「e-文藝館庫・湖(umi)」 旅の日々
たかぎ とみこ プロの文人では
ない。もう大人の二人の娘の母であり、家庭の主婦である。敗戦の頃に生まれたらしい。京都大学を出て、院も出たらしいが、詳しくは知らない。
いい詩を沢山書いている。繪も描いて、地元の展覧会では受賞もしているらしいが、繪は観ていない。機会が有れば、一人で世界を旅してくる。この一文もその
「旅の日々」の便りである。肉筆の字が窺えそうに質感の豊かな散文が書ける。野にはこういう書き手がいて、自称「プロ」の書き手たちを黙って静かにながめ
ている。もう四半世紀をずっと超えた「いい読者」である。 (秦 恒平)
レオンの宿 高木 富子
風になびく葦のようなものです
人間は考える葦 と言いますが 葦は考えません
静かにしぶとくなびくだけ これは独り言、です
レオンに着いたのは夕暮れだった。どこにもある殺風景なバス・ターミナル、その前の道一つ隔てた向こうに穏やかなベルネスガ川の流れがあった。
スペイン北部、この地方では飛びぬけて大きな町レオン、かつてのレオン王国、カスティーリャ王国の都。そのレオンのカテドラルが靄の中から姿を現してい
た。
遅い時刻に初めての街に着くと、とりわけその晩の宿が決まるまでは、旅慣れているとは言ってもやはり心もとなく落ち着かない。極端になると心がさざめき
荒れる。寂しい。もう流れ漂うような旅を続けるなんていい加減やめよう、とさえ思う。
レオンはどんな風にわたしを包んでくれるだろう。
バス・ターミナルと並行して走る鉄道の線路があって、先に見えている橋まで行けば、その近くには鉄道の駅がある・・駅前にホテルを見つけられるだろう。
橋を渡って旧市街まで歩けば雰囲気もいいからそこまで歩こうかと思案して、さてホテルを探す元気はもういくらも残っていなかった。橋の袂に着いて、行きか
う車の多さに驚いた。夕方の通勤時間だ。もう少しだけ歩いてみようと自分を励ます。
道の左側の黒い建物にホテルの看板があった。安宿が何軒か入っている、素っ気なく寒々しく、カビや埃の匂いが漂ってくる建物、もうこれまでの旅で馴染みに
なった建物だ。もともとホテルとして建てられたわけではなく、古くなった集合住宅の一戸一戸を改築してホテルにしたのではないだろうか。よほど祝祭や催し
事があれば別だろうが、こういう「アパート」ホテルで満室だと断られたことはなかった。
ベルを押す。「部屋が空いていますか? わたし一人、一晩です。」と言いなれた言葉に「お入りください。」と答えたのはもう若くはない女の声だった。殺
風景な螺旋階段を登っていく。ホテルの名前を確認してノックする。女がドアーを開けて、どうぞと軽く手を動かしてわたしを導く。ほっそりした初老の、人生
に疲れたことも既に通り過ぎてしまって諦めが身に添うていると感じさせる雰囲気。つましく、静かな・・。
半円の優雅な窓が夕暮れの市街を映していた。テレビの画面はたわいなさそうなホーム・ドラマを映していた。そしてテレビから数メートル離れたところに頭
をやや下に向けて車椅子に老婦人が身を沈めていた。
案内された部屋は薄暗く、廊下を隔てたシャワールームもひんやりしていた。表通りに面していない部屋だったが、絶え間なく車の音が這い上がってきた。
何もかも寂しくなりそうだが、わたしは寂しさに身を浸したくなかった。寂しさは優しさでもあると思いつつ、けれどそれ以上に駆り立てられる思いがあっ
た。一人旅とはたといどんな状況であっても打ちひしがれないこと、孤独を見つめること、きわめて現実的に物事に対処していくことでもあった。
翌日街に出て真っ先にロマネスクのサン・イシドーロ参事会聖堂の壁画を見た。レオン王国歴代の国王や王族が埋葬された霊廟で壁画が素晴らしい。
同じスペインのロマネスクの絵といってもさまざまに異なる。例えばバルセロナの美術館で見たボイ渓谷の小さな教会の厳しく骨太い壁画の迫力は強烈だっ
た。猛り吼えるような絶対的な力があった。いつかピレネーの山、アネイやボイの渓谷の村々を訪ねてみたい。廃れて失われつつある放牧夫の姿も見たいと思
う。
ここサン・イシドーロのおおらかな絵の色使いは洗練され穏やかでさえある。本来あまり広くない霊廟の薄暗い空間に、白を背景にして描かれている絵の具の
地味な茶色やグレー(解説書には朱や青と説明しているが)は控えめな中に一種の清々しさを与えていた。図像はキリストの生涯をテーマにしている。
信仰を宣言しながら聖堂を巡りキリストの聖体のパンを九つに裂く儀式があったという。これは西ゴートの儀式で、つまりこの聖堂の創建はイスラム勢力を追
放し西ゴート=スペイン帝国を回復しようというレコンキスタ運動と深く係わっているらしい。スペイン統一への要請が古くから明確に殊にレオンの地には息づ
いていた。
十三世紀ゴシック様式の大聖堂、もっともゴシックとは極めて当たり前に見かける様式、と言い切ってしまえば簡単だが・・。その一部分に古いロマネスクを
残していたり、ゴシック以後の様式が加えられていたりする。スペイン独特のイスラムに影響受けたモサラベ様式から後期ゴシック・イサベリーノ様式やチュリ
ゲラ様式のやや装飾過多のバロックになっていくという。繊細な尖った装飾があとあとまで印象に残った。そしてもっともゴシック的なものは明るさへの希求、
天への志向を表すステンドグラスだった。
二階のテラスには人影もなく、心を盗まれてしまいそうな禍々しい不思議な雰囲気があった。そのような稀なる時間をわたしは忌避しない。自分の内部が何かに
よって自然に覗かれる。わたし自身が思いがけず突然「境界」にいる、という感じ。それは反省という引き算ではなく、新しい発見探索にいずれ向かっていくた
めの助走の時間、跳躍の時間だ。そこで気づいたものはひたすら足し算だと受け入れてきた。
サンティアゴ騎士団の本拠として十六世紀に建てられたサン・マルコス修道院は病院と修道院を合わせた大きな建物で今はパラドール、スペイン政府の経営す
る
五つ星の高級ホテルになっている。レオンのパラドールはスペインでもっとも豪華なものだという。が、宿泊するわけではないので外から眺めるにとどめた。
昼、大聖堂近くのひっそりした通りにある韓国人の経営する店に入った。ご飯が恋しかったのではない、ただふらりと言ったらいいだろうか。ヨーロッパで韓
国料理の店に入ったことはなかった。昨晩はコシードを食べた。特別のものではない、野菜や肉を入れて煮込んだ一品だ。ブルゴスでは血のソーセージ・モル
シーリャを食べた。スペイン料理は日々おいしく楽しんできたが、今日は何か違ったものを食べたかった。
静かな表情のアジア系の中年の男にはスペイン語以外まったく通じなかった。キ ドンデ・どこから?
キ ハポン・日本から。一人?そう、一人。あなたは韓国
人?そう、韓国人。
焼肉を頼んで食べていると、高校生らしき息子が帰ってきた。親子で話すのも韓国語ではなくスペイン語だった。いつから彼らはこの土地に根ざしたのか、韓国
語を話す習いをもたなかったのか、忘れてしまったのか。
「来月にはセマナサンタ・聖週間があり、レオンでも多くの行進が行われるよ。聖キリスト、聖母マリア、聖ヨハネの三つの行進がレオン大聖堂前で合流する礼
拝行進が見ものだ。六月終わりの聖ヨハネ聖ペトロ祭。町全体がテラスとマーケット、コンサート。祭り、祭り! 夜には花火と焚き火!」
そこまでやっと聞き取る。もどかしくなったのか、一枚の観光写真をわたしに示した。
思わず一瞬ゾッとした・・。KKKの不気味な衣装に似た、頭を尖った三角帽子で覆い隠した人々が、それも何十人もの黒く長い僧衣の男たちが大きな棺を載せ
た木の台を担いでいる。これはKKKの専売特許の衣装じゃない、これは伝統的な僧衣だ、そう思っても怖いと感じた・・。
台の上にはリアルな磔のキリストの像が高々とある。厳格な宗教行事とは言え、東洋の無宗教に近いわたしの感性には怖いばかりが先立って違和感は拭えなかっ
た。
セマナサンタとはキリストの受難から復活にいたる日々を再現する行事なのだった。
セマナサンタまでほぼ半月、何処で祭りを迎えることになるだろうか、ただ南の方でと漠然とした期待が少しだけ膨らんだ。その前に、いつサンチァーゴに辿り
着くだろうか。まだ道半ばをやや過ぎたあたりなのだ。
夕方、雨が降った。石畳の道を辿って街を歩き続けて疲れ、ショーウインドウに飾られていた一枚のスカートを衝動的に買った。薄いベージュの麻の生地に花模
様の白がおぼろに咲いていた。これまでの旅の間ずっとパンツだったので、思い切って買い求めたスカートは嬉しかった。
そのスカートの丈がわたしにはいささか長すぎた。小さな裁縫セットを携帯していたはずが、どんなに捜しても僅かの荷物の中に見当たらなかった。フロントに
スカートを持っていき、縫うしぐさをして「針と糸を貸してくださいな。」と言うと、彼女の顔が一瞬に明るくなって、きびきびした早口で何かを言い、カウン
ターの引き出しから針と糸を取り出した。それに鋏も入用ですね
?というかのように少し唇が動き、裁つしぐさをして鋏みも渡してくれた。スカートを直して道
具を返しに行った。
そして二人のたどたどしい英語とスペイン語でその夜の会話が始まった。わたしには単語の羅列、その理解だけで精一杯のスペイン語だ。宿泊客はほとんどいな
い様子でホテルの狭いロビーには人影なくひっそりしていた、テレビ以外は。
傍らの老婦人は昨日と変わりない姿勢でテレビの画面に顔を向けていたが、さて彼女が画面を見ているのか、楽しんでいるのかどうか、何の表情も読み取れな
かった。女主人は時折彼女に目をやって様子を確かめるようにして、わたしとの会話に戻った。おそろしくゆっくり単語を一つ一つ取り出していった。
「この国には多くの異なった伝統や言葉があります。スペインと一言で括って欲しくない、スペインに属したくない、そう思う人たちもいます。スペインといえ
ば代表的と思われるフラメンコも闘牛も・・微妙ですね。そう、そうです、ご指摘のようにカタルーニャはスペイン語と異なる独自の言葉カタルーニャ語をもっ
ていますね。」
「バルセロナには出版社が多かったので驚きました。カタルーニャ語の本を出版すること自体が一つの抵抗運動なのですね。フランコ政権下ではカタルーニャ語
は禁止されていましたね。」
「言葉、伝統、習慣、決して手放せない、魂にかかわることですから。わたしたちの皮膚の奥の奥まで恐怖に近いものが入り込んでいます。夫はバスクの人で
し
た。頑固すぎるほどバスクの人でした。そう言ってもあなたがそれを理解できるかどうか、わたしには分からないけれど、だからこそあなたに言えるかもしれな
い、言ってみたい。」
バスク祖国と自由と名乗り、現在ETAと呼ばれるバスク独立運動の過激派のことはいくらか知識として知っていた。彼らのテロ活動のことも時折テレビ報道
で
耳にしたが、やはり日本からは遠いおぼろげなことに過ぎなかった。女一人の旅にはできる限り危険の可能性が少ない地域を選んできたし、現状を知ることには
敏感になってきた。それは大切なことだったから。
つい先日歩いてきたパンプローナがピレネー南麓のスペイン側の南バスクに属することはフランシスコ・ザビエルとの関連で知った。ハビエル城の北方の荒れた
大地に建つレイレ修道院宿泊所に風吹きすさぶその夜、眠れないままに多くの思いに揺すられ続けた。
ザビエル、日本にキリスト教を伝えた彼の名前は小学生でも習う。どのような運命が彼を日本まで運んだか。彼はパンプローナ東方のハビエル城に住む貴族の息
子として生を受けたが、当時南からカスティーリャが勢力を伸ばし台頭するにつれて父の代には没落していった。バスク人であることの運命を彼も痛切に感じた
だろう。
ダビデの星といえばイスラムとユダヤが混在していたスペイン中世の象徴だというが、バスクもまたスペイン社会の一つの抜きがたい重要な要素だった。が、彼
にとってカスティーリャは南からの脅威以外の何ものでもなく、イベリア半島統一やスペインという概念は未だあり得なかった。ザビエルはその環境から後にパ
リに遊学し、そのパリでイグナチウス・ロヨラと出会い、イエズス会を結成することになる。反宗教改革の担い手になっていったのだった。時は大航海時代だっ
た。
大航海時代の華々しいスペイン、その後の衰退没落、市民社会の未成熟と欠陥はスペインを産業革命、近代社会の渦巻く中心から遠ざけていった。
スペインの荒々しい大地が吹き止まない風の中に続いていた。夜の闇にバスク人ザビエルの風に吹かれる姿も仄見えた。
「義父の時代はちょうどスペイン内戦のさなかでバスク自治政府はフランコ軍と戦っていました。ゲルニカが爆撃を受けたのはよくご存知でしょう。ゲルニカは
バスク自治の象徴の町でした。」
ピカソの「ゲルニカ」が有名で・・そう、わたしの国では絵のタイトルとしての『ゲルニカ』、戦争に悲惨に抗議してピカソが短期間に描いた・・そのゲルニカ
が地名でスペインの何処にあるのか、何故爆撃され大虐殺が行われたかはほとんど知られていないだろう。
「自治政府の首都ビルボがフランコ軍に占領され、自治政府が事実上活動を停止したのは千九百三十七年六月でした。それ以上は言いたくありませんが、あの人
の父親はその時殺されました、無残な死だったと聞きました。幼かったあの人の生涯の方向もその時決まってしまったのですね。
四十年に及んだフランコ政権が終焉を迎え、アラバ・ビスカヤ・ギプスコアの三県はバスク自治州と設定されて地方自治憲章(ゲルニカ憲章)もあるのですが。
わたしより何より、頑固一徹あの人にはあの人の惨いほどの生き方しかなかったのです。過去形で言ってしまえればどんなにラクか、でも現在形、わたしにとっ
ても現在形なのです。
長い年月、こうして此処にじっと客が来ては去っていくのを眺め眺めて生きてきました。いつか、ひょっとしたらあの人が現れるかもしれない・・若い日の一瞬
交差したわたしたちの愛、はかない期待、幻を追って、愚かな思いなのでしょうね。こうしているのはわたしの仮の姿、ただの仮の姿なのだと自分に言い聞かせ
ているのです。有為転変をあの人と引き受けて一緒に、そして山の北側のどこかで暮らしたかもしれない、それが本当の自分の姿なのだと今も思っているのです
よ。
が、母を置いていくことはどうしてもできませんでした、どうすることも。
それは単に境遇でしょうか、それとも運命と言ってしまっていいものでしょうか。境遇もまた運命でしょうか。
それにしても男の、あの男、わたしの夫の・・いえ複数形で男たちは誇りや主義や信仰で無駄な生き死を繰り返し、無残な血を流す。茫然とします。愚かなわた
しにはやはりどうしても分かりません。理解できないし理解したくありません。勿論わたしにだって誇りも主義も信仰もありますが。夫のことはもう遠い遠い
うっすらした不在の影、なのですが。
忘れられたらとどんなに願うことか。」
アムネジア・・一時的記憶障害に何度も何度も陥ってみたい、そうなれたらどんなに幸せだろう。その方がいっそう不安に追い立てられることになるかもしれな
いと、分かっていても忘れられたらとわたしも思う。あるいは冷酷に忘れさったらどんなに楽だろう。
テレビはあれからもういくつも番組が変わり、老婦人、彼女の老いた母親の瞼も閉じ、稀にうっすら開き、再び閉じ,定かではなかった。
窓外の車の音はまだひっそりともしない。車の流れは続いている。
「ここは幹線ルートに通じる通りです。いくらか騒音が気になるかもしれませんが、どうぞゆっくり休まれますように。」
彼女の後ろにあるスタンドの明かりが一瞬暗くなったような気がした。彼女は立ち上がって母親の方に歩いて行った。