招待席

たけうち かつたろう 詩人 1894 - 1935 京都府に生まれる。マラルメの影響下に象徴詩を、昭和三年(1928)渡仏後はヴァレリーに傾倒し「美を破壊する美」という詩法に向かったが、 黒部渓谷で遭難死。 掲載作は、昭和二十八年(1953)没後の詩集『黒豹』の表題作。(秦 恒平)





   黒 豹   竹内 勝太郎



あいつは随分年老(としと)つてゐるらしい、

全身そそけ立つた毛がザラザラしてゐる、

濃灰色のなかには斑点がくつきり黒い、

平野の奥に身を潜(ひそ)めて鋭い息を燃(もや)してゐる。


あいつの眼、あいつの牙、あいつの爪、

あいつの口髯(くちひげ)とあいつの耳とが

刃物のやうにそぎ立ち、チカチカして、

あらゆる周囲のものを脅威(おびやか)し……深い霧だ。


降りつもつた粉雪が枯れ枝や草の葉つぱに、

針葉樹にも一度氷ついてギラギラしてゐる、

金属性の堅さと鋭さと冷めたさ、

飢ゑたあいつがそれをガリガリ噛んでゐる。


あいつは幾日も食物にありつかない、

あいつの顎で人骨の砕けるやうな音がする、

あいつを冬が自然の隅へ追込んでしまひ、

あいつの唸(うな)り声が人の心を冷酷に貫き通す。


しぶきをあげて岩をかむ急流を前に

そそり立つ山塊のやうに円く且(かつ)凌々として、

重厚なあいつは体躯を縮め、前足を踏張(ふんば)り、

強情な首を真正面に不動に据ゑ……


はてもない曠野の上に小さく展開する

彼方の街をあいつはいつまでも睨んでゐた、

なんと文明とはあいつに狙はれてゐる

肥え太つた一匹の孱弱(かよわ)い牝山羊(めやぎ)に過ぎないことか。


あいつの方から烈しい暴風(あらし)が吹きつける、

あいつの方から恐ろしい吹雪が襲ひ、

あいつの方から狂猛な寒気(さむけ)がのしかかつて来る、

あいつの無限の圧力、流行感冒、汽船転覆、鉄道破壊……


あいつの前足に押さへられた美しい雉(きじ)のやうに

人間の文化は弄(もてあそ)ばれ、亡んでゆくのか、

灰色に塗りつぶされた大空の奥に

あいつだけが燃え上る火のやうな強烈さ。


あいつの抗し難い盛(さかん)な勢力、

永久に若々しい喜び、

線の、形の、身躯(からだ)全体の美しい無限の暴力、

あいつの内部に爆発する熱情を包んだ氷の意志。


森も畑も丘もすつかり灰色にぼやけてゐる、

そのなかに大きな山の半身が川を前に

氷ついた雪を被(かぶつ)てうづくまつてゐる、

そのまだらの斑点はあいつのからだをうつすらしい。


深い霧だ……恐しい冬の「悪」の数々が、

厚ぼつたい霧のなかにかくされてゐる、

あいつは一匹の生きてゐる冬そのものだ、

永遠の夜の裡(うち)のあいつの跳梁(てうりやう)は神秘の暗(やみ)につつまれて居る。