招待席
しみづ しきん 小説家 1868.1.11 -
1933.7.31 岡山県和気郡に生まれる。景山英子とともに政談演説など女権運動に没頭の間植木枝盛や大井憲太郎らと親しみ、後に東京帝国大学総長と
なる農学の古在由直の妻となり、古在がドイツ留学中主に「女学雑誌」「太陽」等に小説や随筆を書いて文名を上げたが、古在が帰国後に小説の執筆を禁じら
れ、明治三十四年(1901)一月以降筆を絶った。掲載作は、「文藝倶楽部」明治三十一年(1898)二月号に発表した作。このまま義太夫などの台本にも
して語れるほど自在な語りに異彩を放っている。 (秦 恒平)
したゆく水
清水 紫琴
第一回
本郷西片町(にしかたまち)の何番地とやらむ。同じやうなる生垣(いけがき)建続(たてつづ)きたる中に、別(わけ)ても眼立つ一構(ひとかま)え。深
井澄(ふかゐ・すます)と掲げたる表札の文字こそ、さして世に公(おほやけ)ならね。庭の木石(ぼくせき)、書斎の好み、借家(しやくや)でない事は一眼
で分る、立派なお住居(すまひ)。旦那様は、稚(をさな)きより、御養子の、お里方は疾(と)くに没落。何角(なにか)につけて、奥様の親御には、一方
(ひとかた)ならぬ、御恩受けさせ玉(たま)ひしとて。お家(うち)では一目(いちもく)も二目も置き玉へど。敷居一ツ外では、裸体(はだか)にしても、
百円がものはある学士様。さる御役所へお勤めも、夫(そ)れはほんのお気晴らしとやら。否(いや)と仰(おほ)せられても、這入(はひ)つて来る、公債の
利子、株券の配当。先代よりお譲(ゆづり)受けの、夫れだけにても、此(この)せち辛き世を、寝て暮(くら)さるゝといふ、結構な御身分、あるにしてから
が、噸(とん)と邪魔にならぬものながら、何と遊ばす事であろと。隣家の財宝羨(うらや)むものゝ、余計な苦労も、成程と合点(がつてん)のゆく、奥様の
御贅沢。そんな事は、さらさら此お邸(やしき)のお障(さは)りとはなるまじきも。先づ盆正月のお晴れ衣裳。夫れはいふも愚かな事や。一寸(ちよつと)し
たお外出にも、同じもの、二度と召されたる例(ためし)はなし。そんなのを、何処(どこ)やらで、見たといふものあるにも。お肝(かん)の虫きりゝと騒ぎ
て、截立(きりたて)のお衣裳を、お倉庫(くら)の隅へ、押遣(おしや)らるゝといふお心意気。流行の先を制せむとては、新柳二橋(しんりうにけう)と、
三井呉服店へ、特派通信員を、お差立(さしたて)にも、なり兼(かね)まじき、惨憺(さんたん)の御工夫(ごくふう)。代り目毎(ごと)のお演劇行(しば
ゐゆき)も、舞台よりは、見物の衣裳に、お眼を注がせらるゝ為とやら。そんな事、こんな事に、日を暮らし玉ふには似ぬ、お顔色(いろ)の黒さ。お鼻はある
か、ないがしろに、し玉ふ旦那に対しては、お隆(たか)いといふ事も出来れど。大丸髷(おほまるわげ)の甲斐もなき、お髪(ぐし)の癖のあれだけでも、直
して進ぜましたやと。いつもお外出(そとで)の其(その)都度(つど)都度、四辺(あたり)も輝くお衣装の立派さを、誉(ほむ)るにつけての譏(そし)り
草。根生(ねお)ひ葉生(はお)ひて、むつかしや。朝は年中旦那様、御出勤の其跡(そのあと)にて、きよろりとお眼醒(めざ)め遊ばせど。宵は師走霜月
の、いかに日短かな此頃とても。点灯頃まで、旦那様、お帰宅(かへり)なからふものならば、三方四方へお使者(つかひ)の、立(たつ)ても居ても居られぬ
は、傍(そば)で見る眼の侍女(こしもと)まで。はあはあはあと気を焦(あせ)れど。うつかりお傍へ寄付かば、どんなお叱り受けるも知れぬに。御寵愛の玉
なんにも知らず。のそのそお膝へ這い上り、とつて投げられしといふ事まで、誰(た)がいひ触れての噂ばなし。御近所には、誰知らぬものもない是(この)沙
汰に、此身の事も入れられやう。はあ悲しやとばかりにて、お台所の片隅に、裁縫の手を止め、恍惚と考へ込むは、お園といふ標致(きりやう)よし。年齢(と
し)は廿歳(はたち)を二ツ三ツ、超した、超さぬが、出入衆(でいりしゆ)の、気を揉む種子(たね)といふほどありて。人好きのする好(よ)い女子(をな
ご)。顰(ひそ)める顔の是程(これほど)ならば、笑ふて家をも傾(かたむ)くるは、何でもない事、お園さん。ちつとしつかりしないかと、水口(みづぐ
ち)より、のつしり、のしり、這入(はひつ)て来るは、吉蔵(きちざう)といふお抱(かゝ)え車夫。酒と女と博奕(ばくえき)との、三ツを入れて、三十に
は、まだも間(ま)のある身体(からだ)。七八(しちばち)置(おい)てもくにせぬといふを、自慢の男なり。無遠慮に、傍近く、安座(あぐら)かくを、お
園は眼立ぬやうに避けて『おや吉蔵さん、お前さんもう、気分は好いの 『気分が好くてお気の毒。のそのそ出掛て来た訳なれど。今に旦那がお退庁(ひけ)に
なりやあ、部屋へ下(さが)つて、小(ちひ)さうなり、決してお邪魔はしないから、さあ安心してるが好(い)い。今日は奥様も、折角のお外出(でまし)な
りや、随分共に、お留守事。大事がつたりがられたり、旦那へ忠義頼んだぜ。えお園さん、お園の方(かた)と、妙に顔を眺められ。お園は少し憤然(むつ)と
して『お前までが、そんな事。大概知れて居る事に、朋輩甲斐(ほうばいがひ)のない人や。此中(このぢゆう)からの、奥様の御不機嫌。微塵(みぢん)覚え
のない事に、あんなお詞(ことば)戴いても、奥様なりやこそ沈黙(だま)つて居れ。よしんば古参の、お前でも、朋輩衆に嬲(なぶ)られて、泣く程までの涙
はない。退屈ざましの慰みなら、外(ほか)を尋ねて下さんせと。つんと背(そむ)くる其顔を、吉蔵は見て冷笑(あざわら)ひ『是は是は厳しいお詞(こと
ば)恐入(おそれい)る。流石(さすが)は旦那の乳兄妹(ちきやうだい)、お部屋様の御威光は、格別なものと見え升(ます)る。其格別のお前の口から、朋
輩といふて貰へば、夫れで千倍。此吉蔵、腹は立たぬ礼いはふ。礼の序(つい)でに、も一ツ、いはふが。まことお前が朋輩なら、なぜ何日(いつ)か中(ぢゆ
う)、奥様が、吉蔵をといつた時、お前は、かぶりを振たんだよ。夫から聞かして貰ひたい『ほゝ、改めて、何ぞいの。そんな事も、あつたか知らぬが。私の身
上(みじやう)も知つての筈。もう嫁入りは懲(こり)たゆゑ、一生何処へも行(ゆか)ぬ積(つも)り。お前に限つた事ではない『其所(そこ)でお妾(めか
け)と、河岸を替えたであるまいか、『大方さうでござんせう。さういふ腹でいはれる事に、いひ訳をする私じやない。窘(いぢ)めて腹が癒(いえ)る事な
ら、なんぼなりとも、窘めなさんせ。どふせ濡衣着た身体(からだ)。乾(ほ)そうと思へば、気も揉める。湯なと水なと掛けたがよいと。思の外の手強(てづ
よ)さに、吉蔵忽ち気を替えて『ハヽヽ、さう怒(おこ)られては、談話(はなし)が出来ぬ。今のは、ほんの戯談(じやうだん)さ。邸(やしき)に居てさへ
眼に立つ標致(きりやう)を、人力車夫(くるまひき)の嬶(かゝ)あになんて、誰が勿体ない、思ふもんかといつたらば、又御機嫌に障るか知らぬ。夫は夫れ
とした所で。お前の旧(もと)の亭主といふ、助三(すけざう)さんといふ人にも。此春以来、さる所で、ちよくちよく顔を合す己(お)れ。未練たらたら聞い
て居る。まさかに、そんな、寝醒(ねざめ)の悪い事は出来ぬ。あれは、ほんの、奥様の、一了簡(いちれうけん)でいつたといふ、證拠は是迄、いくらもあら
あな。六十になる、八百屋の、よたよた爺(おやじ)から、廿歳にしきやならない、髪結(かみゆひ)の息子まで、凡そ出入(でいり)と名の付く者で、独身者
(どくしんもの)とある限りは。奥様の悋気(りんき)から出る、世話焼きの、網に罹(かゝ)つて、誰一人。先方じや知らない縁談を、お前の方へ、どしどし
と、持込まれない者はないので、知れても居やう。己れも矢張其数に、漏(も)れなかつたは、有難迷惑。飛んだ道具に遣(つか)はれて、気耻(きはづか)し
いとこそ思へ、夫れを根に持つ、男じやない。其證拠には、お園さん、今日はお前の力にならふ、すつかり、苦労を打明けな。隠すたあ、怨(うら)みだぜと、
手の裏返す口上に、気は許さねど、張詰めし、胸には、胼(ひゞ)の入り易く。じつと俯首(うつむ)く思案顔。沈黙(だま)つて居るは、〆(しめ)たもの
と、吉蔵膝を前(すゝ)ませて『夫(そ)りやあ、己れも知つてるよ。いくら奥様が、どんな真似して騒がうとも。真実お前が旦那を寝取る。そんな女子(おん
な)でない事は、夫れは、己れが知つて居る。だが此邸(こゝ)の奥様の嫉妬(ちんちん)と来ては、夫れは夫れは、激しい例(ためし)もあるんだから、今日
は、余程大事な場合。又此所(こゝ)で失策(しくじつ)ては、どんな騒ぎが、出やうとも知れぬ。其代りには又此瀬戸を、甘(うま)く平(たひ)らに超
(こ)えさへすれば、此間(このあひだ)からの波風も、ちつと静にならふといふもの。悪い事はいはないから、今日は余程気を注(つ)けなと。善か悪か、底
意は知らず。兎(と)も角(かく)同情ありげなる、詞(ことば)にお園も釣出され『夫れはさうでござんする 『が詮方(せんかた)がないから、沈黙(だ
ま)つて居るといふんかい。夫れでは己(お)れが、註(ちゆう)を入れて見やうかと。愈(いよいよ)前へ乗出して『一体全体奥様の、今日の外出(おでま
し)が、奇体(きたい)じやないか。いつもは旦那と御一所(ごいつしよ)か、さなくば朝を早く出て、退庁前(ひけまへ)には帰るのが、尻に敷くには似合
(にあは)ない、お定(さだま)りの寸法だに。今日に限つて、出時(でどき)も昼后(ひるご)、供(とも)は一婢(ひとり)を、二婢(ふたり)にして、此
間の今日の日に、お前ばかしを残すのは、余程凄い思わくが、なくては、出来ぬ仕事じやないか。是は、てつきり、お前と旦那を、さし向ひにした処へ、ぬつと
帰つて、ものいひを付(つけ)る積りと睨んだから、此所(こゝ)は一番男になつてと。頼まれもせぬ、心中立(しんちゆうだて)。無理さへすりやあ、行かれ
る身体(からだ)を。まだ歩行(ある)かれぬと断つて、今日一日を、当病(たうびやう)の、数に入れたは、誰の為め。見す見す災難着せられる、お前の為を
思へばこそ。然し大きに、大世話か知らぬ。さういふ事なら、頼んで迄も、証拠に立(たゝ)せて、呉れとはいはぬ。お前の心任(こゝろまか)せさと。妙にも
たせ掛られては、お園も流石(さすが)沈黙(だま)つて居(ゐ)られず。気味悪けれど、当座の凌(しの)ぎ、頼んで見むと、心を定め『さういふ事でござん
したか。さうとは知らず、ついうつかり前刻(さつき)のやうなこと言(いふ)たは、みんな私(わたし)が悪かつた。堪忍して下さんせ。知つての通(とほ
り)の私の身体(からだ)、身寄りといふては、外(ほか)になし。漸く此邸(このやしき)の旦那様が、乳兄妹(ちきやうだい)といふ御縁にて。此春母
(はゝ)さんが亡くなる時、願ふて置て下さんした。夫ればつかりで、此様に、御厄介になつて居舛(をります)るなれば。さうでなうても術(じゆつ)ない訳
を、此中(このぢゆう)からの私(わたし)が術(じゆつ)なさ。一季半季の奉公なら、お暇(いとま)を願ふ法もあれ。そんな事から、お邸を出されうものな
ら、夫れこそは、草葉の影の母(はゝ)さんに、何といひ訳立つものぞ、死んでも済まぬ、此身体(からだ)と思案に、あぐんだ、其果(そのはて)は、つい気
が立つて、あんな言(こと)。憎い女子(をなご)と怒りもせず、よういふて下さんした。そんなら吉(きつ)さん、今日の所は、證拠に立つて、お呉(く)れ
かえと。頼むは、素(もと)より思ふ坪と、吉蔵、ほくほく点首(うなづ)きて『夫れはいふだけ野暮(やぼ)の事。お前がさういふ了簡(れうけん)なら、己
(お)れもしつかり腰を据え、一番肩を入れても見やう。夫れには、何の造作もない事、己れが腹にある事なれど。愈(いよいよ)さうと極(き)めるには、ち
つと掛合(かけあ)ふ事があると。態々(わざわざ)立つて、水口(みづぐち)の、障子をぴつしやり、〆め来(きた)り、極めての小声にて『実(じつ)お前
だから、いふんだが。己れは是迄、奥様の、探偵(いぬ)といふ訳で、三年以来、別段の、手当を貰ふて居るのだから、今日迚(とて)も其通り。己れから證拠
を、名乗つて出ず共、直ぐ、どうだつたと、聞かれるに違ひはない。其所(そこ)で以て、ある事にせよ、ないにせよ。あの奥様の、探ぐつて居る腹へ、はまる
やうにいひさへすれば。夫れはよく知らしたと、まあ、どつさり、御褒美(ごほうび)に、有付けやうといふもんだ。夫れにどうだ。いや、さういふ容子(やう
す)は少しもござり升(ませ)ぬ。夫れは全くあなた様の、思召違ひでと、いつた日には、どうだらふ。安心しさうなものだが、さうは行かぬ。直ぐ己れが、抱
き込(こま)れたであるまいかと、気が廻るのはお定(さだま)り。何処のだつても嫉妬家(やきもちや)といふものは、大概さうしたものだわな。焚付(たき
つ)けて、焼かせる奴を、兎角有難がるものよ。お前とても其通り、今に好いた亭主を持ちやあ、矢張(やつぱり)其組(そのくみ)になりさうだ。あハヽヽと
高笑ひ、気軽く笑へど、軽からず、持込む調子は、重々しく『さういふ都合もある訳なれば、是は余程、余徳がなくては、埋(う)まらない役廻り。其所(そ
こ)は万々承知だらふか。えお園さん、お園坊。礼はどうする積りだいと。味に搦(から)んだ詞(ことば)のはしばし、いはぬ心を眼にいはす、黄色い声の柄
になき、素振(そぶ)りはさうと勘付けど。容易(たやす)く解きて、兎も角も、此場を事なく済(すま)さむと、お園は一向気の注(つ)かぬ振り
『ほゝゝゝ、お前さんにも似合ない。野暮に御念が入(い)り升(ます)る。多寡(たくわ)が私の事なれば、碌(ろく)な事も出来まいなれど。少し許(ばか
り)は、奥様に、お預(あづ)け申したものもあり。其内どうとも都合して、出来るだけのお礼はと。ぬからぬ答に、吉蔵も、此奴(こやつ)中々喰(く)らえ
ぬと。忽ち地鉄(ぢがね)を出して見せ『とぼけちやいけない、お園さん。己れも男だ、銭金(ぜにかね)づくで、お前の、おさきにや遣(つか)はれない。注
込(つぎこ)めといふ事なら、金銭(かね)は追々注ぎ込むが。先ず今日の所では、働らきだけを持参にして、礼はかうして貰ひたいと。無体の所為(しよゐ)
に、憤然(むつ)とはせしが。此所ぞ大事と、笑ひで受け、振離す手も軽(かろ)やかに『ほんにお前も人の悪い。私の馬鹿をよい慰み。散々人を上げ下げし
た、上句(あげく)の果の、悪ふざけ。此上私を、かついで置て、笑ふ積りと見(みえ)ました。もし是からはお前のいふ事、私(わた)しや真面目に聞かぬぞ
え 『真面目でも、戯談(じやうだん)でも、己ればかりは、真剣と、取る手を、つゝと引込(ひきこ)めて『夫れ見た事か、私が勝つた。もう瞞(だま)され
はせぬほどに、止(よ)しにして下さんせ。人が見たら笑ふにと。態(わざ)と空々(そらぞら)しく外(そら)す、重ね重ねの拍子抜けに、吉蔵愈(いよい
よ)急(せ)き込みて『是(これ)お園さん、どうしたものだ。此所まで人を乗込(のりこま)せて、今更笑ふて済さうとは、太いにも程がある。其了簡なら、
此己れも、逆に出る分の事と、さあ野暮はいはないから、まあ温和(おとな)しくしてるが好い。随分共に此后(このゝち)は、力になつて遣らふぜと。あはや
手込(てごめ)に、なし兼(かね)まじき血相に。お園も今は絶体絶命。怒らば怒れと突離し、あれと一声逃げ惑ふを。玄関口まで追詰めて、遣らじと、前に立
塞がる。隙(すき)を見付けて、突退(の)くる、女の念力、吉蔵は、たぢたぢたぢと、式台に、尻餅搗いて、づでんどう。是はと驚くお園を眼掛けて、己(お
の)れ男を仆(たふ)したなと、飛びかゝらむづ其刹那。がらがらがらと挽(ひ)き込(こん)だる、人力車(くるま)は旦那か、南無三(なむさん)と、恠我
(けが)の振(ふり)して畏(かしこま)る。吉蔵よりもお園が当惑。恰(ちやう)どよい処(とこ)、悪い処(とこ)、奥様ならば、よいものを、旦那様と
は、情けなや。悲しや是がどうなると。胸は前后の板挟み。破(わ)れて死んだら助かろにと、只(たゞ)束(つか)の間の寿命を怨みぬ。
第二回
旦那といふは、三十一二の男盛り。洋行もせしといふだけありて、しつくりと洋服の似合ふ風采。身材(みのたけ)高く、肩幅広く、見栄(みば)えある身体
(しんたい)に、薄鼠色の、モーニングコート。逼(せま)らず、開かぬ、胸饒(ゆた)かに、雪を欺(あざむ)く、白下衣(したぎ)、同じ色地模様の襟飾
り。何処に一点汚れのないが、つんと隆い鼻の下の、八字の瑠璃と、照り合ひての美麗(うつく)しさ。是だけにても一廉(ひとかど)の殿振りを、眉と眼と、
吟味せむは。年若(わか)き女子(をなご)に出来まじき事ながら。お園は、此春以来、幾度(いくたび)かに偸(ぬす)み見て。女子(をなご)の我の左迄
(さまで)にはあるまじきが、卑(いやし)き身ながら晴がましく。憶(おも)へば十年の其昔、旦那様まだ角帽召しませし頃。御養家のお気詰りなればとて、
をりふし我方(わがかた)へ入(い)らせらるゝを。母様(はゝさま)の有難がり玉ひ。おすしよ、団子と、坊ちやま待遇(あしらひ)。我は其お給仕に立ち
て、お土産の人形様戴くが、嬉しかりし外(ほか)、お耻(はづか)しとは知らざりし身の、今更ながら浅間しく。今はさながら御別人(ごべつじん)の旦那様
なれや。お立派なと思ふにつけ、お優しやと思ふにつけ、是では奥様のお嫉妬遊ばすものもと、此春以来、他所事(よそごと)の御縺(おもつ)れでは、まんざ
ら奥様にお道理つけぬではなかりし身も。我事となつては、さう悠長な量見も出ず。覚えなき身を疑ひ玉ふ奥様は、真(まこと)に真にお怨めしけれど。旦那様
は、お気の毒とも、勿体なしとも。仮令(たとへ)ば、にはたづみ(=難漢字+水)に影やどす、お月様踏(ふん)だればとて、こんな心地はせまいものと、歎
く我身の不運さは、是に限りて、あやかりものとも思はれる、妙な心地も夫れは昨日までの事。今は證拠と頼む可(べ)き吉蔵を、思ひの外に怒らせたれば、ど
んな告げ口しやうも知れず。さらでも、我を試(ため)さんとての、奥様のお外出、夫れといひ、是といひ、心にかゝる事のみなるに。生憎(あやにく)なる旦
那のお帰宅(かへり)。一時の難は遁れても、遁れ難きは此難儀。あゝ何となる事やらと。思案に余る仲の間を、幾度(いくたび)かさし覗き。おゝ夫れ夫れお
召し替えは揃えてあれど、まだお帰宅(かへり)はと油断して、お煙草の火は入れてない。是はどうしたものやらと。仕慣れた御用も、今日こそは、迂濶にお居
間へ、伺ひ難き身の遠慮。苦しい時の神頼み、悪魔でも大事ない。吉蔵さん吉蔵さんと呼んでは見たれど。お長屋へ引下り、返事もせぬ意地悪さ。夫れも其筈、
あゝもどかしや、早う奥様帰らせ玉へ、お客様でも来てほしや。南無天満宮、天神様も、俄(にはか)なる信心の、胆(きも)に銘ずる拍手(かしはで)は、此
処ならぬ、奥の方(かた)。ぱちぱちぱちと、鳴るはお召しか、はあ悲しや、救はせ玉へを口の裡(うち)。おづおづと伺へば。茶を一杯と仰せらるゝに、お煙
草盆も取添えて、成るたけ手早くさし上(あげ)つ、もう御用はと下(さが)り際(ぎは)。一寸(ちよつと)待てとのお詞(ことば)に、又もや胸はどきりと
して、敷居際に畏(かしこま)りぬ。澄(すます)は悠然として、紫檀(したん)の机に憑(よ)りかゝり、片手に紙巻(シガー)を吹かしながら『奥は何処か
行つたのか 『はい瀧の川へと仰(おつしや)いまして 『吉蔵は居たやうだの 『はい、只今まで起きて居り升(まし)たが、矢張気分が、勝(すぐ)れ升
(ませ)ぬと見えまして、部屋へ下つて居り升る 『さうか、夫れは恰(ちやう)どよい処、汝(そなた)に話す事があると。仰面(あふのい)て、例の美麗
(うつく)しき髭を撫で上げ、撫で下ろし、幾度(いくたび)か沈吟(ちんぎん)の末『誠にどうも、気の毒な訳ではあれど、近い内、邸を出ては呉(くれ)ま
いかと。いひ放ちたる澄の顔には、見る見る憐れみの色動けど。頭を下げたるお園には、声なき声の聞取れず。はつと思ふか、思はぬに、はや先立ちし、涙の幾
行(いくかう)。是では済まぬも、飲込んで、はいとばかりは、潔(いさぎよ)く、いひし積りも、唇の、顫(わなゝ)かるゝに咬〆(かみしめ)て、じつと俯
首(うつむ)く、いぢらしさ。澄は見るに堪え兼て、態(わざ)と瞳光(ひとみ)を庭の面(も)に、移せば折しも散る紅葉(もみぢ)、吹くとしもなき夕風
に、ものゝ憐れを告げ顔なり。
* * *
* * *
表門(おもて)の方(かた)には、奥方(おくがた)鹿子(しかこ)、忍びやかなる御帰宅(おんかへり)。三十二相は年齢(とし)の数、栄耀(えゝう)の
数の品々を、身にはつけても、埒(らち)もない、眼鼻は隠れぬ、辛気さに、心の僻(ひが)みも亦一層(ひとしお)。色ある花の一もとを、籬(まがき)に置
くのは気がゝりな。床のながめとならぬ間に、何処ぞへ移し植(うゑ)たしの、心配りや、気配りも、空(あだ)に過るも小半歳(こはんとし)。思へば長い秋
の夜の、苦労といふは是一ツと。添寝の夢も、団(まどか)には、結び兼たる此頃に、深い工(たく)みの紅葉狩。かりに行(い)て来(き)て、帰るさの、道
はさながら鬼女の相。心の角(つの)を押隠す、繻珍(しゆちん)の傘や、塗下駄に、しやなりしやなりとしなつくる。途中からのお歩行(ひろひ)は、何日
(いつ)にない図と、二人の女中。訝(いぶか)りながら御門を這入る、まだ四五間の植込みを、二足(ふたあし)三足(みあし)と思ふ間に。さしかゝつたる
仰せ言。あれも是も、急ぎの買もの、忘れて来たに、気の毒ながら、一走り、つい其儘で行(い)て来てとは。ほんにほんにお人遣ひ、あられもないとお互に、
顔見合しても、逆らえぬ、お主(しゆう)の威光に、余儀なくも、西と東へ出(いで)て行く。様子を覗ふ吉蔵は、兼て其意や得たりけむ。御門脇なる長屋を出
(いで)て、木立の影に蹲居(うづくま)るを。鹿子は認めて機嫌よく『おゝ其所(そこ)に居やつたか。定めて旦那はもうお帰宅(かへり)、どんな様子ぞ、
見て来てたも。機会(をり)が好ければ、直ぐにも行くと、いふも四辺(あたり)を憚(はゞか)る声。吉蔵は頭を掻き『夫れは万々、心得て居り升る。が奥
様、今の先まで、夫れは夫れは舌たるい。私でさへ業(ごふ)が沸(に)えて、じだんだ踏んだお迎ひが、是で恰(ちやう)ど三度目でござり升る。同じ事な
ら、あんな処(とこ)、お眼に懸(かけ)たふ御座り升(まし)たに。今はどうやらお幕切れ。惜い事をと残念顔。鹿子はきよろりと眼を光らせ『夫れを今更い
ふ事か、其為の汝(そち)なれば、私が見たも同じ事。夫れは跡でも聞かふから、夫よりは、今の手筈を、早う早うと急立(せきたつ)る『へいへい宜しう御坐
り升る。夫れでは奥様暫く此所(こゝ)に。私はお先へ参つて御様子を『あゝさうしてと。主從(しゆうじゆう)が、点首(うなづ)き囁き、こつそりと、猶も
木立の奥深く、奥庭までも忍び行く。
* * *
* * *
かゝる工(たく)みのありぞとも、知らぬ澄(すます)は、己(おの)が名の、澄も、すまぬ心から、自(おの)づと詞(ことば)も優しげに『なあに、邸を
出すといへばとて、夫れで以て何処へでも行けといふ意味ではない。其処は少しも案じぬがよい。媼(うば)にはいろいろ世話になつた訳でもあり、又頼まれて
も居る事なれば、どんな事があらふとも、汝(そなた)の保護を忘れはせぬ。だが此頃のやうな都合では、此儘永く邸に居(を)るは、汝の身の為にもならず、
亦乃公(おれ)も、妙でないやうに、考へる処もあるなれば、寧(いつ)そ外家(ほか)へ行(いつ)て呉れた方が、却(かへつ)て世話がしよからふと、思ひ
付(つい)たからの事。尤(もつとも)其外家(そのほか)といふ事もだ。下女(げぢよ)に行くといふやうな事では、前途の見込の立たない訳。さうかといつ
て、何処へでも縁付く。其危険は既に知れても、居る事なれば。追て相応な処のある迄、何か後来(こうらい)の為になる手藝でも、覚えて見る事にしては、ど
んなものか。実は乃公(おれ)も最初から、さういふ考案(かんがへ)もあつたのなれど。忙しい身体(からだ)ゆゑ、つい打遣(うつちや)つて置く内に、か
ういふ仕儀になつて、誠にどうも気の毒であつた。然し是が恰(ちやう)どよい機会であるから、此処で一ツ其辺の事も、考へて置くが好(よ)からふ。とはい
ふものゝさし当つて、何を習はふといふ、考も付くまいし、乃公(おれ)も亦さういふ事には、至て疎い方であるから、其相談は後日(のちのち)の事として、
兎も角さしづめ、行く可き処を頼んで遣(や)らふ。夫れには恰(ちやう)ど、よい処、汝(そなた)の顔は知らぬから、邸に居たといふには及ばぬ。縁家(え
んか)の者として置くから、乃公(おれ)が手紙を持つて行て、万事を頼むといへばよい。乃公も其内尋ねて行て、此後(このご)の事は一切万事、其者の手を
以て世話をさす事にするから、少しも其辺は心配をせぬがよい。夫れでよいといふ事なら、明日にも何とか都合よくいつて、汝(そなた)の方から、邸を出る事
にして呉れ。是は、ほんの当分の手当だと。幾片(いくひら)の紙幣、紙に包んで、投げ与へ、序(ついで)に手紙も渡して置くぞと。残る方(かた)なきお心
添(こゝろぞへ)。何暗からぬ御身をば、はや、いつしかにほの暗き、障子の方(かた)に押向けて、墨磨(す)り玉ふ勿体なさ。硯の海より、山よりも、深い
お情け、おし戴く、富士の額(ひたひ)は火に燃えて。有難しとも、冥加(みやうが)とも、いふ可きお礼の数々は、口まで出ても、ついさうと、いひ尽され
ぬ、主従(しゆうじゆう)の、隔ては、たつた、一ツの敷居が、千言万語の心の関。恐れ多やの一言(いちげん)の、跡は涙に暮れて行く、畳の上に平伏(ひれ
ふ)して、此処のみ残す、夕陽影。顔の茜(あかね)も、まばゆげなる、背後(うしろ)の方(かた)に、さらさらと、思ひ掛(がけ)なき衣(きぬ)の音『大
層御しんみりで御坐い升ねえと、鹿子(しかこ)のつゝと入(いり)来るに。はつと狼狽(うろた)え立上り『あ奥様でござり升るか。と悸々(どきどき)とし
て出迎ふる。お園をきつと睨み付け『園何も私が帰つたとて、さう周章(あわて)て、逃げるにも及ぶまい。まあ其処に居るがよいと。澄(すます)とは、膝突
合さぬ計(ばか)りに、坐り『園お前は真実(ほんと)に忠義ものよ。私の留守には、何も角(か)も、私の役まで勤めて呉れる。お前の居るのに安心して、今
頃までも、うかうかと、久し振で遊んで来ました。たんとお前に礼いはふ。迚(とて)もの事に明日(あした)からは、私(わたし)に隠居をさせて呉れて、家
(うち)の事は一切万端、お前が指揮(さしづ)するやうに、旦那様へお前から、お願ひ申てお呉れでないか。ね旦那様さう致した方が、あなた様も、お宜しい
では御坐り升ぬかと。はや其手しほでも押えしかの権幕なり。例の事とて、澄は物慣れたる調子『ハヽヽヽつまらない。何が夫れ程腹が立つか。馬鹿々々しい
『はい、どうせ私は、馬鹿に相違(ちがひ)は御坐り升ぬ。奉公人にまで、踏付(ふみつけ)られるのでござり升もの 『はあて困つた。さうものが間違(まち
がつ)ては 『大きに左様でござり升る。あなたは少しも、間違つた事を遊ばさぬゆえ 『ハヽヽヽまあ落付て考へるがよい。園用事はない。あちらへ行け
『いゑまだまだ私が申す事が御坐り升ると。いひ出しては何(いづ)れ小半とき(=日ヘンに、向)と、澄も今はお園の手前『おゝ忘れて居た、夕刻までに、行
かねばならぬ処があつたと。早々(さうさう)の出支度を。いつもは容易に許さぬ鹿子も。今日の敵は本能寺、園さへ擒(とりこ)にしたならばと。良人(をつ
と)の方(かた)には眼も掛けず、落付煙草二三服、何をか屹(きつ)と思案の末。燈火(あかり)を点(つ)けてと、お園を立(たゝ)せ。つと我部屋へ駈入
りて、取出(とりいだ)したる懐刀(ふところがたな)。につと笑ふて、右手(めて)に持ち、此方(こち)へ此方へとお園を呼びて、尋常(よのつね)ならぬ
涙声『私は折入(をりいつ)て、お前に頼みたい事がある。何と聞てお呉れかえ。知つての通の私の身体(からだ)、此邸(ここ)で生れた身のふしよう。旦那
に愛想尽(あいさうつか)されては、行く可(べ)き処のない身の上。生きてお邪魔をしやうより、我から死んで見せましたらば。責(せめ)て一度や、半分
の、回向(ゑかう)位(くらゐ)はして貰はふと、果敢(はか)ない事を、空(そら)頼み。明日(あす)ともいはず、たつた今、私は死んで見せるぞや。私が
死んだ其跡では、誰に遠慮が何要らふ。今宵からでも改めて、私の跡へ直つてたも。さすれば先祖もお喜び、世間もお前を誉(ほめ)るであろ。もしも情けの道
知らずが、お前と旦那を譏(そし)つたならば、私の頼みといへばよい。其代りには夢にでも、思ひ出(いだ)した時あらば、無縁の仏と思ふてなり、香華(か
うはな)だけは手向(たむ)けてや。さらばとばかり立上る。余りの事に、威(おど)しぞと、知(しつ)ても、流石(さすが)転動して。まあ何事と縋(す
が)り付き『夫れは何を仰しやり升る。夫ほど迄のお腹立ち、此期(このご)に及んで私も、未熟な言訳致し升ぬ。さあさあ私を、どうなりと、御存分に遊ばし
ませ『ほゝゝ、今更夫れは遅いぞえ。何のお前は大事な身体(からだ)。私(わたし)こそは要らぬもの。旦那のお心変つたからは、生存(いきなが)らえて、
何楽しみ。一時も早う、死んで苦患(くげん)が助かりたい。其所(そこ)離しや、ゑゝ離さぬかと、半狂乱の、力任せに振切りて。部屋に続きし、奥倉庫(お
くぐら)の、戸を引開けて、中から、ぴつしやり。押せども突けども、開かばこそ。泣くも詫ぶるも、一人藝。ひそみ返りて音もせぬ、余りの事の気遣はしさ。
お園も思案の帯引締め『夫れでは奥様私は、是でお暇(いとま)致升る。私さへに居り升(ま)せずば、御自害沙汰には及ばぬ事。必ず必ず御短気な事、遊ばし
て下さり升るな。お詫はあの世で致し升る。御機嫌さまでといひ捨てゝ、裾もほらほら、気もはらはら、身を翻(ひるがへ)して走り行く。様子を見済し、倉庫
(くら)の戸を、そつと引開け、立出(たちいづ)る、鹿子の前へ吉蔵が、急ぎ足に入来(いりきた)り『存分廿(うま)く行きまして、お目出度う存じ升る
『夫れは能(よ)けれど、若し死(しん)だら、それこそ思はぬ一大事 『其所に、ぬかりは御座り升ぬ。確に左へまだ半町、跡を蹤(つ)けて見届け升う
『必ず共に死なさぬやう 『其御念には及び升ぬ。拝領(はいりやう)ものを亡くしては、第一私(わたし)損分と。鼻蠢(うごめ)かせて、裾端折(すそはし
を)り、してこいまかせと追ふてゆく。したり顔には引替えて。鹿子は流石(さすが)女気(をんなぎ)の、空恐ろしき成行に、なりもやせむかと気遣(きづか
は)しさ。重ねて追手(おつて)出したいにも、広い邸に我一人、払ふた邪魔が、今更に、待遠しくも思はれぬ。
第三回
昼はさしもの人通り、本郷神田小石川、三区の塵に埋(う)まる橋も。今は霜夜の月冴えて、河音寒き初更過(しよかうすぎ)。水道橋の欄干に、身を寄せ掛
たる一人の婦人。冷やかなる、月の光りを脊に受けて、飽く迄白い頚(えり)もとの、是にも霜の置くかと見えて、ぞつとするほど美麗(うつく)しきを、後れ
毛に撫(なで)させて、もの思はしげに河面(かはも)を覗き込(こむ)様子に『若(も)しお前さん、まさか身投じやあり升まいね 『知れた事さ。今時分、
こんな所で、死ぬ奴があるものか 『でもお茶の水の一件から、何だか此辺は不気味でね 『さうさ、女もお前のやうなのだと、何処で逢ても大丈夫だが。美
(い)い女は凄いものさ 『人をツ、覚えてるから好いと、戯れながら行く男女(なんによ)のあるに。じつと跡を見送りて。ほんに思へば、世はさまざまや。
我は生きるか、死ぬる瀬に、立往生の此橋を、面白可笑(をかし)ふ渡つて行く、人を羨む訳でなけれど。私も一旦夫(をつと)と定めた助三(すけざう)さん
が、真(ま)人間であるならば。仮令(たとひ)始めは従妹(いとこ)の義理で、夫婦にされた中にもせよ。一度(ひとたび)縁を結んだからは、見ん事(ご
と)末まで添遂げて、女子(をなご)の道を立(たて)ふもの。あれほどまでの放埒を、私(わたし)は因果とあきらめても。可愛や親の鑒識(めがね)違ひ
で、いかい苦労をさす事よと。父(とゝ)様なければ、母(かゝ)さんが、お一人してのお気苦労、責(せめ)て私が息ある内にと、取て渡して下されし、三行
半(みくだりはん)も、親の慈悲。まだ夫(それ)だけでは安心がと、世に頼母(たのも)しい旦那様に、お願ひ申て下さんしたに。やれ嬉しやと其後(そのゝ
ち)は、一生お仕え申す気で、お主(しゆう)大事と勤める内にも。余(あ)んまりな、奥様のお我儘。上を見習ふ下(しもじも)にまで、旦那様の御用といへ
ば、跡へ廻してよいものと、疎畧(そりやく)にするのが面(つら)憎さ。要らざる所へ張(はり)持つて、旦那の御用に気を注(つ)けたが、思へば此身の誤
りにて、思はぬ外(ほか)のお疑ひ、忠義が不義の名に墜(お)ちたも。奥様ばかりが悪うはない。どの道悲しい目に逢ふが、どふやら此身の運さうな。夫れを
思へば此後とも、よしんば、生きて見た処で、苦は色かゆる、いろいろの、涙を泣いて見るばかり。泣きに生まれた身体(からだ)と思へば、死ぬるに何の造作
はない。矢張(やはり)死んで退(の)けやうか。いやいやいや、死ぬるといへば、奥様も、私がお邸(やしき)出たからは、よも御自害はなさるまい。夫れに
私が死んだらば、今宵の仕儀を御存(ぞんじ)なき、旦那様のお思召(ぼしめし)。あれ程までにいひ置(おい)たに、分らぬ女子(をなご)とおさげすみ。不
義よ、罰(ばち)よと、奥様の、お笑ひよりは、まだつらい。とはいふものゝ、若(も)しひよつと奥様の身に凶事があらば、さしづめ私は主(しゆう)殺し。
手は下さねど、片時も、生きて居られる身体(からだ)でないに。どの顔下げて、おめおめと、旦那にお目に掛れやう。夫れを思へば、此期(このご)に及ん
で、迷ふは矢張此身の愚痴。どの道死ぬるが勝であろと。覚悟は極(き)めても、何処やらに、此世の名残、西へ行く。月を眺めて、しよんぼりと。何処で死な
ふの心の迷ひは、夫れも余(あん)まり短気かの、心の乱れと縺(もつ)れ合ひ。縺れ縺るゝ生死(いきしに)の、途(みち)は二ツを、一筋に、定め兼たる、
足もとの、運(はこ)びに眼を注(つ)け、気を配り、様子を覗ふ一人の男子(をとこ)。もうよい時分と物影を、歩み出(いで)むとする所へ。飯田河岸の方
(かた)より、威勢よく、駈来(かけきた)りたる車上の紳士。何心なく女の顔、見るより車夫に声かけて、小戻(こもどり)さするに、はあはツと、女は驚き
透し見て『あツ旦那様といふまゝに。はつと思ひし気のはづみ。我を忘れて、河中へ、ざんぶとばかり飛込たり。
第四回
宮柱、太しく立てゝ、東洋を、鎮護の神と仰がるゝ、招魂社の片辺(かたほと)りに。小綺麗な黒板塀。主翁(あるじ)は太田彦平とて、程遠からぬ役所の勤
め。腰弁当の境涯ながら。其実借家(しやくや)の四五軒ありて、夫婦が老(おい)を養ふに、事欠く可(べ)くはあらねども。実子(じつし)なき身は、なま
じひの、養子に苦労買はむより。金銭を孫とも子とも視て、気楽に暮そじやあるまいか、喃(なう)婆(ばあ)さんとの相談も、物和(ものやは)らかなる気象
とて。家賃の収入は、月々に、銀行預けと、定めても。何処やら饒(ゆた)かな、生活向(くらしむき)。一人二人の客人は、夜毎に絶えぬ、囲碁の友。夜の更
けるのも珍らしからねば。慣れたものは是でもよけれど。お園様は嘸(さぞ)や嘸、御迷惑であらうもの。恰(ちやう)ど幸ひ、隣の貸家。あれを当分、御用に
立て、お食(しよく)は此方(こつち)から運ばせて、夜分は、三を泊りに上(あげ)れば、万事お気楽お気儘で、御保養にならふにと。主翁(あるじ)が注
意、行届いたる待遇(もてなし)振り。此日曜を幸ひに、拭き掃きもまあ一順、すむには是が第一肝要のお道具、三よお火鉢持つて行け、婆さまは茶道具揃へて
上(あげ)ましや、菓子器に、羊羹忘れまいと、己(おの)れは手づから花瓶を据(すゑ)て。秋の名残の、菊一りん。ひちりんも御入用(ごにふよう)なら、
何時(なんどき)なりと持たせましよ。其外(そのほか)何なり、かなりなものは、沢山に御座り舛る。御遠慮なふ仰せられい。お淋しければ、此切戸(きり
ど)が、是此通り開(ひら)き舛る。其処が直ぐに手前の前栽(せんざい)、縁側へは、一跨(また)ぎで御座り舛る。此処から自由にお出這入(ではひり)、
どちらなり共、お好きな方にお住居(すまひ)なされ。やれやれ是でお座敷も、一寸出来たと申すもの。是からは、決して決して、お気遣ひなされ舛な。此処が
即ち、あなたのお家(うち)、他人の家(うち)では御座り舛ぬ。家一ぱいに、おみ足も、お気もお延ばし下されいと。己(おの)れも延びた髯(ひげ)撫
でゝ、帰る主翁(あるじ)と入れ違え。婆さまといふは気の毒な、五十二三の若年寄。良人(をつと)ある身は此年でも、等閑(なほざり)にせぬ、身嗜(みだ
しな)み。形(かた)ばかりの丸髷(まるわげ)も、御祝儀(ごしうぎ)までの心かや。おめで鯛の焼きもの膳『外(ほか)には何も御座り升ねど。皆々(みん
な)あちらでお相伴(しやうばん)、まづ召上れとさし出(いだ)す『あれまあ、夫れでは恐れ入升る。何日迄(いつまで)も其様(そんな)に、お客待遇(あ
しらひ)して戴いては、気が痛んでなり升ぬ。夫れよりは御勝手で、お手伝なと致したがと。お園の辞退を引取りて『又してもそんな事、お六(むつ)かしい御
挨拶は、もうもう止(よ)しになされませ。先夜の今日日(きようび)、お身体(からだ)も、まだすつきりとはなさるまい。お気扱(づか)ひは何よりお毒、
当分お任せなされませ。深井様には、いろいろと、御恩に預る私夫婦。役に立ずの老人が、未だに御用勤まり升るも、矢張お庇陰(かげ)と申(まをす)もの。
何御遠慮に及びましよ。かうしてお世話致すからは、失礼ながら、私共は、他人様とは思ひ升ぬ。娘を一人設(まう)けたやうで、どんなに嬉しふ御座り升う。
夫れにあなたの母御様(おやごさま)は、継(まゝ)しい中のあなた様を、此上もないお憎しみ。死なふとまでの御覚悟も、どふやらそんな御事からと、あの晩
深井様からあらましは、承(うけたまは)つて居り升る。及ばずながら此後は、私夫婦と、申すほどのお役には立ませねど。歴然(れつき)としたお従妹(いと
こ)の、深井様も入らせられ升る。必ず必ず御苦労は遊ばし升な。ほゝ私(わたし)とした事が、ついお話に身が入りて、御飯のお邪魔いたし升た。さあさあ早
う召上れ。そして御飯が済ましたらば、お髪(ぐし)をお上(あげ)なされ升(ませ)ぬか。お湯も沸して御座り升る。あなたのお年齢(とし)で、お装飾(つ
くり)を、大義(たいぎ)とばかり仰(おつしや)るは、よくよく御苦労ありやこそと、お心汲んで居り升れど。さうばかりでは、猶の事、お気が塞いでいけま
せぬ。少しなり共、御気分の引立つよう、無理にもお身体(からだ)借まして、お装飾(つくり)申て見ましたいと。何角(なにか)につけて、世話好きな、老
人気質(かたぎ)、あれ是と、進まぬお園を勧(すゝ)め立て、装飾(つくり)り上(あげ)たる、髪容(かみかたち)『嬉しや是でお美しい、玉の光が見えま
した。娘があらば、あゝかうと、物珍しい心から、余計な世話まで焼たがる、うるさい婆(ばゝ)とお怒りなく。私(わたし)が申升(まをします)る事も、一
ツ聞いて下され升かと。持運んだる紙包み、二ツか、三ツか、三ツ襲(がさ)ね『是此お召のお襲(かさ)ねは、一寸したお着替えに、此銘仙(めいせん)が御
平常着(ごふだんぎ)。お帯も上下(うへした)、二通り、お長襦袢や、何や角(か)と、さしづめ遁れぬ御用のものは、揃えて上(あげ)升るやうと。あの翌
日(あくるひ)深井様御越しの節のおつしやり付け。夫れではお柄を伺ひましてと。申上ては見升たなれど。お耳へ入れては、要る、要らぬと、御遠慮がめんど
うな、夫よりは、万事能(よ)きに計らふて、お着せ申て呉れとのお詞(ことば)。夫故の押付けわざ。御寸法は、あの濡れた、お召しに合わせて御座り升る。
大急ぎの仕立てと申し、老人の見立てゆゑ、柄が不粋(ぶいき)か存(ぞんじ)ませねど。是でも吟味致した積もりと。ほゝ自慢ではござり升(ませ)ぬ。何の
是が私共から、差上げるものではなし。深井様の思召し、お心置きなふお召替え。さうでなうては、私が、深井様へのお約束が立升ぬ。さあさあ早うと、しつけ
糸、とくとく着せて見ましたい。お帯をお解(と)き申(まをし)舛(ませ)う。あちらへお向きなされませ。私がお着せ申舛ると。勤(つと)め上手が勤めて
は、否といはれぬ、今の身は。着て居るものも、借りものを、是れでよいとはいはれぬ義理。迚(とて)も御恩に着るからは、他人のものより、御主(おしゆ
う)のものと、思ひ定めておし戴き。着替えし処へ、計らずも、切戸口(きりどぐち)より主翁(あるじ)の案内『かやうな処でござり舛る。兎も角一応御覧を
と。小腰(こごし)を屈め、先に立ち、澄(すます)を伴ひ入来(いりきた)るに。今更何と障子の影、消え入(いり)たい心をも、夫婦の手前、着飾つた、身
の術(じゆつ)なさを、会釈(ゑしやく)に紛らし出迎ふるに。扨(さて)も美麗(うつく)し、見違えたと見とれて、不図(ふと)心付き、たしか従兄(いと
こ)の格なりしと、思ひ出しての答礼を。どふやら可恠(をかし)な御容子と、夫婦が粋(すゐ)な勘違ひ。四方山(よもやま)話も其処々々(そこそこ)に。
妻は母屋(おもや)へ酒肴(さけさかな)の準備(ようい)、主翁(あるじ)も続いて中座せし、跡は主従さし向ひ。此間(このま)とお園は両手を支(つか)
へ『何からお礼を申さうやら。取詰(とりつめ)ました心から、跡先見ずの先夜のしだら。お叱りもない其上に、冥加に余る御恩の数々。夫婦の衆まで私を、お
従妹と、思ひましての手厚い待遇(もてなし)。どうも是では済升ぬ。矢張下女(げぢよ)とお明(あか)し下され、召使ひ同様に、致して呉(くれ)られ升る
やうと。いひかゝるをば打消して『済むも済まぬもありはせぬ。從妹でも、何でもよい。邸に居るものといへば、却て不審を受けるゆゑ、継母(まゝはゝ)の為
め家出とすれば、穏(おだやか)でよからうと、思ひ付たからの事。其処等(そこら)は乃公(おれ)に任(まか)して置け。済む済まぬといひ出せば、家内の
気質を知りつゝも、邸に置たが、そもそも誤り。夫故(それゆゑ)互に済む済まぬ、夫れは一切いはぬがよし。此后共(このゝちとも)に、汝(そなた)に対し
てする事は、媼(うば)に対してする事なれば、乃公に礼をいふには及ばぬ。今日は幸ひの日曜なれば、此の家の夫婦に、ゆつくりと、相談もして置く積り。手
藝を習ふか、縁付くか、何方(どちら)にしても、確(しか)とした談話(はなし)の纏(まとま)る夫迄は、かうして気楽に暮すがよい。假令(たとへ)ば二
年三年でも、汝(そなた)一人をかうして置くが、乃公の痛痒(いたみ)になりはせぬ。つまらぬ事に、気遣ひすなと。今に始めぬ優しさに。はや涙ぐむお園の
顔。何日(いつ)の憐(あは)れに替らねど。名もなき花の濡れ色と、さして心に止めざりし、其昨日には引替えて。余処(よそ)の軒端(のきば)に見やれば
か。瞼に宿す露さへに、光り異なる心地して。今日より後(のち)は憐(あはれ)さの、種(しな)を替(かへ)しも理(ことわ)りや。富貴(ふうき)に誇る
我宿の、心も黒い、墨牡丹(すみぼたん)。此幾日は取別(とりわけ)て、悋気(りんき)の色も深みてし、其花の香に飽きし身は。ほのぼの見えし夕顔の、宿
こそ月を待つらめと、又何日(いつ)の夜(よ)を来ても見む、心も茲(こゝ)に兆(きざ)せしなるべし。
第五回
今日は赤坂八百勘(やほかん)にて、其昔(そのかみ)の仝窓生(どうさうせい)が、忘年会の催しありとて、澄(すます)が方(かた)へも、兼て其案内あ
り。午后五時よりとの触れ込みなれど。お園が家出の其后(そのゝち)は、鹿子(しかこ)の、僻(ひが)み一層強く、夜歩行(よあるき)などは思ひも寄らね
ど。是は毎年の例会にて、遁れ難き集会(あつまり)なればと。三日前より、ちくちくと、噛んで含めた言の葉に。ふしようぶしようの投げ詞(ことば)。夫れ
程御出(おいで)なされたいか、御勝手になさるがよい。したが五時といふのが、六時にも、七時にもなり易いは、大勢様のお集会(しふくわい)に、珍らしか
らぬ事なれば。人の揃はぬ其内から、お義理立(だて)には及ぶまい。此処といふのは、一時か、二時の間でござんせう。夫れを機会(しほ)に、横道へ、外
(そ)れぬお心極(き)まつたなら、六時過から、御越(おこし)と。時計の針も、何ん分の右と左を争ふて。もう行かねばと立上る、澄を止めて。若しあな
た。此所が五分でござんすか。今からお眼が狂ふもの、乃公(おれ)が時計は違(くる)ふたと、跡のお詞聞かぬ為め、私が合わして置き升ると。只一分の其隙
も、空(むだ)に過ごさぬ、竜頭巻(りゆうづまき)。竜頭といふも恐ろしや、日高の川に其昔、蛇(おろち)となつたる清姫の、心もかうと。金色(こんじ
き)の、鱗(うろこ)に紛(まが)ふ、金鎖(きんぐさり)。くるくる帯に巻付けて。私の念力是此通り、屹度(きつと)覚えて、ござりませと。牙(きば)に
包みし紅(くれなゐ)の唇噛んで、見送りし、其顔色の気味悪さ。ぞつと身にしむ夜嵐に。おゝ寒いぞと門を出(いで)し、其心地には引替えて。飲めよ、歌へ
の大陽気(おほやうき)。紳士揃ひも、学生の、昔に返る楽しさを。飽く迄遣(や)つて退(の)けやうと。星が丘とは洒落(しやれ)込みぬ、幹事の心、大盃
(たいはい)で、汲めや人々、舞へ紅裙(こうくん)。紳士だなどゝ気取つた奴は、誰彼なしに肴(さかな)にすると。洒落(しやらく)自慢の某(なにがし)
が、浮れ立(たつ)たる其(その)所へ。思の外(ほか)に遅なはりし、失敬したと入来(いりく)る、澄を見るより、よい茶番と。思ひ付きの大音声(だいお
んじやう)。遅し遅し判官殿(はんぐわんどの)。何と心得て御座る。今日は正五時と、先達(せんだつて)からの案内でないか。夫れに今頃ぬけぬけと、どん
な顔してござつたぞ。成程貴殿の奥方は、金満家の娘御といひ、少しも貴殿を、お踏付けになさらぬといふ貞女。あ其許(そこ)はあやかりもの、御来会も、遅
なはる筈の事。奥方に計(ばか)りお義理立をなされるによつて。朋友(ともだち)の方は、お搆(かま)ひないじや。まだも、此中へ鼻垂(はなたらし)らし
う、是は奥が財産目録でござると、持てござらぬだけが取り得(え)か。総体貴殿の様な、内に計(ばかり)居る者を、蝸牛(でゝむし)といふは、どうでござ
らふ。彼(あの)蝸牛(でゝむし)といふ虫は、何処へ行くにも、首だけ一寸出す計(ばか)り、家を背負(せおつ)て歩行(あるき)まするが、彼奴(あや
つ)中々、気の利(きい)た奴ではござらぬか。貴殿も是からは、家の代りに奥方をおぶつて、お歩行(あるき)なされたら。天晴れ朋友(ほうゆう)への交誼
も立ち、奥方へ報恩の道も、欠けぬと申もの。一挙両全何とよい思案ではござらぬか。うわはゝゝゝゝ、此師直(もろなほ)は、鮒侍(ふなざむらい)などゝ、
旧い模型(かた)は行き申さぬ。当意即妙新案の、蝸牛(くわぎう)紳士は、どでござる。いざ改めて、今宵の肴に、紹介申すと。戯れて、笑はす積りも、御念
が入(いつ)ては。苦笑(にがわらひ)さへ出来兼ぬる、此場の始末に、一座の面々、顔見合せて、笑止(せうし)がる。中にも上座の某が。是々(これこれ)
君はどうしたものだ。又々例の悪酔か。夫れも好けれど、其様に、人身攻撃に渉(わた)つては、一座の治安、捨(すて)ては置けぬ。衆議に問ふて、豫戒令
(よかいれい)。退去さするといふ筈ながら。酔ふた酒なら、醒めもせう。醒めての上の宣告と、此所(こゝ)は我等が預るから。まあ深井君坐し玉へ。僕が代
つて謝罪いふ。先づ罰杯を呉れ玉へ、是女共酌せぬか。何をきよろきよろ馬鹿吉めが、山の手藝者と笑はれな。腕の限りを見て遣(や)らふ。小蝶は踊れ、駒は
ひけ。追付(おつつ)け春の柳屋糸めも、年末の吉例(きちれい)に、五色(ごしき)の息を吐(はか)して遣らふと。流石は老功老(おい)武者の、持直した
る一座の興。此図を外さず、全隊が總進撃と出掛(でかけ)やう。部署を極めるは、野暮の極。思ひ思ひの方面へ、突貫せよと、異口同音。散会ぞとは、いはれ
ぬ処へ、虚勢を張つて、途(みち)から、そつと、逃げて帰(い)ぬ、粋(すゐ)の上ゆく粋あれど。澄(すます)は日頃金満(かねもち)の、細君故の、逃げ
足を、知つたか、知つた、遁がすまい、よし来た合点、妙々(めうめう)と。いひ合さねど、四五人が、ぐるりと四方を、取巻いて。一所(いつしよ)に行かふ
と眼を離さず。前から引くもの、背後(うしろ)から、押ては危険(あぶな)い。帽子が脱げた、下駄が見えぬの、大悶着(おほもんちやく)。おほゝまあ、お
危険(あぶな)い、そんなにあなたなさらず共、出口は一ツで御座り升る。と女中の挨拶口々に、へい有難う、お静かにと、見送る前へ、挽き出した、四ツ目の
紋の提燈(ちやうちん)は、確に深井が抱えの腕車(くるま)と。気早き一人が声掛けて。おい君是は帰すがよい。我等は、未だに揃ひも揃ふて、辻車に飛乗り
の、見すぼらしい境涯を、君だけ夫れでは義が立(たつ)まい。是非其処迄は、交際(つきあひ)玉へ。然り然り大賛成。おい車夫、奥様にさういふて呉れ。今
夜は旦那を一晩借りる、屹度(きつと)迷子にさゝぬやう、明朝(みやうてう)は、みんなで送つて行くと。忘れずにいふんだよ。ハヽヽヽヽ、さあ君是で、君
が身体(からだ)は此方(こつち)のもの。謝罪は我等が引受けた。よしか車夫、さういへと。右左より引張るに、引かれて行くのも本意ならねど。強(しひ)
て否(いな)まば、前刻(せんこく)の、恥辱を、実(じつ)にする道理と。酔ふた、頭脳に、ふらふらと、足は何方(いづれ)へ向きしやら。銀燭眩(まば
ゆ)き小座敷へ、押据えられしと思ふ間に。奇麗な首が五ツ六ツ。しやんしやんしやんの三味(さみ)の音も、いつしか遠くなる耳の、熱さに堪えず。ばつたり
と、身体(からだ)を畳に横霞。春の山辺の遊びかや、ほの暖かき無何有(むがう)の郷(さと)。囀る小鳥、咲く花の、床(ゆか)しき薫り身にしめて。ふわ
りふわりと、風船に、乗つたは、何時(いつ)ぞ。あれ山が、海も見えるは舞子に似た。此松原の真中へ、降りたら水があるかしら。咽喉が乾くと、眼を醒せ
ば。身はいつしかに夜着の中、緑の絹に包まれたり。南無三(なむさん)、是は吾家(うち)じやない。たしか此宵(このよひ)、おゝ夫(そ)れよ。衆人(み
な)はどうした、あちらにか。恰(ちやう)ど此間(このま)と立つ袖を。もう遅いと引留むる、女子(をなご)は誰じや、汝(そなた)に頼む。跡はよいや
う、乃公(おれ)だけは、是非に帰せと、振り切りて。門(かど)を出(いづ)れば、軒毎の、行燈(あんど)は、ちらり、ほらり降る、雪か霰か、あら笑止
(せうし)。何は何処(いづこ)と、方角が分らぬながら行き行けば、赤坂見附け、おゝ此処か。つまらぬ処で夜を更(ふか)した。車夫(くるまや)頼むと。
寒さうに、かぢけた親爺(おやぢ)が只一人。やつこらまかせの梶棒を、何方(どちら)へ向けます。さうだなあ、兎も角九段へ遣つて呉れ。迚(とて)も遠く
は走れまい。其処(そこ)らから乗替えやう、はて困つたと腕車(わんしや)の上。薄汚れし毛布(けつと)に、寒さは寒し、降る雪に、積つて見ても知れて居
る。是から帰宅(かへ)れば三時過、寒い思ひをした処で、ようこそお帰りなされしと、喜ぶ顔を見るではなし。冷たい蒲団は、あなたの御勝手。巨燵(こた
つ)を入れて待つほどの、お心善(こゝろよ)しにはなれ舛(ませ)ぬ。お茶なら勝手に召上れ、下女は疾(とつ)くに寝せました、今を何時と思召すと。夫
(それ)からちくちく時計の詮索、尖(とが)つた針で突かれても、一言いへば、二言目に。お腹が立たば、お殺しなされ、私は家の娘でござんす。去られる代
りに、死に舛(ませ)う。さあどうなりとして下されと、手が付けられぬに、寝た振(ふり)すれば。引起されて、窘(いぢ)められるは知れた事。是程寒い思
ひをして、怒られに帰(い)ぬ馬鹿もない。同じ苦情を聞かふなら、是から何処ぞで一寝入(ひとねいり)。明日(あす)の事にしやうかしら。いや夫れも悪る
からふ。薪(たきゞ)に油を濺(そゝ)ぐは罪、鹿子(あれ)は鹿子(あれ)でも、其親に、受けた恩義は捨られぬ。はて困つた、三合の、小糠(こぬか)はな
ぜに持(もた)なんだと、思はず漏らす溜め息に。へヽヽヽヽ旦那御退屈でござり升う。若い時分は、随分と、力のあつた男でも、年には頓と叶ひ升ぬ。然しも
う其所(そこ)に招魂社が見え升ると。車夫の詞(ことば)に、おゝ夫れよ。お園は何と、身の上を思ひ続けて、泣(ない)ても居やう。乃公(おれ)を力と頼
んでも、滅多に訪(と)ふて遣られぬ身体(からだ)。かういふ時に廻つて行かば、宅(うち)へも知れず、都合であれど。深夜に行かば、太田の手前。夫れは
脇から這入るとしても、お園のおもわく何(なん)とであろ。いやいや彼に限つては、乃公(おれ)を真底(しんそこ)主人ぞと、崇(あが)むればこそ、勝気
の彼が、もの数さへにいひ兼ねて、扣(ひか)え目勝(がち)の、涙多(なみだおほ)。あゝいふ女子(をなご)でない筈が、あゝなるほどの憐れさを、知り
つゝ捨ては置かれまい。矢張一寸尋ねて遣ろか。たしか此辻、此曲り、此用水が目標(めじるし)と。幌(ほろ)の中(うち)よりさし覗く、気勢(けはひ)に
車夫が早合点。こちら様でござり升るか、夫れではお灯(ひ)を見せ升うと、頼みもせぬに、提燈持ち。案内顔の殊勝さを。無益にさすのも不憫(ふびん)と
は、何処(どこ)から出(いで)し算用ぞや。不図(ふと)決断の蟇口(がまぐち)開けて、そをら遣らふと、大まかに、掴(つか)み出したる銀(しろがね)
は、なんぼ雪でも多過(おほすぎ)升る。お狐様じやござり升ぬか。人間様では合点がゆかぬ、夥しい此おたから。責(せめ)て孫めに見せるまで、消えて呉れ
なと、水洟(みづばな)を、垂らして見ては、押し戴き、戴いて居る其隙(そのひま)に。澄(すます)が影は、横町へ、折れて、隠れて、ほとほとと、板戸を
叩く音のみ聞えぬ。
第六回
まあ旦那様、どう遊ばしたので御座り升ると。訝(いぶか)るお園の不審顔。さこそと澄(すます)は莞爾(にこり)として『よいから跡(あと)を閉めて置
け。太田へ知れては妙でない。静にせよと、手を振りて、勝手は見知つた庭口より、お園の居間と定めたる、一間へ通るに、お園の当惑『まあどう致さう、こん
な処を御覧に入れては、誠に恐れ入升ると。外(ほか)には座敷といふものなき、空家(あきや)の悲しさ、責(せめ)てもと、急いで夜具を片付(かたづけ)
かゝるを『なに構わぬ、夫れはさうして置くがよい。今時分来るからは、失礼も何もない。夫よりは、其巨燵には火があらふ。寒い時には何より馳走。まづ這入
て温(あた)らふと。平素は四角な其人が、丸う砕けた炭団(たどん)の火『掻き分けるには及ばぬ及ばぬ、是で充分暖い。あゝ寒かつたと足延ばす『夫れでは
責(せめ)て此火鉢に、お火を起して上(あげ)ましたいにも、火種子(ひだね)は、毎朝太田から、持つて参るを心当(こゝろあて)。焚付(たきつ)けもご
ざり升ぬ、不都合だらけをどうしたものと。ひいやり、冷たい、鉄瓶の、肌(はだへ)を撫でゝの嘆息顔『茶などは要らぬ、止(よ)しにせい。たしか太田の婢
(をんな)とやらが、毎晩泊りに来るとか聞たが、夫れは今夜も来て居るか『はい夫れは台所(だいどこ)の方に伏つて居り升れど。眠い盛りの年頃とて、つい
した事では眼が醒め升ぬ。一寸頼んで参り升うと。立つを止めて『いや待て待て。知らずば恰(ちやう)ど夫れでよい。李下の冠、瓜田(くわでん)の沓(く
つ)。這入(はひつ)て見るも可恠(をかし)なものと、思はぬではなかつたが。つい此外(このそと)を通つたゆゑ。尋ねて見たい気になつたも、一ツは家へ
帰るがいや。汝(そなた)は何角(なにか)を知つても居(を)れば、少しも隠さぬ、察して呉れ。遅刻(おそ)い序(ついで)に、今夜は此所(こゝ)で、一
寝入して行(ゆ)かふ。思ひ出してもうるさいと。天晴(あつぱ)れ男一人前、二人とはない立派なお方が。是ほど御苦労遊ばすが、おいとをしいとは兼てよ
り、思ふた事も、いはれて見れば。ほんに左様でござり升ると、いふてよいやら、悪いやら。兎も角勧(すゝ)めてお帰し申すが、お身の為ぞと、怜悧(さか)
しき思案『此身風情が兎や角と、申上るも恐れ升れど。夫れでは奥様、猶の事、お案じでもござりましよ。少しおあたり遊ばしましたら、お帰りがお宜(よろ)
しかろ。奥様とても、さうさうは、おむつかりも遊ばすまい。お寒うないやう遊ばしてと。いふ顔、つくづく美麗(うつく)しい、此心ゆゑ忘られぬ。どふやら
乃公(おれ)は迷ふたさうなと。巨燵の矢倉に額(ひたひ)を当(あて)て『あゝ扨(さて)困つた、乃公が身は、家(うち)で叱られ、外では酔(よは)さ
れ。たまたま此所で寝やうと思へば、ならぬと直ぐに突出される。夫ならばよい、今から行く。但(たゞし)家へは帰るまい、泊(とめ)る処で、泊(とま)る
分と。すつくり立(たつ)を真に受けて『何(なん)のまあ勿体ない。外(ほか)へお泊り遊ばすに、此家(こゝ)を否(いな)とは申升ぬ。御恩を受けた此身
体(からだ)、何(なん)の此家(こゝ)が私の住居(すまひ)と申(まをす)でござりましよ。只何事もあなた様の、お心任せを、兎や角と、お詞(ことば)
返し上升(あげます)も、お家のお首尾がお大事さ『ふゝむ、夫れでは此乃公(このおれ)を、迚(とて)も家内に勝(すぐ)れぬものと、見込を付けての意見
かい。汝(そなた)の目にも、夫れほどの、意気地なしと見えるのも、思ふて見れば無理はない。かうして苦労をさせるのも、矢張(やつぱり)乃公(おれ)が
届ぬゆゑ。さあ改めて謝罪(あやま)らふ、許して呉れとの、むつかりは、胸に一物(いちもつ)、半点も、足らぬものない此生活(このくらし)。結構過ぎ
た、身の上に、させて貰ふた方様(かたさま)に、さういふお詞戴いては。どうでも済まぬ此胸を、割つてはお眼に掛られず。はつあ詮方(しかた)がない、ど
うなとなろ。一夜をお泊め申すのが、さうした罪にもなるまいと。顔を見上げて、涙ぐむ、気色(けしき)を夫れと見て取つて『ほう、又泣くか、はて困つた。
泣くほど嫌(いや)なら達(たつ)ても行くと、いふて見たいの気もすれど。正直な汝(そなた)を対手(あひて)に、此上拗(すね)るも罪であろ。乃公から
折れて頼むとしやう。さあさあ頼んだ、何処(どこ)でもよい。其所(そこ)が否(いや)なら、此隅へ、ころりと丸寝をするとしやう。蒲団を一枚貸して呉
れ、栄耀(えヽう)な事はいふまいと。はやとろとろと夢心地『夫れではお風邪召まする。私はたつた一夜(や)の事、寝ませいでも大事ない『失礼ながらと小
夜(さよ)蒲団『さうさう掛けては、汝(そなた)がなからふ。なに外(ほか)にまだあるといふか。夫れならばよし、よい心地。明朝(みやうてう)は未明に
起して呉れ。人眼に掛らば、つまらぬ事、疑はれまいものでもない。是で兎や角思はれては、鴉に阿房(あはう)と笑はれる。鴉が笑はぬ其隙(そのうち)に、
責(せめ)て、夢なと見やうかと。何(どう)やら足らぬ薄蒲団、身に引纏ひ、すやすやと、寝入らせ玉ふかおいとしや。責(せめ)て来世は、主従(しゆうじ
ゆう)の、隔(へだ)てを取つて、一日でも、かうしてお傍に居て見たい。どふやら、ひよんな胸騒ぎ。又奥様のお肝癪。変つた事がなければよい。明日(あ
す)の事が気にかゝる。どうなる事ぞと、吐(つ)く息も、身体も氷る此夜半(よは)が、悲しい中にも嬉しいに。どふぞ明けずに居て欲しい。迚(とて)もよ
い事、ない筈の、此一生を、一夜(ひとよ)さに、縮めてなり共、継ぎ足して、明けさゝぬやうして見たい。是が責ての思ひ出とは、よくよく因果な生れ定(ぢ
やう)。父(とゝ)様母(はゝ)様許して下され。わしや身分が欲(ほし)かつたと。蒲団の裾にしがみ付き、はつと飛退(とびの)く耳もとに。はや何処やら
の汽笛の音。ゑゝ忙(せは)しない、何(どう)ぞいの。横に仆(こ)けても居る事か。余所(よそ)の共寝(ともね)を起すがよい。こちや先刻(さつき)に
から坐つた儘と。起しともない、明け鴉。かあいかあいの方様(かたさま)を、かうして去(い)なすが後朝(きぬぎぬ)か。あの汽笛めも、奥様に、似たら
ば、たんと鳴りおれい。ゑゝ腹が立つ、気が狂ふ。耳まで真似して鳴るからは、此身体にも愛想(あいそ)が尽きた。どうなるものぞと、むしやくしや腹も。流
石(さすが)いとしい顔見ては、恥しさのみ先立ちて、今まで何も思はぬ振り。そつと起して見送りし、門辺(かどべ)で澄(すます)が捨詞(すてことば)。
又嫌はれに来(こ)やうぞと、顔を見られて、魂は、ふわり、もぬけの唐衣(からごろも)。きつゝ空(むな)しく行く人の、さこそは我をつれなしと、思ひ玉
はむ、お後影(うしろかげ)。お寒さうなが勿体ない。責て私も此寒風(このかぜ)にと、恍惚(うつとり)其所(そこ)に佇みぬ。
第七回
年の内に、春は来にける、御大家(ごたいけ)の、御台所の賑はしさ。我等は、いつも来る年を、晦日(みそか)の関に隔(へだ)てられ。五日十日と、延び
延びの、払ひに年は越させても。身の春知らぬが極(きま)りじやに。あの深井様のお邸(やしき)は、二度正月が来るさうな。二十日(はつか)といふに、餅
搗きも、やあぽんぽんの煤(すゝ)払ひ。払ひ玉への神棚から、払ひを玉ふ門口(かどぐち)まで、飾り立(たて)たる、注連(しめ)飾り。〆(しめ)て何百
何十の、到来の数(かず)御用の品。お台所まで、ぎつしりと、詰つた年の暮の内、眼の正月が出来るといふ。宝の山を見がてらに、行くにもこちとは出入方
(でいりかた)、空手(からて)で帰らぬ、其代り。高い処へ土持ちの、歳暮の品は持つて行く。どうでも我等は貧乏性(しやう)、土方(どかた)にならぬ
が、まだしも、ましかと。出入の左官、大工まで、来る年々の羨(うらや)み種が。今年ばかりは御様子が、がらりと違ふた淋しさは、恐ろしいもの、諸式の高
直(かうぢき)。此お邸にも響いたさうなと。外から見えぬ内幕を。幕の内では婢(をんな)共、二人三人が、こそこそ話。棚から卸(おろ)す、針箱や、櫛の
道具に鏡立(かゞみたて)。かうして纏める雑物(ざふもつ)の、風呂敷包見るやうに、包んで置(おい)ては、行(ゆつ)た跡で、隔てがあると怒(おこ)ら
んしよ。親の病気といふたは嘘。勤まり悪(にく)いお邸で、年を越すでもなからふと、内證極(き)めた前刻(さつき)の使ひ。忙(せは)しい時に暇取つ
て、お前方へは気の毒ながら、無理のない訳聞(きか)しやんせ。此四五日の奥様の、あの肝癪(かんしやく)は正気の沙汰か。お肝高(かんだか)いは、日頃
から、知れても居れど。なんぼうでも、堪(こ)らえられぬは、此間(このあひだ)、旦那が泊つて御坐つた朝。いつもの時刻と、御寝所の、雨戸を私(わたく
し)が明け掛(かけ)たら。お前も旦那に一味(いちみ)して、寝さすまいの算段か。昨宵一夜(ゆうべいちや)は、まんじりと、寝ぬのは知れたに、がたびし
と、其(その)開け方の訳聞かふ。やつとの事で、とろとろと、今がた寝かけた眼が醒めた。是では今日も、一日頭痛。まどしやまどしやの、難題も、夫(そ
れ)だけならば済しもせう。まだ其跡で、手水(てうづ)の湯が、温(ぬる)いの熱いの、大小言(おほこゞと)。かなぎり声で、金盥(かねだらひ)。替えて
来やれと、突出したが、私(わたし)の着ものに、ざんぶりと。濡れは、濡れでも、あんな濡れ。こちや、神様に頼みはせぬ。吉蔵さんとは、正直が、濡れて見
たいの願立(ねがひだて)に。お薩芋(さつ)を一生断(たち)ますると、頼んで置たが。なんぼうでも、験(げん)が見えぬに、ほつとして。あの前の晩、ほ
こほこを、喰べて退(の)けたが、出雲へ知れた、罰(ばち)かと思ふて、堪(こ)らえて居たりや。よい事にして大眼玉。着物が大事か、主人が大事か、何ま
ごまごと叱られては、もう神様が対手(あひて)じやない。堪忍ならぬも私(わし)が無理か。まだ其上に此頃は、吉蔵さんが、こそこそと、お部屋へ忍んで行
く様子。どうでも是は、奥様と、事情(わけ)が出来たであるまいの。標致(きりやう)は、どうでも、金づくなら、私(わし)が負けるに、極(きは)まつ
た。迚(とて)も叶はぬ恋故に、辛棒するでもあるまいと、思ひ切つての拵(こし)らえ事。親を遣(つか)ふて、あれほどの、奥様、うむと、いはれた今日。
始めて親の有難さが、身にしみじみと分つて来た。お前方も親御があらば、たんと遣ふて暇とりやと。年甲斐もない、頬赤(ほゝあか)の詞(ことば)に。白い
反歯(そつぱ)がさし出口。ほゝゝゝ何の事かと思ふたら、又あの時の復習(おさらひ)かえ。お前のやうに、足引(あしびき)のと、長たらしういひ出して
は、私等(わしら)もいふ事、山ほどあれど。いはぬに極(き)めて、近々(ちかぢか)に、暇(いとま)を取らふと思ふたに、魁(さきがけ)られた上から
は、親の病気の古手(ふるて)も出せまい。いつその腐れ、逃げやうか。夫れもなるまい、荷物がある。あのお園さん見るやうに、抑(おさ)えられては、こち
や困る。なふお松さん、そでないか。さうともさうとも三人が、三人までも出て行けまい。替りを拵(こし)らえ、公然(おもてむき)、暇(ひま)とる迄は、
奥様の肝癪玉を、正月の、餅花位に思ふて居よう。夫れにしても、吉蔵だけは、よい事をしやるじやないか。此四五日は、あの人の、工面も、ずんと、よい様
子。財布も、ちやらちやらいふて居る。何でもあの晩、奥様の、癪(しやく)は、男に限つたさうな。女子(をなご)は、叱られ、遠ざけられ、吉蔵ばかりがお
傍に居たが、可恠(をかし)なものじやないかいな。按摩(あんま)ばかりの駄賃(だちん)じやあるまい。お梅の怒つて、暇(ひま)とりやるも、是には無理
のないだけが、笑止(せうし)でならぬと。思はずも、笑ひさゞめく女部屋。ゑゝ、又しても騒々しい。何がをかしふて笑(わら)やるぞ。お梅は親の病気とい
ふたに、まだぐずぐずとして居やるか。松はいつもの仕立屋(したてや)へ、仕立を急(せ)きにといふたのを、もう忘れての冗談か。竹は私(わたし)の頭痛
の薬今も頭(つむり)が破(わ)れさうなに、お医師者(いしや)様で貰ふて来(き)や。どれも是も、一人として、私の身になるものはない。旦那のお留守
は、女子(をんな)の主(ぬし)と、侮(あなど)る顔が見えて居る、忙しい時には、忙しいやうに、ちつとは、いふ事聞(きい)たがよいと、何やら分らぬ腹
立声を、銘々の頭(つむり)に冠(かぶ)せて、出したる、跡は巨燵にあたるより、あたりやうなき、部屋の内。じたいあの、時計めが気に入らぬ。旦那の留守
には、夫れ見た事かと、いはぬ計(ばか)りに、きちきちと、私の胸を刻(きざ)みおる。誰が買ふたと思ふて居る。旦那の力で買ふたにしても、みんな私が親
のもの。恩知らずの時計めが、六時を廻つて平気な顔。あのぴかぴかと白いのが、お園の顔に似て居るやうな。お園も今は、お妾(めかけ)と、誰憚(はゞか)
らず、装飾(めか)して居やろ。今夜も旦那は、又其処(そこ)にか。愈(いよいよ)お帰宅(かへり)ないならば、私(わたし)も腹を極めて居る。男が能
(よ)うても、器量があつても、深切のない人が、どうなるものぞと思ふても、又気にかゝる門の戸が、開(あい)たは確に腕車(くるま)の音。今夜はさうで
もなかつたか。夫れは夫れでも、よい顔を、見せては、たんと、つけ込(こま)れる。知らぬ顔して寝て居たら、先方(さき)から何とかいはんしよと。少しは
横に仆(こ)けかけた、腹の中での算段も。がらりと違ふた、吉蔵が、へい只今と畏(かしこま)る、顔つくづくと、突上げる、痞(つかへ)を抑えて起直り
『旦那はお帰宅(かへり)ないのかえ 『へい今日も私に、前(さき)へ帰れと仰(おつしや)つたは、確にさうと勘付(かんづき)まして。腕車(くるま)を
そつと預けて置き、お跡を追蹤(つけ)て見ましたら。矢張例の富士見町、恠(あや)しい家でござり舛る。何でも近処の噂では、婢(をんな)も二人居りまし
て、贅沢な生活向(くらしむき)。今日は帯の祝とやらで、隣り近処へ、麗々と、赤飯(せきはん)配つて廻したとは、何と奥様、驚き舛では御座り升ぬか。先
月彼女(あれ)が出ました晩、旦那が途中でお待受(まちうけ)、私が口を開(あ)かされ舛たが、恠(あや)しい処(どころ)じやござり舛ぬ。お腹(はら)
に赤児(やゝ)が居ますもの。疾(とう)からちやんとお支度(したく)が、出来て居たのも御尤(ごもつとも)。是から何と遊ばすお心。うかうかなさる処じ
やないと、底に一物(いちもつ)、吉蔵が、敷居を超えて、じりじりと、焚き付けかけた胸の火(ほ)に。くわつと逆上(のぼ)せて、顫(ふる)ひ声『うかう
かとは、誰の事。お前こそは、二度までも、旦那を途中で遁(にが)したは、恠(あや)しい了簡、夫れ聞かふ。大方此間赤坂の、お帰り道が、かうかうと、忠
義顔して、いやつたも、何が何やら分りはせぬ。お前一人は、味方ぞと、頼んで居たが私の誤り。もうもう誰も頼みはせぬ。寄て掛(かゝ)つて、此私(わた
し)を、飽く迄、馬鹿にするがよい。私は、私の了簡がと。すつくと立つて、何処へやら、駈出す積りが、ぐらぐらと、持病の頭痛に悩められ、ばつたり、其処
に仆(たふ)れたる、跡はすやすや鼾の声。まさか寝たのじやあるまいな。是が気絶か、馬鹿々々しい、脆(もろ)いものだが、捨(すて)ても置けまい。どう
して遣らふと、水さしの、水を汲んで、奥様と、二声三声(ふたこえみこえ)じや埒(らち)明かぬ。歯を喰しばつて居るからは、詮方(しかた)がないと、口
うつし。序(ついで)に足も温めて遣(や)らふと。己(おの)れの肌に暖めて、そろそろ撫でし、鳩尾(みぞおち)へ、水が通ふて、うつとりと、眼を開いた
る鹿子が驚き。是はどうぞと、吉蔵を、振除(ふりの)けたいにも、力なき、片手を、やうやう挙(あ)げかけし、処へお松がうつかりと。はい只今と顔出し
て、喫驚(びつくり)仰天逃げて行く『あの顔付ではいひ訳しても、迚(とて)もさうとは思ふまい。困つた事をして呉りやつた。真実過ぎた介抱が、わしや怨
めしいの当惑顔を。心ありげに吉蔵が、『奥様夫れでは、私も、お怨み申さにやなり升ぬ。口から、口へ、口うつし。演劇(しばゐ)で見ました、其模型(その
かた)を、一生懸命、やつとの事で、繋ぎ止めたるお生命を。心の駒が狂ふての、所為(しわざ)と御覧なされたか。下司(げす)の悲しさ、吉蔵が、是迄尽し
た、御奉公。お気に済まぬと仰れば、どうも詮方(しかた)はござり升ぬ。直(すぐ)にもお暇(ひま)戴いて、お身の明りを立(た)させ升(ませ)うと。す
ごすご立つを、まあ待ちやと、鹿子は留めて。両頬に、ふりかゝりたる後れ毛を、じつと噛〆め口惜泣(くやしな)き『かうなるからは詮方(しかた)がない。
お前に暇を出したとて、お松の口を塞がぬ上は、矢張(やつぱり)嘘が真実(まこと)になる。さうでなうても、此間から、衆婢(みんな)が可恠(あやし)う
思ふて居る、素振りが見えるに、猶の事、腹が立(たつ)てたまらなんだも。かうした訳に落ちてゆく、因果の前兆であつたやら。是も矢張旦那のお蔭。お前は
怨まぬ、了簡据えた。いふものならば、いはせて置き、行く処までは、行(ゆつ)て見る積り。お前も是から其気になつて。まさかの時の力になりやと。思ひの
外(ほか)の道行(みちゆき)が、お園の方へ是程(これまで)に、はかどつた事ならば、疾(と)うに成仏しやうもの。矢張是では、何処迄も、慾を道連れ、
赤鬼の、役目を勤めざなるまいと。肚(はら)に思案の吉蔵が表面(うはべ)ばかりの喜び顔『夫程までに吉蔵を、思召(おぼしめ)して下さるからは、滅多に
置かぬ、狂言ながら、かうも致して見升うかと。鹿子の耳へ吹込みし、工(たく)みは何より夫れがよい。夫れでは、お園の旧夫(をつと)とやらを、お前が巧
手(たくみ)に取込んで。お園を殺すと威赫(おど)させたら、お園が退(の)かふといふのかえ 『若し奥様、お声が高うござり升る。お竹もどふやら帰つた
様子。此所(こゝ)四五日に埒(らち)明けずば、此方(こちら)が先に破(ば)れ升(ませ)うと。悪の上塗、塗骨の、障子を開けて、こつそりと。庭から、
長屋へ、下(さが)つて行く。悪事は千里、似た事は、まこと、ありしの噂となりて。明日は婢(をんな)が口の端(は)を。御門の外へ走りしなる可し。
第八回
はいお頼み申(まをし)やす。此家に、お園さんと仰るがお出(いで)の筈。私は深井の旦那から頼まれて、内證の御用に参つたもの。御取次下されませと。
心得顔に音信(おとな)ふを。太田の下女が、うつかりと。はいはいさうでござんすか。彼処(あすこ)にお出(いで)なされ升ると。お園が住居(すまひ)の
裏口を、教ゆるまゝに、〆(しめ)たりと、跡を、ぴつしやり、さし覗く。障子の影に、お園が一人、もの思ひやら、俯首(うつむい)た、外には誰も居ぬ様
子。恰(ちやう)どよかつた、はい是は、お久し振でと入来(いりきた)る。顔を見るより、ぎよつとして、逃げむとするを、どつこいと、走り上(あが)つ
て、袂(たもと)を捉らえ『是お園さん、どうしたもの。此吉蔵を、何日(いつ)迄も、悪玉とのみ思ふて居るのか。先づ落付(おちつい)て聞くがよい。生命
(いのち)に拘(かゝ)はる一条でも、此(この)己(お)れからは、聞かぬ気かと。嘘と思へぬ血色(けつしよく)に。お園も、もしや、奥様の、お身の上で
はあるまいかと。心ならずも坐に就くに。左(さ)こそと吉蔵微笑みて『甘(うま)く遣(や)つたぜ、お園さん。とうとう正真正銘の、お妾(めかけ)さんと
成済(なりすま)した、お前に位が付(つい)たやら。何だか遠慮な気がすると。其所等(そこら)一順見廻はして『かう見た処が、見越の松に、黒板塀は、外
構え。中はがらりと、明き屋の隅に、小さうなつて、屈(かゞ)んで居るは、旦那に合せて、お麁末(そまつ)千万。お前も余り気が利かぬ。是で生命(いの
ち)を亡くしたら、冥途でたんと、釣銭が取れ、鬼めに、纏頭(てんとう)が、はづまれよと。空嘯(そらうそぶ)いて、冷笑(あざわら)ふ。顔を憎しと腹立
声『何の御用か知り升ぬが、用だけいふて貰ひましよ。お妾なぞと聞えては、私の迷惑、旦那の外聞。ちとたしなんで下さんせと。いふに、ふゝつと吹出して
『其外聞なら、疾(とう)から、たんと、汚れて居るのでお生憎(あいにく)。此近所での噂は知らぬが、お邸(やしき)の界隈では、専(もつぱ)らの大(お
ほ)評判。旦那の顔が汚れた代り、お前は器量を上げて居る。お園さんは腕者(たつしや)だと、行く先々の評判が、廻り廻つて、奥様の、耳へは、大きく聞え
て居る。やれ孕(はら)んだの、辷(すべ)つたと、何処(どこ)から、噂が這入るやら。何でも其処等で、見たものが、あるとの手蔓を、手繰り寄せ。己れさ
へ知らぬ事までも、何時か知つての大腹立ち。己れは一度も供せぬと、いふても聞かぬ気の奥様。今日此頃では、全くの、気狂(きちが)ひを見るやうに、其方
(そつち)も、ぐるじやと、大不興(だいふきよう)。知らぬが定(ぢやう)なら、是から行て、何処なりと探し当て、お園を是で殺してと。まあさ、そんな
に、真青な顔をせぬがよい。何の己(お)れが其様な、無暗(むやみ)な事をするものか。生命が二ツあつたら格別、一ツしかない身体では、其所(そこ)迄は
乗込まぬ。小使銭(こづかひぜに)に困つた時、ちよつくら、御機嫌とつたのが、今で思へば此身の仇(あだ)。飛んだ事まで頼まれて、迷惑は己れ一人。否
(いや)といふたら、自分の手で、探し出しても、殺して見せると、いはぬ計りの見幕を、知つてはお前が気遣はしさ。まづはいはいと請合(うけあつ)たも、
お前の了簡聞(きい)た上、二度と邸へ帰らぬ積り。まづ其事は擱(さしおい)て、奥様が頼んだ證拠(しようこ)是れ見やと。懐探つて取出すは、兼て見知り
し、鹿子(しかこ)が懐刀(くわいたう)。お園を威赫(おど)かす材料(たね)にと、鹿子を欺(あざむ)き、助三(すけざう)に、与へるものと偽つて、取
出したるものぞとは、神ならぬ身の、お園は知らず。よもやと思へど、其事の、ないには限らぬ奥様の、気質(きしつ)は兼て知る上に。動かぬ證拠、若(も)
しひよつと。ても恐ろしの奥様と、身顫(みぶる)ひする顔。よいつけ目ぞと吉蔵が『何と違ひはなからふが。処(ところ)でお前はどうするつもり。さつぱり
旦那と手を切らずば、此所で己れが見遁しても。何処ぞで探し当られて、執念深い奥様に、殺されるのは知れた事。夫(それ)よりは、今の間(ま)に、逃げて
助かる分別なら、及ばずながら、此己れが、引請けて世話しやう。憚(はゞかり)ながら、かう見えても、仲間で兄(あに)いと立(たて)られる、男一匹、何
人前。梶棒とつては、気が利(きか)ねど、偶(ちやう)と半(はん)との、賽(さい)の目の、運が向(むい)たら、一夜の隙(ひま)に、お絹布(かひこ)
着せて、奥様に、劣らぬ生活(くらし)させて見る。えお園さん、どうしたもの。沈黙(だま)つて居るは死たいか。夫れ共己れに依頼(たよ)つて見るか。了
簡聞かふと詰掛(つめか)くるに。扨(さて)はさうした下心。弱味を見せる処でないと。早速(さそく)の思案、さりげなく『夫れは夫れは、いつもながら、
御深切は嬉しう受けて置升る。したが吉蔵さん、私(わたし)がかうして、旦那のお世話になり升も、事情があつてといふではない。誓文(せいもん)奇麗(き
れい)な中なれど。かうして此所に居る限りは、疑はれても、詮方(しかた)がない。此身に覚えのない事で、殺されるのは私の不運。覚悟は極めて居升るほど
に、何時(いつ)なと殺して下さんせ。少しもお前は怨み升ぬ。忠義を立(たて)たが、よござんせう。よしない私をかばいだて、お前の身体を失策(しくじ)
らせ、私は不義の名に墜ちる。夫れが何の互の利得(りとく)。世には神様、仏様、夫れこそは、よう御存じ。何処ぞで見ても下されやう。無理に死にともない
代り、生きたふも思ひ升ぬ。生命(いのち)は、お前と奥様に、確に預けて置くほどに、御入用(ごにふよう)なら、何時(いつ)なりと、受取に来て下さんせ
と。動かぬ魂、坐つた儘、びくともせぬに、口あんぐり。何処迄しぶとい女子(をんな)か知れぬ。さうと知りつゝ、出て来たは、此方(こつち)の未練、馬鹿
を見た。よし此上は、其積りと、いふ顔色を顕(あら)はさず。態(わざ)と心を許さする、追従笑(つゐしようわら)ひ、にやにやと『成程夫れはよい覚悟、
男の己れも恥入(はぢいつ)た。がお園さん、短気は損気といふ事を、お前も知つて居やうから、ゆつくり思案するがよい。此処暫(しばら)くは、奥様に、在
所(ありか)が知れぬといふて置く。確に己れが預つて、滅多な事はさゝぬから、思案を仕替えて見るがよい。惚(ほ)れた弱味は、何日(いつ)の日に、頼み
升るといはれても、其事ならば否(いや)とはいはぬ。殺す役目は真平(まつぴら)御免。いつかのお前の台辞(せりふ)じやないが、外(ほか)を尋ねて下さ
んせか。あい……、いや是はお邪魔をした。何(いづ)れ其内聞きに来る。色よい返事を頼んだと。始めの威勢に引替えて、手持不沙汰に帰りゆく。跡見送つ
て、張詰めし、心のゆるみ、当惑を、誰に語らむよしもない、疑受けるも無理ならねど。夫れにしても、余(あ)んまりな。此間から旦那のお越を、心で拝んで
居ながらも、此処が大事な人の道。踏違えてはなるまいと、態(わざ)とつれなう待遇(もてな)して、お帰し申すは誰の為め。旦那のお為めは、奥様の、為と
もなつて居るものを。夫れ御存(ごぞんじ)はないにせよ。殺せとは何の事。無慈悲にも程がある。夫れを、おとりに、吉蔵が、又しても、いやらしい。憎いは
憎いが、奥様が、猶の事で怨めしい。迚(とて)もの事なら、此後は、嘘を真実(まこと)にした上で、飽く迄ものを思はせて、死んだら私も本望か。いや夫れ
が、何の本望、本望が、外(ほか)にあるので邪魔になる。此母(このはゝ)さんは、なぜ私に、仮令(たとへ)賎(いや)しう育つても、心は高う持てとの
事、教へて置て下さんした。知らずば兎も角、知りつゝも、横道へは外(そ)れられまい。此一ツでは、私が負ける。あんな奥様勝して置くが、どうでも私の道
かいなと、袂(たもと)を噛んで泣沈む。背後の障子の、すらりと開くに。ゑゝ又しても物騒な。誰ぞと見れば、澄(すます)なり。嬉しや旦那の御越(おんこ
し)か。今日は万事を御意(ぎよい)の儘、さうさへすれば敵(かたき)が取れると。胸の痞(つか)えはおろしても、又さしかゝる思ひの種子(たね)。かう
した様(やう)に、こんな身が。おゝ怖わや、恐ろしや、もうもう重ねては思ふまいと。我と我、心を叱つて俯首(うつむ)く顔『又何(なん)ぞ心配か。かう
して乃公(おれ)が出て来るが、気に障つての事なれば、詮方(しかた)がないが、其外の、苦労は何なりいふがよい。一人で思ふは、身体の毒。乃公(おれ)
も大きに悟つたゆゑ、昨日からの飲み続け。今日は気分が好くなつた。そちにも、少し、裾分(すそわ)けの、品は、何であらふと思ふ。あてゝ見やれと。小
(さゝ)やかなる、箱取出(いだ)して手に渡すを。どふやら指輪と受け兼ぬるに。態(わざ)と不興の舌打して『そちは夫れゆゑ、誠に困る。同じ媼(うば)
が育てゝも、乃公(おれ)は仕入(しいれ)に出来て居る。そちばかりが時代(じだい)では、乃公に対して不義理であろ。四角張つた挨拶は、もう止せ止せと
取合はず『何日来て見ても淋しいやうだが、是では猶更気が塞(ふさ)がふ。夫よりは此家を、改めて借受けて、話し対手(あいて)の下女でも置たら、少しは
気分が紛れて好からふ。然(しか)しさうして気楽になれば、乃公が度々出て来るゆゑ、夫れも否(いや)かと顔見られ『何のまあ勿体ない。否か応かは、よう
御存じ、申訳は致し升ねど。はいとお請(うけ)の申されぬ、此身の程を弁(わきま)へましては、どうもかうして居られ升ぬ。御恩を仇(あだ)に、こんな
事、願ひ升るは、恐れ升れど。矢張似合た、水仕(みづし)の奉公、夫れが望みで御坐り升る。死に升筈の私が、かうして御恩に預り升るを、嘸(さぞ)奥様の
お腹立ちと。いひかゝるをば打消して『何其事なら気遣ひすな。乃公も是迄養父への、義理立ゆゑに、堪(こ)らえて居たれど。もう堪らえるには及ばぬ一条
(いちでう)。乃公が身体は自由になつた。一日二日の其内には、屹(きつ)と処置を付ける筈。さうした上では、無妻(むさい)の乃公、誰が何と怒らふぞ。
来(きた)る正月には、大磯か、熱海へ、そちを連れて行く。奥と見られてよいだけの、支度を直ぐにして置きやと。跡先ぽつと匂はする、微酔(ほろゑひ)機
嫌も、其実は、いふにいはれぬ、心外の、恥辱の耳に伝はりしに。心はかうと極めながら。恩ある人の娘とて、直ぐ其日には出し難き、心の当惑、此所(こゝ)
のみを、責てもの気紛(きまぎ)らし。紛らしていふ詞(ことば)ぞと、知らぬお園は、はあはつと、其身が罪を冒せし心地。御離縁とまで仰るを、御酒(ごし
ゆ)機嫌とは聞かれまい。堪(こ)らえられぬと仰るも、奥様のお身に別事(べつじ)が何あらふ。大方いつものお悋気(りんき)も、此身を殺せとまでの事。
並大抵ではあるまいに、よくよくお怒り遊ばしてか。夫れに御無理はないにせよ、事の起りは此身ゆゑ。飽く迄お諫(いさ)め申さではと。我(わが)腹立ちは
何処へやら、鹿子の上をかばひたき、心は急(せ)きに急(せ)き立てど。思へば此身がいふほどの、事は疾(と)くより、御存(ごぞんじ)の方(かた)様
に、申上るは仏に説法。夫(それ)よりは、此身に愛想を尽かせ升るが、何よりの上分別と、打て替つた蓮葉風(はすはふう)。態(わざ)と話を横道へ『それ
はまあお笑止や。今頃お気注(きづ)き遊ばしてか。私は疾(とう)から心待、今日は明日はと、御離縁を、お待ち申て居り升た。今の奥様あゝしてお出(い
で)遊す限りは、私はどうでも日蔭もの。お妾(めかけ)様といはれ升る、夫れが嫌さに今日迄も、謹み深い顔を致して居たを、ほゝお笑ひなされて下さり升
な。夫れでは愈(いよいよ)奥様を、御離縁の其日から、奥様にして下さり升か。其御覚悟が聞(きゝ)ましたい。其場になつて、身分が違ふた。乳母風情の子
のそなたとは、祝言出来ぬと仰つても、聞く事では御坐り升ぬ。此間からのお詞を、私は覚えて居り升る。よもや当座の慰みにと、仰つたのではござんすまい。
若しもならぬと仰るなら、世間へぱつとさせまして。外様(ほかさま)からの奥様なら、仮令(たとへ)華族の姫様(ひいさま)でも、屹度(きつと)お邪魔を
いたし升る。さうしたならば、あなた様の、お顔が大抵汚れ升(ませ)う。夫れお覚悟なら何時(いつ)なりと、奥様を離縁遊ばしませ。直(すぐ)にお跡へ直
り升ると。何日(いつ)に似合ぬ口振りは、どうでも離縁さすまいの、心尽しか、不憫(ふびん)やと、思ひながらも、いひ難き、事情の胸に蟠(わだかま)れ
ば。知つても知らぬ高笑ひ『ハヽヽ大層六(むつ)かしい事をいふではないか。よしよし夫れも聞(きい)て置く。夫れでは離縁の其日にも、五十荷(か)百荷
(か)の荷(に)を拵(こし)らえて、そちを迎える事にしよう。夫れなら異存のない事かと。真面目に受けぬもどかしさ。是では矢張正面からの、御異見が好
からふと、開き直つて手を支(さゝ)え『夫れでは、どうでも奥様を、御離縁遊ばすお心か 『知れた事を聞くではないか。たつた今、そちは何といふたぞや。
後妻(ごさい)にならふといふものが、其物忘れは、実(じつ)がない。乃公(おれ)は確(しか)と覚えて居るぞ。其場になつて、否といふは、どうでも其方
(そち)の方らしいと。笑ひを含んで、取り合はぬを。お園は猶も押返して『夫れ程迄のお心には、何故(なぜ)におなり遊ばしました 『さあ何故(なにゆ
ゑ)なつたか、乃公にも分らぬ。何(いづ)れ其内知れやうから、子細(しさい)の知れた其上で、聞く可き異見は聞きもせう。夫迄は、何もいふな、正直者め
が。そちの知つた事ではない。安心しやれと、笑ふて居れど。どうでも動かぬ決心は、眉の辺りにほの見ゆるに。もう此上は詮方(しかた)がない、責(せめ)
て最后の御意見に、明日は御恩に背(そむ)いてなり、此処を走らふ外(ほか)はなし。さうした上は、此(これ)限り、お目に懸(かゝ)れぬ事もやと。虫が
知らすか、其上の、名残さへに惜まれて、自(おの)づと浮かぬ其顔を。澄(すます)も憐れと見ながらに、夫程までの心とも、知らねば、何(いづ)れ其内
に、我々よりはいひ難き、噂の他処(よそ)より伝はりて、思ひ合する時あらむと。其一ツをば、安心の、頼みにしての高笑ひ。笑ふてお園を慰むるも、半(な
かば)は自(みづか)ら慰むる、心と知らで、白露(しらつゆ)の、情ありける言(こと)の葉を。無分別なる置所(おきどころ)と、賎(しづ)が垣根に生出
(おひいで)し、其身をいとゞ怨(うら)みしなる可(べ)し。
第九回
もしお園様え、今日は淺草の年の市、まだ暮れたばかりで御座んすほどに。私共も是から下女(げぢよ)を連れて参る筈、留守は主翁(あるじ)が致し舛る。
あなた様も、是非にお出(いで)なされ舛ぬかと。澄が帰りし其跡へ、太田の妻の入来(いりく)るに。今日は別(わけ)てのもの思ひ、其所処(そこら)では
ないものをと、いひ度(たい)顔を、色にも見せず。愛想よく出(いで)迎えて『夫れは夫れは御深切さまに、有難うござり舛る。お供をいたしたいは山々なれ
ど。今日はちと、気分が勝(すぐ)れ舛ぬゆゑ、折角ながら、参られさうにも御座り舛ぬ。夫よりは、お帰りの其上で、お話を承るが、何よりの楽(たのし
み)。お留主は私が気を注(つ)け舛(ませ)う。御ゆつくりとお越しなされて、といふを押えて『さあ夫(それ)ゆゑ、猶の事お誘ひ申すので御座り舛る。御
気分が悪いと仰るも、御病気といふではなし。お気が塞(ふさぎ)舛るからの事なれば。賑やかな処を御覧なされたら、ずんとお気が紛れ舛(ませ)う。只今も
深井様、お帰りがけにお寄り遊ばしまして。どうもあなたが、お気重(きおも)さうに見えるゆゑ。お紛れになるやうに、して上まして呉れとのお詞。恰(ちや
う)ど幸ひの年の市、私共は格別の買ものもござりませねど。あなたさまのお供がいたしたさの思ひ立ち。責(せめ)て半町でも、外へ出て御覧遊ばしませ。屹
度お気が替り升う。其上でよくよくお否な事ならば、何処からなり共帰り升う。無理に淺草迄とは申升ぬ。さあさあちやつとお拵(こし)らえと。此細君が勧め
出しては、いつでも否といはさぬ上手(じやうず)。引張るやうに連出して『何時お気が変り升うも知れ升ぬゆゑ。ちと廻りでも、小川町の方へ出まして、賑や
かな方から参り升うと。先に立つての案内顔(あないがお)。三(さん)は跡からいそいそと。お蔭で私もよい藪入(やぶいり)が出来升る。実は此間から、お
正月に致升る帯の片側(かたかは)を、買たい買たいと思ふて居升たを、寝言にまで申て。奥様のお笑ひ受けた程の品。成らふ事なら失礼して、今晩買せて戴き
ましたい。お二方様のお見立を、願ひました事たならば、夫れで私も大安心(おほあんしん)。在処(ざいしよ)の母が参つても、是が東京での流行(はやり)
の品と、たんと自慢が出来升ると。いふに、おほゝゝゝと太田の妻が『まあ仰山な、お園様、あれをお聞遊ばしましたか。あの口振では、大方片側で、二三十円
は、はづむ積りと見えました。夫れでは迚(とて)も外店(ほかみせ)の品では三が気に入升(いります)まい。なふ三、夫れでは越後屋へでも行かうかやと。
何がなお園を笑はせたき、詞と機転の三が受け『はいはい越後屋でも、越前屋でも、其処等に構ひはござり升ぬ。私が持て居り升るは、大枚壱円と八拾銭。跡は
すつかり奥様が、お引受下され升う。ねえ御新造(ごしんぞ)様、あなた様も、お口添下されませ 『まあ呆れた、年の行かない其割には、鉄面(あつかま)し
い女だよと。二人が笑ふに、お園まで、暫時(しばし)は欝(う)さを忘れて行くに。いつしか、九段の下へ出(いで)たり。あれ御新造様、あの提燈が、美し
いではござり升ぬかと。三が詞に、義埋一辺。成程さうでござんすと、お園も重い頭を挙げて、勧工場(くわんこうば)の方を見遣りし顔を。横より、しつか
と、照らし見て。まあ待(まち)ねえと。大股に、お園が前へ立はだかる、男のあるに、ぎよつとして。三人(みたり)一所(いつしよ)に立止り、見れば、何
ぞや、此の寒空に、素袷(すあはせ)の破落戸風(ごろつきふう)。一歩(ひとあし)なりとも動いて見よと、いはぬ計りの面構え。かゝり合(あひ)てはなる
まいと。年嵩(としかさ)だけに、太田の妻が、早速(さそく)の目配(めま)ぜ、お園の手を取り、行かむとするを、どつこい、ならぬと、遮りて『お前は何
所の、細君様(かみさん)か知らねえが、此女には用がある。行くなら一人で歩(あゆ)みねえ。此女だけ引止めたと、お園の肩を鷲握み。はや人立(ひとだ
ち)のしかゝるに。お園も今は二人の手前、耻(はぢ)を見せてはなるまいと。腹を据えての空笑(そらわら)ひ『ホヽヽヽヽ、どなたかと思ひましたら助三
(すけざう)さんでござんしたか。全くお服装(なり)が替つて居るので、つい御見違申しての此失礼、お気に障(さ)えて下さり升な。御用があらば、何所
(どこ)でなり、承(うけたまわは)る事に致し升う。連(つれ)のお方に断(ことわ)る間、一寸待つて下されませと。物和(ものやは)らかなる挨拶に、男
はおもわく違ひし様子。少しは肩肱(かたひじ)寛(ゆる)めても、心は許さぬ目配りを、知(しつ)ても知らぬ落付顔。一寸太田の奥様えと、小暗き方(か
た)に伴ふに。三は虎口(こゝう)を遁れし心地。あたふたと、追縋り『交番へ行ツて参り升うかと、顫えながらの、強がりを。お園は、ほゝと手を振りて『何
の夫れに及びましよ。あれは私が、遁れぬ縁家(えんか)の息子株。相応な身分の人でござんしたのなれど。放蕩(のら)が過ぎての勘当(かんだう)受けと、
いふ声、耳に挟(はさ)んでや『何放蕩(のら)だととひかゝるを『お前の事ではござんせぬ。此方(こちら)の話でござんすと。猶も小声の談話を続け『何に
致せ、あゝいふ風俗(ふうぞく)に、落ちて居る人ゆゑ。当然(あたりまへ)の挨拶が、一寸しても喧嘩腰。嘸(さぞ)お驚きなされたでござんしよが。私は知
つた人ゆゑに、お気遣ひ下され升な。大方何(いづ)れお金銭(かね)の無心か。左(さ)なくば親へ勘当の、詫でも頼むまでの事。大丈夫でござんすほどに、
私にお構ひなさらずとも、お女中と御一所に、お先へお出(いで)下さりませと。いへどもどふやら不安心と、肯(うべな)ひ兼ぬるを、又押して『何の其(そ
の)お案じに及びましよ。気遣ひな位なら、私からでも願ひ升れど。あの人の気は、よう分つて居り升る。途中で逢(あふ)たが何より幸ひ、家で逢と申たら、
度々来るかも知れ升ぬ。夫よりは、何所(どこ)ぞ其所(そこ)らで、捌(さば)くのが、何よりの上分別。一度限りで済(すみ)升る。屹度お案じ下さり升
な。早う済だらお跡から、若しも少し手間取りましたら、お先へ帰つて居り升ほどに、御ゆるりお越なされてと。心易げないひ立(たて)に。太田の妻も安心し
て。素(も)と素と進まぬお外出(そとで)ゆゑ、是を機会(しほ)のお帰りか。夫れとも外(ほか)に子細あらば、猶更、無理にといふでもなし。どの道、危
険(あぶなげ)無い事ならと。念を押したる分れ道。見返り勝ちにゆく影を。ほつと見送る、安心の、刹那を破る大欠伸(おほあくび)『何時迄己れを待(ま
た)すんだ。早く此方へ来ないかと。引張りかゝるに『何じやぞえ。私が逃げるものでなし。往来中での大声は、ちと嗜(たしな)んで貰ひましよ。私に話はな
い筈ながら、あるといはんす事ならば、詮方(しかた)がないゆゑ行き升る。人通りのない処で、尋常(ぢみち)に話すが好(よ)ござんせうと。いふは素より
望む所と『夫れは天晴れよい覚悟だ。夫れでは其所の公園の、中へ這入つて話すとしやう。さあ歩行(あるい)たと、お園を先に、逃がすまいの顔付き鋭く。一
寸背後を振向ても、ぐつと睨むに、怖気(おぢけ)は立てど。心は冴えた、冬の夜の、月には障る隈(くま)もなき、木立の下を行き見れば。池の汀(みぎは)
のむら蘆(あし)も、霜枯はてゝ、しよんぼりと。二人が立つた影ぼしの、外(ほか)には風の音もなし『おい此処だと助三は、傍の床几に、腰かけて『こりや
お園、手前は能(よ)く己れの顔へ、泥を塗つて呉たなあ。一体ならば、重ねて置て四つにすると、いふが天下の作法だが。其所は久しい馴染だけ、手前(てめ
へ)の方は許してやる。其代りにやあ是から直ぐに、男を殺す手引きをしろ。さうして首尾能く仕遂げたうへは、一緒に高飛して。何処(どこ)の何処(いづ
く)の果(はて)でゝも、素(も)との夫婦にならなきやならんぞ。夫が否(いや)なら、否といへ。此処で立派に殺して遣る。手前を殺した其刃物(はもの)
で、直ぐに男を殺したら、重ねて置て殺すも同様。どの道今夜は埒(らち)明ける。さあ死(しに)たいか、生(いき)たいか、返答せいと、威(おど)しの出
刃(でば)、右手(めて)にかざして、詰掛くるに。不審ながらも、愕(ぎよつ)として『男とは何の事。事情(わけ)をいはんせ、分らぬ事に、返事のしやう
もないではないか 『へん、盗人(ぬすびと)たけだけしい。分らぬとは能(よ)くいつた。手前(てめへ)の腹に聞て見ろ 『さあ夫れを知つて居る位なら、
何のお前に聞升(きゝませ)う。男呼(よば)はり合点(がてん)が行かぬ。私はお前の女房じやないぞえと。いはれて、くわつと急(せ)き込みながら『成程
今は女房じやない。離縁(きつ)たのは覚えて居る。が己(お)れが離縁(き)らない其内から、密通(くつつ)いて居た男があらふ 『やあ何をいはんすや
ら。そんな事があるかないかは、お前も知つての筈ではないか。今になつてそんな事。誰ぞに何とかいはれたかえ 『知れた事だ。天にや眼もある、鼻もある。
誰が何といはねえでも、曲つた事をして置て、知れずに済むと思ふが間違ひ。證拠はちやんと挙(あが)つて居らあ。何日(いつ)迄己(おれ)を欺せるもんけ
い。済まなかつたと、詫れば格別。まだ此上に、しらばつくれりやあ、どうでも生しちや置(おか)ねえぞ。と。無二無三に斬(きり)かくる、刃(やいば)の
下を潜りぬけ『まあ待て下さんせ。死ぬる生命は、どうでも一ツ、生やうとは思ひ升ねど。ない名を付(つけ)られ、殺されては、私(わたし)や成仏出来ぬぞ
え。今は夫婦でないにせよ、従兄妹の縁は遁(のがれ)ぬ中。無理往生をさせるのが、お前の手柄じやござんすまい。事情(わけ)を聞た其上で、死ぬるものな
ら、死に升う。尋常に手を合(あは)させて、殺すが責ての功徳じやないか。ゑゝ気の短い人ではあると。白刃(しらは)持(もつ)手に触られては、素々(も
ともと)未練充(み)ち充ちし、身体(からだ)は、ぐんにやり電気にでも、打(うたれ)し心地。べつたりと、腰を卸(おろし)て、太息(といき)吐(つ)
き『夫程事情が聞たけりやあ、話(はなす)まいものでもないが。一体手前(てめへ)は、あの深井と、何日(いつ)から懇(ねんごろ)したんだい 『知(し
れ)た事を聞(きか)しやんす。あれは私が母(かゝ)さんの 『夫(そ)りやあいはずと知(しれ)て居る。乳兄妹(ちきやうだい)といふんだらふ。が其
(その)乳兄妹が、乳兄妹でなくなつたは、何日からだといふ事だいと。いはれて始めて心付き、稍(やゝ)安心の胸撫でゝ『夫ならたんといひ升う。夫ではお
前も、深井様と、私(わたし)が中を疑ふての、此腹立ちでござんすか 『ざんすかもあるめえや。腹が立つのは当然だ 『さあ夫れが。真実(ほんま)の事な
ら尤(もつとも)なれど。何の私が、あのお方と、どんな事を致し升う。成程お世話にやなつて居る。夫れはお前も知つての通(とほり)、母さんの遺言ゆゑ
『ふむ是れは面白い。夫では叔母貴(をばさん)が、己れが女房の其内から姦通(まをとこ)せいと教へたかい。成程是は、よいいひ抜け。死人に口なし、死人
こそ、よい迷惑だと冷笑(あざわら)ふ 『又そんないひ掛り、仕舞まで聞たがよい。夫れでは何かえ、此私が、お前の家に居た時から。深井様と懇(ねんご
ろ)したといふのかえ 『知れた事だ。さうでなけりやあ、己(おれ)だつて、離縁(き)つた女房に、姦通(まをとこ)呼(よば)はりするもんけい。己れか
ら暇を取つたのも、其所等からの寸尺(さしがね)と、遅幕(おそまく)ながら気が注(つ)くからにやあ、どうでも捨ては置かれない。是だけいつたらもう好
からふ。さあどうすると。再び素(もと)の、怖い顔して詰め寄るに。扨(さて)はあの吉蔵めが、恋の叶はぬ意趣晴し、ある事ない事告げ口して。怒らしたも
のならむと、瞬く隙(ひま)に見て取つて。もう此上は詮方(しかた)がない。弁解(いひわけ)しても無益(むだ)な事。夫れよりは、此所一寸(いつすん)
を遁れての、分別が肝要と。思案を極めて、調子を替え『あい、夫れで合点が行ました。いひ度(たい)事は、たんとあれど。證拠のない事いふたとて、よもや
うむとはいはんすまい。成程私が悪かつた。悪かつたとして置升る。其所でお前はどうあつても、深井の旦那を殺す気かえ 『殺さいでどうするものか。今夜は
昼から、お前の家に、遊んで居るといふ事まで、己れはちやんと知つてるよ 『成程さうでござんせう。夫なら私もお前に相談。手引をさせてお呉れかえ 『へ
んそんなお安直(やす)い手引なら、此方(こちら)からお断りだ。手引が何だか恠(あや)しいもんだと。いふ顔じつと、照る月に、雪より白い顔見せて。解
(と)けた眼もとに、男の膝。我から頓(わざ)と身を寄せて『疑深いは女子(をなご)の性(しやう)男子(をとこ)がさうではなるまいぞえ。かうして二人
が居る所を、人が見たらば、真実(まこと)の恋か、虚偽(うそ)の恋かゞ知れやうに。お前が夫(それ)では曲(きよく)がない。元木(もとき)に勝る、う
ら木なしと、世間でいふのは、ありや嘘かえ。お前は知つてゞござんすまい。夫りやもう私が別れてから、よい慰(なぐさ)みが出来たであろ。たまたま逢ふ
た、此私を、斬(き)るの、はつるといふてじやもの。夫れが分らふ筈がない。さあ斬らんせ、殺して下され。大方何所(どこ)ぞの可愛い人に、去つた女房の
私(わたし)でも。生かして置たら、何ぞの拍子。邪魔になるまいものでもないと、いはれさんした、心中立(しんぢゆうだて)に、私を斬るのでござんせう。
さうならさうと有り体(てい)に、いふて呉たらよいものを。私にばかり難僻(なんくせ)付けて。手引をしやうといふものを。まだ疑ふてならぬといふ、お前
は鬼か蛇(ぢや)でござんしよ。さうと知つても、此私(このわたし)は、顔見りや、矢張憎うはない、こんな心になつたのも、思へば天の罰(ばち)であろ。
さあ斬つて下され、殺して下され。罰が当つて死ぬると思へば、是で成仏出来升る。南無阿弥陀仏と合わす掌(て)の、嘘か真実(まこと)を試(ため)さむ
と。やつと声掛け、斬る眞似しても。びくとも動かぬ其身体は。お門(かど)違ひの義理の枷(かせ)、なつても、ならぬ恋ゆゑに、身を捨鉢の破(や)れてゆ
く、覚悟としらぬ助三が『心底(しんそこ)見えたと、手を取つて、頼む、喜ぶ顔見ては。流石(さすが)欺(だま)すも気の毒ながら、何(いづ)れ私も死升
(しにます)ると、心の詫(わび)がさす素振。虚偽(うそ)では出来ぬ優しさと、心解けたる助三が『夫では屹度、今晩の、十二時を合図にして 『あいあい
待て居り升る。寝間(ねま)は、門(かど)から這入ての、右の八畳、雨戸を細目に中(うち)は燈(あかり)を点(つ)けて置く。充分酔はせて、寝さした
ら、ついした音では眼は醒(さめ)まい。障子の紙を破つて置くゆゑ其所から覗いて下さんせ。私が手水(てうづ)に行く振りで、屹度手引を致し升う。其代り
には、お前も此所で、二人までは殺さぬといふ、誓言(せいごん)立てゝ貰ひたい 『うふゝ、まア怖がつて居るのかい。かうして己れに依頼(たよ)つたから
は、二人死(しな)してよいものか。一人は大事な大事な身体。毛ほども恠我(けが)はさゝぬ気だが。若(も)し間違つて、爪でも斬(きつ)たら。おゝさう
だ、博奕冥利(ばくちみやうり)に尽(つき)るとしよう 『ほゝ博奕冥利もをかしなものだが、お前は夫れが第一ゆゑ、そんならさうとして置かふ。屹度違え
て下さんすな。若しも夫れが嘘ならば、生き代り死に代り、たんとお前を怨むぞえ 『七(しち)くどいから、もうおきねえ。己れが仲間は義が堅い。昔の侍其
所退(そこの)けだ。かういふ事に、二言(にごん)がありやあ、誰も取合ふものはない。何なら誰か證拠に立(たて)よか 『何の夫れに及びましよ。夫れで
私も安心しました。そんならもう行くぞえと。行きかけて立戻り、思ひ出したる懐中物 『此所に少しはお紙幣(さつ)があるゆゑ、一杯飲んで下さんせ。まだ
十二時には三時間もあらふ。元気を付けたがよいわいなと。渡すを、にいやり受取りて『流石は女房だ、有難てえ。其所迄お気が注(つ)かれふとは、思はなん
だに忝(かたじけ)ねえ。じやあ行て来るぞ。待つぞえと。離れ離れになる影を。其人ゆゑには惜(をし)まねど。あちらへ行くだけ羨しい。是が自由になるな
らば、私(わし)も彼処(あつち)の方角へつい一走り。かういふ訳で死升る。夫れは嬉しい、忝(かたじけな)い。確に生命(いのち)は受取つたの、お詞
(ことば)聞て死なふもの。是程迄に思ふ気が、跡で知れるか、知れぬやら。一筆書いて置く積りも、片便(かただよ)りでは、たんのう出来ぬ。縁(えにし)
の糸も片結び、かたみに結ぶ心でも、一ツ合せて結ばれぬ、西片町(にしかたまち)の其名さへ、今はさながら恨めしやと。千々(ちゞ)に砕くる、うき思ひ。
身を八ツ裂(ざき)の九段坂。百千段に刻んでも、足の運びは、はかどらぬ。もどかしさよと振り向けば。人の歎きを知らぬかの、町の賑ひ、電燈の、ほめきは
神田ばかりかは。日本橋さへ、京橋さへ、其所と見えるに、片町(かたまち)は、なぜに見えぬぞ。お邸が、責(せめ)て湯島の丘ならば、此所から名残惜めう
もの。上野の森に、用のない、松は見えても、お邸の、お庭の松がなぜ見えぬと。なくなく行けば、畏(かしこ)かる、神の御前(みまへ)の大鳥居。此所
(こゝ)は恐れの、横道へ、たどり入(い)るこそ不便なる。
第十回
其(その)翌朝(よくあさ)未明、太田が家にては、下女の報告(しらせ)に、夫婦が驚き『何お園様が殺されて御坐るといふのか。馬鹿め、貴様はどうして
居たと。叱りながらも半信半疑。見れば真実(まこと)や、縁側の、雨戸も障子も開け放し。足の跡こそ、付て居(を)れ。死骸は立派な覚悟の死。襟寛(くつ
ろ)げて、喉笛に、柄(つか)までぐつと突込(つきこん)だ、剃刀(かみそり)はお園がもの。是が自殺でなからふかと。まだ此所(こゝ)のみは、明けやら
ぬ、昨宵(ゆうべ)の儘の燈火(あかり)、掻き立て見れば、口の内、何やら含んだものがある。検死の邪魔にならふか知らぬが、自殺他殺も知らないでは、深
井様へのいひわけが、済まぬ済まぬの一心に。口押破つて、引出せば、子細は何やら、白紙を、くるくる巻た其中から、からりと見慣れぬ、指輪が一ツ。是はど
うぢやと呆れて立つ。夫婦の前へ。あたふたと、下女が持(も)て来る、文(ふみ)二通。是が私(わたし)の寝床の下に。今までちつとも知らなんだを、又も
叱つて下さるなと。もじもじするを、引(ひつ)たくり。見れば、一ツは様(さま)参る。深井の旦那へ、園よりの、外(ほか)には太田夫婦宛。当つて砕けた
白玉が、何(なん)ぞと人の知らぬ間に。露と消えたる身の果(はて)を、金剛石の指輪と共に、とりどり人の噂しぬ。