「e-文藝館=湖(umi)」人と
思想 招待席
なかむら
みつお 文藝批評家・小説家・劇作家 1911.2.5 -
1988.7.12 東京下谷に生まれる。第六代日本ペンクラブ会長 文化功労者 藝術院会員 『風俗小説論』『志賀直哉論』「谷崎潤一郎論』『正宗白鳥
論』『想像力について』等々の傑出した業績で批評の世界に大きな足跡をのこされた。編輯者の私が受けた第五回太宰治文学賞の選者でもあられた。「e-文藝
館=湖(umi)」には早くに、婦人の推奨をいただいて論攷『知識階級』を、さらに『蒲団と浮雲』を頂戴している。掲載作は、昭和六十年(1985)六月
筑摩書房刊の批評と随筆の編輯本『老いの微笑』初出の、表題作である。先生晩年にまた私も近づき、共感とはいうも愚かな警策を覚えている。 (秦 恒平)
老
いの微笑 中村 光夫
1
自然主義を形成した四作家のうち、僕が謦咳に接したのは、秋声と藤村です。秋声は、ある会合で同席しただけですが、藤村は、彼の大磯の家を訪ねて、かな
り長い間話することができました。
戦争中、といってもまだそれがあまりひどくならないころ、たしか昭和十七年のことでした。当時僕は筑摩書房の編集の仕事をしてゐましたが、そこから「透
谷全集」を出すといふ企画がありました。
たぶん小田切秀雄氏あたりからでた話だと思ひますが、それがある程度まで具体化したところで、藤村の意向を聞き、できれば監修を引受けてもらはうといふ
ことになり、唐木順三と僕が瀬踏みの形で訪ねることになりました。
当時の藤村の大磯の家には電話はなかつたやうに記憶してゐます。
かりにあつたとしても、大家を訪ねるのに電話で都合をきくのは礼儀にもとるやうに思ふ気風がそのころはまだ強かつたので、林間都市に住む唐木と藤沢あた
りでおちあつて、混む汽車に乗つていきなり行つてみました。
夏の暑い日のことで、駅から線路に沿つた白く埃ぽい道をしばらく行くと、やはり線路わきの、小さな平家の前に出ました。
屋根はトタン葺か瓦屋根だつたか、いまでは正確に覚えてゐませんが、家の感じから云へばトタン葺でも不釣合でないやうな家で、住居を質素にするのが趣味
であり、或る意味では見栄であつた藤村にしても、さすがに徹底したものと感心しました。
予期した通り、この日は留守で(或ひは会ひたくなかつたのかも知れません)奥さんの好意で、座敷で茶を一杯ふるまはれて、帰りました。
居間とも客間ともつかぬ部屋の壁に、麻のかたびらが衣紋かけに掛けて下げてあつたのを、唐木が見て、「いかにも藤村らしい住居だな」と感嘆してゐまし
た。
その日は海岸にでて、大磯のきれいな水を楽しみました。僕等はまだ二人とも三十代で、泳いでもをかしくない年頃でした。
藤村に会へたのは、その次か、またその次ぐらゐ訪ねたときで、このときは、彼は筑摩書房について予備知識を持つてゐたらしく、愛想のいい応対でした。
前の座敷でなく、さつぱり手入の行きとどいた小庭に面した、書斎めいた部屋に通されました。小さな仕事机が置かれて、そこで『東方の門』を書いてゐる様
子でしたが、机の上はもとより、部屋全体が紙屑ひとつ落ちてゐないやうに片付けられてゐました。
天井の低い座敷は、かなり暑いにかかはらずあたりの感じがどこか涼しかつたのは、住み手の個性なのでせう。いま対坐してゐるのは非凡な人なのだ、こんな
気がどことなくしてきました。
藤村その人の印象は、色白の小柄な老人で、ひどく女性的な感じでした。お爺さんといふよりお姿さんに見え、麻の着物の襟をきちんと合せたところは尼さん
のやうでした。
「透谷全集」の話にはひどく乗り気で、装釘にも意見がある様子でした。
若くて亡くなつた友人の記憶が、貴重なものだつたことは、彼が何度も書いてゐますが、これはまつたく誇張ではないやうで、老来その思ひ出はますます鮮か
になる様子でした。
老人に特有の性急さで、本ができあがるのは何時ごろかと訊いて、僕等を面喰らはせたりしました。戦時の出版に課せられてゐる面倒な手続きは、彼にほまつ
たく呑みこめないやうでした。
或る作家への面識の有無といふやうなことは、本来なら、彼の作品の鑑賞あるひは理解と何の関係もない筈です。しかし我国の私小説の場合には、作品の性質
上、さうは行きません。作中人物の行動が作者自身のものであることが、暗黙のうちに前提とされ、彼の容貌などの描写は普通省かれてしまひ、読者は作者の顔
を思ひうかべながら場面を想像するのが通例である場合、その想像が面識の有無によつて違つてくるのは当然です。
恋愛の場合など、主人公が美男であるか醜男かによつて、状況がまるで違つてくるのはあたりまへでせう。
花袋や泡鳴の恋愛は醜男の恋愛であり、藤村のそれは美男のであつたことは、彼等の女性観察に大きな影響をあたへてゐる筈です。ことによると、それは彼等
の恋愛観の決定的要素をなしてゐるかも知れないのですが、このことを(何分彼等の作品に書いてないので)僕等は忘れがちです。
藤村の風貌は、この点で僕にひとつの啓示をあたへてくれました。
女性的でありながら、どこか動物的なエネルギーが感じられる美貌は、ときには化猫のやうな薄気味悪い印象もあたへられ、彼のどの作品より感銘ふかく、彼
のどの作品の性格もよく説明してくれる生きものでした。
藤村の小説を読んで若いころあきたらなく思つたのは、彼の女性にたいする冷たさです。恋愛をしても自分のことしか考へず、相手の献身は当然のこととして
うけ入れるだけで、ちやうど蜘蛛が網にかかつた虫をくらひつくすやうに相手の骨までしやぶりながら、自分ではそれに気づかずもつともらしい顔をしてゐる。
かういふところが、救ひがたい偽善者のやうに思はれて、むやみに反撥したのですが、今日になつて自他の経験を通じて考へてみれば、恋愛にはたしかにさう
いふ一面があり、彼は彼なりに自分の感得した側面を誠実に告白してゐるのだといふことが、同時にかういふ恋愛の側面は花袋や泡鳴の到底観察し得なかつたも
のであり、僕自身の恋愛経験もこの二人に近いことが、わかるやうに思はれます。
あまり面白くない発見で、これも年の功とでも云つて自らなぐさめるほかありません。
2
島崎藤村の『飯倉だより』の巻頭に、「三人の訪問者」といふ文章があります。「冬」「貧」「老」の象徴的人物が訪ねてきたといふ形で、中年から老境に移
つて行く心境を語つたもので、人生とはこんなものなのか、と感心した記憶がありますが、今度読みかへしてみて、やや別の感想を持ちました。
『飯倉だより』が刊行されたのは、大正十一年ですが、「三人の訪問者」が書かれたのは大正七年末か八年の始めのやうです。さうすると、彼は数へ年で四十
七、八歳であつたわけで、まだ「老」について語る資格はなかつたやうに思はれます。
事実、ここに述べられてゐるのは、彼の老境に処する決意のやうなもので、それだけに明るく、楽観的とも云へませう。
「『老』が訪ねて来た。
これこそ私が『貧』以上に醜く考へて居たものだ。不思議にも、『老』までが私に微 笑むで見せた。……
私の側へ来たものの顔をよく見ると、今迄私が胸に描いて居たものは真実の『老』ではなくて、『萎縮』であつたことが分つて来た。自分の側へ来たものは、
もつと光つたものだ。もつと難有味のあるものだ」
これは「老」といふことに或る積極的な意味を認めて、「自分もほんたうに年を取りたい」と希ふ点では、いたづらに「若さ」に執着するより立派ですが、彼
自身も云つてゐる通り、「老」の訪問をうけてから、「まだ日が浅い」時期の感想でせう。
この陰険な訪問者の「微笑」の蔭に何がかくれてゐるか、彼も十年もすれば思ひ知つた筈です。
四十八歳の藤村は、「老」を切実な問題として考へることはできても、それを感ずることはほとんどなかつたのでせう。彼によれば、「老」につぐ第四の訪問
者は「死」ださうですが、この両者のつながりもまだはつきり見てはゐなかつたやうです。
この時期の藤村より、十年余り生きのびて、まづ感ずるのは、「老」が、思びがけない苦痛の連続であり、年をとつて生きるとは、どこに伏兵がゐるかわから
ない野原を、さぐり足で歩いてゐるやうなものだ、といふことです。
それは藤村の云ふやうに「光つたもの」「難有味のあるもの」にもたしかになり得るでせうが、その前にまづ心身の衰へとして僕等に襲ひかかつてきます。
藤村の理想とした「老」を生きられる老人は稀でせうが、衰への方は、一定の年齢になれば誰しも否応なく経験します。
まづ来るのは、肉体の苦痛です。或る日、身体のどこかが、これといふ原因もなしに、急に痛くなる、といふ経験は、五十代の終りごろになると、誰しもする
やうです。
僕の場合、昨年の夏、歩いてゐるうちに、急に左の膝が痛くなりました。秋から冬になるにつれて、だんだんそれがひどくなり、一時はズボンの中に懐炉を入
れたり、軽くびつこをびいたりしました。それが今年になるとほとんど感じないくらゐになりましたが、その代り、夏から腰が痛くなりました。
ざつくり腰かと思つて医者に行くと、レントゲン写真をとつて、さうではないが、骨が老化してゐると云はれました。
こんな風に、身体のどこかに痛いところがあると、気持の方もそれにかまけてしまつて、ほかのことは一切うけつけなくなります。ひとがどんなに楽しさうに
してゐても、それと溶けあふことはできないので、老人が陰気なエゴイストになり、自分のことしか考へられず、ひとに嫌はれるのは当然でせう。
どこも痛くなくとも、寝つきが悪かつたり、早く眼が覚めすぎたり、胃がもたれたりして、どことなく身体の調子が悪く、爽快な目覚めなどは殆どなくなりま
す。
朝、暗いうち、寝床のなかでもぢもぢしてゐると、ろくなことを考へません。昔の失敗の記憶をよびさましたり、憎らしい知人の言動を思ひだしたり、近いう
ち自分を待ちうけてゐるに遠ひない、病気と死の場面を想像したり、これは僕だけのことではなく、同年輩の人と話してみると、大抵同じやうな経験をしてゐま
す。
性欲についても、老人になれば性的機能が失はれるといふことは知つてゐましたが、それが、かういふ身体全体の調子の悪さの結果であることには気付かなか
つたのだから迂闊な話です。
身体から何かが溢れでるやうな快適な気分が、おのづから性的な欲望になるやうな状態には、もう二度とならないでせうが、さうかといつて女性にたいする関
心、あるひは観念的な征服欲が減ったわけではないのだから厄介です。
肉体の衰へは必然に精神の衰へを結果します。
これは肉体の痛みなどと違つて、意識するまいとすれば、ある程度は気付かずにすませますが、記憶が悪くなつたことや、度忘れが多くなつたことなどはその
誤魔化しようのない徴候でせう。そのほか、馴れた仕事の繰返しのほかはひどく億劫になつたり、新しい形や考へをうけつけなくなつたりするなど、肉体の硬化
に精神の硬化が並行する例はいくつも思ひあたります。
またこの両者に関係があると思はれるのは、指先や足などが急に「云ふことをきかなくなる」ことで、いままでなんでもなく扱つてゐたものを落したり、歩い
てゐた場所で足をとられたりするのは、自分にも危いし、人にも迷惑をかけることになります。
僕は「老」を一概に否定するものではありません。「老」の尊重に東洋の知恵があるのではないかとさへ思つてゐます。しかし西洋の文明を輸入して築きあげ
た今日の我国の社会で、老人の問題は、その孕む矛盾をひとつの鋭い形で示すものでせう。
西洋からもたらされた衛生学の普及が、我国の人口の著しい増加を結果し、そのために日本が世界からひとつの巨大な政治的圧力と見倣されるやうになつたの
は戦前のことですが、同じやうな環境の改善が、今日では老人の数を増大させ、おそらく西欧のどの国より変化の早い、精神生活の根抵まで不変なものの失はれ
た国に、適応能力を失つた人間たちの巨大な集団をつくりだしつつあるわけです。
つまり、老人にとつて、もつとも住みにくい国に、老人の群が急速に増えつつある、といふ事態が、我国が西洋の文明を輸入した実質的な結果といふことにな
ります。
そこまで話を大きくせず、「老」を自分一個の問題と考へても、藤村の云ふやうな「光つた、難有い」老年を得るには「老」がまづ肉体的、精神的な衰弱だと
いふ現実をうけ入れ、それを出発点とするほかはないでせう。
老人がいくら自己中心に傾いても、その自己が間もなく消滅することは、認めざるを得ない筈で、このやうな執着と限界の意識から、新たな転機を生みだすた
めに、芸術の役割が、あらためて考へられてよいと思ひます。
芸術は一方において、あくまで自己中心的なものであり、個性のもつとも深い部分の外化、表現であると同時に、その表現といふ行為によつて、他人の評価に
身をさらし、そのことで、他の手段では得られぬコミュニケーションを行ふからです。
藤村の云ふやうに「老」が光ることがあるとするなら、それはこのやうな作業が成功したときと思はれます。