招待席

おかもと かんぞう 戯作者 1853. - 1882.7.20 江戸深川に生まれる。「一さい夢中」と戯号の新聞投書家から東京魁新聞編集長となり主幹芳川俊雄を補佐して重きをなした。毒婦物など の「きわもの」をたくみに旺盛に書きこなしたが、肺結核で三十年の若き生涯を閉じた。 明治十一年(1878)の掲載作(五編下まである。)に就いては芳 川の緒言に尽きている。これに代表される「きわもの」「新聞つづきもの」は明治初期文藝の侮りがたい一潮流であった。 (秦 恒平)





   夜嵐阿衣花廼仇夢  初編          岡本 勘造




 夜嵐於衣花廼仇夢(よあらしおきぬ・はなのあだゆめ)初篇緒言

 

     さきかけ

我さきがけ新聞第三百廿号(本年五月廿八日)の紙上を以て其発端を説起し、号を逐(おふ)て連日掲来(かゝげきた)りし毒婦阿衣(おきぬ)の伝は、其実録 に拠て余が戯れに筆を走らせしに、図らず看客(かんかく)の喝采を蒙り、新紙の発売多を加ふるの栄を得たれど、既に紙上に示せし如く、俳優市川権十郎が嵐 璃鶴(りかく)たりし時、同人を懲役に陥れ、其身の厳刑に処せられたる大眼目は、只阿衣が末路の一事のみ。其生涯の奸悪を数ふれば数條(すでう)の珍説奇 談多端に渉(わた)り、新聞の紙面に悉(つく)す能(あた)はざるのみならず、一場の説話も数号(すがう)に渉るを以て、看客或は其首尾照応を誤るの憾 (かん)なきにあらねば、金松堂の主人が乞(こふ)に応じ、半途にして紙上の掲載を止め、岡本(=勘造)子(し)をして之を双紙に綴らせ、爰(こゝ)に初 編を発兌(はつだ)せり。題して夜嵐阿衣花廼仇夢といふ。其顛末を記するや、曾(かつ)て新紙に掲げしものと故(ことさ)らに参差(しんし)表裏を示すを 以て、頗(すこぶ)る看客の心を楽ましむるものあらん。

  明治十一年六月              芳川俊雄記


 

 初編上  発端

 夜嵐にうつろひ見せし山桜、八重もひとへに徳川の政事におさまる八百八町、まだ東京も江戸とよぶ頃、本町辺の薬種問屋(やくしゆとんや)で、人も知る紀 の国や角太郎(かくたろう)といへるは、早く両親(ふたおや)に別れ、十八歳にして家名を相続せしが、性来歌俳諧茶の湯、その外(ほか)遊藝をのみ好みし かば、兎に角家業をうるさく思ひ、僅か両三年にて弟(おとゝ)竹二郎へ名跡(みやうせき)を譲り、自分は予(かね)てしつらへおきし、牛島の辺(ほと)り なる小梅(こむめ)の別荘へ移りすみて、まだ定まれる妻もなく、朝(あした)には花を楽しみ、夕べには月を賞して、風流にのみ世を送りし。今年は残暑のつ よくして、凌(しの)ぎかねたるより思ひたち、箱根の湯治(とうぢ)から江の島へんを見物せんと、常に出入(でいり)の宗匠と幇間(たいこもち)の豆八を 引連(ひきつれ)、両掛一荷(りやうがけいつか)を男に担がせ、江戸を出(いで)しは七月のはじめ、急がぬ旅とて路すがら打(うち)たはむれて興じつゝ、 其夕ぐれに神奈川宿(じゆく)へたどりつき、石井といへる旅籠屋(はたごや)へ泊り、互ひに滑稽の雑言(むだごと)に、夜もはや四ツをすぎしころ、隣座敷 の女連(づれ)の客の内一人の娘が急に癪(しやく)をおこしてとぢらるゝ様子にて、其母親と思(おぼ)しきが、頻りにお八重お八重と呼(よば)いけれど、 更に治(をさま)る模様もなければ、皆々当惑の体なるを、角太郎は気の毒に思ひ、家業がらとてさいはひに良薬(よきくすり)を貯(たくはへ)たれど、見知 らぬ女の其中へ、さすがは夫(それ)といひかね、宿の女を近く招いで、薬のことをいふふくめ、隣座敷へいひ入(いれ)しに、此方(こなた)はことに悦こび て、少しなりともいたゞきたいとのことなれど、強き薬なれば分量が過(すぎ)てはならぬと、自身に行(いつ)て手づからに、とぢつめられし病人の口ヘ薬を そゝぎこみしに、その效(きゝ)めにや、強くさしこみたる癪も一時にひらきしかば、母は尚さら、附そふ女のたれかれも、神かとばかり角太郎をふし拝み、か はるがはるに礼をのべ、茶など煎じてもてなさんとせしが、女子(をなご)ばかりの座敷に長居をするもいかゞならんと思へば、夜もいたく更(ふけ)たれば、 明朝ゆるりとお目にかゝるべしと其場を立さり、互ひに臥床(ふしど)へいりたるが、かゝる混雑の中なりければ、双方とも名前などを尋ねることを失念せしと ぞ。扨(さて)も紀角(きかく)の一群(ひとむれ)は、用ある旅にあらねば、日中暑気のはげしき間を休まん程に、涼しき内に少しも行(ゆか)んと、その翌 朝(あさ)、となり座敷の人々がまだ起出でぬまへに、支度をとゝのへ、急いで此家(このや)を立(たち)いでしを、少しも知らぬ女連(づれ)、ゆふべお八 重の介抱につかれたるのか、但しまた、今日はおそくも宅(うち)へ帰ると心にゆるみが出(いで)たるにや、つひ寐わすれて、東なる連枝(れんじ)の窓から 朝日のさすに眼を覚し見れば、お八重がおらぬより、母は驚ろき皆々を呼起し、其処よ此処よと探せども、更に知れねば、母親が座敷へかへつて娘の臥床(ふし ど)をあらためると、枕の下から出た一封は、お八重の手跡(て)にて書置(かきおき)とあるに、胸轟き、先だつ涙のみこんで、急ぎ披(ひら)いて読(よ み)くだせば、私(わたく)し事訳ありて、迚(とて)も宅(うち)へは帰れぬゆゑ、世になきものと御あきらめ被下度(くだされたく)、母(はゝ)さまへは 不孝の上もなけれど、平(ひら)におゆるしをねぎまいらせ候云々(しかじか)と、手短かに書(かき)のこしたる一通を、顔におしあて、母親がワツとばかり に泣伏て、仔細は何かしらま弓、引(ひい)て返らぬ訳あらば、なぜ打あけて此母に、斯(かう)してたべといはねにも、矢のたつ例(ためし)もあるものを、 仮令(たとへ)どのよな事にもあれ、只(たつ)た一人の娘じやもの、徹(とほ)してやらいでおくものぞ、是ほど思ふ此母の心もしらで、身をかくす其方(そ なた)の心は安かろが、跡に残つた人々の心を少しは汲(くみ)わけて、無分別なる量見を必らず起してたもるなと、其処にお八重の居(を)る様に、かきくど きしが、其内も心せかれて、若(もし)ひよつと淵川へでも沈みはせぬかと、宿屋の主人(あるじ)へ頼んで人を雇ひ、諸方へ手わけをして、其近在を隈(く ま)なく尋ねしが、更にゆくゑが分らねば、ひとまづ江戸へ帰つた上、また兎も角もせんものと、力おとして女連、是非もなくなく此家を立いで、江戸の住家 (すみか)へ帰りける。
 夫(それ)に引替(ひきかへ)、角太郎の一群(ひとむれ)は、憂事(うきこと)知らぬ気散(きさん)じの旅は道くさ夜(よ)は早く宿に着(つい)て、箱 根なる湯治も、病のあらぬ身は、汗を流すの外ならず、涼しき内はあちこちと、鄙珍らしき見物に、疲れて帰る宿屋の椽ばな、風入(い)りよきに簾(すだれ) を巻あげ、碁など囲んで楽しみけるが、庭の彼方(あなた)の離れ座敷、端(はし)近く折々立出で、此方(こなた)を眺め、附(つき)の女中と何やらん囁き 合(あふ)て打戯れるけだかき婦人は、年の頃二十余りにて縹致(きりやう)勝(すぐ)れて麗はしく、起居(たちゐ)の様のしとやかに、折目正しき振舞は、 さる大名のお部屋さま、少しの病気をいひたてに、遊散(ゆさん)ながらの湯治とは、其附人(そのつきびと)の少なきにてぞ知られける。紀角は朝夕顔見合 せ、世に美くしき婦人ぞと、交(かた)みに尻などつゝきあひ、又も天女の来迎(らいがう)と眼を慰むるばかりにて、互ひに心ありそ海、ふかき底意を汲(く み)かねて、まだ言(こと)ばさへかはさぬうち、はやお暇(いとま)の日限が逼(せま)りしと見へ、女中の群は当所を立出で、江戸の方へと帰りしのち、紀 角は爰に四五日余り逗留せしが、同所にあきたるのみか、天女が影をかくせし故、せめて天女の岩屋なりとも拝まんものと、二人の連(つれ)を促がして、江の 島へとこそは赴きける。
 此処は東海道程ケ谷宿の裏手にあたり、金澤鎌倉への近路(ちかみち)なる下大岡の山中にて、まだほの暗き路傍(みちばた)に、繁る並木の松がえの梢はな れる暁烏(あけがらす)があいあいの声聞(きく)も、今更此の身につまされて、思ひまはせば人でなし、道にそむける、ぎりある父へよからぬ名をばきせまじ と、恩愛深き母親の歎きをあとにやうやうと、人の談(はな)しに聞きおきし、闇路をたどるお八重の心も細き流れの岸にそふ、路のかたへの松の根に、腰うち 掛てホツと一息つくづくと、我身ながらも怖ろしや、よう爰(こゝ)までは来た事ぞ、斯(かう)脇路へまはつては、最早逐手(もはやおつて)は来はすまい、 思ひの外に草臥(くたび)れたれば、日の昇るまで休まんと心に少しゆるみが来しか、宵に発(おこ)りしつかへの癪が、また胸さきへきやきやと差(さし)こ まれては大変と、細帯かたく引しめて、がまんはすれど疲れた躰、堪(こら)へきれねば其儘に倒れて苦しむ折もよく、雑色村(ざふしきむら)の方(かた)か ら爰へ通るは、是も女の独旅、年の頃は二十五六にてどこやら垢抜(あかぬけ)たる都の風俗、だるま返しに髪を結び▲

 
 初編中

 ▲白地の浴衣を高く端折(はしよつ)て、笠を片手にすたすたと通りがゝつて、お八重を見つけて立どまり、独りでうなづき、帯の間の紙入から何やら薬を取 出して、お八重の後へ廻り、抱(いだ)き起して背をなでおろし、錫(すゞ)の中なる薬を少しお八重の口ヘふくませ、傍(かた)への流れに手拭をひたして、 其水をしぼりこみなどせし手厚き介抱に、やうやう開きがつきしかば、お八重は地獄で佛の思ひ、厚く礼をば述(のべ)けるに、女はさのみ恩ともせず、旅する 人は相(あひ)たがひ、女子(をなご)同志はわけての事、よい塩梅(あんばい)に薬がきいて私も嬉しう思ひます、お供の衆はお薬にても買(かひ)にばしゆ かれしかと問はれて、お八重は涙を払ひ、私や独りで鎌倉へゆく者で、供をもなんにもつれません、夫(それ)ゆゑ猶さら病気などには困ります、お蔭でさつぱ り治まりましたといふに、女は不審顔、みれば爰(こゝ)らのお方でなし、独りで旅をなさるとは、何か仔細のあらましを、苦しからずばはなしてと、他事なき ことばに、お八重も今さらその親切にほだされて、包みもならず鼻うちかみ、実(じつ)わたくしは江戸本石町(ほんこくちやう)の呉服店(だな)松坂屋の八 重ともうす者なるが、先年親父(おやぢ)が亡なつて、と聞いて女は打(うち)おどろき、さう仰(おつ)しやればどうやらおみうけもうした事もある、元わた くしが日本橋へんにおりし頃、お宅はかねて知ております、あの御大家(ごたいけ)の娘子(むすめご)が、供をもつれず只独り、こゝらあたりへまいらるゝ仔 細は大方(おほかた)分りましたが、爰は山中(やまなか)、朝風は身にひやひやとからだの大毒、お召(めし)も夜露にぬれてあるゆゑ、里へ出て乾かしなが ら、ゆつくりとおはなしもうすこともあり、兎にかくわるくはいたしませぬゆゑ、あとへお返りなされませと、無理にすゝめて程ケ谷(ほどがや)の方(かた) へとこそは伴なひける。
 扨(さて)も角太郎は残暑しのぎに、いまだ見ぬ箱根の湯治場から江の島鎌倉と憂(うき)を知らぬ湯散(ゆさん)旅、二人の伴(つれ)の興ずるを、笑ふて うかうか日数(ひかず)もたち、はや秋風の身にしむ程になりしかば、土産のしなじな買とゝのへ、馴し隅田の牛島わたり、小梅の寮へ帰りしは、八月なかばの 頃なりし。角太郎はたゞ風流にのみ心をよせ、浮世の事をいとふより、奉公人(ひと)は多くつかはず、庭の掃除や植木の手入は自分もしたり、折々は出入の者 があれこれと程よくするに任せおき、小女(こをんな)一人を手元に使ひ、食事の世話などさせおきしが、旅の留主(るす)中は不用心(ぶようじん)なりと て、本町の本宅に年久しく召使ふお芳といふ四十二三の心きゝたる女を留主居におきしと知るべし。
 今朝は角太郎おそく臥所(ふしど)をおきいでゝ、椽ばなにたちいであたりを見廻し、少しの間みずにゐたれば、庭の景色がかはつたと、のびあがつて隣りの 寮をのぞきこみ、不審な顔でお芳をよび、隣は是まで明家(あきや)であつたがどなたか越してこられしかと、尋ねにお芳は両手をつき、まだ申しあげねど、つ ひ此頃さるお大名のお妾にて、たしかお名前はおきぬ様とか、その殿様がなくなられたので御隠居をなさるため、此玉屋の寮をお買なされたとかきゝました。余 程うつくしいお妾さまでござります、夫(それ)についても昨晩一寸申しあげましたが、先生や豆八さんの前をかねて、詳しくお咄(はな)しいたしませなんだ が、こりやわたくしから折入てお願ひ申すも、本(もと)はといへば長い咄しを一通りお聞きなされて下さいまし。
 旦那のお留主へ預かつた娘といふは、その以前、此わたくしが下総(しもふさ)から初めて江戸へ出て来たおり、草鞋(わらぢ)をぬいだお主(しゆう)さ ま、本石町の呉服店(だな)松坂屋さまの娘子にて、十四の時に父御(てゝご)が亡(なく)なり、母御は後家をたてんとて、夫々(それぞれ)覚悟をなされし が、まだうら若き後家だては、却つて世間の口もうるさし、手広き家業に女主(をんなあるじ)は届かぬがちと、親類方のすゝめにより、店をあづかる番頭の弥 兵衛といふを入婿に跡へなほした其頃は、此わたくしは暇(いとま)になり、夫(それ)も誰ゆゑ、番頭の弥兵衛は四十に近き身で見かけによらぬ色好み、間が なすきがなわたくしを捕へていやなことばかりいふのをすげなく断はりしを、遺恨に兎や角ないことをいひこしらへて追出(いだ)せし、夫から旦那の処へ上 り、今日が日までも御恩にあづかる嬉しさに、又引かへて面(つら)の憎きは弥兵衛にて、仮にも親とよばれる身で、いはゞ主人の娘子へ無体な恋慕、あさな夕 なに附(つけ)まはるうるさき仕打を、母親へ咄さば必らずことのもと、父とよびなす其人へ恥かゝするは子の道ならず、殊に世間の外聞をいとふものから、身 一ツに憂(うき)を忍んで日を送る深閨女(おぼこむすめ)の気苦労から、つゐに病を引おこし、ぶらぶらなやむその上に、癪まで知て折々に煩ふことの多かり ければ、医者の勧めで五月雨のやゝ晴(はる)るころ、母ごと外(ほか)に女中二人を引つれて、伊豆の熱海へ湯治の保養に二月(ふたつき)あまり、世の中の 憂(うき)をわすれし甲斐あつて、顔の色つや身体の衰ろへ原(もと)の通りに全快せしとて、先月初めに女連(づれ)四人で江戸へ帰る時、神奈川宿の泊りに て、明日(あした)は我家へ立帰り、又も弥兵衛に種々(いろいろ)とかき口説(くどか)るゝこともやと、思ひまはせば廻すほど、此(この)よにあられぬ悲 しさを、誰に語らん人もなければ、こよひ窃(ひそ)かに此家(このや)をぬけ出し、かねて往来(ゆきき)に見ておいた鎌倉道(みち)を左りへ入り、松ケ岡 なる尼寺へ其身をよせんと覚悟はしても、娘気の案じわづらふあとやさき、久しく忘れた持病の癪にとりつめられ、開きのつかぬを隣座敷のお客に救はれ、疲れ て伴(つれ)の寝入りしころ、身を隠すとのみ書置して、其(その)庭口から忍び出し、たしかに夫(それ)と見ておいた程ケ谷宿の横道から迷ひ入(いつ)た る山中で、其夜も明て烏のなく頃、又もや癪にとりつめられ、悩む所へ通りかけしは、本店(ほんだな)の四郎吉どんの一件で此方(こなた)へは顔出しかねる 私の姪のお吉が、在所から此地(こちら)へ帰る途中にて、種々介抱をした上で、名前をきけば伯母の私が大恩うけたお主(しゆう)の娘なれば、その儘にして もおかれず、さりとて宅(うち)へは帰らぬ覚悟、うかうか街道へ伴(つれ)て出ば尋ねる人に見つけられんと、神奈川宿の裏手を通り、野毛の知音(しるべ) へ立より、芝浜へ出る押送りへ便船して、此地(こつち)へつれては来たものゝ、お吉も今は他人の家の居さふらふ、人の世話まで届かぬゆゑ、旦那のお留主と 少しも知らず、此わたくしを外へ呼出(いだ)し、以前の咄(はな)しを委しく語り、その娘子をわたくしへ渡して、後(のち)の計らひは万事よろしく頼むと いへど、弥兵衛めがなき科(とが)きせてわたくしに暇(ひま)を出したるその後は、一度も今に尋ねぬ事ゆゑ、本石町の様子も知れず、又なまなかに此事を知 らさば、却つて娘子のなんぎになるも計られねば、旦那のお帰りなされた上で、よい御分別もある事と、かくまひおきし娘子にあふて力をそへて下されと、昔し の恩を忘れざる、その深切があらはれる長物語りを、角太郎感心しながら聞き終り、咄しの次第は分つたが、若(もし)もその娘はお八重といふではあるまい か、と問ふにお芳はびつくりし、如何(どう)して旦那がそのお名を、と不審するのは尤もなれど、お八重といへば、神奈川で泊りあはせて癪にとぢられ、母御 (はゝご)がお八重と呼(よび)いけるさわぎを見かねて、此私が進ぜた薬で、漸々(やうやう)と開きがついた娘子ならん、何にしても不思儀な事と、お八重 を爰へ呼よせて、互ひに見かはす願とかほ、尽せぬ縁(えにし)、またこゝであふとは誰か白髭(しらひげ)の神ならぬ身を如何にせん、世をうし島とふりす てゝ、尼になるみの浴衣(ゆかた)のまゝで、癪にとぢられ取乱したるその様を、見られし方かと思へば今さら恥かしく、礼の辞(ことば)もあとやさき、只こ の上はよき様に、力になつてたまはれと、優しきことばに、角太郎、お前がたよりに思はるゝおよしは、私しが少(ちひ)さい時から世話になり、知つての通り 何事も家を任せておくほどなれば、及ばずながらおよしと共に力になつて、どの様にか、お前が難儀をなさらぬやうしませうほどに、不自由なりとも心おきなく おられよと、情の言葉に、お八重はなほさら、およしも嬉しく、一日(ひとひ)一日と送るうち、互ひに心ありま山、いなの笹はら否(いな)ならぬ、二人はい つか下紐のとけてうれしき中となり、日に睦まじき有様を、およしは知れど今さらせんなく、却つてお八重の仕合せならんと心の内に喜こべど、人の娘を沙汰な しに、かうしておくはよからねど、なまなか先へ咄(はな)しをなさば、又もお八重の身の上と思へば、そのまゝ捨(すて)おいて、そのうち首尾をせんもの と、千々(ちゞ)に心を苦しめつゝ、うかうか送る秋の空、梢の紅葉はや散て、手洗水(てあらひみづ)に薄氷(うすごほり)はるや来ぬらん師走のなかば、忙 がしきとて本町より迎ひをうけて、およしは一先(ひとまづ)本宅へこそ立かへる、年の首(はじ)めの賑ひは、昨日(きのふ)にひきかへ何となく庭の景色も とゝのふて、さきがけみせる梅の花、東風(こち)のまにまに香(にほ)ひける。

 
 初編下

 四季の眺(ながめ)の色々と変る浮世をうし島と、表を飾る菩提心(ぼだいしん)、つまぐる数珠の袖の内、とめきの薫(かをり)煩悩(ぼんなう)の花の色 ある小梅の里、紀角が住(すめ)る別荘に、隣る玉屋の寮を買(かひ)うけ、引移(ひきうつり)来し其人は、元浅草鳥越(とりごえ)の甚内橋の辺(ほとり) に任む原田某(それ)の娘おきぬとて、幼少(をさなき)ころより手品を習ひ、其(その)藝名(げいみやう)を鈴川小春と呼(よび)なして、江戸町々の寄席 (よせせき)で美人と評判高かりければ、諸大名の館(たち)へも召され、座敷手品の御所望(ごしよまう)に、愛敬(あいきやう)ふくむ手先の早業、御意 (ぎよい)に適(かな)つて、十七の春の半(なかば)に、大窪家の若殿が妾に抱(かゝ)ひ玉ひしより、其両親(そのふたおや)も浮み出でしが、其翌年コロ リといへる病のため、枕を並べて両親とも、此世を去(さり)し跡々は、外(ほか)に親族もなきものか、残りし妹(いもと)のお峯まで、御殿の内へ引取て、 栄耀(ええう)に送る春秋(はるあき)も、はや二(ふた)替り三年(みとせ)目に、寵愛うけし殿様が頓(とみ)に卒去(みまかり)たまひし後は、此世をう しと一間(ひとま)に籠り、嘘かまことか看経(かんきん)にたじなく月日を送るのみ。痩衰へて食事さへほそきと聞(きい)て、後室(こうしつ)より二週間 (ふたまはりかん)の暇(いとま)を賜はり、箱根の温泉(いでゆ)で保養をせよと有がたき仰せを受て、侍女(こしもと)其外附(つき)の侍諸共(もろと も)、宮の下なる奈良屋といふ旅宿に暫し逗留する頃、対ひ座敷の相客を見初(みそめ)て頻りに慕はしけれど、いひよる術(すべ)もながき暇(いとま)にあ らぬみは、はや日限の迫りきて、やしきへかへる思ひでに、せめては焦(こが)るゝ其人の名所(などころ)だけも問(とひ)たしと、宿の女へ窃(ひそ)かに 頼み、探つて聞けば、本町の紀角といへる薬種問屋(やくしゆどひや)の若隠居といふを頼みに、心残して立(たち)かへる。江戸の屋敷の究屈(きゆうくつ) を厭ふが上に、湯治場のざんじの保養が身に染(しみ)て、折目正しき礼式をうるさく思ふのみならず、今は屋敷に用なき躰(からだ)、身儘(みまゝ)になつ て彼人(あのひと)にあふよしもがなと、物思ふ心知(しつ)たる婢女(はしため)のおさよといふは四十の上を二ツ三ツこしぢの雪のとけやすく、腹いと黒き おきぬの合口(あひくち)、始終を聞て容易(たやす)く引うけ、小者(こもの)へ頼んで紀角が上を悉(くは)しく探り、今は小梅の別荘に住むよし知て、奥 向の首尾をつくろひ、おきぬを病気と云做(いひなし)て、保養かたがた亡君(なききみ)の後世(ごせ)を吊(とぶら)ふ庵室にと、爰(こゝ)へは移り住み しにて、其時屋敷の重役(おもやく)から、若(もし)も此後(こののち)良縁あつて方付(かたづく)ならば、屋敷で世話もしてとらせん、又一生を潔(いさ ぎよ)く送るとあらば、扶助もせん、身の振方(ふりかた)は何(いづ)れとも心の儘に任せよと、月々に多く手当を賜はりければ、妹のお峯とお小夜の外(ほ か)に、下婢(はしため)二人、男といふは此頃新たに抱へたる下部(しもべ)の甚八のみにして、主従六人豊かにこそは暮しける。
 打はやす拍子も同じ七種(なゝくさ)の声の方(かた)から明(あけ)そめて、霞たな曳(びく)庭の戸を、押て入来(いりく)る二人の客は、彼(かの)宗 匠と豆八にて、年首(ねんしゆ)の礼はそこそこに、今日は節句に初卯(はつう)を持込み、殊に恵方も午(うま)の方(かた)、是非とも出初(でぞめ)のお 供をせんとそやし立(たて)るに、角太郎さらば初卯に詣でんと、世を忍ぶ身の是非なくも、お八重を家(うち)へ残しおき、二人を伴(つれ)てふらふらと出 かけた跡へ、引ちがへ訪(とひ)来し人は、日頃から隣の寮や此家へお幇間(たいこ)半分出入する橋場辺りの藪医にて、其名を黒林玄達と呼者(よぶもの)な り。案内もせずに庭先から、ヤア御慶(ぎよけい)でござる、大将宅(うち)かな、美人の側(そば)にばかり侍(はんべ)つて居ては健康を害します、是から 初卯へ御出馬とは如何(いかゞ)と音なふ声に、お八重は奥から走りいで、年首の礼を一通り述て、只今斯々(かくかく)にて三人伴立(つれだち)、初卯へ参 ると出たばかり、まだ其辺におりましよと聞て、玄達のそのそ座敷へ上り、辺り見廻し、夫(それ)では美人はお留主居(るすゐ)か、隣へ行(いつ)ても初卯 の留主、此方(こなた)の主人(あるじ)も又お留主、是で漸く読(よめ)た読た、貴嬢(あなた)は何も知られぬが、主人は隣のレコと湯治場からのお馴染 で、末は夫婦と約束のしてあることも知ております、貴嬢(あなた)はどうしたお方やら、度々お尋ね申しても、お咄(はなし)ないのは余程不思議、何を頼み に此宅(このうち)におらるゝことやら、是も分らぬ、今に苛酷(みじめ)を見らるゝかと思へば実(まこと)にお気の毒、早う分別なされよといふは実(まこ と)か、底気味わるく、お八重は何と言葉さへなくよりつらき胸の内、さし俯くを玄達は得たりと側へにじりより、其所(そこ)を愚老がよい様に主人へ甘(う ま)く説得して、隣の縁を切(きら)して進ぜる、お礼の印に、お八重さん、只(たつ)た一度でよい程に、ウンとおいひ、と抱(いだ)きつく手先を払ふて飛 退く所へ、下女が慌(あわて)て障子を引あけ、本町から四郎吉(しろきち)どんが御年首に見へました、と聞て驚く玄達は、七種(なゝくさ)なづな遠どの所 (とこ)をお早々、ドレドレ、此地(こつち)へござらぬ先に、ストントンと足踏(ふみ)ならし、残りおしげに帰りける。
 夫(それ)とは知らぬ角太郎、二人の末社(まつしや)を引伴(ひきつれ)て、柳島から亀井戸の梅には少し早けれど、此所まで来る次(ついで)にと、梅屋 敷をも見物せうに、爰(こゝ)で逢(あひ)しは玄達から咄(はなし)のあつた隣の主婦(あるじ)、箱根で去年見知りたるおきぬの一群(ひとむれ)、春の初 (はじめ)といひながら、最(いと)嬋妍(あでやか)に着飾(きかざつ)て、休らふ床机(しようぎ)も隣あひ、始めて爰で言葉を交へ、附(つき)の女中と 豆八が戯(たはむる)る事の面白さに、遂打解(つひうちとけ)て、夫からは此二群(ふたむれ)が一ツとなり、料理店(れうりや)橋本にて一酌を催ふし、互 に興を尽せしは、兼ておきぬが願(ねがひ)にて、如何なる神の引合せにや、是まで度々玄達から夜(よる)なと遊びに来られよ、と云送りしが、物堅く女子 (をなご)ばかりの其宅(うち)へ出入するのは如何(いかゞ)ぞと断はりおりし其人が、斯(かう)まで和らぎ玉ひしとは、春はありたきものなりと、おきぬ は痛く酒を過して苦しき様子に、其場を切あげ、打伴(うちつれ)だつて帰り路、角太はおきぬを扶(たす)けつゝ、隣の寮へ送り込み、二人の伴(つれ)を門 (かど)から返して入(い)る座敷に、しよんぼりとお八重が物を案じるは、例(いつも)の事と角太郎、側へ座(すわつ)て顔打眺め、斯(かう)ポカポカと 陽気になつたに、外へ出られぬお前の身の上、気分の欝(ふさ)ぐは尤もじや、其内お芳の働きで、どうとか咄(はなし)が極(きま)るであらう、少しの間辛 抱すれば、表向(むい)ての夫婦(めをと)となれる、今日は計らずお隣のおきぬさんの女中連(づれ)に出あひ、橋本で一杯やつたが、七種(なゝくさ)の初 卯のせいか、近年にない人の出、といふ端々が玄達の云し辞(ことば)に思ひあたれば、扨(さて)はとお八重は驚けど、口はしたなく云出(いひいで)て、軽 蔑(さげすま)れては恥しと、彼(かの)玄達が猥(みだ)らなる振舞せしも押包み、只本宅から番頭が年首に越せしことなどを告(つげ)て、其場を取なせし が、角太は夫(それ)より折々に隣の寮へ往通ひ、親しく交はる其内に、恋に手鍛錬(てだれ)のおきぬの取なし、夫といはねど情あることの葉草の露けきに、 春風うけて靡けてふ、おさよが軽き媒酌(とりもち)に、つの打解けてから、角太郎、以前に変つて日毎の様に、隣へばかり入込(いりこ)むにぞ、お八重は始 めて玄達の虚(うそ)が実(まこと)と鳴海潟、汐干に見へぬ沖の石、人こそ知らぬ朝夕に便なき身のみ嘆(かこ)ちつゝ、袂の乾く間(ひま)とても泣(な く)より外(ほか)に、此事を相談するはおよしのみ、夫も此頃家(いへ)におらねば、只此上は身を慎み、怨を包んでいつまでも、身を任したる角太の主(ぬ し)へ仕へた上で、見捨られなば夫(それ)までと、諦めて見ても、娘気の又も兎(と)やかう行末を案じ出しては、物思ふ心の内ぞ憐れなり。
 扨(さて)もおきぬは去年(こぞ)の秋見初(みそめ)た恋が漸々(やうやう)に叶ふて嬉しき此上は、世間晴ての夫婦とならば、又楽しみも格別ならん、屋 敷の方(かた)は縁付(えんづき)の願も済(すめ)ど、恋人にお八重といへる附者(つきもの)あれば、角太の方(かた)が面倒なり、只此上はお八重さへ除 かば、此方(こつち)の望は叶はん、何か手段はないものかと、胸に余つた相談に、おさよも困(こう)じて那是(あれこれ)と思案に其夜の更行(ふけゆき) て、燈火(ともしび)暗き一間から、怜悧(りこう)な様でも女は女、二人で一晩考へても、出る物とては座睡(ゐねむり)ばかり、是でも愚老は男だけ、直 (すぐ)に浮んだ一工夫、智恵をお貸(かし)申さうかと、のつそり出たは他人にあらず、彼(かの)黒林玄達にて、兼て此家(このや)へ出入する内、おさよ といつか馴染(なれそめ)て、人目を忍び語らふを、おきぬは知れど、二人とも腹いと黒き性(さが)なれば、何かの用にたつことあらんと見て見ぬ態(ふり) で、慈悲(なさけ)をかけておいたるも、是等のことを謀らんためと、おきぬは心に黙答(うなづき)て、手箱の内から黄金(こがね)を取出し、紙に捻(ひね つ)て玄達が前に差おき、仕上(しあげ)た上の褒美は格別、是は手附じや、お八重を除く手段といふを、早く早くとおきぬとおさよが急立(せきたつ)るを、 じらしておいて小声になり、夫は斯々(かうかう)なされよと、聞て二人は顔見合せ、暫し辞(ことば)もなかりしが、おさよが又も声を窃(ひそ)まし、夫を 其儘にしておかば、ことの露顕の本にもならん、夫ゆゑ跡は根性を見抜ておいた下部(しもべ)の甚八へ頼んで、斯々(かうかう)するならば跡腹(あとばら) やまぬ上策ならん、左様(さう)じやと三人囁きあふ、工(たく)みの程ぞ怖しけれ。
 今日とすぎ、昨日と遊ぶ、春の日の長きも暮て、今日ははや二十日といふて仕舞正月、骨牌(かるた)の遊びの名残とて、おきぬは文もて紀角の許(もと) へ、今日は少しく用意もあれば、まだおめもじをせぬお八重さまをもおつれなされて、夕刻から是非ともお出(いで)下されと、いひ越(こし)たるゆゑ、承知 の旨を答へおきしに、お八重は心もすゝまぬと断りいはゞ何とやら、吝気(りんき)の様に聞へもせんと、故(わざ)と悦び支度(したく)を調へ、角太と共に 隣なるおきぬの寮へ到りしに、今日は殊更座敷を飾り、おきぬは御殿にありし姿の襠(うちかけ)に、四方(あたり)まばゆく見ゆるほど粧(つく)り立(た つ)たる容体(やうだい)にて、褥(しとね)に座をしめ、お八重を近づけ、初対面の会釈して、今年十五の莟(つぼみ)の花、善か悪かは白絲のまだ馴染なき 妹のお峯を呼出して引合せなどする内に、かゞや(火ヘンに、軍)く数の燭台と共に持出す酒肴(さけさかな)、おさよが始終座敷を取持(とりもち)、勧むる 杯の廻るにつれ、おきぬは角太を側へ引寄(ひきよせ)、是見よがしの振舞に、お八重は妬(ねた)く思へども、自分の夫(をつと)といふではなく、此方(こ つち)も元は徒事(いたづらごと)、口惜(くちをし)けれど胸を摩(さす)つて忍ぶ所へ、おさよが別の徳利を持出し、是は甘いで飲(のめ)ますと、無理な 勧めに二三杯、お八重が飲(のむ)と忽ちに眼(まなこ)暗んで、手足が慄ひ、胸の辺りが苦しくて、何分座敷に堪(たへ)られぬ様子を、おさよが見て取て、 以前の徳利を取方付(とりかたづけ)、お八重様には上(あが)らぬせいか、余程お酔なされた御様子、お休みなさるがよからうと、おさよがいへば、角太郎、 少しも飲(のめ)ぬ不意気(ぶいき)な女、お手数(てかず)ながら一寸宅まで送つて下され、役にたゝぬと構ひもせぬを、お八重は悔(くや)しと思へども、 胸苦しきに堪(たへ)かねて、挨拶とてもそこそこに、女中の肩に扶けられ、我家の座敷へ入るや否や、其儘そこへ打臥して、正体なければ、下女は驚き、むり に臥所(ふしど)へ担ぎ込み、風を引(ひか)せぬ手当して、己(おのれ)も臥床(ふしど)の用意をする時、隣の女中が言伝(ことづて)に、貴家(あなた) の旦那は私方へお泊りなさると聞て、其所爰(そここゝ)戸締(とじまり)して己(おの)が臥床に入(いり)にける。
 其夜も更(ふけ)て丑満(うしみつ)頃、庭の籬根(かきね)を乗越て、忍び入(いつ)たる一人の曲者(くせもの)、手拭まぶかに面(おもて)を包み、裳 (もすそ)を高く引(ひつ)からげ、庭石伝ひに椽先(えんさき)の雨戸を一枚こぢ放し、お八重の臥床を伺ふて、独(ひとり)ほくほく打点頭(うちうなづ) き、有あふ手拭引延(ひきのば)し、正体もなきお八重の口へ猿轡(さるぐつわ)、帯にて体をぐるぐるまき、やおら起して肩へ引かけ、急いで庭の切戸から、 裏を廻つて田甫路(たんぼみち)、いきせき駆(かけ)て、牛島の堤へ登つて辺(あたり)を見廻し、爰(こゝ)は名ばかり長命寺の前の岸、又候(またぞろ) 小堤(こどて)へ担ぎあげ、爰らでよいと思ひしか、肩にかけたるお八重を卸(おろ)し、足と首とへ両手をかけ、中(ちう)に釣(つる)して南無阿彌陀佛の 声もろとも、隅田の流(ながれ)へざんぶとこそは投(なげ)こんだり。こゝの小舟に棹さす男は何者にて善なるや悪なるや二編をよみてしりたまふべし。

 
 二編上

 花見小袖の色さへ疾(とく)うつろひて、今ぞひとも思ひ袷(あはせ)着る頃なん、夜半(よは)の嵐にあへるてふ、衣(きぬ)のやれにし跡をものせよとい はれぬ。遮莫(さはれ)、まだすぢ棲(つま)もそぐはしかねし身の面(おも)なき業(わざ)ながら、たゞよし川うしの仕附苧(しつけを)(苧=そ)を便 (たより)として、漸く初篇を綴(つゞ)くりしに、僥倖(しあはせ)にも後をとの促しありときゝ、そゞろに編をつぎあてがひくらき手元の夜なべ仕事に、ま たポツポツとつゞり出(いだ)しつ。

  明治十一年七月下浣

              岡本勘造題



 扨(さて)も角太郎は思はずもおきぬが相手に、夜の更(ふく)るまで酒をのみ酔つぶれたるまゝ、其所へ打臥し、まだ起(おき)もせぬ其翌朝(よくて う)、宅(うち)に留守せし婢女(はしため)が、いと慌たゞしく取次もて、お八重さまには昨夜(ゆうべ)の内どこへかおいでなされしのみか、雨戸が一枚外 れたまゝ、椽のあたりに泥の足跡つきたるは、常事(たゞごと)とも思はれねば、早うお帰り下され、といふを聞(きけ)ども、角太郎、昨夜の酒がまだ醒(さ め)ねば、是はお八重が事をこしらへ、早く帰つてくれとの事ならんと、兎や角なして、漸々(やうやう)と宅(うち)へ戻れば、いひしに違はず、雨戸がはづ れてゐるのみならず、庭の切戸も破れており、曲者入(いり)し様子にて、お八重がおらぬは殊に訝(いぶ)かし、夜半(よなか)に何処へ行べきぞ、扨は此身 がおきぬの許(もと)へ通路(かよひぢ)しげきを恨みに思ひ、便りなき身はいとゞなほ胸にせまりて、若(もし)ひよつと悪い覚悟をしはせぬか、何にもせよ 不思議ぞと、お八重の臥床(ふしど)を調べしに、あたりに落たる文(ふみ)の切端(きれはし)、これはと取あげよく見れば、男の手跡で始めはなけれど、此 程申しあげし通り、今宵こそ首尾してまたれよかし、合(あひ)づはかねておはなし申せし通りなれば、必らずとも人に暁(さと)られぬ様お支度なされよ、ま づは用事のみ、取いそぎあらあらかしこ、と筆はとめても、留らぬは此道ばかりといふものゝ、お八重に限つて其様な事のあるべき様子はなけれど、現在男の此 手紙は、心せくまゝ取落せしに相違なし、アヽ七人の子はなすともと古人がいひしも今更に思へば憎き女ながらも、其(そ)を伴出(つれだ)せし男は誰(た) ぞ、

          (以下・割愛)