「e-文藝館=湖(umi)」 人 と思想

さたか まこと 評論家 1945年 山形県に生まれる。 著名な現代有数の論客であり、活躍は素晴らしい。鋭角に富んだ論鋒・論旨に賛意を覚えることが多く、信 を寄せている。どうぞどうぞと寄稿して頂いた。掲載作は、平成十四年(2002)一月刊の岩波アクティブ選書11『手紙の書き方』より第五章を編輯者の手 で抄出した。 (秦 恒平)





     遺言と弔辞     佐 高 信



  「ただ抱いて欲しかった」
 

 遺書は先に逝く者の手紙であり、弔辞は逝った者への手紙であると私は思う。
 遺書と言えば、『きけわだつみのこえ』(岩波文庫)に象徴される戦没学徒兵の手紙が真っ先に挙げられるが、検閲制度の下で、彼らの声がそのまま伝えられ たわけではない。そう考える時、「娘あずさへの手紙」と副題のある吉武輝子の『死と生を見すえて』(岩波書店)の次の逸話が、よりいっそうの切実さをもっ て迫ってくる。第四信の「『軍神の母』の慟哭」である。
 かつて軍神の母とはやされた「加藤まさ」(仮名)は八十八歳で亡くなるまで、その娘の言う如く、「わが子の命を奪うことに手を貸してしまったという痛恨 の思い」から解放されなかった。
 軍人一家の加藤家の長男の嫁となった彼女は続けて三人女子を生む。三女出産の時は、現役の海軍将校だった夫は舌打ちさえしたという。それだけに、次の長 男誕生の際には、
 「でかした、でかした」
と相好(そうごう)を崩した。
 それで彼女はこう考える。
 「長男が生まれたときからわたくしは、決心していました。この息子を舅や夫や親類縁者のだれよりも、抜きん出てすぐれた軍人に育て上げようと。そうする ことが、軍人一家の本家の長男の嫁の義務であると、当時のわたくしは信じて疑わなかったのです」
 吉武にこう述懐した彼女は、その息子、健一を、立派な軍人に育てるべく、全エネルギーを傾注する。
 そして健一は一九四〇(昭和十五)年春、期待に応えて、江田島の海軍兵学校に主席で入学した。翌年、日本は真珠湾を攻撃し、太平洋戦争に突入する。
 無謀な戦争のゆきつくところ、特攻という作戦ともいえぬ作戦が展開されることとなった。当時の流行歌「軍国の母」の三番にはこうある。

 生きて還ると 思うなよ
 白木の柩(はこ)が 届いたら
 出(で)かした我が子 天晴(あっぱ)れと
 お前を母は 褒(ほ)めてやる

 加藤まさも、この歌のとおりの母だった。敗戦半年前の二月、最期のあいさつに帰宅した息子に、母は黙って先祖伝来の短刀を置き、

 「虜囚の辱めを受ける前に、潔く自害せよ」

と言い渡した。
 それに対し、まるで上官に対するように母親に正確な挙手の礼をした息子は、そのまま一度も後ろを振り返ることなく発って行ったという。
 二十二歳の誕生日を迎えたばかりの息子を見送って、彼女は「わが子との永遠の別れを悲しむ思いよりも、母と子いずれもが、国存亡のこのときに、各自の本 分を守り抜いたという満足感で、恍惚とさえしていた」とか。
 それから七日後、健一が率いる特攻隊玉砕のニュースが報じられた。
 「後に続くものを信じる」
 "軍神"となった息子の書き残した言葉が母のもとに送られてきて、彼女は、
 「"軍神加藤健一の母"に続け」
 と格好の宣伝媒体にされる。
 そして敗戦。その後しばらくして、息子の戦友であったという青年が、「抜け殻のようになった」加藤まさを訪ねて来る。
 彼は、生き残った者がお互いに届けるという条件つきで預かった息子の手紙を携えていた。もちろん、検閲は受けていない。
 息子の遺影に向かって語りかけていたその青年が帰った後、母は息子の遺書を開いた。
 そこには、ただ一行、微かな震えの見える文字で、
 「僕はただ母さんに抱いて欲しいと願っていただけなのです」
と書いてあった。
 このことを吉武に語る場面で、気丈だったその母は、まさに慟哭したという。
 表の遺書と裏の遺書、いや、装われた遺書と肉声の遺書とでもいうか、あまりに違う二つの遺書である。
 肉声の遺書を読んだ瞬間、痛恨の思いが突き上げた彼女は、声を振り絞るようにして吉武に言った。
 「心の奥底には、「死なないでおくれ」と、息子の足にすがり付きたいと願っている素直な母の気持ちがありました。でもその気持ちを素直に出すことを禁じ ている理想の母親像の鋳型に、わたくしはしっかりとはめ込まれてしまっていたのです。わたくしは子どもの命よりも、わが身の保全を選んでしまった」
 そして、この母は特攻の残骸を求めて南方の島々を行脚(あんぎや)してまわる。
 「その残骸を見つけ出して、わが子と思い黙って抱いてやりたい」
 贖罪の気持ちからのその旅は、七十代いっぱい続いた。


   重く悲痛な自己欺瞞

 <目をつぶってみる。(中略)門出(かどで)の前夜 "私を未亡人にしてはいや" といったきみの顔が目が忘れられない。(中略)どうか現在のきみのままで良い。そのままの精神と健康がほしい。静かな中に情熱に生き、情熱の中に静かな性 質の持主であってほしい。きみの顔が浮かぶ。情熱的な黒目がちの目、きりっとした中にも愛くるしいまでに引きしまった口、ふくよかな胸の辺(あた)り、き みのまぼろしが浮かんで消えない。〉 (篠崎二郎『きけ わだつみのこえ』所収)
 十数年前、経営者の戦争体験をさぐる取材で、ある損保の社長に会った時、自らも学徒出陣をしたその人は、『きけ わだつみのこえ』が読めない、と話し た。多くの友人の肉声がそれに重なるからである。

 〈生あらばいつの日か、長い長い夜であった、星の見にくい夜ばかりであった、と言い交わしうる日もあろうか……〉(松原成信)

 『第二集 きけ わだつみのこえ』(岩波文庫)には、こんな哀切きわまりない一節もある。
 それでも、その社長は、戦後三十余年経って、ようやく、こうした手記も読めるようになったとして、インタビューの部屋に、和田稔の『わだつみのこえ消え ることなく』(筑摩書房)を持って現われた。そして、
 「何という重く悲痛な自己偽瞞であろう。偽瞞を、誰が、二十代の若者の知性に強いたのか」
という安田武の「解説」の最後の一文を、二度繰り返して読んだ。
 夏になると、私は、いつも、この和田稔の妹、西原若菜の次の歌を口ずさんでいる自分に気がつく。

  公報をにぎりしめをりし松林
     敗れし国の蝉鳴きしきる

  傷つきしけものの如くうずくまり
     公報に泣きし父を忘れず

 東大法学部在学中に学徒出陣で召集され、人間魚雷「回天」に乗って事故死したと公報が届いた和田は当時二十三歳。妹に次のような遺書をのこしている。

 〈若菜、私は今、私の青春の真昼前を私の国に捧げる。私の望んだ花は、ついに地上に開くことがなかった。とはいえ、私は、私の根底からの叫喚によって、 きっと一つのより透明な、より美しい大華を、大空に咲きこぼれさすことが出来るだろう。
 私の柩の前に唱えられるものは、私の青春の挽歌ではなく、私の青春への頌歌であってほしい。〉

 まさに、安田の言う如く、「重く悲痛な自己偽瞞」の遺書である。しかし、それを誰が強いたのか。

 安田もまた「学徒出陣」の体験者である。その安田は『手紙の書き方』(講談社現代新書)を、やはり、特攻で死んだ溝口幸次郎の次の手紙で結んでいる。

 〈私の父上も、私の母上も、農に生きぬいた偉い方です。両親の若い時の苦闘を聞くと本当にすまない気がします。山間の田舎道を、荷車を引いて人が行く。 飛んで行って、車の後押しをして見たい気が湧いてきます。もう何のお手伝いをすることができない私の不孝をお許し下さい。どうぞお体御大切に。

 "現在の一点に最善をつくせ"
 "只今ばかり、我が生命は存するなり"
とは私の好きな格言です。
 生れ出でてより死ぬまで、我等は己の一秒一秒によって創られる人生の彫刻を、悲喜善悪のしゅらぞ(う)をきざみつゝあるのです。私は、一刻が恐しかっ た。一秒が重荷だった。もう一歩も人生を進むには恐ろしく、ぶっ倒れそうに感じたこともあった。しかしながら私の二十三年間の人生は、それが善であろう と、悪であろうと、悲しみであろうと、喜びであろうとも、刻み刻まれてきたのです。私は、私の全精魂をこめて、最後の入魂に努力しなければならない。
 私は誰にも知られずに、そっと死にたい。無名の幾万の勇士が、大陸に大洋に散っていったことか。私は一兵士の死を、この上もなく尊く思う。〉

 この遺書も、もちろん「検閲」を受けている。しかし、さすがにそれも、次の一行を削ることはできなかった。

 〈母上、さようなら。母上に絹布団にねていただきたかったのに。〉

 若者にとって、戦時でも、平時でも、死を約束されることは苛酷である。二十九歳で亡くなった天才棋士、村山聖(さとし)は難病と闘いながら名人になるこ とを望み、自分には時間がないと口癖に言っていた。
 大崎善生が書いた『聖の青春』(講談社)は、その中に出てくる村山聖の言葉が遺書となっていると同時に、この一冊がそのまま、鬼才への弔辞である。
 大崎によれば、村山は爪を切るのも嫌がったという。
 師匠の森信雄が、
 「爪は切らなあかんぞ」
と言うと、村山は、
 「どうして、せっかく生(は)えてくるものを切らなくてはいけないんですか。髪も爪も伸びてくるのにはきっと意味があるんです。それに生きているものを 切るのはかわいそうです」
と答えた。
 ダニに対してさえ、生きているものを殺すのはかわいそうだ、と言ったのである。
 それだけに、若者に死ぬことを強い、彼らに表向きの遺書を書かせた者への憎しみが湧きあがってくる。


    社長の遺書

 私は、かつて、「日本の社長はなぜ自殺しないか」という一文を書いた。とくに日本の大手の企業では多くのトップが、ミドルやミドル的トップに、責任を転 嫁し、彼らを自殺させたからである。
 たとえば、大和銀行ニューヨーク支店に勤めていた井口俊英は、一九九五年夏、十二年間にわたる無断取引と、それによって生じた九百七十億円にもおよぶ損 失を告白した手紙を頭取宛てに出したが、頭取たちは彼個人の犯罪とし、自分たちの責任を自覚することはなかった。
 井口の手記『告白』(文春文庫)を読むと、日本の銀行のトップたちの無責任さがよくわかるが、その中に獄中の息子へ宛てた母からの手紙が引いてある。

 〈俊英へ
 私は七十四年生きた。昔ならばすでに亡き人であって当然の齢。替われるものならばと、ありふれた言葉であるけれど、今の心境です。しかし貴方はまだ人生 なかば、どんなことがあっても、もう一度世に出て第二の人生を生きて欲しい。
 この度の事件は、私たちにはあまりに難しく十分に理解できないのがもどかしい。父にとっては自慢の息子であったから、それさえ裏切ることも出来なかった と思う。
 十余年間の苦しみをたった一人で背負いながら、その間、離婚、子育て、しかも子供は反抗期に入り、束の間のオアシスであった明美さんのことも夢に終ると なると、貴方の人生は何であったかと思います。二十余年前、気の進まぬ貴方に渡米を促した親の責任の重さを今、ひしひしと思いしらされ、死力を尽くして償 いたくおもいます。アメリカの刑はどのようなのか見当もつきませんが、日本のように執行猶予などつくことはないのでしょうか。保釈金をつめば仮釈放など出 来るのでしょうか。
 明美さんには大変な苦労をかけているけど、今の私たちにとっては命の綱の存在です。彼女はなかなか意志の強い実行力のある人だから自分のことは自身で考 えるでしょうが、貴方の男としてのけじめについてはよくよく伝えておきました。彼女のご両親にはただただ手を合わせるだけです。くれぐれも身体に気をつけ て希望を失わないように。
                                                母より〉

 この母は、異国の拘置所の独房にいる息子へ、三日とあげずに手紙をくれたという。ある日の手紙にはこんな短歌がそえてあった。

  日米のはざまに生きて躓きて
     息子の還る地いずこにありや

 日本のトップの無責任さ(それは経緕界に限らない)を語るはずが、それと裏表ミドルの悲惨さにペンが流れてしまったが、日本のトップでも、責任を一身に 負って自殺した例がないわけではない。その数少ない例として、一九三八(昭和十三)年春、自殺した太田収の遺書を次に引こう。当時四十八歳の太田は、日本 一の証券会社、山一證券の社長だった。老母と妻、そして二人の子どもを遺してこの世を去る無念の思いが、行間ににじんでいる遺書である。

 〈回顧すれば二十数年間、自分の努力も自己の不明不徳のため、万事夢の如く水泡に帰す。今更何の顔(かんばせ)あつて、社会の人々に申訳あらむ。ただた だ生前の皆様に、御厚情を蒙りしことのみ、深く感謝す。この時に老母のこと小児のことのみ思ひて、自己の決断を鈍らす。しかし自己の不明不徳は社会の人に 対し申訳なく、ただ自己は何等法律上の問題を起したることなし。自己の不徳のため社会に迷惑をかけしことを考へる時、一瞬も晏如(あんじょ)たるを得ず。 ここに自ら処決して社会にお詫びする。最後に自己の心中を現して社会の人、会社関係者一同にお詫び申す次第なり。山一会社の基礎は強く、何等心配すること なし。自己のため少からず迷惑を蒙らしめたと思ふ時、一時も安住することを得ず。いわんとすること多し。感慨多し。老母に対する不孝申訳なく、平素孝養専 一に考へたるも、結局は大不孝となり、お詫びしやうもなし。子供等は今まで不自由なく生活したるも、今より不遇の者たらんとす。許してくれ。〉

 太田は東大経済学部出の社長だった。まだまだ株屋感覚が強かった社内では、その新しい感覚が浮くこともあったが、多くのトップとは違って、失敗すれば、 責任を負う感覚も身につけていたのである。

 
    ホナ、サイナラ

 さて、最後に弔辞である。それは弔われる者への手紙だが、私が、忘れられない語りかけのそれとして、小田実が高橋和巳に献げたものがある。
 当時、小田は三十八歳。高橋は一歳上の三十九歳だった。饒舌な小田としては珍しく、この「とむらいの言葉」は短い。それだけ悲しみが深かったということ だろう。

 〈高橋和巳よ――
 私はきみのレィコンが不滅で、今、そこらにフワフワとただよっている、いや、きみのことだから重苦しくユーウツに身がまえて坐っているなどとは少しも信 じていないので、私が話しかけるのは私の心のなかの高橋和巳、つまり、私がいま眼を閉じるとどこからともなくたちあらわれて来るきみであって、そのきみ は、きみという名前で世間が勝手に思い込んでいるような、来る日も来る日も、朝から晩まで、生まれつきの胃病患者のようにこわい顔をしているきみではな い。世界の苦悩、人類の苦悩をいかにもわが身ひとつに受けているというようなありきたりの表情をしているきみではない。こわい顔をするよりいっそ笑ってや れと考える私同様、きみも笑っているのである。少年のようにはにかみながら冗談口を叩くのである。思いやりのこもったやさしい眼で世界を眺めてもいるので ある。そして、私がそんなきみが好きなのは、そうしたきみの笑い、冗談口、やさしい眼の存在のゆえに、きみのきびしさのありようがひとしお身に迫って来る からだ。きみはそのきびしさをもって、世界に対し、人間に対し、思想に対し、文学に対し、あるいは、大学に対して行こうとした。きみ自身に対してそうで あったことは言うまでもない。
 さて、高橋よ、フワフワとそこらにただよっている、あるいは、ユーウツに身がまえているレイコンでないところの、わが心のうちにたしかなものとして存在 する高橋和巳よ、きみの文学とは、まさにそうしたきびしさのかたち、ありようを示すものであったのだが、そのことにおいて、まことにみごとであったのだ が、年齢の重みがきみの作品に厚みをあたえ、これまでともすれば作品の外に追いやられがちだったきみ自身の笑い、冗談口、やさしい眼、それはきみ自身のも のであるとともに人間ひとりひとりのものであるのだが、そうしたものがきみのきびしさをいっそうきわだたせ深めるものとして、きみの文学にたちあらわれよ うとしていたとき、高橋和巳よ、きみは突然死んだ。
 惜しい。くやしい。腹が立つ。そして、何より悲しい――それは実感だが、そんなことばを並べたてたところで仕方がない気がする。文学はきみにとって志で あった。そのきみの志をついで、ガンバリます、という気にもなれない。そんな通り一ぺんのことば、あるいは、決意表明をうつろなものにひびかせる重さがき みの死には、私の心のなかのきみの死にはたしかにあって、いっそ、私はここで、私たちがよく冗談口を叩いて言い合っているように、ホナ、サイナラ、と一言 言っておきたい。すべての気持をこめて、高橋和巳よ、ホナ、サイナラ。
  一九七一年五月九日
 『人間として』にたむろする友人の一人として、友人の気持を代弁しながら。
                                           小田 実〉

 
    沼さんへの追悼演説

 国会議員が亡くなると、その党の議員ではなく、反対党の議員が追悼演説をする習慣がある。一九六〇(昭和三十五)年十月十二日、十七歳の少年によって刺 殺された日本社会党(当時)委員長、浅沼稲次郎のそれは、自民党総裁であり、首相だった池田勇人が行った。秘書であった伊藤昌哉が書いたといわれるこの" 弔辞"のヘソというか、目玉は、「友人」の田所輝明がつくった詩である。
 遺書も弔辞も、返事を期待しない"手紙"だが、それだけに片思いに似た切なさがある。同年十月十八日に衆議院本会議場で行われた池田の演説を『衆議院追 悼演説集』(温智会)から引く。

 〈日本社会党中央執行委員長、議員浅沼稲次郎君は、去る十二日、日比谷公会堂での演説のさなか、暴漢の凶刃に倒れられました。
 私は、皆様の御同意を得て、議員一同を代表し、全国民の前に、つつしんで追悼の言葉を申し述べたいと存じます。(拍手)
 ただいま、この壇上に立ちまして、皆様と相対するとき、私は、この議場の一つの空席をはっきりと認めるのであります。私が、心ひそかに、本会議のこの壇 上で、その人を相手に政策の論争を行ない、また、来たるべき総選挙には、全国各地の街頭で、その人を相手に政策の論議を行なおうと誓った好敵手の席であり ます。
 かつて、ここから発せられる一つの声を、私は、社会党の党大会に、また、あるときは大衆の先頭に聞いたのであります。今その人はなく、その声もやみまし た。私は、だれに向かって論争をいどめばよいのでありましょうか。しかし、心を澄まして耳を傾ければ、私には、そこから一つの叫び声があがるように思われ てなりません。「わが身に起こったことを他の人に起こさせてはならない」「暴力は民主政治家にとって共通の敵である」と、この声は叫んでいるのでありま す。(拍手)
 私は、目的のために手段を選ばぬ風潮を今後絶対に許さぬことを、皆さんとともに、はっきり誓いたいと存じます。(拍手) これこそ、故浅沼稲次郎君のみたまに供うる唯一の玉ぐしであることを信ずるからであります。(拍手)
 浅沼君は、明治三十一年十二月東京都下三宅島に生まれ、東京府立第三中学を経て、早稲田大学政経学部に学ばれました。早くから早稲田の北沢新次郎教授や 高校時代の河合栄治郎氏らの風貌に接し、思想的には社会主義の洗礼を受けられたようであります。
 当時、第一次大戦が終わり、ソビエトの「十月の嵐」が吹いたあとだけに、「人民の中に」の運動が思想界を風靡していました。君は、民人同盟会から建設者 同盟と、思想運動の中に身をゆだね、検束と投獄の過程を経て、ごく自然に社会主義運動の戦列に加わったのであります。
 大正十二年母校を卒業するや、日本労働総同盟鉱山部、日本農民組合等に関係して、社会運動の実践に情熱を注ぎ、大正十四年の普選を機会に、政治運動に身 を挺したのであります。
 すなわち、同十四年農民労働党の書記長となり、翌十五年日本労働党の中央執行委員となった後は、日労系主流のおもむくところに従い、戦時中のあの政党解 消が行なわれるまで、数々の革新政党を巡礼されたのであります。
 君が初めて本院に議席を占められたのは、昭和十一年の第十九回総選挙に東京第四区から立候補してみごと当選されたときであります。以来、昭和十七年のい わゆる翼賛選挙を除いて、今日まで当選すること前後九回、在職二十年九カ月の長きに及んでおります。
 戦後、同志とともに、いち早く日本社会党の結成に努力されました。昭和二十二年四月の総選挙において同党が第一党となり、新憲法下の第一回国会が召集さ れますと、君は衆望をになって初代の本院議運委員長に選ばれました。書記長代理の重責にあって党務に尽瘁(じんすい)するかたわら、君はよく松岡議長を助 けて国会の運営に努力されたのであります。幾多の国会関係法規の制定、数々の慣行の確立、あるいは総司令部との交渉等、その活躍ぶりは、与、野党を問わ ず、ひとしく賛嘆の的となったものであります。
 翌二十三年三月、君は、日本社会党の書記長に当選、自来、十一年間にわたってその職にあり、本年三月には選ばれて中央執行委員長となり、野党第一党の党 主として、今後の活躍が期待されていたのであります。
 かくて、君は、戦前戦後の四十年間を通じ、一貫して社会主義政党の発展のために尽力され、君自身が社会党のシンボルとなるまでに成長されたのでありま す。浅沼君の名はわが国政治史上永久に特筆さるべきものと信じて疑いません。(拍手 )
 君がかかる栄誉をになわれるのも、ひっきょう、その人となりに負うものと考えるのであります。
 浅沼君は、性明朗にして開放的であり、上長に仕えて謙虚、下僚に接して細心でありました。かくてこそ、複雑な社会主義運動の渦中、よく書記長の重職を果 たして委員長の地位につかれ得たものと思うのであります。(拍手)
 君は、また、大衆のために奉仕することをその政治的信条としておられました。文字通り東奔西走、比類なき雄弁と情熱をもって直接国民大衆に訴え続けられ たのであります。

  沼は演説百姓よ
  よごれた服にボロカバン
  きょうは本所の公会堂
  あすは京都の辻の寺

 これは、大正末年、日労党結成当時、浅沼君の友人がうたったものであります。委員長となってからも、この演説百姓の精神はいささかも衰えを見せませんで した。全国各地で演説を行なう君の姿は、今なお、われわれの眼底に、ほうふつたるものがあります。(拍手)
 「演説こそは大衆運動三十年の私の唯一の武器だ。これが私の党に尽くす道である。」と生前君が語られたのを思い、七(ママ)日前の日比谷のできごとを思 うとき、君が素志のなみなみならぬを覚えて暗たんたる気持にならざるを得ません。(拍手)
 君は、日ごろ清貧に甘んじ、三十年来、東京下町のアパートに質素な生活を続けられました。愛犬を連れて近所を散歩され、これを日常の楽しみとされたので あります。国民は、君が雄弁に耳を傾けると同時に、かかる君の庶民的な姿に限りない親しみを感じたのであります。(拍手) 君が凶手に倒れたとの報が伝わ るや、全国の人々がひとしく驚きと悲しみの声を上げたのは、君に対する国民の信頼と親近感がいかに深かったかを物語るものと考えます。(拍手)
 私どもは、この国会において、各党が互いにその政策を披瀝し、国民の批判を仰ぐ覚悟でありました。君もまたその決意であったと存じます。しかるに、暴力 による君が不慮の死は、この機会を永久に奪ったのであります。ひとり社会党にとどまらず、国家国民にとって最大の不幸であり、惜しみてもなお余りあるもの といわなければなりません。(拍手)
 ここに、浅沼君の生前の功績をたたえ、その風格をしのび、かかる不祥事の再び起ることなきを相戒め、相誓い、もって哀悼の言葉にかえたいと存じます。 (拍手)〉

 

    「そうでなければいかん」

 対話は反対の立場に立つ者同士のほうが、より興味深い展開をするともいわれる。同じ立場の者では頷き合いに終わる場合もあるからである。
 私は、わが師、久野収の人物一筆描きが好きだったが、"進歩的文化人"と称された久野とは違って、典型的保守派の安倍能成について、久野が追悼した一文 は、ひときわ味わい深く、一九六六(昭和四十一)年六月九日付の『東京新聞』に掲載されたそれをスクラップしておいた。当時私はまだ慶応の学生で、学習院 で教えていた久野の講義を"盗聴"していた。
 ところが、それから三十年余り経って、全五巻の『久野収集』(岩波書店)を出すことになった時、これを収録したいと言ったら、
 「安倍さんについて書いたことなんかないよ」
と怒られた。自分でも忘れていたわけだが、私の好きな "弔辞" である。

 <安倍先生がなくなられた。六月一杯で学習院院長を退任し、百パーセントの私生活をたのしまれるはずであったから、何とも残念である。明治人の仲 間の中で、最後の日まで公生活をつづけてなくなったのは、たぶん、先生だけであろう。せめてあと数年の私生活を、という願いをいだいていたのは、私だけで はないと思う。
 私は、先生の本領が責任者の位置にたたれるより、批評者の位置にたたれる方がよく発揮されたと思うものだが、戦後の先生は不得意の貢任者の位置にたたさ れて、実によく奮闘をつづけてこられた。文部大臣、博物館長、学習院院長はもちろん、最後の貴族院議員、東宮学問参与、岩波書店相談役、平和問題談話会代 表、日米知的協力委員会議長、第一回中国使節団団長、雑誌『心』の刊行まで、引きうけたからには、ベストをつくすことをおしまれなかった。
 ベストのつくし方も、先生独特の風格があって、態度そのものにユーモアがふくまれ、押しつけがましいところはすこしもなかったようである。指導者として の先生の態度決定に異論をいだくものでも、先生のベストをつくす態度には頭をさげないわけにいかなかったというのが、真相であろう。
 しかしそのため、先生の批評家的天分は、傑作『岩波茂雄伝』一巻しか残されない結果になった。やはり残念である。私は、先生の青年期の評論、たとえば自 然主義運動を論じた「自己の問題として見たる自然主義思想」や「自然主義における主観の位置」などを評価するひとりであるが、先生のこの方面の天分がその 後、もし継続的に発揮されていれば、現代日本は長谷川如是閑とならぶひとりの文明批評家をもちえたのではないかと思うのである。先生の趣味の広さと理解力 の深さは、それをおもわせるにじゅうぶんである。
 アカデミズムの解説的、翻訳的仕事は、先生の得意とされる方面ではなかったように思える。途中で随筆や紀行に力をそそがれたのは、「ギリシャ、スカン ディナビヤの旅」のような傑作を生んだとしても、道草だったという感じをまぬかれない。『草野集』におさめられた「問題に充ちた朝鮮」などは、随筆の中に あってキラリと光る文明批評的発言であった。
 文化上の自由主義と政治上の保守主義との良識的ミックスが、先生の立ち揚であり、この立ち場の分析は『戦後日本の思想』の中で、私は私なりにやったつも りであるから、ここではくり返さない。ただ先生の個性は、この良識が理念と経験、思考と情念の両足でバランスをもって立っているところにある。
 先生が日本のアカデミー哲学者にまれな "人間通" だという評判をえられたのも、たぶん、このバランスから出てくるのであろう。もっとも、先生は人間通の自信をもちすぎ、他人への評価をひとりぎめにされる ところがあって、その側面は、欠陥としてあらわれる場合もしばしばあったといえるかもしれない。
 しかし先生の論文は、理想に対しては経験のフィードバックがよくきかされていたし、先生の随筆は、情念には思想的反省のうらうちがバランスをもってきか されていた。私は、戦前の険悪な時代、戦争への強い傾斜へなだれおちる日本に抵抗しながら、先生の随筆をなかばうらやみつつも、愛読したのをおぼえてい る。
 戦後の先生は "平和問題談話会" の全面講和、非武装中立、軍事基地撤廃の主張の指導者として奮闘された。途中でこの主張から下りられたのは、全面講和が実現せず、全面講和の未実現のまま で、基地を撤廃し、非武装中立にふみきる結果のもたらす不安を痛切に感じられたからであると思う。
 その後も、全面講和と中立化と基地撤廃の主張と運動を同時的にすすめようという、われわれの論理は、先生を説得することができなかった。われわれの微力 が、先生の経験によるフィードバックをもう一度、フィードバックさせることができなかったのである。しかし私は、先生の戦前、戦中、戦後を通じる軍国主義 反対の志を、ただの一回も疑ったことはない。
 先生が人間としてもっともきらわれたのは、人気とりと付和雷同であった。私の生き方や活動も、先生からみれば、人気とりとうつったかもしれない。そうで あるかないかは、私のこれからがきめるのである以上、弁解してもはじまらないと私は思っていた。
 安保反対運動のとき、学習院大学の学生が国会に突人し、検挙された。部長の教授が心配し、学生たちを先生の部屋へ連れていって、押されてはいったので、 積極的につっこんだのではなかったのだと説明した。不きげんだった先生はうしろをむいたままで、ほんとにそうかとたずねた。学生は、部長が好意をもってそ ういって下さったと思うが、そうではない、自主的に決断してはいったのだと答えた。先生はくるりとこちらをふりむいて、そうでなければいかん、といわれ、 何の小言もなかった。私はこのような先生の態度をほかにもいくつか知っていて、何ともいえないなつかしさを感じる。〉

 見出しは「ベストを尽くした生涯」であり、「安倍能成先生の人柄にふれて」という副題がついている。

 
    座標軸を失って

 私の手元には、さまざまな追悼集がある。その人への手紙集ともいうべきものだが、最後に岩波書店社長だった安江良介の追悼集、『安江良介 その人と思 想』(安江良介追悼集刊行委員会)から、社会民主党党首、土井たか子の "手紙" を引こう。

 〈「安江社長さんに、いま、本当に居ていただきたかったです」。今年(一九九八年)の、二月、韓国金大中大統領就任式に出席した翌日、青瓦台の大統領執 務室で会談をしたとき、話がはじまってすぐ金大中さんが言われたひとこと。この言葉のあとみるみる眼が潤みしばらく話が途切れた。一月六日の訃報以来、思 い続けておられたであろうこのひとことであったに違いない。私はじっとこらえていた哀しみがどっとふきあげて、応える言葉につまった。
 安江さんは私にとっては、いわば政治の座標軸のような存在であった。金大中さんには早くから一度会って話をすることを勧めて下さったのも安江さんだっ た。一九七三年夏の始めの頃だったと思う。そうこうするうちに金大中さん自身が「人生においてもっとも過酷な時節を日本で迎えた」といわれる拉致事件が起 り、私は金大中さんに会う機会を逸してしまった。そしてその直後、『世界』の一九七三年九月号に掲載された「韓国民主化への道」、金大中さんへのインタ ビューを読んで衝撃とともに強い感動を覚えた。日本の朝鮮政策における基本的選択の方向が問い直されていることを痛感させられ、韓国政治の民主化に文字ど おり生命も何もかも懸けての金大中さんの「民主回復・祖国統一」への大きさに心うたれた。だがしかし、それは同時に聞き手である安江さんの大きさだった。
 安江さんは金大中さんの実相と韓国民主化運動を『世界』を通していち早く紹介し、紹介し続け、日本と朝鮮半島との関係を民衆の側から問い直すきっかけを つくって下さった。私が非力ながらも韓国民主化運動に関心を持ち、金大中さんとの交流を難しい中で続け得たのは安江さんがあったればこそと思う。
 私が安江さんと知り合ったのは私の国会活動が始まって間もない頃である。安江さんの超人的な忙しさを顧りみず無遠慮によく相談をしかけたことを申し訳な く思う。困ったら安江さんの意見を聞く私に、実に丁寧に問題を整理して、実際に当っては原則をおさえながらも、新鮮な考えを示して下さることに私は励まさ れた。
 その頃、年末になるとまだ小学生だった安江さんの二人のお子さん、憲介君と千香ちゃんが議員会館の私の部屋に来て下さり賑やかな大掃除。元気な助っ人は お昼どき持参のお弁当を拡げてくれる。重箱にきれいに、ぎっしりとつまったおかずとおにぎり。私と秘書の五島昌子の分まで入っている。だし巻きたまごのお いしかったこと。「ママはお料理が上手なのね」という私に、「いいや、パパが作ったの」と千香ちゃん。「えっ、全部?」「そう全部よ」といわれた時には本 当にびっくり。あの大忙しの安江さんが料理上手でその手料理をご馳走になった人はあまりいないのではないか。お二人が高校生になる頃まで続いた私の年末の 嬉しい想い出のひとつである。
 パパの手料理で育った二人の兄妹は、安江さんの闘病にしっかりとつき合い、ママのとも子夫人まで倒れては大変と、毎日勤めが終ると病院通いを続けておら れた。御家族の誰かが必ずそばについておられる病室で、安江さんがカチカチとうなずくようにならしていたカスタネットの音がいまも耳に響く。
 安江さんが元気になられたらあれもこれも報告しよう、相談しよう、と数えあげたらきりのない辛い日が続く。安江さんならこういう時には何て答えてくださ るだろうと。
 一九八六年、追いつめられて社会党の委員長に就任するとき、わたしに示された心得は「動かざる初心、確かな目と耳、しなやかなステップ」であった。とて もしなやかには見えないわたしに、政治の時代感覚をもちなさいとのアドバィスであったに違いない。その後九〇年代に入って、経済の動向を憂慮しながら、 「スピーディに、責任感をもって」が加わった。
 九三年、衆議院議長就任の要請に、私は苦しんだ。心配をして、この時の安江さんの熟慮の最後の決断は「受けなさい。鯨岡さんが副議長ならやれますよ。国 会改革にしっかり取り組むことです。私も出来るだけ応援しますから」で私の気持は決まったように思う。宿舎に帰ってみると「議長を受けるとはガッカリし た」「怪しからん」というファックスの中に、手書きで「まことに御苦労様。御祝いを申しあげながらも、やはり『本当に御苦労様』という以外にありません。 そして、御決意をなされたことに深い尊敬の念いをもっています。安江良介」という一通を見つけた時、わたしはあふれる涙をどうすることも出来なかった。出 来るだけ応援しますからといわれた通り、議会運営の事ある度毎に「政治の公正・透明のために格別のご努力を頂きたいと希っています。是非、頑張って下さ い」という激励と共に、いつも一、二、三と実に論理的ですじの通ったアドバイスをいただいた。安江さんがかって、請われて東京都知事特別秘書として都政で 経験された三年の間の苦労話もわたしを励ます為であった。わたしにとってこんなに有難く心強いことはない。にもかかわらず、わたしはいつもアドバイスに忠 実だったとはいい難い。安江さんはその都度「わたしは現場の政党間の問題を知らないから」といいながら「いくら、きちんとすじを立て、誠実に責任を果して いるつもりでも、公にそれが分る努力をしていなければ」と苦言を呈された。
 一度として仕事をゆるがせにしたり、手びかえたりしたことのない安江さんから政治の責任を追及されると痛かった。 (以下略)>

 
                ─了─