が 小さなその肩をふるわせている傍らをぬけて わたしはそっと父の待つ部屋へ引き返した。
麦の秋になっていた。
窓
思いがけない間近さに迫る山頂の城や どこまでも列なる鈍色の家並みを縫ってきれぎれにのぞく二色塗りの橋のこと そのむこうに 今は空を丸く刳り貫いて
静止しつづける ついこのあいだ終わったばかりの博覧会場に建つ観覧車のことなどを話した。
そればかりを 話しつづけた。
ベッドのひとからはみえない背の低いコンクリート屋根の縁に 二羽の鳩がひっそりと止まっていることや 遅れてやってきたセキレイが一羽 その傍らでしき
りに尾を上下させていることなどを眼の隅に捕えながら みえないもののことは告げまいと思っていた。
退院したら海のみえるところへ行きたい、と 聞いたときにも だから潮騒に耳を傾けるふりをして涙を隠した。
セキレイの尾の刻んでいるものが 残された父の命であることを知りながらわたしは大きく頷いたのだ ほほ笑みさえ添えて。
水の中へ
たちのぼるぞうげ色の靄がすこしずつ少しずつ濃さを増し たどる径はますます細く けれどもとぎれることはなく 水音だけがまるで飼い馴らされたけものの
ようにひっそりとより添って わたしの眉のあたり扇状にさしだされた橙色の微光は なまあたたかい舌でまたも執拗にくり返す もうすぐですよ 。
ためらいがちに踏みだす身体ごとかるがると抱きとられて仰向けに流されてゆく ただよってゆく 水の褥 波のゆりかご 空の蒼と水の青のとけあうあたり
あの懐かしい顔が静かにほほえんでいるのだが 名さえはやおもいだせず やがて 湿った羽毛いちまいに瞼が 鼻孔が 唇がふさがれ おおいつくされ しだ
いにうすれてゆく意識のきわ とぎれとぎれにきこえてくるのは すでにひとすじの光のなかに消えはてた顔の 歪んだ唇のいまわの声 も・う・す・ぐ……
失くしたものは
さくら吹雪に誘われて春の逝く日 きれぎれな眠りの岸に打ちよせられた夥しい花びら そのひとつひとつにくるまれた砕片。丹念に掬い集める指に絡みつく羞
恥 たちのぼる悔い。やがて完成されたジグソーパズルのように浮かびあがることばたちの在りし日の姿 生まれたばかりのみどり児のような。人目に触れるこ
となく消えていった あれはわたしの意識の水面を束の間たゆたい沈んでいったものたちの ついに結び得なかった映像 語り得なかった想い 今も深いため息
の奥の。
とどけられた手紙の 行間を漂うかすかな気配に 薄い鼓膜を緊張させる午後 窓の外では猛々しい驟雨 横なぐりの。葉裏を返して揉み合う樹々の 冥い在処
を露わにされたものたちの鋭い叫び 交錯する恐怖。飛沫を散らして突っ切る翳を片頬の隅に捉えながら なおも硬直させる全身に またしても聴こえてくるの
は 生まれる前に死んでいったものたちの 声にならない声 言葉にならない言葉 あの深いため息の奥の。
五月に
五月闇の底に蠢く
あれは わたしが
産みおとすはずだった
やさしい殺意
あからさまな慰藉
とおい日の子守唄よりも
なお寒々と
父よ
あなたの耳の底に
小人たちの輪舞は
いまも花を降らせるか
ひとすじの煙となって
たちのぼっていったあなたの
かたく合わされたしろい指に
奪われたままの叫びが
しきりに背を刺す
こんな夜には
生まれたままの全身に
しとどに濡れたことばだけをまとい
さえざえとあおい
あなたの眼窩を泳ぐ魚となって
なくしたものと
得ることさえできなかったものの
ひとつひとつのはるけさを
いつまでも いつまでも
巡りつづけていよう
雨のスケッチ
いく日も降りつづいた雨のあとで 苔のように息をつめて わたしのこころに生まれてきたものをそっといたわりながら なおも降りやまぬ雨脚をたどって 稜
線を隠す重い雲へとさまよわせた視線を ふいによぎって消えたのは 塒へ急ぐ鳥の翼だったろうか それとも暁方の夢にしばしば訪れ 決まって背を向けて佇
つひとの はじめてみせたあれが噛みしめられた唇だったのか もとより確かめられようはずはなく ただ 沁み透ってゆく眩暈にも似た哀しみのしずかにゆっ
くりとはぐくんでいるものを さらにやさしく庇いながら せめてひそやかな決意へ実れと貧しい指を合わせる耳に とおくかすかに身じろぐもののけはいがす
る。
風
堅い座席に凍りついたこころを座らせて 視線をじっと
裡側に据えているだけで まちがいなく遠ざかってゆく。
あれほど必死に押し留めようとしたものは沈んでゆく夕
陽だったのか それとも……。
それにしても遅い電車だ いや速すぎるのだ。
もう駅を七つ数えた いや六つだったか。
残照 砂浜 オニガサキムラ
松林に点在する白い家家。ゆれている漁火。ゆれている
窓。隣の少女の黒い鞄。肩をおおって胸へあふれた髪。
ひろげた髪を波に梳かせながら 崩れてゆく砂のトンネルをみつめていたのは わたし。ついさっき。はるかな
はるかな ほんのさっき。おき忘れられた赤いシャベル。
おき捨てられてゆく駅たち。つぎつぎと現われては飛ばされてゆく線路沿いの町町。ひきずってきた冥い海。
潮騒 風紋 ハマボウフウ
たぐりよせる時の重さと刺し違えながら 聴いていたの
は風の音 風に曝される骸のわたし。
桐の花
山すその火葬場に
ひっそりと いま
霊柩車が入ってゆく
柩によりそうのは
とおい日の
わたしか
蓮池のほとり
しんと空をさす
桐の花
父よ
そちらからも
みえますか