「e-文藝館=湖(umi)」 詞華集 招待席

さとう はるお 1892-1964  和歌山県新宮市に生まれる。谷崎潤一郎の推挽を得て世に現れ、小説家 詩人 文藝批評家として活躍。文化勲章。大正末期に、「小田原事件」として知られ る、谷崎の妻をめぐっての数年の絶交があったが、昭和早々に和解し、昭和五年には谷崎から佐藤へ「細君譲渡事件」として知られた、夫人をもふくむ親友なら ではの聡明な大人達の解決があった。 掲載した佐藤の詩は、「小田原事件」さなかの数編。他にひろく愛誦唱されたさんま、さんまと呼びかける「さんまの 歌」など、多くがある。『殉情詩集』におさめられた。谷崎と佐藤の生涯を通してのただならぬ親交は、秦 恒平著『神と玩具との間 昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち』 (「湖(うみ)の本エッセイ 6−8」)に精しい。 (秦 恒平)




 殉情詩集 

  佐藤春夫



  或るとき人に与へて


片こひの身にしあらねど
           
わが得しはただこころ妻

こころ妻こころにいだき

いねがてのわが冬の夜ぞ。

うつつよりはかなしうつつ

ゆめよりもおそろしき夢。

こころ妻ひとにだかせて

身も霊(たま)もをののきふるひ

冬の夜のわがひとり寝ぞ。




  また或るとき人に与へて

        
しんじつふかき恋あらば

わかれのこころな忘れそ、
           
おつるなみだはただ秘めよ、
       
ほのかなるこそ吐息なれ、

数ならぬ身といふなかれ、

ひるはひるゆゑわするとも
    
ねざめの夜半(よは)におもへかし。




  海辺の恋


こぼれ松葉をかきあつめ

をとめのごとき君なりき。

こぼれ松葉に火をはなち

わらべのごときわれなりき。


わらべとをとめよりそひぬ

ただたまゆらの火をかこみ、

うれしくふたり手をとりぬ

かひなきことをただ夢み、


入り日のなかに立つけぶり

ありやなしやとただほのか、

海べのこひのはかなさは

こぼれ松葉の火なりけむ。




  断 章


さまよひくれば秋ぐさの

一つのこりて咲きにけり、

おもかげ見えてなつかしく

手折ればくるし、花ちりぬ。





  琴うた


      吹く風に消息をだにつけばやと思
      へどもよしなき野べに落ちももこそ
      すれ          梁塵秘抄



かくまでふかき恋慕とは

わが身ながらに知らざりき、

日をふるままにいやまさる
    
みれんを何にかよはせむ。


空ふくかぜにつてばやと

ふみ書きみれどかひなしや、

むかしのうたをさながらに

よしなき野べにおつるとぞ。




  後の日に


つれなかりせばなかなかに


そらにわすれて過ぎなまし、

そもいくそたびしぼりけむ

たもとせつなしかのたもと。


せつなさわれにつもるとも

沾(ひ)ぢてはかわくものなれば

昨日(きぞ)のたもとにこと問はむ

ぬるるやいかになほけふも。




   よきひとよ


よきひとよ、はかなからずや
        
うつくしきなれが乳ぶさも

いとあまきそのくちびるも

手をとりて泣けるちかひも

わがけふのかかるなげきも
   
うつり香の明日はきえつつ
      
めぐりあふ後さへ知らず

よきひとよ、地上のものは

切なくもはかなからずや。