招待席
おくだ みちこ
俳人。 大正十二年一月二十一日東京に生る。和洋女子大卒、昭和三十一年九月十八日、現在「安良多麻」主宰の奥田杏牛夫人となり、一男一女。平成十八
年一月九日逝去、享年八十三歳。句集(平成十九年三月十八日刊)の成るについては夫君の「あとがき」に譲るが、強って乞うて此処に「招待」した思いは、句
境の純然かつ清麗というに極まる。とても臨時に「穴埋め」の句とは思われぬ。感銘をうけ、感銘は今も去らない。 (秦 恒平)
遺句集 さくら
奥田 道子
伊豆の海の若布厨に潮(うしほ)の香
鶯の鳴きさうな日や花山茱萸(はなさんしゅう)
一生は厨守(くりやもり)かや蜆泣く
木の芽摘み今年は終(つひ)に摘み餘す
柿若葉精一ぱいに今日を生く
水中花主人の欠伸(あくび)移りしか
三度三度食事のことや大暑なる
宅配の食材あれば涼しかり
休耕田花一ぱいの秋櫻
新蕎麦と言ふを小雨の軽井澤
庭紅葉夫留守の日は不精きめ
木守柿夫ベトナムにありにけり
炬燵守あるもので足す老二人
耳遠しいよいよ遠し笹子かな
納豆汁夫の不機嫌顔に出て
三寒や厨房休業宣言す
山茱萸や朝な朝なに勇気賜(た)も
年々の終(つひ)のおもひのさくらかな
杖突いてさくら見るさへ腰痛し
年々の芽山椒摘めば老ゆるなり
小鳥来る何か主人が物言へり
よるべなく介護申請年の暮
主婦廃業あとは野となれ雪となれ
税申告帰り伊豫柑八朔も
梅日和日向睡魔に誘はるる
新緑や腰を伸ばして仰ぎをり
朝顔蒔く今一年は生きたしと
木の芽和へ酢の利きすぎし介護食
笹子来て四十雀来て目白来て
山茱萸や黄昏近き夕支度
砂出しの淺蜊舌打ちしたりけり
もやし独活(うど)いつも一人にされてをり
妹が訪ねてくれて遅櫻
年々の花とおもへば拝(おろが)めり
母の日や子の音沙汰のなきままに
買い物は主人頼みの走り梅雨
胸焼けのこの頃しるし曹達水(ソーダすい)
夜の新樹近間そろそろ歩きかな
巣立鳥われは變らぬ留守居番
花甘草(はなかんざう)歩くことさへおぼつかな
わが息子眞直ぐ生きよ花菖蒲
お勝手に廊下に杖やいとどなる
蟲の闇頼りの主(ぬし)の夫(つま)の旅
サンマサンマ小骨あるのがあていやじや
稚気の句を恥づかしみおりつづれさせ
おゝいお茶とは失禮な榠櫨の實
冬立つ日仕舞忘れし何々ぞ
鱗雲はらから遠くなりにけり
冬支度何するでなく暮らすなり
神妙の留守せる神を頼りとす
霙るる日病院通ひさだめとや
着膨れて老いの身幾年生き得るや
臘梅や曜日忘れて叱らるる
寒雀三食三食大仰な
庭櫻今年の花と確かめて
保證なき命なりせば芹茹でて
撒飯餌(さばゑ)して小雀連れの親雀
夫が作る筍汁も三日かな
春夕餉食ひたき物もなかれども
この頃はあなたまかせの陳茶(ひねちゃ)かな
新聞を取りに立ちけり山法師
子は子とや雨期四十日家を出ず
ゆるやかに大きく揺れて夏の地震(なゐ)
なんであれ造反は嫌ひ油蝉
一人居て簾名残の夕日中
かなかなや旅にある夫想ひをり
介護受く派遣婦人と走り蕎麦
人重(ひとかさね)二重(ふたかさね)する秋このごろは
あとがき
妻道子が逝く四、五年前から、傍らで俳句を即時即興に、それも俳誌「安良多麻」の穴埋めに作句を強いて。一寸、書出してみて、かれこれ七十句程あること
を知った。
彼女は又、「安良多麻」の発送、会計の事務的な事一切、否応無し手伝わせるなど、名実共に名サポーターで。その上、私が旅行中彼女が転んで歩行困難に
なってからは、いつも留守番役で。本当に淋しい思いをさせてしまった。
彼女が逝って、早や一周忌を迎え。詠みのこした句々は誠に僅かであるが、私にとっては一句一句思い出があって。せめて一書を、彼女の形見として供養とな
ればと考えた。彼女がお世話になった方々にも記念のしるしとなれば嬉しいことである。
句集名『さくら』は、彼女が結婚の記念に自から庭に植え、年々の花を楽しみにしてゐて
年々の終(つひ)のおもひのさくらかな
道子
と詠み、殊にこの一、二年は心に期する櫻であったようで、句集名とした。
亡くなる前日、私は深大寺の師石田波郷のお墓に、正月の此頃お参りすることにしていて、会館の寒牡丹展を序に見たりして
寒牡丹女の一世(ひとよ)空華かな 杏牛
と予期せぬ詠出が、彼女への贐(はなむけ)となろうとは、生死の別れ実に無明と思った。
この度は月刊「安良多麻」のお世話になっている、株式会社文伸の井口京子氏に出版に至るすべてをお顔いし、心よりお礼を申し上げたい。
平成十九年三月十八日小金井書屋にて
奥田 杏牛 識