招待席

なかじま あつし  小説家  1909.5.5 - 1942.12.4   東京四谷に生まれる。三十四歳で若く逝った達識稀有の作者で、遺作のすべてが古典の風貌を得ている。 掲載作は逝去の三日前、昭和十七年十二月一日付け三 笠書房刊「文庫」十二月号に発表、さながらに「名人」の如くであった。





               名人伝
          中島 敦



 趙(てう)の邯鄲(かんたん)の都に住む紀昌(きしやう)といふ男が、天下第一の弓の名人にならうと志を立てた。己(おのれ)の師と頼むべき人物を物色 するに、当今弓矢をとつては、名手・飛衛(ひえい)に及ぶ者があらうとは思はれぬ。百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中するといふ達人ださうである。紀昌は 遙々(はるばる)飛衛をたづねて其の門に入つた。
 飛衛は新入の門人に、先づ瞬(まばた)きせざることを学べと命じた。紀昌は家に帰り、妻の機織台(はたおりだい)の下に潜り込んで、其処に仰向(あふ む)けにひつくり返つた。眼とすれすれに機躡(まねき)が忙しく上下往来するのをじつと(3字に、傍点)瞬(またた)かずに見詰めてゐようといふ工夫であ る。理由を知らない妻は大いに驚いた。第一、妙な姿勢を妙な角度から良人に覗(のぞ)かれては困るといふ。厭がる妻を紀昌は叱りつけて、無理に機を織り続 けさせた。来る日も来る日も彼はこの可笑(をか)しな恰好(かつかう)で、瞬きせざる修練を重ねる。二年の後には、遽(あわた)だしく往返する牽挺(まね き)が睫毛(まつげ)を掠(かす)めても、絶えて瞬くことがなくなつた。彼は漸(やうや)く機の下ら匍出(はひだ)す。最早、鋭利な錐(きり)の先を以つ て瞼(まぶた)を突かれても、まばたきをせぬ迄になつてゐた。不意に火の粉が目に飛入らうとも目の前に突然灰神楽(はひかぐら)が立たうとも、彼は決して 目をパチつかせない。彼の瞼は最早それを閉ぢるべき筋肉の使用法を忘れ果て、夜、熟睡してゐる時でも、紀昌の目はクワツと大きく見開かれた儘である。竟 (つひ)に、彼の目の睫毛と睫毛との間に小さな一匹の蜘蛛(くも)が巣をかけるに及んで、彼は漸く自信を得て、師の飛衛に之を告げた。
 それを聞いて飛衛がいふ。瞬かざるのみでは未(いま)だ射(しや)を授けるに足りぬ。次には、視(み)ることを学べ。視ることに熟して、さて、小を視る こと大の如く、微(び)を見ること著(ちよ)の如くなつたならば、来つて我に告げるがよいと。
 紀昌は再び家に戻り、肌着の縫目から虱(しらみ)を一匹探し出して、之(これ)を己(おの)が髪の毛を以て繋いだ。さうして、それを南向きの窓に懸け、 終日睨(にら)み暮らすことにした。毎日々々彼は窓にぶら下つた虱を見詰める。初め、勿論それは一匹の虱に過ぎない。二三日たつても、依然として虱であ る。所が、十日余り過ぎると、気のせゐか、どうやらそれがほん(2字に、傍点)の少しながら大きく見えて来たやうに思はれる。三月日の終りには、明らかに 蚕(かひこ)ほどの大きさに見えて来た。虱を吊るした窓の外の風物は、次第に移り変る。煕々(きき)として照つてゐた春の陽は何時か烈(はげ)しい夏の光 に変り、澄んだ秋空を高く雁(かり)が渡つて行つたかと思ふと、はや、寒々とした灰色の空から霙(みぞれ)が落ちかかる。紀昌は根気よく、毛髪の先にぶら 下つた有吻類・催痒性(さいやうせい)の小節足動物を見続けた。その虱も何十匹となく取換へられて行く中(うち)に、早くも三年の月日が流れた。或日ふと 気が付くと、窓の虱が馬の様な大きさに見えてゐた。占めたと、紀昌は膝を打ち、表へ出る。彼は我が目を疑つた。人は高塔であつた。馬は山であつた。豚は丘 の如く、鷄(とり)は城楼と見える。雀躍して家にとつて返した紀昌は、再び窓際の虱に立向ひ、燕角(えんかく)の弧(ゆみ)に朔蓬(さくほう)のやがら (=竹カンムリに幹)をつがへて之を射れば、矢は見事に虱の心の臓を貫いて、しかも虱を繋いだ毛さへ断(き)れぬ。
 紀昌は早速師の許に赴(おもむ)いて之を報ずる。飛衛は高踏して胸を打ち、初めて「出かしたぞ」と褒めた。さうして、直ちに射術の奥儀秘伝を剰(あま) す所なく紀昌に授け始めた。
 目の基礎訓練に五年もかけた甲斐があつて紀昌の腕前の上達は、驚く程速い。
 奥儀伝授が始まつてから十日の後、試みに紀昌が百歩を隔てて柳葉を射るに、既に百発百中である。二十日の後、一杯に水を湛へた盃(さかづき)を右肱(み ぎひぢ)の上に載せて剛弓を引くに、狙(ねら)ひに狂ひの無いのは固(もと)より、杯中の水も微動だにしない。一月の後、百本の矢を以て速射を試みた所、 第一矢が的に中(あた)れば、続いて飛来つた第二矢は誤たず第一矢の括(やはず)に中つて突き刺さり、更に開髪を入れず第三矢の鏃(やじり)が第二矢の括 (やはず)にガツシと喰ひ込む。矢矢(しし)相属し、発発(はつはつ)相及んで、後矢の鏃は必ず前矢の括(やはず)に喰入るが故に、絶えて地に墜(お)ち ることがない。瞬(またた)く中に、百本の矢は一本の如くに相連(つら)なり、的から一直線に続いた其の最後の括(やはず)は猶(なほ)弦を銜(ふく)む が如くに見える。傍で見てゐた師の飛衛も思はず「善し!」と言つた。
 二月の後、偶々(たまたま)家に帰つて妻といさかひ(4字に、傍点)をした紀昌が之を威(おど)さうとて烏号(うがう)の弓にき衛(『き』の本字は、基 の土が糸)の矢をつがへきりり(3字に、傍点)と引絞(ひきしぼ)つて妻の目を射た。矢は妻の睫毛三本を射切つて彼方(かなた)へ飛び去つたが、射られた 本人は一向に気づかず、まばたきもしないで亭主を罵り続けた。蓋(けだ)し、彼の至芸による矢の速度と狙ひの精妙さとは、実に此の域に迄達してゐたのであ る。

 最早師から学び取るべき何ものも無くなつた紀昌は、或日、ふと良からぬ考へを起した。
 彼が其の時独りつくづくと考へるには、今や弓を以て己に敵すべき者は、師の飛衛をおいて外に無い。天下第一の名人となるためには、どうあつても飛衛を除 かねばならぬと。秘(ひそ)かに其の機会を窺つてゐる中に、一日偶々(たまたま)郊野に於て、向ふから唯一人歩み来る飛衛に出遇つた。咄嗟(とつさ)に意 を決した紀昌が矢を取つて狙(ねら)ひをつければ、その気配を察して飛衛も亦(また)弓を執(と)つて相応ずる。二人互ひに射れば、矢は其の度に中道にし て相当り、共に地に墜(お)ちた。地に落ちた矢が軽塵をも揚げなかつたのは、両人の技が何れも神(しん)に入(い)つてゐたからであらう。さて、飛衛の矢 が尽きた時、紀昌の方は尚(なほ)一矢を余してゐた。得たりと勢込んで紀昌が其の矢を放てば、飛衛は咄嗟(とつさ)に、傍なる野茨の枝を折り取り、その棘 (とげ)の先端を以てハツシと鏃(やじり)を叩き落した。竟(つひ)に非望の遂げられないことを悟つた紀昌の心に、成功したならば決して生じなかつたに違 ひない道義的慚愧(ざんき)の念が、此の時忽焉(こつえん)として湧起つた。飛衛の方では、又、危機を脱し得た安堵(あんど)とと己(おの)が技倆(ぎり やう)に就いての満足とが、敵に対する憎しみをすつかり忘れさせた。二人は互ひに駈け寄ると、野原の真中に相抱いて、暫し美しい師弟愛の涙にかきくれた。 <斯(か)うした事を今日の道義観を以て見るのは当らない。美食家の斉(せい)のの桓公(くわんこう)が己(おのれ)の未だ味はつたことのない珍味 を求めた時、厨宰(ちゆうさい)の易牙(えきが)は己(おの)が息子を蒸焼にして之をすすめた。十六歳の少年、秦の始皇帝は父が死んだ其の晩に、父の愛妾 (あいせう)を三度襲うた。凡(すべ)てそのやうな時代の話である。>
 涙にくれて相擁しながらも、再び弟子が斯かる企みを抱くやうなことがあつては甚だ危いと思つた飛衛は、紀昌に新たな目標を与へて其の気を転ずるに如 (し)くはないと考へた。彼は此の危険な弟子に向つて言つた。最早、伝ふべき程のことは悉(ことごと)く伝へた。なんぢ(=ニンベンに、爾)がもし之以上 斯(こ)の道の蘊奥(うんあう)を極めたいと望むならば、ゆいて西の方(かた)大行の嶮に攀(よ)ぢ、霍山(くわくざん)の頂を極めよ。そこには甘蝿(か んよう)老師とて古今を曠(むな)しうする斯道(しどう)の大家がをられる筈。老師の技に比べれば、我々の射の如きは殆(ほとん)ど児戯に類する。なんぢ の師と頼むべきは、今は甘蠅師の外にあるまいと。

 紀昌は直ぐに西に向つて旅立つ。其の人の前に出ては我々の技の如き児戯にひとしいと言つた師の言葉が彼の自尊心にこたへた。もしそれが本当だとすれば、 天下第一を目指す彼の望も、まだまだ前途程遠い訳である。己が業が児戯に類するかどうか、兎にも角にも早く其の人に会つて腕を比べたいとあせりつつ、彼は 只管(ひたすら)に道を急ぐ。足裏を破り脛を傷つけ、危巌を攀(よ)ぢ桟道(さんだう)を渡つて、一月の後に彼は漸(やうや)く目指す山巓(さんてん)に 辿(たど)りつく。
 気負ひ立つ紀昌を迎へたのは、羊のやうな柔和な目をした、しかし酷(ひど)くよぼよぼの爺さんである。年齢は百歳をも超えてゐよう。腰の曲つてゐるせゐ もあつて、白髯(はくぜん)は歩く時も地に曳きずつてゐる。
 相手が聾(つんぼ)かも知れぬと、大声に遽(あわた)だしく紀昌は来意を告げる。己が技の程を見て貰ひ度い旨(むね)を述べると、あせり立つた彼は相手 の返辞をも待たず、いきなり背に負うた楊幹(やうかん)麻筋(まきん)の弓を外(はづ)して手に執つた。さうして、石碣(せきけつ)の矢をつがへると、折 から空の高くを飛び過ぎて行く渡り鳥の群に向つて狙ひを定める。弦に応じて、一箭(いつせん)忽ち五羽の大鳥が鮮(あざ)やかに碧空を切つて落ちて来た。
 一通り出来るやうぢやな、と老人が穏かな微笑を含んで言ふ。だが、それは所詮(しよせん)射之射(しやのしや)といふもの、好漢未だ不射之射(ふしやの しや)を知らぬと見える。
 ムツとした紀昌を導いて、老隠者は、其処から二百歩ばかり離れた絶壁の上迄連れて来る。脚下は文字通りの屏風(びやうぶ)の如き壁立千仞(へきりつせん じん)、遙(はる)か真下に糸のやうな細さに見える渓流を一寸覗いただけで忽ち眩暈(めまひ)を感ずる程の高さである。その断崖(だんがい)から半ば宙に 乗出した危石の上につかつかと老人は駈上り、振返つて紀昌に言ふ。どうぢや。此の石の上で先刻の業(わざ)を今一度見せて呉れぬか。今更引込もならぬ。老 人と入り代りに紀昌が其の石を履んだ時、石は微(かす)かにグラリと揺らいだ。強ひて気を励まして矢をつがへようとすると、丁度崖(がけ)の端から小石が 一つ転がり落ちた。その行方を目で追うた時、覚えず紀昌は石上に伏した。脚はワナワナと顫(ふる)へ、汗は流れて踵(くびす)に迄至つた。老人が笑ひなが ら手を差し伸べて彼を石から下し、自ら代つて之に乗ると、では射(しや)といふものを御目にかけようかな、と言つた。まだ動悸(どうき)がをさまらず蒼 (あを)ざめた顔をしてはゐたが、紀昌は直ぐに気が付いて言つた。しかし、弓はどうなさる? 弓は? 老人は素手(すで)だつたのである。弓? と老人は 笑ふ。弓矢の要る中(うち)はまだ射之射ぢや。不射之射には、烏漆(うしつ)の弓も粛真(しゆくしん)の矢もいらぬ。
 丁度彼等の真上、空の極めて高い所を一羽の鳶(とび)が悠々(いういう)と輪を画いてゐた。その胡麻粒(ごまつぶ)ほどに小さく見える姿を暫く見上げて ゐた廿蠅(かんよう)が、やがて、見えざる矢を無形の弓につがへ、満月の如くに引絞つてひよう(3字に、傍点)と放てば、見よ、鳶は羽ばたきもせず中空か ら石の如くに落ちて来るではないか。
 紀昌は慄然(りつぜん)とした。今にして始めて藝道の深淵(しんえん)を覗き得た心地であつた。

 九年の間、紀昌は此の老人の許(もと)に留まつた。その間如何(いか)なる修業を積んだものやらそれは誰にも判らぬ。
 九年たつて山を降りて来た時、人々は紀昌の顔付の変つたのに驚いた。以前の負けず嫌ひな精悍(せいかん)な面魂(つらだましひ)は何処かに影をひそめ、 何の表情も無い、木偶(でく)の如く愚者の如き容貌に変つてゐる。久しぶりに旧師の飛衛を訪ねた時、しかし、飛衛はこの顔付を一見すると感嘆して叫んだ。 之でこそ初めて天下の名人だ。我儕(われら)の如き、足下(あしもと)にも及ぶものでないと。
 邯鄲(かんたん)の都は、天下一の名人となつて戻つて来た紀昌を迎へて、やがて眼前に示されるに違ひない其の妙技への期待に湧返つた。
 所が紀昌は一向に其の要望に応(こた)へようとしない。いや、弓さへ絶えて手に取らうとしない。山に入る時に携へて行つた楊幹麻筋の弓も何処かへ棄てて 来た様子である。其のわけ(2字に、傍点)を訊(たづ)ねた一人に答へて、紀昌は懶(ものう)げに言つた。至為(しゐ)は為(な)す無く、至言は言を去 り、至射は射ることなしと。成程と、至極物分りのいい邯鄲の都人士(とじんし)は直ぐに合点した。弓を執(と)らざる弓の名人は彼等の誇となつた。紀昌が 弓に触れなければ触れない程、彼の無敵の評判は愈々(いよいよ)喧伝された。
 様々な噂(うはさ)が人々の口から口へと伝はる。毎夜三更を過ぎる頃、紀昌の家の屋上で何者の立てるとも知れぬ弓弦(ゆんづる)の音がする。名人の内に 宿る射道の神が主人公の睡(ねむ)つてゐる間に体内を脱け出し、妖魔を払ふべく徹宵守護に当つてゐるのだといふ。彼の家の近くに住む一商人は或夜紀昌の家 の上空で、雲に乗つた紀昌が珍しくも弓を手にして、古(いにしへ)の名人・げい(=「羽」の下に、昇の下半)と養由基(やういうき)の二人を相手に腕比べ をしてゐるのを確かに見たと言ひ出した。その時三名人の放つた矢はそれぞれ夜空に青白い光芒(くわうばう)を曳きつつ参宿と天狼星(てんらうせい)との間 に消去つたと。紀昌の家に忍び入らうとした所、塀に足を掛けた途端に一道の殺気が森閑(しんかん)とした家の中から奔(はし)り出てまとも(3字に、傍 点)に額を打つたので、覚えず外に顛落(てんらく)したと白状した盗賊もある。爾来、邪心を抱く者共は彼の住居(すまひ)の十町四方は避けて廻り道をし、 賢い渡り鳥共は彼の家の上空を通らなくなつた。
 雲と立罩(たちこ)める名声の只中に、名人紀昌は次第に老いて行く。既に早く射を離れた彼の心は、益々枯淡虚静の域にはひつて行つたやうである。木偶 (でく)の如き顔は更に表情を失ひ、語ることも稀(まれ)となり、つひには呼吸の有無さへ疑はれるに至つた。「既に、我と彼との別、是と非との分を知ら ぬ。眼は耳の如く、耳は鼻の如く、鼻は口の如く思はれる。」といふのが老名人晩年の述懐である。
 甘蠅(かんよう)師の許(もと)を辞してから四十年の後、紀昌は静かに、誠に煙の如く静かに世を去つた。その四十年の間、彼は絶えて射(しや)を口にす ることが無かつた。口にさへしなかつた位だから、弓矢を執つての活動などあらう筈が無い。勿論、寓話作者としてはここで老人に掉尾(たうび)の大活躍をさ せて、名人の真に名人たる所以(ゆゑん)を明らかにしたいのは山々ながら、一方、又、何としても古書に記された事実を曲げる訳には行かぬ。実際、老後の彼 に就いては唯無為にして化したとばかりで、次の様な妙な話の外には何一つ伝はつてゐないのだから。
 その話といふのは、彼の死ぬ一、二年前のことらしい。或日老いたる紀昌が知人の許に招かれて行つた所、その家で一つの器具を見た。確かに見憶えのある道 具だが、どうしても其の名前が思出せぬし、其の用途も思ひ当らない。老人は其の家の主人に尋ねた。それは何と呼ぶ品物で、又何に用ひるのかと。主人は、客 が冗談(じようだん)を言つてゐるとのみ思つて、ニヤリととぼけ(3字に、傍点)た笑ひ方をした。老紀昌は真剣になつて再び尋ねる。それでも相手は曖昧 (あいまい)な笑を浮べて、客の心をはかりかねた様子である。三度紀昌が真面目な顔をして同じ問を繰返した時、始めて主人の顔に驚愕(きやうがく)の色が 現れた。彼は客の眼を凝乎(じつ)と見詰める。相手が冗談を言つてゐるのでもなく、気が狂つてゐるのでもなく、又自分が聞き違へをしてゐるのでもないこと を確かめると、彼は殆ど恐怖に近い狼狽(らうばい)を示して、吃(ども)りながら叫んだ。
「ああ、夫子(ふうし)が、古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓といふ名も、その使ひ途も!」
 其の後当分の間、邯鄲(かんたん)の都では、画家は絵筆を隠し、楽人は瑟(しつ)の絃を断ち、工匠は規矩(きく)を手にするのを恥ぢたといふことであ る。
            (昭和十七年十二月)