「e-文藝館=湖(umi)」 詞華集 投稿
たかぎ とみこ
シ
チリア 木 冨
子
ゲーテ
「世界の歴史がこれほどたくさんの進路が交差する
この驚嘆すべき土地にわが身を置くのは、
決して無価値なことではない。」 1787.3.26
目次
シチリア イカロス パレルモで メドゥーサ
レジのおじさん アグリジェント 夜の遺跡
マレーナ アレトーザの泉 昏い海 とうことの
遺されたもの ギリシア劇場・・タオルミーナ
四月九日広場 静穏 朝を待つ 無知は知
柘榴の聖母 パレルモ・ジェズ教会
シチリア
激しく衝突し
流れ込み 滑り込み 紛れ込み・・溶けていく
シチリアの真昼に 嘆きの声は続く
果たせない約束は 螺旋を描いて浮遊する
地中海のど真ん中
シチリアの歴史は敗北の物語だったか
あるいは 絶え間ない妥協と懐柔の交錯する
やわらかな波のうねりだったか
イカロス
羽をもがれたら 飛べない
イカロスは羽を貰って・・墜落した
恨みの羽よ 恨みの熱よ 恨みの蝋よ
わたしは飛ばなければよかったか
父は 息子の命だけはせめて存分に生かしたかった
翼に託した・・クレタ島から・・
そして・・
父ダイダロスは イカリアの島に息子を埋葬した
吹き募る風に 父はただ呻いた
シチリアに降り立ち なお烈しく死を願った
この地に辿り着くべきは 息子イカロス
何故 我は此処に到り 彼は到らなかったか
神の業か・・・・
父は 途絶えたものを断った
パレルモで
追憶は美しいか
美しいと彼は言った
旧市街の崩れ方は そう何と言ったらよいか
色褪せるなんてものじゃない
一度すべて腐りきるまで知るものか
崩れ果てなきゃ知るものか、と
バロックが壊れていく
半端じゃない 剛毅だろ?
逞しいのさ 壊れる過程にあっても
俺はここで生き抜く
ガラスのない窓
捻じ曲げられた鋳物やパイプ
泥と埃だらけの扉 開けられそうにないシャッター
旧市街の日曜日はいっそう雄弁にこの街を語った
瘡蓋が剥がれたって 治癒などあり得ない
パレルモは絶望しているか
絶望しながら食欲だけは十分ある
形あれば食べられる 形ないものは食べられぬ、とね
しかし 姿形ない女 逃げた女を 追いかけて 食べたい
痛切に 痛切に
shadow 幻影をあなたは食べている
光と影 もっとも影とは ただ光射さないだけ
絶望している
絶望は影のようなもの
光射さないものが 俺を引っかきまわす
焼き尽くす太陽と 日々の営み
排他的で荒んでいじけて黙りこくる不機嫌
攪拌され濁って 穿たれていびつな
俺もその一人 シチリア男 熱
くて 優しく 粋で 完璧しがない
メドゥーサ
豊穣の女神とも言われた美しい娘メドゥーサは
女神アテナの怒りをかい
頭髪は毒もつ蛇 青銅の鱗に覆われた魔物にされた
メドゥーサが睨むと相手は石と化した
遂にぺルセウスに退治された
斬り落とされた彼女の頭から三本の脚が生え・・
この形象はシチリアのシンボルになった
疾駆するトリナクリアtrinacria
シチリア到る所の土産物屋でその微苦笑した表情に出会う
古代シチリアの名称はトリナクリア
三つの岬はメッシーナ、トラパニ、パキーノを表す
が、三本脚の形象はギリシアで既に現れていたはず・・
戯画化されたトリナクリア
可哀そうなメドゥーサ おどけた陽気な顔して走り続ける
メドゥーサに怖さより哀れを思うのはわたしが女だから?
メドゥーサよ 怒りと悲しみは裏表 あなたの孤独を思う
せめてあなたの涙が流されたなら 石は元の姿になっただろうか
流されることなかったあなたの涙こそが カギだった・・
(メドゥーサの首級をあげた男)
髪の毛の一筋一筋の蛇 今は蛇も瞑目したぞ
メドゥーサよ 今こそおまえを打ち倒す時!
相手を凝視し射すくめ石にした
おまえの憎悪と激越が
我が胸に響く
無数の矢になって わたしを射る
止むことない攻撃あるいは守備
おまえはわたしを苦しめ続けるだろう
痺れ薬がわたしに流し込まれるだろう
オトコとオンナの戦い・・か?
(メドゥーサ)
ポセイドンとわたしの愛に わたしの髪の美しさに
アテナは嫉妬し 怒り狂った
わたしを貶め 魔物にかえた
まだ飽きたらず ペルセウスに討たせた
魔物討つは正義の行いぞと
首から滴り落ちた血より ペガサスが生まれ
空駆ける馬は彼の所有となった
首は憎きアテナの盾に嵌め込まれ 彼女に尽くしている
すべて屈辱以外の何であろうか
わたしは闇にさ迷う 涙は流さない
(メドゥーサの単純なる協賛者)
思えば 心優しい女たちこそ メドゥーサになりたいんじゃない?
メドゥーサはかっこいいなあ
だって敵対する男 憎い男 煩わしい男 気に食わない男 みいんな
じろっと睨んで 石にしちゃったんだもん
ああ一回とは言わないわ 数回だけでもしてみたい!
数回なんて可愛いすぎて つまんない
もっともっとたくさん石にしちゃお
いつか男にやっつけられて 首掻き切られる運命
それだって甘受いたしましょ それまではわたしの勝ち
奔放に 熱っぽく荒んで
メドゥーサの後裔わたしたちの 滅びの教え、よ
喝采して
本当は同性の女 アテナこそ敵よね 複雑ねえ
わたしにも そのことは分かるの
レジのおじさん
飲んだくれでも 頭はしっかりしてる
レジの前で眠りこけてた? そりゃ暇だからさ
レジが俺の領分 俺の仕事 存在の意義
とにかく坐っている 確かに坐っている
体と心 二つ一緒にいるのに疲れたよ
陰鬱な雨の午後
眠っていれば 救われる
体は いつだって棄てられる
(おさらばしたくないがな まだもう少し)
心?心はどうなるだろうか?知らないぞ
燃え尽きて消えていくだろうよ さて、魂は?
心は水の器 いつも漂っている・・どこまで流れ沈むか
心は風の器 いつも騒いでいる・・まこと無駄なる・・
心は火の器 いつも燃えている・・そのうち燃え尽きる
魂は?・・漂い騒ぎ燃えているよ・・
いいや 燃え尽きぬはずの魂は神様のもとへ
彼は答えるだろうか
わたしの心も
水の器 風の器 火の器・・・
やがて器は毀れ 記憶の布さえボロボロほどける
わたしは去った
・・旅人とは去る者
人はみな しばしの旅人
時間にも空間にも限定され 追い立てられて
アグリジェント
アグリジェントの春野に花溢れる
遠い時間の向こう
あなたは此処に安らっていた
風と光と 人々の賑わいと 春の営み・・
一瞬の幸せ
ただ安らえば よきものを
あなたの目は 告発していた
なぜあの黄色の花をまともに見なかったか
あなたは立ち去ってしまった
酷い結末を招きよせて
常ならぬ在りようを
あなたは望んでいたのか
以来 ひそと声もせぬ
何故 声立てぬ
無言のうちに 諭したはず
時は過ぎ去ったのだ、と
遺跡に小さな花の咲き
倒れ毀れた石たち 嘗て 象られた 形ある石たち
円柱 床石 調理台 墓碑・・
この世に残るもの累々 ひっそり重さを増し胸に沈んだ
光のわが目を射れど
眼裏は赤き闇
うす闇 赤い闇 暗い闇
何処まで行っても あなたに近づけない
くっきり真白く また真黒く
真白きもの 真黒きもの 寄せ来る
空一面 ひしめく中に
光を背負い 微かに微かに声がする
遺跡を下って 白波が咬む海へ
幻が滅し 望みは絶える
絶望など大したことはないぞ
幻滅もまた・・幻は幻 消えて元の薄闇
夜のアグリジェント遺跡
底なしの静けさ
危うい境界に 往来する
わたしは あなたに まだ迷っている
夜の遺跡
象るものなければ その形ないことを
擲ち 擲ち
再び 嘗ての形を慕います
夜行往来
変形自在 どんなものにもなりまする
流星群の 降りしきる
マレーナ
美しく若く マレーナである人生を・・
レモンの果肉食み 酸っぱさに胸傷んでも
マレーナ 花は萎れてしまうのだよ 早々と
美に撓んで
わたしたちは生きる
生きるとは砂噛むごときものとしても
愛には レクイエムを
苦い戯れに 切ない囚われに レクイエムを
アレトーザの泉
アルフェウス河は海底の流れを辿り
妖精アレトーザに近づいた・・と神話は語る
河の神アルフェウスの情熱がどうであれ
恐れに震え彼から逃れるために泉になった
ギリシア神話には男神から逃れるために
変身遂げた妖精や女神がいた
欲望あるいは愛は乙女の心に届かなかった
春の風に 変身した女は泣かない
愛に拘るよりも すっきり潔い
潔くあれ!女たち・・女はそれほどに潔いか?
軋む心に 愚かな問いは行ったり来たり
アレトーザの泉に 今も水湧き出でる
昏い海
このまま昏い海を漂いましょう
昏い海 それはわたし・・だから
夜の闇に
絶え間なくうねる海
あなたには見えないでしょうか
零れ落ちていくもの
飛び散っていったもの
紛れもなくわたしの内部から出現したのです
とうことの
あなたを訪うことの叶いがたければ
また あなたに問うことの哀しく空しければ
遺されたもの
かつてこのようにあり 今このようにある 女の顔
かつてこのようにあり 今このようにある 男の顔
振り向く女の顔もうつろ 男の顔も静かそのもの
テラコッタの顔は 語らない
entheos神々の呼びかけだった
昔日 情熱に駆られ おのれの血の沸騰したところ
躍動し 挫折し・・今・
ふくよかなランドリーナのヴィーナスの胸乳下には酷い痕跡
ミロのヴィーナスより美しいと モーパッサンは賛美した・・
女に向う腕 既に形を喪った腕は 永遠に届かない
翼もつゴルゴンは自在に空を飛んでいたか?
今 あっかんべの舌さえ笑いを誘い そして寂しい
黄金色の翼もつ風が吹く
春の夜の発情
夜の女神ニュクスは 息子カロンを産んだ
夜は 渡るべき川は・・それは安堵かもしれない
唇は硬直し 竪琴の奏でる旋律は凍り
黒陶の肌は輝き 夜の海を宿した
遺されたものたちの
あまりにひっそり あまりにひっそり
ギリシア劇場・・タオルミーナ
午後の静けさ
エトナは遠く薄青の姿を見せ
太陽が動く 海が光る
春というのに
ギリシア劇場に坐っていれば
強い陽射しに早や疲れる
気だるく気だるい
無言のまま
昔 ギリシア人は 石灰岩を削り 運び出し
海を望む すり鉢状の音響よき劇場を造り出した
修復された劇場は
現代と古代を往復する神聖な空間になる
憧れのみにあらず
古代への不確かな幻惑のみにあらず
心眩まず 目眩まず
透徹した判断 批判精神
冷ややかな凝視 徹底した打算
不気味なほどの手際よさ 策略陰謀
古代も また彩られたはず
伝わってくる その非情が
姿なく 眼裏に 脳髄に 在ること
切々と刻み込まれた 石も 思いも
癒えることなく 途方に暮れる
偏在が不在にほぼ等しいように 不在とは・・偏在でもあり得るが
陽射しを避け
僅かに位置を変え 再び位置を変え
坐りつづける
石の翳りある寡黙
乳白色の光の攪拌
ただ中から浮かび上がってきたものは
沸き返る声
山々は輝く
海、山 到る所に
ギリシアの神々は住み遊んだ
輝く太陽に祝福され 呪われもした
埋もれて・・
容赦ない時間のドラマの中に融けてしまった
眼下の海を行く 夕暮れの船
航跡が消えていく
瞬時の戸惑い
これまでのこと・・
何処にも行き着かなかった
だから わたしは今も漂う
既に既に 時間はすり抜けていき
すり抜けつつある この瞬間も
よどみ蝕まれつつ
なお 確かに脈打ち叫ぶもののある
足掻きにも似て・・
夢の底の深さ
まっさかさま どこまでの遊泳か
四月九日広場
照り返しの四月九日広場を 夕暮れの通りを 熱くぐもる食堂の前を
行きつ戻りつ 老婆は つっけんどんに露骨に手を差し出す
日に晒されて ずず黒い皮膚に刻まれた皴 独特な模様のスカート
シラクーサ発のバスに乗り合わせた女はタオルミーナまで稼ぎに来ていた
ぴらぴら即席の怪しげなヒューマニズム?
安っぽい憐れみも同情も 真っ平御免
昂然と頭あげて日銭を稼ぐ 硬質な拒否と・・ぬるぬるのわが身のしっぽ
去っていく女は夕日の中で融け 裏返して わたしも透明になる
静穏
円形劇場の時のうつろい
これが静穏というなら
今暫しこの静穏をさ迷いましょう
夜 飄々の海
これが静隠というなら 溶けていきましょう
溶けていくのに なんの力が要りまする
朝を待つ
無数の星が輝きを増していく
情念・・などと?
欲望に近い くっきり本能に近い
古代が今もうねる地中海
かすかに耳鳴りがする
厳かな執着は剥落の過程にあり
巨大な流動体・海に
不協和音が立ち上がる
見えぬもの 分からぬこと 信じがたいこと
すべて そのまま あるままに・・
無知は知であるとも・・
見えぬもの 見え 語られぬこと 知る
朝を待つ
朧な山容 朝凪の海 森の木々
ほのかな光が 宿ろうとしている
燃え上がる一瞬 光と影は入りまじる
無知は知
そう、無知は力 無知は逞しい
ソクラテスは言う
疑わしいこと 分からぬことは そのままになされ
知と智 いかなる差異があるとしても
優雅品格、繊細緻密など お笑いごと
透明 半透明 不透明 拘りなさるな・・無知のまま
柘榴の聖母
春の午後
ボッティチェリの絵から抜け出た女に会った
ティレニアの海沿い チファルーからパレルモへ
電車の向かい側の席に 女はふうわり舞い降りた
柘榴の聖母そのものの眼差し
繊細な輪郭 憂愁に目伏せ
また確かな意志と快活さ いっそシニカルさえ漂う
白いシャツにジーンズの 目の前の現代の聖母
こんな人が現実にいる 本当に存在している・・
未だ孕むことない聖母よ
一目惚れ・・視覚の真っ只中
わたしは狂っていたかもしれない
追いかけていきたかった
姿見失って呆然パレルモを歩く
失われたものにこそ 未練は宿る
ボッティチェリの女への思慕 それは激しい渇きにも似る
ただ通り過ぎ忘れていく「出会えなかった」人たちの群れ
逆に言えば その群れの中で わたしはあなたに「出会えた」
わたしはあなたに出会えたのである
面影を再現したいと痛切に思う
再び見出したい
未だ孕むことない柘榴の聖母よ
パレルモ・ジェズ教会
クアトロ・カンティからマグエダ通り
左の路地 雑然とした家々の先
夕の薄闇が漂う教会の扉口に 物乞いの男が立っていた
古ぼけた外観から内部の絢爛へ
シチリア・バロックの嚆矢
黒を基調にした壁は象嵌と彫刻で埋め尽くされ
金色の健康優良児たるバロックの天使が氾濫する
新たな神秘主義の絵 陶酔の表情に時代を思う
燃え上がる炎の感触 その奥に・・
ああ 安らわせてくださいまし
此処こそシチリア・イエズス会の本拠地
ザビエルが訪れた可能性は ない
が、シドッチは日本に渡る旅の直前
故郷パレルモでの短い日々に 訪れ祈ったろう
皆に再び会するは あの世にて
彼の国へ 御心のまま わたしは参ります
コロブコト 主を裏切ること 喪うこと
おのが死よりも耐えられぬ 夏の夜とて凍夜にひとしい
ただ待ち望む ミッションの成就 深き調和
激しく熱い思いが湧き上がる
旅、今回の旅はここに成就・完結されたと
長い時間椅子に坐っていた
傍らの「賽銭箱」にコインを入れ
おふだをささやかな訪問の証とした