カラクリ湖 
詩集 幻
ですか これは
高木 冨子
目次
時を還せ 無数の命 流れ出ていく ヒヤシンス・ブルー エトルリアの棺 春庭 恋 春 窓を閉ざす 女であること
花呼びぬ 愚かな種子 炎 寒い河 エスペランツァ 十三夜 造形 眼差し 腕の中のうつろ 容器
jumping beans・跳び豆 瀬戸内海 夜明けの船 危険水域 遥か彼方まで 魂の柱 娘に(痛みから・ハハニナル・誕
生日カード) 卵を抱く 嘆き 夏森 失う 幻ですか、これは 夜の風船 ねむの花 牡蠣養殖場 切所 彼岸花
一人 まなこの闇 微温 薔薇を切る 透きとおる であう 秋から冬へ 木枯らし 無言 夕日に さよう
なら 十二月の薔薇 魂の袋 母 この冬 時を環らせ 帰趨 今は
時を還せ
この世の源初の荒海に散りぢりになった
所在不明のあなたの生と わたしの生が
いつ、何処で、逢い会えるか、重なり合うか
遠い海鳴りはあなたの耳に届いているか
それとも未だはるか彼方にあって感知できないのか
じっと目を凝らしても闇を見るだけ
そっと耳をすましても無音を聴くだけ
「還我未生時・・我いまだ生まれざりし時を還せ」
王梵志、初唐の詩人は生き難さを歌って天に語る
天よ わたしを生んでくださった天よ
どうぞ 生まれる以前の時間に
わたしをかえしてくだされ
時間をかえしてください わたしをかえしてください
時をかえせるはずなく 戻せるはずなく・・
せめて より良く生きたい 人に逢いたい
「父母未生以前本来の面目はなにか」
遂に知りえない
ただ 今を 良く生きたいと
無数の命
大地に落ちた無数の命が
澄み切った寒気の中で
微かにひそかに呼吸している
伸びる力 捻じ曲げ、踏み潰す力
祈る作業 はぐくむ意志
冬の森に朝が震える
空翔る鳥の一日のわざの始まり
決然とした翼ははばたく
流れ出ていく
おもいの深さに流れ出ていく
形容し難いものに変形していってしまう
同時に 常に 中へ中へ 内部へ
渦巻いていく わたしの水脈がある
ヒヤシンス・ブルー
冷たい空気に咲いている ヒヤシンス・ブルー
重々しく 命が溢れる
花の一つ一つ 花弁の青が茎に至る変化
わたしは見つめる
春を待つ
やがて忘れな草や矢車草
そして夏のチコリの 朝顔の 露草の おだまきの
青を待つ
エトルリアの棺
雪は降りしきり止まなかった
暖房が効きすぎて水滴がびっしりついた窓ガラス
外の風景はいつもぼやけて泣いていた
エトルリア美術の部屋は奥まって
人はいつも稀
部屋の中央に石棺が二つ
それぞれの蓋に 寄り添い横たわった夫婦の姿が彫られている
そのリアルさに胸突かれないことはなかった
彼らは死して二千年、三千年、じっと見つめ合ってきた
これからも頑固に横たわり互いに見つめ続けていく
凝固させられて完結した、完結させられた愛?
他者を排除したエゴイズム?
それとも生前、憎みながら生きた二人だったら
死後も尚このように在ることは
逆接的な大いなる皮肉、呪いたい仕打ち、むごい罰ではないか
そんな斜に構えた見方もした
「対幻想」はわたし自身の中で奇妙に揺らぎながら存続している
そして恐らくそれは幻想だと・・
何気ない、しかし根強い夢見心地の対幻想
「本来一つのものであったから男女は引き寄せられるのだ」
プラトン『テイマイオス』にその記述を見出す
性衝動と生き物の誕生を述べているのは確かだが
それとて赤い糸に結ばれた運命の恋愛や一夫一婦制の婚姻制度に
押し込めも限定もしていない・・
対幻想とは何?
石棺は不思議な力でわたしを引き寄せる
この部屋は愛やとまどいと直接向き合う場所だった
いつもここにやって来た
エトルリアの棺に会うために
エトルリアの人々は紀元前七世紀頃
ローマ・フィレンツェ間の地域を中心に
イタリア半島の広範囲にわたって居住していた
彼らの要塞都市は「高い山の背の都市」といわれ
あるものは廃墟と変わり果てたが
エトルリア以来延々と現在まで存続してきた街も多い
山や丘の上に今もしばしば目にする
しかし彼らがどんな人種だったかさえ正確には分からない
ローマ帝国はエトルリアを滅ぼし
その大きな遺産を受け継いだ
そしてエトルリアは忘れ去られていった
墳墓から発掘された品々のいくつかは大西洋を渡った
わたしにとってのエトルリアは目の前のあの棺だ
石の棺は静まり黙したまま
妖しい力で惹きつける
生きること愛することは重い・・しかし
静かであって欲しい
予感に震えながら棺の横に立ち尽くしていた (ボストンに滞在した冬に)
春庭
樹木の香りがする
冬を越え 抑制された暗緑色の椿の葉
足元の枯れ草の間からは ふきのとうの明るい緑
春が行きつ戻りつ やっと到った
ばっさり思い切りよく枝を伐り落としたレモンに
ピカピカ光る枝や葉が 生え出てきた
びっしり鮮やかに なんと気持ちいい
レモンの小枝は嬉しそうに さわさわ鳴った
・・今年はまだ存分に花を咲かせられないけれど
肌理こまか茨もつ枝々の芽吹く喜び 風に吹かれる
恋
魂の大きな海
慕わしい大波
喜びの新しい領域
紛れもない あなたの
階段で歩道で
どうしようもなく ただ立ちすくんだ
自分の恋に泣くしかなかった
真昼が 突然暗くなった
むなしい憧れ
渇いた悲しみ
すべて突き抜けて
引き寄せられて
ためらいの多くは
何処かに放り投げた
迷妄も 修羅も 愛しく受け取った
震える手で
目を瞑って・・
あなたも目を瞑って
春
毎年毎年 冬から春へ
小さな部屋の窓辺に 桜草を置いた
あの年の 次の年の・・それぞれに
花に託す想いがあった
土の匂い 風の匂い
蜘蛛が吐く糸のまぶしさ
心がまっすぐ動いていく嬉しさ
ことばが音を発するあたりまえの嬉しさ
発芽熱 ぬくぬく しんしん めらめら
底光りしている喜びそのままに
まっすぐ若芽は伸びよ
風にそよいで遊べ
川原のからし菜が狂おしく生えだした
からし菜は歌う からし菜は踊る
からし菜よ
今晩 おまえを食べて わたしも歌い踊る
タクラマカン越え ゴビ越えて 黄土高原通り抜け
対流圏中層の流れに 偏西風にのって
春の憂いのまんなかに 黄砂降る
ああ、わたしも微塵 砂粒 黄砂
思い出す 遠い昔の野道の遊び
蓮華草の首飾り さつきの蜜は甘かった
小さな哀しみさえ なかったなあ
今の哀しみなど いっそ火をつけて燃やしてしまおう
ぴかぴかの キャベツ たまねぎ じゃがいも アスパラガス
カリッと噛む
体の器官が奮い立つ
明快な これは情感 明確な欲望だ
春の微風の心地よく 体伸ばして 身を委ね
陽だまりはうらうら わたしはすやすや
午後の夢に 優しい双ぼうが微笑んでいた
夢というなら ひたすら楽しい夢がいい
しなやか粘り強い花粉は
植物の遺伝子伝承装置
花屋の百合はおしべを切られる・・服に付着すると取れませんので
花粉は千年も形を失わない・・考古学年代決定の決めてにもなるのです
微光に ケシの表情が明かるむ
微風に ケシの喜びが震える
わたしも 震えている
涙流したのも 喜びゆえ
この春に わたしの核・さねは 胚胎す
愉悦の季節
みなぎる予感
初夏に 初々しい果実の誕生を期す
窓を閉ざす
窓を閉ざして 挫折を閉ざすな 引きずるな
いいえ 閉ざして 力蓄え
生まれ出るものの その音に耳傾けるため
窓を閉ざします
女であること
あなたの「内なる女」、「外なる女」について語りませんね
そう言われるほどに、わたしは「女」を語ったことがなかったろうか?
が、女であることを絶えず意識し、それ以外有り得ないとしても
「内なる男」、「外なる男」を必ずしも男が多く語らないように
ましてや「愛」を口にしないように
語らずとも 存在として わたしは女
女であることは、時にあまりに重い
そして女であることは、時にあまりに軽薄に流れていく
軽く、薄く、ふらふら、ひらひら、面白おかしく生きてもみたかった
美しく華やかにも、楽しくも生きてみたかった
恋愛遊戯もしたかった、奔放華麗な遊戯を
でも遊戯はできなかったね・・・・不可能でしょう、君には!
心だよ、内面だよと言いながら、人の目に映るものはまず外面なのだ
内面は外面に反映されると実は思っている
外面が内面より先んじていると・・醜いとは恥じなのだと
少なくとも無意識にそういう判断の物差しをもっている
美人だったらよかったね・・無いものねだりと笑われようが
すべらかな「女」の肢体、うなじや髪の毛、程よく豊かな乳房やお尻
エロス、エロス、エロチック・・男と女、それが世の中だから?
そしてレースや刺繍が施され、つややか、しなやか、優雅な衣裳
男が鼻白み青くなるほどの高価な宝石、これは例が極端だろうが
ひょっとしたらそんなものが純粋に好き、欲しくないと言ったら嘘になる
それは女の「黄金律」?・・輝く金や宝石が嫌いな女はいないとか
しかし、考えるまでもなく
権力や地位や名誉に支配されて男はもっと狂っている
男の強さより
優しさ、弱さ、安らぎ、「女性的」と言われるものが好き
逆説として、だから女は大嫌いなのと、わたしの半分が叫んでいる
偏った「女」論のひとかけら? ああ セクシュアリティとは?
いえ、それ以前の想いに過ぎないけれど
男の目を惹かず、後ろに隠れ、恥じらい、ストイックに・・
わたしは若さをもてあました
避けて通りたかった、男も女も嫌・・エロスなど超越したかった
それなのにエロスは何と人生を左右してきたことだろう
それどころか、エロスは人生の中心課題だった
動物ヒトは生まれ、成長し、産み、死ぬ・・
エロスの大いなる力によって存続する
エロス タナトス エロス タナトス 呪文のよう
エロスにはタナトス・死が添付されている
婚姻の婚は女が昏くなる字と女性歌人が言っている
結婚とは何か、狭量なわたしもやはり否定的要素を感じた
法で認められ正当化された何か
制度や慣習の、偽りともなり得る何か
しかし運命共同体、幸せな強靭な対ともなり得る何か
なにより複雑怪奇、人生の首根っこを掴まれるのは母になること・・
母性の呪縛?
振り返ればそこには生きる実感があった、格闘があった
生の真昼 強い光と短く明瞭な影の真昼だった
母性の陶酔もあった、苦く愉しかりし年月であった
初めて乳房を吸われた瞬間、命が受け継がれていくと実感した
産むことは、おのが「死」を受け入れることだった
自然の秩序、その流れが 電流のように太く流れていた
苦く愉しかりし年月であった
原初の愉悦をわたしは信じる、わたしは味わう
母とは「性」の真中に在ること、「生殖」の真中に在ること
花を美しいと言うように、そのように人の肉体と快楽は美しい
快楽は泡のようなもの・・虚しいと道徳律は戒めるが
「虚しい快楽」をわたしは否定しない
優しい愛・エロチシズム
けれどその優しさが時に残酷でないと、どうして言えよう
愛欲に溺れ、そして流れていけばよかったろうか?
「誘う水」に流れていけばよかったのだろうか?
・・流れていきたかった いけるものならば
凶々しく運命的な必然、それさえわたしは夢見ていた
劫初の深い夜の記憶を共有すること、それだってわたしは夢見ていたが
高らかな自己肯定はわたしになかった
人は何によって大きく規定されるか
時、処そして性別・・雄か雌か、生物的使命の相違
さらにジェンダーによって・・男か女か、それに伴う社会的性差
それらは宿命とも運命ともいえる
所与の条件として「境遇」も付け加えよう
選びとることできないもの
避け難く規定されるもの
性のダブルスタンダードを意識し続けてきた
胸にある硬質な核を抱き続けて離さなかった
唇を緊張させ強ばらせて
可能なら・・女であることを拒否したかった
生きることは抗うことに似ていた
わたしの硬さを揶揄するのは簡単
でも決して揶揄しないで
身を捩じらせ、涙し、口惜しさを感じ
身をかわして「逃亡」、優柔不断に「擬態」を曝し、
自分をスポイルし、生き方のぬるさ加減に辟易した
同時に 強靭な意志を通して不器用に・・生きてきた
小さな声だが、そう言わせて
今、わたしは女であることを肯定している
変えようのない事実として
長い時間をかけての これは和解?
なお抗い 問いかけ 女を生きる
語っても語っても 何も答えていないに等しい
男と女が本当に会い逢えるのは 人と人が会い逢えるのは
慰め・思いやり・慈しみで どのように互いを包み合えるかに懸っている
それだけはあなたに言える
どれだけ人を恋するか 愛するか
思いの深さ
片想いの深さ
人は同じ「量」だけ 互いを愛するなんてことはないから
さらに問うてみる
どこまで貫けるか
人は同じ先まで 互いを愛することもないから
恋は 一瞬の目くらまし 神経の痺れ
愛も また・・・一瞬の時の震え
そう言い切れたら どんなに軽くなれるだろう
軽くも重くもなく生きたらいい
花呼びぬ
この春 初めて 吉野山
浮かれ流れる人群れの その一人 われは
下千本に 花咲き満ちる 咲きわたる
山の上ではまだ咲かぬ 西行庵はまだ遠い
今は昔の花の宵
君触れし我が頬燃ゆる
君の手指の感触 いつのこと
枝垂れ桜に雨が降り
薄紅の底なる夢も束の間に
しんしんと深く沁み込む雨なりき
夜来の雨に さめざめと降るもののある
樹下の証しの 無残やな あはれ花びら
桜川 漂うは たまゆらの命
暗き流れに 浮かびきて
樹の間に透けて見えしは
あやかしの舟の棺
灯ともしごろの群青世界
花の野に迷い迷いて
途行行終終・・みちいきいきてついにおわりぬ
いく春惜しむ
愚かな種子
愚かな種子は内部に兆し
生長繁殖はびこって 暗さを湛えた森になる
今もわたしは 生きる荒々しさを手なずけられない
現在を理解できない 励まし生きるだけ
来たるべきものを微かに予感するが 未来はやはり茫々
新たな種子の発芽を待つ・・たとい愚かな種子であれ
炎
澄んだ炎のように
ゆらめいて なにもかも忘れて
この宇宙を泳ぐ
望むのは
まっさらに まっすぐに
愛すること 生きること
寒い河
寒河さむかわ・・違う、道路標識にはSOGOUとあった
桜満開の寒河駅の電話ボックスに
思いつめた表情で太い頸の女が スペイン語で話していた
脇にはサングラスの男が控えて待っている
女の暗い形相と対比されて山の桜は眩しすぎた
女が激しく叫んだ
絞りあげるように魂魄を空に放り投げた
桜も魂魄を宙に飛ばした
異国から来た女の 日本での境遇に思いが至る
声の響きだけが存在のすべて
彼女の目に 桜は美しいとも目に映らない
スペイン語で通じる相手に 国で待つ人に向かって
必死の愛情を飛ばしていたのだ
寒い河から 冷たい空を越えて
エスペランツァ
希望なくては生きていけない
ああ エスペランツァ
打ち払おうとした もの哀しさの塊が
わたし自身で…
わたしを打ち払わなければならないことに驚く
エスペランツァ
暁闇に湧き
朝焼けに響くもの
時を超えて翔るもの
さ迷うエスペランツァ
真昼を泳いで 異域を越えて
わたしに帰れ
十三夜
空に 川面に
十三夜の禍々しく赤い月があった
川蛇が泳ぎ 流れに波模様をつくった
美しかった
身動きできなかった
川蛇が流れに散らした襞々に何が潜むか
川向こうの地面には一条の縞模様が
熱く するすると向うまでうねっていた
造形
わたしの形が崩されていく
崩されて
天女にも娼婦にもなろう
野卑にも高貴にもなろう
新しい造形 時のままに自然のままに
それでは崩れていくだけ
おまえの荒廃だよ
鏡の中の命ない姿・形が
容赦なく真実を告げる
形は崩れ 情感がピクピク動く
新しい造形が掴めない
わたしは震える
ものの輪郭にさえ未だ届かない
触れられないという未完成が
とっておきの完成でも・・あり得るでしょう?
眼差し
眼差しは 陥穽
二人が抱きあう その空間
それこそ宇宙
確実な 今ここにある宇宙
その二人の空間さえ反転して
うつろな深い暗さの落とし穴・・
陥穽ではないかと おお 囁く声よ
まあるい二人の宇宙なくして
どう生きられるの?
宇宙という住処
わたしたちの生きるしるし・・印、験、徴、標
胸が疼く
胸底で共鳴して盛り上がってくる情動
悲しく行き場ないその情動が
錐を揉むように内に潜り込む
ああ 眼差しは陥穽
官能は痛みにも似て・・
腕の中のうつろ
梢も先の鋭いあたりに 夕明かりが笑う
和やかな笑いの背後の ほのかな光
誘われる 腕の中へ・・
腕の中のうつろが わたしをじっと見ている
わたしも見ているよ
腕の中のうつろを 冴え冴えと
容器
人はどのような器であるか
どんな容器に変わっていくか
器は空ろ うつろなうつわ
物を入れるために作られた・・うつろでないと本来の用途にかなわない
女を空ろな容器に喩えること・・卑猥だが それもとても自然だ
容器は口を開き 満たし蓄えるのがその役目
虚ろを抱え 切ないうつろなうつわ
器には いつしか埃が積んで 泥がたまり
世のもろもろの悲しみがしまい込まれ・・
わたしたちは虚ろの揺らぐ貪欲な器か?
わたしたちは 笑い交わす 涙交わす熱い器
思い深く 静かに豊かに受容する 埋もれる器
命の具現 身体という「器」
慈しみ 愛しむ
ひょっとすると器に隠れていたものが
外界めがけて飛び出すかもしれない
もう閉じこもるなんて飽いたよと
そして器自体も空を飛ぶ!
jumping beans・跳び豆
成虫になれば空中を飛ぶ小さな、なんの変哲もない蛾になるのです
が、その成長の過程では潅木の種子の中で過ごします。
豆のような種が幼虫の動きつれて、ことこと動いて飛び跳ねます。
夜半の静けさにやさしい音を立てました。
カタカタ転んだり跳ねたりする音に暖かな気持ちになりました。
ああ、おまえは生きているんだね、そんなにも飛び跳ねたいの?
が、なぜそんなにも跳ねたいのか?と半ば以上は呆れて哀れにも思いました。
メキシコ南部の銀の廃坑の町で生産される跳び豆は
別名、はじき豆、悪魔の豆、踊り豆とも呼ばれます。
今はもう輸入禁止になってしまいました。
幼虫はいったいどんな力学を駆使してわが身と殻を跳ばすのか・・
それは不可解、不思議。
わたしたちは豆の内部に閉じ込められたら、
豆ごと我が身を飛び跳ねさせることができましょうか!
人は殻に入っていては跳躍できない。
飛ぼうと思っても・・どんな「修行」したとて空中浮揚も飛行もできません。
重力にものの見事に裏切られるだけ。
何かに執着していては思い切って跳躍できない、飛べない。
(執着したら何かできるかも、これは逆説として)
ホンの僅かでも飛べないとは、人は小さな生き物です。
(だからこそ空飛ぶ機械を創り出しましたね、これも逆説として)
瀬戸内海
潮が引いていった
長い午後を横切って
白い鳥たちが浅瀬に餌を捜し求めていた
砂に潜み 水に泳ぐ 小さなものたちを
波打ち際の その波とて 情けないほど穏やかで
大洋に面した海のうねりと なんと違っているだろう
遠くの海面まで さまざまな色合いの 波の重なりがあった
やむことのない自然が笑い 予兆が踊っていた
ガラス越しの 音のない位置に坐り続ける
夕方の気配を背負って 潮が満ちてきた
ひたひた ひしひし わたしの偽りも満ちた
海が冷たくなった
夜明けの船
夜明けは まだ感じられない
世界の胎動 確かなピクピク 共振しているわたし
風の船に乗って あなたのところまで 行きたいよ
それからもっと遠いところまで
もろい船は 海に浮かばず 空に上がらず 地に朽ちる
砂の船は 波に崩れ 雨に壊れる
せめて夜明けの風の船
飛べ!
危険水域
愛は形ないのに burden重荷
きぬぎぬという響きの たゆげな美しさ
昔はものをおもはざりけり
恋のあとさき 知らぬ昔がいいですか?
そうではないでしょう?
もの思う今をきっぱり生きる
朱の色に 朱の炎の色に ふつふつと
いま、あなたに強く触れています 感じています
情念の極みに生きられたら
それだけで立派と感嘆するでしょう
情欲を享受し情欲に狂えたら
ああ、それとて見事でしょう
「愛」に盲いて?
・・・それは妄執だよ お馬鹿さん!
耐えることが愛とは思わぬ
尽くすことが愛とは思わぬ
ただ 与えることが愛? それもわからぬ
海にわたしを流すな
侮蔑の波にわたしを溺れさせるな
危険水域・・恋そして愛も危険水域 燃える海
それでも みな 船を漕ぎ出す
愛と命は等価だから・・
あなたの航跡を辿ろう
あなたはわたしの点景ではないのだから
内部なのだから
遥か彼方まで
夜行性動物のように 素早く疾走していった
髪は波打っていた 心模様さながらに
疾駆する挑発ではなかった
虚心であるか それだけをわたしに訊いた
わたしは色あせて 体熱を失った
波打った髪は疲れ 皮膚は渇いた
せめぎあう想いに 消耗した
細い息して傾いた
視線をあげた 穏やかに
踏みとどまった 誇らしく誇り高く
何を見出すか・・ただ沈黙した
そして再び前進した
光あるものに 向かおうとするのは
内部の必然ではないか
空覆う黒雲あっても
威嚇する嘴鋭い大きな鳥あっても
魂の柱
ヴァイオリンの表板の音の振動を裏板に伝えるために
共鳴箱の内部空間に
赤モミ材の小さな柱が置かれる
魂柱、なんとそれは昆虫と同じ発音になる・・こんちゅう・・と
魂柱はヴァイオリンの音を決定的に左右する
魂柱
わたしの心とあなたの心を伝え共鳴交響しあう
そのための 魂の柱よ
娘に
痛みから
石の壁に掌を叩き付ける 打つ
叩きつけずにはおれない 打ち続けずにいられない
掌は赤く腫れ上がり 内出血した
痛い 痛い
そうせずにはおさまらないあなたの哀しみ
自嘲 痛い自嘲
共有できない傷みを わたしは見守るしかない
けれど よく聴いて欲しい
傷みはあなたを強くするだろう
いつかおのれの気概となり誇りとなって
あなたを支えるだろう
ハハニナル
生の暗さを 危惧しながら それ以上の錯覚と
それになによりも愛情で あなたたちを抱いた
母性本能と言うよりも とまどいと決意だった
コヲウミ ハハニナッテシマッタ
男たちが絶対に感じ取れない体の感覚
胎児との命共同体 一体化の季節
満ちてくるものを待つ 忍耐の時間でもあった
胎にある小さな命を慈しんだ
あなたは 時に痛いほど烈しく暴れて わたしを驚かせた
形容し難い貴い時間があった くきやかに浮かび上がる時間が
お産の痛さなど耐えられる
我慢したから こんなにカワイイ子がいるんだもの
あなたとて誕生の 生まれる苦痛と不安があったろう
そして子育ての 多くの喜び 微笑み・・目瞠る成長の一つ一つ!
おでこ、右ほっぺ、左ほっぺ、はな、くち
いつも五つキスしてくれた あの笑顔
同時にそこに張り付いた
育てる日々の惑い 焦り 杞憂 疲労と蘇生も 憎悪さえあったよ
母性本能とは 我々人間にとって もはや幻だとも語られる
動物の本能の片割れだけでも残っている そう信じてきた
妻 母 女として 歩み生ききったら それは 見事な人生か?
母性に留まることなく 生きたいという
それは わたしならずとも 多くの女の願いだった
ツマトシテデナク ハハトシテデナク オンナトシテデモナク
さて ナニモノトナル?
未来に横たわっている 不確かな しかも かなり長い時間
女であるあなたが 結婚を ウムコトヲ 拒否しても 仕方がないのだろうか
生れ成長する不思議なものの その成熟に伴う責任が ずっしり重いから
女たちは生きる
娘たちは生きる
手渡した命である娘
生き抜け さやさや きらきら
靭く 生き抜け
誕生日カード
おかあさんおたんじょうびおめでとうね
1ばん おんぶ
2ばん だっこ
3ばん ちゅう
4ばん あまえ
5ばん おふろ
6ばん おっぱい
7ばん やさしく
8ばん いっしょにねてくれるね
9ばん おてつだいしたらおかねちょうだい、ちょっとたかいよ
10ばん おしまいね
おんぶもだっこもちゅうも いっぱいいっぱいしたよね
いつまでもおっぱいも すったりさわったりしたよね
いたらぬははでも あいじょうはつたわっていると はははおもう
そしてもうあなたは 大きく成長した
わたしを超えていきなさい
字を覚えたての娘からのメッセージ
メモ用紙に書かれたその誕生日カード
今はわたしのお守り
卵を抱く
窓際の藤に鳩が巣作りを始めた
何回か追い払おうとした
巣にいる一羽が飛び立つと
雑草の間に潜んでいるもう一羽も
鋭い音を立てて飛び立った
つがいの二羽が命をはぐくんでいる
洗濯物が少し汚れても・・まあ、いいじゃないか
雛が孵るのを楽しもう・・待とうよ
犬が吠え立てている
子供たちはボール投げに興じている
鳩、おまえは耐える じっと じっと じいっと
逃げ出したい飛び出したい気持ちをおさえて
心臓の打つごと 目蓋のまばたくごと
ひねもす 一瞬一瞬 注意おこたりなく
卵の暖かさを 腹に感じている
おまえの托卵の日々
強い雨が数日降った
雲の流れが激しかった
鳩の姿が消えた
巣の卵は冷たかった
鳩、おまえは悲嘆にくれたか
それとも何処かで既に次の卵を抱えて
雨が降り続きませんようにと
巣ごもりしているか
嘆き
さらさらと生きてくだされや
でも今日は嘆きの歌
さらさらと歌うは嘆き さらさらさら
嘆きもまた生きる力
さらさらさら
遅い収穫
頑固なオリーヴは
ゴツゴツ節くれだって不器用に枝を曲げ伸び広げる
植えてから十三年経って実が取れるという
柚子は十八年、だから柚子の馬鹿と言われる
柚子は優しい
オリーヴも柚子も 好きだ
夏森
夏はすぐそこ
早朝の雨に 隠花植物たちは 力を吸い込んだ
隠々と 冷ややかに 旺盛に 思いっきり繁殖する
そして森では 桐の花が はや朽ち始め
タンポポの柔毛 アザミの棘 ドクダミのにおい
キンポウゲの 毒あるやさしいぴかぴかの光沢
花たちは 透き通りそう 華やかに開いた
雨後天晴
植物たちの歓喜湧出 動物たちの欲望沸騰
ウツギや栗のにおい 饐え腐る生き物のにおい
タケニ草は背を伸ばし 葛は這い回り 絡みつく
アカザ イタドリ イラクサ タデ みな急速に生い茂る
ひとしずく ひとしずく 雫に潤い 湿気に膨らむ
漲る力 強靭な夏草たち
ああ 森に来てくれと 真昼の幻影は告げる
濃き緑の 草叢は誘う 樹林は誘う
樹液の甘い熱が這い出てくる
幹は粘液をしたたらせて ひっそり光る
露は蒸発していく 草が乱れる
泥濘のにこやかさに 足すくわれる
炎は燃え立ち
わが心燃えたち
ひとしきり暗き愛欲は沸騰する
むなしく通過し 頭上に消滅する
秘めたることよ
秘めたることは 惑いのただなか
ここに横たわるな 死ぬな
ここは横たわるところではない
生きて ただ生きて 囁く声がする
真夏の木々たちの魔法の真昼
やわらかな山並み
雲の峰は さらに高さを増していく
真夏の灼けつく陽射しに
丈高いものたちは激昂し 低いものは地を慕う
虫たちは食い尽くすまで倦み疲れない
戯れるものたち 鳴き止まないものたち
短き日々の業に痙攣する
溢れかえり沸騰するものたち
胸つく鼻つく 思いのたけの嘆き
隆起する正身
鼓動する化身
慨嘆する片鱗
それらすべて抱き取って
ここを支配しているのは 大らかな静穏 さらに太虚
失う
激しい雨が威嚇した
大波止(おおはど)に 尖った波が砕けた
ものの輪郭が崩れた
ひとしきり強く雨降った日
雨と一緒に 失くしてしまった
大切なものを 流してしまった
終日 今日も雨が降り続いた
失うものとて 残り少ないので
それらの幻を じっと 眺めていたが・・
ものの形が 身に寄り添って わたしと眠っている
幻ですか これは
とろけた不思議な味がする幻だよ
発情した愛の行方 情感の・・
行方を知らない
委曲を尽くして うなじを垂らして
芽生え生長した触手を どう絡ませたか
コナラ、クヌギが林をつくるように
羊歯のにおいがいざなうように
ないもの その影のあまりの濃さ深さ
ないもの、が真実で 実在であり得ると
そのような夢や愛を生きるのだと
さまよった視線の行方
ためらいながらこぼれ落ちていった病熱
まだ震えている声の忍耐強さ
無我夢中 駆け抜けてきた
忽然と白く冷たい風が訪れる
あたりの均衡は破れ・・なにか聞こえる
幻ですか これは
位相大変動 カタルシス
惨い原風景へ
形喪う 夢の集積回路
空気の哀しみばかりが縁取られる
零れ落ちていった
ぐさぐさと朽ちていったよ
泡沫ははじかれて消えていったよ
吹きさらしの叙情
それにしても 理不尽なこの想いは
切り裂けない雨 ほどけない霧
幻ですか これも
おもいだすひと なくなれば
おもいでもきえる
まっさらに もどっていくよ
夜の風船
今は昔の夏祭に
幼い手から離れて夜空に飛んだ風船は
何処まで飛んでいったのか
時折 思い起こして 疑わない
今も夜風に吹かれて漂っているわたしの風船があると
ねむの花
野山にねむの花が咲く
ねむのピンクの花の糸
にこやかに いとおしく
ねむねむ 燃え上がる
うつらうつらとねむの花
ねむねむ 燃え尽きる
現と夢と こもごも うらはら
ねむねむねむ
ねむは合歓 歓び合わせて・・ねむねむ
ごうかんと読めば あな恐ろしや強姦よ
言葉なければ 愛ないならば
遥かに遠いねむの歓び
言葉ある 愛ある 合歓よ
ねむ、よ
夏のけだるい午後の情動
幻ばかりのねむの時
牡蠣養殖場
突堤には逆光を浴びた釣り人たちが群れ
季節はずれの牡蠣養殖場に人影はない
こびりついている殻の破片や粉
切り裂いているものの哀しみ 粉砕されたものの叫びが
ベルトコンベアーの脳裏にぎっしりわだかまっている
飛び立ちたいと乱反射している
切所
朝に夜に さりげなく衣服を着替えるように
命は変わっていくだろうか
そこに到るさまざまな細い道を思う
ほの暗いその通路
ゆるやかな坂を急な坂を いつからいくつ上ったり下りたりしたか
もう忘れてしまった
遠い道程 長い午後
そして日暮れの傾斜は遠いか?目前の断絶か?
切所・せっしょ 命の瀬戸際で
父は点滴で膨れかえり 青灰色の皮膚は鈍く重かった
穏やかな静かな終わりと・・決して言えない
思えば今も涙が溢れる 責められる 動揺する
尿瓶に尿は溜まらなかった
腎臓がもう機能しないのです、心臓より先にやられてしまいました・・
父の長い坂が途切れた
訣れの眩しく明るい重陽の朝 平成元年九月九日
点滴の液体が滲み出し 棺はずくずく濡れて重かった
在りし日 在った その姿かたち
常に鮮やかな 父の姿かたち
切所 命の瀬戸際で
彼、アフガンのマスードはインタビューに答えようとした
その一瞬 報道陣を装った暗殺者の爆弾が破裂した
彼の命が引きちぎられた 二千一年、平成十三年九月九日
それは先触れだった
二日後 九月十一日
ニューヨーク貿易センター・ビルに飛行機が・・
世界は震えた
七日後 パンシール渓谷の故郷に戻った彼の葬列に人は哭いた
在りし日 在った その姿かたち
今も鮮やかな 彼の姿かたち
彼岸花
彼岸花が列なして咲き誇っている
粛々たる花びらの広がり
彼岸花・まんじゅしゃげは毒花 mandrake
恋ナスとも言われ 催眠剤や下剤として使われた
恋ナスが催淫剤なら 納得できるが・・ああ 恋ナス彼岸花
やがて夕明かりの中 連れだっていく人の影がみえますよ
彼の岸の花咲く あそこ彼の岸は極楽か
そこまで行っても わたしは寂しい
彼岸花が夥しく咲いている
緩やかな土手の傾斜とそれに続く田んぼの畔に列なして
なだらかな坂道に敷かれた豪華な絨毯のよう
あぜ道に何本も彼岸花が落ちていた
子供たちは手折ってひとしきり遊んでから捨てて帰ってしまった
・・その様子が鮮やかに目に浮かぶ
子供らの中の一人はまぎれもなく幼いわたし
すっきりたちあがっていく美しい形に見惚れ
思わず折って・・家に持ち帰ると叱られる
縁起が悪い、死人花でしょ、毒があるんだよ、と 捨てさせられて
それからは田んぼの畦で摘んで遊んでも捨て帰った
手折られた彼岸花と遊んだ幼いわたしは彼岸花の先に続く道を去っていく
どこまであの子は行くのだろう
道はずっと伸び続ける
一人
眼窩の闇に射すくめられて 奥へ奥へと進みいき
成熟と思えたのは・・実は萎縮していく過程だった
矯めることによって本来の強い力を失っていった
決して強くない あまりに弱いからこそ
一人でなければ 自分を守れなかった
一人という出発点から
助け頼りあう 人間として
他者を信じ生きること
それぞれが独立不羈の精神を保ち
人と深く長く培っていくこと
まなこの闇
十三夜 月と火星が 接近している
壊れそうな壁に 烏瓜の強い朱が光る
虫たちは震える
明るくさらさら 月の夜
まなこの闇に降りていく
あなたの闇に埋もれていく
微温
やさしくしないで いいえ やさしくして
そのままでいい そのまま触れず
それでいい 見開かれた瞳を見つめるだけ
それもいっそ年月を思い起こさせるから やめましょう
何か話して やさしいのがいい ただやさしい話
切なさの片鱗が泣き出す
やさしさは酷さ
微温のまま
あなたは むざむざと わたしを見殺しなさるのです
二人であるとき わたしたちから 世界は遠ざかるのに
薔薇を切る
影深く すがしい夕べ
薔薇を切る
濃い赤の重さがつらい
狂い咲いても崩れても
だからあなたは 薔薇を切ろう、と思った
透きとおる
快楽の背に潜む寂しさ
ざわめく微熱の行方
透き通っていく羽の震え
今しばらくの激痛の時
であう
であい・・であい自体が運命の必然だという人もいる
突然粗い木綿糸で不器用に縫いこめられる
仮縫い糸かと・・それは錯覚
しっかり縫いこめられる
逃げない 長い年月
運命という魔術 魔力
あり得ない地図の上 重ねられない地図の上
時計の文字盤が 交差した
どのような風が あなたを運んできたのでしょうか
どのような風が 運命を知らせたのでしょうか
平坦な道ではありませんよ 惨い道かもしれません
人は言った
意思なければ たちまち行き止りです 墜落です
低空飛行 スレスレ
物の輪郭がいっそう露わに明確になりました
紛れもなく わたしの道
生き急いだかもしれません
前のめりになって 歩いてきました
わたしを生きてきた、と
そう見定めるのは・・冷静な狂気でしょうか
秋から冬へ
秋の進みは遅かった
風の訪れ 退行する陽射し わたしの手の皴とひび割れ
けれども日々は輝く 鈍い紅葉さえ 秋のこの世の自然
長い午後に 無聊に 遠ざかる人影に 耐えるとしても
記憶すべきこと 紡ぐこと 手のひらの中のさまざまなこと
数日ぶりの日の光が カーテンのそよぎと遊んでいる
切れ切れの雲を追いかけて 喜びの空へ のびやかに
薔薇のつぼみは赤を唇のように広げ始めた
何を畏れる?わが身もわが心も測りかねる
背に張り付いている過剰を
戒めるように 閉じこもるように 安らうように 穢されないように
一瞬の迷いに狂うことないように
秋は熟す 緩やかに確実に
土に潜り込む虫たちの その跡が 庭に点々を作っている
きっぱり厳しい上弦の月
冬支度
きりぎりすには きりぎりすの感懐もある 意地もある
うつむいた非情 否定しない非情 言いつくろうともしない非情
嘘さえつけない非情 平然と嘘をつく非情
地上の 朝暗 夕暗
過去さえも不確かになり 不確かの面積が徐々に増している
記憶は霧の中においてきた 果たせなかったこともおいてきた
まだひよこやメダカの類じゃないかと 叱り飛ばす声が聞こえるのに
わたしの何かを 未来に放り投げる
激しい青は秋に似合わない
極彩色の鮮烈から濃い紫に沈んでいくもの 抑制されていくもの
収穫の秋というが やはり寂しい
秋雲が動き 真珠色の震え 檸檬色の華やぎ
光さまよう空は早くも次の季節の気配を知らせる
ススキが寒風に唸る 冬が来る
木枯らし
幼い日の夏
木枯らしの森で聞いた蝉時雨
蝉の命の束の間は わたしたちもまた同じ
秋の終わりの木枯らしを聞く
身を木枯らしの森の下露
ああ 情感の先端の 鋭く鋭い木枯らし
焦りや悶えこそが わたしに相応わしい
エロスが笑う
年月経れば 醜いとさえいえる身体
口惜しや 時の刻んだもの
それとてなつかしく 愛しい我が身体
だから いっそう エロスが笑う
夕の薄闇に 木枯らしと わたしと
ゆっくり傾いていく 盲いていく
孵化させたい幾許かのものたちが
彼方でしきりに騒いでいる
無言
あなたは無言だった
収斂されていった
古びることによって
最後に残された 僅かな僅かなもの
手に触れれば たちまち形を喪うもの
だから あなたは 困惑して・・
触れようとはなさらなかった
夕日に
群れを離れた一頭の馬がいた
野原を駆け回る
野生への激しい憧憬が滾る
彼の流儀のまま 内部の促しのまま
毛並みを風にはためかせて
末枯れた風景を一身に背負って
夕日の赤さがやがて熱を失う時刻
日暮れのもっとも純粋な青い空が馬の向こうにあった
馬の目は何を捉えているのだろう
まもなくすべては黒に溶けていった
さようなら
さようならとは
「左様ならなくてはならぬ運命である故、お別れいたします」という
意味をもつ挨拶のことばだと 知って畏れ慄いた
惜別から遠いところで さりげなくわたしたちはさようならを繰り返す
そんなにも深い意味をこめて私たちは日常の別れを告げない
が、確かにそのような覚悟をもつ別れが 日常に多く潜んでいる
今更に さようならに慄く
十二月の薔薇
記憶の指先が ため息色の息を吐く
季節を違えた十二月の薔薇は
咲こうとして悶え 萎れていった
雪嵐の中で動かなかった
逝き遅れた十二月の薔薇よ
残された薔薇の記憶よ
薔薇とわたし 互いの指先が触れている
やさしい悔いが忍び寄る
魂の袋
布の ほら そことそこを 縫い合わせて
綴じ目をつくる 袋をつくる
人生の容れ物も また そのようにして・・
さあ 何かを入れて 蓄えもして 時にほころびを繕い
もって行かなければならないんですもの
墓標のところまで
流域を遡って 水に浸かっているところまで
本当はわななきわななき 後ずさりしたい
思わず 後ずさる
そうして そこから先は もう何も持たない
その時 魂は 見えない魂の袋にあらためて何か入れるのでしょうか
母
戯れならず
見るにみかねて おぶった おかあさんの
あまりの軽さ 頼りなさ
泣くに泣けず
積年の母娘の葛藤・恨みなんぞ みんな溶けてしまった
あの人は 生きながら もう仏さんだもの (去年の夏 姉の言う)
母だけに見え来るもののあり ゆらり ゆらり
橋姫ならぬ母が 夕方の道に佇む
お父さんが帰ってくるの
お父さんの夢見たや 姿見たや
お父さんは お母さんの夢に 縦横に姿あらわした
山に行くとお父さんがいるのよ
なんと若い姿ぞ 懐かしや
あたしは 白髪皺くちゃで
も少ししたら あたしも山で若返られるか・・
また来るからね
見えているのか見えないのか 声の方に顔を向ける
白髪が 夏の強い陽射しに光る
遠近法の消尽点のように さあっと 母が遠ざかっていく
今ここに この世にあるのに 母がなんと遠いのだろう (ベランダの別れ)
ガン細胞は外部に向かって 恐ろしい勢いで増殖し皮膚を食い破った
リンパ液と朱に近い明るい血に浸った その開口部に
白い米粒か、おからのようなガン細胞が ポロっと不敵に笑っていた
もう痛くないからね もう痛くないからね
まさか、の母よ 声一つかけず 残さず
真夜中ひとり逝ってしまった母よ (最期)
この冬
切なく絡みついた根を
多くを
葬った 累々と
冬の庭に 冬の山に
身を屈めて そうっと優しく葬らねばならなかった
凍てつく土に 作業はつらく さくさく悲しかった
病みそう
冬の夜が長い 容赦なく長い
病む方がらくかもしれない
時を環らせ
差し招く幾たびの幻影
滅びていった美しいものたちの微塵
流れていったものたちの 行方を知らない
時を環らせ
ああ、昔を今に戻してくださいな
揺さぶられず 生きますから
小道の先に 微かにものの見え来る・・
それも得体知れずのまま
たちまち わたしたちの時は去っていく
時を環らせて 生涯かけて
辿り着けない 至り得ないとは・・
あわあわの無限を抱く
時を環らせ 時を環らせ
帰趨
生の瀬戸際で 命は根こぎにされる
個体の銀河宇宙が崩壊する
人に与えられたものはただ時間だけだった
何一つ物を持たないで わたしたちは去っていく
この世のことは この世で
此岸の終わりまで執着するだろう
彼岸は それまでわからない
時の砂は一時も落下を止めはしない
生きる姿勢 死に対する姿勢
老化とは 生物学的自己喪失 細胞が再生のプログラムを裏切る
老いは元に還るプロセスとは思えない まさに生物学的自己喪失
が、それは 新たな命への漸近線か・・
胸いっぱいの愚かさに生きてきたわたし自身を
抱擁する
あなたはひとり泣いてくださるだろうか
帰趨を知らず うろたえるわたしを
今は
知の海に溺れることなく
疑いの海に溺れることなく
歩いていく
晴れるごと 曇るごと 雨降るごと あなたを思う