招待席

たにざき じゅんいちろう 小説家 1886.7.24 - 1965.7.30 東京日本橋に生まれる。 文化勲章 日本藝術院会員  掲載作は、「改造」大正九年一月号に 発表、画期的な探偵推理小説の名品として後の江戸川乱歩らを感嘆せしめ、我が国推理小説の確立へ乱歩らの奮然決起を促した名作として、文学史的にも極めて 貴重。  谷崎の大正期は熱い溶鉱炉であった。その中には演劇・戯曲・映画・シナリオそして多くの推理小説も投じられ、而も一丸となり谷崎の人生と文学の追究に資 したのであって、今日の推理作家達のものする単に推理小説のための推理小説とは、厳しく一線を画している。 大正五年のエッセイ『親となりて』以降、有名 な小田原事件を経て、大正最末年の『痴人の愛』及び昭和二年の名作『蓼喰ふ蟲』に到る、まさにそれへ必然の「途上」として此の作は在った。さらにいえば、 世間を驚愕せしめた昭和五年の「細君譲渡」へも正確に繋がれていた「途上」であった。これらの経緯と必然とについては、私の長篇論攷『神と玩具との間 昭 和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち』その他の谷崎論をぜひ参照されたい。 (秦 恒平)





      途  上   谷崎潤一郎




東京T・M抹式會社員法学士湯河勝太郎が、十二月も押し詰まつた或る日の夕暮の五時頃に、金杉橋の電車通りを新橋の方へぶらぶら散歩して居る時であつた。
「もし、もし、失禮ですがあなたは湯河さんぢやございませんか。」
ちやうど彼が橋を年分以上渡つた時分に、かう云つて後ろから聲をかけた者があつた。湯河は振り返つた、───すると其處に、彼には嘗て面識のない、しかし 風采の立派な一人の紳士が慇懃に山高帽を取つて禮をしながら、彼の前へ進んで來たのである。
「さうです、私は湯河ですが、………」
湯河はちよつと、その持ち前の好人物らしい狼狽へ方で小さな眼をパチパチやらせた。さうしてさながら彼の會社の重役に對する時の如くおどおどした態度で云 つた。なぜなら、その紳士は全く會社の重役に似た堂々たる人柄だつたので、彼は一と目見た瞬間に、「往來で物を云ひかける無禮な奴」と云ふ感情を忽ち何處 へか引込めてしまつて、我知らず月給取りの根性をサラケ出したのである。紳士は猟虎の襟の附いた、西班牙犬の毛のやうに房々した黒い玉羅紗の外套を纏つ て、(外套の下には大方モーニングを着て居
るのだらうと推定される)縞のヅボンを穿いて、象牙のノツブのあるステツキを衝いた、色の白い、四十恰好の太つた男だつた。
「いや、突然こんな所でお呼び止めして失禮だとは存じましたが、わたくしは實は斯う云ふ者で、あなたの友人の渡邊法学士───
あの方の紹介状を戴いて、たつた今會社の方へお尋ねしたところでした。」
紳士は斯う云つて二枚の名刺を渡した。湯河はそれを受け取つて街燈の明りの下へ出して見た。一枚の方は紛れもなく彼の親友渡邊の名刺である。名刺の上には 渡邊の手でこんな文句が認めてある、───「友人安藤一郎氏を御紹介する右は小生の同縣人にて小生とは年来親しくして居る人なり君の會杜に勤めつゝある某 社員の身元に就いて調べたい事項があるさうだから御面會の上宜敷数御取計ひを乞ふ」───もう一枚の名刺を見ると、「私立探偵安藤一郎 事務所 日本橋區 蠣殻町三丁目四番地 電話浪花五〇一〇番」と記してある。
「ではあなたは、安藤さんと仰つしやるので、───」
湯河は其處に立つて、改めて紳士の様子をじろじろ眺めた。「私立探偵」───日本には珍しい此の職業が、東京にも五六軒出來たことは知つて居たけれど、實 際に會ふのは今日が始めてゞある。それにしても日本の私立探偵は西洋のよりも風采が立派なやうだ、と、彼は思つた。湯河は活動寫眞が好きだつたので、西洋 のそれにはたびたびフイルムでお目に懸つて居たから。
「さうです、わたくしが安藤です。で、その名刺に書いてありますやうな要件に就いて、幸ひあなたが會社の人事課の方に勤めておいでの事を伺つたものですか ら、それで只今會社へお尋ねして御面會を願つた譯なのです。いかゞでせう、御多忙のところを甚だ恐縮ですが、少しお暇を割いて下さる譯には参りますまい か。」
紳士は、彼の職業にふさはしい、カのある、メタリックな聲でテキバキと語つた。
「なに、もう暇なんですから僕の方はいつでも差支へはありません、………」
と、湯河は探偵と聞いてから「わたくし」を「僕」に取り換へて話した。
「僕で分ることなら、御希望に従つて何なりとお答へしませう。しかし其の御用件は非常にお急ぎの事でせうか、若しお急ぎでなかつたら明日では如何でせう か? 今日でも差支へはない譯ですが、斯うして往來で話をするのも變ですから、───」
「いや、御尤もですが明日からは會社の方もお休みでせうし、わざわざお宅へお伺ひするほどの要件でもないのですから、御迷惑でも少し此の邊を散歩しながら 話して戴きませう。それにあなたは、いつも斯うやつて散歩なさるのがお好きぢやありませんか。はゝゝ。」
と云つて、紳士は軽く笑つた。それは政治家氣取りの男などがよく使ふ豪快な笑ひ方だつた。
湯河は明かに困つた顔つきをした。と云ふのは、彼のポツケツトには今しがた會社から貰つて來た月給と年末賞與とが忍ばせてあつた。その金は彼としては少か らぬ額だつたので、彼は私かに今夜の自分自身を幸福に感じて居た。此れから銀座へでも行つて、此の間からせびられて居た妻の手套と肩掛とを買つて、───あのハイカラな彼女の顔に似合 ふやうなどつしりした毛皮の奴を買つて、
───さうして 早く家へ歸つて彼女を喜ばせてやらう、───そんなこと を思ひながら歩いて居る矢先だつたのである。彼は此の安藤と云ふ見ず知らずの人間のため爲めに、突然樂しい空想を破られたばかりでなく、今夜の折角の幸福 にひゞを入れられたやうな氣がした。それはいゝとしても、人が散歩好 きのことを知つて居て、會社から追つ駈けて來るなんて、何ぼ探偵でも厭な奴だ、どうして此の男は己の顔を知つて居たんだらう、さう考へると不愉快だつた。 おまけに彼は腹も減つて居た。
「どうでせう、お手間は取らせない積りですが少し附き合って戴けますまいか。私の方は、或る個人の身元に就いて立ち入つたことをお伺ひしたいのですから、 却て會社でお目に懸るよりも往来の方が都合がいゝのです。」
「さうですか、ぢや兎に角御一緒に其處まで行きませう。」
湯河は仕方なしに紳士と並んで又新橋の方へ歩き出した。紳士の云ふところにも理窟はあるし、それに、明日になつて探偵の名刺を持つて家へ尋ねて來れるのも 迷惑だと云ふ事に、気が付いたからである。
歩き出すと直ぐに、紳士───探偵はボツケツトから葉巻を出して吸ひ始めた。が、ものゝ一町も行く間、彼はさうして葉巻を吸つて居るばかりだつた。湯河が 馬鹿にされたやうな気持でイライラして來たことは云ふまでもない。
「で、その御用件と云ふのを伺ひませう。僕の方の社員の身元と仰つしやると誰の事でせうか。僕で分ることなら何でもお答へする積りですが、───」
「無論あなたならお分りになるだらうと思ひます。」
紳士はまた二三分黙つて葉巻を吸つた。
「多分何でせうな、其の男が結婚するとでも云ふので身元をお調べになるのでせうな。」
「えゝさうなんです、御推察の通りです。」
「僕は人事課に居るので、よくそんなのがやつて來ますよ。一體誰ですか其の男は?」
湯河はせめて其の事に興味を感じようとするらしく好奇心を誘ひながら云つた。
「さあ、誰と云つて、さう仰つしやられるとちよつと申しにくい譯ですが、その人と云ふのは實はあなたですよ。あなたの身元調べを頼まれて居るんですよ。こ んな事は人から間接に聞くよりも、直接あなたに打つかつた方が早いと思つたもんですから、それでお尋ねするのですがね。」
「僕はしかし、───あなたは御存知ないかも知れませんが、もう結婚した男ですよ。何かお間違ひぢやないでせうか。」
「いや、間違ひぢやありません。あなたに奥様がおあんなさることは私も知つて居ます。けれどもあなたは、まだ法律上結婚の手續きを濟ましてはいらつしやら ないでせう。さうして近いうちに、出来るなら一日も早く、その手續きを濟ましたいと考へていらつしやることも事實でせう。」
「あゝさうですか、分りました。するとあなたは僕の家内の實家の方から、身元調べを頼まれた譯なんですね。」
「誰に頼まれたかと云ふ事は、私の職責上申し上げにくいのです。あなたにも大凡そお心當りがおありでせうから、どうか其の點は見逃して戴きたうございま す。」
「えゝよござんすとも、そんな事はちつとも構ひません。僕自身の事なら何でも僕に聞いて下さい。間接に調べられるよりは其の方が僕も氣持がよござんすか ら。───
僕はあなたが、さう云ふ方法を取って下すつた 事を感謝します。」
「はゝ、感謝して戴いては痛み入りますな。
───僕はい つでも(と、紳士も「僕」を使ひ出しながら)結婚の身元調べなんぞには此の方法を取つて居るんです。相手が相当の人格のあり地位のある場合には、實際直接 に打つかった方が間違ひがないんです。それにどうしても本人に聞かなけりや分らない問題もありますからな。」
「さうですよ、さうですとも!」
と、湯河は嬉しさうに賛成した。彼はいつの間にか機嫌を直して居たのである。
「のみならず、僕はあなたの結婚問題には少からず同情を寄せて居ります。」
紳士は、湯河の嬉しさうな顔をチラと見て、笑ひながら言葉を續けた。
「あなたの方へ奥様の籍をお入れなさるのには、奥様と奥様の御實家とが一日も早く和解なさらなけりやいけませんな。でなければ奥様が二十五歳におなりにな るまで、もう三四年待たなけりやなりません。しかし、和解なさるには奥様よりも實はあなたを先方へ理解させることが必要なのです。それが何よりも肝心なの です。で、僕も出來るだけ御盡カはしますが、あなたもまあ其の爲めと思つて、僕の質問に腹蔵なく答へて戴きませう。」
「えゝ、そりやよく分つて居ます。ですから何卒御遠慮なく、
───
「そこでと、
───あなたは渡邊君と同期に御在學だつた さうですから、大學をお出になつたのはたしか大正二年になりますな?───先づ此の事からお尋ねしませう。」
「さうです、大正二年の卒業です。さうして卒業すると直ぐに今のT・M會社へ這入つたのです。」
「左様、卒業なさると直ぐ、今のT・M會社へお這入りになつた。
───それは承知して居ますが、あなたがあの先の奥様と御結婚なすつたのは、あれはいつでしたかな。あれは何でも、會社へお這入りになる と同時だつたやうに思ひますが───
「えゝさうですよ、會社へ這入つたのが九月でしてね、明くる月の十月に結婚しました。」
「大正二年の十月と、
───(さう云ひながら紳士は右の 手を指折り數へて、)するとちやうど満五年半ばかり御同棲なすつた譯ですね。先の奥様がチブスでお亡くなりになつたのは、大正八年の四月だつた筈ですか ら。」
「えゝ」
と云つたが、湯川は不思議な氣がした。「此の男は己を間接には調べないと云つて置きながら、いろいろの事を調べてゐる。」
───で、彼は再び不愉快な顔つきになつた。
「あなたは先の奥さんを大そう愛していらしつたさうですね。」
「えゝ愛して居ました。
───しかし、それだからと云つ て今度の妻を同じ程度に愛しないと云ふ譯ぢやありません。亡くなつた當座は勿論未練もありましたけれど、その未練は幸ひにして癒やし難いものではなかつた のです。今度の妻がそれを癒やしてくれたのです。だから僕は其の點から云つても、是非とも久満子と、───久満子と云ふのは今の妻の名前です。御斷りするまでもなくあなたは疾うに御承知のことゝ思ひますが、───正式に結婚しなければならない義務を感じて居ります。」
「イヤ御尤もで、」
と、紳士は彼の熱心な口調を軽く受け流しながら、
「僕は先の奥さんのお名前も知つて居ります。筆子さんと仰つしやるのでせう。
───それからまた、筆子さんが大變病身なお方で、チブスでお亡くなりになる前にも、たびたびお患ひなすつた事を承知して居ります。」
「驚きましたな、どうも。さすが御職掌柄で何もかも御存知ですな。そんなに知つていらつしやるならもうお調べになるところはなさゝうですよ。」
「あはゝゝゝ、さう仰つしやられると恐縮です。何分此れで飯を食つて居るんですから、まあそんなにイヂメないで下さい。
───で、あの筆子さんの御病身の事に就いてゞすが、あの方はチブスをおやりにな る前に一度パラチブスをおやりになりましたね、………斯うツと、それはたしか大正六年の秋、十月頃でした。可なり重いパラチブスで、なかなか熱が下らなか つたので、あなたが非常に御心配なすつたと云ふ事を聞いて居ります。それから其の明くる年、大正七年になつて、正月に風を引いて五六日寝ていらしつたこと があるでせう。」
「あゝさうさう、そんなこともありましたつけ。」
「その次には又、七月に一度と、八月に二度と、夏のうちは誰にでも有りがちな腹下しをなさいましたな。此の三度の腹下しのうちで、二度は極く軽微なもので したからお休みになるほどではなかつたやうですが、一度は少し重くつて一日二日伏せつていらしつた。すると、今度は秋になつて例の流行性感冒がはやり出し て來て、筆子さんはそれに二度もお罹りになつた。即ち十月に一編軽いのをやつて、二度目は明くる年の大正八年の正月のことでしたらう。その時は肺炎を併發 して危篤な御容儀だつたと聞いて居ります。その肺炎がやつとの事で全快すると、二た月も立たないうちにチブスでお亡くなりになつたのです。
───さうでせうな? 僕の云ふことに多分間違ひはありますまいな?」
「えゝ」
と云つたきり湯河は下を向いて何か知ら考へ始めた、
───二 人はもう新橋を渡つて歳晩の銀座通りを歩いて居たのである。
「全く先の奥さんはお気の毒でした。亡くなられる前後半年ばかりと云ふものは、死ぬやうな大患ひを二度もなすつたばかりでなく、其の間に又膽を冷やすやう な危険な目にもチヨイチヨイお會ひでしたからな。
───あ の、窒息事件があつたのはいつ頃でしたらうか?」
さう云つても湯河が黙つて居るので、紳士は獨りで頷きながらしやべり續けた。
「あれは斯うツと、奥さんの肺炎がすつかりよくなつて、二三日うちに床上げをなさらうと云ふ時分、
───病室の瓦斯ストーブから間違ひが起つたのだから何でも寒い時分ですな、二月の末のことでしたらうかな、瓦斯の栓が弛んで居たので、 夜中に奥さんがもう少しで窒息なさらうとしたのは。しかし好い鹽梅に大事に至らなかつたものゝ、あの爲めに奥さんの床上げが二三日延びたことは事實です な。───さうです、さうです、それからまだこんな事も あつたぢやありませんか、奥さんが乗合自動車で新橋から須田町へおいでになる途中で、その自動車が電車と衝突して、すんでの事で………」
「ちよつと、ちよつとお待ち下さい。僕は先からあなたの探偵眼には少からず敬服して居ますが、−體何の必要があつて、いかなる方法でそんな事をお調べにな つたのでせう。」
「いや、別に必要があつた譯ぢやないんですがね、僕はどうも探偵癖があり過ぎるもんだから、つい餘計な事まで調べ上げて人を驚かして見たくなるんですよ。 自分でも惡い癖だと思つて居ますが、なかなか止められないんです。今直きに本題へ這入りますから、まあもう少し辛抱して聞いて下さい。
───で、あの時奥さんは、自動車の窓が壊れたので、ガラスの破片で額へ怪我をな さいましたね。」
「さうです。しかし筆子は割りに呑気な女でしたから、そんなにビツクリしても居ませんでしたよ。それに、怪我と云つてもほんの擦り傷でしたから。」
「ですが、あの衝突事件に就いては、僕が思ふのにあなたも多少責任がある譯です。」
「なぜ?」
「なぜと云つて、奥さんが乗合自動車へお乗りになつたのは、あなたが電車へ乗るな、乗合自動車で行けとお云ひつけになつたからでせう。」
「そりや云ひつけました
───かも知れません。僕はそん な細々した事までハツキリ覚えては居ませんが、成る程さう云ひつけたやうにも思ひます。さう、さう、たしかにさう云つたでせう。それは斯う云ふ譯だつたん です、何しろ筆子は二度も流行性感冒をやつた後でしたらう、さうして其の時分、人ごみの電車に乗るのは最も感冒に感染し易いと云ふ事が、新聞なぞに出て居 る時分でしたらう、だから僕の考では、電車より乗合自動車の方が危険が少いと思つたんです。それで決して電車へは乗るなと、固く云ひつけた譯なんです、ま さか筆子の乗つた自動車が、運惡く衝突しようとは思ひませんからね。僕に貴任なんかある筈はありませんよ。筆子だつてそんな事は思ひもしなかつたし、僕の 忠告を感謝して居るくらゐでした。」
「勿論筆子さんは常にあなたの親切を感謝しておいでゞした、亡くなられる最後まで感謝しておいでゞした。けれども僕は、あの自動車事件だけはあなたに責任 があると思ひますね。そりやあなたは奥さんの御病気の爲めを考へてさうしろと仰つしやつたでせう。それはきつとさうに違ひありません。にも拘らず、僕はや はりあなたに責任があると思ひますね。」
「なぜ?」
「お分りにならなければ説明しませう、
───あなたは 今、まさかあの自動車が衝突しようとは思はなかつたと仰つしやつたやうです。しかし奥様が自動車へお乗りになつたのはあの日一日だけではありませんな。あ の時分、奥さんは大患ひをなすつた後で、まだ醫者に見て貰ふ必要があつて、一日置きに芝ロのお宅から萬世橋の病院まで通つていらしつた。それも一と月くら ゐ通はなければならない事は最初から分つて居た。さうして其の間はいつも乗合自動車へお乗りになつた。衝突事故があつたのはつまり其の期間の
出来事です。よござんすかね。ところでもう一つ注意すべきことは、あの時分はちやうど乗合自動車が始まり立てゞ、衝突事故が屡々あつたのです。衝突しやし ないかと云ふ心配は、少し神経質の人には可なりあつたのです。
───ちよつとお斷り申して置きますが、あなたは神経質の人です、───そのあなたがあなたの最愛の奥さんを、あれほどたびたびあの自動車へお乗せになると云ふ事は少くとも、あなたに似合はない不注意ぢ やないでせうか。一日置きに一と月の間あれで往復するとなれば、その人は三十會囘衝突
の危険に曝されることになります。」
「あはゝゝゝゝ、其處へ氣が付かれるとはあなたも僕に劣らない神経質ですな。成る程、さう仰つしやられると、僕はあの時分のことをだんだん思ひ出して來ま したが、僕もあの時満更それに氣が付かなくはなかつたのです。けれども僕は斯う考へたのです。自動車に於ける衝突の危険と、電車に於ける感冒傳染の危険 と、
方がプロパビリティーが多いか。それから又、假り に危険のプロパビリティーが両方同じだとして、が餘計生命に危険であるか。此の問題を考へて見て、結局乗合自動車の方がより安全だと思つたのです。なぜかと云ふと、今あなたの仰 つしやつた通り月に三十囘往復するとして、若し電車に乗れば其の三十臺の電車のれにも、必ず感冒の黴菌が居ると思はなければなりません。あの時分は流行の絶頂期でしたからさう見るのが至當だつたのです。既に黴 菌が居るとなれば、其處で感染するのは偶然ではありません。然るに自 動車の事故の方は此れは全く偶然の禍です。無論どの自動車にも衝突の ポシビリティーはありますが、しかし始めから禍が歴然と存在して居る場合とは違ひますからな。次には斯う云ふ事も私には云はれます。筆子は二度も流行性感 冒に罹つて居ます、此れは彼女が普通の人よりもそれに罹り體質を持つて居る證據です。だから電車へ乗れば、彼女は多勢の乗客の内でも危険を受ける可く擇ば れた一人とならなければなりません。自動車の場合には乗客の感ずる危険は平等です。のみならず僕は危険の程度に就いても斯う考へました、彼女が若し、三度 目に流行性感冒に罹つたとしたら、必ず又肺炎を起すに違ひないし、さうなると今度こそ助からないだらう。一度肺炎をやつたものは再び肺炎に罹り易いと云ふ 事を聞いても居ましたし、おまけに彼女は病後の衰弱から十分恢復し切らずに居た時ですから、僕の此の心配は杞憂ではなかつたのです。ところが衝突の方は、 衝突したから死ぬと極まつてやしませんからな。よくよく不運な場合でなけりや大怪我をすると云ふ事もないし、大怪我がもとで命を取られるやうな事はめつた にありやしませんからな。さうして僕の此の考はやはり間違つては居なかつたのです。御覧なさい、筆子は往復三十囘の間に一度衝突に會ひましたけれど、僅か に擦り傷だけで濟んだぢやありませんか。」
「成る程、あなたの仰つしやることは唯それだけ伺つて居れば理窟が通つて居ます。何處にも切り込む隙がないやうに聞えます。が、あなたが只今仰つしやらな かつた部分のうちに、實は見逃してはならないことがあるのです。と云ふのは、今のその電車と自動車との危険の可能率の問題ですな、自動車の方が電車よりも 危険の率が少い、また危険があつても其の程度が軽い、さうして乗客が平等にその危険性を負擔する、此れがあなたの御意見だつたやうですが、少くともあなた の奥様の場合には、自動車に乗つても電車と同じく危険に對して擇ばれた一人であつたと、僕は思ふのです。決して外の乗客と平等に危険に曝されては居なかつた筈です。つまり、自動車が衝突した場合に、あ なたの奥様は誰よりも先に、且恐らくは誰よりも重い負傷を受けるべき運命の下に置かれていらしつた。此の事をあなたは見逃してはなりません。」
「どうしてさう云ふ事になるでせう? 僕には分りかねますがね。」
「はゝあ、お分りにならない? どうも不思議ですな。───しかしあなたは、あの時分筆子さんに斯う云ふ事を仰つしやいましたな、乗合自動車へ乗る時はい つも成る可く一番前の方へ乗れ、それが最も安全な方法だと
───
「さうです、その安全と云ふ意味は斯うだつたのです、
───
「いや、お待ちなさい、あなたの安全と云ふ意味は斯うだつたでせう、
───自動車の中にだつて矢張いくらか感冒の黴菌が居る。で、それを吸はないやうにするには、成るべく風上の方に居るがいゝと云ふ埋窟で せう。すると乗合自動車だつて、電車ほど人がこんでは居ないにしても、感冒傳染の危険が絶無ではない譯ですな。あなたは先この事實を忘れておいでのやうで したな。それからあなたは今の理窟に附け加へて、乗合自動車は前の方へ乗る方が震動が少い、奥さんはまだ病後の疲労が脱け切らないのだから、成
るべく體を震動させない方がいゝ。
───此の二つの理由 を以て、あなたは奥さんに前へ乗ることをお勧めなすつたのです。勧めたと云ふよりは寧ろ厳しくお云ひつけになつたのです。奥さんはあんな正直な方で、あな たの親切を無にしては惡いと考へていらしつたから、出來るだけ命令通りになさらうと心がけておいでゞした。そこで、あなたのお言葉は着々と實行されて居ま した.」
「……………」
「よござんすかね、あなたは乗合自動車の場合に於ける感冒傳染の危険と云ふものを、最初は勘定に入れていらつしやらなかった。いらつしやらなかつたにも拘 らず、それを。口實にして前の方へお乗せになつた、
───こゝ に一つの矛盾があります。さうしてもう一つの矛盾は、最初勘定に入れて置いた衝突の危険の方は、その時になつて全く閑却されてしまつたことです。乗合自動 車の一番前の方へ乗る、───衝突の場合を考へたら、此 のくらゐ危険なことはないでせう、其處に席を占めた人は、その危険に對して結局擇ばれた一人になる譯です。だから御覧なさい、あの時怪我をしたのは奥様だ けだつたぢやありませんか、あんな、ほんのちよつとした衝突でも、外 のお客は無事だつたのに奥様だけは擦り傷をなすつた。あれがもつとひどい衝突だつたら、外のお客が擦り傷をして奥様だけが.重傷を負ひます。更にひどかつ た場合には、外のお客が重傷を負つて奥様だけが命を取られます。───衝突と云ふ事は、仰つしやる迄もなく偶然に違ひあ りません。しかし其の偶然が起つた場合に、怪我をすると云ふ事は、奥様の場合には偶 然でなく必然です。」
二人は京橋を渡つた、が、紳士も湯河も、自分たちが今何處を歩いて居るかをまるで忘れてしまつたかのやうに、一人は熱心に語りつゝ一人は黙つて耳を傾け つゝ眞直ぐに歩いて行つた。
───
「ですからあなたは、或る一定の偶然の危険の中へ奥様を置き、さうし て其の偶然の範囲内での必然の危険の中へ、更に奥様を追ひ込んだと云 ふ結果になります。此れは単純な偶然の危険とは意味が違ひます。さう なると果して電車より安全かどうか分らなくなります。第一、あの時分の奥様は二度目の流行性感冒から直つたばかりの時だつたのです、従つて其の病気に対す る免疫性を持つて居られたと考へるのが至當ではないでせうか。僕に云はせれば、あの時の奥様には絶對に感染の危険はなかつたのでした。擇ばれた一人であつ ても、それは安全な方へ擇ばれて居たのでした。一度肺炎に罹つたものがもう一度罹り易いと云ふ事は、或る期間を置いての話です。」
「しかしですね、その免疫性と云ふ事も僕は知らないぢやなかったんですが、何しろ十月に一度罹つて又正月にやつたんでせう。すると免疫性もあまりアテにな らないと思つたもんですから、………」
「十月と正月との間には二た月の期間があります。ところがあの時の奥様はまだ完全に直り切らないで咳をしていらしつたのです。人から移されるよりは人に移 す方の側だつたのです。」
「それからですね、今お話の衝突の危険と云ふこともですね、既に衝突その物が非常に偶然な場合なんですから、その範囲内での必然と云つて見たところが、極く極く稀な事ぢやないでせうか。偶然の中の必然と単純な必然とは矢張意味が違ひますよ。況んや其の必然なるものが、必然怪我をすると云ふだけの事で、必然命を取られると云ふ事にはならないのですからね。」
「けれども、偶然ひどい衝突があつた場合には必然命を取られると云ふ 事は云へませうな。」
「えゝ云へるでせう、ですがそんな論理的遊戯をやつたつて詰まらないぢやありませんか。」
「あはゝゝ、論理的遊戯ですか、僕は此れが好きだもんですから、ウツカリ圖に乗つて深入りをし過ぎたんです、イヤ失禮しました。もう直き本題に這入ります よ。
───で、這入る前に、今の論理的遊戯の方を片附け てしまひませう。あなたゞつて、僕をお笑ひなさるけれど實はなかなか論理がお好きのやうでもあるし、此の方面では或は僕の先輩かも知れないくらゐだから、 満更興味のない事ではなからうと思ふんです。そこで、今の偶然と必然の研究ですな、あれを或る一個の人間の心理と結び付ける時に、茲(こゝ)に新たなる問 題が生じる、論理が最早や単純な論理でなくなつて來ると云ふ事に、あなたはお氣付きにならないでせうか。」
「さあ、大分むづかしくなつて來ましたな。」
「なにむづかしくも何ともありません。或る人間の心理と云つたのはつまり犯罪心理を云ふのです。或る人が或る人を間接な方法で誰にも知らせずに殺さうとす る。
───殺すと云ふ言葉が穏當でないなら、死に至らし めようとして居る。さうして其の爲めに、その人を成るべく多くの危険へ露出させる。その場合に、その人は自分の意圖を悟らせない爲めにも、又相手の人を其 處へ知らず識らず導く爲めにも、偶然の危険を擇ぶより外仕方がありません。しかし其の偶然の中に、ちよいとは目に付かない或る必然が含まれて居るとすれ ば、猶更お誂へ向きだと云ふ譯です。で、あなたが奥さんを乗合自動車へお乗せになつた事は、たまたま其の場合と外形に於いて一致しては居ないでせうか? 僕は『外形に於いて』と云ひます、ど うか感情を害しないで下さい。無論あなたにそんな意圖があつたとは云ひませんが、あなたにしてもさう云ふ人間の心理はお分りになるでせうな。」
「あなたは御職掌柄妙なことをお考へになりますね。外形に於いて一致して居るかどうか、あなたの御判断にお任せするより仕方がありませんが、しかしたつた 一と月の間、
三十囘自動車で往復させたゞけで、その間に 人の命が奪へると思つて居る人間があつたら、それは馬鹿か氣違ひでせう。そんな頼りにならない偶然を頼りにする奴もないでせう。」
「さうです、たつた三十囘自動車へ乗せたゞけなら、其の偶然が命中す る機會は少いと云へます。けれどもいろいろな方面からいろいろな危険を捜し出して來て、其の人の上へ偶然を幾つも幾つも積み重ねる、
───さうするとつまり、命中率が幾層倍にも殖えて來る譯です。無数の偶然的危険が寄り集って一個の焦點を作って居る中へ、その人を引き入れるやうに する。さうなつた場合には、もう其の人の蒙る危険は偶然でなく、必然になつて來るのです。」
───と仰つしやると、たとへばどう云ふ風にするのでせう?」
「たとへばですね、こゝに一人の男があつて其の妻を殺さう、
───死に至らしめようと考へて居る。然るに其の妻は生れつき心臓が弱い。───此の心臓が弱いと云ふ事實の中には、既に偶然的危険の種子が含まれて居ます。で、その危険を増大させる爲めに、ますます心臓を惡くするやうな條件を彼女に與へる。たとへば 其の男は妻に飲酒の習慣を附けさせようと思つて、酒を飲むことをすゝめました。最初は葡萄酒を寝しなに一杯づゝ飲むことをすゝめる、その一杯をだんだんに 殖やして食後には必ず飲むやうにさせる、斯うして次第にアルコールの味を覚えさせました。しかし彼女はもともと酒を嗜む傾向のない女だつたので、夫が望む ほどの酒飲みにはなれませんでした。そこで夫は、第二の手段として煙草をすゝめました。『女だつて其のく らゐな樂しみがなけりや仕様がない』さう云つて、舶来のいゝ香ひのする煙草を買つて來ては彼女に吸はせました。ところが此の計畫は立派に成功して、一と月 ほどのうちに、彼女はほんたうの喫煙家になつてしまつたのです。もう止さうと思つても止せなくなつてしまつたのです。次に夫は、心臓の弱い者には冷水浴が 有害である事を聞き込んで來て、それを彼女にやらせました。『お前は風を引き易い體質だから、毎朝怠らず冷水浴をやるがいゝ』と、其の男は親切らしく妻に 云つたのです。心の底から夫を信頼して居る妻は直ちに其の通り實行しました。さうして、それらの爲めに自分の心臓がいよいよ惡くなるのを知らずに居ました。ですがそれだけでは夫の計畫が十分に遂行されたとは云へません。彼女の心臓をそんなに惡くして置いて から、今度は其の心臓に打撃を與へるのです。つまり、成るべく高い熱の續くやうな病気、───チブスとか肺炎とかに罹り易いやうな状態へ、彼女を置くのですな。其の男が最初に擇んだのはチブスでした。彼は其の目的で、チブス 菌の居さうなものを頻りに細君に喰べさせました。「亜米利加人は食事の時に生水を飲む、水をベスト・ドリンクだと云つて賞美する』などゝ稱して、細君に生 水を飲ませる。刺身を喰はせる。それから、生の牡蠣と心太(ところてん)にはチブス菌が多い事を知つて、それを喰はせる。勿論細君にすゝめる爲めには夫自 身もさうしなければなりませんでしたが、実は以前にチブスをやつたことがあるので、免疫性になつて居たんです。夫の此の計畫は、彼の希望通りの結果を齎し はしませんでしたが、殆ど七分通りは成功しかゝつたのです。と云ふのは、細君はチブスにはなりませんでしたけれども、パラチブスにかゝりました。さうして 一週間も高い熱に苦しめられました。が、パラチブスの死亡は一割内外に過ぎませんから、幸か不幸か心臓の弱い細君は助かりました。夫はその七分通りの成功 に勢ひを得て、其の後も相變らず生物を喰べさせることを怠らずに居たので、細君は夏になると屡々下痢を起しました。夫は其の度毎にハラハラしながら成り行 きを見て居ましたけれど、生憎にも彼の注文するチブスには容易に罹らなかったのです。するとやがて、夫の爲めには願つてもない機會が到來したのです。それ は一昨年の秋から翌年の冬へかけての惡性感冒の流行でした。夫は此の時期に於いてどうしても彼女を感冒に取り憑かせようとたくらんだのです。十月早々、彼 女は果してそれに罹りました、───なぜ罹つたかと云ふ と、彼女は其の時分、咽喉を惡くして居たからです。夫は感冒豫防の嗽ひをしろと云つて、わざと度の強い過酸化水素水を拵へて、それで始終彼女に嗽ひをさせ て居ました。その爲めに彼女は咽喉カタールを起して居たのです。のみならず、ちやうど其の時に親戚の伯母が感冒に罹つたので、夫は彼女を再三其處へ見舞ひ にやりました。彼女は五度び目に見舞ひに行つて、歸つて來ると直ぐに熱を出したのです。しかし、幸ひにして其の時も助かりました。さうして正月になつて、 今度は更に重いのに
罹つてとうとう肺炎を起したのです。………」
かう云ひながら、探偵はちよつと不思議な事をやつた、
───持つて居た葉巻の次灰をトントンと叩き落すやうな風に見せて、彼は湯河の手頸の邊を二三度輕く小突いたのである、───何か無言の裡に注意をでも促すやうな工合に。それから、恰(あだかも二人は 日本橋の橋手前まで來て居たのだが、探偵は村井銀行の先を
右へ曲つて、中央郵便局の方角へ歩き出した。無論湯河も彼に喰着いて行かなければならなかつた。
「此の二度目の感冒にも、矢張夫の細工がありました。」
と、探偵は紙けた。
「その時分に、細君の實家の子供が激烈な感胃に罹つて神田のS病院へ入院することになりました。すると夫は頼まれもしないのに細君を其の子供の附添人にさ せたのです。それは斯う云ふ理窟からでした、
───『今 度の風は移り易いからめつたな者を附き添はせることは出來ない。私の 家内は此の間感冒をやつたばかりで免疫になつて居るから、附添人には最も適當だ。』───さう云つたので、細君も成る程と思つて子供の看護をして居るうちに、再び感冒を背負ひ込んだのです。さうして細君の肺炎は可なり重 態で
した。幾度も危険のことがありました。今度こそ夫の計略は十二分に効を奏しかゝつたのです。夫は彼女の枕許で彼女が夫の不注意から斯う云ふ大患になつたこ とを詫りましたが、細君は夫を恨まうともせず、何處までも生前の愛情を感謝しつゝ静かに死んで行きさうに見えました。けれども、もう少しと云ふところで今 度も細君は助かつてしまつたのです。夫の心になつて見れば、九仞の功を一簣にかいた、
───とでも云ふべきでせう。そこで、夫は又工夫を擬らしました。これは病氣ばかりではいけない、病氣以外の災難にも遇はせなければいけ ない、───さう考へたので、彼は先づ細君の病室にある 瓦斯ストオブを利用しました。その時分細君は大分よくなつて居たから、もう看護婦も附いては居ませんでしたが、まだ一週間ぐらゐは夫と別の部屋に寝て居る 必要があつたのです。で、夫は或る時偶然にかう云ふ事を發見しまし た。───細君は、夜眠りに就く時は火の用心を慮つて瓦 斯ストオブを消して寝る事。瓦斯ストオブの栓は、病室から廊下へ出る閾際にある事。細君は夜中に一度便所へ行く習憤があり、さうして其の時には必ず其の閾 際を通る事。閾際を通る時に、細君は長い寝間着の裾をぞろぞろと引き擦つて歩くので、その裾が五度に三度までは必ず瓦斯の栓に觸る事。若し瓦斯の栓がもう 少し弱かつたら、裾が觸つた場合に其れが弛むに違ひない事。病室は日本間ではあつたけれども、建具がシツカリして居て隙間から風が洩らないやうになつてゐ る事。───偶然にも、基盤にはそれだけの危険の種子が準備きれて居ました。茲に於いて夫 は、その偶然必然に導くにはほんの僅かの手数を加へればいゝと云ふ事に氣が付きました。それ は即ち瓦斯の栓をもつと緩くして置く事です。彼は或る日、細君が晝寝をして居る時にこつそりと其の栓へ油を差して其處を滑かにして置きました。彼の此の行 動は、極めて秘密の裡に行はれた筈だつたのですが、不幸にして彼は自分が知らない間にそれを人に見られて居たのです。───見たのは其の時分彼の家に使はれて居た女中でした。此の女中は、細君が嫁に 來た時に細君の里から附いて來た者で、非常に細君思ひの、氣轉の利く女だつたのです。まあそんな事はどうでもよござんすがね、───
探偵と湯河とは中央郵便局の前から兜橋を渡り、鎧橋を渡つた。二人はいつの間にか水天宮前の電車通りを歩いて居たのである。
───で、今度も夫は七分通り成功して、殘りの三分で 失敗しました。細君は危く瓦斯の爲めに窒息しかゝつたのですが、大事に至らないうちに眼を覚まして、夜中に大騒ぎになつたのです。どうして瓦斯が洩れたの か、原因は間もなく分りましたけれど、それは細君自身の不注意と云ふ事になつたのです。其の次に夫が擇んだのは乗合自動車です。此れは先もお話したやう に、細君が醫者へ通ふのを利用したので、彼はあらゆる機會を利用する事を忘れませんでした。そこで自動車も亦不成功に終つた時に、更に新しい機會を掴みま した。彼に其の機會を與へた者は醫者だつたのです。醫者は細君の病後保養の爲めに轉地する事をすゝめたのです。何處か空気のいゝ處へ一と月ほど行つて居る やうに、───そんな勧告があつたので、夫は細君に斯う 云ひました、『お前は始終患つてばかり居るのだから、一と月や二た月轉地するよりもい つそ家中でもつと空氣のいゝ處へ引越すことにしよう。さうかと云つて、あまり遠くへ越す譯にも行かないから、大森邊へ家を持つたらどうだら う。彼處なら海も近いし、己が會社へ通ふのにも都合がいゝから。』此の意見に細君は直ぐ賛成しました。あなたは御存知かどうか知りませんが、大森は大そう 飲み水の惡い土地ださうですな、さうして其のせゐか傳染病が絶えない さうですな、───殊にチブスが。───まり其の男は災難の方が駄目だつたので再び病気を狙ひ始めたのです。で、 大森へ越してからは一層猛烈に生水や生物を細君に與へました。相變らず冷水浴を勵行させ喫煙をすゝめても居ました。それから、彼は庭を手入れして樹木を澤 山に植ゑ込み、池を掘って水溜りを拵へ、又便所の位置が惡いと云つて其れを西日の當るやうな方角に向き變へました。此れは家の中に蚊と蝿とを發生させる手 段だつたのです。いやまだあります、彼の知人のうちにチブス患者が出来ると、彼は自分は免疫だからと稱して屡々其處へ見舞ひに行き、たまには細君にも行か せました。かうして彼は氣長に結果を待つて居る筈でしたが、此の計略は思ひの外早く、越してからやつと一と月も立たないうちに、且今度こそ十分に効を奏し したのです。彼が或る友人のチブスを見舞ひに行つてから間もなく、其處には又どんな陰險な手段が弄されたか知れませんが、細君は其の病氣に罹りました。さ うして遂に其の爲めに死んだのです。───どうですか、 此れはあなたの場合に、外形だけはそつくり當てはまりはしませんか ね。」
「えゝ、
───そ、そりや外形だけは───
「あはゝゝゝ、さうです、今迄のところでは外形だけはです。あなたは 先の奥さんを愛していらしつた、兎も角外形だけは愛していらしつた。 しかし其れと同時に、あなたはもう二三年も前から先の奥様には内證で今の奥様を愛していらしつた。外形以上に愛していらしつた。すると、今迄の事實に此の事が加つて來ると、先の 場合があなたに當てはまる程度は単に外形だけではなくなつて來ますな
───
二人は水天宮の電車通りから右へ曲つた狭い横町を歩いて居た。横町の左側に「私立探偵」と書いた大きな看板を掲げた事務所風の家があつた。ガラス戸の篏つ た二階にも階下にも明りが煌々と燈つて居た。其處の前まで來ると、探偵は「あはゝゝゝ」と大聲で笑ひ出した。
「あはゝゝゝ、もういけませんよ。もうお隠しなすつてもいけませんよ。あなたは先から顫へていらつしやるぢやありませんか。先の奥様のお父様が今夜僕の家 であなたを待つて居るんです。まあそんなに怯えないでも大丈夫ですよ。ちよつと此處へお這入んなさい。」
彼は突然湯河の手頸を掴んでぐいと肩でドーアを押しながら明るい家の 中へ引き擦り込んだ。電燈に照らされた湯河の顔は眞青だつた。彼は喪心したやうにぐらぐらとよろめいて其處にある椅子の上に臀餅をついた。

        (大正八年十二月作)