「e-文藝館=湖(umi)」 論説  招待席

しまざき とうそん  作家 詩人 日本ペンクラブ初代会長  掲載の一文は、昭和十年(一九三五)十一月二十六日「日本ペンクラブ」発会式で、初代会長 としてされた「挨拶」の再録である。藤村先生は、夏目漱石、谷崎潤一郎両先生とならべて、私が文壇に初めて招き入れられた非の記者会見で「尊敬する作家」 と公言した筆頭のお一人である。ペンクラブに会員として推薦されたときも、委員・理事として、「ペン電子文藝館」館長として勤めたおよそ二十数年、私は藤 村や白鳥や直哉や康成や、光治良や、中村光夫から梅原猛にいたる歴代会長の文学精神とともに歩んできたつもりである。記念の一文を大切に読み返したい。因 みに私が生まれたのは、この発会式からちょうど二十五日経った、昭和十年十二月二十一日だった。ペンクラブとならんで年を重ねてきた。創立七十年、日本ペ ンクラブが、新に藝術的な文学精神に立ち返り、しかも政治や社会から枠を嵌めてくる縛りに屈しない反骨精神を回復してくれるよう望んでやまない。  (秦 恒平)



P.E.N.⊂HARTER(P. E.N.憲章) (仮訳) 日本ペンクラブ

 P.E.N.憲章は国際大会(複数)で採択された諸決議案を基盤とするものであり、次のように要約されるであろう。


P.E.N.は以下を確認する。

 1.文芸書作物(literature)は、国境のないものであり、政治的なあるいは国際的な紛糾にかかわりなく諸国間で共有する価値あ るものたるべきである。

 2.芸術作品は、汎く人類の相続財産であり、あらゆる場合に、特に戦時において、国家的あるいは政治的な激情によって損われることなく保たれねばならな い。

 3.P.E.N.の会員たちは、諸国間のよき理解と相互の尊敬のためにつねにその持てる限りの影響力を活用すべきである。人種間、階級間、国家間の憎し みを取り除くことに、そして一つの世界に生きる一つの人類という理想を守ることに、最善の努力を払うことを誓う。
 
 4.P.E.N.は、各国内およびすべての国の間で思想の交流を妨げてはならないという原則を支持し、会員たちはみずからの属する国や社会、ならびに全 世界を通じてそれが可能な限り、表現の自由に対するあらゆる形の抑圧に反対することを誓う。P.E.N.は言論報道の自由を宣言し、平時における専制的な 検問に反対する。
 P.E.Nは、より高度な政治的経済的秩序への世界が必要としている進歩をなしとげるためには、政府、行政、諸制度に対する自由な批判が不可欠であると 信ずる。また自由は自制を伴うものであるが故に、会員たちは政治的個人的な目的のための欺瞞の出版、意図的な虚構、事実の歪曲など言論報道の自由にまつわ る悪弊に反対することを誓う。

 上記の目的に賛同する、資格をそなえた文筆家、編集者、翻訳家はすべて、その国籍、言語、人種、皮膚の色、または宗教の如何を問わず
P.E.N.の会員となることができる。



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  日本ペンクラブ発会式挨拶

       昭和十年(一九三五)十一月二十六日


          初代会長  島崎藤 村



 今夕は、日本ペン倶楽部の総会を開くために文筆に従事するものがこゝに集まりました。これは今 後、年一回づつ開く筈の最初の集まりであります。又、吾国にもこの企てのあることを知りましたなら
、おそ らく世界に散在する各国ペン倶楽部の会員を初め、その他の文筆業者も、より多く日本といふものを知る手がかりの一つともならうかと想ひ見ますると、いさヽ か意義のある集まりとも考へられます。会員諸君へ私名義で案内書を送りました節、イの一番に入会を申込まれたのは久保田万太郎君でありましたが、ひとり同 君のやうな戯曲家にかぎらず、詩、和歌、俳句、童謡等の詩の世界に住む作者達から小説、童話、随筆、評論、感想等の広い散文の世界に亘る文筆業者諸君の賛 同を得、のみならず多年外国文学の研究に従事せらるる教授、翻訳家、あるひは新聞雑誌の記者、あるひは出 版業者までの賛同を得ましたことは、めづらしくもあり心強くもあることで、おのづから機運の趣くところを語るものでありませう。


 さういふ私は、かうした集まりのお世話をするにはまことに不適任でありまして、私の平生を知る方々もさう思つて下さるでせうが、いかに言つても本会は草 創の際でありますから、私ごとき長く文学生涯を送つたものが及ばずながらお世話すべきことかとも思ひ直した次第であります。あれは最早世界大戦の前後、三 年程フランスの方に旅の身を置きました頃、当時の在留者諸君から『巴里村の村長』という綽名を貰ひました。今回も私はそれを思ひ出しまして、先づまあ『ペ ン倶発部の村長』とでも自分を考へたらよからうと思ひ、この小さな民間の仕事が目鼻のつくまで村長役を引受けることに致しました。


 そんなら、この村では何をするのか。本会の案内書を送りました節、ある詩人からもその問がありました。 会員にはいかなる 資格があるのかとの問合せでした。その時、さし当つて私の答へられることは四つしかありません。海外への日本文学の選定紹介はその一つ。年に二回乃至三四 回の会報を編みまして会員各自の著作出版物等を報告し合ふことはその一つ。会員野口米次郎君のやうな旅行者が帰朝の折には、特に会員のために小集を催し て、東洋の事情なぞを互いに聴き取ることはその一つ。海外各国にあるペン倶楽部会員とも連絡を取りまして、本会々員のうち海外の視察旅行あるひは留学等の 便宜を計り得ることもまたその一つ。かく数へて見ても、ペン倶楽部の仕事はまことに微々たるものではありますが、しかし世界の人の間に伍して種々の国際的 な文学上の連絡をとり、相互に親しみを重ねる助けともなり得るなら、意義のないこともありません。本会の成立する事を伝え聞いて、イギリスのウェルズ氏か らわざわざ祝ひの手紙を送つて参りました。この一事だけでも、文筆業者互に呼びかはす世界の人の声を聞きつける心地もいたします。


 こゝですこし海外各国にあるペン倶楽部のことを云つてみますと、近く故人となりました英吉利のダウソン・スコット夫人を最初のペン倶楽部創立者といたしまして、只今では世界四十ケ国に本会のごときものが存在 して居ります。米国ではニューヨーク、シカゴ、及びサンフランシスコに、ベルジウムではブラツセルに、英国ではロンドンに、仏国ではパリに、伊太利国では ミランに、スウエデンではストックホルムに、スウイザアランドではゼネバに、といふ風に。東洋方面を見渡しますと、印度ではボンベイに、中華民国では上海 にありまして、最も遅く又最も新しく成立しましたのが我国では東京の本会であります。


 御承知のごとく、今は国の歩みの艱い時でありまして、私達はいたづらに事を好むためにこんな倶楽部を組織するものではありませんが、東洋といはず、西洋 といはず、全世界をあげて一大変遷の時機にあることは争はれないのであります。この時代に処するものが十九世紀の偉大な人達の糟粕をのみ嘗めてゐていゝと は決して申されません。仮令国民間の政治生活より起り来る出来事はどうありませうとも、私達は歴史の帰趨を思ひ、人道の成就を眼がけ、日本精
神もまたそれの成就にある事を信じ、あの故福澤諭吉翁の言草ではありませんが、理のあるところには黒奴にも恐れ入るやうな心を持ち まして、互に縦横に踏み出したいものと思ひます。これを欧米諸外国の文筆に従事するものに比べて見ましても、実に長い間、私達は全く孤立の状態に置かれて ゐました。
 会員諸君へ送つた案内書の中にも述べてあります通り、極めて稀なものゝ外は、私達の国の詩歌と云ひ、散文といひ、何一つ世界へ知られてゐませんでした。 これは文字と言葉の特殊性の為に私達の文学が外国へ浸透することの出来なかつたのによりませう。どんなに私達が藝術を通して世界の人に結びつきたいと思つ ても、もし互に交渉する道がなかつたなら、何によつてそれが出来るでありませうか。私通は自分等日本人の感ずることや考へることをより多く諸外国の入達に 知らせ、私達の文学により多く各方面からの真面目な批評が加へられることを望んでまゐつたものであります。今日までの孤立が私達に取つて決して好ましいも のでなかつた証拠には、私達は諸外国から採り入れるばかりで、ほとほと吾国より送り出す文学上の交換の途も絶えて居りました。その結果は、と申しますと私 達の早熟です。


 明治以来のこの国には文学上にも幾多の天才を出しましたが、その中にも北村透谷のごとき、高山樗牛のごとき、石川啄木の
ごとき、又近くは芥川龍之介のごとき、いづれも早く惜しい生涯を終つたといふのも、一つはこの全くの孤立からだと近頃私はそのことに想ひ当ります。これは よくよく御勘考あるべきことです。その意味から申しましても、私は会員諸君が、この新しい機運を看過さないで、自国の文学の上にも生気をそゝぎ入れられる ことを望んでやまないものであります。
 1935年11月26日


 (汗∴槻丁は「川浬下に改めました…川
満舶は「時のもりをそのまま再録しました)




1935年日月26日 日本ペンクラブ発会式
島崎藤村初代会長挨拶
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神もまたそれの成就にある事を信じ、あの
故福澤諭吉翁の言草ではありませんが、理
のあるところには黒奴にも恐れ入るやうな
心を持ちまして、互に縦横に踏み出したい
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達の国の詩歌と云ひ、散文といひ、何一つ
世界へ知られてゐませんでした。これは文
字と言葉の特殊性の為に私達の文学が外国
へ浸透することの出来なかつたのによりま
り多く各方面からの真面目な批評が加へら
れることを望んでまゐつたものであります。
今日までの孤立が私達に取って決して好ま
しいものでなかつた証拠には、私達は諸外