「e-文藝館=湖(umi)」 書下ろし長編小説 寄稿
せいけ じろう 作家 日本ペンクラブ・日本文藝家協会会員 著書多数 1935.12 京都市に生まれる。
掲載作は、2009.3.1起稿、2009.8.31脱稿の新作書下ろし。
凶
器 清家 次郎
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凶器 言論表現の為に
総目次
被告陳述
書
清家 次郎
妻・陳述書
清家美枝子
*
所懐 「陳述書」を提出直後に。
作家・清家次郎
追記
原告夫妻提出の「陳述書」を読みて。 清家次郎
今一度
「陳述書」に添えて言い置くこと。 清家次郎
清家松夫 「後記」に代えて。
書
下ろし長編小説 平成二十一年(二○○九)三月一日起稿 八月三十一日脱稿
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☆ 思ふさま生きしと思ふ父の遺書に
長き苦しみといふ語ありにき 清水 房雄
拙いような歌、だが、父と子の身にしみて合点の利く係わりはよく捉えられている。子の目に、往々「父」という存在は思うまま好き勝手にしか生きていない
生きものとして、映じる。「長き苦しみ」の文字を、まだ必ずしも全面的に受け入れているわけではない作者だろうが、それでも、そうだったのか、やっぱ
り……と子の胸にふと突き当たってくる実感がある。子もまた、それだけの人生を歩んできたということか。そんな自分を、今はすこし離れた場所からわが子
が、お父さんは何でも好き勝手にして…と眺めていないでもない。死んだ父が、そういう時、涙ぐましく懐かしい。
「アララギ」昭和三一年八月号から採った。
東正彦・三秀社エッセイ15『愛、はるかに照せ』より
平成二十二
年師走 嗣子・清家松夫・記
父・清家次郎の一周忌が来る。
七十四年を生きた父がもう身のそばにいないのが信じられない。信じられぬこの思いには噛みつくほどの怒りがまじる。絶望も
まじる。黙って、表題も「凶器」と父が言い置いたまま「父の陳述書」を本の形にしておく。父の「長き苦しみ」がそれで癒されるわけはないが、今は措く。父
は、懸命に書いた。何が、何故、どのように「凶器」か。裁判所に提出後すぐ「所懐」をべつに父は書き置いた。「思ふさま生き」た父、と思いたい。
追記
末尾に置いては意味が薄れると思うもう一つの「所懐」を父は、 「昨平成二十一年八月三十日」に書いていた。
「今一度『陳述書』に添え
て言い置くこと。」とあり、やはり末尾に置くが、心ある人はぜひお読み下さい。
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裁判所御中
平成二十一年三月二十五日
陳述書 被告・清家 次郎 七十三歳
現住・東京都文京区小日向成願寺町九の二八
はじめに
不慣れなものを差し上げます。私・清家(せいけ)次郎(じろう)の「生きた言葉で、思うところを素直に」という法律事務所のご指導により、迂路迂路を懼
(おそ)れながらも、この際、
「最初に簡単に、亡き孫・飽海(あくみ)ふじ乃と原告・被告のこと」を、そして
「前半に長めに、主に娘・飽海(あくみ)櫻子(さくらこ)のこと」を、
「後半に端的に、主に婿・飽海(あくみ)専太郎(せんたろう)のこと」を、 そして
「最後に簡潔に、代理人の質問に答えて」を、
お聴き取り願います。
「付録」として、被告妻、原告櫻子母の清家(せいけ)美枝子(みえこ)からも、一言申し上げたい希望を末尾に添えましたこと、お聴き容れ下さい。
つとめて簡潔にと言われております。
ただ、ご承知のようにこの親族内、親と娘、舅姑と婿とのこじれた葛藤は、遠く昭和六十年(一九八五)の飽海専太郎・清家櫻子の「結婚」以来、数次の紛糾
を経ており、「ややこしい根」を抱えています。
私には、原告が「二人」おり、それぞれに対しかなり異なった関わり方で紛糾してきました。加えて故人である孫娘「飽海ふじ乃」との関わりが、だいじな意
味をこの法廷に対し持っていると考えています。
「簡潔」にと努めますが、「短く」書けるとは思われませんことを、初めにお許し願います。
と同時に、私たちの紛糾は、遺産配分の紛争や致傷行為の訴えなどとコト変わり、もともと「親族・家庭」内で穏和に治めて自然な、要するに「原告二人の感
情のこじれ」であります。
それも「こじれ以前」の「根」のところで、飽海専太郎(東京都稲宜市大丸(いなぎし・おおまる)地福寺三丁目八の二二・現住)の「暴発・無礼(=妻・櫻
子の言葉)」が無ければ、婿や娘が、(かりにも町田女学院大学教授や稲宜市の主任児童委員であればなおさら、)親(=岳父)を訴えて賠償を取るといった事
件でも事由でも無かった、逆に、日本国憲法の重く認めた「言論表現の自由」を侵す行為であると信じます。
不幸にも、しかし、ことは混乱に混乱しています。七十三老の事を分けた「述懐と論証」とを、どうか、以下にお聴き取り下さいますようお願いします。
序、 最初に孫・飽海ふじ乃との関わりで、ぜひ一言。
これより以下「順」に申し述べます「全て」に関わって、実は、飽海(あくみ)夫妻個々の「訴え」は、「訴え」というに相当した内容かどうか、原告の訴状
を読めば読むほど被告はもとより清家の家族には疑わしくなっております。実質の多くが曖昧で無意味か、大方はとうに解消されてしまっている、と。
それはそれとして、飽海夫妻は、むしろ自身の主張よりも、躍起になり亡くなった飽海ふじ乃の「代弁者」かのように、現在、祖父被告を責めています。
被告や清家の家族が「飽海ふじ乃」の「生命の尊厳を損じた」の、ふじ乃の書いた「文章を悪用した」の、ふじ乃の「肖像権を侵している」のと、恰も、ふじ
乃に代わって人権蹂躙や名誉毀損の賠償金(千数百万円)をふじ乃祖父母に対し請求しているかと感じ取れます。
逆にいえば、専らそれを言うより以外に、父であり岳父である私・清家次郎を訴えるに足る何が有るとも、飽海は十分立証出来ていない気がしております。
そのことを、以下に具体的に申し上げます。
すでにご承知の通り孫・飽海ふじ乃は、明らかに飽海両親に「背い」て、清家(せいけ)の祖父母に信愛し、死以前の数年、両家が完全に「没交渉」中の数年
に、祖父母や叔父との和やかな幸せを、ふじ乃自らが進んで回復しました。「私たちの間で止まっていた時間がまた動きだした」と自身述懐しています。しかも
不幸にもその後に「肉腫」を発病し、診断決定後三週間もなく亡くなりました。悔しくも、愛する孫を私たちは「死なせて」しまったのです、あと少しで二十歳
の誕生日でしたのに。
(証拠をお求めなら、平成十六・二・二─十八・七・十に「ふじ乃生彩」と題した祖父・私との詳細な、また祖母との交信記録があり、また祖母によるふじ乃
来宅・親愛の「日記」さらには成願寺町の祖父母宅での、また小田急ほか新宿渋谷のデパートでの、また下北澤や六本木、有楽町での観劇やターミナルでの買物
など、祖父母と一緒に撮った楽しい写真が多数、デジタルデータ付きで保存されています。ふじ乃が機械に残した「mixi」の「全」日記も正確に保存されて
います。)
ふじ乃生彩 最初期分のみ引用
Date: Mon, 2 Feb 2004 (祖母宛て)
こんばんは ☆もう寝てるかな。ふじ乃です。(叔父松夫を介しての=)メールありがとうございました。ほんとに嬉しかったです。
私ももうすぐ高3です(笑うマーク)大学受験が目の前(渋いマーク)
写真添付します。ちょっと恥ずかしいけど今の私はこんなんです。 ☆おじいやんによろしくお伝え下さい。(音符マーク) ふじ乃
メールの返信
宛先 :gro-vvv.***@ezweb.ne.jp
差出人名:jseik (清家次郎)
題名 :ありがとう
ふじ乃 元気な写真をありがとう。嬉しい。嬉しい。赤い花緒の下駄をはいて、白いヴラウスにジーンズスカート、玄関で左右の腰に手を当て、ちょっと上
体を左に傾けてポーズしている 89・10・16
のふじ乃と、みくらべています。高校生なんだ。夢をみているよう。マミー(=祖母)も、それはそれは嬉しそうです。わたしも、むろん。
なんでも、いつでも、気楽に声をかけて下さい。おじいやんの機械は、いつでも開いています。マミーの携帯は機能がよくない、パソコンの方のメールアドレ
スが使いやすいようです。携帯でなら、マミーへは電話がいい。
090-****-***6 がマミーの携帯番号。おじいやんは携帯は使っていません。
風邪ひかないで。 では、また。 ふじ乃のおじいやん
Date: Wed, 4 Feb 2004
(祖父宛て)
Subject: おはようございます☆
今日はこれから学校です☆ 午前中だけですけどね(^-^)私立の女子校に通っています。かや乃(=妹)もおととい受験に合格し春から晴れて中学生で
す。
夢をみているようなのは私もかわりません。私たちの間で止まっていた時間がまた動きだしたみたいです。
私のその写真おぼえがあります。いくつになっても私の笑顔は相変わらずです。人と話したり笑わせたりするのが大好きな女子高生です。
かや乃の写真も撮れたらまた送りますね。
今はこのへんで失礼します。ふじ乃
TEL 090**94*29
(学校他で出られないときもあります。ごめんなさい(>_<))
この元気いっぱいのふじ乃が、三年後文字通り「入院し、忽ちに」亡くなりました。しかもふじ乃入院前の極めて重要な時期に、(適切な早期診断しだいでは
救命も希望できたであろう時期に、)飽海の両親が娘・ふじ乃の病状と苦境から全く目を離していたことが、「事実として具体的に証明」されています。それに
ついてもやがて「詳しく」触れましょう。
飽海両親には娘・飽海ふじ乃の「精神と言葉」との、いったい何を「相続」したと胸が張れるのでしょうか。前述のふじ乃の行動は、ふじ乃両親が多年清家の
祖父母にみせていた知識人・良識人らしからぬ無道を「批判」し、親に対し「NO」を、具体的にはっきり突きつけたものでした。原告二人に亡きふじ乃の「名
誉」を云々し代弁して祖父母を責める、どんな拠り所がどこに在るといえるのでしょうか。
「ふじ乃の名誉」とは、何なのか。苦しい末期(まつご)を目前にした重篤の日々に、本人ふじ乃が「言った」とは何一つ証拠だてられない、誰も当時それを
「聴いた」と証明できない、いわば架空の「何」を以て、「何を(法廷や被告への)説得の証拠」として、ふじ乃に代わって「罪責」を祖父母に問えるというの
か、奇怪と歎くしかありません。
ふじ乃の前に「ご免なさい」と先ず頭を下ぐべきは、明らかにふじ乃を不注意の内に「重く、あまりに重く病ませ」てまるで気づかなかった両親・飽海専太郎
と飽海櫻子でありましょう。彼らは、ただ娘に「死なれた」のではなく、娘を「死なせてしまった」という深い「自責」に出発して「すべて」に処すべきだった
のです。祖父母に何の責任もなかったなどと申し立てているのではありません、私たち自身、むざむざ「死なせてしまった」慚愧の悔い、痛みを、今も、片時
も、消せずにいるのです。手は無かったか、有ったろう…と、その「自責」ゆえに、今も悲歎にくれているのです。
それなのに、力づく参列を拒んだふじ乃告別式から「僅か一両日」、早や故人の祖父母(=自身の両親)に向かい、居丈高に「警告」と大書し「裁判沙汰」で
連日脅迫するなど(当時の日記『死んでゆく、孫よ』八月一日以降参
照)、飽海夫妻のした事は、非礼で非人間的でした。しかも祖父母が飽海ら両親を「死なせ
た者」即ち「=殺人者」呼ばわりしているのは名誉毀損だなどと、途方もない浅い「誤解」を振りかざして。
清家次郎著『死なれて死なせて生きて』死生文化叢書10 淡交堂刊 参照。
(この本を法廷の証拠資料にして欲しいと、早い段階で法律事務所に提出しています。そもそも、ふじ乃を「死なせた」とは両親を「殺人者呼ばわりするも
の、名誉毀損で訴える」と脅迫してきたのが飽海家であり、ところがこの「死なせた」という尋常な慣用語彙の「理解」が、他でもない当の清家次郎著書として
出版され版を重ね多く読まれ知られていたので、ひっこみがつかず、とうにその訴えは引っ込められ、原告からもはやオクビにも出なくなっているのが現実で
す。
上はその証左の著書であり、「死なれて」は受け身の悲歎、「死なせて」には自責の痛嘆がこめられ、誰よりも先ず祖父母がその思いで孫の死に耐えねばなら
なかった。清家の表現としての「死なれて死なせて」をよく知っている
読者からも、そうでなくても、原告らの思慮を欠いた逆上はまるでコドモなみの幼稚さだ
と指摘されています。しかも今日に至る永い裁判沙汰は、ふじ乃の死の直後に、紛れなく「此の誤解と浅慮から出発」したのです。お世話になった菰布(こも
の)仁郎弁護士もこれは「脅迫です」と、即座に民事調停を薦めて下さったのを有難く記憶しています。)
ふじ乃が祖父母を愛し、再会と親交とを心から喜んでいたのは、来訪の回数、多くの対話、また観劇や買い物や食事などの記憶や写真のなかに、そして何より
妹・かや乃をも祖父母の家へ伴い、「心一つ」に、やがて来るであろう両家確執の融ける日を心待ちにしていた事実が雄弁に証明しています。
またふじ乃の一の親友からも、どんなにふじ乃が祖父母との復交と交歓をよろこんでいたか、教科書にも文章の出てくる「おじいやん」がどんなに自慢で「て
れてれに」五月蠅いほどだったかも聴いていますし、親に堅くナイショの復交それ自体に、はっきり「裏書き」されています。
大学入学前、だれに見せるより早く祖父に、願書に添えて提出の「課題論文」を「ぜひ読んで」と頼んできたのも、強い「証し」になりましょう。
なによりもこれらを、「陳述」すべてに先立ち、飽海原告への「疑問」「疑点」として呈しておきます。
飽海の両親に、娘ふじ乃生前の、また死後の「代理・代弁」が出来る基盤は、「最初から総崩れ」になっていたのです。
実父へのこのような稀に見るあくどい裁判沙汰を亡きふじ乃は決して望んでいないでしょう。ふじ乃の友人たちもそう口を揃えています。「ふじ乃は望んでい
ない」「ふじ乃ママもパパもいやになりました」という声は、ふじ乃逝去後すぐにも「mixi」のメッセージから聞こえていたのです。
第一、 主に、娘・櫻子に関連して申し述べます。
(一) 「櫻子」の誕生、そして私の「作家」の歳月。
私に、『易老』と題した「少年」の昔の歌集があります。十七、八歳、高校生の頃の短歌を纏めたもので、過去、何度も姿を変えて出版され、内一首は、著名な
歌人の撰した『昭和百人一首』(朝日出版局)に採られています。
その歌集の昭和二十八年、作者が十七歳春の作に、ことに好きでよく通った、京都北山の九品寺(くほんじ)や永納寺を詠んだ、十九首の連作があります。こ
んな幻想歌が入っています。
青竹のもつれてふるき石塚のたまゆらにたつ櫻子のかげ
「櫻子(さくらこ)」とは「美しい櫻」を意味する古くからの歌言葉で、近代にも、歌人伊藤左千夫や詩人室生犀星らが愛用しています。御陵地の清寂をもと
おり歩きながら、私は、いつの日か「我が子」を迎えるおり、女の子なら「櫻子」と名付けたいと思うようになっていました。後に述べます詳細な自筆年譜に
も、昭和二十八年十七歳一月から二月の項に、「万葉や拾遺、後拾遺の歌から『櫻子』という古語を覚え、後年、長女の名となった」と記録しています。
その後九年、昭和三十七年四月十七日、私の妻・美枝子は、出血性素因を身に抱えたまま、医師たちの配慮や知友の輸血も得て、長女「櫻子」を産みました。
ひそみひそみやがて愛しく胸そこに櫻の愛(め)での育ちゆく日ぞ
櫻子の今咲きいでて天(あめ)つちのよろこびぞこれ花のあけぼの
美枝子美枝ただうれしさに美枝とよびて水ふふまする吾は夫(せ)なれば
こうして私たち夫婦は、我が子「櫻子」を、此の世に抱き取ったのでした。
その娘・櫻子が、いま本法廷の「原告」の一人であり、実父・私を被告席に置き、両親を指さして「不倶戴天」と広言し、父にも母にも「櫻子」と呼ばせない
書かせない、自分も「櫻子」とは名乗らぬと叫んでいることは、ご承知の通りです。
(民事調停でも、たしか仮処分提訴でも、櫻子は「東京都稲宜市大丸地区主任児童委員・飽海櫻子」と公に名乗っていましたが、遅くも昨年の前半からは、同
市「広報」等ですでに「飽海宙子」と「変名を公称」しつつ「主任児童委員」を現に務めています。また後の「(十五章)櫻子作『めめんともり』が示すもの」
のなかで、父に対し「謝罪文」を居丈高に強いてきた「h..akumi」名義の櫻子メール第二信「追記」中でも、見苦しく不倶戴天の「清家(せいけ)」と
叫んでいます。)
そして世にもまれな、娘と婿夫妻の「被告」として、父であり岳父である私は、いま、本法廷に斯様「陳述」を求められている次第です。
ところで私が、私たちが、世にもまれないったい何ごとを、娘と婿に対ししたのか、しなかったのか。私どもは、何より先に、それを考えます。
娘をのぞく私の家族も、事情を知った大勢の知己知友や私の読者たちも、こと此処に至って、飽海らが「訴え」の情理も事理も道義も、ほとほと「分かりかね
て」います。私の「陳述」の、そこが「出発点」になります。
私は、私の多年経営する公式ホームページ http://jirou-no-hon.skyblue.jp の、数万枚を越す全内容、また全ての公刊さ
れた著作を、何ひとつ秘め隠さず、世に問うています。文学と文筆を以てこの歳まで一途に生きた私の文業は、大凡すべて其所に「提示・表示」してあります。
非難すべきが有らば、どうぞ「存分にご判断下さい」といつでも、どなたにも、両手をひろげております。
私ども夫婦は、去る三月十四日、「金婚・五十年」を迎えました。ほかにも、私の文学全集が、今年の内に「百巻」に届きます。
自祝の思いで、十年前から用意してきた詳細な「自筆年譜」(四百字原稿用紙で三百枚余。)および単行本等・全集本の「全書誌」も、出版したばかりです。
自筆年譜は、量的に考慮し、昭和十年(一九三五)師走の誕生日から、第四回「戦後日本文学賞」受賞の、昭和四十四年(一九六九)歳末までの「第一部」と限
りました。
その中で、長女・櫻子は昭和三十五年四月に、長男・清家(せいけ)松夫は同四十三年一月に生まれており、翌四十四年(一九六九)五月の憲法記念日には文
学賞受賞の記者会見がありました。
この『自筆年譜』は、どのように一人の男が「夫」となり、二人の「父」となり、どのように一人の「作家」が世に生まれたかの詳細な「記録」を成していま
す。厖大な日記や、手帖等の記録や、書簡往来その他に依拠し、及ぶ限り正確に詳細に作成されています。作成したのは当時の日記にも関係記事があります、今
から「十年前」のことです。
「年譜」にはむろん「櫻子」の名前も記事も、細微にわたり至る所に見えています。
どのような「親と娘」の日々があったか、殆ど日付を追うように明瞭に見て取れます上に、なにより私の、多忙をきわめた、編集者としての、また作家志望の
猛烈な日々が、日ごと記載されています。
年譜「第一部」を通りすぎた昭和四十五年(一九七○)より以降の、さらなる多忙、そして引き受けてきた仕事の量は、当然、見る見る倍加、倍々化して行き
ました。『全書誌』の示す「単行本等・百冊」、ほかに「次郎の本・百巻」の莫大な収載作品量が、如実に、物書きとして寸暇無かった歳月を証明しています。
(『次郎の本』通算第98巻『自筆年譜・全書誌』は、菰布(こもの)法律事務所までは提出済みで、この裁判では重要適切な判断材料になるものと考えていま
す。原告櫻子の弟・清家松夫誕生の前から、清家が文学賞を得て作家生活に入った昭和四十四年末までを、そして「両家没交渉期」に入る平成六年までに公刊の
「著書全書誌、次郎の本全書誌」を「証拠」としてご参看願います。
さらにその後医学書大手の金井海南堂退職まで二足草鞋の五年間、私は勤め先で、出版部課長管理職として、「月刊の医学研究誌5種の毎月定日発行」、多く
は分担執筆の「単行本出版企画を百数十点」も抱えて、雑誌も本も「発行し・出版し」ながら、他方、新進作家として人も驚く出版点数を「毎年五、六冊平均」
積み続けていたのです。誰の目にも「モーレツ」多忙でした。「モーレツ」は、私の渾名でもあったのです。新刊『自筆年譜・全書誌』の、本件との関連性・証
拠性は、他に比べものなく濃厚の筈です。)
まさしく此の「年譜・書誌」の内容そのものが、爾後の清家次郎を後年までも道引いた、そのまま文筆家生活の「在るがままの足跡」でありました。
私は小説家であるにとどまらず、文学・古典・美術・文化史・伝統藝能その他にわたる研究と評論活動にも数十年、とぎれなく携わってきました。それが評価
され、国立大学教授就任にも繋がったのでしょうが、決して自身多年の業績を誇るためにこう言うのではありません。「いったい、いつのまに仕事するの」と評
判された「途方もなく忙しい暮らし」が、とぎれなく二十年三十年続いた「事実」をお分かり願いたいと申し上げるのです。
その余にも、講演、テレビまたラジオの出演、他大学への出講などがあり、さらに加えて、清家の家は、妻と私とは、三人が三人とも九十歳を越えて行く「義
理ある両親と伯母」とを、蔵の建たない地味な稼ぎの両手に、いつも、抱きかかえていたのでした。日々の生活でそれがどんなことを意味するかお察し願いたい
のです。
(二) 櫻子への父の虐待・性的虐待があり得たか。
ご記憶でしょうか。
私の娘・櫻子は、一昨昨平成六年(二○○六年)の「民事調停」の場に、それより先立っても娘自身の「mixi」日記で、こともあるに「廿年ないし四十
年」の永きにわたり親の「虐待」を、あまつさえ「性的虐待」も受けてきたと、突如として言い募りました。そういうことの、滴ほども、毛筋ほどもあり得な
かったことは、上の、多忙で懸命な「書き手」として少しの停頓もなかった作家・清家次郎の日常からも察して戴けましょう。文学に心がけた意欲の新人にそん
なヒマはもてません、そんな気も意識も傾向もなく、そういう性格でもありません。妻にも、息子(弟松夫)にも、あまりに当たり前に、一顧だに出来ないと櫻
子の言い分は「笑殺」されました。
当時も今と同じ、ごく狭い家屋に、四人家族が額をあわせ膝つきあわせ、私は獅子奮迅子供たちのためにもと頑張って、「書いて・書いて・書いて」暮らして
いました。
しかも、人が笑うほど子煩悩な父でした。
ただし、無意味には決して子たちを甘やかさない父親でもありました。
1 私・清家次郎が「父」であるということ
『逆らう父』というフィクションの長編小説を私は出版していますが、序詞かのように、先にも{著名な歌人」として触れた岡井隆氏の短歌一首と、友人の鑑
賞を借りています。
☆ 独楽は今軸かたむけてまはりをり逆らひてこそ父であること 岡井 隆
昭和五七年『禁忌と好色』所収。現代の歌人を代表するすぐれた一人。時に含蓄に富んだ歌が、ずかりと出る。この歌も作歌の状況を越え、幾重の読みにも耐
えながら、父なるものと子なるものとの不易の相を想わせる。「こま」遊びのさまをまず思い出す。こまとこまとを弾かせ合っても遊んだ。鞭打ち叩くように回
したこともある。地面でも掌でも紐の上でも回したことがある。父と子とで、いま「こま」を闘わせているとも読める。父がなかなか子に負けてやらないでいる
さまも見える。だが「独楽」の文字づかいから、子が独り遊びし、父は眺めながら、父としての現在と子としての過去を心中に思っているのかも知れぬ。
「軸かたむけて」は美しい表現だ。力づよくも力衰えても読める。どっちにせよ懸命に回っている。父は子とともに、子よりも切なく回っている。「逆らひて
こそ父」と感じつつ心も身も子より早く萎えて行くさきざきのことも想っている。「こま」はもはや心象であり、象徴として父の心に回るのみとも読める。だ
が、気楽にくるくる回る「独楽」同然の子の世代に対し、なお父として鞭もあてたい、弾き合いたい、それでこそ「父」だという思いの底に、過ぎし日のわが父
の顔や声や落胆の吐息がよみがえっても来ていよう。子への愛に父への愛が重なり、人生の重みに思わずよろけながら耐える。
東正彦『愛、はるかに照せ』より
右が、「子と父」にかかわる、私の「基本の思い」を代弁してくれています。子を心より愛しながら、子を無用に甘やかさず、文字通り「鞭撻」の労も惜しま
なかったのです。父も母も子に手を当てたこともない。「虐待」とは、情けない逆恨みとしか言いようがない。私は、子供達の越えていって欲しいいつも「壁」
の役をしてきました。その壁を、息子はちゃんと乗り越え世に出て活躍しはじめ、娘は投げ出した。父が認めようとした才能すら投げ出したのです。
2 自筆年譜にみえる父と娘
いま「自筆年譜」第一部を顧みますと、長女・櫻子を妻が妊娠のころから、私が文学賞作家として世に立つ日まで、ほぼ十年足らずの間に、およそ180回も、
「娘との日々」ないし「親の思い」を記事に残しています。
まだ「小さくても、櫻子に、佳い場所で佳いものを見せたい」と、京都でも東京でも、多くの寺社や景勝へ伴い歩き、櫻子もいつも嬉々として同行していま
す。
幼稚園の頃、「家族で清瀬平林寺に遊ぶ。櫻子の言うことをそのまま短歌のかたちに置き直す」とし、「香ぐはしき空の色して若葉咲く萌え野の原の日の光か
な」などと記録しています。
歳末帰省のおりも、「晩、(京都)四条で櫻子にアンデルセン『絵のない絵本』買い、河原町で白足袋買う。同三十一日(大晦日)、櫻子と粟田坂をのぼり花
園天皇陵を拝み山の上の古寺縁側で日向ぼっこ。神宮広道、柚木町から瓢亭、無隣庵、疏水べりを経て平安神宮神苑に入る。閑散。櫻子父に肩車したりおんぶし
たり唱ったり大はしゃぎ」とあり、こんなことは、父と子との茶飯事でありました。
そして、昭和四十三年(一九六八)一月松の内に、「弟・松夫」が生まれました。
繰り返しますが、原告・櫻子は、出血性素因のある母の松夫妊娠、身動きも禁じられるほど安静厳戒のその頃から自分は親の「虐待」を受け始めたと、「三十
八年も後に」唐突に、まこと唐突に、平成十八年(二○○六)秋「民事
調停」の場へ、「初めて」申し出ています。
家族一同、とびあがるほど寝耳に水でした。どこからこんなことが、今になって、出てくるのと。
爾来、「二十年」(単純に勘定して、櫻子と飽海専太郎が結婚して最初の渡仏のころ迄に相当します)、さらに「四十年」に亘り(なんと昨年迄。しかも櫻子
は飽海家に暮らして清家の実家とは事実上殆ど「交渉皆無」でした。)親の、父の「虐待」を「受け続けてきた」と言い募っています。むろん「何らの立証」
も、当然、あり得ないのです。
昭和四十二年(松夫誕生まで二ヶ月半前の)十月二十日、「(手伝いに来てくれていた京都の)母帰洛。以降、櫻子と二人で家事の何もかもを捌く。櫻子も懸命
に協力いじらし」と年譜は書いています。十日後の文化祭にも父は娘の運動会に一緒に参加しています。十一月十二日、「美枝子(=妻)寝たきり。母帰洛以来
一日も欠かさず(私が=)朝食つくり、五時で会社退けて買い物し帰って夕食つくり、後かたづけし翌日の用意。櫻子は洗濯係り。父は、母平安を願い厳格に禁
酒」と記録しています。
これら「年譜記事」は清家当人が自筆の「日記」そのもので、昨日今日に書き起こしたものでなく、二十余年をかけ正確を期して簡約され、大方現
存する当時の手帖や備忘の記録等にすべて拠っています。
当時私は、前にも申しました、勤務先医書出版社で文字どおり寸暇ない「モーレツ編集者」でした。しかも「歴史現代小説」とでもいう途方もない微妙な創作
を、一日も休まず書き続けていた「熱中作家志願者」でもありました。しかもこの当時最大の願いは、むろん、絶対安静の「妻の安全」でした。
「(昭和)四十三年元旦、払暁ひとり氷川社に美枝子無事を祈る。男子なら松夫、女子なら柳子と。『母ひとり産むにはあらで父も姉も一つに祈るお前の誕
生』。祝い雑煮。改めて櫻子とも参拝す」と年譜は誌します。
五日、本郷学士会館での会社年賀会には、櫻子もご機嫌で父とともに参加していました。
その三日後、昭和四十三年一月八日に、「長男・松夫」が生まれました。
3 「ひとり娘」から「弟の姉」に
そうなのです。長女・櫻子は、両親最愛の「ひとり娘」から、このとき「弟の姉」になりました。新しく清家の家へきた「男の子」に、京都の祖父母や伯母は
驚喜し、鍾愛(しょうあい)しました。
お気づきでしょうか。
櫻子は親の「虐待」を、「弟誕生」の自身「八歳」から受け続けたと民事調停時に明記していました。
ところが年譜には、「櫻子を中に幸福に。美枝子に、櫻子を『いとしくいとしく』思う手記在り」とあり、「美枝子櫻子を愛している。私は死んではならぬ」
とあり、「アルバムへの写真貼りなど、落ち着いた連休。美枝子と櫻子に代わる何ものも無い」とも記載し、続けて、家族が四人になった今、もし何ごと有ろう
とも「迷わず、現家族を取る」と私は言い切っています。弟と姉とに、親の「分け隔て」の有るワケがありませんでした。
私には、後に『長女について』と題した民俗学の論考(「読売画報」)がありますが、古来長女が一家にとって神秘的にすらも大事な大切な存在だったことを
書いています。弟が生まれようと、櫻子は私たちにとって掛け替えない掌中の珠でした。
しかし櫻子の小さな胸には、弟思いの一方で、親の絶対の「ひとり子」でなくなった寂しさがあったかも知れません。けれど両親になんの分け隔てなく、「櫻
子ちゃんは太陽です、満開の花です」と、小学校一年担任の先生の、手放しの明るい信頼もありました。
繰り返しますが、むろん甘い一方の父親ではありませんでした。ガンとして「壁」の役をし、どんなに愛する娘にも息子にも、生活慣習はしつけました。無用
に過大な金銭も与えず、われわれの乏しい収入に応じて贅沢はさせませんでした。親も金のかかる遊びは避けました。八十台の坂を、揃って九十へむかう恩ある
「育ての親たち」を、伯母も含め三人、現に抱えているという緊張が常にわれわれ夫婦の生活意識を「質素に律して」いました。「子どもにも子どもの責任があ
る」という基本を踏んで、私は、岡井隆氏の歌に聴いた「逆らひてこそ父」という覚悟を、ずうっと持ちつづけていました。私の『逆らう父』という小説を読ん
で、共感のまま泣けて仕方なかったと告白された高校の校長先生の長い手紙を貰ったりしたものです。
4 何をさして虐待と謂うのか
櫻子はいったい、何をさして「虐待」と謂うのでしょう。
一年、八千七百余時間の「家常」の日々で、親と子との、時に厳しく叱り時に強く反抗したりは、あまりに自然で当たり前な「世の常」です。子に甘いばかり
が親の愛ではない。なにかにつけて子が自身を守って「親のせい」にしてしまう風儀など決して褒められたことではありません。
親は子を育ててきたと言うけれど勝手に赤い畑のトマト 俵万智
と、若い歌人は歌いました。ほとんどの普通の子は自身の発明で育って行くものです。「被虐」を言い募る都合のいい「甘え」には、病的な弱さも感じられる例
があります。
ある高校の先生は「十七にして親をゆるせ」の一言で、生徒達の「目から鱗」を落としていました。子は、聡明な子は、そのように成長して行くものと思って
います。安定した知性の持ち主なら、いくら五月蠅(うるさ)い気むずかしい親の仕向けからも賢く自然に身をかわして行く。それが、子どもです。親を知らぬ
「もらひ子」であった私もそうでした。大学で教育学を学んだ櫻子にもそれができる筈と、むろん、思っていました。両親は娘を信頼していました。
それなのに、櫻子の、とてもとても考えられない現在親への「異様な恨み」「憎しみ」は、これは、何でしょう、何故でしょうか。
その「謎」を解いて行くのが、この私の「陳述書」であり、この先々で、きっとご納得下さるであろうと、私たち清家(せいけ)の家族は信じております。
反抗期や思春期の子たちにありがちな、親へのたとえ辛い思いがいつ知れず有ったにせよ、なんと、「とうにとうに結婚して二児の母」となり、現に都内女子
大教授の妻であり、自身も国立大学に教育学を学んで「主任児童委員」の肩書を法廷に示し、地元でのコラボ活動にも熱心で指導的な、そんな女親の口から、
「平成十八年、四十六歳にもなっていた大人の口」から、いきなり吐物のように、俄かに、初めて、飛び出した「親の虐待」とは……そも、何であったのでしょ
うか。
5 途方もない親への逆恨み・名誉毀損
それのみか、五十歳まえの大人の櫻子は、その逆上を、朦朧とした幻覚的な文章で、「深山木(みやまぎ)」名義の「mixi」日記として、「数百万会員」
にむかい「公開」し始めたのでした。
(「mixi」会員が数百萬であろうと、実際に読まれる数がそうであるまいことは「推定可能」ですが、実際に想像以上に読まれているとすることも機構上
「推定可能」なので、こう言い切って可と考えます。)
作家・劇作家の弟・松夫も、私の妻美枝子も、むろん私も、びっくり仰天しました。なんで、こうなるの。あり得ない。
弟は激怒し即座に姉を戒め、櫻子はその日記を「取り下げた」と「言っている」そうですが、時すでに、弟も、驚き怒って私に知らせてきた会員読者たちも、
むろん私たちも、もはや櫻子の「mixi」日記には「アクセス不能」の措置がされており、今以て、無道な捏造記事が「削除」されているとは、我々の誰一人
も「確認不可能なまま」でいるのです。
☆ 2006年08月30日00:49
・・・
裁判長、
私は過去において申立人より性的被害を受けております。
いかなる状況下においても、同席することを望みません。
被害者の精神的苦痛にご配慮賜りますよう、お願い申し上げます。 (飽海櫻子)
これは、この日付で書かれた櫻子のその忌まわしい「mixi」日記の一部です。(入手できている限り、全「深山木」日記も資料として事務所に提出してあ
ります。)
この「裁判長」とは、脅迫メールに困惑のあげく弁護士菰布(こもの)氏の助言で簡易裁判所へ「民事調停」を申請した際の「調停判事」さんを謂っているよ
うですが、ここで、櫻子は「虐待の加害者」に「母」美枝子をも加えています。調停「申立人」は、私の妻・美枝子とともに、櫻子「両親」の連名でありました
から、櫻子は、父からも母からも「過去に」「性的被害を受け」たと広言していたわけです。
この時点で、私・父親は、娘・櫻子の事実無根の捏造により、日本ライタークラブ理事としても、元大学教授としても、京洛美術賞の選者としても、戦後文学
賞作家としても、明瞭な「人権蹂躙の名誉毀損」を受けています。そして母親も。弟・松夫でさえも。
むろん櫻子の言い立てる事実など、滴も無い、あり得なかった。しかし、それを口先一つで言うのではない。
(三) ホームページに、櫻子の写真を掲載する理由。
この種の「被害」申し立ては、なかなか「有効な反証」が難しいのですと、代理人の一人は私に、「放っておけ」と言われました。百万言を費やしても、コト
は微妙すぎると言われたのでしょう、しかし私は、自身の名誉もさりながら、妻と息子の名誉のためにも、ガンとして立ち向かう決意を固めました。櫻子には明
瞭な「立証義務」がある、それも強硬に求めながら。
その一手段に、私は、言葉での反駁・反抗より先に、多年におよんだ親娘・家族が親愛の「写真」多数を、ホームページに「公開」しました。結婚後の櫻子か
ら父へ礼儀正しい感謝に溢れた「手紙」も、私の公式ホームページにいわば「証言者」として登場させたのです。
写真等は、目立ちやすくあえて「現在進行形で日録の書かれる最新ファイル」の末尾に纏めました。今や話題の「裁判員」ならぬ、「人目」に触れて「理解し
て戴く」ことが私の願いでした。私を愛し信頼してくれる知友知己や読者に対する、それは、私自身の道義的な義務だと確信したからです。どうぞ、ぜひ掲示さ
れた写真等をご覧願います。法廷に早くから提出されています。
1 櫻子のいわゆる、「過去」が「幾重にも」在るという認識
しかしここで折良く、ぜひ申し上げておきたい、それは、櫻子の上の告発にある「過去において」の「過去」のことなのです。
私ども関係者にとって、それは、漠然と一纏めにつかみ取れる「過去」ではありません。そんな大雑把な掴み方では根底から洞察や観測を誤ってしまいます。
真実、「幾重もの、幾層もの過去」があったからです。飽海夫妻の申し立ては、往々これを「曖昧にすることで」わざと物事を攪乱させています。
くわしくは、飽海専太郎とのことに触れて、後章で申し上げるのが適当でもあるのですが、いいえ、ぜひ此処でご理解戴くのが至当な、モノの「順」であろう
と信じます。
こと櫻子と、我々両親・弟との「過去」は、箇条にして、下記のように分類できますし、事実こう把握されねばなりません。
この際、「弟の生まれる頃から」の「被虐」という櫻子の言に随いまして、
@ (「大過去」=) 昭和四十三年(一九六八)正月、松夫誕生
(=櫻子は小学校一年生)より以降、昭和六十年(一九八五)六月、櫻子が飽海専太郎と結
婚まで。
A (「遠過去」=) 櫻子らが結婚以降、飽海専太郎の清家(せい
け)家両親に対する突如「暴発(=妻・櫻子の弁)」によって、飽海から一方的に「姻戚
関係」が断たれ、余儀なく清家も受け容れ、両家に「全面交通杜絶・没交渉」が始まる平成六年(一九九四)以前。
B (「近過去A」=) 姻戚義絶から以降、孫ふじ乃が、両親に秘し
たまま、自発的に祖父母との親交を一気に回復し、やがて妹・かや乃もこれに加わる平成
十五年(二○○三)以前の完全な「没交渉期」。往来はもとより、電話も郵便も全く無かった時期。
@ (「近過去B」=) 平成十六年(二○○四)二月四日、ふじ
乃が自発的に小日向(こびなた)の祖父母と親交を回復して以降、平成十八年(二○○
六)、ふじ乃が「肉腫」に冒され七月二十七日に逝去の日以前。
(民事調停の頃には、「BとC」とを、併せて「過去」と呼んでいました。)
D
(「過去・現在=」) 「ふじ乃告別(七月二十九日)」後僅か三日、
飽海夫妻の「我々を殺人者呼ばわりするのか」という裁判沙汰の威嚇が連日に及んだ平成
十八年(二○○六)八月一日零時三十四分以降、「調停、仮処分、本訴」と連続し今日なお推移中の、「過去・現在」。
となります。
2 離れていれば済むのに。娘の、根からの父親好き。
さて、言うまでもなく、実の親の「性的虐待」とは、聞くもおぞましく、事実なら被害者当人にはたいへんな心身の疵でしょう。少しも早く遠くそんな親もとを
逃れたいでしょう。被虐がもし事実ならば、自身の「結婚」は最適の逃避、「婚家」は最良のアジール(安全地帯)になりえたでしょう。親の顔も見たくない、
声も聴きたくなくて当然です。
今となって人は「意外に」思われるのですが、実は、原告・櫻子の結婚した相手、原告・飽海専太郎は、彼ら両人の「被告で父親」のこの私が、苦心惨憺友人
に頼んで見つけてきた「婿」でありました。
苦心惨憺が、私の「眼鑑(めがね)」を曇らせた失策を招いたにせよ、櫻子は当座たいへん満足していましたから、父親からの「被害」に真実傷つき苦しんで
いたのなら、就職を機に家を出るとか、断然遠く離れていつも婚家で新婚生活の幸福に浸っていれば、それ以上の安全はなかったでありましょう。
ところが、櫻子は、ご近所もときに訝しむほど再々里帰りし、物心共に親に甘えていたのです。ただ甘えるだけでなく、父親の文筆業や、多彩な交際範囲に
も、もともと娘は親しんでいました。父の手伝いもしてくれました。(娘は、自分でもものを書こう表現しようとしていました。父は、その意味で先輩であった
し師でもありました。私にも、この子「書けるかも」という親の欲目があったのです。)
櫻子が結婚後も「文学」をはさんで父娘の仲良い適例の一つに、忘れがたいことがあります。私が東都新聞等の朝刊に小説『シドッチと新井白石』を連載中、
たまたま夫妻は、ふじ乃もともない、パリに暮らしていましたが、創作のために私がぜひ手に入れたい「シチリア」写真集を探して見つけて、「VIVRE
LA SICILE」「LA
SICILE」二冊を、娘ははるばる私の書斎へ送って来てくれました。大冊です、現物は保存しています。フランス語の説明を「必要なら訳してあげてもい
い」と櫻子は言い寄越し、写真集の中にも櫻子自筆の付箋が付いていたりします。父はたいそう助かったのです。
それのみか娘は、父の仕事をよく激励してくれました。いわば「読者第一号」かのように櫻子は父の仕事に目配りし、ときに手厳しい批評もまたアイデアも提
出してきたのです。私に代わって、少しの小遣いかせぎに依頼原稿の下書きを手伝ってくれたのも、二度三度。
夫のパリ留学先へ追って、フランスで親子が生活するには、多少でも経済支援が必要でした。それらの仕送りに対し、近況と依頼や礼を告げる郵便が、櫻子・
飽海から二年に数十通も保存されています。夫妻とも清家両親の配慮に対し親愛と感謝に溢れ、不快な交信など、ただ一通も混じっていないのです。来信リスト
も、ホームページ日録に今も載せています、「虐待」の訴えなど根底からくつがえす雄弁な物証として。
さらに雄弁なのは、「結婚後の櫻子」が、ファッション誌の大手、女性文化出版局の雑誌「レディ」1991年3月号の「旅」企画に、母に代わって、人もあれ
父・私と大喜びで仲良く同行していた「事実」です。松山、瀬戸内、柳井、厳島等に旅したご機嫌の娘・櫻子の笑顔と記事とは、ひろく読者達の目に触れまし
た。記事コピーもその時の写真も早くに法廷に提出しています。娘は、父のそばで、終始愉快で晴れやかな笑顔や身振りを無心にみせています。
二十年ないし四十年にわたり深刻な「性的被虐」まで受けたと「mixi」で広言する本人が、拒絶するなら簡単にできた漫々的(マンマンデー)な旅行に、
なぜ嬉しげに父と同行できたのでしょう。むろん「虐待など全く無かったから」です。
今申し上げた印象的なパリ通信も、仲良し父娘の旅の日々も、みな櫻子が「結婚後」
の「遠過去」の話です。真実父の被害者ならこんなことはあり得べくもな
く、原告・櫻子の「深山木」日記が、また民事調停への申し立てが、まったく「欺瞞と捏造そのものの乱心沙汰」であったことを、本人が自ら明瞭に立証してい
たのです。だから弟に叱られると、ともあれ「すぐ削除」したと謝っているのです。
では、結婚以前のもっと遠い「大過去」には、どうでしょうか。
櫻子は神経質な病弱な子でした。高校の頃盲腸術後ミスの腸閉塞で入院のときも、父は、執筆の合間に一日も欠かさず長途自転車で病院に見舞ってやり、泣き
虫の櫻子は父の手を握って放しませんでした。
先生の意を承け、通学する女子高の父兄会会長をぜひ「パパ」引き受けてと、櫻子からも、妻からも、口説かれました。会長の「七光で」(冗談半分の娘の言
葉です)卒業式に総代で答辞を読ませてもらえたと櫻子は満悦でした。
大学受験の苦手な古典の勉強にも、父は頼まれて根気よく付き合ってやりました。
作家代表団でソ連へ出かけた時も、櫻子は独り横浜埠頭まで大きな荷物を引きずり、はるばる父を見送り、埠頭からテープを投げてくれました。その写真も
ホームページに出ています。空港まで独り帰国の出迎えにも来てくれました。そういう父と娘でした。
私は、たくさん「売れる」書き手ではありませんが、たくさん「書ける」書き手でした。がさつには書かない「書き手」で、しかし文化界多方面の話材に亘れ
る「書き手」でしたから、根は交際家ではないのですが、各界に知己がありました。会合も多く、各社の編集者とも、盛りの頃は毎日のように家に迎えて付き
合っていました。
娘はよく文壇のパーティにも浮き浮きくっついて来ましたから、「清家さんの櫻子ちゃん」はかなり広く知られていました。もし私から、おぞけをふるう「被
虐」など受けていたなら、とても一緒にそうして出歩くことなど出来ないでしょう。
父と娘との人も笑うほどの仲良しは、愉快な写真にも証言者にもコト欠きません。
サンスリー美術館にぜひ就職したいと、顔色を変え思いつめて私に頼んできたのも、櫻子でした。思案に暮れ、懇意の、ある文豪の夫人に頭を下げ、その手蔓
で、怖いほど大勢の競争者の中から、ただ二人の採用者に入れてもらえました。娘は雀躍りして喜びました。
みな、およそ甘い「娘の父親」なら、ま、あり得たことで、私にすれば特別なナニゴトでもなかったのですが、翻って、もしも事実櫻子が父の「性的被虐」者な
どであったなら、上のような全ては、とても「あり得ない」のです。
そして事実、何十冊も積まれた写真アルバムには、ぜんぶ父が父のカメラで、母親や弟もともに和やかに心嬉しく写っているのです。ほんの数枚だけをとくに
苦心選抜した写真ではないのです。「たまには機嫌のいい顔もする」などという小賢しい言いわけは、こと愛児達に関しては、わが家では全然通用しないので
す。
(私のホームページ日録、「iken.htm」末尾にも写真等の反証は掲示されています。必要なら他に何枚でも用意します。)
事実、これら明々白々の反証写真には、櫻子も、乱心気味にふりあげた手のおろしようなく困惑したようです。「被虐」を無道に広言してみたものの、「立証
義務」の果たせるわけなく、逆にどんな良識が眺めても、とてもあり得ないと肯ける物的材料を私や妻は、多年保存していて、いつでも提出できるのです。日ご
との行動まで把握可能な「年譜」の正確を保証した日記類・記録類も手元に有るのです。
櫻子は、わが家の「保存資料」を失念していました。
仕方なく櫻子は、内容証明郵便でウエブへの「写真掲示」に抗議してきましたが、私は、平成十九年の飽海方「仮処分」提訴のときから、一貫して、櫻子が、
「mixi」の「深山木」日記に書き散らした「性的被虐」その他云々の、両親と弟に対する「名誉毀損」の捏造を詫び、明確に記事を撤回するなら、いつでも
即座に写真は削除すると申し出て来ました。娘・ふじ乃を喪っての乱心には同情する、だからこんなバカげた娘の言いがかりも「赦す」とさえ、再々代理人を通
じて法廷に伝えた筈であります。
しかしながら、遺憾にも、この写真等の掲載無しには、私たちへの名誉毀損は半永久的に確実に打ち消すすベが無い。つまり「言葉だけ」では水掛け論に陥る
かも知れぬ以上、名誉を守る「権利」としても「情理」においても、謝罪と妄言撤回とが明瞭にならぬ限り、とてもホームページから削除するわけに行かないの
です。
私のことを、飽海夫妻は明瞭に「公人」と指さして威嚇していました。私も自分が「公人」だからこそ、不当な「名誉毀損」に対し、反撃の手段は「公世間」
を前にし安直に放棄など出来るわけがないのです。繰り返し繰り返し、これは申して参りました。
しかも、御覧下さい。誰が見ても、なんら名誉を傷つける不快な写真や盗撮であるどころか、父親が自身のカメラで撮している、微笑ましい和気藹々の、親と
娘との、家族の、血縁のスナップ写真なのです。あえていえば私自身の「写真著作物」でもあります。
(四) 櫻子の「謎=昏迷」を崩す「二つの側面」。
問題点を改めまして、では、なぜ櫻子はこういう「おぞましい」ことを私たちに繰り返し仕掛けるのでしょうか、そこへ不審をもつのは、誰しも自然なことで
す。この「謎」は解かれねばなりません。
単純なこととも、複雑きわまりないとも謂えましょうが、「二つ」の「大切な側面」を確認することが出来ます。
そして、そのだいぶ「先」の方に、娘の本音めく「主張」らしきが、昏迷の相を帯び、透けて見えて来ますが、慌てず、その前に、「二つの側面」を確かめて
おきたく存じます。
1 両親と娘に「争い」は無かったということ
先ず一つは、
「遠過去」での櫻子結婚以来、「近過去」のふじ乃の死まで、清家の両親と娘・櫻子との間には、険悪な表だった争いなど何一つ無かった事実、これを具体的に
申し上げます。我々の確執は、後に申し上げますように、もともと櫻子夫の飽海専太郎「暴発」から始まったのであり、妻櫻子はそれに「迷惑した第一人」とす
ら言えるのですから。
繰り返しますが、この夫の「暴発」とは、櫻子から両親に真っ先に詫びてきた手紙に、「櫻子自身の認識」として出ていた「夫の非常識を非難した言葉」で
す。夫・飽海専太郎の突然の「暴発」に、妻・櫻子は「困惑」こそすれ、親たちに向かい悪声を放つナニゴトも「一度として」ありませんでした。はなから「親
たちに詫びて」いました。
(じつに端的で事実その通りの「櫻子の認識」でした。これら「遠過去」関連の基本証拠になる飽海専太郎の手紙は、全部一括菰布事務所に提出
してあります。また「証拠資料として原告提出」の清家の創作下書き資料『マリアの家』には、飽海書簡の原文を変改せず引用の文面がそのまま、フィクション
ストーリーの中で使用されています。それらの手紙原本を、すべて飽海は「書いた」と「自認・確認」しています。)
櫻子の母・私の妻美枝子は、娘らの「離婚」を強く希望しましたが、じつは、私は逆でした。結局娘は、夫や子たちとの「飽海」という「家庭生活」を選択し
ましたし、私たち両親も、板挾みに引っ張り合うのを避け、すでに妻で母である櫻子の手を、哀しみながら、放したのでした。
櫻子三十三歳の誕生日を祝った父からの手紙に、(ホームページ日録の冒頭ファイルに出ています、)落ち着いた心境を親しく告げ、父名宛てに返信してきた
「絵葉書」文面は、この「第一の側面」をよく傍証しています。これが櫻子の自然で普通の筆致であり心情のあらわしようでした。即ち、
お手紙ありがとうございました。お陰様でおだやかな誕生日を迎えることができました。尋ねられて悪びれることなく、三十三ですと答えられるのがなによりと
思っています。新学年のふじ乃は毎日お友達とおお賑やか。かや乃は歩いて転んで、障子に穴をあけるお遊びです。二人の友元気すぎて、母親としてはいたしか
ゆしの春爛漫です。 稲宜市大丸 飽海櫻子
(一九九三・四・二○)
2 週刊誌記事にも櫻子は全く影もなく
関連して、飽海専太郎について改めて申し上げる際のイヤな話題になるのですが、此処で「大事な一つ」を先ず申します。
名目上、「櫻子が主役」の「週刊思潮」(平成二十年七月三日号)記事でした。電車の吊るしにも出た記事のメインタイトルは、「孫の死を書いて実の娘に訴
えられた戦後文学賞作家」とあり、私の「氏名」も「経歴」も「顔写真」も「著書の写真」までみな掲げ、まさしく「週刊誌沙汰」にして私を貶
めようという意
図が見え見えの記事の造り方でした。飽海専太郎の「持ち込み」取材だったのでしょうか、どうやら櫻子自身は、この件、終始何も知らされてなかったのかも知
れません。
と言うのも、見開き二頁にわたる「記事」には、「実の父」を訴えたという肝腎の「実の娘」の名も、顔写真も、また父を責め訴える片言隻句すら出ていな
かったのです。「週刊思潮」自体を優に名誉毀損で訴えられると云ってくれる法律家もありましたが、私は、あえて留保し、見過ごしました。
私は、週刊誌記者と会うことすらしていません。電話「取材」も受けていません。
誌面で独り喋りまくったのは、なんと「志村武」と「仮名・五十三歳」を名乗った夫・飽海専太郎だけで、まぎれもない専太郎「独演会」でありました。
なぜ櫻子自身が出て話さなかったか。「愬え」なかったか。分かりません。私たちは、これほど醜悪な場面で、櫻子の「直な訴えの皆無」だったことに、か
えって驚きました。
もう一つ、こういう側面がはっきり指摘できます。
3 父のウエブで夫が批判されていたこと
両家が「没交渉」に入っていたころ、思いがけず文部省辞令を受け、私は、国立東*大に教授室と講座とをもちました。数年で定年退官(当時は六十歳定年)
したのが平成九年春。で、翌十年(一九九八)三月から、親しい学生たちの助けを借り「清家次郎の公式ホームページ」を開設したのです。
そのホームページ『作家・清家次郎の文学と生活』のなかに、「闇に言い置くモノローグ」と題した「日録」をもち、ちょうど今日までに95ファイル、総量
は400字原稿用紙に換算すれば数万枚もの「批評、評論、エッセイ、意見、交際等々」、そのままでもすぐ単行本の原稿になる文章が満載されて行ったのです
が、その中で、櫻子の夫、私たちの婿・飽海専太郎にふれて、少しは耳の痛かろう「私語」「批評」が、時折り、ほんの時折り、挟まっているのです。
「検索」すれば「飽海専太郎」の名が出てしまう、恥ずかしいし愉快でない、と櫻子は不快に感じていたかもしれません。(今どきのこと、子供たちも、簡単
に見つけてしまうでしょう。)自分の父親が、自分の夫にふれてウエブに書いている、夫には恥ずかしいことが書かれている、それが、妻で母の櫻子の一つ父親
への「恨み」になっていたかということ、私は、それを幾らか理解します。
(現在はどう「検索」しても「飽海専太郎」の名は一箇所も出て来ません。希望を容れ、すべてマーキングされています。)
この私の「理解」に関連して、さらに「三つの要点」に目を留めておくことが肝要と存じますので、順に申し上げます。
(五) ウエブでの飽海専太郎筆誅の要点
1 遠過去の「飽海暴発」が原点、そして文責明記のインターネット。
婿・飽海専太郎にふれた記事の全部が、前にいう「遠過去」に、妻・櫻子自身がいち早く批判し非難していた夫「暴発」と関わっていまして、それ以外は全く
無い、これが「動かぬ事実」です。その点が舅である作家の清家次郎から非難されるのは、「公人・飽海専太郎の自業自得」と、今も思っています。
さらに大切なことを申し上げます。
私・清家次郎の文章表現は、インターネットにあっても「全て文責明記、清家次郎の筆になる」ことが「例外なく」明らかです。「匿名ではない」のです。
インターネット犯罪の多くは、インターネットの「匿名可能を悪用」し、無責任な仮名・無名に隠れて為されています。悪例の一つが、先にも申しましたが
「週刊思潮」を利し、自身は「仮名・志村武」に隠れながら、舅の私を実名・経歴・顔写真つきで誹謗してやまなかった原告「飽海専太郎」の卑劣さに見られま
す。これは「電子メディア委員会」を日本ライタークラブに創設したときから、私の最も忌避し嫌悪したことで、「文責明記」こそはインターネット社会で遵守
されたいひとつの「原則・姿勢」でありました。
インターネット上でも、互いに「実名」をあげ合って意見や情報を交換せざるを得ない事態は、いわゆる「紙」媒体時代と同様、いいえそれに何倍加して「世
間普通」の現象となってゆく動向は、避けられません。此の道の専門家はそれを早くから推知していました。完全に抑止し閉鎖する道はもはや「無い」以上、そ
の際せめて「文責明記」といった手続きをルール化すべしと清家次郎は「思想」としても考慮しています。せめてはそれが、インターネット時代のエチケット・
道義でありましょう。
いつの時代にも、人の口に戸は立てられない。それがパソコンという機械を介して圧倒的にひろがったのが「インターネット」なのですが、インターネットそ
のものをもはや禁制することは、あり得ない現代であり、未来です。現にすでにそうなっています。増々そうなってゆく。
2 公人と公人 それは論争
上を踏まえて私の「持論」を申します。
作家として、団体役員として、飽海らも明言し指摘しますように、私はいわば「公人」であります。全く同様に、「教育哲学」等にかかわる大学教員で、同様
「公人」を自称している飽海専太郎を文章等で「批評・批判する」行為には、慣習上も何の不都合もなく、公人同士の「論争」「議論」に及べば済む「普通行
為」であると、今も私は「理解」しています。そのために私は「文責」を常に明らかにしています。
まして婿と舅との間です。法廷に持ち込む事由では全くないと信じます。
飽海専太郎は、仮処分申請の訴状にも、肩書として現に就職している大学での「所属・地位」を記入していたのを記憶しています。私も「大学教師は、公人」
という自覚と責任とを公然求められました、正教授就任の当時文部省辞令を受けた時にも。
藝能タレントでも、犯罪に関わると明瞭に「公人」扱いされています。「作家」も団体役員などは当然に「公人」です。思想信条に根のある作品を公表してい
る以上、作家たる者、団体役員でなくても「公人」に相違ないと自覚していますし、マスコミもそのように扱っています。
かつて文化功労者の梅原猛氏が、大先達で故人の斎藤茂吉や金田一京助らの実名をあげ、私的な罵倒に近いほどの論難をベストセラーの中であえてされていた
事実、その他文壇や周辺で実名をあげた真っ向相互の論難・論争などは、実例を幾らも幾らもあげることが出来ます。それらはふつうに許されていました。通用
しました。そのために裁判沙汰が起きた例を知りません。私・清家次郎も飽海専太郎も、いわば「そういう世間の住人」である「教員」で「書き手」なのです。
飽海専太郎も私も、「同じ、人文学の範囲で生活する公人と公人」であり、ことに彼の「教育」という専攻分野にもふれて「道義と倫理の観点から」私が飽海
専太郎教職を批評し、時に真っ向非難することには、彼からも同様に反論があればそれで済むことなのです。それがウエブであれ雑誌であれ、いずれも「公」に
されたメディアであり、しかも私は飽海のように卑怯に匿名や仮名でなく、いつも「本名で文責」を明かしています。いわゆる某チャンネルなどでの匿名の誹謗
やコメントとは全く違います。
現に彼・飽海は、岳父の私にむかい、書簡中、ルソーの教育論『エミール』を読んでものを言えと放言していた位です。ルソーは、彼が先師以来のいわば二代
の研究対象であり、その意味では、いかに飽海の「大過去」の言動が、ルソーの「自然人の徳」に背いた下劣なものであったかを、私は論証も立証も出来ると今
も確信しています。
私は世に著名な学者の「ルソー研究」も、謙遜に時間をかけ勉強しましたが、その結果、どれほど飽海専太郎のルソーが、論語読みの論語知らず、人間の
「徳」と「自然」に背いたものかを痛いほど実感しました。
しかも。
3 ウエブの飽海批判は、17000枚中の10数枚に足りない
私のウエブ上の日録で申して、問題の「遠過去」に飽海専太郎に触れた記事は、平成十年(一九九八)三月から十八年(二○○六)六月ふじ乃入院月まで、正
確に100ヶ月、57ファイル、少なくも17000枚余の原稿量のうち、たった数回、原稿量にして用紙10数枚に満たないのです。むろん記事自体「書かな
かった」と否認するのではありません。
但し「ふじ乃の死後」に、飽海家の無礼な挑発に応じるしか無かった言及は、裁判沙汰に持ち込まれたり週刊誌沙汰に画策されての、余儀ない現在進行形の
「応酬」として、自然当然「遠過去」「近過去」での言及とは、異質の全く「別問題」と思慮しております。
4 しかも「公式ホームページ」全部の「削除を策謀し強行」
しかしながら、そんな現実のもと、このウエブ日録を一部分として含む厖大なホームページの「全部を強引に抹消」させようと、繰り返し、サーバーや
「mixi」当局にあくどく働きかけた(一度はBIGSOBEを動かし成功した)飽海夫妻の行為は、明瞭に、私・清家次郎の「言論表現・思想信条の自由と
権利」「著作権・人格権」を侵害したものと言わねばなりません。
是については後で更に触れます。
5 ウエブでの飽海批評の実例
参考までに、ウエブの日録で、十年前、飽海専太郎に初めて言い及んだ「関連」記事を、ここに例示します。主眼は、あくまで私の「生き方・述懐」にあると
お分かり願えるでしょう。
☆ 湯川博士と婿と 1999 8・12
* 数日前、湯川秀樹博士と夫人との「ノーベル賞」物語のような映像をテレビで見た。結婚するときの夫から妻への誓いに、ノーベル賞を取るという一事
があったらしい、それは成就したのだし、めでたい。
あの頃わたしは中学生だったが、胸のふくらむような朗報だった。理論物理学がどんなものか知らないが、中間子理論に到達するまでの苦労はさこそと納得で
きた。
わたしの母と湯川さんの生家とはご近所で、母は湯川さんのそれぞれに著名な兄弟たちについても、聞きかじっていたことを、嬉しそうによく話してくれた。
生家は湯川姓ではなかった、それは奥さんの方の苗字である。奥さんの家は聞こえた病院であった。湯川さんがれっきとした婿養子であったか、たんに奥さん
側の姓を名乗っていただけか、そういうことは知らない。
そこまでは、それだけの話であるが。
結婚して間もなく、奥さんは、夫の机に積まれた幾つも幾つもの封書に目をとめざるを得なかった。みれば、洋書など書籍類の請求書の山であった。奥さんは
黙ってそれを自分の父親に差し出し、父親は、つまり湯川さんの舅は、黙ってそれをいつも全部支払ってくれた、という。
* おお、これこれと、テレビを観ていたわれわれ夫婦は声をあげた。「学者」を自称して大学の教職にあるわれわれの婿殿は、こうして欲し
かったのだ。
学者の舅姑たるものは、こういう具合に「住む家」も婿に与え、黙っていても「生活費の半分」も拠出提供すべきだし、学者の嫁たるものは、実家から黙って
そういう金を引き出して来べきものだと、そう、われわれの婿殿は考えていたようで、われわれ舅姑へ罵詈雑言の手紙とともにその要求を突きつけてきた。
(手紙が残っています。民事調停の最初に菰布事務所に提出しています。長編未定稿の「マリアの家」にもそのまま用いられていました。)
つまりおまえたちは、「学者を婿にした親」として失格だ、湯川博士の舅のようであるべきで、それは「常識」であり、自分の知る限り「みーんな」そのよう
に、嫁の実家は学者婿の学問を、黙って喜んで支えていると手紙に書いて寄越した。
(手紙は残っています。)地道な文士のわたしを「非常識な世間知らず」と罵って、経済の役に立たないそんな「嫁の実家」とは「親戚づきあいを絶つ」と手紙
で宣言してきたのである。(手紙が残っています。同上)
よほどけっこうな「仲人口」がつかわれていたのか、よほど稼ぎのいい売れる作家だと勘違いしていたのかも知れないが、九十歳前後の義理ある親や伯母を三
人京都から引き取り、狭い家で喘いでいたわれわれ夫婦には、出来た相談では無かった。
結婚後かなりの期間、二人目の孫で櫻子がつわりの頃まで、婿殿は、だが、むかむかしながら我慢していたらしい。堪忍袋の緒が切れたように、「非常識な作
家」である舅のわたしに、無道の限りの手紙を連発してきて、理不尽に娘の親は娘の婚家と「姻戚の縁」を絶たれてしまった。なんとも、ま、みっともなく情け
ない話である。
わが娘は、「それ(援助)」が出来ないのなら、形だけでも夫に、婿に、経済支援できないのを「謝ってくれ」と泣いてきた。やんぬるかな。
妻は離婚させたいと言ったが、わたしは魂の色の似た同士「夫婦」で生きてもらいたいと、娘や孫の手を、引っ張らずに、手放した。つき放されたと娘は思っ
ていたかも知れないが。
やがて十年になる。
* たしかに湯川さんの奥さんや父親の仕向けが「美談」視されたことはありえたし、そういう例は「みーんな」でないまでも、有ったろう事
は察しがつく。
ところが婿殿にとって「不運」なことに、わたしは、徹してそういう思想や生活態度の持ち主ではなかった。
むろん出来もしなかったが、じつは、出来たにしても、そういう余計なことは、よくよくの場合でない限り、むしろ「努めてしなかっただろう」と思う。その
点ではわたしは、湯川秀樹よりも、はるか昔の新井白石の態度を尊敬してきた。
白石また、湯川さんにおさおさ劣るどころでない大学者であり、大詩人であり、優れた政治家であった。彼の青年時代の貧窮は、豆腐屋お恵みの豆腐絞り粕で
飢えをしのぐ有様だったが、学問には励んでいた。
優秀さを伝え聞き見込んだ当時著名な豪商は、三千両の持参金附きで娘を嫁に貰って欲しいと申し入れて来たが、白石は潔(いさぎよ)しとせず、すぐ断って
いる。自伝にそう書いてある。
同じく美談であるとして、われらが婿殿は、湯川家の例をもって「常識」とし、常識の守れない嫁の実家とは親戚ではいない、利用価値がないと、切って捨て
た。
わたしは、断然白石という人が好きであった。湯川さんのことは、はや遠い古であり今は論評しないけれど、ま、わたしは、娘の亭主を「情けない甘えたヤ
ツ」だと軽蔑して思い捨て、惜しいとも思わなかったのである。
仲人口に感謝して乗ってしまった点では、恥ずかしながらアイコだった。わたし自身が、娘を、いわば押しやったような結婚であった。 1999 8・12
説明の必要もなく、飽海は「湯川」型の援助に甘えかかり、清家は、根から「白石」のように貧しさの中から立って来たのです。この依存型と自立型との決定
的な岐れ、これが「大過去」の不幸な「発端」に在り、間違いなく以後の「全ての紛糾はその延長上にある」のです。
そして飽海専太郎が、躍起になり「マリアの家」という、フイクションの下書き稿を、人目に触れさせないでと懇願しつづけた理由は、要するに甘ったれや無
礼を「恥じて」いたのです。恥じながら礼儀なく、ただ「暴発」したのです。
此処で、ぜひ大事な「三つ」を申し添えねばなりません。
(六) 一つ。清家の日録は「読者」を前提の「文藝」であり備要・収蔵庫。
上の記事のようにこの日録は、「作家・清家次郎の生活と意見 闇に言い置くモノローグ」と題され、厖大な内容はすべて「読者」を前提に、どの箇所を引い
ても即座に「エッセイ・随筆・批評・所見・記録等」として読まれ、また作家の売り物になる文章ないし、その素材・備要ばかりなのです。
最近、篤志の読者が、今日までの全日録を「文学・美術・演劇・歴史・伝統藝能、人生観、読書録、身内・家族、東*大等々」三十項目ちかくに綺麗に「分
類」してくれましたが、それらから私は、今すぐにも、七、八十冊もの単行本出版を構想し編纂できます。私のウエブ日録「闇に言い置く」とは、そういう文藝
の展示ないし備要・収蔵庫なのです。
つまり初めから「文藝」意図をもって用意され書かれ、一日も欠かさず無料公開され続まれてきました。國内外の読者達を現に数多く迎え入れ、想像以上に広
範囲に読まれています。
しかし「飽海専太郎」の名にふれた箇所は、大海の一滴に満たぬものでした。ぜひ必要ならそれだけを外せばよろしく、現に原告らの要望を容れ、どんな「検
索」にも掛からぬよう姓名はみな「★★★」と完全なマーキングが既に出来ています。
(これら要望は、飽海から直接受けたのでなく、主として法廷を介して示唆され、またサーバ「tolitop」との話し合いの間に折衝されています。)
(七) 二つ。ウエブで娘・櫻子に触れた記事は、みな思い出と労り。
飽海専太郎にかかわる「近過去」の日記記事とサマ変わって、娘・櫻子に関する記事は、上にいう百ヶ月の日録中に、数十倍、百倍もありましょうか。
それらはみな、愛娘や孫達の平安と健康を願って懐かしむ、思い出と労りの文章ばかりです。親の気持ちは娘に向かっていささかも色褪めていなかったので
す。
ふじ乃が死に向かう時期でもそれは全く同じで、問題の日記文藝『死んでゆく、孫よ』の、「六月七月」ふじ乃が「逝去以前の全記事」が、内容的に明瞭に示
しています。
* 櫻子に 泣いて心配している。櫻子のことも心配している。ふじ乃のためにも、われわれが元気でいてやりたい。櫻子も元気でいてやりなさい。そして万
全を。松夫でもいい、母さんでもいい、お前の気持ちさえゆるすなら、虚心に何でも告げ語らい、おまえの重荷を軽くして長期の苦しみに耐え抜いて行かなくて
はならない。
この数ヶ月、私の見ている限り、あんまりにもふじ乃はムリを重ねていた。わたしは癇癪の起きそうなほど心配でした。思いあまってふじ乃にもモノ申した
が。
ああ、なんとかもっと早くに、なんとかしてやりたかった……
櫻子がいま共倒れしたらたいへんです。大事にしてください。 父 2006.06.23
* ふじ乃の目覚めのさわやかでありますように。櫻子も疲れを溜めませんように。 2006.06.29
ふじ乃祖父母の心配は、危篤の孫だけにでなく、常に娘・櫻子の上にもかかっていたことを、読み間違え、読み落とした読者など、飽海夫妻以外に、ただ一人も
いなかったでありましょう。
あえて、娘や孫達への思いを兼ねた、もう一つだけ飽海専太郎批判の記事を昔の「私語」から抜いて書き添えます。
☆ 生き別れ 2002 01/26
* わたしの(東*大)学生諸君は大方知っているから話すが、わたしたちは、一人の娘と、娘の生んだ二人の孫とも、十年以上? 顔を見る機会も文通も
ない。いろいろな事情があったからで、娘と両親とに直接争いがあったわけでなく、つまりは、娘の夫とわたしたちとの齟齬に発して、へたをすると娘が離縁さ
れそうな懼れから、すべて身を引き、交通を遮断したままなのである。だが、三十代という娘の女盛りを見ることなく過ぎ、まして孫娘の上の子はもう中学を出
ようか、中学に入ろうか、その辺も覚束ない記憶だが、そういう可愛い盛りをまったく見ることもできずに過ごしてきた。
わたしたちは不幸に感じているが、娘や孫の気持は簡単には忖度できない。ただもう運命を恨めしく感じているだけ。察しられるように、わたしは東*大の学
生諸君に、どれほどこの寂しい恨めしさを慰められたか知れない。
* 事実は小説より奇なことがあるが、わたしが東*大教授に突如慫慂されたとき、娘の夫・飽海専太郎(現在はある大学の助教授あたりらしい。)は、大
学にポストを求めて浪人中であった。わたしへの教授選考会申し入れを聞いた彼は、言下に「でも、パンキョウでしょう」と云ったが、それが「一般教養」への
蔑称だとすら、わたしにはあの当時理解できなかった。
やがて彼の方は紆余曲折あって、茨城教育大「技官」の地位を得たものの、甚だ不本意な成行きであった。娘が、「専太より先に、パパ就任しないで」と電話
の向こうで呻いたことも忘れられない。そういうことどもが、つもり積もって、不幸な、力づくの「生き別れ」にされた。
わたしたち夫婦は、「頭を坊主にし手をついて謝れ」とまで婿殿に云われたのだ。いったい何をわたしたちがしたというのだろう。わたしたちが貧しく力無
く、ただ国立大学の専任教授に迎えられたということだけである。私にすら寝耳に水の白羽の箭だった。
妻は娘を取り返したいと云ったが、わたしは、そうは考えなかった。
夫婦は、まして子までなした娘は、夫や子とともに生きて行くのが自然なことと、自分から、娘の手を放した。手を放さなかったら、娘の離婚が実現していた
かもしれぬ。
その決意に悔いはない。が、孫達は、孫たちの祖母は、むろん祖父であるわたしもだが、不当に受けてしまった「離別」の不幸、計り知れない。
孫達は我々祖父母を忘れ果てているだろうか、下の孫娘など、かろうじてわたしたちに一度抱かれたことがあるきりの、赤ちゃんであった。
この孫達の父親は、東都西北大学に学んだ昔から、先師譲りの教育哲学の学徒である。ルソーやモンテスキューの研究者である。
「教育」とは「ヒューマニズム」とはいったい何だろうと思う。どんな学生をどう育てているのだろう。「闇」の底へ、事実のみを「書き置く」のである。
2002 01/26
(八) 三つ。孫二人と祖父母の、親も気づかぬ親交回復。
上の状態で推移した「遠過去」が、俄かに様変わりしま
した。「近過去」に転じました。
高校生や中学生に成長していた孫娘たち二人が、ふじ乃が、かや乃が、気を揃え、両親に堅く秘したまま、祖父母らとの親交を一気に自発的に「回復」してし
まったのです。
姉妹ともインターネットに馴染んでいました。二人とも、祖父のホームページを自在に検索し通覧することが出来ました。「大過去」に起きた父親「暴発」以
来の不幸な経緯も承知で、しかも厳重に親に隠してでも祖父母との親交を、ふじ乃は、最期の三年間に亘り嬉しく楽しんでくれたのです。
或る意味、これは孫たちが行為で示した、両親夫婦への強い「批評」「非難」「NO」の表現でした。祖父母へ親愛の表現でした。あとでメールを引用します
が、ふじ乃の苦渋や涙を知り抜いた親友は、ハッキリそれを私たちに「証言」してくれています。
(九) この時期に、ふじ乃の「母・父」は、何をしていたか。
以上の「三つ」を踏まえて、
私たちに、現実感を帯びて受け取れたのは、「軽蔑し否認」してきた飽海専太郎よりも、「没交渉」を強いられた娘・櫻子よりも、自分の意志で現に目前に訪
れ来て、親しく遊び、話し合い、飲食し、楽しく観劇もし買い物もする「孫二人」からの、言わず語らずの「感触と情報」でした。
1 動かしがたい事実
動かしがたい最初の「事実」は、飽海の両親が「近過去」に入って、
娘達二人から精神的に、また生活面で「背かれていた事実」です。その
事実に両親とも全
く気づかなかったことです。
白血病で入院し、ふじ乃の携帯電話を母が見て、やっと、ふじ乃と祖父とが「mixi」の親しい「マイミク」であると知れてしまうまで、母親は、むろん父
親も、娘達がもう永く祖父母と交歓の歳月を積んでいたとは、夢にも知らなかったのです。ふじ乃自身がよく祖父母に洩らしていたように、親たちは、あまりに
此の娘から遠く「無関心」に近かったことを、よく証しています。
しかし、娘たちに背かれていた事実は、少なくも母・櫻子にはきつく堪(こた)えたのです、躍起になって娘らと祖父母とのことは事前に「承知していた」な
どと言いますが、悔し紛れというほかありません。
そしてこの件を更にほぐして行くと、母親である原告・櫻子について、じつは予想していた通りの、また意外でもある「別の一面」がしっかり見えて来ます。
その点を、このまま追って行かせて下さい。
2 母・櫻子の「謎? 昏迷」
こういうことです。
娘・櫻子に関わって私が、妻や息子の気持ちも組み入れ、法廷にむかい「陳述する」とは、言い替えますと、「櫻子」という人物に、いまなお「謎」の多いの
を、私なりに、我々なりに「解きほぐす」しかないと、それをお分かり願えれば、この訴訟に櫻子がはまり込んでしまった「不条理も、齟齬や間違いも」明瞭に
見えてくる、と言いたいからです。
訪れ来る孫娘たちに、私たちは、母親について、また父親のことですら、ただ一言も決して悪声を放ちませんでした。専太郎のことは全く沈黙。孫達も何一つ
「父の噂」はしませんでした。櫻子のことは、幼来のエピソードや、可愛かった、よく出来た所をばかり沢山話してやりました。
ところで、ある日、祖母から、「櫻子って、どういう人なんでしょうねえ」と問いますと、ビックリしたほど孫二人は、言下に口を揃え、「謎でーす」と答え
たのです。
あっ、と思いました。娘とはいえ、親にも分かりにくい櫻子の「謎」に迫ることこそ、膠着したいろいろの解明に繋がるかと私たちは考え、心底、願っていた
からです。
なぜ櫻子は、実の父(母)を「不倶戴天」と憎むのでしょうか。
なぜ櫻子は、実の父(母)がくれた「櫻子」という名を投げ捨て、市民活動の中でさえ「飽海広江」などとそらぞらしく名乗るのでしょうか。
今此処が、これを申し上げる好い時機と思いますので、弟・清家松夫の
「不動の確信」であるらしき「姉・櫻子」観をお伝えしておきます。一
昨年秋にも弟・
松夫は、父に向かい、「もう百万遍も俺は言ってきたよ」と、また、このように、繰り返しています。
「櫻子は、ビョーキなんだよ。櫻子はお父さんがめっちゃくちゃ大好きなんだよ。その大好きなお父さんから良きにつけ悪しきにつけて、例外というモノもコ
トも無しに愛されたいヤツなんだよね。是々非々の愛では絶対にダメ。しかしおやじは、いいときは手放しで褒める、しかしダメな時やモノやコトにはきちっと
ダメを出し、半端には受け容れないでしょう。俺はそれでいい。櫻子は、それでは絶対に不満。そして褒められたことや愛され可愛がられたことは忘れても、ダ
メと突き放されたことは覚えに覚えて、それが積もって、今では憎さ百倍、何としてでもお父さんに復讐し勝ちたい。そういうビョーキなんだ。仕方ないんだ
よ」と。
3 櫻子たちの夫婦仲
こういうことも念頭に、今それ以上に一つ重要な、「遠過去」「近過去」いいえ「現在」もなお、清家の私たち老夫妻が「思いあぐねている一事」を申し上げた
い。
櫻子たちの「夫婦仲」は、よいのか、わるいのか。どうなっているのか。
それが今回の法廷事案にどんなに影響しているのか。
私の推測してきたことを申せば、両家が「完全没交渉の期間」を通じて、旧姓「清家」櫻子は、妻として嫁として「飽海」家で、さぞ「孤立」していることだ
ろう、清家の親たちを理由に、妻・櫻子は夫・専太郎から、コト有るつどイヤミに責められ続けているだろうと。
娘は、飽海の母(=姑)を「慕っていた」などと昨夏、私へのメールに書いていますが、結婚当初、娘が得意の「エコ問題」などで意見合わず、それこそ不倶
戴天の不仲をあらわに、一つ屋根の下で「あの人=姑」とは今後ぜったい暮らさないと始終口にもし、実家への手紙にも書いていました。ま、ありふれた嫁姑の
仲のこと、謎でも何でも有りません。が、私を、かなりどきっとさせる事が、別に出来ていました。
私のもとへ、櫻子の「棋友」と称した静岡県男性から、突然、櫻子の「近況」を親切にメールで伝えられたことが有ります。櫻子がインターネットで、将棋の
世界など、家庭の外へ心をやっている事実がそれで分かりました。櫻子と将棋。初耳でした。二人は東京でか横浜辺でか、面識も出来ているようでした。私は娘
のそういう「心やり」を喜びました。
話が迂路つくようですが、至近に関係してくることなので申します。
問題の、ふじ乃が亡くなりました平成十八年(二○○六)に、ふじ乃ら孫姉妹がわが家を訪れたのは、正月二日、そして二月二十五日の二度でした。それで最
期でした。以後ふじ乃は体調の悪化一途でした。
すでに正月十一日の「mixi」日記に、ふじ乃は体の強い「痛」を、
耐えがたげに早や訴えていましたが、まだ「mixi」に加入してなかった私にその記
事は読めませんでした。翌二月下旬から、初めてふじ乃と祖父とは「マイミク同士」になりました。
(ソシアルネットの「mixi」規定により、会員同士が「マイミク」の約束をすると、日々お互いの日記が自由に読めるのです。)
もっともたとえ読めたにしても「肉腫発病」を察知することなど、とても誰にも出来ぬ相談でした、ただ、なにかというとふじ乃が、冷えた廊下にでも「寝そ
べりたがるなあ」と、妻も私も気にかけていました。
最期の二月二十五日、姉妹は、祖母が愛蔵の「雛」祭りを、欣然、楽しんで行きました。
また昔に櫻子のためにつくった総疋田(そうひった)の華やぐ振袖を、来年には成人式のふじ乃にと、初めて、その日着せ掛けてやりました、ふじ乃は、それ
は嬉しそうでした。
でも「家に持っては帰れんなあ」と祖父が歎きますと、ふじ乃も残念そうでしたが、どういうわけか、その時、姉妹は顔を見合わせ、目と目にものを言わせる
ように、「でも、今年の秋ごろには、なんとかねえ」と言い合うのでした。
「どういうこと」と祖母がすぐ聞いても、二人とも曖昧に笑って答えませんでした。
飽海夫妻に「危機」が来ている、私は、すばやくそう感じ取りました。強い感触でした。
このところを、詳細に押し詰めて行きますので、お聴き取り願います。
余談ながら、最近ある最高裁判事さんが「新任」に当たって、法の背景や基盤にある「人間」を大切に見たいと語られていました。
同じ趣旨は、私の永くありがたい愛読者であった故環昌一さん(最高裁判事)も、折に触れ作家・清家次郎への「共感」とともに洩らされていました。或る意
味、「文学の覚悟」と重なり合うと、頼もしく嬉しく思ったものです。環さんは『次郎の本』継続の購読者でした。
今こうして求められている「陳述書」というのは、法律家でない市民が、「生きた言葉で裁判官に訴えるもの」と代理人のご指導をいただきました。されば、
正直かつ素直でありたいと願います。決して法廷への「皮肉・釘刺し」の意図あって上のことを申し上げたのではありません。聖人ではない人間のすること、よ
く言われる「心証」を全然無視するものではありませんが、それでも「心証」で軽く動く法廷とは考えておりません。考えたくありません。
4 櫻子の「関心」はふじ乃の上になく、
平成十八年二月二十五日は、まだ健康と言うしかないふじ乃を、わが家に迎えた最期の日だったと申しました。次に会った七月には、もう病床で、「肉腫」の
確定診断をひかえ病床に窶れ果てているふじ乃でした。あの二月末の雛祭り以来、ふじ乃は、最悪の癌症悪化を、文字どおり独りで、孤立感に呻き続けたまま、
六月下旬前の「入院」にかろうじて辿り着くまで、苦悩の限りを味わっていたのでした。
しかもふじ乃の手になる、その、詳細で悲惨な「mixi」の「病悩日記」「全網羅日記」に、「娘の病苦を労(いたわ)る母親・父親」の「影」一つも、
「言葉」一つも、「全然」落ちていないのです。
ところで、この年、上と全く同じ「二月二十五日」は、ふじ乃母・櫻子にとっても、大きな意味をもつ日付でした。
子たち二人が祖父母と雛祭りをしたり晴れ着を着たり、街へ出て賑やかに夕食していたとも知らず、この日の飽海櫻子は、新規の「ブログ」を自分のパソコン
上に立ち上げていました。私たちは、ふじ乃の亡くなって「後日」に、たまたまこの「櫻子ウエブ」の存在を知り、即座に「全部を記録」しました。
このブログは、「かぶら」名儀で「おおまるコラボ」とか「土曜のふれあい」とか名乗って意図を進めて行きますように、櫻子地元での「地域コラボレーショ
ンの発起」を示していました。
時にエッセイふうの意見や述懐もまじっていますし、私生活記事も少なくない。
しかし、櫻子の娘・ふじ乃が三月から四月、五月と病勢を悪化させ、苦悶の悲鳴を「mixi」日記に上げつづけ、友人達も私たちも、みなが「一刻も早く適
切な医療を」と奨めつづけてこっちも「悲鳴」に近かった間中、母・飽海櫻子のブログは、日付にすれば二月に始まってから、実にふじ乃「入院の二週間後」
「七月一日」に至るまで、終始一貫、あたかも「別世界」のように、ふじ乃の病状や心情・窮境にふれた、ただ一片の言及も懸念の表現ももたないのです。「全
文」が手元にあります。平成十八年七月三十一日迄で十分と思いますが、別添提出すべく菰布法律事務所に伝達済みです。
ふじ乃自身の「mixi」全日記に、両親の労りを受けた片言ほどの記事も無いのと表裏膚接し、母親櫻子のブログには、娘ふじ乃の体調を気遣ったたった一
言半句の表白も無い。「家にテレビ四台」とふじ乃は書いていました。たった四人家族の家庭でこれは「異様な事実」と云うしかなく、ある人は、この親たちは
我が子から全く「目を離していた」と批評しています。事実その通りだったのです。逆の証明を飽海夫妻は何一つ出来ないのです。
ふじ乃入院から十二日を経て、七月一日付で書かれていた母・櫻子の、次なるブログ記事の「平然」とした述懐を、ぜひお読み願います。
5 この母親の述懐 二つの宇宙 [2006年07月01日(土)]
(かぶら=飽海櫻子・記)
「ふれあい(=地元でのコラボレーション)に走り回る自分に
電話が一本。
漫然と体調違和
でも、「どこも悪くないよ」と笑われながら、
医療機関を幾つも訪ねていた長女の
「違和の原因を突き止めてくれた病院」がある
入院しますという知らせ。
「ありがたい」ニュース………のはずでした。
だがその病院に駆せ参じて以来
自分はほとんど病院で足止め。
洗濯に家に二度帰っただけ。
自分の仕事に大穴を開け、
幾つかのオファーもキャンセル。
流れていた自分の時間は遮断されて、
積んできたお城は、みな、もとの砂場、
関わりない二つの宇宙の共存であったように、
今の自分に繋がってない。
娘の病室が、夢、ならいいのにと思う。
覚めれば、どんなに梅雨の蒸し暑さによどんでいても、
自室の自分のあのベットの上ならいいのに。
だけど、
病院にパソコンを持ち込み、
自分は試みる、この病室と、あの自分の仕事をつなぐように
病室の窓際に座る自分が街を駆け回る自分と同じように
おおまるという街と、そこでの活動を
自分の現実として取り戻すために。
まだブランクはたった二週間。
二者択一でなくていいはずだ。
負けずに進んでいこう。
娘が闘っているように、
自分には自分の闘い方がある。
この飽海櫻子の日記は、いまだに娘の病気(この時点では、まだ白血病。病院側が診断に迷いを持っていたらしい頃。)と、自身の「コラボ」活動とを当然の
ように「両天秤」に掛け、かなり冷淡に、または楽観的に、自分の関心事に生じた「ブランクはたった二週間。(娘の病気と)二者択一でなくていいはず」と、
偏った、安直な病状認識を見せています。母が「命にかえてもお前の命を守ってみせる」と空しく豪語したのは、これよりずっと「後日の話」でした。
明白に、つまりこの母親第一の関心事は、なお、「地域コラボの立ち上げ」でした。「白血病」のまま診断の定まらないでいる「娘・ふじ乃」が「第一」で
あったとは、読めないのです。
(十) ここで大切な、ふじ乃病状の「前期」「後期」の区別
私は此処で、特別強く申し上げます。
ふじ乃の病歴期を、『(平成十八年)二月から六月 孤独な病悩期 前期』
と、『白血病ですとふじ乃の名で「mixi」に告知した六月下旬から、翌七月二
十七日逝去まで 入院期 後期』と、の「前・後」に大別し、事の経緯と内実をきちっと見分けるのが、じつに大切だという
ことを。
なぜなら、端的に、飽海櫻子のすべて言うこと為すことが、この両期で、雲泥の大差・落差にあるからです。
今日に至るあらゆる原告の弁疏も言動も、全くこの点に発した惑乱または誤魔化しとしか言いようがない。
子から「全く目を離していた罹病前期」の懸命の弁解のために、居丈高なまで「後期入院」の親の介護等に萬遺漏は無かった、安らかな心境で聖者のようにふ
じ乃は死んでいったと言い募っています。祖父母はそれを全く理解しない、だから「不倶戴天」という激怒へ、恐ろしく不条理な青筋を櫻子は立てて来るので
す。
しかし、この櫻子の言い分は、空疎なウソに彩られています。
そんな「独りよがり」の通じないことは、以下に明瞭です。
つまり櫻子ないし飽海両親にいかに勝手な「自信」があろうとも、後期の医療及びふ
じ乃の「死」にふれた言いぐさに、他者への「説得力」は薄弱そのものだ
からです。自己都合の勝手な「言挙げ」だけでは済まされぬことです。我より人を「説得」出来なくては単に「独りよがり」なのです。それを証明しましょう。
(十一) 櫻子の置かれていた飽海家での位置は。
2006.07.09
清家次郎・記 『死んでゆく、孫よ』より
わたし(=清家)は癇癪を起こしそうなほど心配し、せめて「親に相談なさい」と孫をうるさがらせていたけれど、後に母親櫻子の述懐を漏れ聞くかぎり、一
緒に家居(かきょ)していながら、「大学生になって以降のふじ乃の日常について、何も知らなかった、分からなかった」と言っている。そういうものかなあ
と、憮然とした。知ろうともしてなかった。ふじ乃半年の「mixi」日記は、明瞭にそう告げていると読めた。
「白血病」入院という不幸な事態となって、まさに非常時、一つの大事な「命の危機」にさしかかって、飽海家は吾々祖父母に対し、病院への見舞いを、「一
度(だけ)は黙認する」という「はからい」であった、それも、ふじ乃が祖父母に「つよく逢いたいと求めた」からで。
病院を訪れたときも、母親(=櫻子)は真っ先に、「十五分だけにして」と言い置いて病室を出て行き、祖父母と孫二人と四人だけにした。
「三十分」ほどして母親は戻ってきて、われわれは退去した。父親(=飽海専太郎)は顔を見せなかった。
「おまえがいま倒れてはどうにもならないよ。だいじにしなさい。ふじ乃を頼むよ」とわたしは娘・櫻子に廊下で言い、ふじ乃が「九月の誕生日」「来春成人の
日」のための晴れ着一式や、付き添う日々の櫻子用にと相当の金包みも手渡してきたが、櫻子はほとんどわたしたちに口を利かなかった。わたしが、この「私語
=日記」に、あの日娘との久しい再会に関し、ほぼ一語も書かなかったのは、実は「書きよう」がなかった、「書く気持ち」になれなかったからである。
上の当時記録にも依拠しつつ、以下、更に具体的に、順次申し上げます。
1 病状等を一切秘密にし、都合のいい勝手だけを言い募る飽海夫妻。
先ず肝要な点を一つ、指摘します。
飽海家は、ふじ乃発病や、入院以後の診断と医療の全面で、よくご承知のように、清家(せいけ)の両親に対し「一切秘密」ないし徹底して「説明の親切を欠
いて」いました。
医療や経費での協力要請もなく、他から診察や治療での助言があったのも全て「黙殺」し、祖父母の見舞いには、金品は黙って受け取っても、早く帰って欲し
い、来ないで欲しいとあまりに露骨でした。
そんな状況に親たちを置いたまま、死んで行く孫・ふじ乃の心情や言葉や最期のようすをどう口先・筆先ひとつで美しく語られても、あまりに手前勝手で、そ
れで「説得」される、「なるほどと思える」どんな「取り付き把」も私たちには無いではありませんか。
しかも病院は、「なにもかもお母さんがご承知ですから」と、説明してくれません。祖父母は、ただもう不安な懸念と想像とで、ふじ乃の友人たちがくれる
「mixi」情報等にすがるしか「手」も「足」も出しようが無かった、一切無かった、のです。
こういう酷薄な目に親を遭わせておいて、ふじ乃は「平静に死を受け容れていた」などという実のない単なる「言葉だけ」に、どんな説得力がありましょう。
もし「そうなら、どんなに良かったか」と簡単に胸をなで下ろすことすら仕兼ねるのです。
ふじ乃が「白血病」さらに「肉腫」と過酷な病名を「母の口」から聴かされ、どれほど恐怖し泣いてとめどなかったかは、ふじ乃自らメールや電話で愬えてお
り、櫻子自身が弟にメールで告げていました、可哀想に、いかにもさもあろうと思います。それが「事実」というものでしょう。
最初にまず「白血病」と分かったときのふじ乃の「動顛」を、櫻子は弟宛てに仔細にメールで告げています。
また「肉腫」と告知された日にふじ乃を見舞った友達の、目も当てられなかった、病室にとてもいたたまれなかった「証言」があります。二年前のその日付を
忘れかねてのメールです。下記転写します。
☆ 06.06.23 14:25 清家松夫から母・清家美枝子へ
転送 姉櫻子の弟松夫宛てメール 部分
最初、ふじ乃の「カミングアウト」はある種のヒステリー症状でした。ともかく片端からいろんな人に電話やメールで病名を告げ、絶句したり、泣き出したりす
る友達を逆に慰めたり、ジョークにしてしまったりするハイテンションな対応を続けたあげく、一段落すると、もう死ぬと泣き騒ぐというような感じでした。
☆ 08.07.08 12:37 氏名伏せる 肉腫と告知されたふじ乃
(太字は、清野)
Sent: Tuesday, July 08, 2008 12:37 AM
Subject: こんばんは、**です。
こんばんは!
今日は七夕様でした。
毎日毎日蒸し暑い日が続きます。
不愉快ですね。
おじい様おばあ様、ちゃんと睡眠とお食事取っていらっしゃいますか?
何だかとても心配です。。。
2年前の七夕の日は、ふじ乃に会いに行きました。
ふじ乃はその日、気分が落ち込んでいて、全く会話が出来ませんでした。
一方的に私が話すだけで、ふじ乃の心は私にはありませんでした。
肉腫と分かって、自分の事で精一杯だったと思います。
ふじ乃は疲れ切った様子で、目も合わせてくれませんでした。
その日、沢山の友達がふじ乃を見舞っていました。
ふじ乃は会いに来て、と言ってくれたけれど、私は病院に行った事を後悔しました。
弱りきっていたふじ乃にとって、大勢の友達は毒だった気がしました。
ふじ乃に気の毒な事をしたと、悔やんでいます。
私が行った中で、この日が一番ふじ乃の心が辛そうな日でした。
最近、ふじ乃が元気だった頃の会話を思い出します。
あの頃は不思議な言葉が多いなと感じました。
今思うと、ふじ乃は何とさむい環境の中で生きていたのだろうと驚きます。
ふじ乃が沢山愛を持っていたことが、逆に切なく感じます。
今日、おじい様おばあ様の気持ちは、天の川を超えてふじ乃に届きましたか?
おじい様おばあ様、お身体本当にいたわって下さいませ。
こんな私でも心配しています。
もし母櫻子の言うがまま娘ふじ乃が「安らか」であり得たなら、祖父母は、愛した孫のために心からそれを喜んだでしょう、しかし櫻子の、「裏打ちも優しい
配慮も全く欠けた」いわば口から出任せの「作文」の如きを、どう信じるすべがあるかと、私は怒ります。
ついでに申します、入院後の診療記録等の提出もされず、セカンド・オピニヨン、サード・オピニヨンの記録も提出されず、ただ単に「他院から入院を断られ
た事実」を法廷に報告するのみであったなど、逐一詳細に、代理人を通して私は反証しておいたとおりです。
「輸血停止」の件も同様です。
2 ついに提出されない「罹病前期」適切な医療の物証
「罹病前期」に戻って更に検証しましょう、この法廷に対しても飽海家の親は、ふじ乃入院以前から「十分医療に配慮した」と主張しています。ところが、法
廷に提出された物証は、親の関与や配慮はおろか、はなはだ不充分で何の説得力もない殆ど紙切れ同然のモノしか提示できていないのです。
カルテも領収書も診断カードの日付等も健康保険証の記載も全然出ていません。ふじ乃が自前で、行き当たりばったり通院したり検査を受けていた孤独な記事
は、「mixi」日記の随処に明瞭です。費用の心配まで自分でしています。
ところがふじ乃のそれと皮肉な「合わせ鏡」の櫻子ブログ日記は、地元の「コラボ立ち上げ」にただ夢中で、それも思惑外れに遅々と進まず、かえって仲間が
離れていく有様でした。親がふじ乃から「眼をはなし切っていた事実」を、櫻子のブログ日記は掌を指さすように自ら暴露しています。
切ないことですが、それは、ふじ乃が時折祖父母にもらした、「家庭での孤独感」と痛ましく符節を合わせていました。
何度ふじ乃は、日記に「孤独」「さびしい」と書き、親に向かい「NO」と言いたいと切望していましたことか。親友たちの「mixi」コメントも、日ごろ
陽気なふじ乃が、ときに友達の前で「号泣」するほど辛い家庭生活を想わせたことを書き込んでいました。
可哀想に私たち祖父母は笑って否認しましたが、ふじ乃の最期の切望は、ただただ「親の家から離れたい、一人で暮らしたい、けれどお金が…」という無力感
でした。だからあのような、友人たちも驚き惘れて窘める、自暴自棄に近いアルバイトをし続け、病状増進に拍車を掛けていた。同居の親たちは、当然デスペ
レートな娘の様子や顔色に気づくべきでした。気づいて適切な手を施すべきでした。
ふじ乃と「マイミク」の私は、「mixi」日記をずうっと読み続けていました。ふじ乃のたとえ不興を買ってでもムリを窘(たしな)め、一刻も早く親に体
調をうちあけ、適切な医療を受けなさいと、ほとんど泣訴していました、空しくも。
私達祖父母が直に親に、言う。
後日から思えばそれがナミの家族の自然で当然なのですが、あの時期には叶いませんでした。険悪な没交渉というより何より、それではふじ乃たちが親に秘し
て祖父母と逢っていることを機械的に洩らすことになるのでした。あの頃にはまさか、「白血病」の「肉腫」のとは夢にも想像できていなかったのですから。
では、平成十八年の今謂う「罹病前期」に、少なくも母・櫻子は何に関心を向けていましたか。
「おおまるコラボ」「土曜のふれあい」だけでは無かったのです。
3 そのとき櫻子は「小説」も書いていました。
この問題のブログを始めて間なしに、姉・櫻子の、弟・松夫に宛てたメールは、一つには「某社の速記リライター」ふうの準社員であること、また、今、自分
は「小説を書いている」とも明かしています。
前者はともかく、後者は父である私とも、新進作家でもあった弟の仕事とも、関わりを有していました。私にすれば「嬉しい又聞き」でした。
それについては、後に、もう少しややこしい事情とともに「謎」解明に立ち会わねばなりませんが。
その前に。
4 飽海夫妻は、すでに離婚の危機に瀕していたのです。
祖父母を訪れていた年若い孫姉妹が、目を見合うようにして「たぶん今年の秋頃には、大きな変化が起きるはず」と頷き合っていた点に「焦点」を合わせたい
のです。
どんな背景があったのか。
飽海専太郎と櫻子とに「離婚」の時機が切迫していたのではないか。
それが「事実」であったのです。年若いふじ乃・かや乃姉妹は、毎夜のように家内の不穏に怯え、姉・ふじ乃は泣く妹・かや乃を「宝物のように」抱き抱えて
過ごしていたのでした。
ちょうど一年ほど前、私の妻美枝子に宛てた一通の、下記のメールを御覧下さい。
5 事情を明瞭に証言した一通のメール
To: Mieko Seike
Sent: Saturday, February 23, 2008
2:05 AM
Subject: 清家次郎様 美枝子様 **** (太字は、清家)
こんばんは!
日々、以前とは余り変わりありません。(中略)
おじい様のブログで、綺麗な朱色のご近所の写真拝見しました。
ふじ乃ママやかや乃ちゃんへの目印と書いてあるのを拝見して、嬉しかったです。必ず、「ただいま」と帰ってくれる日を信じています。
今まで迷っていたのですが、ふじ乃から聞いていた事をお伝えしてよいかどうか。。。 もちろん、ふじ乃ママは私がふじ乃から聞いていることをご存じない
でしょうし。
今現在(=昨平成二十年二月末)の状況は分かりませんが、少なくともふじ乃が「病気になる前(=平成十八年、いま謂う「罹病前期」の前半)」までは、ふ
じ乃ママとパパの関係は崩壊していました。
ふじ乃はたまに呟く様に、家族四人で撮ったプリクラを見せて、「家族四人で撮るのは、これが最後だと思う」と言っていました。
ふじ乃が病気になって、今は違うかもしれませんが、ふじ乃ママは一人でした。
おじい様おばあ様がふじ乃の病室にお見舞いにいらしたと知った時、これでふじ乃ママに帰る所が出来た、と、私は勝手に嬉しく思いました。
嬉しいという表現は変かもしれませんが。。。
以前、ふじ乃の守るべき宝物は妹・かや乃ちゃんだと書いたことがあると思います。
病気になる前まで、ご両親の離別は決定的で、夜になるとかや乃ちゃ
んがよく泣いていたと聞きました。
ふじ乃は必死にかや乃ちゃんを守ろうと、慰めていました。
私の考えですが、ふじ乃ママはその事を含め、自分自身をとても責めていらっしゃると思います。
私から見て、ふじ乃ママもふじ乃も、とても不器用で、本当は心の底から愛し合っているのに、お互い伝え合うのが下手なようでした。
ふじ乃は他の人にはとても優しくて、人の心にすっと入っていく人でした。
でも、ママにだけは出来なかったのです。
本当は大好きだったのに。ママの事が好きだと、何回も言っていたのに。
ママにだけは伝えられなかったのです。
ふじ乃ママは今、自分と戦っているのだと思います。
そして自分の存在の根源である、おじい様おばあ様と戦っているのだと思います。
多分修復出来るであったろう、ふじ乃とのこの先の時間。。。
いきなり(病魔に 清家注)奪われたその時間。。。
ふじ乃ママは、おじい様おばあ様の事を心の底で愛しているのだと思います。
そしてその愛が、お二人の存在が、大きいからこそ戦っているのだと思います。
ふじ乃ママは、自分がずたずたに傷つくのを承知の上で、あえてずたずたになろうと
して、おじい様おばあ様を選んでいるような気がします。
私の考えだけで、生意気な事を書いてしまって申し訳ありません。
この事は、いつかお伝えしなければいけない日が来ると思っていました。
おじい様おばあ様にお目に掛かって、私はお二人が大好きになりました。
ふじ乃は、もっともっと何千倍も何万倍もおじい様おばあ様を大好きだったのですもの。
いつか、ふじ乃ママは帰ってくれると信じています。
そしてそれを、おじい様おばあ様が待っていて下さるのが嬉しいです。
それが、ふじ乃の一番の望みだと私は思っていますから。。。
今日はいろいろ書き過ぎてしまったかもしれません。
お二人のお顔を拝見してから、何かほっとして素直に気持ちを伝える事できました。
花粉が飛び始める季節になりました。アレルギーは大丈夫でしょうか。。。
お身体どうぞご自愛下さいませ。またお目にかかれる日を楽しみにしております。
ふじ乃の、とびきり一の親友だったこの若いお嬢さんのメールは、私どもの知り得なかった、しかし想像し得ていた「真相」に、まっすぐ触れています。
櫻子は、ヒステリーの時以外は口でむちゃくちゃはよう言えない、気の小さい娘でした。夫・飽海専太郎は、むろんわが家とのことで、二十年余も妻を責め続
けてきたでしょう、少しもフシギでない。
櫻子の親に受けた「虐待」とは、反語的に、むしろ「夫から受けていた虐待」を暗示的に謂うのだとすら私たちは感じてきたのです。
裁判長殿。ここにお目を止めて下さい、これは、いいかげんな推量や想像ではないのです。
6 夫婦の亀裂を明かした櫻子作の小説
櫻子は、また「別のブログ」で、弟に洩らしていたとおり、ひっそり「小説」を書き継いでいました。
都合「四」作品を私は今日までに読んでいます。初めの三作はユニークな、シュールリアルでもある面白い創作でした。
時日を隔ててまた読んだ四つ目の一作『めめんともり』は、未完成で不十分な試作品でした。ところが不十分なりにこの作は、作中の「夫婦の亀裂」を無残に
明かしている点で、甚だ印象的で傷ましい「一種の私小説」のようでした、私たち両親は胸をつかれて悲しみました。
この四作目を、私は去年の夏、偶然インターネットの中で発見したのです。その経緯は今省きます。
しかし、発見(平成二十年夏)と創作時期(平成十八年二月から五月。いわゆるふじ
乃の罹病前期とピタリ重なる。)とに生じていた「二年余もの時間差」
が、微妙な齟齬とともに、私と櫻子とのあわや二人での折衝・交渉の好機を、とても「こじれた形で爆発させた」のかも知れない、それが残念でなりません。そ
れについてはすぐ後で申します。
作品を介した、得も言われぬややこしい紛糾に就き申し上げる前に、「著作権絡み」に娘の「訴え」に執拗に出てくる、「櫻子作の文章・創作等に対する父・
清家次郎の著作権侵害」(櫻子は「著作権泥棒」とも表記しています。)について、此処で取り纏め申し上げておくのが、有効で必要な時機に思われます。
(十二) 櫻子の創作を、父はどう受け取ったか。
1 父は娘の書き物を大切に保存。
娘・櫻子は、父の下書き代筆が可能なほど、少女の頃からきれいな佳い文章が書けました。推敲の仕方を徹底して教えました。
娘はいつしか「瞑想する沼」と題した個人の小冊子を作ったりし、また父知人のジャーナリストに誘われ、「暮らしの科学」に寄稿したりしていました。
そういう娘の詩や散文を三、四、仮に「清家櫻子名義」で、私は、ホームページのなかで責任編輯しています「e-文藝館=濤(nami)」に保存し、掲載
しておいてやりました。父の身贔屓ながら、ごく自然当然の配慮でした。
それというのも、私の文藝サロンからは、現在、幕末の諭吉や黙阿弥より以降、平成の新進に至る文豪や著名作家たち多数を含む五百人、六百作余の作品が
「國内外に発信」されているのです。その当時でも、「新人」にとっては自作の恰好の発表・公開場所であり、質の高い読者に多く恵まれていました。現に櫻子
作に好評や感想を寄せてくれる読者・編集者氏は何人もいたのでした。
そして大事なことは、櫻子はかつて「遠過去」「近過去」を通じて十年、只一度として、父に向かい著作権がどうのなど「一言半句の苦情も告げてきたことは
無かった」のです。
久しい空白の没交渉期を経て、やはり平成十八年(二○○六)の初春でした、突然息子が知らせてきました、「櫻子がブログに小説を書いているよ、ぜひ見て
やって」と。
私は驚喜しました。読みました。他のなにを措いても読みました。
作者名は不明記なので、「盗まれぬように」と電子メディアのプロの助言も聴き、初めて読んだ櫻子作の長編、中編、短編三作をすぐ、やはり「清家櫻子名
義」で「e-文藝館・濤(nami)」に保存したのです。
私は当時、日本ライタークラブで自ら発起・創設しました「電子メディア委員会」の委員長をしていました。委員やゲストのプロたちから適切な助言の得られ
る立場でした。
2 父は喜んで読み、大事に自身の「e-文藝館」に娘の名で保管。
話題が逸れるのでは決してありません、どうぞ続けてお読みください。
平成十八年(二○○六)七月二十七日は、ふじ乃が亡くなった日であり、ふじ乃の母櫻子はもう四十六歳になっていました。
そしてこの同じ日付で私は、『逆らう父』という長編小説の上巻を出版しました。奥付の日付は同じですが、「あとがき」を書いたのが六月九日、つまりふじ
乃が「白血病」で入院と知るより二週間ほど以前でした。世は、まだ、ともかく平穏でした。
私はその「あとがき」末尾に、櫻子の小説三作を読んだ「歓喜」を、こう書いていました。これが、当時の私の本心で本望でありました。私はとても嬉しかっ
たのです。
06.06.09 小説 『逆らう父』跋より
清家次郎・記
じつを申せば、久しく顔を見ない、親に捨てられたと拗ねているらしい娘・櫻子(さくらこ)も、小説を書き始めていた、父にはひしと隠し、隠しながら。
弟・松夫から伝え聞いたわたしは、そんな娘の長編小説『ニライの旅人』も、短篇小説『魔と魔法のシャンソン』『星空の落とし穴』も、インターネットで探
し探し見つけて、ぜんぶ読んでみた。息子よりももともと文才に富んだ書き手の娘が、かつておやじの書いた幻想のフィクションと、なにやら臍の緒の繋がった
題材で、かなり奇妙なものを書いていて、わたしは驚喜した。
文句があれば言ってくるだろうと、勝手に「e-文藝館・濤(nami)」に「清家櫻子作」として入れておいた。気のある人は、どうか読んでやってくださ
い。櫻子も、悠々、書き続けてほしい。
本巻の此の作品『逆らう父』で「濤の本」88巻米壽記念にと決めたのも、そんな驚喜のあまりと読んでくださる知己・知友、きっと少なくないであろうと
思っている。叱らないで戴きたい。前作の書下し長編『父よ、空に繪を描いて』に続いて、また「父」ですかと笑われそうだ。笑われついでに、昔の、『罪され
たイーオン』上中下三巻にもまた目を向けてくださると嬉しい。 06.06.09
ところが、櫻子は、ふじ乃の死直後の「八月暴発」等を介して、父親を指さし、唐突に「著作権侵害」「著作権泥棒」だと「訴え」てきました。情けないこと
を平気で言うものだと惘(あき)れましたが、むろん即座にその三作も、ずっと以前から掲載の詩や散文も、私は私の「e-文藝館・濤(nami)」からすべ
て削除しました。削除の事情も、それぞれその場に書き残しました。
惜しいことを。せっかくいい読者も出来ているのにと父は悲しみましたが、以来二年、いまもそれについて、「高額の損害賠償や公開の謝罪」を櫻子は居丈高
に実父に求めています。こうも傲慢酷薄に、親の善意と驚喜のはからいに牙をむく子が、娘というものが、曾て有ったでしょうか。私はそんな恥ずかしい真似の
できる娘だとは、今もって信じたくないのですが。
父は文章上の少なくも多年のプロであり、娘は何一つ公の著作も持たぬ、強いて謂っても勉強半ばのアマチュアです。夫・飽海の尊崇するらしきジャン・
ジャック・ルソーも、当然こういうばかげた「権利」を親に向かって鉄面皮に主張する人ではなかったでしょう。娘の作物を読んで一途に驚喜した現に作家であ
る父親に、わが娘の人格や素質を傷つける「悪意」がどこかに有ったとでも言うのでしょうか。こんな精神で「自治体の主任児童委員」をひきうけ、地域の文教
活動をする。どちらかに身震いの出る「ウソ」がある。
父は娘の作を人目に触れさせてやりたかったが、それにより一銭の所得も得ていない。娘も、父の善意によりなにか財産権を喪ったという全く何も無い。どこ
に「賠償金の根拠」がありましょうか。
3 ふじ乃の肖像権と祖父の撮影著作権
話をあえて少し逸らしますが、死んだふじ乃の「肖像権」なるものが「両親に相続」されている以上、祖父母が可愛い孫の写真をウエブの中で懐かしむのも
「損害賠償」に相当するという飽海夫妻の考え方、これも私たちには理解しにくい。
死んだふじ乃の今や存生でない容貌・肖像は、そもそも「権利」として法的に「相続」されるものなのでしょうか。それなら、心籠めて撮影したカメラマンで
ある私の「著作権」はどうなるのでしょう。ま、これは法の素人の私には確信の持てない余談ですが。
ともあれ此処に取り上げた娘・櫻子の小説三作は、ま、上のような経過をずうっと辿って、今日なお娘からの損害賠償請求に直結しているのですが、娘からの
苦情(クレーム)を受け取った即日即座に「e-文藝館=濤(nami)」から「撤去」されているのです。またそれ以前には、苦情一つ聴いていないのです。
しかし、「法」のことはみな代理人にお任せしています。
そしてまた、今謂う「三作の内容」も、まず、今回裁判に関わる何ほどの問題もふくんではいなかった。
(十三) 櫻子作『めめんともり』の示している「妻の不幸」
ところが、娘・櫻子は、その三作からすぐ、踵をついで、もう一つ、「小説らしいもの」を書いていました。試作途上とも謂える不十分なものですが、櫻子の
その執筆に、私も息子も長く「気が付きません」でした。
この作品に、たまたま「検索」等を通して私が突き当たったのは、昨・平成二十年(二○○八)八月の事で。しかし書かれ初めていたのは、一年半前、平成十
八年(二○○六)春でした。ふじ乃とかや乃で雛祭りをした、すぐあとの三月一日からでした。
『めめんともり』と題された、衝撃を感じさせる此の創作は、時期的にも内容的にも、先ほどふじ乃の親友がストレートに証言していた、飽海の「夫婦不和、
離婚必至」の進行をも、ありあり読み取らせる「内容」でした。
読みまして、すぐ、私は、櫻子と直接話したい、と、切に思いました。それほど親の思いには「憂慮に値する内容」が含まれていたからです。
そして、久しぶり父娘の「メール往来が実現」し、しかしながら、経緯はまこと乱暴に「断絶」に至りました。
「法廷に、無視できない一事件を報告し、所存を申し述べます」と、
昨・平成二十年(2007)八月末日付けで私は「陳述書」を書きましたが、代理人は法
廷に出していないと申します。「大要」を此処に繰り返しますことを、ぜひお許し願います。自ずと「作」及び事の次第に触れて行けるからです。櫻子の「謎」
が、「主張」が、かつてなく露骨に前面に突出してくるからです。
(十四) 作品『めめんともり』が導いた、娘・櫻子の逆上と露出
下記はご覧の通りの日付で、私・清家次郎の日録「http://jirou-no-hon.tolitop.jp」に書き置いた「記事のまま」です。
此処に突きつけられてあるモノ、父・清家次郎名義で娘・櫻子に対し「公開せよ」と求められている、「父から娘宛て謝罪文」案なる一文を、どうか「証拠物
件」かのようにご明察いただきたい。実の娘から、実の父親に対し、これほど非人間的な文章の書かれた実例を、私どもは、一例としてかつて知らないのです。
事のここに至る経緯を、どうか順に、ご理解下さい。今回此の「飽海専太郎提訴・櫻子提訴」の拠って来た「反人間的」な動機や性質に、どうか思い至って戴
きたい。櫻子が自らの「謎=昏迷」を、親も恥ずかしいほど、暴露しているのですから。
1 平成二十年(2008)八月十二日 火 (清家次郎の日録より)
* 夜前、零時五十四分に発信されている一通のメールを、今朝、八時半近くに読んだ。メール発信者は、
h..akumiとある。「h..」の意味が分からず、少なくも私たちの娘のイニシアル・名でも、婿のイニシアル・名でもない。
(今日現在の注: 飽海櫻子は遅くも昨・平成二十年の遅くも五月時点から、飽海広江=ひろえの氏名で稲宜市第二地区担当主任児童委員に任じていましたこ
とを最近、稲宜在の読者に教えられました。)
* 以下に「前半」部分を先ずそのまま記録する。(「第二信」である
ことにご注意下さい。)
2 飽海櫻子が、父清家次郎に発信した「第二信」 (太字・清
家)
★ 発信者:
h..akumi 日時:2008/08/12 0:54
宛先:jseik 件名: Re:
D+F|;R$K!!Nd@E$K$b$&0lEY!!!!Ic
拒否されていることすら理解できないストーカーに対し、実際的な対応として着信拒否を設定した。今後いかなるメールも私には届かない。
私は最期の日々のふじ乃を忘れない。そしてふじ乃を貶めた清家次郎と美枝子を終生許さない。支援の申し出など笑止千万。私の望みは、清家次郎が私の人生
から消え去ることのみである。
着信拒否を解除する唯一の方法は、以下の私への「謝罪文」を、一語の修正もなく以下の2カ所に掲示することである。期限は2つのサイトが継続される限り
永遠。文字を小さくするなど姑息な手段を用いてはならない。
h..飽海への謝罪文
一、私清家次郎は、故飽海ふじ乃の逝去に関連し、故人の尊厳と遺志を踏みにじる膨大な記述を行ったことを認め、衷心から謝罪いたします。故飽海ふじ乃
は、その死の瞬間まで信仰心と家族、友人への愛に満ち、明確な意志をもって自らの人生に向き合ったものと認めます。特に治療計画における故飽海ふじ乃自身
の決断と行動について、「19歳でできるはずのない」「錯誤」と侮蔑したことは私の犯した最大の罪であると認め、故人の御霊に深く額づいて謝罪いたしま
す。
一、私清家次郎は、故飽海ふじ乃の著述について、その趣旨を歪曲し、誤った目的のために悪用したことを認めます。また、故飽海ふじ乃が心を込めたメッ
セージを根拠なく他者による「作文」と貶めたことを認めます。故飽海ふじ乃が親しき人々に遺した言葉に対する冒涜を私の犯した第二の罪と認め、亡き人の御
霊に深く額(ぬか)づいて謝罪します。
謝罪文の掲載場所
一、「清家次郎ホームページ」更新履歴。常に最上段に置くこと。
一、「『mixi』日記」プロフィールページ。常に最上段に置くこと。
これは法的判断で行う訴訟での要求とは全く異なる、私・h..飽海自身の要求であり、現世の法に守られない故人のための要求である。飽海家に対する名誉毀
損、プライバシー侵害、著作権侵害等、現世の犯罪については、あくまでも裁判において容赦なく追及する。
3 櫻子の 「追伸」からも要点を摘録
「櫻子」という名前など希望とあらばいつでも返却する。「櫻子」なる文字列は、今や社会生活上やむを得ず使用する記号に過ぎない。私はとうの昔に「櫻子」
であることをやめている。
私は金輪際、清家家の人間ではない。飽海専太郎とかや乃とが私の掛けがえのない家族であり、末期の床で私の手をしっかり握った飽海権太郎、多くの知友が私
の実の母と信じて疑わなかった飽海高子、そして誇り高く逝った飽海ふじ乃の待つ飽海の墓こそが、やがて私のついの棲み家となるのである。
たとえ地獄に堕ちようとも、私が清家次郎と同じ天を仰ぐことはない。 (h飽海・記)
4 人格の問題、そして大きな不審もまた。
この自称「h..飽海」のメール文面には、「人格」というものが全く感じ取れません。
また娘・ふじ乃をあれほど病苦に苦しませ、手の施しようなくうら若く「死なせて」申しわけなかったという、責任ある親のタダ一言が、これまでも、どこに
も出て来ません。「命の尊厳」というなら、何より「先ず、それ」ではなかったでしょうか。
子として人間としての最低限度の礼儀もなく、「礼なきは聴(ゆる)さず」とした古人の教えは蹴飛ばされています。育てられた両親の名誉も人権も平気で蹂
躙しています。「信仰心」を謂う敬虔の姿勢はおろか、説得力有るいかなる理由の、かけらも呈示され証明されてはいないのです。
飽海家が基督教に有縁(うえん)とは仄聞(そくぶん)していましたが、専太郎も櫻子も子供達も受洗者ではなく、現に墓地も稲宜市内の仏教寺院に在りま
す。彼らが熱心なクリスチャンであったことも仏教徒で有った事実もなく、まして、あまねく「生命の尊厳を尊重」する「信仰の人」が、産みの親や妻の親に対
し、こんな恥無き、ハートも無き、硬直した文章や言葉は用いないでしょう。東京都稲宜市の「主任児童委員」に任じている私たちの娘であってはあんまり恥ず
かしく、で、ともすると全く「別人の筆」かと想われるのです、例えば夫・飽海専太郎の文ではないのか、と。「遠過去」に同様の前例があるからです。
あたかも櫻子は「飽海家」への忠誠を、上のような文章で「誓わせら
れている」のではないか、一歩譲っても櫻子自身が現在の身の上を守りたいばかりに、敢
えてこう無恥無謀に「書き撲っている」のではないか。そう思えてしまうのです。
妻も息子も、この私の推測を受け容れていません、みな当の「櫻子自身」の発語だと言います。そして惘(あき)れています。
「私は金輪際、清家家の人間ではない。飽海専太郎とかや乃とが私の掛けがえのない家族であり、末期の床で私の手をしっかり握った飽海権太郎、多くの知友
が私の実の母と信じて疑わなかった飽海高子、そして誇り高く逝った飽海ふじ乃の待つ飽海家の墓こそが、やがて私のついの棲み家となるのである。たとえ地獄
に堕ちようとも、私が清家次郎と同じ天を仰ぐことはない」とは、間に完全な没交渉期を挟んで、つい十五年前には、婦人雑誌の編集者やカメラマンたちととも
に欣然と父と同伴の愉快な旅を楽しんでいた櫻子本人の本当に吐いている言葉でしょうか、あの後は何の接触すら無くどんな紛糾も両家の間に一度も起きていな
かった。
この「聴くに堪えない・読むにも耐えない醜い言葉」は、かりにも「文学」に思いを寄せていた娘・櫻子の仕業であり得るのでしょうか。私は、こう言われて
いることより、こう書いている娘そのものが恥ずかしいし、櫻子をそこまで貶めたくないのです。
論点の交叉上最も注目すべきは、「これは法的判断で行う訴訟での要求とは全く異なる、私・h..飽海自身の要求であり、現世の法に守られない故人のため
の要求である。飽海家に対する名誉毀損、プライバシー侵害、著作権侵害等、現世の犯罪については、あくまでも裁判において容赦なく追及する」と語っている
点です。飽海櫻子ないし専太郎は、亡き子・ふじ乃に関わって斯く云う訴えが、「法廷」での論争に馴染まない、主張として成り立たないことを自覚し認識して
います。そう云いながら、平成六年の「調停」七年の「仮処分」八年の「本訴」において持ち出した飽海側「訴因」「主張」の、次から次へ謂わばみな徹底反駁
されて、根拠の無い、ないし立場の甚だしく崩れて曖昧模糊となり変わり、たんに感情的に「ふじ乃の尊厳」などという、本来飽海両親が最も軽んじて目に入れ
てもいなかった事を持ち出し、「名誉毀損、プライバシー侵害、著作権侵害」を言い立てているに過ぎぬことは明らかなのです。櫻子の口から親を「殺してや
る」といった過激な言葉が奔騰したのも、「やすかれ ふじ乃 生きよ けふも」というウエブでの祖父母らの祈り・歎きに対する意味をなさぬ怒りであったと
は、夫・専太郎がメールや電話口で確言・確認していたのです。
祖父母達がふじ乃を貶めた、両親はふじ乃の名誉を守りぬいた、と只それが云いたいばかりに裁判沙汰は斯くも長引いてきたのです。しかも、現実には飽海両
親の主張は、全く何一つをも言い得ていない、立証できていないこと
は、縷々述べてきて明らかです。
(十五) 櫻子作『めめんともり』が示すもの。
以下に、今回この「謝罪文案」一件の発端となった、娘・櫻子の「小説」習作の一部を読んで戴きます。上来わたしの弁をはっきり肯(うけが)う、強い「心
証」をもたれることでしょう。
そしてそこに、櫻子の「問題」「謎=昏迷」が隠れています。そう思います。
(この辺の記述は、本件と関連性無しとして法廷に顧みられない可能性も危惧されます。夫婦仲がどうであろうが、著作権侵害・名誉毀損等の成否
には影響がないため、この十五章は「単にフィクションの読み方を語ったに過ぎない」とお考えになる可能性もありそうです。
もし然らば、被告の私には極めて残念であり、その点を前もって付記させて頂きます。)
飽海、ことに櫻子の法廷での主張は、最初の「民事調停」から、「仮処分申請」から、「本訴」に至るまで、めまぐるしく「主眼・主訴が変転」しています。
「死なせたというのは、殺したというに等しい。名誉毀損」から始まり、「mixi」日記での「虐待を受けたという捏造・逆名誉毀損」へ転じ、また「自作を
父が触ったという著作権侵害」へ移って、さらに「ホームページ上での実名忌避」へ。(「実名」問題はマーキング等で現に解消しています。)
そして行き着くところ、「医療は万全だった、ふじ乃はやすらかに死を受け容れて死んでいった」という、立証のない独善的な断定に基づいて「祖父母はふじ
乃の生命の尊厳を傷つけている・だから名誉毀損」というところへ、感情一途に暴走して来ています。
『めめんともり』事件を契機に突出してきた、櫻子が父に書かせたい「謝罪文」等の、「見当違いでピンボケの主張」に抱きつくしか、もう、何も「訴因らし
い訴因」が残っていない。
『めめんともり』事件は、はからずも、櫻子の内面の心事を、「謎」どころか、いかにもしらじらしく天日のもとに晒し出したに過ぎないと分かります。この
訴訟全体の帰趨を示唆した『めめんともり』事件全体が、この裁判の大事な「関連事件」を成している。そう、私は考えております。
飽海夫婦の「不仲」「離婚」問題とも絡みますが、そもそも民事調停の最初に菰布(こもの)事務所長が舌を巻かれたように、この訴訟の全過程で、(サーバ
事件も含めて)櫻子の関わりようの異様な「激越」ぶりは、はたして「何に起因するのか」という大きな問題がある。この問題を「考えねば」と私は思うので
す。
櫻子と清家の家とに、もともと争いは無く、夫・飽海専太郎と清家との中にはさまり、「櫻子こそ第一の困惑者であった」と、そういうところから今回の「陳
述」を初めました。はたして現在、強弁するような「夫婦一枚岩」の裁判劇であるのだろうかと、縷々(るる)、推量を進めて、櫻子の、「ただ激しいけれども
矛盾して裏付けを悉く欠いた主張」の意味・理由は何かを求め、原告二人の「違和の共同」に疑いを挟む「陳述」を、長く長く続けてきたのです。
この裁判劇には「歴史」のように「流れ」があるというのは、それなのです。
裁判とは無関係どころか、『めめんともり』を介して櫻子は、ふじ乃の親友が(ふじ乃からの伝聞とはいえ)言を切(せっ)して証言していた飽海家内での
「苦境」を、秘密のブログで告知・発信しつづけつつ、余儀なく夫と飽海家への忠節を
強いられている現状に藻掻いてはいないのだろうか、と。
清家の両親は、それを歎いて観測しているのです。
もう半年、「秋」にもなれば「父と母とは離婚するだろう」とふじ乃・かや乃の娘二人が強く暗示していた事実は、決してこの裁判全体の動向に無関係でない
と信じています。私が、繰り返し「過去を幾層」にも眺めながら、津波のように流れてきた飽海夫妻間の葛藤こそが、この裁判を奥底で膠着させ、しかも展開さ
せているという「読み」は、たぶん間違っていないし、本件と無縁とは思われないのです。
1 『めめんともり』に関わる父から娘へ最初のメール。
「Re:」 とあったように、問題の「謝罪文案」を含む上のメール文書は、私「jseik=清家次郎」へ櫻子からの「返信」でした。
では、なぜ先に私が、娘に、久々二年ぶりにメールを送ったか。その真意と心情を、送ったそのメールで、先ず以下に示します。
☆ -----清家次郎発の Original Message
-----
to:Sent: Monday,August11,2008 1:41AM
きみの小説『めめんともり』を読みました、櫻子。
「櫻子」と呼びかけるのを、いまは、みのがしてもらいたい。そして声の出るのをおさえて、黙って先へ読み進めてもらえないか。
性急に激昂しないで、黙して、とにかく先へ読み進めて欲しい。
このメールが無事届くようであれば、これは、櫻子と父とだけの交信になる。だれも干渉しない。あとで、櫻子にどんな判断をされても仕方がないと覚悟の上
で、櫻子に呼びかけ、以下、少し櫻子に向かい、話したい。
今までになかった一つの「別」状況が出来ている、と、わたしは「数日前」に思い到った。その「別」状況に直面するのが、こうも「遅れて」しまったのを、
わたしは、心より悔いている。
わたしたち両親は、櫻子の小説『めめんともり』を初めて読みました。そして日記に「私語」した「記事」を、おおよそ此処へ置いてみるので、櫻子、部分的
に気に障る文言も含まれているだろうけれど、格別の思いで、とにかくも静かに読んでみてくれないか。
そのうえで、わたしは櫻子に「提案」したいことがある。
2 上のメールに添えた、父・平成二十年八月八日(金)の「日記」
* 娘が、つまり姉娘がブログで小説を書いていると、弟息子・松夫から「ぜひ読んでやってよ」と言ってきたとき、文字通り「驚喜」した。だが、その不幸
な顛末は、もう広く人にも知られてしまっている。
しかし、「顛末」というほど、事は「済んで」いないとわたしは考えてきた。
娘は、つまり姉は弟に対し、父・わたしに「櫻子が小説を書いているよ」と報せたのを怒り、父が櫻子の作を喜んで「e-文藝館・濤(nami)=
清家次郎編輯」に保存したことも怒り、「著作権侵害」まで言い立ててきた、「損害賠償」せよと。父は歎く、なんたることかと。
* わたしの記憶では、櫻子作品を最初に読んだ時点と、著作権侵害で訴えると櫻子から言ってきた間に、相当な「時間差」「歳差」がある。父親が甘い点を
つけ、作品保存・保護の意味からも「e-
文藝館」に掲載していた期間がずいぶん永く、七、八年あり、その間にじつは娘から「なに一つ」も苦情は来てなかった。すべては、ふじ乃の『死んでゆく、孫
よ』の直後から始まった。
* なぜ娘はあんなに時季後れで怒ってきたか。「怒った」のは、ほんとうに「娘」だったのだろうか。じつは夫・専太郎が赫怒したのではなかったか。
飽海は、娘が笑って漏らしていたように、外の世間では、聞かれもしないのに「嫁の父は作家清家次郎です」と口にする男であったという。事実は知らない。
しかし、「作家・小説家」というわたしに対抗心か敵愾心をあらわに持ち、妻を前に、しきりに「作家」の舅を「バカ」にしたがったということは、わざわざわ
たしに送りつけてきた彼が自作の『世わたり読本』を読めば、察しがつく。
さ 作家とのお付き合い 作家とはすなわち、自己体験の特異さ
を専売にする人種。いくつかのタイプがあるが、中でもタチの悪いのは、自分の苦労を絶
対だと信じ、自己を客観的に眺める習性を持たない奴。それと、やたら「夫婦はかくあるべきだ」とか「人生はこう生きるべきだ」とまくしたて、常識とかけ離
れたところで妄想にふける奴。もっとも、小説とは「ウソ」であるからして、小
説家にリアリティーのある認識なんぞ求めるほうが筋違いだという説もある。お
付き合いもほどほどに。 (飽海専太郎作: この調子で「い・ろ・は」等と追い、舅姑を得意げに嘲弄している。)
この言説に「苦笑した」と、わたしは自作の小説でとりあげている。他のくだらない項目より、これは或る意味「謂えた」一面も無くはない。
それにしても、彼・飽海が、すでに「作家」で、娘を妻にもらうに際して「光栄です」というウソくさいアイサツで頭をさげたその清家次郎に、じりじりする
対抗心・嫉妬心を持っていたのは分かる。彼が某地方大で「技官」に成ったか成らない時期に、舅の方が思いがけず東*大教授に招聘され、文部省辞令を受けて
いる。正直、代われるなら、ほんとうにあの時、「娘のため」にも代わってやりたかった。
ともあれわたしの前では「光栄」がっても、妻になった娘には、「作家」清家次郎なんかボロカスであったろうことは分かる。ありそうな、なにも特別異様な
ことではない。
しかしながら、自分の妻までが、夫に隠して「作家の真似事」をしていたと知ってみると、怒りは、まず専太郎から爆発したのではないか。「著作権侵害」と
か「提訴」とかいう「法」がらみは、飽海専太郎の昔からの得意技で、わたし自身、東*大時代に彼から手紙でそう「警告」されたことがあった。彼から送りつ
けた親を罵詈雑言の手紙類を、もし清家が清家次郎の書き物に利用したなら「訴える」という手紙が教授室へ届いていた。
そういうヘキの人物なのである。じつのところ自分の妻が「作家」清家次郎の「娘」である事実が、夫の飽海には時が経つにつれ、忌々しくて仕方なかったの
ではないか。
* 「清家氏は、私が義父に向かって罵詈雑言を書いたという手紙の内容も公表していますが、あれは手紙の一部。前後があるのですが、そこは公表していま
せん。裁判では全文が明らかにされるでしょうが、確かに私は手紙を書きました。おかげで清家家(け)と断絶でき、それから以後、私の妻である清家氏の娘は
平和で安穏な十数年間を送ることができたのです。私の妻が、実家と断絶したあとも、自分の父親を罵倒した私との結婚生活を長年つづけてきたのが、その証拠
です。」と、飽海専太郎教授は、昂然と週刊誌記者氏にこの言葉通り(と、記者氏が言う。)語っているが、彼のこの虚勢と虚偽は、明らかに別の確かな証言に
より否定されている。
「平和で安穏な十数年」どころか、以下のふじ乃大親友の「確言」は、はるかに真率に、飽海の自己満足が「ウソで虚勢」であることを告げている。
3 ふじ乃親友の証言メールを、再び (摘要)
ふじ乃が「病気になる前」までは、ふじ乃ママとパパの関係は崩壊し
ていました。
ふじ乃が病気になる前まで、ご両親の離別は決定的で、夜になるとか
や乃ちゃんがよく泣いていたと聞きました。ふじ乃は必死にかや乃ちゃんを守ろうと、慰
めていました。
私の考えですが、ふじ乃ママはその事を含め、自分自身をとても責めていらっしゃると思います。
ふじ乃ママは今自分と戦っているのだと思います。
そして自分の存在の根源である、おじい様おばあ様と戦っているのだと思います。
ふじ乃ママは、おじい様おばあ様の事を心の底で愛しているのだと思います。
そしてその愛が、お二人の存在が、大きいからこそ戦っているのだと思います。
ふじ乃ママは、自分がずたずたに傷つくのを承知の上で、あえてずたずたになろうとして、おじい様おばあ様を選んでいるような気がします。
(メールの全文は前出。)
私(清家次郎)の日記つづき
* 十数年前、「大過去」とわたしの呼んでいる「罵詈雑言事件」で、わたしは娘の手を放し、すでに孫二人いる飽海家へ委ねた。離婚はわたしが望まなかっ
た。その時の騒動ぶりはフィクション長編の下書きながら『マリアの家』が表現していた。だれの想像からも、夫の飽海は妻の櫻子に、最初のうちこそ知らず、
かなり八つ当たりに当たり散らしたとみても可笑しくない。飽海の親族間でも、「清家の娘」に親切や同情は寄りにくかったろう。櫻子は飽海の一族間で孤立し
ているだろうな、だが女の子二人は「母の娘」として「心支え」になっていてくれるだろうと想い、願っていた。幸いにもし父親が娘たちを愛していれば、妻へ
の当たりようも和らいでくれるだろうとそう願った。
* 小説を書いているのを父親に報せたと、娘が息子に向かい怒ったとき、怒りは、じつは「他の心配」へ向いていたのではないか。
自分が小説を書き出したなどと夫・専太郎が知ってしまったら、またまた辛いややこしいことになるのがイヤだったのではないか。父親には、黙ってそっと読
んで欲しかったのだろう。
ところが愚かな父親は感激し驚喜した。ホームページにも本にもそれと書いた。娘は、夫の手前すこぶる「当惑した」というのが、真実ではなかったろうか。
幸か不幸かしかし飽海は、舅のホームページ日記や本など読む男ではなかっただろう。だから、事実は何も知られないままかなりの月日を経過した。娘は緘黙
していた。そして自作『しのだ狐』をまた書き始めた、それが一昨年(二○○六)二月一日だった。
ところが四十年近いプロ作家、百冊もの著書を持った父から、「文章がゆるみ始めているよ、気をつけなさい」と注意され、むくれたか、直ぐその作品を捨て
た。弟に怒ってきたのは「その時」だった。「読まれた」のを怒ったのでなく、「たるみを注意され」て怒ったのだ。あげく娘・櫻子の小説創作に関しては、
娘・息子・父の三者が、互いにそっぽを向いた。飽海専太郎は何も気づいていなかったろう。
* その間にもふじ乃の病勢はどんどん悪化し、ところが不幸にもふじ乃の母親は、始めたばかりの自身の「おおまるコラボ」サイトに熱中し、娘から目が離
れていた、なんと入院そして「白血病」の告知日まで。
その為体(ていたらく)は、法廷に提出された「入院前受診記録」の貧寒が、
無残なほど雄弁にもの語っている。
あげく、ふじ乃は、不幸に『死んでゆく、孫よ』の道を辿って、死んだ。
* それにしても、自分の妻が、こともあろうに結婚以前の「清家櫻子」の名乗りで「小説」や「エッセイ」を書き舅のホームページに掲載されていた事実を
知った夫・飽海教授は、妻がパソコンの「対局将棋」という「趣味」に没頭するのを嫌った以上に、嫉妬心や、作家・清家次郎への敵愾心(てきがいしん)に火
をつけられ、激昂したのではなかろうかと推量する。むろん推量であるが。
見遁せない一事が、有る。娘は、夙(はや)くに弟・松夫に話していた、自分(櫻子)の書いたモノを「分かって」呉れるのは、「あの人=父」ぐらいねと。
こんな科白が夫に知れていたら、やはりタダは済むまい。
舅を罵倒した結果が、妻に「安寧」を与えたと、もし本気で専太郎が考えていたのなら、妻が父に褒められ喜ばれる小説を現に書いているなど、屈辱としか思
えなかっただろう。
* ふじ乃の親友の、先の証言は、清家の者には意味深かった。わたしたちは、十分推測はしていたものの「ああ、やっぱり」と、確信した。夫婦「十数年の
平和と安穏」が保証されていたなどという飽海専太郎の妄言(たわこと)は、粉微塵の虚言(うそ)であった。
だが、わたしたちは、なおもう一つ確かなその「先」が知りたかった、その「先」へ進みたかった。そして、
その「先」を、わたしは、「偶然」見付けたのである。
* 娘は、一昨年(二○○六)二月に書き始めてすぐ、筆が緩んでいると父に注意された『しのだ狐』という作を、忽ち投げ捨てた。あああとわたしは慨嘆
し、二度ともう娘のそのブログを覗きに行かなかった。
ところが娘は、「狐」断念の、ほぼ一ヶ月後、平成十八年(二○○六)三月一日から、「新作」を同じブログに連載し始めていた。残念…。わたしも、息子
も、妻も、まったく気づかなかった。
わたしが「偶然」発見したのは、今も今、たった「(二○○八・八・八の)数日前」のこと。
インターネット「検索」でふと思い出し、ある「将棋の術語=nifu」をうちこんでみた。無数に出てきてお話しにならなかったが、渋々サーフィンしてい
るうち、よほど奥の深間で、ふと、「記憶にある語彙」一つを見付けた。
おや、と開いてみると、まさしく、わが娘のらしきブログサイトであった。知らない「筆名」らしき名も出ていたが、かつて松夫に伝えられて読んだ「三作
品」がそっくり其処に残っていた。そればかりか、一昨年の三月一日から書き出されている「新作」が、その場に、ウソかのように見つかった。ホンマかな。我
が目を疑った。
* 娘のつける題は、いつも変わっている、『めめんともり』=汝は死すべき身なることを忘るる勿れ?
平成十八年(二○○六)三月一日から四月半ばまでほぼ毎日続き、そして六月一日に飛んで、ぷつんと終わっている。これで終わっているとも、中絶とも読め
る。娘はまた怒るか知れないが、このままでは支離滅裂にちかく、自然そう見えてしまう「シュールな幻想的な作柄」でもある。
ところが、中に、ギョッとする「リアルな」場面が、ねじ込むように作の中ほどに、と謂うより、そもそもそういうリアル場面から、まさしく小説は「書き始
め」てある。いきなり作の「動機」が見える。量は少ない。しかし、表現は凄まじい。
* 醜く荒れていやみな暴君夫から、「専業主婦のくせに」「稼いでみろ」と生活費を投げ与えられ罵声を浴び、しかも黙々と頭を下げている妻、そして幻想
世界へ涙を押し隠して出かけてゆくヒロイン「小枝(さえ)」の忍従のさまが、まざまざ書き出されている。
* わたしの妻美枝子による更なるサイトの探索では、同じ作品が、同文で、じつはもっと溯る平成十二年(二○○○)三月のカレンダーでも、前半十五回分
ほどが引き出せたという。しかし十八年 (二○○六)三月一日からは、一応「最初から最後まで全部」が引き出せる。
もし、本当に書き出したのが西暦二○○○年(平成十二年)で正しいなら、その記述や表現から看て、「夫婦不和の激しさ」は一昔も前の「その頃既に」作者
である櫻子を手荒く突き動かしていたと推察される。作の動機が「そこにあった」と読める。
* もとより幻想をはらんだ小説で、そういうリアルな推測は普通は邪道。だが、下地には、夫婦の家庭が崩壊状態にあり破婚必至の「死に体」であったとい
う、ふじ乃やかや乃姉妹を介した先の「親友証言」が、もののみごとに符合し裏付けられている。
* そして今しも、とてもとても気になるのは、娘は、父が、サイトの他の小説を読んだと「当時十分知っていた」こと、そして、『しのだ狐』は抹消した
が、また重ねて「読まれてしまうと覚悟」ないし「むしろ期待?」して、この、「小枝(さえ)」と名乗るヒロインの物語を連載していたのであるならば、それ
こそは、娘から、我々両親や弟への「自分の結婚生活は破滅している」という「メッセージ」ではなかったのか、ということ。
そうとすると、わたしたちは、まんまと二年ないし二年半も、その「メッセージ」を知らないで、聞かないで、何の「手」も打てずに過ごしてきたことにな
る。
* 一昨年の六月一日は、まだふじ乃の診療が、全く門口にも達しないで、六月十日には、なんと地元の「精神科」で「鬱病」と診断され「投薬」されている
というバカらしさ。
入院は六月十九日で、やっと青山女子医大病院が容易ならぬ病状と判断し、即日入院に到っている。
過酷な症状は遅くも「三月」にはふじ乃を苛(さいな)んでいたというのに。「mixi」のマイミクや友人達は声をからしてふじ乃の「shi=死」を、す
でに怖れていたというのに。
* 母親・櫻子は、娘・ふじ乃の青山女子医大病院内からの通知電話で「事態」を初めて知らされた。そして事のこう結着したのをむしろ「安堵した」と謂うほ
どのことを、「おおまるコラボ」の同年七月一日日記に、「初めて、ふじ乃の病気に触れ」書いていることは、繰り返し此処でも言い及んできた。
わたしたちの娘・櫻子は、二月から六月まで、孫・ふじ乃の病状に気づいたり憂慮したりする余裕なく、一方では「おおまるコラボ」に孤独な活動の推移を書
きまくっていて、もう一方では、夫婦不和の泣きの涙のふりこぼれる、不思議にシュールな小説『めめんともり』も書き継いでいた。せめて、その時期にわたし
がこの試作が読めていたならと、悔しいのである。
* この小説、ひょっとして二◯◯◯年三月一日に書き出されていたのか、やはり二◯◯六年三月一日に書き出されたのか定かでないが、適量の引用範囲内
で、「最初の出だし」だけを引いてみる。
4 小説『めめんともり』小枝 一と二
返事はないとわかっていたが、小枝(さえ)はちいさくノックし、一息おいて、書斎の戸を押した。夫はそしらぬフリでコンピューターに向かっている。モニ
ターには用をなさない初期画面が光っている。
出かけます。
もうコートを着た小枝をちらと見、夫は何も開いていないモニターの初期画面へ肩を硬くした。
どこに。
図書館です。
夫の冷えた視線がまたチラと来た。飾らない髪、紅も引かないいつもの妻と見定め、ふんとわらった。
ろくに教育も受けていないくせに、真似事か、学問の。
小枝(さえ)はこそとも揺れない。
帰りは。
申しわけありません、閉館までいたいと思います。
昼飯は。
用意してあります。
専業の嫁のくせに……。
行ってまいります。
夫の存在を突き返すように、小枝(さえ)はゆっくり頭を下げた。
春。日ざしに、溢れていた。淀んだ空気を肺腑から絞りだし、小枝は前を向く。ワンブロックも行くと、丈長なコートは、もう重い。仕方がない。あれがモニ
ターの何かを隠すように、わたしも、隠さなければならない。久しぶりの細いヒールが、突き上げるように背筋を伸ばす。もういつ頃から、こうして歩かずにい
たか。
柳の色霞む濠端を過ぎ、やがて駅が見え、人通りが増える。小枝は思わず半眼に息を吐き、湧いてくる昂揚を鎮めた。人に会いたくない。図書館とは逆の、州
境(ざかい)を越える列車に乗るところを、人に見られたくない。ホームの太い鉄骨に身をひそめ、小枝はローカル列車を待った。四つ目の駅で快速に乗り換え
るまで、小枝は緊張を解かなかった。
ーーー*ーー*ーーー
* 作品のさらに中程にあらわれる夫婦の場面は、もっと生々しい。醜く、烈しい。
「小説(フイクション)」と謂ってもしまえる。小説だ、確かに。しかし多年「小説家」で「文藝批評家」であるわたしには、小説であるというその「意味」
は、幾重にもいろいろに分かっている。小説を「利して」書くことも、小説に「隠れて」書くこともある。それもフィクションの意味である。
しかし娘は明らかに「此の場面」から書き出している。此処に「動機」が見える。「小枝(さえ)」という妻の、いわば夫から逃避行の表現は、あわれに美し
くすらある。
* わたしは迷っている。今書いているこのままホームページ「私語
(=日記)」を更新すれば娘は「読む」だろう。夫は自分で読まなくても、周囲から聞く
耳はもっているだろう。
娘を、ないし孫娘も含めて、より家庭的に窮地に追い込むことになるのか。
そんなことはお笑いぐさで、今は夫婦はコンビで、裁判劇の上演に団結し懸命であるだけなのか。
今日只今にも、もし娘がひそかに小説を書いていたら、むろん読みたいが、娘はそんなことは念頭になく、ただ「裁判に勝つ」のが日々の目的だと、飽海専太
郎を先立て、娘自身も本気で言うのか、それとも言わないのか。
分からない。
通信するなら「メール」しかあり得ない。それは確か。
* 娘の「若さ」や「才能」のための時間がムダに費消されてゆくのは、惜しい。
『死んでゆく、孫よ』をはさむ「二年半」の思わぬ「逸機」がわたしの判断を惑わせる。
5 櫻子へ 父・清家次郎メールの続き
さて、櫻子。
「提案」は、むずかしいことではない。
できれば、この不幸な「二十年間」を双方でさらり忘れた「顔」をして、一度、会ってみないか。静かに美味い飯を食わないか。松夫(=弟・小説家・劇作
家)が一緒でもいいし、ママと三人でも、わたしと二人でもいい。もう一人の孫が一緒でもいい。
櫻子。きみはまだ若い。やり直せる。恋も出来るし再婚も出来る。仕事も見付けられる。なによりかや乃の将来のためにきみの精神生活や経済生活を安定させ
たい。母娘の安息できる住まいも必要だ。
なんとかできないものか。
今のままだと櫻子は、どう苦しくなっても身動きがとれないのではないか。櫻子の気持ちしだいだが、その辺のことを親娘として話し合えるなら、話し合う
「時機」が来ていると痛感しています。
しかし、いらいらと急ぐことはない、独りでよく考え、返辞を下さい。
あの「十数年も昔」のきみの夫・飽海専太郎「暴発」後のことを、わたしは何度も思い出す。
わたしは、願わくは、きみが我々とどう荒けなく仲違いしようとも、夫婦仲が緊密で愛情深くあってくれるなら、それが一番いいと思っていた。だが、所詮ム
リな望みではあるまいかとも、永い間案じていた。それでも二人の子があり、二度の外遊生活があり、希望をもちたかった、仲良くあれと。
しかしふじ乃とかや乃とは、自発的に祖父母との親交を求めて来たよ。しかも親には一途に秘し通した。われわれも、櫻子たちの日常生活が、心配になってい
た。
ちょうどその頃だ、『めめんともり』は書かれていた。ひょっとすると、なお六年も以前に既に書き始められていたのかも知れぬと見えるが。
「小枝(さえ)」夫婦の描写には容赦ないものがあり、一方に、まったく同じ、櫻子たちの不和と険悪とが、ふじ乃・かや乃経由で「外の世間」へも漏れてい
たと分かってきた。
一昨年(二○○六年)三月四月の時点で、もしわたしたちに『めめんともり』が読めていたなら、或いは櫻子とわたしたちとの間に、何らか連絡・連携があり得
たかも知れず、そうすれば、日々にふじ乃の病苦募る「mixi」日記を読んでいたわたしは、わたしたちは、きみと連絡し協力して、ふじ乃の診療に、より適
切な手が打てていたかもしれなかった。
『めめんともり』がはたして私たちへ、きみからのメッセージであったかどうかは確言しないまでも、あの短気に投げ捨てられた、二月初めの『しのだ狐』ま
では、わたしにも櫻子の作はぜんぶ読めていたのだから、もう少しガマンよくあのブログに注目していたなら、三月一日からの『めめんともり』も当然読めてい
たのだった。悔いても、悔いきれない。
これ以上、今日、ながながしく書くのはよそう。もし、よければ、喧嘩腰でもなく激昂するでもない落ち着いた返辞をくれないか。せく気はないが、よく考え
てみて欲しい。
いまこそみんなが、聡明にもの思う機(とき)ではなかろうか。 08.08.10 父
6 父の「日記・私語」 つづき
* 付け加える何も無い。
* 返辞はないかも知れない。あれば、「むちゃくちゃ」を云ってくるかも知れない。しかし、ゆっくり考えて返辞をくれるかも知れない。そんなことを想って
いた。
* 返辞は、翌朝来た。
娘の名乗りはどこにもない。誰が書いているか判じが付かない。
発信元の名乗りは「h..akumi」とあり、怪文書なみ。この頭字(かしらじ)に心当たりがない。
7 櫻子の返辞メール 「第一信」
★ 創作と現実の区別のつかない方と、交信する気はありません。
私を愚弄し、かや乃を苦しめることに夫婦揃って人生を使い果たしたいなら、
勝手にしてください。
裁判長殿 むちゃくちゃに激昂した罵詈の言葉ではないと私は感じました。敬語まじりです。可能なら、対話を続けたいと、「冷静に、もう一度。父」という
「二度目のメール」を櫻子に送りました。
その際、案じたのは、このメールアドレスは、もはや、わが娘でない誰か、夫・飽海専太郎にでも使われているか。さもなくても、娘がすべて夫に打ち明け、
わたしの提案を読ませるかも、という危惧でした。
あり得るとも、まさかとも想いましたが、それで娘の態度や姿勢が見えて来るという気も有りました。
8 櫻子に。 父の「第二信」
h..akumi という署名の「h」の意味は分かりませんが、櫻子自身の返辞と思い、感謝しつつ短い反問を呈します。冷静に読んで下さい。
> 創作と現実の区別のつかない方と、交信する気はありません。
これは、小説読みのプロであるわたしには、根拠のない八つ当たりに思えますが。
< 幻想をはらんだ小説で、そういうリアルな推測は普通は邪道であるが、その下地には、夫婦の家庭が崩壊状態にあり、離婚必至の死に体であったという、
娘・ふじ乃やかや乃姉妹を介した先の親友証言と、もののみごとに符合し裏付けられている。
< 「小説だ」とも謂ってしまえる。確かに小説にちがいない。しかし多年「小説家」である私には、小説であるというその「意味」は、幾重にもいろいろに
分かっている。小説を利して書くことも、小説に隠れて書くこともある。フィクションの意味である。
娘は明らかに此処から書き出している。此処に動機がある。この「小枝(さえ)」という妻の、いわば夫からの逃避行の表現はあわれに美しくすらある。
と父は前便に書いています。「区別」の問題でなく、意識や動機が小説(フィクション)
にどう現れてくるかを、「とらえる」ということでしょう、鑑賞も批評も理解も解釈も。「とらえかた」が間違いというのなら「反証」されれば一応話は分かる
けれど。
> 私を愚弄し、
これまた、丁寧に自分のメールを読み返したけれど、意味が分からない。もし強いて謂えば「いまごろになって、遅すぎる」という咎めなら、悔いて悔しいと
書いているように当たっているが、「愚弄」という、辞書によれば「人をあなどりからかうこと」という気持ちは微塵も持たないし表現してもいない。父の「提
案」はしごく真面目です。
> かや乃を苦しめることに
これまたわたしたちがどうしてかや乃を苦しめるわけがあろう、法廷にも、かや乃を大人の争いのせめて埒外に置いて欲しいと繰返し懇請して来続けたし、ど
んなに案じてその平安を願っていることか。
かや乃は、かつてのふじ乃と同じく、着実に成人してゆくに違いなく、かならず自立した判断や思想の持ち主に成長してゆくので、或る意味では心配していな
いのです。
一つには、わが家へ訪れていた頃の笑顔いっぱい朗らかなかや乃を実際に観ています。ふじ乃とともに、小日向(こびなた)へ来ていることも、かや乃は、確
実にきみにすら秘して話さなかった。親たちに話すまいと姉妹は気持ち
を分かち合い、しかし、最後に訪れた一昨年二月二十五日には、「もう半年のうち、秋に
は、問題が無くなる」とも、頷き合うように話していた。不安におそれながらも「親たちの離婚があるかも知れない」と姉妹は感触していたのでしょうか。
わたしとふじ乃が「mixi」の「マイミク」であるのもその時からかや乃は知っています。少しキツク云えば、姉に慰められながら夜ごと泣くほどかや乃を
苦しめていたのは、両親の「夫婦生活崩壊」ではなかったのですか。かや乃が、対抗試合に台湾へ派遣されるほど「強い」将棋の楽しみを、むざむざ廃(や)め
てしまったのも。
わたしが、サイトに書いてきたことなどにしても、かや乃が、自立心のある大人になったときは、冷静に的確に判断するでしょう、賢い子です。
それにしても今の高校二年生という年齢(とし)は、とても大切。わたしたちが、誰よりもいま心配しているのは「かや乃の近未来」です。なんとか力になり
たい。手出しは何もしていませんけれど。
> 夫婦揃って人生を使い果たしたいなら、勝手にしてください。
わたしたち両親の人生が、どんな日々かは、わたしのHP日記の日々の「読者」であるらしいきみ、櫻子には、よく見えているはずです。
裁判劇などで人生を使い果たす無意味さをよくよく知りつつ、夫婦協力して、かなり楽しい満たされた老境を歩んでいます。友も知己も多く、その人たちが期
待しているのは、一つにはわたしたちの健康と、たゆみない作家生活、そしてきみ櫻子とかや乃との、颯爽と健康な「今後」の発展です。
わたしたちは、云わないよ、櫻子に向かって。「不味い道草を喰いながら、せっかくの人生を使い果たしたいなら、勝手にしてください」などという放言は、
決してしない。
残された多くの時間と努力とで、きみ、櫻子の(秘め持っているのかも知れない)才能に磨きをかけて欲しいと、父も母も願っているだけです。
櫻子。静かな心で、落ち着いて、せっかちなリクツへ逃げ込まないで、もう一度、読み直してみてくれないか。この際、わたしないし両親に対し、落ち着いて
尋ねたい不審があるなら、何を聞いてくれていいです。 父
9 櫻子小説『めめんともり』より、さらに一部引用
見付けた娘の小説『めめんともり』の中程で、主人公に当たる「小枝(さえ)」は、こういう場面に遭遇していました。言うまでもなく、こういう「リアル空
気」の場面は、夢から覚めた瞬間かのように、いわばこの方がシュールな物語の「外」側にあるのだと読めます。小枝は「外」に堪えかね、幻想的で「内」側な
る「異世界」へ、誰とも知れぬ「先生」を尋ねてゆくのであるらしい、いや作品世界は、いま一段微妙に屈折し停頓しています。
ーーーーーー**ーーーーーー
小枝(さえ)が初心の趣味(=清家注・ 小枝独特の、幻想をはらんだ将棋ふうパソコン対局)を、夫は嫌った。
はなから、そんなことわかっていた。娘が幼稚園に入り、小枝が母親たちのダンス・サークルに加わろうとしたときも、小学校に上がって、保護者でエコの勉
強会に出ようとしたときも、夫は顔を顰めた。お茶の会を兼ねた地域の話し合いに出かけようとしても、身支度ひとつに気づくと割り込んであれこれ用を言いつ
け、何度も出かけ損ねた。言いつけを断ろうなら、「嫁のくせに」「だれの金で喰ってる気だ」と、決まりぜりふが陰気に降り注いだ。あげく次の週の生活費が
もらえなかった。書斎の外で頭を下げ、「おまえのような育ちの嫁が、分不相応を望むな」とあざ笑われながら、小枝はお情けの金額を受け取らねばならぬ。金
額は夫の気分次第でいくらでも減らされたが、頭を下げ、黙って受け取るしかない。
こんな人でなかった昔は、と、小枝は思う。
夫は博士課程の助手で、小枝は学部の事務員だった。父なく、母も診療所の事務員だった。秀才と噂の夫と所帯を持ち、小枝たちはひやかされながら、連れ
だって大学に通った。そのうち、夫は仕事を辞めてほしいと言い出した。院生が事務員に養われているようで面子(かお)が立たない。その言葉を、小枝はほほ
えんで聴き入れた。近くの商店に経理の口を見つけ、母校でもあった大学を小枝(さえ)は去った。
いつか助教授になった夫は、経理の仕事も辞めたらどうだと言った。かりにも州立大学の助教授が、身重の妻に「そんなところで」働いてもらわなくていい
と。悪阻に苦しんでいた小枝(さえ)は、むしろ感謝し、勤めをやめた。
事の始めは、ささやかにプライドの服を着た、気の小さい愛情だったと、小枝は今でも思っている。思わなければたまらない。少なくとも母校から受ける夫の
給料は「夫婦の」口座に振り込まれていたし、口座の出し入れは小枝が自由にしていた。
だが、ある時、あれは娘がやっと歩くようになったころ、生活費の口座はからになっていた。夫はもう大学に勤めていなかった。なにがしという組織の研究員
として「引き抜かれた」のだと。どんな団体のどんな研究か、小枝は知らない。おまえには関係ないと言われた。
子どもも小さいのに。暮らし、大丈夫かしら?
激昂する夫を、小枝はあの時、初めて見た。
金ならある。悔しかったら稼いでみろ。
札束を投げつけ、夫は怒鳴った。
何なの、これって。尋ねる気も失せ、小枝(さえ)は冷えて疲れた。
夫の日々がまるで掴めなかった。ほとんどが「家仕事」らしいのに、不規則に出かけた。朝出かけたので、今日はと思ってすこし遠出すると、先に戻ってい
て、昼飯がなかったと赤い炭火の弾けたように怒った。ふいと出て何日も戻らぬこともあった。小枝には、生活の組み立てようがなかった。いつも家にいて、
「おい」と呼ばれたら、返事をしなければならない。
そのわりに経済にはゆとりができているようだった。いつも施(ほどこ)しの手つきで夫は金を呉れたが、額は有った。小枝は小さなコンピューターを買うこ
とができ、電子の箒にのって遠い世界へ遊んだ。買い物も機械で注文し、割高にも目をつむり幸い咎められもしなかった。やがてこっそりと「在宅」の仕事を
ネットで見つけて、ささやかに小遣い稼ぎもはじめた。
だが、そうした抜け道に夫も目くらでなかった。小枝がコンピューターに向かうと、たちまち用事がふえた。ほんの「お茶」でもあり捜し物でもあり、何が
入っているのかわからない封筒を、何をしているかわからない事務所に届ける役もあった。
メールじゃいけないんですか。
そうつぶやいて赫怒を招いて以来、小枝(さえ)は逆らうことをやめた。むしろ、家から出られるのを喜ぼう。ポケットに本を忍ばせ小枝は電車に乗った。た
だし時間は計られ、帰宅が遅れれば叱られる。それはわかっていたが、車中で本は読める。だが、いつも長時間、電車に乗れるわけではなかった。歩くしかない
先もあった。それでも散歩だと思い、小枝は空を仰いで泣きながら歩いた。
何を泣く、こんなによい天気なのに。
そうつぶやきながら、やっぱり泣いた。
10 『めめんともり』と、飽海家の飽海櫻子
小説は小説です。性急に現実の作者家庭の夫婦関係に直結するのは、読みの姿勢として是認できない。が、その上で「いろいろに読む」のは読者の権利に属し
ている。小説はそのように多くの人に読まれているし、「読み方」という規則は無いのですから。
この小説は、シュールな、幻想いっぱいの場面からいきなり書き出されてはいませんでした。
図書館に行きたいという妻と、書斎でパソコン画面を隠しながらいやみを言い募る夫との、冷ややかな場面に始まっていました。
そして女は家を出て、図書館ならぬどうやら秘密の電車旅へ、涙を堪え身を隠すようにし、駅へ、電車へ急ぎます。
動機=モチーフは露出しています。「夫」は冷え切った「他人」でした。家の中が、妻・小枝には「外」世間でした。戸外が先へ先へ延びるにつれて小枝の
「内(身内)」世界へ近づいてゆく。なんだか生まれ育った場所へも近づいてゆく。
こう引用してみて分かります。文章にはほとんど揺れも乱れもない。一にも二にも「推敲」と、父は娘におしえました。才能は推敲の力に現れるよと。
娘は漱石が好きでした。『夢十夜』が好きでした。『めめんともり』は、堀辰雄の空気と『夢十夜』の世界に添い寄っているとすら読めます、が、未完成。
娘が将棋に趣味深いとは、娘の将棋友達!? という未知の人のメールで教えられています。平成十五年(二○○三)八月はじめ。五年前でした。
「娘さんは元気にしておられるのでご安心下さい」というメールで、しかもその頃仲間内相手に何かしら櫻子は「書いている」という情報(しらせ)でした。
書くなら「本気で書いて」欲しい、風船玉の空気抜きのような真似はよくないと伝え、書いたものを是非読みたいと頼みましたが、本人がいやがるからと教えて
貰えなかった。私は落胆しました。そして忘れました。
孫・ふじ乃は将棋に手を出しませんでしたが、妹のかや乃は小学生の頃すでに将棋を打ちました。メンバーに選ばれ台湾まで対局に遠征したこともあるそうで
す。しかし、ぷつっとやめてしまった。
ちなみに中学生のかや乃は、わが家に訪れ、祖父・私の将棋盤での挑戦をあっさり退けて、勝っています。
母親のはじめた将棋趣味が気に入らない父親の「影響」で、幼かったかや乃はなにとなく「罪悪感」をもち、将棋から離れたのでしょうか。
ともあれ、かくて、あの(ずっと前に掲げました)、櫻子『第二信』が戻ってきました。
あの、あくどい「謝罪文」を父親に強いた「Re:」メールが父の手に届いたのでした。どうか引き較べご覧下さい、さきの『めめんともり』の引用表現と此
の「謝罪文」の物言いとを。文体を。はたして「同一人の文章」と言えるでしょうか。幸か不幸か、娘・櫻子の「謎・昏迷」が、実に、あからさまな形で露呈し
ているのでした。
(十六) 櫻子が立て籠った最期の本丸。
櫻子には、ひいて飽海夫妻には、このたぶん両人試作の「謝罪文」文案に書いた「ふじ乃の生命の尊厳を祖父(母)たちは侮辱した、だから謝れ」という一点
以外に、もはや訴訟するに足る何ものも無くなっているのです。立て籠った落城寸前の本丸なのです。
念のため「謝罪文・飽海櫻子案」をもう一度かかげて確認したいと思います。
1 父に押しつけた「謝罪文(飽海櫻子案)」再掲
一、私清家次郎は、故飽海ふじ乃の逝去に関連し、故人の尊厳と遺志を踏みにじる膨大な記述を行ったことを認め、衷心から謝罪いたします。故飽海ふじ乃
は、その死の瞬間まで信仰心と家族、友人への愛に満ち、明確な意志をもって自らの人生に向き合ったものと認めます。特に治療計画における故飽海ふじ乃自身
の決断と行動について、「19歳でできるはずのない」「錯誤」と侮蔑したことは私の犯した最大の罪であると認め、故人の御霊に深く額づいて謝罪いたしま
す。
一、私清家次郎は、故飽海ふじ乃の著述について、その趣旨を歪曲し、誤った目的のために悪用したことを認めます。また、故飽海ふじ乃が心を込めたメッ
セージを根拠なく他者による「作文」と貶めたことを認めます。故飽海ふじ乃が親しき人々に遺した言葉に対する冒涜を私の犯した第二の罪と認め、亡き人の御
霊に深く額づいて謝罪します。
2 貧寒たる作文。以下に逐一反駁し、飽海の立証を求めます。
@ 「故飽海ふじ乃の逝去に関連し、故人の尊厳と遺志を踏みにじる
膨大な記述」というのが、『死んでゆく、孫よ』であるとすれば、作者が、いったい何を
どう踏みにじったかを具体的に証明すべきでしょうし、この著書が、孫・ふじ乃への愛に満ちた祖父母の哀惜・哀悼、声涙ともにくだる著作であるとは、多くの
一般「読者」が認めて共感している事実を、都合よく身勝手に無視しています。言論表現の自由にとって「真実の立証は免責される」のはアメリカでも日本でも
同じではなかったでしょうか。
A さらに「踏みにじられた」という「故人の意志」とは、いった
い、いつ、どのように「表わされ」、いつ、どのように(少なくとも祖父母に)「伝えられ
た」のか。それを飽海は具体的に明らかにすべきです。さもなければ「空語」に過ぎない。祖父母はそのような「何ものも・一度たりと」受け取っていないので
す。
これは間違いないことです、亡くなる三日前、七月二十四日、祖父母と叔父・松夫とは、ふじ乃と病室で対面し、かすかに言葉を交わしています。
その際、叔父松夫が聴きとめたふじ乃の言葉は、「逃げてばかりいるのに」「まだ生きているのに?」そして最期に「もう死んでるの?」であったと証言して
います。
祖母は、手を「握って!」ふじ乃(=自分)は「生きている?」「死んでない?」と聴き取り、祖父は、きっぱり「生きているよ」「死んでないよ」と聴い
た。声をそろえ呼びかけました、「生きているよ、ふじ乃」と。そして三人とも「耳は聞こえているよ」とふじ乃の言葉を受け止めています。死の三日前の「当
日の記録」として『死んでゆく、孫よ』が伝えています。「妻と松夫とわたしとの、その『理解』は三人三様に小さく異なっていたけれど、『生
きたい』『生き
ていたい』という望みだと、相違なく三人とも聴き取った。」そう、「その当日の日記」
が具体的にはっきり語っているのです。
B 「故飽海ふじ乃は、その死の瞬間まで信仰心と……明確な意志を
もって自らの人生に向き合った」とは、言葉は美しいが、ふじ乃が自身の「信仰」に触れ
て書いたり話したりしていた形跡は、私達の眼に触れる限り「皆無」です。「明確な意志」とは、何ごとを、ふじ乃「自身」が具体的に明確に示していたのか、
あの病床で本人の書いた何か「物証」が残っているなら、とうの昔に法廷に提出されていたでしょう。そういうモノを、祖父母も見られるならぜひ見たかった。
死者をさしおいての両親の「つくりばなし」でないなら、説得できる「物証」を示さねば、これまた空語に等しい。ツクリバナシだとすれば、その方がよほど
「ふじ乃の尊厳」を傷つけています。
「特に治療計画における故飽海ふじ乃自身の決断と行動について」は、飽海夫妻は、「罹病前期」もとより、ふじ乃死に至る「臨床後期」の全期間にわたっ
て、清家の祖父母に爪の先ほどの説明も拒んで、していないのですか
ら、またそれを証明する「輸血停止」前後までの何らの「カルテも医師報告も提示も出来て
いない」のですから、これまた何を言おうと「我勝手の空語」にしか過ぎないのです。
C 「故飽海ふじ乃の著述について、その趣旨を歪曲し、誤った目的
のために悪用した」とは、具体的に「何」をさしていうものか、証明を求めます。
「ふじ乃の著述」では、「mixi」の日記、「祖父母へのメール」の他には、親よりも先生よりも、誰よりも先に「おじいやん」の意見が聞きたいと送られ
てきた、入試の際に大学へ提出の「小論文」があるだけです。この論考は何処へも出していませんし、後に申しますが、ふじ乃生前の「mixi」日記は、祖父
の利用や引用や紹介について、「マイミク」の約束時にきちんと孫と祖父との互いの「承諾」ができていました。ふじ乃「生前の日記」を「生前に引用」してい
た限り、相続権などまだ生じておらず、当然死後の文章など、読みたくても読めないのです。「mixi」記事の一般使用可には裁判所判例があるとも仄聞(そ
くぶん)しています。
D とくに申し上げます、もし祖父母がふじ乃の発病と知るや即座
に、ふじ乃の全「mixi」日記を「記録・保存」し、またそこから「病悩」日記を揃えて
おかなかったら、あたら「飽海ふじ乃」という個性的で意欲にも溢れた少女の「存在証明」は、容易にはできなかった。作家である祖父が、『死んでゆく、孫
よ』を通して、「ふじ乃の命に、或る意味で永遠の照明を当てて置いた」ということに、ふじ乃も友人も読者も感謝してくれていると信じます。それの理解でき
ないのは、飽海専太郎・櫻子という「両親」だけなのです。
3 重ねて飽海夫妻に問います。
ではさて、祖父らが「ふじ乃を貶(おとし)めた」と、どう櫻子たちは「立証する」のか、と。
清家次郎著『死んでゆく、孫よ』が「故人(ふじ乃)の尊厳と遺志を踏みにじる膨大な記述」としか読めない読者は、偏頗な偏見の飽海両親以外に何人いるで
しょうか。
愛し愛された孫の日々の命を気遣いつづけた祖父母や多くの知友の思いを「芯」に通し、ひたすら「悲哀の仕事 mourning
work」として書き上げられた日記文藝として、その真情を疑う人を、私たちは、飽海夫妻の他に一人も知りません。
また三年に及んでふじ乃が祖父母と親交を回復していたこと、「mixi」のマイミクシイとして、病状亢進にも心配し助言していたのは祖父母であり、両親
の眼は娘を離れていて何も出来なかったこと、は、飽海提出の貧寒として無内容な受診
資料等が暴露しています。他の誰より少なくも「近過去」以来「罹病前
期」に、娘・ふじ乃自身から批判的に「NO」を突きつけられていたのは、両親・飽海夫妻でありました。祖父母ではないのです。
「故人(ふじ乃)の尊厳と遺志を踏みにじる」とする立証がどこに在るか。故人自筆の「意志」や「遺志」を過去二年のうちに公式折衝の場に飽海夫妻が提出
したことなど、紙切れ一片も「無い」のです。
安楽死の「インフォームド コンセント」は「患者自筆」も加わってなくてはならず、そんなものを此の二年間に、片端も見たことはありません。
「ふじ乃は、その死の瞬間まで信仰心と……明確な意志をもって自らの人生に向き合った」と説得出来る「何一つ」も示したこと無く、全て飽海夫妻の「ただ
口先」の弁解に過ぎません。祖父母が孫の尊厳を傷つけたなど、言いがかりが過ぎましょう。
ふじ乃の「生きた思想」や「苦悶の実感」の多くは、生前にのこした「mixi」のメールや、祖父母や友人が多く受け取ってきたメールの文面等に「客観的
に」残されています。それも寡い分量ではない、ふじ乃は最期の命を賭けて「mixi」日記を書き次いでいたのですし、厖大量も読者からのコメントも悉く私
どもの手もとに記録し保存しています。
「信仰心」「明確な意志」とは何に拠って謂うか、具体的に飽海の両親は、母親の櫻子は、ぜひ明白白に私たちや法廷に示し、豪語は、その後でしてほしい。
大事の点ゆえ敢えて繰り返しますが、「治療計画における故飽海ふじ乃自身の決断と行動」とは「何」のことで、どう、それを、少なくも祖父母や叔父が信じ
られる資料や物証で「説得」できるのか。そもそも「治療計画」とは何か、清家の両親に対しタダの一度でも「それを説明」したことは無かった。「絶無」でし
た。
申し出た何人かからの親切な専門医の「再診」申し出全部を、無言裡
にすべて「無視」したのも、飽海両親。ふじ乃の命の不安を歎く祖父母らが、当然の推測
や、乏しい情報下で苦悶し、たとえ不満や批判を洩らそうとも、自然当然、肉親の人情でありましょう。
我々は、インフォームド・コンセントの励行を欠いた非合法な「安楽死」すら疑って、直接病院側に当たることも可能なのですが、櫻子を窮地に立たせないよ
う、むしろ控えたぐらいです。
終始一貫、青山女子医大病院の全カルテ提示を法廷に求めているのに、全然出てこない。櫻子の何一つ明証できない「たんに美辞麗句」たんに空疎な「ただの
言葉」だけで、何を承服せよ、謝罪せよと言えるのか。居丈高に「親」に向かい「謝罪文」を書け「何処に示せ」などとは、信仰心を口にするも滑稽な、横道、
高慢とは、これではないでしょうか。
4 亡き「ふじ乃の本意」は
それに対し『死んでゆく、孫よ』は、ふじ乃の「mixi」に書き記した必死の一言が、「生きたい!」「くやしい」であったことを、適切・率直に記録して
います。この日記はふじ乃の「生の軌跡」をその時、その時「即時に保存」し得ているのです。さもなければ、飽海ふじ乃の「青春の生」は、脆くも死の海にす
ぐ沈没していたでしょう。
ふじ乃は父母のさながら憎悪していた祖父母のもとへ愛を寄せ、それを心から喜んでいたことは「事実」が証明し、ふじ乃の友人たちも
喜んで証言していま
す。ふじ乃両親は、それにも全く気づいていませんでした。
(この陳述書の中で「二箇所にあえて重複」させてあるふじ乃の一の親友のメールは、非常に大切な、有効な証言です。この人からの自発的なメールで、しか
も此の一通ではありません。「事実」として、「ふじ乃と祖父との交信録」で早くに例証しました。病室から、ふじ乃が、「祖父母に見舞いに来て」と呼びかけ
た事実も、ふじ乃の友人らを驚かせ喜ばせました。そういうことを親たちの前でふじ乃
が敢えて口にしたのは、意思表示したのは、日頃の飽海
家からすれば、大
変なふじ乃の決断、勇気の発露だったと、友人たちはよく知っていたのです。)
「飽海ふじ乃の著述について、その趣旨を歪曲し、誤った目的のために悪用」したという以上は、一々個別に十分飽海夫妻は論証・証明すべきです。
ところがそれどころか、ふじ乃個人の意志を超え、母親・櫻子は、ふじ乃が憔悴の極にいたなかでも、冷淡で体温の低い言葉と文体の「mixi」「代弁・代
筆」をあえてしています。
ことに平成十八年七月七日の「肉腫(mixi)告知」を、絶望と放心の極にいた(友人たちの証言が在ります。)ふじ乃の「名」で代筆していたのは、これ
ぞ「誤った目的のために(飽海ふじ乃の名と作文とを)悪用」した「適例」であると主張できる状況証拠が在ります。
「故飽海ふじ乃が親しき人々に遺した言葉」という実例が、文書で、物証で、ちゃんと残っているなら、過去二三年の法廷等にすでに提示できたはずですが、
これも「皆無」。根拠のない空言を原告二名は好き勝手に弄しているの
です。「親しき人々」の意味と範囲とは広い。ふじ乃が何を言ったかが証明の限りでない
以上、飽海の主張はますます空疎なツクリバナシに陥っています。
5 「清家」「櫻子」返上なら、法的にキマリを。
ついでながら、私たちの娘が、本気で、「櫻子なる文字列は、今や社会生活上やむを得ず使用する記号に過ぎない。私はとうの昔に櫻子であることをやめてい
る」なら、すでに慣用らしき「飽海広江」でよろしいでしょう、進んで自発的に法的「改名」を所轄役所に届けて欲しい。それが発言への自己責任というもので
しょう。
「私は金輪際、清家(せいけ)家の人間ではない」が本当なら、これまた、しかるべき法的方途を得て、除籍請求をぜひ本式に願いたい。同意します。「たと
え地獄に堕ちようとも、私が清家次郎と同じ天を仰ぐことはない」のは構わないが、せめて「稲宜市主任児童委員」や「町田女学院大学教育学部教授」の名分
に、これ以上不適格な泥をかぶせぬよう、最後に忠告したいと思います。
なお愛する「孫の死を書いた」作家・清家次郎は、決して「実の娘や婿」を「訴え」もしていないし、取材を断りこそすれ「仮名」を使って週刊誌にウソ八百
を売ってもおりません。受けた文学賞や所属する団体に対し、泥を塗ったなど微塵も思っていません。同業の作家やまた編集者からも、「こんなバカげたこと
(=中傷・口撃)に屈する清家さんではない」と支持されています。
(十七) 櫻子と、夫・飽海とに「齟齬」は無いか
(ここも本裁判と関係が薄いとご判断があるかも知れず、前もって一言申し上げるのをお許し願います。)
原告は、飽海専太郎と飽海櫻子と連名の二人です。櫻子は、被告・私たちの実の娘です。原告二人が、訴因の上で、真情の面で、真実「緊密な二人三脚」で被
告を攻撃しているのかどうか、それが怪しげであれば、被告として、当然反撃の一ポイントの筈です。現に『めめんともり』という櫻子作の小説は、リアルに現
に決裂した夫妻を描いて、それが「作」進行の原動力になっています。
この作を掲載の櫻子のブログが、実はごく最近にまた「再開」されていたのが分かっています。そのブログ上の「記録」によりますと、『めめんともり』冒頭
十五回分は、(平成十二年)2000.03.01から書き始められ、一度中断し、さらにそれが、(平成十八年)2006.03.01からまた再開され、同
年06.01にまた中断 (または仕上がりの積もりか)されているのです。
小説の主題は、少なくも導入は、夫婦不和、事実上離婚直面の現実で
す。そんな小説が、すでに平成十二年「三月」に書き起こされていて、驚きもし当然とも
思うのです。高校生のふじ乃が、祖父母との親愛を再確認しに久々に清家の家を訪れたのが、四年後の平成十六年「二月」のことでした。「ふじ乃の動機」「真
意」に、すでに両親の久しい不和から察した「危うい事態」への、何らかの対応・対策を願う気持ちが祖父母へ向かわせたと、優に推察可能なのです。
この櫻子の小説がそれ自体一つの単に「習作」であるなら、他に類似の関連項をなにも持たないのなら、「徒(いたず)らな深読み・深追い」はすべきであり
ません。私は文学読みの専門家です、そう考えます。
しかしながら平成十八年一月二月時点に、祖父母の家で大学一年生と中学二年生の姉妹が一致して、今年の秋ごろ、堅いところ来年成人式までには、「両親に
決定的な何かが起きるはず」という無言の示唆を体で示していたこと、それに加え、ふじ乃の一の親友の「飽海夫妻の結婚生活は崩壊の危機」と、全く同時期に
ふじ乃自身の訴えやかや乃の涙に裏打ちされた強い「証言」は、この「裁判」における飽海「夫妻の足場・立場」に不審を抱かせざるを得ないし、それは娘・櫻
子を慮(おもんぱか)る「実の親」の思いとして、当然極まる「目の付け所」なのです。此の「陳述」自体の行き着く「結論」が、なお何があろうと「櫻子救
抜」の思いであることも、大きな大きな重点になります。
妙なことを申すとお思いか知れませんが、もし「小説家」がこの裁判に創作者として着目するなら、当然、こういう「着眼」から掘り進んで「真相」へ「解
決」へ到達したいと考えますでしょう。「人間が主題の文学」なら自然にそうであり、裁判も、行き着くところは法に基づいた、しかも「人間」の劇(ドラマ)
ではないのでしょうか。
上に掲げた「h..akumi」メール(櫻子発の第二信)について、もう一度申したい、微塵「人格」というものが感じ取れません。
われわれ両親の承知している娘の人柄と文体とからは、本来出て来そうにない下等な物言いが随所に多すぎます。一読『めめんともり』の地の文や文体とも、
全然似ていない。むしろ作中の「夫」の冷酷さに通い合っています。下書き「マリアの家」に使われていた「婿」の暴言や巫山戯(ふざけ)の文にむしろ酷似し
ています。
娘・櫻子は、『めめんともり』を、夫・専太郎に秘したまま、いやも
う既にきれいに娘の作品掲載のブログは昨年八月二十一日のうちに消失してしまっていま
した、が、(但し、何故か最近に又もと通り復活していることは、先に申し上げました。夫は知らないのかも知れません。)娘は、間違いなく「夫との連携・共
闘」を「選択した」ということを私たちに「告げ知らせたい」のでしょうか。
夫・飽海が、父から娘・櫻子へのメールを読んだかどうか判明しませんが、とにかくも上のメールを強いて妻に「書かせ」て、いわば婚家と夫へ「従順と忠
誠」の「再宣誓」を妻にさせたとも推測できます。推測に過ぎませんが、邪推ではありません。
かくて、事態は、予想していたように、「むちゃくちゃ」の返信でプッツリ途絶えました。ふじ乃の重病を、ひとつ「天降の機会」として「両家の和解」に結
びつけようなどと「ふじ乃死後」になってから云っていた飽海専太郎の「本音(或いはウソ)」は、いったい何であったのでしょう。
(十八) 櫻子の謎と昏迷の正体
まえに、私は、ふじ乃発病から逝去までを、「罹病・前期」と「入院・後期」に分かつことの「是非必要」について述べました。
櫻子の、大見栄ににた激昂や憎悪の弁、威丈高に謝罪を要求する弁、の根拠とは何かを、新ためて考えてみます。
それは「入院後期」の、「ふじ乃が逝去に至る崇高なほどの平和」に対する「見せかけの確信」にあるようです。
櫻子は、何か頼りたい「柱に抱きつく」かのようにして、それを大声で言い立て、祖父母は「ふじ乃死の神聖と平和」を冒した・赦せない「殺してやる」と、
まさに怒号しています、が。
じつは、櫻子らには、もうそれしか、両親を責めて両親をやっつける「道」が他に無くなってしまっているのではないでしょうか。此処に「謎」ともいえぬ都
合のいい白けた「謎」が蹲踞していたのですが、そのじつ、それは白けきった単なる独りよがりの「言葉」「空語」に過ぎなかった、つまり虚勢でありました。
ご記憶でしょうか。
ふじ乃逝去直後には、父が、ウエブに孫・ふじ乃を「死なせてしまった」と言ったり書いたりするのは、飽海の両親を指さして「殺人者」呼ばわりするのだ
と、激怒の脅しが続きました。ところが、私の著書に版を度重ねた『死なれて死なせて生きて』という「死の哲学叢書」(淡交堂)の一冊があり、彼らの浅い誤
解は簡単に否定されてしまったのでした。
ついで例の「虐待」が出ましたが、現にまぢかな妻や息子にも、知人たちにもまるで意味を成さない虚言でした。立証義務は一○○パーセント果たせない、果
たせるワケが無いのです。
次に「著作権を侵した」という主張でしたが、公刊された著作も作品ももたず、父の指導で身につけた文章力と文章を、父の好意と喜びとで父経営の「e-文
藝館=濤(nami)」に保存して貰った「だけ」となれば、本人がどう大声を出してみても、(裁判員なみの)広い世間の読者たちに支持される道理が立ちま
せん。
実は「肖像権」と言い張るにしても、アカの他人でなし、孫・子・親の間で損害賠償騒ぎにする「人間」の道理は無いでしょう。それら肖像が悪意で醜悪に歪
曲されているならまだしも、みな和やかに愛らしく、すべて父自身のカメラが撮しているのです。(旅写真だけは、雑誌カメラマン。)
(法を無視してよいというのではありません。家庭・家族の倫理というものは、間違いなく社会存立の基底に在ると考えた上で、こう私は感じてい
るということです。)
結局、『めめんともり』事件の中で、ワンワンと言い募り、謝罪文のサンプルまで書き立てて出てきたのが、癌入院「後期」のふじ乃を、「さながら聖者」のよ
うに祭り上げてそれを信じない祖父母の無礼を咎め立てるという、底の浅い偽りの一手し
か残らなかったのです。しかも狡猾にそれによって、「前期」ふじ乃へ
殆ど何の面倒も見なかった、「目を離し」つづけた驚くべき「親の怠慢」を、「帳消し」にしようと、むやみと頑張っているのでした。
さりながら、「後期」ふじ乃の医療等に関しては、祖父母を徹して排除し何らの説明もしなかった以上、ぜんぶが「櫻子(たち)の独り芝居・作為の演出」と
見られて仕方がない。
いかなる口先・文字づらの「自信・確信」にも、いっこう客観的な「説得力」も「裏付け」もない以上、虚偽の作為であると拒絶されて仕方がないでしょう。
櫻子は、櫻子たちは、故人の口なき「ふじ乃」を利し、祖父母による死者「ふじ乃侮辱」という、まるで「孫・ふじ乃自身が祖父母を憎んで訴えているかの如
き一芝居」を企て、あの「謝罪文サンプル」を持ち出したとしか云いようが無い。他に、合理的な訴因がみな消滅してしまっていると、夢が醒めたように実感し
たのでしょう。
しかしながら、飽海両親夫妻には、「ふじ乃の代理」裁判は出来ません。誰よりも誰よりもふじ乃自身が、こんなこと(愛する祖父母を訴えたり困惑させた
り)を望んでいない、「悲しんでいるはず」というのが、ふじ乃をよく知る人たちの飽海「非難」の声です。飽海夫妻には聞こえない、聴こうとしないだけなの
です。
ふじ乃がいち早く祖父母のもとに仲良く親しく立ち帰っていた「事実」に、わざと目を塞いでいるのです。
此処で、ふじ乃の医療上、飽海両親が法廷に出した貧弱な物証に対し、私が徹底的に批判した「陳述」文をぜひ提出したい。
重複を極力避けた「要点」のみ、此処に「転写」させて頂きます。
(当然、とうに法廷に出されていると思いこんでいましたが、私の代理人はその機会を得なかったらしいのです。)
(十九) 飽海ふじ乃入院
(06.06.19)以前・以後(06.07.27逝去)の
「受診・治療」資料につき、所見
この「陳述」で、「二つのこと」を合わせ主張します。
@ ふじ乃「入院前」の診療等の経過を検証し、この段階で、ふじ乃
の両親が祖父をとらえて、「名誉毀損」「損害賠償」「謝罪」を言い立てうる情・理の根
拠は、「全く見られない」と云うことです。
A ふじ乃「入院後」にかかわる極めて不備な提出資料の批判を通じ
て、この段階でふじ乃の両親が祖父をとらえて、「名誉毀損」「損害賠償」「謝罪」を言
い立てうる情・理の根拠の、「全く見られない」と云うことです。
1 ふじ乃入院(06.06.19)以前の診療の実態と問題点。ふじ乃苦痛の
日記。
ふじ乃自身による「病識・病悩・病苦」は、すでに平成六年一月から「mixi」に公表され、深刻な体調違和の訴えを、加えて、それ以前から体感していた
憂慮を、明確に示しています。
(絵記号の類は清家には理解不能ゆえ、再現されてあるそのままにするか省きます。太字は清家)
2006年01月11日
(一昨年、ふじ乃自身の「mixi」日記です。)
11:18 痛。
そろそろまずい↓
何もしてなくても痛む腰。
ろくに上も向けない首。
筋が変にきしむ肩。
血の巡り悪すぎ。
手足の先が凍る。
頭が動かない。
原因不明のびみょーな腹痛。
言うコトきかない身体に
もううんざり。
☆ これが見受ける限り、最初の自覚症状の記録です。正月年賀に祖父
母の家に来たとき、思い合わせば、かなりはっきりした(すぐ寝そべり休むなどの)容態
が見えていました。
2006年03月13日
02:45 胸の痛み
恋の病…
ではないんです(^-^;
ホントに痛いんです↓
クシャミとか、
寝返りとかすると
一たまりもありません(*_*)
アイタタタ…
ってなります。
鎖骨、
首の下あたり一帯が。。
妹に敷布団とられて、
かたーい布団で寝たから?
あぁ眠れない(:_;)
2006年03月15日
10:41 あんね〜
やっぱり痛ぃ(+_<)
筋肉痛ではなぃみたぃ。
首から下がってきて
ちょっと左あたり?
花粉症だから
くしゃみとかするたびにひびく(*_*)
肋骨?!
いゃ、まさかねぇ(^-^;
どんだけ骨もろいんだょ
ってぃぅ
☆ 原告提出資料中、最も時期の早い、地元稲宜市大丸「矢野口整形外科」受診治療記録(甲第一九号証)は、(平成十八年)2006年4月4日のもの。ほぼ
三ヶ月経過していますが、これより以前に、上のふじ乃愁訴に応じた受診治療履歴は存在しません。「レントゲン撮影と痛み止め投薬」で終わった整形外科の対
応は、単に「無効」でした。
母・櫻子の当時連日書き継がれていたブログ二種類(おおまるコラボ・小説『めめんともり』)も、娘・ふじ乃の病状には何らの関心も、対応も、示していま
せん。
受診の翌日、ふじ乃は「悲鳴」をあげています。
2006年04月05日
00:41 悪化の一途をたどる。。。
痛いっちゅーーーーーーーーのwww
咳とかしゃっくりとか、くしゃみとか、
するたびに泣きそうになるわァ。。。
目に涙浮かべてたら察してやってくださいwww
別に悲しいわけじゃなりません^^;
レントゲンにも写ってくれないなんて
いったい何が起こってるのかしら???
いやまァいたって元気ですけどね
2006年04月05日
13:02 凹む。。。
なんでこーゆー時に限って
咳が止まらないんだろ↓↓
咳を流し込むための
水が手放せません。
それでも不意にでてくる咳に涙…。
痛み止めなんて効きやしない。
かがめないし
振り返れないし、
左手に力入れられないし、
走れないし。。。
何が一番嫌かって、
おもいっきり笑えない
今まで日常生活に支障なかったのに…↓
今じゃ呼吸にも気を使う。。。
☆ 翌日四月六日に矢野口整形外科が外注した結果か、麻生病院内科での血液検査報告書(甲第二○号証)が出ています。
何等の検査所見もなく治療の実施された形跡もない。ふじ乃はこう訴えています。
2006年04月06日
13:03 Do I have to go ?!
しょーがないから逓信病院にでも行ってきます。。。 (=大学のそばにある。)
お金たくさんかかるかなァ。。。
こんだけ痛くてなんでもないって言われるのもシャクだけど、
なんかあるって言われるのもイヤ。
2006年04月06日
23:25 まぢ
意味わかんない。
CT撮っても原因不明って何?
痛み止め効かなきゃ
大学病院行けだって…。
次から次へと回し者だよ。
ダメだ…。
もう凹みっぱなしだ。。。
怖いとかそういんじゃなくて、
ありとあらゆる行動が
途中で止まるから
精神的に辛い。。。
もういっぱいいっぱいだよ…
☆ 堪えかねたか大学のすぐ隣の逓信病院へも自前で受診しています。「CT」も撮ったとありますが、原告は資料を提出していません。母親のブログに徴して
も、両親が娘の苦境に反応し援助していた形跡は全く見えません。ふじ乃は自分で「病院費用の心配」までしています。
2006年04月10日
00:46 〜
笑えない。
眠れない
医者なんてあてにならない。
辛い。
寂しい。
2006年04月11日
16:11 なんだか、
最近愚痴っぽぃゎァ。
ぅらむょ。
こないだちゃんと診断下してくれなった医者。
可能性すらも示唆してくれなかった医者。
そもそも内科に行けって行った看護師。
ぁぁ、
ゃっぱ宛てになりませんね。。。
2006年04月11日
23:47 〜最近〜
暗い日記ばっかだなぁ(^-^;
なんでか知らないけど、
左腰が痛い( ̄- ̄;)
胸かばって
変な体勢で寝てるからかなぁ。
まぁどーでもぃぃゃ。
☆ これらの吐息には、誰の援助も期待できない「絶望」の気分が読み取れます。そしてこの翌四月十二日に日赤医療センター内科へ出向いていますが、驚いた
ことに飽海家が提出した診療費領収書(甲第二一号証)では、何か「撮影」をしたとあるだけで、治療行為や医師の所見等は全然見られない。
しかもこれ以降、提出された資料は六月十日までほぼ二ヶ月間、「何一つも無い」。親たちは娘の容態を本気では把握していなかったのでしょう、しかしふじ
乃自身は、この間に「整体=カイロプラクティクス」にも苦痛に耐えて通っています。
何ということか、すでに「肉腫」をかかえていた躰にはあまりに過酷な「全くの見当違い」。その見当違いのさらに最たるモノは、「六月十日付けの提出資
料」が明かしていますが、以降二ヶ月間のふじ乃の苦痛を具体的に顧みておきます。
2006年04月16日
22:34 気持ち新たに
諦めました!
そのうち治るょね☆
病院行っても凹むだけだし!!
だからもーいぃです。
明日からちゃんと学校行きます。
☆ 相変わらず両親が此の娘の苦境と絶望に、支援や憂慮の手や言葉を掛けていた形跡は、母親のブログにも、ふじ乃の「mixi」日記にも、全く見えていま
せん。逆に母親の請け負っていた「仕事」のミスを、バイト帰りで疲労のふじ乃が手伝わされ、「スパルタ母さん」と苦笑しています。ふじ乃が母親に具体的に
触れたそれが「唯一」と言える記事でした。
2006年04月18日
00:10 固。
胸筋〜肩筋が
固まってしまったんじゃない?
ってくらい動かなぃょ?
両腕あがりましぇん。
グワングワン
ヒリヒリ
ジンジン
ってかんじ?
どうなってるの、
my body(?_?)
2006年05月08日
15:46 ヘタレ
まずいです。
何もする気が起きません。
5月病でしょうか。
いや待てよ、
3月からずっとこんなんです・・・OTL
何がいけないって、
寝ても覚めても疲れがとれないんです。
最近は腰痛がひどくて熟睡できません。
熟睡どころか寝っころがれません。
布団の上でウダウダするのが至福の時でしたが
今や布団の上は痛みとの格闘の場です。
胸の痛みは大分ひいてきたものの、
今さらながらに
「健康診断の結果がふんちゃら」
と大学の診療所から呼び出しくらいました。
結果やいかに・・・。
2006年05月12日
14:33 へこたれ
ぶっちゃけ
私へこたれてます。
動きたいのに動かないのょ
私の身体〜(*_*)
病気でも
怪我でもなけりゃ
なんなのさぁ?
たまに言われるんだよね。
「ストレスじゃない?」
って。
まぁ思い当たる節はあるものの、
除外しようのないもんでして…(- -;)
OTL (=ガックリの文字絵らしい)
☆ 「ストレスじゃない?」とは、誰の言葉であるのか。友達は皆が「病院へ行け行け」と心配しているさなかに、これがもし「親たちの口から」出ていたな
ら、「むごい」ことです。ストレスと「思い当たる節」が、すでに証言もされているもし
「離婚」も現実化していた「両親の不和」であるなら、これも、「むご
い」ことです。
2006年05月19日
16:50 WHERE R U FROM?
この例えようもない気持ち悪さはいったいどこからくるんだろう??
うげげ
2006年05月22日
05:30 遅寝。早起き。
まだ朝の5時ゃん\(*`∧´)/
3時間に1回目が覚めるんだけど、
不眠症なのかしら?
整体行って
腰はなんとかなったんです。
仰向けで寝られるなんて
久々の感動だったわけなんですが、
それでも熟睡できない理由があるのかえ?
まだ節々が痛いんですが、
まぁ要するに疲れなわけです。
整体師さんいわく
全身肩凝りみたいな状態らしい。
胸が痛いのも
恐らく、
本当は呼吸とかの度に動く骨が
周りの筋肉が固まってて
動けないかららしいんです。
だから熟睡したい。
時間はあるんです。
睡眠の時間ちゃんととってるんです。
なのに眠れなきゃ
疲れとれないじゃないですか。゜゜
もぅ自分の中のわだかまりとか、
周りのイザコザとか、
全部忘れたい!
これ、
要はストレスなのでしょうか…?
☆ 「整体」さんの説明はこの病状に関して「全然無効」です。
ワラをも掴む思いだったのでしょう。それよりこの時機にまだ、「まわりのイザゴザ」などに惑わされて、こんな判断でいたこと、「身近な親たち」大人が
「憂慮すらしていないらしい」こと、に驚きます。
2006年05月27日
16:34 なんでぇ。。
身体が動くことを拒絶してます
家の階段の往復するだけでだるくて気持ち悪くなる。
息あがるし OTL
さっきは足に激痛がはしりました(*_*)
いったいどうなってるんだぁこの身体。
2006年05月27日
22:57 どわぁぁぁぁ
どうにか整体行ってきた。
帰り、坂の途中で
倒れるかと思った OTL
ここ半年の疲れが
また一気にでてきた感じ。
どわぁぁぁぁって。
だるすぎて
ベットに張り付け状態。
2006年05月28日
06:20 くぅ( ̄- ̄;)
いったいいつになったら治るんだ!
家の階段すら億劫だょ↓
起き上がるだけで一苦労だし↓
人に会えないのが一番辛い…。
風邪でもないのに
1日中ベットの上なんて
寂しくて死んでしまいそーデス
2006年06月02日
22:43 久々のケータイ
ベット上の生活もかれこれ1週間。
トイレに行く以外食事もベットの上。
極度の貧血らしいです。
起き上がると
頭に血を送れないらしいです。
ひどい時は
ケータイすらさわる気になりません。
2006年06月04日
06:38 タイトルなし
考えてみたら、
3月以降
私の中の時が進んでない。
ずっと体調不良で、
なんだかんだ
どれも宙ぶらりん。
自分の許容量以上のものを引き受け、
というか、
自分の許容量というものを
全くわかっていなかった。
ただNOと言うことから
逃げていたんだと思う。
後に残った膨大なプレッシャー、
そして20歳を目の前に、
精神的にも体力的にも
あっという間にどん底。
動きたいのに動けない。
食べたいのに食べられない。
笑いたいのに笑えない。
この1週間、
起きては吐いて、
食べては吐いて、
自分で飲み物すらとりに行けない状態の中、
ふと映った真っ青な顔の自分を見て
なぁにしてんだろーって思った。
こうなったのは他人の責任じゃなくて、
自分の責任なんだってわかってるから
どーしようもない悔しさばっか溢れてきた。
自分の思い通りに
自分で動けることが
どんなに幸せなことなのかが身に染みた。
今は辛いけど、
なんで…? って思ったりもするけれど、
ハタチになる前に
こんなことに気付けて
よかったんだって思うことにする。
治ったら、
自分なりに時間を動かしていこう。
NOって言うことから逃げないで、
自分の思う道を進む。
道は一つじゃないんだから、
どの道を歩もうと、
速足で歩もうと、ゆっくり歩もうと
たどり着く先に
確かな夢さえ見えていれば大丈夫だよね。
“ガキ”っていいですよ。
「イヤイヤ」とか「ウン」が平気で出てきます。
私達って、けっこう怖がって、
簡単なことも、余計に難しく
考えがちです。
怖いかもしれないけど
「イヤイヤ」を言えるといいですね。
2006年06月06日
13:19 ◎筋肉◎
って使わないと衰える!!
パパもママもおうちにいなくって、
明日先生のお通夜に
這ってでも行くために
リハビリだ!!!
って凄んで
家の一階に
オレンジジュースとりに行ったの。
大丈夫だから、
大丈夫だから…
ちゃんと頭に血を送れぇ
って自己暗示と共に(笑)
ばぁちゃんみたいに腰曲げて
見るも無惨なかっこで
10日ぶりくらいに食卓に降り立ち、
オレンジジュース入れて
よし、上り頑張れ自分!
って2、3歩のぼってあらびっくり(◎o◯;)
足に力入りません
手摺りないとフラフラしちゃう。
こりゃホントにリハビリせねば
って思ったね(^-^;
んで、
手摺りにしがみつきつつ部屋に戻ってきて、
ジュースおいて、
ベットに安らぎを求めようと
ヘナヘナ座り込んだ瞬間、
ガタン…。
えっ
恐る恐る振り返りました。
そーですとも。
汗と涙の努力の結晶を
ものの見事にひっくり返しました。
滴り落ちるジュース…。
まさかそのままにしておくわけにもいかず、
雑巾とりに下に降りる体力もないので、
木の神様にごめんなさいと謝りつつ
大量のティッシュで後始末。
あぁ意外と動けるじゃん自分…
と思いつつ↑の体勢で床を拭いてたわけです。
よし、
この大量のティッシュを一度ゴミ箱へ…
と思い起き上がろうとした瞬間、
うっ
こっ腰が……
なんとまぁ
全然伸びないじゃないですか。
真っ直ぐ立てないんですよ。
腰が曲がってしまった
おばあちゃんの気持ちが
よぉぉぉぉぉぉくわかりました。
みんなちゃんと運動しようね
☆ すさまじいというも愚かな「病状の悪化・激化」が観られるのに、
原告両名が提出の医療資料は、この六月十日段階にいたって、稲宜市内の「あおぞらクリ
ニック」の診察券一枚(甲第二二号証)だけ。所見も投薬も担当医師からの説明もなく、入院以後に、いや飽海ふじ乃逝去以後に青山女子医大病院の示した「転
科サマリー」(甲第二三号証)によって、この「あおぞらクリニック」が「精神科」であり、ふじ乃はなんと「鬱病」と診断されて、「抗うつ剤の処方」をされ
ている。驚く以外にありません。
親たちの眼は、何を見ていたのか。愛の手をかけていた、言葉を掛けていたとは、ここに至るまで、何一つも見いだせない。
以降入院まで、ふじ乃はこう書き続けていました。
2006年06月12日
11:10 みんなが恋しいょぉ。
世捨て人(?)になってから
かれこれもう
3週目に突入しております(*_*)
お医者さんに行ったら
(=六月十日に鬱病と診断した精神科であると想われる。)
「大丈夫です、
夏休み頃には元通りですょ(^-^)」
って…
おぃ
そんなに待たすんかぃ。。
06:22 あす香
(=ふじ乃。「mixi」メッセージ)
> おじいやん
甘ったれやだらけで、大好きな大学にもバイトにもいかず友達とも会わず家に引きこもってる理由などあるでしょうか。医者に何度かかかった結果がこれで
す。
二十歳の誕生日前には治ると先生は言っていましたが…。ただただ信じて布団から垣間見える青空に動けぬじれったさを感じる毎日です。
☆ 「三週間」も孤独に家のベッドに動けずにいたとあります。家人は留守がち。
(四人の親子の家庭に四台のテレビがあるともふじ乃は書いています。めいめいの「孤独」を象徴的に証言しているかと肌寒く読みました。)
言語に絶した苦痛に堪えて「ジュース」一つをとりに階段を上下し、あげく零(こぼ)してしまいふじ乃は泣いています。
「mixi」を見ていた人たちは、はっきり、「親の目が離れていた」と指摘しています。「いのちがけで娘の命をまもってみせる」といった「入院後の」むな
しい母親の豪語は、この一月から六月までの「入院前」でこそ、親として実践して欲しかった。
われわれ両家の大人はみな、ふじ乃を「死なせてしまった」に万々間違いないのです。余人ならぬ肉親の家族に、親に、あまりに当たり前のことを批判され
て、「殺人者」呼ばわりされた「名誉毀損」「損害賠償」だ「謝罪せよ」とは、知性と情愛のあっていい大人にしては、まこと無道な居直りです。恥ずかしい逆
恨みです。
以上・ふじ乃の入院「以前」
2 ふじ乃入院(06.06.19)以後、逝去(06.07.27)にいたる
治療事情と問題点。
青山女子医大病院への受診には父親・専太郎の示唆が有ったかに提出資料「転科サマリー」(甲第二三号証)に見えていますが、この二年にわたり、調停でも
仮処分審査の最中にも、かつて一度も聞いたことのない事です。この「サマリー」が「いつ」書かれたかにも、「疑問」を後に呈します。
平成十八年六月十九日入院まで、ふじ乃の母がこの入院にどれほども
関与していなかったことは、ブログ「おおまるコラボ」の「七月一日」日記、またそれ以
前の全日記が露わに物語っています。
七月一日というと、ふじ乃がすでに入院後二週間近く経過していますが、その時点での母親・櫻子が、娘・ふじ乃の病気「白血病」に感じていた重みは、自身
の「コラボ」活動と併存・並行していて、しかもなんら「二者択一にも及ばない」という軽さでした。ふじ乃が「白血病」で闘うように自分は「地域活動」で闘
いたいと、はっきり櫻子は書いています。
Posted by かぶら(=飽海櫻子) at 08:40
| 娘 | コメント(0)
二つの宇宙 [2006年07月01日(土)]
「ふれあい」(=地元でのコラボレーション)に走り回る自分に
電話が一本。
漫然と体調違和
でも、「どこも悪くないよ」と笑われながら、
医療機関を幾つも訪ねていた長女の
「違和の原因を突き止めてくれた病院」がある
入院しますという知らせ。
「ありがたい」ニュース……のはずでした。
だがその病院に駆せ参じて…以来
自分はほとんど病院で足止め。
洗濯に家に二度帰った、だけ。
自分の仕事に大穴を開けたあげく、
幾つかのオファーもキャンセル。
流れていた自分の時間はみな遮断に遭い、
積んできたお城は、みな、もとの砂場、
関わりない二つの宇宙の共存であったかのように、
今の自分に繋がってない。
娘の病室が、夢、ならいいのにと思う。
目覚めれば、どんなに梅雨の蒸し暑さによどんでいても、
自室の自分のあのベットの上ならいいのに。
だけど、
病院にパソコンを持ち込み、
自分は諦めない、この病室と、あの自分の仕事をつなぐように
病室の窓際に座る自分があの駆け回る自分と同様に
おおまるという街と、そこでの活動を
自分の現実として取り戻すために。
まだブランクはたった二週間。
二者択一でなくていいはずだ。
負けずに進んでいこう。
娘が闘っているように、
自分には自分の闘い方がある。
これが二月二十五日(ふじ乃姉妹が祖父母を訪れた最後の日)に始まっていた櫻子ブログの、「以降一貫した姿勢」です。母親が自身の「コラボ」活動に夢中
で、ふじ乃が病魔にひしがれた過去六ヶ月に、全然「目も向けていなかった」ことが、この「七月一日の日記」で明白になっています。ブログでの「娘」という
カテゴリー記事が、「この日が最初」であるのも実に印象的です。以前には、ゼロ。
母親は、「白血病」ならくみしやすしと観ていたようです、ふじ乃に呼ばれ祖父母が初めて見舞った六月二十五日、櫻子はしごくあっさりと「治る病気よ」と
両親に話していました。そういう認識なのでした。或る意味、願望であったでしょう。
ところがこの母親は、七月七日に至り、真実ぼう然と、なすすべを喪ってしまいます。同じブログの「七月七日の日記」が、初めて母親「絶望のさま」を表し
ています。この事実はじつに大きく、後に具体的に触れます。
六月十九日、ふじ乃が入院後三日の「mixi」に、知友の全てを驚愕させた「あす香=ふじ乃」の名による「白血病告知」が出ました。
2006年06月22日
05:04 あす香(=ふじ乃) みんなへ
長いこと更新しなかったことで
心配してくれた人ありがとう。
人生が逆転したかのような
この一週間。
ここに書き記すことをずっと迷っていたけれど、
やはり自分の記録として
今まで日記を残してきたこのmixiに
書き残そうと決意しました。
「白血病」
これが私の病名です。
今日以降の日記は
微力ながら
私の闘病記録になります。
必ずしも読んでいて
気分のよいものではないと思うので
読む読まないは皆様の判断にお任せします。
コメント等
返信遅くなってしまうかもしれませんが
力の限り努力するのでよろしくお願いします。
2006.6.22
この告知文の落着き払った「筆触」は、それ以前のふじ乃自筆の「mixi」日記とハッキリ異なっています。ふじ乃自身は「白血病と告知」されて、身も世
もなく烈しく動顛したことが母親自身の口から弟へ伝えられています。その際に「闘病記録」などという言葉がふじ乃本人から出るとはとても思われない。この
「闘病記録」なるものが、母親・櫻子の「発案」「願望」であったことも、同時期の弟・松夫へのメールで明らかです。後で示します。上の七月
一日櫻子ブログ
の文体と、そっくりなこと、誰の目にも明らかでしょう。
この「告知」は、いわば親が企画した「闘病記録」の「第一弾」として母親が「代筆」していたものと「推量」が十二分可能です。「文体」というものに馴染
んで学んできた作家として、そう思います。
とはいえ、ふじ乃が、友人知人へ「mixi」を用いて自分の置かれた事態を告げ知らせたかったことも、事実でしょう。友人知人こそ、ふじ乃の「支え」で
したから。
宛 先 : あす香
「MIXI」メッセージ 祖父・濤(=清家次郎)
日 付 : 2006年06月22日 10時19分
件 名 : いま読みました。
いま「mixi」読みました。 おじいやんは泣いています。診断は確かなのだろうかと、ウソであって欲しいと。
しかし泣いてばかりいられない。出来る限りをお互いに努めなくては。
「同じ病気」と闘っている人を知っています。日々、とてもとても慎重に、しかし今は大学を卒業してドクターです。親子してそれはそれは慎重に一日一日を大
切にしていました。この闘病は、細心の「注意と摂生」と聞いています。最良のドクターをママたちに探して貰いなさい。
いい主治医。この病気では、日々の指導にも気配りのいい主治医が大事な大事な鍵と聞いています。
疲労の蓄積。これが、最もよくない亢進へのひきがねになる。余分なムリはゼッタイにだめ。慎重ななかで日々安心して静かな心で元気にくらしてゆくことが
肝要です。我(が)をはらないで、我(われ)にも人にも素直に柔らかい気持で。
百まで生きなさい。しっかり生きなさい。 愛している。 おじいやん
この時点、祖父母にはまだ、孫の入院先も分からなかった。飽海家からは何の通知もなく、清家の祖父母にふじ乃のことは「報せない」つもりと、姉・櫻子は
弟・松夫に告げていました。
「何も伝えない、説明しない。排除。」
此処に、此の飽海の姿勢に「根」があったのです。「根」は飽海家で作っていた。「ふじ乃の病気に関する一切の説明も連絡も」、清家に対し一方的に「拒
絶」していました。
問いかけても、返辞もなかった。
仕方なく祖父母は乏しい情報から「推量・推測」しつつ、愛する孫の命脈を、身を揉んで憂慮するしかなかったのです。悲哀と憂慮の、その表現こそが日記
『死んでゆく、孫よ』です。
この著は、読めば分かります、「飽海に対する攻撃」の著述では全然ありません、「孫の死を」おそれ嘆き悲しみ書いていた「mourning
works=悲哀の仕事(精神医学の術語)」でした。久しい文学史の流れを汲んだ「日記」という文藝作品でした。引用は適切、そして憂慮と悲歎。飽海家
に、この著作を「名誉毀損」や「著作権侵害」で否定しうる立場も論拠も無いのです。
ふじ乃が「白血病」入院と清家に知れたのも、両親の連絡があったのではない。孫と祖父とが「mixi」の「マイミク(=親友)」関係であったから、先の
「告知」が機械の上で当然読めたのです。櫻子(ら)はそんな「我が娘(こ)と我が父」との親密関係をちっとも知らなかった。とうの昔からふじ乃・かや乃姉
妹が、親たちに秘して、祖父母と親交を回復していたことなど、両親はまるで気づいていなかったのです。そういう形で親は娘達からの批判を、厳しい「NO」
を浴びていながら気付いていなかった。「わたしには無関心なの」と、在りし日のふじ乃が祖父母に向かい、親の自分に対する姿勢を「要約」していたのは淋し
くも象徴的でした。
「mixi」がなければ、「マイミク」でなかったなら、祖父母は愛する孫娘の運命を知らされぬ儘であったろうという、此の「重大な事実」を、私たちは、
強く強く法廷に訴えます。
ふじ乃の病状や治療経過等々について全く秘し隠して、一片の説明すら飽海家が清家に対し拒んでいたことこそ、『死んでゆく、孫よ』をめぐる「軋轢の根本
の理由」であったことを、此処で、強く主張します。
3 提出されたふじ乃「入院後」医療資料の甚だ不備と重い疑点
原告から提出された資料は、
@「転科サマリー」(甲第二三号証) (青山女子医大病院入院翌日の、「急性白血病疑い」による「血液内科へ転科」
(07.06.20)に関するサマリー)
A 診療情報提供書(甲第二四号証) (06.07.05 青山女子医大病院血液内科都留由子(つるよしこ)医師より、横浜国立ガンセンター涸沼透
(ひぬまとおる)医師宛)
B 涸沼医師の都留医師への報告返答書(甲第二五号証) (06.07.10)
これら資料の日付よりみて、都合四十日近い入院期間(06.06.19─06.07.27)の、僅か「前半」だけ、白血病の疑いから肉腫へ「診断替え」
したことを伝えるだけ、の甚だ不充分なモノに過ぎません。
少なくも、最も問題にされている「mixi」七月七日「肉腫・告知」以降の医療資料は、一片たりと提出されていないのです。
まず、提出されている資料を点検します。
六月二十日、即ち入院翌日には「決定」されていた「血液内科転科サマリー」(経緯の大要)(甲第二三号証)は、「入院前の六ヶ月間、ほとんど何一つ有効
な医療を受けていなかった事実」だけを、明瞭に指摘しています。
ふじ乃自身の「mixi」日記も同じ事実を強く訴えています。両親が娘・ふじ乃の体調違和にほぼ全く何の手も愛も掛けていなかった、「目を離したまま」
であった事が、医師の目にも蔽いようがないということです。
ある東北地方の中学生が、「ふじ乃さんのお母さんは、その<責任の恐怖>を感じて」祖父母に対しいわば居直ったケンカを売っているのではな
いでしょうかと、メールを呉れています。ウエブ時代といういわば「判決の出ない裁判員」環境が、あたかも「広い世間」で機能しているのを窺わせます。ふじ
乃の「mixi」日記や、清家次郎ウエブ上の『死んでゆく、孫よ』は、当時、オーバーにいえば、グローバルな注目をあつめていたのでした。ふじ乃の、かく
のごとき死の進行は、いちはやく「専門書」にすら採り上げられ、論じられていたのです。岡村圭雄編『思想の身体: 死』(春陽社)参照。
「疑問」が一つあります。
入院翌日(06.06.20)には決していた院内血液内科への「転科サマリー」(甲第二三号証)が、資料中の日付から観て、「ふじ乃の死
(06.07.27)より以後」に書かれているという不自然さ。「六月二十日以降についての病状推移等」は、当然ですが「全く書かれていない」のに、で
す。
法廷に、また被告側に必要なのは、「六月二十日転科」以降死に至るの詳細な「カル
テ」「処置」等の資料ではありませんか。
無意味です。
「安楽死」をすら結果疑わせる「転科以降」の病状推移や輸血停止等の処置が、
日々の「カルテ」はもとより、何一つ提出されていない。
無意味です。
もとよりふじ乃自筆の、また、医師や両親の「インフォームド コンセント」も提出されていない。しかし七月二十六日に「事実上安楽死を意味」する「輸血
停止があった」という「mixi」上のハッキリした証言がある。虚言を書く必要の微塵もない、ふじ乃のお友達の真率で確かなこの証言を、我
々は
「mixi」上で聞いて、即「記録」しています。
多くの問題が「その前後にこそ集中」しているのに、これら原告提出資料は、全く何一つも「その時期・時点の事情」が説明・説得できていないのです。
一方、問題にされている『死んでゆく、孫よ』の多くの記述は、もと
もと祖父母等に対し最低限飽海が果たすべき「病状説明」等を、故意に与えようとしな
かった「無道と無情報」への「焦慮」にも発しています。肉親の情と理において当たり前のはなしです。
人として当然の推測・推量と、わずかな脇の情報によってでも、孫・ふじ乃の容態を気遣い祈るのは祖父母達の真情であり、それを阻害し蹂躙していたのは飽
海夫妻の、「子たる親たる非道」であるというしかない。その反省と遺憾の意が微塵も示されていないのは何故でしょうか。
ふじ乃は明らかに、両親の、「祖父母に対するそのような振舞い」を是認していなかった。祖父母に「見舞いに来て」「逢いに来て」とは、孫・ふじ乃の心か
らな願いであったことは、残されたメール記録は示しています。友人たちも、ふじ乃のその「意志」の強さに、逆に親への「NO」の強さに、驚きながら共感を
みせています。
次ぎに、都留医師と涸沼医師の交信(甲第二四、二五号証)を観てみ
ます。
いわゆる「セカンド・オピニオン」の取得のためなら、専門学に属することで私は介入しませんが、この「書簡」往来は何ら「セカンド・オピニオン」の要請
ではありません。
青山女子医大側がすでに「肉腫(alveolar rhadomyo
sarcoma)」(甲第二四号証)と「診断決定」した上で、国立横浜がんセンターへの「入院治療・転院治療」を要請したのです。そして拒絶されていま
す。がんセンターは「緩和治療」を青山女子医大病院ないしふじ乃保護者に対し「推奨」しています。
「依頼された七月五日」「答えられた七月十日」という日付に、注目し
ていただきたい。同時進行で日々記述されていた『死んでゆく、孫よ』日録の記事と照合
して、幾つか問題点が出てきます。
少なくもこの頃に、弟・松夫へも父・私へも、「セカンド・オピニオン」「サード・オピニオン」ないし「高度の受診・医療」について、親切な紹介の手が幾
つかさしのべられていました。即刻飽海夫妻に伝えていましたが、すべて無視され、何らのアイサツすらありませんでした。
「癌の場合、ワラをもつかめ」という通例を、この際故意に無視したの
も飽海の両親でした。これに対し批判や不満の思いをわれわれが持ったとして、当然で
す。「やすかれ ふじ乃 生きよ けふも」と祈り続けていたのですか
ら。
日記によって判然とします、七月五日には、まだ「白血病」は「なおる」というわずかな希望を、少なくも母親も、祖父母も持っていました。
ところで「大きな不審」が出てきます。
涸沼医師からの返答「転院拒絶、緩和ケア勧奨」(七月十日)がまだ都留医師の手に「届いていない」筈の「七月七日」早朝の「mixi」に、「告知 ふじ
乃」の題と名乗りとで、
私の病気は
白血病
じゃないそうです
肉腫
これが最終診断。れっきとした
癌
だそうです。近々癌センターなるところに転院します。
ふじ乃の未来はどこにいっちゃったんだろう…
という「mixi」日記が公開されています。
先にも云いましたように、青山女子医大血液内科の都留由子医師は、七月五日の涸沼透医師に対する依頼書(甲第二四号証)時点で、はっきり
「alveolar rhadomyo
sarcoma」要するにふじ乃は「肉腫」であると、すでに診断決定
しております。つまり、横浜国立がんセンターの涸沼(ひぬま)医師宛に「要請」したの
は、繰り返しますが「診断の確定」「セカンドオピニオン」をでなく、
たんに「入院加療希望・転院加療希望」を「打診」していたのです。都
留書簡(甲第二四
号証)には、「本人、家族も可能な限りの治療を希望されております。」と書いてあります。これが「七月五日」のことです。この家族「希望」は当然の事で
しょう。
七月五日は「水曜日」でした。都留医師の涸沼医師への依頼書は、郵送されたか親が持参して横浜がんセンターへ赴いたか、たぶん六日または七日に母親が単
独で出向いたのでしょう、患者は安易に搬送できる容態ではなかったのです。
しかしことは、案に違(たが)い、絶望的に立ち往生したことは、七月七日の母・飽海櫻子のブログ「おおまるコラボ」が明瞭に伝えています。母親は、ここ
へ来て初めて進退窮まり絶句したのでした。
もっともっともっと早くに、入院前に、よくふじ乃を看ていてくれたら。
櫻子によるブログ「おおまるコラボ」の存在を清家の私達が知ったのは、とうにふじ乃が「真夏」七月末に亡くなった年の「秋」半ばになってからでした。余
儀ないことでした。
壁だらけ [2006年07月07日(金)]
飽海櫻子・記
市内に散開している小さなグループの、高くはない壁を
越えられると思っていた。
なのに今の自分は、途方もなくとんでもない高い壁に遮られ
隘路に行きづまり迷走を強いられている。
長女は、幾つもの医療機関を「異常ないよ」と彷徨い歩いたあげく、
今の病院で
「急性腎不全」として腎臓内科に入院した。
間もなく
「白血病」に変更され、
同じ病院の血液内科に移された。
その科で化学療法のための病型特定をするはずが
調べに調べても、
「白血病ではないらしい感じ」を増強していった。
入院から二週間を過ぎ、とどのつまり
長女は「白血病でなく、肉腫」と診断違いが検められた。
肉腫の専門医はこの病院にはいない
(横浜国立=)がんセンターに転院してほしい……。
ところががんセンターに空いたベットがない。
がんセンターに日頃かかりつけの患者しか、
緊急入院は受け付けませんという。
おまけに今週末、肉腫の専門学会が札幌である。
どこの病院にも、「専門の責任者が留守になる」と、
長女のためには信じがたい事態が目の前に。
ともあれ「週があけたら」ご相談に乗りましょうと。
……それまでに、三日以上ある、
「相談に乗」ってもらえても、即転院の保証はゼロ。
ガンは心臓発作とちがう。救急処置でどうなるものでない。わかっている。
わかっていても、
「一般には」宣告されている余命の
一割以上を空しく待つ患者側の気持ちは底知れない。
泣く娘を抱きかかえ自分は途方にくれる。
この想定外の高い壁を、
自分はどう乗り越える? 分からない。
読むも哀れな可哀想な此の櫻子日記を、万事休して遙か後も後になり祖父母は読みました。もしあの真夏「入院後期」にこの母の歎きを打ち明けられていて
も、もはや私達に何が出来たか分からないにせよ、われわれは我が娘・櫻子を慰め支えて奔走することを微塵も惜しみはしなかった。残念残念です。
この七月七日櫻子日記には、ふじ乃が「幾つもの医療機関を「異常ないよ」と彷徨い歩いたあげく、と認識していますが、途方もない間違いを犯していたこと
に、母親は「まだ気づいていない」のです。
直視すべきは頼りない医療機関の「異常なし」ではなかったのです。
娘・ふじ乃の半年間の全心身から飽海の両親がまるで「目を離し、ろくに心配もしていなかった」こと、それが、この安易極まる語句と認識とに「露呈」して
います。挙げ句の入院にも、「異常」が把握されて安心「よかった」と云わんばかりの「七月一日の櫻子日記」は、先に見たとおりです。咎められて仕方ない
「親の無責任」「怠慢」がはっきり出ています。
さて、七月十日に、たぶん母親の面前で書かれたろう涸沼医師の都留医師への返答
(甲第二五号証)はこうでした。
入院も転院も「NO」、病状は極度に宜しからず、「ご本人が、緩和、Supportive care
にも理解がおありのようなら、緩和主体をおすすめしたいと思います」「とお話ししたところ、御理解いただきました」と。
これが横浜国立がんセンター回答の、二の句の継ぎ手もない「結論」であり、母・櫻子は、或いは飽海の両親は、七月五日時点での「可能な限りの治療を希
望」から、即座に断念して「緩和主体」に「理解」を切り替え、青山女
子医大病院へ回答書を持ち帰ったと読み取る以外に読みようが無いのです。
あい次いだ父や弟からの「医療支援の情報」も全く顧みず、「藁をも掴む」「可能な限りのがん治療」に賭けるべき親が、「ただ一度」の涸沼医師との「たぶ
ん面談だけ」で、全てを早々とかなぐり捨てていたことになります。
4 驚愕の事件でした。櫻子による「肉腫」告知
ところが実はというと。
涸沼医師の回答も待たず、「七月七日早朝」の「mixi」に、なんと! 「わたしは肉腫」と、「ふじ乃」の名で広く告知されていました。まさか、患者本
人が告知!?? 何故こんな告知を!?
ふじ乃にとって此の、あまりに「酷い病名告知」を、そもそも「誰が」年若い患者にしたのでしょう。医師達でしょうか。親でしょうか。
母親自身が告知したと、櫻子本人が、語っていました。
「肉腫」は、癌のなかでも最も凶悪です。がんセンターの返辞も待たずにそんな病名を母親が娘に告知し、それを広く「mixi」で公開すべきいったいどんな
必然性が、理由が、目的が、あり得たでしょう。まだ転院の「相談」最中に。
こういう行為を敢えてした理由の一つは、七月五日か前日六日のうちに、既に医師から親へ、「肉腫」という「診断決定」が伝えられていたからです。そして
事もあろうに、「動揺と絶望の極」にあった「未成年の患者ふじ乃にまで母が告げてしまった」のです。
この七月七日早朝に、ふじ乃が上のような「肉腫告知」を、上記のような「冷静な筆致」で「mixi」の友人知人達に自身で告げ得た・書き得たと思える
「誰が」在るでしょう。誰の目にも思いにも、この筆つき・もの言いは「不自然」きわまりない。告知の「筆致」をよく読み取って戴きたい。ふじ乃にはとても
書けなかったであろう傍証も、以下に、さらに後でも具体的に明記します。
白血病なら持てた生存の期待を、肉腫は一分一厘の希望もなく打ち砕くのです。それをうら若い患者は母親の口からいきなり聞かされたのです。
涸沼(ひぬま)医師の言葉はこうでした、「御本人」に「理解がおありのようなら」と。
涸沼医師の前で「御理解」を示したのは決して「患者のふじ乃本人」ではなかった。母か、父か、両方か、とにかく「死病に恐怖していたふじ乃」のあずかり
知らぬ「理解」でした。
この「七月七日」にふじ乃を見舞っていた大親友が「目の当たりにし
た」ふじ乃「絶望」のサマは、痛ましくもあまりに雄弁でした。この日の皆に「会いた
い」メールは母親独断のアピールでした。
二○○八・七・七 清家宛メール (再掲)
「二年前の七夕の日(=二○○六・七・七)、ふじ乃に会いに行きました。ふじ乃はその日、気分が落ち込んでいて、全く会話が出来ませんでした。一方的に
私が話すだけで、ふじ乃の心は私にはありませんでした。自分の事で精一杯だったと思います。
肉腫と分かった日でしたから。
ふじ乃は疲れ切った様子で、目も合わせてくれませんでした。その日、沢山の友達がふじ乃を見舞っていました。ふじ乃は会いに来て、と言ってくれたけれ
ど、私は病院に行った事を後悔しました。
弱りきっていたふじ乃にとって、大勢の友達は毒だった気がしました。ふじ乃に気の毒な事をしたと、悔やんでいます。
私がお見舞いに行った中で、この日が一番ふじ乃の心が辛そうな日でした。」
この「証言」の前で、さきの肉腫を報告する「告知 ふじ乃」の一文の、口調の、冷やかなこと。動顛し慟哭して親友の見舞いに目も合わせられないふじ乃
に、あんな「自筆告知文」の書けるわけはなかったのです。
さて、「甲第二三号証」転科サマリーの「ノンブル」に目を留めて下さい。活字体の「1/1」とは「転科サマリー」がこの「一紙」で尽くしていることを示
しています。が、その下に、手書きで「2」とある。
提出された本資料全部に徴して、他は「1−@」「1−A」また「1」「2」などと正確に枚数を追っていますのに、ここには「1」が欠け落ちている。
もともと病院から入手して此処に加えるべき一枚めの記事が、故意に提出資料から「隠されている」のではないですか。「緩和治療」に入って以降、死の転帰
に至る病院側医療行為の全容が、説明が、欠け落ちた手書き「1」資料に含まれていたと観られます。
資料全部の、作為されていない「誠実な提出」を望みます。
以上
5 以上を通じ、
原告達は、親の責任と愛において、ふじ乃入院前に、実は、適切な何事も果たしていなかったこと、
入院後にも、適切な連絡や説明を清家の両親や弟に対し全く欠いていたこと、
は明らかです。
それらにより、ふじ乃「死後」に、同じ肉親から「批判」を受けたことは、家族間の心事として決して不当でなく、むしろ原告達に、異様に両親への情理をふ
みにじる無道のあったこと、明白であると主張します。清家側に「ふじ乃」の死にかかわる名誉毀損など、全く存在しないと主張します。
正当な文学著作出版物である『死んでゆく、孫よ』(「次郎の本エッセイ」第39巻)への不当な攻撃も、言論表現の自由と権利を侵して、論拠のない居直り
に過ぎぬと主張します。
(二十) ふじ乃日記引用の至当かつ必要であったこと。
1 すべて妥当に適切に引用しています。
ふじ乃発病の「前期」を決定づけていたふじ乃の「mixi日記」引用に関連し、新ためて私の考えや、実例を申し述べます。
文章表現による論策や創作や叙事に「引用」の入るのは、あらゆる人文学でも自然科学でも通有のこと、疑う人はなく、必要なのは、「適切な引用」であるかど
うかの配慮であります。適切と謂うには、量的配慮と、内容上不当に侵害しない配慮とがあります。
私は小説・詩歌の創作と同時に、評論・論考等の公表もし、これまでほぼ半々に執筆してきました。私版の全集『次郎の本』でいえば、創作が52巻、エッセ
イ(評論・論文・随筆等)が48巻という現在です。そして「引用」によりクレームを受けた例は(原告例を除いて)一例もありません。
ふじ乃の「mixi」日記ですが、「マイミク」同士になった平成十八年二月二十五日、すでにお互いの日記について「引用の制限も不可も無い」という信頼
の口約束が出来ています。「おじいやんは、ふじ乃と限らず、いい文章や心に残る記事だと了解を得てホームページに紹介するのだがね、ふじ乃もいいかね」と
確かめ、むろん「オーケー」を得ていました。
私はふじ乃とだけでなく、メール等を交わす相手とも、可能な限りこういう口約束ないし「引用許可」を受ける慣習と平生厚誼の用意をもっています。広く知
られていますように、私のウエブ日録に数多い他者文章の引用があるのはそれ故です。個々こまやかに迷惑を掛けない配慮を重ねています。
ふじ乃とも例外ではありません。
それ在るが故に、またそれ無くても、あの場合当然そうしたでしょう、「mixi」での「白血病告知」を見るや、直ぐさま、私と妻とが必死に取り組んだ作
業は、機械で読み取れる限りの「飽海ふじ乃・全手記・日記」を、正確に残りなく「記録・保存」することでした。
ひとつには、入院により、病状の進行によってふじ乃日記が自動的に「mixi」当局の手で解消されてしまったら、と懼れました。
愛する孫の、生きて生き生きと書いていた「生命の足跡」があまりに愛おしい。惜しい。そして、「なぜこんな病気になったのかの足跡・記録」がウヤムヤに
消えてはならないと思ったのでした。
ふじ乃の「mixi」日記を、飽海両親は、ふじ乃から「親が相続」したもの、祖父に用いる権利は無いと申し立てているのかしれませんが、血縁間の情理ま
た事理において、飽海が尊崇のルソー曰く、「徳」のある「人間的」な申しようとは思われません。
ふじ乃は、「近過去」に至って、すでに離婚の危機の迫った両親に事
実上背き、祖父母との喪われていた親交を、あたかも親たちへの「NO」の「批評」と
し
て一気に復活させました。ふじ乃が祖父母を愛し、好きで好きで大好きであったとは、ふじ乃の親友が自らの意志で明かしてくれています。
私が『死んでゆく、孫よ』に、何故、ふじ乃の日記を引用したか、なぜ一部を太字で強調などしたかと問われていますが、私が、自分の文筆という職業と、祖
父と孫という血縁信頼の愛とで、もし適切に記録し書き留めておかなかったなら、「孫・ふじ乃の生きの証跡や命の輝き」は、永久に消え失せてしまうからで
す。文章・文意の侵害ではなく、単に太字強調のような実例なら、一般にも見受けられると信じられます。
申し上げますが、飽海家の両親はあの入院の際に、ふじ乃の厖大な日記を一日一日分「mixi」から別に保存している時間も余裕もなかったでしょう。
「mixi」会員だとも知らなかったのですから。
さらに平成十八年七月一日の母櫻子のブログ日記をみれば、ふじ乃の日記を全保存するといった「気」にもなってなかったのが分かります。ふじ乃が入院前の
全日記を、ふじ乃「生涯の絶対資料として克明に別保存」したのは祖父母当然の配慮で、万一消失してしまえば、ふじ乃の「生存と思想」とを証明する、肉親や
知友には貴重な重要資料が失せて無くなってしまうのです。
祖父母が、ふじ乃日記を懸命に保存し消失の危険を阻んでおいたのは、明らかに、いつか両親の思い出のよすがとなり、役に立つであろうという「当然の配
慮」もあったのです。そういうことが、その親を平然「被告席」に立たせるような飽海夫妻には、理解も推察も出来ないのです。
そして、親が子から相続した日記を祖父母が用いるのは法的に著作権違反で損害賠償に当たるなどと飽海夫妻は言っている。血縁の情理に背いた、没義道(も
ぎどう)な恥ずかしいことです。こういう主任児童委員だの、ルソー教育論の信者だの、なんという精神の歪んだ偽善者であるかと情けなくなります。
もとより飽海がふじ乃の日記を両親が「相続」したというのも、当然ふじ乃「死後」のことでなければなりません。七月二十七日以前の日記引用は、量的質的
ともに、「mixi」会員に「全公開」されていたと同時に、あらゆる意味で「ふじ乃との約束内」であり、両親の抗議の当たらないものであります。
またたとえ飽海ふじ乃没後といえ、その引用は適切に許された範囲内であることは明瞭です。日記全量がいかに厖大かをよく知る私は、これらから、更に特に
「病悩日記」を直ちに選択編輯し、それによりふじ乃罹患の「前期」が、どんなに孤独で無惨な苦痛に満ちていたか、その「不動の証拠」とし得たのです。飽海
両親も現にそれを読み得ているのです。両親ものちのち読んで「思い致すように」というのが、また父・私の配慮でありました。
『死んでゆく、孫よ』に、ふじ乃の病悩日記が分散引用されているそれぞれの分量は、全部の「mixi」日記等総量からみて微々たるもので、量的にも質的
にもなんら問題のない引用範囲に止まっています。
『死んでゆく、孫よ』は「日記文藝」として作家・清家次郎「全集の一巻」を占めています。「文藝」の効果的な表現諸行為にあって、引用中の主旨強調のた
めに断って一部を太字にする配慮行為は、字句の勝手な変更や変改でないかぎり、問題ないとされています。「文学・文藝」の慣習に相当します。
著者の意図や意思を問題に厳格なことを謂うなら、そもそも著者の原文からただ単語レベルの極小一部分をトリミングしてモノを言う方が、むしろ「引用者」
自身の好都合である場合が多い。そのような方法はよほど適切でないと恣意に流れやすく、かえって論評の基盤が崩れやすくなります。飽海夫妻が名誉毀損の例
証と挙げるいわば「片言隻句」依存ないし「漠然と何も彼も」などは、恣意的で論理を欠いた適例と謂えましょう。飽海の名誉毀損申し立ては、大風呂敷で漠然
と包んだり、脈絡なく単語だけを拾ったり、感情的な恣意に満ちています。
また、ふじ乃の生存中に、母親がふじ乃の名でふじ乃の携帯で、「mixi」にたとえば「白血病」「肉腫」の告知文などを書いてしまうことがあれば、その
方が「当人の権利」を侵害していて「悪用」とも謂えるほど問題が多いはずです。
いずれにせよ、ふじ乃の「mixi」日記の引用等は、孫と祖父との、親の関わり知り得なかった親愛と信頼とのもとに諒解し合われていた事実であり、なん
ら問題とする隙間はないのです。
それよりも以下の日記たちの、何を証言しえているか、その凄まじさは言語道断です。しかも親たちにふじ乃の「訴え」は全く届いていなかった。敢えて此処
にもう一度披露せずにおれません。
2 ふじ乃の苦痛・孤独・自覚に満ちた「mixi」日記の例示
(「陳述」の徹底のために敢えて前出分と重複を恐れず飽海ふじ乃「病悩全日記」を証拠資料として掲示したい所ですが、此処では、やはり前出分との重複を避
け、最小限度の例示にとどめます。)
2006年1月11日11:18 痛。
(前半・前出)
(以下、一昨昨年、ふじ乃関連の「mixi」日記です。)
時間がほしい。
負けたくない。
誰にも負けたくない。
何も生み出さない
意地とプライド。
ただただ過ぎ去った19年もの歳月。
怖い。
恐ろしい。
自分に負けるのが一番嫌。
☆ もうこの時、明瞭にふじ乃は体調違和を自覚という以上の、深刻な恐怖に襲われていたようです。十九年の歳月を顧みながら、未来を「取り返したい」と少
女は深く願っています。
2006年2月20日05:39 早朝から深夜まで
今日は
急遽夜もバイトということで、
もちろん
早朝バイトは今日もあるわけで、
つまるところ、
本日のワタクシの活動時間は
起床する朝(?)3時半から
帰宅する夜0時半
ということになります。
驚異的(*_*)
がんばりま〜す★
☆ なんでそんなにと尋ねても「大丈夫です」と。そして「親を離れて自立したいんです」とふじ乃は切望していました。若い子にありがちな希望と、祖父母は
笑って家を出る話には取り合いませんでした。いろんな理由を付け多め多めに小遣いをやりました。ふじ乃のためにと五百円玉を溜めていたのが恰好の袋に百数
十枚にもなっていたり。ふじ乃は友達に見せて喜んでいたそうです。
2006年4月9日16:58 変な一日。
痛いながらも、
毎日外出しているあす香(=ふじ乃の「mixi」ネーム)です。
電車の中で涙目になることもしばしば。
哀れみの目を向けられることもしばしばwww
2006年5月19日04:41 うぎゃぁ
世の中の流れって残酷ね。
多=正
な世の中は永久に続くのかしら?
☆ ふじ乃が「罹病前期」の言語道断な病苦の歎きは、たくさん、前に示しましたので重複を避けます。以下は「入院後期・死まで」です。「あす香」でなく
「ふじ乃」であることに、要注意。
2006年06月28日 02:54 夢 ふじ乃
自分のやりたいことが、自分の思うように自分でできないって、こんなに悲しくて悔しいことなんだ。今まで、自分がどんなに、たいした病気もけがもせず、
恵まれて生きてきたのか、思い知らされた。
こうやって、みんなに励まされながら思うことは、みんな、想像以上に多くの人が、今までけがや病気と闘ったことがあるんだなっていうこと。
「私だけ」なんかじゃないんだな。
頑張らなきゃいけないんだなって。
今までずっと、同じ夢見続けてきたから、今、こんな体になって、それが叶えられるような体に戻れるか、すごく不安でしかたがない。自分の特技や経験を全
部集めて叶えようとしてた夢だから。
だけど、こうやってベットの上で病気と闘うことにも、何か意味があるのだと信じて、きっとこの経験も何かに生かせる日が来るんだと信じて、闘っていかな
きゃいけないんだと思う。
今、多くの人に助けられて生活している。私は丸裸の心一つでベットの上に寝ている状態。気持ちだけが自分のもの。その中で、見たこと、思ったこと、精一
杯みんなに伝えていこうと思う。
これからもよろしくね。
2006年07月03日 18:05 命の重さ ふじ乃
私が
ただ普通に生きたいと思うことが、
こんなにも多くの人を
巻き添えにしなくちゃいけないことだなんて
思ってなかった。
家族、友達、医者…
ただ普通に生きたいだけなのに。
感謝の言葉すら言い切れなくて、
悔しさばっかりたまっていく。
一つの命が
自分の力で生きていけなくなったとき
そのたった一つの命に
一生懸命になってくれるみんなの重さが
命の重さなんだと思う
命は決して自分だけのものじゃないんだよ
☆ 私・清家次郎は、永くこれらを「ふじ乃」自身の「mixi」日記と読んできまし
たが、「文章」「口調」つまりは文体を御覧下さい。「白血病」と想って
いた時期の文ですが、病苦に呻くふじ乃本来の文章でなく、これは健康者の落ち着いた
行文であり、しかも母・櫻子の文章にはるかに近い。その確証になるのが
「ふじ乃」とある名乗りです。ふじ乃自身は、「mixi」の慣例にいつも随って四月九日のそれが明記しているように、自分のことはハンドルネーム「あす
香」を常用し、本名を公衆に明かすことはしていないのです。「mixi」に疎かったらしい母・櫻子にはそれがアタマになく、自分が代筆し作文したとき、反
射的に「ふじ乃」と書いているのでしょう、しかし「あす香」名義で付き合っている「mixi」会員には「あす香」でない「ふじ乃」の名乗り
はかえって分か
りにくく、戸惑ったでしょう。
なぜ、こんな代筆の作文を母・櫻子は必要としたのでしょう。「闘病記録」を自身で用意していたとしか想われないのです。次の「会いたい」もそうです。ま
ことにモットモなふじ乃の気持ちを代弁したようですが、日付を御覧下さい。七夕の七
月七日は、「肉腫」と「ふじ乃」の名で「mixi」に告知した当日で
す。ところが「会いたい」と聞いてこの日この時刻近くにかけつけたふじ乃の友達は、目も見合わせず落ち込んで、惨憺たる親友の有様だったの
を実感豊かに具
体的に証言(前出)していました。「肉腫」です、ふじ乃は可哀想に震え上がって泣いたのです、「会いたい」どころか。ところがこんな体温の低い「告知」が
「mixi」に出たのです。
2006年07月07日 07:58 告知 ふじ乃
私の病気は
白血病
じゃないそうです。
肉腫
これが最終診断。
れっきとした
癌
だそうです。
近々癌センターなるところに転院します。
ふじ乃の未来はどこにいっちゃったんだろう…
2006年07月07日 14:31 会いたい ふじ乃
親友に会いたい
友達に会いたい
先輩に会いたい
後輩に会いたい
先生に会いたい
みんなに会いたい
最後の土日に
みんなに会いたい
☆ 「肉腫」と母親に告げられた、これが、ふじ乃の文章でしょうか。しかも「最後の
土日に」とは何を謂うのか。すでに「死」を覚悟したかのような意図不明
な知人達への「煽り」になっています。不可解。「嫉妬でいまにもおかしくなりそうな / 一人の醜い身体でしかない。」何という酷いことを!
2006年07月08日 19:20 嫉妬 ふじ乃
私の命は私だけのものじゃないけれど、
痛みや苦しみと闘うのは私しかいない。
矛盾。
うらやましい。
動けることが。
生活できることが。
私の下半身は
しびれて思うように動かない。
私の胃も腸もまともに動いてくれない。
管が増える。
もうここにいるやす香は
みんなの知ってるやす香じゃない。
嫉妬でいまにもおかしくなりそうな
一人の醜い身体でしかない。
2006年07月10日 01:32 夜 ふじ乃
夜が嫌い
必ずおいていかれる夢をみる
歩いても走っても
絶対に追い付かない
夢でも管に繋がれ、
食べたいものも食べられない
そんな夢を見る夜が大嫌い
☆ みごとなと褒めたいほどの「代筆」の「作文」なのが分かります。こう「あす香」
でない「ふじ乃」名義の「mixi」日記を並べてみて、連日連夜の苦痛
に疲労困憊のふじ乃自身の気力・体力では書けようわけのないまさに「作文」と分かります。文体は偽れないのです。
ふじ乃に書けたのは、「ふじ乃」とは名乗っていない、かろうじて次の二つでしょう。
2006年07月10日 08:09 タイトルなし
生きたい
2006年07月13日 19:23
今日はね 大変だったの…。体力消耗〜
☆ いま、私・祖父の清家次郎は、なぜ此処に、こういうことを「書く」のか。
相手を刺戟し、相手に手の内を明かし、「みんな父さんの損になるよ」と息子も妻も言いますが、そんなことは百も承知。
私は「物書き」以外の何者でもなく、それしか生きる道も処世の道ももたない。書いて人の胸にうったえる以外手はない。それが法にかなうかなわぬは、知ら
ない。内なる私が、この私に「書いてうったえよ」と、真率、奨めることは書くのです。
賢いことでないと言われても、「賢い」というのはそんなに尊いことかと思っています。此処で、もう一度ふじ乃に聴こうと想います。まだ「罹病前期」の三
月上旬に書かれています。ふじ乃の声です。
2006年3月07日16:36 back to the future?
未来を向いて生きることって
すごく難しい。
だって未来は見えないから。
でも私たちは
いつまであるかもわからない
そんな未来を向いて
生きなきゃいけない。
過去を振り返るのはすごく簡単。
だって過去には
明確なビジョンがあるから。
どんな過去だろうとそこには
実際に起こったこととしての
記憶がある。
だから後悔したり、
こうだったらよかったなぁって
記憶をもとに
夢を描くことも簡単なんだ。
でも私たちは
未来を向いて生きなきゃいけない。
夢は未来に描かなきゃいけない。
どんなに不安でも、
どんなに怖くても、
生きなきゃいけない。
私は生きる意味なんてないと思うんだ。
…というか
あるかないかは人それぞれ。
夢をかなえる為に生きる人、
人を愛する為に生きる人、
ただただ楽しむ為に生きる人…
生きる意味をみつけるために生きる人。
そんな目的もみいだせなくて悩む人。
意味なんてない。
ただ生きてる。
それだけ。
だけど私たちは
自分じゃない人=他人と
必ず関わって生きてる。
家族、友達…。
誰かに愛されて生きてる。
誰かに必要とされて生きてる。
生まれてきた時点で
誰かにお世話になって、
誰かの力になってるんだ。だから生きなきゃいけない。
例え今私が死んだって地球は回るよ。
そう思ったら、
自分の存在なんてものすごくちっぽけなもので、
虚しくて壊れてしまいそうになる。
だけど、
生きたくても生きられない人がいっぱいいる。
生きててほしい人に
死なれてしまう人がいっぱいいる。
そんな人たちを前に
自分の命を粗末に使うことは
私にはできない。
生きなきゃいけないって思うんだ。
それに、
私には大好きな人がいっぱいいる。
みんなにも大好きな人がいるでしょ?
その人が
自分が死んで悲しんでくれるかはわからないけど
少なくとも私はみんなとまだ別れたくない。
どうしても生きなきゃいけないなら、
たとえ未来がわからなくて、
どんなに不安で
どんなに怖くても
明日、今の楽しさが
虚無感にかわっても、
それでも今を楽しむ。
今を大切にする。
どんなコトしてたって
必ず明日に繋がるんだから。
寝てるだけでも
体力温存になるんだよ(笑)
☆ ふじ乃が祖父母のもとへ遊びに来た或る日、祖父はこの大学生の孫に、はじめて「世間」「他人」「身内」「自分」という考えを話しました。ふじ乃は涙を
いっぱい浮かべて聴いて頷いてくれました。
上の日記には、温かいふじ乃のハートが生き生きとまだ脈打っていて、この上ない遺言をすでに成しています。ふじ乃は怖れていました。怖かったのです。し
かも人の上を想い真実の「身内」をもとめて「生きたい」と願っていました。
3 以上を通じ、今一度言い切れること
@ 原告達は、親の責任と愛において、ふじ乃入院前に、実は適切な
何事も果たしていなかったこと、
A 入院後にも、適切な連絡や説明を清家の両親や弟に対し全く欠い
ていたこと、
これは、責めるというより、「事実の指摘」です。
しかも飽海の両親に自責の念なく、自責の言葉もなく、「前期・後期」通じて何から何まで娘・ふじ乃のために「十分にした」のに、祖父母は名誉毀損を敢え
てして両親を責めるなどという訴えには、人らしき「実=じつ」というものが無い。まして死なせた娘に代わって孫の名で祖父母から千数百万という「賠償金」
を取ろうなど、鉄面皮と謂わねばならない。
それら心ない仕儀を咎められ、ふじ乃「死後」に、同じ肉親・血縁から批判を受けたことは、家族間の心事として不当でなく、むしろ原告達に、異様に清家両
親の情理をふみにじる無道があったのです。ふじ乃に対しては言うまでもなく、その両親=娘夫妻に対し父・清家次郎に「名誉毀損」の行為など無かったことを
被告は強く主張します。
空疎な美辞麗句にまぶして隠し通したふじ乃「後期」の死の「実状・真相」は、何一つ被告側にも法廷に対しても明かにされていません。
私たちは「それ」を、問うてきたのです。その問いに答えぬまま、祖父母がふじ乃最期の生と死の尊厳を踏みにじった、謝罪せよなどと居丈高なのは、人間と
しても、娘・婿としても、人道に悖る暴言でありましょう。
正当な文学著作出版物である『死んでゆく、孫よ』への不当な攻撃も、かくて、全く論拠のない、自責の思い些かもない「居直り」に過ぎぬ、「言論表現の侵
害」に過ぎぬと私は言い切ります。
4 私と「医療」に関わる職業体験等、そして私たちの情けなさ
飽海たちを、「人格障害」と、私たちが名指し指さしたことは一度もありません。専門の医師の口から「疑い」として出たことはありましたし、その方面に詳
しい読者からも「疑われている」ことはありましたが、幸か不幸か、私は精神医学のその方面の知識を持ち合わせません。
但し、「肉腫」については、またその余の医学・看護の分野では、最大手の医学研究書出版社の管理職編集者として、編輯にも出版企画にも十分豊富な体験を
持ち、自然、普通の人よりは見聞が多かったとは申せますでしょう。もっとも私の主なる担当分野は、小児科・産婦人科・消化器・循環器・公衆衛生などでした
が。
ただ「肉腫」の怖さについては、櫻子本人は忘れているか知れませんが、娘が滑り台から落ちて骨折し東大整形外科に入院しましたとき、病室をともにした隣
のベッドに、ちょうど亡くなる頃の今のふじ乃か心もち若いかという少女の診断名が「肉腫」でした。その、癌としての怖さを看護婦にも囁かれ、恐怖心から関
心をもったこと、少し調べたり医師に聞いてみたりしたこと、もありました。
しかし肉腫は、今日の医学でもなお症例数少なく、真の専門医といえる医師も少ない、じつに難しい怖い病気であることは、否みようがないのです。
だからこそ、「やすかれ ふじ乃 生きよ けふも」と「祈る」しかありませんでした。
そう孫のため祈る祖父母たちを、その祈りのゆえに「殺してやる」と電話口の傍で叫んでいた櫻子(夫・飽海専太郎からの即座のメールに「明記」されていま
す。)は、文字通り常軌を逸し乱心していたというしかありません。(『死んでゆく、
孫よ』293頁参照)
もしふじ乃を「救い得ていた」とするなら、文字通り、あの平成十八年二月から、六月入院の以前、私の謂うふじ乃「罹病前期」中にしか無かったのです。
あの時期に、親二人が四つの目をしっかり親らしくふじ乃に向けていて、少しでも早く適切な診断と対策を得ていたなら、「或いは、何とか」とも祈り得たで
しょう。
そこが、飽海たちへの我々の「遺憾」であり、同時に、いかに「没交渉」とはいえ私たちから、どうかして親に告げてやれなかった至らなさへの「自責」でし
た。「死なせてしまった」とは、なにより祖父母我々の気持ちでした。
なんでその自責が、親たちを「殺人者呼ばわり」したことになるのか、情けなくなります。
誰よりも早く深く、その「自責」は、親たち自身のものでこそなければならなかったのに。
この一両日も、妻とつくづく話しました。
われわれ両親とともに此の世に生きたくない、不倶戴天だという櫻子は、そして飽海専太郎も、かつて一度もこの「死なせてしまった」ふじ乃への「ごめん
ね」の一言を出していません。聞こえてきません。何より真っ先に「それ」ではなかったかと思う。それがあれば「親を訴える」などと謂う暴挙は出てこなかっ
たでしょう。
それなのに自分のしたこと、しなかったことへの「責任の恐怖」(一般の一中学生読者の櫻子に対する指摘)を押し隠そうと、ひた隠そうと、両親を逆恨み
し、法廷に引き出し、躍起に損害賠償を申し立てるなど、じつに不可思議な、やはりこれが「人格障害」というものなのかしらんと惘れるばかりです。
「裁判など本当に不毛です。」
一昨年の八月七日にすでに一読者はハッキリそう書いています。
ふじ乃を喪って櫻子たち可哀想にと親は心から思っていても、彼ら飽海夫妻は、親たちによって自分たちの「法」の権利を冒されたとしか「言葉」が無い。な
んと心貧しいか。そして損害賠償金をひたすら正義の名で言い募ってくるとは、やはり此の世は修羅かと思わずにおれないのです。
(二十一) 櫻子の常軌を逸した「演出」意識
1 尋常でない母親の感覚
今少しこの点で、さよう、娘・櫻子の、ふじ乃死に至る「前・後期」を通じての
言動に過剰なものがつきまとい、独り芝居、作為の演出という面が出て
いたこ
とを、具体的に申し述べてみます。
そもそも母親・櫻子は、ふじ乃が入院したとほぼ同時に、すでに「闘病記録」の出版
または映像化を考えており、テレビ脚本家でもある弟に相談を持ちかけて
います。メールが残っています。娘が癌におかされた際、ふつうの親の神経では、こういうことは考えつきもしないものです。その意味では、後日に表明されて
いた自分の「命に替えてもふじ乃の命はまもってみせます」という叫びの方がずっと自然なのですが、結果として母親の志向は、「娘・ふじ乃は、死を受け容れ
ました」聖者のように「安らかに」死んでいきましたと、力点が大きくすり替わって行きます。そして通夜や葬儀が、櫻子の言葉通り「ふじ乃生涯の晴れ舞台」
だとまで異様な興奮へ亢進して行きました。
一方祖父は、一日も欠かさずホームページに「私語」を日録しています。後に編成された『死んでゆく、孫よ』は、あとから企図し書き起こされたモノでな
く、十年一日日々の事実の記録から成ったもの。ツクリ
モノでは全然ないのです。
2 あまりに異様な母がふじ乃への病名告知
これまでも繰り返し申しましたが、医師でない母親が、患者である娘に「肉腫」という「病名を告知」してしまう無惨さが、普通でない。「知らせない」まま
「緩和ケア」で静かに死に導く優しい配慮が自然で当然でしたろう。病院側はそう願ったでしょう。少なくも私の知る限り医療の関係者は、口を揃え、「母親が
率先患者に肉腫を告知」した事実に驚愕しています。私の主治医など絶句しました。
それであるのに、「死への闘病記録を映像や活字に」したい母親の気持ちは、愕きを誘います。
ただし、「希望こそ延命」といわれる癌の場合、そういう「患者の励ましよう」のあることも理解できます、が、それとて「白血病」どまりでしょう。「肉
腫」では…。
下記の飽海櫻子の、弟・清家松夫あてのメール(=受信日時:2006/06/23 7:10:47 東京
(標準時) sennichite@hotmail.comからの引用:)は、母親の異様な感覚にふれて多くを解き明かしてくれています。
書き出しから、櫻子が、孫と祖父との「mixi」マイミクであること、ふじ乃の苦痛を何ヶ月も以前から祖父が熟知し案じていたことを、まった
く「知らなかった」のが分かります。ふじ乃の「白血病」を私はそれ以前に「mixi」を介し知っていたのです。
櫻子は言っています、「今、ガンは不治の病ではなく、長くつきあっていく慢性病だ」と。「再発しながらでも、『生きていく』病気だと、理解しています」
とも。傲慢とさえ謂える甘さです。
> 最初、ふじ乃の「カミングアウト」はある種のヒステリー症状でした。
> ともかく片端からいろんな人に電話やメールで病名を告げ、
> 絶句したり、泣き出したりする友達を逆に慰めたり、
> ジョークにしてしまったりするハイテンションな対応を続けたあげく、
> 一段落すると、もう死ぬと泣き騒ぐというような感じでした。
そして、「
私は今、ふじ乃を見ていて、例えば、100人に病名を告げ続ければ、『白血病』が『風邪』と同じ単語になる、というようなイメージでした。
(弟松夫に向かい=)わかるかなあ・・」と。
櫻子がふじ乃の「致命的な真の容態=肉腫」にまるで想い及ばず、恐怖のかけらも持ち合わしていなかったのが、ムリからぬことですが、よくわかります。
「自分だけが不幸」という「告知の第一反応」をふじ乃が「克服しました」などと櫻子は気楽に楽観していますが、ふじ乃がその後もメール等で呼びかけていた
ように「不安のどん底」にいたことは分かっています。母が病室から帰宅した真夜中に電話で祖父母に烈しく泣いてきたこともありました。
ところが母・櫻子の曰くは、こうなってきます。
> 正直に言うと、ふじ乃の気を引き立てるために、
> ある企画をしました。
> つまり、世の中にいっぱいある・・白血病、過酷にも美しい「死への道程」・・・路線ではない、
> 「ハッピーエンドな闘病ドラマ」です。
> 無菌室のカーテンに遮られた純愛ではなく、
> ネットを通じて、枕元に直接届くメッセージであったり、
> 面会時の精一杯の作り笑いではない、
> 苦しいときは苦しいと発信するブログであったり、
> そして、現代医療に、何ができて、何ができないか、
> 自分の病気が、いつも「悲劇的死」と同義に語られることに苦痛を感じていた
> 絵門(ゆう子)さん(=癌闘病の発信者)のような、多くの「希望」と生きている患者たちの思いを
> 等身大に発信しようと、ふじ乃に言いました。
> うまく書けたら、松夫(=叔父)がドラマにしてくれるかもしれないよ、といったら、すごく
> 喜んでいました。
ああ、しかしふじ乃は、自分の病を「企画」で売りたいそんな幼稚な子ではなかったのです。
櫻子は言います、
> こういう引っ張り方は、ある種演劇的で
> アンフェア風に言うなら「品のない」対応だろうと思いますが、
> それでも、この希望が、今ふじ乃を支えていることを、知っていてください。 櫻子
3 「ふじ乃の名」でふじ乃の思いを「作為」した母・櫻子の「mixi」操作
それかあらぬか、櫻子は、ふじ乃の「名」を用いて「mixi」上に櫻子自身の特徴ある文体を隠し蔽(おお)せず、繰り返し「日記」を書いていますし、逝
去後には通夜や葬儀をふじ乃の人生の「晴れ舞台」と称して、まさに櫻子が「演出」し「挨拶」していました。司式を女優にわざわざ依頼していました。
むろん、いかなる形でも櫻子の企図したような「闘病記録」などどこから出版も放映も可能なわけなく、「罹病前期」の「異様な冷淡」を埋め合わせるほどの
「入院後期」の「演出」は成功しませんでした。
もとよりふじ乃が安らかであって欲しいとは、精いっぱい私たち祖父母の願いでもありました。櫻子に「不倶戴天」といわれるふじ乃病床への乱暴など、どん
な行為で以てしても、何一つ出来るわけはなかったのです。
事実は、当然在るべき両親へのごく普通の礼儀も飽海の大人二人がわきまえず、何一つの状況説明もしなかった仕向けの異様さだけが、否定しようなく「残っ
た」のです。
「罹病前期」で、親が面倒を見た、配慮したと証明できる何一つも飽海の両親から出
せなかったことは既に繰り返し申しました。ふじ乃の苦悶と孤独とは、ふ
じ乃の厖大な「mixi」日記だけが明らかに示していて、「病悩」日記は、あな無惨やと呻くよりない酷いものでした。
櫻子がどう独り芝居で作り立てても、全く裏付けのない「言葉」では誰もどうにも「説得」できません。立証できません。
まこと櫻子が、両親に、父に、この状況で「謝罪させたい」のなら、当然、その美しそうな言葉を「なるほど、なるほど」と物証なりふじ乃の言葉や文字でな
り証明しなければなりませんが、それは出て来ない。出せるワケが無いのです。
(二十二) 飽海家による清家ホームページ「全削除」画策の非道。
原告・飽海櫻子との関わりで、ぜひ申し上げたい無道な事がまだ「もう一つ」あります。
代理人の「法廷へ報告」等でご承知のこと故、くどくは申すまでもないのですが、「ひどい迷惑」という意味で、「この三年繰り返し」飽海家または櫻子から
受けてきた、私の「公式ホームページ」に対する「全削除攻勢」に対し、重ねてその「不当」を申し上げねばなりません。
私の公式ホームページ『作家・清家次郎の文学と生活』は、平成十年
(一九九八)三月に立ち上げ、我が国パソコンウエブでの現在有数の規模・内容として広
く知られています。
概して次の「四つの構造」をもち、「すべて一連」に関係関連し、そ
れぞれが孤立・独立しているのではありません。「構造上の内容」を簡単に申します。
1 清家次郎の公式ホームページの全容と構成
@ 『作家・清家次郎の闇に言い置くモノローグ』は、現在までのべ
十三年、現在八十九ファイル、百三十三ヶ月の日録ふう「文藝散文集」を成し、国内外に
大勢愛読のビジターを擁しています。「ふつうに謂う日記」とは性質の異なる、いわば作家・清家次郎の「創作控え」という内容です。
篤志の読者が試みた「私語分類」は現在、文学観、作家論、古典論、歴史論、古典藝能論、演劇論、美術論、日本語論、京都学等々二十九項、それぞれがすぐ
に書籍に編輯でき、三百枚平均の単行本なら優に百冊近くは可能な質と量を、現に備蓄しております。
A 清家次郎責任編輯『e-文藝館=濤(nami)』は、幕末以
来、諭吉、黙阿弥、圓朝らから鴎外、露伴、漱石、一葉、子規、晶子等を経て、大正・昭
和・平成の文豪・詩人たち、著名作家たちを含む「招待席」展示など、現在六百作、五百数十人に達しようとしております。著作権のまだ切れていない筆者に
は、むろん、ご本人またはご遺族に、清家次郎がお願いしお許しを得ております。文化勲章等を受けた人の著作も数在り、その他に、今日のプロの書き手や創作
に志ある人たちの「寄稿・投稿」作品も多数掲載しています。
B 清家次郎が二十余年にわたり出版してきた紙の本全集『次郎の本
(創作・エッセイ)』現在百巻がすべて電子化され、電子本全集『次郎の本』シリーズが
収容されています。
C 他に多数の単行本未収作や講演録や創作の下書き、参考文献や資
料等々の、いわば専用書斎備要に相当する「莫大量の著作」が収容されています。
ご理解ください、これが「清家次郎の公式ホームページの全容」です。
プロ著作者として多年経た作家・清家次郎の、著作権や言論表現の権利と自由に護られた「文学活動ほぼ全面」を成しています。誰に、この「全部」を一気に
「削除」してしまえる権利がありましょうか。
2 BIGSOBEを動かした飽海家の最初の侵害
ところが平成十八年(二○○六)秋、折しも「民事調停」が稲宜簡裁で始まった当日、私のホームページは突如「全面削除」されたのです。
飽海夫妻がBIGSOBEを動かし、サーバーはユーザーに確実な連絡も意志確認もとらずに、いきなり「全削除」の暴挙を為したのです。その時点で、私の
著作権はもとより、「e-文藝館=濤(nami)」に掲載・寄稿の多くの著作者たちの著作権も全面侵害され、「無」に帰していました。
なんら話し合いもなく、現に別件の民事調停が今しも始まるという当日に、こういう無軌道な乱暴をする飽海夫妻であったことを、ご承知いただきたい。
BIGSOBEはすぐ法廷に対し「遺憾」の意を示し、一旦「全面回復処置」をとりました。それを確認した時点で、即座に私はサーバーのユーザー権利の無
視と破壊行為が赦せず、契約を解消して、新たに、別のサーバーを頼むことにしました。いつ何時ホームページが「全壊」するかと思えば、当然の「忌避」であ
り「対策」でありました。
3 飽海櫻子の更なる妨害行為
ところが飽海櫻子は、昨年から今年にかけ、またしても契約サーバーTOLITOPに対し、全く同様の「全削除」措置を強引に迫り始めました。
私は、TOLITOP法務担当との話し合いに終始落着いて対応し、「不当」とは思いつつも望まれる限りの妥協、例えば飽海専太郎の名を「★★★」に、
娘・櫻子の名まで「楓子」になどのマーキング・仮名化を実行し、「もうこれで十分です」と担当者に言われるまで、否やもなく協力し対応したのでしたが、櫻
子らは、更に更に「全削除」か「サーバー告訴」かと担当者を威嚇し続けたと聞いています。
こういう行為、しかも今正に法廷で審議中の事案に対し、こんなことが赦されて宜しいのでしょうか。
4 「mixi」当局は飽海を玄関払い
さらに、櫻子らはもっと早くから「mixi」当局へも、繰り返し、清家次郎=「濤(なみ)」会員をいろいろ中傷し、そのつど、私の読者やマイミクたちか
らもつよい抗議を受けて、飽海の言い分の「当たらない」ことを「mixi」当局は、私に宛てて詫びて来ました。
やはり昨年、TOLITOP攻撃と軌を一に、またしても「mixi」当局に厖大な文書を送りつけて、私の「mixi」全記事を削除せよと櫻子は言い張っ
ていました。しかし、このときも問い合わせに答えた私の文面をすべて諒とし、「mixi」当局は私に対し、「迷惑を掛けました、今後も会員として宜しく」
と、飽海の申し入れを完全に「玄関払い」しているのです。
5 前町田女学院大学長にまで飽海家は
今一つありました、それも櫻子の行為であったと漏れ聞きますが、飽海らは、前町田女学院大学長、尾上哲治氏に対し清家次郎の「味方をする」のは赦せない
とねじ込み、尾上氏はヘキエキされ、弁護士を介して私方へ、自分との交際は表向きにしないで欲しいと希望されて来ました。むろん受け容れ、尾上氏に迷惑を
掛けたらしいことにお詫びしました。
尾上前学長と私とは久しい間柄で、結婚披露宴で同席するとか、能楽堂で立ち話するとか、毎々著書を差し上げると礼と感想とを戴き、毎夏には避暑先からす
ばらしい桃を沢山戴くとか、いま金婚でヨーロッパを旅していますと絵葉書を戴くとか、そういう仲でありまして、もとより飽海専太郎に関しても、「清家さん
の側に立って」処したいと手紙を戴くようなお人なのでした。
飽海から「同じ大学の身内」なのにとねじ込まれたのは、さぞご迷惑であったと恐縮するのですが、その後も著書は御覧下さり、親しく今年の年賀状もちゃん
と戴いています。
(二十三) 櫻子に関する陳述の最期に、ぜひ、孫・かや乃のことを。
およそ、こと「飽海櫻子」に関連して私の「陳述」はほぼ終えたと思います。法律上のことは代理人が綿密に対応していて下さると思います。
最後に、それでもなお一言、お聴き願います。
私も妻も、娘・櫻子が上のような父や母への酷薄で下品な所行を、ほんとうに、本心でしているのか、ふじ乃の親友が証言するようにすでに夫・飽海専太郎と
は離れ切りながらも、一つ屋根の下に暮らして日々のいわば「いじめ」と「夫への忠誠を迫られる」に耐えかね、過剰な言動を演技的に敢えてしているのかが、
甘い父親には、いま以て「分からぬ」ということです。
私たちには少女時代の、また結婚してからも父を励まし父との旅などを満喫して喜んでいた、あの、ふじ乃のいい母親であった昔の娘・櫻子が諦めきれないの
です。未練なことですが。
しかし最期に申し上げお願いしたいのは、もう一人の孫・かや乃のことです。
かや乃は、高校三年になろうとしています。ふじ乃が自身の判断をしっかり持って、親に秘したまま祖父母を久しぶりに訪れたのと、ちょうど同年齢、つま
り、もう自分自身の判断や意見を自発的に十分持てる年齢です。
このかや乃の意志や行為を、飽海の両親は制限し抑圧しないで欲しい、どのようであれ少なくも祖父母や叔父との「親愛にせよ、もしその逆にせよ」、飽海側
の大人は干渉しないでやって欲しいのです。
祖父母として、ふじ乃にしてやれなくなったことを、かや乃の未来のためにもしてやりたいと祖父母は切に願っています。
少なくもかや乃の祖父母にかかわる自由意志や自由な行動を、親の不条理な暴力で抑圧しないようにと、どうか説諭して下さいますように。
父・飽海専太郎は、かつて、自分が「リベラルな教育環境で育ったこと」を岳父に向かい言挙げしていました。眞にそれが誇るに足るなら、かや乃にもそれを
与えてやらねば恥ずかしい食言に終わりましょう。
大学進学もひかえて、かや乃は決然前進したい時機です。
此の三月十一日の誕生日に、祖父母は、例年のように赤飯でひっそり祝いながら、かや乃の「自由と平安」を心より願いました。
(二十四) それでも最期に、娘・櫻子に心から言いたこと。
これほどの大量を「陳述」しつつ、なおかつ私・清家次郎は、妻であり母である美枝子の真意も代弁し、私たちの娘・櫻子にこう申します。
両親や弟たちの家へ、「帰ってくるように」と。
私は、櫻子が、今も心の内で清家の両親の愛と真情とを微塵疑っていないことを信じています。もとより我々はいつでも心から喜んで櫻子とかや乃を迎え取る
気持ちでいます。どんなに何を言い、どんなに何を書いても、その点は、「真実その通り」なのです。
これ以上亡き「ふじ乃」の我々への愛を傷つけないためにも、「もうこんな愚かしい真似はやめようよ、櫻子」と。まだ若いお前の人生を「ふじ乃」の代わり
にも「健康そのものに生き直して欲しい」と。
第二、 主に、婿・飽海専太郎に関連して申し述べます。
項をあらため、原告・飽海専太郎とその訴えに関わる、私(ども)の「陳述」を続けさせていただきます。
正直のところ、私たちは飽海専太郎に関しては嫌悪感を持っているばかりで、彼との法律上の問題は、事実問題として「実感できず」におります。ただ代理人
のご尽力にお願いしている次第です。
(一) 真っ先に、妻も私も、これを申し上げたい。
飽海と娘・櫻子との結婚以来、久しく続いた、「確執と謂うなら確執」で、私ども清家(せいけ)の側から「先に仕掛けた」何一つも無かった「事実」です。
前に申しました、櫻子に、夫・飽海を引き合わせたのは、父・私の奔走の結果でした。運命でした。昭和六十年(一九八五)六月、櫻子は嬉しそうに嫁いで行
きました。父・清家次郎は、友人・東正彦の著、虹書房版の『日本の抒情 愛と友情の歌』と、著者あとがきの以下の言葉を櫻子へのはなむけにしました。
それにしても、いま初校を遂げながらしみじみ思う、愛ならぬ詩は、ない…と。
「愛」の、あまねく恵みよ! しかし「愛」の、難(かた)さよ! 努めるしか、ない。
昭和六〇年六月八日
東 正彦
ふじ乃の生まれたのが翌年九月、更にその翌年に飽海はパリに留学し、櫻子とふじ乃とはまた翌年に追っかけて渡仏しました。
支援と感謝の交信があったことは、以下の諸記録に明らかです。揉め事など、なに一つ有りませんでした。有ったというなら、それは嫁・櫻子の飽海家姑に対
する日々のバトルぐらい。我々はイヤほど娘からそれを聞かされていました。
1 両家が平穏無事だったことを示す事実の物証
1988年・昭和六十三年 飽海専太郎・櫻子・ふじ乃 渡仏 (全25通)
@ 1988/4/7 はがき
残して行った食品に添えられたもの
A 1988/04/15 はがき 清家皆様 パリ
ふじ乃と自分の近況
B 1988/04/19 はがき 清家様 皆様 パリ
ふじ乃の様子
C 1988/04/28 封書 清家次郎様 皆様 パリ
滞在許可証を取るにあたり 125万円必要につき・・・欲しい
D 1988/05/10 12時出 はがき 清家様 皆様 パリ 近況
E 1988/05/10 18時出 はがき 清家様 皆様 パリ 近況
F 1988/05/11 封書 パリ
清家次郎様 飽海専太郎 礼状
G 1988/05/17 はがき 清家様 皆様 パリ 近況
H 1988/05/26 封書 清家様 皆様 パリ
近況・住まいの紹介
I 1988/05/31? 06/01? はがき 清家様 皆様 パリ
おむつカバーを送って下さい
J 1988/06/14 はがき 清家様 皆様 パリ
小包の礼
K 1988/06/28 はがき 清家様 皆様 パリ 近況
L 1988/07/01 封書 清家様 皆様 パリ
飽海専太郎発 虫歯で 歯科・都筑先生(清家主治医・東京江古田)にかかりたい
M 1988/07/08 封書 清家様 皆様 パリ
近況・小包の礼
N 1988/07/27 はがき 清家様 皆様 パリ
櫻子誕生日の感慨
O 1988/08/01 はがき 清家様 皆様 パリ 近況
P 1988/09/02 封書 清家様 皆様 パリ
雑用依頼・送金方法のことなど
Q 1988/09/29 はがき 清家次郎様 パリ
シシリーの本(清家・朝刊連載「シドッチと白石 一生の奇会」参照)を送る・送料の事など
R 1988/10/17 はがき 清家様 皆様 パリ 近況
S 1988/10/18 封書 清家松夫様 パリ
パリへいらっしゃい
21 1988/10/31 はがき 清家様 皆様 パリ 近況
22 1988/11/03? はがき 清家様 皆様 パリ 近況
23 1988/11/23 封書 清家様 皆様 パリ 近況
24 1988/12/09 封書 清家様 皆様 パリ 近況
25 1988/12/16 封書 清家様 皆様 パリ
清家次郎の婚約記念日・誕生日お祝い・X'mas
1989年・昭和六十四年分 (全18通)
@ 1989/01/11 封書 清家様 皆様 パリ
クリスマス・プレゼント(お金)の礼
A 1989/02/11 はがき 清家様 皆様 パリ
父次郎への見舞い
B 1089/02/11 はがき 清家松夫様 パリ
用の依頼
C 1989/02/22 封書 清家様 皆様 パリ 近況
D 1989/03/06 はがき 清家様 皆様 パリ
お茶を送って
E 1989/03/30 封書 清家様 皆様 パリ
櫻子の山一の預金のこと・30万円送って
F 1989/04/24 はがき 清家様 パリ 近況
G 1989/06/22 封書 清家様 皆様 パリ 近況
H 1989/07/03 封書 清家美枝子 パリ
雑用依頼
I 1989/07/07? はがき 清家様 皆様 パリ
父上 作家生活20年おめでとう
J 1989/07/25 封書 清家様 皆様 パリ
お小遣いの礼
K 1989/08/07 封書 清家次郎様・皆様 パリ
飽海専太郎発 そろそろ帰国・援助の礼・今後もよろしくおつきあいを
L 1989/08/08 封書 清家様 皆様 パリ
100万円貸して
M 1989/08/16 はがき 清家松夫様 パリ
パリにいらっしゃい・父上の「新刊」に誤植あり
N 1989/09/03 封書 清家様 皆様 パリ
「暮らしの科学」へ櫻子エッセイ掲載のこと
O 1989/09/14 はがき 清家様 皆様 パリ
ふじ乃の誕生日のこと
P 1989/09/16 封書 清家様 皆様 パリ
帰国日時とふじ乃の絵
Q 1989/09/???? 封書 清家様 皆様 パリ
「暮らしの科学」櫻子校正
手ひどい「軋轢・喧嘩」がもし有れば、とてもこう頻繁かつ平和に交信しないでしょう、互いに。しかも金銭の支援や文学上の手伝い、飽海からの感謝状、子
供の手紙なども入っているのですから。一、二通を抜き出すより、「交信内容も付記したリスト」が、ご理解戴くのに有効だと思いました。必要ならすべて提出
可能です。
2 就職難を招いた飽海の三年間留学
この三年に及んだ飽海専太郎の留学は、或る意味めでたい有意義なこと、反面には東都西北大での助手年限が過ぎて新就職が決まらないため決行されたもの
で、この大事な時期に日本を三年間も留守にしてはと案じる声も、当然のように有りました。
案の定、帰国後の飽海には、招請の声のかからぬオーバードクターとして苦しい失意の日々が続きました。彼自身は働かず、妻・櫻子はやがてかや乃を身籠も
り、身籠もった躰で櫻子一人がアルバイトで都内に出るという日々も続きました。
私も妻も、折あれば「生活は大丈夫か」と問い、飽海は常に胸を張って「大丈夫です」と答えました。
この辺のことは、私小説手法のフィクション(の下書き)ながら、法廷に出ています「マリアの家」が、詳細に正確に描いていて、だからこそ、後々まで飽海
は躍起に「マリアの家」を抹消して欲しいと懇願したのでした。ただし現在私の作品リストに、「マリアの家」という小説は存在しないことを、はっきり申し上
げておきます。
3 降って湧いた舅の東*大教授就任
清家と飽海の当時の関わりで、余儀ない何より目立った出来事は、一向に決まらない飽海専太郎の職場・地位にひきかえ、突如として清家次郎・私に、国立東
京*業大学専任教授として白羽の箭が飛んできたことでした。
私は、息子が「名門だよ」と電話のそばで云うまで、「東*大」なる大学の存在すらよく知らず、寝耳に水の人事でした。
そんな際に、突如飽海は、清家の両親に向かって(妻・櫻子の曰く)「暴発」し、舅姑を罵詈罵倒の手紙とともに、「学者である婿・飽海」の生活を支えられ
ない「非常識な嫁の実家」とは「姻戚関係」を断つ、詫びるなら「あたまを丸めて手をつけ」と謂った、何ともかとも謂いようのない事態に両家の関係を追い落
としたのです。
(証拠資料『マリアの家』=長編小説『逆らう父』下巻を御覧になっても、原文通りの専太郎の手紙がフィクションの中に臭気を放って埋め込まれていま
す。)
私は京都の養家で質素に育ちましたし、心情としても、働き盛りの男が親族の庇護に当たり前の顔で依存するなどと謂う処世観を、思想として持ち合わせてい
ませんでした。
あげく飽海は更に遅れて、茨城教育大学の「技官」としての地位をようやく得ましたが、技官は教官でなく、もともと国立大か母校の「教授職」を夢見ていた
飽海には口惜しい就職だったでしょう、どんな事情が有ったとも清家の我々には知りようもない経緯でした。
4 婿から言い渡された「義絶」、そして完全な「没交渉期」に。
結局、ことはこじれたまま、ずっと先に申し上げました「遠過去」の「没交渉時代」が始まりました。清家の両親と弟は、板挟みの妻であり二児の母である櫻
子の手を、夫との生活の方へ放してやりました。孫たちとも逢えない、悲しい寂しい仕儀でありました。
飽海はいつしか茨城教育大学技官から、町田女学院大学に迎えられて東京都へは戻ってきましたが、事情も経緯もやはり清家の我々には知りようのないことで
した。
前にも申しました、東*大を当時満六十歳で定年退官後、私は学生たちの親切を得て、公式ホームページ「作家・清家次郎の文学と生活」を立ち上げ、日録
「生活と意見 闇に言い置くモノローグ」のなかで、正100ヶ月間に、飽海専太郎の名もあげ、娘や孫と会えない暮らしをしていることや、成りゆきの愚劣さ
を書きました。「たった数度」です、概算17000枚のうち原稿用紙10数枚にも満たない大海の一滴ほどの分量でした。
その頃にはたぶん飽海は女子大助教授か教授に成り、教育哲学等の講座を担当の、りっぱに社会的「公人」でありました。私の批判には反批判の著述で応酬す
ればよかったのです。
事実は私のウエブに当時仮り置きされていた「マリアの家」の、いわば小説としての証言(表現)力が、飽海専太郎を悩ませていたらしいのです。何故でしょ
うか。己れの犯した非常識な「事実」がありのままに読者にも子達にも読み取られかねぬと「恥ずかしかった」からです。しかし私・清家次郎は「書く」が職業
の作家であり著述家でありました。
5 高校生ふじ乃の祖父母との親交回復、ついで妹・かや乃も。
そのうちに、彼ら飽海の両親のとても信じがたい「近過去」の「事変」が起きたのです。
高校生になった孫・ふじ乃が、祖父母との多年の没交渉から、一気に、自発的に、親交を回復し、楽しい歳月を足かけ三年にわたり親に知らせず始めたのでし
た。
やがて妹のかや乃も姉に同調しました。姉妹は祖父の存在もホームページも、仕事も経歴も、すべて承知の上でした。親には一言も洩らしませんでした。
結局ふじ乃が「白血病」で入院し、携帯電話を母親に検閲されるまで、飽海の両親は全く娘たちと祖父母の親愛に気づけなかった。
ふじ乃と祖父とが「mixi」のマイミクとして互いに「日記」を読み合っていたという事実など、両親は全然知らなかったのでした。ふじ乃たちは祖父母も
感じ入ったほど、親たちに何一つも打ち明けなかったのです。
(二) 飽海専太郎と我々は無縁。裁判に及ぶ何の相手でも無いはず。
飽海専太郎と私とは、ふじ乃の病室で、逝去直前に一度二度顔を合わした以外、完全に「没交渉」のままでした。婿の書いた文章など何一つ知らず読まず、ウ
エブにアクセスしたこともありません。私の著作権がBIGSOBEによる「ホームページ全削除」で乱暴に冒されこそすれ、私からは、何らの攻撃も干渉した
ことも、「全然無い」のです。
さようにして、とどのつまり孫・ふじ乃を、可哀想にあたら成人前に肉腫で死なせてしまいました。たんに受け身に「死なれた」哀しみより、百倍も自身の無
力を責めねばならず、「死なせてしまった」という痛苦は身に沁みたのです。
1 「通夜葬儀に来たら警備員につまみ出させる」と。
ところが飽海夫妻は、最初から、可能ならば祖父母にふじ乃の「入院」をすら知らせないでおく方針でした。
ふじ乃の病状・診断・診断替えの肉腫と確定・そして輸血停止による安楽死に近い最期の決定等々に至るまで、何一つの情報提供を拒み通しました。通夜や葬
儀の案内も無く、それどころか、「あんたらが現れたら警備員につまみ出させるからね」と、そう飽海家は清家に電話を掛けてきたのです。わざわざ。
さらに、何ということでしょう。
2 葬儀から三日もせぬまに喧しく、「訴えてやる」と。
告別のことが済んでたった三日と経たぬ八月早々から、「警告」という大字ともろとも飽海夫妻から、私が飽海家と亡きふじ乃とにおかしたいわば「悪行」を
書き連ねて「謝罪」せぬなら刑事・民事の双方で提訴する、日本ライタークラブ等の所属団体にも申し入れて社会的な名分に恥辱を与えるという「強迫」「脅
迫」が「飽海専太郎・櫻子」の連名で雨霰と続きました。
私どもは仰天し、クラブの親しい同僚委員である菰布仁郎(こものじろう)氏の法律事務所を頼み、快諾のもとに「民事調停」を勧められ、お願いしました。
その経緯については繰り返しません、十二月に、単に「不調」と決した旨知りました。
3 深山木日記の名誉毀損、ホームページ妨害の著作権侵害
ただ、この間に起きた二つの大事にだけは、繰り返し、ご記憶を検(あらた)めて欲しいとお願い申します。
一つは、櫻子による「mixi」の「深山木」名義日記での、「虐待」「性的虐待」など明白な「父」に対する、また「母や弟」に対する、捏造と中傷の「人
権蹂躙」「名誉毀損」行為。
もう一つは、BIGSOBEを動かしてホームページの「全容を壊滅」させた明瞭な「著作権」と「言論表現の自由」の侵害、「e-文藝館=濤
(nami)」の全著作者の「著作権侵害」および清家次郎の「編輯権侵害」です。
これに関しては、ライタークラブの言論表現委員会でも、また通産省での担当官ヒアリングの際のコメントでも、「過大に過ぎたサーバーの無謀な判断」とい
う見解や意見が続出、その経緯と、各界からの猛烈な非難の声は、そのまま日録にも、「mixi」日記にも、すべて記録してあります。
4 飽海専太郎の没義道(もぎどう)の数々
実のところ、飽海専太郎に関しては、直接仕事上の触れあいもなく、ただもう『死んでゆく、孫』「マリアの家」への不満を聞くのみですが、無軌道に乱立され
た措辞・表現への名誉毀損申し立て等の一々を検討してみますと、その読解力の浅さ、都合のいい単語レベルでの抗議等々、あまりに軽薄なのではないかと、大
方の反駁は代理人にお任せしている次第です。
何よりも「遠過去」におけるそもそも社会人としても大人としても婿
としても礼儀を逸脱した、名目なき「暴発」(これは妻・櫻子のいち早い夫への批判・両
親への詫びにほかならず、手紙が残っています。証拠「マリアの家」参照)に一切の淵源があり、それへの反省が全然無いままに今日の「厚顔な損害賠償請求」
に至っていることは、「経緯を追って」鮮明な事実です。
さらに「近過去」における娘・ふじ乃への父親として徹底した愛情・
配慮の欠落・空白は、可哀想なふじ乃の全「mixi」日記、また「病悩」日記が明白に
歎いています。
さらに逝去後に起こされた飽海からの「警告」「強迫」、櫻子と合議しての「ホームページの全侵害」等々、どの一つも、全ては飽海側から仕掛けてきて、清
家(せいけ)ではその対応にただ追いまくられたのです。
日記文藝として、「作品全集」中の一巻となり、多くの読者や大学研究室・図書館等の寄贈先に受け容れられた『死んでゆく、孫よ』(次郎の本エッセイ
39)は、どう読んで見ても、著者でありふじ乃の祖父であり櫻子の父である「作家・清家次郎」の、悲歎と哀惜と痛哭の表現・著作でこそあれ、六月二十二日
「白血病告知」から七月二十七日の「ふじ乃逝去」に至るまで、飽海家に対する自然当然な「違和感や不審」はあましつつも、なんらの言句や表現上の「攻撃」
もしていない事実に、ぜひ、お目をとめて戴きたいと願います。どこに「名誉毀損」があるというのか疑わざるを得ません。
(法的のことは分かりません、それゆえ、法の専門家でない者の言葉と思いとで「陳述」しております。)
しかも葬儀後八月に入って暴戻無道(ぼうれいぶどう)なメールや文書でのあたかも「脅し」に遭った私たちが、経緯と事理とに合わせ、日記記述上も応酬せ
ざるを得なかったのは、これまた私どもとしては自然で当然な、先方に対して申せば、それは「自分たちのまき散らした種ではないか」と答えざ
るを得ないので
す。
しかも訴状名義に明記しているように、飽海夫妻は、共に教授であり自治体役員という「公人(パブリック・フィギュア)」であります。二人とも文筆の場所
も通信の手段も持っています。さらには裁判の前に「話し合う」という礼儀と手順が払われていい最も近い親族ではありませんか。
以後の経緯の全面に亘って、端的に言えば、全く同じく「すべて自分たちの巻いた種ではないか」と答えるしか無いのです。
(三) 飽海専太郎の「週刊思潮」利用は、明らかな名誉毀損。
1 飽海専太郎=志村武という人間。仮名に隠れた誹謗と中傷。
しかし、飽海専太郎に関することで、私どもがぜひ第一に申したいもう一つは、「週
刊思潮」事件です。この「記事本文」は本法廷で論議されなかったようで
すが、残念に思います。本裁判と無関係どころか、原告飽海専太郎の「人間」を直視してその「遠過去」以来の彼の主張の「アイマイと不実」を突き返す、被告
からの強い反攻ポイントだと感じてきました。
週刊誌記事が公開されて以降に、版元筋の情報で、これが飽海専太郎の「持ち込み」であったことも漏れ聞きました。さもあろうと思いました。そしてどうや
ら櫻子は何も知らず、いわゆる「つんぼ桟敷」に置かれていたかとも想われるのです。
私は、面識も予備知識も全くない思潮社記者の「面談一つ電話取材一つ」も断り、ただし、私の書き著したものは、引用が正しい限り、どう利用されても構わ
ないと答えてありました。
この一件に露わになった飽海専太郎の「人間」こそ、両家の久しい「確執の真因」が何であったかを、じつにハッキリ示しています。
そこをご理解願うため、記事が「世に出る=刊行される」より以前に、
週刊誌担当記者T氏から私に電送され「質問」されて、即日「答え」て
おいた「私の反
駁文」を、此処にそのまま再録させていただきます。いかに飽海専太郎が「真実を語らない仮面に隠れた男」であるか、忽ちハッキリします。
だいたいマスコミが紛糾の輪へ参加してくることは、マスコミが真に公正であるかぎり、正直にいえば、むしろ私には有り難いことでしたが、正直の所、期待
しにくいことです。結局は、「文学とことば」に熱心の一作家が、書いて「書き表したもの」が、最期に理解されると信じています。「口」は閉じていていいの
です。
しかし「書くように」と求められれば、気負わずに書く。発表の場は、紙でも電子の場でも、わたしは持っているのです。
2 平成十九年(二○○八)六月二十二日 日 (清家次郎の日録)
*
「飽海専太郎」氏(原告・婿・町田女学院大学教育学科教授)にインタビューして来ましたという「週刊思潮」記者氏が、相手方(飽海)の言葉を「六項目」に
「言葉通り」書き取って、それへの意見・感想を私に「メールで求めて」きた。週刊誌
記事自体は、明日にも入稿したいからと。
すぐ妻といっしょに丁寧に読み、一項目ずつ即座にメールで返信・返送していったのを、「後日の証」に、今夜内に此処日録に記録する。のちのちまで、私た
ち清家(せいけ)の「思い」として、自身でも確かめ、人にも分かって欲しいからである。
(なお、発売記事では記者と面談した「飽海専太郎」は、自身の職も職場も隠し、終始一貫「志村武」と「仮名」で喋っていました。また『孫の死を書いて実
の娘に訴えられた戦後文学賞作家』という見出しにかかわらず、「実の娘=飽海櫻子」に、唯一言も無く、名前も顔写真も全く記されていないという「異様な記
事」になって、よほど「うしろめたい」のであろうかと「読者」に言われていました。)
3 「飽海専太郎の弁 週刊誌記者氏の問い 清家次郎の回答」
六箇条
(これ自体本件の争点ではないとみられ見過ごされるかと恐れながらも、ぜひ、これを訴えます理由をお聞き入れ下さいますよう。 )
もし「原告」なる一人が「うそ」を平然とつく人であるなら、その「主張」にも疑いが挟まれるはずです。この件、発売された「記事本文」、また週刊誌記者
の「証言」付きで届けられた「飽海専太郎・言葉通りの・主張六項」に、一読、平然としたウソの多い事実は、本裁判での原告飽海の「足場の危うさ」を疑わせ
て余りあります。
飽海自身が「志村武」と仮名に隠れ、自身の地位も所属も隠して、被告・私の「公人」たる名誉を傷つけることに大童。なにより肝腎な、「孫の死を書いて実
の娘に訴えられた戦後文学賞作家」という週刊誌のうたい文句を裏切り、肝腎の娘・櫻子の名も言葉も顔も週刊誌面に全然出ていない「極端な不公正」など、名
誉毀損に優に類するもので、原告たちの法廷での主張を大いに疑わせます。
どうか、此処にもお目をぜひ配って頂けますよう願うばかりです。
(以下六項の、@相当は「週刊思潮」記者が飽海専太郎氏の「言葉通り」と伝えてくれた言い分。●は、記者氏の私・清家次郎に対する質問。☆
は、清家の回答。なお、この回答時点は週刊誌発売より数日前であり、清家は公開される週刊誌記事をまだ読んでいません、念のため。)
@ 実の娘が父親を告訴したというのは、あまり例のないことです
が、何でもかんでも書かれてしまうのを止めさせるには法的手段しかない。すでに書かれて
しまっている文章も含めて取り消しを求める。やむをえない処置である。清家氏に悪意はないとしても、実の娘に嫌われるのを知りながら、なお勝手なことを書
きつらねて世間に公表してしまうような父親がこの世にいますか?
● どうお考えですか?
☆ 反駁 「清家氏に悪意はないとしても」とあります、娘に対して悪意など有るわけがない
のは、十年に亘る「日録」で、孫・ふじ乃の死以前のたしか九
九ヶ月に至る長期、原稿用紙なら何万枚の大量のなかに、飽海専太郎に触れた箇所が、僅か七、八回(全部で数千字にも満たぬ程)だったと記憶します。それに
対し、両親で櫻子を想い、その平安を祈り願い懐かしく記述した箇所は、毎年の誕生日を初め、数十度か百度にも及ぶでしょう。読者はみなよくご存じです。
二○○五年四月十七日 水 四十五歳になったはずの娘櫻子を祝って、朝一番に、妻と赤飯を祝った。心すこやかにいて欲しい。 (一例)
また「実の娘に嫌われるのを知りながら」とありますが、07.09.09に弟・松夫は、父に向かい、「もう百万遍も俺は言ってきたよ」と、このように、
繰り返しています。
「櫻子は、ビョーキなんだよ。櫻子はお父さんがめっちゃくちゃ大好きなんだよ。その大好きなお父さんから良きにつけ悪しきにつけて、例外というモノもコ
トも無しに愛されたいヤツなんだよね。是々非々の愛では絶対にダメ。しかしおやじは、いいときは手放しで褒める、しかしダメな時やモノやコトにはきちっと
ダメを出し、半端にはうけいれないでしょう。俺はそれでいい。櫻子は、それでは絶対に不満。そして褒められたことや愛され可愛がられたことは忘れても、ダ
メとつきはなされたことは覚えに覚えて、それが積もって、今では憎さ百倍、何としてでもお父さんに復讐し勝ちたい。そういうビョーキなんだ。仕方ないんだ
よ」と。
「実の娘に嫌われるのを知りながら、なお勝手なことを書きつらねて世間に公表してしまうような父親がこの世にいますか?」などという俗論は、「学者の婿
には、舅姑は黙ってイキに金を出せ、」出せないなら「姻戚関係を絶つ」と、親の頭を殴りつけるような飽海専太郎だから出るので、「いいときは手放しで褒め
る、しかしダメな時やモノやコトにはきちっとダメを出し、半端にはうけいれない」「おやじ」を、まるで理解できないのです。しかし、それが、わたしの、
「父である」姿勢、「逆らひてこそ父」なんです。
櫻子は、父が「嫌い」どころか、母には上手によう甘えないのに、父には、入院中でも毎日見舞うと、手を掴んで放せずに泣く子でした。女子高時代いやがる
わたしをやいのやいのとPTA会長にさせたり、作家代表で訪ソ連の時は、大きな荷物をひっぱって横浜港の桟橋まで一人で見送ってくれたり、結婚の時はわた
しに飽海専太郎を紹介されて、ものかげで母に照れながら嬉しさを告げたり、パリ在住の時も新聞小説のために必要なシシリア写真集をわざわざ探して送ってき
てくれたり、わたしの作品や仕事にはよく意見を語ってくれ、結婚後にも、母の名代で父といっしょに婦人雑誌のために四国中国に仲良く旅して和やかないい写
真をたくさん誌面にのせたり、何度も親愛に富んだ感謝の手紙や、ふじ乃の近況などを、親に送り届けているのです。全部もらさずモノが残っています。むろん
金も頼まれました。そういう「父」と「娘」なのです。
じつは、息子より先に、娘が才能を広げるかも知れぬと期待していましたから、娘の若書きの雑文でも詩でも、大事にわたくしのウエブに保存し、人の眼に触
れて欲しいと願ってきました。櫻子からそれに対し多年ただ一言の苦情も有りませんでした。
だからこそ、「櫻子が小説を書き出したよ、見てやって」と、弟・松夫が知らせて来たときは「驚喜」し、その喜びと感想とをウエブに書き、本の後書きにも
書き、編輯している「e-文藝館= 濤(nami) =
清家次郎編輯』にも、よろこんで掲載・保存して、誰か編集者・いい読者たちの目に留まって欲しいと願いました。文章上にも気づいた注意をしました。娘さん
に、甘い、羨ましいという読者や書き手のメールを、何度ももらいましたよ。
ところが、もはや娘・櫻子は、その父の注意を、なんと、「高慢な」ことを「作者である娘」に言うてくる父という言葉遣いで、拒否してきました。仰天しま
した。
私が、孫・ふじ乃の入院より以前の十年近く、娘に関してどんな「勝手なことを書きつらねて世間に公表してしまうような父親」であったか、一つでも二つで
も「実例」を挙げてほしいモノです。一例も無いと信じます。
ふじ乃の入院後は、ないし死後は、嘆き悲しむ涙も絶えない祖父母を目して、告別式から僅か「三日」後には刑事民事の提訴で脅しに脅してきた寝耳に水の事
実と、もはや、無関係ではありえません。『死んでゆく、孫よ』は、飽海夫妻の非礼と非常識とをきちんと日を追って明かしています。
私たちが嫌ってきたのは、飽海専太郎なのです。櫻子ではないのです。しかし、櫻子は親に二度まで捨てられたとひがんでいます。しかし、それは私が娘の
「離婚を望まない」というところにも根があるのです。孫には、母も父も必要です。
或る人は、「櫻子さんは裁判沙汰にしがみついている以外に、飽海さんとの家庭をもう維持できない、または、裁判沙汰を続けている間だけは『ご両親』との
糸が切れていないのを、一途の頼みにしているのではないでしょうか」という見解を伝えてきています。事実に近いのではないか、じつはこういうメールが、ふ
じ乃の大の親友から届いています。
(重複をあえて致します。長大文書でほど、重要な言及や資料の重複はいとわず、その場その場へ再現するという「文書作りの常識」に随います。翻って関連
の前出文面を捜し当てるのは大変ですから。
しかもこのメールは、実に重要なところを躊躇いなく率直に証言しています。
こういう、崖から家が転げ落ちそうな状態で、両親共に、ふじ乃から目を離して死なせ、母親は地元のコラボ活動に熱中、父親は影もみせず、姉妹の毎夜の嘆
きの種になっていた。そういう「冷淡状況」をすべてごまかすために、夫婦して「裁判」劇を競演している真相を我々は見抜かねばならないはず。名誉毀損だの
何だのは二の次ぎなのですが、それを表に立ててガムシャラをやっていることが「正義」の「体面作り」になっている、それだけなんです。そういう機微を広角
度でとらえなければ、「人間」は把握できない。)
To: Mieko Seike
Sent: Saturday, February 23, 2008
2:05 AM
Subject: 清家次郎様 美枝子様 ****
(前出。要点に絞ります。清家)
今まで迷っていたのですが、ふじ乃から聞いていた事をお伝えしてよいかどうか。。。
今現在の状況は分かりませんが、少なくともふじ乃が「病気になる前(二○○六前半)」までは、ふじ乃ママとパパの関係は崩壊していました。
ふじ乃が病気になって、今は違うかもしれませんが、ふじ乃ママは一人でした。
おじい様おばあ様がふじ乃の病室にお見舞いにいらしたと知った時、これでふじ乃ママに帰る所が出来た、と、私は勝手に嬉しく思いました。
病気になる前まで、ご両親の離別は決定的で、夜になるとかや乃ちゃ
んがよく泣いていたと聞きました。
ふじ乃は必死にかや乃ちゃんを守ろうと、慰めていました。
私の考えですが、ふじ乃ママはその事を含め、自分自身をとても責めていらっしゃると思います。
ふじ乃は他の人にはとても優しくて、人の心にすっと入っていく人でした。
でも、ママにだけは出来なかったのです。
本当は大好きだったのに。ママの事が好きだと、何回も言っていたのに。
ママにだけは伝えられなかったのです。
ふじ乃ママは今自分と戦っているのだと思います。
そして自分の存在の根源である、おじい様おばあ様と戦っているのだと思います。
ふじ乃ママは、おじい様おばあ様の事を心の底で愛しているのだと思います。
そしてその愛が、お二人の存在が、大きいからこそ戦っているのだと思います。
ふじ乃ママは、自分がずたずたに傷つくのを承知の上で、あえてずたずたになろうとして、おじい様おばあ様を選んでいるような気がします。
私の考えだけで、生意気な事を書いてしまって申し訳ありません。
この事は、いつかお伝えしなければいけない日が来ると思っていました。
おじい様おばあ様にお目に掛かって、私はお二人が大好きになりました。
ふじ乃は、もっともっと何千倍も何万倍もおじい様おばあ様を大好きだったのですもの。
いつか、ふじ乃ママは帰ってくれると信じています。
そしてそれを、おじい様おばあ様が待っていて下さるのが嬉しいで
す。
それが、ふじ乃の一番の望みだと私は思っていますから。。。
お二人のお顔を拝見してから、何かほっとして素直に気持ちを伝える事できました。
お身体どうぞご自愛下さいませ。またお目にかかれる日を楽しみにしております。
この若いお嬢さんのメールは、私どもの知り得なかった、しかし優に想像し得てもいた「真相」に、かなり、きっちり触れています。
櫻子は、口でむちゃくちゃはよう言えない、気の小さい娘でした。夫・飽海専太郎は、むろんわが家とのことで、二十年余も妻を責め続けてきたのではないで
しょうか、少しもフシギでない。
そして妻・櫻子は親に捨てられたなどとひがんでいるのですから、この裁判で、夫の先に立ってでも「共闘」していなければ、離婚しても行く先が無いと思っ
ているかも知れません。先の、ふじ乃親友のメールは、私の「赤い家」の写真記事に光明をえた気持ちだったと思われます。
「* 近くに、こんな家(アパート)が昨今建った。赤いよと、評判芳しくないけれども、わたしはこの色、そんなにイヤでない。櫻子やかや乃が帰ってくる
道しるべには、恰好。よく晴れていた先日、撮ってみた。ゴッホなら絵に描くんじゃないの」とウエブ日記に書き、写真も残っています。
(私の「陳述」意図が、最終的には、櫻子とかや乃の救出、専太郎と離
婚して清家の家への帰還にあることをご理解下さい。そしてそれが「ふじ乃の望み」で
あったことを知っている親友たちには、清家(せいけ)が、櫻子とかや乃の帰宅に「目印」の家まで「意識」していることが、嬉しい安堵なのです。
離婚したら櫻子には「行くところ」「帰る先」がないのを、ふじ乃の友達は心から心配していたのです。法廷との関わりを何も言いませんが、裁判に立ち向か
う清家側の実意はご理解ください。)
A 娘のふじ乃の死後、その死因に疑問を呈するような書き方で妻の櫻
子を責めている。安楽死させた? などと書いているのがその箇所です。誰に聞いたかも
分かっています(フランソワさんは私たちの知人です)。その人も、そんなことを明言しているはずはないのです。疑問があったら、私たちに訊くなり、病院の
医師に確認をとればいいのです。それもせずに、勝手な推測を書き散らし、世間に知らしめる。清家氏は作家だから表現の自由はあります。何を書くのもいいで
しょう。しかし人の名誉をわざと汚すような違法な内容を書くのだけはやめなさい、と言っているのです。
● このへんは、どう、お思いですか?
☆ 反駁 「死因に疑問」など、有るわけがないのです。「肉腫」
で緩和ケア=治療は不可能 な状態にあるとは、母・櫻子も「mixi」に公言してい
て、遺憾にも疑いようのない過酷な癌だとは、医書の編集者であったわたしは、明瞭に承知しています。
「死因に疑問を呈する」とは「輸血停止」に関する確かと思える証言を、私が「mixi」上で聴いた、それに驚いたということです。
「疑問があったら、私たちに訊くなり、病院の医師に確認をとればいいのです。それもせずに、勝手な推測を書き散らし、」とは、誠に事実に反した異な事を
言うモノです。
祖父母に対してふじ乃の病状や医療に関する説明や回答を百パーセント「拒絶」して知らせなかったのは、法廷の関係者も認知されている心ない事実です。そ
して病院は口を噤み、「治療に類する何もしていません」「全てはお母さんがご承知」と、祖母の必死の問い合わせにも首を横に振っていたのです。
何一つ「肉親から肉親へ」知らされないまま、肉親の祖父母が、「推測」と「情報」を頼んで孫の命を憂慮するのは、あまりに当然であり、なんら「それもせ
ずに」ではない、病院も、親も、全く祖父母をふじ乃の病状・診療から閉め出していた以上、「確かな」と信じうる「情報」に聴くのは、情理ともに自然当然の
ことです。
しかも何ら「名誉をわざと汚すような違法な内容を書」いているのでもない。以下に証拠を挙げましょう。
飽海のいう「フランソア」さんという人のことは、われわれは、知りません。意味不明です。「輸血停止」を「証言」しているのも、この人ではありません。
「MIXI」上にはっきり伝えられている、「見舞客の間近な確実な見聞として、七月二十五か六日に、病院と親とは、ふじ乃の輪血を停止」したと、『死ん
で行く、孫よ』P.239 平成十八年八月一日に、その記事があります。
ふじ乃友人の母上が、ふじ乃死去の平成十八年七月二十七日付
「mixi」日記9行目に、病室に見舞っていたお嬢さんの「実見聞」として「輸血を
止めた」
ことを、明瞭に記事にしています。「悔しくて」の一語は、何らか入院以前からの病状経過に対する批評をはらむとも読めますが、それは措きま
す。
しかし非常に重要な言及であり、参考までに、関連記事も記録してあります。下記のメールが証言の核心です。
☆ 「mixi」2006年07月27日 14:39
涙
今朝、身体がフワットした状態で身体を起こしているのがとてもつらく。。。午後の出勤まで横になっていようとうつらうつらしてました。
PCを開き・・・日記・・飽海ふじ乃さんの永眠の文字。。。
原因のわからない肉腫と言う癌に侵され、それでも笑顔と周りへの思いやり、優しさを忘れないでいたふじ乃ちゃん。
娘の同級生であり、活動仲間。
闘病日記を通して、たくさんの友人に囲まれ頑張って生きていた姿が手にとるように分かっていた。
昨日(二十六日 逝去前日)何度も病室を訪ねていた娘から、「土曜日のお見舞
い・・無理かも。今日輸血を止めたから、ふじ乃それまできっともたない。」
心の中で覚悟はしていたけれど、いざとなると、涙が止まらない。
悔しくて、辛くて・・
連絡をいれ、娘に伝え、号泣した娘に、本当は抱きしめて一緒に泣いてあげたいけど、「涙は家に帰るまでこらえなさい。涙顔は見せちゃ駄目よ。不安になっ
ちゃうから。。。顔を洗って、頑張りなさい。」ってしか言えなかった。。。ごめんね。
ご家族の思い、娘を始めふじ乃ちゃんの大勢の友達の思い・・、悔しく、辛いだろうけど、ふじ乃ちゃんの笑顔を思い出して、前に歩み続けるしかないんだろ
う。
日記へのコメントを見ると、ふじ乃ちゃんの笑顔を胸に皆しっかりと先を見据えているよう。ふじ乃ちゃんらしい思いやりと優しさの心配りのおかげだと思
う。
ふじ乃ちゃんの笑顔は、みんなの笑顔の中に生きている。
ご冥福をお祈りします。 (以上)
ふじ乃逝去の七月二十七日は「木曜日」でした。「昨日(水曜日に)何度も病室を訪ねていた」ほどのこの親友は、なお土曜日二十九日にも「見舞」うつもり
でいたのです。それが「可能」と、まだ「病状を信頼」していたらしい。ところが、「今日輸血を止めたから、ふじ乃それまできっともたない」と確言している
ではないですか。
この大の親友は、ふじ乃の「病室」に出入りしていました。しかも病院と親とが合意の上ででしょう、「輸血を止めた」と、「mixi」という広い場で明確
に断言しています。そのことを語るのが何の「名誉を傷つけるでたらめ」ですか。夫妻はこの優しい悲しみの友人をも名誉毀損で訴えるのでしょ
うか。
「ふじ乃それまできっともたない」と、この親友が悲痛にも予知したとおり、正確に、ふじ乃は翌二十七日の朝、死んでいきました。嗚呼というしかない。
「輸血停止」には、このように確度高い証言があります。
「輸血停止」とは、患者を人為的に「死なせる」決断であるとみられ
て当然な処置でもあります。そして証言通りにことは経過し、ふじ乃は友人が予知したと
おりに亡くなった。その事実通りの指摘・記述が、何の名誉毀損であるでしょう。
なお、「安楽死」のことは、櫻子のために心底心配していたことだったのは、『死んでゆく、孫よ』に明記してあります。久間十義著『聖ジェームズ病院』を読
んでいた最中の私は、もしも「安楽死」がマスコミにでも疑われたら、とんでもない苦境に母親が陥ると心配し、櫻子らに助言もして、その配慮に飽海から「感
謝」されてもいるのです。そのメールが手もとに有ります。
安楽死は難しい決まり事もあり、医師と親と本人の「文書」による「インフォームド コンセント」が事前に是非必要です。ふじ乃の状態からも、そんなもの
の有るワケがなく、それでもし「安楽死」を外から疑われたとき、櫻子は持ち堪えられないと心配しました。そのことも『死んでゆく、孫よ』は触れて書いてい
ますし、関連の私からのメールもきちんと残っています。
飽海専太郎は、こういう親の配慮をいったい何と思って、こういう「いい加減」をあなた(=
記者氏)に話すのでしょう。当方、すべて、裏付けできる材料が手元にあります。
B たとえ父親とはいえ、実の娘のプライバシーを侵害することは許
されないのに、彼女が匿名で書いた作品を自分の書き物のなかで発表し、あまつさえ、そ
の実名をわざわざ公表しています。娘のほうは清家次郎氏の娘であることが知られたくないために匿名で作品を書いたのです。10数年間も交流のなかった実の
娘に問えば必ず公表を阻まれると承知の上で、当人に一言の断りもなく勝手に名前を公表してしまった。プライバシーの侵害も甚だしい。父親にそんな権限はあ
りません。自分で娘を愛しているといいながら、その愛しているはずの娘のプライバシーを平気で侵害し、公開するのはおかしい。法を守りなさい。こちらが言
いたいのは、ただ、それだけです。
● 法的には飽海氏の主張がとおる可能性が大きいと思いますが、この件に関しては、どう思いますか?
☆ 反駁 この回答はそう難しくないと信じています。
飽海は、かなり問題をねじ曲げて、間違った事実に拠っています。
娘は、私の手元で、いわば「文章を書く」ことを覚えました。娘には依頼原稿の下書きすら二度ほどさせて、それは一つに小遣い稼ぎさせるため、一つに経験
を積ませるためでした。代理で書いた下書き原稿もちゃんと今に残っています。
櫻子が小説を書き出すのを、母親と、どんなに噂して、待望していたことか。それに成功すれば櫻子は飽海専太郎ないし飽海家から精神的に自由になれるかも
と。
しかし飽海家と絶縁中、わたくしは櫻子に対しては久しく、指一本も動かさずハガキ一枚も書きませんでした。まして電話は嫌いです。近年復刊の文庫本歌集
『易老』を送っただけです、そこには櫻子誕生前後のうたが幾つも載っているからです。
しかしすでに世に出ていた弟・松夫から、「櫻子が小説を書いているよ。見てやって」と知らせてきたときの嬉しさは、タイヘンでした。『次郎の本』の「あ
とがき」に、その「歓喜」を書いていますから、読者には周知の事実です、
「匿名」で書いているということには、当時、「ライタークラブ電子メディア委員長」だった私には、大きな危惧がありました。プロは忠告してくれていまし
た、ウエブに匿名で作品を書けば、盗まれてしまう危険がありますよと。私もかねてそう思っていましたから、櫻子のガンバッた作品を作者を明らかにし「緊急
避難」しておくことは必要だと判断しました。「苦情」があれば「取りのける」と、ちゃんと「その場に断って」ありました。そして櫻子の「苦情」を受ける
と、すぐさま櫻子作品をわたしはすべて、仮置きしていた「e-文藝館= 濤(nami) =
清家次郎編輯」から、削除しています。飽海専太郎の云うことは、事情も知らず、むちゃくちゃ。妻の書いたものを、わたしの「e-文藝館=
濤(nami) 」も、そもそも見ているのでしょうか。
「娘のほうは清家次郎氏の娘であることが知られたくないために匿名で作品を書いたのです。」
こんなリクツが、どう証明できるのですか、弟に、「書いている」と、サイトまで知らせてきた以上、父親にも読まれない「わけがない」と当然分かっていた
でしょう。まして父はそれを「待望し」ていたのですから、読みますよ、それは、他のことをおいても。
世間に娘と知られたくない と、そういう物言いが痴呆的ではないでしょうか。「清家さんの櫻子ちゃん」は「清家さんの松夫クン」より広範囲の世間に知ら
れてきました。私の小説に、櫻子は松夫の十倍も実名で登場しています。それがまた櫻子の自意識にプラスにすら訴えていて、父のおかげで高校で卒業生答辞を
読ませてもらったとか、おかげでサンスリー美術館に採用されたとか、一緒にファッション誌の旅取材に同行できたと歓んでいたたわいない櫻子なんです。
なによりも、櫻子は弟に打ち明けています、「世界広しと言えども、わたしの作品を
分かってくれるのは、あの人だけかな」と。「あの人」とは、むろん「お
やじ」と弟も言い切ります。「そういう家庭」の文学的な空気に薫染されて櫻子は育ち、父も期待を掛けていたのですから。こういうところからも「原告」の微
妙極まる、どこか病的でもある櫻子の心事を読み解きながら裁判もすすんで欲しいのです。
そんなことはできません、しませんと言われれば、あ、そうと苦笑するだけですが。
「10数年間も交流のなかった実の娘に問えば」というが、「問う」パイプは絶無なのです。「必ず公表を阻まれると承知の上で」とありますが、素直に書い
て伸びたいと思っている娘ならば、父の好意は、父の喜びようは、分かってくれるものと信じていました。わたしは芯の所では、いつも娘を信じてきたのです。
弟と姉とがともに創作でガンバルかなあとは夢でした。そして現にずいぶん長期間、何年もの間、櫻子作品は私の「e-文藝館」に掲載されていてなかなか読者
も得ていたのですよ。
「法的には飽海氏の主張がとおる可能性が大きい」かどうかは、知りません。私が娘の「作品」と「書く意欲」に対して、作家である父親としてした配慮に、
「人間」として欠けるところがあったとは考えていませんし、文学者としては、それこそが、大切なことです。
父親のちょっとした推敲上の「助言」を、父の「高慢」という非礼の言葉で退け得る娘の無神経が、わたしには理解できません。この「高慢」も、そう書いて
いる櫻子の文章が残っています。しかも周囲には「女流作家」などと謂わせている。
あ、ダメだ、これは、と一人の編集者でもある私は、こと文学に関しては「高慢な」娘を見捨てたというしかありません。
「当人に一言の断りもなく勝手に名前を公表してしまった。プライバシーの侵害も甚だしい。父親にそんな権限はありません」などという言句を吐いているか
ら飽海専太郎はおかしいのです。ふつうの謙遜な夫なら、「親子じゃないか」と妻を窘めるでしょう。アカの他人がしたのならともかく、父親が娘の創作に終始
一貫「驚喜」しながらしていた(保全的=)掲載、しかもクレームが来ればすぐ撤去した、それが「法」的に「弱い」などと私は思いませんよ。
大事なのは、「人間」のうちなる、熱いもの、暖かいものでは有りませんか。「ブライバシー」もしかり、それは「人間の真情」を足蹴にしながら主張できる
ような、やすい価値ではない。違うでしょうか。
(とてもたいせつなことを言っているのだという確信があります。真実「遵法精神」とは何か。仕事の上からも、真摯に考えて行きたい。)
C 清家家と飽海家が断絶状態になったのは、父親による実の娘への
虐待やハラスメント(言葉などによる嫌がらせ? 内容は裁判で言うそうです。記者注)
が存在していたことが主たる原因。清家氏は、私が義父に向かって罵詈雑言を書いたという手紙の内容も公表していますが、あれは手紙の一部。前後があるので
すが、そこは公表していません。裁判では全文が明らかにされるでしょうが、確かに私
は手紙を書きました。
おかげで清家家と断絶でき、それから以後、私の妻である清家氏の娘は平和で安穏な10数年間を送ることができたのです。私の妻が、実家と断絶したあと
も、自分の父親を罵倒した私との結婚生活を長年つづけてきたのが、その証拠です。
● 10数年間、両家が断絶していた時代の記述はなかったように思います。どんな心境でいらっしゃったのですか?
☆ 反駁 大きな虚偽が此の飽海の言葉には狡猾に挟まれていま
す。私の家内の弁を、先ずお伝えします。
☆ これはもう真っ赤な嘘です。 清家美枝子
娘・櫻子が当時第2子の「つわり」で 我が家に来て休養していた と、お想い下さい。
私は持病(心房細動)をかかえ 九十媼の姑の面倒 幼いふじ乃の世話等で疲れがひどくたまっていました。重ねて、雨漏りがするのでペンキ屋がはいること
になっていました。
ペンキの臭いは つわりにこたえますので せめて一両日帰ってもらうことにして 夫・専太郎に迎えにきてもらったのです。
親子夫婦揃ったところで 就職の定まらぬ間の生活は大丈夫ですか? と 援助のこころづもりもあって夫婦して尋ねました。
これが いたく 専太郎のプライドに触ったとみえ 即座に「大丈夫です。私は常からアルバイトでも他人の初任給ぐらいはとります」と 胸をはりました。
「他人の三倍の能力がある」とさえ言い切りました。口癖のようなモノでした。就職も、もう間もなく決まりそうとも。
私は娘から、飽海専太郎が背広の新調も我慢していると聞いていたので「援助」が気に入らないなら、就職祝いをはずもうと用意しました。見てい
た息子が 僕ももう一度 就職しなおすよ こんなに貰えるのなら と言うほど。
しかし 娘等が帰宅した直後に我々夫婦に届いたのは なんともなんとも無礼な手紙でした。
そして黙って金の出せない非常識な妻の実家とは「縁を切る」と言ってきたのです。
記者さん、「おかげで清家家と断絶でき、それから以後、私の妻である清家氏の娘は平和で安穏な10数年間を送ることができたのです。私の妻が、実家と断
絶したあとも、自分の父親を罵倒した私との結婚生活を長年つづけてきたのが、その証拠です」という、大人にしては、大学教授にしては、なんともかとも、心
貧しい科白に、眉を顰めませんか。これが、小説の下書き『マリアの家』の「あの男」に、フィクションとして映されていたんだと読まれてケッコウです。
妻の櫻子が、自分の祖母を子連れで見舞うといえば、離婚するぞと飽海は脅しました。私も妻も櫻子の口からしっかり聴いています。そして、前にお見せし
た、ふじ乃の親友の、飽海夫妻に関する、「夫妻の崩壊」「離婚は決定的」というふじ乃への憂慮と同情に満ちたメールの文章を、どうぞもう一度読み返して下
さい。
飽海は何の「証拠」だと胸を張っているのでしょうか。かりにも教育哲学の教授が、知性有る大人が、自分の妻と親との確執を、あたかも高見の見物のものの
言いぐさは、鼻もちなりません。
「親子じゃないか」と、普通なら窘めるのが夫でしょう。かりにもルソーに学んだと胸を張る大学教授でしょう。
私たちは、「娘・櫻子と争ってきた」のではありません、あの居丈高に無礼な飽海専太郎に憤ったのです、そして今も同じです。私たちの軽蔑は一途に、こう
いうウソの言葉を汚物のように投げかけてくる飽海にあるのです。
久しい「断絶」の期間のことですが、私は、櫻子の「離婚」するのを望みませんでした。ふじ乃やかや乃のためには両親の家が大事という考えでした。だか
ら、私からは指一本動かさずに、いつもウエブで、櫻子や孫たちの平安と健康を祈っていました。
櫻子が、現在もそうですが、目を皿にして父親のウエブを読んでいることは、弟の伝えるかすかな事情からもよく酌みとれていました。そのようにして櫻子は
父や母の暮らしに一途に繋がっているのでしょう。
飽海専太郎はわたしに向かい罵詈讒謗の手紙を書いた「事実を自認」しています。そ
れだけでも、全ての名誉毀損の言い立てなど、砂上の楼閣です。全文を作
品に利用していては作品の空気は汚れる一方です。どう全文を出そうとも飽海が恥を掻くだけですし、いまごろ変な言い訳の作文など持ち出さないで欲しい。そ
ういうことも有ろうとすべて記録し保存されています。
D それに、清家次郎氏から「お前達とは義絶する」と最初にいって
きたのは、私が手紙を書く前です。こちらの一連の行動は、それを受けた後でした。
● 事実はどうだったのですか?
☆ 反駁 これも呆れた全くの虚偽です。家内も云っている通り
「真っ赤なウソ」です。下書きの小説『マリアの家」』には、時系列で細かに記録した事件
の経過が書き込まれています。将来こういう厚顔な虚偽を言い募るであろうことの読み取れる、そういう恥ずかしい人物なのです。全く虚偽、真っ赤なウソで
す。物証を日付で追ってきちんと証明できますし、すでに書いています。
E ふじ乃は自分から祖父の家に訪ねたのはたしかです。ある日突
然、高校生だった娘のブログの中に「ふじ乃に会いたい、会いたい」という呼びかけが始ま
り、じつに60回にもわたったそうです。若い連中だけのやり取りの中で「ヘンなじいちゃんが混じっているぞ」と話題になり、それで、ふじ乃は祖父との交流
を始めたのです。今年の3月には、娘が祖父の家にいっているのは私たち夫婦も知るようになりました。女房がいろいろと、過去のいきさつを話して聞かせてお
りました。母親の立場を理解してくれたそうです。
その娘が入院したとき、私は「良い機会だから、清家家との交流を回復したら」と妻に勧めました。しかし、妻は断りました。葬儀の案内を出さなかったの
も、そのためです。ずっと断絶していたのですから、また、嫌な思いをしたくないという気持ちでした。案の定、ふじ乃の死と同時に、清家氏は「娘が孫を死な
せた」というような文章を書き始めました。それが、氏の死生観だったとしても、子供を喪ったばかりの実の娘を「孫を死なせた」と非難し、平然と、しかも
嘘っぽい推理を並べ立てて、それを世間に発表する親なんかいないでしょう。
● 『死んでゆく、孫よ』の全面的な削除を求める理由は、ここにあるそうですが、いかがですか?
☆ 反駁 よくこんなウソが平気で云えると、人柄にますます鳥肌だって、軽蔑を覚えます。
ふじ乃やかや乃が祖父母の家に来ていることを知りながら、飽海の両親が、そんな「自由」をわが子達にゆるすかどうか、原状の、また現在の、この軋轢を直
視するだけでも、明白に分かることです。
ふじ乃がいつ初めて、祖父母と連絡が取れたか、記録は明確です。
二○○四年二月(ふじ乃高二)二日に、ふじ乃の方から、演劇家である叔父・清家松夫に「メール」を出しました。松夫はその日のうちに祖父母にその朗報を
初めて報せ、相談して、私たちは、「ふじ乃宛の初のメール」を、松夫に託すことにし、転送してもらいました。それが二月三日です。
すると二月四日に、ふじ乃から初メールが届いて、友達との写真も添えられていました。二月五日には、ふじ乃が電話してきて、本当に久々に孫娘の声を聴い
たのです。その喜びは、今も胸が痛いほど甦ります。
At Wed, 4 Feb 2004 00:29:01
+0900 gros-bisbis.vvv.9239@ezweb.ne.jp
wrote:
>Date: Wed, 4 Feb 2004 00:29:01 +0900
>From: gros-bisous.vvv.7237@ezweb.ne.jp
>To:
>>こんなんです♪
(友達との写真二葉 貼付)
----------------------------------------
宛先 :gros-
bisous.vvv.7237@ezweb.ne.jp
差出人名:jseik
題名 :ありがとう
ふじ乃 元気な写真をありがとう。嬉しい。嬉しい。赤い鼻緒の下駄をはいて、白いヴラウスにジーンズスカート、玄関で左右の腰に手を当て、ちょっと上
体を左に傾けてポーズしている 89.10.16
のふじ乃と、みくらべています。高校生なんだ。夢をみているよう。マミーも、それはそれは嬉しそうです。わたしも、むろん。
なんでも、いつでも、気楽に声をかけて下さい。おじいやんの機械は、ほとんどいつでも開いています。マミーの携帯は機能がよくない、パソコンの方のメー
ルアドレスが使いやすいようです。携帯なら、マミーには電話がいい。
**** が、マミーの携帯番号。おじいやんは携帯は使っていません。
風邪ひかないでね。 では、また。 ふじ乃のおじいやん
------------------------------------------
もしも「両親公認の祖父母との親交」であるなら、姉妹が「親に知られてはならない」と気配り十分に秘匿しつづけた意味がありません。
かつ、私たちも、その事情に応じ、孫達の来てくれる嬉しさを日記に「書きたくて」しようがないのに、姉妹のためを思い一行も書かずに、「わかい友達」が
訪ねてきて楽しかったなどと記録していたのです。その記録はウエブにちゃんと残っています、何度も。何度も。
ついにふじ乃の入院で、ケイタイが母親に調べられ、ふじ乃と祖父との「mixi」のマイミク同士も知られてしまい、しかし、ここで毅然と示した「ふじ乃
の意志」は、こうでした。
われわれに、祖父母に、「見舞いに来て、お土産もこれこれ」という親愛の呼びかけでした。
この両親の意に逆らった、「決意」に満ちた祖父母への呼びかけは、両家の確執や、ふじ乃の悲しみをよく知っている親友たちには「大きな驚き」だったと聞
いています。
ふじ乃の「意志表示」 それは、あの両親に対してはたいへんな「ガンバリ」「NO」でした。なにしろ娘が発病したことも祖父母には知らせない
でと弟に
云っていた櫻子でした。
ところが、櫻子がでしょうか、闘病記企画の第一声かのように、「mixi」に「白血病」と告知してしまい、はじめて「mixi」での、ふじ乃祖父の存在
に、マイミクの親しさに気づいたのでしょう。
飽海の云うことは、データも何も無い、口から出任せ、「六十回」の一度分でもいいから、ふじ乃に「あいたい、あいたい」メールを、正確なデータで出してみ
よと云えば、黙するしかないでしょう。そんな確かなメールを、あなた(記者氏)は、事実ご覧になりましたか、日付も書き手も確かに。
念のため家内の短い一文も読んでやって下さい。
☆ この飽海専太郎の曰くも、真っ赤な嘘です。
ふじ乃は 高校教室での配布教材に、祖父の名を見つけ とても喜んだそうです。お友達に自慢のしまくりだったそうです、ふじ乃のお友達に教えてもらいま
した。
また私は 息子・清家松夫脚本のテレビドラマDVDを「作者代送」として ふじ乃に贈りました。私の名前では ふじ乃に届かない恐れがあったからです。
そして ふじ乃の叔父さんの松夫が マッちゃんが、こんな仕事をしているわよ と そっと知らせたかったからです。ところが母の櫻子が、娘に代わって弟に
礼のメールを返してきました。ふじ乃と祖父母とは、直接には全く繋がりの付けようなど無かったのです。二○○三年七月のことでした。
そんなこんなで 二○○四年二月二日、ふじ乃は、やっと先ず、叔父・清家松夫に自分で連絡をつけ、そしてついに祖父母をも 自発的に訪ねて来てくれまし
た。妹・かや乃も連れてきてくれました。嬉しいことでした。
全てはそこから始まり、 ふじ乃の ブログだの 携帯電話だの は、それ以前には全く知るよしもないこと。「六十回メール」だの「あいたい、あいたい」
など、思わず笑ってしまう「大ウソ」です。通信記録を見たいものです。 清家美枝子
以上で、お尋ねに、全てお答えしました。そして飽海専太郎の言葉の安さと偽り多いことに、清家夫婦は呆れています。こういうことも有ろうと、私は、あな
た (週刊思潮記者)に、より正確な「メールファイルで回答」しました。これだけのことを会って、口で喋ったら、混雑は目に見えています。
繰り返しますが、物証の裏付けは、ほぼ完全にのこしてあります。
週刊思潮 記者殿 以上 清家 次郎 08.06.22
4 飽海専太郎の言い立てる名誉毀損とは。
わたしは、こう看ていました。飽海専太郎教授の言い立てる「名誉の毀損」とは、何か。
ミソもクソも一律の「法」にすがりついた「名誉」である、と。「本名」では守れず、「仮名」や「マスキング」で守られる「名誉」であると。
私がまっすぐ観るのは、そんな名誉ではありません。婿・飽海専太郎の「人間」です。トクトクとして噴飯モノの『お付き合い読本』を書き送ってくる「人
間」です。金を出さないなら「姻戚関係を絶つ」と舅姑を足蹴にできる「人間」です。
「法」のことは法律事務所に任せています。
わたしがするのは、真っ向「人間」を見て「書く」ことです。表現しても、卑しいウソで枉(ま)げはしないことです。
5 飽海家の目的は週刊誌を利用し、父・舅の顔に泥を塗りたかっただけ。
六月二十六日、週刊思潮は発売されましたが、「孫の死を書いて実の娘に訴えられた戦後文学賞作家」という記事にかかわらず、実父を「訴えた」娘の名も顔
も一言葉も、無し。誰もが、版元内の編集者すら、「看板に偽り」ですねえ、ワケが分からないと訝しみました。一方清家次郎・私の経歴は、本名をはじめみな
露出されていました。
原告筆頭の飽海専太郎は、すべて仮名「志村武」なる配役(ペルソナ)を演じて、妻の代弁者ですという風に根拠のないことをただ喋っていました。
大学教授といえば「社会的責任もある公人」ではないか、まして原告が名前も所属も地位も隠して取材に応じるなど、「うしろ暗い」事があるのだろうと、す
ぐ「不審の声」が読者から上がっていました。
明らかに「週刊思潮」への持ち込みは、飽海家による清家次郎の名誉を傷つける事に目的があったのでしょう。顔に泥を塗ってやる、と。
幸い、それしきのことで泥まみれになる顔ではなかったのです。だから訴えもしないのです。無礼者はいつも無礼だと知っているからです。相手にする相手で
はないのです。
こういう恥ずかしい行為にでてしまう人間ゆえに、飽海は自分自身の名誉を辱め続けているだけなのです。此処で、飽海専太郎に関わる「陳述」は、打ち切ら
せて頂きます。
第三、 その他、私見を求められている幾つかについて陳述します。
(一) 清家次郎の日記全般についてのお尋ね。
1 清家次郎の日記が「日記文学」ないし「私小説」であること。
文学史的に「日記」は「文学・文藝」として扱われています。ことに文学者の日記は「私小説」に準じて作品全集に屡々収録されています。手近な志賀直哉全
集では小説随筆の半量に匹敵しています。
土佐日記 蜻蛉日記 定家・名月記 芭蕉・奥の細道 一葉日記 子規・病牀六尺 荷風・断腸亭日乗 等々
私の今回刊行した『自筆年譜』も、すでに粉骨砕身の「日記文学」「私小説」ですねと、大勢が感想を寄せています。詳細な自筆年譜は「日記」の極致であり
究極の「私小説」だということ。
私のウエブ日記は明らかに「読者」のある「作家」の「文藝作品」であり、そこから編成された『死んでゆく、孫よ』は、さらに「作品」としての「私小説」
と受け取られています。そのように読まれています。
2 日記文学とは何か。
文学者の公開された日記は、端的に「日記文学」です。「読者」を拒絶していないものは、殊に。古来近世に至る浩瀚な「日記文学全集」が編まれています。
他に史料としての日記も多数あります。
3 私小説とはどのようなものか。
日本の近代現代文学の広い範囲を代表した作の傾向を謂い、作者の私生活上の体験・見聞に根ざして「事実」性「告白」性を色濃く踏まえながら、作者作者の
個性的な表現で「文学」を形作ります。
「私」を完全に脱色脱臭した場合、それは創作と謂うより「つくりもの」になってしまうと、むしろ大勢の文学者は考えています。「私」に根をえながら、ど
んな枝葉や花になるか、「私小説」も(失礼)クソ・リアリズムから、豊かに潤色・脚色の技を用いたものまで千変万化ですが、海外にも在るにせよ「私小説」
が日本文学の一大特色を成してきた史実は動きません。男女間の情痴をあからさまに書くものもありますが、新時代には、私も試みたい、主張や新意識や実験を
孕んだ「私小説」があり得ます。
4 現在、これらを多数の者に頒布し特定の者に譲渡する予定はあるか。
質問の意味がとりにくいのですが、私・清家次郎には、いわゆる「日記」として大学ノートや手帖にペンや鉛筆で書くいわゆる旧来の所謂「日記」と、ウエブ
に公表・公開している「文藝作品」としての「日記」とが在ります。前者の頒布や譲渡は、まず、将来の編集者判断に託されるでしょう。
後者は、清家次郎が死ぬまで現役作家であるとして、死ぬまで、機会と要望とが有れば、むろん適切に編輯・編成して頒布(出版・発売)し譲渡(寄贈・寄
付・進呈・配布)する自由な「著作権」を持っています。
それ以前にウエブ『作家・清家次郎の生活と意見』と題された厖大量の日記は、無料公開され、国内外の読者に歓迎されていますが、どう扱うかは憲法に許さ
れた著作権者の意思に在ります。
「譲渡する可能性があるのは、どのような場合か(相手が誰か、どのような
関係の者か、など)」というご質問は、意味不明です。プロの書き手は「本(文)を書いて売る」ことを一義的に生活の手段にしています。
しかし知友や先輩や有識者に「謹呈・贈呈」することも屡々で数少なくはありません。どんな作家でも同様で、私とて特別ではありません。
ただここで『死んでゆく、孫よ』のことを謂われているなら、これは自立した文藝全集中の『次郎の本エッセイ39』という自立の一冊であり、単にウエブ日
記の埒から抜け出ています。在庫はもう数十部しか無く、専ら予備用として手元に置きますが、読者はもとより同業・編輯者・記者・図書館・研究者・大学等の
希望には「応じて当然」と考えています。
(二) 主に飽海ふじ乃の日記について。
1 なぜ、日記を引用する必要があったか。
「陳述」にも詳細に触れたので繰り返しになりますが。
@ この引用を欠くと、ふじ乃「前期」の、親にも顧みられぬ孤独な
病状の苦悩が具体的に見えないから。
A 飽海両親の娘に対する「前期」の極端な冷淡がまざまざと証言さ
れているから。
B ふじ乃という「命」の、呻きや叫びや批評や悔いを、引用によ
り、より的確に表現できたから。読者たちも、ほとんど皆と言えるほど、このふじ乃の日記
の引用に「絶句して涙」を流したのです。
C むろん引用することで「読者への表現・伝達効果が万倍する」こ
とを「作者として正確に評価」の上、引用しています。
D もし引用しなければ、一人の飽海ふじ乃の「命の言葉も叫びも」此
の世に残せなかったでしょう。それは飽海ふじ乃が懸命に「生きたい」と叫んだ「存在証
明」なのですから。祖父として愛する孫娘の若い「命の叫び」をむざむざ「闇に葬る」ような無残なことは出来ませんでした。消え行く命の残光を私なりに懸命
にこうして繋ぎ止めたのです。
E ふじ乃日記の祖父なりの引用や紹介は、マイミクとして、生前の
ふじ乃に「いいですよ。おじいやん」と笑顔で承諾されていました。
F 陳述にも挙げた引用実例の「内容」そのものが「ふじ乃そのも
の」を表しています。私がこれを地の文に書き直せば説明に陥って、爆裂するほどの訴求効
果は弱まります。
2
ふじ乃日記に、なぜ変更(強調、一部抜粋など)をする必要があったか。
@ 本文中の地の文中に適切に取り入れるとき、鍵になる字句をカッ
コに入れて端的に挙げることのあるのは、本文の流れを「文藝」として壊さないために、
だれもが普通に用いるテクニックです。
A ふじ乃の病悩日記は、主旨から無関係に逸れた行文(めったに無
かったと思います)以外は省略を強く憚りました。内容が「凄い」からです。
それでもなお、読み落とされたくない表現を太字に強調したこともあるのは、これも引用例ではよく見る、明らかな誤字・語法の訂正などと同様の「表現効果
上の手法」で、原文や文意の侵害でも変害でもありません。
まま見受けられるおよそ普通の手法であります。
3 ふじ乃生前の意志について
陳述内に明記したように、笑顔で承諾されていました。ふじ乃だけでなく、大勢の他の知友ともそのように許可・黙許を得ています。
(三) ふじ乃の病状経過に関する清家の日記について。
大方「陳述」に詳記しています。
@ 飽海夫妻からは、何一つ、最後まで、事情等の聴け
たことは有りません。
A ふじ乃の「mixi」やメールや友人・見舞客の「mixi」コメ
ント等のほか、全く情報無く、事態は想像し推察する以外に「絶無」でした。幾らかは息
子を介しても状況を察しました。
B 白血病が「診断違い」となる前後、もっと悪質な病変を推察し、
心中に打ち消し打ち消し苦しみ歎きました。また「mixi」の約束では当然「あす
香」
発とあるべきが、「ふじ乃」発とされ、「mixi」日記の文章があまりに前後のふじ乃の「ほんもの」と違っていたりし、「母・櫻子の作為」
をおそれ危ぶみ
ました。「白血病」のときもそうでしたが、ことに「肉腫」という「最悪の病名」がふじ乃の「名」で「mixi」に広く告知されていた異様な不自然さ、酷薄
さに慄然としました。
「輸血停止」を見聞したとあるふじ乃友人の確言と、それを伝えたその母親の「mixi」にも驚愕し、「やすかれ」と思わず泣きました。
最後まで「生きたい」と書いていたふじ乃の心持ちにあまりに反した、飽海母親の、葬儀に至るお祭り騒ぎの「コーフン」ぶりにも驚愕しました。様子を伝え
聞いて驚きました。
C 医学的に「肉腫」が「最悪の癌で絶望的」なことを医書出版勤務
の見聞から知っていました。生命維持装置や輸血停止措置や安楽死のインフォームド・コ
ンセントについても知っておりました。最高レベルの医学研究書や医学専門誌の企画・編輯に従事し、自身で企画した点数は二百冊に、出版できた点数は百数十
点に、一級の医学者との交際は二百人はくだらなかった編集者でした。それなりの判断や推測はありえました。
(四) 今は存在しない「マリアの家」という下書きについて。
@ 「マリアの家」というのは清家次郎の自立した作品でなく、『逆
らう父』という長編フィクションの後半部のために下書きされていた未定稿でした。現在
は後半部(下巻)まで完成されています。正確な資料を正確に用いたあきらかなフィクションです。
A 「陳述」に詳しく申し述べています。岡井隆の短歌「逆らひてこ
そ父」を踏まえたこの長編の『逆らふ父』という「題」が、執筆のモチーフです。ウエブ
に書き起こし、前半を「次郎の本51」として書下ろし出版し、ついで後半を「次郎の本52」として長編が完成されています。
モーパッサン『女の一生』の夫ジュリアンのような途方もない「男」が描けるだろうと企図しました。意図通り、読者の大勢が、殆どが、作中の夫である未熟な
若い学者候補の途方もない像容に驚愕したと聞いています。
(五) 飽海櫻子の「mixi」日記について。
「陳述」中に、力点を置いて詳細に述べています。櫻子の「mixi」日記により、自分の名誉ももとよりですが、妻も、息子も名誉を侵害されたことに激怒
しました。絶対に放っておくことは出来ず、即座に写真等のウエブ掲載を対抗上実行しました。こういう問題では「言葉」は無力に近いことを文学者としてよく
承知しているからです。
もとより、櫻子「mixi」日記に書かれていることは事実無根、あり得ぬことです。事実片端も立証されていません。反証はたくさん申し述べ、また物証も提
出してあります。
(六)ビッグソーブへの削除請求関連の経緯を日記に記載したことについて。
@ 私は所属する文学団体の「電子メディア委員会」創設理事でし
た。かかる無道な暴挙の経緯を記録し、反響もともども広く衆知に訴えるのは、私の役柄の
一つでした。
A 事実、この件は大きな反響とともに飽海・BIGSOBEに対す
る非難と批判は轟々でした。こんな著作権侵害、編集権侵害、言論表現の自由の侵害は、
団体理事としても一人の文学者・書き手としても、絶対に許されぬことだという確信があって記録していました。
(七) 「生活と意見 闇に言い置くモノローグ」について。
「一日一日が独立した日記ではなく、全体として一つの日記文学であるということか」とお尋ねですが、「日記」というのは、一日一日から成り立ってゆきま
す。しかし一月経てば一月という纏まり、一年経てば一年という纏まりのもとに、一日一日では表し得なかったより大きく、より豊かで、より興味有る展開が見
て取れます。それが「日記」の妙味です。例えば『奥の細道』もそのように成り立っています。
漱石は自立した短編を幾つも書いて、それが繋がって一つの長編小説に成るという試みに熱心でした。日記文学とは、また私のウエブ日記もそのような意図、
という以上に「期待と願望」で書き継がれている文藝作品なのです。
良き纏まりということからすれば、『死んでゆく、孫よ』は、「七月末日」の「ふじ乃葬儀の直後で静かに擱筆され編成され」てよかった作品なのです。
ところが、不幸にして「八月早々」から飽海家の「裁判沙汰の脅迫」が降って湧いたために、余儀なくその「むちゃくちゃ」な発端にも対抗・対応して編むし
かなかった作品です。
もし、七月末日をもって綺麗に切り取られた『死んでゆく、孫よ』を、現作の上で簡単に確認されたなら、その後の大きな不幸は、まさしく八月早々の飽海夫
妻の「暴発」がもたらしたものと、容易に理解されることでしょう。
おわりに
以上、陳述書は「生きた言葉」であることに意味がありますので、全て「ご自身の言葉で、あらためて記述していただきたい」という代理人のご要望に応えま
した。
清家 次郎 平成二十一年三月二十五日 記
付録 被告妻・原告櫻子母・清家美枝子の陳述
妻・清家(せいけ)美枝子の希望を容れ、その一文を此処に添えますことを、
どうかお許し下さいますようお願い申します。
裁判所御中
陳述書 被告・妻 清家 美枝子
2009.03.25
私・清家美枝子(せいけみえこ)は、この法廷の被告・清家次郎の妻、原告・櫻子の母です。
この度の訴えについて、恐れ入りますが、拙い言葉で私からもぜひ一言二言申し上げますことをお許し願います。
「原告・飽海専太郎」のことは、簡単に申します。
つとに「飽海専太郎」の「名」は、清家のホームページ日記からみな消えております。小説は小説、自分からむりやり「自分がモデルだ」などと言い触らすこ
とが無ければなにも問題はないはずです。
また亡き愛しい孫・ふじ乃のいわば最期を語って立派に「存在証明」をなしえた日記体の創作『死んでゆく、孫よ』は、ふじ乃のために祖父の建てた渾身・懸
命の墓碑だと私はふじ乃と共に感謝しています。本来、飽海の両親からも感謝されていい優れた仕事と思っています。
八月以降の娘たちの暴挙が無かったら、『死んでゆく、孫よ』は「七月中」の収束で纏まりを得ていたのでした。このような裁判沙汰にまで紛糾する内容では
無かったものと信じています。
ただただ、二十数年以前に始まりました飽海専太郎の知性のかけらもない無礼な手紙に依る、我々親・子・孫がかかえてきた不幸と困惑・迷惑の、計り知れぬ
ものであることを、此処に申し添えます。
以下、主に「娘・櫻子」に関連して申し上げます。
一つは、「深山木」日記にきたならしく書かれています、あのような父への申しよう(被虐)は、子を喪った母親の一時の乱心というより無く、一切が妄想さ
れた事実無根の「たわこと」に過ぎないと、母としてまた妻として確信し否定します。認めません。息子も全く同意見です。
ともあれ、ざっと、私も往時を振り返ってみます。
(弟松夫誕生以前のことは、櫻子も申していませんので、この際省きます。)
櫻子が小学校一年生の夏休み、私は第二子を妊娠していました。櫻子も連れて産科の母親学級に参加し、その場で、思いがけなく流産・早産の危険に見舞われ
ました。
対症療法は「絶対安静のみ」それが家で可能なら帰宅を、不可なら即入院をと。もちろん在宅安静を選びましたが、このことが今になって櫻子の父を傷つける
「mixi」日記の出だしとなるとは・・・
小学校一年生の櫻子はほんとうに良く手伝ってくれました。母の容態も、父が多忙を極めた勤務をむりに五時定刻で退けて買物・食事の世話をしている事も、
よく理解していました。
櫻子日記に出てくる「西瓜」のこと、私もよく記憶しています。近所の八百屋から家までがさぞ重かったのでしょう。八百屋のおじさんも「えらいね、大丈夫
かい」とほめたと聞きましたし、私も労って礼を言いました。誰が西瓜が割れたぐらいで年幼い少女に怒ったり怒鳴ったりするでしょうか。なぜ西瓜を買いに行
くことになったかは記憶にありませんが、頑張った櫻子に感謝したり褒めた記憶ははっきり残っています。
父と子供とで最小限の家事を切り盛りしたので、寝たきりの私のそばには手を伸ばしてかき集められるほど埃が寄っていたりしましたが、娘にも
夫にも感謝こそあれ、叱ったり苦情を言ったことはありません。こんな父娘の一心の協力を得て息子松夫は生まれました。
年寄りたちは男の子ということで、格別の喜びようでしたが、私も主人も櫻子がそのためにがっかりしたり僻(ひが)んだりしないよう、気を配りました。櫻
子も弟を、それは可愛がって「松夫の幸せは私の幸せ」と名言も吐きましたし、弟も誰より姉に愛想がよかったのです。始めてのお喋り、言っていることはまる
で解りませんが、ひたすら姉にむかってお喋りをはじめた時の家族の驚きと喜び、忘れられません。父親は素早く写真にとり、櫻子の嬉しそうな様子が私の眼に
今も焼き付いています。その写真を見ますと「家族全員の嬉しさ」が甦るのです。
低学年では、櫻子は同じクラスの自閉症のお子さんの世話係をするなど先生に信頼され、高学年の先生も学校での態度・成績をいつも明るい子、名前の通り
「満開の花」と褒めてくださるのが面はゆい程でした。
地域の公立中学では数学クラブで気のあった者同士放課後を楽しんで、ときどき遅い帰宅に心配したり学校に電話したりしましたが、私も中学程度の数学が面
白く、課題の解を手伝ったりしたものです。
父親も娘の学業や生活習慣に注意深く、地は甘い甘い父親でしたが放任しない厳しさも持っていました。父として、褒められて当然で、虐待などとんでもな
い、いつも優しい子煩悩な人でした。
高校受験は櫻子が自分で学校を選び、手続きも自身で行い、発表の日に始めて私も一緒に出向きました。進学塾に通わず家庭教師にもつかず、うちでは「未塾
児」と呼んでいました。自学自習で国立大学の附属高校に合格しました。本人の意志とがんばりでした。
中学を卒業して後、同級生のお母さんに「櫻子ちゃんも可哀想だったわね、学校でいじめられてて」と聞かされ、びっくりしました。同じ数学クラブの優秀な
男子が雑巾を投げつけられたりした話は娘から聞いていましたが、うちの子も? とは気付いていませんでした。
高校生活では良い友人もあり、言うことなく傍目(はため)にも幸せそうでした。ただ盲腸の手術の直後腸捻転になり、憔悴しました。
父親が連日自転車に乗って病床に見舞ってやりました。娘は、一言で言って「パパっ子」でした。パパに褒めてもらうのが大好きでした。
大学は京大受験を希望していましたが、あの頃の激しい学生運動も治まりきらず、この時ばかりは私が絶対反対しました。壁に背を預けたままぼろぼろと落ち
る娘の涙を、今も思い出します。
お茶の水・慶応・学習院どれも合格しました。本人が一つを選びました。
大学では弓道部にはいりました。しばらく順調でしたがやがて、幼少時の骨折の影響から弓を引く筋肉や神経に障って続けることが出来なくなり、随分残念な
様子でした。
就職活動は思いの外順調に進むようでした。幾社も内定が出て、しかしどこにも幾分かの不満の点があって、決めかねていたところ、サンスリー美術館の一次
に受かりました。大層な競争率でした。この時ばかりは櫻子の目の色が変わり、傍目にも必死だなと読めました。特にアテがあったわけでなく、夫が頭をさげて
ご相談した方に、思いがけない良いつてがお有りで、「任せなさい」と頼もしく、ご指示どおりに夫婦も奔走し紆余曲折あって針の穴を通って入るような職場に
採用されました。娘はそれはもう、大喜びでした。父のおかげでした。
大学時代も就職してからも、その日あったことは台所に立っている私の側にきて、ながなが話して行き、思い出してみると「友人」の事が存外「本人」の事で
あったりしたかも知れず、遠慮のない正直な私の感想をそうして引き出していた事もあったろうと気が付きます。
弟・松夫は、姉ほど幼稚園にも学校にも馴染めず、忘れ物や授業中の多動で注意を受けることもあって、櫻子は真面目に私の相談にのってくれましたし、弟の
ために進学塾を見つけて来てくれたのも櫻子です。代々木のさして大きくない信頼できる良い塾でした。父親は大丈夫と確信していましたけれど、おかげで息子
は志望通りの良い中学に合格しました。
父親はじつに忙しい編集者で中堅の管理職でした。その上、小説家になるという堅い志望で寸暇を惜しんで勉強に打ち込んでいました。文学賞を得ましてから
も二足の草鞋で奮励しておりましたが、ついに退社・独立しようというときは、家庭生活に影響が出るかも知れぬ以上、中学生の娘の諒解も得なくてはと、大真
面目に親子の間でも話し合っていました。終始そういう親子でありわが家でありました。
思春期・成長期の櫻子には、さまざまな恋や悩みも不如意もあったことでしょう。でもこう振り返ってみて、母親から観て妻から観て、家庭内に全く「虐待」
と言われて思い当たる何一つ無く、どこをどう押すと「父に虐待された」など言い立てることになるのか、娘の暴言は全然信じられません。
それも結婚生活も経て、数十年もあとあとになって「初めて唐突に」
それを持ち出すことの余りな不自然さ。
打ち明けられたり、相談されたり、そんな事は只の一度として無いのです。仲良しの弟である息子も、何一つそんなことは聞いたことも感じたことも無いと申
します。膝つき合わす小さな家で、私は専業主婦で母、いつも夫や子達の間近で暮らし、忌々しいそんな何一つも感じたことは無いのです。
やはりふじ乃の死後、心も乱れて、悲しみのやり場がなくて、櫻子はむちゃくちゃに言いがかりを付けてきたとしか思いようがないのです。
ところで、櫻子は、父・清家の親しい友人の御紹介でお見合いし、飽海専太郎と結婚致しました。
私は、櫻子の結婚への決意が「父の紹介だから」と父への甘えや依頼心に依るのではないかと案じました。そして、もし結婚生活に不満の生じた際に父親の
「せい」にするのではないかという不安も覚え、じつは、娘と二人で話し合い、結婚に反対しました。
しかし櫻子は結婚しました。結婚当日、櫻子が打ち明けた事は、私と話し合うより前にもう決心していたのと言うことでした。
今、こうして父親に不足・不満を言い立てる様子に、何故、何故と思う一方で、ああ、父親の「せい」にと心配したとおりかも、と思います。
結婚後分ったことは、気位ばかり高い婿と、我々清家とでは考え方が、大きくいえば思
想が大変違う、ということでした。単に世代差では片付かない違いがあ
りました。
でも、それはよくある事、ある意味で当然でしょうし、二組の夫婦がそれぞれ自立している間はそれで良かったのです。
しかし娘夫婦の生活が思わしく無くなったとき、婿はかえってますます気位高くなり、私から援助を申し出たことにも、侮辱されたと腹をたてました。私は婿
に援助など受けたくない意地があるのだと思い込み、間近いと聞く就職がきまったら、大いにお祝いをはずもうと用意もしていました。言葉の裏を読む知恵が私
に足らなかったのです。
一気に婿は我々の態度を非難し、謝れと言い募り、あげく、親戚関係を絶つと罵倒して来ました。経済援助は、「婿に恥をかかさず母親が内緒
ですべきもの」
と言うのが彼の言い分だったようです。
縁談のはじめに「勿体ないご縁で」「光栄です」と不思議なbご挨拶を受けた事を思い出しました。
「勿体ない」という彼の気持ちを問いよく質(ただ)していれば、その後の付き合い方は随分違っていたのでしょうか。
罵倒されて咄嗟に、私は「離婚」して欲しいと願いました。孫も手元に置きたかったし、なにより夫への露骨な侮辱が許せませんでした。
夫は離婚に賛成ではありませんでした。「夫婦で親子」の暮らしが基本という考えでした。そして私たちには娘や孫と別れ分れの歳月が長く長く過ぎました。
没交渉になったその間は、櫻子の心ゆく生活の送れますよう祈る気持ちで、彼等の生活の邪魔は厳につつしみました。電話一本も遠慮したのです。うかと婿に、
夫婦間で暴発されたくないし、それまでに送ったアレコレも、父の著書も、孫へのプレゼントまでも、みな、飽海専太郎自筆の宛名書きで「返送されて来る」し
まつでしたから。。
孫ふじ乃が小学校に上がろうかという頃で、かや乃はまだ赤ちゃんでした。
以来11年近く経って、孫ふじ乃が、なんという嬉しさ! 連絡をくれました。高校2年生でした。嬉しかったです。我が家に来ると言うので最寄り駅へ迎え
に出るのに、我知らず小走りになるのが抑えられませんでした。
櫻子は、「mixi」日記の中で、ふじ乃を祖父母は「おびき寄せた」などと書いています。
また飽海専太郎は「週刊思潮」誌面で我々がふじ乃にメールをしつこく送ったなどと言っていますが、どちらも「嘘」です。郵便は不可、携帯電話のアドレス
など知れようもなく、しょせん松夫を介するなどより以外、飽海と「連絡」はまったく付けようがなかったのです、清家には。
結局はふじ乃が自身で、叔父や祖父母に働きかけ、そして久々に小日向(こびなた)の我が家まで駆け寄ってきてくれたのです。
いい娘に育ったと、我々祖父母も叔父である息子も大喜びしました。本当に嬉しかった。
そのふじ乃が、私にまず口にしたのは、「母親の自分への無関心」と「家を出て独立したい」ということでした。思いがけないことでした。
そして我々祖父母との思い出を持たぬ妹・かや乃までも連れて来てくれるようになりました。
二人とも口を揃え母親のことは「謎」ですと言い、いつもスキップするほど楽しそうに訪ねて来てくれました。堅く両親には内緒で。
叔父の松夫が作・演出のお芝居も一緒に観ました、食べたり、買い物したりしました。夫はかや乃と将棋をさして負かされたり。雛祭りの飾りもそれは楽しく
姉妹でしました。
ここで私が申したいのは、こうして喜びに満ちた我々が、どうあって「ふじ乃の命を侮辱したり、死を貶(おとし)めたりする」のでしょうか? と言うこと
です。
ふじ乃は最期まで「生きたい」と言っていました、書いていました。「私の未来はどうなるの」と悔しがりました。そして「狭く暗い所へ閉じ込められる夢」
を見ては恐怖に怯えていました。可哀相で可哀相で、私など、電車の中でも街でも、他人目(ひとめ)憚らず泣き出さずにおれませんでした。
私たちの娘櫻子は思いがけず娘ふじ乃に19才で死なれ、それはそれは悲しかったことでしょう。辛かったでしょう。私もこう書く間にも涙を抑え切れませ
ん。ふじ乃の死が辛いのは両親も祖父母も変わり無いのです。そこを分かってくれれば、嘘までついて、争うだの、謝罪だの、まして公に訴え出ることは無かっ
たと考えます。
訴状にある「名誉毀損」も、親身の文章の一部、片言隻句を引き出してこじつけているとしか思えません。日夜、櫻子の事を思い悩み、櫻子の言葉が、考え
が、理解出来ずに私はいます。
孫たちのあの言葉を借りますと、『謎』なのです。
櫻子は思いどおりに、思いの限りふじ乃を看病し、見送りましたでしょう。でも祖父母は、この時も飽海の、つまりは櫻子の意向に従って、病室で泣くこと
も、最期の別れを言うことも出来ませんでした。許されなかったのです。「通夜や葬式に来たら警備員に追い出させるからね」と言われたのです。
今も心残りです。
あげく、櫻子は思いどおりのお葬式を済ますと、翻ってすぐさま私たちを裁判沙汰で脅迫し始めました。清家の関係の協会やクラブ、また公の組織のあちこち
に誹謗・中傷の文書を届けるなどと言い募るメールが、連日飽海夫妻連名で送りつけられました。とどのつまり、「親に虐待された」とまで出任せを言い出しま
した。
何故でしょう、何に腹が立つのでしょうか。ほんとうにあの櫻子が言い散らし書き散らすのでしょうか。
孫たちでなくとも、『謎』です。
悲しみが強すぎたからでしょうか。
私たちが何か邪魔だてしたのでしょうか。
十年余も親とは無縁に生きてきたのに、ふじ乃の入院も内緒にしたかったのに、ふじ乃が私たちを「来て」「見舞いに来て」と繰り返し熱く呼んだからでしょ
うか。
私たちが見舞いに行ったからでしょうか。
それとも、孫たちが母に内緒で祖父母とあんなに親しかったからでしょうか。
考えれば考えるはど、原告櫻子の申すことの訳が判らず、いわゆる「裁判になじまない」ことのように思えるのです。
以上、申し上げました。 清家美枝子 平成二十一年三月二十
五日・記
ーーーーー*ーーーーー*ーーーーー
所懐 「陳述書」を提出直後に。 作家・清家次郎
裁判所より「提出せよ」と指示され、初体験の「被告陳述書」を書いた。裁判官にも弁護士にも「法律」通の誰にも、失笑されるに違いない著述である。「こ
んなモノ、読んでくれませんよ」と言われるものを私は書いた。
弁護士との付合いを通して、イヤほど知っていた、理由の有無にかかわらず「公然と事実を指摘して人の社会的評価を傷つけ」れば「名誉毀損」なんです。
「リクツ抜きなんです」と。中傷や捏造でなく、百パーセント「事実・真実」であってもそういうこと、「リクツ抜きなんです」と。
それでも、私は書いた。被告「陳述」の法効果など少しも弁(わきま)えず、少しも期待できず、小説家として書かねばおかぬ謂わば一編の「私小説」を書い
て願わくは「事実」に「真実」を歌わせたのである。真正面から題すれば『名誉毀損』或いは『インターネット』で、副題が「父の陳述」か。
いや、主題は『凶器』がいい。いいかえれば、人間が人間であるゆえの「言葉=文学」の謂(いい)である。
言葉は、信じ切ってはならぬ最たる一つであり、同時に言葉は、生かさねばならぬ。言葉は時に利器として使えるが、おそろしい凶器にもなる。鈍器にもな
る。「作家」とは、「凶器」「鈍器」である言葉を「利器」かのように使える狂気の「悪党」なのかも知れぬ。古い昔のことは措くが、近代以降の尊敬し信愛す
るわが先達も、よく観、よく見抜けば、身の毛よだつほど巧みに言葉を凶器に用い、人間の悪徳や偽善に復讐している。鴎外も、藤村も、漱石も、荷風も、直哉
も、鏡花も、谷崎も、川端も。高見順も、太宰治も、三島由紀夫も、福田恆存も。そこにこそ真に言論表現の自由の根拠が在る。
現代作家達は、それをしなくなったか。やはり、大なり小なりしつづけている。そう思う。
「リクツ抜きの裁判」である以上、結果は見えている。裁判の勝ち負けのためでない、いい機会だ、「凶器」を振るおうと思った。
裁判の結着如何に関わらず、同じ作家の「息子」の手でこれが世に出されるとき、もうその辺まで迎えに来ている痴呆(ボケ)に身を任せ、「父」私は世にい
ない。「息子」があとへ書き添えるだろう一文が、たぶん「父」の思いであり主張であり時代に呈示した「言葉」になってくれる。そう、息子に托してゆく。
平成二十一
年四月一日・記
追記 原告夫妻提出の「陳述書」を読みて。 清家次郎
婿・飽海専太郎の陳述書を読んでも、予想どおり、具体的な新たな刺戟も反駁に値する観点も得られなかった。この原告たちに私から言うべきは、私の「陳述
書」に尽きている。
娘・飽海櫻子の陳述にも重ねて言いたい何もない。
ただ一点、私にも妻たちにも目にとまる「曰く」があった。父・清家次郎のウエブその他の言動が理由で、例えば地元住人らから市役所等に「主任児童委員で
ある飽海櫻子(広江)さん」の素行等につき質問など寄せられ迷惑した、またアルバイト等にも同様の影響で「減収」の迷惑が生じている、と。
週刊誌が「売り言葉」に用いていたように、「実の娘」が「文学賞作家である父」を現に「訴え」莫大な賠償金を要求するような素行があれば、役職を或いは
大きく辱(はずかし)めているのではないかとこういう反響に見舞われるのは、自然の趨としか言いようがない。逆に「実の父」がこの娘・櫻子から浴びた捏造
「mixi」日記からの名誉毀損や迷惑は、社会的にも作家としても計り知れなかった。
私は、捏造しない。
すべては「遠過去」の専太郎暴発、また「近過去」での、ふじ乃両親の反省の無さ、親たる子たるの至らなさに根ざしてい
る。原告二人は、我が身と我が胸と
に「訴え」て恥じるべきであった。私の身の不徳は言語に尽くせない。亡きふじ乃に「おじいやん」と愛されただけを喜んで、詫びている。
いま一点、言い置く。
原告二人は、こう云う。
すべて父・舅「清家次郎」の曰(いわ)くは「私怨」に発していると。これまでもそう言い今回の「陳述書」でも否定的にそう言う。
簡単に応じれば、飽海専太郎そもそも遠過去の「暴発」も、娘・櫻子の父を「殺してやる」という近過去の「絶叫」も同じで、久しい両家の確執に「公憤」の
根ざしていたことは無い。同時に、彼らが大学教授であり主任児童委員を名乗り、また私が団体理事で作家であることの「公人(パブリック
フィギュア)」の立場は否認できない。
また「私怨」の文学的意義について、ある友人作家の以下の述懐を最
近読んで共感している。
*
文学や藝術の根底には、よく謂う愛や哀しみより、もっと濃密に「私怨」が秘められていても当然と、わたしは容認してきた。いうまでもない『オデュッセ
イ』や『古事記』より以降、「怨み」は創造のつよい根の力だった。オデュッセイの名じたいが「怨み」の意義を体していると謂われる。『嵐が丘』も『モンテ
クリスト伯』もしかり、『源氏物語』ですらしかり、洋の東西の名作力作の多くがあらわに底に「私怨」をエネルギーにしている。但し、生きる力になるほどの
「私怨」には、他者を納得させるだけの根拠がある。理由がある。
「執念深からうが、男らしくなからうが、事実は事実だよ。よし事実に棒を引いたつて、感情を打ち殺す訳には行かないからね。其時の感情はまだ生きてゐる
んだ。生きて今でも何処かで働いてゐるんだ。己が殺しても天が復活させるから何にもならない」と『道草』の健三=漱石は、『こころ』の先生と全く同じに、
「私怨」をむしろ生きる力にしている。同じ思いを例えば龍之介はこうは書けなかった。書かなかった。何故か。私は、どうか。真率の私怨をどう昇華して創作
できるか。
課題は、尽きない。
*
娘夫妻の訴える「名誉毀損」の立場はこうであるらしい。私怨に過ぎないものを、ウエブ(インターネット)という場へぶちまけている、許されることでな
い、と。
焦点が、ここに在り、わたしは問う、少なくもネット上での「名誉毀損」とは「何」であるかと。
私怨であれ、なかれ、古来「人の習い」と謂うべき「人の口に戸は立てられぬ」ことは、インターネットの時代に、ますます防ぎようが無くなっている。
防ぎようのない「人の習い」を、形式的・法的に闇雲に抑制しようとするから、まるで効果なく「某チャンネル」や「各種掲示板」のような目を覆う逸脱が大
手を振って氾濫してしまう。氾濫自体とうてい防げると想えないが、かりにもネット普及のこの新時代に、仮名や偽名での当てつけや捏造・虚言で卑怯に他者を
侮辱したり脅迫したり中傷したりする分には恰も「法の網くぐりと過ごし」て許し、他方「文責」を明示して実名で真っ直ぐもの云えば、一律、「リクツ抜き」
に名誉毀損・損害賠償に当たるという「法」運用は、そもそも人倫に照らして真に適当と謂えるのであろうか。
実名での批評や批判は秘匿のノートブックや日記帳にペンや鉛筆で書けというのは、年を追ってケイタイやブログの溢れる時代には、もはや現実離れしてい
る。同時に、日記帳やノートでなら許される「批評や批判」という生き方じたいは、「陰口なら宜しい」という、「ここだけの話」「内緒やで」という容認に他
ならず、だれもがこれに好んで逃げ隠れするのは不健康なことである。ノートブックの日記にならいくら書いてもよく、ウエブでは法律が禁じるというのも、
「ネット以前」の時代には馴染んでも、グローバルにネットがインフラとして巨大かつ現実のメディアとなっている現代・未来では、むしろ卑屈さが咎められて
も仕方がない。そういう似而非の常識・良識を作家として私は否認する。すでにどう咎めても「人の口に戸」はますます立たなくなっている「時代」である。
それならば、せめて「新たなルール」として、インターネット上で恥無き論拠や理由を以て他者の名をあげ批評し、時には烈しく非難する際も、必ず「文責と
立場とを明示」し、批評された側からの「討論」にもきちんと応じる義務があるという「法慣習」を「最小限のエチケット」として「社会的に建設し公認して」
ゆくのが道に叶っているのではないか。言論表現・思想信条の自由と権利は、護られねばならぬ。まして、互いに「公人」同士、その公人である一点に言説の根
をもち論争するのを、「法」が名誉毀損や損害賠償で軽率に干渉するのは理に当たらない。卑怯を嫌う私の思いである。
これを強く私は言い添える。 平
成二十一年四月十五日・記
今一度 「陳述書」に添えて言い置くこと。 清家次郎
平成二十一年(二○○九)三月末に「被告陳述書」を提出し、待ち設けた四月法廷は、思いがけず、原告の飽海専太郎・櫻子夫妻に対し、訴えている「名誉毀
損」につきもっと具体的に要点を書き改めよと、「八月三十日」という再提出期限を設け、裁判官判断を休止された。原告主張の要点が「分かりにくい」「やり
直せ」という指示でしょうと代理人の説明があった。私の口をはさむ事ではない。
はからずもこの「平成二十一年八月三十日」は、久しぶりに民意を問う衆議院選挙当日に当たり、結果、与党は空前の惨敗を喫し、「政権交代」が実現した。
併せて最高裁判事の信任投票も行われ、事前に、各判事の「裁判官としての心構え」等が有権者の家庭に配られてきた。私は関心を寄せ、つぶさにそのそれぞ
れを読んだ。やがて法廷で「被告」として直接尋問も受けるらしい私は、むしろ「法」の専門家や通人の目には失笑ものらしき長い「陳述書」を、渾身の力と思
いで書いて提出したのであり、最高裁判事の「抱負」や「覚悟」に、不安や期待を持たずにおれなかった。関心の置き所は、この人達は、そもそも「法」を、非
情の形式として法文のママ行われるのか、「法」とはそういうものなのか。私はそれが窺い知りたかった。
私に議論の出来るワケがない。裁判官の「言葉」どおりに、印象にのこった、感銘を得た幾らかの言句・文句を、此処へ、順不同、ただ書き写す。(太字は、
清家)
竹崎博允 最高裁長官 とりわけ、現在のような変動の著しい困難な時代においては、社会の動向を見極め、長期的な視点に立って適切な判断を行
うよう努
めていきたい
* (清家のコメント) インターネット時代の言論表現の自由について適切な判断を願う。
近藤崇晴 最高裁判事 何よりも大事なのは、結論が健全な社会常識に合致したものであることだと考えています。そのためには、社会と人々の心の動きを
鋭敏にキャッチできるような感性を研ぎすましたい。
* 子が親を罵倒し、子が親を訴え、仮名や姿隠したまま子が親の名誉をマスコミで傷つけけがすなどは、「健全な社会常識に合致」していると謂えようか。
宮川光治 最高裁判事 司法が実現すべき究極の価値は、ひとことでいうと、「人間の尊厳」である、と考
えています。 法を人間の側から考え、分かりや
すい論理と言葉で、判断を示していきたい、
* 仮名やマスキングで守られる名誉でなく、「人間」の人格を見極めて法文だけの杓子定規な決めつけでなく、ヒューマニズムを重んじて欲しい。「世界文
学を読む」とも云われている。期待したい。
櫻井龍子 最高裁判事 ひとつひとつの事件に全人格をあげて取り組み、
* 法の形式的な適用よりも裁判官の人格をかけた洞察と聡明を望む。
竹内行夫 最高裁判事 人間の尊厳を基盤にしつつ 個々の判断に当たっては、問題の本質が細部に宿り得ることを忘れず、
* 木をみて森を洞察し、またその逆も的確に見て欲しい。
涌井紀夫 最高裁判事 独りよがりや思い込みに陥る危険を常に念頭において、広く他から学んでいく。
* 法律家の「法」「法文」オンリーの形式論に陥らず、人間の自然を深く汲んで判断して欲しい。
田原睦夫 最高裁判事 個々の事件における当事者の主張に虚心に耳を傾け、正義に適い、且つ公正、妥当な判断をなすべく全力をもって努める
* 法の素人の「当事者」が、生きた言葉で訴える「陳述書」を、法の玄人の成心で読み飛ばさないでもらいたい。
金築誠志 最高裁判事 関係する事実を背景事情に至るまで正確に認識することが、たいへん重要であると
思います。
* 全く同感。しかし法律の専門家はしばしば法の字句の前に「事実」の「背景事情」など一笑に付し、聴こうともしない気味はないかと懼れている。
那須弘平 最高裁判事 「ただ一人の声」や少数異端の意見の中にも真実と正義が潜んでいることがあ
る。 当事者の声に真剣に耳を傾け、 これまでに育
んできた自らの良心を最後のよりどころとして、決断。
* 「正義」や「自らの良心」を人間愛にもとづいて涵養しつつ「当事者の声に真剣に耳を傾け」て欲しい。
私・清家次郎や清家美枝子の「陳述書」が、上のような、まこと「斯くありたい」裁判官の信念や理想で読まれれば、他に云うことは無い。
原告・飽海夫妻の昨日までに再提出されたであろう「新訴状」を、むろん私も清家側の誰もまだ読んでいないが、さぞ苦心して造作されたであろう「それ」
に、もはや私は拘泥する気を殆ど放棄している。
私は、妻や息子とも心一つに、私の「陳述書」に、委細を尽くした。この上、何を言い置く必要ももう無い。
まえに出版してある長編小説『逆らう父』上下巻、長編日記文学『死んでゆく、孫よ』、さらには、十数年にわたる厖大なウエブ日録『作家・清家次郎の生活
と意見』等にも、この裁判にかかわる関連一切は網羅されてある。唯一、私は私の「言葉」を、この事件の核心をえぐる「凶器」として振るい得たかどうかだけ
を、いま、思っている。
平成二十一年八月三十一日・記
〜〜〜〜*〜〜〜〜〜〜*〜〜〜〜
清家 松夫 「後記」に代えて
姉夫婦が父を訴えた「裁判」は、父の入院までに「判決」が出なかった。以降の「裁判」の行方に関し、ぼくがここにモノを言うのは適当でない。今は度外視
し、上の「父の陳述書」等を新たに読み直した「ぼくの思い」を簡単に書き添えておきたい。簡単に済むかどうか分からないが。
父は最初から「裁判」の行方を考えていなかったように想う。法の型通りな決定より、ずっとつよく「文学と人間」のことを思っていたのではないか。
原告の二人はひたすら「名誉毀損」の裁判に勝つことを願ってきた。その根拠も、人間的な反省を都合よくワキへ片づけ、ただ「法」的にはという法律頼みの
「勘定」だけを裁判所に期待していた。父は最初から気づいていたし、ぼくもそう観測していた。
これに関しては、「週刊思潮」記者氏が父に届けた飽海専太郎氏の言い分第三項が、はからずも「第三者(記者)意見」とともに問題点を露わにしている。
重複を厭わず、ぼくの気持ちで、再録してみる。
B (飽海氏曰く) たとえ父親とはいえ、実の娘のプライバシーを
侵害することは許されないのに、彼女が匿名で書いた作品を自分の書き物のなかで発表
し、あまつさえ、その実名をわざわざ公表しています。娘のほうは清家次郎氏の娘であることが知られたくないために匿名で作品を書いたのです。10数年間も
交流のなかった実の娘に問えば必ず公表を阻まれると承知の上で、当人に一言の断りもなく勝手に名前を公表してしまった。プライバシーの侵害も甚だしい。父
親にそんな権限はありません。自分で娘を愛しているといいながら、その愛しているはずの娘のプライバシーを平気で侵害し、公開するのはおかしい。法を守り
なさい。こちらが言いたいのは、ただ、それだけです。
● (記者氏曰く) 法的には飽海氏の主張がとおる可能性が大きいと思いますが、この件に関しては、どう思いますか?
☆ (父=清家次郎曰く) 反駁 この回答はそう難しくないと信
じています。 飽海は、かなり問題をねじ曲げて、間違った事実に拠っています。
娘は、私の手元で、いわば「文章を書く」ことを覚えました。娘には依頼原稿の下書きすら二度ほどさせて、それは一つに小遣い稼ぎさせるため、一つに経験
を積ませるためでした。代理で書いた下書き原稿もちゃんと今に残っています。
櫻子が小説を書き出すのを、母親と、どんなに噂して、待望していたことか。それに成功すれば櫻子は飽海専太郎ないし飽海家から精神的に自由になれるかも
と。
しかし飽海家と絶縁中、私は櫻子に対しては久しく、指一本も動かさずハガキ一枚も書きませんでした。まして電話は嫌いです。近年復刊の歌集『易老』を
送っただけです、そこには櫻子誕生前後の歌が幾つも載っているからです。
しかしすでに世に出ていた弟・松夫から、「櫻子が小説を書いているよ。見てやって」と知らせてきたときの嬉しさは、タイヘンでした。『次郎の本』の「あ
とがき」に、その「歓喜」を書いていますから、読者には周知の事実です、
「匿名」で書いているということには、当時、わが団体の「電子メディア委員長」だった私には、大きな危惧がありました。プロは忠告してくれていました、
ウエブに匿名で作品を書けば、盗まれてしまう危険がありますよと。私もかねてそう思っていましたから、櫻子のガンバッた作品を作者を明らかにし然るべき場
所に「作者名を明記」の上「緊急避難」しておくことは必要だと判断しました。「苦情」があれば「取りのける」と、ちゃんと「その場に断って」ありました。
そして櫻子の「苦情」を受けると、すぐさま櫻子作をわたしはすべて、仮置きしていた「e-文藝館= 濤(nami) =
清家次郎編輯」から、削除しています。飽海専太郎の云うことは、事情も知らず、むちゃくちゃ。妻の書いたものを、わたしの「e-文藝館=濤(nami)」
も、そもそも見ているのでしょうか。
「娘のほうは清家次郎氏の娘であることが知られたくないために匿名で作品を書いたのです。」
こんなリクツが、どう証明できるのですか、弟に、「書いている」と、サイトまで知らせてきた以上、父親に読まれない「わけがない」とは当然分かっていた
でしょう。まして父はそれを「待望し」ていたのですから、読みますよ、それは、他のことをおいても。
世間に娘と知られたくない と、そういう物言いが痴呆的ではないでしょうか。「清家さんの櫻子ちゃん」は「清家さんの松夫クン」より広範囲の世間に知ら
れてきました。私の小説に、櫻子は松夫の十倍も実名で登場しています。それがまた櫻子の自意識にプラスにすら訴えていて、父のおかげで高校で卒業生答辞を
読ませてもらったとか、おかげでサンスリー美術館に採用されたとか、一緒にファッション誌の旅取材に同行できたとたわいなく歓んでいた櫻子なんです。
なによりも、櫻子は弟に打ち明けています、「世界広しと言えども、わたしの作品を
分かってくれるのは、あの人だけかな」と。あの人とは、むろん「おや
じ」と弟も言い切ります。「そういう家庭」の文学的な空気に薫染されて櫻子は育ち、父も期待を掛けていたのですから。こういうところからも「原告」の微妙
極まる、どこか病的でもある櫻子の心事を読み解きながら「裁判」もすすんで欲しいのです。
そんなことはできません、しませんと言われれば、あ、そうと苦笑するだけですが。
「10数年間も交流のなかった実の娘に問えば」というが、「問う」パイプは絶無なのです。「必ず公表を阻まれると承知の上で」とありますが、素直に書い
て伸びたいと思っている娘ならば、父の好意は、父の喜びようは、分かってくれると信じていました。わたしは芯の所では、いつも娘を信じてきたのです。弟と
姉とがともに創作でガンバルかなあとは夢でした。そして現に「ずいぶん長期間」、何年もの間、だ櫻子作品は私の「e-文藝館」に掲載されていてなかなか読
者も得ていたのですよ。
「法的には飽海氏の主張がとおる可能性が大きい」かどうかは、知りません。私が娘の「作品」と「書く意欲」に対して、作家である父親としてした配慮に、
「人間」として欠けるところがあったとは考えていませんし、文学者としては、それこそが、大切なことです。
父親のちょっとした推敲上の「助言」を、父の「高慢」という非礼の言葉で退け得る娘の無神経が、わたしには理解できません。この「高慢」も、そう書いて
いる櫻子の文章が残っています。しかも周囲には「女流作家」などと謂わせている。
あ、ダメだ、これは、と一人の編集者でもある私は、こと文学に関しては「高慢な」娘を見捨てたというしかありません。
「当人に一言の断りもなく勝手に名前を公表してしまった。プライバシーの侵害も甚だしい。父親にそんな権限はありません」などという言句を吐いているか
ら飽海専太郎はおかしいのです。ふつうの謙遜な夫なら、「親子じゃないか」と妻を窘めるでしょう。アカの他人がしたのならともかく、父親が娘の創作に終始
一貫「驚喜」しながらしていた(保全的=)掲載、しかもクレームが来ればすぐ撤去した、それが「法」的に「弱い」などと私は思いませんよ。
大事なのは、「人間」のうちなる、熱いもの、暖かいものでは有りませんか。「ブライバシー」もしかり、それは「人間の真情」を足蹴にしながら主張できる
ような、やすい価値ではない。違うでしょうか。
(とてもたいせつなことを言っているのだという確信があります。真実「遵法精神」とは何か。仕事の上からも、真摯に考えて行きたいです。清家
次郎)
この応酬に、原告被告両者の姿勢が分かりよく露出しているとぼくは読んでいる。
世間に激増と伝えられる「名誉毀損」裁判の最も単純な理由は、ウエブ(インターネット)上でいわば悪口されたことと聞いている。
これにも、当然ながら、その悪口や非難に第三者の目にもまともな理由のある例と、事実無根の捏造・中傷に類する例とが大別されるだろうが、「法」的には
そんな区別が無く、区別なされず、ただもう「ウエブ(インターネット)に書いた」という事だけで「名誉毀損」になるのだと、少なくも、父を訴えた原告夫婦
ははなから「勝利を確信」しており、週刊誌記者氏もそう予測していた事が分かる。
おそらく原告弁護士も、父の被告弁護士達も、形式的にはそういう「法」運用を是認して来たのではないか、父ももともと「そんなことは知っていた」と想う
が、しかも父は、そんな型通りを一貫して是認ばかりはしていなかった。父日頃の言葉からも、この記憶、不正確でないと感じている。
一例を挙げておく、元気だった頃の父はこうハッキリ書いていた。
*
ウエブは、ノートブックでの日記や郵便・はがきとは、性質も機能も異なる。ここへ人の実名や評判を書いてはいけないなどというそれ自体、「百年前の感
覚」だとわたしは考えている。
わたしが電子メディアを用い、匿名や変名や無名で言いたい放題人を批評するのでは問題は大きく、かつ好ましくない、いや良くない。しかしわたしが、立場
や、職業も氏名も文責も明らかにしながら自分の交際や主張、思想に触れ、また公人や公への歯に衣きせぬ意見や批評を公開することは、内容がフェアである限
り、二十一世紀の「普通」であらねば「いけない」と考えている。それがウエブ社会での現実でありマナーだと思う。
ものかげの「紙の日記」ではむちゃくちゃ勝手な悪口や中傷毒舌も見遁されて、また「某チャンネル」などで無名・変名・仮名等で便所の落書きに類する捏造
や中傷や意味のない罵倒を重ねてもすべて見遁され「まかり通っ」て良いわけがない。
一方、まともな人間がまともな意識と自覚と責任とで、当てこすりでなく人の名も正しく挙げながら交際の本来や、意見や認識を書いて法に咎められるのは、
行き過ぎだ。この「コンピュータ時代」ではむしろ「普通」の良識・常識として容認されねば、むしろ可笑しいとわたしは考えている。
ものを「書いて生きる」者の一人として、陰湿な「かげぐち」は良くて、公明公然の批評や批判は法的に名誉毀損と咎められるなどのアンバランスは、「是正
さるべし」とわたしは確信している。
ウエブ、インターネットとは、そういう「生きものの機械機能」にもう成りきっている。その性質を、好き勝手に陰険にねじ曲げることは出来ても、殺して
「無」に帰することはもはや不可能。それならば、大切なことは、良識を伴った「文責」という公明さ、礼儀。そして当事者相互の討論・交渉であろう。
公平・公正にはとうてい型通りな「法」ではとり仕切れない、取り扱えない、「人の口に戸は絶対的に立てきれるものでない」以上、真に取り締まるべきは、
非難さるべきは、「匿名・無名・変名等に隠れた陰湿な陰険な中傷や捏造で人を傷つける犯罪行為」の方だ。フェアこそ正しい前提であるとして、「公人(パブ
リック・フィギュア)」間のフェアな言説はアンフェアなルール違反とは別だ。ミソもクソもいっしょくたにすべきでない。
わたしは「現代ウエブ作法」を云うている。公人として生きている者が、安直に名誉毀損を振り回すのは間違い、むしろ卑怯に類している。
*
ところが、それどころか、原告飽海夫妻は、「事実摘示」が難しいとして一歩退き「名誉毀損」でなく「名誉感情」侵害というアイマイなものを、どっさり書
き直しの新訴状に付け加えてきた。やれるかぎりやる、父・清家次郎を徹底してやっつけるという露骨さだった。
父は、いま少しパソコンないしウエブ(インターネット)の新時代・新世紀における「イノベーション」ないしは「パラダイム」としての機能に、人間と機械
との「紙屑のような形式論」以上の観察または洞察を、はなから、いつも、持っていたように想われる。その意味で、父は、いつの時点でも時代後れの分からず
屋でも、頑固な無茶者でもなかったと、息子のぼくが、今、書いておく。姉や義兄は裁判に勝った勝ったと雀躍りするのだろうが、果たしてそうかとぼくは疑
う。分かる人は分かるだろう。
父の健康はもうよほどあの頃崩れていたが、父も母も覚悟を決めていた。死機を自らたぐり寄せているよと苦笑した父のかすれた大声が、いまも耳に在る。い
つも満開の桜の下でわらっていたホームページ巻頭のあの笑顔も、目に在る。
平成二十二年十二月二十一日 父の七十五歳に
小説『凶器』完
『凶器 父の陳述』 総目次
序詞 4
裁判所御中 被告陳述書 清家次郎 5
はじめに 5
序、 最初に孫・飽海ふじ乃との関わりで、ぜひ一言。
7
第一、 主に、娘・櫻子に関連して申し述べます。
13
(一)
「櫻子」の誕生、そして私の「作家」の歳月。 13
(二) 櫻子への父の虐待・性的虐待があり得たか。 18
1 私・清家次郎が「父」であるということ 18
2 自筆年譜にみえる父と娘 20
3 「ひとり娘」から「弟の姉」に 22
4 何をさして虐待と謂うのか 24
5 途方もない親への逆恨み・名誉毀損 25
(三) ホームページに、櫻子の写真を掲載する理由。 27
1 櫻子のいわゆる「過去」が「幾重にも」在るという認識 28
2 離れていれば済むのに。娘の、根からの父親好き。 30
(四) 櫻子の「謎=昏迷」を崩す「二つの側面」。 35
1 両親と娘に「争い」は無かったということ 36
2 週刊誌記事にも櫻子は全く影もなく 37
3 父のウエブで夫が批判されていたこと 38
(五) ウエブでの飽海専太郎指弾の要点。 39
1 遠過去の「飽海暴発」が原点、そして文責明記のインターネット。 39
2 公人と公人 それは論争 41
3 ウエブの飽海批判は、17000枚中の10数枚に足りない 43
4 しかも「公式ホームページ」全部の「削除を策謀し強行」 43
5 ウエブでの飽海批評の実例 湯川博士と婿と 44
(六) 一つ。清家の日録は「読者」を前提の「文藝」であり備要・収蔵庫。 48
(七) 二つ。ウエブで娘・櫻子に触れた
記事は、みな思い出と労り。 49
(八) 三つ。孫二人と祖父母の、親も気づかぬ親交回復。
52
(九) この時期に、ふじ乃の「母・父」は、何をしていたか。
52
1 動かしがたい事実 53
2 母・櫻子の「謎? 昏迷」 54
3 櫻子たちの夫婦仲 55
4 櫻子の「関心」はふじ乃の上になく、 58
5 この母親の述懐 二つの宇宙 60
(十) ここで大切な、ふじ乃病状の「前期」「後期」の区別。
62
(十一) 櫻子の置かれていた飽海家での位置は。 64
1 病状等を一切秘密にし、都合のいい勝手だけを言い募る飽海夫妻。 65
2 ついに提出されない「罹病前期」適切な医療の物証 69
3 そのとき櫻子は「小説」を書いていました。 70
4 飽海夫妻は、すでに離婚の危機に瀕していたのです。 71
5 事情を明瞭に証明した一通のメール 72
6 夫婦の亀裂を明かした櫻子作の小説『めめんともり』 75
(十二) 櫻子の創作を、父はどう受け取ったか。 76
1 父は娘の書き物を大切に保存。 76
2 父は喜んで読み、大事に自身の「e-文藝館」に娘の名で保管。 77
3 ふじ乃の肖像権と祖父の撮影著作権 80
(十三) 櫻子作『めめんともり』の示している「妻の不幸」。
81
(十四) 作品『めめんともり』が導いた、娘・櫻子の逆上と露出。
82
1 平成二十年(2008)八月十二日 火 (清家次郎の日録より) 82
2 飽海櫻子が、父清家次郎に発信した「第二信」 83
3 櫻子の「追伸」からも要点を摘録 84
4 人格の問題、そして大きな不審もまた。 85
(十五) 櫻子作『めめんともり』が示すもの。 87
1 『めめんともり』に関わる父から娘へ最初のメール。 90
2 上のメールに添えた、父・平成二十年八月八日(金)の「日記」 91
3 ふじ乃親友の証言メールを、再び (摘要) 94
4 小説『めめんともり』小枝 一と二 100
5 櫻子へ 父・清家次郎のメールの続き 103
6 父の「日記・私語」 つづき 106
7 櫻子の返辞メール 「第一信」 106
8 櫻子に。 父の「第二信」 107
9 櫻子小説『めめんともり』より、さらに一部引用 110
10 『めめんともり」と、飽海家の飽海櫻子 114
(十六) 櫻子が立て籠った最期の本丸。 116
1 父に押しつけた「謝罪文(飽海櫻子案)」再掲 116
2 貧寒たる作文。以下に逐一反駁し、飽海の立証を求めます。 117
3 重ねて飽海夫妻に問います。 120
4 亡き「ふじ乃の本意」は 122
5 「清家」「櫻子」返上なら、法的にキマリを。 124
(十七) 櫻子と、夫・飽海とに「齟齬」は無いか。 124
(十八) 櫻子の謎と昏迷の正体。 127
(十九) 飽海ふじ乃入院(06.06.19)以前・以後(06.07.27逝
去)の「受診・治療」資料につき、所見
131
1 ふじ乃入院(06.06.19)以前の診療の実態と問題点。ふじ乃苦痛の日記。 131
2 ふじ乃入院(06.06.19)以後、逝去(06.07.27)にいたる治療事情と問題点。 159
3 提出されたふじ乃「入院後」医療資料の甚だ不備と重い疑点 167
1 驚愕の事件でした。櫻子による「肉腫」告知。 177
5 以上を通じ、 179
(二十) ふじ乃日記引用の至当かつ必要であったこと。
180
1 すべて妥当に適切に引用しています。 180
2 ふじ乃の苦痛・孤独・自覚に満ちた「mixi」日記の例示 185
3 以上を通じ、今一度言い切れること 200
4 私と「医療」に関わる職業体験等、そして私たちの情けなさ 201
(二一) 櫻子の常軌を逸した「演出」意識。 204
1 尋常でない母親の感覚 204
2 あまりに異様な母がふじ乃への病名告知 205
3 「ふじ乃の名」でふじ乃の思いを「作為」した母・櫻子の「mixi」操作 208
(二二) 飽海家による清家ホームページ「全削除」画策の非道
209
1 清家次郎の公式ホームページの全容と構成 210
2 BIGSOBEを動かした飽海家の最初の侵害 211
3 飽海櫻子の更なる妨害行為 212
4 「mixi」当局は飽海を玄関払い 212
5 前町田女学院大学長にまで飽海家は 213
(二三) 櫻子に関する陳述の最期に、ぜひ、孫・かや乃のことを。
214
(二四) それでも最期に、娘・櫻子に心から言いたいこと。
215
第二、 主に、婿・飽海専太郎に関連して申し述べます。
216
(一) 真っ先に、妻も私も、これを申し上げたい。 217
1 両家が平穏無事だったことを示す事実の物証 218
2 就職難を招いた飽海の三年間留学 222
3 降って湧いた舅の東*大教授就任 223
4 婿から言い渡された「義絶」、そして完全な「没交渉期」に。 224
5 高校生ふじ乃の祖父母との親交回復、ついで妹・かや乃も。 225
(二) 飽海専太郎と我々は無縁。裁判に及ぶ何の相手でも無いはず。
226
1 「通夜葬儀に来たら警備員につまみ出させる」と。 226
2 葬儀から三日せぬまに喧しく、「訴えてやる」と。 227
3 深山木日記の名誉毀損、ホームページ妨害の著作権侵害 227
4 飽海専太郎の没義道の数々 228
(三) 飽海専太郎の「週刊思潮」利用は、明らかな名誉毀損。
230
1 飽海専太郎(=志村武)という人間。仮名に隠れた誹謗と中傷。 230
2 平成十九年(二○○八)六月二十二日 日 (清家次郎の日録) 231
3 「飽海専太郎の弁 週刊誌記者氏の問い 清家次郎の回答)六箇条 232
4 飽海専太郎の言い立てる名誉毀損とは。 256
5 飽海家の目的は週刊誌を利用し、父・舅の顔に泥を塗りたかっただけ。 257
第三、 その他、私見を求められている幾つかについて陳述します。
258
(一) 清家次郎の日記全般についてのお尋ね。 258
1 清家次郎の日記が「日記文学」ないし「私小説」であること。 258
2 日記文学とは何か。 259
3 私小説とはどのようなものか。259
4 現在、これらを多数の者に頒布し特定の者に譲渡する予定はあるか。 259
(二) 主に飽海ふじ乃の日記について。 260
1 なぜ日記を引用する必要があったか。 261
2 ふじ乃日記に、なぜ変更(強調、一部抜粋など)をする必要があったか。 262
3 ふじ乃生前の意志について 262
(三) ふじ乃の病状経過に関する清家の日記について。
262
(四) 今は存在しない「マリアの家」という下書きについて。
264
(五) 飽海櫻子の「mixi」日記について 264
(六) ビッグソーブへの削除請求関連の経緯を日記に記載したことについて。
265
(七) 「生活と意見 闇に言い置くモノローグ」について。
265
おわりに 266
付録 被告妻・飽海櫻子母・清家美枝子の陳述書
267
*
所懐 「陳述書」を提出直後に。 作家・清家次郎 278
追記 原告夫妻提出の「陳述書」を読みて。 清家次郎 280
今一度 「陳述書」に添えて言い置くこと。 清家次郎 284
清家松夫 「後記」に代えて 288
*
総目次 296