「e-文藝館=湖(umi)」 小説
おくの ひでき
小説家 一九三五年生まれ。 掲載作を作者は「私小説」と意識しているが、むしろ奥野は「反私小説」作
家としてデビューし
ていた。年を取ってはじめて私小説も「書けるだろう」「書いてみたい」と言ってきた。 掲載作は、九十年代前半に起稿、ほぼ十年をかけて脱稿している。意
識して用いたのは、同じ色をさも塗り重ねるように、要点を、あえて繰り返し巻き返して一過性にやすやすと
流れ去らせない手法、いわば「やるま
いぞ」手法であったと告白している。奥野秀樹が「奥野秀樹」という架空の人物に託した創作された「小説」であり、「人間」への興味であり、趣向された
「フィクション」である。 (秦 恒平)
逆らひてこそ、父
奥野 秀樹
二○○六年五月、二○○七年八月
書下し脱稿 長編新刊
独楽は今軸かたむけてまはりをり逆らひてこそ父であること
岡井 隆
昭和五七年『禁忌と好色』所収。現代の歌人を代表するすぐれた一人。時に含蓄に富んだ歌が、ずかりと出る。この歌も作歌の状況を越え幾重の読みにも耐え
ながら、父なるものと子なるものとの不易の相を想わせる。「こま」遊びのさまをまず思い出す。こまとこまとを弾かせ合っても遊んだ。鞭打ち叩くように回し
たこともある。地面でも掌でも紐の上でも回したことがある。父と子とでいま「こま」を闘わせているとも読める。父がなかなか子に負けてやらないでいるさま
も見える。だが「独楽」の文字づかいから、子が独り遊びし、父は眺めながら、父としての現在と子としての過去を心中に思っているのかも知れぬ。
「軸かたむけて」は美しい表現だ。力づよくも力衰えても読める。どつちにせよ懸命に回っている。父は子とともに、子よりも切なく回っている。「逆らひてこ
そ父」と感じつつ心も身も子より早く萎えて行くさきざきのことも想っている。「こま」はもはや心象であり、象徴として父の心に回るのみとも読める。だが、
気楽にくるくる回る「独楽」同然の子の世代に対し、なお父として鞭もあてたい、弾き合いたい、それでこそ「父」だという思いの底に、過ぎし日のわが父の顔
や声や落胆の吐息がよみがえつても釆ていよう。子への愛に父への愛が重なり、人生の重みに思わずよろけながら耐える。
秦恒平『愛と友情の歌』講談社刊 所収
逆らひてこそ、父 上巻
これは「私の遺書」である。作品ではない。 (奥野 秀樹)
どんな家庭の食器棚にも髑髏が隠されている。 (フランスの諺)
一
俳句の上村占魚が亡くなり、偲ぶ会が小平市の文化会館であった。
おなじ上方の出で同業同好という、ほとんど親類づきあいの友人に紹介されて、以来、奥野も亡き俳人とは久しかった。
ときどき占魚率いる「みそさざい」誌に随筆を頼まれると、お礼に、球磨焼酎や、主宰の好きな清酒が半ダースずつ届いた。茂吉、虚子、吉野秀雄、松本ゆた
かなど、いい先生に恵まれた幸せな酒仙人だった。弟子も多い。女性にもてもてだったらしく『黒髪抄』という色っぽい句集があり、奥野も愛読した。
でも、ほんとにあんなにもてたんですかね、ほんとならお側のご婦人方はお気の毒さまでした、などと酒の上手な友人は、痩身の胸を帆のように張って、「偲
ぶ話」で会場を笑わせた。参集の男弟子たちがすっかり喜んでいた。会場には、故人がことにひいきだった「葵」出前の寿司が、見た目も旨そうに溢れていた。
それより、みなさん、「占魚」というのは、清流の「鮎」なのか、如拙に名画「瓢鮎図」があるように「瓢箪鯰」のつもりだったか。ご当人、いちども自分で
解説しなかったはずですが、参会のみなさんのお説はいかが、占魚論の意外な鍵かも知れません。聴いてますか占魚さん…と、遺影によびかけている同じ友人駒
井の提議も、奥野はおもしろかった。
二人で失礼してから、所沢駅へ戻って、暖簾の小さい、なじみの小店で、なみの酒をなみの肴で、もうすこし、やった。駒井次郎はいきなりくさやで、奥野秀
樹はつゆの煮えた焼き蛤。
くもった眼鏡を太い指でふきふき、例のように奥野はつい胸にあることを吐き出した。
駒井には小説のほかに、句集も、批評の本もある。批評は辛くちで、出は京都伏見の物言いに遠慮というものはないが、この彼にだけは、外聞もなく奥野はむ
かしから甘えた口が利けた。相手も心得て聴き上手だった。
「夏ちゃんもなあ……。拗ねてる場合ゃ、ないけどねえ」
「すっかり被害者の役を演じてやがってね」とボヤき、
「ま、待っておやりサ。うまい道草を食ってきたんだ」と、奥野は肩をかるく叩かれた。この三月末まで四年ほど、奥野は理系の国立大学で先生をしてきた。六
十の定年で、退いて間がない。
「元の道にもどって、元気にやってよ」と、さよならの手をふられ、西武池袋線にひとりで乗って西大泉の家へ帰ってきた。駅からは、預けてある自転車で走っ
た。…どう、待つんだよと奥野は重いペダルを踏み踏み唸った、瓢箪で鯰が押さえられるかよ……。自転車を庭へ入れたとき、十時にすこし間があった。
おや、どぅした…。仕事机のまえで、立ったまま声がでた。手にとって裏向けてみると、松江の、戸川一馬の手紙だった。手紙をもらう相手ではなかった。
畳三つとない儡地(らいち)に、ワープロからライトから書類棚から本棚から、さらには積んだダンボールから、ごったがえしの資料だの本だの、文具だの
で、手もつけられないそんな真ん中の机に、郵便物はこれへと約束の盆が置いてある。どこから上がったか座布団わきに山になった本と本の隙間を、夜の蟻が一
匹黒い「く」の字を書いて這っていた。
テラスに月が明るい。首をのばすと、書庫の上の庭に紫蘭の葉むらが濃いほそい花の影をそよがせていた。小手毬の木叢が向うにむっくり盛り上がっていた。
「TOKYO」5月11日午後の消印だった、「東京中央」と読めた。
東京駅ちかくで投函してるんだ…。一昨年開かれた第10回国際エイズ会議の記念切手が貼ってある。ものもちが、いいんだ…。淡茶色い和紙っぽい縦長封筒
で、封は無造作にセロテープで押さえてある。どしたんだよ…と、また奥野はつぶやいた。
妻は、あさってからの息子のプロデュース公演を控え、髪をきれいに直してきたらしい。巣鴨駅前の小劇場で五日間に六ステージ、毎日でも通う気でいる。棚
の唐津に大きな牡丹が咲いている。奥野はキッチンの板の間に、発送途中の私家版シリーズのたいそうな荷をちらと見てから、好きな宇治茶をちょっと濃めに自
分で淹れた。妻のいる居間のまえの廊下にあぐらをかき、他の郵便物にざっと目を通しておいて、
「さて…なにごとであるか」と戸川の手紙を開封した。
「何(なん)なんでしょね」と、ほかのことをしたまま藤子もこごえで相の手を入れた。封筒と対のものらしい淡茶の縦長の和紙一枚に、ワープロで横書きの文
面。思わず息をかるく整え、そのとき何となく奥野は、自分たちの手のなかで死んでいった母ネコとその子猫のノコのことを想い出していた。ノコとは十九年半
もの間いっしょに暮らした…。奥野家の大概なことは、その十九年のうちに起きていた。
戸川の手紙は、第一行の頭に松江市の住所、その下に電話番号、次ぎの行の右に寄せて西暦年のあとへ、やはり「5月11日」と日付が打ってある。松江で
打ってきた…のか、東京でか。一行あけた左寄りに、まちがいなく「奥野秀樹様」とすこしポイントをあげて宛名を打ち、次行の右端にボールペンの自筆で「戸
川一馬」と署名していた。
拝啓 薫風の季節 皆様にはますますご清栄のこととお喜び申し上げます。
さて私こと、この度び
こんなふうに出だしの文面前半は、「皆様」に「ご挨拶申し上げ」ている内容であり、一つには島根教育大学修士課程修了にともない、この春から松江市内の
高校勤務が決まったこと、それ以前八年にわたって在職した前任校での大方の厚誼に感謝していることを、ごく尋常に記し、体験を生かして今後も努めたいので
ご鞭撻をと願ってある。変哲もないが、あの戸川君がマスターを出たのか、こりゃめでたい、えらいな…と率直に奥野は思った。
手紙には「追伸」があって、奥野宛ての文面はここからであった。
突然ですが、この7月26日(金)11時より、東京四谷のカテドラル聖テレジア大聖 堂にて挙式をおこなうことになりました。唐突なお願いなのです
が、私たちの証人にな っていただくわけにはいかないでしょうか?
意をここに書き記すだけの力がないのが疎ましいの(それこそ努力不足だと一蹴され そう)ですが、一言でいえば、私のわがままだと思います。
様様なことがありましたが、今の私を支えてきたのは、直接的ではありませんが、あ なたの存在のおかげだと思っています。もちろん、我が伴侶となる人
との出会いに関し てもその意を強く感じています。
お返事をいただければ幸いです。
あと、6月22日から上京する予定があります。自分の伴侶となる人物をしっかりと 見定めてもらい、なんとかほめてもらいたい。生徒と同じ気持ちのよ
うです。
やっぱり、いい歳になっているのに人の迷惑を考えられない、わがままですか。
ページの「1」が真下の真ん中に打ってあって、だが、手紙はそこまでの一枚だけだった。文面が終わっているのか、続きが有ったが同封されなかったのか、
同封したつもりで入れ忘れたのか。受けた奥野の感じでは、だが、これで足りていた。思惑のある、含みのある肝心の戸川の実意は、分かるとも、さっぱり分か
らないとも、かんたんに分別つかないけれど、続く文面に用はない気がした。
温和な髪にまとめ、軽そうなカラーシャツを長めに着流した妻のまえへ、奥野はぽいと戸川の手紙をなげた。藤子はすぐ拾い、封の裏を返し、なにがあった
の…という顔をした。
「読んでごらん…」
万事はそれからという口調で奥野はすすめた。畳に坐った妻の髪がしめった空気にかすかに照っていた。手紙をもった指がほそい。
戸川一馬は、奥野らの娘の夏生(なつみ)より学齢が一つ下のはずであった。大学はべつだった。その通りなら戸川はもう三十五になっている。夏生には二人
の息子がおり、上の信哉は小学校の四年生ぐらいになっている。道哉も幼稚園だろう。戸川の修士課程修了はふつうの進度よりほぼ十年遅れていて、結婚も、早
いほうではない。
「いろいろ…あったのね。でも、よかったわ。それに、戸川君えらいわ」
「えらいね。よく頑張ったと思う…。このほうが、どんなに良かったか…」
とぎれがちに夫婦はそんなことをボソボソと言いかわした。夜遊びのどこかで猫と猫とが鳴いていた。
「どうなさるの」とそっちへも気をとられて藤子は尋ね、ウーンと奥野は唸った。証人というのが、もしカソリックの何らか儀礼に関係したものなら、そういう
信仰と無縁な身で引き受けられない。なんとなし気の萎えた奥野は、郵便物一束をつかんで、のそりと書斎の方へ引っこんだ。
手紙、受けとりました。思いがけないご希望を告げられ驚いています。マスターを修 了されたよし、努力に敬意を表します。おめでとう。何科の先生です
か。大学の先生を 四年勤めおえて、中学、高校の先生方のご苦労がいかに青春を左右するところ大きいか を、いろいろ知りました。いい先生になってくださ
い。
ご結婚のよし、おめでとうございます。ぜひ、幸せな家庭を築かれますよう、ご婚礼 には列席しかねますが、よそながら、心から祝福します。フィアンセ
がどういう方か手 紙になくて様子は知れませんが、挙式が東京というのは、お相手は東京の方なのでしょ うか。戸川君もカソリックなのですか。
ともあれ、「私たちの証人に」とありますこと、唐突で、びっくりしています。結婚 届書に署名捺印する「証人」のことでしょうか。キリスト教の教儀上
にこういう「証人」 というのがあるのですか。後者ならば、心得もなく、お引き受けできません。前者にし ても戸川君とは昔にわずかに接しただけ、まして
お相手の方はまったく知らないのです から、適当とは思われません。二人をともにご存じの方に頼まれるのが、なにより自然 であろうと思います。
戸川君の結婚には、だが、大なる祝意を惜しみません。よかったと思います。だれよ りも戸川君のためによかったと信じます。君のこの十年の錬磨と成熟
とが、きっと確か な判断を得られたのだと、嬉しく思います。
すばらしい出発に、少なくも今は、過去の尾をひいてはいけません、それは伴侶とな る人への配慮にも欠けましょう。迷惑でもなく、我が儘だとも思いま
せんが、新たな大 歓喜に、感傷のかげを添えるに似たパフォーマンスはしない方が健康です。ごく普通の 作者と読者として、この私に関心があれば著作を読
んで下されば十分です。手紙をもら えば、返事を書いたり、忙しければ失礼したり、今後は、そういうふうに在りたい。こ んど上京の際も、とくにお目にか
かるまでもありません。
返事は以上です、率直に書きました、分かって下さい。おおいに幸せになって下さい。
平成八年五月十三日 奥野秀樹
「そうね…。そう思うわ。……(過去)をひきずらない方がいいと言ってるの、いいと思います」と、奥野の書いてきた返事の手紙に目を通し、藤子は、ベッド
のわきに立った夫にうなづいてみせた。
「届書の署名捺印ぐらい、なんでもないんだけどね。でも…いい意味の出発に…。やっぱり、良いことだと思わないよ。やめといた方がいい」
「そうよ…。そう思うわ」と藤子は、また、言った。枕元にジィドの日記がもってきてあった。オイオイ…と、かるく身を退くものがあったが、そっちには触れ
なかった。
「生徒の気分だなんて言ってるけど。夏生の結婚のときのようなこと、戸川君も考えてたのかしら。披露宴に出てもらって…その席で署名とか。捺印とか…」
藤子は考えこむ顔をした。スタンドの下にちいさい信哉と道哉の写真も置いてある。道哉がやっと歩き始めたころか、兄の脚を両手で掴んでやっと立ってい
る。奥野は手にとって見ていたのを元に戻し、横になった妻のわきへ腰掛けた。
「ちがうだろう。戸川君はあの場にはいなかったんだし…。彼の式や披露宴に出るようなつながりは、無いんだからね、こっちには」
奥野は少々憂欝な顔をした。くわしく思い出せる事がほとんど無い。戸川一馬の顔、表情…、まるで思い出せない。一度会った記憶はあるが、なんの特徴も思
い出せないのが戸川の特徴だと、言えば言えた。顔の見えない声で、夏生を呼んでほしいとしばしば電話が掛かってきた。遠い昔だ。「戸川一馬」という名乗り
だけが単なる記号音になって、ずうっと、奥野の家に残存し余響をつたえていたが、彼を思い出していたわけではなかった。
内村と結婚する以前の娘夏生を思い出す、一つの、戸川はキィだった。「戸川君」という呪文だった。
「ね、きみサ…。戸川の顔、おぼえてるかい」と、腰掛けたまま奥野は天井をおおった薄暗がりを覗くように見上げた。
「ま…なんとかね、感じぐらいわね」と、仰向きに高く天井へ両腕をさしあげながら。
「何度というほども会ってないよね。うちへ来たよね、一度は」
「一度よ。二三人で…。あなた、顔合わさなかったでしょう」
「あぁ、誰ともね。あれは…」
藤子は横向きに寝返った。
「あれはね、なにかしら同じことだか人だかに関心をもったグループだったのよ。あの前に…ホラ、どこでしたっけね」
「八王子だよ。各大学で共通に利用できる、宿泊の会議施設みたいのがあるんだよ。わたしも一度輪島さんらの研究会に、たのまれて講演に行ったことがある。
あそこで夏生らも集会があったんだ。あのあとでしょ、うちへ連中が来たのは」
「そう…でした。哲学的な、なんだか…」
「瞑想…」
「インドかどこかの聖者みたいな人の本に、ひどく熱心でしたね。ぶあつい本なんか夏生の机にいつも置いてありましたよ」
「バグワン・シュリ・ラジニーシだ…。あれで知り合ったん…だろうか、な」
「おぼえてないわ、なにも。ただ、あの日も来てた男の子の、戸川君とちがうもひとりの…ちょっと年かさの早稲田だかどこかの学生のほうに、夏生は、惹かれ
てたの。でもその人は好きな人がよそにいたの、夏生は問題にもされなかった。だいぶ、がっかりしてたみたいでした」
「ナントカ西っていう苗字の子だったね。声は、二階から聞こえてた。背の高そうな。はっきり喋るって感じの…」
「そうなの。そこへ行くと戸川君は小柄…でしょ」
「そうかな小柄…ね。そうだったかも知れんが。きみ、なんだかイヤがってたじゃないか」
「そうなのよ。理由は分からないの。でもいやだった。あんなふうに人のこといやがったりしないでしょ、ふつう…わたしは。なのに、あの日はもう…生理的に
いやでいやで、たまんなかった。顔みるのも声きくのも、こう…ぞぞッとするくらい…。あれははっきり思い出せます。……いやぁね」
「夏生を、戸川君はめちゃくちゃ好きだったんだ」
「夏生に、憧れちゃっててね。戸川君の方が一学齢下なのよね。わきめもふらず、もう夏生さん夏生さんで…。それを、夏生の方はさっきのようなわけで、ほか
の人の方を向いてたのよ。でも…そっちのメがなくなって。だんだんに…ね、戸川君と親しくなって行って」「大学は、彼、どこだった」
「それが…、忘れちゃったわ。…」
奥野も憶えていなかった。ただ娘のいた茗荷谷の女子大からすれば、あまり知られない大学であったのは確かで、それが、一つ年下年上というだけで済まな
い、戸川一馬の卑下としか受け取れない態度に転じていた。夏生はそれをいやがり、また時にはそんな位取りに媚びられたまま、年下の戸川の気持ちをやや引き
回した気味…、無くはなかったと奥野も藤子も感じていた。
忘れることの皮肉なぐらい好都合なはたらきを奥野はいまさらに実感していた。どう折り合いをつけてみることも出来ず、つまりそれが折り合いなのかもしれ
ない。なにやかやいろいろ有ったんだというあの頃の難儀な気分は忘れていないのに、いろいろの中身は思い出せない。いったいどれほどの期間夏生と戸川一馬
とになにやかやが有り得たか、勘定してみればそれは最大限、戸川が大学に入ってから、夏生が内村竹司と結婚するまでということになる。
「そうじゃないわよ」と藤子は上半身を起こし、夫の方を向いた、「夏生の誕生日に、松江から、一と抱えもあるバラの花束を、戸川君、送って来たじゃない。
夏生、もう結婚してたのは確かよ。それさえ何年だったか…憶えてないんですものね」
「そうだ…。赤いバラが山ほど届いたの、思い出した。信哉が、生まれてたかも知れん」「それは忘れたわ。六月に結婚して…夏生は七月生まれだけど、あの年
ではなかったと思うの。もうちょっと、アト…。でもまだ日本にいたのは確か。夏生に電話したもの、花が来たわよって」
「へぇ。で…」
「あッそ。捨てちゃって…、だッて。びっくりしたわ」
夏生のナマの声が聞こえてきそうな気がした。奥野は憮然として妻の顔も見ずベッドから腰をあげた。かすかに香水の薫りがした。
夏生は母親とあまり似ていない、父親におかしいほど似ていると人が笑うほどの娘だった。もう五年ちかく顔も見ていないのだ、電話一本の往来も双方で断ち
切った。
「いやだねぇ…」
奥野は未練に首を振って、つぶやいてしまう、「いやだねぇ…」と。そして妻の寝室を出て行った。後ろ手でそっとドアをしめた。
その夜のうちに奥野は、自転車で――妻に見せたままの返事を戸川宛て封書にして出しに行った。木の実ににた雨粒が、五つか六つか、戻りの坂道で奥野を
打った。日付のかわって行く五月闇の夜空をぶきみに雲がうねっていた。重ねて手紙が来ても来なくても、それはそれ、来ればそのときに奥野は考える気だっ
た。大学院で勉強して修士の学位を得、高校教諭として新しい勤務校もきまり、そして奥野に、奥野ら夫婦に、自慢ができるほどの女性とやがて、めでたく結婚
――。戸川一馬の幸福を祝う奥野の気持ちは素直だった。
ほんとによかった…。やや安堵の胸を撫でおろしていないでもなかったが、その気持ちに、我が娘へかかわって行くものは稀薄だった。なにより戸川の為によ
かった、よく彼がんばったな、幸せになってもらいたい…。また自転車を片付けながら、それを思っていた。
だが、やはり夏生のことも念頭に陰った。夏生なんかにかかずらわなくて、戸川君よかったよ…といった、すこしささくれた思いをどこかに隠しかねていた。
戸川のことをどうでもいいとは思わないが、戸川一馬がどうであるこうであるよりも、奥野ら夫婦にすれば娘のこと、娘や孫たちとのことのほうが、比較になら
ず重い。重苦しい。戸川の突然の手紙は、改めて夫婦にそれを思わせて余りあった、だから思わず寝室に入ってまで藤子と額を寄せたのだ。いまさら相談するな
にごとも思い寄らないが、夏生らを、忘れていていいとは片時も考えてなかった。
二
戸川一馬の、返事の返事はあるだろうか。午食(ひる)ぬきの日盛りの縁に腰かけ、奥野は朝刊の記事でも話題にするように気楽な口をきいた。
「あの人はねばりづよいから、分かりませんよ。なにか言ってくるかもよ」
藤子はテラスにしゃがんだり立ったり、植木鉢の世話をしながら、はんなり声を張った。
書庫の屋上の庭から小手毬のまぶしいほど白い花枝が、波の崩れるようにテラスへ垂れ、その横へ黄色、白、ピンクのチューリップが十数株咲き残っている。
月々に送られてくる珍奇な花の鉢や観葉植物でテラスは溢れていた。
「六月二十日過ぎにまた上京するらしいがね。いきなりフィアンセと、玄関へ現れるかもしれないな。戸川君のことだからな」
奥野もそれは思っていた。だからといって、頼まれごとは断ってしまったし、これ以上つきあう意味もなかった。もう明日に、春生(はるお)が作・演出の初
日はせまっていて、そっちの方が気になった。六ステージで五日間の日程にあわせ、心もち奥野は自分の仕事も追っかけ片づけてきた。
成功してほしい…。
稽古の途中で、劇場を押さえる金を貸せというから貸した。二千円の切符をべつに五十席分買ってやり、おおわらわで、夫婦して頼みまわって、退職してきた
大学の学生や、知人友人、ご近所に、切符を貰ってもらった。春生は、今度の公演では親亀の背中が、つたひでき劇団の後押しが、アテにできない。苦労をし、
恥も盛大にかいてくれていい、が、プロの気概でやるからは、前途へ再起不能の失敗作になってはまずい、と、およそ似た畑に鍬をいれてきた作家奥野には、奥
野なりの危惧もちいさくなかった。
プロでも何でもない、春生は、事実どおりにみれば掃いて捨てるほどいる演劇青年のなかでも、ほんの昨日今日に芝居小屋のにおいを嗅いだばかりの、本業は
カード会社の社員、サラリーマンだ。
「早すぎゃしないか…」
奥野も妻も、息子の気の逸りをあやぶんだ。能力のあるないでなく、それなりに属している「劇団」というか「事務所」というのかそれさえ内幕は知らない
が、春生をそうまで育ててくれた「つた先生」や仲間への、きちんとした挨拶はできているのか。自前の舞台づくりに支持はあるのか。スタッフや役者を集める
のにもその辺の「仁義」は、一つまちがえば命取りになるだろうにと想像された。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ…」
もちまえというしかない口ぶりで春生は安気(あんき)に事を運んできた。だいじょうぶなら、出来るということなら…、やればいい。どっちみち…、どっち
みち…、そう…どっちみち、道楽だといわれれば道楽で、自己表現だといえばそれもその通り。奥野自身もおなじ似た道を歩んできた。いまの春生と同じ年頃
だった、いや春生のいま二十八歳と同じ頃の奥野は、小説らしきものを孤独にこつこつ書きだしてまだ間がなかった。第一冊めの私家版出版へ辿り着くのに、も
う一年ぐらいかかった。あのとき出来た最初の本は、縦長のB5判、だれが見ても雑誌だった。ぎっしりと八ポ活字で二段に小説を組んだ。墨一色の表紙の絵
は、藤子が古画をまねて描いてくれた。
覿面に「道楽」だと人に嗤われた。売り物になるわけもなく、安サラリーの若い奥野夫婦には、莫大な出費だった。しかも百人配ろうにも、なかなか、百人も
配れる知人さえいなかった。だが、奥野はそんな真似をやめなかった。二冊出し三冊めも出した。藤子も、いちども、やめてとは言わなかった。
息子春生の現在とちがうのは、あの頃奥野にはそういう妻がいた。娘の夏生(なつみ)も生まれていた。妻子以外のだれにも、よかれあしかれ何の障りもな
い、文字通りの私家版づくりだった。そう…どっちみち道楽といわれれば道楽で、自己表現だといえばそれはその通りであったが、前途に何の目途(めど)も希
望もなかった。書いたものを投稿する、なにかの賞に応募するということも奥野は全然考えない男だった。仲間もなかった。持とうとすら、持ちたいなどとはま
して、考えもしなかった。そこが息子とちがった。
去年の晩い秋だった、浅草橋のシアター・エルで旗をあげた処女作の演出では、手慣れた俳優たちにしたたか汗を絞られた春生は、
「演出の仕事は敬遠したいよ父さん」と、一度は奥野に音をあげていた。あの時はバックに、御大のつたひできがついていた。彼の事務所の主催公演だった。連
日満員だったし、見ていてこそばゆかったが、やるじゃないのとも思った。だが会社勤めのままじゃ、さぞ春生演出、たいへんだったろうなと思いやられた。
それなのに、この五月に、また自作の舞台演出を、おまけに制作までこんどは自前で、俳優を募って「やる」と言う。巣鴨にある劇場ももう押さえたと言う。
「押さえた…」
「予約金を払ったってこと」と、春生は軽くノッていた。このノリが親爺にはない。姉夏生にもない。
今年十二月には「つた事務所」が主催公演の、春生としては二度めの「作・演出」の舞台が、もう、とうに広告されている、それの半年前にそんな挙に出る気
と聞いた時は、むちゃだ…と奥野は感じた。小説を書く戯曲を書くというなら、ともあれ一人でやれる。売らない、売れはしない本の形にでも、その気なら造れ
る。演劇を創る「場」はまるで違う。
奥野も、一度だけ、劇団「湖(うみ)」の公演に脚本を書いて参加したことがあり、とても参加などと臆面ないことをいう資格はなかったが、一芝居の上演が
どれほどの「組織行為」であるか、盲人が象を撫でたほどに、つまり理解も届かないなりに実感してきた。
だから芝居はイヤか。イヤどころではなかった。魅力満点だった。クセになりそうだった。上演の期間、一日と欠かさず六本木の劇場に通った。劇団の知名
度、主演男優の力と人気とで、奥野ののけぞったほど客が入った。席の取れない日はいちばん後ろの隅で立って見た。
奥野は、ただ、自分の性質を知っていた。好んで身を投じる「場」ではなかった、興行の世界は。
ところが息子はもう足をとられていて、もっと深く足を入れたがっていた。当然だった。父親のと似た父親のとはちがう道へ、一人息子がなにやらスタスタと
歩んで行くのを奥野は頼もしく見ていた。急ぎ過ぎるなよとすら言う気はなく、ただ、本気でその道をどこまでも行きたいなら、今ぶんは「会社の勤務もだいじ
にしろよ、でないと総倒れになるよ」とだけは言いつづけてやる気だった。奥野が会社勤めをやめ、筆一本になったとき、春生はやっと幼稚園にいた。姉の夏生
は中学生だった。妻子の安命を忘れていい道理は一分もなかった。
一癖も二癖ももった役者や役者もどきと春生とがつきあうのは、はたで想うだに面倒なことだった。食えている連中は、めったにいない。業界の現場を渡り歩
いている技術スタッフの場合も大差はない。好きだからやっているか、それしかやれないか、だから、どっちにせよ芝居への思いこみはキツい。そういうのを何
人も寄せあつめ、一つの舞台を曲がりなりに公演にまで組み立てる大変さが、そのまま春生の今の「場」であった。
春生はというと、そんな「場」で鍛えられ浮かび上がってきた劇作者でも、演出家でもない。クレジットカードの業界大手の会社で月給を取る身であり、親
は、奥野は、地味なりに文筆で四半世紀以上売ってきた作家。定年を目前にしていたけれど、ここ数年、国立大学の教授に招かれてもいた。聞こえた親馬鹿のく
ちで、息子も平然と脛を齧ってきた。
自分はけっこうなサラリーマン息子をしながら、ほとんど昨日今日に舞い込んできた嘴の黄色いフツーの男が、演劇が好きで好きでこの世界を漂流し苦労して
いる役者や技術者たちを集め、いきなり自作を演出するなど、小なりとも遊びでない興行であればあるだけ、なみたいていで済まなかった。反発を食った。反感
も買った。一回めは、それでも、「つたひでき事務所」の、また東京都「K」区という自治体の、後ろ盾があった。つた事務所の企画というだけで、固定客が劇
場をいっぱいにしてくれた。役者も結局は協力してくれたし、春生の「初めて」を応援してくれた会社の同僚も友だちも、奥野家の知人も少なくなかった。
だが今度は初めてというプレミヤもない、後ろ盾もない。劇場は狭いなりにも、客は自力で入れねばならない。それでも春生は見切り発車した。「だいじょぶ
よ」と、そんなにあっさり言っていいのかと、奥野も藤子も心配した。失敗してもいいんだとは、春生の今後をうらなえば、言いたくないし、止めだてもできな
い。正月から春生の顔付きがちがっていた。
あげく二月末に、ばたばたと目白に部屋を借り春生は「自立」した。会社勤務と芝居の稽古で、見るから疲労していた。転居で、四十分ほどの時間が朝に浮
き、夜にも浮く。「ながいあいだお世話になりました」と挨拶があって、三月上旬、池袋のデパートで、春生は一夕両親に「美濃吉」の京料理を奢った。
矢は弦をはなれた。「自立」は多年の懸案だった、これでいいと子は思い、親も思った。目白なら、ほんの隣だ。春生は父親に酒を酌ぎ、母親にもしきりに言
葉をかけていた。ちょっとお互いにこそばゆかった。
食事のあと、あいにくの雨中を歩いて、息子の「自立」の城とやらを奥野らはのぞきに行った。池袋西口から目白方面へ、ややこしいところを十分ほど歩い
た。傘を叩く雨に気をとられ、すずろな気分でやっと山手線わきの「シャトゥ」なんとやらに辿り着いた。郵便箱の並んだ一階の廊下がほそくて暗くて「く」の
字に折れていた。
口には出さないが、ちがうなぁ…と奥野は息子の部屋をながめた。京都から出て来て、牛込柳町の、六畳一間のアパート暮らしを奥野らが始めた頃とは、「生
活」がちがった。あの部屋には便所がなく、むろん浴室も。当座は卓袱台もなく、ラジオの空き箱に風呂敷をかけて新婚の飯を食った。箪笥も本棚も、テレビも
米櫃もなかった。二階建て一階の奥の角部屋で、西と南との窓のそとは柿若葉に匂っていた。アイリスやケシの花の咲く、大家さんの住まいとも垣根づたいの、
清潔に明るい六畳間だった。いちばん最初に、二人してカーテンを奢った。みちがえるように「夫婦」の部屋に生まれ変わった――。
春生は「城(シャトゥ)」を事務所ふうにアピールし、留守番電話で公演入場券の注文なども受け付けていた。パソコンもワープロもファックスも便利は便利
で、だが狭い場所をよけい狭く占領していた。冷蔵庫も洗濯機もテレビも、有る。だが親子三人で座ってお茶をのむ座卓が置けない。だが浴室がある、むろん便
所も。建物も、設らえもけっこう新しく、狭いなりに工夫したキッチンとワンルームに仕上げてある。だが奥に一つだけの窓は小さく、細長の穴蔵っぽい。土産
に持参の備前の花瓶も置きどころなく、どうやら外は土砂降りで、どこかしことなく暗い。暗ければ明るく気をくばる、そんなインテリアなんかに気をつかう暇
が、気もちが、まだ春生に有りそうもなかった。無理もない。つまりは生まれつき散らかし癖のまま、鍵と器械とに守らせた独身青年の「小城」であった。いや
いや思ったより片付いていたほうだ…。
こんな季節にと思うほど篠つく雨の道へでて、かろうじてタクシーに乗れてからも、奥野夫婦はしばらく口がきけなかった。
「自立ねぇ…。目白でねぇ」
奥野は腕組みした。目もつぶってしまった。
「自立した気ではいるんですから…。見ててやりましょう」と藤子は、誰をともなく宥めるように小声で言った。濡れた路上をタイヤの擦る音が、巻きつくよう
に耳朶にふれた。
「自立」という言葉を、よくつかう。自立したいと若い者は言い、自立せよと年寄りは言葉をはげます。その一方で、若者達に、齧れるかぎり親の脛は齧ったほ
うがいいんだと囁きあう風のあるのも、早くに奥野は知っていた。姉の夏生と弟の春生のあいだでもそう囁き交わしていたと、半ば冗談ぽく父親奥野は息子の口
から打ち明けられたことがある。
齧って下さる脛をもつのは、親の身にもわるい一方の気分でなく、或る種の励ましとも取れる。だが損得の打算だけでそういうことを子供らが考えているな
ら、愉快でなかった。
もっと愉快でないのは、親には、なるべく永く子供らといっしょに暮らしていたい子離れしない気持ちがどこかにあり、そこを子供に突かれることだ。
「いいのか。ほんとにこの家を出てっても、あんたたち、いいのか…」というほどの脅しを食う。食わせる。春生も、現に二十八という「子供」どころでないこ
の年齢(とし)までに、何度かそれで父親たちをへこませた。黙らせた。この脅しにたしかに弱いところを、多少なりとどの親ももっている。奥野など人一倍、
そういう親の一人に相違なかった。
奥野家は、一時、年齢(よわい)九十前後、育ての恩ある父と母と伯母とを、一つ家族として西大泉の住まいに抱えもっていた。一旦緩急あれば即座に病院へ
運ばねばならず、不整脈や心房細動に十数年まえから悩んできた妻藤子の負担は日々に厳しく、加えて藤子は主婦であり母であり奥野の協力者だった。娘夏生
(なつみ)は嫁いでいたし、弟春生(はるき)は手助けにならない。母や父の手助けを自分で気づいて買って出るタチでは、まるでない。頼まれても気軽には腰
をあげない。頼む気も挫け、当然頼んでいいことでも、親は自分でしてしまう。春生の当然すべきことも、見かねて、部屋の掃除も洗濯も支払いも親がしてき
た。頼まれて、してきた。子供は承知の上で付け入ってくる。二十六でも七でも八になっても、中学生なみの顔を平気でしていた。親もわるい。奥野は、ただた
だ子供のことを種にのみ藤子ともいさかった。時につよくいさかった。情けなかった。
「何かの折り」に必要だよと、言葉たくみに春生は自分の遊び用に、ガレージを、狭い庭をなお狭く削って親につくらせた。車は「おじいちゃん」にいくらか助
けてもらい自前で買った。だが「必要な折り」に、ハイハイ、お安い御用と気持ちよく年寄りや親の役に立ってくれたことは、めったにない。もっと早くに言っ
てよとか、予定があるんだと、当然の顔をして頼みを断る。そのくせ突然のアッシー君を演じるためなどに、自動車は深夜にもいとも気軽に車庫を出入りした。
あげく、間際になって二度も婚約を女側から破棄されていた。
親は、すべて、眺めてきた。眺めてばかりおれず、時には声をあらげた。そんなとき、「出てってもいいんだよ」と、春生ほど気の優しい息子の口からも、そ
れが出た。瞬時に妻の健康・老人の病状が、自身の気の弱り・体力の衰えなどが、喉もとにつかえた。呆然として、息子の、こころもちにやついた顔をみてい
た。「自立」の一語は、そんなふうに親子のまんなかに、うす汚れた怪物の像かのように、もう何年も何年も、そうだ、そうだ…夏生が結婚の以前から、もう、
奥野家のいたるところに突っ立っていたのだ。
たしかに、奥野が妻と言い争ってきた種の、九分九厘は「子供のこと」だった。種を播くのは姉が多い弟が多いということはなかった。どっちもどっちだっ
た。しかも、そういう夫婦の争いを他所事(よそごと)のように知らぬ顔のたとえば春生(はるき)の口から、
「父さんと母さん、しっくりいってないんじゃないの」などと批評をされるのが、ばかばかしく情けなかった。我慢ならなかった。子供なんぞ居なけりゃ、どん
なにいつも仲のいい夫婦だろう…と本気で思う。そう思いつつ、奥野は子供が可愛い。わがことより先ず日々に子供のうえを祈らずにおれない。たまたま海外な
どへ仕事や遊びで出掛けられると、春生が家を出てから帰宅のその時まで、奥野という父親は、ひまさえあれば仏典などを心こめて読誦しつづけていないと心落
ちつかない親馬鹿だった。
奥野は「父の日」というのが何月何日かも覚えない。だが、もう二十何年か、ずうっと仕事机をおいたすぐ脇の鴨居に、幼稚園でか、遅くも小学校へあがって
まもなく春生が教室でつくってきた「プレゼント」を、ピンでとめ、思い屈するつど目をむけてきた。青いやや厚手の表紙の、中に、白い画紙が二つ折りになっ
ている。表紙をあけたその青い裏側には、お世辞にも字のうまいといえない春生にしては、太いボールペンのしっかり整った字で縦に、高く、「お父さんへ」と
先ず書き、やや間隔を開いて中央二行に、「いつでも日の出づる人に なっていて下さい。」とあり、またややあけた左下に「春生(はるき)」と署名してい
た。誕生後すぐ病院事務へ届けた父親の目のまえで、事務員が姉夏生の次ぎの「次女ですね」と、いともあっさり女の子にしてしまいかけた名前が、デンと、い
つも好もしく目に入り、この「プレゼント」は奥野の一の宝物でありつづけた。
左の白い紙のほうには、これは鉛筆らしい、上へ横書きに「おねがい」と書いてある。赤鉛筆で下に波線が添えてある。そして真ん中に縦一行、「長生きして
下さい」と書いてある。青と白との見開きのまま、奥野の仕事部屋に変わらぬ位置を占めた春生の「メッセージ」は、言わず語らず父親の日々を支えてきた。支
持してくれた。その後ほぼ二十余年の春生のいろんな行状、必ずしも芳しからぬ行状とそれとは、優にバランスがとれていて、いや、まだまだ「いつでも日の出
づる人に」と呼びかけてくれる息子の声は、より嬉しく光放っていた。どうしてこんな言葉を書いたのだろう…と、想うだに、素直に奥野は励まされてきた。
幼稚園へも小学校へも、奥野さんちのハルちゃんは、忘れ物の名人だった。教室の机の奥にむちゃくちゃに物の押込んであるのが参観のつど、うしろから「見
えてるのよ」と母親は苦笑した。だいいち、そんな日春生は先生のほうを向いてなかった。母親たちの方へ後ろ向きにすわり、いろんな顔をしてみせたり、愛想
よく立って手を振ったりした。ご近所のおばさんらに、家の内のことを、有ること無いこと「それは面白くきかせてくれるの」と笑われた。近所の女の子にはほ
とんどアホウ扱いされていた。幼稚園、小学校からつぎつぎに幼い恋をし、お嫁さんにするのお婿さんに行きたいのと熱中し、あっさり失恋してきた。顰蹙も買
い、苦情すらきた。おれの子だもんなぁ…。奥野らは、わらって見ていた。いつも息子の味方だった。
春生は、ことに小学校と相性がよくなかった。
「いま思うと、いじめられっ子だったのね」と母親は苦笑いする。
五年六年ごろの担任と反発しあい、担任の指名で教壇に立たされ、教室中から非難の吊し上げをくう場面もあったとか。学校を抜け出て、いつ知れず家のテラ
スの隅にうずくまっているのを母親が見付けたこともある。さすがに奥野夫婦は黙っていられず、娘ほどの若い女先生に事情を聞きにいった。苦情を申しにいっ
た。恐縮のフリもみせない担任をどうつついてみたところで、解決したことは何もなく、意気悄沈の春生をしいて誘って、奥野は日光中禅寺湖まで一泊旅行もし
た。足漕ぎの二人乗りの船で湖心へ出たり、レンタサイクルで湖のまわりを疾走したり、裏見の滝まで真夏日を容赦なく浴びて歩いたりしてきた。船でとった写
真をいま見ても、これが春生かと思うようなちからない表情で、女の子のように撮れていた。よっぽどあの頃春生はヘコんでいた。
姉の方は、学習塾へ一度も通わなかった。奥野も勧めなかった。が、春生は自分で望んで代々木辺の進学塾に通いはじめた。小学校仲間とまたしてもいっしょ
になる地元中学を嫌ったのだ、見返したかったのだろう、だが一の理由は、そんな日常からの脱出か、たぶん逃避だったろう。そういう反抗がまた若い担任の気
に入らなかった。早稲田中学に通いだしてのちも、何度かあったらしいクラス会に、春生はたった一度も誘ってもらえなかった。どこからも声一つかからなかっ
た。どっちもどっちか…と奥野はわが身も省みた。
感心するほど進学塾へ春生は精勤した。居心地もよかったらしく、のちのちアルバイトでその塾の手伝いまでした。いつだったか藤子はその塾の若い先生か
ら、
「奥野クンは、あれはおもしろい子ですよ。おめず臆せず、聞きたいことは大きな声でみんなの前で質問します。わらわれてもビクともしませんよ。あれでいい
んです」と、へんな褒められ方をしてきた。
「それでもあの子、やっぱり、塾でも喧嘩してきましたよ。まっさらの服を着せてだしたのに、帰ってきたら、ボタンはない、袖はやぶれ…」と藤子はおぼえて
いた。顔や腕にけがして帰ったこともあった。学校でもあった。勉強部屋に、奥野も読んだことのない『葉隠』から激した言葉を大きく書きぬき、天井から吊し
ていたのもその時分だった。日本史を読み初め、奥野が書下ろしの校正ゲラから間違いを発見してくれたりしたのも、ウソのようだが、その時分だった。
父親から嗾(そそのか)し、父と息子とはよく相撲もとった。いつもそばに母娘の猫二匹がいとも静かにいた。ネコとノコ(=ネコの子)とは、春生(はる
き)を気のおけない、きょうだいみたいにあしらった。家中がネコとノコをしんそこ愛していた。家中が大声で口いさかいを始めると、猫の母娘たちは黙ってす
こし遠のいた。それがクスリとおかしく、言い争いをやめたりした。
「春生の、日進って言ったっけ、塾…。代々木だったね」と奥野はポツンと口を開いた。息子が自立の「シャトゥ」からの帰りだ。
「お茶の水よ」と妻の返事は手短か。タクシーの外はいつか雨もこやみになっていた。
「そうだったかねぇ…。どっちにしても街のまんなかだ。ああいう都心に、春生(はるき)は夏生(なつみ)とちがい、ずいぶん小っちゃい頃から定期券つかっ
て出てったんだなぁ。あれって、のちのちまで彼に影響したね。街なかを漂い歩いてるほうが、気持ちがらくだったんだね、彼は。早中に入ってからはもう、
ひっきりなし、すつかり彼は都会ッ子になった。帰りも遅くなる一方…」
「小学校のときにはね、でも…春生、あたしに、しみじみ言ったわよ。どこよりも、この家のなかにいるのが大好きだよお母さんッて」
「家を嫌ったって言うんじゃないんだよ。それに、低学年のころとってもよくしてくれた女先生にも出逢ってたしサ。でもあの子にゃ、家のある<地元
>が鬱陶しかったんだ。それよか<街>にいるほうが、開放感があったんだ、当然だけどね。自由だもんね。あれは、しかし、一種生得の、
また、秘密主義の満足であった…とも思うな」
「えッ。秘密主義ッて」
「秘密好きかナ。街の暮らしは親にも姉にも知られない。ひとに知られない部分をもちたがるところ、彼、ちいさい時からあったじゃないか」
「そう…ね。いっしょに駅までお出かけしても、あの子、いっつも自分はずっと前の方か、ずっと後ろの方かに離れてて、ひょいと隠れひょいと隠れしながらつ
いて来るのよね。そうかと思うと、あたしたちとは別の道を通って、どこへ行ったかと時間なんか気にしてると、もう、先に駅に着いてたりして」
「要するに、親とでも、いや親とだからなおさらか…いっしょに同じようにはしたくないんだ。隠せるかぎり、自分のことは話さないでいたい…。夏生(なつ
み)もそうだったけど、春生(はるき)は度が過ぎるくらい。だれと、いつ、どこで、なにをって…。言うと損のように、言わない」
「言うと何かお返しに言われるのが、いやなんでしょ」
「………」
奥野にその覚えは、あった。
――子供たちの激しい反抗期が、大波の寄せては引き、また寄せ来るようにやって来た。奥野家は荒れの季節に真っ向襲われた。弟だけでなかった。姉の夏生
も女子高のうちはよかったが、女子大に進み、学外で戸川一馬らの「瞑想」グループに触れ合って、一変した。口汚くなり、頭(ず)が高くなり、泣きわめい
た。結婚までに、幾荒れもあった。結婚してからも、落ち着いたいい大人になったとは、とても只一度も見えなかった。弟は、だいたい姉を見習ったかのよう
に、すこしずつ時期をずれて、親をうるさがった。親も、意図して、うるさくした。うるさくさえしなかったら、彼らは、自分の日々をよく律していただろう
か。信じてやりたいが、そういう意味では信じきれなかった。娘も息子もタガが外れていた。手を貸してなければ、どう細工は良くても樽はばらばらに壊れてし
まう。
それでも、担任をはじめ、親以外はだれ一人信じなかった難関の私立中学を、春生は一気にパスしてきた。夏生もそうだった。塾へ通わず、中学でこそ失敗し
た国立校へ、条件のもっと厳しい高校受験できちっと受かってきた。「夏生さんはもともとよく出来ましたもの。ハルちゃんにはびっくりしました…」などと言
われたが、奥野にすれば春生にそれしき不可能なわけないじゃないかと、担任は嗤って勧めない受験願書を、当然のように早稲田に出させた。賭けだなどとちっ
とも思わなかった。春生は小学校で『モンテ・クリスト伯』を読み切っていたし、ツルゲーネフの『初恋』も漱石の『こころ』も読んでいた。感想を聞いても平
衡を得ていた。『ゲド戦記』の感想文を機会があって市販の「思想」誌に書かせてみたときも、ル・グインの名作を、学校ではあいかわらず忘れ物の名人であり
ながら、ほぼ大過なくよく読み取っていた。奥野はそういう息子を、ただ甘い父親の目でだけ見ていたのではなかった。「壁だからな。当たってこい」と挑発も
した。できるだけ息子との時間ももった。キャッチボールも、春生からの返球がこわいほど速くなるまでは、よく付き合った。付き合ってもらった。ふたりで長
い旅行もした。皮膚や鼻のよわい春生の医者通いに、自転車に乗せて通いつづけた。表通りへ出会いがしらに車にハネられた時も、一日も欠かさず自転車で隣町
の病院に見舞った。
同じことは、夏生(なつみ)とも先にした。初めての子で、弟より七つ半も年かさなだけ、親子としての機会はより多かった。だれの目にも夏生はパパっ子
だった。だが、ああいう歳月も、親はうるさいと思わせるだけ…のこと、だったのか…。
奥野の育ての親も、口うるさかった。どんなにうるさかったにしても、だが、それが何ごとであったとも考えたことはない。うるさくしてもらえて、よかっ
た。うるさくしてやれて、よかった…と思うのは、親として間違っているのだろうか。子供が「うるさい親だ」と一度言えば、親は、よくないことをして来たこ
とになるのか。「うるさくされる」種はたいてい子供がわがままに播いていて、それを当然の顔をし居直って、さもしたり顔に親を非難している例が多いと思
う。勝手なのはたいてい子供だ、そう奥野は思う。
春生(はるき)の場合は、早稲田中学に入学してからが、むしろ、困った。
いや困ったと思ったのは親だけで、当人はのんびりしたものだった。高校へは居なりで進めた学校だし、勉強は高校からと思い決めていたらしく、学校の方針
であるらしくもあった。結果は高校三年でぐんぐん成績をのばし、大学へも「推薦」された。早稲田の法科だもん、文句なかろうという勢いだった。奥野は、そ
んな息子の満足ぶりも不安だった。
中学でフェンシングをやりかけ、喘息気味で、やがてやめた。剣も面も気前よくだれかに売り払った。春生はかわりにクラシック・ギターをはじめて、高校を
卒業まで関東ギター連盟とやらの広範囲な交際と合同演奏会活動に明け暮れていた。男子校へ通いながら、連日連夜の長電話の相手は例外く他校の女の子だっ
た。
大学に入ると、「一年で喋ってやる」はずだったスペイン語の単位にホトホトてこずり、卒業さえ危いほど閉口した。息巻いていた司法試験など、学習塾へ学
費だけ注ぎこみ、半年で投げ出している。ちょっと齧って続かないところ、英会話、ピアノ、バグワン、バドミントン、弓道、茶の研究、漆の研究など姉ほどで
なかったが、やはり弟も似ていた。母親似だった。父親には似なかった。
あれこれたとえ手を出したくても出しようのない家で奥野は育った。ただで伯母に習えた茶の湯は、だからと言うではないが、それで食って行こうと思えば可
能なほど奥野は身につけた。独り学びの短歌も、歌集を編むほど手に入れてから小説へ河岸をかえた。金のかかることに手は出なかった、出せなかった。
春生(はるき)のも夏生(なつみ)のも、学校の部活動と称する広範囲な交遊の渦巻は、親の暮らしまで巻き込み、家に一台の電話が、夜分あいていることは
稀だった。帰宅時間も、これで中学生かと思うほど春生のはケタはずれて遅かった。高校までは早く帰っていた夏生も、大学の後半は十一時十二時がザラで、奥
野はよく田畑路を縫って自転車で駅へ迎えにいった。来てくれと言われなくても行った。駅で待ちくたびれ、真冬の寒さにたえかねて家に帰ると、やがて電話が
かかって、またまた走った。連絡なく遅いこともあり、春生など連絡する気がまるでない、家を出たが最後行方も知れぬ「遊び人」だった。小学校時代の半ばか
ら、ずうっとずうっとそれが続いた。「おもしろいハルちゃん」ではあるが、親は気楽に面白がってられなかった。
あるとき藤子は向かいのお年寄りに耳打ちされた。奥野らが旅行中、春生が女の子を家へ呼んでいたらしい。どの女の子か親にも見当がついた。奥野の久しい
読者の娘だった。二つほど春生より幼くて、しっかりした子だ。母親が離婚して家を出ており、離婚理由のひとつに信仰が絡んでいた。父親はいっこくな人で、
酒に負けやすい。少女は父親に連れられ奥野の家へもよく遊びにきたし、おとなしい優しい顔だちを奥野らも愛していた。春生とは、たぶん高校の文化祭に誘っ
たような機会から二人の交際が始まったらしく、口ぶりでは、
「可哀相なんだよ、ミサキは」という調子だった。
離婚した親たちの子というのがことのほか春生にうったえるらしく、「ミサキ」よりまえにも、やはり奥野の読者だった木野という離婚夫婦の娘道子に同情
し、妹のように親しんでいたことがあった。その子のほうは、だが、あんまり男まさりに活発で、弁も頭の回転も春生をしのぐ勢いだった。感傷的に付き合って
などいられない相手であった。それに親の離婚後も、その双方と奥野らは仲よく往来していたし、まだまだ春生も道子も幼かった。
だが問題の「ミサキ」とは、小学校五年か六年生の頃に初めて顔をあわせ、春生が大学に入った頃まで続いていた。奥野の家は西武池袋線で駅の数で十ちかい
郊外に在り、ミサキの家は池上線の中ほどにあった。デートのあと必ず向うの家まで送って行くのが春生の作法らしく、優しいともしつこいとも、いいときはい
いが、わるくとられても仕方ない恋をするタチだ。男は、だれでもそうだ、大なり小なりは。あげく親の留守に家に連れてきて、何をしでかしたかと思うと、発
光塗料のちいさな銀の星を、柾目の天井板いちめんに二人して貼りつけた。その余は分からなかった。聞かなかった――。
「ほだし」というほどの言葉で、奥野が、家族を、重く、重苦しく感じはじめたのは、思えば遠い。そんなこと、あまりにもありふれていると分かっていて、だ
がその持ち重りのきつさに奥野はともすれば負けた。
ただ、「ほだし」のなかに、妻は、藤子のことは、ふしぎなほど含めていなかった。藤子はかけがえなかった。ああそれでも子供のことでは、何度も何度もと
だえなく言い争った。果てしなかった。いまでも、だ。
いまでもだ…。奥野は拳で己が掌をバシッと打った。運転手までビクっとした。構わず打った拳を爪がたつほど奥野は掌でつかんでいた。力任せに揺さぶって
やめられなかった。横から、藤子が手を手に添え、夫の掌を拳ごとだまって引き取った。土砂降りの目白で乗ったタクシーはすっかり雨の上がったもう「地元」
に近づいているらしく、暗い暗い晩だった。びっくりするほど肩先をこわばらせていた自分に、奥野は苦い笑みを噛みころし、手は、妻に、じっと預けていた
――。
「二た月経ったね、…あの、雨の日から。あした…初日…。入りの心配は、ま、無いらしいが、いろいろと…有ったねえ」
「ええ。どんなお芝居を見せてくれますかしらね」
「ま…、ここまで来たら、どうか五日間、怪我や事故のないよう祈りたいね」
「ほんとよぅ」
藤子も、さっきから奥野のわきに腰掛けていた。真向きに、書庫の正面がおおきなガラス越しの棚に造ってあり、二尺の観音像の左右を、兜鉢と錦手の花瓶と
で飾ってある。書庫のわきはあの愛おしかったネコとノコとの墓場で、南天と、ひいらぎ南天の木叢とが覆っている。
「おれ…、大学を退いたことさえ忘れっちまったよ」と奥野はわれながら呆れた声をあげて、ノビをした。
玄関でチャイムが鳴り、はぁいと出てゆく藤子のうしろから、奥野は自分の仕事部屋へ入って行った。
「京都から筍よ。今晩はきまりね、これで」と藤子の声が廊下を向こうへ歩いて行った。
三
「戸川君の手紙のこと、春生(はるき)に話したのかい」
早速アクを抜いて、到来物を筍飯にしワカメとも煮付けて、この季節奥野の家では心はずむ定番の夕餉だった。筍は京で馴染みの鮓の「ひさご」がよく吟味し
て送ってきてくれる。待ちきれず片口の酒を、柔らかに刻んで鰹節でまぶした筍皮を肴に独りやりながら、流しもとに立った妻の背中へ、奥野は尋ねた。藤子は
背中のまま首をよこに振った。向こうの棚で唐銅の筒に水仙がひとつかみ咲いている。
春生が、会社勤めと芝居の稽古と、そればかりか切符売りにも苦心惨憺なのは目に見えていた。話すほどのことでなく、話せば、だが春生にも感慨があるだろ
う。戸川一馬と姉夏生(なつみ)には、幼い日に春生も揺さぶられている。七つ半もちいさいうえ、高飛車な姉に言い負かされて、弟は体よくひきまわされてい
た。
「あれぁ、いつだったっけ…」
「あれって…」と藤子は向こうむきに、しきりに手を動かしていた。
「ほら、夏生と春生とで行ったじゃないか、おじいちゃんちへサ」
「あれね。…あれはねぇ……」と濡れた手のまま妻は振り向き、「ちょっとビックリだったわね。ああいうことをする夏生だとは、あれ以前は思ったことなかっ
たのよね。……」
京都の祖父母の家へ大学生の姉と中学生の弟で遊びに行くという、夏休みとはいえ、いま思えば少々出来すぎの計画がにわかに立って、弟は姉に連れられ出か
けて行った。東京駅まで行ってみると、同じ新幹線のホームで戸川一馬が待っていて、春生ははみ出しものになった。座席も離されたそうで、京都でさよならの
アテも外れ、あたりまえの顔で戸川も京都駅でおりた。
それからどういう具合になったものか、奥野らも思い出せないほど過去完了の事件ではあったが、とにかく戸川が同行の京都行きだった話はあとで聞いた。な
んとも言えず親はいまいましい気がした。
戸川は何処へ泊まったのか、翌日も大学生二人に春生はおまけの、はなはだ当て所ない京見物だった。弟は中学一、二年、「あんなことをするナツミたぁ、
思ってもなかったぜぃ」と後々まで辟易した。
弟は、いちど批判し始めると年嵩の姉にも辛辣だった。呑んでかかって、「もてないもんで、やたら安売りをしやがる」などと聞きにくいことも生意気に言っ
た。高校大学へすすむにつれ自分は女には絶対自信があるとさえ春生は父親に向かっても言った。
あまり聞きにくさに、「その調子じゃお前、遊び相手はできても、本気で相手にしてくれる人と出会うのはむずかしいぜ」と奥野は危ぶんだ。
会社勤めが始まっても、「選りどり見どりだよ」と息子はよく豪語した。こりゃ危ないと奥野は思った。その場限りのちやほやと、結婚していい相手とはちが
うんだ、女の子には特にちがうんだ。
「あいつ、結婚できないよ、なかなか」と、奥野は妻に危惧を隠さなかった。
「そんなこと言わないでよ」と藤子はいやがった、「あなたが言うと当たっちゃうって、夏生も、よくヘキエキしてたのよ…」
大好きな筍飯を三膳もおかわりし、奥野は、もくもくと箸をつかった。奥野の危惧は、現に半ば当たっていた。半ばはずれたようでいて、それが難儀に、また
問題含みだった――。
春生は早稲田を卒業すると、内定していたクレジットカードの大手会社に入った。奥野は、「カード」の将来に、長短とりまぜて関心があった。早くから使っ
てきた。藤子にも家族カードをもたせ、小遣いがわりに自由にさせていた。赤貧というしかない新婚の頃から、僅かでも奥野は藤子に小遣いをもたせた。へそく
り出来るならそれも甲斐性と認めてきた。自分がカードを使うなら妻にもと、あたりまえの話だったし、春生がカード会社に就職するのも金融新時代のおもしろ
い選択だと思った。カード会社が、一種の高利貸し業務を含んでいるのも承知だった。カードで破産し自己崩壊して行く人の多いのも知っていた。それもこれも
人によるので、「やくざな企業だと思う人もいるだろうけど」気にするなと息子にも妻にも言い、銀行勤めより面白いんじゃないかと、奥野は賛成だった。
「便利」ってヤツが怖いんだよと言いつつ、便利に奥野はカードを使ってきた。高利の金を借りたりしないし、分割払いもしない。芝居の切符をたまにカードで
注文したが、芝居はいい席で見たいので、よくよくでないとカード会社には任せない。
聴いてなるほどと知ったが、春生の会社はカードで扱って収益の見込める興行を、大劇場とかぎらず、小芝居やアングラものも、また映画も寄席も音楽会も、
どんな興行ものでもたえず目配りし、チケット販売を扱うかどうか、扱って欲しがっているかどうか、絶えず情報を拾っていた。情報を探って拾って歩く役につ
いた、春生は先ず。カード扱いを持ち掛けても持ち掛けられても、とにかく日ごと映画や、芝居や、興行ものの担当者に会ったり、また実地に見たり、聴いたり
してまわる部署にいきなり配置された、らしいのだ。なんとケッコウ…な。
春生を、歌舞伎や能狂言や新劇を観につれ出したことは、小学校いらい何度もあった。だが、いつも寝てしまい、観せがいの無い子だった。当代の福助が、ま
だまえの児太郎で人気をとりはじめていた頃、「きれいだね」と感想をもらしたのが唯一例外で、芝居よりは映画や音楽が好きだった。年齢なみの好みだった。
就職後の「残業」の多いこと、帰宅の遅いことは、目をむくほどだった。映画、音楽会、芝居、ときには美術展へも通い、いっぱし通ぶった顔も家でしはじめ
た。
「けっこうな商売じゃのう」と奥野はあきれ顔だったが、ジャズだの中島みゆきだの、どこまで商売でどこから彼ひとりの趣味であるのか分からない。親たちの
日々とはべつに自分の世間を、繭を肥やすように春生はあれで養っていたわけで、咎める筋はなにもなかった。
そしてそんな日々から、ただ趣味でも勤務上の付き合いでもない、春生自身が、どうやら「代筆」からはじまり、いつか、自分で戯曲を上演用に書き始めるよ
うなことになっていった。劇作と演出でひろく名も力も知られたつたひできの、春生はいつのまにかいわば子飼いの弟子なみに集団に加えられ、都内「K区」の
街起こし運動体にもいつ知れず参加したと同じ渦のなかの一人になっていた。それとて、もとは勤務上の「企画」の折衝に「つた事務所」へ踏み込んだのが端緒
だった。
めったになく、つたひできが、その日、そこにいた。どう見込まれたか、初対面のその折り唐突に、
「おまえ、いっちょう書いてみるか」と水を向けられ、「はい、やります」と春生は即答したという。彼には、やはり運命だった。運命に春生は身を投げた。よ
かったかわるかったかなど、まだ何も判断できる力量でも現状でもないが、関西版の短いテレビドラマを一本書き、一度は芝居の台本を書いて自分で演出した。
劇場へ客を集めた。かなりの客を集めた。「K区」という自治体や「つたひでき事務所」という人気劇作家の名を冠した公演で、お膳立ても後ろ盾もあってのデ
ビューだ。同年輩、こころもち先輩格のもう一人と、同じ日に、一時間ずつの舞台をさも競演のていで、そうだった、売り出してもらったのだ。
劇場は浅草橋の駅近く、対岸の両国は春場所中だった。初日とラクに奥野は夫婦で劇場に通った。なにが飛び出すのやら、春生の芝居は、題をみても見当がつ
かず、舞台を見てもややこしかった。発想が突飛だった。過去に問題をもった男が駅のプラットホームの下に住み着いていて、故意に、また誤って線路へ落ちて
くる人間を助ける…。なんだ、こりゃ…。
それでも妙に一安心、それなりの一と幕に成ってはいた。場面は混雑し、甘い演説もあった。だが作意は分かったし、演出に工夫もあった。一時間、見ていら
れた。こんなことをしていたのか、春生(はるき)は。こんなこと考えていたのか、春生は。いつのまに…と、奥野も思い藤子も思った。驚いた。何席分も券を
買い、見てやってくれませんかと知人に配った。まだ勤務していた大学でも学生や事務員たちに配った。もう一人の作と、どっちもどっち。ふぅん…、いまどき
の若い演劇とはかく賑やかに騒々しく演じられるのかと、千秋楽のあと、夫婦は一駅隅田川を渡ってちゃんこ鍋を「巴潟」大寄せの二階でつつきながら、そこそ
こ興奮した。
処女公演が、仲間内でどう受けとられたか、奥野らは聞いていない。だが同じ「つた事務所」が、その歳末の幕開き予定で、所属している戯曲研究会メンバー
の「作・演出」舞台を、やはり二人一組の「バトル」で明年十二月までに六組、その優劣で半数六人を研究会から整理するという「新作家勝ち残り公演」を企
画、公表した。春生は翌る年の師走、つまり最終組のトリに新人女性と組み合わされ、同じ浅草橋の劇場で演目ももう決まっていた。十二人の書下ろし戯曲が一
冊の本になり、やがて市販された。最初の組は、サバイバル上演にもう懸命に備えていただろう。
「この奥野春生(はるき)って人、先生の息子さんだって…、ホントですか」と、パンフレットを手に大学のキャンパスで奥野を呼びとめる学生もいた。
「ぼくも演劇がやりたいんです」と、つたひできの間近にいられる春生の名を、その学生はきまじめに羨んでいた。
当然春生も来年の師走公演へ、ひたすら知恵を絞ることかと眺めていた。
「いえいえ。そうは間をあけてらんないよ。その前に自主公演を一つやります」と春生は言いだし、はたで危ぶんでも、聴く気がない。巣鴨駅前の劇場ももう予
約し、本気で公演のスタッフを組みはじめたのは、前の舞台から半年とたたない梅雨時分だった。
(…そんなことをやってのける、どんな力がある気だろう。)
春生は、だが、委細かまわず見切り発車でことを運び、楽屋裏は奥野らには覗けもしない。台本…、まだ出来てないよと聞いて、心配してやるのもばからしく
なった。盲滅法なんだわ…、そうとしか想えなかった。集める役者はたとえ素人なみでも、舞台監督だけは頭を下げても手に入った経験者を頼まねばならない。
演出意図を、具体的に実現し、舞台をきっちり回して行くのは舞台監督だ、客席で見ているだけでは気もつかないが、道具の出し入れも、音楽音響も、照明も、
段取りという段取りはみな舞台監督の手にある。報酬はしっかり用意しなければならず、現にしっかり春生は要求されていた。否も応もなかった。
役者も、奥野春生の「自主」公演と表に出た以上、つた劇団事務所とはべつの畑から、それも手弁当なみのを探さねばならない。資金は乏しく、入場券で回収
できたにしても、赤字ははなから免れない。それも一日二日でない、五日間に六ステージもやるという。師匠のつたひできに真っ当な挨拶など、オチなくあの不
精者の春生にできているのだろうか。奥野も藤子も親馬鹿をまる出しに、思い上がった暴走に終わらないようはらはらするが、春生は耳も貸すふうでなかった。
あげく目白の城(シャトウ)に「自立」します…と、唐突に。二十八になって、まだ親の家で面倒を見てもらっているのは、「ちょっとハズカシイしね」と苦
笑いめかして言うが、知れた話で、これまでは親が言ってもまるで知らん顔を決めていたのに。
「だれかに、よっぽど、言われたんだろぅよ」と、奥野は推量し、妻は黙然。
だれが言ったか、だれだって言うことだろうが、「会社勤めもやめてしまえ、二の矢をアテにしてやれるこの世間ではない」と、師匠や事務所筋からも春生は
一度ならず、すこしキツク言われているらしい。大問題であり、似た道を幾昔もまえに通ってきた奥野であっても、この辺は慎重に口を利かずにおれない。水の
流れと人の身の上、息子の未来まで奥野が抱えこむハメになりかねない、それは……、そういうことには、なって欲しくない。
目白に、マンションの部屋を借りたんだと、例によって、事前の話はぜんぶ省いた春生流だった。
「そうか…」と、ほかにグの音も出ない、出しようのない段取りで、いっそ両親は気らくだった。会社へ通勤の脚は半分以下に短くなり、どこを借りどんな稽古
をしているのか見当もつかないが、連夜の疲労がすこしでもはやく回復するのなら、親の家からさして遠いと言えない目白辺で息子が暮らすのは、「いろんな点
で」理にかなっていた。ただ「いろんな点」という、そこにアヤがあって、春生は「関係ない」と断言していたけれど、「自立」を言い出した最初から、
「きっと、そうなる」と奥野の予言していたことが、引っ越してやがて、掌をさすように事実となる――。「お父さんの予言ってみな当たるんですもの…。イ
ヤぁね」と藤子は言葉尻を低くした。
お構いなく…と、二月二十五日に自分の車とレンタカーに荷物を積み、一台は会社の先輩に運転してもらって、あっけなく春生は大泉の家の隣棟から目白の
「城」へと、小一時間もかけずに引っ越していった。
――隔ての垣根を取り払い、庭をすこし削った隣り敷地に春生(はるき)は車を入れていた。
主人夫婦が相次いで亡くなった隣家を、遺児たちの急な希望もあり、奥野は買った。願ってもない、三人の老人を京都に置いた奥野家にも渡りに舟で。波を煽
るようにあれがありこれがあり、あげく隣家の荷物が送り出された翌日には京都から引っ越しの荷物がどっと届いた。喉へ棒を呑んだ心地で、奥野夫婦は育ての
父と母を精一杯の用意で隣家へ、叔母は自宅の二階をあけて迎え入れた。三人とも卒寿に前後し、幸い身動きにそう不自由なかった。
そんな祖父母らへ日頃の目配りを兼ね、隣棟の二階へ、二部屋と物置とを与えて春生を入れた。柾目の天井板を銀紙の星空にかえた六畳には兄夫婦と諍いの絶
えない叔母を入れて春生は先ずは隣家へ親の目から「自立」したのだった。数年の内に祖父は死に、祖母も家で転んで骨折入院のあとは養護施設に移って、春生
は家一軒をほぼ独り占めに、食事と風呂と大便だけに親に顔を見せにきた。洗濯代と専用の電話代のみ負担し、その余はなにもかも親がかりで、給料をいくらか
割いて母親に貯金してもらう約束も反古にした。祖父母のつかった浴室やシャワーはイヤがり、便所は使っていたが、それもよく親の方へ来て用を足していた。
二階の二部屋は、よくもよくもと呆れるほど乱雑をきわめ、ジャズのCDが洪水のように棚から溢れ、マンガ雑誌や週刊誌やハウツーものの本が、またミステ
リーの文庫本がどさどさと書棚にも床にも山になっていた――。
目白に「自立」籠城とはいえ、そんな大方がそっくり隣棟二階に取り残され、部屋は占拠のまま、必要なものは取りに帰るというわけだ。
三月一日の晩、春生は着替えを取りに帰って来た。
やがて七日夕方には、池袋へ両親を食事に招いた。「美濃吉」はむかし奥野の育った家の近所にあった。表の馬盥のような生簀に魚をぴちぴち泳がせていたの
が目にあり、佐竹吉兵衛という奥野の父と尋常小学校で机を並べた仲の西郷サンのようないつも着流しの旦那風情も覚えている。みな遠い昔ごとではありなが
ら、いま息子の奢りで東京のデパート店の暖簾を潜る気持ちはワケもなくすこし波立っていた。
春生はちょっと神妙そうに親に席をすすめたりし、奥野らは賑やかに振舞いを受けた。「自立」の巣を、その足で、さながら立ち見に行った、ひどい雨で寒
かった。だが奥野家には新しい歴史の一頁だった――。
十二日には、奥野らが結婚三十七年めを明後日にひかえ、春生を誘って日比谷のホテルで自祝した。自立も祝ってやりたかった。春生も稽古をやりくりして加
わってくれた。
「フランス料理ですか。おめでとうございます」と、スタジオから直行の思い切りラフな若い恰好も、半分がた会社づとめを抜けかけた男の、さりとてまだ似
合ってはいなかった。「もそっとその恰好、キマリませんかねえ」と父は息子を揶揄ったが、「いーの、いーの」と春生はやっぱり少し疲れていた。
同じ日、作家奥野が自力で自著を復刻再刊している『塔の本』小説の第四十四巻めが出来、玄関に山積みになっていた。むかし岩波の「世界」に連載した長い
上中下の中巻分だった。「文学の産地直送」「作家自身による出版」と褒貶も半ばしたそんな出版も、やがて十年。全国の予約読者へ荷造りして一冊一冊発送す
る作業と、六十歳定年でこの月末には大学を退官する気ぜわしさと、京都へ、もう九年めになる或る美術賞の選考に出向かねばならない用事とが込み合い、奥野
の日々はざわついていた。
そのさなか――、忘れもせぬ奥野自身のいわば「大学卒業」でもあるからと、ふと思い立ち「一教授」として大岡山の「卒業」式場に列席してきたあの日夜も
更けて、電話が鳴った。
春生だった。
奥野は仕事机に向かっていたが、藤子はとうに寝入っていた。深夜だった。
「舟島さんが、いま部屋に来ている」と言う。「家を出て来たんだよ」と春生は言う。
「………」
舟島薫なら、二度三度奥野も顔をみていた。いつ頃から隣棟の春生の部屋に来るようになっていたやら、以前、結婚したい人と連れてきて紹介され、春生も向
こうの両親に挨拶を済ませた女の子と舟島薫とは、別人だった。
以前の相手とはいまにも結婚したいと、あつあつの春生の触れ込みだった。渋る親を押し切り家出も辞さないと口にして、よく笑う娘だった。春生もエヘエヘ
と終始とろけた顔で、親に結婚の挨拶をする時ぐらい「シャンとしないか」と奥野の一喝を食った。
「選りに選って…コレだよ。春生のビョーキが、また出たよ」
「親銀行から出向の役員さんなんですって、お父さんは。絵に描いたようなサラリーマンらしいわよ」
「店ざらしのショートケーキみたいな子だナ…。よわったな」
「春生があんなに好きなんじゃ、しかたないけど…。敬意が、ちょっと…持てないのよね」 ところが、あれれと思う間に、結婚どころか、付合いも絶ってか絶
たれてか、ぜんぶ棒折れてしまった。あの娘は春生の当時同僚だった。同じ勤め先にいる重役の娘だった。春生が現在も手厚い庇護を得ているべつの重役とは、
敵役の、その娘だと。「バカかお前」と奥野はあきれた。そればかりか、社内にはその娘がかつて血道をあげて追い回した社員がいて、その彼はきれいに娘を袖
にし、望んで海外にひとり転勤した。だれ知らぬもののない評判のギャルだった。すべて承知で、だが春生は親の前につれてきて、そして惚れていた。向うも急
転回して春生にすり寄ってきたが、娘の親は、ことに母親が、反対だった。母親の反対は凄いほどと聞いた。親類も反対だった。あげく相手は会社からも退いて
しまい、万事、幕。
「またか」と呆れ、本音のところ奥野も妻も気乗りしてなかったので、いっそよかったと思っていた。思ってはいたけれど、それにしても間際までいって腰砕け
に結婚の約束が向うから流れて行くのは、気色のいい話ではなかった。
もっと気色のわるいのは、「次ぎ」の登場のバカに早いことだった。間髪を入れぬ早業でべつの女の子が代わって春生の部屋に姿をみせ、やがて「大事に思う
人である」旨告げられ、紹介された。舟島薫サン…。まったく新人だった。紹介があったただ一度だけ女の子は奥野らのいる家に玄関から上がって来、四人で顔
を合わした。その子に姉が一人いて、奥野夫婦のと同じ京都の大学へ下宿から通っているという。弟もあるらしい、だが、親のことは何も話さない。どんな話題
らなっても春生がガードし、前もって「質問はやめて」と釘も刺されていた。奥野は腐った。
会ってみれば、変わった娘だった。
藤子は何度か顔を合わしていたが、めったに向うは口を利かない。家への出入りにやむをえない時だけ、長い髪の頭をかすかに傾ける。お辞儀でもない。時に
は反っくり返って見え、顔をすっとそむける。長身で、見るから陰気な、だがたいした美人であった。早稲田の二年生、二部の文学部だそうだが、大学をやめた
いとか休学したいとか言っている。家は西池袋にあり、春生の引っ越し先からだと、歩いて十分ほどの距離らしい。
その舟島薫が、親と大衝突のあげく家出をし、深夜一散に春生のマンションへ「転がりこんで」来た。突然の、そういう電話だ。
薫が両親とうまくいってない話は聞いていた。同年齢の大学生としっかり付き合ってきた奥野教授には珍しくない話で、それしきで夜更けて男の一人住まいに
転がりこむものかどうか。女の友達、あるいは親類、それとも金はかかるが安心な宿をせめて一晩見つけるぐらい、そう難しい池袋界隈ではない、かりにも都心
のうちだ。
春生は言を切にし「やむをえない」ことを父親に説いた。薫の両親を「言語道断な生き物」めいて罵り、いかに彼女が「かわいそうな」身の上であるかを電話
の向こうで熱っぽく喋りつづけた。
「だからサ」と、春生は、「父さんらに黙って」泊まらせるわけでない、こうやって「伝えておく」という口調になった。「こうなるために目白に越して来たわ
けではないんだからね」と、語るに落ちた言いわけも何度もくりかえし、薫は「精神」を病んでいて、そっちの医者にかかっているが、これ以上親たちの家には
とてもいられない。天下に、安心して心を憩わせられる場所は「おれのところ」しか無いんだから、「分かってもらいたい」と春生は言うが、簡単に「分かる」
話ではなかった。
こうなるのであろうとは、だが、想像していた。難しい予想ではなかった。まさかに大泉の奥野家へ、こんなふうには転げ込んでこれない。春生らが意図した
しないは問わないまでも、恰好の受け皿が近所に用意された。飛びこめば済んだ。絵に描いたような成り行きだ。夜の夜中に「報告」されて、奥野らが指一本動
かせるものでないのを、百も承知で、春生はただ既成事実を「報告」してきた。
「守ってやらなきゃ」と春生は二言目には言う。先方の親がいけないとも言う。どういけないのかは、口を濁した。
こんな家出の仕方の肯定されるのは、おそらく唯一つ、「インセスト(近親相姦)」の虞れある場合だけだと、奥野は電話口で舟島家について問い質したが、
父親は警察庁に勤める人だというばかりで、刑事か、警官か、事務職の人なのかも答えてもらえなかった。とにかくそんな父親と、後日春生は面談の段取りに
なっていると言う。会って何を話しあうのか、にっちもさっちも行かなくなる約束をしてくれては、奥野家は困惑する。十や十五の子供でなし、親と会ってきっ
ちり話して来べきは「舟島さん本人なんだよ」と奥野は厳しく言ってみるが、「それが出来ないんだよ」の一点張り。大学もやめるというが、退学なのか休学す
るだけなのかはっきりせず、気が乗らなくて休む罷めるというのも奥野のものの考え方とは遠かった。逸れていた。
精神を病んでいるというのも、大きなことだ。ノイローゼなのか。疾患があるのか。ただやる気なく、わがままの高じたものか。分からない。春生としては精
神病であるとは言えず、ノイローゼ程度なのだとかるく言うのも都合がわるく、要は現状を留保するためなら、出任せにちかい矛盾した撞着したことをいつまで
でも言いつづけた。
「インセスト」の危険、ほんとにあるのかと奥野は追及した。あるのなら、一刻も早く離れたほうがよい。春生は口を濁した。濁して見せるという口ぶりだっ
た。とんでもないことを息子は口走っているのではないかと、奥野は眉をひそめ、受話器にじっと耳をあてていた。
勝手にしやがれという程のものも、奥野の胸にはあった。断念もあった。それでもなお、春生(はるき)の未来を、よかれと願った。家出娘のことまでは考え
及ばない。春生は、自分はいまどうなってもいい、ただ舟島薫によかれと思いこんでいた、分かっていた。そういうものだ、恋とは。
同じ経緯をもしよそごととして聞けば、ひどいもんだと正直に直ちに思い、そういうハメに陥っていない奥野自身を感謝しただろう。ところが今息子の上にそ
れが起きた。ヒーローはヒロインのため、一身を挺している気だ。
いいではないか、やれるのなら…。
着のみ着のまま娘は衝動的に家を抜けてきたのだろう。金ももたず、必要ななにも手にせず、転がり込んできたのだろう。図太く家に戻ってあれこれ荷物にし
て持ち出すことも、薫という二十歳の娘は病的に怯えていて、ようしないに決まっていた。
――奥野も、寝床から起きてきた藤子も、あのとき、同じことを思っていた。娘の夏生(なつみ)が、親か叔父ほども年のいった、美術史の非常勤講師をつと
めていた杉本ゆたかとの同棲を、今日に明日にと考えていたような、一昔以上遠くなったあの日々、あの呻きたいような日々を。――
舟島の両親にむけた春生(はるき)の判断は、あらっぽかった。むこうの父親は調子ッ外れで、母親は救いようないバカなんだよといった調子。一方的に
「薫」は双た親の被害者で「かわいそう」と言うばかりだが、世間のたいていの事は、よかれあしかれ一概に言えたものでないのを、奥野は当然知っていた。
そこまで言うのなら、言えるだけの材料を持ってこい。
奥野は息子の弁を否定もしないが、信用もしなかった。その娘にしても、やはり、どうかしているが、いちばんアホバカを演じてきたのは春生なんだと、その
点で容赦のならぬものを父親はわが息子に感じた。感じながら苦笑していた、猿の尻わらいかなあ…と。
小さい頃から春生は、自分より強い、よく出来る、しっかりしたタチの女の子に憧れてきた。順繰りにそういう女の子を追っかけるうち、手痛く恥じしめられ
た例もあった。幼い恋には、あれでなかなか激しいものがある、奥野も覚えがある。春生(はるき)はなけなしの小遣いから舶来の飴菓子の小箱を買って、強引
に好きな子に手渡したのはいいが、親の手で家まで突っ返しにこられたこともあった。かわいそうにと知らぬふりをしていたが、春生は、菓子の箱をこっそり家
の前の草原に投げ捨てていた。痛いほど口をひき結んでいたあの横顔。奥野も母親も知っていた。辛抱だ…辛抱だよ…。
春生は、懲りなかった。三年四年生まで、何人か「鬼」のようにしっかりした女の子を追い回しては、ろくな結果にならなかった。そんな体験がトラウマ(心
の傷)になったか、根がセンチな優しい性質にも響いて、小学校の上級ころからは、逆に、両親の離婚した女の子などに「かわいそうに」と涙する少年になって
いた。ツルゲーネフの『初恋』に感動したり、『こゝろ』の「K」が哀れだと泣いたりする少年になった。
その一方教室でははみ出た暴れ者でもあった。口は達者、忘れものは相変わらず名人で、学校でも近所でも不人気の最右翼のほうへともすると孤立し、荒れ
て、また落ち込んで、学校を抜け出し帰って来ることもあった。担任の若い女先生ともガンとして折り合わなかった。評価は低く、私立中学へ、つまりは近所の
友達と顔の合わない遠い世間へ出て行きたい一心から、自発的に進学塾に通いだしていたけれど、学校の担任は、最後の最後まで、親にしても首をたてに振りた
くない中学しか春生のためには勧めてくれなかった。
「あのときだけは、春生を信じてたよ」と奥野の言うほど、父親は躊躇なく早稲田中学を受験させた。内申書をもらうのに一悶着あったが、春生はあっさり合格
してきた。
当然だよと、父は「勝利」宣言した。息子の生まれた瞬間から、いつも「命がけで」わが子を見てきた。批評し批判し、要は口も出し手も出し、構ってきた。
奥野はいつも子供たちには確信犯だった。
長所も短所も、予期したとおり年々に芽を吹き、短所のほうが繁く日常に現れた。姉夏生(なつみ)も弟春生(はるき)もその点いっしょだった。姉は姉な
り、弟は弟なりに反抗期があり、荒れた荒れた。両親が構ってくれる利点にはちゃっかり甘えながら、結果がわるいとすべて親が構ったからだと親のせいにし
た。そんな「バカ」を、えらそうに二人とも口癖にした。どう反抗されようと「バカか、お前!」が、奥野のビクともしない口癖だった。
どう構われどう口を出されようが、「十七にして親をゆる」し、親の顔は立て立て上手にやってのければつまり双方何でもない。「親のせいで自分は」と泣い
て拗ねるなど滑稽で卑怯だと、わが子ながらともすればそんなふうな夏生も春生も奥野は面とむかい軽蔑した。鼻でわらってやった。育ての親ゆえに自分はこう
だああだと、たったの一度も少年の昔の奥野は、愚痴など言わなかった。「勝手に育った」などと尊大なことも言わなかった。
俵万智という若い人にこんな短歌があり、奥野は、中の一字を虫食いにして退職まぎわに、学生たちに、また学長にも戯れに、字を入れてもらった。
親は子を育ててきたと言うけれど( )手に赤い畑のトマト
学長は「両手に赤い」と入れ、念のため知り合いでもある作者に電話で確かめましたよと笑った。明らかにカンニングだが、原作は「勝手に赤い」だ。そう答
えた学生も多かった。だが学長と同じに「両手」はもっと多く、「片手」「右手」「左手」「利手」「傷手」「軍手」などを合計すればさらに多かった。
なかに「上手に赤い畑のトマト」というのもあった。
これに、奥野は頷いた。親には好きにさせておき、つよくは逆らわない。しかも己れは己れで培う気概をもち、もの静かに美味しく「上手に」熟れてゆく「赤
いトマト」になりたい、と。原作よりいいじゃないか…。
「勝手に赤い」どころか、親の培った「畑」の意味を子はどれだけ悟れているかと、多くの学生が、そんな基本のところへ目を向け、もとの歌一首を批評し批判
していた。
うらみがましい学生も、だが、いた。親はとかく「両手」「片手」に「畑のトマト(生活)」を抱えこみ、「子供を育て」る「手」をいつも明けていてはくれ
なかったと。
奥野は声を放った、おいおい、おい…。きみら、何考えてんだよ…。
親にも、どうすることも出来なかった意味で、奥野の子育ては半ば以上失敗だったろう。だからわるい親だったとも、わるい子供たちなのだとも、もちろん奥
野は考えない。子供にものの言えるあいだはガンとして言い続けたい、が、言いなりになる道理はなく、親が子に責任をもたねばならない年齢もとうに過ぎてい
る。もう責任から、ぜんぶ、そう、ぜーんぶ解放されて当然なのだ、子のほうこそ親にむかい「新たな責任」を感じていい時機が来ているのだ。春生にしても、
「自立」というならそれが分かってなければ、意味がないと、奥野は本気も本気で考えていた。
「ちがうかい」と、突然聞かれて藤子はおおげさにびっくりしてみせた。もういいわ、食事の間ぐらい、もうちょっとマシなことを話しましょうよという藤子流
のサインだった。ああ、ああと奥野はうなづき、すこしさめてきた湯葉の椀を両手に持った。
明日は芝居の「初日」だ…と、やっぱり奥野は春生のことを考えていた。
四
舟島薫が奥野家に影をみせはじめたのは、せいぜい去年の晩秋か初冬以後のことだった。
いつものことで、春生は親に紹介する手間は平気で省いた。別棟をひとり占めしていればこそ出来たことだが、本も器械も鞄やリュックも、その中身も、なに
もかも手当たり次第に「ぶっちゃけ」た中に、ベッドだけは確かに在る男の部屋へそうっとやって来ては、べつに片付けて行くでもなく、長居して、またそうっ
と帰って行く若い女の荒い太い神経に奥野はいつも驚いてしまう。だが、そうそう驚くまでもないかなり当節の風俗であるらしいとも、学生たちと馴染みの大学
教授奥野は、いやでも知っていた。
それにしても。おそろしく無口で無愛想な、もっともへんに如才ないのもいやだが、あれくらい行儀のないのも珍しいなと奥野は内心思い、時に妻にかげ口を
叩いた。
来れば半日ぐらい、いる。ひそと音もせず、時に春生ひとりが親の方へきてお茶など飲んで戻ったりする。
「なにしてるんだ、カノジョは」と聞くと、ただただベッドで寝ていて、
「おれは仕事をしているよ」と、つくりばなしでもなさそうに言う。「疲れ果てておれんとこへ来るんだよ。おれんとこでなきゃ、気が安まらないんだ」と言
う。春生の口吻にすでに庇護者めくものが交じり、要するにそういうふうに女を「可哀相がる」のが好きな男に、春生はいつ知れずなっていた。
女を、可哀相がる――、そんなのは奥野の性分でなかった。気の毒な人であれば、よけいに素知らぬ顔でふつうに付き合い、つらいことを忘れていってもらい
たい。
春生の「可哀相がり」は、当然のこと、うまく行きはしなかった。芯のつよい子なら受け付けなかった。同情をただ受け入れるというのが、変ではないか。い
ちばん良くなかったのは、可哀相なはずの子と、いつかは結婚費用の「助け」になどと思い立ちはしおらしく、二人して始めた貯金通帳に女の子が入れると、春
生が出して使っていたことだ。賭麻雀だった。映画やマンガだった。露見し、先方の父親は激昂し、奥野は汗をかいて弁償した。
ぶち壊しだった。二人とも未熟だった。反対の賛成のというのも滑稽なほど、することが子供だった。春生は大学生で、相手の子は高校生だった。
反動でか、その後は普通の感じの子と付き合いだして、入れ代わり、立ち代わり。
同じ法科で「優秀な」一つ下の一人とだけは、やや長続きした、が、熱がさめて一と頃遠のいていた。春生の就職した時分から焼け木杭に火がつき、向うも就
職すると今度は女の方が熱心で、よく訪ねてきた。弟の一人ある母子家庭の娘だった。遊びにきていた夏生(なつみ)やおさないまだ信哉とも一緒に、家中で外
へ出かけて食事もした。奥野らに「婚約」を報告のときその娘は、「幸せです」と言いきった。隣棟を改築するか、アパートに住むかと話も綺麗にすすみ、式場
も予約し、結婚衣装をお互いの家族で選ぶところまで漕ぎつけた。花嫁へのお祝いに、二人の借り衣裳代は奥野がよろこんでみんな出すとも取り決めた。それが
――急に、わけ分からず土壇場でキャンセルされた。
「いろいろあったんだ。オヤジらのせいじゃない、関係ないよ。いろいろあったんだ」と春生は多くを語らない。すでに芝居にかなり足を突っ込んでいた。その
辺が結婚生活への不安を相手に深めたか、春生が勤め先の「カード」会社勤めからしてヤクザなと、先方の母親は気に入らなかったらしい。向うは準大手の信託
銀行に総合職で採用されていた。早稲田では文句なく成績優等、春生はスペイン語の単位取りなどをこの後輩に助けられたりしていた。
勤めて一年二年、だが、仕事がいやでその子は会社勤めをしきりに辞めたがるようになった。思ったほど待遇されなかったのかも知れない、辞めて、税理か経
理かの資格試験の勉強がしたい、だから結婚後の「新居」にも専用の勉強机はぜひ欲しいと言っていた。だが春生の演劇活動を生涯計画に組み入れてゆくには、
彼女の給料までが頼みの綱だった、が。
「お芝居…。それが、ドタキャンに繋がったんじゃなくて」と、めずらしく藤子の方からそう推測を語った。
「そうかも知れないが…」
奥野は、気合い抜けした。
もっとも二人の付き合いをここ数年眺めてきた批評家の父親奧野は、
「でもさ、あんなの恋じゃないよ、どっちの体温も低すぎらあ」と、早くに見切っていた。息子の妻になりそうな相手の、人柄にも、花やかな気乗りは少しもし
てなかった。流れてみれば、流れてよかったのかも…という感想が、ごく自然に親夫婦の口からは漏れていたのである。
挙式衣裳の相談までできていた仲がストンと潰れて、間髪をいれずまた付き合いだした二度めの社内の女性とも、親の聴しももらいに行ってながら、最期は女
の口から、婚約のまま無期限に結婚は延期してほしいとやっつけられ、また潰れた。相手の娘は海外へ飛んで行った。今度こそよくよく春生(はるき)は辛かっ
たか、そうでもなかったか、また間髪をいれず今度は「かわいそうな」女の子を捜して家に連れてきた。そうとしか言いようのない按配だった。
「またかよ…。どこで出会ってきたんだ。えッ、二十歳…。向うが適齢期になった時分にゃ、春生は三十過ぎてるぜ」と、妻から聞いて、奥野は目をむいた。
「芝居で出会ったそうですよ。三十過ぎるまで、おれの結婚は諦めてよって言われたわ…あたし」
春生の、相次いで壊れた「婚約」者二人とは、奥野も妻も会って食事などした。一人には実感がなかなかわかず、一人には敬意をはらう何もなかった。
「結婚の相手は、おれが決めるからね」と春生はいつも親に言い、たとえよくないと言ってみても、どうにもならない。そういうことは姉の夏生(なつみ)のと
きに、うんざりするほど味わっていた。夏生の結婚までも、背骨がぬけ落ちたかと思うほど、双た親はくたくたに疲労した。
夏生(なつみ)の場合、あの戸川一馬でもよし、二十ちかくも年齢のちがった美術の講師と結婚させてしまって、よかったのかも知れない、少なくも、内村高
司にくらべれば。
どこか幼稚な戸川も、中年すら過ぎた感じの、夏生より背のひくい杉本にしても、しょせん娘に向かないと奥野らは反対した。弟春生(はるき)も賛成しな
かった。
頭をさげて奥野は友人と、早稲田の教育の教授と相談した。これはどうですと彼に引き合わせてもらった内村が、上背のある一見たいした美男子だった。慇懃
で、かすかに唇を左へあげて喋った。微笑が冷笑へそのまま凍りつく感じで、一目見て虫が好かなかったけれど、夏生はこのテに弱いぞと直感した。内村は教育
学部で助手をしていた。父親は目下病気が重かったが、大学理事で、もと文学部長を勤めた人だった。「将来は太鼓判です」と、紹介役の奥野の読者でもある山
根教授は、親切に自分の教授室で内村を引き合わせ、人のいい笑みを浮かべた。
会うだけ会ってみろよと、月並みな物言いで奥野は家出も寸前のような娘に勧めた。つよく勧めた。夏生は葛飾北斎にくわしい杉本ゆたかに求婚され、ぼうっ
として夢やうつつに見えていたが、とどのつまりに父親の顔をたててくれた。
「見てろ。流れ、ゼッタイ変わると思うよ」と奥野は妻に、七分三分で、予言した。
奥野が仲立ちして、三人で、竹橋の美術館でたまたまの「村上華岳展」を見た。そのあと西銀座の地下店で、奥野がひいきのイタリア料理を振舞った。漫画の
「フクちゃん」が由来の「ベレ」というバアにも誘った。「ベレ」には夏生(なつみ)も馴染んでいた。結局「親付きの見合い」になって…の、あげくである、
杉本との恋につい今朝までも親に当たり散らしていた夏生が、(奥野はびっくり仰天した)西銀座阪急デパートの前でいま内村と別れ父親と帰りの地下鉄へ降り
ようかという間際に、何の判じものやら、路上に店を広げた色彩とりどりのビー玉売りから、いきなり一と掬いのビー玉を買い、見合い相手の美男子内村の掌
へ、一つ、二つ、三つ…にっこりと握らせたではないか。
なんじゃこれは…。
奥野は、おそろしく照れくさかった。決まったと思った。おいおいおい。わが娘ながら分かりにくく、だが、これほど夏生らしく分かりやすい選択もなかっ
た。つまり「面食い」だった、我が娘は。
死ぬの生きるのと大荒れに荒れ、見苦しいばかりだった夏生は、独り者の杉本ゆたかをもののみごとに振り捨てた。わずか「四十日」で内村とのすばやい挙式
へ一散に駆けこんだ。病重篤の先方父親の入院先に、寝泊まりまでして付き添った。内村理事は挙式の十日ほどまえに亡くなり、披露宴の用意はもう万端整って
いた。会場は、奥野秀樹の読者で総支配人である人の厚意と助力で全日空ホテルに決まっていた。こじんまりと両家四十人ずつと決めてからも、それだけの人数
新婦側の客を揃えるのに奥野夫婦は苦労した。奥野らにはろくに親類というものが無かった。
ああも掌をかえした夏生の気持ちを忖度するのは、刺激的すぎた。親が強いた…。そうとも言えた。奥野ら夫婦は一瞬の気の緩みのまま、銘柄品でも買った気
分でただ内村竹司という男をぼんやり眺めていた。杉本や戸川よりはマシだろうと、安堵したのだった。
夏生(なつみ)はご機嫌だった、内村でよかったのだ。それなら、親も後悔するいわれは少しもなかった。母親である藤子は後日内村と紛糾したさなか、いっ
そ離婚させたかったらしいが、奥野は、離婚などして帰られるより、親子の縁は切れてもずっと内村との生活を娘に守ってもらうほうがよかった。女は夫との人
生を保てばいい。孫も、二人めが生まれかけている――。
そんなわけで――弟春生(はるき)のためにも、その結婚相手は良くない、こっちにしたら、などと親が代わって捜しまわる愚は、金輪際繰り返さない気でい
た。春生もそこは心得て、自分の配偶者は自分で決めると言いつづけてきた。ただ、自分は望んでも向うが承知してくれない場合の算段が立っていなかった。婚
約キャンセルに二度も次ぎ次ぎ遭難した。
聞くかぎり今度の舟島薫という娘とは、春生の方でアドヴァンテージ(位取り)を保っているらしい、だが、それも向うが若いうち、春生が年を取りすぎない
うちのことと、奥野は思ったままをあけすけに妻に話していた。結婚に賛成してくれるかと問われれば、こう答える気だった、
――健康な人で、おまえたちの生活と将来へ協力しあえる人が望ましい。舟島さんがそういう人ならけっこう父さんは気に入ってるんだよ、あの子。ただね。
長期にわたって不安定…ではねえ、と。
藤子も同意見だった。
「目白で暮らす」と自立の意思を息子に聞いたとき、
「いっしょに暮らすのか」と反射的に父親は聞いた。
「そんなつもりじゃない、それはないよ」と春生は断言した。
つもりで「ある・ない」は、だが、現実に起きる事実と必ずしも同調しない。状況は、あまりに都合よくできていた。やはり、そう成った。「自立」してちょ
うど一ヶ月、案の定の「同棲」が、親にはほとんど理由(ワケ)分からずに、今、既成事実となった。
「これが春生なんだよ。彼のヤリ口…」と奥野は息子との深夜の電話を切り、嘆息した。春生の母親は肯定も否定もしなかった。真夜中の二時半だった。
前車の轍を、いかようにも、春生が参考にしてきたのは当然だった。親を全然頼みにしないわけではない、だが、姉のときと同じに父親に、奥野秀樹には、
構ってもらいたくない。構わせないためには、要するに親に全部は知られないのがいい。告げ知らせる時期も範囲も、およそは自分で決めたい。基本の「ポリ
シー」は、たぶん、そんなところと奥野は息子春生の手の内を読んだ。かつては自分もそんなだった、育ての親にいつも一応身構えていた、上手にとは自惚れに
も言えなかったけれど。
ただ自分のことを棚に上げ息子に向かい言わせてもらうなら、それならそれらしく、もう二十八の男らしく決めてもらいたい。自分で自分を批評しながら決め
てもらいたい。おれも批評はやめない。構うなと言われてもやめない。だが、世話はしないぞ。気をつかうのは、もう、そっちの番だと奥野は言いたい。ほんと
にそう言いたかった。
春生も学んだろう、が、奥野も姉娘夏生のことから、そういうことを学んだ。
あの頃、春生の視線を遮りながら事に処していたわけでなかった。それどころか夏生の――そう、「事件」というしか奥野にも思いつかないのだが――事件
は、時に春生の参加で和らげられたり方向が変わったりした。ティーンエイジの青春に「浮き身」をやつしていた息子春生の、親に知られぬいわば「大人の判
断」を、騒動の渦中で親に求められ、相応に披瀝してみせたいい例が何度となくあったのである。
もともと話のおもしろい「ハル坊ん」で、喋りだすと喋りまくる。一通りの理屈を立てて立て通して、親に口を挟ませない。あれで家の外ではどうなのだろう
と、そう案じた頃の春生はまだ高校生だった。大学に進み、夏生の結婚したときも進学して間がなかった。その春生が、たしかに一時は姉夏生のためかろうじて
防波堤であれた。外からの荒波を防ぐ堤ではなかった。姉の家の外への暴走を、渾身のちからで、春生なりに支えてくれたのだ。
はたしてよかったのか、あれで…。春生(はるき)は姉夏生(なつみ)の一家を、どう考えているのだろう、現在(いま)は…。
奥野も、おそらくは妻も、それを今思うのだった。それは、…つらかった。
夏生は「いい子」だった。美人の顔立ちとはいえないが、ちいさいときから、親の言うのもおかしいが奥野らの目にも品のいい落ち着きがみえた。着るものに
は、小さい頃は母親がよく工夫し、すこし大きくなると父親が趣味を発揮して買い与えた。よく似合って見えたか、公園でも、乗り物の中でも、食べる店の中で
も、いろんな人が「かわいい」と近よった。抱かせてと言う人もいた。食事しているときなど、大勢仲居のいる店でその一人が抱いて奥へつれて行ってしまった
こともあった。ひとことで言って、「品」のいい子だった。「夏生ちゃん」といえば、だいたいどこへ出しても「いい子」の代名詞のようだった、学校でも、奥
野の知り合いにも、ま、ご近所でも。
夏生は、親の目にも、だいたい女子高受験にパスしてから卒業式に答辞を読んだ頃まで、ほんとうに輝いていた。幸せいっぱいに見え、言うところはなにも無
かった。親のために「いい子」をしていた、父親の期待にただ応えようと無理していたのよと、今の夏生なら、嗤うかもしれない。否定できない。
母親は、よほど印象に刻まれていたか、何度も言った、「夏生はね。中学の時も高校の時も、受験手続は、みんな自分ひとりで何もかもしてきたのよ。お金の
こと以外、親の手は何一つ借りなかったもの」
「そうだったかね」
「六年生の夏休みに、春生が、どうしても塾に行くって言い出したでしょ。あの時、いい塾を見つけて来てくれたのも夏生でしたよ。」
「そういうことは、しっかりしてた」
「幼稚園の頃から、ずうっとよ、高校まで…」
「しっかりしてるのが、だけど、表層部分で。おれに似てて、根は臆病だったさ」と、父親はまたちがった娘の姿をみてきた。
書かせれば、文章も夏生はしっかり書いた。ちいさい頃から大人の小説も読んだ。だが、自発的に書いたのでも読んだのでもなかった…かもしれない。父親が
よろこぶから、であったかもしれない。「成人」するまえだった、文章にうるさい奥野の代筆をし、ほめられて、父の名前でそのまま人と共著の一篇になり、本
に、文庫本にも、入った例がある。中国ものの読み物叢書に「李陵」を書いた。宋の「徽宗」も、夏生がひとりよく調べて書いた。全額は遣らなかったが相当の
原稿料も与えた。弟には、父親の文章に似せて書くセンスも、気もなかった。意識してだろう、そういう事から春生はいつも遠のいていたが、夏生は父の生活を
観ていた。連れてやるといえば父の世間へも素直についてきた。岡本太郎に話しかけたり赤川次郎と談笑したりしていた。編集者も記者も読者も、何人かえらい
「先生」方でも「夏生チャン」を知っていた。夏生ちゃんも「書く」のかと、言われないまでも唆されていた。
夏生が、だが、なにかを自発的に始めたのは、概ね、大学に入ってからだった。一等してみたそうなことは、だが、父親がしていた。それでかどうか、奥野家
へ初めてマンガ本を持ち込んだ。弟がすぐ引き継いだ。それまでは親の壁を乗り越えて持ち込むのを遠慮していたか、「マンガ」には、姉の、また弟の、父親に
対する抵抗という有意義が、無意識にあったかもしれない。「鉄腕アトム」「リボンの騎士」系のものが、春生(はるき)の頃から「ヘンシーン」もの「怪獣」
ものになり、その辺を卒業していた姉は、「日あたり良好」「めぞん一刻」などほのぼの恋愛マンガや青春マンガをことさら勉強机に積み上げはじめた。
お茶の水で、妻はお父さんの感化よと言うが、我から選んで「哲学」専攻生になり、そしてその手のマンガに熱を入れはじめた頃から、奥野の娘を見る目が
「なんだコイツ」と揺れだした。娘の言葉づかいが日ごとへんに高慢に、わざと下品に、だらしなくなげやりになった。娘から父親を見返す目も変わったのだろ
う、なにを確認できる記憶も証言も奥野は持たないのだが、夏生をマンガへそぞろ引き入れたかげに、どうも「戸川一馬」の登場などが関わっていた。親の闇た
だ友達が友達が、かと自分を嗤いながら奥野は掌の珠が曇って行くよとイライラした。
そのうち、これは忘れられない、夏生が父の知らぬまに、父の知らぬ「本」を読みだしていた最初が、「バグワン・シュリ・ラジニーシ、タントラを語る」と
副題のついた『存在の詩』だった。スワミ・ブレム・プラブッダと星川淳とが共訳したバグワンの本が、相次いで夏生の机に積まれだした。「タントラ」や「般
若心経」や「十牛図」などを解釈したらしき厚さ五センチもある本が、マンガといっしょに目立ち、親が「なんだろ、こりゃ」と思ったその頃から、夏生の身辺
に、「瞑想」と称した学生たちのコミュニティが出来た。いや、グループが出来てゆくにつれバグワンの本が夏生の日々に場を占め始めたのだ、あの戸川一馬も
加わっていた。それは奥野も藤子もよく覚えていた。
バクワンがどういう人か、奥野は全然無知であった。「和尚」と呼ばれ、ボーディ・ダルマみたいな人と聞けば、法然や親鸞やそれすらよく知らない奥野は、
タテにもヨコにも首の振りようもなかった。
夏生の顔付きが目だって変わっていった。内省に向かったのでなく、「なによ」という目で奥野を見た。居丈高な口を利いた。なにが何だか得意で堪らないみ
たいだった。ばかか、お前。奥野は夏生のそんな頭をものともせず抑えた。
推測――するしかなく、夏生「現在」の家庭生活を、奥野夫婦は知らない。孫にも、四年、五年と会っていない。夏生の心境、察するぶんには察しられなくな
いが、少なくも結婚に際し、夏生は「過去」の全部を惜しげもなげに奥野家へ廃棄していった。棄て切れない分はダンボール箱に押しこみ親の家に置いていっ
た。その中にまるでザラ紙に刷ったバグワンの分厚い本がある。マンガは弟がとうに引き取り、自立後も親の家のどこかに残しているか、もう処分したか、奥野
は知らない。
内村との見合い結婚で、夏生は、木に竹を接いだほど「過去」との「連続」を拒んだ。ひたむき、新婚生活へ急角度に屈折して行った。それにも奥野らは手を
貸したのである。春生でさえ貸した。「あの当座」は皆してつまり無責任に娘を、姉を…内村の方へ押し出したのである。「捨てられたの、親に」と夏生は思っ
ているにちがいない。
どうしたいのか…と奥野は自身にいつも問いながら答えられない。可愛かった、いい子だった娘をどう顧みに反芻しても、所詮我によかれと憂さをはらすだけ
だ、そんなのとちがう夏生の像を奥野は惜しみたい。持って生まれた、もし才能があの子にあるなら…。どうおれを憎んでも嫌ってもいいんだ、自分で綺麗に花
咲いてみろよ、おれはそれが見たい。しかしそれも父親の勝手な満足ではないか。そうだ。だが、いけないのか親のおれがそういう喜びを子に求めてはいけない
理由が有るのか。亭主や我が子で満足するな夏生、おまえがおまえの心行く自分を創れ。本気で創れ…。
奥野は、いまも、覚えていた、夏生が最初の子をうんだときに書いたものを。「小さい子よ」と我が子に呼びかけた、そう…詩のようなもの、を。娘夏生へ
の、ときに憎しみすら湧くときに父奥野は万力でつかむように思い出した。詩集『小さい子よ』には二つの序詞が書かれていた。
長い道程(みちのり)を行こうとする
覚醒(めざめ)たばかりの魂よ
絶望の淵に立とうとも
諦(あきらめ)を学ぶな
陽射(ひざし)にまどろむ者ではなく
一箇の熱い太陽となれ
私家版「回転体の詩」 2号 初出 1987(昭和 62)年 1 月発行
一年前の今日、私はまだおまえの存在を知りませんでした。
ただとてもだるく、少しもおめでたい気持のしない正月だっ
たと、 思い出します。以来十月十日 (とつきとおか) 、長い
つわりと、低気圧と、貧血に、まるで自分を見失って過ごし
てきましたから、正直なところ、おまえを愛せるかどうかも、
不安でした。
でも今ここに、一冊の小さな本があります。仕事を辞め、ペ
ンも持たなかった長い時間の後に、心の錆をギシギシとこそ
げ落としながら、一所懸命、私はこれを創りました。けっこう、
しっかり、親馬鹿の記録です。
おまえを見守って下さる方々に、こうして新年のご挨拶をし
ます。そうして改めて、ペンを持った私の、一年を始めよう
と思います。
一九八七・ 一 ・ 一
:::::::::: 分娩台で
もう丸い顔ではなく
ぐしゃっと手足がもがいて抜けて
羊水のタイルにはぜる音が鮮明だった
女の子だぁ と婦長さんの声
ほぅ と魂が抜けるように
眠りが来た
ぷち
鋏の音で我に帰る
いや もっと大きく
自分に還る
我と汝の別れた瞬間だ
血のめぐりが再び自己環結する
そして他者となったおまえの
ギュ ギュ という嗚咽を聴いた
そうだ初めて 外から聴こえた
:::::::::: 我と汝
やっと正しい距離ができたね
おまえは Sie ではなく du だけれど
でも ich じゃない
未分化はよくないよ
愛すことも 憎むことも できない
:::::::::: ひとりの夜
モーツァルトを聴きながら
一緒に聴く耳のない不思議さ
それでもとんとんと
おなかでリズムをとる
おまえのいなくなった空洞が
ぽくぽくと応える
おまえは大きなガラス窓のむこう
右はしのベッドで泣いているね
:::::::::: 小さい子よ
ああ もう 二時間も
私たちはこうしているのだね
何も与えない乳房にすがりつき
乳首を噛みしだく 小さい子よ
「おっぱいのお稽古」におまえを連れてきた夜番(よるばん)さんは
「急なお産」でどこかへ行ってしまった
飢えて泣いているおまえに
どんなミルクをどれほど作っていいのか
私はまだ知らない
ああ だから もう二時間も
私たちはこうしているのだね
何も与えない乳房しか与え得ない私を
まっ赤な泣き声と 力強い歯ぐきで叱る
小さい子よ
いつの間にかおまえは
乳房に顔をうずめて眠ってしまう
私の腕や肩はしびれ
背骨は頭を支えることができない
だからおまえの上に丸くなって
私も少し眠ろう
こうしているとおまえは
まだ内側にいるようだ
丸くなって眠ろうとする私の懐で
乳房に顔をうずめている 小さい子よ
おまえは時おり手足をふるわせて
懐かしい力で私のからだを打つ
ああ どこかで産声が聞こえるよ
もうすぐ看護婦さんも戻るだろう
それまで一緒に
丸くなって眠ろう
子ども 山村 慕鳥
おや、こどもの声がする
家のこどもの泣声だよ
ほんとに
あまり長閑(のどか)なので
どこかとおいとおい
お伽噺の国からでもつたわつてくるやうにきこえる
いい声だよ、ほんとに
:::::::::: 子守唄
障子に揺れる 母の影が唄っている
あきらめなさい
あきらめなさい
ばば抱きだから
おっぱいはないの
おまえのままはおねんね
だからおまえもおねんね
あきらめて
ねんねしなさい
眠りに揺れる 私の心は叫んでいる
あきらめるな
あきらめるな
新しい生命(いのち)よ
人生の最初に学ぶものがあきらめだなんて
そんな馬鹿なことはない
泣け 泣け
力をふりしぼって
おまえの母の目覚めるまで
そうして 泣いている ・ ・ ・ おかまいなしに
詩はもっともっと続いた。奥野は暗誦するように、夏生のほんとうに心の奥からの言葉を聴いた。あらゆる「夏生なるもの」を均衡させる光る束のように、
だ。「あきらめるな あきらめるな」「泣け 泣け 力をふりしぼって」「おまえの命の目覚めるまで…」
奥野は自ら嗤う。感傷を嗤う。だからどうした。おまえがママのお腹にいた日々をおれは歌った、「ひそみひそみやがて愛(かな)しく胸そこにうづ朝日子の
育ちゆく日ぞ」と。夏生をおれたちは捨てたりしない――
。
その夏生の大学生活は、高校から同じ構内の大学へ横滑りしただけだった。センター試験を受け、選考試験にも受かっての立派な進学だったが、通学の向きが
変わるでなく、箪笥の中身を二段めから三段めに入れ替えただけのようなものだった。慶応にも受かったが、通学の便利と学費の安さとで、内々親も望んだよう
に、当人もそう迷ったふうでなくお茶の水に決めた。もっとも弟の今になっての観測では、あれも要は親の意を汲んだ選択、夏生は慶応に気があった。有ったに
はちがいないだろう、その頃、ある文壇のパーティに夏生を連れていったとき、奥野のかねて懇意な哲学者に、そりゃ慶応がいいよと夏生は焚きつけられていた
し、奥野も分かっていた。だが質素なうえに質素に育てられ、ひょっとするとそれ故のコンプレックスも賢く抑えながら高校友達とも付き合ってきた娘には、
「ケイオー」ボーイやガールに取り巻かれる気の重さも無いではなかろうと察していた。どう強がろうと夏生は根は気のちいさな、臆病な子だった。なにかがコ
ンプレックスに転じてしまうと、固着して病気になりかねない。奥野にすれば、おだやかに高校の延長線上の女子大で、できれば院へ進めるほどの「学問」か、
あるいは創作的な活動の可能な方面へ成長してもらえれば嬉しかった。安心だった。
そういう親の付託も鬱陶しかったと恨まれても否めない。ばかかお前という気も否めないが。
夏生がお茶の水を選んでくれて奥野は確かにいくらか感謝し、安堵し、慶応を捨てたことにもまた親なりの未練は感じていた。ばかげていた。埋め合わせにも
ならないが、銀座の寿司「きよ田」で祝ってやったり、たまたま誘われた「歴史文学」関係者の中国旅行へも、名代の体で、幸い同世代の連れも三、四人いたの
で夏生に参加させたりした。授業にも、部活動にも、夏生は進学早々の中国行きを済ませてから、遅ればせに加わっていった。
哲学――。夏生の専攻まで奥野が勧めたわけではない。が、奥野が一年籍をおいた大学院での専攻も、文学研究科の哲学専攻だった。美学藝術学を学部では勉
強した。そういう生地のうえに作家生活を染め出してきたとは、奥野家では空気を吸うほどに受け入れていたし、藤子も奥野の後輩で、卒論はカントだった。ど
う迷うでなく夏生もそこへ落ち着いた。弟になら哲学の他を勧めただろう、だが姉娘には自然だった。その先は、まだ分からなかった。
夏生が大学の部活で最初に決めたのは「弓道」部だった。入学してすぐ決めたか、中国の旅から帰って入部したのか、分からない。記憶もない。弓射の装束や
弓や矢が家にもちこまれ、試技や試合のあるらしい日には、家から、妙に気になる白装束に色の付いた袴姿で出かけて行った。大柄な夏生が、身にそわない着物
をだぶだぶに着た格好は、男親ならずとも、妙に見たくないへんなものだ。夏生の場合、髪はみじかめにし、洋服でお洒落してくれる方がずっと見やすかった。
洋服は、よく似合った。
弓は日置流だという。的をたまたま射ると「ヨッシャー」と声をかけ、はずすと「チョイヤー」と囃すそうで、そんな話を家でしてくれるのを奥野も面白がっ
たが、夏生の弓はいつまでも続けられなかった。幼時に滑り台から落ちて骨折していた右肘が痛みはじめ、堪え難くなり、あげく奥野の知り合いを頼んで日赤の
整形外科に入院した。大事に至らなかったが、肘には手術の傷がのこった。無理があったか度を過ごしたのか。
弓道に代わって――「バドミントン」と聞いたとき、ばかかお前がまた出た。奥野は本気で夏生を叱った。弓で利き腕を痛め、弓をやめた。何故にまた同じ利
き腕をふりまわすバドミントンなのか。
だが夏生は押し切った。弓のときよりもっと熱心に見えた。弓の頃は、女子高いらいの中町という友人と仲良しだった。バドミントンではやがて麻生という仲
良しができ、ひっきりなしにその名前を奥野家のものは聞いた。
麻生は、いつのことだか松江に旅行して戸川一馬に会い、各所を案内してもらったということを、奥野の妻が覚えていた。夏生にもそういうことがあったらし
い、が、奥野は確認していない。戸川の母親や妹と会ってきたらしい、今となれば、まさかとも思われない。バドミントン部の麻生にそんなことがあったのな
ら、戸川と夏生の出会いには、たしかに、このスポーツが関わっていた。学外での親善試合のような場所で知り合ってきて、「瞑想」グループなどとの接触が、
あとへ続いたのだろう。きっかけに何があったか、あの当時は、まだ、夏生が単独で見知らぬ場へいきなり加わってゆくとは、奥野には想像しにくかった。戸川
と申し合わせて参加したか、戸川の紹介で加わったか、分からない。高校でもそうだが、大学生活ではもっと遠く娘は親の視野を逸れていた。学校で「今日はこ
んなことがあったの」式の話題もうんと減っていた。
夏生の、家の外の評判には、高校に入るまで、入ってからでも、まずまず問題はなかった。なにをしてもおっとりと品よく見える子だった。地元の中学で、い
くらか女の、また男のグループにも不評を買っていたのも、いわば出来る子へのかるいいじめやいやがらせ、学校ではありふれたことで、親も当人も気にしてな
かった。運動会や文化祭での娘の出番を奥野も一度二度見知っていた。どことなく周囲から浮いているとも見えた。本人の意気ごみとまわりの気のなさとがちぐ
はぐで、小気味よくうまく事がはこんでいる印象はあまり無かった。
もう一つ顕著なのは、女の子の親友らしきものを夏生がもたず、ごく少数の男子の名前ばかりをしばしば聞いた。クラブ活動でも数人の男子と「数学」の問題
などを解いていた。「おれの娘が数学かなぁ」と数学苦手の奥野は苦笑したが、中でも一人の男の子を夏生は敬愛するらしかった。無口でまじめでちょっと皮肉
屋の少年らしく、父親に死なれていた。さびしそうな家庭で、母親とは奥野の妻が顔見知りだった。その男子生徒もかるいいじめか敬遠かに遭っていて、それを
かばう態度がまた夏生へのいじめの理由になった。たいしたことではなかった。
そんな優等生の加納少年のそばに、もうひとり福井政人という優等生少年もいて、いますこし明るく温厚なこの福井君と夏生とは、加納君がなぜか大学受験に
つまづきつづけ、あげく地方の大学へ苦学して行ってからも、交際が続いていた。夏生が就職し、福井君は東北大の院に進んだ頃から、ひょっとしていつか「結
婚」へ到達しそうな「いい感じ」がつづいていた。福井君の母親が奥野へ訪ねてみえ、大人同士で和やかに話し合ったこともあり、はなはだ二人の仲は有望で、
じつはそれを一等奥野も藤子も希望していたが、ところが、すうっとまったく火の消えたように、どっちからとなく遠のいてしまった。
これは研究に値する「疎遠」だった。奥野夫婦で何度か話し合ったことがあり、推測でしかないが、夏生には福井君が要するに刺戟的でなかった、紳士的すぎ
た、いやみな物言いになるが、もっと迫って来てもらいたかったのではないか、と、母親は理解していた。
こんなことがあった。山手線でやや離れて偶然に二人が乗り合わせたとき、向うから福井君の視線が、来た、と思えてそのままふっと夏生から離れて行き、そ
れが「最後に」なったとか。それも夏生の言い分だった。あいまいで、分からなかった。
福井君は、それまで、仙台から帰ってくるつど夏生に連絡してきた。何度でもなかったけれど、家へも来た。自分の車に夏生をのせ、近郊をドライブしてきた
回数はもっと多かった。狭い家に住み家の中で仕事をしている奥野には、いやでもなにもかも筒抜けに聞こえてくる。見えてくる。二人がドライブの写真もアル
バムに何枚か残っている。夏生はあまり写真というものを大事がらない子で、かなりの嵩を母親が手元に保存している。福井君のはなんでもない写真ばかりで、
べつに興奮ぎみにデートから帰宅するでなく、福井君も夏生も慎重にお互いを瀬踏みしあっていたのではないか。穏やかに、いくらか夏生は退屈そうにも見て取
れた。
「手も握られてないんじゃないの。優等生同士の遠足みたいだ」と、父親は、いくらかは安心だが安心なところがへんに不安であった。夏生周辺に出没するどの
男性より福井君は、堅実な技術系研究職のサラリーマンに育っていた。ちょっと尋常すぎるが、夏生のことは大事に守ってくれそうに思われ、藤子も交際の行方
に期待の顔を向けていた。奥野も、ま、右に倣えの気分だった。
だが大学に入って以後の夏生が、福井君一本槍でなかったのはハッキリしている。うすい影でうすい影ほどにしか交際の成り立たなかった何人か他の男の影
が、奥野家の茶の間で噂になり話題になり、そして消えていた。
「どうも、モテてそうにないぜ…」
「そうね…」
親は苦笑し、弟の春生(はるき)など露骨にそれを言って笑った。
なぜなんだ…。
思い当たる筋が、すこしずつ見え隠れはしていたのだった。
奥野の、関西時代からの女友達が、わりに近くに住んでいた。ご主人は大学の図書館勤めをしていて、その方で便宜をはかってもらえたことも再々あった。奥
さんのほうは奥野とは中学、高校で一つ下の後輩にあたり、高校時分、茶の湯の手ほどきを他の何人かといっしょに奥野秀樹から受けていた。奥野は伯母の門前
小僧で「茶」の手前の初歩的な指導なら難なくできた。その頃すでに学校の茶道部でも教えていた。
この渥美さん夫妻に、夏生(なつみ)と同い歳の長男があり、大学は早稲田だった。英語教育に熱心なある組織で青年はこどもたちを指導するチューターの活
動をしていたが、お互い同い歳ということもあり、気があえばわるい間柄ではないと、それ以上の思惑はなにもなかったけれど、渥美夫人の仲立ちがあってある
とき、夏生も興味を感じ、彼らの集会に出かけていった。どんなグループか親は知らなかったが、ちょっとした談話会ふうの催しであったかも知れず、人数も、
車座になるのか会議室風なのかそこそこ参加していたらしい。そして帰ってきての夏生の土産話はあっけなかった。あんなものでしょうといった感じだった。渥
美君については、関心のあるような、無いような、どっちにしても今後の薔薇色を想わせる意気ごみは少しもなかった。
しばらくして、なにかの折りに渥美夫人と電話で話した口ぶりでは、もひとつ夏生は溶け込まなかったそうだ。内気で引っ込んでいたというより、ちょっと口
が出過ぎたかと奥野は聞きとった。
「興奮するタチですからね、いいとこ見せたくて浮いてしまうのかな。気の小ささの反動なんですよ」と苦笑いしながら奥野は、そういう夏生を家のなかでも感
じていたけれど、家の外でのそういう評判は、べつに非難めいて言われたわけではなかったのに、「初めて」聞いたナ…と印象にのこった。
それより以前、奥野の代わりに中国へ、十人ほどの作家や学者や編集者たちと一緒に旅してきた、その旅行中の夏生についても、これまただれもはっきりは言
わないが、いくらか印象の強い、強すぎるような夏生が日ごと大人たちの目に見えていたかも知れないと想わせるものを、奥野はちょいちょいと友人の言葉のは
しに聞きとめた。よほどはしゃいでいたのかも知れない。同じ年頃の少女が副団長夫妻の娘やある作家の娘や、幸田がついでに紹介した知人の娘など四人一室で
参加していたのだが、そういう組み合わせだと、どうかすると夏生は興奮し、京ことばでいう「いちはなだって」「いちびる」おそれが、有るにはあった。可愛
いとも取りようで取れ、こざかしくも取れただろう。母親はしらず父親奥野には、夏生の、やはり気の小さいゆえにと説明してやりたいそういう性質や性癖が、
親の目の届かぬ場所でほど何度となく露われていた気はしていた。日ごろも、そうなり勝ちな、ことに国立の有名校へ気張って入ってからはついあり勝ちな、そ
ういう「出過ぎ」を奥野はしく夏生に注意し注意して、すこしでもえらぶった口をきいたり態度をみせると容赦なく頭をおさえてきた。躾けてきた。利き目は、
だが、もう無かった、まったく無かったのである。
家の中の反動が外へ出ていたんだと言われれば、口を噤むしかない。奥野にしても謙虚一途な人間ではなかった。気の小さいところを、闘争心を燃やし燃やし
て切り抜けてきた覚えは再々あり、自信家と人の目に映ることがあった。しばしばあった。
「そんなこと、ありませんよ」と言ってくれる人も必ずあるのは知っている、が、その通りだと思う人の多いだろうという自覚がある。娘にそれがよくもあしく
も伝染していないわけがなかった。だから、父の戒めもきつくなった。その反動が外で出ているのなら、夏生があわれだった。そういう女がきらいで、そういう
女とは正反対の女の像を作品に刻みつづけてきたのを思うと、夏生があわれだった。父のまえでは父に気に入られるように振舞わずにおれず、反動で、外へ出る
と人に眉をひそめさせかねない「活躍」をしてくる。「よくできる」「しっかりしている」という評判につれ添う批判や非難の意味は、京のわる口のなかで育っ
てきた奥野には瞭然たるものがあった。
父親も会員だったある学会へ、これは夏生が美術館に就職後であったが入会させてもらい、仙台かどこかの学会に初参加した。そのときも、新米の夏生がいき
なり起ってある発表者に「質問」したというので、その後、一つ話か笑い話かのように奥野は知人の口から聞かされた。
どんな研究発表に何を質問したのか、相手が誰かも奥野は知らない、夏生も話さなかった。だが、若い若い女会員が「いちはなだち」質問するような習慣があ
まり「学会」という場に無いのは、遺憾なことだが奥野もよく知っていた。或る種の禁をやぶった、蛮勇というかもの知らずというか、いっそ可愛いというか、
とにかくそれは一つ話になって親の耳に舞い込んできた。やったな…と思ったが、やっていけないワケも無いのだった。質問したければすればよく、司会者も質
問を会場に求めたのだろう。もっとも研究発表後の「質問は」「ありませんでしたら次へ」という進行は、いかにもヌルく、質問者があればおやおやと珍しい気
がし、ときには「よしゃいいのに」という顔をされかねない。
「さすが奥野さんのお嬢さん」といったオチをつけてにやにやされると、奥野は、やはり娘があわれで、いいじゃないか好きにしてるんだと庇ってやりたかっ
た。
藤子にも確かめてみたが、どうもそういうヘキが夏生にはあったこと、本人の思惑がどうであったか別にしても人気に欠けたこと、
「否定できないのよね」と慨嘆する。「それにあの子みたいに過ぎた時代というのか、過去を、きれいさっぱり捨て去って前へ前へ遠のいて行く子って、珍しい
んじゃない。小学校のお友達とは完全に切れているし、中学がそうでしょ。高校のときなんか、あんなにハツラツとして楽しそうだったしお友達もたくさんあっ
たのに、今、ほとんど付き合ってないようよ。大学も同じ、あの美術館勤めの人たちとも、お世話になった学芸員さんらとも、もちろんあんなことがあったし、
あれきりでしょう…。女のお友達が昔から少なかった、女子高のとき以外は無いも同然で、でも男のお友達と現在連絡など取っているわけありませんからね、戸
川くんの例でみて、そうでしょう……」
胸に溜まっているものが澪れでるように藤子はゆっくり、だが、よどみなく口を利いた。奥野も黙ってもう夜更けの酒を啜った。ああ成るしかない道をあの子
は歩いてた…そうだったんだと奥野は思った。思うしかなかった。
五
明日を、奥野春生作・演出の初日にひかえて、藤子ははやめに床に入り、奥野は二階にあがり、しばらくコンピュータに触っていた。麻雀牌をならべた単純な
ゲームがあり、成功しやすい易しいのもあり、成功の見込みのまったく立たない、勘がわるいと夜通しして只の一度も成功しないほど難儀なヤツを選んでもよ
かった。教授室時代に器械を買って覚えてこのかた、奥野は断乎その難儀な方しか選択しなかった。
「成功するように按配してあるゲームなんて、絶対やんないよ。そんな人生無いからね」と、藤子によけいな宣言までして、日に一度二度ゲームが目的で器械の
前に腰かけた。親しい学生たちとメールをやりとりするのも楽しいが、よくて五回に一回もうまく行かないゲームに挑んで疲労困憊するのもわるい時間でなかっ
た。よくまあ憶えているわと呆れるぐらい大昔の軍国唱歌などが口をついて出てくると、やがて意地悪き器械めに悪口雑言を浴びせはじめ、泣き言になり、愚痴
になり、あげく降参してしまうことも多あり、夜もしらじらと明けたりした。さすが最近は一度で五回以上やらぬと決めて数取りの碁石を五つ置いていた。成功
の望みはいっそう薄れた。
なにかをゲームで占うといった気は奥野には無い。成功すれば、だが、気はいい。春生のためにも気のいい結果で「ありますように」と呟きながら、電源を入
れ、じいっと大きめのディスプレイに目をやっていた。
そばの電話が急に一度鳴った。手をのばし…かけ、それきり電話は鳴りやんだ。よくあることだが、ときときと奥野の胸は騒いだ。
一ヶ月あまり前の、四月三日、いや四日になろうとしていたちょうど今時分、春生の電話を階下で取った。アテがあって奥野は土佐日記を調べていた。
「おやじ…どう思う」と言ったか、「父さん…どう思う」と言ったか忘れたが、前者から入り後者へ移って、春生の口調に切羽つまったものがあった。
役者の一人が表むき金の不満で芝居から「降りる」と言いだした。飛び火の心配はないが、この期に及んで役の欠けるのは痛い。五月十五日の幕開きで、宣伝
のチラシももう出来てくるという。
「弱ったね、そりゃ…」と、現場をまったく知らない奥野は、口は月並みを言うしかなく、だが、肝がすこし冷えた。幕が無事明いての不成功とか失敗作とかい
うなら、まだ積み石の一つになる。幕が明かなかった、その前に潰れたでは言いわけできない。師匠や事務所へも申し訳できない。人ももうついて来てくれず、
チャンスは二度とない。十二月に予定の公演からも外されてしまうか知れない。次ぎから次ぎへいろんなことが奥野は奥野なりに思い浮かんだ。
「どう思う…父さん」
「ギャラ、出すんだろ、みんなに」
「出さないよ。それが普通なんだよ、こういう舞台じゃ。最小限の経費ぐらいなものだよ、役者には」
「でも、その…彼は」
「ああ、彼はね。ほかのヤツより、この世界をもうちっと渡ってる人なんだ。ギャラ芝居もけっこうやって来てる人だし、そこは、念を何度も押して、ノーギャ
ラだけどいいですか、いいよってことで始めたんだぜ。それをサ…、失礼だと言いだすんだ、酒の席で。別れてから電話してきて…、酒飲んでて…また言うん
だ…。つた事務所の、ほかの者にも喋ってるんだよ、おれはほかのヤツた違うって言うんだ。……頭にきた」
「予算は、立ってたんじゃないのか」
「ギリギリだからね。役者のギャラに予算は無いんだよ。みんな納得してたんだもの。そういう世間なんよ」
そういう世間かもしれない気はした。同人雑誌みたいなものかも知れない、奥野に同人雑誌の経験は只一度もなかった。なんでもかでも独りでやってきた。あ
げく文壇からも半身を、いやもうほぼ全身降りてしまったような仕事をしている。だから、とは言わないが、無意味に報酬の無い、安い依頼を奥野は受けない。
タダの仕事やヤスい仕事を慣習で強いてくる「物書き」世間の約束ごとに、可能なかぎり反発してきた。どこの世界に、仕事をして、宛行扶持を頂戴してすます
ヤツがいるものか、喫茶店に入って、客が、今日のコーヒーはまずかった百円やるよとか、八百屋でこの大根は百円、白菜も百円取っときなと、もしもそんなこ
とを客がやったら張り倒されるだろう。文章を売り買いの世間ではそれがそんな具合に行われていて、原稿依頼に原稿料はいくら支払いますと提示してくる依頼
者は、やっとこのごろ少し出てきたけれど、九割以上がまだ平然とというよりそういう社会なんだと、あたりまえに勝手な値をつけ支払ってくる。
四半世紀この世間に店を出してきた奥野は、今でこそあんまりな扱いは受けていないし、注文もきちんとつけて譲らずにやってきたが、いま春生(はるき)が
仕切ろうとしている芝居仲間も、なるほど「そういう世間」かも知れない。だが奥野はそういう世間を是認しない自分を知っていた。金を払わないのは「非常
識」だと、酒の勢いで、プロデューサーでも作・演出者でもある春生に食ってかかった役者の言い分に、いくらか奥野は共感できた。電話の向うの息子にも、そ
う言った。
「だいたい、おまえのような駆け出しが、プロデュースの旗を揚げるんなら、なみの人がそうするより以上に、資金をきっちり用意し、払わなくてすむ金をさえ
僅かでも払って、遺漏のないように手を打ってかかるべきじゃないのか。ただ幕を明けるんじゃない、ちっとでもいい舞台がつくりたいんなら、そこまで用意し
て飛び出しゃいいんだよ。おまえにもぬかりがあったな」
「分かってるさ。でも、いまその議論をしてられる時じゃないんだよ」
春生(はるき)流がまた出た…。奥野は腹のなかでつぶやいた、おまえの流儀でやれるのなら、好きにやればいい。やれないならその流儀を、すこし鍛え直せ
よ、と。
「選択肢は、たくさんは無いね。代役が探せるのか」
「むずかしい…」
春生は唸った。稽古中のグループに代役の飛び入りで只働きしてくれる役者は、そうそういないだろう。だがまた、いないようで存外にいるのも役者であるの
は、書き手の予備軍に溢れている文章の社会と似ているにちがいない。
「文句つけてきたそいつに金払ったら、他の人ら、気がわるいだろう。すぐ漏れるよ、そういうのは。内緒にしとけないぜ」
「ほかの者はだいじょうぶだよ、父さん…」
「全員に、たとえ気は心でも、払ってやれないのか」
「金がないよ。舞台監督だけはぜったい払わなきゃ…。高いんだ。六ステージで…かなり…。負けてもらってるんだよ、それでも。劇場、チラシ…いっぱい金か
かるからね」
「手持ちの余裕…、無いのか」
「…、無い。みんなはたき出した。ギリギリなんだ」
「むちゃくちゃ背伸びしたんだ。見切り発車が咎められてるってわけだ」
「それは、批評さ…。だからって、この電車止まるわけには、ぜったい行かないよ。ぜったい、幕は明けるからね」
「おれが心配するのは…、今日のその件、金だけじゃ解決つかないよ。おまえは今、出る杭になってるからな。それも、実績もたいしてなしに…。だから、いろ
んなとこ注意して気配りしてないと、手前で潰れるナ仕方ないけどよ、ハタから潰される…。潰したい、潰してやれという、サバイバルの闘争心やら悪心やらが
絡まりついて潰されるのは、きついからね。まさかってヒデぇことが、見えない所で知らんまに企らまれちゃうことって、世間にはザラだよ。そういう企らみに
付け入らせない手配りは、出来るもンならしとくもンだよ春生。おれは、その彼を知らない。だから勝手に、おまえ第一に放言するだけだから、適当に聴きなさ
い。彼の言うところはいくらかもっともで、そういう声はもうみんなに聞こえて行くよ。酒の勢いでものを言い、まただれかれなしに触れてまわるヤツは、たと
え一つ解決しても、爆弾にはちがいない。その彼をそのまま抱き込むのは、金でいっときは可能だと思うけれど、喉元の小骨が、また、いつ爆弾に化けるかしれ
ん。……そいつの役を削って、台本が直せるのか」
「無理だ…。一つには役不足という不満のあるなぁ分かってたんだけど。そんな役であっても、動かしたくない。金を払ゃやるとは言ってるんだけど…。気はわ
るいよ…」
「分かるよ。そりゃ気はわるい…それが、いちばんよくないんだ。おれなら切るね、そいつ。今になっての不安材料。その中でも、気分を害されるのがいちばん
まずいよ。爆弾は抱えるな。抱えないほうがいい。しかし、ハル…。よけいなことだけどサ。この際、ほかの役者さんらにも、せめては気は心を…金を、払って
あげたら。それでしっかり気持ち良く幕が明くのなら、そいつがいちばん安上がり…とも言える」
「利子の要る金を、ウチで借りるの」
春生の勤め先はそういう金も貸す会社だ、利子は高い。
「返せるのか」
「返せるとは思う。おれの出した金はとうてい埋まらないけどね。入場券も、めいっぱい売るもの…。ボーナスを一回崩せば…」
「おれは、おまえから利息はとらないよ。返せる金なら、そして金ですむなら、ややこしい人間の心根に絡まれるよりゃ、よっぽど安全だしな。…用立てるよ」
「………」
「代わりを探せよ。それとも台本を直すか。やめてしまう気はないんだろ」
「ぜったい、やめない」
春生の口調に一瞬親もあまり知らない気迫が徹った。よし、やれ…。奥野は黙った。
「あした、そいつに会うんだよ、も、いっぺん。むちゃくちゃ頭に来てるけど、ひどい喧嘩別れもいやだしね」
「あぁそれがいいね。彼の言い分にはいくらか筋が通っているから、よけいね。正論の角に頭ぶつけて、怪我なんかするなよ」
「分かった。ありがと…」
「あ。じゃ、もう、おやすみ。彼女、いるんだろ。なんとかやってるのか。彼女もたいへんだろうが…、今は、何より舞台だ」
「そうです。じゃ…おやすみなさい」
――パソコンの、五回のゲームは五回とも、嬲られたように勝てなかった。そんなめに、慣れていた。手と目は機械に預けてくるくる動かしながら、頭は、春
生のあの「おやすみなさい」という声を引き摺った。電話はあれで切れたが、あれからの後日、事は簡単に収まらなかった――。ばかか、お前…。あの晩五回め
のトライに失敗した奥野は、潔く器械は仕舞ったものの、寝に降りても行かずそのまま背後のソファに膨らんで重い図体をのばした。電気を消すと、くらやみの
天井に、もう一と昔以上になる、春生と春生の「可哀相な」女友達とでやたら貼りつけた天井板の「星座」が凄いほど青白く浮かびあがった。
明日からの芝居を春生(はるき)は、姉に、夏生(なつみ)に、知らせているのだろうか…。
目をとじても、眠くもなんともない。奥野はまた電気をつけた。
四月五日――あの電話の二日後だった。藤子の還暦。国立劇場で新派『日本橋』をみて、銀座「きよ田」の寿司で祝い、翌る土曜の夕刊からは奥野の大学退官
をかたるエッセイ、週一回の連載も始まった。春生(はるき)の小学校卒業式の日のとんだ父親のしくじりを、致し方もなかったが思い出すつど呻くと書き、恥
ずかしくて呻くことは年々に増える一方だと書き、ひょっとして、今度のこんな大学教授という「道草」も、いつか思い出すつど恥ずかしくてひとり顔をあかく
し呻く種になるのかも知れない、そうではあっても工学部「文学」教授の四年間は楽しかった、学生諸君にいっぱい教わったと書いた。うそ偽りないのだが、ふ
と奥野は思う、二十歳の学生たち大勢とほんとうに日々楽しみながら、あれは、言い知れぬ胸の窪みを埋め合わせたい一心だったかも…しれない、と。
その晩、春生がまた電話をかけてきた。例の「酔ったあげく」の役者と話しあい、穏やかに役を降りてもらうことに決めたが、お金貸してもらえますか、と。
決めた「が」のところが曖昧だった。先夜は、ノーギャラなら降りるとごねられ、「どうしよう。オヤジならどうする」かという相談だった。借金が目的では
なかった…筈だ。その男に出演をやめてもらって、それでも金をとは、奥野の勧めたように危険物は取り除いたけれど、他の役者たちにも予算に無かったギャラ
を支払うことにしたということか。
奥野は、詮索しないことにしたが、息子と現金の受け渡しはしたくない。母さんで分かるように用意しておくから、おおよその使途や返済のことなど母さんと
話し合って受け取るように…。百万円。こんな半端な時点で、こんな半端な借金とは。めいっぱいの持ち前だけで見切って跳び出たのだ、無鉄砲なヤツ…。もっ
とも最初(はな)から金を貸せでは話にならなかったろう、奥野は苦笑した。
ギャラを払うなら高利の金をよそで借りるしかないと匂わされた。あげく、いくらか余分に借りておこうという春生の駆引きには、あわよくば次回公演への算
段も含まれていかねない。今回は、ま、いい。なにより大過なく終えてほしいと、奥野の本音だった。そんな本音が、気恥ずかしかった。
土曜日曜がはさまり、はやく振り込んでと、催促が一度二度あった。そういう電話はみな会社からかけてくる。マンシォンの「同居人」には聞かれたくも知ら
れたくもないらしい。
日曜の朝になって、春生は終日稽古で帰りがおそい、同居人の薫を大泉へやってよいかという電話だった。奥野は承知した。
午、予告よりだいぶ遅れて、いっこう薫が来ない。道に迷っているかも知れず、電話番号を持たずにきたのかも知れない。奥野はボロ自転車で走って、駅ちか
くで出会った。
「あぁ。すみません」
ごく低音のアダージォだった。うしろに乗るかと言うとうなづく。簡単だった。白い編みのカーディガンにちいさいが穴があいている。ヴラウスもスカートも
質素というよりみすぼらしいが、当人はさらっとした顔付きだった。
玄関まで来ても、藤子がもちまえの笑顔で迎えて出ても、たいしてかわり映えのない薫だった。勧めれば、会釈らしく髪をちょっと傾けて、もう勝手知った奥
野の二階へ足音なく上がって行く。もとの子供部屋いまは物置なみの端っこに、藤子の少女時代からのピアノが据えてある。薫はそれに触りたくて奥野の家へも
来るのだ、くりかえしくりかえし、即興なのか、その辺の楽譜をなぞっているのか、たどたどしく、頼りなく、だがやわらかい音色で静かに、静かに、飽かず弾
きつづける。隣室で奥野は書き仕事をしているのだが、さほど邪魔に感じない。階下にも仕事部屋がありそっちへ移動しても、薫のピアノはさして障りにならな
い。一段落つくと奥野はキッチンにまた移動し、コップに半分ほどの酒を飲む。藤子もそばにいる。去年の、また一昨年の同月同日の日記を読み返し返し、昨日
今日の日記を書くのが藤子の趣味のようなものらしい。
「…ピアノ、好きなんだ」と奥野は天井をみあげ、深呼吸してから言った。
「そうみたいね」
「あのぶんなら、ま、いいや。……ありゃ、即興なんだろか」
「譜が読めるんじゃないの。ぽつんぽつんだから、なんだか…ちょっと即興に…」
「聞こえるのかな」
奥野らのところへ下りてきてからは、それでも薫はぼちぼち話に相槌もうつ。ときにはさざなみ立つ笑顔にもなり、気づまりもなしに一緒に夕食もした。立っ
てすこし藤子を手伝おうというふうも見せ、だが藤子と薫がいっしょに活動できるほど広いキッチンではない。春生らの稽古の噂から、流れで、奥野が台本を書
いた芝居のビデオを見ようということになった。そう誘ったと言われれば否定できない、教授室でもよく学生に見せた。NHKが二時間の「藝術劇場」用にうま
く編集した劇団「湖」の公演ビデオだった。
そして薫はやや時を過ごし気味に、奥野の自転車で暗くなった郊外の道を駅まで送られ、春生との目白の巣へと帰っていった。
「春生の、力になってやってください」と奥野はペダルを踏みながら、聞こえたか聞こえないか、前を向いたまま言った。薫を励ますくらいの気持ちだった。桜
も過ぎていた。春の夜がすこし冷えていた。
薫の、顔にうす紙をはったような無表情は、拭いさられこそしなかったが、すこしは奥野らの家に馴染んだかと見えた。その声はかそけくひくく、地声でしっ
かり話す奥野夫婦には及びもつかない。陰気にはずまぬ応対だったが、さりとて春生の両親にもの怖じしているふうでも、とくに遠慮しているふうでも、べつだ
ん退屈しているふうでもなかった。海老や蟹がダメと聞いていたのに、藤子の料理にうっかり小海老がまじっていた。それも食べていた。なんでもよく食べた。
デザートも遠慮せず食べた。奥野らは食べてくれる客が好きだった。
「どう思う…」
むろん帰っていったあとで、夫婦はそれなりに品定めの権利を放棄しはしなかったが、つかみどころが正直なところ少なかった。
「病気…は」
「さぁ…」
そうのようでもあり、たいしたことでないようにも思えた。着た物も持った物も貧しかった。着のみ着のまま家を出てきたけれど、母親から少しは衣類が送ら
れてきたそうだ。あれこれ聞くのは、だが、憚った。
「あのピアノは…。どう聴いた」と、奥野は同じことをまた尋ね、妻の顔をみた。
「習いたいらしいわよ…」
「テルコちゃんの音とはちがうな。ずっと聞きよい。ふしぎにやわらかい、ちょっと独特な音楽言語をもってる感じがした」
「そぅお。春生の部屋に来てたときなんか、見たわけじゃないけど、ただただぐうぐう寝ているっていうんでしょ。よっぽど気の休まらない生活をしてきたみた
い」
妻の言うのはアテ推量でしかなかったし、必ずしも同情しなかった。厄介な問題が薫には有るんだとも無いんだとも、けっこう都合よく使い分けて伝えてくる
春生ひとりの「口」情報からは、むしろ判断を急がないほうがいい気持ちだった。それでも精神の「病気」は、奥野らが気掛りな最たる一点にちがいなかった
――。
六
夏生(なつみ)が小学校の低学年時分だった、同じ教室にテルコちゃんという女の子がいて、情緒障害だか自閉症だかのテルコちゃんの面倒見を、担任の女先
生は夏生に指示したらしい。察するに難なく、夏生は親切に世話をやいて大過なかった。
その後、テルコちゃんは学年も下のほうに取り残されたが、夏生をながく記憶していて、高校に入ったころから、ときどき、ほんとうにときどき、奥野家を訪
れる、というよりも、突如闖入してくるようになった。
気がつくと家の中に、二階に、便所の中に、にたにた笑いながら潜んでいた。うぁッと驚くピアノを叩き回す異様な騒音に、家中の色が褪めた。奥野の家は、
書庫と母屋で巻き貝の巻いたような真ん中が、せまいテラスになっている。テルコちゃんは戸外からいつもそこまで回り込んで来て、テラスの硝子戸があいてい
ると音もなく入りこむ。理由は「ナツミ」に会いたい――だった。しまいに夏生と結婚したい、結婚できないなら一緒にお蒲団の中で寝たいと言いだした。家の
人に連絡して引取りにきてもらうのが、気苦労だった。テルコちゃんの母親は疲れきっていた。家に帰れば父親が折檻するらしいのも胸が痛かった。
家でいつも書き仕事の奥野は、テルコちゃんのピアノに降参した。名状しがたい不気味な騒音だった。恐怖心さえ覚えた。電車などで、ひとりでカン高く誰に
ともなく語りかけてやむことない人がいる。奥野は居合わせただけで琴線がばらばらに断ち切られな胸苦しさにいたたまれなくなる。感応し共鳴し、その強度が
あまりなためにいたたまれないのだ、怖くなるのだった。処女作の短編に、そんなふうな少女と中年男との気味の悪い出会いを奥野は書いていた。
テルコちゃんが夏生(なつみ)と同じ教室にいたのは偶然で、担任が夏生を見込んで世話役をさせたのも、咎められることではなかった。奥野も藤子もそう
思っていた。いくらか安易な仕儀で、後々のことを推測しなかったといえばその通りだが、そこまで担任に、また夏生に望むのは無理というもの。愛はあった。
悪意で臨んだものは誰もいなかった。ただ、辿り辿って目の前に一つの結果が出てきたのは現実で、家中が閉口した。迷惑した。テルコちゃんを叱りつけても意
味なく、だが、親に苦情も言いづらい。それでも、言った。善処を頼んだ。母親はひたすら頭をさげた。気の毒だった。父親が姿を見せるとテルコちゃんは奥野
らのテラスの片隅にちぢこまり、「ブタナイデ、ブタナイデ」と子犬のような悲鳴をあげる。どうなるのだ…これは。奥野も妻も子供たちも、ただただ愚かし
かった。「いっしょに寝たい」「結婚したい」「いつもいっしょにいたい」が、「いっしょに死にたい」まで来たときは途方にくれた。
「二度…あんなの、あったんじゃなくて」
「二波か…な。夏生が高校のときと、もう一波は、大学時代…」
――舟島薫の音色おだやかな、だが幾らかはやはり異様なピアノを聴いたあと、奥野らは、なんとしてもあのテルコちゃんの事件が思い出され、思い出せば必
ず芯から疲れてしまうほどのことでそれはあったけれど、それでもポツポツとお互いの記憶を探りあわずにおれなかった。
「喉元すぎると忘れてしまうのね。でも一度来始め…、間があってまたテルコちゃん、二度めも来たのよ。言うこともする事も、前と、ほとんど変化なかったけ
ど」
「あれって、一種の性的衝動だったんだね。結婚とか、寝たいとか、いっしょに死のうまで言い出したのは、第二波のとき…だ」
「あとの時は、夏生も、もう…まったく相手にも出来なかったでしょう……」
「…青くなってた。あいつ、大きなからだで机の下にもぐって、大学生の夏生が、丸くなってたもんね。…あれからだよ、漱石をしきりに読んでた。『夢十夜』
なんか読んでた。そしてムンクへ行ったんだ。卒論の」
「<叫び…>」
「あれより前だったかね、バグワンと瞑想の仲間は」
「どっちだったかしら。ムンクの卒論は、でも<叫び>でなく、オスロかどこかの壁画を…」
「モザイクの『太陽』論だった。読んでないけど…」
「あの卒論、夏生は、お父さんのために書いたのよ。その壁画のどこかの部分に、ムンクのお父さんの像が入っているんですって。その意味を考えたんでしょ、
夏生…あなたと自分とのこと書いたって言うの。お父さん、読んでもくれなかったって怒ってたわよ」
「きいてないよ、そんなこと。ムンクもおれは苦手だしサ。娘のムンクを、読むなんて」
「ちっと気恥ずかしいわね。あたしも読んでない」
「ほら、あいつ、新田さんや駒井さんとこへ行ってさ。もっとあと……、大荒れだった時分さ。そりゃも夏生さん、あの時は大変だったんですって、新田さん
言ってたでしょう。なにを喋ってきたやら皆目分からないんだけど、…ありゃ、どうだったの」
「『テルコ』は私なんですと、夏生さん言ってましたって、新田さん、そう、おっしゃってましたよ」
「ああ。そんなふうに聞いたね。あれ、『火祭り』の輝子のことなんかね。それともあのテルコちゃんと自分とが、同じって言ったつもりかなぁ」
新田一良は、奥野秀樹の深切な読み手で、ある神学部の教授もしていただいじな友人だった。藤子がことに尊敬していたし、夏生も敬意をはらい、なにかの折
りは話を聴いてもらったりしていた。奥野は奥野で、作家としても大学に籍を置いた身でも同じ、古い友人の駒井次郎によく話を聴いてもらった。
「とにもかくにもあのテルコちゃんサ、今思うと夏生に深刻に影響したよ。女の友達のめったにいない夏生に、女のテルコちゃんが執心したのも、妙に、こわい
ね…」
侵入してくるテルコちゃんは、たっぷりした大顔で、大柄で、肉付きよろしく強力(ごうりき)だった。「お家に、入れないでください」と先方の両親に頼ま
れ、相談した知人にも言われていた。だが入りこんでしまう。入ってしまえば無事に出てもらうまでが容易でなかった。
便所の消臭剤をぐにゃり鷲づかみに、にやにやして奥野が仕事をしている目の前まで入ってくる。抱きすくめて押し出すにもむちむちと大きくて、肥満男の奥
野もひるむぐらいだから、藤子の手になど負えなかった。春生(はるき)も辟易して近づかないし、テルコちゃんはただ夏生(なつみ)だけが目当てだった。容
赦ない仕打ちをして薄情がられるのも片腹いたい。近所からは「なんですか」とへんな顔をされ、いくらか同情されてみても、事情を分かってもらうのがまた厄
介だった。テルコちゃんだけが委細かまわず、器械のように正確に「奥野夏生サン」の存在、その声と笑顔と面倒見とを求めてやってくる。向う三軒にも両隣に
もテルコちゃんの関心は些かもなかった。弱った。
戸締まりをしない家ではない。が、まわりこめば敷地の芯のところまで入りこめ、そこにテラスがあり、夏場など明け放してあるのをきっちりテルコちゃんは
承知で侵入する。かんたんに二階へも上がってしまえる。夏生の勉強部屋が二階だったとき、勉強机の下にもぐりこんで、太った芋虫みたいに隠れていたりし
た。見つかると、にたっと笑う。
だが、奥野の気にもし始終目を向けていたのは娘夏生だった。テルコちゃんではなかった。夏生に、この訪問客は「何もの」であり「何ごと」であるのか。い
わば遠い過去の未清算部分が、突如清算を求めて飛びこんできた。優秀なと、これまで褒められてばかりきた高校生は、大学生は、何を感じて、どう対応するの
か。
「あぁら。テルコちゃんじゃなぁい。どぅしたの…、あたしに会いにきてくれたのぅ…」
そんな気のいい再会初対面の場面から、とうに完了のはずの過去が再登場したのだ、気紛れな一過性の珍客、まれびとのようにテルコちゃんはとりあえずやさ
しく夏生に迎えられた。だが、まれびとの滞在は長引き、ご機嫌をうかがうのは容易でなかった。まして名指しの夏生は、「いっしょに寝たい」「結婚したい」
と、あたかも人身御供に強いられていた。親二人も弟もはなからテルコちゃんの勘定には入っていず、肉薄の相手はひたすら「ナツミ」だった。「ナツミサン」
「ナツミサン」「なつみぃ…」と、連呼は近隣に鳴り響いた。
学校の都合で夏生は遠くへ引っ越したことにしてみた。上策ではなかった。姿を見られてはもとの杢阿弥になる。弟とちがい、その頃の姉の帰宅時間は比較的
はやく、高校時代の延長で、行事のない季節、六時の夕食どきには家にいる。駅の階段なんぞで待ち伏せするほどテルコちゃんは人がわるくなかったけれど、夏
生が帰宅の前にもう来ていて、玄関先や家の中であわや顔が合うということも、一度ならずあった。テルコちゃんもなかなか「ナツミ一人の転居」など信じてく
れなかった。
戸締まりし、テラスへ入りにくくし、防衛にこれ努めれば、テルコちゃんは門でベルを延々と乱打、また乱打。単調をきわめたピンとポンとの連打連弾は、ピ
アノの白鍵も黒鍵もない乱打乱撃とはまたちがう恐しい襲撃だった。耳を覆うしかなく、しまいには器具から乾電池を外して音を消した。
次ぎは門前の路上に正座して座りこみが始まった。ただ座ってはいない。いたるところから花という花の首をちぎってきて地面にならべ、「ナツミ」に「食べ
させてあげる。出てこい出てこい」と叫びだす。近所も傍観しておれず、パトカーを呼んだりされた。それはそれで奥野らにはつらい仕打ちだった。テルコちゃ
んのピケを官憲の手をかり排除するというのは、どうにも胸のすく措置ではない。それなら、どうする…。結局母親に来てもらうしかなく、引き摺られて帰るテ
ルコちゃんのカン高い叫びを聞くのは、
「あぁいやだ」
と呻くしかない、いやなものだった。
いやがって済むものでも済んでしまうものでもなかった。避難場のない道なかで激しい雨降りにあったようなもの、雨をどう憎んでも仕方ない。できるかぎり
対処するだけだが、テルコちゃんとの場合必ずしも対処をすらしなかった。しづらかった。専門医や行政の助力も頼まなかった。心のどこかで、テルコちゃんに
はしたいままさせるしかない、こっちはやんわり防ぐしかないと思っていた。思し召しで、いつかは終熄してほしいと願っていた。
さらにいえば藤子や春生の思いは知らず、奥野は、これは夏生の問題だ、夏生がどう問題を解くかと観察してもいた。大学生じゃないか。「哲学する」のに恰
好の課題ではないか…。そんなふうに考えてしまう親であった。
書けるかな……。
夏生が自分の責任で書いてもいいんだ、このテーマは。「愛」だろうか。「愛は可能か」を我が胸のうちに問いつめる、恰好の材料に娘は当面しているという
ことだ。小説家という、自分ではあるがもう一人の自分というしかない自分とも共生し共存している人種の奥野は、火の手が自分に向いていないと承知のぶん、
余裕とも冷淡ともつかぬそんな姿勢で、父親と作家と、一市民とを、つごうよく冷めて演じわけた。よその娘と自分の娘の、「愛憎」かも「対決」かも知れない
衝突のさまを眺めていた。
妻は…。
こういうとき藤子の胸のうちは昏く覗きにくかった。春生は超然としているようで、根は神経質な子だった。内心はテルコちゃん寄りに同情してたかも知れな
い。
放って置けば、危険も生じないではなかった。テルコちゃんの腕力は奥野も驚くほどで、藤子など振り放され、よろけて怪我もしかけた。刃物…。結婚できな
いなら、せめていっしょに寝たい、いっしょに死にたいとすでにテルコちゃんは出て来ていた。何を心配してし過ぎということはないし、火の用心も欠かせな
かった。テルコちゃんの「能力」には端倪すべからざるものが、たしかに、あった。
門の前でお薦(こも)のような儀式をされ、チャイムを乱打され、「ナツミ!ナツミ!テルコちゃんが会いにきてますよ!」と叫ばれつづければ、それはもう
夏生の内心にたとえ昔の教室で発揮された親切や同情が生き延びていたとて、太刀打ちできた力ではなかった。それどころか昔のそんな慈善めいた真似ごとの薄
さ細さ弱さ軽さが、いま、激しく打ち返されていた。夏生には思い寄らぬことだった。担任で、年配で、テルコちゃんには熱心だったという女の木村先生も、こ
んな未来は予測できなかった。当然だ。だが、現に、悩ましいかぎり不気味な事態だった。避けようがなかった。
夏生が怯えだした。テルコちゃんと聞くと顔色も変わった。
障害物を乗り越えテラスまで侵入してくると、鍵をかけた厚いガラス扉を叩き閉めた雨戸をテルコちゃんは叩く。叩く、叩く、叩く。夏生を呼んで呼んで、叩
く。
夏生は、テルコちゃんがしたように自分の机の下にまるくなり、顔を隠し耳を覆った。奥野は戸外に出て、外から施錠しておいて、テラスのテルコちゃんを威
しつすかしつ路上へ誘導した。家の中では藤子が先方の親を電話で呼んだ。それしか思い付かぬ奧野らも愚か者だった。
母親が仕事で留守がちなのもテルコちゃん来訪の一理由だったが、それに文句をつけるのはあんまりだった。だが親が捉まらないかぎり、テルコちゃんとの噛
み合わない押し問答をどこまでも続けるハメになり、疲れ果てるのは奥野らの方だった。急ぎの仕事や、まして来客のあるときは困った。女客など顔色を変え
た。そんな客に、へんに、まがまがしい印象をもって帰られるのがつらく、奥野らは平気でも、娘夏生(なつみ)のうえに妙な印象のまつわりつくのは迷惑だっ
た。憂慮した。当人がシャーンとしているならいいが、テルコちゃん事件で夏生の当事者能力は、パンクしたタイヤほど萎えていた。無理もなかったが、凹み方
にあまりに神経質に弱いところがみえ、親の奥野はアリャリャと思った。欲目かもしれないが、小さい時からもう少し向かって行く、考えて身を働かして行く、
そういう指導性が教室の中で評価されてきた夏生なのにと、机の下へ縮こまる娘をみながら、父親ははじめて夏生そのものが心配になった。
だが。たわいない話だが。ノリコちゃんの来訪もいつか絶えた。何故かなど、まったく記憶がない。詮索もしなかった。奥野らにすれば来襲されている間はい
やだが、来ないとなればこだわることではなかった。
奥野は、だが、こだわった。『寒いテラス』という未発表の小説を書き、神学者で牧師でもある新田氏に読んでもらった。小説では、夏生にあたる少女がテル
コちゃんにあたる障害ある少女を、はずみで傷つけ、新聞沙汰になってきつい非難を受ける。父親は書簡体で問題の在り処をさぐりつつ娘を弁護する、そんな組
み立てだった。「愛は可能か」という主題を生かした。
どこからどう見てもテルコちゃんを迎えた、いや迎え撃ったというしかない奥野家のテラスに、「愛」らしきものは稀薄だった。当惑の甚だしかったのと較べ
れば、愛など全く無かった。小説のような事故が起きなくても、あれがよその家のことだったら、奥野夫婦でも、まして理屈屋の夏生などひょっとしたら唇もひ
ん曲げ、その家族の対応をむちゃくちゃ批評し非難したか知れないのだ。
身にふりかかった事件の推移をみながら、だが、そんな程度の問題ではないように奥野は思った。「愛は可能か」と問うべき或る意味で絶望的な課題に奥野ら
は直面した、だから奥野は書いた。
だが奥野は、新田一良ほど知己の勧めがあってなお、作品の発表は見合わせた、原稿もしまいこんだままに――。
新田の読み終えた『寒いテラス』が手渡しで戻った日、奥野はキリスト者新田一良の案内で目黒区碑文谷のサレジオ教会をおとずれ、或る渡来「マリア」図
の、原画ではないがよく出来たレプリカを観た。いつか、その、新井白石も見ていた「親指のマリア」を小説に書こうと奥野は心に決めていた。新田もそれで連
れて行ってくれた。小説は京都新聞の朝刊に連載した。
愛は可能かーー。可能なわけがないというのが奥野の根づよい思想だった。愛は貴重な錯覚だと考えてきた。錯覚すらたやすく生じないと思ってきた。
奥野秀樹は生みの親たちを事実上知らない。養父母に育てられていると心ならずも五つ六つで知りながら、知らん顔を、大学を卒業まぢかまでつづけた。親が
奥野をだましていたわけではない、奥野が養い親をあざむいていた。そしてその間に自分で育てたのが、父母未生以前本来「孤」という断念だった。その断念を
奥野は、大海原に無数にまかれた豆粒のような「島」の一つとイメージした。島には自分の足をのせるに足る広さしかない。人は、世間という大海原に、我一人
しか立てない島に投げ置かれてきた、それがwasborn=生まれたという受け身の意義だとした。島から島へ橋は架かっていない。孤独孤立の世界には、寂
しくて呼びあう声が、愛がほしくて呼びあう声が、充満している。風のように戦(そよ)いで渦巻いている。
ところが、一人しか立てないはずの島に、二人で、三人、五人、もっと数多くの他人と倶にに立っていると気づくときがある。「愛」が成ったかと思われる。
錯覚なのだ、が、これほど貴重で必要な尊い錯覚はない、というのが少年奥野秀樹の思想になった。
奥野には、親子、夫婦、兄弟でもそうだ、血縁、友、師弟、同郷、同輩、同窓等々、すべて「呼び名」のついた人間関係は、実質なかなか信じ難く、約言すれ
ば「自分」でない、つまり「他人」に過ぎないと思えた。知っているけれど知っているだけの人かもしれぬ意味で、つまり「他人」だった。無条件に「身内」と
は認められない「他人たち」だ。そして彼等の背後には、彼方には、まだ知らない茫漠として広い広い「世間」があった。広い広い海、無数の島、その一つの、
自分の島。「世間」「他人」「自分」――その他の「呼び名」はみな便宜以上には信じないほうが良い。抜け殻の夫婦も、憎みあう親子・兄弟・親族も、いくら
も在る。人間を分けて考えたいなら「自分、他人、世間」で尽くせているではないか。他には男と女――これは種の問題だ、倫理の問題ではない。
だがあまりに寂しく、人と人は、互いに相手を求めた。人と人の「愛」を多く表現の主題に据えてきた。錯覚であってもいい、独りでしか立てぬ島を良き他者
と共有し共立したいと願った。錯覚でならば、どうやら可能だった。それなら錯覚しあえた同士は互いに「身内」と呼べばいい。「自分」と同然――運命を分か
ち、死んでからもいっしょに暮らしたいと願うほどの人、または人たち、を「身内」と呼べばいい。夫婦だから身内なのではなく、親子だから身内なのでもな
く、逆だ。身内だから、夫婦にもなり親子として全うもできる。そういう厳しい仲――、間柄という「間」を取り去ってしまった(と思えるほどの)仲、それが
奥野の「身内」観だった。「貰はれッ子」の奥野が自分で見つけた立場、自分で創った基礎だった。夫婦だから、親子だから、親族だからなどという納得が、ア
テにならぬ砂上の楼閣であることを奥野は自分の生い立ちから、いやほど知っていた。
テルコちゃんのことでも、夏生の方は少なくもとうの昔に「愛」を見失っていた。だからあんなに閉口し逼塞した。だがテルコちゃんの錯覚の「愛」は、あえ
て謂えば病的に進行していた。猛烈だった。奥野らにもちろん愛はなく、困惑と同居の惻隠の情だけで終始したのだ、惻隠などというもおこがましい、はっきり
いって嫌悪もしたし、さすがにテルコちゃんへの怒りではなかったが、なにものかへの憤怒にかられたこともしばしばだった。担任の教師に。先方の親に。行政
や福祉に。社会に。国に。娘夏生に。いやいや、そういう玉葱の皮をむくような怒りでなく、つきつめれば「愛なき人間」の面目それ自体へ迸る怒りだった。
「神」のことを奥野は考えていた。自分にあんな「島」と「身内」の思想を養ったのは神だ…だが……、それから、力よわくやはり奥野は「自分」を責めた。自
分の思想に、認識に、深い謬りが在る…のかも知れない…。
七
薫の、舟島薫のピアノの音色は、明るくも強くもなかった。暗くもなかった。低い声でだれかにものを言いつづけるように、くりかえし、丹念に、だが即興の
音響そのものとなり、いつまでもいつまでも続いた。二階は寒いほどでないが、暖房のない部屋で、いっそ独りは気楽であろうけれど、いつまでたっても奥野ら
のいるキッチンへ降りて来ない。奥野らも放っておいた。あんなことで心安まるのならけっこうだ…。
晩の食事は薫と三人でした。芝居の稽古で遅くなるので、春生にしても穴蔵のようなアパートにひとり薫を置いておくよりもと、親たちの家を安心に思ってい
るのだ、そんなふうにして馴染み合えるのはいいことだ。奥野のかねて心配したのは、両親と薫との間に「壁」のように春生(はるき)が立ち塞がり、力づく疏
通を妨げることだった。そういうことをされては親しみようがない。
夏生(なつみ)がそうだった。奥野らと夫内村との間へ、いつも遮二無二割りこんだ。父親や母親に夫と「個と個」で対話などさせては、夫がさも気の毒と
いった感じだった。
お前がそういういちいち邪魔をしてたら、婿さんと仲よく遠慮なく睦まじくやって行きようがなくなるじゃないか。奥野は夏生に苦情を言いつづけた、だが夏
生はうしろ手に夫を庇って容易に親に直面させたがらず、内村も上っ面のご挨拶しかしない。あれじゃ生涯「他人」でしかない…。
奥野は不快だった。
あれと同じ窮屈に陥るのは、たまらない。
もし春生と結婚し、薫が幾久しく奥野家の一人ということになるのなら、奥歯にものの挟まった他人行儀は是非にも御免蒙りたい。接している時間をなるべく
持ちあうこと、できれば春生抜きにでも薫が奥野や藤子と気軽に口の利ける機会がもっと欲しかった。そこまで春生が考慮し配慮したとは思わない。心を病んだ
薫を、とかく無遠慮になる父親などと真向きに会わせるのは気の毒とさえ考えているらしいのだが、奥野の勘では、それは逆だ。春生の親たちの暮らしに今少し
身を添わせたって自分はいい、べつに窮屈なばかりではないと薫は感じているんじゃないか。春生にもそう言った。
信じられないという顔を春生はした、が、事実薫は独りで訪ねてきたし、独りでなんとなく好きに奥野家で時間をすごした。隣棟で、寝てきていいのよと藤子
が道をつけてやれば、「うん」と頷き、そのまま春生が元の部屋に残したベッドへ行って、昼寝してくる薫だった。
自然と、あのテルコちゃんを奥野らは思い出さずにいられない。比較にもならない、薫は、奥野らの目に春生が言うほど心根をひどく病んでいるとは、映らな
かった。映らなければ映らないで、それならばまた別問題を薫について考えなくてはならない。病気がたいしたことで、もし、ないのなら、二十歳の大学生とし
てはどうなのか。部屋にまで転がりこみ春生に只ぶらさがって「休学」しているわけか、それではサマにならない。
藤子は、夫ほどは薫の状態に安心していなかった。藤子にも、結婚して三十七年、さすがに内心に溜めた鬱屈があって、ときどき破裂し、平静を失して奥野を
責めたことも何度もあった。いまその詮議にかかるのは重荷だが、舟島薫の例と限らずつまり「心」の衰え、疲れ、ないし病んで行く必然について、奥野秀樹と
いう夫には頑迷で鈍感なところがあり、つい人の心労を軽く、また軽んじて見がちになりやすいと藤子は言っている。
「薫さんの疲れてる理由は知りませんけど、つらさは分かるの。だから病院へ相談に行かずにおれないのよ」などと言う。
藤子も一時精神科の心理士に話を聴いて貰いにしばらく通っていた。薫は現に通っている。藤子に何故そんな必要があったのか、考えねばならないと奥野も視
野にはとらえていた。だが差しあたり放っておけぬ目の前に、春生の、いや夏生の、ことがあった。放っておけばいいでしょう、などと簡単に言える人はいい
が、放っておくというのは、そう簡単なことでない。
舟島薫は、食後の話題のとぎれたところで、テレビのビデオに見入っていた。引きこまれているとも退屈しているとも、さっぱり読みとれない横顔だ。奥野は
半分目をとじて別のことを思っていた。藤子は委細かまわずという顔をして立ったり座ったり片付けたりしていた。猫のノコが生きていたら膝に乗せてじっとし
ていただろう。
テレビに映していたのは、漱石原作の『こゝろ』から奥野の脚色した芝居だった、劇団「湖」のKという人気俳優が「先生」を演じていた。戯曲初体験の奥野
に、『心―愛と死』と題まで決めて頼んできたのもKのプランだったとか。奥野はおどろいた。
「一冊の本」をと言われてはとまどうが、人生を方向づけた一作をというなら、ためらわず奥野は『こころ』を選ぶが、それほどの傾倒を妻の藤子も知らなかっ
た、誰一人知らなかった。ものにも書いて来なかった。それなのに、いきなり『こゝろ』をと注文がきた。奥野は即座に受けた。出来る出来ないなど考えず、引
き受けた。
幸い、評判はよかった。漱石人気の名作を劇団「湖」の一の人気俳優が主演するのだから、当たらないわけがなく、だが、奥野をよく知った読者から見れば、
要するに原作にかりて奥野の「島」の思想や「身内」観を、思うさま劇化した舞台だった。『こころ』という原作に学びながら、「奥野秀樹の」とレッテルも貼
られたそういう思索を奥野は培ってきた。
「身内」は、「他人」や「世間」から選びとるもの、と奥野は少年時代に心に決めた。
一つには、奥野の実の父と生みの母とは結婚していなかった。奥野を生んですぐ別離し、乳飲み子の秀樹は「父母ノ戸籍ニ入ルヲ得ズ」我ひとりの戸籍を立て
て生きるしかなかった。やがて奥野という家に貰われて育った。
二つに、育ててもらった奥野の家庭に心の底からは馴染めなかった。貰い子と人に囁かれながら親には知らぬ顔ですごすという、幼い胸にあまる演技を自分で
自分に強いてきた。
三つには、我ひとりしか立てない「島」が寂しく、「世間」へ「他人」へしきりに呼びかける年頃になっていた。
義務教育が六・三・三と変わった戦後新制中学に進み、二年生の夏休み前、少年奥野は運動場の朝会で上級生の列の中に、初めて「その人」を見た。転入生
か。一瞬、その人のほか、大きな柳や櫻木のある運動場も、三階の校舎も、いつもどおりな生徒たちも、みんな灰色のかげをかき混ぜたように頼りなく揺れた。
地面から生えた石になり奥野は固まってしまった。似た気持ちに襲われたことは、小さい頃から何度かあった。だが似ているようでまるで違う、それが、一瞬に
分かった。
「恋」ということばを少年奥野は慎重に「その人」に用いるのを避けた。年齢のこともあった。光君が藤壺を想ったほどの憧れと、あの二人のようにはならぬと
いう潔い断念とが奥野を満たした。
思いは届いて、「もらひ子」で一人子の少年は、あたかも「母」に代わる「姉」を得た。中学三年の少女が、慕いよる一つ下の少年を「弟」と認めた。学校や
世間という雑踏からまるで霞が隔てた密室のなかで二人は清い蜜をわけあい、二学期と三学期とを過ごした。あらゆる他者の介在を無いもののように忘れ果てて
過ごすことができた、少なくも奥野秀樹は。
姉は、佐倉芳江は、奥野にこう教えた、
「ほんとのことは言わんでもええのぇ。分かる人には言わんかて分かるの。分からへん人にはなんぼ言うたかて分からへんの」
「あんたのことは、よう分かってる。いつも、いつも、いつまででも分かってるえ。」
奥野は考えた――親よりだいじな人が、この世にいたんや。ほんまの「身内」がいたんや…。
芳江は、だが、卒業していった。奥野の手に、漱石作『心』の文庫本をしっかり手渡し、中学の門を、見送る奥野とふたりで出て行った。佐倉家の事情で、そ
のまま、奥野はかぐや姫を見送った若い帝のように姉を見喪った。いっそ二人には潔い別れだった。
再会に、ほぼ四半世紀が経った。それもまたあっというまの雲隠れゆく月光でしかなかった――。
中学二年で芳江を送った卒業式までに、奥野少年は源氏物語世界を与謝野晶子の現代語訳で知っていた。谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』も新聞の朝刊で読んで
いた。漱石の『心』は未だだった。
いや、こんな「心」なら知っていた。
小学校の五年生頃だった、本が読みたい読みたい奥野は、古本屋での立ち読みを覚えていた。一冊といえども買う小遣いはなく、しかし夢中で読みに行った。
佐々木邦のユーモア小説が大のひいきだった、すばやく読めて、うまく行けば二度読めた。帳場へ背を向けてひしひしと読んだ。
そんな邦のどの作品か忘れはてたが、やはり古本屋へいつも立ち読みにくる青年が書かれていた。帳場に娘がいて、奥にはこわい父親が存在した。青年は娘に
恋していた。娘も憎からず感じていただろうが、意はたがいにまだ通じていなかった。
ある日、思案にあまった青年は、天祐をたのみやおら一冊の本を書棚から選ぶと、勇を鼓して帳場に近づき娘に示した。娘が顔をあかくして青年を見上げる、
青年は決然とその「本」を指さしまた本の題の「心」を指さして且つは自分自身をも指さした。大胆にそれを繰り返し且つ示唆した。つまりは自分の恋は「本」
「心」からだと。娘は察した。花のようにあかく頬を染めて――。
その余のことは奥野も覚えていない。だが「本」「心」は忘れず、しかもそんなに都合よくこの世間に「心」などというとりとめない題の本などあるだろう
か、小説家というのは都合よくウソを書くんやなと思った。だが忘れなかった。
漱石の『心』を姉さんの「本心」のこもった本だと奥野は思い、読みに読んだ。「島」に生まれた(wasborn)人間の在りようを信じ、しかも「身内」
を得た実感を身に抱いて放さなかった――。
春生(はるき)は、小学校五年か六年頃、父親に「先生の遺書」の章を読んでもらって、「K」が可哀相だと涙をぽろぽろ零(こぼ)した。
同じ頃、春生はツルゲーネフの『初恋』も文庫本で読み、女主人公のジナイーダにいたく思い入れていた。お年玉の一冊だった。夏生(なつみ)も父にすすめ
られ、やはりその年頃に春生よりもいろいろ長編も短編も「勉強」なみに読んだ。感想も書いた。
毎夕食後の団欒を利用して、『細雪』を全編、井上靖の『しろばんば』を全編、これは奥野の役で音読し通したこともあった。聴いててはじめは退屈したけれ
ど、『細雪』の描写ってとっても具体的なんだね、だんだん引き込まれたねと春生が最後に感想をもらしたとき、奥野は嬉しかった。いいところへ来ると奥野は
声をつまらせる。そんなときは夏生が読み手を交替した。
強いられた読書だと思い、子供らはほんとうは嫌だったのかも知れない、よけいなお節介だったんだと情けなく奥野は感じることもあった、が、だが、そうい
う父親であることをやめなかった。遠くから知らん顔で見ているだけでは淋しいと思う父親だった。話せるうちに話せるだけ話しておきたかった。押し付けがま
しいと気が付かぬわけでなく、だが奥野は思った、他に何が自分にできるのか、何もしないのが一番などと思うのがほんとにいいことなのだろうか。
女子(をみなご)の身になし難きことありて悲しき時は父を思ふも (松村あさ子)
というほどの時が夏生(なつみ)に有ってほしくないが、もし有れば父の言葉のたとえ一言でも二言でも思い出せるようで、せめて、ありたい。
亡き父をこの夜はおもふ話すほどのことなけれど酒など共にのみたし (井上正一)
というような生き苦しさに春生(はるき)もいつか呻くにちがいなく、そんな時のためにたとえ一言でも二言でも多く話し合っておきたい。
これはおれの「病気」なのかなぁ…独りよがりなんだと嘆息もし、嫌われたっていい…いつか分かってくれるさと、奥野は居直った。居直るのを常とした。
だが…「婿殿」には嫌われた。夏生には、分かってももらえなかった。
壻の内村竹司が夏生を介して奥野らに漏らしたのは、第一、自分は奥野の家で「身内」と思われていないという憤懣だった。劇団「湖」の公演を見せておい
て、おまえは「身内」ではないかのように舅に放言された、不愉快だと言った。
微妙に、思いが食い違っていた。
親類だから「身内」だと内村は言い、ところが奥野のいう「身内」とは、奥野の読者なら承知のように、一人しか立てぬ筈の「島」にいっしょに立てた同士の
意味であった。その考えに奥野の文学は根差してきた。ただの思い付きではなかった。だが内村は最初(はな)っから奥野の考えてきたことなど聴く耳をもた
ず、世間なみの理解で不満を溜めたのだ。
内村の誤解は、「世間」や「他人」の一人としてなら了解できた。同情もできた。奥野の「身内」は、文章や本で知るしかない特別な、かなり強引な物言いに
違いなくて、誤解しても一応無理はなかったのである。だが内村は、奥野の娘夏生の夫ではないか。日頃、親子だから、夫婦だから「身内」だなどとは考えない
と当の我が子にも妻にも言いかつ書き続けてきた父親の娘が、我が夫の、もし誤解なら誤解を、なぜ解いてやらないか。少なくも説明は出来る夏生ではないか。
それが奥野の言い分だった。奥野にすれば、木で鼻をくくったみたいにああも馴染んでこない、夏生もわざとのように馴染ませようとしないでは、いくら婿さん
だか知らんが「他人」と変わりゃしないと匙をなげていた。機嫌をとってやるのがバカらしかった。
まずいことに一度そう思ってしまえば一向つまらない、面白みも何にもない内村だった。奥野家へ訪ねて行っても夏生と孫の写真は飾ってあるが、おれの写真
は無い、「身内」だと思ってない証拠だと女房に八つ当たりするという男がだんだん、だんだんアホらしくなった。
いま、春生の――何と呼べばいいか、転げこんだ「同居人」の舟島薫が、何を考えながら奥野秀樹の書いた『心―死と愛』の舞台ビデオを観ているのか分から
ない。願わくはあんな内村とのような温まらない付合いはしたくない、あれを繰り返すぐらいなら、春生も薫もどこか知らない世界で勝手に暮らしてくれればい
い。しらじらしく「他人」との「家族ごっこ」に神経をつかう根気は枯れかけていると奥野は自覚していた。うわべとうわべの家族なんてものに辛抱するのは、
そんな世間に飽きるほど付合ってきた奥野は、もう御免こうむりたい。そっちで好きにやっててくれと言いたい。
「いい子なんじゃない」と、春生の「城」に帰って行く薫を、帰りの駅まで自転車の荷台ではこんで戻った夫に、藤子はおっとりと口にした。
「そうかもしれない。そうでないかもしれない。まだ分からない」と奥野はたやすくは乗らない。口先でいいことを言いあって、そんなふうに安い或る断念へ泳
ぎ寄ってゆくのではつまらなかった。
春生にさえよければいいの…と、どうかすると藤子は身を退いたようなことを言う。世間のそれが常識かもしれない、が、ほんとにそんなことでいいのか。賢
しらが過ぎてないか。なぜ、自分にとっても好もしい「春生の妻」であってほしいと願ってはいけないのか。「島」には一人でしか立てないのだから、だから、
そういうことも、二人で三人で立ちたいと真剣に願ってしかるべきではないか。春生にさえよければいいというのは、――夏生を、結局はその「理屈」で捨てた
ではないか。それで幸せなのか、夏生も、われわれも。奥野は痛む胸を手でおさえてそう独り思った。夏生の良い夫であるのなら、奥野らにも良い婿、むろん越
村にも良い妻の両親であろうと互いに努めるべきだったし、奥野はそう願ってうるさいほど夏生に物言いを付けた。おやじと亭主と、男同士の間へ邪魔に入るな
と。夏生は頑固に聴かなかった。内村も近付いてこようとしなかった。舅に頭を押さえられるのはいやだと言った。くだらない。それほどの頭か…。
奥野は腹のうちでこう思っていたのだ、夏生にさえよければ…どんなヤツでもいい、戸川一馬や杉本ゆたかよりは、と。あげく内村に娘を押し付けた。しまい
には夏生がいいのなら離縁されるよりはマシと、娘を捨てた。いきおい孫も捨てた。取り持ってくれた山根の好意に乗じ、つまり押し付けたのだ、内村竹司を…
娘に。難儀な娘に、美男の内村を。
喜多流の能をその友人山根と観ての帰りだった、昭和六十年、三月上旬だった。大曲の「弱法師」を山根の大師匠であるシテが演じた。あわれ涙さそう父に捨
てられた盲少年の胸を焦がして、西方の落日が、奥野の眼にもあかあかと能舞台に燃えて映じた。
この日は山根の誘いだった。あの頃は、月に一度か三月に二度ほども早稲田の山根教授とそのようにして会っていた。山根信之は、藝能の平家琵琶がらみに、
平家物語流伝の系譜を克明に追ってきた研究者で、謡いや仕舞はなかなかの境を歩いていた。奥野の小説をはやくから読んでくれていて、出版社のパーティーで
編集者に紹介してもらって以来交際を重ねた。いい相手だった。山根に酒の味を教えたのが奥野なら、奥野を誘って、やすくて旨いと触れこみの店から店へ連れ
て回ったのは山根だった。会う度に二人ともちょっとずつ体重が増えていった。
あの「弱法師」のあとも、目黒からの帰路、山根は守備範囲の高田馬場駅ちかくで「ジャンボ・オムライス」を食べましょうと、奥野を途中下車させた。年は
奥野が二つか三つ上だが、ウマも話も合い、ありがたい友人のひとりに大事に数え、山根に会う日はいつも奥野の心はずむ日だった。
だがあの日は、そう楽しい気分でなかった。あの日だけでなく、あの頃は、もうもう家の中があばら屋ではないかと思うぐらい吹き抜けの嵐にガタピシと鳴り
つづけていた。
あの年、正月早々に春生(はるき)は従兄の家に遊びに行き、泥酔し、帰ってきて吐いた。高校二年だった。だが春生自身は来年の進学を視野に入れたガンバ
リに気が入りかけていた。あれは正月半ばだったか、老いた女歌人の「濁流」の生涯を紹介したテレビ番組に春生は感動し、父の書庫から歌人の『全歌集』をも
ちだしたりした。少年むけのなにか一冊を一気に読み、「本を読んで久しぶりに泣いたよ」などと言ったりもした。
荒れていたのは夏生(なつみ)だった。今日の明日にも、叔父さんほど年のはなれた杉本という独身男の、連絡しようにも電話もないアパート暮らしに、走っ
て駆け込もうとしていた。奥野も藤子も、春生さえも、必死で夏生を押さえた。なんとしても、なんとしても、と、奥野は歯を食いしばる気力で荒れに荒れる夏
生に立ち向かい、道を譲らなかった。「夫婦」は、できるだけ永い年月を同じ目の高さで視野を共有して生きるのがいい、あまり大きな年齢差は埋めようのない
ギャップを背負って生きることになる、そう言いもし思いもして奥野は娘の疾走を体当たりで遮った。よかったか、わるかったか、とにかく遮った――。
卵料理の好きな奥野も、あの晩ばかりはジャンボな皿をわきへ片よせ、山根の顔を見て、とうとう、話を聴いてもらった。
八
昭和六十年、二月下旬のある日、夏生は、本人の言うところ、同時に、二人の男に求婚された。
一つは申し合わせ「三年」の冷却期間を消化して、現在は松江に帰り教職にある戸川一馬の、手紙での求婚だった。夏生は読み終え、すぐ断わろうとしたが、
電話が繋がらなかった。翌朝、出勤前に電話したがやはり掴まらなかった。結論は、だが、出ていた。
もう一つのプロポーズは、その晩音楽会に誘われていた相手からだった。男の名前ぐらい或いはちらほらしていたのかも知れないが、藤子も奥野も、虚をつか
れた。「初めてのデート」だったと夏生は言うが、それならそれで唐突すぎる。(からかわれたんじゃないか)と思えたわりに、夏生はほくほくしていた。抑え
て抑えても興奮がしずまらない。こと求婚ではムリもないか…。
「杉本」という相手は、年をきくと三十八だそうで。夏生は、この夏に二十五になる。
「背は、あたしより低いの」と笑って付け加えたが、心行くものがあるとみえ、少なくもその場で断っては来なかった。私立のある美大の講師だった。やがて助
教授になれるらしいが、だから、または、そのために、大学の要請もありえただろう「家庭を」の気が起きたらしい。
「初婚…か」
「ええ。もちろん」と夏生はまた声を上げて笑った。
奥野は前年暮れに四十九になったばかり、藤子も四月はじめに同い歳に追いつく。指折るまでもない、夏生より両親へ男の齢の近いことに、違和感、もう少し
いえば理不尽ながら咄嗟の不快感を、藤子も、奥野ももった。わが身に顧みて三十八という春には、奥野秀樹はやがて二足のわらじを脱ぎ、「筆だけ」で立とう
としていた。見込みが立ちかけていた。そこまで藤子と力を合わせてきたことは、なみなみでなくて、そこに「夫婦」の消えることのない足跡があった。
杉本ゆたかという名に記憶があった。
「北斎だね」と奥野が聞き、夏生はうなづいた。
葛飾北斎の行き届いたいい年譜を書いていた。「いい年譜」とは、積み重ねた分厚い研究の帰結だった。
長野小布施の北斎館まで出かけて奥野がテレビの美術番組に出演した際も、杉本作成の北齊年譜をありがたい話の目安にさせてもらった。
それはそれ、だった、だから夏生にふさわしい相手とは考えなかった。一風変わった、と言うよりただむさくるしい独身アパートでの杉本の「暮らしぶり」な
ど夏生の口からありあり聞くにつけて、奥野も藤子も、だんだんと、やりきれなかった。
一週間ほど間をおいて、三月早々、奥野家の親子四人が寄って、夏生と杉本とのことで話し合った。
「魂の色が似ている」という名言を夏生が吐いたのは、戸川一馬と婚約したいと言い出した三年前だったが、同じ物言いをまた繰り返して夏生は杉本ゆたかの求
婚を受け入れたいと、ほとんど叫びつづけた。いいとも、叫びたいだけ叫べ…。許されないなら家を出ていっしょに杉本と暮らすと夏生は言った。年齢が何であ
ろうと言った。なるほど年齢が何であろう…。杉本は一刻な学者で、北斎年譜関連の仕事はやがて大きな或る賞を受けるだろうと下馬評も聞いていた。奥野も十
分評価していた。そういう人と自分が「友人づきあい」できるのなら歓迎だ、だが「夏生の夫」にとなれば話はべつだ。
夏生は美術館勤めをしていたし、杉本はその美術館に所蔵の北齊を調べていた。事務長か学藝員のだれかに命じられ夏生は杉本ゆたかの調べ仕事を手伝ったら
しい、そのての仕事は夏生の得手であった。
だが「初めて」のデートでいきなり求婚というのは呑みこめない。親がショックに感じたほど、杉本の、いわば衣食住について、暮らしぶりについて、夏生は
こまごまと説明できた。そんなことまで、いつのまにと思わず反問し、夏生は片頬でにっと笑った。
山形県に杉本の親が健在で、みな結婚に賛成、もし奥野家がどうあっても不承なら、夏生を「もって走れ」とまで杉本は煽られていると、ちょっと挑むように
夏生は親二人に告げた。顔色が変わった。「ぼろ雑巾のような」と夏生が表現しているガス台ひとつない部屋で、電話も公衆電話で済ませて四十近くまで家庭を
持たなかった男に、なんで二十五の娘をやらねばならない。奥野は肚にちからを入れ、態度を確定した。思い切りバカな父親をやってやる。
夏生は、父親に勧められて、奥野家のみなが懇意にしている新田牧師や、美術館の先輩学藝員らの助言を受けていた。杉本を知った館の人は、人物のことは保
証した、あまり似合いのカップルだとは積極的に見てくれなかった、らしい。
新田氏は、激して泣き出したらしい夏生の話を聞き取ったあと、一つの案を示した。知人によく頼んであげますから、夏生さん、一時アメリカで暮らしてきて
はどうか。「読者」新田と「作者」奥野を最初に繋いだ奥野の若い日の小説に、そういう策でヒロインの恋を冷却させようと親族の動く場面があった。奥野は苦
笑し、夏生は心を動かした。
奥野は新田案を断わった。得難いなかだちも得て格別の配慮で夏生を採用してくれた、美術館への遠慮もあった。
杉本問題を梃子に、親と決闘しようとするほどの態度が夏生に見え、ところが決闘の場さえ、この際はアメリカ行きをさえ、オンブにダッコ、みんな親に用意
してもらいたいと言う。バカかお前。甘ったれるな。奥野ははねつけた。はねつけられてからが大騒ぎだった。
杉本の師匠格の大学教授もわざわざ奥野に手紙をくれた。丁重な文面で痛み入った。奥野たちにすれば、だが、夏生を主にして考えねばならない。見れば見る
ほど、察すれば察するほど、夏生は杉本を愛しているのではなかった、「結婚」に惹かれていた。
杉本からも二度三度手紙が来た。会って話そうかと思うほどの手紙ではなかった。三十八まで結婚しないできた事情にも合点がいかなかったし、年齢差は愛に
は関係がないぐらい誰にでも言える。そんなことの分からぬ奥野ではなかった。誰にでも言えることを言っていては到底越えられない嶮岨、それが「夫婦」の過
ぎた年の差だ。奥野は杉本の年齢までに、二十代、三十代の大方、十四年もの間を藤子と、妻と、二人三脚でおおげさなようだが七転び八起きを実感してきた。
貧しかった若い夫婦の幸せも、みなその中にあった。同じような幸せを、若い夏生にも相応に「若い」夫とともに、一心に歩ませてやりたかった。おおよそ人生
にもう「道」をつけてしまったような年配の夫をもって、年若い妻は少なくも何を夫と共に励みに生きればいいのか…。
杉本側の姿勢には加えて不穏な、刺激的なものがあった、夏生を盗み去ってもと家ぐるみで言われては、堪らない。
なにより話し合えば合うほど夏生の気持ちが、本気なのか、本気そうに自分で自分に煽りたてているだけか、奥野の勘は、どうも夏生の心根にまだざくざくし
た隙間、たとえばアメリカに遊学できるのなら、杉本との結婚など簡単に諦めていいほどの隙間がありげに思えた。そうなら、ますます、そんな程度の杉本との
結婚を早まらせてはならない、と、少なくも奥野一人はあのとき考えた。藤子も春生(はるき)も、もうだめだ、引き止められないと半ば諦め顔をしていたが、
奥野は引き止める気だった。引き止めねばならんと考えた。
「あれぁ、人を愛してるという暴れようじゃないよ。人に後れをとりたくないのが半分の、結婚願望ですよ。すこしべつの言い方をするなら、この奥野の家か
ら、父親であるわたしの、奥野秀樹の、そう…なんと言うかな、桎梏かな…、桎梏から自由になりたい。気ままにしたい。自由が得られ気ままができるなら、結
婚相手はぜひ杉本でなけぁと夏生は思っちゃいないよ。見てみろよ、アメリカの方にもうだいぶ腰が引けてるぜ」と、夫は妻にも、よく見ろと注意した。
「何が自由なんだい。勝手ができれぁ自由なのか。大学を出て何年になる。りっぱに大人の齢じゃないか。なのに、はなから自力でやる気、なんにも無いじゃな
いか。自力でやれるまでの辛抱も用意も、なにひとつロクにしてないじゃないか。もう少し『自由』の意味する本気のところを喋ってみろよ、何が哲学か…」と
父親に突かれると、夏生は声をあらげた。
「自分には青春がなかった、お父さんがみな頭を押さえたからよ」と泣きわめき、それでも奥野はガンと我慢して話し合ううちには、ほんとうのところ「結婚」
なのか「アメリカ」なのかも混線してきた。「杉本」という影はみるみる薄れかけていた。美術館も、学藝員資格への勉強も、学会も、漆器研究も、煎茶の趣味
も、英会話も、合気道も、個人誌の発行も、ペン習字も、することが夏生はみんなハンチャラケだ。続かなかった。そこへ求婚、そしてまた、アメリカか。やめ
てくれよ、バカか…と奥野は言いたかった。
苦労して望みの先へ就職できた娘を退職させ、アメリカでけっこうに遊ばせてやれるどころか。京都には義理ある育ての親と叔母と三人、いましも九十歳に
揃ってちかづき、今日にも奥野一人の手の中に倒れ込んできて不思議はない。その心づもりに奥野も藤子も寧(やす)き日もなかった。せまい此の家のどこにも
金のなる木どころか、草一本生えてはいない。奥野はリッチに稼ぐ作家ではないのだ、夏生お前はなにを考えている…。
夏生の本気なのは家を出たいというそれだけだ、だが、自前で出て行く蓄えがない。だから費用は出してくれ、か。家から出し、もし暮らせるほどの金を出せ
ば、今はどんな渦に夏生自身を巻きこみ夏生自身で沈んで行くか、父親は、当然本気でそれを恐れ危ぶんだ。では、結婚させてしまうか。あんまり安易ではない
か。父親は娘の「批評家」ではない、娘を守らねばならなかった。「守る」とは、だが甘やかすことではないぞ…。
奥野は頑張った。
泊まっては来なかったが、夏生はまともな時刻に帰宅しなくなった。それも意思表示だろう、親の目も手も届きようがない。身なりも妙にぞろりと、急にだら
しなくなった。けだるい乱暴な口ばかりきいて、さすがの藤子も小言を言わずにおれない――。
「それぁ…、いけませんね」
奥野秀樹の思いあまった長話に、山根教授は、先ずその一言だった。杉本とのことは真向から反対した。
「なんとかしないといけませんね。…考えましょう」と、冷えて行く奥野のジャンボ・オムレツの皿も気にしてくれながら、山根は言った。仏の顔に山根が見
え、奥野は不覚に涙ぐみそうだった。
数日の間もおかず山根は、奥野を早稲田の自分の教授室へ呼び出した。奥野も初めての訪問だった、教授室などというものを覗いたのは大学に在学したはるか
学生の昔のことだ。もの珍しく見回している、と、入ってきたのが、内村だった。一瞥、美青年だった。当時藤十郎、いまの中村梅玉に似て、左の唇をちと吊っ
てものを言う。細面、絵のような秀才顔だ。いや参ったぞ…。慇懃で、謙虚そうに振舞っているが、実は頭(ず)はけっこうたかい。教授の山根の方がへんに低
姿勢だった。受け答えの青年に、けだるい表情がみえ隠れしていた。奥野は横で見ていた。
話はもう通じていて、見合い相手の父親が山根教授のそばにいるのを青年は心得ていた。
「光栄です」
そう言って内村は頭をさげた。よせやいと思ったが、奥野も黙って頭をさげた。
「内村君の父上は本学の理事ですが、今…ご入院中で…、尊敬申し上げています」と山根氏は几帳面に仲人らしい口をききはじめた。「内村君の身分は現在は助
手で、助手の年限は三年ですが、三年がたとえ過ぎても将来は約束されたようなもの。大いに有望です。年齢は…」
便箋に、簡略な身上書を内村は用意していた。夏生がやがてその夏七月の末に二十五歳になるのに対し、内村は四つ上の九。これはいい…。なにより夏生の
「タイプ」だと直感し、そう直感したことに娘への不満も不愍(ふびん)も関わっているのを、奥野はわが心根に見逃さなかった。夏生がよけりゃ、いい…。そ
う思いつつ奥野は、なにがなんでも杉本はよくないとする自分の矛盾からは目を背けていた。緊急避難だが、おれは娘夏生を、緊急避難のために結婚させるのか
という自問からはとうてい逃げ切れなかった。奥野は自答をあえて己れに拒んだ。
奥野はこんな事情も聞いていた、山根教授が本命とみて「弱法師」の晩にすでにアテにしていた、別の候補者がいたのである。申し分ない候補だったが、呼ん
で水を向けてみると、もう決まった人がいてアテが外れた。そのときその青年が知り合いの内村を推薦した。結婚相手を探していて、それも、「確かな家の娘さ
んと見合いをして決めたいそうですよ」と。
「確かな家」とは何ごと…ぞ。
だが、一も二もなく山根教授は内村に声を掛けた。
「たしかに本人に結婚したい意思があり、作家の奥野さんのお嬢さんだがと話しますと、光栄なことだと希望しました、それでお知らせしたわけです。どうです
か奥野さん。ご自分で先にお会いになりませんか…」
奥野は、夏生に説いた。
「いちど会ってみろよ。会うだけでも会うといい。山根さんは太鼓判なんだ。父さんも、イイ男だと思ったよ。いやならいや、で、いい。会ってごらん一度」
どこの親父も言いそうな口説き文句だったが、胸では手をあわせて頼んでいた。今度ばかりは、最後の最後の最後になってもおれは諦めない。
「俺や母さんのほうにトシが近いんだぜ。でも、おれたちのことはいいサ。それよか、おまえの齢でだよ。夫婦として共有し協力しなきぁならん大事な若い十何
年かをだよ。いきなり三十八もの男に呉れてやるなんて、正直のとこ、夏生…、惜しくないかい」
奥野の考えは、だが、あさはかに勝手だった。戸川一馬はどうだったのか。夏生の年下とはいえ、たった一つちがいだった。どっちかが受験浪人していたな
ら、年齢など問題でなく、二人して、めいっぱい協力していけたじゃないか。だが奥野は、卑怯にも、こっそりとそれに胸の中で答えていた。戸川一馬の求婚は
二度目だった。一度目は、だが戸川の方から「三年間待ちます」と申し出て、以来三年、満を持しての再度の求婚を、だが、夏生は即決拒絶したんだもの、と。
夏生さんと婚約したいんです。ですが学生のあいだはご信用もないでしょう、三年、自粛します。戸川はそう言った。自身大学を卒業し就職した暁に、結婚へ
と、その前提で夏生さんとの交際を許可してほしい――。そんな話が夏生を通してさながら打診されてきた昔も、奥野は首をタテに振らなかった。若い時代は、
明日といわず今日にもどんな出会いがあるか知れない。お互いに早々とそんなに縛りあうことはなかろう。そう返事した。図工科といっても「工」寄りに、戸川
は、棚を吊ったり犬小屋を作ったり、料理にも器用な手際をみせる家庭科ふうの先生が志望だそうだ。目標は迷いなく決めていた。卒業したら松江に帰って県内
で教員生活するのが、ひょっとして今いる「県人寮」に入る以前からの約束事であるらしかった。それはそれで戸川にはだいじな先途であり目標であった。
「松江へ、おまえ、行って暮らせるのかい」
あのとき夏生に聞いた。はかばかしい返事はなく、
「戸川クンは先生になるのが理想なの」と、側面から余儀ない事情をほのめかした。おまえは何が理想なんだいとは父親は聞かなかった。(おそらく母の藤子以
上に藤子らしい落ち着いた主婦の座へ、安全に収まりたいんじゃあないか、それが本音なんじゃないか。)藤子とちがい夏生にはつよい名誉心がある。目立ちた
いタチである。だが、恥はかきたがらない。失敗をおそれず能力を試みてみる度胸がない。結局は出来れば父以上の男を夫にもち、尽くしたい…。その辺が関の
山……。
夏生は、弟ほどの東京っ子ではない。京大受験に執心していた日々もあり、祖父母の家のある京都までなら、喜んで東京を離れたろう。幼い頃は奥野に連れら
れ京の寺々へもよく出歩いた。お寺をいやがらない子だった。だがそれも「京都」だからで、西東京の郊外から都内文京区に通学しやがて就職しようともしてい
る夏生は、やはり自分の東京育ちを恃(たの)みにしていた。また「作家」奥野の娘で育っていた。ふだんに周囲がそれを夏生に意識させた。山陰松江での嫁の
日々にどれほど辛抱できるかとは、夏生にしても思案しているにちがいなく、奥野らもそう遠くへ可愛い限りの娘を手放してしまいたくなかった。
なにより藤子が、戸川一馬を一瞥の最初から、名状しがたい嫌悪感にとりつかれていた。藤子には珍しいことだ。
「あれって、何だったんでしょうね」と藤子なりに考えた結論は、ふつうは父親の言いそうな、
「夏生を、図々しくあつかましく持ち去って行こうというような、なにか、こう、堪らない不愉快さを、あのとき、感じちゃったのよね」
それを言うなら父親の方は、何をとっても夏生より「小粒」な戸川が、いついつまでもピンとこなかった。夏生、どこまで本気なんだよと、信じられなかっ
た。
要するに、戸川への評価は低すぎた。よく識りもせず低かった。傲慢だった。夏生の言動にも責任があった。はやりの「カワイイ」といった物言いも戸川にし
た。奥野らの前ではことさら見下した口を利き、無意識に親に迎合した。そういう娘をみるのは不快だった。そんな相手となら、離れてくれたほうが夏生の性質
を損なわずに済む。あさはかで、それも勝手な親の思いだった。親も同罪、戸川はふさわしくないという評価を一度たりと捨てなかった。はなから拒絶した。
先方の母親は、妹も一人いてその妹も、奥野秀樹の名や仕事ぶりを知っていた。夏生がお茶ノ水の学生とも知っていて、戸川のことを、「絶対に、遊ばれてい
るんだよ」と危惧していたらしく、夏生からしか知りようのないそんな事や言葉すらも藤子は伝え聞いていた。まさかと笑えたが、笑いはすぐ凍った。戸川がど
う「いいの」と聞かれると、夏生は応えた。
「あの人とあたしとは、魂の色が似てるのよ」
親二人も弟も思わずのけぞった。うまい表現だ。参った。だが、本気なのか…ほんとに。是が非でも婚約をと、あのとき夏生は、とくべつ頑張りもしなかっ
た。
「慌てるな」――
奥野はその一言で、結局戸川の就職まで三年、それぐらいは間隔をおくところへ二人を落ち着かせた。戸川は、三年経ってのあらためて夏生にプロポーズする
権利を留保した。奥野は意に留めなかった。夏生の本心は「東京」を離れていない。
おかげで以来、戸川との長電話に書き仕事の邪魔をされることは減った。だが、夏生(なつみ)の電話相手は戸川一馬だけではなかったし、春生(はるき)の
方も負けじ劣らじと一台の電話を頑強に夜ごと占領した。十メートルにも長くしたコードをひきずって、電気を消した階段の途中に座り込み、はてしもないひそ
ひそ声が、ワープロを打ちつづける奥野の指さきにまで、汚れたあぶらのように漂い寄った。さすがに姉は卒論という関の戸を、目前にしていた。卒論より先に
就職という難儀な戦場へも駆り出される季節が来ていた。
「ムンク」の名がしばしば夏生の口から出はじめた。ムンクを、はて、どう「哲学する」気か。
もともとムンク展を見ておいでと夏生にすすめたのは奥野だが、奥野は見ていない。ムンクもクリムトも、ニーチェも、奥野は敬遠してきた。落ち着きがわる
かった。それでも夏生の卒論むけ長広舌に耳傾けたふりをしてやるぐらいは、らくな役どころだった。相の手もちょこちょこ挟んだ。
夏生の話がだんだん「叫び」のようなおっかない作品から、「太陽」を描いたオスロの議事堂だか市長公舎だかの大壁画へ移って行ったのも奥野は覚えてい
た。だが、モザイク作品だとか聞いたその壁画にも奥野自身は興味がなかった。夏生は熱を上げて行った。卒業論文を介して自分と父親との「問題」を解こうと
していたようよなどと、後々に妻の口から聞いたときも、ムンクに疎い父は趣旨さえ見えなかった。きょとんとした。
就職の方はもっと現実的だった。大学を出たら就職と当人も決めていたし、大学院に残りたいという顔は一度もみせなかった。
何を考えたやら、夏生の熱心な第一志望は、「ぴいぷる」とかいう企業の水泳指導員だった。能書きをならべていろいろ親を口説いたが、要するに水泳指導員
だった。藤子は口を挟まなかった。春生は知らん顔だった。奥野は反対した。幼かった夏生をホテルのプールで、やっとやっと少し泳げるていどにしたのは父親
だった。体力といい体型といい、水ごころの点でもはっきり言って凡庸極まる夏生が、いかに子供相手のカリキュラムをこなすにせよ、あまりにリアリティーが
欠けた。何なんだ、こいつは…。ムンク娘の頬っぺたの円い顔をみまもりながら、奥野は、運動神経のいたって鈍な夏生が、鍛えたことのない大柄をぽっちゃり
水着に包んで、プールのしぶきにキィキィと声あげている図を想像し、あきれた。バカかお前…。後ろの薄暗がりに、教員志願戸川一馬のゆらゆら動く影を奥野
は感じた。
次ぎの候補がデパートの店員だった。関西から西銀座に出ていた大手デパートが、有楽町にもっと大きな店を建てかけていた。夏生は内定を簡単にもらってき
た。仕事は分かり良かった、売り場をデザインして販売成績に寄与するというわけだ、ま、道によって賢し、慣れれば夏生はきっと力を出すだろう。ただ、身分
保証には危惧ある採用だった。内定を受けてしまえば、他社は受験しない約束だ。悩ましかった。奥野もいっしょに悩んでやった。夏生は決めきれなかった。
尽きぬ悩みを捻じくり返しているうち、有名な美術館の募集に夏生は気付いた。学藝員でなく、女の事務職を二人採るという。
「殺到するわね。コネがないと無理ね」と、願書はいちおう出してみたものの夏生は諦め顔に口惜しそうだった、やっと「専攻むき」に近付いたというのに。
奥野ははてなと思案した。駒井次郎に、電話で相談してみた。
駒井はその世間では知られた「谷崎愛」の作家で、潤一郎夫人と昔から懇意にしている。
駒井ほどではないが、奥野も気を入れた二、三の谷崎論で、松子夫人の巻紙の礼状を一度ならず貰っていた。
「うん。奥さんなら、関西出のあの美術館の親会社と、縁があるかもしれんな。よし、夏ちゃんのこった、俺が聞いてみよう奥さんに直かに」
駒井の返事はいつも素早い。駒井には子供がなかった、昔から夏生のカモにされてきた。
友人に重い借りをつくらせるのは申し訳なかったが、やはり奥野よりも駒井から聞いてもらう方がいいに決まっていた。松子夫人とはよく付き合っているらし
いし、谷崎の隠し子なんじゃないかと、一時半分本気で消息通の間でさえ噂された駒井次郎だった。
予感は的中した。夏生の弓射で言えば、「ヨッシャー」だつた。
谷崎夫人は、或る人を知っておられて、その人は例の親会社のオーナー夫妻とことに親しく、ただ親しいだけでなく特別無理の利く影響力の持ち主だそうだ。
「その人に口を利いてもらえば、まず確実だそうだよ。一応試験は受けてもらってのことだがね。いいかね」と駒井の返事は、おどろくほど早く来た。谷崎夫人
にもそれほど力を貸してもらえたということだ。即座に、「頼む」と奥野秀樹は受話器に頭をさげた。
夏生はちょっと照れた顔をした。嬉しそうだった。美術館の親会社もとびきり人気企業だった。美術館の場所も申し分ない東京のまんなかで、だれ知らぬ人も
ない。卒論の「ムンク」にしても、まんざら逸れていない。やれやれ俗物おやじ、丸出しだなあ…。
奥野夫婦も急に忙しくなった。親娘して「その人」の面接を受けた。谷崎夫人も、「その人」と仲良しの娘さんも、面接の場に加わっていただいた。「その
人」は、往年の劇作家で舞台美術にも優れた人の娘さんに当たった。夫は児童文学の作家だった。宝飾の店を青山に開けていて、そこで面接があり、夏生を見
て、「いいでしょう」ということになった。自分が話を通せばまず間違いないとのことで、お礼は、改まってされても困るから、一品でも「それじゃ奥様に商品
をお買い上げ願いましょうか」と笑い話になった。藤子も望み、その人も「それはいいわ」と推奨のラピスラズリの長いネクレスと腕輪を買った。安い買い物で
はなかったが、それだけでいいのかどうか心配だった。
「よろしいんですのよ、ご心配なく」と、谷崎夫人は奥野夫婦にも「夏生ちゃん」にも優しかった。奥野は谷崎「昭和」の小説をめくるめく思い起こし、少し堅
くなっていた。
入社試験にはびっくりするほど人が寄ったそうだ。二次まで行って三十人ほどに絞られ、夏生もはらはらしていたが、結局つよいコネが効いた。そういう世渡
りを、自分のことでは一切して来なかったのに、奥野は娘のためには頭を人にさげた。金も使った。夏生の喜びように水をさしても始まらない、思いがけない心
嬉しい成り行きであったことにはいささか相違はなかった。娘に父親がそれぐらいしてやって、恥ずかしがることか…。
駒井にも、感謝の一夕を奢った。「そうかそうか、よかったな」と駒井は西銀座「きよ田」の寿司をぱくぱく食ってくれた。あとは、自分で池袋の路地おくの
縄のれんへ奥野をつれて行き、また乾杯してくれた。肩の荷を奥野はほっと下ろした。
いや、やはりそれきりでは済まなかった。お世話になった仲介の「その人」と谷崎夫人ら、それに谷崎夫人に遠くから憧れていた美術館の事務長とを、夫人肝
煎りの浜町の料亭に招いて、あらためて奥野夫婦は礼を尽くした。お相手がお相手でそれは骨が折れた。汗もたくさんかいた。
夏生(なつみ)が晴れて出勤のあの第一日めぐらい、奥野の生涯に嬉しい日はそう多くなかった。ああやれやれ、これで重荷のひとつは確実におろしたと思っ
た。安心した。書いていた小説のなかへも、つい、そんな安堵の気持ちをしのび込ませたりした。
事務長のほかに、美術展を企画や内容面から責任をもつ学藝員が、年配の男性三人か四人、社外から専門家もべつに顧問として随時に参与していた。他は女の
事務員ばかり、アルバイトも女だった。奥野の眼にも企画のよさでピリリと味のいい美術館だった、ビルの上階の落ち着いた雰囲気が心地好く、展示室はよく
知っていた。展示替えのつど、いろいろ目先の変化にもドキドキする緊張があり、想像するだに美術好きの奥野にもけっこうな職場だが、展示中、交替で展示室
の隅にじっと椅子に腰掛けて番にあたるのも夏生らの仕事だった。辛抱のいるお役目だ、人ごとながら奥野は辟易した。
「そんなでもないわよ」と、夏生にはなにもかも初めは珍しい。大学の仲間にもご近所ででも、みなに羨ましがられ、機嫌も上乗の初出勤だった。いくらか女の
園めく雰囲気には、小波も大波も、ま、立ちやすかろうが。
「やっぱ、神経疲れるわね」と聞けばもっともだが、疲れない職場なんかあるもんかと、二た昔もむかしの自分の初出社の頃などを奥野は思い出し、娘を激励し
た。
勉強して、資格をとって、いつか学藝員に昇格させてもらえるといいねと勧めると、まんざらでない夏生だった。漆器を調べてみたいと言うのにも、奥野は賛
成だった。英語で大判の豪華な漆器の図録が、でんと夏生の机に開いてあったりしはじめ、腰さえ据えれば調べ仕事のできる力を夏生はもっていた。
そのうち他館の若い学藝員たちとの親睦や勉強会にも参加しはじめた。古巣の大学の研究会にも顔を出し、いつか美学会の会員にもしてもらい、いっぱし動き
はじめた。わるくないと父は思った。館を尋ねてくる学者や評論家たちの中に、奥野の娘であると知って面白がってちやほやする人もあり、事務長以外には必ず
しも事務室の中でけっこうけっこうとばかりは行かぬ雰囲気が生まれかけていたし、
「浮いているの」と、そんな表現で、夏生の表情や物言いに、また、少しずつけだるい陰りがはりついてきた。予測はできた。
母親ゆずりで夏生は朝起きが苦手だった。「遅刻するぅ…」と、奥野に自転車で駅まで送らせたりした。英会話をはじめたり、財テク預金をはじめたり、太極
拳を習いに通ったりもした。そのうち、同輩の女の子たちを、よく言わなくなってきた。
ぽつんぽつんと、中学時代の友人福井君とのデートはあった。突然福井君の母親が夏生の留守に尋ねてみえ、奥野らと機嫌よく談笑して帰ったようなことも
あった。
「向うさんでも、その気がおありんなるみたいね」
「ああ、そんな感じだ。おれは、…いいと思ってるんだが」
「あたしも。福井君なら、夏生をいろんな意味で大事にしてくれると思うの。高校の受験で夏生がいちばん頑張ってた、あの中学時代を知ってくれてるでしょ。
夏生に、いい印象をもっててくれるだろうなって、……それが、安心なのよね」
だが奥野も藤子も、福井君とのことで、自分からなにかを動いたことは、なかった。夏生のなかに、ぜひ福井君とという気組みがどうも薄いように見えた。親
は動けなかった。そして…幼馴染みは、互いに遠のいていった、のだ。
戸川一馬とはどうなっていたか。「三年遠慮」が正直な空白だったかどうか、いま思えば、奥野には「あの事件」がなにかしら戸川絡みに気になっていた。昭
和五十九年の夏だった、夏生の生活にかつて無かった、無いものとぼんやり信じていた事が起きた。
かたちは、美術館から四泊の関西へ「出張命令」であった。夏生一人で、だ。勤務たった一年余、学藝員でもない女事務員に与えられる任務だったろうか。私
的ななにかの――例えば勉強する気のあった漆藝絡みに、南蛮屏風や南蛮美術の――調査と見学のため、せいぜい一泊出張に便乗した夏生の夏休暇かも知れな
かったと、あとからそう思われた。
父に言われ母親の手元においていった予定だと、八月十七日に新幹線でまっすぐ神戸の市立博物館へ行き、学藝員とは会わずに、その晩は奈良まで行って泊ま
り、翌日は大和文華館で民族藝術学会があり、やはり奈良に泊まり、次ぎの日午前中は奈良を見て歩き、午後は堺市博物館で懇意な学藝員と会ってから、大阪梅
田の東急インに泊まる。更に翌日は大阪の南蛮文化館で館長と面談のあと、京都の祖父母の家に一泊し、八月二十一日午後に帰宅とあった。折衝でも会議でも用
談でもない、会社で管理職をつとめてきた奥野の眼にはなんとも散漫な、気ままな足どりだ。
たまたま第三夜の大阪泊まりに、夜おそく、用事あって母親が連絡先に電話をいれた。だが一人旅の泊まりのホテルに夏生がいない。こっちは、もう寝ようと
いう時刻だった。しかも置いていった電話番号の先が東急インでなく、梅田にちがいないが大阪駅前曽根崎の小さな倶楽部ふうの宿だった。界隈は浪速で聞こえ
た風俗歓楽街だ、奥野は大阪には詳しくないが、曽根崎もその倶楽部の名も知っていた。昔の勤務先で、大阪出張に人がよく使っていた。
その曽根崎の宿へ、十一時、十二時、明けて一時ちかくになっても夏生は部屋にもどってなかった。堺の学藝員とでも飲んでいるのか。それもピンとこない推
測だった、藤子も奥野も本気で心配しはじめた。「一人旅」を信じている以上は大阪駅界隈の深夜、若い女が一人でうろついて楽しめる場所でも安全そうな場所
でもない。酒はいける方の夏生と知っていて、だから電話をかけても不在と聞けば聞くほど心配は増した。電話をかけてなかったら心配しなくて済んだが、夜十
二時まわって部屋にいない、では……。
間隔をおいて何度か空しい連絡をとって、とうとう、夏生が電話口に出た。夏生の、いきなり向こうで泣いて噛みついた、あの声が凄かった、
「なんで、放っといてくれないのよ!」
なるほど…。奥野は妙に合点した。納得したのでも夏生にわるいことをしたと思ったのでもない、こういう娘でもあったかと合点した。とにかく部屋へ戻って
いる、怪我はしていないようだ。安堵で、奥野夫婦は疲れはてて電話を切った。問い質すことはしないで切った。
甘いはなしだが、あのときは、怪我さえなければそれだけでよかったと、その先を「判断中止」した。東京から大阪へ、松江からも大阪へという「想像」すら
しなかった。学校勤めの戸川は夏休み中だった。あの旅で夏生自身が松江市まで足を延ばしていたとは思わないのだが、別の折りだか、夏生が戸川家の母親や妹
とどこかで初対面を遂げていたのは夏生が自分で母親に話していた。夏生…が、もう親たちの知っているだけの娘でないのは確実だった。遠方の美術館の学藝員
などが夏生を家までおとづれ来て、奥野も引っ張り出され、酒をのんだこともあった。そういうことも、いつか…跡絶えていた。
そのうちに「杉本さん」という名前を口にするようになった。どこのどんな人と言わないでも、口ぶりからそこそこ影も形も見えてくる。急角度になにかたい
へんなことが進行している気がした。曽根崎の「変」から半年あまりが経過し、夏生の勤務もやがて満二年――。
そして降ってわいた二つ同時の「求婚」譚だった。
杉本のことでも困ったが、夏生の戸川を一蹴した仕方が、怪訝なぐらい容赦なかった。かけた電話は二度、藤子が覚えていた。二度とも戸川は掴まらなかっ
た。その後掴まえたのか、ほんとに断ったのか、結局奥野も藤子もそれは知らなかった。
知るも知らぬもない、夏生は、あげく内村竹司の薄い掌に、銀座街頭で自ら買って手渡した色変わりのビー玉よろしく、ころころと落っこちた。「過去」は夏
生からあたかも消え失せた。
九
戸川一馬から「結婚の証人に」と「奥野秀樹様」宛て唐突な手紙が届いて、断りの返事を出したのが十三日、春生の芝居の幕のあいたのが、五月十五日、水曜
日の宵だった。とつおいつ、物思いの多い二日二晩だった。幕が明けば明いたで、どうか十九日日曜までの六ステージを無事終えてもらいたい奥野らだった。そ
んなことばかり言いながら、藤子は客の入りを心配し、奥野も早め早めに自分の仕事をかたづけて、毎日覗きに行く気だった。
入りの心配は、あまり無くなっていた。初日の水曜や、マチネのある土曜、ラクの日曜など、
「入場券もう無いんだ、そっちに残ってないか」と春生は母親に電話をよこしたりした。
「どんな芝居なんだ、前のときのように考え考え見るのは、頭痛いぜ」と奥野は軽口を叩きながら、藤子といっしょに、初日、巣鴨駅ちかいアングラの小劇場を
探しあてた。JRの駅を出るまえから、なんと春生らの芝居のチラシを持った若者をもう二人見つけていた。ジーンズによれたカラーシャツの、割箸を引き裂い
たみたいに背の高い尖った青年らだった。藤子と顔を見合わせ、奥野はワケもなくうなづいた。
入場券を持ってきてくれた人なら、ぜったい立たせないよと春生はきっぱり言っていた。
なるほど、そういうものか…。早く行かんといかんかなと言い言い家を出てきたが、すこし飾りの花など置いた繁華の路上から、いきなり狭い階段で地下へ降り
てゆくと、楽屋口を背負った狭苦しい櫑地(らいち)、客席へ開いたドア脇に小机ひとつだけ置いて、謹厳な顔つきの春生が自分で受付をしていた。今回も目立
たないシャツにジーンズだ。ア、とも言わず事務的に切符を切り、気は心の頭を下げたのへ、
「おめでとう」と、奥野は声かけた。
スタッフらしいのが数人で、客入れに大わらわだ。この連中が、客を入れ終わるとそのまま舞台に上がって役者に変身するわけか。特別の衣装もない。劇団
「湖」や歌舞伎や能を見るのとは勝手がちがい、春生がつた事務所のお膳立てで初めてやった劇場でも、ここの二倍半も三倍も広かったし、鍵の手にロビーもソ
ファもあり「つた芝居」のフアンがいっぱい集まっていた。だがここはアングラ、狭い上に窮屈な傾斜に、折り畳みの椅子席が奥の奥の隅の隅まで、ぎっしり
作ってあった。すこし早く着いた奥野らは、いやおうなくその奥の席へ誘導された。空調の冷気の這いおりる暗い壁へ左の肩でくっついて、奥野は座った。もは
や立つにも立てなかった。
「薫…、見た」
「見ない。来てないのかしらね」
客入れなんかに動員されているかと思った舟島薫の姿がなかった。奥野の学生のお母さんらしい、よく似た人が離れた席に見えた。何人もに入場券を貰っても
らってあり、そういう人らにも奥野は奥野の顔をみせてお礼が言いたかった。客は続々と入った。客席が泡立ったように膨れてきた。
「一席の無駄なしに、奥から奥からお客をつめこむんだ…。高等技術だね」
「狭いから、どんな後ろの席でも見えるのよね」と藤子も、慣れない大人の客たちもいっそ寿司づめに成り具合を興がっていた。一幕もので、一時間半と聞いて
いた。
切符が出なくても客を入れる手はあるんだよ。どうにもならなきゃ「動員」をかけることもできると春生(はるき)は言っていた。動員とは、学校の演劇部な
どと関係があるらしく、聞きもしない分かりもしなかったが、そういう強い台詞が春生の口から漏れるのを聞くのは、それなりに奥野を刺激した。
「前の芝居が、けっこう根雪になってたんだね」と奥野は、何度も中腰で客席を見回し、妻の耳に囁いた。そうかも知れず、そうでないのかも知れない、幕もな
い真っ黒い穴蔵を無愛想にゴツンと置いたような舞台で、いよいよ幕が明ききそうだった。ラップというのか、激越にリズムを刻んで、外国語の男の歌が一気に
ヴォリュームをあげてきた――。
春生に。(電子メールで)
公演の出だし、満員盛況おめでとう。ここまで漕ぎつけた苦心と努力、母さんと、ゆっくり見せてもらった。
初公演の舞台にくらべればウンと分かりがいいと、フィナーレのあと、隣席の何人ものささやきが聞えました。同感。筋が分かりいい。そのためか演技に素
直な流露感がみえ、どんな芝居かという一抹の不安を早めに解消してくれました。むりなく、いい感じに本筋が盛り上がっり、安心感も膨れて行きました。ぎご
ちない停滞、全く無かったとは言えないが、大過なく、たいした不満なく、むしろ、よしよしといった感じで観ました。役者の声の潰れたのまで好もしく感じた
のは贔屓目のご愛嬌ですが、主演の曽我さんはじめ、ちっちゃな人まで、演技者に、初日、不満をぶっつける必要をほとんど感じませんでした。予期以上でし
た。
演出上のことは、初日だし、大過なかったと、そこまでにしておきます。時間もあれで十分、前作では辟易した蛇足も出さなかった。
問題は、「作」の人間把握だろうか。そのことを書きます。
舞台に描き出された「死」は、どぎつく謂うなら集団殺人、集団自殺、集団心中です。「死なれて・死なせて」さらに「殺して」までいるし、我から「死ん
で行って」もいます。そういう芝居であっても、一応は、構わない。物足りないのは「死生」を観る作者の視力です。把握の力です。
「署長」も含めて、みな意識の深くに「死にたくて」の死を抱いて「山」に、あの「山小屋」に入っている。だれももう「生きよう」ともがいていない。せい
ぜい「自己犠牲」という「死に花」を咲かせることに満足しているだけです。突如の酷寒を前に、一人として、醜態を演じてでも最期の最後まで「生きたがら」
ない。「本庄」や「署長」らに、山や雪や寒気の怖さの「知識」は十分有ってなお。
ある意味で、現代、「自己犠牲」ほどダサイと思われているものは、ない。肯定したくはないが、カッコよく死んでほしくもない。君の「山小屋」の人物た
ちを見ていると、いかに状況は絶望的であれ、「生きるエゴ」をすっからかんに持ち合わせない、無色無臭の、サイボーグか天使らの、異様な集団に思われま
す。
「エゴ」の過度な表現がどんなに迷惑なものであるかは、エゴイストと付き合えばすぐ分かる。しかし、「エゴ」のない人間など、この渡る世間で無条件には
是認しにくい。不自然です。
あの「山小屋」に、たとえやがては凍え飢えて死ぬにしても、季節外れの突然の大雪です、生きるチャンスを待って最後まで粘る「エゴイスト」が、一人で
もいいいてくれたなら、その上であのような必死の選択へ走る人もいたというのなら、双方の葛藤も見え、リアルな感動が表現できたかも知れません。ですが、
あのような「自己犠牲にみせかけた自殺願望の成就」ごっこでは、あれでは「死の肯定と賛美」にこそ疑われ得ても、けっして「生きる意欲」への生還・下山に
は結びついて行きません。
君の前作は、「死」をへて「生きよ」と励ます「生」の劇でした。今度はちがう。生きよと励ます舞台のようで、実は逆様です。だれひとり生きて社会に復
帰できない連中の、「死に花」の自己破壊であり自己満足です。生きたくて生きたくて、しかも「死」に走らずには済まないといった、例えば、あの漱石の
『こゝろ』の「先生」のような、「K」のような苦悩が、今度の舞台には、描きこまれていない。
「朝焼けに君をつれて」行く先は、「生」でなくて「死」の世界です。つまり一人の女性を連れ去るあたかも「死に神」たちのように、どの男も、いまいましく
働いています。作者がそう働かせている。ヒロインの面上に最後に輝く「朝焼け」は、地上の人間的生の象徴でなく、「かぐやひめ」を奪って行く月世界と同じ
に、他界即ち死の象徴になっていることに、果たして作者は気付いているのだろうか。それとも、それがモチーフなのか。
観客は、あのヒロインにも「生き」はなかったと、ほぼ断念しているでしょう。せいぜい天国への生でしかないと。おお天国! そんなものが現代の存在を
ほんとうに癒せると君は思うのですか!
「自分の存在が悲し」くなりがちなのは、痛烈な現代の病気です。その病気とどう闘うかが、カミュの不条理を持ち出すまでもなく、自覚的な現代人・人間の課
題でしょう。「そんな時には思い出し」たいような、ヒロインの最期であり得ていたろうか。
一言で言いきれば「感傷」の舞台でした。「感傷」が真価を深めるのは、人間凝視の確かな場合に限ります。「奇跡の風」など吹いたのでしょうか、本当
に。「そしてだれもいなくなった」だけでは、ないか。いやいや、ちっちゃい坊やが、ひとり寂しく、ほとんど無意味に「遺児」にされた。皮肉な人なら、前世
紀末と同様、やれやれ今世紀末にも「自殺賛美」の兆しが出だしたかと顎を撫でて嘆くかも知れない。
それにしても、苦心の甲斐ある出来栄えでした。一父親に戻れば、嬉しかったの一言です。ありがとう。 五月十五日
父
春生に。(電子メールで)
二日めを見て帰りました。
昨日の批評を母さんがファクッスで送ったと聞いて、早すぎたのではないか、君の気分が良くないかも知れないと案じました。読み直してみたが、感想はそ
う変更されていない、いいでしょう。アンケートの一例として受けとっておいて下さい。
二日めの席は、舞台全面が見えにくかった。せいぜい声に耳を澄ませていました。
「優しい」セリフの多いのに気付きます。「優しさ」を、意識して強調している感じもしないではないが、素直に聞けば「優しい」のは「優しくない」のより気
持ちがいいので、悪影響は出ない。ただ度が過ぎると「気持ちわるく」なりかねないから、自然に滲み出るものにして置きたい。また「優しさ」「優しい」こと
が、どういう価値なのか、ほんとに美徳なのか、それへの厳しい批評も、作者には必要でしょう。「優しい」だけではとうてい解決出来ない人間の、男女の、社
会の、世界の問題が在る。べつの面からも的確にものが見えていて、それでいて結果「優しさ」を選択するというのなら、まだしもですが。
今度の君の芝居は、人のいい人ばかりのドラマなので、悪感情や不快感はあまり催されない。けれど、そのこと自体、批評し批判されることがあると思う。
君がむかし夢中で読んで見ていた、ホンワカとした連作マンガの情緒が、「朝焼けに君を連れて」といった副題の中に尾をひいていると見抜いた人も大勢い
たんじゃないですか。わるいことではないが、そういう情緒が、どこまで二十八歳という体験で鍛練されているか。精神を腐蝕する憂悶や憤激に呻いている大人
のドラマというより、どこか初々しい青少年の情緒的な「夢」がホンワカと語られている。「あゆみ」役の曽我さんの演技の特徴として、随所で両手を大きく高
くひろげた姿態があり、あれは効果的で好感ももてるが、若い人達は、存外、さっきも言ったようなマンガの純真表現により、お馴染かも知れない。それで親し
めたか、それでなんだか陳腐と思ったかは、分かりませんが。
演技者には、全員、とてもいい感じがもてる。これは前作のときよりも断言できる。へんな臭みがなく、新鮮で真剣に見えます。コンビネーションがいい。
やはり「仲間」で苦労の甲斐があった。いいチームです、いい財産になって欲しい。「署長」役に、座頭ふうのひょうきんな貫禄があり、余裕があり、突飛な展
開をまぁまぁ保証してくれていたのが儲けものです。いやいやみんな、わるくない。
出だしの十五分ぐらいが、もう少しです。はらはらしてしまう、客にどう受けとられているかと。早く先へという気持ちと、もっとゆっくり言葉を届かせて
と願う気持ちとが闘い合い、つらい。ま、舞台にカードを配っている間は仕方ないといえば言えるけれど、作劇法として、もっと確かな「導入」が今後の課題で
しょう。雪に追われて走る場面など、よその舞台でもたっぷり似た手口は見ていたので、母さんと思わず笑ってしまった。でも失敗はしていない。山小屋という
場所を印象づけるには必要な手続きで、「場所」をイメージさせる為の工夫、いろいろされていると思った。
新聞記事には「全員死亡」と報じられる凄惨な悲劇ですから、比較的じめじめしないで演じられている意図は分かるし、評価できる。「劇的」真実感が演劇
として構成されていたか、それが課題でしょう。まとまりは、よかった。
明日は母さんと、また見てみます。
それにしても春生(はるき)、きみは二十歳でなく、もう二十八歳なんだね。複雑な思いだ。
君は自分の年齢に自覚があるだろうか、ただの年齢の問題を超えて。わたしは結婚し娘があり、処女作はもう書いていた。無名の時代だった。こんなことで
どうなるだろうと、ひとり、深夜に起きて涙で蒲団の襟を濡らしていた。
いま父さんは、ヘミングウェイの出世作『日はまた昇る』を読んでいます。彼の二十六ぐらいの作品です。今世紀はじめの「ロスト・ジェネレーション」を
代表する傑作ですが、深く時代と交錯した若者たちの内面の深淵を抉っています。
演劇は、洋の東西をとわず、太古の昔からといってもいい、強烈に時代を批評する精神に支えられて来た。能も歌舞伎も、つた芝居もそうでしょう。
その点に関して言えば、君の今回作は、前作よりソツなく纏めたけれど、前作より批評的というより情緒的な感じです。どうも人を「救ったり救われたり」
といった「慈善」感情が君の作品では重きをなし、確立された、あるいは自立した、自立しようと意欲している「個」や「我」の荒々しい葛藤の魅力を、置き去
りに、忘れている。闘う魅力といってもいい、それを「生」より「死」の側へ用いている。それでは時代とも、また女とも、闘えないと思うがどうだろう。
どうも君は、たいした女性崇拝者ふうにご神体めかして「女」を扱うね。かすかにズルイぞと言ってやりたい匂いもするな。君の「女」観をハダカにしてみ
たいものだ。君の真の自己批評を見たいものだ。
夏生(なつみ)にも、見せたかった……。
無事の千秋楽を祈ります。スタッフのみなさんにも。
五月十六日 父
春生に。(電子メールで)
土曜日昼の舞台をみて帰宅。そして交替で夜の部を見に行く母さんを、自転車で駅へ運んで、また帰宅。もうそろそろ母さんは巣鴨駅に着いているだろう。
今夜は、持田夫人といっしょの筈です。
さて昨日(三日め)今日(四日め)と見て、白状するが、舞台の後半へくると涙が流れ、隠すのに困りました。初日も二日もそうだった。何の涙なのか、た
ぶん、みんなが一心にやっていること、その芯に君がいるということ、舞台の進むにつれ客の気持ちが縄をなうように一筋に絞られてゆく感じなど、いろいろ理
由はあると思います。舞台にたちこめたいわゆる「善意」の霧に巻かれているのかも知れない。善意は、あくまで悪意ではないから、人をいやな気分にしない。
いい気持ちにしてくれる。感動と直ちに言うのは留保せざるをえないが、自然にながれる涙には理屈ぬきのものがある。見ようによれば「凄惨なハナシ」なんだ
がね。
今日見ているうち、この芝居は「入れ子型」「心中」なんだなと思った。「高代」君と「あゆみ」さんとの「北風心中」と、それを成就させてやるもう四人
の「善意心中」とが、複式の構造で、入れ子になって舞台を二重奏化している、と。それがあって後半への展開に厚みが出せているのだな、と。
今…、お隣りの山野夫人が電話をしてこられた。「はじめのうち、やっぱり、ハルちゃんらの若いセンスは、わたしなんかに分からないやと思って見ていま
したが、ぐんぐんと引っ張られて行き、もう、涙が流れて流れて…。すっごく感動しました」そうです。ま、老いも若きも、だいたい、そういう感想なんだろう
と想像される。三度四度見ていて、やはり「はじめのうち」は、はらはら・いらいらする。くどく状況を説明しているのも作意のうちと知っていてそれだもの、
初めての人には芝居の前途への危惧が、あの辺でむちゃくちゃ溜まっている。簡単に退場できる劇場だったら、出てっちゃうぞというくらいに。
ところが、おや、これは…という空気にやがてなり、その先はもう軌道に乗れてくる。
「じいさん」の「同じ墓に入れてください」も利いていた。そうそう「じいさん」の好きな「天狗舞」という酒があったよ。買って来ちゃった。差し入れしよ
うね。
「北風と太陽」の話が、ぎゅっと全体を締めた。あそこから、ほぼ完全に観客は一体化していたと思います。もう安心できた。あの、時間経過を表すのにも役
だった「高代」と「署長」二人の救援登山の場面は、せまい劇場ならではの端的な好趣向で、綱をつかったあの場面はみな成功していた。単調さを破るのに、あ
の二人の芝居は、臭い寸前までやりながら、劇全体を着々強化していった。
役の上での女主人公は儲け役だった。愛らしくもあったし、しなやかに自然だった。またマンガのいろんな「絵」を連想させる浮き味もあった。そのての演
技は、「あゆみ」だけでなく、「署長」にも「沢田」や「本庄」にも見えた。台詞にも表れていた。わるくなかった。
泣かせたのは、やはり「ひばりがおか」のラッシュアワーのパフォーマンス、あそこへ、舞台全経過の「善意」が凝縮し、ま、あの場面で、他の大概のキズ
は許して見逃そうというような事になったんだなぁと、今も、山野夫人の弁を電話で聴きながら、納得した。ダンマリでは、山小屋へ署長が飛び込んで来た時の
ものが面白かった。
「朝焼けにきみを連れて」でなく、「北風がきみを乗せて」という方がよかったのかもね。
中国に、笛吹きの男が美しい王女を笛の音とともに天涯へ連れ去る逸話がありますが、今度の舞台は、「北風」男の自己発見と自負に応えて、女も天涯へ
去って行ったロマンなのだとも読み取れる。そういうロマンとして大方が肯定していたかも知れないよ、作者の意図とちがうかも知れないけど。「生還」という
奇跡はやはり起きなかった。無理だった。しかし北風にも愛があり、愛は伝えられた、奇跡は起きた…と、ま、そんなところだろうか。
なににしても、もう夜の部も半分進行し、母さんも見入っているでしょう。無事に明日のラクが迎えられ、無事に気持ちいい打ち揚げが出来るように祈って
います。
明日は学生が何人も来てくれる筈で、わたしも出掛けます。スタッフの皆さんをねぎらってあげたいとも思うけれど、遠慮する。心行くまで君達で楽しく過
ごせるようにともう一度祈ります。フィナーレで演技者の名を紹介していた君の力ある「声」を、父さんは忘れまいと思っています。春生よ、だが、傲るなか
れ。やっとこさの及第点なんだぞ!
五月十九日 晩
春生に。(電子メールで)
無事に公演を終えられて。おめでとう。
裏でのことは分からないが、見たかぎり致命的な故障もなく六ステージを終って、かぎりなくこっちもほっとしました。あのあと駅前のレストランで、母さ
んも一緒に学生五人と軽食で歓談。そのあと母さんは帰り、われわれは浅草三社祭の、これまた最終日に参加し、御輿渡御をまぢかに見たり祭囃子を聴いたりし
て来ました。わたしは初めてお好み焼き・もんじゃ焼きとかいうものに付き合ったが、これには閉口。あまり良く飲むので、お好み焼きの店が酒をどこかへ買い
足しに行くぐらい、わたしも、若い人らと打ち揚げを楽しみました。
土曜の夜の部には堀上謙さん夫妻が見えていて、母さんが感想を聴いたようです。
「もっと学藝(会)っぽいものと、覚悟して出てきたけれど、案外そうでなかったので感心しました」そうです。「随所にきらりと印象的な演出やいい台詞が
あり、この先が楽しみ」だそうです。「才能、あると思いますね、これからですね」とのことだそうです。
わたしの学生たち、今日はすくなくも八人来てくれていました。要するに出だしは乗れなかったが、後半へかけ盛り上がってよかった。そんな感想でした。
ごく一般的にそうだったろうと思う。感想書いてきたけれど、書き切れなかったそうです。
井原学氏夫妻も似た感想でした。学氏は「感動しましたよ」と声を弾ませて帰りました。「後半の音楽の重ねが良かった」とも学氏は言っていました。
もう、とくに、わたしが言い添えることはありません。いつかは「若者受け」だけで済まなくなる。それだけ、言っておく。
祭りは、ひとまず、終わった。平常心にもどり、誠実に会社員すること、大切に願う。
そして健康に、怪我も事故も無く。 五日間のお祭りを、ありがとう。
平成八年五月十九日 日 (二十日午前二時)
十
「あなた。夏生(なつみ)、来てたんですってよ芝居に」
「えぇッ…」奥野は絶句した。
すこし落ち着いたところで、春生(はるき)は電話で礼を言ってきた。そのとき藤子が聞いた。土曜日の昼の部、開演でもうドアを閉める間際に夏生が駆けこ
んで来て、かろうじてドアのすぐ近くに席をもらったらしい。舞台が済むと、春生に声をかけるのもそこそこ、
「手紙書くから」と言っただけで、走り去るように帰っていった。
奥野は客席中央のいちばん奥の辺に、大学から来てくれた事務の女性とならんでいた。夏生には気づかなかった。気がついても、間に、あいた通路もなく身動
ぎさえできなかった。わざと遅れて来たとは思わなかったが、走り去るように帰ったのは父と顔を合わせたくなかったのだろう、そう奥野は思った。
「夕方の用意に間に合うように帰りたかったでしょうしね。子供たち置いて来てるんだし。竹司に内緒にちがいないし」
「内緒だろうか、な」
「おばあちゃんの病気見舞いにだって、行ったら、離婚だと脅したって人よ」
「それも、夏生の口から聞いた話だけどね。あっちでこう言い、こっちでこう言い、一人舞台で、しなくていい一人芝居を夏生のヤツ、してたかも知れない。あ
の子の、病気なんだ」
父が客にまじっていることは、その場で春生に聞いたにちがいない。だが、かんたんに久濶を舒するというには、あまりに難儀な過去が間に横たわっていた。
夏生からもし、
「パパ」と昔どおりの声をかけられて、果たして平静でありえたかどうか…。
「そうか。来たか…。それだけでも、…よかったよ」
奥野は妻にはっきりそう言った。侘しくもあり、やはり嬉しいのだった。
夏生は太っていたらしい。服装はと母に聞かれ、
「ひどかった」と春生は言葉少なにしか言わなかったそうだ。胸をつかれた。内村が、軽度ながら色弱であることは仲人に告げられていた。色めのものを選んだ
り見たりが苦手だった。美術はだめで、だから音楽が好きだった。ピアノで身を立てたい夢もむかしは持っていた。だが内村が女の持ちものや着ものを選ぶのが
苦手だから、だから夏生の服装がひどいということにはならない、夏生自身には選ぶ眼がある。選ぶも選ばぬも、そこへ手が、経済が、及ばないということだろ
う。今春ぐらいには、やっとやっと助教授に挙げてもらっているのかも知れないが、つい先月まで国家公務員教授の給料を取っていた奥野には、私立とはいえ越
村の懐具合は、研究費を含めてでも、見当がつく。上の孫の信哉も四年生になったはず、下の道哉も学校へあがっただろう。らくなわけはなかった。給料で暮ら
して三十代にらくなどさせてくれる世間ではない。舟島薫を抱えこんだ二十代の春生にもそれは身にしみているだろう。
現金で渡すことはなるべく避けたが、かつて、夏生(なつみ)が里帰りしてくれば、なるべく洋服を買ってやった。美容室へも藤子が行かせていた。だが、夏
生も好き、奥野ではだれもがみちがえるほどチャーミングだと悦ぶ髪をショートカットにして夏生が帰宅すると、内村は機嫌がわるかった。長い髪が好きだと言
うのだ。大顔でふっくらした夏生が髪をながなが垂れると、美容師の腕もあろうけれど、奇妙に老けてやぼったくなる。「亭主の好きな何とやらさ」と奥野らは
がまんした。孫の信哉には、ばかな贅沢でなければ喜んでなんでもしてやった。あんまり気に入らない韓国語主体とやらの英語教室の月謝も、藤子が毎月払いこ
んでいた。欲しがればたいがいの物は夏生に持って帰らせた。だが、
「小遣い以上の現金をこっちから先に渡すなよ、そういう干渉はしたくないんだ。おれも昔、きみの兄貴にそういうことをされたくなかったからな」
奥野は藤子にそう言ってあった。
金をはさんだ付き合いがどんな歪み方をしてゆくものか、かりにも竹司が内村家の当主になっている現在、頼まれても出過ぎたまねはしたくない。実のところ
は、したくても出来ない。
それでも内村が来れば、きまって、それとなく、
「(生活は)大丈夫か」とは聞いた。
「大丈夫です。なんの問題もありませんよ」と、おきまりの唇をすこしゆがめ、夏生の夫はおっとりとして見せた。胸さえ張った。それどころか、いくらおよし
と言っても内村が訪ねてくる時は、菓子折り一つを欠かさなかった。奥野らはまたそういう気遣いを、ほとんど無用のこととして、およそそういうことには気も
金も遣わなかった、遣わなくてお互いに済む間柄こそよしとしていた。
「そうか、大丈夫なのか。それならいい。安心だね」と返事をしながら、奥野も藤子も信じていたわけではない。夏生の格好をみれば察しがついたし、夏生は越
村の台所について黙っていなかった。
夏生は、だが、一言もお金が欲しい、助けてとは言わなかった。夫が制しているのだろうと想像し、(その想像は実はまちがっていたのだが、)それも良し
と、奥野らは手を出さぬ原則を守った。
「世間では、金を出して口は出すなと言うじゃないか、よく。それが本物の親切みたいだけど、おれは逆だと思う。ほんとに親切な人間は、口を出して金は出さ
ない。屁理屈のようだけど、大昔から大人は、こころからの助言者だった、深切な忠告者だった。そういう役目があったんだ大人には」
「お金は、でも、欲しいものよ。まして苦しい時はなおさら」
「分かるさ。体験してるからね、おれたち。だけど、貰った金には、いやでも縛られる。遣った方も縛っておいて口を出す、つまり恩に着せて支配する。口を出
さなければいいんだと言うけど、出さなくても、だめなんだ。出されていると、事々に負担に思ってしまうんだから。そして感謝を装いながらいやらしく敬遠す
る、果てはねじくれた気分で、顔も見たくなくなるんだ。あるいは無理して恩を返そう返そう、果ては出世して見返そう、なんてヤツも出来る」
「借りておいて、貸してくれた人のわる口触れ歩いてる人、いますものね」
「借りた時は仏の顔が、返せと言われると鬼にみえる。そういうものサ。おれは、だから縛られてこなかった。縛りたくもない。内村の本音は知らないが、おれ
たちの夏生とは、金の関係になりたくないよ。よっぽどなら内村が自分で言って来るだろうさ、自分で。しかし、ウチが…、どれだけしてやれる…」
「家一軒も頂戴なんて言ってきたら、あなた、どうして」と藤子はぷうっと吹き出した。
「ビルでも建ててやるか」と奥野も、ばかを言って大笑いしたものだ。
奥野らには、過ぎ来し日々をどう苦しくとも乗り切ってきた貧乏体験でさえ、懐かしい。初給料の半分以上を六畳一間の家賃に払った新婚時代をいっそ誇らし
く思い返す気持ちがあった。ダンボールの箱に風呂敷をかけて卓袱台にしていた。一人では辛いものが、二人だからやれた。夏生らとていま頑張らずにいつ頑張
れる。夏生の嫁ぎ先は、三百坪を越す屋敷もちだ。若い夫婦は、だが、母親や妹といっしょに住まずに、ちいさいマンションに3DKを借りていた。今どきの物
で、溢れていた。
「大丈夫なハズだよ」
奥野は、内村家と金の付き合いはしたくないという原則を、またも藤子と確認しあった――。
「……とにかく、最初ッから、ボタンの掛けちがいばっかりだった」
「人が聞けば、うちの落ち度みたいなところからこじれたのよね」
「落ち度ね。ご祝儀のお金をどうとかってヤツか」
「あれは、最初から夏生(なつみ)との間で約束が出来てたんだもの、ちゃんと。奥野家へのお祝いで来たものを、竹司が権利のように手を突っ込むいわれはな
いでしょう。とにかくこっちはお客様が足りないんだし、谷崎先生の奥様をはじめ、目をむきそうな方々にたくさんお願いして出ていただくんだから、お返しも
たいへんなことになる。御祝儀ですからね、半返しつてわけに行かない。そういうの、若いあの子らが律義にやってくれるハズないし、手間もかかるのよね。で
も、うちとしては放って置けないじゃないの。だから…」
「ああ。だから、もらったお祝いに十分に見合う分と、その上のお祝い分もちゃんと上乗せして、結婚式より先に、夏生の通帳をつくって渡してやった。その上
にもだ、先々にきっと必要になるだろう分まで夏生名義で用意してやったんだよ。そのかわり、お祝いにもらった包み金は、奥野へいただいたものとして、お返
しの方に費うからねと、夏生とちゃんと申し合わせ出来ていた。内村とは何の関係もないものを、ただもう自分の小遣いみたい皮算用してたんだ…なあ。夏生も
いけないんだよ、ちゃんと説明すれば済むのに、親を悪者にして、内村に言いたいように言わせた…」
「結果そうだったわね。まるで竹司、あたしたちをご祝儀泥棒みたいに言ったじゃない。あれには、なんぼなんでも腹が立ったわ。大きにお世話ですよ、厚かま
しい」と、藤子は思いだすだけで、まだ怒りがおさまらなかった。
「あれだけじゃ、なかったな」
「ええ。…たいへん…だったわねぇ」
三月二十二日に内村と引き合わされてからも、内村との見合い話はまだ打ち明けていなかっただろう、夏生は、例のように杉本ゆたかと会っていた。そして松
江の戸川一馬へは、求婚を拒む連絡がとれたのだろう、折しも学校が春休み中の戸川は、断乎、東京までかけつけて来た。これは予測できた。
ちょうどその頃、奥野の父が京都から、さて何用ということなく出て来た。夏生に、たって内村と見合いの段取りをようようつけた日の昼ごろ、父は、散歩に
出て道に迷い、奥野らはずいぶん心配した。父は八十七歳になり、けっして折り合わない八十四と五の妻と妹との、久しくも久しい板挟み同居の暮らしに、つく
づく心倦んでいた。奥野にすれば、子供たちよりそっちの方がよほど気になった。いい年の子供にはしっかりしろやいと言いたいし、義理ある大年寄りにそんな
ことはとても言えなかった。
二十四日には春生も中に入り、老父の寝たあと、奥野の仕事場で、暁けの白々まで夏生と話し合った。明日は月曜で夏生は勤めだ、寝ないともう寝ないとと思
う思う、こじれた話題はなかなかほぐれなくて、何度も夏生は大きな声で叫び、泣いた。夏生の気は、みんなご破算にしていい、自分をアメリカにやってくれと
いう方へ動いていると取れた。
いったい、そんなことが、あっていいのだろうかと奥野は胸のうちで思案した。アメリカに行く人は大勢いる。それぞれの動機や必要があるだろう。金もかか
るだろう。いま夏生はいったい何がしたくて、何へ向かおうとして「アメリカ」「あめりか」などと言えるのだろう。留学ですらない。向うへ行ってから大学に
入ることは可能かもしれないが、なにを勉強するというのか、そんな計画はこれっぽちもなかった。美術館での職は投げ出すのか、やりかけの漆器(=ジャパ
ン)の勉強は中止か。そこまでしてアメリカに行く当面の理由は、年の行った、行き過ぎた感じの男との結婚に親が同意しない、それだけではないか。気乗りし
ない相手と結婚の話をかってに親が勧めるというのも、理由か。
だが、夜通しの家族会議の翌る夕方には、内村との初のデートが約束されていたらしい。夏生は卒業式のあった早稲田大学まで内村に会いに出かけ、セーター
をプレゼントされ、そこそこの時間には帰宅した。なにも言わないので、なにも聞かなかった。
奥野の老いた父は、息子秀樹の家族がなにやら大わらわなのを少し心配顔で、その日の昼に京都へ帰っていった。奥野と藤子が東京駅へ見送った。杉本とのこ
とを話すと、
「そう齢のいった相手では、夏生がかわいそやないか」と父は声低く唸った。おじいちゃんのあの言葉は印象深かったと藤子はあとあとまで忘れなかった。
翌日、若い国文学者が三人で奥野を訪ねてきた。谷崎潤一郎を芯に、五人の同時代文学者を一対一に配して、谷崎文学の角度のある検討をしてみたい、ついて
は駒井次郎と一緒に作家側から企画に参加してくれないかという、心はずむ共同出版の話だった。いい話だった。
客が帰り、そして夕過ぎて松江からわざわざ上京した戸川一馬が、どこからか突如電話を入れてきた。
夏生は帰っていない。
すぐ美術館へ電話でしらせた。「会う気ないわよ」と夏生は言う。手紙か電話か、いずれ結婚の意思のないことは告げてあるのだろう、こういう際にわるい怪
我をしてもらっては、どっちにも宜しくないので、夏生は街でゆっくりして帰る、そして一と駅通り越し、タクシーで家に着くと言った。戸川には気の毒だがそ
の方が無難であった。玄関まで訪ねて来ようとは言わない戸川は、たぶんどんなに遅くなっても最寄りの駅で夏生を待つ気だろう。もののはずみでもし行き過ぎ
た場面になれば、両方が傷つくと奥野も思い、自分が戸川と会ってみようと思った。
テルコちゃんの時といっしょだな、これが夏生なんだ、と奥野は憮然とし、だが、べつにいい手もないのだった。夏生の気持ちが戸川を離れていることだけが
疑いようもなかった。
夏生の「帰ります」の電話を一駅離れた先から受け、やおら奥野は最寄り駅へいってみた。戸川は、やはり、いた。夏生の帰宅を公衆電話で確認しておいて、
奥野は戸川に声をかけた。
どんな顔をあの時戸川がしたか、印象もなにものこっていない。奥野は戸川としばらく田舎町を歩いた。なにをどう話したか。憮然としたものが失せるわけな
く、つまらない役回りだった。戸川が気の毒だったが、夏生ともう糸の切れたことは、分かってもらう、しかなかった。
「ぼくは夏生さんを信じて待ちますよ」と戸川は言った。あやうく奥野は涙ぐみかけた。くだらない…。
戸川は音も無く電車に乗って去った。
夏生は部屋に閉じ籠っていた。奥野もなにも話さなかった。
夏生が赤坂のホテルで内村竹司と結婚披露をしたのは、同じあの年の六月八日だった。奥野に連れられ内村と初めて会ってその掌にビー玉を転がしたのが、三
月二十二日だった。……早い。
「結納は勘弁してほしい」と内村に言われ、奥野方に異存はなかった。宴会の場所も決まり、新夫側の主賓には前の総長ときまった。夏生のお祝いにはやはり谷
崎夫人を頼み、夏生を中国へ連れていってくれた尾崎氏をはじめ文壇や学界の知人に奥野は出席してもらえないかと頼んだ。夏生のためにもというより、奥野は
内村の将来も考えて顔ぶれを慎重に思案した。不幸なことに内村の父の葬儀もはさまったが、当人らも周囲も、故人のためにこそと挙式延期は避けた。臨終のま
ぎわまで夏生は泊まり込みで看病にあたっていたし、故人も夏生を息子の妻と認めてから亡くなった。
夏生の、だが、胸のうちは知らず、四月四日朝、折しもきつい春嵐を衝いて内村とデートに家を出て行くまぎわ、娘は母に手紙を渡して、「伏して願います。
アメリカへやって欲しい」と、まだ、書いていたのである。
すこし前、夏生はまた新田牧師と会つていた。どんな対話があったとも奥野は知らなかったが、帰宅してほどなく内村の電話があり、四月四日の嵐のデートが
約束されていた。デートのあと、家まで内村が送ってくる約束よと、藤子は、婿殿を迎えの用意に気を使っていた。
奥野は奥野で、かねて内村に聞いていた同じ大泉に住む東大名誉教授のR家がつい近所にあるのを、自転車で走って観て帰ると、ぶしつけと知りつつ電話をか
けていた。
内村は、R氏の勉強会に顔を出していて、自宅へ年賀に出向いたこともあった。その折の話では、なんでもR氏は横浜の方で退官後の新たな講座をもたれるの
で、住まいを向うに移し、大泉の家は処分したいが、愛着ある書斎などもあり相応の人に譲れればと希望されているようです、と。
そのときは聞き流していた、が、なんとなく、そういう家を夏生らの住めるよう手に入れてやれれば…と、奥野はいきなりR先生にそんな由を漏れ聞きました
がと伺って見たのだ。
話は事実だった。R氏は奥野秀樹のことも承知で、むかし「展望」にのった奥野の受賞作など「拝読しましたよ」と話はごく開け放しに、「あなたが使って下
さるなら本望なんですが」ということだった。まだはっきり移ると決めたわけでもないらしく、とりあえず川崎にはマンションの部屋を用意していますという辺
りで、電話は済んだ。大きい家ではない、だが家一軒を新たに買うのはなみたいていのことでない。夏生たちどころか、もし父、母、伯母、年寄り三人をいちど
に京都から引き取るハメになれば、やむをえず奥野が仕事場ともどもそっちへ移り、いまの家に年寄りを入れる、それさえ、夏生が嫁いで明く余地を勘定に入れ
ざるをえなかった。
「残念なことに書斎のある二階のすぐ裏手が、保育園の運動場でしてね、だいぶ賑やかになってしまったのも、移ろうかという思案の種なんです。静かでないと
お困りでしょう」
R氏はそうも話されていた。物音より人の声のほうが、奥野も、たしかに困る。
だが、電話までしてそんなことをとにもかくにも考えてみた自分の気持ちが、いくらか軽く弾んでいることに奥野は、新鮮な気分を味わった。内村竹司が亡父
のような大学教授になって行く、そういう研究者らしい未来を、いつとはなく奥野も期待していた。夏生がさぞ自慢するだろうと思うと苦笑いにもなった――。
雨嵐のなか、「アメリカに行きたい、伏してお願い」と書き置いてデートに出ていった夏生は、夕過ぎて内村といっしょに大泉の家に帰ってきた。内村の車
で、どこまで走ってきたか、そんなことは聞く気にもならなかったが、夏生は助手席で終始「ナビゲーター役」を仰せつかり、
「なんだか急速に親しくなったようよ」と藤子は夫に耳うちした。
こういう日を慮って夏生に買ってやった服が、みな、ちゃんと役に立った。内村の家へもつれて行かれ、白地にピンクの花、グリーンのプリントの上下に、ピ
ンクのブラウス、グリーンのベルトの一着も、また黄色いチェックの絹のワンピースも、たっぷり褒めてもらってきた。藤子がそういうのを強いてでも選んでや
るのを、夏生は、
「ママは、まだあきらめないの」と陰気そうにわざと顔を歪めていたというが、そうも言いつつ一方で夏生は麗々しく内村竹司を勤務先の美術館に呼びだし、あ
れだけ杉本ゆたかとのことで学藝員たちも親身に気を揉んでくれていた真っ直中で「顔見世」興行をやるほど、大胆な真似もした。藤子ですら、
「軽率ではないの」と心配した。
「自慢、自慢」と、奥野はすこし身を縮めてわらった。
だが奥野が、ひとつ、「やっぱりそうか」と気にしていることがあった。あれは山根不在の「流れ」で仕様がなかったとはいえ、竹橋の村上華岳展会場で奥野
は内村竹司に娘を初めて引き合わせた。まるで親つきの見合いになったが、婿殿候補に夏生がどんな失礼をはたらくかまだ知れたモノでないのを気遣い、その脚
で銀座で御馳走し、すこしほぐれたところで思い付き、と言っても内村はまるでいける口ではなかったが、客筋に漫画家が多く作家や記者達もよく顔をだす、夏
生も馴染みのバア「ベレ」へ二人を連れていった。奥野らより年かさ、気はうんと若々しいベテランの名物ママとは、藤子もすっかり親しんでいた。言わず語ら
ず奥野はママに内村を見せてみたかった。婚約するかも知れぬ相手とは言わなかったが。
後日、奥野は藤子といっしょにその「ベレ」へ行って、「あれ、どう」と小声で聞くと、即座に首を横にチッと振られた。それだけで、よく分かった。
「やっぱり…ナ」と奥野は合点し、藤子は気の毒な顔をした。どこがとは言えない、が、分かっていた。
内村に「色弱」があるという話が、仲人の山根を通し奥野家に通知されてきた。軽度と聞いたが、女子を通して遺伝するおそれがある。生まれた子が男の子な
ら遺伝の可能性はそこで絶えてしまう。いいではないか、それぐらいと、奥野は目をつぶる気持ちだった。
藤子は「やめましょう」と言った。
奥野は知人の保健所長に意見を聴き、藤子は眼科の女医をわずらわせて意見を聴いた。結婚をぜひ回避するといった条件ではあるまいとのことだった。奥野の
考えに近かったが、藤子は夏生にそれと話は告げずに美術館に連絡だけをとって、わざわざ池袋駅で娘の帰りを待ち合わせ、
「仲人さんから正式の通知よ」と、内村の視覚異常を告げた。
「やめて、いいのよ」と藤子は言い、「やめたら」とも、すこし強く言った。祖父の言い残して帰った「夏生が、かわいそやないか」という言葉が藤子には堪え
ていた。齢のいった杉本で「かわいそう」なら、わざわざ眼に障害のある内村だって…と思った。
思い当たる節々を夏生は認めた。だが、思いめぐらした末に、「人格とは関係がないし」と結論した。家に帰ると夏生は親の目のまえで即座に内村に電話をか
け、慰撫し激励し、
「そんなことが何ごとでしょう」と、ほとんど叫んでいた。奥野は辟易した。なんとも芝居がかって聞こえた。
前から知人に声をかけてもらっていて、断り切れない夏生の見合い話が、そんな時分に一つ、二つとつづいた。文句もつけず夏生は親の顔は立てたが、即日
断った。夏生の肚はきまっていた。
四月三十日、火曜日夜に、内村竹司が婚約の指輪持参で、正式に、
「夏生さんを下さい」と挨拶にきた。
「きっと幸せに大事にします」と月並みだけれど、親にすればやはり一番聴きたいことも、かるく唇を曲げる癖で口ごもりながら、ちゃんと言った。
蛤の吸い物と赤飯が用意してあった。新調の朱盃でかたちばかり固めの酒を、春生(はるき)もいっしょに、家族五人で交わした。春生は写真係を熱心につと
めていた。
しばらくして、ちょうどゴールデン・ウィークの間だった、久々に福井政人が電話をかけてきた。夏生は出勤していた。藤子は、夏生の婚約がどうしても言え
なかった。言うのなら当然夏生から誠実に告げるべき話だった。杉本ゆたにも戸川一馬にも、結婚することは誠実に夏生から告げるべきだった。
杉本とはどうだったか。戸川とはあのままの別れだったらしい。結婚して一年余の夏生の誕生日に、戸川一馬はまっかなバラのたわわな花束を送って来た。
「夏生さんを、信じています」と戸川はまだ夏生にプロポーズの権利を手に握っていた。藤子からとにかく、美術館だったかアパートだったか忘れたが、花束の
ことだけは夏生に知らせた。
「捨てちゃって」と言下に切って捨てた夏生の口調は忘れることができないと、母親は、いまも、さびしい顔をする――。
婚約が調い、奥野家は忙しくなった。
五月子供の日、夏生は竹司の父を病院に見舞い、対話は三十分に及んだ。肝硬変の患者はみるから小さく黒ずんでいたそうだ、奥野らの見舞いは辞退された。
「お元気なら、竹司君よりも父上と親しくものなど話して楽しめただろうに」と、奥野は残念だった。藤子も同じことを言った。
ホテルでの衣装合わせの日、山根夫婦も立会い、はじめて内村夫人と奥野らは会った。
宴会場は奥野の読者である総支配人の肝入りで、こんな立派なと尻込みしたい広い会場が無料で提供された。招待客は各々四十人――、たいへんだよ、どうす
るんだと奥野は悲鳴をあげた。たぶん小心な京都の父も母も出てこないだろう、世なれて達者な叔母だけが着飾って堂々と列席するだろう。藤子の側も親類はあ
まりアテにならなかった。仕事の付き合いの人を、頭をさげて頼むしか思い付きようもない。
婚礼にかかる費用は、新郎新婦、一切折半と合意があった。
奥野秀樹はここで失敗していた。
折半というのは半分ずつのことだと、一も二もなく疑わなかった。むろん親の借り着などはいわゆる婚礼費用の外としても、花嫁花婿の衣裳代もふくめてホテ
ルから出てくる婚礼費用の請求分をきれいに二つ割りと思い込み、疑わなかった。奥野と藤子とは、こういう経験を一切せずに新島襄の墓前で二人きりの結婚式
をしていた。ひとに言わせればそういう真似が「非常識」だった。奥野など、腹の底では披露宴だの色直しだのをさほど大事と考えてもいなかった。とんでもな
い爆弾を抱えたことに気さえつかず、あとで恥ずかしい思いをした。
五月二十七日、夏生は新居に借りたアパートの掃除に内村と待ち合わせていたが、待ちぼうけだった。夕方五時まえに内村堯氏が亡くなり、内村の家族はそっ
ちへ駆け付けていた。そうとは知らぬ奥野らは池袋のデパートで下校の春生(はるき)と待ち合わせ、結婚式の日の服装を、アメリカントラッドで一切合財、靴
まで新調していた。帰宅すると、夏生(なつみ)から、とりあえず内村の家にかけつけるのでと電話が来た。声音はしっかりしていた。
翌日の通夜に、はじめて相模原の内村家を奥野と藤子とは訪ねた。なんだか山の中のような風情の、木立ちばかりもさもさした敷地に、古い家が建っていた。
中へ入っても、とにかくざわざわと取り込んでいて、しみじみとものを言うこともできなかった。べつに誰に引き合わされるといった場合でなく、香奠を厚く
し、お悔やみを申し、夏生はお手伝いにどうぞお使い下さいと言い置いて帰った。
翌日の葬儀にも夫婦で出掛けた。もうそこが内村の家という急な坂道で、後ろの方から泣き声を放ってかけこんでくる若い女性をやり過ごした。
「紅さんじゃないか、竹司君の姉さんの」と、奥野は察した。音楽の勉強に海外留学している姉のあることは聞いていた。気性がはげしく父親とけわしい葛藤が
あって、たいへんだったんですと竹司は漏らしていた。夏生にも話していた。いやいや父親と娘とは、どうたいへんな仲だろうが、死なれればだれよりも辛く…
て、ああなるんだ…。奥野は今し方の女性の手放しで泣いて駆けていった後ろ姿に胸をつかれていた。
焼香のあと、二人は路上へ出て出棺をそっと見送った。山根夫妻といっしょになり、誘われて銀座のホテルへまわり、お茶をのんだ。
「お式、どうなりましょう」と藤子が口を切った。
「さあ。勝手には決められないしな」と、奥野は山根にむずかしい返事をさせるのが気の毒で、口を挟んだ。
「そうですね」と、さすがに二組みの夫婦も話が弾まなかった。
六月一日には、だが、竹司がレンタカーを運転して夏生の荷物を運び出した。藤子はご近所との生活クラブ生協の寄合で披露しようと、内祝いの紅白を和菓子
の店に特注していた。挙式まで、一週間。なにもなにも、ほんとうのことと思えなかった。
四十人の客も、なんとか、むりやり揃った。心嬉しく、奥野は両家列席者の連名を、一人、一人、心こめてワープロで打ち出した。新郎新婦に、これ以上はな
いお客様だと思った。
披露宴だけで「式」はしないと、山根夫妻や司会を頼んだ両方の友人たちも含めた席で、夏生らは決めていた。
奥野らも異存なく、ただ、奥野はこんなことを希望した。つよく希望した。「結婚届」に前もって当人二人が署名捺印しておく、さらに式前日までに両方の主
賓宅に挨拶に行き、その際届書の保証人欄に住所記入と捺印とをあらかじめ貰っておく、そして披露宴の最初に、列席の皆さんの目の前で、前総長と谷崎夫人と
に結婚の証人としてご署名いただき、それを以て即ち「結婚式」と見做してはどうか、と。きっぱりした印象で清々しいと思うが、と。
内村も夏生も名案だとすぐ賛成した。山根も司会者も大賛成だったとあとで聞いた。
「披露宴が終わったら、その日のうちに、最寄りの区役所へ届けるといいね」と言うと、内村も、「ええそうします」と首肯いた。奥野は、だんだん嬉しくなっ
てきた。
折りから奥野は、「愛と友情の歌」を古今の詩歌から選んだ一冊の本を出版直前だった。あとがきを、「娘が華燭の日に」書いた。愛のあまねく惠みを頌えな
がら、だが、愛の難(かた)さをも言い、「努めるしか、ない」と書き納めた。「女子の身になし難きことありて悲しき時は父を思ふも (松村あさ子)」とい
う思いを、夏生にさせたくなかった。だが――夏生のそんな思いを父親が自らはねつけてしまう日の来ることに、奥野はそのとき思い及んでいなかった。
十一
五月二十一日――東京を、九時五十六分に発ってきた。奥野は久しぶり旅の気分で、京都へ自分を開放した。
十年も関係してきた或る美術振興基金による美術賞授賞式に、選者として、理事の一人として、ただ出席すればすむ用事だった。選衡は二ヶ月ほど前に済ませ
てあり、短時間のカクテル・パーティーのあと、三人の受賞者と夫人、それに財団関係者たちや過去の受賞者たちと記念写真におさまるだけでよかった。選考経
過といっしょに講評のようなことを話す役目は在洛の他の選者がしてくれ、東京から参加するのは毎度奥野秀樹一人だった。宿も財団で用意してくれた。
ありがたい…と、奥野は、はなから新幹線では寝るつもりで家を出てきた。もうもう夏生(なつみ)のことや春生(はるき)のことで頭の中をかきまぜるのに
奥野は倦み疲れていた。
ゆうべも、へとへとになるまで、夏生の結婚に漕ぎつけた十年前を、苦虫を噛み砕く不快さで、だが歴史を書くほどの気分で逐条思い起こしていた。藤子にも
ときどき記憶を確かめに書斎から立って聞きにいった、が、妻もこまかな記憶はとうに放擲していた。いまいましいのだった。
それにしてもなんと可哀相な母親だろう、念願の「結婚」を遂げた一人の娘の結婚にまつわる、一切がいまいましいとは。
奥野は首を小刻みに揺すって、可哀相な娘やその弟や母のことを、せめてこの旅行中は忘れていたいと思った。奥野のエゴイズムだった。
今日二時からの会場は、三条蹴上の都ホテル。新制中学のころの学区内にある。目をつむってでも歩けるあの一帯――南禅寺、永観堂。平安神宮。動物園、美
術館。青蓮院、知恩院、円山公園、八坂神社。その八坂神社西の楼門から石段下、四条大通りをみおろせば、青春の昔がみんな見渡せた。「あの人」の、「姉さ
ん」の元の家も指さす先に見えていた。
街の様子はすっかりと言いたいほど変わっていても、奥野にはどの辺りの一箇所一箇所もピンセットで表皮を剥いでいくぐあいに、懐かしい昔に復元できる。
昭和の年号で数えれば今年は昭和七十一年――あの頃は…昭和二十四年。
中学の校庭で、いきなり奥野はあのとき異界へ踏み込み、まわりは白い紗のようなもので囲われた。
竹馬やいろはにほへと、ちりぢりに…か。
指折り数え、四十、二年にもなるんだ、奥野は、あのとき、あの瞬時にこの世に初めて「生まれた」のだと謂ってよかった。あれより以前の記憶もさまざまあ
りはするが、そして戸籍には昭和十年十二月の誕生日が記入されているけれど、奥野はその記載を、成ろうなら己が「根」とも思いたくないのだった。
もし「あの人」と出逢わなければ一人で生きて行けないと思うほどの人が、奥野には、二人しかすぐに言えない。一人は妻の藤子で、もう一人は心の奧で生き
ている佐倉芳江だった。「姉さん」だった。
正直のところ奥野はその人の顔ももうさだかに思い出せない。写真一枚もっていない。奥野は新制中学二年生で、あの人は三年生だった。出逢って半年すると
卒業して行った。その以前はまるで知らない人だった。「世間」の海原からぽっかりとあの人は浮かび上がり、奥野しか立てぬはずの小さな島にやすやすと一緒
に立ってくれた。その人の島に、やすやすといっしょに奥野も立たせてくれた。
あの人の卒業後の数年間に、たったの十度も顔が見られたろうか。声が聞けたろうか。顔も声も忘れてはいなかった。だが、覚えているままに歳月の波があの
面影を洗いあの声を洗い、うっかり手をふれれば原形を損なうか知れなかった。
佐倉芳江との再会はなかった。だが文通と電話だけの再会は、かろうじて手にし、耳にした。そうなるまでの奥野の「探索」に何の下心もなく、ただもう懐か
しいだけであったけれど、四十の坂へ深く踏みこんだ男と女との、ただ懐かしいだけの再会に素直に頷ける人は、当然だろう、無かったようだ。佐倉の姓をかえ
結婚していた芳江の家庭でも、奥野家でも、それぞれに夫が傷つき、藤子も泣いた。交通はそのまま絶えた。絶やすより方途がなかった。
だが奥野は小説家だった。なぜ出逢いなぜ慕い、なぜ再会しなぜまた別れたか。奥野の動機において、これを考えずには、これを書かずには気が「澄」まな
かった。だれの目にも事実どおりとしか受け取れないほどの、仮構! そして長い小説は書かれ出版された。大きな賞の候補に推してくれた先達もいた、が、
「私小説」すぎると読んだ人もいた。
佐倉芳江と妻は対立する二人でなく、奥野にすれば「時」を追って受け継がれた一つの思いだった。だから過たず二人を奥野は真実「身内」と思った。夏生
(なつみ)や春生(はるき)を大切に愛していることはいささかも疑いないが、しいて一つの「島」に来てくれなくても、いっしょに立ってくれなくても仕方無
かった。彼らは彼らのそれぞれの「芳江」や「藤子」と出逢うのだ、それが夏生の身内で、春生の身内だ。そう思うから、そう信じているから、よくは解せない
夫婦だが、夏生のことは内村に委ねておいて当然だった。何の惑いも、その点、奥野は持っていない。春生の薫のことは、まだ奥野にもいっこう分からない。結
婚して孫を生んでくれる女性だとは、まだ、実感が湧かない。
芳江や藤子が奥野において「意義」を得たのは、もう一方に奥野の生みの親たち、育ての親たちがあったからだ。徹していえば、奥野にとって二た組みの親た
ちが自分には「他人」であったことの確認のために、ぜひ佐倉芳江に出逢わねばならなかったし、ぜひ大江藤子と結婚しなければならなかった。長い小説では、
包み隠しなく其処を書いた。人も驚いたほど激しく、辛く、書いて表した。作のうえで、奥野は、その物語を中学に入ったばかりの夏生(なつみ)にむかい語り
かけるように書き表してみた。わが中学時代の「日記」を奥野は心こめ「創作」し、またその後のながい歩みも表現した。
夏生は、あの小説を読んだだろうかと、ときどき奥野は思った。分からない。話題になったことは、なかった。母親に気をかね、話題にしにくかったのかも知
れない。だが奥野には、それはそれ、もし真実自分が生きてきたとの実感を持とうならば、あの佐倉芳江は出発点に立って、ただ奥野の背中を前へ押し出してく
れた人だったから、忘れてしまうわけに行かなかった。藤子も、聞いて確かめたわけではないが、佐倉芳江がつまりは夫奥野のために彼が喪失していたあたかも
「母」の位置に立ってくれた人だと、見えて来ているふうだった。だが奥野が我が儘に勝手なことを想ってはならない。藤子の気持ちは、むしろ見えていないと
考えていたほうが、フェアだった。
奥野の京都行きにほかの目的はなかった。授賞式に出てすぐ帰ってよし、一泊の用意はしてもらってあり、今夜も明日も気ままにしてよかった。昔ほど京都に
わくわくしないのも奥野の正直な気持ちだった。親の家がとうに失われ、父も伯母も亡くなり、母も東京で余命を望むには気の毒な衰えをもう見せている。奥野
が京都に残しているのは思い出だけだ。京都の現在に――そう、今日の用件のような関わりが無いわけでないが、身のひきしまる感動を誘うものが、京都に、と
いうより京都に立ち向かう奥野の気持ちに薄れていた。東京で死んでも構わないと思う自分がむりなく肯定できた――。
――浜松辺から名古屋まで、寝入っていた。むかしは乗り物で眠れなかった奥野が、いまは都内の満員電車でも座席があればかんたんに睡眠した。そして夢を
みた。
めずらしく夢のない眠りだった…ようだ、奥野はにんまりした。夢をみて眠るのは疲れる。奥野には睡眠すら夢ゆえに苦痛なことが多く、目覚めるとぐったり
している。
名古屋の市街地を抜けて木曽、長良、揖斐、大きな川をつづけざま三つ渡ってしまうと、なんとはなく「関ヶ原古戦場」と遠い丘陵の腹に書き出してあるのを
奥野は心待ちにした。東海道線を、東海道新幹線を何十度往来したかしれないが、奥野の「関ヶ原」は一の通過点になっていた。ことに京都へ帰るとき、関ヶ原
まで来ると、冬など冷え冷えと凍みわたって、やがて不破関のトンネルを抜けて行くと、もう京都はまぢかいと胸が鳴った。いま――そんな感激はほとんどな
い。親の家を喪ったとは、こういうことかも知れないと、やはり奥野は寂しい。
近江は奥野が生母の生国だった。能登川の人だった。隣りの彦根市は、その母がまだ彦根高商の学生だった父を迎え入れた町だ。琵琶湖は奥野の「みごもり」
の湖だった。
よく晴れた湖越えに比良のやまなみを目をほそめて眺めた。あの高い峰のどれかへ、いつかの秋、藤子や夏生(なつみ)春生(はるき)といっしょにケーブル
で登って、また降りたことがある。前の晩には鞍馬で火祭りをみた。子供はいつまでも親の子供ではありえないが、親の思いには子供はやはり子供だ。だが奥野
は奥野の家の育ての親たちにとって、けっして懐かしいいい子ではなかった。冷淡だった。側にいてやれる時でもめったに長く側にいず、すぐ姿を消した。どん
なに腹立たしい嘆息をあの人たちに、させ続けたことだろう。夏生や春生に苦情をもつのはあまりに厚顔過ぎる。
おれは、実父母にも養父母にも温かい気持ちの子ではなかった。いつも懐に剣をのんでいた。生母タミを避けて拒みつづけ、実父の秀を厭って拒みつづけた。
もともと二人は奥野を生み捨てたのだし、奥野がもの心ついたときには、ふたりとも奥野の前に実在すらしなかったのだから、それを恨むほどはねじけた気持ち
でなかったものの、そんな親はさっぱりと拒絶しうる立場にいた。その立場が奥野に哲学を与えた。奥野の両親には、だが、海山の恩義がある。愛されこそすれ
少しも「貰ひ子」ゆえの冷遇などされなかった。最高の教育も授かり、東京へ出る自由も与えられた。経済的にも莫大な恩を受けた。どうしてもその親が好きに
なれなかったとは、だれよりも両親に対し気の毒だった。申し訳なかった。
奥野の親たちとは、一つ屋根の下で一緒に生活するという親孝行もついにしなかった。出来てもしなかった。隣家を用意して入ってもらった。わが家を与えて
もらいながら、同じ家に親を入れなかったも同然の仕打ちだった。奥野に出来たことといえば、会社に入り、受賞して作家になり、自分で生活して父や母をその
意味では不安がらせなかった。いくらかでも世間に名を出し、仕事を通じて父にも母にもわるくない気分を味わってもらえた…らしい。父も母も叔母も喜んでく
れていた…らしい。そして孫を二人、みんなに抱いてもらった。曾孫も抱いてもらった。
春生(はるき)は、「子供の人生で自分の幸不幸を量るな」と暗に父親を諷し、かげで母親に言うらしい。ちがうのとちがうやろか…と奥野は考える。子供こ
そ、親の幸不幸で自分のそれを量る必要はまったく無いけれど、親は、自分のなかに子供を抱いたまま死んで行かねばならぬ運命を負っている。道義や生活の定
まらない子供をみて、どうして親は寂しくなくおれるというのか。たとえば夏生の場合も、親の顔を土足で踏んで置いて、親は、孫あれど孫を奪われ、春生の場
合、孫があって自然な齢なのに、今やほぼ断念せざるをえないとは。それは子供だけの人生といえるものでなく、やはり奥野と藤子との人生なのであり、あたか
も天罰を被っているといった断念・諦念で受け入れるしか納得の道もない有様ではないか。
奥野自身が、藤子自身が、個人の力量をさらに十分に発揮して、喜ばしい大きな別の結実をたとえ得たにしても、それで孫の顔の見られない埋め合わせがつく
という道理はない。子を以て己が幸不幸を量るななどと、春生のヤツ、何も、なんにも、分かってないのだ。奥野はあの時妻の前で思わずテーブルを叩きブルブ
ル震えた。なんだか、この先を生きてゆくのが怖かった。
――能登川町から老蘇の杜を「ひかり」が過ぎてゆくのを、奥野はぼんやりと放心ににた気分で、じつは胸にさし込んでくる不満に悩みながら、自分が、どう
したらこういう生涯の幕をおろせるのだろうと考えていることに、また怖くなった。
情けない…と奥野は舌打ちした。「不幸」などという言葉を念頭においたまま「過去」を、そう「未清算の過去」を自分は清算してしまおうとしている…。在
りえなかったことが、今、自分に起きている。そして京都へこうして帰って行っても、もう京都は、自分を抱き取ってなどくれないのが分かっている。カッと拳
をにぎって奥野は遠い比叡山のほうへガラス窓をゴツゴツと叩いた。前座席の客がふりむいた。凍えたように奥野は寂しかった。
おれは…、だめなのか…もう。
予約されたホテルに入ると、奥野はワイシャツとジャケットに着替えた。立ったまま恩師でも同僚理事でもある矢部卓之に電話した。案の定、今日蹴上での授
賞式には出ないという。
「そやけど今晩はあいてますわ。どこがええ。『香川』でどうやろ」
「いいですね。でも、その前に食べませんか」と、奥野は、今晩の飲み相手を仕事よりさきに決めてしまった。相手が矢部さんでは、タカっているようなもの
だった。
同じ財団の理事で、教え子の奥野秀樹を美術賞の選者に推した矢部は、いわば賞の選考をうける側の漆藝家だった。戦後新制中学時代の図工の先生から、高校
美術科の先生に転じ、新設の美術大学教授になり学部長までも歴任してきた人だ。京都へ来ると、三回に一回は奥野は矢部先生に誘われたり、また誘ったりして
きた。矢部卓之といえばけっこうな顔で、祇園界隈ならどこへ行っても待ち受けている知人や教え子がいた。奥野は多年ひたすら先生にご馳走になってきた。ほ
んのときたま東京で迎えてやっとお返しができるかどうか、だ、が、会えば話ははずんだ。奥野として気の毒なのは、賞選考の場に矢部氏が推薦されて出てこな
いことだった。或る意味では、その辺も奥野と似た先生といえた。
祇園のお茶屋がやっているバア「香川」の女将も先生の教え子で、奥野の一学年後輩だった。読者のひとりでもあった。東京で評判のいい舶来の展覧会がある
と、ぜひ観たいだけのために飛んで上京してくる人だ。織りと染めの作家でもあり、非常勤で大学講師や講演でさえときには引き受けるという、おもしろい藝妓
はんのひとりでもある。
授賞式も記念撮影もあっさり済んだ。この人も奥野の読者で永い馴染みのホテル総支配人に、部屋に招ばれ、コーヒーを御馳走になりしばらく雑談のあと、勧
めてもらった車はことわって、蹴上から、ぶらぶらと三条通りを西へ下った。京津電車の走るこの坂道は、子供の昔奥野が自転車での疾走路だった。ちょうど今
歩いている辺でトラックと接触したこともあった。自転車は大破し、幸いからだは怪我なく済んだ。すごかった、こわかった。父に叱られた。親の目をぬすんで
乗りまわす家に一台きりの自転車を、使いものにならなくしたのだ、当然だった。大怪我をしてこなかったのに父も安堵したか、叱責はひどいものでなく、少年
奥野は懲りもせずまた新しい自転車ができると、近在の坂道という坂道を、猛烈なスピードで一度は駆け降りてみずにおれなかった。自転車を名馬と思い、自分
は疾駆する武士かなにかのように想って、しばしば片手をふりまわしまわし、叫んで駆けた。仲間はひとりも無かった。
平安神宮の大鳥居のほうへ広道が折れて行くすぐの東側に、奥野のことに好きな画廊があり、折よく、明治大正に海外へ勉強にでた画家たちの勉強作で展覧会
を開いていた。ものの二十点も架ければいっぱいの小さい店だが、主人の目くばりも目ききもシャープで、奥野はただ、あぁ…あぁと唸り、頷き、こういう出逢
いを「幸福というんだよ」と自分に言いきかせきかせながら、「南国」と題のついた繪が欲しかった。キューバの景色であるらしい、まばゆい町の遠景と、深い
緑蔭の近景とを、きまじめに写生した油絵だ、奥野の名も知らなかった画家の作だった。奥野と、以前財団の美術雑誌で対談したことのある画廊の主人は、前髪
のすっかり白くなったふとった小説家の、いつにない執心を、にこにこと黙ってみていた。買おう……。
東京へ送ってもらうことに奥野は決めた。なんとか支払えるだろうと勘定をつけ、嬉しくてならなかった。繪はときどき買うけれど、いままでの買い物より、
いちだんと満たされた。地味だが、ちいさい繪だが、励まされる力と安息とが南国の風景にこもっていた。
「いいですね」と画廊の主人も商売気ぬきに頷いてくれた。
「よかったよ、寄って見て」と奥野は声をはずませて店をでた。平安神宮のほうへは向かわず、三条通りを越えて粟田口の坂をゆっくり登った。大楠が葉を繁ら
せた青蓮院のまえを、知恩院から円山公園のほうへ歩を刻んだ。家の庭を歩いているような少年の昔の気分がすこしずつ蘇る。用事はなにものこっていない。今
晩矢部先生と飲んで、喋って、あしたは、どうしよう…か。奥野は、ほのかな幸せを取りもどしていた。
いつものように公園から八坂神社境内へのゆるい坂をおりた。鳥居まえで振り向くと、夏のきざしの東山がうるんで青い。まだらに青い。大きく育った枝垂れ
葉桜の向うに知恩院の大甍がみえ、空は曇っていた。なにを見てもどれを見ても、数十年の記憶が克明に蘇る。あくまで過去の記憶で、明日へつながり開けて行
くものは乏しい。無いに等しい。おおかたの京都は、奥野の過去だった。過去が完了していた。それを確かめに歩いてる気がしてきた。
八坂神社の拝殿脇で、去年のいまごろ、奥野は中学時代の数人と「同窓生交歓」の写真を雑誌「文藝春秋」に撮影させた。歌舞伎の松嶋屋我當がいた。大企業
の役員も二人三人、神官も、料亭の主人もいた。新制中学の同窓生だけでこう顔の揃った例はめったにないぜと、グラビアの話をもちこんできた日立の取締役は
自画自賛したが、感傷だ。現在を語っているようで、じつは過去が過去の顔をしていただけだ。ときどき会って酒を飲む。飯を食う。みんな、年をとっただけ
だ。
だが、しかし、この境内へ佐倉芳江に呼び出されて、ポンと一つ背をたたかれ、
「十七にもなったら、親は赦したげよし。な」と教わったのは、奥野には、過ぎた遠い日のただの思い出ではないのだった。あの「姉さん」は、親に構うなと教
えてくれたのではなかった。親にひきずられるより、逆に親の手をひいて元気に生きて行けと背を押してくれたのだ。
奥野の養父は――当時五十三、四歳だった――奥野が高校へ進んだころから、近所の主婦と、町内中が見かねた噂の主となった。母も、少年奥野も、大荒れの
渦に溺れかけた。苦い水をしたたか飲んだ母は容易なことで立ち直れなかった。奥野は独り学びの短歌などつくって持ち堪え、父の自暴自棄から家庭の「解散」
を防いだ。「解散」されては困るし、また、父だけを奥野は咎めてもいなかった。
雪女郎おそろし父の恋おそろし(草田男)
「父の恋」はいかにも恐ろしかったが、父の背越しにのぞき見た「雪女郎」のようなよその家の母親は、養母より少なくも女っぽく、なにもかもたっぷりとして
いた。奥野の目にも、わが母のからだつきは薄くて固くて魅力に欠けた。終生嫁がず、同居して、母に盾つきあくまで兄の味方をした奥野家の叔母にくらべる
と、母は顔立ちこそよかったが、伯母の乳房の美しいのにくらべたら、少年の奥野すら目をそむけたほど母の胸は木目の浮いた板が一枚だった。奥野が貰い子さ
れてきた真の理由を、母の薄い胸が雄弁に語っていた。父の渇きが分かる気がした。夢精に悩みはじめていた奥野は、母との長い歳月を父はどう凌いできたのか
――と、本気で案じてさえいた。
八坂神社の境内に大きな大きな樹があり、台風でだったか、老い衰えてか、根元で伐られて輪切りにされた一部が、記念のように西楼門の裏手に置かれてい
た。「姉さん」は、佐倉芳江は、高校生の奥野を差し渡し三メートルありそうな切り株に腰掛けさせ、向き合って立って、優しい声で「十七にもなれば、親はゆ
るせ」と励ました。慰めたのではない、「自立せよ」と背を押した。芳江が、わざわざ自分の妹を介してでも奥野を外へ呼び出すなどということは、絶えて無い
ことだった。「姉さん」は当時祇園町北側にある実家では暮らしてなかった、たまたまどこかから帰っていて、妹たちからでも奥野家の噂を聞いたのか――。
いま奥野は――むかしと同じ切り株に腰掛け、しばらく放心の時をむさぼった。ぱらぱらと小雨がきたのもかまわず、頭を垂れ、過ぎた莫大な歳月の重みに身
を預けていた。雨が急になり、楼門へ、声をあげて駆け込む人たちもいた。奥野ものがれた。一瞬の雷鳴が爆けたように空に満ち、深い静かさがあとへ残った。
「姉さん」が叱っている…と、奥野はふと感じた。目をみはって奥野は、にわかに篠つく雨の街路をじっと見ていた。
雨は、六七分して、大きな幕を引くようにやんだ。
時計をみて奥野はいったんホテルへ車で戻った。汗を流し、シャツも靴下もかえた。窓から、なんのことはない、西山の遠い夕茜が刷いたように薄澄みかけて
いた。
縄手の「梅の井はどうや」と矢部先生のお薦めだったが、鰻も川魚も奥野は気乗りしなくて、表通りの「味舌(ました)」という気に入りの店で、六時半に
と、奥野から電話で席を予約して置いた。等持寺の奥からタクシーで乗りつけた矢部さんは、ほんの一足違い奥野のあとから、露地を、かすかな外股で肩を揺り
ながら追って来た。
「えらい、春雷やったゃないか。濡れたん、ちがう」と、先生の物言いはまだ若々しい。
「祇園さんで雨宿りしてました。雨はすぐやんでくれましたけど、何なんです、あの雷」
「何ゃて言うたかて、…何やろな」
そんなことを言い言い店に入った。
八寸に、鯛の白子、真名子の煮こごり、白和え、櫻鮓、海老旨煮、菜花みそ漬。いきなり酒がうまい。造りにも奥野の大好きな鯛、そして烏賊とあしらいだ。
気の入った、歯切れのいい美しい献立でこの店は京料理をきちっと、すこしきちっと過ぎるくらい丁寧に食べさせる。カウンターの背中のちょっと広くあいたの
が冬場は寒い感じがして避けているが、すっかり晩春だ。
奥野は矢部先生に図画と体操とを習った。ほかにも奥野のその後に力を及ぼしたいろんなことを教わった。みな、いわばヒントのようなもので、気がつかなけ
ればそれきりだった。「自然」という二字についても、説明されたのではなかった、端的に「大事やで」と言われた。
「そうやろか」と思いつつ「自然」という言葉を大事に抱きつづけているうち、奥野は「趣向」といった言葉に自分なりに意義を与え、これを対にみて、ものを
考えるようになった。そんなところにも奥野の自分史はあった。
矢部先生その人のその後にも、彼が奥野らに話していたことが、ただの雑談でなかった証拠のような画風展開の足取りが窺えた。「自然」は、先生のデザイン
の重い原則だった。「自然」過ぎませんかと、時に奥野は批評し、あんたのは「趣向」が過ぎると逆襲された。そういうことを今でもきらくに、気まずくもなら
ず話し合えるのが有り難い師弟だった。
先生はあまり酒はのまない。奥野は底なしだ。まるで奥野に酒を飲ましてやるのが目的かのように、先生は、昔の生徒が京都へ帰って来るつど、なつかしい祇
園の町へ連れてきた。先生にも、そこは「先生」時代の町だった。どこへ行ってもいい大人の「生徒」たちが迎えた。「味舌」のつぎに戸をあけた「香川」もそ
んな「生徒」の店だった。奥野には一学年後輩の香川さんは、その昔は、ちょっと奥野なんぞが声ひとつかけられなかったような、丈たかい祇園の少女の一人
だった。
店は、たまたまカウンターに客が多く、割り込めなくはなかったが、うしろのソファのほうへまわった。ママとも女将とも呼びにくい、ま、きれい寂びといい
たい和服で落ち着いて話す香川悠子を、奥野らは、むかしの「生徒」時代のまま苗字で呼んだ。その香川さんもすぐ奥野らの席へカウンターから出てきて、三人
顔が合えば、話題は、漆でも、織りや染めでもよろしく、昔ばなしも尽きない。酒はこの店では「ブラントン」とほぼ決めていて、オン・ザ・ロックにもせずス
トレート一本、奥野はこのバーボンが好きだった。矢部先生の奢りに終始奥野は甘えてきた。
そのうち女主人は席を外した。カウンターの客は、若い女性の威勢のいいのと温和しいのとを二人中にまぜて四人、話題も賑やかに右往左往していた。笑い声
もたえない。京大のどこか研究所の人たちらしい――そして、矢部先生が、ふっ…とからだを前倒しに奥野へ顔を寄せてきた。内緒ごとになると先生はこうだっ
た、奥野も自然耳をそっちへ向けた。
「佐倉のこと、知ったはるの」
「…、何ですか」
「離婚したらしいで」
「えッ…」
心臓が石になった、
「で…、ど…ど、こにいるんです」と吃った。瞳孔が縮んで、ものがみな白濁するのがわかった。
「知らんけど。神戸のほうゃて…ほら、下の妹、貞子ちゅうたかいな、あの子が言うてたて。これも人に聞いただけですけんど」と、矢部卓之は独特の言葉尻を
上げるでも下げるでもなく、ごくさりげなかった。だが、さりげないワケはないのだった。
奥野は唇を噛んでいた。
矢部先生は、中学時代に、奥野らより一学年うえを担任されていた。佐倉芳江の学年だった。芳江の次ぎの妹道子とこの店をやっている香川さんとは同級姓
だった。祇園へは、「香川悠子の店」へは、ただ美しい話題で酒が飲めるから来るのではなかった。なにかしら知りたい消息がふっと漏れてくるのではと思うか
ら来るのだった。
奥野の知りたい消息は、だが、めったに口にはされなかった。原因は奥野が自分で負うしかないのであって、つまりは「書い」たからにちがいなかった。「書
かれ」た佐倉姉妹はずいぶん迷惑したにちがいなかった。
香川さんは、一度はカウンターの中に入ったが、そっちの客は相棒に任せておけるとみたか、また来て、元の三人になった。芳江が離婚の話をもっと聞くわけ
に行かず、尋ねても先生はそれ以上話さないだろう…でも、なんで「離婚」だけを話したんだろう…。
やりすごした顔を奥野はして、うまそうに酒をのみつづけた。
「強いわ先生は」と、カウンターからバーテンダーのあきれるような声がかかった。
「うまいからね」と奥野はグラスを高くあげた。うまい酒だが、さっきまでとは味が違った。喉でも腹でもないまるでべつの管を酒は勝手に流れていた。奥野の
心はまっしろに粉をふいて凍てつき、顔だけが笑みをうかべ声だけが元気そうだった。そこにもし誰もいなければ、奥野秀樹は両掌で顔をおおい闇の深みへ沈透
いて行きたかった。
十二
寝るためにだけ奥野はホテルへ戻った。四条烏丸の交差点で、矢部先生の帰って行くタクシーから、ひとり降りた。別れぎわ、もし分かれば「彼女」がどこで
暮らしているのか、だれかに聞いておいて下さいませんかと頼んだ。
「わかりました」と先生は温かい声で応じ、こんどは東京でと両方で言いあい、奥野は車を出た。
眠れなかった。また遠くで雷が鳴っていた。姉さんが…離婚……。眠れなかった。
テレビ番組はどれもどれも気疎く、胸元を衝き上げてくる荒い息を静めるどころか、もっといらいらさせた。叩きつけるようにスウィッチを切れば、空き箱と
変わらない寝部屋の壁を見ても天井を見ても、どう絵に描きようもない不安が募った。逃げ込むようにまたテレビをつけ、有料のアダルトビデオにまでチャンネ
ルを合わせた。いきなり、白人のうずたかい胸に不整形に尖ンがった紅い乳首が大写しに、女の絞りだす声が深夜の部屋にはげしく喘いだ。奥野は目をそむけ、
また画面を見て、音量を消した。画面も消した。
「姉さん」の離婚を予測しなかった。ほんとうだ。だが案じていた。離婚したと聞いてみれば、そうだったか、やっぱり…と、奥野は受け入れるほかなかっ
た。うそッ…とも、まさかとも思われないのが身に堪えた。息がつまった。いま、どこで、どんな部屋でひとりいるのだろう。婚家は高槻にあった。それが神戸
の方だなんて。去年の阪神大震災より前だったのか。怪我はなかったろうか。いったい、いつだ…離婚したのは。聞いておくべきだったことにつぎつぎ思いつ
き、だが、聞いてどうするのかという問いに答えるのはいかにも恐ろしい。どうする気だ、おまえ……。シャワーをつかうことも奥野は考えつかなかった。肌着
だけになり、からだを横にすることも忘れ、ベッドに石のように腰掛けたまま、全身で時間を、空間を、凍りつかせていた。
目が覚めても、六時になっていなかった。躊躇なく起き、シャワーを使い歯を磨き顔を洗い、簡単な荷造り一つで朝飯も食わず奥野はホテルをチェックアウト
した。烏丸通りに小雨が降っていた。やむだろうと思いながら京都駅への地下鉄に乗った。三十分後には、新幹線は近江観音寺山の下をひたすら走り抜けてい
た。窓枠に顎をおくぐらい額をガラスに押し付け、奥野は湖寄りの滋賀の景色をみつづけた。佐倉芳江の一家はかつて近江八幡の辺から京都へ越してきたと聞い
たが、それも頼りなかった。近江八幡を電車が擦過するあいだも、奥野は同じ格好をしていた。こわばって奥野の心臓はとまっていた。拍動をまるで停めてい
た。自分の心がどこかに隠れて見付からないと奥野は感じながら、「あれから…」もう二十年ちかいのだろうかと、表情も喪いただ目を明いていた。
――結婚し、親になり、作家になり、二足の草鞋も脱いで筆一本の生活に入ってまずまず無難に滑り出してからも、奥野は、中学以来ずっと佐倉芳江の消息を
見失ったまま過ぎた。過ぎた昔のことどものなかで、知りたい第一はいつもそれだったが、露わに聞いてまわることも出来なかった。
「自分」はいったい何であったろう…どう生きてきたのだろうかと、創作の過程で突き当たり突き当たり考えざるをえないまま、生みの親達、育ての親達以上に
大きく、深く、むしろ佐倉芳江との出逢いが大事だったと奥野はしきりに思った。奥野には、親が、身内ではなかった。喜怒哀楽や能力といった生理と精神の根
に親の骨肉と生活が感化していることは否定できないけれど、それだけで自分が成ってきたのではないという強い思いがあった。それを思うつど、奥野は佐倉芳
江を、「姉さん」を思い出した。
再会してどうなるわけもない…。希望はなにもない…。
ただあの人の「実在」を実感しながら、自分自身を、手探りに把握して行けるのではないか、念頭において可能なら、現実の「あの人」に少しずつまた近づい
きたいと奥野は願った。願いに何の邪まはなかった、奥野を生んだ母はとうに死に、実の父も死んだ。育ての親らもあの頃には年老い弱っていた。思えばそんな
親達の反措定かのように人生の最初に確認し、重みを、胸にこたえて識った相手が、一つ年上、たった中学三年生の佐倉芳江だった。美しい人だった。しかも出
逢ってたった半年しか同じ校舎にいなかった。芳江が、心細い奥野の掌に置いて行ったのは、夏目漱石作『こゝろ』の文庫本一冊だった。その小説が奥野のその
後を導いた、事実そうだったのだ。
芳江には、二つ下に道子、三つ下に貞子という妹がいた。奥野はこの二人も大好きで、ことに、芳江には自ら禁じた「恋」を道子に感じていた。貞子は可愛い
妹と思っていた。芳江が卒業して四条の家をはなれてからも、二人の妹とは、学校の内で外で、よのつねのとは違った「身内」の思いに繋がれ、同窓の目にも
「あれは特別」と映っていたらしい。だが、奥野はその「特別」の意味が、真実の「繪空事」というふうに思えていて、たとえば道子をいつの日か妻にといった
実感はどうしても持てなかった。二人で、三人でいるときは双子や三つ子のように睦みあえても、佐倉や奥野という「家」がのしかかれば、どう行き通う道もふ
つと絶えるしかなかった。現実は夢をいつも圧倒し、心幼かった奥野はただ立ち竦んで、そのうちに道子は嫁いだ。嫁いだ先も奥野は知っていた。京都市内で暮
らしていた。道子の消息を伝えてくれる道子の親友もいた。
いつしかに末の貞子も嫁ぎ、行方知れなかった。姉も妹も、どう行方知れなかろうとも、ふしぎなもので外国へ行ってしまったとも、東京や九州四国で暮らし
ているとも想われないのだった。どっちみち京阪神か滋賀県か奈良県か、そんな辺りに暮らしているにちがいなかった。見つけよう…と、作家奥野秀樹は肚をき
めた。
そして、いろいろの手にみちびかれ、幸いに佐倉芳江の住所を大阪の高槻市内にみつけた。
貞子は滋賀県の近江八幡で暮らしていた。二人とも姓がかわり、二人とも二人の子の母親になっていた。
奥野から出した最初の手紙に、しばらくして芳江の返事があった。奥野が小説などを書いていることも、作品も、芳江は知っていた。貞子も知っていた、遠く
にいて三姉妹ともほぼ何でも奥野のことは知っていた。奥野の顔は火照った。十七、八年――それも中学や高校の昔からの十七、八年だった、お互いに「子供」
だったそれが大人になり親になり、環境も生活もまた時代もすっかり変わっていた。だが、いや、だからというべきかも知れないが文通を重ねるまでもなく、期
待以上に姉芳江はまぢかに奥野を感じてくれていた。奥野はもとよりだ、それで十分だった。高槻市まで逢いになどとはしなかった。中学にいた頃から、「むり
に逢わんでもええの、逢うばっかりが大切なことやろか」と、芳江は、いつもいつも逢っていたがる心幼い奥野をよく窘めも宥めもした。
姉妹の居場所が相次いで知れたあの頃、どういう巡り合わせだったか、京住まいの奥野の父は、またしても小金貸しと女のからんだトラブルに巻き込まれ、持
病でもあった尿の出渋りに悩んで自身一時入院中に、相手方から、留守居の母の耳に直かに「非道」がネジこまれてしまった。父には昔から有りもせぬ小金を貸
すヘキがあり、昔も女がらみにひどい騒動があったが、母の荒れようは前の時より凄まじく、病院のベッドに釘付けの父は母に思い切り頬を張られた。鼻も突か
れた。父からも母からも東京の奥野へ電話で泣いてきた。
収拾のため、仕事をやりくりして奥野は再々京都へ走った。父は病牀に首をすくめ、醜く縮んでいた。母の目付きは凄かった。いやおうなく奥野は高校の昔を
思いだし、佐倉芳江が、「姉さん」が自分の生涯に占めた意味を、また考えた。真に「身内」とは何なのか…。
あれは…再会。
そうも言えた、が、齢のいった互いの顔を見合う機会は、結局一度もなかった。親密に手紙が往来し、電話では懐かしい「姉さん」の声を奥野は四度五度六度
と聴いた。電話すれば、受話器にとびついてくるような芳江の感触を、奥野はじっと目を閉じ、暗闇の底で感じた。芳江自身が後に言った、たしかに二人は「有
頂天」であった――。
芳江の家庭に時ならぬ波が当然立ち、風も荒れ、自然、奥野の家に及んできた。ずうっと堪えていた藤子が、ここへ来て泣いた。そういう仕儀に立ち至ったの
が藤子には悔しかった、はじめて激しく激しく泣いた。お付き合いをしてもいいけれど、あたしには知らさないでしてと、泣いた。奥野は頭をさげた。
いつかまた…。今はこらえて…と、佐倉芳江は電話口で、奥野の今後の電話や手紙を沈んだ声音で禁じた。奥野は心から詫びて、受け入れた。知り得た住所に
ひさびさに手紙を書き、最初の返事を胸を轟かせて読んでから、ものの二ヶ月か三ヶ月でまた縁は絶えた。その状態を、双方で堅く守った。著書など上げたいと
思えば奥野は妹の貞子へ届け、その先は貞子に任せてきた。どう処置されていたか知らない、あの親切な妹が、誰のためにもよかれと捌いてくれていることだけ
を奥野は信じた。
その貞子にも、だが、送らなかった送れなかった著書があった。『客愁』――、六百枚もの長い小説だった。中学の運動場でいきなり出逢って以来、十七年を
経て再会し、別れるしかなかったまでを、奥野は、奥野の家の「あれから」にうち重ね重ね、ためらわず書いた。客愁――。生まれた受け身に負うた、人生逆旅
(げきりょ)の愁いを、現実の親たち、実の親たち、また妻子ある生活と、佐倉の三姉妹とを慎重に秤にかけ、「身内」とは何であったかを自分で自分に問う
た。かぎりなく「私小説と読める創作」だった。
――「姉さん」にも、二人の妹たちにもその本は、だが、送らなかった。送らない理由らしきものも持っていたが、送らなくても、目にふれないわけがなかっ
た。
容赦もなく泣いた藤子は、そんな本まで出て、隣近所からずいぶん同情された。
「本当なの」とあちこちで聞かれた。
奥野に面と向かってそういうことを聞く人はなかった。本の栞の対談には、動かし難い「事実と創作」という題が麗々しく付いた。事実かと問われても問われ
なくても奥野は「小説ですから」としか、ほかの作品の場合でも、答えたことはない。芳江の家庭で、もし、読まれれば火に油をそそいでしまうかしれない不安
はもっていた。心配していた。その一方で、ほかでもない佐倉芳江にこそ伝えたいものを、奥野はまっすぐ作品に盛っていた。芳江には知る権利があるというほ
どに奥野は考え、臆せず書いた。すべて書いた。いずれ芳江も奥野も死んで行く。生きているうちに確認しあえる手段として奥野は「創作」を利した。生きて来
たそれも欠くわけに行かぬ一証拠だから。それがわるい、よくないことであるのなら、おれは確信犯だと奥野は奥歯をかたく噛んだ――。
マスコミでの批評・時評はべつにして、その小説のことでプライベートに奥野が誰かからもの申されたことは、一度もなく済んだ。
ゆるされているなどと毛頭奥野は思わなかった、聞こえて来ないだけだ。
芳江からも二人の妹からも音沙汰はなかった。大きな迷惑になっていなければよいがと心配しながら、歳月は過ぎ逝き、奥野は同じ作をべつの仕立てでまた本
にする機会も持った。中学同窓のかなりの人数がその本を買ってくれたのも分かっていた。矢部先生も、芳江の学年の人もいた。道子の同期生、貞子の同期生も
何人もいた。この時も奥野は姉妹にじかに本を届けるのは避けた。
どこからも、だれからも、とくべつ反響も反応もなかった、姉妹をまったく知らない普通の読者を除いては。今度の本は三冊仕立てで、一冊一冊の巻末には、
作品に触れた対談や批評の文章を再録した。書かねばならぬものを書いたのだと奥野は今度も確信した。「現」の親や家庭と「夢」の姉妹とを同じ原稿用紙の上
にならべ、現と夢とがともになぜ必要だったか、現と夢とはどこかで繋がっていたのか、繋がっているべきだったのか、奥野はそれを知りたかった。考えてみた
かった。そしてその現と夢とのあたかも結び目に、妻が、藤子がいたのを確認できたと思った。藤子のためにも書かねばならぬ作品だったと思った。
離婚――と聞いた瞬間、「まさか、そんな…」と思わなかったのを、まるで鉄を握ったほど奥野は重く冷たく自覚していた。脳裏を奔ったのは姉さんは「今、
どこに」だった。よくは分からないが、芳江に帰って行く実家はもう無いはずであった。父親も母親も亡くなっていた。妹は二人とも嫁いでいるし、弟二人もべ
つに家庭をもち、奥野の知らない末の弟も建築設計の仕事で自立していると聞いた。
奥野は一瞬、目をみひらいた。ひょっとして、四条通りに面したあの昔の家、表と二階は画廊になっていたが、脇の、路地へ出入りの奥の住まいは元のまま
に、たしか、なっていた。最近はいつ見ても表の画廊もシャッターをおろし、奥にも人けがなかった。美しかった姉さん…は、ひょっとしてあそこに帰ってはい
ないだろうか。そこに気付くのの遅かったのを奥野は悔やんだ。その一方実感はもてなかった。「神戸かどこかに…」と、矢部さんもわざわざ出鱈目を言うわけ
はない…、「どこに」と、もう何百度にもなる問いを奥野は辛そうに虚空に吐き出した。
「どこに」と、もし分かったならどうする…。自分で自分に答えるのが、いま、奥野は怖い――。
東京へ戻っても、奥野は胸の鬱々をだれに話すこともならず、次から次の仕事で時間を消費し自身を消費した。消費はしてもそこになにがしか新たに生まれく
る「命」のようなものが、無いわけではない。そういうかそけき命を追って生きる道を自分は選んだ、そのことに不足はなかった。だが「姉さん」は、佐倉芳江
は、離婚した…。毎夜毎夜の祈りに、「どうか、姉をお護りください…」と一句を加えただけで、奥野は、まだ胸の芯で硬直したまま前途を推し量るすべを知ら
なかった。
思い出すまでもない――、ほんの一月前。世田谷のある女子大の名のある講堂で、学部・短大の文学科全学生のために講演を頼まれ、漱石作『こゝろ』と自分
との浅からぬ関わりを、二時間ちかく奥野は話してきた。『こゝろ』のことはこれで「卒業」といった気持ち、これまでの『こゝろ』読みの纏めのつもり、だっ
た。勤めた大学以外の場所で『こゝろ』を話すのは初めてだが、奥野より一年まえに大学を退官した教授がその女子大に再就職していて、奥野のちょうど文士稼
業に戻る頃をみはからい、もう以前に講演依頼はあったのだ。
久しく考えてきたことを話しただけだが、なかで、余談のように、初めて意識的につよく触れた話題があった。
奥野の『こゝろ』読みでは、作中、明治天皇崩御の直後に自殺した「先生」が何歳であったか…、同様にその時先生の「奥さん」は何歳で、帝大を卒業直後の
「私」は何歳だったか…が、つまり年齢の「読み」が、大きな意義を帯びていた。
「先生」は自殺したとき五十代の半ば過ぎで、「奥さん」も五十二三歳で、「私」は二十二歳ぐらいというのが、奥野のいた優秀な理系国立大学の学生の平均し
た推定だった。数ある奥野の読者にいきなり質問しても、似た返事がかえってきた。じつは「先生」は三十七、「奥さん」は二十七、「私」も二十六、七歳位だ
と、奥野は、史実である明治の終焉と日清戦争とを動かぬ目盛りに、本文から正確に証明した。その証明に即し、本文の表現にもきっちり即して、「先生」の死
後に、「奥さん」と「私」との仲には、結婚ないし子供の誕生までも現実問題としてすでに予期または実現されているであろう、それが『こゝろ』の成り行きで
あると奥野は説いてきた。
注意深く読めば「先生」の年齢にかかわる箇所は「遺書」にちりばめられていた。そして奥野は、一等若い時期を示した「十六七」とある本文に、年齢算出の
手掛かり以上に重い意味を、だんだんに感じてきた。感じている自分を意識した。
――奥野は、長い講演のあいだに、こんな余談をあえて挟んでいた。
*
幸便に、触れておきたいことが一つあります、「先生」は、「十六七」のいわゆる色気づく年頃に、初めて「女」の「美しさ」に目が開いたと述懐していま
す。ことさらにしています。夏目漱石自身の体験が反映しているのかも知れませんし、軽く読み過ごしてよいこととは考えられません。
なに一つ注釈はないのですが、べつの箇所で、お互い「男」一人「女」一人だと、夫婦の緊密を語る夫「先生」で在りながら、その別枠に、「十六七」の頃
の出会いを、ほんの行きずりなんでしょうが、重々しく、しかしさりげなく「先生」は告げています。
「一人」「一人」とは、言うまでもなく夫婦の間柄での肉体の接触を示唆しているわけですが、肉体的な男女関係を取り払えば、「先生」には、「お嬢さん=
奥さん」以前に「美しい」「女」体験があったのです。「遺書」に明記せざるをえないほどそれは「先生」の記憶にやきついていた。そう、読めます。
ズバリ言ってこの「女」こそ、「先生・奥さん」夫妻を、「幸福であるべき(不幸な、或いは幸福になりきれない)一対」の夫婦に仕立てた根源だったので
はないか。そう読み取らせる作意が秘められていないか、漱石という作者のなかに。
漱石夫妻の在りようについては、従来、種々語られていますから深くは触れませんが、彼にも結婚以前に「女」の原体験がないし前体験が在ったこと、それ
がなみなみならず重大な体験だったろうことは、今日、もはやだれも否定していない。
その反映が「先生の遺書」にももちこまれているのだとしたら、そこに「先生」の妻に対するいわく言いがたい不充足も、また「奥さん」の夫に対するいわ
く言いがたい不満足も、ともに垣間見うる隙間が在る。われわれ読者はその隙間を眼前にしている、ということになります。
もし自分という妻がいなければ「先生」はきっと死んでしまうでしょうと、「奥さん」は「私」に自負しています。だが、それすら実はかすかな無意識の強
がりだとも、目に見えぬ或る存在への悲しい抵抗だとも、また自負の誇示だとすら見て取ることが可能になります。
「愛し合ってはいた、だが完全には幸福でありえなかった夫婦」を、根底から説明すべく「先生」は、また漱石は、この「十六七」の頃の「女」体験を、「遺
書」に、作品に、さし挟んだと私は考えます。そう読んでいます。裏返していえば、「奥さん」が「私」を男として見て行く視線や心理にも、それが痛烈に影響
していたことでしょう。
「先生」は、結局「私」に頼ったのです。「この世でたつた一人、信じられる人間」に成ってくれた「私」になら、無意識にも「美しい」人に恋をしているら
しい「私」になら、妻を安心して委ね、また妻も、内心の隠れた愛にやがて気づくだろう…と、「先生」は信じたかった。信じられるようになっていた。「奥さ
ん」は最初から「私」を信用していました。「先生」には分かっていた。だから、やっと、自殺できたのです。一種の「妻君譲渡」劇が進行していったのです、
ひそやかに。
藤子には、話せなかった。藤子がいままでに佐倉芳江をどう思ってきたか、いちど再会しまたすぐ離れたあれ以来、話題にしたことはほとんど一度もなかっ
た。夫にとってよほど大事な人、忘れ切ったなどと想っているわけがなかった。あれから何年か後、『こゝろ』脚色の際は、藤子もその劇団の頼まれ仕事を興
がって、自分も『こゝろ』を熱心に読んでいたし、「あぁ、こんなにも、あなた、感化されていたのね」と、めったにないほど藤子は、奥野の仕事やものの考え
方に『こゝろ』の生きていたのを、率直に実感していた。夫に『こゝろ』を初めて授けたのが佐倉芳江だったことも知っていた。その藤子と奥野とはもう数年、
いや十年ちかくも、ほとんどからだで触れ合っていなかった、心臓に負担のかかる、また出血質の藤子の健康をなにより先ず労ってのことであったが――。
芳江の離婚が、自分の著作や自分との過去のかかわりから生じたと思うのは、むろん奥野の勝手な思い過ぎかも知れなかった。芳江の婚家は畳表を手びろく商
うらしい家としか、その余のことは何も知らない、電話口に一度だけ長女らしい少女の出たことがあり、それだけの接触だった。だが奥野の電話や郵便物が芳江
の夫の機嫌を損じたのは事実であり、またの別離の直接の理由になった。以来、何年もが経っていた、それでいて今になって子供も二人はあると聞いた永年の夫
婦が、離婚にまで至るかどうか。もっとべつの事情があったのかも知れない。だが奥野は、そういうふうに、芳江の離婚をよそごとにして気を軽くする気になれ
なかった。
では、どうしたいのか…。捜すのか。捜しあてて、どうするのか。なにを、どう謝る気か。謝って欲しいのならあの人は離婚をおれに伝えてきただろう。芳江
が伝えなくても、妹が、弟でも、奥野に連絡のとれる機会は何度でも何時でもあった。矢部卓之に告げられるまで、だが、奥野は知らなかった。
矢部先生が、貞子から直接聞いたことかどうかも、はっきりしなかった。直接聞いたとすれば、先生と昔の教え子である佐倉貞子との間で、芳江が話題になっ
たのだろう、矢部は奥野秀樹の本心も著作もよく知っている人だから、奥野の名もそのとき二人の間で出て、その流れで、
「姉は離婚しましたの」
と、あの貞子のことだから「奥野さんが原因で」などと露わな物言いはしないだろうが、言外に不快感が漏れでて、それを汲んで矢部先生は奥野にそれとなく伝
えたということなら、これは、ありえた。あるいは、芳江の同級生のあいだに流れていた噂が、旧学年担任で情報通の矢部卓之に、当然キャッチされての伝達で
あったか。
離婚していると奥野秀樹も知った、奥野はもう知っている、と、それを芳江まで伝えることが、何故ともなくとても大事なことに奥野には思えた――。
貞子ちゃん――と、昔のまま呼びかけるのを、どうか、あのかけがえ無い時代に免じて許してください。思いあまって、この手紙を書き出そうとしていま
す。ワープロ書きの失礼も許してください。そして、どうぞ、貞子ちゃんとしての判断をつけてくださるよう、お願いします。
今――、わたしの胸はおそろしく重く塞がれています。
数日まえのことでした。仕事で京都へ帰り、祇園で、よくご存じの八坂中時代の先生と食事したりお酒をのんだりしました。そばに人もいました。そんな賑
やかななかで、ふとエァ・ポケットに入ったように先生と二人だけになる瞬間があり、先生はとっさに、思いもよらなかったことを、わたしの耳に吹きこまれま
した。衝撃で、モノも言えませんでした。そして、すぐ、またまわりが賑やかになり、もう、同じ話題へは戻れなかったのです。
貞子ちゃん。姉さんが、離婚なさったというのは、本当ですか。先生は詳しいことはご存じなく、ただ「そうらしいで」と言われ「いまは神戸辺に」と付け
加えられましたが、わたしは身震いしたまま、ろくに問い重ねられず、ゆえ知れない、いいえ、なにかしらハッキリと思い当たることのありげな自責の念に、さ
いなまれました。以来、大袈裟なようですが、日々の意欲も失いかけています。
貞子ちゃんは、わたしの書いた『客愁』という長編小説を、知っていてくれるかも知れません。知らないかも知れません。もう十六、七年も昔に書き下ろし
たものです。姉さんだけでなく、貞子ちゃんにも、道ちゃんにもご迷惑をかけたに違いなく、お詫びを申します。でも、それは、一度はわたしとして書き残さず
におれない、この上ない青春のかたみでした。わたしの思想や文学の根を成した出逢いでした。むろん実名に近いかたちで書けば、わたしたちをよく知っていた
人のあいだには、波紋を生じるであろうこと、とくに姉さんの上にいっそう露わなご迷惑の生じかねないことを、予測できない筈はなかった、いいえ予測してい
たのです。
それでも、出版せずにおれませんでした。むろん、わたしの我が儘ですが、どこかに姉さんの気持ちを、また貞子ちゃんや道ちゃんの気持ちをも深く頼みに
思うものがありました。書かずに、また発表せずにおれなかった。功名心がさせたのでは、ない。そのようにして「わたしたち」を、この頼りない人の世に彫ん
で遺したかったのです。
それにしても姉さんが、離婚とは。とっさに、わたしは姉さんのこと以上に、電話で一度二度話したお嬢さん――蓉子さん――のことなど思いだし、居堪ま
れない気がしました。
しかしまた、貞子ちゃん――。率直に言いますが、姉さんの離婚されたか知れぬという消息に、その瞬間、わたしはもっとまた別のわき出る感情に揺すぶら
れていたのです。それを隠していては卑怯でしょう。姉さんに逢いたい――、逢えるかも――という、十数年どころか、八坂中時代の昔から渇望しつづけて容易
に願いの遂げられなかった希望に強烈に衝き動かされました。そして、身震いしました。
客愁――、これは作品のために用意の、最初からの題でした。
この世は旅宿、われは旅人――。あてどない旅のあいだにも、真実の身内を、どう捜し求め得られるのか。得られはしないのか。この小説は、ほかのだれに
でもなく作者において最も心をいたませる。しいて言えばこれは自分が自分のために書いた遺書なのであろう。妻が勧めてくれなければ、或いは復刊しないまま
あの世へ抱いていったかも知れぬ。
わたしは最近、『客愁』復刊の「あとがき」を、そう結びました。ひとり、だれに委ねることもなく一字一字校正していますと、あの当時――それは小説を
書いていた前後でもあり、もっと遠い昔の中学高校の頃でもあるのですが――には気付けなかった沢山なことに気付きます。姉さんは「姉」のように現れ「母」
のように優しく、しかしそこまでで、わたしは自分の気持ちを鎮め抑えていました。姉さんと電話や手紙で久々に再会できた当時のよろこびの深さにも、わたし
は昔のままの「姉さん」という垣根を厳重に守っていました。ああそれでもなお、ご迷惑をかけることになりました。
姉さんは、未来に希望はある、待てと言われた。
わたしは時間の生んでくれる「侑和」の力に望みを託し、しかし辛抱できず、何度も苦しみました。逢いたくてたまらなかった。文字どおり姉に、母に逢い
たいという気持ちでした。逢えば心の炎は昔とおなじに優しいほどに静まることは分かっていました。しかしわたしは電話もかけなかったのです、いいえ一度二
度、ただ声が聞きたいばかりにダイヤルに手をかけたかも知れませんが。
貞子ちゃんは覚えているでしょうか。姉さんは卒業の時にわたしに『こゝろ』という夏目漱石の小説を贈ってくれました。その本は以後わたしの聖書でし
た。そして姉さんとの道がまた「再び」絶たれて十年後に『心――愛と死』という戯曲も書きました。劇団湖の芝居になり、評判になりました。主演の俳優はそ
の演技で賞をえました。どんなに姉さんやあなたたちに観て欲しかったことか。この一つをとっても、長い人生と作家生活とのなかで、わたしに及ぼした姉さん
の感化の程も察してくださるでしょう。
わたしは――甘えて――、文通なども当分は自粛しましょうと言われて以後も、だいぶ時間こそ経っていましたが、許しも得ず、これはと思う自著を高槻の
お宅へ――二三度――送りました。むろん返事は期待していませんでした、ただ姉さんの手にふれ目にふれたら嬉しいとだけ、ひたむきに願っていました。
それも離婚なさったと聞きますと、いつの事か分からないだけに、そんな願いの本が無事届いていたのかどうかも、気掛かりです。届かない事がでなく、そ
んな本が姉さんのおいででないお宅へ届いたかと思うと、お宅の人にも、また姉さんにもお気の毒で、ご迷惑を重ねたに違いないと悔やまれるのです。それも謝
りたいのです。
こんな長い手紙をこの人はなんで書いて来るのだろうと、気の優しい貞子ちゃんも、眉をひそめているでしょう。身の縮む心地でいます。しかし気力をふり
しぼって、やはりお願いするしかない。ここでためらって悔いをのこしたくありません。
元気でおいでなら、せめて元気な声だけが聞きたい。姉さんの実在を全身に感じて生きて来たといって、言い過ぎでないのを自分はよく知っています。
言うまでもなくわたしに家庭のあること、姉さんもよくご承知です。家庭を大事にしていることと、姉さんを昔も今も変わりなく大切に思うこととは、無関
係でなく、はっきりわたしの内で繋がっています。わが家庭すら、姉さんの感化の賜物だったといって言い過ぎでない思想を、姉さんはわたしに彫みこんでおい
て、わたしの前から消えて行かれた、四十数年も昔に。
姉さんの現在がどのような日々と状況なのか、わたしは知りません。知らぬまま、わたしの方から姉さんにまた負担をかけることは出来ません。けれども姉
さんのことが知りたい。心から知りたい。わたしの気持ちは『客愁』に書かれたままです。年老いて、もっと深くなっています。また、姉さんの気持ちも、あの
本の中でわたしに告げられていたそのままだろうと、一瞬も疑ったことはありません。
伝えてください。お願いです。できればこの手紙を姉さんに回送して欲しい…。貞子ちゃん、許してください。
何のことはない……結婚の「証人」にと手紙を読みした戸川一馬と同断ではないか。思いあたって奥野秀樹はバチバチと自分の頬を平手打ちした。もげるほど
耳を引っ張り、唸った。藤子は二階でピアノを鳴らしていた、静かに静かに庭にまるで水をうつように。
貞子の返事を待ちながら、返事は来ないと奥野は察していた。どういう返事が有り得るだろう…。拒絶でも叱責や苦情でもなくて、ただ返事が無い、送った手
紙や本は受けとられている、それであの人達の心持ちは奥野は分かる気がした。
返事は欲しい。しかし、返事の無いまま日のたつのが、うすい陽射しに暖められるように安らかであった。なにかを待つともなく奥野秀樹は息をつめ、日を
送った。しんしんと、送った。
未了 下巻へつづく。
秦 恒平・湖(うみ)の本 51
逆らひてこそ、父 下巻──華
燭
暗がりに汝(な)が呼ぶみれば唯一人ミシンを負ひて嫁ぎ来にけり
遠藤 貞巳
おぅと声が出た。
破顔一笑。快い笑みに祝福の思いが湧く。
「呼ぶ」のがいい、声が聞こえるようだ。いじけた声ではない、貧しくとも心豊かに健康に、若い生活を倶に支え合って行こうという、気迫に溢れた「汝」の声
だ。
女の、「ミシン」ひとつの愛と活気と決意とを受けて、迎える青年にも思わず一歩を力強く踏み出す気概が湧いたであろう。これが結婚だ。
「暗がり」を、人目を恥じてとは読むまい。決意して即刻に今夜から、と私は読む。そこに、「夫婦」の出発点がある。宵から朝へ。
原始の暦はそのように数えられていた。 「国民文学」昭和二六年四月号から採った。
秦恒平『愛と友情の歌』講談社
刊
所収
一三
「春生(はるき)がね、あなた。夏生(なつみ)に電話してみたんですって」
「またかね」
「ええ。お芝居のあと、手紙を書くからって帰ってったのに。来ないから」
「そんなの来ゃしないさ。で…」
「電話口で…。あんなもんでしょうって。それだけ…でしたってよ。その言い方が…マタね。春生(はるき)、ブーブー言ってるの」
「夏生(なつみ)にしちゃ、それでホメているのさ。少なくもケナシてない。夏生は、初めてだろ春生の芝居は。あのチャランポランの春坊(はるぼん)
が……。信じられなかったろうな」
「満席の人を集めて、お金いただいて、自分の書いたお芝居を自分で演出して見せてるってことに、でしょ。そりゃあ…そうよ。どっちかってば、夏生(なつ
み)の方が、お芝居でなくっても何でも、目立つことやってみたかった人ですもの」
「専業主婦やってる、きみなんかは…」
「そうよ、バカにしてたんだもの。でも今までのところ、なンにも出来なかった、あの子は…。図版ものの洋書の、あれ…何て言いましたっけ、ネームね…図
版
の解説文。あの部分だけの日本語訳なんかをアルバイトでやってるらしいのよね」
「自発的に、内発的に、ものが生み出せない。これをと決めて手伝わせると、春生(はるき)なんかより丁寧な仕事ができるけど、自分じゃうまく創り出せな
い
んだ…昔から」
「そこんとこ、夏生(なつみ)が…かわいそうでならないの、あたし。あたしに似てるのよ。顔なんかあなたにずっと似てるのにね。自分の…と言えるもの
は、
春生の方が先に発揮しているのよね」
「羨ましくて、モノが言えなかったんだろな…夏生としては。いつか亭主が、たとえだよ、山手だか下町だかで、やっとこさ教授に成ったにしたって、夏生自
身
の自慢にゃならんもの。大学教授なんてもなぁ、狭い日本中に、まともな作家の何百倍もうようよしてるんだからね」
「それでも竹司は、天下に大学教授ほどエライもの無いって、春生が大学出るときそうあの子に言って、なんでサラリーマンなんかになるんだって、本気で不
思
議そうな顔したのよ。それも国立校の教授こそ、だって…。
なのに茨城じゃ、助手でも講師でもない技官にされちゃって。結局、教員の籍はもらえずに、次ぎは私立のあそこ…で講師でしょう」
「白金(しろかね)の女子部に、拾いあげてもらった…。年齢(とし)でなら助教授なんだろうが、茨城の技官というのが障りになったんだろ…」
「それさえ、あたしたち嫁の実家(さと)の責任だなんて言うのよ…。ひどいことを」
「三十過ぎたあんな微妙な年齢(とし)で、三年も留学してりゃ、オーバードクターで溢れた日本では、後輩にどんどんポストをもってかれちゃうの、分かり
切った話なのに…。
もとの古巣の助手期限は切れて、次のポストが無かった。出身学部にもなく、他の国立にももちろんなかった。格好がつかんと思っただろナ…」
「思い込んだのよね…。夏生に相談せず、留学試験を受けたんですもの」
「で、受かっちまった。が、そこまでは、いいんだよ、そこまではね。一年が普通なのに、あの時期に三年も日本を留守に…。あれで遠回りになった。だが
ね…。潔く決めたんならそれだっていい。一時の不利も、将来には生きてくるかも知れないんだしさ。そう言ってたよ、オレ。なのに、あの時は相談もしないで
いて、結果がわるいと、理由(わけ)もなくヒトのせいにしてサ…」
「あ、そうそ、それを言うつもりだったの。またフランスへ行くんですって。八月のうちに。今度は一年。春生(はるき)の電話、それを知らせて来たの」
「………」
一瞬奥野は反応できなかった。内村にすれば向うの大学に教職を得たい、地位を得たい気があるのだろう、それもいい…
と、奥野は反対でなかった。それが出来れば、いい。孫の顔が…さらに遠のくということもあるが、やはり夏生(なつみ)だ、問題は。
二度と夏生や信哉(しんや)に会えずにこと切れる覚悟は、夫婦で口にしてきた。口にするだけでない、現実問題として夫婦の健康は、藤子はもう十数年も、
奥野もこの数年、心臓に不安を抱えていた。遠い病院まで、気もいい、力もある医者を頼みに、夫婦して定期に診察を受けつづけている。そして、会えなくても
と腹をきめた親はまだしも、なにかの折り夏生の精神に永く癒されない傷ののこるであろうことを、奥野らは本気で心配していた。
現在でこそ肩肘に力をいれていても、それは母も父も生きているからで、このまま死に別れたりしようなら、夏生は、「子」としての無形の負い目を背負いき
れるのか…、今しも夏生の精神が荒廃していない保証はなにもなく、春生(はるき)に聞いた姉夏生(なつみ)のへんに太った、みすぼらしそうな身格好にして
も、また、拗(す)ねて投げたドロリとした電話の「どうでもいいよ」という声音にも、夏生のやり切れない自棄の惑いがとかく想像されてしまう。
「どうせ、親に捨てられた身ですからね」とさえ夏生は弟に言っていた。
夏生のためにも長生きしていてやらねばならない、それがまた目に見えず奥野らの負担になった。
「フランスか…。子供二人つれて、ね…」
「連れて行くでしょ。だって、前のときみたいに半年遅れて行くにしたって、内村の家でお姑さんたちと同居って、これは夏生、しないでしょうよ、もう。出
来
ない…。あれだけ激しくやッちゃってるんですもの。おまけに、うちともこういう事情(わけ)ですからね」
「今いるとこの家賃を払いつづけるのは、キツい…。一緒に行くなァきっと」
「竹司は、前のとき、夏生と信哉の生活費もろくすっぽアテをしないで、先に一人でパリに行っちゃってたんですものね」
「アテは…してたのさ、ウチで面倒は見るものとサ…。それが当然、と彼は考えてた」
「こっちは、そんなこととも、まったく、まだ知らなかったでしょ」
「学者を婿にするというのは、婿さんの生活を嫁の実家で見るってこと、それが常識だって平然と言うヤツだからな。そのくせ、自分の口では、よう言わない
ん
だ」
「粋(いき)に察してヤルのが、嫁の親の<義務>だなんて…。あげく、それの出来ない非常識な嫁の実家とは、姻戚関係を断つなんて……、ナ
ン
て情けない」
「周囲はミナそうしている、それが学者を親類に持ったものの常識だ、か…。何のために学問して来たんだろう」
「そんな気で結婚したのよ。いやしい人ね」
「本気なんだよ、ヤツは。学者様だぞ、住む家と生活費の半分はそっちで見て当然だ、か。そんなこと、かりに、出来てもしちゃならないのがオレの思想(か
ん
がえ)だから。そういう情けない生き方はして来なかった、オレたちは」
「卑怯なのよね、彼。それならそれと頼んでくることも、彼、自分じゃ一度もしなかった。夏生(なつみ)をうちへせっせと寄越してたのも、夏生に言わせ、
お
金を取ってこさせる気だったのよ。夏生はあたしたちの考え方を知ってるから…言えなかった。そういういじめかたを夏生はされていたのよ…かわいそうに」
「こっちに来てても、向うへ帰るまえになると、すッごく不機嫌になって帰りたがらなかったな」
「あれが…あたしたちには、最初、理由(わけ)が分からなかった。あとになって、つまり…あぁいうことだったのね。彼は、親にお金貰ってこいと夏生らを
寄
越してたの。それが当たり前だと。……」
「あれで教育学、人文主義の教育哲学なんだ、専攻は。これぐらい『教育』や『哲学』に汚物をかぶせる例も無いよ。モンテスキューやルソーが泣くね。大学
の
先生の皆が、そんな根性だとは…思いたくないがね」
「あなたも、その大学教授をしてたんじゃないですか。でも…あれが、こたえたわねぇ…。教授になりたいなりたい彼の方は田舎の技官にされちゃってて、お
舅
さんは、頼みもしないのにいきなり、名門校の教授…。作家なんかと陰で夏生にボロカスだった嫁の父親に、あっさり国立の大学教授されたもんで、彼…切れて
しまったのね。あの…すぐアトでしたよ、汚物を吐き散らしたのが」
「そうだったね」
「うちへ訪ねてきて。帰ってったかと思うと、あの手紙よ。…金も出さずにあんたらはおれをバカにした、だなんて…。あの晩うちに来たときだって、あなた
生
活は、だいじょうぶッてあたしが聞いたら、大丈夫ですと、あんなに胸を張っといて。あの人あの時も言ったのよ、わたしは人の三倍稼げますからって。人の初
任給くらいアルバイトで簡単に稼ぎますからって……あぁいうウジウジ男って、嫌い」
「大学教授の息子は大学教授になるもんだなんて、ケチくさいよ、人生観も価値観も」
結婚まぎわに父親に死なれた内村が、奥野は気の毒でならなかった。父親二人ぶんのことをしてやりたかった。内村竹司はそれを、「黙っていても金を出して
くれること」とアテにし、奥野は、「いい人間関係、なんでも打ち明けて遠慮のない、気のおけない婿さん」を望んでいた。
どっちもどっち…、奥野の方が甘かった。
内村の望んでいた「身内」とは、つまり金の面倒をとことん見てくれる「舅姑」の意味でしかなかったらしい。夏生(なつみ)は、落差に、さぞガックリきて
いただろう。夫の誤解を解き、父親の思っている「身内」とはこういう意味よと、説いてやる気力も結婚早々に無くしていたかも知れない。
板挟み――、夏生は窮屈に圧しひしがれていた。だが、内村の、それほどまで金は人が、「嫁の親」が、呉れて然るべきものといった考え方は、ちょっと奥野
らには察するにも察し得られなかった。
そういう親だから、「お金を、ちょうだい」と、夏生はついに一度も両親に向かって口にしなかった。ただ里帰りして来ては、内村へ去(い)に際になると、
顔色を曇らせ、イライラと不機嫌になった。分からなかった。分かってやれなかった、奥野らにはその訳が。
娘も親たちも、不運だった。奥野らは、媒ちしてくれた山根教授が、いったいどんな仲人口を利いて内村をそんな気にさせたのか、知りたかった。
「何も言っていません」と山根氏は言う、が、それでも、「奥野さんはお嬢さんをそれは可愛がっていますから。お嬢さんのためにも、絶対に、よくしてくれ
ま
すよ、大丈夫」ぐらいな物言いはしたのだろう。
言葉どおりには、その通りだと奥野も思っていた。
結婚式にも、自分の流儀は曲げても、力を入れた。身も働かした。だが、「嫁の実家」として内村夫婦に生活費や住まいを与えるなどの考えは、基本的に持た
なかった。持てもしなかったし、そんなことは成るべくしない、たとえ出来ても安易にしないのが真正直な親の気持ちだった。内村の期待とは正反対だった。
あげく内村は、仲人の山根教授の家庭でも、奥さんの実家が経済を支えたのは、世間の誰もが知っている有名な事実だ、それも知らないのかと奥野らの「非常
識」を口汚く手紙で嗤(わら)ってきた。罵詈(ばり)罵倒してきたのだ。
…情けない、イヤなヤツ……。
もともと「大学」というあたかも地位や組織に、奥野は、さほど思い入れがなかった。将来の「地位」を指導教授に示唆されても、大学院を去り、故郷の京都
をさっさと去って、双親(ふたおや)のない妻との東京での新婚生活を選んだ。
ものの譬えにも「都の西北」ほどの巨大大学だと、文藝家協会に所属する文筆家よりも大勢の教師が出入りしており、日本中にどれほど夥しい「大学の先生」
がいるやら、比較すれば、世間で通用する「作家」に成るほうがよっぽど難しい。作家には教授、助教授という序列もないし、事実、文化勲章作家に匹敵しなが
ら栄典などと無縁の作家もいる。断わる人もいる。
もともと序列社会に奥野は馴染まない、そういうのの苦手な気象だから、内村がしきりに大学に、教授の地位にこだわった物言いをするなど、はなから笑止
だった。学長であれ学部長であれ、お互いに餅は餅屋、奥野はこの数年大学に出ていても、まるで普通に付き合ってきた。
それでもそんなに内村が「教授」になりたいのなら、願いはかなう方が、かなわないより、夏生のために望ましい。結婚式にも元総長以下教授陣をずいぶん招
くようだから、そのためにも、いい披露宴をしてやりたいと奥野はひどく無理をした。奥野の口から一人一人お願いして列席してもらえた顔ぶれは、連名にして
みれば、おどろくほど立派な人たちが並んだ。だからこそ別格に、谷崎潤一郎夫人に主賓をお願いした。華やかであり、このレディファーストに、少なくも奥野
家側で不服を唱える男性客の一人も有るはずがなかった。「谷崎愛」で売っているひさしい友の駒井次郎など大喜びしてくれた。
まして夏生には谷崎夫人は恩人だった。むずかしい美術館就職のあとも、なにくれと、かげにひなたに気をつけて、可愛がってもらった。
その「新婦方主賓」が、大きに、あとあとで引っ掛かった。
新夫の内村竹司は、初めのうち面(かお)にも出さなかったものの、披露宴のハイライトに、両家主賓が全列席者のまえで結婚届に「証人の捺印」をという、
申し合わせてあれほど奥野の希望した儀式を、勝手にみなフイにしてしまい、そのワケをこう明かしたのだった、谷崎夫人は結婚の証人に不適当だと。それも奥
野夫婦に直接宛てつけた、自作『お付き合い読本――常識編』なる悪ふ
ざけによって。
じつは奥野には、それよりも一つも二つも幾つも以前に、つよく心に拘泥ってきたことが有った、「何故にこんな…」と、内村の「異様さ」に心凍る思いをし
ていたのだ。
いったい新婚旅行にどこへ夏生らが行ったかも記憶にないが、旅先からの電話で夏生らがせっかくの「結婚届」をせず旅立ったと知らされ、奥野は思わず眉を
ひそめた。が、それとても時期の早いか遅いかで、たいしたことでは無いと言えた。
だが、彼等が届けをサボった真の理由が、当時は分からなかったし、娘の親としては出来れば届けをしてから新婚の旅に出てほしかった。
そもそも結婚式という儀式部分は省き、披露宴でそれも兼ねたいとは、内村家の希望だった。奥野らにも異存なかった。ただ、その「兼ねる」意味合いを表す
ためにも、参会の祝い客みんなの目の前で、主賓二人に「結婚届書に署名」してもらい、二人の結婚を列席の全員の代表になって見届けて貰おうよと奥野は発案
し、内村もはっきり気乗りしていたのだから、希望は叶えられるものと信じていた。
事実両主賓は、揃って、みんなの目前で署名捺印を演じてはいたのだ、だがその届書は勝手に破棄されていた。(届けは一ヶ月近く遅れて、新居の地元で出さ
れ、証人にも全く別人を立てたらしい。)
新婚旅行の最中に苦情を言うのは避けたかった。で、帰ってきたとき第一番に、
「届けはしたんだろうね、もう」と内村に聞くと、まだしないと言う。急ぐことは無いではないかと言う。そのときは奥野に分からなかったが、べつの届書を
用
意してなかったのだ。奥野はむっとして、「なぜ約束どおりではないのか」と詰(なじ)った。内村竹司はとたんに、
「あんた、がたがた、うるさいよ。なんなら、今でも結婚をやめてもいいんだぜ」と。
奥野は仰天した、まったくこの通りの言葉で、誓ってこの通りの言葉で電話の向うから、婿の内村は、舅の奥野を威嚇したのだ。ぞうっと、肌に冷たいものが
流れた。
何なんだこいつ…。
奥野は黙った。結婚披露を終え新婚旅行を済ませた今になって、「やめていいんだぜ」「あんた」ということを新婚の妻の父に向かって言える男に、奥野は凍
えた。かッとなって、「よし、やめろ」と言ってしまいそうな自分を必死に押えるため、奥野は受話器をすぐ置いた。
内村のそばにその時夏生はいなかったようで、奥野のそばには藤子がいた、が、奥野は内村の台詞をかたく意識の底に記憶したまま、妻にも告げずにおいた。
内村の送りつけてきた、ワープロ打ちの『お付き合い読本』には、戯作めかして、いろいろ書かれてあり、「け」の項は、こうだった。
け 結婚式 誰を招くかは迷うところ。注意すべきは、離婚歴の
ある人、しかもそれを売り物にしているような人は、招待しないことである。かの有名な
文豪「T」は、惜しげもなく奥さんを取り替えたそうだが、常識的に考えて、そんな筋の客は来賓として呼んではいけない。招待された他の皆が奇異に感ずるだ
ろう。
なるほどと、咄嗟に奥野は思った、そういう考え方を、すべて否定しようとは考えない。
だが、そういう「気の低い」考え方にとらわれて自分は生きては来なかった。そんな「常識」を大事に思うのなら、前もって奥野に直接、または夏生を通して
谷崎夫人の主賓は「遠慮したい」意向を伝えて来ることも出来た。露ほどもそういう意向は聞いていない。聞いていたら――無理はせず、それでも、一人の祝い
客としてお招きしたに違いない。むろん内村にも話しただろう、夫人は谷崎潤一郎とは終生添い遂げられ、文豪昭和の名作のほとんどすべてを成さしめたほどの
奥さんだった、と。あやかって何ひとつ問題のないりっぱな奥さんなのだと。しかも夏生は大恩も享けている、と。
結婚届の証人欄に谷崎夫人の署名をご破算にし、新婚旅行のあとびっくりするほど日数を経てから誰とも知れぬ代役を立てた理由――が、ここに在ったのか
と、内村という男の軽薄で無礼なしたり顔に、奥野は胸を冷やした。
相手もあれ谷崎文学に励まされてきた作家奥野秀樹に、夏生の父に、「文豪T」と「そんな筋」の夫人とをこのような手口で貶(おとし)しめてかかるとは、
奥野の不徳は不徳としても、あまりに心寒い嘲弄、心ない暴言だった。
内村は、薄い唇をいっそう歪めて、離婚歴ある夫人を結婚式の主賓になど「非常識」だと、舅姑をはじめ奥野家側を訓戒のつもりらしく、『読本』には続きが
まだ有った。
さ 作家とのお付き合い 作家とはすなわち、自己体験の特異さ
を専売にする人種。
いくつかのタイプがあるが、中でもタチの悪いのは、自分の苦労を絶対だと信じ、自己を客観的に眺める習性を持たない奴。それと、やたら「夫婦はかくある
べきだ」とか「人生はこう生きるべきだ」とまくしたて、
奥野は中途で笑ってしまった。日本の小説家をこのように見る視線は、やがて廿一世紀の現在でも、ありうる。奥野でも思う。自分はちがうと頑張る気もな
い。駒井次郎もこれを読まされて、ゲヘヘと笑った。
「遊娼声妓俳優雑劇小説家等改制ノ事…で、明治政府が取締りを考えたの、知ってるか。明治のごく初めの公論公議機関だった集議院の、初仕事なんだよ。沙
汰
やみにはなったけどね。もうちっと、教えてやろうか」と駒井は、奥野の前でわざと反り返った。
「小説を好むとだな。第一、品行を欠く。第二、女性は不健康で早く死ぬ、閨門を破る。第三、子弟を害する。第四、悪疾多し…。明治開化の、えらい学者さ
ん
のこれがご託宣さ。同じご仁の曰く、出版した小説の版木(はんぎ)など、みな焚燬(つぶ)してしまって下されと、丁重にお上(かみ)に願い出ていたんだ、
なんだナ…そのケが残ってるんだ、おまえの婿さんには、まだ」
「すさまじいな」
「感心してちゃ困るよ。ついでに、も少し、ものを知らん文士先生に教えてやるがね。明治五年、時の教部省が三条の教憲ってやつを出して、文学の目的を定
義
してくれたのさ」
「………」
「一つ、敬神愛国ノ旨ヲ体ス可キコト 二つ、天地人道ヲ明ニスベキコト 三つ、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキコト。どうだね」
「内村竹司が泣いて喜びそうだ。だがナ…ヤツを育てた稲門(とうもん)こそ、坪内逍遙の小説神髄をはじめとして、愚にもつかんそういう小説観に、精魂こ
め
て反対してきたのを知らないんだ」
「………」
「福沢諭吉は文学無用論だったけどね。それでも三田文学は荷風なんか招いて、おれたちの趣味にあう、いい伝統をつくった」
「小説家は…常識とかけ離れたところで妄想にふける奴。もっとも、小説とは『ウソ』であるからして、小説家にリアリティーのある認識なんぞ求めるほうが
筋
違いだという説もある。お付き合いもほどほどに…ですか。婿さん、得々として書いておるのう。幼稚さがよく出てる」と、駒井はつるりと顔を撫でた。
「自己を客観的に眺める習性を、自分は持ってると思って書いてるんだよ」
「軽薄と未熟を乃公(だいこう)自ら語るに落ちているのに気づいてないね。要は、小説家である夏ちゃんの父親を愚弄してやりたいだけだ。気稟(きひん)
も
知性もない」
「こういう男を、夏生(なつみ)におれは押し付けちまった…。それだけでもオレは、ダメ親父でダメな人間(ヤツ)さ。取り返しがつかん…。さらに恥かし
い
のは、こんなヤツであっても、夏生まで離縁されちゃかなわんと、本気で思っていることだよ。
かくあるべきかどうかは知らんが、どんなイヤな奴でも夫婦になっちまゃ、親にもうかがい知れん相性の不思議というものがあるじゃないか。夏生にはもう、
子もある。夏生自身がイヤと言いださぬぬかぎり、別れちまえたぁ口が裂けてもおれは言う気がないんだ。家内とは、そこが違う…」
奥野は、苦い物をむりに嚥み下すようないやな顔をした。
こんなことも内村は「常識」と称し、書いていた。
み 見合い結婚 恋愛結婚に比べ、結び付きの必然性が薄い婚姻
の形態。周囲がバックアップしてやると、関係はより一層良好となる。とくに双方の実家
が率先して、できることをしてあげるのが、不仲を生まない秘訣。それとは逆に、一方の実家が常識知らずで人並みのこともできなかったりすると、その実家を
持つ妻や夫の肩身がはなはだ狭くなる。もともと繋ぐ糸が細いので、離婚にまで発展しかねない。
まちがいなく内村と夏生とは「見合い結婚」だった。内村にしたがえば「もともと繋ぐ糸が細い」結婚だった。金銭や物での「バックアップ」がなければ「離
婚にまで発展」しても仕方ない結婚だった。奥野家は「バックアップ」をしない「常識知らず」なので、夏生は「肩身がはなはだ狭」いと言ってある。経済の負
担を嫁の実家はすべきなのに、何故しないかと内村は言っているのだ。見合い結婚とは、そういう条件付き結婚だと内村は思っていて、条件を満たしてくれると
思えばこそ「光栄です」などと言ったのだろうが、奥野も藤子もそんな「常識」とは無縁な思想で結ばれていた。「できることはして」来たつもりだが、内村が
「できる」と期待したのと、奥野らの「できる」範囲は、大違いだった。
と 嫁いだ娘への援助 「粋(いき)」にやりたいものであ
る。この機を利用して婿に頭を下げさせようなどという気を、ゆめゆめ起こしてはならない。こ
ういうことに関しては、女性の方が敏感なので、妻と娘に協議させるがよかろう。そのため、妻の裁量によって 処分できるお金を都合しておくのが夫の心得と
いえる。山根某の嫁の出身は千葉だが、この実家は金を出すが口は出さない模範との誉れが高い。
つまるところは「金」を出させたい、それも頼まれてするのでなく、「粋」に、常日頃から用意し、母から娘へひそやかに、「婿」殿に気をつかわせず煩わせ
ずに、早め早めに察して出せということらしい。それが常識である、自分のまわりで学者婿の舅姑は例外なくそのように精勤しているぞと、他の手紙ででも、内
村は奥野らを嘲笑し挑発して来た。奥野は、駒井次郎にだけは、嗤って、「えらい婿殿」の口汚くあつ かましい手紙を見せてきた。
「山根某って、あの仲人サンじゃないのか早稲田の杜(もり)の教授で」
「そう…。…ハナシは、聞いてた気もするんだがね。たしかに、末は博士になりそな婿さんを、マル抱えにしたい嫁の親というのは、いたね昔は。いや今も、
こ
のさきも、いっぱいいるだろうと思うよ。おれは違うけどね。度を越しゃ、ただの失礼みたいなもんさ。それで平気な男なんか、おれは好かん。もの欲しそうな
男が、いちばん嫌いさ」
「はなから金めあてに結婚したんだな、おまえの婿さんは。お門違いだな」
「新井白石の逆様だねこの夏生(なつみ)の亭主は。白石は、おからしか食えん貧乏書生だった。三千両持参金をつけるから婿にならんかと仲人を立てて来た
大
商人がいたんだよ、若き白石を見込んでね。見込んだ奴の眼力も相当なもんだがね、誰かさんと違ってさ。だが、一も二もなく白石は断った」
「山根某サン、よっぽどテキトーな仲人口を使ったんじゃないか」
「何一つ、言ってないて彼は言うけどね」
「そうかねぇ。でも婿殿のいわく、『常識』の一例たる誉れはエラク高いらしいじゃないか。それにしても、呑んでかかってるね、この助手は。この教授を。
陰
じゃコイツ、こういう口の利きかたを、どんな先生に対してでもしてるんだな、常平生…得意顔して。そういう自己主張ッきゃ出来ない不自由人なんだよ、なん
にもモノが分かってない。センスのない坊やサ、こんなことを『誉れ』に数えてるんじゃ。何を勉強したのかね」
「願望が、即、規範になりうると思い込んでいるんだね。開けゴマ、と、唱えるだけで何でも誰でも自分のタメにしてくれるべきだと。それを自分の誉れだと
思ってる」
「相手が奥野じゃ、ホントこいつ運が悪かったネ。不運な婿さん、ですよ」
「本気で、不運だ不運だと嫌味を書いて来てるよ。嗤っちゃうよ。こういうことを本気で考えて、かりにも義理の親を蔭から罵倒しといて、一方でモンテス
キューがどうだの、ルソーのエミールがどうだのと、やってなさる。ユマニスムの学問が、いかに偽善と瞞着の具にされているか…こういうのが古臭い教授病の
重症患者なんだから、学問・学生の受難も甚だしいよ」
「論語読みの論語知らず、昔からお馴染みだよ。弱るな。しくじったな、おまえ」
「しくじった…。たいへんなカスを夏生につかませた。もっとも夏生はどう思ってるのか、惚れてるんだと思うんだ。おれたちの前じゃ亭主の悪口をベラベラ
言って…、ゴマカシて。ああいうのは、向うに帰るとこっちの悪口で、亭主の機嫌を買うんだ」
「そいつを、また喜んで亭主は売りまくるワケだ。見えてないからね、モノが」
「ガリレオ以前なんだよ、たいへんな天動説さ。そこが坊ちゃま秀才の馬脚でね」
「山根さんは、何もしないんだな、向うへも」
「知らない…。呑んでかかってたからね、内村は彼を。最初からね。今は只(ただ)の平(ひら)教授だし、自分のおやじは学部長だった理事だったと、位取
り、きついんだ。ふつうなら山根さんぐらいな教授じゃなく、総長かえらい理事かに仲人してもらう身分だ、山根の顔を立ててやったんだと、夏生にも、ヤツ、
言ってたそうだよ。
山根さんが、また、気が優しくてその辺で位負けしちゃう人でね。なんで山根が内村理事の息子さんの仲人を…なんて先輩や同僚に思われてるものと、ずいぶ
ん気にして、緊張してたもの。披露宴に出て来た客はたいがい彼より格上だったし…、専門は日本文学だし、内村はもともと政経の出なんだよ。そっちにこわい
恩師がいるわけだから。そういう仲人口の結婚が、内村の地位も定まらない最中にトラブッちゃ、山根さんの学内での面子(おたちば)がヤバイんだ…。だから
学内向けには、あの奥野がよくない、あの作家は頑固なんだ、ケチなんだと言っとく方が、そりゃラクだろうね。大学人には有るんだよ、そういうふうにしか身
を守れんお人がね。……も少し、ジツのある、アテに出来る人だと思っていたが。勝手な坊やの、窘めるべきはピシッと窘めてくれる人かと思ってたが、尻込み
一方で…、こっちに、俺たちにゼンブ辛抱させようとするんだ。せめてウチの家内の話を聞いてやってくれと頼んでも、結局逃げちゃった…。大学という序列の
シマを、半歩一歩も出られない人っているよ」
「おまえは、また、根ッから、シマの喪失者だからな。しかし、弱ってるだろな」
「山根さんかい。ああ。おれが赦さないからね。あちこちで愚痴ってるらしい、あちこちから、もう山根さんのこと、いいかげんに堪忍したげなさいよなんて
言
われるよ。だけど許しゃしない。よそで愚痴るぐらいなら、紹介者として、友人として、おれと面と向かって話しゃいい。なのに友誼よか中立という名目で、結
果的に、おれへの悪声を振り撒いて歩いてたようなもんさ。奥野さんも年齢(とし)だし、そのうちにきっと折れるから、まぁま辛抱なんてことを夏生(なつ
み)には言ってるんだ」
「よっぽど金持ちだと売り込んだんだ。それに飛び付いたんだ。かわいそうに。おまえ程度の物書きに金があったら、それこそお笑いなのに」
「天は自ら助くる者を助くって謂っただろ。おれは天にゃなれんけど。それにしてもヤツは、テンから、天がおれを助けなくてだれを助けるかと、嫁の実家に
粋
(いき)な天になれなれと強要してきた。自助努力はハナから棚上げ…。しかし、金は、己れを卑しくして貰うもんじゃないぜ。意味なく遣るもんでも、まし
て、ない。イキに金よこせなんて、そんなイジマシイ教育学や哲学、聞いたことあるかい」
「夏生ちゃんを金づると思って嫁にしたか…。若いくせに、嫁、嫁っていう男だな。おまえの金をアテにするのなら、いっそ養子に来りゃいいんだ。嫁の実家
の
懐をアテに妻帯するなんて、自分の親の顔をつぶすってもんだ」
「ところが親父さんは死んでいるし、死んだご亭主の金の面倒をみたってのが、内村の母親の自慢なんだから、よくない環境だよ。息子は、だもんだから当然
の
ように夏生に強いたんだろ。里へ行って、取れるだけ取ってこいって。かわいそうに…、なんでこう再々帰って来るんだろと心配なぐらいだった。そのワケが、
最後に分かった…。向こうへ帰ろうとしたがらないんだよ夏生が…。そりゃそうだ、小遣い程度はやるが、ほかは夏生や子供の物ばかりやっていた。内村に金
は、全然…」
「夏ちゃんは、人一倍おまえの考え方で育ってるから。辛かったろうな」
「結婚して最初のうちは、いいお姑(かあ)さんよ、なんて歯の浮くよなこと言ってたが。すぐに盛大にケンカを始めた。亭主も音(ね)をあげたほどガンガ
ン
やってたらしいよ」
「つまりは、金を寄越さぬ嫁の実家…かね」
「そうだ。金を出さず、口を出す最悪の三文文士め…で」
「世間でいわゆるその最悪をサ、それこそ最良なんだと思考する、ケッタイな小説家…か。不運だったな婿さんは」
奥野秀樹は笑ってしまった。駒井次郎も大口をあいて笑った。内村が母に出して貰っていた「月三万」の援助をとり上げられ、その母や妹に「働かないなら出
て行け」と実家からも追い立てを食っていたのを、まだあの頃、奥野らは知らなかった。
一四
六月二十日過ぎに上京します、伴侶となる人を見てほしいと手紙をよこした戸川一馬から、その後音沙汰はなかった。当然だった。いまだに奥野は戸川の真意
がしかと読めない。
奥野からすれば、およそ、よそごとでしかなかった。物書きの好奇心が皆無なわけではない。ほんとうに妻にする女をつれて戸川が玄関に現れたなら、どんな
気がするか。その人はどんな気分で連れて来られるのか。夫である戸川とこの家の娘とに、ごちゃごちゃした未清算の過去または清算済みの過去があったと知っ
て来るのか。知らずに来るのか。
どっちにしてもフィアンセを連れて来るという戸川の真意は読みにくい。奥野はそんな想像に心まったく惹かれないワケでなかったし、結婚式という日に、四
谷の大聖堂なら覗きにだって行けると思いもした、いや、行きはしないが。
七月二十日ごろ予定の戸川の結婚ばなしを、息子にもしたか奥野は忘れていた。春生(はるき)は、たとえ母親に聞いていても姉へは伝えまい、が、知れば夏
生(なつみ)はどう感じるのだろう。
想像がとかく拡散するのは我ながら鬱陶しいが、奥野は、気になることが無いではなかった。もののあわれといえば古めかしい、だが父奥野に忘れられないの
は、内村と結婚後の誕生日に、戸川から実家(さと)へ贈られてきた、仰山な薔薇一束だった。
「捨ててしまってよ」と夏生は吐き棄てた。あんまり割り切れ過ぎていないか。そういうもの…か。
すさまじい感情のしこりを残して女友達と喧嘩別れしたという過去を、奥野はおよそ一つも記憶していない。よぎない成行きでいっとき疎遠になったことは、
奥野が結婚し東京に出てきた当座は、あった。だが、なだらかに、大方、現在は親しみも懐かしさも回復している。お互いがお互いの生活をもち、それでも文通
があり連絡がある。読者と作者という立場の組み替えが、幸いした例もある。
結婚したては自然…遠慮があった、どっちへ向いても。とすればあの薔薇は、結婚したての夏生に、あんまり早い過去からのメッセージだったのか。
では約十年経た今、結婚するよ、したよと戸川一馬から通知があれば、もっと温和な祝福の思いを夏生は胸のうちで抱くのだろうか。せめてそうあって欲しい
と思うなどお節介が過ぎると分かっているけれど、それも父の娘によせる人格上の不安の一つだった。
そうそうあの福井君は…どうしただろか。お嫁さんをとうに貰ったかな。北齊学者の杉本氏はどうしてるのだろう、伴侶をあれから得たのだろうか。
だが、そんな…人のことよりも、春生(はるき)の方は、どうなったというのだろう。あれは、あの一枚だけ枝に残って風に吹かれているような女の子との同
棲は、あれでも伴侶を得ているということなのだろうか。同居の当座、舟島薫という子はしきりと「結婚」という言葉で春生に訴えたと、母親は息子から漏れ聞
いている。
「あぁ、あぁと受け流して、あれで春生(はるき)…慎重に構えてるらしいのよ、ま、そのうちに考えようよと。あれでも、意識して、やり過ごしてたみたい
な
の。意外でしょ」
「意外でもないが…。考えているんだいろんなことを。薫さんの状態を、内も外も、まだまだ不安定要因が多いと見てるんじゃないか。それは…慎重でありた
い
ね。結婚しちゃうのは簡単だと、彼も分かっているんだろう…が、簡単なことにしてしまっていいかという、ためらい… 不安、が有るんだろうよ」
「十二月の、つた一座で責任のある公演が春生には重いでしょうし。薫さんもそれは分かっているし。なんだか、彼女もべつンとこで小劇団に参加してると
か、
してたかとも言ってるし」
「たいしたもんだよ。彼女を春生は、まるごと抱えちまってる。無理は…だが、長く続かんぜ」
「そうよ…ねえ」と、藤子は形ばかり溜め息をついた。
薫がほとんど無一文で春生(はるき)のマンションに転げ込んだのは本当らしい。春生は可哀相な女友達の一切を抱え込むことに、男意気地も覚えているらし
い。先方の親に敵愾心(てきがいしん)を抱いていて、薫の面倒見ぐらい「やってやらぁ」と思ったのだろう、当座は出来ないことではない。だが、時間ほど執
拗に人の行くさきざきについて来るものはなく、それが刻々と重さを増してくる。時間だけがそうでなく、心理もまた、とほうもない悪戯をする。百年の恋がさ
めるとか、鼻についてくるとかいったことが、突如として、じつは目に見えない意識の深処で着々と進行していて、ばっと現れて来る。対抗できるのは冷静な意
識と深い愛情しかなく、約(つづ)めていえば冷静で細心な互いの協力だけが、そういう心理の崩壊を避けられる。春生と薫とに、それほどのものの有る気配は
なく、あんな穴蔵の暮らしのなかで、やがて音(ね)をあげるだろう、どっちかが辛くて辛くてかなわなくなるだろう、それがどっちかといえば、存外女の薫で
はないかと奥野は見ていた。理由は幾らもあった。
助けてやれる「手」があるか、奥野はまだそこへ頭を使おうと思わなかった。たとえば、纏まった大きな金を春生(はるき)に与えてやれば、いまの春生な
ら、会社をやめて芝居に打ち込む基金にしたがるだろう。愛さえあれば薫との現在の暮らしは維持できるとまだまだ錯覚しているにちがいなく、そっちへ金を使
おうとはしないだろう。春生の頭は、会社をやめてもどう生活できるか、そっちの方へ傾き過ぎるほど傾いているところで、だから「結婚」を仄めかしたり露わ
に迫ったりの薫を、まぁ待てと捌(さば)いているのだろう。会社をやめて成り立つ暮らしでないこと、春生には分かっている。薫を抱きかかえてでは自滅は自
明、父親が生活を相当に援助してくれたにしても、春生にはまだ、薫との結婚生活、夫婦生活のもたらす生産力や生活力に自信がない。難儀な荷物を背負うだけ
かも知れないと思っている。
薫の方は、他のなにに我慢してでも遁れ出たい「親の家」だったか知れない、が、我慢していればだんだん豊かになる暮らしとは、春生との毎日を送っていれ
ば望み薄なのは見えている。自分の存在が春生を幸せそうにしているのは信じられても、春生に途方もない重荷を背負わせているともまた分かっているはずで、
一銭の稼ぎもならず、電車一つ乗るのにも春生の財布をアテにするしかない毎日を、心理的にどこまで辛抱できるか、やがて答えが出てくるだろう。
そんな答えを見つけるために、一度、薫を、京都で学生生活をしているという薫の姉のもとへやってみるのも良い工夫ではないかと、奥野は考えていた。男女
の両方が「我」に帰って自分を考え直してみる、その時間が要り用だ。
春生が何かで電話してきたとき、奥野は、ちょっとそれを口にしてみた。
「じつはそれを考えているんです」と、春生も言葉ずくなに返事した。奥野は、それだけにして、話題を逸らした。
舟島薫の、もし自分たちが父親であり母親であるなら、自分の娘に、また奥野春生に、さらには同棲を黙認して手をこまねいている春生の親たちに、どんな思
いをもつだろう。奥野はそんなことも考える。どんな表情と言葉づかいで春生が薫の父である舟島氏に応対したか、想像するだに奥野はうすら寒くなった。まさ
かに内村竹司のような無頼な無礼は春生は働かないと信じているが、薫に同情の急なあまり、向うの親たちを受け入れる気がないことは、口ぶりで察しがつく。
結婚を考えているほど若い二人が愛し合っているのなら、親なら、ほんとうに結婚を前提の同棲かどうかを確認し、手順を踏んだ穏便な入籍を求めるのではな
いか。できれば一旦家に戻らせ、同棲が結婚にというずるずるを避けたくはあるが、言い過ぎて破綻を誘うのも問題だと思うだろう。相手の男がいろんな点で信
頼できるかどうか、気にするだろう。先方の親の生活についても知りたく、保証というのではないが、親の口からも娘を嫁としてなるべく喜んで受け入れてもら
いたいと願うだろう。結婚もせず、いつかやっぱり家に舞い戻っている、学校も休んだまま復学のメドも立たない、精神状態もよくなっていない、というのでは
やり切れないし、相手方の男や家族を憎く思うだろう――。
ふつうの親なら、だいたいこんなことを考えているのではなかろうか。奥野はそう推量し、あの春生は、また自分たちは、どう応じられるか…と想像した。
春生にすれば、前提になる「ふつうの親であれば」のその一点で、全然逸れていると言いたいのだ。「ふつうの親ではない」から、可哀相で薫を家に帰せな
い、返さない。そうまで向こうの父親に頑張ったことも言ったようだ。
舟島の両親は、薫の健康、ことに心の不調をどの程度認識しているのか、それも大事なところだった。健康で、とくに不安もないなら春生はいっそ結婚してし
まった方がらくになれるところも、ある。保険や手当ての保証も加わるし、子供がいま欲しいかどうかはおいても、妊娠を過度に恐れたり避けたりせずに済む。
同棲で男に寄食しているのと、妻として生きて行くのとでは、意欲がちがってくるだろう。だが現実に、春生自身、薫を健康・健常とは本心信じていない。日常
にも、疲労や呼吸切迫やヒステリィに近い状態を薫は払拭(ふっしょく)していない。結婚にいたる同棲でなく、衝動的な緊急避難の体(てい)をいっこう抜け
出ていない。愛は疑わないこととしても、その愛、同情と庇護に傾き衝動と依存に傾きすぎている――。
ま、こういう自問自答などを指さして内村竹司は、「作家」とはやたら「夫婦はかくあるべきだ」とか「人生はこう生きるべきだ」とまくしたて、常識とかけ
離れたところで妄想にふける奴だと言うのだろう…と、奥野は苦笑した。
「べきだ」などと本気で思っていたら、奥野ももう少し身を動かしどうにかしていただろう、だがそんな真似はできなかった。そんな余力を自分は余していな
いという自覚のほうが強い。だからじっとして考えていた、考えねばならぬもっと厄介な問題が春生の上に迫っていて、対策を間違えれば、しぜん奥野らも激震
の煽りを食うだろう、そっちの方が放っておけなかった――。
十二月に迫った浅草橋での春生の公演は、劇作家つたひできが子飼いの若い書き手たちに自作を上演させてみるシリーズ企画で、一年余にわたる数組競作のい
わゆるトリを取って、春生ともう一人女性の出番だった。その舞台は何としても責任を果たさなければならないが、一方春生の勤務先は、公演のつどの二週三週
もの有給休暇や、稽古期間中の散発の休暇や残業拒否にいい顔をしていない。当然だろう。奥野にも管理職の体験がある、春生ほどの例はなかったが、有ったら
会社感覚でいえば対応に困ったし、たいへん迷惑したと思う。それが奥野は気になっていて、さきの五月公演ですら、十二月までの間隔が短かすぎると危ぶん
だ。大事でもあり責任もある十二月にだけ的を絞ったらと意見も言った。
だが春生には春生の身に迫ったべつの判断が在った、間隔をあけず次ぎ次ぎに「上げ潮」をつくって行かねば生き残れないと。
そうかも知れない。上げ潮といった感覚を、奥野ですら我が身にかすかに自覚した歳月をもっていた、過去に。しかし潮に乗れなかった。乗らなかったなどと
言いわけする気もなく、しかし乗る気なら乗れるという潮でないのも確かだった。春生の曰(いわ)くを、同じ似た道を歩いてきた奥野は否定してやりたくな
かった。
五月公演は、劇場も狭くて盛況だった。ちょっと凄いほどだった。勤め先からも大勢が見に来てくれた。だが、だから会社は春生の演劇活動を容認したという
わけではない。そういうものではない。奥野は、会社という生き物の実地を、使われる側でも使う側でも多少なり踏んできたから、春生の「太平楽」と謂わない
までも、「なんとかなるよ、凌(しの)げると思うよ」という楽観には頷きかねた。まして十二月への稽古にはや併走して、翌る春三月、今度は新宿でまた自主
公演の劇場予約をもう済ませた、準備に入るつもりだというのには、思わず声が漏れたほど危惧を押えかねた。
「無理が過ぎゃしないか」
「大丈夫だって。それッくらい勢いに乗ってやってくのが、この業界では普通なの」
「そッちの業界はそうでも、おまえが現に給料をとってる業界は、そうじゃないぜ」
「それは、分かってる」
「分かってるだけで、済むならいいがね」
春生も、それ以上の抗弁は避けていた。
「会社をクビ切られちゃ、元も子もないんじゃないか……あの娘(こ)まで抱えて」
「分かってる…」
「十二月公演は、会社に頭を床(ゆか)にすりつけてでも、やらして貰うしかない、これは投げだせないと思うよ。そしてまた三月に…じゃ、そりゃ怒るぜ」
「かも、知れない…」
春生の語気にも陰りがあった。現実に破壊的な津波の近づいているのを、子も父も、むろん母親も、感じていた。感じながら、親子の実感にまだ差があった。
子は希望をもち、親は憂慮していた。憂慮は、すぐ、かたちを取った。
春生は、突如職場を変えられた。窓際へ移されたというのでなく、見ようによれば数十人を統率してでもいるような、だがその数十人は社外電話に応対するの
が職務の、おおかた女子の派遣社員で、社員は春生とほかに二、三。
外の世間から持ち込まれる苦情やトラブルは社員で処理しなければならず、電話を受ける時間帯は、カード会社では当然のこと、ほぼ終日に及ぶ。これまで、
そのポストにまわされた社員の何人かは即刻退社したという伝説もあり、やめたければ、やめてもらってけっこう、というほどの会社の意思表示を読むしかない
地位に春生は据えられてしまった。
「やめざるをえないかも知れない…」
またまた深夜、奥野に電話をかけてきた春生の声音は、どんより曇っていた。
「おまえは、おまえの冷静な対策を考えてみるといい。甘いことは、もう言っていられないぞ。父さんも、父さんの考えをまとめてみるよ」
こういうのが親馬鹿なんだ…と思いつつ、すばやく奥野の頭は動き出していた。
こういう時だな。内村なら口は出さずに金を出せばいいんだと言い募るところだ。
奥野は冷ややかな軽蔑の気持ちを眼に光らせた。相当の金額を黙って手渡したりすれば、春生は喜んで、そんな金の力を過信して、勢いづいてただ単に会社を
やめてしまうだろう、それで何が解決するのか。そんなものじゃない…と奥野は先々が想像できた。
よく考えて、苦しんで、力を合わせられる相手がいるならよく力を合わせて、敏捷に、しかし慎重に。
奥野はそういう生き方をしてきた。成功したととても言えないけれど、悔いはそう残さずに来れた。
「すこしは長いスパンで、見ろよな」
電話の向うに朧ろに顔の見えている息子を、奥野は声低く励ました。受話器を置き、しばらく電気を消した中で考えた。また明るくして、そしてワープロの新
しいファイルに、先ず、こう打った。
* ――春生(はるき)に。できれば薫(敬称略)にも――
一 春生は二十八歳半。結婚し子供が一人いても普通の、大人である。
二 大人は、自分の生活を自力で建てて当然である。今、親の面倒までみる必要はないが、親の力に頼って暮らす年齢(とし)ではない。
三 体力も気力も親は衰えはじめ、春生の力を借りたい場面は年々増えているが、幸い経済的に負担はかけずに済んでいる。春生も、自分の暮らしは自分で賄
うべし。
四 春生の置かれている状況。
1 会社は、演劇社員を雇用する気はなく、配属に不満なら直ちに退社してもらって差支えない姿勢に在る。
2 職場は忙しく、かつデスクへの拘束度も高い。残業等の実情から、春生は、時間的・体力的にごく窮屈な状態に在る。
3 有給の許容範囲内であれ、稽古や公演を理由に長い休暇は取り難い状態に在る。
4 会社をやめ、無収入で暮らせる資金の用意は、退職金を含めて五百万円を出ない。
5 今年十二月にすでに予告の公演を控え、キャンセルは出来ない。しかし強行すれば「職務命令違反」による懲戒免職がありうる。退職金も支給
されなくなる。
6 薫との同棲は、春生の負担になっている。薫に、生活資金を稼ぐ気も力も乏しく医療を受ける必要すらあるが、健康保険も社会保険も無いに等
しい。
7 春生は「無収入状態」で二人の生活を維持し、加えて、演劇のための費用も自力で工面しなければならないが、算段は立っていない。
五 現実に、どんな選択肢が在るか。
1 経済成り立たずに演劇活動の成り立たないことは、体験済みである。
2 経済成り立たずに生活が維持できるわけのないのも、体験済みと思う。
3 経済成り立たずに藝術に打ち込むこと、必ずしも不可能ではないが、負担は最小限にとどめざるをえない。しかも「貧すれば鈍する」という諺
は的を射ている。一人でも泳ぐのに精一杯な時に、泳げない人にしがみつかれたまま、どこへ泳ぎつけるだろう。
4 やむをえず、どう苦しくても現在の「給料を確保」するという選択肢がある。その為には、来年三月はもとより、最悪、この十二月公演も断念
せざるを得ない厳しい事態に追い込まれるだろう。しかし十二月公演は実現しなければ、つた氏への責任が取れない。
5 十二月を乗り切ったところで、三月にまた繰り返せば、会社は春生の馘首になんら心を痛めないだろう。
6 退社を強行すれば、自然、アルバイト探しに奔命することになり、生活の安定は難い。薫との生活も共倒れ必至となる。
7 転職の道を時間をかけて探す道もある。但し同じ繰り返しになりかねない。
六 どの策を採れば、少しでもマシか。
1 長期的にみて、一時の犠牲と断念により「会社はやめない」よう頑張りぬく。
2 そのため一時的に演劇の公演活動を自粛し、大過ない会社勤務の間に、戯曲を書き、小説を書いてもよく、また演劇の勉強を積み上げて、隠忍
自重のじっとガマンの時節を体験する。(実力以上に無謀に気負った咎めが、社会的にも私生活でも出たのだと見られる。)
3 十二月の公演だけは誠意を尽くして会社に理解してもらい、成功させたい。(これは、父の希望。)三月公演は、論外。この際中止。生活の立
場を失って出来る事業など無いと思っていたほうがいい。
4 今からでも、とくに会社上層部および職場の同僚の最大限の支持を得られるよう、誠意を尽くし努力する。
5 その一方、自前の自立が果たせるよう、鋭意、貯蓄すべきである。
6 薫とのフレンドシップは従来どおりでいいが、同棲は解消し、互いが互いを拘束し合わないこと。
7 薫も「春生の現状」を把握し、無残な挫折を招かぬよう理解を示して欲しい。家族との関係をどう修復しどう維持する気か、薫自身の考えを明
らかにし、将来にわたる不幸を回避した方がよい。
8 春生は、極力身を軽くして、失速飛行の現状から全身全力で脱して欲しい。
9 現状の横滑りで、薫も一緒に大泉の奥野家で暮らすというのは、舟島家に対する責任からも、不可。薫の健康にもし異常があらわれ、病気が
重ったり不慮の事故があったりしたとき、春生はもとより、春生の親としても責任の取りようがない。奥野には、薫まで抱えこめる余力が無
い。
10 いまの春生の若さで、若干人生航路を変更して飛び続けることは、不安はあるだろうが不可能ではない。天与の機会と受けとめ勉強を積むが
よい。
11 もっと虚心に、先々を、人と相談する態度が必要だった。
七 結論として。 いま会社の給料を失って自立できる道は、はなはだ見つけ難い。
春生の目下の非力で、「創作・公演・会社・薫の四つ」を何一つ手放さずに持ち堪えられる道理がない。失速墜落の危険は目前にある。しかも、い
ちばん捨てたがっている「会社こそ」、他の三つの存立を、事実上支える基盤であり分母である。「創作」「公演」「薫」の、どれをこの際、省力しうるか。こ
れに自発的に聡明に順位を付けられるのは春生であり、また薫である。
平成八年七月十七日 春生の電話を受け、直ぐ 父(母)
奥野は藤子にも読ませた。意見を一つ二つ取り入れ、字句を直した。最後に(母)とも添えた。だが、春生へすぐ送りはしなかった。もう一度も二度も「波」
はきっと来る。春生から身を動かしものを言ってきた機(おり)でよかろうと親たちは結論した。
「春生(はるき)も夏生(なつみ)も、こういうふうにお父さんに…、そうね、口出し…をされて来たでしょ。子供たちのこと、親もいっしょに考えて意見を
出
してきたわ。
竹司にはそんなことはしなかったし、相談だって一度として受けたことなかった…。けれど、お父さんが、ま、こういう口出しの仕方で夏生なんかに影響力を
持ってたことが、彼には口惜しかったのね。それも分かる…けれど。オーバードクターのまま就職できない彼…、嫉妬心が劣等感にもなってしまいそうで、それ
で暴発しちゃったとも言えるわね」
藤子は初めて、内村竹司の、舅への「嫉妬心」というところに口を入れた。
ふつうの舅なら秀才を自任する婿殿に敬意をはらい、下手(したて)に出てちやほやしてくれると思っていたのがアテはずれで、適当にあしらわれていると、
「ヒガンだのよ」と言う。
「逆に言うと、これまでは、山根教授なんかも含めて、みんなおれのこと奉ってくれると思い思い、慇懃無礼に腰だけかがめて謙虚そうにしてたんじゃない
の。
あなたに、その手は通じませんものね」と、おとなしい藤子も一度言い出すと辛辣だ。
「おれは今、荷風の小説なんか懐かしくてさ。そのはずみでモーパッサンを読んでいる。短編集は君も読んでるよね、文庫本で。ノルマンデイーの田舎を描い
た、文字どおり文字で絵に描いたというしかない、みごとな自然主義の人間描写。すごいよね。あれはあれだけなんて悪口言う人もいるけど、眼が凄い。絞りの
深い、しかも全開放のレンズになって、ただただ具体的にものを写し取る技術……、おれなんか同じ小説家だなんて恥じ入るほどみごとだ。
ま…この際、そんなこたぁ何の関係もないと言ゃそれまでだけど…、つぎに例の『女の一生』さ。あれも読んだ。昔々に読んだときは、あんまり悲惨なんで。
で、逃げちゃった。モーパッサンの筆の冴えなんてもなぁ、中学高校では目が届かないよ。筋だけで読んでたからね」
「こんどは、ちがったのね」
「ああ、ちがった。が…、それはそれ、技術面のことなんかはね。
こんど『女の一生』を読んでて心臓が凍えそうになったのは、ジャンヌとジュリアンの新婚旅行のところだよ。色男なんだ、落魄(おちぶ)れ貴族のジュリア
ンは。慇懃で。格好よくて。だがそいつに惚れたジャンヌは、身も心もささげて夢のようにハネムーンに出て行く。出がけに母親が二千フラン、お小遣いをジャ
ンヌにやってるんだよね。
それを、旅が始まるとすぐジャンヌは、嬉しそうに夫になったばかりのジュリアンに話すんだ。むろんジャンヌは、自分のお金だと思っていた。二人の旅をそ
のお金で楽しめるものと思っていた。だけどジュリアンは、言葉たくみに巻き上げてポケットに入れっちまう。一瞬、初めて、ほんとに初めて、ジャンヌはジュ
リアンに対して違和感をもつんだ。
違和感はみるみるうち現実のものとなり、やがて裕福だったジャンヌの実家の経済をかきまわし始めたジュリアンは、反比例してジャンヌを、世にも不幸で寂
しい妻に疎外して行くわけだよ、要するに妻の実家の金をアテに結婚した、典型的な悪性(あくしょう)な寄生虫だったんだ。結婚前と後との悪魔的な落差が凄
いともなんとも…。
ま…、内村のことは知らないが、少なくも夏生(なつみ)は、新婚旅行へ、ジャンヌのその二千フランを、つまり結婚祝いの包み金を、持って行かなかった。
それが、あいつに天を仰がせた、最初の、具体的な、われわれへの恨みだったんだよ」
「皮算用してたのよね、あれを。夏生は夏生で自分の通帳に前もって振込んで貰ってた大金(ぶん)は、内緒にしてたそうですし…。そういえば、そうそ
う…。
夏生、二度めの妊娠で御腹が大きいまま、電車で、代々木まで塾の先生のバイトに通ってたでしょう。あのアルバイトのお金を、どこへ振り込みますかと事務か
ら電話で尋ねてきたのね。そしたら電話に出た彼、夏生の返事もきかず、即座に自分名義の通帳にって指定しちゃったんですって。びっくりしたぁ…って、夏
生、目をむいてましたもの」
「生活費も彼が仕切ってたのかも知れんな。あれは辛いんだ女房には。うちの親父がそうだった。おばあちゃんは、週か十日ごとに親父に現金を貰うんだけ
ど、
いつも足りないんだよ。お金足してくれと言い出すのが、それは辛そうだった、そばで見てて堪らなかった。だから、おれは給料袋を一度も自分で封を切らな
かったんだよ。新婚早々の、貧乏の限りを尽くしてた頃でも、きみの小遣い分は決めてたし、物書き一本になって見通しが立つと、すぐ、収入一切の通帳は、き
みに預けたままだからな」
「内村ったら……、実家で取れるだけ取って来いみたいに、夏生をせっせと寄越していたのよ。ほんとなんだもの」
「すっごく暗くなるんだ、夏生。そして、しぶしぶ…」
「そうしぶしぶ内村へ帰って行くのよね。あれが、どうにも合点が行かなかったわ、ながいこと。洋服買ったり、子供にも買ったり、お茶だのお菓子だの、生
活
用品でもなんでも持って行かせていたけど…。あれじゃ、ダメだったのよね向うの家(うち)では。竹司本人に、現金をたっぷりやらないとダメ…」
「婿さんにせっせと金を貢がなけぁいけなかったんだ。そんなこと…、思い付きもしなかった。三十過ぎた一人前の男、時間も体力もある健康な男に、それ
じゃ
あ失礼ってもんだと、本気で思ってた…」
「ですから、もう決まる就職祝ははずもうって、百万円包んであったじゃありませんか。でも、ほんとに学者のお婿さんて、そんなに、お嫁さんの実家がお金
の
お守(も)りをするものなの。ほんとなの」
「常識だそうだ、内村竹司によれば。統計をとって見せてやろうかとまで俺は言われたな。仲人教授の山根某はそういう恩恵に浴した典型的な、誉れ高い一例
だ
とやられた時は驚いたね。いや、まんざら知らんでもなかった。だけど、それが当たり前だなんて夢にも思わなかったし、山根さんも、奥野さん内村にそうして
やってくれなんて、たった一度も、一言も言わなんだぜ」
「するのが当たり前と、…思ってらした…のね」
「うん…。今となれば、そうだったのかな」
「ジュリアンか…。で、どうなるの、そのジュリアンは」
「ジュリアンのはなしなんかよせよ。反吐(へど)が出る……。奴、ジャンヌらの家の財産は、使い放題でね。あげく、森に、移動小屋があって…、押すと動
か
せるんだ。その中で近くの貴族の奥さんと逢引を重ねてた。その現場をご亭主に見つかり、外から鍵をかけられ、小屋ごと断崖を落とされて、惨死二人とも。
ジャンヌは二度めの妊娠中だった。けど、流産…。ジュリアンは、妻のつわりをひッどくいやがった…」
「あらら。どこかで聞いたようなお話ね…」と、藤子はユーウツそうに首を振った。
『女の一生』のジュリアンは、新婚旅行から帰って妻の館で妻の親たちと生活しはじめると、人が変わったように妻のジャンヌを顧みない。身嗜みもたちまち
不
精になり、物言いもガサツになる。ただもう、妻や妻の両親の領地や農民を采配し専権をふるうことばかり考えている。それも、舅の男爵とはうって変わり、吝
嗇を極める。
それだけではなかった。ジュリアンは、婚約より以前、初めてジャンヌの家に客として訪問したもうその夜のうちに、ジャンヌの小間使ロザリの部屋へ忍び入
り、犯していた。新婚旅行から帰ったその晩にも早速ロザリと寝ていた。あげく妊娠させ、男の子を、妻ジャンヌの目の前でロザリに生み落とさせた。ジュリア
ンはそ知らぬ顔して「売女(ばいた)」とロザリを罵り、家から追い出そうとした。事情をしらないジャンヌはロザリを庇い、生まれた子は、父親のさだかでな
いまま里子に出された。ロザリは屋敷に残ってジャンヌに仕えていたが、ある晩、ジャンヌは夫の夜の求めをことわり独り寝たものの、寒さと体調の違和に耐え
かね、介護を求めてロザリの部屋へ行った。召使はベッドにいなかった。よぎなく夫の部屋に入ると、ジュリアンの枕にロザリも頭を並べて寝ていた。
一切が暴露されてしまうと、気のいいジャンヌの親たちは、二万フランの年収が約束された領地を生み落とされた男の子の名義にし、それを持参金にロザリを
ジュリアンとの子づれで、べつの農家に嫁がせた。当のジュリアンはあんな女には現金の千五百フランもやれば十分なのにと、舅らの金づかいに憤激した。ジャ
ンヌも妊娠していたことが分かった。あの晩夫とのベッドを拒んだのも、つわりが始まっていたのだ。
ジュリアンの所行は、仲裁した司祭の言うように、その地方の日常茶飯事にちかい事件ではあった。年収が二万フランも上がる農園をロザリの子に与えたの
は、男爵夫妻やジャンヌの途方もない人のよさであると同時に、経済観念にあまりに欠けた行為であったと言えはする。が、そこに言いしれぬ温情があり、ジュ
リアンの過酷な性格との凄いようなコントラストが、言わず語らず描かれていた。目に映じ耳に聞いた事実しか書かないモーパッサンの写実は雄弁だった――。
奥野や藤子は資産家だったジャンヌの両親とは似も似つかず、むろん夏生(なつみ)もジャンヌではない。内村もジュリアンではない。だが、『女の一生』を
読んでいて、奥野は、どうしても内村竹司の薄い唇をゆがめた白い顔が眼にかぶった。内村がとくに吝嗇かどうか知らない。無用の見栄をはる方だった。やめて
くれと断っても、自分で来るときは過分の手土産を持ってきたがった。女遊びはし尽くし、もう飽きて、結婚は「良家の子女」と見合いで決めたかったと当の夏
生に打ち明けていたというが、半分ぐらい本音だったろう、いやいや正しくは、
「金持ちの良家の」だったろう…と、奥野は苦笑した。
一五
貞子の返事、佐倉芳江の妹の返事は、奥野の思ったとおり、無かった。諦めるというのとは違ったが、奥野は、空(くう)を見つめていた。矢部先生にもう一
度問い合わせてみる気もなかった。
姉の、佐倉芳江の、離婚に至った事実や事情が、知りたいか。そう何度も奥野は自分に問うた。
知りたくなかった。
事実や事情ほど「真実」から逸れたものは無いのかも知れぬと、奥野は、文学の信念の一つにそういうことも意識してきた。
あの「姉さん」だった芳江にかかわる、事実だの事情だのを、出逢いの最初からほとんど何も知らなかった。昭和終戦後の新制中学でいっしょだったたった半
年と、その後平成の今日までの何十年に、芳江の実像らしき噂ばなしを奥野は、誰からも、まったく聞いていない。
人妻であったあの人の声を、最初に仲介して電話口で聞かせてくれた祇園の或る割烹の店の女将だけが、
「ええ人えぇ」と言い、中年過ぎた奥野秀樹の久しい慕情にいたく思い入れてくれたぐらいが記憶にあるだけで、図画の先生だった矢部卓之氏も、一度として
かつての教え子佐倉芳江を、同じ教え子の奥野のまえで評判したことがない。上級生芳江のかすかな写真一枚も奥野は持たず、ただ二、三の手紙と、卒業式の後
でしっかり手渡された文庫本『こゝろ』の奥付裏に、「呈」の署名だけが残された。それで十分ではないかと思わぬ奥野でもなかった。が、どこにどうして暮ら
しているか知れぬ人の、無事は、日々祈らずにおれない。
徹夜にちかく、眠れぬままあれこれ仕事をこなしている毎日がつづいた。肩は凝り、乱杭歯が痛み、遠いの近いのと眼鏡をとり替えとり替えしても、目は霞ん
だ。アトランタでオリンピックが始まると、はなからその気の奥野は、深夜実況のテレビとも親密に付き合った。もう決して自分には出来ないスポーツを、世界
のレベルで演じて見せてくれる。なまなかの見物(みもの)や読み物よりオリンピック選手の競技は、多彩で、胸が弾んだ。
開幕の日の晩、上野のピアノリサイタルに藤子は人に誘われ、彼女は夫も熱心に誘ったが、奥野はテレビの前から動く気がなかった。
藤子は息子にことわって目白の部屋から舟島薫を誘い出し、連れて行った。
その上野の会場で、ひとつ、事件が起きた。
リサイタルへと奨めてきたのは、ピアニストを支援のグループに入っていた、奥野らとはもう久しい友人の女性読者だった。離婚して、三人のちいさかった女
の子をしっかり育て上げてきた人だ。
別れた元編集者の夫とも、奥野らは今も親しい。女の子たちも父親の木野と小絶(おだ)えなく、よく会っていた。夏休みになると土佐の父の田舎に遊びに行
く。上の二人は、小さい頃奥野の家にもよく連れてこられ、「おにいちゃん」の春生(はるき)にまつわりついて離れなかった。
離婚は、そのしばらく後で起きた。春生は他人事(ひとごと)でなく道子や文子に同情し、「かわいそう」「かわいそう」をいっとき繰り返し口にした。
そのいちばん上の、いまは早稲田の四年生が、上野の会場の受付を手伝っていて、藤子の連れてきた薫を見て、「ぶッ飛ん」だ。木野道子は、学内の小劇団で
舟島薫の一年先輩に当たっていた。春生がさきの五月公演のために「芝居のできるやつ」を探していたとき、幼馴染みの道子に声をかけ、道子が舟島薫を紹介し
た。奥野らは知らなかった。
道子のいわく、春生(はるき)はその後二度も繰り返し、薫を紹介してくれて「ありがとう」と道子に頭をさげたそうだ。道子の方は、後輩の「舟島が」誰だ
かと目白辺で同棲してるらしい噂を、仲間内で耳にしていた。奥野家のあの春生と、とはまさか思わなかった。
道子には、春生の「お嫁さんにしてもらお」と思っていた時が、あった。奥野や藤子にも、それを想っていた時があった。春生にもあったかも知れない、が、
あまり近すぎたか、かえって恋するほどの機会がなかった。
ひとつには小粒ながら活発で利発な道子は、出たとこ勝負の春生を凌ぐ実力と気迫の少女だった。がんばる子だった。親の離婚にしっかり鍛えられ、批評と文
章の力を、優れた編集者だった父親ゆずりに持っていた。小学校の作文コンクールで総理大臣賞を獲った。大学では、薬害エイズ問題を告発する二千人集会を呼
びかけて成功させ、大きな賞をもらっていた。
春生は、あんまり元気な道子に、平生からやや身を退(ひ)いていたようだ。
道子は、「奥野先生」に電話をよこし、父親と連れて、週明け、久しぶりに遊びに行きたい、よろしくと、予約を入れていた。たしかに久しぶりだった。
離婚して木野はべつの女性と結婚していた。離婚まえに、もうその人に子を宿させていた。生まれて来る子を私生児にしないためにと、ちょっと聞けばなんだ
かへんてこな口実で、木野は当時の奥さんに一度別れてくれともちかけた。そんなぐあいに木野は向うの女性と再婚した。また別れて前の奥さん、愛子さんとよ
りを戻すということは、やはり、ありそうも無かった。
道子たちは傷つき、父を容易に許していないのだが、父と娘三人とは、いくらか愛子の気をかねながら、自由に家の外では会っている。東大出の父は、三人の
娘の受験に、高校も大学も欠かさずいろんな場所で会っては教師役を勤めつづけ、道子は早稲田に、次ぎの純子は一橋大に難なく受かっていた。今度は三女の亮
子が受験の番だった。木野は受験指南番として娘らの信頼を確保していたが、生活は別だった。いまの奥さんに生まれた男の子も、もう高校が目の前だった。
「会ったのかい」
「…、向うの…ですか。会いません」と、道子は酒好きの父をキラリと横目ににらみながら、許すものかという口調だ。木野は磊落にわらい、
「いやもう…、子育てというのは楽しいものですな」などと言い放ち、酒を啜った。
「亮子を育ててほしかったわ」と道子は間髪をいれず切り返し、かるい肘鉄を父に見舞う。いちばん下の娘だ、父が家を出ていったのも覚えない稚(いとけ
な)い子だった。その子が今は父に受験指導をしてもらっている。ふしぎな父と娘たちだが、木野という男には不思議を不思議がらせない、さらっとした落ち着
きがあった。
「木野さんは、自由人なんだ」と、奥野はむしろ道子のためにそれを言った。どんな意味でそう言ったか自分にもハキと分かっていたわけでないが、なんとな
く割り切れるものがあった。道子も奥野の曰くに抵抗しなかった。藤子の次々にもち出す手料理をみんなでかたづけかたづけ、昼間からの酒が夜おそくまで続い
た。かろうじて木野が市川の先へ終電で帰ってゆく限度の時間まで、わいわいと続いた。接待役の藤子はグロッキー気味に、それでも楽しそうだった。
道子の母や妹の家は、奥野らと同じ区内にあった。木野を最寄り駅で見送り、奥野は道子を自転車のうしろに積んで、夜道を西大泉の母親の家まで送ってやっ
た。小柄な道子だが、若い体重はけっこう漕ぐペダルにかかった。「チクショー重いじゃねえか」などと奥野は唸り、道子はうしろの荷台でころころと笑った。
聡い道子は、舟島薫のことを藤子に訊かれても、決してわるいようには言わなかった。
「神経質なところ、あるかも知れない。けど…あたしほどじゃないですよ」などと言った。春生と同棲のことは、紹介者として「先生や奥さんに」ちょっと責
任を感じてますとも言った。木野は口をはさまなかった。木野も、この娘は春生にと内心思ってたのではという気が、ちらとした。まだ駆け出しの頃の奥野の小
説に惚れて呉れて、若い木野静雄がどれだけ奥野のために長いあいだ好意を貢ぎつづけてくれたことか。あげく、勤めていた出版社が経営に行きづまると、さら
りと退社し、自ら職業というものをなげうった。
「あなた、自由人なんだからって、お父さんのこと道ちゃんに言ってたでしょ。どっちも傷つけないよう、ウマイこと言うなあって聞いてましたけど…。アレ
でしょ、彼…。道ちゃんらの養育・教育費は、高知のおじいちゃん・おばあちゃんから出てるんだって、道ちゃん言ってたでしょ。戸籍と暮らしはいまの奥さん
や子供といっしょで、彼は翻訳のアルバイトしてるだけ。奥さんが相変わらずお勤めに出て、そのお留守番しながら、道子ちゃんらとも会いたいように会い、お
付き合いしてるわけよね。さすがに愛子さんは木野さんと会ってないでしょうけど、彼は、愛子さんとだってふつうに会って、付き合って…、それで行く気なら
行けると思ってるんでしょうね。自由人……ね。フクザツな気分…よ」
「タンジュンに考えていると思うよ、彼は」
「そういうの、できる人って…、いるんだわ。徳があるというのかしら」と、藤子は哲学するような顔をして黙った。
「ミチは、新聞記者になるんだって…。あの子は、やるね」
「一つ、内定がもう貰ってあるって言ってましたね。どこでしたっけ…地方新聞でしたね」
「群馬県だね、高崎か前橋だか。でも、名古屋も受験してみるんだって。こっちはずっと大きいし。あの社だと、合格したら東京ででも働ける」
「ミチは軽いんだ軽いんだって春生(はるき)は言うけど、物言いがパキパキしてて、春生とはちがうのよね。でも、あの子は、両親のことからも、確実にた
くさん学んできましたね」
「夏生(なつみ)なんか足下にも及ばないね。…あんなミチでも…、ちっとだけ、年頃らしい色けも出てきたし。ま、あのまま…、そだな…
口を利くときに、人より遅れてせいぜい三番めぐらいに利くように気をつけてれば、伸びて行くだろね、もっともっと。出る杭になると、男どもが頭を叩きたく
なるタチだ、あれは。そこは夏生に似てるんだ」
その夜奥野らは床についてからも、両方で思い思いの気楽本を読み読み、そんなことを言い合って、寝た。
気がついたとき、戸川一馬の結婚式の日は通り過ぎていた。手紙の届いたのがずいぶん昔に思われるほど、あれから、いろんなことが有った。目前の八月に
は、夏生(なつみ)や孫たちがパリへ発って行くらしい。今度は一年間とか。
ここ数年の実感では、一年ぐらいすぐ経ってしまう。上の信哉(しんや)の小学校はどうなるのか、道哉(みちや)だって学校の年齢(とし)では…。いきな
りパリで通学などということが可能なことか、奥野は知りもしないで、ただ無事でとひっそり思っていた。
夏生は弟へやっと手紙をよこし、芝居の感想に添え、パリのアドレスも知らせてきたと聞いている。姉と弟とに細い糸がともあれ繋がっていることに藤子は喜
びをみせ、奥野はどうでもいい顔をしていた。
毫末も奥野は内村をゆるしていなかった。孫の顔が見られない分、憎念は増していた。年齢のおとろえに負けて無関心になどなって行くのはいやだった。頑な
さに十分恥じ入りながら、拒んでいた。あかの他人のことならとっくに内村如き軽蔑して忘れていただろう、たぶん…と奥野は反省し苦笑しつつ、あの『ここ
ろ』の「先生」が「私」に向かって、自分は「これで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年立っても二十年立っても忘れやしないんだか
ら」と言い、「然し私はまだ復讐しずにいる」と言っていたのもよく覚えていた。「先生」よりだいぶ自分の方が年齢(とし)とっているのは承知で、だが、受
けてはならぬ相手からの非礼を奥野は肯(がえ)んじなかった。礼に非ざれば視るなかれ。礼に非ざれば聴(ゆる)すなかれ。大人気ないなどといった木ッ端
(こッぱ)な物言いでまるめられてしまうのを、ガンと拒んだ。
年齢に屈していつかゆるむだろうと、それを待たれているのは知っていた。
赦さぬ…。奥野は拳をぐっと握って突き上げた。からからと何故だか笑った。うつろな笑いだった、だが…赦さない。
「あなた、すこし、外で寛いできたら」と、藤子は、どう夫の様子を見ていたものかそんなことを、口にした。根が、寛いでなどいるより、いつも何かに身構
えて打ち返そうとしているような、なんとも疲れる性格の夫だった。
「そうだね」と奥野はもぐもぐ返事しながら、どうあっても京都まで行って果たさねばならぬ、雑誌次号のための美術対談の相手に、「うん、やっぱりあれ
だ」と、手探りに身のそばの物の下から、薄っぺらい雑誌を引っぱり出した。
美術品の輸送、陳列、撤収、返還という、思えばこれくらい必要不可欠な仕事もなかろうに一般の目にも意識にも、めったに上がってこない「アートバイ
ザー」という商売がある。京都ではその道で草分けの会社社長が、奥野も財団理事や美術文化賞の選者を引き受けている親会社のPR誌に、原稿を書いていた。
奥野は、もう一人哲学者の理事と交替で、財団の刊行物に対談を、創刊の最初から連載してきた。哲学者は美術家と、小説家は美術周辺の人とと、ほぼ割振り
して、対談の聞き役を分担していた。
「いいんじゃない。おもしろそう」と、藤子は夫のもってきた雑誌も一瞥して、京都行きに賛成した。
「八月の京都にゃ、だけど兜をぬぐナ」と、京育ちの奥野でも辟易した。「きみも行くかい」と水をむけたものの、こう猛暑では、かりに九月のあたまにして
も心臓の弱い妻には負担だった。奥野はファックスで財団の事務局宛て、意向と、九月早々の日程を二、三伝えた。暑かろうと面倒だろうと、よいしょと仕事の
輪を向うへ転がしてやれば、日々の景色は変わってくる。じっとしてないヤツだおまえは…と、奥野は己れをへへと嗤った。
翌日の内に「村田社長の快諾をえました」と堅苦しい返事がきた。日は九月五日、朝十時から「本社で」対談をと、前日の宿ももう手配済みだった。ちらと、
姉さん…芳江のことが頭をよぎったが奥野はその頭をコツンコツンと二度叩いた。捜すまい……。
どっちみち、京都もそんな先のはなしでは、今の今気晴らしの役には立たない。暑いな、暑いなとこぼしながら、奥野はあいかわらず机の前からほとんど立た
ない毎日だった。夜中(やちゅう)には独り起きていて、オリンピック競技をテレビで見た。奥野の好きなマラソンは、日本の女子が健闘し、男子は惨敗だっ
た。
夜と昼の転倒した日々から奥野がやっと立ち直りはじめたのは、オリンピックもとうとう閉幕してだいぶ経ってからだった。暑さにまけた体をだましだまし労
(いたわ)りながら、奥野の日々はけっこう忙しい。教授の頃の学生たちに誘い出され、池袋で半日談笑に過ごした日もあった。ちいさな出版社と、どう実ると
も知れぬ企画のはなしを、したり聞いたりしに出かけるのも、池袋へだった。藤子が疲れやすくなってもう久しく、仕事の客に郊外の家まで来てもらうことは、
妻のために避けていた。奥野が都内へ出向いていった。真夏は、それが、らくではない。
スケジュールは、梅若能の例会を告げていた。奥野がひいきの梅若万紀夫が「三井寺」を舞う。おもわず、あぁと奥野は声を漏らした。喪った子を尋ねて遠江
(とおとうみ)から近江大津の御井(みい)の寺まで物狂いの旅路をたどってきた、哀れな母ーー。ジャーン、ボンモンモンと撞き鐘の音色が奥野によみがえっ
た。
うっすら涙ぐみ、みごもりの、わが湖(うみ)=生みのわが母を思い、はるかな異国に去って行ったという娘夏生を思った。奥野は、ちいさく身を起こした。
*―――――*
平成八年(1996)八月十六日(金)晴 猛暑
* 今日、ひとつの行為をあえてした。下記の手紙を、もと東大の或る学部長だった、現在は退官し教職を離れているらしいR氏に宛てて発送した。エッセイ
の第八・九・十巻、昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たちとの私生活を検証した自著を添えた。氏は、もと南大泉、ご近所に住まわれていた。藤沢へ、氏の移転
話は内村がうちへ持ってきた。内村はR氏を尊敬し師事し、お宅も書斎も見知っていた。
* 内村と我が家との現状を、当然だろう、R氏はご存じなく、暫く以前に手紙をもらったときも、内村の来信に返事したついでに、ここ数年私の教授時代の
「大きなお働き」について書き添えましたというようなことが書いてあった。
R氏と内村とは、もともと出身校の縁ではないのだから、現在はもう疎遠かも知れぬと思っていた。疎遠でないのならR氏の力を借りたいと思いつづけて来
た。
二人に連絡があるらしいと分かったので、思案のあげく、藤子にも了解してもらって、上の三冊を送った。中巻の「あとがき」には、内村との現状が韜晦した
筆ではあるが書かれていて、R氏に見てもらいたかった。
世間に知られていまいとタカをくくって、時には、私の婿であることをすら吹聴し、便宜に利用していると噂にきく内村を、疎ましく思う気持ちも強かった。
*
記録的な熱暑、どうぞお大切にと願っております。
このような折りに、私事をもちまして御清閑を乱しますのはまことに恥じ入る次第ですが、お察しの上、お聴(ゆる)し下さい。先のお便りに、内村竹
司のことにお触れいただいていました。その折りに、いいえ、もっと以前からも、お力添えを願いたいものと幾度び思ったか知れないのですが。
じつは内村に嫁ぎました娘と、二人の幼い男孫とも、私どもは、ここ数年間ただの一度も会うことが出来ぬまま過ごしています。文通も、電話もならず、
どう暮らしているのかも知れず、心痛で、家内は病い癒えぬまま日々に困憊(こんぱい)しております。
どういう事情か、このお送り致しますものの「あとがき」を、どうぞ御覧願えないでしょうか。韜 晦した書き方をしておりますが、すべてが内村当人のこ
ととご判読いただきまして、「文字通り」間違いない事実なのです。
彼の為にも、娘たちの為にも、また私自身の為にも、もっとも避けたいことではありますけれど、不幸な事態が、もっと不幸な悲劇的な事態に陥ることは
更に避けねばなりませず、恥を忍びまして、せめて、内村がご尊敬申し上げています先生にお縋りしてみたいと、とうとう、我慢の堰を切ってしまいまし
た。
もとより、なにをどう願いたいとすら、思い至らないままの深い嘆きです。ただ、この谷崎論と合せまして、事情を先生に知っていただけるだけで、少な
くも胸に少しのひまを明けたいのが目下の切 望でございます。非常識なご迷惑をどうかお聴(ゆる)し下さい。
ことは、そもそも「谷崎」に発しておりました。三冊の「あとがき」を、とりわけて中巻のそれだけなりと、お目通し下さいますようご親切にお縋りしと
う存じます。
平成八年八月十六日 奥野 秀樹
*
* こんなふうにでもしないでは済まない鬱憤が有る。それだけだといえば、卑しい。だが卑しい自覚を押えてでも、何かをしてみたかった。
一六
* 不幸な暴発(一)
以下に挙げます「文面」は、私ども奥野の家族を深く傷つけました娘婿、内村竹司(現・白金女子大学国際学部講師)の書簡を、文字どおりに引いたもので
す。二年前、平成三年八月から九月へかけて届 いた手紙です。
妻藤子の心臓不調が憂慮され、私奥野に気遣いの多い新聞小説の仕事が重なり、そのため、かねて 来宅静養中の、つわりも幸いに軽快していた娘・内村妻
の夏生(なつみ)を一時引取りに、迎えに来て ほしいと、内村を自宅に呼びました。
そして彼らが帰宅してすぐの、信じられない「この手紙」でした。配達より前に、娘から、「ひどい 手紙を竹司が書いたみたい。相手にしないで」と電話
で急報してきました。
当時オーバードクター(=大学教員の地位を希望している就職浪人)の内村は、地位の得られない 状況にジレていたのでしょう。
しかも全く偶然に、七月十日晩のことでした、ながらく一作家で通してきました舅である私の方へ、 都内の国立大学から、いきなり教授就任を要請の話が
きて、これが決まりそうな成り行きになってい ました。事実十月一日には辞令を受けました。母校早稲田でなければ、ぜひ国立大学へと望んでいた 失業中の
内村には、たしかに刺激が強すぎた。気の毒に思いました。
それはさておき、せっかく内村が来宅の機会に、「生活は大丈夫かね」と、妻とも打ち合わせどおり、 娘の二人めの出産にむけ経済の援助をと水を向けた
のです。
しかし即座に内村は「大丈夫です」と強い一言で、その先が言い出せないほどでした。
じつは早くに内村には、茨城の国立大から声がかかっていました。が、なぜか彼の人事はすんなり 行かず、先々の見通しが立たない状況でした。私どもも
朗報を首をながくして期待していました。
幼少来、私奥野は、これは明らかに戦後ベストセラー『道は開ける』のカーネギーに感化されたの ですが、現在の自分に「最悪の事態は何か」と先ず考
え、覚悟をそこに据えて全体に処するのを、凡 そ、常としてきました。で、そうも「考えてみるといいよ。頑張って」と、私たち夫婦は内村を激励 してその
日も帰しました。
その「励まし方」が気に食わなかったと、内村の手紙は言うのです。もともと、会うも話すもめっ たに機会のない舅と婿でした。思い出そうにも、ろく
すっぽ向き合ってきた印象がなく、暮らしむき に関わる改まった話し合いなど、一度も内村の口から出たことはなかったのです。
で、娘名義の郵便貯金通帳を預かっておき、たいした額ではありませんが娘がカードで気ままに使 える程度を、おりおり振り込んでやっていました。訪ね
てくれば小遣いももたせました。しかし、若 い健康な夫婦をマル抱えに援助するといった考えを私どもは持っていません。ところがそれが不満で 内村が「暴
発」したことは、手紙の「文面」が、すぐさま示しはじめます。
聞けば自分は蔭に隠れ、親に金を出させよと、妻に仕向けていたらしい内村でした。娘は、でも、 一言も私どもに金の無心はしませんでした。そういう甘
えた生活感覚はもたせない奥野家でした、躾 けでした。いきなり内村に「毒づか」れ、その無礼に私は怒りました。妻も息子も怒りました。
内村竹司の、私どもを傷つけ呆れさせた「文面」を、文字どおり、御覧ください。
* 平成三年八月一四日着の、内村竹司の手紙から。
「1」 (冒頭いきなり=) 夏生(なつみ)を迎えにいった折
り、秀樹さん(=舅・奥野)の余りに不躾な言葉に、いささか気分を害しました。かねてより、そ
の無遠慮な物の言い方がかなり気に触っておりましたが、この際、はっきりと忠告しておいたほうが得策かと思い、いや、むしろ「警告」しておいた方が貴方の
ため、ひいては世間のためであると判断し、敢えて筆をとりました。
「2」 貴方は思ったことをそのまま口にするから良くない。内容は
ともかく、まず量的に、浮かんだことを極力言わずにしまう練習をしてみてはいかがです
か。そうすれば、わたしの耳にまでしばしば伝わってくる貴方についての悪口雑言は、半減すること請け合いです。
「3」 付き合い方についていえば、そればかりではありません、正
直申し上げて、貴方と姻戚関係を結んでからこの方、貴方の常識音痴(婿殿は、気の毒に文
学音痴だそうですが)に振り回されることばかりでした。
(一例として=)フランスへ留学する際、私が発ってから夏生のヴィザが降りるまでの間、夏生はよりによって旦那の居ない姑の家(=内村竹司の自宅)で暮ら
さざるを得なかったのです。私の不在中は夏生は大泉(=奥野宅)に帰る、という合意が(内村=)夫婦では整っていたにもかかわらず、そちらの都合、いやむ
しろ貴方の勝手な哲学によって。今回もまたしかりです。出産は大泉で、というスムーズな(内村夫婦間での=)合意があったのに、それは全く尊重されていな
かったようですね。何とも驚くべきことです。
* 何とも驚くのは当方です。フランス行きの当時には、我が家には九十歳前後の両親と叔母とが京都から一時に転居してくる間際でした。妻藤子は十年来
の心臓病の治療通院が欠かせぬ厳しい状況でした。畳の部屋が三つしかない狭い家には、娘と孫とを常時同居させるスペースがなく、期待を「勝手に」もた
れても、どうにもならない有様でした。
夏生(なつみ)はよく承知していました。まして第二子妊娠時は、夫(=内村)も母上や妹さんらも家にいて、手は十分な最中 の話です。夫婦で協力し
て無事のお産をと願うのが、「勝手な哲学」でしょうか。内村の「3」の物言いは、みな内村夫婦間での申合せで、手前勝手を露出しています。「常 識音
痴」は、どっちでしょう。
「4」 (続けて=) 因みに、友人の幾人かにあたって見たとこ
ろ、夫の海外赴任中に嫁が実家に帰らなかった例は、五人中0人でした。さらに、奥さんが出産
を実家でしなかった例は六人中皆無です。こういった場合一般的に、他の家庭がどういう行動パターンをとるか、ご近所の例ぐらいは聞いたことがあるでしょ
う。
そのくせ、「夫婦でよく相談をしなさい」とは何ですか。一体何を相談するのですか?
私たちは、同世代の例にも倣い、謙虚で平穏な生活を望みます。そうさせないように妙な哲学を切り回し、条件をことごとく狭め、悪化させているのは誰なの
ですか?
もし貴方の特殊事情で世間の常識を守れないのなら、貴方の責任において、何らかの代替措置(アパートを確保するなど)をいち早く提供すべきです。それ
を、なんの負い目も感ずるふうもなく、恥じる様子もなく「嫁いだ先で暮らすのが当然だ」とか、およそ世人には訳の分らない、いわば中世の論理で煙むに巻く
のはやめて頂きたい。
「なんでつわりのひどい妊婦が里(=奥野宅)に留まってはいけないのか」 なんで単純な常識さえあなたは実行できないのか?
「5」 (続けて=) 貴方が苦労してきたのは分かります。貴方
が本でしか常識を学んだことがないのも推測がつきます。しかし、そのことによって、いまの貴
方の独善的な人付き合いの仕方が正当化されることは決してありません。
* 内村はやがての手紙に、「妻がつわりのさまを夫に見せる、それだけでも浮気の理由に十分成る」と書いて寄越す「常識」の持ち主です。私の妻は医師
の警告にもかかわらず、余儀なく老父や老叔母の最期までみとり、さらに聴覚ゼロ、視野は片目が鍵穴ほどという老母と、現在も筆談をし続けています。神
経をつかう私の創作生活にも協力してくれています。私も妻も疲労困憊しつつ暮らし、今も そうです。「謙虚で平穏な生活」は、還暦に近いわれわれこそ欲し
い。職こそないが、親譲りの我が家 の何倍もの家屋敷に住む健康な三十代の若い夫婦が、協力して自宅でお産を迎える、どこが「中世の論理」でしょう。
「アパート」などを「いち早く提供すべきです」とは、高慢も度が過ぎて、滑稽です。
体力もなく、当時はむろん定収入もなかった一文士の舅をつかまえ、自分一人の「謙虚で平穏な生活」のために、妻である妊婦を引き取れ、さもなくば
「アパートを確保」せよとは、これほどの「獨善」もないでしょう。三十半ばの、働く気なら「人の三倍は」何とでも稼げると平生豪語できる健康な男が、
血迷って傲慢にものを言い募るさまは斯くの如くでした。
「6」 なぜ、経済的に援助(定期的に、)し、娘や孫の日々の生活
を少しは潤わせてあげようと思わないのか、実に不思議です。学者として独り立ちした先輩
たちもまた、口々に嫁の実家からの多大の援助に対する感謝について熱っぽく語ります。
*「若くて健康な夫婦は、渾身の協力で自立して幸せになりなさい、無用の依存心を育むような金銭上の支援は、むしろ努めてしない。」それが結婚前から
子供たちに教え、私たち夫婦も体得してきた人生への姿勢です。「学者」なら金銭の援助を受けて当然と言ってくる、独善と高慢には、虫酸(むしず)が走
りました。
「7」 ルソーの「エミール」をお読みなさい。そうすれば、国際化
が遅れているのはやむを得ないとしても、頭の中が中世から脱することぐらいできましょ
う。
*「嫁の実家からの多大の援助」を当然のように期待して恥じないのと、夫婦は夫婦で自立して生きよと教える姿勢と、どっちが新しく、かつ国際的でもあ
るかは、自明です。「エミール読みの、エミール知らず」で、専門と称するモンテスキューやルソーから何を学んだのかと、呆れます。滑稽にも『エ ミー
ル』自体が、「中世」を批評しつつ、なお前近代の狭隘で古臭い視野と思考に惑溺した、今日では おおかた時代おくれの「非国際」的所産であることに盲目な
のも失笑を誘います。
「8」 これほど毒づけるのは、生涯ただ一度きりでしょうか。 い
ずれにせよ、以後どんな挑発がこようと、悪態をつくのは今回限りにしたいと
思います。
人の悪口を言うためには、まず自らの品位を低下させねばなりません。精神の自律を貴ぶリベラルな教育環境に育ったこの私にとって、そうすることはこの上
なく苦痛です。
* 私奥野はこの手紙にはむろん、以降一切、内村に対して反応も、応答も一度もしなかったのです。黙殺したのです。「生涯ただ一度」どころか内村は
黙殺されるのに耐えかねて、さらに「品位を低下」 の「悪態」で「毒づき」つづけました。
あげく「姻戚関係を解消」すると一方的に告げて来て、以来「二年」が経ったのです。
「9」 貴方は夏生(なつみ)が必死で送った(援助を望む=)サイ
ンに目を遣ろうとしなかった。ほどなく(私内村の=)忍耐も限界を越しました。
* 「今、私たちは困窮しています。誰の目にも明らかだ」と内村は書いています。けれど相談し易いように話題にすると、「大丈夫です」とニベもない。娘
の「サイン」とは何ごとか。「忍耐の限界」とやらも妻に一任の高見の見物なのです。うじうじして、しかも横柄です。
私たち奥野の家族は、内村からの乱暴な手紙を「無視」することとし、私の代わりに妻藤子が、内村を窘(たしな)める返事を書きました。率直に実意
を「話そうともせず」に、何故いきなりこんな手紙なのか。奥野には読ませない。話し合いに来なさいと。
一時の逆上ならば、藤子にだけ内緒で頭をさげればいい、秀樹は知らないことにしておこうと、修 復の「道」を残したのでした。ところが内村は、どう血
迷ったものか、以上と全く「同文」を、今度は藤子と秀樹宛て連名で、わざわざ、また送り直してきたのです。
* 平成三年八月二十日着の、内村竹司の手紙から。
「10」 (姑藤子に宛てて=) お母さんの感覚も麻痺してらっ
しゃる、私の手紙を「非常識」とお書きになっておられますが、あれはそもそも売られた喧嘩を
買って書いたもの。喧嘩に礼も非礼もございません。
* たいした「リベラルな」知性です。まるで殴り込みです。
この時点に最もちかい八月初め、内村の暴発より以前に私から竹司に宛てた手紙があります。
* 奥野から内村への、内村暴発直前の手紙。(これ以前から、娘と孫
とは奥野家に滞在中)
竹司君、元気にしていますか。先日は(いつもよりは少し多めに)話が出来てよかった。
夏生(なつみ)の様子は前回時にくらべて、ずいぶん良いようです。わたしの経験(家内の二度の場合と、昔の職場でたくさん産科婦人科の症例報告を編
集者として読んできた体験と)からは、まず、生理的に尋常なつわりと思われます。少しずつですが食欲もあり、吐いてはいますけれど衰弱はなく、ただ不
快感や頭重感に悩まされているようです。
信哉は元気に遊んでいます。
妊娠や出産はむろん病気ではないが、安全の配慮を要する危険な状態なのは無論です。怪我や事故のぜったい無いようにすべきです。無事な出産へ、内村
夫妻で万全を期して欲しい、それが我々の希望です。その為にも夫婦で、ないし内村家で、よく話し合われて応急の対策をも慎重に講じてほしい、それも我
々の希望です。
私も家内も、出産まで夏生らは相模原の方(=内村家)で、夫婦協力して事に当たってほしいと願っています。我々の家庭では人手なく医療的にもごく不
便な土地で、家内の心臓負担も懸念されて安全を期しがたく、出産や通院・入院の世話はとうてい出来る段ではないのです。責任が持てないのです。また一
つには、秋に、私にすこし纏まった大きな仕事(=新聞小説)の予定があり、家のなかで静かに集中したいのです。
もう第二児のことで経験もあり、幸い母上もいらっしゃり竹司君にも時間の余裕の有るときですから、夫婦相和し協力して、万事夫婦の才覚と頑張りとで
事に当たっていただきたい。その態勢をふたりでよく相談され、万全を期して下さるようにと切望します。
おそらく、もう近々につわりは軽快するでしょうから、その時はどうぞ迎えに来てやって下さい。
少々のつわりは残っても、夫婦親子が離れ離れに暮らしているというのは、あまり健康な尋常なことでないと、それも我々は心配しています。よくよく夫
婦で話し合って、佳い対策をして下さるようお願いします。 奥野
* これが「喧嘩を売」った文章でしょうか。率直に当方当座の事情を伝え、ていねいに話しています。「礼も非礼もございません」ような「喧嘩を売り」
つける手紙とは読まれまい行文です。
しかも内村の「暴発」は、この手紙に直結して、夏生らを迎えにきた直後に起きました。夏生や子供を、奥野家に置いておけないのなら「代替措置(ア
パートを確保するなど)をいち早く提供すべきです」という「依存心」まるだしの文面へ直接繋がって来ます。内村はこう言います、
「11」 お母様は、私たちがさも「妻の実家に頼る依存的な常識」
に浸っているように述べておられますが、それは全くの誤解です。「依存」というのは、実
際に援助を受けている人が、それに頼ることを言います。援助をしてもらわない私たちは、現代において希(まれ)な、いや史上希な、実家からの完全な独立を
維持しております。
* 笑うのも恥じ入る「現代において希な、いや史上希な」屁理屈、まさに「依存願望」の露頭でした。貧乏を恐れず恥じず、ゼロから立ち上がってきた私
ども夫婦には、かかる噴飯ものの「独立」維持ほど危なっかしいものはありません。援助を受ける、それも時には生活力なのです。人徳なのです。援助して
くれともよう口に出して言えずに、「援助を受けてい」ないと毒づくのでは、妻に押し付けて 高見の見物では、みっともない限りです。
彼の妻は、私どもの娘は、一度も援助してなどと言いませんでしたが、折々には娘の通帳に纏まった金額を振り込んで来ました。内村は知らないか、知ら
ぬふりの「完全な独立」を謳歌していますが、留学前にも何十万も餞別をし、夏生の緊急時にと用意してあった百万円も内村の都合でパリに送金して貰って
いたのも、頬かむり。
あげく、こうでした。
「12」 (続けて=) 世の中には、嫁の実家からマンションの
提供を受け、生活費の半分までも援助を得て、まだ苦情をいう輩(やから)がおるそうですが、
そういう「物足りない」人間には怒りを覚えます。
* これには笑ってしまいました。内村が怒る相手は、「嫁の実家からマンションの提供を受け、生活費の半分までも援助を得て」いる輩では無いのです。
それほどの「援助を得て、まだ(足りないと=)苦情をいう」輩に怒るのです。それほど底無しに要求はしないが、裏返しにいえば、「嫁の実家からマン
ションの提供を受け、生活費の半分までも援助」してもらうのは当然、という認識を露骨に示している。私の妻が、内村を「物足りない」と窘めたのはもっと
もで、「妻の実家に頼る依存的な常識」が、これ以上なく厚かましく露出しています。
「13」 娘が貰ったお祝いをかすめとる父の行為、娘に旦那のいな
い姑の家で暮らすことを命令する奥野さん自身が、余りに非常識であることを例外なく(人
は=)認めている。
* 「嫁」という文字を多用しながら、嫁ぐという意味には殆ど自覚のない勝手な夫の物言いです。私の妻のように、結婚した時もう両親のなかった妻もい
る。せまい場所に病弱の妻は三人もの九十老人を抱え込むべく、しかも夫の仕事にも気を配っている。
そういう状況のときに、姑と折り合えないという理由で、嫁がせた娘を必ず実家が抱えねばならぬ道理は無いでしょう。妻の健康上も、共倒れしてしまう
愚は、我々は我々として避けねばならぬ深刻な問題、つらい状況でした。そのためにも、やむをえず義理ある老母を、後には福祉施設に委ねさえしたぐらいで
す。
この内村の物分かりのわるさが、前段のバカげた中傷に結びついています。
結婚がきまった時に、私は娘に相当の纏まった金を先に渡してやりました。
結婚式を挙げ、旅行に行き、さらに緊急時の予備金としても残せただけの(それを後にパリへ送っ てやったのです)金額でした。
その際に娘と申し合わせたのが、当日奥野家側の来客やまたお祝いを頂戴した方へ、多めのいわゆる「倍返し」に疎略があってはならない。だが新婚早々
の夏生には行き届かないだろうから、責任をもってそれは里でする。その費用の一部に、現金で「奥野家」に宛てられた祝い金を宛てる。その分は事前に、
十二分に上回る金額を、纏めて、結婚と新婚とのお祝いないし資金として、先渡ししておくからね、と。娘は喜んでいました。
これは我々親娘の申し合わせで、内村に関わりない「奥野内」の約束事です。
所が内村は、当然のように「奥野家」へ来ていた「包み金」に望みをかけていたらしく、アテが外れたのでした。結婚式まえに親娘でよく申し合わせて
あったことを、「お祝いをかすめとる父の行為などと、人に吹聴して得意がっていたかと思いますと、呆れます。
「14」 最後に、お母様の描いておられる「率直にものを言い、率
直に話しあう」、そういう人間関係は私も理想とするところです。
「なぜ、面と向かって話さないか」と、お尋ねになっておられますね。卑怯だ、というご批判なら甘んじてお受けいたします。
「15」 どうか念のため再び同封したあの手紙を秀樹さんに渡して
ください。それともかれは、入れる情報をコントロールしてやらないと、正確で冷静な判断
ができないのですか?
* 妻藤子が折角つけてやった退路も見失い、「卑怯」に居直って内村はことさらに齟齬と中傷と無礼 とを重ねています。挑発的逆上とでも謂いますか。
もうこれ以上は相手にせぬと決めました。
人間、相手が好きであれ嫌いであれ、どっちにも批判したくなれば批判のできる弱点はあるものです。虫が好かないのもウマが合うのも、時としてそっく
り逆転もします。内村の手紙に、この私の人間を批判した点があろうと、当たる当たらぬは別として、そういう事はいつもお互いに誰もが仕合っ ているのだ
から、おアイコなのです。言われなくとも、自覚している妙なところは、私にも、いっぱいある。だから「創作」という不思議な仕事もできる。円満具足を必
ずしも理想とはしていません。
ただ、内村のように陰(いん)にこもってしか、モノの言えぬ男は、堪りません。私は、言いたいこ とは、可能なかぎり、率直に言います。しかし内村
の「文面」ほど下品には言えません。書けません。
次の内村の手紙は、無残です。したり顔が滑稽です。
むろん返事はやりませんでした。だから内村はジレています。前文があり、それに付録として、『お付き合い読本──常識編』というものが自慢げに付い
ています。「もうやめる」どころか、「毒づき」「悪態」を、自家中毒のように繰返します。あげく、「姻戚解消」の通告です。
* 平成三年九月九日着、内村竹司の手紙から。
「16」 貴方は、だんまりを決め込まれたようですね。無理もない
でしょう。あれだけ非をあげつらわれたら、完膚なきまでやられたら、詫びる、居直るのど
ちらかです。
後者をお採りになったわけですか。もともと私の予測では、グーの音も出ない貴方がやむなくそういう態度をとる確率が95%と出ていました。己の落ち度に
かかわることはすべて棚に挙げ、相手を無視するふりをして、「女房まで愚弄した」ことだけをひたすら強調し、誰かの義憤を誘う手段こそ、ぶざまな貴方の採
りうる最良の選択肢だからです。
そのほか、一種高踏的な立場を貫き、相手を黙殺することで「格」の違いを印象付けるテクニックもありますが、頭の中を洗いざらい喋る貴方の力量からする
と、明らかに無理です。
いずれにせよ、いつまで沈黙が持続しますか。「主人には読ませない」というサル芝居もボロが出たようですが。
「17」 (続けて=) さてそこで、次のような対処を考えまし
た。「縁無き衆生は度し難し」という尊い言い伝えもございます。諭してわからなければ諦め
る、というのが私のポリシーです。かくて本日をもちまして、姻戚関係を解消
させていただきます。
「18」 (続けて=) 恋愛結婚ならいざ知らず、見合いで結ば
れた嫁の、人並みの最低限もできない実家と、しかも不快な口だけ出し密かに離婚を望むような
義父と、泣いて懇願する娘を撥ね除ける冷血動物と、孫の生活よりアルコール代を優先するような欠陥人間と、お付き合いを継続する意志も希望もございませ
ん。「お前は身内でない」と貴方に言われる先に、こちらから身内を願い下げいたします。近日中に同様な主旨の書状が夏生 (なつみ)からも届く筈です。
* 「恋愛結婚ならいざ知らず、見合いで結ばれた嫁の、人並みの最低限もできない実家」という物言いに、内村が、この見合結婚から何を期待していたか明
白です。金銭と住宅を主とした「定期的」な「援助」です。それも「学者」だからという理由です。援助しないのなら「姻戚解消」です。
むろん娘はそんなバカげた書状など寄越しません。
親よりも、内村や息子たちとの生活をとりなさいと、板挟みの苦から手を放してやり、娘や孫とも余儀なく交通を諦める気になった一事でも、娘の離婚を
望んでいた私でないのは明白でしょう。
娘には夫や子との暮らしは捨てられない。そこで内村に代わって、娘が、べつの手紙を寄越しまし た。
内容はこうです。
夫内村の「暴発・烈(劣)悪」は歴然としています。でも、それにはどうか目をつぶって、奥野家の西棟(=老母の病間が階下にあり、息子春生が二階に
おり、私の仕事部屋もあります。)へ、内村竹司と家族全員を迎えて、家賃なしで使わせて欲しいという提案です。弟春生(はるき)には家を出てもらいた
いという希望です。
そればかりか、その際、舅の私奥野から婿の内村へ、「従来の非礼」を詫びて、どうか揃って奥野の家へ来て下さいと「申し出て欲しい」という、なんと
も仰天する文面でした。
むろん物理的に収容の余地はなく、まして、内村の無体な言い掛かりの真っ最中です。平安な気持ちでどう暮らせるワケもなく、それでは小説が書けませ
ん。妻と春生(はるき)と相談の結果、断りま した。
内村の申し出には背景がありました。彼の失業とブラブラの日常が、当の内村家のお母さんや妹さんからも責められ、内村は参っていたのです。家を出る
には金がない。妻は妊娠中。
あげく夏生のそんな手紙となりました。しきりに内村の「文面」に「アパート」の「住宅」のと出て来たワケは、この辺にあったのでした。夏生の苦衷は
察しましたが、これは断るしかありません、地所三百坪の内村とちがい事実我が家は立錐の余地もなく不可能、物理的に。心理的にも。それを内村は「冷
血動物」と非難しているのです。
「19」 (続けて=) もはや、ご不幸でもなければお会いする
機会もないでしょう。せいぜい身内をしっかりかこって、(心理学ではこれを幼さの現われ、一
種の集団自慰行為とみなします)、お健やかにお暮らしくださいませ。京都風味の吝嗇と、閉まりの悪い口舌で身を滅ぼさぬよう、ただそれだけを衷心よりご案
じ申し上げます。
なお、これまでの御交誼に感謝し、拙筆「お付き合い読本」を贈呈させていただきました。先の二通の手紙とともに、ご高覧願えれば幸甚です。
* 娘夏生が、二人の我が子とともに、一緒に生きて行く男なのです。夫婦として娘が幸せであってくれるように、寒い気持ちで、祈るしかありませんでし
た。
返事はしませんでした。関わり合うだけで汚れる気がしました。
* 内村竹司著の『お付き合い読本――常識編』から。
か カネと口 古今東西、口を出すが金は出さない人間ほどケムっ
たがられているものはなかろう。東京では、金を出すが口はださぬのが理想とされてい
る。
* 笑止にも、「金を出して」当然のように「口も出した」あげく、働かない息子は家を出て行けと実の母親にもやられ、金もひっこめられていたのが、当
の内村竹司でした。「理想」と程遠い「リベラルな環境?」のようですが、尻隠さずとはこれでしょう。
せ 責任転嫁 人の道に外れているので、こういう行動を採らない
よう自重されたい。ヒデキでなく「不出来」と異名をとるある作家は、自分の非を全部棚
に挙げて、喧嘩の仲裁に入った娘に「相手と腹を割って話せる機会を作らなかった御前が悪い」と八つ当たりした。この娘はすでに嫁いでいたので、まさに責任
転「嫁」である。手前の落ち度を素直に謝れないタイプが、この手を常用する。
* 駄洒落もできますという調子です。ここにいう「非」や「落ち度」とは何か。つまり「黙って金をくれない」です。子供もあり妻の御腹にも子のある働
き盛りの男が、「家でブラブラ」しながら「嫁の親」から厚顔かつ無道に金をせびる気でいる、それこそ「責任転嫁」も極まれりというべきでしょ う。
つ つわり きわめて厄介な代物。妊娠中、とくにつわりが続く
と、夫婦の仲もギスギスしがち。統計ではこの期間に夫が浮気したという例も多い。あまり
ひどければ、実家(さと)に籠ることが肝要であろう。嘔吐する姿を最愛の夫にみられずに済むし、症状について気軽に相談できる両親がいる。出産の際も同様
だ。ただ最近は住宅事情などのため、隣に借りて貰ったアパートに里帰りする嫁もいる。肉親が近くにいれば問題はなかろう。
* 浮気の話は、知性の無さ、品の無さを露わにし、内村の人物を表しています。いやなことは他人任せ。これは「夫婦愛」ではなく「夫(=竹司)の身勝
手」です。
む 婿と舅 「嫁と姑」とは違って、本来は仲が好く、一献交えて
気楽に語り合える。ただ舅がアル中だったり、嫁を溺愛していたり、婿の能力をやっかん
でいたりすると、うまくいかない。ことに舅が婿に逐一干渉したり、婿を軍門に下さねば気が済まない場合、一挙に摩擦が高ずる。ただ結婚が恋愛なら、それ位
は婿がじっと我慢すればよい。
* よほど「見合い結婚」に見返りを求めていたわけです。竹司に夏生(なつみ)への愛や責任が感じられないと夏生の母が終始嘆くのも当然です。竹司は
「一献交え」て面白い相手でもなし、その気もない。うじうじと腹のなかでこういう僻(ひが)んだことを思いながらつくり笑いしていたかと思いますと、
被害心ばかりの情けない男です。私は「アル中」どころか、仕事に入れば何ヶ月でも飲まずに平気で済まします。
それより、「結婚が恋愛(結婚)なら、それ位は婿がじっと我慢すればよい」とは、何を考えていますやら。「結婚」も「恋愛」も何も分かってない子供
の言い草です。
「婿の能力をやっかんで」には、嗤えました。
よ 嫁と姑 古来より険悪な間柄の象徴。暮らしの流儀がまったく
違うので、つとめて一つ屋根の下に置かないようにするのが賢明。とくに夫が留守がちで
あったり、夫の海外赴任や出張が頻繁だったりすると、関係は悪化しがち。夫の長期不在中は、嫁と姑が二人だけにならないよう、実家に帰るなどの特別の措置
が不可欠であろう。
り 離婚 娘の婿をこころよく思わない時、それとなく離婚するよ
うに仕向けるのがよい。方法としては、若い二人にはビタ一文援助しない、つわりや出産
でも娘を実家に引き取らない、生活の困窮は挙げて旦那の無能のせいにする、婿殿に時たま「おまえは身内でない」と暴言を吐く、などがある。
ただし、これらの手段に訴える際は、娘にまで軽蔑されるのを覚悟のこと。50も半ばを過ぎた自由業の0氏は、この目論見を婿に見破られ、墓穴を掘ってし
まった。くれぐれもご注意を。
* これが「精神の自律を貴ぶリベラルな教育環境に育ったこの私(=内村竹司)」の「謙虚で平穏」を語る言葉です。語るに落ち、無残なものです。言葉
は心の苗だと謂いますが、苗も根も腐っています。卒業させた早稲田大学も迷惑、竹司の父君も、さぞや泉下で恥じ入っておられましょう。
鬱憤、憤激という言葉を、奥野は抑制しかねた。冷静であることで、断念や諦念へ自分をいざなうのを、むしろ今は未だ拒みたかった。そういう解決に意義を
見出だせなかった。「執念深く」「復讐」と遺書に書かずにおれなかった『こころ』の「先生」の声を、奥野は聴いていた。
月皓き三井寺の境内に喪った子を追うてひびく「ジャーン・ボンモンモン」の鐘の音に、まだまだ奥野は己が煩悩を捨てようとしない意地を固めてきた。梅若
万紀夫演ずる母なる狂女を、いましばし狂わせたまま見ていたかった。だが、奥野は、能をみて泣いて帰ってきた。内村を許そうなど、けっして思わなかった。
その頃、たまたま近県の大学で田山花袋を講じている若い友人の頼まれものを、池袋まで手渡しに出ていった機会に、あらましは知っていてくれるのを幸い、
内村のこと、夏生(なつみ)や春生(はるき)のこと、要するに「こどもと私」の過去を、現在進行形であけすけに書いているのだよと、初めてそのF君に告げ
た。原稿疲れで青ぐろく顔をはらしたFは、一瞬きつい目をして、じっと奥野を見た、が、
「およしなさい」と即座に言った、「奥野秀樹を、汚してしまうかも知れない」
「そうかね。花袋先生からそれを言われちゃ困るが…。なまなましいと思うわけだね」
「なまのまま出す気でしょう。小説になりますかね」
「わたしの今までのものとは、そりゃ…ちがうね。もちろん一字一句気をつけて書いている。花鳥風月とはいかない。けど、動機はある。強い動機です」
「強すぎるでしょう。制御できるんですか」
「見てもらうしかないね。書きたいんだよ。教授をしてた四年間、ずっと書きたかった。やめたら、すぐにと思ってた。私怨や私憤の文学が、これまでに有っ
た無かったは問題じゃない。私怨や私憤だけで書くのでもない。『渦中』の「私」を、煮つめて書いてみたいんだよ。奥野の名をけがすなんてこたぁ、これっぽ
ちも考えない。考えたくない。そんなことを考え考えしてきたかも知れないこれまでの凹んだ自分と、ちがう自分を書きたい。今だから書けるんですよ」
「まったくの私小説ですね、すると」
「そんな分類は、問題じゃない」
「夏生さんはめちゃくちゃ傷つきますよ。春生さんも。奥さんだって。いいんですか」
夏生より三つ四つ年かさのFは、夏生とも二度や三度はふたりでお茶をのんだ仲だ。
「傷ついて、……いいじゃないか。もっとよく生きて行ける…」ならばと、奥野は言いたい。
「奥野さんはそれでいいでしょう。だけど夏生さんたちは傷つくんじゃない。傷つけ…られるのですからね」と、F君、冷酷なほど低い声で突き放した。
しまった…話すんじゃなかった。奥野は不自然に話題をよそへもって行きながら、突然竹取物語というのは、娘に死なれた夫婦者の思いついた創作であったか
もしれない気がした。
任地で幼い愛娘に死なれてきた、あの土佐日記の貫之が、もし若い日に竹取物語も書いてたりすれば、
「これは、きみ、すごいがね」と奥野は声をはしゃがせた。F君は、へんに痛ましそうに奥野の顔をぎょろぎょろと見るだけだった。
源氏の「絵合」には、詞を貫之の書いた竹取の翁の絵が出てくるじゃないのーー。奥野はだが口をとじ、つくねんとして家に帰った。
R氏からの反応はなかった。なくてよかった。それどころか直かに何かを言ってこられれば、奥野は、ものが言えそうになかった。
この暑さだもの、避暑で留守かもしれないしと想っていた。
八月十八日(日) 晴れ猛暑
* オリンピック以来、というより夜更かしに障りがなくなった四月以来、夜と昼とが転倒してしまった。このところDさんの『日本文学通史』の近・現代編
を
一昼夜に一冊ずつ、もう四冊読んだ。徹夜も続いた。午前中に寝ることも、そのまま寝ないでしまうこともある。
* D氏とわたしとの作品の評価が、よく似ている。もともと氏は鏡花、荷風、潤一郎、川端、三島などという系統、つまりわたしの親しんで来た系統の作家
が
好きである。日本の文学ではむしろ主流でなく、主流から離れたところでそそり立ってきた作家たちである。そういう人達の作品でも、当然傑作とそうでないの
とがあるが、その点でもしばしばこの著者の好みは、わたしの好みに重なっている。その親しさでどんどん読んでゆける。
もっとも、こういう記述史のこととて、大まかで、かい撫でである。十分に精しい章もある。
* こんなことは、かつて書いたことがない。書いておいていいだろう。
* 藤子との性は、去年に一、二度もなく、今年も同じ。倶に還暦では自然とも言える。
藤子は、もう十年も以前に、夫であるわたしが性に淡白なのだと思いこみ、「助かるわ」と口にしたことがある。夫婦のあいだに横たわる、これは大きな誤解
であった。
性は、夫婦の人生にせいぜい15パーセント程度より以上の比重を占めてはならないが、あまりに少ないと人間が内側から壊れかねないことを、藤子は知らな
いか、知っていても気が付かぬフリをしてきた。藤子のは、そんな性理上のことでなく、十数年来、心臓病がわざわいしたのである。出血性素因も、もともと警
戒すべき藤子の痼疾だった。
妊娠のおそれが比較的無くなり夫婦の性がよほどよく満たされた、まさにその頃から心臓への負荷が問題になった。
齢六十の今しも、必ずしも淡白でなんかないわたしに、藤子は、だが、気付いていないか、そのフリをしたまま、忘れていたいと望んでいるらしい、無理もな
い。
* 医療に頼ったこともあったが、ホルモン治療などは危険をはらみ、わたしはそれを続行させなかった。生きていてもらわねば困る。藤子は、妻として、共
同
生活者として、一番安らかに幸せでいられる良き伴侶、良き身内であり、心から愛している。
* ただ大きな懸念が、少なくも一つ有る。いわゆる性的に触れなくなってしまうと、逆に、ふだん、はだかを見てしまうことに、思わず肌の触れることに、
夫
婦でいながら不条理な恥じらいを感じ、ふつうの抱擁や接吻にも思わず双方で身を退いてしまいかねない。これは、「からだ」という羞恥心や不潔感を誘いやす
い肉身の拒避に直行し、危い徴候だ、互いに老いて、手をとり足をとり、労り合わねばならぬ時が来ているのだから。
八月二十三日(金) 晴 猛暑。
* 十月末に、衛星テレビの五時間生放映の「短歌大会」に、ゲスト選者で出てくれと言ってきた。千五百ほどのファックス応募の歌から、二十首ほど選び、
優
秀作を二首選ぶらしい。おもしろそうだ。
* 九月は藤村学会講演、十月に生テレビ、十一月にはアジア太平洋ペン会議での演説。気忙しい。気ぜわしい秋の皮切りに、九月五日には京都で対談。美術
運
送の話を聞いてくる。できれば、その前に「塔の本」の通算第46巻を読者へ発送して行きたい、が。
八月二十五日(日) 晴 暑
* 晩、入浴中に、R夫人から電話、藤子が応答。内村のことで。
だいぶん長く話していた。わたしもお終いの方で、電話口に出た。しばらく奥さんと話した。
「山根教授はどういう対応をされたのですか」という点が、いちばんの話題になった。
R氏は、新聞でも大きく報道されていた或る思想家の急の葬儀のために、避暑先から帰って、そっちの方に詰めておられ、奥さんが代わりに電話を下さった。
死んだ人と死なれたR氏との親交はわたしもよそながら知っていた。折りも折りで、恐縮した。
* もう、こうなってしまっている以上、例の「あとがき」ではやはり舌足らずなので、藤子のお礼の手紙に添えて、当時「暴発」ものの控えを、手を加えず
に
送らせてもらった。
*
奥様 ご多用のさなかに、ご親切なお電話を頂戴し、恐縮しております。それで も、なにか、 とてもほっとして胸のつかえがすこしのいた心地もしまし
た、奥野も、 同じように申しながら、 痛く恐縮しております。
中途半端な、しかも、ちょっと角度を変えての、それも、止むにやまれず書いたと思われます「あ とがき」で、御清適を煩わせましたこと、幾重にもお恥
ずかしくまた申し訳なく存じております。
あまりの中途半端でかえってご不審もございましたことでしょう。
問題の事件が生じまして、約二年ちかく静観しておりましたが、ちょっとした電話一つ掛けるにも 気をつかうばかりで一向よくなる気配も無く、内村は何
かと言うと離婚を口にし、娘はそれは避けた いしということで、致し方なく、「姻戚関係を断つ」という内村の申し出でを受け、「義絶」という結 論を奥野
は出したのでございました。
ここに、厚かましく御覧に入れますものは、その折に、万一、だれかに事情を聞かれたなら、即座 にお見せ出来るよう奥野が用意しておいたもので、文字
どおり、こういう順序で事は起きて、事は破 れたのでございます。
中途半端なままでは、かえっていやな 気分をお残しになると、勝手なことを思いましたが、こん なものは見るも無残、目も汚れると、奥野も恥じて嘆い
ております。ご処分いただいてやむを得ない と存じますが、ご厚意にいま一度甘えさせていただき、奥様にまでお届けいたしますことを、どうぞ お許しくだ
さいませ。
けっして、こうして頂ければ、などと、もうそのような希望をもつこと自体が恥ずかしうございま す。お胸のうちにお納め下さいまして、もしももしも、
万一の機会があれば、奥野も申しておりまし たようですが、内村に、「あまり褒められた話ではないと思うよ」とだけでも、ご忠告願えればと、わ たくし
も、切にお願いいたしとう存じます。
たいへんな時期に、申し訳ないご面倒をおかけ致しました。お詫び申し上げ、この残暑をお大切に お過ごし遊ばしますよう、お祈り申し上げます。 奥
野 藤子
*
* 手元に用意の、「内村竹司の暴発の事 一・二」「経過一束」他に少々を添えた。恥ずかしいが、ま、仕方がない。嗤うのも嗤われるのも簡単だ、が、こ
う
いう運命…と思う。うつつは夢よ。
一七
* 不幸な暴発(二)
* 平成三年九月九日着、内村竹司の奥野藤子・春生宛ての手紙?から。
「20」 ・・・という次第です。秀樹さんと姻戚関係を解消するこ
ととなりました。
「21」 先の手紙に効き目がないとすると、かれ(=奥野秀樹)の
意固地な態度を改めさせる方法として、唯一浮かぶのは「風刺」です。
もし大泉に良識を代弁できるどなたかがおられましたら、もし秀樹さんの「無神経の恒常化」「非常識の常識化」に染まっていないどなたかがおられました
ら、どうぞ横っ面を張り倒してでも、かれの目を覚ましてやってください。
「22」 (続けて=) 春生(はるき)君!。今回の件で、秀樹
さんと連帯を深めるのも一案かも知れませんが、よくよく考えてみて下さい。家族とは本来、重
要な意志決定を「合議」で行うものです。秀樹さんの考えだけが大泉の意志ではないはずです。
* 我が家ほど家族が議論し話し合い、そして泣いたり笑ったりしてきた家族は、少ないでしょう。私秀樹の出版社を退職の時は、夏生(なつみ)はまだ小
さかったけれど、きちんと私から意見を聞いたものです。進学についても、京都の年寄りを引き取るにも、改築や改装にすら、だいたい何ごとでも 話し合い
ます。
いちばん家族で話し合ったのが、実は夏生の結婚でした。竹司の父内村遶氏の病重く、たいへんスリリングな状況でした。それでも結局、夏生は、山根教
授ご紹介の見合結婚に踏み切ったのでした。
また今度の「暴発」一件ででも、弟の春生(はるき)は、終始、いい相談相手として家族の「合議」に加わっています。我が家は相当な「話し合い」家族
なのです。私が自分で決めるのは自分の仕事のことで、これは譲っていません。仕事がしにくいと判断すれば協力してもらいます、たとえ娘や孫でも。我が
家では当然の選択なのです。妻子はよく協力してくれました。
「23」 (続けて春生へ=) 収入をより多く得ている長者だけ
が威張る時代ではもはやありません。お母様に自分の意志で処分できる現金はいくらあります
か? 一七00円の買い物を二000円と家計簿に記して、秀樹さんの目を盗まなければ娘や孫に援助できないお母様の惨めさを、春生君なら理解できるでしょ
う。妻でさえ禁治産者扱いされる家父長の専制を許してはいけません。
* 噴飯物(ふんぱんもの)とはこれでしょう。我が家の歴史では、給料袋を私が開けたことは只の一度もなく、また文筆で立って以来、私の全収入の振り
込まれる銀行の預金通帳もカードも妻が持っていて、家計にいくら使われているかなど、私は知らないのです。どこからこんな妄想が湧くかと、思わず皆で
笑ってしまいました。妻には相当に早い時期から、クレジットのカードが渡してあり、妻は買い物にも食事や交際にも、自由に用いています。夏生らもかなり
の恩恵を被っているのを気付いていないで、こういう珍妙な演説をぶつのは、病気なのではないかと疑ってしまいます。
この一つをとっても事実無根の思い込みや中傷を満載した内村竹司の手紙だと分かります。
そして次の手紙にも同じ『お付き合い読本』が付着しています。
次の此の内村の手紙は、私奥野から夏生へ書いた長文の手紙を、途中で遮断し、一存で「未開封」のまま彼が返送してきた中に、添えられていました。私
から娘への手紙がどんなものであったかも、あとで、見ていただきます。先ず内村の。
* 平成五年九月一二日着の、内村竹司の手紙から。
「24」 (夏生に送られて来たのが=) どんな内容の手紙か知れませんが、これ以上夏生をいじめるのは止めて下さい。開封せずに(竹司の手で=)お
返しし
ます。もう妊婦をいじめるのもそれくらいにしたらどうですか。
それと貴方も女々しいですね。義絶を言い渡された相手にアプローチするなんて。男らしく没交渉に耐えなさい。
手紙の内容は二通りに予測できます。
1・自分の非を詫び、謝る。3/100%
2・過去の行為の言い訳や正当化、旦那の悪口。97/100%
1の場合・・・言葉はいいですから、頭を丸めて詫びにくるなど態度で示しなさい。
2の場合・・・胎教に悪いですから夏生には読ませません。貴方は今頃それを書いたことを深く後悔しているでしょうから、温情で特別にお返しします。
いずれにせよ謹んで返送いたします。繰り返します。ひとたび自分で「身内ではない」と言ったからには、没交渉に雄々しく耐えなさい。それが京男の生きる
道です。
* 「礼も非礼もあるものか」という無見当な手紙です。しかも、夏生に宛てた「親展」の手紙を独断で侵しています。夏生は娘であり、なにより、自分の
親と「義絶」するなど一言も言って来てはいません。父の手紙は夏生の手に届く前に遮断されたのです。こういう「非礼」「勝手」が、何度も続きました。
たいした自称「リベラリスト」です。
夏生宛ての(夏生に届かなかった)私の手紙をすこし御覧になって下さい。
* 平成三年九月六日夜に書かれた、父奥野から娘内村夏生への手紙
待っていたが、来なかったね。父さんも母さんも、待っていた。めったに電話をしない春生も、二度も三度も、夏生(なつみ)はと出先から訊ねてきた。
顔をみて話せばいろいろと、少なくもおまえとは分かりあえる所も出てこようと、みんなで願っていたが。
あの最初の竹司の手紙を、母さんが途中カットの体(てい)にして返事したのが、母さんらしい配慮であったことを、竹司は、分からなかったのだろう
か。わたしが読めば修復の難しいたいへんな葛藤になる。打開の道をつけるために衝突を避けようと母さんはした。わたしも賛成した。人間逆上するくら
いは誰にも有ることだし、元へもどす常識・良識の回復力もふつう持ち合わせている。
それなのに竹司は、愚かにも、また書いてきた。
竹司には、ことのコジレも眼中になく、修復の意志は無いらしい。それは前便でも言ったように、仕方がない。竹司が望まないのでは仕方がない、構わな
い。しかしおまえはわたし達の一人娘であり、信哉は孫の一人。拒むわけが無い。
しかし竹司とは、このままでは、どうにもならない。相手にしない。あやまる気になればあやまりの手紙をキチンと書かせなさい。気持ちの修復は簡単に
行くまいが、それでも時間という奇しき治 癒力ははたらきもしよう。
言っておくがおまえたちが結婚したとき、竹司に言ったことがある。わたしは好むと好まざるにかかわらず、亡くなった内村氏の分もいっしょに、時に
は苦いことも言うだろう。おおけない話ではあるが、二人めの父の言うことと思い、付き合ってもらいたいと。
竹司はわたしの目には、雲のようにいる学校秀才の一人に過ぎず、前途は不明の一青年としか見えていなかった。彼ていどの秀才なら、その辺の会社にも
学校にも藝術の世界にもいくらでも、いる。そういう相対化された自己認識が竹司には乏しい。無い。だから謙虚でなく尊大で、まるで「父」世代とも対等
のような気でいる。会社へ入ってきたその日から、先輩や役員を「あんた」呼ばわりして得意がっていた全共闘世代の子供たちの域に、今もってうろうろして
いる。知らず知らずこんな態度をしていては、世間でもさぞ苦々しく無徳に感じている人が多かろうなと、前途を危ぶんだものだ。
竹司が個人の技倆で生きて行くならそれでもいいと言う気もない。しかし人交わりの世界でしか生きられないのなら、根から生き方を改めないと、今しも
苦汁をのんでいる難航人事のように、道を阻もうとする勢力に何度も涙にくれるだろう、己の非も悟らないままに。
「結婚」したのはおまえたちであり、しかもおまえは「内村家」に入った。おまえは内村家の配慮下に入り、そこで共に生きる立場になった。結婚生活の責
任はそういう「内村夫妻」が自立して果たすべきなので、なし崩しにいつもいつまでも親兄弟に甘えていていいものでは無い。援助などということは、情に
おいてすることで、婿が、舅姑に強迫がましく要求できることではない。
只の一度でも竹司から援助を頼むと頼まれたことが、無い。頼まれたのを断ったという事実も一度も無かったことをハッキリ言っておくよ。そして今度な
ども、言いやすいように誘いの水を 向けても断ったのは竹司であり、よほど断ったのが本音と食い違っていたかして、手紙でいきなり 暴発してきた。そ
のうえで、察してくれていいでは無いかと、途方もない要求を常識の名において言って来た。親の頭に土足をあげたまま、家を金を寄越せ、世間のそれが常
識だ、統計をみせてやろうかと。
言っておくが、わたしはお前の父であり、竹司はおまえの夫です。わたしは竹司とは年齢も一世代高く、故内村遶氏と並んでいる。存命であれば、わたし
は、内村氏の僚友であった人たちと現に付き合っているのと同じように、付き合っていただろう。内村氏が冥土で、竹司がわたしや母さんにし たり言った
りしている「内容」や「言葉」の低さ下劣さを、どんなに恥ずかしく思われているかと、気の毒に思います。
なにもかも、を、理性的にも心情としても大切にしたいと願っています。大事になさい。 父
ここで、この手紙が「返事」の体をなしている理由の、この前に届いていた夏生からの手紙を引い ておきます。一連の事情を、父と夫との中間の立場から
証言していて、これに信を措くしか、水掛け 論に陥る愚を避けえないと思うからです。
* 平成三年九月三日着の、内村夏生の奥野両親への手紙
「25」 (内村末妹が就職できない兄夫婦への不満から家を出て自
立したこと、内村の姑から息子宛ての生活援助が停止され、同居の光熱費も負担せよと言われ
ていること等の、内村家内の葛藤と現況に大略触れたあと、=) ちなみに国民年金、国民健康保険はすでに減免措置を受け、信哉の育児手当(年1万です
が)
も申請しました。
まず私は、もう金輪際相模原(=の内村宅)には(姑・小姑らと一緒に=)住んでいたくありませんし、また、経済状態の変化からそれは不可能にもなりつつ
あります。
* 内村夫婦には、自分たち二人が、同時に、同じに、内村・奥野両家の一員だという家庭感覚があります。「ですから、私たちに対する、特に経済的な接
し方で、婚家、里方という分類は捨てて下さい」と言うわけです。こんな考え方がいまは普通なのでしょうか。嫁がせた娘はやはりもう内村家の者、親類の
一軒ではあるが、やはり嫁いだ先に骨をうずめる意味でも、私どもは、娘の言い分とはべつの考えでいます。もし息子が結婚すれば、尋常に彼の妻はわれわれ
の家族だと思いますが、同じ意味で内村は「他家の戸主」です。夏生も、娘ではあるが「内村」夏生として、内村家の主婦たる者と思います。
しかしこの食い違いが、夏生に、次ぎのように言わせます。喫驚しました。
「26」 さて私は先日も少し申しました通り、この家(=内村宅)
を出るための緊急の方便として、万やむをえず、「依頼心」をもって、奥野の西家を借(=
貸)して下さるよう懇願いたします。その条件は以下の通りです。
■ 家賃はお払いできません。(できれば光熱費も。)
■ 設備は現状のままでけっこうです。
■ 春生(はるき)氏(=弟)には申し訳ありませんが、その間、東家(=奥野夫婦の生活の場ならびに書庫・事務所・仕事場)へ御同居願いたいと思
います。
■ 私(=夏生)が家庭教師をやめるのに相当する現金収入の道を開いていただきたいと思います。
■ 父上の部屋(=西家にある書斎・書庫)はそのままでけっこうです。
■ たか様(=骨折入院中の老祖母)帰宅の折は、お世話いたします。
■ 大型の家財は、茨城へ移るまで相模原(=内村宅)に置きますので、衣類・書籍の移動に多少の(現金=)支援を頂ければ幸いです。
■ 基本的な家庭生活は東西分離で行います。(母藤子の消耗を来さぬよう=)信哉の世話等は極力お願いしません。
■ 生活クラブ(=生協)の資材を実費でわけて頂きたい。
* 「虫のいい申し出であることは百も承知です」とあるが、娘や孫のこと。これだけなら(スペース不足で完全に駄目なのですが、)心情的には問題はない
のでした。「これらのお願いの基本にあるのは」と書いて夏生は、要するに現在内村の母から受けているらしい若干の「支援」から自由になりたい「切なる
願い」だと言うのです。(但し「春生氏」などの物言いには、内村自身の要求をほぼ口写しに、仕方なく夏生(なつみ)が伝えている印象があります。いえ、
この手紙のこの辺り、内村自身の作文かとすら読めてきます。)
「27」 (現に住む=) 家と、月3万の支援を(姑から=)
受けて来たということが、私たち夫婦をどれだけ束縛してきたでしょう。挙式以来
「財産ねらいの女」という不当なレッテルをはられてきた私(=夏生)としては、事のゼヒを論争するより、(現在の住まいから=)離脱する方を望むのです。
同じ束縛なら私は、奥野から受ける方を選ばざるを得ません。
* 金銭といわず住居といわず、一度援助を受ければ自然心情的に「束縛」された気がするものです。当然です。だから私はつとめて援助という干渉はしな
い。真の親切は、無意味に金を出さず、むし
ろ口(いい言葉)を出す(交わす)ことだと、吝嗇でも何でもなく、当たり前に考えてきました。金もなし、金
を出して口は出さぬことなど凡俗に出来る真似ではないと敢えて避けてきました。内村の足元で、彼自身血縁からの援助の束縛に喘いで、家からの脱出をはか
らざるをえない事情があったのです。実の親や妹にさえ働こうとしないブラブラの息子=兄の竹司は、突き放されていた。
「28」 (続けて=) 私(=夏生)は、しかし内村竹司を切り
(=捨て)たいわけではありません。ですから、私たち母子2人半ではなく、家族4人をまとめ
て引き受けて頂きたいのです。
* 内村は何を考えていたのでしょう。あれほど私たちへ暴言と無礼とを高慢に言い散らかしながら、上の条件で、本気で大泉の我が家へ「引き受け」ても
らいに来る、来れると思っていたのでしょうか。
夏生はこう言います。「彼(=内村)の主張する『実家の支援をうけた学者』は、大方妻の実家に住むという立場を受け入れているわけですから、竹司さ
んも(=大泉行きには)同意すると思います」 と。
内村の家の、四分の一だか五分の一だかの狭い地所に建った奥野家の二棟です。そもそも西棟は老母の持ち家です。たとえ隣同士といえど内村のような男
と、鼻も目もつき合わせてでは、心静かな創作や執筆は私には出来ません。夏生には可哀相だが、断るしかないのでした。
夏生の懇願は、まだ続きました。
「29」 西家の件につき、お受け頂ける折には、父上の発案とし
て、竹司宛お便りを下さい。その折、誠に恐縮ですが、左のような文面にて短めにお願いいたし
ます。(=要するに舅から婿へ、成行きに遺憾の意を表して軽く頭をさげて欲しいと。)
◎ 生活大変とのこと。夏生の健康も気がかり。また母上も大変であろう。大泉の西家に来て住むつもりはないか。家賃はいらない。夏生も希望通り母親の
下で出産できるだろう。茨城(=の大学)へ移るまでのことだから、身の回りの品だけで気軽に移って来てよい。決心がついたら連絡をくれればうれしい。
夏生が動きやすい秋のうちに決めてくれたまえ。
* 夏生の必死なことだけが、分かりました。それにしては内村の「暴発」に、私も家族もあまりに傷ついていました。母子二人半ならまだ女同士妻と入れ
混ぜが利きますが、夫婦親子を収容の空間はどこを探しても無く、それなくとも内村竹司と準同居など、妻も息子も「何を考えてるんだ」と、首を横にふり
ました。
夏生から電話がきて、この件は断りました。しかし話しには来ないかと誘いました。待ちましたが、来なくて、そして前出の長い手紙を送りますと、内村
の独断で開封もされずに返送されて来て、加えて暴言のラッシュでした。
夏生からの手紙は、まだ他に、たいへん大事な内容をもっていました。
内村の手紙全部が「不幸な暴発」だったこと、その表現たるや「烈(=劣)悪」なことを妻である夏生が認めていたのも、その一つです。舅と婿と男二人の
性格や常識の差を、「異なる信仰」者のそれのように説こうとしていたのも、その一つでした。
より大事なのは「経済」や「援助」についての実感でした。
「30」 私(=夏生)の金銭感覚は、人生観以上に奥野の血をつ
いでいると言えます。ですから竹司さんを弁護するなどということは苦痛であり、したくもな
いことです。しかし、困っているのは彼だけでなく、私であり信哉であり、もう一人の(お腹のなかの=)子供です。私はこれまで、彼(=内村)の、どん底で
の力を期待して耐えてきましたが、今回のような「不幸な暴発」の結果、それを待ってはいられない立場となりました。
これから書くことは、彼の立場を支持したり、正当化したり、または救援したりするためではなく、私と二人の子供の保身であり、またそのために必要不可欠
な、「夫」「父」としての竹司さんを死守したい思いからのものであるということを、まずご理解下さい。
* 核家族として「夫婦・親子」を安定させ確立したい気持ちが痛いように受け取れます。たしかに「不幸な暴発」であったわけで、夏生も書いていますよ
うに、「生活は大変か」と訊かれて「はい、大変です、助けて下さい」と「一言言えばすんだものを」内村は「(口にだして=)言えない」のです。 言えな
いまま、じれて先に「暴発」したのでした。口で言えないなら、せめて冷静に手紙に書き、妻子のためにも一時の援助を率直に頼めばいいのでした。「学者を
婿にした嫁の実家は」とか、「統計を見せてやる」とか、あげく問題外の「身内」問題へ話を逸らせて「暴発」の名分を工作したわけですが、根本は「核家
族」として出て行ける住居が必要だったのです。しかし出て行くにも金がなかった。内村の手紙が、しきりと「アパート」等の「提供」を要求していた文面に
繋がります。
話合い無しには、だが、私どもには内情が分からない。聞いても話さない。内村の父親がわりの甘木与之介氏も、内村が金に困る、家に困るなんてことは
「絶対にないですよ」、(だから竹司が援助など望むはずがない=)と請けあう始末でしたが、事実はこの有様だったのです。内村の幼稚で無思慮な「不幸
な暴発」が先行していましたので、物理的にも心理的にもいかに夏生の「願い」とはいえ、内村の非礼な鉄面皮は受入れようがないのでした。
「31」 竹司さんには、奥野家(=の感覚)からみれば、2つの
欠点があります。
まず、親切の手は相手から第一にさしのべられるべきであり、しかるのちにこちらが返す、という中華思想。
また、その親切の度を金額で換算する、という習慣です。
じつに不思議ではありますが、彼の「計算」は門口でだけ働くのです。
* 「粋」な仕方で援助をするのが理想の「お付き合い」だと内村は言い、翻訳すれば、「察して金を出してくれるのが常識、出さぬは非常識」であり、率
先して「女」が気をつかうべきなのに、奥野の妻は「禁治産者」なみでそれが出来ないと言う。
たしかに「じつに不思議な」「中華思想」です。親切を金で「換算するな」が、親として子におしえた我が奥野の家の「金銭感覚」でした。夏生(なつ
み)の苦労がよく分かります。
経済的に困窮して援助を頼みたいのに、「頼む」ということが出来ない。夏生の言い方だと「赤裸々に」なれない。相手が先ず親切に察して手を「さしの
べ」る「べき」だと考えている気の毒な男でした。生得のそれが内村の「中華思想」でした。しかし「大丈夫です」と、出された手を払ったのも内村でし
た。
あとで思えば「黙って寄越せ」でした。ところが手を払われた私どもも、内村家の内情に、とんと疎かったのです。もともと頼まれもせぬ援助をおしつけ
る気も、毛頭もち合わせませんでした。
内村は暴発しました。無視されると、いきり立ち「毒づき」だしました。そのうち「姻戚解消」という事を考え出して、その理由に、私奥野がよく「身内
である」「身内でない」という話をするのに絡めて、おまえとは「身内でない」と言われたと同然だ、身内でないなら親戚ではない、だから「姻戚解消」だ
という屁理屈をこじつけて来たのです。内村は「身内」を、ひとえに家族・一族・親戚・姻戚という意味に取っていたのです。それが一般の語法ではあるので
す。よく知っています。
しかしながら、私、奥野秀樹の「身内」は、そういう意味で「ない」点に特色のある、いわば、創作の根の動機をなす一語でした。「奥野秀樹の身内観」
は相応に読者には知られていて、論文を書いてくれる研究者もあり、批評の課題にもなって来ました。夏生の表現を借りれば、いわば「魂の色の似た人」の
ことでした。家族とか姻戚とかいう普通の概念をむしろ安易に容認しない意味を付与された、本質の人交わりを意味した言葉でした。
また私の物言いでいえば、「身内」ではなかろうとも、親愛され尊敬される人はいくらもいて自然当然なのでした。内村の固い頭は、それが理解できな
かったか、はなから理解する気もなかったのでしょう。それでいて文句はつけたのです。
魂の色の似る似ないとは、どういう所でみるか。一例ですが、作品をはさんで深く人間的に交感できる「作者と、いい読者」といった「譬え」を、私は分
かり良く用いてきました。そうなると、例えば私の作品をまるで知らないし、知る気もない内村と私とでは、少なくも私からすれば「魂の色」の似通うわけ
のない間柄になります。しかしそれはものの譬えですから、そんな所ひとつに拘泥して、「親戚でないと言われた」「身内でないと言われた」と思いこむ方
が、子供っぽい滑稽な早合点でした。
夏生なら、夫の誤解は簡単に解いてやれたでしょうし、内村も、そんなに気になるなら私の本を読むなりすれば、少なくも私のいう「身内」の意味くらい
理解したでしょう。強いはしませんが、誤解して怒るくらいなら、身を寄せて見てみる聴いてみる舅への親切は、有って良かったでしょう。
『お付き合い読本』にも明らかに揶揄ないしことさら侮辱を与えるために、内村は、私が作家であることに「毒づいて」ています。もともと「教授」志望
の内村には「作家」などは眼中にない態度が見えていました。その挙句が、「身内」一語の誤解から「姻戚解消」となったわけで、わるいことに「身内でな
い」に力点を置いて「暴発」の口実にしようとすればするほど、より奇妙な袋道に内村は入りこみました。内村も最後には、すべて「誤解」であったと詫び、
誤解にもとづく「過剰反応」に出たのは「慙愧に耐えません」と、全然適切でない表現でしたが、FAXで伝えてきました。
しかしながら私どもの怒りは、不快は、失笑こそすれそこの「誤解」にあるのでなく、かりにも娘の夫、孫の父親が、「非礼も礼も」あるものかと下劣で
醜悪な言葉を吐きかけて来た無道にあるのでした。「言葉」を心の苗として私は生きてきました。「金を出すより口(いい言葉)を出せ(交わせ)」と考え
てきた人間です。「金」は、いざとなると「人を悪人に変える」と漱石に教わって以来の思いでした。親しければ親しいほど「金」の付き合いは御免でした。
金や援助の、また身内がどうしたの、は問題でないのです。礼に非ざれば視るなかれ、
礼に非ざれば聴(ゆる)すなかれ。私どもが内村の「非礼を受けぬ」「許さぬ」のは、その「言葉」と「心根」があまりヒドイからです。謝罪すべきは、そ
れなのです。
ですから、何が本当の原因で「暴発」したかを、内村自身の「文面」で炙り出しながら、どんな「ひどい言葉」に不快であったかも、同時に明かにしてみ
たのです。
最初にも申しましたが、ここに挙げた「内村竹司の言葉」は、可能なかぎり誤字までもそのまま内村自身の手紙から「文面」を写したものであり、それら
の「言葉」でどれほど痛く傷ついたかを分かっていただきたいと思いました。
われわれは、事の打開と和解のために、内村竹司の当然の「謝罪」を求めています。
「姻戚解消」の通告はもとより、内村当人のことも当初来、完全に黙殺し続けました。内村当人を一度たりと相手にしませんでした。
内村は、舅一人との「姻戚関係を解消」しただけだと、私の妻や息子に書いて寄越していましたが、やがて勝手に拡大されて行きました。個対個の考え方
でやれる人物なら、彼は、夏生あての私の手紙を、夏生の手から未然に奪うだけでも、恥ずべき行為でした。ルソーのモンテスキューのと振り回す親子二代
のじつに「教育学」「教育哲学」の徒が、無残にも「本だけから学問を得た」結果の、これぞ未熟な非常識そのものでしょう。
やがて内村は、妻夏生(なつみ)の蔵書から父の著書全部を、自分自身で大きく荷造りし、送り返してきました。娘からはすぐ電話があり「ごめん。保管
しておいて」と頼んできました。
来る冬のために私の妻が、祖母が、孫のために与えてあった新しいオーバーコートまで、父内村は自分で荷造りして突っ返して来ました。これが『エミー
ル』を読んで悔い改めなさいと舅に訓え得る人物の行為でしょうか。
さらには、娘や孫との手紙の往来が内村の手で妨害され、伝わらぬままになることが、頻々と起きて来ました。孫の信哉が祖母に書いた手紙の投函を、た
またま父親に頼むと、それは届きませんでした。こっちから出したものも、何度か、娘にも孫にも届かないという事が起きました。
信哉は父親の様子がおかしいと見はじめ、黙しがちになりました。母親からそう伝えてきました。
骨折で入院し急に衰弱してきた夏生の祖母を、夏生が、子供づれで見舞いに行く間際にも、内村は「離婚」を覚悟して行けと口走り、夏生らの足を引っ
張ったことも、夏生の口から、妻も私も聞かされています。その一方で夏生は大きなお腹をかかえて都心まで学習塾の先生をしに、長い電車を乗り継いでい
る始末でした。妻と一緒に新宿まで、私独りで代々木まで、娘の顔を見に出掛けたりしました。夏生は、パパたちが竹司の顔を立ててやり、黙って面倒をみて
やるしか、打開の道はもう無いと言うばかりでした。
彼は何をしていると聞くと、「家でぶらぶらしている」と言うのです。「少しは働け」と大学生の妹にまでやられていると言うのです。安易に、顔など立
ててやってはいけないと思いました。
そして、とうとう生まれた二人めの孫道哉に、会うことも、抱くことも、私の妻は出来ないでいます。
もうその頃内村は、茨城に(=講師にしてもらえずに=)「技官」で就職し、官舎に、親子四人で移っていました。しかし会えなかったのは遠いからでは
なく、二言目には「離婚」を口にされ、夏生にも動きようがなかった。
たったの一度でした、内村が旅行中に、弟春生(はるき)の車の迎えで、かろうじて母子三人で一晩だけ東京まで泊まりにきてくれましたが、内村には内
証でした。
私どもは、平成三年八月九月の一連の「暴発」「非礼」だけでなく、以後の二年間に、不当に肉親の情を傷付けられてきた、こうした心ない所行にも、
「謝罪」して欲しい。
一八
奥野は、いままた新ためて、数年前ただただ気持ちを鎮めたいばかりに誰にともなく書きに書き起こした愬えの文章を、不快な内村の手紙を、また夏生(なつ
み)の切羽詰まってほとんど捨て鉢な手紙を、つくづくと読み直していた。R氏夫妻がどう読まれるか、どう読まれようと無残に恥ずかしい代物(しろもの)で
しかなかったが、この臭い物に、やみくもに蓋して終わらせてはならぬという、「執念深い」ものに衝き動かされていた。
当時に纏めて「経過一束」と題しておいたものにも、奥野は、目をむけた。娘夏生が言い切った婿内村竹司の「不幸な暴発」が、順序を追い、まざまざと再現
されていた。
*平成三年(一九九一年)夏から初秋へ・経過一束*
六月 二七日 夏生・信哉、奥野家来泊。秀樹と夏生(なつみ)、銀座へ。食事・夏生のため買い物など。
七月 一日 夏生・信哉、内村家へ帰宅。
一○日 (奥野秀樹に都内の国立大学より専任教授就任の依頼と打診の電話が来る。)
一二日 信哉の電話で(戸外から?)夏生が妊娠したらしいと聞く。夏生は信哉に話させ、側に居た。藤子が応対。「めでたい
が、大変だな」と思う。
一三日 夏生の電話。妊娠のこと確認。藤子が応対。前回に懲りてつわりを案じる。
一九日 夏生へ発信(秀樹)。手書き。妊娠に対し、心して専一大切に、無事出産を、と。
二○日 夏生の電話。前便への感謝。
二四日 夏生電話。つわりの由、大泉へ休息に行きたいと。
二五日 夏生電話、明日、信哉と二人で行きたいと。(つわりひどいと聞き、前回時の例もあり、)安全上、竹司に送って来ても
らうように勧める。
二六日 内村親子来訪。竹司のみ帰宅。風邪気の由。出産等の内村側の対策等何の話も出ず。茨城の大学の方、就職難航につき説
明すこしあり。翌日夏生誕生日、31歳。
八月八日以前 内村竹司宛て発信(前出)。
八日 内村竹司に電話。つわりも、やや軽快しており、前便の趣旨をふんだ、ともあれ対策の為にも、一度迎えに来てやって欲
しい、と(藤子応対)。
明日、行くと。藤子に疲労あり。
九日 事情で、明日行くと内村の電話。奥野家では藤子の体調、依然、違和。
十日 内村竹司来訪。当方の事情(藤子不調、秀樹大きな仕事へ着手)あり、いったん夏生は帰すが、今後について、「経費等
の経済面はどうか」また就職もかなり難航の様子だが、こういう際は『道は開ける』(カーネギー)の説ではないが、(自分はいつもそう心掛けてきたが、)
「最悪の事態(不採用)も予測してかかる程の心用意をしつつ、『待つ』も含めいろいろに対処を」と
も求めた。親としては自然な思いであり、又、その時は、内村も普通に聞く様子だった。
出産については、産後はともあれ、幸いなことに現在夫婦とも在宅状態なのだから、協力して妊娠の安定期を過ごす方が
いい。それが自然なように思う、それでも、「ときどきは骨休め、気休めに奥野へ来ること、いっこう構わない」と勧める。もっとも奥野の夫婦とも、老人介護
をはじめいろんな面で楽隠居とは言えぬ事情、承知していて欲しいとも。
内村の三人、帰る。この日の対話内容は「前出」双方の手紙に在り。
八月 一二日 夏生の電話。「今、竹司が手紙を投函したようだ。どうも、むちゃくちゃなモノに想われる。受け取っても気を悪くせ
ず、忘れてくれ」と。まことに唐突な話。藤子が応対。
一四日 内村竹司の奥野秀樹宛て、第一便(前出)。藤子が読み、竹司宛て藤子が返信。
一五日 夏生の電話。内村家での母子・兄妹紛糾のことども。
一八日 竹司の手紙を「無かったことにして」と、夏生の電話。この先不安と。
一九日 藤子、夏生と信哉に手紙だす。控えは
ない。電話を掛けてきやすいようにテレホンカード入れる。
二○日 内村竹司、再度、奥野秀樹・藤子宛て、第二便(前出)。秀樹旅中、藤子開封せず翌日へ持ち越す。
二一日 藤子、内村の手紙を春生(はるき)に先ず読ませ、春生は母に「読むな」と示唆。帰宅の秀樹、読む。親子三人で事態を
協議。内村竹司の非礼・非常識には、一切黙殺を以てすると。
二三日 電話往来の便に、夏生へ予備の電話カードをまた何枚も送る。
二四日 夏生、信哉の電話あり。
二七日 夏生の電話(藤子応対)。姑小姑と同居の内村家を出たいと。竹司の浪人状態に、内村家族の懸念も募っているかと、推
測。
二八日 夏生の電話(藤子応対)。「竹司の家族」はこの家を出て行くよう、姑に言われた。竹司の妹は、竹司らが同居している
限り、自分が出て行くと言う由。「働け」と兄に言うらしく、しかし「竹司は何の対策もしていない」と。
仲人の山根信之氏へ発信、時候挨拶と近況報告の程度で、控え無し。
九月 二日 夏生の電話(藤子応対)。藤子病院へ出がけで話していられず。
三日 夏生宛てに秀樹発信(前出)。行き違いに夏生の手紙届く。封書の宛名は、信哉の文字で(前出)。奥野方の西宅から弟
春生をよそへ出し、内村竹司の家族に明け渡して欲しい旨。読んで感じたままを書中に走り書きする。
一家で協議。物理的にも心情的にも成る話ではないと。
四日 秀樹外出中に夏生の電話。母の応対では致し方なしと、切れる。
六日 夏生の電話、秀樹受ける。大泉へ行きたいが、自分からの手紙はみたかと。前便の、老母の病室のある、また春生の部屋
や秀樹の仕事場のある西宅を、内村竹司一家に明け渡すのは、どうやりくりをしても論外、心情に於ても不可能と返事する。
「それなら(話しに)行かぬ」と。「来た方がいい。来て休息するがいい。よく話し合えば道が開けるだろうし」と。電
話切れる。終日待てども来ず。夏生へ手紙を書 く。
七日 夏生宛てに、長文を発信(前出)。
九日 秀樹の前便と行き違いに、内村竹司による、奥野秀樹宛て(前出)及び藤子・春生宛て(「お付き合い読本」付き)の第
三便届く。一方的に、「姻戚関係を解消」通告など、異様な内容。
十日 かねて用意の、信哉の誕生祝い品を、宅配。また「親展」「速達」で、夏生へ父から手紙を出す。
十二日 内村竹司の一存になると明白に読める手紙(前出)とともに、奥野 発「夏生」宛て「速達親展便」が、速達で返送(未
開封のまま。前出)されて来る。通信の勝手な遮断はかかる際の意思疏通や事態打開を妨げ、また親書の往来を侵す卑劣な行為。怒り加わる。
仲人で友人でもある山根信之氏へ電話で、面談を願う。明日にと約束。
この日の午後、さらに、九月七日に秀
樹から夏生へ宛てた長文の手紙が、竹司の「独断」で未開封の状態のまま返送されて来る。この時点で、この手紙が夏生の手に渡らず目に触れなかったのは、痛
恨の事態。竹司も夏生も、冷静を欠いた処置と、嘆息のほか無し。
十三日 池袋メトロポリタン・ホテルで山根氏と会う。ごく一部の手紙を見てもらい、「これはヒドイ」と山根氏の顔色変わる。
(山根氏と会うにあたり、俄かに手帳等により書き起こしたので、尽せてはいないが、往来した手紙の前後関係を明かに
する程度には、足りていると思う。)
この頃には奥野自身の文部省人事は確定していて、十月一日付け、東*大工学部(文学)教授として就任した。
内村の方の茨城就職は、大学内の人事抗争に邪魔されていっこう採用の動きがないまま、ひたすら待たされていた。事情は奥野らに知れる由なく、ただ耳の底
に、夏生(なつみ)が、父奥野の唐突な国立大学人事を聞いた瞬間、「竹司より先に決まらないでね」と叫んだ声音がこびりついていた。夏生にはたまらなく
「不幸な」夫と父との落差であったろう、自分の父が、そんな人事を夢にも願ったことのないのをよくよく知っていたから、よけい天の配剤が恨めしかっただろ
う。まして内村は「何故なんだ」と叫びたかったろう。
だが、だから無頼漢のように「暴発」してよいわけはなく、暴発の仕方もあまりに醜く、無礼だった。おとなしい藤子でさえも、そんな内村は許せず、無礼を
きちんと詫びさせて原点に戻したかった。
せめて「二年」待ってやってくれ、内村も反省するだろうしと、夏生は懇願してきた。内村の顔など見たくもないが、夏生や信哉らには今までどおり大泉へ来
てもらいたい。それの出来るかぎりは待ってやろうと奥野は思った。
ところが、やっと「技官」の地位を得て茨城に就職できた内村は、不本意な人事にこれも「嫁の里」の責任だと八つ当たりし、奥野の祖父母と孫信哉との交信
も拒みだした。親と付き合うなら「離婚」と、夏生に圧力をかけ始めたという。
脚の骨折で入院した祖母を見舞うにも「覚悟して行け」と威し、玄関まで出掛けていた夏生たちの足を凍りつかせたという。
平成五年八月、「暴発」からまる二年経て奥野は、仲人という以前に友として心ゆるしてきた山根教授に愬えた。山根は、事前の疏通があったものか、内村竹
司の伯父で父親代わりに結婚式に出ていた甘木与之介氏に「同席してもらいましょう」と言ってきた。
山根さん、逃げ腰だなと奥野は内心苦笑しながら、いいでしょうと答えた。
* 不幸な暴発(三)
* 私(奥野)どもが、今年(平成五年)八月以降、甘木与之介氏を介して内村竹司に求めてきまし た「謝罪文(自書)」は、例えば以下の内容を備えたも
のです。
私、内村竹司は、奥野秀樹様及びご家族に宛てました、平成三年八月一二日発信以降九月に及ぶ礼を失した通信・郵送等につき、心からお詫び申し上げま
す。一切の内容を謹んで撤回させていただきます。またその後も肉親間の接触に、いくつかの非礼を重ねましたことについても、同じく、心からお詫び申し
上げます。ご海容下さいますようお願い致します。
平成五年 月 日 (署名) (印)
* これに対し、平成五年九月九日の夜分に、甘木氏を介して届いた内村竹司のFAXは、文字通りに以下の通りです。
詫び状
朝夕めっきり涼しくなってきました。皆様、お健やかにお過ごしのこととお喜び申し上げます。
さて、二年程前になりますが、私は奥野様より「奥野文学を読まぬものは身内でない」と罵られ、さらに「文学音痴」など一連の嘲笑を浴びせられ、抗議文
を書きました。しかし奥野様より何ら釈明が得られなかったので、怒り心頭に発して絶
縁状を送付しました。しかし今年七月、間接的ながら、「『みうちでない』は奥野文学の語彙である」と聞くに及びました。
いまだ奥野様から直接の弁明を受けてはおりませんが、仮に「みうちでない」発言が「故意」ではなく「不注意」であったとすれば、私の書き送った絶縁
状と、その前後幾通かの手紙は、いわば「過剰反応」に相当し、慙愧の念に堪えません。したがって、慎んでこれを撤回します。
時節柄ご自愛のほど、お祈り申し上げます。
平成五年九月九日 内村竹司
* 妻も、また息子も一致して、かように事実を歪曲捏造したものは受け取らないと、突き返しました。
内村自身が事の発端として挙げています奥野の「身内」という物言いに、そんなにも拘泥っていながら、夏生と結婚して何年にもなる今年七月まで、理解
もしないまま「過剰反応」したとの言い訳一つでも、いかに内村が不用意で「不注意」な、傲慢な人物かが分かります。誤解のまま怒りを「暴発」したとい
うだけでも幼稚な振舞いです。怒るまえに「どういう事か」と確かめるのが、大人なら自然当然の順序であり思慮でありましょう。
まして舅婿の間柄です、夏生に確かめてよし、著作に当たってよし、仲人の山根氏に問うてもよろしく、手段はいくらでも有ったのですから。奥野からわ
ざわざ「弁明」することでなく、「不注意」な のは内村自身だったのですから。
* 要するに内村には、「身内」問題など、言い掛りの口実なのでした。
問題はそんなことでは無かったのです。真っ正直に「金銭」「住居」の援助を申し出られない己(おの)が情けなさから、「暴発」してしまったのです。
内村の手紙が示す全ての「文面」が、最初から内村家葛藤の内情とともに、明白にそれを指さしています。
そう理解しつつ、そんなことよりも「暴言」の「非礼」を先ず「謝罪せよ」と私どもは言っております。許せる度合いを遥かに超えた「無礼」だからで
す。
けれど、ここに至っても内村は、事のこじれの意味、無礼・高慢の事実を、「故意に」「身内」解釈の誤解に無理にすり替えようとだけしています。
* 私奥野にも、不徳を恥じて身に痛い点は多々あります。それは私の問題です。内村との対話は、事の打開と解決とのあとで成されましょう。
以上
平成五年初秋 奥野秀樹
*―――――*
暑い暑い真夏のほぼ一ヶ月を費やした折衝は、奥野にも、藤子にも、落胆というだけで過ぎた。
親代わりの甘木が問題の「手紙」など読むまでもないと読みもせず甥・内村のカタをもち、竹司に暴発させるだけのことが奥野らの側にあったと言い募るの
は、ま、身びいきで、どうせそんなことと奥野も予想していた。山根はただ沈黙し、藤子が、一度二人でお話ししたいと願うのにも応じなかった。
いつ知れず奥野は、甘木・山根組に一人で対処していた。
奥野は山根に失望した、あの内村の無礼を、なんで友達がいにも強く窘めて叱ってくれないのかと。
夏生(なつみ)も苦しい立場にいた。夫のそばで、親を、父親を、非難するしかない立場にいた。藤子は、じつは春生(はるき)も、夏生に離婚して帰ってき
てほしい、子供たちを連れてと本気で思うらしく、奥野は、だがそれは避けたかった。夏生も、
「たとえ竹司に離婚されても、自分は大泉の親の家には帰りません」などと山根や甘木に言うらしく、
「奥野さん頑張られると、お嬢さんたちを永久に失うことになりますよ」という山根氏の警告は、その通りに相違ないのだった。夏生は、親たちに見捨てられ
る自分を感じているのだろう、可哀相に…。
だが、だから内村を許そうという気にはならなかった。孫たちには「父親」でもある「教育者」内村竹司の逸脱を、そのままにしてはならなかった。そのまま
にすれば自分はまちがってなかったと思い込む男だから、なおさらだった。
奥野は、あらためて、夏生と自分との「運命」を考えていた。
* 夏生に。 (平成四年師走)
この間から、おまえのことを、幾度となく、なにかというと考えていた。なにを考えるという具体的なことではなかった。考えるというより思うというほ
うが当たっている。気にしていたというほうが、もっと当たっているのだろう。それだけのことだけれど。
今日は十二月十日。ママと結婚しようと約束して、三十五年め。今年は、とくべつの事も計画せず、昼前までゆっくり寝ていた。春生(はるき)が幸い休
みをとっているので、車でどこかへ連れていってもらい、遅めの昼飯でもちょっと奢ってみようかなと思っている。彼はまだ寝ているけれど。
元気にしているかい。血管の故障など、ほんとに有るのなら、ぜったい早めに、それも十分信頼できる専門医の診察を受けておかないと、とんでもない事
態に陥らぬでもない。医学的になら、いくらか知恵を貸してくれる人と、まだすこしは付き合いがあるから、直感を利かせて、躊躇なく相談してくれるよう
に。
ぢいちやんかといふ声幼く聞え来て受話器の中をのぞきたくなる 神田朴勝
花びらの如き手袋忘れゆきしばらくは来ぬわが幼な孫 出浦やす子
花嫁の初々しさを打ち見つつ身近く吾娘(あこ)といふも今日のみ 山下 清
こんな歌を選んで、以前に一冊の本を出した。あとがきは「昭和六0年六月八日
娘が華燭の日に」 となっている。男女の愛、夫婦の愛、子への愛、親子
の愛、血縁の愛、友の愛、師弟の愛を歌った無数の歌からわたしは歌をえらび、そしてそれらの後へ「さまざまな愛」という一章を設けて、冒頭にこんな歌
をえらんだ。
愛の最もむごき部分はたれもたれもこのうつし世に言ひ遺さざり 東 淳子
大学の後期は、二つ、授業をしている。メインは二年生中心の文学概論で、あとの一つは三、四年対象の小人数の特殊講義。文学概論には後期八百八人
(前期三百二十人)というウソのような人数が申告し、そのうち二百人足らずはレポートで採点することにしたが、残りの人は毎時間聴きにくる。平均して
五百人ほどが出席して父さんの漱石や潤一郎のいろんな話を聴いてくれる。うちの大学にはそんな人数を収容できる大教室はないから、席取りがたいへんらし
く、教壇のぎりぎり側(そば)へまでびっしり立ったり座りこんだりしている。
初めてのわが口紅に気づきしか口あけしまま見入る( ) 中島輝子
「( )島」と云ふ島ありて遠ざかることも近づくこともなかりき 中山 明
どっと笑ひしがわれには( )める母ありけり
栗林一石路
こういう虫食いに漢字一字を入れてもらい、次週には正解誤解を紹介し鑑賞しつつ授業の本題へ入って行く。詩歌に縁のうすい学生諸君も、これを考えると
き、一瞬詩人になっている。作者の原作どおりでなくても「名解」も評価してあげている。
春生(はるき)が、母さんとわたしとを、秋日和めくあたたかな石神井池、三宝寺池、また善福寺池へ連れていってくれました。とくに三宝寺池の風情
は、往時の武蔵野をそのまま残した幽邃な自然で 無数に散りはえる枯れ葉までが、わたしたちを楽しませ静かな気持ちにしてくれました。
そして晩にはまた車で吉祥寺へ出て、近鉄デパートのなかに来ている京懐石を堪能しました。春生も、大人になり、このごろは父さんや母さんのわがまま
も黙ってよく聞いて付き合ってくれます。 三つの池を二時間以上も散歩している親二人を、好きにさせておいて、じっと車の中や外で待って いてくれる
のです。むろん言葉にだしてはあえて言わないだけで、三人が三人ともおまえのことをそれぞれに思っています。暮れにはおばあちゃんを一時帰宅させよう
と、準備中。
凛々歳暮。元気にいい新年を迎えてください。
平成四年十二月十日 父
ワープロのフロッピー・ディスクにだけ保存された、投函されなかった、投函してももう夏生の手に渡るという保証のない手紙だった。十数年使い慣れた器械
の文字が、几帳面に、つらかった日々を今もそっくり刻印していた。
* 夏生に。 (平成四年師走)
だいぶ押しつまって、ホワイト・クリスマスではないものの、寒さは今年いちばんの厳しさ。筑波の雪は、どうだろうか。機嫌よく、していますか。
誕生日には、電話をありがとう。新宿の伊勢丹わきにある田川、あそこでひさしぶりにふぐの鍋でもと、春生の希望にあわせて、食事をして帰った、ちょ
うど、そんな時で。とても嬉しかった。あの日も、ずうっと、おまえのことを気にしていた。田川でも、むろんおまえの事をみんなで話していた。あの店
は、むかし、おまえがママのおなかにいた時だったか、生まれてまもなくだったか、鯉こくを食べるとよくお乳がでると聞いて、とくに頼んで、つくって
貰った店でね。店内が、その当時のまま、まったく模様替えしていないというのも、いまどきの新宿では稀有(けう)の店です。思えば、しかし、久しい
ものだなと、このところめっきり体力の落ちたのも、不思議でない気がしました。
そうそう、昨日は、信哉が電話をくれたとか。センター試験の監督に駆り出されるにつき、説明会があって大学へいっていました。残念、残念。誕生日の
田川のまえに、三越でママとみつけた信哉と道哉との洋服は、まだ届くまいと思いますが、年内には。お正月に着せてやってくれると嬉しい。
もう、今年の仕事はあらかた済んだと言いたいところだが、そうでもなくて、結局だらだらと年を越してしまいそうです。正月八日から録音と聞いていた
NHKラジオの仕事が、十五日からと延びたので、いま、ほっと息をついています。三月に放送で、各四十五分、四週分。その原稿をおよそは作っておきた
いので、たぶん大晦日までに二回分、五○枚。それが年内の最後の仕事のようです。新年号ものは、もう届いて来ています。
あぁ、だめだ…今夜は眠くなってしまった。この頃は疲れて、よく電車でも寝てしまう。座れる電車に乗る。先日立っていて、目的の駅まで来たら、前の
人が立ったんだ。反射的に明いた席に座ってしまい、気がついたけど立つ気になれずに、一駅乗り越したよ。
一月には、センター試験を済ませて、すぐ京都の美術展へ出掛けます。帰るとすぐまた二月のあたまに、今度は金沢・小松まで講演にでかけます。そし
て、学生たちの採点。新学年の用意。塔の本 エッセイの5冊め(都合29冊め)発送が重なります。S堂からの新しい本の出版も重なります。新年のこと
を思うと、もう、なんだか、そわそわと落ち着かないくらいです。忙しい年になるでしょう、またしても。
ごめん…、もう寝ます。おやすみ。 父
土曜日の夕方です。ずっと昼過ぎからテレビ映画をみていた。「大統領をつくる男たち」です。
ほんとは、そんな呑気な時間を過ごしていてはいけないんだが、さてと言ってこう押し詰まってしまえば、ジタバタしても始まらない。文藝春秋のT氏が
電話をくれました。書下ろしの依頼を受けていて、これからは、わたしの一番怖い人になります。まだエンジンは温まっていない。それよりも年末の片付け
が面倒でたまらない。このごろは、ちょっとした肉体労働が面倒で面倒で、書庫は乱雑の極みのまま。カウンターにも、本が溢れるくらい投げ出してある始末
で、せめてそれだけでもと思いつつ、手がでない。それでいてそれがストレスになっている始末です。
ノコ――。いまこの家で、真実主人公であるのはノコかも知れんなぁ。われわれは、春生も含めて、ひたすらノコの無事な長生きを祈っています。運動能
力こそ格別に落ちてはいるが、幸い視線もつよく、やせて小さいぶん負担も少ないかして、元気です。いつも寝しな、ママの顎のしたへ入って、ママの
読書に付き合って寝る読書猫です。 父
二十七日の、もう八時半になりました。ママは、昨日から疲れて寝ています。おばあちゃんの正月帰宅に対応できるだろうかと、心配しています。
放送用の原稿、二回分、もう仕上げました。日本語「で」読む、書く、話すことの意味を、来年も相変わらず考えて行きます。
春生が、日曜出勤? から愛車でご帰館のようです。彼は、自前で新車を買い替えたんです。ちょっと小さめになったけれど、綺麗な車で、運転しやすい
ようだ。独身貴族? の日々を楽しんでいる気らしい。
家が狭くなりました。もう東の家は、本であふれて、隙間なしです。西(イリ)の家の洋間にも本棚を二つ 大きいのを入れて「塔」のシリーズを収容し
はじめました。
この出版をやめれば、わたしもママも、だいぶ体はらくになりますが、昨今の文藝出版の事情からして、さきざきの為にもこの仕事は、むしろ頑張って続
けざるをえないでしょう。いまでこそ大学教授の給料が入るし、文筆や講演でけっこう稼ぎはあるのだけれども、定年後の執筆生活に大きな展開 があろうと
は思われず、年齢的にも地味さの度を加えて行くだろうと思っています。「塔」は、その時に、かなり大きな気の支えになってくれる。それは目に見えている
ので、努めて維持したいのだが、疲労は加わる一方です。
こんな話は、きみには退屈だね。もう、よそう。
今も学生の採点をしていました。採点中に二度宅配があった。今年も呉市からのデビラが届きました。滋賀県から餅、愛知からちくわと蒲鉾、京都からは
すぐきが、東京の読者から羊羮が、届きました。このごろは、出版社からよりも読者から戴くほうがずっと多い。有り難いね。
大学の方が、この一年しきりに揺れていて、へたをすると、定年前にわたしは大学院の教授へと、籍がうごくかも知れない。定年も、うちは本郷(=東
大)なみに珍しく六十歳なのに、延長の動きが具体化しているらしい。わたしは六十でぜひ退官したいと、申し出てあります。
だらだらと、おしゃべりしてしまった。煙草がわりの、へんな手紙だ。
夏生(なつみ)。元気に、陽気に、気持ちいい新年へ、力づよく踏み出してください。健康を心より祈ります。
平成四年師走二十七日 夜九時すぎ 父
これも奥野は投函しなかった。深夜、ひとり呼び掛ける、愛しい娘への手紙だった。内村とのことには、すこしも触れないで書く手紙だった。内村が「暴発」
した翌年だ。
だが、もう半年もたてば奥野の欝塊はふくれて疼きだしていた。投函しない手紙を一つ書き、また二つ空しく書いた。
* 夏生に。 (平成五年梅雨)
つい最近学生に、こんな歌の虫食いに字を入れてもらった。
しづかなる悲哀のごときものあれどわれをかかるものの( )食となさず 石川不二子
この気概があれば、人は、いたずらに喜怒哀楽の感情にわれと我が魂を「餌食」にささげる愚はおかさない。狂いもしない。
不幸にも狂ったと正気づけば、静かに反省して、座標を正す「行為」からはじめればよい。なしくずしに、ぐずぐずとゴマカしてしまうのは、不幸な欺
瞞、これに過ぎたものはない。親しきなかに礼儀あり。愚劣な罵詈雑言は、まして婿が、娘も、親にたいし、どの世界でも許されてはいない。時計の針が狂
えば、なにはおいても直す。修理する。時を狂わせるのも人、正すのも人。お互い正常の時間のなかで、話せば分かるという付き合いの出来るのが、大人。一
度として話そうとせず、いきなり「暴言」を書き送ってきた理性の「狂い」は、礼儀正しく正したがいいだろう。それを否認しているのは、おまえたちの甘
えた逃亡であり勝手な言い分にすぎない。返事を待つ。
そう言っても理解できないようなら、せめて山根・甘木氏立ち会いのうえ、「手紙」をみなで「読み直して」みればいいと思う。それをイヤがるのは、自
分の「非」が歴然と自覚できていて、目を逸らしているからであり、卑怯だと言うのです。先ずそこへ戻して、そのうえで今後を互いに考えるというの
なら、それは出来る。狂った時間を「あの時点」へ「正す」義務と責任とは、内村竹司にある。知性ある礼節をもつべし、似て非なる自尊心の「餌食」になって
いてはならない。
「嫁の実家」が婿の学者的地位のために「経済的援助」をするのが「多数」で、「あんたらのような非常識なもの」を「親戚にしてしまった身の不運」を
嘆くというのが、どんなに実情から遠い恥ふかい処生であるかは、若い学生や立派な学者たち「多数」によって現に嗤(わら)われているのだよ。
平成五年六月二十二日 父
奥野は――今、三年後(平成八年)――読み返して忸怩(じくじ)たるもののあるを恥じた。自分自身が怒りの「餌食」になっているのではないのか、と。
いやいや、「怒り」をわが餌食に…と、奥野は自身に鞭打った。
* 夏生に。 (平成五年夏)
七月二十六日になった。あしたは夏生の生まれた日だ。あんなによく覚えている日が、ほかに有るだろうか。たくさんの、たくさんの人の心配と応援と
があって、夏生は生まれた。母さんのよこに寝かされた夏生(――顔をみるより前から「夏生(なつみ)」という名前はついていた。母さんもわたしも、
微塵の躊躇もなく生まれて来る子の名前は「夏生」だった。かがやく季節の宝ものだった。――)との、初対面の印象、忘れない。
あの日から三十三年もたったのだね。「みそさざい(三十三歳)」の夏生が、声佳く鳴きしきって、こどもたちに負けず元気でありますようにと祈りま
す。
夏休みになりました。さすがに、ほッと一息ついています。それでも午前三時よりはやく寝たことがこの十日ほど無かった。今夜はすこしでも早くやすみ
たいと思ううち、もうすぐ午前一時になる。母さんも春生ももう寝ています。
このごろは井上靖の『孔子』をゆっくり音読し、そのあとお祈りをして寝ています。母さんはひょっとして寝床で、ジェーン・オースティンの『高慢と偏
見』を二度め、読み耽っているかも知れない。この二十一歳の女の子の書いた、蕪村や秋成の頃のイギリス小説は、わたしも初めて読んだが、とてもす
ぐれた作品でした。
東博に今、上海博物館の佳いのが来ている。むかし館長室で秘蔵の名品逸品をたくさん、井上(靖)さんらと一緒に見せて貰ったのが懐かしく、近日に
行ってみようと思っている。渋谷の文化村にはパウル・クレーがもうすぐ来ます。忙しいでもあろうけれど、美しいものへの深い興味も育てつづけて欲し
い。
そんなことを誕生日へのはなむけに。元気で。 おやすみ。
平成五年七月二十六日 父
八月に入って、奥野は、山根信之をついに煩わせたくなった。我慢の限界が来ていた。山根氏は、竹司伯父の甘木氏同席を希望した。
そしてその八月末――、奥野は娘にあてて「夏生、さようなら」と、よぎない別離の予測を書き置く心境だった。
一九
* 夏生に。 (平成五年夏)
夏生(なつみ)…と呼びかけて手紙を上げるのは、最後になるやも知れない。
今日、平成五年八月六日、池袋で、甘木与之介(=内村竹司の伯父・父親代わり)山根信之(=夏生と竹司との仲人)両氏と会います。二時半の約束で
す。母さんも一緒です。
夏生が、あの「竹司の手紙を、甘木さんには見せてくれるな」と母さんに言って来ていたのは、聞いています。恥かしかろう。出来るかぎり、見せまいと
思う。
あの当時の「経過」を、一束一覧にしてある。手紙が一と山ある。竹司は得々として幼稚な手紙を何度もよこした。私からは結局一度も竹司に「アプロー
チ(=竹司の弁)」しなかった。相手にしなかった。夏生には、だが、何度か手紙を書いた。そのうちの大 事な二通が、竹司の独断で(と本人が言ってい
る)おまえの手に届かず、竹司の手で返送されてきた。その後二年間にも、夏生や信哉宛て親書の隠匿や破棄が卑劣に繰り返されてきた事実は、おまえ自
身、何度も認めていた。
今日会っても、わたしから言うことは「一つ」しかない。夏生も再三口にしていたように、あの竹司の手紙は「狂って」いた。二年経ち、もう正気に返っ
ているのなら、それらしく非を認め「お義父さん(竹司は結婚以来、そう、わたしを呼んでいた)」に、きちんと謝るべきです。その後に、普通の態度と言
葉とで何をどう話し合うことも可能だろうが、「狂った」ままではどうしようもない。狂わせた時計の針は、自分の手で、節義をもって先ず正しなさい、と。
甘木さんらがそれを約束ないし保証して帰られるなら、わたしは、なにも付け加えることなく、後日を期して別れてきたい。
甘木さんらが、それは出来ぬと言われれば糸は切れたものと考える。おまえはずっと「二年間ほどのスタンスで」と言い続けた。二年間待ったけれども、
空しかったわけだ。
したがって今後は、「冠婚葬祭等の一切」を含め、奥野家(秀樹、藤子、春生とその家庭)は、内村竹司一家及び親族との交際を、絶ち切ります。通信、
交流、すべて絶ちます。そちらからも一切無用。お互いに、無いものと処置します。
何故か。
奥野か。内村か。片方しか選べなくなった以上、母さんも私も、今は一致して、夏生には、内村竹司の妻として、息子二人の母として、幸せになって貰い
たい。竹司の手紙はおまえを見合結婚の「嫁」としか認めていない、が、おまえは、竹司の「妻」であり、信哉や道哉の「母」として生きる人間です。その
方がいい。「奥野」という姓も過去も、可哀相だが、忘れなさい。
わたしの一存を、母さんや春生(はるき)に強要しているのだろうと、邪推するかも知れない、が、母さんが口を極めておまえに告げてきたように、ちが
う。今度の竹司の非礼は、多くの犠牲を払ってもなお看過できない暴挙であり、母さんも春生も、同じ考えだということを、しっかり言っておきます。
よその者なら放っておく。内村竹司が、娘や孫の夫であり父であればこそ、我々は非礼を受けぬ。黙認して、それが温厚な大人、などと考える方が、俗
で、恥ずかしい。
思えばこうなる遠因は、披露宴の場で主賓二人に証人署名してもらう、その結婚届を即日届け出る、という事前の約束、それが無事の結婚式のために奔走
した親の希望でよろこびでもあった計画を、平然と二人して反古(ほご)にし、さらには新婚旅行から帰った竹司が私に向かって、「あんた、がたがた、う
るさいよ。なんなら、今でも結婚をやめていいんだぜ」と、電話の向うで、やくざのように言い放った瞬間に在りました。糸は、あの時、もう切れていた。
「魂の色が似ている」というおまえの「名言」を、あれ以来、繰り返し考えた。
いま、私ははっきりと感じている。さきざきの事は分からないが、おまえと私との魂の色は、ちがうと。ちがうものを似ていると 強いて思う必要が、ど
こに在ろう。親子も夫婦も兄弟も「他人」からの出発だと言いつづけてきたが、おまえと父さんとは、遂に「身内」ではなかった。似た者夫婦。おまえの
「身内」は内村竹司であってほしいんだ、父さんは。
わたし達三人は、だが、おまえやお前の子らに心の門を、当然のこと、閉めてはいな い。それは告げておく。
血をわけるとは、大変なことだね。血をわけてさえいなかったら、私はこんなにおまえを愛したりしなかった。この愛は、しかし、要するに互いに自己愛
のようなものだった。それが、よく分かった。
夏生。さようなら。 父 平成五年八月六日 午前三時
山根氏、甘木氏、どちらかの手で夏生に渡して貰おうと持参した奥野の手紙だったが、渡さずじまいに、奥野夫婦は、ただただ会見に疲れて家に帰った。
* 夏生に。 (報告を兼ねた、すこし長い追伸。 八月七日夕方)
甘木・山根両氏との会談を終え、母さんと二人で美濃吉で食事して、帰りました。母さんが、びっくりするほど、あの人たちと、よく話した。
我々の認識をとりまとめて知らせておく。
あの「狂った」何通もの手紙を内村竹司が書いた原因は、それより以前に竹司がわたしから「いろいろ圧迫」を受けたのが、積もり積もって爆発したのだ
という説明だった。「いろいろ」とはどういう事か、漠然とした話でなく、それほどに爆発するというのなら、たとえ一つでも二つでも具体的に挙げてくれ
と頼んだ。全く出来なかった。出てこなかった。「腹に据えかねた」実例の唯一つも挙げられぬほどの事で、あんなに「狂う」人間なのかと反問した。絶句さ
れていた。
昭和六十年六月におまえたちが結婚以後、平成三年八月の「暴発」まで、六年。そのうち彼はほぼ三年近く、パリにいた。行く前も、行っている間もおま
えたちは、わたし達から受けたさまざまの経済援助や親切に重ね重ね礼状や謝辞や、又いろいろ親愛の言葉を、何度も何度も寄越して「暴発」の気配など微
塵も無かったじゃないか。ま、竹司とは顔を合わせた回数まで、手帳をみれば簡単に分かるが、年三、四回が関の山で、都合二十回とった実感がない。全然
無い。時間をかけて話した記憶 も無い。
彼はまず口をきかず、わたしもそんな「お客」の意をやや迎える以上の話はしなかった。どっちからも他人行儀だった。正直な話、L君やS君(=共に若
い友人)との時などは、ことさら刺激的に話し合うことも辞さない私だが、君の夫とはそんな気分についぞ成れた覚えがない。茨城の人事が不如 意の頃、憤
慨した口調で、希望が阻まれれば学内関係者と「闘ってやる」などと聞いた日は、なんだか「肉声を初めて聞いたようだね」と、あとで母さんと目を丸くして
話し合ったくらいだ。
あとにも先にも、彼は、我が家ではお座なりな客だった。彼は気後れと(字義本来の)退屈とで、「自分で自分を圧迫」していたに過ぎない。
わたしは他人の話を聞くのが好きだ。口を封じて押さえる真似は、内村竹司に対し一度たりとしたことは無い。ただ問い掛けても話さないンじゃ、所詮面
白い相手でなし、呼びに来られなければ、いつも部屋で自分の仕事を続けていたでしょう。
彼が例えば抗議をした、それでもわたしが不当に言い募ったとか、そんな実例が次々にでも挙げられるのなら、「積もり積もって爆発」と言えるだろう
が、そんな場面は一度もなかった。そんなことでも有ればむしろ良かったんだ。要するに積年の爆発なんてのは、母さんが断言するように「言い掛か り」に
過ぎない。大人の男なら、不満があれば一度や二度は、はっきり言う。気がつかずに足を踏むといった事が世の中に無いとは思っていないから、指摘されれ
ば、分かることは分かる。自信と余裕のある者なら、節度とユーモアとで、なんとでも抗議の伝えようがある。いきなり「狂う」なんて 竹司も現在はそう
認めているそうだが、「大人気なかった」「やり過ぎた」のだ。そうと分かったら、反省を、礼儀と言葉とできちんと示すのが節義だと、両氏に言っておい
た。
それでもなお、竹司のわたしへの不満が、三ヵ条あると甘木氏は指を折って示された。
1 文学音痴だと言われたと。
わたしが彼を「音楽音痴」だと言っていれば、わたしの非は明らかだろう。彼の音楽の才などわたしの知るところでないが、わたしには音楽や楽器の知識
は乏しい。もし彼から「お義父さんは音楽音痴」だと言われても苦笑して認める。その程度の「文学音痴」なら、わたしが言うまでもなく、甘木さんによれ
ば、竹司自身認めていると言うじゃないか。たわいない話ではないか。
2 日本音痴だと言われたと。
「音痴」などという物言いはしないが、竹司に、「文学音痴」なみに「日本」についての蓄えの乏しいことは話してれば分かるし、これまた本人も認めて
いると甘木さんも言われるのだから、何が不満なのやら、爆発なの やら、要するに素直に人の話を聴く度量や雅量のないのを暴露しただけではな いか。
3 わたしの文学を理解できない者は、「身内=親戚」でないと言
われたと。
そういう幼い物言いを、わたしは、決してしない。これは夏生(なつみ)の責任が重い。彼の理解する「身内」とは、つまり「姻戚」のことであった
(と、甘木さんは言われる)。だから「身内でない」のなら「姻戚関係を絶つ」と言ったまでだと幼稚な短絡の弁明があった。甘木さんはわたしの説明を聴
き、竹司は完全に「誤解」していたのだと認められた。
夏生は、明らかにわたしの「身内」の説を知っている。承服するしないは別として、耳にタコほど聴いたり読んだりしてきた。彼の「誤解」は、夏生なら
簡単に訂正できた筈だ。彼が「それ故」の絶縁宣言だったと強弁するのなら尚更、夫の誤解を夏生が解いていれば、(甘木さんの弁明をそのまま聴くかぎ
り、)絶縁宣言になど及ばなかった。わたしは、夫婦だから、親子だから、舅と婿だから、即「身内」であるといった考えを否定する体験から、文学に入って
行った。たとえ妻といえ子とい無条件に「身内」ではあり得ないと書いてきた。おまえのいわゆる「魂の色が似ている」のが、それだ。「一人しか立てぬ
(筈の)島に何人もで立つ・立てる」のが「身内」だ、私の文学では。思想では。体験では。
甘木さんにその話をした。甘木さんの表情が、途中からまじめに聴く顔に変わって行くと見えた。明らかに、竹司の「誤解」または理解しようという姿勢
の欠如がさせた「早とちり」であることを、甘木さんも、また私の作品を通して友人となり親しくなった山根さんも、何の反論も抗弁もなく納得されていた
と思う。
せっかく三ヵ条挙げられた内村竹司の「積もり積もった不満」とやらも、そんなていたらくで終った。他に、何も出てこなかった。舅が「うるさい」と、
たとえ彼が思うことがあっても、それがわたしの「配慮」「善意」「厚意」の言葉であり手紙であったことも、わたしがそう言うより前に甘木さんは、「認
めています」と、それらの言葉を用いて表現されていた。ひとの善意や厚意を汲む度量や雅量。そこに「大人」の資格があり、竹司は単に「傲慢」に「狭量」
だったんだという指摘にも、絶句されていた。
次に、竹司は妻子に対しつねに責任と愛情とをもって処して来たと甘木さんは言われ、これには、母さんが肯(がえ)んじなかった。
恋愛結婚ならいざ知らず「見合いの嫁」であるからは、嫁の実家が娘の夫を経済的に大きく支えるのは常識だ、しないお前たちは非常識だといった言い分
で、妻の親たちとの姻戚関係を絶つと言ってくる、「そんな責任感や愛情があるのでしょうか」と。
妻が妊娠してつわりのさまを夫に見せる、それだけでも離婚や浮気の理由になると書いて来る、「そんな妻への愛情や責任があるのでしょうか」と。
幼い子の着る物まで剥ぎ、祖母の手へ勝手に送り返したり、娘に与えてある父の著書を勝手に送り返してきたり、(夏生はすぐに手紙で「保管しておい
て。処分したりしないで」と頼んできた。)親書の往来を秘密に破棄したり、「それがどんな妻子への愛情で責任でしょうか」と。
臨月ちかくまで夜おそく、遠方代々木までの塾講師をさせておいて、山坂の道を日々のおつかいに出しつづけて、自分は母親や妹からまで「働け。働かな
いなら出て行け」とまで言われる有様で、「それが何の愛情で責任ある生活態度でしょうか…」等々、それらにも、甘木さんは一言半句もなかった。
結局出てきた話が、竹司が例の手紙を「撤回」すれば、済ませて貰えるか、だった。
「非と非礼」とを認め、申し訳なかったと「明記」の上でなら、いいと答えた。「大人気なかった」「やり過ぎた」と自らも甘木・山根氏には認めていな
がら、一言半句の詫びもわたし達にせず、ただ「撤回」して終りでは済むまい。「狂ってしまった」と夏生(なつみ)も認めていた暴発時計の針は、狂わせ
た当人の手で、先ず正しなさい、「ごめんなさい」と認めて正しなさい、「それが当然です」と言いました。
そうあれば即座にあの時点へ戻って、何ごともなかったかのように、以後は普通に戻して貰えるかと問われ、「無論」と返事した。蒸し返すことも書くこ
ともないかという話に、蒸し返さない、しかし作家としてどんな事であれ未来にわたり「書かない約束」は自殺行為だから出来ないと言い、しかし普通にわ
れわれの関係が推移している限り蒸し返す理由はなく、それは約束できると言った。
一方、竹司が「非と非礼とを詫びる」態度が無いかぎり、ただ内村竹司とというだけでなく、夏生や孫との一切の交渉も絶つしかないとはっきり告げまし
た。
それでは「夏生さんが可哀相」という声も出たが、奥野を訪れるだけで「離婚」と威(おど)される今のままではもっと可哀相、かと言って、竹司の無礼
をただ無い話にする気は毛頭なく、夏生の幸福は、内村竹司の妻として信哉や道哉の母として築くのがなによりだと、わたしも母さんも言った。
夏生も三十三歳、母さんの場合でいえば、とうに両親はなかった。中途半端に間に挟まって気をつかう立場を出、能う限りは内村家の人間として幸福に
なってほしいと言った。この気持ちに嘘はない。
およそ、そんな話し合いで別れてきた。山根さんは、ほぼ終始黙っておられました。
この追伸は、 半ば備忘録として書いた。 平成五年八月七・八日記 父
奥野は、次ぎの山根氏宛ての一通に、痛みを感じながら、いま改めて目を通した。
山根氏が、奥野に読ませる手紙を、奥野へ直接でなく、先ず甘木氏に送り、奥野より先にそれに目を通した甘木氏が、改めてそれをFAXで奥野の方へ送って
きた。なぜ、そんな迂回の必要が山根氏にあったのか。しかも文面は奥野にはおおかた承服できなかった。
すぐ返事した。
率直な気持ちを、もう、なりふり構う余裕なく書いた。あくまで「内村方(がた)」の甘木氏の態度は予想どおりだった、が、友人山根さんへのこの一通、忘
れてしまえないなと、今にして奥野はつよく思った。
* 山根信之様。 (平成五年夏)
甘木様経由の御所感、拝見しました。只今の感想を項目ごとに申し述べます。
「曲解」「誤解」が、私どもの方にあるやに書かれていますが、山根さんの判断は、内村夫妻の話を「聴取」しただけで為されています。公正にと言う以
上、内村や夏生がどんな「手紙」で私どもを怒らせたか、根源の火種のそれらを、なぜ全部「読んでみて」判断しようと言われないか。
わたしから出した「過去の手紙」のどこが問題か、保存のワープロ・コピーを全てそっくり提供できると申し出ているのですから、なぜ、その根本のわた
しの気持ちを全部知って判断なさらないのか。その一点でも、山根さんは、故意に奥野に対し公平を欠く印象を免れません。それでどう中正かと、先ず申し
上げます。
以下「(内村から山根が=)聴取した結果の突き合わせ」に就て。ご提示の番号によりお答えします。
「1」 内村最初の手紙に、既に、こう有ります。出産は実家です
るもの、もし「特殊事情で世間の常識を守れないのなら、何らかの代替措置(アパートを
確保するなど)をいち早く提供すべきです。」 嫁いだら成るべく「『嫁いだ先で暮すのが当然だ』とか、およそ世人には訳の分らない、いわば中世の 論理」
を言うなと。
こういうのを、相談もなく人の懐に手を突っ込むというのでしょう。「不在中は夏生は大泉に帰る、という合意が(内村=)夫婦では整っていたにもかか
わらず、そちら(=奥野)の都合」で出来ないのは理不尽とでも言いたげですが、仰天ものの手前勝手です。「なぜ経済的に援助(定期的に…、=傍 点内
村)しないのか、実に不思議」とも、あります。恥ずかしいことが平気で言えるものですね。
さらにこう内村は明記しています。
「世の中には、嫁の実家からマンションの提供を受け、生活費の半分までも援助を得て、まだ(=傍点奥野)苦情をいう輩がおるそうですが、私は、そう
いう『物足りない』人間には怒りを覚えます」と。だれが読んでも、「嫁の実家からマンションの提供を受け、生活費の半分までも援助」を受けるのは当然
だと、内村は、一番最初からぶちまけているのです。曲解でも何でもな
い、他にどんな理解がこの文面から出来ましょうか。わたしの妻も申しますとおり、内
村の真意は経済支援なのです。「困窮しています。誰の目にも明らかだ」
と内村自身が傍点を打っています。それでいて、どう尋ねても「大丈夫です」と差し
出した手は払い除けておいて、いきなりあの「暴発」です。非常識に、礼も節も欠けています。
「2」 財産狙いという言葉の好きなのは内村で、それは夏生の手
紙に「財産ねらいの女」という「不当なレッテルを(嫁ぎ先で=)はられてきた私」と
ハッキリ書かれています。そういう下品な言葉は 軽蔑して投げ返したい。「食費として(お姑さんに=)頂いていた3万円は停止になり、重ねて水道光熱
費を負担するよう言われました」と夏生の九月三日の手紙にあり、「金輪際(相模原に=)一緒に住んでいたくありません」としたあとで、「家と、月3万の
支援を受けて来たということが、私たち夫婦をどれほど束縛してきたでしょう」とも書く夏生です。
金の支援など、親からでさえ受ければ「束縛」になる。山根さんにはお分かりでないかも知れないが、それこそ私どもの、「言葉」は交しても「金」は不
用意に出すものでないという、相手の自由を考慮した処世観の根拠です。
夏生は夫の手紙の「劣悪」を認め、「赤裸々」を「恐怖」する男だと夫を認識しています。「生活は大変かと聞かれて、はい大変です、助けて下さいと一
言言えばすんだものを」と夫に言ったら、内村は「チアノーゼ」を起こして「そんなことは言えない」と呻(うめ)いたとも有ります。そして約(つづ)ま
る所は「思想の差」だと夏生は言います。「私(=夏生)はこれまで彼(=内村)の、どん底での力を期待して耐えてきましたが、今回のような(内村の=)
不幸な暴発の結果、それを待っていられない立場とな」って、あげく奥野方の西の家を、竹司も含め,家賃なしで住ませよと言ってきた。
家の中を見れば分ります、そんな余地はなく、また内村の「暴言」に晒された直後に、誰がそんな「依頼心」に応じられるでしょう。まして夏生は、「父
上の発案の形で」内村に対し「頭をさげてやって」くれ、快く迎えてくれ、と、虫のいい無理を言っているのです。
また夏生は、内村竹司という男の「2つの欠点」を指摘しています。
「まず、親切の手は相手から第一にさしのべられるべき(=傍点奥
野)であり、しかるのちにこちらが返す、という中華思想。また、その親切の度を金額
で換算する、という習慣です。まったく彼の『計算』は門口でだけ働くのです」と。夏生はよく見ています。
「3」 親書の秘密を侵したのを「やむをえなかった」は、言い抜
けでしょう。内村は、人はみな自立した人格をもち自由である、『エミール』を読めと、
最初の手紙で生意気な口を叩いています。妻への手紙や孫への手紙を隠したり阻んだり、どこに個々の人格を認めているのか。まして親展の内容をソンタク
した内村の見当違いや無礼は、滑稽です。
九月七日と十日付けの私から夏生に宛てた手紙をご覧下さい。私に対し「頭をまるめて謝りに来い」といった言語道断な内村自身のしろものと、読みくら
べて欲しいものです。
また、私から過去に出した「手紙」に傷付いたとか。手書きは少なくいつもワープロ。その殆どが保存されています。いつでも、だれにでも、お目にか
けます。
なお、「自分はあくまで内村につく」という夏生の判断は、大切で、そう有るべきでしょう。当然と思えばこそ、私はすでに夏生へ訣別の手紙も用意して
いるのです。内村竹司の、妻子への本当の愛と責任とを望むばかりです。
「4」 先日もお話ししましたが、「身内」のことは、私の基本の
思想です。理解できないのは内村の勝手ですが、誤解は、正す気さえあれば結婚して直後
にも、いや婚約中ですら、容易に正せました。私の作家生活は、内村をご紹介いただくより、遥か以前からです。「なにかと言うと奥野秀樹の婿だと吹聴し
てるみたいよ」と、夏生からわれわれは笑い話に何度も聞かされています。その私の「身内観」が、「身内」という言葉が、「『辞書的な意味とは違う』と後
(あと)になってから言われても、(奥野の=)弁解にしか(内村に=)聞こえないのは、仕方のないこと」とは、それは今に至っての、子供だましの言い
逃れです。一般の通用と違い、「親戚を即ち身内」といった用法こそ、奥野の世界では強く否定否認されて、読者に届けられてきました。「奥野の身内観」に
は、論文も書かれています。暴発するほど身にこたえるのなら、誰よりも妻に、また仲人の山根さんに、聞けばいい。その上で批判すべきは批判すればい
い。話せばいい。それを不用意な誤解からいきなり「暴発」して「縁を切る」とは無礼でしょう。
また、「絶縁」を告げたのが先で、「金銭問題のもつれから私(=内村)の悪態が始まったと(奥野家が=)考えるのは誤解」とありますが、明らかに、
「姻戚関係を解消」の通告が来たのは九月九日の三度めの手紙が、最初です。その前の彼の長い手紙は、最初から生活費と住宅とを含む「金銭」支援を何故
しないかと迫る文面です。「恋愛結婚ならいざ知らず、見合いで結ばれた嫁の、人並みの最低限(=金銭の貢ぎ)もできない実家」という、これを言いたいばか
りに彼は「暴発」したのです。
家内への手紙で内村は、「『なぜ、面と向かって話さないか』と、お尋ねになっておられますね。卑怯だ、という批判なら甘んじてお受けいたします」と
認めています。
山根さん、あなたから頂戴したこのファックスに書かれてある内村の弁解にも、この「批判」が、そっくり適用できます。彼は「卑怯者」です。
「5」 は、所詮は夏生からの伝聞を言うまでですから、その限り
において、妻や私が内村の情けな い日常を親として呆れ危ぶむのは自然なこと、「はやと
ちり」でも何でもない。
要は内村が無策の「窮地」におちこみ、夏生は夫が「どん底での力を期待して耐えてきました」けれど空しかったというのが、夫婦して手紙に書いている
実情というものでした。われわれの不安は、当たっていたのです。
先に「縁を切ってきた」のは内村です。反省撤回なく、二年間待って空しく、(内村の弁を借りれば)縁なき衆生は度し難しです。なぜ二年の間に「素直
に謝罪する気持ちにな」らなかったか。ただ黙って、謝罪への道はいつもつけてあったのです。「脅迫されているような状況下では、素直に謝罪する気 持ち
にはなれない」と言う内村の言い逃れは「卑怯」そのものです。
「6」 という番号は見当たらず。
「7」 夏生をわれわれが手紙で責めていたという形跡を、内村は
私どもの「手紙」のどの文面から言い得たものか、反問したい。夏生への両親の愛情は、
山根さんはよくご存じです。
「常識がちがう」同士など世の中にはいっぱいいます。一度それを指摘されると、もう、祖母が孫に買ってあげたものまで突き返すという、それこそ愚な
短絡でしょう。娘に父の著書が与えてある、それを、人間の自立と自由とを精神的にもっとも貴ぶと言った当人が、どうして妻の意に背いて勝手に送り返せ
るのですか。夏生は即座に手紙をよこし、「保存しておいて。どうか処分はしないで下さい」と私に頼んで来ています。「絶縁」にしてもそうです。内村は、
夏生からも同じ内容の手紙が行くと書いていましたが、むろん、そんな手紙は来ていません。内村は「大人気ない」と自認したそうですが、「苦い思いはあ
る」どころか、さっさと謝罪すべきです。
* さて、そのあとの、山根さん、あなたの文面に触れましょう。
山根さんの言われる、私どもが頑張ると、「夏生さんや孫たちを失う」ことは、誰より私たち家族が、「最悪の事態」として、しかも「覚悟」して、腹を
決めていることです。夏生たちを疎外するためではなく、夏生を板ばさみの辛い状態におくのが可哀相だからです。
だからと言って内村を、そのまま許して「非礼をうける」ほど、俗悪でグズグズな「大人っ気」は持ちあわせないのです。打開への「正念場」という認識
は、内村竹司が率先して為すべきでしょう。
最初に、私どもの「論点の幾つかが、誤解ないし曲解」と、山根さんは書き出されています。で、その「突き合わせ」を各項目にしてみたわけですが、上
の如く、内村竹司の弁は、彼の「手紙」自体が、言い逃れ、ないし今になっての苦しい弁解であることをはっきり明かしています。偏見と先入主 でもの申さ
れては、迷惑します。
口さきの水掛け論でなく、私どもが書き、彼等の書いたものが、そっくり手つかずに残っている、その「当時そのままの」声や言葉を、あなたは先ず公正
に読まれるべきでした。
今度のは「暴発」と言い条、なかなか内村の本音なのです。本音は「金」なのです。「くれるものは貰っておけ」の「まだ足りない」なのです。身内の何
のという言いがかりは、子供っぽいトンチンカンであって、そんなことで「姻戚解消」と怒るのなら、あれだけ愚劣な何通もの手紙の最後の最後にでなく、
何故、いの一番の最初にそれを持ち出さなかったか。
要するに「見合い結婚」に、内村は最初から「金銭支給」を期待していたことが、手紙の端々からも真ん中からも明確に指摘できます。それとてお互い業
の深い人間のこと、不思議でもない。
問題は、そのような、「悪態」と本人も書いている手紙を、よくもシラフで寄越せた内村竹司の未熟さと、反省の無さでしょう。
山根さんのお手紙には、ただもう内村に荷担されてなのか、婿内村の「非礼」「暴発」「未熟」(いずれも夏生の手紙が認めています。)を批判するお言
葉が、一条も出ていません。信じられない。ご紹介者として、また年長の教育者としても、おかしいではありませんか。
ともあれ、およそのところ、お手紙を拝見した感想を個々に述べました。「まだ小生は緩衝地帯に立っている方がよい」と仰せのお気持ち、分かります。
「まだ」という所に希望をもちたいものです。
このあなたのファックスが、甘木様経由(何故じかに私に送られないのか。久しい友ではないですか。)で届いて即座の感想なので、意は尽くさずに、言
葉が走って、激して、ご無礼もあろうやに思いますが、いまはご容赦ください。
八月十七日に甘木様とお目にかかります。そのまえに山根さんのフアックスを読んだ、感想を、逐条、お伝えしておきたく思いました。こんな不十分なご
理解から偏見を言われては困ると、率直に、感じたまま申し上げます。
それにしてもご心配のみかけます事、重々申し訳なく存じます。
平成五年八月十五日 奥野 秀樹
二○
* 夏生に。 (平成五年八月末)
追伸の追伸 八月十七日に再度甘木さん(=内村竹司の伯父。親代わり)に会いました。母さんも一緒でした。山根さんは見えなかった。
甘木さんに対し、内村は、金の話から奥野へ「悪態」をつき始めたのではない、例の「身内」の誤解から、「そっちがそうなら、こっちから縁を切ってや
る」というのが本音だったと主張したそうです。ところが彼の暴発の手紙には、最初ッから金銭と援助のことだけが書いてある。「姻戚解消」など、(平成
三年=)九月九日の最後段階に突如出てきたのが事実です。「竹司の弁明は全部崩れてしまう」と甘木さん、絶句でした。
奥野へ、「つもり積もった」不満という問題も、なにしろ結婚このかた会った回数が少なく、ロクに話していず、竹司宛ての手紙など、尋常な挨拶がたっ
たの数通。「つもり積もる」素地そのものが稀薄だった。「積もり」ようがなかった。
かりに気が合わぬなどといえば、まったくそれはお互い様で、そういう不快ならわたしにも「つもり積もって」いた。それでもバカげた暴発など、しな
かった。されても相手にしなかった。喧嘩は売られたが、終始、買わなかった。そういう経過です。
結論として、「内村の謝罪」が先ずなされることを求めました。甘木さんも「竹司が謝罪すべきです」 と、言い切っておられた。
こんなことは早く済ませたほうが、誰より内村のためによかろうという点で甘木さんもわたしたちも意見一致し、早めにまた甘木さんから連絡するとのこ
とでした。
しかし八月も空しく過ぎ行きます。ここへ来て、内村は殿様気分に居直り、夏生の態度も問題をややこしくしているのではと、案じています。改むるに憚
るなかれと、おまえの夫に忠告すべき機(とき)です。そのあとでどんな議論も交渉もいとうわたしたちではない。
内村の暴発が、結局なにを全員にもたらしたか、よく考えなさい。われわれは娘と孫とをうしない、おまえは父や母をうしなう。信哉も道哉も祖父母や叔
父さんをうしなう。それだけだ。愚かに悲しい話だ。それでも、その男はおまえの「身内」なのだ、よく前途を考え、夫婦して正気に戻りなさい。
この追伸が本当の最期になるのかも。それも宿命かと思いつつ書きました。
夏の朝日のように輝か しくいてほしい。健康に、心豊かに。
平成五年八月末日 父
* 夏生に。
夏生。夏生。 平成五年九月三日です。
竹司の代弁者である甘木さんは、降りられました。わたしも、それを受入れました。
甘木さんは降りてしまってから、「後学のため」に、竹司の書いた暴発の手紙を、読んでみたいと言 われる。最初(まえ)に「読んで欲しい」といった時
は横を向かれた。われわれも、夏生の「見せない で」と頼んできた心情を思い、強いては見せようとしなかった。
肝心要のあれら「手紙」を一通も読みもしないで、それで「公正な和解」の仲立ちなど出来るわけ がなく、山根さんにしても甘木さんにしても、竹司の手
紙には目をつぶったままでした。われわれを 心服させられる道理はないのでした。あげく降りてしまって、「後学のために」とは、呆れる話でした。
竹司が胸を張って人にみせられる手紙なら、真っ先に「見て下さい」と、伯父さんや仲人さんに自 分から持参していたでしょう。甘木さんも、一番に竹司
に見せよと請求すべきでした。勝手な話です。 竹司のフロッピーでどうぞと、断りました。
母さんも私も、悲しい。アカの他人ならほっときますが、おまえの夫、信哉らの父なればこそ、こ のままは許さないのです。九月九日まで待ち、竹司次第
でおまえたちと終生別れることになる。寂し いが、もう諦めています。この日あることは、すでに山根さんの態度や、八月六日最初の会談のとき から覚悟し
ていました。九月九日まで待ちます。
元気で、夏生。
春生は、心から夏生のことを案じています。わたしは彼の判断を認めるつもりでいます。よほど辛 いことがあれば、弟に言いなさい。彼はおまえの為に細
いパイプ役をつとめてやりたいと言っている。
夏生、幸せに。信哉、幸せに。道哉、幸せに。元気でと祈ります、父も母も。祖父も祖母も。
* 夏生に。 (母藤子より。平成五年九月)
夏生。
この夏はすべてに優先して、あなた達との関係修復に懸命でした。
いまは、夏生への手紙もこれが最後と思って、書きます。
お父さんとお母さんは、あなたたち(=内村夫婦)は嘲笑うのでしょうが、その時その時、真剣に努力してきました。
両親も兄も亡くなり、その誰よりも長く生きて、私(=藤子)は五十七歳です。自分の人生が「あぁこの程度のものか」と見えてしまった気持ちになる時
があります。「たった一度の人生が、これだったのか」と。こう書くと何やら否定的に聞こえるでしょうが、ミヨ様(=秀樹養母)程もこれから生きれば、
まだまだもう一つ人生が有るようなものです。それに、いつもそんなことを思っているわけでもありません。
それよりも、いま言いたいのは、そんな思いが頭をかすめる時でさえ、「私は間違っていた」「もっと別の人生こそが私に相応(ふさわ)しいはずであっ
た」などと、臍(ほぞ)を噛む思いはすこしも無い という実感です。どう思い返しても、この人生は自分が一所懸命積み上げたもの、だからなのです。
お墓のことも済ませ、故人の法事も済ませ、菩提寺とのご縁も春生(はるき)にしっかり覚えてもらった今は、奥野家への(嫁の)義理もあらかた果たし
たと思うので、ミヨ様とノコとを見守り、お 父さんと自由に生きようと思っています。
夏休みになったら小さな子供達が来ると、私もミヨ様も楽しみにしていました。誕生日すぎても来ないので、「夏休みは八月からなんでしょう」と言い、
九月になった今では、夏生も働いていますから、
と言いわけしてあります。翻訳の仕事を家でしているの。子供が小さいので大変らしいわ、と言ってあります。「英語、仏語、独語を、日本語に直す仕事よ」
とそこまで筆談してあげると、ミヨ様は「大学を出てるもんな」と微笑まれました。「えろう(嫁を里へ=)出したがらん(内村の=)家(うち)なんや
な」と日頃言っておいでですから、来ない理由もそれだけで納得されたかどうかは分かりません。
ミヨ様の可愛いがってられるお人形には、十八ヶ月の乳児服がぴったりなので、目につくと買い、ミヨ様が僻(ひが)まれるほど、衣装持ちになっていま
す。はじめ、人形に服など勿体ない! と叫んでおられましたが、今は喜んで新しい服でまわりの人にもお披露目をなさる。お人形は、ミヨ様とあの世まで
もご一緒の約束になっています。
竹司さんの絶縁状には、誰かの葬式には来るようなことが書いてありましたが、仮に誰に万一のことがあっても、竹司さんはもとより、誰も、来るには及
びません。知らせもしません。死者は、生者を煩わすべきでない、とは作家M氏の言葉ですが、そんな意味でもない。竹司さんが言い出した「絶縁」とは、
そういう事なのですから。
なぜ、先ず竹司さんは、あんな乱暴な失礼を、潔(いさぎよ)くあやまらないのですか。
竹司さんの理性を欠いた「暴発」(これはあなたの手紙にある表現なのよ。)の結果として、私たちは、娘と孫とを失わざるを得なかった。お父さん(=
秀樹)は勿論、私も、この結果を、こころから憎みます。おさまりません。
相談のテーブルを蹴って、自ら援助の門戸を閉じ、焦(じ)れてまともでない手紙を書き、撤回するどころか絶縁だと宣言し、あげた手紙を読みもせず送
り返し、いよいよ金銭のやりくりがつかず、ついには福祉に頼ってお産をしなければならなかった。皆、あなた方の不心得がそうしたので、私たちがさせた
ので無い事を、よくよくあなた一人にでも思い出して貰いたいのです。
他人様(ひとさま)にこのトラブルをご理解いただくには、これからは、躊躇無く、まず最初に、竹司さんや夏生の、例の手紙を見てもらいます。いくら
夏生の頼みでも、そうしない限り分かって貰いにくいと、つくづく甘木様や山根先生とお話しして、思い知りました。内々でと思えばこそ、親がわりの甘木
様やお仲人の山根先生にお願いした仲立ちでしたが、内々にという壁は甘木さんの手で簡単にこわされました。やむなく、いまお父さんは、いろんな人脈を手
さぐりに、「動き」だそうとしています。私ももう止める気持ちは失せています。二年間もの私たちの我慢、たやすいものではありませんでしたからね。当
然の反撃です。
夏生。あなたもりっぱな大人。パパが悪い、ママが悪い、あげく春生(はるき)が悪いとまで、他人頼(ひとだの)みの繰りごとは、もう、言わないこ
と。
ママは怒っている、と、身にしみて、気を落ち着けて認識する事です。
今にして経過報告を兼ねたつもりの前便が、さようならの手紙に相応(ふさわ)しく思えてきました。信哉の誕生日が近いので、九日までにカードが届い
たら、マミーからの最後のお便りよと、渡してやってください。
さようなら、愛しています。私たちは最後の最後まで真剣でしたよ。
一九九三年 九月五日 母
まだ先は有った。むなしい先であった。
* 夏生に。 (平成五年九月)
矢は弦を、いま放れる。親はもうこの世に亡いと思って内村との道を行きなさい。
ゆうべも母さんと、しみじみ話した。この夏休みに入り、なんとか都合をつけて夏生が一度でも大泉へ来てくれていたら……大きな前進だったろうに、
と。「来ない」おまえに、おまえの意向や意思や選択を察しえたときに、われわれにも結論が見えたのです。親から自立し、妻に、母に、徹しなさい。それ
が父の最期の訓えです。おまえは「内村竹司の身内」です。板挟みの苦から、両親はおまえの手を、いま、放してあげる。
健康でありますように。
内村夏生殿 さようなら。 平成五年九月九日 父
もう、どうしようも無いと奥野は決断した。
とにもかくにも、このように書いてみた。結婚式に列席してもらった一人一人を念頭に書いてみた。
*
拝啓 ご高適の御事とお慶び申し上げます。
日頃ご無沙汰を重ねながら、本日は突如かかるご挨拶をなさねばなりませぬ事を、恥じ入り、また申し訳なく存じます。まず、御詫び申し上げます。
昭和六十年六月、私どもの長女は、早稲田大学教授山根信之氏ご夫妻のご紹介とご媒酌により、また元総長、現総長ほか多くのご厚意に見守られまして、
故内村遶理事の長男、当時早稲田大学助手でありました内村竹司と結婚致しました。
その内村竹司から、二年前でした、一度の話し合いもなく、突然私ども夫婦への罵詈罵倒の手紙数通とともに、「姻戚関係を今後絶つ」との一方的な絶縁
通知がありました。
不徳の致すところで何とも申し様なく、そういう態度に応答すること自体恥ずかしくて私からは一切の返事をせず、内村の反省と謝罪とを、ただ待ちまし
た。当時内村は大学への就職決まらず、それが心理的にわざわいしたやも知れませんが、それにしても妻子あり教育も受けた三十半ばの男子の態度とは信じ
られぬ、無礼で無体なものでした。手紙はすべて保管してありますが、「恋愛結婚ならば知らず、見合いで結ばれた嫁の実家」から「婿の家庭」へ独立の住宅
をあてがわず、月々の生活費等も支給せぬ「非常識」を咎め、支援は「察してするのが常識、せぬは非常識」と言い募っての「絶縁」 宣告でした。夫婦して
ゼロから出発した私どもの人生観や生活やまた経歴を、侮り毒づき、「学者には援助が常識」と言い放つ高慢には、虫酸が走りました。
二年待とう。それが私の、「答えず」の真意でした。二年待ちましたが反省の色なく謝罪もなく、加えて娘や孫たちとも逢わせない、通信も妨げる、娘が
私かた病祖母の見舞いに行くというのにも、「離婚」をもって妻を押さえるという、一事が万事の有様が続いています。内村暴発の手紙は二年経てなお見る
に堪えず、心なく無残です。
ここに、二年前九月の内村竹司の「絶縁」通知に初めて応えまして、「無縁の者と処置」する旨、返答しました。娘や孫をも永く喪う結果となりますが、
妻として子として、娘や孫たちが、内村家で安穏に幾久しく幸せでありますよう、最期に祈るのみです。
なお伝え聞くところ内村竹司は茨城教育大学技官を経て、現在、白金女子大学国際学部講師の地位にある由。娘や孫のためにその良識にめざめた前途を願
いつつ、「許さぬ」の意を伝え、義絶致しました。遺憾ながらこの旨ご通知申し上げます。
心境と状況、お察しくださらば幸いです。
ご清適を乱し申し訳なく、重ねて深く御詫び申し上げます。 敬具
平成五年 九月 日 奥野 秀樹
*
むろん山根らの他、誰一人にも奥野は送らなかった。ただこう書き置かずにおれなかった。
憎悪にかられたことは、しばしばだった。生まれて初めて人を心底憎んでいる自身に奥野は寒くなった。熱くもなった。関係のない他人は、くだらない、よせ
と言うだろう。他人(ひと)の身の上できけば、自分でも冷淡にそう言うだろうなと奥野は苦笑する。我が身と心とを「憎悪」という怪物の餌食にさしだしてい
るわけか。学生に戒めたことを、おれは教授だった間も、教授を退いた今でも、やめない…のか。
「いいだろうが。生きているということだ。そのために、おまえさん、死期をはやめるかも知れない。分からない。奥野秀樹、悟り澄ます境地にまだ遠いの
か、悟ってるから頑張るのか、それもわたしには分からん。執念深くやるのがおまえさんの手法だもの、徹底的にやればいいさ。私怨の文学を創っていいんだ
よ、殺気のほとばしるもの、書けよ」
酒の勢いとも思われない沈んだ声で、駒井次郎は奥野の聞き役をつとめてやりながら、奥野もぎょっとするようなことを言った。
「夏ちゃんを、おまえ、これで二度棄てたんだ。内村の手へ棄て、もういちど内村の手へ棄てた。そのことだけは忘れるなよ。けしからんと言って
いるんじゃない。これだけながく人間が地球の上で生きてきたんだ、もっと凄いこたぁいっぱい起きてるさ。夏ちゃんも今はきっとおまえさんたちを恨んでいる
だろう、親に棄てられたと。そんなこと言ゃ、おまえさんも実の親に棄てられ、育ての親を棄て、あげくの物書きじゃないですか。夏ちゃんだって春坊だって、
そういうおまえを忘れてしまゃしないと思うよ。忘れないでいて、自分の道を結局見付けるだろう。かりに、よう見付けなくったって、おまえの責任だなんてあ
の子らも言わんさ、おれも言わんよ。本人の問題だ。だから夏ちゃんのことは、もう気にするな。西行じゃないが足蹴に庭へ蹴転がした。そりゃ事実だが、だか
ら愛していないッてことには、ならんさ。おまえの娘だもの、あの子はやってくよ。分かる者には分かるよ、言わなくても」
「分からんヤツには、なんぼ言うたかて分からん……か。それが分かっててこんなことしてるんだからナ。おれは」
「それが凡俗さ。ま、奥野にいた頃とは、段違い…、鍛えられておるよ、あの娘(こ)は」
「慰めてる気か。諦めちまえって言ってるのか」
「けしかけてるんだよ。だって燃え切ってないんだろ。はっきり言って復讐したいんだろが。復讐たって、おまえには武器も手練手管も無し、書くしか出来ん
男だもの。それを、そんなの書いちゃいかんとか、みっともないとか、文学の冒涜だとか、下らんことおれは言わんよ。作品に成ってればよし、成ってなきゃ駄
作なんだ。でも、駄作だって書いちゃならんとは思わんよ。書く運命の人間が、理屈つけて、書きたいのに書かんというのは不衛生だから。何だって書ける畑な
んだ小説は。恋愛やセックスはいいが、怨恨や復讐心や未練はモチーフにしちゃならん、なんてことは、無いね」
「蘆花…。久米正雄。谷崎と佐藤春夫も小説でやり合った。志賀直哉と里見トンとにもあった……」
「残念ながら傑作はない。だけど彼らが本気で作家として生きた証しになっているよ」
「恥ずかしい話だがね……ま、内村の…いわば進路妨害のようなことさ、講師を助教授にさせないとか、教授にさせないとか。そんなことでやっつけたいなん
て、凡俗は、真っ先に考えちまうもんなんだ。おれも、その煩悩から自由になるのはキツかった。これは、だけど最低でね。考えてないよ」
「ああ最低だ。なにか、…やったのか」
「やりかけた…。できなかった。書くしか、きみの言うとおり、無いんだ。それも、あいつを失脚させたい目的で書くんじゃ、だめ……。そんなご利益(りや
く)を望んで書いちゃいかんのだ。ヤツが、結果、どう出世しようといいんだよ。どうせ仇花(あだばな)でね。しかし、闇に言い置いたもの、言葉で書いて刻
印したものは一人歩きする。そして残る。読まれる。記憶される。噂される。その結果がなにをもたらすかは分からん。ヤツ一人がシャアシャアしてて奥野秀樹
は潰れ、夏生も孫もおれを許すまい。
仕方がない。後悔すまい。どう、指でほじくり出しかなぐり捨てたくても、決して出来ない言葉で、ただ書き置く…」
「そうか…。物書きが復讐するのなら、それしかないナ」
「また『心』の話をするがね。あの先生が、おれはまだ復讐していないと言っていた。はじめて読んだ時、この人にどんな復讐が可能なんだろうと、ちょっと
怪訝(けげん)な気さえしたよ。でも…」
「遺書を書いた、あの先生は」
「そうなんだ。あれが彼の復讐だったんだ。書くことで刻印されちまった。単純にゃ遺産を奪った叔父一家の背信を刻印したんだが、じつは、先生の奥さんに
たいする、さらにはKにたいする告発と刻印も、あの遺書は実現しちゃってるとも言える。そう思ったとき、ああ、おれにも書くべき『遺書』があると、腹の底
まで響くちからで感じたんだ」
奥野は、友にそう告げ、盃をほし、そっと下に置いた。駒井はそんな友には気がつかない顔をして、元気に「くさやぁ」と、土間の女将に言いつけた。奥野に
はなかなか理解できない駒井次郎の好物が、くさやだ。
「くさいものに、蓋をするな、ですな」と駒井は唇をとんがらせ、奥野へにやりとした、「おまえさん知らんだろ。ホメロスの英雄オデッセウスという名は
サ、怨み・復讐という意味なんだぜ」
──アア、えらそうに言いながら、おれは、とうどうRさんにあんなものを送ってしまった。自分の弱さに負けたんだなと、くっと目頭ににじんでくる悔しさ
が奥野にあった。
*
* 大学の数人の先生に宛て。
たふとむもあはれむも皆人として片思ひすることにあらずやも
今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその片おもひ 窪田空穂
この「片」一字を空白にして学生に埋めさせますと、意外に難渋するようです。「片思ひ」といえば 男女の恋に限った言葉と思いこんでいまして、空穂の
歌のように、より広く深く根の悲しみに触れる ことが、なかなか出来ません。それでも、ほんの少し手引きしますと、授業後のある学生のメッセー ジに、他
は忘れてしまうかも知れない、が、今日の空穂の歌の「片思ひ」三文字だけは、生涯忘れな いでしょうと書いてあったりします。
花びらの如き手袋忘れゆき久しくも逢はぬわが幼な孫 出浦やす子
白風洗秋の日々、心晴れぬまま、胸中の鬼との対話に疲れています。どうか、拙いしかも旧著です が、ただ、お納めくださらば、すこしでも私の心はやす
まります。
平成五年 十月三日
三年まえ、いきなり、内村竹司の「う」の字もないこんな添え手紙といっしょに、見もしらぬ他大学の作家教授から自著を送ってこられた、白金(しろかね)
の学長や学部長や学科主任や大学理事長らは、さぞ怪訝(けげん)に思ったにちがいなかった。
奥野の思いはたゆたい迷っていた。どう、なにを愬えていいのか、どうして貰いたいのか、算段も思案もなかった。ただもう道を手さぐりしていた。
その間にも、「もし自分の手紙を公開したなら名誉毀損の罪で告発する」という、六法全書から法文を切り抜いたコピーの添った内村の手紙が、奥野の勤める
大学の教授室宛てに届いていた。
「そうも威したいほどひどい手紙だと、竹司は、自分で分かってるわけだ。夏生(なつみ)お姉サン、おかわいそうにィ」
夏生の弟は言葉尻を歌いながら、パチンと指を鳴らした。
それでも奥野は、書く機会があれば、よそごとの体(てい)にやや韜晦の筆をつかって「学者婿」内村に、三度四度と触れた。尋ねられれば率直に誰にでも話
してきた。そのほうが自然な気持ちになれた。
さる親しい能楽家の息子の結婚披露宴に招かれたテーブルで、たまたま白金の学長と同席したときにも、奥野の方はやり過ごすつもりだったが、宴たけなわ、
N学長の方から近寄って来られ、何度かの「献本」の隠された「事情」を聞かれてしまった。
奥野は初めて「内村」の名前をだし、手短かに、だがあけすけに話した。そして自身の失礼を詫びた。
「できる人と聞いていましたのに。ひどいですね、それは…。(学問で=)やってることと、(人として=)することが、違いすぎる」
そんなふうに言われた。
奥野は、その上のなにも望まなかった。まもなく退任し、大学を去る人だと聞いた。気にかけてもらっていたと分かり、話して胸にすこしひまあく心地がし
た。それも情けなかった。
元学長とはその後も能楽堂でときどき顔が合い、声を掛け合ったりした。
だが…、今度のR氏とは面識もない…。
肩を落とし、じっと物を思い……、そして遂にかつて手を触れたことのない娘の、奥野夏生(なつみ)の卒業論文草稿を、奥野は書斎の机へ運んで来た。掌
に、冷えたファイルを、そうっと置いた。
全くの草稿だった。ほぼ清書と見えながらまだ書き入れも直しもあった。コクヨB5判四百字の原稿用紙を、黄土いろ横あきの簡単なファイルに綴じ、百二十
四頁。ファイルの表に題も署名もない。
奥野の知らないムンクの絵がちいさいカラー写真で貼ってあるだけで、第一頁にもタイトル、目次、署名もなにもない。間違いない夏生の筆跡、全部鉛筆書き
で、二行め上へ大きく「第一章 『歴史』への道」と見出しを書き、次行の下に「――壁画概要」と小見出しがしてある。本文は、「一九一六年九月十九日、オ
スロ大学の講堂で、壁画の除幕式があった。ノルウェーが世界に誇る、画家エドワルド・ムンク(一八六三〜
一九四四)の作品である。」と書き起こして、改行していた。
論文というよりエッセイだった。明らかな下書き。自分の思いを確かめ確かめ納得しようとしている文章だった。独り合点でひとかど学問している気で書いた
むかしの自分の卒論にくらべれば、夏生はごく素直に、調べながら考えていったことをレポートしていた。力んでいない、むしろ目をとじて独り言をそっと言い
つづけている感じだ。夏生の低い声を聴いているように奥野は読みつづけ、いつのまにか泣いていた。おうおうと泣いていた。
夏生は両親へ、ことに父へメッセージを送っていた、ムンクの大作を動機的に検証して行きながら、ムンクの動機にさも倣うかのように。
ムンクは、ノルウェー国の客間的存在、ノーベル賞の受賞式なども行われるオスロ大学講堂の正面主壁に、昇る朝日と輝くフィヨルドの『太陽』を、向かって
左に、昔語りする老人の『歴史』を、右には、子らを見守る大いなる慈しみの母『アルマ・マーテル』を描いていた。三大作をとり囲んでなおスケッチ風な薄塗
りの他の八点も描かれているのだそうだ。
ムンクのまだ幼いうちに母は死んでいた。父と息子エドワルドには諍(いさか)いが絶えなかった。
乖離(かいり)は、だが「徹底的なものではなかった。」
ある晩、私は父と、不信心者はどのくらい地獄で苦しむものかを言い合った。私は、神が千年以上も苦しめるような大罪人はいないだろうと言った。彼ら
は千年の千倍も責苦を受けねばならぬと父は言った。私は譲ろうとしなかった。諍いは、結局私がドアを荒々しく閉めて外へ出ていくことで終った。しばら
く街を歩きまわった後で怒りは去った。私は家に帰って父に許しを乞おうと思った。彼はもう寝に就いていた。私はそっと寝室のドアをあけた。彼はベットの
上でひざまづいて祈っていた。それはついぞみたことのない姿であった。私はドアを閉めて自分の部屋へいった。落ち着かない気分で、眠ることができな
かった。私はスケッチブックをとりだして描きはじめた。ベットにひざまづく父を描いた。サイドテーブルの蝋燭が寝衣の上に淡く黄色い光を投げていた。私
は絵具箱を出して色をつけた。それはかなりいいスケッチになった。私は充ち足りて横になり、すぐ眠った。
このエピソードは、ムンクにとって、作画という行為が何であったかを、かなり端的に示している。第一に、絵を描いている間のムンクは、父と諍ったエ
ドワルドではない。画家として第三者の視点を持つことで、父子の相克を超越し得るということを、彼は学んだのである。第二に、作画は、癇の強 いエドワ
ルドの、心悸亢進の有効な対症療法であった。つまり作画を通じて、エドワルドは身心ともに、自己を脱却することができたのである。そこで第三に、彼は自
己の精神生活をドキュメントとして描くことで、苦悩から解放されることを求めたのである。もちろんこれらのことを、ムンクはまだはっきりと意識しては
いないのであるが……。
ムンクは画学校に入学した頃から急進的な写実主義の使徒であったクリスチャン・グローブに接近し、その運動グループのクリスチャニア・ボエームに参加す
る。基調はアナキズム、敵はキリスト教と道徳と旧法典で、「ボエームの九つの戒律」は反俗精神の「アイロニーに満ちた凝縮」だと夏生は数えあげていた。
1 汝、汝の生命を書くべし
2 汝、汝が家とのかかわりを根絶すべし
3 父母はいかほど虐待すれど、したらぬものなり
4 汝、五クローネ以下の借金のため、隣人と手をうつなかれ
5 汝、ビョルソンのごとき、すべての田舎者を憎み、蔑むべし
6 汝、セルロイドの袖口をまとうなかれ
7 クリスチャニア劇場にて、醜聞を起こさざることなかれ
8 汝、悔い改むなかれ
9 汝、汝が生命を絶つべし
ムンクは、だが、熱狂的な闘士にはならなかった。守ったのは第一項だけと言ってよく、「自殺は論外であった」と夏生は付記している。第二項にも反し、ム
ンクはいつも「食前の祈りとシチュー鍋の待つ」家へと帰っていったし、「父を虐待するということも、彼には成し得なかった」と書いている。ああ、それでも
ムンクは……己(おの)が生命を自ら絶った。
日付は残っていないが、大学四年生の秋、もう提出をまえに清書を始める十一月中の草稿だろう、ちょうど谷崎夫人の奔走で夏生の美術館採用が内定し、夫人
に耳打ちしてもらって浜町「すみ谷」で、奥野夫婦親娘が汗をかきながら世話になった四人の接待にこれ勤めた頃に書き上げられていった。
直後に奥野の京都の父が入院し、藤子は付き添いの間に心臓をいちだんと弱くした。夏生はだが卒論の仕上げでほとんど母を手伝えなかった。奥野も雑誌「世
界」の連載小説に心を砕いていた――。
夏生は親へ、内密に「ムンクふうの」いわばラブレターを書いていたようなものだった。ところが、奥野は読まなかった。そんなもの…といった顔でやり過ご
した。藤子も読んでいなかった。どの程度の夏生の落胆であったかも知る由なく、かろうじて夏生が封印していった「過去完了」のダンボール箱の中でそれは十
四年半も化石になっていた。夏生は、長い論文を、壁画「太陽」の作者ムンクのためにこんな詩で結んで、だれの詩とも断わっていなかった。
長い道程を行こうとする
覚醒(めざめ)たばかりの魂よ
絶望の淵に立とうとも
諦(あきらめ)を学ぶな
日射しにまどろむ者ではなく
一個の熱い太陽となれ
奥野は、また泣いた。夏生の「片思い」がつらかった。娘が親を、父を、見捨てたのではなかった。そのまえに「あんたらが、あたしを投げ出したのよ」と夏
生はさぞや思っただろう。いま、あの子は、諦めずに「一個の熱い太陽」となろうともがいているのだろうか…。
夏生の『ムンク』を、いま現在の仕事にはさむことは出来ないが、「付録」として最後には付け加えたい……と、奥野は考えた。夏生の文章が、父の文章の、
塵労に汗饐(す)えたくさみやいやみを幾分でも洗い去ってくれるのではないか。奥野はそんなことをさえ祈るように、娘の温順な鉛筆の文字に、いつまでも、
見入っていた。
二一
またしても窪田空穂のこの歌こそ、繰返し繰返していつも奥野の胸に突き刺さって来る。
たふとむもあはれむも皆人として片思ひすることにあらずやも
今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその片おもひ
何度も何度も奥野は書いてきた。語ってきた。「たふとむ=尊む」も「あはれむ=愍む」も、人間関係に生じてくる感情や言葉を代表して謂うかのように読ん
で、よい、と。子の親へのそれと今一首から察してよし、逆にも、もっと広げたいろんな間柄にも言えることだと。 人と人とのどのような心情表現も、どこか
で足り過ぎたり足り無さ過ぎたりして、そこにお互い「片思ひ」のあわれや悲しみや辛さが生まれる。それもこれも、「皆人として」避けがたい人情の難所だ。
残念なことに、自分のする「片思ひ」にばかり気が行って、自分が他人(ひと)にさせてきた「片思ひ」には、けろりとしているのも「人、皆」の常であり、
自分も例外ではなかった、歌人空穂はそう嘆いているのだと、奥田は読んだ。例外でなかった中でも最大の悔い・嘆きとして、空穂は亡き「父・母」が、子たる
自分に対してなさっていた「しましし片思ひ」を挙げていた。「今にして知りて悲しむ」と指さし示し、歌人は我が身を恨んでいた、父も、母も、もうこの世に
は亡いと。この世におられた頃には、いつもいつも自分は、両親に「片思ひ」の不満不足を並べたてていた。なんで分かってくれないか、なんで助けてくれない
か、なんで好きにさせてくれないか。
しかも同じその時に、「父母がわれに(向かって)しましし」物思いや嘆息や不安の深さには、目もくれなかった…と。かく言う、おれもと、奥野は「今にし
て知り」かつ「悲し」かった。夏生(なつみ)にも春生(はるき)にも、妻の藤子にも「片思ひ」させてきたに違いなかった。情けない。
亡き父をこの夜はおもふ話すほどのことなけれど酒など共にのみたし 井上正一
安んじて父われを責める子を見詰む何故に生みしとやはり言ふのか 前田芳彦
ありふれた言葉の「片思ひ」も、こう読めば、人間関係を成り立たせるまこと不如意にして本質的に大事な、一つの辛い鍵言葉であることに気がつく。ここへ
気がついた時、初めて、自分が他者にさせてきた苦痛の「片思ひ」に気がつく。
奥野のうちで、消え入りたい気持ちが疼(うず)く。いや、ずっと、疼いていた。今も疼くのだ。情けない。
吾がもてる貧しきものの卑しさを是の人に見て堪へがたかりき 土屋文明
我・人ともに、この「貧」一字は、幾重にも読まねばならぬと奥野は思った。たまたま「好きな歌」を挙げよと新聞社に頼まれ、奥野は空穂の歌を、また引い
てみた。
思ふさま生きしと思ふ父の遺書に長き苦しみといふ語ありにき 清水房雄
「長き苦しみ」を誰もが生きねばならぬと、新聞原稿の文章を結んだ。
内村竹司に、夏生の夫に、「片思ひ」をさせていて気が付かなかったかどうかを、奥野は何度も考えた。
察して、頼ませないで、早く黙って金を出してやるのが婿への「粋」な援助だと、内村は奥野夫婦に書いて寄越した。
嫁がせた娘がつわりになれば、黙って引き取って出産の面倒を見、夫や夫の家に迷惑をかけないのが「嫁の実家」の務めなのに、それしきの「常識」もない、
そんなヤツとは「姻戚」を絶つと言ってきた。
内村が奥野にしたこれぞ「片思ひ」であり、奥野家は真実至らなかったのか。婿殿を傷つけたのか。
事情を知ったある人は、「嫉妬」と言って、内村の暴発を解釈した。「何に」と奥野が反問すると、「親娘に」と手短かな返事が返ってきた。金でも地位でも
仕事でも名前でもなく、「親娘に」とその人は言い、ポール・ジェラルディの『トワ・エ・モア』という詩集を貸してくれた、「3 かなしみ」というのを読め
よと。松村仁という詩人のいい翻訳だった。
奥野は読んだ。もう、以前のことだ。
かなしみ 『トワ・エ・モア』より 松村仁 訳
おまえには 過去がある
しあわせにみち 苦しみにみちた
遠いよろこび 古いなやみ
大きい過去が
おまえのその小さな頭いっぱいに
ぼくにかかわりのない 幻の
大きいかげり 小さい影がある
もういちど 話してくれ
いままでにおまえが百ぺんも話したこと
ぼくの知らない おまえの思い出
今夜 おまえの睛の底には 謎がある
ほんとなんだね おまえが 光のなかで
長い髪をみだして とびはねてた日があったのは
言ってくれ ほんとうに
この写真のとおり
ここに写ってる あまりきれいじゃない この姿のとおりだったのか
話してくれ そのころ おまえはなにをしていた
なにを思い なにをしゃべって
どんなふうに 暮らしてたのか
ここにある庭は こんなに広かったのか
この鉄柵は どっちにあった
この しようのない小娘が
ほんとうにおまえなのか
この流行おくれの帽子が
まちがいなく おまえのだったのか
それに この年寄りたちは
おまえを知ってた人たちなのか
おまえの初めての旅行
汽車に初めて乗った旅行
はじめての森 はじめての海を
ぼくよりも前に教えてくれたのは
この人たちだったのか
手をひき 肩にのせ
あそこをごらん とおまえに言った
この人たちは どうして
その役を ぼくにのこしておいてくれなかったのか
ぼくはおまえを抱き
遠くへ行き ふたりの旅路を教えてやりたかったのに
夜と夏を
さびしい ながい道程を
うつくしい村の名を
ぼくは おまえに教えてやりたかった
ぼくは それらをよく知ってたはずなのに
行く先々の 見はるかす地平線
町や部落で 案内人のぼくは
少しは誇らしげにできたろうに
この人たちは ぼくから盗んだものを 知っているのだろうか
もう 手おくれだ とりかえしはつかない
それに この人たちは
ずいぶん 俗っぽく見えるじゃないか
そう ぼくとおまえは まま しっくりしないことがある
それはみんな この人たちのせいなのだ
そうなんだ 休日を口実に
おまえを あちこちと連れ出し
ぼくよりも前に おまえの一生に 消えないものをしるしてしまった
もう 考えまい
その写真は しまってくれ
この「嫉妬」は、だが「愛」の表現だった。この「ぼく」なら、「おまえ」のつわりをいやがるどころか、出産に立ち会うのも「愛」ゆえの権利だと主張した
だろう。妊娠中は実家に帰れ、夫を煩わせるなとは言うまい。なんで親のもとへ行くか、ぼくは愛しているのに。いつも、いつまでも、いっしょにいたいのに。
そう言って恨むだろう。
内村竹司がこの詩の「ぼく」の嫉妬を、夏生の親たちに対しもっていたのなら、なんと夏生は幸せであったろう。無念なことに、だが内村は『トワ・エ・モ
ア』のモア(ぼく)ではなく、あの自己暴露は、どうみても『女の一生』の無残な夫ジュリアンだった。内村はどの手紙でも夏生を「妻」とは、ただ一度も呼ん
でいない。実家の金を吸い上げるパイプに過ぎない「嫁」だ「嫁」だと繰り返していた。内村は「嫉妬」した、「親娘」の仲に、という読みは奥野らには、たぶ
ん夏生にしても、無理筋だった。
奥野の家に行くと夏生の写真、夏生と信哉の写真、親や弟と夏生の写真はあるのに、内村のまじった写真は見当たらないと言って不機嫌だった話は聞いた。だ
がどんな機会に竹司の写真が撮れただろう、ろくすっぽ彼は奥野らに馴染もうとしなかった。
ジェラルディの「モア」は、だが、そんなケチな嫉妬のかなしみを歌ってはいない。もっと切ない運命と愛とを歌っている。
内村竹司が、あれ以来夏生を手放さないでいるのは夫婦愛かもしれない、それならいいが意地と面子(めんつ)かも知れない。奥野はかすかにそれを疑って不
安だった。仲良くやってくれと祈るのも、本心。若い夫婦に、過酷に水をさしているのも事実。矛盾――に、奥野は唸った。藤子といる時にも、ひとり電車など
の中ででも、はたの者が顔を見るほど奥野は突如唸った。どうにもならない葛藤に恥じしめられ、苦しい胸の毛玉を吐くに吐けず唸った。R氏が、どうか何も
言ってこないでくれますようにと願った。
幸い、ものに思い煩っていられない忙しい時がまた来た。創刊して満十年を通過した記念の、私家版全集「塔の本」の第四十六冊めが出来てきた。発送に奥野
は追われた。十年のうちに手順は練られ作業も工夫され、藤子の手を借りなくてもおおかた奥野一人で荷造りができる。藤子は郵便局に連絡し、およそは四、五
日間かけて、荷を集めにきてもらう。読者のカードを整備する。一人の作家だけをやっていていいものを、なんでおれはこんなことをと思わぬこともなかった
が、おれにしかできないという幸せも奥野を動かして来た。
折りもよし、大手の経済新聞が日曜の文化面を広くあてがって、その「作家の出版」について書くよう頼んできた。文化部長直接の電話で、聞けば年来の読者
が「十年」続いたシリーズを売り込んでくれたらしかった。ありがたく奥野は原稿を引きうけた。
「塔」の十年には、奥野夫婦の塵労といわば清福とが凝っていて、もうこれなしに奥野秀樹の生涯が人に印象されることは無いとさえ言えた。
春生(はるき)が奥付に発行人として名を出していた。夏生(なつみ)は「十年」より以前に奥野家を出ていた。内村はその「十年」を知らない、知ろうとも
しなかった。「作者から読者へ、手渡され続けた作品」と奥野はまず大
きく書き、題にした。
どんなに読みたい文学作品でも、書店に行けばきっと買えるわけではない。では版元 の出版社に注文すれば、手に入るのか。版元にも、年々歳々の出版物を
在庫管理できる広い倉庫は、ない。
文藝書のおおかたの初刷部数は、三、四千部以下でしょうと、大手の出版部長が公の場で発言していたのを聞いたことがある。考えようで、必ずしも少ないと
思わないが、けっして多くはない。そしてこれが、そこそこ売れようとも、ますます売れるということには、残念ながら滅多にならない。増刷するなら千部が限
度だろう。だが、そんな少部数を刷って製本して、元が在るのだから安く上がるはずなどと皮算用されると、とんでもないのである。値上げしたいぐらい、手間
も金もかかる。だから、少々の成績で増刷を作者に希望されると、版元はつらい。造った分がすっかり残って動かないことも、まま、生じる。
どんなに読みたい本や作品でも、これでは、らくに読者の手に入るわけが無い。版元は売れないと言いわけするが、売れるものだけを売れるにまかせ、他は売
ろうとしない例がじつに多い。悲しいかな、そこにも力不足があるのであって、こうも出版物の多い 時代に、ひとしなみに売ろう努力など払えるものではな
い。しかたなく、つまり売れる ものだけをもっと売ろうという仕儀となり、たいていの文学作品には、手も力もまわらない。文庫本でも、むしろ文学作品ほ
ど、出たかと思うまに品切れ・絶版の例は、いっぱいある。
では、どうしようもないのか。文学は売れませんと、こともあろうに売り手に「宣伝」されてしまうと、作者は弱い。自由業とは名乗っているが、なんの、出
版社の、いわば執筆部に非常勤雇いの立場にしかいない不自由業なのだから、よほど世渡り上手でないかぎり、売れませんなぁ、そうですかと引っ込み、愚痴を
こぼしているしかない。
私は、小説やエッセイの単行本を、六、七十種も出版してもらった十数年間のうちに、
およそこのような出版事情を実地に覚えた。だからといって、読者からの、あの本は、 あの作品はの問い合わせや希望には、なかなか応じられない。だが、
謝っていて済むこ とか。なぜ私が謝るのか。自分の著書が景気よく売れないからか。もともと景気よく売 れなくてもいい創作を、真剣に、丁寧に続けてきた
のだ、口が曲がっても売れないのを愚痴になどしたくない。それにしても、十年二十年かけた作品もある。半年一年で消え失せるのでは、作品がかわいそう。読
者も気の毒。私だって実につまらない。
手は、無いのか。有る、と思った。絶版や品切れ本を、自分の手で簡素に美しく、小 部数でよい、復刊しつづけようと決めた。作者の手から読者の手へ、直
接に手渡すこと の可能な私家版全集を、造る技術なら、幸いむかし編集者の私はもっていた。
しかし、かりにも小説や批評を書いて食ってきた人間が、大出血して生活を犠牲にそ んな真似をするのでは、情けない。利は、事実まったく生まないけれど
も、問題は、造った原価や送料ぐらいは回収できるかどうか、だった。うっすらと血はにじんだ。幸い 作品は、たっぷり在る。質の評価は読者がして下さる。
少なくも一度は出版社が出してくれたものばかりだ。そして、家族のありがたい協力がある。一つ、作品。二つ、技術と体力と根気。三つ、家族の協力。そして
その全部を支えて下さる「いい読者」の存在。必要で十分な条件は、これだけだ。
年に四、五冊。小説で走りはじめ、今はエッセイのシリーズも併走して、都合四十六 冊めを今月も送り出した。一九八六年九月の糸瓜忌に、正岡子規賞作品
『獺祭(だっさい)』で創刊し、きっちり満十年を経過した。口コミだけで、北は稚内(わっかない)から南は石垣島まで全県に、アメリカにも少ないながら、
読者がある。九割五分が継続購読者なので製本部数の読みはらくだし、目的どおり僅かでも在庫分をのこして置ける。あれをと注文が来れば、即日、発送でき
る。あっちこっち探し回ってもらう必要は無い。そればかりか、読者と作者との連携は密になり、津々浦々に親類がいるような安心があり、じつはたいへん便宜
もある。電話一本でものが尋ねられる。力も、貸してもらえる。
むろん、十年間には、読者の出入りがあった。現在の継続読者の何倍もが、いろんな事情で「奥野秀樹・塔の本」の上を渡って行ったし、月日を経てまた購
読を再開する人もある。とにかく読者とは、まごころ当然、しぶとく、ねばりづよく、あたう限り親切第一に友人づきあいを努める気でなければ、ただのミニ出
版社でしかなくなってしまう。私は、出版人として「塔の本」を読者に送りつづけてきたのでは、けっして、ない。いわゆる出版社でしたくても出来ない増刷と
在庫の確保を、作者が肩代わりしてあげながら、現代の「出版」を批評し、また協力しているのである。読みたい本が手に入らないと嘆息されている、とりわけ
東京から遠い地方にその嘆きは深いのだが、そんな「有り難い・いい読者」と倶に、文学と作品とを、分かち持っているのである。倶に「文学」しているのであ
る。むろん新刊は変わりなく各出版社から出してもらった。「塔の本」では、絶版と品切れの作品を主に復刊すべく頑張ってきた。新作も少し加えた。版元には
感謝されていいはずだが、叛旗をひるがえす逆賊のように白眼視され、罵声まで浴びた。その一方、有り難い応援も、各方面からびっくりするほど多く戴いてい
る。見ようでは、これほど大勢に恵まれ助けられている作者はすくないだろうと思う。
たしかに「塔」はもう高くならない。不景気の強風に揺れてさえきた。けれど、確実に「建って」はいる。それを喜んでいる。いつかは崩折れようが、読者と
作品のために、今少しでも、もち堪えたい。
*
いま発送を終えた小説は、書下ろしの未公表作品だった。例外だった。そんな例外をあえてして、奥野ら夫婦は「十年」の苦労をささやかに自祝した。
十年――のうちに、いろんなことが、あった。あってあたりまえだが、不思議と思う心地も奥野をとらえていた。
このシリーズを「創刊」へと思い立ったその日、春生(はるき)は早稲田中学、高校を経て大学の入学式だった。夏生(なつみ)は前年六月に結婚し、つわり
に悩んで、信哉を生むために美術館を退職した。あの年、奥野は初の芝居を劇団「湖(うみ)」のために脚色し、上演した。佐倉芳江に導かれた、原作は、漱石
の『心』だった。
やがて助手年限のきれた内村竹司は、パリに三年の留学を決め、奥野は二度めの新聞小説を書いた。欲しかったシシリー島の資料を夏生は探し当て、向うから
送ってくれた。手紙もよくくれた。奥野の父が死んだ。叔母も死に、母は衰えた。藤子の共倒れをおそれて奥野は老母を施設の介護に委ねた。
春生は卒業し、就職し、帰国した内村は大学に地位をもとめて、空しい月日が過ぎた。内村家では姑と嫁が、妹と兄が反目しはじめた。夏生は二度めを妊娠
し、そして思いがけなく、婿の内村の頭越しに舅の奥野秀樹の方へ、都内の国立大学から教授就任の要請があった。春生は「名門だよ父さん」と電話のそばで教
えてくれたが、奥野には疎い理工系の大学だった。いっそ興がって、引き受けた。
内村は家族との軋轢に負け、不運にも焦れ、あげく奥野の方へ「暴発」した。黙殺されるとますます焦れ、金をくれぬ嫁の親とは「姻戚」関係を絶つと言って
寄越した。それすら二年間黙殺され、その間に、内村はやっと地方大学に技官資格で就職した。先に望みの薄い地位だった。次男道哉が生まれたあと、内村は念
願の国立を断念し都内白金の私立大学に講師で迎えられた。前職の技官が邪魔して、すぐ助教授にはなれなかったらしい。
春生は、勤務の縁で劇作家つたひできと出会い、つた氏の鞭撻を受け、いつ知れず劇作と演出の仕事に希望をもって活動しはじめた。
奥野と内村のこじれた仲は修復の努力空しく、奥野は握っていた夏生の手を、あえて手放した。
愛しかった子猫のノコが、十九年間を家族として生き、とうとう藤子の胸に抱かれ奥野にも見守られて死んだ。
教授の四年半も過ぎ、奥野はことし春、規定の六十歳定年で大学を無事退官した。文学賞の三つ四つに匹敵した、学生諸君との奥野には楽しい、いい道草だっ
た。
夏生のかつての恋人戸川一馬の結婚するという手紙が舞い込んだのは、ついこの六月だった。戸川はやり過ごしたが、今度は佐倉芳江の離婚を、京都で、人に
囁かれて来た。やり過ごそうにも、あまりのことだった。奥野は呆然とした。
内村は助教授に昇進できたのだろうか、パリ一年の留学にまた八月初めに発った。発ったそうだ…夏生も。孫の二人も。奥野も藤子も夏生や孫に逢いたいが、
諦めは深かった。孫たちの可愛さすらだんだんと忘れかけて、藤子は東南アジアのどことかの国にささやかな名目の養子をもち、レターを書いたり援助の寄付を
したりしていた。
あぁ…そんな「十年」だった。そして、いま、春生(はるき)――春生が、もがいていた。
*
八月二十九日(木) 曇 暖
* 春生、藤子に電話を寄越す。数日高熱と腹痛に悩んで、日大病院や近くの救急病院へ行ったという。点滴も受けたという。理由は分からないらしい。し
かし、また配置転換の噂が出ていて、地方転 勤という説もあり、恩義ある上司が自分のところへ引っ張ってくれるらしいという情報もあり、どっ ちに転んで
も芝居がらみで、退社やむなしと悩んでの神経性胃炎ではなかろうか。
藤子も、先夜、R夫人の電話に出ただけで,直後,強烈に腹痛を起こしている。
* 春生は、私と触れあう前に、先に辞めてしまい、事後報告する気でいるらしい。それは間違っていると思う。ことは、甚だ錯綜している。知恵は寄せ合っ
たほうが宜しく、いいかげんな見切り発車は愚かで危うい。立つ対策はすこしでも慎重に立て、賢明に断行した方がいい。
* どうも、まだ、退社したあとの人生苦渋へ想像力が乏しくて、事態の把握よわく表現もよわい。三十に手の届く大人として、もうすこし現況を立体的・具
体的に憂慮し対策するちからが欲しい。本当は怯えていて、しかもタカをくくっている。
春生! ここが右するも左するも、正念場ぞ。
八月三十日(金) 曇 暑
* 春生(はるき)がまた藤子に電話してきた。会社の空気は、もう、にっちもさっちも行かないほどほぼドツボと化していて、春生は孤立、身の置き場もな
い有様らしい。会社から具体的に何を言われているのでもなさそうだが、白い目の衆人環視のなかにいることに、耐えられないらしい。幾分は被害妄想も
あろう、半ばは事実だろう。来年三月はおろか、今年の「暮れの芝居」に温情の理解を得ることすら、社からも職場の仲間の寛容からも、限界だ、無理だと春
生は言う。
泣きごとに類しているが、掌をさすような帰結だとも言える。こうなること「火を見るより明らかだよ」と、口を酢く警告したのに。
だが、どんな道がありえたか。ひとりで小説を書くのとはちがう、そこが、苦しい。せめて春生は、会社の仕事でうしろ指さされてはいけなかった。「芝
居」は免罪符どころか、会社や同僚には目障りなのだ。私にも覚えがある。春生に辛抱できても周囲の方が我慢ならないのだ。
* 辞めれば、健康保険、社会保険、市民税などの、明年度また今後の支払いが負担になる。失業保険 の給付資格も面倒な手続きになる。そんなことも頭に
無
いのではないか。
* 奥野家に、危険な時代が忍び寄っている。眉に火がついている。春生は、野宿にちかい崩壊または蹉跌をこのさき体験しかねない。耐える気力・体力・精
神力はあるのだろうか。すでに腹痛に悩んでいる。困った。
* 舟島薫の心理にも変化が出かかっている。大学へ戻りたい意向も口にしはじめ、それには一度は親の家に帰るより仕方ないかと、本人が言うらしい。親に
学資を出してもらって復学し、通学は春生の部屋からしたいような、「勝手なんだよ」と、春生すら小声で母親に苦笑するようなことも、薫は思っているら
しい。健康な発想とは言えない。
八月三十一日(土) 曇り小暑
* 何をしていても春生のこの先が気になる。ふっと、気弱く、こんなふうに考える。
* あまり健康とは言えないわれわれ夫婦が、年に*百万円で暮らす気なら、当分は、坐して生活できる。むろん金融機関に事故があっては困るし、インフレ
になったら手に負えない。病気や怪我という大敵もある。そういう危険要因を読み込まねばならないから、甘い見通しは禁物だが、その上であえて言うな
ら、藤子と二人で暮らして行く未来にと思い用意して来たものを、春生も含めて歩んで行くのだと考えれば、たとえ半減しても私たちが七十までは辿り着ける
だろう。努力すれば、原稿を売ることも、まだ細々とだが可能だろう。よしんば不可能でも、春生の人生が不本意なものになるよりは、春生が潰れてしまう
よりは、いい。
* 世間が、世俗の常識で彼を受け入れなくても、もしも春生に才能と根気とがほんとうに有るなら、いやいや、たとえ才能が不十分であったにしても、彼は
もう「創作的日常」という「毒」を嚥下(のみくだ)してしまっている。そういう人間は、もうそれを忘れられない。「忘れてしまえ」とは、同じ道を歩い
て来た 私には言いにくい。言えない。
だが、さて、そんなことを考えて、それは春生の「為」になるのか、本当に為になるのかどうか、だ。
* 夫婦二人で生きて行く老後だと思って来た。春生もいっしょに三人で生活して行くと思うと、不安だ。人生は経済だけ、食って寝てだけでは全うできない
からだ。だが春生の心身が充実して行くための援護だと思えば、何とか成るには成る。成ると思っている。失敗覚悟で、それ自体を三人の生き甲斐と考えれ
ばいい。
* たとえば株を買って失敗し、大損するぐらいなら、「春生という株」を買ってやる方がマシだろう。彼の進みたい先が、金を生む畑でないことは知ってい
る。金だけ欲しくて仕事をされても叶わない。右顧左眄(うこさべん)しないで、地道に努力してくれるなら、勇気ある投資をしてみてもいい。
* 怖いのは、安易な依存心。支えや援助を当然の取り分かのように考え、身を持ち崩してダラケられては、共倒れになる。幸か不幸か藝術は、短期決戦で
は、ない。だから、難しい、気力の要る戦なのだ。
* もう一つ、この発想には、薫のことが抜いてある。薫はわれわれの娘でなく嫁でもない。舟島家に属していて、健康にも生活にも問題を背負い、未解決の
ままでまるで宙に浮かんでいる。女友達としてなら黙認しておくが、この緊急事態に、薫まで抱えこむ余裕は、われわれには無い。
* 春生が独身のままで良いとは、思わない。しかし、親の希望は、聴かれれば、有る。春生を助けて、気力あり、心身ともに健康で気もちよい女性(それが
薫であってもいいのだ、が、)を期待したい。早く、可愛い孫を藤子にも抱かせてやりたい。
* 現状の薫との同棲を、ずるずる伸ばしに、一緒くたに抱えてやる元気は無い。薫は親の家に帰り、両親と話し合い、大学生活を続行する生活へ、健康回復
の生活へ、少なくも舟島家の家出人という現状からはっきり脱却した生活へ、戻って行くのが望ましい。春生のこの苦境に、女友達である以上の重荷となって共
倒れしてほしくない。共に溺れてほしくない。現状では、頼れるパートナーですらない。
* お互いに未来の生活に重荷となり合わない、フリーハンドな付き合いに戻って行けるもはや最後の機会ではないか。結婚を望むのなら、春生には春生なり
の、薫には薫なりのもっと堅実な自己批評が 「家庭」や「家族」への構築的な実感が必要だ。(こういうことを言うのを、内村は「中世的」だと嘲けるの
だが。)春生の現実は、甘い夢を見るにはあまりに厳しい。薫にも分かってもらいたい。なんだか『椿姫』の父親みたいなことを言うが。
* 必ず言われるだろう、春生(はるき)にしてやれると思うことを、なぜ、夏生(なつみ)にはしてやらなかったか、と。
はっきりしている。想像するだに、あの内村に金を与えて仲好くしている図など、醜悪だから。夏生はそのことで、ますます内村家の中で自分を喪失し、
幸せとは真っ逆様なほうへ落ち込むのが見えていた。内村家と金銭ずくの付合いは御免蒙りたい。娘夏生と、内村夏生は、おなじ夏生ではなかった。内村
は、春生ではなかった。
九月一日(日) 曇り暑
* 三時、春生が来た。親子三人で話し合い、結論として春生の退社に賛成した。同じ退社なら、退社せざるをえない退社より、前向きに踏み込んだ退社にし
た方がよく、精神論に過ぎないといえばそれまでだが、安易な蹉跌としてでなく、自己批評を経て、力強く退社してもらいたい。
* 春生の自己資金は、退職金や積立金も含め、せいぜい四百万円ぐらいの皮算用らしい。
一度の小劇場公演にどうしても百五十万円ほど、かかるそうだ。回収できればまだしも、赤字をだせば(五月は、やはり少し赤字が出たという。)あわれな
結果になる。月に二十五万円ほどの生活費と見ているらしいが、来年も、公演以外に市民税や健康保険など今年なみの支払いが必要だし、現在の家賃は八万
円。みるみるうちに資金は底を打つ。一年間はなにも考えず、ありぎりの資金で創作や演劇活動をすると言っているが、先は真っ暗だ。「こわいよ」と、こわ
がり春生の本音が出た。
* いざとなれば、担いでやらねばならない。担ぎ方が問題だと思う。卑屈にさせてもならない。せめて薫が健康な妻であれるぐらいなら、いっそ二人とも担
いでしまって、そのかわり家族の一員として薫にも尽力してもらうところだが、どうも、薫の本意は、もう春生の生活から浮いて、めくれあがりかけている
らしい。苦境を一致協力してやって行くには、精神・気力・体力・生活の自覚のどの点でも、力になる・助けになるというより、負担になる不安の方が大き
い。春生にも分かっていると見受けた。
* 今すぐ、まとまった資金を与えることは、考えていない。藤子も反対だ。それは役に立たない。刀折れ矢尽きるまでは、会社をやめても…と自ら覚悟した
以上、自分の持ち前で頑張ってもらう。余儀ないことになれば食うと寝るとの面倒は見る。それだけは安心して、精一杯勉強してもらいたい。偶然の僥幸で
得た自信など、底の浅いものだ、今が好機と思って本気で、悔いのない勉強をしてほしい。基盤のない建築は危ない。
* それにしても、面痩(おもや)せて、どことなし、いかにも人生を「こわい」と実感した春生の体躯や表情に、胸を痛めた。
私には家庭の支え、藤子や、夏生や春生のいる家庭の支えがあって、安心して仕事に打ちこめた。碁でいう両眼が出来ていたから、安心して手を前へ前へ
だして行けた。それを願って早く自分の家庭をもった。
受賞してからでも五年、就職してからだと十五年半、頑張った。無収入でも十年…という用意を調えてから退職した。私には責任があった。
* 春生の退職は比較にならない危険なものだ。よく自覚し、父の場合の何倍もの努力と勉強とがなければ、脱却できまい。心身の健康を大事にと願う。意味
のない慢心は捨て、初心に帰り初心を保って、努めてほしい。一度、頭をからにした方がいい。日本の野山に、凡山凡水に、ただ目をやり、三、四日、ぽく
ぽくと歩いて来るのもよい。
九月七日(土) 晴 暑
* 昨日、山根信之氏の「塔の本」払い込み票に、夏生らのパリに行ったことが、さりげなく書いてあった。知らせるでもなく、ごくあたりまえに書いてあっ
た。なしくずしにあたりまえのように話題にするとも取れ、困った。そんな気分ではないので、下記の手紙を出しておいた。
*
京都から戻りまして、例のご送金を頂戴し、添えられたお便りも拝見しました。また先日は、学生さんたちとの旅のお便りも頂戴し、有り難うございまし
た。京都では、関係しています財団の美術雑誌で、定例の対談をしてきました。美術の輸送と陳列と撤収を専門にしている会社の社長の、興味深い話の聞き
役を勤めてきました。哲学者のH氏は現役の美術家と、私が美術周辺のいろんな人材と、交替で、対談を分担しています。
これも十年、美術と京都との仕事なので、いくらか便宜もあります。
東福寺と泉涌寺とをゆっくり歩いて来ました。来迎院にもひっそり立ち寄って。帰りぎわ、木屋町の「たん熊北店」の座敷で、一人酒と懐石とを楽しん
で。新幹線は東京まで寝て帰りました。
夏生のことは、春生に聞いていました。弟の芝居を、こっそり見に来たということなども。
正直に申しまして、内村を、いささかも許していません。憎しみが深くなっています。内村自身がきちんと謝罪して来ぬかぎり、夏生や孫たちのことも断
念しています。義絶を貫く気持ちに、いささ かも変更はありません。
内村が私たちに何をしたか、何をしたまま今日に至っているか、問われれば躊躇なく、問われなくても知っていて欲しい方々へは、ただの中傷と誤解され
ぬよう十分な根拠と材料を添えて、率直に話しています。「モンテスキューが聞いて呆れますね」と慨嘆された方もおられましたし、失礼ですが、「山根教
授は、内村の無礼を許しておかれるのですか、なぜきちっと謝罪させないのですか、真実あなたのお友だちだったのですか」と問い返す方も、何人もありまし
た。
小説としても書き始めています。公職を離れ身軽になったら、先ず手がけたかった仕事でした。
年齢をつめば、気弱に折れるものと待たれているよし漏れ聞きましたが、不幸は不幸として身に負い、投げ出さない決意です。『こころ』の「先生」のよ
うに「執念深く。
そんなワケですから、そんな不快なことは上手に棚上げしておいて、山根さんとは昔のように、学問や趣味や日本のことを、楽しく語り合いたいのが念願
です。今度の新作もご批判いただきたいし、「能楽スクール」の楽屋話も聞きたいし、べつの作の構想についてお知恵を借りたいこともいろいろ有り、それ
らもまた、風情ある酒の肴になるのではと思っています。お声をかけて下さい。お大事に。 九月六日 夜
*
内村との、未清算の過去を未清算のまま、これで一つ、整理をつけたのではないか。奥野はそう思い、しばらくは忘れたかった。忘れて、いたかった――。
これは、奥野も忘れかけていた――が、彼が彼の本を発送をしていた最中、突然、玄関へ木野道子があらわれた。藤子が玄関をあけ、道子はこれから大学に行
くのでと上がらなかった。土佐の祖父母の家へ行ってきた、その土産を届けてくれた。その前に、四万十川からはるばる電話ももらっていた。名古屋の新聞社に
入社の内定がとれた、「合格しました」という報せだった。
「やったじゃないか」
奥野らも興奮した。新聞社に、なにのコネもなくて入れるとは、りっぱとしか賞賛の言葉もなかった。道子らは、なにがしか奥野のかげの力があったかのよう
に言って感謝してくれていたが、そんな力は奥野にはない。受かるといいなと祈る思いはあったが、名古屋ほどの大新聞では、さ…どうかしらんと、内心、心配
していた。
それにしても玄関に突っ立った道子の恰好は、ほんとにそれで大学へ行くのかと、奥野が二度も三度も確かめて驚いたほど、簡素というよりも疎略なものだっ
た。腰に、ジーンズの短かな切れっ端を裏向けのようにちっちゃく巻いて、上は、袖のあるともないとも分からない白いシャツだけで、履物も突っ掛けのスリッ
パなみだった。おそろしいほど華奢にみえた。ほそく捩じたパンが立っているみたいに玄関土間で揺れながら、道子は、だが、はきはきと元気いっぱいだった。
「ミチは、お洒落ね」と藤子にあとで評判され、
「…あれで、お洒落なのかい」と奥野はびっくりした。
「あれ、流行りなのよ」と言われても、まず、奥野の勤めた理系の大学では見ないタチのお洒落だった。
「早稲田じゃのぉ」と呟き呟き、先日、「ミチが新聞社に受かったようだよ」と春生に告げたとき、一瞬息子がまぶしい顔をしたのを、奥野はすこしせつなく
思
い出していた。
あれから、春生とのこれという接触はなかった。舟島薫ともだいぶ会っていない。藤子をちょっと唆してみても、薫ひとりと会うだけに街まで出ていくのは億
劫かして、かと言って電話口に呼び出して話すほどのことは藤子にも無さそうだった。それより藤子は、当面、打ち込むものを持っていた。自分の母の実家で
あった紀州田辺出の長谷部家のことを、伯父が、母の兄が、手記にしていた。『長谷部家五代記』と題され、五代前、かなりな網元として田辺を離れ現在潮岬ち
かくで網元を起こした人物からはじめて、代々の事跡を書いた精粗まばらな草稿だった。清書本ではなかったが藤子に伯父は預けていた。自分の子らをさしお
き、姪に預けた理由は分からない。その伯父も亡くなって年経てしまったが、藤子は、書き消しや直しの多い、あちこちに不十分も齟齬もあるその草稿を、熱心
にワープロに打ち直していた。克明に注をつけ、本文は一字一句そのまま、とにかく読めるものに作っていた。奥野も知恵を貸し手を貸した。
どうかして秋彼岸までに手作りの一冊一冊にまとめ、長谷部の親類に送ってあげたいと、
藤子は熱中した。そういうことをしてみたい年齢(とし)になっていたのだ、奥野も藤子も還暦を通り越したところだ。藤子には良いことだと奥野は思い、もっ
と、いろいろしてみれば良い、体の負担が過ぎない範囲でならばと、あれは、これはと提案さえした。
山根氏にすこし厳しい手紙をだした翌日に、春生がまた母親に電話をよこした。藤子がいなくて奥野が話を聞いた。奥野の出しておいた手紙に春生はなにも触
れないで、こんなことを父に告げた。
「退社」もよしと親子で話を決めた、あれから間をおかずに春生は、入社いらい親切に面倒を見てもらった、今は直属ではないが何かにつけ相談に乗っても
らっ
てきたK部長に、苦境を愬え、退社しようと思うと報告に行った。Kさんはすぐ、この人も春生にいつも親切なS常務に話し、S常務はK部長と三人で飯を食う
機会を作ってくれた。その結果、人事部へ退社の話をしに行くのは「すこし待て」となった。芝居との両立の可能そうな部署を見付けてやれるかも知れない、な
んとか口を利いてやろう。「退社」を口にした奴を引き止めたことの一度もない自分たちだが、「ま、ちょっと待て。成るとも保証はしないが、慌てるな」と、
そんなことに「なってるんだよ」と春生は言う。
助言に従った方がいい。奥野は、ありがたいと思った。春生の為にほんとうに良いことかどうか手短かには決められないが、あとへ備えのない退社が誰の目に
も危うく見え、精神論で乗り切れる保証のないのも自明だった。なにより、こういう危機にそう言いそう動いてくれる役員や上司を社内にもっていた春生を、す
こし頼もしく感じた。そういうことが万一にもあるかも知れないよと、退社をのっぴきならず公にする前にKさん、Sさんには率直に話しに行くようにと、この
間からも、その前の電話ででも、奥野は春生に勧めていたのだった。
どう転ぶかは知れないが、胸の温かくなる嬉しい話だった、「よかった…」と奥野は身びいきに繰り返し言い、春生は口だけは、
「拍子抜けだよ」と、幾分本気だろうが、贅沢なことを言った。
薫の方にも変化が見えていた。舟島の家に帰ってみようと本気で考え出したらしい。
「おれの口から帰れとはけっして言わない。だけど本人がその気になれば、それで良いと思っている。一年は面倒をみなきゃならんかと思ってたけど、回復し
て
きたんだと思うよ。吐かないし、頭痛も起こさないし。大学に戻りたいのも、それには家に戻るのが先決なのも、あいつ、よく分かってるんだ」
春生の口調には、寂しいは寂しいが、独りになって戯曲を書きたい意欲が透けていた。「それも良いね」と父は相槌を打った。
また十日ほどして今度は奥野の方から春生に連絡をとった。来月のなかごろ、神戸で女学校のクラス会があるのにぜひ出たいと藤子は、その前か後にいっしょ
に旅行をしようと、奥野にせがんでいた。心臓の不調の支えに、要は神戸へついて来てほしいのだ、それならば国民学校以来の友達がペンションをやっている信
州蓼科の秋をさきに満喫してから、木曽路を名古屋へ、そして神戸へ、会場のあるホテルまで前夜に着こうと決めた。手配は、旅行のライセンスをもっている春
生に頼めばお手のもの、翌日にはすっかり用意ができた。
春生は、社内の秋人事が九月末か十月はじめにあると言う。それまでは、「黙って待っています」と、息子の声音は、親もおどろいたほど穏やかだった。
やがて奥野の新しい連載が、月二度ずつ、向う一年の予定で始まった。人気の雑誌だ、「季の花」の絵に匂いづけの、エッセイだった。第一回が発売になっ
た。次々に「龍胆(りんどう)」「金木犀」「石蕗(つわぶき)」「茶の花」「薮柑子(やぶこうじ)」「枇杷の花」と、年内の題目ももう決まっていた。長
かった夏のなごりに、初回の「夕顔」と次ぎの「萩」とは、奥野から希望した。
*
久隅守景(くすみもりかげ)という江戸時代の画家に、「夕顔棚納涼」を描いた、涼しい絵があります。絵は国宝の指定を受けています。半裸の夫婦と幼
い子が、夕顔棚の下で投げ座りに肌に風をいれています。朧ろな月が雨雲をふくんで鈍く光っています。昔の暦なら、初秋七夕のころまでは、所によって、
こんな夕涼みの風情に出会えたことでしょう。
絵をよく見ますと、瓢箪ではありませんが、長瓢箪とでもいいたい瓜の実が夕顔棚に垂れています。白いはかなげな花も咲いています。やがてしおれて宵
闇に沈んで行くのでしょう、わびたなかに花あり情けも深い情景です。目にはまださやかとも言えず、それでも、そぞろ秋のけはいが、厳しい残暑を淡くも
色染めはじめています。長かった夏のなごりに、名もなつかしい夕顔の花をえらびました。
夕顔のそれは髑髏(どくろ)か鉢たたき
蕪村の句です。瓢箪にも似て、夕顔の実から、ちょっと見に面長(おもなが)なひさごをつくります。それを叩いて京の町なかを、「チャッセン、チャッ
セン」と茶筅を売りあるいた有髪(うはつ)の坊さんたちがいました。鉢叩きと呼ばれていました。蕪村は、実を干してつくったそれを、夕顔の髑髏かと諧
謔を弄しています。よほどの思い入れがあったからでしょう、鉢叩きの佳い絵や句を彼はいくつも残しています。
実(み)のことはさりながら、夕顔の花は、朝顔や昼顔のようにきっぱりとした輪郭はもっていないようです。いかにも「たそがれ」の花らしく「誰
(た)そ、彼は」と問うてみたくなる、寂しいなかに人心地を誘う艶(えん)な風情の白い花です。光源氏は、平安京の五条の辺で、思わずも、そのような
夕顔の花にさも似た女人と知り合いました。源氏物語「夕顔」の巻のお話です。
「たそかれ」の逢瀬をお互いに名乗りあうことなく愛を深めあった二人は、ある晩、やみがたい光君の愛欲にひかれまして、いつもの宿から、そう遠くな
い、しかし今は人跡(ひとあと)絶えた寂しい院に、人目を忍んで愛を契ろうとします。ところが夜中(やちゅう)、夕顔に物の怪(け)がとりつき 光君
必死の介抱もむなしく、夕顔はその腕に抱かれて息絶えてしまいます。
この辺までは、さすがに源氏物語です、よく知られています。
ところで作者の紫式部は、夕顔の物語をどう思いついて書いたのでしょうか。ぜんぶ想像だったのでしょうか。紫式部は、意外にあの大作を、同時代の、
また近い過去のいろんな実際の事件からも取材していた人でした。
花の夕顔の散ってしまった「なにがしの院」とは、その昔、融(とおる)左大臣といわれた源氏にゆかりの、河原院だというのが通説ですが、同じ五条で
も、もう少し西寄りに千種(ちぐさ)殿という当時具平(ともひら)親王の邸宅があり、そっちの方が適切かという説を京都の角田文衛先生は立てておられ
ます。この親王は、紫式部の家とは親族にも、また主人筋にも当たっていました。式部もよくよく勝手知ったお邸でした。
こんな事件が、この具平親王の身辺に起きていたのです。親王は大顔と呼ばれた女人を途方もなく愛していました。可愛い男の子まで生まれていました。
ある月の明るい夜、親王は大顔と二人、車で、北嵯峨の広沢の池のほとりに、当時すでに人寂しくなっていた遍照寺を尋ね、池の面(おも)にうかぶ千代原
山の秋月に見惚れていたのでしたが、ふと気がつくと、大顔はかき消すように物にさらわれて姿が無かったのです。
この怪談はさぞや喧伝されたことでしょう。親王は牛車(ぎっしゃ)の中に大顔の絵を描かせ、忘れ形見の子といつも同車で悲しみに堪えたそうですが、
紫式部が、大顔失踪の事件を、夕顔と光源氏の悲恋につくり替えたのは確かだと思われます。
*
紅くて佳く白いのも佳い花に、梅がありますが、萩もそうです。女の色香を緑の黒髪と譬えた意味はさぞ奥行き深いことでしょうが、わたくしは、大雪崩
をうったように折り敷いた盛りの萩むらをみていますと、豊かな女髪(おんながみ)のしっとりした色けを感じます。
萩の寺で知られた、京の常林寺の、萩いっぱいの前庭で、そう口にしました時に、そばにいた人は黙って頬を染めていました。
萩は、鹿の臥す宿りとしても知られ、鹿は、妻を呼んで恋を知る生き物です。紅白の花に露しとど、ひたぶる靡き伏す萩むらに、なまめかしい愛欲のあわ
れの感じられるのも無理からぬことです。
ひたぶるに人を恋ほしみ日の夕べ萩ひとむらに火を放ちゆく (岡野弘彦)
萩を焼くのは園藝上の必要があってでしょうが、ひとしおの繁殖も願われています。生殖願望とさえ言ってもいいでしょう、昔から色に馴染んだ浮かれ女
(め)の伝説にも萩と露の艶(えん)な風情がよく織り込まれていました。
そして小萩といえば、生まれ落ちた子供にしばしば譬えられました。あの光源氏も父帝と祖母とのあいだで交わされた歌に、小萩と譬えられているので
す。
萩は一夜豊産の花として風土記の昔から、各地で言い伝えをもっています。咲く時はいっせいに花をもつからでしょうか、可憐にちいさい紅白の花の一つ
一つに、かけがえない命の宿りを信仰する人たちが多かったのです。おそらく「お萩」というあの粒々の米に小豆餡をまぶしたお菓子にも、さも豊かな生命
感を願うきもちが籠もっていたように思われます。
そうそう、国宝の名蹟に秋萩帖のありますのを、御覧になりましたか。ことに第一紙は伝小野道風のすばらしい草仮名(そうがな)で、成り立ちにはいろ
いろの説もありますが、歌二首があたかも歌合わせのように左右に番(つが)えてありまして、書はむろん、歌の風情も、なかなかに心知った佳いもので
す。
秋萩のした葉いろづく今よりぞ独りある人の寝(い)ねがてにする
鳴きわたる雁の涙や落ちつらむ物思ふ宿の萩のうへの露
誰の歌とも知れませんが、やはり恋の歌ですね。
でも、なんと言っても忘れ難い萩の場面は、光源氏の愛してやまなかった紫上が、華やかな六条院を去り、光君と新婚の頃をすごした二条院にわざわざ帰
りまして、夫と、子として愛育しました明石中宮とにみとられ、今しも息絶えて行く「御法(みのり)」の巻でしょうか。
秋八月です。紫上の臥せります部屋の庭は、折しも萩の盛り。
「置くとみえて風にちる萩の上露のように、はかない自分の命」を、静かに紫上は歌にします。夫の源氏は思いあまって、「ややもすると消えをあらそうよ
うな萩の露ですが、あなたが先とはかぎりませんよ、この悲しさに私のほうが」と泣きます。中宮も涙にぬれて、こんなふうに歌います。
秋風にしばしとまらぬ露の世をたれか草葉の上とのみ見む
萩は「露」とだけいえば、だれにも分かる花でした。露ははかなく散るものとも、また、なまめく 愛の結露とも、打ち重ね、王朝をいろどった風情でし
た。紫上の命は、風さそう萩の下葉へ光る露と落ち、寂しく消えて行きました。
藤原隆能の源氏物語絵巻にも、この「御法」を描いて、それはみごとな萩の庭が見られます。三人の歌よみ交わすもののあわれに、思わず、涙ぐまれま
す。そんな涙も、やはり萩の命の滴(しづく)と感じます。萩の花が、ことに好きです。さすが秋の七草の筆頭です。
かはい白萩いろにはでねど
風がさそへばついなびく
恋のおもには朝つゆ夜露
なやむ姿もいぢらしや (中 勘助)
*
また二日ほどして藤子が春生(はるき)に電話した。京都の読者から「十年」を祝って、季にさきがけた美しい松茸を、一籠に二十本も盛って送って来た。ぷ
うんと、家の中を香りが走った。携帯電話の春生は出先だった。
「薫さんと食べに来たら」と誘うと、
「あした家に帰るよ、彼女」という返事、「今もたぶん、(家に)いないと思うよ」と落ち着いていた。翌日遅い時刻にまた母親が電話すると、「ああ帰った
よ。大学出たら、マタね…だって」と春生は苦笑いし、「書くには、いいね」とも言い添えた。
「寂しいんでしょう…、でも、これで良かったと思うわ。やっと、本当に一人で暮らして行くわけよね」
藤子はそう言い、
「九月二十一日。半年ね。彼の部屋へとびこんできたの…ちょうど半年前よ」と呟いた、「あたしのこと、お母さんて呼ぶの、ごく自然なの…」舟島薫が夜中
(やちゅう)に…。あの春生の電話の声はまだ耳にあった。
あぁ…こと繁き半年間だった。しみじみ奥野も頷けた、「十年の…うちだね、これも」
「夏生(なつみ)…、元気にしてるでしょうか」
「元気にしてるさ。そして夏生なりになにか考えているよ」
「元気な声……聴きたいわ」
「ああ。聴きたい……」
非常に勢力の強い大型の台風──が、東京湾へ突っこんで来ていた。夜半から豪雨降りしきり、朝には秋の空を響(とよ)もして大風が刻一刻と吹き荒れた。
テラスの植木鉢を藤子といっしょにずぶ濡れで家に入れ、雨戸という雨戸を立て切っておいて、夫婦は到来の松茸をぜいたくにまた焼くと、すこしだけ朝酒を酌
みあった。
* 硯滴―― この作の最後に
平成八年十月半ば過ぎて、春生は、正式に退社した。暮れの芝居の稽古が、もう始まっていた。
「よし。やるんだ」
奥野は自分が会社をやめたように、きっと眼をみひらいて、きつく拳を二つ握った…。 藤子に付き添う体(てい)で、久々にちいさな旅も奥野はしてきた。
蓼科に二泊した。小学校から高校までずっと仲良しだったMが、夫婦親子で経営しているプチホテルで世話になった。Mは、奥野らを自分の運転で、豪華な蓼科
の秋色に身も心も染め上がるほど、いたるところへ連れていってくれた。なかでも御射鹿池(みさかいけ)の清寂に、奥野も藤子もただ佇ち尽くし、涙をこみあ
げた。
帰りには諏訪まで送ってもらい、念願だった神長官屋敷や諏訪大社も奥野は見てきた。Mと別れてからもタクシーで春宮、秋宮に参り、藤子は天を衝く御柱
(おんばしら)におどろき、奥野は、拝殿に、太い縄のうずたかく高くとぐろを巻いて在るのに、じっと眼を剥(む)いてきた。
あやうく塩尻駅の乗換えに遅れかけたが、ぶじ名古屋を経て、神戸のポートアイランドにできた大きなホテルに、その日のうちに入った。藤子はぐったり疲
れ、晩の食事の途中でひとり部屋に帰って休んだ。
女学校の同期会は翌土曜日の昼にあり、だが日曜の十月二十日は総選挙の日なので、予定どおり頑張って東京へ帰った。
その日曜の朝ばやに、奥野らは電話で起こされた。
母が、死んだ。特別養護老人ホームでいつもどおり朝食の途中、瞬時に絶息したという。最後の最期に残っていた息とひとかけのバナナを吐いて、あとはもう
無いといった静かな大往生であった。かけつけた時は、これ以上はない穏やかな寝顔でとわの眠りに静まりきっていた。
白雪のように、しみ一つない体を、藤子が清め奥野は修証義を誦(ず)した。明治三十四年五月四日生まれ、享年九十六。
母とのこととなれば、何冊もの本を書くしかないほどだった。奥野らは、その日のうちに母を家につれて戻り、藤子と交替で投票にも行き、その夜奥野は添い
寝をするように夜をこめて母のそばで、経をよみ、こごえで歌をうたい、話しかけ、眠らなかった――。
母の死を、夏生(なつみ)に告げなかった。
師走、春生(はるき)の三度めの芝居は、作も演出も、父や母の贔屓目にはおもしろく観られた。来年三月新宿で、春生は四度め、自主公演としては二度めの
用意にかかっていた。題を聞くと「砂漠」だと言う。
殺風景だナ、いっそ「サハラ」におしよと笑って父は提案した。
「ああして…うまくなって行くんだね、やっぱり」
「そうね」
頷き頷きあい、奥野と藤子は日曜の楽日(らくび)を観たあとは、人とも別れ、浅草に足をむけた。花屋敷の奥の米久本店ですき焼きを楽しみ、通りがかりに
浅草演芸場に入って二時間の余も笑いころげてから、タクシーで大泉まで帰った。
奥野らは浅草の仲見世で、かつて、母のために乳児大のそれは可愛い女人形をみつけて買った。それを母は、胸があつくなるほどしんから喜んで、片時も手放
さなかった。死ぬまぎわにも膝にのせていた。母は自分の腹をいためてわが子を生むことの出来なかった人であった。その悔(くや)しさに生涯泣いた人、泣い
て奥野を育ててくれた人であった。
母は人形をほんとうによろこんでくれたのに、どうしてか名前をつけなかった。奥野らに教えないだけかも知れなかった。
通夜のおり奥野は妻とはかって、笑顔の愛くるしい優しい人形に蓼科みやげの「まゆみ」と名づけ、そして、母とのはるかな旅路へ、添えて見送った。息子の
芝居よりも、すき焼きのうまかったよりも、木久蔵の漫談に大笑いしてきたのよりも、いま、夫婦の車中の思い出は、亡き母や「まゆみ」の上にあった。
時を運んで自動車は夜の東京を走りつづけていたが、あの蓼科の秋に、いたるところで、まゆみの実の彩(いろ)づいて可愛かったことを、藤子は、また、
そっと口にせずにおれないようだった。
妻の手に手をかるく置いて、奥野は目をとじていた。姉さん…げんきだろうか。ふっと、それを想った。入れ代わるように夏生の「パパ…ママ…」と呼ぶ声
が、した…と、想った。
――了――
下巻の後に ・ 跋
* しづかなる悲哀のごときものあれど
われを かかるものの餌食となさず
石川不二子
みずから求めて餌食になろうとし、自虐の自己表現を自意識する人は、少なくない。「われをかかるものの餌食となさず」という決意は強い佳い表現になって
いる。
よく生きるための消費税は「適切に」支払い、払いすぎてはならぬ。難しい。じつに難しい。
* 人を傷つけるのは容易いが、人を励ますのは難しい。秀れた藝道の人ほど深く戒心されているだろう、日本の藝の基本が祝言であり、言忌みであり、衆人皆
楽、壽福増長にあるのだから、当然である。
* 「文学」の徒は、では何を大切にしてきただろう。
* 古めかしいかも知れないが、やはり「人間探求」であり、人を励まし楽しますという最終効果は願わしいが、過剰に目的にするのは賛成でない。人を愚かし
く傷つける言表はいかにも嗤うべきだが、探求の鋭敏と真摯とが、必然「自・他」を追究し時に傷つけることがあっても、文学表現には不可避のことと考えてい
る。それを懼れていては、社交は円満であろうが表現や創造は半端に終わる。文学は祝言藝ではない。文学はしょせん人間を追究・探求の表現藝術であり、その
表現や達成が結果人を励ますモノと成れば最良だろうと思う。文学は妥協の所産であるとき気稟の清質を喪い、人間の闇に光をさしこむことは出来ない。
* では「文学」表現の本質は何だろう。前言を裏切っていないと思いつつ、その話題になると、わたしは、いつもこう口にしてきた、二つの願いを静かに忍び
込ませて。
* 文学は音楽です。文学の根は詩歌ですもの。優れた文体は、音楽です。
「音楽」と書いて「音学」と書かなかった幸せを感じるとき、
「文楽」と書かずに「文学」と書いてしまった不幸を思います。
* では「文学」を衝き動かす力とは、何だろう。
* 文学が動き出す基底には、「私」の発奮が在る。恋愛として、欲望として、喜怒哀楽として、憤怒や復讐心として、震央で「私」が刮目し「私」が文学的に
発奮する。噴火し噴出する。
ホメロスの英雄『オデッセウス』の名は「怨みの子・復讐する者」と謂われている。漱石『心』の「先生」は断乎たる「執念深さ」によって作品を名作にして
いる。但し、どうその「私」を殺し得て「私」が生かせるか。それが「文学表現」ということだろう。その意味では<私>小説たらずとも、文学が
書いてきた恋愛はみな、<私>の恋愛であり<私>の憤怒であり<私>の怨恨であり<私>の歓喜にほかな
らない。
<公>や<一般>に喚起されたものも<私>に根を見つけて初めて文学と化して行ける。
* 逢花打花 逢月打月
出典は調べていないが、玉室宗珀の書でみている。「打」一字は「打(だ)し」と訓む。打つ意味でなく、「受け容れる」の意と謂われる。風流の花月、自然の
花月と謂うにとどまらない。極端な場合、花とは生、月とは死でありうる。逆でもいい。美でも醜でも、戦争と平和でも、悪と善とでもありうる。そして「受け
容れる」とは「受け容れない」ことである。だから「受け容れる」のである。花も月も、何処に在るというモノでない。無いモノでもない。「打」とは、颯爽。
* 思いだしている。
以前、環昌一さんといわれる最高裁判事がおられた。「湖の本」創刊からの継続の読者であった。お名前すら存じ上げないでいたが、あるときお手紙をくださ
り、お仕事柄を明かされながら、あなたのお作に「人と魂とのかがやき」を愛読していますと書き添えて下さっていた。こういう法律家もおられるのだなと、物
静かなお人柄と筆づかいに感銘を覚えた。もう早うに亡くなられた。「死なれた」と思った。「いい読者」たちにたくさん死なれてきた。
* 『梁塵秘抄』の人たちはまだしも後世(ごせ)や浄土への想いを抱いていた。
われらは何して老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ
今は西方極楽の 弥陀の誓ひを念ずべし
暁静かに寝覚めして 思へば涙ぞ抑へあへぬ
はかなく此の世を過ぐしては いつかは浄土へ参るべき
いまわたしに、こういう「抱き柱」はない。欲しいか。いいや。
* からりと晴れているかと想ったが、そうでもない。天気はふしぎだ。心身の元気に照応し呼応している。天も身内も、おなじ空なんだ。
* バグワンに聴く 『十牛図』講話の訳者に感謝しつつ
恐怖から、おまえは他人(ひと)に従いつづける
恐怖から、おまえは<個>になれない
だから
もしおまえが本当に<牛=真のお前自身>を探しているのなら
恐怖を落としなさい
なぜならその探索は、危険の中を進む
冒険をしなければならない、そうしたものだからだ
それを、社会や法や群衆はよく思うまい
社会や法や群衆はなんとかしておまえを引き戻し
恐怖を抱いたまま姑息な安全に安住していたいおまえでいさせたがる
もしそこに恐怖があると
おまえは,それと遭遇する代わりに
神に祈る、助けを求める──
貧しさ
おまえの内側の貧しさを感じる
と、おまえはそれに遭遇することよりも
富を蓄積し続けていって
自分が内側で貧しいことを忘れられるようにする
自分が自分自身を知らないことがわかると
この無知に遭遇することよりも
おまえは知識を寄せ集め続ける
知識人と呼ばれたがる
おうむみたいなものだ
そして、借りものの知識をくり返し続ける
みな逃避だ
もしおまえが本当に自分自身と出会いたかったら
おまえはどうやって逃避しないかということを学ばなければなるまい
例えばもし、真実怒りがある──
それならそれから逃げないこと
遭遇 encounter
生は遭遇されなければならない
それが何であれ目の前に来るものを
おまえは深ぁく覗き込まなければならない
なぜなら、その同じ深さが
おまえの<明知=自己知>となってゆくのだから
もしそれが怒りなら その怒りの背後に、<牛の足跡>がある
もしおまえが
あれこれから恐怖と怠惰とで逃げ出していたら
おまえは探し求めている<牛の足跡>からも逃げていることになる
* わたしも怖くて逃げ出したいが、バグワンに聴いて、「抱き柱」は抱かない。社会からも法からも群衆からも嫌われ見捨てられるだろう、まちがいなく。だ
が、わたしは内なる「牛」を求めている。遭遇したモノは深く覗き込んで、逃げないのである。それが奈落へ誘う闇かも知れなくても。
* 花に逢へば花に打し 月に逢へば月に打す わたしは上のように、此の花も月も受け容れる。見ようによれば今のわたしは、晩節をけがし汚濁と醜悪にま
みれて藻掻いていると見えるだろう。だが、そうだろうか。一人の作家として、人として、それこそが「月」で「花」でないわけがない。
ウエブに書きおかれた我が日録『闇に言い置く
私語』は、『晩景』とでも題されていいわたしの「今・此処の文学」である。書くな、書くな、書くなという声もある。身辺にもある。わたしを法廷に引きずり
出して躍起になっているそんな者達は、まさに「書かれる」のがイヤなのである。
なるほど。
だが、しかし。
なぜ、なにを、わたしの筆で書かれているのか。それは考えないのか。
長編小説『逆らひてこそ、父』を書き終えた。意識して用いたのは、同じ色をさも塗り重ねるように、要点を、あえて繰り返し巻き返して一過性にやすやすと
流れ去らせない手法、いわば「やるま
いぞ」手法であった。奥野秀樹が「奥野秀樹」という架空の人物に託した創作された「小説」であり、「人間」への興味であり、趣向された「フィクション」で
ある。