招待席
ぬま しょうぞう 作家 1926--2008
福岡市に生まれる。本名・天野哲夫。多くの経歴があって1997年新潮社に入社1992年定年退社までの間、『家畜人ヤプー』をはじめとする小説やエッセ
イを書き続けた。掲載作は、2003年7月筑摩書房刊の『マゾヒストMの遺言』の一編を生前編集者へ著者寄贈と許可とにより掲載。(秦 恒平)
少女幻想の恐怖
沼 正三
栗鼠の運命
喫茶店の午後、ガラス越しに日射しが広がる。物憂い空気がコーヒーカップを置いたテーブルのあたりから漂い出し、ボリュームを下げての静かな音楽が流れ
る。
駘蕩(たいとう)たる気分に、いささか睡気を感じ始めたところへ、少女らの会話の片々が飛び込んできた。私の席は窓際で、その奥隣に三人の女学生が雑談
に興じているのであった。
おしゃべりはありきたりのことだったが、聞くともなしに聞くうち、女学生の一人の、こんな話が私の興味をいきなり掻きたてた。残念ながら、彼女の顔を見
ることはできなかった。
……そうなの、リーちゃんという縞栗鼠(しまりす)なの。いくら可愛がっても懐かなくて、ニクッたらしいったらないの。餌をあげようとし
ても警戒して食べないし、あるときなんか指に噛みつかれてね、痛かったわよ。栗鼠の歯って、鼠とおんなじですごいのね……
……でさあ、面倒くさくなっちゃってさ、今朝、出かけるとき、籠の戸を開けっ放しに、いやーよ、部屋は閉めてたから外へは逃げられないわよ……うちに猫
がいるでしょ、そう、あのシャム猫よ。それを部屋にいれてさ、そいで学校へ来ちゃった……
アッハ、アッハ、笑い声が起って、その合間に、可哀そう″ザンコク!″なぞの言葉が断片的に聞えたが、笑い合う少女らの楽しげな茶飲み話の雰囲気の
中にすべて溶けこんでいった。
この物憂い、気怠(けたる)い午後の喫茶店の、駘蕩たる気分のどこかに、私は、確かに、血の臭いを嗅ぎとっていた。店内に流れる音楽は、まぎれもない
『乙女の祈り』だった。
いろんな想いが、絡み合う植物の根のように、継起して広がった。男装の麗人ジョルジュ・サンドを熱愛したアルフレッド・ド・ミュッセは、多情多感な彼女
の奔放な行為に翻弄され、嫉妬の情に狂おしい毎日を送っている折にも、彼女への思慕、烈々たるレターを書きつらねて、熄(や)むことがない。
……僕は僕のこの骨で、あなたのために祭壇を建てたいのです。でも僕は、あなたのはっきりしたお許しを待つつもりでいます。
〈親しき友よ、僕が死んだら/ひともとの柳を墓に植えてくれ給え)(長詩『柳』中の悲歌「リュシー」)と詠じるミュッセは、サンドの冷酷と無関心をすでに
嗅ぎ取っていた。もし自分が死んでも、「最初の日には、もしかすれば私の後を追いたいというかもしれないその彼女が、一カ月もすれば飽きが来て、私の墓に
植えられたしだれ柳なぞにはもはや見向きもしなくなるだろう」(『世紀児の告白』)と嘆じる。サンドの関心は、疾うにミュッセから離れていた。彼女は友人
に宛てた手紙に面倒臭げに書きながす。
……しかし、あの人が、今また前のように苦しむところを目にしたとしても、その苦しみは、あたしの心に、もはや、ほんの小波(さざなみ)
ひとつたてることもできないでしょう。
テニスン流にいえば──そうだ、女や男がいかなる存在であるか、世界とは何かを知るには、ただ一つの花を理解すれば足りるであろう。少女特有の潔癖と冷
酷、驕慢と無関心が栗鼠の運命の悲劇性と滑稽味を増幅させることのなかに、愛の原型(プロトタイプ)は証明される。
九州といえば男尊女卑の典型的土地柄、九州男児といえば最も男くさい、そして九州の部隊は最強の軍隊──という概念の裏に、九州の乙女(おみなこ)らのあ
えかな微笑が見えてくる。彼女らは男に仕えることに喜びを感じていたのかもしれぬが、それは男が強いからではなく、男の弱さを見抜いていたからではあるま
いか。九州の兵隊は精強無比をもって鳴っていたが、彼らが戦死を遂げる最期に当っては、「天皇陛下バンザイ!」ではなく、「お母さん」と呟く、とは、戦時
下当時、すでに一般で流布されていた。九州男児は、なべて、強度のマザーコンプレックス傾向を持つ、この事象は、我が身に徹して(私自身、九州生れ、九州
育ち)、明言できそうである。
同時にまた、男たちの原記憶の核の部分に"振り向いてもくれない少女の後ろ姿″のイメージが灼き込まれている。初恋は失恋に終ることを常道とするようだ
が、「カチカチ山」の白兎に少女の本質を仮託して狸と対比させた太宰治の発想は(『御伽(おとぎ)草紙』)、この間の機微を外しては語れないものである
(兎を新しき女の先祖に擬しての幸田露伴の小文「兎」〔『洗心録』〕に、「かちかち山の冬の嵐に、薪火(しんか)たちまちに煽れるは何ぞ酷(むごた)らし
きや」とある)。
永遠と女性は時代を超えて手を結び、歴史の背後から、歴史ぐるみ、男を囚えつづけている。
弱者のサディズムのからくり
初潮をもって童女は少女になる。血を見、血の匂いを嗅ぐことに馴染みを重ねつつ、少女はその蠱惑度(こわくど)を深める。
現代比較行動学の父といわれるドイツのコンラッド・ローレンツ博士の報告による次のような症例は、極めて示唆的である。
──彼は寵の中に、雄の雉鳩(きじばと)と雌の白子鳩をいっしょに入れたまま、出かける。
翌日、戻ってきたとき、怖ろしい光景を目撃する。雉鳩は籠の底で瀕死の状態になっていた。頭から頸、背中にわたって一面に羽毛をむしり取られ、しかも一
部は、皮まで引き剥かれて血まみれになっていた。その血みどろの真ん中に、全く無関係のような、優美な平和のシンボルが立っていた。夢見るような表情の貴
婦人が、自分が打ち倒したばかりの雄の無残な傷口を、美しい銀色の嘴(くちばし)で情け容赦なくつついていたのである。雄は残る力を絞って逃走を試みる
と、彼女は両の翼で軽く打つ。斃(たお)れた雄の上に乗り、ゆっくりと先ほどからの残酷な遊戯に取りかかる。──
口ーレンツ博士のこの観察は──狼やライオンのような肉食獣の、強力に発達した下顎や牙、爪のような武器を持つ種属には、内的な、内ゲバに至らない攻撃
力抑制のブレーキが機能するが、強力な武器を持たない鳩なぞには、攻撃を抑制するブレーキが発達していないから、このような怖ろしいことが起る──と結論
づけるのである。
なるほど、一般的には、鳩の嘴は強力な武器ではない。それに比べ、肉食専門の猛獣には恐るべき武器が内蔵されていて、もしそれが乱用されると共倒れにな
りかねない。恭順の意を示した狼が、優位の狼の牙の前に自分の頸動派のあたりを差し出すと、それだけで降伏の儀式は終りとなる。自然の叡知(えいち)とい
うか、武器が強力であればあるほどその反面、強力に刷り込まれた制御装置が働くのである。人間は鳩と同じだと、ローレンツ博士は述べる。雑食性の動物であ
る人間は、それ自体、野獣を打ち斃せるほどの牙も爪も腕力もない。従って、その武器をコントロールする攻撃性の制御機能は未発達のままである。優位に立つ
側が、完全に恭順を示す相手をも責め苛(さいな)むサディスティックな本能的行動の主因を博士はここに発見しょうとしている。人間の本能は原因ではなく結
果だ、とは、人類学者として令名の高いアンドレ・ルロワ=グーランの言うところだ。つまり本能は、本能行動を説明するものではなく、複雑な過程と多様な起
源の到達点を哲学的に特徴づけるものとなる。
ともあれ、ローレンツ博士の観察した鳩が、血の伯爵夫人と戦慄せしめたエリザベート・バートリにも比すべき優美な勝利者が、殿方でなくご婦人であるとい
うことが鮮やかに象徴的である(ローレンツの見解に、エレン・モーガンは、それは男が思い描く、根拠のない類推だとの、興味深い異議申し立てを行ってはい
るが。『女の由来』)。
この伝でいくと、武器を持たない、無力な者ほど残忍である、ということにならないか。体力に恵まれない子供、そして婦人には、成人、殿方ほどの攻撃力が
ないので、従って、それを抑制するブレーキはなおのこと発達しない。そのため、いったん攻撃の場が許容されると、それは際限のない破滅的攻撃となる。子供
や婦人の攻撃性、無力な一般民衆の攻撃性の苛烈さを思い浮かべると、弱者とサディズム≠ネぞの一つのテーマが導き出されてくるかもしれないが、主題から
外れるので深追いはしない(女性が"弱者"か、となると、また問題は別である。思惟を深めると、おそらく、この地位は、どこかに仕掛があって、ドンデン返
しのエピローグが準備されているに違いない)。また私の追う主題はここにはない。しかし、一面、確かに、少女と血のイメージは、深部で重なり合って私を戦
慄させるのである。
狩猟神ディアナ
十、十一歳ほどには稚(おさな)くはなく、十八、九歳ほどには物欲しげではないこの季節、少女は自分の血の匂いを対象に、謎めいたフェティシズムに沈淪
する。内向的にナルシシスティックなこの季節、彼女らの潔癖は他を容赦しない攻撃的な排他性を内包することでもある。一匹の精子を捕食するまで、捕食に至
る準備期間、彼女らは心ひそかに肉食獣を内部に飼いつづける。
神が衰弱して妖怪になった、と民俗学での定説で述べられるが、その神はまた妖怪の落し子であることにあまり目は向けられない。妖怪の恐怖が神の力と正義
を前面に押し出しての変身ぶりは文化発生以後のことであり、その定着と比例して「女性嫌悪・蔑視」の波が世界をおおい始める。クーデターに成功して権力
(ヘゲモニー)を手中にした成上りの男神は、その生みの親である女怪を後景に押しやって、乙女(おとめご)に、彼女らは心優しき従属者という名の餌と檻を
与えて、そこが本来の彼女らの本籍地であるかのように思い込ませようとして、いちおうの成功を収めつづけて来た。男性の願望を代表するかのように、トロイ
の王子パリスは、ヴィーナス(アフロディテ)を選び取る。これは実に象徴的事件と言わねばならない。文化期以後の男の願望の投影として、男の欲望をそそる
性的対象として、ヴィーナスの裸身が女性の理想像として脚光を浴びる。しかし、女の正体が即ヴィーナスであるかどうかは別問題であり、男の願望とは裏腹
に、パリスの選択によっては落選させられたジュノー(ヘラ)の権威、ミネルヴァ(アテナ)の武勇は、抑制されてはいても確実に女子から女子へのDNAの糸
筋の中に引きつがれている。ミネルヴァは光の神である。理智
と教養の体現者であり、同時にその雄々しさ(マンリッヒカイト)によって、男性の戦争神マルス(アレス)をも打ち斃す武勇の持主でもある。神々の女王であ
るジュノーは孔雀に車を挽(ひ)かせるプライドの高い貴婦人の典型。これら本来の女性神の資質であった特質を纂奪(さんだつ)するかのように、パリスは目
をつむってその性的魅力だけを選び取った。ちょうど、男性神を前面に押し立てての異教社会におけるキリスト教の勃興と浸透と軌を一にするかのように。だが
まだしも、キリスト教の背後には聖処女マリア信仰という豊穣な大地があって、押し出された男性神を庇護したが、プロテスタントの改革者たちは、神性の中か
らその残された「女性の原理」を斥けてしまった。ちょうど江戸時代には、明正、後桜町という二方の女性天皇を許容した日本の天皇制から、明治新政府は完全
に女性天皇を追放したように(もっとも、その元凶は水戸学にある)。近代化という名の社会体制の持つ生理は極端にザーメン臭くなる。
「猫好きの女と犬好きの男は合性がいい」という。なるほど、兎を美少女と重ね合せる連想力からすると、猫の面立ちも性癖もまた美少女に似る。本来、天性の
狩猟家である猫と、その驕慢なまでの潔癖症から類推するまでもなく、ここで当然、かの処女神ディアナ(アルテミス)を想起せずにはおれなくなる。
処女の具現者であるディアナは、袖なしの短い肌衣を着るだけの狩猟神で、いずれも同じような服装の女従者五人にかしずかれ、ガルガピの谷と呼ばれる一帯
で狩をし、森の奥の泉で浴(ゆあみ)するのである。その浴の最中に、付近に住む猟師のアクテオンが偶然に差しかかる。見られてはならぬ裸身を垣間見られた
処女神は、『変身譚』のオウィディウスの口を借りると、「太陽に照りはえる雲の色のように、あるいは深紅の曙光のように赧(あか)らんだ」とある。同時に
彼女は、怒り心頭に発し、口に含んだ神水を若者に吹きかける。すると、みるみる彼のぬれた頭に牡鹿の角が生え、耳はとがり、手は前肢に足は臑(すね)に、
やがて全身は斑点のある毛皮でおおわれてしまう。彼は逃げ出すが、その跳ぶような速さに自分でびっくりしながら嘆く。だが嘆きは言葉にならない。すると彼
が連れてきていた猟犬たちが鹿に変身している主人を見つける。まず、メランプスと、鼻のきくイクノバテスが吠え立てたとある。以下『変身譚』には十数頭の
犬の名とその特徴が列記されるが省略する。とにかく、必死に逃げ回る鹿になったアクテオンと、それを追う犬の群とのスリリングな場景が展開し、最後には若
者は犬の鋭い牙でズタズタに引き裂かれる凄惨な結末になる。モンテーニュの『随想録』に引用されているウェルギリウスの表現を借りると、
血にまみれし彼は、悲しき声をしぼりてさながらに助命を乞うものの如くなり。
こうしてアクテオンは無残な最期を遂げるが、見てはならぬ処女の裸身を垣間見た罰としては、まだ軽すぎると、ディアナの怒りはそれでも収まらない。
かくして現代において、ただ飽きられただけで、猫に八つ裂きにされる縞栗鼠の運命は、逆に神話的に聞えてくるのである。
ハードな少女
女神(天照大神)によって肇められた国土を形造る埴土(はにつち)を管理するための管理人・埴安彦神(はにやすひこのかみ)を、女神(伊弉冉神=いざな
み)は自分の糞の中から化生させる。その成立の渾沌の中に出生の秘密のすべてを負う日本という名の共同体に、初めて、統一国家という相応(ふさわ)しい形
態を与えたのは奈良朝を肇(ひら)いた持統女帝であった。「大君は 神にしませば 天雲の 雷(いかつち)の上に いほらせるかも」と、柿本人麻呂をして
拝脆せしめたこの女帝の神的権威のもとに、古い大和は、初めて、国家としての日本へと脱皮するのである。日、没する所を知らずの曾(かつ)ての大英帝国の
隆盛の基(もとい)を肇いたヴィクトリア姫が、まさに芳紀十八歳、G・L・ストレイチーが、「その優雅さ、驚くべき威厳、申し分のない英姿を拝した」と述
懐する(『クイーン・ヴィクトリア』)心情は、おそらく女帝を神と拝した人麻呂のそれと符節を一にする。天武帝というよりは多分に持統女帝の意志によって
編まれた『古事記』は女神の国産みの時代から推古女帝まで、引き続き『日本書紀』は持統女帝まで、どちらも女神に始まり女帝に終る。そしてこの『記紀』両
者を成立せしめた奈良朝は、日本の礎たるべき花咲ける時代であると同時に、それは大英帝国を築き上げたエリザベス、ヴィクトリア女王時代 以上の、絢爛
(けんらん)たる女帝王朝(七代のうち四代が女帝)であった。まさに日本の戸籍の奥深くには、ザーメンにも増してメンゼスの臭気が濃く立ちこめるのであ
る。
特に象徴的な事象として、絢爛たる少女皇太子の出現を想起する。聖武天皇の娘、阿倍皇太子、後の孝謙女帝である。その立太子宣言を中外に誇示するかのよ
うに、天平十五年の五月五日、京都・加茂町の恭仁宮(くにのみや)に群臣を集め、皇太子自ら五節(ごせち)の舞を舞う、という有名な場景が鮮やかだ(五月
五日は今では端午の節句。男子の祝日とされるが、これとて元はといえば女子の祝日であった)。その凛々(りり)しさに想を馳せれば、思わず杜甫の詩句など
が口をついて出てきそうだ。
輦前の才人弓箭を帯び 才人は女官の職名
白馬は嚼囓す黄金の勒
身を翻して天に向い仰いで雲を射る
一箭正に墜す双飛の翼
少女特有のハードな側面を賛仰することにおいて、少年派であるはずの稲垣足穂すら、
「私が女性的立場から考えますと、男性に受身への劇(はげ)しい欲望が隠されているということが面白いのです。それは女性がサディズムを隠しているのと
同じく人間原理に立つ……」(『A感覚とV感覚』)と認めるところとなる。美少年の中に、美少年をとおして、最もハードな美少女の悌を二重映しに盗み見て
いたのではないかと推測したい。
われわれが歴史という名のもとに女性の痕跡をおおい隠し、取って代って男性の原理を押し出すと共に、少女は少女らしく、男に庇護されるためだけに存在す
る可憐な少女にと変身させられてきた。本当は犯されたがっているのに、それを拒否する擬態によって男に媚びを売る偽善的娼婦の原型を少女に発見しようとす
る。しかし、ヴィーナスのみが女の正体ではない。微妙にして深遠な食い違いは此処にある。
「王政復古」を旗印にした明治維新が、もし字義どおり「王政復古」であるならば、明治はまず女帝によって始められなければならなかったはずだ。それをし
も、男系の男子に限定して、女子は後宮に押しこめて子供を産ませるためのダッチワイフに仕立てあげた政体は「王政復古」の名に背くこと、第一歩からして自
明のことであろう。
われわれがおおい隠しても、遠い過去からの呼び声を記憶の底から痕跡もなく洗い落しきることはできない。神話や説話は記憶の痕跡の証明であり、初期歴史
時代にはその痕跡はまだしかし、そのまま生きていた。
歴史は創(はじ)まりではなく結果だ、と、ルロワ=グーラン流に言えるのである。前歴史期の複雑な過程と多様な過程が生み落した結果が歴史となる。その
全過程の深淵には誰もが目がくらむ。フィリピン海溝一万メートルの海底を探るために海に飛び込む。素潜りで十メートル、一万メートルを地球生命史の三十五
億年にすると、十メートルは人類史の三百五十万年に当ろうか。十メートルに対して歴史時代二千年はわずか二センチである。近代二百年は向うが透けて見える
トイレットペーパーの厚みくらいであろうか。トイレットペーパーの厚みでもって一万メートルの海底までを推し量りいっさいを裁量することの意味があるかな
いか、その功罪を問うつもりはないが、ただ言えることは、この長大な時間の堆積の中で、まさに男が主役であり得たのは、二センチでしかないということであ
る。その二センチですら、最初の数ミリを女性たちはリードした。それはおそらく、全過去の投影であり、全過去の記憶によって導き出された必然を意味しよ
う。われわれの頭上に、今度は、さらに一万メートルの未来の堆積によって現在は埋没させられることを覚悟しなければなるまい。この過去と未来の挟み打ちの
中でのミクロ的二センチの占める意味は何か、一種のパロディに思えてもきそうである。
振り向いてもくれない少女″のお下げ髪が、もし振り向いたその顔は何か、これはパロディではなくスリラーじみる。過去と未来は、われわれの二センチな
ぞは通り越して、直接に手をつなぐ。彼女はすっかり承知の上で、今この束の間の時間を、可憐な少女役で演じ、欺いているような気がする。