招待席

たなか しょうぞう 1841.11.3 - 1913.9.4 下野国阿蘇郡小中村(現栃木県佐野市)の名主家に生まれる。明治十一年(1878)「栃木新聞」創刊、翌年県会議員に当選、直ちに中節 社を組織し県の自由民権運動の中心的役割につき、明治二十三年(1890)第一回総選挙で衆議院議員に当選、六回連続議員の地位にいて終始藩閥政府を痛烈 に批判していたが、史上最も悪質な公害の一つ足尾鉱毒事件に議員の職をすて近県民衆の為に独り挺身奔命、ついに明治三十四年(1901)十二月十日明治天 皇に直訴したが、政府はこれを「発狂」として顧みなかった。 掲載文は直訴状の大要をとったもの、正造の懇望で草稿を書いたのが名文家で知られ後に大逆事 件に斃れた幸徳秋水かと云われている。田中正造は最も優れた草莽の偉人であった。 (秦 恒平)




   足尾鉱毒明治天皇直訴文  大要    

             田中 正造



 草莽(さうまう)の微臣田中正造、誠恐誠惶頓首頓首、謹んで奏す。伏(ふし)て惟(おもんみ)るに、臣田間(でんかん)の匹夫、敢て規(のり)を踰 (こ)へ法を犯して鳳駕(ほうが)に近前する、其罪(そのつみ)実に万死に当れり。而も甘(あまん)じて之を為す所以(ゆゑん)のものは、洵(まこと)に 国家生民の為に図(はか)りて、一片の耿々(かうかう)竟(つひ)に忍ぶ能はざるもの有ればなり。伏て望むらくは陛下深仁深慈、臣が狂愚を憐みて、少しく 乙夜(いつや)の覧を垂れ給はん事を。

 伏(ふし)て惟(おもんみ)るに東京の北四十里にして足尾銅山あり、其採鉱精銅の際に生ずる所の毒水(どくすゐ)と毒屑(どくせつ)と久しく澗谷(かん こく)を埋め渓流に注ぎ、渡良瀬(わたらせ)川に奔下して沿岸其害を被(かうむ)らざるなし。而(しか)して鉱業の益々発達するに従ひて其流毒益々多く、 加ふるに比年(ひねん)山林を濫伐し、水源を赤土(せきど)と為(な)せるが故に、河身変して洪水頻りに臻(いた)り、毒流四方に氾濫し、毒屑の浸潤する の処(ところ)茨城栃木群馬埼玉四県及其下流の地数万町歩に達し、魚族斃死(へいし)し田園荒廃し、数十万の人民産を失ひ業を離れ飢て食なく病て薬(や く)なく、老幼は溝壑(こうがく)に転じ壮者は去て他国に流離せり。如此(かくのごとく)にして二十年前の肥田沃土(ひでくよくど)は、今や化して黄茅白 葦(こうぼうはくゐ)満目惨憺(まんもくさんたん)の荒野と為れり。

 (略)

 人民の窮苦に堪へずして群起して其保護を請願するや、有司は警官を派して之を圧抑し、誣(しひ)て兇徒と称して獄に投ずるに至る。而して其極や既に国庫 の歳入数十万円を減じ、人民公民の権を失ふもの算なくして、町村の自治全く頽廃(たいはい)せられ、貧苦疾病(しつぺい)及び毒に(あた)りて死するもの 亦年々多きを加ふ。嗚呼(あゝ)四県の地亦陛下の一家(いつけ)にあらずや。四県の民亦陛下の赤子(せきし)にあらずや。

 臣年六十一、而して老病日に迫る、念(おも)ふに余命幾(いくば)くもなし。唯万一の報効を期して、敢て一身を以て利害を計らず、故に斧鉞(ふえつ)の 誅を冒(おか)して以て聞(ぶん)す、情切(せつ)に事急にして涕泣言ふ所を知らず。伏して望むらくは

 聖明矜察(きやうさつ)を垂れ給はんことを。