「e-文藝館=湖(umi)」随筆  

わたなべ みちえ  随筆家・日本ペンクラブ会員  1923.1.20   栃木県真岡に生まれる。 心ひろく、心あたたかい書き手であることは、読めば分かる。第一随筆集 『心のページ』で日本随筆家協会賞を受賞した。高齢八十五歳ながら精神秀朗、矍鑠として、一家でおおきく経営している地元学習塾の事務長役を引き受けてい る。久しい湖の本の読者。七編に、若山牧水「幾山河」の名歌にかり元気な長壽を祈って編輯者が総題を添えた。08.09.29  (秦 恒平)




           今日も旅    渡辺 通枝


  
     白い干瓢


 九月十日の早朝でした。栃木県名産の干瓢のテレビ放映がありました。
 本県出身の作曲家船村徹氏が、生産者と共演しているようです。私は身を乗り出して懸命に見入りました。船村氏は、作曲家らしく、藝術的に話を進めておら れます。
 画面には白い干瓢が干されて紐状に垂れ、時おり翻っていました。

 遠い日……なぜか長男は、干瓢の味噌汁が好きでした。
 青物の乏しい日、干瓢を水に浸し塩揉みをして湯がいてから、刻んで汁に放したものです。
 ――干瓢の卵とじ……それは来客用のみでした。そして稲荷鮨を結わいたり、海苔巻き鮨の芯に入れたり……と、干瓢は必須なものでありました。
 運動会、遠足には、近くのお豆腐屋さんに油揚げの口を開けてもらいました。更なることに、
「みっちゃん、干瓢あっけ?」
と、声をかけていただき、有り難く頂戴しては、白い香りをよく聞きました。
  そんなこんなで、私が鮨作りに没頭している時でした。
「お母ちゃん、朝飯も作ってよ!」
 それは当然のことでありましょう。長男には海苔巻き鮨の切り端というわけにはいきませんし……。今にして深い反省が脳裏を過ぎります。

 長男は、現在小山市(栃木県)在住です。九月十一日で六十歳の誕生日を迎えます。
 帰省する際は、試作品らしいトマトやブルーベリーなどを捥いで土産として持ってきます。いずれも狭い庭端で収穫したものでありましょう。

 長男ゆえに、彼には随分と苦労を掛けたように覚えます。
 次回帰省した折には……黙して干瓢の味噌汁を、出してみたいと思うのです。そこから、家族の会話は展くことでありましょう。

 船村氏も、大きくうなずいてくださるかもしれません。



   息子の言葉

 最近、私の心耳を過ぎる言葉があります。それは、息子たちからのものです。

 私には、昭和二十一年生まれの長男、二歳下の次男、そして、三十三年生まれの同居している三男がいます。
 彼らが家に集う時、狭苦しい台所での座席は自ずと定まっているようです。小山在住の長男、真岡市内に在る次男も、その座席に納まり、落ち付いています。
 そして次男の孫、つまり私にとっての曾孫(男の子)も、西向く私の左側をそれとして、椅子に立ったままいたずらをしています。
 ちなみに、長男にも同じく二歳二か月の孫娘がおりますが、生まれつきのせいか、慣れるまでに少々時間がかかるようです。

 今年のお正月の二日でした。
 例年の手作りのお節料理を囲んでのことです。次男は一足先に来て、きんとんや、黒豆を結構摘んでいるようでした。
 長男は、懇ろに拵えた松前漬けほか、辛味の効いた漬け物などを持参し、にこやいで件(くだん)の座席に着きました。
 酒豪であった父親にも関わらず、下戸の二男、三男を前にして、杯を手に語り始める気配です。
「おばあちゃん、昔の家の裏に、栗の木だの、柿の木だのあったよね!」
 この地の訛りまる出しです。
 その柿たるや、地続きの隣家のものでした。幼友達と失敬したのでありましょう。私は、口を噤んでおりました。
 時季になると、側溝が栗のいがや柿の枝葉で詰まることが再三でした。私は竹箒を逆さにし、竹の部分でよく突っついたのを覚えています。
 こんな思いが懐かしさに包まれ、私のまなうらは濡れています。

 帰りがけに、次男が言いました。
「おばあちゃん、兄貴も家に来たいんだよ! おれだって二日も来ないと、来たくなるんだから……」
 不意をつかれて私は、「ヨッコイショ」と立ち上がり、横を向いて、目頭をおさえるのが精いっぱいでありました。

 気づけば次男も既に五十八歳、会社に依っては退職を余儀なくされる年齢です。己の生家が恋しくなるのも、当然のことなのかもしれません。
 何気なく口をついて出た台詞だったのでしょうが、その言葉は、私の心耳をいつまでも温かく包んでくれました。



   長男の死

  平成十九年六月十七日、小山市在住の長男が突如として帰らぬ人となってしまった。まだ一か月と経っていない。まさかのことに、信じられないでいる。病名は 「脳梗塞」とのことであった。
 六月八日(金曜日)に大学の同窓生と集い、楽しい宵を過ごしたらしい。常日頃より、酒を愛する息子であったが、その日は久々に豪飲したそうだ。翌朝、嘔 吐があったため、昼をまたいで寝ていた。特に初めてのことではないので、嫁も、孫を連れ帰省していた長女もさほど心配はしていなかったが、帰り際に声を掛 けると、答えようとする舌はもつれていた。家族は唯事に非らずと救急車を呼んだ。だが、担架に乗った時には、既に意識は不鮮明であったという。
 病院に搬送され、血栓を溶かす薬を投与されたことにより、一時的に意識が回復した。話せないものの、駆けつけた三男を認識し、手をしっかり握り返したそ うだ。家族の「目を開けて!」との呼びかけにも、懸命に反応しようとしたらしい。酸素マスクを厭い、何度つけても外そうとする様、あるいはしきりに毛布を 蹴り上げる様に、三男は、平成二年に他界した父の姿を見たと言う。我が夫は、二度脳梗塞で倒れながら、十八年も生き長らえたのである。
 三男は、病院から出た後、携帯から電話してきた。
「親父の時とそっくりだから大丈夫。どこかに後遺症は残るだろうけど、命には別状ないと想うよ」
 だが、この見立ては間違っていた。実は、搬送直後にMRIなる脳の断層写真を撮った際、担当医師はかなり危険な状態である旨を、嫁に伝えていた。にもか かわらず三男は、嫁から聞いた医師の言葉を勝手に、「最悪の場合」と受け取り、半ば自分の願望を私に伝えたのである。
 日曜日の未明、病院にいた次女から、「だめらしい……」との電話があった。一時帰宅していた嫁からも同じ内容の連絡を受ける。回復を本気で信じていた 私、三男と内嫁は、一時間半後に病院に着いたが、そこで医師から聞かされたのは、「脳死」という言葉であった。
 人工呼吸器を付け、いわゆる延命措置を施すも、丸一週間後の日曜日に長男は逝った。享年六十歳。その日は奇しくも「父の日」であった。
 中小企業ではあるが常務取締役に就き、定年は六十五まで延びた。また、昨年から出身大学である岩手大学の客員教授にも招かれた。大げさに言えば、人生第 二の舞台に上がったところでの急逝である。長男は小山市在住のため、新聞の訃報だけでは、我が息子の死に気づかない他人が多い。葬儀の数日後、知人のお嬢 さんが来られ、「間違いでしたら、申し訳ないのですが……」と、おっしゃられた。私たちも間違いであって欲しいが、事実は認めざるを得ない。

 家族の何気ない素振りにも、ご近所の方々の優しいお言葉にも、私の心は揺れ動く。まさしく腑抜け状態の私である。来る日も来る日も、火の無い炬燵の一辺 に、隠れるようにして横たわっているだけだ。八十四年の長い人生において、最悪の出来事である。逆縁がこれほど苦しいものであろうとは……。

  市内に住む次男一家全員が訪れてきて、慌ただしく中廊下を台所へと抜けてきた。悲しみを一つにするつもりであろう。長男愛好のビールを捧げ、寿司の大皿を 抱えていた。既に私のまなうらは濡れている。今はすべての飲食物が、喉はおろか、口許までも届かないのである。
 食卓で、三歳七か月になる次男の孫、つまり曾孫が腰掛けに寄り添ってきた。無理にダミ声を出し、何やら語り始める。
「大事に育ててあげたんだよね」
 何度も繰り返す。
 その時、次男や私は意味を掴めなかった。だが、一家が帰宅し、私が床について後、次男から三男に電話があった。
〈兄の霊魂が乗り移り、かように言わせたのではなかろうか〉
 曾孫の父(つまり私の孫)とその嫁は、あの場で気づいていたのだが、言って良いものかどうか迷ったらしい。以前から曾孫は何やら霊感が強いとの話を聞い てはいた。確かに、何の脈絡もなく出てきたあの言葉は、そう考えれば納得がいく。
 翌日、次男からの電話の内容を私に伝える際、二男は難儀していた。
「兄は、曾孫の姿を借りて、感謝の気持ちを母に告げようとしたのであろう」
 わずか三十字程度の言葉であるが、伝え切るまでに彼は何度も声を詰まらせる。思い起こせば、集中治療室で白い布に覆われた長男を見た瞬間、三男は号泣し た。
 彼は、長男が脳死状態の間、日に三度、小山市と真岡市を往復したこともあった。それなのに、逝く際には立ち会えなかったのである。彼の話を、私も黙して 聞いていられなかった。長男の幼い日が脳裏を過ぎる。感謝されるほど私は長男を愛したか? もっとしてやれることは無かったか? むしろ、私が彼に感謝す べきではなかろうか? 様々な思いが胸を痛め、いたたまれなくなる。
 周りの皆は、私がしっかりしなければ……と、言ってくださる。有り難いお言葉ではあるが、心の強さを取り戻すまでには、かなりの時間がかかりそうだ。ど れだけの日々を費やせばこの悲しみは薄らぐのであろう。とにかく今は、時の流れの早かれと願うばかりである。



   半年

 漸くにして原稿用紙に手が落ちた。
 来る日も来る日も炬燵に潜り込み、腑抜けのような私である。それは、六月十七日の「長男の突然死」によるものだ。病名は脳血栓であった。享年は六十歳で ある。
 以来六か月の時の流れの中、幼いころの彼の姿が重なり合って、烈しく私に迫ってくる……。
 八十路を鞭打ちながら活き抜くのが、仏への供養ではないかと他人は言う。だが、失礼ながらそんな月並みともいえる言葉は、今の私には通用しない。テレビ に映る長男と同年代の面々が私の涙を誘う。
 毎年十二月二十四日前後に、長男は二つのケーキを携えてやって来た。今年は、クリスマスの近付くのが何とも辛い。
 早く貴重な刻を意義深く過ごさねばと思うのであるが、直ぐさま圧し折れてしまう。心の糧とも言うべき家業(学習塾経営)の事務だけは、間違いのないよう にこなしているが。

 何とはなしに、家族も私の心の琴線に触れまいとしているようだ。そんな思いが伝わってくる。思えば私は家族に迷惑を掛けているのではないか。
 来る日も来る日も食欲はない。

 今日のお昼のお数はまぐろの角煮である。こんもりと小丼に盛られていた。それは、長男の好物であった。
 又しても私の頬を大粒の涙が落ちた。
 悲しみの呪縛からは、当分逃れられそうもない。



   青葉のころ

 連休の前半、三日のことでした。
 膝痛のせいか、何となく物憂い朝です。私は、炬燵の一辺に隠れるように横になり、ゴロリと寝そべっておりました。

 旅にも出ずして、また温泉場にて癒すでもなく、ただ家に居る私を配慮しながら、中廊下を往き来している三男がいます。ちなみに私は、三男夫婦と同居して います。
 その息子が、
「茂木の土地の草刈りをしてくれる方に挨拶に行く」
 と、突然言い出しました。時に出不精であるはずの私が、なぜか、
「自分も……」
 と答え、いつの間にか車中の人となっていました。
 息子の車は、ホンダのS2000という、いわゆるオープンカーです。
「こんな良い天気に屋根を開けない手はない」
 そう言い張る息子のおかげで、爽やかさを超え、すでに強過ぎる日差しを避けるべく、私は大きめのタオルで頬被りする羽目になりました。
 幸いなことに、車の混雑はさほどではないようです。私たちの行く反対方向の上りは、日ごろよりは……と、いう状況でしょうか。
 茂木路の両側に立ちはだかる森や林の若葉の緑は、鶯の啼く声と相まって、瑞々しくさえ覚えます。息子は木々の緑を深緑と、私はそれを新緑と言い合いま す。鶯は、車の騒音にも負けず大声で啼き叫びます。私たちに呼びかけているかのように。
 更なることに、右を向いても左を見ても黄の山吹が笹の葉を覆い、「七重八重、花は咲けども……」と、私の口もとは自ずと綻びます。
 しかしながら、私の真の目的は山の藤でした。息子から茂木ということばを聞いて即、私の脳裏を過ぎったのは、かの薄紫だったのです。
 藤を求めて左右に首を向ける私同様、息子も、同乗者の私を心配させるほど近くの木々を注視しています。
 そして、道路際に突然車を止めました。
「やっぱり、ここにあったか」
 両手で持つ本格的なステンレス製の刈り込み鋏を、トランクから取り出す姿が、ドアミラーに映ります。自信に満ちた後ろ姿を見送り、しばし初夏の澄み切っ た気を楽しんでいると、目の前に鮮やかな紫が差し出されました。一メートルを超えるその枝はトランクに入り、一房のみが車中の花となりました。息子は、水 を入れたペットボトル、ビニール袋、タオル等をあらかじめ用意しており、ビニール袋に入れたタオルを充分に湿らせ、枝の根元に差し込んだようです。
 車中にて私は、幾度その蝶形花を頬に寄せ、戯れたことでしょうか。その間は、「枝を切る」罪悪感を忘れ去っていたのです。
 やがて藤は、薄暗い我が家の玄関にて水を揚げ、紫を濃くしてゆくものと思われます。そして、訪れる方たちの心を和ませてくれることでありましょう。紫に はそんな効能があると、ものの本から知りました。
 帰途、山藤に気を良くし、息子はかつて摘み取った三つ葉を思い起こしたようです。
 自宅と茂木を結ぶ道筋からは大きく外れた場所まで迂回し、にんまりとして再び駐車しました。まだ時期的に早いのでしょうか。一株を摘むのに、たいそう歩 き回っています。
「今日はこれだけだった」
 一度の食事で終わってしまうほどの三つ葉を手に、やや銷沈した面持ちでもどってきました。それでも私は、落ち葉に穴を開け、そこから必死で芽を出してい る三つ葉を見つけ、胸を熱くしています。根ごと掬って、そっとペーパーにくるみました。
 それは、元から枯れ葉に空いていた穴なのでしょうか。はたまた三つ葉の新芽が懸命に空けたものでしょうか。後者であって欲しいと願うのは、私だけではな いでしょう。

 その日、私は朝から血圧が高く、不安な刻を過ごしていました。息子の車に便乗したのは、藁をも掴む思いで「緑」にすがったからなのかもしれません。そし て、山の神は私の期待を裏切りませんでした。日差しは強かったものの、空の青、木々の緑が見事に私を癒してくれたのです。
 帰宅後、血圧は正常に戻っていたのでした。



   齢八十五

 いつの間に重なった馬齢でしょうか。私は五年前に八十路を超えました。七つ上がりの私の同級生には、一つ年上の方もおられます。
 現在、真岡市内にお住まいの女学生時代の同級生は、片方の手で足りるほどの数となってしまいました。真に寂しい限りです。
 時たま懐かしい電話を受けると、七十数年も以前の桜ヶ丘(旧姓真岡女学校)時代の思い出話が尽きません。そして年経るごとに、それを語り合う時の胸の疼 きが強くなるのです。

「あんた、学藝会に『ソルベーグの歌』を独唱するわけだったのが、ボツになったんだよね」
 方言まるだしの友の言葉が、生々しく記憶をよみがえらせます。正にそのとおり、私は歌いこなせなかったのです。
 私たちは、当時先生を「神様」のように仰いでおりました。袴を着けて先生方は、下半身を被うようにしておられました。遠い日のそんなお姿が、次から次へ と浮かんでは消え、いつしか涙が頬を伝わります。

 女学校三年生のころでした。女学校前の堤を下りて、五行の川沿いに出ました。
 菜の花畑は、我が体を染めるほど鮮やかな黄を放っています。
 折りしも夕映えと競い合い、名伏しがたい輝きを見せるのでした。私はその光景の中、独り立ちすくんでおりました。そこに満たされた一種の霊気は、私の生 きざまを変えるようにも思われたのです。

 太平洋戦争が始まる前年のことでした……。それから六十余年、私の人生が変わったのかどうか知る由もありませんが、全く価値のないものとは考えたくはあ りませんし、自分の足跡に何かしら記しては来たろうと、ささやかな矜持はあります。いや、昨今あまり重く見られなくなった年齢自体、心の拠り所となれば、 残り少ない余生を過ごす気概が湧きます。
 七十年来の友が在り、私がその友として在ること、今はそれだけで満足しております。



   梅干し

 梅の花の白や赤が、テレビの画面に華やいでいます。そこには奥床しい梅の香が漂っているようでした。つまりは「梅干し」の話ですが、私は少し眠気をさし ていましたので、いつになくそわそわと画面を追いました。梅を漬け込む季節であり、梅の実や紫蘇が旬でもあるからでしょう。
 私の口腔に、突如として異変が生じました。舌なめずりをしたり、口許をハンカチで押さえたりしています。そして台所へ急ぎ、梅干し入れタッパーの蓋を開 け、一気に三個も食してしまいました。押さえた塩気のせいもありましょうが、己が行動に少々驚きました。
 尾籠な話になりますが、そおっとその種を出して眺めると、奇麗なピンク色をしていました。ちなみにこの梅干しは、昨年我が家にて心して漬けたものです。
「梅干しは毎年漬けるんですよ」
 遠い日、先輩から耳にした言葉です。縁起を気にする私ですので、それを重んじ、毎年怠ることなく続けています。しかし、何とはなしに量は年々減少気味で す。
 ――今年はさに非らず、既に昨日(六月十四日)過分に漬け終えました。
 採れ立ての緑滴る梅の実を一晩水に漬け、濃紫の紫蘇の葉を揉みしぼり、大きな石を乗せ、水の上がりを待ちます。土用干しをするまで……と。
 紫蘇の一回目のしぼり汁を捨て、二回目のそれを使用することにしています。疲れるどころか、嬉しさに安堵の胸をなで下ろしているところです。
 かの梅や紫蘇の葉は、近郷の農協直売所にて安価で買い求めたものです。
 ――昔の梅干しはかなり塩辛く、その面には塩がふき出ていたように覚えます。お茶受けには、こんもりと砂糖を振り掛けました。
 又、お弁当には、必ず真ん中にそれを隠すように入れました。それでもアルミの蓋のその部分に、穴が開くのは常識でした。若い日の懐かしく、忘れ得ぬ思い 出です。
 以前は、お握りに梅干しを種のまま入れたものでした。現在は、肉の部分をちぎって使っています。思えば種を噛みくだき、更なる白い小さな種を子等に与え ました。歯の痛みより、無垢な表情に惹かれたのでありましょう。

 家々の軒下には、平たい笊に並んだ梅の実が干されていました。雨もよいの折には、急ぎ縁側へ取り込みます。往還の両側にも干してあったようでした。たま に一個、二個失敬し、しゃぶったりして……。
 梅干しはおろか、すべてが懐かしく、つい昨日のことのように蘇ってくる今日此の頃であります――。