「e-文藝館=湖(umi)」 文学エッセイ
やべ のぼる 評論家 1950年 東京に生まれる。ことに結城信一愛読、研究・博捜の人と知られ、その視線は柔らかく深く的確に届いている。 掲載作
は、平成二十一年(2009)四月十日 書肆なたや刊の小冊子である。 (秦 恒平)
結
城信一 眩暈と夢幻
矢部 登
一
『ヘンリ・ライクロフトの私記』を読んでいると、結城信一のことを思う。
三十代のころ、はじめてこの岩波文庫を読んだ。眼で文字を追いながらも投げださずに読みきった記憶はあるが、そののち、ふっと思い出しては、この文庫本
を掌にしてきた。
なぜなら、こんな一節に共感し、おぼえていたから。
《……本屋のカタログに目を通し、ところどころ買えそうな本に印をつけるのは楽しみなものだ。……〔略〕……それにもまして嬉しいのは実物を見ないで
買った本の小包をほどくあの嬉しさである。私は希覯本をあさる者ではない。初版本や大型本なども問題にしない。私が買うのは文学書、すなわち人間の魂の食
物なのだ。一番内側の包装紙がめくられて、装釘が初めてちらっと見えたときのあの感じ! 「本」の、最初の匂い! ……》
図書館や人から借りて本を読むより、自分の本で読みたい。そう思う人なら、古書目録から本を購って掌にする喜びは当時もいまもかわらないはずだ。
『ヘンリ・ライクロフトの私記』は、およそ百年前、イギリスの小説家ジョージ・ギッシング(一八五七〜一九〇三)によって書かれた随想録である。
四十代、五十代と、この小さな本を何度も読みなおしているうちにますます惹きつけられ、共鳴執心する文章が多くなっていった。読みかえすたびに、鉛筆の
ふるえる細い線が増えてゆくのである。いま、本を開いたら、こんな一節に線がひかれていた。
《……私は常に現在よりも過去に生きてきた人間なのだ。……》
最近は、ヘンリ・ライクロフトのかたる言葉から、結城さんの風貌が浮かび、微妙に重なりあう。
二
へンリ・ライクロフトのことを考えていたら、友野さんが思い浮かんだ。友野さんについては、最近、といっても三年ほど前になるが、ある文章でこう綴っ
た。
……結城信一の《村里日記》が好きで、愛読している。
その連作小品のなかの「杉木立」の冒頭は、いまではもう、暗唱できるほどになっている。つい、口にでたりする。
《村里日記》を読んで、友野さんに会いたくなった。
友野さんといえば「木毛欅」だ。
はじめて友野さんに会ったのは、三十年近くも前の、むかしになる。小品集『萩すすき』が出たのは昭和五十一年十月で、その翌年の五月には、「木毛欅」が
収録された短篇集『文化祭』が刊行されているのだから。
村はずれにある雑貨屋の主人が友野さんである。
六十歳をすぎた友野さんの前歴は、《風変りな教師》、といわれた。東京オリンピックが開催された年、《天の声》を聴いた友野さんは、潔く東京の生活や書
斎、教師の職業も、なにもかも捨てて、この田舎の《水と空気に恵まれた山村》に移り住んだ。ひとり、雑貨屋暮らしをしている。
毎朝、《私》が熱い濃い珈琲を飲みにゆく《珈琲ぶな》は、その片隅にあって、一組のテーブルと椅子とがある。壁にはルドンの少女のオリジナル石版画がさ
りげなく懸かっている。このルドンと中原中也の初版本、詩集のコレクションだけは手放さなかった。
友人から紹介されて、友野さんとめぐりあった《私》は、三十代、四十代と仕事をつづけてきた《夜更けの時間》と《朝の時間》とを入れ替えた。
いままでは、《朝の時間》がなかったが、この村に滞在してからは、朝の光のなかで、仕事をするようになった。……
そんな朝の光のなかで書いた作品集のひとつに、『空の細道』一巻がある。「空の細道」「梢」「去年のこほろぎ」「夏病み(あとがきに代へて)」が収録さ
れている。
標題作「空の細道」の山形老人は、草木蟲魚ことごとく、死者の化身と思う。過去はすべてが三十年前であり、そんな七十歳をすぎた一人暮らしの日々は、淋
しくて辛い。冒頭に描かれた、幅広の葉の端をゆっくり歩きながら、あやうく落下しそうになる一匹の虫の状態と重なる。
朝食のあと、山形老人は、ぼんやりと空をながめるのが日課になっていた。
《……空は、いいねえ……》
《…‥けれど、ぢつと見つめてゐると、なぜか淋しくなるな……》
山形老人の耳に、《りんりん》と、死者からの便りの前触れがひびく。
三十年前、十六歳で死んだ一人娘の秋子が訪ねてくる。秋子の友だちの十八歳で死んだ佳子の顔
も見える。が、《生きてゐる息子の方は、一向に顔を見せない》。生きているものたちはみな山形老
人から去ってゆく。
《……ひとの後姿には、なぜ前面よりも、更に深い表情があるのか……》
秋子と佳子が訪ねてくる夢はうつつと溶けあって鮮烈である。
ある日、山形老人は、毎日ながめている空の一角に細い道を見つける。そこには、小鳥に化身した秋子と佳子が待っていた。
「空の細道」を読んで「落葉亭」を思わずにはいられない。
結城さんが《夜更けの時間》と《朝の時間》とを入れ替えてから、数年たったころであろう。病気による長いスランプ状態からようやくぬけだし、甦った筆力
で書いた短篇である。
「落葉亭」の加山老人は六十歳になったとき、庭造りをはじめた。妻はすでに亡い。子どもたちも結婚して、家には滅多に顔を見せない。一人暮らしの日々の
なかで、呼びかける相手を庭造りに求めた加山老人は、こんなことを呟く。
《……庭造りといふものをしてみて、その新しい姿を最期の瞳に収めながら、この世と訣別するのもいいだらう。あの世に持つてゆけるものは、瞳に宿された
一瞬のものだけだらう。……》
植木屋と石屋が、庭の中央に、一個づけの青石を据えた。
多くの庭樹や飛石などが運びこまれる。それらは、当主が亡くなった古い屋敷のもので、《死者たちに親しまれたものが、この庭に集つて、わたしを慰めると
いふわけだ》、と思う。
十年後、七十歳になった加山老人は、日に何度か庭におりたりするが、縁側でぼんやり庭をながめてすごすのが日課になっていた。庭は伸びるにまかせたまま
の樹木や落葉に埋もれていた。
ある日、加山老人は、飛石をわたる足音を聞く。
飛石は、戦火に逃げおくれて邸とともに焼け死んだ若い女が生前よく歩いたという。白地の和服姿の女が、飛石の上を歩いて、加山老人の部屋ちかくにまでき
たりする。
むかし、「群像」誌上で、『夜の鐘』に収録されている「山の池」と「落葉亭」をはじめて読んだとき、狂気のほとばしりとかすかに心地よい眩暈をおぼえ
た。
「落葉亭」が発表されたとき、結城さんは五十四歳だった。
「空の細道」は六十二歳のときである。
いずれも、人生のたそがれをむかえた一人暮らしの老人が、現在よりも過去に生きながら、夢うつつのなかで、死の世界へとおもむく。いやそうではなく、む
しろ、《死を呼んでゐる》のかもしれない。
ヘンリ・ライクロフトは、私記のなかで、《実にしばしば私は死のことを考える。死という考えがいつも私の心の底流に存在する》、と誌している。百年前
の、そのへンリ・ライクロフトの言葉を援用するなら、死者たちは、こうささやいているようだ。
《……「我らのあるごとく、汝もかくなるべし。されば見よ、我らの静寂を」……》
三
結城信一は『ヘンリ・ライクロフトの私記』を読んだであろうか。
そんなことを思いながら、本を蒐めた一時期があった。
そのときの本は手許に七册ほどある。古くは大正年間に刊行された本が三册あって、平田禿木は《この一書ある為に、ジョージ・ギッシングの名は永遠に亡び
ない》(「ジョージ・ギッシング」『田園春秋』栗原元吉訳・大正十三年八月・玄黄社)とし、戸川秋骨は《このライクロフトの手記は永久に残る作であらう》
(ヂョウヂ・ギッシング」『田園の春』評註・大正九年三月・アルス)と書いている。さらに安部能成は、《現代西洋の『徒然草』か『方丈記』の様な気がす
る》(「『ヘンリイ・ライクロフトの手記』を読みて」『ヘンリ・ライクロフトの手記』藤野滋訳・大正十三年五月・春秋社)、とも誌している。
現在、そのとおりの古典になっているが、なかでも注目したのは、谷崎精二訳の『ヘンリイ・ライクロフトの手記』だった。昭和十四年十月二十日発行の改造
文庫である。
昭和十四年は、結城さんが早稲田の英文科を卒業した年で、二年前の昭和十二年七月には日中戦争が起こっている。時局柄、本の内容にもその影響はあらわれ
ていて、谷崎精二訳の改造文庫では、徴兵制度について批判的な思いを綴った《春》の十九が省略され、空白になっている。
第二早稲田高等学院で會津八一に英語を教わった結城さんであったが、学部へ進んでからの英文科では谷崎精二が教鞭をとっていて、文学を講じていた。《谷
崎先生は、照れ屋である。教室では、滅多に雑談はしなかつた》、《人生、中途半端はまつぴら御免、と言ふのが先生の心情だつたやうにも思ふ》、《先生には
頑固なところが多々あつた》と後年、「歳末」という随筆のなかでなつかしんでいる。これらの一節から想起されるのは、昭和二十六年七月、谷崎精二の還暦を
祝し、その教室からでた作家たちが短篇をよせて『時代の花束』が刊行されたことである。謝恩の意味がこめられていた。結城さんもその作家のひとりで、収録
作は「復興祭」だった。
結城さんは、そんな谷崎精二の訳であったから、『ヘンリイ・ライクロフトの手記』を読んだにちがいない。
ヘンリ・ライクロフトは小説家であった。
その作品はしかし、読者に親しまれなかったようである。
生まれつき自尊心が強くて狷介な性分から、どんな文学グループにも属さず、みずからの考えと心情のほかはだれのいうことも受けつけなかった。気難し屋で
あった。暮らしむきのこともあって、小説のほかに批評や翻訳、エッセイなどのあらゆる文筆稼業をこなし、たまには著書を出した。孤独と逆境の日々のなか
で、肉体的、精神的な過労から病気がちになり、しばしば厭世観に襲われる。そんななかで、自己抑制の苦しみに耐えながらも、地道に、毎日の仕事にいそしん
だ。
これが、ヘンリ・ライクロフトの生涯を占めていた。
ところが、五十歳のとき、人生の転機が訪れる。
篤い友情をいだいていたひとりの知人の死によって、思いがけず、終身年金を遺贈される幸運がもたらされたのだった。
ロンドンを去ったヘンリ・ライクロフトは、もっとも愛していた田園の地デヴォンに移り住む。そこで、静かに、ひっそりと暮らしながら、片田舎の美しい季
節の移りかわりを楽しんだ。すでに文章を発表することと訣別していたヘンリ・ライクロフトは、古書を購い、好きなだけ読書に親しんだ。読書に倦むと、気ま
まに散策して、過ぎ去った人生の物思いにふけった。自分の生涯はもう終わってしまった。そんな風に思い、世間から離れた、平穏で心ゆたかな日々の生活は五
年ほどつづいた。
しかし急逝し、あとに三册のノオトが見出された。
ギッシングはその遺稿を整理し、四季に分けて編輯した。
それが『ヘンリ・ライクロフトの私記』である。
平田禿木の「ジョージ・ギッシング」によると、作者《ギッシングの一生は全然失敗の一生である。悲しい失敗の一生である》、とくりかえし誌されている。
ヘンリ・ライクロフトは、むろん、ギッシングの自己が色濃く投影された分身であろう。《失敗の一生》と評された、さまざまな実体験やみずからの在るべき
姿、こうあってほしいと願う理想の姿が、ヘンリ・ライクロフトなる人物に託されて幾重にも塗りこめられている。この自叙伝には、つねに死の意識が感じら
れ、命が刻まれている。ひとりの実在する人物としてのへンリ・ライクロフトの肖像が眼の前に立ちあらわれ、迫ってくる。
そこには、次の思いが貫かれていた。
《……(私は世を捨てた人間としてものをいっているのだ)……》
四
晩秋の或る日、目黒の自然教育園で、数時間をすごした。
ひょうたん池をわたった、北の端の武蔵野植物公園には、椎林や松林、落葉樹林がある。
鈍色の陽差しのそそぐ森のなかを一本の小道が通っている。ベンチに腰かけて、あたりの樹林をながめていると、『ヘンリ・ライクロフトの私記』の一節が浮
かぶ。
《……木立と木立の間にはさまれた道は、一面に見わたす限り落葉でおおわれていた。まるでうすい黄金色の絨毯であった。さらに進むと、ほとんど落葉松ば
かりの植え込みにでた。それは濃い黄金色に輝いており、ここかしこに点々と血のように真っ赤な色が見られたが、それはかりそめのまばゆいばかりの秋色に輝
く若い「ぶな」の木であつた。……》
それと呼応するかのように、思いは、「梢」に飛ぶ。
「梢」は自然教育園を舞台にした短篇である。
結城さんは、自然教育園へいって、取材したのだろう。
《……一本の大樹が、四本の巨大な枝を、空に刺さるやうに垂直に伸ばしてゐる。それらの枝々は、既に枝ではなくなり、それぞれの独立した性格と主張とを
持つてしまつた「幹」として、私の眼に映る。……》
その黒松のところで、《私》と早苗は会う約束になっていた。
日曜日と決めているが、いつも会えるとはかぎらない。
ある日、黒松のそばのベンチで早苗を待っていると、足音が聞こえる。早苗かと思ってふりかえると、だれもいない。早苗だと思った足音は幻聴だったらし
い。さらに、いつであったか、早苗のあとをつけて、《かがやいた眼》でこちらを見つめている老人の姿が《私》には見えた。しかし、早苗にそんな気配は感じ
られず、また見えないらしい。むかしから、《老松は、檜や杉などとおなじく、ときに霊木として扱はれる》といわれているので、老人の気配と姿は、あるいは
夢まぼろしであったのかもしれない。
早苗の年齢は二十三、《私》は五十三である。
二人の年齢から、ふっと、こんな会話が甦る。
《……「わたしが三十五になったら、一緒に死んでくださる?」……》
《……「どうしても死にたいといふのなら、一緒に死ぬよ。死んであげる、などとは言はぬ。一緒に死ぬよ。……喜んでわたしは一緒に死ぬ」……》
『文化祭』に収められている「椎林」のものだが、この短篇も自然教育園が舞台になっていた。
結城さんは、自然教育園のそばに二年あまり仮住まいしていた。ちょうど、「空の細道」を書いていたころであった。八階の部屋から、結城さんは空を見つ
め、眼下にひろがる自然教育園の深い森をながめていたはずである。
ヘンリ・ライクロフトは、私記のなかで、《私は樹木崇拝者である》、《幹をこの家の守護神の現われとしたいのである》、と告白している。結城さんもま
た、《樹木崇拝者》であろう。巨樹の生命へよせる新鮮な驚きと畏怖の念をいだいていた。その樹木へよせる思いは、「椎林」をはじめ「木毛欅」「梢」のなか
に丹念に書きこまれている。これらの短篇とは別に、「樹木のいのち」というみごとな随想がある。「婦人之友」口絵掲載のその四百字ほどの短文には、大きな
樹木の緑に芽吹いたカラー写眞が添えられていて、おそらく黒松であろう。
《……「私」といふ極めて小さな一本の草も、「現代」に生きながら「古代」に還る。枯れずに一本だけ残り、みごとに勁く空に逼つてゐる黒松を、改めて仰
いでみる。凄絶な精魂、といふ気がしてくる。……》
森の小道のベンチで、その黒松をながめていると、不意に一陣の風がおこり、落葉が空に舞った。
五
落葉亭結城信一は、庭造りをするように小説を書く。
「去年のこほろぎ」は、「露のひろば」「灯り」「星月夜」「去年のこほろぎ」の四つの短篇から構成される。
冒頭の一節は、こうである。
《深夜になつて、隣家から突然、大きな物音がきこえてくる。
境にある細い路地や、庭隅の、あちらこちらで鳴きあつてゐた蟋蟀がその瞬間ぱたりと歇む。戸村老人には、息をひそめた虫たちの眼のうるみが、仄かに見え
るやうに思ふ。……》
この蟋蟀は、戸村老人を象徴しているかのようだ。
一人暮らしの戸村老人にとって、夜中に聞こえる物音や叫び声は耐えきれない。
夜露に濡れながら、近所のかおりの家までいって、そっと窓をたたいてみたい。何年か前、かおりが就職するとき、紹介状を書いてあげたことがあった。そん
なかおりとの往き来が手紙を交え、綿々と描かれている。それが、夢なのかうつつなのか判然としない。「空の細道」とおなじく、あまりにも鮮やかな描写であ
る。
《……ほんの、ちよつとした物音にも、おどろきやすい虫たちだ。いつのことだつたか、途中で鳴きやんで、ぢつと息をひそめ、あかあかと眼をうるませなが
ら怯えてゐる表情が、この私に、見えたのだ。あれは、去年、だつたか……》
この蟋蟀の表情も、戸村老人の心の表情であろう。
ある日、蟋蟀の鳴き声が今年は聞こえないことに、戸村老人は思い到る。
《……消えてゆくものばかりを、追ひつづけて今日まで来たやうだ、と気づくと、その線上に、かおりがゐる。……》
そのかおりもまた、夢まぼろしとなって、はかなく消える。
結城さんは、若いころから老境に親しみながら、老人を主人公にした小説を書いてきた。老人の少女へよせるあえかな愛情を描きつづけてきたのである。おそ
らく、全作品の半数以上が、そうではないだろうか。
昭和文学のなかで、結城信一はめずらしい小説家であった。
二十五歳のときの処女作「冬夜抄」や三十二歳のとき「群像」に発表された出発作「秋祭」も、老人を主人公にしている。「秋祭」は、正宗白鳥に、《なだら
かに老人の気持が出ている》、と評された短篇である。
そんな結城さんの初期の作品から『空の細道』へと到る小説を読むと、亀井勝一郎の《作家は処女作にむかって成熟する》、という言葉が思いおこされる。
「冬夜抄」「秋祭」いこう、おなじテーマをくりかえし描きつづけてきた結城さん自身、作中人物とおなじ五十代、六十代になったとき、あきらかな変化が作品
にあらわれた。
その変化を見るために、ふたたび、書いておく。
「落葉亭」が発表されたとき、結城さんは五十四歳だった。
「空の細道」は六十二歳のときである。
この八年間は、結城さんにとって、どんな歳月であったのだろう。
年譜をみると、両親が亡くなり、二十二年間住んだ碑文谷の土地家屋を売却しての転居がある。心友駒井哲郎の死に遭い、多年にわたる心の師岡鹿之助も長逝
する。『夜の鐘』いこう、短篇集をまとめられないなか、みずからの装幀・造本による私家版『文化祭』を精興社で造る。愛着ある作品を正字旧かなづかいで組
版し、自分なりの本をのこしておきたかったのだろう。結城さんの滅びの支度であったが、同時に、六十代への出発の書となった。
また、「夏病み」にあるとおり、肺炎の療養に苦労し、結核治療の薬害に苦しめられる。
そんな日月を経て書かれた「空の細道」は、八年前の「落葉亭」の抒情が漉きかえされていっそう澄みきった印象を受ける。それだけ、いままでにない平明さ
と怖いところが感じられる。
じっさい、歳月を重ね、老いのなかではじめて眼のあたりにする哀しい現実は、淋しい辛いも、もちろんあるだろう。だがその果てには、日一日と死へ近づい
てゆく切実さがある。一人暮らしの孤独と静かな日々のなかで、庭造りをするように書かれる作品世界にあらわれた変化は、幻聴、幻視が交錯する。そこにある
のは、いままで聞こえなかった音を聞き、見えなかったものを見る、澄んだ眼と耳であったように思う。
たとえば、「落葉亭」の加山老人は焼死した若い女の飛石をわたる足音を聞き、その女が白い和服姿で誘いにきたのが見えた。「空の細道」の山形老人には死
者からの便りが《りんりん》と聞こえ、空の一角に細い道を発見する。「去年のこほろぎ」の戸村老人に到っては、深夜、大きな物音と叫び声が聞こえ、怯えて
息をひそめたこおろぎのあかあかと眼をうるませている表情までが、はっきりと見えたように。
これら得体の知れぬ音は、おのおのの作品の主調低音となって、不気味にひびく。うつつのなかに、いままで見ることのできなかったものが、はかなく消え去
る一瞬の夢まぼろしとなって交響しながら、結城さんの静謐な小説は紡がれてゆく。
ここに、《処女作にむかって成熟》した結城文学の構造が、かいまみえる。
六
結城さんは、《「私」といふ極めて小さな一本の草も、「現代」に生きながら「古代」に還る》、という。そのとき、《あの世に持つてゆけるものは、瞳に宿
された一瞬のものだけだらう》、と思う。
いっぽう、ヘンリ・ライクロフトは、《臨終の床に横たわるとき、私の頭の中をかけめぐる最後の思いは、イングランドの牧場に照る太陽の光の思いであろ
う》、と考える。
このことについて、訳者の平井正穂は、《旅に病み、夢は枯野をかけめぐる、という想念のもつあの感情に通じる感情が、われわれの心をうつ》、と「解説」
で書いている。『ヘンリ・ライクロフトの私記』は死後発見された遺稿であったが、四季の美しい季節感とともに、人生への旅愁の思いが感じられて、今日でも
読まれている。
結城さんの「空の細道」から、芭蕉さんの「奥の細道」が連想された。
「空の細道」は夢まぼろしだが、「奥の細道」は実在する道である。
元禄二年の晩春、芭蕉は深川の庵をあとに、いよいよみちのくへと旅立つ。およそ百五十日間、六百里の、大きな苦行の旅であった。後年、芭蕉には、《旅に
病で夢は枯野をかけ廻る》、という名吟がある。辞世の句なのかどうかわからないが、死にのぞんでの夢幻の魂は、まだなにものかを求めてかけめぐるかのよう
な、凄絶な印象を受ける。
ところで、結城さんは若いころから日記をつけていた。
日々の出来事や思いを克明に綴ることが、謂わば、書くことであった。
だがやがて、結城さんの胸のなかには、小説でしかあらわせぬ思いが芽生えたのだろう。日記をつけることでは表現できぬ心奥からの切実な思いが抑えきれ
ず、必然的に小説を書きはじめた。一作一作を遺書のつもりで書いてきたという結城信一の小説は、ある意味で、結城さんが生きてきた生涯の記録でもあった。
夢うつつのなかで書きあげられた『空の細道』一巻も、結城さんの生きた記録であり、まさに、遺稿といえる。
死の予感のなかで、結城さんの頭のなかをかけめぐった枯野の夢は、はたして、むかし死んだ少女への思いだったのではないだろうか。
結城信一は、そののち、『石榴抄』『不吉な港』を刊行する。
次いで、自伝的連作長篇『百本の茨』を発表するが、昭和五十九年十月に死去し、未刊に終わる。享年六十八であった。
今年は、歿後二十五年にあたる。二十五年、と呟いていると、耳のうしろから、結城さんの声が聴こえてきた。
《……つまりは、ほんのまばたき一つほどの時間ではないか……》
櫻のように 後記に代えて
いつであったか、古書目録をながめていたら、和泉克雄宛結城信一書簡が写眞版で載っていた。造本への不満が誌されているらしい。
その目録を見てしばらく経ったころ、神田の古本屋の店先で、和泉克雄『秋眠館』(二〇〇五・鱗片舎)にめぐりあった。和泉克雄は日本未来派の詩人で、そ
の雑記集には、結城さんとの交友が綴られていた。当時の手紙を織りこみながら。
昭和二十五年暮、結城さんが岡鹿之助を訪ねると、「この和泉克雄詩集にとても感動したからお貸しします」と薦められた。結城さんはしかし、「私もこの詩
集を自分の座右に置いて愛読したい」と著者から直接購読する。それを機に和泉克雄との交友がはじまる。十年後、二人で同人誌の発行を計画するが、結城さん
の胃潰瘍再発で、実現はしなかった。誌名を結城さんは「花紋」、和泉克雄は「鱗片」と主張し、おたがい譲らなかった。
昭和四十年ごろ、和泉克雄の友人が経営する新制社から、結城さんは作品集を刊行する予定だった。既に原稿も渡してあったけれど、装幀・造本に厳しい注文
をしているうちに、出版社が倒産して未刊に終わった。保昌正夫さんから、結城さんはできあがった『空の細道』の造本に難色を示した、とうかがったことが想
起される。
ところで『秋眠館』には、結城さんが或る日、こういったとある。
《……サクラのやうに在りたいですね。……》
美しいだけではなく、芯に強さを秘めているのが櫻の樹であったから。
そんな結城さんを評して、《正座の人》《楷書の人》《俗にまみれることができなかった人》、と和泉克雄は書いている。さらに、岡鹿之助の手紙も抄録され
ていて、《私はこの作家を「発見」したつもりでゐるのです》、とあった。あらためて、結城信一と岡鹿之助との深い結びつきを知らされたのだった。
結城信一 眩暈と夢幻
矢部登
二〇〇九年四月十日 書肆なたや