「e-文藝館=湖(umi)」 詞華集 投稿
たかぎ とみこ
やさしい濾過
木 冨子
目次
皮膜・・サン・マルコ広場 やさしい濾過
月のヴェネチア 魔法 無様 レース
こい 瘴気 トルチェッロ マスケラ(仮面)
カフェ・フロリアン ゴンドラ 老人 消える
雨 潮 逆流 猫 死者たち
アルセナーレ造船所 東方への視線 冬の雨
立ち去る 便り
皮膜・・サン・マルコ広場
ラグーナからヴェネチアへ
海からの玄関口サン・マルコ小広場へ
翼あるレオーネ 聖テオドシウス戴く 二本の柱が高く立つ
プルーストは記す
オリエントの過去が姿変え 柱となって此処に立つ、と
グレーと薄い薔薇色
その二本の柱 結ぶ線上を忌避されよ
そこは嘗て公開処刑場
夜明けには静まりかえって ただきらきら光って
夏の午後 稲妻の麗しい閃光が照らし出す
冬には 水が嘗める あの広場
回廊の列柱の丸み 天井の窪み 石の廊下の冷ややかさ
カメラ・オブスクーラ(暗い箱、ピンホール・カメラ)から 覗き見る
今しも まっ逆さまの天使は微笑んで
今がそのとき、今がそのとき、と そそのかす
鳩に餌やる少女の肩に 今しも手負いの翼が覆いかぶさった
やさしい濾過
やさしい濾過
通り越していくこの世
・・行き過ぎて 透明になる
この世の皮膜を通り越す
ひそかな楽しみ
行ったり来たり
月のヴェネチア
月は中天にかかった
ヴェネチアの海は行き交う船と沈黙で支え合う
海は知らんふりをきめこんでいるが
人をおのが口に吸いとり呑み込み
胃の腑で消化してきた
ゆったり緩い旋律を保ち
そして夜毎
人と多くの秘密を共有してきた
岸辺で 船で 恐れる
何処まで続くの この水域は
すぐにツルリとした表情に戻って
ラグーナはのっぺり
霧ともなればさらにのっぺり
呑み込まれ溶かされていく
ラグーナの皮膚の下
ラグーナの旋律の下に
遠い昔
伐り出されたトネリコは ラグーナに打ち込まれ
都市の真下 密生した堅牢な森となった
彼らは黙して語らないが
ヴェネチアの重さすべて
おのが背に引き受け きりきり身を捩り抑制し
そして幾夜
人の深い夢に入り込んできた
今 中天の月が光を放つ
魔法
ヴェネチアで 人は魔法をかけられて
立ち尽くす影になる
街を徘徊する影になる
波に痙攣する影になる
張り巡らされた水路が 潮の干満を告げる
毛細血管に 沸騰した血液が流れる
水が流れるように 血が流れるように
人の暮らしや愛憎が流れる
逸楽を愛するのは 人という生きもの
ヴェネチアは ひっそり高らかに 唱和し礼賛する
マスケラ・仮面の下で 戯れに
曝された欲望は 人の本性を露わにする
析出され結晶化された その本性
しかし より明晰であること 冷酷でさえあることを
ヴェネチアは 知らしめる
心して生きよ 金星が空にある
心して生きよ 心して
ゴルドーニ劇場のポスターがちぎれている暗い小路
魔法を背に貼り付けて ひたすら歩く
無様
思い繰れば 内部で無様な音しきり
無様はいや
いいえ、無様はやさしい
もうこれ以上崩れ堕ちることなく
後悔の底にやさしく沈んで
痛みやわらぐを待ちます
レース
昼下がり ブラーノ島の女は編む
ボビンレース 丹念に縁かがり・・現実も繕いたい
今日は黒い炎のレースを編む
炎は広がっていく
もつれた糸玉をなだめなだめて・・
ああ、解きほぐせない
喉元つかえ 胸つぶれ・・
嫌だ 嫌だ
炎の群れは 烈しく動く
黒い炎の群れ 烈しく燃え 澄み渡り
やがて沈んでいく
燻ぶる胸の焔
透きとおらない哀しみ
熾き火はまだ熱い
女はレースを編み続ける
こい
こいするとは
じゅんすいな かんじょうとたましいを
たしゃにさしだすこと、と ひとのいう
・・・あるいは よくじょうのはつろとも
けがれない あついおもい あついしぼ
かたこいの びねつ はつねつ
わかいまっさらまっすぐなこいは いちどきり
いつまでの あついものぐるい
いつまで あつい?
ふかいこい くらいこい
なぜ ふかく くらい・・?
みをほろぼすこい くるうこい
みほろぼし くるえるなら!
もののまぎれによって こいはうまれる?
・ ・もののまぎれ!
こいはまどいのびがく?
としつきかさね こいは しおれ
なお ひとはこいをかたるが
うすらあかるい みほろぼさぬ
そして うしなうばかりの
こい・・よ
瘴気
瘴気はこれから膨れ膨れ
沼地から這い上がり
静寂のうちに 密やかに 着実に 浸透する
粘菌たちのダンスさながら 身くねらせ 膨張拡散
微生物たち 互いの緊密を! さあ歓迎祝宴 増殖祈念!
大いなる繁殖 とめどない腐蝕
うっとりするよ
おまえたちをなだめることなんて できない
わたしも なだめられず 荒々しく生きる
トルチェッロ
昔 ヴェネチアで初めて人が住み
栄えた島の名はトルチェッロ
濡れた土が 瘴気が誘うマラリアが 住人をなぎ倒した
一人降り立った船着場には野良猫が数匹
忍び寄る水に追い立てられた運河の細道
悪魔の橋は名前に負けて静かに在った
昔の夢をもぎ取られ 残されたアッスンタ聖堂
深き悲しみの たまゆらの不思議
モザイクの慈悲の聖母は微笑まれた
マスケラ(仮面)
マスケラを被る
仄かな闇の優しき空間
おのが面(つら)は暗がりに くぼみ沈んでいく
僅かな空間が 時に息苦しくも
あるいは思いもせぬほど 深く深いこと
ご存じか
吐く息の甘さ 痒みある安穏 くすむ意思
マスケラとわたし 互いに食い込み 分かちがたい
感じているのは おまえなのか わたしなのか
マスケラの虚ろの下の わたしの虚ろ
静穏に 不気味に 魂が震え 一瞬の跳躍
狂えれば!
静もり鎮まり マスケラが歪む
金の斑模様の遠ざかる
カフェ・フロリアン
見事な念入りな仮装にいたしたく あい努めました
言葉は要らない 素性本性はとりあえず脇に
さあ、何人にも おのれ明かさず
顕わはタブー
ヴェネチア サン・マルコ広場の回廊
カフェ・フロリアンのガラス窓の内側は
十八世紀の貴族さながら
いわくありげな雰囲気かもす人ばかり
今夜は特別な夜でございます
この日の装いをなされた方 そのまま中にお入りくださいませ
これまたお仕着せ姿の 美青年給仕がさし招く
紫 緋色・・ヨハネの黙示録さながらの罪の装いして
何を言われます!紫も緋も高貴な色でございます 紛れもなく
高く結い上げた髪に 紅色のドレスの老婦人は
グロテスクと豪奢を混ぜ合わせて鎮座
向かい側から女絵描きが デッサンに余念なく
おお、実物よりかなりの美女が見事に浮かび上がる
髪粉をふるった巻き髪に 金の縁かがり群青色のマント
初老のにわか貴族は 葉巻くゆらせ 至福の時間
生まれてきたのが遅すぎた 時を間違えたのだ
悔やむべきはそのこと 哀しむべきはそのこと
みな極めつけの 偽貴族に相違ない
いえいえ 本物の貴族もいらっしゃいます
没落の何のと形容詞つけるなど滅相もない
老いの身の華奢など滅相もない
正真正銘 隠然たる勢威の御方たちでございます
黒い総レースの女 赤い羽根飾りの帽子の女
生き返り・・たちまち干からびたと形容したいが
なかなかに魅力的 心震えます
そう、ミイラじゃないのよ 化身なの
優雅など無縁でいいの これは戯画ですもの
(当世日本発のコスプレと同じ、などと どうぞ言ってくださるな)
(コスプレもコミックも今や世界中に発信、駆け巡っておりますよ)
そんな目で見つめなさるな
偏見のかけらなど捨てなさい
僕は男が好き 彼女は女が好き・・今や世の中も認めてくださる
東西古今 いつの世にもございました
それだって真摯な生き方 真摯な愛
・・それでも戸惑います
満ち潮の予感 期待と不安
駆られ狩りたてられる獣の快感にも似て
恐怖の真中の あきらめ? 満足?
命がけの
やがて引き潮の現実
消えていく・・
引き潮の諦観と安堵
ヴェネチアに 人は引き潮を見るのです
おのれの人生の引き潮を 真っ白の直線を
だからこそ このカーニバルの夜が輝く
しかもその潮の干満はとめどないこと 記銘されますよう
ゴンドラ
船頭さん ゆっくり漕いでくださいな
ゆるゆるゆらゆら あやめの記憶
日暮れて もののアヤメ分かぬまで
あやめは網目 ものの筋
あなたはあやめ分かぬはずあるまい
ヴェネチアの網目の運河
旅人わたしには あやめ分かぬ ラビリンス
水深き非情 水浅き非情
運河も暗い路地も なにやら恐ろしい
曖昧模糊の この時間
たそ・かれ・・・誰そ・彼は?
空気が寂しさをます
カンツォーネ 歌ってくだされ
恋の思い出 カタリ カタリ
残像の透明さ わが内部にある酷薄
いいえ あまりに萎れた花 それがわたし
恋のツケ まだ恋の重荷も残っておりますか
インテルメッツオ・中休み 人生に不可欠なれば
せめて このゴンドラの揺れに暫し休みましょう
小さな水しぶきが 憐れみならず
ただひそひそと呼応する
紫、紅、金、銀、黒の・・・きらめき
弾き飛ばされ 零れ落ち
夜が沈んでいく
老人
快楽は泡のようなもの
浮かび上がる泡 消える泡
けれど その泡こそが男を支え 生きがいとも畢生の夢とも
老人は澄んだ目で告げた
女こそわたしの願いのすべて 楽しみのすべて・・だった
感覚器官の対象 そう言うと嫌悪されるかな?
一番まっとうなものさ 感覚器官は
激しく生きた 情欲ゆえ
言葉は美しく響いた
そのように女に向かうこと・・
そう言い切る男をわたしは知らなかった
何ゆえ 何のため 在るのか
・・そう、男であるわたしの存在理由は・・女のために在ること
確かな情感に支えられて 官能に溶けていく
これ以上ないほど明確だった
が、その官能の先に何があるだろう
慈しむ愛 苦さを共に味わう愛
それでも愛は虚像 愛は虚偽・・
わたしはうろたえ立ち竦んでいた
迷い込ませ 呑み込み 腐らせる
その湿地の意志の只中に
わたしは生きる
危うさに震える
もうこれ以上
曖昧になってしまわないように
微笑の解釈を誤らないように
消える
暗い運河に砕けてしまった
決定的な線引きをしてしまった
断ち切った?・・違う
運河を這う霧が消えてしまったように
突然 ないことに 気づいた
萎えた影が崩れ折れ
水行の跡はすべて消え ひっそり静もった
逃してはいけなかったか
捉えなければいけなかったか
単純な冷ややかな拒否があった
・・或いはただ見定めただけ・・
思いもよらなかった結末
こだわることない偏執ない生き方は無意味と思っていた
けれど 結果として突然すべてほぼすべて消えた
PS
見喪うかのごとく生きられるでしょうか
そのように生きられるでしょうか
雨
おやおや 水浸し
サン・マルコ広場
すべて水浸し
地中海式気候の冬 雨は終日降り続き
そして高潮がやってきた
おお、アクア・アルタ アクア・アルタ
街に水溢れ わたしの内部に水溢れ
潮
朝凪を見つめる
ちぎれ雲の深い紫 仄かに光る水平線
島々を往き来する舟
やわらかな霧に 溶けていく
遠き日に繋がる干潟
潮満ちるごと 潮引くごとの 静かな恐れ
ラグーナという土地もまた 精神を持ち
人を規定するのです
あらわになった干潟の連なりに
完璧にして美しい嘘などあり得ましょうか
満ちてくる水の深さに 足とられ うろたえる
無力さこそが わたしでした
逆流
時は 逆流しない
血も 逆流しない
逆流などしないのだ 血も時間も
潮のごと 愚かな心は逆流する
心は逆流してばかり
それが人の心の事実 機微 ありよう・・とも
旋律を終わりから歌えない そのように
始めから終わりへ そのように人は流れ生きる
昔 埋め果て終わらなかったこと
今 埋め果て終わったこと
それにしても 時間はいっそう早さを増している
流れはわたしを追い抜いていく
時間はわたしを追い抜いていく
猫
ヴェネチアの窓辺の猫たちは つんとおすまし
狭い路地を 優雅にうろつく
御用心
たとい浅くとも 運河に落ちたら この世とさよなら
湧き出る霧 対岸の島を隠し小路に沈む霧
特に御用心
昔 水に浮いた猫を見た
ピカピカ輝く藻がびっしりついた緑の猫の・・屍
とてつもなく恐ろしく美しく
目そむけ ようやくそこから離れた
猫は追いかけてきて 記憶に張り付いた
今も恐れる 幼い心に刷り込められた痛切な・・
美と死 溶け合い流れた時間
猫の瞳に運河が映る
緑の猫を ヴェネチアの猫もまた恐れるだろうよ
死者たち
死者たちは 胸に在り
数を増し 影を増し
ささやき 招き 戒め 示す
今 そこに在って
誇り忘れぬように 望み絶やさぬように
ひっそり確かに生きよ、と
我らと界を同じくする その日まで
死者たちは ずっしりと重くなった
そうして再び わたしは 失うばかり
青褪め 青褪め
やさしさに沈む境界から
今しばらく 離れよう
アルセナーレ造船所
海洋帝国ヴェネチアの成り立つ最も重要な場所だった
もはや昔日の面影あるはずなく 軍艦ガレー船は遠い昔語り
アルセナーレ造船所の門口(かどぐち)には
デロス島やピレウスから 由来さまざまな獅子たち・・
鎮座する獅子 語らぬ獅子 疲れまどろむ獅子
途切れた夢の足音もなく
像は暑熱にうなだれ 悔いのように重い
獅子よ 語れ
果たせなかった過去の残骸
残された強靭な胃腸と めげない消化力
巨大な流動体だった ヴェネチア
その動力だった アルセナーレ
ゴンドラのはかない櫂音に慰められる
東方への視線
ヴェネチアの景観に視界を奪われ漂い歩く
今ラグーナの遥か遥かまで彼方まで
じっと目を凝らし 見られる限り 見たいと思う
涸れることない 尽きることない欲望だったヴェネチア
ビザンチン帝国の「愛娘」であったはずのヴェネチア
第四回十字軍ドージェ(執政官)ダンドロ率いるヴェネチア軍は攻め入った
憧れの都「世界の半分」東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに
以来 ヴェネチア海洋帝国はありとあらゆる「宝」を組織的に持ち帰った
東の香料や煌めく宝石は言うまでもなく
サン・マルコ大聖堂の獅子や馬たち アルセナーレ造船所の獅子たち
教会のその聖遺物 聖者の遺骨 毛髪 皮膚 指・・にいたるまで
みな東方ビザンチンからの略奪の品
やがて オスマン・トルコの脅威からじりじりと西に退き
コンスタンティノープル 聖ソフィアの壁画は塗り込められた
ヴェネチアはイスラムの寄生虫になったと 歴史家は述べる
大航海時代に膝屈し スペインやポルトガルの栄華は滴らず
千六百八十七年トルコ軍との戦いで
アテネのパルテノン神殿を破壊したのはヴェネチアだった
ナポレオンに征服され 五百年の歴史を閉じた
昔日の海洋帝国のさまざまな戦闘、商行為、華やかな祝宴・・
今 陽気な祝祭を 穏やかな日々の営みを わたしは追う
ヴェネチアの運河に道に家々に
ありとあるもの ひたひた浸透するを見る
わたしは見る
冬の雨
ヴェネチアの桟橋で きらめいていた
冷たい雨よ 降り止むな
運河・カナルに 音なく水は流れていた
ラグーナの水よ
流れ止むことなく 潮の導きのままに
淀まぬように 腐らぬように
過ぎゆきの雫のすべて わたしを濡らせ
やさしい雨 わたしに降れ
立ち去る
再び その名詞を唇にのせることなく
その名詞は空気震わせず 霧に紛れ
その名詞にわたしは慄えることなく
雨に打たれ きりきり生きていくだろう
説明しがたく、しかし見誤りなく
一瞬のうちに明らかになったこと
紛れもなく内部中心から流れ出した
だから
立ち去る
が、ヴェネチアよ
わたしは逃亡しない
生きる
便り
元の都 大都より 遙に遙の国を 思います
この広大な威光に満ちた 世に響き渡る元の国とは比べようもない
しかし 世界に飛躍する交易国家 誇り高き都市国家
これまた世に響き渡る 我らがヴェネチア
我がヴェネチアへの懐郷の念が
ふと影のように たちあらわれ寄り添います
若い月日より 移動し旅に生きる暮らしが始まりましたので
その生き方に馴染んでおりました
今のわたしには 懐郷もまた 常日頃の気晴らしとさえ言えます
さらさらと明るい影の翳なる 懐郷の念
とは言え かくも長き月日の堆積に 思えば些か動転
天地神明に賭けて 帰郷への逸る想いも また真実であります
我が終わりは 此処 元の大都に完結するか はたまた・・
運命は 我らそれぞれに神の割り当てられたものゆえ
あの御方に委ねます
この大都こそ 世界一の繁栄ぞ
世界の覇者 蒙古・元の大帝国
さてさてとくとご覧あれ しかと耳に刻まれよ
大いなるフビライ・ハーンに仕える身になるとは 如何なる定めだったか
国を遠く離れる定めは 我らには常のこと
我らは 物を売り買い 物を運んだ
多くの猜疑 欺瞞 嫉妬 憎悪 混沌 錯綜 さまざま取り囲まれ
すべて日常茶飯事 驚きませぬ
そうして生きてきた
それこそ男の本性自然 男の生き方と 決意と自戒の繰り返し
ああ 絵空事と切り捨てられぬ現実
わたしはまだまだ この世に生き迷う
烈しく生きていると 思っていられれば それは幸せ者
いささか 冷えた心地ながら いや冷徹に生きております
冷徹でなかったら 生き長らえてなどいられましょうか
分裂した野心と諦めの真ん中を横切って
ヴェネチアの懐に 必ず いつの日か 必ず
遥か彼方のあなたに お便り致します わたしは帰還の旅に発つ
ようやっと ヴェネチアに帰ります
あなたを忘れませぬ もう顔もおぼろ 定かでありませぬあなた
過去の影のわたしは 過去のあなたと常におりまする
ヴェネチアの溢れる光と 波立つ桟橋
あなたの手をとって ゴンドラで出かけた島
花束を水路に投げて 二人はからからと何の屈託もなく笑った
あなたは幼かった
今もあなたは誰かと笑っておられるだろう 婉然と・・心は知らず
水と一緒に笑っておられるだろう 物憂げに 怠惰に
わたしの いや一般的な男の 冷徹や計算は
あなたには無縁であって欲しい
ただ平凡と穏やかさ 静かな幸せを
そういう女の・・生き方?
そんなことでは一日たりと ヴェネチア女が勤まりませぬと
あなたは微笑まれるでしょうか?高笑いされるでしょうか?
華やかなお洒落比べ 日に晒した赤く燃える金髪
したたかに臆せず生ききる
そうであってこそヴェネチア女でしょう?と
そのようなヴェネチア女で それでもいい それでいい
あなたが 成熟したあなたが・・あるがままに
ただ 我が眼にあなたの姿の映る日を 念じます
その時まで さらにどれほどの月日が過ぎていくことか
ヴェネチアより あなたへの便りが届くこと
恐らくはないでありましょうが・・
そう書きながら 我らがヴェネチアの商い人の正確な組織網
わたしは確信もしております 届く、と
必ずやお手元に届くのを信じて 東に赴く商会の人に
我が便りを託します
あなたのお姿の 消え去ってから幾星霜
あの時 わたしは幼すぎて
恋とは知らず ただただ幼馴染の遠縁のあなたを 眺めておりました
いえ、それは嘘
表現の仕方や愛の形を知らないだけ
恋だと 痛く知っておりました
待ってはくれぬ時間を遠くに紡ぐあなたも ここに留まるわたしも
髪の艶やかさを失い 目尻のカラスの皺のちらほらが いつしか深い
わたしの時は過ぎました
あなたの境遇が 如何なるものでありましょうと
また わたしの境涯が 如何に閉じられつつあるものでありましょうとも
痛恨という言葉は・・ ありません
風の便りを 聞きました
嫁がれる王女様の御同行をされて ヴェネチアへの帰還が許されたとか
どうぞ 無事帰還なされますよう 祈ります 祈ります
わが同族の 遠いあなたよ
ああ、遠いあなたと響き会っている月の光
天心の月明かり