「e-文藝館=湖(umi)」 小
説
うさみ ひろこ 1940年2月3日
徳島市に生まれる。 日本ペンクラブ会員。 現在名古屋市在住。中部ペンクラブ
理事。眼科病院の事務長を務めている。著書に『秘色』『情念川』など。平
成十年に作品「黒いうさぎ」により日本海文学大賞奨励賞受賞。
掲載作は、「二都文学の会」発行の同人誌「カプリチオ」2004年第19号に初出。
おっぱしょ 宇
佐美 宏子
夕食の後片付けが終わり、寝室に入ると、また母がいた。夫のベッドの端に浅く腰をかけ、私の顔を見て力のない表情でわらう。母は七十六歳、とみに表情
も乏しくなり言葉も出なくなった。
ベッドに横たわりテレビを観ていた夫は、目顔で何も言うなと制した。無視して私は、いつもの言葉を口にする。
「お父ちゃんに叱られるわよ。黙って布団から出てきたのでしょう」
五十をとっくに過ぎた私なのに、父母をお父ちゃんお母ちゃんと呼ぶ。長い間別れて住んでいたから、子ども時代の呼び名しかできないのだ、と自分では思
い、同居してからも何の違和感もなく、お父ちゃん、と呼んでいる。
父と母が、名古屋の我が家に来て今日で十四日になる。テレビも新聞も十八日前の兵庫県南部地震(阪神大震災)のニュースばかりで、今も夫は、私のきょう
だいが住むその地の災害の様子を見入っていた。
一月十七日、父と母はにしのみや西宮に住む長男、即ち私の弟の家で震災に遭ったのだ。
安否を気遣う私たちと電話が通じたのは三日後、弟は用件だけを告げた。家屋の倒壊なし。家族全員無事。そのあと口ごもりながら、当分の間父と母をそちら
で面倒みてくれないか、こちらは電気もガスも水道も止まったままだから、と言い足した。
弟は渋る父を無理に説得して、私の家に来させたのだ。
あんなに来ることを拒んでいた父なのに、私に会うなり、安堵の表情で涙まで浮かべた。開口一番の台詞も長男の家族に対しての 不満で、この仕打ちはま
るでわたしたちを追い払う目的や、と私に自分の立場を説明しようとした。
「わたしは元気やし、皆の手助けぐらいまだまだできる。それなのに追い出された。やっぱりあの家では厄介者だったんやろか」
八十一歳になっても年寄りとして扱われるのを極端にいやがった父を見て、私は苦笑する。父の容姿は、頭皮が見えるほど薄くなった白髪と背を曲げた歩き方
を見ても、老人そのものだったからだ。
我が家に来てからの父は饒舌だった。
「西宮の家は古い社宅やったから、揺れがひどかった。倒壊しなかったことが不思議なくらいや。周辺の街の被害も相当なもんや。余震に街は阿鼻叫喚と化し
ている。今思い出しても震えがくる」
地震の凄さを何度も身振り手振りで語った。
父は、私が知る限り気難しく無口な男で、人の噂とか悪口など言ったことがなかった。まるで人が変わったように、地震の後の長男一家の様子など、同じ話を
二度三度と不満いっぱいの顔で語る。
「地震の後すぐ食料を確保せなあかんと、一人で飛び出し、長い行列に並んでやっとの思いで食べ物を買うてきた。そやのに、長男と嫁に散々おこられた。ど
こへ行っていたのか、勝手に出歩くな、と頭ごなしに言われて、そのくせわたしが買うてきたパンは嫁に取られ、わたしたちの口にはなんにも入らへんかった。
お金はわたしが出したのに」
私は思わず口を挟んだ。
「地震のあとだから、みんな心配したのよ」
父は向きになって言い募った。食料品を買いに行くとはっきり言って出た。それなのに皆がわたしを責める、と。
そんな欲な父ではなかっただけに私は戸惑い、長男一家と上手くいっていなかっただろう生活を、想像していただけに胸重く、黙って聞くより他になかった。
父は、震災のニュースを観て、一つひとつ私に報告した。ボランティアの人々の話から、復興の様子まで、こと細かく話すのだ。そして最後には嬉々とした表
情で言うのだった。
「あんな凄惨な破壊は見たことない。復興は何年も先やな。ガスや水道が出るようになるのに何か月もかかるやろ」
「もう神戸の一部では、電気は点くようになったとニュースで聞いたわよ」
父の顔を真っ直ぐ見て意地悪く言う。
「絶対ほんなことはない。ほんなに早く復興出来るわけない」
それはまるで元の場所に帰りたくない、と言っているように私には聞こえ、苦笑しながら、それでもそのつど揶揄めいて言う。
「ここには帰って来たくなかったんでしょう。それなのにお父ちゃん、西宮が復興するのを拒んでいるみたい」
父は何も言わず、困った表情のままテレビを見続けた。
父の早寝はいつからだろうか。私は今回同居するようになって初めて知った。風呂は夕食前に済ませ、食事が済むとテレビも観ず布団に入る。真っ直ぐに仰臥
し、すぐ軽い寝息をたて、ほとんど動かずに眠る。病気ひとつしたこともなく、病院にかかったこともなく、風邪薬さえ飲んだことがない、と健康なことを自慢
にしている父だった。早寝早起きが父の健康の秘訣かも知れない、と思い、今まで両親の生活などそれほど真剣に考えたことはなかったと、後ろめたい気持ちが
心の隅に、引っ掛かった。
母は父とは逆に寝つきが悪く、朝寝を好んだ。父が眠ると布団を抜け出して私たちの寝室に来る。だが神経質な父は気配に鋭く、その都度気付き、母を連れ戻
しに来て、嫌がる母をきつく叱るのだった。
「おまえ何しよん。娘の寝室に入ったらあかんといつもゆうとるだろ」
父は強い徳島訛りで言い、平手で母の背中を二つほど叩き、それほど強い力でもないのに、母は大げさに怯え、夫に助けを求めた。
二月四日の昼前、東京に住む母の甥夫婦が、震災のお見舞いに来た。
甥は父も母も無事だったことを喜び、酒好きだった父と久しぶりに飲み交わし、酒宴は夕方まで続いた。
最後に阿波踊りとなった。甥夫婦も父も徳島出身で、若い時には踊りの名手であった。手拍子口拍子のお囃子で、私も一緒に踊った。
甥は陽気で話上手なうえに母のお気に入りでもあって、いつもは無表情な母が、不思議に笑顔を見せたのだ。
父は酒と阿波踊りがよほど楽しかったのか、何度も私に話しかける。
「生きとるってええな。長生きはせなあかんな。震災で死なんで、ほんまによかった」
夕方私が甥夫婦を名古屋駅まで送り、帰ってくると、父は風呂上りの顔を火照らせ、嬉しくて堪らない様子で、阿波踊りのお囃子を、リズムに乗せて口ずさんで
いた。
「瓢箪ばかりが浮くものか。私の心も浮いてきた。えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、よいよいよいよい」
夕食は簡単なものがいいと、お茶漬けと海苔の佃煮、漬物ですませた。食後も興奮気味の父はお喋りが尽きず、いつもより遅く九時半ごろ、いやがる母を父が
背中を押すようにして、寝所にいった。
私は両親に付いて部屋までいく。二人が布団に入ったのを見届けてから、夕食の後片付けのため台所に戻った。片付けといっても、食器洗い機に並べるだけだ
から、十分ほどで終わった。
母はあれからすぐ、布団を抜け出して来たのだろうか。夫のベッドで、布団の端を指で揉みながら、時々夫に甘える素振りまでしていた。
しばらく父を待ったが来なくて、私は母を強引に寝所に連れて行こうとした。十時半を過ぎていた。初めは拒んでいた母も何度か説得するうち、渋々立ち上が
る。それでもなかなか動こうとはしない。私は思わず父がするように背中を一つぽんと叩いた。
驚いた表情の母に私はきつく言う。
「さっさと寝なさい。お父ちゃんに言いつけるわよ」
我が家に一つだけある和室は、普段は客用として使っている。ここ数日父母が寝起きしているだけなのに、今までとは違った異質な匂いがして一瞬小さく息を
止める。嫌というのではない。これからの家族としての共有する時間の重み、のようなものが胸を塞ぎ、かすかな緊張感を覚えるのだ。
豆球だけが灯った和室は薄暗く、緩くつけたエアコンの音が空気を僅かに揺るがせていた。
自分の布団の上に立った母はそれでも横になろうとはせず、無理にガウンを脱がせ、押し付けるようにして布団に入れた。
ふと父が気になった。気配に敏感な父が、動きもせず静かだったからだ。枕元で、お父ちゃんと呼んでみる。父は布団から片手を出し、手のひらを上に、指を
柔らかく開いている。
「お父ちゃん」
私の声が高くなる。急いで電灯を点ける。
二、三度呼んだが、父は穏やかに目を瞑り、眠っているとしか思えない状態のまま、だが返事はかえって来なかった。
私は襲ってくる胸の騒ぎを鎮めようと大きく一つ息をして、父を真上から見た。
明るい電灯の下で見た父の顔は、目のくぼみが深く暗く、それが普段とあまり変わらなかったにもかかわらず、脳が一瞬痺れたようになり、胸の奥から湧き出し
た得体の知れないかたまりが膨らんできて、息が苦しくなった。
私は恐怖に駆られ大声で夫を呼んだ。
夫は冷静だった。手で体温を測り脈を取り、私に眼科用の懐中電灯を持ってくるよう指示して、瞳孔の開き具合を調べ、首を横にゆっくり振った。
「息が切れたのは布団に入ってすぐだろう。多分九時三十分ごろ。呼吸が止まってすぐなら何とか手の施しようもあるのだが。もう瞳孔も開いているし、時間
が経ちすぎている。お母さんは知っていたのかなあ」
父と同じ布団に身を横たえていた母は、いつの間にか部屋の隅にきちんと座り、ぼんやりした眼差しで、パジャマの袖をしきりに引っ張っている。夫は母を刺激
しないためか、ことさら優しい声で問いかけた。
「さっきお母さん、わたしたちの寝室に来たのは、お父さんの異変を知らせるためなの? 」
母は虚ろな視線を、しばらくの間不思議そうに夫に向けていたが、返事はなく、そのうち泣き顔とも笑い顔とも判別しがたいような顔をして、自分の布団に、
子どもが入るような仕種で入った。
私は夫としばらくの間無言で視線を合わせていた。父の死が信じられなかった。現実を受け止めかねていた。
夫は眼科の開業医で、我が家に父と母が来たその日に、まず二人の簡単な身体検査をしていた。持病も病歴もなく血圧も正常な二人を前にして、夫は笑顔で
言ったものだ。長生きできますよ。特にお父さんは、と。
救急車を呼び、父を日赤病院に搬送した。夫が付き添った。
私はきょうだい親戚に電話した。父が死んだと言っても、皆一様に信用せず、説明に窮した。一番訝ったのは、昼間父と酒を酌み交わした母の甥だった。つい
何時間か前まで一緒に阿波踊りを踊った男の死が、よほど信じられなかったのだろう。電話口で絶句した。
私の二人の子どもたちも同じだった。旅行中だった大学生の娘も、結婚をして他県で暮らしている息子も、何故どうしてと繰り返した。八十を過ぎた父だった
が、自分と妻の身の回りのことをすべてしていたし、しゃきしゃきとよく動いていた。そして何よりも今回の大地震で生きて我が家に来たのだった。
私は親類縁者に、同じ話を繰り返し電話しながら、不思議な感覚に襲われていることに気付いた。ひょっとしてこの状況を今私は楽しんでいるのか、と。
父の部屋の電灯を点けた瞬間、粟立つ恐怖が私のからだを駆け巡ったのは本当だ。まだ父に触ってなくても、死が分かったというか、覚悟したような気がす
る。一瞬にして父の周囲の空気が教えてくれたのか、それとも早や父の周辺に充満していた死の匂いだったか。そのときは確かにからだ中の細胞が一度に悲鳴を
あげたような恐怖で、その場に竦んでしまったのだった、が。
夫が死を確認し、首を横に振った途端、私の恐怖は波が引くように消えていた。そのあとの感情は自分自身信じられないくらい静かだった。悲しみとか戸惑い
もなく、むしろ血縁というものからの解放感とか、父のこれからの生活を思い至っての安堵感のようなものがこみ上げてきて、何度も大きくからだ全体で息をし
たのだ。涙は少しも湧いてこなかった。むしろこれから始まるイベントへの好奇心が胸の中いっぱいに広がり、これは葬儀という名の祭りへの昂揚か、と訝り、
ともすれば笑みさえ浮かんでくる感情を持て余した。そしてその一方で、父が我が家で息を引き取ったことの意味を、しきりに考えてしまうのだった。
二年と少し前、父と母はそれまで二人で住んでいた徳島から名古屋の我が家に来た。
父は国鉄を定年退職し、次の職場に日本交通公社を選んだ。名古屋に来るほんの少し前まで勤めていたから、父の律儀さとか生真面目さが、職場では重宝がら
れていたのだと思う。国鉄時代もいち早く旅行クラブを作り、一年の大半を国内旅行に明け暮れていた父だったから、団体旅行の顧客を大勢つかんでいたのだろ
う。
交通公社退職後の父の生活はほとんど知らない。
私は、高校を卒業すると同時に何度も家を出ていた。大阪へデザイナーの勉強に行き、すぐ挫折して舞い戻ったこともあった。男と東京へ駆け落ちしたのはは
たち二十歳のころで、結局その男とは別れることになるのだが、父に勘当同然の扱いを受けていた。両親にすれば世間体の悪い親不孝な娘だったのだ。
父との諍いが元で、名古屋で生活する決心をしたときには、現在の夫と再婚をしていたし、子どもは二人になっていた。名古屋で住んでからは、きょうだいと
もほとんど行き来がない。両親の生活の様子などどこからも伝わっては来なかった。
私のきょうだいは三人で私は長女。父は、私と行き来はなくても、正月にはにしのみや西宮の長男の家族と過ごし、帰り神戸の次女の家に寄って徳島に帰る、
という生活を何度か繰り返していたはずだ。
母と久しぶりに会ったことがあった。父が私と和解をしようとしていたのか、和解の真似事だったのか。父がチケットも宿も手配してくれて、母と私と妹で京
都南座の顔見世を観た。その夜は京都の老舗旅館に泊まり、お互いの近況を話し合った。初めての体験だった。
母の様子が少し変だと気付いたのは、どれほど経ってからだろうか。旅館に着いてその後すぐだったと記憶しているのだが。
私の知っている母は父には従順で、私が時には腹立たしく思うほど、父に逆らったことがなかった。自分の周囲の人たちや子どもたちにも優しく、親類の人々
には一目置かれるほど聡明で、その反面お喋りでもあり陽気な女でもあった。
いま目の前に坐っている母は、表情があまりにも暗すぎた。父のことを尋ねても軽く受け流すだけで、話に乗ってこない。私と妹をほとんど無視して、自分の
鞄や身の回りばかり整理している。終わればまた初めから、何度も何度も同じ事を繰り返している。もともと整理整頓が大好きな母だったから、初めのうちは違
和感なくその様子を見ていた。だが時間が経つにつれて異常に思え始めたのだ。このとき母は七十三歳、まだ私には若いと思える年齢だった。
「お母ちゃん少しおかしい。あなたの眼からみてどう思う」
私は妹に聞いてみた。妹の同意がなければ自信がないほどそれは微妙で、他人には気付かれないほどの変化だった。
妹もやはり気付いていた。ただ口にできなかったのだろう。私の問いに、老人性痴呆の始まりかなあ、と顔を曇らせた。
後日私は西宮の弟に散々嫌味を言われた。自分の母を痴呆扱いにするなんて、と。だが父には分かっていたのだろう。その後、母のことは口には出さなかった
が、二人だけで生活するのは限界だ、というような内容の電話がかかってきた。神戸にも西宮にもこのことは話した、と言ったが、その言い方は三人が気付かな
いふりが出来るくらい遠まわしな言いかたで、私は、はっきり言わない父をじれったく歯軋りする思いだった。
父は昔気質の人間だ。その上多少の偏屈で、あまりにも高い矜持を持っていた。長男と同居するのが当然と思っていながら、自分からは言い出さない。子ども
の口から一緒に住もうと言ってくれるのを待つ男だ。
父にとっての不幸は長男も父に似て同じ気質の男だったということだ。長男は言う、親父のほうから同居したいと言わない限り、自分から一緒に住もうとは言
えない。社宅住まいの今の生活では、と。
結局気の短い私が口を滑らせる。
「うちでよかったらどうぞ。亭主も賛成してくれているから」
私の夫は次男だったし、見るに見かねて夫の方から手を差し伸べてくれたのだった。
京都の顔見世から十ヵ月後、両親は徳島の家と土地をすべて処分して、名古屋の私の家へ来た。
父と長男の性格が似ていると思っていたが、私まで同じだったと一緒に住むようになってから知った。その上私は病的なまでに几帳面で、母と同じ整理整頓好
き、父の手洗いやうがいにまで注文をつけるほどで、これも同居するに当たっては邪魔なだけだった。
父は、名古屋に来てから落ち着かなく絶えずおどおどしていた。私の知っている父は姿を消し、いつもお世辞笑いをして、孫にまで媚びへつらう。すまんな、
と口癖のように言い、いっぱい家の中の仕事をするけん、ほんまに何でもするけん、とうるさいほど言う。その都度私は堪らない苛立たしさに襲われて、もっと
堂々としていて、ぺこぺこしないで、と胸の内で思い、いや、時には口に出し、仕事を探して家の中をうろうろする父に、うんざりするのだった。
父の気持ちを推し量ると、嫁いだ娘の世話になっているのが屈辱だったし、長男が何も言ってこないのもまた耐えられない立場だったようだ。
私は以前からだったが、父と同居するようになってますます長男である弟とは疎遠になった。たまに電話がかかってきても、話の最後には喧嘩になる。それも
弟はかならず酩酊状態で電話してくるから始末が悪かった。
仕事をしたがる父だったが、家事一切は不器用で、台所では邪魔な存在だった。経理一筋に生きてきた男は、家の中では何もすることがなく、所在無げにテレ
ビを観ているしか能がなかった。
「お父ちゃん、単行本でも全集でも何か読んだら。それともエッセイでも書く? 」
父は若いころ、それも母と結婚する前、徳島新聞社が公募した懸賞小説で大賞をとり、新聞に掲載された、という経歴があった。だがこのことは母も父から聞
かされただけで、事実は誰も知らなかった。自称文学青年だったという男にしては、私が知る限り、週刊誌以外の本を読んでいる姿を見たこともなければ、文学
の話を聞いたこともない。勤め人だった頃の父は、麻雀とパチンコだけに興じて、それ以外の趣味を持たない人だったはずだ。
父と違って母は、子どもたちに薦められた作家の本を読んだり、短歌に興味を示したりと、好奇心旺盛だった。だが父はそんな母を認めようとはせず、わたし
は短歌も俳句も卒業した、いや見極めた、と豪語し、そんな父に誰も逆らうこともせず、わら哂うことすらも出来ないでいたのだ。父には冗談とかユーモアは通
じず、皆の尊敬の眼差しと褒め言葉しか受け付けない威厳があった。
父は随筆集を出したい、と折に触れていい、自分で作った冊子を持っていた。嬉しそうに私に見せたのも一度や二度ではなかった。その冊子の一枚目は自分の
名前だけが書いてあり、私は質問した。
「これ題名? 」
「まず自分の名前の由来から書かないかん。次は花にまつわる思い出を書くけん」
確かに次の頁には一頁にひとつずつ桜とか菖蒲とか、花の名前が書いてある。だが題名だけで後は空白なのだ。
「書いたら見せてね」
私は絶対空白は埋まらないだろうと思いながらも、父が気に入る言葉を言い添えるのだった。
父が見せた冊子は相当古いものだ。紙は黄ばんでいたし折り皺もあった。ずっと持ち歩いていたのかと思い、それでも一行も書けない男の哀れさに、ため息が
出た。
私が高校生の頃、母に軽蔑をこめて言ったことがある。
「お父ちゃん、ほんとうはこの本棚の全集一冊も読んでないんやろ」
狭い官舎の部屋に置かれた文学全集は、父がボーナスで買ったものだ。何年か前、これを購入したしたときの母の愚痴を私は忘れてはいない。母は、父のいな
いときに何度か私に言った。子どもの服の着替え一枚でも欲しいときに、読みもしないこんな高価な本並べて、情けない人や、と。だがそのときの私の質問に母
は苦笑混じりに答えた。
「真面目だけが取り得の人やから。少々の見栄っ張りはしょうがないわ」
母の本音はその両方だったのだ。
父が自慢する新聞社の入選作品が本当だったかどうか、子どもの頃は疑いもしなかったこのことを、疑問に思いだしたのは私が成人してからだった。だからと
いって積極的に調べようとしたことはない。いつだったか徳島に誰かの法事で行ったとき、徳島新聞社に立ち寄って聞いただけだ。
その昔父が懸賞小説で大賞をとった、その新聞を捜している。小説の題は『波』昭和十二、三年、のことだと思う、と少ない記憶を頼って、係りの若い男性に
話した。
徳島新聞はそのころ徳島毎日新聞といっていたという。社にはその頃の新聞はほとんど残っていません、とまず言われた。徳島市の市街地は太平洋戦争で爆撃
をうけ、全焼に近い打撃をうけた。新聞社も跡形なく焼かれていた。政治、経済、事件などの重要な記事は、編成し残してあるが、文芸欄は残っていないはず、
市立図書館での保管資料を閲覧したほうがいいのでは、と親切にアドバイスをしてくれた。
だがこのとき、時間がなかったのも原因だが、何故かもうどうでもいいような気持ちになって、そのまま今に至っている。
父の遺体が日赤病院から帰ってきたのは、三時間ほどあとだった。葬儀屋の車から降ろされた父は、やはり眠っているみたいに、いやいまにも不満を言いたそ
うな顔だった。
死亡診断書には『死亡時刻二十一時三十八分。死因不明』とあった。
「不明って、なに? 心臓麻痺とか脳溢血とか、なにか死因があると思うけど」
私は首を傾げた。
「病歴もなく、簡単な診察では原因は分からないらしい」
「解剖はしないの」
「事件性がないからね。どうしても死因は? といえば、地震関連死かな。葬儀屋の話では、兵庫県南部地震のあとだからその心労と解釈され、地震関連死と
して名古屋市の斎場の許可書を取った、と説明をうけたから」
私は思わず、地震関連死、と言葉に出していた。
名古屋での同居が破綻した原因の一端はやはり長男が関連していた。
一年ほど父母との同居生活が続き、初秋の風が吹き始めた頃、騒動は起こった。
夫の父親はもうすでに他界し、母親が一人で郷里の松山で暮らしている。盆に帰れなかったから、せめてお彼岸には帰ろうという話になり、では私の両親をど
うするかの問題になった。
父は、留守番ぐらい出来る、大丈夫だ、と繰り返し言うが、食事のことから、電気器具ひとつ使いこなせないのだった。風呂も、自動ですべて操作する簡単な
ものなのに、ボタンのどれを押していいか分からない。ウオシュレットのトイレで何度水を溢れさせたことか。
私は父に提案した。
「三日ほどだから、その間西宮の長男のところへ遊びに行ってくれないかなあ」
父の顔色は一瞬に変わった。眉間に青筋を立て、眼が異様に鋭くなる。子どもの頃から私が、いや家族全員が怯えた父の顔だった。
「出て行けというんやな」
「そんなこと言ってないでしょ。たまには長男の家にも遊びに行ってよ。お互い何を遠慮しているの」
「来いと言われもせんのに、行けん」
「じゃあ電話をして、遊びに行くと言えばいいのよ」
父は肩を震わせ、この家から追い出す気や、と言い募り、どんな説明も受け付けない。もともと会話の出来る男ではなかった。自分が思い込むと、相手の言い
分など一切聞かないのだ。
私が子どもの頃なら、ここで泣いて謝り、謝ったにもかかわらず、そのあと何週間も父は不機嫌で、家族のだれにも口をきかなかった。その頃家族間で通じる
言葉に、無視のお仕置き、というのがあったが、それが始まるのだ。だが今は違った。私は父よりも大声で、父の言葉に被せて言う。
「二、三日遊びに行きたい、とどうして長男に言えないの。それより本当はおまえと住みたい、とどうして言えないのよ」
両手で耳を押さえて首を振り、その場にうつ伏した父に私は容赦なく胸にわだかまっていたものを投げつけた。
翌朝私が起きると、父と母はもういなくて、新聞の広告の裏に書いた置手紙があった。お世話になりました。荷物は後日取りに来ます、とただそれだけの、震
えるような字が残されていた。
両親は直接長男の家には行かず、神戸の次女の家に行き、次女夫婦が間に入って、西宮に落ち着くのだが、私は釈然としないものを抱えて苛立ち、そのくせ、
自分の取った行動に遣り切れなさを感じて、過ごした。
家出の原因は何か、と訊かれても、言葉に窮する。何故父が、顔色を変えてまで遊びに行くことを拒否したのか。拒否しながら何故長男を頼ったのか。父が私
と同居するにあたり、私が想像している以上に、父と長男との間に心の葛藤があったのだろうか、と考え、せめて私の家に居たときぐらい、父の胸のうちを話し
て欲しかった、と意思の疎通のない家族の在りように、歯がゆくて胸かきむしる思いだった。
長男の家に身を寄せても、両親の気持ちは穏やかではなかった、と思う。
七、八ヵ月経って、妹が電話で知らせてきた。両親が家に来るから、神戸まで出て来ないか、と言う。私が、家出のように我が家を出た父の仕打ちを、ずっと
気にかけていたから、妹が取り計らってくれたのだ。
両親は一回り小さくなっていた。特に母は言葉をほとんど失って、何を言っても薄く笑うだけだった。特に固有名詞は一切口にせず、私が私自身を指差し、私
は誰? 名前を言って、と問いかけても、口をもぐもぐしただけで、横を向いてしまうのだった。
私は父に会うと直ぐ意地悪く質問する。
「うちより快適でしょう、西宮は? 」
「会話もない毎日や。誰も挨拶さえしてくれへん。自分たちにあてがわれた部屋から出るのも遠慮があって、トイレへ行くのさえ気がねせなあかん」
「私のようにいちいちうるさく言われるよりいいのと違うの。お父ちゃんの望んでいた生活じゃないの」
父は子どもがいやいやをするように頭を振り、搾り出すような声を出した。
「わたしには徳がないんかなあ。この歳になって、なんでこんな肩身の狭い毎日を送らなあかんのやろか」
「自分が選択した場所でしょう。また名古屋に帰る。それとも老人ホームにでも入りますか」
私の言葉には充分すぎる棘があった。父は父の性格上、一旦長男に世話になっていながら、いまさら名古屋に帰ることなど、絶対許されないことであり、世間
体もあり、老人ホームなど持っての外だった。それを承知で私はわざと口に出す。
この日夕方、三宮に出て皆で食事をした。
お酒が入ると私の言葉がいつもより鋭くなる。またしても父を怒らせ、怒らせたことで私は傷つき、結局前以上に胸に澱を抱え持って、別れた。
私はその後、私自身が楽になりたいばかりに、父の境遇を自業自得だと突き放すように、考えた。父が呻くように言った、わたしには徳がないのだろうか、と
いう言葉も、気の小さい律儀なだけの男に徳などあるはずがない、と決めつけた。母が、老人性痴呆というより失語症のようになったのも、父がいつも一方的に
喋り、母の意見など聞こうともせず、母の言葉を否定するか、無視する、まったく会話の成立しない夫婦関係だったからだと、思わずにはいられない。
二月五日通夜、六日葬儀告別式と決まり、明け方近くまで葬儀屋と打ち合わせた。
途中、母が気になり二度ほど寝所を覗く。父のいない広い布団に母はゆったりと手足を伸ばし、軽いいびきをかいて寝ている。父の死をどこまで分かっている
のだろうか、母の態度からは何も見えてこない。
父が西宮の長男のところに行くと決め、自分たちの荷物を運び出すため、一度名古屋に帰ってきたとき、母は私に救いの眼差しで訴えた。わたしはここがい
い、ここに居たいと。母の声は、血を吐くのかと思わせるような、振り絞る声で、それも母の声とも思えないような濁声だった。久しく聞かなかった母の声に私
は驚き、傍にいた父を振り返る。父は聞こえないふりをした。私は、仕方ないでしょ、お母ちゃん一人では残れないのだから、と言い、からだ全身を震わせてい
る母を、冷やかに見ていた。
一年と少しで今帰ってきて、母はうっすらと笑うだけしか自分を表現できなくなり、その笑顔さえ泣き顔のようだ。そんな母でも優しい人は分かるのだろう
か、私の夫がいるかぎり、傍を離れようとはしない。幼児に返ったみたいに夫の膝に坐ろうとして、その都度父に叩かれていた。
父が寝ていた枕元に眼鏡が置いてあった。几帳面な父らしく、きちんと眼鏡ケースに入れてある。取り上げようとして、布団の下から少し出ているノートらし
きものを見つけた。
瞬間あの冊子だと分かった。題名だけが書かれた父の随筆集。繰っていくと、題名は以前より多くなっていた。
『長男と私』という頁では苦笑を洩らす。何が書きたかったのか、と思うより、この問題からもう離れたかった。
頁の中ほどに『おっぱしょ石』という題を見つけた。私のからだの中を、鄙びた懐かしさがゆっくりと流れる。おっぱしょ、と何度もつぶやき、気がつくと涙が
頬を伝っていた。
おっぱしょ、とは徳島の昔の方言で、背負ってくれ、という意味らしい。だが私の時代にはもうこの方言は使われてはいなくて、父から教わったときには、変
な言葉として大笑いしたものだ。
気難しい父でもたまには家族と解け合ったこともあった。
父は上機嫌のとき、子どもたちに阿波の民話を話した。『鳴門の金長狸』の勢力争いや『おっぱしょ石』の武勇伝など、父の阿波踊りに次いでの十八番だっ
た。
『おっぱしょ石』とはたわいない話だ。
昔、深夜に男が橋を渡ろうとすると、橋の真ん中に女がうずくまって、泣いている。女はか細い声ですがりつくように、おっぱしょ、という。
見ればその辺りにはいないような美人で、男は女を背負う。だが歩くごとに重くなり、気がつくと背中の女は大きな石になっていた。
ある力士が、噂を聞きつけてやってきた。妖怪を退治してやる、と。
力士が橋にさしかかるとやはり女が、おっぱしょ、という。力士は女を背負い、負ぶった瞬間掛け声とともに放り投げた。大きな音とともに橋のたもとに大石が
落ち、その石は半分に割れた。それ以来おっぱしょ、と泣く女はいなくなった。
「さこ佐古の橋のたもとにあるひびの入った石、あれがこの話のおっぱしょ石や」
と、父は付け加える。
その後がまた大変だった。父は道化て、おっぱしょ、おっぱしょ、と背負う真似をして、部屋中歩く。丁度腰を落として踊る阿波踊りの男踊りように、足の運
びを上手く調子に乗せた。三人の子どもも、我先にと父を真似て、おっぱしょ遊びに興じた。
私の脳裡に、父のそのときの姿が浮かぶ。父の頑な気難しさに翻弄され続けていた晩年だけに、道化た父があまりにもそぐわなくて、胸を痛くする。
父が書こうとしていたのは、おっぱしょ石の昔話だろうか。それとも子どもたちと遊んだあの昔日の温かい時間なのか。
ふとここに母がいないことに気付いた。
おっぱしょ遊びに母はいつも参加していなかった。
和服仕立てを内職にしていた母は、私たちに背を向けて、針を動かしていた。休むことなどなかったのだ。
まさか父が『おっぱしょ石』という題で、一心に仕事をしていた母の心情を書くとも思えず、書いても民話しか書けないだろうと想像し、それすらも書いていな
い哀れさに、大きく息をついた。
母が寝返りを打つ。徳島時代も名古屋の私の家で過ごしたときも、黒く染めていた頭髪だったが、今は自然に白くなり、ふんわりと優しく顔にかかっている。
髪の量もたっぷりあり、深い皺もなくきれいな肌をしている。あどけない寝顔だと思った瞬間、父の少し曲がった背が唐突に浮かんだ。
もしかしたら、おっぱしょ、という言葉は、父の晩年の願望だったのか。
『もう疲れました、歩くことが出来ません。おっぱしょ、おっぱしょ』
冊子を閉じる。手に力が入って指先が震えていた。そこにはおっぱしょ石を背負って投げた私がいた。民話のなかの力士のように。
父は割れたのだ。父の死因は頭部破裂。いや内臓破裂。決して不明なんかではない。
葬式の日は寒かった。ここ二、三日の暖かさが嘘のように北風が冷たかった。
斎場は、我が家のすぐ近くにある寺に決めた。
桜や梅の木があるこの寺は父のお気に入りの散歩コースで、四、五日前にも両親と一緒に来た場所だ。その時は紅梅が一輪咲いているだけだったが、暖かい日
差しは父を喜ばせるには充分で、満足そうに梅の匂いを嗅ぎ、私を振り返って、そのくせ呟くように言ったのだ。
「こんなに静かな威厳のあるお寺で、葬式が
できたら本望やろうなあ」
父に死の予感めいたものはなかったと思う。
ただ単純に思いついた感想を言っただけだと、そう思える。だが父はしばらく寺を仰ぎ見て、その場を離れようとはしなかった。
父と見た紅梅は三分咲きほどに増えていて、
寒風に震えていた。
式は滞りなく進んでいく。僧侶の読経が続き、私は母が心配で時々後ろを振り返る。
母は喪服に着替えるのさえ嫌がった。結局普段着で、離れようとはしない夫の横に坐らせていた。寒さに弱い母のため、真後ろに石油ストーブを置き、肩には
ショールを羽織って、ちょこんと小さな塊になっている。だが少し暑くなりすぎたのか、手の甲でしきりに額を拭いていた。
「正彦さんストーブ……」
凛とした母の声だった。正彦とは私の夫、その名前を母ははっきりと呼んだのだ。
「ストーブを少し離して欲しいのか? 」
驚きの表情を見せながらも、夫はストーブを移動する。私たちはお互い顔を見合わせた。座のなかに漣のようなささやきが流れる。まさか母の口から固有名詞
が出てくるなんて。
母はその後、何もなかったように、ぼんやりと焦点の定まらない目を泳がせ、今までと変わりなくじっと坐っていた。
読経の間中、私は落ち着かなかった。一度も考えたこともなかった疑惑が、胸の中を駆け巡る。母はもしかして正常ではないのか。
何かの理由で口を閉ざしているだけではないか。
父と母が使っていた和室が、脳裡に浮かんだ。
四日の夜、一緒に布団に入った父と母。すぐその後父は息を引き取る。異変に気付いた母は、何食わぬ顔をして私たちの寝室に来る。母は知っていた。二人そ
ろって眠っていたら、私が三十分後には様子を見に行くことを。三十分では早すぎる。もう少し時間が欲しい。
あれは出来るだけ時間を稼ぐための母の演技だったのか。母の罠に私たちは嵌ったのだろうか。では父の死は……。
読経は続き、いつの間にか外は風花が舞っていた。
(了)