招待席

さかい としひこ(枯川)・こうとく でんじろう(秋水) ともに優れた思想家・編集記者として、また明治時代を導いた社会主義者として広く知られ、その論説の名文と意気とは輝き轟いていた。 掲載の一文は、二人が当時の有力紙「萬朝報(よろづてうほう)」記者の席を去るの辞であり、おりしも日露戦争直前であった。(秦 恒平)





  「萬朝報」退社の辞      堺 利彦・幸徳 傳次郎

       明治三十六年(1903)十月十二日号 大要 



 予等二人は不幸にも対露問題に関して朝報紙と意見を異にするに至れり。

 予等が平生社会主義の見地よりして、国際の戦争を目するに貴族、軍人等の私闘を以てし、国民の多数は其為に犠牲に供せらるゝ者と為すこと、読者諸君の既 に久しく本紙上に於て見らるゝ所なるべし。然るに斯くの如く予等の意見を寛容したる朝報紙も、近日外交の時局切迫を覚ゆるに及び、戦争の終(つい)に避く べからざるかを思ひ、若(も)し避くべからずとせば挙国一致当局を助けて盲進せざる可らずと為せること、是亦読者諸君の既に見らるゝ所なるべし。

 此(こゝ)に於て予等は朝報社に在つて沈黙を守らざるを得ざるの地位に立てり、然れども長く沈黙して其所信を語らざるは、志士の社会に対する本分責任に 於て欠くる所あるを覚ゆ、故に予等は止むを得ずして退社を乞ふに至れり。

  堺  利彦
  幸徳傳次郎

 

 この同じ日の「萬朝報」一面冒頭には、本紙に多く拠った有力筆者の内村鑑三が、大要、次のように訣別の辞を 書いていたのである。


 「小生は日露開戦に同意することを以て日本の滅亡に同意することゝ確信致し候。
 朝報にして開戦に同意する以上は、其紙上に於て反対の気味を帯ぶる論文を掲(かゝ)ぐるは之れ又小生の為すに忍びざる所にして、又朝報が世に信用を失ふ に至るの途と存候。
 茲(こゝ)に至て小生は止むを得ず、多くの辛らき情実を忍び、当分の間論壇より退くことに決心致し候間、小生の微意御諒察被下度(くだされたく)候。」


 堺・幸徳両名の「退社の辞」はこれに呼応したものである。

 これに先だち同月八日には、従来非戦論の姿勢を百八十度転換表明していた「萬朝報」社主黒岩涙香もまた、上の三名と同じ十二日紙 上に、大要、こう書いていた。


 「朝報社にもし光明ありとせば内村幸徳堺三君の如きは其の中心なり。今や三君、対露問題の国是論に於て、社中と意見の合(がつ)せざる所あるが為に、時 を同くして朝報社を去る、吾等悲まざるを欲するも得んや。
 吾等三君の去るを悲むと雖(いへど)も、私情の為に三君の操守に累(るゐ)すること能(あた)はざるなり、吾等は三君の本領を認め益(ますま)す推服の 意を深くす。」


 思想家として、編集記者として、これらの表明は一陣の清風の趣とともに多くを刺戟し感化した。幸徳と堺は此の後直ちに反戦機関紙「平民新聞」の為に平民社を起こして悪戦また苦闘し た。
 当時横須賀海軍工廠の見習職工であった少年荒畑寒村は、彼等が「退 社の辞」に強く胸打たれたことを後年『寒村自伝』に、こう書いてい る。


「この退社の辞を読んで、私はもう(日露)戦争が現実に目睫の間に迫つてゐることを知り、そして今日まで文章を通じて深い感化を与へられてゐた二人の社会 主義者が、一世をおほふ主戦論の風潮に抗して敢然として戦争反対の叫びをあげたのを見た。私はいかに感激に身をふるはせながら、この断乎たる反戦の声明を 読んだらう」と。 (編輯・秦 恒平筆)