招待席
おりくちはるみ 歌人、国文学者。1907-1945年。石川県羽咋市(現)に生まれる。折口信夫(歌人・釋迢空)の愛弟子であったが昭和十九年、養子と
なる。太平洋戦争に二度召集され、昭和二十年硫黄島に戦死。折口信夫は羽咋市に建てた父子の墓の墓碑銘に、「もつとも苦しき たゝかひに/最もくるしみ
死にたる/むかしの陸軍中尉 折口春洋/ならびに その父 信夫/の墓」と刻んでいる。 初心漂う歌人の掲載作は、角川書店より昭和二十八年刊行の歌集
『鵠が音(たつがね)』約千八百首よりとりわもののあはれのけ戦時詠を、年次に従いつつ編輯者が抄した。原本には信夫配慮も含めてやや特異な読みがなが
付されているが、原表記に従いつつもあえて尋常のひらがな読みを付し、或いは省いた。父信夫の濃密な「追ひ書き」等は、歌人春洋一人の作歌に印象をしぼる
べ
く割愛した。父信夫の情に触れるにはぜひ原本を参照されたい。(秦 恒平)
鵠が音 抄
折口 春洋
昭和十八年
家 居
兵とゐし去年(こぞ)の思ひのかそけさは、しづかに激(たぎ)つ朝川の如(ごと)
朝庭の霜凍て土に 年あけて、こぞより来鳴く鶯の声
戦地よりとくかへり来し若者を 春の客とし、なごみて対す
睦月の海山
昏(くら)ぐらと 山の空より淡雪のまひつゝ、なほぞ 汽車峡(かひ)に入る
木曽谷の深きに宿り、朝目よく まむかふ山の冷え 身にひゞく
湯をいでゝ向ふ山の端の夕空は、山と辨(わか)れて いよゝ冴え来ぬ
木曽川の淀みに近くとまる駅。水照り返す朝の しづけさ
明あかと 土に凍てつく雪の色。冬木荒れ立つ山の むなしさ
蒲 郡
波の秀(ほ)のあかり かすかに残るなり。きらめきて没(い)りし日を 思ふなり
日の没りの暗き海面(うなも)に 対(む)きてゐて、睦月しみじみ 旅のかそけさ
夜をふかしゐつゝ、おちつくことのよさ。ほてるのとばり閉ぢて 久しき
朝目よく 知多の山なみ晴るゝなり。睦月八日の海遠く凪ぐ
磯山に 凍て土乾くあはれさよ。踏みくづしつゝ ひゞくなりけり
朝の間の 島の社をまかり来し姥三人過ぎて、海のあかるさ
修善寺
冬水の湛へに深く 棲む鯉の 浮き出で来るを、まもりゐにけり
霜凍ての屋庭を いくつのぼり来て、こゝにひそけき 範頼の墓
湯の村の睦月の道の ものげなさ。頼家の墓に来て もどるなり
乏しらに足(たら)へる旅か。妹(いも)と夫(せ)の 写真を撮るを 見つゝ過ぎたり
風の音
春山の 木ぬれの風を仰ぎ来て、家群(やむら)さびしき田居(たゐ)に くだりぬ
庭さきは 蘇芳 山吹咲き荒れて、峡田明るく 人勤(いそ)しめり
芽ぶき山 つらぬきてとほる道の空。編隊つぎ来る 航空機の 音
村口の寺は 素壁(しらかべ)の荒びゐて、くぬぎの萌え葉 山をしづむる
篁
湯の村は 青葉に深き竹の秀(ほ)の 曇りしづけき朝と なりけり
林泉の汀に照れる虎杖(いたどり)は、一もとにして 立ちのしづけさ
水の音 みちて澄み行く庭中は、若竹むらの たゞそよぐなり
峯近く 松にまじれる常磐木の つらつら照りて、日はゆふづきぬ
山 道
山岸は うまら うの花咲き乱れ、白じろけぶる雨となりゆく
足柄は 遠嶺の奥になほ晴れて、夕霧 すでに巓(みね)に くだりぬ
青き起伏
暁闇(あけぐれ)に いまだ月ある霧の空。夜鳥は木叢(ぼさ)にひそみつゝ 鳴く
ほとゝぎすの 真昼しばなく原中は、四方(よも)の遠嶺の晴れて、さびしき
演習のとよみ 移りゆきて、山原は 青き起伏にひそまれる昼
浅間嶺をつゝみし雲の 夕近く やゝ断(き)れし間に、小浅間の出づ
原中の木むらにこもる 百鳥(ももとり)の夕ひと時の声 みちて来ぬ
山高原 夜の色となる靄の底に、まだ鳴きてゐて鳥の しづけさ
鳴きゐたる鳥は静まり、夕靄の下べに冴ゆる 青草のいろ
をちこちの木群(こむら)のいろのさだまりて、高原ふかき夜霧と なりたり
盛 夏
おしだまりて 日中歩み来し山かげに、くさりくねれる紫陽花の はな
身にしみて 山の木草はさやげども、心あそばず 夏ふけにけり
たへがたき土用つゞきの朝起きて、身に近く 人を悼みやまずも 波多郁太郎君死ぬ
死は つひにさびしかりけり。をしめども すべてかひなきものに なりゆく
ほのぼのと 六浦(むつら)の浜に立ち別れゆきにし日より 見ずなりにけり
みむなみに 相つぎて国独立す。我がいくさ人の 流血土のうへに
重工場 ひけしづまりて、白々と 夕づく道は、山原にとほる
墓原の盆夕時を人むれて しづけき村を、汽車に見下す
筑紫より帰還兵一人のぼり来て、いふ挨拶の 何ぞしづけき
若人の ことばとぎれは、ながかりし転戦のさまを 思ふなるらし
いやはてに昭南島ゆ かへり来し兵士を迎へ、ねぎらひもなし
虫のねの さすがに 夏のふけゆけば、いよゝしづけく たゝかひ身に沁む
湘 南
騒然と とらつく過ぐる道の空。鳶のとほ音の 海よりに澄む
かすみつゝひより定る夏山の 空に舞ひ澄む鳶のはるけさ
一つ橋
町の空地(くうち)に 草のそよぐが目にたちて、夕照りながきひた土の おも
町中の 夕照り強き橋のうへ。すぎつゝひゞく 自動車のおと
若き人々
若くして征かむ学徒の ひとりひとりに、いたはれよ 身をと 言ひたかりけり
学校をいでて たゞちにたちむかふいくさのにはを 思ふなるらし
かへりみて 己(し)がさびしさを言ふなかれ。若きをたのみ 国は戦ふ
航空隊に入ると昂奮(きほ)へる 若者の言(こと)たゞしきは、涙ぐましも
身にかけて 国の危きをなげき居るこの若き者も 親を思へり
親ありて言ひおこすことのふしぶしの、臆(おく)れたるをも 若きは嘆く
春寒し
人知れぬ怒りをもちて かへり来ぬ。若きがゆゑに ゆるし難しも
人を さげすみて来し 道の空。桜を見れば、さびしまむとす
あかあかと 炎たちゆく庭芝の 底にしばらく火(ほ)むらを たもつ
再、出でたつ
召され来て 五日ことなき起き臥しに、伊太利降伏の報道を 聞く
大君は 我をふたゝび召し給ふ。歩兵少尉の かずならねども
ふたゝびを召され来たりて、我を知るよき兵士らに 親しみにけり
若々しき将兵 多くたちゆきて、日毎秋づく兵舎に わが居り
わが馬のうしろにつゞき 兵がひく馬 馬、ひづめの音高く来る
叢を馬に喰(は)ませてうちむかふ 空の奥処(おくが)の山の しづけさ
山岸の葛葉の垂りの さはさはに、ひきつゝ 馬の 口やめずはむ
秋山は あまりしづけく晴るゝなり。家さかり来て 兵と起き臥す
かの若き兵らも すでに 南の基地に至りぬと聞けど かそけき
とほどほし 峡の奥処(おくが)に晴るゝ山 見放(さ)けつゝ入る道の、ひそけさ
公園の木立ちをぬけて わが通ふ道は、日暮れの 早くなりたり
病棟の 宵の点呼の やみてのち、空は すぎゆく風の むなしさ
雨ののち 砂の流れのこまやかに、朝(あした)冷えゐる日ざしを 歩む
昭和十九年
この日頃 一
暁の寒き真闇(まやみ)に 別れたるかの下士官は、到りつらむか
雪ほのに見えて しづもる向ひ山。 暗きに起きて、兵を発たしむ
健やかに征きてかへれと 告げて後、たち征きにしが、まだ暗き営庭(には)
若くして心真直(まなほ)に征きにける伍長一人を 心にたもつ
この日頃 二
きほひ来し学徒も 今はおちつきて、おのも しづけき兵となりゆく
近々と 山の残雪(はたれ)のさびしきに、夕方早く 雨となりたり
この日ごろ。深く身に沁む戦ひの夢に 目ざめつ。しづけき眠り
敵、まあしやる(マーシャル)に上陸す
つばらかに告ぐる戦果を きゝにけり。こゝに死にゆく兵らを われ知る
若きらが たち征きて後 絶えゐしが、まさに はげしきたゝかひに入る
洋(わた)なかの島に とよもし来たる讐(あた) つくして来よと 切(せち)にし思ふ
俤に顕(た)ちて 消えずも。はるかなる若き兵士らは 死なしめゝやも
さ夜ふかく 心しづめて思ふなり。一人々々 みなよく戦はむ
兵とある自覚を 深くおのがじしもてとさとして、たかぶり来たる
汝(なれ)らが身は 公びとの他あらめや 深くさとして、心しづめ居り
宵早く 道の残雪(はたれ)の凍て来るに、堪へがたく立ちて 兵をはげます
族(うから)びとの深き思ひを 負ふ身なり。ますら雄ごころ ふりおこすべし
別れ来て
春畠に菜の葉荒(すさ)びしほど過ぎて、おもかげに 師をさびしまむとす
東(ひむがし)に 雪をかうぶる山なみの はろけき見れば、帰りたまへり
つゝましく 面(おも)わやつれてゐたまへば、さびしき日々の 思ほゆるかも
朝けより 彼岸中日空低く、霰のはしる道を 来にけり
人のうへのはかなしごとを しみじみと喜び聞きて、師はおはすなり
村田正言を憶ふ
かへり来て、夕日まだある空ひろし。さびしき死にを 思ひやまずも
一兵卒として 過ぎにけり。よき性(さが)の、心を離れず、一日すぎにき
年長く つひに 音なき汝(なれ)が死は、思ひ見れども さびしかりけり
この日頃 三
春の日の 山にはたらく人音(ひとおと)の かゝはりなくて、しづかなりけり
雨ののち 照る日しづけき春の日の空に澄みゆく鳥は、さびしき
朝晴れて 芽ぶきに早き傍山(かたやま)の 辛夷一もと 照り出でにけり
営庭に 暁起きの肌寒く、兵をたゝせて 点呼を了る
しみじみと兵を諭して、うつらざるかたくな心に さびしくなりぬ
五六人の兵を起たしめて、民族のたぎる血しほをもてと 言ひ放つ
明け発(だ)ちの部隊を思ひ、夜ぶかきに ふたゝび目ざめ、ひそけき牀(とこ)なり
ひそけき思ひ
さ夜ふかく 別れをのぶる顔々の、はればれしきに 思ひしむなり
民族の血のたぎり かく大いなる時ぞとさとして、たゝしめむとす
たゝしめて後 ひそかなる思ひなり。深き夜空を仰ぎつゝ来ぬ
夜半のほうむ(ホーム)を 兵車明々(あかあか)いづるなり。このときめきを 親 知らざらむ
友をたゝしめて 心むなしきに、若者は、烈しき言(こと)を 我に告げ来る
幾たびか兵を教へて たゝしめぬ。今年の暑さ すでに 身にしむ
かくばかり 世界全土にすさまじきいくさの果ては、誰か見るべき
たちゆきて なほぞしづけき。大いなる作戦行動近きを おぼゆ
四十(よそ)ぢ人 歩兵少尉の友一人たちゆきてより、日々を しづけき
知り人の戦死の噂 あひ続ぎて聞え来るなり。洋(わた)のはてより
営外自然
公園の 朝(あした)しづけき水の上。花かきつばた 日ごろ咲きつぐ
柿若葉 つらつら照りて、ひた土にかすかに動く朝かげを 踏む
晴れつぎて 目ざめすがしき日ごろなり。朝空高く 鴉なき過ぐ
道のべの草を墾(ひら)きて 豆を蒔く児等よ。はげまね。汝(な)が父のため
谷に這ふ葛葉も すでに肥えにけり。しづけき道に 馬をひき出づ
山上の池の湛(たた)へに 浮き満てる水藻を見れば、つらつら光る
わが馬の歩みしづけく なりにけり。尾根を越えつゝ つぎの峡(かひ)見ゆ
*
子がいくさ かくひたぶるにありけりと、我にきかしめ、しづけかるらし
死にゆける若き命の敬虔(オギロ)なり。かくひたぶるに 国はたゝかふ
いさましき空の軍を たのむなり。この家をいでて 子はすでに死す
鵠が音 追ひ書き その三 釋迢空
敵一機 琵琶湖東岸を北上すと まさに受信し、哨兵に告ぐ
我々にとつて、思ひの深い歌の一つである。最初、この歌集を出さうとしたのは、まだ、春洋が、硫黄島の守備に、生きてはたらいて居た時である。東京では、
情報局や、報導部で、今日明日にも、本土に上陸して来さうだ、と公言して廻りながら、ひどくなつた戦争の実情については、国民に告げる勇気を失つてしまつ
た頃である。
さう鈍感でもないつもりだつた私どもすら、「たづがね」と言ふ古語が、かの島に渡つた人々の運命をそろそろ前兆し初めてゐたのに、気がつかなかつた。其と
言ふのも、さう言ふ心が、痛切には起つてゐなかつたからである。集の名を、古代の霊魂信仰に寄せて考へたのも、今になつて見れば、謂はゞ、いまいましいは
ずの名だが、思へば、さう言ふ軽い物思ひを圧倒するほどの感情が、「われ人よりも」の心にあつたのである。此は当時の烈しい心持ちに生きた人々は、誰しも
記憶の底に持つてゐるに違ひない。
草稿が出来あがると、この原稿を整理してゐた春部(注――伊馬春部)が、亦せはしなく、中部支那の戦場にたつて行つた。
急いで、報導部の検閲を受けると、暫らくして数个処の附箋をして返して来た。忘れもしない、此歌も、其一つであつた。ところどころ、その時の検閲人の判
が、歌の脇にある。親泊(オヤドマリ)と言ふ苗字であつた。親泊は、沖縄固有の姓であつて、その同姓の幾人かを知つてゐる。たゞ偶然検閲人だつた親泊氏に
は、逢ふ機会がなかつたのである。確か当時少佐で、陸軍報導部に居たと言ふ人に違ひない。
戦争がすんで、いちはやく自決した人々の中に、この人の名が見えてゐた。まるで、他人とも思はれぬ黙会する心があつて、私を寂しがらした。
この歌一つで見ると、実戦のものゝ様な誤解が起りさうだが……此は、其よりずつと早い、昭和十七年はじめて召集せられた時の連作中の一首である。金沢の町
における訓練空襲の夜、某百貨店の屋上に機関銃を据ゑた時の歌である。単に演習想定を心に持つて作つたに過ぎないので、親泊氏の指定では、一度「琵琶湖」
といふ地名を消したらしいが、之を活して、「さしつかへなし」と書き加へてゐる。演習だと言ふことに、気がついたからである。私だけの考へ方に過ぎないか
も知れぬが、この一聯の歌などは、戦ひの歌として、範囲も、雰囲気も、多くの人間の動きも、又都会の夜のしづけさも、ぴつたり把握してゐる。大きくて空し
い時代の感銘――戦争の中の過ぎ去つた夢を、極めて静かな、虚空に映写してゐるやうな気がする。
春洋の作物には、これに似た印象を与へるものがあつて、読過の際、ちらとふりかへりたくなるものがある。「さうだつたか」と気がついて、一歩ひつ返すと、
もう何処へ行つたか、影も形もない。さう言ふ匂ひが感じられるか知ら。出来れば、心切に読んでやつて貰つて、さう言ふ機会に接してやつて頂きたいものであ
る。